テンペスト
上 若夏の巻
池上永一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)若夏《うりずん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)各々|番《つがい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)魚[#「魚」に傍点]年
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈カバー〉
Tempest
(テンペスト)
あらし、暴風雨のこと
〈折込〉
【主な登場人物】
真鶴/寧温(まづる/ねいおん)――一人二役のヒロイン
孫嗣勇(そんしゆう)――真鶴の兄
喜舎場朝薫(きしゃばちょうくん)――寧温の好敵手
浅倉雅博(あさくらまさひろ)――薩摩藩の青年士族
聞得大君/真牛(きこえおおきみ/もうし)――王族
神徐丁垓(じょていがい)――清国の宦官
真美那(まみな)――真鶴の親友
思戸(うみとぅ)――御内原の少女
尚育王(しょういくおう)――第十八代琉球王国国王
尚泰王(しょうたいおう)――第十九代国王
孫明(そんめい)――王子
【用語一覧】
首里天加那志(シュリテンガナシ)――国王様
黄金御殿(クガニウドゥン)――王の住居
三司官(サンシカン)――三人の大臣
表十五人衆(オモテジュウゴニンシュウ)――重臣
親方(オヤカタ)――上級役人
親雲上(ペーチン)――中堅役人
評定所(ヒョウジョウショ)――行政機関
主取(ヌシドリ)――主任
大親(ウフヤ)――長官
首里大屋子(シュリオオヤコ)――八重山の役人
冊封使(サクホウシ)――清国の使者
御内原(ウーチバラ)――大奥
書院(ショイン)――王の執務室
日帳主取(ヒチョウヌシドリ)――外務政務次官
蔵元(クラモト)――八重山の行政機関
御物奉行(オモノブギョウ)――財務担当
銭蔵(ゼニクラ)――泡盛の保管庫
御料理座(オリョウリザ)――高級料理を作る厨房
平等所(ヒラジョ)――裁判所
大与座(オオクミザ)――警察
識名園(シキナエン)――王の別邸
玉陵(タマウドゥン)――王家の墓
御仮屋(ウカリヤ)――薩摩の出先機関
天使館(テンシカン)――迎賓館
守礼門(シュレイモン)――王宮最初の門
継世門(ケイセイモン)――女官が使う門
久慶門(キュウケイモン)――役人が日常使う門
暗シン御門(クラシンウジョウ)――秘密の通路
御嶽(ウタキ)――拝みの場
おせんみこちゃ――正殿の礼拝所
御拝(ウヌフェー)――王への拝礼
御庭(ウナー)――王宮の広場
間切倒(マギリダオレ)――財政再建団体
科試(コウシ)――官吏登用試験
花当(ハナアタイ)――王宮の稚児
トゥシビー――生年祝い
女官大勢頭部(ニョカンオオセドベ)――女官長
あがま――女官見習い
うなじゃら――王妃
うみないび――王女
あごむしられ――側室
大あむしられ――上級ノロ
ノロ――王府の巫女
ユタ――市井の巫女
時(トキ)――日取りをみる占い師
ジュリ――遊女
キンマモン――伝説の最高神
大阿母(ホールザー)――八重山の最高神職者
坤道(コンドウ)――道教の女道士
三世相(サンジンソウ)――前・現・来世を読む男占師
ニンブチャー――下層階級の念仏屋
ミセゼル――祝詞
後生(グソー)――あの世
フーフダー――まじない札
ミンサー織り――八重山の織物の一つ
ドゥジン・カカン――女官の正装
ウージ――サトウキビ
千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86](センジュコウ)――一口サイズのケーキ
ハベル――蝶
ウクジ――米占い
ニービチ――結婚
ヒンスー――貧乏
フラー――バカ
トンファー――攻防一体の武器
ザン――ジュゴン
ハジチ――刺青
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池上永一
テンペスト
上 若夏《うりずん》の巻
The Tempest
角川書店
テンペスト 上 若夏《うりずん》の巻
テンペスト 上 若夏の巻 目次
第一章 花髪《はなからじ》別れ
第二章 紅色《べにいろ》の王宮へ
第三章 見栄と意地の万華鏡
第四章 琉球の騎士道
第五章 空と大地の謡《うた》
第六章 王宮の去り際
第七章 紫禁城の宦官
第八章 鳳凰木の恋人たち
第九章 袖引きの別れ
[#地から9字上げ]テンペスト 下 花風の巻/目次
[#地から1字上げ]第十章  流刑地に咲いた花
[#地から1字上げ]第十一章 名門一族の栄光
[#地から1字上げ]第十二章 運命の別れ道
[#地から1字上げ]第十三章 大統領の密使
[#地から1字上げ]第十四章 太陽と月の架け橋
[#地から1字上げ]第十五章 巡りゆく季節
[#地から1字上げ]第十六章 波の上の聖母
[#地から1字上げ]第十七章 黄昏の明星
[#地から1字上げ]第十八章 王国を抱いて翔べ
[#改ページ]
第一章 花髪《はなからじ》別れ
珊瑚礁《さんごしょう》の王国に龍の眠る巣がある。
龍が地上で寝ているときは繁栄をもたらすが、目覚めて天を駆ければ地上は荒れ狂うという。龍という生き物は寝ているとき以外は常に交尾ばかりしているそうだ。龍が地上で交われば木々をなぎ倒し、海は高波で荒れ、空は咆哮《ほうこう》で轟《とどろ》き、大地は昼夜揺れ続けるという。荒れ果てた国土にはついに草木ひとつ生えない荒野が広がるのだそうだ。
民は龍を敬い、崇《あが》め、そして恐れるあまり、龍を統《す》べる者を王とした。以来、龍の巣は王の住居となり、首里城《しゅりじょう》と呼ばれた。王と王族とその臣下たちは龍を起こさないように細心の注意を払い、用心深く眠りを監視していた。だが、ある日ふとした弾みで臣下が玉座に施された龍の目を指で突いてしまったために、堅牢な龍の眠りが破られてしまった。これが王国の滅亡の真の発端であると誰が信じるであろう? ほどなく龍が目覚め、嵐を呼び寄せた。
王宮に黒い嵐が迫る。墨汁を零《こぼ》したように空が濁り、音をたてて天が転がり落ちてくる。稲光りが激しく点滅するたびに、赤い宮殿が闇夜に浮かび上がり、王宮は瞬く間に天の底に飲み込まれてしまった。
荒《すさ》ぶる風と雨と雷《いかずち》を従えて王宮の御庭《ウナー》に降り立った嵐は、王への挨拶もないままに、いきなり正殿の扉を蹴破った。嵐が首里城正殿に施された三十四匹の龍に目覚めを促す。
――龍たちよ、雷となって王宮を出《い》でよ。繁殖のときがやってきた。
刹那《せつな》、目覚めた龍が雷となって空を駆け抜ける。千年ぶりの目覚めと交尾の季節が訪れた。発情した龍たちが各々|番《つがい》となって激しく尻尾を揺さぶると、火の粉が雨に混じって降ってくる。土砂降りの雨と猛烈な風を撒《ま》き散らして吼《ほ》え狂う龍のせいで、空も海も大地も全て泥濘《ぬかるみ》にかき混ぜられていった。龍たちが交尾の宴をするには、王都はあまりにも小さすぎた。
[#ここから1字下げ]
龍が、王の根城に巣くっていた龍たちが、
堅い眠りで縛り上げられていた龍たちが、
千年に一度の発情期を迎えた。
目を潰《つぶ》されて目覚めてしまった龍たちが、
嵐になって交尾する。
大地を揺さぶり、尾で空を叩き落として、
月を半分に食い千切った龍たちが、
王の都で交尾する。
億千万の鱗《うろこ》を撒き散らした龍たちが、
田畑を燃やして、橋を押し流して、
轟きながら交尾する。
目を潰されて王宮から逃げ出した龍たちが、
竜巻《たつまき》になって、絡まって、転がって、
千切れながら交尾する。
[#ここで字下げ終わり]
首里の赤田村《あかたむら》の一画に番となった龍が落ちてきたのは、交尾の嵐が収まらぬ未明のことである。外の暴風雨など気にしている余裕もないほど、家の中は緊張に包まれていた。中では難産に息む女の声が嵐をかき消していた。士族の家らしい風格のある造りではあるが、手入れが行き届いていない庭は、一族が栄華を極めていたのは遠い昔であることを偲《しの》ばせた。
「こんな嵐の日に生まれるなんて、どんな運命の子なんだい」
陣痛は夕刻に始まったから、本来なら嵐の前に生まれていたはずである。しかし陣痛が続いてもなかなか頭が出てこない。産婆は一晩中、逆子の赤ん坊と格闘していたのだ。産婆は母親の体力を鑑《かんが》みてもはや一刻の猶予もないと決意した。
「産湯《うぶゆ》が冷めてしまっているよ。そこの女中さん、もう一度温め直しておくれ」
台所では主人が雇った霊媒師のユタが安産祈願をしている。閃光が走るたびに、ユタは龍たちの高ぶる姿を嵐の中に見つけた。
「龍が、王宮を逃げ出した龍たちが、交尾している!」
「何、世迷い言を言ってるんだい。ユタムニー(ユタみたいだよ)」
「私はユタだよ! この子を産ませたら国が大変なことになる!」
|火の神《ヒヌカン》に捧げていた線香が灰にならずに赤々と炎を立ち昇らせながら燃えている。こんな現象は初めての経験だ。火の神よりも大きな霊がこの家を取り巻いているとしか思えなかった。咄嗟に安産祈願を取り消そうとした瞬間、激しい落雷が火の神の香炉をひっくり返す。外では無数の龍がとぐろを巻いてユタに睨《にら》みを利かせていた。
「龍が、目を潰されて王宮から逃げ出した龍が……」
ユタの老婆は恐怖のあまり失神してしまった。そんな中、産婆の声がてきぱきと家人に命じる。
「産ませるのが私の仕事さ。邪魔するなら出てっておくれ。ほら産湯を温め直すんだよ!」
土間を素足で行き来する産婆の姿に奥で痺れを切らしていた父親が、
「男の子か? やっぱり男だったんだな?」
と畳みかける。
「逆子だよ。男か女かはその後さ」
「逆子だと? やっぱり。男の子は逆子が多いっていうじゃないか」
「迷信だよ。あんたもユタと一緒に土間で倒れておいで」
男の子は難産と聞いていた彼は、書斎で一晩中名を練っていた。難産は推敲《すいこう》に推敲を重ねるだけの時間を与えてくれたようで、何十枚もの書き損じの末についに名前が決まったようだ。真新しい硯《すずり》の隣には、流麗な筆|捌《さば》きで『孫寧温《そんねいおん》』と会心《かいしん》の文字が跳ねていた。
「この名なら、三世相《さんじんそう》に見立ててもらった以上の出来だ。立身出世を果たし、王宮の三司官《さんしかん》になるのも夢ではない。ついに我が一族の救い子となる男子の誕生だ」
父親は妻のお腹に子ができたときから、占い師の三世相の元に通っていた。高名と聞けば清《しん》国人の占い師のいる久米村《くめむら》へも通ったし、那覇にいるユタというユタには全て聞いた。彼がここまで確信を持っているのには理由がある。三世相も導師もユタも全て「男の子」と断言したからだ。もし間違っていたら廃業すると豪語する者もいたほどだ。この子は孔子も顔負けの才気を持ち、琉球中にその名を轟かすと導師は告げた。清《しん》国にすら百年にひとり現れるかどうかの不世出《ふせいしゅつ》の才能を持つ子だという。だから父親は首里の孔子|廟《びょう》には毎日お参りを欠かさなかった。そしてその子の教育のために、私財をはたいて清国から書物という書物を取り寄せた。生まれてくる子がいかに天才であっても、全てを読破するには二十年はかかるほどの蔵書を用意し、家の半分を書斎に造り替えた。生まれてくる子には孔子よりも賢くなってもらい、成し遂げなければならない運命が待っている。
「息子は孫氏《そんし》再興の祖とならん!」
ユタはこの子は嵐の日に難産の末に生まれてくると告げた。そして嵐の夜に陣痛がやってきた。ここまで全てが現実になった今、何を迷うことがあるだろうか。孫家の嫡男の家でありながら、長い間子宝に恵まれずに苦しんでいたが、齢《よわい》五十にしてついに男子誕生の幸運に与《あずか》ったのだ。父親は半紙に書かれた息子の名を愛おしそうに抱きしめた。
「寧温――!」
一際大きな息みと共に赤子の泣き声が響いた。その瞬間、雷が庭のガジュマルの樹を真っ二つに引き裂く。赤子の泣き声は暴風を吹き飛ばしてしまうほどの元気の良さだった。産婆が歓喜の声をあげる。
「なんてきれいな髪の赤ん坊なんだろう。美《ちゅ》らカーギーの女の子だよお」
産着にくるまった赤子は黒髪の豊かな女の子だ。
「女、イナグ……。そんな馬鹿な……」
「さあ、お父さん名前を決めたんだろう? こんな可愛い子を授かるなんて徳の高い父親だね」
「やはり姉上の三男坊の嗣勇《しゆう》を養子に貰おう……」
想像を絶する難産に、母体は耐えられなかったようだ。父親は失意のあまり娘が三歳になるまで名前さえつけようとしなかった。
龍の交尾があった嵐の夜から十年が過ぎた。王国はたびたびの異国船来航の対応に追われてはいたが、大きな混乱もなく穏やかにときは過ぎていた。
真っ二つに割れたガジュマルの樹の幹に伸びる小さな手があった。手は慣れたように裂け目を探し出し、中から隠していた本を取り出した。幹に隠れるように本を読み出したのはうなじが香るような少女だった。簪《かんざし》を引き抜けば黒髪が涼しげに流れ落ちることを思わせる。後ろ姿はもう娘といってよいが、顔はまだあどけなかった。そんな少女の指が『孟子』の原文を軽やかにつたっていた。唇が歌うように白文を読み下していく。
「孟子|曰《いわ》く、仕うるは貧の為にするにあらざるなり。而《しか》れども時ありてか貧の為にす。妻を娶《めと》るは養いの為にするにあらざるなり。而れども時ありてか養いの為にす」
指は楽器を奏でるようにリズミカルに漢文を琉球語へと訳していく。読み下しているのは単に読書を楽しむためで、時間がないときには一気に中国語の発音で読み上げることもできる。このときは何だか歌っているような気分に浸れるから好きだった。
「孟子日、仕非為貧也。而有時乎為貧。娶妻非為養也。而有時乎為養」
その流暢《りゅうちょう》な発音に目を丸くしたのは彼女を呼びにきた兄だった。
「真鶴《まづる》、おまえは唐通事《とうつうじ》になれるぞ。今のはまるで久米村の通事みたいな発音だった……」
「だって久米の呉《ご》大人が読み方を教えてくれたんだもん。四声さえ注意すれば簡単なのよ」
少女真鶴は、こうやってガジュマルの樹に隠れて密かに勉強することが楽しみであり、息抜きであり、唯一の希望だった。
「私も兄上と一緒に寺子屋に行きたかったなあ」
「寺子屋は唐の言葉までは教えない。おまえが男だったら科試《こうし》を突破できるかもしれないな」
「それは兄上の役目でしょう。二十歳までに科試に受からなければ、我が孫一族は永遠に日の目を見ないんだから頑張ってください」
そう言って真鶴は赤字で読み下しのルビを振った『孟子』の本を兄に渡した。彼女はこうやって兄の家庭教師を口実に本を読ませてもらっている。
「駄目だ。ぼくの頭では科試は無理だ。この前、初科《しょこう》を突破するだけでも三十年はかかるって先生に匙《さじ》を投げられたよ」
「一般教養くらいで嘆かないでください。再科《さいこう》が一番難しいんだから。ほら、孟子くらい諳《そら》んじて」
真鶴の兄、嗣勇が目指しているのは琉球の科挙《かきょ》と呼ばれる「科試」である。この琉球でまともな職を探すとなると首里城の王宮勤務しかない。しかしそのためには最難関の試験である科試を突破することが唯一の道だった。科試は本場科挙をも上回るとてつもない競争倍率だ。受験者の学力が水準に達していない年は合格者なしが続き、もし突破したとしても実に五百倍以上の競争率を勝ち抜かなければならない。この時代、琉球には基本的に文官しかいなかった。しかも王宮は財政難のためにあまり人を採りたがらず、意図的に科試のレベルをあげて不合格にし、この二年は不採用を貫いていた。そのために首里や那覇の町には科試浪人が溢れ、無意味に教養の高い浪人たちが働きもせず親族や家族の援助を受けて、のうのうと暮らしていた。
「来年からは私塾行きだって父上に言われたよ。寺子屋の落ちこぼれの僕が科試の予備校に行ったら、きっと頭がおかしくなって死んじゃうだろうな」
「通うなら絶対に真和志塾《まわしじゅく》がいいわ。科試の過去問題の対策じゃ王国一よ。先生だって評定所《ひょうじょうしょ》の元お役人様ばかりだし、合格者もこの十年はみんな真和志塾の生徒だもの」
「その塾に入るために何で試験があるんだろう? ぼくは孟子も荘子も読めないよ」
これから嗣勇は私塾に入るための猛特訓を父の手ほどきで夜明けまで受けることになっている。難関私塾はいわば半官半民の科試対策の予備校である。一般教養で中国の古典を暗誦している水準でなければ門前払いのエリート校だ。
科試が極端に難しいのは、即戦力の人材を求めるからである。合格者は翌日には評定所と呼ばれる行政の中枢機関で政策の遂行に携わらなければならない。合格者は優秀な者から配置が決まるが、通常は評定所|筆者《ひっしゃ》と呼ばれる事務方のトップに据えられる。国家公務員の上級職の中でもいきなり事務次官に登用される超エリートなのだ。
彼らが表記する文言は即、三司官と呼ばれる大臣たちの言葉として発布されるため、奇抜なアイデアを出せばいいというものではない。あくまでも行政の実効性を踏まえた現実感覚が要求される。王府が求めている役人は千人の秀才ではなく、行政能力に長《た》けた一人の天才である。そのためには凡庸な秀才を惜しみなく捨てる。それが琉球が大国の狭間《はざま》で独立国として生き延びる唯一の手段だったからだ。
「評定所のお役人様が言うには今年も合格者なしって噂なんだけどなあ。ほら三年前にひとり合格者が出て国中が大騒ぎになったのを覚えてるだろう?」
「ああ、あの先祖の墓前で泣いていたおじさん? 史上最年長合格者って言ってたっけ?」
「あのおじさん十八歳から受け続けて苦節三十五年なんだって。僕は聞いてぞっとしたよ……。だって孫までいるんだよ! いくら科試に受かったとしてもあんな人生だけはイヤだ」
「だからと言って兄上が勉強しないでいい理由にはならないでしょう」
「父上が厳しすぎるんだよ。何が栄光の孫一族だよ。孫氏で科試に受かった奴はこの二十七年誰もいないんだよ。ただの首里の落ちぶれ士族なのに気位だけが高くてさ。それにぼく、養子だし。頭良くないもん。真鶴、おまえが女官になって僕たちの食扶持《くいぶち》を稼いでおくれよ。おまえの器量なら女官どころか女官長の女官|大勢頭部《おおせどべ》にだってなれるよ」
「私は女官にも女官大勢頭部にもなりません。後宮暮らしはきついって噂ですから」
この官僚第一主義は孫家だけの傾向ではない。首里の城下町に住む士族たちの就職難は慢性的なものだった。王府の役人になれなければ、畑を耕すしかない。百姓士族たちがほとんどなのだ。この現状に王府は今でいうワークシェアリングを講じて何とか士族たちの雇用を確保しようともしている。だが、下級役人から出世しようとするなら、宮古・八重山《やえやま》の地方勤務をせっせとこなし勤星《きんせい》と呼ばれる評価点を稼ぐしかない。それでも科試合格者の初年度の配置よりずっと下の官職しかもらえなかった。
女子の就職先もやはり王宮だ。表の行政府の対になる奥の御内原《ウーチバラ》と呼ばれる女の世界が、そこである。女官として雇用され、切磋琢磨《せっさたくま》して勢頭部と呼ばれる位になれたら家の誉《ほまれ》である。孫家の女たちは不甲斐ない男どもの挫折をよそに、毎年きっちり女官を送り込む名家だ。しかし家長の孫|嗣志《しし》はあくまでも男子の科試による一点突破を目論む野心家だった。
「そうだ兄上、科試を受けないですむよい考えがあります。北京《ペキン》の国子監《こくしかん》に留学して箔《はく》をつければよいのです。ほら、儀間《ぎま》親方の息子さんが科試浪人が嫌で官生《かんしょう》になって王府に戻ってきたではありませんか」
「官生は王府の口添えがある名門士族にしか許されない。その賄賂《わいろ》と留学費用で儀間親方は首里のお屋敷のひとつを手放したんだぞ」
噂をすれば影だ。親の苦労を知らない儀間|親雲上《ペーチン》は派手な紅型《びんがた》の色衣装をキザに羽織り、番傘をさして吟遊中である。その彼に着飾った娘たちが群れている。娘たちの衣装も素晴らしいが、儀間親雲上のセンスには敵《かな》わない。娘たちが蝶なら彼は大輪の牡丹《ぼたん》の花だ。男が派手な格好をするのは琉球では珍しいことではないが、儀間親雲上は別格だ。番傘に江戸の流行を取り入れながらも、帰国子女特有の北京風を吹かせている。道すがら語らう美男美女の集団は、動く絵画のようだ。儀間親雲上は真鶴を見つけて立ち止まった。首はまだ少女だが、見事な黒髪は今朝咲いたばかりの椿の花びらのように艶《あで》やかだ。
「なんという美しい女童《みやらび》だ。王宮の女官や側室たちもそなたには敵うまい」
と呟き小筆と短冊を袂から取り出した。彼の必殺技の琉歌《りゅうか》が軽やかに詠《よ》まれる。
花の下蔭に遊びそめなれて
いきやす忘れゆが春の名残り
短歌によく似た琉歌は定型詩であるが、句体の幅は広い。八・八・八・六を中心に七・五・八・六や五・五・八・六など自由度が高いのが特徴だ。これは推敲して表現するのと同時に即興で発声することも求められるからである。
儀間親雲上は真鶴に「この歌を君にあげよう」と言って長い睫毛《まつげ》を伏せた。所作や表情がいちいち芝居がかっているが、端整な顔立ちの儀間親雲上がすれば男でも女でも息を呑んでしまう。儀間親雲上は相手の視線を誘い込む術《すべ》を心得ている。彼が目元に注目してほしいと思えば、長い睫毛が活躍し、唇に注目してほしいと思えば、雅《みやび》な琉歌が流れてくる。ちょっと伸ばした指先にも繊細な緊張感があるのは、琉舞《りゅうぶ》の所作が染みついているからだ。
これは彼が王宮の中で生きていくために身につけた戦術である。科試出身者の頭脳は努力で対抗できるものではない。行政能力のない彼にとって、北京の国子監帰りはひと味違うと思われてこその地位なのだ。だから何より風流と流行の最先端でなければならない。「琉球の在原業平《ありわらのなりひら》」の異名を取る儀間親雲上は、美意識だけを追い求め独自の地位を確立していた。
短冊を欲しがっていた取り巻きの女たちが一斉に不満を零す。その反応を楽しむかのように儀間親雲上は羽織った紅型を翻《ひるがえ》した。
「真鶴、何て書いてあるんだ? ぼくは琉歌が苦手だ」
魅惑の麗人・儀間親雲上に密かに憧れている嗣勇は、彼の所作を真似ている節がある。真鶴は顔を真っ赤にしてすぐには歌意を伝えられなかった。
「花……ううん、歌の意味はこう。『女(花)の木陰に遊びなれている私が、どうして情事(春)の名残を忘れることができるだろうか』もう、何という色事師なの!」
「さすが北京帰りの官生。洒落《しゃれ》ているなあ」
「どこが洒落ているのよ。私にくれた歌なのよ。気持ち悪いわ」
帯刀を許されない国情は、男性の価値観に大きな影響を与えた。薩摩の間接的な支配を受けているせいで、武器の使用は認められない。この時代はたとえ士族といえども武術を極めることはない。代わりに男子は教養と美意識を研《と》ぎ澄ますことが求められた。琉歌、琉球舞踊は基礎的教養、さらには日本の短歌や中国の漢詩など外国文学の教養を修得することが求められた。大国を圧倒する美と教養の王国。これらを武器にして、今日の王国の繁栄があるのだ。愚かな者は罪であり、美しくないものは悪である。
「朝から晩まで勉強ばかりさせられるなんて。ぼくは士族に生まれたのを恨んでる」
王宮は自宅のすぐ側にあるのに、いざ働くとなるとその城壁は要塞よりも高い。子どもの背伸びした目線から微かに見える王宮は、赤瓦の爪をきちんと揃えて、いつでもおいでとにこやかに微笑んでいる。王宮に入れば一生安泰の官僚天国が待っているが、入れなければ一生を棒に振る受験地獄だ。
「はあ、なんでこんなに人生って上手くいかないんだろ……」
真鶴は兄が本当は何がしたいのか知っている。儀間親雲上に憧れるのは、兄もまた美意識で勝負する男だからだ。嗣勇は無類の踊り好きである。手の返し方の優雅さは師範以上と目されているし、何よりも舞台の上で華があった。宮廷に仕える踊り手たちは全員女形と決まっている。王宮の表舞台は女人禁制である。しかし男ばかりでは細やかなサービスは行き渡らない。そこで美少年に女装させて表を彩《いろど》ることにした。男性が女性に扮して踊ることこそ究極の美とされ、国中の美少年はこぞって王宮の踊り手になりたがった。
この時代、王宮に勤務するには大まかに三つの方法がある。ひとつは究極の頭脳を持つと言われる官僚試験の科試を突破すること。ひとつは官位は低いが女装をし美貌を駆使して立身出世を果たす花当《はなあたい》と呼ばれる稚児衆になることである。最後は儀間親雲上のような北京帰りの文化エリートだが、これはリスクが高い。実際、官生出身者で重用されているのは儀間親雲上くらいだ。分をわきまえ、たがを外すという歌舞伎役者のような曲芸人生にだんだん頭がおかしくなってしまうからである。
容姿端麗な嗣勇は養子に迎え入れられるまでは、美貌が売り物の花当になるように教育されてきた。それが親同士の駆け引きで科試要員として真鶴の父に迎え入れられたせいで、人生設計が狂ってしまった。
「父上は兄上に期待をしているのです。私なんか三歳になるまでいないも同然だったもの……」
「そういえばおまえは子どもの頃、名前なかったもんな……」
三歳まで彼女には自分の名前がなかった。真鶴は父親からかけ声で呼ばれることはあっても、名前がないことにずっと違和感を覚えていた。そのことが文字に飢える理由になったのは間違いない。どうやらこの世の全ての人間には名前があり、文字があると知ったとき、彼女は初めて食事にありついた気分になった。まず名前をつけよう。それが彼女が生まれて最初に成したことだ。真鶴という名は自分でつけた。
あの日のことを嗣勇は今でも覚えている。養子に行く先は子どもがいないと聞かされていたのに、実際に行ったら可愛い女の子がいた。しかし完全に無視されていて、名前すらない。仕方なく嗣勇は父が呼ぶように「おい」と呼んだら、女の子は「私は真鶴です」と答えた。嗣勇は妹ができたことが嬉しくて真鶴を可愛がった。
「私は兄上と出会ったお蔭で、やっと日の当たる世界に出られた気分だったのです。自分の名前を決めたとき、私はやっと自分が人間であると思えました。だから兄上には感謝しています」
自分の存在が無視されていた理由は恐らく女人だからだ。科試以外の価値を認めない父は男子を望んでいた。だから父に存在を認めてもらいたくて、兄の後をついて寺子屋の障子の隙間から覗くように勉強していたのだが、父に見つかってしまい大目玉を喰らってしまった。以降、隠れて独学で勉強することを余儀なくされた。怒られる恐怖よりも、知る喜びが体を突き上げて本能のように知識を食い漁《あさ》る。真鶴は三歳で全ての文字を覚えるや否や、まるで海綿が水を吸収するようにありとあらゆる書物を読破し、大人でも難しい『詩経』を諳んじるまでになっていた。しかし父は真鶴の才能を一向に認めなかった。父の嗣勇への苛立ちは妹との才能の差があまりにも大きすぎるからである。
真鶴が兄の気持ちを汲み取れるとしたら、それは「絶望的」という状況が重なっているからだ。
「なぜ女人は勉強してはならないのですか? 書物の文字は女にも語りかけてくれるのに。私には文字が模様にはとても見えません。文字はいつでも私に大切なことを教えてくれます」
「真鶴、自分を標準に語ってはいけないよ。全ての女が男のように勉強ができるとは限らない。確かにおまえの才能は驚異的だけど、ぼくの知り合いの女はみんな文字が読めない」
「それは初めから教えないからです。そうやって女を見下すのはやめてください。女でも勉強すれば男と同じように能力を発揮できるはずです。私はそれを証明したい。女も男も人であることには変わりない。恩師もそう仰っていました」
つい口を滑らせて真鶴は慌てた。
「恩師って? おまえに先生がいたっけ?」
「いえ……。それは……。あの……。心の師、という意味です」
真鶴は小さな胸に手を当てて必死で呼吸を整えていた。今までバレていないのは恩師が訳ありの人間だからだ。もし表沙汰になれば自分が罰せられるどころか王府によるお家取り潰しにもなりかねない。いくら心を許した兄といえども秘密にしなければならなかった。
「私そろそろ仕出しの用があるから、もう行かなくちゃ。白文の側に小さく読み下し文を書いておいたから、それを読めば父上もお怒りにならないわ」
「いつもありがとう。真鶴の虎の巻のお蔭で孟子は及第点になりそうだよ」
そう言って兄妹は別れた。
真鶴が仕出しの用に行くときには、いつも遠回りすることにしている。心の中では散歩と言い訳するときもあるし、この道だと安全と納得させることもあるし、早く着きすぎても仕事が増えると合理的に解釈をすることもある。だが、本当の理由ははっきりしていた。
『真和志塾』
と掲げられた門の前で真鶴はずっと佇《たたず》んでいた。こういうことをしても無意味だということは人から指摘されなくてもわかっている。ここを離れるときにはそう自分を叱っているからだ。なのにまたここに来てしまう。この門を潜った先に侃々諤々《かんかんがくがく》の論争と、王国最高の教育があると思うと、理屈よりも本能で足が向いてしまうのだ。もしかしたら門に誰かが落とした教科書があって、それを届ける口実で中に入れる幸運があるかもしれない。そのときは長居をする段取りはできている。兄がもうすぐここに通うことになるから、入塾のときに入り用なものは何かとか、筆や帳面はどんなものがいいか聞いてくるように言付かっているとか、いくらでも話を引き延ばしてみせる自信はある。ただしそれは門に教科書が落ちている、という万に一つの確率に巡り合ってからの話だ。
講義が終わったとみえて塾生たちがどやどやと出てきた。予備校生といってもほとんどが妻子持ちの大人たちで、真鶴ほどの娘を持っている者が普通だ。科試の受験年齢はだいたい二十代後半から三十代で、受験年齢に制限はないが、科試のレベルを鑑みると十代の合格者など聞いたこともない。もしそんな人がいたら王国中が三年は大騒ぎになるだろう。
塾生たちは口々に今日の講義の要点を確認しあう。
「俺は候文《そうろうぶん》で書くときにいつも難儀をする。なぜ琉球では日本語で表記するのかがわからん」
「それは大和《やまと》のお役人様と文書を共有するためだろう。候文は国際語だからな」
「漢文も大和の候文も俺たちにとっては異国語だ。こうやって琉球語で喋《しゃべ》っている帰り道が一番の息抜きだよ」
真鶴は壁に顔を向け聞き耳を立てている。なんだいつもの子じゃないかと髭を蓄えた青年が気がつく。きっと兄弟か親戚の塾生が出てくるのを待っているのだろう。暇潰しにからかってやろうと真鶴に問題集を見せつけた。
「なあ、こんなの読めというのがおかしいだろう?」
そこにはこう記されていた。
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出題
渡唐勤学人之内何そ之稽古方も無之、長々致
滞在候者も罷在由候付、右体之者は屹と帰帆
させ、左候て向後諸稽古方精々相励年限内帰
帆為致候様可取計旨、在唐之存留へ仰渡之趣
申述候事。
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真鶴は恭《うやうや》しく頭を垂れて候文を読み下した。
「この問題は、清国に長期滞在をしている学生たちに対して早急に帰国するよう王府からの督促状を作成しろと申しているのでございます」
がやがやと騒いでいた塾生たちが、水をうったように急に静かになった。まさかこの小さな子が、しかも少女が候文を一瞬で解釈するなんて、奇術か何かを見せつけられた気分だった。
「官生の留学生たちに贅沢《ぜいたく》をするなと叱りつける文言か。これは傑作だ。あの北京風を吹かせた儀間親雲上の仲間たちに一泡吹かせろという問題だったのか」
黙れと青年の口が塞がれた。今まさにあの花と蝶の行進が真和志塾まで巡ってきたのだ。
「おい、儀間親雲上。いったい王府に幾ら賄賂を積んだら北京の国子監に行けるんだ?」
「やめろ。彼はもう塾生じゃないんだぞ。首里国学の訓詁師《くんこし》だ」
「真和志塾の元塾生が漢文の読み下しだけをする訓詁師か。こりゃあ傑作だ」
儀間親雲上が就職できたとはいえ、官生では大学の講師が限界だ。真和志塾の塾生なら暇潰しにできる仕事だった。
儀間親雲上と青年たちは五年前までは真和志塾で切磋琢磨し合った仲間だった。しかし科試の初科を突破するも再科で落ちてばかりだった儀間親雲上は、受験を思い詰めて心を患ってしまった。このままだと息子がおかしくなると心を痛めた父親は、王府の口添えで国費留学の官生の道を歩ませることになった。
「名門士族はいいよな。いつでも抜け道が用意されているもんな」
儀間親雲上は悲しそうに俯《うつむ》いた。官生は決して彼の本意ではなかったし、真和志塾での成績は常に十位以内にはつけていた。科試を一発で合格するなんて神業に等しい。儀間親雲上の才覚なら三十歳までには科試を突破するだろうと先生もお墨付きを与えるほどの優秀な学生だった。しかし彼の親は可愛い息子に抜け道を用意した。塾から帰ったある日、父は息子に北京の国子監留学が決まったことを告げた。その日から儀間親雲上は仲間たちに引け目を感じて生きることになった。
「ほら、おまえも真和志塾の端くれなら、自分を罰する候文を書いてみろよ。官生の贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に王府も頭を痛めているんだってさ」
仲間たちの高笑いに儀間親雲上は番傘で顔を覆った。悲しみに耐える姿ですらいちいち美しいから余計に腹が立つ。取り巻きの女たちが代わりにさめざめと泣くのも癪《しゃく》に障る。塾生の青年は妻に内職をさせ、親戚から借金をして爪に火を灯すように暮らしていた。
「俺たちはおまえみたいに裏口で王宮に入ったりしない。正々堂々科試を突破してみせるさ。今はおまえの立場が上かもしれないが、評定所筆者になったら八重山《やえやま》の地方勤務にしてくれる」
そんな彼を見かねて真鶴が割って入る。
「どうかおやめください。真和志塾の塾生なら仲間を労《いたわ》る思いやりを示してくださいませ」
「黙れこの女童。候文が読めたくらいで俺に命令するな」
ムキになった青年が筆と帳面を突きつける。
「じゃあ、おまえが解答してみろ! 見事解ければ儀間親雲上を見逃してやる」
「よせ、大人げないぞ。この子は偶然読めただけじゃないか」
周りが制しても青年はきかない。真鶴は怒鳴られて身を強《こわ》ばらせたが、手は筆を求めて勝手に動き出す。失礼いたします、と深々と頭を下げた真鶴は帳面に長々と候文を走らせた。
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渡唐勤学之面々諸稽古方可致出精身ニも不拘、
致懈怠候は言語道断候故、滞唐年限内随分学
問官話詩文章其外国用ニ可相立芸術等、心力
可及出精相嗜、帰帆之上御用ニ相立候様、可
加下知者也、依御差図此段申越候、以上。
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「勉学目的で清国に渡航した者たちが怠惰であってはならず、期限内に学問や清国語などを懸命に習得すべきである。そして帰国の後は、わが国の有用な人材として活躍できるよう、改めて注意を喚起する。上意により通達する」
今度は「おおおっ!」という感嘆の声があがった。様式も論旨の展開も論述の正確さも全てが完璧な候文だ。もしかしたら再科の教鞭を執る先生以上、いやこれをそのまま王府の公式文書として発布してもおかしくない出来栄えだ。
「神童だ」「孔子の生まれ変わりだ」「いや諸葛孔明《しょかつこうめい》だ」と口々に驚き、真鶴と候文を見比べる。
「……でも、女子ではないか」
真鶴の大きな瞳に涙が生まれた。それが大人たちに囲まれて恐かったのか、自分の素性が悲しかったのか、暗くて気持ちがよく見えなかった。
儀間親雲上は助けてくれた走り去る少女に仄《ほの》かな未来を託した。
首里天加那志ぬみやだいり
勤み里やりば勝て世々《ゆゆ》に立ちゅさ
(科試を受ける人は大勢で誰が合格するかわからないけれど、きっとあなたならやり遂げることができると信じています)
儀間親雲上の琉歌に取り巻きの女たちが「まさか」と笑った。
後日、真鶴の候文は首席の評価を貰い、模範解答として真和志塾の教科書に記載されることになった。その日の塾生たちは一様に沈鬱《ちんうつ》で、誰がこの解答を記したのか結局名前が載ることはなかった。
風光|明媚《めいび》な城下町の首里の坂を下りていくと雄大な景色の代わりに、賑々《にぎにぎ》しい活気が満ちてくる。港町の那覇は荷揚げされる物資や食料の山でいつも威勢の良い商人たちが立ち止まることなく動いている。彼らのせいで実際の十倍の数の人間たちが通り過ぎた気がする。大人の腰の高さから体験する那覇の町は、いつも空が狭く感じられた。
今日は特に人が多い気がするのは、進貢船《しんこうせん》が入港したせいだろうか。そう思うと真鶴はいてもたってもいられなくなった。清国から帰ってきた船は大陸の風を持ってくる。舳先《へさき》や帆についた大陸の匂いを嗅げば、小さな世界で苦しんでいる現実を忘れることができた。
進貢船は外洋を航海するために、最新の技術で建造された船だ。事実、当時の諸外国の船よりもずっと座礁《ざしょう》率が低く、安全な乗り物だった。貴重な物資を確実に国に持ち帰るために多少の浸水くらいでは沈まないように十三の隔壁構造となっている。西洋の帆船で隔壁を備えた船が一|艘《そう》も存在しないことから、造船技術がいかに高度だったか窺《うかが》い知ることができる。しかも琉球特有の美意識が反映され、貨物船なのに華麗な装飾まで施されている。
真鶴の予想通り、進貢船は暗礁を巧みに避けながら那覇港に入港しようとしていた。どこまでも透明な海の下には宝物にも似た珊瑚礁が透けて見える。その上を黒塗りの進貢船が大陸からの物資を満載にして波を切ってくる。この海と船の幸福な和合を見るたびに、真鶴の胸は高鳴るのだ。
「ああ、私が男だったら、絶対に清国に行きたかったのに……。清国で勉強して琉球をもっと豊かにするお役人になりたかったのに……」
喫水線を下げた進貢船を側にしても、まだまだ甲板《かんぱん》は高い。もしかしてメインマストは雲を突き刺すくらいの高さかもしれないと感じた。大陸から帰ってきたばかりの進貢船は真鶴を影の中にすっぽり収めて、威風堂々たる姿を誇示していた。港を囲んだ群衆が進貢船の帰港を迎え各々の思いを巡らせている。幸福を運んでくる進貢船は、凱旋《がいせん》したように誇らしげに胸を張っているように見える。真鶴はせめて自分の思いだけでも乗せてほしくて港に飛ぶ白鷺《しらさぎ》に願いを託した。
「お願い白鷺よ。どうか舳先の上に止まって」
念じるように手を合わせ、視線が高くなるように背伸びした。空に群れていた白鷺は悠然と帆をかすめ、船の周りに生じた風の中で遊んでいる。
「お嬢さん、こんなところにいたら危ないよ」
と下船してくる人足が真鶴を腰で撥《は》ねる。それでも真鶴は白鷺を目で追いかけて舳先へと滑空してくる一羽に「止まって」と叫んだ。その瞬間、荷車が真鶴を押し倒す。膝小僧を擦りむいて目を離した隙に、舳先にいた白鷺はもうどこかへと消えていた。
潮と風打合てやすやすとお旅
行き戻りしゆすも首里のお果報
(潮も風もちょうど航海にあつらえ向きで、安心して旅に行けるのも、首里城におられる国王様のご高徳のお蔭です)
那覇港からほど近い波之上《なみのうえ》の寺は厳戒態勢だった。護国寺は今や封鎖されて人ひとり近づくことができない物々しさだ。門番が六尺棒を構え、お参りすることすら許されない。ここに王府が手を焼く人物がいるからだ。この寺が宣教師であり医師であり、十三カ国語を操る言語学の天才と呼ばれたベッテルハイム博士の住居だ。
使用人が門番に伺いを立てている。
「エリザベス夫人が外出を求めております」
「駄目だ。またいつものベッテルハイムが布教をする口実だろう。油断せずに見張りを続けろ」
しばらくして巨体に似合わない丸眼鏡の白人が、怒鳴り声で門番に噛みついた。
「いつまで私を軟禁するつもりだ。この無体《むたい》は英国国教会に報告するぞ!」
ベッテルハイムが怒りに任せて書いた抗議文の山を投げつける。激昂《げきこう》しやすい彼の性格にだんだん役人たちも慣れてきた。
「あなたの奇行もまた王府に逐次報告されています」
「宣教師を仏教の寺に軟禁するなんて無神経だぞ。私は負けない。こんなことでは負けない。そうか、これが受難なのか。おお主よ。私は主の導きにまた近づきましたぞ」
琉球にキリスト教布教のためにやってきたベッテルハイムは、王府の厳しい監視の下で布教活動を続けていた。といっても実際に布教をすると役人たちに追い払われるので信者らしい信者をまだひとりも獲得していない。ただあまりにもアクの強い性格と好奇心旺盛であらゆるところに首を突っ込むために、彼のことを琉球の民は「ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)」と愛称をつけて慕ってもいた。
「この王国の腐れ役人どもに神の無慈悲を。アーメン」
ベッテルハイムが十字を切って祈る。朝から晩まで毎日がこんな調子なのだ。王府の主張は常に一貫していた。琉球では切支丹《キリシタン》は御法度《ごはっと》なのである。その理由もはっきりしている。いつも難癖を付けてくる薩摩の機嫌を損ねたくないからだ。彼がムスリムなら多分、琉球にモスクが建造されただろう。だが、切支丹だけは体面上、絶対に駄目だ。
しかしベッテルハイムが医者として活動するときは大目に見ることにしている。異国通事として西洋の言葉を翻訳することも認めている。役人たちはベッテルハイムの生真面目すぎる性格に嫌気がさしていた。外出したいなら「布教活動しに行く」と言わなければいつでも外出できるのに。ベッテルハイム一家の衣食住を王府の予算で賄《まかな》ってあげているのに、無慈悲と言われる始末だ。
いつも通り六尺棒を交差させ、ベッテルハイムを中に押し込めた門番たちは、やれやれと溜息をついた。しばらくして仕出し係の少女がやってきた。
「あの、申しつかった野菜とお肉をお届けにあがりました。お通し願います」
門番はいつもの少女だと確認して入れと顎《あご》で命じた。
境内では癇癪《かんしゃく》の治まらないベッテルハイムが、王府への抗議文をしこしこしたためていた。
“Guten Tag, Dr. Bettelheim. V〔o:〕llig habe ich Deutsch gelernt. N〔a:〕chstesmal lehren Sie bitte Franz〔o:〕sisch !”
流暢なドイツ語の発音にベッテルハイムのペン先が止まる。一瞬ここが琉球だということを忘れてしまうほど完璧な発音だった。
「マヅル。もうドイツ語を習得したのか。次はフランス語を教えてくれだと!」
「はい博士。博士の仰《おっしゃ》る通り英語の後にドイツ語を学ぶのはとても効率がよかったです。あの、お借りしていた本をお返しいたします」
懐《ふところ》に隠していた本はゲーテの詩集だった。仕出しの少女は真鶴だ。ベッテルハイム一家に食料や日用品を届ける係を王府が募集しているのを知った真鶴は、この機会を見逃さなかった。民間人との余計な接触を避けたかった王府は、女でしかも子どもなら仕出しの係にうってつけだと真鶴に任命した。まさか真鶴がベッテルハイムから語学の手ほどきを受けているなんて、門番たちは夢にも思わない。
「いきなりフランス語は難しい。まずはラテン語から教えよう。その後にイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、最後にフランス語がいいだろう」
「わかりました。全部教えてください」
真鶴が来るとベッテルハイムが急に上機嫌になる。まだ完全に習得していない琉球語は彼の思考に雑音が生じる。真鶴だと英語で楽に話せるから都合がいい。琉球で彼に外国語の手ほどきを受けたのは異国通事の牧志朝忠《まきしちょうちゅう》だが、牧志よりも真鶴の方が遥かに速く、確実に、さらにネイティブの発音で習得していった。
十三カ国語を操る言語学の天才ベッテルハイムですら、真鶴の習得の速さには舌を巻く。たった二年のうちに真鶴はヨーロッパの五カ国語を習得してしまったのだから、これを驚異と言わずにいられようか。彼の弟子の清国人オーゲスタ・カウとは中国語で冗談を交わす仲だ。オーゲスタに言わせると久米村の通事たちよりもずっと耳に心地よい中国語なのだそうだ。真鶴は耳の感覚が頗《すこぶ》るいい。聞いた音を舌で再現するときに母国語の母音に引きずられないから、完璧な発音となる。言語にもし絶対音感に相当する概念があるとしたら、真鶴にはそれが備わっている。まるで彼女の脳の中に予《あらかじ》め複数の言語が眠っていて、それらを覚醒させるように覚えていくのだ。
「マヅル。おまえほどの才能の持ち主はヨーロッパにもいないだろう。もし、おまえが望むなら英国に連れていってもいいんだぞ」
涙もろいベッテルハイムは、眼鏡を拭《ふ》きおいおいと泣く。彼が天才と呼ばれる本当の理由は喜怒哀楽を全身全霊で駆使して生きているからだ。その人ひとりの体に収まらないマグマのようなエネルギーは真鶴も同じだった。
「博士。私は琉球人です。道が暗いのは誰しも同じこと。切り開けずに朽《く》ちれば私の志はその程度のものということです。今の私には学問の光が必要です」
ベッテルハイムは快く好きなだけ本を持たせてやった。このことがやがて彼女を奈落《ならく》の底に落とす出来事になるとは、今の真鶴には知る由《よし》もなかった。
孫家では連夜、入塾試験に向けた猛特訓が繰り広げられていた。嗣勇のか細い声と父の怒声が交差し、やがて折檻《せっかん》の音と兄の悲鳴が響きわたる。
「夫子《ふうし》曰く、夫《そ》れ道は、万物を覆載する者なり。洋洋乎として大なるかな。嗣勇、この意味を言ってみろ」
「ええっと……ええっと……」
定規の鞭《むち》が容赦なく嗣勇の手を打ち据える。嗣勇の優美な白い手がミミズ腫れに浮腫《むく》んでいた。
「荘子もろくに読めないのか。今まで何の勉強をしてきたんだ!」
「父上、申し訳ございません。申し訳ございません……」
「ぐずっても許さないぞ。科試の初科は四書五経の知識を踏まえた上で出題されるのだ。これでは科試どころか真和志塾にも入れないぞ」
「父上、申し訳ございません……。申し訳……」
「もう一度だ。『潜龍用うるなかれとは、陽気潜蔵すればなり』これは何からの引用だ?」
「ええっと、たぶん……孟子です」
「愚か者! 易経の乾ではないか。寺子屋の子どもでもわかる話だ」
「父上、申し訳……。申し訳……」
嗣勇は指を丸めて震えながら手を差し出した。打ち据えられたら皮膚が破れてどろっとした血がこぼれ落ちた。
「ええい。どうしてこんなに出来が悪いのだ。外で水瓶《みずがめ》を持って立っていろ。明日の朝までに易経を覚えていなければ、その着物を燃やすぞ! おまえなど男ではない。家畜以下の動物だ! いや害虫だ。畳に巣くうダニだ!」
「父上、申し訳……」
嗣勇は水瓶を抱えながらやっと地獄が終わったと思った。罵倒されているよりも罰を受けている方が気が楽だった。洟《はな》を啜《すす》っていると真鶴がそっと包帯を巻きに来てくれた。化膿止めの薬草を傷口に塗りながら、兄の美しい手が台無しになったことに心を痛めた。
「いいよ真鶴。そんなことしたらおまえまで罰を受けてしまう。ぼくはここで月を見ているのが慰めなんだ。だからもうおやすみ」
「兄上、なぜこんな仕打ちをされてまで父上に従うのです。これじゃあまるで拷問《ごうもん》ではありませんか」
「よくわからない。でも士族の男子に生まれたからには科試を受けなければならない。その資格があるだけでも光栄なんだと思う」
嗣勇は自尊心を打ち砕かれて死にたい気分だった。定規で叩かれているうちにすっかり感覚がなくなり、手から死んでいくのがわかった。この麻痺が早く全身を覆ってくれたらいっそ楽なのに、肉体は最後の最後で痛みで蘇《よみがえ》ろうとする。
「真鶴。ぼくは無能な兄だけど、頭のいいおまえを誇りに思っているぞ。さあ、早く家に戻って。今のぼくの手じゃおまえを庇《かば》ってやれない」
嗣勇はにっこりと笑っておやすみと告げた。
翌朝、激しい雷雨の中、血糊がついた置き手紙を残して兄は失踪《しっそう》していた。真鶴はどこか安堵《あんど》していた。分厚い雨が降り続いているうちに遠くまで逃げてほしい。父は嗣勇の家出を罵倒し、腹いせに嗣勇の大切にしていた色衣装を全て燃やした。
「孫家の嫡子にあるまじき愚行だ。犬でも鶴でも恩を忘れぬというのに、家の名を汚して出ていくとは、何という疫病神《やくびょうがみ》だ!」
雷雨を遮《さえぎ》るように黄色の紅型から炎が立ち上がる。燃えていく紅型に兄の悲鳴を聞いた気がして、真鶴はとても正視できなかった。昨夜の兄が穏やかだったのは、もう逃げることを決意していたのだろう。包帯を巻いているとき、真鶴は心の中で逃げてと呟《つぶや》いていた。もしかしたらその声が聞こえたのかもしれない。
「平等所《ひらじょ》に届け出て牢にぶち込んでもらう! いや孫家の恥|曝《さら》しは手打ちにしてくれるわい! おい、大与座《おおくみざ》に申し出て、縄をかけて連れ戻せ」
おい、と呼ばれた真鶴は父の眼光に身を竦《すく》めた。治安維持をする大与座の役人に捕まったら兄は本当に殺されてしまう。もう我慢ができないと思った真鶴は父の前に跪《ひざまず》いた。
「父上、兄上の命だけはどうかお助けください。その代わり私が、私が父上の期待を背負います」
「女のおまえが何に応《こた》えてくれるというのだ。孫家から女官はもういらぬ。私が望むのはただひとつ。科試を突破する男子だ!」
定規が振り下ろされる瞬間、あのガジュマルの樹に再び雷が落ちた。
「私は男になります。男子として父上の期待に応えてみせます!」
落雷のせいで何か聞き間違いでもしたのかと、父は定規を身構えたままだ。もう一度、真鶴が「男になります」と言う。その頓狂《とんきょう》な言葉にさすがの父も失笑してしまった。
「おまえは馬鹿か。どうして女が男になれるというのだ。女が男の格好をしても人はすぐに気がつく。それをどうやって誤魔化すというのだ?」
真鶴は一歩前に出て更に父を仰天させた。
「私を宦官《かんがん》ということにしてください!」
「宦官――?」
ポカンと鳩が豆鉄砲を食ったような父に、真鶴が畳みかける。語気を強めるたびに真鶴の瞳の奥に眠っていた神獣の力が覚醒する。
「はい。清国では王宮に入るために宦官になる者がいると聞きます。宦官の容貌は女性的で明らかに男性とは異なります。私を清国から迎え入れた養子ということにしてくだされば、きっと父上の夢を叶《かな》えてみせます」
父は真鶴の瞳に吸い寄せられるように見入った。娘がいることは漠然と知っていたが、こんな風貌だっただろうか。娘の顔は意志の強い凜《りん》とした面持ちだった。もしかして娘の顔を正面から見たのは、これが初めてかもしれない。父はあの嵐の夜を思い出していた。
「宦官? 女が宦官になるのか? 聞いたことがない」
「そうです。父上が望むなら私は宦官として生まれ変わります。そして科試を突破し、評定所筆者になります」
語気に圧倒されて父は頭がぐらぐらしていた。父は真鶴がこっそり隠れて本を読んでいることを知っていた。嗣勇の教科書に虎の巻の読み下し文を書いたのも恐らく彼女だ。ただ存在しない者を咎《とが》めるのは意味がないから黙っていた。
父は極めて冷静に問うた。
「天下同人を述べてみよ」
「人に同じうするに野においてす。亨《とお》る。大川を渉《わた》るに利《よ》ろし。君子の貞《てい》に利ろし」
「地澤臨《ちたくりん》を述べてみよ」
「臨は、阮《おお》いに亨りて貞《ただ》しきに利ろし。八月に至れば凶あらん」
「斉の桓公《かんこう》が書物を読んでいた。車大工が何を読んでいるのかと問うて桓公が答えた。聖人の書であると。車大工はその書を古人の残りかすだと言い、桓公が怒った。車大工は何故そう言ったのか?」
「それは個人の記憶では伝えられるものと伝えられないものがあるからです。職人芸のコツは微妙な感覚で言葉にできません。ですから、いくら聖人が記した書であっても聖人の獲得した微妙な論理の綾は伝えられないと言ったのです」
「『人生天地之間、若白駒之過郤』この意味を言ってみろ」
「人間がこの天地の間で生を受けるのは、ちょうど白い馬が戸の隙間を過ぎるように、ほんのつかの間にすぎない」
「孟子がいわれた。有徳《うとく》の君子が一般の人と異なっている理由は、その心を絶えず反省しているからである。これを漢文に戻してみろ」
「孟子曰、君子所以異於者、以其存心也」
父はしばらく黙っていたが、踵《きびす》を返すとこう告げた。
「明日からおまえは孫寧温《そんねいおん》と名乗れ。私塾の入学試験は明日受けろ。教科書と男物の衣装を用意しておく。その髪をどうにかしてこい」
真鶴はまだ自分が生まれ変わったことを実感できていない。父が初めて名を与えた。この響きが他人のもののような気がして、なかなか胸に収まらなかった。
「寧温……。私は明日から孫寧温――!」
庭のガジュマルの樹に再び雷が落ち、真鶴の耳を押し潰す。正気を取り戻したとき、雨はすっかりやんで青空が広がっていた。
真鶴は女である最後の一日を三重城《ミーグスク》の頂《いただき》で海を眺めて過ごすことにした。雨上がりの景色はどこまでも澄み渡っている。那覇港の入り江のほとりにある三重城は航海安全を祈願する王国の拝所《ウガンジョ》である。この三重城は世界中の神と繋《つな》がる祈りの一大中継基地とされている。
真鶴は風を受けて東シナ海の水平線を見つめた。今日、男として二度目の生を受けた。もちろんこの決意に悔いはない。胸に突き上げてくる熱い思いは、昨日までの塞がった苦しさとは全く違う。開いたばかりの胸は果てしない夢、明るい未来を思う存分に拡げてくれる。
「進貢船が清国に旅だっていく」
北風を受けて再び航海する進貢船が夕日を正面に旅立つところだった。男となった今、あの船に乗って清国に行く日がいつかきっと来るはずだ。そのとき、泣いていた女童だった自分の過去を忘れているのだろうか。真鶴の頬にいつともなく熱い涙が溢《あふ》れて止まらない。
「あれ、なぜ私は泣いてるの? おかしいな。やっと学問ができるというのに……。科試を受ける機会を得られたのよ。今まで悔しくて泣いていたのに……」
これは塞がっていた胸を小刀でこじ開けた痛みなのだとやっと気づいた。外科的に切り開かなければきっと膿《う》んでいた胸だ。だからこれでよかったと何度も言い聞かせる。だけど少女最後の日の景色は涙で曇っていた。もう髪を結い上げることもない。嫁ぐこともなければ、ましてや恋をすることもない。子どもを授かることも諦めなければならない。やがて孫家の直系は子孫を残すことなく滅びる。それでも叶えたい夢が真鶴にはある。真鶴は簪を抜き、黒髪を潮風に泳がせた。
「真鶴、真鶴、真鶴、ごめんね。もう呼ばれることはないのね。こんな私でごめんね真鶴。私は男になるけど許して真鶴。きっとあなたに誇れる人生にするわ。だから涙を止めて真鶴……」
真鶴は自慢だった黒髪を切り落とした。途端、軽くなったうなじが寒さに震える。真鶴は船を追いかける北風の中に髪を投げ捨てた。一篇の琉歌を手向《たむ》けて。
真北《まにし》風吹けば花髪《はなからじ》別れ
白鳥の羽の旅やすゆら
(私は北風に髪を捨てて男になるけれど、この髪は船の守り神となって広い世界へ旅してほしい)
私塾に通う朝が来た。衣装も教科書も文房具も全て真新しい上等のものばかりを父は用意してくれた。いつも割れた筆しか使ったことのない真鶴は首里男子士族の特権のひとつに触れたことが嬉しかった。短くなった髪を男髪に結い直し、紬の衣装に袖を通した。
「寧温、寧温、寧温……おいっ!」
と呼ばれてやっと自分の名前に気がついた。この名前に早く慣れなければ。
「寧温、真和志塾の伊是名《いぜな》先生は気難しくて有名だから、機嫌を損ねるなよ」
そう言って絹の風呂敷に包まれた弁当箱を差し出した。性別が変わっただけでこの待遇の違いだ。農民から士族へ身分が変わったのに等しい扱いだった。
真和志塾の門の前に立った寧温は、まだ真鶴だったときの気持ちを引きずっていた。無意識のうちに教科書が落ちていないか探してしまう自分がいる。そんな寧温をよそに塾生たちが次々と門を潜っていく。
「君は何をしているんだい?」
と声がかかった。振り返ると少し年上くらいの少年が涼やかに笑っていた。
「ぼくは喜舎場朝薫《きしゃばちょうくん》だ。もしかして君も入塾試験を受けるのかい?」
寧温はその名に聞き覚えがあった。いや首里において彼の名を知らない者はいない。喜舎場朝薫といえば六歳にして四書五経を読んだ神童として名を馳せていた。科試に受かるために生まれてきたと巷《ちまた》で評判の天才少年である。数え十三歳で元服した朝薫は、満を持して真和志塾の門を叩いた。
噂に聞いていた神童・喜舎場朝薫を目の当たりにして、寧温は萎縮する思いだ。
「私は孫、孫寧温と申します……。初めまして」
果たして本当に自分の姿は男子に見えるかどうか自信のない寧温は、少年と目を合わせられなかった。神童に似つかわしくなく朝薫は親しみやすい笑みを絶やさない。
「寧温、君は本当に華奢《きゃしゃ》だね」
と朝薫に言われてちょっと安堵した。そうだ、そう思われればいい。
年長の塾生が門の前に出てきた。
「入塾試験を受ける者は講堂へ集まるように」
首里中からやってきた受験生は大人たちばかりだ。一般教養の水準は高く、清国の国子監の学生と同じくらいの能力を持っている。それが真和志塾では入塾の最低水準とされていた。知的な顔つきの大人たちに囲まれて寧温は初日から、もう圧倒されっぱなしだ。
――きっと試験も難しいんだろうな。
配られた答案用紙の前で緊張した寧温は、壇上で問題が掲げられるのを大人たちの背中の隙間から見つめた。
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出題
当時世上唐和之産物手広相用不相応候間、諸
産物作出相用候様、三司官衆より仰渡之案文。
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入塾希望者たちが「嘘だろ……」と呟く。候文を初めて見る者がほとんどだった。王国の公式文書は日本語の候文で作成するのが標準である。これは当時の琉球人にとっては外国語で表記するのと同じだった。日本語は西欧のラテン語と同じように、格式のある文言として王府に採用された言語である。
試験監督の先生が講堂に現れて「静粛に!」と一喝した。試験官の塾生たちも問題を読んで青ざめる。これは入塾試験の問題ではなく、講義で使っている問題集からの出題だ。これを答えられる者は塾生の中でも一握りしかいない。
「伊是名先生も意地悪だよな。生徒に挫折感を与えるのが趣味だから」
「みんな硬直しているよ。『庶民が身分不相応な輸入品を所持して、生産性が落ちているから倹約に励ませる布令を作成しろ』って意味なんだけどわかるかな?」
「きっと神童、喜舎場朝薫の実力を試したいんだろう」
ほとんどが答案用紙に何も書けずにいるのに、二人だけもう問題を解き始めていた。
朝薫は眉ひとつ動かさずに筆を走らせる。
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御当国之儀小国ニて何篇不自由有之候故、農
民共働を以作出候者ハ勿論、細工職人諸制作
之品々至り随分作出国用相弁候様ニと之儀ハ
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「わが国は小国であり、産業・経済も弱小である。この現実を生き抜くために、農民たちは懸命に生産し、職人たちはさまざまな品を意欲的に製作することが重要だ。この働きによって、国の需要を賄うようにしなければならない、との趣旨は――」
科試は文字を美しく書くことも重要だ。王府の公式文書として布令を出すからには、悪筆は恥とされる。朝薫の字は生真面目できびきびと整列している。
寧温もまた朝薫と同じ勢いで候文を作成していく。寧温の字は同じ字を無限に繰り返しても揺らがない活字のようだ。
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依之向後品ニ依り国産を以用弁難成是非唐和
之産物相用候儀は格別候得共、出産之品ニて
随分可相済向も夫賃雑用彼是致差引候得ば、
唐和買下候。
[#ここで字下げ終わり]
「むろん、琉球産の品では需要が賄えず、やむなく清国や日本から輸入せざるをえないという事態もたしかに存在はする。だが、輸入に頼らず自前で生産できる力をわが国は持ちながら、農民たちは労務や雑用に徴発され、生産活動に没頭できずにおり、そこから輸入という事態が生まれていることがじつは問題なのである」
二人が同時に二枚目の答案用紙に手を伸ばした。寧温の案文の趣旨は「輸入品に頼らずにできるだけ国産品を使うことが、国内の生産性を高め琉球の技術向上と国内経済の発展を推し進めることができる」というものである。それは朝薫の論旨とも同じだった。寧温が筆を擱《お》いたとき、朝薫も最後の一文に入った。
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此旨首里那覇泊井田舎諸島其外可承向々へ不
洩可被申渡者也。
[#ここで字下げ終わり]
「やめ。全員筆を擱いてそのまま退出せよ」
苦悶から解放された受験生たちは、一様に青ざめていた。口々に己の無力さを嘆き合い、暗澹《あんたん》たる将来を悲観した。
「俺はもう船乗りになるよ」
「問題の意味さえわからなかった」
「科試はあれ以上に難しいんだろう」
「一応、孟子の言葉を埋めてみたんだけど、バレるよなあ」
合格発表までの間は己の通夜を執り行っているかのようだ。刻一刻と時間が過ぎていく。その間、朝薫と寧温は廊下で意見を戦わせていた。
「僕は国内経済を発展させるには技術者を養成するべきだと思う。寧温、君は今の王府の関税政策をどう思っている?」
「私は今の王府のやり方には疑問があります。輸入品に関税をかけても競争力を失わないと思います。かえって高級品となって珍重されるだけです」
「しかし寧温、関税を撤廃すると国産品は見劣りしてさらに不利になる」
「朝薫兄さん、そもそも国民が国産品を低く見ているのが問題なのです」
寧温はこれが議論を戦わせるということか、と興奮していた。想像していた通り真和志塾は名門の誉《ほまれ》に恥じない科試予備校だ。門の内側ではずっと寧温がやってみたかった侃々諤々の論争があった。
合格者発表のときがやってきた。試験監督の伊是名が次々と名前を読み上げていく。そのたびに喜びの声と落胆の声が交差する。
「喜舎場朝薫、合格!」
の声にやっと少年らしい笑顔が見えた。立ち上がった朝薫に試験監督が壇に上がれと指示した。
「彼が首席合格者である。まことに素晴らしい案文であった」
受験生たちが感嘆の声をあげる。神童と呼ばれる朝薫の名を知らぬ者はいない。この数年、首里の名門塾はこぞって朝薫の獲得に鎬《しのぎ》を削っていた。科試最年少合格を目指す朝薫がどの塾を受けるのかが塾生たちの関心事だったほどだ。朝薫は予想通り名門真和志塾を選んだ。真和志塾は確実に科試を突破する天才を受け入れて面目を保った。やがて最後の合格者が発表され、今年の入塾者が決まった。
最後まで名前を呼ばれるのを待っていた寧温は、ひとり講堂の前に佇んでいた。
「私、落ちたんだ……」
解答に自信があっただけに動揺も大きい。どのような案文なら合格だったのだろう。論旨の展開を間違えたのだろうか。様式を誤ったのだろうか。合否よりも正しい答えを知りたかった。自惚《うぬぼ》れがすぎたかもしれないと寧温は思う。どこかで合格を当然と思っていたことが恥ずかしい。もう一度、候文の勉強をして改めて来年入塾試験を受けようと思った。
がっくりと肩を落として講堂を去ろうとしたとき、試験監督の伊是名から呼び出しを受けた。
「孫寧温。孫寧温はいるか!」
「はい。孫寧温は私でございます!」
待っていた呼び出しに胸が詰まる。壇に上げられた寧温の姿に塾生たちも驚く。あの朝薫よりも年少で、ずっと華奢なのだ。いや華奢というよりもまるで女の子みたいな可憐な顔立ちだ。こんな受験生がいたのかと仲間たちは顔を見合わせた。
背筋を伸ばして壇上に立った寧温に伊是名は、容赦ない平手打ちを喰らわせた。
「貴様、不正をするとは何事か!」
大人の力で思いっきり引っぱたかれて、寧温の体は壁まで飛ばされた。目に火花が飛び、鉄錆《てつさび》のような匂いが頭蓋骨《ずがいこつ》に広がる。鼻血を出した寧温は、まだ自分が何をされたのか理解できていない。伊是名は立ち上がろうとした寧温に蹴りを喰らわせた。
「貴様、朝薫の答案を盗み書きしただろう! この恥知らずめ!」
寧温は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「先生、私は不正などしておりません。何かの間違いでございます」
「ふざけるな。貴様と朝薫の席は隣同士であったではないか」
「私は朝薫殿の答案を盗み書きなどしておりません。誓って本当でございます」
伊是名の怒りは激しさを増すだけだ。
「科試を受ける者にあるまじき態度だ。貴様のような腐った学生は今のうちに潰しておかねば塾の恥になる。二度と真和志塾の門を潜ることを許さん!」
そう言って伊是名は講堂を後にした。
寧温はやっと不合格の理由を知った。試験に落ちたことよりも、不正をしたと思われたことが悲しい。そんな卑劣な行為をする人間を誰よりも忌み嫌っているのは自分自身なのに。憧れていた真和志塾から門前払いされて、寧温は途方に暮れていた。鼻血を拭《ぬぐ》った瞬間、悔し涙が溢れた。そんな彼に朝薫が手ぬぐいを差し出した。
「ぼくは君が不正をしたとは思っていない。書き始めも、筆を擱くのも、君の方がずっと早かったのを知っている」
そして朝薫は自分の筆を渡した。
「科試に受かって首里城で会おう。君はぼくの好敵手だ」
寧温は朝薫の筆を握りしめた。真和志塾に門前払いされたからといって、科試が受けられないわけではない。科試を突破することこそ自分の目標なのだ、と言い聞かせた。
首里には王府の補助金を受けた名門私塾が複数ある。真和志塾と並び称されるのは赤田塾《あかたじゅく》である。寧温は赤田塾の試験を受けようと気を取り直した。木陰で本を読んでいる寧温の下に顔を赤らめた酔っぱらいがやってきた。
「坊やも科試の勉強をしているのかい? 儂《わし》と同じだな。じゃあ記念に一杯」
そう言って抱瓶《ダチビン》に入っていた泡盛を口に含んだ。てっきり本を開くのかと思っていたら酒を呷《あお》るのだから、寧温は目を丸くした。
「おじさんも科試の予備校に通っているんですか?」
大柄で人懐《ひとなつ》っこい顔をした男は豪快に笑って、また酒を呷る。
「おうよ。儂は破天塾《はてんじゅく》の塾生だ。科試には落ちてばかりだがな。がはははは」
「破天塾? そんな塾は初めて聞きました。どこにあるのですか?」
「おうよ。鳥堀《とりほり》の坂にある名門塾だぞ。知らないとはさては潜りだな。ところで何をしている?」
「いえ、さっき不合格になった真和志塾の試験問題を検証しているのです。国産品を重用するために私は自由競争を説いたのですが、今読み返すと論旨に無理があります」
あのときは伊是名に殴られて悔しい思いをしたが、冷静になって読み返すと関税撤廃論に持ち込むには、飛躍がありすぎる気がする。
「じゃあ、儂の師匠の麻真譲《ましんじょう》先生に聞けばいい。坊やきれいな字を書くんだな。儂にも教えてほしいものだ。がはははは」
連れて行かれた先は子どもの間で「お化け屋敷」と呼ばれて恐れられている屋敷だった。庭は荒れ放題、屋根からは草が生えていて、大人たちが昼間っから酒盛りばかりしている。ここが私塾だったなんて、今知った。門に辛うじて読める文字で『破天塾』とあるが、誰もが早足で通り過ぎるために看板があるなんて気づきもしない。寧温は既に帰りたい気持ちだった。
中に入ると聞きしにまさる醜態《しゅうたい》だ。塾生と思《おぼ》しき大人たちが酒宴を開いていた。
「多嘉良《たから》、なんだその子は?」
「いやあ、麻真譲先生に聞きたいことがあるんだと」
「また随分きれいな顔をした少年だな。王宮の花当になれるくらいの器量だ」
「聞いて驚け。なんと坊やは科試を目指しているのだぞ」
「それはすごい。じゃあ乾杯だな。多嘉良、酒を持ってこい」
そういうと寧温を囲んで酒宴が勢いづいた。ここが本当に私塾かどうかすら怪しいものだと寧温は思ったが、気の優しい男たちばかりだ。酒が飲めない寧温にお菓子を差し出したり、この家の畳は汚れているからと自分の座布団を譲ったりと何故かとても親切だ。大人は恐いと思っていた寧温もやがて一緒に笑い出した。
「おお、麻真譲先生がお見えになったぞ。さあ乾杯しよう」
現れたのは上品な雰囲気の老人だ。どんな妖怪が現れるのかと身構えていた寧温は麻真譲の優雅な物腰に一目で惹《ひ》かれた。
「麻先生、この子が教えてほしいことがあるそうです。ほら坊や、さっきの帳面」
寧温がこれが真和志塾の問題と自分の解答だと告げて麻の教えを仰いだ。
「ほう、真和志塾の入塾試験はこんなに高度なのか。これが解ければ科試に通ったも同然ではないか」
そして寧温の答案に目を通す。麻真譲は寧温と答案を何度も見比べて信じられないといった様子で案文を読み耽《ふけ》った。
「麻先生。私は真和志塾から門前払いされました。関税撤廃論に飛躍がありすぎたのでしょうか?」
麻真譲は赤字で一カ所だけ訂正して、答案を差し戻した。
「なぜ関税撤廃論を持ち出したのだ。その理由を聞こうか」
「はい、琉球の職人たちは優れた技能を持っています。清国や日本の工芸品にも負けない産品を生み出す力があります。ただ国産品は保護されすぎて競争力を失っております。職人たちを奮起させるためにも輸入品と競争させるべきです」
麻真譲は硯を取り出して何かを書き出した。これを持っていけと寧温に渡す。
「赤田塾への推薦状だ。塾長に宛てたからこれを持って赤田塾へ行くがよい」
寧温は狐につままれた気分だ。この老人は一体何者なのだろう。さっきまで威厳に満ちていたのに、酒盛りを始めた途端、急に駄目な老人になって多嘉良たちと楽しそうに語り始めた。お化け屋敷というよりも絡繰《からくり》屋敷みたいである。
寧温は家に帰ると麻真譲の書いた手紙を父に見せた。父はぺたりと床に腰を落としてしばらく声も出ないほど肝《きも》を潰していた。どうしたのかと尋ねる寧温の声で、やっと正気に戻ってくれた。
「麻真譲が赤田塾への特待生としておまえを推薦するなんて!」
「父上は麻先生をご存じなのですか?」
「麻親方を知らないのか? 三代の王に仕えた三司官《さんしかん》、麻親方だぞ!」
それで寧温も父と一緒に腰を抜かした。王国史上最高の三司官として清国からも敬愛された麻親方が、あの老人だなんて信じられない。父が言うには麻親方ほど公明正大で民から慕われた三司官はいないという。彼の書く外交文書は清国の体面を保ちつつも、琉球の尊厳に満ち溢れていたという。一目彼に会いたくて紫禁城から琉球にやってきた官僚たちもいたほどだ。王府からは終生三司官を務めてほしいと慰留されたが、尚育王《しょういくおう》に世変わりしたのを機に職を退いた。麻真譲の実績なら私塾の塾長に任命されるどころか紫禁城に招かれてもおかしくないほどだ。王国の奉行所や私塾の塾長たちはみんな麻真譲の部下たちばかりなのだから。
父もまた麻真譲を心から敬愛している熱烈な信者である。
「麻親方は琉球と清国の間の関税撤廃を説いておられるお方だった。私も麻親方の仰る通りだと思う。過剰な保護政策は結局琉球の文化を滞《とどこお》らせる」
「ところで父上、申し上げにくいのですが私、真和志塾を落ちました」
父はにっこりと笑って寧温に菓子を勧めた。
「あんなところ行かなくてもよろしい。明日から破天塾へ通いなさい」
朝から酒盛りで賑わう破天塾は、塾生よりも屋敷に巣くう野良猫の数の方が多い。昨夜父から麻真譲の華々しい業績を聞かされたが、本当にこの私塾があの名三司官・麻親方が教鞭を執る予備校とは思えなかった。
寧温は昼過ぎまで寝ている麻真譲が出てくるまでには、科試の試験問題を五つ解いていた。その間も多嘉良たちは楽しそうに酒を呑んでいる。
「坊や、勉強しすぎると燃え尽きてしまうぞ。さあ一緒にお菓子を食べよう」
「多嘉良のおじさん、いくらなんでも遊びすぎです」
「何を言う。破天塾はまず酒盛りから始めると決めたのは麻真譲先生だぞ」
多嘉良が言うには、麻真譲は官僚はまず人柄がよいことが最大の資質だと考えているのだそうだ。科試があまりにも難しくなりすぎて、人間教育を怠りすぎたことを問題視していた。王宮に入れば官僚は自らの既得権に甘え、庶民の明日をも知れぬ暮らしを忘れてしまいがちだ。そもそも官僚の俸禄は国民の税から支払われるのだ。
人頭税《にんとうぜい》と呼ばれる過酷な収税システムが王府を成り立たせている。農民は食うや食わずの生活でこの人頭税のために生きた心地のしない日々を過ごしている。その苦労をまず知ることが官僚の素養だと麻真譲は訴える。王宮はあまりにも贅沢をしすぎている。
しかし麻親方が三司官を務めている間は、王府の財政改革は手をつけてはならぬ禁域であった。麻真譲は三司官を辞任すると、長年の夢だった情を育《はぐく》む人間教育を行うことにした。これが破天塾である。しかし情を優先するあまり、肝心の理が疎《おろそ》かになっているのが問題でもあった。
「麻先生、この案文を添削してください」
麻真譲はただにこにこと笑って寧温の答案を読み耽るだけである。赤字で訂正されることもあるが、ほとんど原文の趣旨は生かされていた。それが正しい案文だからなのか、ただの教師の怠慢なのか寧温にはわからない。それが焦りになってさらに論旨を推敲するようになっていた。
「寧温、なぜ赤田塾に行かないのだ?」
酒を呷った麻真譲が膝を崩した。自分の過去を知った上で破天塾に通ってくるなら、何も教えるつもりはなかった。評定所筆者になれば答えを教えてくれる教師はいない。官僚は答えを自らの力で生み出す人間でなければならないからだ。
寧温は自分の案文を推敲して、また新しい候文を持ってきた。同じ問題に何枚もの案文を出す姿勢が麻真譲の目には奇異に映った。
「私は自分で答えを考えられるからこの塾が好きなんです。さっきの案文は視点が高すぎて、高圧的に受け取られます。現実の庶民の暮らしを鑑みるとこれくらいに抑えておいた方がより実践的な布令かと思われます」
麻真譲はまた適当に赤字を入れて寧温に戻した。麻真譲が教えているのは候文の様式だけである。それをまた寧温が推敲して別の案文を書いてくる。酒盛りをしていようが昼寝をしていようが麻真譲は決して怒ることはない。学問は好きでするものであって決して強制されるものではないからだ。
破天塾の面白さは実は酒宴にあると知ったのも通い始めてからだ。
麻真譲は煙管《キセル》をくわえながら多嘉良から酒を注がれた。
「多嘉良、候文の本質とは何だ?」
「麻先生、それは庶民の心を汲み取ることでございます」
「寧温、おまえはどう思う?」
「麻先生、それは論旨が一貫していることでございます」
「寧温は落第。多嘉良はもう一杯酒を呑んでよい」
「ありがとうございます。では遠慮なく。がはははは。すまんな寧温、儂が破天塾の秀才なのを恨め」
多嘉良が酒を呑んでいないときはなく、素面《しらふ》の姿を見たことがない。いつでも顔が赤くてそれが地肌の色に思える。塾生で正気なのは自分だけではないかと寧温は思う。麻真譲はそんな寧温の気持ちを察してか、酒宴のときは必ず自分の隣に座らせた。
「寧温、おまえは今何をすべきだと思う?」
「麻先生、私は科試を突破するために学問を究めることだと信じております」
「では寧温、何のために学問を究めるのだ?」
「それは自分を磨くためでございます」
「寧温は落第。茶菓子を食べてはならぬ」
そう言って寧温の膝元にあった菓子皿のちんすこうを取って食べた。そのときの麻真譲の顔といったら、ない。子どもが目の前の相手を羨ましがらせるように勿体《もったい》つけながら食べるのだ。これには寧温も純粋に腹が立った。
「麻先生、おとなげないです。なぜ私が落第なのですか」
多嘉良が寧温のちんすこうに手を伸ばす。
「学問は人に尽くすためにある。評定所筆者は国民を導く前に代弁者たれ」
「多嘉良は合格。もう一杯酒を呑んでよい」
「いやあ悪いな寧温、やはり持つべきものは出来の悪い友人だな」
酒の呑めない寧温がこの酒宴が嫌いじゃないのは、誰も自分を子ども扱いしないところだ。よく考えてみると多嘉良も他の塾生たちも、自分よりも他人のことを| 慮 《おもんぱか》る者ばかりだ。傘を忘れた雨の日には、遠回りしてでも寧温を送ってくれるし、多嘉良に至っては自分の着物を脱いで寧温に被せてくれたりもした。ただこれほど情に厚い者ばかりなのに、候文の作成になると呆れるほど無能なのである。やがて痺れを切らした寧温が麻真譲の代わりに塾生たちの案文を添削するようになった。
「多嘉良殿、落第!」
赤字だらけにして答案を突き返すとき、寧温は酒宴の怨《うら》みを晴らした。
「勘弁してください、孫先生。儂は今日はまだ一滴も酒を呑んでないのです。酔いが回らないから名文が書けないのです」
「既に酔ったような迷文ではありませんか。おじさんの書きたい趣旨は大体わかります。でも候文は様式も大切なのです」
「心が籠《こ》もっていればいいじゃないか。くそ。酒宴では覚えていろよ寧温」
そう言ってお互いに笑い合う。学問は人を温かくするものだと思うようになったのも破天塾に通い始めてからだ。恐らくこのことを知りたくてここを選んだのだ。
しかし破天塾は端から見れば、科試を諦めた酔いどれどもの巣窟《そうくつ》である。
ある日、孔子廟にお参りしていた破天塾の塾生たちが、真和志塾の塾生たちに絡まれているのを寧温は目撃した。
「おい、破天塾の落ちこぼれどもが願掛けしているぞ。無駄なことを」
「来世の科試合格でも願っていたのか? それとも来々世か? わははは」
多嘉良たちは何も言い返さずにただしょんぼりと俯いていた。それをいいことに真和志塾の塾生たちは罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせる。
「おまえたちは百姓士族になって畑を耕せ。その方が生産性があがって王国のためになるのだ」
寧温は聞いていて耳を塞ぎたくなった。あんな思いやりの欠片《かけら》もない男たちが科試を受けるなんて許せない。多嘉良たちの方がずっと人として優れているのに。なぜ耐えてばかりで殴らないのだろう。寧温は咄嗟に石を拾った。
「やめろ寧温。孔子様の前で徳を下げるぞ!」
気がついた多嘉良が怒鳴り声をあげる。寧温は悔しくて顔を真っ赤にしていた。
「なぜ、なぜ怒らないのですか? あんな下衆《げす》たちを許す法はないのに。誰にでも孔子廟にお参りする権利はあるのに」
すると多嘉良は懐から紙包みを取り出した。
「おまえの合格祈願をしていたんだ。寧温ならきっと科試に受かる。この紙包みの中身は霊験《れいげん》あらたかな孔子廟の土壁の欠片だ。これをお守りにしろ」
寧温はぼろぼろ泣きながら多嘉良にしがみついた。
「どうして、どうしていつも他人のことばかり気を遣うのです。今は自分のことを考えてください。一緒に科試に受かりましょう」
多嘉良は真っ直ぐに寧温の瞳を見据えた。震えるほど純粋な眼差《まなざ》しに寧温は心を見透かされた思いがする。こんなとき多嘉良は私塾の同級生というよりも、父という気がする。もっとも寧温の実父がこんな慈愛に満ちた眼差しを送ってくれたことはないのだけれど。多嘉良は言う。
「他人の気持ちを汲み取れない人間に科試を受ける資格はない。おまえはいつになったら、それがわかるんだ?」
一瞬、多嘉良の姿が本物の孔子のように見えた。
破天塾に通い出してから二年が過ぎた頃、麻真譲から呼び出しを受けた。
「寧温、国学で科試の模擬試験が来月行われる。他流試合と思って受けてみろ」
「私が模擬試験を、ですか?」
模擬試験といっても王府が主催する本格的なものだ。科試と同じで、試験官も出題も評定所の役人たちが行う。模試での合否は科試の合否と直結する。学生や塾にとっては、何より出題の傾向を探ることができる絶好の機会だった。また模試は評定所にとっても学生の学力を測るのに役立った。ただし、模試への参加は塾長からの推薦を受けた成績優秀者に限られる。
「私が破天塾を代表してもよろしいのですか? 他にも相応《ふさわ》しい方がいるのに」
「真和志塾からは喜舎場朝薫が参加する。それでも役不足か?」
これが麻真譲の恐ろしさだ。喜舎場朝薫のことなど一言も喋ったことがないのに、好敵手であることを見抜かれている。寧温は塾を代表するよりも、あの少年にもう一度会いたかった。もし真和志塾に受かっていたらきっと朝薫と毎日議論をしていただろう。朝薫ともう一度筆を闘わせたい。彼にもまたそう思っていてほしかった。朝薫の真和志塾での活躍は他塾の塾生たちにも轟いている。彼がこの二年の間にどれくらい自分を引き離したのか、その背中を見てみたい。
「麻先生、推薦を受けさせてください。破天塾の名に恥じないよう頑張ります」
その日から、寧温の勉強は苛烈《かれつ》を極めた。麻真譲は少しも手伝いもしないし、模試対策を教えることもなかった。塾生たちの案文に赤字を入れ、叱咤激励するのも寧温の仕事だ。多嘉良たちは模試対策に集中しろと遠慮するが、これも含めて全てが勉強なのだと言い聞かせた。破天塾で習った「情」を自分の「理」と融合させなければ、喜舎場朝薫に勝てない。初めて真和志塾で会ったとき、彼は既に情も徳も備えていた。あれこそが学問を修めた者のあるべき姿なのだ。科試を受ける者は、そうでなければならない。
そして模擬試験の日がやってきた。
王宮の側にある国学に集まった者は、塾を代表する秀才ばかりだ。ここが琉球の最高学府である。科試受験者のほとんどは国学出身者で、私塾に通うのは卒業してからというのが定番だ。大人たちの|人※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]《ひといきれ》に寧温は酔いそうだった。それは朝薫も同じだ。寧温が朝薫を見つけるよりも早く、朝薫は昨日語ったばかりの友人のように、気さくに声をかけてくれた。
「寧温、きっとここで会えると思っていたよ。ぼくは君を目標にしてきた」
朝薫は真和志塾の入塾試験の寧温の答案を見て以来、劣等感を覚えていた。あの案文を落とした伊是名は相当な愚か者だ。不正の嫌疑をかけるなら自分にかけられても不思議ではないほどの出来栄えだった。関税撤廃論は行きすぎていると思ったが、寧温の案文は読めば読むほど琉球の誇りを鼓舞してくれる。あんな案文を書きたくて朝薫は寝る間も惜しんで必死で勉強してきた。もし、今日の模擬試験に孫寧温の名前がなければ、きっと参加しなかっただろう。朝薫は破天塾の代表として参加してきた寧温を誇りに思う。
「朝薫兄さん、あのときいただいた筆は私の励みです」
「破天塾の代表になるなんて君は本当にすごい。麻親方の推薦文をいただくなんてよっぽどの才覚がなければあり得ないことだよ」
麻親方という名に試験官として出席した評定所の役人たちが驚く。誰を推薦したのだと辺りを見渡すが、大人たちの雑踏に紛れて寧温の姿が見えない。破天塾はこの五年、模試に代表を送らない沈黙の塾として有名だった。
国学の講堂の席についたとき、真和志塾の伊是名が異議を唱えた。
「朝薫の隣にいる小柄な少年を試験監督の前に移動させろ」
寧温は試験監督の前に席を替えられた。却ってその方がいらぬ嫌疑をかけられないから有り難かった。
[#ここから2字下げ]
出題
宮古島帰帆之砌唐漂着船損所有之修補之願申
出候処、船は致売払、乗組人数護送船より可
至送届候由、又右船積荷之鉄御大禁之品ニて
被取揚、代銀被相渡由候付、無左船井人数鉄
共琉球入用之者候故、唐向穏便乍計不叶訳願
立之趣意申述候摂政三司官衆より御届被仰上
候案文。
[#ここで字下げ終わり]
受験生たちが難問中の難問を前に絶句した。候文は読めるが意味を知れば知るほど、難しい問題だった。これを解ける現役の評定所筆者がいるかどうかすら怪しい難題である。受験生たちが口々に呟く。
「宮古島の船が清国に漂着した。船は修理が必要なほど壊れていたため願い出たが、清国が売却処分するため、帰れなくなってしまった」
「清国は船と積み荷の対価を銀で支払い、清国の船で乗員を琉球に帰す模様」
「公用船が積んでいたのは鉄! 清国の輸出禁止品じゃないか!」
「しかし琉球としては乗員も船も積み荷も帰してほしい」
「清国の体面を保ちつつ、王府の公式文書として琉球の主張を貫け……」
「清国がそんなのを許すわけがないよ。絶対に清国の船で帰すに決まっている」
これは外交文書作成の問題だ。朝貢関係にある琉球は中華文明の衛星国家である。政治、経済、文化、軍事、全てにおいて琉球が清国に勝てるものはない。むしろ清国の文明を享受することによって生き延びているのだ。それを清国の施しを無視し、独自の回収船を出すなんて清国を怒らせるだけだった。それを怒らせない文書を作成しろというのだから、無理な相談である。
朝薫も寧温も掲げられた問題文を前に一瞬たじろいだ。双方の主張を満たす論理なんてありそうもない。しかしこれが答えのないところに答えを生み出す政治の現場なのだ。
寧温と朝薫が筆を走らせる。
[#ここから2字下げ]
宮古島年貢積船壱艘人数何人乗組、去年何月
当地より帰帆之洋中逢難風唐漂着、其取扱
向ニ付御当国願立之趣如斯ニ御座候事。
[#ここで字下げ終わり]
朝薫は真剣な面持ちで論旨を構築していた。
「公用船を売り払ったら琉球は船に困ってしまう。資材不足の国情を訴えてこのままでは王府の年貢の取り立てに支障が出てしまうことを述べよう」
[#ここから2字下げ]
宮古島之儀材木不自由之所にて船居少作事之
節は中山より楷木申受等を以相調事故思様不
相達、此節本船売払候ては年貢運送之支ニ相
成事候間、
[#ここで字下げ終わり]
寧温もまた清国に格別の厚情を訴えることにした。
「没収された鉄は清国では輸出禁止品だけど、銀で対価を支払われても困る。積み荷の鉄は農具として利用する大切な品。ここは清国に折れてもらうしかない」
[#ここから2字下げ]
取揚代銀被相渡候ては島中用事差欠及迷惑申
事候間、乍国禁格別之訳を以何卒現品積帰候
様被申付度、左候得者鍋鎌鍬等国用致筈合積
候間、大清国之恩寵被成下度、
[#ここで字下げ終わり]
まるで琴に指をかけたように美麗な候文が奏でられる。二人が結びの一文に入った。
[#ここから2字下げ]
申上候間、被聞召上被下候様宜被申上候。以
上。
[#ここで字下げ終わり]
試験監督の声がした。
「やめ。全員筆を擱《お》いてそのまま退出せよ」
科試の本番の緊張感さながらの模擬試験だった。まさか清国との摩擦を前提にした問題が出てくるとは。これが新しい科試の傾向なのか、と受験生は暗澹たる思いがした。模範解答があったらいっそ見せてほしいものだ。
試験官をしている評定所の役人たちもこの問題に息を呑んだ。自分たちに書けと命じられたら、まず評定所配下の表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》と呼ばれる直属の上司に相談して議論を重ね、案文を作成するのに数日をかけるだろう。そして評定所筆者総出で検証を重ね、不備がないか確認し合う。それでも摩擦は避けられないかもしれない。清国が抗議してきた場合に備え、もうひとつ詫び状を用意しておくのが定番だった。誰がこの問題を作ったのか、出題の意図を知りたいくらいだ。
塾の先生たちも生徒が問題を解いている間、模範解答を作成していたが、伊是名をはじめ全員が匙を投げた。この問題を制限時間内で解けというのは不条理だ。
やがて合格発表の時刻がやってきた。受験生たちは全員不合格をほぼ確信していた。科試の本番よりも難しい模擬試験なんて聞いたことがない。
試験監督が合否を発表する。
「首席。真和志塾、喜舎場朝薫!」
あの難問を解いた者がいたことに評定所の役人たちが感嘆の声をあげる。同時に真和志塾の仲間たちが一斉に指笛を吹いた。さすが期待の天才少年である。朝薫は凛と背筋を伸ばして、壇に上がった。寧温も惜しみない拍手を送る。朝薫の細面《ほそおもて》の顔立ちは知性を際《きわ》だたせていた。子鹿のような腰の位置の高さはこれからの成長を予感させる。
「喜舎場朝薫、見事な案文であった。清国の体面を保ち、琉球の主権を貫く堂々たる案文である。我ら評定所筆者としても、きみには早く王宮にあがってほしいくらいだ」
試験監督の言葉に破鐘《われがね》のような拍手が鳴る。科試の監督庁からお墨付きを貰った学生なんて模試始まって以来だ。朝薫は実力を認められてちょっと照れ笑いしている。
「朝薫兄さん、すごい。私もあんな人になりたい」
寧温は壇上の朝薫を眩しい思いで見つめた。そして二年の間に引き離されてしまった距離を早く埋めたくてうずうずしてしまう。
試験監督がまた声を張りあげた。
「同じく首席。破天塾、孫寧温!」
地鳴りのような歓声が講堂を揺らす。首席が二人もいるなんて模擬試験始まって以来のことだ。一体誰なのだと塾生も役人たちも辺りを見渡した。
「孫寧温、前へ出なさい!」
「私が首席ですか……?」
半信半疑でおずおずと立ち上がった寧温は、浮遊感に包まれていた。試験監督の声を遠い世界の声のように聞いた。
壇上に立った寧温がぺこりとお辞儀をする。壇上の少年はまるで乙女のような可憐さだ。二人並べると幼いのに寧温の方が遥かに艶があり、禁欲的な男物の衣装がかえって色香を強調している。並んだ二人はそのまま雛人形の組み合わせになりそうだった。
「やあ、寧温。きみと一緒に首席だなんてぼくたちは縁があるね」
朝薫が拍手して迎え入れると、遅れて学生たちも手を叩いた。二人の神童を前にした学生たちは奇蹟《きせき》の瞬間に立ち会っているような思いだ。
「孫寧温の案文も見事であった。琉球の国情を訴えながらも品格があり、清国に対する配慮も素晴らしい。両者とも甲乙つけがたく、同席一位とした!」
寧温と朝薫が互いに火花を散らして見つめ合う。神童たちの闘いはまだ始まったばかりだ。
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第二章 紅色《べにいろ》の王宮へ
標高の高い王都|首里《しゅり》は未明、よく濃霧に飲み込まれる。那覇の町から見上げればそれは雲なのだが、天上界に住む士族たちは霧と呼ぶ。空気全体がぼうっと光り、天地左右もわからぬまま人は無意識に真紅の王宮を探す。そこが王国の要《かなめ》であり、天と地の境目であるからだ。
やおら王宮の久慶門《きゅうけいもん》が開く。行燈《あんどん》を携えた役人たちは眉目秀麗《びもくしゅうれい》な男ばかりだ。派手な色衣装を着た男たちはまるで舞台から抜け出た役者のように華やかだった。彼らが王府の特命を帯びた踊奉行《おどりぶぎょう》と呼ばれる役人たちである。
「おまえは真和志村《まわしむら》、そっちは那覇、残りは久米村《くめむら》と辻村をあたれ」
上司と思《おぼ》しき男がてきぱきと指示を下す。彼らの役目は王国中の美少年を徴発することである。この踊奉行が表に出るときは、清《しん》国から皇帝の使者を乗せた御冠船《うかんせん》がやって来る前触れだ。皇帝の使者である冊封使《さっぽうし》を王宮内でもてなすことは、王府最大の事業である。
清国との冊封を維持するために、琉球の美意識と教養で盛大に歓迎する。そのために女装をさせて踊らせる美少年が絶対に必要だった。ただ美しければよいというものではない。芸術的素養のある美少年となると王宮内の花当《はなあたい》と呼ばれる稚児衆《ちごしゅう》たちだけでは足りない。
清国の使者たちは琉球舞踊の群舞が特に好きだ。これに応《こた》えるために美少年の徴発が片っ端から行われる。踊奉行に徴発されるのは科試《こうし》と同じく王宮に就職できる最大の機会だ。美貌に自信のある少年たちはこのときとばかりめかし込み、徴発されるのを待っている。
霧の中で踊奉行が一人の少年を見初《みそ》めた。少年は寺子屋にでも通う途中だったのだろうか。地味な衣装を着ているが辣腕《らつわん》スカウトマンの踊奉行の目は誤魔化せない。まるで咲きかけの山百合の蕾《つぼみ》を思わせる少年だった。固い花弁が開いて青い雌蕊《めしべ》を覗かせたばかりの最初の香りを嗅ぎつけた。
「おい、おまえ。私は王府の踊奉行だ。おまえを踊童子として王宮に迎えたい」
顔を真っ赤にした少年は襟元を締め、丁重に頭を垂れた。
「踊奉行殿のお言葉、大変有り難く存じますが、生憎《あいにく》私は科試《こうし》を目指しております。申し訳ありませんがお心に適《かな》いません」
踊奉行の目に狂いがなければ、少年は王宮の花となる逸材だった。花は蕾のうちに王宮に上げ、咲き誇るまでに教養を身につけさせる。踊奉行は育て甲斐のある蕾に執着した。
「そなたの美貌なら科試を受けずとも王宮に入れるのだぞ。よい話だと思わぬのか?」
「生憎、私は踊りの素養がございません。冊封使様のご不興を買ってしまいます」
それでも踊奉行はしつこく勧誘したが、少年は頑として受け入れなかった。踊奉行は美貌だけを見込んでいるのではない。琉舞《りゅうぶ》は天性の才能が必須だ。所作の優雅さや手の返し、首や目の動きなど言葉以上に情感を訴えなければ外国人である清国の使者の心を動かさない。その素地が少年には既に備わっているのだ。こうやって固辞する間にも、少年の手や首や腰はいくつもの哀歓を表していることを知っているのだろうか。まるで乙女の恥じらいを演じる琉舞の『かせかけ』の一幕を見せられた気分だった。
「まあよい。気が向けばいつでも王宮へ来い。そなた名を何と申す」
「孫寧温《そんねいおん》でございます。あの……塾に遅れますので失礼いたします」
踊奉行は霧の中に消えていく少年の後ろ姿にしばし見惚《みと》れた。寧温が走り去った後に山百合の香りが残る。それが霧に混じって何とも甘い気持ちにさせた。あれだけの器量ならば花当になれば必ずや王宮の名玉として名を馳せるに違いないのに。勿体《もったい》ない、と踊奉行は溜息をついた。
実は踊奉行が狙う今日の本命は決まっていた。遊郭《ゆうかく》のある辻村で踊りの天才と呼ばれる美少年がいると聞いていた。彼を徴発することが第一である。踊奉行は辻村へと急いだ。
つぼでをる花やいつの夜の露に
咲かち眺めゆが朝も夕さも
(花の蕾《つぼみ》のあの子を踊童子にして王宮にあげて、咲き誇った姿を朝も晩も見たかったものだ)
夢見心地の霧の朝、続々と美少年たちが王宮にスカウトされていく。そんな中、破天塾《はてんじゅく》では多嘉良《たから》の大法螺《おおぼら》に塾生が煙に巻かれていた。
「あれは儂《わし》が十五歳のときよ。踊奉行が現れて儂を踊童子にしたいと申してきた。儂は子どもの頃は琉球の虞美人《ぐびじん》と呼ばれたものよ。千の花を霞ませる美少年だったのだ。だが科試を受けると言って断った。あのとき王宮に入っていれば、今頃、麻《ま》先生と同じ三司官《さんしかん》だったかもしれん」
「踊奉行の目は腐っていたのですね」
寧温は問題集を解きながら相槌《あいづち》を打った。
「何を言う。儂は寧温よりもずっと美しかったんだぞ。酒に溺《おぼ》れるまでは……」
「身の丈六尺を超える虞美人なんて不気味です。おじさんは関羽《かんう》がお似合いです」
「じゃあ、ちょっと関羽の真似してみるか。これでも京劇は得意なんだぞ」
と多嘉良が京劇の口調で見得《みえ》を切る。これがまた玄人跣《くろうとはだし》の堂に入った姿だ。
「多嘉良のおじさん。もうすぐ科試が始まるんですよ。少しは勉強してください」
「大丈夫。大丈夫。この前、孔子|廟《びょう》の前にユタがいてな。儂はきっと王宮に入ると告げられた。だから今年は余裕を持って受けるのだ。がはははは」
今年の科試は史上最大規模になると予想されていた。合格者を増やして対応しなければならない諸問題が琉球には山積みだからだ。福州《ふくしゅう》の琉球館からは絶えず人が出入りしている。彼らはいち早く清国の情報を仕入れてくる。彼らの情報は現代の諜報《ちょうほう》活動に相当する。長崎の出島に入ってくる情報は所詮庶民レベルだ。
しかし琉球が取る情報は実際に紫禁城《しきんじょう》の中にまで入って集めてくるため政治の微妙なニュアンスや官僚たちの思惑など正確無比なものである。琉球の情報はそのまま薩摩に送られ、幕府の情報として重要な役割を担ってもいた。彼らが集めてきた情報は、衝撃的なものだった。あの超大国・清が欧米の列強を前に為す術《すべ》もないまま翻弄《ほんろう》されているという。阿片《あへん》戦争で英国に敗れて以来、国家が麻痺しているのだそうだ。
那覇の町に行けば誰でも耳にすることだ。今や清国を憧憬《しょうけい》と敬意で語る者は少数である。王府の役人たちも知っている。だが清国に今衰亡されると琉球の国体が危《あや》うい。清国が弱体化すると相対的に薩摩の力が増す。朝貢関係のように友好的ではない日本は琉球支配をますます強めるだろう。
寧温ならずとも一様に国民は王国の未来にさした一筋の影を気にしていた。
「麻先生、清国はこれからどうなっていくのでしょうか?」
「寧温、おまえはどう思っている」
「私は清国が枯れていく大樹に思えてなりません。幹が腐ればやがて枝葉も枯れます。今はまだ琉球には害は及んでいませんが、清国の衰亡は必ずや琉球の衰亡に直結します。いいえ、琉球だけではありません。冊封体制そのものが揺らぎます。朝鮮、安南《あんなん》、蒙古《もうこ》、暹羅《シャム》も共に同じ運命でございます」
冊封体制は中華文明を享受するアジア最大の国際連合だ。このネットワークに入らないのはインドのムガール帝国と鎖国をする日本だけである。朝貢《ちょうこう》国同士は互いに緩やかに繋《つな》がり、今日で言う同盟関係を結んでいた。たとえば漂流民の保護は朝貢国同士では極めて紳士的に行い、衣食住や船の提供を含めて最大限に尽力した。特に琉球はこの手厚い行政サービスが諸外国の間で噂になり、船が漂流すると何が何でも琉球を目指したほどだ。
多嘉良が寧温の不吉な言葉に割って入った。
「冊封をやめたら琉球はどうなる。薩摩が冊封するってことか?」
「薩摩は琉球の完全支配が目標なのです。冊封などしません」
「じゃあどこの冊封を受ければいいんだ」
「多嘉良のおじさん、冊封という体制はもう通用しないのです。列強は新しい体制を強引に推し進めてきます。国は冊封のように緩やかに繋がるのではなく、植民地という奴隷《どれい》国を生み出すのです。これが新しい体制です」
「なんという野蛮な体制だ。琉球が西洋の奴隷国になるのか」
「その上彼らの戦術は巧みです。条約という新しい協定を結び、契約を行うのです。阿片戦争で既に香港は英国領になりました。借地するという口実に清国はまんまと騙《だま》されました」
「琉球は奴隷にならん。独立を貫くのだ」
「ただ難儀なのは薩摩です。彼らは条約ではなく武力で琉球の支配を狙っています。列強支配か薩摩支配か、琉球は二重の葛藤《かっとう》の中にあります」
麻真譲《ましんじょう》は煙管《キセル》をくわえたまま微動だにしなかった。ついに恐れていた清国の弱体が顕《あらわ》になったのだ。もはや琉球の後ろ盾になってくれる国家はない。この難局を乗り切らなければ、王国は幾重もの大国の波に呑まれて沈んでしまうだろう。そのためには智恵がいる。世界に誇る美と教養を研《と》ぎ澄ました究極の頭脳を以《もっ》て難局に臨むしかない。
「それで寧温、おまえは琉球をどこに導けばよいと思っておる?」
「はい麻先生。琉球は冊封も条約も結ばずに、もう一度大海に出て行けばよいと思います」
寧温の主張はこうだ。琉球を独立国たらしめているのは地の利である。東アジアの南端、東南アジアの北端という絶妙な地政学的特性を活《い》かして都市国家のような地位を築くべきだという。
世界中の物資と情報を中継するハブ&スポークの軽量国家こそ琉球にもっとも相応《ふさわ》しい地位だと説いた。
「私たちはかつて、そのような時代を生きました。薩摩に支配されるずっと前、琉球を統一した偉大な王・尚巴志《しょうはし》の時代を思い出してください。明《みん》国の代理で世界中を駆け巡ったではありませんか」
麻真譲は荒波を越えて全アジアと交易した時代を思い出した。マラッカにもアユタヤにも琉球の足場があり、活発な商業活動を行っていた。だがこの莫大《ばくだい》な富を薩摩に狙われた。島津侵攻から二百四十年、琉球は薩摩の傀儡《かいらい》国にされてしまった。薩摩が王府に介入する今の琉球に当時の勢いはない。全ては遠い日の栄光だった。
「麻先生。今の王府に世界を捉える論理はありますか? 清国や大和《やまと》や列強を束ねる論理がありますか? 琉球が主体となって新たな体制を掲げれば必ずや地の利が味方します。ただ今の王府にはそれが見えないのです」
「大和や列強にどういう論理を提示すれば彼らは納得するのだ?」
寧温は自信を持って答えた。
「王府は簡素に外交と治安維持だけを行います。代わりに商人たちに大きな裁量を与え、異国人の居留を認め自由に交易させるのです。それが欧米列強や大和に得だと思わせれば勝ちなのです。琉球を西洋と東洋の緩衝《かんしょう》地帯にして、その代わりにどの国の支配も受けさせません。これが結局は琉球の独立となるのです」
「おおお……。寧温、今の言葉を候文《そうろうぶん》にしてみろ!」
寧温は顔を赤らめて一気呵成《いっきかせい》に候文を仕上げた。麻はその候文を読んで目頭《めがしら》を熱くしていた。
「寧温は合格。見事である。もうそなたに教えるものはひとつもない。科試の受験を許す」
いつしか霧が晴れ、一条の光が破天塾に注がれていた。
王宮にほど近い首里の汀志良次《てしらじ》に厳重な警護を施された屋敷がある。王府に勤める名門士族の屋敷でも、ここまで豪華ではない。屋敷は第二の王宮のような壮麗さだった。ここは王族神・聞得大君《きこえおおきみ》の屋敷だ。門の前を慌《あわ》ただしく白装束《しろしょうぞく》の巫女《みこ》たちが出入りする。間もなく聞得大君が王宮に参内《さんだい》するのだ。
「聞得大君|加那志《がなし》のおなりである。皆の者控え!」
王国のノロと呼ばれる巫女たちを従えて、豪華な涼傘《りゃんさん》を差した聞得大君が門を出た。絢爛《けんらん》たる紅型《びんがた》を纏《まと》った聞得大君は威厳に満ちていた。その風格は王妃をも凌駕《りょうが》する。王族と神官が合体したような衣装は見る者を圧倒する。
彼女は聞得大君になるために生まれてきたと言われるだけあって、異国人のような容貌をしている。彼女の瞳は生まれながらに碧眼《へきがん》だった。この眼が王の安全を見つめ厄災を追い払うと信じられてきた。
王族神という概念は琉球特有のオナリ信仰を基盤にしている。即ち王の姉か妹が王の守護神になるという制度だ。生きながらにして神という身分は、王族の中でも特権的な地位を保証した。貴族に相当する按司《あじ》や王妃、世子《せいし》の中城《なかぐすく》王子よりも発言力があり、聞得大君が託宣で次の王を任命することでキングメーカーの役割を担う。王にとっても姉であり守護神である聞得大君の発言を無視できない。
巫女たちは沿道にいる民に御拝《ウヌフェー》のまま頭を上げてはならぬと命じる。王宮までの間が一番神経を使う。気難しい聞得大君は醜悪なものを忌み嫌っていたからだ。着物の汚れた者、髪に虱《しらみ》が湧いた者、農民、病人、老人、不具者、賤民《せんみん》、美しくない者は全て彼女の敵である。
「ノロよ。あの者を打ち据えよ! 穢《けが》らわしいものが目に入ったぞ」
聞得大君が扇子で指したのは野良仕事に精を出す乳房の垂れた老婆である。暑さのせいでつい着物がはだけてしまったのだろう。聞得大君に見つかったのが運の尽きだ。たちまち六尺棒を振りかぶった巫女たちに袋叩きにされてしまった。
「聞得大君加那志の御前で裸を見せるとは、この不心得者め!」
「ひいいいっ。お赦《ゆる》しを。お赦しを」
「貴様のような不埒《ふらち》な者がいるから、王国が乱れるのだ」
全身を殴打された老婆はぐにゃりとして動きもしない。まるで道端に捨てられた動物の死体のような姿だ。
ノロたちが聞得大君のもとに駆けつける。
「聞得大君加那志、お眼は大丈夫ですか?」
聞得大君は狼狽《ろうばい》しながら聖水で目を洗った。
「目は……妾《わらわ》の目は濁っておらぬか……?」
「はい。大丈夫でございます。聞得大君加那志」
聞得大君は自らの霊験《れいげん》が瞳にあると信じる。王の安全を守るためには未来を的確に見据える澄み切った瞳が求められる。もし彼女の碧眼が濁ったら、王宮内の神事は滞《とどこお》ってしまうだろう。
首里城が普通の城と違うのは、グスクと呼ばれる聖地であるからだ。王宮には十|御嶽《うたき》と呼ばれる神殿があり、王宮の半分は聞得大君しか入れない京《きょう》の内《うち》と呼ばれる広大な聖地である。首里城は王宮であり神々が集《つど》う神殿でもある。政教一体となった宮殿、それが首里城最大の特徴である。
また聞得大君が癇《かん》に障るものを見つけたようだ。
「あの男、許せぬ! 大与座《おおくみざ》の役人に突き出すのじゃ!」
しかしノロたちが見ても、男の格好は身綺麗だ。それどころか挿《さ》した簪《かんざし》も洒落《しゃれ》ていて聞得大君の美意識に適うものだ。何が気に入らないのかノロたちにはわからなかった。
「あの男は今朝までジュリ(遊女)を抱いていたのじゃ。女の怨念がこびりついて不吉じゃ」
と霊能力で人の品性まで判断するからたまったものではない。またノロが六尺棒を構えて男に襲いかかった。
「聞得大君加那志の御前で女の怨念を見せるとは、この不心得者め」
「ひいいいっ。お助けください」
男はたちまち大与座の役人たちにしょっ引かれて行った。聞得大君は人の過去を見抜く力がある。彼女とまともに話ができるのは素性を見抜かれない堅牢な意志を持つ者だけである。
「目は……妾の目は濁っておらぬか……?」
聞得大君はまた聖水で目を洗った。聞得大君御殿から王宮に入るまではいつもこんな具合だ。この残虐な王族神を民は恐れてその姿をまともに見た者は誰もいない。もっとも彼女の碧眼で睨《にら》まれたら誰しも精気を奪われてしまうだろう。生まれながらにして神であるために、彼女は薄汚い衆生《しゅじょう》では生きられない運命だった。
「聞得大君加那志、今日は何の祈願でありますか?」
ノロが恭《うやうや》しく頭を垂れる。最近、聞得大君が王宮に頻繁に出入りするのは訳があってのことなのだろうか。
「龍が、かつて王宮を逃げた龍の子が、地上に現れて王宮を乱そうとしておる。まこと不吉じゃ」
守礼門《しゅれいもん》を潜った聞得大君は振り返って空を見た。碧眼は穢れない空を見るときだけ慈愛に満ちた。ノロたちも聞得大君が空を見ているときの穏やかな眼差《まなざ》しが好きだった。
「龍は縛り上げて封印するに限る。首里天加那志《しゅりてんがなし》(王)に知られる前に妾が手を打つ。それが聞得大君の役目じゃ」
聞得大君は霊験により既に手を打ってあった。
聞得大君ぎや十嶽勝りよわちへ
見れどもあかぬ首里の親国
(聞得大君加那志は創世神がお造りになられた島々よりも素晴らしく優れていて、見ても飽きないほどご立派であらせられる)
いよいよ科試の日がやってきた。王国最大の雇用試験は天国と地獄の明暗が分かれる日である。科試の前には必ず女たちの合格祈願がある。夫を役人にさせ満足な暮らしを得るためとあらば、多少の出費は仕方がない。首里十二支参りを高名なユタにさせるために、一年以上前から予約しておかねばならない。中には王国南部一帯を行脚《あんぎゃ》する東御廻《アガリウマーイ》に参加する者もいる。王国最大の聖地・斎場御嶽《セーファウタキ》を巡礼すれば必ず科試に受かると信じられていた。
多嘉良も寧温も王国に二カ所ある孔子廟でお参りをすませた。首里孔子廟の他に清国の帰化人たちが拝礼する久米孔子廟がそれだ。完全な中国様式の久米孔子廟の前では儒礼をする清国人に交じって私塾の塾生たちもいた。清国式の服を着て孔子廟の前で三度儒礼をする。
「寧温、那覇の市場で合格饅頭を売っているぞ。それも買おう」
「合格饅頭ってあの悪名高い泥饅頭のことじゃないですか?」
「何を失礼な。孔子廟の土壁を小麦粉に練り込んだ有り難い饅頭だぞ。早く買わないと色が薄くなってしまう」
毎年、それで孔子廟の土壁があくどい商人たちの手で抉《えぐ》り取られてしまう。人気のあるのは生地が泥色に染まった土壁濃度六十度の饅頭だ。しかしそれを食べれば必ず腹を下す。つまり「当たる」のである。
「なぜ多嘉良のおじさんは科試の前に燃え尽きるまで盛り上がるのですか」
「だって儂は受かったことがないんだもん……」
そう言って多嘉良はどす黒い饅頭を頬張った。科試の前は王国中どこでもこういう光景だ。教養と智恵を競う男子最大の祭りは前哨戦から過熱していた。
試験会場となるのは首里国学とその周辺の王府の奉行所である。科試は初科《しょこう》と再科《さいこう》に分けられる。初科の受験者は実に三千人。首里男子士族の三分の一に当たる。彼らの全てを収容する施設は王国にはないから、受験者はどの奉行所で受けるか探すだけでも一苦労だ。この日だけは奉行所も臨時休業で、科試の受験生を補佐する。一般教養の初科の倍率は百倍だから受験者のほとんどは初科で消える運命だ。ここから三十人が生き残り再科に進むことができる。
名門塾の塾生たちは国学が受験会場に割り当てられるが、科試合格者がひとりもいない泡沫《ほうまつ》塾には郊外の詰所が割り当てられる。
破天塾の塾生たちに用意された会場は刑務所である平等所《ひらじょ》だった。
「わははは。平等所で初科とは面白い。落ちたら流刑が待ってるかもしれんな、寧温」
「この前の模擬試験の方がよっぽど科試らしかったのに……」
罪人を尋問する部屋に通された寧温たちは、投獄されそうな気分だ。試験官たちに睨まれると罪科を問われそうで目を合わせられなかった。
漏刻門《ろうこくもん》の太鼓が巳《み》の刻を告げた。いよいよ科試本番だ。
[#ここから2字下げ]
出題
人間之慾其端雖多呑酒之戒尤不入念候て不叶
候条、沈酒之害を申述、三司官衆より仰渡之
趣。
[#ここで字下げ終わり]
「人間の欲には限りがないが、酒に溺れるという害を戒めるために三司官の名で国中に通達する文書の趣旨を作成せよ」
寧温はおかしくて笑ってしまった。これはまるで多嘉良を戒《いまし》めるための案文である。これを見逃す多嘉良ではない。握り拳《こぶし》で鼓舞すると筆を握った。
「やったぞ。ついに孔子様が儂に味方したのだ。あの泥饅頭のお蔭だ」
初科の一般教養は中国の古典を基礎として現実的な布令を作る問題だ。それには幾つかのポイントがある。四書五経の文言をバランス良く配置し偏りのない候文を作成するのが模範解答だ。この問題の場合は「心気」「家法」「気静」「厚謹」「性心」「行跡」「戒心」などが挙げられる。これらを上手く盛り込み三司官の言葉として品格のある候文を作成しなければならない。
寧温はそつなく用語を盛り込んでいった。
「飲酒は心気を乱し、自ずから行跡《ぎょうせき》を乱すことになり、また家法を阻害し、社会の風俗を妨げ、場合によっては犯罪をしでかし家族に迷惑をかけることにも繋がる」
[#ここから2字下げ]
呑酒は心気を乱申候ものニて自然と行跡猥に
相成、家法之痛は不申及風俗之妨罷成、間ニ
は無調法を働逢罪科親族迄も迷惑を懸候。
[#ここで字下げ終わり]
同じ頃、国学の朝薫《ちょうくん》も問題を解いていた。
「酒に溺れようとする者には特に戒心を加え、人間としての気持ちの慎みが大事だと言い聞かせるべきである。好酒に傾くといかに厚謹の者であっても性心を失い過《あやま》ちを犯す」
[#ここから2字下げ]
好酒ニ付ては何程謹厚之者も性心取失過を出
来候所より気持之慎戒酒を第一之事と先輩之
教も有之事候条、彼是得と汲受猥ニ酒を用候
儀堅可相戒候。
[#ここで字下げ終わり]
硯に筆をつけながら朝薫は寧温のことを考えていた。模擬試験で同時首席になったとき、朝薫は初めて切磋琢磨《せっさたくま》できる人間に会えた気がして嬉しかった。と同時に激しいライバル心も生まれた。答案は互角だが、勝った気がしないのは、寧温の方が二歳下だからだ。十三歳のときの朝薫にはあんな案文は書けなかった。
「寧温もどこかでこの問題を解いているのだろうか……」
試験会場の国学で会えなかったことは残念だけど、彼は必ず初科を突破すると信じて再科の王宮で会いたかった。なぜ彼のことがこんなに気になるのか朝薫にはわからない。友情なら真和志塾の仲間たちに感じる気持ちと同じはずなのに、寧温には違う気がする。「好敵手」、この言葉がこれほど胸を熱くさせるものなのだろうか。
朝薫は気を取り直して筆を執った。
一方、平等所の監視下にある多嘉良も嬉々として筆を弾ませていた。
「酒は世の潤滑油として必要なものであるので、大事なことは王府が酒との上手なつきあい方を指導するべきである。たとえば普段の宴席では一合まで。結婚式では特例で二合まで。葬式のときは格別な場面なんで三合まで。あるいは嬉しいときは一合、悲しいときは三合。酒検者という役人をたくさん置いて、酒を呑む現場で指導する体制を王府が作るべきである」
[#ここから2字下げ]
呑酒之儀世上之取合肝要成者ニて候故、於王
府も用酒之有様段々下知可有之儀と存至り、
通体之宴は壱合、婚礼之宴は弐合、葬礼之際
は三合、喜悦之涯は壱合、於寂寥は三合抔と
被相定、或又酒御検者余多被定置、用酒可有
様可被仰下儀専用之事と奉存候。
[#ここで字下げ終わり]
多嘉良の案文はどこにも四書五経の文言が入っていない奇天烈《きてれつ》候文だ。
漏刻門から太鼓の音がした。
「やめ。全員筆を擱《お》いてそのまま退出せよ!」
三千人もの大量の受験生を公正に扱うのは至難の業だ。答案は箱に収められ、すぐに封印された。それから速やかに回収に来た評定所の役人たちに渡される。まるで選挙の投票箱のような扱いだった。この膨大な答案を採点するのも王府の仕事だ。直ちに採点が始められ夜を徹しての作業が行われる。初科の合格者は十日後に国学で発表されることになっていた。
答案に自信のある多嘉良は、帰り道から酒を呷《あお》って上機嫌だ。
「寧温、これで儂もついに評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》だ。あの問題を授けてくれた孔子様に感謝をする。酒との付き合い方なら儂が琉球一の男よ。首席合格間違いなしだ。がはははは」
それから多嘉良は一族門中を集め、夜通しで合格前祝いを行った。豚を潰《つぶ》し山羊を潰し婚礼祝いさながらの宴を三日三晩続けた。
「おじさん、何て書いたのですか?」
発表前に祝宴に呼ばれた寧温は、果たして本当に祝ってよいのかどうか戸惑っている。多嘉良の妻も老いた母親もなぜか感激して泣いている。一体どういう家族なのだろうか。
「おうよ、酒検者を王府が設けるべきだと説いたのだ。酒はどんどん呑め。今日は祝いだから一升まで呑んでよい。がはははは」
「おじさん、『心気』は入れましたか? 『厚謹』や『行跡』を盛り込みましたか?」
多嘉良一族はもう科試を突破した気でいる。この乱痴気《らんちき》騒ぎに水をさすのも心苦しいが、念のために確かめておかねば怖くて祝えない。
「なんで『心気』を入れるのだ。候文は心が籠もっていればよい。細かいことは気にしない」
「細かいところを試すのが初科なのに……」
寧温はだんだん胃が重くなってきた。今はこの酔いの夢が覚めないことを祈ろう。多嘉良は仕立てたばかりの正装の黒|朝衣《ちょうい》に袖を通し、カチャーシー(踊り)の輪の中に飛び込んだ。
「儂が王宮にあがったらみんなを食わせてやるぞ。がははははは」
指笛と三線《さんしん》が鳴る中で多嘉良家の夜は更《ふ》けていく。
そして初科の合格発表の日がやってきた。
国学に集った群衆は家族たちまで混じって押すな押すなの人混みだ。慣例として上位三人の名前は試験監督から発表されることになっている。だいたいこの上位三人が再科の合格者にもなる。
試験監督が合格者の名簿を張り出す前に咳払《せきばら》いをした。
「首席。破天塾、多嘉良|善蔵《ぜんぞう》!」
と言ったのは多嘉良自身の口からだ。即座に試験監督から「そんなわけないだろう」と一蹴された。勿体ぶったかのように、試験監督が衆人を見渡した。あれだけ騒いでいた群衆が水を打ったように静まりかえる。毎年恒例のこととはいえ、いつも緊張する瞬間だ。
「本年度の初科合格者を発表する。今年は例年にも増して優れた案文が多かった。評定所を代表して受験生諸君の健闘を讃えたい」
「能書きは後でいい。早く発表しろ!」
急《せ》かされて試験監督が声を荒げた。
「首席。破天塾、孫寧温!」
地鳴りのような歓声と熱狂が試験監督の声をかき消す。てっきり首席は神童・喜舎場朝薫《きしゃばちょうくん》だと誰もが予想していただけに、歓声も倍増だ。かつて模擬試験で喜舎場朝薫と並んだあのもうひとりの少年のことを思い出して、やっと納得した。
「彼は史上最年少の初科合格者である。何と十三歳である!」
その瞬間、破天塾の仲間たちによる胴上げで寧温の体が宙を舞った。あまりにも華奢《きゃしゃ》な体に周りの大人たちが目を疑う。朝薫に匹敵《ひってき》する神童がもう一人琉球にいることは聞いていたが、元服したばかりの少年ではないか。寧温が胴上げされて上へ下へと視点が撥《は》ねるたびに上ずらせる声を聞くとまだ変声もしていない。驚異的な神童を前に無力感すら覚える光景だった。
「次席。真和志塾、喜舎場朝薫!」
今度は真和志塾の塾生たちが負けじと朝薫を胴上げする。
「彼もまた史上最年少の初科合格者である。今年十五歳である!」
朝薫はちょっと悔しそうに唇を噛んだが、寧温を見つけたときには満面の笑みになっていた。
「おめでとう寧温。きっと君が首席だと思っていたよ。でも再科では負けないよ」
「朝薫兄さん、ありがとう。私も再科でも負けないように頑張ります」
試験監督がまた合格者を発表する。
「三位。国学|訓詁師《くんこし》、儀間親雲上《ぎまペーチン》!」
まさかと真和志塾の塾生たちが顔を見合わせる。すると人波を割るように華麗な色衣装で派手な女たちを引き連れた儀間親雲上が優雅に登場した。パッと開いた真紅の番傘を肩で回して流し目で決めた。
「これでも私はかつて科試を目指していた端くれ。今年こそ科試を突破してみせよう」
儀間親雲上はあの真和志塾での屈辱以来、仕事をさぼって受験勉強に励んでいた。元々初科を突破したことのある秀才だけに、ここは余裕の通過だ。
取り巻きの女たちも儀間親雲上の賢さにめろめろだ。胴上げの代わりの黄色い声は、初科に落ちた真和志塾の元仲間たちにはこの上ない屈辱だった。
初科合格者の名簿が張り出された。百倍の競争率に一喜一憂の声が飛び交う。しかし三十人の中に多嘉良の名前はなかった。呆然と立ち竦《すく》む大男の背中に寧温は自分だけ喜んだことに罪悪感を覚えた。そんな視線を察したのか多嘉良は振り返らずに言った。
「寧温そんな顔をするのはよせ。今日はおまえが心から笑う日なんだぞ。おめでとう!」
国学を後にした寧温と多嘉良は、孔子廟に合否の報告をしがてら三重城《ミーグスク》へ向かった。かつて寧温が真鶴《まづる》と呼ばれた少女だった頃、ここで黒髪と別れた。三重城から望む海はあの日と少しも変わらずに極彩色の景色を湛《たた》えている。
多嘉良は溜息をつきながら海を見つめた。
「儂はもう科試を受けるのはやめて真面目に働くよ」
「おじさん何を言うんですか。今までの努力を無駄にしないでください」
「儂は今年で不惑だ。妻や子どもにも苦労をかけてばかりで申し訳ない。受かっても落ちても今年で最後だと決めていたんだ」
だからあのような祝宴を開いたのだと寧温は納得した。きっと科試に明け暮れた自分の人生を祝福したかったのだろう。寧温はなぜ多嘉良が科試にこだわったのか理由が知りたかった。
「おじさんの夢って何だったんですか?」
「儂はなあ、琉球をもっと豊かな国にしたかったんだ。琉球に武器はない。周りは大国ばかりだ。そんな国が生きていくためにはどうすればいいか考えていた。昔、ここで女の子が泣いていたのを思い出すなあ。とっても可哀相だったんだぞう……」
寧温は多嘉良の側に座って話を聞いていた。その多嘉良の言う女の子がまさか自分だとも知らずに。
「儂はなあ、評定所筆者になったら国民皆学にするのが夢だったんだ。女子も男と同じように学問を受けるんだ。琉球が生き残るには智恵と教養しかないのは周知の事実だ。だったら国民の半分の女子にも高等教育を受けさせるべきなんだ」
「……おじさん。なぜそんなことを考えるの?」
「女でも男より頭のいい人間はたくさんいる。その賢い人材を活かしてこそ琉球は栄えるのだ」
寧温は胸が熱くて心が切なくて涙が溢れてくるのを止められない。
「昔、ここで髪を切った女の子がいたんだ。とっても可哀相だったんだぞう……。嫌な世の中だなあっと思ったよ。あの子にも学問を受けさせてやりたかったなあ」
寧温は多嘉良の見つめる水平線に視線を重ねた。あの光景を見ていた人がいる。それが多嘉良であったことが嬉しかった。
「寧温、科試に合格したら儂の夢を叶《かな》えてくれるか?」
「はい……。もちろんです……。おじさん、ありがとう……」
寧温は多嘉良の酒臭い懐《ふところ》で顔を沈めて泣いた。多嘉良と寧温はひとつの影になって心地好い風に吹かれていた。寧温は泣くと花の香りが立つ。その香りを慰めにして多嘉良も寧温を懐に抱いた。そして多嘉良は破れた夢を託した。
つぼで露待ちゆる花の咲き出らば
匂や誰が袖に移ち呉ゆが
(蕾で露を待つ花のおまえは、これから誰の袖に匂いをつけるのだろうか)
再科は少数精鋭の闘いだ。以前、模擬試験で行われたのがこの再科である。合格者は塾長からお墨付きをもらう抜きん出た頭脳の持ち主ばかりだ。この再科こそ科試の本領である。模範解答はなく、現実の政治問題が試験問題に使われる。国が穏やかなときは問題も易しいが、国が揺れると問題も難しくなる。特に絶妙な外交センスを要求される今は、誰も見たことのない真実を導き出した者だけが合格する。
再科は首里城の北殿で行われる。実際に評定所の役人たちが執政する行政の中枢機関である。
「寧温、これを着て行け」
と自宅まで押しかけてきたのは多嘉良だ。役人の正装である黒朝衣は自分が着るために仕立てたものだった。
「昨日、女房に徹夜で仕立て直させたんだ。これを着れば評定所筆者の気持ちになって案文が書けるぞう。がはははは」
直したとはいっても多嘉良は大男だ。寧温にはまだぶかぶかだった。それを子どもはすぐに成長するからと押しつけた。
「おまえは儂らの希望だからな。歓会門《かんかいもん》まで送ってやるぞ」
科試の試験会場となった首里城は物々しい警備だ。科試は王府の体制そのものだから、賄賂《わいろ》や不正が発覚すれば国家反逆罪に相当する。もし不正があれば評定所の役人は流刑、塾生の所属する私塾は取り潰されてしまう。
「ここが歓会門……」
石造りの曲線に寧温の視線がカーブを描く。重厚な歓会門は俗世と王宮を分ける堅牢な隔壁だった。首里城には幾つかの門があり、役人たちが主に使うのがこの歓会門と久慶門だ。これに対して後宮・御内原《ウーチバラ》の女官たちが使うのが継世門《けいせいもん》である。寧温が真鶴と名乗っていた頃、一生この門を潜ることはないと諦めていた栄光の門が、今まさに開かれた。
「科試を受ける破天塾の孫寧温です。お通し願います」
大男の門番が何の冗談だと言って笑った。科試は所帯持ちの大人の世界だ。子どもが腕試しで受けるものではない。すると奥から華やかな衣装を纏った役人が寧温の腕を引っ張った。いつかの踊奉行の男だ。
「おお、孫寧温。君を待っていたぞ。ようやく決心してくれたんだな」
「違います。私は科試を受けるために王宮に来たのです」
「何と初科に受かったのか! 信じられん!」
踊奉行に手を引かれて入った王宮に寧温は息を呑んだ。小綺麗な中庭の中央に立派な建物が聳《そび》えている。
「これが王宮ですか。なんと素晴らしい……」
「まだまだ。この先が本当の王宮だぞ」
寧温がいるのは下之御庭《シチャヌウナー》と呼ばれる王宮に入るための広場だ。寧温が正殿だと勘違いしたのは奉神門《ほうしんもん》である。建物が門になっているなんて寧温は初めての経験だ。踊奉行に手を引かれて奉神門を潜ったとき、寧温の目に超現実的な光景が飛び込んだ。
「ここが首里城――!」
目の前に広がる光景はまるで竜宮城ではないか。真紅の正殿に施された無数の龍の装飾が非現実的な光景に映る。これほどの造形美がこの世にあるのかと目を疑う。首里城は複数の建物で広大なパティオを形成している。それが御庭《ウナー》と呼ばれる空間だ。この御庭がドラマ性を高める装置として効果的に機能している。御庭に施された白と赤のストライプ模様が正殿に向かって視線を勢いよく駆け上がらせるように演出されていた。王宮というよりここはまるでひとつの街、いや異国だ。紫禁城をモデルに造られた首里城は琉球の美意識と融合し、より華やかな宮殿となった。王宮の森の緑と正殿の真紅が補色になって強烈な印象を与えるのだ。
建物だけではない。王宮に出入りする役人たちもまるで舞台役者のようだ。目にも鮮やかな色衣装を纏い御庭を行き交う姿は、珊瑚礁《さんごしょう》を回游する熱帯魚を思わせた。役人たちは自分の美意識とセンスの良さを競い合うかのようだ。世界中の美と教養を集めた宮殿、それが首里城だ。正装したつもりの寧温ですら、自分がひどくみすぼらしい格好をしているのではないかと身の置き場に困ってしまう。
「あれは何ですか?」
と指をさす。花籠が群れているような集団がいる。
「ああ、あれは私たちが徴発してきた少年たちだ。どうだ美しいだろう」
黄色の紅型で女装をした美少年たちは化粧を施し、踊りの練習をしていた。踊奉行が血眼《ちまなこ》になって芸術的素養のある選りすぐりの美少年ばかり徴発してきた成果がこれだ。寧温の目には少年たちというよりも踊る花籠に見えた。彼らの中から更に美しい者が宮中の表舞台を彩《いろど》る花当に選ばれる。この徹底的に美と教養を追究する姿勢が琉球王朝の最大の特徴だ。
「君だって色衣装を着れば、あの仲間になれたのに。科試に落ちたら私のところへおいで。どうせ再科は無理だろう」
「落ちません!」
男と偽《いつわ》った女が女装したら女そのものだったとなれば洒落にならない。寧温は何とか言い逃れをして北殿の試験会場に向かった。
「朝薫兄さん、もう来ていたんですね」
「やあ寧温。さっき踊奉行に捕まっていたのを見たよ」
「ええ、しつこくて迷惑なんです。朝薫兄さんも声をかけられましたか?」
「ぼくは背が高くて群舞には向かないから大丈夫。踊童子は小柄な方が好まれるからね」
北殿の中は異様な緊張感だ。ここが王府の全てを纏めている評定所である。評定所筆者たちの熱気が床にも壁にも染みついている。ここで布令が書かれ、外交文書が作成され、全ての政策が決定される。寧温も朝薫も熱気に飲み込まれそうだった。
「すごい。ここが評定所か」
「私は今、本当に評定所にいるんですね」
墨汁の匂い、紙の匂い、そして汗と手垢《てあか》が染みついた壁の色、二人はもう王宮の虜《とりこ》になってしまった。そして何が何でも科試に受かってみせると発奮する。
「大丈夫だ。ぼくはこの日のために寝る間も惜しんで勉強してきたんだ」
と朝薫は掌の汗を握る。
「ビリでもいいから合格したい。私はここで働きたい」
寧温は逸《はや》る息を抑えようとして襟元を握った。
科試の中の科試と呼ばれる再科は、受験生のレベルが飛び抜けて高い。どんな問題に対しても満点に近い案文を書ける者ばかりだ。それを敢《あ》えて落とす。琉球の未来を舵取《かじと》りさせるために。清国や日本や列強の大国と闘わせるために。だから意図的に答えのない問題を出す。
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出題
唐兵乱甚敷有之向後唐向之仕様、如何様可有
之候哉、案文可作調由被仰下候事。
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受験生たちが唖然《あぜん》と口を開いた。
「清国国内の混乱状態を踏まえつつ、今後、我が国が取る対清政策について論ぜよ……」
「それを考えるのは王府の三司官たちだろう……」
「王府がいつも後手後手に回っている対清政策の失政を俺たちに解けと言うのか……」
科挙を持つ清国も優秀な役人揃いだ。清国は大国だから朝貢国に対しては大上段に構えればいいが、朝貢国は隷属しているわけではない。あくまでもアジア最大の国際連合に加盟している独立国である。だから清国に弱みを見せられない。かといって対立するわけにはいかない。この按配が外交センスだ。
騒然となった会場に試験監督が檄《げき》を飛ばす。
「これは首里天加那志からの出題である。見事、解いてみよ!」
尚育王《しょういくおう》自らが琉球の未来を担う学生たちに出題したとあって受験生たちは奮起する。尚育王は勤勉実直な王として知られる。士族の高等教育に特に力を入れ、科試対策のために莫大な費用を投じ幾つもの学校を設立した。その成果が今問われている。王が自らの信念を試さんとする問題だった。
朝薫は筆を握った。
「清国との外交・貿易は我が琉球王国の存立を左右する一大事である。その存続なしに琉球の将来はありえない。清国情勢は混沌としておりどのように事態が展開するのか、予断を許さない」
[#ここから2字下げ]
大清御取合之儀御当国存亡之要諦ニ而御座候
処、唐土兵乱打続如何様可成疵共致出来候哉
念遣可及候故
[#ここで字下げ終わり]
朝薫は難問を前に迷うことなく筆を走らせる。
「対処策として、福建省の福州にある琉球館に駐在する琉球役人の数を増員し、情報収集能力を強化すべし。情報収集先は従来の北京《ペキン》や福建の役人、あるいは琉球館出入りの商人のみでなく、十分な謝礼を準備した上で、情報通の清国人網を活用して南京《ナンキン》や広東《カントン》にまで広げるべきである」
[#ここから2字下げ]
向後於琉球館存留人数中より構役被仰付唐土
成行向々へ探索させ、遣銀等無躊躇仕出可有
之と存候。唐官役河口通事出入之商人共は不
及申、南京広東等へも致聞耳候儀専要之事と
存候。
[#ここで字下げ終わり]
朝薫は私塾の恩師とこの談義を交わした過去がある。清国が揺れているのを憂慮しない者はいない。このままだと琉球は薩摩の支配を強めてしまう。薩摩が王国を解体しないのは超大国・清が強力な後ろ盾となって琉球を保護しているからだ。もし薩摩が琉球に軍事介入するならアジア最強の海軍を誇る清国が江戸幕府そのものを攻撃するだろう。それが薩摩にはわかっているから迂闊《うかつ》には手出しできない。断固たる冊封体制の維持、これが朝薫の答えだ。
朝薫はちらっと寧温を見た。寧温は頬を紅潮させて一心不乱に案文を作成している。
――寧温、君はこの問題をどう思っているんだい?
寧温も麻真譲との対話を思い出した。あの興奮をもう一度|蘇《よみがえ》らせようと筆を弾ませる。呼気を次々と文字に換えていくように、答案用紙が埋まっていく。
「清国との外交・貿易が王国の死活的な事項であることは言うまでもない。しかし、樹木と同じように、国も時が至れば枯れるということを知る必要がある」
[#ここから2字下げ]
大清国御取合向ハ御当国存否ニ可掛大事ニ而
は候得共、唐土之盛衰恰も樹々盛衰之模様同
断と可致了簡候。
[#ここで字下げ終わり]
衝撃的な文言で始まった寧温の答案は琉球の国体を揺るがす檄文だった。
「清国という国は大地のひとつであり、その土地に生える樹木が今の我が琉球である。ならばその木が枯れれば清国には新たな樹木が生長する。古い木に囚われるのではなく、新しい樹木を見る冷静さが必要だ。琉球という国が生長を続ける木であるならば、清国の枯れ木にこだわる必要はない」
[#ここから2字下げ]
枯木可成行体も有之候ハバ、至繁盛木も又有
之道理ニて、御当国之去就唐土変態之見分社
肝要ニて候。憔悴之樹ニ肝入致は愚昧之事ニ
て、繁盛方と之御取合社焦眉之事と至存候。
[#ここで字下げ終わり]
寧温は、清国はもう琉球の後ろ盾にならないと説いた。幸いなことに日本は鎖国しているために国際情勢に疎《うと》い。清国よりも強力な海軍を誇る欧米列強がアジアを着々と侵略しつつあることを知らない。もし日本が清国は琉球を守らないと知ったら、直ちに侵略を開始するだろう。新しい時代の変化に速やかに対応するべきだ。軽量国家の琉球ならそれができる。たとえ冊封体制を崩壊させても、地政学的優位を用い琉球を大国間の緩衝地帯にすればきっと生き延びられるはずだ。まずは情報収集だ。
「琉球館での情報収集力を強化し、その情報を的確に分析し、判断できる人材を王府に配置すべし。もし新しい木が清国に育っていないのであれば、清国抜きの王国のあり方を模索すべし。その覚悟が琉球存続の要諦である」
[#ここから2字下げ]
依之於琉球館存留役之詮索方ハ勿論、於此方
も唐成行具ニ致詮索、応時宜て可被取手段可
致熟慮候。唐土之見込不成立申バ御当国之分
限次第琉球世可構と存候事。
[#ここで字下げ終わり]
同じ情報収集を説いても、朝薫と寧温の見つめる未来は違っていた。
朝薫はもう一度、清国に立ち直ってもらうしか小国琉球の生きる道はないと信じる。
「ぼくの国は決して滅びない」
「私の国はきっと生き延びる」
「清国と共に生きる琉球こそ幸福なんだ」
「琉球は清国なしでも生きていける」
お互いに信念をぶつけて案文を作成する。ふたりが結びの一文に入った。
「今は王府に諜報機関を設けるべきだ。三司官の一人を清国対策|専轄《せんかつ》とし、迅速で的確な行動が取れるように体制を強化するべきだ」
[#ここから2字下げ]
又於王府も構之役々被仰定※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]之三司官同心ニ
て、跡々之手段如何様可有之候哉可致決定候
と存候事。
[#ここで字下げ終わり]
試験監督の声がした。
「やめ。全員筆を擱いてそのまま退出せよ!」
受験生たちがどっと崩れるように筆を擱いた。肩で呼吸を整える様は頭脳の格闘技だ。誰も正解などわからない。もし答えがあるとすれば、彼らの子孫たちが見る遠い未来の琉球の姿で判断するしかない。
王宮を去るときに寧温は何度も正殿を振り返った。ここで王国のために働けるなら自分の人生の全てを懸けてもよいと思った。それに足りうる素晴らしい王宮だ。寧温はこの美しい王宮が永遠に存続していることを願った。
首里天加那志ももとまでちよわれ
おかけぼさへめしやうれ拝《うが》ですでら
(琉球国王は万歳幾久しくましまして、この国を御支配なさってください。人民は皆その御徳を仰ぎお恵みに浴しましょう)
歓会門の前で苛立ちながら待っていたのは多嘉良だ。てっきり笑顔で迎えてくれるとばかり思っていたのに、多嘉良は血相を変えていた。
「大変だ。大変だ寧温。すぐに平等所まで来てくれ。おまえの父上が大与座の役人に捕まったぞ!」
「なんですって! なぜ父上が捕まるのですか?」
寧温は首里の郊外にある平等所へ駆けて行った。
かつて初科の受験会場だった平等所は、本来の姿に戻っていた。儀保《ぎぼ》の平等所に集められる罪人は刑事罰の中でも特に重い者ばかりだ。政治犯や王府の予算を横領した者、国家叛逆罪に問われる者、この平等所で裁かれた後には流刑や斬首など最も重い罰が待っている。
「ここに孫嗣志《そんしし》がいると聞きました。お通し願います」
「駄目だ。孫嗣志の罪状は極めて重い。家族を含めて裁かれる」
その家族のひとりが寧温なのに、大与座の役人はまだ気づいていない。一体どういうことなのだろうか。役人たちは慌ただしく平等所を出入りしている。
「孫嗣志にはひとり娘がいたはずだ。まだ見つからぬのか?」
「はい。どうやら匿《かくま》ったようです」
「拷問《ごうもん》に掛けて白状させろ」
しばらくして奥から臼《うす》に挽《ひ》かれたような鈍い呻《うめ》き声が響いてきた。あの声は間違いなく父のものだ。寧温は足の震えが止まらない。
「おい、おまえも孫嗣志の家族か?」
襷《たすき》がけで袖をまくし上げた役人に威圧されて寧温は声も出ない。そんな寧温を庇《かば》って出たのが多嘉良だった。
「いやあ儂の息子が失礼をしたようで申し訳ない。孫嗣志殿には息子の科試の祝いで餅《もち》を戴いたのでお礼を言わせようと連れてきたのでございます。せめて儂だけでもお通し願えませんか」
大与座の役人たちは多嘉良の前で六尺棒を交差させた。
「おまえは駄目だ。その子どもだけなら面会を許そう」
湿った牢舎はまるで家畜小屋のように饐《す》えた匂いが籠もっていた。寧温は牢に繋がれた囚人たちを見るたびに気持ちが竦んでしまう。誰もが皆精気をなくし人間としての尊厳すらなくしている。これでは家畜の方がまだ活き活きとしている分、生命体に見える。父は王府への忠誠心は厚く決して叛逆者などではない。その父がなぜ捕まったのか罪状を聞かねばならない。
一番奥の牢に背筋を伸ばした老人が瞑想《めいそう》をするように座っていた。凜《りん》とした背中は父のものだ。
「面会は少しの間だけだからな」
そう言って役人は牢舎を離れた。寧温は格子の奥にいる父に小声で囁《ささや》きかけた。
「父上、父上。寧温でございます。なぜこのようなことになったのでございますか」
父は今朝会ったばかりの無愛想な口調でぼそっと答えた。
「寧温、再科は上手く書けたか?」
父はこの事態になっても頭の中は科試で一杯だ。何が彼をここまで科試狂いにさせるのか寧温にはわからなかった。
「はい。自信はあります。どうかご心配なく……」
寧温はもっと側に寄りたかったが格子が邪魔をして近づけない。父が近づけばすむのに、嗣志は壁に顔を向けたまま振り返ってはくれなかった。
「なぜ父上は捕まったのです?」
「阿蘭陀《オランダ》の本が見つかってしまってな……」
父にかけられた罪状は大禁物を所持していたことである。今朝、寧温が再科に出かけた後すぐに大与座の役人たちが強制捜査に押しかけた。そして書斎から琉球が禁止している異国の書物を見つけ出した。寧温はすぐにいつか護国寺のベッテルハイムから借りた本だと気づいた。あれが役人に見つかれば言い逃れはできない。
寧温は格子を握りしめたまま崩れ落ちた。上手く隠していたはずなのに。
「父上……。あれは……私の本でございます……」
「いや、私が密かに清国から取り寄せた本だ。おまえは関係ない」
どうしても外国語を修得したくて危険だとわかっていながら手放すことができなかった書物だ。父はたぶん知っていて見逃した。それが仇《あだ》になってしまうとは。父は寧温の本だとわかっていて罪を被ったのだ。
「寧温、私の遺言を聞いてくれるか?」
「そんなこと仰《おっしゃ》らないでください!」
「聞け寧温。私がなぜ科試にこだわっていたのか教えよう。おまえは孫家を再興させる希望の光だ。きっと再科も首席で突破するだろう。王宮に入ったら是非、成してもらいたいことがある。私が今から言うことを必ず聞き遂げよ」
寧温は涙で洟《はな》を啜《すす》りながら父の話を聞いた。それは初めて知る自分の素性だった。父は極めて穏やかな口調で語り始めた。
「我が孫家は、孫姓を名乗る前、尚《しょう》と称した」
「尚――? 尚姓は王族にしか許されない名でございます」
「その通りだ。私たち孫一族は、第一|尚氏《しょうし》王朝の末裔《まつえい》なのだ!」
その言葉に寧温は耳を疑う。第一尚氏王朝は、とっくの昔に滅びた王朝だからだ。
第一尚氏王朝とは、十五世紀に初めて琉球を統一した王朝である。それ以前の歴史は群雄|割拠《かっきょ》の時代で北山《ほくざん》、中山《ちゅうざん》、南山《なんざん》の『三山時代』と呼ばれた。初代の王は尚思紹王《しょうししょうおう》であるが、これは実質的な支配者だった息子の尚巴志《しょうはし》が父を立てたためで、二代王・尚巴志の即位を以て第一尚氏発祥とする。
王の別名を『中山王』と称するのは、中山にあった首里城が北山と南山を滅ぼしたときの名残《なごり》からだ。第一尚氏王朝は尚徳王《しょうとくおう》までの七代六十四年間続いたが、クーデターにより失脚。第一尚氏王朝は滅亡した。
今日の王朝である第二尚氏王朝は、尚徳王の家臣であった金丸《かなまる》が王位に就き尚円王《しょうえんおう》と名を改めたことを始まりとする。以来、第二尚氏王朝が琉球の歴史の本流となる。
「私たちが第一尚氏王朝の末裔ですって!」
「そうだ。生き延びた尚家は孫姓を名乗り、長い間王宮に戻ることを夢みてきた。今こそ栄光の孫一族が立ち上がるときが来たのだ。寧温、王宮に入り第一尚氏王朝復興を唱えろ。そして宿敵第二尚氏王朝を滅ぼすのだ」
「父上、何を仰っているのですか。私にはわけがわかりません……」
「聞け寧温。今の第二尚氏は不忠信な臣下の金丸が作った王朝だ。首里城は元々私たち第一尚氏のものだ。正統な権利を以て取り返すだけだ」
父が科試にこだわった理由がまさにこれだ。薩摩により武装解除された琉球では、武力によるクーデターが事実上不可能だ。そこで孫嗣志は考えた。王府に一族を送り込み内部から崩壊させる。そのためには科試がうってつけだった。事務方のトップである評定所筆者は、王府の全ての情報や政策に明るい。第二尚氏王朝の弱点を研究し、隙をついて現王朝を転覆させるのだ。
「庭の雷《いかずち》が落ちた樹の下に、我が一族の正統性を示す品が隠してある。第一尚氏の初代聞得大君、馬天《ばてん》ノロが持っていた勾玉《まがたま》の首飾りだ」
それは現王朝が必死になって探している失われた宝物だ。優れた巫女であった馬天ノロは勾玉に大神キンマモンを降ろし、神事を司《つかさど》ったという。キングメーカー聞得大君だけが持つ琉球最高の神器だ。
「今の聞得大君も大した霊力を持っているらしいが、伝説の馬天ノロには遠く及ばぬ。それは勾玉がないから、大神が降りたくても降りてこられないのだ」
父は一旦区切って優しい口調に変わった。
「本来のおまえは聞得大君になる立場だったのだよ」
「そんな。私には何もかも唐突すぎます。もう私は女を捨てました。今の私は寧温でございます」
「王宮に入り、行方不明の嗣勇《しゆう》を探せ。そして嗣勇を王位につけよ。さすれば王の妹であるおまえはオナリ神となり、聞得大君になるだろう」
父が不敵な笑いを浮かべた。
「第二尚氏王朝もまた臣下のおまえに討たれるのだ。因果応報とはこのことだ。わははは」
「父上、正気ですか……?」
「では聞く。寧温、今の王府に清国や大和や列強を束ねる論理があるか? 憎き薩摩の傀儡《かいらい》に成り下がったのは誰のせいだ。琉球人は誇り高き民族なのだ。この国はいつの時代でも荒波が襲いかかる。その荒波を巧みに舵取りできてこその王なのだ。腑抜《ふぬ》けな官僚が作った第二尚氏に今の時代が読めるとは思えん。だが寧温、おまえには時代の波が見えるはずだ。賢いからか? 違う。それが第一尚氏の血なのだ。おまえには尚巴志のように時代を動かす力があるのだ」
やっと父が牢獄の中の人間に見えるようになった。父の正体は国家転覆を企む叛逆者だ。
「私はそんな恐ろしい野心のために科試に受かりたいのではありません。この国を豊かにしたいだけなのです」
父はすっと立ち上がり、目を開いた。
「大禁物を所持したおまえの罪、私が代わりに贖《あがな》おう。この命、おまえにくれてやる」
濃霧が王都を覆った日、孫嗣志は異国の書物を所持した罪で斬首されることになった。安謝湊《あじゃみなと》の処刑場に連行されていく父は堂々としていた。もう何も思い残すことはない、と嗣志は穏やかな気持ちだ。寧温はきっと科試に受かり評定所筆者になるだろう。その姿を確認するまでもない。寧温は持って生まれた行政能力で現王朝を倒してくれるはずだ。
処刑場の安謝湊は白砂の奥に珊瑚礁のリーフを望む優美な海岸だ。処刑は引き潮のときに行われる。傍目には役人と罪人は何かの祈願をしているように映る。
父は海水で身を清め、役人たちは威圧的な態度を取らずに粛々《しゅくしゅく》とした面持ちで、嗣志を丁重に扱っている。罪人は刑に処せられるときには、人間としての尊厳を損なわれないのが琉球の処刑である。美しい景色を十分に満喫させた後、人目につかぬうちに刑が執行される。まるで時計の針が刃物を振り下ろすように静かに、自然に、罪人はこの世を去る。
安謝湊の松の木陰に隠れていた寧温は父の最期《さいご》の姿を見届けようとしていた。白い喪服を着た父の側にもう一式の喪服が用意されていた。血に塗《まみ》れて汚れた遺体をもう一度着替えさせるためである。たとえ罪人の最期でも美を忘れることはない。
寧温は自分の罪を被って死んでいく父に申し訳なくて名乗りをあげようとした。
「いかん寧温。ここで表に出ては二人とも殺されるだけだぞ」
「だって父上が、父上が……」
多嘉良が寧温の腕を引っ張る。父は背筋を伸ばしたまま海を見つめていた。
孫嗣志は自分の人生を振り返っていた。幼かった頃、嗣志の父もまた自分に科試を突破させるために厳しく接したものだった。嗣志は父の期待に応えるために国学を首席で卒業し、科試のために青春の全てを費やした。気がつけば三十歳を過ぎ妻を娶《めと》ることも忘れていた。
初めて自由を味わったのは父が臨終のときだった。そのとき孫一族の素性を聞かされた。そして何故、父が科試に執着したのかも納得できた。父は自分を王位に就《つ》けたくてあれほどまでに厳しかったのだ。そして父の亡骸《なきがら》に泣いて詫びた。誇り高き第一尚氏王朝の末裔として、科試に受からない自分の愚かさを呪った。王の器《うつわ》として自分はあまりにも小さすぎた。
「不思議なものよ。私は父上のようになりたくないと思っていたのに。同じことをしてしまった」
もしひとつ悔いが残るとすれば、初めて子宝に恵まれた十三年前のあの嵐の夜、生まれた長女を心から祝ってやれなかったことだ。父として女子の名前を用意しておかなかったことだ。そのせいで娘を苦しめたことを謝りたい。その上、娘の髪を奪い宦官《かんがん》という偽の人生を歩ませてしまった。偏《ひとえ》に科試を突破してほしいために。自分には出来なかった夢を託すために。
娘は今、一族が誰も為しえなかった夢の手前まで来ている。それを抱き締めて褒められない自分の不器用さに激しく悔いが残る。大禁物所持の罪を被るのは娘の性を奪ったせめてもの償《つぐな》いだ。
潮が引き潮に変わる。刀が天空に掲げられた瞬間、父が最後の言葉を発した。
「真鶴ーっ!」
浜辺の隅で寧温は父の叫びを聞いた。その名を呼ばれたくて、聞きたくて、ずっと焦《こ》がれていた。最後にやっと父が自分の名前を呼んでくれた。その言葉が深く胸に突き刺さる。寧温の体は鐘になったかのように何重にも父の叫び声を響かせる。まだ自分の中に真鶴がいて、表に出ようとしている。どうしたらいいのか、どうすれば二人が生きられるのか寧温にはわからない。
「父上! きっと、きっと私は王宮に入ります――!」
多嘉良の袖が寧温の目を覆い、闇が訪れた。
浜の浜なげしわが呼びやり
泣きものよで一言もいらへすらぬ
(浜の果てから果てまで父を呼んで探してみても、どうして一言も返事をしてくれないのだろうか)
首里の聞得大君御殿は少しでも聞得大君が心|健《すこ》やかに暮らせるように天上界を模している。庭の草花はいつでも満開で枯れる前に新しい苗が植えられる。そのせいか聖地のように完璧で俗界の人間はこの緊張感に耐えられないほどである。
聞得大君は香の中でくつろいでいた。
「阿蘭陀の書物の持ち主を処分したか?」
「はい。聞得大君加那志の予言通り、確かに大禁物を所持しておりました」
寧温の屋敷を強制捜査させたのは聞得大君の命令だ。彼女の碧眼は全てを見通してしまう。王宮の京の内で祈りを捧げていたとき、異国の書物を所持している者が龍の子であると神託を受けた。直ちに聞得大君配下の役人たちを使い、寧温の屋敷に押し入った。
「首里天加那志にご報告いたしましょうか?」
「やめい。首里天加那志は科試で忙しい。大禁物を所持した罪人ごときで煩《わずら》わせてはならぬ」
「御意《ぎょい》。聞得大君加那志のお心のままに」
「しかし解《げ》せぬことがある。神の言葉通り龍の子を処分したというのに、妾はまだ胸騒ぎがしてならぬのじゃ。今度は評定所の役人たちの素性を洗いたい」
「聞得大君加那志、評定所は表の世界。聞得大君加那志が動いているとなれば三司官や按司たちが気分を害します」
聞得大君はこれが面白くない。遠い昔、託宣で政局を動かしていた時代、聞得大君の権力は絶大であった。だが今は科試を突破した官僚たちが政治の現場にいる。彼らは神事を虚礼な儀式と扱い予算を年々削減している。この煽《あお》りで聞得大君という立場が象徴的な存在になっていた。野心家でもある聞得大君は、かつての第一尚氏王朝時代のような絶対的な存在に戻すことが目標である。そのためには伝説の神器が必要だ。
「ところで馬天ノロの勾玉の捜索は進んでおるか?」
「それが地方のノロたちを総動員して探しておりますが、まだ見つかりません」
現在の聞得大君の勾玉は馬天ノロの首飾りを模造したものである。この馬天ノロの勾玉こそ王権の象徴である。
王宮には未だに第一尚氏王朝の逸話を語り継ぐ者たちがいる。殊に絶対王政を信じる役人に顕著だ。それは第一尚氏王朝の祖である尚巴志の英雄|譚《たん》がロマンを掻《か》き立てるからだろう。
男が尚巴志に憧憬を寄せるなら、女は伝説の女性に憧れる。それが馬天ノロだ。彼女の勾玉を手に入れれば聞得大君の立場は不動のものになり、評定所の役人どころか三司官までも無視することはなくなるだろう。
聞得大君が頭にくるのは予算を削減されたからだけではない。聞得大君にははっきりと見える琉球に迫り来る時代の嵐が、霊感を持たない評定所の人間には見えないのだ。こういう時代は頭がいいだけの普通の人間に琉球の舵取りをさせるのは危険である。
「何としてでも馬天ノロの勾玉を探し出すのじゃ!」
聞得大君の碧眼が光った。
科試の合格発表の日がやって来た。発表は初科と同じく国学で行われる。初科のときの人混みは受験生たちだが、再科の人混みのほとんどは野次馬である。
科試に通った者は一躍王国の英雄となる。その新たな英雄が誕生する瞬間に立ち会おうと科試とは関係のない野次馬たちが押し合うのだ。下馬評では喜舎場朝薫が最有力だ。喜舎場家の使用人たちは既に野次馬たちに振る舞う餅を千片、国学に持ち込み、合格発表の瞬間を待ちかまえている。
試験監督の評定所の役人たちが現れた。再科だけは評定所を代表する各高官と摂政《せっせい》、三司官たちが臨席する。ここで選ばれた者が琉球の未来を担う。その天才の誕生を王府最高のメンバーで祝福するのだ。
試験監督が今年の科試が滞りなく行われたことを三司官に報告し、そのたびに野次馬たちが御拝を繰り返す。寧温や朝薫も立ち上がったり座ったりと御拝のたびに鼓動が高まった。
「今年の再科の合格者を発表する。合格者は二名。その者は三司官衆の前に出よ」
三千人の受験生の中から選ばれたのはたったの二人だ。実に競争倍率千五百倍の超難関である。朝薫の足が震えていたのを寧温は見逃さなかった。震えているのは自分も同じだ。これで合格しなかったら父は何のために自分の罪を被って斬首されたのかわからなくなる。
寧温の肩に温かい手がすっぽりと収まった。振り返らなくても多嘉良のものだとわかった。
「寧温、心配するな。おまえが受からなくて誰が受かるのだ」
「おじさん、私は怖くて失神しそうです……」
朝薫もまた失神しそうなのだろう。鼻を膨らませて激しく息をしている。これを恐ろしくない者がいるだろうか。まるで平等所で斬首か無罪かを宣告されるのに等しい緊張感だ。あと数分で民衆は暴動を起こしかねないほど昂《たかぶ》っていた。いよいよ我慢の限界といったとき、試験監督が声を荒げた。
「首席。真和志塾、喜舎場朝薫!」
一気に爆発した民衆の熱狂が津波のような歓声となって国学本体を揺るがす。同時に喜舎場家の使用人たちがありったけの餅を宙にばらまいた。真和志塾の塾生たちの手ですぐさま朝薫の胴上げが行われる。餅と熱狂の吹雪《ふぶき》の中を朝薫の体が舞う。
「喜舎場朝薫は史上最年少の科試合格者である! 何と十五歳である!」
また爆発的な歓声が朝薫の体を宙に押し上げた。朝薫は絶頂の中で何度も拳を突き上げた。朝薫の神童伝説はこれで不動のものになった。臨席した三司官たちも信じられない快挙だと何度も顔を見合わせて笑うばかりだ。
「寧温、心配するな。次席でも大したものだ」
と多嘉良がまだ震えている寧温の肩を揺する。そう、次席でも十分な誉《ほまれ》だ。朝薫になら負けても悔いはないと寧温は言い聞かせた。
試験監督がまた声を荒げる。
「次席。国学訓詁師、儀間親雲上!」
集まったきれいどころの女たちがありったけの花びらを投げた。あのキザな儀間親雲上が男泣きに泣いている。その泣き方はあくまでも美しい。大粒の涙で睫毛《まつげ》を濡らし、瞳を宝珠のように輝かせている。儀間親雲上の父が大泣きで息子を抱き締めた。北京の国子監《こくしかん》へ留学させたせいで息子をかえって苦しめたことを父は後悔していた。だから初志を貫徹してくれた息子を誇りに思う。
儀間親雲上は父と抱き合った瞬間、恰好《かっこう》つけるのをやめて大声で泣きだした。無様に見えようが女たちから幻滅されようが、もう構わない。その姿を見た女たちも貰い泣きして国学が涙で床上浸水しそうだった。
「以上が再科の合格者である。戴帽式は十日後に書院で行われる。二名とも正装で王宮へ参れ」
そう言って試験監督も三司官たちも国学を去って行った。
呆然と残されたのは多嘉良と寧温だ。寧温はまだ現実を受け入れられていなかった。
「私、落ちたんだ……」
多嘉良はただ背中を抱いているだけである。
「おじさん……私は落ちました……」
寧温の目には景色が色味を失って見える。自分の意志に反して首が前後に激しく揺れるのを止められない。
「私は……私は……今、どうしたら良いのでしょう……?」
多嘉良は寧温を振り返らせると優しい口調で言った。
「こういうときは思いっきり泣けばいい……」
その言葉で我慢していた涙が堰《せき》を切ったように溢れ出した。そう、自分は泣きたかったんだ。落ちたことが悔しかったんだ、とやっと自分の感情を思い出した。寧温は大声で泣いた。
「私、私、王宮に行きたかった。父上との約束を果たしたかった。父上に申し訳ない。それにおじさんとの約束も守れなかった。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「違う、誰かのためではないだろう。ちゃんと自分の気持ちに正直になってみろ!」
それで寧温は多嘉良を押し倒すようにしがみついた。感情を爆発させた寧温は砕け散った自尊心を晒《さら》した。
「私は、自分のために受かりたかった。自分を信じていたのに。そのために一生懸命頑張ったのに。誰にも負けないくらい頑張ったのに。もう駄目です。私はもう頑張れない。もう頑張るのはいやです。うわああああっ!」
「いい子だ。寧温はいい子だ……」
多嘉良は寧温を力一杯抱き締めてやった。ただ少年というにはあまりにも華奢な寧温の体をこれ以上強く抱き締めると壊してしまいそうで、多嘉良もどうすればいいのか戸惑っていた。ふたりの影が合わさって風も通り抜けられないほどひとつになっていた。
やがて寧温は泣き疲れて多嘉良の懐で眠った。
首里城の松明《たいまつ》に明かりが灯ると、真紅の宮殿はその本来の美しさを見せる。昼間は華美で豪奢に振る舞う役者なのに、夜になると物憂《ものう》げな女の眼のようにぼうとその姿を闇に浮かばせる。宴をそっと抜け出して夜風に吹かれた貴婦人。それが夜の首里城だ。
王の執務室である書院では尚育王が夜勤を行っていた。書院は正殿の中華様式と異なり、純和風建築の建物である。廊下ひとつ渡ると国が変わるかのような様式が王宮の特徴だ。
この時代の王はとにかく忙しく働くのが常だった。清国と親書を交わしたり、薩摩と調整を行ったり、農業振興策を考えたりと休む暇もない。特に教育に力を入れている尚育王は、自ら範を国民に示すために宴を途中退席して執務することもしばしばだ。
「三司官衆よ。今年の科試はどのようか?」
「首里天加那志、特に優れた学生が首席合格いたしました。首里天加那志もその名に聞き覚えがあると存じますが、神童・喜舎場朝薫が史上最年少で合格し、我ら三司官衆も驚嘆しております」
「うむ。頼もしい少年が王宮に上がることを喜ばしく思う」
機会の平等を謳《うた》う尚育王は肩書きや出自《しゅつじ》や年齢にこだわらない王として有名だ。そのために科試教育を徹底させてきた。青年王として知られる尚育王は古い慣例を打破する政策を次々と生み出した。三司官の反対を押し切り王府の予算の多くを教育分野に割り当てたのも王の決断だ。
「今、琉球は嵐の前触れの中にいる。清国で吹き荒れている嵐は必ずや琉球を襲うだろう。そのためには官僚の質をあげて対策を練らせることが必要だ」
「首里天加那志の仰る通りでございます」
尚育王は気さくに笑って今日の最後の文書に王印を捺《お》した。
「ところで、今年の再科の答案を持って参れ。余が目を通して進ぜよう」
「首里天加那志、合格者の二人の案文でございますか?」
「学生全体の質を確かめたい。今夜は時間がある。再科の受験生全員のものを持って参れ」
尚育王は始めに噂の神童の解答を読んで、満足そうに頷《うなず》いた。このレベルの案文を十五歳の少年が書いたというだけでも驚異的である。冊封体制維持のために情報収集を強化すべきとの論旨は見事であった。首席合格となるのも当然の案文である。
「喜舎場朝薫は評定所に配属して外交政策を受け持たせよ」
「御意。首里天加那志。我ら三司官衆もそうするつもりでございました」
尚育王はひとりひとりの案文を読んで頷いたり、首を傾げたりした。どれもこれも現役の評定所筆者顔負けの案文である。彼らがいつか王宮に入ってくるのは確実だった。尚育王は教育改革の成果が出ていることに満足していた。
尚育王が最後の答案を手にした。なぜか赤字で大きく答案全体に「否」と書かれていた。
「これは何だ?」
「いえ首里天加那志のお目に通すようなものではございません。係の者が間違って持ってきたのでしょう。すぐに捨てましょう」
王宮の明かりがひとつ、またひとつと落ちていった。
深夜、寧温の屋敷が無数の松明に囲まれた。
「開門! 開門! 王府であるぞ」
使用人がこわごわと扉を開けるや屋敷は瞬く間に大与座の役人たちに埋め尽くされてしまった。
「ここに孫寧温はいるか。孫寧温、逃げても無駄だ。おとなしくお縄を頂戴しろ!」
寧温はついに大禁物所持の罪科に処されるときが来たと観念した。使用人たちが逃がそうとしたが、寧温にはその気力もない。どうせ科試に落ちて明日をも知れぬ身の上だ。いっそ父の許《もと》に行った方が楽だとあっさり役人たちの前に出た。
「謀叛人、孫寧温であるな。首里天加那志からの命令である。おまえを逮捕する」
あっという間に縄にかけられた寧温は父のいた平等所に投獄されてしまった。この平等所から生きて帰った者はひとりもいない。大罪人の最後の宿だ。
「父上、もうすぐ私も後生《グソー》(あの世)へ参ります……」
疲れ果てた寧温は消し炭のように牢に転がって床の匂いを嗅いでいた。もうすぐ死ぬという運命が今は何も考えずにすむ口実になって心地好かった。
「父上もここで同じ匂いを嗅いだのだろうか……」
寧温は父の残り香を探して疲れ果てた身を床に抛《なげう》った。たぶん、今涙が出ないのは多嘉良の懐でたくさん泣いたせいだと思った。重い瞼《まぶた》の奥はとっくに涸《か》れていた。自分は何のために生きてきたのか、性を捨ててまで何を成し遂げたかったのか、もう情熱も志も涸れ果ててしまった。
牢にさす月明かりが消える頃、父が斬首された安謝湊での処刑が待っているのであろう。
「父上……。私は男になったことを後悔しておりません。ただ、無念なだけでございます……」
同時刻、書院の王は激昂《げきこう》していた。孫寧温を平等所に投獄したと誇らし気に報告した三司官の声を聞くや、いきなり罵倒した。
「この愚か者め。誰が投獄しろと言った!」
王が命じたのは、不合格者の学生の消息であった。なのに三司官たちは答案の主が王を怒らせたと勘違いしてしまった。再科の不合格者の答案を読んだとき、王は雷に打たれたかのようなショック状態に陥《おちい》り、やがて震えだした。
「畏《おそ》れながら首里天加那志よ。その檄文を書いた学生を逮捕しろと申しつけたのは首里天加那志でございます」
三司官たちはこの答案を真っ先に不合格にした。冊封体制を崩壊させてもよいという論旨を述べるのは謀叛人しかいない。直ちに受験生だった孫寧温に逮捕の命を下した。
尚育王は顔を真っ赤にして激しく三司官を罵《ののし》った。
「お前達の目の節穴ぶりには呆れるばかりだ。この案文を落とすだけでも愚かなのに、投獄するとは何事かっ!」
穏やかな気性の尚育王がこれほどまで荒れるのは極めて珍しいことだ。震え上がった三司官は伏して小さくなった。
「その答案は王国の体制を揺るがす檄文でございます。不合格は至極《しごく》全うかと存じます」
畏れながら見上げると王は泣いているではないか。
「これを、この答案を檄文と言うお前たちが情けない……」
王は書院から一冊の本を差し出した。その書物の題は『琉球政務彙編』と綴られていた。表紙は書院の本の中でも一際手垢で汚れていたが誰もこの書物の存在を知らなかった。
「これは麻親方が余が王位に就いたときに遺《のこ》された書物だ」
伝説の三司官・麻真譲と聞いて三司官たちが再び伏した。王はこの書物には琉球の国体のあり方が書かれていると言った。王は麻真譲の三司官留任を強く希望したが、麻は聞き届けてくれなかった。その代わり帝王学の書物として遺したのがこの『琉球政務彙編』だ。この書物には清国や薩摩との付き合い方、そして新しい国の在り方を模索する指針が述べられている。
「賢明なる麻親方はこの当時既に清国の弱体を予見しておった。そのとき琉球はどうあるべきか、余はどう振る舞うべきか記された。この書物のお蔭で余は何度救われたか知れぬ……」
「畏れながら首里天加那志。麻親方は何と述べられていたのでしょうか?」
王は三司官が「否」と赤字で記した答案を突きつけた。
「この案文がそうである。これを檄文とみなしたお前達は麻親方のお気持ちを踏みにじったのと同じだ。この答案を書いた者は清国抜きの琉球の在り方を説いている。しかも麻親方でも踏み込めなかった琉球の目指す地位まで説いてみせた。琉球の地政学的特性を用い大国間の緩衝地帯にすることが独立を貫くことだと書くとは見事だ。これほど国のことを思う聡明な若者をお前達は不合格にするばかりか、投獄したのだぞ!」
三司官たちはやっと寧温の先見の明に気づいた。
「申し訳ございません首里天加那志。我らが愚かでございました」
「この者はどの私塾に属しておるのだ?」
「確か……破天塾とか。科試とは縁のない泡沫塾でございます」
それを聞いた王は高らかに笑った。王府からの助成金を受け取らない麻真譲の塾ではないか。麻真譲は王宮を去るときいつか必ず自分の後継者となる者を王宮へ送ると言っていた。その麻真譲の弟子が満を持して科試を受けてきた。王は嬉しくて何度もひとりで頷いた。
「この者を直ちに釈放せよ。王命であるぞ!」
未明、また濃霧が首里を覆った。この霧が現れると罪人が消える。ひとり牢の中で死を待っていた寧温は、父のように潔《いさぎよ》く散ろうと決めていた。首里士族の男子ならそうするはずだ。
看守の足音が近づいてくる。寧温は恐怖のあまり歯の根が合わない。牢に差した影が鬼のように映る。
「孫寧温、釈放する」
と無愛想に看守に縄をほどかれて、寧温は呆気にとられた。
「あの……。釈放ってどういうことでしょうか?」
「首里天加那志のご命令である。正装して王宮へ上がれ」
「なぜ私が王宮へ……?」
不可解な出来事に寧温はまだ自分の身に何が起こったのかわかっていない。
「科試に合格したのだ。戴帽式の準備をせよ」
「私が科試に合格?」
寧温は狐に抓《つ》まれた気分だ。釈放だけでも不可解なのに、科試に合格したと聞かされても、すぐには意味がわからなかった。
「まったく、科試の合否を覆《くつがえ》すとは前代未聞だ。おまえは一体何者なのだ?」
「私、科試に合格したんだ……。科試に通ったんだ……」
寧温の頬に血の気が戻っていた。夢にまで見ていた王宮への門が死を覚悟した朝に開かれるとは。寧温の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。たぶん、この瞬間のために父がとっておいてくれた涙なのだろう。
――父上、私は王宮へ参ります!
科試合格者の戴帽式が行われる書院は王の執務室である。勤勉な尚育王は食事も書院で摂るほど忙しい身だ。書院に籠もる王の熱気は書物の呼気を圧倒し、ここが王国の最終意思決定の場であることを伝えていた。その王の顔を今日初めて見ることができる。寧温は興奮して落ち着かなかった。
「科試合格者の孫寧温でございます。お通し願います」
正装の黒朝衣で現れた寧温に評定所の役人たちが何の冗談かと目を丸くする。あの神童・喜舎場朝薫よりもずっと年少ではないか。寧温の歳が十三歳だと知って二度驚いた。麻真譲の後継者が現れると聞いてかけつけた王宮の役人たちも一様に信じられないと口を揃えた。それに寧温の容貌はまるで少女のように可憐だ。
「おまえは本当に男か?」
と戴帽式の前に役人たちが好奇の目を向ける。こうなるだろうと寧温は用意していた台詞《せりふ》で応じた。
「私は宦官でございます。幼い頃に清国で宦官の処置を受けました」
宦官と聞いてますます役人たちの目が色めく。紫禁城で宦官を見たことのある役人たちも、俄《にわか》に信じられなかった。王宮に宦官はひとりもいない。それは去勢する文化に抵抗があるからだ。しかし宦官と言われれば寧温のあまりにも女性的な容貌は納得できる。清国の宦官たちも一様に艶《なま》めかしい容貌だったからだ。北京の国子監帰りの儀間親雲上がしたり顔で述べた。
「琉球も宦官を迎えるほど成熟したということだ。これで我が琉球も大清国に並んだことになるだろう」
その王府の自尊心をくすぐる言葉で役人たちの動揺は収まった。宦官なら清国への体面上都合がいいし、何よりも使い勝手がいい。尚育王は寧温をどう使うか決めていた。
「やあ寧温、君がここにいることを誇りに思うよ。科試の結果を覆すなんて君は本当にすごい」
と朝薫は終始笑顔だ。朝薫はなぜか寧温といると顔が綻《ほころ》んでしまう。
「朝薫兄さん、再科のときはお祝いも申し上げられず失礼いたしました」
三司官衆が書院に現れた。間もなく王も入室される。書院が緊張に包まれた。
「首里天加那志のおなーりー」
一同が御拝で尚育王を迎え入れた。頭を下げた寧温は王が入ってきた瞬間、空気が変わったのを感じた。一瞬にして影に日が差したような存在感に圧倒されてしまった。
――すごい。これが王の気なのね。
「孫寧温は誰だ?」
「私でございます」
尚育王に問われて寧温が面をあげる。気とは裏腹に王は気品に満ちた穏やかな眼差しの持ち主だった。初めて王の顔を見た寧温は同じ部屋で呼吸するのも憚《はばか》りたかった。
「平等所に投獄されたことを怨《うら》むでないぞ。全て余の不徳の致すところだ」
「滅相《めっそう》もございません。首里天加那志のご聖恩に感謝するばかりでございます」
尚育王は目で微笑む。寧温はその優雅な所作に惚れ惚れしてしまった。この王のために人生の全てを捧げようと思った。
「科試を突破した諸君に改めて祝福を申し上げる。今日から君たちは王府の役人としてその力を存分に発揮してもらう。知っての通り我が王国は清国と薩摩の間で揺れている。どの国とも衝突することなく、相手国の尊厳を保ち、且《か》つ常に琉球の優位を貫き通せ。これが評定所筆者の使命である」
琉球の科試が本場の科挙よりも難しくなったのは、微妙な国情故である。交渉は相手を納得させることが前提で決して折れてはいけない。もし折れれば清国や薩摩は琉球支配色を強めてしまう。これを絶妙な外交センスでかわし、必ず双方が納得できるように合意を導き出す。
「孫寧温、前に出よ」
三司官が王の前で言上写《ごんじょううつし》を読み上げる。これが正式な任命書だ。
[#ここから1字下げ]
孫寧温
右者事
主上依御意ニより、此度評定所筆者主取被仰
下候事
戌五月
三司官
[#ここで字下げ終わり]
評定所の役人たちがざわざわと騒ぎ出す。三司官が読み上げた寧温の地位が信じられないのだ。
「今、三司官殿は何と仰ったのだ?」
「確か評定所筆者|主取《ぬしどり》と仰ったぞ。間違いない」
「十三歳の子どもが俺の上司か! そんな馬鹿な」
寧温の配属先とその地位は評定所筆者主取である。これは評定所筆者の中でも格上の身分で課長職に相当するものだ。同じく評定所筆者に任命された喜舎場朝薫は寧温の部下である。何もかも異例尽くしの処遇に役人たちの動揺が収まらない。
「私が評定所筆者主取?」
円筒形の帽子を三司官から被せられた寧温も半信半疑である。
「静かに。これは首里天加那志のご決定である!」
寧温が王に御拝すると、美丈夫な尚育王はまるで兄のようにたおやかに笑っていた。
「孫寧温、そなたの再科の案文見事であったぞ。さすが麻親方の愛弟子《まなでし》だ」
「首里天加那志、畏れ多いことでございます」
王の口から出た名に役人たちがひれ伏す。この幼い宦官が麻真譲の愛弟子とは。麻真譲に世話になった役人たちは寧温の前で小さくなって目を合わせられない。その光景が朝薫には可笑《おか》しくて肩を揺すって笑っていた。
戴帽式を無事に終え、御庭に出た二人は顔を見合わせて笑った。これで明日から夢の王宮勤務だ。若さと嬉しさをもてあまして御庭を駆けだした二人は有頂天だった。一日のうちに何度も表情を変えるこの優美な王宮で働ける喜びが体を突き上げてくる。
「孫親雲上、君と一緒にいると本当に楽しいよ」
「兄さんこそ喜舎場親雲上ではありませんか」
「これで儀間親雲上と同じ身分だ。やっほう!」
その儀間親雲上が御庭で自分の配属先を探していた。
「喜舎場親雲上、銭蔵《ぜにくら》奉行とはどの部署でありますか?」
言上写の文言を読んだときの儀間親雲上がにんまりと笑ったのを朝薫は見逃さなかった。
「きっと私の配属先は財務を扱う部署なのだが北殿にはないと言われた。これで王府の予算を牛耳《ぎゅうじ》ることができるぞ。真和志塾への補助金を削減してやろう」
とさっそく復讐《ふくしゅう》に燃える儀間親雲上である。朝薫が銭蔵奉行はあちらだと指さした。
儀間親雲上が銭蔵奉行の建物を見つけた。財務部のはずなのにやけに質素で薄暗い建物だ。いやこれは蔵そのものではないか。中に入ると大瓶が所狭しと並べられている。儀間親雲上の前に王宮に出入りの商人の荷車が横付けされた。
「ああ、銭蔵奉行のお役人様、お約束の泡盛をお持ちいたしました」
銭蔵奉行とは泡盛を管理する部署である。泡盛は王府の管理で生産され、貴重な税収となっている。「銭」は琉球語で酒の意味でもある。即ち酒と税を管理する倉庫という意味で銭蔵奉行なのだ。儀間親雲上の夢の王宮勤務は酒蔵の管理人だった。暗い蔵の中で儀間親雲上は途方に暮れた。
「科試に受かった私がなぜだ〜!」
儀間親雲上の苦難は続く。
慶良間《けらま》はいならで石火矢とどめかち
引船や後に那覇の港
(清国から御冠船《うかんせん》が慶良間諸島の間を通って現れた。空には石火矢が鳴り響き、陸では大観衆が迎え、引き船を後にして那覇港にやってきた)
那覇港沖の水平線上に巨大な船影が現れた。天空まで帆を張り、波飛沫《なみしぶき》を立てながら近づく影は船というよりも小さな島だ。清国の福州を出た皇帝の使者、冊封使を乗せた御冠船が琉球にやってきたのだ。斜陽の帝国は威信をかけて今度の冊封に臨んでいた。清国としても冊封体制の維持は国体を守ることである。帝国の南の顔と呼ばれた香港を英国に奪われ、病魔が刻々と帝国を蝕《むしば》む今、冊封体制の周辺国への影響力を衰えさせるわけにはいかない。
那覇港に据《す》えられた大砲が祝砲を鳴らす。
「御冠船がやってきたぞ。冊封使様御一行だ」
御冠船の周りを琉球側の小型船が無数に囲んでいた。その様はまるで御冠船が港のようだ。この船は蓬莱船《ほうらいせん》とも呼ばれ、大陸の珍しい品や書物、医薬品、調度品が積まれている。琉球が清国に朝貢すれば清国はその十倍以上のお返しをしてくれる。だから冊封使は果報の象徴なのである。
この冊封使をもてなすことは琉球の国家プロジェクトである。王府は冊封使を迎え入れるために、滞りがないよう入念なリハーサルを重ねていた。
港では王府の役人が総出で冊封使一行を出迎えた。寧温や朝薫にとっても初めての大仕事だ。間近で見る清国の役人たちは惚れ惚れする見事な衣装を纏い、気品と風格に満ちている。冊封使たちは大陸の風を運んでいた。
「これが御冠船。何と素晴らしい船でしょう」
「冊封体制維持こそ琉球の生きる道だ。寧温もそう思うだろう?」
御冠船が巻き起こす気流で帽子が飛んでしまいそうだ。清国からやってきた冊封使節団は総勢五百人。首里城丸ごとひとつ分の規模である。船というよりも宮殿ごと海に浮かべたようなものだ。清国本体はこの数十万倍の規模の国だと想像すると気が遠くなる。
通事を伴った三司官が恭しく前に出た。
「正使様、長旅お疲れ様でした。ようこそ琉球へ。清国皇帝陛下はお健やかでしょうか」
「盛大な歓迎を感謝する。琉球王国の繁栄を心から慶《よろこ》ぶと申し遣ってきた」
琉球の独自の美意識は冊封使を歓迎するために発展してきたと言ってよい。宮廷料理、琉球舞踊、組踊などの舞台芸能は冊封使を飽きさせないために百花繚乱《ひゃっかりょうらん》の発展を遂げた。半年以上も長期滞在する冊封使は次から次へと繰り出される琉球の芸能攻勢にいたく感激したものだ。琉球王朝の教養至上主義は、小国ならではの生き残り戦略なのである。
冊封使のメインイベントは何といってもパレードである。琉球の迎賓館というべき冊封使の宿泊する天使館から王国のメインストリート綾門大道《アヤジョウウフミチ》を通り首里城まで至る全行程四キロメートルを冊封使一行が華やかにパレードする。数十騎の馬を駆り、旗を振り、楽士たちを引き連れ、超大国の威信をかけた総勢五百人にも上るパレードに、民衆は熱狂するのである。
異国情緒溢れる音楽、衣装、そして清国人の涼やかな顔つき、見るもの聞くもの全てが琉球の手本となるものばかりだ。民衆の目には彼らは海を越えて果報をもたらしにやってきた神のように映った。爆竹が間断なく鳴り響く中、冊封使の一行が王宮へ向かう。その姿をうっとりとする眼差しで民衆が囲む。
「大清国の繁栄は永遠だな。さすが琉球の宗主国だ」
「私も一度は清国に行ってみたいものだ」
「おお、あの正使様の衣装を見よ。まるで王ではないか。あれで使者の身分か」
民衆はまだ超大国の威光を信じている。しかし清国はこのとき襲い来る列強の脅威と闘ってもいた。宗主国として朝貢国の琉球に疑念を抱いてほしくなかった。清国は永遠の覇者《はしゃ》であると信じてほしかった。清国は冊封国を決して見捨てはしない。琉球の後ろ盾としてこれからも守り続けよう。だから盛大に爆竹を鳴らす。帝国に降りかかる厄災を追い払うかのように。
唐土天加那志おきなわおかなしやや
語らてもよそのだにや知らぬ
(清国の皇帝陛下が琉球を愛してくださることを、よその国に話してみたところで、理解してもらえるものではない)
寧温たちは冊封使を迎え入れるために、先に王宮で待っていた。御庭に施された白いストライプは位階の順に並ぶ目印だ。先頭は貴族階級の按司、王子と呼ばれる王位継承権のない王族たち、そして行政の頂点に立つ三司官が並ぶ。その後に位階の高い順に並んでいく。一番後ろは宮古・八重山《やえやま》の地方役人の長たちで、ここに座るために出世街道をひた走ったエリートたちだ。
そして寧温と朝薫の座る正五品・評定所筆者の場所は中央よりもやや前。ここが寧温の王府での地位である。科試出身者は地方役人の長年の苦労を飛び越え、いきなりこの場所から官僚人生を始める。だから僻《ひが》みも根深かった。
「おい見ろよ。あのガキども俺よりも前に座っているぞ」
「しっ。口を慎め。科試合格者の神童たちだぞ。何でも史上最年少合格者らしい」
「勤星《きんせい》を三十年重ねてきた俺よりも前なのか……」
背後で罵られているとも知らず、寧温と朝薫は冊封使の挨拶を夢見心地で聞いていた。今自分が王宮の中にいることがこれほど嬉しいことはない。寧温は、遠くから聞こえる正使の奏上を小声で翻訳していた。
『願 琉球王國 國運昌隆 國泰民安』
「――琉球王国におかれては国王、国民の益々の繁栄をお祈りいたします」
「すごいな寧温。久米村の唐通事《とうつうじ》も顔負けだね」
「異国語は得意なんです。もし科試に受からなかったら通事になろうと思っていましたから」
式典は全て中国語で行われるために、進行を把握していないと何がなされているのか全くわからない。官僚たちでも中国語が話せるのは少数だから、みんな聞き耳を立てて寧温の翻訳を頼っていた。真紅の正殿の前で行われる清と琉球の式典は、優雅な外交である。
実は誰もが楽しみにしているのは正使や王の挨拶ではない。この後に開かれる歓迎式典が琉球の目玉だ。北殿の前に設けられた特設ステージでは今か今かと出番を待った踊童子たちがいる。
ついに舞台の幕が開いた。雅《みやび》な楽士たちの演奏に合わせて出てきたのは王国の中から選ばれた美少年たちである。
「おお、何と素晴らしい!」
花笠を被って出た女形たちに冊封使も思わず唸った。これを見たくてわざわざ琉球まで来たのだ。紫禁城でも琉球の舞踊家たちのことは噂になっている。彫りが深く目鼻立ちのはっきりした琉球人の顔は舞台|映《ば》えする。派手な紅型を纏っても顔立ちが強いために衣装負けしない。しかも彼らは少年たちと聞く。何とも艶めかしい気持ちになり、夢を見ている気分になる。舞台を埋め尽くす群舞は、一糸乱れぬ舞で首や手が乙女の甘い恋心を巧みに伝えてくる。そればかりか揃ったときに初めて生まれる王府の「もてなしの心」さえ表現するとは見事だ。
貴賓席で舞を見届けた正使たちも思わず身を乗り出していた。演出が見事でもっと見たいと思ったときに舞が終わり、次の舞が始まる。艶めかしい女形から今度は男衣装に替えて『若衆踊り』を舞う。これがさっきまで女装をしていた少年たちかと疑うほど、撥刺《はつらつ》とした舞に変わるものだから目を離すことができない。三度幕が変わるとまた女形に戻っている。変幻自在の踊童子の芸に冊封使たちが立ち上がって喝采した。
舞台監督の踊奉行たちも重責を果たして面目躍如だ。正使はこの程度で喜んではいけない。次に出てくる美少年こそ踊奉行が王宮の至宝と太鼓判を捺す天才である。
この日のために辻村で名を馳せていた少年を徴発してきたのだ。そして彼のために踊奉行が特別な舞を創作した。
ゆったりとしたメロディが舞台に流れる。現れたのは傘を持ったひとりの女形だった。今までの踊る花壇のような群舞ではなく、地味な絣《かすり》を着ていた。正使はやけにひっそりとした舞台に正直がっかりした。観たいのは群舞なのだ。しかしクレームをつけるのも使者としての品位にかかわるから、我慢して観てやることにした。
舞台の女形の少年が手持ちの傘をぱっと開いて、貴賓席の正使に視線を送った。
三重城に登て 手巾持上ぎりば
早船ぬなれや 一目ど見ゆる
女形の少年が音楽に乗った瞬間、正使は背筋がぞくぞくするような感覚がした。踊童子は切ない目をして虚空《こくう》を見つめているのだ。その視線の先に恋しい男の姿がはっきりと感じられる。舞う手が「今度はいつ会えるのですか」と愛《いと》しい男に問いかける。つれなくされて悲しそうに振る首が身分違いの恋であることを伝えていた。これが別離の情を舞う最高傑作と称される『花風《はなふう》』である。遊女が役人に恋をして逢瀬を重ねたが、身分違いの恋で役人は地方に出向いてしまった。その後ろ姿を三重城から望み、想い破れた恋を偲《しの》ばせるという内容である。
舞台上の踊童子の少年は遊女に扮し、もう一度逢いたいと愛しい男を求める。言葉がわからなくても体の動きで遊女の切なさが正使にはわかった。そして彼女の身分が遊女であることも色気でわかる。地味な絣のために表情や腰の動きや足の運びが強調される。これだけの情感を込めて踊れる者は清国にもいないだろう。踊童子のあの目の切なさ、今彼女は男が去った海を眺めているのだろう。彼女の激しい恋が浜で途切れて絡まっていく様が見事に表現されている。
朝夕さも御側 拝み馴れ染めの
里や旅せめて 如何す待ちゆが
正使は思わず貰い泣きしてしまった。自分もかつて身分違いの女と恋をして、結局一族の猛反発に遭い涙ながらに別れさせられた。あの愛しい彼女を思い出さない日はない。きっと彼女もこの遊女のように自分を今でも偲んでいると思うと涙が止まらなくなった。
「素晴らしい……。あの踊童子を今宵、天使館へ寄越すように……」
正使の心を虜にした舞は王宮の役人たちの心をも打った。これは踊りというレベルを超えてひとりの女の人生そのものだ。琉舞芸術の極みに立ち会って役人たちも震えていた。
舞台の上で舞う踊童子も衆目を惹《ひ》きつけてますます踊りに円熟味が加わる。貴賓席の反応も糸で繋がったように伝わっていた。少年は得意になって切なそうに手ぬぐいを正使に向けた。
――この想いはあなただけのものです。
正使は舞台からのメッセージに嗚咽《おえつ》を漏らして泣き出した。冊封使節団が毎回半年から一年も長期滞在するのは、このハートを射止める芸術外交のせいだ。
傘を回した踊童子の少年が舞台の袖にふと目をやる。少年の目に信じられないものが飛び込んできた。黒朝衣を着た少年役人には見覚えがある。
――まさか真鶴?
一方、寧温も踊童子の姿にあっと声をあげた。舞台の上で踊っている少年は失踪した兄の嗣勇ではないか。
「兄上、生きていたのですね……」
踊奉行が辻の遊郭で徴発してきた踊りの天才少年とは嗣勇だった。科試受験から逃げ出した嗣勇は王宮を飾る花になって寧温の前に現れた。
奇しくも王宮で、女形になった兄と宦官になった妹が運命の再会を果たした。
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第三章 見栄と意地の万華鏡
紅《くれない》の王宮の中に緑豊かな神殿がある。
王宮の中でも京《きょう》の内《うち》と呼ばれる広大な敷地は王族神・聞得大君《きこえおおきみ》や限られた神女しか立ち入ることのできないサンクチュアリだ。この京の内が首里城《しゅりじょう》をただの宮殿ではなく、巨大グスクと呼ばれる神々の城たらしめている。首里城は子宮の中に表舞台の男の世界を内包している。
まるで綾取りのように一本の糸をつまむだけで、男と女、人と神、表と裏、光と影が裏返り、全く新しいパラダイムを見せる。もっとも男が男として、女が女として生きることを強いられている限り、たとえ王でも首里城の全てを知ることは不可能だ。もしそれができる者がいるとすれば、性を超越した存在だけである。
突如、京の内から無数の蝶が羽ばたいた。大振りの翅《はね》をゆらゆらと羽ばたかせたオオゴマダラの大群だ。薄絹の貴婦人のような翅は、王宮の女官たちですら霞ませる優美さだ。飛ぶというより、そよ風の形になって舞う蝶は見る者を幻惑する。大きな翅を扇のように舞わせる様は貴婦人の微笑みを思わせた。
オオゴマダラの大群が久慶門《きゅうけいもん》の屋根に止まった。蝶が見つめる先には王宮に出勤する男たちの姿があった。
王宮の一日は久慶門の開門から始まる。王宮に出勤する者たちが急ぎ足で潜り抜けるたびに、表世界が目を覚ます。久慶門がまたひとりの役人を迎えた。役人にしてはあまりにも幼すぎる少年に門番たちが六尺棒を交差させた。
「ここは子どもの入る場所ではない」
少年が恭《うやうや》しくお辞儀をする。
「評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》の喜舎場朝薫《きしゃばちょうくん》でございます」
「ほう、お主が王宮の噂になっている神童か。なんでも宦官《かんがん》とか……」
「しっ口を慎め。正五品の官職を戴いた評定所筆者殿に無礼であるぞ」
ともうひとりの門番が制したが、同じように好奇心を抑えられない。朝薫の顔と下半身をしげしげと見比べて、首を傾げた。どこをどう見ても普通の少年にしか見えない。
「ぼくは宦官ではありません。ですが、評定所の人間にそのような無礼な眼差《まなざ》しをするとあれば、相応の処罰をいたしますぞ」
「失礼いたしました喜舎場|親雲上《ペーチン》。どうぞお通りください」
朝薫は自分が侮辱されたようで朝から気分が悪かった。宦官がひとり入っただけで好奇心を剥《む》き出しにする王宮の役人たちは品位がない。寧温《ねいおん》は毎日そんな卑猥《ひわい》な眼差しに耐えているのかと思うと気の毒でならなかった。
ただ、朝薫は寧温が宦官だと知って、なぜか納得できたのである。寧温と話をするたびに私塾の仲間たちとうち解けているのとは違う気持ちがした。初めは寧温が飛び抜けて聡明であるからだと思っていた。知性への憧れが胸を高鳴らせる。それは事実だ。しかし全てではない。寧温の素性が宦官だと知ったとき、もう少し気持ちが晴れた。それは相手の問題はともかく、自分の感覚が間違っていないと納得できたからだ。だがそれも全てではないことを朝薫は知りかけてもいた。
「寧温、君と出会ってから、ぼくは自分を信じられなくなったよ……」
自分よりも賢い人間がいることが嬉しくもあり、悔しくもある。そして同時に切ない。朝薫の心は無意識の闇から乱れていた。
門番たちがまた六尺棒を交差させる。
「ここは女が通ってはならぬ門だ。御内原《ウーチバラ》への出入りは継世門《けいせいもん》を使え」
やってきたのは絶世の美少女だ。首を重たげに下げ、乱れた前髪を指で整えた少女の仕草に門番たちは美しい音色を聴いた気がした。
「私はこのたび王宮の花当《はなあたい》に任じられた嗣勇《しゆう》でございます。お役人様どうかお見知りおきを」
紅型《びんがた》の裾を払ってお辞儀をした嗣勇は、どこからどう見ても女、いや女以上の美貌だ。花当は女性と区別するために男と同じ前帯となっているが、嗣勇の美貌はそんな違いで区別できるものではない。嗣勇の憂《うれ》いを帯びた目の配せ方、情感を持った首の傾《かし》げ方、体重を感じさせない腰の落とし方、宙を浮いているような足の運び方は女以上の優雅さである。彼らが知っている言葉で嗣勇を表現するなら「天女」だ。
「こいつは本当に男か! これが噂の宦官なのか!」
「ほら、冊封《さっぽう》正使様を虜《とりこ》にした踊童子がいただろう。きっとその少年だ」
嗣勇もまた王宮の噂の的だ。天使館で冊封使から寵愛を得た功により、花当として王宮勤務を命じられた。嗣勇も科試《こうし》出身者と同じく立身出世の道が約束されたシンデレラボーイだ。
朝から胸をかき乱される通行人たちに門番は疲れていた。その脇をまたひとりの少年が通過しようとする。
「おい、ここは子どもが……」
「いや、女が通っては……」
身綺麗な色衣装を着た少年に門番たちも口籠もった。さっきの少年が天女だとすれば、この少年をどう表現していいのかわからない。化粧をしているわけではないのに、朝日を弾く半透明の素肌は人のものというよりも白磁に近い。紅をさしていないのに、唇は熟れた果実のように朝露で潤っている。まるで花の精霊が王宮にやってきたかのように、湿った周りの空気を高原のように涼しくしてしまう。見れば見るほどわけがわからなくなって門番たちはたじろいだ。
「な、なんだこいつは……」
「私は評定所筆者|主取《ぬしどり》の孫《そん》寧温でございます」
評定所筆者主取と聞いて、門番たちは反射的に深々と頭を垂れた。官職で名乗ってくれただけ有り難かった。あのままだと精霊の世界に幻惑されたまま意識が戻ってくることはなかっただろう。寧温の後ろ姿を見て、やっと噂の宦官だと気がついた。
寧温の噂は御内原の女官たちにも届いていた。いや女官たちが噂を毎日増幅させているから、一向に収まる気配がない。男と女の世界を繋《つな》ぐ正殿の二階の窓から、寧温の出勤を一目見ようと押すな押すなの賑わいだ。女官見習いのあがまたちはうっとりするような眼差しで寧温を見つめていた。
「孫親雲上って何て麗《うるわ》しいお姿なんでしょう……」
「あんな綺麗な殿方を見たことないわ」
寧温が御庭《ウナー》を歩く様にあがまたちが一喜一憂する。誰かに耳を引っ張られてあがまが悲鳴をあげた。振り返ると雌牛のように大柄な女が睨《にら》みを利かせていた。彼女が女官グループを統《す》べる女官|大勢頭部《おおせどべ》だ。着飾った牛としかいいようのない女官大勢頭部は朝から怒り心頭だ。
「御内原の女が殿方に恋をしてはならぬとあれほど言っただろう! おまえたちは首里天加那志《しゅりてんがなし》の女なのだぞ」
「いいえ女官大勢頭部様、宦官は殿方ではございません」
あがまたちに言い返されると女官大勢頭部はぐうの音《ね》も出ない。花当は女装していても男だから、表世界の人間である。だから裏の御内原の人間と接点があってはならない。琉球で宦官を登用した前例がないから、寧温とどう接していいのか誰も知らなかった。
「孫親雲上は正五品の評定所筆者主取である。おまえたちとは身分が違う!」
女官大勢頭部は、こういって追いやるのが精一杯だった。そして勢いよく窓を閉めた。
北殿は評定所など複数の奉行所が集《つど》う王府の政策機関の中枢だ。大広間では役人たちがそれぞれの案件を処理しているが、向かい合わせに座っている者が同僚というわけではない。収納奉行の隣にいる男が田地奉行だったり、田地奉行の前にいる男が普請《ふしん》奉行だったりと全ての官僚たちがごった煮になってそれぞれの業務を行っているのが実態だ。
王府の政策の全てが同時に行われる様は、大脳の働きを具象化しているようだ。これら全ての官僚たちをまとめて前頭葉の役割を担うのが評定所筆者である。
朝薫は寧温の姿を見つけて、自分と同じ淡い青の色衣装を着ているのにちょっと嬉しくなった。
「おはよう寧温。いや孫親雲上。昨日ぼくが書いた農業振興策の案文はいかがでしたか?」
「朝薫兄さん、寧温と呼んでください。灌漑《かんがい》を整える喜舎場親雲上の慧眼《けいがん》には本当に感服いたしました」
自分も同じ口調で喋《しゃべ》っているのに気づいた寧温があっと口を覆った。朝薫も兄さんと呼ばれた方が嬉しい。朝薫は寧温の手元に目をやった。
「寧温、その筆はもしかして……?」
「いつか朝薫兄さんからいただいた筆です。科試のときもこれで書いたので験《げん》がいいのです」
「そんなに大事に使ってくれるなら、もっと上等な筆をあげればよかった」
と朝薫が寧温の横顔を見る。こうやって側にいるときは心はいつも晴れているのに、見えなくなると闇に覆われてしまう。また明日会えるとわかっているから闇に怯《おび》えることもない。王宮は朝薫にとって名実ともに太陽と過ごす時間に思えた。寧温は今日も一心不乱に役人たちと調整を行っている。
高速演算をしている大脳に休憩が訪れた。北殿に現れたのは女装をした花当たちである。辛気《しんき》くさい男の空間に大輪の花が咲いたような和《なご》みが拡がる。王国の中から選び抜かれた美少年たちに誰もが顔を綻《ほころ》ばせた。
「孫親雲上、お茶が入りました」
白い手に茶碗を差し出された瞬間、寧温は身を強《こわ》ばらせた。目の前にいるのは兄の嗣勇だ。いくら女装しているとはいえ、兄の声に間違いはなかった。あの冊封使の前で踊った日、兄の姿を探したが、天使館に派遣された後だった。今、初めて兄と顔を合わせたが名乗るに名乗れない。
「ありがとう。あ、あなたは初めて見る顔ですね……」
「本日評定所付けの花当になりました。皆様のお世話をさせていただきます」
嗣勇もまた妹を抱き締めることはできない。こうやって男の姿をして王宮に潜り込んだ妹は完全に経歴詐称だ。父から逃げたあの雨の日、大与座《おおくみざ》の役人に連れ戻されると覚悟したのに、追っ手は来なかった。あの科試狂いの父が素直に自分を諦めるとは思えない。
そしてここに男の姿をした妹がいる。これで点と点が繋がったも同然だ。妹は恐らく自分を庇《かば》って男になり、科試を受けたのだ。科試に受かっただけでも驚きだが、聞けば孫親雲上は宦官だという。いくらなんでも無謀な綱渡りだ。もし孫親雲上の素性がバレたら妹は斬首である。嗣勇は何としてでも妹を守りたくて冊封使の寵愛《ちょうあい》を利用して評定所付きの花当にしてもらった。
兄妹はお互いに目を見合わせたまま、次の言葉が見つけられなかった。茶をもらった朝薫が、
「そなたの名は何と申すのだ?」
と尋ねたので嗣勇は妹の耳に届くように言葉を句切りながらお辞儀をした。
「王宮内では『兄さん』とお呼びくださいませ」
寧温は思わず茶碗を落とした。
突然、北殿の大広間に表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》の役人がものすごい剣幕で入り込んできた。
「孫寧温、評定所筆者主取の孫寧温はいるか!」
「はい孫寧温は私でございます」
顔を真っ赤にした男は吟味役の毛《もう》親方である。この表十五人衆は血統重視で選ばれる高官で、三司官《さんしかん》の次に位が高い。王国の中でも毛並みの良さで知られる向《しょう》、毛、馬《ば》、翁《おう》の四姓たちで既得権益を独占する集団である。
毛親方は寧温に案文を叩きつけた。
「私の許可なく勝手に三司官殿に決裁を求めるとはこの無礼者め!」
「え? しかし御物《おもの》奉行殿は直接三司官殿へ渡せと申されましたが……」
御物奉行の男は知らぬふりを決め込んでいる。先日、急ぎの案件だから早く決裁してほしいと割り込んできたのは彼だ。まだ評定所の機構をよく知らない寧温は直接三司官に届け出たが、それが毛親方の神経を逆撫でしたらしい。
「寧温、貴様が科試最年少合格者だからといって調子に乗るな。王宮には長きに亘《わた》る伝統としきたりがあるのだ。表十五人衆の私を無視して動くとは許せん!」
「申し訳ございません毛親方。今後は二度とこのようなことがないように致します」
寧温は身を小さくして土下座するばかりだ。隣で鼻息を荒らげていた朝薫は、またいつもの寧温いじめが始まったと憤《いきどお》っていた。評定所に入ってから毎日、誰かがこうやって難癖をつけてくることばかりだった。それは寧温を気に入らない役人たちが裏で仕組んでいることだと朝薫は知っている。ある役人は寧温に見せた案文と三司官に提出した案文を意図的に瑕疵《かし》のある案文にすり替えて、評定所筆者主取の能力を疑わせようとした。また、ある役人は寧温抜きで重要な会議を開いた。寧温が知らぬ間に通った案件に戸惑っている姿を見てせせら笑うのだ。そして彼らはいつも最後にこう言う。
「宦官の分際で男の世界の何がわかるというのだ!」
毛親方も同じ台詞《せりふ》を言って寧温を公衆の前で面罵《めんば》した。その後に続く失笑も昨日と同じだ。寧温は血の気を失ってひたすら毛親方の怒りが収まるまで謝り続けている。義憤に燃えた朝薫がたまらず立ち上がろうとする。その前に、嗣勇が寧温の前に割って入った。
「毛親方、物知らずの若者を叱るのはもう十分でございます。奥に茶菓子を用意してございますので、お茶が冷《さ》めないうちにお召し上がりくださいませ」
嗣勇は天使館での接待の席で毛親方を含めて王府の高官をもてなしたことがある。彼が自分に秋波を送っているのを知っていた嗣勇は、触りたがっていた首筋に手を導いた。そして耳元にそっと囁《ささや》いた。
「さすが毛親方のお手は違います。続きは人目のない場所で」
毛親方は嗣勇の色気に骨抜きにされてやっと怒りを収めた。巧みに手を引いて大広間から消えていく兄は震えている寧温に「もう大丈夫だよ」と目で合図を送った。
次の日もまたいじめは起きた。今度は天使館から久米村大夫《くめむらたいふ》が怒鳴り込んできた。
「孫寧温、孫寧温はいるか! 冊封使様がカンカンだぞ!」
久米村大夫によると、寧温が昨日届けた琉球側からの贈り物が気に入らなかったらしい。寧温は天使館の役人から王府からの贈り物を吟味せよと申し遣い、華麗な螺鈿細工《らでんざいく》を施した食籠《じきろう》を用意した。それが気に入らないという。
寧温はまたひれ伏して声を震わせる。
「何か不作法でもあったのでしょうか?」
「この愚か者が。冊封使様へは毎回日本刀を贈ることになっているのを知らないのか!」
それなら初めから日本刀を用意せよと言付けるべきだ。なのに、敢えて黙って冊封使を怒らせるように仕向けたのは久米村大夫だ。寧温が通事を兼ねている久米村大夫を介さずに冊封使節団の商人たちと清《しん》国語で会話をしているのが気に入らなかったようだ。
「冊封使様の接待は我が久米村の専任なのに、王府の役人が行うとはけしからん」
久米村は清国の帰化人たちの集落だ。語学に堪能な彼らは冊封使たちの通事や世話をする仕事に従事している。久米村大夫は、主に商談を任されていた。
朝薫がこれは陰謀だと割って入る。
「だったらなぜ最初にそう言わない。螺鈿細工は琉球の工芸品の中でも最高級のものだ。ぼくが孫親雲上に進言した」
「黙れ小僧。評定所筆者なら冊封使様のお好みくらい知っていて当然であろう。これは慣例だ」
「慣例を盾に新参者に恥をかかせるのが魂胆《こんたん》なのであろう。孫親雲上は何も悪くない」
「朝薫兄さん、どうか引き下がってください。私が謝ればすむことでございます」
「いや、謝るな。この件は久米村大夫殿の悪意を感じる」
「ほう、小僧。言ってくれるじゃないか」
冊封使との太いパイプを持っている久米村大夫は官位以上の裁量を与えられている。たとえ相手が評定所筆者だからと言って決して怯《ひる》むことはない。
「冊封使様のお怒りを誰が静められると思っているのか?」
久米村大夫は結局王府は自分を頼るしかないことを知っている。しかし朝薫は毅然《きぜん》と久米村大夫の前に立ちはだかった。
「この帳簿を見ろ!」
と朝薫は清国からの物品の納品書を突きつけた。
「久米村大夫殿が仲介に入った物品が一割高く申請されている。孫親雲上が商人たちから聞き出した値段と実際に取引されている値段が違うのは何故だ!」
久米村大夫は実際の値段よりも高く王府に申請していた。清国語ができない王府の人間の弱点を利用して清国の商人たちにキックバックを要求していたのだ。これが明るみになると久米村大夫の立場は危ういどころか、厳罰に処せられる。
「貴様は我々が清国の言葉がわからぬことをいいことに、王府の金を横領しようとしていたのであろう。それを孫親雲上に阻止されたのが許せなかったから、このような姑息な真似をしたに決まっている」
久米村大夫は朝薫を睨んだまま息を荒らげていた。復讐《ふくしゅう》したつもりが返り討ちに遭ってしまうとは。
「おまえの横領は証拠が揃い次第、平等所《ひらじょ》に提訴するから覚悟しておけ」
「し、しかし冊封使様のお怒りが収まったことにはならぬ……」
すると花当の嗣勇が正使を連れて王宮にやってきた。お気に入りの踊童子を同伴しているとあって正使は上機嫌だ。嗣勇が威圧するように久米村大夫の前に出た。
「冊封正使様は、このたびの琉球の贈り物にいたく感激されたと申されております」
「そんな馬鹿な……!」
久米村大夫はついに力無く崩れ落ちた。
「琉球の螺鈿細工はまことに美しい。王府のお心遣いに感謝を申し上げる」
正使は国で散った恋を琉球でもう一度咲かせているのだろう。嗣勇は正使に何でもほしいものを与えてやると口説《くど》かれ、すかさず「螺鈿細工の食籠がほしい」とおねだりしたのだった。
嗣勇が優しい眼で妹を見つめる。
――真鶴《まづる》、ぼくがいつでも側にいて守ってあげるよ。
嗣勇はかつて自分を庇《かば》って逃がしてくれた妹を今度は守る番だと決めていた。妹が男装して評定所で立身出世を果たすなら、兄は女装して王宮の名玉になる。これが兄が選んだ男の道だ。
朝夕かにくりしやおめなりとわみや
片時もおそば離れぐれしや
(毎日を必死な思いで生きているぼくと妹は、片時も側を離れずにいつもお互いを支え合っている)
王宮から離れた聞得大君|御殿《ウドゥン》では、財務を扱う御物奉行が謁見に伺っていた。香が立ち込める部屋にいると夢のようなふわふわした気分になった。だが御殿の主は世俗の細々としたことにとっても関心がある。殊にお金のことに関しては身分を忘れて熱心に首を突っ込んだ。
「妾《わらわ》の上申書は通りそうか?」
「御意、聞得大君加那志のお心は必ずや首里天加那志に届くでありましょう」
聞得大君は御物奉行の書いた候文《そうろうぶん》にいたく感激していた。聞得大君が王府に申請したのは、聞得大君御殿の大増築である。王国はかつてない脅威に晒《さら》されている。後ろ盾の超大国の清も揺らぎ、薩摩もいつ琉球を併合しようか手ぐすねを引いて待ちかまえているのが現実だ。国が荒れるときは、民からという古《いにしえ》の教えにもあるように、最近|巷《ちまた》ではノロの権威が衰えて、ユタという異端者が跋扈《ばっこ》している。王国の宗教体系を乱すユタの存在は聞得大君の脅威でもある。そこで聞得大君御殿を増築して、ノロたちの管理を徹底し、宗教世界の女帝としての地位を盤石《ばんじゃく》にしようとしていた。
聞得大君は候文を何度も読み返してはうっとりしていた。
[#ここから2字下げ]
聞得大君加那志様事御当国安寧之基ニ而候得
ハ、御殿重修之儀肝要成御聖業ニ而御座候。
国体疲弊之成行ニハ候得共、此儀不致成就候
而ハ不叶訳有之、上下万民之安寧第一と存、
重修御裁可被下候事。
[#ここで字下げ終わり]
「そなたの候文は評定所筆者顔負けじゃな。品格は三司官の案文としても通用するであろう」
「畏《おそ》れ多いことでございます。私はただ聞得大君加那志のお心を記しただけでございます」
「いやいや。宗教心の厚いそなたの気持ちが表れておると申したのじゃ」
候文の内容はこうである。
『聞得大君はわが琉球の安寧《あんねい》の基盤であり、その御屋敷を増築することは聖業である。琉球経済は苦しい状況だが、それでもなお増築工事は国民の安寧を願う趣旨から、是非実現せねばならない事業であるゆえ、これを認める』
聞得大君は「聖業」というフレーズがお気に入りだった。浮かれたいところだが、御物奉行の手前スマートに振る舞うしかない。だが聞得大君の脳内では「聖業」「聖業」「聖業」……と福音の鐘が鳴っている。
「御物奉行が通れば後は慣例の手続きだけじゃ。この上申書が通れば、妾はそなたを評定所筆者に推薦しようと思っておる」
「ありがたき幸せでございます」
御殿の女官たちが騒がしい。何かの押し問答を繰り返しているようだった。
「何の騒ぎじゃ。誰も通すなと申しつけたであろう」
「それが聞得大君加那志。那覇で聞得大君加那志が偽者だと騒ぐユタがおりまして、捕らえたのでございます」
聞得大君が碧眼《へきがん》を光らせた。王国では最近、庶民によるユタ買いが流行《はや》っている。ユタに大金を使う女たちが続出して、家計を破綻《はたん》させるケースが続出していた。王府ではユタの存在を法律で禁じている。霊感のある巫女は王府公認のノロとして官職を与えて管理していた。ノロたちを直轄するのは聞得大君だ。地方のノロたちはユタが勝手に御嶽《うたき》で拝むのをやめさせてほしいと聞得大君に上訴していた。
「まったく『女のユタ買いと男のジュリ(遊女)遊びは殺されても治らない』とはよく言ったものじゃ。その捕らえたユタを連れて参れ」
縄をかけられたユタの老婆が庭に連れてこられた。この時代のユタは琉球の魔女扱いで、しばしば弾圧が繰り返されていた。ユタは己《おのれ》の霊力の覚醒により成巫《せいふ》する。血脈により世襲するノロとは性質が全く異なる。ユタは異端者だった。
「そなたが妾の地位が不当だと吹聴しているユタじゃな?」
「はい。聞得大君加那志……」
ユタは聞得大君の碧眼に大して驚きを見せなかった。ユタは神の声のままに行動する。彼女たちに自由意志はない。神が聞得大君が偽者と言えばそう告げるしかなかった。
「何を根拠に妾の地位が不当であると申すのじゃ?」
「聞得大君とは馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》を持つ者だからでございます。お探しでしょう?」
聞得大君はユタの言葉にカチンときた。今躍起になって探している馬天ノロの勾玉を自分が所持していないことを知っている。このユタを野放しにすれば、馬天ノロの勾玉を巡って次の聞得大君の相続問題に発展するだろう。
「誰が持っておるかわかるか? もし当てれば放免しよう」
ユタは神の言葉をそのまま告げた。これが自分の命を危うくするものとわかっていても、従うしかない。
「馬天ノロの勾玉の持ち主は生まれてはいるが、現れてはおりません。ある男が女に変わるとき、聞得大君は出現します」
「面妖《めんよう》なことを申すユタじゃ。どうせデマカセであろう。そなたの霊力、見切ったぞ。霊力もないのに庶民を騙《だま》すとは許し難き悪行じゃ。皆の者、出会え。このユタを成敗するのじゃ」
みすぼらしい恰好の老婆にノロたちが六尺棒を打ち据える。ボキボキと枯れ枝を折るような音が体の中から聞こえる。老婆は半死半生だ。それでも老婆は神の言葉を追加した。
「聞得大君加那志は近いうちに馬天ノロの勾玉の持ち主に討たれて王宮を去るのでございます」
「ええいユタの分際で黙るのじゃ。冥土《めいど》の土産を見せてやろう。しかと見よ」
出たぞ、と女官やノロが息を呑む。この神扇は聞得大君の護身用の武器である。これが開くときは必ず死人が出る。聞得大君が装飾用の神扇をゆっくりと開く。この神扇に描かれている鳳凰図《ほうおうず》を見た者には死が待っている。今まさに扇の中から雌雄の鳳凰が現れた。扇子が長い弧を描いた瞬間、縁に仕込んでいた刃がユタの喉を切り裂いた。
ユタは断末魔の中で最後の予言を残した。
「おまえはきっと……私のように死ぬだろう……」
「腹立たしいユタじゃ。大与座に命じて王国のユタを全員処罰してやる! ユタ狩りじゃ!」
血で染まる庭に聞得大君の捨て台詞が突き刺さった。
その夜、寧温は尚育王《しょういくおう》から呼び出しを受けた。
書院の廊下は蝋燭《ろうそく》の明かりひとつだけが灯され、まだ王が執務中だと告げていた。勤勉な王は毎晩蝋燭と根比べをするかのように働いている。たいてい蝋燭が音をあげ、仕方なく王が帰るのが定番だった。障子に人影が差して王が筆を擱《お》いた。
「評定所の孫親雲上か?」
「はい。孫寧温でございます。首里天加那志、お呼びでしょうか?」
尚育王は寧温が尊敬する知性と優しい心の持ち主だ。それ故、民からの敬愛も厚い。その王を補佐できる喜びは何物にも代え難いものだった。未明であろうと、非番であろうと、風邪をひいていようと、寧温は王命ひとつでどこからでも駆けつけてくる。
人払いの後に書院に招かれた寧温は何か内密な相談を受けることを予感していた。常に側にいる三司官たちさえも退けられたのには理由があるに違いない。尚育王はやや沈鬱《ちんうつ》な面持ちで話を切り出した。
「評定所の仕事には慣れたか?」
「はい。これも首里天加那志の聖恩のお蔭でございます」
「実はそなたが評定所の中で異物になっているのを危惧《きぐ》していた。若い上に宦官とあっては、さぞ苦労も多いであろう」
「いいえ評定所は実力の世界。未熟な分、指導が多いだけでございます」
尚育王は机に山積みされた上訴文に苦笑いした。どれも寧温を罷免《ひめん》するように上申された案文である。これを読むと王宮内の派閥がどう形成されているのかわかる。普通はどちらか片方の勢力の上訴に傾くはずなのに、寧温の場合は違う。ここまでまんべんなく嫌われているというのも面白い。
実は寧温がいじめに遭うきっかけを作ったのは王である。寧温の宦官という特性を使って、御内原と正殿を連携させたいと提言したのは王自身だ。予想通り、三司官や表十五人衆から猛反発を喰らってしまった。男と女の世界を自由に行き来するなど王宮の歴史の中では前例のないことだ。前例主義による抵抗、これもまた前例のあることだから、さして驚くことではない。尚育王は前例主義を悉《ことごと》く打破してきた王なのだから抵抗があればあるほど強硬になる。
蝋燭の明かりをひとつ消して、王は前に寄るように命じた。
「実は寧温。そなたには王府を調べてほしいと思っておる。知っての通り、王府の財政はとっくの昔に破綻してしまっている。薩摩からの借入金は利息を返すだけでも精一杯だ。だが不思議なことに役人たちの俸禄は下げたというのに、彼らの暮らしは前よりも豊かになっておる。この金がどこから流れているのか調べてほしい」
「首里天加那志、それは財務を扱う御物奉行にお任せすればよろしいのではないでしょうか?」
「余も初めは御物奉行の役人を使って調べておった。しかし金は巧みに御内原をすり抜けてどこかへ消えていくのだ。御内原は裏の世界。御物奉行といえども決して立ち入ることはできない男子禁制の世界――」
王は言葉を区切って寧温を見つめた。
「しかし、宦官なら、それができる!」
「首里天加那志、私に御内原へ入れと仰《おっしゃ》るのですか?」
「そうだ。当然の如く王妃や女官大勢頭部はそなたを許さないだろう。しかし彼女たちを敵に回してでも是非、金の流れを調べてほしい」
「王宮に入ったばかりの私に、そんな能力はありません」
「そなたは久米村大夫の賄賂の絡繰《からくり》を解明したではないか!」
「あれは商人たちと何気なく会話をして気づいただけでございます」
「それだけで銀子《ぎんす》五十貫文の横領を阻止したことになるのだぞ。そなた以外に他に誰がいる!」
寧温は連日の男たちからのいじめだけでも音をあげそうなのに、さらに裏の世界まで敵に回す気力はなかった。御内原が伏魔殿《ふくまでん》であることは王宮一年生の寧温でもわかっている。噂によれば王妃は聞得大君と対立し、国母は側室の子を世子《せいし》に据えようと娘である聞得大君と結託しているという。報復として王妃は配下の女官大勢頭部を使い、側室をいじめ抜いていると聞く。その様は古代ローマの剣闘士さながらの光景だと言う。さらにタチが悪いことに王族同士の喧嘩はルールがない。巻き込まれたら鞭《むち》打ちか流刑にされてしまう。
寧温が男のいじめに耐えているのは御内原よりはマシと思っているからだ。
「私にはとてもできない役目でございます。どうかお取り下げを首里天加那志……」
王は予《あらかじ》めの合図のように咳払いをした。すると書院の奥の扉が開いて白髭を蓄えた老人が現れた。寧温は思わず声を上ずらせた。
「麻真譲《ましんじょう》先生ではありませんか!」
麻は「よお」と茶目っ気たっぷりに笑って書院に入ってきた。
翌日、正殿の二階から黄金御殿《クガニウドゥン》と呼ばれる王の住居へと通じる空中回廊の前に、寧温は立っていた。黄金御殿は正殿の次に大きな建物で裏の世界、即ち御内原の中核となる御殿だ。首里城は表と裏が対称になるように二つの顔を持っている。正殿が表の顔なら、黄金御殿は裏の顔だ。評定所が表記の世界なら、御内原は見ても記してはならない世界、起きたことが語られない闇の世界である。
この空中回廊には鈴がつけられている。この鈴を鳴らすと女官が現れて伝言を申しつけることができる。寧温を案内するかのように一匹のオオゴマダラがゆらゆらと飛んでいく。白い翅は朝靄のように溶けて御内原へと誘《いざな》う。
「ここが御内原――!」
禁断の空中回廊を越えて見た世界はもうひとつの首里城だ。規模も構造も表世界とよく似ている。ただ正殿がきらびやかな陽光の世界なら、ここはひっそりとした月明かりの陰の世界だ。空気も冷たく何もかもが裏返っている印象がした。やはり御内原にも正殿の御庭《ウナー》と対になる広大なパティオがある。その中庭は後之御庭《クシヌウナー》と呼ばれる空間だ。そこを女官たちが忙しく行き交っている。女官たちの衣装はドゥジン・カカンと呼ばれる丈の短い上着と足首までのプリーツスカートの組み合わせだ。表と裏、男と女が見事に対になっているのが首里城だ。こんな世界が王宮の裏側に広がっていたとは、役人たちは知る由《よし》もない。もっとよく見ようと目を凝《こ》らした瞬間、扇子が寧温の顔を塞いだ。
「お待ち。ここをどこだと思っている。鈴を鳴らさずに入れば命はないぞ」
異物をいち早く見つけたのは御内原の番人、女官大勢頭部である。闘牛のような勇敢な佇《たたず》まいは役人たちの威厳とは違う動物的なものだ。寧温は、怯えを見抜かれないように扇子を払った。
「私は評定所筆者主取の孫寧温でございます」
「表の世界の人間は御内原に入ることはできぬ。それくらい知らぬのか」
「入れないのは男です。しかし私は宦官。紫禁城《しきんじょう》でも宦官は後宮に入れるはず。これからは御内原の出入りは自由にさせていただきますので、お見知りおきを、女官大勢頭部様」
女官大勢頭部は、言い返すことができない。御内原が男子禁制なのは王の血脈を維持するためで、王以外の種が蒔《ま》かれるのを阻止するためだ。しかし宦官は去勢してあるためにその心配がない。だから後宮への出入りや女官たちと行動を共にすることができる。首里城は紫禁城を模して造られ、位階制度や様式など全て清国式を導入している。そんな琉球に今まで宦官がいなかったのが不思議なくらいだ。
女官大勢頭部は、王の臣下として御内原の秩序を守るのが仕事だ。
「いくらおまえが宦官でも、ここでは私が女官たちを統《す》べている。御内原での行動には監視をつけるからそう思え」
そう言うとカカンのプリーツスカートを翻《ひるがえ》して女官大勢頭部は去っていった。顔も強面だったが背中も野獣的だ。女官たちが女官大勢頭部の後ろ姿にも一斉に頭を垂れる。その様はボス猿の退場だ。ぼうっとしていた女官がいて、頭を垂れていないことを背中で察知した女官大勢頭部は、振り向きざまに「無礼者」と扇子を投げつけた。
ボスがいなくなった瞬間、女官たちの黄色い声が寧温を囲んだ。
「きゃああ。あの寧温様が御内原にいらっしゃるなんて夢みたい」
「宦官って本当に綺麗なのね。私たち負けそうだわ」
「御内原のことなら何でも聞いて。私たち寧温様のお力になりたいの」
寧温はさっきまでの緊張から一気に弛緩させられて、もう酔いそうだ。これが女というものかと改めて驚く。自分も女だがその要素が微塵もないことを痛感させられる。彼女たちのふわふわした雰囲気、主題のないぐにゃぐにゃした会話、同じ話題を無限に繰り返す収束点のないお喋り、彼女たちの全てが柔らかいものでできているように思える。
「あれが世添御殿《よそえウドゥン》、世誇殿《よほこりでん》、女官詰所、寄満《ユインチ》……。女の世界も表と似ている」
後之御庭を囲むようにひとつの都市が形成されている。白木造りの建物は女性的な控え目さを感じさせたが、活気は表世界以上だ。絶えず女たちの笑い声や怒鳴り声が飛び交って小鳥が囀《さえず》るようである。
そんな御内原の一角で、寧温は泣いている少女を見つけた。
「あなたは何故泣いているのですか?」
御内原に現れた男に少女は反射的に涙を止めて好奇心旺盛な眼差しを寄越した。少女は女官見習いのあがまで思戸《ウミトゥ》と名乗った。
「あたしがいろいろと勢頭部様に質問ばかりするので、勢頭部様がお怒りになったのです」
子どもが疑問に思ったことをあれこれ質問するのは当たり前のことだ。それを叱るとは可哀相だと寧温は思う。自分も文字を覚えたての頃は周囲の大人たちを質問責めにして困らせたものだった。
「私が代わりに答えてあげましょう。何でも聞いてごらん」
思戸はぱっと顔を明るくすると、さっき勢頭部からぶたれた質問を投げかけた。
「どうしてハゲは絶倫なの?」
一瞬、寧温は質問の意味がわからなかった。思戸は次々と質問責めにする。
「どうして遊んでばかりのジュリ(遊女)は妊娠しないの?」
「どうして兄妹で結婚してはならないの?」
「どうして女官の対食《たいしょく》(同性愛)は禁止なの?」
「どうして勢頭部様の張り型は年々大きくな――ううっ!」
寧温は咄嗟に思戸の口を塞いだ。何というマセたあがまなのだろう。勢頭部からぶたれるのも当然だ。顔を真っ赤にした思戸は窒息しそうだ。
「はあっ、はあっ。あたしを殺す気ですか。あたしいつもこんなだから嫌われちゃうのかな」
「嫌われて当然です!」
エロ質問ばかりする思戸に業を煮やした親は娘を出家させて尼僧にするしかないと考えていた。しかし尼僧になるには幼すぎる。手っ取り早い禁欲的な場所といったら王宮しかない。思戸は厄介払いされる形で宮中に上げられたのだ。
「孫様、あたしはいつも叱られてばかりです。どうしたら人と上手くやっていけるのですか?」
「まずは口を慎みなさい。王宮は人のたくさんいる場所です。軽はずみな一言が大きな災いを招きます。これからは質問はせずに人の話を聞くことに徹しなさい」
「でも御内原でお喋りしない女官はいません。黙ってると息が詰まりそうです」
憧れの王宮は女の幸福とは無縁の場所だ。婚姻が許されないために女官は生涯独身を貫く。思戸はまだ子どもだからわからないが、これから成長するにつれ、生来の感情を殺さなければならなくなる。寧温は女を捨てたが、思戸は女のまま女を諦めさせられる運命だった。
――どうして女だけが苦労するの?
寧温は思戸の肩を抱いた。
「じゃあ私と友達になりましょう。だから余計なことは他の人には喋らないで。わかった?」
思戸はわかったと頷いて、生えかけたばかりの小さな永久歯を見せて笑った。
わぬ童ともてこなしゆるばこなせ
こなせ田の稲のあぶし枕
(あたしが子どもだからってみんなはバカにするけれど、やってごらん。今に誰よりも出世してみせるからね)
表世界は民と繋がる空間だ。王宮の門には一応門番がいるが、膂力《りょりょく》よりも人柄の良さが求められる。ある日から、久慶門に明るい笑いが響くようになった。
「おはよう。おはよう。がはははは」
と門を潜る役人たちに朗らかな笑みを投げかける大男がいる。多嘉良《たから》は久慶門の門番になっていた。科試を諦めた多嘉良は進貢船の船乗りになろうと港をうろついていたが、就職難のご時世で船乗りになるにも科試並みの競争率を突破せねばならない。港湾の人足として日雇いの暮らしをしていた多嘉良にある日、久慶門の門番になれと王府から任命書が届いた。多嘉良の知り合いでこんなことができるのはひとりしかいない。王宮の役人の人事権を握っているのは評定所筆者主取である。
多嘉良は寧温を見つけると満面の笑みで迎え入れた。
「これはこれは孫親雲上、今日はお早いご出勤でございますな。がはははは」
「多嘉良のおじさん、門番の恰好《かっこう》がお似合いですよ」
「だろう? 儂《わし》も十年前から門番をやっているような気がしてならんのだ。ついに儂も夢の王宮勤務だ。ただし入り口までだがな。がはははは」
そして多嘉良は寧温の耳元にそっと告げた。
「寧温、この恩は忘れないぞ……」
「私がおじさんにお世話になったことに比べたら、これくらい何でもないことです」
「これで女房も子どももまともな暮らしをさせてやることができる。ありがとうな」
多嘉良を門番に登用したのは、何も義理や情だけではない。この久慶門は王宮の役人のほとんどが利用する要の門だ。王宮内部は位階に応じて縦の序列が決まっているが、人間が密接に繋がるのは実は横の関係のときだ。そこで人好きのする多嘉良には官職を超えた人間関係を把握してもらい、物資や金がどこに消えていくのか経路を洗ってほしいのだ。
「人間観察ならこの多嘉良|善蔵《ぜんぞう》に任せておけ。もうだいたいの顔と名前は覚えた。それよりもおまえのことが心配だ。どうやら役人たちはおまえのことをよく思っていないぞ」
「知っております。なにしろ私は『慣例破りの宦官』ですから」
「御内原に入るのはよせ。いくらなんでも危険すぎる。おまえは女の嫉妬深さを知らんのだ」
「男だって嫉妬深いですよ」
久慶門を潜れば慣例としきたりを笠に着た男のいじめの世界が待っている。どうせ今日も何かされるのだろうと寧温は覚悟していた。普通の男なら人前で土下座させられるのは屈辱だろうが、寧温は女だ。土下座ですむならいくらでも謝る。懲《こ》りない宦官だと役人たちは嗤《わら》うが、人をひれ伏させることの何が楽しいのか寧温にはわからない。
「寧温、気をつけろ。男の嫉妬は職権による復讐だが、女の嫉妬は憎悪だ。憎悪には憎悪でしか対抗できん」
「さてはおじさん、女を敵に回したことがありますね?」
多嘉良は知らぬ顔をして口笛を吹いた。
王宮の二つの世界を跨《また》ぐようになった寧温は、多嘉良の言うことがわからなくもない。評定所は理の世界で論理が正しければ勝敗は明らかだが、御内原の女たちには論理は通じない。たとえば、この黄金御殿への空中回廊だ。一歩踏み出すと扇子が飛んでくる。
「お待ち。ここをどこだと思っている。鈴を鳴らさずに入れば命はないぞ」
不貞不貞《ふてぶて》しい巨体で廊下を塞いだのは女官大勢頭部だ。昨日も、一昨日も、もう何十回とこの台詞を聞かされて、既に形骸化した様式になっている。恐らく女官大勢頭部の言葉に意味はない。ここまでしつこいと「ようこそ御内原へ」くらいの意味にしか聞こえなかった。
「孫寧温、通ります。廊下を開けなさい」
こう言うと素直に引き下がるからまるっきり馬鹿というわけでもない。どうやら女官大勢頭部は寧温が根負けするまで、同じことを繰り返すつもりらしい。寧温は出来れば御内原に入りたくはない。しかし帳簿を洗っていると不明な支出が御内原から出てくるのだ。王でもわからない不正経理がどのように行われているのか、実態を把握しないと財政は再建できない。
今日の女官大勢頭部はいつになく着飾っていた。監視についた女官がそっと耳打ちしてくれた。
「寧温様、今日は女官大勢頭部様のトゥシビー(生年祝い)なのですよ」
御内原の後之御庭には宴席と仮設舞台まで設けられ、これから始まる宴に向けて盛装した女官たちが立ち止まることなく行き交う。まるで那覇の市場の雑踏が御内原に出現したかのようだ。次から次へと持ち込まれる豪勢な料理は、女官長のトゥシビーというレベルを超えている。
「あの料理はどこから持ってきたのですか?」
「寧温様、あれは御料理座《おりょうりざ》のお役人様たちからの贈り物でございます」
「御料理座を一女官が使っているのですか!」
王宮には三つの厨房《ちゅうぼう》がある。御料理座は冊封使など国賓たちをもてなすときに使う最も格式の高い厨房だ。大台所《おおだいじょ》は儀式用の厨房で次に格式が高い。王の日常の食事は簡素な構えの寄満《ユインチ》を使うことになっている。御料理座に持ち込まれる品は清国式の料理を作るために数年がかりで調達してくる貴重な食材ばかりだ。貝類などは王府の管理で養殖され捕獲が禁止されている。
「誰の許可を得て御料理座を使っているのですか。あそこは高級料理を作る特別な厨房ですよ」
寧温の語気の荒さに女官が小さくなって答えた。
「王妃様がお許しになられました。女官大勢頭部様は王妃様のご信頼が厚いお方ですから……」
呆気にとられている間にも女官大勢頭部の生年祝いの宴が執り行われていく。上座に座った女官大勢頭部は女官たちを従えて有頂天だ。
「今日は私のトゥシビーを祝ってくれてありがとう。御内原は窮屈なところ故、今日はゆったりと羽をのばすがよい」
女官たちも滅多に食べられないご馳走を前に興奮を抑えられない。いつか御庭で執り行われた冊封使を迎える宴席に劣らない豪華な宴が男の知らない世界で開かれていようとは。
やがて特設舞台では女官大勢頭部を祝う神楽《かぐら》の舞が始まった。当時の琉球ではジャポニズムのような日本趣味が流行していた。ちょうど王宮の表世界で中国趣味のシノワズリーが流行っているのと対照的である。男たちは京劇を好むが、御内原の女たちは神楽に傾倒していた。
「本日は花崎神社の巫女たちが女官大勢頭部様のトゥシビーのお祝いにかけつけました」
「なに? ヤマトゥンチュ(日本人)の巫女たちが踊ってくれるのか」
女官大勢頭部は頬を紅潮させて喜んだ。神楽の舞い手たちの衣装の珍しさ、採物《とりもの》の鈴や榊《さかき》の華麗さ、能面に彫られた意味深長な笑み、そして身のこなしは琉舞《りゅうぶ》とは異なる美意識で育《はぐく》まれたものだ。琉舞の美が情感なら、神楽は悠久の時を駆ける神話的空間である。巫女たちが舞うたびに神代の時間が流れる。
「おお、何と素晴らしい。やはり舞台は神楽に限るのう」
舞台の中央で踊る巫女は日本でも名を馳せている神楽の名手・北崎倫子だ。面ひとつで千の人物を踊りわけると評判の神楽の天才である。天照大神《あまてらすおおみかみ》から八岐大蛇《やまたのおろち》、はたまた日本武尊《やまとたけるのみこと》まで全てを演じ分ける神楽に女官大勢頭部は圧倒された。この舞を観たくて、王妃に取り入って御内原に異国人たちを迎え入れたのだった。
神楽を終えた巫女たちが一斉に頭を垂れた。
「女官大勢頭部様の生年祝い、心からお祝いを申し上げます」
「北崎倫子よ、噂に違《たが》わぬ見事な舞であった。そなたは永遠の役者であるな」
女官大勢頭部は御内原の盤石な支配の上に絶頂を極めていた。
突如、御内原に白装束のノロたちが現れた。大あむしられと呼ばれる巫女たちは王宮のもうひとつの勢力だ。荘厳な白装束が宴を浄化するように清めていく。そしてノロたちの奥から碧眼の王族神が登場した。
お付き女官の声がする。
「聞得大君加那志のおなーりー」
「やめい。御内原に異国人を入れるとはどういう了見《りょうけん》なのじゃ?」
聞得大君の王宮入りに女官たちは騒然となった。王府の宗教祭祀を統括する聞得大君の前で外国の宗教舞踊を舞わせたのを知られたら言い訳ができない。神楽の巫女たちは逃げるように舞台を去って行った。女官たちも後之御庭の隅で小さくなっている。御内原名物の意地悪大会が始まろうとしていた。下手に首を突っ込めば死よりも恐ろしい女のいじめが待っている。
女官大勢頭部は一向に悪びれる素振りもない。
「これはこれは聞得大君加那志。私のトゥシビーにお出で下さるとは、恐悦至極《きょうえつしごく》でございます」
「女官ごときのトゥシビーに妾が駆けつけると思うな」
聞得大君は京の内から蝶が出たと聞いて王宮に入った。蝶は死後の世界を象徴する虫だ。それが聖域の京の内から大量発生したとなれば、王宮が脅《おびや》かされているという神託である。駆けつけてみれば案の定、女官大勢頭部が冊封使並みの歓待を受けているではないか。
「御料理座を使うとは身の程知らずめ。この身分不相応な宴を誰が許可したのじゃ」
黄金御殿から清らかな声が響いた。
「私が許可しました」
「うなじゃら(王妃)様のおなーりー」
現れたのは御内原の最高権力者である王妃だ。聞得大君に負けない清国の絹糸で織られた豪華な打ち掛けを羽織り、蝶のようにゆったりゆったり後之御庭《クシヌウナー》に下りてきた。王妃と王族神、どちらも一歩も譲らぬ権力者同士だ。
聞得大君が碧眼で王妃を睨みつける。
「王妃様ともあろうお方が御料理座を勝手に使えばどうなるかわからぬのか?」
「ここは私の管轄です。聞得大君が口を挟む筋ではない」
王妃も臆することはない。王族は無階であるために位階による優劣はない。あるのは女の意地だけだ。京の内では聞得大君が最高権力者であるが、御内原では王妃が圧倒的に優位だ。聞得大君と王妃の世子を巡る確執を知らない者はいない。託宣ひとつで簡単に王位継承権を覆《くつがえ》すことのできる聞得大君はなかなか王妃の子を世子にしたがらない。聞得大君は側室の子を世子にしようと企《たくら》んでいる。王妃は女官大勢頭部を使って側室を宮中から追い出そうと画策していた。
二人の女の涼傘《りゃんさん》が互いに鍔迫《つばぜ》り合いをする。いつかこんなこともあろうかと王妃は一回り大きな涼傘を作らせておいた。王妃の自慢は見る者を吸い込む漆黒《しっこく》の瞳である。
「聞得大君が御内原に入るときは前もって申請しなければならぬのが慣例だが、誰の許可を得て御内原に入った?」
後ろの世添御殿《よそえウドゥン》から重厚な声が響く。
「私が許可しました」
「国母様のおなーりー」
現れたのは聞得大君の母でもある国母だ。これが他の王国なら聞得大君は先王の王女として王妃の下につくはずだが、琉球では王族神という独特の制度がある。王妃に匹敵《ひってき》する権力者を娘に持つ故に国母の立場は絶大である。たとえば王妃に意地悪をしたいと思えば、娘の聞得大君に命じて王子の王位継承権を剥奪《はくだつ》すればよい。国母にはこの切り札があるから、御内原に一定の勢力を生み出すことができた。
王妃と国母の争いを単純に言えば嫁と姑の喧嘩だ。そこに小姑が介入している。
「娘に会うのになぜ私が王妃の許可を取らねばならぬ? 御内原に長くいるのはこの私である」
銀色の髪を結った国母は龍を刺繍《ししゅう》した式典用の涼傘を持ち込んで、王妃の涼傘を圧す。
「お言葉ですが国母様、御内原は首里天加那志のお体を休める所です。娘に会いたければ聞得大君御殿へ出向けばすむ話ではありませんか」
「京の内からハベル(蝶)が出たというのに、半月も報告しなかったのは誰じゃ? 私が手紙で一言述べなければこのことを聞得大君が知ることはなかったのだぞ」
聞得大君は既に王妃の悪意を知っている。
「なんと怠慢な王妃様じゃ。御内原の神に拝んで火事でも起こしてやりたいくらいじゃ」
「そなたが寄満の|火の神《ヒヌカン》に立てる線香が七本しかないのを私が知らぬと思っているのか? 七は王妃の数。私を失脚させたいと神に拝んでいるのであろう?」
聞得大君と国母に圧倒されているように見える王妃にも、実は究極の切り札がある。王妃は冊封使に頼んで、王子を清国の皇帝から世子に任命してもらおうと画策中である。清国の皇帝が任命したとあれば、聞得大君でもこれを覆すのは至難の業だ。そして王子が世子になれば王女が次の聞得大君になる。王女はサーダカー生まれという瑞相《ずいそう》の持ち主で、生まれながらに霊力が高い。王女が聞得大君に即位すれば今の聞得大君の財産を全て没収できる。これが怖いから聞得大君は王女には手出しできない。
金切り声の少女の声がした。
「母上様をいじめるな!」
「うみないび(王女)様のおなーりー」
少女の声に御内原がしんと静まる。次の聞得大君と目される王女が登場した。やはり彼女の瞳も碧眼《へきがん》であった。しかも聞得大君よりも澄んだ碧である。王女は世俗が嫌いで滅多に人前に出ない。そのせいか面を被ったような冷たい表情をしている。王女は十歳にして王府最大の霊場、斎場御嶽《セイファウタキ》のノロからお墨付きを貰うほどの霊力を保持していた。
「京の内からハベルが出たのは聞得大君がもうすぐ退位するという意味だからじゃ」
王妃は満面の笑みで聞得大君に言った。
「長年の重責ご苦労であった。そなたの退位のときにも御料理座を使いたいものだ」
母娘は嫌味たっぷりに抱き合った。聞得大君と国母は苦虫を噛み潰したように震えている。このままだといつかはやられる。だから今蹴り返す。
「側室のあごむしられ様の王女もまたサーダカー生まれじゃ。妾の勾玉は彼女に譲ろうか?」
世誇殿《よほこりでん》から声がする。
「是非、いただきたいものでございます」
「あごむしられ(側室)様のおなーりー」
全身を磨き上げた宝玉のような側室が現れた。王宮の翡翠《ひすい》と称される側室は、美貌と官能的な肉体を駆使して王の寵愛を一身に受けていた。側室は聞得大君の親友で、兄は財務担当の御物奉行である。いつか聞得大君御殿の増築申請を許可した男だ。側室は表世界の兄を操って聞得大君の信頼を獲得していた。側室は聞得大君の保護がなければ王妃に討たれて明日にでも王宮を追い出されるかもしれない身だ。側室の野望は息子を世子に据え、王妃を追い出し、国母の地位を獲得することである。
側室が王妃と王女の影に割って入る。
「これで世子は私の王子と決まったも同然ですわ」
寧温はこれが女の闘いだと息を呑んだ。女官大勢頭部、聞得大君、王妃、国母、王女、側室、六者六様の思惑が渦巻く伏魔殿が御内原の素顔だ。グスクンチュ(城人)と呼ばれる御内原の女たちの闘いは誰かが王宮を去るまで続く。
――多嘉良のおじさん、やっぱり女は怖いです……。
寧温は息を呑んで御内原の闘いを眺めていた。壮絶な意地の張り合いは男のいやがらせの比ではない。表世界の評定所筆者でよかったと寧温は思った。ほっと胸を撫で下ろした瞬間、六人の女が寧温の姿を見つけた。
「なぜ御内原に男がいるのだっ!」
上下やつめて中に蔵たてて
奪ひ取る浮世冶めぐれしや
(王も庶民も切り詰めて生活しているというのに、御内原の女だけが贅沢三昧《ぜいたくざんまい》をして暮らしている。こういう世の中を治めるのは難しいものです)
北殿にある評定所は、王府の前頭葉で王国の全ての情報が集積する。外交、貿易、内政、立法、行政、およそ国家が果たす全ての機能を少数の評定所筆者がまとめる。寧温が一日のうちに通す案件は二十件。各奉行たちの候文を決裁する権利を持つ。寧温の書く言葉が三司官の言葉になり、王府の公式文書となるから、些細なミスも許されなかった。科試が実務能力重視なのはこのためである。
「寧温、お茶が冷めているよ」
と朝薫に言われるまで、茶が注がれたことにも気がつかなかった。寧温が筆を擱くときは、王宮を退出する時間だった。窓から注ぐ日の陰りでもうすぐ業務終了だとわかった。
「朝薫兄さん、これを見てください。干魃《かんばつ》で八重山《やえやま》の年貢の納めが落ちています。実態に合わない取り立ては庶民を苦しめます。このままだと間切倒《まぎりだおれ》が起きてしまいます」
間切倒とは今でいう財政再建団体のことだ。王府は常にこの間切倒による対策に追われていた。
「しかしもう検者《けんじゃ》や検見使者《けみししゃ》を派遣するにも、役人がいない。この前起きた恩納村《おんなむら》の間切倒でも検者の確保に奔走したじゃないか。それも離島の八重山に検見使者を派遣するとなるとそれなりの予算がいる」
予算。この言葉を一日のうちに何十回聞かされ、自分もまた何十回と口にするだろう。王府の財政は借入金なしでは成り立たないほど逼迫《ひっぱく》していた。清国から訪れた冊封使の歓待で薩摩から借り入れた金は銀子三千貫文。王府の年間予算の五分の一にものぼる。冊封使さえ来なければ、間切倒がこんなに起きることはなかったはずだ。外国人を接待するために外国から借金をする。この矛盾が結局庶民に皺寄せされることになる。
朝薫も困ったように溜息をついた。
「財政を健全にしないと琉球は独立国家として危うい。生産基盤を整えようにも金がない……。果たして琉球はこれで独立国家と呼べるのだろうか……?」
寧温は笑ってまた筆を執った。
「朝薫兄さん違いますよ。大国の狭間《はざま》で生きるというのはそういうものなのです。それが琉球という国の個性なのです。金がないなら智恵がある。だから私たち評定所筆者がいるのです」
「そうだな。君と話をしていると視野が広がるから楽しいよ。借金の申し入れで頭を下げるのがぼくたちの仕事だ」
「琉球の個性が今は逆境になっていますが、この特性はきっと長所にもなります。敢えて大国間の狭間にいるようにすれば、琉球の個性は生きます」
「ぼくたちが上手く舵取《かじと》りをすれば!」
そう言って朝薫は拳《こぶし》を握った。評定所筆者は危機を予測し、速やかに対応するのがモットーだ。今は一刻も早く八重山の間切倒を防ぐ方法を検討しなければならない。
北殿に地方の役人たちが押し寄せてきた。
「大変だ。南風原村《はえばるむら》と糸満村《いとまんむら》でも間切倒が起きたぞ!」
今日も残業だな、とお互いに机に顔を突っ伏した。
天使館から途方もない金額が突きつけられたのは、間切倒対策の草案がまとまったばかりの朝だ。少ない予算の中からやっと捻出した銀子百貫文を間切倒対策に回したというのに、冊封使たちとともにやってきた清国の商人たちは、琉球側に銀子二千貫文の支払いを要求してきた。
「銀子二千貫文! どんな取引をしたらそんな法外な値段が出てくるのですか!」
徹夜明けだというのに、その金額に寧温の眠気は一瞬にして吹き飛ばされた。冊封使たちが琉球に来るのは、貿易のためでもある。約款《やっかん》で取引額は銀子五百貫文と決められていたのに、清国側は二千貫文分の品を持ち込んできた。
「銀子二千貫文……!」
三司官もこの金額に仰《の》け反《ぞ》ってしまった。一体何を持ち込めばこれだけの金額になるというのだろう。王府にそんな金は一銭もない。すぐに寧温を矢面に立たせた。
「おまえが久米村大夫の顔に泥を塗ったからだ。久米村大夫は調整役を兼ねていたのだぞ!」
「そんな……。久米村大夫は王府の金を横領しようとしていたのでございます。三司官殿もご立腹されていたではありませんか」
「久米村大夫が横領しようとしていた金は銀子五十貫文だ。それを阻止したせいで銀子二千貫文に跳《は》ね上がったのだぞ!」
「銀子五百貫文の約款を守らなかったのは清国でございます。これは不当な圧力です」
久米村大夫の送検は久米村の長である総役を激怒させた。久米村は清国の飛び地領のようなものだった。彼らは帰化人でありながら清国式の風習や生活を崩さない。久米村に行けば道教の神々を祀《まつ》る廟《びょう》が至る所に設けられている。服装や風習も気位も琉球とは異なる地域だった。そして久米人たちは内部で血脈を維持し琉球人と距離を置こうとする。彼らは大国のエリートであり続けようとする意識の持ち主だ。
「この要求を決して受け入れてはなりません」
「馬鹿者。冊封使様は全部買い取るまで帰国しないとご立腹だ。天使館の毎日の予算が幾らか知っておろう。半年延長されたら銀子一千貫文上乗せされるのだぞ」
「合計、銀子三千貫文――!」
延長滞在だけでとんでもない利息だ。冊封体制を維持するというのは、清国の大国エゴと向き合うということである。使節団の滞在費や食費、輸入品の買い入れの費用のために、王府は慢性的な財政難に陥っていた。
「こんなことなら久米村大夫の横領に目を瞑《つぶ》っていればよかったわい」
「三司官殿、何を仰るのです。久米村大夫の不正と清国のふっかけは全く別物でございます」
「では、孫寧温。おまえが解決しろ。おまえが起こした不始末だ。王府は約款以上の予算はない」
三司官は腹いせにわざと寧温の前で足を踏みならして出て行った。久米人を使わずに交渉するというのは不可能なことだ。
「寧温、一緒に天使館へ行こう。大国の狭間にあるからこその琉球なんだろう」
朝薫は冊封使も久米人も三司官も感情的になりすぎているのが気に入らない。何も冊封使は琉球を破産させるために来たわけではない。しかしどうすれば双方が納得できるのか朝薫にもまだ論が構築できていなかった。
「どうしたんだ寧温。誰を探している?」
大広間をきょろきょろ見渡していた寧温は、兄の嗣勇《しゆう》を探していた。
「さっきまで花当がいたはずなんですが……」
迎賓館の機能をする天使館は清国の様式で建てられた施設だ。門に入った瞬間から清国語の世界に変わる。久米人たちは一切の通訳を拒否してきたから、朝薫は慌《あわ》てた。そんな中、寧温は流暢《りゅうちょう》な発音で正使との謁見を求めた。
「王府の孫寧温です。このたびの取引の真意をお尋ねにあがりました。あ!」
儒礼で頭を上げた寧温は思わず声をあげた。京劇の恰好をした女形が正使の隣にいる。
――真鶴、絶対に正使様を怒らせるなよ。
正使は兄の嗣勇を侍《はべ》らせていた。嗣勇は三司官が妹を叱り飛ばして天使館へ派遣させると知るや、役者の早替わりの如く虞美人《ぐびじん》に変身して正使の側にやってきた。これでも王宮の至宝と呼ばれた踊童子だ。踊童子の芸域は琉舞から日舞、歌舞伎、京劇まで幅広くこなすことができる。嗣勇は妹を援護射撃するために八面六臂《はちめんろっぴ》の活躍だ。ただしいつも愛人役だけど。
虞美人に扮した兄の姿に正使はますます溺《おぼ》れるばかりだ。こうなったら何年でも琉球に滞在してもいいと思っている。
「おぬしは王府の役人にしては幼いな。まるで宦官のような姿ではないか」
「私は宦官です」
正使は寧温を上から下まで嘗《な》め回すように見てにやりとした。妹が卑猥な目で見られていると知った嗣勇は、京劇の口調で「浮気しちゃいやん」と膝をつねる。正使がとんでもない好色漢だと身を以て体験している兄は、妹にだけは絶対に手をつけさせたくなかった。嗣勇が寧温に目配せして逆らうなと訴えている。
――真鶴、銀子二千貫文払えばいいじゃないか。
「正使様、約款では琉球との取引は銀子五百貫文と決まっております。王府は五百貫文以上お支払いすることはできません。これ以上は無理でございます」
神経を逆撫《さかな》でされて正使は扇子を机に叩きつけた。
「いかに琉球が小国でも独立国だ。銀子二千貫文くらい捻出できるはずだ」
朝薫が通訳してくれと前に出る。
「畏れ多くも正使様。お恥ずかしながら我が国は財政が破綻しております。銀子五百貫文も借入金で揃えたのが実情でございます」
「では、薩摩に借金すればよいではないか。おまえたちの二重外交を知らぬと思っているのか」
清国も琉球が薩摩の間接支配を受けているのを快く思っていない。冊封国多しといえども、宗主国が二つあるのは琉球だけだ。
「それは詭弁《きべん》だ。我が国がかつて軍事介入されたとき、明《みん》国は助けてくれなかったじゃないか」
「私は清国の使者だ。旧王朝の明がしたことに責任は持てぬ」
朝薫は苛立ちを抑えられない。彼は自分が既に感情的になっていることを判断できていない。文書でならいくらでも冷静になれるのに、人間同士の外交の場になると我を忘れてしまう。
寧温が再び前に出た。
「我が国は清国を父と思い、王府の予算の多くを冊封使様に割り当てております。清国と同様のお暮らしができるよう、精一杯おもてなししております。そのようなお言葉を悲しく思います」
正使は隣にいる嗣勇が悲しそうな顔をして聞いていることに心を痛めた。
「発言を撤回しよう。しかし私にも体面というものがある。商人たちを連れてきた以上、損をさせるわけにはいかない。分割で二千貫文支払うというのはどうだ?」
――ほら真鶴。うんと言えよ。分割払いまで引き出したぞ。
「お引き受けできません。二千貫文を支払うと次回の冊封使様のご滞在にご負担をかけてしまうことになります。次の正使様へ顔向けできなくなるようなお約束はできません」
王府は既に次回の冊封使の歓待のための準備を始めている。豚や貝、米の調達など今から行わなければ琉球の生産能力では追いつかないのが実情だ。
寧温は涙目で訴えた。
「もし正使様が今回の我が国のもてなしを十分だと思っていただけたのなら、それは前回の冊封使様のご功徳《くどく》によるものでございます。前回の冊封使様は我が国の窮状を哀れんで、銀子百貫文を逆にお与えになりました。そのお金を私たちは大切に使い、今の正使様のおもてなしの準備に充《あ》てて心からお待ち申し上げておりました。なのに正使様は銀子二千貫文を異国から借金してでも払えと仰います。私は次回の冊封使様に何と詫びればよいのでしょう……」
さすがの正使も何も言い返せなかった。好色漢は情に脆《もろ》いという側面もある。寧温の必死の訴えに正使は胸を詰まらせた。側にいる虞美人に扮した嗣勇も「この衣装も売らなきゃ」と畳み掛ける。正使は憮然と咳払いした。
「わかった。約款通り銀子五百貫文でよい。商人たちには私から話そう……」
「ありがとうございます正使様……」
隣にいた朝薫は目を丸くした。
――寧温、すごい。話をまとめてしまった!
朝薫は寧温の手腕に舌を巻いた。自分は理を通そうとしていたが、寧温の言葉には情がありながら筋も通っている。人の心を打つときにはこの二つがなければならない。情理を備えた寧温の言葉に朝薫は教えられた気持ちだった。
正使は一本取られたと快活に笑う。
「なんと優秀な宦官だ。そなたなら紫禁城でも重用《ちょうよう》されようぞ」
王宮に戻った寧温に三司官衆も耳を疑った。絶対に支払わされると思っていた銀子二千貫文を正規の価格に戻してくれたとは、大手柄である。だが男の世界は素直に成功を評価しないものだ。三司官は憮然とこう告げただけだった。
「評定所筆者ならこれくらいの交渉は当たり前のことだ」
双方の主張を満たすために王宮には究極の頭脳集団の評定所筆者がいるのだ。しかし、この日を境に寧温が慣例やしきたりを理由にいじめられることはなくなった。
宮古島と八重山が間切倒に陥《おちい》ったのは冊封使の騒動が収まった後だ。あれほど対策を練ったというのに、予想以上の干魃で今年の年貢船は出せそうもないと告げられた。早急に検見使者を派遣して破綻した財政を建て直さなければならない。しかし検見使者を派遣する資金が王府にはなかった。
寧温は再び書院に呼び出されていた。王の隣には麻真譲が座っている。
「首里天加那志、麻親方、王府にはもう予算がありません」
王が麻親方を呼び寄せたのは、王府の金の流れを追うためだ。麻親方は三司官時代、王府の財政改革に着手しようと何度も試みた。だが、按司《あじ》や王子の貴族たちがこれを許さなかった。麻はこのままだと王府は破綻することをとっくに予見していた。だが不思議なことがある。麻が三司官だった頃よりも王府は貧しくなっているのに、役人たちの暮らしぶりは昔よりも贅沢だ。
これには何か絡繰《からくり》があるに違いないと踏んだ王は麻の進言通り寧温に白羽の矢を立てた。
「首里天加那志。宮古・八重山は王国の交通の要衝であり、重要な生産基盤です。他の間切倒を後回しにしても、すぐに対応しなければ国家は分断されてしまいます。どうかすぐに検見使者を派遣し王府は離島を見捨てないという希望を与えてください」
「派遣と対策にかかる費用はどれくらいだ?」
「銀子二千貫文もあれば取りあえず庶民を救済できます」
冊封使と銀子二千貫文の交渉を終えたばかりだというのに、また二千貫文の交渉を王と行う。懐は同じだからないことは承知していても、出さないと国家の物流網が途切れてしまう。
麻親方は弟子にこういうときはどうするのか教えてきたつもりだ。答えのないところに答えを生み出すのが評定所筆者だと何度も説いてきた。
「どうか私に破綻した財政を再建させてください」
麻親方がそれがどういうことになるのか覚悟はできているかと念を押す。
「寧温、財政再建は私が三司官だったときでも決して踏み入れられない聖域だった。予算に手をつけるとおまえは王宮の全てを敵に回すことになるぞ」
せっかく誰も寧温をいじめなくなったというのに、再び火をつけることになるが寧温は恐れなかった。
「私は好かれるために王宮に上がったわけではありません。それに『慣例破りの宦官』という異名を気に入っております」
「王の余でも庇えなくなるがそれでもやると申すか?」
「首里天加那志、そのために私を御内原に入れたのではありませんか? 御内原の恐ろしさに比べたら表世界の突き上げは怖くはありません」
尚育王は英断を下した。
「そなたに財政再建を任せる。三司官の決裁権のひとつを評定所筆者主取に託そう」
間切倒が頻発している今はぐずぐずしてはいられない。北殿に戻った寧温はすぐに財政改革に着手することにした。朝薫はついにこのときが来たと緊張している。
「いよいよ財政改革をやるんだね。ぼくが補佐してあげるから、寧温は何も恐れないで思う存分|大鉈《おおなた》を揮《ふ》るってくれ」
そう言いながら、朝薫はこれから王宮に吹き荒れる嵐を恐れてもいた。
王府を蝕《むしば》む借金体質は根本から治さないといけないことは朝薫の持論でもある。ただ、もし朝薫自身に財政改革を指揮しろと命じられたら正直、震えてしまうだろう。王宮に入ったばかりの自分が保身に走るわけがないと思いたいのに、この震えの正体は保身感情以外の何ものでもない。財政に手をつけたら、王宮の全ての人間は悲鳴をあげてしまう。そして改革に着手した者を決して許さないだろう。朝薫は現実を前にして、自分が恐れおののく男だと知った。
寧温は御物奉行が決裁した案件を全て評定所に持ってきた。最初の案件は聞得大君御殿の増築の申請書だ。
「何ですかこれは! 自宅の増築費に銀子三百貫文も要求するなんて!」
どういう金銭感覚をした王族神なのだろう。いくら聞得大君が宗教世界の最高権力者でもこんな大金は出せない。寧温は筆を執ると、否決の候文をしたためた。
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聞得大君加那志様御屋敷重修一件之儀ハ、国
情ニ相背大罪と存当候。上下万民は不及申、
町方并地下離々ニ至迄困窮之成行ハ存知之前
候。間切倒打続、百姓身売等塗炭之様体見及
候得ハ、御神意之程如何様可有之哉、可致得
心候。依之、御屋敷重修之儀ハ即被取止、上
下万民之成立井筈合之儀ニ可致専心と存候事。
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「聞得大君屋敷増築の事業は、わが国の治世に反する大罪である。万民はもとより、都市・農村・離島にいたるまで疲弊し、間切の倒産や百姓の身売りが頻発するこの状況を見れば、神の御意思がどこにあるか、熟慮すべきだ。ただちに事業を停止し、万民の暮らしを考えることこそが大事である」
寧温は御物奉行へ案件を差し戻した。次の案件は奥書院奉行からだ。奥書院は御内原を管轄する奉行所である。王妃から来年の自分のトゥシビーを盛大に行いたいとの申し出だった。要求金額は銀子百貫文。王妃もまた金銭感覚が狂った女だった。寧温は、これも却下した。
「寧温、せめて銀子十貫文くらいにしてあげないと王妃様の体面を潰してしまう……」
「何を仰るのですか。間切倒の農民の苦しみを分かち合うのが王妃様の務めです」
今度は女官大勢頭部からの案件だ。御内原の女官たちが里帰りするときのお土産の予算だ。あのボス猿は今まで自分名義の見舞金を王府の予算から出していたらしい。
「却下。女官たちには毎月俸禄を支払っています」
「これはどうする?」
朝薫がおずおずと差し出したのは表十五人衆の接待費だ。表向きは会議ということになっているが、実際は辻の遊郭《ゆうかく》で豪遊する予算だ。
「会議は北殿でやればよろしい。全額却下します」
国母の実家の清明祭の予算も筋違いだ。実家の金で盛大にやればいい。側室の衣装代も却下。どうせすぐに脱ぐのだから過剰包装だ。門番のお茶代も却下。銭蔵《ぜにくら》奉行の泡盛も生産縮小。木奉行と石奉行は統合して新たに普請奉行を設け一人にする。漢文組立役は廃止。これからは自分で書けばいい。寧温の大鉈は王宮の構造改革でもあった。
すぐに悲鳴は王宮中に轟《とどろ》いた。
「私のトゥシビーが却下されただと? 女官大勢頭部はやったのになぜ王妃の私ができぬのだ」
「あの宦官め。遊郭で女を耕すなら、鍬《くわ》を持って土を耕すのが生産的だとぬかしやがった」
「私からの見舞金が出せぬのか。女官たちを手ぶらで里に帰せというのか」
「首里天加那志は私の裸に用があるから風呂敷はいらないですって」
「清明祭は実家の金で営めとは無礼な」
そして口を揃えて怒鳴った。
「あの宦官を王宮から追い出せ!」
久慶門の多嘉良も半べそだ。
「寧温、儂から酒を奪うな。ううっ、門番の唯一の楽しみだったのに……」
財政改革とはこういうことだ。憎悪と怨嗟《えんさ》の嵐を呼び寄せた王宮は、これが評定所筆者主取がやったと知ると大量の上訴文を王に送りつけた。
「首里天加那志、王権でこれらの上訴文を棄却なさいませ」
麻親方が書院の王に進言する。金の流れを知るためには一度元栓を締めなければならない。かつて麻が三司官だったときには抵抗勢力の強硬な反発に遭い、これができなかった。もし元栓を締めてもまだ潤《うるお》っている部署があるとすれば、そこが一番怪しい。
「しかしここまでやるとはな……」
と麻親方も寧温のとどまることを知らない大鉈《おおなた》に呆れてもいた。若さの特権はしがらみのなさだ。そして若さゆえの自信がなければ、恐れに負けてしまう。才気|煥発《かんぱつ》な愛弟子《まなでし》は信念も自信も手腕も備えている。寧温はこれで王宮から完全に孤立した。それでも手を緩めてはならない。なによりも大国から琉球の足元を見られないために。
「首里天加那志、この国はいつでも嵐の海を渡っていかねばなりません。決して沈まない船になるためにも借金の積み荷は捨てねばなりません」
わかった、と呟《つぶや》いた王は上訴文を全て棄却した。
一方、自宅の増築を却下された聞得大君は、寧温が却下した候文を読んで肩を震わせていた。
「自宅の増築は我が国の治世に反する大罪じゃと? 神の御意思がどこにあるのか熟慮すべきじゃと? 誰がこの候文を書いたのじゃ!」
「評定所筆者主取の孫寧温でございます」
御物奉行の男は、自分の決裁を覆した寧温を絶対に許さないと唇を噛んだ。
「御内原に出入りしているあの宦官か?」
いつか御内原で寧温を見たとき、なぜか聞得大君は不安を覚えた。人の心を見通すことのできる聞得大君の霊力を以てしても、寧温のことはわからなかった。そこに存在しているようでいないような気がして、実体が見えず一瞬、幽霊かと思ったほどだった。聞けば寧温は王府が初めて登用した宦官だという。宦官とはそういうものなのかと聞得大君は無理に納得しようとした。
「恐れ知らずの宦官が王宮にいることは知っておったが、まさか評定所筆者だったとはな。なんとしてでも増築の申請書を通すのじゃ」
「評定所筆者主取の決裁は覆りません」
今まで財務担当の御物奉行の案文が却下されることなどなかった。評定所筆者は主に政策を行う集団で、各奉行と調整するのが仕事だ。細かい予算のことに口出しするのは越権行為である。
「おのれ、寧温。妾はなんとしても御殿を増築してみせるぞ。海運業者をすぐに呼ぶのじゃ」
聞得大君には切り札があった。この時代の富豪たちはすべて海運業者である。馬艦船《マーランブニ》と呼ばれる清国式のジャンク船を所有する商人たちだ。海運業者の利益率は破格だ。いわゆる損保契約を結ぶために、座礁《ざしょう》せず無事積み荷を陸揚げできれば仕入れ値の倍で売ることができる。名門士族たちはこぞって海運業者に名義を貸し、役員に名を連ねていた。海運業者たちは箔《はく》を付けるのと同時に王府への太いパイプを持つことで更に栄華を極めるという構図だ。
また海運業者たちは船の航海安全を祈願するために弁財天を崇め、航海があるたびに盛大な祈願祭を行っていた。弁財天を祀る理由は琉球特有のオナリ信仰と関わりがある。船乗りの男たちは姉か妹がオナリ神となって自分を守護すると信じていた。船乗りたちはオナリ神になった姉か妹の髪を懐紙に包みお守りとしたものだ。弁財天は女性の神であり、オナリ神に通じる。この弁財天を管轄するのは、王のオナリ神である聞得大君だ。
聞得大君御殿に呼び出された海運業者はほくほく顔だった。
「聞得大君加那志が私どもの弁財天を祈願してくれるとは有り難いことでございます」
「苦しうない。航海を安寧にするのは人として当然のことじゃ。これも聞得大君の役目である。そなたの商売もますます発展するであろう」
聞得大君が自分たちの弁財天を直接拝んでくれるということは、商売の信用が高まるということでもある。どの業者も腕のいい船乗りを確保するのに頭を痛めている。命懸けの航海に不安材料は少ない方がいい。王のオナリ神である聞得大君が祈願している業者だと知れば、船乗りたちは殺到するだろう。
「そこでそなたに頼みがある。妾はこのたび聞得大君御殿を増築したいと思っておる。ついてはそなたから銀子一千貫文を借り入れたいのじゃ」
「お安い御用でございます。聞得大君加那志のお心を休める御殿の増築のお力になれること、心から嬉しく思います」
[#ここから2字下げ]
証 文
銀子壱千貫文 但三割利
右聞得大君御殿重修入用付慥致借上候。返弁
之儀者知念間切従知行高之扶持米井御殿家禄
之内毎年五拾貫文宛弍拾五年割賦を以致返済
積候。利銭相当之高者其方守護弁財天之御高
恩被得様昼夜此方ニ而祈願之働可致積候。為
後証如斯御座候事。
丑八月
聞得大君加那志
参 西村我謝筑登之親雲上
[#ここで字下げ終わり]
そう言って海運業者は聞得大君と銀子一千貫文貸借の証文を交わした。この証文がいずれ聞得大君を破滅へと導くことになろうとは、彼女の霊力を以てしてもわからないことだった。
財政構造改革を終えた寧温は薩摩の琉球館に宛てた上申書を作成した。王府からの借入金の申し入れ書である。またいつもの借金の申し入れだと薩摩から呆れられないためにも、寧温は最初に王府の改革から行った。金を無心する前に、まず自分たちの身を切らないと薩摩を納得させられない。あれだけ大鉈を振るい最小限の予算を編成しても、王府にはまだ金が足りなかった。その不足分を嘆願する。
借入金の申し入れは同時に琉球への薩摩の介入を強くする諸刃《もろは》の剣でもある。寧温は硯《すずり》に筆をつけて呼吸を整えた。まるで科試のときのようだとかつての自分を思い出した。科試と違うのは、これを書けば現実に反応する相手がいるということだ。薩摩と琉球のバランスを考えると下手に出すぎるのも危険だった。
最初の一文字を書く前に、頭の中で何度も推敲《すいこう》を重ねた。
――畏れながら申し上げます、から始めよう。
筆がしっくりこない気がして、朝薫から貰った筆を握り直した。これなら上手く書けそうだ。
「畏れながら嘆願いたします。薩摩の財政が厳しいことは承知しておりますが、琉球においては凶作が続き、台風の襲来も重なったために、人民の生活は困窮しております」
[#ここから2字下げ]
乍恐奉訴候。御国許蔵方不如意之儀ニ付而ハ
於当地も存知之前ニハ候得共、当国凶年打続
候上ニ台風ケ間敷儀連々と起候故、万民之衰
微難尽筆舌成行ニ至り候。
[#ここで字下げ終わり]
「そのうえに、先年冊封使が訪れ、その対応に出費が重なり、王府財政は逼迫しております。この状況を打開するためには、薩摩の慈悲に頼るしかなく、銀二千貫文を拝借させて下さい。琉球がどのような道を辿るべきかという課題は、薩摩にとっても他人事ではないと思いますので、借銀の件についてご高配下さい」
[#ここから2字下げ]
其上先年御冠船致来着、唐之按司御取合向大
粧成出費相重、最早当国蔵方及払底事ニ御座
候。此上ハ御国許之御慈悲奉乞外手段無之、
銀弐千貫文屹と御用立有之度と願上次第ニ御
座候。琉球之成行如何様可有之哉之深謀ハ御
国許迚も御同心と被存事候故、此儀被蒙御高
恩度、伏奉訴者也。
[#ここで字下げ終わり]
清国と日本との二重外交を続ける琉球にはそれぞれの国に出先機関が設けられている。清国の福州《ふくしゅう》にある琉球館、そして薩摩にもまた琉球館があった。これが現在の大使館の役割を果たしていた。琉球にもまた薩摩の出先機関が設けられている。那覇港近くにある御仮屋《ウカリヤ》と呼ばれる屋敷がそうだ。天使館に清国人がいるように、御仮屋には日本人がいる。
薩摩への借入金の申し入れを携えた寧温は御仮屋に赴《おもむ》いた。これを薩摩の琉球館に託し、藩主の元に届けてもらうためだ。
日本庭園を設《しつら》えた御仮屋はちょっとした異国だった。庭では武士が剣の稽古に勤しんでいる。琉球ではとっくに廃《すた》れた文化だった。
「王府の孫寧温でございます。琉球国王から薩摩藩主・島津|斉興《なりおき》殿への書簡を預かっております」
御仮屋の武士たちは寧温が流暢な日本語を話すのに驚いた。琉球語|訛《なまり》の滑稽な日本語に慣れていた薩摩の役人たちは、わざと日本語を喋らせ失笑するのが常だ。
「おまえは本当に琉球人か?」
と琉球語で尋ねた役人のひどい日本語訛も同じくらい滑稽だということをこの男は知っているのだろうか。御仮屋は薩摩にとっても非常に重要な情報収集施設だ。鎖国している日本において国際情勢を把握するのは外国である琉球を支配している薩摩だけの特権である。福州の琉球館からの情報は逐次この御仮屋に入ってくることになっていた。この情報力が幕府に対して絶大な影響を与えることを薩摩は知っている。
御仮屋では常に王府の役人と薩摩の役人との接触がある。
「どうせまた借金の申し入れだろう。おまえたちの経済感覚はどうなっているんだ?」
「申し訳ございません。私ども王府はこのたび抜本的な財政構造改革を行いました。そのご報告を含めて薩摩藩主殿のご厚情を仰ぎたい所存でございます」
「十二万石程度の琉球が独立国であることに無理があるのだ。我らは六十万石なのに幕府の一藩にすぎん。日本はもっと大きな国なのだ。琉球は頭を垂れて併合されるべきだと思わぬか」
朝薫が鼻を真っ赤にして食ってかかる。
「国家は大きさではなく意志であるべきだ。琉球は貧しくても独立を望む」
「それが金を無心する者の態度か。もっと卑屈になれ」
「琉球が貧しくなったのは薩摩が軍事介入したからだ!」
「おやめください朝薫兄さん。御仮屋の役人と衝突すると面倒なことになります」
「しかし寧温。こんな刀を振り回す野蛮人に侮辱されては――」
寧温に袖を引っ張られて朝薫は少し冷静になった。御仮屋に喧嘩をしにきたわけではない。薩摩の役人も王府の役人と衝突するなと命じられていた。
「薩摩藩主宛ての書簡ならこれからすぐに船が出るところだ。直接港に持っていくのが早いぞ」
と役人は憮然とした態度でふたりを追い返した。
那覇港に向かう途中、寧温は三重城《ミーグスク》の頂《いただき》で不思議な人影を見つけた。まるで芍薬《しゃくやく》の花のように上半身をふわりと浮かせた佇まいの男が立っている。あんなに軽やかに立てる男は琉球人ではない。琉球人は下半身に重心をかけるような立ち姿だからだ。寧温はなぜか彼の後ろ姿に惹かれて三重城の頂に登った。
微《かす》かに少年の面影を残す青年は薩摩の役人なのに帯刀していなかった。刀の代わりに筆を携え、朝の那覇港の景色を眺めている。慶良間《けらま》諸島がいつになく青く見える様に感激した青年は筆を走らせた。
あけ雲とつれて慶良間はいならで
あがり太陽《てだ》をがで那覇の港
ふと詠《よ》まれた琉歌に寧温は絵画的世界を感じた。なんと卓越した風景描写なのだろう。今ここにいる場所を言葉で切り取ってしまったような完璧な歌だ。寧温が解釈しながら背後から近づく。
「夜明けの雲が湧き出でてくると、慶良間の島々が雲の隙間から並んで見える。荘厳な日の出を浴びた那覇港は実に雄大な眺めである」
寧温の声に青年が振り返る。朝日を浴びた青年は寧温を見つけて照れたように笑った。
「いやあお恥ずかしい。聞かれていましたか」
「琉歌が詠めるのですね」
「まだ習いたての身なのですよ」
「こんな素晴らしい琉歌は初めて聞きました。本当に景色が言葉に変わったようです」
この琉歌を聞いた後は、景色が違って見えた。もう那覇港は彼の言葉通りにしか見えない。彼は短冊の面に雲と慶良間と朝日を絶妙な構図で配置してしまった。これだけの琉歌を日本人が詠んでしまうことが驚きだった。
「褒めすぎです。王府の役人のお方ですか?」
「評定所筆者主取の孫寧温と申します。あの……」
「私は御仮屋の浅倉雅博《あさくらまさひろ》と申します」
なぜ彼の名を聞くのに一瞬|躊躇《ためら》ったのか寧温にもわからない。薩摩の役人との交流なんて業務のうちのはずなのに。
「雅博殿はなぜ刀を持っていないのですか?」
「ここは武器のない国です。なぜ刀を持たなくてはいけないのですか?」
逆に質問されて寧温は困ってしまう。帯刀しない薩摩の役人なんて初めて会った。普通はこれみよがしに力を見せつけてくるものだ。彼は自分たちと同じように刀の代わりに筆を持つ士族だ。寧温は今自分がどんな顔をしているのか知りたくなかった。
「孫親雲上、どうかされましたか?」
雅博に顔を覗かれたとき裸を見られた気がして反射的に目を逸《そ》らした。自分は一体どうしたのだろう。さっきから体が思うように動かない。自分はこんなに不自由な人間だったのか。それどころか胸の中が疼《うず》いて息が切れそうだ。心臓が孵《かえ》ったばかりの雛《ひな》のように鳴いている。雛の声に耳を澄ますとしきりに、
『真鶴、真鶴、真鶴』
と母親を探すように鳴いていた。聞きたくない名前に寧温は耳を塞ぎたくなった。瞳孔を大きく開いて青年役人を見つめる自分が、どんなにみっともない姿なのかよくわかっている。でも目を逸《そ》らすことができない。
「そんなに私の歌を気に入っていただけたのなら、どうぞこれをお持ちください」
雅博が短冊を寧温の襟元に挿した。指が微かに胸元に触れた瞬間、雛が一斉に鳴きわめく。雅博の爽《さわ》やかな笑顔に寧温は魅せられてしまった。
――私、どうしよう……。
「寧温、急げ。船が出るぞーっ!」
朝薫が三重城にいる寧温を迎えにきて、はっと息を呑んだ。頂に立つ二人がまるで恋人同士のように見えたからだ。青年役人が寧温に短冊を見せて琉歌の指導を受けている。伏し目がちに笑った寧温の表情を見て、朝薫もまた胸を絞られるような疼きを覚えた。
「まさか、ぼくが……寧温を。まさか――?」
咄嗟に背中を向けて否定しようとする。だが朝薫は自分の本当の気持ちに気づいてしまった。なぜ自分はいつも寧温と一緒にいたいのか。その答えがこの胸の疼きだ。
思春期の盛りを迎えたふたりが初めて理性を超えた感情の芽生えに戸惑う。
「ぼくが寧温に恋をしている――?」
「私が薩摩の侍に恋をするなんて――!」
実ることのない二つの恋が王宮の片隅に芽吹いた。
[#改ページ]
第四章 琉球の騎士道
[#地から2字上げ]Friday, August 14th
Strong gales, N.N.W., and frequent hard squalls with a very heavy sea.
5h.30m. more moderate; sea still running high, and the ship rolled heavily; third reef of main-topsail, and reef of the foresail out.
10h. course per log allowing one point lee way according to Capt. Grainger's opinion is S.66°30'. E.121miles; lat.D.R.26°10'N.,long.127°2'E.
[八月十四日 金曜日
北北西の大強風。激しいスコールが頻繁にあり非常に高い波を伴う。
五時三十分。天候はもっと穏やかになる。波は依然として高く突進してきて、船は激しく揺れ動く。大檣《たいしょう》の中檣柱の第三縮帆部と前檣帆の縮帆部を外す。十時。グレンジャー船長の意見をいれて、航路を一ポイントの風圧を差し引いて南六六度三〇分東へとり一二一マイルで航行。北緯二六度一〇分、東経一二七度二分]
琉球の西沖を航行していた英国東インド会社船籍インディアン・オーク号の一等航海士ボーマン大尉が航海日誌をつけていた。折しも猛烈な暴風雨に見舞われ、船は風と波まかせの航行に委《ゆだ》ねられていた。甲板《かんぱん》に雨と波が混ざり汽水《きすい》になった濁流が押し寄せる。雨は船を上から押しつけ、波は船底を蹴り上げ、風は舷側《げんそく》を左右に激しく揺さぶった。
平底のインク瓶が前後左右に走り回り、やがて机の上から滑り落ちて青いインクを床に撒《ま》き散らした。船は嵐の中を漂流していた。船長が採るべき道は近くの浜へ漂着することだけだった。もっともそれは運任せでしかなかったが。
船の現在地は北緯二六度一〇分、東経一二七度二分。北西および西北西の風。確かこの海域には琉球があるはずだと生き残る僅《わず》かな希望を見いだした。
「キャプテン、珊瑚礁《さんごしょう》で海が変色しています。近くに陸地があるものと思われます」
三等航海士代理が船橋に訪れる。一瞬だが、風雨の隙間から陸地が微《かす》かに見えた。希望が見えかけた直後、インディアン・オーク号は岩礁《がんしょう》に衝突し左舷を大きく傾かせた。船長は命じた。
「メインマストを切り倒せ。さもなくば船が転覆するぞ!」
積み荷の多くを海中に落とし、任務は頓挫《とんざ》した。あとは船員の命が助かるのを祈るだけだ。しかし雨と風は一向に収まる気配はない。救命ボートでの脱出は嵐が収まってからだ。その間、乗組員たちは船の浸水を気にしながらも着々と上陸へと準備を進めていた。ボーマン大尉はペンに残った僅かなインクでこの船での最後の思考をしたためた。
On the ship's first taking the ground we lost our larboard-quarter boat, which was stove and washed on shore, (by which we observed the tide was falling;) there was no hope of saving our lives but by holding the wreck together, and getting a line on the shore....
[船が最初に座礁《ざしょう》したとき左舷船尾のボートを失ったが、それは壊れて岸に打ち寄せられていた(このことで潮が引いていることがわかった)。もはや我々の命を救う望みは、この難破船をしっかり確保して海岸を調べてみることしかない……]
同じ頃、王宮もまた嵐の中にあった。高潮のようにうねった激しい風雨が王宮に吹き荒れていた。城壁に打ちつける雨は岩を削る荒波のようだ。霧の中でもぼうっと赤く浮かぶ正殿さえも、灰色の雨と風の前では存在すら掻《か》き消されていた。防塁のように何重にも築いた城壁ですら風雨を易々《やすやす》と侵入させてしまう。
こんな嵐の日でも王宮は機能する。身体が麻痺した国土でも大脳だけは黙々と思考し続け、決して止まることはない。評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》たちは嵐が去った後の災害対策を嵐の最中に練らなければならないからだ。たとえ他の奉行所が機能を失っても、政策集団の評定所筆者だけは生きている限り、王府の次の手を模索し続ける。
久慶門《きゅうけいもん》の扉が激しく叩かれた。折れた木の枝が扉に打ちつけているのかと門番たちは耳を貸さない。さっきから耳をつんざく風のせいで自分の声すら掻き消されてしまっていた。また久慶門の扉が鳴る。風の中に微かに「開門。開門」と細い声がする。多嘉良《たから》が閂《かんぬき》を外した瞬間、風と雨が扉を蹴破った。そして嵐の奥から雨に濡れた少年役人が現れた。
「評定所筆者の孫寧温《そんねいおん》です。北殿は開いておりますか?」
「寧温。こんな嵐の中をひとりで来るなんて無茶だ。北殿は宿直の喜舎場親雲上《きしゃばペーチン》しかいないぞ」
「すぐに大風対策を練らねば農民たちが苦しみます。私が休んでいる場合ではありません」
折れた枝が飛んできて寧温の背中にぶつかった。途端、寧温は風に足下を掬《すく》われて石段から滑り落ちてしまう。
「なんでこんな無茶をするんだか。おい、寧温しっかりしろ」
簪《かんざし》を飛ばされた寧温は髪を乱していた。髪を落とした寧温の姿に多嘉良は言葉を失ってしまった。襟ぐりを大きくはだけてこちらを見る姿は美少年とか宦官《かんがん》とか花当《はなあたい》などで片づくものではない。多嘉良はもっと単純な言葉しか思い浮かばなかった。しかしそう思うと無性に罪悪感に苛《さいな》まれてしまう。そんな多嘉良の目に気づいたのか、寧温は咄嗟に襟を両手で掴んで身を強《こわ》ばらせた。
「多嘉良殿、お見苦しい姿をお見せして申し訳ない……」
寧温は頬を赤らめて王宮の中に入った。いくら強固な意志で自分の姿を隠しても、風と雨はいとも容易《たやす》く自分の素性を暴《あば》いてしまう。男物の衣装、男髪、男の言葉、男の振るまい、男の気持ち……。男になるために表象の全てを覆ってみたものの、それらは風の前のひとひらの葉にすぎない。全てが吹き飛ばされてしまったら、そこには真鶴《まづる》という捨てた性が現れる。そして真鶴が表の世界に露《あらわ》になったとき、それは破滅を意味した。だから風の前でも雨の中でも決して崩れない姿になりたい。内側から楔《くさび》を打ちつけて決して壊れない体になりたい。
この前、三重城《ミーグスク》で会った薩摩の青年武士は、心の中を嵐にした。これからはどんなことがあっても、雅博《まさひろ》の前であんな無防備な表情をしてはいけない。恋は内に秘めたつもりでも、第三者の目にはっきりと映るものだ。たまたま誰にも見られなかったからよかったものの、剥《む》き出しの恋情は破滅を招く。心の中にいる真鶴は、いつでも隙を見て自分の体を奪い返そうと企《たくら》んでいるように思えた。真鶴は死んだはずなのに、まだ生きている。いや殺し続けなければいつでも甦《よみがえ》る危険な亡者《もうじゃ》だ。寧温は御仮屋《ウカリヤ》に近づくのを意識的に避けた。
「私は宦官。そして王宮の評定所筆者。異国の役人と距離を置くのは当然のこと」
今まで無意識にできたはずの振る舞いも、こうやって意識して楔《くさび》を打ちつけなければならない。そうしなければならないのは自分の志の弱さのような気がして恥ずかしかった。この心を放置すればやがて死に至る毒になる。だから今のうちに心を制御する訓練をしておかねば。もっともっと、がんじがらめに心を縛って評定所筆者の論理だけで生きていく機械になってしまいたかった。真鶴がこの世にいられる場所はどこにもないことを言い聞かせ、先に真鶴に絶望してもらう。これは寧温と真鶴の根比べだ。
「恋なんて一時の気の迷い。私には男として生きるべき道がある」
北殿の中は暴風のせいで耳が圧迫される気圧差が生じていた。宿直の朝薫《ちょうくん》は大風対策の草稿を残してどこかに行ってしまったようだった。草稿の生真面目な文字はいかにも朝薫らしい。途中で退席するのを躊躇《ためら》ったのだろう。きちんと文書をまとめ終えて席を立った様子が窺《うかが》われた。
広間に誰もいないのを確認した寧温は濡れた衣装と髪を整えようとした。
「あ、簪がない……」
久慶門の石段で転んだとき、簪を拾うのを忘れてしまった。予備の簪なんて持っていない。すると温かい手が髪に添えられた。
「ぼくの簪を使うといい。趣味で集めていたものだよ」
声に振り返ると、朝薫が熱い眼差《まなざ》しで寧温を見つめていた。
――寧温、きみはどうしてぼくの前にこんな姿で現れるんだ……。
寧温の漆《うるし》のような光沢の髪が甘い香りを放っている。こんな見事な黒髪を持つ者を朝薫は知らない。指に絡まる髪は滑るように集まり、一輪の花びらのように纏《まと》まる。まるで精緻な工芸品を見ているような気分になる。男の髪がここまで美を主張するものだろうか。
朝薫の指がうなじにふれた瞬間、寧温は我に返った。
「朝薫兄さん、私、自分で結えますので結構です……」
「いいから、ぼくが結ってあげるよ」
朝薫は湿った髪を櫛《くし》でときながら、自分の気持ちを確かめていた。男同士でこういうことをするのはよくない、と理性でわかってはいる。しかし指は欲するままに動いていく。朝薫は自分の心に芽生えた想いをどうすれば殺すことができるのか、ずっと苦しんでいた。女装をした花当がどんなに美形でも心を動かされることはなかったのに、どうして同僚の寧温に心を動かされてしまったのだろう。もしかして自分が同性愛者なのではとも思った。あり得ない。よくないのではなく、そうあってはならないのだ。喜舎場家の期待を背負っている自分が同性愛に耽《ふけ》って結婚もせず家を潰《つぶ》すわけにはいかない。
今まで朝薫は普通の男だと思っていた。その証拠なら記憶の中にいくらでも見つけられた。女性を避ける理由がひとつもないのだ。いやむしろ求めている。反対に男性を避ける生理的要素ならすぐに見つけられる。たとえば王宮一の美少年の嗣勇《しゆう》、美形の詩人・儀間《ぎま》親雲上。彼らを嫌いではないが、求めてなどいない。だから自分の今の気持ちがわからない。宦官とはかくも心をかき乱すものなのか、性を捨てた者がこうも艶《なま》めかしい感情を呼び起こすものなのか。紫禁城《しきんじょう》は、寧温みたいな宦官たちで溢れているのだろうか。そうならないための制度のはずなのに。
――こんなことをするのはこれが最後だ。
そう言い聞かせることで朝薫は初めて罪悪感から解き放たれた。寧温のこの髪があと三寸長かったら、きっと指は豪華な女髪に結っただろう。うなじを強調するようにつとをふっくらと結い上げ、大輪の黒百合を咲かせたに違いない。だが寧温の髪は男髪にしかならない長さだった。これが禁じられた想いであることは十分にわかっている。ただ今はこの嵐に隠れて密やかに髪と戯れたいだけだ。
「朝薫兄さん?」
櫛で髪をすいてばかりいる朝薫に、寧温が怪訝《けげん》そうに声をかける。
――寧温、こんなぼくを許してくれ。ぼくは、ぼくは、最低な男だ。
目頭《めがしら》がじんと熱くなって零《こぼ》れた涙が、結い上げる一房の髪に落ちた。
簪で十字に固く髪を止めたとき、朝薫は嵐の中の夢から覚めた。
「喜舎場親雲上、お手を煩《わずら》わせました。簪はありがたく使わせてもらいます」
寧温が伏し目がちに礼を言う。嵐の音が大広間の中で猛々《たけだけ》しく響いていた。我に返った朝薫はしばし置いていた罪悪感をまた懐《ふところ》に戻して、苦しそうに顔を背《そむ》けた。
寧温はさっそくこの嵐の収まった後の対策を考えた。
「この嵐は農作物に甚大な被害をもたらすはずです。間切倒《まぎりだおれ》を予想しておかないと、年貢の徴収に影響を及ぼします。検者《けんじゃ》を速やかに派遣し、被害を把握することが先決です」
「検者や検見使者《けみししゃ》は宮古・八重山《やえやま》で手一杯だ」
「では評定所筆者が検者を兼ねましょう。私が中部を巡りますので、朝薫兄さんは南部を担当してください。嵐に予想外の事態はつき物。間切倒は所詮、想定内のことです。本当に恐ろしいのは予想外のことなのです」
「わかった。昨夜書いた草稿を清書して明日にでも三司官《さんしかん》殿に決裁してもらおう」
「私が今決裁します。さっき読みましたがこれで十分です。こういうのは迅速なほどよいのです」
「また三司官殿を怒らせることになるが、いいのか?」
寧温の行った王府の財政構造改革は、油の搾《しぼ》りかすからさらに油を搾るようなものだった。王府の主だった行事はもちろん、役人の俸禄、人員の大量削減まで行った。形式ばった表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》は実質五人で動くように割り当てられ、残り十人は自宅待機だ。王宮の役人たちは派閥を超え一致団結して寧温を追い出そうと画策している。今や寧温の味方は朝薫しかいなかった。
「私を王宮から追い出せば再び贅沢ができると考えるのは甘いです。最小限の予算で効率的に動くことを知った王府は、簡単には元に戻らないものです。組織を解体するのは手強いですが、再編して動き出した組織は意志を持ちます。私が手がけたのは腐敗し、意志を失った組織に再び意志を植え付けること。そこに根付いた意志をひっくり返すのはもう私でも不可能です」
「そこが寧温のすごいところだ。自分以上のものを生み出してしまった」
実際、不満は尽きぬほどあるが、王府の機能は維持できている。今までの予算がなぜこんなに必要だったのか疑問を持ち始めた者も現れだした。
「私がやったのは琉球の意志を取り戻しただけです。国家が滅びては贅沢もできませんから。これからは琉球が王府を監視します。王府の上部構造に琉球という国家意志があることを忘れてはなりません」
寧温は筆を執りながら続ける。
「琉球と王府は必ずしも一体ではありません。もし琉球という国家意志が王府をいらないと見捨てるときが来れば、それに従うべきです」
「それは国が滅びてもいいということか? とんでもないことだ」
「それでも人は生き続けます。国がなくても大地にはいつでも人がいるのです」
「それは統一王朝以前の豪族社会じゃないか」
「琉球という国家意志ですら、最上位ではありません。国家意志が滅んでも国土は存続します。国土が新しい意志を求めるのであれば、国家意志ですら従うべきです」
「じゃあぼくたちはお役ご免だ。ははは」
朝薫は自嘲気味に笑った。国を豊かにするために必死で働いているのに、国土が朝薫を見捨てるときが来るかもしれないなんて、考えたくもない。
「だから私たちは常に国土に問い続けなければなりません。琉球という国家でいいのか? 王国という体制でいいのか?」
朝薫はこんなとき、寧温が雲の上の世界にいるように見える。こんな理論を紡ぐことは王でも不可能だ。いや人間ですらないのかもしれない。空と大地と時間を自由に舞う龍の視点。龍が語る人の歴史。国家の営み。それら全てを支える悠久なる国土の時間――。
「寧温、ひとつ聞きたい。国土は、ぼくたち王府を、琉球という国家意志を望んでいるのか?」
「わかりません。もし望んでいないとしても、国土は私たちが今ここにいる瞬間を忘れはしないものです。たとえ国土を傷《いた》めつける体制が現れても、国土はやはり彼らがいた瞬間を忘れはしないのです」
「ぼくはこの体制がもっとも国土に相応《ふさわ》しいと信じている。だから科試《こうし》を受けて評定所筆者になった。寧温だってそうだろう?」
「もちろんです。でも国土が私に去れと言えば、私は従おうと思います。私の意志とは別に。だから私にとって一番怖いのは王府のしがらみや人間関係ではなく、国土と私の関係なのです」
さっき髪を結ってあげた男は、朝薫の理解を超えた存在だ。だからますます惹《ひ》かれる。その圧倒的な知性、恐れ知らずの行政手腕、冊封使《さっぽうし》さえ舌を巻く交渉能力、踏まれても疎《うと》まれても必ず立ち上がる強固な意志、もし寧温が屈強な肉体の持ち主ならば、それに依拠《いきょ》して仰ぎ見ていればいい。生まれながらに強い人間だと。しかし寧温の姿は違う。可憐で触れれば落ちてしまいそうな首、踊るような優雅な所作、そして側にいなくても思い出せばいつでも胸に満たされる甘い香り、こんな華奢《きゃしゃ》な体にこれほどの意志が宿っているようには見えない。そしてこれら全てを含めて寧温という存在の魅力なのだ。想いを寄せるな、という方が無理な話だ。
せめて尊敬させてくれるだけの存在であってほしかった、と朝薫は思う。でも尊敬だけでは足りない。いっそ劣等感に苛まれる人生の方がまだ苦しみも半分ですんだはずだった。だが劣等感なんて微塵も湧いてこない。せめて目を瞑《つむ》っているから、何も話さないから、風のように透明になってずっと側にいたかった。
朝薫は心の中で琉歌をしたためた。
花髪《はなからじ》載してぃ女着物やりば
思蔵《んぞ》と仲なする我肝《わぎむ》なゆん
(あなたの髪を美しく結い上げて女の衣装を身にまとわせたら、きっとぼくはあなたに想いを告げただろう。なのにどうしてあなたは男の姿なのですか)
嵐が去り、珊瑚礁が煌《きら》めきを取り戻したころ、北谷《ちゃたん》沖に見慣れない船影が出現した。座礁した英国船インディアン・オーク号だ。嵐の中を漂流してきた船員たちは疲労|困憊《こんぱい》していた。数週間ぶりに揺れない足場を踏みしめた船員たちは、保っていた気力の綱を緩めることにした。グレンジャー船長は全員無事であることを確認して、やっと我が身を取り戻したように呟《つぶや》く。
「我々は生きている……。生きている!」
振り返った海にはさっきまで身を寄せていたインディアン・オーク号の亡骸《なきがら》とその残骸が浮かんでいた。大破した船がシェルターの役目を終えて波に洗われている。東シナ海を漂流してきた海程は、死線の綱渡りだったとしか言いようがない。暴れ馬の背中に数週間乗り続けたような心地。船員たちの幸運を全て使い果たした末の生還。船長は無事であることがわかった途端、様々な言葉で記憶を紡《つむ》いでいた。救命ボートに乗るまでは口をつくのは「悪夢だ」という言葉だけだったのに。
「船長、ここは異国です。まだ助かったわけではありません」
と緊張を解かないのは士官のボーマン大尉だ。銃が使いものにならないと確認した大尉は、ナイフを翳《かざ》し鋭い眼光で辺りを見渡した。七つの海を支配する英国人なら世界がどれほど野蛮で凶暴なものか知っている。本当に恐ろしいのは遭難ではなく上陸した後に起こる二次被害だ。ジャワでもマレーでも東インド会社の船籍が座礁するや、原住民たちの襲撃を受け船員たちが殺されてしまうものだった。浜で野営したいが、負傷者の中には速やかに手当をしなければならない者も多い。それに新鮮な水と食料が不足していた。ほどなく出会うであろう原住民たちとの接触が本当の生死を決めてしまう。
「キャプテン、注意してください。一八一六年にガスパー海峡で座礁した英国船アルセスト号は、マレー人たちの襲撃を受けました。朝鮮ではオランダ船の船員が二十年近く奴隷にされました。漂流民に人権はないのです」
ボーマン大尉が「原住民」という言葉を口にするたびに彼らが滑稽に見えてしまう。半裸でパジャマのリンネルズボンを穿《は》いている彼らの方がずっと野蛮で非文明的な姿だったからだ。
「灯りが見えます。原住民との接触に注意されたし」
ボーマン大尉の異文化コミュニケーションはすこぶる明快だった。相手が友好的か敵対的かは、目の表情でわかる。目が怯《おび》えていれば防衛行動に出る可能性が高い。舐《な》めるような好奇心の眼差しも文明度が低い証拠だ。アニミズム的|生《い》け贄《にえ》にされることがある。そして警戒心の強い目つきに対しては、直ちにこちらから攻撃しなければならない。この三つのうち何が出るかで生死が確定する。
「人影が近づいてきます。全員隠れろ」
深い紫色の空がしんしんと頭上に落ちてくる夕刻、ボーマン大尉はこの島の原住民と接触した。原住民の男はボーマンを見るや、即座に深い哀れみの眼差しを浮かべた。そして着ていた外套を脱ぎ、ボーマンの冷えた肩にかけてやった。何をされたのかボーマン自身、肩が温まるまでわからなかった。彼の遠い記憶の中から、牧師に洗礼を受けた日が甦った。
原住民の男は怪我をしている船員を見つけると、仲間を呼んだ。すると彼と同じ聖職者のような眼差しをした原住民が大勢現れた。原住民たちは乾いた衣服、温かいお茶、食事、鶏肉など、ボーマンが要求しようとしていた以上の物品を次から次へと持ち込み、挙げ句の果てに船乗りには無縁の清潔な寝具と住居まで与えた。
「ボーマン大尉、原住民たちの印象をどう思うかね?」
とグレンジャー船長が鶏肉を頬張りながら言った。
「油断は禁物です。歩哨《ほしょう》を立てて引き続き警戒を」
ボーマンは日誌の続きを書こうとペンを握ったが、インクはもう残っていなかった。それに気づいた原住民が新品同様の筆と硯《すずり》を持ってきた。ボーマンは慣れない筆で日誌をつけた。
[十五日、土曜。我々は船を脱出し、上陸。原住民たちと接触する。原住民に拘束され全員が軟禁状態。夜明けを待って脱出を試みる予定だが、我々の士気は低く原住民との激しい攻防が予想される。神のご加護を。アーメン]
王宮にインディアン・オーク号が漂着したという報せが入ったのは、翌日のことだった。王府は異国船の対応になると神経過敏になる。薩摩と清《しん》国の手前、表立った外交をすることができないからだ。それでも異国船は琉球の事情を知ってか知らぬか何度もやって来た。朝貢国同士の遭難なら漂流民送還の規定が決まっているが、英国船は別だ。特に清国と英国は阿片《あへん》戦争で関係が悪い。天使館にいる冊封正使の耳にこの情報が入れば、きっと母国での意趣返しを命じるに違いない。
嵐の後にやってくると予想していた予想外の出来事は、空前絶後の難題だった。寧温はすぐに評定所筆者全員に非常招集をかけた。なのに部屋にやってきたのは朝薫だけだ。
評定所は真空地帯のように蛻《もぬけ》の殻《から》だった。
「なぜみんな集まらないのですか?」
寧温の声が静まりかえった大広間にこだまする。
「実は、向《しょう》親方の屋敷で同じ会合が開かれている。ぼくもそこに出るよう命じられた……」
表十五人衆の向親方は面倒見の良さで慕われている高官だ。彼に嫌われたら王府での出世はないも同然だった。そして向親方は遊郭《ゆうかく》での会議の予算を破棄した寧温を毛嫌いしていた。
「なぜこんなときに仲間割れするのですか? 仕事に私怨を持ち込むなんて王府の役人のすることではありません」
「まずいことに清国派の向親方は正使様と親しい間柄だ……。もう耳に入っただろう」
「琉球は清国の外交代理国ではありません。琉球の問題は琉球が解決します。すぐに向親方の屋敷に使いを出して評定所筆者たちを戻すよう申しつけてください」
朝薫が言いにくそうに口を濁した。
「それでも半分しか戻らないだろう……。実は馬《ば》親方の屋敷でも同じ会合が開かれている……」
「なぜ馬親方が出てくるのですか?」
同じ表十五人衆でも向親方と馬親方は犬猿の仲だ。馬親方は薩摩派の高官で島津|斉興《なりおき》との太いパイプが自慢だった。島津家の行事には欠かさず贈り物を届け、王よりも薩摩藩主に忠誠を誓っていると揶揄《やゆ》されていた。
「どうやら馬親方の進言で御仮屋の役人たちが動いているようだ」
「内政干渉です。琉球は薩摩の外交代理国ではありません」
インディアン・オーク号漂着の余波は、王宮に派閥争いの渦を生み出した。王宮に入った役人なら、誰でも迫られる二つの選択肢だ。清国派は貴族的エリートの特権を、薩摩派はブルジョワジーの悦楽を約束してくれる。普段はこの派閥が目に見えることはなく、清国派と薩摩派が表だって衝突することはない。しかし出世の階段を上る過程で、必ず意志を明確にしなければならない瞬間がやって来る。英国船漂着事件は若い役人たちの岐路を迫る絶好の機会に利用されてしまった。
「ぼくは今頃、向親方からは薩摩派だと、馬親方からは清国派だと思われているだろうな……」
科試に首席合格したとき向親方から盛大な祝宴を開いてもらった朝薫は、将来の清国派を担うホープと目されていた。その向親方の思惑を知らない朝薫ではない。そもそも喜舎場家の役人たちは先祖代々の清国派だ。元々、喜舎場家は向一族から分家した経緯を持つ。朝薫と向親方は門中《ムンチュウ》なのだ。科試に合格したとき、朝薫はきっと自分は清国派につくだろうと素朴に信じていた。今頃、向親方は朝薫の裏切りに腸《はらわた》が煮えくりかえる思いをしていることだろう。
そんな朝薫の立場を察することができない寧温ではない。
「兄さん、今からでも間に合います。向親方の屋敷に行ってください……」
「何を言うんだ。今は英国船をどうするのか速やかに方針を固めないといけないときだ」
「私がひとりで解決します。いつもそうしてきたから今回も大丈夫です」
朝薫は見捨てられたような思いで寧温の袖を引っ張った。
「ぼくにもやらせてくれ。ぼくはきみの力になりたいんだ」
その言葉に寧温がにっこりと笑った。朝薫はこの笑顔を見たくて、ここに来たのだと寧温に知ってほしかった。大人たちの権力争いなんてうんざりだ。漂流民を派閥争いの駒にするなんて誇り高き評定所筆者にあるまじき行為だ。
「ぼくと寧温は琉球派だね」
「二人しかいませんが」
とまた白い歯を零して寧温が笑う。
「そこがいい。だからいい。二人だからぼくは頑張れるんだ」
笑い声を弾ませて二人は北谷村へ駆けて行った。
恋に思ひの乱れ髪さばち
呉れたばうれ我肝やすま
(あなたに恋した胸の想いが乱れ髪のようだ。どうか梳《す》いてぼくの髪も直してください。そうすればぼくの胸の苦しみも治るだろう)
御内原《ウーチバラ》へと繋がる正殿の空中回廊は殺気に満ちていた。人影が通り過ぎるものなら、女の世界の奥から扇子が飛んでくる。
「お待ち。ここをどこだと思っている!」
パコーンと後頭部に扇子が当たった小気味よい音が響く。女官|大勢頭部《おおせどべ》が仕留めたのは思戸《ウミトゥ》だ。
「アガーッ(いったあい)! 女官大勢頭部様、何をなさるのですかあ」
雑魚《ざこ》だと知って女官大勢頭部は廊下を踏み鳴らした。毎日こうやって憎き宦官の寧温が御内原に入るのを阻止しようと待ち構えているのに、待てど暮らせど寧温が御内原に入る気配はない。御内原を管轄する奥書院奉行の予算を三分の一に削減されたせいで、新しい扇子を買う金もないから女官大勢頭部の扇子は骨が剥き出しになっていた。もっとも投げて使わなければまだ十分に使えたはずだったけれど。衣装や嗜好品、食費まで切りつめられた女官大勢頭部の女官生活は干上がっていた。
「女官大勢頭部様、乾いているときには江戸前の張り型が効きま――アガーッ!」
また扇子が飛んできて思戸の喉に食い込んだ。苛立っているときには女官いじめで憂《う》さ晴らしするしかない。ただでさえ獰猛《どうもう》な性格の女たちばかりなのに、飢えているときた。今や御内原は腹を空かせた肉食獣だけを集めた檻《おり》だった。
「あの宦官め。たとえ首里天加那志《しゅりてんがなし》がお許しになられたとしても、この私だけは許さん」
御内原は沈黙の美徳が支配する世界だ。人ひとり消えても表に決して漏《も》れることはない。ましてや寧温は表の世界でも鬼っ子だ。誰も消息を尋ねてくる者などいないだろう。寧温が御内原に入ったときこそ最期《さいご》だ、と役人たちも女官大勢頭部の暗躍を密かに期待している。しかし評定所筆者は忙しいものだ。寧温は英国船漂着事件に追われて王宮にすらいないことを女官大勢頭部は知らない。
王妃派の女官大勢頭部、国母派の側室、どの勢力も寧温を一様に嫌っている。だったら共闘して寧温を潰せばよいものだが、そこは女の意地がある。女官大勢頭部は寧温を自分の手で仕留めた功績を武器に、再び御内原での支配を盤石《ばんじゃく》にしたかった。
また人影が空中回廊にさしかかる。女官大勢頭部は渾身《こんしん》の力で扇子を投げた。
「お待ち。ここをどこだと思っている!」
風を切って飛ぶ扇子が空中で叩き落とされた。簪を振りかざして扇子を割ったのは側室のあごむしられだ。
「女官大勢頭部には獲物を渡しませんわよ」
女官大勢頭部が飢えた熊なら、側室のあごむしられは毛並みの荒れた豹《ひょう》だ。自慢の肉体は卵白美容で磨き上げられたものだ。食用以外に卵を使えなくなると、女体に翳《かげ》りが差す。
「あごむしられ様には譲らん。宦官は私が祟《たた》ると決めた」
女官大勢頭部は威圧するように細身のあごむしられに迫る。割って入ったのは貫禄のある声だ。
「いいえ、私が祟ります」
「国母様のおなーりー」
実家の清明祭を阻止された国母は先祖へ顔向け出来ず、その不徳のせいで、このままだと自分の後生《グソー》での居場所がないと真剣に悩んでいた。先祖への手向《たむ》けに宦官の首ひとつ供えてやらねば死ぬに死ねない。
しかし御内原には国母の穏やかな死後を望まない者もいる。
「いいえ、私が祟ります」
「うなじゃら(王妃)様のおなーりー」
「トゥシビー(生年祝い)もできない王妃など王朝五百年の歴史の中で私くらいのものです」
王妃はこんな屈辱を味わうために王室に入ったわけではなかった。生年祝いどころではない。普段の食事も質素な献立に変えられてしまっていた。
「王宮の中にいるのに、まるで亡命王妃みたいな暮らしには耐えられません」
「母上様、お腹が空いたよう」
「うみないび(王女)様のおなーりー」
王女は食卓が貧しくなったのは飢饉《ききん》が琉球を襲ったせいだと神から託宣を下す始末だ。こんな疎《おろそ》かな霊力では聞得大君《きこえおおきみ》の地位を巡る争いで負けてしまう。王妃はおやつすら娘にあげられない自分が情けなかった。
「寄満《ユインチ》(厨房)に芋の天ぷらひとつない王室なんて異国に知れたら笑われます。次期聞得大君の王女の身に何かあったらどうするつもりですか」
突然、御内原に我が世の春を満喫するかのような澄み切った声が響き渡った。
「では、妾《わらわ》が馳走して進ぜよう」
「聞得大君加那志のおなーりー」
満面の笑みを浮かべて現れたのは、最強の王族神だ。王妃ですら着るものもままならぬというのに、どこで手に入れたのだろう。聞得大君は最高級の友禅《ゆうぜん》の打ち掛けを羽織っていた。王妃が生年祝いで着たいと切望していた打ち掛けだった。
普段から人を圧倒する容姿を持つ聞得大君だが、今日の豪華さは神がかっている。聞得大君が所轄する大美御殿《おおみウドゥン》ですら虚礼廃止の煽《あお》りを受けたと聞いていた。大美御殿は前年比の八分の一にまで予算を減らされたはずなのに、これほどの財力があるなんて信じられない。財政構造改革で最も被害を受けたはずの王族神が、女たちの中で一番輝いている。
王妃は悔しくて唇を噛んだ。
「御内原に私の許可なく入ってはならぬとあれほど申しつけたであろう!」
「おや王妃様、そんなこと仰《おっしゃ》ってよろしいのですか? 妾は王妃様を含めてご招待にあがったつもりでしたのに」
聞得大君御殿付きの女官たちが御料理座から豪勢な宮廷料理を運び出してきた。こんな贅を尽くした料理を見るのは久しぶりだ。女官大勢頭部も王妃も王女も反射的に生唾を飲んだ。
「御料理座を勝手に使えばどうなるか聞得大君なら、わかっておろう!」
聞得大君は勝ち誇ったように驕慢《きょうまん》な笑いで応戦する。
「食材は全て妾の金で調達したものじゃ。料理人たちにも十分な謝礼を支払っておる。聞得大君御殿の厨房では足りなかったもので、つい暇そうな御内原の厨房を使わせてもらったのじゃ。皆の者、今日は聞得大君御殿の増築祝いじゃ。女官たちもみんな御殿へ来るがよい」
「行ってはならぬ! こら、行ってはならぬぞ!」
だが飢えた狐に成り下がった女官たちが従うわけがない。女官大勢頭部の命令など料理の匂いの前では何の効力もなかった。腹一杯食べさせることができる者が今の御内原のボスだ。命令系統を失った女官たちは目先の楽しみに飛びついた。
首里の汀志良次《てしらじ》に構える聞得大君御殿は、かつて政局を動かすこともできた権力者の住居に相応しい広大な敷地を割り当てられている。王府が所有する不動産の中でも聞得大君御殿は別格である。これまでに御殿は何度も敷地を替えて新築されてきた。それは神殿を建築するのと同じ思想といってもいい。神の住居は非現実的であるほど憧憬《しょうけい》を集めるものだ。
王妃は御殿の門を潜った瞬間、ぺたりと腰を抜かして立てなくなってしまった。目の前に広がる御殿は首里城の正殿にも匹敵《ひってき》する絢爛《けんらん》豪華な建物だった。
「これが、聞得大君御殿――!」
聞得大君が王族の中でも特別な存在であることを王妃は知ってはいた。だが王妃の自尊心が彼女を過小評価していた。初めて訪れた聞得大君御殿を目の当たりにした王妃は、自分の地位が揺らいでいるのを感じた。宗教世界の女王の暮らしは王に匹敵するものだった。清国式の回廊庭園にたゆたう広大な池には石橋までかかっている。池の中央には聞得大君好みの装飾過剰な八角堂があり、舟を浮かべて遊んでいる女官たちの笑い声が聞こえてきた。
「どこにこんな金があったというの……」
「ほほほほほ。ほんの安普請《やすぶしん》じゃ。もっと大きくしたかったのじゃが、御内原の窮状を思うと、妾の我《わ》が儘《まま》を通すのも気が引けてしまってのう。さあ王妃様、山海の珍味を召し上がれ。この茸《きのこ》は蟻《あり》が育てたもので、清国の皇帝陛下も滅多に召し上がれないとか。ほほほほ」
並べられた御膳は畳が見えなくなるまで様々な料理で埋め尽くされている。女官たちが百人がかりで食べても三日三晩はかかる量だ。女官たちは箸を迷わせながらがっついた。
「ほほほ。よほど空腹だったとみえる。さあ、王女様も召し上がれ。御内原に帰ったらまた貧乏生活が待っておるぞ。ところで飢饉が琉球を襲ったと託宣を下したとか。次期聞得大君の座を揺るがす大した霊力じゃ。妾も飢饉でなければ王女様にもっと美味《おい》しいものを差し上げられたのに残念じゃ。ほほほほほ」
国母も娘の聞得大君の絶頂ぶりに圧倒されていた。聞得大君が前王の一王女だったとき、やはり聞得大君の相続を巡って争いが起きたことを思い出した。前王の王妃だった国母も今の王妃のように国母から圧力を受けていた。そのとき自分を助けてくれたのは王女だった聞得大君だ。聞得大君は前の国母に横領の濡れ衣《ぎぬ》を着せ王宮から追い出したのだった。なぜか王女のころから聞得大君は金を巡る陰謀に長《た》けていた。金の苦労など無縁の育ちなのに、金を扱わせると商人以上の才覚を発揮した。
自分の贅沢も好きな聞得大君だが、人心|掌握《しょうあく》のために金を使うのも得意だ。
「国母様、実家の清明祭の予算を削減されたと聞きました。どうぞこれをお納めください」
と差し出したのは銀子十貫文だ。さらに女官大勢頭部の前で女官たちの里帰り費用を肩代わりしてやろうと金を差し出した。
「里の親に会うのに手ぶらで帰すわけにもいかぬじゃろう。妾からの見舞金じゃ」
女官たちは一様に涙目だ。
「私たち一生、聞得大君加那志についていきます……」
「ほほほほほ。女官大勢頭部が甲斐性なしだから、妾がそなたらの面倒を見てやるぞ」
女官大勢頭部は恥をかかされて卒倒寸前まで昂《たかぶ》っている。御内原の王妃派を目の前で解体されている気分だった。女官たちの忠誠心なんて所詮、金次第でどうにでもなるものだ。
「さあ、御内原の女官たちよ、食べてばかりでは心は満たされぬぞ。観劇で和《なご》むがよい」
聞得大君が命じると京劇の衣装に身を包んだ王宮の踊童子たちが庭に現れた。王宮の美少年たちが勢揃いしたのを見て、女官たちの興奮はピークに達していた。男子禁制の御内原では絶対に見られない憧れの美少年たちだ。
真珠を簾《すだれ》の髪飾りにした楊貴妃《ようきひ》に扮した嗣勇《しゆう》が恭《うやうや》しく挨拶を述べる。
「聞得大君御殿のご増築を心からお祝い申し上げます」
寵愛を受けるためならば嗣勇はどの勢力にも与《くみ》する。さっきも清国派の向親方の屋敷で踊ってきたばかりだ。日和見《ひよりみ》と言われればそれまでだが、王宮の風向きは日々変わるものだ。風さえ吹けばどこにでも現れるのが踊童子であり、踊童子のいるところが王宮の日の当たる場所だ。
聞得大君が演出した京劇の内容は、御内原風刺劇だった。聞得大君と思《おぼ》しき豪華な女を嗣勇が演じる。そして惨《みじ》めな化粧をした女形はたぶん王妃だ。王妃役の少年が聞得大君役の嗣勇に縋《すが》りつく。
「聞得大君加那志。私は貧乏でトゥシビーもできませぬ」
「うなじゃら様、ご自分の干支《えと》も知らぬのか。どれ妾が占って進ぜよう」
聞得大君役の嗣勇がもっともらしく占う。そして王妃役にこう告げた。
「うなじゃら様の干支は魚[#「魚」に傍点]年じゃ。トゥシビーは諦めるのじゃ。ほほほほほ」
そこで観劇していた女官たちが爆笑する。舞台の王妃に鰯《いわし》の頭が与えられる。鰯を一心不乱に貪《むさぼ》り食う王妃に聞得大君は、憑《つ》き物がついていると言って王宮から出ていくように命じた。
屈辱的な風刺劇に王妃は卒倒しそうだった。
「こんな馬鹿な……。王妃の私がここまで愚弄《ぐろう》されるとは……」
「王妃様、お気を確かに。この女官大勢頭部がついておりますぞ」
舞台に女官大勢頭部に扮した踊童子が現れた。女官大勢頭部は牛の被り物にカカンを巻いた姿になぞらえてあった。牛に引っ張られて王妃が王宮を去って行くと、また爆笑が起きた。
「ほほほ。何と芸達者な踊童子じゃ。そこまでしなくともよかろうに。ほほほほほ」
聞得大君は神扇を膝で打ち鳴らしてご満悦だ。これがしたくて借金したようなものだった。意地悪にはユーモアとウィットがなければならないというのが聞得大君の持論だ。もっともこれをユーモアと感じているのは聞得大君ひとりだけれど。
「のう、女官大勢頭部。そなたも身の処し方を考えておいた方がよさそうだと思わぬか。次の女官大勢頭部は裕福な家の出身者にした方が御内原のためではないか」
「わ、私は、そう思いません。御内原の人事は王妃様がお決めになられます」
女官大勢頭部は衝動の赴《おもむ》くままに暴れたかったが、挑発にのっては聞得大君の思う壺だ。闘牛のように暴れれば聞得大君に悪霊が憑いていると言われ、ただちに悪霊|祓《ばら》いの祈祷《きとう》と称した鞭《むち》打ちの儀式に処せられてしまうからだ。この罠《わな》に嵌《はま》って女官大勢頭部は腹心の女官たちの多くを失ったものだった。
貧乏な王妃派はこの日、聞得大君の手によってバラバラに解体されてしまった。
「王妃様、お気を確かに。いつかきっと捲土重来《けんどちょうらい》の日が来ます。この女官大勢頭部、王妃様と耐えてみせますぞ……」
女官たちが御内原に戻ると再び貧乏生活が待っていた。ひとつの芋を巡って十人の女が争う想像を絶する飢餓が襲っていた。聞得大君御殿でご馳走を食べた女官たちは、たとえ芋争奪戦に勝利しても大して嬉しくない。それでも空腹よりはマシだった。今日も後之御庭《クシヌウナー》では、烏《からす》がゴミを漁《あさ》るような凄まじい食料争奪戦が繰り広げられている。
「退け退け退け退けーっ!」
ボウリングの球になって並みいる女官たちを突き飛ばしたのは女官大勢頭部だ。芋を三段腹の中に押し込めると女官たちを威圧する。
「うなじゃら様のおやつに手を出すんじゃないよ」
「そんな。うなじゃら様には寄満があるじゃないですか」
「寄満にも食べ物はないんだよ」
三段腹の中から女官大勢頭部の腹の虫が鳴いた。たとえ自分が空腹でも主人の食べ物を確保するのが女官の務めだ。
「そういえば思戸がいないね」
食べ物と聞いたら目がない思戸なのに、後之御庭にいないのが不思議だった。
思戸は女官詰所で布団に籠もっていた。実は思戸には秘密の食料があった。この前の聞得大君御殿増築祝いのとき、密かに厨房に入り卵を大量に盗んできたのだ。卵は今では王妃でも滅多に口にすることができない高級食材になっていた。それを思戸は一日一個、ゆで玉子にしたり、玉子焼きにしたり、茶碗蒸しにしたり、菓子に使ったりと、手を替え品を替え楽しんでいる。
「今日はちんすこうを作っちゃおうっと」
割らないように、見つからないように、大切に卵を守る思戸は、暇さえあれば卵の管理をしている。竹籠に入れた卵は全部で三十個。これでしばらくは食いつなげるはずだった。外での醜い争いを高みの見物にして、思戸は竹籠を抱えて眠った。
余勢を駆った聞得大君はパトロンの海運業者が崇める弁天堂まで出向いた。白装束のノロたちを従えた行進中みすぼらしい者に容赦《ようしゃ》ない制裁を与えた。六尺棒が振り回されると人民の悲鳴があがる。残虐な王族神の行く手を阻《はば》むものはこの世にはない。
「もっとじゃ。妾はもっと金がほしいのじゃ。この国の全てを支配したいのじゃ」
聞得大君は銀子一千貫文のはした金で満足する女ではない。これからは海運業者を意のままに操り、王国の富の全てを手中に収めるのだ。御嶽《うたき》をあと十倍に増やし、宗教による人心の統治を行う。これが聞得大君が描く琉球の国体保持だ。
弁天堂では海運業者一族が聞得大君を盛大に出迎えてくれた。
「聞得大君加那志、御殿のご増築、まことにおめでとうございます」
「住みよい御殿のお蔭で妾のセヂ(霊力)も漲《みなぎ》ったぞ。どれ、航海の安全を祈願してやろう」
勢揃いした王府の巫女たちの姿は圧巻だった。まるで国務の祭礼を執り行っているような荘厳な雰囲気だ。いくら富豪とはいえ、民間人の拝みに聞得大君が出てくるなんて聞いたことがない。これは霊験が高いと野次馬たちもありがたがる始末だ。この光景を見た同業の海運業者たちも聞得大君にこぞってお布施《ふせ》を申し出た。
「聞得大君加那志。どうか、どうか、私どもの弁天堂でもご祈願くださいませ。銀子五十貫文、いや百貫文でもお支払いいたします」
「妾は金のために拝むのではない。船の安全は首里天加那志のお心に適《かな》うから拝むのじゃ」
もはや聞得大君に王府の予算など無用だ。聞得大君の霊験の風を受けた船は帆に嘉例《カリー》を孕《はら》み、航海は順風満帆《じゅんぷうまんぱん》を保証されたも同然だ、とほくほく顔の海運業者が琉歌を詠《よ》んだ。
一の帆の帆中吹き包む御風
聞得大君のお筋御風
(帆に吹く風はオナリ神の尊いお風。聞得大君の霊力を受けた神聖なお風である)
聞得大君が航海安全を祈願していた頃、北谷《ちゃたん》の海岸には東インド会社船籍のインディアン・オーク号が無惨に難破していた。上陸したボーマン大尉たちはこれからどうするのか考えあぐねていた。
「ボーマン大尉。朝になったら脱出するんじゃなかったのかね?」
「それは朝飯を食べてからです」
「しかし上級船員には卵と鶏肉を出して、我々の身分を敬っているように見受けられるが……」
「グレンジャー船長。原住民はいつ我々を襲うかわからないのです。私はこれまで何度も危険な原住民たちと遭遇した経験からわかるのですが」
船員たちの多くはボーマン大尉の言葉に耳を貸さない。何度も遭難したことのある船員たちは、これほどまでの歓待でもてなされた経験はなかった。下級船員のインド人たちは、この地が英国よりも遥かに洗練された文化の国であることを察知していた。原住民たちの身なりは美しく、質素だがインドよりもずっと衛生的で、美意識の高い暮らしをしていた。漂流民を厚遇しても何の見返りもないことを知っていて、それでも手厚くもてなす彼らを本物の紳士だと英国人たちは気づきもしない。言葉は通じないが、原住民たちは足りないものを予測するかのように、次から次へと品を持ち込んでくる。ボーマン大尉の前に出されたのは泡盛だった。これを飲め、と仕草で伝える。一口含んだボーマン大尉は、思わず「旨《うま》い」と唸《うな》ってしまった。ただひとつ不自由があるとすれば、屋敷から外には出られないことだった。ボーマン大尉が立ち上がると、原住民たちが慌《あわ》てて留まるように制するのだ。
「これが原住民が我々を監禁している証拠だ。不当な人権侵害だ。英国で裁判にかけてやる」
村人たちが英国人たちに外出は危険だと身振りで伝えている。
「異国の旦那様、表に出てはなりません。王府の役人に見つかったら重い罰を受けてしまいます」
村人たちは経験で知っていた。王府の役人は異国人に対して過剰な反応をする。たとえ漂流民といえども、同盟国でなければ生命は保証されない。せっかく助けたのにみすみす殺されることになりかねなかった。
村人たちが連れてきたのは、波之上《なみのうえ》の護国寺にいるベッテルハイム博士だった。ベッテルハイムはキリスト教を布教しようとすると軟禁されるが、医療行為と言えば外に出られる。村人たちは急患が出たと伝えてベッテルハイムに通訳を依頼した。馬鹿正直なベッテルハイムはいちいちキリスト教を布教しに行くと監視の王府の役人に申し出ては却下されてばかりだから、外出するのは久しぶりのことだった。先週、布教しようと強引に町に出たら王府の役人から徹底的な妨害を受けた。これほど激しい宗教弾圧に遭ったのは、世界を旅した中でも琉球くらいのものだ。イスタンブールの方がまだキリスト教徒に優しい町だと思った。
屋敷に入ったベッテルハイムは、久しぶりに会った同胞たちにいたく感激した。
「おお、同志よ。女王陛下はお健《すこ》やかであられるか」
未開の地に英国国教会の宣教師がいると知って、ボーマン大尉は泡盛を噴き出した。一体この土地はどうなっているのか、実情を知らなければならない。
「ベッテルハイム博士、我々は拘束を受けている。この国の役人に即時解放を要求したい」
「ノー。それは不可能だ。英国人は拘束されることになっている。私はゴコク・テンプルにもう何年も軟禁されているのだ」
「ほら私の言った通りでしょうグレンジャー船長。ここは希望果てる地です」
「王府は英国人を目の敵《かたき》にしている。キリスト教徒は例外なく異端審問にかけられるのだ」
「異端審問――!」
その言葉にボーマン大尉は絶句する。ベッテルハイムは自分の受けた迫害を事細かに説明した。王府の役人は事あるごとに自分の行動を制限し、逐次上層部に報告していること。民間人と接触しようとすると悉《ことごと》く阻まれること。日々の食事もままならないこと。礼拝を行うと寺の鐘を鳴らして邪魔すること。
「とにかくここは野蛮人が巣くう悪の王国だ。神も見放す地獄の底だ」
「ベッテルハイム博士。我々はどうなるのだ。英国に帰れないのか?」
「無理だろう。そなたたちも私のように迫害を受けて暮らす運命なのだ」
ベッテルハイムの言葉にインディアン・オーク号の船員たちは絶望した。言葉も通じず、心のよりどころの宗教さえ奪われ、極東の島嶼《とうしょ》国で命果てるくらいなら、いっそ嵐の中で海の藻屑《もくず》と消えた方がまだ英国人としての尊厳が保たれた。
村人はせっかく言葉のわかるベッテルハイムを連れてきたのに、彼らが意気|消沈《しょうちん》していく様に戸惑うばかりだ。彼は何を話したのだろうか。それでも彼の通訳を頼りにしなければならない。
「ベッテルハイム様、船の積み荷は私どもで回収するからご心配なくとお伝えください」
「船の積み荷を押収するそうだ」
「なんということだ。いっそ略奪してくれ。積み荷が奪われるのを黙って見てろというのか」
「ベッテルハイム様、この屋敷にいるといずれ王府の役人に見つかります。新しい小屋を建ててあげたいとお伝えください」
「おまえたちはもうこの屋敷は使えない。牢を造り投獄すると言っている」
「ついに本性を表したか。グレンジャー船長、これが世界だ。これが未開部族の正体だ」
「ベッテルハイム様、なぜ彼らは怒っているのですか?」
「被災者によく見られるパニック発作だ。まだ現実を受け入れられないようだ」
英国人たちは暴動寸前まで昂っている。どうもてなせば安心してくれるのか、村人たちも困り果ててしまった。すると見張りについていた仲間が血相を変えて報《しら》せにやってきた。
「大変だ。王府の役人が現れたぞ!」
「いかん。何としても追い返せ」
浜辺でバラバラになったインディアン・オーク号の残骸《ざんがい》を見つけた寧温と朝薫は、大変なことになったと青ざめていた。異国船との不規則な接触は琉球の立場を危うくする。
松林の丘から浜辺を見下ろしたふたりは、何から手をつけていいのかさえわからない。
「これを清国が知ったら絶対に介入してくるぞ」
「薩摩も同じです。積み荷を全て押収されてしまいます」
「彼らを何とかして英国に送還する方法を考えなければ……」
朝薫が漂流物を捜索すると言って寧温から離れたときだ。農具を持った百姓たちが奇声をあげて寧温に襲いかかった。
「王府の役人は出て行け」
「そうだ。この村の間切倒《まぎりだおれ》を放置した怨みは忘れないぞ」
「漂流民の身柄は絶対に渡さん」
村人に襲われ咄嗟に身をかわした寧温は浜辺に尻をついてしまった。
「お待ちください。私は漂流民を保護しに来たのです。きゃあああっ!」
頭上に掲げられた鍬《くわ》が寧温に振り下ろされそうになる。その瞬間、一陣の風が吹いた。風の中から現れたのは、いつか三重城《ミーグスク》の頂《いただき》で琉歌を詠んでいた薩摩の青年武士だ。
「孫親雲上、危ないっ!」
刀をしなやかに振りかざした雅博は、鍬の柄をいとも容易《たやす》く弾《はじ》き飛ばした。鍬が空中を舞っている間に雅博は村人の輪を次々と切り崩していく。雅博の動作は寧温の目でも追えない速さだ。背中を見せたかと思うと次の瞬間には居合いの体勢に入り、新しい標的に狙いを定めている。まるで刀が意志を持ったように宙を舞っているようだ。雅博が立てる袖の音は一時も止まることがない。
「これは示現流《じげんりゅう》――!」
噂で聞いたことがある薩摩の秘|奥義《おうぎ》の剣術を初めて見た寧温は、舞踊の一種のように感じた。剣と剣を鳴らして組み合うのではなく、一撃のうちに勝敗を決めてしまう電光石火《でんこうせっか》の剣術だ。前後左右へ一足で飛んでいく雅博の姿は燕《つばめ》が宙を自由に舞っているようだ。なんというスピードだろう。彼だけ時間を早めたような動きだ。立ち上がろうとしている自分が年寄りの仕草に思える。
「孫親雲上、後ろに気をつけて」
背後から襲いかかってくる村人がスローモーションのように捉えられた。身をかわさなくてはいけないのに、体の反応が鈍い。押し倒されると目を瞑った瞬間、体がふわりと宙に浮いたではないか。目を開けたら雅博は自分を懐に抱えて、剣を風に泳がせていた。まるで自分まで風になったような気分だ。ふわりふわりと浮く自分の影が砂浜に落ちるのを見ていると、空を飛んでいると錯覚してしまう。
「雅博殿、村人を傷つけてはいけません」
胸元から見上げた雅博の首筋は花の茎のように流麗に伸びていた。細身に見えた雅博だが、胸元は上半身を預けられるほど広い。手がしっかりと腰を抱えているお蔭で、振り回されても全然怖くなかった。むしろ輿《こし》に乗っているよりも安心だった。そしてまたあの雛《ひな》の鳴き声を聞いた。心の中の真鶴はずっとこうしていたいと望んでいる。
「いけない。雅博殿。もう下ろしてください!」
やっとの思いで真鶴を封じ込めた寧温は息があがっていた。見渡すと浜辺には雅博に倒された村人たちが呻《うめ》き声をあげている。
「刀背打《みねう》ちです。誰も殺《あや》めてはいません」
雅博は鞘《さや》に刀を戻すまでに息を整え、涼やかな気を纏《まと》っていた。
「寧温。おーい。寧温。大丈夫かーっ!」
騒動に気づいて駆けてきた朝薫が寧温を介抱する。悲鳴を聞いて真っ先に駆けだしたはずなのに、着いたときにはもう決着がついていた。朝薫が一歩駆けるたびに敵が一人倒されていく早技だった。刀の光が瞬きのように浜辺を照らし、太刀捌《たちさば》きが連続音にしか聞こえなかった。
朝薫は雅博を見るや、烈火《れっか》の如く怒った。
「貴様、琉球人を居合いの的《まと》にしたな!」
「誤解です。私は孫親雲上が危なかったので助けただけです」
朝薫は袖をたくし上げて雅博に拳《こぶし》を振り上げた。
「なぜ薩摩の役人がここにいる。御仮屋《ウカリヤ》の管轄外だぞ」
雅博は逆手で朝薫の腕を取り、御免と呟いて組み伏せた。雅博は相手の気に合わせるのが上手《うま》い。傍目《はため》には朝薫が勝手に転んだように映ってしまう。
「朝薫兄さん、違うんです。雅博殿は私を助けてくれたのです」
「嘘だ。こいつはぼくの邪魔をしたんだ。ぼくだって助けられたんだ」
砂浜に組み伏せられた朝薫は必死に藻掻《もが》いている。雅博は決して力を入れているわけではないのに、力点を封じられて身動きが取れない。
「雅博殿、おやめください。朝薫兄さんを離してあげてください」
「失礼した。喜舎場親雲上」
解放された朝薫は悔しさで鼻を真っ赤にしている。駆け出すまで村人が敵だったはずなのに、到着したら雅博が敵になっていた。
「示現流がなんだ。刀を持っていれば誰だって強いさ」
寧温は襲われた動揺よりも、心の蓋《ふた》がまた開きそうになったことが怖かった。助けられた礼を言いたくても、雅博の目を見ることができない。雅博に抱えられた腰が手の形を残して熱くなっている。寧温は何か体の中の脆《もろ》いものに罅《ひび》が入った気がした。薄い卵の殻が割れたような得体の知れない感覚が体の中にある。
「なぜ御仮屋の役人がここにいるのですか?」
「馬親方の報告を受けて現地を視察しに来た。この事件は我が藩にとっても重大な事件だ。針路を間違えば薩摩に漂着してもおかしくない出来事だ」
鎖国している日本に異国船が漂着することは断じて許されない。しかしいくら鎖国しても外洋は列強の船が往来し日本を通過していく。薩摩としても対処法を講じておかねばならない時期だ。インディアン・オーク号事件は薩摩のモデルケースとして標的にされてしまった。
「薩摩はどう対処する所存ですか?」
雅博は言いにくそうに俯《うつむ》いた。
「実は、奴隷《どれい》にしろと在番奉行《ざいばんぶぎょう》殿は命じた。英国の情報を得る千載一遇《せんざいいちぐう》の機会だと……」
「奴隷? 彼らが何をしたというのですか? 災害に遭った漂流民を奴隷にするなんて!」
「ほら見ろ。これが薩摩のいつものやり方だ。奴隷迫害の汚名を琉球に着せて、自分たちは清廉潔白《せいれんけっぱく》な顔をして利益だけを横取りするつもりだ」
「私は反対なのだが……」
「異国で刀を振り回しておいて自分だけ聖人君子気取りかい?」
「朝薫兄さん、言い過ぎです。雅博殿はそんなお方ではありません」
「寧温、助けられたからといってなぜ薩摩の役人を庇《かば》う。なぜだっ!」
寧温がおろおろとうろたえてばかりいるのが気に入らない。
「王宮でぼくたちは琉球派だと誓ったばかりじゃないか。今のきみは薩摩派の役人みたいだ」
「ちがいます!」
カッとなって朝薫の頬を叩いた。寧温は興奮してつい涙を零してしまった。
「私の、私の志はそんなものではありません。私の魂はどこにも売りません」
寧温の涙に朝薫も雅博も息を呑む。大きく揺れる瞳から大粒の涙が零れ落ちそうだ。
「私は漂流民を救いたいだけです……。薩摩も清国も関係ありません……」
そう言った後、浜に清国の役人と向《しょう》親方一派もやってきた。こうやって清国人と薩摩の人間が出くわすことは異例のことだ。お互いの存在を認識してはいても、国家の体面上知らぬふりを決めているのが慣例だった。
清国の役人はやってくるなりこう告げた。
「英国人を拿捕《だほ》し処刑せよ」
「内政干渉だ。琉球は断固拒否する」
「我が国は琉球の宗主国である。清が阿片戦争で英国に香港を奪われたのを知っておろう。親の敵は子の敵も同然である。それとも何か。今度は宗主国を英国に鞍替《くらが》えするつもりか? おまえたちの二枚舌、いや三枚舌には呆《あき》れてものが言えぬ。さあ英国人の身柄を引き渡せ」
寧温は向親方を前に一歩も譲らなかった。
「英国船漂流事件は会議に出席しなかった役人たちの出る幕ではありません。会議に出席しなかった者は上官の決定に従うのが王府の慣例。馬親方の屋敷に行った役人も向親方の屋敷に行った役人も、私に全権を託すと決めたのです。異議があるなら評定所の僉議《せんぎ》に上訴なさい。それがこの国の法の手続きです。法の番人の評定所筆者ならそうするべきです」
正論を突かれた向親方はぐうの音《ね》も出なかった。評定所の僉議とは琉球の最高裁判所のことだ。国務における最重要事項を摂政《せっせい》と三司官で審理し王が裁可する。
「この件は評定所の僉議の裁可を待って行います。それまでの間、三者は英国人の身柄に関して保留することにします。薩摩も英国人を奴隷にせず、清国も英国人を処刑しない代わりに、私も英国人の送還を行いません」
向親方は捨て台詞《ぜりふ》を吐いた。
「よし、この場は引き下がろう。ただし評定所の僉議が我らに与した場合、おまえは王宮を離れてもらう。朝薫、おまえもだ。せっかく目を掛けてやったのに儂《わし》を裏切るとはとんだ自信家だ。お父上も泣いているぞ」
朝薫は何も言い返せなかった。
取りあえず今日の所は三者とも英国人と接触しないということで浜で別れた。雅博はこれでよいとホッと息をつく。琉球の評定所筆者は凄腕の交渉人と聞いていたが、噂以上の辣腕《らつわん》だ。異国人の薩摩や清国人を丸め込むばかりか、自分の上司をも巻き込んで出足を封じてしまった。孫寧温は一体どういう人物なのだろう。少女のような可憐な顔立ちに似合わず、能力は幕府の重臣たち以上だ。雅博は寧温を抱き上げたとき、強烈な百合の香りが漂ったのを思い出した。
「なぜだろう。胸が疼く……」
黒い瞳を揺らして訴える寧温を思い出した雅博は邪念を振り払った。
「異国で甘美な情緒に浸ることはよくあることさ……」
しかし雅博は無意識に浜で寧温の姿を探していた。
寧温は小走りに廁《かわや》を探していた。浜で交渉をしていたときふと褌《ふんどし》に違和感を覚えた。暴漢に襲われたとき失禁したのかもしれないと思ったが何か変だ。全く覚えがないのに粗相《そそう》をしてしまうなんて初めてのことだ。
――まさか、これは!?
廁で真鶴が現れた証拠を見つけたとき、寧温は目の前が真っ白になった。雅博に抱きかかえられた瞬間に割れた卵の殻の感覚はこれだったのだ。下着に残るささやかな真鶴が現れた証《あかし》。これから毎月毎月、真鶴が体を奪いにやってくる。そう思うと体が震えて止まらなかった。
「真鶴、お願いだから死んで! もう私を困らせないで……」
寧温は処置の仕方もわからずにただただ狼狽《うろた》えていた。
一方、ぽつんとひとり浜辺に残された朝薫は、四面楚歌《しめんそか》の心境だった。寧温と一緒に笑いたかっただけなのに、なぜこんな寂しい思いをしているのかわからない。雅博に寧温が抱きかかえられた瞬間、直感的に奪われたと怒りを覚えた。なぜそう思ってしまったのか。この身のいかがわしさが恨めしくてならなかった。
さっき漂着物を探そうとしたとき濡れた足場は引き潮に変わっていた。
潮時見ち渡れ浮世漕ぐ小舟
たとひ波風や立たぬあても
(世の中の海は機を見て渡れと人は言うが、引き潮のときに舟を漕ぐのは愚かだろうか。ぼくにはそういう器用な生き方はとてもできない)
評定所の僉議が開かれたのは六年ぶりのことだった。琉球の裁判は刑事事件や民事事件を平等所《ひらじょ》で扱い、政策に関わる審理を寧温たちのいる評定所が行う。通常は、この二つで十分機能する。だが、これらでも賄《まかな》えない国家の最重要事項の審理が評定所の僉議に預けられる。この評定所の僉議は摂政、三司官、そして王の最高権力者たちが意見を闘わせる。書院に呼び出された三司官たちは評定所僉議と聞いて身が強ばる思いがした。ここまで来る案件はたいてい誰にも解決できないものと相場が決まっていた。
「評定所の僉議にかけるとは上訴権の濫用《らんよう》ではないか」
「評定所の僉議にならないように気をつけるのが評定所筆者なのに」
「馬親方と向親方が対立しているとあってはもはや評定所の僉議しかないだろう」
薩摩派と清国派が対立するのは王府を二分することに繋《つな》がる。双方の勢力が拮抗《きっこう》するから王府はバランスの良い外交ができる。清国も薩摩も共に無視できない大国だ。どちらかの勢力が優位に立つということは、現実世界でどちらか一方の国が琉球を支配していることになり、結局王府の存続が危ぶまれる。
「評定所の僉議を上訴したのはあの宦官とか?」
「道理で。馬親方も向親方も宴会の予算を削減されたからな」
「だから財政改革には反対だったんだ。眠っていた虎を起こしてしまったようなものだ。適当に酒を呑ませて眠らせておけば争うこともなかったのに」
三司官たちは薩摩にも清国にも同様に気を遣わなければならない審理に早々から気が重かった。評定所の僉議は王府の外交政策の指針になり、時代を読み間違えると王府は空中分解してしまう。今正しいことが、十年後の失政とならないようにできるだけ慎重に審理しなければならない。
王を迎えて六年ぶりの評定所の僉議が始まろうとしていた。外交政策における僉議としては尚育王《しょういくおう》も初めての経験だ。王が咳払いをした。
「三方の主張から整理せよ」
「御意。首里天加那志。まず薩摩は英国船を拿捕し、船員を奴隷にせよと主張しております。これは来る将来、列強の幕府進出に向けて情報収集をしようという魂胆《こんたん》があります」
「首里天加那志。清国は英国船の乗員を処刑せよと主張しております。阿片戦争で英国に負けた報復をすることで、冊封使様が皇帝陛下への手土産としたい狙いがあると思われます」
「首里天加那志。最後は評定所筆者|主取《ぬしどり》の主張でございます。漂流民の保護は海洋国の責務。たとえ同盟国でなくても品格のある処遇をするのが琉球の示す人徳の道と説いております」
王は異国に内政干渉されることには慣れていたから、薩摩と清国の主張はいつもの暴論で大して驚かない。双方の主張を満たすためにあれだけ難しい科試が琉球にはあるのだ。
「なぜ評定所筆者たちでこれがまとまらなかったのか? 科試を解いた者たちならば再科《さいこう》程度の難易度であろう」
「実は首里天加那志。評定所筆者主取の招集に筆者たちが集まらなかったのでございます」
「聞けば、馬親方と向親方が同じ日に会議を行ったようでございます。どうやら派閥抗争の場に用いられたようです」
「評定所筆者主取の争点はここにあります。会議の欠席者は上官の決定に従ったとみなすのが慣例であると。即ち、評定所の会議では清国派も薩摩派も主張をしなかったも同然であると」
「なるほど、筋が通っておる」
「ただ阿片戦争における清国の傷は計り知れないほど深いのが懸念《けねん》材料です。当然、清国に恩を売っておくのが外交上の得策だと思われます」
「しかし王府は同時に薩摩に多額の借入金があり、利息の返済にも困っております。薩摩の主張を汲《く》み取ることで薩摩の態度を軟化させ、返済を待ってもらうのも交渉の戦術でございます」
「しかし英国民を外交の材料に使うと、英国を怒らせてしまうことにもなりかねません。今や真の世界の覇者《はしゃ》は大英帝国でございます。漂流民を殺したりすれば英国に琉球を攻め入る口実を与えることにもなりかねません」
王と三司官は深い溜息で頭を抱えた。三国とも影響力のある国だ。十年後どの国が琉球を支配していてもおかしくない。今の答えと十年後の答えが一致するのはどれか?
北殿では馬親方と向親方が判決を苛立ちながら待っていた。判決文次第ではどちらかが出世コースから外れることになる。
「在番奉行殿のお顔を潰せば借入金が減らされることを考慮しない首里天加那志ではない」
「冊封使様には吉報を待てと言った手前、何としても勝たねばならぬ」
そして二人とも口を揃えて寧温を罵《ののし》った。
「まったくあの玉無しさえいなければ、こんなことにはならなかったのに!」
大広間では寧温がいつものように業務の候文《そうろうぶん》をしたためていた。
「寧温、きみは怖くないのかい?」
「別に。朝薫兄さんはどうして怖がるんですか?」
「だって王宮を追い出されるかもしれないんだよ」
「もしそうなれば私は去ります。首里天加那志の意志は琉球の国家意志ですから」
そういうと寧温は廁に行くと席を立った。真鶴の印のせいなのだろうか、頭が曇っているような気分がする。女であることはかくも鬱陶《うっとう》しいものなのかと苛立ちを覚えた。
王宮は評定所の僉議の審理待ちで、誰もが息を潜めたように静まりかえっていた。結果次第では去る者と残る者が決まる。順風満帆に出世街道を邁進《まいしん》していても、風向き次第で奈落の底に墜ちるのが王宮勤務だ。今さら地方勤務なんて御免だった。
久慶門の多嘉良はしょんぼり酒を呑んでいた。
「寧温が追い出されたら、儂も出て行かされるんだろうなあ……」
漏刻門《ろうこくもん》の太鼓が申《さる》の刻を告げた。書院から三司官達が出てくる。いよいよ評定所の僉議の結果が発表されるのだ。三司官が判決文を読み上げた。
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僉 議
英船漂着一件ハ御当国専轄之国事ニ拘御難題
之議ニ付、専評定所案件可為候。依之評定所
寄合被召行致詮索候処、其場居合不申面々之
趣意、主取孫親雲上之思様ニ被預置事と被致
合点、御国元并唐之御意念遣ニ而ハ候得共、
埒外ニ可有之と被存当候。
主上依裁可、英船一件ハ孫親雲上如差配仕立船
を以送還可有之候議、得策と致落着候事。
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当事者たちが口々に呟く。
「英国船漂着事件は、我が国の管轄の問題であり、重要な事項につき評定所で処理をするように命じた――だから儂の屋敷で会議したんじゃないか!」
「評定所によって招集がかけられたのに、その場に居合わせなかった者の意見は、孫寧温の意見と同じということである――げっ。なんか雲行きが怪しいぞ……」
「薩摩と清国の意見は大変重要で尊重しなければならないが、この件に関しては当事者ではない。王の判断を仰いだところ、英国船事件は孫寧温の采配通り、船を建造し送還することがもっとも妥当《だとう》であると判断した――いやっほう。寧温、きみの主張が通ったよ!」
評定所の僉議で言い渡された判決文は寧温の完全勝訴だった。薩摩も清国もこの英国船漂着事件に関しては、一切介入してはいけないと王命が下された。馬親方も向親方も評定所の僉議の結果とあらば従わざるを得ない。この機に乗じて寧温を王宮から追い出せると思っていたのに、あてが外れてしまった。
「朝薫兄さん、遺留品の捜索をお任せいたします」
「わかった。寧温は船の建造の手配を頼む。これで英国人の命が助かったぞ」
「当然のことです。漂流民の命を政治の駆け引きに使うなんて卑怯ですから」
寧温はさっそく北谷の村に向かった。
英国人船員をしきりに脅していたのは、ベッテルハイムだ。これからおまえたちは異端審問にかけられるのだと、日頃の王府への怨《うら》みを晴らしている。数年前、語学の師だったベッテルハイムに会ったとき寧温は女だった。だが今は素性を隠している。寧温は正体を見破られないように慎重に声色を変えた。
“I am a high commissioner of the Kingdom.”
(評定所筆者の孫寧温です)
訛《なまり》のない完璧な発音に英国人たちが水を打ったように静まった。現れた役人の幼さにも驚かされたが、英語を話せる原住民がいることが何より信じられない。今まで原住民とはマレー語から広東《カントン》語に訳し、何とか意思の疎通を図っていたのに急に障害が取り払われて呆気に取られた。
ボーマン大尉が寧温の目線まで腰を下げた。
「ははは。英語だ。完璧なクイーンズ・イングリッシュだ……」
「はい。国王の名において、皆様を英国へ送還いたします」
ウェールズ訛のあるグレンジャー船長よりも明瞭な発音に、ボーマン大尉が苦笑した。まるで英国貴族のような風格のある発音だ。とても東洋人が喋《しゃべ》っているとは思えない。
「それで、私たちをどうやって送還するというのだね。船はもう壊れてしまった」
「皆様の扱いは朝貢国同士の漂流民協定に準じて行われます。まず積み荷を全てお返しいたします。同時に新たな船を建造し、皆様を広東まで送り届けます」
「幾らで?」
こんな都合の良すぎる話は聞いたことがない。少なくとも契約書を結び最低限の費用を東インド会社が負担するのが筋だとボーマン大尉は思う。しかし役人はお金はいらないと申し出た。
「王府は漂流民と契約を結ぶことはありません。新造船は無償で与えます。それと航海に必要な食料や水、物資についても無償です」
「どんな裏がある? 英国はどの国とも取引しないぞ」
「裏などありません。王府の行政機構において無償で与えます。我が国の海事法ではそう規定されております」
「我々は総員七十人だ。これだけの人数を運ぶ船を造るとなると少なくとも半年はかかる」
「いいえ、四十日もあれば十分です。我が国の造船技術ではインディアン・オーク号と同じ規模の船を造るのには、さして時間はかかりません」
「四十日! どんな魔法を使えばそんなに早く船が造れる! 欠陥品だったら承知しないぞ」
「船の材料に不満があれば、申し出てください。さらに船が不適当だと思うのでしたら、お断りくださって結構です。もう一度、気に入るまで造ります」
「条件が良すぎる。清国に奴隷として売るつもりじゃないのか?」
「この件に関して清国は一切干渉いたしません。全ての責任は王府にあり、皆様が広東にたどり着くまでの間、琉球人が同乗し水先案内いたします」
朝薫が朗らかな声でやってきた。
「寧温、これから遺留品の捜索を行う。積み荷の保管場所を決めてくれ」
ボーマン大尉が外に出ると、海上には百|艘《そう》あまりの漁舟が浮かんでいた。住民総出で遺留品を捜索してくれるらしい。手伝おうとボーマンが名乗り出たが、これは王府の仕事だといって断られた。
「皆様の新たな宿舎を建設中です。上級船員は北の棟をその他の方は東の棟をお使いください。食事も水も寝具も全て揃えてあります」
宿舎に行くと豚や鶏などの家畜小屋まで全て完備されていた。住民たちの扱いも格別だったが、王府の計らいは上質なホテルのサービス以上だ。何と身分に応じた浴場まで用意されていた。
海底と座礁した船から回収した遺留品は全てボーマン大尉たちに引き渡された。驚くことに酒やグラス、貴金属の部品にいたるまで誰も盗もうとはしなかった。
彼らは一体何者なのだろう。親切にすることで自分たちに譲歩を求めているのだろうか?
そんな寧温にベッテルハイムが近づいた。英語を話せる人間は王府に何人かいるが、ここまで自然な英語を使えるのは、語学の天才のベッテルハイムが会った中でもひとりしか知らない。
しかし確信が持てなかった。護国寺に出入りしていた御用聞きの子が成長したとしても、年頃の娘だからだ。
浜で陣頭指揮をしている寧温にベッテルハイムが敢えてドイツ語で話しかけた。
“Vielleicht Mazuru, nicht wahe?”
(おまえは真鶴じゃないのかい?)
少年役人は悲しそうに目を伏せて首を振った。
“Nein. Nein. Nein....”
ベッテルハイムはわかったよと優しそうな目で何度も頷《うなず》いた。
王府が建造した新しい船は、清国式のジャンク船だ。竜骨《りゅうこつ》と隔壁構造を持つ船は、インディアン・オーク号よりも構造的に優れている。これでちょっとした嵐でも沈没することはないだろう。読谷村《よみたんむら》の河口で建造中の船は、急拵《きゅうごしら》えとは思えないほど美しい船で、防水剤の黒色が琉球人の瞳のように艶《あで》やかだった。
王府は本当に四十日でインディアン・オーク号以上の船を建造してしまった。
「私たちから英国式のお礼をしたい」
と申し出たのはボーマン大尉だ。これほど温かい施しを受けて彼らを疑うなんて英国紳士の名が廃《すた》る。世界はボーマン大尉が知る以上に広かったのだ。極東の海の果てには心優しき民が住む地上の楽園があった。
「私たちは最初、この国を野蛮な国だと決めつけてしまった。それが何よりの後悔だ。最初に感謝していたら、私たちの滞在中は毎日、喜びで満ち溢れていただろう。ハイ・コミッショナー・ソン、私たちの傲慢《ごうまん》と非礼を許してくれ」
寧温はこれは人として当然の行いだと言った。
「もし英国で我が国の民が漂流したとき、同じようにお返ししてくれるものと信じております。決して略奪せず、襲わず、殺さず、奴隷にせず、深い哀れみを以て琉球の民をお救いください」
「もちろんだ。女王陛下に琉球の国家としての素晴らしい品格を報告しよう。しかし私たちは今、お礼がしたい。何なりと申しつけてくれ」
寧温はどう言えば、特別なことをしているわけではないと納得してくれるのか考えて、そっと耳うちした。
「大きな声では言えませんが、こんな話をご存じですかボーマン大尉?」
寧温は英国人になじみの深い逸話を話してやった。
「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、強盗に襲われた。彼らはその人の着物をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにしたまま行ってしまった。すると一人の祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見て道の向こう側を通って行った。また同じく、ひとりのレビびとがそこを通りかかったが、その人を見ると、レビびとも道の向こう側を通って行った。ところが旅をしていたあるサマリア人が、その人のそばまで来て、その人を哀れに思い、近寄って、傷口に油と葡萄酒《ぶどうしゅ》を注ぎ、包帯をしてやった。それから自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱した」
ボーマン大尉はどこかで聞いたことのある話だと記憶を探っている。
寧温は続けた。
「その翌日、サマリア人はデナリ二枚を取り出して、宿屋の主人に渡し、『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰ってきたときに支払います』と言った。さてあなたはこの三人のうち、誰が強盗に襲われた人に対して、隣人として振る舞ったと思うか。律法の専門家が、『哀れみを施した人です』と言うと、イエズスは、『では、あなたも行って同じようになさい』と仰せになった」
ボーマン大尉は一本取られたと恥ずかしそうに笑った。
「まさか聖書を諳《そら》んじているとは思わなかった。そう、それは子どもの頃に礼拝で聞いたことがある。確か『善《よ》きサマリア人』だ」
「ルカ十章です。でも内密に。我が国ではキリスト教は禁じられているのです。お礼の代わりに黙っていてください」
寧温は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「あなたは桁外《けたはず》れの人間だ。語学にも宗教にも政治にも明るい。何より人として輝いている。極東の果てには聖人がいたと女王陛下に伝えておこう」
ボーマン大尉は初めて村人に会ったとき、彼が深い哀れみの眼差しを浮かべたのに無視してしまったことを恥じた。自分がもっと敬虔《けいけん》なクリスチャンなら、すぐに善きサマリア人の逸話を思い出したはずなのに。
「ハイ・コミッショナー・ソン、どうやら私は旅の途中で大切なものを落としてきたようだ。この国に漂着したのは神の思《おぼ》し召しだ。人として大切なものを取り戻して帰れるのだから」
ボーマン大尉の提案で新造船は『琉球号』と名づけられた。受領するときボーマン大尉は女王陛下の名において、受領書にサインをした。
北風の吹いた穏やかな日、琉球号は広東に向けて出航した。ボーマン大尉は赴任地のカルカッタの地から上官に手紙をしたためた。
[#地から3字上げ]Calcutta. Sept. 10th
My Dear Sir:
I can only assure you of the interest I must ever feel in the welfare of those excellent people of the Great Loochoo Islands ; their great hospitality and kindness to myself and ship-mates, when thrown shipwrecked and naked on their coast ; those kind-hearted men received us as friends ; clothed, fed and housed us ; built a vessel of about one hundred eighty tons sufficiently large (with an ample supply of provisions and water) to convey us to Canton. I shall ever consider that a heavy debt of gratitude is due by me, and all those who were, by the wreck of the Transport “Indian Oak”, thrown their bounty.
[#地から3字上げ]Yours very sincerely,
[#地付き]J.W.Bowman, (late Mate, Royal Navy.)
[九月十日 カルカッタ発
拝啓、私があの優れた美点を持つ大琉球の人々の幸福を常に考えなければいけないと、関心を持っていることだけは、はっきりと申し上げられます。難破して海岸に裸同然に投げ出されたとき、彼らは私と船の仲間に対して大いなるもてなしと親切心を示してくれました。即ち、この情深い人たちは我々を友人として迎え入れてくれて、衣服、食料、家を与え、我々を広東に乗せて行くのに十分大きい一八〇トンもの船を建造し、食料と水も十分積み込んでくれたのです。インディアン・オーク号の難破によって彼ら住民の博愛心にすがった私と皆の者は、深い恩義をこうむっているものと常に考えております。
[#地から1字上げ]敬具
[#地付き]J・W・ボーマン 元英海軍一等航海士]
しばらくして尚育王の許《もと》に英国のヴィクトリア女王から感謝状が届いた。彷徨《さまよ》える同胞を格別の厚情を以て遇してくれた琉球に礼を述べた女王は、慈悲深く教養高い王府のハイ・コミッショナーにナイトの称号を授与すると綴った。
聞得大君の航海安全の祈願が通じたのか、王国の海は、極めておだやかになっていた。英国人を無事に広東まで送り届けることができたのは、聞得大君の霊験だと民は噂した。
聞得大君は海運業者の支援を受けて、今日もご満悦だった。王府の予算以外の独自の集金システムを構築した彼女は、これからいちいち財務担当の御物《おもの》奉行に予算案を通す必要はない。予算を削減して回る宿敵の評定所筆者の決裁もいらない。
聞得大君はまず虚礼として廃止された大美御殿《おおみウドゥン》の年中行事を復活させることにした。王家の冠婚葬祭を司《つかさど》る大美御殿は御内原管轄だが、式典を執り行うのは王族神・聞得大君である。この大美御殿は王室を連携させる部署で聞得大君御殿とも繋がりがある。聞得大君が御内原に介入するのに都合の良い部署だった。
「王妃様のトゥシビーの件じゃが、盛大に行うよう取り計らうのじゃ。資金はこれじゃ」
と銀子《ぎんす》三十貫文を女官にもってこさせた。女官が現れた途端、聞得大君が怪訝そうな顔をした。
「そなた室《むろ》に入る時期じゃろう? 下がれ、下がるのじゃ」
「聞得大君加那志、申し訳ありませんでした」
聞得大君は血の匂いに敏感だ。彼女は穢《けが》れることを極端に嫌がる。御殿の女官たちは月の報せが来ると、別室に籠もって物忌みをしなければならない決まりだった。不浄の者が現れると彼女の霊力に翳りが差す。聞得大君は浄化された空間の中でしか生きていけない王族だった。
「まるで躾《しつけ》がなっておらぬ。教育係の勢頭部は何をしておるのじゃ」
穢れた女官を追い払った聞得大君は、香を焚《た》けと命じた。身分の低い女官ごときに穢されて聞得大君はもう機嫌が悪い。もっとも機嫌が悪い方が彼女らしいのだけど。機嫌を戻すには何か楽しいことを考えるのが一番だ。聞得大君の楽しみは御内原いじりである。
「そうじゃった。この銀子で王妃様のトゥシビーを催しておやり」
「聞得大君加那志、よろしいのですか?」
大美御殿の役人の長である大親《ウフヤ》は聞得大君の真意が掴めない。王妃を苦しめたいなら兵糧責《ひょうろうぜ》めが一番なのに、敢えて願いを叶《かな》えてやるとはどういう了見《りょうけん》なのだろう。
「ただしトゥシビーの上座には妾が座る。料理も式典も妾が決める。祝いの品はこれを出そう」
そう言って御殿増築祝いのときに着た友禅の打ち掛けを見せた。御内原の女官たちはこれが聞得大君の打ち掛けだと知っている。これを着させられる王妃は聞得大君の傀儡《かいらい》に映るだろう。
『ああ、そういうことか』
と大美御殿の大親は納得した。要するに聞得大君は意地悪大会の無期延長戦をやりたいだけなのだ。圧倒的優位の立場から弱者を徹底的にいじめ抜くのが御内原の女たちの楽しみだ。
「王妃様が気に入らぬというならトゥシビーは中止じゃ。妾が金を出すのじゃ。王妃様の思い通りにはさせぬ。妾の施しなくして王妃様は存在できぬことを知らしめすよい機会じゃ」
『はいはいはいはい。あなたはそういう人でした』
聞得大君に恭順《きょうじゅん》の意を示して生年祝いを行うか、逆らって祝祭とは無縁の王室人生を歩むか、ジレンマに陥《おちい》った王妃の姿が思い浮かばれる。
聞得大君はこまめな意地悪も好きだが、権謀術数《けんぼうじゅつすう》のダイナミズムを扱うのにも長《た》けている。風が吹き潮が満ちたときに船を出すタイプだ。潤沢な資金がある今こそ、打って出なければならない。琉球が戦乱の世であれば、きっと聞得大君は清国にも派兵する女帝として君臨していただろう。
「大あむしられ(上級ノロ)達をここへ寄越すのじゃ」
聞得大君の手足となって動くのは王府が管理する御嶽《うたき》の神女たちだ。王府の位階制度と同じく、神女たちも聞得大君を頂点とする階級制度の中にある。大あむしられと呼ばれる神女たちはいわば表の世界の三司官に相当する重鎮だ。
聞得大君の命により老練な大あむしられ達が集まった。
「馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》の捜索は進んでおるか?」
「畏《おそ》れながら聞得大君加那志。懸命に捜索しておりますがまだ見つかりません」
「ですが聞得大君加那志。手がかりは掴めております」
大あむしられの一人が述べた。
「ウクジ(米占い)によりますと辰年生まれの女が所有していると出ました」
「私たち全員も同じ判示を貰いました」
「さすがは熟練の大あむしられ達じゃ。では王国にいる辰年生まれの女を片っ端から探せばよいのじゃな」
聞得大君は銀子百貫文をポンと大あむしられ達に渡した。
「捜索にかかる費用じゃ。全部使ってよい。多少の荒事《あらごと》は妾が揉み消すから、存分に探すがよい」
白装束《しろしょうぞく》の老女たちが一斉に六尺棒を構えた。これから王国の辰年の女たちは御嶽に強制連行されて厳しい尋問を受ける運命だ。
聞得大君が着々と陰謀を張り巡らせ、御内原陥落を狙っているとも知らず、今朝も御内原は食べ物のことで争いが起きていた。王妃は「トゥシビーが……。トゥシビーが……」と譫言《うわごと》を繰り返してばかりで、持ち場の管理を怠っている。
王妃が怠けると女官には春が訪れる。朝寝坊しても怒られないし、仕事を命じられることもない。思戸《ウミトゥ》は昼前まで布団から出なくなっていた。
そんなある朝、思戸は布団の中の竹籠から不思議な音がするのに目覚めた。
「あたしの卵。卵は大丈夫?」
厳重に管理している卵は幸い盗まれていなかった。その代わり竹籠が微かに揺れている。なんだろうと思戸はそっと竹籠の蓋を開けた。
「わあっ。雛が孵《かえ》ってる!」
思戸が大事に抱えていたせいで卵が温められて雛が孵ったようだ。生まれたばかりの雛は思戸を見つけてしきりに鳴き出した。
「あたしお母さんになっちゃった」
思戸が満面の笑みを浮かべる。黄色のヒヨコが思戸の指をついばむのがくすぐったい。
女官は婚姻が許されない。ましてや母になることなど夢のまた夢だ。王宮にあがった女は最初にそのことを叩き込まれる。その引き替えに庶民が決して手に入れられない最高の住まいと食事と衣装、俸禄、そして女性として最高水準の教養を授けられる。そのことを女として哀れと思うなら、女官には向かない。思戸は自分が結婚できないことを朧《おぼろ》げに理解しているつもりだ。だが神様は思戸に可愛い子どもを与えた。
「トゥイ小《グワー》。トゥイ小。あなたの名前はトゥイ小よ」
生まれたばかりの雛は小首を傾《かし》げる。思戸は掌で優しく抱えて雛の名を呼んだ。
雛は思戸のお尻を追ってどこにでもついて来る。食べるときも寝るときもいつもトゥイ小と一緒だ。思戸は王宮にあがって初めて満たされた気持ちになった。
御内原の片隅で思戸のお母さんごっこが始まった。
首里城の西にある大美御殿は、王家の祭祀全般を運営するために役人以外の出入りもある施設だ。王室|御用達《ごようたし》の商人たちは大美御殿に出入りできるのをステイタスにしていた。王府の監査が入ったと聞いて出入りの業者たちが身を竦《すく》める中、寧温と朝薫が帳簿を洗っていた。
「おかしいです。なぜ私が却下した王妃様のトゥシビーが行事予定に編成されているのですか」
「銀子三十貫文なんて繰り越しできる金額でもないのに変だね」
寧温は財政構造改革で王府の元栓を締めきった。それは不正な金の流れを調べるためのものだ。元栓を締めてもまだ潤《うるお》っている部署が一番怪しい。最初に引っかかったのは大美御殿だ。
「寧温、これは違うぞ。銀子三十貫文は確かに大金だけど、他の行事は中止されている。王妃様だけトゥシビーをすると、体面を気にする他の王族たちの反感を買ってしまう。こんな不公平な配分をするなんてあり得ない」
「そうですね。でもどこから銀子三十貫文が出たのでしょうか?」
「大美御殿が連携するのは、奥書院奉行、書院奉行……王室に関係のある部署ばかりだ」
「奥書院奉行は白です。御内原は私も入れないくらい飢えた野獣の巣窟《そうくつ》になっていますから」
「だから最近は御内原に行かないんだね」
「あそこは平時でも恐ろしいところです。それが今は貧乏でみんなが殺気だっています。私はみすみす獲物になるほど愚かではありません」
今この瞬間も空中回廊で寧温に扇子をぶつけようと狙っている女官大勢頭部が聞いたら、がっかりするだろう。
「書院奉行は首里天加那志が目を光らせているので不正は難しいです。元々質素倹約なお方ですから」
「となると、王族の中で大美御殿に出入りできるのは……」
寧温はポンと手を打った。
「聞得大君御殿――!」
さっそく聞得大君御殿に出向いた寧温は増築された聞得大君御殿に圧倒されてしまった。自分が却下したはずの御殿の増築が密かに行われ、かつての御殿よりもきらびやかな建物に生まれ変わっていた。
「御殿増築案が通っていたなんて――!」
驚くというよりも感心してしまう。これが王府の予算から捻出した金なら財政構造改革は完全に失敗だ。寧温は聞得大君御殿の長官である大親を呼び出した。
「評定所筆者主取の孫寧温です。本日は会計監査に上がりました。帳簿を全て見せてください」
却下したはずの銀子三百貫文がいつの間にか計上されている。そればかりではない。日に日に莫大な金が計上されて予算の配分を待っていた。何と聞得大君御殿の本年度の予算は銀子一千貫文にも膨《ふく》れあがっていた。前年度の予算は銀子二百五十貫文だったのに、財政構造改革の直後に四倍になるなんて怪しすぎる。不正の源《みなもと》はまさしくここだ。
「この予算は異常です。どこから金を持ってきたんですか!」
聞得大君御殿の大親はしどろもどろの弁明で脂汗をかいていた。いくらなんでも稼ぎすぎだと聞得大君に自粛を求めたのに、強欲な王族神はあらゆる海運業者と祈願の業務委託契約を結んだ。まるで王国全土に広がる弁天堂のフランチャイズ経営だ。
寧温は畳を思いっきり叩いた。
「白状なさい。さもなくば横領罪で平等所に告発します!」
すると不敵な笑い声が背後からした。
「妾が汗して稼いだ金じゃ。決して横領などではないぞ」
振り返ると聞得大君が神扇を構えてゆらりゆらりと近づいてくる。薄暗がりの中で碧眼《へきがん》を光らせた王族神の姿に寧温は息を呑んだ。インディアン・オーク号事件で会った英国人たちの中にも碧眼はいたが、迫力がまるで違う。聞得大君の瞳は虹彩《こうさい》の奥から光るのだ。
「き、聞得大君加那志……」
「そなたが王宮に入った宦官とやらじゃな。なんとも面妖《めんよう》な姿じゃ」
聞得大君にとって初めて接する宦官は、想像していたのとはかなり違った。宦官はせいぜい女性的な男性くらいだろうと思っていたのに、目の前にいる宦官は艶めかしい乙女そのものだ。
「経理のことならいつでも説明ができるぞ。妾は清廉潔白じゃ。ほほ……ほ……」
急に目眩《めまい》を覚えた聞得大君が壁にもたれかかった。目眩の後に襲ったのは激しい嘔吐《おうと》だ。聞得大君は床に伏せたまま激しくうなされている。血相を変えた大親が女官を呼びつける。
「誰か、聞得大君加那志がお倒れになったぞ。誰かおらぬか。孫親雲上、帳簿の件は後で必ず説明する。今日の所は帰ってくれ」
発作のように倒れた聞得大君が目覚めたのは夜更けだった。あんなに激しい頭痛と目眩を覚えたのは生まれて初めてだ。医者は過労によるものだと告げたが、何か違う気がする。聞得大君は布団の中で考えていた。自分が倒れたのは神の報せのような気がする。それにあの吐き気。まるで穢れた女官と不意に出くわしたときの、胃を突き上げるような衝撃だった。
「穢れた女官……?」
胃が暴れ出したのはあの宦官と話をした瞬間だ。聞得大君は馬鹿馬鹿しいと笑った。宦官に月経などあるはずもない。そもそも宦官は去勢された男で性の匂いなどしない存在だ。しかし王宮に入った宦官は男の匂いがしない代わりに、女のような香りがした。その香りを嗅いだとき、目眩を覚えたと思い出した。
「まるで女のような宦官じゃ……」
床から出た聞得大君は夜風に当たりながら寧温のことを考えた。あの容貌は男が出せる艶めかしさではない。あれだけ性の香りがするのは何か理由があるに違いなかった。
「もしやあの宦官、素性を偽《いつわ》っているのでは――?」
聞得大君が寧温の秘密の匂いを嗅ぎつけた。
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第五章 空と大地の謡《うた》
澄み切った空が小刻みに揺れている。地上では火矢を抱えた男たちが無数の祝砲を打ち鳴らしていた。晴天に隈《くま》なく轟《とどろ》いた爆竹の煙が空に上っていく。王国を丸く覆った青空のドームは朗らかに地上の祝いを見つめていた。
今日、豊見城間切《とみぐすくまぎり》にかかる真玉橋《まだんばし》の修復工事が終わった。物流の要《かなめ》にあたる大橋の竣工式典に立ち会ったのは、王府の三司官《さんしかん》、表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》、そして評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》の高官である。湿地帯での架橋工事は難航を極めた。当初、硬い支持層に杭《くい》を打ちつけるために膨大な予算が計上された。それを寧温《ねいおん》は財政改革と軟弱地盤の改良でコストを削減する方法に変更した。浸透圧を利用して基礎の地盤だけ水を抜く方法を考案したのは寧温だ。当時としては画期的な工法に普請奉行《ふしんぶぎょう》も舌を巻いた。寧温は事業の見直しにより当初の計画の半分の予算で工期を三分の一に圧縮してしまった。
厳粛な儀式に相応な顔つきでいなければならないのを忘れて、寧温は終始笑顔だ。マングローブの森にかかるアーチ橋は弾むように陸地を結んでいる。
「これで那覇からの物資の輸送が効率的になりましたね」
「あれだけ予算をいじった寧温が決して譲らなかった公共工事だもんな」
「朝薫《ちょうくん》兄さん、その言い方は違います。まるで私が公共事業潰しの鬼役人みたいではありませんか。私はただ優先順位を決めただけです。この橋は庶民たちにとっても必要な橋です」
「ぼくもそう思う。きっと百年後も役に立つ橋だ」
と笑った朝薫に三司官が咳払いをした。事業を締め括《くく》るのは役人たちではない。川の神に感謝を捧げる儀式を執り行うのは王族神の役目である。
「聞得大君加那志《きこえおおきみがなし》のおなーりー」
一斉の御拝《ウヌフェー》で頭を垂れる。上級ノロの大あむしられたちを従えた聞得大君は、天を突き刺す涼傘《りゃんさん》の中にいた。
聞得大君は高官たちの中に寧温がいるのを見つけて、敢えて自分がどう反応するか試した。だが今日は嘔吐《おうと》の感覚がしない。いくら王族といえども、王府における全ての情報を管轄する評定所筆者をむやみに嗅ぎ回るのは危険だ。誰にも悟られることなく慎重に、事を進めなければ。
――確たる証拠を掴むまでは妾《わらわ》も迂闊《うかつ》には動けぬか。
聞得大君が御拝で頭を下げている寧温の側を通り過ぎた。御殿《ウドゥン》増築の予算を反故《ほご》にし、独自の集金システムを構築したらすぐに会計監査に入ってくるこの評定所筆者が王府にいる限り、聞得大君の覇権《はけん》が確立することはないだろう。
――この王府の番犬めが。
王や三司官の代理人として文書を作成する評定所筆者は特権的な地位を与えられている。たとえば聞得大君の公的な案文を書くのも評定所筆者だ。王府の公式文書全てを少数の評定所筆者がまとめるのだから、彼らと敵対するのは王族といえどもリスクがある。証拠もなく動くとまた予算削減の報復を喰らうことは目に見えている。今の段階では聞得大君が不利だ。
聞得大君が完成した橋にミセゼル(祝詞)を捧げようとしていた。
流麗なアーチ橋の中央に足を進めた聞得大君は、神に身心を委《ゆだ》ねようとしていた。このミセゼルは即興で詠《よ》まれ、美しい声であることがもっとも重要なこととされている。王族神・聞得大君の腕の見せ所だ。当代の聞得大君はこのミセゼルにおいて歴代王朝の中でもピカいちと目されていた。
ミセゼルが何であるかを生まれながらに体得していた聞得大君は、大あむしられの補助などいらなかった。前の聞得大君は前夜にカンニングペーパーを作って、あたかも諳《そら》んじているように演技したものだった。しかし現聞得大君はそんなものはいらなかった。ミセゼルが即興で謡われるのには意味がある。その場にある自然の材料を使って、神に唯一物の供物を捧げるのが本質なのだ。雨の日は水を使い、晴れた日は雲を使い、うつろいゆく瞬間を身体に受け止め詞を織り上げる。これが理解できなければ、ミセゼルは一生かけても体得できない。
「神よ、妾の体に降り賜《たま》え――」
体を弓なりに撓《しな》らせた聞得大君が両手を広げて神と交信する。雲の隙間から一条の光が聞得大君の元におりてきた。まるで満員の劇場でアリアを歌うオペラ歌手のように、空気を振動させる強い波長が生まれる。
聞得大君はメゾソプラノの声域でミセゼルを捧げた。
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ま玉ばしまうはらひめしよわるミせゝる
とよミもりおくのミよくもことまり
いしらごはましらごはおりあげハちへ
つみあげハちへミしまよねんおくのよねん
世そふもり国のまでやげらへハちへ
このミよわちへたしきやくきついさしよわちへ
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このミセゼルは主観性と同時性が肝だ。客観性と普遍性が全ての男の世界と対をなすものである。即ち、聞得大君が霊力を使って降ろした言霊《ことだま》が現れたことに価値がある。大意はあるがひとつひとつの意味を汲《く》み取るものではなく、楽器の音色を愛《め》でる感覚に近い。聞得大君の肉体を楽器にして神の声が奏《かな》でられたということだ。
声を発した瞬間、聞得大君は神々《こうごう》しい光に包まれた。自然と人間を媒介する不思議な音感。聞得大君にしか紡《つむ》げない神のメロディ。自然界と人間界の界面に立つ者だけに聞くことを許される神の言葉。享受することでしか得られない意味を超えた至福《しふく》の時間。立ち会った者だけが垣間見《かいまみ》る神の影。大いなる世界を感じる恵みの瞬間だ。
三司官も表十五人衆も聞得大君のミセゼルに圧倒されていた。
「さすが聞得大君加那志。三代の王に仕えた私もこれほどまでのミセゼルを聞くのは初めてだ」
「彼女は聞得大君になるために生まれてきたと言われた王女ですからな」
「最強のセヂ(霊力)を持つ聞得大君がいるのは、王国の安泰の証拠ですぞ」
聞得大君はトランス状態に陥《おちい》ることで、ますますミセゼルに磨きをかける。彼女の肉体はもはや神の楽器になっていた。神が奏でるとメゾソプラノのアリアが生まれる。
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御ゆわいめしよわちへおもひぐわべ
くにぐにのあんじべ大やくもいた千人のさとぬ
しべげらへあくかべこくより上下おくとより上
ミやこやへまのおゑか人おひ人わか人
めどもわらべにいたるまで御はいおがミよわる
[#ここで字下げ終わり]
寧温も朝薫もミセゼルの声色の美しさに夢現《ゆめうつつ》の境地だ。
「私は夢を見ているのでしょうか。これは謡《うた》なんてものじゃありません。神の声そのものです」
「ぼくも信じられない。人ひとりの能力を超えている。まるで琉球の、国土の声だ」
聞得大君の謡は神の声であり、自然と人間の礼賛でもある。寧温の目の前に不思議な光景が広がっていた。
聞得大君のミセゼルが機織《はたお》りのように映る。三次元空間をつまみあげた聞得大君が綾取りのように新しい次元を織り上げていくのが見える。聞得大君が謡うと四次元の糸が現れる。ミセゼルは神の機織りだ。
「風も潮の香りも日差しも、声の糸でひとつに織り上げているようです……」
寧温は空間に曼陀羅《まんだら》を見ているような気がした。時計仕掛けのようにひとつひとつが関連性をもって動いている精緻な曼陀羅。ひとつの狂いもなく何ひとつ無駄がない完璧な統合の世界。風も光も香りも元々この曼陀羅からほぐれた糸にすぎない。そして国も王も男も女も元々はひとつの世界から分岐したものだと感じた。
「寧温なぜ泣いているんだい?」
寧温は朝薫に指摘されて初めて涙しているのに気づいた。なぜか神から肯定された気がしたからだ。女性の宦官《かんがん》も一興だと軽く肩を抱いてくれた温かい神の掌を感じた。
もっと慰撫《いぶ》されたいと切に願ったとき、聞得大君のミセゼルが終わった。
トランス状態から醒《さ》めた聞得大君は鋭い眼光を放った。
「ほほほ。まずまずの出来じゃ。これで橋に魂が宿ったぞ」
「聞得大君加那志の素晴らしい霊験に感謝いたします」
「ならば、妾の機嫌を損ねぬよう、常に遜《へりくだ》り、諂《へつら》い、傅《かしず》き、媚《こ》びることじゃ」
聞得大君はミセゼルが終わるとただの傲慢《ごうまん》な王族にすぎない。神に愛された者はかくも驕慢《きょうまん》になるものか。神が肉体に降りていないときは常に現世的な自己主張ばかりしている。きっと神が肉体を離れた苛立《いらだ》ちをぶつけているのだろう。
ミセゼルの後は無粋《ぶすい》な男たちに恥をかかせるのが定番だ。敢えてミセゼルを解釈させ、見当外れの意見をけちょんけちょんに貶《けな》すのを楽しみにしていた。
三司官や表十五人衆が暗い顔をして俯《うつむ》いている。聞得大君から面罵《めんば》されるくらいなら裸踊りをさせられた方がまだ体面が保たれる。大の男でも泣きべそをかくほど猛烈な愚弄なのだ。
聞得大君は表十五人衆の馬《ば》親方を指名した。
「馬親方。妾のミセゼルをどう思ったか申してみよ」
「は、はい。聞得大君加那志のミセゼルを聞いて私は恐悦至極《きょうえつしごく》でございました。ええっと、川の神が現れて橋を祝福しているようでございました」
「まこと頓狂《とんきょう》な感想じゃ。ミセゼルを聞かせる価値もない。そなたは腐った豚の耳の持ち主じゃ」
しょぼんと馬親方が凹んだ。
「ところで妾が拝んでいる最中、この橋を渡って辻のジュリ(遊女)を買いに行くそなたの後ろ姿が見えたが、錯覚だったか?」
一同が思わず噴き出した。確かに昨夜、評定所の会議を中座して遊郭《ゆうかく》に行ったのを高官たちは知っている。
「と、とんでもございません。私が遊郭になど行くはずもありません」
「そのジュリの名は確か鍋《ナビー》という娘じゃな。向《しょう》親方と兄弟になってまで熱をあげるとは酔狂《すいきょう》なことじゃ。花柳病《かりゅうびょう》に気をつけるのじゃ。感染源は向親方じゃぞ。ほほほほほ」
また役人たちが爆笑した。犬猿の仲の向親方と同じ女と寝ているとは初めて知った。聞得大君の霊力で見抜けないものはない。徹底的に恥部を暴《あば》かれ、晒《さら》し者にされた馬親方は穴があったら入りたい気分だ。聞得大君の人心|掌握術《しょうあくじゅつ》は女には現世利益を与え、男には敵に回したときの恐怖を植え付けることだ。そのためには見せしめがもっとも効果的である。
聞得大君が次の生《い》け贄《にえ》を見定めて、寧温の前で止まった。
「孫親雲上《そんペーチン》、妾のミセゼルをどう思ったのじゃ?」
突然、聞得大君に呼ばれた寧温は感じたままのことを話した。
「聞得大君加那志のミセゼルは大変素晴らしいものでございました。日差しを経《たて》糸に、潮の香りを緯《よこ》糸に、そして風をマンダナー(機織りのシャトル)にして織り上げた錦《にしき》を見たように感じました」
恭《うやうや》しく跪《ひざまず》いた寧温に、上級ノロの大あむしられたちが失笑した。ミセゼルでこんな感想を述べるなんて滑稽だった。しかし聞得大君は神扇で失笑を制した。
「ほう、その錦はどんな模様をしていたと思う?」
「はい、森羅万象《しんらばんしょう》を模した曼陀羅図でございます」
大あむしられの叱声が飛んだ。
「愚か者。聞得大君加那志のミセゼルは、橋の安全と王国の安泰を祈ったのじゃ。評定所筆者の分際で偉そうな解釈をするなど百年早いわ。神の国のことは我ら神女に任せよ。おまえたちは俗世のことを扱えばよい」
てっきり聞得大君のお褒めの言葉が貰えるとばかり思っていた大あむしられは、黙殺した聞得大君を不審に思った。聞得大君は強《こわ》ばった表情で振り返ると何も言わずに橋を後にした。慌《あわ》てた大あむしられたちが何が気に入らなかったのかと尋ねる。聞得大君は脂汗をかいていた。
「あの宦官。セヂが高い生まれのようじゃ」
「はあ? サーダカー生まれの相でもありましたか?」
サーダカー生まれとは霊的世界と交信できる特別な資質の持ち主のことである。ノロや聞得大君になるためには絶対に必要な能力だ。そしてこの時代に禁止されているユタにもサーダカー生まれの資質があった。
「大あむしられは、あの宦官の感想をどう思ったか述べてみよ」
「荒唐無稽《こうとうむけい》な感想でございました。ミセゼルにはあんな内容はございません」
聞得大君は苛立ちのあまり神扇で大あむしられを打ち据えた。
「サーダカー生まれのそなたたちでもこのザマか。妾は確かに日差しと香りと風で曼陀羅を織ったのじゃ。あの宦官にはそれが見えていたのじゃ。女のような匂いといい、サーダカー生まれの資質といい、何者なのか気になる」
聞得大君は人生最高のミセゼルを謡った日に、激しい挫折感を覚えていた。苛立ち満載中のところに系図奉行の男が割って入った。系図奉行とは首里士族の家系を管理する戸籍係である。
「聞得大君加那志に申し上げます。ご命令通り孫寧温の系図を洗っていましたら、不審な点が見つかりました」
「申してみよ」
「はっきりとした証拠はまだ見つからないのですが、もしかすると大罪人、孫|嗣志《しし》と関係があると思われます。かつて聞得大君加那志の霊験で大禁物所持の男の罪を暴いたのをご存じでしょうか?」
「憶えておる。確か阿蘭陀《オランダ》の書物を所持していた男がいたはずじゃ。その息子が孫寧温か?」
「いいえ、養子の息子と孫寧温は歳が違います。しかし孫嗣志には同じ歳のひとり娘がおりまして、彼女の消息もまた不明なのでございます」
聞得大君は勝機ありと見た。
弓の的ごころ肝や定めやり
騒がねばとどく人の思ひ
(目的を達成するためには、弓の的《まと》を射るように心を落ち着けて慌てずに集中すれば、必ず思いは届くものだ)
真っ直ぐに落ちてくる日差しは残酷だ。全てのものを赤裸々《せきらら》に暴いてしまう。富める者には栄光を、そして貧しい者には何ひとつない現実を見せてくれた。
御内原《ウーチバラ》には菓子の欠片《かけら》ひとつない。烏《からす》と一緒に食べ物を探していた思戸《ウミトゥ》が、後之御庭《クシヌウナー》に食べ物を見つけて、かぶりついた。
「アガーッ。ちんすこうだと思ったのに、石ころだったあ」
欠けた前歯の痛みで、思戸が正気に戻る。どうやら辛い現実から逃避した精神は幻《まぼろし》の世界へ迷い込んでいたようだ。とにかくお腹がすいて見えるものなら何でも食べ物に思えてしまう。御内原でご馳走にありつくためには、何か祝い事が必要だ。しかし食べ物にありつけそうな行事は今年はなさそうだと、先輩女官たちから聞かされていた。
「トゥイ小《グワー》の餌《えさ》を探さなくちゃ」
ヒヨコが餌を求めて鳴いている。御料理座にも大台所《おおだいじょ》にも寄満《ユインチ》にも米粒ひとつない。ここまで倹約されると庶民の方がもっと美味《おい》しいものを食べているのではないかと疑い始める。
「そうだ。京《きょう》の内《うち》だったらウクジの米粒が落ちているかもしれない」
大あむしられたちが御嶽《うたき》で祈願するとき、盆の上で米粒を弾《はじ》く占いをする。それがウクジだ。彼女たちはこの吉凶で農作物の出来不出来を判断している。
王宮は三つの区域に分けられている。思戸がいる御内原は王妃が管轄する女の世界、評定所のある王が管轄する男の世界、そして聞得大君が管轄するのが京の内と呼ばれる聖域だ。神職だけが立ち入りを許される京の内に女官が無断で入ることはタブーである。
しかし恐れ知らずの思戸は監視の目を盗み、京の内に潜入した。
「うわあ。森だあ」
鬱蒼《うっそう》と茂る原生林はここが城壁で隔絶された王宮だとは思えない。人が主役の王宮の中で京の内は樹が主人だ。昼間でもほの暗い京の内は神々の息吹《いぶき》で緊張感が漂っている。この中に首里十嶽《しゅりとたき》と呼ばれる御嶽が配置されている。思戸は御嶽の香炉の前に這《は》った。
「やっぱり米粒が落ちてた」
にんまりと笑う思戸に覆い被さる影があった。
「あがまが京の内に入るとは恐れ知らずじゃ。ほほほほほ」
「聞得大君加那志!」
思戸が振り返ると仁王立ちの王族神の姿があった。思戸は殺されると身を竦《すく》めた。
「申し訳ございません聞得大君加那志。あたしはただ……。ただ……」
思戸が涙声になる。すると思戸の懐《ふところ》からトゥイ小が飛び出した。母親を守ろうとピイピイ鳴くひよこに聞得大君も目を丸くする。
「ヒヨコの餌を探していたのじゃな」
トゥイ小を掌で抱きかかえた聞得大君が嘴《くちばし》を鼻先にこすりつける。
「お許しください聞得大君加那志。御内原には米粒もないので、つい出来心で入ってしまいました……」
すると聞得大君は抱えていた風呂敷包みの中から奉納したばかりの穀物を差し出したではないか。
「雛《ひな》の餌は粟《あわ》がよいじゃろう。ほらお食べ。ほほほほほ」
聞得大君がトゥイ小が餌をついばむのを見て微笑《ほほえ》む。恐いとばかり思っていた聞得大君がこんなに慈愛に満ちた笑みを浮かべるのを見たのは初めてだった。思戸の中で御内原の王妃への忠誠心が揺らいだ瞬間だった。
一方、貧乏のどん底の黄金御殿《クガニウドゥン》では女官|大勢頭部《おおせどべ》が王妃に謁見を求めていた。
「何と、私のトゥシビー(生年祝い)が大美御殿《おおみウドゥン》の行事に編成されただと?」
「はい、確かに大親《ウフヤ》から聞かされました」
「おお、神は私をお見捨てにはならなかったのだな。喜ばしいことだ。さっそくトゥシビーの準備を始めよ」
この後の王妃の反応が見てとれるだけに、女官大勢頭部は言葉に窮した。
「実は、申し上げにくいのですが……。このトゥシビーの予算は聞得大君御殿から出ております」
「なぜ聞得大君が私のトゥシビーに首を突っ込むのだ。形だけの祈願でよろしい」
「それが……。聞得大君加那志は恐らく御内原の支配を目的としているものと思われます……。聞得大君加那志が全てトゥシビーを仕切るのだそうです」
来るぞ、と女官大勢頭部が身構えた瞬間、王妃の怒りが爆発した。
「御内原は私の管轄である。分を弁《わきま》えよと伝えよ!」
「もし聞得大君加那志の意に添わない場合は、トゥシビーを中止すると申してきました」
「構わぬ。王妃の私がなぜ聞得大君に媚び諂《へつら》わなければならぬのだ。御内原に介入されるくらいなら、トゥシビーは中止してよいと大美御殿に伝えよ」
女官大勢頭部もそうしたかったが、全ては遅きに失した。外堀はもう埋められてしまった。聞得大君は王妃の拒否権の行使を見込んで先手を打っていた。
「実はご実家のご母堂様が王妃様のトゥシビーのために王宮へ上がっておられます」
女官大勢頭部が咳払いすると、王妃の母親が嬉しそうに謁見を求めてきた。年老いた母は聞得大君が寄越した輿《こし》に乗り、初めて入る御内原の華麗さに興奮|冷《さ》めやらぬ様子だ。母親の衣装や滞在費、そして祝いの品まですべて聞得大君が用意したものだ。母親はこんな素晴らしいもてなしを受けて思い残すことはないと感無量だ。白髪の母親が細い腰を折り曲げて挨拶する。
「うなじゃら(王妃)様のトゥシビーを心からお祝い申し上げます」
王妃は力なく肘掛けから崩れ落ちた。
同じ頃、表の世界にいる花当《はなあたい》の嗣勇《しゆう》は、美貌に磨きをかけていた。王府の高官たちを次々と手玉に取って着実に出世の道を切り開いていく嗣勇は、琉球のシンデレラだ。ただし計算高いのが玉に瑕《きず》だけど。花当の旬《しゅん》は短い。歳を重ねるにつれ容貌は男へと変わっていく。花びらが枯れてしまう前に次のステップを考えておかねばならないのは、時代を超えたホステスの悩みだ。
同僚の花当があれを見ろと先輩花当を顎《あご》で指した。
「あいつは二十歳をすぎてもまだ花当に縋《すが》っている無能な奴さ。青髭の剃《そ》り跡が痛々しいよ」
見れば筋骨隆々たる花当がしなを作っている。今年二十八歳になる最高齢の花当だ。王宮のドライフラワーとからかわれて早十年。新しい勤務先も見つからず座敷にお呼びもかからず、妖怪扱いされている始末だ。
「あの先輩だって、昔はすごい美少年だったんだろう?」
「花当は時の美しかないんだ。ちやほやされているとすぐに男になってしまう」
お化粧タイムの楽屋は熾烈《しれつ》な生き残り競争の最前線でもある。この美貌がいつまでも持続するとは楽天家の嗣勇もさすがに思ってはいない。踊りは好きだから踊奉行《おどりぶぎょう》になって創作|琉舞《りゅうぶ》の師範になりたいのだけど、人気ポストにはなかなか空きが出ない。空きが出る頃に髭が生えそろってしまったら妖怪花当の仲間入りだ。
「あんなになる前にさっさと次の勤務先を見つけないとなあ。系図奉行あたりが楽そうでいいんだけど。嗣勇は評定所配下の花当だから、高官たちと知り合えていいよなあ」
「別に……。そんなにいいところでもないよ。気苦労が絶えなくて……」
「なあなあ、評定所の孫|親雲上《ペーチン》ってどう思う?」
嗣勇は白粉《おしろい》をはたく手を止めた。
「孫親雲上がどうかしたの?」
「いや噂じゃないか。なんであの人だけ男にならないのか、みんな不思議がってるよ」
「宦官だからだろ。元々男じゃないんだから全然不思議じゃないさ」
嗣勇は嫌な方向に話が向いてきたのを避けたかった。寧温の素性を不思議がるのは仕方がないことだ。花当は時の美で咲く花だが、寧温は違う。朽ちるどころかどんどん色気が増していく。恐らく側室のあごむしられよりも美しいのではないかと噂されているほどだ。王は最近、寧温を直視するのを避けていると聞く。あまりの色香に王ですら戸惑っているのに、周りが動揺しないわけがない。宦官とはかくも美しき存在なのか、宦官になれば永遠の美が得られるのではないかと考え始める花当が出てくるのも当然の流れだった。
「ぼくの担当の奉行所のお役人様も、花当のぼくを無視して孫親雲上の噂ばかりしているよ。美味しいところ奪われて、ぼくの立場形無し……」
「知ってるか? あの人『王宮の朽《く》ちない花』って呼ばれてるんだぜ」
「蕾《つぼみ》どころか八重咲きの牡丹《ぼたん》みたいだ。毎日花びらが咲いてくる」
「どうすれば朽ちない花になれるんだよ。俺、毛深くなってきたのにさ」
一斉の笑い声を嗣勇が床を叩いて静めた。
「孫親雲上は才能のある役人だぞ。英国船事件の手際の良さで首里天《しゅりてん》加那志からお褒めの言葉をいただいたんだ」
「頭がいいのは認めるよ。科試《こうし》出身者だから当然だろう。俺が言いたいのはそんなんじゃなくて、あの色気だよ」
同僚たちが次々と噂を立てるたびに嗣勇は右往左往する。
「宦官って要するにあれだろ。つまりチンチンちょん切って――痛いな。何するんだよ嗣勇!」
「玉がないと真っ直ぐ歩けないって父ちゃんから聞いたことが――アガーッ。やめろってば」
「孫親雲上は評定所筆者|主取《ぬしどり》だぞ。無礼な口の利き方をするな」
「内輪だからいいじゃないか。俺、あの人のことが不思議なんだよ」
同僚が言うには寧温が用を足しに行くのをこっそり尾《つ》けたことがあるという。王宮には常設されたトイレがない。神殿を不浄で穢《けが》すことを忌み嫌ったためなのか、用を足すのも一苦労だ。
「みんな知ってる? 宦官ってさあ。おしっこするとき女みたいに屈むんだぜ。アガーッ。さっきから何すんだよ!」
手鏡で頭を叩かれた同僚が嗣勇を睨《にら》みつける。嗣勇は妹への無礼な眼差《まなざ》しを決して許さない。次の瞬間、胸ぐらを掴んで跨《またが》った嗣勇が容赦なく殴りつける。
「孫親雲上を侮辱するな。今度後を尾けたら許さないぞ!」
「おまえもしかして孫親雲上に惚《ほ》れてる? 痛い。痛いってば。顔だけは殴らないでくれよ」
女形の実態は所詮《しょせん》、好奇心旺盛な少年たちだ。やがて彼らも紅《べに》を取り、男髪へと結い直す時期がやってくる。彼らが男として王府の役人になった後も寧温の花は朽ちることはないだろう。
嗣勇は竣工式から戻ってくる寧温を久慶門《きゅうけいもん》で待っていた。酔っぱらいの門番の多嘉良《たから》は、王宮の人間関係の全てを把握している。嗣勇と朝薫だけが寧温の味方だ。
「また孫親雲上を待っているのか?」
「はい。活《い》ける花を何にしようか相談しようと思いまして」
「嘘が下手だな坊や。寧温が心配なんだろう。でも大丈夫だ。孫親雲上は聡明なお方だ。どんな苦難でも乗り越えていく」
「知っています。多嘉良殿にはいつも温かく見守っていただき感謝しております」
「がはははは。まるで家族みたいな言い方だ。坊やは面白いな」
嗣勇はこれ以上何か失言するのが怖くて多嘉良を無視した。門番の男はどうやら寧温の味方のようだが、尻尾を掴まれるわけにはいかない。とかく王宮は人目の多いところだ。心を開いたつもりで吐いた愚痴ですら、次の日は陰口を叩いたことになって敵を作ってしまう。王宮とはそういう所なのに寧温は正面切って財政をいじってしまった。寧温の周りは敵だらけで、嗣勇は気が気ではない。
竣工式から帰ってきた寧温を見つけた嗣勇は、龍潭《りゅうたん》に誘った。
「あなたは評定所の花当……」
「孫親雲上、お話がございます」
今まで絶妙な距離で妹を見守っていた兄が、初めて寧温に声をかけた。
城郭の外にある池、龍潭は王宮の施設の中で唯一息抜きできる場所だ。常緑樹の枝が覆う池の畔《ほとり》は目隠しになる。池の外周を散策する小径が囲み、親水公園の趣《おもむき》だ。家鴨《あひる》や鵞鳥《がちょう》が餌を求めて人のお尻をついてくる長閑《のどか》さだ。しかし油断は禁物だ。池を散策しながらも嗣勇は言葉を選んでいた。二人は互いの正体を知りながら、一度も兄妹だと確認したことはない。
「孫親雲上は、王宮では辛くありませんか? その、あまりにも孤独にお見受けいたします」
「いいえ。私には守ってくださる兄のような方がおります。その方に毎日お会いできるだけでも嬉しいのです」
「なぜ、王宮へ上がったのですか? もしかして誰かを庇《かば》って科試を受けたのでは――?」
「いいえ。私の意志です。父上が首里の男子なら科試を受けてみよと挑戦させたのです」
「その、孫親雲上のお父上はお元気でいらっしゃいますか?」
「いいえ。私を庇って死にました……」
足音の気配がしないので振り返ると嗣勇は足を止めて泣いていた。あんなに憎かった父なのに、もういないと知ると涙が止まらない。父の死に際に泣けなかったことが悔やまれてならない。父の期待を裏切って失踪《しっそう》したあの雨の日以来、心のどこかでいつか父と和解する日を期待していた。科試突破は無理だけど、花当から役人に出世する道だってある。女衣装を脱いで役人の帽子を被ったら、父に会おうと思っていた。そして父に思いっきりぶん殴られたとき、初めて謝れるような気がしていた。
「父上は私の失踪した兄のことを最後まで心配しておられました……」
「ご、ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめんなさい……」
畔に屈んだ嗣勇は小さな声を震わせて水面に涙を落としている。そんな兄の姿を見ないように、寧温は畔に咲く花を愛でるように歩いていく。ハイビスカスの赤い花が重たそうに首を垂らして水面を見つめていた。
「孫親雲上、失礼いたしました。ふと昔のことを思い出してしまいまして」
寧温はにっこり笑って手拭いを差し出した。
「もしどこかで兄上に会うことがあったら、私はお礼を言おうと思っております。私は今の人生に満足しております」
「宦官になってでもですか?」
「はい。紫禁城《しきんじょう》では宦官は珍しくありません。首里天加那志も認めてくださいました。琉球も宦官を登用する時代になったのです」
嗣勇は妹の性をズタズタにしてしまったのは自分のせいだと咎《とが》めた。あの愛くるしかった真鶴《まづる》が、豊かな黒髪を持つ妹が、男の恰好をして、溢れ出る性を抑えて生きている。異様な宦官であるという噂を耳にしないはずはなかった。こんな拷問《ごうもん》のような生き方を妹が選んでいることが可哀相でならなかった。
「ま、まづ……。いや孫親雲上、せめてぼくを頼ってください。どうか、どうかお願いします」
寧温は通り過ぎた王宮の役人と会釈をしながら嗣勇に「切り花が枯れていましたよ」と叱った。これ以上の会話は危険だ。
「王宮に情けは禁物です。私は評定所筆者、あなたは花当。上官として命じます。これ以上、私の身の上を詮索するのはおやめください。あなたの過去のことは私には関係ないことです」
寧温は足早に龍潭を後にした。緑色に濁る水面には性の入れ替わった兄妹の姿が揺らいで映っていた。嗣勇はやりきれない思いを一篇の琉歌《りゅうか》に託した。
しなさけど頼む誰が上になても
忘れてやり言ちも思まぬおきゆめ
(兄妹の情こそ最後の頼りなのに、あなたは忘れろと言う。忘れろと言って忘れられるものではない。いつまでもあなたのことを見守っている)
闇夜の首里に行燈《あんどん》を携えた白装束《しろしょうぞく》の巫女《みこ》が走る。聞得大君配下のノロたちが闇を待って一斉に散った。首里城のもうひとつの顔である神殿としての機能が目覚めた。本来、首里城は京の内と呼ばれる聖域から誕生したのだ。王朝の歴史の中で行政と宗教は両輪となり、神の子である王を補佐してきた。
ノロたちは地域の御嶽《うたき》で豊穣《ほうじょう》を祈願し、共同体の中心となって王府の中央集権を維持する。宗教指導者のノロが動くと、王府の役人でも迂闊に介入できなくなる。
「辰年の女狩りを始めるぞ」
ノロたちは各御嶽に配属された祭祀係の男を連れている。宗教世界では男は女に隷属するものとされていた。配下の男たちは主に力仕事や雑用をするためにいる。ノロの命令には絶対服従だった。行燈を携えた男たちが辰年生まれの女の家に押し入っていく。
「聞得大君加那志のご命令である。この家の娘に用がある。おとなしくお縄を頂戴《ちょうだい》しろ」
捕まえたのはまだ十代の乙女だった。突然現れた男たちに縄をかけられて娘は狼狽《ろうばい》していた。
「私が何をしたというのでしょう。どうかお縄を解いてくださいませ」
「容疑が晴れたら釈放してやる。こいつを大あむしられ殿の御嶽へ連れて行け」
外には辰年生まれの女たちが次々と連行されていく光景が広がっていた。娘や妻や母が連行されるたびに、家人たちが悲嘆の声をあげる。
「どうか母を返してください」
「妻が何をしたのですか」
「娘に罪はございません」
まるで疫病の患者を隔離するかのようにノロたちは突然現れ、理由を告げることなく連れ去っていく。そして帰ってくるときは決まって半死半生の状態だ。凄まじい拷問に遭い傷を受けた女たちは多くを語りたがらなかった。庶民たちは夜になると死に神のように現れるノロの姿に怯《おび》えるようになっていた。
連行された娘は、御嶽に着く前に自分の運命を悟った。角を曲がるごとに呻《うめ》き声が形を帯びてくるのがわかる。また角を曲がると鞭打《むちう》ちの乾いた音が聞こえてくる。御嶽の前に出たとき、呻き声の主がわかった。昨日まで一緒に野良作業をしていた近所の少女の声だった。
「誰か……。誰か、お助けをーっ!」
娘の絶叫が闇夜をつんざいた。
大あむしられ達が住民台帳を睨んでいる。系図奉行は士族の血脈を管理するが、農民たちの出生管理までは行き届かない。これを補うのがノロの情報力である。農民たちは地方の奉行所に出生届を出した後、子の成長を願って御嶽に祈願する。そのため、自ずとノロの許に情報が集まる仕組みになっている。ノロが独自に持つ住民台帳は農民たちの系図を細かに記していた。表世界には決して漏《も》れることのない、住民基本台帳だ。聞得大君はこの住民台帳を一元的に管理する政策を打ち出した。
大あむしられ達がてきぱきと指示を下す。
「真和志村《まわしむら》には辰年の女が六百三十五人いる。このうち十歳以下の女を対象から外す。怪しいのは高齢者だ。勾玉《まがたま》はどんなものでも押収せよ」
「昨日までの押収分をここへ」
持ち込まれた勾玉は千個以上もあった。ガラス製から翡翠《ひすい》まで大きさも質も様々だ。この時代、農民の女性たちのお洒落《しゃれ》は日本製の勾玉をアクセサリーにすることだった。農民がこのような贅沢品を所持するのは好ましいことではないが、流行は過熱する一方だった。王府から贅沢品所持を戒《いまし》める通達をいくら発布《はっぷ》してもまるで効果がない。
「この中に馬天《ばてん》ノロの勾玉はあるのか?」
「恐らくありません。伝説では馬天ノロの勾玉は百八つの勾玉が使われていたとあります」
押収品の勾玉は、ほとんどが単体で伝説の巫女の勾玉に相応《ふさわ》しい品ではなかった。
地方のノロが報告にあがった。彼女の白装束は返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。
「ご報告いたします。拷問での死者の数が五名に達しました」
「三十人までは聞得大君加那志が揉み消すと仰《おっしゃ》った。死体は大与座《おおくみざ》の役人に渡せ」
「はあ、ですが罪状を何と申せばよいのでしょうか」
「切支丹《キリシタン》ということにしろ、と聞得大君加那志の命令である」
「なるほど、切支丹なら処罰されても仕方がありませんな」
王府の切支丹アレルギーは過剰だ。切支丹がいたとなると薩摩に介入する口実を与えることになるし、何より琉球の宗教世界が侵略されてしまう。とかく対立しがちな政治の世界と宗教の世界が足並みを揃えるテーマが切支丹だ。
「首里天加那志も聞得大君加那志も切支丹に関しては厳罰を以て臨むと布令を出しておる。切支丹の処遇には如何《いか》なる例外もない」
仰せのままに、とノロは頭を垂れた。
御嶽では磔《はりつけ》にされた女たちに一斉に鞭が飛ぶ。
「さあ、どこに勾玉があるのか白状しろ!」
「さっき、差し出したものだけで――ぐわあああっ!」
「嘘をつけ。他にも勾玉を隠しているだろう」
「本当に……それだけで……ぎゃあああああっ!」
鞭打ち十回で娘は失神してしまった。手際よく男が桶《おけ》の水を女にかける。傷に染みいる痛みで娘は、また現実に戻されたことに絶望した。腰から下にもう感覚がなく、重い荷物がぶら下がっているように思えた。見れば、足首があらぬ方向に曲がっている。どうせこのまま生きのびてもまともな生活はできない体だ。いっそ息の根を止めてほしかった。
「農民のお前が勾玉を持っているだけで怪しいのだ。さあ、白状しろ」
「私は……私は……何も……」
娘は最後に残された力で舌を噛んで自死していた。この光景にも慣れた男が、筵《むしろ》を被《かぶ》せて大与座に提出する台帳にこう表記する。「切支丹の容疑者死亡」と。
御嶽での拷問をよそに聞得大君御殿では次の一手が模索されていた。増築したばかりの御殿には大美御殿の役人や奥書院の役人がひっきりなしに出入りしている。
碧眼の王族神は、着実に王妃を追いつめていた。
「王妃様がトゥシビーを受け入れたじゃと? 慶賀なことじゃ。妾も王妃様の生年を心からお祝い申し上げると伝えよ」
『親まで呼びつけたら受け入れるしかないじゃないか』
「妾が考えたトゥシビーの式次第を渡す。御料理座の役人にはこの献立で行くと伝えよ」
奥書院奉行は献立を見て仰天した。伊勢海老は王妃の嫌いな食材だ。嫌いどころかアレルギーが起きるから医者からも禁止されている。鮑《あわび》もシャコ貝も一見高級食材だが、全て王妃の嫌いなものだ。
「王妃様の長寿を願っての献立じゃ。伊勢海老の髭のようにあやかりたいという妾の願いじゃ」
『どうしよう。王妃様がこれを知ったら卒倒されてしまう……』
奥書院奉行は二人の王族の間に挟まって生きた心地がしない。この後、御内原に戻ったら王妃の怨嗟《えんさ》を浴びせられることになると思うと憂鬱《ゆううつ》だった。
「女官大勢頭部と配下の女官たちにはこの衣装を着るように伝えよ」
聞得大君が差し出したのは葬儀の白装束だった。一体何を考えているのか、と奉行が唖然としている間に、庭には壮麗なガンダルゴー(死者の輿)が到着した。
「これに乗って王妃様が登場するのじゃ。見物じゃと思わぬか。ほほほほほ」
トゥシビーを法要のように営むというのが聞得大君の趣向らしい。顔面蒼白になった奥書院奉行は、王妃にトゥシビーを中止するように進言するつもりだった。
聞得大君御殿の大親がいくらなんでもやりすぎだと諫《いさ》める。
「聞得大君加那志、このことが首里天加那志にバレたらただではすみませんぞ。何しろ相手は王妃様であられますぞ」
「心得ておる。あの式次第を読んで素直に従う王妃様ではないはずじゃ」
「何を考えておられます?」
聞得大君は神扇で笑みを隠した。聞得大君は王妃の性格を知り尽くしている。トゥシビーを法要にしようとする企《たくら》みを知った王妃がこのまま黙っているはずはない。王妃の威信にかけて反撃に出るに違いない。そのときが本当の勝負だ。
「既に間者《かんじゃ》を御内原に入れておいた。なかなか使えそうな女官じゃて」
聞得大君がポンと扇で床を打ち鳴らすと、襖《ふすま》が開いた。奥には御拝で頭を垂れた少女がいた。現れたのはあがまの思戸だ。欠けた前歯を見せた思戸がにこっと笑った。
「お呼びでしょうか。聞得大君加那志」
その頃、御内原に戻った奥書院奉行は、王妃の逆鱗《げきりん》に触れて身を小さくしていた。
「私のトゥシビーを法要にすり替えるとは無礼な! いくら聞得大君でも不敬がすぎるぞ」
寄越したガンダルゴーは王族が乗る輿らしく壮麗な装飾だ。これを目の前にして怒らない者などいない。
「トゥシビーは中止する。私は今後一切の王宮祭祀の出席を断る」
「王妃様、それは困ります。王妃様の出ない王宮祭祀などありえないことでございます」
「では、聞得大君の傀儡《かいらい》になり下がれということか。私は御内原の支配者である。聞得大君が自由に出入りする御内原など考えただけで虫酸《むしず》が走る。何としても聞得大君を討ってみせるぞ」
黄金御殿の襖が開くと、巨体の女官の影が映る。
「王妃様、どうか私にお任せください」
女官大勢頭部が鼻息を荒らげて現れた。
聞得大君を野放しにしておくと、女官大勢頭部の地位も危ない。御内原の女官たちを束ねる女官大勢頭部も派閥を解体されつつある。国母派と側室派に分かれた女官グループをもう一度結束させるためにも、聞得大君の影響力は排除しておかなければならない。
陰謀にかけては王妃も女官大勢頭部も聞得大君に負けない策士だ。王宮は常に討つか討たれるかの歴史で成り立っている。特に女たちの世界は表に出ることがない分、過激になりがちだった。女官大勢頭部もこの地位に就くために、何人ものライバルたちを蹴落としてきた百戦錬磨の猛者である。たとえ王族神といえども、敵とわかれば討って出るのが御内原の女だ。
王妃が女官大勢頭部を目にかけているのは、王族といえども容赦《ようしゃ》しない勇猛果敢な姿勢だ。かつて国祖母の献立を操作し脚気《かっけ》にしたのは女官大勢頭部の仕業だ。これで国祖母の寿命を十年縮めてみせた。以来、女官大勢頭部は王妃の右腕として絶大な信頼を獲得している。
「女官大勢頭部よ。私たちが劣勢にあるのは知っての通りです。このままだと聞得大君の思うままに操られ、王女の聞得大君相続は破棄されてしまうでしょう」
女官大勢頭部はどっしりと石のように座った。
「決して聞得大君加那志の思い通りにはさせません。ここはひとつ罠《わな》を仕掛けましょう」
「そう来なくては女官大勢頭部ではない。さすが頼りになります」
女官大勢頭部がそっと王妃に耳打ちした。
「聞得大君の能力を疑わせればよいだけでございます。ただし少々危険が伴いますが……」
女同士の悪巧みが始まった。
聞得大君御殿では思戸の御内原人間解説が始まっていた。芋の天ぷらを頬張った思戸は、口に入れながらもう次の天ぷらを握っている。京の内での一件ですっかり主人を鞍替《くらが》えした思戸は王妃を裏切ることに躊躇《ちゅうちょ》はない。
聞得大君が情報収集役に命じた思戸は、予想以上に御内原の内情を把握していた。
「女官大勢頭部様は最近、大和《やまと》の扇子をお買い求めになりました」
「予算はないはずじゃが?」
「出入りの業者には現金でお支払いされていました」
「貧乏なのに妙じゃな。他に変わったことはないか?」
「御料理座の料理人たちが勢頭部たちの用件を言いつかっております」
「どうせまた闘鶏で賭博《とばく》でもしておるのじゃろう」
「違います。闘鶏のときは料理人たちを使わずに、継世門《けいせいもん》に商人たちが報告にきます」
「よく調べたものじゃ。おまえの観察力には目を見張るものがある」
思戸を抜擢《ばってき》したのには理由がある。いつか聞得大君御殿増築祝いで御内原の女官たちを呼び寄せたとき、思戸だけが資金の出所に迫ったのだ。庭の造りが海運業者の屋敷に似ていると指摘した思戸は、大親に弁天堂の祈願業務委託でもしなければ、こんな御殿は出来ないと告げたのだった。有能ならたとえ幼くても身分が低くても重用するのが聞得大君だ。初めは聞得大君御殿付きの女官にしようと思ったが、思戸の好奇心は間者向きだ。
どうやって思戸と接触しようかと思案していたときに、思戸が京の内に現れた。この縁を見逃す聞得大君ではない。さっそくヒヨコの餌を大量に与え、思戸にご馳走を与え、あっという間に懐柔《かいじゅう》してしまった。そして聞得大君は思戸に人間の弱みを握るように教育を施した。これができなければ御内原で生き残ることができないと巧みに脅しながら。
「思戸よ、もし王妃様と女官大勢頭部が妾を討つとしたら、どう出てくるか予想できるか?」
「はい。女官大勢頭部様は一挙両得を信条としております。聞得大君加那志を御内原から追い出すだけでは、相続で報復を受けてしまいます。そんな愚かなことをする人たちではありません。討つときには必ず王女様の得になるように仕掛けるはずです」
「妾もそう思う。だから敢えて罠に飛び込むのじゃ。あがまたちの協力を頼むぞ」
聞得大君と王妃が互いの地位の存続を懸けて、一世一代の戦いに出ようとしていた。
闘争心が昂《たかぶ》っているときに、複数の闘いを挑むのが聞得大君だ。風が吹いているときに全ての敵を根絶しないと気が収まらない。思戸が帰った後に現れたのは大あむしられ達である。
「馬天ノロの勾玉の持ち主は見つかったか?」
「まだでございます。辰年生まれの女を全て尋問にかけるにはあと一月はかかります。少々困ったことに、死亡者が三十人を超えました。大与座の役人たちが不審に思っております。なぜ容疑者が女だけなのかと申してきました」
「切支丹は琉球では御法度《ごはっと》じゃ。聞得大君が懸念《けねん》するのは当然のことじゃろう」
「ですが本来、取り調べは大与座がすることになっております。越権行為と言われても仕方がありません」
聞得大君は大与座に相応しい仕事を与えてやれば不満は収まるだろうと踏んだ。
「護国寺にいるベッテルハイムが信者獲得のために布教活動を始めたと言え」
「ベッテルハイムに濡れ衣《ぎぬ》を着せるとなると相応の証拠がいります。いくら王府の厄介者とはいえ、英国人を処分するとなると外交問題に発展しますぞ」
「だから、拘留するだけでよいのじゃ。どうせ証拠不十分で釈放されるじゃろう。こうなったのもおまえたちの尋問が下手なせいじゃ。ひとりつれて参れ。妾が尋問の手本を見せてやろう」
御殿に連れて来られた女は、鞭打ちで皮膚が捲《めく》れ上がっていた。どんなに拷問しても決して失神せず、頑《かたく》なに勾玉を手放さない女だった。彼女の勾玉は普通の品だというのに、押収されることを拒否し続けていた。そのせいで拷問は苛烈《かれつ》を極め、鞭を打つ男の方が音《ね》を上げてしまったほどだ。
経緯を聞いた聞得大君は、相手に不足なしと鞭を構えた。
「痛めつけても白状せぬとは見上げた根性じゃ。妾のお仕置きはちょっときついぞ」
「私は……。私は……無実でございます……」
髪を散らし、瞼《まぶた》を腫れ上がらせた女は、首を持ち上げることもできない。聞得大君の鞭が容赦なく打ち付けられた。
「勾玉はどこにあるのじゃ! 渡すのじゃ! このっ! このっ! このっ! このっ!」
鞭を打ち据えると、着物の切れ端なのか肉片なのかわからない赤く千切れた破片が飛ぶ。辺りは錆《さび》ついた血の匂いが立ち込めていた。嗅覚の鋭い聞得大君が、顔を歪《ゆが》めた。この女は賤《いや》しい素性の匂いがする。
「もしやおぬしはジュリ(遊女)であろう?」
女は否定しなかった。それどころか女は安堵《あんど》の表情を浮かべたではないか。
「ジュリであるから……。私がジュリだから……。罰するのですね……」
女がずっと失神せずに粘っていたのは、咎められる理由を知りたかったからだ。勾玉を所持しただけでこの仕打ちは納得できない。たとえ普通の品といえども彼女にとってささやかな慰めの勾玉だった。男は毎晩体を通過していくが、勾玉だけはいつでも懐にある。彼女にとって勾玉は唯一、変わりなく自分の側にある不変のものだった。子どもの頃に遊郭に売られ、自分の価値なんて見出せない人生だった。そんなある日、風流を好む役人の男が日本製の勾玉をくれた。彼女が初めて垣間見た異国の世界は透明で艶《あで》やかで柔らかい形をしていた。ジュリは死んでも手厚く供養されることはない。死後の極楽浄土を夢見ることすらジュリにはできない。せめて生きているこの世で、遠い異国を夢見ることしか許されなかった。勾玉は彼女の最後の希望だった。
「私は……。好んで……ジュリになったわけでは……ありません……」
朦朧《もうろう》とした意識の中でジュリは譫言《うわごと》のように繰り返した。
聞得大君は賤しい身分の人間が大っ嫌いである。特に男を弄《もてあそ》ぶジュリなどもってのほかだ。琉球の女性は本来、生まれながらにして神となる器《うつわ》である。その器を穢し、辱《はずかし》め、性の道具に使うなんて言語道断《ごんごどうだん》である。
「おまえのような女がいるから、国が乱れるのじゃ。恥を知るのじゃ。この阿婆擦《あばず》れがっ! この売女《ばいた》が! この端女《はしため》が! この雌猫が!」
「聞得大君加那志おやめください。本当に死んでしまいます」
大あむしられが制しても聞得大君の折檻《せっかん》は止まらない。宗教世界から見れば、男なんて次元の低い存在なのだ。その男よりも下にいる女なんて、人である価値すらない。ジュリなんて女の形をした家畜にしか思えなかった。
「悔い改めるのじゃ。妾の鞭で性根《しょうね》を叩き直してくれようぞ。さあ勾玉を寄越すのじゃ」
悶絶《もんぜつ》しかけたジュリの掌から小さな勾玉が零《こぼ》れ落ちた。
「私の……。私の勾玉が……」
聞得大君が日に透かすように持ち上げて、大した品ではないと庭石に叩きつける。パリンと軽い音を立てて砕け散った音を聞いたとき、ジュリは初めて声をあげて泣いた。
「私を……。私を殺して……。もう……生きていたくない……。うわあああああっ……」
「愚かな女じゃ。さっさと渡しておれば痛い目にも遭わなかったものを」
聞得大君は踵《きびす》を返すと、憮然《ぶぜん》と御殿に戻ってしまった。
空と大地の間にある紅《くれない》の宮殿は、人と神の交差する視界が広がる。下界を眺めれば人の営みが小さく見えるし、天を見上げれば神の懐の大きさを知ることができる。もっとも王宮をそうやって見るのは、閑な人間にしかできないことだけど。
久慶門で欠伸《あくび》をした多嘉良は空の高きを知る人物だ。門番といっても形式上のものだ。琉球の牧歌的ともいえる治安では門番が役に立つことなど皆無だった。
「よし、儂《わし》の今日の業務はこれにて終了。後は任せたぞ。がはははは」
と日がまだ高いのに、多嘉良は最近仕事をさぼってばかりいる。目当ては銭蔵《ぜにくら》奉行の儀間《ぎま》親雲上が管理する泡盛だった。古酒を造るのに注ぎ足す酒を少々味見を兼ねていただくのである。
「古酒のことならこの多嘉良に任せておけ。まず大切なのは品質を常に管理することだ」
要するに試飲するのである。酒蔵の番人の儀間親雲上は閑を持て余して琉歌を詠んでばかりいる。どれもこれも恋の歌ばかりだ。酒と女に溺《おぼ》れ好色人生まっしぐらの儀間親雲上は、暗い酒蔵でいつか会った女のことに想いを馳せていた。
花と知りなげな心尽しゆすも
時の間の縁のつらさあてど
(遊女と知りながら心尽くして苦しい思いをするのも、一時的な縁がつらいからだ。これが永久の契《ちぎ》りができる女であったら、こんなに苦しい思いはしなかっただろう)
儀間親雲上は深い溜息をついた。
「私としたことがジュリに思いを寄せるなんて……」
女性に困らない儀間親雲上は、いろんな女とつきあってみることが人生の楽しみである。美人とつきあうのは飽きた。女はブスな方が可愛気があって面白い、と儀間親雲上は言う。いっぱいいっぱいだからこそ、泣いたり笑ったり嫉妬《しっと》したりする。それくらい個性がないといちいち憶えていられないということもある。いつか辻の遊郭に出かけたのも、新しいタイプの女性と知り合うためだった。そこで儀間親雲上は、究極の女と出会ったのである。
「私があげた勾玉をあんなに珍しそうにしてくれたなんて……」
よくあるガラス玉に目を輝かせてくれたあのジュリは、今頃どうしているのだろうか。ジュリならもっと高級な品など見慣れているはずだろうに、彼女は興奮して礼を言うのもたどたどしかった。それがジュリの手口かもしれないけれど、今時の娘はガラス玉にあんなに喜んだりはしないものだ。それだけでも新鮮だった。しかし身分違いである。そこもまた切なくてよい。
多嘉良は泡盛の品質管理と称して全ての瓶の試飲をしている。
「おい儀間親雲上、よく酒も呑まずに酔っていられるものだな」
「酔狂とは酒を呑まずに酔うことだよ。ふふふ」
「自分に酔っているだけだろう」
多嘉良と儀間親雲上は王府の酒をくすねて窮状をしのいでいる。泡盛の生産を縮小されたとはいえ、古酒だけは別だ。年季を重ねて熟成される琥珀《こはく》色の酒は琉球のバーボンだ。三十年以上の古酒になると金以上の価値がつく。泡盛を貯蔵することは金を管理しているのと同じことだった。
銭蔵奉行の酒蔵に商人の荷車がやってきた。
「お役人様、こちらが御料理座でございますか?」
「ここは銭蔵だ。御料理座は継世門から入れ。ちょっと待て。それは何だ」
儀間親雲上が荷車の品を確かめた。
「御料理座からご依頼されておりました慶良間島《けらまじま》の西瓜《すいか》二百個でございます。どれも極上品でございます」
慶良間島の西瓜といえば高級贈答品にも使われる名産品だった。慶良間の西瓜と聞いて多嘉良の目が輝く。王府に納められるだけあって大きさも艶《つや》も最高級の品質だった。
「御料理座を使う宴があるとは聞いていないが」
「私は王妃様のトゥシビーで申し遣っただけでございます」
「王妃様のトゥシビーは中止すると聞いていたが」
「私も昨日までそう伺っていて、肝を冷やしておりました。せっかくの西瓜が全部無駄になってしまうところでございました」
儀間親雲上は女好きだからこそ、女のゴタゴタには首を突っ込まないことにしていた。御内原の王妃と聞得大君の水面下での闘いを知らない役人はいない。互いの存在と自尊心をかけた闘いに朝令暮改《ちょうれいぼかい》はよくあることだった。王妃も聞得大君も奸計《かんけい》を張り巡らせることに関してはプロ中のプロだ。きっと聞得大君が内堀まで埋めてきて、王妃が追いつめられたに違いない。
「通れ。そうだついでにこの手紙を御内原の女官に渡してくれ」
と儀間親雲上は勢頭部に宛てた手紙を渡した。それを見た多嘉良が呆《あき》れてしまう。
「何て恐ろしい奴だ。ついに御内原の女官にまで手をつけたのか。バレたら二人とも斬首だぞ」
しかし儀間親雲上は懲《こ》りた様子もない。
「恋は常に危険と隣り合わせなのだ。人生は常に花で彩《いろど》りたいものだ」
遊女から女官まで手をつける儀間親雲上は恋の総合商社だ。持ち前の美貌と教養と風流で、狙った獲物は外さない。もっともこの女癖の悪さが評定所筆者としての品性に欠けるという理由で、銭蔵に配属されたことを儀間親雲上は知らない。酒蔵の中に閉じこめられても彼の恋に生きる人生は変わらなかった。彼が狙った女官は器量よしと噂される又吉《またよし》勢頭部だ。
「ところで多嘉良殿、着物の中に何を隠しておられる?」
多嘉良の腹は臨月の妊婦のように膨《ふく》れあがっている。中から現れたのは上納品の西瓜だった。
「がはははは。バレたか。さっきの西瓜をちょっと分けてもらったのだ」
「何と恐ろしい奴だ。王府の食材に手をつけたら鞭打ちだぞ」
「一個くらいくすねても大丈夫だ。慶良間の西瓜なんて食べるのは十年ぶりだぞ。さあ儀間親雲上、一緒に食べよう。がはははは」
多嘉良が包丁でざっくりと西瓜を割ると、中から冷たい果汁がこんこんと湧きあがった。多嘉良と儀間の感嘆の声があがる。さすが王府への上納品だ。熟《う》れた果肉は古酒にも似た芳醇《ほうじゅん》な香りを放つ。慶良間の西瓜が市場で普通の西瓜の五倍の値をつけられるのも納得だ。目にも涼やかな西瓜だが、頬張るとシャーベットのような食感が喉をくすぐる。慶良間の西瓜は蟻《あり》がたかるほど甘いから天井に吊せと言われた。天然のシャーベットに味蕾《みらい》が心地好く痺れる。
「西瓜に恋をしそうだ……」
と儀間親雲上が唸《うな》る。多嘉良は皮がぺらぺらになるまで齧《かじ》り続けていた。
――まだもう二個隠してあるもんね。がはははは。
銭蔵に棲みついた鼠《ねずみ》は色ボケと食いしん坊のコンビだ。出世街道から外れても甘い蜜があるのが王宮生活の楽しみである。
やがて御料理座に品を卸《おろ》した商人が、さっきの手紙の返事を言付かってきた。胃の中に恋を満たした儀間親雲上は勝利の予感に上機嫌だ。又吉勢頭部は琉歌で返してきた。
里やなりふぎの姿とりめしやいら
我身やしなさけの縁どとゆる
(貴方は恋において見た目の美しさが大事なのでしょうが、私は愛情で結ばれる縁を大切にしております。御内原の女はそんなに愚かではありませんよ)
儀間親雲上に痛恨の一撃だ。しかしこれで懲りたら色男の名が廃《すた》る。
「う〜む。なかなか手強い……。だからこそ落としてみたい」
「何て業の深い奴だ」
酒蔵の鼠たちは、やがてここが王宮を揺るがす震源地になるとは露とも思っていなかった。
儀間親雲上の恋模様などに女官たちは関わってはいられない。御内原は王妃のトゥシビーの準備のために活気づいていた。財政改革で煽《あお》りを受けて干上がっていた女官たちに恵みの雨が降ってきた。窮屈な王宮暮らしと引き替えの贅沢なのだ。自由もなければ金もないなら、庶民暮らしの方がまだマシだ。御内原の窮状に嫌気がさして王宮を離れた女官たちもいたほどだった。
王妃の元に聞得大君から祝いの品が入った。いつか聞得大君が着ていた友禅の打ち掛けである。王妃は眉ひとつ動かさずに聞得大君御殿の女官に礼を述べた。
「大層なお心遣い痛み入ります。素晴らしい打ち掛けを感謝すると聞得大君にお伝えください」
王妃のヒステリー落雷を予想していた女官は拍子抜けだった。あまりのショックに頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「伊勢海老の料理も楽しみにしておる。女官たちの衣装の配慮までしていただき心苦しく思っておるとお伝えください。生前に葬儀をすれば長寿になるという聞得大君のお心遣いまことに嬉しく思います」
王妃の側にいる女官大勢頭部が葬儀の白装束に着替えてにこにこと相槌《あいづち》を打っている姿も不気味だ。見れば王妃付きの女官たちも全て喪服だ。まるで墓場から甦《よみがえ》った亡者《もうじゃ》が黄金御殿を支配しているようだ。
聞得大君御殿付きの女官は天変地異の前触れを感じた。両者は常に怒っていることが日常なのだ。いくら奸計《かんけい》を施したからといって王妃がこんなに簡単に屈するなんてありえない。
聞得大君御殿付きの女官が帰ったと知ると、王妃は眼光を鋭くした。
「女官大勢頭部よ、これでよいのだな?」
「はい王妃様。聞得大君加那志を返り討つためには御内原に入れなければなりません。聞得大君加那志のミセゼルのときが勝負でございます」
女官大勢頭部は決戦の舞台を御内原にした。勝手知ったる御内原なら王妃に分《ぶ》がある。聞得大君は御内原の|火の神《ヒヌカン》を管理する。それが強みでもあり、今回の弱みでもある。
「これで王女様の相続は間違いないでしょう」
「聞得大君は図に乗りすぎた。私に従っていればあと十年は栄華を極められたものを。王妃の私に刃向かったことを後悔するがよい」
トゥシビーはいよいよ明日だ。
その日の夜のことだ。御内原に女官の鋭い声があがった。「誰か誰か!」と半鐘を打ち鳴らしたような声が後之御庭《クシヌウナー》に響き渡る。声の主はあがまの思戸だ。
「侵入者です。侵入者です!」
御内原に侵入者がいると聞いた女官たちが衛兵に変わる。六尺棒を構えた女官たちは御内原の治安維持部隊だ。思戸が指さした寄満《ユインチ》に気合いを入れて押し入った女官たちが、ひとりの侵入者を取り押さえた。
松明《たいまつ》の前に晒された覆面の侵入者は男だ。御内原に男が入るなど絶対にあり得ないことだった。もしこのことが表の世界に知れたら天地がひっくり返る騒動になる。
苦々しい顔をして出てきたのは王妃と女官大勢頭部だ。
――だから慎重にやれと命じたのに……。
覆面を剥《は》がされた男は王妃の弟だった。このままだと聞得大君の傀儡に成り下がってしまうことを恐れた王妃は、窮余《きゅうよ》の一策を講じた。信用のおける実弟を密かに御内原に潜り込ませた王妃は、明日のトゥシビーで聞得大君がミセゼルを謡うときに寄満の火の神の香炉を割れと命じたのだった。もしミセゼルで香炉が割れたなら、それは聞得大君が神から見放されたという意味である。王妃と女官大勢頭部の陰謀は水泡に帰した。
「皆の者下がれ。決してこのことは他言せぬように」
今はなるべく早く弟を御内原の外に出し、箝口令《かんこうれい》を敷くことだ。幸い丑《うし》の刻で国母も側室もまだ気づいていない。下っ端のあがまや女官なら表沙汰《おもてざた》になることはない。
「女官大勢頭部よ。密かに弟を外に連れ出せ」
心得た女官大勢頭部が侵入者の袖を掴んで後之御庭を駆ける。すると一足早く継世門が不気味な音を立てて開門した。夜風とともに現れたのは碧眼《へきがん》の王族神だった。
「聞得大君加那志のおなーりー」
聞得大君の勝ち誇った笑い声が御内原にこだまする。
「見たぞ見たぞ。妾はこの目でしかと見届けたぞ。王妃様ともあろうお方が御内原に男を手引きするとは何という失態じゃ。ほほほほほ」
「これで私の王室人生は終わった……」
王妃は愕然《がくぜん》と崩れ落ちた。
朝を迎えても昨夜の御内原の侵入者のことは表に聞こえてこなかった。代わって料理人たちが次から次へと宮廷料理を持ち運ぶ姿が見られる。表世界の役人たちは風に紛れて聞こえてくる華やかな神楽《かぐら》の囃子《はやし》から王妃のトゥシビーが盛大に行われていることを想像するしかない。
「王妃様もきっとお喜びのことであろう」
「おお、聞得大君加那志のミセゼルが聞こえてくる」
「さすが聞得大君加那志のお心は広いですな。こんなに澄んだミセゼルを聞くのは初めてだ」
御内原の全てを掌握した聞得大君の喜びのアリアは延々と続いた。霊力を漲《みなぎ》らせた聞得大君は今日は一晩中でも謡う覚悟だ。意地悪度と神の寵愛量はなぜか比例する。絶頂の聞得大君が空と雲と花と風、そして王妃の涙をひとつに織り上げて神への供物としていた。
一方、宴とは縁のない評定所は、今日も正確無比な機械のように案件を次々と処理していた。
「今月は切支丹を処罰した口上覚《こうじょうおぼえ》が多いですね」
寧温が嫌な話だと顔を顰《しか》めた。口上覚とは、今でいう検察が送検した書類のことだ。大与座が逮捕者をどのように処遇したのかが細かに述べられている。琉球が切支丹を処分する理由は薩摩と協調しているためで、それ以上の理由はない。切支丹を厳罰に処せと薩摩から命じられるから仕方がないのだが、気分はよくなかった。語学習得のために密かに聖書を読んだことのある寧温には、基督《キリスト》教がそんなに危険な宗教だとは思えない。しかし法の番人である以上、個人的な意見を述べることはない。また次も切支丹の件だ。
――どうか見つからないで。
と祈りながら口上覚を処理した。
朝薫が何か不穏な動きを察知して寧温に耳打ちする。
「系図奉行が寧温を探っているようだ。何か心当たりがあるかい?」
系図奉行は士族の戸籍管理をする部署だ。奉行所の中でもそれほど重要な部署ではない。出生や死亡など届け出に応じて処理する静かな業務である。評定所と系図奉行はそれほど接触があるわけではない。強《し》いて挙げれば名門士族が財産相続で揉めた場合、評定所の僉議《せんぎ》にかけるときの資料を提出するときに関わるくらいだ。
「朝薫兄さん、心配しすぎです。私は系図奉行に疑われることなどありません」
そう言ったものの、寧温の筆は止まっていた。系図上、今の寧温は叔父の家に清《しん》国から迎えられた養子ということになっている。清国での出生に関して疑っているのだろうか。いくら系図奉行でも清国まで調査することは不可能だ、と言い聞かせると心が静まった。それでもまた筆が止まってしまう。
――そういえば兄上の系図はそのままになっていた。
まさか王宮で兄と出会うとは思っていなかった寧温は、嗣勇の戸籍をそのままにしておいたことを思い出した。
「評定所の命令で系図奉行の動きを封じようか?」
「職権|濫用《らんよう》です。奉行所との連携を壊したくありません」
全ての王府の情報を一元的に扱う評定所筆者は、オールマイティの権力を持つ。警察である大与座の情報、裁判所である平等所《ひらじょ》の情報、財務の御物奉行など国家権力の全ての情報が手に入る。恣意《しい》的な行動は圧力に捉えられかねない。
朝薫は何かを考えている寧温の横顔をじっと見つめていた。櫛《くし》のような睫毛《まつげ》、うっすらと紅が浮かぶ頬、顎から首筋へと繋がる優美なラインは曲線美の極致だ。寧温の能力のことをやっかむ声がある一方、誰もが寧温の怪しい美貌に惹《ひ》かれている。「王宮の朽ちない花」という言葉を初めて聞いたとき、すぐに寧温のことだと朝薫はわかった。そしてその絶妙な異名をつけた者が寧温をもっとも忌み嫌っている表十五人衆の馬親方だと知ったとき、役人たちの心にあるアンビバレントな感情を言い表しているとも思った。誰もが寧温のことを嫌いで、実は惹かれているのである。
朝薫は寧温に言いたいことはたくさんある。毎晩、眠りに就きながら思い浮かべた寧温にどれだけ熱く想いを語ったことだろう。髪を結ってあげたとき、これが最後だと言い聞かせたのに、指は鮮烈に髪と戯《たわむ》れた感触を憶えている。指先から滲《にじ》む想いが腕から胸へ、耳と目を熱くさせやがて全身が痺れて自分がひとつの炎のように思えてしまう。好きだと語りかけると同時に罪悪感の冷や水がかけられる。その鬩《せめ》ぎ合いで一晩を費やしてしまった。目覚めたとき、朝薫は枕が濡れているのに気づく。無意識の中でも実らぬ恋に泣いている。もしかすると心の中の寧温の方が現実の寧温よりも長い時間を過ごしているのかもしれない。
――ぼくは多くを望まないから、せめて同僚としてぼくを慕ってくれ。
「何か言いましたか?」
寧温の言葉に朝薫が慌てた。想いを秘め続けていると声にしなくても相手に聞こえてしまうのだろうか。朝薫はもうこんなことはやめようと思った。
評定所に向《しょう》親方が現れた。朝薫を呼び出した向親方はポンと肩を叩いて耳打ちした。
「あの話を進めてもよいか?」
朝薫は微《かす》かに肯定するように目で頷《うなず》いてみせた。
向親方が持ってきたのは朝薫の縁談話である。名門士族の娘で器量も教養も申し分ない相手だった。将来有望な評定所筆者の朝薫に先方の家も乗り気である。今度、見合いが行われるが、それは形式だけのもので結納や式の日取りまで全て決められてしまうだろう。両親はもう朝薫が結婚したも同然だと無邪気に喜んでいる。喜ばれる縁談こそ幸福をもたらすと言われたとき、なぜか朝薫は苦しみから解放されるかもしれないと思った。
向親方は朝薫の気持ちをだいたい知っている。王宮には心の中の秘め事すらない。
「宦官に懸想《けそう》しても不毛なことだぞ」
「向親方、何のことでしょうか?」
朝薫の声は震えていた。鋭い人間にはもうバレている。恋は秘めても漏れてしまう。体のどこに穴が空いていたのだろうか。目から漏れたのだろうか、口から漏れたのだろうか、いっそこの体を全て壊してしまいたい。心の中が見えないと思うのはまやかしだ。もしかしたら寧温にも伝わっているのだろうか。
「朝薫兄さん、向親方と何をお話しになっていたのですか?」
案文を持ってきた寧温に、心の中を見てほしかった。
「今度、縁談を受けることになった……」
朝薫は寧温の心を覗《のぞ》き見るつもりで、息を止めた。どうか動揺してくれますようにと念じながら見つめていると、寧温はにっこり笑ったではないか。
「おめでとうございます。朝薫兄さんに相応しいご縁談でありますように」
朝薫はムッとして評定所を後にした。
枕より外に誰が知ゆが涙夢
やちやうもあれに知らしぼしやの
(枕より外にぼくが涙していることを誰が知るであろうか。誰もこの悲しさを知るまい。せめて夢の中ではあなたにこの哀しい想いを知ってほしい)
法要のようなしめやかなトゥシビーが幕を閉じたのは夜も白んだ未明だった。恥辱の限りを味わったトゥシビーに王妃も女官大勢頭部もぐったりだ。嫌いな料理を食わされ、嫌いな舞踊を見せられ、嫌いな衣装を着せられ、嫌いな人たちの笑い声を聞く。こんな生年祝いがこの世にあるだろうか。聞得大君は上座で主役のように堂々と振る舞っていた。御内原の支配者である王妃がついに宗教世界の女王に敗れたのだ。
「私はもう覚悟しました。御内原を出ていきます。出家して尼僧になります……」
「王妃様どうか思いとどまってください。この女官大勢頭部がついております」
「葬儀の衣装を着たおまえの言葉などもう信用できぬ」
「聞得大君に見つからなければ何とかなったものを」
「香炉を割れと言ったのは女官大勢頭部だ。この責任をどうしてくれる」
「女官は信用できないので外部の者を使うのが最良だと思ったのですが」
「女官大勢頭部ともあろう者が女官を信用できないとは人望がないのだな」
人望がないのは御内原にいる人間の証《あかし》でもある。誰も信用してこなかったからこそ、今の地位があるのだ。
「誰か聞得大君加那志と通じている女官がいるのです。でなければあんなに都合良く聞得大君加那志が現れるはずがありません」
「では罠に嵌《はま》ったと言うのか? 口惜しや」
「無念です……。こちらの手の内を読まれておりました」
たとえ王妃の罠があっても火の中に飛び込んでくるのが聞得大君である。御内原に男を入れた失態は王が庇えるレベルではない。相応の処遇が王妃には待っていた。
一方、勝利の美酒に酔いしれているのは聞得大君だ。宿敵の王妃を討ち、御内原への実効支配を着々と進めていた。
「でかしたぞ思戸。そなたの慧眼《けいがん》がなければ、危うく香炉を割られるところであった」
「聞得大君加那志のお力になれたことを誇りに思います」
山積みの菓子を前にして思戸もはしゃいでいた。大人の喧嘩は子どもにとって蜜の味だ。思戸の女官人生の最初の獲物は王妃と女官大勢頭部だ。大物を仕留めた思戸の将来は末恐ろしいだろう。
「王妃様には御内原を去ってもらう。ただし出家はさせぬ。名誉があっては面白くない」
聞得大君はきちんとした手続きで王妃を追い出すつもりだ。感情的に追いつめたら同情する者が出てくる。止《とど》めは法の力を借りるのが一番だ。
大親がどうするつもりなのか聞得大君に尋ねたら、もうシナリオはできているらしい。聞得大君は威厳たっぷりに王妃の処遇を述べた。
「王妃様を廃妃にし、王族から未来|永劫《えいごう》離れてもらう」
大親は頭がぐらぐらしてきた。ここに来るといつもこんなことばっかりだ。
「廃妃! 王朝始まって以来の出来事ですぞ!」
「最初だから記念になるじゃろう。御内原に男を入れたのが初めての罪なら、初めての裁可こそ相応《ふさわ》しいとは思わぬか?」
『悪魔だ。この人は本物の悪魔だ……』
「何か言ったか?」
「いいえ。何も……」
「言っておくが、そなたがいつも心の中で呟《つぶや》いている妾を侮辱する失言の数々、全て聞こえておるぞ。これからは心から妾を敬愛するように」
心まで支配する聞得大君に隙はない。志の低い人間の思考など聞得大君には筒抜けだった。読心術に霊力などいらない。たいていの人間は心と表情が繋がっているものだからだ。
大親はこんなとき昆布になりたいと思う。憂いもなく、迷いもなく、喜びもあんまりないかもしれないけど今の自分よりはちょっとだけマシだ。何も考えず何も感じずただ波に揺れている。そんな昆布になりたい。
大親がそんなことを考えているのも聞得大君はお見通しだ。
「昆布になったらクーブイリチー(昆布炒め)にして食ってやるぞ」
「いっそ食べてくださーい」
聞得大君御殿に系図奉行の役人がやって来た。報告にあがったということは有力な手がかりが掴めたということだ。
「聞得大君加那志に申し上げます。やはり大罪人・孫嗣志と孫寧温に繋がりの可能性が出てきました。行方不明の長男、嗣勇は王宮の花当でございます」
「どうやって王宮に潜り込んだのじゃ?」
「冊封使《さっぽうし》様をおもてなしするときに、踊奉行が徴発したようです」
「それで孫寧温が女である可能性はあるのか?」
「まだそこまでは掴めておりません。しかし嗣勇と孫寧温は関係があります。この前、龍潭で密会しているのを目撃いたしました。私が通り過ぎると警戒したのか話を切り上げました」
「では嗣勇を捕らえて吐かせるまでじゃ」
聞得大君がまた一歩、寧温の秘密に近づいていく。
聞得大君の爪が寧温に向けられている中、今日も評定所に大与座からの口上覚が上がってきた。それを見た瞬間、寧温は息を呑んだ。護国寺のベッテルハイムが捕まったという内容だ。
[#ここから2字下げ]
口上覚
乍恐急度申上候。護国寺逗留之英人伯徳令儀、
御大禁被仰下候切支丹宗旨布教を企方々致徘
徊、了簡無之愚昧之者共数多誑候故、於大与
座捕付其者共厳重処断致居候。此上ハ為大本
伯徳令之落度可糺と存、彼伯徳令致拘禁、相
応之罪科可処と存当候。向後共国家為御難題
耶蘇教之儀ハ、貴賤上下不拘、弥々御大禁向
之心得ニ而、厳格可被致執行積候。此旨致問
合候事。
[#ここで字下げ終わり]
寧温の言葉は震えていた。
「畏れながら申し上げます。護国寺に留まっている英国人ベッテルハイムは禁止されているキリスト教を布教するためにあちこちを徘徊し、無知蒙昧な庶民の多くを誑《たぶら》かしておりました。よって大与座としても彼を捕まえ厳重に処罰することにいたしました……。何てことを!」
ベッテルハイムが捕まったと聞いて評定所筆者たちが一斉に腰を上げた。ベッテルハイムの扱いは慎重を期さなければならないからだ。評定所筆者たちが直ちに議案にあげて審議する。
「大与座はやりすぎだ」
「いや相応の処分だろう」
「英国を刺激したら阿片戦争の二の舞になる」
「切支丹問題の根源に手をつけただけだ」
「薩摩がこれで動き出すぞ」
「また厄介なことを……」
宣教師ベッテルハイムは建前上、琉球にいないことになっている。蘭方医師ベッテルハイムなら護国寺で勤勉に医療活動をしているが。琉球にはザビエルはいないがシーボルトはいることになっていた。
「孫親雲上、口上覚を見せてください」
代わる代わるに口上覚を渡し合い、読み上げては震えた。
「こうなってはベッテルハイムの過失を見過ごせず、ベッテルハイムを拘束し、相応の罪に処することが妥当である」
「今後とも国家の大罪、キリスト教の問題に対しては、身分の貴賤を問わず厳罰を以て対処していきたい所存である」
「ベッテルハイム博士の逮捕は外交問題に発展します。すぐに釈放しなさい! 私が行って事情を聞いてきます」
寧温はいてもたってもいられずに平等所《ひらじょ》へ駆け出した。
平等所では、投獄されたベッテルハイムが呪いの言葉を紡いでいた。
「王府の宗教弾圧に断固抗議する。そこの豚野郎、ペンと紙を寄越せ。英国国教会に悪の枢軸《すうじく》を罰するように手紙を書くぞ」
「そこまで魂胆《こんたん》をバラしておいて、はいどうぞと渡すと思うのかこのバカ」
「バカと言ったな。私は五つの学位を持つ天才だぞ」
平等所の看守も珍妙な犯罪者に辟易《へきえき》していた。異国人のくせにやけに言葉が達者なのも癪《しゃく》に障る。王府もなぜこのような問題人物の居留を認めているのだろうか。
ベッテルハイムは身柄の即時解放を求めて声を荒げた。
「インディアン・オーク号漂着事件を担当したハイ・コミッショナーと面会させろ。話のわかる奴はあいつしかいない」
平等所に王府の役人が事情聴取に来たと報せが入った。
「評定所筆者の孫寧温です。ベッテルハイム博士の即時解放を要求します」
「おお、ハイ・コミッショナー。これは何かの間違いだ。私はまだ一人も信者を獲得していないのだ。これからたくさん獲得する予定だが、この国では未来の布教活動まで罰するのか」
「どうかお怒りをお静めくださいベッテルハイム博士。身の安全は保証致します」
寧温は牢にいるベッテルハイムを落ち着かせようと必死だが、大与座の役人たちは処罰する気満々だ。切支丹は禁止だが宣教師は許すという矛盾した政策が王府の対応を混乱させていた。この高度な政治判断を末端の役人たちにどう説明すればいいのか寧温は論の組み立てを考えていた。
寧温を取り次いだのは大与座の管理職の中取《なかどり》だ。法を知らない男ではない。
「罰した信者の十字架や聖書、聖母像など押収した証拠品を見せてください」
「そんなものはない。なんだその聖母像とは?」
「切支丹が命よりも大事にしている聖母像を見たことがないのに、罰したのですか?」
実際に処罰しているのはノロたちで、大与座は切支丹事件と直接関わってはいない。あまりにも切支丹が多いから布教している元締めを取り締まったのが真相だ。しどろもどろの弁明をする中取の様子に寧温は勝機ありと見た。
「聖母像は、見たぞ……。あー、仏像みたいな奴だったような……」
「花籠を抱えていましたか?」
「そうだ。花籠を抱えていた」
寧温がにやりとする。
「嘘をつきましたね。聖母マリアが抱えているのは赤子のイエズスです。偽証罪であなたを告発します」
「な、何を言うか。なぜ私が告発されるのだ」
「今の供述でベッテルハイム博士を拘束する証拠が不十分だとわかりました。この件は評定所の管轄とします。それとも偽証罪で裁かれますか?」
そうしている間にまた役人が面会を求めてきた。恐れていたことが起こってしまった。切支丹事件を聞いた在番《ざいばん》奉行が薩摩の管轄だと介入してきたのだ。現れた御仮屋《ウカリヤ》の役人に寧温は息を呑んだ。
「雅博《まさひろ》殿……。どうして平等所へ」
「またお会いしましたね、孫親雲上。宣教師の身柄を薩摩に引き渡してもらいたい」
一際背の高い雅博が厳しい表情で寧温を見下ろしていた。薩摩もまた苦しい立場だ。もし支配している琉球で切支丹が蔓延《まんえん》しているとなれば、島津家といえども幕府からお家取り潰しの処罰を受けてしまう。
「ベッテルハイム博士は信者を獲得しておりません。誤認逮捕した王府の手違いでございます」
「それでも身柄を引き渡してもらいたい。こちらでも調査する」
「いいえ。それはできないと在番奉行殿にお伝えください」
寧温はなぜこんなところで雅博に会うのか恨めしかった。出来ることなら平和な話をしたい。見える景色を歌で詠《よ》みあいながら、何気ない会話をしたかった。心の中にいる真鶴がこうしている間も、頬を赤らめているのがわかる。論は絶対に譲らないが、雅博に見つめられているとだんだん自分が感情だけの人間になっていくのがわかる。どうして鼓動は勝手に高鳴るのだろう。どうして目は熱くなるのだろう。雅博と会えて嬉しいと思っている自分が情けなかった。
「孫親雲上、切支丹に対しては琉球も薩摩も同体だ。足並みが揃わないのは困る」
「歩調は同じです。ただベッテルハイム博士が信者を獲得した証拠がございません」
語気を強めていく寧温の表情に雅博がはっと息を呑んだ。暗い平等所の牢に仄《ほの》かな明かりが灯ったように映る。これが男の表情とは思えない。百歩譲って宦官ということにしても、あまりにも色気がありすぎる。平等所までよほど急いで駆けてきたと見えて、寧温の帯が緩んでいた。着物の襟《えり》から見える肌は障子《しょうじ》から透けた朝日のように優しく光を弾いている。
そんな雅博の視線を感じた寧温が開いた襟を両手で閉じた。雅博はバツが悪そうに顔を背《そむ》けたが、それが女体を見たときと同じ反応だと知っているだろうか。
「そ、孫親雲上、ベッテルハイムの身柄に関しては双方とも一時保留しよう。すぐに釈放して証拠隠滅されては御仮屋としても都合が悪い」
寧温が着物を直す後ろ姿を雅博は横目でちらりちらりと盗み見している。寧温のうなじの白さが強烈に眩《まぶ》しい。罪悪感さえなければ歌にして讃えたいほどだった。雅博は自分が寧温の魔性にだんだん嵌っていくのを畏《おそ》れながら、どこかで心地好さすら覚えていた。これは花の毒だ。一度味わうと致死量に達するまでひたすら飲み続けてしまう甘美な毒薬だった。
「博士の処遇に関しては王府も同意します。ただし御仮屋も身柄引き渡しに相応な充分な証拠をご用意ください。その猶予を与えます」
寧温が去ろうと雅博の側を通り過ぎたとき、満開の山百合の香りがたなびいていくような気がした。残り香を手に掬《すく》った雅博は、愛おしそうに香りを嗅いだ。
見ちやる面影に我思蔵よともて
いつも忘ららぬ恋の迷い
(ふと見たあなたの面影が私の初恋の人に似ていたので、忘れることのできない恋の悩みに戸惑っています)
「真鶴、もう鳴かないで。お願いだから静かにして」
胸の奥で鳴く雛《ひな》を必死に抑えながら王宮へ戻る道すがら、雛がこの前より大きくなっているのを感じた。このままだとやがて雛は巣を飛び立つ日がやってくる。そのときは寧温の死であり、真鶴の死でもある。雛鳥が死に向かってどんどん成長していくのを止められない。龍潭の畔で息を整えた寧温は、この危ない綱渡りが全《まっと》うできないことを覚悟した。そう思うと今までの努力が無駄に思えて無性《むしょう》に泣けてくる。
「どうして私は男に生まれなかったのでしょう。どうして私は女では生きていけなかったのでしょう。父上、兄上、私はもうすぐ壊れます……」
池の対岸の遊歩道には睦《むつ》まじそうな男女の影があった。それが朝薫だと気づき、縁談のことを思い出した。朝薫は紳士的な振る舞いで娘の話に相槌を打っている。遠目にも器量のよい娘だとわかるほど上品な物腰だ。ああいうふうに好きな男の側に身を寄せられたら、どんなに嬉しいことだろう。かつて恋も結婚もしないと三重城《ミーグスク》の頂《いただき》で髪を捨てたとき、寧温は恋の苦しさを知らない少女だった。切ない感情など志で縛り上げられると純粋に信じていた。
「朝薫兄さん、どうか私の分までお幸せになってください……」
朝薫は王府の役人として着実に身を固めていく。一方自分は恋で壊れそうになっている。男にも女にも宦官にもなれない自分は一体どうすればいいのだろうか。壊れた後に残ったものが正味の人生なのだとしたら、肉体も精神もバラバラにされた無惨な姿しかないのではないか。そう思うと恐ろしくなる。
「いやだな。また泣いちゃった」
水面に映る自分の影こそ虚像の現実を表しているように思えた。
やっと息を整えて久慶門を潜った寧温に多嘉良が一大事を告げた。ふと嫌な既視感を寧温は覚えた。いつか父が捕まったときも門の前で多嘉良が血相を変えて報せてくれた気がする。
「大変だ寧温。花当が大あむしられ(上級ノロ)達に拉致《らち》された。おまえの味方の花当だ」
「あ、兄……。いえ嗣勇殿がなぜ?」
多嘉良が言うには、王宮に出勤しようと嗣勇がスロープにさしかかったとき、突如白装束のノロが現れ、あっという間に袋に入れられ連れ去られてしまったのだそうだ。
「何故大あむしられが花当を拉致するのですか?」
「儂がそんなこと知るか。寧温、何か嫌な予感がするんだ」
「どこに連れ去ったのですか?」
「大あむしられが出たとなれば命じたのは聞得大君加那志だろう。すぐに行け」
聞得大君御殿に連れ去られた嗣勇は、まだ自分の身に何が起きているのかわかっていない。
「なぜぼくがこんな目に遭うんだ?」
俯《うつぶ》せに磔にされた嗣勇の前に現れたのは聞得大君だ。
「素直に白状すればすぐに解放してやろう」
「何でもお聞きください。ぼくは口が軽いのが取り柄です」
日和見《ひよりみ》主義の嗣勇は早くも白旗だった。こういう状況で口が堅いのは損である。さっさと潔白を証明して王宮に戻りたかった。
「では聞く。おぬしの父は孫嗣志か?」
「いいえ違います。いってええっ!」
聞得大君の鞭が飛んで、早くも長期戦の様相を呈してきた。
「おぬしには妹がいたはずじゃ。妹の真鶴はどこにいる」
「疫病で死にました。いってえええっ!」
「評定所筆者の孫寧温とおぬしはどんな関係じゃ?」
「上司と部下です。いってええ。痛いです聞得大君加那志」
「痛いのは嘘をつくからじゃ。正直に話せばすぐに楽になるものを。どこが口が軽いのじゃ」
「全部本当です。本当に孫親雲上とぼくは関係がないんです」
聞得大君は縛り上げて逆さに吊せと命じた。
「孫寧温はおまえの妹じゃな?」
「なんで宦官が妹なんですか。弟ならいざ知らず。いってええっ。おやめください。何でも正直に白状致します」
「もう一度聞く。孫寧温の正体は妹の真鶴ではないのか?」
「真鶴はもっと可愛かったです。ぼくの妹はずっとずっと可愛かった……」
嗣勇はいつか父から折檻されたことを思い出した。定規で手の甲を打たれ、血塗《ちまみ》れになった手を真鶴は優しく包帯で巻いてくれた。あれが真鶴を見た最後の姿だ。数年後に嗣勇の前に現れたとき、真鶴は宦官として王宮の役人になっていた。出来の悪い自分を庇って、妹は男にされてしまった。その父ももういない。自ら望んで捨てた家族なのに、今は家族が恋しい。また定規で打たれてもいいからもう一度父に会いたいと思う。今度こそ科試を受けて妹を元の姿に戻してあげたかった。
「大あむしられよ、こいつの爪を剥がすのじゃ」
竹箆《たけべら》を爪の隙間に突き刺された瞬間、嗣勇が障子紙を破るほどの絶叫をあげた。指先が火傷《やけど》したような鈍い感覚がする。見たら痛みに変わると思った嗣勇は目を固く閉じた。爪が一枚、また一枚と剥がされるたびに嗣勇は悶絶し、水をかけられ、また拷問が続けられた。
――あったま来たぞ。絶対に喋《しゃべ》るもんかっ!
嗣勇の眼は痛めつけられるたびに、闘志を宿していく。聞得大君の碧眼をじっと見つめた嗣勇は、このまま自分が死ねば寧温の正体は永遠に不明のままだと踏んだ。そうなれば一番困るのは聞得大君だ。自分の命と引き替えに今度は妹を守ろう。かつて妹が性と引き替えに自分を救ってくれた恩を返す番だ。
「強情な男じゃ。二度と踊れなくしてくれるわ」
『ぼくは踊れなくてもいい。ぼくは、ぼくは、今度こそちゃんと生きたいんだ。ぼくは強くなって真鶴を幸せにしてやるんだ』
「大あむしられよ、火箸を持ってこい」
赤く焼けた火箸が嗣勇の前に掲げられた。目を閉じていても熱気と匂いが迫ってくるのがわかる。嗣勇はどこを焼かれようが白状する気はない。
「孫寧温はおまえの妹じゃな?」
「違います。ぐがあああああっ!」
火箸が嗣勇の胸に押しつけられた。着物が燻《くすぶ》る臭いと皮膚が焼けただれた臭いが混じる。痛みで兄妹の絆《きずな》を裂こうなんてこの王族神は相当な愚か者だと嗣勇は思う。痛みが走るたびに絆はむしろ強くなっていくのだ。
「傷に塩を塗り込めるのじゃ」
そのときだ。聞得大君御殿に寧温が到着した。庭に駆けつけた寧温が磔にされた嗣勇の姿に悲鳴をあげる。嗣勇は譫言で妹の名を呟いていた。
「真鶴……。真鶴……。真鶴……」
兄の姿は父の最期を彷彿《ほうふつ》とさせた。寧温の耳に父の最後の言葉が甦る。好奇心のままにベッテルハイムから借りた本を所持していた罪を被って父は死んでいった。あのとき自分は安謝湊《あじゃみなと》の浜に出て一緒に殺されてしまうべきだった。そうすれば兄がこうやって拷問を受けることもなかったのだ。自分のせいで重荷を背負った家族が、またひとり消えていこうとしている。父も兄も何の罪もなかったのに。
「大丈夫ですか。しっかりしてください」
寧温の声を聞いた嗣勇が目を開けて優しい眼差しを向けてくれた。兄は昔一緒に遊んでくれた頃のように、寧温を見つめていた。妹から見ても惚れ惚れする手が、折れた竹刀《しない》のようにささくれている。もうこの手が優美な仕草で情感を伝えることはないだろう。嗣勇は死ぬ気だと寧温は思った。
「聞得大君加那志、これは何の真似ですか!」
「妾はこの花当の家族について質問していただけじゃ。妹の真鶴がどこにいるのかなかなか白状しなくてな」
聞得大君がまた火箸を掲げる。今度は嗣勇の目に向けてゆっくりと押し当てようとしていた。
「おやめください。妹はここにいます!」
両手を広げて兄の前に立ちはだかった寧温が聞得大君に告げる。
「私が真鶴です!」
胸の内で押さえつけていた真鶴が殻を破って外に出る。ずっと隠していた寧温の秘密をついに敵に明かしてしまった。
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第六章 王宮の去り際
千里先も見えるほど澄んだ空の下、誰にも知られてはならない寧温《ねいおん》の秘密が、彼女自身の口から明かされた。
聞得大君御殿《きこえおおきみウドゥン》の庭に悲痛な叫びが響く。
「私が真鶴《まづる》です!」
「孫親雲上《そんペーチン》、おやめください。違う。違います。孫親雲上は嘘をついています!」
嗣勇《しゆう》が声帯が破れるまで声を張り上げる。しかし寧温は兄の前でもう一度、素性を明かした。
「私は女です!」
ガラスが砕け散ったような声に、空気が凍りつく。寧温はもうこれで全てが終わったと思った。記憶の奥底にいる私塾時代の寧温が悲しい顔をして今の自分を見つめている。科試《こうし》受験に明け暮れていたあの日、自分の未来は無条件に明るいはずだと信じていたから、我武者羅《がむしゃら》に勉強できた。当時の自分が「こんな日のために私は勉強していたのではありません」と冷たく寧温にいい放つ声を聞いた。
次に甦《よみがえ》ってきたのは父の面影だった。父の溜息が聞こえる。「おまえの罪を被った私は愚かだった」と。寧温は今の自分があらゆる犠牲の上に成り立っているのを知りつつ、それでも兄を守ることを選んだ。
寧温は涙声で聞得大君の前に跪《ひざまず》いた。
「聞得大君|加那志《がなし》、私は……、私は素性を偽《いつわ》って王宮に入りました……」
寧温は気丈に立っていたかったのに、自分が膝から崩れていくのを止められなかった。堅牢な理の鎧《よろい》が割れたとき、中から溢《あふ》れだしたのは無念の思いと、無邪気に巣から飛びだした雛《ひな》の真鶴だ。体を取り戻そうとしていた真鶴は、やっと本来の性に戻れたことを喜ぶと同時に、死に神の足音がひたひたと迫りつつある現実に打ち震えていた。寧温は真鶴に言い聞かせた。
――ほら真鶴、だから表に出てはいけないって言ったでしょう……。
外界が破滅の世界だと知った真鶴は急いで中に戻ろうとするが、もう遅かった。あれだけ激しく体を支配しようとしていたくせに、いざとなったら真鶴はすぐに逃げてしまう。そうわかっていたから寧温は真鶴を殺し続けることを選択したのだ。
聞得大君はまだ現実を半分しか受け止められなかった。
「ほ、ほほ。やはり宦官《かんがん》というのは嘘だったのじゃな……?」
寧温の素性が怪しいとは思っていたが、いざ正体を暴《あば》いてみたら本当に女だったことが信じられない。男装しているだけなら、これほど知覚が揺るがされることはなかっただろう。問題は寧温の地位だ。評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》になるには科試を突破しなければならない。科試最年少合格者で喜舎場朝薫《きしゃばちょうくん》とともに神童と謳《うた》われた孫寧温が、女だった。聞得大君の頭の中で反射的に否定する自分がいる。
女が科試を解いて首席で合格することなど可能だろうか? 女が評定所に入って周囲の反発を押し切り、今まで誰も為しえなかった財政構造改革に着手することができるのだろうか? 王でもできなかった改革を女が成し遂げたというのか? 女が英国船漂着事件を解決したというのか?
しかも寧温は通事《つうじ》を使わずに複数の異国語を駆使する王朝始まって以来の評定所筆者だ。わかっているだけでも日本語、清《しん》国語、英語、マレー語、アラビア語、ロシア語を話す。これだけの言語を習得するには人生一回だけでは足りないと三司官《さんしかん》が舌を巻いているのを聞いたことがある。果たして女に、それだけの能力があるというのか? 驚異的なのはミセゼルを解釈してしまうことだ。寧温はサーダカー生まれの相を持ってもいる。
「お、お前は一体……何者なのじゃ……?」
聞得大君は自分の性すら揺らいでいるのを感じた。男と女は役割も能力も全てが違っていると無意識にそう思っていた。男が女になって子を産むことが不可能なように、女が男になって王府の最高頭脳集団の中に紛《まぎ》れ込むのは不可能だ。それは花当《はなあたい》がいくら女の真似をしても、所詮《しょせん》は上辺だけの美しさでしかないように。また役人がノロの真似をして託宣を下したとしても所詮、出鱈目《でたらめ》であることが自明の理であるのと同じように。
女が三司官通達の候文《そうろうぶん》を書き、薩摩や清国と折衝をし、しかも理路整然とした論理で勝っていくことなんて不可能としか思えない。まだ武術を磨いて男と丁々発止《ちょうちょうはっし》の闘いをする女の方が現実的だった。
「ありえぬ。ありえぬ。女が科試に受かるはずはない……」
聞得大君は考えれば考えるほど、この現実が揺らいでいるとしか思えなかった。
「いいえ。私は、私は女でございます……」
「妾《わらわ》は信じられぬ。証拠を見せてみよ!」
聞得大君が携えていた火箸を寧温に突きつけながらも、一歩退く。聞得大君の前で寧温は帽子を脱ぎ、男髪に結った簪《かんざし》を外した。途端、涼やかな黒髪が風を孕《はら》んで宙に靡《なび》く。寧温はしばらく躊躇《ためら》ったように唇を噛んだが、意を決して帯に手をかけた。
「孫親雲上、おやめください。そんなことしちゃ駄目だよ真鶴!」
嗣勇《しゆう》は咄嗟に顔を逸《そ》らして目を固く閉じた。帯を解いた瞬間、襟《えり》に入ってくる冷たい風が好奇心旺盛に自分の体を舐《な》め回していく。色衣装を脱ぎ下着姿になった自分を見て、ふと死装束みたいだと思った。
――真鶴、一緒に死のうね。
最後の衣を脱ぎ捨てた瞬間、全身の産毛が硬く立ち上がるのを感じた。
寧温の本来の姿を目の当たりにした聞得大君は、絶句していた。優美な曲線を描く白磁《はくじ》のような体は、王宮の宝物殿でもみかけない。いや紫禁城《しきんじょう》にもこれほどの宝物はないはずだ。むしろこの体をモチーフに様々な陶磁器が生み出されているのではないだろうか。染みひとつ黒子《ほくろ》ひとつない裸体は絵画的で、見ているだけで祝福されているような気分になった。全ての芸術のアーキタイプとでもいうべき姿に、聞得大君は息を呑む。
「なんということじゃ……」
残酷なほど強すぎる日差しが御殿の庭に注がれていた。池の乱反射で影すら消してしまう中に現れた寧温の裸体は、あまりにも衝撃的だった。寧温の胸元には咲きかけの蕾《つぼみ》を思わせる乳房があった。花弁の中からそっと覗き見た雌蕊《めしべ》のようにまだ青いが、大輪となる器だ。寧温から放たれた官能的な香りで空気が薄紅色に染まって映る。
「妾は夢を見ているのか……?」
脱いだはずなのに、寧温の肌は更に一枚|紗《しゃ》を纏《まと》っているように見えた。裸体は普通、隠されて然るべき欠点を内包しているものなのに、隠すべきものが見あたらない。イメージの中にだけ存在する究極の裸が、現実に質量を伴って出現している。だから目の前の現実が幻《まぼろし》の世界に変換されてしまう。恐るべきは、彼女の肉体が未完成でありながらも弱点がないことだ。神による完璧なデッサン力に裏打ちされた肉体は数年のうちに完成し、動く宝玉と呼ばれることだろう。聞得大君は生まれて初めて自然界における完全な左右対称美を見た。寧温の裸体を見た者に許されているのは讃えること、それだけである。
「聞得大君加那志、これで納得していただけましたでしょうか?」
寧温が背中を向けた途端、聞得大君は魅入られていたことに気づいた。聞得大君が思った通り、寧温はただの女ではなかった。ただの女どころか、全ての女性の原型、女の中の女である。それが究極の頭脳を持つ男として王宮に潜り込んでいた。
「おまえは王朝五百年の歴史に泥を塗った希代《きたい》の悪女じゃ。いや悪魔が王宮を跋扈《ばっこ》していたのじゃ。おまえが穢《けが》した王宮をどう始末してくれよう?」
「聞得大君加那志、お赦《ゆる》しください……。どうか私の命と引き替えに、全てをお赦しくださいませ……」
羽織った色衣装はもう女の形にしか体を隠してくれなかった。寧温は初めて自分が惨《みじ》めに思えた。あんなに頑張ってきた日々が音をたてて崩れていく。評定所筆者の誇りを失い、真鶴の尊厳を踏みにじったのは自分だ。もうこの世にいる理由なんてひとつもない。髪も体も骨も夢も志も全て焼いて煙になってしまいたかった。だからせめて今だけは大声で泣いておきたい。土の中にこの無念さを伝えておきたい。男として生きてきた人生を後悔はしないが、全《まっと》うできなかったことが悔やまれてならない。今は寧温という名前が他人のように感じる。
大地に涙を染みこませながら、寧温は真鶴に戻っていた。
「寧温、寧温ごめんね。私あなたを大事にできなかった……。あなたの志を踏みにじってしまった。こんな私でごめんね寧温。私は強くなれなかった。あなたを守れなかった……」
縄を解かれて駆け寄った嗣勇が妹を抱き締める。
「真鶴。ぼくのせいで苦労かけてばかりでごめん。ぼくが逃げ出さなければ、おまえが男にならなくてもすんだのに。ぼくがおまえの人生を台無しにしてしまったんだ……」
「兄上、ごめんなさい。私のせいで怪我まで負わせてしまいました」
寧温が着物の裾《すそ》を破いて血塗《ちまみ》れになった嗣勇の手に巻いてやった。それが嗣勇には仲良しだった昔の日を思い起こさせて悲しいけれど嬉しくもあった。
「もう今度は逃げないよ。ぼくはずっと真鶴を守っていくんだ。絶対にひとりでは死なせない。ぼくはもう手を離さないよ」
聞得大君はやっと寧温の素性を受け入れられた。突然奇蹟を見せつけられて知覚が揺らいだが、もう落ち着いた。あとは自分の欲するままに寧温を処分するだけである。
「とんだ茶番じゃ。おまえが穢した王宮を浄化する妾の身にもなってみろ」
聞得大君は大親《ウフヤ》を呼びつけて、二人を蔵に閉じこめておけと命じた。見れば若い二人が聞得大君にいじめられて泣いているではないか。またいつもの意地悪だ、と思った大親は縄をかけずに二人の背中を優しく押した。
あけやう綾蝶花《あやはべるはな》にうかされて覚えず
蜘蛛が巣にかかる泌気
(哀れ美しい蝶が花に浮かれたのだろうか。知らず知らずのうちに蜘蛛《くも》の巣にかかってしまった。何と可哀相なことだろう)
首里《しゅり》の頂《いただき》にある王宮は雲の流れを感じながら過ごす場所だ。低い雲なら風の中の靄《もや》になって軽やかに御庭《ウナー》を駆けていく。雲が駆けた後に赤瓦が濡れていたら、雨雲が走っていった証《あかし》だ。晴れたり曇ったり目まぐるしく天気が変わる王宮は、琉球という船が常に見通しの悪い航海を強いられている様に似ている。
久慶門《きゅうけいもん》の多嘉良《たから》がそわそわと落ち着かない。三日前に花当が大あむしられに拉致《らち》されて、それを追った寧温まで王宮から姿を消してしまった。非番でも嵐の日でも風邪をひいても毎日欠かさず王宮に来ていたのに、寧温が三日も来ないなんて初めてのことだ。
「何か胸騒ぎがする。どうしちまったんだい寧温……」
小柄な役人がスロープに差し掛かるたびに、多嘉良は身を乗り出す。そして寧温ではないと知るとまた貧乏揺すりを始めた。多嘉良が小刻みに地面に叩きつける六尺棒の音に、もうひとりの門番まで苛立ってしまう。
「おい多嘉良、いい加減にしろ。どうせまた途中で逃げ出して、銭蔵《ぜにくら》の泡盛を盗み呑みしようと企《たくら》んでいるのだろう」
「違う。儂《わし》はそんなケチな男じゃないぞ。そうだ。他の門から入ったかもしれない。歓会門《かんかいもん》や木曳門《こびきもん》の門番たちに聞いてこよう」
「駄目だ。そうやって銭蔵に行こうとしているのはわかってるんだ」
侵入者の来ない王宮では滅多に使うことのない六尺棒だが、久慶門においては門番の逃走を阻止するのに役に立つ。六尺棒に足を払われた多嘉良は石段から無様に転げ落ちていく。
「ひどい。門番が門番を打つなんて。儂はただ孫親雲上が評定所に来たかどうか聞きたかっただけなのに」
寧温のことが心配なのは朝薫も同じだった。まだ来ていないか多嘉良に尋ねてきた。
「孫親雲上を見かけませんでしたか? 無断欠勤するなんて孫親雲上らしくないのに」
「おお喜舎場親雲上、儂も気になっているんです。評定所付きの花当も来ておりませんか?」
「何か、手がかりでも掴んでいるのですか?」
「いや、孫親雲上は三日前に花当を探しに聞得大君御殿に行ったっきり帰って来ないのです。決して口外するなと言われたのですが、もう心配でたまりません。喜舎場親雲上なら聞得大君御殿に出向けるでしょう。絶対に聞得大君御殿で何かあったに決まっております」
「会計監査で不審な点があったのだろうか。だったらぼくにも一言あってもいいはずなのに。わかりました。今から聞得大君御殿に行くことにします」
御内原《ウーチバラ》では王妃と女官|大勢頭部《おおせどべ》が裏工作に追われていた。御内原に男を入れた罪を素直に認めた王妃は、寛大な処置になるよう三司官たちと調整している。聞得大君が手を打つ前に三司官を懐柔《かいじゅう》しておかなければならない。
「私の過失は不徳の致すところでした。弟は既に普請《ふしん》総|奉行《ぶぎょう》の地位を辞任し、首里を離れております。屋敷と財産を王府に納め今後王宮にあがることはございません」
女官大勢頭部も巨体を小さくして伏していた。
「三司官殿、この女官大勢頭部の落ち度でございました。私の俸禄を今後五年間王府に返納いたしますので、どうか王妃様に寛大な処置をお願いいたします」
三司官たちも困り顔だ。女同士の覇権《はけん》争いの後始末はいつも男がするものと決まっていた。ここはひとつ油を搾《しぼ》っておいた方がよさそうだ。
「しかし王妃様、御内原に男を入れた事実は極めて重い罪でございますぞ」
「承知しております。御内原を取り締まる者として恥ずべきことと自戒しております」
「不問に付すのは難しいですが、軽い処分になるように我ら三司官としても苦慮しております」
「大変申し訳ございません」
と王妃と女官大勢頭部は揃って頭を下げた。
「目撃者が聞得大君加那志ですからな……。王妃様の経歴に多少の傷がつくことはお覚悟ください。王統譜に正式に残りますし、そうなると今後は王妃様のご家系から王府の名誉職などへの登用はないでしょう」
王妃はさめざめと泣いた。親族を高官に登用していくのが王族生活の醍醐味《だいごみ》なのに、これでは権威を奪われたも同然だ。王妃の夢は自分が在位しているときに実家を名門士族四姓に並ぶほど大きくすることだった。空いた王妃枠の登用に聞得大君が介入してくることは明白だった。負けは認める。今は大きく負けないための最低防衛線を引いておくことが肝要だ。
「ご先祖様に何とお詫びしてよいのやら、言葉もみつかりません……」
「譴責《けんせき》ですむように取り計らっておきましょう。これに懲《こ》りたらしばらくは喧嘩をやめることでございますな」
「このご恩は王妃・佐敷按司加那志《さしきあじがなし》の胸にしかと刻んでおきます……」
三司官らが席を立って、黄金御殿《クガニウドゥン》から消えたのを見届けると、青菜に塩状態だった王妃と女官大勢頭部は再び毒気を甦らせた。
「ふん。誰が反省なんかするものですか。私は王妃です。御内原の支配者です」
「まったくでございます。でもこれで聞得大君加那志の御内原の介入は阻止できましたね」
「聞得大君がいる限り私は枕を高くして眠ることもできぬ。どう仕返しする?」
「報復の準備はできております」
上辺だけの反省をした後は、政敵を討ちにかかるのが御内原の女の本能だ。蹴られて転んで立ち上がったら蹴り返すのが礼儀だ。聞得大君が御内原に間者《かんじゃ》を送り込んでいるのと同じように、王妃にも聞得大君御殿に内通者がいる。聞得大君御殿の女官が王妃への謁見を求めてきた。
「なになに。聞得大君が海運業者と癒着《ゆちゃく》しているかもしれないとは本当か?」
御内原の女は躓《つまず》きを復讐《ふくしゅう》のターボスイッチにして生きている。王妃はさっそく報復の足がかりを得てにんまりと笑った。
聞得大君御殿の蔵の中に閉じこめられた兄妹は、今までの苦労を語り合っていた。監禁されて三日。水を与えられるだけで外の様子は全く窺《うかが》い知ることはできない。もっとも外に出たときは、大与座《おおくみざ》に連行されるときだ。寧温の処遇は最低でも斬首、お家取り潰しは避けられない。孫家は士族の系図から永遠に抹消されることになる。これを何とか交渉して斬首だけに減刑させなければ父の志を無にしてしまう。
蔵の板の隙間に差し込む僅《わず》かな光線の傾きが凡《およ》その時間を計る目安だった。光の中を漂う埃が砂時計のように時を刻む。
「兄上、私のせいでご迷惑をおかけいたします。私は平等所《ひらじょ》とかけあってお家取り潰しだけは免除してもらいます。どうか王宮の中に残って必ず生き延びてください」
「王宮暮らしは噂以上に苦しかったなあ。お家取り潰しでもぼくは全然平気だよ。だって首里のどこにでもいる落ちぶれ士族だもん」
「兄上、これは父上からの遺言でございます。我が孫家は第一|尚氏《しょうし》王朝の末裔《まつえい》なのでございます。だから父上は科試にこだわったのです。現政権を打倒し、旧王朝の我が一族で琉球を再興させるのが願いだったのでございます」
「真鶴、おまえ何言ってるの?」
寧温は蔵の中なのに声を潜めた。
「兄上は世が世なら王になっているお方なのです」
「ぼくが首里天加那志《しゅりてんがなし》? 馬鹿馬鹿しい。孟子と荘子の区別もつかないぼくが首里天加那志だって。あはは。可笑《おか》しいや」
「どうか私が亡き後、第一尚氏王朝の血脈のことをよろしくお願いいたします」
「ぼくに謀叛《むほん》を起こせって言うのかよ。ぼくのどこにそれだけの才覚があるのさ。どこにそれだけの人望があるのさ。それに首里天加那志になったら……」
「首里天加那志になったら、何ですか?」
「誰に媚《こ》びを売って生きていけばいいのさ?」
「王は誰にも媚びを売ってはいけません! 王が売国奴になってどうするんですか!」
「だってぼくの才能って身分の高いお役人様の寵愛を得ることだけだもん」
寧温がもし未練があるとすれば、この優柔不断で美しすぎる兄の進退だけである。確かに兄の才覚では政権の打倒は不可能だ。だが、兄は決して王の器がないわけではない。聞得大君の拷問《ごうもん》を受けても決して妹の正体を明かさなかった強い意志は、国王の揺るぎない精神にも等しいのではないだろうか。兄の中には確かに第一尚氏王朝の血が生きている。たまたま薩摩の支配下で武装解除された時世に生まれたから、嗣勇は扇子を握ったのであって、戦乱の世なら迷わず剣を取っただろう。せめて兄の子に志を引き継ぎ細々と第一尚氏王朝の血脈を継続していくことは可能だろう。
「ねえ真鶴ちょっと待って。もしぼくが首里天加那志なら、おまえがぼくのオナリ神ってことだよね。つまり聞得大君ってことじゃないか」
「あんなのと一緒にしないでください。私は神になるよりも役人の方が向いています」
寧温はそっぽを向いた。王族神という制度は琉球独特だが、この制度のせいで王族のヒエラルキーが安定しないのが王府の悩みだ。いっそない方がいい。
「真鶴、おまえが死んだら第一尚氏王朝の再興なんて不可能だよ。誰がどう見たっておまえが王の器じゃないか。女王になればいい」
名案と手を打った嗣勇は発想が柔軟すぎてやはり政治には向かない男だった。
「冊封《さっぽう》体制を崩壊させるような不謹慎なことを言わないでください。清国に何て言い訳するんですか」
「だって上手《うま》い言い訳だったら評定所筆者のおまえの得意技じゃないか」
「兄上、私の仕事を何だと思っているんですか?」
「でも待てよ。ぼくが首里天加那志なら、王女様と結婚できるかなあ……」
嗣勇は王女のことを思い出してニタニタと笑う。この前、奥書院奉行の花当の友達に頼んで、王女に花を贈った。王女は喜んでいると聞いたが、御内原に住む王女に会うのはなかなか難しい。
「呆れた。王女様に懸想《けそう》していたなんて。バレたら斬首ですよ」
「片想いくらい自由だろ。仕事、仕事、仕事の真鶴にはこの切なさはわからないよ」
「失礼な。私だってわかります」
と言って胸が疼《うず》くのを感じた。この状況でも真鶴は想い人に会いたがっている。いや死を前にしているからこそ、一目会いたいのかもしれない。自分の正体がバレたときは破滅だとわかっているのに、雅博《まさひろ》にだけは知ってほしかった。寧温は唇を噛んでもう全てが終わったのだと自分に言い聞かせた。
「ひょっとしておまえ恋をしているのか?」
「してません。評定所筆者にそんな暇などあるわけないでしょう!」
「そうだよな。おまえ一応、宦官ってことになっているもんな。宦官は男とも女ともつきあえないもんな」
「もうやめて。お願いだから言わないで!」
蔵の閂《かんぬき》が動く音がして、目を眩《くら》ませる日差しが差し込んできた。ついに身柄を大与座に引き渡されるときがきたのだと寧温は覚悟した。
「孫親雲上、身柄を釈放する。聞得大君加那志がおまえに用があるそうだ。御殿に参れ」
「なぜ私が釈放されるのですか?」
不審に思いながらも蔵を後にした寧温は、聞得大君が何を考えているのか見当もつかずに戸惑っていた。周りの役人たちも寧温を見ると上官に対して道を譲ろうとする。どうやら寧温が女だと知っているのはまだ聞得大君だけのようだ。
聞得大君は肘掛けに寛ぎながら、不敵な笑いを浮かべていた。
「孫親雲上、評定所へ戻ることを許可する」
「なぜ私が……?」
「さっき評定所の喜舎場親雲上がおまえがいないか御殿に来ていた。おまえはこの三日間、御殿の会計監査にかかりきりで王宮を離れていたと伝えておいた。ほれ、それなりの手柄じゃ」
そう言って聞得大君は大あむしられ達が切支丹《キリシタン》処罰で使った帳簿を渡した。聞得大君は腹心の部下である上級ノロたちを売り渡して寧温の手柄にさせるという。利害に敏感な聞得大君が寧温をただで手放すわけがない。
「私が王宮に戻ってもよろしいのですか?」
「もちろんじゃ。そなたの素性は妾の胸の内に秘めておく。ただし妾の言うことを聞いてもらう。さっそくじゃが、王宮に戻って王妃様の処分を検討してほしい」
それはたぶん御内原に弟を手引きしたことに関することだと寧温にはわかった。御内原に男を入れたのは王妃の失態だが、三司官たちは出来るだけ軽い処分にしようと苦慮していた。きっと寧温でもそうするだろう。
「王妃様は譴責処分が妥当《だとう》かと思われます」
「それが腹立たしいのじゃ。三司官の狸爺《たぬきじじい》め、妾が廃妃にせよと命じたのに受け入れなんだ。そこで孫親雲上、そなたの辣腕《らつわん》に期待する。是非とも王妃様を廃妃にしてみせよ」
「聞得大君加那志、それはやりすぎです。聞けば王妃様は大変反省されておられます。そもそもは女同士の喧嘩が発端ではありませんか」
聞得大君は神扇を打ち鳴らした。
「黙るのじゃ。そなたに説教などされとうない。妾がそなたを生かしておく理由はただひとつじゃ。そなたの男以上の才覚と恐れ知らずの辣腕が気に入った。王妃様は三司官に守られて討つに討てぬ。ただし評定所筆者|主取《ぬしどり》ならそれができるはずじゃ。今までのそなたの実績が証明しておろう」
「私に王妃様を討てと仰《おっしゃ》るのですか?」
「そなたの素性を黙っているのと引き替えじゃ。そなたも命が惜しかろう」
「いいえ、私はそんな命令には従えません。これからこの足で大与座に参ります」
「斬首ですむと思うな。もしそんなことをすれば必ずや妾が一族郎党を含めて一世|流刑《るけい》にしてみせるぞ。嗣勇の身柄は聞得大君御殿付きとする。異動願はさっき受理された」
「聞得大君加那志、兄上だけはお助けくださいませ」
「助けたければそれに相応《ふさわ》しい働きぶりで妾の心を打つがよい」
聞得大君は寧温を処罰する代わりに、犬として使うことを選んだ。御殿と王宮は近いようで遠い。御内原に足がかりを作ってもそこは女の世界でしかない。政治は表世界の男たちが牛耳《ぎゅうじ》ってなかなか言うことを聞いてくれない。そこで弱みを握った寧温を王宮に送り込めば、政治の世界を間接的に操れるようになる。三司官と互角に闘える現場の最高責任者は評定所筆者主取である。この寧温の地位を有効に使わない手はない。
「もし王妃様を廃妃にせぬのなら、兄妹仲良く斬首で散るだけじゃ。ほほほほほ」
――この人は私を犬にするつもりだ。
「女が王府に潜り込んでいると知ったら、首里天加那志も卒倒されるであろう。そなたの正体が明らかになった以上、意志や信念などないと思え。屍《しかばね》のように生きること、これがそなたの新しい人生じゃ。ほほほほほ」
寧温は何も言い返せずにじっと俯《うつむ》いていた。新しい人生は男でも女でもなく、犬となってひたすら聞得大君の機嫌を伺うだけだ。生きる神である聞得大君にとって現世こそ神の統治する世界であり、全てである。利用価値のある人間に安楽な死後を絶対に与えたりはしない。死後の世界など聞得大君のゴミ箱だった。
「飼い犬は主人のために忠義を尽くすものじゃ。口答えせずに何にでも喜んで尻尾を振るのが王宮で長生きする秘訣じゃ。返事はどうしたのじゃ」
「聞得大君加那志の仰せのままに……」
寧温は暗澹《あんたん》たる思いで聞得大君御殿を後にした。見えない首輪と綱に繋がれて王宮へ戻っていく気分だった。女であることを明かしたとき死を覚悟したのは甘かった。名誉ある死よりも屈辱的な生を与えられることになるとは。これが王宮の勢力争いに負けた者の運命なのだと思った。
久慶門を潜ったとき、寧温は多嘉良の声すら耳に入らなかった。
「寧温、心配していたんだぞ。聞得大君御殿の会計監査ならなぜそう言わないんだ。おい、寧温。寧温。聞いているのか」
実体のない影が門を通り抜けたとしか思えない。多嘉良の目には精気を無くした寧温が風に吹かれた木の葉のように虚《むな》しく漂っているように映った。涙すら涸《か》れて乾き切った姿に多嘉良は胸を痛めた。御殿で何があったのか多嘉良には知る由《よし》もない。
「寧温、どうして儂に話してくれないんだ……」
こういうときのために、大人がいるのだと多嘉良はいつも言ってきたつもりだ。私塾《しじゅく》の仲間だったとき、泣きたいときは一緒に泣いた。そうすれば悲しみは半分になる。笑いたいときは一緒に笑った。そうすれば喜びは倍になる。人間はそうやって喜怒哀楽を分かち合うことで、生きていけるのだ。王宮に入ってから、お互いに笑ったことはあっただろうか。一緒に泣いたことはあっただろうか。多嘉良は王宮にいると感情がどんどん摩耗《まもう》していくのを感じずにはいられない。
「儂はいつでもここで待っているぞ」
虚勢を張って六尺棒を抱えた多嘉良は、今日は泡盛を呑まないと決めた。今日は雲のない日だ。昨日見下ろしていた雲が、今日は高くに逃げていた。
評定所に戻った寧温は、硯《すずり》を前に墨をずっと摩り続けている。あまり墨を濃くしないのが寧温の摩り方なのに様子がおかしいと朝薫は首を傾《かし》げた。
「寧温、聞得大君御殿の会計監査に不審な点はあったかい?」
すっと差し出された帳簿は、大あむしられ達の使途不明金の流れを追うものだった。
「やっぱり切支丹事件はノロ達が勝手に行っていたんだね。これでベッテルハイム博士の冤罪《えんざい》が証明されるかもしれない」
寧温は何も言わずに、まだ墨を摩っている。過労のせいなのだろうか。寧温の頬が痩《や》せこけている。やっと筆を執ろうとした寧温は、いつも使っている朝薫から貰った筆ではなく、真新しい筆を握った。
「御内原の案件について審議をいたします」
「ああ、あの譴責の案文なら昨日ぼくが書いて三司官殿の決裁を受けたよ」
寧温は淡々と筆を進めながら言った。
「昨日の案文を却下します。王妃様の処分は私が決めます」
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御内原之儀御城内向格別之禁中ニ而有之、猶
主上休息被遊候念遣之所ニ而候故、按司下司者
不及申男子立入間敷厳重下知有之候者いづれ
茂存じ之前ニ而候。乍然此了簡為致忘却候半、
佐敷按司加那志国法相違男子引入、御内原之
御良俗為令廃罪科言語道断之所業候故、恐多
御座候得共厳重沙汰可有之与可被致合点候。
依之国法安堵之謂を以、佐敷按司加那志儀王
妃身上致剥奪、王族籍を被引、大美御殿御預
ニ相当可致与存じ候事。
[#ここで字下げ終わり]
寧温の書いた案文を読んだ三司官たちの顔から血の気が引いていた。
「御内原は王宮において王がお体を休める特別な場所であり、男子の出入りは身分の高い者、低い者を問わず例外なく禁止されている」
「にも拘《かか》わらず王妃は法を破り男子を手引きしたのは、御内原の風紀を乱す許し難き悪行《あくぎょう》で厳重な処分を以て対処すべきである」
「王妃は地位を剥奪《はくだつ》し、王族から離れ身柄を大美御殿《おおみウドゥン》付きの一士族とする……」
「孫親雲上、正気か。これは王妃様を廃妃にするということではないか!」
「王朝の歴史ではあり得ない。王族の地位を揺るがすものだ」
「なぜ譴責では不十分なのだ。首里天加那志がこれを知ったら激怒なさるぞ」
寧温は淡々とした口調で妥当な裁決であることを述べた。
「王妃様は王族の地位を離れるだけで御内原にお残りになることは認めます。首里天加那志との婚姻は引き続き有効でございます。ただし、御内原の責任者としての資質は欠如しておりますので、国母様に御内原の管理をお引き継ぎいたします。王妃の地位は空位であり、今後どなたもお就きになることはありません」
「こんなことをして誰が幸せになる。何のために誰のための裁決なのだ!」
寧温は肺の中に黒黴《くろかび》が入ったことを知覚した。この黴が血に乗って全身を隈無《くまな》く覆い尽くすときには、意志も信念もない犬に成り下がっているだろう。今は、自分の体の中に侵入した黒黴が気持ち悪いのを我慢するだけでよい。ただ、どうしても前を見て話すことができなかった。今は正義が眩《まぶ》しすぎてとても目を合わせられない。
寧温は声を曇らせながら言った。
「歴代の王の中でも妃に先に死なれることはありました。そのときも王妃の座は空位でしたが問題はありませんでした」
「それは詭弁《きべん》だ。王妃様は生きておられるではないか。死人のようになれということか」
「王妃様は佐敷按司加那志《さしきあじがなし》の名を改め、首里天加那志の許可を得て御内原に留まっている、花城《はなぐすく》按司加那志といたします」
「王妃様が花城按司加那志に降格だと?」
王宮の身分の高い女性の名には領地を治めている間切《まぎり》の地名がつく。これは地位と財産を同時に表してもいた。王妃の別称でもある「佐敷按司加那志」とは、佐敷間切を領地に持つ女性という意味だ。佐敷間切はもっとも権威が高く地代が豊かな土地で、歴代王妃が全て佐敷按司加那志と呼ばれたのは、王妃になると佐敷を領地として与えられたからである。
たとえば同じ女子王族である聞得大君は、王国の聖地である斎場御嶽《セイファウタキ》のある知念《ちねん》間切を領地として所有している。だから聞得大君の別称は「知念按司加那志」となる。そして降格した王妃に新たに与えられた「花城按司加那志」はかつて栄えた村で、今では実体のない土地だった。つまり一定の身分は保証するが財産はない、という立場を表している。
「孫親雲上これがそなたが信条としている公平な裁きと言えるのか?」
「……法の範囲内でございます。そもそもは御内原に男を入れた王妃様の責任でございます」
三司官も摂政《せっせい》も到底受け入れられない論理だ。
「王妃様のことは評定所の僉議《せんぎ》で審理する。孫親雲上、すぐに王族を招集せよ」
むしろそれでよいと寧温は思う。王族の進退を扱う評定所の僉議は王の意見が絶対だ。王に自分の裁決を覆《くつがえ》してもらうしか正義を貫くことはできない。
御内原では寛容な処分が下されると高を括《くく》っていた王妃と女官大勢頭部が、廃妃処分と聞いて肝《きも》を潰《つぶ》していた。王妃は口上覚《こうじょうおぼえ》に見入ったまましばらく声を失っていた。
「廃妃……! この私が王妃を降ろされるというのですか?」
「王妃様、どうかお気を確かに。何かの間違いでございます。王妃様がいない御内原などあり得ないことでございます」
女官大勢頭部が口上覚を奪って内容を確かめた。難解な候文に女官大勢頭部は何度も首を傾げながら字面《じづら》を追う。どうして男たちはややこしい外国語で表記するのだろうか。候文は主語が省略されている上に、受動態で読む順番がひっくり返るから誰がどうなったのか慣れていないと意味を反対に読みとってしまいかねない。
「なんということだ。王妃様、この口上覚だと王妃様の地位は側室様よりも低くなってしまいます!」
「つまり首里天加那志と離婚させられたということか?」
「違います。王妃様と首里天加那志の婚姻は認めております。しかし予算の関係で王妃様の王族としての活動ができなくなります」
「こうなったら私費で御内原を仕切るしかあるまい」
王妃は領地からの地代を補填《ほてん》すればいいと考えている。佐敷間切の地代を値上げしてでも王族としての活動を続けるつもりだった。
女官大勢頭部が声を震わせて言った。
「王妃様は佐敷間切を没収されて、花城按司加那志にされてしまいました……」
「花城按司加那志ですって! この世にそんな村がどこにあるのですか」
地代収入のない領地を宛《あてが》われた王妃は、無収入の士族ということになる。失望の黄金御殿に驕慢《きょうまん》な笑い声が響き渡る。現れたのは天下無敵の王族神だ。
「聞得大君加那志のおなーりー」
「花城村は五百年前に知念間切に吸収された村のことじゃ。久高《くだか》島へ渡るときには必ず花城村で禊《みそぎ》をした神聖な村じゃ。そなたに相応しいと思わぬか?」
聞得大君はずかずかと座敷に上がり込んで上座を譲れと威圧する。
「無礼者。王妃である私の住居で上座に座るなど許されることではない」
「今日から琉球に王妃はおらぬことになっておる。そなたは花城按司加那志じゃ」
「言うな無礼者。この狼藉《ろうぜき》は首里天加那志に報告いたします」
「花城按司加那志よ、そなたはもはや王族ではない。首里天加那志に謁見するにはそれなりの手続きが必要じゃ。まず国母様にお伺いを立てよ。現在、御内原の運営は国母様が預かっておられる」
聞得大君の言葉を受けて国母が現れた。母娘連携の意地悪ドルビーサウンドが響く。
「首里天加那志との謁見を却下いたします」
「国母様のおなーりー」
「花城按司加那志は速やかに黄金御殿を退去し、女官詰所にて次の指示を待て」
「私が女官詰所にですって!」
国母が咳払いして、王妃を廊下へと追い出していく。
「妥当な指示である。黄金御殿は王族しか入れない。花城按司加那志は不当に王妃様の居室を占拠している。花城按司加那志は大美御殿《おおみウドゥン》付きの一士族である。明日にでも大美御殿へ行くがよい」
大美御殿は民間人が出入りする施設で王宮の外部にある。警備も待遇も民間施設と同じだ。そして大美御殿は聞得大君御殿と姉妹関係にあたる施設だ。即ち、王妃は聞得大君の配下に置かれたのに等しい。
「王妃である私が、王妃の私が……」
「王妃様、おいたわしや……」
女官大勢頭部がさめざめと泣く。王妃という最大の後ろ盾を失った女官大勢頭部にも容赦《ようしゃ》ない鞭《むち》が待っているとも知らずに。
「そうじゃ。さっき評定所筆者主取から新たな口上覚を預かってきた。女官大勢頭部の処遇について発表する。本日、女官大勢頭部の職を罷免《ひめん》し、そなたの地位をあがまとする」
「私が女官見習いのあがまだと!」
「今回の事件において女官大勢頭部は元王妃と共謀共同正犯じゃ。御内原の風紀を乱した女官大勢頭部は女官を束ねる資格はない。あがまとしてやり直すのじゃ。そなたの上級女官を紹介する」
聞得大君が声をかけると、永久歯の生え揃った女官が現れた。
「聞得大君加那志、お呼びでしょうか。思戸《ウミトゥ》でございます」
「おお、思戸よ。そなたに妹ができたぞ。元女官大勢頭部の思徳金《ウミトクガニ》じゃ。字面も揃っていて姉妹らしいのう。思徳金は御内原のことは何も知らないも同然じゃ。おまえがしっかり教育するように」
思戸は部下ができると喜んで来たのに、与えられた部下は歳を食った雌牛みたいな女だった。がっかりしたが、思戸は女官大勢頭部の失脚とともに女官の階段を一段上がった。この激変する環境に適応できるかどうかが思戸の女官人生を左右する。たとえ元女官長といえども、身分を落とされたら上級女官に従ってもらう。
「女官大勢、いや思徳金には雑用を命じます。女官居室の掃除、洗濯、料理の全てを行うように。それと戸棚に隠してある張り型は没収します」
聞得大君は「この淫乱《いんらん》あがまめ」と女官大勢頭部の背中に蹴りを入れた。女官大勢頭部はもう反抗する気力もない。王宮にあがって三十五年。女官長の地位に昇りつめるまでに幾多の政敵を打ち倒してきただろう。気にくわない女官に濡れ衣《ぎぬ》を着せて御内原から追い出すのは彼女の常套《じょうとう》手段だった。逆に目をかけた女は系図奉行を通じて士族の地位を与えて登用した。女官大勢頭部は御内原の現場を支配することだけに人生を懸けてきた女だ。それが今は、聞得大君に討たれて見習い女官のあがまである。これが王宮、これが御内原とわかっていても、女官大勢頭部はまだ女官長の気持ちを捨てられなかった。せめて最後は名誉を重んじたい。
「私はお暇をいただきたく存じます……」
「結構じゃ。荷物を纏めて出ていくがよい。ただし張り型は置いてゆけ。ほほほほほ」
そんな女官大勢頭部を引き留めたのは王妃だ。聞得大君と国母は廃妃にするだけで満足する女ではない。きっと来月には王妃が空位なのは差し障りがあると言って、側室を王妃にあげるに違いない。そうなったら王女の地位が危うくなる。
「女官大勢頭部、そなたがいなければ私は王妃として返り咲くことはできぬ。たとえあがまになっても御内原にいておくれ。この花城按司加那志の一生の頼みです。今の私では王女を守ることさえできぬ」
「王妃様、王妃様……」
廊下から後之御庭《クシヌウナー》に掃き出された二人は、互いを哀れんで身を抱き寄せ合った。王宮から出て行くのは容易《たやす》い。しかし戻るとなると至難《しなん》の業だ。華やかな王宮は去った者を振り返ることはない。常に新しい人が王宮にあがり、新陳代謝を繰り返しながら毎年若返っていく。だから王宮の花は枯れることはない。朽《く》ちた花はひっそりと捨てられるだけだった。
生き恥を晒《さら》しても残ると決めた二人が聞得大君は不愉快だった。あと一息で追い出せるのに、王手を打ってもまだ投了しないとは見上げた根性である。
「王妃様の王族活動は妾が代理で務める。これからしばらくの間、妾が黄金御殿に毎日通おう。花城按司加那志、思徳金の二名は、妾の目の届かない所へ蟄居《ちっきょ》せよ」
黄金御殿から王妃が追い出されたのを王女が、目を腫らしながら見届けていた。敵意|剥《む》き出しの伯母が黄金御殿にやって来たのは、きっと次期聞得大君の相続を睨《にら》んでのことだと王女にはわかっていた。新聞得大君に即位できなければ、王女はやがて王族籍から離れてしまう。そうなると母はさぞ無念だろう。恐れを持つとつけ込まれるのが王宮だと王女は幼いながらにも知っていた。今は耐えるときだ。
「私が聞得大君になったら、伯母様を火炙《ひあぶ》りにしてやるからね」
王女はこんなとき、好きな人のことを想う。御内原暮らしは人目が多くて窮屈だけど、王女は生まれてこのかた外の世界を見たことがない。外の世界と微《かす》かに繋がるのは、勤務している役人たちと接するときだけだ。その中で王女はあるひとりの花当と出会った。女装した少年は、怪しい魅力で王女の気持ちを惹《ひ》きつけた。あの美形の花当が王宮から消えて久しい。彼の姿を一目見ればこの苦難に耐えられそうなのに、どこに行ったのだろう。
花当|里前《さとめ》花持たちたばうち
花持たさよりか御胴《みどう》いまうれ
(花当のあなたが私に花をくださりました。でも花を持ってきてくれるよりも、あなた自身がいらしてください。そしたらどんなに嬉しいかわかりません)
その頃、評定所は寧温の裁決に大騒ぎだった。誰もがあの理不尽な口上覚を書いたのが寧温であることが信じられない。生意気な宦官だが、今まで一目置かれていたのは情も理もある裁決をするからで、極めて公平な案文を書く能力は評定所の中でも突出していた。なのに、今回のあの口上覚は王室を解体するために書いたものとしか思えない。
誰よりも憤《いきどお》っていたのは朝薫だ。御庭で寧温を見つけると、厳しい目で睨みつけた。
「寧温、きみは間違っている。王妃様を降格させるなんてどう考えてもやりすぎだ」
「……私は正しい判断をしたと思っております」
寧温は朝薫の目を見つめられない。恥ずかしいことをしたのは百も承知だ。胸を張って生きられないのがこんなに苦しいものだとは思わなかった。
「どこが正しいんだ。王妃様に何か怨《うら》みでもあるのか? ぼくはあの口上覚をきみが書いたとはとても信じられない。どうか間違っていることを認めてくれ」
「……いいえ。私は妥当な裁決だと確信しております……」
「寧温、なぜぼくの目を見て言ってくれないんだ。きみはいつでも物事の筋道を説くときには、相手の目を見て話しただろう。ぼくの目を見られないのは、やましいことをしたとわかっているからなんだろう?」
両肩を掴んで揺すっても寧温は目を合わせてくれなかった。
「もしかして誰かに脅されているんじゃないのか? きみは脅迫や圧力に絶対に屈しない男だったじゃないか。だからぼくは尊敬していたのに。誰に脅されているんだ?」
冊封使や御仮屋《ウカリヤ》や上官から圧力を受けても絶対に屈しなかった寧温が恐れる者がいるなんて朝薫には想像がつかない。たとえ王命であっても筋違いの命令なら従わないのが寧温という役人だったはずだ。それは寧温が国土の声に従って生きているからだといつか聞かされた。そう言い切る寧温のことを朝薫は尊敬し、敬愛していたのに、裏切られた気分だ。
「これが国家意志と言えるのか? 国土は王妃様をいらないと言ったのか?」
「私は……。私の信念に従い王妃様を降格させました……」
「嘘だ。聞得大君御殿から帰ってきてから様子がおかしいと思っていたんだ。もしかして聞得大君加那志に脅されているんじゃないのかい? なぜ御内原のいざこざに荷担するんだ?」
「違います。手を離してください。私は天地神明に誓って間違っておりません」
「天地神明なんかどうでもいい。ぼくとの信頼に誓ってくれ!」
逃げる顔を掴んで前を向かせた朝薫は、はっとした。寧温の頬は死人のように硬かった。そして涸れた瞳は虚空《こくう》を見つめていた。寧温の声にならない声が口から洩《も》れてくる。
「私は……朝薫兄さんとの……信頼に誓って……」
「嘘だ。その言葉は信じない。寧温、悪いが王妃様の件をぼくは認められない。評定所筆者全員で新しい口上覚を作成する。それを決裁するんだ。過《あやま》ちを認めるにはそれしかない」
朝薫が手を離した瞬間、寧温の体は気が抜けたように崩れ落ちた。
――私は自分の| 志 《こころざし》を踏みにじってしまった。
自分を裏切ることが死よりも苦しいと初めて気づいた。聞得大君の犬になって意志のない役人になれば苦しむことはないと思っていたのに、裸になったときよりも屈辱的だった。できることならあの口上覚を破棄してしまいたい。あんな惨《むご》い仕打ちを王妃にしてしまったことが激しく悔やまれた。王妃はあの口上覚を読んだとき、どう思っただろう。あがまに落ちたのを知ったときの女官大勢頭部の嘆きが耳にこびりついて離れない。何の怨みもなかった人たちなのに、彼女たちの人生を否定してしまったことが申し訳ない。苦しいのは泣くことすら適《かな》わないことだ。自分を裏切った瞬間、体は心を見限ってしまったようだ。涸れた目玉が痒《かゆ》くて痒くて仕方がない。
――なんであんなことしたんだろう。ごめんなさい。ごめんなさい。
志を失った役人のことを軽蔑していたのに、自分がそうなってしまった。王宮内の利害や覇権争いなど興味がなかったのに、いつの間にか一番深い泥沼の底に自分がいる。朝薫に軽蔑されるのも当然だった。なにより自分が一番、自分を許せないのだから。
――父上、私はあのとき一緒に死ぬべきでした……。
正殿に施された三十四匹の龍が奈落《ならく》へと落ちていくひとりの役人を見つめていた。
王宮の城郭の片隅にある銭蔵《ぜにくら》は、王宮の情報が伝わるのが最も遅い場所だ。評定所のふとしたミスで王宮の祝宴にも招待されたりされなかったりするくらい存在感が薄い。以前、国王が薨去《こうきょ》したときにも出入りの商人から聞かされて、喪《も》に服した逸話があるほどだ。
もっとも人目がないのをいいことに、牧歌的王宮生活ができる場所でもある。今日も多嘉良と儀間《ぎま》親雲上は酒を呑んで顔を赤らめていた。
「儀間親雲上、今年の泡盛の出来は素晴らしいなあ。がはははは」
古酒を造るために注ぎ足しする分の泡盛だから多少減ったところで怪しむ者はいない。
「多嘉良殿、この前の西瓜《すいか》を持って参れ。三つ盗《と》ったのを知らぬと思っているのか?」
「ちぇ。見られてたか。女房と子どもに食わせようと思っていたのに」
多嘉良は西瓜を瑞泉門《ずいせんもん》の脇にある龍樋《りゅうひ》に漬けてあった。この龍樋は王国一の銘水と謳《うた》われる泉で、どんな干魃《かんばつ》のときでも涸れたことがない。また味も格別で那覇の天使館に滞在している冊封使に毎日運ばれている神聖な水だ。亜熱帯の王国において、龍樋の水の冷たさは氷室《ひむろ》よりも重宝された。炎天の夏場でも龍樋の周りは寒気を覚えるほどだ。そこに西瓜を漬ければ一時間もしないうちに氷温寸前のシャーベットになっていた。
冷えた西瓜を抱えてやって来た多嘉良はあまりの冷たさに指をかじかませている。
「うひょおおっ、冷てえ。前に御料理座の料理人が慶良間《けらま》の西瓜を龍樋で冷やしているのを見て、一度やってみたかったんだ。首里天加那志はこうやって冷やした西瓜をお召し上がりになるのがお好みだそうだ」
今日の西瓜はこの前のものよりも数倍の美味《おい》しさを保証してくれる。いざ包丁を入れようとした多嘉良を儀間親雲上の腕が遮《さえぎ》る。
「待て。なぜ一個しか持ってこなかったのだ。龍樋に漬けたのは二個だろう。さては独り占めするつもりだな」
「違う。あれは、その、孫親雲上に差し上げようと思って取っておいたのだ」
「孫親雲上? 評定所筆者主取のか?」
「そうだ。孫親雲上は激務でお疲れになっている。儂らが暢気《のんき》に王宮生活が送れるのも孫親雲上が、的確に王府の舵取りをしてくれているお蔭だ。だから感謝の印に西瓜を差し上げたいのだ」
そう言って多嘉良は寧温の精気のない表情を思い出した。行政の現場の最高責任者である評定所筆者主取が楽なわけがない。利権としがらみに塗《まみ》れながら信念を通していくのは並大抵の苦労ではないだろう。仕事の愚痴を聞いたところで多嘉良にはちんぷんかんぷんだ。せめて美味しい西瓜を食べる間だけでも辛い現実を忘れてほしかった。
その考えに儀間親雲上も賛成だ。
「じゃあ私からの西瓜ということにしてくれ。ついでに歌を添えよう」
儀間親雲上は短冊にすらすらと琉歌《りゅうか》を詠《よ》んでいく。
あけやう我が袖や波下の千瀬《ひし》か
乾く間やないさめ濡れる心気《こころぎ》
(哀れに思ってください。私の袖は涙のせいで浅瀬の波に浸かったように乾く間もなく、いつも濡れてばかりです。あなたに悩ましい思いをしているせいでしょうか)
会心《かいしん》の出来に儀間親雲上は満足そうだ。その飽くなき色事《いろごと》への好奇心に多嘉良は背筋が凍った。
「おっそろしい奴だ。女ばかりかついに宦官にまで手を出そうとしているのか」
「私は美しければ女でも男でも想いを寄せるまでだ。孫親雲上の色気がただ事ではないのは多嘉良殿も知っておろう」
「そなたには男色趣味まであったのか」
「私は清国式の挨拶をしたまでだ。福州《ふくしゅう》では男同士で義兄弟の契《ちぎ》りを交わすのは男女の婚姻と同じで普通にあるのを知らないのか」
「頼むから孫親雲上に手をつけるのはやめてくれ。儂の私塾時代からの親友なんだ。変態親雲上に手込めにされるのは見るに忍びない」
「なんだと。誰が変態親雲上だ」
「おまえなら、そのうち美しい雌犬にでも琉歌を詠むに決まっている」
「犬に詠むわけないだろう。猫にならあるが……。暹羅《シャム》の国の猫は素晴らしい気品だったなあ」
「やっぱり変態親雲上だ……」
こんな変態は放っておけ、とばかりに多嘉良が西瓜を真っ二つに割った。しかしどうしたのだろう。果汁が噴き出てくると思っていたのに、包丁が果肉にくっついて離れない。ままよ、と両手で西瓜を引き離した多嘉良が目を丸くした。西瓜の果肉の部分が真っ白ではないか。
「なんだこりゃあ。白い西瓜なんて初めて見たぞ」
儀間親雲上がおかしいと西瓜を覗《のぞ》き込む。表面を触ると小麦粉のような微粒子がびっしりと詰め込まれていた。恐る恐る味見をしてみた儀間親雲上の顔色が変わった。
「これは白い西瓜などではない。誰かが中を刳《く》り抜いて西瓜に見せかけたのだ。多嘉良殿、食べてはならん。これは、これは……」
「どうせあこぎな商人が偽物を混ぜ込んだのだろう。儂にも食べさせろ」
多嘉良を制止した儀間親雲上は西瓜を元に戻して、すぐに風呂敷に包んだ。
「多嘉良殿、これは誰にも口外してはならんぞ。騒げば王宮がひっくり返る」
「だから何なのだ。白い西瓜が不吉の前兆とでも言うのか。ユタみたいな奴だ」
儀間親雲上の声が聞こえるかどうかの囁きに変わる。
「これは阿片《あへん》だ……。琉球に入っていたとは……」
多嘉良は褌《ふんどし》を曝《さら》して腰を抜かしてしまった。
その夜、聞得大君御殿に呼びつけられた寧温は兄との面会を許された。嗣勇は監禁されていたが、聞得大君御殿付きの役人の衣装に着替えさせられていた。縄をかけられているが、役職は聞得大君御殿|足《たし》筆者を与えられた。雑用をする下っ端だが正九品の官位が与えられたことになる。表向きは出世したことになっているが、実体は人質である。
「兄上、何とか逃がしてあげますから、少しの辛抱でございます」
「真鶴、聞得大君加那志に従ってはいけない。今すぐ逃げてくれ」
「私は聞得大君加那志の命令に従いました。兄上を釈放していただきます」
「釈放されたら、おまえは斬首だ。ぼくが監禁されている今しか逃げる機会はない」
「私は斬首でも結構です。私は今日、役人の魂を売ってしまいました……」
「真鶴は悪くない。ぼくがヘマしたのが悪かったんだ。どうかそんな顔しないでくれ」
暗い蔵の中でも妹がどんな顔をしたのか想像できる。聞得大君は一度利用価値があると知ると旨味《うまみ》がなくなるまで吸い尽くす。釈放を条件にしたら負けてしまう。
御殿の役人たちが兄妹を引き裂いた。
「面会は終わりだ。聞得大君加那志がお呼びである」
聞得大君は王妃を討った美酒に酔いしれていた。寧温を跪《ひざまず》かせると上機嫌に声を転がした。
「さすが凄腕の評定所筆者じゃ。妾はそなたの才覚に惚れ惚れしておる」
「聞得大君加那志、私はもう死んだも同然の身です。どうか後生《グソー》(あの世)へお渡しください」
「後生に行ってもつまらぬぞ。人は生きてこそじゃ。そなたの才能は現世向きである。これからも妾を喜ばせるように」
寧温は畳に頭を擦《こす》りつけて懇願した。
「どうか、どうか聞得大君加那志。私を殺してください。私はもうご命令には従えません」
「死ぬ前に贖《あがな》いをするべきじゃと思わぬか? そなたは財政改革で妾を侮辱したことがあったじゃろう。その非礼を詫びるのじゃ。まずは聞得大君御殿の予算を元に戻してもらう」
「畏《おそ》れながら聞得大君加那志、一度通った予算は覆りません」
「評定所筆者主取の決裁で覆せるはずじゃ。元はといえば、そなたの予算案自体が間違っていたのじゃ」
「いいえ。王府の借金体質は根本から正さなければ、薩摩に付け入る口実を与えるだけです。王府に金の成る木があるわけではございません。首里天加那志の食事ひとつも異国からの借入金で成り立っているのが現状でございます」
「では薩摩から借金すればよい」
「その考え方が王府を弱くしていると何故お気づきにならないのですか。聞得大君加那志の慧眼《けいがん》なら王府の未来が見えるはずではありませんか」
「素性を偽って王府に潜り込んだ便所|鼠《ねずみ》が、妾に説教とは腹立たしい限りじゃ。妾は当然、琉球の未来を見据えておる。男に政治を任せたのが薩摩の介入を招いた根源じゃ。尚寧王《しょうねいおう》の御世《みよ》の聞得大君は霊験《れいげん》により薩摩の侵攻を告げたのを知らぬのか。愚かな男たちは聞得大君の進言を無視し、易々と尚寧王を売り渡してしまった。海軍の増強を説いた聞得大君の無念を妾は決して忘れない。あのときと同じことが近い将来起きるであろう。妾はそのときのために何としてでも政治の場に足場を作っておかねばならぬのじゃ。もはや薩摩は敵ではない。真の敵は列強である」
聞得大君は毎晩配下の役人と琉球の未来を見据えた新たな体制を構想していた。配下の役人を王宮に送り込み、政治力を増そうとしている。多数派を生み出すにはどうしても金がいる。女は情で動くが、男は金を使わないと言うことを聞いてくれないのが聞得大君の悩みだ。
「聞得大君加那志、そこまでわかっておられるなら、私と同志ではありませんか。なぜ金で人の心を買おうとするのですか。高邁《こうまい》な理念があれば、王府の役人は志に共感いたします」
「男は理想主義じゃがすぐに裏切る癖がある。まるで女を乗り換えていくように損得だけで動きよる。金が必要なのは贅沢がしたいからではない。役人たちは独自の金の経路を生み出して妾の言うことを聞かなくなってきている。その汚職の根源を叩き潰すためにも、妾が政治の場で目を光らさなければならないのじゃ」
聞得大君が神扇を畳に叩きつけた。
「その裏金の出所は私が追っております。聞得大君加那志がご心配することではございません」
「偉そうに。ではそなたが何を掴んだのか申してみよ」
それは、と寧温は口籠もった。元栓を締めてみたがまだ怪しい部署が特定できていない。恐らく寧温が金を追っているのを察知したのだろう。この一月の間、不正な経理が発覚したのは聞得大君御殿だけである。しかし今の証言で聞得大君はシロだと確信した。むしろ潔白な部署はここだけかもしれなかった。だから迂闊《うかつ》にも派手な金遣いをしたとは考えられないだろうか。寧温の密命を知るのは王と摂政、三司官、そして表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》しかいない。もし漏《も》れたとしたなら相当大がかりな組織が王宮内に存在することになる。
しかし聞得大君は独自の調査で金の流れを見抜いていた。
「一番怪しいのは御内原じゃ。それで王妃と女官大勢頭部を追放したのじゃ。あの二人がいると自由に御内原に入れぬ。それにこのままだと王妃が裏金に手を染めてしまいかねぬ。そんなことをしたら首里天加那志がどれほどお心を痛めよう。あの贅沢王妃が清廉潔白《せいれんけっぱく》なうちに御内原の悪事から引き離しておくのが妾の役目じゃ。事態が収まればまた王妃に戻してやる」
マキアヴェリストの聞得大君は目的のためなら手段を選ばない。たとえ残酷な手段でも一番速い方法と思えば迷わず手を下す。王族の不逮捕特権を悪用できるなら、それも厭《いと》わない。聞得大君はそんな女だった。寧温が情と理で法の手続きを重んじるなら、聞得大君は法の間隙《かんげき》をついて迅速であることを信条とする。犠牲者には後から手厚い供養をすればよい。聞得大君の霊力なら無念の魂を慰めることができる。
「聞得大君加那志の慧眼《けいがん》に心から感服いたします。ですが借金で闘争資金を集めるのには賛同できません。正しく、堂々と、信念を以て臨むべきです」
「そんな悠長なことをしていたら王府は沈むわ。毒には毒を以て制す。さっさと聞得大君御殿の予算を元に戻すのじゃ。さもなくば兄の命はないと思え!」
聞得大君は一喝して席を後にした。
――聞得大君加那志、あなたは間違っております。
寧温は自分がどうするべきなのか、途方に暮れた。
翌日、評定所に入った寧温は、王府の帳簿を前に溜息をついた。どこをどういじっても聞得大君御殿の予算を元に戻せるだけの資金はない。薩摩に借入金の申し込みをするしかないが、現状だと琉球は手痛い借りを作ることになる。英国船漂着事件、ベッテルハイムの身柄引き渡し拒否、寧温は薩摩を怒らせることばかりしてきた。いけしゃあしゃあと借入金の申し込みを書けば、在番奉行《ざいばんぶぎょう》に鼻で笑われるどころか、利息の督促を受けかねない。外交力学上、薩摩に恩を売らねばならない時期にそんなことはできなかった。
ぼうっと頬杖をついた寧温に、朝薫が案件の審理を求めてきた。朝薫は昨日のことを忘れたわけではない。評定所の僉議は今日行われる。王に否決されたら寧温は恐らく降格処分だ。実習生の評定所仮筆者に落とされるだろう。それを憂《うれ》えて頬杖をついているのだろうかと朝薫は想像する。
「寧温、今年の科試の問題文を見てくれないか?」
科試と聞いて寧温の顔が一瞬明るくなった。今年の出題者は朝薫らしい。無邪気に微笑んだ寧温は、私塾時代のことを思い出していた。あのときは自分に解けない問題はない、と常に言い聞かせていたものだ。どんな複雑な外交問題でも国内問題でも、解決の糸口は必ずあると信じていた。あの日が懐かしくてついつい声を弾ませてしまう。朝薫の作った問題はこうだった。
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出題
間切地方之衆中共気力禿入華奢夥敷様風聞有
之、剰曲事致横行候故候哉、百姓農業致油断
家内及衰微ニ体甚敷有之候。難許悪弊候間、
おゑか人共之正敷有様為致挽回如何様之手段
可有之候哉、御物奉行下知方之案文可作調候
事。
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「地方役人の悪弊が横行し、百姓が苦境下にある、役人どもの品行を改善するための政策を作成せよ。さすが朝薫兄さんです。時代の流れを掴んだよい問題だと思います」
寧温が白い歯を見せて笑った。そして自分だったら、こう答えると言って朝薫と論を闘わせた。
「私なら地方役人の質を高めるために、研修制度を導入すべきだと説きます。彼らは現場の局面だけを見て全体のことを考えられなくなっています。一度王府で研修して現場に戻すのが最適だと思います」
「それは地方役人を性悪説で唱えてはいないか? 王府の上級役人こそ現場感覚を磨くために地方で研修させるべきだ。士気の高い上官を現場に配置することが、地方の質を高めると思う」
朝薫が拳《こぶし》を突き上げながら語るときは、絶対に論を譲らないことを寧温は知っている。後から考えると朝薫の答えが正しいと思う。だけど論を闘わせているときは寧温も熱くなって平行線になるのが相場だった。しかし今日の寧温は「そうかもしれませんね」と相槌《あいづち》を打つ。朝薫が調子が狂うと論戦に誘ったが、寧温はニコニコ笑っているだけだった。
――私は科試を目指していたあの日に戻りたい……。
私塾時代、勉学に明け暮れていた日が美しく輝いて見えた。解けない問題を前に涙した日もあったし、麻真譲《ましんじょう》から頑固者と叱られた日もある。なぜか辛かった日のことが愛おしく思える。あの瞬間に戻れるのなら、叱責も含めて抱き締めてやりたかった。
書院から三司官たちが血相を変えて現れる。評定所の僉議が終わったようだ。寧温は降格されることで罪を償《つぐな》えることに安堵《あんど》した。しかし評定所に訪れた三司官たちは寧温と目を合わせようとしない。筆者たちが何があったのか三司官に尋ねても「おまえから言え」と仲間同士で小突き合う始末だ。不審に思った朝薫が三司官の顔を覗き込む。
「王妃様の僉議は終わったのですよね?」
「終わった。王妃様は孫親雲上の裁決通り降格して花城按司加那志になられた……」
その言葉に評定所筆者たちが騒然となる。簡単に覆せる権限が三司官にはあるのに、なぜ降格になったのか理由がわからない。
「首里天加那志が妥当な処分だとお認めになられた……。もはや我らが足掻《あが》いてもどうすることもできなかった」
「王妃様がいなくなるということですか? 孫親雲上の理不尽が通ったということですか?」
「その通りだ。貴様、また命拾いしたな」
三司官らは寧温を憎悪の眼差《まなざ》しで睨み付けると、評定所を去って行った。廃妃なんて王朝始まって以来のことだ。こんな暴力的な処分を王が認めるとは思えない。
「おい、評定所のみんなで首里天加那志に上訴文を書こう。こんな無体《むたい》は許されない」
寧温は自分の見えない世界で何かが動いているのを感じた。これは大きな事件の予兆にすぎない。道理や情を押し流す大きな波が押し寄せている。自分はその尖兵《せんぺい》に使われているのかもしれないと思った。一度曲がった筋道はすぐに是正しないと邪路が本流に変わってしまう。寧温は評定所筆者を辞してでもこの流れを止めようと決意した。
すると御仮屋から使いの者がやって来た。寧温との面会を求めた役人はこう切り出した。
「在番奉行殿の命令だ。すぐに薩摩守へ銀子《ぎんす》一千貫文の借入金の申入書を作成しろ」
「はい? 何かのお間違いではないでしょうか?」
利息の督促に来たのならわかるが、金を貸してやると向こうからやって来る理由がわからない。
「薩摩への船が明日にも出航する予定だ。それまでに間に合わせておけ」
用件だけを伝えた役人は足早に王宮を去って行った。きょとんとしていた寧温に平等所《ひらじょ》から朝一番の口上覚が届いた。目を通した寧温が絶句する。
「ベッテルハイム博士の身柄を御仮屋に引き渡したですって!」
ベッテルハイムの身柄が薩摩に渡れば斬首は間違いない。評定所管轄としたはずの案件が何者かによって越権されている。寧温が知る限りこんな早手回しができるのは、ひとりしかいない。寧温は再び聞得大君御殿へ向かった。
「聞得大君加那志、薩摩が頼みもしないのに借金させてやると申して来ました。何をしたのですか? それに僉議の結果も解《げ》せません。首里天加那志に何を吹聴《ふいちょう》したのですか? 一度法を曲げると戻すのに百年かかります」
聞得大君は朝から説教されて不機嫌だった。
「妾には百年待っている暇はない。在番奉行殿と取引をしたまでじゃ」
「評定所を通さずに勝手に在番奉行と接触されては困ります。聞得大君加那志にその権限はありません。ベッテルハイム博士は信者を獲得した証拠がございません。身柄引き渡しは不当です」
「証言ならあるぞ。辻のジュリが切支丹だと自供したと大あむしられから報告があった」
「拷問で偽りの自供をさせたのでしょう。証拠品がなければ切支丹とは認めません」
「これで薩摩側が気を良くしてくれたのじゃ。あまり詮索するでない」
「ベッテルハイム博士を処刑すると英国が黙っておりません。いいえ基督《キリスト》教文明圏の全てを敵に回してしまうことになります」
聞得大君は男と話をしているようで苛々してきた。ここは女同士、阿吽《あうん》の呼吸で話がしたい。
「どうせ列強は敵に回る。その前に琉球は列強を上回る海軍力をつけて迎え撃てばよい。政治は速さが命じゃ」
「人命を弄《もてあそ》ぶ政治など未開国の野蛮な行為だと知るべきです」
聞得大君は夜中のうちに朝投げる弾をせっせと仕込んで徹夜明けだ。王と謁見し僉議の操作を行い、すぐさまその足で平等所へ行きベッテルハイムの身柄を薩摩に引き渡し、最後は御仮屋まで出向いて在番奉行と面会した。これだけのことを一晩でやってしまうのが聞得大君の行動力だ。そして極めつきはまだある。
「さっそくだがそなたには借入金の申入書と同時にやってもらいたいことがある。今から三重城《ミーグスク》に行き、今年の科試の問題を在番奉行の使いの者に渡すように」
「私に科試の問題を漏洩《ろうえい》しろと仰るのですか?」
聞得大君が取引したのは御仮屋の思惑を汲み取ったものだ。清国との二重外交を快しとしない薩摩は王宮の役人に薩摩の息がかかった者を大量に送り込むつもりだった。清国派を弱体化させ、王府を薩摩寄りの政策に転じさせるのが目的だ。そのために真和志《まわし》塾と共謀し、薩摩派の塾生に問題を漏洩させることがもっとも確実な方法だと考えたのだった。
「妾が長期契約してきてやったぞ。今後二十年間、科試の問題を真和志塾へ流すのじゃ。評定所筆者主取なら、科試の問題の決定権があるはずじゃ」
「できません。それは王府の体制を揺るがす悪行でございます」
「そなたの意志などどうでもよい。そもそも科試制度に泥を塗ったのは女のそなたではないか。薄汚い役人は薄汚い仕事をすればよい。さっさと三重城に行って科試の問題文を使いの者に渡せ。ほら、あの声が聞こえぬか」
蔵から石敷きに処せられた嗣勇の呻《うめ》き声が聞こえる。「真鶴《まづる》、やめろおっ!」と耳をつんざく声に寧温の足が震えてきた。
「おやめください。私が裏金の流れを必ず突き止めてみせます」
「女の評定所筆者の言うことなど信じられるか。そなたは黙って妾の指示に従うのじゃ」
拒否しても拒否しても聞得大君の命令に従わざるを得なくなってしまう。まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように藻掻《もが》くほどに絡まっていく。科試の不正を手引きする張本人になってしまうなんて絶対に嫌だった。なのに兄の悲鳴を聞くと足が勝手に動いてしまう。心だけでも逃げて体だけの人間になってしまいたかった。
――私は科試受験生たちを裏切ってしまう。今なら引き返せる。まだやめられる。
目玉にまた猛烈な痒みが走った。小さな吹き出物が眼球にできたのかもしれない。痒くて痒くて瞬きすらできなかった。
さんざん迷った挙げ句、寧温は三重城の頂に立っていた。海を見つめながら何という人生かと自分が情けなくなる。ここで髪と別れた少女時代、こんな日が来ると知っていたら、きっと髪を切らなかっただろう。こんな役人に成り下がってしまった自分をあの世の父もきっと許さないだろう。兄は助かっても後悔するだろう。全部納得ずくで今ここに立っている。理由はたぶん、海風が心地好いからだ。寧温は朝薫の作った問題を読み直して、申し訳ないと頭を下げた。試験問題を漏洩するかしないか、風に決めてほしかった。
「私は疲れました……。強くもない人間がなまじ志を持つと破滅するんですね……」
今この場で朝薫に殴られて漏洩を阻止されたら、きっと一生の恩人として敬愛するだろうと寧温は思う。自分は漏洩する気にもなれず、かといって兄の命と引き替えに拒否することもできない薄汚い小悪党だ。鼠に生まれてくれば逡巡《しゅんじゅん》などせずに汚いことを喜んでしただろうに。女に生まれたせいでどこに行っても爪弾《つまはじ》きにされてしまう。
人の気配を感じた寧温は、ふと後ろを振り向いた。真夏の日差しの中に爽やかな空気を纏った男の姿が現れた。三重城にやってきたのは雅博ではないか。
「まさか雅博殿に渡すなんて。神様は何て酷いことを仕組まれるのですか……」
胸が張り裂けそうに痛い。人間として一番汚い姿を雅博に見せてしまうなんて。小悪党にも小さな誇りがあるのに全てを捨てろというのか。
雅博は頂に立つ人影に首を傾げた。在番奉行の使いで手紙を受け取れと命じられて三重城に来たら、評定所の孫親雲上がいるではないか。途端、雅博の顔が綻《ほころ》んだ。また会いたいと念じていたら神は巡り合わせてくれたのだ。
「孫親雲上、お久しぶりです。私たちは縁がありますね」
雅博が優しい目を向けるたびに、寧温は後ずさっていく。
「いや。雅博殿、来てはなりません。来てはなりません」
「どうしたのですか、顔色が優れないようですが」
雅博が手を差し伸べた瞬間、寧温の意志は固まった。
――兄上お許しください。父上と後生でお待ちしております。
振り返った寧温は断崖の上から珊瑚礁《さんごしょう》の海に身を投げた。一瞬体がふわりと宙に止まり、それから放物線を描いて急速に落ちていく。朝薫の作った問題用紙が飛ばされないように胸元にしっかりと抱えながら寧温は真っ逆さまに海面に吸い込まれていった。足下から雅博の声が聞こえる。
「孫親雲上、やめろ!」と。それをこの世の最後の言葉として受け取った。
――さよなら雅博殿。これでいい。私は満足です。
波飛沫《なみしぶき》が舞う海に寧温の体は落ちていった。きっと苦しいと思っていたのに、海面を突き破った瞬間、ふと軽さを感じた。こうなれるとわかっていたら、もっと早く自害していたのに。心地好く溺《おぼ》れていく意識の中でうっすらと目を開けた寧温は海中に無数の龍が渦巻いているのを見た。
「龍が、目を潰されて王宮から逃げ出した龍たちが……」
海が雷のように鳴っている。猛り狂った龍たちが寧温の体を通り過ぎていく。なぜか叱られているような気がする。体はどんどん感覚がなくなっていくのに、意識だけが重い。龍が寧温の腕に絡まって無理矢理伸ばそうとした。腕一本だけ残してぶらんと体が下がっているだけに感じた。
『龍の子よ。地上に戻れ』
何かの声を聞いた気がした瞬間、体に鈍い痛みが走った。さっきまでの軽さとは打って変わって手足が潰されるような痺れが走る。そのときだ。腕が何者かに引っ張られる感覚がして、意識が途絶えた。
「孫親雲上、孫親雲上。どんな辛いことがあったのだ。死ぬな。死ぬな」
寧温が身投げしたのを見た雅博は迷うことなく海に飛び込んでいた。そして海底に沈んでいく寧温を見つけるやすぐに腕を引っ張り上げた。あとはどうやって浜まで運んだのか覚えていない。
「孫親雲上、孫親雲上。私はあなたの側にいたい。私は自分の気持ちが知りたい」
寧温の呼吸が止まっている。寧温の顎《あご》をあげて気道を確保した雅博は、熱い吐息を送り続けた。
冷たい唇にやがて血の気が甦ってくる。雅博は自分が酸素不足になるまで息を吹き込んだ。
――雅博殿……。
胸の中に雅博がたくさん入ってくる気がした寧温は、雛の子守歌を聴いているようだった。この世にこんな温かさがあったことを寧温は知らない。人の手がこんなに優しかったなんて、誰も教えてくれなかった。意識のキャンバスが雅博と混じって新しい色を生み出す。情熱的で一時も同じ形を留めない炎のように無限に色相を変えていく。雅博に染まっていくのに透明な気持ちになる。生きることに何を恐れることがあるのだと勇気が湧いてくる。
――私は生きよう。生きて生きて生き延びてみせる。
意志が固まるや、寧温は息を吹き返した。
「孫親雲上。よかった。よかった」
雅博に抱き締められて、あれだけ欲しかった涙がひとつ零《こぼ》れた。
「もう大丈夫です雅博殿。いただいた命のご恩は決して忘れません」
寧温は雅博の肩に腕を回したが少しの躊躇《ためら》いも感じなかった。心を満たしてくれた雅博にはもう何も求めない。生涯飢えないほどに愛を満たしてくれたのだから。
「雅博殿、手紙を破損してしまいました。在番奉行殿にこうお伝えください。王府は今回、借入金を申し込むことを遠慮したいと。そして利息を返済したときにまた薩摩のご厚情を仰ぎたいと。琉球は薩摩のご加護を常に感謝しております」
寧温の目が澄んでいるのを見た雅博は、快く申し出を受け入れることにした。
「わかった。確かに伝えよう」
「それとベッテルハイム博士と面会させてください。切支丹事件を終わらせてみせます」
「よしすぐに手配しよう。まずはその濡れた着物を替えられたらどうだ。私の羽織でよければ貸しましょう」
長身の雅博の羽織は寧温の膝下をすっぽりと隠してしまう。
「ありがたくいただきます。では夕刻に御仮屋に改めて参ります。あの……」
寧温は口籠もった代わりに幸福そうな笑顔を向けた。
別れゆる袖に匂ひ移ちたばうれ
面影の立たば伽にしやべら
(別れ際にあなたの袖の匂いを私に移してください。そうすれば想い出すときはいつでもあなたの袖の匂いを伽《とぎ》にして心を慰めましょう)
夕刻、御仮屋に訪れた寧温は張りつめた気を纏っていた。あまりの迫力に王府の役人をからかうのが趣味の薩摩の武士たちが怯《ひる》む。ベッテルハイムは蔵に閉じこめられていた。
「評定所筆者の孫寧温です」
「ハイ・コミッショナー。どうか私を解放してくれ。このままだと日本人に処刑されてしまう」
寧温は揺るぎない口調でベッテルハイムに語りかけた。
「ベッテルハイム博士、よくお聞きください。博士が生き残る道はひとつしかありません。博士を売り渡したのは聞得大君という王府の神官です。彼女がいる限り切支丹弾圧の名のもとに無実の人の血が流れ、博士は彼女の悪行を隠蔽《いんぺい》する道具になり続けることでしょう」
「それは迷惑だ。私がキコエオオキミに何をしたというのだ?」
「何も。ただ聞得大君はひとつ失敗をしました。薩摩に切支丹がいる証拠があると告げたのです。博士はこの供述書にサインをしてくだされば放免されます。これが英文訳です」
ベッテルハイムが英文を読んで噴き出した。そこに書かれている供述書が傑作だったからだ。不当逮捕の怨みがあるベッテルハイムは喜んでサインした。
「ハイ・コミッショナー、私はあなたを気に入ったぞ。なかなかの策士だな」
「これは私にとっても進退がかかった事件です。しかし必ず私が勝利します」
「その自信家ぶりも気に入った。供述書通りこれを持っていくがよい」
ベッテルハイムは書物にサインするとグッドラックと茶目っ気たっぷりにウインクした。聞得大君が速さを信条としているなら、こちらはもっと速く動いてみせると寧温の目が光る。その眼差しは神獣の鋭さを宿していた。
その夜、聞得大君御殿が大与座の松明《たいまつ》に囲まれた。
「開門。開門。王府であるぞ!」
寝入りを邪魔された聞得大君が毒気を漲《みなぎ》らせて起きあがる。既に屋敷の中を大与座の役人たちが土足で踏み荒らしていた。
「妾の屋敷を乱すとは無礼な奴らじゃ。蹴散らしてくれる」
朝衣《ちょうい》を羽織った聞得大君が武器の神扇を構えようとする。しかし大与座の役人は空手を修めた男たちだ。たちまち聞得大君は組み伏せられてしまった。
「離せ。離すのじゃ。こんなことをしてタダですむと思っておるのか!」
「謀叛人・聞得大君だな。おまえを切支丹の容疑で逮捕する」
「馬鹿も休み休み言え。なぜ妾が切支丹なのじゃ」
「証拠はあがっている。おまえは王国の宗教世界の長でありながら切支丹に改宗した謀叛人だ」
「何を戯《たわ》けたことを申すのじゃ。妾は切支丹などではない。何をする。離せ。離すのじゃ」
細い月明かりの中、聞得大君は平等所へと連行されて行った。平等所で待ち受けていた役人に聞得大君の声が裏返る。
「孫親雲上。おまえが妾を嵌《は》めたのじゃな」
寧温は神獣の眼力で王族神の碧眼《へきがん》を封じ込めていく。人のものとは思えない獰猛《どうもう》な眼差しに聞得大君は圧倒されていた。
「切支丹事件は評定所が預かることになっております。そして今日、ベッテルハイム博士から有力な証言をいただきました。確かに王府には切支丹がひとり存在します。それが聞得大君加那志、あなたです」
「何を証拠に。どうせベッテルハイムが助かりたくて嘘の供述をしたのじゃ」
寧温はベッテルハイムから預かった聖書を突きつけた。そこには「聞得大君ガラシアに捧げる。ベッテルハイムより」と進呈されたサインが書かれていた。
「あなたは盗まれた十字架を探していましたね」
「何じゃそれは。妾が探していたのは馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》じゃ」
「大あむしられが供述しました。あなたから銀子百貫文の捜索費用を貰い、密かに十字架を探し出せと命令を受けたと。それで切支丹狩りを行った。これが切支丹事件の真相です」
「作り話じゃ。そんな信憑性《しんぴょうせい》のない話が証拠になると思っておるのか」
寧温が合図すると、横領の罪を着せられた大あむしられ達がぞろぞろと平等所に入ってきた。
「見たことを正直に話してください」
「はい。私たちは最初は勾玉を探しておりました。しかしいくら勾玉を集めても聞得大君加那志が探している首飾りとは違うと申されるのです。それは片っ端から集めました。多少の荒事《あらごと》には目を瞑《つむ》ると仰りましたから」
「おのれ、大あむしられめ。この妾を売り飛ばすつもりか」
「人聞きの悪いことを仰らないでください。私たちを売り飛ばしたのは聞得大君加那志ではありませんか」
「首飾りの在処《ありか》を吐かずに死んだ者が多数おりましたので、聞得大君加那志に相談したところ切支丹として処理せよと申し遣いました。それで聞得大君加那志は切支丹の首飾りを探していると思ったのです」
寧温が評定所に集められた当時の大与座の口上覚を一枚ずつ読み上げる。
「切支丹事件がやけに多いと評定所でも注意しておりました。大あむしられの供述と一致いたします」
尋問を見届けていた大与座の大親《ウフヤ》が続けろと促す。
「そして聞得大君加那志は十字架を盗んだ者を辻の遊郭で見つけました。平等所に捕らえられているジュリをここに連れて来てください」
現れたジュリはいつか聞得大君御殿で拷問を受けた女である。聞得大君はジュリの唯一の心の拠《よ》り所の勾玉を奪うばかりか、切支丹として告発してきた。その怨みが今返される。ジュリがおずおずと十字架を大親に差し出す。
「愚かにも私は聞得大君御殿に忍び込み、捕らえられて拷問を受けました。そのとき聞得大君加那志からどこに隠したのか執拗《しつよう》に責められました。私は焼き印を押されこのような哀れな姿になり果ててしまいましたが、盗んだ罪を認め、十字架をお返しいたします」
そう言って聞得大君の首にベッテルハイムの十字架をかけ「本当にごめんなさい」と謝った。
「そなたの罪は切支丹とは別件で裁かれよう。下がってよい」
ジュリは冤罪で死罪にされるよりも比較的軽い鞭打ち刑を選んだ。寧温が取引を持ちかけなければ確実に殺されていた命だ。
「嘘じゃ。こんな首飾りは妾は初めて見た。妾が探していたのは馬天ノロの勾玉じゃ!」
聞得大君は自分がどんどん不利な状況になっていくのを止められない。
「そして聞得大君加那志は聖母像を隠し持ってもいました。証人をここに」
現れたのは元王妃の花城按司加那志だ。不敵に笑った花城按司加那志は聖母像を大親に提出した。御内原に舞い戻り、聞得大君を追撃できると持ちかけられた花城按司加那志は喜んで寧温に手を貸した。
「聞得大君加那志は京《きょう》の内《うち》にこれを崇《あが》めておりました。私が見つけて叱ると聞得大君は私から王妃の地位を剥奪し御内原から追い出してしまいました。今の私は花城按司加那志に降格され大美御殿の勢頭部扱いでございます」
「嘘じゃ。妾は京の内にそんなものを奉《たてまつ》ってはおらぬ」
大あむしられ達が「確かにそれを見たことがある」と頷《うなず》き合う。寧温は詰めに入った。
「大親殿、以前私が申し上げましたように切支丹は必ずこの三つを所持しております。十字架、聖書、聖母像、これらの所有者が誰であるのか明白ではありませんか?」
大親は深い溜息をついた。
「うむ。聞かされたときは信じられなかったが、全て筋が通っている。まさか聞得大君ともあろうお方が切支丹に改宗していたとは……」
聞得大君は金切り声で叫んだ。
「嘘じゃ。皆で妾を罠《わな》に陥《おとしい》れようと企んだ茶番じゃ。おのれ寧温! そなたを殺してやりたい!」
寧温はもう聞得大君は恐くなかった。これでも一度は死んだ身だ。どんな犠牲を払っても二度と志だけは売り渡さない。
「だから殺してくれと頼んだときに殺しておけばよかったのです。私は死線を彷徨《さまよ》い、まだこの世に用があると知って戻って参りました」
聞得大君は寧温の背中から立ち上る片目の龍の姿を見た。かつて王宮から逃げ出した龍が、十数年の時を経て聞得大君の前に現れていた。彼女が敵に回したのは男装した女ではない。変幻自在の龍が人の姿をしているのだ。
「龍が、目を潰されて王宮から逃げ出した龍が……ここにいたのか!」
「孫親雲上の言う通り証拠が揃っている。もはや自供なしでも送検できるだろう。儂はこれから在番奉行殿と相談してくる。王族が切支丹だったとなれば薩摩藩主のお顔を潰すことになりかねん。おい、聞得大君加那志を牢に繋《つな》いでおけ」
「妾は無実じゃ。これは孫親雲上の陰謀じゃ。花城按司加那志の策略じゃ。大あむしられは嘘をついておる。ジュリのでまかせじゃ。ベッテルハイムの復讐じゃ。離せ。離すのじゃ」
引きずられていく聞得大君は最後まで抵抗を続けた。平等所では今まで聞得大君に抑圧されていた者たちが一斉に安堵の息をついた。
「これで私は王妃に戻れるのですね」
「はい。もはや王妃様の地位を脅《おびや》かす相手はおりません」
「我らも御嶽《うたき》に戻ってよいか?」
「はい。大あむしられ達の復職を許可いたします」
「私は死罪にならないというのは本当でしょうか?」
「はい。窃盗罪を認めれば軽い罰ですみます」
寧温はこれでいいと言い聞かせる。聞得大君から抑圧されていた人をもうひとり思い出した。
「そうだ嗣勇殿を解放しなくちゃ」
満面の笑みを湛《たた》えて兄の元に駆けていく寧温の足音が深夜の王都に響き渡った。煌々《こうこう》と照る月が聞得大君御殿へと導いていた。
かたき討取やり誇て戻ゆすや
御慈悲ある御主《うしゅ》のおかげさらめ
(父親の敵を討ち取って喜んで帰ることができるのは、勧善懲悪《かんぜんちょうあく》の国王様の情け深さのたまものです)
三日後、聞得大君の裁判が平等所で執り行われた。琉球の宗教支配者が切支丹だったというスキャンダラスな話題は王国を揺るがした。平等所は野次馬で押すな押すなの人だかりだ。
「この国は末期的だな」
「あの聞得大君が切支丹だったなんて呆れて物が言えない」
「おお、聞得大君加那志が現れたぞ!」
質素な囚人服を着せられた聞得大君はかつての豪奢な面影を残していなかった。唯一碧眼が彼女の神聖な身分を伝えるだけである。聞得大君の供述は全て保身のための嘘とされ、証拠を覆すだけのものにはならなかった。評定所筆者主取の孫親雲上は女であると告げたときは、さすがの取調官も失笑の渦に巻き込まれた。孫親雲上が聞得大君の処遇が甘くなるようにどれだけ奔走しているのか聞かせてやりたかった。
「最後に申したいことがあるなら述べてみよ」
「妾は無実じゃ。信じぬならそれでよい」
平等所の大親から判決文が読み上げられる。
「真牛《モウシ》の判決を言い渡す」
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口上覚
真 牛
右者事御当国安寧之為開基聞得大君職ニ乍在、
御大禁被仰置邪教之図書致所持候儀明白有之、
斯様成る大曲事言語道断之大罪ニ而、最早可
遁様無之積候。此上者死罪被仰下事必定と被
存候得共、憐憫之念遣被致斟酌、其者格別之
身上被致滅却、加之無系ニ令辱、首里より欠
所被仰下候事至決定者也。
平等所
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「その者、聞得大君という要職にありながら、禁止されている基督教の聖書を所持したことは許すことの出来ない大罪であり、もはや言い逃れの余地はない。本来なら死刑が相当であるが、王族という立場と情状を酌量《しゃくりょう》し、身分を平民に落とし、首里から所払いに処すものとする」
聞得大君はきょとんとしたままだ。判決文を見せつけられても誰のことなのかさっぱりわからない。王族神の地位を剥奪され平民に落とされて、首里所払いになったのは誰なのだろうか。聞得大君は無意識に自分の名前を探したが、どこにも見つけられなかった。
「真牛、聞いているなら返事をしろ」
周囲に真牛という女がいるのかときょろきょろ辺りを見渡した聞得大君に叱声が飛ぶ。別件の裁判が同時に行われているのかと聞得大君はさっきから落ち着かなかった。
「真牛、ちゃんと真っ直ぐ前を見ろ」
「誰のことを言っておる。妾は聞得大君、いや知念按司加那志《ちねんあじがなし》じゃ」
囲んだ役人たちがどっと笑う。この女はまだ王族のつもりらしい。今の彼女は聞得大君でも知念間切の女領主でもない。全ての権利を剥奪された後に残ったのは「真牛」という童名《わらびな》だけだった。彼女は自分の童名を生まれて初めて聞かされて他人の名かと勘違いしているのだ。
先王の長女として生まれたときから、彼女は特別な名前で呼ばれていた。御内原にいるときは王女であり、王のオナリ神になってからは聞得大君加那志であり、私人のときは知念按司加那志だった。飾りを全て取り払うと真牛という間抜けな童名が現れる。聞得大君は王族とは思えない質素な名前を聞いたとき、初めて涙が生まれた。取り調べのときはどんなに責められても一滴も流さなかった涙なのに。
聞得大君の頬に一筋の涙が走る。
「妾の本当の名は真牛じゃったのか……」
「そうだ真牛。首里天加那志と在番奉行殿の御慈悲で、斬首だけは免《まぬが》れたことを幸運に思え」
「滑稽《こっけい》な名じゃな……。もう一度言ってみろ」
「真牛だ。真牛。おまえは今日から真牛なんだ。どうだ覚えたか?」
今度は聞得大君の口から笑いの泡が噴き出した。
「可笑しくて涙が出てくるわ。ほほほ。ほほほほほ」
聞得大君は腹の底から笑った。もし王族のままだったら自分の名前すら知らないままに死んでいく人生だった。聞得大君という名は世襲する。知念按司加那志も新しい領主がやって来れば同じ名を引き継ぐ。王女という地位もそうだ。王朝五百年の歴史の中で何人もの聞得大君が即位しては去り、知念按司加那志が消えては現れる。彼女は地位と役職と財産でしか呼ばれたことのない人生だった。
「ほほほほほ。妾は真牛か。家畜の名前か。言い得て妙じゃ。ずっと王宮という畜舎に住んでいたのじゃからな。ほほほほほ。ほほほほほ」
聞得大君は今まで彼女が嫌っていた平民になり真牛と呼ばれて生きていく。地位もなく、財産もなく、名誉もなく、ただ一日分の糧《かて》を得るために必死で働かなければならない人生だ。首里所払いを命じられた聞得大君が、王都を下りていく。
今まで行脚《あんぎゃ》のたびに打ち据えられていた庶民たちが、聞得大君の名を笑う。
「おい真牛。うちの畑で鋤《すき》を曳《ひ》いて働かないか。ぎゃはははは」
「真牛、汚い恰好《かっこう》だなあ。ナリが悪いと大あむしられから打ち据えられるぞ」
「真牛、潰して食べたい名前だなあ。わはははは」
どこかから石が飛んできて聞得大君の額に当たった。伝った血が目に染みて前が見えない。涙のせいにしたくなかった聞得大君には好都合だった。
――妾は無系になっても誇りだけは手放さぬ。
振り返ると紅《くれない》の王宮が無言で見つめていた。彼女の青春の全てがあの中にあり、欲しかったものの全てがあそこにあった。王女時代に住んだ黄金御殿のある御内原、聞得大君に即位してから治めた緑豊かな京の内、そして王とともに祝った龍のいる正殿。手に入れたものは全て失ったが、それでも愛おしく映るのは何故だろう。首里城は官能的に人を虜《とりこ》にし、ときとして破滅を急がせてしまう。去りゆく彼女にもまるで思わせぶりな女の微笑《ほほえ》みのように、またおいでと囁《ささや》くのだ。
今日、絶大な権力を揮《ふる》った女がひとり王宮を去る。碧眼のその女は生まれながらに神と呼ばれ、王女と呼ばれ、王の守護神と呼ばれ、広大な領地を所有していた。彼女が去った後、速やかに新たな領主に引き継がれ、また聞得大君と名乗る女が人格や肉体を超えて現れるだろう。
しかし人は「あの聞得大君」と真牛のことをいつまでも、いつまでも語り継いだ。
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第七章 紫禁城の宦官
王都は沈鬱《ちんうつ》な長雨に祟《たた》られていた。
雨のヴェールに覆われた王宮は何もかも灰色に染め上げられ、目を刺すような鮮烈な色彩は日々失われていった。聞得大君《きこえおおきみ》が去った後から続く長雨に、人々は彼女の退位を天が嘆いているからだと噂した。王宮に雷が落ちるのを何度見たことだろう。天から突き刺す稲妻は閃光とともに龍の咆哮《ほうこう》のような響きを王都に轟《とどろ》かせた。
宗教的要人を失った王府は、新たな聞得大君を任命しようと必死だったが、残念ながら真牛《モウシ》に匹敵《ひってき》する霊性を持つ女は皆無だった。なんとか新しい聞得大君を誕生させないと王府の機能が麻痺する。今日も王の遠縁に当たる女が京《きょう》の内《うち》に連れられてきた。
雨がまた強くなってきた。京の内の原野では密かに新聞得大君の即位の儀が執り行われている。
大あむしられが中央の女に促す。
「さあ、聞得大君としてミセゼル(祝詞)をお謡いなされ」
白装束《しろしょうぞく》を纏《まと》わされた女は震えるばかりだ。聞得大君になれば実家の繁栄は約束されたも同然だ。政治の場において父や兄弟たちの名誉職への登用が待っている。この条件に飛びつかない女はいない。なのに喜び勇んでやってきた女は、京の内に入るや未曾有《みぞう》の不安に駆られてしまった。厳粛な即位の場のはずなのに、なぜか彼女は生《い》け贄《にえ》にされているような感覚がした。
「私には、私にはできません……」
「形だけでよい。後は我ら大あむしられに任せられよ」
事前に用意された虎の巻は昨日のうちに完璧に諳《そら》んじていたのに、いざミセゼルを謡おうとすると喉が誰かに押さえられているような圧迫感を覚えるのだ。喉に獣の爪が食い込んでいくような野蛮な力だ。すぐに体が痺《しび》れてくる。まるでミセゼルを謡うなと言わんばかりに。女は考えた。聞得大君に即位するならもっと適当な人物がいたはずである。王の縁戚といっても王宮に勤めたのは三百年前の尚清王《しょうせいおう》の御世《みよ》だ。なぜ素直に現王の直系に任せずに、自分にお鉢が回ってきたのだろう。大あむしられたちが一心不乱に唱える祈祷《きとう》と相まって、不吉な雲が京の内に出現していた。空を見上げた女は、息を呑んだ。
――龍が落ちてくる!
天空に出現した渦が彼女に狙いを定めて真っ逆さまに落ちてくる。その瞬間、京の内は閃光に包まれた。同時に木々を薙《な》ぎ倒す爆音が轟く。衝撃波は大あむしられたちの体ごと吹き飛ばした。脳震盪《のうしんとう》を起こす爆風がやんだ後、黒|焦《こ》げの女が木炭のように崩れ落ちる音がした。大あむしられ達が一斉に溜息をついた。これで七度目の落雷だ。
「また失敗しましたな……」
「神は一体誰なら聞得大君とお認めになられるというのだろう……」
「いや彼女の肉体が龍を降ろすには耐えられないということじゃろう」
聞得大君だった真牛は即位するとき、命がけの儀式に赴《おもむ》いた。王を守護する神になるためには、巨大な力を自在に操れなければならない。呪術祭礼の秘|奥義《おうぎ》で行われる聞得大君の即位はそれほど難しいものではない。王府の最高神職として絶大な権力を手にするためには、それなりの力を示すだけでよい。即ち、龍を体に降ろすか、雷に焼かれて死ぬかのどちらかだ。
以前、真牛が聞得大君に即位したときもやはり王都は雷雨に見舞われていた。この雷雨を晴らした者こそ、聞得大君となる資格がある。真牛は落ちてくる龍を笑いながら受け止め、更に天に返してやった。雲ひとつなく晴れ渡った空の下で真牛は高らかに即位を宣言した。これだけの実力を見せつけられて逆らう者などいるはずもない。だからこそ宗教世界の女王として振る舞うことが許される。
「次の候補の女を連れて参れ」
大あむしられの託宣によると、琉球に聞得大君の霊性を持つ女がひとりいることははっきりしていた。その女は真牛を凌駕《りょうが》する霊性を持ち、琉球を救うという。そこで王のオナリ神になる可能性のある有力士族の女を片っ端から徴発してきた。しかし、このままだと現王朝の女たちはひとり残らず消えてしまうだろう。
天の怒りはまだ収まりそうにない。
落雷に身を竦《すく》ませた多嘉良《たから》が京の内の方向を呆然と眺めていた。
「一体、何度雷が落ちてくるんだ。王宮は祟られているのか」
隣の門番が余計な詮索をするなと目で合図する。
「きっと聞得大君|加那志《がなし》の即位式に失敗したのだろう。俺たちには関係のないことだ」
筵《むしろ》をかけられて久慶門《きゅうけいもん》を出ていく死体はこれで七体目だ。朝、晴れやかな顔をして入城した女が、午後には筵をかけられてゴミのように連れ出される。見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふり、他言すれば命はない。これが神殿としての首里城のもうひとつの顔だ。
「哀れなものだ……」
荷車に曳《ひ》かれて出て行く遺体に多嘉良《たから》が手を合わせようとする。それも止めろと同僚が手を押さえた。
「よせ。今日は王宮には誰も入って来なかった。ただそれだけだ」
「だってあんなに上機嫌で来たご婦人が、あんな姿になるなんてさぞや無念だろうに」
「女は明日も来る。明後日も来る。そしてまた筵をかけられて出て行く。いちいち同情していたら身が保たないぞ」
「それでも儂《わし》は手を合わせたい……。なんか悲しくてな……」
「これが王宮だ。才能がない者、才能がありすぎる者はみんな王宮を去っていく。いずれおまえの友達の孫親雲上《そんペーチン》も同じ運命かもしれんぞ」
「言うな。寧温《ねいおん》はそんなヤワな役人ではない。みんなあいつの好さを知らんだけだ」
そう言われる前から多嘉良は寧温の立ち去る姿を見る日が来ないようにずっと祈っていた。確かに王宮は才気|煥発《かんぱつ》な者に冷たい。それが王族神・聞得大君であってもだ。出世競争に拍車をかける一方で出過ぎた杭《くい》は打たれる。この矛盾の中で巧みに生きていくのは至難《しなん》の業だった。
久慶門は忘却の門だ。雨に濁った荷車はもう霞んで見えなかった。しばらくするとまた荷車が坂道を上ってくるのが見えた。多嘉良がずっと待っていた商人の荷車だ。
「御料理座に納める慶良間《けらま》の西瓜《すいか》をお持ち致しました。お通し願います」
「御料理座から聞いている。通れ」
多嘉良が六尺棒を収めた脇から大量の西瓜が王宮に運ばれていった。その様子を遠くから儀間《ぎま》親雲上が見届けているのを確認して、いよいよ始まるぞと、気合いを入れた。
銭蔵《ぜにくら》で儀間親雲上と落ち合った多嘉良は、御料理座の出納帳を確認する。
「やっぱりだ。慶良間の西瓜は百個しか発注されていないぞ。どう見ても二百個はあった」
「きっと残りは阿片《あへん》だ。どうやって捌《さば》いているのか見当もつかん」
「御内原《ウーチバラ》に男は入れないぞ。こうなったら女装して入るしかないか」
多嘉良が「いけるかしら?」としなを作った。これでも昔は踊奉行《おどりぶぎょう》から認められた美少年だった自負がある。儀間親雲上はそんな多嘉良を妖怪の罪で殺されるだけだと一蹴《いっしゅう》した。
「多嘉良殿が女装するなら、まだ牛を女装させた方が説得力がある」
「何を言う。さては儂の美貌を嫉妬《しっと》しているんだな。女装した儂を口説《くど》いて恥をかいても知らないぞ」
「誰が口説くかっ!」
儀間親雲上は誰かを待っている様子だ。
「評定所《ひょうじょうしょ》の孫親雲上に話をつけておいた。もうすぐ銭蔵に来るはずだ」
「あまり寧温を深入りさせたくないんだが……」
「御内原に入れるのは宦官《かんがん》の孫親雲上しかいないだろう。それに孫親雲上は不正な金を追っている。ここからは孫親雲上の仕事だ」
ふと多嘉良の脳裏を過《よぎ》ったのは、筵をかけられた女の最期《さいご》の姿だった。王宮は下手に首を突っ込むと死が待っている場所だ。特に才気煥発な者ほど政敵に討たれやすい。寧温に守ってくれる後ろ盾がいないことが心配だ。
「せめて途中までは捜査に協力してやりたい」
「多嘉良殿よく聞け。王宮に阿片が大量に入っているのは、背後に巨大な組織があるという証拠だ。俺たち下っ端役人を潰すことなど造作もないだろう。誰がこれを暴《あば》くことが出来る? 誰が信用できる? 誰がこの組織と闘える? 誰が一番適任なのだ?」
多嘉良は口籠もった。見ても見ぬふりをするのが王宮の掟《おきて》なら、この事実を密かに胸の内にしまっておきたい。多嘉良はこの世には白い西瓜もあると思おうとした。すると多嘉良の背後から声がした。
「私が適任です。この事件は評定所筆者主取《ひょうじょうしょひっしゃぬしどり》の孫寧温が担当いたします」
振り返ると自信に満ちた眼差《まなざ》しの寧温が銭蔵に現れていた。雨に消えることもない熱い眼差しは、これこそ自分の仕事だと確信しているようだ。
「寧温、これは十中八九おまえの首が飛ぶ。聞得大君を追放したばかりだというのに、また騒動を起こそうというのか?」
「阿片が王府に入っていること自体が既に騒動ではありませんか。この孫寧温、進退を懸けても阿片密売の経路を洗ってみせます」
「寧温わかっているのか? 御料理座を経由しているということは高官たちが関与しているということだぞ。おまえを王宮から追い出したい口実を探している連中だぞ?」
寧温はそんなことは意にも介さないと笑った。
「役人は何を残すことができますか? 農民は食べ物を与え、商人は生活を豊かにする品を与えるというのに、役人は物を生み出すことができません。役人は道を示すことでしか残れないのです。名誉など道の前では塵《ちり》にすぎません」
寧温は続ける。自分は王府の役人が残してきた流れの中にいる存在であると。
「私は王朝五百年の歴史の中で見ればひとりの役人にすぎません。しかし私は今まで王朝を支えてきた、たくさんの役人たちの道の上にいます。名もなき彼らは立身出世とは縁がなかったかもしれません。彼らは常に王府を監視し、不正を糺《ただ》し、そのせいで王宮を去ったこともあったでしょう。でも道だけは残してくれました。今、私が怖《お》じ気《け》づいて保身をしたらこの道を塞いでしまうことになります。次の世代の役人たちが途方に暮れないためにも、私が道を示すのです。たとえ討たれて王宮を去ることがあっても、道だけは残します。それが役人の務めです」
寧温の言葉に儀間も多嘉良も胸が熱くなってきた。阿片を表沙汰にすれば王府は激震に見舞われる。それが表世界を吹き飛ばすことになっても、必ず元の道に戻ると信じたい。
「よし、この儀間もひと肌脱ぐぞ。銭蔵の道を示してやる」
「じゃあ儂は門番の道を示す。と言っても何もしないのが道のような気もするが……」
「まずはどうやって琉球に阿片が入ってきたのか調べなければなりません。港での積荷の調査に不備でもあったのでしょうか。那覇港を調査します」
清《しん》国との交易で琉球に入る輸入品は厳密に計量され、申請書以外のものが持ち込まれることはない。これは輸出に関しても同じだ。民間船を使ったとしても王府の監視下にあることに変わりはない。清国が鉄を輸出することを禁じているように、王府は阿片が琉球に入ることを恐れている。たとえ巧みに偽装したとしても調査員の目を誤魔化すことは難しい。
阿片戦争以来、阿片がどのように偽装され取引されてきたか、王府は現地の調査で知っていた。什器《じゅうき》に模したもの、調度品の二重底、船員たちが体内に隠し持ってきたもの、あらゆるパターンを想定して積荷は徹底的に調べ上げられる。調査員たちも商人たちとの癒着《ゆちゃく》がないように異動させ常に人事を刷新する念の入れようだ。
評定所に戻った寧温は、清国からの輸入品を管理している『帰帆| 改 帳 《あらためちょう》』を全て洗った。帳簿には那覇港から陸揚げされた品々を、蟻《あり》一匹すら見逃さないほど克明に、記録されていた。買い付けは清国政府がお墨付きを与えた球商と呼ばれる福州《ふくしゅう》商人に依頼し、船積みの際は清国の税関が厳しく改める。その一連の作業には現地にいる琉球人が関与しており、何を購買するかは王府がいちいち指示している。帰帆改帳は購入品のすべてを那覇港で検査し克明に記録した完璧な帳簿だ。
「什器に阿片を入れたなら、数が途中で合わなくなるはずなのに、全部合っている。じゃあどうやって阿片を持ち込んだのだろう……?」
過去三十年に溯《さかのぼ》って帰帆改帳を洗ってみても、特に不審なものはない。王が不正経理を疑った以前の時期と比べてみても輸入品の総量は変わらない。次に寧温は穀物として阿片を持ち込んだのではないかと疑った。小麦粉など琉球では貴重な食糧の中に阿片を紛《まぎ》れ込ませたのではないだろうか。しかし高級食糧のほとんどは王宮で消費される。冊封使《さっぽうし》など異国からの賓客がいる年に必要なだけ輸入する小麦粉は真っ先に調査される対象で、味見までされるはずだった。たとえば清国から琉球に小麦粉が入ってくるまでに福州で一度、航海中に一度、帰港して陸揚げされる前に一度の検査を全て通らなければならない。ごく少量の阿片なら、それも可能だろう。しかし王府に入っている阿片はとても目を誤魔化すことのできない量だ。どういう絡繰《からくり》で阿片を琉球に持ち込んでいるのか、帰帆改帳だけでは明らかにできない。
膨大な数の帰帆改帳が山積みされている寧温の机の前で朝薫《ちょうくん》の足が止まった。
「輸入品に不審な点があるのかい?」
「いえ、まだこれと言って不審なものがあるわけではございません」
「まだって、不審なものを見つけることが前提みたいな物言いだね」
寧温は腕を組んだままずっと考えている様子だ。
「朝薫兄さん。もし、清国から鉄を持ち込もうとしたらどういう方法があるでしょうか?」
「鉄!? それは不可能だよ。だいたい清国の役人がそれを見落とすはずはない」
「でも、どうしても鉄を持ち込みたい場合はどうすれば入るでしょうか?」
朝薫は会話の意図がわからないわけではない。自分からヒントだけを聞いて隠密に行動するつもりなのはわかっている。なぜ素直に核心だけ話してくれないのか。こんなときいつも自分がちょっと悲しい思いをしているのを寧温に知ってほしかった。
「大禁物と王府の裏金が関係あるんだろう?」
「まだはっきりしたことは申し上げられません。調査の糸口になるかと思っているだけです」
「きみは確信したときしか行動しないじゃないか。帰帆改帳を閲覧しているのを大っぴらにして誰かが引っ掛かるのを待っているんだろう?」
「釣り糸を垂らしただけです。餌《えさ》はついていません」
寧温は調査と同時に組織の全容を解明するつもりだ。間もなく評定所に馬《ば》親方がやってきた。
「おい宦官。誰の命令で帰帆改帳を閲覧しておるのだ。過去の資料を見たければ儂か三司官《さんしかん》殿の許可が必要なのはわかっておるだろう」
馬親方は机の上に開いていた帰帆改帳を取ると、元に戻すように命じた。
「申し訳ありません。今後の交易の参考になるかとつい出来心で閲覧しておりました」
「おまえの行動は目に余るぞ。勤星《きんせい》の査定に響くと覚悟しておけ」
「では改めて許可を願います。御料理座の過去の帳簿を全て閲覧したく存じます」
御料理座と聞いた馬親方の顔が強《こわ》ばった。寧温は馬親方の一挙手一投足を見逃すまいと観察している。
「今後の冊封使様のおもてなしの研究をしたいのです。牡蠣《かき》や鮑《あわび》などの他にも養殖した方がよい食材があるかと思いまして」
「御料理座のことは庖丁人たちに任せておけ。評定所が首を突っ込む世界ではない」
と一喝した馬親方は憮然《ぶぜん》と評定所を後にした。寧温はこれは想像を超えた組織が裏で動いていると目を丸くした。
「驚きました。てっきり怒鳴ってくるのは清国派の向《しょう》親方だと思っていたのに、薩摩派の馬親方が反応しました」
「釣った魚は当てが外れたのかい?」
「いいえ。馬親方が向親方を庇《かば》ったということです。あの二人が共闘しているとなると、もう評定所の全てが疑わしいということです」
朝薫がまた悲しそうな顔をしているのを見た寧温が咄嗟に訂正する。
「あ、朝薫兄さんを除いてです。どうか首を突っ込まないでください。この事件に巻き込まれると朝薫兄さんの出世に響きます」
「ぼくには道の話をしてくれないんだ……。銭蔵奉行の儀間親雲上から寧温を補佐するように言付かっているのに。なぜいつも自分だけで事を進めようとするんだ?」
「知れば後に退けなくなります。ご縁談がまとまらないうちに話をするのは酷かと……」
朝薫はカッとなって机を叩いた。
「人の縁談のことまで心配してくれなくて結構だ! ぼくは出世も名誉も望んでいない。たとえ障害があったとしても、今ある道を真っ直ぐに歩きたいだけだ。王府の役人はみんなそうやって歩いてきた。王朝が五百年続いたのは、彼らが切り開いてきた道が正しかったからだ。その道を閉ざそうとするならぼくは寧温といえども許さないぞ!」
「ごめんなさい……」
朝薫の語気に圧倒されて、寧温の胸が熱くなる。目の前にいる朝薫が何と凜々《りり》しいことだろう。少年から男へと変わる階梯《かいてい》がこんなに早いものなのかと初めて知った。眼差しの優しかった少年が、いつの間にか信念を宿した男の目に変わっていた。朝薫は精神的にも身体的にも自分を超えてしまったと寧温は感じた。少女がゆっくりと女へと変わるのに比べて、男の変容は一瞬のうちに終えてしまう。瞬間に全容が変わる万華鏡《まんげきょう》を見るようだ。雅博《まさひろ》にあって朝薫になかったもの、それが今の朝薫に備わっている。
「悪いが寧温。輸入品の売買に関してはぼくの方が専門だ。球商の動向を把握してきたのはぼくだからね。ぼくがいれば調査は迅速だ。それに大禁物の密輸なら方法がないわけじゃない。以前からぼくが厳重に調査するべきだと指摘してきた海域があるんだ」
寧温は朝薫を人目のつかない龍潭《りゅうたん》の畔《ほとり》へと誘った。なるべく驚かせないように慎重に言葉を選びながら、それでも明確に言葉を放った。
「朝薫兄さん、捜査にご協力をお願いいたします。実は、王府に、阿片が入ってきているのです」
朝薫は衝撃を受けたまましばらく言葉を失っていた。
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評定所筆者主取 孫親雲上
同筆者 喜舎場親雲上
右者共事役儀粗相有之付当時之職位被召外、
孫親雲上江ハ南苑構主取、喜舎場親雲上江ハ
同相附被下置候間、今更猥王城不致徘徊様御
指図ニ而候事。
王府重役
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次の日、王宮に出勤してきた寧温は西之廊下の高札《こうさつ》に辞令が貼られているのを見つけた。高札の前は押すな押すなの人だかりだ。肩の隙間を押し分けるように辞令を読んだ寧温は息を呑んだ。そこには寧温を王宮外へ転属させる辞令が貼られていた。
「孫寧温は評定所筆者主取の役職を罷免《ひめん》し、識名園《しきなえん》の雑用係とする。直ちに孫寧温は王宮を退去し、新任先での業務を引き継ぐこと。並びに喜舎場《きしゃば》朝薫も評定所筆者の役職を罷免し、識名園で孫親雲上と共に雑草抜きをすること。双方は今後許可なく王宮に立ち入ることを禁じる……」
すぐにも帳簿を洗おうと出勤してきた寧温に、無情の鐘が鳴る。寧温は評定所筆者主取の地位を罷免されてしまっていた。阿片密売組織は昨夜のうちに結託し、三司官を含めて寧温の王宮への出入りを禁じた。常に二つの勢力に割れている評定所が一枚岩になることは滅多にない。寧温を阿片から遠ざけると決めたとき、互いに綱引きをしていた力学はひとつになった。
あまりの卑劣さに出勤してきた寧温の膝が崩れた。
「え? 私が識名園の雑用係に?」
評定所の仲間達がついに罰が当たったと密やかに笑った。馬親方と向親方が昨夜、遊郭で緊急の会議を開いたことと関係があるようだ。あの二人が纏《まと》まると王府の役人の八割以上が結集する最大勢力になる。その力は三司官たちでも無視することができない強大なものだ。意見を擦り合わせた二人は、さっそく寧温の罷免に関する候文《そうろうぶん》を表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》と評定所筆者の圧倒的多数で可決した。まるで侵略者を追い出す有事立法の緊急適用のような動きであった。
「私が、罷免されるなんて……。何が理由なのですか?」
今までどんなに上官に逆らっても評定所筆者主取の地位まで脅《おびや》かされることはなかったというのに、阿片の匂いを嗅ぎつけただけでこの勢いだ。これが今まで聞得大君すら阻《はば》んでいた王宮の裏組織の力だ。たった一晩のうちに法を曲げ、寧温と朝薫を王宮から追い出してしまった。
馬親方は初めからこうしておけばよかったとせいせいした気分だ。
「さあ、官位のない宦官は王宮から出て行け。識名園で失くしたタマを探すがいい」
「馬親方、これはあまりの無体《むたい》でございます。評定所は能力重視の世界。私怨で人事を操っては後進たちに示しがつきません。なぜ朝薫兄さんまで!」
「手続きはちゃんと踏んでおる。表十五人衆全員と評定所筆者、全ての署名捺印がある。各機関の総奉行の意見もきちんと汲み取っておる。罷免における王府の最速記録だ。科試《こうし》最年少合格記録から評定所筆者任期の最短記録まで、何もかも記録更新してくれたとは実に偉大な宦官であった。儂らはそなたの業績を決して忘れはしまい」
「私を王宮から追い出してまで守りたい利権とは何ですか? 王府の役人たちの道を踏みにじっているとなぜ気がつかないんですか? 五百年かけて守ってきた道なのに……」
「琉球で宦官が登用されたこと自体が間違いだった。案の定、色々やらかしてくれたわい。おまえの曲げた道を糺《ただ》すことこそ、表十五人衆の役目である」
「ひどい。私は王府の役人としてあるべき姿を表したかっただけなのに……」
馬親方は寧温の帽子を取り払った。
「官位のない男が帽子を被るんじゃない。おまえはもはや識名園の雑用にすぎぬ。さあ荷物を纏めて出て行け。二度と王宮に戻るんじゃない」
指笛の野次まで飛び出して評定所の仲間たちが寧温の背中を押す。寧温に反感を持っていた役人たちが一斉に嗤《わら》った。あの偉そうだった評定所筆者主取が、一晩明けたら別邸のご用聞きだ。今までなんでこうしなかったのか上官たちの怠慢に思えてくる。これで政治が男だけの世界に戻った。御内原と評定所を行き来していた得体のしれない宦官は初めから王府にいなかったことになるだろう。
「評定所筆者主取が今じゃ南苑構主取《なんえんかまえぬしどり》とは傑作だ。野良仕事に精を出せよ」
「庭木を枯らさないように水をやれよ。わははは」
同じ主取でも評定所筆者主取と南苑構主取では天と地の差だった。筆を持っていた手を雑草を刈る鎌に替え、日の照る間は黙々と地面を見て過ごす。これが新しい寧温の赴任先だった。
風呂敷を抱えてとぼとぼと王宮を去っていく寧温に、多嘉良が声をかけようとする。
「寧温……。まさか嫌な予感が当たっちまうとは……」
「よせ多嘉良。去りゆくものに声をかけてはならん」
「おじさん。私は、道を残すことなく消えてゆく役人になってしまいました。でも後悔はしておりません。もし昨日のあのときに今戻れたとしても、私は同じ決断をするでしょう」
昨日輝いていた寧温が雨に濡れそぼって痩《や》せ細って見える。ずぶ濡れの色衣装の肩を崩したまま寧温は王宮を去って行く。まるで真牛が消えて行った日のように。哀れに思った儀間親雲上が江戸前の番傘をさしてやった。
「さぞや無念であろう。銭蔵の私ができることはこれくらいしかない。申し訳ないが私は今、足の震えが止まらない。本当は怒るべきはずなのに。あなたの| 志 《こころざし》を引き継ぐと一言言えれば、無念も晴れるだろうに。申し訳ない。私には敵があまりにも恐ろしい。巻き込んでしまって申し訳ない……」
番傘をさした寧温はこれでいいと頷《うなず》いた。
「恐ろしいのは私も同じこと。私も今は儀間親雲上に志を引き継いでほしいとは、とても申し上げられません。朝薫兄さんを巻き込んでしまった私もまた、あなたと同じ気持ちですから……」
「また会えるか孫親雲上?」
咄嗟に背中にかけた声に寧温が振り返る。
「ここで私が討たれて去っても、王府の役人の魂は何度でも甦《よみがえ》ります。だから会えます――!」
寧温は最後、笑顔になって王宮を去って行った。心の中で一篇の琉歌《りゅうか》を詠みながら。
降る雨にたよて傘に顔隠ち
忍で行く心よそや知らぬ
(雨が降っているから傘で顔が隠せます。私の無念を誰も知らずにすむのが幸いです)
王都の郊外にある識名園は王の別邸で冊封使をもてなすために作られた琉球式迎賓館である。天使館が清国式の宿泊施設で日常の役目を担うなら、識名園は祝宴など晴れの舞台として機能するよう設計された。その思想は徹底した劇場効果として反映されている。回遊式庭園と呼ばれる空間は、舞台が幾つも重なり合ったように歩いているだけで次々と表情を変えていく。視線の先が読めないように、或いは読んだとしても心地好く裏切られるように予想のつかない景色が待ち受けている。池の畔を廻るだけで五つの大陸を巡ったような気分にさせてくれる。
識名園の高台にある勧耕台は視覚的トリックで海が見えないように配置され、まるで大陸的風景がどこまでも続くように錯覚させた。周囲三百度の水平線が見渡せる王宮と対比する識名園は、地平線を望む丘だ。島嶼国《とうしょこく》である琉球を冊封使たちに数百倍の領土に感じさせるのが目的である。よく整備された庭園は王の別邸としても使用され、| 政 《まつりごと》に疲れた王が体を休めるためにしばしば利用していた。
王府の施設のひとつである識名園だが、評定所筆者だった寧温から見れば政治とは縁のない役人の墓場である。かつて冊封使をもてなすために訪れたときは、忙しいのと緊張しているのとで庭園をゆっくり見ることすら適《かな》わなかったものだが、今日は識名園の緑と池が雄大な叙事詩を奏《かな》でているように映った。特に雨の日は琉球式庭園の優美さが際だち、雨音が舞台に降り注ぐ万雷の拍手のように聞こえる。
庭園で仕事をする男を見つけた寧温が声をかけた。
「あの、本日付けで南苑構主取になりました孫寧温でございます。どうかお見知りおきを」
「ああ、聞いてるよ。凄腕の評定所筆者様がお出でになるから失礼のないようにと」
どこかで聞いた声だと腰を屈めた老人の顔を覗《のぞ》いた寧温があっと声をあげた。
「麻真譲《ましんじょう》先生ではありませんか! なぜ識名園に?」
麻親方はこれも余生のひとつと茶目っ気たっぷりに笑って、池の六角堂で茶を勧めた。
「寧温、そなたの留まることを知らぬ辣腕《らつわん》は聞いておるぞ。ついに馬親方に討たれてしまったようだな。だからあれほど王宮には気をつけろと言い聞かせたはずだったのに。わはははは」
「失礼な。ちょっと油断しただけです」
恩師に馬鹿にされて頭に来た寧温は茶菓子の花ぼうるにかぶりついた。
「政治の中枢から南苑構主取まで落とされた役人もおまえが初めてだ。いやあ愉快。愉快。人生を三回くらいやってるようなものだ。未曾有の醍醐味《だいごみ》だな。わはははは」
快活に笑う麻親方の声を聞いていると泣きたい気分も吹き飛んで、むしろ怒りが湧いてくる。
「どうせ私は、不器用で、融通の利かない弟子ですよ。王宮の身すぎ世すぎを教えなかった破天塾《はてんじゅく》の失態です。私の左遷は麻先生の教育がなっていなかったせいです!」
「これは一本取られたかな? 恩師のせいにするとは素晴らしい弟子だ。わははは。あのスカした優等生の孫寧温が南苑構主取? 雑草抜きの役人か。わはははは」
「なんか面白くありません。絶対に雑草抜きなんかしてやるものですか。麻先生がお似合いです」
麻親方が噎《むせ》びながら手を伸ばした茶菓子を奪って丸ごと頬張った。今日は王宮を追い出されるわ、麻親方にからかわれるわで踏んだり蹴ったりだ。池に石を投げた寧温は、雨と重なる波紋を見つめたまま呟《つぶや》いた。
「麻先生、私は裏金の一端まで辿り着きました。王府には阿片を密売する組織が暗躍しております……。想像以上に王府内部を蝕《むしば》んでおります。どうかこのことを首里天加那志《しゅりてんがなし》にご進言くださいませ……」
「直接言えばいいじゃないか。ほら、首里天加那志がお出でになったぞ」
「え! まさか。首里天加那志は書院にお籠もりになっているはずじゃ……」
雨の石橋を渡って現れたのは尚育王《しょういくおう》だ。平服の軽装に着替えているが、あの鶴のような優雅な足の運び方をする人物はこの国にひとりしかいない。そして王に傘をさしていた男を見た寧温は目を疑った。
「朝薫兄さん! なぜ首里天加那志とご一緒に?」
朝薫は寧温の目を白黒させた表情が可笑《おか》しくてならない。咄嗟に王に御拝《ウヌフェー》で頭を垂れたが目はきょろきょろと麻親方と朝薫を追いかけている。
「これはこれは南苑構主取の孫親雲上。ようこそ識名園へ」
「朝薫兄さん、辞令を知っていたんですね。麻先生と言い、朝薫兄さんと言い、首里天加那志まで、どうして?」
朝薫がそろそろ種明かしする頃合いだと、話し始めた。昨日、寧温から阿片が琉球に入っていると聞いた朝薫の行動は迅速だった。このままだと馬親方に討たれて王宮を追放されてしまうと察した朝薫は、麻親方を通じ王に謁見を申し出た。清国から琉球に入った阿片は高官たちを通じ密かに薩摩へと流れているに違いない。向親方と馬親方が連携するとなればこの経路がもっとも話の筋が通るからだ。評定所筆者がいかに絶大な権力を揮《ふる》おうとも、内部に敵がいる場合は捜査情報が表十五人衆に筒抜けになってしまう。そのことを憂慮した朝薫は、寧温とともに評定所筆者を罷免されることを望んだ。案の定、深夜のうちに寧温と朝薫を追い出す罷免手続きが可決され、王もこれを了承した。ここから先が朝薫の狙いである。
「寧温、ぼくたちが追っている組織は三司官でもましてや摂政《せっせい》でも討伐することはできない。なぜなら敵は王府の役人ほとんど全てだからだ。敵の中で敵を暴くのは不可能だ。だからぼくたちは一度、評定所を離れて独自に動くべきだと思った」
麻親方は朝薫の慧眼にうんうんと頷くばかりだ。
「この坊やが真和志《まわし》塾の神童だった子だろう? 神童が本物の役人になったわい。理屈っぽいおまえよりも、遥かに人を知っておる。頭でっかちのおまえより才覚があるわい」
「麻先生、破天塾だときっと朝薫兄さんはグレてましたよ」
「戦術も素晴らしい。罠《わな》に嵌《はま》って敵の目を欺《あざむ》くとは見事だ。朝薫、私の弟子になれ」
「名三司官だった麻親方から勿体《もったい》ないお言葉、ありがとうございます」
朝薫も遊びに応じてなかなか本題に入ってくれない。次第に寧温は苛立ってきた。
「もう、先生。これは一体どういうことなんですか?」
どうやら寧温だけがこの出来事を知らないらしい。尚育王も険しい表情を作りたいのに寧温の挙動を見ているとついつい笑ってしまう。
「孫親雲上。よくぞ裏金の一端を掴んでくれた。阿片が琉球に入っているとは国家の存続を揺るがす大罪である。ましてや王府の役人が阿片の密売に荷担しているとは断じて許せん。たとえそれが高官であろうと重臣であろうと酌量《しゃくりょう》の余地はない」
頭を垂れた寧温は王の厳しい言葉に身を縮めた。王は腹心の部下たちに裏切られて身を引き裂かれる思いだろう。本来なら王宮の正殿で腐敗一掃を命じたいはずなのに、王宮にいる役人たちはほとんど全員が信用できない状態だ。
「よって孫親雲上に王命を与える。前に出よ」
王は任命書を広げると、直々に読み上げた。
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阿片之儀、世上存知之通国家為御難題邪薬ニ
而有之、上下万民共其職分ニ不拘念遣可有之
処左様無之、至頃年脇横行為有之由聞得候間、
依之評定所筆者主取孫親雲上を以糺明奉行仰
付候付、雖為何人其下知ニ付随、故障之儀共
無之様可被取計儀、可為上意。
中山王 尚育
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「阿片は国家の存亡を揺るがす危険な薬にて、身分の上下に拘《かか》わらず所有することが断じて許されないものである。よって評定所筆者主取の孫寧温を糺明《きゅうめい》奉行に任命し、どのような者であっても糺明奉行の捜査を邪魔してはならない。尚育王」
任命書を受け取った寧温の手が震えていた。
「私が糺明奉行?」
「そしてぼくが糺明奉行|相附《あいつけ》だよ。さっき首里天加那志から任命書をいただいた」
朝薫が得意そうに任命書を見せた。相附は寧温を補佐する仕事である。糺明奉行とは国家プロジェクトに関する特命捜査官のことだ。事件ごとに独自の糺明奉行が任命され、解決するまでの間の地位は王に匹敵する。即ち王に代わって捜査していることになるから、表十五人衆や三司官といえども手出しすることはできない。この完全独立の捜査権は、捜査に必要とあらば表十五人衆の役職を罷免したり身柄を拘束したりすることも可能だ。識名園で寧温に与えられたのは、王の代理人という地位であった。
尚育王が厳しい口調に変わった。
「糺明奉行の職権を存分に行使し、必ずや阿片密売組織の全容を解明せよ。これは王命である!」
「畏《おそ》れながら首里天加那志。全容を解明したら相当数の役人が王府を去ることになると思われます。御料理座のある御内原の女官たちも例外ではないと思われます。私の捜査が王府の弱体化を引き起こすことになってもよろしいのですか?」
「一向に構わぬ。腐った連中を一掃しない限り、余は御政道を全《まっと》うできないだろう。世子《せいし》に王権を譲る前に父親として王府を浄化しておきたい。孫親雲上、そなたの力ならやれるはずだ。そうだろう麻親方?」
「御意《ぎょい》。首里天加那志。この弟子は手加減を知りません。それが取り柄であり問題でもあります」
「徹底的に浄化してみせよ。御内原が壊滅的打撃を受けるのも覚悟の上だ。やれるか孫親雲上?」
「御意。首里天加那志。この孫寧温命に代えても糺明してみせます!」
伝家の宝刀を得た寧温の頬に活力が甦る。これで何も恐れることはない。堂々と王宮に戻り、資料の開示を要求できる。拒否すれば馬親方といえども投獄してしまおう。寧温と朝薫は疾風のように識名園を後にした。その様子を麻が目を細めて眺める。
「若さとは眩《まぶ》しいものじゃな」
麻は煙管《キセル》を咥えて長い煙を吐いた。
王宮に舞い戻った寧温は任命書をさっき左遷された辞令の貼ってあった高札に貼りつけてやった。任命書を読んだ評定所の仲間たちが震え上がる。さっき追い出された上官は、一刻もしないうちに王と同等の権力を持って王宮に戻ってきた。
王の代理人となった寧温は表十五人衆を呼びつけた。
「糺明奉行の孫寧温です」
憎き宦官を追い出したと祝杯をあげていた馬親方と向親方の赤かった顔がみるみるうちに青ざめていく。馬親方は糺明奉行となった寧温の地位に耳を疑う。
「糺明奉行!? 首里天加那志の代理人か?」
「これより王府の調査を行います。首里天加那志の代理人として命じます。全ての帳簿を開示しなさい。証拠を隠滅すれば誰であれ役職を罷免いたします」
「糺明奉行殿、首里天加那志に謁見したい。それくらいはよろしいでしょうか……?」
「首里天加那志は識名園で休暇を取られております。その間は私が王権を行使します。馬親方は帰帆改帳を廃棄する恐れがありますので、自宅にて謹慎を命じます。向親方は天使館への出入りと冊封使節団との接触を禁止いたします。また双方とも那覇港へ部下を派遣するのも禁じます」
「それは……その。こちらにも進めていた仕事がございます。猶予をお与えください」
「証拠隠滅の恐れがあるので却下します。謹慎中は部下との接触も禁止いたします。どうぞお心おきなく休暇を取られてください」
馬親方と向親方が悲鳴をあげる。
「糺明奉行殿、あんまりの仕打ちでございます。どうかご容赦くださいませ」
「では首里天加那志との謁見を許可する代わりに、馬親方の地位を剥奪し、南苑構主取といたします。これで心おきなく首里天加那志とお話ができるはずです」
「そればかりはご容赦を……。私どもが糺明奉行殿に行った非礼の数々は伏してお詫びいたしますゆえ……」
その様子を覗き見ていた多嘉良と儀間親雲上がにんまりと笑う。
「さすが寧温だ。仕返しも冴えておる。破天塾仕込みの意地悪だ」
「本気で惚《ほ》れそうだぞ。半日もしないうちに王宮に舞い戻ってくるとはまさに神業だ」
王宮に降り注ぐ雨足は激しさを増していた。
寧温と朝薫がこれまでの帰帆改帳の全てを調べだした。琉球は阿片の中継地にすぎない。全容解明には入手国である清国と売却先である薩摩の協力が欠かせない、と寧温は主張する。
「天使館の冊封使様と御仮屋《ウカリヤ》の在番奉行《ざいばんぶぎょう》殿に捜査協力をお願いするしかありません」
「しかし寧温。清国が薩摩と共同捜査するなんて、外交上あり得ないことだ」
表向き、琉球は清国の冊封体制の中にあり、鎖国する日本はどの国とも外交していないことになっている。法律上、琉球と清国が共同捜査することはあり得ても、冊封国でない日本が清国と足並みを揃えることはない。しかし両国とも互いの存在を怜悧《れいり》に認識している。薩摩は清国人が徘徊《はいかい》する久米村《くめむら》や天使館周辺には現れないよう気を遣っているし、また冊封使節団も在番奉行のいる御仮屋に近づくことはない。制度上、清国が琉球の宗主国ではあるが、琉球を実効支配しているのは薩摩である。超大国の面子《メンツ》を重んじる清が薩摩に協力するはずなどない。寧温と朝薫の捜査は初動から躓《つまず》きかけていた。
「これは困ったぞ。清国に薩摩の存在を公式に認めさせることになってしまう」
「琉球は道光帝《どうこうてい》の通達に従い、阿片を禁止いたしました。清国は、もし薩摩が阿片を禁止とするなら道光帝の意見に従ったとみなすかもしれません」
「そんな論調が幕府に知れてみろ。島津家はお家取り潰しにされてしまう」
「薩摩からの捜査協力は難しくなるでしょう……」
「双方の害は一致しているが動機づけが難しいね。どうすれば両者の利益となるだろう?」
朝薫の言葉に寧温が閃《ひらめ》いた。
「それです! 私、書庫に行って調べてきます。清国と薩摩の利益となる証拠を見つけてきます」
評定所が阿片事件に追われる一方で、御内原は長閑《のどか》な光景が広がっていた。大敵・聞得大君を追放した王妃はゆったりとした気持ちで寛いでいる。ストレッサーがいなくなったお蔭で顔つきも柔和になり、やっと王妃らしくなったと評判だ。
「女官|大勢頭部《おおせどべ》はおらぬか?」
「はい王妃様。ここに」
呼べば千里先からも飛んでくる女官大勢頭部は王妃の魔法のランプだ。女官大勢頭部に頼んで叶わない願いはない。
「聞得大君なき今、私はもう一度トゥシビー(生年祝い)をやり直したいと思っておる」
王妃の願いはあの法要トゥシビーを本来の祝祭行事に戻すことだ。女の争いでトップを独走していた聞得大君が脱落しても、まだ御内原には国母と側室がいる。彼女たちを恭順《きょうじゅん》させるにはトゥシビーが一番だ。
「畏れながら王妃様。奥書院奉行の予算からいって無理かと思われます」
「御内原のへそくりを使えばよい」
「御内原にへそくりなどございません」
「私が知らぬとでも思っているのか? この前の里帰りのとき、あがま達に見舞金を出したであろう。あの金はどこから出ておる?」
王妃は裏金の匂いを嗅ぎつけていた。窮乏生活は続いていたが、不思議なことに女官たちの食事は少しずつ改善されている。贅沢とまではいえないものの、御内原は十分な品位を取り戻していた。王妃は女官大勢頭部が御内原を使って何か金を生み出しているのではないかと気づき始めた。
「王妃様、御内原にへそくりなどございません。あの見舞金は模合《もあい》で出しました」
「模合ね……」
王妃はあまり信用していなさそうだ。模合とは頼母子講《たのもしこう》の一種で毎月、会員の掛け金を一定のルールで分配する互助的な金融組合のことだ。琉球では庶民から王府の役人までひとりで複数の模合をする習慣があった。
「その模合の金を私にも融通してくれぬか?」
「王妃様、模合は下々の者の生きる智恵でございます。女官の金に手をつけたら王妃様のご人徳にかかわることになりましょう。それこそ国母様に弱みを握られることにもなりかねません」
ランプの精に説教されて王妃は久しぶりに機嫌が悪くなった。もっともいつも機嫌が悪いのが王妃らしいのだけど。
「悪いことに使っていないようだから目を瞑《つむ》っておることを忘れるでないぞ」
王妃はぷいとそっぽを向いた。
阿片事件は国際共同捜査を立ち上げなければならない。最初に寧温と朝薫は清国側の天使館へ赴いた。自信満々の笑みを浮かべた寧温の軽い足取りに比べて、朝薫はやや重かった。琉球と清国の阿片禁止法は同じだが、薩摩は次元の違う体制下にある。どうすれば清国と薩摩が繋《つな》がるのか朝薫には予想がつかない。
寧温が正使の前で両腕を重ねて儒礼する。
「糺明奉行の孫寧温です。阿片事件に関する捜査にご協力をお願いいたします」
「糺明奉行とは何だ?」
「清国で言うところの欽差《きんさ》大臣でございます。国王から全権委任されております」
「欽差大臣! おまえは琉球の林則徐《りんそくじょ》か?」
林則徐は欽差大臣として道光帝から英国との交渉を任された官僚である。清国内における強硬な阿片取締を行ったために英国を怒らせ、阿片戦争の引き金となった人物だ。公明正大な人柄が深く敬愛もされる林則徐だが、阿片戦争に負けたばかりの今の清国には痛恨の極みの名でもある。
「琉球で阿片が密売されているのはまことに遺憾《いかん》である。しかし日本に流れていくのは我が国が関知することではない。阿片で日本が滅ぶのは天の御意志であろう」
朝薫はこう来たかと溜息をついた。しかし寧温には切り札がある。持参してきた出納帳が正使の前に差し出された。克明に記録された数字が何をさすのか正使にはわからない。
「これは我が国と清国との銀の交換比率を記したものでございます。現在、我が国と清国との為替は銀一に対して銅一〇〇〇となっております」
「それがどうした?」
「次の帳簿をご覧ください。これは我が国と日本の銀の交換比率の変動を記したものでございます。銀一に対して銅一五〇〇となっております。つまり我が国は銀出過で銀の価値が落ちているということでございます」
「だからどうした?」
正使はこれが阿片とどう繋がるのかまだ理解できない。
「これは阿片密貿易によって間接的に清国の銀保有量が減っているということを示しているのでございます。我が国を中継することによって清国の帳簿では見えにくくなっておりますが、現実の銀の相場は高騰《こうとう》基調にあります。清国の地丁銀《ちていぎん》制が揺らいでおります」
正使は椅子から立ち上がった。
「なんだと! 阿片戦争の二の舞だけは困る!」
寧温が我が意を得たりと頷く。そもそも阿片戦争とは阿片の悪習が起因だったのではなく、阿片貿易で生じた銀本位制の揺らぎからくる経済戦争だった。清国の地丁銀制と呼ばれる税制度は物納ではなく銀納によって一括して行われる。琉球が人頭税《にんとうぜい》に頼る原始的な税制なのに対して清国は近代国家の税制度を導入していた。ただし地丁銀制にも問題はある。常に為替の変動を受けるために、通貨の安定が求められる。銀が高騰すれば税の負担が増えることになるからだ。
「このままだと日本と清国の間で第二次阿片戦争が勃発《ぼっぱつ》する恐れがあります。銀の為替相場を元に戻すためには阿片の流れを根絶しなければなりません。どうかご協力をお願い申し上げます」
正使は薩摩との連携は仕方がないと受け入れることにした。ただ表の人間を使うのは憚《はばか》られる。冊封使節団五百人の中に誰か適当な人物がいないか、と正使は探していた。外交の力学を読み、常に優位に立ち、且《か》つ政治的に聡明な者。それでいて清国が失っても損をしない人物はいないだろうか? 正使はしばし考えて、にやりと笑った。
「捜査員として徐丁垓《じょていがい》を任命する」
正使の側にいた側近たちが大慌《おおあわ》てで諫《いさ》めようとする。
「修撰。徐太監をお使いになるのは危険です。何をするかわからない男ですぞ!」
「徐丁垓の他に、第二次阿片戦争を未然に防ぐことができる人物がいるのか?」
側近たちが口籠もる。徐丁垓は清国の代表として送り込むにはあまりにも不適当な人物だった。しかし捨てても惜しくないという見地に立てば徐丁垓しかいない気もする。何しろ紫禁城《しきんじょう》から追い出すために冊封使節団に紛れ込ませた男なのだから。
その様子を眺めていた寧温が不思議そうに尋ねた。使節団が滞在して長いのに初めて聞く名だ。
「その徐丁垓……。いえ徐太監はどんなお方なのですか?」
正使がにやりと笑った。
「おまえと同じ宦官だ」
次の日、那覇の地図を頼りに徐丁垓が宿泊しているという繁華街を訪れた。天使館で見かけなかったのも頷ける。徐丁垓は天使館からも厄介払いされて民間の家に滞在しているという。徐丁垓の身分が宦官と聞いた寧温は、少しの好奇心と大きな不安を抱えていた。王宮の人間の多くは宦官を知らないから男装して誤魔化せたが、本物の宦官の目には自分の姿がどう映るのだろうか。
「地丁銀制の弱点をつくとはさすが寧温だ。まさか銀が高騰しているとは思わなかった。いつもながら鮮やかな切り口に感心する。どうしたんだい? 手柄を立てたというのに顔色が悪いよ」
「いえ、ちょっと……。これからの捜査の手順を考えていただけです……」
朝薫の足が止まって何度も地図を見比べた。目の前に広がるのは辻の遊郭街ではないか。昼下がりの花街は気だるそうな香りを漂わせ、下着姿の女性を思わせる。
「寧温、ぼくは聞き間違えたのだろうか。確か徐太監は宦官だって正使様は仰《おっしゃ》ったよね?」
寧温も軒を連ねる遊郭に唖然《あぜん》とした。今、同じ質問を朝薫にしようとしたところだ。
「なぜ宦官が花街に住んでいるのでしょうか?」
徐丁垓が住み着いているという宿では、ジュリ(遊女)たちの嬌声が三線《さんしん》の音に混じって響いていた。よくこんな所に宦官が住んでいると寧温も朝薫も戸惑いを隠せない。
「あらぁん。王府のお役人様ぁん。まだ明るいのにお好きなのねぇん」
とジュリが出てくる。朝薫は目を白黒させて声を裏返した。
「ここに清国の徐丁垓殿がご宿泊だと聞いたのだが、お通し願えるだ――。うわっ帯を取るな」
ジュリの電光石火の早技は朝薫の帯をいともたやすく解いてみせた。朝薫が帯を締め直している側からどんどん解けていく。もうひとりのジュリが寧温を見て感嘆の声をあげる。
「まあ、何てお綺麗なお方なんでしょう。私たちの商売もあがったりだわぁん」
ジュリたちが化粧と衣装で大輪の花になったのなら、寧温は生来の姿形が花である。禁欲的な男物の衣装ですら花を包む飾りにしか見えない。寧温の帯に指をかけようとしたジュリの手が強ばる。それは本能的に敗北することを恐れたためであった。
「私たちは糺明奉行です。清国人の徐丁垓殿と面会させてください」
初めて入る遊郭に寧温は身を竦ませていた。ここが馬親方が連日連夜通い詰める欲望の巣窟《そうくつ》か、と身の毛もよだつ思いだ。遊郭の中は何十年にも亘《わた》ってこびりついた情事の香りが黴《かび》のように染みついていた。壁も床も天井も男女の体液で黒光りしているように見える。寧温は足袋の裏が汚れる気がして爪先立ちで廊下を歩いた。
黄ばんだ襖《ふすま》の前に寧温が立つ。儒礼で頭を下げると同時に襖が開いた。
「お休みのところ失礼いたします。王府の孫寧温でございます。うわっ……!」
寧温は咄嗟に目を背《そむ》けた。部屋の中では春画の世界と見紛うばかりの光景が広がっていた。着物を着崩した男女が酒盛りで乱れている。いや乱れているのはジュリだけだ。男は極めて冷酷な眼差しでジュリが崩れていくのを楽しんでいるようだ。目を虚《うつ》ろにしたジュリは着物を剥《は》ぎ取られる前に人間性を剥ぎ取られてしまっていた。まるで野生動物を意のままに調教した優越感が男の目に漂っている。この男が紫禁城の宦官なのか。
――何この人? 蛇みたい。
長い首、長い腕、細い腰。筋肉の付き方が男性とはまるで違う。男の肉体は骨格を感じさせなかった。関節を無視してどこからでも曲がりそうな体は青白い肌に覆われていた。
ジュリの舌を指で摘《つま》み上げ、顎《あご》をぐらぐら揺らして遊ぶ様は、官能的というよりも嗜虐《しぎゃく》的な光景に映る。男の口元から僅《わず》かに見える舌先が小刻みに震えている。まるで性器のような舌だった。男の舌先が寧温に向けられる。
「私が徐丁垓だ。天使館から連絡を受けている。宦官同士、仲良くやろうではないか」
徐丁垓の濡れた舌先が赤々と膨《ふく》らんでいた。
次に連携しなければならないのが薩摩だ。在番奉行との謁見に臨んだ寧温は、阿片戦争の発端は銀本位制の清国の為替相場を揺さぶったことが発端だと説いた。たとえ英国に敗れても清国は依然としてアジアの超大国だ。本気で戦争を仕掛けてきたら徳川幕府は吹き飛んでしまう。
「現在、清国の銀為替相場は阿片戦争前の水準に向かって高騰しております。王府と清国は固定相場で見かけ上の値は安定しておりますが、実態は清国が銀不足に陥《おちい》っております。清国に宣戦布告の口実を与えてはなりません」
「清国の阿片が薩摩に流れているというのか? 信じられん」
「阿片は人心を惑わす天下の邪薬であると同時に、国家の経済を麻痺させ、最終的に戦争を引き起こす火薬となります」
在番奉行も寝耳に水の話に肝《きも》を潰《つぶ》した。密貿易が元で第二次阿片戦争が起きたら薩摩の面目が潰れるどころの話ではない。幕府が鎖国をしているのは異国の介入を防ぐためだ。そのお蔭で日本はもうひとつのアジアの中心でいられる。それなのに阿片を口実に戦争を仕掛けられては迷惑だ。
「我が藩としても、阿片を徹底的に取り締まる。しかし清国の銀不足をどうすればよいのだ」
「これも私にお任せください。銀を安定させる方法がひとつございます」
「申してみよ」
寧温は深々と頭を垂れて途方もない解決案を申し出た。
「王府が薩摩からお借りしている債務の利息を放棄していただくだけで結構でございます」
「それがなぜ銀の安定に繋がるのだ?」
「はい。薩摩と琉球の銀の為替は銀一に対して銅一五〇〇で取引されております。これを銀一に対して銅一〇〇〇の水準まで下げます。つまり五〇〇切り下げれば通貨は安定いたします」
「それでは薩摩が損をすることになる」
「ですから、この五〇〇を王府への債権放棄分としていただきたいのでございます。薩摩に利息の収入はなくなりますが、決して薩摩の実を減らすわけではございません。為替の含み損の中で吸収してしまえば、薩摩の銀子《ぎんす》の量は安定したままです。これで清国に第二次阿片戦争を起こす理由がなくなります。今なら薩摩と琉球の間で処理することができます」
在番奉行はこの提案を藩主宛の書簡にしたためることにした。幕府あっての薩摩だ。この不祥事が江戸城の力学に作用しないうちに揉み消しておく。
しばらくして薩摩側の調査官が首里城に派遣されてきた。美丈夫な背中が久慶門を潜る。
「私は御仮屋の浅倉雅博だ。糺明奉行にお会いしたい。それとこれを預けておく」
多嘉良はずしりと重い刀を渡されて、彼の膂力《りょりょく》を思い知らされた。まるで一輪の花のように片手で優雅に渡すものだから、つい多嘉良も軽いものだと受け取ってバランスを崩してしまった。
「あのお侍様、もしかして儂のことが好きかもしれん……」
そんなわけないだろ、と門番仲間から六尺棒が打ち据えられた。
調査は王不在の書院を使って行われた。純和風建築の書院は首里城の中でも異質な空間だ。ここは主に薩摩の役人をもてなす場でもある。紫禁城形式の正殿に隣接された書院は廊下ひとつで異国へ旅するようなものだ。ここは日本かと雅博の知覚が一瞬麻痺する。そして中に寧温の姿を見つけると滲《にじ》むような笑みを浮かべた。
「孫親雲上。いや糺明奉行殿、お久しぶりです」
「雅博殿。お力をお貸しいただければ百人力でございます。あの、これは以前にお借りしていた羽織でございます」
差し出された風呂敷に朝薫が怪訝《けげん》そうに首を傾げた。
「なぜ浅倉殿の羽織をきみが持っているんだい?」
寧温は恥ずかしそうに俯《うつむ》いたままだ。雅博の吐息はまだ胸の中に残っていた。
「いや、喜舎場親雲上、誤解なさらぬよう。傘の代わりにお貸ししたまで」
朝薫はその言葉に納得してはいない。だが御仮屋の役人の中では雅博は穏健派だ。阿片密貿易の解明には彼の助力が必要だった。朝薫が海図を開く。
「ぼくは以前から積荷の検査を那覇港以外で行うべきだと思っていた。そして国内航路の民間船に対しても抜き打ちで同じような検査をするべきだとも思っていた。恐らく阿片は海上で税関のない民間船へ移されて入ってきている。それがこの慶良間諸島だ」
福州から出た船は直接那覇港へ入るわけではない。東シナ海を航行してきた進貢船《しんこうせん》は風の関係で一時、座間味《ざまみ》島の阿護《あご》の浦《うら》に寄港する。そして風向きが変わるのを待って那覇港へと入港するのが一般的だ。
「阿片は福州の商人が進貢船の水主《かこ》に渡しているのだろう。水主は阿護の浦で民間の海運業者の船頭に阿片を渡し、西瓜に偽装して国内船に積み替える。税関のない民間船はそのまま那覇港へ。船頭から商人の手に渡った阿片が王宮に入る。ぼくが密輸するとしたらこの方法を選ぶ」
「すごい朝薫兄さん。たぶんそれが経路です」
朝薫は得意そうだ。次は雅博が経路を追った。
「御仮屋が調べたところ、琉球の商人から買い付けた品に不審なものがあった。日本では最近、琉球の万能薬が重宝されているという。聞けば腫瘍《しゅよう》の痛みや頭痛や不眠がたちどころに治る薬らしい。薬売りたちの間では普通の薬の十倍の値で取引されているという」
「阿片を万能薬という触れ込みで売っているんですね。琉球の名が堕《お》ちます」
「薩摩の港は瀬戸内の商人たちがこぞって押し寄せて、たいそうな賑わいだそうだ。この万能薬の売買を禁止すれば薩摩へ阿片が入ることはない」
「雅博殿、お手数をおかけいたしました。最後は私です」
寧温が調べたのは王宮内での阿片の流れだ。御内原のことは好奇心の塊の思戸《ウミトゥ》が知っていた。
「慶良間の西瓜を扱う商人は向親方がお決めになっていました。御内原に西瓜が入れば役人たちは気づきません。馬親方と女官|大勢頭部《おおせどべ》が結託して阿片を取り出し、薬房へ一時保管しております。薩摩の船の出航を待って那覇港で商人に渡しているようです」
朝薫が模式図を書いて矛盾がないか検証していく。
「よしこれで阿片の経路は確定した。あとは清国の密売組織を潰してもらうだけだ。ぼくはこれから徐丁垓殿に会いに行く」
外交儀礼を心得ている雅博はこれ以上は踏み込まない。国際合同捜査とはいえ清国の役人と薩摩の役人が同じ場に居合わせるわけにはいかない。
「糺明奉行殿、私はこれで失礼する」
雅博は書院を後にした。久慶門で刀を受け取ると、風呂敷の中の羽織を広げた。丁寧に畳まれていた羽織が風を孕《はら》んで甘い香りを放つ。羽織は寧温の匂いに染まっていた。羽織に袖を通すと寧温をおぶっているような気分になる。御仮屋に帰るまで匂いが残っていてほしかった。
「私は異国で本当の恋に出会ってしまったのかもしれぬ……」
白縄糸縁にはたとのかれらぬ
つめて寄りまさる思蔵《んぞ》がおそば
(生糸と糸車が離れることができない縁のように、私もあなたの側に寄れば寄るほど恋しい情がまさるばかりです)
徐丁垓は夜の遊郭に朝薫を招待した。辻の遊郭は清国人も薩摩の役人も王府の高官たちも利用するから、出来れば辻以外で会いたかったのだが、徐丁垓はどうしても辻でと言った。花街はどうしてこんなに表情を変えるのだろう。昼間は疲れた顔をした辻は月下美人のように夜に花を咲かせる。白粉《おしろい》の香りが音楽に合わせて漂う通りには遊女たちの声が飛び交う。聞くともなしに耳に入る会話に朝薫は度肝を抜かれた。
「徐丁垓様ってすごいのよぉ。男はやっぱり宦官に限るわぁ」
「宦官ってあそこチョン切った人なんでしょう?」
「男のアレなんか宦官のアレに比べたら糸屑も同じよ」
「ウソ! 宦官にアレがあるの? どんなの?」
ジュリは徐丁垓に抱かれたことを思い出した。
「男のアレがトントンミー(ハゼ)だとしたら宦官のアレは猛毒のハブって感じかなぁ」
「ハブゥ。いやだ、死んじゃう死んじゃう」
「私なんか一晩で千回殺されたさぁ。もう宦官以外に抱かれたくないさぁ」
聞けば聞くほど朝薫は混乱してしまう。徐丁垓が好色漢なのはこの前わかったが、どういうふうにして女を抱いているのかがわからない。そもそも宦官は性的機能のない男なのではないか。なのに徐丁垓は絶倫ときた。「絶倫宦官」という言葉自体が既に語意矛盾している、と朝薫は思う。阿片密輸ルートを解明するくらい頭のいい朝薫でも情事の世界は謎だらけだった。
「女は何でも誇張して話すからな」
と無視を決めたがちょっとだけ気になる朝薫だ。ジュリたちの会話はますますエスカレートしていった。
「じゃあ、あの若いお役人様のアレはどれくらいなの?」
朝薫を見つけてさりげなく股間をタッチしたジュリは物が違うと笑った。
「う〜ん。チンボーラー(小さな巻き貝)って感じかなぁ」
朝薫はちょっと涙目だ。琉球の代表的な花街である辻で、帝王の座に君臨していたのは清国の宦官だった。好色な馬親方も向親方も徐丁垓の武勇伝の前では霞んでしまう。
座敷では徐丁垓が五人のジュリ達を魂の抜け殻に変えていた。ジュリ達は阿片を大量に吸引したような恍惚《こうこつ》とした眼差しで首が据わらない。ジュリの舌を指で摘んだ徐丁垓が、代わりの女を連れてこいと女将《おかみ》に要求する。
朝薫は強い幻覚を見ている気分で、さっきから後頭部がぼうっとしたままだ。
「徐太監! こういう趣味の悪い遊びは仕事を終えてからにしていただきたい!」
「遊びではない。私は遊女たちを食べ終わったところだよ。クククク……」
立ち上がった舌がちろちろと笑う。紫禁城の宦官はみんなこんな妖怪ばかりなのだろうか、と朝薫は恐ろしくなった。
「徐太監、ぼくは宦官が女遊びをするなとは言わない。しかし度が過ぎるぞ」
「きみは喜舎場親雲上といったかな? これでも私は控えめにしているつもりだ。私は後宮で毎晩千人の女と交わっていたのだぞ。クククク……」
それが誇張でないことは後で知った。徐丁垓が紫禁城から追い出されたのは後宮を乱したからだ。宦官と思って油断していたら徐丁垓は、後宮の女たち全員と交わったらしい。ただどうやって交わったのか誰も知らない。徐丁垓は正真正銘の宦官である。宦官が女を犯すことはありえないから処罰ができず、苦慮した官僚たちは徐丁垓を紫禁城から追い出す口実に冊封使節団に紛れ込ませたのだ。
「喜舎場親雲上、私がなぜ宦官になったのか教えてやろうか? 女を抱くには陰茎が邪魔だったからだよ。クククク……」
――この化け物め……。
朝薫は息があがって睨《にら》みを利かせるだけで精一杯だった。その側で徐丁垓が究極の情事とは何かを語り始めた。
「私は八歳のときにあらかたの情事に飽きてしまって宦官になったのだ。色事《いろごと》は楽しいが生殖がつきまとうのが鬱陶《うっとう》しい。子どもがほしくて女を抱くなどつまらない。だから陰茎を切り捨てた。生殖のない情事こそ究極の快楽なのだ。クククク……」
「徐太監、ぼくはあなたの性欲に興味はない。清国の阿片密売組織を調べていただければ結構だ」
朝薫は清国の阿片密売組織の解明には時間がかかると思っていた。そのためにまず琉球と薩摩の調査から始めた。しかし実は徐丁垓はとっくに調べを終えていた。清国に帰らずとも悪事の絡繰はお見通しだ。徐丁垓が宮廷で疎《うと》まれたのは、裏社会のことにあまりにも精通しているせいでもあった。
「私を誰だと思っている? これでも科挙を通り紫禁城で登り詰めた男だぞ。阿片はインド産だ。英国の東インド会社が阿片が清国内で売れないことを知って、売却先を日本に定めたのだ」
「いい加減なことを言うな。いくら英国船籍でも大禁物は持ち込めないはずだ。どうやってインドから福州にまで阿片を持ち込んでいる。清国の税関の目は節穴なのか?」
「きみの言う通りインド産の阿片を船を使って福州に持ち込むのは不可能だ。しかし高品質のインド産の阿片なら清国内に大量に保管されている」
「ぼくが清国の事情に疎いと思うな。阿片戦争で押収された阿片は全て焼却処分されたはずだ」
「その阿片が焼却される現場をきみは目撃したのか?」
「外交文書ではそうなっている」
徐丁垓が舌を小刻みに震わせて笑う。
「あんなでっち上げの文書を信じるとはきみは人が好すぎる。なぜならその文書は私が作成したからだ。上官から紫禁城にいたければそう書けと命じられたのだよ」
「じゃあどうすれば琉球への阿片の流れは止まる?」
「琉球館に謝花正興《じゃはなせいこう》という存留役《ぞんりゅうやく》がいるだろう。彼が阿片密売組織の元締めをやっている。謝花を速やかに帰国させ逮捕すれば密売組織は壊滅するだろう」
これだけの情報力と知性を持ちながら正義のために使わない徐丁垓という男が朝薫にはわからない。賄賂《わいろ》を受けているなら理解できる。だが徐丁垓の置かれた境遇を見ると私腹を肥やしているわけではなさそうだ。
徐丁垓が一献交わそうとお猪口《ちょこ》を差し出した。
「きみに協力した代わりに私の願いも聞いてくれるかい?」
「断る。ぼくは仕事で取引しない主義だ」
「今度あの宦官を連れて来るだけでいいのだよ。クククク……」
徐丁垓の舌が楽しそうに躍っていた。
御内原の後之御庭では思戸が糸を染めていた。上級女官や王族たちは機織《はたお》りするのが仕事だ。あがまはその補佐で大忙しだ。
「思戸、糸を染めた後は干しておきなさい」
「はーい。勢頭部様ーっ」
籠を抱えた思戸のお尻を茶色の鶏が追いかける。トゥイ小《グワー》は鶏冠も立派な鶏に成長していた。
「トゥイ小。お母さんは忙しいからどこかで遊んでらっしゃい」
継世門で女官たちがたむろして外の様子を窺《うかが》い、一喜一憂している。門番を通じて闘鶏の情報を得ているのだ。女官たちの遊びといえば闘鶏だった。麻雀《マージャン》が流行《はや》った時期もあったが、国母に見つかってしまい、御内原の中で賭博《とばく》を禁止されてしまった。ならば外で賭ければよい。
今、闘鶏界で一世を風靡《ふうび》しているのが女官大勢頭部の「三国無双忠次」だ。普通の鶏の三倍もある巨体と生まれながらに備わっている激しい闘争心で無敗の横綱に上り詰めていた。
「私の白鳥百合|小《グワー》の試合はどうなった?」
「三国無双忠次に殺されました。もう血の海です」
「私の白鳥百合小が……。百合小。百合小……」
継世門に入道雲のような影が差す。女官大勢頭部の登場だ。配当金の入った巾着袋《きんちゃくぶくろ》を受け取ってほくほく顔だった。
「さすが三国無双忠次だ。私に似て働き者だな」
「女官大勢頭部様、あれは鶏ではありません。飛ばない鷲《わし》じゃありませんか」
金を巻き上げられた女官たちは不満たらたらだった。
「僻《ひが》むのはおよし。三国無双忠次に勝てる鶏は琉球にいないのだ」
「口惜しい。鶏肉をあげて育てたなんて卑怯よ……」
「文句は勝ってから言うのだ。さあ、掛け金をおよこし」
御内原の外でも女官大勢頭部の覇権《はけん》は盤石《ばんじゃく》だ。女官大勢頭部は儲けた金で牛を買おうと思っていた。この余勢を駆って男が熱狂する闘牛の世界も支配するつもりだ。すると女官大勢頭部の頭にトゥイ小が飛び乗ったではないか。追い払おうとしてもトゥイ小は巧みにジャンプして女官大勢頭部の頭から離れない。
「何だこの鶏は。これは誰の鶏だ!」
「トゥイ小。トゥイ小おやめ」
血相を変えてやってきたのは思戸だ。目を離した隙に女官大勢頭部に見つかってしまった。
「思戸。どうやら勝手に鶏を育てていたようだね」
「女官大勢頭部様、申し訳ございません。偶然卵から孵《かえ》ったんです」
「あがまが私物を持てるとでも思っているのかい?」
思戸が叱られているのを見たトゥイ小が女官大勢頭部の頭をつつく。ついに怒髪《どはつ》天を衝《つ》いた女官大勢頭部が面白いことを考えついた。
「この鶏を三国無双忠次と対決させよう。見事忠次に勝てば御内原に置いてやろうじゃないか」
「女官大勢頭部様、それはあんまりでございます。トゥイ小は私に似て温室育ちで闘いを好みません」
女官大勢頭部は思戸の訴えを退けてトゥイ小を闘鶏の世界に投げ込むことにした。
「さあさあ賭けが始まるよ。トゥイ小と三国無双忠次の試合だ」
賭け事が大好きな女官たちは継世門の前に殺到した。
「可哀相に。あの鶏は忠次に食べられちゃうのね。私は忠次に銅銭五十文」
「私だって忠次に銅銭八十文賭けちゃうわ」
「賭けが成立しないじゃないか。思戸、おまえは飼い主だからトゥイ小に賭けるんだよ」
逃げられない運命に思戸は涙目だ。これがトゥイ小の見納めになってしまうとは。思戸は香典代わりになけなしの全財産を賭けさせられてしまった。
トゥイ小が門番に抱えられて御内原を出される。思戸は継世門の前で泣き崩れてしまった。
「トゥイ小。トゥイ小。お母さんを許してね……」
猛禽《もうきん》にも匹敵する三国無双忠次との闘いは明日行われる。
梅雨にも似た長雨が降り続いていた。品の良い番傘を差した雅博が王宮へと向かっていた。着ている羽織にはまだ寧温の香りが残っている。着れば着るほど寧温の香りは消えて自分の匂いに染まっていくのに、毎日袖を通したくなるから不思議だ。雅博の足音が雨の中を小気味よく弾んでいた。
「誰か尾《つ》けているのか?」
殺気を感じた雅博は無意識に刀に手をかける。背後には人影すらなかった。気のせいか、と振り返ったときだ。雅博の正面に徐丁垓が立っていた。
「こんにちは日本のお侍様。クククク……」
「私よりも速く動いた。まさか?」
組み合う前に倒す示現流《じげんりゅう》の使い手である雅博は自分よりも速く動く人間に会ったことがない。圧倒的なスピードと反射神経で瞬時に敵を倒すことが目的の剣術で動きを読まれることは敗北したも同義だった。
笠を被った徐丁垓が非礼を詫びた。
「私は清国の大監、徐丁垓と申します。一度、日本の阿片捜査官にご挨拶したいと思っておりました」
「御仮屋の浅倉雅博だ。こういう接触はお互いのためによくないのではないですか?」
身の丈は雅博と同じくらいなのに、徐丁垓の腕が異様に長いのと清国式の衣服のせいで、大きく感じる。
「非公式なら構わないでしょう。その証拠に今日も私たちは王宮にあがる時間を敢えてずらしています。私はちょうど王宮から帰るところです。偶然すれ違うこともあるでしょう」
「それで徐太監、私に何の用でしょうか? 日本の阿片の情報なら全て糺明奉行殿に話しております。私も清国の情報は糺明奉行殿からお聞きすることにしております」
「いえ、私も無視して通り過ぎようとしたのですよ。ただあなたの羽織から孫親雲上の香りがしましたので、ふと立ち止まっただけです。服に匂いを染みつけるとはどういう関係なのか興味があります。クククク……」
「邪推です。私と孫親雲上は仕事上の付き合いがあるにすぎません」
雅博は不吉な予感を覚えた。この宦官は才気を別のことに使っているようだ。徐丁垓は気だるそうに鼻を鳴らしている。
「さきほど孫親雲上とお話ししましたが、孫親雲上の息に男性の匂いが混じっていたのです。その匂いが今あなたの息からしますよ。クククク……」
「失敬な!」
刀を抜こうとした雅博の手が空回りする。ふと見るとあるべきはずの刀が腰に差さっていないではないか。いつのまにか刀は徐丁垓の手に渡っていた。
「なかなかよい剣をお持ちです。清国でも日本刀は調度品として人気がありますからね」
徐丁垓は刃を舐《な》めて味見をしている。喉の奥から這《は》い出た舌は軽く胸元にまで達している。雅博は背筋がぞっとした。
――こいつ本当に人間か?
「宦官と接吻をするのも一興。宦官の唇は淡泊ですからね。もっとも私はそういう趣味にも飽きましたが。クククク……」
「徐太監。私を愚弄《ぐろう》するのは構わないが、孫親雲上を侮辱するのは許せない。孫親雲上への非礼に対しては謝罪してもらおうか」
雅博は番傘を振りかぶって徐丁垓に殴りかかった。しかし間合いでは完全に仕留められるはずなのに、徐丁垓はぬるりと傘の軌道から外れていく。雅博の頭の中は混乱していた。まるで脳と体が分離されていく気がした。体が憶えている示現流の技が無意識に手応えをイメージする。だが現実は空振りで徐丁垓の動きを追うことすらできない。雅博は経験したことのない動きに翻弄《ほんろう》されていた。ぐにゃぐにゃする徐丁垓の体は次の動きが予想できない。
「蟷螂拳《とうろうけん》です。初めて見たようですね。クククク……」
「この好色宦官め。手討ちにしてくれる」
またぬるりと傘を避けて徐太監が雅博の羽織に鼻を押しつけた。
「ああ、いい匂いだなあ。こんな上玉が琉球にいるとはなあ……」
「孫親雲上はおまえの慰みものではない!」
「私の逸物を突っ込みたいなあ……」
「宦官に逸物などあるか!」
徐丁垓がニヤリとする。
「これを見ろ!」
と顎を仰《の》け反《ぞ》らせた徐丁垓が舌を天に突き立てた。その子どもの腕ほどもある舌に雅博が目を疑う。徐丁垓の舌はどんな男性器よりも硬くそそり勃《た》っているではないか。まるで喉の奥にウツボが寄生しているようだ。徐丁垓は艶《なま》めかしく濡れる口の中の陰茎を自在に動かした。
「宦官の情事はこれを使うのだよ。クククク……」
徐丁垓が後宮で絶対に捕まらなかった理由がこの隠れた陰茎だ。性器を失った代わりに獲得した新たな陰茎は口の中に隠されていた。舌の自由度は男性器以上だ。果てることのない宦官の性器は無限の快楽と未知の官能を女に与えた。これが後宮の女たちを虜《とりこ》にした。
――妖怪だ……。こいつは妖怪だ……。
ふたりの争いを見つけた朝薫の声がする。
「徐太監、浅倉殿、やめるんだ!」
徐丁垓はこれまでと見切りをつけると雨の中に姿を消した。雅博は徐丁垓の異形《いぎょう》に当てられてしばらく金縛《かなしば》りのように突っ立っていた。
「浅倉殿、清国の役人と接触されては困ります! それくらい御仮屋の常識のはずです!」
「すまなかった……。私の落ち度だ……」
あっさりと非を認められると朝薫も叱る言葉がない。雨に濡れそぼった雅博はようやく正気を取り戻した。しかし朝薫の目には雅博が何かに絶望しているように映った。
「喜舎場親雲上、ひとつ頼みがあるがよろしいか?」
朝薫は言ってみろと促す。
「孫親雲上を徐丁垓の毒牙から守ってほしい……」
ふたりは初めて心を通わせた気がした。
継世門の前にまた女官たちが九十九折《つづらお》りになっている。いよいよトゥイ小《グワー》と三国無双忠次の闘いが始まったのだ。思戸は死刑執行の合図を聞いたようで、城壁に凭《もた》れかかったまま空を見上げていた。
「今日は空が青いなあ……」
長雨の合間に覗かせた青空は雲ひとつない晴天だったが、思戸は涙目越しに見つめている。こうしているとトゥイ小と一緒に暮らした日々が次々と思い出される。ヒヨコだったとき食べ物を探して京の内に潜入したこと。紡《つむ》いだ糸をズタズタにされて巣にされたこと。
束の間の母親業だったけれど毎日が楽しかった。今頃、肉食鶏の三国無双忠次に解体され尽くしていることだろう。
「やだな。涙が止まらないや……」
城壁の外が騒がしい。きっと闘鶏の結果が出たのだろう。悠然と継世門の前までやってきた女官大勢頭部の声が響く。
「何だって! 忠次が負けただと?」
「はい。目を潰された後はもう無惨としか言いようのない有様で……」
誰もが忠次の一方的な勝利だと思っていたが、試合が始まるやトゥイ小の猛攻撃が始まったという。高級食材を食べて育ったトゥイ小は機敏で忠次の反撃を全てかわし、忠次の目を潰した後は一方的に攻め続けた。六十試合無敗の忠次は息絶えたという。
「これが忠次の亡骸《なきがら》でございます」
女官大勢頭部の元に七面鳥のように禿げた忠次が返される。あの無敵の忠次が普通の鶏に負けるなんて信じられなかった。女官大勢頭部が忠次を抱いて涙する。
「おお。忠次。忠次……。私の忠次が……」
「トゥイ小が勝ったんだ」
凱旋《がいせん》したトゥイ小は誇らし気に思戸の元に戻ってきた。たくさんの金を稼いで。思戸は銅銭五百文を懐《ふところ》に収め、ちょっとしたセレブな気分である。
この日からトゥイ小は正式に御内原の一員となった。
花街の辻にお喋りと噂話が絶えないのは様々な人生が交差する町だからだろうか。無一文から富豪に上り詰める者、或いは富豪から浮浪者へと堕ちていく者。一生の恋に破れ一晩だけの情に縋《すが》る者、または一晩だけの情を求めたのに一生の恋に堕ちていく者。人生の矛盾と悲喜|交々《こもごも》が一堂に集《つど》う町。それが辻だ。
王府の高官が利用する高級遊郭『花風《はなふう》』では今まさに、絶頂から奈落《ならく》へと堕ちていく役人たちが窮余《きゅうよ》の一策を講じていた。
王宮への出入りを禁じられた馬親方と向親方は捜査がどこまで進んでいるのか断片的にしか知る術《すべ》がない。
「阿片の密売経路を掴まれたかもしれん。阿護の浦の水主たちが昨日、取り調べを受けるために平等所《ひらじょ》へ連行された」
「御仮屋が次回の船から購買品を検分するらしい。もしや万能薬が疑われたのではないか」
「だから西瓜に偽装するのは危険だと言っただろう。向親方、貴様の言うことなど聞いた儂が馬鹿だった」
「慶良間の鹿肉に混ぜろと言った馬親方の考えよりずっと現実的だった。大量に阿片を取引するには慶良間の西瓜が一番だ」
ふたりは互いに罵倒し合うと、また腕を組んで考えた。
「まるで真綿で首を絞められているようだ。あの宦官がどこまで掴んでいるのか見当もつかん」
「阿片が処分されていなかったのが紫禁城にバレると存留役たちも生きては戻れないだろう」
馬親方が最後の酒になるかもと覚悟して泡盛を呷《あお》った。
「まずは最低でも我らが生き残らなければならない。御料理座の阿片を管理しているのは女官大勢頭部だ。あいつのせいにしてこの事件を終わらせよう」
「というと殺すのか?」
「押さえられたのは西瓜ひとつ分の阿片にすぎん。密貿易を行うだけの量を押さえなければ、あくまでも糺明奉行の推測にすぎん」
「阿片を王宮のどこに隠しているのだ?」
「それを知るのは女官大勢頭部ただひとりだ。あのアマ、儂らが御内原に入れないのをいいことに値を吊り上げる作戦に出おった。だがこれが幸いだ。女官大勢頭部が消えれば阿片がどこにあるのか儂ですらわからぬ」
「欲張った報いだな」
ふたりは初めて目を合わせて笑った。
「儂らは御料理座へ入ることはできぬと白《しら》を切ればいい。これで一件落着だ」
「御内原は表に出ることのない世界だ。女官ひとり消えても誰も怪しまぬ。だから巻き込んだ」
華やかな夜の町の中でひとりの女官の人生が消えようとしていた。
御内原は識名園に出向いた王の不在のせいでひっそりとしていた。夜風に吹かれた小雨が松明《たいまつ》の明かりを反射して仄《ほの》かに明るい。捜査の手が御内原に延びていると聞いた女官大勢頭部もまた朝を怯《おび》えているひとりだ。
「こんなことになるなら馬親方の口車に乗らなければよかった……」
聞得大君がいなくなって女官人生も安泰と思ったのも束の間、今度は女官大勢頭部が死に神の足音に魘《うな》されていた。纏めた荷物は箪笥一竿《たんすひとさお》分だ。これを背負って御内原から逃げ出そうというのだ。
「王妃様、最後の挨拶もできず無念でございます……。どうかお元気で」
突如、女官大勢頭部の部屋の前に人影が立った。刺客がついにやってきたのだと女官大勢頭部は腰を抜かす。障子が開いた途端、雨が部屋に入った。
「い、命ばかりはお助けをーっ!」
現れたのは寧温だ。
「女官大勢頭部様、今逃げると殺されて全ての罪を着せられてしまうだけです。阿片の経路は全て解明いたしました。さっき平等所で水主と海運業者の船頭が自白いたしました」
「孫親雲上お許しを。私は最初、薬を売らないかと馬親方から誘われただけでございます。まさか阿片とは知らなかったんです」
「事情は平等所でお話しください。正直に話せば斬首は免《まぬが》れるよう考慮いたします。隠している阿片の場所を教えてください。これで馬親方と向親方が主犯と確定されます」
「私はただ、女官たちに充分な食事と手当を払いたかっただけなのです……」
女官大勢頭部は寧温を瑞泉門《ずいせんもん》の脇にある龍樋《りゅうひ》へと案内した。闇の中でこんこんと湧き上がる水の音だけが周囲に響いていた。
「この奥にかなり深い洞窟があるのです。阿片はそこに隠しました……」
「洞窟があるなんて初めて知りました」
「孫親雲上、私は王宮のことなら何でも知っております。これでも勤続年数はあなたよりも何十年も長いのですから。私があがまだった頃、当時の女官大勢頭部様に叱られるのが恐くてよくここに隠れたものです」
女官大勢頭部が懐かしそうに幼かった日を振り返る。好奇心旺盛だった女官大勢頭部はよく先輩女官たちの秘密を曝露しては折檻《せっかん》されたものだった。奉公に出されてからは実家に戻ったことは一度もなかった。貧しかった女官大勢頭部は見舞金を持たずに実家に帰るのを恥ずかしがった。
「私が女官大勢頭部になったとき、女官たちを何度も実家に帰しました。もちろん充分な見舞金を持たせて。私が貰えなかった分、女官たちには幸せになってほしかった。王宮はいいところだと信じてほしかった……」
寧温はただ黙って女官大勢頭部の言い分に耳を傾けた。女官思いで阿片に手を染めたのだとしても罪が軽くなるわけではないが、女官大勢頭部の人生を少しの間だけでも肯定してやりたかった。
「孫親雲上これだけは信じてください。私は王妃様には阿片の金を使いませんでした。王妃様がトゥシビーをできずに苦しんでいるときでさえ」
「あなたは自分の最後をわかっていた」
「いいえ。王妃様を心から敬愛していたからです。だから王宮を去るときはしっかりと王妃様のお顔を見てお暇《いとま》できそうです」
「さすが女官大勢頭部様です。私も女官大勢頭部様のお気持ちをしかと胸に刻んでおきます」
その言葉に突然、女官大勢頭部が大声で笑った。何事かと目を丸くした寧温に女官大勢頭部が言う。
「その台詞《せりふ》は王宮に三十年以上勤めてから言いなさい。新参者の若造に決してわかる気持ちではない。涙も笑いも私の人生の全てが王宮にあるのだから。この女官大勢頭部……王宮が私を忘れても私は決して王宮を忘れない……」
女官大勢頭部は巨体を小さく屈めて泣き崩れた。
女官大勢頭部の言葉通り翌日、龍樋の吐水口の奥に洞窟が見つかった。そこには大量の阿片が隠されていた。
「糺明奉行殿、洞窟の奥にこんなものがありました」
役人から手渡されたのは古びた子ども用の簪《かんざし》だった。「それ、あたしのだよ」とあがまだった頃の女官大勢頭部の声が聞こえたような気がした。
胴衣《どうじん》汗しぼて下裳《かかん》裾ぬらち
遊びゆたるわぬも大人なたさ
(あがまだった頃の私は遊んでばかりで女官衣装のドゥジンも汗びっしょり。スカートのカカンも水溜まりで跳《は》ねて裾《すそ》もびっしょり。そんな時代もあったかねえ)
数日後、阿片密売組織の全容が糺明奉行によって明らかにされた。女官大勢頭部の自白により馬親方と向親方が逮捕され、阿片に関わっていた役人、女官を含めて総勢百人に上る王府最大の裏組織が壊滅した。
寧温が判決文を読み上げる。
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口上覚
国家為御難題阿片一件ニ付王府重役衆中為相
係儀ハ言語道断之悪行ニ而、御当国之為恥辱
ハ不申及、唐大和江之聞得如何敷と被存候。
依之重科難避、係合之馬親方井向親方等都而
流刑被仰付、女官大勢頭部始御内原係合之者
共ニ至迄茂重科可被下者也。
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「この度の阿片事件において、王府の要人たちが関わっていたことは断じて許すことのできない悪行である。我が国と清国、薩摩などの関係を鑑《かんが》みると、琉球の役人が阿片を主導的に売買した事実は国際的な評価を落とした。よって馬親方、向親方など重臣を含む、阿片に関わりのあった役人は全て流刑《るけい》とする。同じく御内原の女官大勢頭部と関わった女官たちも相応の量刑に処する」
流刑と聞いて馬親方と向親方はついに観念したようだ。女官大勢頭部は淡々と判決を聞き、異存はないと頭を垂れた。
「思徳金《ウミトクガニ》に女官として最後の仕事を許可します。黄金御殿《クガニウドゥン》へ行き、王妃様に別れの挨拶をしなさい」
縄をかけられた女官大勢頭部が黄金御殿の王妃に謁見を申し出る。
「王妃様、私の不徳と罪をお許しくださいませ」
固く閉められた障子《しょうじ》は何も答えてくれなかった。
「どうか最後のお願いでございます。王妃様のお顔をこの目に焼き付けさせてくださいませ」
突然、文机《ふづくえ》が叩かれて王妃の声が響いた。
「阿片に手を染めるとは恥知らずにもほどがあります。そなたの顔など見たくもないっ!」
「王妃様、申し訳ございません……。どうか、最後のお願いでございます……」
王妃は部屋の奥で沈黙したままだった。諦めた女官大勢頭部が何度も振り返りながら御内原を去って行く。
「王妃様、どうかお元気で……」
女官大勢頭部は大きな背中を丸めて三十五年勤めた王宮を後にした。
形見なる胴衣肌にうちかけて
これど後生《グソ》までの支度さらめ
(御内原で女官をしていたときの形見のドゥジンを肌にうちかけて、これがあの世に行くときの支度になるだろうと思う)
女官大勢頭部が去った後、黄金御殿から王妃の嗚咽《おえつ》が漏れた。
「女官大勢頭部……。女官大勢頭部……。私の唯一の心の支えだったのに……」
王妃は堪《こら》えきれなくなって黄金御殿を飛び出した。しかし無情にも後之御庭《クシヌウナー》に女官大勢頭部の影はもうなかった。御内原広しとはいえ女官大勢頭部の巨体はすぐに目についたのに。王妃が呼べばどこからでも現れた女官大勢頭部だったのに。そんな彼女はもういない。土砂降りの中、傘も差さずに女官大勢頭部は渡名喜《となき》島に流刑になった。
王妃はやりきれない思いを一篇の琉歌に託すことしかできなかった。
雨も降りつめれ風も吹きつめれ
我身《わみ》も声立てて泣かんしゆもの
(雨も降りたければ降るがいい、風も吹きたければ吹くがいい、天も地も人も世界もどうにでもなるがいい、私はあらん限りの声を立てて号泣しよう)
阿片事件が解決すると同時に糺明奉行の役職は自動的に解かれる。寧温も朝薫も大任を終えて以前の役職だった評定所筆者に戻っていた。
「寧温、評定所の人間が半分になってしまった。この空席をどう埋めればいい?」
「私もそれが心配です。もう一度人事を見直して能力本意で登用を行おうと思います。まずは科試合格者を増やして補充を行いましょう。座敷衆などの名誉職の方には奉行所を兼任してもらい、仮筆者たちを評定所筆者に格上げしようと考えております」
「阿片事件の糸口となった銭蔵の儀間親雲上を昇進させてあげられないだろうか?」
「今、その任命書を書いていたところです。儀間親雲上は評定所筆者にいたします」
儀間親雲上の苦労はやっと報われたようだ。久しぶりに現れた取り巻きの女たちを引き連れ、儀間親雲上の花と孔雀《くじゃく》の行列は深夜まで続いた。
「あとは兄上を王宮に戻してあげなくちゃ」
嗣勇《しゆう》は聞得大君御殿の足《たし》筆者のままだ。聞得大君が空位の今では見るも寂しい部署である。兄の性格から考えて華やかであまり忙しくない部署を選んであげたい。嗣勇は御内原を管轄する奥書院奉行の筆者に昇進した。片想いの王女の側にいけるとあって嗣勇は有頂天である。
「孫親雲上、ありがとうございます。御内原の再建はどうぞお任せください」
花当《はなあたい》から奥書院奉行の筆者になったのだから嗣勇は本物のシンデレラボーイだ。ただし妹の七光だけど。
当然、多嘉良にも昇進の話はやってきた。多嘉良に相応《ふさわ》しい銭蔵奉行筆者だ。門番から官位のある役職への大|抜擢《ばってき》だ。昇進に舞い上がった多嘉良はいつか科試を受験したときの乱痴気《らんちき》騒ぎを三日三晩行った。
「寧温ありがとう。ありがとう。科試に受かったわけでもない儂が奉行所の筆者になれるとは」
多嘉良は感無量で龍樋の泉のようにこんこんと涙を湧かせた。
「おじさん、お願いだから泡盛の密売組織なんて作らないでくださいよ。そんなことしたら私でも庇《かば》えなくなります」
「ちょろまかすのも駄目か?」
多嘉良の将来が思いやられると寧温は溜息をつく。
そんな折、尚育王が書院に寧温と朝薫を呼びつけた。
「孫親雲上、喜舎場親雲上、糺明奉行の大役ご苦労であった。知っての通り、今回の事件の余波で王府の機能の大半は麻痺している」
「首里天加那志、王府には優れた地方役人たちが多数おります。勤星に頼らずに彼らの能力を適正に評価する試験をさせてください。成績優秀者から王宮へあげていこうと考えております」
「それはよい考えだ。だが表十五人衆が二名欠員している。これはどうするつもりだ?」
寧温は実務なら評定所筆者だけでもやれると思って表十五人衆のことまで考えていなかった。血統主義の表十五人衆の人事に手をつけると、名門士族たちがまた覇権争いをするに決まっている。
馬姓、向姓から登用すると汚職の繰り返しになりかねない。
「畏れながら首里天加那志。表十五人衆は血統以外の登用を進言いたします」
「余もそう思う」
いつの間にか三司官たちが書院に集まっていた。
「孫親雲上、喜舎場親雲上、これより言上写《ごんじょううつし》を申し渡す。前に出よ」
三司官が任命書を読み上げる。
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言上写
孫親方
喜舎場親方
右者共事御意有之候間、表十五人衆中之役儀
被召下候。早々致合点、御政道筋可被致勉励
由、被仰下候事。
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寧温も朝薫もお互いに顔を見合わせて、相手の地位を確認する。
「朝薫兄さんが表十五人衆に?」
「寧温が表十五人衆だって?」
三司官が互いに切磋琢磨《せっさたくま》しあうように激励した。
「糺明奉行の大役を果たしたのだ。そなたたちも相応の昇進が必要だと首里天加那志がお決めになられた」
「私が表十五人衆。信じられない……」
「ぼくが表十五人衆。喜舎場家始まって以来だ」
ついに国家の顔となる大臣職への登用だ。前代未聞の人事で名門士族たちから反対も出たが、王と麻親方が強硬に譲らなかった。元はといえば血統主義が行きすぎて利権を独占した弊害が今回の阿片事件である。この旧態依然とした世界に風穴を開けなければ新しい時代は来ないと麻親方が刺し違え覚悟で論破したのだ。これにより名門士族四姓による表十五人衆独占の歴史は幕を閉じた。
尚育王から表十五人衆の証《あかし》である紫冠の帽子が被せられる。寧温も朝薫もまだ地位の実感がわかない。お互いに目で「あれをやろうな」と合図した。
「そなたたちの活躍を期待しておる。一層、精進し王府の役人の道を示せ」
戴帽式を終えたふたりは、科試に合格したときと同じように御庭を駆け出した。
「おめでとう。孫親方!」
「おめでとうございます。喜舎場親方!」
「これで麻親方と同じ身分だ。やっほう!」
寧温はこの喜びを伝えたくて最初に髪と別れた三重城《ミーグスク》に赴いた。今日なら髪を切ったあの日の自分に胸を張って伝えることができそうだ。三重城の頂に立った寧温は赤く染まる分厚い雲の向こうに最高に綺麗な夕日を思い浮かべた。
「真鶴《まづる》ーっ! 真鶴ーっ! 私は表十五人衆になったのよー! 今の私を見てーっ!」
今は遠い日の真鶴が祝福してくれそうな気がする。頑張っていればいつか涙は報われると言ってやりたかった。最後に寧温が向かった先は父が散った安謝湊《あじゃみなと》の処刑場だ。首を刎《は》ねるにはあまりにも美しすぎる浜に寧温は立ちつくしていた。
「父上、私は表十五人衆になりました。少しは偉くなったでしょ?」
科試受験に狂気ともいえる情熱を注いだ父は、この日を夢見ていたはずだった。しかしもし父が生きていたとしたら、どう祝福してくれたのか想像がつかない。父のことだから淡々と「そうか」と言っただけかもしれないし、寧温が見たことのないとびきりの笑顔を見せたかもしれない。
また雨粒が落ちてきた。それが父が泣いているようで寧温は雨がやむまで帰りたくなかった。やがて寧温は浜の木陰でうつらうつらと居眠りしていた。
『寧温、家のガジュマルの樹の下を掘りなさい』
夢の中なのか、それとも現実なのか、父の声に目を覚ます。そういえば父の遺言は第一尚氏王朝の再興だと思い出した。第一尚氏王朝を再興させなくても自分は充分に立身出世したと寧温は自負している。王府の舵取《かじと》りをする表十五人衆の座を捨ててまで固執する遺言ではない。
しかし寧温は気になって自宅のガジュマルの樹の下に向かった。空に稲妻が走り出す。
「ガジュマルの樹の下に何か埋めたって父上が言っていた気がする……」
寧温が腰を落とすと同時に集中豪雨が訪れた。猛り狂った雨と風が寧温の体に強い痛みを与え続ける。寧温はなぜかこんな天気が嫌いではない。嵐が激しければ激しいほど、揺り籠にいるような気分になった。足首は泥濘《ぬかるみ》に沈み、髪は乱れ、肺の中にまで水滴が押し寄せてくるのに懐かしいとすら思えてくる。
雷が近くに落ちて、衝撃波が体を揺さぶる。だが体は逃げようとしなかった。寧温は一心不乱にガジュマルの樹の根元を掘り続けた。やがて指が何か固いものに当たった。感触からすると丸い石のように思える。そのまま手探りで掘り進めていくと数珠《じゅず》のように石が連なっているのがわかった。稲光のフラッシュが連続して夜を照らす。寧温は、ままよと石を引き抜いた。
「これは勾玉《まがたま》だ!」
そのときだ。寧温の頭上で雲が渦を巻き始めた。空を見上げた寧温が息を呑む。天空から龍が見下ろしているではないか。
――龍が落ちてくる!
身構える余裕もなく口を開けた龍が真っ逆さまに寧温の体を貫いた。同時に爆風が転がるように木々を薙《な》ぎ倒していく。やがて静寂が訪れ、満天の星が出現した。
爆心地で馬天《ばてん》ノロの勾玉を持つ寧温に託宣が下る。
『龍の子よ。聞得大君になって琉球を救いなさい』
王府の重臣に登用された嵐の夜、寧温は国土の声を聞いてしまった。
[#改ページ]
第八章 鳳凰木の恋人たち
王宮にはふたつの顔がある。昼間は政治の中枢として知的な顔つきをしているが、夜は紅《べに》をさす貴婦人に変わる。もともと王宮は男装の麗人なのだ。女が男に化けていると思えば、いろいろなことが腑《ふ》に落ちる。
世界の宗教建築にも匹敵《ひってき》する華麗な装飾、幾重にも着飾った過剰な色彩感覚、そして美と教養のみに特化した頭脳。智恵と論理で競い、風流を作法の中に染みこませた役人たちは美の僕《しもべ》だ。世界を旅したアフロディーテが南海の果てに終《つい》の棲処を見つけた。首里城《しゅりじょう》とはそんな城である。
しかし誰がこの美と教養の王国に嵐が襲い来ると思ったであろう。尚氏《しょうし》王朝|開闢《かいびゃく》から五百年。文化が爛熟《らんじゅく》した王国に翳《かげ》りが差し始めていた。その翳りさえ美にしてしまうのは神から愛された故だろうか。男装の麗人から貴婦人に戻った王宮は、メランコリーに耽《ふけ》っているように映る。やがて散る身を憂《うれ》えながらも最新のファッションをさりげなく着こなしてみせる。それこそが美学だとでもいうように。
この時期、王府は列強の外圧に振り回されていた。異国船を追い払っても追い払っても、次々と船がやってくる。フランス船アルクメーヌ号、八重山《やえやま》を測量していった英国船サマラン号、さらに翌年英国船スターリング号が来琉。同年、フランスも負けじとクレオパトラ号を那覇港に送り込む。寧温《ねいおん》たち王府の役人は持ち前の外交術でどの国とも和親を結ぶことを拒んだ。しかしいつまでものらりくらりと逃げてばかりはいられない。琉球が列強と和親を結ぶには、あまりにも不利な状況だった。
寧温は王府の機構そのものを新しくするしかないと密かに考えていた。クレオパトラ号を追い払って手柄を立てたばかりの寧温は、旗色の悪さを認めていた。王の執務室である書院の廊下を渡りながら寧温は深い溜息をついた。
「朝薫《ちょうくん》兄さん、このままだと琉球は負けます」
「フランス人を負かしたっていうのに、その言い方はないだろう。あいつらの顔といったらなかったよなあ。まさか王府にフランス語を喋《しゃべ》る重臣がいるとは思ってなかっただろう」
朝薫はフランス人たちをたじたじに追い返した寧温の様子を思い浮かべては、目を細める。列強は初めから琉球を見下して迫ってくる。迎え撃つ寧温が流暢《りゅうちょう》なフランス語を喋ったとき、彼らは作戦変更を余儀なくされた。彼らの予想以上に、琉球は諸外国との交渉に慣れていた。
列強が琉球をほしがる理由はただひとつ。東アジアにおける覇権《はけん》を確保しておきたいのだ。琉球の地政学的特性は物資の補給基地として最適だった。琉球ひとつ抑さえておくだけで計り知れない利益をもたらす。
「私は次の船がやってきたら、追い返す理由がもうありません」
「何を言ってるんだ。きみほど有能な人間は世界中探したって数えるほどしかいないさ」
「朝薫兄さんお聞きください。私はこのたびのフランス船との交渉で、自分が古い人間だと思い知りました」
「それはどういう意味だい?」
寧温は頬から血の気が失せていた。
「私には列強と闘える論がないのです」
「今まで通りの論でいいじゃないか。それでフランスは帰ってくれた」
寧温は違うという。フランスが引き下がったのは、勝機があると確信したからだ。彼らと話をしているときに、寧温は思考体系を探られている気がした。いくらフランス語が堪能《たんのう》であっても、本当の武器は思考体系である。寧温は自分が近代的思考を獲得していないことを思い知った。
近代的思考においては国家よりも個人が優先される。個人の数はこの時代の大砲の弾に相当する。琉球が国王という一発の弾に頼る戦略に対して、西欧は民衆という数百万発の弾を携えていることになる。クレオパトラ号が去っても、それはフランスが負けたことにはならない。また新しい船がやってきて同じことが延々と繰り返されるだろう。それが近代国家というものだ。
「何とかして王府に近代を認めさせなければ……」
「首里天加那志《しゅりてんがなし》のお誉めに与《あずか》るときに、そんな顔をしないでくれ」
表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》に昇格した朝薫と寧温が王の前に御拝《ウヌフェー》する。紫色の帽子は立身出世の極みの証《あかし》だ。これからふたりは王府の重臣として、国家の舵取《かじと》りの最前線に立つ。吟味役の地位を与えられた寧温は、評定所筆者主取《ひょうじょうしょひっしゃぬしどり》の地位が所詮、一介の事務次官にすぎなかったことを実感していた。今までは現場の声として上官たちの失政を嘆くだけですんだ。そして自分なら上手《うま》く出来ると素朴に信じていた。それが上を見たことのない役人の論理だと今は気がつく。従二品の官位はあまりにも重すぎた。それは朝薫も同じだ。
尚育王《しょういくおう》が日本式の居間でくつろぎながらふたりに問いかける。
「どうした? ふたりとも顔色が優れないぞ」
王はこれが重責のせいだと知っている。国家の顔になる以上、私人の顔などいらなかった。どこまでも完璧に公人として生きること、それが表十五人衆の最初の試練だ。
「首里天加那志。私は今、思いと言葉が離れていくのを止められません……」
寧温は今まで何でも自由に意見を述べられる立場にいた。多少の間違いは若者によくある勇み足と笑って許してもらえたが、表十五人衆の言葉にそんな酌量《しゃくりょう》の余地はない。過《あやま》ちはたちまち部下から嘲笑され、一挙手一投足すべてが批判の的《まと》になる。いや批判なら改められるからよい。過ちが百年の喪失になってしまいかねない。過ちが起こす未来への悪影響。それが恐くて、言葉を選んでしまう。
「孫《そん》親方。これが国家の頂点だ。震えるのは当然のことである。どうだ、この高みから見える世界は。琉球が時代のどこにいるのか、どこに向かっているのか、見たままを申すがよい」
寧温には複数の波が王府に襲いかかるのが見える。それが単純な波なら回避もできるが、予想以上に複雑に絡まった波だ。評定所筆者だったとき、清《しん》国派の向《しょう》親方も薩摩派の馬《ば》親方もともに時代を見失っていると思っていた。彼らは琉球をどちらかの庇護において、波をやり過ごそうとしているだけに見えた。しかし、今なら馬親方も向親方もどちらも正解だと思える。
琉球はあまりにも小さな舟であるために、普通の船なら無視してよい小波にすら翻弄《ほんろう》されてしまうのだ。国家の頂点から見た琉球の国体は、想像以上に脆弱《ぜいじゃく》だった。
初めて船の舵取りを任されて戸惑っている寧温に王はしばし猶予《ゆうよ》を与えることにした。
「では、喜舎場《きしゃば》親方から聞いてみよう。琉球はこれからどこに向かえばよい?」
「畏《おそ》れながら首里天加那志。清国との冊封《さっぽう》体制の維持がもっとも相応《ふさわ》しいと信じております」
「その理由はなぜだ?」
「はい。清国と繋《つな》がりを持つのは何も超大国の庇護を求めているからではありません。清国は歴史の中で常に諸外国との付き合いがあります。琉球は清国から情報収集して世界情勢を分析しなければなりません。鎖国する日本と組んでいては世界が読めなくなります。清国を窓口にして常に国際情勢に明るくしておかねば、琉球は滅びてしまいます」
「喜舎場親方はいつも明快だな。余もそなたの意見に同意である。では孫親方。そなたの見解を聞かせてもらおうか」
寧温は心の声と高みから見た琉球の姿を結びつけようとしている。操舵手になった寧温は右舷に薩摩の波を確認し、左に舵を取ろうとする。しかし左舷に清国の波が見え、正面に舵を切る。そして正面から列強の三角波が舟に迫っているのを捉えた。
――違う。清国でもない。日本でもない。列強でもない。この国が外洋船の姿をしていないのが問題なんだ!
「遠慮なく申してみよ。余は間違っていても処罰したりなどせん」
寧温は王の前にひれ伏して感じた通りのことを伝えた。
「畏れながら首里天加那志。琉球は今どの国につくかが問題ではありません。この王府の体制そのものが、舟の構造自体が、老朽化していることが問題なのでございます!」
「寧温何を言うんだ。それはぼくたちが無用だということじゃないか」
あまりの見解に朝薫が声を荒らげた。寧温は悲しい声で訴える。
「こんなこと私も認めたくありません。しかし事実なのです。舵を切って逃れようとする戦略そのものが既に陳腐《ちんぷ》化しています。多少の波に当たっても沈まない舟に転換すべきなのです。琉球を蝕《むしば》んでいるのは、琉球を蝕んでいるのは――」
寧温は悔しそうに拳《こぶし》を握った。
「私たち王府です……」
「寧温、首里天加那志の前で無礼だぞ! その発言は職務放棄だ」
尚育王は遠い眼差《まなざ》しで虚空《こくう》を見つめていた。
「孫親方。余が決して認めたくなかったことをよくぞ見抜いてくれた。表十五人衆は自分の身を犠牲にしてでも王を諫《いさ》めなければならぬ。そうか……。王府そのものが問題なのか……」
「首里天加那志、申し訳ございません。私は表十五人衆として、国家の頂点から見たままを、そのまま伝えただけでございます。これは私たち王府の役人の責任でございます」
「寧温、ぼくたちが無能なら誰が舵を取るんだ。無能でも舵を取らなければならないのに、逃げるなんて卑怯だぞ。大国の狭間《はぎま》で生きるのが琉球の個性なんだろう?」
「朝薫兄さん、私のその考えは今でも間違っていないと思っております。大国の狭間で生きるためには、常に姿を更新し続けなければならないのです。私は王府という体制を前提にものを考えておりました。しかしこの体制は機動力に欠けます。今の琉球に必要なのは情報でも外交術でもありません」
「孫親方。なにが必要なのか申してみよ」
「はい首里天加那志。西欧の技術文明を素早く取り入れたものが生き残ります。これは国家の規模は関係ありません。清国でも日本でも朝鮮でも琉球でも、早く技術文明と向かい合った者が勝者になるのです」
「では孫親方が言う通り、仮に西欧の技術文明を取り入れたとしよう。それが王府が琉球を蝕《むしば》んでいることとなんの関係があるのだ?」
寧温はこれが意識革命であることを知っていた。表層的な取り入れは却って混乱を招く結果になると進言した。
「首里天加那志。技術文明とは私たちが今いる世界とは全く違う枠組みのものなのです。私たちはこれまで個という単位に解体された経験がございません。人をひとりの個として捉えたとき、王は神の子ではなく、平民と変わらない一個人にまで解体されてしまいます。神を否定し、宗教に心を寄せるのではなく、普遍的な物理法則を信じるということです。それが技術文明を取り入れる最初の前提になります」
「王府を維持しつつ取り入れればよいではないか」
「いいえ技術文明の本質は便利な道具を得ることではありません。物の考え方、意識の在り方、人間としての振る舞いを根底から改めることにあります。一度、技術文明を取り入れたら王府は徹底的に解体されてしまうことになります。近代においては国民ひとりひとりが王なのでございます」
「寧温、それは切支丹《キリシタン》以上の禁断の思想じゃないか」
「既に基督《キリスト》教文明は技術文明の前で解体されたはずです。神の加護から離れ、個として自分自身に問い続ける思考こそ、技術文明の基礎だからです。性能の優れた大砲をひとつ作るのに、優れた戦艦を一隻造るのに、私たちは個という最も小さな単位まで身を落とさなければなりません。そこには王も臣下も民もなく、均一な労働者として機能する歯車にすぎません」
「寧温、そんな制度を受け入れるわけにはいかないよ。戦艦なら買えばいいじゃないか」
「いいえ。これは文明の衝突ではなく、新しい人間と古い人間の闘いなのです。清国や日本、琉球が古い人間であることを選ぶなら、確実に滅ぼされます」
尚育王は息を呑んで寧温の話に聞き入っていた。寧温の慧眼《けいがん》にはいつも驚かされるが、ここまで斬新だと生理的な拒絶感を生んでしまう。もし王が私人として生きることを許されたのなら、怒鳴って追い出せばすむ話だ。しかし国家の頂点から世界を見渡したことがある者は、自己弁護ほど国家を危うくすると最初に気がつくものだ。拒絶感すら懐《ふところ》に入れて政治を行うのが王であると尚育王は知っている。
「もちろん、私は王府を解体すればよいとは申しません。王府が解体されれば離島の宮古・八重山《やえやま》は切り捨てられることになるからです。今の琉球に相応しい戦術は、舟を補修しながら航行することだと思われます」
「それは具体的にどのような補修なのだ?」
「畏れながら首里天加那志。首里天加那志は教育にお力を注がれている王でもございます。科試《こうし》制度の中に西欧の思想をお取り入れくださいませ。私たち古い人間が新しい人間になることは難しいですが、科試を受ける学生たちを徐々に新しい人間に生まれ変わらせるのでございます」
「その者たちが王府へ忠誠を誓えるのか?」
「王府の役人すべてが新しい人間に変わるまでに三十年かかります。彼らは進取の精神を持っているでしょう。三十年後、彼らに王府をどうするのか任せればよいのです。彼らなら列強と五分の闘いをしてくれるはずです。迫り来る新しい人間には王府が生み出す新しい人間で対抗するのです。自我を持った彼らは旧態依然とした王府を徹底的に改革するでしょう。新しい舟は進貢船《しんこうせん》のような形をしていないかもしれません。しかし琉球は存続していることでしょう」
「王府という体制ではない、という意味だな?」
「王府の中から緩やかに変革を起こすことが琉球らしいのです。評定所筆者たちに近代的思考を獲得させなければ、列強とは渉《わた》り合えません」
「西欧の思想を取り入れた評定所筆者たちは王府を解体しかねないのではないか?」
「評定所筆者は琉球の誇る最高頭脳集団でございます。彼らに最新の知識を修めさせるのは、民と国益を守るためであって、必ずしも体制を維持するためではないはずです」
「琉球は王国という形態を捨てるかもしれないのだな」
「しかし国土は存続しております。王府がなくても民は生きております。王府がもし百年後の勝利を目指すなら、琉球における近代は評定所筆者から始まったと誇ることができるでしょう」
寧温は西欧の近代の始まりが市民革命によるものだと知っている。しかし王府と民の関係が近所づきあいに似ている琉球においては、市民革命は起こりえない。
むしろ民は王府に行けば何か面白いことがあると期待しているし、役人たちもまた民に対して開放的である。評定所筆者が先に近代人になれば、民はそれが流行と思って真似をする。これが琉球的な革命であるはずだ、と寧温は説いた。
「まずは塾生たちに近代哲学から教えましょう。神を否定しどこまでも自己を問いつめる姿勢こそ、琉球の新しい武器になるはずです」
朝薫はこういう急進的な考え方は好きではない。
「寧温、西欧の技術文明とともに基督教が入ってきたらどうするんだ。薩摩との協調が崩れる」
「いいえ近代哲学は神を否定したところから始まります。近代哲学から輸入すれば基督教が琉球に入ってくる余地はありません」
尚育王は大きく息を吐いて何度も頷《うなず》いた。
「余が王という立場に執着していないといえば嘘になる。しかし王は民を守るためにいる。民を守る術《すべ》がない王は無能な王だ。権力に執着したせいで百年後の琉球が危うくなるなら、余はすぐに謬《あやま》りを正さなければならない。三十年後の未来のために科試制度を見直してみよう」
「ありがとうございます首里天加那志」
そのとき、国土の声が書院にこだました。
『龍の子らよ。琉球を守りなさい』
その声を聞いたのは尚育王と寧温だけだ。声に反応した寧温の様子に尚育王が驚く。
「もしかして、そなたは今の声を聞いたのだな?」
「はい。首里天加那志……」
尚育王は一瞬|強《こわ》ばった表情をしたが、すぐに嬉しそうに目元を細めた。もしかしたら王妃にすらこんな笑顔を向けたことはないかもしれない。王にとって王妃とは存在のことである。好きか嫌いかを優先する相手ではない。子どもの王子や王女も存在である。適性と能力を見極めて世子《せいし》にするためには、個人的な感情が介入することはない。だから尚育王は即位してからずっと孤独だった。それは尚育という人間もまた第三者にとって王という存在にすぎないからだ。
王に個性などいらない。王に個人的な感情などない。王は存在として振る舞うことこそ求められる。尚育は聞得大君《きこえおおきみ》と同様、地位と権力でしか呼ばれたことのない人生だった。
そして現在、尚育王には聞得大君がいない。真牛《モウシ》は無系の平民に落とされ、首里から追放されてしまった。姉を思う弟の気持ちなど立場の中には存在しない。王のオナリ神となる女が現れれば、尚育は存在として受け入れるだろう。
「今まで余だけが知っている声だと思っていた。即位したときからこの声がずっと聞こえてくるのだ。この声が何なのか知ったのはごく最近のことだ。あれは国土の声であろう? そうだろう孫親方?」
寧温ははにかみながらよくわからないと告げた。ただ、これが古い人間の証明になるなら、これほどわかりやすい事象はないと寧温は思う。
「私たちの肉体には国土がいるのです。この声を無視したり、もしくは追いやることが近代でございます。ですが私はこの声が聞けるのを光栄に思っております。古い人間のささやかな自尊心でしょうか」
寧温はこの空耳のような声に王が悩まされていたと知って可笑《おか》しくなった。
「いやいや、この声があるお蔭で余は何度も救われたのだ。摂政《せっせい》や三司官《さんしかん》、表十五人衆たちを敵に回してもやるべきことを成し遂げることができた。余は所詮、国土の僕《しもべ》にすぎぬ。国土が余を必要とするなら、王であり続けよう。しかし国土が余を必要としないなら、潔《いさぎよ》く退位しよう」
「国土は琉球を守れと仰《おっしゃ》いました。私に出来ることなら全てを惜しまずに国土に捧げます」
「しかし不思議であるな。これまで重臣たちの中でもこの声を聞く者はひとりもいなかったのに。喜舎場親方、そなたは聞いたか?」
朝薫は悔しそうに首を横に振った。
「孫親方、そなたを重臣に迎え入れたことはきっと国土の御意志であろう。まことに不思議な縁《えにし》である。王と聞得大君にしか聞こえないものだとずっと思ってきた」
「あの、首里天加那志……。いえ、何でもありません」
寧温は自分が第一尚氏王朝の末裔《まつえい》で、馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》を所有しているとは告げられなかった。これが運命の悪戯《いたずら》なのかと寧温は思う。男として立身出世の極みにいながらも、国土は聞得大君になれと命じる。しかし寧温は尚育王を心から敬愛してもいた。
――第一尚氏王朝の再興などありえない。
尚育王が自分に心から信頼を寄せている姿を見て、寧温は運命に逆らうように自分を仕向けた。表十五人衆として人生を全《まっと》うすることこそ、琉球を守る道と信じた。
「首里天加那志、私はいずれ私を追いやるかもしれない評定所筆者たちに未来を預けたいと思っております」
「余が王である限り、教育に力を注ぎ続けよう。古い教養を捨て、琉球は新しい知識を獲得する。それが後世に残す仕事となると信じている」
「しかしまだ私は現役でございます。古いと捨てられるまでは王府を支える所存でございます」
寧温は破天塾《はてんじゅく》で麻《ま》と語り合った日と重ねていた。麻が帝王学を施しただけあって尚育王は頭脳|明晰《めいせき》な王である。文王としてなら歴代最高の王であろう。しかし時代は軍事大国主義に傾きつつあった。武装解除された琉球には苦難の道の始まりにすぎない。
「孫親方、そなたとは気が合いそうだ。一献交わすか?」
上機嫌で泡盛を呷《あお》った尚育王は、酔いに任せて一篇の琉歌《りゅうか》を詠《よ》んだ。それは肉体に宿る国土の声に精一杯の感謝を捧げてのことだった。
厚きお恵みや報るかたないらぬ
朝夕さも千代のお願しやべら
(国土の厚いお恵みには報いる方法もない。ただ国土が千代までお栄えになるように朝夕お祈りいたすばかりです)
王府が新しい時代に備えようとしている中、辻の遊郭《ゆうかく》では昼間から官能の声が響いていた。花街の帝王に君臨した清国の宦官《かんがん》・徐丁垓《じょていがい》は女を抱きながら食事し、その場で用を足し、女を敷布団にして寝る。寝ている間も徐丁垓はあの宦官の陰茎を勃《た》てたままだ。口腔に寄生した陰茎こそ徐丁垓の本体である。体が寝ている間も舌は快楽を求めて、重い体を引きずりながら這《は》う。
この猟奇的な人格のせいで彼は紫禁城《しきんじょう》から追いやられ、琉球に捨てられたのだ。そして琉球の天使館にいる冊封《さっぽう》使節団からも疎《うと》まれ、遊郭に軟禁された。冊封使たちは、徐丁垓という男は公式には存在しないものと無視をきめこんでいる。遊郭に清国語を喋る妖怪が現れても、それは清国の関知するところではない。
遊郭に断末魔の悲鳴があがる。白目を剥《む》いたジュリ(遊女)がついに心臓発作で倒れた。三日三晩の快楽地獄の中でようやく得た自由が死であった。ジュリの体から急速に体温が失われていく。子宮の壺の中で寝ていた徐丁垓の陰茎がずるずると喉の奥に戻っていく。
やがて徐丁垓が目を覚ました。
「女将《おかみ》、このジュリの肉を調理して来い。クククク……」
徐丁垓の瞳には感情がなかった。睨《にら》まれた女将は竦《すく》み上がって返事もできない。冊封使節団がこの遊郭を買い上げたいと申し込んできたとき、女将は二つ返事で飛びついた。ここで起こったことを全て秘匿《ひとく》することを条件にされても尚、魅力的な申し出だった。
超大国の清が後ろ盾になっている遊郭なら、王府の役人たちも足繁く通ってくれるだろう。しかしその女将の見通しは甘かった。やってきた徐丁垓のせいで遊郭には誰も近寄らなくなったからだ。女将は冊封使節団に騙《だま》されたことをこのとき知った。
――おかしいわ。花柳病《かりゅうびょう》のジュリを宛《あてが》ったはずなのに。まだ生きてるなんて。
女将だって遊郭が潰れるのを指をくわえて眺めているだけではなかった。冊封使に徐丁垓を帰らせてほしいと願い出たのに、そんな男は使節団の中にいないと白《しら》を切られた。頭にきた女将は清国の関知しない男がどうなっても構わないと解釈して、性病に罹《かか》ったジュリを宛うことにした。徐丁垓には梅毒になってさっさと死んでもらおうと思ったのに、徐丁垓が梅毒に罹った兆《きざ》しがない。訝《いぶか》しがっている女将に、徐丁垓が笑った。
「女将、遊女は花柳病持ちが一番|美味《うま》いというのは本当だな。クククク……」
徐丁垓は青黴《あおかび》の生えた薬壺に舌を這わせた。これが抗生物質・ペニシリンであると徐丁垓は知っている。フレミングの発見より八十年も早く、徐丁垓は梅毒の特効薬を知っていた。天然ペニシリンを鎧《よろい》にした徐丁垓に最早恐いものはない。
――誰かこの化け物を殺してちょうだいっ!
「女将、王府の表十五人衆の孫親方に会いたい」
「あんたのせいで王府のお役人様はみんな逃げて行ったわよ!」
「そう怒るな。孫親方に会えればこの遊郭を出て行ってやる。これを孫親方へ持って行け。あいつなら読めるだろう」
徐丁垓が差し出したのはデカルトの『方法序説』だ。
これに飛びつかない寧温ではない。
[#挿絵(img/01_347.jpg)入る]
「理性を正しく導き、諸々の科学における真理を正しく研究するための方法序説。多嘉良《たから》のおじさん、これ誰が持ってきたんですか!」
銭蔵《ぜにくら》で筆の代わりにお猪口《ちょこ》を持った多嘉良《たから》は、昼間から酩酊《めいてい》していた。せっかく銭蔵筆者に出世したのに、未だ政策も生産管理もなにひとつ提出されていない。
「さっき料亭の女将が孫親方に贈り物だと言って持ってきた。まさか御禁制の書物じゃないだろうな?」
「いいえ。古い時代は終わりました。これから輸入しようと思っていた書物です」
琉球はここから始めなければならないと思っていた矢先の出来事だ。この書物の送り主が徐丁垓だと知って、寧温は唸《うな》った。
「さすが徐太監です。やはり清国は敵を研究していたんですね。琉球は後れを取るわけにはいきません。さっそく教科書に訳します」
「ああ、それと徐太監からもっとほしければ辻に来いと申し遣った」
「わかりました。私、さっそく徐太監に会ってきます」
喜び勇んで花街に駆けて行った寧温を待ち構えていたのは、徐丁垓の牙だ。舌を赤々と膨《ふく》らませて兎が罠《わな》にかかるのを待ち構えていた。
「これはこれは孫親方。阿片《あへん》密貿易事件のとき以来ですね。クククク……」
寧温は頬を紅潮させてデカルトのことを徐丁垓と語りたがっていた。辻までの道のりの間にすっかり『方法序説』を読み終え、自分の今まで獲得した知識が全て疑わしいという結論に衝撃を受けた。寧温の基礎的教養である儒学が崩壊した。しかし崩壊させなければいけないことはわかっていた。どうやって崩壊させたらよいのか、悩んでいたときに現れた『方法序説』は寧温を真っさらな人間に漂白してくれた。新しい人間に生まれ変わるときには、古い教養を捨てなければならない。列強とこれから丁々発止《ちょうちょうはっし》の闘いをしていく中で、近代的思考が何よりの武器になる。
「私は徐太監の慧眼《けいがん》に感服いたしました。精神を導く四つの原則を授けていただいたことを感謝いたします」
儒礼で面をあげた寧温に、徐丁垓の舌が躍る。
「デカルトは言った。私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄もこれを真なりとして認めない、と」
これが第二部であると読んだばかりの寧温にはわかる。
「またデカルト曰《いわ》く。最も単純なものから最も複雑なものの認識へと至り、先後のない事物に秩序を仮定しなさい」
「デカルトは言った。検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割することである、と」
「デカルトまた曰く。最後に完全な列挙と広汎な再検討をしなさい」
「さすが孫親方だ。では問う。デカルトは最後に何と結論づけたか?」
“Je pense, donc je suis.”
(我思う故に我あり)
「すごいな。もうデカルトを理解したのか。クククク……」
「徐太監、私にもっと知識を与えてください!」
「では方法序説に基づいて孫親方を個人にしてみよう。面白い命題だと思わないか?」
「ええ結構です」
寧温は喜んで徐丁垓の提案に乗った。徐丁垓は次から次へと疑問を投げかける。
「孫親方は王府の表十五人衆である。これを疑え」
「私は表十五人衆でなくても孫寧温という王府の役人でございます」
「では王府の役人でない孫寧温は真か疑か?」
「真なり。私は役人でなくても孫寧温というひとりの人間でございます」
「また問う。孫寧温という人間は真か疑か?」
「真なり。私は孫寧温という存在以下には成り得ません」
徐丁垓がしてやったりと嗤《わら》った。胸元まで下りた舌が陽気に躍り出す。
「疑である。孫寧温には『真鶴《まづる》』というもうひとつの顔があるではないか!」
立ち上がった徐丁垓は鎌首を持ち上げた蛇だ。一度睨まれたら飲み込まれるまで動くことができない。徐丁垓の言葉を聞いた寧温に戦慄《せんりつ》が走る。
――この人、私の正体を知っている! どうして?
徐丁垓が蛇の目力で圧してくる。
「紫禁城の千人の宦官たちの中で暮らしてきた私の目を誤魔化せると思うなよ。おまえのどこが宦官なのだ。琉球は素性を偽《いつわ》れば女でも官位が貰える国なのか?」
徐丁垓は初対面のときにすぐに寧温が女であると直感した。本物の宦官が女と宦官を区別できないわけがない。去勢手術は宦官という独自の性になることであって、決して性転換するためのものではない。徐丁垓の前に現れた琉球の宦官と名乗る役人は、ただの男装の麗人だった。そして同時に徐丁垓はこれまで抱いた女たちよりも寧温が最高の女であると見抜いた。阿片捜査を口実に王宮に出入りしたとき、系図座で孫家の成り立ちを調べてみた。孫寧温は清国からやってきた養子ということになっている。清国の系図なら徐丁垓の範疇《はんちゅう》だ。孫家が迎えた清国の家は架空のものだった。ならば答えはひとつしかない。行方不明の娘・真鶴が男装して王宮に潜り込んでいると考えるのが筋だ。
徐丁垓が一歩前に踏み出る。
「これが近代的思考というものだよ。これからは私の僕《しもべ》として働いてもらおう」
「私は決して脅しには屈しません!」
「そんなこと言える立場か。この事実が紫禁城に知れたら、尚育王の立場も危ういぞ」
「首里天加那志を巻き込むのはおやめください。すべて私が悪いのでございます」
「では私に従え。これから王府に清国の役人たちを送り込む。その手はずをつけるのだ」
「内政干渉です。王府が清国人に官位を与えることはありません」
「女に従二品の官位を与えた実績があるだろう。この国は何でもありの国のはずだ」
徐丁垓の舌が寧温の鼻先をくすぐる。
「孫寧温、敗れたり。クククク……」
ある日、王宮の片隅で『方法序説』を焼く寧温の姿があった。小さく丸めた背中が心なしか寂しく映る。朝薫が何があったのか声をかけた。
「寧温、何を焼いているんだい? ……もしかして泣いているのか?」
「いいえ。煙が目に染みるだけでございます」
寧温の正体を知った徐丁垓は脅しをかけてきた。薩摩を追い出し、完全なる冊封体制の支配下に入ることを条件に、寧温の素性を黙っていてやると提示した。徐丁垓は何としてでも手柄を立てて、紫禁城に舞い戻る計画だ。朝貢国の中で唯一、二重支配を受ける琉球を清国は決して快く思っていない。列強の前で清国が揺らいでいる今こそ、冊封体制を強化するべきだと徐丁垓は考える。列強は冊封国を順次解体していこうとしている。それは本丸の紫禁城を落とすための外堀を埋める行為だ。列強が海軍力を使って展開する以上、必ず航路を確保する。その上で是が非にでも欲しいのが琉球だ。英国、米国、ロシア、フランスどの国も琉球を狙っていた。琉球を先に抑さえた国が、必ず清国を攻めてくる。その前に清国が琉球を完全支配して、列強のとりつく島のないようにしておかねばならない。
朝薫は寂しそうに火を見つめている寧温の顔を覗き込んだ。
「寧温、ぼくは科試制度に西欧の思想を取り入れる考えに、まだ躊躇《ちゅうちょ》している――」
「その考えは間違っておりました。朝薫兄さんの言う通り、琉球は冊封体制を強化いたします」
「まだ最後まで言ってないよ。でも思い直したんだ。ぼくたちは清国や日本との交渉にしか慣れていない。彼らの論理の中でしかものを考えて来なかった。異国船がまたやってきたら、琉球には論がないときみは言ったはずだ」
「ええ、ありません……」
「じゃあなんで近代化を取り下げる? ぼくにとって都合のいいことは寧温には都合の悪いことのはずだろう?」
「私はデカルトに否定されてしまいました。孫寧温は個人まで解体されると破滅するのです。そんな私が科試制度を改革する資格はないと悟ったのです」
「それは詭弁《きべん》だ。ぼくはきみが破滅を恐れない信念の人だと知っている。だから尊敬している。だから心を許している。だから――」
――好きなんだ。
朝薫は大声でそう言いたかった。この気持ちは永遠に押し殺したままだ。それでいいと朝薫は納得している。ただこの前、両親から縁談に踏み切れない理由は何だと問われて朝薫は口籠もってしまった。父は好きな人がいるならその相手と結婚すればよいと言う。表十五人衆まで上り詰めた息子はもはや政略結婚する必要などなくなったからだ。今や喜舎場家は名門士族四姓に匹敵する地位に浴している。しかしその圧倒的な地位と権力を以てしても朝薫のほしいものは手に入らない。
「きみが王府の近代化を推し進めないなら、ぼくがしようと思う。それが首里天加那志の御意志だからだ。ぼくは臣下として王命に従う」
すっかり燃え尽きて灰になった書物を前に寧温は頷いた。孫寧温は個人になれなかったが、| 志 《こころざし》は残しておきたかった。懐から真新しい書物を取り出すと、朝薫に渡した。
「琉球語訳の『方法序説』です。フランス語だと誰も読めないから訳しました。私は首里天加那志の御意志に従います。これを評定所の科試対策の筆者にお渡しください」
「きみが渡せばいいじゃないか」
「いいえ。私は近代に敗北いたしました。そんな愚かな役人が後進たちに何を教えられるというのでしょう。近代に個人の偽りがあってはなりません。でも清廉潔白《せいれんけっぱく》な喜舎場親方ならきっと琉球近代の祖となられるはずです」
寧温は立ち去りながら、そっと振り向いて微《かす》かな笑みを浮かべた。その表情に朝薫が戸惑う。悲しみの中に解放感を覗《のぞ》かせたような、達観した表情に見える。
「寧温、どこに行こうとしている?」
寧温は何も答えずに王宮を去った。朝薫の目には寧温が風の中に溶けて透明になっていくように映った。
「私は自分に負けてしまった……。志も尽き果ててしまった……。真鶴、ごめんね。私はあなたの人生を犠牲にしたのに、もう寧温ではいられなくなっちゃった……」
胸が押し潰される絶望の中で、寧温は限界を感じていた。これまで、立ちはだかる壁をよじ登ってきたつもりだ。千尋《せんじん》の谷を越えてきたつもりだ。だが、悪魔は寧温の立つ大地そのものをひっくり返した。今の寧温は池に漂う木の葉にすぎない。
「後悔していないなんて言わない。やり残したことはないなんて言わない。でも、もう無理なの。真鶴、こんな私を許してね……」
翌日、寧温は王府に辞表を提出した。
[#ここから2字下げ]
身上訴
孫親方寧温
恐多御座候得共申上候。私儀、吟味役之重責
乍有職務続兼申事由有之候間、無懈怠執行届
兼申故、役儀可被解奉訴候。御当国之繁盛千
年万年迄至願上、如此御座候事。
[#ここで字下げ終わり]
王宮から寧温の姿がなくなった頃、御内原《ウーチバラ》では思戸《ウミトゥ》がトゥイ小《グワー》の姿を探していた。
「トゥイ小。トゥイ小。どこに行ったの?」
種が違うほどの強さを見せつけた三国無双忠次を敗ったトゥイ小は横綱に上り詰めていた。現在トゥイ小は二十連勝中で思戸の金の卵を産む鶏となっていた。そのトゥイ小が今朝から姿を見せない。
「鶏舎に行ったのかなあ……」
女官仲間でトゥイ小と言えば知らない者はいない。御内原で唯一存在を認められた雄として他の鶏と区別されていた。
仲間のあがまが血相を変えて思戸のところに駆けつけてきた。
「大変。大変。大変。思戸、孫親方が評定所を辞めたんですって!」
「え? 寧温様が?」
途端に思戸の血の気が引く。闘鶏で儲けたお金で寧温に絣《かすり》をプレゼントしようと思っていた矢先のことだった。
「表は孫親方が辞任した話でもちきりよ」
「寧温様が王宮をお辞めになったなんて……」
突然、思戸が泣きだした。寧温はいつでも思戸の側にいて慰めてくれた。御内原で心を許せるのは彼だけだったのに。たくさん人がいる御内原の中で思戸はひとりぼっちになった心境だった。
「トゥイ小も寧温様もいなくなっちゃった……。ねえトゥイ小を見なかった?」
「トゥイ小なら、寄満《ユインチ》で見かけたけど?」
寄満と聞いて思戸が卒倒する。寄満は王族の日常の厨房《ちゅうぼう》だ。普段から卵や鶏肉を扱っているだけに、トゥイ小が紛《まぎ》れ込んだら絞められてしまう。思戸は寄満に急いだ。
「寄満の勢頭部《せどべ》様、トゥイ小を、いえ鶏冠がデイゴの花みたいに尖った鶏を見ませんでしたか?」
寄満の勢頭部は乾燥させようとした鶏冠を取り出した。女官の間では鶏冠は豚の耳と同じく肌の美容に良いと評判の食材だ。
「こんな鶏冠だったかしら?」
まさにトゥイ小の鶏冠ではないか。それを見た思戸は白目を剥いて倒れてしまった。
トゥイ小を食べた王妃は今イチの味に不満そうだ。
「少々、筋張った肉でしたね」
思戸の母親ごっこは呆気ない終わりを迎えた。来年には女官見習いから下級女官のあねべの試験を受ける。そのとき王と婚姻関係を結び、世俗の幸福とは無縁となる。
後之御庭《クシヌウナー》で空を見上げた思戸は少女時代に別れを告げた。
「さよならトゥイ小。あたしはお母さんをやれて幸せだったよ」
辻の遊郭に居を構えた徐丁垓は、姿を晦《くら》ました寧温に怒り心頭だ。側にいたジュリを殴り、顔に唾を吐きつけてやった。
「おのれえ、あのアマーッ。辞任すれば許されるとでも思っているのかっ!」
床に叩きつけた薬壺が無惨に砕け散る。紫禁城に返り咲きたい徐丁垓は、逃げた寧温を許さなかった。寧温の地位は利用するに足るものだった。こんな辺鄙《へんぴ》な王国で余生を過ごすわけにはいかない。琉球の完全支配を成し遂げて皇帝に報告すれば、徐丁垓を追い出す理由はなくなる。
「こんな弱小国で朽《く》ちてなるものか。私は紫禁城に戻って追い出した連中に復讐《ふくしゅう》してやるのだっ!」
王府の役人に寧温の捜索など任せていられない。いてもたってもいられなくなった徐丁垓は、遊郭を飛び出した。
王府もまた寧温の失踪に戸惑っていた。明日にでも異国船がやって来るかもしれない。そのとき王府には交渉人がいない。列強の論理を熟知した寧温に縋《すが》るしか方法がなかった。守礼門《しゅれいもん》に続く綾門大道《アヤジョウウフミチ》に寧温の人相書が貼られた。尚育王は寧温の辞職を認めなかった。
王府にとって寧温は今や余人を以て替え難い人物になっていた。
尚育王は声を荒らげる。
「王命である。孫親方を捜すのだ。見つけて必ず王府に連れ戻せ。孫親方には琉球を近代化してもらう役目がある。必ず見つけるのだ!」
大与座《おおくみざ》の役人たちが大挙して王国中に散った。寧温と繋がりがありそうなところは全て調べた。自宅、天使館、多嘉良の家、破天塾、そして御仮屋《ウカリヤ》の雅博《まさひろ》の元にも捜査員がやってきた。
剣の稽古をしていた雅博は刀を鞘《さや》に収めるときに指を切ってしまった。指の痛みよりも胸に突き刺さった衝撃の方が大きくて、雅博はしばらく自分が怪我をしたことにすら気がつかなかったほどだ。
「え? 孫親方が表十五人衆を辞任されたのか?」
あの理念に燃えた寧温が自ら職を辞するなんて考えられない。寧温が糺明奉行《きゅうめいぶぎょう》だったとき、王府の恥を覚悟の上で雅博に頼ってきたことを思い出す。寧温は王府の膿《うみ》を徹底的に出し切るために、上官や同僚を含めて王府を敵に回した。想像を絶する妨害と圧力があったことは雅博にもわかる。信念がなければ決してできない仕事だ。その寧温がよくわからない理由で王宮を去るなんて腑に落ちない。
雅博は朝薫に面会を求めた。
「喜舎場親方、孫親方は誰かに脅されていたのではないか?」
「それはない。孫親方はどんな圧力にも屈しない人柄なのは浅倉殿も承知でしょう」
朝薫もまたなぜ寧温が失踪したのか本当の理由が知りたかった。寧温が風の中に消えていったとき、無理にでも引き留めておけば、こんなことにはならなかったと後悔していた。もし寧温に弱みがあるとしたら、宦官という微妙な素性だ。
「浅倉《あさくら》殿、ぼくには思い当たる節がある」
そう言って差し出したのは琉球語訳の『方法序説』だ。この原書を手に入れてから寧温はおかしくなったと朝薫は言う。
「この蘭書は清国の徐丁垓が持っていたのを訳したものです」
「あの妖怪宦官と孫親方を接触させたのか?」
「寧温の知識欲は本能なんだ。止められるはずがない」
「喜舎場親方、あれほど厳重に言付けておいたのに、どうして徐丁垓なんかに会わせた。奴は孫親方の肉体を狙っているのだぞ」
「わかっている。しかし徐丁垓が一枚上手だった」
そのとき王宮に徐丁垓がやってきた。
「おやおや喜舎場親方、浅倉殿、お久しぶりでございます」
「貴様、寧温に何をした!」
カッとなった朝薫が徐丁垓の胸ぐらを掴もうとする。しかし徐丁垓はぬるりと抜けて朝薫の腕を払った。
「乱暴はよしてください。私はただ孫親方が失踪したと聞いてお見舞いに寄っただけのことです。クククク……」
「蘭書で寧温を釣ったのはわかっている。どうやって誑《たぶら》かしたんだ」
「いえ、近代における個人について議論しただけのことです」
「何が近代だ。貴様は琉球をどうするつもりなんだ」
徐丁垓の様子を見た雅博は、徐丁垓もまた寧温を探していると直感した。寧温の失踪は徐丁垓にとっても不都合なことに違いない。やはり関係があると雅博は睨んだ。
「徐太監こそ何を焦っておられる。孫親方が辞職して困るようなことでもおありか?」
「倭人《わじん》の分際で、私に楯突く気か?」
蟷螂拳《とうろうけん》の構えをした瞬間、軽く空気が乱れる音がした。雅博は一瞬のうちに刀を抜き、徐丁垓の辮髪《べんぱつ》を切り落としていた。あまりの早技に徐丁垓は落ちている髪が自分のものだと気がつくのに時間がかかった。
「御免。蠅《はえ》がいたかと思った」
雅博は王宮を後にした。
大与座の情報網を以てしても、未だ寧温の行方は知れない。人相書があちこちに貼られているのに、寧温を見かけたという噂ひとつ聞かない。那覇、首里、真和志間切《まわしまぎり》の民たちは失踪した孫親方の話でもちきりだというのに。
人相書の前の人だかりが突然、水を打ったように静まりかえった。そして現れた乙女にどよめきが起こる。番傘をさした乙女は、天女そのものとしか思えない姿だ。ふわりと浮いた上半身。肩胛骨《けんこうこつ》から動く腕の所作は背中に憂いの表情を持たせていた。乙女の足の運びには琉舞《りゅうぶ》の基礎が染みついている。そして控え目に化粧をしていても尚、強烈な印象を目の底に焼き付かせる美貌は、太陽を独り占めにした女神の降臨のようだ。乙女が通り過ぎた後に影が生まれる。
大与座の役人が乙女に声をかけた。
「おいそこの娘。この人相書の者を知らぬか」
乙女は瞼《まぶた》を伏せて知らないと答えた。その所作ひとつで彼女の心情さえ伝わってくる。王府のメインストリートである綾門大道は、乙女の舞台になっていた。居合わせた者は強制的に観客にさせられてしまう。役人は通り過ぎようとしていく乙女にまた声をかけた。
「そなたどこの按司《あじ》の娘だ。名を何と申す?」
その問いはきっとこれが夢ではないという証拠を残しておきたいからだろう。名前を聞いておかないと明日にはきっと幻《まぼろし》だったと自ら語り出しかねない。
「私は真鶴と申します」
乙女は失踪中の寧温だった。寧温は辞表を提出するや徐丁垓と王府の追跡を逃れるために、真鶴の姿に戻った。つけ髪で豊かな女髪を結い上げ、今まで体を拘束していた帯を解いた。たったそれだけなのに、それ以外は何もしていないのに、真鶴は目映《まばゆ》いばかりの光を放った。隠遁中の身を鑑《かんが》みるとあまりにも目立ちすぎる。だから控えめにしているのに、どんなに身を小さくしていても人が立ち止まってしまうのだ。質素な着物を着ていても、王族筋の按司の娘と勝手に断定される始末だ。
「真鶴とやら、孫親方を見かけたら大与座に来るように」
「はい。そのときは必ず」
真鶴は急ぎ足でその場を去った。真鶴の後ろ姿とともに舞台の幕が下りていく。ただ道を横切っただけなのに居合わせた者たちは、娘が空に飛んで行ったように思えた。役人たちは今までずっと琉球の舞台芸能の組踊《くみおどり》を観劇していた気分だった。
「今、飛んでいったよな?」
「まるで銘苅子《メカルシー》に出てくる天女だ」
銘苅子とは組踊の代表的な演目で、説話「羽衣伝説」を舞台化したものだ。内容はこうだ。ある日、天女が沐浴《もくよく》していたのを見た男が恋をして、羽衣を隠してしまう。夫婦になった二人に子どもが生まれ、天女は地上で暮らすことになる。しかしあるとき子守歌の中に羽衣の隠し場所があるのを知り、天女は別れがたい思いを残しながら天に帰る。という筋書きだ。
役人も民衆もいつしか乙女に拍手を送っていた。
「これほど見事な銘苅子を観たことはない」
「天女はかくあるべきだ」
真鶴は番傘で顔を隠しながら、何とか人目を避けようとしている。初めは地方に逃げたが、農民たちに士族の娘だと勝手に思われて着物や簪《かんざし》などを次々と差し入れされてしまった。士族にしか見えないのなら士族のいる首里に逃げた方がいいと綾門大道にまで戻った。しかし今度は役人たちが羽衣伝説を語り始めてしまう。真鶴はどこに逃げたらいいのか途方に暮れていた。
――いけない。このままじゃ捕まってしまう。
王府に戻れば徐丁垓の陰謀が待っている。かといって逃げても人の目が追ってくる。女を隠すために男装しても、男を隠すために女装しても、真鶴には常に人目がつきまとう。そして真鶴の側から嵐が起こる。
傘で顔を覆って駆けていると、不意に誰かとぶつかってしまった。
「ごめんなさい。私の不注意でございました。あっ!」
相手の顔を見た真鶴が声をあげる。そこにいるのは御仮屋の侍ではないか。
「お嬢さん、大丈夫ですか。私こそ前を見ておりませんでした」
――雅博殿!
声になる寸前で理性が強制的に喉を押さえ込んだ。見つかりたくないひとりにもう見つけられてしまった。
「お嬢さん、どこかでお会いしましたか?」
雅博は娘の姿に既視感を憶えた。誰かに似ている気がするが、思い出せない。こんなに美しい娘なら必ず憶えているはずなのに。薩摩で会っただろうか。それとも江戸に上ったときに会った娘だろうか。いや琉球の娘を知ったのは御仮屋に来てからだ、と記憶を探っている。しかし高鳴る鼓動が雅博の判断を狂わせる。
――それにしても美しい娘だ。まるで王族のような気品だ。
真鶴の放つ香りで水仙郷に迷い込んだ気分になる。
「あの、薩摩のお侍様。お怪我はありませんでしたか?」
「こちらこそ高貴なお方に失礼いたしました。よろしければお送り致しましょう」
「あの、私は八重山の首里|大屋子《おおやこ》の娘でして、用があって首里に来ております」
「では宿までお送り致します」
「それが、宿を探している途中なのでございます……」
逃げようとする真鶴の腕を雅博が掴んだ。
「では御仮屋をお使いください。ちょうど空いている部屋があります。帰りも那覇港に近いから便利ですよ」
断らなければいけないことはわかっている。だが腕を掴まれた瞬間、真鶴は腰が立たなくなってしまった。雅博は丁重な物腰で真鶴の荷物を持ち、傘をかけてやった。真鶴は雅博に女性扱いされている現実が信じられない。役人だったときには絶対にあり得ない状況だ。雅博は寧温のときにも真鶴のときにも温かく真心を尽くしてくれる男だ。真鶴は隠遁中の身を忘れてこの状況を少しの間だけ堪能したかった。
――御仮屋だったら徐丁垓も追ってこないはずだ。
しかしこの嬉しさと同時に一抹《いちまつ》の寂しさを感じるのはなぜだろう。女髪に結い直しただけで寧温という人格は雅博の中から見事に消えてしまう。所詮、王府の役人なんて薩摩からみたら「存在」にすぎないのか。
彼らは常にこちらの帽子の色を見て態度を変えるものだ。わかっていたのに、わかっていたはずなのに、雅博だけは違うと信じていた。しかし今の真鶴にはそれが好都合でもある。
「あのお侍様、高札《こうさつ》の人相書のお方をお探しなのでしょうか?」
「お嬢さんは孫親方をご存じなのですか?」
「いいえ。ただ街中の噂ですから。孫親方が失踪したってさっきも見ました」
胸元から見上げた雅博の顔は、憂えているように見えた。
「孫親方は訳があって姿を隠しているのだ。人は無責任な重臣と罵《ののし》るが、私にはわかる。孫親方は王府を守るために職を辞したに違いない」
きっぱりと断定されて真鶴は徐丁垓とのやり取りを目撃されたのかと思った。
「お侍様は孫親方をよくご存じなのですね……?」
「とても聡明で立派なお方だ。私は彼ほど高邁《こうまい》な役人を知らない」
『高邁』はデカルトにおける自由意志の正しい使用を表す。その言葉を聞けただけで真鶴は泣けてきた。
――寧温、一番好きな人に認められてよかったね。あなたは官僚としては失敗したけど、人生では負けなかったのよ。だから寧温は私の中でお眠りなさい――。
寧温はこれから真鶴として身を隠して生きていくつもりだった。
御仮屋に身を寄せて数日が過ぎたある日、雅博は王宮の東苑で組踊を観劇しないかと誘った。
「組踊を観るのは初めてです。是非、あなたと一緒に行きたい」
「でも王府のお役人様たちもいらっしゃるのに、私など場違いでございます」
「何を言う。首里大屋子の娘なら招待されて然るべきでしょう」
真鶴は何度も固辞したのに、雅博がしつこく誘ってくるものだから、渋々受け入れることにした。どうやら真鶴になれば誰も自分の正体に気がつかないようだ。それに客は舞台に注目している。経験上、誰が来ているかなんて調べたりしないのは知っていた。
東苑に設《しつら》えられた組踊用の舞台は、能楽と歌舞伎の中間の形態をしている。簡素でありながらも、舞台装置や美術、大道具など演目に合わせて自由に演出される。今回の演目は傑作の呼び声が高い『執心鐘入《しゅうしんかねいり》』である。
組踊は琉球における歌劇に相当する。御冠船《うかんせん》芸能と呼ばれる組踊は、冊封使を歓待するために開発された舞台芸術で、日本の能や狂言、歌舞伎などの様式が取り入れられ、琉球色にアレンジされている。
『執心鐘入』もまた能の『道成寺』をモチーフにしており、粗筋はよく似ている。しかし演出と独特の台詞《せりふ》回し、音楽などが組み合わさることにより『道成寺』とは別物の華麗な舞台芸術に昇華している。組踊を一言で述べると、総合芸術の要素が混ざる中、殊に「聴くことに」重心が置かれている芸能といえる。
東苑に集まった観客は王府の役人、御内原《ウーチバラ》の女官、そして士族の子女たちである。オープンセットなのに|人※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]《ひといきれ》で会場はむんむんとしていた。『執心鐘入』と聞けば、病人でも駆けつけるほど人気がある演目だ。
粗筋は中城若松《なかぐすくわかまつ》という美少年が首里に奉公に出る途中道に迷い、山中の一軒家に一晩の宿を乞うところから始まる。家には年増《としま》の女がおり、若松の美貌に惚《ほ》れて夜這いをかける。しかし若松は毅然《きぜん》と断り、女は逆上してストーカーになるという身も蓋《ふた》もない話だ。だが、演出と音楽によりなにやら深淵な教えすら感じてしまうから不思議だ。
今、舞台の袖から若松役の少年が出てきた。その役者を見て真鶴はぶっと息を噴いた。
――兄上、また若松を演《や》ってる。
王府に永遠の美少年といえば嗣勇《しゆう》しかいない。若松の役柄と相まってハマリ役の名をほしいままにしている。実際、嗣勇が出てくると観客は納得するものだった。恋に溺《おぼ》れる女の悲しい性《さが》を引き出すには、役者が本物の美少年でなければならない。嗣勇が出てきた瞬間、御内原の女官たちはメロメロになった。
「嗣勇殿なら女官の掟《おきて》に背《そむ》いてもいいわ」
「この女官殺しーい!」
とかけ声がかかると嗣勇の役者魂に火がつく。徹底的に若松になりきって、女の理性を吹き飛ばす色気をふりまくのだ。この若松の技量によって『執心鐘入』の成功が決まる。台詞も琉歌と同じ八・六調で連句になっていた。
若松と女の掛け合いは風流な韻律で進行する。
今日のはつ御行合に 語ることないさめ
約束の御行合や だにすまたしちゃれ
袖のふやはせど 御縁さらめ
御縁てす知らぬ 恋の道知らぬ
しばし待ちかねる 夜明けの白雲
女がだんだんキレて鬼になっていく。この役もまた業の深い演技ができる役者でなければ、説得力がなくなる。ホスト狂いのおばさんのようなバランス感覚の悪い演技が求められる。美少年に溺れていく女の姿は息を呑むほどの迫力だった。
真鶴もまた評定所筆者だったときに『執心鐘入』を観たことがある。あのときは若松の気持ちしかわからなかった。寧温に向けられた男たちの好色な眼差し、女官たちの黄色い声は職務には煩《わずら》わしいものだったからだ。しかし今、真鶴になって『執心鐘入』を観ていると、叶《かな》わぬ恋に溺れていった女の気持ちが痛いほどよくわかる。
この物語の結末はわかっていた。寺の鐘の中に逃げた若松を追った鬼女が、僧侶の法力で懲罰を受けるのだ。
「若松のバカ。彼女を鬼にしたのはあなたじゃないの。お願いだから一度だけでも彼女に振り向いてあげて。少しだけでも優しくしてあげて」
しかし舞台の若松は狙われた美少年という被害者の立場を徹底的に貫いている。若松が女に向かって「恥知らず!」と罵った瞬間、真鶴の胸は抉《えぐ》られた。
「あんなこと言われたら誰だってキレます!」
隣の席にいた雅博が劇にのめり込んでいく真鶴に苦笑していた。
「お侍様、どこが可笑しいんですか。女を愚弄《ぐろう》したのは若松ではありませんか」
「いえ、あなたが面白い見方をなさるのでつい……」
雅博は真鶴の肩にそっと手を回した。真鶴は舞台を観ていたいのに体が竦み俯《うつむ》いてしまう。嬉しいけれど、人の目がありすぎるのが恥ずかしい。
舞台はクライマックスを迎えていた。女が僧侶の法力によって退治されようとしている。この組踊の作者は男尊女卑の権化だと真鶴は憤《いきどお》っていた。
「私が『新・執心鐘入』を書きます。退治されるのは若松の方です!」
真鶴が鼻息を荒らげて東苑を後にした。その後ろを雅博が苦笑してついてくる。
「別にあなたが罰されたわけではないでしょう」
「女を情念だけの生き物のように書くあの脚本に納得がいかないのです! 理性は男だけのものではありません。女にだって理性はあるんです!」
意気|軒昂《けんこう》になっていく真鶴に雅博はたじたじだ。こんな人をどこかで見たことがある。雅博が赤い花が満開の鳳凰木《ほうおうぼく》の木陰に休憩を誘う。
「男にだって情念はありますよ」
そう言った瞬間、雅博は真鶴の体をぐいと引き寄せた。瞬く間に唇を奪われた真鶴は心臓ごと吸い取られそうな気がして、体を硬直させた。この男は心地好い強引さを持っている。真鶴の心の奥に秘めている願望を、彼の願望として成就《じょうじゅ》させてくれる。雅博の唇は蘇生させてもらったときのものよりも熱かった。唇と唇で雅博と繋がった真鶴は、女になってよかったと心から思えた。
雅博の黒い瞳が真鶴をじっと見つめている。
「私の気持ちは決して一時の戯《たわむ》れではありません。結婚していただけますか?」
「私は……。私は……」
真鶴はこれが夢ではないかと思う。あの雅博が自分に求婚している。寧温だった感覚がまだ残っているせいで、返事ができない。答えは吸い取られて雅博の胸に届いたはずだ。どうかその答えを無言のうちに聞き届けてほしい。さっきの鮮やかな口づけのように。
「すぐに返事を貰えるとは思っておりません。十日後、ここであなたをお待ちしております。それがよい返事と思うことにいたします」
止めようとした雅博の腕を振り切って真鶴は駆けだした。雅博は鳳凰木の幹に凭《もた》れかかる。これでも命がけの告白だった。強引かもしれなかったが、他に方法も思いつかない。求婚した娘の素性も、異国の女だということも、何もかも忘れていた。ただ雅博は後悔したくない一心だけだった。見上げた鳳凰木の花は紅型《びんがた》の花嫁衣装のように満開に咲き乱れていた。
もしか言ち思蔵《んぞ》にふられらば
きやしゆがい言葉にかかる露の命
(思う女に胸の思いを打ち明けて、もし振られたらどうしようか。色よい返事があれば露の命は助かるし、断られたら潔く散るまでのことだ)
真鶴は御仮屋を引き払い、那覇の宿に身を寄せることにした。雅博と一緒にいたら自分が何を考えているのかわからなくなってしまいそうで恐かった。このまま情念に任せて『執心鐘入』の女のようになってしまうのか。それでも構わないと思う自分がいる一方で、寧温がどんどん死んでいくのが辛かった。男を捨てて女になったのに、いざ女に戻ってみたら、真鶴には女として生きた経験があまりにもなさすぎた。
「普通の女だったら、どう振る舞うの? 寧温、教えて。あなたならいろんなことを知っているはずでしょ」
しかし真鶴の中に押し込められた寧温は恋とは無縁の宦官だ。今まで真鶴を殺しすぎたせいで、恋心に素直になれない。恋とは? 結婚とは? 諦めていたものが急に目の前に提示されて、何から手をつけてよいのか真鶴にはわからない。全部ほしいと心が叫ぶ。しかし意識はすぐに二人に分かれて、それぞれの主張をする。寧温は男として理念で生きたいと言う。そして真鶴は女として情念で生きたいと言う。
相克《そうこく》するふたつの人格が激しくぶつかり合う。何日も寝食を忘れて考えた末に、真鶴は個人として矛盾のない姿で生きようと結論に達した。
約束の十日後、あの鳳凰木に向かう真鶴がいた。ただ鳳凰木の前に行けばいい。その後はきっと雅博が考えてくれるはずだ。鳳凰木へと向かう途中、綾門大道の高札に王府からの布令が発布されているのを見つけた。
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御意汲受候付万民江被仰下候事
首里天加那志御前薨去被遊候ニ付、上下万民老
若男女共可為服務。御葬送之儀ハ来参拾日被
召行筈付、雖為何人過奢有間敷候。中城王子
尚泰様御登極之儀ハ追而問合可有之候。
未九月拾八日
評定所
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高札の前に集まった民衆は何が書かれているかわからない。いつものように文字を読める者の反応を見てから、態度を決めようとしている。真鶴は大人たちの肩の隙間から高札を読んで、衝撃を受けた。
「首里天加那志が薨去《こうきょ》されたですって?」
一八四七年九月十八日、尚育王が密かに世を去った。享年三十四歳。あまりにも若すぎる逝去《せいきょ》だった。元々体が丈夫ではない王だったが、文王として教育改革に精力を注いだ王だった。真鶴には尚育王が薨去したという事実がまだ受け入れられない。王宮に戻れば穏やかな笑みを浮かべる尚育王に会えそうな気がする。公人の手本となる公明正大で勤勉な王だった。
「次の王は中城王子《なかぐすくおうじ》・泰《たい》様。まだ六歳じゃないの!」
尚育王が亡くなった直後に中城王子が継世門《けいせいもん》から王宮に招かれて尚育王の遺体と対面する。これが政権交代に相当する。王は存在であって一日でも空位があることはあり得ない。体制の維持の前では感傷など存在してはならない。御内原の王妃は速やかに国母に昇格し、国母は国祖母となる。そして王女は自動的に王族神・聞得大君の地位に就き聞得大君|御殿《ウドゥン》が相続された。その部屋替えや引っ越しのために王の遺体と対面している暇がない。王の遺骸は防腐処理され、王家の墓、玉陵《タマウドゥン》に葬られるまでは保存される。葬儀の準備にかかる約二週間、王の遺骸は御内原の東のアザナにある寝廟殿に安置されることになっていた。五百年かけて培《つちか》われた段取りの中で、滞りなく全てが儀礼的に執り行われていく。役人も女官も王族も粛々《しゅくしゅく》と己《おのれ》に課せられた役割を行うだけだった。
「いけない。泰様を使って摂関政治をされたら外交の均衡が崩れてしまう」
新王の中城王子は物心もつかない幼児だ。列強が次々と琉球と和親を結ぼうと手ぐすねを引いている状況では、世襲による交代は危険すぎる。尚育王はいざというときは陣頭指揮を執る王だった。すぐに派閥に分裂する摂政《せっせい》、三司官《さんしかん》、表十五人衆の意見を超えて、的確な判断を下す能力があった。だから今まで列強のどの国とも和親を結ばずにすんだ。
誰かが断片的に字を拾い読みして、尚泰王《しょうたいおう》が即位したことを理解した。
「尚泰王様、万歳!」
と両手を挙げたのを契機に、民衆が熱狂に包まれる。彼らはまだ尚育王が生きていると思っている。祝賀気分で爆竹を打ち鳴らす者が現れて、新しい世を祝い始めたではないか。指笛が鳴るわ、三線《さんしん》を持ち出すわのお祭り騒ぎが沸き起こった。
真鶴は踊り狂う民衆の中でひとり呆然と高札の前に立ちつくしている。
「王宮に戻らないと琉球が危ない……」
しかし真鶴は職を辞した身だ。今更のこのこ王府に戻ったところで居場所があるとは思えない。やはり雅博の元に行こうと足を向けたときだ。国土の声が真鶴を呼んだ。
『龍の子よ。王宮に戻って琉球を守りなさい』
心は雅博を求めているのに、真鶴の中には国土の声がある。自由な個人になりたい。しかし真鶴の体は近代化を許さない。
「お願い行かせてください……。私には王府を守ることはできません……」
真鶴は遠くに鳳凰木の赤い花が咲き乱れているのを見つめた。そこに人影が立っているのも見える。今、雅博の元に行けばきっと女として最高の幸せを得られるだろう。だから約束の場に向かおうとしている。しかし国土は真鶴という女よりも、寧温という偽りの性を必要としていた。
「真鶴、寧温、私は今、誰になればいいの?」
高札と鳳凰木の間で何度も揺れる真鶴だった。
風にもまれゆる糸柳心
ませ立ててたばうれかなし里前
(私の心は風に揉まれる糸柳のように揺れています。どうか垣根を立てて風を防いでください、愛《いと》しいあなた)
王都が喪服の白に染まっていく。役人たちの衣装を真似するのが好きな民衆が、白い喪服を着始めた。首里の丘から那覇へと下る白いファッションを見て、民衆はもしかして尚育王が薨去したのではないかと疑い始めた。薨去から三日目。ようやく王国は喪に服すようになった。
継世門から喪服を着たひとりの女が去る。尚育王の側室だったあごむしられだ。王が亡くなれば側室に用はない。元王妃の国母に命じられ、肉体美を誇ったあごむしられが王宮を去っていく。かつて聞得大君と手を組んで御内原の覇権争いをしたあごむしられは政争に敗れた。
「無念です。無念です……」
あごむしられはこの日から死ぬまでの間、この言葉しか喋らなかったという。
継世門に白装束《しろしょうぞく》の大あむしられたちが現れる。聞得大君になった王女を迎えにあがったのだ。空位だった聞得大君の席が埋まった、と大あむしられ達は満足そうだ。これであの生《い》け贄《にえ》のような儀式から解放されたのだ。
「聞得大君加那志のおなーりー」
継世門から神官の衣装を纏《まと》った王女が出てくる。幼い王女もまた父の死を悲しむ余裕がない。琉球の宗教世界の女王になった王女は、配下のノロたちを治め、女の世界を生きて行かねばならない。王女が御内原に別れを告げた。震える声は、まだ見ぬ世界への恐れだ。知っているのは追放された伯母・真牛の振る舞いだけだった。
「妾《わらわ》は知念|按司《あじ》加那志である。控えおろう」
王女もまた地位と財産と役職名で呼ばれ続ける人生である。
同じ日、王宮に白い喪服姿の役人が現れた。今まで誰も感情を表に出すことはなかったのに、その人物を見て皆が声をあげる。役人は恭《うやうや》しく頭を垂れた。
「表十五人衆の孫寧温でございます。先王の命令により尚泰王を補佐いたします」
「このバカ。今までどこに行ってたんだ!」
朝薫が激しい口調で面罵《めんば》した。王の臨終に立ち会わない重臣なんて不敬すぎると罵った。
「申し訳ございません。尚育王に伏して謝ります」
「ぼくたちがどんなに大変な思いをしたか、知っているのか。よくもいけしゃあしゃあと戻って来られたものだ」
朝薫が怒るから誰もこれ以上寧温を咎《とが》められない。それが朝薫の思いやりだとわかるから、寧温は罵倒されながらも、有り難かった。
「きみがいなくなってから、首里天加那志が急に体調をお崩しになったんだ。今までどこに行っていた」
寧温は申し開きができず、ただ土下座を繰り返すばかりだ。結局、寧温は男に戻ることを選んだ。矛盾した気持ちを抱えようとも、今はこの難局を乗り切ることが最優先である。それがたとえ個人の幸福を犠牲にすることであってもだ。
――雅博殿、私のことはどうかお忘れください。私の恋を叶えてくれて感謝しております。
雅博はあの日、夜が明けるまでずっと鳳凰木の前で待っていた。そして恋に破れたことを知ると、幹に顔を埋めて泣いた。その涙を知るのは鳳凰木だけである。
王宮に舞い戻った寧温には厳しい処罰が待っていた。無断で職を辞して王府を混乱に陥《おとしい》れた罪は重い。寧温は鞭打《むちう》ち十回の刑に処せられることになる。
「孫親方、きみがいないせいで首里天加那志はとてもお心を痛めていたんだぞ」
「わかっております喜舎場親方。私の罪はきちんと贖《あがな》うつもりでございます」
尚泰王の即位式が着々と進められていく。御庭《ウナー》で竹馬で遊ぶ尚泰王は、自分の立場に気づくまでに十年はかかるだろう。その間は摂関政治が行われる。
「孫親方、おまえの首が繋がっているのは、異国船と交渉するためだけである。もし失敗したら王宮から追い出されるだけではすまないと思え」
王族筋の摂政は寧温に利用価値があるから、罷免《ひめん》しないでいる。誰もが王国の未来に不安を抱いていた。尚育王が琉球の近代化を推し進めようとしていた計画は机上で消えた。今は王統が存続していることを諸外国に知らしめることでしか琉球は存在を示すことができない。
御庭に王府役人が勢揃いする。尚泰王の即位である。玉座に座る尚泰王はこのときまだ六歳。壮麗な衣装と装飾品に埋め尽くされた体は、国王の威厳を纏うのにはあまりにも小さすぎた。
「第十九代琉球王国国王・尚泰王様万歳!」
かけ声にあわせて祝砲が王国中に鳴り響く。この尚泰王が琉球王国最後の王になるとは、このときまだ寧温ですら知る由《よし》もなかった。
新政権は王宮を真っ二つに分けた。尚育王の薨去《こうきょ》を千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスと見た薩摩派と清国派の役人たちが、勢力拡大に乗り出したのだ。重臣たちはそれぞれの思惑で動き始めていた。表十五人衆は薩摩派七人と清国派七人の互いに譲らない勢力だ。寧温が爪弾《つまはじ》きにされているせいで、双方とも一歩も譲らない構えだ。病床の尚育王が寧温の在留を固持したのは、この日が来ることを予見していたからだ。
議論は尚泰王が即位した書簡をどちらに先に送るかだ。この日付が重要である。
「首里天加那志は読み書きもままならない幼子でございます。島津家に格別の厚情を訴える書簡を用意しております」
「いやいや。筋が違うだろう。琉球の宗主国は清国である。愛新覚羅《あいしんかくら》家との繋がりを軽んじてはならない」
寧温がおずおずと意見を述べた。
「あの……。尚育王がお遺《のこ》しになられた科試制度改革はいかがいたしましょうか……?」
「黙れ宦官。王府の近代化などあり得ない!」
と一蹴《いっしゅう》されれば今の寧温には返す言葉がない。しかしこれでよいと寧温は思う。寧温が独自の立ち位置を取ることで勢力を拮抗《きっこう》させる。こうしておけば清国にも薩摩にも与《くみ》しすぎることのない琉球独自の政策が生まれる土壌になるからだ。寧温は論がどちらかに傾こうとすると、水を差すように介入する。今の寧温にできることはクッションボードとしての役割だった。敢えて両者の境界面に立つことでバランスが生まれる。
書院に花当《はなあたい》が現れた。なぜか帯が乱れて息も荒れていた。
「天使館から使者の方がお見えになっております」
書院に現れたのは徐丁垓だった。手続きの合間に花当ふたりを手込めにしてしまった。高貴な婦人の死体と寝たこともある徐丁垓にとって同性愛など序の口だった。
「さすが王府の花当です。噂通りの美少年ですな。クククク……」
昼日中に現れた淫獣に朝薫が怒鳴った。
「ふざけるな徐太監。王宮は遊郭ではない!」
「花当で我慢したのに心外です。あまり冷たくすると御内原に行きますよ。クククク……」
「御内原は男子禁制だ。入れば手打ちにするぞ」
「私の素性をお忘れですか喜舎場親方? 私は紫禁城の後宮にいたのですよ。クククク……」
「ここは書院である。清国人が自由に出入りできる場所ではない」
徐丁垓は辞令書を朝薫に見せつけた。
「このたび国相《こくしょう》に就任することになりましたので、お見知りおきを」
「おまえが国相か!」
徐丁垓は帰国する冊封使節団に琉球残留を命じられた。どうせ捨てられると踏んでいた徐丁垓は、残留する代わりに琉球における自分の地位を正使に認めさせた。それが国相だ。清国の役人から派遣される国相は、琉球王の側近として仕える。国相なら王府が清国に対してどう振る舞うのか一挙手一投足を監視することができるし、王を操って清国寄りの政策を執ることもできる。
「これから毎日、王宮にあがります。私にも花当をつけてください。クククク……」
徐丁垓の舌先から長い唾液の糸が情事を名残《なごり》惜しむように垂れていた。表十五人衆を一瞥《いちべつ》した徐丁垓は寧温を見つけてにやりと嗤った。
「おや? 行方不明の孫親方がいらっしゃるではありませんか。気に入りそうな書物を用意してお待ちしておりましたのに」
徐丁垓が王宮にやってきたのは寧温に会うためだ。寧温の正体を知っている徐丁垓は、徹底的に利用するつもりだった。
「孫親方は清国を軽んじることはないと信じております。道光帝《どうこうてい》に尚泰王が即位した旨の書簡を用意しなさい。日付は本日です。後日、薩摩宛の書簡を送りなさい」
「はい徐太監。すぐに……」
寧温が素直に従うので表十五人衆がざわついた。どの勢力にも与しないものだと勝手に思っていたのに、いつ清国派に鞍替えしたのだろう。一番驚いたのは朝薫だ。だが朝薫は寧温が清国派についた喜びよりも、徐丁垓の命令に応じたことに不快感を覚えた。
徐丁垓は舌先を楽しそうに弾ませた。
「これで王府の政策が決まりましたね。冊封体制を強化するという王府の慧眼に感謝いたします。クククク……」
久米村《くめむら》に書簡を届けに行った寧温は、これが徐丁垓の琉球支配の第一歩だと知っている。まるで蟻《あり》地獄だと思った。辞職して王府を守ろうとしたのに、藻掻《もが》けば藻掻くほど深みに嵌《はま》っていく。
書簡に目を通した徐丁垓は、道光帝宛の漢文に翻訳していく。乱れた人格のはずなのに、文字は書家もたじろぐほど達筆だった。彼が紫禁城で一流の文官だったことの証明だ。快楽に身を任せているように見えて、紫禁城の権謀術数《けんぼうじゅつすう》の中で巧みに生き抜く術を身につけていた。
芸術の域に達した完璧な楷書体に寧温は息を呑んだ。論旨も様式も非の打ち所がない完璧な漢文だ。徐丁垓の精神は腐りきっているが、論理的思考は揺らぎがない。この病的に几帳面な手法で琉球は確実に清国色にされていくのだ。徐丁垓は筆を擱《お》いた。
「孫親方、次は首里国学に清国人の朱子学者を派遣するように嘆願書を書くのだ。北京《ペキン》の国子監《こくしかん》の劉文忠《りゅうぶんちゅう》を指名せよ」
劉文忠と聞いて寧温は血の気が失せた。国子監における琉球差別主義の急先鋒ではないか。彼に愚弄されて自殺した留学生が跡を絶たないという。劉文忠は琉球を未開国と蔑《さげす》み、琉球は完全なる清国支配の下でしか幸福になれないと説く。そんな危険な人物を首里国学に招くことはできなかった。
「できません。首里国学は王府の知識体系の中心でございます」
「おまえに断る資格はない。次は交換留学制度を導入してもらう。首里国学の学生の半分を清国人と入れ替える。琉球にとってもよい話のはずだ。国費留学の難儀が減るのだぞ」
「徐太監、学生を入れ替えてどうするつもりですか!」
「孫親方は科試制度を改革したがっているとか。ならば科挙そのものを琉球に輸入すればよい」
「そんなことをしたら合格者は全て清国人になってしまいます」
徐丁垓は黄色い眼で寧温を睨みつけた。
「科試最年少合格者の孫親方の言葉とは思えない。身分や年齢を問わず優秀な学生を登用するのが科挙の本来の姿ではないか。清国人と琉球人が競い合ってこそ、質が向上するのだ」
「そうやって王府を乗っ取るつもりですね」
「その書簡を書くのが嫌なら、代わりに薩摩との絶縁状を書いてもらうが、どっちがいい?」
寧温は表十五人衆と話し合わせてほしいと頼んだ。こうなったら抵抗勢力の薩摩派に阻止してもらうしかない。しかし八対七で薩摩派は劣勢だった。寧温は王府に戻るなり、朝薫を説得した。
「朝薫兄さん、どうかお願いです。薩摩派に味方してください。このままだと琉球は清国に乗っ取られてしまいます」
徐丁垓の提案書を読んだ朝薫は魅力的な申し出だと唸った。
「交換留学生くらいで琉球が乗っ取られるとは思えない。清国の温情を感じるが……」
「違うんです。徐太監は紫禁城に戻る手土産に琉球を掌握《しょうあく》したいのです」
「ぼくだって家が裕福なら官生《かんしょう》で国子監に行きたかった。そう思っている学生はたくさんいる」
表十五人衆の多数決により、交換留学生の制度が導入された。しかし徐丁垓の王府改革はこの程度ではすまなかった。役人たちに清国式の衣服着用を義務づけ、王府の公用語として清国語を認めろという。徐丁垓は琉球に存在する清国の文化を巧みに利用しながら、侵蝕《しんしょく》を深めていく。まるで漆喰《しっくい》に生えた黴のように。
那覇港から最初の交換留学生たちが清国へと旅だって行く。そして清国からも大挙して留学生が押し寄せてきた。清国語を話し、清国の様式で生きる彼らが将来の王府の幹部候補生たちだ。寧温の予想通り、彼らの成績は凄まじく優秀で来年の科試では初科《しょこう》合格者三十人全てが清国人学生になるだろうと噂されていた。寧温が目指す近代と逆行する未来がすぐそこまで迫っている。
「いけない。このままではいけない……」
焦った寧温は徐丁垓の元を訪れた。寧温が書いた王府の布令に徐丁垓の筆が止まる。
「清国人学生に科試を受けさせないつもりか?」
「いいえそうではありません。科試は科挙と同じく機会の公平な試験です。初科は清国語で行いますが、再科《さいこう》は日本語で行います」
「清国人学生は日本語を知らない」
「それは琉球人も同じでございます。私たちもこれまで異国語である日本語で試験を受けておりました。清国人にも日本語で受験してもらいます」
「考えたな孫親方。おまえの素性を明かされても構わないのか?」
「構いません。破滅する覚悟はできております。最後に私の願いを聞いていただけないでしょうか。少し王宮を散策いたしましょう」
寧温は徐丁垓とともに龍潭《りゅうたん》の畔《ほとり》を歩く。静かな池の畔には鳳凰木が見事な花を咲かせて、水面に枝を伸ばしている。寧温は垂れる鳳凰木の花にそっと触れた。毎年、鳳凰木が花をつける頃になると寧温は泣きたくなるだろう。
「国相である徐太監に申し上げておきたいことがございます。今から五百年前の王・尚巴志《しょうはし》に仕えた偉大なる国相・懐機《かいき》様は、琉球のためにご尽力なさったお方でした。国相・懐機様は明《みん》国の優れた土木技術を輸入し、王宮の造成と整備を行いました。また国相・懐機様は道教の教主である龍虎山天師大人《りゅうこざんてんしたいじん》と書簡を交わし、琉球に道教をお広めになられました。そして尚巴志が薨去されたときは、明国の皇帝に彼の功績を讃えるよう進言し、明国の皇帝も深い哀悼を捧げてくれました」
「昔話を聞かせたいのか」
「徐太監はこの池をどう思われますか?」
徐丁垓は龍潭を見渡す。水と緑の豊かな調和が雅《みやび》な音楽を奏でるようだ。
「琉球にしてはまあまあの造りだ。よく勉強したようだな」
寧温はありがとうございますと頭を垂れた。
「この龍潭は国相・懐機様がお造りになられたのです。国相・懐機様は琉球を明国に負けない国にしようと惜しみない努力を行いました。私たちは国相・懐機様のご功績のお蔭で豊かな生活を築くことができました。なのに、同じ国相であられる徐太監は、琉球を解体しようとしています」
徐丁垓はふんと池に唾を吐いた。
「私の素性を明かしたければそうなさい。私はあなたを国相とは認めません」
寧温が去ろうとした瞬間だ。逆上した徐丁垓が襲いかかってきた。
「きゃあああ。何をするんです」
「この糞アマ。俺の凱旋《がいせん》を阻止するつもりだな!」
「あなたの品性は国相ではありません」
徐丁垓が腕ひとつで寧温の首をもちあげる。頸動脈を押さえられた寧温は顎を仰《の》け反《ぞ》らせていた。こんな奴に王府を解体させるわけにはいかない、と寧温は喉の力を振り絞った。
「あなたは、清国の、恥です……」
それは徐丁垓が紫禁城から追い出されるときにも言われた言葉だった。後宮で放蕩《ほうとう》の限りを尽くしていたある日、側福晋《そくふくしん》から「おまえは清国の恥だ」と罵られた。彼女は毎晩、徐丁垓に凌辱《りょうじょく》されていた。関係を明かすと皇帝の寵愛《ちょうあい》を失うことになると脅していた徐丁垓に、差し違えの刃が飛んだ。側福晋は自らの斬首と引き替えに徐丁垓を告発した。
「もう一度言ってみろ、この売女《ばいた》!」
徐丁垓が寧温の首を絞めていく。寧温の足が虚《むな》しく宙を掻く。寧温は歯を食いしばって意識を保とうとした。
「あなたは、国相、懐機様の、足下にも、及びません……」
「女だ。やはりおまえは女だ。女はいつもそうやって私を愚弄するのだ!」
徐丁垓の舌が寧温の喉を舐《な》めあげる。まるで巨大ナメクジが喉に貼りついたようなおぞましさだった。胸元に風を感じて帯が解かれたことを知った。開いた襟《えり》の隙間に舌が這ってくる。寧温は泣き叫んでいた。
「いや。いや。助けて雅博殿。雅博殿。雅博殿!」
「好きな男の名を聞きながら抱くのも一興。クククク……」
徐丁垓は寧温が抵抗できないように、肩の関節を外した。茂みの中に引きずり込んでいく様は大蛇が獲物をゆっくりひと呑みにしていくようだ。着物を全て剥ぎ取ると、裸の真鶴が現れた。徐丁垓が見抜いた通り、最高の女体だった。こんな上玉は後宮でも味わったことがない、と舌を押し広げていく。
「助けて。誰か助けて。助けてーっ!」
徐丁垓の生臭い息が真鶴を包んだ。まるで溝鼠《どぶねずみ》が汚れた体をなすりつけているようだ。徐丁垓の乾燥した唾が悪臭を放って肌を腐らせていく。はち切れんばかりに膨らんだ巨大な舌が鎌首をもたげて真鶴の体を這う。山椒魚と交尾させられているようなおぞましい光景だった。
「おらおら。何よがってんだこの雌豚が。誰のお蔭で気持ちよくなっているか感謝しろよ。げへへへへへ」
真鶴は失神したかったが、徐丁垓はそれも許さない。いちいち鳥肌を立てて絶叫してもらわないと楽しめない。徐丁垓は真鶴の顔の上にズルズルと舌の裏を這わせた。
――真鶴。あのときすぐに返事をしてあげればよかったね。
赤い鳳凰木の花が風に揺れている。あの花の咲く下で愛しい人と過ごした日が脳裏を過《よぎ》る。耳が塞がれたような感覚の中で寧温は、真鶴が羽を毟《むし》られていくのを眺めているだけだった。涙で鳳凰木の花が滲《にじ》んで見える。生きたまま食べられていく中で、真鶴は自分の人生の全てを失った思いだ。一度も飛ぶこともなく毟《むし》られた羽が無惨に茂みに散っていった。
「おまえの正体は黙っておいてやる。その代わり私専用のジュリになるのだ。クククク……」
そう言うと徐丁垓は龍潭を後にした。
――なぜ私を殺さなかったの。いっそ殺してほしかった……。
恥ずかしさと悔しさと怒りと嘆きが胸元から堰《せき》を切ったように溢れ出す。嗚咽《おえつ》してもまだ足りない。全身の毛穴から毒を吐き出したい。体の中に染みこんだ黒ずみを全て吐き切ってしまいたい。心の奥にある一番大切な宝物に毒が回る前に。
「雅博殿……。あなただけの真鶴だったのに……」
哀れんだ鳳凰木が真鶴の無防備な体に、赤い花びらをしんしんと降り注いでやった。
面影の立たば沙汰よしゆんともれ
夢しげくならば泣きゆんともれ
(もしも私を想い出すことがあるならば、あなたのことを考えていると思ってください。もしも私の夢を頻繁に見ることがあるならば、私は泣いていると思ってください)
王府が清国へと政策転換していくのを指をくわえて眺めている薩摩ではない。琉球を実効支配しているのは薩摩である。お膝元を好き勝手に荒らされているのを幕府に知られたら、島津家は発言力を失ってしまう。御仮屋に大挙して押し寄せてきたのは薩摩の侍たちだ。武装した彼らは実力で清国を排除する覚悟だ。那覇港に次々と押し寄せる薩摩の船に王府も対応できない。結局、政権交代で揺れた王府は、清国と薩摩、双方の影響力を同じだけ増した。その分、琉球の独自路線は幅を狭めたことになる。
王の書院には毎日薩摩の役人が代わる代わるやって来るようになった。名目上は顔合わせの挨拶なのだが、送り込んだ役人の数は千人だ。毎日十人が挨拶しても百日はかかることになる。王の側にいる国相・徐丁垓の影響力を出来るだけ排除するために、尚泰王を儀式浸けにしておく必要があった。
そのせいで徐丁垓は不機嫌だ。せっかく王府が清国色になりかけていたというのに、日本式の様式が押し戻していく。書院は王の執務室として造られた施設で、純和風の建築だ。ここに尚泰王が長居していると国相の出る幕はない。花当の舌を指で摘み上げた徐丁垓が、勢いよく口の中に弾いた。途端、悲鳴をあげて花当が転がっていく。
また書院に現れた薩摩の役人を見つけた。見覚えのある横顔は雅博ではないか。徐丁垓はちょっと面白いことを考えついた。
「これは浅倉殿ではございませんか。ようこそ王府へ。クククク……」
「徐太監、国相になられたそうでお祝いを申し上げる」
「形式ばった挨拶はどうでもいいではありませんか。お互いに嫌いなのだから。クククク……」
徐丁垓が鼠の腐乱死体のような息を吐く。嗅ぐと毒が回りそうな異様な臭気だった。
「徐太監、私は好き嫌いで人を判断することはない。立場は違えども私は徐太監の才能を認めている。徐太監の手腕は悔しいが見事である」
「お誉めのお言葉を光栄に思います。これも孫親方のお力があってこそです」
雅博は初めて眉を動かした。寧温が徐丁垓と共闘しているなんてあり得ないと耳を疑う。
「孫親方は琉球独自路線のお方だと思っていたが」
すると徐丁垓が野卑《やひ》な声をして、舌を振り子のように動かしたではないか。
「所詮、玉無しの宦官同士ですから。クククク……」
「孫親方を侮辱するのはよせ」
「何を仰います。あの宦官はとんでもない淫売《いんばい》なんですよ。この前ひいひいよがらせてやりました。あの淫乱《いんらん》宦官は、もう私なしでは生きていけないことでしょう。クククク……」
「嘘をつけ。孫親方はそんなお方ではない!」
舌を逸物のように勃起させた徐丁垓が、
「これで姦ったんだ!」
と見せつける。刀に手をかけた雅博は切り落としてやりたかったが、薩摩の仲間たちに止められた。
「雅博、王宮で刀を抜いてはならん」
「この妖怪宦官め。いつか成敗してやるからな」
「おや、好き嫌いで判断しない主義だったんじゃないですかあ? 孫親方はこの逸物がなければもう生きてはいけない体になっちまいましたよ。ひーひひひひひっ」
「私がそんなデタラメを信じると思うなよ」
徐丁垓が寧温そっくりな声色を使って臨場感たっぷりに濡れ場を演じる。
「国相様、私はあなただけのものです。その逸物は私だけのものです。ああ〜ん」
一瞬寧温が現れたのかと思うほどそっくりな口調に雅博の身の毛がよだつ。
「孫親方は美意識の高いお方だ。貴様は相手にされなくて怨《うら》んでいるだけだろう」
「じゃあ聞いてみればいいじゃないですか。確かに孫親方にはタマはありませんでしたよ。所詮、宦官ですから。孫親方の体に私の体液を注入してあげたら身悶えして喜んでましたよ。げーへへへへへっ」
廊下を足を踏み鳴らして渡り雅博は書院に入った。中では王族や重臣たちが役人を接待していた。その中に寧温を見つけた雅博が割って入る。
「孫親方、ちょっと話があるがよろしいか?」
「雅博殿……」
寧温の目の前が真っ白になる。会いたいけれど、今一番会いたくない人だ。寧温は血の気が引いて立ち眩《くら》みを覚えた。寧温はまだいろんなことが整理できていなかった。真鶴として雅博と過ごした時間と寧温として接していた態度がごちゃまぜになる。自分はかつてどういう態度で雅博と接していたのか冷静になればわかるのに、強姦されたばかりの今は思い出せない。今の正直な気持ちはそっとしておいてほしかった。せめて傷が癒《い》えるまでの間だけでも。
「孫親方、顔色がお悪いですよ」
雅博はふと既視感を覚えた。まるで無くした何かと遭遇したような思いだ。頭の片隅に鳳凰木のイメージが過ぎる。寧温とそんな場所に行った憶えはないのに、なぜだろうと雅博は戸惑う。久しぶりの再会だが、もっと懐かしい気さえする。
「さっき徐太監から聞いたのだが、特別な関係というのは本当ですか?」
「え! 何と言っていたのですか!」
あの畜生は自分が犯した罪をぺらぺらと自慢気に喋っている。こっちは悔しくて毎日泣いているというのに。よりによって雅博に喋るとは。
寧温の頬に一筋の涙が走る。それを見た雅博は徐丁垓は嘘を言ったわけではないと知った。
「なぜあなたが? よりによってあんな外道《げどう》と?」
寧温は小刻みに首を振って必死に否定する。あれを特別な関係などと言われるなんて屈辱だった。寧温の弱みを握っているのをいいことに徐丁垓は、寧温と自分がまるで恋人のような言い草で雅博に吹聴《ふいちょう》したのだ。
寧温は目を真っ赤にして違うと言い放った。
「嘘です。嘘です。徐太監は嘘をついています!」
雅博は呆然とその言葉を聞いていた。まさかふたりの関係が本当だったとは信じたくない。しかし寧温の反応を見れば真実は明白だった。雅博は寧温の純粋なところに惹《ひ》かれていた。誰も触れられない神聖な美が寧温にはあった。穢《けが》れることを知らない無垢の魂だと信じていた。それが最も忌まわしい男の手に落ちるとは。雅博の心が急速に錆《さ》びていく。
「私はあなたを見損ないました」
庭園に冷たい風が吹く。惹かれあっていたふたりの間に永遠の亀裂が走った。
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第九章 袖引きの別れ
空がうねると竜巻《たつまき》になり、海がうねると渦になるように、大地がうねると国家が揺れる。大地に現れた渦を人は時代と呼ぶ。竜巻や渦が複雑な力学によって破壊的な力を宿すように、時代もまた複雑な力学が作用して渦を生む。複数の国が覇権《はけん》を懸けて衝突する琉球は常に渦を生み出す宿命を背負わされていた。人は時代の渦の中で翻弄《ほんろう》されるひとひらの葉にすぎない。
渦の始まりは乳歯の欠けた王の小さな欠伸《あくび》からだった。
「首里天加那志《しゅりてんがなし》、欠伸をおやめください」
摂政《せっせい》が幼い王を諫《いさ》める。実務能力はなくても、形式だけでも早く覚えてもらわないと、国が滅びてしまう。王が行政機構を理解するまでに少なくとも二十年はかかる。その間は摂関政治と評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》の頭脳で王府を支えていかねばならなかった。
「朝は眠くて当然だろう。余はまだ寝ていたい」
王の明け方は、国家の黄昏《たそがれ》と重なっていた。もし琉球が大きな国なら数世代かけて緩やかに滅亡しただろう。しかし琉球は一度傾くと人が思春期を終える速さで沈んでいく。残された民は国家なき余生を強いられてしまう。それはまるで一日のほとんどを夜で過ごすのと同義であった。
書院に澄んだ声が響いた。
「表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》の孫寧温《そんねいおん》でございます。首里天加那志に謁見したく存じます」
「寧温。今日は何をして遊ぶ?」
まるで乳母に甘えるような声で尚泰王《しょうたいおう》が寧温の袖を引っ張る。その王をひょいと片手で抱えて再び玉座に戻したのは徐丁垓《じょていがい》だ。
「殿下、今は執務のお時間でございます」
国相《こくしょう》に就任した徐丁垓は、摂関政治の要《かなめ》だ。紫禁城《しきんじょう》の高官たちと繋がりのある徐丁垓の意見を三司官《さんしかん》といえども無視できない。
あの鳳凰木《ほうおうぼく》での一件以来、徐丁垓は寧温を露骨に下に見るようになっていた。王宮の廊下ですれ違うたびに「廁《かわや》の蟲《むし》ケラ」と声をかける。その反応を見て楽しんでいるようだった。
――この外道《げどう》! 畜生! 悪党! よりによって雅博《まさひろ》殿に話すなんて!
そうやって寧温が憎悪を剥《む》き出しにするのも徐丁垓の楽しみである。鼻をくんくんと鳴らした徐丁垓は、こう言ってさらに寧温の神経を逆撫でした。
「また月が満ちてきたようだな? クククク……」
寧温の背筋に悪寒《おかん》を走らせた後に耳元にこう囁《ささや》くのだ。
「蟲をいっぱい孕《はら》ませてやるぞ。クククク……」
王の御前で寧温はぐっと我慢するしかない。真鶴《まづる》を捨てて王宮に戻ってきたのは、黄昏を食い止める松明《たいまつ》になるためだ。寧温はしたためた外交文書を王に差し出した。
「首里天加那志、緊急の案件でございます。どうかお目通しを」
「なんだこりゃ?」
と尚泰王が首を傾げた。
[#ここから2字下げ]
宮古島年貢積船壱艘人数拾五人乗込、去年三
月当地より帰帆之洋中逢難風唐致漂着、於柔
遠駅被致格護候由、唐官人方申候ハ、大清国
船を以可致送還由、且又積荷鉄之儀御禁制之
品ニ而候故取揚代銀被相渡由申来候。乍然宮
古島之儀不自由之所ニ而船居少作事之節も中
山より鉄井楷木申受等を以相調事故思様不相
達、此節鉄取揚代銀被相渡候而ハ島中用事差
欠及迷惑事候間、乍国禁格別之訳を以何卒現
品積帰候様被申付度願出之趣、且又宮古人共
御当国接貢船ニ而可致請取願出之趣、右両様、
咨文組立之積ニ而候。御意被仰聞被下度奉存
候事。
[#ここで字下げ終わり]
幼い王は、行政の全てを知る立場にいながらも、文字の全てを知るわけではなかった。文字が読めなければ目の前の外交文書は経文にもならない黒い地紋でしかない。
寧温が張りつめた声で尚泰王に訴える。
「首里天加那志、清《しん》国に漂着した遭難者を是非、琉球の手で帰還させたく存じます」
「船が沈んだのか? 絵で描けばすぐにわかったのに」
これは以前、科試《こうし》の模擬試験で問われたことが現実化した事件だった。鉄を積んだ琉球の船が清国に漂着し遭難者が出たという。清国は宗主国として清国の船で遭難者を帰してやると言ってきたのだ。ただし鉄は御禁制の品なので押収し、銀で対価を支払うと述べてきた。琉球は鉄も遭難者も船も手放すわけにはいかない。
このような不測の事態に対して評定所筆者たちは常に備えている。学生のうちから難問奇問と向き合ってきたのも、危機管理能力を高めるためだ。科試で常に現場感覚を磨いておいたからこそ、冷静沈着に行動できるのだ。この程度の案件は科試出身者にとって難問にすらならない。
寧温は頭《こうべ》を垂れて王の決裁を仰いだ。
「首里天加那志、同胞の保護は国家の責務でございます。たとえ出費が嵩《かさ》もうと琉球は主権を主張するべきでございます。どうかご高配を仰ぎたく存じます」
尚泰王は彼の今までの経験の中から類推する出来事を重ねた。かつて中城王子《なかぐすくおうじ》と呼ばれたとき、中城御殿の女官が聞得大君《きこえおおきみ》一派によって拉致《らち》されたことがあった。もっとも慕っていた女官が拉致されたと聞いたとき、尚泰王は何としてでも奪還するように命じた。そのことと似ているかもしれない。
「余は覚えておるぞ。あのときは聞得大君の力が強くて、女官を取り戻せなかったときは悔しくて泣いたものだ。ひどい話だと思わぬか孫親方?」
「はあ……? 首里天加那志、要点がわかりませんが?」
尚泰王はまだ現実と過去の区別がつかない。幼いとはそういうものだとわかっていても、これが王の言葉だと思うと肝《きも》が冷える。困り果てた寧温が三司官に助けを求める。「首里天加那志!」と三司官が叱らなければ尚泰王は滔々《とうとう》と女官拉致事件を語ったことだろう。王は小さな手で王印を持ち上げた。
「よきに計らえ!」
「御意《ぎょい》。首里天加那志」
尚泰王が今のでよかったか、と摂政と三司官たちの顔を覗《のぞ》く。重臣たちは穏やかな笑みで頷《うなず》いてくれた。王位に就いた瞬間から尚泰王は子どもであることをやめさせられた。表層的にでも成熟した振る舞いしか求められない。緻密に計算された予定調和の裏では評定所筆者たちが毎晩|侃々諤々《かんかんがくがく》の論争をしていることを王は知る由《よし》もない。
ただ退屈を打ち破る予定外のこともまま起こる。それが今の尚泰王の刺激でもある。
「殿下、さきほどの外交文書を王権により却下なさいませ」
王の側をひとときも離れずに睨《にら》みを利かせていた国相が不服を申し立てた。
「徐丁垓、なぜ却下しなければならぬのか?」
このときばかりは尚泰王も素朴な表情に戻る。
「はい殿下。孫親方の主張は琉球の宗主国である清国の厚情を無視する叛逆行為でございます。清国の船で遭難者を帰すと申したのですから、ありがたく受け入れるのが人の道。皇帝陛下の功徳を讃える文書を作成するべきでございます」
そう言って徐丁垓は、自分が作成した外交文書を王の前に広げた。清国の主張に最大限に与《くみ》する内容だった。
「よきに計らえ!」
そう言って王印を捺《お》そうとした瞬間、寧温が叫んだ。
「首里天加那志、捺してはなりません!」
「黙れ孫親方。殿下の判断が揺らいでしまうではないか」
「徐太監、そうやって首里天加那志を操るのが目的なのですね」
徐丁垓は薄い唇から舌を覗かせた。
「殿下を操るとは失礼な。殿下には王としての御意志がございます。殿下に決めてもらうのが筋というものでしょう」
尚泰王は反目しあう二人の臣下の間に立たされてしまった。この二人の臣下を好きか嫌いかだけで判断すると、尚泰王は徐丁垓が好きだった。執務の後は決まって徐丁垓が遊んでくれたからだ。徐丁垓は洗練された教養を持ち、話が上手だった。疲れ知らずの徐丁垓は尚泰王が眠りに就くまで一時も飽きさせない術《すべ》を持っていた。
これでも尚泰王はかつて寧温を一番好きだったのだ。王府の役人の中では一番王と年齢が近いし、一緒に遊んでもくれた。なにより寧温は優しかった。そんなある日、尚泰王は決定的な瞬間を目撃してしまう。書院に現れた薩摩の役人を遠目に眺めている寧温の姿に、尚泰王は衝撃を受けた。寧温は涙を浮かべて薩摩の役人を見つめているではないか。寧温を独り占めしていたつもりだった尚泰王は、裏切られた思いだった。このとき幼い王の胸の中に生じたザラつきを彼は上手《うま》く説明できない。ただ寧温にも同じ思いをさせてやりたいのだ。
「余は孫親方の文書を却下する!」
「首里天加那志、首里天加那志、どうかおやめください。これは琉球の負けを認めることです!」
尚泰王はただ取り乱す寧温の姿を見たかっただけだ。寧温は喚《わめ》けるだけまだ幸福だと尚泰王は思う。薩摩の役人を接待していたあのとき、尚泰王は子どものように癇癪《かんしゃく》を起こすことも許されなかったからだ。
「殿下の慧眼《けいがん》に感服いたしました」
徐丁垓は満足そうに頭を垂れる。こうなると摂政も三司官も口を挿《はさ》めない。ここで清国をないがしろにする意見を述べたら、紫禁城に筒抜けになってしまう。徐丁垓の執務能力は驚異的だった。この男が紫禁城で重用されていたのが三司官たちには理解できる。徐丁垓の人脈は国際的なネットワークを誇っていたのだ。
徐丁垓は国相・懐機《かいき》を彷彿《ほうふつ》させる外交術で、道教の教主・龍虎山天師大人《りゅうこさんてんしたいじん》に聞得大君を天妃と同等の地位であると認めさせた。そればかりではない。冊封《さっぽう》体制に属さないムガール朝に対しても琉球王の存在を示す書簡を送り、清国との仲介役として琉球の有用性を説いた。清国への隷属を強要する徐丁垓だが、他国に対しては琉球の立場を増大させる書簡を認《したた》める。徐丁垓は一流の大使だった。
徐丁垓は暴走したときには飴《あめ》をやるのも忘れない。
「これも尚泰王を郡王から親王にするための措置です。クククク……」
冊封体制に属する国家や部族は爵位制度によってランク付けされている。王宮の中に位階制度が存在するように、国同士にも身分があった。琉球王の「郡王」という地位は、清国においては有力貴族にすぎない。「郡王」よりも上の爵位は「親王」である。同じ冊封国である蒙古《もうこ》と越南《ベトナム》の阮《グエン》朝は郡王だが、朝鮮王朝は親王である。
「親王……。首里天加那志が親王か……」
清国に憧憬《しょうけい》を抱く三司官たちにとって、これほど嬉しいことはない。郡王と親王では国際的地位がまるで違う。今でいう一等国への仲間入りだ。これまで王府は明朝崩壊のどさくさに紛《まぎ》れて王に親王と同じ振る舞いをさせていた。それが王冠の宝珠に表れている。本来、郡王は七列でなければならないのに、明朝が滅びると同時に琉球王は親王と同じく十二列の王冠にしてしまった。爵位詐称に清国は不快感を示したが、罰することはなかった。このエピソードが琉球の親王コンプレックスを端的に物語っている。
「清国と琉球の付き合いを鑑《かんが》みれば、親王に昇格させてもよい頃でしょう。クククク……」
一等国待遇か二等国のままでいるか、数の大小よりも答えは明らかだ。尚泰王の親王昇格が徐丁垓の胸三寸で決まるかもしれない。なにしろ聞得大君を天妃にしてしまう豪腕だ。因《ちな》みに道教もまた神に爵位を与える。天妃は天子である皇帝の次の位ということだ。
下手に逆らって徐丁垓の機嫌を損ねたくなかった三司官たちは、多少の主権侵害には目を瞑《つむ》るつもりだった。
「徐太監の仰せのままに。我が国は船を出すのを中止し、清国のご厚情を仰ぎたいと存じます」
「よろしいでしょう。では早速この文書を清国に送らせてもらいます」
徐丁垓とすれ違う廊下で朝薫《ちょうくん》が露骨に不快感を述べる。
「徐太監、三司官衆を餌《えさ》で釣るのはやめていただきたい」
「おや、喜舎場《きしゃば》親方は清国派ではなかったのですか?」
「ぼくは孫親方の意見に賛成だ。同胞の保護は海洋国である琉球の存続に関わる。琉球にとって航路は国の動脈なのだ。航路の安全が保障されないと民は海に出て行けなくなる」
「船は清国に漂着したのです。清国の内政に干渉してほしくありません」
「徐太監、国相という立場を濫用《らんよう》してはいないか? 表十五人衆として命じる。すぐに元に戻せ」
徐丁垓の舌がずるずる胸元まで伸びてくる。ツーッと舌先から落ちた唾液が情交の匂いを放つ。
「喜舎場親方にいいこと教えてあげましょう。あの宦官《かんがん》、ケツの穴|舐《な》めると雌馬みたいに啼くんですよ。へっへっへっへっ」
「いい加減なことを言うな。孫親方を侮辱するとこのぼくが許さないぞ!」
「本当のことなんですよ。で、あっしが舐めてあげたら、何て言ったと思いますか?」
徐丁垓が寧温の声色《こわいろ》を真似てしなを作った。これが発情した遊女さながらの迫真の演技なのだ。
「雅博殿、やめて。雅博殿。ああ〜ん」
徐丁垓という人間が得体が知れないと思うのはこんなときだ。他国の王とも書簡を交わす外交能力、寧温と同等と目される教養の高さは王の教育係として申し分ない。そして紫禁城の高官たちとの太いパイプ。これだけの能力を持っていながら、徐丁垓は圧倒的に淫靡《いんび》なのである。宦官なのに誰よりも猥褻《わいせつ》な存在だ。
徐丁垓は一人二役で破廉恥《はれんち》な行為を演じた。
「いやん。そこは雅博殿の穴なのに〜。『なんだこの宦官、糞の始末もできねえのか!』あれ、癖になりそう。『小便ちびってんじゃねえぞ。おら!』ああん、もっと奥まで突っ込んでえ〜ん」
寧温そっくりの声色を聞いた朝薫に虫酸《むしず》が走る。
「ふざけんな! 徐丁垓、王宮から出て行け!」
「せっかく物真似までしてやったのに。ほらこの舌の先に糞がついてるでしょ。ひひひひひひ」
徐丁垓は舌を目一杯に怒張させた。これが色情宦官の生殖器かと朝薫は唖然《あぜん》とする。鼠《ねずみ》の腐ったような強烈な臭気に胃の底が持ち上がった。
「徐丁垓! 紫禁城では見世物小屋にいたかもしれんが、首里城では慎んでもらおうか!」
すると徐丁垓は舌をするすると喉に戻して国相の顔に戻るのだ。
「今の喜舎場親方の失言のせいで、親王の昇格話は保留することにいたします」
書院の中庭では尚泰王が独楽《こま》を抱えて徐丁垓を待っていた。
「徐丁垓、徐丁垓、あれを見せてくれ」
「殿下、詩経を学ぶのが先でございます」
「独楽を教えないと詩経もやらぬぞ」
「しょうがない殿下ですねえ。クククク……」
徐丁垓は鼓形の清国独楽を鮮やかに空中で回転させた。紐を左右に振って遠心力を加えていくと、まるで独楽が生きているかのように宙で踊り出す。小気味よく空気を切る音とともに独楽の曲芸が始まった。
「殿下、これが縄昇りでございます」
重力に逆らって独楽が縄を昇っていく。尚泰王は歓喜の声をあげた。
「そしてこれが五つ回しでございます」
五つの独楽を次々とジャグリングする曲芸に尚泰王が興奮する。王が「もっともっと」とせがんで手当たり次第に独楽を放り投げていく。徐丁垓はいとも容易《たやす》く八つの独楽を操った。
その様子を遠目に見ていた寧温は、王国の落日を眺めている気分だった。
「このままでは国が滅びてしまう……」
寧温の胸に暗雲が立ちこめてきた。
男の世界を握る評定所とは別に、女の世界を繋ぐのが奥書院奉行だ。普段は御内原《ウーチバラ》を管轄している部署だが、新しい王の即位によって俄《にわか》に活気づいていた。御内原の後之御庭《クシヌウナー》には着飾った少女たちが集められていた。いずれも劣らぬ美少女揃いだ。
兄に会おうとやってきた寧温に大親《ウフヤ》が声をかけた。
「孫親方、黄金の鋏《はさみ》の使用許可を願います」
「もう使うのですか? 首里天加那志はまだ六つでございますのに」
「国を安定させるには妃を決めることだと、大あむしられ達が託宣をくだした。世継ぎを産んでもらい国を盤石《ばんじゃく》にさせなければならぬ」
即位したばかりだというのに、もう妃選びが始まっている。奥書院奉行の役人たちは総出で国中の美少女を集め出した。美貌、家柄、教養、立ち居振る舞い、そして嫡子《ちゃくし》誕生の可能性を持つ遺伝的特性、王妃になるためには全ての条件を満たさなければならない。しかしそれら全てを満たしても充分ではない。琉球の妃選びで最も重要な要素が、高徳の持ち主であることだ。それが黄金の鋏である。
この黄金の鋏を畳の下に隠し、最終候補者を部屋に通す。徳の高い生まれなら、黄金の鋏の上に座るという言い伝えに倣《なら》い、最後は運の強い少女が王妃になる。お妃選びは女の世界の科試だ。
今行われているのは第一次審査だ。候補者たちを遊ばせて性格や気質を審査するのが目的だ。歩かせたり、食事させたり、笑わせたりして、王妃に相応《ふさわ》しい所作が身についているかを調べる。
「お妃選びはかなりの高水準の争いだ。まだ脱落者が出ないとは」
審査員の大親も女官も少女たちが傾向と対策で試験を攻略していることに舌を巻いた。親たちにとっても王室と外戚になれる千載一遇《せんざいいちぐう》の機会だ。胎児のときから英才教育を施してきた自慢の娘ばかりだ。
「あの子は上品ぶっているだけで、箸の使い方がなっていませんね」
と女官がひとりの少女を脱落させようとした。晴れ着に身を包んでいた候補者が輪の中から摘《つま》み出された。その少女に女官がびっくりする。
「思戸《ウミトゥ》。こんなところに紛れていたなんて!」
「えへ。バレちゃったー」
ご飯粒を頬につけた思戸は王妃選びの美少女集団に紛れていた。目鼻立ちを誤魔化すくらい念入りな化粧を施していたが、育ちの悪さまでは隠せなかったようだ。見たことのないご馳走を前についがっついてしまった。思戸は後で重い罰を受けることになるだろう。
「私は、人生を間違えたのかもしれない」
寧温は候補者たちが蝶のように舞う姿を見て、こういう人生があったかもしれないと思った。王妃とまでは望まないけれど、見初《みそ》められて嫁いでいく。縁談相手によって決まる人生。そういう受動的な生き方もあった。自分の意志で切り開いていく能動的な人生が必ずしも幸福に繋《つな》がるとは限らない。意志で切り開いた先が廁の蟲ケラだと知っていたら、科試を受けなかっただろう。
「そういえば新しい女官|大勢頭部《おおせどべ》の顔が見えないようですが?」
大親が沈鬱《ちんうつ》な溜息をついた。
「女官大勢頭部は廃人になられた……」
「廃人? 何があったのですか?」
「孫親方は知らないと思うが、御内原では最近、怪人が夜な夜な現れるのだ」
「それを取り締まるのが奥書院奉行ではありませんか!」
「犯人はわかっている。わかっているが手出しできん。琉球はいったいどうなってしまうのか。孫親方、私は不安でなりません……」
そのとき寧温にまた国土の声が響いた。
『龍の子よ。王宮の悪魔を追い出しておくれ……』
いつも堂々と命じていた国土が瀕死の声をあげている。国土は無情にもあの妖怪宦官を相手に闘えと命じる。凌辱され、侮蔑され、汚物を飲まされ、生きることが苦しい今の寧温にとってあまりにも酷い託宣だった。
悪魔が御内原に蔓延《はびこ》る中、琉球王国最後の王妃が間もなく誕生しようとしていた。
守礼門《しゅれいもん》に繋がる綾門大道《アヤジョウウフミチ》を素性を隠した兄妹が歩いている。従二品の紫冠の妹と従八品の赤冠の兄は天と地ほどの身分差を表している。しかし兄はそんな妹を誇りに思っていた。人目のある街を歩いているときには逆転した身分差で会話にも気を遣わなければならなかったが、目的地の安謝湊《あじゃみなと》に着くや、仲の良かった昔の関係に戻った。寧温は兄の意志を確認したくてこの安謝湊の浜辺に連れてきた。
「兄上、ここが父上が殺された場所でございます」
斬首されたとは思えないほど浜は静謐《せいひつ》な美に満ちていた。嗣勇《しゆう》が急に涙ぐむ。
「孫親方、いや真鶴。ぼくたちは親不孝者だったね……」
「兄上、誰にも聞かれないようにここを選んだのです」
波の力とはかくも巨大なものだろうか。砂浜は血の濁りもないほど純白に浄化されていた。掌から零《こぼ》れ落ちた砂は王府に上納された最上級の塩よりも白かった。
「兄上は今の王府をどう感じておられますか?」
「最悪だよ。国相・徐丁垓が首里天加那志を操っていることくらいぼくにでもわかるさ」
奥書院奉行がお妃選びを始めたのも、徐丁垓の影響を排除するためだ。できるだけ有力な士族を外戚にして、徐丁垓の暴走を食い止めたい一心だった。
「昨夜もまた女官を食われたよ。これで十三人目だ……」
徐丁垓は宦官という特権を使って御内原の女官たちを手込めにしていた。それを知らない奥書院奉行ではない。朝になると快楽で廃人になった女官があられもない姿で発見されるのだ。体の穴という穴をこじ開けられた女官は、用便もままならぬ状態だ。ある晩、嗣勇《しゆう》は御内原の廊下を這いずる大蛇を見つけた。ずるずると這う蛇には徐丁垓の体が続いていた。
「このままだと御内原は壊滅だ。徐丁垓を罰したくても手が出せない」
「私も同じ思いです。首里天加那志の親王昇格をちらつかされて三司官も口を挿めなくなっております。この摂関政治をやめなければ、琉球は清国に併合されてしまうでしょう」
「先王様が生きておられたら、さぞ悲しまれることだろうね」
御仮屋《ウカリヤ》も徐丁垓の存在に不快感を示している。排除まで猶予を与えられているが、王府に自浄力がないと判断した場合、薩摩は実力行使も辞さない構えだ。即ち薩摩への併合を意味していた。こうして手を拱《こまね》いている間にも、薩摩は着々と首里落城を目指していることだろう。
寧温は浜に来るまでどうしようか迷っていたが、意を決した。
「もし私が父上の遺言に従うとしたら、兄上はついてきてくれますか?」
浜を歩いている足音がしないので寧温が振り返ると、嗣勇は震えていた。やはり兄は王位に就く気はないようだ。第一尚氏王朝は遠い日の出来事だ。寧温は自分が馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》を所持していることを告げることができなかった。もし馬天ノロの勾玉で血統を示したら王府は混乱するだろう。ただ寧温が馬天ノロの勾玉を使うことがあるとしたら、王府の秩序のために使いたかった。そのために神が手元に授けたのだと信じたい。
「真鶴。ぼくたちが第一尚氏王朝の末裔《まつえい》であることは永遠の秘密だ。ぼくも真鶴も王宮で出世した。父上の無念も晴れただろう」
「はい。私もそう思っております。だから第一尚氏王朝のことは忘れておりました。ただ、私は徐丁垓のしていることが許せないのです。このままだと王府は悪魔の手に落ちます」
「おまえはあの男の本性を知らないんだ。あいつは蛇なんだぞ」
「知っています。だからこそ潰《つぶ》さなければならないのです!」
「じゃあ御内原に来てみろ。どんな化け物なのかわかるさ!」
そのとき寧温の心の中で真鶴の悲鳴が甦《よみがえ》った。
「兄上……。私は、私は、徐丁垓に犯されてしまいました……」
そう言った途端、寧温は初めて大声で泣いた。毒に塗《まみ》れた悔し涙なら毎晩流している。しかしどんなに泣いても体の中の毒が解毒されることはない。どうやって自分を浄化したらよいのか、どうすれば元の綺麗な体に戻れるのか、寧温にはわからない。
浜を削る寧温の号泣に嗣勇は胸を詰まらせる。嗣勇は妹を思いっきり抱き締めた。
「真鶴、真鶴、もう我慢しなくていいんだよ。思いっきり泣けばいい」
「兄上、私は生きるのが辛いです。生まれ変わってもう一度、綺麗な体になりたいです……」
「真鶴、おまえは汚れてなんかいないよ。ぼくの真鶴はいつでも綺麗だよ」
「私は薄汚い廁の蟲ケラにされてしまいました……」
嗣勇も発狂しそうだった。賢くて優しくて器量のよい妹が、そんな屈辱的な扱われ方をされているなんて許せない。嗣勇もまた大声で泣いていた。
「徐丁垓を、あいつを殺してやるっ!」
そう聞いた瞬間、寧温の体の中に溜まっていた澱《おり》が吐き出された気がした。嗣勇はしっかりと抱き締めながら「死ね徐丁垓!」と言う。その言葉がさらに澱を押し流す。
寧温は初めて自分がどうしたかったのかわかった。泣いても泣いても晴れなかったのは、悔しいからではない。こうやって誰かに慰めてほしかっただけなのだ。
兄の言葉は安謝湊にうちつける波のように寧温の心を浄化してくれた。穢《けが》されても穢されても翌日には真っ白になっている浜の砂のように、寧温が清められていく。
「真鶴はもう苦労しなくていい。ぼくに任せて。きっと上手くやるからね」
嗣勇は妹の涙を優しく拭《ぬぐ》ってやった。浜に沈む夕日が兄妹の影をひとつに結びつける。もうすぐ凪《なぎ》が訪れて完璧な静謐に包まれるだろう。
安謝湊まさご太陽《てだ》どまぎらしゆる
お月まぎらしゆる浜の真砂
(安謝湊の浜の砂はどうしてこんなに白いのだろうか。昼は曇っていても、太陽が照らしているようにキラキラと輝き、夜に月がなくても月が出ているようにキラキラと輝く。それと同じように真鶴もどんなときでも真っ白だ)
その晩は重苦しい雲が夜空を覆っていた。熱帯夜で蒸された大地から千万のミミズが這いだして異様な臭気を放つ。臭いのガスが足首まで溜まった丑の刻、御内原に一匹の蛇が現れた。ミミズの大群を押し退けて後之御庭を這いずるのは、長い舌だった。今夜もまた徐丁垓が獲物を求めて御内原にやってきたのだ。
「今宵はあがまの肉を喰らおうか。永久歯が生えた女は臭いがきつくなるからな。クククク……」
世誇殿《よほこりでん》に達した舌が、廊下の足跡を物色する。何十人かの足跡の中に思戸の味を捉えた。思戸はお妃候補に紛れ込んだ罰で蔵に閉じこめられていた。徐丁垓の舌がずるずると蔵に向かって這っていく。声を立てても聞こえることのない蔵で少女の生体解剖が行われようとしている。
そのときだ。徐丁垓の舌が誰かに踏みつけられた。
「徐太監、少々おいたがすぎやしませんか?」
徐丁垓が見上げると、怒りに燃えた役人が日本刀を構えていた。暗くてよく見えないがどこかで見た容貌だった。
「まさか孫親方か!」
御内原に現れたのは紫冠を被った役人だ。端整な顔をした役人は薄い紅をひいていた。日本刀を抜いた役人の目に殺気が宿っている。
「この廁の蟲ケラが!」
その言葉に役人から憎悪の炎が立ち上った。扇子を回すような刀|捌《さば》きは、実戦用というよりも演舞に近い。刀に情感を漂わせる妙な型だった。
「孫親方、筋は悪くないが実戦向きではないな」
突如、振り上げた徐丁垓の足が手首に落ちてくる。目測を見誤ったのかと役人は驚く。遥か遠くから足が伸びてきて、刀を叩き落としたのだ。役人は今の動きを思い返して攻撃のパターンを整理するように頷いた。
「徐太監、これならどうだ!」
今度は腕全体を剣にして徐丁垓に斬りかかった。刀がないときの方が遥かに動きが洗練されていた。徐丁垓の首飾りに指をかけると懐《ふところ》で身を回して8の字に交差させたではないか。喉を詰まらせた徐丁垓が思わず仰《の》け反《ぞ》った。
「やるな……。孫親方……」
徐丁垓が短刀で首飾りの糸を切ると、無数の玉が廊下に飛び散る音がした。役人は後方宙返りの連続で徐丁垓の背中を取ろうとする。これは京劇の空中感覚だ。徐丁垓は役人の正体がわからなくなった。長い腕を鞭《むち》のように撓《しな》らせた徐丁垓が、役人の帽子を取り払う。その瞬間、雲の隙間から月明かりが照らす。寧温に扮していたのは嗣勇だった。
「妹の敵《かたき》を取らせてもらうぞ!」
嗣勇の表情が虞美人《ぐびじん》から関羽《かんう》に変わる。一瞬の役代わりで女形から覇王の雄大な動きに転じた。徐丁垓ですら目が慣れるまで嗣勇の動きに追いつけない。
「貴様は確か奥書院奉行の筆者だな」
「孫嗣勇だ。徐太監、お覚悟!」
嗣勇が蟷螂拳《とうろうけん》の構えに変わる。嗣勇は踊りの天才で一度見た動きなら完璧に模倣できた。京劇、琉舞、日舞、歌舞伎、能、全ての舞台芸能に明るい嗣勇は、中国拳法も舞踊の型のひとつとして体得してしまう。つまり徐丁垓は闘いながら嗣勇に蟷螂拳の手ほどきをしてしまったことになる。
徐丁垓は蟷螂拳の構えで嗣勇が侮《あなど》れない敵に成長したことを悟った。重心を低く構えた嗣勇が徐丁垓と鏡合わせになる。
「孫家と言ったか? なるほどおまえ達の関係がよくわかったぞ。クククク……」
徐丁垓が腕を撓《しな》らせると同時に嗣勇の動きも同調する。指先がお互いの喉元で止まった。
「徐太監、おまえをこの国の法律で裁けないならぼくが天誅《てんちゅう》をくだすまでだ」
「御内原は男子禁制だ。私が声をあげれば貴様は斬首だぞ」
「生きて帰れないのはおまえの方だ」
嗣勇は完璧に蟷螂拳をコピーしていた。リーチ差をスピードで補いながら、完璧に同調している。これも群舞で鍛えた呼吸だ。踊童子なら目を瞑《つむ》っていても相手の気配で揃えることができる。二人の腕が剣のように交差する。翻《ひるがえ》って再び構えた瞬間まで同じだった。
「なんて奴だ。型を全部覚えてやがる」
徐丁垓は自分の分身と闘っている気がした。分身と闘うことがこんなに手強《てごわ》いとは思わなかった。得意技が決め手にならないので苛立ってしまう。ついに徐丁垓が本気になった。
「では蟷螂拳の奥義《おうぎ》を見せてあげましょう。これが模倣できるかな?」
突然、徐丁垓の体から骨を折ったようなくぐもった音がする。嗣勇の目には徐丁垓の身長が倍になったように映った。全身の関節を外した徐丁垓の動きが軟体動物に変わる。まるで蛸《たこ》のような動きに嗣勇の頭が混乱する。あっという間に全身に絡みつかれてしまった嗣勇は動くに動けない。嗣勇の脇腹から徐丁垓の生臭い舌がにゅうと伸びてきた。
「いいことを教えてやろう。おまえの妹は乳首が感じるらしいぞ。クククク……」
次の瞬間、徐丁垓は蛇のように嗣勇を絞め上げた。
翌朝、御内原から悲鳴があがった。
「誰ぞ。誰ぞ出会え。曲者《くせもの》が現れたぞ!」
後之御庭に全裸の死体が捨てられているのを見つけた女官たちが騒然となる。
昨今、御内原に現れる怪人のせいで、女官たちは夜を極端に恐れるようになっていた。夜の闇に紛れて現れる怪人は、女官の誇りを踏みにじり末代までの恥を与える。
新任の女官|大勢頭部《おおせどべ》は勇猛にも夜警を志願し、怪人に暴行された。正義感の強かった女官大勢頭部の最後の姿に女官たちは震えた。怪人は非情にも死の一歩手前で女官大勢頭部を放置した。用便の始末もままならない廃人にされた女官大勢頭部は家畜以下の肉塊に成り下がっている。怪人が女官大勢頭部を殺さなかったのは、残された女官たちに恐怖心と無力感を与えるためだった。
女官の悲鳴に腕に覚えのある大与座《おおくみざ》の役人たちが御内原に入ってきた。中庭に放置された遺体は頭を潰され、四肢が辛うじてわかるだけだ。
「何と酷い……。誰か筵《むしろ》を持ってこい」
女官たちは仲間の誰が殺されたのか、点呼を取るまでわからない。少なくとも自分ではないことに安堵《あんど》し、明日は我が身と震える。勢頭部たちが自分の部下の生存を確認していく。
「竈《カマド》。真加戸《マカト》。鍋《ナビー》。思戸。思戸! 思戸はおらぬか?」
「勢頭部様、思戸がおりません」
ついにあがままで暴行されてしまったと勢頭部は卒倒する。年端《としは》もいかないあがまが狙われたのは初めてだ。
「思戸が……。あの死体は思戸か……。何ということでしょう!」
女官見習いの思戸ははっきりいって御内原の厄介者だった。昨日もお妃候補の美少女たちに混じって出世を目論《もくろ》んだり、勝手に商売を始めたり、目を離すと何をするかわからない。怪人騒動以来、あがま達はひとつの居室で眠らせるようにしていた。簀巻《すま》きにして蔵に閉じ込めたのがいけなかった、と勢頭部が膝をつく。
すると蔵の内側から泣き声が聞こえた。「ごめんなさーい。勢頭部様、もう悪さはいたしませーん」とあまり反省の念のない声がするではないか。
「勢頭部様、思戸は生きております」
「そのまま閉じ込めておきなさい」
では誰が殺されたのだろう。他の部署の点呼で異変が発覚した。
「大庫《うふぐい》裡のあむしられ殿の姿がありません」
齢《よわい》六十になる最古参の女官が朝から姿を見せない。まさか、と一同が気色ばむ。大与座の役人が現場から白髪の束を見つけた。
「被害者は老女のようです。暴行された後に殺されたのでしょう」
ついに老女まで襲われたことに、御内原は慄然《りつぜん》とする。怪人は女であれば見境なく襲うようだ。世誇殿の廊下に見覚えのない玉が無数に散らばっているのを女官が見つけた。
「お役人様、これが証拠になるかもしれません」
差し出された玉は虎目石だ。この石を装飾に用いる習慣は琉球にはない。珍重するのはオリエント周辺、シルクロードを使わなければ手に入らない石だ。
「犯人はわかっているのだ……。すまない。許してくれ……」
大与座の役人たちは無念そうに唇を噛んだ。怪人の正体が徐丁垓であることは明白なのに、手が打てないのがもどかしい。御内原は徐丁垓の餌場として今夜もまた襲撃を許すことだろう。
その頃、正殿前を徐丁垓が鼻歌を弾ませて闊歩《かっぽ》していた。
「筋ばった婆もよく噛めばスルメのような味わいがある。クククク……」
徐丁垓が紫禁城から排除されたのは、この素行のせいだ。宦官という性を超越した存在でありながら猟奇《りょうき》的に女体を好む。自らの不逮捕特権をよいことに悪逆非道の限りを尽くしていた。
もうすぐ王府の役人たちが出勤してくる時間だ。事実上の摂政となった徐丁垓は政治の世界も着実に掌握しつつある。
「どれ今日も評定所筆者の案文に唾を吐いてやるか。クククク……」
夜は女に、そして昼は男に屈辱を与える徐丁垓は、王府に現れた疫病神《やくびょうがみ》だ。
徐丁垓が書院の入り口に立ち塞がる影を見つけた。
「廁の蟲ケラが何の用だ?」
入り口を塞ぐように立った寧温が徐丁垓を睨みつける。
「徐太監、あなたが御内原で女官を襲っていることを私が知らないと思ったら大間違いです」
「なんだ嫉妬しているのか。素直にまた抱かれたいと言えばよいものを。クククク……」
寧温は布令を徐丁垓の目の前に突きつけた。
[#ここから1字下げ]
厳重致通達候事
聞得大君加那志様御意汲受各々江被仰下候事。
尚泰尊君様御即位被遊、御当国世果報通融之
神託為被召下、
君真物御神おれめしよわちへ、
王城之神域格護可致様御下知有之候由。
依之御内原所中之面々あがま迄至神威被授
候間、男子ハ不及言神威無之者共又神職非
有者共ハ向後御内原立入間敷事。
孫親方
[#ここで字下げ終わり]
布令を読んだ徐丁垓は目を白黒させる。
「国王の即位を祝う神事を行うために御内原の女官たちを全員、神職に格上げするだと――?」
「御内原は聖地となりました。今後、御内原に神職以外の立ち入りを一切禁止いたします」
「おまえにそんな権限はないはずだ。殿下に頼んで覆《くつがえ》してみせる」
寧温は命令書をよく読めと促す。言上《ごんじょう》の中央に王よりも一文字高い存在があるではないか。候文《そうろうぶん》の様式は身分に敏感だ。王の言上写《ごんじょううつし》なら王の名を一文字高くあげて、その他の身分と一目で区別できるように記す。寧温の命令書は王よりも高く「君真物」と記されていた。
寧温がにやりと笑う。
「琉球の大神キンマモンの名において御内原を聖地といたしました」
大神キンマモンは古琉球の頃に信仰された伝説の神だ。国の有事にしか現れないという神は、王や聞得大君ですら降ろすことのできない最高神である。伝説上キンマモンを降ろしたことのある巫女《みこ》は馬天ノロだけだ。そしてキンマモンの名を出せばあらゆる超法規的解釈が可能になる。ただし証明できればの話だ。
「貴様、また| 謀 《はかりごと》をしたのか!」
「女官たちを守るためです。神事には表の人間は一切関わることができません。以後、私を含め御内原へは宦官も入れません」
「貴様の素性をバラすぞ」
「私は女であることを少しも恥じておりません。胸を張って斬首されましょう」
安謝湊は全ての罪を洗い流してくれる浄化の浜だ。昨日、あの波に洗われて寧温は禊《みそぎ》を終えた。科試制度が女を許さなくても波は寧温の素性を肯定してくれた。いつでもあの浜で散る覚悟はできている。ただし王府を蝕《むしば》むこのダニを駆除してからだ。第一尚氏王朝のシンボルを使うことで、王府が再びバランス感覚を取り戻すなら、命と引き替えにしてもよかった。たぶんそれが国土の意志だ。
「廁の蟲ケラの分際で小癪《こしゃく》な真似を! 私を怒らせるとどうなるかわかっているのか!」
徐丁垓は舌の裏の静脈をはち切れんばかりに膨らませる。
「私の素性はもうバレたも同然です。あそこをご覧なさい」
そう言って京の内を指す。王国内のノロたちに非常招集がかけられた。キンマモンが出現したと聞いたノロたちは顔面蒼白だった。
「孫親方、どうぞ京《きょう》の内《うち》へ」
大あむしられ(上級ノロ)に導かれて、寧温が京の内に入る。キンマモンが託宣を下したとなると相手が誰であれ、神の使いである。京の内にまた雷雲が渦を巻き始めた。熱い雨粒が王宮に落ちてくる。これを晴らせばキンマモンが託宣を下したことが証明される。鬱蒼《うっそう》と茂る原生林の祭壇に立った寧温は馬天ノロの勾玉を頭上に掲げた。
「偉大なる琉球の大神キンマモンよ。私の布令が正しければ降りて来い!」
刹那《せつな》、京の内が閃光に包まれた。馬天ノロの勾玉に落ちた雷《いかずち》は、京の内の森の半分を吹き飛ばした。大地に龍が走ったような罅《ひび》割れが出現する。空は雲一つなく晴れ渡っていた。
「本当にキンマモンを降ろすとは……」
大あむしられ達は唖然としている。誰かがボソッと、
「馬天ノロ様の生まれ変わりじゃ」
と呟《つぶや》いた。その名前に再び大あむしられ達がひれ伏す。孫親方が表世界の宦官であっても、キンマモンのセヂ(霊力)を受けたことには変わりはない。王国の歴史の中で二人目の神人《カミンチュ》の誕生である。
馬天ノロの勾玉を携えた寧温は晴れやかに宣誓した。
「キンマモンの託宣を証明した。これより御内原を聖地とする」
「孫親方の仰せのままに」
大あむしられ達が一斉に寧温の前に跪《ひざまず》いた。
一方、御内原への出入りを禁じられた徐丁垓は、遊郭で憂《う》さを晴らしていた。腹いせに遊女を殴り、蹴飛ばし、腕の骨をへし折ってやった。それでも徐丁垓は気が収まらない。
「おのれ、あの糞アマ。俺様を愚弄《ぐろう》してタダで済むと思うなよ。子宮を引きずりだして溲瓶《しびん》にしてくれるわ。それから斬った首を死蝋《しろう》にして溶けた目ン玉を吸い出してやるぞ」
徐丁垓は死の脅迫よりも、生き恥を味わわせるのを何よりも尊《たっと》ぶ。斬った首が泣くことはないし、叫び声をあげるわけでもない。生きているからこそ苦痛が身に染みるのだ。恋人との仲を切り裂くのは終わった。雅博は二度と寧温を信頼することはないだろう。次にすることはもう決めてある。
廊下から大|跨《また》ぎの足音が聞こえる。襖《ふすま》を乱暴に開けたのは朝薫だった。
「徐太監、ぼくをこんな所に呼び出してまで聞かせたい話とは何だ?」
徐丁垓の舌には遊女の抜いた髪が絡みついている。ごくりと飲み込んだ髪が喉に落ちていく様子に朝薫は反吐《へど》が出そうだった。
「徐太監、御内原に入れない腹いせにしては度がすぎるぞ。うえっ……」
「喜舎場親方、そう怒らずに。まずは一献交わしましょうか」
「頼むから清国に帰ってくれ。金なら幾らでも出す」
朝薫が銅銭の束を投げつけた。これで足りないなら屋敷を売ってでも工面するつもりだった。もう徐丁垓の露悪趣味にはうんざりだった。
「喜舎場親方に面白いものを見せようと思いましてね。これをご覧ください」
徐丁垓が広げたのは王府の系図座の書物だ。首里士族の血統を記録した家系図は、許可なく閲覧することのできない機密事項だ。出生から財産、死亡に至るまで正確に記された王朝五百年の血脈の流れだった。しかも持ち出してきたのは王統譜だ。国家の最高機密文書ではないか。
「清国人のくせに系図座に入るとは何事だ。いくら国相でも許されないぞ」
「まったくこいつは頭が固いんだから。有事なんだから大目に見てくださいよ。実は調べたところ王府に謀叛《むほん》の動きがあることがわかったんですよ。クククク……」
押入から物音がする。中には身柄を拘束された嗣勇が押し込められていた。
同時刻、京の内で大あむしられ達を従えた寧温が結束していた。
「聞け。大あむしられ達よ。賢明なそなた達なら今の王府がどうなっているのかわかるだろう。国相・徐丁垓の暴走は留まることを知らず、首里天加那志の寵愛を笠に着て清国に主権を売り渡そうとしている」
宗教世界の巫女たちはとっくに異変に気づいていた。キンマモンが現れるのは国家の一大事のときだけだ。ただノロたちは出来るだけ言葉を濁すようにしている。老いを理由にセヂが弱くなったといえば、不吉な予感を誤魔化せた。ただこう聞かれたら、返す言葉がない。
「第二十代の琉球王国の国王は誰なのか?」と。
誰もがうっすらと尚泰王が最後の王であることを感じていながら、知らないふりをしている。それは宗教世界の崩壊と同義だからだ。願わくば崩壊がゆっくりと起こってほしい。老女たちの人生が存続している間だけは王国も存在していてほしかった。
「キンマモン様が現れたのも我らの不徳の致すところじゃ」
「しかしなぜキンマモン様がノロにではなく表十五人衆の孫親方に?」
寧温は馬天ノロの勾玉を頭上に掲げた。
「これを見よ。これは王朝の始祖・尚巴志《しょうはし》の叔母である馬天ノロの勾玉である!」
上級ノロたちが驚きの声をあげた。真牛《モウシ》が聞得大君在位中、血眼《ちまなこ》になって探していた馬天ノロの勾玉がこの世に現れたのだ。大あむしられ達の霊感は真贋を見極める。見れば、勾玉に宿るセヂは第二尚氏王朝の聞得大君が持つ複製品とは桁違いの力だ。馬天ノロは群雄割拠の三山時代に尚巴志王の叔母として生まれ、天下統一を成し遂げた初代聞得大君だ。
「馬天ノロ様の勾玉を所持しておられたのは孫親方だったのか!」
伝説の馬天ノロの勾玉に大あむしられ達が再びひれ伏した。この勾玉を世間に出せば第一尚氏王朝の末裔であると宣言することと同じだ。それがどんな危険を呼び起こすのか寧温に覚悟はできている。聖域である京の内で寧温はノロ達に結束を求めた。
「キンマモン様は私に王府のダニを駆除せよと命ぜられた。国相・徐丁垓は首里天加那志を懐柔《かいじゅう》し、王府の政策の全てを牛耳《ぎゅうじ》っている。また国相は御内原の女官を襲い、王宮の秩序を激しく乱しているのは周知の通りだ」
寧温は聴衆を充分に惹きつけて一際高く声を張りあげた。
「王府の敵、国相・徐丁垓を討つのだ!」
白装束《しろしょうぞく》の巫女たちが興奮して立ち上がる。まるで本物の馬天ノロの声を聞いているかのようだ。かつて馬天ノロもこうやって巫女たちを纏《まと》めていたのだろう。伝説の巫女の再臨にノロたちの士気が頂点に達した。政治の現場から切り離され、王宮の隅に追いやられていた宗教世界がひとつにまとまる。大あむしられ達が拳《こぶし》を突き上げる。
「孫親方に、キンマモン様のご加護あれ!」
空に稲光の龍が間断なく現れていた。
辻の遊郭に落ちた雷が徐丁垓の顔に照りつける。ついに徐丁垓が打って出た。
「喜舎場親方、これで私の言っていることを信じていただけただろうか。クククク……」
「信じられない。第一尚氏王朝の末裔は全て首里から追い出したはずなのに」
王統譜を読んだ朝薫の手が震えている。第一尚氏は第二尚氏によって滅ぼされた王朝で、血縁関係は断絶している。クーデターで興した第二尚氏は第一尚氏の血を根絶したはずだった。以来、第二尚氏は系図座で士族の血脈を監視していた。王統譜を素直に読む限り、第一尚氏は全員いなくなったことになっている。そこに絡繰《からくり》がある。
「第一尚氏の一族の中に明国に亡命した者がいるだろう。この系図と合わせてみればわかる」
徐丁垓が差し出したもうひとつの台帳は明国における琉球人の系図である。
「明国に逃れた第一尚氏は福州《ふくしゅう》で孫姓を名乗ったのだ。不都合な血脈を明国で洗い直すとは考えたものだ。クククク……」
明国の系図と付き合わせると確かに尚姓から孫姓へと改めた経緯が記されている。徐丁垓の指摘の通り、孫家は再び明国を出て琉球に戻っていた。これが不自然にならなかったのは、琉球人がふたつの名前を使うからだ。士族は琉球式と清国式のふたつの名前を持ち、状況に応じて使い分ける。薩摩に対しては琉球名、清国に対しては清国名で署名するのが通例だ。そして国内においてはどちらの名前を使ってもよい。
徐丁垓が拉致した嗣勇を引きずり出す。猿轡《さるぐつわ》を嵌《は》められ、縄をかけられた嗣勇が朝薫の足下に丸太のように転がった。
「系図が示すように、こいつの正体は第一尚氏だ。孫寧温は兄を王位に就かせるために王宮に入ったのだ」
「まさか寧温が……。そんなことあり得ない」
また雷が辻の街に落ちる。朝薫は寧温との想い出が踏みにじられていく気分だ。私塾時代のことを思い出す。寧温の向学心の強さは国のために役立ちたい一心からだと信じていた。同志としてライバルとして切磋琢磨《せっさたくま》してきたからこそ、史上最年少で科試を突破できたのだ。それが謀叛のためだったとは、朝薫は信じたくなかった。
「寧温が謀叛を企むなんて。ぼく達を騙《だま》していたなんて……」
動揺する朝薫に徐丁垓が最後の一押しをかける。
「わかってるんですよ喜舎場親方。孫親方を好いているんでしょう」
「何をバカなことを。寧温とは私塾時代からの同僚だ!」
朝薫がムキになるのを見た嗣勇は、なんて隠すのが下手なんだろうとがっかりした。もう朝薫は徐丁垓の手の内に取り込まれたも同然だ。
「知ってましたか? 孫親方は薩摩のお役人と接吻した関係なんですよ。げへへへへ」
「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だっ!」
徐丁垓は舌先を朝薫の目の前で躍らせた。
「不覚にも私と雅博殿は間接的に口づけしたことになっちまいましたよ。まさか兄弟になっちまうとはな。ほらこの舌を吸えば四人|纏《まと》めて接吻兄弟ですよ。ひーひひひひ」
「やめろやめろやめろ! もうたくさんだ。ぼくを苦しめるのはやめてくれ」
「あんな淫売を庇《かば》う価値なんかありませんよ。所詮、私と同じ穴の狢《むじな》、いや宦官ですからね」
悪魔の誘惑によって次第に朝薫が落ちていく。この後、徐丁垓はまた一人芝居で寧温との情事を繰り広げた。朝薫は嘔吐し、噎《むせ》び泣いた。あまりにも苦しくて胸から血を噴き出しそうだった。こうやってひとりで藻掻《もが》いても朝薫の想いは叶わない。やがて疲れ果て、枯れ果てた朝薫は憎悪の炎を立ち上らせた。
――寧温、君はぼくの敵だ!
ついに朝薫が友情を翻した。
聖地となった御内原は王といえども簡単には入れない場所になってしまった。神職に昇格した女官たち全員にノロの白装束が与えられる。御内原は華やかな色味を失ったが神の庇護を受けて再び平和を取り戻した。暴漢が誰なのか重臣たちは知っていたが、その名は伏せられている。
奥書院奉行の大親はほっと一安心だった。
「孫親方の慧眼に感謝いたしますぞ。徐太監の毒牙から御内原を守るにはこれしかない」
「王族や女官たちには不自由をかけることになりますが、死体が出るよりはマシでしょう」
御内原に入ったノロたちは後之御庭《クシヌウナー》で神唄を歌いつつ神事を行っている。厳粛な式典はまるで徐丁垓の毒牙にかけられた女官たちの追悼のようだった。
「しかし孫親方、神事には期限がございます。いつまでも御内原を封印するわけにはいきません」
――早く徐丁垓を王宮から追い出さねば……。
寧温は紫禁城に窮状を訴える書簡を送ることにした。徐丁垓の非道の限りを道光帝《どうこうてい》に報告し、皇帝の名において罷免《ひめん》してもらう。それが最も確実な方法だった。ただし尚泰王に決裁してもらわねばならない。常に背後で文書を監視している徐丁垓が見過ごすとは思えない。寧温が相談する相手といえば朝薫くらいのものだ。
南殿に呼び出された朝薫は不機嫌そうに押し黙っていた。いつもなら笑顔で応じてくれるはずの朝薫なのに、何があったのか寧温にはわからない。
「あの朝薫兄さん、内密なご相談がございます」
「孫親方、ここは王宮です。公私のけじめはつけていただきたい」
朝薫の冷たい言葉に寧温が肩を竦《すく》めた。これから話す内容を鑑みても不謹慎だと思い直す。
「喜舎場親方に国相・徐丁垓のことでご相談がございます。国相の横暴は止まることを知りません。このままだと王府は清国の属領にされてしまいます。どうか評定所筆者たちを纏めて上訴文をお出しください。私は大あむしられ達の上訴文を集めます」
「国相を罷免するということか? 生憎《あいにく》ぼくは徐太監を信頼している」
朝薫は汚物でも見るように露骨な嫌悪感を寧温にぶつけた。まるで不意に遭遇した犬の腐乱死体でも見るような眼差しだ。
「どうしてですか? あんな下品な国相に忠誠を誓うなんて喜舎場親方らしくありません」
「下品なのは孫親方も同じではないか。同族嫌悪ならわかるが」
「徐丁垓に一体何を唆《そそのか》されたのですか?」
「孫親方と御仮屋の浅倉殿が特別な関係だと聞かされた。王府の役人として恥を知れ!」
寧温の脳裏に鳳凰木での想い出が過《よぎ》った瞬間、大粒の涙が溢れた。徐丁垓は雅博との恋心を引き裂くだけでなく、朝薫との信頼を踏みにじろうとしている。
「どうやらその涙は事実らしいな。薩摩に取り入るために体を売ったんだな」
「違います。私をそんな目で見ないでください」
「徐太監がいなくなって一番得をするのは弱みを握られている孫親方ではないのか?」
もしかしたら徐丁垓が自分の素性をバラしたのかと寧温が身を竦ませる。たとえ女であることを朝薫が知っていても寧温の意志は変わらない。
「私の弱みなど、大義の前では塵《ちり》にすぎません」
朝薫は一拍、間を置いた。
「第一尚氏王朝の末裔であることが塵と同じだと言うのか。評定所に潜り込んだのは王権を奪還するためであろう! この裏切り者め」
朝薫は唾を吐き捨てて寧温の元を去った。寧温は血脈の秘密を曝露されて、しばらく呆然としていた。刎頸《ふんけい》の友だと誓い合っていた友情が音をたてて崩れた。
ときを同じくして評定所筆者たちが非常招集されていた。王の権威の象徴である王印が紛失したというのだ。これがなければ王府は布令ひとつ発布できなくなる。今朝、薩摩への趣意書に決裁を求めた三司官が王印の紛失に気づいたのだ。
三司官たちが怒声を張り上げる。
「探せ、探せ、探すのだ。評定所は何をしていたのだ。この失態は許されないぞ」
王印は評定所で厳重に保管されている。実用的でありながら、保管は式典用の王冠以上に神経を使っていた。黄金色を放つ王印は即位のときに清国皇帝から贈られたものだ。
王宮の騒動を傍目で見ていた徐丁垓が苦笑する。
「困りましたねえ。王印がなければ、この書簡は紫禁城に送れませんよ。クククク……」
徐丁垓がしたためたのは、尚泰王を親王へと昇格させる嘆願書だ。徐丁垓が言うには紫禁城での根回しは既に出来ていて、後は書簡を送るだけだそうだ。郡王から親王へと昇格できるのは百年に一度あるかないかのチャンスだ。
冊封体制はこの時代における東アジアを中心とした国際連合だ。郡王から親王への昇格は常任理事国入りと同じくらい影響力がある。徐丁垓は琉球がいかに高度な文化の国か、冊封国のみならず、道教の教主など宗教家や影響力のある文化人に至るまで書簡を送り続けた。徐丁垓は、どこをどう押せば思った通りの反応が出るのか、紫禁城の仕組みのツボを熟知している。
三司官たちは上を下への大騒ぎだ。
「徐太監、王印は必ず見つけますゆえ、もう少し待ってくださらぬか」
「これで親王になるなんて道光帝が知ったらさぞお怒りになるでしょうね」
「いやいや。こんな失態は王朝始まって以来のことで、決して管理が杜撰《ずさん》なわけではありません」
「紛失したのではなく、盗まれたのかもしれませんね」
「王印を盗んで何の得になるというのでしょう」
「誰が得するのか考えたら自ずとわかるでしょう」
「王府の中に親王昇格で損をする人などおりません。いやこれは国民の悲願でございます」
徐丁垓が評定所を見渡して寧温がいないことを指摘した。
「この一大事に、なぜ孫親方がいないのですか?」
「さっきまでいたはずですが……」
しばらくして評定所に寧温が戻ってきた。北殿あげての大捜索に何が起こったのだろうと目を丸くしている。
「王印を紛失したかもしれないですって? 確か昨日、私が所定の位置に戻しておいたはずですが……」
三司官が寧温の言葉に足を止めた。
「なんだと。じゃあ孫親方が最後に見たのだな?」
「はい。確かに私が片づけました」
そのとき、徐丁垓の長い腕が寧温の視界を塞いだ。
「孫親方が盗んだとは考えられませんか? クククク……」
「なぜ私が王印を盗むのですか。理由がありません」
寧温が徐丁垓の腕を払いのける。しかしまた腕が伸びてくる。
「だって孫親方は清国の恩情を嫌がっていたじゃないですか」
「だからと言ってそんな子ども染みた真似はしません。徐太監こそ私が遭難者保護を訴えたのを怨んでいらっしゃるのですね」
「じゃあ、屋敷を捜索しても構いませんか? 潔白なら問題ないでしょう」
「私だけでなく評定所筆者全員の屋敷を捜索するのが筋というものでしょう」
徐丁垓が大与座に役人全員の屋敷の捜索を命じた。
「筆者、表十五人衆、三司官は証拠隠滅の恐れがあるので北殿で待機せよ」
長い夜だった。嫌疑をかけられた役人たちは疑心暗鬼に陥《おちい》っていた。全員、自分が犯人ではないという確信しかない。大与座の役人たちが戻ってくるたびに無罪放免になった筆者から安堵の息が漏《も》れる。また大与座の役人が報告にあがった。
「喜舎場親方の屋敷も捜索しましたが王印はありませんでした」
「当たり前だろう。なぜぼくが王印を盗まなきゃいけないんだ。これでも清国派だぞ」
朝薫は憮然として帰り支度を始める。そのとき「王印を発見したぞ」と城外から声が響く。
「孫親方の屋敷に隠してありました!」
仲間たちの蔑《さげす》んだ眼差しが寧温に集中砲火を浴びせる。
「違います。私じゃありません。これは罠《わな》です。誰かが私を嵌めようと仕組んだ罠です」
自分が犯人ではないとわかっているのに、否定すればするほど不利になっていくのが悔しい。盗んだ証拠は不十分だが王印の管理責任を問われた寧温は自宅謹慎を命じられた。
それからしばらくして清国から王印の管理もできない琉球は、親王への昇格は時期尚早との答えが返ってきた。
あまりにも出来すぎた話だと寧温は訝《いぶか》る。しかし徐丁垓は王府への信頼を築き損ねたことになる。あれだけ昇格確実と吹聴していたのに、反故《ほご》にするのは解《げ》せない。徐丁垓がどこを向いて政治をしているのか、彼は何を成そうとしているのか、寧温は確かめてみるしかないと決意した。
北部の景勝地である万座毛《まんざもう》は、大自然の彫刻とも言える雄大な景色が広がっている。海底の一部が隆起した断崖の中腹には巨大な円形の窓がある。この窓から臨む珊瑚礁《さんごしょう》の海が、複雑に表情を変える様は天然の万華鏡《まんげきょう》を彷彿とさせる。風と波が巧みに作用し合い、足下で砕ける音は万雷の拍手にも聞こえるのだ。
ここは王が北部に行幸するときには必ず立ち寄ったとされる琉球屈指の景勝地だ。その頂《いただき》に二人の影が現れた。崖の上には無数の烏《からす》が舞っている。烏の鳴き声は凄まじいブーイングの合唱のようだ。
「徐太監、全てあなたの陰謀だとわかっております」
「孫親方、根拠のない話を聞かせるためにわざわざ呼びつけたのか?」
万座毛に吹きつける強風で帽子を飛ばされそうだ。空も海も雷のように轟《とどろ》いている。
「徐太監は琉球を清国に売り飛ばすのが目的だとばかり思っておりました。王府の行政機構には関心がなかったはずです」
徐太監の頭上で烏が禍々《まがまが》しく鳴く。餌食《えじき》になれとばかりに。
「清国寄りの政策を見せておいて、本当は琉球を乗っ取るおつもりなんでしょう?」
徐丁垓の舌がずるっと胸元まで落ちた。
「さすが孫親方は陰謀に敏感だな。貴様にも協力してもらうぞ」
「私は国を売ったりなどしません」
「私が第二十代の琉球国王になる。クククク……」
寧温の目論見《もくろみ》通り、徐丁垓の真の目的は琉球そのものの乗っ取りだった。
「初めのうちは清国に帰るつもりだった。しかし予定変更だ。この国で王になる方がずっと面白いと思い直した」
「琉球人は清国人の王位を認めません。どの国でも王室は血脈によって維持されております」
徐丁垓が頭上の烏を追い払おうと石を投げつけるふりをする。
「そんなことは承知の上だ。それでも民に私を王と認めさせる自信がある」
「随分大きく出ましたね。脳に梅毒菌でも回っているんじゃありませんか?」
「知ってるか孫親方? いずれ冊封体制は滅びる。清国は二等国に落ちるだろう」
また石を投げるふりをして烏にフェイントをかける。烏はもう驚かなかった。
「冊封体制が滅びたら、琉球も無事ではすみません。それでも尚、琉球を選ぶ理由は何ですか?」
「理由は三つある。ひとつ目は政策転換が早いこと。二つ目は地政学的に列強の緩衝地帯にしやすいこと。こちらから列強に物資の補給を申し出れば、支配するよりも維持費がかからずにすむ」
徐丁垓は列強がどういう論理で侵略してくるのか阿片《あへん》戦争で熟知していた。彼らは支配の足がかりに土地の借款契約を行う。そうやって香港が英国領にされてしまった。一見、友好的とも思える契約には列強の本音が隠されている。植民地政策には金がかかるのだ。それは自国の工業化を推し進めることが、列強にとっても経済的な負担であることを示している。工業力をつけるには資金を効率よく投下しなければならない。労働人口の大小が国力を表していた古い植民地主義は資本主義の前に陳腐化していた。
「香港の無法地帯ぶりを見るがいい。少数の英国人が圧倒的多数の清国人になんの施しもしないのだぞ。やつらは政治がほしいわけではない。金がほしいだけなのだ」
徐丁垓が烏に向かって本物の石を投げつけた。目を潰された烏が無様に風に揉まれて海に落ちていく。その様子に徐丁垓が「油断大敵」と嗤《わら》う。
「孫親方、スペイン帝国の没落の本当の理由がわかるか?」
「はい。植民地の富に頼りすぎて本国の生産基盤を疎《おろそ》かにしたことです。植民地は豊かになれば必ず独立します。スペインは植民地の政治には成功しましたが、本国の政治には失敗しました」
「その教訓から英国は考えた。清国の全てを支配するには金がかかりすぎる。しかし領土はほしい。そこで考えたのが借地権だ」
徐丁垓は逆の論法で列強と交渉すればよいと言う。複数の国を同時に睨み、政治の駆け引きの場にすればよい。ロシアが強く出れば米国と交渉し、米国の影響が強まればフランスと手を組み、フランスが図に乗れば英国に鞍替《くらが》えする。そうやって大国エゴを上手く利用すれば琉球の主権は確保される。
「この国はそういう小狡《こずる》い外交に長《た》けている。日本を巧みに使って清国を苛立たせてきたではないか。列強と生きる素地が琉球にあった」
「では徐太監、三つ目の理由はなんですか?」
徐丁垓はにたーっと嗤った。
「それは、簡単そうだったからだよ。クククク……」
「この外道め。許さない!」
寧温が平手打ちを喰らわせようとした手を、徐丁垓がねじ伏せる。
「ひとつ訂正しよう。思った以上に手強《てごわ》い奴がいた。おまえさえ邪魔しなければ私の王国はすぐに完成したはずだった。よくもいちいち邪魔してくれたな」
しかし寧温にはわからないことがある。邪魔なら王宮から追い出せばよいだけだ。徐丁垓はいつでも寧温の正体を明かせたはずなのに、そうしなかったのはなぜだろう。
「私は貴様が気に入った。妃として迎えてやるから光栄に思え。クククク……」
「誰が……おまえなんかと……」
「第一尚氏王朝の娘を妃にすれば私の王位は正当になる。これはおまえのためでもあるぞ。第一尚氏王朝を間接的に再興させることになるのだから」
生臭い舌が寧温の首筋を這う。舐められた側から皮膚が腐っていきそうだった。
「妃にする理由も三つあるぞ。ひとつ目は血統の正しさ。二つ目は天才的な知性と教養。十三カ国語を話す才能は列強との交渉に役に立つ。そして三つ目、これが一番大切だ」
徐丁垓は寧温の耳元に熱い息を吹きかけた。
「私に惚れているからだよ。ひーひひひひひ」
「いや雅博殿。助けて! 雅博殿」
「雅博はおまえの淫乱さに愛想を尽かして去っていったじゃないか」
羽交い締めにされていた寧温が袖に忍ばせていた護身用のトンファーで徐丁垓の鳩尾《みぞおち》を打撃する。油断していた徐丁垓が手を緩めた瞬間、トンファーの殴打が降り注いだ。
「死ね。徐丁垓!」
「女ごときに私を倒せると思っているのか」
トンファーは琉球発祥の攻防一体の武器だ。トの字形の中央にグリップがあり、柄の長短を回転させることで攻撃と防御を使い分ける。帯刀を許されない琉球において最も好まれた武器だ。袖に携帯しやすいトンファーは刀よりも多様な攻撃が可能だ。
寧温がトンファーを小気味よく回転させて構える。
「本部流免許皆伝!」
「兄妹そろって往生際が悪いな」
寧温のトンファー捌《さば》きを軽くかわした徐丁垓は、いたぶるように万座毛の崖っ縁まで寧温を追いつめていく。寧温が一歩踏み出せば、徐丁垓は斜めに逃げる。わざと隙を見せて寧温を三歩前に誘い、絶妙なタイミングで攻撃をかわす。
――もしかして誘導されている?
ふと寧温が後ろを振り返って息を呑む。踵《かかと》から先は断崖絶壁だった。
「孫親方、護身術程度の技量で私を仕留められると思うなよ」
肩の関節を外す音がした。見ればぶらんと下がった腕が足首まで伸びているではないか。蟷螂拳の秘奥義は四肢を触手のように使う。これで嗣勇は敗れた。寧温はもはやこれまでと悟った。しかし国のためにこの男だけは生かしておけない。
「馬天ノロよ。私に力をお貸しください」
飛んできた徐丁垓の腕を掴んでそのまま断崖に身を投げた。
「徐丁垓、敗れたり!」
寧温に引きずり込まれた徐丁垓がバランスを崩して落ちる。落下による無重力感覚で内臓が持ち上がった。寧温は頭を下にして断崖を滑るように落ちる。落ちれば助からないと言われる万座毛は、珊瑚礁の剣山が待ち構えていた。
徐丁垓は滑り落ちながら宙を足掻《あが》いている。寧温の足下から侮蔑の声が響いていた。
「この売女《ばいた》、道連れにするつもりだったんだな」
――これでいい。国は救われる。
海面激突まであと少しというときだ。寧温の胸元にあった馬天ノロの首飾りが岩場の突起に引っかかった。体が急に上下反転して落下が止まる。寧温は馬天ノロの首飾り一本で海と空の間で宙づりになっていた。
「助かったの? 徐丁垓は?」
右足がやけに重くて下を見た瞬間、寧温は仰天した。徐丁垓の手がしっかりと踝《くるぶし》を握っているではないか。砕け散る波飛沫《なみしぶき》の合間から亡者《もうじゃ》のような声がする。
「抱いてやった恩を忘れたのかああああっ!」
「この国賊。地獄に堕《お》ちろ!」
寧温は足袋《たび》を少しずつずらして徐丁垓を振り落とそうとする。しかし徐丁垓は爪を食い込ませてなかなか落ちてくれない。寧温は咄嗟に簪《かんざし》を抜いて徐丁垓の掌に突き刺した。
「死ね。徐丁垓!」
断末魔の叫び声をあげながら徐丁垓が海に落ちていく。波が引いた瞬間、紺碧の海の合間から数百万本の牙を剥き出しにした珊瑚礁が口を開けた。
「おのれ寧温! 死んでも貴様を許すものか。必ず復讐《ふくしゅう》してみせるぞ……」
海面に激突した瞬間、徐丁垓に波の重しがのし掛かる。一気に海底に引きずり込まれた徐丁垓は針の山に突き刺さった。万座毛の海が一面血の色に染まる。
――真鶴、敵を取ってやったよ。
断崖の中腹から見上げた青空が、雲ひとつなく晴れ渡っていた。崖下から烏の鳴き声がする。まるでここに餌があると仲間たちを呼んでいるようだった。
翌日、鮫《さめ》に食われた徐丁垓の首のない死体が恩納間切《おんなまぎり》の浜に打ち上げられた。
打ち吹ちゆる風も音高き波も
此の世仇なする烏恨む
(打ち吹く風も波の音も、この世の森羅万象《しんらばんしょう》の全てがおまえのことを憎んでいるようだ)
徐丁垓が死んで王府に平和が訪れたと思った矢先のことだった。王宮に戻った寧温に人生最大の危機が訪れようとしていた。久慶門《きゅうけいもん》の前では朝薫が大与座の役人を従えて寧温の出勤を待ち構えていた。たちまち大挙した役人たちに縄をかけられた寧温は自分の身に何が起こったのかわからずに狼狽《うろた》えるばかりだ。
朝薫が厳しい声で断罪する。
「謀叛人、孫寧温。国相殺しの容疑で逮捕する」
確かに徐丁垓を殺したのは事実だ。しかし他に方法はなかった。あのまま徐丁垓を野放しにしていたら、琉球は完全に乗っ取られていたはずだ。それにしても万座毛での出来事は誰も見ていなかったはずなのに、どうしてわかってしまったのだろうか。不思議に思っていると朝薫が簪を差し出した。
「これが徐太監の遺体の右手に刺さっていた。孫親方、これはあなたの簪だろう」
「どうして私のものと断定するのですか。どこにでもある簪ではありませんか」
その言葉を聞いて朝薫が胸を痛める。確かにどこにでもある簪だが、寧温にとって特別なものであってほしかった。
「これはぼくが孫親方に差し上げた簪だ。覚えていないのか。英国船が漂着した嵐の日に、ぼくが髪を結って孫親方に挿してあげただろう」
そういえばあのとき朝薫から貰った簪だと思い出した。あの日のことは長い年月の間ですっかり忘れてしまっていた。しかしそう答えたら朝薫はもっと悲しむだろう。彼にとってあの日は今でも一番美しい想い出なのだから。
「孫親方、あなたは変わってしまった。そのことが残念でならない」
「朝薫兄さんが一方的に冷たくしたんじゃないですか」
徐丁垓は鮫に食われても尚、しつこく寧温を追い詰めてみせた。徐丁垓は死に際でさえ寧温に復讐してやることを考えていた。まさに鮫に首を食い千切られるその瞬間まで。そして彼の怨みは手に突き刺さった簪を朝薫の元に届けてしまった。死んでも狙った相手に食らいつく徐丁垓の執念は、怨霊《おんりょう》以上だ。今頃、徐丁垓は鮫の臓腑《ぞうふ》の中で高笑いしているに違いない。
「孫親方、ぼくは少なくともあなただけは信じていた。血脈の素性を隠し王宮に潜り込んだと知っても、まだ信じていた。しかし憎い相手とはいえ、国相を殺すなど言語道断だ」
寧温の頬から一筋の涙が流れた。
「徐丁垓は琉球を乗っ取ろうとしていたんですよ」
「黙れ! よくもぼくを二度も、いや三度も裏切ったな。おい、この者を平等所《ひらじょ》へ連れて行け」
「待ってください朝薫兄さん。これには事情があるのです」
「事情は取り調べで述べるがいい。国相殺しの罪は決して軽くないぞ」
朝薫が避けるように背中を向けたのは、これ以上話をしていると涙が出そうだったからだ。縄をかけられた寧温は門を潜ることなく、平等所へと連行された。これが王宮との今生《こんじょう》の別れになってしまうとは露とも思っていなかった。
徐丁垓の殺害に不快感を示したのは道教の教主・龍虎山天師大人だ。頻繁に書簡を交わしていた教主は徐丁垓の教養の高さに惚れ込んでいた。会ったことはないが、美文をしたためる知性は富貴の証《あかし》だと信じていた。清国もまた外交ルートを通じて厳重に抗議してきた。かつて徐丁垓の素行の悪さに辟易《へきえき》して琉球に捨てたという経緯も忘れて。清国は報復として福州の琉球館に出入りする商人たちとの交易を今後五年間、禁止すると通告してきた。経済制裁を受けた琉球は清国との信頼回復に頭を抱えている。これが恐いから徐丁垓を処罰しなかったのだ。
寧温の取り調べも佳境に入っていた。平等所では、拷問による取り調べが続いている。石敷きにされた寧温が絶叫して果てた。
「さあ自白しろ。国相を殺した動機は何だ?」
「また気絶しやがった。おい水を持ってこい」
ぐったりとした寧温に容赦なく水がかけられる。髪は乱れ、体の至る所に痣《あざ》ができていた。
「私は……。私は、国を守りたかっただけでございます」
「それで国相を殺したのか。首里天加那志を親王に昇格させようとご尽力してくださったお方だぞ」
「いいえ。徐丁垓は、そんな人ではありませ――ああああああっ!」
もう一枚、石を膝に載せられてまた寧温が果てる。これが十日以上も続いていた。
「しぶとい奴だ。こちらでは調べがついておるのだ。おまえは謀叛を起こそうとしたのを国相に悟られたので、口封じをしたのだろう」
「私は、謀叛など企んでおりません。徐丁垓の悪事は奥書院奉行の大親も知るところでございます。女官を暴行したのは誰ですか? 王府の主権を清国に売ったのは誰ですか?」
「政敵同士という噂は本当のようだな。主義主張は違えど、国相は首里天加那志の信頼のお厚いお方だった。聞けば、首里天加那志の教育を巡って対立したこともあったそうだな」
「あまりにも朱子学に拘《こだわ》りすぎるからでございます。首里天加那志は諸外国の文学を広く修めなければなりません」
「ベッテルハイムを通じ大禁物の蘭書を使おうとしたという噂は本当か?」
「それは嘘です。英語とロシア語の日常会話をお教えしただけでございます」
「切支丹《キリシタン》の疑いが出たな。もう一枚、石を載せろ」
「なぜそれが切支丹になるのですか。あああああああっ!」
「また気絶しやがった。もはや尋問はこれまでだな」
明日、判決が言い渡されることになっていた。この流れから斬首は免れないものと役人たちは、段取りを始めていた。安謝湊において父と同じように寧温の首が刎《は》ねられる。真新しい着物、新しい筵、そして清めた日本刀。浜が血で染まっても、波が一晩で真っ白にしてくれるだろう。まるで無垢な少女のように。
平等所の大親が判決文をしたためていた。このときばかりは大親も感慨に耽《ふけ》る。王宮は人を生き急がせる場所だ。かつて聞得大君が生き急いだあまり無系に落とされて王宮から追放されたように。史上最年少で科試に合格した神童が、謀叛人となり、斬首され消えていくのもまた王宮の魔力であろう。
孫寧温 斬首
と明日読み上げる判決文を書き終えた大親は深い溜息をついた。そんな夜のことだ。平等所へ御仮屋の雅博が訪れた。本来、平等所は外国人が立ち入る場所ではない。裁判の公平性が大国の介入によって左右されるからだ。直ちに門前払いにしたが、雅博は門の前で声を張り上げた。
「薩摩藩主・島津|斉彬《なりあきら》の書簡を届けに参りました。無理は承知の上でご高配賜りたくお願い申し上げます」
新しく藩主になったばかりの島津斉彬の書簡と聞いて大親が飛び出してきた。書簡を無視して外交問題に発展したら大親の首が飛ぶ。そして書簡を読んだ大親は目を丸くした。
「孫親方の減刑を要請するだと? 主権の侵害である。絶対に受け入れるわけにはいかない」
「書簡をよくお読みください。減刑と引き替えに薩摩の兵を千人琉球から引き揚げます」
雅博は寧温が捕まったと聞いて真っ先に動いた。徐丁垓を殺した理由が雅博にはわかるからだ。やはり寧温は純粋な人間だったと雅博は思った。
しかしいくら王府の敵とはいえ国相を殺すとなると相応の刑に処せられる。寧温は覚悟の上と言うだろうが、雅博は納得がいかなかった。せめて誤解の償《つぐな》いだけでもさせてほしい。雅博は在番奉行に掛け合い、寧温の減刑を嘆願する書簡を藩主に求めた。そして念願叶って藩主からの書簡を手に入れた。
雅博が滔々と寧温の功績を讃える。
「薩摩にとって孫親方は余人を以て替えがたい人物でございます。元々、薩摩が兵力を増強したのは徐太監の急進的な清国寄りの政策に対抗してのものでございました。徐太監の脅威が消えた今、薩摩が兵を琉球に置く理由がございません。ただし孫親方の減刑と引き替えでなければ、兵は居留させます」
「浅倉殿、それは脅しではないか。裁可に圧力をかけてはならない」
「もちろん。琉球にとって、また孫親方にとって適切な選択を大親がお決めください」
「判決は覆らない。薩摩の兵の撤退と孫親方の罪科は全く別物である」
大親はそう告げて席を立った。
月の明るい晩だった。帰り道、雅博は寧温との想い出に耽りながら夜道を歩いた。
「孫親方、いつかの私の非礼をお許しください――」
昔見初めたる人や誰がやゆら
月に尋ねぼしや秋の今宵
(あなたを初めて見初めたのは誰でしょうか。中秋の名月に尋ねてみたいものだ)
そして判決の朝がやってきた。取り調べ中の寧温の悲鳴は首里の噂になっていた。あの拷問に耐えているのが謀叛人であると知り、民は寧温を一度見たくなった。科試最年少合格者で表十五人衆に最短期間で上り詰めた宦官だと聞くと、ますます興味が湧いてくる。立身出世の街道を最速で駆け抜けた役人が罪科を問われ落ちていく。しかもその役人は美しき宦官という。そのスキャンダラスな人生が庶民の好奇心を否応なくくすぐるのだ。平等所は野次馬たちで押すな押すなの賑わいだ。
囚人服で表に出された寧温は窶《やつ》れていたが、それが却って美貌に凄みを増したように映る。
「あれが元表十五人衆の孫親方か?」
「噂に違わぬ美しさだ。本当に男か?」
「宦官ってタマがない男だよな?」
寧温が悲しそうに群衆に目をやる。こんな姿を曝《さら》すくらいなら早く散ってしまいたかった。
――父上、お許しください。私は孫家の名に泥を塗ってしまいました。
父の遺言を裏切ってしまったのに、なぜか同じ場所で死ねることが嬉しい。安謝湊の真砂《まさご》のように白く消えていきたかった。未練が残るかと問えばいくらでも出てきそうなので、今は敢えて振り返らない。どう生きてもこういう運命だったと思うことにしなければ、怨霊になりそうだからだ。
寧温の判決文が言い渡される。平等所に凪のような静寂が訪れた。
「孫寧温。右の者、八重山《やえやま》島に一世流刑とする!」
「一世流刑?」
斬首と覚悟していたのに、流刑と聞いて意外な思いがした。と同時に安堵の息をつく。それで自分がまだ生きていたかったのだと知った。八重山に一世流刑されても、それが二度と首里に戻れないことだとわかっていても、仄かな希望を感じてしまう。精神は死にたいと望んでいても、この肉体はどんな境遇になっても生きたいと欲するのだ。
流刑への第一歩は想い出の人たちとの別れ道だった。流人を乗せる公用船の出発に合わせて、寧温は首里の丘を下って行った。破天塾《はてんじゅく》があった鳥堀《とりほり》の坂道には麻真譲《ましんじょう》が悲しい目をして寧温を見届けようとしていた。
「麻先生。私は不甲斐ない弟子でした。先生の教えを守れなくてごめんなさい」
麻はまさか寧温の人生にこんな日が訪れるとは夢にも思っていなかった。こんな思いをするために私塾を興したわけではない。理と情に重きをおいたのは、王宮という欲望の巣窟《そうくつ》に惑わされないためだった。民を導く前に人として真っ当に生きる智恵を授けたかった。なのに愛弟子《まなでし》は八重山に流されてしまう。
「寧温、なぜそんなに生き急ぐのだ。出世に欲をかられたのか」
「違います麻先生。私は王府のために、民のためだけに生きてきたつもりです」
「ではなぜ、流人になったのだ。おまえの志はその程度だったのか」
麻に問われると返す言葉がない。二人の視線が縺《もつ》れ合ってやがて離れていった。
――ごめんなさい麻先生。
また群衆の中に想い出の人を見つけた。目を真っ赤に腫らした多嘉良《たから》が、男泣きに泣いている。
「寧温。寧温。どうして儂《わし》に相談してくれなかったんだ。儂が徐丁垓を殺してやったのに。それくらいの恩返しはしてやったのに……」
「多嘉良のおじさん。私はおじさんの親切を忘れません」
多嘉良が家族の肩を抱いて、恩人の最後を見届けさせている。ふっくらとした奥さん、そして寧温よりも大きな五人の子どもたちが、次々と頭を下げていく。一番小さい子はまだ多嘉良の腕の中だ。
「儂らが食っていけたのは孫親方のお蔭なんだぞ。孫親方が儂を王宮に入れてくれたから、もうひとり子どもを授かったんだ。寧温、この子の名はおまえから貰ったんだぞ」
多嘉良の小さな寧温が無邪気に笑っていた。
――おじさん、どうかお元気で。
群衆の人混みを押し退けて現れたのは嗣勇だ。嗣勇は唇で「ま・づ・る」と呼んだ。嗣勇は荷物を背負っていた。
「孫親方ーっ! ぼくも一緒に八重山に行きます。ぼくと一緒なら寂しくないでしょう」
流人の列の中に入ろうとした嗣勇が、警護の役人たちから弾き出される。嗣勇は追い返されても摘み出されても、列の中に混ざろうとした。その姿に寧温が涙ぐむ。兄は優しくて、温かくて、妹思いだった。虞美人に化けて正使の側に来たり、聞得大君の拷問にも口を割らなかった。真鶴のためならば、あの徐丁垓とも一騎打ちをする勇敢な兄だ。そんな兄が寧温は大好きだ。
――兄上、いつも私の側にいてくれてありがとう。
警護の役人の腰の下をちらちら動く影がある。目を凝らすと御内原の思戸《ウミトゥ》だった。
「孫様、寧温様。どうかこれをお持ちください」
思戸が手渡したのは絣《かすり》の反物《たんもの》だった。思戸が闘鶏で稼いだ金を全てはたいて、上等の絣を買ったのだった。商屋で値切っているうちについ遅刻してしまった。
「思戸、勝手に王宮を離れたらまた叱られてしまいますよ」
「大丈夫、あたしは蔵の中に閉じ込められていることになっているから」
思戸がにやっと笑った口元には粒ぞろいの永久歯が生えそろっていた。最初に出会った頃は小さかったのに、いつのまにか思春期の最初の階段を上ろうとしている。
「思戸、強く生きるのですよ。何があっても絶対に負けないで」
「うん。寧温様と約束する。あたしは御内原で生きていくよ」
――思戸、可愛い子。
寧温は堪えきれず嗚咽《おえつ》を漏らした。
さっきから紫色の帽子が人の頭の間から見え隠れする。あの帽子には見覚えがある。人垣の割れ目に差し掛かった瞬間、朝薫が立ち止まった。悲しみと怒りをかき混ぜて飲み干したような表情をした朝薫が無言で寧温を見つめている。
「朝薫兄さん。徐丁垓を討ったのがそんなにいけないことなんですか?」
「寧温、人の道から外れたら罰されて当然だろう。暗殺を正当化するわけにはいかない」
「あれは正当防衛です。私は徐丁垓とともに死ぬつもりだったんです。その私を流刑にしてしまうなんて、兄さんはひどすぎます」
「ひどいのは君の方だ。ぼくは何度も君のせいで苦しんできた。一度くらいぼくの気持ちを味わうのもいいだろう」
「私が流刑になるのがそんなに楽しいんですか。私は朝薫兄さんと王宮にいた日を誇りにしているのに」
「ぼくだって誇りにしたかった。ぼくを認めてほしかった。ぼくはずっと君を見つめていたんだ」
朝薫の中で怒りよりも悲しみの方が大きくなった。今まで怒っていたのは、悲しまないようにするためだったと初めて気がついた。その瞬間、朝薫が生まれて初めて大声で泣いた。
「ぼくは君が好きだった。ずっと好きだった。ぼくにも浅倉殿のように笑顔を向けてほしかったんだ!」
――朝薫兄さんが私を?
帽子をかなぐり捨てて朝薫が那覇港へと走る。ついに悲しみは沸騰して蒸気へと変わる。
「寧温、きっと戻ってきてくれ。戻ってくると約束してくれ。八重山なんかに行くなーっ!」
役人たちが朝薫の前に立ちはだかる。これ以上は立入禁止地区だ。流人たちは俗世への未練を強制的に捨てさせられた。
八重山行きの公用船が岸につく。ここで流人たちの引き渡しを行う。ひとりひとりに流人付状と呼ばれる引継書が渡され、家畜のように管理されていく。首里から八重山へ所轄が変わる瞬間だ。
「孫寧温、前に出ろ」
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流人付状     孫寧温
右者事御当国御政道要諦之職務為勤身も不省
国家御難題ニ懸曲事企、剰其非道制止之念為
懐国相徐丁垓様致殺害候ハ実証之事也。依之
八重山島江一世流刑被仰付候間、於其元厳重
可致格護様、構者共江下知可被加由、御指図
ニ而候。
子十月
評定所
八重山島
在番
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「ほう、国相殺しの謀叛人か。八重山では厳しい人頭税《にんとうぜい》が待っているぞ」
「私は決して負けません」
「みんな最初はそう言って虚勢を張るもんさ。だがすぐに音《ね》を上げるぞ。特に王宮の元役人は苦労知らずの坊ちゃんだからな」
寧温は毅然《きぜん》とした態度で船に乗り込んだ。もうこの地を踏めないかもしれないと思って、一度振り返る。今まで当然のように立っていた大地から体が切り離された瞬間、初めて恐怖心が過《よぎ》った。
公用船が風を受けて那覇港を出港する。人生最悪の日なのに、この穏やかな景色はどうだろう。きらびやかな珊瑚礁がまるで祝福しているかのようだ。寧温は出来るだけたくさん景色を記憶に焼き付けておこうと思った。丘の頂にある紅い王宮が小さく見えた。あそこを目指して駆けていた科試受験の日々が甦る。そしてあの中で駆け抜けた青春がある。寧温は女官大勢頭部の気持ちが少しだけわかる気がした。自分の人生の晴れの日も雨の日も全てを見届けていたのは、王宮の龍たちだった。
船が三重城《ミーグスク》の崖を通り過ぎる。いつかあの頂で誓った少女時代が去来した。寧温の胸に後悔の念が湧く。徐丁垓を殺したときも、判決を言い渡されたときも、一度も後悔しなかったのに、あの頂を見ると罪悪感が生じるのだ。
寧温は初めて自分を裏切ったことを恥じた。自分の中で殺した少女はどう思っているのだろう。
「真鶴ーっ。真鶴ーっ。こんな私を許してちょうだい。あなたの人生を踏みにじってごめんね。強くなれなくてごめんね」
男として生きたせいで真鶴には洞窟暮らしを強いてしまった。髪を切り捨て、雛《ひな》が鳴くたびに首を絞め、成長するごとに呪い、そして生えそろったばかりの羽をもがれてしまった。あんなにひどいことをしたのに、真鶴は不満ひとつ零《こぼ》さずにただ遠い日の姿で微笑んでいる。
三重城の頂には今の自分を見つめる真鶴の幻がいるような気がした。
「あれはもしや?」
さっきまで人気の無かった三重城の頂に人影が立った。遠目でも空に浮かぶような美しい立ち姿が印象的だった。目を凝らした寧温が息を呑む。頂にいるのは愛しい人ではないか。
「雅博殿、まさか私のために?」
海を挟んで見つめ合うふたりが互いの視線を探す。気づいてほしくて寧温は大声で叫んだ。
「雅博殿ーっ!」
と同時に雅博が三重城の頂上から叫ぶ。
「孫親方ーっ!」
潮騒に消されて互いの耳に届かない。それでも二人は互いの名を呼び合った。
「雅博殿、好きでした。ずっとずっと好きでした。ああ、真鶴になって戻りたい。船を、船を止めて。私は斬首されてもいいから、都に戻りたい」
もう一度、雅博に鳳凰木の下で抱き締められたかった。求婚されたとき、返事ができなかったらそのままついて行けばよいだけだった。理屈で考えずただ本能のまま雅博の後ろを黙ってついていく。それが若い女の振る舞い方だとやっと気がついた。しかし真鶴は八重山へと流される船の上だ。
寧温の指が三重城に立つ雅博の袖を掴みたくて宙を掻く。このまま八重山で朽ち果てたら死ぬに死ねない。
「雅博殿、雅博殿。私はきっと王宮に戻って参ります」
船や帆張ゆり里前《さとめ》や袖引きゆり
いきやす里前なげて船に乗ゆが
(船はまさに風を受けて出航していく。なのに愛しいあなたは袖を引いて私を陸に繋ぎ止めようとする。そんな私がどうして船に乗って八重山へ行けるでしょうか)
無情にも船は八重山を目指す。目映《まばゆ》い出世の階段から転がり落ちたひとりの役人が、流刑地へと流されて行った。
[#地付き]〈上巻・了〉
[#改ページ]
装丁      大久保伸子
画(見返し)  長野 剛
カバー写真   「黒漆雲龍螺鈿丸盆」より
(浦添市美術館蔵)
[#挿絵(img/01_428.jpg)入る]
初出  「野性時代」(二〇〇七年一月号から九月号)
池上永一(いけがみ えいいち)
1970年、沖縄県那覇市生まれ、のち石垣島へ。94年、早稲田大学在学中に「バガージマヌパナス」で、第6回日本ファンタジーノベル大賞を受賞する。98年『「風車祭(カジマヤー)』が注目される。沖縄の伝承と現代社会を融和させた独特の世界を確立する。著書に、『夏化粧』『ぼくのキャノン』『あたしのマブイ見ませんでしたか』『やどかりとペットボトル』他。『シャングリ・ラ』(2005年)は、未来都市東京をテーマにし、圧倒的な話題を呼んだ。
[#改ページ]
底本
角川書店 単行本
テンペスト 上《じょう》 若夏《うりずん》の巻《まき》
著 者――池上永一《いけがみえいいち》
平成二十年八月三十一日  初版発行
発行者――井上伸一郎
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年9月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・龍虎山天師大人《りゅうこざんてんしたいじん》
・龍虎山天師大人《りゅうこさんてんしたいじん》
・斎場御嶽《セーファウタキ》
・斎場御嶽《セイファウタキ》
・後生《グソ》
・後生《グソー》
・マキアヴェリスト
・『「風車祭(カジマヤー)』
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
|※《あい》 ※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]「口+愛」、第3水準1-15-23
|※《こう》 ※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]「米+羔」、第3水準1-89-86
|人※《ひといきれ》 ※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59
〔a:〕  1-9-58、ダイエレシス付きA小文字
〔o:〕  1-9-76、ダイエレシス付きO小文字