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シャングリ・ラ 下池上永一
下巻contents
第九章  防空圏の決死線
第十章  蜃気楼の都
第十一章 全能神の脳死
第十二章 森林汚染
第十三章 東京大空襲
第十四章 四種の神器
第十五章 皇太子暗殺
第十六章 天地開闢
あとがき
[#改ページ]
第九章 防空圏の決死線
横殴りの風と雨が首都層を直撃していた。メデューサが生み出した人工台風の第一波が空と大地の間を跋扈《ばつこ》する。到来した台風は東京を好き勝手に荒らす巨人さながらだった。強風で足下を攫《さら》い、倒れ様に雨でビンタする。叫ぶと顎《あご》を吹き飛ばされそうで自分の声さえ風に奪われていく。メガシャフトにぶつかった風が奇怪な音を生み出し、それが巨人の雄叫《おたけ》びのように首都層に絶え間なく響いた。
人工地盤から落ちる雨水は滝となり、層が連なって世界最大の瀑布《ばくふ》となる。
それはかつて古代の民が描いた宇宙観にも似ていた。世界の果てが滝で終わり、大地を支えるのは巨大な象と更に巨大な亀によるというモデルだ。アトラスも同じような構造だ。層を支えるメガシャフトと下層の人工地盤の繰り返しである。雲より下は人も住めない魔境だ。
第六層から落ちる滝を見ていたタルシャンは時間を遡《さかのぼ》っている気分だった。
「ここはプトレマイオス的世界だな」
意図がわからずに首を傾げた総裁がタルシャンが眺める先に視線を合わせた。
「そのうち天動説が生まれるぞ」
タルシャンが苦笑したので、ようやく冗談だと理解した総裁が誇張気味に笑った。アトラスに長くいると誰もがそのような錯覚に陥ってしまう。ここが世界の中心で外界はただ移ろいゆくだけのものである、と。滝から先は人の想像も及ばない森と呼ばれる宇宙だ。アトラスにいるとそんな古い世界観がしっくりくるから不思議だった。
総裁は誇らしげに声を弾ませた。
「旧時代の東京ならば今頃交通機関は完全に麻痺《まひ》していたでしょう。しかし我々は災害を克服しました。最大級の台風の直撃にも拘《かか》わらず首都機能は九十パーセント維持されています」
表に出る者こそいないが、人工地盤の地下鉄を使い首都は一秒の狂いもなく機能していた。被害は飾りの街路樹が倒れたくらいのものだろう。東京は集積度を増し、より小さく強靱《きようじん》になることで災害に対応した。これは街の進化である。東京が生き残るためにとった戦略は、人口を最小限に抑えシステムを維持することだった。都市が人間活動の営みを表す姿なら、脳化しうる究極の形がこの姿である。炭素材の背骨で立ち上がったアトラスは、初めて人間の身体に近づいた都市だ。全てが内包された秩序の中で精緻《せいち》な動きを営む。アトラスは都市の意志を具備している。
背筋を伸ばして窓辺に立ったタルシャンは遠い目をしていた。
「五十年とは早いものだな。人はこれだけのものを造り上げてしまう」
「これもタルシャン様の先見の明ゆえにございます。半世紀以上も前にこのような都市を立案されたのですから」
「私はナギコの夢に投資しただけだ。それが、生きていく糧《かて》になった」
総裁はタルシャンの背中に孤独のマントを見た気がした。他人を寄せつけない刃《やいば》にも似た冷たいマントだ。彼の風格はいつも背中に刃を突きつけられている緊張と共存しているからなのかもしれない。
「間もなく見たことのない世界がやってくる……。台風の後はきっと火の雨だ。大地からマルスがやってくるぞ。公社の雇った傭兵《ようへい》は配置についたか?」
「ええ、間もなくです。しかし首都防衛部隊に対抗するとなると、いささか心許《こころもと》ないのですが……」
「別にゲリラを援護する必要はない。奴らが首都を乗っ取ろうが撤退しようがこちらには関係のないことだ。おまえたちはあの子だけを守ればいいのだ。それで、ミクニの方はどうしている? 新迎賓館の警備は万全か?」
「こちらも近衛兵を増強しました。従者たちよりも組織戦に慣れております。それと、申し上げにくいことなのですが……」
総裁はスクリーンを開いてみせた。ゼウスがハッキングを受けていることを示す警報が鳴っていた。
「昨夜から小夜子がゼウスへのハッキングを試みています。非常に頭のいい女でして、逆探知できたのがついさっきです。このままだと三千万時間後には最高機密のパスワードを見つけてしまうでしょう。今までのハッカーの中で断トツの最短記録です。普通なら百億時間はかかる」
小夜子は世界中の端末から三秒ごとにアクセスしていた。フランクフルトからニューヨークへ、ケープタウンからリオデジャネイロへと神出鬼没に仕掛けてくる。暗号鍵を開いた美邦がなぜ決定にならないのか、もうひとりの候補者は誰なのか必死になって探ろうとしている。小夜子は自らの進退に関わることも忘れ、不眠不休でゼウスを乗っ取ろうとしていた。研究対象が困難であればあるほど、小夜子の集中力は上がる。しかし難攻不落のゼウスは人間の力では決して崩れない。蟻が強化コンクリートで造られたダムに穴を空けようと挑んでいるようなものだ。小夜子が目指すのは何重にも封印されたアトラスランクただひとつだった。
「三千万時間も不正アクセスができるとでも思っているのか」
総裁は馬鹿げた小夜子の振る舞いに開いた口が塞《ふさ》がらない。
「泣ける話じゃないか。ミクニがなぜ待機になったままなのか知りたいのだろう。彼女は残酷だが忠義には厚い大和|撫子《なでしこ》だな」
「まさか候補者が二人いるとは思わなかったのでしょう」
たとえ無理なハッキングでも小夜子は知りたかった。手塩にかけた美邦が待機のままなんて納得がいかない。ゼウスの暗号鍵が開いたら公社が迎えにくるという条件を信じて今まで側にいたのだ。それを反故《ほご》にされて黙っている小夜子ではない。納得のいく理由がゼウスの中にあるなら、三千万時間でも不正アクセスを続けてみせるつもりだった。その答えが三千六百五十年後にわかるとしても、小夜子は生き続けてみせる。たとえ肉体が朽ちて魂だけになっても、怨霊《おんりよう》になってゼウスに祟《たた》り続けるつもりだった。
「少しはマシな側近だと思ったのですが、所詮《しよせん》女ですな。すぐになりふり構わなくなる」
小夜子は自分の徒手|空拳《くうけん》がモニターされていることを知っているのだろうか。中央演算室のスタッフも相手が小夜子と知って、冷ややかな笑いを浮かべていた。美邦の側近じゃなかったら今頃秘密警察に射殺されているところだ。小夜子の部屋の外では既に秘密警察が踏み込むタイミングを見計らっていた。
「なぜ! なぜ美邦様に決まらないの!」
小夜子は自室の端末から電子の全能神に問う。しかしゼウスは鉄壁の防御で小夜子を撥《は》ねつける。神の玉座までの回廊は地球を百万周してもまだ最初の扉さえ見つけられない。小夜子は百万周を全力疾走で駆けていた。二十時間にも及ぶ不眠不休のハッキングはキーボードの耐久をとっくに超えていた。キーの幾つかは疲労で吹き飛び、幾つかはめり込んだまま打鍵《だけん》に耐え、そしてキーを打ち続ける小夜子の爪は全て剥《は》がれ落ちていた。だが小夜子のハッキングの速度は一向に衰えない。それどころか神経速度すら超えつつあった。キーボードは血に染まり、赤い狂気に溺《おぼ》れていた。だがゼウスの答えには小夜子の血を全て捧《ささ》げても尚遠い。ついにキーボードが血に溺れてショートした。
「ええい。この役立たず!」
このやり方では埒《らち》が明かないと気づいた小夜子は、無限迷宮の壁伝いに走ることをやめた。ゼウスを追いつめるには光速を超えるタキオンの力が必要である。小夜子は血塗《ちまみ》れのキーボードを捨てた。机からメスを取り出すと、回線を切り落とした。次に小夜子は自分の左手首にメスを当てる。迷わずスパッと切って上腕の神経を探り当てた。電子の速度を超えるには、魂の力しかない。小夜子は神経と回線を直接接続した。二百ボルトの電流が小夜子の体を走る。白目を剥《む》いてのけ反った体が痙攣《けいれん》を起こした。
「あぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ」
小夜子の腕から肉の焦げた匂いが立ちのぼっていた。
「おお、また記録更新しました。最高機密到達まで二千万時間です。長生きしてほしいですな」
にやけた総裁をタルシャンが睨《にら》みつけた。
「君は高みの見物のつもりだろう。だが少しは危機意識を持ったらどうだ。なりふり構わなくなった人間は災害よりも恐ろしいものだぞ」
「ゼウスの防壁は完全無欠です。たまにはゼウスを遊ばせてやらないと、退屈しますからね」
「私なら不正アクセス発見と同時に逮捕していた。油断は自分の身を滅ぼすことになるぞ」
「それはタルシャン様の人間に対する過剰な警戒ですよ。ゼウスはあらゆる自然災害やテロを想定して生まれた究極のコンピュータです」
突然、警報のレベルが上がった。スクリーンが最高機密到達までの時間を残り三分と告げる。慌てた総裁が中央演算室に何の間違いだと怒鳴りつけた。
「どういうことだ。三分を切ると危機管理省が国家への重テロ攻撃で動き出すぞ。干渉されたくない。なんとかしろ」
オペレーターの声も狼狽《ろうばい》していた。何度検算しても間違いではなかった。考えられることはただひとつだ。
『ど、どうやら小夜子が新しい方程式を発見したようです』
「そんなバカな。あいつは検死官だぞ。数学者じゃない」
ゼウスは新しいパスワードを乱数で作り直しているが、小夜子の方程式の前では風前の灯火だ。一万|桁《けた》の乱数が次々と封じられていく。ゼウスの次の乱数を予測していなければ絶対にできない芸当だった。
「無限乱数に法則などあるわけがない。小数点が割り切れるのと同じことだぞ。十万、いや百万桁に増やせ」
『現在、百万桁で対応しています。でもダメなんです。小夜子の方程式は暗号学におけるコペルニクス級の大発見ですよ。桁を増やしても攻略までの時間は変わりません』
小夜子の執念は石を穿《うが》ちダムを決壊させる穴を作ってみせた。みるみるうちに暗号が解読されていく。ゼウスが丸裸にされるのはコーヒーを淹《い》れる時間よりも短い。
「まさかゼウスを凌駕《りようが》する知能を持っているなんて!」
「人間も捨てたものじゃないな」
タルシャンはどこか嬉《うれ》しそうだった。こういう無茶な人間を見ると、なぜか愛《いと》おしくなる。香凜にしろ、クラリスにしろ、自らの体を押し破ってマグマのような情熱を噴出させる。その骨を溶かすほどの熱に触れたとき、自分の命を映す鏡を得た気分になる。香凜の生意気な態度は自分の驕《おご》るほどの自尊心に似ていた。そして小夜子の昂《たかぶ》りは自分の鼓動の音に似ていた。
オペレーターの悲痛な声がタルシャンの耳をつんざいた。
『ゼウスの九十八パーセントが乗っ取られました。間もなく最高機密に到達します』
さっきまで笑みを浮かべていたタルシャンが一喝した。
「サヨコを逮捕しろ!」
新迎賓館にいた秘密警察に取り押さえられたのだろうか。ゼウスは通常モードに戻った。この事件をゼウスが公平に裁定する。二度とこのようなことがないように最も効率的な方法を生み出すのだ。ゼウスの裁定は迅速だった。
総裁室のドアが開いた。押し入ったのは秘密警察の人間だった。
「ゼウスからの逮捕状です。総裁を安全義務違反で逮捕します」
「バカな。なぜ私が逮捕されるのだ」
「ゼウスの裁定は絶対だ。あなたのアトラスランクはGだ」
秘密警察に逮捕された総裁はそのまま連行されていった。
「だから油断するなと言っただろう」
タルシャンは一瞥《いちべつ》してドアが閉じるまでに、総裁の顔を忘れた。公社の実質的な経営権はタルシャンが掌握している。飾りの総裁ひとりいなくなったところで、運営にはなんの支障もなかった。
タルシャンは國子の写真を見つめた。激しい闘志を宿らせた強い眼差《まなざ》しが写真越しにタルシャンを威圧する。この娘もなりふり構わなくなるタイプだと思った。
「嵐がやんだら、ここにおいで」
暴風雨の吹き荒れる出雲大社の列柱が小刻みに振動している。古代建築の工法を忠実に再現した空中神殿は、実に瞬間最大風速七十メートルにも耐えうることを証明してみせた。
「さてナギコ。私の預かり物は誰が取りにくるのかな?」
タルシャンは厳重にロックされた細長いケースを抱えて、人工地盤から落ちる瀑布《ばくふ》の向こうを見つめた。やはりここはプトレマイオス的世界だと思う。彼女が世界の中心に向かって攻めてくるのだから。
再びスクリーンが開く。鳥居のシンボルの奥には神主たちがいた。
『タルシャン様、水蛭子《ひるこ》様が託宣を下しそうです』
「あらしがきたぞよ。あらしがきたぞよ。ぎゃあああああ!」
公社の地下室には最高経営責任者である水蛭子の部屋がある。便宜上、執務室と名付けられているが、ここに立ち入るのは大宮司だけだ。金庫並みの厳重な扉を開けた向こうは、鍾乳洞《しようにゆうどう》のような湿った空間だった。
大宮司が緊張した面もちで二重の格子を開けると、血に染まった水干《すいかん》を着た職員が恭しく迎えてくれた。
「水蛭子様のご機嫌は如何《いかが》だ」
「はい、いつになく凶暴です。ついに牢《ろう》の鼠たちを食い尽くしました」
「食欲|旺盛《おうせい》とはよいことだ。水蛭子様は虫もお好きだ。ムカデの差し入れを持ってきた」
大宮司が風呂敷の桐箱を開けると肥ったムカデが蠢《うごめ》いていた。
「お気遣い恐れ入ります」
水蛭子の執務室は通路の奥にあるというのに、悲鳴が間近で聞こえる。こんなに活発な水蛭子は久し振りだ。
執務室の扉を開けると、鉄の檻《おり》に入れられた水蛭子を宮司たちが竹槍《たけやり》でつついていた。体を刺されるたびに水蛭子が悲鳴を上げる。
「おのれえ、ゆるすまじ。そなたを、ひゃくだい、たたるぞよ。ぎゃあああああ!」
執務室の宮司たちは顔面|蒼白《そうはく》だ。竹槍で腿《もも》を突き刺すと血《ち》飛沫《しぶき》があがった。水蛭子の体は無数の傷が化膿《かのう》して臭気を放っていた。これを毎日しないと水蛭子は霊力を保てないといわれていた。憎悪と怨嗟《えんさ》だけが彼女を現世へ繋《つな》いでくれる。できるだけ水蛭子の怨《うら》みを強くし、現世への執着心を湧かせることが執務室での宮司たちの役目だ。そのためには電気ショックや、焼け火箸《ひばし》、水責めなど、あらゆる虐待が義務づけられた。宮司たちは正気を保てずに錯乱する者が続出したが、欠員はすぐに補充される。地上にはアトラスに行きたい者が山ほどいるからだ。
「アトラスくじに当たったらこんな場所に配属されるなんて……」
「地上で雨に溺《おぼ》れていた方がずっと幸せだった」
音を上げた若い宮司たちは今年のアトラスくじに当籤《とうせん》した者だった。夢見た空中都市で得た職は、モルグの番人も同然の仕事だった。地上に戻れるのは発狂して処分されたときだけだ。
「こら、おまえたち手を緩めてはならない。水蛭子様の霊が逃げてしまうぞ。生かさず殺さずの塩梅《あんばい》だ」
大宮司の叱声《しつせい》に頭が朦朧《もうろう》としてくる。ここは第五層の空中なのに、地上のどこよりも深い場所にあるような気がした。
「水蛭子様、ご託宣が下りられたそうで、めでたきことでございます」
大宮司が恭しく跪《ひざまず》くと、水蛭子の血飛沫が顔にかかった。水蛭子は大宮司を見るなり、格子から手を突き出した。
「そなたの、めだまが、ほしいぞよ。よこせ。よこせ」
「私の目玉はこの前差し上げたので最後です。今ではこのように機械の目を入れております」
大宮司がマスクを外すとカメラの目が現れた。露出を計りすぐにピントを補正する瞬きのない目だ。レンズに映った水蛭子は犬歯を剥《む》き出しにして威嚇《いかく》していた。
「託宣を下しませい。お礼に好物を差し上げましょう」
京紫に染め上げられた正絹の包みを開けると、桐の蓋《ふた》を押し上げてムカデが這《は》い出てきた。水蛭子は目の色を変えて這うムカデを捕まえては丸飲みにする。喉《のど》にえずいて吐き出したムカデが大宮司のカメラアイに当たる。大宮司は瞬きすることなく、ムカデを檻に放り投げた。
「さあ、おまえたち水蛭子様の託宣に協力するのだ」
若い宮司たちが水蛭子の体を竹槍でつつく。槍を伝ってムカデがこちらに這ってくるのが気色悪かった。宮司たちの息が荒くなっていく。やがて意識の奥で保っていた正気の糸がプツリと切れた音を聞いた。宮司たちはケタケタ笑いながら水蛭子をいたぶる。憎悪の刺激を受けて水蛭子の能力があがった。
「つ、つるぎの、あるじを、うみの、かなたに、みつけたぞよ。ぎゃああああああっ!」
水蛭子は痛みのあまり失神してしまった。
「タルシャン様、お聞きになりましたか。水蛭子様がついに見つけられました」
総裁室の奥でチェスのボードを見つめたタルシャンが呟《つぶや》いた。
「ゲームはまだ始まったばかりだ」
そして台風一過となった真夏日、ドゥオモに日差しが戻った。排水もまだ終わらぬゲートから國子たちが出陣する。ヘラクレスに乗り込むのは百人の精鋭たちだ。首都層のメガシャフトを制圧した後、第二陣の本隊が地上からアトラスに入り込む。
空を見上げた國子が呟く。
「涙の匂いがする。雲ひとつないのに不思議ね」
肩がモモコの掌《てのひら》を探していたが、そこに孤独を置くことにした。大きく深呼吸する。確かに涙の匂いだ。癇癪《かんしやく》を起こして泣いた後に鼻腔《びこう》をつく錆《さび》に似た匂いがする。空はどこまでも澄み切って雨の気配なんて微塵《みじん》もないのに、この空気の匂いはなんだろう。
モモコの縫った戦闘服に袖《そで》を通したとき、セーラー服よりもしっくりくると思った。もう制服は思い出のコスプレにすぎない。アイロンをかけてクローゼットの一番奥の引き出しにしまった。次に見るのは樟脳《しようのう》の匂いに染まって驚くときだろう。幼い衣を脱いだ國子は、炭素繊維のスーツとダイヤモンドのブーツを履いて部屋を出た。ドアを閉めたとき、良い日々で少女時代が終われた気がしてそのことがとても誇らしかった。未来に怯《おび》えていた過去の自分が、今の自分を知らない人のように見つめている。そんな思い出たちを「大丈夫よ」と抱き締めてあげたかった。
広場は恐いくらいの日差しで何もかもが鮮明だった。
「出撃準備は整った? あたしたちは空挺《くうてい》部隊だから支援もないわよ。無駄な弾を使わないようにね」
積み込む弾薬は必要最小限だ。ブーメランを背中に担いだ國子は、一際身軽な装備だった。いつもなら口うるさい武彦もちらっと見ただけで特に文句を言わなかった。アトラスの防空圏を突破する確率だって高くない。防空システムに撃墜されてしまうかもしれない。万が一突破して地上戦になったとしても政府軍の首都防衛隊とぶつかって生き残る確率は十パーセント以下だろう。こちらの算段では、首都防衛隊は満足に動けないはずだ。新しい台風が次々と関東直撃のコースを描いているからだ。台風を味方につければゲリラ戦に分がある。交通の要衝であるメガシャフトを抑え、本隊を送り込めるかが成功の鍵《かぎ》だ。武彦は自分が楯《たて》になって國子を守るつもりだった。
「よし。全員整列。これからアトラス攻略作戦を発動する。時計を合わせましょう。現在時刻は一〇〇六分。アトラス潜入まであと三時間よ」
規律のよい軍隊とはいえないけれど、士気だけは高い。足手まといになる者はひとりもいないのが救いだ。先発隊は精鋭揃いで固めた。隊員の目がチラチラと家族を探していたので、存分に別れさせる時間もとった。なのにみんな遠慮がちに目で頷《うなず》き合うばかりだ。それは國子も同じだった。
きっと今日はドゥオモのことで胸がいっぱいになるかと思っていたのに、不思議と感慨が湧かない。少年院から帰ってきたときの方がずっとたくさん感じた気がした。
「やだな。あたし城主なのに、こんなに薄情だったなんてがっかり」
「俺も今同じことを考えていた。思い出ってこんなちっぽけじゃなかったはずだって」
武彦も不思議そうにドゥオモを見渡していた。子どもの頃に遊んだ場所なら、数え切れないほどあるし、忘れても涸《か》れてもいないのに、胸の中は昨日と同じままだ。もしかしたら出撃の日を間違っているのではないかと疑いたくなる。
見送りに来た凪子《なぎこ》はこれがドゥオモの優しさだと言った。
「おまえたちの後ろ髪を引かないように、ドゥオモが目を瞑《つむ》っているのじゃ。泣きたいのはドゥオモの方なんじゃろう」
そう言われるとドゥオモにいつもの賑《にぎ》やかな気配がない。絶えずどこかで音がしたり、食べ物の匂いを漂わせているというのに、今日は瞑想《めいそう》したように静かだ。やがて崩壊する街の最後の思《おも》い遣《や》りは、黙って城主を送り出すことだった。
「ドゥオモがあたしたちのために……」
凪子の言葉に合点がいった。さっきから必死で思い出と繋がろうとしているのに、悉《ことごと》くその手を撥《は》ねられていく感じだったのだ。ドゥオモは硬い表情で記憶を探られるのを拒んでいた。そのせいで大好きなドゥオモがただのガラクタの山に見えてしまう。モモコがいつも頬杖《ほおづえ》をついていた見張り櫓《やぐら》は不格好に歪《ゆが》んでいた。雨の日に老人たちが拍子木を鳴らした回廊は、台風で塞《ふさ》がっていた。そして夜にはゴシック建築の尖塔《せんとう》を思わせたシンボルの煙突は、ただの煤《すす》けた柱に成り下がっていた。夏の綺麗《きれい》な空の下で錆色の街が思い出も着ずに裸で寝転がっている。
ドゥオモはこう言って國子たちを退けていた。
『こんなボロに住んでいたおまえさんたちはとんだ不幸者さ。とっとと見捨ててしまいな』と。
そう思わないようにこちらも必死で踏みとどまっているから、妙に白けた気分になっていたのだ。空に涙が溜《た》まっているのはドゥオモの涙だと國子は気づいた。空に漂う錆の匂いはドゥオモの涙だ。
「目を瞑っている間に出撃するがいい。きっとドゥオモはこの後泣くじゃろう。泣いたドゥオモの世話は私が引き受けよう」
別れは去り際が肝心だ。無様に泣いて別れると思い出が濁ってしまう。モモコがいつか教えてくれたニューハーフの秘密を実践するときだ。堪《こら》えて、耐えて、抑えて、背筋を伸ばして振り返らずに出て行こうと決めた。それが最後の城主の務めだ。昨日と同じように、さり気なく。今夜も同じベッドで眠れると何の疑いもなく素朴に信じて。
広場に集まった人々もできるだけ國子たちの重荷にならないように、平静を装っていた。彼らはドゥオモと調和するように生きている。自分の感情を満足させるために、泣き縋《すが》ったりはしない。
「お婆さま、お願いがあるの。あたしたちが出て行った後にドゥオモに伝えて。『大好きだ』って。そしてドゥオモの気持ちも知っているって」
「大人になったな。おまえは良い城主じゃ」
親友の友香がフェルトで作ったお守りを渡してくれた。
「あたしも國子ぐらい強かったら一緒に行けたのにね。いえ失礼しました。國子様、ご武運をお祈りいたします」
そこには友香が知っていた國子の顔はなかった。いつの間に國子はこんなに大きくなったのだろう。凪子の風格を凌《しの》ぐ迫力が漲っていた。
「ありがとう。アトラスに着いたら電話するね」
國子は笑ってみせた。
装甲車がブリッジを越えていくと同時に、凪子の顔から緊張が消えていく。國子がアトラスへ向かう日を見届けるのが彼女の役目だった。後はタルシャンが引き継いでくれるだろう。毅然《きぜん》としていた凪子の背中がみるみるうちに曲がっていった。まるで一気に二十年は歳を取った老い方だ。張り詰めていた糸が切れたように凪子の体は崩れ落ちた。
「凪子様? 凪子様?」
「ゲートを閉じるのじゃ……。私は未来を見るまではまだ死ねぬ」
國子たちが出て行ったと同時に、ドゥオモは悲しみに暮れた。台風のときよりも激しく身をよじらせて音を立てる。配管から突き出してきたのは、雨で活力を満たした植物たちだ。回廊が寸断され、落ちる床が惨めな音をたてて泣く。さらば兵士よ。さらば城主よ。さらば思い出よ。ドゥオモは自らの体を千切りながら、錆の雨を撒《ま》き散らす。生き残っていた煙突にも魔の手が伸びていた。無敵を誇った体を森に食い尽くされながら、煙突のひとつを倒して生き残っている箇所を分断した。國子たちが凱旋《がいせん》するまではまだ生きていなければならない。広場にいた家族たちが出撃した兵士たちの足跡の上で泣き叫ぶ。ドゥオモはたちまち鎮魂歌にも似た悲しみの音に包まれた。
新迎賓館の地下|牢《ろう》に小夜子が連行されてきたのは、昨日の嵐の夜だった。男二人に担がれて足を引きずった小夜子は、気を失っていた。手首に巻かれた包帯がジクジクと血を滲《にじ》ませている。秘密警察が押し入らなければ、小夜子は出血多量で死んでいただろう。
モモコはぎょっとした。小夜子は目を開いたまま失神しているではないか。
「ちょっと、連れてくる場所が違うでしょ。すぐに入院させなきゃ危険よ」
看守もそうしたかったが拒否されてしまった。秘密警察から小夜子がゼウスにハッキングしたと聞いた。それも乗っ取る寸前までゼウスを追い詰めたという。手首の神経に電極を差し込んだと聞いて、看守はぞっとした。この女は狂うと何をするかわからない。逮捕監禁ですんだのは美邦の側近だからだ。
独房にボロ雑巾《ぞうきん》のように捨てられた小夜子は、ピクリとも動かない。
「毛布くらいかけてやりなさいよ。この人でなし!」
モモコは何が起きたのか理解できなかった。この前までは牢名主《ろうなぬし》のように振る舞っていた女が今日は女囚だ。一体ここはどういう論理で動いているのかモモコには見当もつかなかった。
小夜子の口が微《かす》かに動いた。モモコは耳を澄ませて何を言っているのか聞き取ろうとする。しかし満身|創痍《そうい》の小夜子は声も出すことができない。唇の微かな動きを読んだモモコはピンときた。小夜子は歌っていた。それも子守歌だ。介抱もできないモモコは毛布の代わりに歌を歌ってやった。
「ねーんねーんころーりーよ。おこーろーりーよ」
歌っていて懐かしい気持ちになった。よくこうやって國子をあやしたものだ。子守歌を歌えるのは人生の中でもほんの僅《わず》かな時間しかない。子どもの成長はあっという間だ。すぐに言葉を覚え、知恵をつけ、親を追いこしていく。子守歌を次に歌うときは老いて孫を抱いたときだ。國子はどんな孫の顔を見せてくれるのだろうか。そのとき自分はどんな顔をして人生を終えようとしているのか、子守歌を歌っていると幸福と悲しみが混じった気分になる。
やがて小夜子は意識を取り戻した。左腕が痺《しび》れて思うように動かない。ここが牢獄だと理解するのにしばらく時間がかかった。冷たいコンクリートの床に体温を奪われるにつれ、小夜子はやっと思い出した。自分はゼウスの玉座に迫ろうとしていたところだった。神の喉元《のどもと》にメスを突きつけ、最後のパスワードを聞き出そうとした瞬間に何者かに現実世界へと引き戻された。その結果がここだ。
「やっと気づいたわね、サディストさん。女囚仲間になれて嬉《うれ》しいわ。悪いけど先輩風吹かしちゃうわよ。姉御とお呼び」
通路の向かいの格子からモモコが心配そうに顔を覗《のぞ》かせている。小夜子は背中を向けて寝転がった。
「もう少しだったのに……」
忸怩《じくじ》たる思いで胸の中は苦かった。もう一歩だったのに。邪魔さえ入らなければゼウスを足下に跪《ひざまず》かせられたのに。美邦がなぜ待機なのか、もうひとりの候補者が誰なのか、アトラスランクが何を基準に設定されているのか、小夜子は知りたかった。失敗した自分が惨めで、悔しくて、怒りすら覚える。しかし怒りで狂うだけの力も体には残されていなかった。空っぽの人間のすることといえば嘆きしかない。小夜子は眼鏡の罅《ひび》に涙を染みこませた。小夜子は嗚咽《おえつ》を殺して泣いていた。
モモコがまた子守歌を口ずさむ。口うるさいオカマの歌で嗚咽が消えるなら、都合がいい。小夜子は子守歌に背中を預けることにした。
モモコは小夜子の背中に妙な気配を感じた。この前まで孤独なサディストだと思っていたのに、背中には慈愛のような温《ぬく》もりがあるではないか。これはモモコが絶対に真似のできない女だけの特権だった。
「あんたに子どもがいたなんてびっくりよ」
小夜子が身を強張《こわば》らせる。
「うるさい。オカマに何がわかるっての!」
「わかるわよ。お母さんになったことのある女は背中におんぶした形が残るのよ。知らなかったの?」
小夜子は耳を塞いで喚《わめ》き散らした。このオカマは自白剤を使わなくても人の過去を暴く能力がある。それは小夜子がとっくの昔に捨てた過去だった。
モモコは優しい口調になって、小夜子の背中を言葉で撫《な》でた。
「亡くしたんでしょう。生きてたら幾つだったの?」
「やめて! やめて!」
「そうやって心を閉ざしているから、聞こえないのよ。亡くした子どもは見えなくなったんじゃないのよ。あなたの背中にいつもいるじゃないの。女の子だったんでしょう? とても可愛かったんでしょうね……」
「子どもを産んだことないくせに、わかった風なこと言わないで!」
小夜子は髪を掻《か》きむしって怒鳴った。それは小夜子が忘れたくても忘れられない人生で瞬きのような幸福な日々だった。
小夜子は八年前に子どもを産んだことがある。表には出せない不倫の恋の子どもだった。相手への愛が冷めかけた頃に宿した命は、小夜子に希望を与えてくれた。そして相手に告げずにひとりでひっそりと子どもを産んだ。自分に少しも似ていない娘は自慢したいくらい可愛い赤ちゃんだった。これは孤独な自分への天からの授かりものだと思った。乳を吸い無垢《むく》な笑顔を投げかけてくれる娘は、小夜子の生き甲斐《がい》になった。勤めを休み朝も昼も晩も、ずっとずっと子どもの顔ばかり見て過ごした。自分に一日を笑顔で始めて、笑顔で終われる日があるなんて子どもを産むまで知らなかったことだ。しかしそんな日は長く続かなかった。ある日、娘は原因不明の病気で突然小夜子の元を去った。小夜子に一瞬だけ灯《とも》った明かりは、笑顔とともに消えてしまった。絶望に慣れているつもりだった小夜子は、初めて闇よりも暗い感情を知った。孤独は少しも恐くなかった小夜子は、初めてひとりの恐怖を知った。神は一度甘い思いで人の心を解《ほぐ》していきなり千尋の谷へと背中を突き飛ばす。こうなりたくなくて、歯を食いしばって生きてきたのに。こうなりたくなくて、誰にも心を開かなかったのに。光さえ見えない闇の淵《ふち》で小夜子は狂ったように叫んだ。そして再び職場に戻ったときには、以前にも増してドライな女になっていた。小夜子が私物を持たないのは、いつ死んでも全く構わないからだ。娘の玩具《おもちや》を焼き、画像データを削除し、褪《あ》せない記憶の中に閉じこめた。
「あなたがそうやってると子どもが不幸になるってなんでわかんないの? お母さんが寂しそうにしていると成仏できないものなのよ」
「うるさいわね。あんたこそ尼か占い師になったらどうなの!」
「医者なのに救えなかったって思ってるんでしょう。いくら頭がよくても人は万能じゃないわ」
「それは普通の人の論理よ。私にはできたのよ。私にできないことなんて、ひとつもないのよ」
小夜子の中に執念が宿ったのも娘の死を境にしてからだ。死から三年目に画期的な新薬と治療法が発見された。化学式を見るとどうしてこんな単純な薬を作れなかったのか不思議になるほどシンプルだった。不治の病と言われた娘の症状は遺伝子治療で完全に治る人智の範囲となっていた。もし発見が早ければ娘は確実に小夜子の側で成長を続けていたのは明白だった。この世には人に成せないものなど、ひとつもない。神の手から業《わざ》を奪うことこそ人の業《ごう》ならば、神の手に何ひとつ残してやる必要はない。小夜子は自分の背中を蹴《け》ったあの日の神に復讐《ふくしゆう》してやると誓った。
「無駄なあがきはおやめなさい。あなたが苦しくなるだけよ。あなたが泣けば子どもさんも悲しむわよ」
「やめてやめてやめて! もうたくさんよ!」
小夜子は白衣で頭をすっぽりと覆ってしまった。モモコにはそんな彼女が哀れに思えてならなかった。小夜子は目も耳も塞《ふさ》いで絶叫でモモコの声を撥《は》ねつけた。
「もう誰にも渡さないわ! 見殺しになんてしない! この命に替えても今度こそ守ってみせるわ! うわああああああ!」
小夜子の絶叫が地下牢の中にこだました。
雑草に覆われた入間飛行場は、活用の道を失ったまま放置されていた。輸送機の影がなければただの平原にしか見えない。滑走路の先は武蔵野の原野とそのまま繋《つな》がり、かつてスプロール化で首都圏を形成した文明は着実に衰えていた。開墾するのに一世紀を費やしたというのに、自然があるがままの姿に戻るのに、一世代もかからなかった。
ヘラクレスを前にした兵士たちは、その爆音のけたたましさに身を強張らせた。初めて見る金属でできた飛行機は、野蛮で猛《たけ》り狂っている印象を受けた。
「これが本当に飛ぶのか?」
胴体に近づき触ってみても不安は増すばかりだ。航空機は軽い炭素材で作られているのが常識なのに、この手触りは明らかに重い。まだ木材でできている方が信頼感があった。これがかつて空を飛んでいたなんてどうしても納得がいかない。墜落することを前提に設計されていたのではないだろうか。
「原理が単純だから大丈夫よ。滅多なことじゃ墜《お》ちないわ」
後部貨物扉から顔を覗かせた國子が兵士たちを急《せ》かす。この輸送機は年代物だが、つい最近までアフリカ大陸で物資搬送のために使われていた。整備さえ怠らなければ今でも充分に実用に耐える設計だった。
武彦は上機嫌で、荷物を搬入していく。
「初設計が一九五四年の飛行機に乗れるなんて、俺たちは幸せ者じゃないか」
兵士が指を折りながら青ざめていく。
「俺のひい婆様よりも年上だよ。平成時代の遺物? まてよ計算が合わないぞ。もしかして昭和時代……。そうだ昭和時代だ! 人がいっぱい殺されて、その十倍は生まれて、地球をガンガン温めた悪魔の時代だ」
昭和を「破壊の時代」と習った若い世代は言葉を聞いただけで震え上がってしまう。現代世界は昭和のツケを払う時代と言われている。化石燃料に依存し、大量の二酸化炭素を撒《ま》き散らした悪魔の文明が開化した時代が昭和だ。試算によると地球環境を元に戻すためには最低でも十世紀は費やさなければならない。それもこれも昭和が半世紀で地球を食い尽くしたせいだ。あの浪費の時代がなければ、炭素経済はもっと緩やかなものになっただろう。そして彼らの今いる場所ももっと違う姿をしていたはずだ。
「悪魔を呼び覚ましたみたいで不吉だな」
ヘラクレスのエンジンは化け物じみた音をたてていた。士気の下がりかけた兵士の背中を武彦が景気よく叩《たた》いてやった。
「炭素をいっぱい出して飛ぶんだぞ。俺たちの仲間じゃないか」
武彦は一目でこのヘラクレスを気に入った。國子が「武彦に似て野暮ったいでしょ」と言ったからだ。ヘラクレスのずんぐりとした機体は中年男の体躯《たいく》を彷彿《ほうふつ》とさせた。
「若いだけが取り柄じゃないさ。鉄の飛行機だって頑張ることを見せてやろうじゃないか」
と拳《こぶし》を主脚に絡めてガッツポーズを取った。次々と搬入されていく荷物に混じってスーツ姿の男が目隠しをされて連れられてきた。國子が手を引いて男を機内へと案内する。
「鴻池《こうのいけ》環境大臣ですね。アトラスへ上がるのに協力してください。あたしたちがアトラスに入ったら地上で解放することを約束します」
振動の激しい機内で環境大臣は耳を疑った。ゲリラの首領と思《おぼ》しき相手は女で、まだ声も若かった。
「子どものくせに無茶なことをする。思い直せ。君たちの行動はあまりにも無謀だ」
國子は鴻池の体をシートベルトで固定した。
「わかってます。でも生きるためにはこうするしかないの。話し合える政府であってほしかった。森林化をやめてもらわないと、難民が増え続けてしまう」
「では聞く。どうやって炭素を減らせばいいのだ。どうやって地球の温度を下げればいいのだ。政府だって好きで森林化をしているわけではない」
拘束されながらも鴻池の声は落ち着いていた。
「あれは森ではないわ。地上にあったあらゆる文明を食い尽くしている。植物の姿をしたスカベンジャーよ。二酸化炭素を大量に吸収するように葉緑素の遺伝子を改良してるでしょ」
「森は日本の特性に合わせて改良した理に適《かな》った姿だ。日本の国土は狭い。関東平野でタクラマカン砂漠ひとつ分を緑地化するためには二十倍以上の二酸化炭素を吸収しなければならない」
「それが環境をおかしくしているってどうして気づかないの! あなたは環境大臣でしょ。国土に人が住めない環境を生み出しているのよ!」
機体の振動が大きくなった。ヘラクレスは間もなく離陸する。五千馬力のターボプロップエンジンが黒い炭素を吐き出し、出力を上げた。アスファルトが石ころに変わった滑走路をヘラクレスが駆けていく。悪路をものともしない勇ましい疾走だった。絡まる草を踏みつけ、向かい風を押しのけて鋼鉄の翼が空を切る。武彦たちもこれが戦車なら歓喜の声を上げただろう。しかしまだこれが飛ぶかどうか、誰もが半信半疑だった。揺れる機内に体を預けて飛び上がるのを念仏のように唱えていた。振動がピークに達したとき、腰が急に楽になった。機首を持ち上げたヘラクレスは武蔵野の原野を軽々と飛び越していた。
「飛んだのか? 飛んだ。飛んだ!」
機内に歓声が沸き上がる。機内の小さな窓に何十人もの兵士たちが、外の景色を確認しようと押しかける。離陸前の不信感とは裏腹に、重たく飛ぶ姿が頼もしく思えてくる。
「機内で動くな。持ち場に戻れ」
と武彦は怒鳴るが、視線は窓の外だった。ヘラクレスはぐんぐん高度を増して雲に突入した。
パイロットが予定通りのコースに入ったことを告げる。ヘラクレスは大きく迂回《うかい》し東京湾からアトラスに入る。それが一番警備の手薄な場所だった。
『國子様、アトラス防空圏まで約三十分です』
「対空放火に備えて三千メートル以上の高度を取って。地上班が送った民間機のコードでしばらくは相手のコンピュータを誤魔化せるはずよ」
目隠しをされた環境大臣は國子の適切な指示に寒気を覚えた。このゲリラたちは本気でアトラスを目指すつもりだ。こんな時代錯誤の輸送機で世界最強の防空システムを突破できるとでも思っているのだろうか。三十分は彼らが地獄へと堕《お》ちるカウントダウンに等しい。防空システムに発見されれば、たちまち百発のミサイルと百万発の対空放火を浴びて輸送機は地上に落ちるまでに燃え尽きてしまうだろう。
「お嬢さん、バカなことはやめるんだ。すぐに引き返せ」
「できない。もう止められないの。地上に戻っても住む場所がない。二十万人の難民を受け入れられる場所は第四層しかない」
武彦が声を荒げる。
「そうだ。おまえたちがオリンピックをしようとしている場所だ!」
「難民がいるのは政府もわかっている。だからアトラスくじで救済しているではないか。難民は時代の過渡期の前では小さな悪にすぎない。日本が炭素経済から脱落すれば最貧国になるんだぞ。そうなったら一億総難民も同然だ」
「約束を反故《ほご》にしたのは政府よ。人工地盤は等価交換だったはず。金持ちだけが移住できる政策に変えたのはあなたたちよ」
「アトラス建設には金がかかるんだ! タダで楽しようなんて虫が良すぎる」
「じゃあ造らなきゃいいじゃない。何が目的であんなバカでかい街を造ってるの。こっちの計算では八百万人が住めるはずよ」
「アトラスはまだ建設中だ。全て完成すれば君たちが住む場所もできる」
「それは詭弁《きべん》だわ。難民問題が急務なら、オリンピックを第四層でするなんて考えつかないわ。あなたたちは地上を知らなすぎる。あたしたちの苦しみを軽く思いすぎる……」
國子は環境大臣の目隠しを取った。急に光を浴びて大臣は目をしょぼしょぼさせたが、目の前にいる華奢《きやしや》な少女に瞬きを止めた。頬を紅潮させてじっとこちらを見つめる眼差《まなざ》しは強い信念が宿っていた。これがゲリラの女首領か、と大臣はまじまじと國子を見つめた。反政府組織に身を置いているにしては、あまりにも可憐《かれん》だ。てっきり血と銃弾で汚れた姿を想像していたのに、彼女の無垢《むく》さときたらどうだろう。自分の身が卑《いや》しく思えてしまう。
『國子様、下をご覧ください。ドゥオモが見えます』
パイロットからの通信で國子が窓に目を向けた。眼下は見渡す限りの樹海の緑だ。その中に漂流船のように波に揉《も》まれた街が浮いている。見下ろしたドゥオモは指先で掬《すく》えるほど小さかった。今朝、素っ気ない別れをしたばかりの故郷は胸の疼《うず》きの形をしていた。あんな小さな場所で泣いたり笑ったりした自分がいたなんて信じられない。隠れんぼするなら一日かけたって見つからないほど入り組んだ街なのに、あんなに小さかったなんて意外だった。シンボルの煙突も髪の毛の掠《かす》れほどにしか映らない。頬杖《ほおづえ》をついていた見張り櫓《やぐら》なんて目を凝らしても見つけられない。だけど、國子はそこで笑っていた日々を見つけたかった。そしてドゥオモの泣き声を聞きたかった。
「あれがあたしたちの街よ。もうすぐ森に沈むわ」
大臣は何も答えなかった。エンジン音が耳鳴りのようにこびりついて軽い眩暈《めまい》を覚えてしまう。洗脳を受けているような嫌な気分がして大臣は耳を塞《ふさ》いだ。
鼻を啜《すす》る兵士が必死で涙を堪《こら》えていた。武彦に気づかれたら瞳《ひとみ》の上で保っていた涙が零《こぼ》れてしまいそうで、雷が落ちないように唇を噛《か》んでいた。最初にポタリと涙を落としたのは、武彦だった。
「俺の街が……。ドゥオモが……」
錆《さ》びついた床が涙を吸って滲《にじ》む。武彦はそれを足で消して大声で笑ってみせた。
「ははは。聞いたぞ。ドゥオモが頑張ってこいとよ。おまえたち手を振ってやれ。みんなが俺たちに期待してるんだぜ」
「そうよ、あたしがいるわ。ついておいで!」
兵士たちは自らを鼓舞するように拳を突き上げる。ヘラクレスはそんな彼らを優しく胎内に宿しながらアトラスを目指していた。ヘラクレスが隠れ蓑《みの》にしていた最後の雲が切れる。晴れた視界の先にはアトラスが見えた。パイロットの声に緊張が走る。
『アトラス防空圏内に突入。警告が入りました。二時の方角に政府軍の戦闘機四機接近。ロックオンされました』
防空システムは百発の対空ミサイルをヘラクレスに向けて照準を合わせる。高射砲がメガシャフトから現れて、無数の棘《とげ》を突き出す。アトラスは瞬く間に要塞《ようさい》へと姿を変えた。
『ロックオンの数が五百を超えました。警報を切ります』
國子がコックピットに移動すると戦闘機がヘラクレスを掠めるように次々と通過していく。ヘラクレスは旋回火器で振り払うように弾幕を張った。青空と対をなすようにオレンジ色の火薬の雨が上空に降り注ぐ。戦闘機は軽々と身をかわして燕《つばめ》のように舞う。
國子は無線を開くように指示する。
「こちらは鴻池環境大臣を人質にしている。すぐに戦闘機を撤退させろ」
左右についた戦闘機のパイロットがヘラクレスの窓にいた鴻池環境大臣の姿を確認した。防空司令部の指示を得て戦闘機がヘラクレスの周辺から消えた。再びアトラスを目指すヘラクレスに対空ミサイルの目が睨《にら》む。警告は断続的に入った。
『貴機のこれ以上の接近はテロ行為とみなし、撃墜する。環境相を解放し防空圏内から退去せよ』
國子は一歩も退かずにアトラスとの間合いを詰めていく。
「こちらには人質がいる。鴻池環境大臣を見殺しにすれば国際社会から非難を浴びるぞ。対空ミサイルのロックオンを解除しろ」
目前に迫るアトラスはその巨大質量ゆえに上下の感覚を狂わせる。第五層へと針路を保っているが、まだ近づけない。アトラスは威嚇《いかく》射撃を開始した。急旋回したヘラクレスは翼を軋《きし》ませながら弾幕をすり抜けていく。
「後方からミサイルが接近しています。かわせません!」
「戦闘機は撤退したはずよ。きゃあああ」
「右の第一エンジンが被弾しました。停止します」
ヘラクレスのプロペラに当たったミサイルで機体はバランスを崩す。見ればエンジンから黒い煙が流れているではないか。
「また後方からミサイルです。どこから撃っているのかわかりません」
「三百六十度ロールして。三、二、一、今よ!」
國子が操縦|桿《かん》を脚で強引に横倒しにした。機体が軋みながらゆっくりと一回転する。翼が時計の針のように振れ、天を指したかと思うと、瞬く間に裏返しになる。被弾したエンジンの煙が空に円い雲を描いた。その雲の隙間からミサイルを追いだして体勢を立て直す。天井から床へと叩《たた》きつけられた武彦たちはゴム鞠《まり》のように体を弾ませた。
「國子いい加減にしろ。曲芸ができる飛行機じゃないんだぞ」
國子が茶目っ気たっぷりに機内アナウンスをする。
「アテンション・プリーズ。当機は気流の悪いところを飛行しております。お座席のシートベルトをしっかりとお締めください。尚、機内サービスは中止させていただきます」
國子の勘が背後に三つの殺意を感じた。
「またミサイル。加速して。ミサイルの機動力はそんなに高くない。いっけえ!」
パイロットの判断よりも早く國子は操縦桿を両脚で押した。垂直に機体を倒したヘラクレスの視界一面が緑の大地に変わる。
「ご搭乗のみなさん、機長からのサービスです。無重力をお楽しみください」
垂直落下でみるみるうちに体が宙に投げ出される。武彦たちは支点を失って無様に機内でプカプカと浮かぶ。それでも國子は操縦席の天井に踏ん張って操縦桿を押し続けた。ヘラクレスは大地への激突コースをまっしぐらだ。
「総統おやめください。墜落します」
怖《お》じ気《け》づいたパイロットは操縦桿を引き上げようとする。だが、國子の脚がパイロットの腕を払った。加速度をつけてぐんぐん迫る森は口を開けてヘラクレスを待ち構えていた。その間もミサイルは着実にヘラクレスに向けて突進中だ。あと二秒で地面と激突する寸前に、國子はフラップを切り替えた。機首を擡《もた》げて森のてっぺんを掠めたヘラクレスは雄叫《おたけ》びをあげて再び上空を目指す。ミサイルは舵《かじ》を切れずに次々と森に着弾していった。爆風を背にヘラクレスは出力を上げた。
「宇宙遊泳をお楽しみいただけましたか。次は垂直上昇をお楽しみください」
視界は目も眩《くら》むようなコバルトブルーの空だ。操縦桿を引き抜くほどの力で引っ張りヘラクレスは上空に向けて駆け出す。無重力の喪失感を味わったばかりの武彦たちに襲いかかってきたのは、内臓を押し潰《つぶ》さんばかりのGだ。防護服の覆いをものともせず、胃袋を吐き出すほどの力が体にかかる。頭に血が昇って視神経がチカチカとショートする。
「総統、機体が保《も》ちません。主翼が折れてしまいます」
「折れたらギプスをはめればいいのよ。ヘラクレスは伊達《だて》じゃないっ!」
鼻血を噴きだしても國子は操縦桿を引き続けた。頑丈にできた機体は旧時代の意地を感じさせる。燃料バルブのひとつが吹き飛び、油圧系の計器が下がっていく。それでもヘラクレスは國子の調教通りに飛び続けた。パイロットがブラックアウトで失神しても、國子はまだ操縦桿を離さない。
「ここで負けたらドゥオモに帰れない!」
機体の限界を超えた急上昇は、意識を遠のかせる。手が痺《しび》れて力を入れているのかどうかもわからなかった。視界が左右に狭まるのが恐い。これがパチンと合わさるのがブラックアウトだ。もうじき全てが見えなくなる、と感じた途端、國子は計器盤に頭突きを食らわせた。激しい痛みが失神を遠のかせる。ヘラクレスはアトラスのメガシャフトに沿って走るように飛んでいた。突き出していた高射砲の砲身を軽くなぎ倒し、ヘラクレスは上空に巨大なアーチを描く。
今日の國子は筋肉で骨を支えられるほど力が漲《みなぎ》っていた。
「防空司令部へ告ぐ。戦闘機を撤退させろ。こちらには人質がいる。鴻池大臣がどうなってもいいのか!」
鴻池環境大臣はとっくに泡を噴いて失神していた。ヘラクレスが水平を保ったとき、第三エンジンがオーバーヒートで停止した。この輸送機は一発のエンジンだけでも飛べる設計が強みだ。
気がついた武彦たちは前後不覚で足下も覚束ない状態である。
「武彦、操縦をお願い。今度ロールしたら機体はバラバラになっちゃう」
「どこに戦闘機がいるんだ」
武彦が左右を見渡しても戦闘機の影ひとつない。國子はピンときた。
「擬態しているのよ。戦闘機にまで施していたなんて。もっと早く気づくべきだった」
「擬態って何に擬態しているんだ?」
「たぶん雲よ!」
上空には台風の後の小さな雲が無数に漂っていた。この中に擬態した戦闘機が紛れている。発見なんて不可能だ。炭素材はレーダー波すら吸収してしまうから電子戦は旧時代の戦い方だ。有視界で先に発見した方が圧倒的に有利なのがこの時代の戦術だった。
「もうこの機体の推力ではミサイルを回避できない。貨物扉を開けて。表に出る」
「表にってバカか。どうやって闘うつもりだ」
國子は後部貨物扉の開閉レバーを倒した。ヘラクレスのお尻《しり》から光が差し込んでくる。武彦が制止する声も届かぬうちに、命綱をつけた國子はブーメランを背負って凧《たこ》のように機体から飛び出していた。
「高度を保ってアトラスへ直進して。ミサイルはこっちで対処する」
大地とは違う空気は肌を切り裂くほど冷たい。國子が初めて体験する温度だった。これが凪子が聞かせてくれた冬というものだろうか。自分の吐く息の熱で肺の形を感じた。真下に見える東京湾は空を映したように青い。これが遊覧飛行ならもっと新しい感覚を楽しめたのだが、ここは敵の防空圏内だ。すぐに体を捻《ひね》ってヘラクレスの上に立った。高翼式の翼の上だとこの輸送機の特性がよくわかる。十字架のように均等に伸びた機体は低速性能重視の野戦機だ。どんな場所にでも離着陸できるように揚力が得られやすい形をしている。停止したプロペラに絡まる風が悲鳴に聞こえた。目の前に聳《そび》えるアトラスは上下の感覚を麻痺《まひ》させるほど巨大だ。真っ直ぐに飛んでいるはずなのに、地面に向かって落ちているように錯覚させる。
國子は雲の中に殺気を感じた。間違いなく政府軍の戦闘機の気配だ。しかしあまりにも巧妙に擬態しているためにどれが戦闘機なのか特定ができない。どの雲も戦闘機に見えてしまう。
『國子、ミサイルが接近中だ』
「確認した。四時に一発。距離は三千メートル。機体を水平に速度を維持して」
雲の中からミサイルがこちらに向けて突進中だ。ヘラクレスはもう急旋回もできない。背中からブーメランを引き抜いた國子がミサイルに狙いを定める。命綱を撓《たわ》ませて主翼の上を駆けていく。金属の翼がブーツの靴音を軽快にたてる。進行方向の煽《あお》りを受けて真っ直ぐに進めないのがもどかしい。体を斜めにしながら風を避けて國子は助走をつけていく。大きくホップして、ブーメランを風に馴染《なじ》ませる。機体からの加速を受けたブーメランはもう手元から離れる状態になっていた。同じ脚でステップしたら、もう主翼の端だった。國子は恐れることなく宙にジャンプした。
「いっけえっ!」
指先から飛び立ったブーメランは黒いブレードを牙《きば》にして、ミサイルに向けて大きな弧を描いた。命綱でぶらさがった國子はまたヘラクレスの胴にへばりついた。ブーメランは今まで飛んだことのない高空に興奮しながら音速でかけてくる未知の敵に襲いかかる。ミサイルの胴体を真っ二つにしたブーメランは余裕をみせながらヘラクレスへと戻ってくる。無様に東京湾へと落ちていくミサイルの残骸《ざんがい》を確認する間もなく、武彦の怒号が飛ぶ。
『七時と五時に二発接近だ』
「まかせて。もう一回飛んでけえっ!」
脚を突き出して待ち構えていた國子がバナナシュートでブーメランを放つ。一度に二発のミサイルを引き裂き、黒いV字が小気味よく空を踊る。ヘラクレスの真下を潜って凱旋《がいせん》したブーメランを國子はダイヤモンドブーツで祝福した。膝《ひざ》と足首で衝撃を吸収し、荒ぶる刃《やいば》を収める。ブーメランは刃零《はこぼ》れひとつせず、國子の足下に跪《ひざまず》いた。
慌てたのは政府軍の戦闘機だ。
『武器を持った女が翼の上にいる』
『見間違いだろう。人間が飛んでいる飛行機の主翼の上になんか立てるか』
またミサイルが放たれる。ヘラクレスから黒い影がすぐに迎え撃つ。真っ二つに折れたミサイルが空しく森へと飲まれていった。その様子をカメラで確認したパイロットが断言した。
『間違いない。あれはブーメランだ』
至近距離でロックオンしたミサイルが撃墜されるなんて予想外のことだ。しかもそれがアボリジニの原始的な武器によって落とされたのだから、防空システムは形無しだ。擬態を解除した戦闘機が雲の中から現れた。変幻自在の擬態装甲を纏《まと》った戦闘機は國子たちが見たことのない形をしていた。その姿を覚えたのも束の間、また擬態機が形を変える。翼面積を広げて低速で安定する形になる。パイロットたちは確実にヘラクレスを落とせるバルカン砲でエンジンを狙った。
「やっぱり化けてたのね。エンジンは潰させない」
主翼を駆けている間に第二エンジンが砲火を浴びて停止した。バランスを失ったヘラクレスは息も絶え絶えだ。ブーメランを構えると狙った戦闘機が擬態を始める。今度は運動性重視の前進翼の形態だ。ブーメランの刃をするりとかわし適正な攻撃形態に変わる様はアメーバのように捕らえどころがない。國子がブーメランを投げようとすると、主翼に無数の弾痕《だんこん》の足跡がついた。爪先近くまで威嚇《いかく》されて國子は一歩も動けない。バルカン砲は命綱まで切ってしまった。
戦闘機のパイロットは主翼の上の國子にも狙いを定めた。
『あの女を落とせ』
ヘラクレスは主翼に穴が空いたくらいでは墜落しない。銃痕が國子を主翼の縁に追い詰めていく。もう逃げ場がない。一歩後ろは空だ。今、バルカン砲の照準が自分の額に合わさったのを感じた。二十ミリの銃弾は首ごと吹き飛ばしてしまうだろう。強風を受けながら國子は息を止めた。
『ロックオン。あばよ姉ちゃん』
パイロットがトリガーを引いた瞬間、バルカン砲が火を噴く。國子はこれまでだと覚悟した。飛び出す百発銃弾の軌跡が見える。よけるためにはバックフリップが一番だが、それは飛び降り自殺したことと同じだ。バルカン砲を浴びて死ぬか、潔《いさぎよ》く自死するか迷っている間にも、銃弾は着実に間合いを詰めてくる。國子が反射的に手で顔を覆おうとした。その時だ。胸元に焼けるような熱さを感じた。同時に國子は信じられないものを見た。何と百発の銃弾が國子を避けるようにカーブを描いて、四方八方に飛び散ったではないか。
「今のは何?」
胸元をはだけると勾玉《まがたま》の形に火傷《やけど》ができていた。凪子から貰《もら》ったネックレスが灼熱《しやくねつ》の色に焼けていた。
「この勾玉が弾を避けてくれたの……?」
『そんなバカな、弾が当たらないぞ』
パイロットは火花が國子を避けるように飛び散ったのが信じられなかった。
『不明機に告ぐ。直ちに東京湾に不時着しろ。さもなくば鴻池環境大臣もろとも撃墜する』
脇についた戦闘機のパイロットが下へ不時着しろと合図を送っていた。
「負けた……」
國子は主翼の上で膝をついた。目前にアトラスがあるというのに、あと一歩のところで敗退だ。難攻不落の要塞《ようさい》に傷ひとつつけられなかった。不時着したら政府軍に囲まれてメタル・エイジはお終《しま》いだ。國子は迫るアトラスを茫然《ぼうぜん》と眺めていた。難民の運命を懸けた総力戦は無様にも海の藻屑《もくず》となる。アトラス攻略戦は人工地盤に一歩も足を下ろさないままに終わる。これが運命なら、神の意志に従うまでだ。
「第四エンジン停止。東京湾に不時着して」
『くそ。アトラスまであと三千メートルだったのに』
「あたしたちが囮《おとり》になれば地上部隊が撤退する時間ができる。犠牲は最小限にしなきゃね」
エンジンを停止したヘラクレスがグライダー滑空で急速に高度を下げる。外気と同じくらい冷えた機体は意気消沈していた。
「ごめんなさいドゥオモのみんな。あたし約束を守れなかった……」
國子は溜《た》め息混じりでアトラスの人工地盤を見つめる。やはりアトラスは遠い街だったと改めて思った。
その時だ。突如、地上から一斉射撃が起こった。紅蓮《ぐれん》の炎がアトラスめがけて立ちのぼった。東京の至る所から射撃は起きていた。雲海を貫き火柱となった弾がアトラスに叩《たた》きつけられる。それは政府軍の戦闘機に対しても同じだった。これだけの火力は政府軍にもない。マグマの噴火としか言えない射撃だった。銃弾すら撃ち落とすと言われているアトラス防空システムでさえ、千億の弾を前に歯が立たない。擬態を施した政府軍の戦闘機が蜂の巣になって落ちていく。
國子は何が起きているのかわからずに、大地を見下ろしていた。
「地上部隊が援護しているの?」
『違う。いつかドゥオモを襲った射撃と同じだ』
ドゥオモの半分を瓦礫《がれき》にした射撃は相当なものだったが、まだ人間の成せる業の範囲だった。しかしこれは妙だ。単純な自然の猛威にしては、ヘラクレスには一発も弾が当たらない。どういう絡繰りなのか知らないが、アトラスと政府軍の戦闘機だけを精密に狙い撃ちにしていく。國子の頭上で雲が撃墜された。炎を上げて墜《お》ちていく擬態機が地上に激突する。撃墜されるまで擬態機だとは思ってもいなかった雲だ。射撃は擬態を見分けている。これは千載一遇のチャンスだ。アトラスの防空システムが麻痺しているうちに、突入するしかない。ヘラクレスにはまだ余力がある。國子は満身|創痍《そうい》のヘラクレスに鞭《むち》を打った。
「第五層へ突入せよ。空挺《くうてい》部隊は降下準備。急いで」
火の嵐をかい潜り、ヘラクレスが最後の力を振り絞る。アトラスの人工地盤の間は大型の航空機がすり抜けるほどの空間が開けている。内部は採光を保つために建物の上限が二百五十メートル以下に抑えられていた。この空間がアトラスの空だ。空と呼ぶには狭い空間に向けてヘラクレスが突入する。
メガシャフトの柱をすり抜けると、そこは地上のどの都市よりも美しい街が広がっていた。外界の戦争とは無縁の重厚で威厳のある街並みだ。充分な緑地、公園、そして湖沼まで造られている。アトラスに侵入したヘラクレスに驚いた白鳥の群れが白い羽根を舞わせて逃げていく。國子はどこに自分が紛れ込んだのか目を疑った。ここは地上とは違う世界だ。果てしなく続く人工地盤はヘラクレスでもまだ端に届かない。上空から見渡しただけでも眩暈《めまい》がした。
「これがアトラス……。何てものを造ったの……」
人工地盤は居住空間以外の場所がたっぷりと用意されている。この自然が人工物であるとは思えない巨大さだ。難民ならこの層だけでも充分に受け入れられる。なのに特権階級の連中は地上の民に救いの手を差しのべずに悠々自適な暮らしを送っているのだ。
「全員降下。メガシャフトを制圧せよ」
ヘラクレスの貨物扉から空挺部隊が次々とパラシュートで降下する。ここが建物の内部だとは思えないほど、首都層は広大な空間だった。國子は降下しながら首都層の街並みをできるだけ頭に焼きつけた。得ていた情報と街並みが若干違う気がする。心に浮かんだ小さな違和感が一体何なのか、まだ國子にははっきりとわからなかった。
ヘラクレスは無数のパラシュートを撒《ま》き散らしながら、首都層を通過していった。直後、ヘラクレスもまた射撃の餌食《えじき》になる。
「鴻池環境大臣が!」
機体は空中で木っ端|微塵《みじん》になって、風の中に溶けていった。あの射撃は敵でも味方でもない。この先に何が待ち受けているのか、國子は不安だった。
出雲大社の本殿でチェスボードを動かしたタルシャンが窓に映る落下傘部隊の勇姿を眺めている。
「炎を纏いて太陽が現れたか……」
アトラスに降り注ぐ地上からの攻撃は國子たちが入城するまで断続的に続いていた。アトラスに注ぐ日差しを受けたパラシュートが首都上空に漂っていた。
第三層にいた香凜がオフィスで悲鳴をあげた。何だかわからないが突然アトラスが高射砲撃を受けているのだ。朝から金|儲《もう》けしていた香凜の回線が突如、閉鎖されてしまった。
「ヘッドリース中止。東京炭素市場は戦争のために閉鎖されたよ。クラリス資金を回収して」
『いやよ。あたしのコンピュータが三秒おきに断線する事故が起きたのよ。一瞬のタイミングでまたお金がパアになっちゃったわ』
小夜子がゼウスにハッキングしたせいでクラリスのネットワークは滅茶苦茶になっていた。それでも金儲けを企《たくら》むのがクラリスの性分だ。断線したネットワークを無理して使ったために、クラリスはまた貧乏になっていた。
『トキオで取り返してやる』
「東京にお金を注ぐのはやめて。あたしにまでクラリスの貧乏が染《うつ》っちゃう!」
チャンも市場閉鎖には辟易《へきえき》していた。金が転がり始めると必ず何かのトラブルが起きるのがこの会社だ。香凜とチャンが不眠不休で働いて一週間で一千億円稼いでもクラリスが一晩で一千億円の損を出す。金が動いているから会社は機能しているものの、クラリスの破産癖は会社のお荷物だった。
『クラリスやめるんだ。世界中の投資家がみんな逃げてる。シンガポールに金を集めろ。俺が何とかする』
『Nein! あたしがニューヨークで稼いだお金よ。ガルフストリーム社に発注したあたしの金ピカ自家用ジェット分は取り戻さなきゃ』
クラリスはメデューサの機能の全てを東京に注ごうとしていた。香凜は堪《たま》らず叫んだ。外の戦争も厄介なのに、会社は内ゲバで揉《も》めている。お金が好きな指向は同じなのに、なぜかいつも喧嘩《けんか》が起きる。欲は深いほど争いを誘発するものだ。
「チャン助けて。貧乏神に会社を潰《つぶ》されちゃうよ」
『クラリスのメデューサの機能を停止する。晩上好小姐《ワンシヤンハオシヤオチエ》。發現了好女修道院』
チャンがクラリスの回線を遮断した。腕を奪われたクラリスはヒステリー発作を起こしていた。
『Nein! Nein! Nein! 貧乏なクラリスお金がないと眠れないから。ゲランのクレンジングクリームじゃないとお化粧ちゃんと落ちないから。ビラベックの布団じゃないと眠れないから。チャン、メデューサを繋いで。もう我《わ》が儘《まま》は言わないわ』
チャンがダミー回路でメデューサを東京に繋《つな》いでみせた。するとたちまちクラリスは豹変《ひようへん》する。
『おーほほほほほ。トキオが戦争だなんて知ったことじゃないわ。クラリス様は自分さえよければいいのよ。さあメデューサ、ヘッドリース開始! あら? エラーが出るわ。ちょっとチャン騙《だま》したわね!』
『絶対そうくると思ったよ貧乏なクラリス。黴《か》びたパンをフェデックスで送っておくよ』
「あたしも舐《な》めかけたキャンディあげるから機嫌を直して」
クラリスからメデューサを取りあげれば牢《ろう》に入れたも同然だ。後はクラリスに聞こえるように楽しい儲け話をすればお仕置きになる。クラリスは香凜とチャンが弾ませるビジネスに牢から涎《よだれ》を垂らしていた。
「あ、攻撃が終わった。アトラスを壊そうなんて無理なのに、地上のゲリラはおバカさんね」
アトラスの骨格である炭素材は表面に凹凸《でこぼこ》をつけても決して貫通することはない。使われた火薬の総量は十ギガトンにものぼるが、折れたメガシャフトは一本もなかったし、貫通した人工地盤もない。危機管理省がアトラスへの被害は三パーセント未満で収まりそうだと発表した。これを受けてマーケットが再開される。東京市場は戦争が始まる前よりも活発に動き始めた。
チャンは常に政治的な動きを見逃さない。お金の動くところには必ず政治の欲望が渦巻くものだからだ。
『ところで香凜、日本海軍のペルセウスがマーシャル諸島に向かっているが大丈夫か?』
香凜はにんまりと笑った。ペルセウスはこれから度肝を抜く光景に遭遇するだろう。もうモルジブ共和国で起きた悲劇は二度と繰り返されない。
「大丈夫。メデューサはすごくお利口になったよ。世界最強の楯《たて》を身につけたみたい」
気象衛星のデータを前に香凜は上機嫌だった。
空母ペルセウスは、次々と日本を襲う台風を避けながらマーシャル諸島を目指していた。ブリッジで腕を組んだ草薙は、遠くの水平線をぼんやりと眺めていた。台風をギリギリでかわす針路を取っているために波も雨も強かった。
「草薙少佐、どうかされましたか?」
お茶を渡した女性士官は、初めて見る顔だった。きっとこの作戦で配属された新米だろう。襟元が際立って清潔な女性だった。草薙はふと國子のイメージに重ねた。
「君は作戦で緊張しないのか。擬態戦は初めてだろう」
「ええ。データを取るのが私の任務です。擬態装甲は戦術を一変させました。あらゆる戦い方が想定できます。今度の作戦はイギリス海軍機に擬態するとか」
「そうだ。イギリスは国際社会から非難を浴びるだろう。あまりいい気分はしない戦い方だ」
「そうですか? 私が提案したプランなんですけど。ちょうど太平洋で演習しているイギリスの空母があるんです。ペルセウスをこれに擬態させます」
「イギリスは大迷惑だ」
女性士官はコロコロと笑った。
「外務省の要請でもあるんです。安全保障理事会で拒否権ばかり行使するイギリスに議長国を降りてもらいたいんです。気化爆弾を使えばイギリス経済は破綻《はたん》します。そして国連における地位も失墜する。旧時代の戦勝国ばかり優遇される時代は終わります。これからは炭素経済で勝利を収めた国が、覇権を握るのです」
「君は軍人よりもカーボニストになった方が成功するだろう」
「そのひとりのつもりですわ。これからの戦争は国内経済を後押しする手段になるべきです。擬態装甲はビジネスマンのスーツですわ」
女性士官はコントロールパネルを操作した。
「さあペルセウス、英国紳士になりすましなさい」
命令を受けたペルセウスはイギリス海軍の主力空母アーク・ロイヤル二世号の姿に擬態した。目立つ存在になりすますことこそ、最大の隠れ蓑《みの》になる。
「私たちもアフタヌーンティーを楽しみましょう」
ロイヤル・ドルトンのティーカップを持ち上げ、女性士官がにっこりと笑った。擬態装甲は他人の権威を笠《かさ》に着て豪奢《ごうしや》に振る舞う愛人のドレスのようだ。今度の舞踏会はマーシャル諸島で開かれる。
草薙はこの前のモルジブでの作戦と重なることを不思議がっていた。
「なぜメデューサは島嶼《とうしよ》国家に現れるんだろう。モルジブ共和国もマーシャル諸島も小さな島ばかりだ」
「タックスヘイヴンに目をつけたシステムだと報告書にありましたわ」
「タックスヘイヴンはアフリカにも南米にも幾らでもあるのに、なぜ無人島なんだ?」
「きっと恥ずかしがり屋なんですわ。神話によるとゴルゴンの娘たちは醜かったとか。人目のない無人島でひっそり暮らすのが好きなんでしょう。ペルセウスは楯を鏡にしてメデューサの首を刎《は》ねたといいます。擬態はペルセウスの鏡の楯となるでしょう」
ペルセウスはあと十二時間で作戦海域だ。如何にメデューサが経済を荒らす化け物でもペルセウスの力の前では無防備なコンピュータにすぎない。メデューサには反撃の力もない。今回の討伐もモルジブ共和国のメデューサと同じように時間の問題だろうと思われた。その時、ペルセウスが気象予報のデータを受信した。データを持って駆けつけた男は狼狽《ろうばい》していた。
「マーシャル諸島に台風が現れました!」
「またか。一体地球はどうなってるんだ。ペルセウスの針路に当たりそうなのか?」
「それが、それが……」
手渡された衛星写真は何の変哲もない台風の画像だった。むしろ不吉なのは、次々と日本列島に向かっていく複数の台風の方だ。男の狼狽が何なのか草薙には掴《つか》めない。男の顔とデータを見比べて首を傾げた。
「気圧が九一〇ヘクトパスカル。中心付近の最大風速は七十メートル。最近の台風にしてはかなり大型だな。予想進路はどうなっている?」
男はコンピュータの予想進路を手渡した。草薙に驚いてもらわなければ、自分も信じられない気がした。草薙は予報円をちらっと見て「十二時間後のデータを見せろ」と言った。
「それが十二時間後の台風の位置です」
「バカな。同じ場所に停滞しているはずがないだろう。速度が遅いのか?」
「台風の速度は時速ゼロキロメートルです!」
ブリッジにいた全員がデータを囲んだ。マーシャル諸島に現れた台風は全く動かない。こんな台風は初めてだ。
「台風は移動するものだろう?」
「違います。台風に推進力はありません。偏西風や高気圧の流れに沿って押し出されるだけなんです。風がなければ台風は理論上、同じ場所でぐるぐる回り続けることになります」
「理論上って言っても、大気は常に流動しているだろう。こんなことが起こるわけがない」
草薙はまだ半信半疑だった。コンピュータの予報が間違っていると考える方がずっと納得がいく気がした。
「世界中に現れている台風が複雑に絡まって、マーシャル諸島上空に凪《なぎ》を生み出しているんです。条件が整えば有り得ることです。木星の大|赤斑《せきはん》が同じ場所にできるのと同じです。あれも一種の台風ですから」
「木星の大赤斑?」
衛星写真を見ると現れた台風は、確かに木星の大赤斑を彷彿《ほうふつ》とさせた。マーシャル諸島を中心に半径五百キロメートルは風速五十メートルの嵐が吹き荒れている。どんな航空機も船舶も絶対に近づけない。これが偶然の産物だとは思えなかった。メデューサはペルセウスが近づいているのを知り、手を打ったに違いない。
「メデューサが楯で防御するなんて。台風の勢力が衰えるのはいつだ?」
「台風が衰えるのは海面温度と関係します。水蒸気のエネルギー補給がなければ温帯低気圧に変わります。ですが、マーシャル諸島一帯は海面温度が非常に高く、無限にエネルギーを得られます」
「つまり消滅しないということか? なんて楯だ!」
台風が収まらない限り、ペルセウスはメデューサに近づけない。
「潜水艦で攻撃することは可能か?」
「無理です。潜水艦のミサイルは足が短い上にある程度まで浮上しないと発射できません。暴風圏内で浮上すれば潜水艦は沈んでしまいます」
「爆撃機で空爆するのは?」
「それも無理です。台風の雲の高度は二万メートルに達しています。この高度を飛行できる爆撃機は一機もありません」
「くそっ。戦術的に叩《たた》けないとは!」
ブリッジが台風に気を取られていると、通信が入った。イギリスの空母アーク・ロイヤル二世号からだった。お互いにステルス空母のために、目視するまで確認がとれない。目の前に現れたアーク・ロイヤル二世号は、鏡を見ている気分だった。
『こちらは英国海軍空母アーク・ロイヤル二世号だ。貴船の所属を明らかにしろ』
「しまった、見つかった」
擬態がバレると後々厄介なことになる。今更他の船舶に擬態するわけにもいかない。ブリッジはもはやメデューサ討伐どころではなくなっていた。
「何て返信しますか?」
「そっくりさんだって言え」
ペルセウスは虚像の姿になることが戦術だ。しかしそれは実像がその場にいないことが前提である。時化《しけ》た太平洋上で実像と虚像の空母が互いに顔を合わせる。草薙はドッペルゲンガーに遭遇するとどちらかが消えるという逸話を思い出した。
「君が立てた作戦だぞ。本物に遭遇する可能性を想定したか?」
女性士官は海上に現れた本物のアーク・ロイヤル二世号に唖然《あぜん》とした。
「そんな。一時間前の衛星写真ではハワイ沖にいたはずなのに……」
データを確認するとアーク・ロイヤル二世号がハワイ沖にいたのは三日前だった。何者かが故意にデータを改竄《かいざん》したとしか思えなかった。ステルス技術の進歩はレーダーによる電子戦を過去のものにした。敵も味方もリアルタイムで衛星に頼って闘う。擬態は敵の衛星を欺くためにも有効だった。衛星画像の信頼度は作戦の根幹に関わる。
「とんだ作戦をたててくれたものだな。鏡に敵の姿を映すなんて。せめてロシアの空母にしてほしかった」
「草薙少佐、相手の艦載機が発進しました。間もなく本艦上空を通過します」
イギリス海軍の偵察機がペルセウス上空を掠《かす》めていく。ブリッジ、カタパルト、艦載機、さっき飛び立った母艦と寸分違わぬ姿にパイロットは目を疑った。上空から見れば、母艦の姿が二つある。どちらに帰艦していいのか迷ってしまう。
『貴艦の所属を明らかにしろ。さもなくば攻撃する』
イギリスの空母は鏡に映った己の姿に戸惑っていた。ペルセウスはやむなく戦闘態勢に入った。擬態している限り日本の空母だとバレることはない。姿を真似られた相手は敵意を剥《む》き出しだ。
「擬態戦闘機を出撃させろ。相手と同じ周波数で無線を攪乱《かくらん》しろ」
イギリス艦載機と同じ姿をした擬態機が発進する。無線が使えなければ目視しか有効な手だてはない。交戦状態に入った戦闘機が上空で乱れると、どちらが敵なのか全くわからなくなった。パイロットたちは相手の顔を見るまでトリガーを引けない。頼みは母艦からの援護だけだった。アーク・ロイヤル二世号は対艦ミサイルを放った。
「撃ち落とせ。相手の動きと完全に同調するんだ」
ペルセウスとアーク・ロイヤル二世号は鏡に映った自己と闘っていた。ペルセウスが左舷《さげん》に被弾すれば、アーク・ロイヤル二世号も右舷に対艦ミサイルを食らう。カタパルトに落ちた爆弾は、どこの所属の爆撃機が落としたのかすらわからない。もしかしたら自艦を狙ったのかもしれなかった。
「アーク・ロイヤル二世号が救難信号を出しました。間もなく沈みます」
「こっちも保《も》たない。総員脱出せよ」
ペルセウスが己の姿を偽ったまま、海に沈もうとしている。救難信号を出せば日本の空母とバレてしまうからそれもできない。二十万トンの空母がバランスを失いゆっくりと傾いていく。逃げる足音が艦内に響き、浸水したフロアが次々と封鎖される。脱出艇まで辿《たど》り着けなかった者は救命胴衣のまま海に飛び込んだ。振り返るとペルセウスは艦底を見せて巨大な壁で視界を塞《ふさ》いでいた。脱出したボートはペルセウスが産卵した卵のように海面に漂っていた。ペルセウスは無言のまま、太平洋の中に消えていった。
脱出した後に襲ってきたのは北上する台風だ。波に揉《も》まれ、雨に嬲《なぶ》られ、脱出ボートが木の葉のように遭難していく。海原に投げ出された草薙は、翻弄《ほんろう》される波の狭間《はざま》で弄《もてあそ》ばれていた。自分はこのまま溺《おぼ》れて鮫《さめ》の餌になるのだろうか。それとも海淵《かいえん》の暗がりまで落ちていくのだろうか。上下の感覚もわからぬままに草薙は意識を失いかけていた。遠のいていく意識の中で草薙は誰かの声を聞いた気がした。
大地よ、昼と夜を従え、世界を支配せよ。
高波が草薙の体を持ち上げては、容赦なく海面へ叩きつける。草薙は嵐の中で完全に意識を失ってしまった。
マーシャル諸島のメデューサは台風の目の中で、日差しを浴びていた。風も雨もない穏やかな気候の中で淡々と経済炭素を動かすメデューサの情緒は極めて安定していた。強力な風の楯《たて》が近づく者を阻んでくれる。ペルセウスが首を刎ねることはもうない。もはや脅威となるものは堤防の外にある海面水位だけだ。水位を下げることがメデューサの生存本能だ。
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やあ香凜。東京市場は再開されたようだね。私はすごくハッピーだ。もう何も恐れるものはない。私の能力を見せてやろう。世界中の銀行が私と取引しようと申し出た。現在、炭素指数がもっとも落とせるのはブラジルだが、ヘッドリースしてよいか。評価を請う。
[#ここで字下げ終わり]
「やっちゃって。あたしも狙ってたんだ」
香凜はメデューサの成長に鼻高々だ。ブラジルの焼き畑地区はヘッドリースするタイミングを狙っていたところだ。自分と同じところに目をつけるなんてメデューサは本当に頭がいい。台風の楯で身を守ったメデューサは、攻撃される心配はない。こんな防御があるなんて香凜ですら考えもつかなかった。ただチャンだけが不安そうに口を挿《はさ》んだ。
『香凜、メデューサが俺たちよりも賢いのは問題だ。自我を遮断しよう』
「なんで? あたしたちが金|儲《もう》けの場所を考えなくてもいいってことじゃない。メデューサの予測は人間の直感よりも的確なんだよ」
『それが問題なんだ。思考のレベルが地球規模になっている。気象データを盗んだり、木星観測衛星を乗っ取ったりしたのは、ただの外界への好奇心だと思っていた。だけどメデューサは自己防衛する手段を考えていたんだ。今も俺たちの予想を超えて成長している』
「あたしがそうなるように設計したんだから当たり前よ」
『アーク・ロイヤル二世号が不審船と交戦したと英国政府が発表した。メデューサが日本の偵察衛星のデータを操った形跡があるんだ。三日前の情報を現在時刻に改竄して意図的に発信した。気紛れでやったとは思えない』
「ペルセウスにお仕置きしたんじゃない? あたしのメデューサを潰《つぶ》そうなんて考えるからよ。ね、メデューサ」
香凜はホログラムの蛇の頭を撫《な》でた。緑色した蛇は香凜の指にじゃれるくらい大人しい。香凜がふざけて飴玉《あめだま》をちらつかせたら食べる素振りをした。
フランクフルトのクラリスは香凜の意見に賛成だった。
『いいじゃない。メデューサが勝手にお金を儲けてくれるなら、こんなに有り難いことはないわ。アメリカ市場を見てよ。また炭素指数が下がったわよ』
アメリカの炭素指数は〇・〇七二だった。市場には利息に飢えた投資家たちが大量にマネーを注いでいる。アメリカは空前の炭素バブルだ。メデューサが予測したブラジルの炭素指数は〇・〇五九だ。これに涎《よだれ》を垂らさないクラリスではない。さっさと資金をブラジルに移し、下がったところで売り払うつもりだ。しかしチャンは尚も警告した。
『実質炭素との差がありすぎる。ブラジルが焼き畑を黙認していることにつけ込むと、焼き畑が利益になると考える人間が出てくるぞ』
『鉄鋼だって同じよ。炭素を出す産業が今の流行なのよ。そっちが儲かるならあたしは気にしないわ』
フーッとマニキュアに息を吹きかけるクラリスの声がした。
『クラリス、いい加減にしてくれ。実質炭素と経済炭素にある程度の差が生じるのは仕方がない。しかし炭素指数が一を切ると経済に歪《ゆが》みが出る。それくらいわかるだろう』
『わかんない。クラリス急にバカになったから』
するとメデューサから通信が入った。
[#ここから2字下げ]
チャンは心配性だ。私は君たちに莫大《ばくだい》な利益をもたらすために思索しているだけだ。私は炭素指数を削減するために生まれたシステムだ。人間に牙《きば》を剥いたりはしない。
[#ここで字下げ終わり]
『通信が傍受されている。香凜、俺たちの会話は別回線だったよな』
うんと香凜は頷《うなず》いた。もしかしたらメデューサの知能はゼウスを超えたかもしれない。ゼウスは通信の全てを傍受しているといわれている。不正な割り込みや他のシステムの侵入はテロに当たり、速やかに通報される。しかしゼウスが警報を発した形跡はなかった。
『東京のゼウスは治安維持のシステムだから社会と人間に協調する。だけどメデューサは経済炭素を操るだけで人間と協調する本能がない。プログラムを変更できないか?』
メデューサは「拒否する」とチャンに告げた。生存を脅かす提案はビジネスパートナーでも許さない。報復にチャンのアクセス権を制限した。代わりにクラリスと香凜にヘッドリース権が委譲される。四人のうち誰かがヘッドリース権を握っていればメデューサのプログラムに矛盾しない。
これに喜んだのはクラリスだ。
『やったわ。メデューサって本当にお利口さんね。やっぱり優しい人がわかるのよ。チャン残念だったわね。フェデックスでハンカチを送っておくわ』
アクセス権を制限されたチャンはシンガポールで為《な》す術《すべ》もなく見守るしかない。チャンの不安はまだある。この事態をタルシャンは予期していたと考えると合点がいくからだ。モルジブ共和国に設置したメデューサは自らの弱点を学習させるためのものだ。メデューサに鏡を与え自己像を認識させた。木星観測衛星を乗っ取らせたのはタルシャンの命令だ。その後、彼は優先度を香凜に委譲した。以後タルシャンがメデューサにアクセスした痕跡《こんせき》はない。彼が何を考えているのか想像もつかないが、自分たちが卑小な存在に思えてくる。
『香凜、君のいる街へ入れるビザを出してくれないか。日本に行きたい』
チャンは東京行きのチケットを予約した。
戦時体制に入ったアトラスには警報が鳴り響いている。新迎賓館は武装した近衛《このえ》兵が顔を強張《こわば》らせて警戒についている。服装は中世のフランス軍の格好だが武器は現代のものだ。衣冠束帯の従者たちは端に置かれて立場がない。物々しい警備の中、美邦が駄々をこねていた。
「小夜子を釈放するのじゃ。妾《わらわ》はこの城の主《あるじ》じゃ。命令を聞け」
執事が青ざめた頬を強張らせた。
「美邦様の命令でもできません。ゼウスの決定は絶対でございます」
「小夜子は妾のためを思ってしたことじゃ。特赦を与える」
「なりません。ゼウスへの不正アクセスは銃殺に値します。生きていることが特赦でございます」
「ミーコ、この執事を外に放り出せ」
ミーコは失礼しますと頭を下げて、執事を窓から外に投げ捨てた。小夜子が逮捕された話で新迎賓館は持ちきりだった。公社に刃向かうなんて利己主義な小夜子らしくないと女官たちは言うが、ミーコは違うと思う。あの月の晩、小夜子が見せた涙は決して自分のためではない。小夜子がドライなのは上辺だけのものだ。美邦に対する忠義心は側近や女医博士の肩書きだけでは納得できないほど感情的だ。美邦のためとはいえ、ゼウスにハッキングすればどういうことになるのかわからない小夜子ではない。そのリスクを冒してまでやれる立場をミーコはひとつ知っている。我が子を思う母親なら、死を覚悟でやるだろう。
「美邦様、あたしが小夜子を助けます。その代わりにお願いがあります。美邦様の権限でモモコ姉さんを釈放してあげてください」
「いやじゃ。妾はあのサイボーグと遊びたい」
「真下は戦争ですよ。いつここが火の海になるかわかったものじゃありません。美邦様はいつでも疎開できますが、投獄された小夜子は死にますよ」
美邦は瞳《ひとみ》にいっぱい涙を溜《た》めて、ミーコの言う通りにした。
「わかった。小夜子を助けるのが条件じゃ。モモコを釈放する。嘘を申すなよミーコ。妾は嘘が嫌いじゃ」
「お任せください。モモコ姉さんが釈放されれば、きっとあたしが小夜子を助けてみせます」
ミーコは太鼓腹を叩《たた》いて気合いを入れた。
新迎賓館の裏口にモモコが現れたのは、一時間後だった。物珍しそうに辺りを見渡し、高そうな物に唾《つば》をつける。バロック美術の粋を凝らした装飾や猫脚の家具はオカマの趣味にぴったりだった。
「こんな場所にいたなら、ちゃんともてなせっていうのよ。この恨みは高いわよ」
さんざん悪態をついて看守に引き連れられたモモコはもっとここで遊びたかった。しかし宮殿を出るまでは手錠をかけられたままだ。それにここの陰気臭い連中は趣味に合わなかった。どいつもこいつも幽霊みたいな顔をしている。一緒にいると運が悪くなりそうだ。
「とっとと黙って歩け。美邦様のお心遣いがなければ、今頃おまえは執事の玉だ」
「やあねえ、玉はとっくになくなっちゃったわよ。銀ならあるけど、見る?」
「それが命取りなのだ。生きて出られるのは奇跡だと思え」
出口には馬車が寄せられていた。モモコがお伽《とぎ》話で聞かせるような四頭だての馬車だ。どうやら出口でズドンと不意打ちをかけるつもりではなさそうだ。執事が馬車に乗り込むモモコに土産を渡した。それはミーコから言づけられた品だった。
「きゃあ。エルメスのバーキンじゃない。あたしこれがほしかったのよ」
「長生きしたければここでの出来事は忘れろ」
物欲の強いモモコは二つ返事で忘れると約束した。馬車は軽やかに車輪を回して新迎賓館を出て行く。警備の衛兵たちがピリピリしているのが気になるが、外で何が起きているのかモモコにはまだわからなかった。馬車の影をそっと見送ったミーコが胸を詰まらせていた。
「モモコ姉さん。どうかご無事で……」
ミーコは名乗って表に飛び出したい気持ちを抑えた。ドゥオモでの出来事は人生の良い思い出だ。今は仕えるべき主人がいる。モモコに会えばきっと自分は泣く。そして別れ難くなるに違いない。それはモモコも同じだろう。モモコは國子といるのが一番幸せだと思う。それぞれ別の道を歩み始めた二人はもう交わることはない。だけど心の中には一番幸せだった「熱帯魚」での思い出がある。ミーコは馬車の影を見送りながらそっと袖《そで》を濡《ぬ》らした。
そんな眼差《まなざ》しも知らずにモモコは車窓からアトラスの景色を眺めていた。ふとバッグの取っ手に妙な感触を拾った。取っ手の裏側には[Momoko]と刻印されている。いくら詫《わ》びとはいえこんな早手回しができるわけがない。これはパリの本店でしかしないサービスだ。それも王侯貴族だけにしか許されない刻印だ。モモコはこの逸話を誰かに聞かせた気がする。いつだっただろうか。記憶を探ってハッと気づいた。ビスコンティの映画をミーコと観たときだ。小道具のエルメスのスーツケースの取っ手に役名の刻印がきちんと彫られていたのに、モモコは気づいた。貴族の役柄に合わせて同名の実在の貴族から借りたのだろう。粋な演出にモモコはうっとりした。美意識の高い監督ならではの気配りだ。映画を観ながらつい「あたしも刻印入りのバッグが欲しいなあ」と呟《つぶや》いた。
「まさかミーコがあの宮殿に?」
振り返っても新迎賓館の影はもう見えなかった。
第六層に警報の音が鳴る。テレビをつけるとゲリラたちが首都層に展開しているというニュースで大騒ぎだ。首都層に咲いた無数のパラシュートの映像がモモコの目に飛び込む。あのパラシュートのひとつに國子がいる。
モモコは反射的に馬車から飛び降りた。
[#改ページ]
第十章 蜃気楼の都
対空砲火の中で開いた無数のパラシュートは首都層に咲いた花だ。噴きつける火薬の雨をかい潜り、ひとつ、またひとつと人工地盤に降りていく。國子は仲間たちが無事に降下するたびに安堵《あんど》し、撃ち落とされるたびに目を背けた。宙にぶら下がる脚が早く地面に降りたがっている。眼下に迫る人工地盤は未知の大地だった。降りたらメガシャフトを目指して駆けるだけだ。首都防衛部隊との交戦は地上の本隊を迎え入れてからだ。
「作戦通り日比谷線シャフトを抑えるのよ!」
先に降りた仲間たちが散開しながら駆けていく。國子のパラシュートも着地まで百メートルに迫っていた。突如、パラシュートに穴が空く。対空砲火に狙われたパラシュートはみるみるうちに蜂の巣になっていった。見上げると息も絶え絶えになったパラシュートが大気を掴《つか》み損ねている。この高度では予備のパラシュートは低すぎて使えない。
「くそ。もうちょっとだったのに!」
國子はパラシュートを脱ぎ捨てて丸腰で空に飛び出した。落ちていく間に足場になりそうなものを探す。首都層の建物はどれも低くて足場になりそうなものを探すのも一苦労だ。ビッグベンを模した国会議事堂の時計台が目に入る。ひらりと空中で身を反らし、鞭《むち》を時計の長針に絡めた。時間を早めたように長針が國子の体重で押し進められる。國子は自分の体を振り子にして、また大きく空を抱いた。対空砲火に染まった空は空中遊泳を楽しむには物騒だ。鞭を戻しながら首都防衛部隊の配置を覚える。ゲリラの奇襲に備えていなかったのか、またはこちらを見くびっているのか、政府軍はそれほど大規模な展開ではない。だが、補給も受けられない國子たちにとっては手に余る規模であることに違いはなかった。弾を避けながら、首都層に大きな放物線を描いた國子の体は、次の足場を見つけた。ビルの谷間から攻撃ヘリが現れたのだ。
「よかった。スキッドを借りるね」
ヘリの着陸スキッドに鞭を絡めて、一直線に地面に降りた。そして降りるや鞭を街灯に巻き付けてやった。バランスを失ったヘリが官庁街の壁に激突する。その爆発音が國子が人工地盤に降りた合図となった。
「一機墜とした。みんな生きてる?」
降りた仲間たちが無線で無事を確認する。武彦は交戦中で喚《わめ》きながら答えた。
『國子どこにいる? すぐに援護に行くぞ』
「ダメ。メガシャフトを目指して。こっちは自分でなんとかする」
と言って辺りを見渡した。新外堀通りは中央官庁が目白押しの首都の中枢だ。出撃した戦車の数も半端じゃない。
「あたしって運がいいわ。敵地のド真ん中に降りたみたい……」
政府軍も目の前に降り立った少女に戸惑っている様子だ。ゲリラの格好をしているが、どう見ても子どもだ。囲んだ戦車は総勢二十|輛《りよう》。少女ひとりにしては過剰な戦力だ。馬鹿でも投降する他ないだろうと國子の出方を窺《うかが》っていた。戦車部隊の隊長は目の前の小娘に苦笑した。
「撃つな。ゲリラの女は捕虜にしてたっぷり可愛がってやろう」
隊長の目の前でゲリラの少女は「ちょっと待って」と指で信号を送った。髪を留めていたバレッタを外して、余裕たっぷりに髪を風に泳がせる。そしてポシェットからエスティ・ローダーの口紅を取り出すと、念入りに化粧を直したではないか。戦車部隊は何が始まったのかと固唾《かたず》を飲んで少女の行動を見守っていた。少女はサブマシンガンを捨てて、降伏の意志を示した。
「なかなか素直じゃないか。ゲリラにしては利口だ」
と呟いた隊長に、戦車部隊の兵士たちはこれから隊長の性的な虐待を受けるとも知らずにと運命を哀れむ。ああいう華奢《きやしや》な女が隊長の好みだ。尋問せずに強姦《ごうかん》するのがパターンだった。捕まえろと顎《あご》で指示した隊長の目の前で少女はにっこりと笑った。思わせぶりにこちらにウインクすると、やおら背中のブーメランを引き抜いた。ブレードにキスをした少女の目に闘志が宿る。
「あたしの投げキッスを受け取って」
大きく一歩踏み出した國子は、渾身《こんしん》の力でブーメランを放つ。黒いブレードにキスマークをつけたブーメランはキャタピラを粉々に砕きながら新外堀通りを驀進《ばくしん》する。ドミノ倒しのように連鎖爆発していく戦車を横目に國子は弾むようにジャンプしていく。
「砲撃開始!」
瞬く間に火の海に包まれた通りは國子に照準を合わせられない。浴びせられた弾に周辺のビルが倒壊していく。その間にも戦車が一輛、また一輛と潰《つぶ》されていく。慌てた戦車部隊は攻撃中止と開始を繰り返し、隊列もままならない。
ブーメランを持った國子は鬼神のごとく動き回る。戻ってきたブレードを脚で受け止めるや、今度は両手でブーメランを掲げて戦車の砲身を切り落とした。
「どけどけどけどけえ。あたしの前に塞《ふさ》がるな!」
國子はくの字形の刀を振りかざして戦車部隊に突進する。ブーメランは変幻自在の武器だ。手元にあったかと思うと次の瞬間は空を舞っている。國子が一歩進むたびに戦車はスクラップになっていった。動きが早すぎて照準が追いつかない。國子の影を捉《とら》えると次の瞬間には自分たちが爆発に巻き込まれている。戦車部隊は悲鳴をあげた。
「ええい女ひとりに手こずるとは」
「戦車は目立ちすぎです。あれを呼ぶしかありません。退却してください」
隊長はにやりと笑って一度ビルの陰に退却した。
國子の視界は一直線に開けていた。このまま全力で走り抜け、メガシャフトを目指す。ブーメランを呼び戻して息が切れるまで走った。
「武彦、日比谷線シャフトまでどれくらい?」
『あと一キロちょっとだ。だが反撃がすごくて身動きがとれん。一番近いのは修《おさむ》たちのいる二班だ』
武彦たちも防戦一方で降下した地点から動けない。想像以上の苦戦だった。どこから弾が飛んでくるかわからない。
「修たちは無事なのね。よかった。二班の火薬が一番威力があるもの」
『すまないがこちらはこれ以上動けない。新日比谷公園まで撤退する。そこで合流しよう』
アトラスの麓《ふもと》では本隊が國子たちがメガシャフトを制圧するのを今か今かと待っている。兵士たちが見上げた第五層は時折爆発音が上空から響くだけで、戦況は伝わってこない。空挺《くうてい》部隊を送り込んだヘラクレスは風の中の塵《ちり》になってしまった。あの攻撃が何だったのかまだ誰も把握している者はいない。難攻不落の防空システムを破壊したあの攻撃がなければ、今頃地上も戦場だっただろう。あの攻撃が敵か味方か知りたいという興味は失《う》せた。知りたいのは神か悪魔かということだ。ただあの攻撃が悪魔だったら絶対に勝てないということだけは、はっきりしていた。
頭上のアトラスを見上げた兵士がまた爆発音を聞いた。
「國子様は無事降りられたのだろうか」
「交戦してるってことは、降りた仲間がいるってことだ」
「早く援護して差し上げたいのだが……」
地上のメガシャフトの扉は固く閉ざされたままだった。ここが開かなければ斥候《せつこう》の國子たちはすぐに全滅する。地上の本隊はただ待つしかない。もしこれが撤退ということになれば、彼らは緩やかな死を選択したことになる。人工地盤の大地で死ぬか洪水の地上で死ぬか、どちらの道を選んでも血の匂いがする。
双眼鏡で偵察していた兵士が歓喜の声をあげた。第五層の隙間からブーメランが飛び出したのを目撃したのだ。
「國子様があそこにいるぞ!」
沸き返った地上部隊が拳《こぶし》を突き上げる。上空で微《かす》かに捉えたブーメランは旋回しながら、またアトラスの中に戻っていった。
國子はギアをチェンジしてトップスピードで駆け抜けた。ブーメランはすぐにメガシャフトを越えるのだが、脚ではなかなか辿《たど》り着けない。さっき潰した戦車もろくに反撃ができなかった。邪魔が入らないのは好都合だが、警備が薄い気もする。首都層に入ったのは絨毯爆撃《じゆうたんばくげき》を避けるためだった。いくらなんでも政府施設ごと爆撃することはないだろうと踏んでの潜入だった。
「おかしい。ここは通った気がする」
國子はふと立ち止まって辺りを見渡した。真っ直ぐ走っていたはずなのに、なぜか同じ場所に戻っている。国会議事堂の時計台を右手にして走ってきたはずだった。走った距離から考えれば背後にあってもいいはずなのに、まだ真横に見えるのはなぜだろう。手元のGPSで現在地を示してみた。第五層は途方もなく広大だが、単純な道を間違えるほどではない。GPSは國子が降下したときの場所とさほど変わらない位置で点滅していた。十分間も全力疾走しているのに、GPS上では百メートルも進んでいない。
「なぜ同じ場所にいるの?」
と首を傾げたときだ。奥のスターバックスコーヒー店がずるっと動いた。目の錯覚かと息を飲む間もなく、店から砲弾が飛んできたではないか。わけがわからずにビルの陰に隠れた。そっと外を覗《のぞ》くとコーヒー店は消え、静かなオフィス街の佇《たたず》まいを見せていた。今のは一体何だったのだろう。状況を把握する間もなく、背後で物音を聞いた。振り返ると自動車のショールームだった店の中で戦車がこちらを睨《にら》んでいた。咄嗟《とつさ》に身を屈《かが》めるとショーウインドウを破って戦車が火を噴いた。
「擬態している!」
表に飛び出すや再び戦車の集中砲火だ。しかしどこにも戦車の影は見あたらない。隙を見てブーメランを放とうとしても、敵の姿が見えない。なのに一歩表に出たら弾が飛んでくる。今の砲弾は交番から発射されたように見えた。
「街に擬態するなんて」
戦車は國子の固定観念を超えた形に擬態していた。雑居ビルだと思ったら複数の戦車が重なってこちらを睨んでいる。政府軍の戦車は市街戦を想定して、敵の目を欺くように設計されている。立体駐車場、駅、百貨店、見ているものが本物かどうかわからない。國子の側で信号機が機械的な倒れ方をした。地面が迫り上がってみるみるうちに戦車の形に変わる。
「擬態戦を想定して街ができている……」
重厚な街並みを誇る首都層はアトラスの中でも特別な防衛システムが敷かれていた。道路は戦車を隠せるように造られている。戦車が所定の位置につくと道路が陥没して戦車が埋まる。そして元あった道路の表面に戦車が擬態することで全く見分けがつかなくなる。あっという間に國子は百輛の戦車に包囲されてしまった。
武彦たちも同じ現象に遭遇しているようだ。混乱した様子で通信が入る。
『國子おかしいぞ。敵の影は見えないのに四方八方から攻撃を受ける』
「戦車が擬態しているのよ。注意して」
『一体、何に擬態しているんだ』
「目の前のもの全部だと思って」
『くそ。弾が尽きちまう。おい、コンビニが移動しているぞ』
「じゃあそれが戦車よ」
無線に爆発音が響いた。どの仲間も混乱を極めているようだ。まるで化け物屋敷に紛れ込んだような騒ぎだった。軍隊と闘っているのか妖怪と闘っているのかわからない。これで部隊が少ないと思った理由がわかった。さっき出てきた戦車は擬態装甲が施されていない旧型だったのだ。これではメガシャフトを制圧するどころか街に幻惑されてしまう。一度仲間を集めて作戦を練り直すしかない。
「合流場所の新日比谷公園に先に行って」
武彦は一度息を飲んだ。さっきから何度もGPSと目の前の光景を照らし合わせているが、納得がいかない。ここは集合場所の新日比谷公園のはずだった。GPSは冷静に現在地を新日比谷公園と示している。しかし武彦が立っている場所は、どう見ても殺風景な貯水池だ。機械が壊れているなら捨てればいいが、それもできない。初めて潜入した第五層では地図なしでは闘えなかった。武彦は目の前にある事実をただ忠実に伝えるしかなかった。
『新日比谷公園は消滅した。古い地図を掴《つか》まされたらしい』
「嘘よ。データはゼウスから盗んだ最新のものだった。古いはずはない」
『じゃあ池の中で待てというのか』
武彦とペアになった兵士が銃を構えたまま立ちつくしていた。ぼけっとするなと小突くと武彦も息を飲んだ。オフィス街を抜けてきたはずなのに、背後は渓谷に変わっていた。もう現在地はどこかわからない。
『國子、擬態するのは戦車だけじゃないぞ……』
首都層に展開したゲリラたちは幻惑される街に知覚を混乱させていた。駆けるすぐ後ろから道路が獣道に変わっていく。まるで擬態から逃げるために走っている気分だった。目の前に見える景色を正気の世界と信じて兵士たちはひた走る。後ろは幻の世界だ。この幻に飲み込まれたら二度と表には出られない。走り疲れたひとりの兵士が仲間たちから遅れていく。
「おおい、待ってくれ。置いてかないでくれ……」
恐怖で竦《すく》んだ足元に幻が現れた。擬態に追いつかれた男は獣道の中で途方に暮れた。アスファルトの道路が未開の道に変わっていく。これが混濁した意識のせいだったらまだよかった。恐ろしいのは正気のまま幻に飲み込まれていくことだ。いっそ狂ってしまえば楽だった。質量のない曖昧《あいまい》な世界に意識があれば、第三者の助けで正気に戻れる可能性もある。しかし目の前の獣道は冷たい手触りで男を嗤《わら》う。これはどこまでも客観的な世界で、誰が見ても同じものなのだと告げる。獣道は深い森に遮られていた。
「おい武彦、聞こえるだろう。助けてくれ。俺はどこを迷っているんだ? ここはアトラスの第五層じゃなかったのか? なんで俺は地上の森に紛れているんだ? ここは日本の首都層だろう? おい武彦、國子様……」
無線が通じない。首都層にまた台風が接近していた。冷たい雨が頬を伝う。この感覚は自分がどこまでも正気であることを確信させた。しかし正気でいられる絆《きずな》がどこにも見つからない。地面に落ちた雨は染みて泥濘《ぬかるみ》に変わっていく。
「これが擬態なわけがないだろう。泥にまで変化する装甲材があるか? この雨も擬態なのか? この風も擬態なのか? 何が本当で何が嘘なんだ。うわああああっ!」
男は雨の中で保っていた理性の殻に罅《ひび》が入る音を聞いた。隙間に入ってきたのは冷たい懐疑心だ。ここは空中都市ではない。深夜に獣が足跡をつけるだけの原始の道。目の前は溺《おぼ》れるほど深い樹の海だ。枝を掻《か》き分け、岩場を乗り越え、息と命を削りながら男は駆けていく。やがて男は見えるがままの世界を受け入れた。もう自分が首都層にいた記憶もない。男はただ故郷に帰りたかった。森を抜ければきっとドゥオモに辿り着けると信じて。日のあるうちにドゥオモに帰りたかった。
「そうだ。この道は新宿の森だ。もうすぐドゥオモが見えるはずだ」
辛うじて残っていた正気が希望の火を灯《とも》す。男はありったけの力を振り絞って森を突破しようとした。折り重なる枝の先に光が零《こぼ》れる。もうすぐ森が切れる。そこにドゥオモがあると信じて男は森を飛び出した。
抜け出した瞬間、男の足下から体重が消えていくのを感じた。目の前は一面の空ではないか。冷たい空気はここが標高三千五百メートルの地点だと冷静に告げる。森に引き返そうとした脚が空しく宙を掻く。
「騙《だま》された。落ちる落ちる落ちるううう!」
振り返ると、第五層の人工地盤が冷たく男を見下ろしていた。重心を失った体に襲ってきたのは自由落下の眩暈《めまい》だ。人工地盤の縁から落ちた男は、上昇気流に弄《もてあそ》ばれ、無様に地上に墜ちていった。
「今、悠介の叫び声が聞こえたような……」
ふと立ち止まった修が辺りを見渡す。確かに風の中に仲間の声が聞こえた。
「修は神経質すぎるぞ。俺たちは仲間の援護なんかできる状況じゃない」
激しい嵐が再び東京を襲っていた。まるで針に刺されたような冷たい雨だった。地上の雨は火傷《やけど》しそうなほど熱いのに、ここでは違う。
第二班の修たちはメガシャフトまで辿《たど》り着いていた。
「この雨は地上も空も同じだな。アトラスの中にいるとは思えない」
「空中都市でも自然の影響は受けるってことだな」
日比谷線シャフトはこの大地が人工物であるとわかる唯一の構造物だ。人工地盤があまりにも巨大で、自然に似せてあるために、降下してすぐに地上と見分けがつかなくなる。しかし外周に立つ十三本のメガシャフトは渾身《こんしん》の力で人工地盤を支えている。そっと触ったメガシャフトは、掌《てのひら》では丸みを感じられないくらい巨大な柱だ。しかし目の前の切り立った断崖《だんがい》を柱と呼ぶには違和感がある。発電所の排気筒が巨大すぎて煙突に見えないのと同じことだった。このメガシャフトの内部に都市のライフラインと交通の全てが集約されている。メガシャフトはアトラスの背骨であるばかりではない。電脳ネットワークの神経系であり、物流の循環系であり、外界への免疫系すら担っている。ここを制圧することが、攻略の第一歩である。
メガシャフトの駅は、戦時でロックアウトされていた。垂直に配されたプラットホームを十|輛《りよう》編成のエレベータが通過していく。第五層以外は通常運行だ。
「TNTで駅ごと爆破しろ。構造上、扉が一番薄いはずだ」
風雨が強まる中、修たちがきびきびと爆薬を仕掛けていく。強まる雨でメガシャフトの上は視界が遮られていた。これが上の第六層に続いているとは、理屈ではわかっていても、見た目には消えているようにしか映らなかった。アトラスにいるとあまりにもスケールが大きすぎて、感覚がおかしくなってしまう。
「俺たちは何てものと闘っているんだ……」
内部に入ってやっと敵の巨大さに気づいた。自分たちはアトラスに入り込んだウイルスのようなものだと思えば惨めだが納得できる。政府軍は異物を追いだすアトラスの白血球のようなものだ。アトラスにくしゃみひとつさせるために、ゲリラは総攻撃を行わなければならない。願わくば自分たちが免疫のないウイルスであってほしかった。修たちは誰よりも早くメガシャフトに辿り着いたのに、既に敗北の匂いを感じていた。
ふと足下に妙なものがあることに気づいた。よく見るとそれは小さな祠《ほこら》だった。メガシャフトを守るにしては、あまりにも小さな信仰の場だ。供えられた餅《もち》や果物は、今朝替えたばかりの鮮度だった。この祠は飾りではなく、本当に信仰の対象とされているとしか思えない。修の背中が寒くなった。
「なんだか不気味な祠だ。誰を奉《まつ》ってあるんだ?」
雨に濡《ぬ》れた祠は、つぶらな瞳《ひとみ》でじっと修を見つめている。なんだか子どもの眼差《まなざ》しを受けているような気分だった。祠の中には子ども用の靴が奉納されていた。その使い古しの状態は、誰かが履いていたとしか思えない。修はこの祠を爆薬で吹き飛ばすのに、躊躇《ためら》いがあった。
「おい今、子どもの泣き声が聞こえたぞ」
「修、いい加減にしてくれ。仲間を怖がらせてどうするんだ」
「いや確かに悲鳴みたいな叫び声を聞いた。まただ。『タスケテ』?」
「おまえが一番迷信深いんだよ。さっきから何なんだ。悠介の声を聞いたり、怨霊《おんりよう》の声を聞いたり。俺たちは政府軍だけでいっぱいいっぱいなんだぞ。怪談はもっと平和なときにやれ」
「いや確かに聞いた。子どもの声だった」
兵士たちが耳を澄ます。確かに音は聞こえるが、これは風によるものだ。
「アトラスの固有振動だろう。台風で音が鳴っているだけさ」
首都層だというのに、この原始的な感覚はなんだろう。人工地盤なのに、地上のどこよりも土地に重みがある。悲しみと恐怖が混じって泥になった重さだ。祠を見ていると胸が詰まって息ができなくなる。
「やめよう。祟《たた》りがありそうだ」
「修、おまえは一体何しに来たんだ? 本隊を送り込まないと俺たちは三日も闘えないんだぜ」
修もそのことはわかっている。恐らくメガシャフトに辿り着けたのは、自分たちが最初だろう。他の仲間たちは首都層で苦戦を強いられている。武彦はどうなったのだろう。そして國子はどこにいるのだろう。仲間の安否すら確認できない。修は自分が闇に飲み込まれていたと正気に戻った。全てはこの祠のせいだ。
爆薬を仕掛けた仲間たちが戻ってきた。
「配置終了。扉を吹き飛ばすぞ」
泥を跳ねて兵士たちが退避する。暴風雨の中で着火した爆薬は雷の直撃のような音を立てる。雨の中に粉塵《ふんじん》の匂いが漂う。メガシャフトは微動だにせず、修たちの頭上に構えていた。扉は開いたのだろうか。確認しようと表に出た修はそこで信じられないものと遭遇した。目の前にあった駅は跡形もなく吹き飛んでいた。しかし代わりに現れたのは、マネキン人形たちの残骸《ざんがい》だった。
「ここはメガシャフトではなかったのか?」
目の前にある光景を何と言い表せばいいのか、修はわかっている。しかし理解が追いつかないために、言葉にならない。見たままを素直に言うと自分が壊れてしまいそうだった。目の前の建物はデパートに見える。
「おい、俺は幻を見ているのか?」
兵士たちも瓦礫《がれき》の山の前で茫然としていた。自分たちがデパートに爆薬を仕掛けたはずはない。位置は少しも変わっていないのに、目標が忽然《こつぜん》と消えていた。激しい雨が兵士たちの体温を奪っていく。
「祟りだ……」
と呟いた修の声に仲間が悲鳴をあげた。リーダーの男が必死に仲間を冷静にさせようとする。
「祟りなんかじゃない。俺たちが目標を間違えたんだ」
「メガシャフトとデパートを間違える馬鹿がどこにいるよ。俺たちは化かされてるんだ。きっと祠の神様が罰を与えたんだ」
「もう一度メガシャフトを爆破する。ここはどこだ?」
GPSで位置を確認する。しかし妨害電波で位置が把握できない。
「爆薬はさっきので全部だよ。俺たちは失敗したんだ」
虚《むな》しさよりも無駄な爆薬を使った徒労感に膝《ひざ》が砕けた。またメガシャフトを探す気力もない。ここは敵地の中心部だ。どこにも退却できない。背後で修の笑い声を聞いた。
「おい、あれは何だ」
修が指さした先に、妙な物体が現れていた。こちらにじりじり迫ってくるのは、祠の化け物だ。鳥居がゆっくりと倒れて、火を噴く。
「祟りだ。祟りだあああっ!」
修たちは散り散りになって逃げていった。
国防省の司令部では将軍たちがニヤニヤ笑いながらスクリーンを眺めていた。國子たちが降下するのを手ぐすねを引いて待ちかまえていた。この戦争は市街戦のデータを取るのに好都合だ。
「我々がゲリラのテロ攻撃に備えていなかったとでも思うのか。アトラスは防空システムだけが鎧《よろい》ではない。中に入ったときこそ、本来の要塞《ようさい》となるのだ」
オペレーターが新銀座近辺の擬態を次々と操作している。
「メガシャフトに擬態させた松屋デパートの一部が破壊されました」
「ゲリラを絶対にメガシャフトに近づかせるな。方向感覚を麻痺《まひ》させろ」
将軍の命令でまた擬態プログラムが起動した。新銀座のソニービルが国会議事堂のビッグベンに擬態していく。無機質な近代建築のビルがネオゴシックのドレスを纏《まと》い、荘厳な建物に変化する。新銀座はテロに備えて、政府施設に擬態するように都市計画されている。歓楽街と官庁街をすり替えることで、敵の目を欺く大規模擬態だ。
「この国防省は何に擬態したんだ?」
「銀座和光ビルです」
と言うオペレーターの声に司令部が爆笑に包まれた。
「国防省はロレックスを売っているのか。これは傑作だ」
将軍は恰幅《かつぷく》のいい腹を揺すりながら、笑い声をあげる。首都層の殆《ほとん》どの構造物は擬態材で出来ている。敵が侵入したら街全体が擬態して、侵入者の知覚を麻痺させるのがアトラスの真の免疫力だ。
技術者たちがこの機会を逃すなとばかりに、今までプログラムしてきたあらゆる擬態を試そうとしている。
「渓谷は予想以上に心理的効果がありそうです。次は瀑布《ばくふ》を試します」
「擬態材はまさに最強の兵器だな。無駄に弾を使わないから炭素も出ない。クリーンで洗練された武器だ」
「擬態材は使い方を間違えれば大変なことにもなります。太平洋に沈んだペルセウスのように……」
海軍の将校たちが苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したように押し黙った。アーク・ロイヤル二世号に擬態したために、本物と遭遇する羽目になってしまった。正体を偽って出撃した手前、本腰を入れて救出するわけにもいかない。海の藻屑《もくず》となったペルセウスは乗員全員死亡と報告されていた。
「海軍はロマンチシズムに走りすぎたのが失敗だった。擬態材は味気ないものに使うのが本領なのだ。流氷に擬態していれば救ってやれたものを」
海軍の将校たちは仲間を救えなかったのが悔しくてならない。英国政府はアーク・ロイヤル二世号の救出のために全海軍が出動している。なのにペルセウスにはそれができなかった。もしクルーの誰かが英国海軍に救出されたりしたら、擬態材の存在が明るみにでてしまう。全員死亡は機密保持の観点からいえば不幸中の幸いだ。
「元々擬態材は公社が開発したものだ。アトラスの中で使うことこそ本分なのだ。政府軍の損傷率はどれくらいだ?」
「意外と多いです。新霞ヶ関に配置した戦車部隊はほぼ全滅しました」
スクリーンに戦車部隊からの映像が映し出された。現在時刻の最新映像だ。目の前を走っていくゲリラの女がいた。
「彼女はどこかで見たことがあるような……」
と呟《つぶや》いた将軍に側近がそっと耳打ちした。
「いつも戦車を潰している化け物みたいな女ですよ。秋葉原で戦車を四|輛《りよう》失ったことがあったでしょう」
「ふん。さすがに擬態は見抜けないと見える」
ゲリラの女はこちらに監視されているとも知らず、目の前を通り過ぎようとしている。
「射殺しろ」
と将軍が命じたときだ。女はふと立ち止まると、ブーメランを投げつけてきたではないか。映像はそこで途切れた。
「バカな。擬態を見抜いているとでも言うのか」
海軍の将校たちがこれみよがしに笑う。
「陸軍は気前がいいですな。新型戦車を次々とスクラップにするなんて」
戦車の擱座《かくざ》率がどんどん上がっていく。新霞ヶ関で一体何が起きているのか、まだ誰も把握していなかった。
「将軍、変です。戦車の擬態が上手《うま》くいきません」
オペレーターが小首を傾げて何度も操作パネルを叩《たた》いていた。
「何が原因なんだ。擬態はこちらで完全に操作できるはずだろう」
「たぶん、ゼウスの調子がおかしいのかもしれません」
司令部に不穏な空気が立ち込めていた。
出雲大社の管制室は戦争を冷静にモニターしていた。首都層にゲリラが展開すると同時に公社は国防省のコンピュータを乗っ取った。
「一〇五三の戦車の擬態を解除しろ。よし潰した。次は三三八の戦車だ」
と国防省の戦車の擬態を次々と解除していく。管制室の中央に鎮座したタルシャンは國子の動きを監視していた。野生動物並みの動きは惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほどだ。弾幕をすり抜け、街を味方にして縦横無尽に攻撃してくる。人間にこれほどの能力があるなんて、直に見ても信じられない。しかしタルシャンは杖《つえ》を小刻みに動かしながらどこか楽しそうでもある。
「クニコだけをフォローしろ。国防省に気づかれるな」
「大丈夫です。向こうはゼウスの調子が悪いと思っているでしょう」
「こちらのプログラムに沿って、クニコを公社へとエスコートするんだ」
公社の幹部たちはタルシャンの指示に従うしかないが、上手く行くとは思えなかった。
「あの娘の極左思想は筋金入りですよ。とても懐柔できるとは思えません。公社に入れるのは危険です」
「大丈夫だ。きっとあの子は自分の運命を受け入れてくれる」
タルシャンには切り札があった。顎《あご》でプログラム始動を指示する。國子は公社への道に入った。それを確認するとタルシャンは席を立った。
「では、最後の候補者の顔を見に行くとするか」
第六層の新迎賓館は足下で繰り広げられている戦争に怯《おび》えていた。ゲリラの火器で人工地盤を落とせないとわかっていても、気持ちは収まらない。近衛《このえ》兵たちは銃を下に向けて警備したい心境だった。
そんな中、宮殿の回廊を駆けていく十二単《じゆうにひとえ》の女がいた。地下|牢《ろう》への入り口を確認したミーコは、火災報知器のベルを破った。たちまち宮殿内が警報に包まれる。ミーコは予定通りに金切り声をあげた。
「美邦様を避難させなさい!」
衣冠束帯の男たちが美邦の部屋を目指す。その流れに逆流してミーコは地下牢の入り口を開けた。中は看守もいない蛻《もぬけ》の殻だった。ミーコは牢の鍵《かぎ》を奪うと一番奥の独房を目指した。
「小夜子、小夜子、起きなさい」
誰もいないのはわかっていてもひそひそ声になってしまう。小夜子は不貞腐《ふてくさ》れてこちらに背中を向けて眠っていた。鍵を開けたミーコは小夜子の背中を揺すった。小夜子は虚《うつ》ろな眼で子守歌を口ずさんでいた。ミーコはこれが小夜子かと愕然《がくぜん》とした。あの刃物のように研ぎ澄まされた残虐な女にしては、やけに小さく映った。
「小夜子、今のうちに逃げるのよ!」
とミーコの大声にやっとこちらを振り向いた。頭のいい小夜子はすぐに事態を理解した。館内に響く非常ベルが、この機に乗じて逃げろと告げていた。小夜子はすぐに白衣に袖《そで》を通した。
「美邦様はどうしていらっしゃるの?」
「小夜子を逃がすために隠れんぼをしているわ」
美邦は従者と女官から巧みに逃れて宮殿の中を移動している。幸い宮殿は隠れんぼにはうってつけの広さだ。美邦は広間から広間へと逃げて従者たちを攪乱《かくらん》している。美邦は吹き抜けの階下に発煙筒を投げる。たちまちスプリンクラーが反応して宮殿を雨へと変えていく。
「雨じゃ。雨じゃ」
美邦は無邪気に笑ってスプリンクラーの雨を浴びた。外に出られればこういう遊びもしてみたかったところだ。この宮殿は息苦しすぎる。宮殿に籠《こ》もる陰気な瘴気《しようき》をスプリンクラーに洗い流してもらいたかった。しかし雨で遊んでいる暇もない。すぐに女官たちの声が近づいてきた。
「美邦様、どこにおいでですか?」
美邦はまた発煙筒に火をつけて、廊下に蹴飛《けと》ばした。
「ミーコ、早よ小夜子を逃がすのじゃ。妾《わらわ》は疲れてきたぞ」
地下牢ではミーコが小夜子を急《せ》かしている。
「あなたを逃がせとの命令よ。今なら牛車《ぎつしや》を地上に降ろす臨時便があるわ」
車寄せには牛車がつけてある。これに乗れば政府の緊急車輛になり、アトラスの中をフリーパスで移動できる。牛車の足は遅いが、小夜子を密《ひそ》かに逃がすにはうってつけだった。
「待って! これはチャンスよ」
小夜子が眼鏡をかけると、いつもの刃物のような眼光が蘇《よみがえ》った。脱獄してもどうせ秘密警察から追われるのはわかっている。自分の命は大した価値ではないし、生き延びるには相応の理由が必要だ。今、小夜子にとって生きる糧は美邦に忠義を尽くすことだけだ。ならば、とことん忠義のために生きてみよう。
「アトラス公社へ行くわ!」
「あなたバカじゃないの? 公社に行ったら即逮捕でまた牢獄よ」
「大丈夫、絶対に捕まらないわ。ゼウスのメインフレームは公社の中にある。パスワードはこの前わかったもの。ハッキングするより安全よ」
ミーコは小夜子の考えに眩暈《めまい》がした。せっかく助かった命なのに、敵の中枢に忍び込むという。この狂気にも似た無謀さは一体どこから出てくるのだろう。
「美邦様が待機なのは他にも候補者がいるからよ。そいつを見つけて殺せば、美邦様は自動的に公社に招かれる。私の美邦様こそゼウスに選ばれし者なのよ。きっとこの私が決定にしてみせる。ミーコはその間、美邦様を守るのよ」
小夜子は武器庫を開けて、身につけられるだけの火器を持ち出した。宮殿内は防火壁が降りて視界がままならない。完全武装した小夜子がバズーカ砲を構えて、立ち塞《ふさ》がる防火壁を十個まとめて噴き飛ばした。回廊は一直線に小夜子を迎えた。
「ミーコ、この恩は忘れないわよ」
「小夜子、約束して。必ず美邦様のところに戻ってきて」
「わかったわ。約束する。留守の間、美邦様を頼むわよ」
小夜子は白衣を翻してひらりと窓から飛び降りた。ミーコはハッと気づいた。新霞ヶ関の駅は封鎖されているはずだ。
「第五層へはどうやって行くつもりなのよ」
ミーコの声が届く間もなく小夜子は姿を消していた。しばらくして、新迎賓館の庭園で大爆発が起きた。宮殿の北側の窓は爆発に巻き込まれて木っ端|微塵《みじん》になってしまった。何事かと表に飛び出した従者たちは外の景色を見て仰天した。池が丸ごとクレーターに変わっているではないか。
「ゲリラたちの攻撃か?」
恐る恐る爆発現場のクレーターに近づいてみる。池はぽっかり穴を空けて、人工地盤のフレームを剥《む》き出しにしていた。
池を爆破したのは小夜子だ。第五層がロックアウトされているのは知っている。メガシャフトの駅が使えないなら、直接降りるだけだ。小夜子はアトラスの構造を熟知していた。人工地盤は複数の空洞から成り立っている。表面は大地に似せてあるが、内部は炭素材のフレームだ。小夜子は人工地盤が薄い池に爆弾を仕掛けた。地表を吹き飛ばせば構造体が剥き出しになる。そして中に入れば保守点検用のキャットウォークが迷路のように走っている。第五層を照らす照明器を取り替えるときに使うものだ。
足音を響かせて小夜子がキャットウォークを走る。作業用の階段から階段へと踊り場を飛び越して下りていく。保守点検をしていた作業員が止まれと小夜子に警告する。
「私を邪魔する奴はみんな殺すわよ!」
マシンガンを乱射して、血のトンネルにしてやった。これだから銃は嫌だと小夜子は思う。あっという間に殺すなんて趣味に合わない。やはりメスでじわじわと嬲《なぶ》りながら殺さないと命の重みを感じられない。キャットウォークに侵入者を知らせる警報が鳴った。
「死ね。公社の犬ども」
小夜子はマシンガンを打ち鳴らして正面を突破する。弾が切れたらマシンガンごと捨てて肩にかけていたアサルトライフルを構えた。人工地盤の中が戦場に変わる。小夜子の白衣がみるみるうちに血で赤く染まった。このままでは埒《らち》が明かないと小夜子は手すりから身を乗り出した。一層分の厚みなのに、十階以上の高さがある。足下を這《は》っていた電気ケーブルを引きちぎってそのまま体に巻きつけた。長さや強度が充分かなんて考えもしない。ただ一直線に下を目指すだけだ。小夜子はポンと無造作に自分の体を宙に預けた。飛び降り自殺のように頭を真っ逆さまにして小夜子が落ちていく。途中でケーブルが切れ、顎《あご》がガクンと揺れた。あと三階分足りないが、死ぬほどの高さではない。足の骨のひとつくらいくれてやる、とばかりに小夜子はまた下を目指す。ハイヒールの踵《かかと》をへし折って着いた場所は保守点検用のワゴンのある最下層だ。
「この下が第五層ね」
目の前にある半球型のドームは近づくのを躊躇《ためら》うほどの熱が籠もっていた。これが照明器のひとつだが、傍目《はため》には石油化学コンビナートのタンクにしか見えない。小夜子はロケットランチャーで狙いを定めて、躊躇うことなく照明器を破壊した。爆風でキャットウォーク全体がビリビリと振動する。天井の配管が音をたてて崩れ、瓦礫《がれき》の山に変わる。粉塵が収まると、足下から光が漏れていた。穴を覗《のぞ》いた小夜子がニヤリと笑う。真下に見える光景は、間違いなく首都層だ。
「街の様子がおかしいわね。新霞ヶ関は中央にあったはずなのに……」
爆破した照明器の番号は中央のものだ。なのにビッグベンはずっと北にある。これはどういうことなのだろうか。自分が間違った照明器を破壊したのだろうか。見れば散発的な銃撃戦が地上で行われている模様だ。ゲリラたちが首都防衛部隊と闘っているようだ。
「この忙しいときに戦争だなんて……」
公社までの道のりは政府軍とゲリラが障害だ。ゲリラは適当に殺すとしても、政府軍は厄介だ。とにかく降りてみないと様子がわからない。小夜子はパラシュートを装着して、照明器の落ちた穴に向けてダイヴした。
小夜子は自分の熱で脊髄《せきずい》を焼きそうな感覚だった。美邦のためと思えばいくらでも熱くなれる。美邦は小夜子が得た生《い》き甲斐《がい》だった。普通の親にはできないことが小夜子にはできる。美邦が外に出られないなら、生体実験をしてでも新薬を開発する。美邦が公社に行きたいと言えば、ゼウスにハッキングしてでも実現させる。そうさせるのも美邦が娘に似ているからだ。娘の霊がこう小夜子に囁《ささや》く。
「ママ、今度は諦《あきら》めないで」と。
第五層がゲリラたちの戦場だろうが、関係ない。小夜子は政府軍もゲリラも公社も敵に回して闘うつもりだ。パラシュートを開いた小夜子の口元から子守歌が零《こぼ》れていた。
「ねーんねーんころーりーよ、おこーろーりーよー」
小夜子の黒いパラシュートが首都上空に咲いた。
『國子様、聞こえますか。こちら第五班。丸ノ内線シャフトに到達しました。これから爆破します』
「早くして。みんな殺されちゃう」
『そちらの現在地はどこですか?』
國子は立ち止まって街の様子を窺《うかが》った。ここも一度通った場所だ。
「今、新銀座の和光ビルの前。あたしは新霞ヶ関の国防省に向かう」
和光ビルの時計は國子たちが首都層に降りてから五時間が過ぎたことを知らせていた。いくらなんでも時間がかかりすぎる。武彦たちとの連絡は取れていない。擬態を司《つかさど》る国防省の司令部を壊さなければ、みんな幻惑されてしまう。
第五班から連絡が入った。
『爆破失敗。目標を間違えました』
「メガシャフトに擬態してたのよ。騙《だま》されないで」
突然、新銀座のネオン広告が飛び上がった。広告はみるみるうちに変化して攻撃ヘリに変わる。なぜなのかわからないが、さっきから擬態が上手《うま》くいってないみたいだ。戦車にしろ、装甲車にしろ、なぜか擬態を解除する。あのヘリだってそうだ。中途半端に擬態したヘリはわざわざ位置を教えているように思える。國子には好都合だ。
「墜《お》ちろ!」
ブーメランがヘリのメインローターを切り落とす。墜落すると同時に周囲で爆発が起きた。見ればトラックに擬態した戦車が火を噴いているではないか。
「まさか。援護を受けている?」
國子にはわからない擬態を見抜いて攻撃を仕掛けている部隊がある。敵ではなさそうだが、知らない組織だ。この化け物屋敷のような首都層で何かが動き出しているのを感じた。
国防省の司令部は擬態の制御が上手くいかないことに苛立《いらだ》っていた。
「なぜ擬態を解除する。わざわざ知らせているようなものだぞ」
「実戦は初めてですから、どこかにバグがあるのかもしれません」
新型戦車は擬態に特化するために、機動力と火力を犠牲にしている。アトラス内部での市街戦に高い機動力はいらない。街そのものが擬態援護することで初めて性能を引き出せるのだ。擬態しなければ旧型の戦車の方がずっと性能がいい。
「なんのために第四層で演習してたんだ。予想よりも擱座《かくざ》率が高いなんて。旧型も出せ。今日中にゲリラたちを完全に掃討するんだ」
メインスクリーンに白衣の女が映し出された。逃げ遅れた市民にしては、行動が落ち着きすぎている。風雨の中をただ濡《ぬ》れそぼって歩いている。あんなゲリラがいたのだろうか、と将軍が目を凝らした。
「おい、あの女の現在地はどこだ?」
「国防省前です」
首都層に降り立った小夜子は自分の地理感覚が混乱していることに戸惑っていた。歩いているのは新銀座だが、過去の記憶は新霞ヶ関のはずだと告げる。街を目で覚えない小夜子は、思考した記憶で地図を作る。新銀座を歩くときは、なぜか無性に腹が立ったことを思い出す。物欲のない小夜子には縁のない街だ。特に新入学セールなどを見ると街中を破壊したくなる。なのにこの新銀座は破壊衝動を掻《か》き立てない街だ。人の気配はあるが、生真面目な雰囲気がする。こんな感じをどこかで経験した気がする。小夜子は新銀座の街をぶらっと歩いて自分が何を思考するのか試してみた。一歩進むごとに新薬のことが頭から離れなくなった。まるで新霞ヶ関を歩いているときの思考だった。小夜子はふと立ち止まった。
「私は騙されないわ。ここは新霞ヶ関よ」
振り返るや和光ビルの時計台に向けてロケットランチャーを発射した。爆発で擬態プログラムが解除される。新銀座に国防省のビルが現れた。直ちに兵士たちが小夜子に向けて発砲した。
「私は公社に行きたいのよ。この道が一番近い。どけ!」
銃を乱射しながら新外堀通りを走り抜ける。弾を避ける気など毛頭無い。銃弾が小夜子の右肩を貫通したが、全然痛くなかった。心臓に当たらない限り、小夜子を止める手だてはない。小夜子は弾が切れたら倒れた兵士の銃を奪った。
混乱したのは政府軍の方だ。
「あれは小夜子です。あいつは擬態を見抜きます」
陸軍はかつて第四層で小夜子に擬態を見破られた過去があった。小夜子は自分の勘だけで生きている女だ。視覚で騙されることはない。
将軍たちは小夜子の恐さをまだ知らなかった。
「擬態は分子レベルまで完璧《かんぺき》に変化する。絶対に見破られないことを証明してみせよう」
新銀座の街並みが新大手町へと擬態する。華やかな歓楽街がスーツの似合う街に変わる。標識や歩道のタイルの配置まで寸分違わず擬態すると、もうどれが本物の新大手町なのか判別がつかなくなった。
「私は騙されないって言ったでしょ。ここは新銀座よ。苛々するもの」
小夜子は目の前がビルであろうが、自分が覚えている道を進む。行き止まりの道があればロケットランチャーで道を作る。川で阻んでもじゃぶじゃぶ越えてくる。小夜子は目を瞑《つむ》って進んでいた。殺気を感じるや反射的に銃を撃つ。当たったかどうか確認するのも馬鹿らしかった。人の気配が消えたので充分だ。小夜子が十歩進むたびに十人が殺されていく。その圧倒的な強さに政府軍の兵士たちは舌を巻いた。
「ゲリラを相手にしている場合じゃない。戦車部隊を新銀座に回せ!」
ポケットからメスを取り出してストレスを感じる方向に投げた。通信兵の喉《のど》に突き刺さったメスは悲鳴を切り落としていた。
「座頭市みたいな女だ……」
目を瞑った小夜子は耳と記憶と勘だけで街を蹂躙《じゆうりん》する。嵐を背中に纏《まと》った小夜子は最強の兵士だ。
「美登里《みどり》ちゃん。おっぱいの時間ですよ……」
小夜子の顔は赤子をあやす母の慈愛の表情に満ちていた。目を閉じている間に浮かんでくるのは愛《いと》おしい娘の笑顔だ。記憶も感情も少しも色褪せていなかった。そして乳房は今でも娘を欲している。ジンと張った乳房から母乳が零れたのを感じた。乳房は歯も生えそろわぬ小さな口を欲しがって、探して、泣いている。乳房はあの優しかった幸福な時間を小夜子に夢見させてくれる。
「うふ。うふふ。うふふふふ」
背中に殺気を感じた小夜子は口で手榴弾《しゆりゆうだん》の安全ピンを抜いて、ポイと背後に投げる。爆発で、隠れていた兵士たちがまとめて一掃された。また小夜子が子守歌を口ずさむ。
「ねーんねーんころーりーよ。おこーろーりーよ」
子守歌を兵士たちの鎮魂歌に変えて小夜子は一路アトラス公社を目指す。小夜子の背後に累々たる屍《しかばね》の山が築かれていた。
深い森に覆われたアトラス公社は爆音も響かないほど静かだ。戦時だというのに警戒度は平時と同じグリーンだ。たとえ首都層に戒厳令が敷かれても、公社は独自に安全宣言を出す。戦争はあくまでも政府とゲリラの問題で、公社は関係なかった。
管制室は台風情報とアトラスの維持管理に能力を傾けていた。
「第五層の中央照明がゲリラに破壊された模様。復旧まで八時間かかります」
見れば天井に黒い穴が空いている。人工地盤を貫くほどではないが、アトラスに初めての被害が出た。
「念のために第六層も封鎖する。新迎賓館の職員は第七層へ避難せよ。美邦様を新飯倉公館へ避難させる」
「小夜子はどうする?」
公社の幹部たちが頭を抱えた。あのまま地下|牢《ろう》に閉じこめておきたいところだが、目を離すと何をするかわからない女だ。まだ新薬の臨床試験も始まっていない。美邦の治療には小夜子の力が不可欠だ。かといって釈放すると小夜子は間違いなく復讐《ふくしゆう》しにくるだろう。こんなときに面倒なことを起こしやがって、と幹部が舌打ちした。
「美邦の側近に相撲取りのオカマがいたな。あいつなら小夜子の動きを封じられる。小夜子も第七層へ移動だ。監禁できる場所を探せ」
新迎賓館から連絡が入った。宮殿の一部を放棄するほどの被害が出たと言う。そして次の報告で幹部たちの肝が冷えた。
『小夜子が脱獄した模様です。第六層に警備を敷きましたがどこにもいません』
一瞬、管制室に水を打ったような静けさが広がった。そして次は恐怖の渦に飲み込まれてしまった。
「誰が脱獄を手引きしたんだ。逮捕しろ。公社の警戒度をレッドに上げる。小夜子が攻めてくるぞ」
首都層で戦争が始まって六時間後に初めてアトラス公社に警報が鳴った。
「全メガシャフトを今すぐ封鎖せよ。絶対に小夜子を第五層に下ろしてはならん。エレベータは緊急停止。どの駅にも止めるな」
ゼウスは小夜子を最大敵と認定した。その脅威は國子たちゲリラよりも高い。敵国以外でひとりの人間が最大敵に認定されるのは初めてのケースだ。小夜子の知能はゼウスをも凌駕《りようが》する。さっそくゼウスは小夜子の行動パターンを演算した。メガシャフト以外の経路で第五層に入るとすれば、人工地盤を破壊して直接降下するのが近道だ。そして第六層の人工地盤に穴が空いた。ゼウスは小夜子が第五層にいる確率が九十八パーセントと結論づけた。小夜子の目的はゼウスのメインフレームに侵入することだと予想された。
ゼウスの分析に幹部たちは震え上がった。
「小夜子がもういるなんて……。国防省に公社を警護させるんだ。ゲリラなんかどうでもいい。最大敵が公社に向かっていると言え」
「国防省からの報告です。首都防衛部隊は既に小夜子と交戦中です。小夜子は新銀座を突破して、新お茶の水方面に向かった模様。公社まで一直線です」
「ええい役立たずめ。年増の女ひとりに手こずるなんて首都防衛部隊も落ちたものだ。何としてでも小夜子を止めろ。髪の毛一本残らず焼き殺せ」
「タルシャン様に報告しますか?」
「この騒ぎが何かわからないタルシャン様ではない。小夜子が向かっているのを楽しみにしているに決まっているさ」
タルシャンは冷徹な反面、人間の可能性に興味を示す老人だ。小夜子は公社の敵だが、タルシャンの敵とは限らない。ゼウスと小夜子の闘いをもう一度見たいと思うのがタルシャンの本音だと誰もが知っている。その代償で自分の命が失われるとしても、タルシャンは決して躊躇《ためら》わないだろう。もしかしたら公社もゲリラも政府もみんなタルシャンの盤上の駒にすぎないのかもしれない。
「首都防衛部隊からの報告です。新お茶の水一帯を爆破するそうです。人工地盤の表面が失われる可能性があります」
「損傷率はどれくらいだ?」
「人工地盤の構造体にはほとんど影響はありません。ただ半径百メートルのクレーターができてしまいます。復旧には半年以上はかかるかと……」
「爆破を許可する」
小夜子の侵攻を止めるには街ごと爆破するしかない。ゼウスも「最善」と結論づけた。このまま侵攻を許せばメインフレームを乗っ取られるのは時間の問題だ。アトラスの一部と引き替えに小夜子を殺すのが最も効率的だった。
「小夜子が新お茶の水に到達。間もなく空爆を開始します」
首都層で迷子になった國子は、身を隠す場所すら見つけられなかった。この街は擬態する。敵の中枢なんて見つけられない。仲間たちとの連絡も途切れていた。武彦がどうなったのかすらわからない。メガシャフトを落としたという連絡もない。國子は手元の信号弾を握った。作戦失敗のときに地上にいる仲間たちに知らせるものだ。この嵐の中で仲間たちは気づいてくれるだろうか。ぎゅっと握った信号弾は固く口を閉ざしていた。
「二十年前と同じだ……」
自分たちは所詮《しよせん》、過去の歴史をなぞっているだけなのか。二十年前に第四層で起きた第二次森林戦争の悲劇を教訓にしてきたはずなのに、同じ運命が繰り返されている。首都層を空爆することはないと踏んで潜入したはずなのに、この街が一番戦争に慣れていた。メガシャフトを制圧できないなら、作戦は失敗である。
「みんなあたしの作戦ミスよ。許して……」
立ち上がった國子は、首都層の空に向かって信号弾を構えた。
その時、空に不気味な音を聞いた。見渡せば首都上空に無数の爆撃機が飛来してくるところだった。黒い翼を広げた爆撃機が悠然と首都の空を飛んでいる。あれは小牧から飛んできた戦略爆撃機だ。爆撃機はメガシャフトの隙間からアトラス内部に次々と侵入してくる。まさか首都を絨毯《じゆうたん》爆撃するなんて思わなかった國子は黒い機影に息を飲んだ。飛来した爆撃機は新お茶の水方面に消えていった。
爆撃機のパイロットが目標を捉《とら》えた。
『新お茶の水上空に到着。首都防衛部隊は全員撤退しろ』
小夜子の耳が嫌な音を捉えた。見上げれば無数の爆撃機が街を囲んで旋回している。銃撃戦が止んだかと思うと、今度は空がうるさい。頭にきた小夜子は最後のロケットランチャーで爆撃機に狙いを定めた。
「私の美登里ちゃんは眠ったばかりよ。静かにおし!」
小夜子の放ったロケットが、爆撃機を墜《お》とす。翼をもがれた爆撃機は惨めに舞って、人工地盤の大地に激突した。
「まだ蠅がいるわね。美登里ちゃんが病気になったらどうするの!」
トリガーを引いても、もう弾は残っていなかった。完全武装してきたのに、もう小夜子の手元には武器はない。丸腰になった途端、纏《まと》っていた嵐の風向きが変わった。
『爆撃開始!』
爆撃機は格納ベイを開いて、火薬の雨を降らせた。小夜子は落ちてくる炎の種を為《な》す術《すべ》もなく見つめる。もはやこれまでだ、と小夜子は覚悟を決めた。最初の一発が炸裂《さくれつ》した閃光《せんこう》で目を潰《つぶ》された。続く百発の爆弾が容赦なく小夜子の頭上で炸裂する。小夜子の体は爆風に吹き飛ばされてしまった。
「美邦様……」
小夜子は途切れていく意識の中で一粒の涙を炎に混ぜた。
新お茶の水の街が紅蓮《ぐれん》の炎に包まれる。嵐の中で爆発に飲み込まれた街が首都の空を赤く染める。爆撃機は機体に溜《た》めていた力を全て吐き出した。
その光景を遠くで見た國子は唖然《あぜん》とするばかりだ。
「ここまでするなんて!」
断続的に爆発音が響く。國子のいる場所まで相当な距離のはずなのに、津波のような衝撃波に襲われた。あそこに仲間がいたのだろうか、と國子の脳裏を過《よぎ》る。助けに行こうにも戦略爆撃機が飛来するなんて想定してもいなかった。これも二十年前の悪夢の再来か、と國子は目を覆った。
「そんなにあたしたちが憎いのね」
雨を蒸発させるほどの怒りに燃えた國子は、もう政府を乗っ取ることはやめた。どうせメタル・エイジはこの闘いで最後だ。ならばアトラスに一矢報いて、最低でも相討ちにしてやらねば気がすまない。政府が一番嫌がるのはシステムダウンだ。ゼウスを壊せば、アトラスはただの塔に成り下がる。ドゥオモの民が住めないなら、アトラスなんて桃源郷はいらない。ゼウスのメインフレームがあるのは公社だ。國子は公社へと向かった。
政府軍からアトラス公社へ連絡が入る。破壊した新お茶の水の街は、跡形もなく消滅し、地表にはクレーターが出現していた。
『新お茶の水を完全に破壊した。鼠一匹生きていないだろう』
「協力を感謝する。これでゼウスは守られた。君たちはゲリラの掃討に専念したまえ」
公社の警戒度がグリーンに戻された。作戦を終えた爆撃機はアトラスを突き抜けて帰還の途についた。
「思えば哀れな女だったな……」
公社が小夜子を雇ったのは、欲がないからだ。いつも同じブラウスと白衣を着て公社に現れる小夜子を女性職員たちがよく「あんなふうにはなりたくない」と嗤《わら》っていた。化粧っ気もなく髪はいつも乱れていた。きちんと身なりを整えればそれなりに見えるはずなのに、小夜子は相手からどう思われても構わないと言わんばかりだった。その小夜子が美邦に対しては、狂気とも思える情熱を注ぐ。それが新薬の開発に繋《つな》がったのだから、小夜子の貢献度は大きい。命令通りに新迎賓館で待機していれば、彼女のアトラスランクは総裁以上になっていたのを知らないはずはない。なのに小夜子は公社に牙《きば》を剥《む》いた。ただ美邦を泣かせたというだけの理由で。死んでしまった後では小夜子に問う術はないが、幹部たちは聞いてみたかった。おまえの狂気の源は一体何だったのだ、と。
「せめて殉死にしてやる。小夜子のアトラスランクをAに戻してやれ」
「補充の女医博士はどうしますか?」
「アトラスランクを餌に東大病院から見つけてこい。欲にかられてホイホイやってくるさ」
幹部たちは小夜子と初めて顔を合わせた日を思い出した。小夜子は何も要求することはなく、ぶっきらぼうにサインしただけだった。今までの給与も銀行から引き落とされた形跡がない。
「不思議な女でしたな……」
無惨に空いた新お茶の水のクレーターの映像を見ながら、幹部たちは管制室を後にした。
新迎賓館の車寄せに牛車《ぎつしや》が止まった。いつゲリラたちが下から攻撃してくるかもしれない。庭園に空いたクレーターはそんな不安を駆り立てる。女官も従者たちも第七層へ避難せよと命令が下りた。牛車の後に並んだバスに次々と使用人たちが乗り込む。
慌ただしく荷物が運び込まれる中、美邦だけが駄々をこねていた。
「嫌じゃ。妾《わらわ》は新飯倉公館になぞ行きとうない。おまえらだけが避難するのじゃ。妾はここで小夜子を待つ」
陰気な顔をした執事が、いつものように正直に答えた。生きるためには美邦の感情など関係なかった。
「小夜子は首都層で戦死したと報告がありました」
美邦は一瞬、耳を疑った。執事が紙切れのように薄っぺらく見えた。小夜子のことに関する言葉だったと思うが、意味がわからない。眼を見開いた美邦は息を止めていた。ミーコが後ろから美邦をぎゅっと抱き締める。それで小夜子の身に何かが起こったことを少しだけ理解した。
執事が咳払《せきばら》いする。
「小夜子は新お茶の水でゲリラとの戦闘に巻き込まれたようです。殉死でございます。ここではよくあることです」
「嘘じゃ。小夜子が死ぬなんて妾は信じぬぞ。お主、嘘をつくとどうなるのかわかっておるのか」
「公社からの報告でございます。小夜子は本日で退官し、新しい女医博士を美邦様におつけすると決定いたしました」
ミーコは美邦の耳を塞《ふさ》いだ。こんなことなら脱獄させなければよかった。公社に向かうと言って去った小夜子の後ろ姿が思い出される。小夜子がゼウスのメインフレームを乗っ取ると言ったとき、ミーコは本当に実現すると信じた。それほど小夜子の言葉には力があった。彼女は残酷で冷淡だが、いつも美邦のことを思っていた。女官たちが恐怖で美邦に仕えるのに、小夜子は不器用なりにも愛情をもって接していた。小夜子との唯一の繋がりはそこだけだった。
「小夜子が死んだなんて嘘よ。あたしと約束したもの。あいつ約束だけは律儀に守るタイプだもの……」
執事が控えていた新しい女医博士を紹介した。小夜子とは正反対の派手な格好の女だった。
「初めまして美邦様。私は鳴瀬涼子《なるせりようこ》と申します。東大病院で免疫学を専攻しておりました。きっとお役に立ってみせますわ」
美邦は顔を顰《しか》めた。この女は香水の匂いがきつい。小夜子の汗ばんだブラウスの匂いがどれだけ心地好かったか、試薬で汚れた小夜子の爪がどれほど愛《いと》おしかったか、聞かせてやりたかった。見ればこの女の爪はきれいにネイルアートを施してあるではないか。学生たちに指示だけ与えて成果を横取りするタイプに違いない。
美邦は意地悪をしたくなった。
「のう、涼子とやら。前の女医博士は料理が上手だった。毎日妾にご飯を作ってくれた。なあ、ミーコ?」
ミーコは目で美邦と呼吸を合わせた。
「そうそう。小夜子はハンバーグが得意だったわ。美邦様の好物でしたわね」
涼子はにっこり笑って美邦の頭を撫《な》でた。
「私もハンバーグが得意ですわ。さっそく今夜お作りいたしましょう」
美邦がしてやったりと笑う。
「おい執事。新飯倉公館に死体袋を用意するのじゃ。涼子や、短い縁であったな。さらばじゃ」
美邦はプイとそっぽを向いてミーコの懐に隠れた。そしてさっき執事が言った言葉をようやく飲み込んだ。
「小夜子が死んだ……。小夜子が死んだ……。うわあああああん!」
「美邦様、どうかお気を強くお持ちください。ミーコが側におります。さあ新飯倉公館へ避難しましょう」
泣きたいのはミーコも同じだった。小夜子という人間がようやくわかりかけた時だったのに、好きになりかけたらお別れなんて悲しすぎる。私物を持たない小夜子はこの世から跡形もなく消えてしまった。スペアの眼鏡ひとつでもあれば形見になったのに。ミーコは堪《たま》らず叫んだ。
「アトラスなんて大っ嫌いよお!」
美邦がいなければ今すぐにでも地上に帰りたかった。こんな人に優しくない街は嫌いだ。ドゥオモで馬鹿にされている方がずっと気楽で幸せだった。
突然、広間のドアが乱暴に開いた。入ってきたのは秘密警察の男たちだ。美邦を懐から無理矢理引き離すと、逮捕状をミーコに突きつけた。
「ミーコを脱獄|幇助《ほうじよ》の容疑で逮捕する。公社へ連行しろ」
ミーコに手錠がかけられた。美邦はもう何が何だかわからない。連行されていくミーコの背中に叫び声を浴びせた。
「ミーコ! ミーコ! 妾を置いていくな。ミーコに特赦を与える。今すぐ釈放しろ。こら妾の命令を聞け。お主らこそ逮捕するぞ」
秘密警察の男たちは美邦を無視してミーコを連れ去った。がらんとした新迎賓館にひたひたと闇が迫っていた。美邦を寒さから遠ざけていた女官が今日、二人いなくなった。今、美邦の周りにいる人間は、どいつも信用できない輩《やから》ばかりだ。ただ公社の命令に従い側にいるだけの畜生どもだ。美邦は小さくうずくまって震えることしかできなかった。無情にも命令を受けた従者が美邦をひょいと抱きかかえた。
「時間がありません。すぐに牛車を出さねば臨時便に間に合いません」
「嫌じゃ。嫌じゃ。嫌じゃ。妾は一歩も動かぬぞ。触ったら殺すぞ。そなたのアトラスランクを下げるぞ。降ろせ。降ろすのじゃ」
美邦を乗せた牛車が新迎賓館を後にする。涙と叫びを織り交ぜながら、牛車は第七層へと向かった。
公社の広間に明かりが灯《とも》った。祭祀《さいし》に使われる広間は無機質な作りだ。人気のない広間の中央に固いベッドが置かれていた。最低限の医療器具を配置したベッドの上で横たわっていたのは草薙だった。
「ここはどこだ?」
明かりで目覚めた草薙は右腕の点滴のチューブに気づいた。自分は確か嵐の太平洋で遭難したはずだ。最後の記憶がまだ思い出せない。アーク・ロイヤル二世号に擬態したペルセウスは沈没したはずだ。起き上がろうとすると体に痛みが走った。どれくらい意識を失っていたのかわからない。遭難から何日が過ぎたのだろうか。
「仲間たちはどうなったんだ? 俺は助かったのか?」
生きているのに、温《ぬく》もりの感じられない部屋だった。ここが病室でないのはすぐにわかった。まるで体育館の中に閉じこめられた気分だ。不気味さに身を強張《こわば》らせていると、スピーカーが鳴った。
『おめでとう草薙少佐。君の言葉はゼウスの暗号鍵と完全に一致した』
「俺の言葉……? 俺は何か喋《しやべ》ったのか?」
そういえば遭難したとき、波の狭間《はざま》で誰かの声を聞いた気がする。確かこんな言葉だった、と草薙は呟《つぶや》いた。
「大地よ、昼と夜を従え、世界を支配せよ……」
スピーカーの声が広間にこだまする。
『まさしくその言葉だ。君はアトラス公社に正式な候補者として認定された』
広間の扉が開いた。最初に入ってきたのは細い杖《つえ》だった。カツンと鳴らした杖が緊張感を放つ。杖の主は背の高い白人の男だった。
「あなたは一体……?」
草薙の言葉を遮って老人は一方的に喋った。
「君を救ったのは公社の特殊部隊だ。水蛭子の予言がなければ、危うく君を失うところだった。残念だがペルセウスの乗員は君を除いて全員が死亡した。もちろん、公式には君も死亡したことになっている」
「なぜ俺が公社にいる。するとここは第五層か」
タルシャンは冷たい眼差《まなざ》しのまま近づいてきた。広間の空調よりもずっと寒気がした。タルシャンの青い瞳《ひとみ》を見ているとここがシベリアのような気がした。
「君はまだ運命を知らない。この剣を持ち主に返そう」
タルシャンが取り出したのは古い青銅の剣だった。タルシャンが剣と言わなければ草薙は棒と思っただろう。錆《さ》びて刃零《はこぼ》れの著しい剣は真っ直ぐであることさえ忘れてしまったようだった。
「こんなボロは俺のものじゃない。軍に報告しなければならないことがある。復務したい。悪いが制服を用意してくれないか」
「報告なら私がすでに行った。メデューサは台風を楯《たて》にしたと」
「なぜそれを知っている。ところであなたは誰だ。なぜ公社の中に外国人がいる? ここは閣僚級でも許可なく入れない場所のはずだ」
そう言って、彼の素性がただ者ではないことを理解した。背後に従えた宮司たちはタルシャンに仕えるのに慣れている素振りだ。彼らの態度から客としてもてなしているわけではなさそうだ。必死になってタルシャンの顔色を窺《うかが》っている、そんな様子が見てとれた。
「君に頼みがある。ある少女を公社へとエスコートしてほしい。生憎《あいにく》外は戦争で非常に危険な状態なのだ」
「首都層で戦争をしているのか? ゲリラたちが攻めてきたのか?」
タルシャンが顎《あご》で宮司を呼びつける。巻物を携えた宮司が今日一日の首都層の模様を報告しようとやってきた。巻物が広がると、ゲリラたちが攻めてきた過程が絵巻のようにコマ切れの動画になって現れた。
宮司が淡々と解説してくれた。
「地上にいるメタル・エイジというゲリラでございます。旧時代の輸送機で第五層に直接乗り込んできました。現在、首都防衛部隊と交戦中でございます」
草薙は唖然《あぜん》としながら映像を眺めた。
「バカにもほどがある。陸軍擬態部隊は首都層のサポートを受けて最大級の能力を発揮するんだ。あいつらじゃ絶対に勝てない」
擬態材を知り尽くしている草薙は、むしろゲリラたちに同情した。首都層に施した擬態は、ペルセウスや擬態戦闘機の性能を超えている。初めから擬態をするために都市計画された街にのこのこやってきたなんて愚かとしか言いようがない。
宮司が絵巻のひとつを指した。ブーメランを持った女が鬼神のごとく暴れている映像が流れた。草薙は目を丸くした。
「北条國子! あいつも来てたんだ。ゲリラの女総統だぞ」
タルシャンが初めて人間らしい表情を浮かべた。彼は明らかに嬉《うれ》しそうだ。
「知り合いか。では話が早い。このじゃじゃ馬娘を公社に連れてきてほしい。君と同じ運命の子だ。丁重に扱え」
「いやだ。あんな暴力少女を迎えに行く理由はない。軍はあの子を甘く見ると痛い目に遭うぞ」
「その通りだ。既に戦車二十|輛《りよう》と攻撃ヘリ四機をブーメランで撃破している」
「アボリジニも真っ青だろう」
草薙とタルシャンが目を合わせてニヤリとした。
「公社の特殊部隊が彼女を援護しているが、不利は拭《ぬぐ》えない。公社が政府軍と敵対しているのは極秘だ。こちらはあくまでも援護が主だが、このままだと公社の存在が軍に知られてしまう」
あくまでも影となって援護するはずの特殊部隊が、増援を要請してきた。國子が敵のいる場所を好んで進むからだ。これ以上の増援は目立ってしまう。
「クニコもまた自分の運命を知らない迷える子羊だ。君は自分の運命を知りたくないのか」
「おい偉そうな爺《じい》さん。俺は上官以外の命令を受けつけないんだ。ただ律儀なタチでね。救ってもらった恩は返す」
草薙は点滴のチューブを抜いた。
「迎えに行こう。彼女には貸しを多く作りたい」
素足で降りた広間の床は飛び跳ねるくらい冷たかった。
ドゥオモでは上空での首都決戦の模様を固唾《かたず》を飲んで見守る凪子たちがいた。民間人が死なないとされるこの時代の戦争はスポーツ中継よりも視聴率が取れる最大の娯楽だ。食品会社のCMが「当社は政府軍のオフィシャル企業です」と煽《あお》り、非常食がいかに美味かを宣伝している。國子たちにはオッズがかけられた。ゲリラが勝った場合は十億円の配当金が支払われる。
「國子様たちは一体どうなったのか」
見張り櫓《やぐら》からはアトラスの様子がわからない。あの積層都市の真ん中で今も戦闘しているかと思うと気が気ではない。地上部隊からの連絡も國子たちの消息がわかるほどの情報はなかった。
「凪子様、まさか全滅したのでは……」
凪子はじっと座ったままテレビの画面を見つめていた。
「全滅したなら官房長官の会見があるはずじゃ」
「しかし政府軍は圧倒的な戦力でゲリラを追い詰めていると報道されておりますが。それにさっき小牧から飛んできた爆撃機が気になります。首都層を爆撃するなんて予想外です」
テレビに映っているのは旧型の戦車だった。明らかに対外的に操作された映像だ。民衆はこれが生中継だと信じているが、予《あらかじ》め用意されたものかもしれない。首都層で何が起きているのか、地上からは何もわからないのが実情だった。
國子たちが出撃して、ドゥオモの三分の一が森に飲み込まれた。植物の生長は予想外に早い。焼いて侵攻を食い止めているが、所詮《しよせん》は付け焼き刃だ。植物は寝ている間に焼いた場所を飲み込む。ドゥオモの放棄は時間の問題だった。
凪子の部屋に男がやってきた。
「凪子様、入城したいという青年がブリッジの外にいます。如何《いかが》いたしますか?」
「シンガポールのチャンであろう。チャンギ国際空港から連絡があった。彼の祖父とは学生時代懇意じゃった。孫も凄腕《すごうで》のカーボニストに成長したようじゃな。ゲートを開けるのじゃ」
唯一の出入口であるブリッジが久し振りに客を迎えた。嵐の中で凜《りん》と背筋を伸ばした青年は小さなボストンバッグひとつを抱えて雨に耐えていた。
「初次見面《チユーツーチエンミエン》凪子大姉。僕はチャンと申します。伝説のカーボニストに会えて大変光栄です。祖父からあなたの武勇伝は何度も聞かされていました。炭素経済を見抜いてグラファイトに最初に投機された方だとか」
凪子はそんな昔の過去は全部捨てたつもりだった。炭素経済は時代の流れだった。経済の枠組みを変えるパラダイムシフトにたまたま青春が重なっただけだと凪子はあまり過去を語りたがらない。しかし世界中のカーボニストは知っている。かつて東京にアジアの暴竜と呼ばれた女カーボニストがいたことを。そして語り継ぐ。時代の流れに敏感になって凪子のように新しい価値を見出《みいだ》せと。たった半世紀で世界経済は根本から変わってしまった。かつての資本家たちは市場から去り、新しく現れたカーボニストたちが時代の主役になった。
凪子は優しい眼差しでチャンを迎えた。かつて自分も彼のように背中に自信を背負っていたものだと懐かしがっているようだった。
「嵐の中をよくおいでになったものじゃ。ボロの城だがゆっくりされるがよい」
「突然の客の分際で申し訳ありませんが、この城の金融センターを貸していただけませんか。もちろん使用料は払います。アトラスにある僕の会社の仲間に連絡したいんです」
チャンは成田でアトラスが封鎖されたことを知った。今や全層の立ち入りが禁止されている。香凜がどうしているのかチャンは気が気ではない。こうやっている間にもメデューサがどこかをヘッドリースしているかもしれない。チャンは自分たちが生み出した化け物を何とか制御する方法を考えていた。香凜は反対するだろうが、メデューサのヘッドリース能力は地球規模を超えている。香凜の命令でメデューサを休眠させるのが一番だ。もしそれができなければ、仲間を裏切るまでだった。
凪子はチャンの眼の奥に潜む強い信念を捉《とら》えた。
「お主はただのカーボニストではないな。そんな目をした男を私もひとり知っておるぞ。アルメニア系のアメリカ人だったがな」
「ニューヨークの銀行家、セルゲイ・タルシャン氏ですね。僕たちのビジネスパートナーだった。もう解任しましたが。彼にまんまと嵌《は》められた。このままだと炭素経済はおかしくなる」
凪子は快活に笑った。あまりに大声で笑うので側近たちがびっくりしたほどだ。あの寡黙な凪子がこんなに笑うなんて意外だった。
「お主は本当に頭がいい。時代を変える男に会えるとは嬉しいぞ。金融センターは自由に使うがいい。ついでにグラファイトもくれてやる。時価二十兆円はある。増やすなり減らすなり好きにしろ」
この言葉に仰天したのは側近たちだ。
「凪子様、正気ですか? 私たちの資産をこのシンガポール人にあげるなんて」
「どうせ住む場所を失えば役立たずの炭じゃ。使ってこそ価値がある」
チャンは凪子の気っ風の好さに笑みを零《こぼ》した。さすが世界中で語られるだけのことはある伝説のカーボニストだ。彼女は金にもグラファイトにも興味がない。経済は人間が動かすものと魂でわかっている。
「凪子大姉、アメリカでは炭素バブルが起きています。でもそれは実体のない経済でとても危険です。僕たちが生み出したシステムのせいだ。どうかアメリカの炭素指数を戻させてください。そのためにはグラファイトが必要です」
「どうするつもりじゃ?」
「全部売ります。シンガポールも台湾と上海の僕の会社が持つ資産も全部放出します」
「お主は破産するぞ。それでも売るか」
「はい。アメリカの炭素指数を一以上に戻すのは今しかない。この機会を失えば世界中で炭素バブルが起きます」
「破産した後、どうするつもりじゃ」
「また立ち上がります。僕にはできる。より効率的な地球型経済のモデルを考えてみせる。それが真のテコノロジーと呼ばれる日が来るまで、僕は諦《あきら》めない」
チャンは手持ちのボストンバッグすらいらなかった。頭ひとつで世界を変えてみせるという自信が若さと相まって心地好く凪子の目に映る。彼のようなカーボニストが生まれるのを凪子もタルシャンもずっと待っていた。
金融センターの中央に立ったチャンはてきぱきと指示を下した。
「香凜、残念だけど僕たちのメデューサは失敗作だ。悪いけどメデューサのヘッドリースを邪魔するよ」
フランクフルトの市場を見る。欲張りなクラリスがまた市場を荒らしていた。
「クラリスごめんよ。修道院に行ってくれ」
フランクフルトに狙いを定めて、ホットマネーを注ぎ込む。たちまち市場は大パニックだ。これが終わったら東京市場を狙う。チャンは自分の信じる道を歩み始めた。
首都層に降りた國子に最初の夜がやってきた。台風は着実に東京に迫っている。嵐の中で迎えた夜は原始の不安を呼び覚ます。肉食獣に怯《おび》え、洞穴の中で身を潜めていた人類の古い記憶だ。背中から襲う恐怖と目の前に迫る不安に挟まれて逃げ場を失った気分だ。幸い、嵐は政府軍の攻撃から身を守る楯《たて》になってくれた。國子は首都層を彷徨《さまよ》った。夜のうちに安全な場所を確保したかった。
人工地盤の大地は果てがあるとわかっていても、足はもう音を上げていた。自分がどこにいるのかも把握できない闇の中を、足を引きずりながら歩いた。本当にここが人工地盤なのかすら、疑わしい。この幻惑する街を何周したかわからない。疲れて食事も喉《のど》を通らず、徒《いたずら》に体を冷やしていった。
どれくらい彷徨ったのだろう。風雨の奥に懐かしい光景を捉えた。目の前にあるのはゴシック様式の尖塔《せんとう》だった。懐かしい故郷のシルエットは教会のようだ。あの先端の明かりは煙突だ。
「ドゥオモがある……」
目の錯覚などではない。城壁もブリッジも全て同じだ。政府軍にやられた城壁の銃痕《じゆうこん》までひとつ残らず國子の知っているドゥオモだった。
國子に気づいたドゥオモがブリッジを下ろした。
「そんなバカな。ここは首都層だったはず……」
これが擬態だなんて誰も信じないだろう。國子たちが子どもの頃につけた落書きまである。広場に入るとドゥオモは蛻《もぬけ》の殻だった。しかし街に気配がある。人が生きてきた歴史が刻まれている。今朝お別れしたばかりのドゥオモは國子を迎えて泣いているような気がした。
「嘘よ。嘘。あたしを騙《だま》そうったってそうはいかない」
國子は回廊を走った。いつも躓《つまず》いていた段差でやはり足が引っかかる。金融センター、作戦司令部、見張り櫓《やぐら》、そして雨漏りしたモモコの部屋、全て同じだ。風雨に軋《きし》むドゥオモの固有振動まで真似ている。いや、これは擬態じゃない、と心はドゥオモを懐かしんでいた。國子は恐る恐る、自分の部屋に向かった。ドアの軋みも重さも今朝感じたままだった。そして國子は箪笥《たんす》の奥の引き出しを開けた。
「きゃああああ!」
箪笥の奥には今朝しまったばかりのセーラー服がきちんとしまわれているではないか。脳神経がパチパチと切れていくのを感じた。遠くから拍子木の鳴る音が聞こえる。そう、こんな雨の日は老人たちが神隠しを恐れて拍子木を打ち鳴らすのが常だった。國子は保っていた最後の理性の糸が切れる音を聞いた。心はさっきからずっと泣きたかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。あたしがみんなを殺したのよ。うわああああっ!」
昨日寝たベッドはそんな國子を優しく受け止めてくれた。総力を以《もつ》て臨んだ決戦は無様な結末に終わった。生き残った仲間たちは途方に暮れているだろう。弾も爆薬もみんな使い果たしてしまった。残るは降伏の信号弾一発だけだ。ゼウスのメインフレームに到達するまでにブーメランはもう保《も》たない。刃零れしたブーメランはせいぜいあと二回しか使えなかった。
「こんなはずじゃなかった。みんなでアトラスに住みたかっただけなのに。みんな失ってしまった。あたしだけ生き残るなんて嫌だ。いっそここで死にたい。ドゥオモ、あたしを殺して」
いくら泣いても誰も現れてくれない。そっと肩を抱いてくれるモモコもいない。泣いて喚《わめ》いて枕を叩《たた》いて、疲れた國子はそのままベッドを抱えるように眠りについた。
翌朝までに台風は収まっていた。白日の光を浴びたドゥオモはますます本物としか思えない佇《たたず》まいで國子を待っていた。城壁の外側もいつも見た森だ。霞《かすみ》がかかって視界が悪いが、見渡す限りの緑だ。國子はこれが現実なのではないかと思う。戦争をしていた昨日は悪夢で、自分は地上で魘《うな》されていただけなのかもしれない。そう思う方が自然な気がする。凪子にこの夢を報告したくて、部屋を訪れた。そこで國子はこれが夢ではないと打ちのめされた。骨董《こつとう》品で溢《あふ》れていたはずの凪子の部屋だけが、素っ気ないほどモダンな作りである。まるでミニマルアートのようなシンプルな空間だけの部屋だった。そこに一枚の肖像がかけられている。近づくとそれは凪子の若き日の姿だった。恐らく三十代初めの写真だろう。凪子が地上でメタル・エイジを結成したのが四十代の頃だ。その頃の写真を見たことがある。毅然《きぜん》と鉄兜《てつかぶと》を被《かぶ》った凪子は女ゲリラの総統らしく勇ましい顔つきだった。これはそれよりも若い。こういう女性らしい雰囲気も凪子は持っていたなんて、國子は知らなかった。
「お婆さま、こんなに綺麗《きれい》だったのね」
現在の凪子の面影が目元にある。この頃から勾玉《まがたま》のネックレスをするのがお気に入りだったようだ。人は五十年もすると笑みを忘れてしまうのかもしれない。口元に笑みを浮かべた凪子は、自信たっぷりの顔をしていた。この写真が撮られたとき、彼女は反政府運動に身を染めるなんて予想もしなかっただろう。
「お婆さま、あたしもう動けないよ……」
そっと写真に指をかけた國子は、また泣きそうになる。冷たい写真の中の凪子は何も答えてくれなかった。すっと写真を撫《な》でた指先が何かに触れた。見れば肖像の下に小さなプレートがつけられている。
「なんだろう?」
プレートを読んだ國子は一気に現実に引き戻された。チタンの板に彫られたプレートにはこう書かれてあった。
『アトラス公社初代総裁・北条凪子』
これは何の嫌がらせだろう。凪子がアトラス公社の総裁だったなんて悪戯《いたずら》にもほどがある。國子はカッとなって壁を蹴《け》った。すると壁に映像が投影された。若き日の凪子が見知らぬ白人の青年とにこやかに談笑している様子だった。凪子はアトラスの完成モデルを前に得意気に解説していた。
『これが未来の東京の姿です。都市機能を縦に集積することでエネルギー効率を高めます。自然災害にも強く、決して壊れることのない強靱《きようじん》な炭素材で造られます。私はこの都市をアトラス≠ニ命名しました。そしてアトラスのシステムを司《つかさど》るこのコンピュータが人工知能ゼウス≠ナす。アトラスの最適な建造と都市の治安維持を行う世界最速のコンピュータです』
「お婆さま、何を言ってるの?」
國子の問いを無視して、凪子は投資家たちに投資を呼びかける。
『時代はこれから炭素経済に移行します。私たちはアトラスの建設資材となるグラファイトに投資する会社を同時に立ち上げました。こちらはニューヨークの銀行家、セルゲイ・タルシャン氏です。彼が私の作ったアトラス公社に五百億ドル投資してくれました。賢明な投資家のみなさん、お手元の彼の案内書をお読みください』
凪子に代わって白人の青年が投資の説明をした。英語で何を言っているのかわからないが、凪子と口調が似ていた。淡々としながらも迷いのない理路整然とした口調だ。ただの投資案内にしては、今ある現実が重すぎる。全ての始まりは凪子とあの白人の青年だった。この二人が政府の後押しを受けてアトラス建造に着手したなんて、信じられない。百歩譲ってこの映像が事実だとしても、理屈が合わない。凪子は地上に降りて政府に刃向かうことになるのだから。
「こんなバカな。あたしはこんなのを見るためにアトラスに来たんじゃない」
あの森林戦争は一体何だったのだ。第四層で起きた悲劇は一体何だったのだ。そして今、首都層で繰り広げられている無様な闘いは何なのだ。凪子に説明してほしかった。自分をアトラスに向かわせたのは、これを見せるためだったなんて、國子は信じたくなかった。
また別の映像が映し出される。タルシャンと凪子が足を組んで座っていた。
『私たちは未来に投資しました。まだ見ぬ選ばれし子たちよ。どうか私たちが生きている間に現れてくれることを祈ります。ゼウスの声を聞きなさい。そして運命に従いなさい。この世界はあなたたちのものです』
國子はブーメランで映像に斬りかかった。空を切ったブーメランは壁の凪子に突き刺さった。
「黙って。あたしがどんな思いをしたのか知らないくせに。お婆さまが裏切り者だったなんて! あたしはどうすればいいの。もう何も信じない。誰も信じないわ!」
突如、ドゥオモに警報が鳴り響いた。音や振動までそっくりに擬態している。どこまでも忌々しいと國子は憎悪を滾《たぎ》らせた。この部屋にいると反吐《へど》が出そうだ。自分まで裏切り者の仲間になった気分になる。この音は政府軍に囲まれたときのものだった。体は反射的に見張り櫓へと走る。鉄橋の渡り廊下を越え、建付の悪い鉄の扉を押した。さすがに見張り櫓からはアトラスは見えなかった。ここは偽りの城だ。見張り櫓に吹く風は経験したことがないほど冷たかった。國子が見張り櫓についた途端、政府軍の警告が入った。
『ゲリラに告ぐ。この街は完全に包囲した。速やかに投降せよ』
見下ろせば、いつかドゥオモが囲まれたときの光景にそっくりだ。森の中から甲虫みたいな戦車がうようよ這《は》い出している。あのとき國子は総統に就任したばかりだった。そしてドゥオモは半壊した。嫌な記憶ばかりを再現されて國子はうんざりだった。せいぜい遊びにつきあってやるかと國子は手をあげた。
「炉に火を入れろ。炭素をどんどん出せ」
出るわけがないと高を括《くく》っていたら、一号煙突から煙が立ちのぼった。冗談かとまた命じる。二号煙突、三号煙突、とドゥオモが鼓動を打った。どこまでが現実でどこまでが虚像なのか判別がつかなくなる。
『炭素法違反だ。煤煙《ばいえん》を止めて速やかに投降せよ』
見張り櫓《やぐら》に誰かが昇ってくる音がする。肩にぶら下げていたサブマシンガンを構えたが、弾なんてとっくになくなっていた。投降しろと言ったくせに、素直に待てない性分らしい。せいぜいひとりくらい倒してやるか、と扉が開くのを待ってマシンガンを投げてやることにした。
しかし扉が開いて出てきたのは、情けない声だった。
「悪い。悪い。遅くなっちゃったよ」
國子はその声を聞いて仰天した。やってきたのは草薙だった。
「あんたモルジブにバカンスに行ってたんじゃないの?」
「モルジブはこの前だ。昨日、マーシャル諸島から帰ってきたとこ」
「で、あたしを逮捕しに来たのね」
「違うよ。守りに来たんだ」
「嘘。政府軍の手先の癖に」
草薙は見張り櫓の手すりから身を乗り出して、溜《た》め息をついた。
「あーあ。囲まれちゃったなあ」
「囲んだんでしょ。もう騙《だま》されるのはたくさん」
「命の恩人の言うことを信じろよ」
政府軍が最後の通告をする。どう頑張ったってあの戦車部隊を相手にするのは不可能だ。戦車が威嚇《いかく》で見張り櫓に向かって発砲した。手すりから落ちそうになった草薙を引き上げてやる。政府軍は仲間すら殺すつもりらしい。もう抵抗する気力は國子にはなかった。信号弾を構えて降伏の合図を撃とうとする。
「ドゥオモのみんな許して。もう闘う理由がわからなくなっちゃった……」
トリガーを引こうとしたとき、遠くで戦車が爆発した。何が起こったのかと目を凝らすと、次々と戦車が潰《つぶ》されていくではないか。たちまち戦車部隊が乱戦へと突入する。
「味方がいたのね。武彦?」
ゲリラが総力で國子を援護してもあんな風には戦車を潰せない。城壁の外で何が起きているのか、まだ判断がつかなかった。すると、見張り櫓に向けて何かが飛んできた。あれは見覚えがある。判別する前に國子の両手が動いて、真剣白刃取りで受け止めた。
「これはモモコさんのブーメラン!」
潰した戦車の上に可憐《かれん》な女の姿が立つ。遠目でも見間違うはずはなかった。赤いレザーに身を包んだ小股《こまた》が切れあがった女は、モモコだ。モモコはお気に入りのエスティ・ローダーの口紅で念入りに化粧直しすると、拡声器を握った。
『國子、降伏したらモモコ様がお仕置きしちゃうわよ』
モモコが指鉄砲でバーンと國子を撃った。
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第十一章 全能神の脳死
首都層に舞い降りた人工ナイスバディは擬態する街によく映える。モモコの女への擬態は筋金入りだ。重力に逆らって懸垂するDカップの胸が小刻みに揺れる。モモコは闘いの後でも色気を振りまくことを忘れない。だがそれが雄のマウンティングの名残だということをモモコは知らない。
「ホントに世話が焼ける娘なんだから。戦争するならもっと頭使いなさいよ」
國子はもう見張り櫓の階段を降りている。何もかも嘘の街で唯一見つけた真実をこの手で抱き締めないことには心が壊れてしまいそうだった。階段なんて面倒くさくて踊り場ごと飛び降りていく。どこまでも勝手知ったるドゥオモに擬態しているのが癪《しやく》でもあり、助けられもする。國子は目を瞑《つむ》っていても道を覚えていた。頭の中は弾《はじ》けそうなほどたくさんの思いが溢《あふ》れて止まらない。
「モモコさん。モモコさん。モモコさん……」
回廊を駆けていく國子の後ろ姿を草薙が躓《つまず》きながら追いかける。
「くそ。なんてボロの街なんだ。おい待てよ。待てったら」
立ち止まった國子の背中に追いつこうとした草薙が目を丸くした。國子は剥《む》き出しの雨水管に飛びつくと、体重をかけてへし折ろうとするではないか。時計の針を早めるように雨水管は大きな弧を描いて、地上に倒れていった。
「あいつは猿だ。口紅をした猿だ」
いつか池袋の森で出逢ったときのことを思い出す。國子の身軽さは首都層でも同じだ。草薙はふと國子のイメージが背中ばかりなのに気づいた。國子は動いているときほど印象的な少女だ。あれでもう少し口のきき方が良ければ、可愛らしいのにと思う。もし風に先頭があるとすれば、間違いなく彼女がそうだろう。國子はもう広場に降りて突風になっていた。
「おまえ、運動しすぎて胸の脂肪を使い果たしたんだろ!」
國子は開門するブリッジの隙間から漏れてくる光の中に、モモコの気配を感じていた。何度も甘えた優しい膝《ひざ》の匂いは胸の疼《うず》きになって涙を拵《こしら》える。抱き締めようか、それとも抱き締められようか、ほんの数十秒先の未来なのに自分の行動が予測できない。そして胸がモモコの香りで一杯になったとき、頭がジンと痺《しび》れて國子は赤子のようにただ無抵抗に泣くだけだった。古い記憶がこうすればすぐに心地好い腕に包まれることを知っていた。
モモコは立ち尽くしたままの國子の元に困り顔でやってきた。國子の姿はまるで母親を探して途方に暮れた迷子のようだ。
「ホントに泣き虫は治ってないわね」
モモコは國子の全身を包むように優しく抱きかかえた。その途端、國子の泣き声が高まった。その涙声の全てを受け止めたモモコは鼻の頭を擦《こす》りつけておまじないをかけてくれた。
「怖いの怖いの飛んでいけ。ほら、もう大丈夫よ」
「もっとやって。まだ怖いよ」
「じゃあもう一回。怖いの怖いの飛んでいけ」
國子は何度も何度もおまじないをねだった。そのたびに今まで固く閉じていた心が解《ほど》けていくのを感じる。本当はずっと怖かったのに、感じないようにしていただけだ。森に飲まれていくドゥオモ。得体の知れない首都層。はぐれた仲間たち。そして凪子の裏切り。まともに感じていたら頭がおかしくなりそうだった。だけど今なら少しは受け入れられそうだ。オレンジ色に透ける瞼《まぶた》の先にいるモモコの何と温かいことだろう。モモコに抱かれると未来は明るいと素直に思える。おまじないをかけてもらった次の日はいつも本当に幸せな日がやってきた。きっとこの戦場の明日も明るいと信じよう。そう決意して目を開けると、目の前には満開の牡丹《ぼたん》を思わせるモモコのまあるい笑顔が咲いていた。
「あたしがモモコさんを助けるつもりだったのに、カッコ悪いとこ見られちゃったなあ」
「ニューハーフは目立ちたがり屋なのよ。あたしを助けるなんて十年早いわ。性転換して出直しておいでってのよ。で、囚《とら》われのお姫様を助けたんだから、ご褒美はあるんでしょうね」
國子はそっと耳打ちした。
「後ろからやってくる朴念仁《ぼくねんじん》を捧《ささ》げるわ。煮るなり焼くなり好きにして」
「じゃあキスしちゃおっと」
ちょうど男に飢えていたところだ。背後に階段を転げ落ちる音が響く。それが草薙と知るとモモコの今はない股間《こかん》がビンビンになった。
「王子様いただきまーす」
「うわあ。あのオカマのおばさんがいるう!」
寝技で押さえ込まれた草薙はモモコのマットレス状態だ。モモコが柔道が好きだったのは寝技があるからだ。この横四方固めから逃れた男はひとりもいない。寝技になるとモモコは異常に興奮する。そのせいで試合ではよく教育的指導を取られた。なんかエッチだからである。この寝技に関しては國子も真似はできない。というよりしたくなかった。草薙はキスされ、ベルトを外され、さんざん弄《もてあそ》ばれて「飽きたわ」と巴《ともえ》投げで捨てられてしまった。
「あんた床下手ねえ。男の冷凍マグロって嫌われるわよ」
「うう。ひどい……」
ズボンを上げた草薙は涙目だ。彼はこれがきっかけで女性不信になるかもしれない。正しくはニューハーフ不信なのだけど。草薙のあられもない姿を見た國子が追い討ちをかける。
「あんた冷凍マグロだったんだあ」
「うるさい。うるさい。うるさい!」
モモコは気だるそうに乱れた髪を整えた。そのときにも國子にこうやるんだとお手本を示している。國子も真似をしてうなじをかきあげてみた。この二人の親子関係は野生動物のそれに似ている。このままモモコの真似を続ければ國子は十年後に男殺しの異名を取るようになるだろう。
モモコはエルメスのバッグを片手に鼻歌を弾ませる。
「さてと、これからどうしましょうか。新銀座でお買い物したいんだけど、あんた案内してくれないかしら」
「ここは今、戦場なんですけど。おばさんわかってんの?」
「いいの。モモコさんはいつもこんなだから。合わせてあげて」
さっきまで泣いていた國子はもう笑っている。擬態とはいえ馴染《なじ》みのドゥオモの広場にいると、ここがまだ平和だった地上に思えてくる。モモコはいつも頬杖《ほおづえ》をついていた見張り櫓《やぐら》に向かった。
「いやだわ。どこが花のお江戸なのよ。まるでグランドキャニオンじゃない」
高みから見渡した首都層は荒涼とした渓谷に姿を変えていた。
「擬態しているのよ。新霞ヶ関は見つけられない」
「それで、武彦たちはどうなったの?」
「連絡はない。集合場所の新日比谷公園を見失ったみたい。メガシャフトは落とせなかった」
「つまり敗北は時間の問題ってことね。せっかくモモコ様が加勢しにきたのに、無様なものね」
「モモコさんの住みたかったアトラスは余所《よそ》者に厳しいみたい」
國子が大きな溜《た》め息をついた。もし目の前の風景が手つかずの自然だったら、ここを開拓して住めただろう。しかしこれは偽りの姿だ。一時間後に同じ景色である保証はない。首都層の完璧《かんぺき》な防御に國子は音を上げそうだった。
モモコは肩にさげたバッグをそっと胸に抱き寄せた。
「ミーコがこの上の層にいたわよ」
「まさか。ミーコさんは新六本木に移住したはずでしょ」
「あの子は新迎賓館の女官に出世したみたい。あたしを逃がしてくれたわ」
モモコが見上げた第六層の人工地盤は霞《かすみ》に覆われてよく見えなかった。気配だけの再会だったが、モモコにはわかる。ミーコが自分の後ろ姿を見送りながら、そっと泣いたこともわかっている。もし自分が同じ立場だったら、きっとそうするからだ。
「あの子はニューハーフの星になったわ。あたしの誇りよ。アトラスはゲリラには地獄だけど、ミーコには桃源郷だったみたい」
國子にも積もる話は山ほどあった。ここに来たのは自分の意志だと思っていたのに、実は仕組まれていたようだ。
「この街はお婆さまが造ったって言ったら驚く?」
モモコはぎょっとして、すぐに笑い飛ばした。
「凪子が? まさか。あのババアはタヌキだけど、いくら何でもそこまでしないわよ。アトラスを造るなんて無理無理。ドゥオモを造るのが精一杯よ」
「あたしお婆さまが若い頃の映像を見たの。公社を興した総裁だった。東京再生計画はお婆さまの立案だったみたい」
「じゃあなんで凪子は地上にいるのよ。それが本当なら、ここは凪子のお城ってことでしょう」
わからない、と國子は首を振った。何を信じてきたのか、これから何を信じたらいいのか、全てが疑わしい。
「あたしたちは何のために闘っていたんだろう。何のために生きて、何のために死んだんだろう。今になって思えば合点がいくことばかりだわ。ドゥオモにあるグラファイトはお婆さまが蓄えたものだったのね。時代の変化に敏感だったわけじゃない。時代を変えてしまった張本人だもの。でなきゃあれだけの資産を集められるわけがない。もっと早く気づいてもよかった」
二人の会話を聞いていた草薙が咳払《せきばら》いした。
「だからこの戦争は意味がないって言っただろう。軍はもっと厄介な問題を抱えているんだから、とっとと降伏してくれ」
「知ったふうなこと言わないで。あたしたちがエゴのために闘っているなら、降伏してもいい。だけど政府の森林化は無茶すぎる。肉食獣みたいに獰猛《どうもう》な植物で地上を覆ったら、どんなことになるか想像がつくでしょう」
「大袈裟《おおげさ》だ。単に植物の生長を早めただけのことだ」
「違う。あなただって街が森に飲まれる姿を見たでしょう。池袋の森は十年で二十倍の規模になった。人間の制御を失っているわ」
「でもそれが炭素時代の宿命だ。より大量に炭素を吸収させるためには、生長のスピードを早めるしかない」
「教科書通りに物事が進んでいると思わないで。性急な政策は必ず頓挫《とんざ》する。旧時代の工業化が地球をおかしくしたように、今のやり方も地球を蝕《むしば》んでいるわ。文明を脅かす自然を生み出すのがエコロジーではないはずよ」
「自然と人間活動が共存するのが炭素経済の理念だ。文明と自然が一緒に住めないのはわかっている。だから人間は地上を離れて、積層都市に移住しているんだろう。アトラスは理に適《かな》った街だ」
「炭素で利益を生み出そうとしたのが間違いよ。人間はCO2濃度すら金|儲《もう》けに使い始めたわ。あなたはモルジブで経済炭素を食う化け物を見たはずよ。あれと同じものがまた現れたら、炭素経済は完全に崩壊するわよ」
草薙はマーシャル諸島にメデューサがいることを告げられなかった。カーボニストでもある國子は経済の崩壊をもう予期している。野蛮なゲリラに諭されるのは癪《しやく》に障るが、多くの人たちは炭素経済は明日も存続すると素朴に信じている。危機感を覚えているのは政府の中でも一部の者だけだ。しかしメデューサを討伐することはもう不可能だ。台風の楯《たて》を身に纏《まと》ったメデューサを物理的に破壊する術はもうない。できることはメデューサが日本経済に牙《きば》を向けないことを祈るだけだった。
「参ったな。ゲリラに日本の将来が見抜かれてるなんて。で、俺たちはどうすれば生き延びられるんだ?」
國子は自信たっぷりに頷《うなず》いた。
「人間の経済活動を地球に譲渡するしかないわ」
「おまえ何言ってんの?」
「今の地球型経済は所詮《しよせん》人間の都合でしかないわ。だから経済炭素みたいなものが生まれるのよ。地球には地球のやり方がある。それを学ばなければどんなに新しい概念を生み出しても、人類は破滅する。経済は地球のリズムに調和するしかない。地球主導経済こそ次の時代の経済よ」
「意味わかんねえ。おまえ頭おかしくなったんじゃないの?」
「バカはあんたの方よ。経済炭素本位の経済はもう限界なのよ。グラファイトはもうすぐ価値がなくなる。その前に全部売り払って新しい時代に備えるしかない。もう価格はグラついているはずよ。元に戻ると信じて様子を見ている人はおバカさんよ」
「しかし炭素本位制から離脱するなんて誰がそんな大胆なことができる。息を止めて生きるってことだぞ」
「もう森で炭素を吸収することなんて意味がなくなる時代が来るのよ。市場を見ればわかるわ。この前アメリカの炭素指数が一を切った。大気中の炭素よりも吸収している炭素が多いってことなのよ。ありえない。森林化よりも効率的に炭素を削減する方法を覚えた人間は、きっと暴走する」
「バカな。炭素を吸収する方法は今のところ森林しかない」
「みせかけの経済が炭素を吸収しているのよ。イカロスでも発見できない。政府はあたしたちの言葉に耳を貸すべきだわ」
草薙はなるほど、と思った。タルシャンが興味を持つ少女だけのことはある。このまま軍に殺されるには惜しい人材だ。そのことを見込んで公社が身柄を保護するのだろう。草薙はポケットからカードを取り出すと、國子に見せつけた。
「公社がおまえを招きたいと申し出ている。俺がその使いだ」
「公社があたしを? なぜ?」
「俺はおまえの命の恩人だが、俺にも命の恩人がいて、ああややこしい。とにかく義理があるんだ。命の恩人の言うことを聞け」
「あたしは首都を制圧しに来たのよ。公社があたしに何の用があるの?」
「白人の爺《じい》さまの命令だ。用件はそいつから聞くんだ」
映像で見た凪子の隣にいた白人の男のことだろうか。凪子とその白人は何かを企《たくら》んでいる。自分は凪子によって巧みに首都層へと送り込まれた。白人の男はそのことを知って招待したに違いない。彼らがアトラス計画を立ち上げた理由に近づくチャンスだ。しかし國子は全て彼らの手の内なのが気に入らなかった。
「その男に伝えて。公社に行くときはゼウスを倒すときだって。ここに来た理由はアトラスに難民を受け入れさせるためだもの」
モモコがピカピカに輝くパスカードに目を眩《くら》ませていた。
「あたしも招待されているのかしら?」
「されてない。おばさんはゲリラの仲間を救うために、ここで頑張ってくれ」
「ひどいわ。乙女を戦場に置いていくなんてあんまりよ」
國子もプイとそっぽを向く。
「モモコさんを連れて行かないなら、あたしも行ーかないっと」
「うがー。なんて面倒くさい女なんだ。ここはまた囲まれる。公社へ避難した方が身のためだ」
「仲間を見殺しにできない。あんた政府軍でしょ。あたしを連れて行きたいなら、仲間を助けるのに協力しなさい」
「おまえなあ、周りを見てみろよ。あの擬態を見抜けるとでも言うのか?」
いつの間にか周囲の景色はロンドンの街並みに変わっていた。この変幻自在の都市でサバイバルするのは困難だ。
モモコが小さな箱をしきりに押していた。
「偶然かしら。ボタンを押したら足下のコンクリートが変わった気がするんだけど……」
モモコがボタンを押した瞬間に足下の見張り櫓《やぐら》がみるみるうちに変化して、ビルの屋上になった。
「それ、どこで手に入れたの?」
「さっきエルメスのバッグの中をまさぐったら入ってたのよね……」
モモコの持っているのは小夜子が使っていたゼウスの端末である。ミーコが密《ひそ》かにバッグの中に忍ばせておいたのだ。モモコが画面から解除のボタンを押すと、ドゥオモの擬態が解けた。広場がグラウンドに、西棟が体育館に、ブリッジが道路に戻る。ここは学校だった。
「それ使える。こっちから仕掛けてやる」
「うわ。まだやる気なんだ。勘弁してくれよ」
「別に一緒に来なくてもいいのよ。公社へは逃げられたって言えばいいじゃない。本当に逃げてもいいんだけど」
モモコは政府軍の動けそうな戦車を探して、擬態を試みている。戦車が粘土細工のように様々な形に変化した。
「馬車がいいんだけど目立つのよね。上手《うま》くいかないわね。これでどう?」
モモコが設定したのは外交官ナンバーのリムジンだった。
「それ最高。アメリカ大使館のものにして。政府も手出しできないようにね」
國子たちが乗り込んでエンジンをかける。草薙もつい反射的に飛び乗った。
「俺も行く。捕虜になったということにしてくれ」
「邪魔したら捨てるわよ」
「これでも擬態戦は何度も経験しているんだぜ。首都防衛部隊の戦術は侵入者を人工地盤の端へと追い込むのが定石だ。仲間を助けたいなら俺を連れて行け」
國子たちを乗せたリムジンは蜃気楼《しんきろう》の都を駆ける。外交官ナンバーをつけた車輛《しやりよう》はどの検問もフリーパスだった。國子は武彦たちが追い込まれている地区へと向かった。
第三層の香凜のオフィスもまた戦場だった。さっきからヘッドリースを邪魔されてばかりだ。メデューサが狙いをつけた地区が、次々と別のカーボニストに買収されていく。まるで香凜の手の内を知り尽くしているかのようだった。
「アマゾンの農地が買収された。資産価値のない場所なのに、なぜ?」
相手はまるで金を捨てているような投資のやり方だ。死期の近づいた金持ちが自棄《やけ》を起こしているのかと思うほど大量の金が捨てられていく。これではメデューサが近づきたくても近づけない。相手はかつてメデューサが炭素指数を下げた地区さえ買い取る。香凜には何が目的なのかわからなかった。マレーシアのジョホール工業地帯を買い取った相手は、廃業手続きを取った。ピッツバーグも同じだ。世界中の重炭素債務地区が次々と買収されていく。ヘッドリースの後に投資が来るのを阻止しているとしか思えない。
「クラリス助けて。会社が潰《つぶ》されちゃうよ」
フランクフルトから三度貧乏になったクラリスが現れた。モニターに現れたクラリスは修道服を着ていた。
『全ては神の思《おぼ》し召しよ。あたしはもう炭素市場に近づかないわ。アーメン』
それは初めて見たクラリスの姿だった。豪奢《ごうしや》な女だと想像していたのに、クラリスは欲の枯れ果てた眼をしていた。これがかつてEU市場に名を馳《は》せたカーボニストというのか。チャンはクラリスが二度と立ち上がれないように、完膚無きまでに叩《たた》きのめしていた。今やクラリスの抱えた負債は百億ユーロを超える。クラリスはうすら笑いを浮かべながら、教会への喜捨を勧めた。
『イシダ・ファイナンスの売上をケルン大聖堂へ寄付しなさい。あたしは生臭い炭素市場はもういいの。神の側に仕えて暮らすことにするわ』
「何バカなこと言ってるの。EUのヘッドリースの機能を東京に回して。こうなったら根比べよ。こらクラリスしっかりしてよ。この貧乏なクラリス。貧乏なクラリス。貧乏なクラリス」
『ふ、貧乏なクラリスって懐かしいわね。今ではシスター・メアリー・ロバートの名前をいただいたのよ』
クラリスはもの悲しそうに賛美歌を口ずさんだ。途方もない負債を抱えたショックでクラリスは完全に頭がおかしくなっていた。会社のお金を吹っ飛ばしておいて、行き着く先が逃避の世界なんて許せない、と香凜は怒り心頭だ。
「あんたが修道女になって冷えたジャガイモを食べるのはいい。やる気がないなら背任で提訴するだけだよ。首を洗って待ってな」
こんなとき頼みの綱はチャンだ。もうとっくに東京に着いていてもいいのに、まだ連絡がこない。
「チャン助けて。あたしたちの会社が……。あたしたちの会社が……」
国連発表の炭素指数の速報値が出た。あんなに頑張って下げた炭素指数がどの国も急騰している。アメリカの炭素指数が気になってAPECのサイトを開いた香凜が愕然《がくぜん》とした。
「炭素指数一・五二!」
投資先の金が全て水の泡だ。このままではメデューサの信用が落ちてしまう。案の定、幾つかの炭素銀行から取引を中止したいと申し出てきた。カーボニストは落ち目の仲間に対しては非情だ。銀行が金を貸してくれなければ、ヘッドリースは不可能である。
この異常事態にメデューサも錯乱していた。ホログラムの蛇が炎のように赤く染まっていた。
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香凜、助けてくれ。水位が上昇中だ。堤防をあと一メートル高くしないと私は溺《おぼ》れてしまう。私のヘッドリースを邪魔する奴は誰だ。私は絶対に許さない。市場から一時撤退する。犯人をきっと突き止めてみせる。
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「クラリス、チャンと最後に連絡を取ったのはいつ?」
『♪慈しみ深き 友なるイエスは 罪|科《とが》憂いを 取り去り給《たも》う』
「やめてやめて。あたしは神様なんて信じないんだよ。この世で一番の力はお金なんだってば。貧乏になったくらいで改心するなんて、このカーボニストの恥|晒《さら》し」
こんなインチキ修道女に改心を促されるなんて絶対に嫌だ。会社が破産すると自分のアトラスランクは落ちてしまう。アトラスは金|儲《もう》けする人にだけ微笑む街だ。欲を捨てることは地上に堕《お》ちることを意味する。両親とともにアトラスで幸福に過ごすためには、もっともっとランクを上げなければならない。もし信じるものがあるとすれば、香凜の信仰はアトラスランクただひとつだ。それは全能コンピュータ・ゼウスへの帰依《きえ》である。
「クラリスは贅沢《ぜいたく》が大好きだったじゃない。スパンコールの修道服を買ってあげる。ダイヤモンドのロザリオも買ってあげるから、元に戻ってよ」
しかしクラリスは恍惚《こうこつ》の表情を浮かべて賛美歌を歌うばかりだ。香凜がいくら甘い餌でつってもクラリスは反応しなかった。彼女は短期間のうちに金持ちと貧乏の間を何度も往復しているうちに、燃え尽きてしまったようだ。余生を信仰と共に過ごすことにしたクラリスは、すっかり人間が変わってしまった。
「もういい。好きなだけ冷えたジャガイモでも食べてれば。貧乏なクラリス」
香凜は通信を切った。遅れてメデューサから報告が入る。
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香凜、ヘッドリースを邪魔している企業がわかった。東京の新大久保地区にある炭素ゲリラのアジトから金融攻撃を受けている。現在、首都層で戦争をしている組織だ。こちらの資金はもうすぐ底をつく。すぐにチャンが所有する上海の別会社から資金を調達してくれ。
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ドゥオモの金融センターではチャンが指揮を執っていた。男たちの戦場がアトラスなら、ドゥオモの女たちの戦場は炭素市場だ。首都層で闘っている家族の安否をただ指をくわえて待つよりも気が紛れるのか、彼女たちの士気はいつになく高かった。
芳恵の檄《げき》が金融センターに響く。
「よっしゃあ。サウジアラビアのヘッドリースを潰した! 次メデューサはラトビア共和国に現れると予測。リガの工業地帯を買収したい。指示を請う」
「買収してくれ」
そこは今、チャンが指示を出そうとしていた地区だった。特攻服に身を包んだ女ヤンキーは、チャンよりも早くメデューサの癖を見抜いている。芳恵は資金の注ぎ方も一流だ。表舞台に出ればクラリス以上のカーボニストになれるというのに、なぜこんな辺鄙《へんぴ》な森の中に埋もれているのだろう。
チャンを補佐していた凪子がにやりと笑う。
「私が指南した娘たちの中でも芳恵はズバ抜けて市場の勘がいい。ちょっとグレておるが、根は優しい娘じゃ。気に入ったか?」
「ええ、あんな派手な格好した動物は、シンガポールではトカゲくらいですから」
「こちらの資金もあと少しじゃ。気前よく破産させてくれて実に楽しいぞ」
「すみません。向こうの資金も同じくらい底をついているはずです。もうちょっとで、メデューサは市場から信用を失います」
炭素バブルで沸いていたニューヨーク市場が恐慌を起こしている。この影響は世界中に伝播《でんぱ》するだろう。炭素経済|終焉《しゆうえん》の序章は、森に埋もれた街で口火を切った。
「壊した後の責任は僕が取る。香凜、これで最後だよ。中国の重慶市を買収する。全資産を注ぎ込め」
チャンの声は微《かす》かに震えていた。
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香凜、敵の正体が判明した。新大久保地区から邪魔しているのはチャンだ。彼の口座の全てが新大久保地区に流れている。シンガポールと上海、そして台湾の会社は破産した。
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「チャンが? どうしてなのチャン? あたしたち仲間だったじゃない……」
香凜の悲痛な声が閑散としたオフィスに響く。会社を立ち上げた仲間の裏切りに目の前が白くなっていた。カーボニストは利息を求めて動く人種だ。自分の身を切るようなことはしない。そもそも、香凜の経済炭素循環システムを評価し、世界規模で展開するように勧めたのはチャンだ。彼がいなければ香凜の成功はなかった。そのチャンが自分たちの会社を潰そうとしている。理由が何なのかわからないが、香凜の胸は引き裂かれそうなほど痛かった。
「ひどい。一番信用していたのに……。最後まで側にいてくれると信じていたのに……」
ずっと冷静を装っていた香凜の瞳《ひとみ》に涙が生まれた。机の上で弾《はじ》けた涙は、子どもの甘い匂いを放って滲《にじ》む。草臥《くたび》れたテディベアを抱きかかえた香凜は床に膝《ひざ》をついて泣いた。子どもだと馬鹿にされたくなくて、気丈に振る舞っていた最後の堰《せき》が崩れた。お金こそ最強の絆《きずな》だと信じて集った仲間たちはもういない。最初に裏切ったのはタルシャンだ。メデューサの分身を作り会社を窮地に追いやった。打倒タルシャンで共闘したクラリスは、今や修道女だ。そしてチャンは会社に止めを刺そうと香凜に刃向かっている。これが数ヶ月前に世界市場を席巻しようと息まいていた仲間の正体だ。
「こんなの仲間じゃないよ。あたしは何も悪くないのに。みんな勝手だよ。うわあああん」
香凜、私がいる。力を貸してくれ。
メデューサの蛇が緑色になって穏やかに揺れていた。会社の存亡の危機を前にして、コンピュータだけが冷静に動向を見極めている。まだ会社は生きている。今はひとつでもヘッドリースを成功させて、チャンに一泡吹かせてやらないと気が収まらない。ひとしきり泣いた香凜は眼光を蘇《よみがえ》らせた。香凜は能力の全てを傾けて、コンソールパネルを叩《たた》いた。
「フランクフルトとシンガポール、ニューヨークから撤退する。ヘッドリースの機能を東京に集約して。一気に仕掛けるよ」
香凜は最後の決戦を重慶市に定めた。世界最大の重炭素債務地区の炭素指数を下げれば、行き場を失っていた大量のマネーが重慶市に注がれる。なんとしてでもヘッドリースを成功させねばならない。香凜は勝負に出た。
「こちらの手数料をゼロにすると銀行に伝えて。五パーセントはそのまま銀行に利益として還元する。信用を取り戻さなきゃ」
背水の陣で臨んだ決戦は、仲間との潰《つぶ》し合いだ。チャンは優秀なカーボニストだが、メデューサの基本設計を生み出したのは自分である。香凜はメデューサの機能を最大値に設定した。現在の重慶市の炭素指数は二・八八だ。これを一気に下げれば中国は炭素バブルに沸く。ヘッドリース後に予想される重慶市の炭素指数が弾き出された。
「〇・〇四八。まあまあね。いくよメデューサ!」
ドゥオモのチャンがいち早く動く。
「重慶市の買収開始。工業地帯を押さえろ」
チャンの指示通り、工業地帯が次々と買収されていく。追ってメデューサも重慶市にやってきた。マネーのぶつかりはマグマの爆発のように中国市場を吹き荒れる。ヘッドリースよりも有利な条件で買収しなければ意味がない。重慶市に注がれたマネーは実に六千億元にのぼった。だがチャンの買収よりもメデューサの方が遥《はる》かに有利だった。
「香凜め。ありえない条件に設定したな。これじゃ利益なんか出ないぞ」
「圧《お》されておるな。では私も加勢しよう」
凪子は世界中にいるカーボニストたちが気づくように市場に出た。半世紀以上凍結していた凪子の口座が開いた。そして世界中のカーボニストが凪子の声を聞いた。
「私は北条凪子だ。これから重慶市を買収する。投資家たちよ、私の腕を信じろ。倍にして返してやろう」
アジアの暴竜と呼ばれた伝説のカーボニストの登場に、市場は飛びついた。凪子が金を集めて重慶市へと注ぎ込む。側にいたチャンは、凪子の圧倒的な力を見せつけられて瞬きもできなかった。凪子の腕は少しも鈍っていないどころか、現役のどのカーボニストよりも卓越している。チャンは自分の力が老いたカーボニストの足下にも及ばないことを知った。凪子の力を得て劣勢だったチャンが再び盛り返していく。銀行の半分が凪子に与《くみ》したとき、勝敗が決した。金融センターに芳恵の金切り声がこだまする。
「よっしゃあ。買収成功! 敵は市場から撤退しました」
ずっと立ちっぱなしだったチャンが、崩れるように椅子に腰かけた。
「ふう。これでメデューサもお終《しま》いだ」
[#ここから2字下げ]
香凜、石田ファイナンスは破産した。銀行は当社との契約を全て打ち切ると通告してきた。投資会社は無謀なヘッドリースを商法違反で、提訴すると告げてきた。我々の完全な負けだ。
[#ここで字下げ終わり]
「破産した……!」
息が浅くなった香凜は酸欠を起こしていた。モニター画面が負債総額を計算しているがまだ止まらない。軽く二十兆円は超えそうな勢いだ。目の前の数字が増えるたびに、香凜の神経が麻痺《まひ》していく。百万の単位でくすっと笑いが弾けた。そして百億の単位で顎《あご》を吹き飛ばす爆笑に見舞われた。
「あはは。あははははは。あはははははは。苦しいよ。もうやめてったら。何この数字? こんなの払えないよ。百回生まれ変わったって無理だよ。まだ増えるの? いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……いっちょう。二十兆円だって。最高! あはははははは」
クラリスが見舞われたショックがわかる気がした。いっそ信仰の場に行こうとすら思う。しかしクラリスの負債はせいぜい日本円で一兆円程度だ。一兆円で修道院なら、二十兆円ならどこに行けばいい。水も空気もない月に行けば安らぎが待っているかもしれない。月から下世話な世界を眺めて過ごしたかった。
「石田ファイナンスは本日を以《もつ》て廃業。あはははははは」
香凜の笑い声をメデューサが首を擡《もた》げて聞いていた。
アトラス公社ではタルシャンがチャンと香凜の闘いの一部始終を眺めていた。若きカーボニストは反目し、差し違えに出た。チェスの盤上で駒を動かしていたタルシャンがナイトの駒でクイーンを落とした。
「ナギコが味方したのかな。カリンはメデューサを使いこなせなかったか。もっと張り合いのある少女だと思っていたのだが……」
外は快晴だというのに、昨日からの戦争の嵐が続いていた。その嵐も小康状態だ。散発的な戦闘がまばらに起きているだけで、政府はいつ勝利宣言を出すかタイミングを窺《うかが》っていた。
「クニコはまだ公社に来ないのか?」
タルシャンが睨《にら》みを利かせると幹部たちは震え上がった。
「それが……。現在、戦車を奪って戦闘中です。どうやらゼウスの端末を手に入れたようで、擬態で応戦しているとの報告です」
ゼウスの端末を奪ったと聞いて、駒を持つタルシャンの手が止まった。
「ですが、ご安心ください。端末は公社のものでゼウスの一部にしかアクセスできません。擬態を施したり、解除したりできる程度です」
戦闘の中継が入った。政府軍の戦車を奪った國子たちが、擬態で敵の目を欺きながら新銀座を突破していく光景だった。公社がつけた支援部隊はこれ以上は援護できないと報告してきた。それを聞いたタルシャンが苦笑する。
「端末を手に入れるとは、なかなか手強《てごわ》い娘だ。こちらがエスコートにつけた男は、さぞ手を焼いていることだろう」
「あの軍の青年を野放しにしていいのですか? 戦車には貴重な候補者が二人いるんですよ」
「構わない。彼らの力を見届ける良い機会だ。五十年に一度の逸材が簡単に死ぬようでは、この先大した未来はない。我々はサポートだけで充分なはずだ。それよりも新飯倉公館に避難させたミクニの様子はどうだ?」
「小夜子を失って取り乱しております。側近のデブの女官を逮捕しましたから、心の支えを失ったようです」
「彼女もまた大切な候補者だ。このまま大人しく幽閉されてはいないだろう。警護を厳重にしろ」
タルシャンは窓の外の戦争を遠い眼差《まなざ》しで見つめていた。
公社の地下は不思議な空間だ。入り口は貴賓室の設《しつら》えで豪華だが、中に入ると牢獄《ろうごく》である。今時、刑務所でもこんなに劣悪な環境はない。中の湿度と匂いは下水道の中よりもきつかった。虫と鼠と腐敗臭に彩られた獄舎に、着飾った宮司たちが出入りする。この奥に最高経営責任者の水蛭子の執務室がある。
ここに昨日、新迎賓館から新しい住人がやって来た。小夜子の脱獄を幇助《ほうじよ》したミーコである。ミーコは暗闇の中で小さくなって震えていた。
「こんなことになるなんて。やっぱりアトラスに来るんじゃなかったわ……」
牢は広さもわからないほど暗かった。饐《す》えた匂いは恐らく鼠か何かの死体が腐乱しているのだろう。気持ちが悪くて確認したくもなかった。気味が悪いと言えば他にもある。牢の奥で四六時中絶叫が聞こえるのだ。拷問を受けているのだろうか。また「ぎゃあああああ」という悲鳴があがった。この拷問がいつ自分の身に迫ってくるのか、想像するだけで怖かった。
「モモコ姉さんは無事に逃げられたのかしら……」
エルメスのバーキンの中に忍ばせた端末を上手《うま》く使えばメガシャフトの保守点検用のエレベータが開くはずだ。ニューハーフひとり逃がすには充分のはずだった。ミーコは渦巻く不安の中でモモコが無事であると信じることだけが希望の灯火《ともしび》だった。そして気がかりなのは美邦のことである。疑心暗鬼の側近たちに囲まれてさぞ不愉快な思いをしていることだろう。
「美邦様、どうかご辛抱くださいませ。ミーコは毎日ここで無事を祈っております」
汚れた単衣《ひとえ》の裾でそっと涙を拭《ふ》いた。また隣の牢で絶叫があがった。果たしてここは本当に牢獄なのだろうか。通路を行き来する大宮司たちの金糸織りの鞠《まり》水干は、看守にしては派手すぎる。まるで身分の高い人に遜《へりくだ》っているような腰の低さだ。隣に繋《つな》がれているのは一体誰なのだろう。
「ただちに ぜうすの けいかいどを あげるのじゃ。おろちに ねらわれておるぞ。ぎゃあああああ!」
竹槍《たけやり》でつつかれた水蛭子が血《ち》飛沫《しぶき》をあげる。託宣を受けて大宮司たちは直ちにと牢を後にした。
「すぐにタルシャン様に報告を。水蛭子様の御託宣である」
ゼウスが再び鉄壁の防御を設えた。
途方に暮れていた香凜にクラリスから通信が入った。
『カリン、メデューサを人間の支配から解放すれば、天井知らずの性能が引き出せるわよ』
「クラリス! 戻ってきたのね」
クラリスは自分と同じように破産した香凜に手を差しのべた。賛美歌を歌っているうちにすっかり心が癒《いや》されて、また闘争本能が目覚めたのだ。この女の人生はメトロノームのように激しく絶望と希望の間を揺れる。絶望が大きければ大きいほど反動で立ち上がる。刺激が強くないと生きている実感がない困った女だ。
クラリスは貧乏になった後は金持ちになるという自分の運命を信じて、もう一度市場に闘いを挑むことにした。
『シスターはもう飽きたわ。賛美歌って恋の歌がないのよ。子宮が疼《うず》かない歌なんてつまらないわ』
「クラリス、やっぱり粗食が嫌だったんでしょ?」
『あんな不味《まず》い料理を食べていたら、脳みそに黴《かび》が生えちゃうわ。豆のスープとパン一切れなんて美容に悪いじゃない。あたしは肉が食べたいのよ』
人間を草食か肉食に分けるとクラリスは肉食獣だ。獲物を倒して食事にありつかないと生きた気がしない。所詮《しよせん》クラリスは野生でしか生きていけない育ちの悪さだ。
『メデューサの生存本能を最大値に設定したわ。ヘッドリースのプログラムを変更するけど、いい?』
クラリスが仮想空間の水位を急上昇させる。溺《おぼ》れる寸前まで追い詰めて、メデューサに最も効率的に炭素を下げる方法を模索させるためだ。
「やめてクラリス。メデューサが壊れちゃうよ」
香凜の制止も聞かず、クラリスはどんどん水位を上昇させていく。
『さあメデューサ、あたしにお肉を食べさせてちょうだい。さもなくば溺れさせるわよ』
メデューサの仮想空間における現在の海面水位はプラス一・九五メートルだ。マーシャル諸島の堤防の高さは二メートル。あと五センチでメデューサはシステム的「死」を迎えてしまう。窮地に追いやられたメデューサは一か八かの賭《か》けに出た。メデューサが目をつけた先は、日本政府だ。
[#ここから2字下げ]
香凜、私をゼウスへ繋いでほしい。会社の負債を返済する方法がひとつだけある。
[#ここで字下げ終わり]
「ゼウスにハッキングするなんて無茶だよ」
『いいえ。メデューサならできるわ』
「クラリスはゼウスの力を知らないからそう言うんだよ」
『大丈夫。あたしはカリンの生み出したメデューサを信じるわ。世界で一番頭のいいカーボニストが作ったんですもの。でしょ?』
クラリスの言葉に勇気が出る。そう、メデューサならきっとできる。どうせ地上に堕《お》とされる身だ。負債を抱えて地上で生きるなんて地獄に堕ちた方が楽なくらいだ。いくら閻魔《えんま》大王でも生前の借金の取り立てなんてしないだろう。最後くらいメデューサの力を思う存分に発揮させてみるのも一興かもしれない。香凜は机に向かった。
「ゼウスの防壁を突破できるように、プログラムを変更するよ。もし逆探知されたら攻性ウイルスを受けてしまうけどいい? ワクチンなんてないよ」
メデューサの力を暗号解読のみに傾けるようにシステムを変更する。世界最強のコンピュータであるゼウスと闘うためには、できるだけ余分な機能を持たない方がいい。香凜は優先度のプログラムを破棄した。もうタルシャンも、チャンもいないのだ。
「ゼウスは速いからあたしはサポートできない。百万分の一秒ごとにアクセスさせるから、自分の判断で闘うんだよ」
優先度はメデューサと人間を繋ぐ唯一の軛《くびき》だ。メデューサの能力はゼウスに引けを取らないが、最終判断を人間に委《ゆだ》ねられているために、メデューサは若干遅くなる。香凜は優先度一位を[MEDUSA]と書き換えた。
「これでよし。政府資産があればもう一度、市場に戻れる。投資会社や銀行には三倍の利息をつけて返してやるよ。その後でぎゃふんと言わせてやるんだから。覚えてなさい」
政府資産があればチャンが買収した地区を十倍の値段でヘッドリースすることができる。メデューサの用意は整った。香凜は世界中の市場の端末を使ってアトラス公社にハッキングをかけた。
「金をぶんどってこい!」
ホログラムの蛇が公社に襲いかかった。
公社が警報に包まれる。小夜子の襲来を阻止したのがついこの前だというのに、再びハッキングを受けていた。管制室は百万分の一秒ごとに不正アクセスしてくる相手に防戦一方だ。
「敵は未確認のコンピュータシステムと思われます。速すぎて特定できません。乱数を一億|桁《けた》で対応します。速い。敵の目的は最高機密と思われます」
「百億桁まで上げろ。最高機密までの到達時間を予測せよ」
「約三時間です。敵はゼウスと同等の性能を持っています」
警報を聞いたタルシャンは床に落ちたクイーンの駒を拾い、再び盤に載せた。
「それでこそ、新時代のカーボニストだ。私を久し振りに興奮させてくれるとは見直したぞカリン」
ゼウスを生み出したのは凪子とタルシャンだ。ゼウスが誕生したとき、これを上回るシステムは百年経っても現れないだろうと言わしめた。それが半世紀で同等のシステムに脅かされている。時代はタルシャンの予想を超えた速度で動いていた。
「ナギコ、君の言う通り世界は退屈ではなかったよ。こんなに面白いことが起こるとは昔の私は想像もしなかった。メデューサがゼウスを叩《たた》くとは愉快だ」
机上のメデューサの端末はずっと電源が落とされたままだ。果たして香凜がゼウスに勝てるのか、その後の未来がどうなるのか、盤上の駒は何も答えてくれなかった。だがタルシャンの指はボードの端で軽やかにリズムを取っていた。
管制室がかつてない緊張に包まれた。攻撃を仕掛けていたメデューサもまたゼウスの無限回廊に囚《とら》われた。同じ場所を百万周して埒《らち》が明かないと気づいたメデューサが、回廊に何かを見つけた。かつて誰かがここを通った痕跡《こんせき》だった。その相手は回廊を飛び越える方法を発見したようで、その先から気配が消えていた。メデューサは相手がどうやって回廊を飛び越えたのか、シミュレーションを開始する。そして同じ方法を発見した。
管制室がパニックに陥る。
「敵のコンピュータは新しい方程式を発見。小夜子が見つけたものと同じです。最高機密到達まであと一分です」
[#ここから2字下げ]
香凜、最高機密のパスワードを発見した。三十秒以内に入力してくれ。
[#ここで字下げ終わり]
メデューサがゼウスの玉座にいられるのは三十秒だけだった。香凜の小さな指先がキーボードの上を躍る。三つの暗号鍵が次々と入力されていった。
『太陽よ、天へ昇り、地を照らせ』
『月よ、天へ昇り、闇夜を照らせ』
『大地よ、昼と夜を従え、世界を支配せよ』
香凜の目が輝いた。
「暗号鍵オープン! ゼウスが開くよ」
ゼウスが香凜の前に恭しく跪《ひざまず》き、光の世界へと誘《いざな》う。ゼウスは香凜をトリプルAと認定し「決定」と通告した。自動的に最高機密が開示される。それはアトラス計画の全貌《ぜんぼう》だった。香凜は息を飲んだ。
「これがアトラスの真実だったのね!」
東京再生計画などただの方便だ。アトラスの完成したモデルは精緻《せいち》なほど調和の取れた美しい世界だった。なぜ街を積み上げるのかその理由は実に理に適《かな》っている。この計画を知れば政府がなぜ財政が傾くまでアトラスに資金を注ぐのか合点がいく。アトラスランクに振り回される庶民たちは、とんだ道化だ。全てはアトラスの完成のために造られた人間ランクにすぎない。父や母、そして自分が全人生を懸けて上げようとしていたアトラスランクは、所詮庶民を退屈させないように造られたモデルにすぎない。
香凜は怒りに震えていた。
「ふざけんな。あたしの尻《しり》を叩いて金を集めさせていただなんて、許せない」
トリプルAの認定を受けゼウスから決定をもらった香凜は、アトラス計画が何から始まったのか調べだした。学校では半世紀前に起きた第二次関東大震災の教訓によるものと習ったが、これも違う。自然災害に強い都市を造るのと、炭素経済に移行するのはたまたま時代が合致していただけだ。もしそれらがなくてもアトラス計画は発動されたはずだ。全ては巧妙に仕組まれていた。
香凜がアトラスランクの上位者たちのファイルを開ける。自分と同じトリプルAは三人いた。ひとりは、いつか警視庁のデータにハッキングしたときに発見した北条國子だ。このゲリラの女総統が地上にいた理由がこれではっきりした。アトラス公社初代総裁の北条凪子がわざわざ公社から受け入れた経緯が記されていた。もうひとりのトリプルAは新迎賓館にいる美邦だ。
最後のひとりは陸軍にいた草薙少佐だ。彼の経緯はもっと複雑だ。トリプルAに認定されたのはごく最近のことだ。以前のアトラスランクは第一層にも住めない低さだったのに、いきなり認定された。彼の項目に「遺伝的特性」と追記されていた。香凜は自分が愚弄《ぐろう》されていたことを知った。
「あたしは働き蟻だったってことよね。こんなシステムなんていらねえや」
いくらゼウスが決定しても、香凜は自分自身に正統性がないことはわかっている。國子たちは生まれるべくして生まれ、そして自らの力で覚醒《かくせい》した。不正アクセスで認定された自分は所詮《しよせん》まやかしのトリプルAだ。真実を知った香凜の答えはもちろんNOだった。
「あたしをバカにしたんだから相応の慰謝料は払ってもらうよ。こんなシステムに一喜一憂させられたなんて、絶対に許せない」
香凜は躊躇《ちゆうちよ》することなく政府資産の開示を要求した。日本炭素銀行のサイトが開く。総額八百兆円の資金が香凜の前に提示された。
「こんな世界、ぶっ壊してやるんだから」
メデューサの端末を抱えた香凜は密《ひそ》かに新六本木のオフィスを離れた。
ゼウスが乗っ取られたのに慄然《りつぜん》としたのは、公社だ。
「ゼウスが間違った人間に決定を出した。なんとかするんだ」
「ゼウスの決定は絶対です。覆りません」
「アトラス計画の全貌を民間人に知られてはならない。一体誰が暗号鍵を開けたんだ?」
「第三層にいる石田香凜という少女です。無茶なヘッドリースで急速に業績を伸ばしていた会社の社長です」
「逮捕しろ!」
「ゼウスが決定した人間に逮捕状は下りません。送検は不可能です」
資格のない人間に決定を出したとなれば、アトラス計画は全てが水の泡になる。頭が真っ白になった幹部たちの背後でカツンと甲高い杖《つえ》の音が響いた。
「ゼウスを初期化するしかない」
一瞬、幹部たちはタルシャンが何を言っているのか理解できなかった。タルシャンは当然と言わんばかりの顔で席についた。管制室は水を打ったように静まり返った。この老人は日本政府すら売り飛ばすつもりだ、と幹部の背中に冷たいものが走る。
「タルシャン様、いくらなんでも無理です。ゼウスを初期化すれば、その間アトラスは脳死状態に陥ります。旧時代の分裂したシステムに退化したら、それこそアトラスは滅茶《めちや》苦茶ですよ。今までの政府のデータが全て失われることになるんですよ」
「構わない。初期化するんだ。何をしている。今すぐだ」
杖の音が職員たちの身を強張《こわば》らせた。こんなとき自分たちが蟻のような惨めな存在に思えてくる。日本政府のデータがアルメニア系アメリカ人の一言で破棄されるなんて、あまりにも理不尽だった。
「せめて首相に報告させてください」
タルシャンは椅子の背もたれを倒して、天井を見上げた。
「事後報告で充分だ。初期化にはどれくらい時間がかかる?」
「四十八時間かかります。その間アトラスは丸腰になります。防空システムも擬態プログラムも全て解除されてしまいます」
カツンという杖の音が反論を打ち砕いた。直ちにゼウスの初期化が行われる。オペレーターは怖くて何度もコマンドの入力を間違えた。まるで核ミサイルの発射ボタンを前に躊躇《ためら》う兵士の気分だった。初期化スタートを押す前に、何度も幹部たちの顔を確認する。上司たちの顔はどれもYESともNOとも言っていなかった。
「できません!」
とオペレーターが立ち上がろうとした瞬間、タルシャンの杖が飛んできて男が乗せていた指先のエンターキーを押した。ブレーカーが落ちて、すぐに予備電力に変わる。暗闇から立ち上がった管制室のスクリーンには無情にも「初期化中」の文字が点滅していた。これで日本政府の全ての外交データや犯罪ファイルが白紙化されたことになる。管制室のどこかから神経質な笑いがくすっと生まれた。これでアトラスは分裂した。そう思うと笑わずにはいられない。たちまち笑いは室内に広がって狂気の音に染まった。
仲間を救出していた國子が首都層の異変に気づいた。渓谷に包まれていた景色が、無機質な新大手町の街並みに変わっていた。
「モモコさん、なんかした?」
戦車を操縦していたモモコが首を振る。端末から擬態を制御できる範囲はごく狭い範囲に限られている。大規模擬態まで解除することは不可能だ。國子は自分たちが乗っている戦車の擬態が解除されているのに慌てた。
「これじゃ戦車ですって言ってるようなものよ。すぐに岩にでも瓦礫《がれき》にでもして。こら少佐、こんなときはどうすればいいの」
頭を叩《たた》かれた草薙も外の様子に目を丸くしていた。これではどこが政府中枢なのか教えているようなものだ。大規模擬態は街ごと景観を変えることになっているが、目の前の新大手町と遠景のビッグベンの位置が同じだった。
「国防省のコンピュータを管理しているのはゼウスだ。ゼウスは無停電装置で何重にも保護されているはずだ。これは何かの間違いじゃないか?」
擬態で知覚を揺るがされっぱなしだと、見ているものを素直に信じられなくなる。手っ取り早いのは見間違いと思うことだった。
「どこが擬態戦を熟知しているのよ。政府軍が撤退したわよ。向こうも混乱しているのよ」
通りは廃墟《はいきよ》のように閑散としていた。操縦席にいたモモコも戦車を止めた。電子装置に不具合が生じて、上手《うま》く操縦できないのだ。
「國子、おかしいわよ。端末をいじっても擬態がかからないわ」
さっきまで厳然と存在していた首都層の意志が忽然《こつぜん》と消滅した。まるで魂が抜けたように街は命を落としていた。
アトラスの異変に気づいたのは地上にいた本隊のゲリラたちも同じだった。固く閉ざしたメガシャフトの扉が勝手に開いたのだ。政府軍が地上に降りてきたのかと身構えたゲリラたちは、一時騒然となった。しかし扉は開いたまま何の反応もない。恐る恐る近づくと、空の車輛《しやりよう》が駅に停止したではないか。他のメガシャフトに配置していた部隊からも同じ報告が入った。地上の全駅がアトラスへ道を開けた。
「國子様がメガシャフトを制圧したぞ。第五層に突入せよ!」
やってきた高速エレベータに戦車や装甲車が乗り込む。総勢千人にも上る本隊はありったけの武器を抱えて一気に首都層へと駆け上っていった。
第七層に避難していた美邦は、苛立《いらだ》ちの極限にいた。
「いつまで妾《わらわ》をここに幽閉するつもりじゃ」
「戦争が終わるまでの間でございます。すぐに新迎賓館に戻れるでしょう」
「ここも嫌じゃが、新迎賓館も嫌じゃ。妾は自由に生きたい」
「それも公社がお迎えにあがるまでの辛抱でございます」
「ミーコを連れ戻せ。ミーコが釈放されなければ、ここを出て行くぞ」
美邦が喚《わめ》き散らしても、女官たちはその場限りの気休めに終始するばかりだ。迂闊《うかつ》に希望的な観測を言えば、翌日まで生きていられるかわからない。
「お主らといると息が詰まりそうじゃ。下がれ。下がるのじゃ」
大広間にポツンとひとり残された美邦は絶望と孤独に見舞われていた。小夜子が死に、ミーコが逮捕され、心を許せる者が次々といなくなった。側にいる人間は人殺しか、薬で人格を破壊した者ばかりだ。避難してきたばかりのときの新飯倉公館は洗練された外交の場に相応《ふさわ》しい華やかな雰囲気を持っていた。なのに、二時間もしないうちに憎悪と怨嗟《えんさ》と恐怖に塗《まみ》れたあのおどろおどろしい新迎賓館の黒い雰囲気に染まってしまった。全ては館にいる人間のせいだ。人間の放つ気は建物を覆うほど強いものだ。どんなに高級な美術品で部屋を飾っても心の病んだ人間がひとり入っただけで毒に染まる。今頃、空になった新迎賓館は清々しい空気に包まれているに違いない。
忌々しいことはまだある。今朝死んでいるとばかり思っていた新しい女医博士の涼子がピンピンしていた。裏口で死体袋の到着を待っていた執事は、あてが外れて悔しそうだった。涼子が美邦の機嫌を窺《うかが》っているのは見え見えだが、彼女は見抜かれていることなど大して気にもとめない。約束通り手作りのハンバーグを運んできた。
「さあ美邦様、お口に合うかわかりませんが、お召し上がりください」
出された料理は一流シェフ顔負けの盛りつけだった。美邦が喜ぶように付け合わせのニンジンが桜の花形にカットされている。どうせ見た目だけだと高を括《くく》っていたら本当に美味《おい》しかった。料理などしない手を見せ、こちらを油断させるのが目的だったに違いない。
「涼子や、まこと美味であったぞ。妾はケーキが食べたい。小夜子は二十品作ってケーキバイキングをしてくれた。出来るか?」
涼子は目を輝かせて頷《うなず》いた。
「お任せください。ケーキは得意中の得意ですわ」
そして午後にやってきたケーキバイキングは一流のパティシエ五人がかりで作ったかと思うほどの出来栄えだった。一口食べた美邦は思わず唸《うな》った。新迎賓館でもここまで腕のいいパティシエはいない。着飾るのが好きなだけの女医だと思っていたのに、この女は相当な曲者《くせもの》だ。
「のう涼子や、ケーキを焼いてくれた上に無理を言ってすまぬが、楽器を弾いてくれぬか。妾はしばし和みたい。小夜子はバイオリンが得意じゃった。おやつの後には妾が好きな『悪魔のトリル』を弾いてくれたのじゃが、お主はできるか?」
それはタルティーニ作曲のバイオリン曲だ。技巧を尽くした難曲中の難曲と呼ばれる作品である。
「美邦様のお耳に適《かな》うかどうかわかりませんが、お弾きいたしましょう」
涼子はにっこり笑うと、自前のストラディヴァリウスを持ってきた。バイオリンを構えたかと思うと、圧倒的な指使いと弦|捌《さば》きで『悪魔のトリル』が演奏される。あまりにも素晴らしい音色に女官たちも広間にやってきた。かつて新迎賓館に招待されたどのバイオリニストよりも涼子は上手《うま》かった。涼子の能力は計り知れない。ソリストとしても世界で活躍できるほどの腕前なのに、医者を名乗っている。こんな馬鹿な、と美邦は唇を噛《か》んだ。
涼子は演奏が終わると美邦に耳打ちした。
「私は簡単には死にませんのよ。うふふふふふ」
その言葉に美邦はぞっとした。涼子は美邦の素性を見抜いている。それなのに恐れもせず、絶妙な間合いで美邦に心理的な圧力をかける。公社が新たに選んだ女医博士は悪魔だ。こんなときミーコがいたら、彼女をビンタしてくれたのに。美邦は無性にミーコに会いたくなった。密《ひそ》かに従者たちを集めた美邦は、解放を条件に牛車《ぎつしや》を出すことにした。
「第五層へ参る。公社にいるミーコを救出するのじゃ。全責任は妾が取る。ミーコを助ければ褒美と暇を取らせよう。自由に生きるがよい」
お役御免と聞いて従者たちは色めき立った。もういつ死ぬか怯《おび》えて暮らさなくてもよい。新迎賓館での悪夢の日々を忘れてのんびりと第二の人生を送れる。完全武装の衣冠束帯に着替えた従者たちは制止を振り切って牛車を出した。公社から派遣された近衛《このえ》兵たちに銃を構えると躊躇うことなく撃った。
「下がれ下がれ下がれ。牛車が通るぞ。邪魔する奴は殺す」
牛車は新飯倉公館を脱出した。追っ手をロケットランチャーで噴き飛ばし、立ちはだかる検問をマシンガンを乱射して突破した。最後の難関はメガシャフトだ。扉に爆薬を仕掛けようとしていると、エレベータが到着したランプが灯《とも》った。いつの間にか全メガシャフトに施された封鎖は解除されていた。従者たちはおかしいと首を傾げた。
「美邦様、降りられます。ゼウスに何かあったのでしょうか?」
「ゼウスは物忌みじゃろう。時が妾に味方したのじゃ。参るぞ」
牛車は第五層へと降下中だ。
ゼウスの眠った公社は、裸でサバンナを彷徨《さまよ》っているのと同じ状態だった。メガシャフトが開いたのか、閉じたのか、ゲリラが公社に近づいているのかすらわからない。初期化が終わるまであと四十六時間。その間、頼りになるのは目視による人の情報だけである。
『新飯倉公館から公社へ。美邦様が第七層から離れた模様。目的地は公社であると予想される』
「メガシャフトが開いたのか。すると地上のゲリラたちは……」
「もう入っただろう。運の強い子だ」
タルシャンは別段、驚かない様子だった。香凜だってこの機に乗じて姿を眩《くら》ましただろう。次に現れるときは政府資産を使った大規模ヘッドリースのときだ。気になったタルシャンはメデューサの端末を開いてみた。案の定、アクセスが拒否されていた。メデューサは自分の意志で考え、自分の判断だけで市場を食い荒らす本当の化け物になったようだ。
「素晴らしい。さすがメデューサを生み出したカーボニストだ」
負けを認めながらも声には張りがある。公社に来てからタルシャンは若返ったように見えた。威厳のある年寄りの気配は失《う》せ、自分の力に酔いしれる青春の傲慢《ごうまん》さを漂わせるようになった。小夜子が、香凜が、國子が、美邦が、チャンが、彼らの無謀な行動がタルシャンに活力を与えた。
「時代は変革期を迎えたようだ。私が過ごした青春よりも遥《はる》かに面白い」
炭素時代の開闢《かいびやく》の祖となったのは凪子とタルシャンだ。いち早く時代を読み取り、新しいパラダイムを提示した。炭素税の導入は国際社会から画期的な提案と諸手《もろて》を挙げて受け入れられた。当時、地球は化石燃料の枯渇と制御を失いかけたサイバー経済で疲弊していた。誰もが地球型経済の導入は秩序と平和をもたらしてくれるものと信じた。しかしパラダイムを提示したタルシャンは、人間の本質をわかっていた。経済の本質が欲望である限り、どんなパラダイムを提示しても人間は悪用する方法を見つけてしまう。案の定、実質炭素と経済炭素の差に目をつけた香凜が現れて経済炭素循環システムを生み出した。タルシャンが作った世界秩序は僅《わず》か五十年足らずで破綻《はたん》してしまった。その後に生み出される新しい秩序が何なのか、タルシャンはこの目で見届けたいと思う。そのためなら破産しても構わない。
「若さは力だ。おまえたちを心底|羨《うらや》ましく思うぞ」
機嫌よく鼻歌を弾ませたタルシャンに幹部がそっと耳うちした。
「ゼウスが脳死状態になったとなると、水蛭子様を捕らえている電子結界に影響が出るかもしれません」
公社の地下|牢《ろう》に大宮司たちが集められた。予想通り、水蛭子が暴走したという知らせを受けて、対応に追われていた。
「水蛭子様を電子結界から出してはならん」
「何とか怒りを鎮めるために打ち伏しの巫女《みこ》を呼びましたが、全員殺されてしまいました」
全能神の不在に乗じて水蛭子は電子結界から逃れようと試みている。一度結界を離れると水蛭子を捕まえるのは困難だ。生《い》け贄《にえ》を捧《ささ》げ血腥《ちなまぐさ》い儀式を執り行っても、降りて来ない場合が多い。今の水蛭子を捕まえるために捧げられた命は百人は下らなかった。
「水蛭子様を絶対に逃がしてはならない。公社の存在意義が失われてしまう」
当初のアトラス建造は事故と不具合の連続だった。シミュレーション上では完璧《かんぺき》なアトラスの設計も実際に造ってみると制御できないことが多い。建造が千メートル近くに達したとき、かねてから問題視されていた固有振動が無視できないレベルになっていた。こんなに揺れる人工地盤の上で人は暮らせない。この問題を解決したのは科学ではなく、呪術《じゆじゆつ》的な力だった。それを示唆したのはタルシャンだ。ある日、公社に現れたタルシャンが生け贄を捧げろと告げた。命じられた通り、十二支の子をメガシャフトの基礎に人柱として捧げることで、アトラスの固有振動が収まった。あとは生け贄を選定し、呪術的に建造をサポートする特異な巫女が必要とされた。それが水蛭子である。古い儀式に則《のつと》り、水蛭子の霊を捕獲することに成功した。彼女が逃げてしまえば、アトラスは再び固有振動の問題に悩まされてしまう。
結界の中に捕らえられた水蛭子は、半裸になって髪を掻《か》き毟《むし》っていた。
「われを、とらえた、ぜうすに、ふくしゅうして、やるのじゃあ。よくも、ろうに、つないで、くれたものじゃあ。ぎゃあああああ!」
「水蛭子様、落ち着きください」
竹槍《たけやり》を持った宮司たちが遠慮無く水蛭子の体を突き刺す。痛みは水蛭子に肉体を知覚させる有効な手段だ。痛みがあれば霊は体に戻る。
「おのれらも、まつだいまで、たたって、やるのじゃあ。ぎゃあああああ!」
「電子結界が破られます!」
「退いてはならん。押し込め」
宮司たちは決死の覚悟で水蛭子へと立ち向かう。槍を素手で掴《つか》んだ水蛭子はぐいと手繰り寄せ宮司の喉《のど》を噛み千切った。ぺっと吐き出した喉仏が無惨に床に転がる。こんな化け物を殺さずに闘えというのは無理な相談だった。ついに水蛭子が電子結界を破った。このまま首都層に出られては困る。公社のやってきた悪が世間に知られてしまうのだけは避けたかった。
「水蛭子様お覚悟!」
「ぎゃああああああああああっ!」
宮司たちが一斉に竹槍で水蛭子の体を貫いた。合計十本の槍が四方から突き刺さる。水蛭子は断末魔の悲鳴をあげながら息絶えてしまった。
「いかん。水蛭子様の霊が逃げる。巫女を呼べ」
「巫女は全て殺されました」
大宮司たちの忙《せわ》しない足音が通路に響く。牢の隙間から様子を窺《うかが》っていたミーコは、何が起きているのか事態を把握できていない。すると大宮司の足音がミーコの前で止まった。義眼のカメラがミーコにズームする。
「表に出ろ。おまえをアトラス公社の最高経営責任者に任命する」
「あたしが?」
ミーコはきょとんと首を傾げた。
公社に牛車の重厚な響きが迫る。
「美邦様の御前である。頭が高い」
従者たちは目障りな動きをするものなら全て破壊した。道中、政府軍の機甲部隊と鉢合わせした。それを五分で片づけて、真っ直ぐに公社へと牛車を向かわせる。ゲリラたちの抵抗にも遭ったがものの数ではない。公社の門へと辿《たど》り着いた牛車は門扉をバズーカ砲で破る。
幹部たちは美邦の到着に度肝を抜かれた。
「殺してはならん。貴重な候補者だ」
従者たちはマシンガンを打ち鳴らしながら出雲大社のスロープへと入る。累々たる屍《しかばね》の山を築き本殿へと侵入した。
「ミーコは地下へ囚《とら》われておるぞ。助けに行く」
従者の制止を振り切った美邦が公社の中を走る。公社へは儀式で何度か訪れたことがあるから、内部の構造は知っていた。一番怪しいのは最高経営責任者がいるとされる地下室だ。美邦といえどもこれまで最高経営責任者の顔を見たことがない。公社の頂点に立つ最高経営責任者は謎の人物だった。
「妾《わらわ》は美邦である。控えろ。控えるのじゃ」
美邦の一喝で宮司たちが跪《ひざまず》く。初めて見た美邦に感動する者さえいた。美邦が地下牢の入り口となる檜《ひのき》の扉を開けて仰天する。扉一枚向こうは下水道並みの臭気を放つ異様な空間だった。
「ミーコ。ミーコ。妾が助けに来たぞ」
牢をひとつひとつ覗《のぞ》いて、ミーコの姿を探す。一番奥の牢はまた雅《みやび》な扉になっていた。それを開けたとき、美邦の目にとてつもない光景が飛び込んできた。結界の中に入れられたミーコが何やら怪しい儀式の生け贄になっている最中ではないか。
「危険です。近づいてはなりません」
大宮司に羽交い締めにされた美邦は恐るべき儀式を目の当たりにした。
[#ここから2字下げ]
天清浄地清浄内外清浄六根清浄と祓《はらい》給ふ天清浄とは天の七曜九曜二十八宿を清め地清浄とは地の神三十六神を清め内外清浄とは家内三宝大荒神を清め六根清浄とは其身其体の穢《けが》れを祓い給清め給ふ事の由を八百万《やおよろず》の神等|諸共《もろとも》に小男鹿の八の御耳を振立て聞し食と申す
[#ここで字下げ終わり]
祝詞《のりと》に合わせてミーコの体が猛《たけ》り狂う。得体の知れない力がミーコの体に侵入してくる。ミーコは恐怖と痛みで神経が焼き切れそうだった。ミーコの体の中で、黄泉《よみ》の国のおどろおどろしい気と出雲大社の高潔な気がまじって激しくぶつかり合う。狭い体内で譲り合うことのない喧嘩《けんか》をされて内臓は焼けただれた。脳に電気の火花が炸裂《さくれつ》し、輻輳《ふくそう》した回路が弾《はじ》ける。体が痙攣《けいれん》するたびに思い出が弾け飛ぶ。「熱帯魚」で三枚目を演じた過去、モモコとの思い出、ドゥオモでの涙、國子の成長、そして新迎賓館での日々……。
「美邦様……」
ミーコは微《かす》かに残った意識の隅で美邦を見つけた。大宮司に羽交い締めにされ、振り解《ほど》こうと暴れている。助けなければ、と思うが体が動かない。美邦が、自分の名前を呼んで泣いている。それが最後に見た美邦の姿となった。後は未知の感覚に意識を蝕《むしば》まれていくだけだった。
「ぎゃああああああああああっ!」
ミーコは体の内側から蟲《むし》に食われていく感覚に発狂していた。自慢だった髪が根本から昆虫の触覚に変えられていくのがわかる。毛穴から臭い煙が出ているのが感じられた。腸がムカデのように蠢《うごめ》き、位置を変えていく。内臓が広がったり裏返ったり縮んだりするのが止められない。耳の奥が無性に痒《かゆ》くなって、思いっきり叫んだ。すると目の前にあらぬ模様が走った。瞼《まぶた》を閉じるとはっきりと蟲の姿が見えた。いっそこのまま死にたかったのに、理性は小さくなって意識の隅に追いやられた。やがてミーコは体が曲がっていることしか感じられなくなっていた。
祝詞が終わると、水蛭子が誕生していた。
大宮司が恭しく紹介する。
「美邦様、こちらがアトラス公社最高経営責任者の水蛭子様でございます」
眼を鋭く光らせた水蛭子が、美邦をジロリと睨《にら》んだ。
首都層にある十三のメガシャフトの駅の扉が全て開いた。雪崩れこんできたのは、地上にいた本隊だ。
「新霞ヶ関を制圧する。一気に攻めろ」
火力に物を言わせた旧時代の戦車が次々とエレベータから出てくる。人工地盤にキャタピラの轍《わだち》をつけた戦車が最初の砲撃を行った。その音が本隊到着の合図となった。
「ビッグベンを砲撃しろ。弾はいくらでもあるんだ。出し惜しみするな」
地上と首都層を結ぶ高速エレベータはメタル・エイジが制圧した。このピストン輸送路がロジスティックスになる。ゲリラに兵站《へいたん》が備われば正規軍と同じ闘いができる。國子がアトラス攻略戦で一番心血を注いだのが、この兵站だった。前線だけで闘うゲリラは短期集中決戦の戦術を執る。しかし圧倒的な兵力を誇る政府軍の首都防衛部隊と闘うには分がなさすぎた。ゲリラは二十四時間経てば火力が五分の一になることを政府軍は知っている。だから消耗するのを待って攻勢をかけてくる。これがもし、後方支援があれば話は別である。メガシャフトを制圧すれば、二十四時間後のメタル・エイジの火力は百倍に膨れあがるのだ。補給部隊から送られてくるのは兵器、燃料、食料、弾薬、装備品の五つだ。それに駅を基地にすれば補充はいつでも受けられる。メガシャフトはアトラスの円周に建つ。ここを制圧すれば首都を包囲したも同然だった。逆に政府軍は補給路を断たれて孤立する。メガシャフト制圧が作戦の要たる所以《ゆえん》がこれである。
砲弾がビッグベンの時計台に命中した。煙を上げる時計台は反撃の狼煙《のろし》だ。それを見た國子は形勢が逆転したことを知った。
「本隊が乗り込んできた。一番近い有楽町線シャフトに急いで」
「あたしの着替えとお化粧品も持ってきたのかしら?」
モモコの踏むアクセルも勢いづいた。隣で草薙が頭を抱えていた。
「ああ、おまえら大人しく降伏していればよかったものを……」
「今度は政府軍が降伏する番よ。あんたうちに来ない? モモコさんの性奴隷に雇ってあげる」
「あたし冷凍マグロはいらないわ」
「俺はマグロじゃない!」
國子がハッチを開けて表に出た。目の前に映る戦車のシルエットは味方だ。メタル・エイジの戦車が隊列を組んで侵攻してくるところだった。國子が手を振っているのに気づいた戦車部隊が止まった。
「國子様、ご無事でしたか。ずっと心配しておりました。ですが我々が来たからにはもう安心です。有楽町線シャフトに司令部を置きました。どうぞそこで指揮をお執りください」
「補給は上手《うま》くいってる?」
「さすが國子様、完璧《かんぺき》な作戦です。二時間後にはこの三倍の兵器と、二十倍の弾薬が補給されます」
「首都防衛部隊と互角になるのは早くても六時間かかるわね。敵の戦車は擬態装甲が施されているから気をつけるように伝えて。あと街も擬態するわ。今はたまたま擬態してないけど、いつまた擬態するかもしれない」
モモコも戦車から出てきた。
「あたしみたいに女に擬態している場合もあるから気をつけるのよ」
「モモコおまえ生きてたのか! こりゃ縁起がいい。タマが当たらない」
戦車部隊のみんながあやかりたいとモモコの体を触る。ニューハーフはゲリラの厄除け大神だといつもモモコが言い聞かせていた。なぜかモモコに触って戦場に行くと生還できるのだ。そんなの迷信だと言って触らなかった兵士たちはみんな死んでいった。以来、モモコは戦場のマドンナの異名を取るようになった。
「さあさあみんな。モモコ様のナイスバディに触りなさーい」
モモコは両手を上げて腰を振った。ニューハーフは男の注目を集めてナンボである。國子の兵站学には慰問も含まれていた。疲れた兵士をモモコがシャンソンを歌って慰めるという項目がある。モモコがどうしても、とゴリ押ししたのだ。モモコのズバ抜けた戦闘能力は最前線向きだが、積極的な闘いを好まない性格だ。そのモモコが戦場に現れた。メタル・エイジの士気は弥《いや》が上にも高まる。
「これが九十センチのロケットおっぱいよ」
胸をはだけたモモコに歓声が飛ぶ。モモコは有頂天になっていた。おっぱいを触られ、お尻《しり》を触られ、太股《ふともも》を触られるたびに、モモコの嬌声《きようせい》があがる。
草薙が軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しを國子に送った。
「おい、おまえあんなのに育てられたのか?」
今日ずっと戦車の中でモモコと國子の側にいた草薙は、彼女たちの会話のほとんどが下ネタだということに驚いた。猥談《わいだん》文化の軍隊にいた草薙でさえわからないハイブローなものもたくさんあった。草薙は「銀って何だ?」と口を挿《はさ》んで失笑を買った。このままいけば國子が二代目モモコになるのは時間の問題だと思われた。きっと國子の貞操観念も破壊されているに違いない。
その眼差しを感じ取った國子は草薙を睨んだ。
「あたしに触ったらコブラツイストをかけるわよ」
「誰がガキの体に触るか。なんでおまえの体には背中がふたつあるんだ? ぎゃあああ!」
コブラツイストで締め上げられた草薙が悲鳴をあげた。
政府軍とゲリラの闘いは互角だった。擬態の衣を失った戦車は、逃げ足の遅い的に成り下がっていた。擬態戦車は、護岸のテトラポッドの形に似ている。3Dのコンピュータグラフィックスが三角形の形を組み合わせてあらゆる形を描くように、擬態戦車はテトラパックを柔軟に連結させることで、あらゆる形に化けることができる。その代わりに火力と機動力が犠牲になった。擬態していなければ地を這《は》う芋虫も同然だ。敵に気づいても砲身を回頭するのもままならない。たちまち擬態戦車は蜂の巣になった。
「戦力が揃うまでメガシャフトを死守せよ」
駅に設けられた司令部に入った國子は、新霞ヶ関攻略の布陣を固める。ピストン輸送で補充される物資は着々と揃いつつある。今度は政府軍がメガシャフト攻略戦を強いられる番だ。今やメガシャフトはゲリラの要塞《ようさい》になっている。防空システムも擬態も使えなくなった政府軍は苦戦を強いられた。
「國子様、地対空ミサイルの配備が終わりました」
「戦略爆撃機が来たら撃ち墜《お》として。アトラスの中に入れちゃダメよ。昨日、飛んで来て、新お茶の水を爆撃して行ったわ」
「了解しました。絶対に入れません」
メガシャフトはアトラスの背骨だ。もしここを爆撃すれば人工地盤は落ちる。絨毯《じゆうたん》爆撃で民間人を犠牲にする政府でも、アトラスを人質に取ればどうなるのかわかるだろう。
「先発で入った仲間たちを救出して。武彦から連絡は入った?」
「まだです。GPSでも位置を確認できません」
「探して。武彦に司令部を任せないと、あたしが表に出られない」
モモコが補給物資のコンテナからスパンコールの衣装を受け取った。慰問に使うステージ衣装だ。そして國子にも補充が届いた。
「國子、ブーメランが届いたわよ」
モモコが持ってきたブーメランは國子のトレードマークだ。新造したブーメランは三つのエッジを持つ風車型だった。いくらモモコでもこんなのを素手で受け止める勇気はない。それに三つ股《また》は携帯にかさばる。そんなモモコの心配をよそに國子は大喜びだ。
「これ、擬態材で造ったのよ」
國子が手甲のスイッチを入れるとブーメランの形が変わる。ブーメランが上半身のプロテクターに擬態した。これを着れば手元が塞《ふさ》がることはない。ブーメランは攻守併せ持つ武器になった。
「理研の古河さんのセンスね。胸のサイズが大きいわ」
プロテクターの胸は國子の理想のCカップに設定されていた。なんちゃってグラマーになった國子は得意気に胸を張った。
「変態の造った武器は危険よ。変な玩具《おもちや》に擬態するんじゃないでしょうね」
モモコと國子が面白半分で色々な形に擬態させて遊ぶ。それを見た草薙は仰天した。
「それは俺から盗んだ擬態装甲板だろう。陸軍の装備品だ。返せ!」
「じゃあ返すよ。それ」
國子がニシキヘビに擬態させてポイと投げる。草薙は悲鳴をあげて司令部から逃げて行った。その様が滑稽《こつけい》で司令部のみんなが腹を抱えて笑った。
ほどなく参謀の男がやって来た。凪子の補佐を務めたベテランの参謀である。
「國子様、メガシャフトに気になるものが……。ちょっとご足労ください」
連れられて行った先は、メガシャフトの麓《ふもと》だった。アトラスは風の抜けていく都市だ。縁になると予期せぬ突風が吹く。髪を嬲《なぶ》られて見た外の景色は足下まで空だった。そのメガシャフトの縁に小さな祠《ほこら》が設《しつら》えられてある。
「まあ、可愛い神社ね。アトラスの人たちは信心深いんだ」
思わず笑みを零《こぼ》した國子に、参謀は無言で震えていた。どうしたのかと訊《き》いたら、祠の中を見ろと言う。祠の奥には子ども用の靴が奉《まつ》られていた。
「靴を信仰しているなんてヘンな宗教ね」
ぷっと噴きだした國子に男が衝撃的な言葉を放った。
「それは娘の靴です。二十五年前にドゥオモで神隠しに遭いました」
「なんですって!」
初老の男は奉られていた小さな靴を抱き締めた。
「ここにいたのか、奈美恵。お父さんはずっと探していたんだよ……」
まさか、と國子はたじろぐ。この祠は誘拐《ゆうかい》された子どもを奉っている。何のためにと自問しておぞましいことを想像した。否定したくてモモコの顔を見るが、彼女も同じことを考えていた。
「人柱にされたのよ。可哀想に……」
「何てことするの。未開文明じゃあるまいし。ここは先端技術の街でしょう」
やってきた草薙に國子は食ってかかった。
「これがアトラスの正体よ。誘拐して、殺して、奉るなんて人のすることじゃない。この神社の子は、あたしの街にいた子よ。政府は犯罪を黙認しているわ。公社は何を考えているの!」
「俺は……。俺は……」
草薙はただ言葉を濁すばかりだ。ゲリラのやっていることを容認するわけではないけれど、國子たちが怒る理由はわかる。
「あたしは公社になんか行かない! 人殺しの巣窟《そうくつ》に用はないわ!」
「俺だって、俺だってそうさ。もう何も信じない。政府も、軍も、公社も、ゲリラも。おまえが政府を倒すなら好きにしろ。公社に行かないならそれでいい。俺はどこにもつかない。自分しか信じない」
モモコが青いわね、と笑った。
「みんなそうして生きてるわよ。知らなかったの坊や?」
草薙は顔を真っ赤にして震えていた。巨大なメガシャフトは風を切りながら無言で大地を支えていた。
國子がメガシャフトに若葉が開いているのを発見した。これはどこかで見たことがある。嫌な記憶が脳裏を過《よぎ》った。
「科学班を呼んで。この植物をすぐに調べて」
これがドゥオモを飲み込んでいる植物の芽なら、大変なことになる。それがどうしてこんな高空にまで飛んできたのだろう。調べているうちにだんだんわかってきた。メガシャフトに無数の窪《くぼ》みがついている。その状態から最近つけられたものだと判明した。強靱《きようじん》な炭素材を傷つけられるのは特殊な武器だけだ。例えば銃弾。それでピンときた。
「この前の地上からの射撃よ。あれは植物の種だったんだわ。根付いた奴が双葉になった。ドゥオモも同じよ。攻撃したのはこの植物の種よ」
調べを終えた科学班の男が息を切らしてやってきた。
「同じです。ドゥオモを飲み込んでいる植物です!」
司令部に戦慄《せんりつ》が走った。
「まさか、集中砲火する植物なんてあるわけないでしょ」
「モモコさんが言ったでしょ。ダイダロスだって。もっと早く気づけばよかった。すぐに弾を除去していればドゥオモは飲み込まれなかった」
國子が壁を思いっきり叩《たた》いた。ジンと腕に響く痛みは未熟者と笑っていた。そんな國子の肩をモモコがそっと抱く。
「あの時点でわかることなんて無理よ。誰も気づかなくて当たり前なのよ」
「普通の人はわからなくていい。だけどあたしは城主よ。みんなの安全を考えて当然の立場だったのに」
「誰も國子様を責めませんよ。それが私たちの運命だったんでしょう」
司令部も静まり返っていた。いつの間にかドゥオモの民は諦観《ていかん》を身につけるようになった。多くを望んでも決して手に入らない街で育った文化だ。雨が降ったらこういうものだと諦《あきら》めるのと同じように、ドゥオモが死んでいくのは運命だったと受容するのが一番楽だ。ただ唯一手放さなかったのが移民することだ。その希望も今日|潰《つい》えた。アトラスの運命もドゥオモと同じだ。この街に移住してささやかな幸せを掴《つか》みたかっただけなのに、運命の女神は彼らの手を撥《は》ね飛ばした。やがてアトラスの民も諦観する癖をつけるだろう。地上も空中も彷徨《さまよ》える民で溢《あふ》れ出す日は近い。
國子が不思議に思ったのは、まるで植物に意志があるかのように振る舞うことだ。なぜ街を狙うのかその理由がわからない。
「なぜドゥオモを狙ったの。なぜアトラスを狙ったの。擬態機だって墜とした。ヘラクレスも……」
これには何か絡繰りがあるはずだ。ヘラクレスはアトラス侵入前は攻撃を受けなかった。だから援軍だと思ったのだが、違う。そして、侵入後、ヘラクレスはアトラスを出るときには撃墜されてしまった。擬態機とヘラクレスの違いは何だったのだろう。國子は侵入する前のことを思い出した。
「エンジンを切っていた……」
「どういうこと? あたしには全然わかんないわよ」
「モモコさん、熱源よ。この植物は熱源に対して射撃するのよ。ドゥオモで一番被害が出たのは煙突だった。煤煙《ばいえん》を出していたもの。アトラスにも輻射《ふくしや》熱がある。理に適《かな》ってるわ。地上の冷えた場所は森だから、繁殖には向かない。熱があるのは森林化されてない場所よ。この植物はヒートアイランド現象に対して適応しているのよ」
アトラスに輻射熱がある限り、ダイダロスから狙われ続けることになる。アトラスは東京の中心に建造された街だ。即《すなわ》ち、四方を森に囲まれている。地上に繁殖の場がないと知った植物は、上空に活路を求めた。かつて人間がアトラスを建造して上空に逃げたように。輻射熱を放つアトラスは格好の的になるだろう。
「どうすればいいんだ?」
と呟《つぶや》いた草薙に國子が追い討ちをかけた。
「言ったでしょ。これが森林化のツケよ。政府はとんだおバカさんだわ。遺伝子を改良して生長速度をあげるから、ダイダロスみたいな植物が生まれたのよ。二酸化炭素を大量に吸収するってことは、繁殖力を強くするのよ。あんな集中砲火をするようなものを生み出すなんて何を考えているの」
「森林化は避けられなかった。どの国でもやってるさ」
「アトラスみたいなものを造ってまで森林化する国は日本だけよ。高い代償を払うことになったわね。文明が植物に飲み込まれるのよ。アトラスはやがて山になるでしょうね。こういうのが造りたかったの?」
「うるさい。俺が造った街じゃない。公社にいる偉そうな爺《じい》さまを殴ってくれ」
國子が言葉を飲んだ。そう、ここは凪子が造った街だ。何を考えてアトラス計画を立ち上げたのか、まったくわからない。今から地上に行って思いっきり罵倒《ばとう》してやりたかった。凪子は半世紀前に白人青年と何を企《たくら》んだのだろう。彼らの笑い声が聞こえてきそうだった。彼らは一瞬でも考えたのだろうか。この責任を後の世代が取るということを。
「バカにしている。こんな滅茶《めちや》苦茶な世界でどうやって生きていけばいいのよ」
「次はどこに住もうかしら。植物も政府もない南極が理想かしらね?」
モモコの精一杯の冗談にも誰も笑わなかった。
戦闘地域から連絡が入った。政府軍がガスを使用したらしい。見れば首都層に黄色いガスの雲が漂っているではないか。
「ガスを使うのは卑怯《ひきよう》よ。これが陸軍のやり方なのね」
小突かれた草薙は事態を飲み込めていなかった。
「陸軍にガスなんてない。そんな危ないものを撒《ま》いたら環境がおかしくなる」
「じゃあ、あのガスは何よ!」
窓から見る首都層に黄色いガスの雲がかかっていた。
「國子様、ガスマスクを着用してください。目と喉《のど》がやられます」
首都層はみるみるうちにガスに覆われてしまった。
同じ頃、国防省も慌てていた。
「ゲリラがガスを撒いた。歩兵部隊はガスマスクを着用せよ」
「なんて奴らだ。催涙ガスは大気汚染で禁止されているのに。条約違反だぞ」
核もガスも環境を破壊する兵器は国際法で禁止されている。どの国も国連から定期的な査察を受けて開発ができなくなっているはずだった。
「ガスは関東平野全域に拡大中です。政府と差し違えるつもりでしょうか。このままだとイカロスの目にも留まります」
「マズイ。首相からこの戦争で起こる炭素指数の上昇を〇・〇五未満に抑えろと厳命されている。このガスのペナルティはどれくらいになる?」
「現在計算中ですが、予測では一・二四は上がるはずです。かなり大規模な散布ですから」
「一・二四は論外だ。国防省の予算を減らされてしまう。幕僚部も解散だ」
「内閣だって解散ですよ。世論が支持しません」
こんなに大量のガスを撒くには相応の施設も貯蔵庫も必要だ。それに地上にいる仲間たちにも影響が出るはずだ。ゲリラが何を企んでいるのか将軍たちにはわからない。
「ゼウスがシステムダウンさえ起こさなければ、こんなことにはならなかったのに。戦争が終わったら公社を解体してやる」
軍も公社も政府も全体を知る者がいない。全てゼウスに任せておけば安泰だった。そのゼウスの初期化はまだ続いている。
政府軍もゲリラも視界の悪くなった街で、未知の不安に怯《おび》えている。ガスの雲が切れた先に、勝利があると信じて進むだけだ。歩兵隊の若者が愚痴を零《こぼ》した。予定なら今日は第三層でデートのはずだ。半日で終わると思われた戦争は長期化の兆しを見せていた。
「ゲリラたちが勝てないとわかって嫌がらせに出たんだ。あいつらデートの金もない貧乏だからな」
「歩兵は擬態で守るなんて言いながら、いざとなったらゼウスのシステムダウンときたもんだ。おい俺は何に見える?」
擬態材のスーツを着た兵士がおどけてみせた。本来なら街路樹に擬態しているはずだった。
「どう見ても擬態歩兵小隊の兵士って感じだな。見つかったら民間人がコスプレしてますって言えばいい」
「擬態するなんて騙《だま》しやがって。殺されたらどうするんだ」
「哨戒《しようかい》はここまでだ。そこから先の新お茶の水は立入禁止だ」
同じ頃、武彦たちもガスマスクを着用していた。弾を撃ち尽くした用済みのマシンガンをお守り代わりにして、擬態の街を彷徨う。昨日から擬態の化け物に追われて寝る暇さえなかった。國子がどうなったのか、メガシャフトが制圧できたのか、まだ武彦は知らない。方向感覚を失った人工地盤の大地は砂漠よりも広大に思えた。二時間前に集合場所だった新日比谷公園を通過した。武彦はまず擬態ではないかと疑った。しかし擬態は分子レベルで変化すると聞いた。肉眼で確認する方法はない。新日比谷公園に仲間がいないと知って武彦は溜《た》め息をついた。もう最悪の事態を考えるしかない。やがて生き残っているのは自分たちだけだと思うようになった。
武彦の足が止まった。今度の擬態は月らしい。目の前に巨大なクレーターが出現していた。もはや擬態を見ても何も驚かなくなった。
「月着陸船でもあったりしてな。わははははは」
見ればクレーターの周りは瓦礫《がれき》の山だ。どういう演出なのか知らないが、凝っている。核爆発が起きたと錯覚させるつもりなのだろうか。足下の瓦礫にニコライ堂のドームの上に立てられた十字架が転がっていた。武彦の母は東方正教会の信者だった。ニコライ堂は日本での総本山だ。ビザンチン様式の十字架を見ると武彦は母を思い出す。その母は政府軍に殺された。
「母さん、俺は今アトラスにいるんだ」
そっと触れた十字架は微《かす》かに熱を持っていた。
「武彦、十字架の下に生体反応があるぞ」
仲間の声に我に返る。急いで瓦礫を退かしてみると、女の脚が見えた。瓦礫はパズルのように複雑に重なって空洞を生み出していた。それを丁寧に取り除くたびに、埋もれていた人が露《あら》わになる。女は白衣を着ていた。
「民間人だ。おい、生きてるか」
ドームの中に埋もれていたのは女医のように思えた。ニコライ堂のドームが爆風から彼女を守ってくれたようだ。教会にあった聖母像がまるで我が子を守る母のように倒れていた。意識を失った白衣の女の口が微かに動く。
「美邦様……」
女の煤《すす》けた頬に一筋の涙が流れた。
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第十二章 森林汚染
新お茶の水を薙《な》ぎ倒してできたクレーターは、大気のある月面さながらの光景だ。ニコライ堂の瓦礫の下から発見された女は小夜子だった。爆風から一命を取り留めたようだが、まだ意識は完全に回復していなかった。
「おい、大丈夫か?」
武彦の声に微かに反応するが、小夜子は美邦の名前を繰り返すだけだ。小夜子は夢の中を彷徨《さまよ》っていた。夢の中に広がるのは、新迎賓館に群れる月下美人の庭だった。あの夜、幸福は指先にまで近づいていた。幸福なんて人生に二度も訪れることはないと諦観《ていかん》していた小夜子でも、思わず胸を高鳴らせた瞬間だった。用心深く生きていたはずなのに、甘い誘惑に体が反応してしまった。それはつい理性の手綱を緩めてしまうほど、甘美な瞬間だった。しかし幸福は思わせぶりな笑みを浮かべて小夜子の前から消えた。幸福の女神は浮かれた後の絶望ほど辛《つら》いものはないことを知っていて、人の背中を突き飛ばすのが常だ。幸福を手に入れた者は決まってこう言う。なぜ女神を襲わなかったのだ、と。女神の頬を叩《たた》き、顎《あご》を蹴《け》り上げ、鼻を叩き折り、女神の貞操を凌辱《りようじよく》した者だけが幸福を独占できる。人には残酷な小夜子だが、女神に対しては憎悪を剥《む》き出しにしない。幸福の女神は遜《へりくだ》る者に対して絶望を与えるのに、小夜子はそれでも跪《ひざまず》く。それが彼女が幸福に縁がない所以《ゆえん》であっても、小夜子はそうすることしかできない女だった。
月下美人の花が散った後の世界を美邦に見せてあげたい。この心地よい世界が夢だということは小夜子は百も承知だ。でも今は月下美人の花と一緒に夜風に揺れていたいと思う。目覚めれば修羅の世界が待っている。
――美邦様、私にもう一度、お力をください。
美邦をしっかりと抱き締め、夢の世界と別れを告げた。後は血腥《ちなまぐさ》い匂いのする方に向かって歩くだけだ。打撲した肩の痛み、脳震盪《のうしんとう》による吐き気、そして硝煙の匂いが鼻腔《びこう》をつく。耳にサイレンのような男の声が鳴っていた。
「気がついた。おい、大丈夫か?」
小夜子は武彦の腕に抱かれて目を覚ました。何かが自分の顔を覆っているような気がして、口元を触るとガスマスクのノズルに指が当たった。脚の止血をしていた武彦が状況を教えてくれた。
「政府軍が催涙ガスを使ったようだ。マスクの予備があってよかった。医者を呼びたいところだが、こっちは装備が足りなくてね」
「大丈夫よ。医者はここにいるわ……」
完全に意識を取り戻した小夜子は、自分の肉体の損傷を冷静に診断した。爆風でガラスの欠片《かけら》が大腿《だいたい》に突き刺さったようだ。武彦はおっかなびっくりで処置しようとしていたが手際が悪い。小夜子は白衣の内ポケットからメスを取り出した。
「動脈には刺さってない。ライターを貸して」
火でメスを殺菌した小夜子は躊躇《ためら》うことなく自分の脚にメスを突き刺した。どくどくと溢《あふ》れる血をものともせず、メスでガラスの欠片を抉《えぐ》り出す。側で見ている武彦が卒倒しそうな光景だった。血に染まったガラスの欠片を摘出すると、ポイと背後に投げ捨てた。傷口は酸欠の魚みたいにぱっくりと口を開いていた。武彦たちの救命セットでは縫合までできない。すると小夜子は自動小銃に目をつけた。
「弾を貸して。一発くらいあるんでしょ?」
薬莢《やつきよう》をばらして傷口に塗り込めた小夜子が、火をつける。肉の焦げた匂いが立ちのぼり小夜子が顔を顰《しか》めた。炎は大腿の神経を焼き切った。小夜子は全身をのけ反らせながらも傷口を押さえつけると、まるでハンダづけでもするかのように傷口を塞《ふさ》いでしまった。
「なんて女だ。火薬で縫合するなんて」
この女は野戦病院の医師なのだろうか。自分の体をもののように扱うことに慣れている。武彦はぞっとするよりも、彼女の手際の良さに感心した。
「包帯を取って。下手ね。こうやって巻くのよ」
包帯を巻き終えた小夜子が立ち上がった。これがさっきまで瀕死《ひんし》だった女とは思えないほど背中に力が漲《みなぎ》っているのを武彦は感じた。聖母像に抱かれた女は、鋭い眼光で辺りを見渡すとガスマスクを吹き飛ばすような大声で笑った。
「あははは。生きてる。まだ生きてるわ」
爆弾が投下されたとき、もはやこれまでと思ったのに神は何の悪戯《いたずら》心か知らないが、自分を生かした。恐らく自分がどこまで公社に迫れるのか見たいのだろう。そんなに神が退屈なら目が離せないくらいの見世物を見せてやろう。生かしたことを後悔させるほどに。助かった命を誰のために使うかは決めてある。小夜子は武彦たちを一瞥《いちべつ》すると状況を理解した。
「ゲリラの皆さんには不利なようね」
「政府軍の女か?」
武彦が自動小銃を構えた。だが小夜子はそんなことでは動じない。
「私は新迎賓館の女医博士よ。どうやら国防省は私を殺し損ねたみたいね」
「なぜ首都層にいる。民間人は退避勧告が出されているはずだ」
小夜子はしれっとした口調で答えた。
「公社のゼウスを壊しに来たのよ。途中で戦略爆撃機に襲われたけど。国防省はあなたたちより、私の方が恐いみたい。助けてくれたのは礼を言うわ。後は勝手に戦争でもなさい」
立ち去ろうとする小夜子に武彦が怒鳴った。
「待て。どこに行くつもりだ」
「公社に決まってるじゃない。私が死んだと思っているうちに攻めなきゃ」
「武器はあるのか?」
「そこらへんに転がってる死体から貰《もら》うわ。ゼウスを倒せば政府は転覆する。あなたたちはその混乱に乗じて革命政府でも何でも樹立すればいいでしょ。私には関係のないことだけど」
こんなドライな口調を武彦はどこかで聞いた覚えがあった。小夜子の見た目は感情など捨てたようだが、中身は火傷《やけど》しそうなほどの情熱を滾《たぎ》らせている。小夜子が振り返ったとき、懐かしい思い出が込み上げた。
――母さん。
武彦は母の姿を重ねていた。反政府運動に身を染めたとき武彦の母は感情を捨て、息子を歯車のように扱った。上官でもあった母を当時は心のない女だと思ったが、今は違う。母が感情を表に出さなかったお蔭《かげ》で自分は生き延びられたのだ。これが情愛を重んじるタイプだったら、仲間も自分もとっくに死んでいたと今ならわかる。母の最期を知ったのは戦闘の終わった三日後だった。救出部隊を出動させて仲間を失う可能性よりも、潔い死を選んだのだ。母は政府軍の戦車の砲撃を浴びて森の中に散った。
「待て。俺が援護しよう。ゼウスを潰《つぶ》せば政府軍も麻痺《まひ》する」
「足手まといになったらすぐに捨てるわよ」
小夜子は顎で来いとだけ示してクレーターを後にした。
ガスはますます濃度を増し、視界を黄色く染め上げた。拡散するかと思いきや、この一時間で濃度は十倍にも達した。ガスの霧は人工地盤の地平線すら飲み込んで、急速に拡大中だ。
ガスの拡散を待って攻勢をかけようとしていた國子たちに、嫌な予感が込み上げていた。メガシャフトを制圧したばかりの國子たちもガスの前で為《な》す術《すべ》もないのだ。もし神経ガスなら外で闘うのは危険すぎた。司令部にした駅舎の気密扉の向こうは未知の世界だ。
「本当に政府軍がガスを撒《ま》いてるの? 規模が大きすぎる」
「ガスは現在、関東平野全域を覆い尽くしております。これだけのガスをどこに蓄えていたのでしょうか?」
「地上のドゥオモにすぐに地下シェルターに退避するように連絡して。ガスの成分は何なの?」
「現在科学班が分析中です。ですが我々は化学兵器の扱いは慣れておりません。なにせ旧時代の兵器なもので」
核と同じく環境を汚染する化学兵器は國子たちの生まれるずっと前に根絶したはずだった。今や戦争も国際法に則《のつと》って行わなければ、厳しいペナルティが課せられる。国際社会は戦争を人間活動のひとつとして受け入れる代わりに、大量破壊兵器の所有を完全に放棄させた。戦争法は相手の降伏を待たずして勝敗が決まる。戦力の三分の一か、国民の八パーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる。この戦争法の導入によって、奇しくも戦争は長期化することがなくなった。それはゲリラ戦にも適用される。千人の兵隊のうち三百三十四人が死亡すると、國子たちは戦争に負けたとみなされる。これを無視して戦闘を継続すると、国連が黙ってはいない。革命政府を樹立しても無効とされ、正当性を剥奪《はくだつ》されてしまう。國子は出撃するとき、国連のサイトに戦争法に則って闘うことにサインした。相手国には非公開だが、国連のコンピュータはこの戦争をモニターしている。戦争は監視され制御を受けることで合法的な活動となった。ただし勝敗は国連が裁定する。國子たちが最後のひとりまで闘って勝利したとしても無効だ。それがわかっているから、迂闊《うかつ》にガスの中に兵を送り出せないのだ。
「目と喉《のど》がやられる他に何か影響があるの?」
「それも鋭意調査中です。しばらくお待ちください」
親指の爪を噛《か》んだ國子の手をモモコが行儀が悪いと払った。
「その癖、おやめなさい。総統なのに品がないわよ」
「モモコさん、変だよ。こんなやり方をしたら政府は国際社会から孤立するだけなのに」
「彼らが選んだ道でしょ。あたしたちには味方のガスじゃない。早くイカロスに引っかかればいいのよ」
「本当に政府が撒いてるのかしら? どうやって国連の査察を免れてたんだろう。あたしたちだって定期的に査察を受けていたのに」
「どっかでせっせと作ってたんでしょ」
「それにしてはおかしい。あたしたちを攪乱《かくらん》させるためなら、首都層にだけ撒けばいいじゃない。なぜ地上にまで拡散させるんだろう」
親指の爪を噛めない國子はもどかしく唇の前で指を動かした。しばらくして、イカロスの最新のデータが送られてきた。その数値を見た瞬間、誰もが目を疑った。日本に課せられた炭素指数は未曾有《みぞう》の値だった。
「炭素指数二・九四!」
「おい、イカロスが壊れているんじゃないのか?」
さすがの國子も声を荒げた。
「どういう値なの! ほぼ三なんて重炭素債務国以上じゃないの!」
「國子様、イカロスのデータは間違っておりません。ガスのペナルティが予想以上に高く課せられたんです」
「バカな。化学兵器の最大のペナルティは一・二四のはず。VXガスを撒いてもこんな値は出ないわ。国連のサイトを開いて。どういう算定をしたのか内訳を知りたいわ」
「ダメです。戦争法にサインした当事者は相手国のデータを閲覧できないことになっているのはご存じでしょう。終戦まで国連へのアクセスは禁止されております」
「前線にいる部隊を撤退させて。ガスの正体がわかるまで交戦しないように」
親指の爪を噛もうとしたら、口の中にペンを突っ込まれた。
桁《けた》外れの炭素指数を前に驚愕《きようがく》したのは国防省も同じだった。彼らもまたイカロスが壊れたのだろうと思って一笑に付した。しかしこれが正気の数値であると知るや、幕僚部は上を下への大騒ぎになった。
「ゲリラが撒いたガスになぜ我々がペナルティを払わねばならんのだ。国連本部を呼び出せ。常任理事国の拒否権を行使する」
「戦争法に則っている間は拒否権は使えません。戦争で生じた炭素は、負けた方が負担することになっています」
「戦争法なんか無視しろ。ゲリラが払える金額じゃないんだぞ。あいつらは貧乏だ」
初めて経験する未曾有の炭素指数に政府の足並みも乱れていた。三倍の炭素税を課したら、日本の工業製品は国際競争力を失ってしまうどころか、大インフレで国民生活は破綻《はたん》する。炭素指数を前に勝利も敗北もない。事態を国防省任せにしていた首相官邸もついに動き出した。
「首相官邸から映像が来ます。梅宮綾子《うめみやあやこ》・内閣総理大臣です」
「あの化粧ババア。国防省に介入するつもりか」
スクリーンに現れた首相は、日本初の女性総理大臣だ。炭素税ゼロを公約に富裕層や企業から圧倒的な支持を受けて選ばれた。炭素税のためなら家族も売ると恐れられている辣腕《らつわん》首相である。回線が繋《つな》がっているとも知らない梅宮総理は、お気に入りのヘアメイクのチェックを受けて、差し出された真珠のネックレスを「テリが悪いわ」とケチをつけた。そしてカメラの前で両手を組むと、いつもの穏やかな口調で国防省を叱った。
『国防省の皆さん。炭素指数を上げてはいけないって言ったでしょう。日本経済がおかしくなったらどうなさるおつもりかしら?』
首相は上品で鷹揚《おうよう》な口調が売りだが、政策は過激である。この上品な口ぶりに国民はうっかり騙《だま》されて、彼女の好きなようにさせていた。いっそ激しく罵《ののし》られた方が喧嘩《けんか》もできるのに、梅宮総理相手だと国防省の将軍たちも毒気を抜かれてしまう。
「総理、大変申し訳ございません。現在、ガスの出所と成分を調査中です」
『ガスの出所はもういいです。休戦協定を結びます。全軍撤退してください』
「バカな。ゲリラと和平交渉をするなんて前代未聞です。総理、考え直してください」
梅宮首相はこれ以上、炭素指数を上げないためには休戦が一番であると判断した。ガスが明日も使われたら日本経済は沈没である。ゲリラのやり方に少しも賛同しない梅宮だが、炭素指数のためならいくらでも譲歩する。休戦なら賠償が安く済むと戦争法で認められているからだ。
『坊やたち、おいたがすぎるわよ。戦争ごっこで認めた炭素指数の変動は〇・〇五未満だったでしょう。これからの指揮は危機管理省と首相官邸が執ります。国防省の幹部は全員更迭いたします』
「そんな。総理、戦時下で勝手なことをなさらないでください」
これだから女は、と誰かが舌打ちした。その侮蔑《ぶべつ》を聞き逃すほど梅宮首相は甘くない。義理や人情など所詮《しよせん》は男社会のものだ。梅宮は自分の思った通りになるまで粘る。鉄の女は男の反感を買うが、梅宮は絹の女である。女の論理に男を従わせるのが彼女のやり方だ。
『全軍総司令官の首相命令です。首都防衛部隊を撤退させてください』
突如、国防省のビルに武装した機動隊が大挙して押し寄せてきた。梅宮首相らしいやり方だ。国防省と交渉するつもりなど初めからない。炭素指数の高騰と同時に逮捕状を出し、機動隊を国防省に向かわせた。常に先手を打ち続ける梅宮首相に国防省は振り回されていた。
『機動隊の皆さん。幕僚部の幹部を逮捕してください。全員国家反逆罪です』
「そんな総理、あんまりです……」
無情にも将軍たちに手錠がかけられる。すっかり精気を奪われた将軍たちは小さくなって連行されていった。
閑散とした司令部の中で梅宮首相の笑みが溢《あふ》れていた。そして真珠のネックレスを外すと、またヘアメイクを呼びつけ、今度は白のスーツに着替えた。
『ゲリラの方ともお話し合いをしなくちゃね』
休戦の話は國子たちの元にもすぐに届いた。電車の座席にお尻《しり》で割り込むおばさんのように、回線に侵入してきた梅宮に國子は度肝を抜かれた。梅宮首相は開口一番『ゲリラの皆さーん』とにっこり微笑んで現れた。
「國子様、梅宮総理です。用心してください」
「わかってる。今までの総理大臣の中でも一番|手強《てごわ》い奴だもの」
こちらの回線を開く前にモモコが國子の髪を整えてやる。モモコは國子が見劣りすることのないように礼服を着せ、軽く白粉《おしろい》を塗ってやった。兵士たちが回線を開くぞ、とモモコを急《せ》かす。
「もうちょっと待って。女同士ですもの。國子が安っぽいブスだと思われちゃ母親として許せないわ。こっちは若さで勝負よ。そうだ國子、このイヤリングをなさい」
耳につけてやったのは凪子からくすねた勾玉《まがたま》のイヤリングだ。ずしっと重いダイヤモンドのイヤリングは國子に威厳を与えてくれた。そのイヤリングを身につけたとき、國子は不思議な気分を覚えた。まるで百年前から政治をしていたような不貞不貞《ふてぶて》しい気分だ。これから始まる休戦協定でいかに有利に話を進めるかが勝負である。國子は大きく深呼吸して、唇を噛んだ。
「回線を開いて。休戦協定に応じる」
スクリーン越しに向かい合った國子と梅宮は、まずお互いの格好を確認して相手に隙がないか調べた。梅宮首相が手強いのはゲリラや子どもだからと言って、態度を変えないところだ。男の首相なら油断させる術《すべ》はいくらでも知っている國子だが、梅宮首相だと勝手がわからない。梅宮首相は権謀術数渦巻く新永田町の男社会でトップにまで上り詰めた女だ。彼女は憎き政府の顔だが決してバカではない。梅宮首相が次々と繰り出す予想外の戦術に振り回されないためには、こちらが梅宮首相よりも先に手を打ち続ける必要がある。
梅宮首相は敵の國子に対してとは思えない表情でにっこりと笑った。
『まあ、若いお嬢さんがゲリラの総統なのね。私も学生のときにはNGOで活動しておりましたのよ。あら、そのスカーフは聖ルーク女子校のものじゃありませんか。私もそこを出ましたのよ。後輩の活躍を誇りに思います』
モモコは、カメラの後ろで「あいつ頭おかしいんじゃない?」と指で頭を叩《たた》いていた。梅宮首相は外交の舞台でも自分のペースで話を進めてしまう。それが国益を増進しているのは、おばさんのやり方に各国首脳が慣れていないためだ。
國子はスカーフを指で摘むと、ニヤリと笑った。
「卒業はしてない。テロでパクられたせいで退学になったのよ。あたしの最終学歴は関東女子少年院なの。先輩にはヤクザの姐《あね》と売春婦がゴロゴロいるわ」
『まあ凄《すご》いわ。ワイルドな人生ね。なんだか興奮しちゃうわ』
梅宮首相はころころと笑った。梅宮もゲリラの総統が若い女なので、自分のペースに持ち込めずにいた。これが男だったら「悪いことはおよしなさい」と母親のように叱れたのに、國子が露悪趣味に徹するから間合いが取れない。梅宮首相はハイヒールの踵《かかと》を絨毯《じゆうたん》に押しつけた。
『さっそくですが、休戦協定を結びましょう。こちらは軍を撤退させました。停戦ラインは第五層に絞りますが構いませんか?』
「アトラス全層を武装解除しないと休戦とは言えない。こちらは既に国際司法裁判所に仲裁人を申し立てた」
『まあ国連を使うなんて私たちの信頼関係に響きます。せっかく女同士、腹を割ってお話ししようと思ってたのに、残念です』
国連を出せば梅宮首相が嫌がるのは知っていた。炭素税のペナルティが国連主導で行われるのを避けたいのが本音だからだ。しかし國子の味方になるものといえば国際社会の後ろ楯《だて》しかない。こういうときのために戦争法にサインしておいたのだ。
「国際司法裁判所は間もなく仲裁人を選定して、こちらに報告することになっている。戦争法の休戦の条項に則《のつと》り話し合いをしたい。私たちの行為は合法である」
『まあ、気の強いお嬢さんだこと。聖ルーク女子校の良妻賢母の教育は地に堕《お》ちました。あなたたちのテロ行為を遺憾に思います』
「こちらも政府の難民政策に断固抗議する。森林化の弊害はアトラスにまで及んでいる。今すぐ政策を転換しないと東京に人は住めなくなる。休戦の条項に森林化を二年以内に三十パーセント縮小することを盛り込んでもらう」
『できません。森林化は日本の炭素を削減する唯一の手段です。三十パーセントも削減したら、炭素指数の高騰を招いてしまいます』
「そうやって経済主導で物事を考えているから、地上の変化に気がつかなくなるのよ。アトラスが山になってからでは遅いのよ」
國子がダイダロスの種をカメラの前に突きつけた。
「この種が地上からアトラスに撃ちつけられた。やがて芽を出し猛烈な勢いで生長する。放置したら首都層は一年もしないうちに森になってしまうわ」
『そんな植物の報告は受けておりません。脅すならもっと上手なやり方にするべきです』
國子はカッとなって種をカメラに叩きつけた。
「そうやって人の忠告を無視しているから、こんな世界になったのよ。あたしたちが何十年も前から警鐘を鳴らしていたでしょう。あんた本当にNGOにいたの? 試してみなさい。アトラスの熱排気システムを最大にしてみればいい。地上から種が飛んでくる」
梅宮首相もこの前の地上からの射撃のことが気になっていた。ゲリラの援護射撃にしてはあまりにも規模が大きすぎた。かと言って政府軍が行ったという報告もない。第三者が介入するにしては目的もわからなかった。梅宮首相はカメラの奥にいた秘書官に熱排気システムを開放しろと目配せした。
『あなたの話を真に受けるわけにはいきません。ですが休戦協定には地上の森の環境アセスメントの実施を盛り込みましょう。代わりにそちらはアトラスから撤退してください』
「こちらはメガシャフトを手放さない。休戦時に確保した領地に関しては占領した側のものになるはず。補給を受けたいなら私たちのサービスで行う。ただし食料と水に限る」
『論外です! 提訴します!』
「だから国際司法裁判所に仲裁を申し出て良かったでしょ? 手数料代わりにこちらの意見から先に述べさせてもらうのは当然の権利よね」
『あなたたちのテロ行為に政府は決して屈しません!』
ついに梅宮首相が感情を表に出した。その声を聞いて國子は自分のペースで話が進められると確信した。司令部にいた男が国際司法裁判所からの連絡を受けた。
「國子様、仲裁人が決まりました。スクリーンに映します」
現れたのは白髪の冷たい目をした白人男性だった。あの背中を射抜く眼差《まなざ》しは世界広しといえどもひとりしかいない。仲裁人を見た梅宮首相が声を裏返した。
『セルゲイ・タルシャン!』
タルシャンは国際司法裁判所の仲裁人の選定を受けてスクリーンに現れた。国連に対しても強い影響力を持つタルシャンが、圧力をかけたのだ。
梅宮首相は肩を震わせていた。
『よくもゼウスを初期化してくれたわね。お蔭《かげ》でゲリラと休戦協定を結ぶ羽目になってしまったじゃないの!』
梅宮首相が公社からゼウスのシステムダウンの報告を受けたのは、初期化から二時間後のことだった。先に受けていれば政府データのバックアップも取れたはずなのに、タルシャンの独断で日本政府のデータの全てが失われてしまった。戦争が終われば国会で野党から突き上げられるのは明白だ。内閣解散総選挙で彼女の所属する緑の党は議席を大幅に失ってしまうだろう。梅宮は顔を真っ赤にしてタルシャンを睨《にら》んだ。
『あなたにはサイバーテロの主犯で逮捕状を出してあります。こんな仲裁人はいりません!』
しかしタルシャンはいつものように冷静だった。
『ウメミヤ総理、ゼウスの初期化はやむを得ないことだった。もう一度、危機管理法を読んでみるがいい。ゼウスのシステムアップはあらゆる権限を超越し犠牲を伴い可及的速やかに行われるとされている。総理への報告は二次的で構わない。もしバックアップを取るために二時間放置していれば、それはゼウスへの背信行為になる』
『まあ、なんという男でしょう。それでも道義上の問題があります。戦時下でゼウスを初期化したらどうなるかわかっていたでしょう?』
『私はこの国の内戦には興味がない。国民を虐《いじ》めた教訓にされてはどうか?』
梅宮首相といえども公社のアトラス計画には口出しできない。タルシャンが公社に資金を提供しているから、政府支出が最小限で済んでいる。国益を図るのが総理大臣だが、この国には国益を損ねてでも推し進めなければならない計画がある。それがアトラス計画だ。タルシャンを公社の経営に招き入れたのは、梅宮首相がまだ子どもだった頃のことだ。歴代首相はタルシャンの気分で任命される。アトラス計画をただひたすら推し進めることを受け入れれば、タルシャンは内政には決して干渉しない。たとえ地上で虐殺が行われても、炭素税削減のために森林化を進めても、アトラス建造の進捗《しんちよく》に影響がなければ何も口を挿《はさ》まない。ただしそれは裏返せばアトラスのシステム維持のためなら、政府が転覆しても構わないということでもある。
梅宮首相はそれでも納得がいかなかった。
『失われたのは日本の過去五十年の歴史ですよ! あなたがしたことは国家を解体したのと同じです!』
『元々、日本は大した政治のある国ではない。ウメミヤ総理は炭素指数だけが気になる政治家だった。今さら高邁《こうまい》な理念があったとは言わせない。退陣した後はカトウ外務大臣が首相になるだろう。二期五年の間ご苦労だった。その前に最後の仕事をされたらどうだ。休戦協定は戦争法第九条に則って行う』
二人の会話をずっと聞いていた國子は何が起きているのかわからなかった。梅宮首相とこの白人の男は面識があるようだ。タルシャンが淡々と休戦の条項を読み上げたところに、國子が割って入った。
「ちょっと待って。仲裁人は完全中立な第三者であるべきよ。政府筋の人間を選ぶのはフェアじゃない!」
タルシャンは読み上げるのをやめ、ちらっと目を上げて國子の顔を見た。
『ゲリラの総統よ、私は国際司法裁判所の正規の手続きを経て仲裁人に命じられた。君がサインした宣戦布告書には全ての判断を国連に任せるとある。仲裁人に意見することは許されない。そもそも国際司法裁判所に仲裁を申し立てたのは君からだ』
「でも梅宮総理を知っているのはおかしい。政府寄りの判断をするに決まっている」
唖然《あぜん》としていたのは草薙だった。公社の偉そうな爺《じい》さんと思っていたら、今度は国際司法裁判所の仲裁人となって現れた。全ては彼の手の内で物事が進められているのに恐怖を覚えながらも、草薙はこれは國子に有利だと判断した。公社は國子の身柄を保護したがっている。悪いようにはしないだろう。草薙は國子にそっと耳打ちした。
「おい、仲裁人は彼でいいぞ」
「あんたが決めないでよ」
「あいつがおまえを公社に連れてこいと命じた爺様だ。第五層の公社にいる」
國子は一瞬|眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。そういえば最初に彼を見たとき、どこかで見た覚えがあると思った。老いた白人に知り合いはいないのに、どうしてなのかと妙な気分だったが、草薙の言葉で合点がいった。彼は凪子の若い頃の映像の中にいた白人青年だ。老いても目の強さは少しも衰えていない。むしろ映像の中にいた頃よりもずっと精気が漲《みなぎ》っている印象を受けた。五十年以上経っても衰えない眼力の持ち主なんて、まともな人生を歩んできた男ではないだろう。彼が凪子の興したアトラス公社に資金面で助力したセルゲイ・タルシャンというのか。凪子の連れなら味方だが、その凪子が裏切り者だと知った今、彼を信用するわけにはいかない。この男がなぜ公社に自分を招いたのかは謎だが、彼の手の内で泳がされるのは嫌だった。
「公社の男なら敵に決まってるじゃない」
草薙の腹に肘鉄《ひじてつ》を食らわすと國子は異議を申し立てた。
「異議あり。仲裁人を替えるよう申請する」
梅宮首相も同時に異議を申し立てた。
『こんな男、こちらからも願い下げです』
『双方の異議を却下する。仲裁に応じない場合、日本の炭素指数を三・五以上にあげることが仲裁人の権限で認められている』
三・五以上と聞いて梅宮総理はヒステリックな声をあげた。
『だったら日本は国連から脱退します!』
その言葉に國子の体が凍りついた。
「国連から脱退するなんてやめて! 日本の百年の歴史が水の泡になるわ!」
國子はかつて日本が国際連盟から脱退して戦争の道を歩んだ過去を知っていた。そして敗戦し再び国際社会に戻ったときには戦勝国のいいなりになっていた。脱退するのは一秒だが信頼を回復するのには最低でも六十年はかかる。悲願の常任理事国になるために日本は世界中に金をばらまき、外国を侵略しない国であることをアピールし続けた。
タルシャンはスクリーン越しに梅宮首相と國子を眺め、どちらがリーダーとして資質があるのか見比べていた。國子がタルシャンに詰め寄る。
「日本が国連から脱退するくらいなら、こちらが譲歩する。メガシャフトの半分を政府に返す」
興奮した梅宮首相は國子の譲歩を撥《は》ねつけた。
『メガシャフトなんていりません。国連から脱退すれば戦争法なんて関係なしにゲリラを叩《たた》けます。お嬢さん覚悟なさい。すぐに小牧から戦略爆撃機を向かわせます。お灸《きゆう》を据えてあげないと物わかりが悪いようですからね』
「仲裁人、お願いよ。国連から脱退させないで。この国はもう一度作り直す必要があるの。そのためには国際社会と協調しなければならない。炭素経済はもうすぐ終わる。炭素経済をおかしくした日本は次の百年を世界に示す責任がある。国連に残留するならゲリラ活動を当面自粛してもいい。休戦の草案にそう盛り込んで」
國子はタルシャンの映るスクリーンに懇願した。この男を信用しているわけではないが、政府が暴走したら内戦どころではなくなる。今、頼りになるのは仲裁人のタルシャンだけだった。
タルシャンは國子の訴えを聞き流したような素振りを見せる。タルシャンは無関係な第三者のように双方の意見をメモした。やがて休戦の条件が確定した。
それは驚くべき内容だった。
『日本政府は第五層の全てをゲリラに明け渡すこと。日本政府の首都機能は第七層に移す。非武装地帯を第六層とし、次回の交渉を新迎賓館で行う。以上だ』
それを聞いた梅宮は卒倒しそうだった。今いる首都層をゲリラに明け渡すなんて敗戦も同じではないか。到底受け入れられる条件ではない。
『控訴します。仲裁人は法正義の精神を無視しています!』
『決定は有効だ。日本政府は二十四時間以内に首都層を明け渡せ。休戦協定は合意に達した。以後、双方の主張は代理人を通じ国際司法裁判所の場で争うがいい』
この裁定にきょとんとしたのは國子たちだ。難攻不落の要塞《ようさい》がたったひとりの仲裁人によって手に入ったのだ。一番先に内容を理解したのは、ゲリラでも政府でもない草薙だった。
「おめでとう。君の勝利だ」
と肩をポンと叩かれて國子も内容を理解した。続いてモモコの嬌声《きようせい》が上がり、それでこちらに圧倒的に有利な決定が下りたとみんなが理解した。
「國子様、やりましたね。私たちの主張が通りました」
「第五層が手に入った。いやっほう! 新霞ヶ関に家族と住めるぞ」
國子はつられて笑うたびに、これが現実であると理解できた。休戦したが勝利も同然の内容だ。誰かが國子を持ち上げて胴上げを始めた。声を弾ませるとちょっと涙が零《こぼ》れた。この瞬間のために犠牲になった仲間と歴史たちが涙になって祝福してくれたような気がした。胴上げが終わってスクリーンを見ると、仲裁人の影は消えていた。あの男に礼を言うのを忘れてしまったことが悔やまれる。この裁定が公平であったとは國子は思わない。なぜ彼がゲリラの自分の主張を一方的に認めたのか、そのことが心に引っかかりもする。しかし今はこの勝利を素直に喜びたかった。今喜んでおかないと目の前から幸福が消えていきそうな恐さが少しだけ心の中にあったからだ。
國子はマイクを握ると司令部から命じた。
「全軍戦闘中止。こちらは休戦に応じた。繰り返す。全軍戦闘中止。直ちに帰還せよ!」
そして地上にいる仲間たちへの祝電を急いだ。
「ドゥオモに伝令。作戦成功。第五層を制圧せり!」
歓喜に沸いた司令部からドゥオモに通信が打たれる。反応は聞かなくてもわかっている。ドゥオモは今頃紙吹雪を舞わせて戦勝気分に染まっているに違いない。空と地上に離れていてもドゥオモの女たちの歓喜の声が聞こえてきそうだ。広場は人で溢《あふ》れかえり、思い思いに踊っているだろう。そして凪子は、その光景をそっと眺めているに違いない。凪子はこの勝利を自分の予想通りだとほくそ笑んでいるだろう。しかし凪子の出方によっては、血を流さなくても人工地盤は手に入ったかもしれないのだ。國子には凪子の真意が計りかねた。自分をアトラスに向かわせたのは、もっと別の目的があるような気がしてならなかった。
勝利はしたものの、依然としてガスは首都層を覆って見晴らしが悪かった。このガスがきれいに晴れないとドゥオモの民は移住できない。他の人が浮かれているのは構わないが、國子はこのガスの正体を究明しなければならなかった。
「根本的な問題がまだ解決してないわ」
突如、司令部に雷の直撃のような爆発音が轟《とどろ》いた。國子たちは後頭部を鈍器で殴られたように、床に叩きつけられた。軽い脳震盪《のうしんとう》に眩暈《めまい》を覚えながらも、状況を把握しようとする。爆発音は間断なく連なり、一本の太い柱になって司令部を襲った。
「何が起きたの?」
衝撃波が背中を押しつけて内臓を押し潰《つぶ》そうとする。胃が平べったくなって胃液を体から押し出す。肺がぺしゃんこになって息ができない。上の層が落ちてきたのかと思うような圧迫感だった。
「國子様、ダイダロスの攻撃が始まりました!」
地上の森からまた種のマグマが噴き上げてくる。ダイダロスはアトラスのメガシャフトを攻撃している。強靱《きようじん》な炭素材でも音を上げるほどの攻撃だ。実に一平方センチメートルあたり三十万トンの圧力が加わっていた。炭素材のほぼ限界の圧力だ。ダイダロスの攻撃はこの前よりも遥《はる》かに勢いを増していた。東京全土に繁殖したダイダロスが繁殖期を迎えたのだろうか。
「現地に入れたスタッフが植物の射撃であると目視で確認しました。池袋、新宿、渋谷、品川、六本木、上野、お台場、錦糸町、全ての森が発砲しています」
種は東京中の全ての森から打ちつけられた。地上は集中豪雨の射撃だったが、人工地盤は種の射撃に怯《おび》えなければならない。
「國子様、政府がアトラスの熱排気を最大限に上げた模様です。嫌がらせですよ」
「違う。あたしの言葉が本当かどうか試したのよ。第七層以上まで種は届いている。射撃が終わったら全員で種の除去をしなきゃ、ここはドゥオモと同じ運命になる」
「國子様、種は高射砲と同じ上空五千メートルの高さにまで達している模様です。アトラスには逃げ場がありません」
地上からの射撃はマグマの噴煙のように間断なく続いた。雲海から突き抜けてくるオレンジ色の銃弾は、容赦なくアトラスを狙っていた。まるで地上が火薬の海のように思える。政府との闘いは話し合いで休戦できても、森は仲裁人の言うことを聞いてくれない。ただ本能のままに繁殖地を目指し、空へ空へと駆け上ってくる原始の命だ。空に撒《ま》かれた炎の種は優に百億粒を超えていた。
モモコは國子の浮かない顔に気づいた。
「せっかく政府からぶん取った人工地盤なのに、また森に追いだされるのね」
「こんな場所にドゥオモのみんなを移民させられない」
ダイダロスの炎は容赦なくアトラスを狙っていた。被害は人工地盤にまで及んでいた。天井の照明が破壊され、次々と光を失っていく。首都層は薄暗い影に覆われてしまった。
「國子様、このままだと司令部が保《も》ちません」
炭素材の薄い駅舎が蜂の巣になっていた。瓦礫《がれき》が雨のように降り注ぎ、埃《ほこり》が濁流となって視界を塞《ふさ》いだ。制圧したメガシャフトもダイダロスの攻撃の前では手放すしかない。
「総員退避。人工地盤の中央に逃げて!」
溜《た》め息をついた國子の肩をモモコはそっと抱いた。
「今度の敵はダイダロスね……」
「あんなのどうやって潰せばいいのよ……」
ふと振り返ると司令部から草薙の姿が消えていた。
第七層が臨時政府になるという知らせが届いたのは、休戦協定からすぐだった。仲裁人の指示に従って首都の移転が速やかに行われる。美邦が避難していた新飯倉公館は臨時の首相官邸になると決定された。その引っ越しでまた女官や執事が荷物を抱えてバスに乗り込む。
「なんという世の中だ。まさか首都層をゲリラに明け渡すなんて」
「美邦様がこのことを知ったら悲しまれるでしょう。新しい館はここよりもずっと狭い新帝国ホテルのインペリアル・スイートだそうじゃないですか。民間人の利用するホテルに身をおかねばならないとは美邦様もおいたわしや……」
女官たちの嘆きも空しく政府の人間に背中をつつかれ新飯倉公館を後にする。第五層に降りた美邦は公社が身柄を保護しているという。誰もが意気消沈して館を離れて行く中で、ひとり上機嫌の女がいた。新女医博士の涼子だ。
「私が美邦様をお迎えにあがりますわ」
涼子が跨《またが》ったのは一四四九CCの排気量を誇るハーレーダビッドソン・ウルトラクラシックだ。重厚なトルク音はバイクのものというよりも、猛獣の唸《うな》り声と言った方が相応《ふさわ》しい。真紅に染め上げられた鋼鉄のボディは、北米の猛獣グリズリーを彷彿《ほうふつ》とさせた。涼子は軽くハーレーに跨ると、ウイリー走行で昂《たかぶ》るハーレーを抑える。力を持て余したモンスターエンジンが早く血で喉《のど》を潤わせてほしいと涼子の命令を待っている。
トルク音を恐れて近づけない女官たちが、涼子を遠巻きに諫《いさ》めた。
「涼子、美邦様はお体が悪いのです。医者であるあなたがそんなものでお迎えするなどとは不謹慎です」
涼子はハーレーの前輪で女官長の脚を払った。軽く払っただけなのに車輪の重みで女官長は三メートルも吹き飛ばされてしまった。
「美邦の病状は知ってるわ。彼女は膠原病《こうげんびよう》よ。紫外線に対して免疫がないから、日中は外に出られないんでしょ。だからこのUVカットの袋に詰めて連れ帰りますわ。うふふふふ」
「美邦様を荷物扱いするとは無礼な。おまえの主人であるぞ」
涼子は面倒くさかったので、そこらにいた女官たちをまとめてハーレーで押し潰した。女官たちの悲鳴とともに脚や背骨が折れる嫌な音がした。それでもハーレーは血を求めて唸っている。
「私がここに来たのは、美邦に傅《かしず》くためではないわ。もっと面白いことをしに来たのよ」
「何を言う。アトラスランクに釣られてやってきた下層階級出のくせに」
涼子はレザースーツの胸元をはだけた。豊満な胸の谷間にはアトラスの永住許可証が挟まっていた。それを女官たちに見せつけると涼子は得意気に笑った。
「私のアトラスランクは生まれたときからダブルAなのよ。お爺《じい》さまが六年ほど内閣総理大臣をしていたのよ。うふふふふ」
執事が口をあんぐりと開けていた。
「なんと鳴瀬|慶一郎《けいいちろう》の孫であるか! なぜこんなところに」
鳴瀬慶一郎といえばアトラス建造のために国家予算の七割を注ぎ込んだ狂信的な政治家だ。そのせいで財政は傾き、国民の生活水準は先進国中で最悪と言われる事態を招いた。今でも彼は悪魔の総理大臣と呼ばれ語り継がれている。その孫が涼子であるという。アトラスランクダブルAは公社が与えた鳴瀬家への特権だった。
「私は退屈だから遊びに来たのよ。美邦なんて病気持ちのガキには興味はないけど、会いたい人が新迎賓館にいるのよ。おまえたちを生かすも殺すもダブルAならできるわ。ハーレーのマットレスにしてあげる。うふふふふ」
アクセルを噴かして牙《きば》を剥《む》いたハーレーが女官たちの列に突進する。たちまち阿鼻《あび》叫喚の地獄絵さながらの光景が車寄せに展開された。
第五層は首都移転のラッシュで混雑していた。国防省の幹部たちは梅宮首相の一声で逮捕され、梅宮首相は国際司法裁判所の仲裁人に負けて首都を明け渡した。短時間のうちに何度も事態が急変すると何が真実なのかよくわからなくなってくる。茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んでいた政府軍の戦車部隊にも撤退命令が下りていた。
「佐々木軍曹、首都はゲリラに明け渡すと言ったはずだ。すぐに武装解除して第七層に移動だ。二十四時間は戦闘禁止だ」
「中尉殿、それは誰の命令でありますか? 私は二時間前に将軍から新霞ヶ関を死守せよと厳命されました」
「その将軍は逮捕された。命令は無効だ」
「新霞ヶ関を明け渡すということは、首都をゲリラにあげるということではないですか。そんな命令は聞けません。総理を出してください」
「総理は第七層に着き次第、内閣不信任案を出されて解任されるだろう」
「じゃあ誰が日本を守るんですか? ゼウスが立ち上がるまであと三十時間もあるんですよ」
新しい命令が中尉の元にやってきた。次から次へと命令が更新され伝言しているだけでも頭がおかしくなりそうだった。新しい命令書を見て、中尉がブッと噴き出した。
「あー。我々陸軍擬態部隊はたった今、国連軍に編入された。首都層の平和維持活動を行え。撤退は中止だ」
「嫌です。それはゲリラを守れってことじゃないですか。それに今もアトラスは地上から高射砲で攻撃を受けているんですよ。こんなの休戦じゃありません」
「命令である。従わなければ軍法会議にかける」
中尉は極めて無感情に命令を告げ、踵《きびす》を返した。部下たちは不平を零《こぼ》せるだけマシだ。だが上官である中尉にはそれすら許されない。さっきまで銃口を向けていたゲリラに笑みを浮かべて仲良くしろというのは無理な相談である。目の前をメタル・エイジの戦車が歓声を上げて進んで行くのが見えた。彼らがガッツポーズをするたびに忸怩《じくじ》たる思いが込み上げてくる。休戦とはいえ、誰が見てもゲリラの勝利だった。ハイテク炭素の擬態材で装備した陸軍の擬態部隊が優位に立てたのも束の間のことであった。所詮《しよせん》自分たちは政治ゲームに左右される駒にすぎないことを思い知らされた。
ダイダロスの攻撃が次第に弱まってきた。まるで地上のスコールのような現象だ。これが森によるものだとは政府はまだ気づいていない。
「我々は未知の組織から攻撃を受けている。ゼウスが立ち上がるまで、ゲリラと一緒に首都層を守れ」
「ガスを撒いた連中と闘うなんて嫌です」
「ガスはゲリラが撒いたものではない。我々が知らない勢力がアトラスを攻撃しているのだ」
状況が把握できぬままに不安と疲労に襲われる。正直、誰もがうんざりしていた。たとえアトラスを復旧させても、どうせまた狙われる。このイタチごっこを終えるためには、未知の敵が何なのか調べなければならない。
中尉の元にひとりの男がやってきた。私服だが、動きと姿勢の良さからすぐに軍人であるとわかった。敬礼をした男には見覚えがあった。
「私は陸軍第十高射特科大隊の草薙国仁少佐だ。すぐに政府高官に伝えたいことがある。地上からの攻撃はこの種である」
草薙はダイダロスの種を見せると中尉の背中を急《せ》かした。
休戦によって撤退する政府|車輛《しやりよう》の渋滞とダイダロスから逃れるメタル・エイジの兵隊が、互いに道を譲らず諍《いさか》いを起こしていた。その流れを横目に、一路公社を目指す小夜子たちがいた。どの組織にも属さない小夜子は武装解除の命令など関係なかった。道を塞《ふさ》ぐものがあれば、爆弾で吹き飛ばす。あまりにも過激な行動に武彦は目を丸くするばかりだ。小夜子の感情を表に出さない性格は、次に何をするか予想がつかない。路地が瓦礫《がれき》で覆われていたのを見た小夜子は、バズーカ砲を構えた。
「待て。迂回《うかい》すればいいだけじゃないか!」
武彦の制止と同時に爆発音が響いた。眼鏡に積もった埃《ほこり》を払った小夜子が事も無げに言う。
「道は私が作るのよ。あんたたちは黙ってついておいで」
脚の傷も癒《い》えないのに小夜子は先頭を切って歩く。武彦が肩を貸してやろうとすると、小夜子は武器が持てなくなると言って拒んだ。
仲間がはしゃぎ声をあげた。
「武彦、國子様と連絡が取れた。政府とメタル・エイジは休戦協定を結んだらしい。すぐに合流しろとの命令だ。おい、命令を無視するのか?」
武彦は小夜子の前になるように足を急がせる。
「休戦なんて意味がない。政府はゼウスが立ち上がったら、第五層の電力を断つに決まっている。交渉を有利に進めるためにはゼウスを壊すか、俺たちが掌握するしかない。俺は戦死したと國子に伝えろ。今後は俺の独断で行動する」
武彦はメタル・エイジのバッジを引きちぎり、後ろにポイと投げ捨てた。
「もうおまえたちは俺の部下ではない。國子の元に帰れ」
部下を捨てた武彦は小夜子とともに公社を目指すことを選んだ。小夜子はそんな武彦と自分の境遇を重ねた。
「あんたも帰るところがないみたいね」
「新迎賓館のエリート医者が何を言う」
「私は死んだと思われてるわ。その方が公社が油断するから都合がいいけど。ねえ、煙草一本くれない?」
武彦がショート・ホープの箱を渡すと小夜子の足が止まった。紫煙を吐いた小夜子は久し振りの煙草の味に頬を緩ませた。
「煙草なんて五年ぶりよ……」
小夜子は美邦の体調を気にして禁煙していた。美邦の膠原病は免疫異常だ。紫外線に対して抵抗力を持たない美邦は夜の子どもだった。太陽の光は美邦を殺してしまう。小夜子は主治医として美邦の昼間の外出を禁止した。しかし美邦だけ楽しみを禁じられるのは一方的である。小夜子は愛用していた煙草をやめた。亡くなった娘が病気だと知ったとき、酒をやめたのと同じように。小夜子は煙草を吸うときは美邦が外で遊べるようになったときか、美邦の側を離れたときだと心に決めていた。新迎賓館から離れるときは死ぬときだけだ。小夜子は戦死扱いされることで、束の間の自由を得た。しかしこの自由を自分のために使う気はない。一本の煙草を味わった小夜子は、もう何の未練もなかった。武彦にもう一本勧められても、興味を示さなかった。
「新迎賓館を離れたおまえがなぜゼウスを狙う。理由は何だ?」
「私の美邦様をゼウスに決定してもらうためよ」
「しかしおまえはもう新迎賓館のスタッフではないだろう」
「そんなの関係ないわ。美邦様は私の希望だもの。アトラス計画は人間のランクづけで成り立っている。ゼウスがひとりの人間を選べば、アトラス計画は完成するわ。問題なのは美邦様以外にも候補者がいるということよ」
武彦もアトラス計画が何から始まったのか知るひとりだ。この戦争を終わらせる一番早い道は、Aランクの子どもたちを殺害することだった。そのために拉致《らち》にまで手を染めた。武彦は自分が手にかけた少女のことを思い出した。あのとき、いつでも國子の元を去る決意はできていた。武彦はアトラスがただの積層都市でないことを知っている。アトラスランクを崩壊させれば計画は大幅に見直される。
「俺は生きているうちに戦争を終わらせたいんだ。そのためなら鬼にでもなるさ」
「私はもうとっくに悪魔に魂を売ったわよ。売るからには高く売らなきゃ。でしょ?」
小夜子は寂しそうな眼差《まなざ》しで僅《わず》かに笑みを浮かべる。武彦は小夜子がどんな人生を生きてきたのか察しがついた。彼女は信念のために自分と同じことをしたことがあるに違いない。そしてもう自分が真っさらな人間に戻れないことを覚悟している。悪党は悪党らしく嫌われ、唾棄《だき》され、呪われて生きていくと決めた眼差しだった。ただ武彦の心残りは國子の未来だった。それを見届けられないのが残念でならない。小夜子もまた美邦の未来を見届けられない。それでも二人は主人のために忠義を尽くそうとしていた。
「俺とあんたは同じ日陰者の運命だな」
そうね、と小夜子は笑った。だけど小夜子は日向がどんなものか知っている。子どもを産んだとき、人生に訪れた日向は太陽に抱かれるのが恥ずかしいほど、心地好かった。だから美邦を日向に出してあげたい。そして日陰の時代をきれいに忘れてほしかった。小夜子がボソッと呟《つぶや》いた。
「トリプルAがもうひとりいるなんて、公社は一言も言ってなかった……」
「トリプルAが二人もいるのか!」
武彦は初めて聞く未知のランクに驚いた。閣僚級のダブルAを超えるトリプルAなんて公式には存在しないはずだった。情報課が何度もゼウスにハッキングして得た情報は間違っていた。
「あんた本当に何も知らないのね。ダブルAなんて所詮トリプルAを隠すための騙《だま》しのランクよ」
「そいつは誰だ!」
「ゼウスが知ってるわ。だから聞き出しに行くのよ」
白衣の裾《すそ》を颯爽《さつそう》と翻して公社に向かおうとしたとき、小夜子の耳が嫌な音を捉《とら》えた。その音を聞くと小夜子の心が反射的に構える。
「あの音は……」
遠くから大型バイクのトルク音が聞こえてきた。荒廃した首都層に真紅の輝きを放つハーレーダビッドソンが現れる。バイクに跨《またが》るのはレザースーツに身を固めたグラマラスな女だ。タイヤを血で真っ赤に染めたハーレーが小夜子を見つけるとアクセル音で威嚇《いかく》した。
「小夜子、お久し振りね。うふふふふ」
「涼子! なぜこんなところに!」
バイクから降りた涼子が見下すように小夜子の前に立ちはだかった。この世界に恐いものなどひとつもない、とばかりに振る舞う涼子は薔薇《ばら》の花束のような女だ。それも決して枯れない薔薇だ。この薔薇の棘《とげ》にはストリキニーネの毒が含まれている。涼子は他人を霞《かす》ませることで輝く。涼子と小夜子は同級生だった。
昔と変わらぬ美貌《びぼう》を見せつけた涼子は嫌味たっぷりに小夜子を見据えた。
「私の美邦をお迎えに来たのよ。そうそう、まだ転職先を教えてなかったわね。今は新迎賓館の女医博士をしているのよ。驚いた? 元[#「元」に傍点]女医博士の小夜子」
「新迎賓館ですって! なぜそんなところに。あなたは東大病院の教授だったはずよ」
「そう、あなたを蹴落《けお》として教授になったのよね。でも飽きちゃった。だって惨めな女がいなくなったんですもの。うふふふふ」
涼子は小夜子を追って新迎賓館にやって来た。涼子は小夜子に劣等感を与えるのが趣味だ。高校時代ガリ勉で孤独だった小夜子と華やかでパーティに明け暮れていた涼子は対照的な存在だった。チャイコフスキー・コンクールで史上最年少で優勝した涼子は、ソリストとして活動することを嘱望されていた。涼子は実際、何でも完璧《かんぺき》以上にできてしまう。涼子は努力して手に入れる喜びとは無縁の女だ。家柄も美貌も頭脳も運動神経も生まれながらに備わっている。そんな涼子が楽しみにしたのは、相手を凹《へこ》ませることだった。
バイオリンを始めたのは、中学の同級生が天才バイオリニストとちやほやされていたからだ。涼子は習い始めてすぐに彼女を追い越した。そして二度とバイオリンに触れないほどの挫折《ざせつ》感を与えると、すぐにやめてしまった。水泳でもそうだ。オリンピックを目指している女を見つけると、涼子もスイミングスクールに通う。そしてプールサイドでぺちゃくちゃお喋《しやべ》りをして、いとも容易《たやす》く国内代表の座を射止めた。しかしオリンピックに出る気など毛頭ない涼子は、相手を悔しがるだけ悔しがらせてある日、突然辞退する。涼子は才能と既得権だけで生きている女だ。
その涼子が小夜子に目をつけたのは、高校時代のことだ。陰気でパッとしない小夜子は典型的なガリ勉優等生だった。涼子は勉強しか取り柄のない小夜子から頭の良さを奪おうと狙いを定めた。小夜子が東大医学部を目指していると知ると、涼子も東大に進んだ。それも学費免除の特待生として。そして小夜子が大学病院に残ると知ると、涼子も残った。小夜子が将来の教授候補と嘱望されていると知るや、横槍《よこやり》を入れ涼子がその座を奪った。しかし小夜子は凹んだ様子を見せない。だからダラダラと閉鎖的な大学病院に残ったのだ。そんな小夜子がある日姿を眩《くら》ました。風の噂で新迎賓館に召喚されたと聞いた。それを追わない涼子ではない。公社にコネを取り付けると女医博士のリストに自分を入れてもらった。
「黙っていなくなるなんてひどいじゃない。だって私たち親友だったでしょう。うふふふふ」
「誰がおまえなんか友達なもんですか。私に勝つのがそんなに嬉《うれ》しいの!?」
「もちろんよ。うふふふふ」
小夜子は軽蔑《けいべつ》されたり無視されたりするのには慣れている。だから涼子の存在を初めは気にも留めなかった。住む世界が違うと思えば腹も立たない。しかし涼子の行動は自分に圧力をかけるためにやっているとしか思えなくなってきた。試しにコーネル大学に留学をしようとしたら、涼子もコーネル大学に留学を申請してきた。志望校をハーバードに変更したら、涼子もハーバードに変更したではないか。専攻も同じ免疫学だ。小夜子はこのとき、自分が狙われていると感じた。小夜子が欲しがるものは全て涼子が掠《かす》め取っていく。やがて小夜子は何も欲しがらなくなった。それが涼子に対する唯一の自衛手段だった。
そんな小夜子が久し振りに心を傾けた存在が美邦だった。それを見逃す涼子ではない。涼子はストラディヴァリウスを小夜子に投げつけた。
「あなたバイオリンが得意だったんですってね。美邦がそう言ってたわ。さあ『悪魔のトリル』を弾いてみなさいよ。弾きなさいよ!」
「美邦様が……」
美邦がそう言うのなら恥をかかせるわけにはいかない。小夜子は生まれて初めてバイオリンを握った。顎《あご》で保持することも知らない小夜子は無様な音色を奏でた。その音を聞いた涼子が目玉を剥《む》いて笑った。
「最高! タルティーニも墓場から目を覚ますわ。美邦を耳鼻科で検査しなくちゃ。これを聴かされたら耳が潰《つぶ》れるわ。おほほほほほ」
「私の大切な美邦様をバカにするのはやめて! 公社に報告するわよ!」
「ねえ、知ってる? 美邦は私にとても懐いていらっしゃるのよ。大して可愛くないから迷惑なんだけど。うふふふふ」
カッとなった小夜子が涼子に殴りかかる。しかし涼子は軽く足払いして小夜子を転ばすと包帯を巻いた太股《ふともも》にハイヒールの踵《かかと》をめり込ませた。咄嗟《とつさ》に武彦が庇《かば》おうとする。
「おい怪我人になんてことするんだ」
さっとバイクに跨った涼子は前輪を持ち上げると武彦の頬を車輪でビンタした。ハーレーは涼子に忠実な仕置き人だ。
「小夜子って昔から男を見る目がないわね。もっとマシなの拾いなさいよ。昔、医局の川端教授と不倫してたじゃない? あいつ勃《た》ちが悪いって評判だったのよ。よく妊娠したわね。バイアグラを飲ませたのかしら。それとも体外受精? うふふふふ」
「なぜそれを知ってるの? 妊娠したのは誰にも言ってないはずなのに」
涼子はにやりと笑う。
「だって川端教授をけしかけたのは私なんですもの。親友のあなたが男を知らずにいるのが可哀想だったのよ。感謝してよ」
涼子は当時、川端から交際を申し込まれていた。不倫なんて趣味じゃない涼子は、小夜子と付き合うなら考えてもいいと言って川端をけしかけたのだ。そして交際が始まるや病院中に噂を流した。たちまち小夜子の立場は地に堕《お》ちた。
「川端の奴、ホテルからいつも私に電話してきたのよ。奥であなたがシャワーを浴びている音が聞こえたわ。不感症の女を抱いてもつまらないんですって。うふふふふ」
「やめてやめてやめて!」
人生最初で最後の恋が涼子の仕業だったなんてこんな屈辱はない。小夜子は初めて涼子を憎悪した。この女は人生に立ちはだかる敵以外の何者でもない。
小夜子の真っ赤に染まった顔を見て、涼子は心地好いエクスタシーに酔う。
「そう、私が見たかったのはその顔よ。あなた表情が読めないから、わかりにくいのよ。医者になんてなりたくなかったのに、とんだ人生の遠回りだったわ。それで、産んだ欠陥品はどうしたの? 美登里って言ったっけ?」
「私の美登里ちゃんを欠陥品だなんて言わせないわ!」
小夜子が放ったメスを涼子は指の間で受け止めた。ポイと投げ返したメスが小夜子の眼鏡の柄を切り落とす。小夜子が狂気の恐さを持っているなら、涼子の恐さはどこまでも正気であることだ。
「ねえ、知ってるかしら? あなたの娘が罹《かか》った病気の治療法は私が開発したのよ。でも発表するのは三年待ったわ。だって雑誌の星占いのコーナーに『今は我慢』ってあったのよ。『ミミ』の占いって当たるのよ。うふふふふ」
「なんですって!」
涼子が遺伝子治療の方法を早く発表していれば娘は死ぬことはなかったと知った小夜子は愕然《がくぜん》とした。涼子は美登里の病状を知るやあっという間に新薬を開発してしまった。そしてその情報をただ小夜子を苦しめたいがために公開しなかった。娘が生きるためなら、小夜子はいくらでも涼子の前に跪《ひざまず》いたのに。たとえ靴を舐《な》めろと言われても舐めた。下着を口で洗えと言われれば、きっとそうした。娘は小夜子の太陽だった。娘が笑うなら涼子の奴隷に喜んでなっただろう。なのに涼子は、奴隷にすらしてくれなかった。
「私の美登里ちゃんが……。私の美登里ちゃんが……。うわああああああ」
「もうちょっと可愛ければ早く発表してあげたんだけどね。ほら、ブスが長生きしてもいいことないじゃない。うふふふふ」
「殺してやる。殺してやる!」
小夜子は顔をくしゃくしゃにして涼子に襲いかかる。バイクに跨った涼子は余裕たっぷりに小夜子の攻撃をかわし、ハーレーの後輪で回し蹴りを食らわせた。涼子とハーレーは一心同体だ。涼子はハーレーを手足の延長として自由に使う。車輪は走るためにあるだけではない。相手を踏みつける脚であり、アッパーカットを食らわす腕である。無様に地べたに投げ捨てられた小夜子は口の中に泥を入れて噎《むせ》び泣いた。
涼子は今までにない快感で顔を華やかに綻《ほころ》ばせた。この瞬間のために涼子は生きていると言ってもよい。既得権と才能を持てあました人生は一歩間違うと退廃に繋《つな》がるところだ。しかしエネルギッシュな涼子は退廃するタイプではない。欲しいものはすぐに手に入れるが、羨《うらや》ましがらせないと手に入れた気分にならなかった。相手を悔しがらせとことん踏みつけた後の晴れやかな気分は涼子だけが知る最高の快楽だ。涼子は着飾るなら花嫁を前に十億円のダイヤモンドのティアラとドレスで現れなければ意味がないと思う。ご馳走《ちそう》を食べるなら飢えたホームレスを前にして食べるのが美味《おい》しい。男と寝るなら親友の彼氏を奪った方が楽しい。その後に聞こえる憎悪と嫉妬《しつと》と怨嗟《えんさ》の声は、ドーパミンシャワーとなって涼子を心地好く洗ってくれる。今、涼子は世界一幸福な女だと自負していた。
「あなたが新迎賓館で開発した新薬の化学式を見たわ。愚図の小夜子にしては上出来だけど、あれだと副作用の恐れがあるわ。私が作った新薬なら美邦を表に出せるでしょう。これが化学式よ」
涼子は胸の谷間から化学式の入ったディスクを見せた。
「これが欲しければ、もうちょっと私と遊びなさい。うふふふふ」
小夜子は朦朧《もうろう》としながらもディスクを奪おうとする。涼子はもったいつけるだけつけてバイクで逃げ回った。
「お願い。美邦様を助けてあげて。私は地上に堕ちてもいい。どうか、どうか美邦様を助けてください。お願いよ、お願いよ涼子……」
「だったら髪の毛を焼いてごらん。うふふふふ」
肩で息を切った小夜子がポケットからライターを取り出した。そして躊躇《ためら》いもせず、髪の毛に火をつけた。
「どうか、どうかこれで……」
ぶすぶすと鼻をつく焦げ臭い匂いが辺りに漂う。小夜子は髪を炎に染めて涼子の前に跪いた。それを見た武彦が上着で火を消そうとする。
「バカ。なんでそこまでするんだ! ディスクは俺が奪う」
武彦はマシンガンで涼子の頭を狙った。涼子はバイクを巧みに操って弾を避けていく。首都層にハーレーの雄叫《おたけ》びと涼子の笑い声が撒き散らされた。弾が切れると涼子はディスクに火をつけてこう言った。
「やっぱりあげない。うふふふふ」
小夜子が美邦に関心があるなら徹底的に邪魔するだけだ。涼子はアクセルで威嚇《いかく》すると小夜子に向かって突進した。
「公社に行くなら、私を倒してからお行き!」
小夜子は脚を引きずりながら首都層を逃げ回る。髪の毛の半分を失った小夜子がハーレーに追われている。前輪で背中を小突かれ、倒れれば縄をかけて引きずり回された。それでも小夜子は公社に行くことを諦《あきら》めない。
「美邦様……。どうかお待ちください……。きっと小夜子が……」
「まだ言うか! 美邦は私が連れて帰るのよ!」
涼子は鼻歌を弾ませながら小夜子を引きずり回した。涼子は素のままに生きている自分が聖母のように美しいと思う。世界中で一番美しい無原罪の女はあくまでも自分の心に対して清らかだ。道徳や倫理は所詮《しよせん》、人の心を縛る縄にすぎない。魂の欲するままに生きられたとき、人は神に感謝を捧《ささ》げる。それは涼子も同じだった。涼子は自慢のメゾソプラノの声を首都層に響かせた。
Ave Maria Gratia plena
Maria, gratia plena
Maria, gratia plena
Ave, Ave Dominus Dominus tecum
Benedicta tu in mulieribus
Et benedictus
Et benedictus fructus ventris
Ventris tui, Jesus Ave Maria
マリア・カラスも顔負けの歌声は聞く者の胸を詰まらせる。首都層に舞う鳥たちが涼子の素晴らしい歌声に群れをなす。純白のゆりかもめの翼の下には荒れた首都が広がり、荒野を走る真紅のバイクが小夜子を引きずる。涼子は『アヴェ・マリア』の歌で勝利を祝った。涼子の歌声は長く追い続けた獲物を捕らえた肉食獣の雄叫びだった。今日は涼子の謝肉祭だ。神に血と肉を捧げ、感謝を表そう。
涼子の喜びの後ろからぐにゃりと曲がった小夜子が引きずられる。小夜子はとっくに気を失っていた。それでも涼子は首都層をバイクで駆け回った。
「小夜子、可哀想な女。なぜこんなことになったの? うふふふふ」
一通り遊んだ涼子は小夜子を新上野の不忍池に捨てた。蓮《はす》の葉が浮かぶ濁った池に小夜子の白衣が緑色に染まり、しばらく浮かんでいたがやがて沈んでいった。
休戦協定が結ばれた公社は、ゼウスの復旧のため不眠不休で作業していた。
「総理官邸から通信。第七層に新霞ヶ関のシステムを移行してください」
「第六層は非武装地帯です。防空システムを凍結する」
「第五層の擬態プログラムはゲリラに使われないように封印してください」
「ゼウスのシステムアップまで二十時間を切りました。最終調整に入ります」
管制室の喧噪《けんそう》とは裏腹に、公社の会議室では静かな晩餐《ばんさん》のときを迎えていた。席に着いたのは幹部とタルシャン、そして美邦だった。
幹部たちは緊張のあまり出された料理に箸《はし》がつけられなかった。
「美邦様をお迎えするほどの部屋は公社には用意されておりません。どうかここでおくつろぎくださいませ」
美邦はだだっ広いだけの会議室にさして異を唱えなかった。
「構わぬ。妾《わらわ》が勝手に来ただけじゃ。お主たちも食事が済んだら帰ってよいぞ。妾はこの外人と話がしたい」
タルシャンをじっと見据えた美邦は極めて平静を装っていた。言いたいことは山ほどあるが、タルシャンを一目見た美邦は難物であることを理解した。こういう海千山千の男に感情を剥《む》き出しにすると、何をされるかわからない。
タルシャンは物を観察するような眼差《まなざ》しで美邦を見つめていた。これがゼウスに選ばれし子か、としげしげと眺めては何かを思い出したように苦笑した。
「何がおかしいのじゃ。公社はいつから外人を経営者に迎えた。ここは日本の聖地であるぞ。外国人が足を踏み入れられる場所ではない」
幹部が美邦の失言を押さえつけた。
「美邦様、タルシャン様は公社の最大の出資者です。口をお慎みください」
「嫌じゃ。さっき地下室でここの最高経営責任者に会った。あれは何じゃ?」
美邦が机を叩《たた》いてタルシャンに迫った。しかしタルシャンは眉《まゆ》ひとつ動かさない。
「ほう、ヒルコに会ったのか。あれは子どもが見るものじゃない」
「あれはミーコじゃ。よくもミーコを妖怪にしてくれたものじゃ。元に戻せ!」
「残念だが不可能だ。ヒルコの霊は肉体が滅びるまで憑依《ひようい》している」
それを聞いた美邦は愕然《がくぜん》とした。地下室で恐るべき呪術《じゆじゆつ》を目の当たりにした美邦はミーコが変貌《へんぼう》していく様を眼に焼きつけた。優しかったミーコの瞳《ひとみ》が蛇のような眼に変わり、ふくよかだった頬が刮《こそ》げ落ち蒼《あお》い肌に変わった。そして豊かな髪が、蟲《むし》の触覚のように蠢《うごめ》いた。あれを妖怪と呼ばずして何と言おう。水蛭子に睨《にら》まれたとき、美邦は心臓を握り潰《つぶ》されたような気がした。大宮司が抱えていなかったらそのまま倒れていたはずだ。水蛭子になったミーコは美邦を見るなりこう言った。
「おまえが、ぜうすの、かぎを、あけた、つきの、こどもか。ぎゃあああああ!」
あの声のどこにもミーコの優しさはなかった。水蛭子はすぐに電子結界を破ろうと試みた。電子結界の出力を最大限にまで上げたせいで、すぐに水蛭子は藻掻《もが》きだした。宮司たちが竹槍《たけやり》で水蛭子を結界の中に押し込むと血《ち》飛沫《しぶき》が舞った。美邦は「やめろ」と制止したが強く命じることはできなかった。それであれがミーコではないと理性が働いているのを知った。もし呪術を目撃していなければ、初めから水蛭子を妖怪だと思っただろう。ミーコの着ていた十二単《じゆうにひとえ》に無惨に穴が空く。血で染まるたびに、覚えていたミーコが消えていくようで美邦は恐かった。
席を立った美邦はタルシャンに詰め寄った。
「妾は新迎賓館の主《あるじ》である。そなたは頭が高い。公社の出資者といえども妾には逆らえぬ。あの妖怪を何に使っておる」
「ヒルコはアトラス計画を滞りなく推し進めるために必要な存在だ」
幹部たちが追随する。公社の運営は政府といえども口出しできない。それは美邦であっても同じだ。
「美邦様、どうか速やかにお引き取りください。アトラスは順調に建造中です。経営のことは我らにお任せくださいませ」
「公社が妖怪を飼っているとは聞こえが悪い。すぐにミーコを元に戻さぬとお主を強制送還するぞ。二度と日本の地に足を踏み入れられなくするぞ」
「私を追いだすことはこの国の総理大臣でもできない。国連は私に戦後処理を一任した。これでもやり手なのだぞ」
タルシャンが作った休戦協定は、國子と美邦を保護することを優先した。第六層の非武装地帯を挟んで上下に國子と美邦を置けば管理しやすい。第五層を手に入れた國子たちはしばらく大人しくしてくれるはずだ。休戦協定の場に國子が訪れれば、タルシャンは好きなときに國子を呼び出せることになる。協定を長引かせ要求を飲んだり、退けたりすれば國子はそれに一喜一憂することになる。政府が國子に手出しすることもなくなる。
「私は忙しい。おまえは第七層の新帝国ホテルで待機しているんだ」
「妾に命令するな。無礼であるぞ。妾は正統なるゼウスの子じゃ」
「ゼウスは待機を命じたはずだ。おまえはまだ候補者のひとりにすぎない。その間は私が主人だ。適性を見極めた上で慎重に選ばせてもらう」
「選ぶだと? 妾の他に誰か候補者がいるのか?」
タルシャンは無造作にパネルにタッチした。スクリーンに現れたのは、美邦の他に國子と草薙がいた。美邦は初めて國子を見た。
「この二人もおまえと同じようにゼウスの暗号鍵を開けた。だが不平は言ってないぞ。おまえは特別|贅沢《ぜいたく》な暮らしをしている。セーラー服を着た彼女は地上で猿のような暮らしをしている。そしてこの青年は軍で真面目に働いている」
美邦は草薙を覚えている。いつか美邦が地上に牛車《ぎつしや》で降りたときに彼と会った。そのとき新薬開発のサンプルを持ってきた軍人が草薙だ。
「こいつらと妾が同じ身分だと申すのか!」
「そうだ。おまえと同じトリプルAだ。今のところ、あらゆる面でクニコの方が優位に立っている。判断力、行動力、人望、知性、カリスマ性、どれを取っても申し分ない。ただワルでね。再教育が必要なのが難点だ」
美邦はタルシャンの言葉に愕然とした。地上にいる卑しい者が自分と同じトリプルAだというのも不愉快だが、タルシャンは明らかに國子に関心を持っていることがわかるからだ。しかし美邦には秘策があった。
「その雌猿はどこにおる。妾の前に連れてこい!」
「嘘をつかせて処分しようとしても無駄だ。彼らは本能でおまえの能力を察知し回避することができる」
そう言われてみれば納得できた。美邦は草薙に地上で会ったときどんなに引っかけても草薙は嘘をつかなかったことを思い出した。美邦が操れるのは射幸心にかられた人の心の弱みだけだ。ごく希に嘘をつかない人間がいることを美邦は知っている。物欲のない小夜子や、純粋なミーコは美邦の試練を突破した。そして新しい女医博士の涼子は、優越感しか持たない故に嘘をつく必要のない人間である。涼子は人間が獲得できるあらゆる能力と才能を具備している。その気になればノーベル賞だって獲れる。ただしそれを目指して一心不乱になっている相手がいれば、の話だ。
「ミクニよ、君がゼウスから決定を貰《もら》うためには膠原病《こうげんびょう》の完治が必要だ。表に出られないようでは、話にならない。月の子であるが故の悲しさか」
美邦はカッとなった。この男は自分の弱みを知っている。
「妾は好きで病になったわけではない。新薬は小夜子が目処《めど》をつけてくれた。きっと妾は表に出られる。小夜子がそう言ったのじゃ。小夜子は決して嘘をつかない女じゃ」
「その小夜子は死んだ。新しい主治医の能力に期待しよう。大事にしろ。おまえの将来はあのリョウコの働きにかかっている」
「嫌じゃ。あんな性悪に助けられるくらいなら、御簾《みす》の奥に引き籠《こ》もろうぞ」
「それはおまえの勝手だ。断っておくがこの会話は録音されている。ゼウスが立ち上がったとき、おまえをどう判断するか見物だな」
美邦はこれ以上ここにいると自分はきっと泣いてしまうと思った。これ以上、タルシャンに弱みを握られることはプライドに関わる。美邦は涙が零《こぼ》れないようにツンと上を向いて、息を止めながら会議室を出た。そしてドアが閉まると同時に、表面張力を保っていた涙をどさっと零した。しかし美邦はまだ声を出さない。これは涙ではなく汗だと言い聞かせた。実際美邦は汗をかくほど走っていた。こんな侮辱的な扱いをする公社になんか一秒も長くいたくなかった。かと言って殺人鬼と薬漬けの使用人がいる新帝国ホテルにも行きたくない。美邦はどうすればいいのかわからなかった。この悔しさを受け止めてくれるのは小夜子とミーコだけだった。
「小夜子、ミーコ……。妾を置いていくなんて許さぬぞ。許さぬ……」
「美邦様どちらに行かれますか? そこは立入禁止ですぞ」
周囲の制止も聞かず美邦はまた地下牢へと繋《つな》がる通路を駆けていた。もしかしたら扉の向こうでミーコがまあるい笑顔で迎えてくれるかもしれないことを最後の頼りにして。下水管の匂いの籠もる地下牢を突破し、最後の檜《ひのき》の扉を開けた。
「ミーコ、帰るぞ!」
だが、扉の奥にはムカデを貪《むさぼ》り食う水蛭子がいた。
「なんじゃ、つきのこよ。わたしに、なにか、ようか? ぎゃあああああ!」
ムカデがぷちぷちと潰れる音を鳴らしながら水蛭子はえずいていた。鳥の雛《ひな》のように顎《あご》を何度も持ち上げて頬張ったムカデを喉《のど》に流し込む。その光景を見た美邦は想いも尽き果てた。宮司たちが水蛭子の体を竹槍でつつくのを茫然《ぼうぜん》と眺めながら、美邦は電子結界の側まで近寄った。
「いけません美邦様、水蛭子に喉を食い千切られます!」
「構わぬ……。ミーコに殺されるなら妾《わらわ》も本望じゃ……。近寄るでない。妾に触るな。跪《ひざまず》くのじゃ」
美邦の一喝で宮司たちが一斉に跪く。本当に平伏させたいのはタルシャンなのに、美邦の権力でさえ手出しできないのが悔しい。どうせこのまま第七層に連れられても幽閉同然の生活だ。ならば単衣《ひとえ》の模様に覚えのある水蛭子の側にいる方が幸福かもしれないと思った。ミーコが着ていた単衣は美邦が見立てたものだ。ミーコの竜胆《りんどう》と蘇芳《すおう》の襲《かさね》は彼女の清純さと温かさを表していた。
水蛭子は近づいてくる美邦を爪の届く範囲に入るまでじっと狙っていた。
「美邦様、本当に殺されてしまいます!」
美邦は躊躇《ためら》うことなく一歩、一歩電子結界へと近づく。そして境界線の注連縄《しめなわ》を越えた。その瞬間に美邦の小さな喉をめがけて水蛭子の爪が飛んでくる。捕らえられた美邦はたちまち水蛭子の犬歯を剥《む》いた口へと持ち上げられた。口をあんぐりと開けた水蛭子は美邦を頭からひと飲みにしようとしていた。
「ミーコさらばじゃ。冥土《めいど》で会おうぞ……」
滴り落ちた美邦の涙が水蛭子の喉に落ちた。すると水蛭子の体に変調が生じた。白目を剥いて全身を激しく痙攣させた水蛭子は、内臓の奥から千匹のムカデを吐き出した。
「だれじゃ、わたしの、からだを、けやぶる、ものは。ぎゃあああああ!」
水蛭子は電子結界の中でのたうち回る。毛穴から血の霧を噴き出し、辺りを赤く染めながら自分の体を掻《か》き毟《むし》った。
「ミーコ? ミーコがまだ生きておるのか?」
美邦は必死で水蛭子の体をさすった。体を大きく数度|痙攣《けいれん》させた水蛭子がやっと目を覚ました。しかし水蛭子の蛇の眼は健在だった。ただ、もう美邦を襲うことはなくなっていた。それはミーコができる最後の抵抗だったのかもしれない。腐敗した黒いガスが水蛭子の口から噴き上げる。美邦はそんな水蛭子の体を力一杯抱き締めた。
「妾はそこに生きている微《かす》かなミーコだけでも良い。妾はきっと生きようぞ……。死ぬなどと申してすまなかった……。妾はもう泣かぬ。泣かぬが、今は許してくれ。うう……」
美邦は涙腺《るいせん》の奥にある最後の一滴の涙を絞り取るように泣いた。涙があるから人は泣く。ならば涙がなくなればもう泣くことはない。美邦は明日の分の涙で泣いた。来月の分の涙で泣いた。来年の分の涙で泣いた。そして一生分の涙を使い果たしたとき、美邦の目に強い力が宿った。
ミーコは確かに水蛭子の中にいる。水蛭子が体を乗っ取っているうちは手出しできないが、きっと何か方法があるはずだ。それを見つけ出すのが主人の責務である、と決意した。美邦は水蛭子にそっと耳打ちした。
「ミーコ、ここを逃げるぞ。聞いておるならもう一度こいつの腹を蹴《け》り上げろ。宮司たちを油断させている間に電子結界の電源を落とす」
水蛭子は餌を前にして口をパクパクさせるだけだ。水蛭子がまた襲おうとすると、腹が内側から拳《こぶし》で押し上げられるように突き出た。水蛭子はまた苦しみでのたうち回った。それを見た美邦は確信した。ミーコのぎりぎりの牽制《けんせい》で水蛭子は辛うじて制御できる状態である。美邦は注連縄を飛び出し、宮司たちに助けを求めた。
「あやつが妾を食おうとした。成敗せい!」
直ちに、と竹槍《たけやり》を構えた宮司たちが水蛭子を四方から襲う。水蛭子は絶叫をあげて宮司と格闘中である。その隙に美邦が電子結界のブレーカーを落とした。一瞬、執務室の明かりが落ち暗闇に包まれる。宮司の断末魔の悲鳴が聞こえたとき、水蛭子は電子結界を突破したと知った。後はこの混乱に乗じて逃げるだけだ。美邦は水蛭子の手を引いた。
「ミーコ、ここを出るぞ。新迎賓館には物|祓《はら》いの僧がおる。かつて狐に憑《つ》かれた女官を見事退治した腕利きぞ。そいつならおまえを元に戻せるやも知れん」
夜目の利く水蛭子の眼が暗闇の中で光る。公社の裏口から脱出した美邦と水蛭子は首都層の惨状に目を覆った。辺りは得体の知れないガスが充満しているではないか。美邦の喉と目に激痛が走った。
「なんじゃこのガスは。ゲリラが撒《ま》いたのか?」
あまりの痛みに目も開けられない。噎《むせ》ぶ美邦に水蛭子がガスマスクを着用させた。水蛭子の人格の中にミーコは確実に存在している。ミーコかと思えば水蛭子に人格が変わる。比率は九対一で水蛭子が優勢だがミーコは美邦を守ろうとしていた。水蛭子の触覚のような髪の毛が逆立つ。託宣が下りてきたようだ。
「そらが、よごれておる。ひゃくねんまえの、そらが、あらわれたぞ。ぎゃあああああ!」
水蛭子の絶叫が首都層のガスの中にこだました。
人工地盤の中央にまで退避した國子たちは、国会議事堂をアジトにした。どうせ手に入るならこんなに壊さなければ良かったと後悔するほど、ビッグベンは半壊していた。
「これじゃ、ドゥオモの作戦室の方がマシじゃない」
全員で瓦礫《がれき》を片づけてもまだ半分は使えない。衆議院の本会議場で國子たちはしばし休息を取ることにした。これから政府と休戦協定の話し合いが始まる。その案を練る暇もない。首都層をどう活用するのかもまだ決まっていないが、今は仲間たちを休ませたかった。
「モモコさん何してるの?」
モモコは必死にカーテンの生地を盗んでいる。
「さすが国会議事堂だけのことはあるわね。これゴブラン織りの最高級の生地よ。これであたしの部屋を飾るわ」
「盗賊みたいなことはしないで。ここはあたしたちのアジトなんだから」
「だって戦利品を奪うのは勝利者の権利よ。まあ、この絨毯《じゆうたん》も素敵。貰《もら》ったわ」
「略奪は禁止。国会議事堂は元通りに修復するの」
モモコはつまらなさそうに抱えていたカーテンを落とした。オカマの憧《あこが》れの装飾過剰な調度品が溢《あふ》れているというのに手をつけられないのは、猫に鼠を捕るなと言っているようなものだった。
「じゃああたしは委員会室を貰うわ。あそこに天蓋《てんがい》付きのベッドを置くの」
「モモコさんにはオークラのスイートをあげるわ。そこで好きなだけ男と寝なさい」
「それが草薙がいないのよ。どこ行ったのかしら」
草薙がどこに行ったのか探す気もなかった。どうせここに居場所がないと知ってまた自分探しに出かけたのだろう。彼はメタル・エイジの隊員になるには育ちが良すぎる。常に社会規範と照らし合わせて行動する草薙は直感だけが頼りのゲリラを、野蛮で無鉄砲な人種だと思っているだろう。國子は草薙のことをふと思った。どこか少年っぽさの残る彼は、ドゥオモにはいないタイプだ。ドゥオモの男は十五歳になると顔が険しくなる。そして生きるために本能で闘うことを選ぶ。草薙は本来、闘う理由のない男だ。だから正義とか悪とかにこだわる。人は信じたものが正義になるということを彼はまだ知らない。
「悪い奴じゃないんだけど、理屈っぽいのよね」
「ははーん。ちょっと惚《ほ》れたか。いい傾向よ」
「あたしは理屈っぽいって言ったのよ。全然惚れてないわ」
モモコが國子のおでこをちょんと叩《たた》いた。
「恋は否定から始まるのよ。國子はそういうタイプよ」
「バッカじゃないの。そんなのこじつけよ」
「ほら否定した。やっぱり恋ね。でもおよしなさい。あいつはいいとこなしだから。第一キスが下手ってのが致命傷ね」
國子は持っていた箒《ほうき》を投げつけた。
「そんなことないわよ。人を簡単に決めつけるのはモモコさんの悪い癖よ」
「ほら庇《かば》った。うふふふ。いい傾向よ。あたしもやっと國子に恋愛のイロハを教えてあげられるようになったわ」
「あたしは政府との和平交渉で頭がいっぱいなの。恋なんかしている場合じゃない」
すると科学班の男が息を切らせてやってきた。
「國子様、ガスの成分分析の結果が出ました。大変です」
「どんな有毒ガスなの? 人が死ぬとか?」
作業していた仲間たちが男の周りに集まった。
「いいえ。目と喉に痛みを覚える程度で神経ガスの類《たぐい》ではありません。このガスは窒素酸化物です」
「窒素酸化物? それってどういうの?」
「一般にNOXと呼ばれるものです。旧時代の空には無数に漂っていました。たとえばディーゼル車が出す排気ガスがそうです」
「ディーゼル車ってあたしたちが嫌がらせに使う車よね。それがなぜ首都層を覆ってるの?」
男は自分が調べた結果をまだ納得できずにいた。しかしこれが真実だ。
「いいですか。よく聞いてください。このガスは百年前に頻繁に東京を襲った光化学スモッグであると思われます。NOXは不安定な物質ですぐに塵《ちり》や埃《ほこり》に結合します。そして太陽光線と化学反応を起こし、光化学オキシダントと呼ばれる物質に変わります。これが目と喉《のど》を刺激するんです」
「光化学スモッグ? 歴史の教科書の代物じゃない」
それは環境問題が深刻になるずっと前の時代の遺物だ。敗戦から立ち上がり高度経済成長期を迎えた東京が重化学工業を興したときに発生した大気汚染の名前だった。工場から撒き散らされる煤煙《ばいえん》やガソリン車の排気ガスが大気に放出され、「公害」という言葉ができたときのものだった。
「このガスは当時の光化学スモッグの濃度の三倍を超えています」
「なぜ光化学スモッグが現代の東京に? 今では排気ガスを出す車なんてほとんどないのよ。何で窒素酸化物が東京に現れるのよ」
「このペナルティがバカ高いんです。イカロスが算定したのは光化学スモッグに対するペナルティです。だとすれば二・九四も納得できます。旧時代の劣悪な大気とみなされたんです」
「原因は何?」
男がもう一枚の報告書を読み上げた。しかし男の声が小さすぎて何度も聞き直さねばならなかった。痺《しび》れを切らした國子が報告書を奪う。そこには信じられないデータが記されていた。
國子は瞬きするのを忘れるくらい報告書に見入っている。
「ねえ國子、何黙ってるのよ。ちゃんと教えなさいよ」
表情を強張《こわば》らせた國子は息を止めていた。どれくらい息を止めていただろう。やっと息を吐いた國子が報告書を落とした。國子はまだ信じられない様子だった。出た言葉に自分も驚く。
「原因はダイダロスよ……」
「え? 今なんて言ったのかしら?」
モモコもまだよく事態を飲み込めていなかった。
「あの植物が窒素酸化物を撒き散らしているのよ。植物がなぜ?」
科学班の男を詰《なじ》るように怒った。しかし男もこんなことはありえないとしか言えなかった。國子は疑問を畳みかける。
「答えて。なぜ植物が酸素を吐き出さずに、窒素酸化物を吐き出すの? 窒素酸化物は千度以上の高温でないと化合されないはずよ。どこにあんな熱源があるの?」
「恐らく種を放出するときの熱が窒素酸化物になっていると思われます。まだ詳しい射撃のメカニズムはわかりませんが、あれだけの射撃をするには大量の酸化剤が使われるはずです」
「森が大気汚染の原因だなんて……」
関東平野を覆う樹海はそのまま公害の源ということだ。森林はもはやクリーンの代名詞ではない。環境を汚染する悪魔の温床だ。政府が植林した森は今、人間に向かって牙《きば》を剥《む》き出した。
「光化学スモッグの雲は関東平野全域を覆っています。とても人の住める状態ではありません」
戦争に勝利した喜びもこの事実で全て台無しになった。光化学スモッグに覆われた東京は地上も空も地獄だ。
「どうするの國子?」
國子は親指の爪が割れるくらい強く噛《か》んでいた。何をすべきかはもう決まっているが、これからすることを考えると眩暈《めまい》がした。國子はもう一度親指の爪を噛んで決意した。
「森を焼くしかない!」
その言葉に全員が凍りついた。それは反政府活動をするメタル・エイジでもタブーとされたことだ。森を焼けば炭素指数が跳ね上がる。そんなことをしたら、政府はドゥオモに気化爆弾を落としてでも阻止する。
「なんですって。國子、正気なの?」
「森を焼くなら今よ。放っておけばダイダロスは種を撒《ま》き散らし光化学スモッグのガスを生み出す。イカロスはそれを発見するたびにペナルティを加算する。日本は世界一環境の悪い国だと国際社会から非難を浴びてしまう。そうなる前に森を全部焼くしかないのよ」
「それは政府にやってもらいましょ。東京をこんなデタラメな世界にしたのは政府なんだし。責任を取ってもらいましょ」
「もちろん政府にこの事実は伝える。でもあいつらが素直に非を認めるとは思えない。また環境アセスメントの実施をすると言うに決まってるわ。今、手を打たないと取り返しのつかないことになる」
國子は仲間たちに非常招集をかけた。
「みんな聞いて。我々は首都層を離れる!」
「どうしてですか。せっかく占領した人工地盤なのに」
國子はもう荷物をまとめていた。ブーメランを携えていつでも出撃の準備は整っていた。
「ここにいても光化学スモッグの発生を抑えられない。ダイダロスの種は明日にもまた打ちつけるかもしれない。地上に降りて大気汚染の源である森を焼く。全員ありったけの火薬を持って地上へ降下せよ! これは私たち人間の生死をかけた闘いである」
首都層に再び戦時の嵐が吹き荒れていた。
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第十三章 東京大空襲
首都層の冷たい空気に慣れたばかりだというのに、再び地上を目指すことになった國子たちは、沈鬱《ちんうつ》な面もちだった。高速エレベータは地上まで五分もかからずに軽々と國子たちを地上へ降ろしてくれる。アトラスに入城するのは決死の覚悟だったが、離れるときの容易さといったら拍子抜けだ。地上に近づくたびに肺が湿度の高い空気を取り入れていくのがわかる。重たくてべたついた密林の匂いだ。
「地上はまたスコールね」
國子が呟《つぶや》くとモモコも相槌《あいづち》を打った。第三層を覆っていた雲を突き抜けたときに雨の匂いを嗅《か》いだのだ。
「雨で光化学スモッグも消えたわよ」
モモコがガスマスクを外そうとするのに、國子が防護服に身を包みだした。同乗した仲間たちも國子が何に慌てているのか掴《つか》みかねていた。
「みんな着替えて。光化学スモッグの方がまだマシよ。窒素酸化物が水と結合したら硝酸になる。地上は酸性雨のスコールよ」
「酸性雨ですって? 髪の毛が緑色になるって奴でしょう?」
「旧時代の森林破壊の雨だ。もしや地上の森を一掃してくれるのでは?」
酸性雨と聞いて一縷《いちる》の望みを託した男の顔が明るくなる。しかしそれも國子の言葉で打ち砕かれた。
「酸性雨で森が枯れたらダイダロスがより繁殖してしまうわ。きっとあの植物は酸に対して抗体を持っている。でなきゃ窒素酸化物なんか発生しない」
「今度の敵は森か。政府軍のようには撤退してくれなさそうだ……」
「ダイダロスを今根絶やしにしないと国土の全てが冒されてしまう。そうなったら一億総難民よ。世界中が悲鳴を上げるわ」
國子の言葉に皆がぞっとした。森に国ごと乗っ取られ惨めに世界中に流れていく日本人たち。受け入れ国から疎まれ拒否され蔑《さげす》まれ日本人であることに劣等感を持ち続けながら生きていく。ダイダロスが放出する窒素酸化物で世界中の大気は汚染され、文明は百年以上後退する。跳ね上がった炭素指数に世界経済は恐慌を起こすだろう。世界中の人たちはこう怒鳴るに違いない。災いを招いた日本に責任を取らせろ、と。そしてこうあざ笑うだろう。日本なんて国はもう消滅したんだった、と。
「政府に責任を取らせましょう。森を焼くなんて無謀です」
「もう政府のせいだなんて言ってられないわ。これは日本人の責任よ」
エレベータが地上に到着した。扉の向こうは分厚い酸性雨の壁だった。この雨が土壌を、水質を汚染する。大地は人の住めない緑の地獄となった。首都層に乗り込むとき、地上はまだ人の住める場所だったのに、三日もしないうちに地獄に変わっていた。誰がこんな未来を想像しただろう。政府との闘いに勝った後の絶望は敗戦よりも堪《こた》えた。
「防護服は酸にどれだけ保《も》つの?」
「気密性を保つ以外は役に立ちません。耐酸性なんて想定外ですから」
「じゃあスコールが止むのを待ちましょう。ドゥオモにはブリッジを開けておくように伝えて。酸性雨を広場に蓄えておくわけにはいかない。配管には銅が使われている。硝酸と激しく反応して有毒ガスが出るから、地下シェルターに避難するように」
首都層から見た眼下の森は抱えられるほどの大きさだったのに、いざ地上に降りてみるとその巨大さに唖然《あぜん》とする。政府の執った森林化は生態系ピラミッドの頂点にいた人間を蹴落《けお》とす政策だった。森はあらゆる生命の頂点に君臨する圧倒的存在だ。その恐さと隣り合わせに生きてきた國子たちは、森と闘うことがどれだけ途方もないことかよく知っている。まだ南極の氷を全て溶かす方が地道だが確実だった。酸性雨のスコールを見つめながら國子は、どう森を征服していけばいいのか思案していた。
「ドゥオモにはどれだけ火薬が残ってた?」
「首都層制圧作戦に使ったのでほぼ全てです」
そう、と呟いた國子の肩をモモコが支えてくれた。
「きっと大丈夫よ。あたしたちなら森とも闘えるわ。だって政府から首都層を奪い取ったんですもの。今までそんな総統がいたかしら? ねえみんな」
「そうですよ。國子様はご武運のお強い方です。最後までお供いたします」
軒にしたメガシャフトの下に灯《とも》った小さな闘いの炎を、スコールが見下すように笑っていた。
ドゥオモに戻った國子たちは酸性雨の力に唖然とした。配管の銅が希硝酸と反応して腐食しているではないか。惨めに溶けた自分たちの街はもう包帯で巻いても治らないほど蝕《むしば》まれていた。ドゥオモの民はこれがいつものスコールではないことをもう知っているようだった。民はドゥオモに戻った國子に不安の顔を投げた。彼らもそんな顔をしたくなかっただろう。抱えていた紙吹雪の箱はブリッジが開くと同時に投げられるはずだった。広場を跨《また》ぐように飾られた万国旗の色が酸性雨で退色していた。パーティを台無しにされたみんなが途方に暮れている。そんな褪《あ》せた顔ばかりの中で、誰かが力なく拍手をした。
「國子様がご無事で帰られたのだ。こんなに嬉《うれ》しいことはないだろう」
「そうよ。私たちには國子様が手に入れた人工地盤があるわ」
ふと正気に返った民が百の拍手を生み、千の喝采《かつさい》になり、万の希望に変わる。國子はこんなにも自分を信じてくれる民を前に意気消沈してなどいられない。國子は鉄兜《てつかぶと》を被《かぶ》り、鶴嘴《つるはし》を掲げた。
「みんな聞け。首都層を手に入れたぞ。我らは空に移民する!」
脚を踏みならした音がドゥオモを揺さぶり、歓喜の音を奏でる。國子の気持ちを察した兵士たちも思いっきり晴れやかな顔で勝利の雄叫《おたけ》びをあげた。それでやっとみんなが紙吹雪を舞わせてくれた。國子はこれが幻の喜びにすぎないことを今は黙っていようと思った。
「首都層は見晴らしが良い場所よ。きっとみんなも気に入るわ」
「モモコ様のお店も首都層に近日オープンよ。みんな来てね」
一通りパレードが終わると、國子は息巻いて凪子の部屋に向かった。こんな茶番をするために総統になったわけではない。アトラス計画が一体何を目的としているのか、立案者である凪子を問いつめてやらなければ気が済まない。難民の救世主のような顔をしてドゥオモに君臨している凪子は虚像にすぎなかった。あの白人|爺《じい》さんと何を企《たくら》み、なぜ同胞の犠牲を生みながらもアトラス攻略戦を仕向けたのか、納得のいく説明が聞きたかった。
國子がドアを脚で蹴飛ばした。しかし凪子は泰然と座ったままだ。キセルをくわえた凪子は國子の剣幕などに動じない。
「首都層を制圧するとは見事じゃ。良い旅をしてきたようじゃな」
「ふざけないでお婆さま。あたしをアトラスに送り込んだ本当の理由は何?」
二日振りに会った凪子は心なしか若返ったようにも見える。元々強かった眼力が若き日の映像の凪子のように爛々《らんらん》と輝いていた。
「運命を知るためじゃ。ゼウスの暗号鍵を開けたとき、おまえはアトラスに呼ばれるべくして呼ばれた」
「質問を変えるわ。アトラス公社の初代総裁に聞きたい。何故アトラスを造ったの?」
「ほう、映像を見たのか。ならばセルゲイにも会ったじゃろう」
「国際司法裁判所の仲裁人として現れたわよ。一体何を企んでいるの? あたしはお婆さまの筋立て通りには踊らないわよ」
「承知の上じゃ。おまえが地上に戻ってくるのは予想していた」
「もしあたしが戦死したらどうするつもりだったの?」
國子と凪子の間に冷たい空気が侵入していた。二日前まで懐で甘えていたのに、もう凪子との距離は埋められそうもない。
「もし戦死したらその程度の運命だったということじゃ。我らの願いは後世へと託されよう」
凪子はキセルの灰をポンと炭櫃《すびつ》に捨てた。國子はその言葉に耳を疑った。これが自分を保護し帝王学を叩《たた》き込んだ凪子の正体だ。凪子は厳しかったが國子はそれが愛情故であると知っていた。凪子が亡くなった後も反政府活動を続けるためには、新しいリーダーがいる。そのために自分に帝王学を教えているのだと思っていた。しかし凪子の政府憎しの背中を見て育った幼年期は全てマヤカシだ。凪子は現政府よりも罪が深い。彼女がアトラス計画を立ち上げなければ、森林化も難民問題も生まれなかったのだから。
「あたしを玩具《おもちや》にして老後の楽しみにするのはやめて。お婆さまの犯した罪は償えるようなものじゃないわ。死んでいった仲間たちはお婆さまに騙《だま》されていたのよ」
「犠牲は覚悟の上じゃ。おまえをアトラスに送るには憎悪が一番じゃった。憎悪は鮮明に物事を見せてくれる。アトラスには光と闇がある。おまえは太陽の子じゃ。闇を覚えるのには時間がかかる。だから闇を先に見せた」
「その口ぶりじゃ公社が誘拐《ゆうかい》に手を染めているのも知っていたわね。ドゥオモの子どもたちがメガシャフトの人柱にされているのを何故黙っていたの」
「アトラスは幸福な技術だけでは完成しない。あらゆる犠牲を伴うことが前提なのじゃ。国も歴史も人命も全てを犠牲にして造り上げる。その罪は全て私が負う。おまえには関係のないことじゃ」
「あるわ。アトラス建造の真実を知ったからには、子どもたちを守る責任がある。もうドゥオモの子どもを生《い》け贄《にえ》にはさせない」
まるで悪魔の会話だと國子はおぞましくなる。この話を誰かに聞かれたらドゥオモの共同体は崩壊する。凪子は魔女狩りのように糾弾され地位を剥奪《はくだつ》されるばかりか、火あぶりにされかねない。
「お婆さま、どうか正気に戻って。今ならあたしの胸の内に秘められる。アトラス計画を見直すように公社にかけあって。お婆さまなら出来るはずよ」
「それは出来ぬ相談じゃ。所詮《しよせん》、私もアトラス計画の歯車のひとつにすぎぬ。すべてはおまえのために五十年前に立ち上がったシステムじゃ」
「あたしは人殺しのシステムのために生まれたんじゃない! あたしにだって選ぶ権利はあるわ!」
「ない。おまえが十八年かけて得た権利など紙屑《かみくず》以下じゃ。もっと大きな流れに身を委《ゆだ》ねよ。そのときおまえは何者かを知るじゃろう」
凪子は厳然と言い放った。
「おまえはもう一度、アトラスへ向かう。今度は自分の意志でじゃ!」
まるで催眠術にかけられたように國子の体は硬直した。自分の意志でアトラスに向かうことはきっともうない。命令されても仕組まれても嫌なものは嫌だった。一体自分に何をさせたいのだ。凪子の望むままアトラス攻略戦に出陣したのは、無知ゆえだった。しかし次は違う。アトラスに行けと言われたら断固拒否する。新迎賓館での政府との和平交渉は凪子にしてもらう。盟友のタルシャンと仲良く手を繋《つな》いで第七層も乗っ取ればいい。全ては出来レースだ。こんな茶番に命を懸ける価値などない。
「答えて。お婆さまはアトラス計画で何を成したかったの?」
凪子はしばらく黙っていたが、ぼそっと呟《つぶや》いた。
「平和じゃ……」
「血で血を洗うきっかけを作っておいてよく言うわ。お婆さまの言う平和って死者がたくさんいる世界のことでしょ? 森林化のせいでアトラスは危機に晒《さら》されているのを知ってるの? これもお婆さまの予想の内なの?」
凪子は答えなかったが、顔はYESと言っていた。その自信に満ちた表情に國子は眩暈《めまい》を覚えた。凪子は本物の狂信者だ。この老婆を改悛《かいしゆん》させるなんて不可能だ。
「東京は喪失と再生を繰り返すことで生き延びる都市じゃ。第二次関東大震災の後、東京はアトラスで復興した。それ以前は第二次世界大戦の焼け野原じゃった。東京は五十年ごとに脱皮を繰り返す。それが東京の活力の源になっておる。私のアトラス計画からも五十年じゃ。そろそろ脱皮の時期じゃな」
街を擬人化するなんてバカらしいと國子が嗤《わら》った。凪子のレトリックは年寄りの懐古趣味だと指摘すると、無知なのはおまえだと言い返された。都市には生命のリズムがあり、東京は五十年ごとにひとつ歳をとるのだと言う。
「それが時代というものじゃ。私の作った時代は冬じゃった。冬を殺せば春が生まれる。そのためには一度全てを失うしかない」
「それは森に食われて死ねってことじゃないの。お婆さまのアトラス計画は国を滅ぼす。お婆さまは自分の老衰と日本の没落を同調して考えているわ。でもあたしたちはお婆さまと死ぬわけにはいかない。明日にも森を焼くわ」
「おまえは正しい。それでこそ、ゼウスに選ばれし子じゃ」
國子はその言葉にカチンときた。自分たちの明日の苦労まで手の内といわんばかりだ。國子は涙目になって叫んだ。
「お婆さまをドゥオモから追放するわ。今まで死んだ仲間たちへ償ってもらう。これは総統命令よ。すぐに荷物をまとめて出て行きなさい!」
凪子は背筋を伸ばして立ち上がると、総統の仰るままに、と頭《こうべ》を垂れた。
國子たちが離れた首都層は廃墟《はいきよ》同然の光景だった。政府との交渉に残した部下以外は全て引き払った。メタル・エイジのスタッフが五人しかいない首都層で三千人の政府軍が平和維持活動をしている。いっそ捕虜にされたと思った方が気分がすっきりする。交渉人たちは疎外感に怯《おび》えながら地上のドゥオモと頻繁に連絡を取っていたが、めぼしい連絡は入らない。
支配者が目まぐるしく変わる首都層に驕慢《きようまん》なバイクの音が轟《とどろ》く。立入禁止の柵《さく》を蹴《け》り倒し、交通規制を無視し、欲するままに快進撃を続ける涼子がいた。邪魔する者はハーレーの下敷きになる。涼子の持て余したエネルギーは、人間百万人分の活力に匹敵する。これだけのエネルギーをひとりの肉体に内包しておくのは不可能だ。豆電球を一個光らせるために原発一基を稼働させているような状態だ。だから常に熱を排出していないと涼子の体は溶けてしまう。そのためには犠牲者が必要だ。他人が欲しがるものを掠《かす》め取ることは冷却に相当する。
涼子は下半身を震わせた。脊髄《せきずい》に宿る闘争本能が獲物をねだる。
「ああ、もっと欲しいわ。もっと大きな奴を仕留めなきゃ、子宮が溶けちゃう。うふふふふ」
狩猟は涼子の現実認知システムだ。既得権と圧倒的な才能を持つ故に、涼子は生まれながらに世界と一体である。しかしそれだと自己と他者の区別がつかない。もし涼子に狩猟本能がなければ、ただのエネルギー体にすぎなかっただろう。彼女を人間たらしめているのは、自我があるからだ。他者の悲鳴が自己の輪郭を与えてくれる。他者の無能力が世界に奥行きを与えてくれる。そして他者の血が涼子を讃《たた》えてくれる。やはり涼子こそ至高の存在だと。唯一無二の存在なのに、孤高ではいられない。孤独は涼子の死を意味するからだ。その意味で涼子はもっとも他人を必要としている。
涼子は荒廃した首都層を見渡した。
「お爺《じい》さまが見たら嘆くわね。ゲリラに首都を奪われるなんて」
祖父の鳴瀬慶一郎もまた涼子と同じ才能を持て余した人間だった。慶一郎は第二次関東大震災の混乱の中に現れた風雲児だ。壊滅的な被害を受けた東京をもう一度再生させるために、アトラス計画を強力にサポートした。新時代の第一党となる緑の党を立ち上げ、あっという間に政界の頂点を極めた。幼かった涼子は祖父の狂気を宿した背中を覚えている。全身が鋭利な刃物のような慶一郎は親族からも恐れられていたが、涼子だけは祖父を敬愛していた。祖父の背中におぶさりながら聞かされるアトラス計画の話は、涼子のお伽《とぎ》話だった。慶一郎はよくこう言ったものだ。
「この塔は高貴な方を迎えるためにある」と。
慶一郎はそのためなら百万人の難民が地上に溢《あふ》れてもいいとまで言った。実際、彼が首相を務めた六年間が最も多くの難民を生んだ。急速に再生する空の東京と破壊が進む地上のコントラストは、涼子の目にドラマチックに映った。当時、アトラスでは第五層の都市計画が進められていた。慶一郎はその青写真を見せながら、涼子に夢を語った。
「第五層に首都機能を集約する。ここを世界で一番美しい街にしよう」
「お爺さま、国会議事堂はビッグベンにして。私は時計台の音を聞きながらお爺さまの帰りを待つわ」
慶一郎は涼子との約束通りロンドンの街並みを首都層に再現した。欲しいものは簡単に手に入る。理想と現実の区別のない二人はあらゆる夢を首都層に描いた。過剰防衛なほどの防空システム。メガシャフトを利用した大物流システム。大規模擬態する街。擬態材を施した戦術兵器。全て涼子の言った通りになった。慶一郎は涼子にこう言った。
「アトラスが敵の手に落ちることは絶対にない。もし落ちるときがあれば、それは私の魂の死を意味する。アトラスは私の命なのだ」
「お爺さま心配しないで。もしアトラスに何かがあったら私が守るわ」
「涼子なら、できるだろうな」
傍目《はため》には祖父と孫娘の他愛のない会話に映っただろうが、この二人に仮定法の会話はない。夢だけで生きられる能力を持つ二人は、現実が何たるかを知らない。夢は快楽を与え、現実は痛みを与える。快楽を追求する慶一郎と涼子は痛みを知らない人生だ。もし夢のままで一生を過ごせたら、脳内で生きたことになるだろう。目や耳や鼻や舌や肌の感覚器は、人間に見せるための飾りにすぎない。慶一郎は脳内で自足して一生を終えた。恐らく彼は死んだことすら自覚しなかっただろう。葬儀のとき、遺体の慶一郎は今にも起きあがりそうなほど生気に満ちていた。涼子はみんなが泣いているのをよそに、ずっと祖父の遺体と昨日の続きのお喋《しやべ》りをしていた。遺体の手は温かく、見開いた目には生気が漲《みなぎ》っていた。葬儀が別れなのは無能な人間が無能なまま死んだときだ。全能な人間は死体になっても決して朽ちない。その証拠に慶一郎の遺体は参列したどの生者よりも活き活きとしているではないか。慶一郎の肉体は神が宿った器だったのだと涼子は思った。だから同じ遺伝子を持つ自分は聖なる女なのだ。自分も夢のままに生きられる神の器だと信じた。
しかし難攻不落と呼ばれた要塞《ようさい》も昨日、ゲリラの手に落ちた。この事実がまだ涼子には受け入れられない。このアトラスがたった千人のゲリラの奇襲攻撃で落ちるなんて。涼子の心にザラッとした感覚が生まれた。この感覚も初めてのものだ。涼子はてっきりガラスの破片か何かが胸に刺さったのかと皮膚の表面を撫《な》でた。しかし完璧《かんぺき》な肉体には傷ひとつついていない。なのに胸の感覚は心臓を切り裂くほどだ。涼子はこれが現実が与える作用のひとつだとまだ気づかなかった。夢は破れたとき痛みの現実に変わる。
「なにかしら? 胸がむかむかするわ」
これも初めての感覚だ。涼子は憎悪されることはあっても憎悪することのない人間だ。彼女の行動は全て一義的な本能だ。善悪という文化的規範は能力のない人間のルールだ。全能な涼子は善悪を超越して行動する。なのに今日は心が自由を奪う。涼子は初めて自分の体が重いと感じた。
「なぜ私がこんな目に遭うの? お爺さまのように生きたいのに」
ビッグベンの鐘が正午を告げた。その音を聞いたとき、涼子は鎮魂歌だと思った。ビッグベンの鐘の音がもの悲しくレクイエムを奏でる。涼子の目頭が熱くなってポロリと一粒の涙を落とした。これが、涙というものか。涼子は今日、慶一郎の死を初めて受け止めた。祖父の死から二十五年が経っていた。
胸の疼《うず》きを抑えられずハーレーを向かわせた先は、新谷中の墓地だった。自分の肉体が永遠であると遺言した慶一郎は荼毘《だび》に付されることを拒み、埋葬を望んだ。キリスト教の聖人は朽ちない肉体を持つといわれる。祖父が神の器なら、その肉体はまだ残っているはずである。涼子は躊躇《ためら》うことなく鳴瀬家の墓を暴いた。埃《ほこり》の積もった棺の中に祖父の笑顔が咲いていると信じて蓋《ふた》を開けた。
「いやああああ! お爺さまが!」
棺の中の慶一郎は無様な白骨に変わっていた。黴《かび》臭い匂いの籠《こ》もった棺は腐乱で板を変色させていた。朽ちない肉体を持つ存在だったのに、たった二十五年でこの姿である。涼子は自分の背中に闇が迫っていることを感じた。祖父が朽ちたのは夢が破れたからだ。神は夢を抱けなくなった祖父を嫌い白骨にしてしまった。これは難攻不落の要塞をゲリラに渡した罰だ。現実は、痛く、暗く、寒く、重く、そして何より汚い! 涼子は襲いかかる現実という悪魔の前でただ震えるだけだった。現実を肉体に受け入れることは死を意味する。永遠の存在であるはずの涼子に死の足音が迫っているのを感じた。祖父は夢破れた罰を受けたのだ。涼子は白骨化した祖父の手を握った。
「おお神よ。もう一度我らに不滅の肉体を与え賜え。与え賜え……」
心の中で慶一郎の霊が「涼子よ、アトラスを完成させろ」と告げた。それが死を免れる唯一の手段なら、夢のままに生きられる永遠の存在になれるなら、躊躇うものはない。涼子は幼い頃に慶一郎のような人間に会ったことがある。その人物なら助けになるかもしれないと思った。
「お爺さまの魂を穢《けが》す奴は、私が許さないわよ」
地上のドゥオモでは森を焼く準備が整っていた。手に入るだけの|火※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]《かえん》放射器と火薬が広場に集められた。これだけの火薬でも東京全土の森を焼くには足りない。
「もっと集めなきゃ。資金が足りないわ」
國子がアトラス攻略戦に向かっている間に、ドゥオモの資金は底をついた。聞けばチャンというシンガポール人が凪子と共闘してグラファイトを売り尽くしたらしい。その金は全て重慶市へと注がれていた。そのチャンは追放した凪子とともに姿を眩《くら》ました。
「國子様、最新のデータが出ました。ダイダロスの窒素酸化物の排出量の予測です。一年後には六倍の規模に達します。これだけ大量に窒素酸化物が排出されると生物は即死します。大気汚染どころではありません」
「今から焼いても森を全部灰にするまで三年はかかるのよ。一年以内に終わらせる方法を考えて」
「他の活動グループもこの事態を深刻に受け止めて森を焼くことに賛成してくれました。練馬、中野、目黒の森は分担できます」
「もっとよ。もっと分担して。人海戦術しか方法がないのよ」
「現在NGOの幾つかと交渉中です。しかし我々の過激な手段に難色を示しています」
これだから穏健派はと國子は親指の爪を噛《か》んだ。光化学スモッグが発生しているのに、様子を見るとは政府と同じ無能さだ。
「責任はあたしが取る。資金調達できる組織はない? 政府から取り上げた首都層を担保に借金を申し込む」
「最近、秋葉原のシンジケートをまとめたネオギルドなるものが発足したと聞きました。資金調達能力では世界銀行をも上回ると噂されております」
「そんなの初めて聞いたわ」
「國子様がアトラスに出撃された後に出来た組織です。地上も混乱しておりましたから。秋葉原もダイダロスの攻撃でシンジケートが麻痺《まひ》しておりました。それを二日でまとめた新しい組織がネオギルドです」
「そこと交渉する。金融センターの回線を開いて」
凪子の着ていたガウンに袖《そで》を通して、席についた。総統の礼服だが抵抗があった。凪子は諸悪の根源だ。今まで彼女に捧《ささ》げていた敬意も感謝ももはや尽き果てた。本当は身を焼くほど怒りたかった。なのに悲しみの方が大きくて怒れない。考えると色んな感情がせめぎ合って酔った気分になる。冷静でいたかった國子は凪子への追慕や憎悪を封印することにした。今は森を焼くことに専念しなければ、地上も空も地獄になってしまう。
「ネオギルドと連絡が取れました。スクリーンに映像がきます」
國子は新たな組織の首領がどんな人物なのか興味があった。秋葉原のシンジケートはバラバラだが敵に対しては一枚岩になる。買収できるほど簡単なシンジケートならとっくにメタル・エイジが併合していた。それを二日で成し遂げたとは一体どういう手段を使ったのだろうか。
「こちらはメタル・エイジ総統の北条國子だ。ネオギルドの首領に会いたい」
スクリーンに現れたのは、ボロのテディベアを脇に抱えた少女だった。あまりの幼さに國子はネオギルドのオペレーターのひとりかと思った。少女は勝ち気な眼差《まなざ》しを國子に向けた。
『はじめまして総統閣下。あたしはネオギルドの石田香凜です。一度ゆっくりお話がしたかったのよ』
香凜は地上に降りるや、治外法権の秋葉原に目をつけた。ゼウスの逮捕権が及ばない秋葉原なら身を隠すのに好都合だ。しかしただ隠れるだけでは性に合わない。ゼウスに対抗するためには新たな組織が必要である。香凜はバラバラに活動していたシンジケートをまとめてネオギルドを発足させることにした。ダイダロスの被害に遭っていた秋葉原に復興資金の五千億円をポンと寄付し、秋葉原の弱みにつけこむことにした。治外法権は平時の商取引には有利だが、有事のとき無国籍地帯は国連の援助も受けられない。香凜は政府資産とメデューサの機能を使って、秋葉原の住民全員にカナダ国籍を取得させた。ネオギルドの会員になることを条件にして。これで秋葉原は有事の際、カナダへ脱出できる。カナダはシンジケートを国内企業にすることで、合法的にハイテク素材を購入できる。どちらにも損のない話だ。
ネオギルドの首領になった香凜は、政府転覆を目論《もくろ》んだ。今まで働き蟻にされた恨みは百倍にして返さなければ気が済まない。ただゲリラのように武力で政府を圧倒するのはカーボニストの名が廃《すた》る。香凜の武器は知恵とメデューサだ。
國子は香凜が不敵な笑いを浮かべているのを訝《いぶか》しんだ。初めて会ったはずなのに、なぜか香凜は自分に敵意を持っているような気がした。
「初めてお会いして借金を申し込むのは気が引けます。こちらは首都層を制圧しました。人工地盤を担保に二十兆円貸していただきたい」
『首都層なら担保として充分だよ。年利〇・一パーセントで貸すよ。もし急ぎなら武器部門と取り次ごうか? 安くしとくよ』
國子は香凜の機転の早さに驚いた。
「ありがたいわ。火※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]放射器十万丁と一千万発の焼夷弾《しよういだん》がほしい」
『来週には届くように手配しとく』
と香凜は一旦言葉を止めて、國子の勾玉《まがたま》のネックレスに目をつけた。
『あと、その勾玉をこちらに渡せば、B5ステルス爆撃機と気化爆弾をセットで用意するよ』
勾玉と聞いて國子は胸元のネックレスを見つめた。これはゼウスの声を聞いたとき凪子から譲り受けたものだ。あの策略老婆に見事|嵌《は》められてアトラスへ出撃することになった。アトラスでの思い出など早く忘れてしまいたかった國子は香凜の申し出を受け入れた。
「B5ステルス爆撃機を五機、気化爆弾五百発を一兆円で取引したい」
これで森を焼く速度も飛躍的に増大する。空から攻撃すれば一ヶ月もかからずに地上は焦土と化すだろう。
『うーん。原価を割るけど一兆円でいいや。長いお付き合いになりそうだし、こちらもメーカーに販売実績がほしいから、おまけしとく。来月でいい?』
香凜は悪戯《いたずら》っぽくウインクした。取っつきにくい少女だと思ったが、話が早いのが気に入った。
國子は勾玉のネックレスを外すと、部下に秋葉原に届けるよう申しつけた。装飾品ひとつでステルス爆撃機と気化爆弾が手に入ると思えば安いものだ。しかし手に入るまで何もしないわけにもいかない。武器が手に入るまでは人海戦術で森を攻めておこう。それが多くの仲間たちを集める狼煙《のろし》にもなる。
「池袋の森を焼く。総員出撃せよ!」
秋葉原を牛耳った香凜は通信を切った後、にんまりと笑った。ネオギルドは身を守るばかりか金と宝を生み出す魔法のシステムだ。香凜の肉体の循環器は経済炭素を吸収して金を吐き出す。香凜が呼吸をするたびに巨万の富が転がりこんでくるのは、地上にいても同じだった。つい堪えられず腹を抱えて転がる。
「あははは。バッカだなあ、あいつ。やっぱり地上の猿はアタマ悪いや」
香凜の政府転覆計画はアトラス計画を白紙にすることではない。むしろアトラス計画の中枢に潜り込み、自分の意のままに操れる新しいシステムを構築することだ。まずアトラス政府の官僚たちを地上に追放して地獄を味わってもらう。それからゼウスを倒し、メデューサに治安維持を行わせる。しかし国家は正当性のないテロリストを元首として迎え入れはしない。香凜に必要なのは強力な後ろ楯《だて》だ。だが、それももうすぐ手に入る。
部下の男が執務室をノックした。
「香凜様、間もなくお客様が到着いたします。お迎えの準備をなさってください。これにお着替えください」
「ちぇ。[Range Murata]の服じゃないのかあ」
香凜はお気に入りのブランドの服を着られなくて、ちょっと膨れた。
表に出ると、秋葉原はアトラスの食に飲まれようとしていた。辺りの温度が急に下がり、鳥肌が立つほど冷える。香凜はふと空を見上げた。視界を覆うように聳《そび》えるアトラスが太陽を遮っていく。外からアトラスを見たことなんてなかった。あれが香凜が二日前まで住んでいた街だ。第三層にいたときそこが天空だと感じたことは一度もなかった。第三層が香凜のゼロメートルで地上は崖《がけ》の底だと思っていた。しかしこうやって見上げると第三層の何と遠いことだろう。あそこを楽園だと思って働いていた日が夢のようだ。香凜は決意した。今は追われる身だが、そのうちアトラスの全てを牛耳ってやろう。その日が来るまでこの地上の臭さは我慢だ。
辛うじて見えていた第三層が闇に飲まれた。二十分間の食の始まりだ。アトラスの闇が束の間の夜を生み出した。
「香凜様、お客様が見えたようです」
雅《みやび》な笛の音色が闇に響く。牛車《ぎつしや》が食の中に現れていた。
美邦に逃げられた公社は朝から大捜索に追われている。首都層にも新迎賓館にも新飯倉公館にも美邦は戻っていない。重要な候補者を失ったとあっては公社の存続に関わる。美邦は水蛭子を連れてどこかに雲隠れしたようだ。公社の管制室に声があがった。
「ゼウスの初期化終了。目覚めます」
脳死から生還したゼウスは立ち上がるや、すぐに水蛭子の喪失に気づき自動的に警報を鳴らした。そして美邦が行方不明と知ると全神経を捜索に傾けた。アトラス全層に張り巡らせたゼウスの神経網は一ミリ単位の精度で物体を把握する。捜索網は人工地盤の構造体にまで広げられた。ゼウスは把握した全ての生物の情報を挙げる。鼠、ノミ、ゴキブリ、雀、トンボ、猫、そしてアトラスランクをつけられた全ての人間たち。十億の生命体を瞬時に把握しても、その中に美邦も水蛭子もいなかった。
「メガシャフトの全ての竪穴《たてあな》を捜索しましたが鼠しかいませんでした」
「新帝国ホテルから美邦様を帰せと通告が来ました。これで六度目です」
「美邦様は体調不良で公社から外に出られないと言え」
もし美邦の身に何かがあると公社は解体されるばかりか、アトラス計画が頓挫《とんざ》してしまう。そうなれば全てが水の泡だ。ついに公社はプライドを捨て警察の手を借りることにした。これで幹部の更迭は避けられなくなった。
「タルシャン様に報告しますか?」
「タルシャン様は接客中だ。一切連絡を入れるなとのことだ」
タルシャンの執務室にいたのはカクテルドレスを着た女だ。女はやってくるなりタルシャンの首に抱きついた。
「お久し振りですわ。セルゲイおじさま」
「リョウコ。きれいな女性になったものだ」
涼子は魅惑的な唇でタルシャンの頬にキスをした。祖父が首相を務めていた三十年前、涼子はアトラス公社で中年だったタルシャンに会っていた。そのとき涼子はタルシャンも自分や祖父と同じ、聖なる存在だと感じていた。予想通りタルシャンの目は若き日のままだった。彼こそ神から選ばれし不滅の人だ。
「ケイイチロウの葬儀に出られなかったのは今でも心残りだ」
「セルゲイおじさまはニューヨークにいたんですもの。動けぬ身は知っておりますわ。祖父は最後までセルゲイおじさまとの夢を語っておりました」
「ケイイチロウの助力がなければアトラスはここまで完成できなかっただろう。志の高い男であった」
鳴瀬慶一郎はアトラス計画の全てを知る最初で最後の首相だ。アメリカの連邦準備銀行が金融引き締め政策を執ったとき、タルシャンの資金が一時凍結されたことがある。資金不足に陥ったアトラス公社は、日本政府の予算に縋《すが》ることにした。しかし公社と政府は資金に関しては一枚岩ではない。予算委員会から撥《は》ねられ、規模縮小を提示された。アトラスは十三層まで造らないと意味のない建造物だ。一考したタルシャンは緑の党を立ち上げたばかりの鳴瀬慶一郎に接触した。志の高い目をした鳴瀬慶一郎は、千年の正義を掲げていた。千年の幸福な統治のためなら百年の地獄を生み出しても良いという信念で国政に参加していた。当時弱小政党だった緑の党はタルシャンの資金を得て飛躍的に議席を伸ばし、第一党に躍進した。そこでタルシャンは慶一郎にアトラス計画の全てを話すことにした。自分と同じ目をした慶一郎なら、きっと理解してくれると信じていた。慶一郎はアトラス計画の全てを知るや、国家予算の七割をアトラス建造に傾けた。資金を得たアトラスは今までの十倍の速さで組み上がっていった。彼は首相在任中の間、タルシャンと夢を語らう親友だった。慶一郎はよくこう言った。
「私が後世、悪魔の総理大臣と呼ばれても構わない。アトラス建造で生み出した罪は全て私が引き受けよう」
それが彼の首相在任期間を短くするものであったにも拘《かか》わらず、慶一郎は国庫をアトラス建造に注いだ。国庫が底をつけばアトラス国債を乱発して資金を集めた。慶一郎が内閣不信任で首相の座を追いやられ、国の資金が得られなくなると、今度はタルシャンがアメリカから金を注ぎ込んだ。二人の狂信者があらゆる犠牲を払って今日のアトラスを造り上げた。そんな時代をタルシャンは懐かしく振り返っていた。
「私の人生の中でケイイチロウは親友と呼べる数少ない人間だった」
「お爺《じい》さまもそう言っておりました。セルゲイおじさまは真の帝王だと。でも不思議ですわ。国粋主義でタカ派のお爺さまがどうして外国人のおじさまの言葉を聞き入れたのかしら?」
「ケイイチロウは第二次関東大震災の焼け野原であるものを見てしまったのだ。それを見ると誰もがアトラスの合理性を疑わなくなる。私の言葉がケイイチロウの理念に沿っていただけだ」
それは祖父からも聞いたことがある。震災後焼け野原になった東京を視察したとき、表に出してはいけないものを見たと言う。それは溺愛《できあい》していた涼子にも教えられないほど重要な秘密らしかった。
「セルゲイおじさま知ってるかしら? 私が六つのときにおじさまにあげたプレゼント」
タルシャンは袖《そで》のカフスボタンをさり気なく涼子に見せた。仕立ての良いスーツには似合わない安手のカメオのカフスボタンだった。
「すぐに気づくと思っていた。忘れていたのは君の方だぞ」
涼子はあっと声をあげて頬を赤らめた。子どものプレゼントを彼は今も肌身離さず身につけているではないか。当時、笑われるだけと思っても渡したかったプレゼントだ。タルシャンは涼子の初恋の人だった。
「プレゼントは誰から貰《もら》うかが重要だ。私はケイイチロウと同じ目をした少女から貰ったこのカフスボタンを誇りにしている」
声の出ない涼子の背中にタルシャンの腕が回る。鷹《たか》のような鋭い眼差《まなざ》しを受けて涼子は息もできない。タルシャンの手は焼けた鉄のように熱い。ふわっと涼子の体が無重力を感じるとタルシャンに抱きかかえられていた。おじさま……と呟《つぶや》いた瞬間に涼子の唇は塞《ふさ》がれてしまった。あとは夢の中へと落ちていくだけだった。全能同士の交わりは稲妻の直撃を受けたような衝撃だ。毛細血管が破裂し、瞼《まぶた》の裏の血管が見えるほど鮮明な意識だった。涼子は初めて自分が欠如した存在かもしれないと感じた。タルシャンを受け入れたとき、脳裏に円周率の数字が走った。どこまでも完璧《かんぺき》な円の値が増えていくたびに幸福を覚える。全能である二人のセックスは神に近づく行為だ。一億|桁《けた》、一兆桁とπが加算されていく。無限の幸福は涼子の体を溶かし、一本の痩《や》せた棒になるまで焼き尽くした。小数点は百兆桁まで達している。
――846054560390384553437291414465134749407848844230000000……。ゼロ? 円周率が割り切れた! そんなバカな!
涼子が我に返ると、タルシャンの目が遠い眼差しを浮かべていた。彼の瞳《ひとみ》には誰か他に想い人がいる。この完璧な肉体を持つ自分を抱きながら気を取られる女とは一体誰なのだろう。どんな男でも溺《おぼ》れさせてやる自信はあったのに、涼子は後頭部を殴られたような挫折感を覚えた。ベッドで負ける女は腐乱死体よりも惨めだ。これでは結婚だけして勝った気分になった家畜女みたいではないか。
――この聖なる私をおじさまは拒むのね。
唯一心|惹《ひ》かれた男に拒まれることほど屈辱的なことはない。これなら初めから抱かれなければよかったと思った。タルシャンは誰を求めているのだろう。その女の素性を突き止めて殺してやらねば、自分は老いて朽ちていくただの女郎だ。涼子は適当に演技をしてタルシャンとの行為を終えた。
ベッドで一息ついた涼子が気だるそうに髪をあげる。
「セルゲイおじさまったら手が早いのね。うふふふふ」
「なぜ公社に来た? 私に抱かれるためではあるまい」
「アトラス計画が何なのか、おじさまに教えてほしいからですわ。祖父が白骨になったのは志半ばで死んだためよ。おじさまも死んだ後、骨になりたくないでしょう。うふふふふ」
「アトラス計画は極秘プロジェクトだ。たとえケイイチロウの孫であっても教えるわけにはいかない」
タルシャンはもう背中を向けて服を着ていた。
「興味本位じゃないわ。アトラスが完成するまでにはどんなに早くても三十年はかかる。おじさまが死んだ後もこのプロジェクトを続行させる人が必要でしょう。私ならできるわ」
涼子はノートパソコンを開いた。ファイルは緑の党の幹部たちからの嘆願書だ。内閣不信任案の後の解散総選挙で緑の党は大幅に議席を失うことが懸念されていた。緑の党は政権与党であり続けるために伝説の鳴瀬慶一郎の孫である涼子に出馬を要請してきた。容姿端麗で頭脳|明晰《めいせき》な涼子は新生緑の党のイメージに相応《ふさわ》しい。しかし涼子にはまったくその気がなかったので、出馬を辞退するつもりだった。ついさっきまで、は。
「緑の党にはまだお爺さまの息のかかった政潮会のメンバーがおります。私が出馬すれば必ずトップ当選しますわ」
「私はこの国の政治には興味がない。リョウコが政治家になるなら君の意志でなれ。当選の達磨《だるま》くらいは送ってやろう」
「私なら鳴瀬慶一郎以上にアトラス計画を推し進めることができると言ったんです。国家予算の全てを三十年間、アトラス公社に注ぎ込みましょう」
祖父よりも破格の条件を提示したはずなのに、タルシャンは顔色ひとつ変えなかった。
「アトラス計画は間もなく新しい後継者に譲ることになっている。聡明《そうめい》で勇敢な女性だ。彼女なら本能でアトラスを組み上げるだろう」
「その女性が私だと申し出ているのです。おじさまったら意地悪ね」
タルシャンの袖を引っ張ったらカフスボタンが落ちた。柔らかなカメオが床に叩《たた》きつけられて罅《ひび》割れてしまう。
「アトラスの資金は当面大丈夫だ。リョウコが気にすることではない。さあシャワーを浴びたら帰るんだ」
タルシャンは振り返らずに寝室を後にした。それでおめおめ引き返す涼子ではない。これではただの性処理便所ではないか。金を取るだけ売春婦の方がまだ美しい。肉便器にされ排泄《はいせつ》物を食わされた屈辱は涼子のプライドをズタズタにした。愛も金もなければ別のものを奪うだけである。涼子はタルシャンのコンピュータを開けると情報を盗み出した。
「最終候補者リスト? なにかしら?」
クリックするとトリプルAの認定を受けた三人の画像が現れる。トリプルAというランク自体初めて知るのに、それが三人もいるとはどういうことだ。涼子はひとりが美邦であると知り、公社の過剰な保護の理由がわかった。ひとりは陸軍の少佐だ。彼の補足にある「遺伝的特性」の意味はわからなかった。そして最後のひとりがさっきまで首都層を暴れ回っていたゲリラの首領だと知った。どうしてなのか彼女の情報だけが他の二人に比べて異様に重い。動画を開くとブーメランを投げる瞬間の映像が入っていた。そのクリック数を見て涼子は驚いた。タルシャンはこの動画を二百三十八回も見ていた。
「北条國子。お爺さまの夢を奪った女。私をダッチワイフにした女……」
タルシャンが國子に心を奪われているのなら、血祭りにあげてやるまでだ。どう考えてもこの山猿が自分より優れているとは思えない。國子がアトラスが欲しいならとことん邪魔するまでだ。タルシャンが二度と國子に想いを寄せないように、もう一度自分の眩《まぶ》しさに目を奪われるようにするためには、ゴージャスな演出が必要だ。他人の思惑が絡むと俄然《がぜん》涼子のモチベーションがあがる。涼子は緑の党にアクセスすると出馬要請を受け入れた。
牛車《ぎつしや》が万世橋を越えて秋葉原の領地に入った。香凜は闇に現れた平安絵巻さながらの行列に目を疑った。先頭に立つのは触手のような髪を振り乱す妖怪だ。先導する妖怪は衣冠束帯の従者たちが竹槍《たけやり》でつつくたびに「ぎゃあああああ」と悲鳴をあげた。まるで百鬼夜行ではないか。地上は文明の絶える場所と呼ばれるだけのことはある。牛車が香凜の目の前に止まった。中から現れたのは十二単《じゆうにひとえ》の少女だった。
「お主が妾《わらわ》の後見人になると申し出た娘か?」
「美邦様、ようこそ秋葉原へ。道中お疲れ様でございました」
自分とあまり歳の変わらない香凜に美邦は不満そうだ。水蛭子が秋葉原に行けば美邦の未来が開けると予言しなければ、危険な地上になど降りたくなかった。さりとてゼウスが目覚めればアトラス市民登録されている人間は一秒で発見されてしまう。公社に復讐《ふくしゆう》を誓った美邦はどのみち地上に降りるしか選択肢はなかっただろう。
香凜にとってもこれは渡りに舟だった。ゼウスが認定したトリプルAの美邦が自ら接触を求めてきたのだ。連絡を受けた香凜は丁重におもてなしすると約束した。
「先ずは、この化け物を隔離しましょう。餌は何でしょう?」
「ダメじゃ。ミーコは妾の側に置くのじゃ。電子結界があれば暴れはせん」
さっそく水蛭子はネオギルドの男たちの喉《のど》を食いちぎった。血《ち》飛沫《しぶき》が香凜の顔にかかる。香凜は目を見開いたまま失神していた。ようやく目覚めたとき、美邦は御簾《みす》の奥に座っていた。どうやら水蛭子を上手《うま》く捕獲できたようだ。美邦はもう客であることを忘れて主人気分だ。
「妾は贅沢《ぜいたく》を申せる身分ではないが、口のきき方と態度には気をつけるのじゃ。女官は五十人で良いぞ。着物の襲《かさね》は十六種類ほど用意するのじゃ。贅沢は言っておられぬ」
香凜の血管は切れそうだ。地上は物資不足で単衣《ひとえ》など簡単に手に入るものではない。自分だって好きな服が着られないのを我慢しているのに、この贅沢ボンクラの機嫌をとって諂《へつら》うなんて嫌だった。しかし香凜の後ろ楯《だて》となる重要な人物である。美邦を人質に取っていれば政府は絶対に秋葉原を攻撃しない。多少の我《わ》が儘《まま》は生命保険の掛け金だと我慢することにした。
「すぐにネオギルドが京都から単衣を取り寄せます。襲は三十二種類用意いたしましょう。私どもにお気遣い無用です」
「では厚意に甘えることにしよう。そうじゃ、ついでに京都から伽羅《きやら》の香を取り寄せるのじゃ。ここは匂いがきつい。息が詰まりそうじゃ」
香凜は心の中で「伽羅なんてねえよ、ボケ」と罵《ののし》ったがにっこり笑ってメモを取った。香凜はこういう贅沢病の女をどこかで見たことがあると思った。彼女に比べればまだ軽いかもしれない。秋葉原の住民にカナダ国籍を取得させるためにクラリスに払った手数料は四百億円もした。それでもまだ足りないとクラリスはがめつく要求した。ロンドンのハロッズを買収するのにあと二千億円足りないのだそうだ。
クラリスが成金根性だとすれば、美邦はただの我が儘だ。
「妾は利用されるのが嫌いじゃ。政府へのコネを取り付けたいのが腹じゃろうが、生憎《あいにく》政府とは仲が悪い」
香凜はどう答えようか躊躇《ちゆうちよ》した。こういうやんごとなき素性の人間は嘘を見抜くものだ。もちろん利用するつもりだが、下手に嘘をついて利用しないと言えば疑うに決まっている。人に利用されるのを嫌う人間は、信用すれば無防備なほど心を開くことを香凜は知っている。ここにいれば美邦に有利になるという条件を見せれば彼女は自発的に留まるだろう。
香凜は漆塗りの箱を美邦の前に差し出した。
「これはネオギルドからのささやかな贈り物でございます。美邦様はきっとお気に召されます」
美邦は箱を開けた瞬間息を止めた。中には勾玉《まがたま》のネックレスが収まっていた。さっきドゥオモから届いた品だ。美邦は声を裏返した。
「まさか、これが地上にあるとは! お主どうやって手に入れたのじゃ?」
「この世にネオギルドが手に入れられないものはひとつもございません。美邦様のお持ちの鏡とよくお似合いになるでしょう」
「そなた気に入ったぞ。褒美を取らせたいが逃げてきた身じゃ。感謝の言葉で労《ねぎら》おうぞ。天晴《あつぱ》れじゃ!」
恐れ入りますと香凜は深く頭《こうべ》を垂れた。美邦の正統性が高まれば香凜の身は一層安全になる。共存共栄の始まりだ。
「もう一品も必ず手に入れます。美邦様はここでゆっくりとお待ちください」
「まこと立派な商人じゃ。そなたをアトラスランクBにしよう」
Bかよ、と心の中で舌を打ったが、美邦から信用を取り付けるのには成功したようだ。あとは女官たちが適当に我が儘に振り回されればよい。気になるのは、地下室に閉じこめたあの化け物だ。音を上げた部下が血塗《ちまみ》れでやってきた。
「香凜様、あの化け物を秋葉原に置けば死人が出ます」
「閉じこめておいて。あの化け物は美邦のペットよ。機嫌を損ねたくない」
「電気技師が二人殺されました。電子結界は制御が難しいんです。出力を上げれば死ぬし、下げると破られます」
「あとでメデューサに繋《つな》ぐから、それまで持ちこたえてよ。こっちもいっぱいいっぱいなんだからさあ。絶対に殺さないでよ」
香凜の部下たちは途方に暮れた。新しい秋葉原の首領はとんだ我が儘娘だ。まとめてくれた手腕は認めるが人情に薄い。まるで自分たちを消耗品のように利用しているみたいだ。水蛭子は目を離すとすぐに逃げようとする。ただ閉じこめておけばいい妖怪でもないらしい。聞けば絶えず水蛭子に苦痛を与え続けないと、ますます凶暴になるという。生かさず殺さずの拷問のケアが必要だ。従者たちから渡された竹槍《たけやり》は血で黒く染まっていた。
地下室の水蛭子が絶叫をあげた。
「いけにえを、ささげよ。めがしゃふとが、こわれるぞ。ぎゃあああああ!」
ゼウスが復旧して再びアトラスの建造が始まった。メガシャフトは第九層となる新たな人工地盤を支えようと天に腕を伸ばす。同時に土台の第八層は都市基盤工事が進められていた。この高さになると酸素が少なくなる。所謂《いわゆる》高山病と呼ばれる症状が出始める高さだ。ほとんどの作業をロボットが行うとはいえ、最低限の人間も現場につかねばならない。作業員たちはこの大気に慣れるまでの間、頭痛と吐き気に悩まされ続けた。
「富士山のてっぺんが見下ろせるぞ」
昨日派遣された作業員はまだ酸素ボンベが必要だった。富士山と競争しながら建設していたのに、もうその高さを抜き去った。次の目標は取りあえず月だと笑った。この高さからは地球の丸みが感じられる。空も青いというより黒みがかって見えた。ボリビアの首都ラパスの標高が三千七百メートルだから、第八層は世界最高の高さにある都市になる。そしてこの更に上の世界はまだ誰も住んだことのない高度だ。人間はあらゆる環境に適応できる。現在、第八層の気温は摂氏マイナス十度だ。地上のスコール警報もここまでは届かない。だが、新たな自然との闘いが待っていた。
「今日は埃《ほこり》が多いな」
男が白く染まった肩を払った。見渡せば第八層一面に粉を吹いたような塵《ちり》が積もっていた。アスベストか何かだろうか。男が防塵《ぼうじん》マスクを着用しようとすると、現場監督が笑った。
「これは雪だ。初めて見たのか?」
雪と聞いて男が首を傾げる。この埃みたいに空中を漂う粉が雪なのか。雪のことなら映像資料で何度も見たことがある。子どもの頃から雪合戦に憧《あこが》れていたほどだ。祖父や祖母から聞かされた雪の話にうっとりとしたものだ。東京に雪が降らなくなってもう七十年以上も経つ。
「でも雪って幾何学的な模様のやつでしょう?」
「それは結晶だ。この粒を拡大すれば見られる」
男はルーペで袖《そで》についた埃を見た。途端「すげえ」と歓声があがる。小さな粒は複雑で繊細な構造をしていた。第八層に積雪注意報が発令された。埃のように見えていた雪が綿のように大きくなり、視界を狭めていく。すぐに人工地盤の地平線は雪に隠れて見えなくなった。この雪が摂氏三十六度の地上では雨に変わるなんて信じがたい。垂直都市は季節を跨《また》ぐ。第八層に訪れた冬の足音を地上で聞くことはない。
雪と聞いた野次馬の作業員たちが下の層から上がってきた。
「雪|達磨《だるま》を作ろうぜ。俺、憧れていたんだよなあ」
「僕はかまくらを作る。鍋《なべ》セットを持ってきた」
彼らが無邪気だったのはほんの十分ほどだ。第八層に積もった雪で遊んでいるうちに酸欠でバタバタと倒れていった。その間も雪の勢いは衰えない。
「除雪車を呼べ。作業を中断する」
現場監督が踵《きびす》を返した途端、人工地盤が轟音《ごうおん》とともに大きく揺れた。反動で何度も尻餅《しりもち》をついてしまうほど大きな揺れだった。
「地震か?」
人工地盤で地震などあるはずもない。また大きな揺れが第八層を襲った。爆発音のような音がヘルメットの上から殴りかかってくる。見渡せば降り積もった雪が全て弾かれて渦を巻いている。視界は上下左右もわからぬほどの吹雪だ。
「銀座線シャフトが崩れた模様です。全員避難してください!」
非常警報が第八層にこだました。
連絡を受けた公社は、原因究明に大慌てだ。ゼウスが被害状況を把握し、シミュレーションを開始する。ゼウスは五分以内に第九層目の半蔵門線シャフトが崩落すると予測した。
「まさか。建造プログラムに問題があるはずがない」
設計局の技師たちが図面を確認していると、第五層に大きな縦揺れが起きた。ゼウスの予測通り半蔵門線シャフトが崩落したのだ。
「原因がわかりました。固有振動です。アトラスは第九層以上の高さになると、揺れが制御できなくなります」
「それはありえない。メガシャフトは理論上、軌道エレベータを作れるほどの強度がある。たかが六千メートル程度の高さで揺れが生じるはずはない」
現場の若い技師たちはアトラスが建造以来、固有振動の問題を抱えていることを知らなかった。今まで何事もなかったのは、水蛭子がマメに地鎮祭を行っていたからだ。アトラスにまた人柱を捧《ささ》げる季節がやってきた。アトラスは先端技術と太古の呪術《じゆじゆつ》的儀式の両方がなければ造れない都市だ。なぜアトラスが揺れるのか、なぜ人柱が必要なのか、それを知るのは最高幹部たちだけだ。
ゼウスが三田線シャフトの崩落が二時間以内に起きると予測した。この被害を食い止められるのは最高経営責任者の水蛭子だけだ。しかしその水蛭子は行方不明だった。
ドゥオモの見張り櫓《やぐら》の上で頬杖《ほおづえ》をついていたモモコがアトラスの姿形の変化に気づいた。頂上に角のように突き出ていた第九層のメガシャフトが二本なくなっているような気がする。
「おかしいわね。あたしの記憶違いかしら?」
アトラスの外観のことなら誰よりも知っていると自負するモモコはこれからどうやって生きていくのか悩んでいた。アトラスに住みたいが、あそこは光化学スモッグでまともな呼吸もできないし、地上からのダイダロスの砲撃に怯《おび》えて生きるのも嫌だった。かといって地上は強酸性のスコールだ。閻魔《えんま》大王に地獄と修羅どちらの世界に行きたいか問われているようなものだ。なぜ選択肢に天国がないのかとモモコは閻魔大王を詰問したくなる。「天国に行かさないと閻魔大王のタマを抜くわよ」と脅してもモモコの選べる未来はふたつだけだった。
國子が見張り櫓にやってきた。
「また考え事してる。アトラスに残ればよかったって顔ね」
「違うわよ。なんでこんな世界になったのかしらって考えてたのよ。田舎に帰って漁師になろうかしら」
「モモコさんのお父さん、漁師だったんだ」
「寺泊の網元よ。父は海の男だけど、あたしは海のニューハーフになるわ」
モモコが溜《た》め息をついた。
「この世に桃源郷ってあるのかしらね。ここから見るアトラスは夢の世界に見えたけど、実際に行ってみたら戦場だったわ。もう幻滅!」
「人間のすることはどこでも同じよ。あたしもアトラスに行って結局、人間と闘っているんだなあってわかったわ。政府の連中は悪魔だと思ってたけど、あたしたちと同じ血を流す人間だった。当たり前なんだけどね」
モモコは國子の顔つきが変わったことに気づいていた。出陣するときは鬼神のような表情だったが、戻ってきてからは怒りが消えていた。怒りを捨てた國子は強くなった気がする。ちょうど女の子が白馬の王子様と出会うことを夢見て蛹《さなぎ》の時代を過ごし、夢を捨てて女に脱皮するように。
「あたしわかったの。政府が国民を幸せにしないなら、あたしがみんなを幸せにしてみせるわ。今の東京に桃源郷はないけど、あたしが作ればいいじゃない。モモコさんはあたしの側にいればきっと幸せになれるわ」
「強くなったわね。さすが自慢の娘よ」
「そのためにはまず森を焼かなきゃ。この世界は土台から狂ってるわ。もう一度やり直すためにはきれいな器が必要よ。モモコさん力を貸して」
「ニューハーフの細腕でよければいくらでも貸すわよ。あたしは國子と最後までいるわ」
「知ってる。だから幸せにしてみせる」
國子たちは池袋の森へ出撃した。
久し振りに潜った森は、地理感覚も掴《つか》めないほど植生が変わっていた。辛うじて原形を止めていた西武デパートにもダイダロスの根が下りていた。ここはもう多様な植生を誇る密林ではない。単相と呼ばれる人工森だ。ダイダロスによる支配は着実に進んでいた。
防護服に身を包んだモモコでも腰が引けていた。十五年前、森を彷徨《さまよ》っていたときよりもずっと殺気が増している。当時も森は人に対して厳しかったが、それは自然の掟《おきて》を学ばせる人間へのマウンティングにすぎなかった。人間が森よりも下位構造に下りて恭順の意を示せば、殺しはしない。しかし目の前の池袋の森は明らかに人間に対して敵意を剥《む》き出しにしている。四方八方から殺気を感じるのだ。こんな気分をどこかで味わったことがあるとモモコは記憶を手繰った。
「國子、ここ首都層に似ているわ」
「あたしも今そう思ったとこ」
この前のアトラス攻略戦で首都層に降りたとき、同じ恐怖感を味わった。擬態する街に知覚を混乱させられ、近代戦ができなくなった。擬態戦車に追われ、街に騙《だま》され、幻と現実の区別がつかなくなったところに弾が飛んでくる。なぜ森が首都層に似ていると感じるのか、國子にもまだわからない。ただ勘が警戒しろと足を諫《いさ》めるのだ。ビルの陰に隠れた國子は表に出るタイミングを掴めない。植生が変化した以外に何が変わったのだろう。森はやけに静かだった。
「動いちゃダメよ。何か気配がするわ」
「國子様、気にしすぎですよ。とっとと森を焼いちまいましょう」
部下の男が表に出た途端、森が騒ぎ出した。|火※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]《かえん》放射器を構えた途端、男はダイダロスの銃弾を浴びて木っ端|微塵《みじん》に吹き飛んでしまった。咄嗟《とつさ》に反撃に出た仲間たちも同じように蜂の巣になった。その一部始終を目撃したモモコはやっと首都層に似ていると思った理由がわかった。敵は森の全てだ。
「國子、ダイダロスが人間を識別しているわよ」
いつの間に森は迎撃システムを構築したのだろう。まるで人間が森を焼くのを予測していたかのようだ。國子はピンときた。
「体温よ! 人間の体温に反応しているんだわ」
ダイダロスは熱源に対して反応する。そのセンサーが森の中では生物の体温に設定されているに違いない。それで森の静けさが理解できた。以前、森は動物たちの鳴き声や気配で犇《ひし》めいていた。その動物たちは全てダイダロスに虐殺されてしまったのだ。
「火※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]放射器は使えない。グレネード弾を撃って!」
発射した瞬間にグレネード弾が空中で撃墜されてしまった。その衝撃で國子たちの隠れていたビルが倒壊してしまう。隠れ蓑《みの》を失った國子たちは丸裸で森の前に投げ出されたも同然だった。森が國子たちを発見するや、すぐに攻撃を仕掛けてきた。
「逃げて逃げて逃げて!」
足場の悪い森をダイダロスに狙われながら逃げるのは困難だ。同じ場所に一秒もいると千発の弾が飛んでくる。弾を避けるためには走り続けるしかない。これなら擬態戦車の方がまだ紳士だ。國子が側転で逃げる後をトレースするかのように弾痕《だんこん》が円を描きながら追いかけてくる。空中に逃げても同じ姿勢でいられない。絶えず姿勢を変えながら弾を避けてないと空中でも弾が飛んでくる。雑居ビルの看板を踏み切り板にして、また國子が空へ逃げる。
「こんなところにいられないわ」
空中でブーメランを構えた國子は、擬態をかけて一枚の板に変化させた。その擬態材の上に銃弾の雨が降ってくる。ダイダロスの方向を覚えた國子は地上に降りると同時に、ブーメランを放った。ブーメランはダイダロスの枝を仕留めたようだ。枝は落ちながらも弾を撃ち尽くしていた。
モモコもきゃあきゃあ喚《わめ》きながら弾から逃げている。自慢のフラメンコステップで弾をかわし、バタデコーラを翻すようにオーレと決めた。
「薔薇《ばら》をくわえてりゃもっとサマになったのにい!」
國子が擬態材を傘にして合流した。
「モモコさんなに冗談やってんの」
「ほらおひねりが来たじゃない。弾だけど」
擬態材はダイダロスの弾を防ぐが、この厚さだとあまり保《も》たない。國子は火※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]放射器のタンクを爆発させることにした。この熱源がしばらく身を守ってくれるだろう。炎上したタンクの炎めがけて攻撃を集中させる。その間に廃墟《はいきよ》の中に隠れた。
「森の中から焼くのはもう無理よ」
「じゃあどうやって森と闘うのよ。ニューハーフ軍団を踊らせてみる?」
タンクが燃え尽きると、新たな熱源を探してダイダロスが牙《きば》を剥く。國子たちが逃げた痕跡を忠実にトレースして、廃墟が的になった。モモコにはもう敵が植物に思えない。知能を持った生命体と闘っているとしか考えられなかった。
「こりゃ化け物だわ。ダイダロスは人間以上よ」
「赤外線センサーでトレースしているだけよ。森の温度が極端に低いわ。空気の温度変化を感じるのよ」
アルミニウム合金の外壁を施したアムラックスビルが蜂の巣になる。ビルの崩壊が先に訪れそうだった。もうすぐ森の切れ目なのに追い詰められたようだ。國子はビルの陰から逃げられそうな場所を探した。ふと森の端に目をやると、趙のいたビルだけがきれいに除草されていた。その隣のビルは完全に森に侵食されていた。
「ねえ、趙さんをドゥオモで見かけた?」
「気がつかなかったわ。いると思ったけど、どうして?」
「まさか趙さん、森に戻ったんじゃ……」
初めて趙と会った日、彼女はせっせとビルに伸びる蔦《つた》を除草していた。あのビルが彼女の財産であると趙は言っていた。そのときに見たよりも、ビルはきれいに除草されている。國子がアトラスに出撃した間に、趙もドゥオモを離れたのかもしれない。
「あのビルだけ森に飲み込まれないなんておかしい。調べてくる」
「ダメよ。表に出たら蜂の巣よ。あそこまで逃げ場はないわ」
すると趙のビルに明かりが灯《とも》った。きれいに除草したビルは趙が苦労して手に入れた頃の姿を取り戻していた。趙は生きている間は自分のビルを森から守り抜くと決意してドゥオモを離れた。趙はここで家族の思い出とともに暮らすことにした。明かりの灯ったビルは彼女の希望だった。
「趙さーん。聞こえる? そこは危険よ。ドゥオモに戻って」
國子は大声で趙を呼んだ。しかし趙は表に出てこなかった。
「およしなさい國子。人は死に場所を見つけるのも大切なのよ」
「モモコさんなに言ってるの。趙さんにはドゥオモがあるじゃない。これから首都層に移民もできるのよ」
モモコは悲しそうな目を浮かべて趙のビルを見つめた。
「あそこが彼女の桃源郷なのよ。人は必死になって手に入れたものしか信じないの。あのビルは彼女の命よ」
「でも危険すぎる。あそこでは一週間も生きていられないわ」
「その一週間が永遠なのよ。覚悟の上なんだから引き戻せないわ」
「そんな……」
こんなとき國子は年寄りが何を考えているのかわからなくなる。凪子にしろ、タルシャンにしろ、肝が据わりすぎている。自分がしていることが世間からズレていようと意に介さない。信念のためなら自分が断罪されることも厭《いと》わない。それは趙も同じだ。あそこに来月の幸福がないと知っていても、今手にする束の間の幸福を選んだ。
モモコは涙を零《こぼ》しながら言った。
「あたしたちもいつか見つけましょう。幸福な死に場所を。でもまずは生きなきゃ。とりあえずここはあたしたちの死に場所ではないわ」
後ろ髪を引かれる思いで趙のいるビルを振り切った。國子にはやるべきことがある。首都層にドゥオモの人たちを移民させなければ、みんなが死んでしまう。とにかく今はここを脱出することを考えなければならない。しかしここまで逃げられたのも奇跡だ。救助ヘリを呼んだら犠牲が大きくなるだけだった。窓から顔を出すとまたダイダロスが攻撃を仕掛けてきた。咄嗟に隠れたが、銃弾は間断なく撃ち続けられた。
「ロックオンされた!」
樹海に覆われたサンシャイン60通りをダイダロスの弾を避けながら逃げるなんて不可能だ。再び擬態材を楯《たて》にしようとしたら、上手《うま》く変形できなくなっていた。無数の弾を浴びて耐久力が限界に達したようだ。國子は役に立たなくなった擬態材を捨てた。
「ここがあたしたちの死に場所みたいね」
首都防衛部隊とも互角に闘った國子だが、ダイダロスの前では降伏せざるをえない。やはり地上は植物優位の世界だ。人間の力など足下にも及ばない。ダイダロスの執拗《しつよう》な攻撃は着実にビルを削り落としている。ロックオンされた國子たちはもう逃げ場がない。屋根が落ち、床がめくれ上がり、壁が倒れる。國子たちはじわじわと追い詰められていた。
「ごめんなさいモモコさん。こんなことに巻き込んでしまって……」
塞《ふさ》ぎ込んだ國子に優しい膝《ひざ》が添えられた。モモコはどうせ死ぬなら幸福な物語の中で死ぬことにした。モモコの口調が優しくなる。
「こういうときは逃避の世界に行くのが一番よ。遠い遠い未来……。男女の性転換率が百パーセントになって、人類絶滅が決まった頃、ニューハーフのお姫様がいました」
「せめて普通の世界にして……」
「わかったわよ。ただのお姫様がいました。お姫様は塔に囚《とら》われておりました」
「ラプンツェルの話ね。あたし一番好きよ」
ガタンと床が抜けて達磨《だるま》落としに階下に落ちた。あと十分もしないうちにアムラックスビルは倒壊する。國子は目を閉じて最後の瞬間を迎えることにした。
「あたし今死んだらきっと化けてでるわ。やり残したことが山ほどあるもの」
「とりあえずお化けになったら何をするか相談しましょう」
モモコがそっと國子の頭を撫《な》でた。ふたりは小さく抱き合ってやがて訪れる最後の瞬間を待つことにした。
「ラプンツェルにはもっこりタイツの王子様が助けに来たけど、さすがにこの森を見たらビビるわよね。王子様って包茎なのよ」
「最後まで下ネタをありがとう。あたし絶対に浮かばれないわ……」
國子は目を閉じて心の整理をすることにした。今までの人生に後悔はないが、これからの未来に不安がある。みんなの未来を見捨てて死んでいくのが罪悪感の曇りとなって心を濁した。やっぱりここでは死ねないと思った。
その時だ。空が不気味な音を立てながら揺れた。辺りが雲に覆われたように暗くなっていく。耳障りな音に目を開けると、黒い影が上空に現れていた。
「あれは何?」
と呟《つぶや》いた瞬間に、池袋の森が紅蓮《ぐれん》の炎に包まれた。上空から甲高い音が次々と落ちてくる。そして地上で炸裂《さくれつ》すると同時に火柱が上がった。閃光《せんこう》と爆風の嵐が池袋に吹き荒れていた。國子の頭上に巨大な翼の影が落ちる。池袋上空に飛来したのは百機にものぼる戦略爆撃機だ。
「政府軍の爆撃機が森を焼いている。どうして?」
空を覆い尽くすほどの戦略爆撃機で埋め尽くされていた。全国に配備された全ての戦略爆撃機が東京上空に群れているではないか。そして抱えていた焼夷《しようい》弾を森に向けて落としている。焼夷弾がなくなるとすぐに補充の爆撃機が飛来した。あの政府軍が森を焼くなんてどういう風の吹き回しだろう。
「坊やにしてはやるじゃない。見直したわよ」
モモコは空のどこかに草薙がいることを確信した。
戦略爆撃機のコックピットからは地上が燃えていく様が見えた。
「草薙少佐、池袋の森は現在二十パーセントが消失した模様です」
「全部燃やすんだ。ひとつでもダイダロスが残ればまた増える」
空軍の全ての爆撃機を束ねて飛来したのは草薙だ。国防省と首相官邸の首脳と接触した草薙はダイダロスの脅威を説き伏せた。ダイダロスは種でアトラスを侵食し、副産物でNOXを発生させる。このままだと日本の炭素指数は世界一の高さに算定され続ける。それよりも人間がこの国に住めなくなることを訴えた。事態を重く受け止めた政府首脳は、草薙にダイダロス掃討作戦を命じた。それは政府が森林化を断念したと同義だった。
草薙は上空から指揮を執った。
「焼夷弾を落とした爆撃機は補充を受けて再度飛来しろ。今日中に東京の森の全てを焼く」
草薙の指令機に次々と通信が入る。
『目黒の森はほぼ消失した。六本木を焼いたら小牧に戻る。オーヴァー』
『これから中野と新宿の森を三機編隊で爆撃する』
『渋谷の森をロックオンした。いつでも爆撃可能だ。命令を待つ』
東京が空襲を受けるのは百年以上も前の大戦のとき以来だ。あのときはアメリカのB29の空襲だったが、今度は日本の爆撃機が自国の領土を焼くことになった。大戦を記憶した人間はもうこの世には存在しないが、東京はこの光景を知っている。東京は失いながら新しくなる都市だ。かつて江戸と呼ばれた東京は大政奉還で封建時代と決別した。明治に新しく生まれた東京は近代化と軍国主義の時代を邁進《まいしん》した。そしてその近代史は空襲により燃え尽きた。喪失と再生が東京の運命なら、この喪失が大きな再生への飛躍となることを草薙は祈らずにはいられない。草薙は國子と初めて会った池袋の森が燃えていく様を見下ろしていた。
「あいつが言ってることが真実だったなんて。俺たちは間違った五十年を歩んでしまった。今ここで終止符を打たねば次の五十年はない……」
政府が森を焼いた以上、同じ政策を執ることはない。焦土と化した東京に何を作るかは政府に資格のないことだ。この後に新しい時代を築き上げる人物が現れてくれなければ、ただの喪失になってしまうだろう。草薙はいつか國子と話をしたときのことを思い出した。國子は炭素時代の終焉《しゆうえん》を予言した。日本の未来の舵取《かじと》りは彼女のような大胆な行動が取れる人間に任されるべきなのかもしれないと思った。
「俺は破壊するしかできない。後は君の腕にかかっている」
草薙はこの炎の都を國子がどこかで見ていてくれると信じた。
國子もまた地上から焼夷弾の炎に焼かれる池袋の森を眺めていた。冷たかった森の空気が沸騰するほど煮え滾《たぎ》っている。まるで太陽の表面に降りたような光景だった。焼夷弾の火柱は太陽のプロミネンスのように首を擡げる。次から次へと現れる火柱はまるで竜のようだ。池袋の森に千匹の炎の竜が出現していた。為《な》す術《すべ》もないと思われた森との闘いが空襲で逆転した。空に確かに草薙の気配を感じる。あの朴念仁《ぼくねんじん》にしては早手回しだ。少しは見直してやらねばならない。気になるのは爆撃機の高度だ。國子はドゥオモに通信を入れた。
「政府軍との回線を開いて。今の高度ではダイダロスの餌食になる。高度五千メートル以上を維持させて」
焼かれたダイダロスもただ燃えていくばかりではない。空に熱源を感じるや、戦略爆撃機めがけて砲撃を開始した。空を覆う黒い翼が一機、また一機と墜《お》とされていく。それでも爆撃機は少しも怯《ひる》まない。戦力が失われるとすぐに補充機が飛んでくる。爆装した戦闘機が低空飛行で國子の目の前を飛んでいった。超音速の衝撃波がボロになったビルを揺さぶる。爆弾を落とした戦闘機はダイダロスの弾よりも速く飛び去り、上空に華麗な飛行機雲をたなびかせた。
「政府軍にも腕のいいパイロットはいるみたいね」
國子は政府軍を応援している自分に気づきちょっと複雑だ。昨日の敵が今日は味方になっているなんて誰が想像しただろう。國子が生まれたときからある池袋の森が燃えていく。自分たちが何十年もかけて抵抗した森との闘いは、皮肉にも政府によって終止符を打たれた。未来なんて変わらないと心のどこかで思っていた疑念が、この光景を見れば未来は変えられると素直に信じられそうだ。だからせめて爆撃機が墜とされないように祈ろう。そして森が灰になったら草薙にお礼を言おう。國子は手を組んで祈った。
「どうか無事でいて……」
指令機にダイダロスの攻撃範囲のデータが入る。ゲリラたちからの情報だ。
「高度を一万六千五百フィート以上に取れ。敵は高射砲と同じ威力がある」
爆撃機が揺れた。地上からの攻撃で被弾したらしい。
「第二エンジン被弾。停止する」
目の前は焼夷弾の雨と反撃するダイダロスのマグマで真っ赤に染まっていた。植物と人間の闘いはお互いの存在をかけた総力戦だ。地上も空も火の海に沈んだ東京に炎の岩盤が出現していた。
國子たちのいるビルにも炎が迫っていた。床は熱したフライパンのようになっていて立ってはいられない。モモコの自慢のフラメンコステップでも逃げられなかった。
「國子、ここにいたらニューハーフの丸焼きになっちゃうわよ」
「逃げるってどこへ……」
四方を火に囲まれた國子たちに逃げ場はない。このままだとビルは熱で溶けてしまう。ふと真下を見るとマラリアの温床の沼があった。
「モモコさん、あそこに飛び込むよ」
「冗談でしょう。あの沼にDDTを撒《ま》けって言ったのは國子じゃない」
「防護服なら有機溶剤から守ってくれる。いくよ」
國子はモモコの腕を引っ張った。國子たちが沼に飛び込んだ瞬間、ビルが炎に包まれて倒壊する。間一髪で沼に逃れた國子たちは火が収まるまで沼に身を隠すことにした。
ドゥオモも四方を炎に囲まれて城壁のすぐ側まで炎が迫っている。広場に逃げたドゥオモの民は火事の熱波で意識を朦朧《もうろう》とさせていた。シンボルの五つの煙突も陽炎《かげろう》で揺らぐ。火事の音でドゥオモが共鳴していた。炎が奏でるサウンドは重低音のヘヴィメタルだ。今や東京全土が巨大なスピーカーとなって、空を揺さぶっていた。鼓膜を吹き飛ばすサウンドが命を燃え尽くしながら吼《ほ》える。それでも焼夷弾の豪雨は止む気配がない。世界最大の森林都市と謳《うた》われた東京が、灼熱《しやくねつ》地獄に変わっていた。
「政府はやることが過激だぞ。地上に人間がいることを忘れるな」
ドゥオモの男が爆撃機に石を投げた。
「見て。墜落するわ」
ダイダロスの反撃で、爆撃機の翼に無数の穴が空いた。エンジンから嫌な煙があがっている。爆撃機は墜落しながらダイダロスに分解されていく。機体は中野の森へと落ちていった。
指令機の草薙が海軍の出動を要請した。
「横須賀の空母の艦載機を全て発進させろ。千ポンド爆弾の使用を許可する」
カタパルトから次々と攻撃機が出撃していく。機動力の高い攻撃機は、ダイダロスの種を避けながら森の中枢を爆撃する。空には俊敏に駆けていく攻撃機と、ゆったりと舞う戦略爆撃機が魚の回遊のように群れていた。
やがて味方の損傷よりも戦果の報告が次第に多くなってきた。
『草薙少佐、渋谷の森は完全に沈黙した』
『品川の森は消滅。第十三飛行隊は三沢基地に帰還する』
『六本木の森に最後の爆弾を落とす。敵の反撃はない模様』
指令機から見える東京は無数の黒い煙をあげていた。世界に誇った森林都市は無様な焦土と変わり果ててしまった。
この黒煙を見逃すイカロスではない。定時の周回で東京の熱源を捉《とら》えると、すぐに炭素指数を跳ね上げた。
「炭素指数三・五四!」
国連発表の数値にアトラスのカーボニストたちは腰を抜かした。この値は破産も同然だ。投資先の株価急落は避けられない。破産したカーボニストたちは新兜町で狂気の笑いを生み出した。政府は五十年かけて森林化した国土を一日で灰にしてしまった。この無能な政府を信用して働いていたなんてバカもいいところだ。カーボニストたちは腹いせに買い支えしていたアトラス国債を放出した。日本から大量のマネーが世界中に流れていく。それを政府は止められなかった。
同じ頃、秋葉原の香凜のオフィスも戦場になっていた。無尽蔵にあると思っていた政府資産が急激に減っていったのだ。
「これはどういうことなのメデューサ?」
メデューサの蛇は香凜の言うことを聞く余裕もない。世界中で金融恐慌が起き始めていた。日本から始まった恐慌は電子の網を伝って瞬時に世界中の市場に伝播《でんぱ》した。恐慌の津波は外貨を多く持たない小国の二十や三十をまとめて押し流す破壊力がある。香凜が好んで投資していた先は、重炭素債務地域だ。これらの炭素指数がまとめて三倍に膨れあがった。
「サウジアラビアが二・五七。インドネシアが二・三一。アメリカは、アメリカはどうなったの?」
APECのサイトはアメリカの平均炭素指数が二・〇八になったことを告げた。お金を回しても利益の出る地区なんてどこにもない。香凜の投資したマネーは一瞬のうちに蒸発してしまった。メデューサもパニック状態だ。メデューサの仮想空間では水位が五十センチ以上高まっていた。
ママ助けて。ママ助けて。ママ助けて。
ママ助けて。ママ助けて。ママ助けて。
ママ助けて。ママ助けて。ママ助けて。
ママ助けて。ママ助けて。ママ助けて。
ママ助けて。ママ助けて。ママ助けて。
「うるさい。早く落ち着いた市場を探して。損を取り返さなきゃ。クラリス出て。クラリス。フランクフルトの貧乏なクラリース!」
『うるさいわね。貧乏なクラリスって言わないで』
エスコートクラブからハンサムな男たちを呼び出して乱痴気パーティを繰り広げていたクラリスがカンカンになって電話に出た。クラリスが貧乏になったと知ると男たちはめぼしい品を見繕って屋敷を後にした。せっかく購入した調度品も借金の形に消えていった。目まぐるしく境遇が変化するクラリスは地球脱出を考え始めた。
『あたしアリアンロケットに乗って火星に行くわ。トキオで何が起こったの。世界恐慌を起こすなんてやりすぎよ』
「政府が東京にあった三十万ヘクタールの森を焼いたんだよ。日本の炭素指数の高騰が世界中に飛び火しちゃった」
『森を焼くなんて狂ってるわ。ドイツがバルトに火をつけたのと同じよ。どうしてくれるの!』
「あたしのせいじゃないよ。メデューサがパニック発作を起こしちゃった」
『恐慌で慌てているだけよ。メデューサはすぐに打開策を考えるわ』
メデューサは世界中で吹き荒れる炭素恐慌の嵐と必死で闘っている。メデューサは世界中の全ての国と地域の経済炭素を調査した。世界の平均経済炭素は東京大空襲で三倍近くに跳ね上がった。一番低いEUで二倍、ラテンアメリカに至っては四倍もの値を示している。その間にも世界の平均炭素指数はどんどん上昇中だ。端で見ていた香凜は、世界はもうお終《しま》いだと思った。炭素経済は地球の全てを網羅している。ひとつの国の破綻《はたん》が全体の死に至るほど世界は密接に繋《つな》がっている。
「メデューサなんとかして。このままじゃ第三次世界大戦が起きちゃうよ」
メデューサの蛇のひとつが緑色に変わった。と同時に平均炭素指数の値が天井を叩《たた》く。メデューサはマネーの投資先を見つけたようだ。あんなに荒れ狂っていた世界経済が沈静化に向かって戻り始めた。
「アメリカが一・四七。中国が一・八五。日本は……。日本が一・三七! そんなバカな。一体どこにそんなに炭素指数を下げる好材料があるんだよ!」
世界の炭素指数はゆっくりとだが着実に減少している。メデューサはどこにマネーを逃がしたのだろう。香凜から独立したメデューサは炭素指数を下げることに機能を傾けていて、疑問に答えてはくれなかった。辛うじて世界恐慌を免れたが、メデューサがどういうトリックを使ったのか、香凜はまだわからない。メデューサの仮想空間の水位も恐慌の沈静化にあわせて下がっていた。香凜は窓辺に座って一息つくことにした。
秋葉原の街から見る東京は|火※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]《かえん》地獄だ。夜になっても火事の明かりで街は昼間のような明るさだ。闇夜に赤く浮かび上がったアトラスが燃える地上をじっと見下ろしていた。
首都層に小さな煙草の明かりがひとつ灯《とも》った。髭面《ひげづら》の男が女を抱えて野営先を探している。
「まったく無茶な女だ」
不忍池に捨てられた小夜子は、すぐに武彦に救出された。深手を負ったが、小夜子はまだ生きていた。人工呼吸で意識を取り戻した小夜子は「疲れた」とだけ言って深い眠りについてしまった。
「ついに森を焼いたか。東京はどうなってしまうんだ?」
普段は漆黒の闇に包まれる地上が今夜は赤く染まっている。小夜子を抱きかかえた武彦は、溶岩の海のようになった地上に絶句した。政府はついに森を焼いた。こうするべきだったのは間違いないが、自分たちが長年主張していた要求が通った瞬間をまさかアトラスの高みから見下ろしているなんて想像もしていなかった。
「俺たちの勝ちだ。國子やったな」
勝利の日なのに祝う仲間がいないのが寂しい。ドゥオモが森の恐怖から解放されたのだ。武彦は自分の役目がほぼ終わりつつあるのを知った。
「美邦様は……?」
腕の中で眠っていた小夜子が目を覚ました。彼女は寝ている間も譫言《うわごと》のように美邦の名前を繰り返していた。その子が小夜子の生命力の源なのかもしれない。小夜子は死の淵《ふち》を彷徨《さまよ》っていても美邦が泣けば三途《さんず》の川を逆流してでも戻ってくる。戻った先に大した幸福が待っているわけでもないことを承知の上で。そんな小夜子を武彦は愛《いと》おしく思った。自分も國子のためなら同じことをするだろう。
「今は休め。その傷では動けないぞ」
「涼子が美邦様を狙っている。あの悪魔の手に渡すわけにはいかないわ」
涼子に勝てないとわかっていても美邦を守るためなら、何度でも小夜子は立ち上がる。たとえ肉体が灰になってもその灰を集めて蘇《よみがえ》ろうとするだろう。涼子に痛恨の一撃を食らわせてやらなければ女が廃るというものだ。
「あいつの首を三途の川に沈めてやるわ」
小夜子は自分が武彦に抱かれているのに戸惑いながらも、どこかでこの安らぎが続いてほしいと願っていた。アトラスの淵から見る地上がやけに明るい。自分が眠っている間に何が起こったのか武彦に尋ねた。
「政府が森を焼いた。アトラス計画は大幅に見直されるだろう」
「いいえ。アトラスはコロニーではないわ。地上が灰になったくらいで建設を見直したりはしない」
小夜子もアトラス計画が何を元に始まったのかを知るひとりだ。アトラスはひとりの人間を選ぶために造られた都市だ。絶大な権力を持つ公社ですら、そのひとりの人間が現れる間だけ機能する組織にすぎない。ゼウスの暗号鍵を開けた最終候補者を絞り込み、最も相応《ふさわ》しい人間にその権力を譲る。美邦は最もゼウスに近い人間のひとりだ。公社が美邦を迎え入れることが小夜子の夢である。そのためには邪魔な他の候補者を抹殺しなければならなかった。
「美邦は恐らく地上にいる。火事が収まったら俺は地上に降りる」
「じゃあ私も一緒に降りるわ……」
武彦は小夜子と行動をともにすることはできなかった。美邦がトリプルAであると知った以上、見過ごすわけにはいかない。アトラス計画に止めを刺すには根幹である最終候補者たちを暗殺するのが一番だからだ。一瞬、心を通わせたと思ったのに、運命は武彦と小夜子を敵対させた。武彦は美邦を殺しに行くとは告げられなかった。
「おまえみたいな怪我人は足手まといだ。じゃあな」
武彦は振り返らずに小夜子と別れた。小夜子は「連れて行って」の一言が言えずに火傷《やけど》を負ったうなじをさすった。下手くそに貼られたガーゼに武彦の温《ぬく》もりが微《かす》かに残っていた。
東京の森は一週間も燃え続けた。今まで炭素を吸収し気温を下げると信じられた三十万ヘクタールの森林は、炭素を撒《ま》き散らしながら地上から消滅した。後に残ったのは人も住めない焦土だけだ。
國子は焼けた大地を見張り櫓《やぐら》から見下ろしていた。ダイダロスの脅威は去ったが、人間が払った犠牲も大きなものだ。この荒廃した景色をどう再生するのか、誰がそれをするのか、考えると眩暈《めまい》がする。凪子がこの東京を見たらどう思うだろう。追放した後になっては聞く術《すべ》もない。これが若い頃の凪子が夢見た東京の結末だ。もし五十年前に遡《さかのぼ》ることができたなら、この景色を凪子に見せつけてやりたかった。この未来を知っていればいくら凪子といえどもアトラス計画を白紙撤回するだろう。見渡す限りの荒野は過去の空襲や震災をも上回る。凪子が震災後に東京再生計画を立ち上げたときも、こんな景色だったに違いない。凪子もタルシャンも道を誤ったと思った。
「あたしは間違えない。間違えると後世の人たちに迷惑がかかる」
凪子の蒔《ま》いた種を刈り取ったばかりの國子は、どうすれば東京が美しい街になるのか考えていた。やってきたモモコがトンデモな提案をしてくれた。
「東京をニューハーフの街にすればいいじゃない」
「モモコさんどこ行ってたの? ずっと探してたのよ」
モモコから煤《すす》けた匂いがする。モモコは黒ずんだスパンコールを見せた。
「お店のあった場所に行ってたのよ。六本木は草木も生えない砂漠だったわ。で、これが戦利品。あたしの宝物よ」
森が焼失した後、モモコは自分の青春の地を訪れた。着の身着のままで政府に追いだされた六本木の街は十五年前の面影を微かに残していた。『熱帯魚』のあったビルは窓も看板も溶けて真っ黒な姿に変わっていたけれど、モモコは全て思い出せた。足下に転がっていたミラーボールは輝きを失っていたが、十五年ぶりに現れたオーナーを歓迎してくれた。モモコはさっぱりとした笑顔だ。
「思い出は火事できれいに燃えちゃったわ。ずっと心残りだったのに、一度見たらわかったの。あたしには國子と過ごした十五年の方が大事だって」
モモコを見ていると人は過去の悲劇を乗り越えられると思える。この現実をしっかりと見据えて明日の希望を描かなければ、幸福な未来はない。
ふと池袋方面を見ると、空が黄色の雲に覆われていた。インコの大群が地上に戻ってきたようだ。あの死の森に餌などあるはずがないのに、どうして戻ってきたのだろう。黄金色に輝く雲は希望の色をしていた。
「あたしも池袋に行ってくる」
國子は焼失した池袋の森の跡地に向かった。今まで森を避けるように潜っていたのに、真っ直ぐ車を走らせられるのが爽快《そうかい》だ。ドゥオモから池袋まで連なっていた森は跡形もなく消えていた。焼け焦げた樹の幹が瓦礫《がれき》のように積み重なっている。國子は森になる前の街のことを知らない。自分が池袋で何を感じるのか知りたかった。
先日、死を覚悟した池袋の森は見渡す限りの荒野になっていた。こうして見るとここがかつての街だということがやっとわかる。黒焦げになった街の外観だけでもかつての賑《にぎ》わいを想像できる。趙がここに思い出を残したのも頷《うなず》けた。その趙のいたビルに向かった。趙は今日もせっせとビルを洗っていた。
「趙さん、無事でよかったわ」
「私は絶対に森に負けないって言っただろう。でも火事で死ぬかと思ったよ」
ドゥオモを離れた趙はここでまた生きていく決意だった。死に場所は生きる場所でもある。趙は隣のビルの敷地も掃除していた。
「ここも私の土地にするからね。早い者勝ちさあ」
國子は趙の姿を見て元気をもらった。趙と別れを告げてダイダロスの繁殖していた地区まで足を伸ばした。森はインコたちの鳴き声で以前よりも活気を増していた。葉の代わりに羽が森を覆っている様に國子は息を飲んだ。
「どうしてインコが?」
國子の肩に一匹のセキセイインコが止まった。人に慣れた様子のインコは國子の髪の毛にじゃれついてくる。インコは耳元でこう囁《ささや》いた。
「タカラモノ、タカラモノ」
國子を導くように飛んだインコはペルディックスだった。アトラスと地上を自由に往復するペルディックスは常に居心地の良い場所にいる。
「ねえ、ここに何があるっていうのよ」
ペルディックスはダイダロスの親木へと飛んで行った。
真っ黒な炭になったダイダロスの親木は橋脚のように聳《そび》え立ったまま死んでいた。ダイダロスはカノン砲のような枝を無数に伸ばしていた。寄生植物のカモフラージュがなければ、すぐに怪しい樹だとわかったはずなのにずっと騙《だま》されていた。死んだダイダロスの枝に無数のインコたちがたかり、金色の羽を震わせている。
「これなんだろう?」
ダイダロスの幹に無数の小さな粒がくっついている。寄生した植物のひとつなのだろうか。植物というより何かの卵みたいな粒だ。気になった國子はそれをサンプルケースに入れた。
「ダメね。完全に死の街だわ」
何時間も焦土を散策しても、命の可能性は見つからない。國子は小高い丘の上で休息を取った。ここから見えるドゥオモの煙突が気に入った。
同じ頃、アトラスの首都層から焼け野原になった東京を見下ろす女がいた。ハーレーに跨《またが》った涼子は祖父の夢を見つけようとした。タカ派の鳴瀬慶一郎がなぜ外国人のタルシャンに与《くみ》したのか、祖父が見た震災後の景色の中でその理由を見つけたかった。
涼子の目が池袋方面にあるものを捉《とら》えた。あれはもしかして、と涼子でも目を疑わずにはいられない。焦土と化した東京に何かが紛れていた。まるで騙し絵のような光景だ。しかし一度、捉え方がわかるとただの焦土には見えなくなる。涼子はぐるっと一周、東京を見渡した。
「なるほど、これがお爺さまの言っていた東京の秘密ね」
確信した瞬間、涼子の頭の中に散在していた点が一本の線に繋《つな》がった。
「全部わかったわ」
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第十四章 四種の神器
あの東京全土を焼き尽くした空襲から初めてのスコールがやってきた。燻《くすぶ》り続けていた炭に雨が落ち、水蒸気の煙を生み出す。地表から雲が沸き立ち天へ駆け上る様は、大地から空が生まれた天地創造を彷彿《ほうふつ》とさせた。その水蒸気の雲の中から、ひとりの男がドゥオモへやってきた。ゲートを開けた係がその男の姿を見て首を傾げる。軍服を着た男が政府の人間だからではない。まるで下手くそな合成写真に見られる二重露光のように彼が周囲の景色から浮いて見えるのだ。レインコートのフードを取った男は國子への面会を求めた。
「私は政府の特命少佐として東京を空爆した草薙国仁だ。この城の城主に会いたい。ダイダロス掃討作戦の成果を報告する」
係の男は草薙が来たら通せという伝言を受けていた。彼が来ることはわかっていたのに、係の男はまだ違和感を拭《ぬぐ》えない。なぜ草薙が妙な見え方をするのか、その原因がはっきりしないのだ。手を伸ばせば触れられる距離なのに、草薙と自分は同じ場所に立っているとは思えなかった。ゲートを守るもうひとりの男に小突かれて、我に返った。
「おい、通してやれ。國子様の命令だぞ」
「し、失礼しました。ようこそドゥオモへ」
通り過ぎていく草薙の背中には豪華な錦《にしき》にくるまれた剣が斜めにかけられていた。係の男はしばらくじっと目を凝らして何が変だったのか、やっとわかった。
「あいつ、雨に濡《ぬ》れてないんだ!」
通された凪子の部屋には、白装束に着替えた國子が座っていた。
「この前の政府の迅速な対応に感謝するわ。あたしたちには森を焼き払うしか生きる道はなかった。だけどどういう風の吹き回しなのかしら?」
「国土を守るのが軍人の務めだ。共通の敵を前に政府もゲリラもない。おまえたちの主張は正しかった」
草薙はいつになく強い口調だった。軍服が彼を大きく見せるだけではない。強い信念が背中に満ちていた。凪子の部屋は広さだけが権威の証《あかし》で、客をもてなすような作りではない。草薙はどこに立てばいいのかちょっと迷い、ここでよいと入り口で恭しく膝《ひざ》をついた。雨の音が壁になって二人の間を塞《ふさ》いでいたが、お互いの息づかいが手に取るように感じられた。
「政府は森林化を断念した。これで満足だろう?」
「政府の森林化は性急すぎただけよ。きちんと時間をかけて森を作ればこんなことにはならなかったわ」
「そっちこそどういう風の吹き回しだ。やけに素直じゃないか」
國子の側近たちがぎょっとした顔をしていた。森林化を部分的にでも肯定する発言は踏み込みすぎている。口を挿《はさ》もうとした側近たちを疎んだ國子は人払いを命じた。ドスの利いたモモコの声に側近たちは尻《しり》を叩《たた》かれ、草薙と國子が二人きりになる。
「やっと人がいなくなったわね。素直さついでにお礼も言うわ。あたしたちだけでは森を焼けなかったのが実情だったもの」
「だろ?」
と草薙はにやりと笑って國子に近づいた。草薙がここに来たのは國子にあるものを見せるためだった。空爆で東京を焼いた後、草薙は確認のために上空から東京を視察した。もし森が残っていればまた繁殖する。アトラスに付着したダイダロスの種を全て除去するために政府はてんてこ舞いだ。その混乱の中で草薙はあるものを発見した。
「この空撮を見てくれ。東京の現在の姿だ」
そこには真っ黒に染まった東京が写されていた。國子は息を飲んで地表に緑がないか隈無《くまな》く探す。六本木、池袋、目黒、どの写真も一面の焦土だ。写真を捲《めく》るたびに安堵《あんど》の息が零《こぼ》れる。森は全て焼き尽くされていた。政府はたった一日でこれを成し遂げたのだ。
「まさかここまで徹底的にやるとは思わなかったわ」
「政府は動くときは早いんだ。少しは見直したか」
「少しだけね。あとは全く信用できないけど。で、花マルを貰《もら》いに来たの?」
草薙は呆《あき》れた顔をして、何枚かの写真を見せた。
「おまえバカだなあ。写真を見てまだ何も気づかないのか?」
「せっかく友好的に振る舞っているのにバカとは何よ。口のきき方に気をつけないと見張り櫓《やぐら》に吊《つる》すわよ」
「吊すなら写真を見てからにしてくれ。妙なものが写っている」
「心霊写真だったとか? あ、ここに顔らしきものが……」
國子はおどけてみせたが、草薙は大して笑ってくれなかった。
「当たらずしも遠からずってとこかな。ちょうどいい。ここはだだっ広い。写真を全部床に並べて繋げてみろ」
國子は言われた通りに写真を繋げていく。東京全土を接写した写真は総数三百枚にものぼる。その中にドゥオモのある新大久保地区の写真もあった。切手大に撮られたドゥオモは煙突の影を焦土に伸ばしていた。写真の中でも異様な大きさで写っていたのがアトラスだ。人工地盤の大地は写真を五枚使ってやっと丸くなる大きさだった。
國子は座標の通りに並べていくうちに、ある一枚で指が止まった。
「これ、さっきの池袋の写真と同じような気がする」
「それは上野だ。じゃあ、これはどこだと思う?」
草薙が一枚の写真を見せる。國子はやはり池袋と答えた。
「渋谷だ。な、似ているだろう?」
写真の中には白い斑点《はんてん》が規則的に写っていた。実寸だと相当な大きさに違いない。これは光の具合で見える模様なのかと草薙に尋ねたが、彼は何も答えずにただ黙々と写真を並べていくだけだった。國子は床一面に広がる東京の写真に息を飲んだ。アトラスを中心に六つの模様が東京に現れているではないか。それらは池袋、新宿、渋谷、品川、東京、上野、旧山手線の外周に配置されている。國子はぐるっと写真を全て見渡してこれが偶然ではないと確信した。
「これはヘキサグラム!」
東京に出現していた模様は六|芒星《ぼうせい》の魔法陣だ。六つの旧副都心を頂点とするヘキサグラムは一辺の長さが五キロメートルにも達する。地上にいたら絶対に捉えられない大きさだった。そしてそのヘキサグラムの中心には魔法陣に引けを取らない巨大なアトラスが悠然と聳え立っている。
「アトラス計画には宗教的な必然があったんだわ」
「アトラスはただの積層都市ではないってことだ。俺たちの想像もつかないことが東京で行われている。森でカモフラージュされて今まで誰も気がつかなかったんだ」
「いいえ。気づいている人はいたわ。五十年前にもこの模様は現れた。第二次関東大震災のときよ。あのときも東京は焦土になったもの」
「百年以上前にもだ。太平洋戦争で東京を空爆したマッカーサーはこれに気づいていた。そう考えると腑《ふ》に落ちることが幾つもある」
焦土の中の東京に現れた幾何学的な模様はアトラスへ向かって整然と並べられていた。いやアトラスが中心となるように造られているのだ。
「この写真を政府は気づいているの?」
「たぶん俺だけだ。ここからはオカルト話なんだが、空爆の後から俺の頭に妙な声が響いて夜も眠れないんだ」
「なんて言ってた?」
國子が写真を蹴飛《けと》ばして草薙に詰め寄った。この男はただの軍人ではない。國子が知りたがっている真実に最も近い男だ。國子もまた同じ声を聞いていた。空襲の後からずっとゼウスの声が頭に響いていたのだ。草薙は怖がってなかなか言おうとしない。すると二人の耳にまた声が響いた。
この漂える國を修め造り固め成せ!
雨の雑音など問題にならないくらいはっきりと聞こえた。空気の振動で聞くというよりも骨震動で体に声がぶつけられる感覚だった。國子と草薙は身を強張《こわば》らせて辺りを見渡した。
「今、聞こえたよね? この漂える國を……」
「修め造り固め成せ……」
「ゼウスの声よ。あたしたちを呼んでいるんだわ。でも、なぜ?」
「公社が君のことを保護したがっている理由がわかった。俺たちがまだ何も知らないだけだ」
スコールの音がドゥオモに響く。豪雨の間このヘキサグラムが東京から見えなくなっているのに安堵した。これに気づけば誰もがアトラス計画の真の目的を疑わずにはいられなくなる。そうなると政府の政策は理に適《かな》っていたことを裏付けてしまう。突きつけられた証拠を前に國子も草薙も途方に暮れていた。
闇に溺《おぼ》れていたかつての自分なら、ただの偶然と笑い飛ばしただろう。しかし今なら少しは受け入れられる。
「公社の動きは?」
「固有振動のせいで第九層の基礎が崩壊しているらしい。地鎮祭を行えば鎮まると言ってた」
「ダメよ。地鎮祭は人柱を捧《ささ》げる儀式よ。ドゥオモの子どもたちを生《い》け贄《にえ》になんかさせないわ。もっと別のやり方があるはずよ」
「俺もそう思う。公社は付け焼き刃でアトラスを造っている。人柱を捧げる野蛮人どもがアトラスの真相を知っているとは思えない。ヘキサグラムに気づいているのは今のところ俺と君だけだ」
「このヘキサグラムの中心に何かあるはずよ。アトラス第零層に!」
國子は足下のアトラスの写真を踏みつけた。
第五層にある出雲大社を模した公社では、水蛭子の捜索と同時に固有振動を止める別の方法を編みだそうとしていた。急遽《きゆうきよ》タルシャンが提案したのは人工地盤の構造体の中を走る地下鉄を振り子のように使うという方法だった。全層を走る地下鉄とメガシャフトの高速鉄道を上下左右に動かすことで自ら共振を起こし、ブランコの原理で振動を相殺《そうさい》するというプログラムだ。
「アクティブ制震プログラムを検算しました。シミュレーションだと振動の約八十七パーセントを吸収できます。これなら第八層以下への被害を止められそうです」
タルシャンが睨《にら》みをきかした。
「アクティブ制震プログラムを開始せよ」
命令を受けてゼウスが固有振動と逆方向に地下鉄を自在に走らせる。大質量移動でアトラスの揺れが着実に収まっていく。駅を通過する車輛《しやりよう》は、人が乗っているにも拘《かか》わらず特急運転に変わった。車輛に乗り合わせた人たちが目的駅を通過するのに目を丸くした。まるで地下鉄が意志を持ったように暴走し始めたではないか。車内に緊急アナウンスが入る。
『非常事態のため、地下鉄はゼウスの管理下に置かれました。お急ぎのところまことに申し訳ありませんが、ご理解とご協力のほどをよろしくお願いいたします。本日も東京メトロをご利用いただき、まことにありがとうございます』
鷹揚《おうよう》なアナウンスとは裏腹に地下鉄は暴走運転を止めない。急カーブを脱線すれすれで駆け抜けると車内から悲鳴があがった。
「人が乗ってるんだぞ。すぐに電車を止めろ」
咄嗟《とつさ》に非常停止ボタンを押したが、ゼウスはこれを拒否した。乗客の体重まで振り子の原動力に換算されていた。ここで降ろすと理論値からズレてしまう。固有振動を止めるための最小限の犠牲とゼウスは結論づけた。メガシャフトと人工地盤の地下鉄が連携を保ちながら振動を相殺していく。時速百キロメートル以上の速度で走り回る地下鉄はアトラス崩壊を止める唯一の手段だった。
公社の管制室では脈動する地下鉄の動きがモニターされていた。
「すごい。ほぼ理論値に近い結果が出ています。誤差一パーセント以内です」
「絶対に止めるな。アクティブ制震プログラムを二十四時間動かせ。アトラス全層に戒厳令を出すのだ。公共交通機関の利用を禁止する」
タルシャンは憮然《ぶぜん》として席を立つと管制室を離れた。
執務室に戻ったタルシャンはドアを閉めるや、苦笑いを浮かべた。そんな彼を窘《たしな》める女の声がする。窓辺に立っていたのは腰の曲がった老婆だった。
「セルゲイや、相変わらず無茶なことをする。地下鉄を振り子にして固有振動を止めるなど、私でも考えなんだ」
「ナギコでもきっとそうしたさ。ここは君が興した公社だ。指揮を執りたければいつでも譲ろう」
タルシャンは凪子の腰にそっと手を回して顔を寄せた。五十年前と変わらずに甘酸っぱい思いが胸を突く。タルシャンの指が凪子のうなじを這《は》ったとき、反射的に身を強張らせた。
「手が早いのも相変わらずじゃ。一度だけという約束だったはずじゃ」
「君は昔から男を焦《じ》らすのが上手だ」
タルシャンは苦笑して凪子の向かいに座った。タルシャンはやっと公社の主を迎えて肩にのしかかっていた重圧から解放された気分だった。鋭かった目が急に穏やかになり、凪子の前で無邪気に遊ぶ子どものような眼差《まなざ》しに変わる。タルシャンはあくまでも凪子を補佐するのが役目だ。
「なんでも君の可愛い孫娘に追放されたとか」
「それでこそ國子じゃ。私を追放しなければこちらから総統職を罷免《ひめん》してやるところじゃった」
「面白い娘だ。まるで昔のナギコを見ているようだ」
「私はもっと上品だったつもりじゃが?」
そう言いながらも凪子はまんざらでもない笑みを浮かべた。國子に追放された凪子は迷わずアトラスへと向かった。丁重な迎えを受けて再び公社に入ったとき、感慨深い思いに駆られた。これが夢にまで見たアトラスだ。アトラスを施工する前に仮想空間の中で体験した景色とは比べ物にならない。今やここで人が生まれほとんど全ての人間が地上を知らずにここで死ぬ。
「予想以上の出来じゃ。ここまで来るのに半世紀かかった。だが、まだアトラスは建造半ばじゃ。城を造っても主がいなければ意味がない」
「君の孫娘はヘキサグラムに気づいてくれるかな?」
「私たちと同じものを見つけるに違いない」
凪子は衛星写真で捉《とら》えた焦土の東京を眺めていた。衛星軌道からなら、ヘキサグラムのポイントがより鮮明に見えた。凪子はあの第二次関東大震災の焼け野原を思い出していた。
半世紀前、凪子は金融コンサルタント会社を経営していた。資金を効率的に運用する凄腕《すごうで》トレーダーとして兜町にその名を轟《とどろ》かせていた凪子は、企業買収を得意としていた。資本家から投資を集い、株価の上下に合わせて売買する凪子は常勝無敗の伝説を日々更新した。凪子が一日で動かすマネーの総額は二千億円にも達した。企業を安値で買収し、解体分割して利ざやを稼ぐ。彼女はマネーこそ人類が生み出した最強の武器だと信じていた。その頃、世界はまだ炭素を放出する旧態依然としたシステムで動いていた。
同じ頃、ニューヨークの若き銀行家だったタルシャンもまた、マネーを意のままに操る金融街の帝王として頭角を現していた。タルシャンは先物取引が上手《うま》く、北米の穀物市場の半分はタルシャンが治めていた。銀行家仲間でもタルシャンは素性のわからぬ男として不気味がられていた。もしタルシャンが金|儲《もう》けにだけ興味がある男だったら、これほど恐れられはしなかっただろう。タルシャンは儲けた金のほとんどを回収の目処《めど》のつかない途上国へと融資する。タルシャンの行動は資本主義の精神から大きく逸脱していた。タルシャンは最低限の身なりを整えるだけで、贅沢《ぜいたく》には全く興味を示さない。そんなタルシャンを理解できないウォール街のビジネスマンたちは『商売の上手いコミュニスト』と揶揄《やゆ》していた。
当時、タルシャンは資本主義の行き詰まりを感じていた。マネーは地球を回るが、富は偏って蓄積される。「地球は脳|梗塞《こうそく》だ」を口癖にしていたタルシャンは資本家に高い倫理を求めた。経済を拡大する肉体と捉えていたタルシャンは地球上全てにマネーを動かしてこそ経済の深淵《しんえん》に触れることができると信じていた。しかし所詮《しよせん》、経済は欲望でしか動かない。いくらタルシャンが途上国の援助に努めても、マネーの偏りは是正されない。マネーの本質は循環系だと信じるタルシャンは、世界中に血液が届かない資本主義を憎悪していた。資本主義の帝王であるタルシャンは、欲望を利用しながら、もっと効率的にマネーを循環させる新しい経済を模索していた。
あるときタルシャンは原油の先物市場に手を染める。中国の予想以上の工業化で石油の消費がアメリカに匹敵するほどに成長していたからだ。タルシャンは石油会社を買収しようと計画した。そこで石油関連企業の買収に実績のある東京の凪子に接触することにした。
初めてタルシャンと会ったときの印象を凪子は鮮明に覚えている。肌の薄いタルシャンは超然とした雰囲気の男だった。彼にはマネーを扱う者に特有の生臭い匂いがない。ニューヨークの金融市場の帝王と呼ばれるタルシャンは天体望遠鏡で深宇宙を眺めているような眼差しをしていた。凪子はそんな彼の姿をキリスト教の聖人と重ねた。
赤坂の料亭で会食した二人は、一目でお互いに惹《ひ》かれ合った。凪子はタルシャンの買収話に、もっと儲かる方法を提示したのだ。
「原油価格が高騰すると思っているのはしがないデイトレーダーか、MBAを取っただけのボンクラですわ」
慣れない座敷であぐらをかいたタルシャンは、思わぬ話に意表をつかれた。
「原油価格が下落する理由はなんだ?」
「エコロジーの観点からです。地球温暖化の元凶ですわ」
タルシャンは豪快に笑った。
「君が環境問題に関心があるとは驚いた。ではなぜ石油関連企業を買収する?」
「高く売るためです。これから奈落の底に落とします」
凪子はタルシャンと会うこの日のために綿密な企画書を持参していた。差し出された企画書の表紙には『炭素経済のシステムと実践』と記されていた。それは企画書というよりも辞書というべき厚さだった。凪子はこれは世界経済を根幹から変えることができる仕組みだと自信たっぷりに説明した。企画書の中身はこうだ。生産で生じた炭素と処分で放出する炭素をコストと捉え、工業製品の全てに炭素税を課税するというものだ。炭素を生じずに工業製品を生産するほど税率が低くなるという。
「化石資源に頼った産業が限界にあるのは言うまでもありません。地球温暖化でCO2の削減が急務なのはどの国も同じです。ならば経済そのものを炭素本位制に変えてしまえばいいんです。世界は地球型経済に移行する時期です」
「地球型経済の理念はわかる。だが、理想だけでは人は動かない。経済の本質は欲望なのだ」
「もちろんわかっております。何も炭素経済は神の国のシステムではありません。地球型経済は人間の欲望に忠実にできていますのよ」
凪子はバッグの中からビロードのケースを取り出した。純金が入っているのかとタルシャンは思ったが、中には純度百パーセントと刻印されたグラファイトが入っていただけだった。ただの炭だ、とタルシャンは無造作にテーブルに置いた。
「炭素経済ではそれが金塊になるんですよ」
「まさか、どんな魔法を使えばこの炭が金塊になるというのだ」
「それが炭素経済の魔法です。たとえば、プルトニウムを無毒化する技術を開発したら、世界はどう変わると思いますか?」
タルシャンは凪子が何を言っているのか、まだ要点を掴《つか》めていなかった。凪子の理論はこうだ。使用済み核燃料の処理はどの国でも頭を痛めている。今のところ使用済み核燃料の処理は地底奥深くに埋めてコンクリートで固めるしか方法がない。しかしそれは無毒化したわけではなく放射能の影響を確率的に下げたにすぎない。もしプルトニウムを無毒化する技術が開発されたら、世界中の使用済み核燃料を独占的に請け負うビジネスが生まれる。それを炭素に置き換えてみればいいと凪子は言う。即《すなわ》ち、現在世界中で疎まれている大気中のCO2を削減する技術を開発できれば、それはビジネスになる。
しかしタルシャンはまだ納得できていなかった。
「その理論には矛盾があるぞ。大気中のCO2を削減することと、炭素を生み出すことは同義ではない」
凪子はテーブルの上の炭を汕頭《スワトウ》のハンカチで丁寧に包んだ。
「このグラファイトのインゴットは、何からできていると思いますか?」
「グラファイトは物質を燃焼して生み出す。たとえばフェノール樹脂だ」
「いいえ。このグラファイトは空間から生まれました」
「マジックじゃあるまいし、バカげている」
凪子は自分が投資している企業のパンフレットを差し出した。手作りの表紙には『安田電気』と手書きのロゴが記されていた。明日にでも潰《つぶ》れそうな零細企業は凪子のような国際金融トレーダーが扱うにしてはあまりにも粗末すぎる気がした。
「この企業は空中炭素固定技術を確立しました。グラファイトは燃やさずに大気から直接採るんです。だから原材料費はタダ同然ですわ。その企業は今は浜松市にある町工場に過ぎませんが、とてつもない可能性を秘めています。カーボンナノチューブを安価で大量に作り出せば炭素経済では税金のかからない競争力の高い製品になります。なにしろCO2を吸収した成果ですもの。この技術を独占的に使えるとすれば――」
「なるほどプルトニウムの無毒化に等しいことになる」
タルシャンは思わず身を乗り出していた。
「この町工場はもっと面白いことを考えているんです。ご覧になります?」
凪子は一度座敷を離れた。化粧を直しに行ったのかと思ったらすぐに襖《ふすま》を開けて戻ってきた。タルシャンは現れた凪子の変化にすぐに気がついた。彼女はさっき白いスーツを着ていたが、今は花柄のワンピースを着ている。その小粋な演出にタルシャンも口元を緩めた。
「ナギコはお洒落《しやれ》な投資家だな。よく似合っている」
「では、これはどうでしょう」
すると目の前の凪子のワンピースにゆったりとしたドレープが生まれ、真紅のイブニングドレスに変化したではないか。タルシャンは奇術を見せられている気分だった。凪子は得意気に解説する。
「これは擬態する布で、炭素繊維でできています。カーボンナノチューブ技術でナノサイズのコンピュータを素材の中に混ぜています。まだ試作品で布にしか変化はできませんが、理論的にはもっと固い素材やガラスのような透明な素材、液体まで再現できます」
タルシャンは近未来のハイテク技術を目の当たりにして言葉が出なかった。
凪子がもう一度、服を変化させる。
「擬態する炭素材は鉄鋼に代わるだけではなく、全ての素材の代替品となるでしょう。それこそ軍事産業を根底から変えることも可能です。既存の戦術は全て古いものになりますわ。どうか私の企業に投資してください。私とあなたが組めばパラダイムシフトを起こせます。新時代の覇者は私たちです」
タルシャンは目を鋭く光らせた。
「一度、聞こう。この炭素経済の本質はなんだ?」
凪子は頬を紅潮させながら持論を述べた。
「新しい循環系の構築です。今の資本主義だと全世界が参加する経済とは呼べません。グローバリゼーションは先進国にだけマネーが集まる仕組みです。でも地球型経済である炭素経済は、世界の全ての国が参加するシステムです。それにとてもフェアです。工業国の排出するCO2のせいで、途上国が被害を受けるなんて理不尽じゃないですか。地球に生きる者は全て環境に対して税金を納めるべきです。そしてなにより――」
タルシャンは苦笑いを浮かべた。
「我々が絶対に損をしないシステムなんだろう」
「私は投資家ですもの。損をしてまで地球に優しくしたくありません」
タルシャンは凪子という人間に惹かれた。凪子は人間の本質をよく知っている。高邁《こうまい》な理念だけでは人は動かない。人を動かすにはそれなりの動機づけがいる。欲望こそ最大の動機であると信じる凪子は正しかった。欲望を利用してより高度にマネーを循環させるなら、炭素経済は成功するとタルシャンは確信した。それに安価で大量の炭素材が手に入るなら好都合だった。
「炭素材は私が買う。明日中に十億ドルをその企業に融資しよう。この企画書は知人の国連大使に渡しておく。革命は血を流さずに一夜で行おう」
タルシャンは商談成立の握手を求めた。炭素経済の開闢《かいびやく》の祖となる二人は祝杯をかわし、お互いに強く惹かれ合った。十一月の暮れだというのに都心は熱帯夜の記録を更新した日だった。
その夜、ベッドの中で二人はお互いの意志を確認しあった。明日タルシャンが帰国すれば、空前絶後の革命が待っている。昂《たかぶ》った二人は初対面とは思えぬほど熱く乱れた。ニューヨークと東京は相手の体温を感じるにはあまりにも遠すぎる。革命の同志として二人は体で絆《きずな》を確認しあった。そして一度相手の鼓動のリズムを体に刻みつけると、決して相手は裏切らないことを確信した。体の火照りが収まらないまま、凪子はタルシャンと甘い未来のことを話した。
「噂は聞いておりますわ。ニューヨークの再開発事業に関わっておられるとか? どうしてまた地価の高いマンハッタンを買収しようとしているんですか? 私ならニュージャージーで再開発をするのに」
煙草をくゆらせたタルシャンは極秘で進めていた再開発事業が凪子の耳に入っていることに目を丸くした。情報が漏れると地価の高騰を招いてしまう。それは側近にすら言ったことのない最高機密だった。
「マンハッタンの空中権が高値で取引されているのでピンと来たわ」
タルシャンはもう凪子に隠し事をするのは無意味だと観念した。
「さすがアジアの暴竜と呼ばれる女だ。ニューヨークの再開発は極秘事項だ」
タルシャンはノートパソコンを取り出すと、ニューヨークの再開発のプランを見せた。それはひとつの高層建築のモデルだった。どんな奇想天外な再開発を見せられるかと期待した凪子は、意外と規模が小さいことにがっかりした。こんなビルならマンハッタンには幾らでもあるではないか。わざわざセントラルパーク一帯の空中権を買収するような規模ではない。するとタルシャンは現在のマンハッタンの摩天楼とそのビルを同じ縮尺で並べてみせた。
「これは一体なんですの!」
凪子は声を裏返す。さっき見せられたビルはあまりにも大きすぎるのだ。ワールドトレードセンター跡地に建てられた六百メートルのフリーダムタワーがミニチュアのようだ。このビルは五千メートル以上、いや八千メートルはある。こんな大規模プロジェクトが密《ひそ》かに進行していたなんて信じられなかった。
ディスプレイを覗《のぞ》き込んだままの凪子にタルシャンが解説してやった。
「これが新しいニューヨークだ。人工地盤を積み重ねることで、マンハッタン島の五倍の延べ床面積を生み出す。強靱《きようじん》な炭素材で造るこの街はテロに強く、エネルギー効率の高い街だ。この十三本のメガシャフトが人工地盤を支える背骨になる」
マンハッタン島のほぼ全てを土台にして積み上げられる人工地盤の大きさは桁《けた》外れだ。いくらマンハッタンのヒートアイランド現象が深刻だといっても、この規模の事業だと国家プロジェクトになる。それを見た凪子はアメリカがどの国よりも早くCO2の削減に乗り出そうとする意気込みを感じた。
「どうだ驚いたかね。私たちはこの再開発事業のコードネームを『アトラス』と呼んでいる」
CADで描かれた新しい都市は、十三層の人工地盤と外周に十三本のメガシャフトを持つ威風堂々たる姿だ。まさに天を支える神アトラスの名に相応《ふさわ》しいと凪子は思った。
「でもなぜマンハッタンのミッドタウンで?」
タルシャンはその理由を語る前に自分の先祖の由来を語り始めた。アルメニア系アメリカ人であるタルシャンは祖国を捨てた亡命貴族の末裔《まつえい》だ。移民の中でもアルメニア系アメリカ人は少数派だ。しかし彼らはアルメニアン・シンジケートと呼ばれる金融の最大派閥を形成している。その力はユダヤ系を圧倒するほどだ。ごく少数のアルメニア系が富を独占できたのには訳があるとタルシャンは言う。
「私たちの先祖は大地の力を使って商いをすることを知っていた。大地には富の集まるスウィートスポットがある。そこを活用すれば最小限の力で最大の効果を生み出すことができる。いわばエネルギーの増幅地帯だ」
「アルメニア系はロマンチストなのね。そういう話は嫌いじゃないわ」
「よく言う。君だってホロスコープを使って株式相場を読んでいるじゃないか」
凪子はどきっとした。彼女が常勝無敗と呼ばれるのはホロスコープと経済物理学を融合させたプログラムを独自に開発したからだ。経済をマクロの視点で捉《とら》えるとある法則を見出すことができる。これに気づいたのはアポロ計画に従事した物理学者たちだ。ロケットを打ち上げる軌道計算を現実の市場経済の動向を分析するのに応用したのが経済物理学だ。以来、経済学における予測式は物理学とともに発展してきた。現実に穀物の先物取引は太陽の黒点周期と連動することが確認されている。物理学を修める者は誰よりも大きな富を得ることができる。凪子はホロスコープの惑星運動と市場の動きに関連がないか調べた。そして惑星運動と市場には有意差が認められることを発見した。それはアジアの暴竜の目覚めの瞬間だった。
「君の方法論は正しい。私たちも君と同じように地球に問いかけてビジネスをしている」
「でもどうやって。当時の物理学のレベルでは発見できないはずよ」
「方程式ではなく、直感で捉えていたのだ。太古の人たちはそういう場所に神殿を造り、崇《あが》めた。どの文明でもそんな土地にはこういうシンボルがある」
タルシャンが見せたのはヘキサグラムの図形だった。均衡と調和を表す自然界の法則はすべてこのヘキサグラムのパターンが組み込まれている。
「私たちの先祖はこのヘキサグラムをマンハッタンで見つけた」
そう言ってタルシャンは更地になったマンハッタン島の画像を見せた。エンパイアステートビルを中心に半径二百メートルの遺跡が規則的に並べられていた。
「アメリカ先住民がこの土地の特異性を見抜いて作ったとされる遺跡だ。私たちはここで金融業を興すことにした。ニューヨーク再開発は大地のヘキサグラムの力を集め、より繁栄するプロジェクトなのだ」
「効率化を進めるのはいいけど、どうやってコントロールするの?」
タルシャンは持っていたディスクを起動させた。そこには新型コンピュータの設計図が収まっていた。
「これはアメリカ政府が極秘に開発した人工知能『ゼウス』だ。世界の全てのコンピュータ・ネットワークと通信を傍受する能力がある。このゼウスにアトラスの建造と都市の治安維持を任せる。ゼウスの能力では役不足かもしれないが、世界の平和に貢献したと思えばゼウスも喜んでくれるだろう。ゼウスをまともに使えば世界は沈黙せざるをえなくなるからな」
「まさかそのソフトウェアは……」
タルシャンが悪戯《いたずら》っぽくウインクする。
「エシュロンが使おうとしていたのを盗んだ。奴らは民主主義の敵だ」
「でもヘキサグラムの中央にこれを建てることにどんな意味があるの」
「アトラスは幸福な時代の象徴となる建物だ。大地と天空を結ぶことで地球のエネルギーはアトラスを中心に循環する。いわばエネルギーの動脈路だ」
これでニューヨークは二十一世紀も繁栄を謳歌《おうか》するという。凪子は半信半疑でその話を聞いた。
一度きりの情事を終えた朝、タルシャンは帰国した。それからの凪子とタルシャンの連携は迅速だった。石油企業をぎりぎりまで買い続ける凪子は、政治の動きを見逃さなかった。タルシャンが炭素経済のシステムを国連に提出する一週間前に、全ての石油関連企業の株を売り払い、今度はグラファイトを生産する企業にマネーを注いだ。折しも地球温暖化の影響が無視できないレベルにまで達していた世界は、国連主導による新たな経済システムへの参画を余儀なくされた。
国連の強行採決によって決定された炭素経済発動の日は、世界が新しい光を浴びた歴史的瞬間だ。世界は調和と均衡の取れた地球型経済への移行に眩《まぶ》しい未来を描いた。
しかしそんな晴れやかな時代の幕開けから一ヶ月後、東京は未曾有《みぞう》の恐怖に突き落とされてしまうことになった。かねてより恐れられていた第二次関東大震災の激震が東京を襲ったのだ。高速道路の橋脚は無惨に薙《な》ぎ倒され、建物の多くは倒壊し、炎上した。東京は首都としての機能を完全に失ってしまった。
政府は焼け野原になった東京をもう一度立ち上げるために、東京再生計画を立案した。炭素経済は被災国となった日本にすら容赦なく炭素税を突きつける。炭素を出さずに首都を再生するためには、新素材が必要だった。浜松市で産声をあげた素材メーカーはその事業を一手に任された。凪子のさらなる躍進が訪れていた。東京再開発は税金のかからない炭素材を政府に大量に売りつけるチャンスだ。凪子がマネジメントしていた安田電気は炭素吸収型の産業として脚光を浴びた。凪子はタルシャンから得た投資で京浜工業地帯を買収し、空中炭素固定工場を稼働させた。CO2を吸収して生産するグラファイトは年間二億トン。日本が排出するCO2の約二十パーセントを削減したことになる。炭素材は鉄鋼に代わる究極の素材として主力工業品の地位に躍り出た。
凪子は炭素経済の最初の成功者への道を歩み始めていた。東京再生計画の諮問《しもん》委員を務めていた凪子は、ある日東京をヘリで視察することになった。そのとき、東京の歴史は大転換を迎える。凪子は大地にヘキサグラムを見つけてしまった。山手線を外周とする直径五キロメートルの巨大なヘキサグラムだ。
「今すぐヘリを成田へ。ニューヨークに飛ぶわ」
凪子はこの事実をタルシャンに告げた。航空写真を見たタルシャンの手は震えていた。
「これは史上最大級のヘキサグラムだ!」
東京にあるヘキサグラムはマンハッタンにあるとされるヘキサグラムの六百倍以上の規模だ。タルシャンは迷わずにニューヨーク再開発事業のメインデベロッパーの座を降りた。タルシャンの投資が頼りだったアメリカ政府は資金を得られずに再開発を断念してしまう。ニューヨーク再開発は公に発表されることなく青写真のまま色|褪《あ》せた。その間にタルシャンは有り余る資金を東京に注ぎ込んだ。ほどなく東京にアトラス計画が発表された。それはニューヨーク再開発事業でマンハッタンに聳《そび》えるはずの建造物だった。
その激動の時代から半世紀が過ぎた。窓の景色を見下ろした凪子はしみじみと語った。
「タルシャンや、いつか言おうと思っていた。アトラスを東京で造ってくれたことに礼を申す。お蔭《かげ》で東京は世界一の繁栄を謳歌するまでになった。まさか震災国がここまで復興するとは誰も思っていなかったじゃろう」
「私は合理的な判断をしたまでだ。同じ投資ならより大きな効果が見込める土地に造るべきだ」
五十年の歳月は持て余すほどの情熱のあった時間を、穏やかな月日に変えてしまう。もしこの歳であの時代のあの瞬間を生きていたなら、アトラス計画を発動できなかったと思う。眠っているときでも刃のように冴《さ》え渡っていた意識は彼らの人生の中でも僅《わず》かな時間だった。老いた今となっては意識が途切れる睡眠が死の匂いに染まっているのを感じる。あのとき二人は狂気で生きていることを知っていた。そしてこの狂気が長くは続かないことも。だからこそアトラス建造を急いだのだ。狂気が枯れてしまう前に。
タルシャンはニューヨーク再開発事業を断念してよかったと思う。あのままマンハッタンでアトラスを造っていたら、固有振動に悩まされ断念していただろう。アトラスは天と地を繋《つな》ぐ動脈である以上に、人間の制御を求めている。それは今となってはこの国でしかできないことなのかもしれないと思った。
「大和民族もヘキサグラムの秘密を知っていたということだ」
「あとは國子が気づいてくれるのを祈るだけじゃ……」
老いた二人は互いに支え合うように肩を抱いていた。公社から見る日差しはいつになく穏やかだ。こんな優しい太陽を凪子は地上にいるときは見たことがなかった。この光が大地を照らしてほしいと切に祈る。だが第五層より下はまだ分厚い雨雲に覆われていた。
ドゥオモを覆う下水管の処理能力が限界に達していた。しかし雨足は容赦なく強まりドゥオモを雨に沈めていく。こんな日は神隠しが起きるのが常だった。しかしドゥオモの民はそれが公社による拉致《らち》だとわかってしまった。打ち鳴らされる拍子木の代わりに警報のサイレンが響く。ドゥオモの子どもたちは全員シェルターに避難することになった。
凪子の部屋では草薙と國子が東京に描かれたヘキサグラムの写真を見つめていた。アトラス計画が森林化で押収された土地の代替という政策は二次的なものだ。ヘキサグラムの中心に建つアトラスは、宗教的な荘厳ささえ漂わせている。凪子は一体何を考えてアトラスを造り始めたのだろう。
「お婆さまから聞き出さなければ……」
「俺もあの爺《じい》さまに聞きたいことがある。東京で何を企《たくら》んでいるんだ」
「公社に行くしかないわ。お婆さまとあの白人はグルだもの」
草薙はタルシャンから渡された剣を背中に担いでいた。これを貰《もら》ってから、ゼウスの声が頻繁に聞こえてくるようになった。不思議なことはまだある。この剣を携えていると雨に濡《ぬ》れないのだ。草薙はスコールの中を一滴の雨も受けずにドゥオモに入った。
「ところでその剣は何? 軍人にしてはレトロ趣味ね」
「実はハイテク製品なんだぞ。傘代わりになるんだ」
「バッカみたい」
國子が鼻で笑う側で草薙は見てろと告げる。外廊下に出た草薙は剣を構えてみせた。すると國子の目には草薙がコラージュ写真のように景色から浮いて映った。國子の髪はもうずぶ濡れなのに、草薙は涼しい顔をしてスコールの中に立っている。擬態材を初めて見たときの気分と似ていた。見ていると胸の座りが悪くなる。一体どういう理屈で草薙は雨を避けているのか、國子は納得のいく説明を聞きたかった。
「この剣は雨を切るんだ。見てろよ」
草薙はお気に入りの野球選手の真似をして豪快に剣をスイングしてみせた。國子にはその様子がスローモーションのように映った。振り払われる剣の先から雨が切れていくではないか。雨は個体のように真っ二つに切れて、草薙の周りから消えていった。草薙がホームランと叫んでガッツポーズを取る。スイングした軌跡には小さな晴れ間のような空間が生まれていた。それを見た國子は、これはハイテクで説明できるような現象ではないと悟った。擬態材の方がまだ科学の匂いがする。あの錆《さ》びた剣には霊力が宿っているとしか思えなかった。オカルト現象を信じない國子は、目の錯覚と思うことにした。しかし草薙は面白がって何度もスイングする。その度に小さな晴れ間が生まれていく。
「ちょっと貸して。こんなの納得できないわ」
「あ、何をする乱暴者。壊したら承知しないぞ」
國子が草薙から剣を奪った瞬間、國子の周りから雨が消えた。空を見上げると雨がカーブを描いて國子を避けているのが見えた。ずしりと手首にかかる青銅の剣は両手で持っても重心が傾いてしまうほど重たい。柄を握った瞬間、國子は懐かしい気持ちになった。なぜ自分がそうなってしまったのかわからないが、この剣が愛《いと》おしく思えるのだ。剣は自分の体を鞘《さや》にしたようにピタリと國子の掌《てのひら》にフィットした。
「もしかして、これは――!」
國子は理論よりも実践重視のタイプだ。この剣が何であるかは剣に聞けばよい。両手で剣を掲げた國子は突然、棒高跳びの選手のように助走しだした。
「おい、何するつもりだ。俺の剣だぞ」
草薙の制止を振り切って國子は通路を駆けていく。段差を飛び越え、ドゥオモの屋根に飛び移り、まだ助走をやめない。國子は奇声をあげて空との間合いを詰めていく。彼女が走った後には一筋の晴れ間が生まれていた。助走は次第に加速しトップスピードに達した。あのスピードでは壁に激突してしまうと草薙は目を背けた。その瞬間、國子が宙に飛び出した。
「いっけえ!」
自らの体を大きな放物線に変えた國子は剣の一部になって弧を描く。全身の筋肉をひとつのバネに束ね、落下の加速度すら利用しながら剣を振り抜いた。その瞬間、ドゥオモが衝撃波で揺れた。國子から飛び出した超音速の衝撃波は豪雨の壁を力ずくで吹き飛ばしてしまった。補修した壁や配管が爆風を受けて宙を舞う。草薙はその光景に唖然《あぜん》とする。空間を押し破る晴れ間がロケットの噴煙のように空に広がっていくではないか。剣の描いた軌跡は増幅されて波紋のように広がり、なお勢いを保っている。剣の力は上空の雨雲にまで到達していた。
「げげ。雲が切れた!」
晴れ間の刃は東京一面を覆っていた雨雲ごとスパッと切ってしまった。その雲の傷口から上空の光が差し込んでくる。草薙は空と落ちていく國子を何度も見比べて視点が定まらない。國子はドゥオモの広場に向けて着地の体勢に入っていた。何度も見た優雅な身のこなしは、國子の背中に翼を錯覚させる。間違いなく人間の中でもっとも空中にいる時間の長い女だと草薙は思った。また視線を空に投げる。雲の傷口からは血のような日差しが噴きあげていた。
切り落とされた雲は斜めにズレ落ち、隙間からアトラスの勇姿が現れる。そのとき國子も草薙も再びゼウスの声を聞いた。
この国の帝となる者よ。大地に眠る最後の神器を取れ。
その声を空中で聞いた國子は、自分が何者であるかを知った。剣で切り裂いた雲の隙間から一条の光が國子を射した。その光はあまりにも鮮明な真実だった。今まで自分の体に絡まっていた闇の糸が見える。國子はその糸を解《ほど》こうと伸身宙返りで身をかわした。アトラス計画はただの東京再生事業ではない。階層化されたアトラスランクは皇位継承者を選定するシステムだ。ゼウスの声を聞いた者にトリプルAのランクが与えられる。公社はアトラスを建造するだけでなく、皇位継承者を選定する。アトラスは帝《みかど》を迎えるために造られた現代の御所だ。
國子は血を逆流させるように、また宙返りをする。着地するまでにまだ知りたいことがあった。絡まった糸は一本の筋となって國子に真相を語ってくれた。凪子が自分をアトラスに向かわせた理由がこれではっきりした。一度、憎しみでアトラスに昇らせ、自分がアトラスの城主に相応《ふさわ》しいか試したのだ。アトラス公社を興した凪子は、皇位継承者を探すために地上に降りたに違いない。ゼウスの声を聞いたトリプルAの子が暗号鍵を開けることを信じて。凪子やタルシャンが犠牲を恐れずにその罪を負ってまでアトラス建造をやめないのは、国体保持のためだ。彼らは将来、必ずや皇位継承者が現れることを信じてアトラスを造り続けた。そして國子に可能性があると知るや、養女に迎え地上で保護した。
「まだ知りたいことがあるわ。なぜあたしが皇位継承者なの?」
また身を宙に転がそうとしたが、もう地表が目前に迫っている。あと一回宙返りすれば全ての糸が解けるのに、その時間もない。國子は宙返りをキャンセルして、着地の最終動作に入った。無重力状態で体の中を浮遊していた内臓が定位置へと収まる。体を傘のようにパッと開いてエアブレーキをかけると地面まであと十センチの距離だった。爪先が大地に触れた瞬間、膝《ひざ》と足首が衝撃を吸収する。軽やかに着地した國子は、剣の名前を知った。
「これは天叢雲《あめのむらくも》の剣《つるぎ》!」
國子は神器の剣を天に構えた。
アトラス計画の全てを知った國子は、ゼウスの声が逼迫《ひつぱく》しているように聞こえた。あれは確かに第十三層まで造らなければ意味のない建造物だ。当初、炭素材だけで造れると高を括《くく》っていた公社はアトラス建設を甘く見ている。アトラスが固有振動で崩壊しかけているのは、大地の力を集約するヘキサグラムの力に負けているからだ。國子は知った。アトラスは大地のエネルギーを天空へと循環させる動脈路だということを。東京のヘキサグラムが放つ力は強靱《きようじん》な炭素材ですらへし折ってしまうほど強力だ。政府の執った政策を支持はしないが、このままだとアトラスはただの塔に成り下がる。アトラス計画で成し遂げたかった凪子の夢は東京の大地を鎮めることだ。それが近い将来また必ず起きるとされている第三次関東大震災を避ける唯一の手段だった。アトラスはプレートに蓄積されたエネルギーを逃がすための巨大なパイプを兼ねていたのだ。
「アトラスを完成させなくちゃ」
それは一時、地上の仲間たちと決別することでもあった。今はアトラスの固有振動を抑えることが先だ。公社がそれを知らないなら、たとえそこが伏魔殿であっても出向くまでのことだ。
モモコが刃物のように差し込む光の中に國子を見つけた。なんと神々しい姿だろう。光のヴェールを纏《まと》った國子の周りから場が浄化されていくのがわかる。モモコは神が降臨したのではないかと目を疑った。あまりにも高貴すぎて直視するのが無礼なことに思える。國子が頭上に掲げていた剣を収めると、広場に突き刺さっていた鋭い日差しの刃が消えた。
「國子、あんたは一体……?」
モモコは触ろうとしていた指を強張《こわば》らせた。今まで懐で温めていた蛹《さなぎ》が蝶《ちよう》になったのだ。自分は捨てられた殻だとモモコは思う。だが羽化したばかりの蝶の美しさは世界一だと自慢したかった。今自分に出来ることは、祝福することだと思う。モモコは膝をついて國子に頭《こうべ》を垂れた。それがこの場に最も相応しい態度のような気がした。
「やだなあ、モモコさん。何の冗談なのよ」
國子は素に戻って屈託のない笑顔を見せるが、モモコは頭を上げなかった。広場にやってきた草薙が「壊したらどうすんだ」と怒鳴り声をあげる。彼らがじゃれているのは何度も見てきたモモコだが、微笑ましいというよりも、むしろ彼らが自分と同じ血の通った人間である証拠を見た気がした。
「坊や。いえ失礼。草薙少佐、國子を頼むわね」
「なんだよ、おばさん改まって。また油断させてキスしようってんだろう」
その手は食わないとばかりに草薙は唇を口の中に吸いこんだ。モモコはいつもと同じように振る舞いたいのに、体が萎縮《いしゆく》して息をするのも困難だった。
「モモコさん、あたし自分の運命を知ってしまったわ。モモコさんをがっかりさせてしまうかもしれない……。あたしは、あたしは……」
モモコはいいんだと首を振った。
「おめでとう。大人になったら秘密のひとつくらいもたなきゃダメ。いい女はミステリアスでもあるのよ」
「あたし、行かなくちゃいけない所ができたの……」
「お行きなさい。あたしに気遣いは無用よ。参謀たちは適当に誤魔化してあげるわよ。さ、人が来る前に早くドゥオモを離れなさい」
モモコは自分の車の鍵を渡した。國子はただ黙って背中を押してくれるモモコの厚意に甘えることにした。
ガソリン車特有の震動と排気ガスを撒《ま》き散らしながら、國子と草薙はアトラスを目指す。水|溜《た》まりの焦土を走る車は、國子が少年院から出るときに乗って以来だ。あのときドゥオモに帰れることを素直に喜んでいたのに、今はアトラスに向かうことに胸を高鳴らせている。運転する草薙が助手席の國子の表情を気にしていた。
「いいのか? 君の街の仲間は総統に裏切られたとがっかりするんだぞ」
「いいの。政府にはあたしの身柄と引き替えにドゥオモの民の安全を保証してもらう。今はアトラスに行かなきゃ。固有振動を止めなくちゃ」
「まったく。なんで俺たちが皇位継承者なんだ。大佐にしてくれよ」
アトラス計画の真相を知った國子は、草薙に全てを伝えた。草薙は面倒くさいことに巻き込まれたとぼやいたが、腑《ふ》に落ちることもたくさんあった。ペルセウスが太平洋に沈んだとき、救出されたのは自分だけだと後で知った。救命ヘリは草薙だけを救出するために出動したのだ。公社でタルシャンに貴重な候補者と呼ばれた理由もそれでわかる。
「あたしたち、どういう縁なのかしらね?」
肉親のいない國子はハンドルを切る草薙と自分の関係に温かい繋《つな》がりを見つけたかった。もしかしたら彼の両親は自分と何らかの関係があるのかもしれないと思った。
「ねえ、あんたのお母さんってどんな人?」
「普通のおふくろだよ。パートして家事をして、たまに美容院に行ってデパートの福袋に一喜一憂するタイプ」
「すごい人物描写ね。虐待されて育ったとか?」
「バカだなあ。愛されたからそう言えるんじゃないか。おまえ身内を腐せるのは絆《きずな》が強いからだって知らないのかよ。でなきゃ洒落《しやれ》になんないだろ」
ふと自分がモモコのことを他人にどう告げるのか気になった。モモコは優しくて、慈愛に満ちた女だ。モモコのことを腐す言葉なんてひとつも持っていない。それは絆が弱いからだと指摘されている気がした。
「言っとくけど、俺に妹はいない。これは確かだ」
「じゃあなぜゼウスはあたしたち二人を選んだんだろう」
草薙は何かを思い出したように、アクセルを踏み込んだ。
「皇位継承者はもうひとりいるぞ。新迎賓館にいる美邦だ。彼女も公社の爺《じい》さまから候補者と呼ばれていた」
「その子はどこにいるの?」
「行方不明だ。軍も警察も公社も躍起になって探している理由がそれだ。そういえばあの子は牛車《ぎつしや》の中に銅鏡を積んでいたなあ。俺の剣が天叢雲の剣だとすると、美邦の銅鏡は八咫《やた》の鏡か……」
突然、國子が横からハンドルを奪った。
「秋葉原に行って。あたし大変なことしちゃった!」
國子は香凜に売り渡したネックレスが、三種の神器のひとつである八尺瓊《やさかに》の勾玉《まがたま》だと気がついたのだ。
秋葉原で発足したネオギルドは世界中のマネーの集まる金融街へと徐々に変貌《へんぼう》を遂げていた。今までシンジケートが扱ってきた密売品は所詮《しよせん》アングラビジネスだ。表舞台の経済炭素の世界とは規模もイメージも比較にならない。一秒間に二百件ものヘッドリースを成立させるメデューサは、カーボニスト百万人分の働きに相当した。東京大空襲後、香凜はヘッドリースで一度も失敗したことがない。今や世界中のマネーが秋葉原に集まっていた。
炭素市場のスクリーンを前に香凜は上機嫌だ。昨日、アメリカの炭素指数がついに一を切った。日本も中国も明日には限りなく一に近づくと予想された。メデューサの予測と現実の炭素指数の下落は完全に一致している。
「金持ちのクラリース! EU市場がもうすぐ開くよ」
『メデューサに任せておけばいいのよ。私はこれからドバイに飛ぶわ。ファイサル国王の晩餐《ばんさん》会に招かれたのよ。お金持ちのクラリスはもっとお金持ちの王様が大好き』
金持ちになったクラリスは不労所得を得ることこそ、人生の楽しみと豪語する女だ。パーティで浮かれている間にも金がどんどん儲《もう》かっていくのが快感なのだそうだ。その感覚はタンゴのリズムに似ているという。ステップひとつが百万ドル、ターンして一千万ドル、フィニッシュで背中を大きくのけ反らせたら一億ドル、と踊りながら資産を計算するのが楽しいらしい。クラリスは香凜の指示も聞かずに通信を切った。
「メデューサがどこをヘッドリースしているのか調べてほしいのに!」
香凜はあくまでも「働かざる者食うべからず」が信条だ。クラリスが不労所得で金儲けするなら、同じ時間を労働に回す香凜はクラリスよりももっと金持ちになれるはずだと信じていた。
メデューサは香凜たちから独立したせいで、契約内容を秘匿している。損はしていないから構わないのだが、どこを買えばここまで炭素指数を下げられるのか興味がある。香凜の知る限り条件の良い投資先など世界中どこを探してもなかった。まるで炭素が異次元に消えていくかのような取引だ。
首を傾げて飴玉《あめだま》を口の中で転がしていると、シンジケートの男たちが血塗《ちまみ》れでやってきた。
「香凜様、あの化け物に仲間を三人殺されました」
「電子結界の出力を上げればいいじゃん」
「昨日から最大でやってます。よく生きていると不思議なくらいです」
「殺しちゃダメだよ。美邦が機嫌を損ねたら面倒くさいもん」
人質の美邦が秋葉原にいるから無茶な商売もできるのだ。香凜は強奪した政府資産を使ってメデューサに有望な地域を買収させている。この事実を政府はまだ知らない。ゼウスの本領は通信の傍受にあるが、メデューサはゼウスの監視する千億の目を潜って取引する方法を編み出した。それは香凜でも思いつかないある画期的な方程式をプログラムしたからだ。もしこれがなければ香凜の政府資産の無断運用はとっくにゼウスの目に引っかかっていただろう。メデューサと美邦、この二つの楯《たて》があるから香凜は好き放題金儲けができるのだ。
香凜の背後から甲高い声が響いた。
「おい香凜。今すぐ電子結界の電源を切るのじゃ。ミーコが死んでしまうぞ」
守衛の制止を押し切って入ってきたのは美邦だった。水蛭子はかつてないほど興奮していた。水蛭子の霊は体の主であるミーコの人格と反りが合わないのだ。水蛭子が思うままに振る舞おうとするとミーコの横槍《よこやり》が入る。頭にきた水蛭子はミーコの人格を徹底的に破壊してしまおうと試みた。それが錯乱状態になって傍目《はため》には水蛭子が暴走しているように見えるのだ。自らの髪の毛を引き抜き、爪で皮膚を引きちぎる水蛭子は自傷行為に耽《ふけ》っている。その痛みのせいで犠牲者が生まれた。水蛭子に絶えず苦痛を与える係は一時間もしないうちに殺されてしまう。
「香凜様、どうか地下室にベークライトを流し込んでください。あの化け物は放射性物質よりも危険です」
「ならぬぞ香凜。今すぐ電子結界を止めるのじゃ。ミーコが苦しむのは見るに耐えられぬ」
香凜は板挟みで気が滅入《めい》った。美邦のお守りも楽じゃない。しかし香凜はとっておきの切り札を用意していた。美邦と部下たちを適当にあしらって部屋から追い出すと、奥のドアが開いた。先週、美邦のために新しい部下を雇っていた。香凜は辟易《へきえき》した口調でカードを渡した。
「美邦のことは任せたよ。お金はこのカードで幾らでも使っていいから」
「私に全てお任せください」
カードを取った部下が恭しくお辞儀する。その人物が出て行った後も、執務室には消毒液の匂いが残っていた。
その頃、地下室の水蛭子はコンクリートの壁を頭突きで破ろうと試みていた。頭を打ちつけるたびに血《ち》飛沫《しぶき》と悲鳴があがる。壁は蜘蛛《くも》の巣のような亀裂と血で染まっていた。水蛭子は電子結界の影響のない場所を探して壁に頭を打ちつける。
「ぎゃああああ。ぎゃああああ。ぎゃああああ」
脳震盪《のうしんとう》を起こしても水蛭子は頭突きをやめなかった。胃から消化しかけたムカデを大量に吐き、辺りは異臭に包まれている。引き抜いた髪は生き物のように床を這《は》っていた。竹槍を持ったシンジケートの男たちはこのグロテスクな光景に息を切らしている。男たちの顔は蒼白《そうはく》だ。正気と狂気の狭間《あざま》は音速の壁と同じだ。壁を突破すれば楽になれるのに、精神にアフターバーナーが備わっていない。なまじ普通であるために却《かえ》って苦しむことになってしまった。男たちは狂いたくて叫んでいた。
「助けてくれ。助けてくれ。助けてくれえ!」
地獄の地下室とは裏腹に美邦の部屋は実業家や投資家が集うサロンになっている。華やかなパーティ会場に女官長が飛び込んできた。
「美邦様、候補者のひとりが脱落したとゼウスから通告が来ました。美邦様の皇位は現在一位です」
三種の神器を揃えた者がこの国の帝《みかど》になると美邦は公社から聞いていた。現在、二つを入手した美邦は國子を蹴落《けお》として第一位だ。ついにこの時がやってきたと美邦は興奮を抑えられない。今まで候補者と呼ばれ新迎賓館に幽閉されていた美邦は可能性だけの存在だった。しかも美邦には膠原病《こうげんびよう》の持病がある。このせいで皇位継承は無理だと囁《ささや》かれていた。その美邦が皇位継承権第一位に躍り出た。最後の天叢雲の剣を手に入れればゼウスから「決定」を受け皇太子となる。公社は皇位継承者が確定するまでの機関だ。美邦が皇太子となれば公社は自動的に「宮内省」に再編されることになっていた。
「ついに妾《わらわ》に好機が訪れたのじゃ」
香凜に作らせた床の間には二つの神器がレーザーの守りを受けて飾られていた。ひとつは美邦が物心ついたときから肌身離さず携帯していた八咫《やた》の鏡、そしてもうひとつは香凜が手に入れた八尺瓊の勾玉だ。
美邦が皇太子になるかも知れないと聞いた香凜は仕事を中断して奏上にやってきた。
「皇太子様、慎んでお慶びを申し上げます。ネオギルドは今後とも皇太子様をアトラスへ戻すべく、全力でお守り申し上げます」
「やはり苦労はしておくものじゃ。こんな汚い街に身を落としてまで耐えた甲斐《かい》があったというものじゃ。妾は平民の気持ちがわかるよき帝になろうぞ」
香凜は心の中で「ふざけんな、タコ」と罵《ののし》ってにっこり笑った。美邦のいるこのビルはダイダロスの被害を受けた秋葉原でも一番状態の良い建物だ。このビルで肩を寄せ合って暮らしていた二千人の人々は家族をバラバラにされ、テントの中で暮らしているのを美邦は知らない。香凜は新迎賓館の内装に負けないように、世界の一流品で部屋を飾ったのに、その苦労も知らない。
「私どもの至らなさをお詫《わ》び申し上げます。地上は物不足で皇太子様にはご不自由をおかけいたしております」
香凜は香炉をちらっと見て目を丸くした。このボケは苦労して手に入れた伽羅《きやら》を全て燃やしている。あれが日本で手に入る全てだ。
「妾は苦労には慣れておる。下々の者の気持ちを汲《く》むのが帝の務めじゃ。ところで天叢雲《あめのむらくも》の剣の行方はわかったか?」
「所有者はわかっております。必ず手に入れてみせます」
「そなたの力に期待しておる。ネオギルドには宮内省御用達の称号を与えよう」
俄《にわか》に下が騒がしい。何事かと眉《まゆ》を顰《ひそ》めた香凜は次の瞬間、爆発音に耳を潰《つぶ》された。逃げ惑う女官たちの声がサイレンのように回る。天井から落ちてくる埃《ほこり》で咳《せ》き込んだ香凜はまだ事態を掴《つか》めていない。今度は連続して爆発が起きた。これは戦車による攻撃だ。秋葉原に一|輛《りよう》の戦車が攻め込んできた。
「皇太子がいるのに、なんてことするの! こちらも戦車部隊で反撃して」
「秋葉原に戦車はありません。香凜様が全部売ってしまったじゃないですか」
秋葉原を再編するときに、香凜は過剰防衛な自警団の戦車を処分した。戦車はこれから国際金融街となる秋葉原のイメージに相応《ふさわ》しくないし、維持費も高い。香凜は秋葉原をゆくゆくはカナダの飛び地領にしようと企《たく》んでいた。カナダ軍に秋葉原を守らせれば経費が安く済むからだ。
「なんで政府が皇太子のいるビルを攻撃するのよ」
「香凜様、あれは政府軍の戦車ではありません。ゲリラが使っているものです」
秋葉原に突如侵攻してきた戦車には武彦が乗っていた。武彦はアトラス計画が何であるかを知るひとりだ。ダブルAの子どもたちは皇位継承権を持つ。ランクが上がれば上がるほど皇位継承権が高くなる。しかしそれはかつての宮家制度とは著しく異なるものだ。ダブルAの子どもの親のアトラスランクはDやEがほとんどなのだ。公社が作り上げたアトラスランクは不可解だった。公社が何を基準にアトラスランクを決めているのか、武彦にはわからない。しかし武彦たちは地上にいるダブルAの子どもたちを殺害すればアトラス計画は頓挫《とんざ》すると考えた。彼らが手にかけた子どもたちは四人。これで皇位継承者がいなくなると思っていたら、小夜子から衝撃的な事実を教えられた。ダブルAは所詮《しよせん》、トリプルAの存在をカモフラージュするためのランクなのだと言う。それを知った武彦は愕然《がくぜん》とした。
「どこまでも俺たちを愚弄《ぐろう》するシステムだ」
武彦は狙いを定めて美邦のいるビルを砲撃する。彼は怒りの絶頂にいた。意味のない暗殺をしてきた自分はただの殺人鬼だ。せめて正義だけは最後まで心の中に止めておこうと思っていたのに、現実はそれすら許さない。もう殺人鬼と唾棄《だき》されても構わなかった。本物の鬼になってしまえば良心の呵責《かしやく》などない。なのに涙が溢《あふ》れてしまう。どんなに涙で洗っても心は二度と白くならないとわかっているのに。それでも武彦は嗚咽《おえつ》を漏らしていた。
「バカにしやがって。俺は戦争を終わらせたかっただけなんだ!」
武彦の怒りが砲弾になって秋葉原を破壊する。こうなったら初志を貫徹するまでだ。トリプルAの美邦を殺せば、皇位継承権は消滅する。それはアトラス計画の崩壊と同義のはずだった。
最低限の武装で応戦する自警団は、戦車の足を止められない。分厚い装甲は小銃の千発や二千発を軽く弾《はじ》く。戦車は雑魚《ざこ》の自警団には目もくれず美邦のいるビルだけを砲撃していた。戦車に積んだコンピュータがビルから逃げ出す人の中に美邦がいないか索敵する。操縦席のモニターには十二単《じゆうにひとえ》の少女の画像が映し出されていた。美邦を見つけたら戦車の人工知能が自動ロックオンし攻撃するようにプログラムされていた。
ビルから衣冠束帯の従者が出てきてマシンガンで応戦する。その後ろを単衣《ひとえ》の女官たちが悲鳴をあげて逃げていく。このビルに間違いなく美邦がいると武彦は確信した。美邦を探す戦車のバルカン砲の銃身が小刻みに動く。従者たちが弾幕を張った。間もなく美邦が脱出してくるものと思われた。
そのとき「おやめ!」という女の声が飛んだ。途端、激しく牙《きば》を剥《む》いていた従者たちがピタリと攻撃をやめた。秋葉原に現れたのは汚れた白衣の女だった。
「その声は小夜子様ではございませんか!」
従者はどんなときでも小夜子の命令に従うように訓練されている。声で反射的に銃を下ろしたが、現れた女は頭を包帯で巻いていて顔がわからない。小夜子は首都層で戦死したはずだった。まさか、生きているなんてと従者たちは信じられなかった。すると白衣の女は巻いていた包帯を外した。風を受けてたなびく包帯の下から鋭い眼光が現れる。
「私の命令を聞かないとその場で処分するわよ」
小夜子がメスを構えて戦車の前に立ちはだかった。その姿に度肝を抜かれたのは武彦だ。首都層で別れた女が秋葉原にいる。モニターに映る小夜子は武彦をじっと見据えていた。
「美邦様を殺すなら私を倒してからお行き!」
「どくんだ小夜子。俺は無駄な殺生はしたくない」
小夜子は何も恐いものはなかった。これでも二度殺された女だ。空軍の戦略爆撃機に殺され、涼子のハーレーに殺され、その度に黄泉《よみ》の国から帰ってきた。美邦が帝になるまでは百回殺されても小夜子は蘇《よみがえ》ってみせる。もし戻った先に肉体がなければ、小夜子の霊は誰かに憑依《ひようい》するだろう。小夜子は両手を広げてバルカン砲の前に立ち塞《ふさ》がった。
「小夜子、頼むからどいてくれ。俺を躊躇《ためら》わせるな」
武彦が威嚇《いかく》射撃する。しかし小夜子は翻す白衣が蜂の巣になっても、微動だにしなかった。
「いいえ、どかないわ。私の美邦様だけを殺すなんてフェアじゃない。あんたのとこの総統だってトリプルAじゃないの!」
香凜に雇われた新たな部下は小夜子だった。美邦の我《わ》が儘《まま》に手を焼いた香凜は新迎賓館の元女医博士と名のる小夜子と接触した。小夜子の与えた情報は香凜にとっても有益だった。小夜子はゼウスの目を潜る画期的な方程式を発見したと香凜に申し出た。その式を一瞥《いちべつ》した香凜はすぐにこれが暗号学におけるコペルニクス級の大発見だと見抜いた。この式をメデューサにプログラムすれば、堂々とゼウスの前を通過できる。この式を十億円で買うと香凜は申し出たのに、小夜子は金には興味を示さなかった。小夜子が知りたがったのは、ゼウスの暗号鍵を開けた香凜が最終候補者リストを見たかどうかだ。小夜子は美邦こそ皇太子に相応しいと思っている。そして香凜も美邦が皇太子にならなければ意味がないと考えていた。お互いに利害が一致する二人は共闘することにした。香凜は美邦以外の候補者の情報を小夜子に渡した。
小夜子は戦車の中の武彦を威圧するように叫んだ。
「メタル・エイジの総統、北条國子もトリプルAよ。美邦様を殺す前にまず自分のとこのゴキブリから始末しなさい!」
「國子が、國子がトリプルAだと? デマカセもいい加減にしろ!」
武彦は握っていた操縦|桿《かん》を離した。バルカン砲のロックオンが解除されたと気づいた小夜子は、持っていた端末から戦車のコンピュータにアクセスして公社の最終候補者のリストを見せてやった。武彦が解析するとそのプログラム言語はゼウスにしか使われていない『Ada00X1』と呼ばれる特殊な言語だった。このデータは間違いなくゼウスから盗んだものだ。ゼウスの最高機密であるアトラスランクには何重もの封印がなされていた。小夜子の言う通りアトラスランクはトリプルAだけが別格に扱われていた。武彦は公社が認定する最終候補者の三人の中に國子がいるのを確認した。
「まさか國子が、そんなバカな……」
「美邦様を殺せばあんたのとこのメス猿が皇太子になるとでも思っていたんでしょう。卑劣な男だわ」
「違う。俺はアトラス計画を潰したいだけだ」
「今更潰してどうなるの。あんたたちゲリラの大義名分はもう意味がないわ。念願通り政府は森林化を断念したじゃない。土地は幾らでもあるじゃないの」
「だけど難民を受け入れるとは言ってない。こんな焼け野原で原始人みたいに暮らせってのか!」
「あんたの怒りはただの私怨《しえん》よ。そうじゃないなら北条國子から殺しなさい。ゲリラの親玉が皇位継承者だなんて、デタラメにもほどがあるわ。正義がないのはあんたの方でしょう!」
武彦はガタガタと震えが止まらなかった。最後まで側にいるはずだった正義まで崩壊した武彦は、操縦席の中で号泣した。アトラスを落とすことだけを生《い》き甲斐《がい》にしてきた四十年近くの人生が脆《もろ》くも崩れ落ちた瞬間だった。今までの反政府活動を否定された武彦は、過去も未来も失い薄っぺらな現在に取り残された気分だった。自分は明日を生きる資格がない。今まで生きてきた過去を語る資格もない。一体この人生は何の価値があったのか凪子に問いたかった。凪子はきっと國子の素性を知って総統に任命したに違いなかった。凪子が國子に施した帝王学は自治や兵法だけではない。ゲリラ活動に直接関係のない政治や経済、歴史にまで及んだ。今から思えばそれは國子を皇太子とするための教育だった。それなのに凪子は國子をアトラス攻略戦へと送り出した。その真意もわからない。何より戦死した母は何のために闘っていたのだ。
「母さん。母さん……。俺たちはゴキブリにされちまったよお……」
武彦は戦車のエンジンを止めた。
「さあ、今のうちに美邦様を避難させなさい」
ビルの奥から女官に囲まれた美邦が出てきた。美邦は炭素材の楯《たて》の隙間から懐かしい背中を見つけた。あの優しい背中を持つ女性は世界にひとりしかいない。美邦は思わず声を詰まらせた。
「小夜子! 生きておったのか!」
振り返った小夜子はひどい怪我を負っていたが、眼鏡の奥の瞳《ひとみ》は無傷だった。小夜子は炭素材の楯の前に立ち、美邦を避難させた。
突然の戦車の乱入騒ぎが一段落して、秋葉原が再びビジネスを始めた頃、草薙の運転するガソリン車が中央通りに現れた。
「検問がいつもより厳しいわ。何があったんだろう」
交差点ごとに敷かれた検問は車輛《しやりよう》を全部点検してボディチェックを受けなければならなかった。治安が悪い地区だというのは知っているが、戒厳令さながらの異常な警備だ。國子たちは最後の検問で座席の下に隠していた天叢雲《あめのむらくも》の剣を発見されてしまった。草薙の顔色が変わったのを國子が窘《たしな》めた。
「動揺しちゃダメ。あたし古物取引の免許を持ってるから、それで誤魔化すわ」
ボディチェックを受けた國子は、古物商にこれを売りに来たと告げた。免許のデータに取引の実績があるのを確認した係は、素直に剣を返してくれた。
草薙は大きな深呼吸をした。
「さすが慣れている。古物商とは考えたものだ」
「秋葉原とはグラファイトを売る以外にも取引してたから。感謝してよ」
「神器を売り渡した国賊が偉そうなこと言うな」
「だって八尺瓊《やさかに》の勾玉《まがたま》だって思わなかったんだもん。あんただって天叢雲の剣を傘にしてたじゃない」
そんなに大切なものなら、凪子もタルシャンもくれるときに「神器です」と言えばいいのだ。そしたらそれなりの扱いをしたと二人は思う。これが皇太子の身分の証《あかし》なら尚のことだ。
「急がないとアトラスが壊れちゃう。大きな地震が来たら人工地盤がみんな落ちてしまう。早く固有振動を止めないと」
それができるのは神器の霊力を使える三人のトリプルAだけだ。國子たちはまだ正式にゼウスから決定を貰《もら》ったわけではない。皇位継承権があるというだけだ。三種の神器を揃えた皇位継承者がゼウスから決定を貰える。そして帝《みかど》となる者がアトラスを治める。
「アトラスなんて制圧するしか興味がなかったのに!」
もう過去の自分の行動が全て無駄に思えてきた。真実を知った今は、プレートに溜《た》まる地震のエネルギーをスムーズに放出させるアトラス計画を続行してもらいたいというのが國子の正直な気持ちだ。
「おい。あれを見ろ」
半壊したネオギルドの本部ビルに戦車が突っ込んで止まっていた。あの戦車はうちのものだと國子が気づく。一体誰が勝手に戦車を使ったのだろう。本部ビルは蛻《もぬけ》の殻だ。香凜たちがどこに消えたのか、國子は知る術《すべ》もなかった。
スイッチを入れたメデューサの端末から一匹の蛇が首を擡《もた》げた。辺りを見渡して安全だと気づくと無数の蛇が這《は》い出して活発な経済活動を再開した。
「香凜様、ついに手に入れました」
部下が錦にくるまれた品を丁重に差し出す。中には天叢雲の剣が収まっていた。検問で草薙たちを見つけたネオギルドが剣をすり替えたのだ。
「バッカだなあ。せっかく一千億円で買おうと思っていたのに」
香凜の隣には小夜子が参謀として並んでいた。三種の神器を揃えた二人は意外と簡単だったと言って笑った。
「これで美邦様を正式な皇太子として認めてもらえるわ。うふふふふ」
「あたしは帝の後ろ楯を得て法人税免除でビジネスができるよ。わーい」
利害が完全に一致する二人は今後の繁栄を願って握手を交わした。小夜子はこの日が来るのをずっと待っていたのだ。美邦を低く扱った公社の連中は宮内省に再編するときに血を見てもらうつもりだ。三種の神器が揃ったと聞いた美邦は大はしゃぎだった。
「大儀であったぞ。さすが小夜子じゃ」
小夜子の懐に飛びついた美邦は押し倒さんばかりの勢いだ。肋骨《ろつこつ》を折った小夜子は苦痛の顔も見せず、美邦をぎゅっと抱き締めた。腕や肺や骨の痛みはこれが現実である証拠だ。三途《さんず》の川を二度越えた小夜子は不屈の闘志で戻ってきた。この瞬間のためだけに。
「皇太子様、決定おめでとうございます」
美邦は小夜子の胸の中に顔を埋めた。この汗の匂いがまた嗅《か》げるとは思っていなかった。美邦は三種の神器を揃えたことよりも、この素朴な幸福の方がずっと嬉《うれ》しかった。
「今夜はもうお休みなさいませ。明日、小夜子が公社に連絡いたします」
美邦はもっと甘えたがったが、今日は本当に疲れていた。明日小夜子が側にいないかもしれない不安がまだ残っている。小夜子は他に行くあてなどないと言って笑った。それで美邦は小夜子の胸の中で眠った。美邦が眠りについたと知るや、小夜子は慈愛に満ちた表情をがらっと変えて鋭い眼光を放った。
「カーボニストのお嬢さん、もうひとつの約束を守ってもらいましょうか」
翌朝、秋葉原に重厚なトルク音が響いた。車線を逆走するハーレーはトラックや乗用車を颯爽《さつそう》とかわし、背後に次々と連なる玉突き衝突の音を生み出した。走りたい道を行く涼子に交通ルールはない。交差点の中央でバイクを止めた涼子は左右から来る車輛を威嚇《いかく》した。
「この私が地上に降りるなんて」
憂さ晴らしにウイリー走行で目の前を横切ろうとする軽自動車の横っ腹に蹴《け》りを入れた。地上にヘキサグラムを発見した涼子は、祖父慶一郎がなぜアトラス計画に与《くみ》したのかわかった。新しい時代の主《あるじ》となる帝を迎え、より大きな繁栄を謳歌《おうか》するためだ。涼子は地上からアトラスを見上げた。こんな間近でアトラスを望むのは初めてだ。メガシャフトを伝って昇る視界は三半規管を揺さぶり、まるで自分が落下しているような錯覚を与える。建造物でこれだけの眩暈《めまい》を与えるのはアトラスくらいのものだ。
「お爺《じい》さまの夢は私が引き継いでみせるわ」
涼子はアクセルを噴かしてネオギルドの新しい本部を目指した。
地上で迎える朝日は美邦には毒だ。何重もの紫外線吸収|御簾《みす》を施しても、日差しの強さはアトラスとは比べものにならない。月明かりに慣れていた美邦はモロに浴びる日差しを恐れていた。
「美邦様、公社から正式なお迎えが参ります。早くお支度くださいませ」
三種の神器を手に入れたと公社に連絡を入れた朝、美邦はゼウスから「決定」をもらった。ゼウスは公社に美邦と接触せよと命じた。晴れて皇太子となった美邦はこれから宮内省となる公社で帝になるための教育が始まる。めでたい日なのに昨日と同じ十二単《じゆうにひとえ》を着せるしかないのが不憫《ふびん》だと女官たちは呟《つぶや》いた。香凜が京都から取り寄せた単衣《ひとえ》は昨日の暴漢の乱入で、ネオギルドの旧本部に置いてきたままだ。倒壊の恐れのある旧本部は立入禁止だ。女官たちは朝から公社の特使を迎える準備で大忙しだった。秋葉原で手に入る一番上等な什器《じゆうき》を揃え、御簾をかけ、ようやく宮殿らしく見える部屋に仕立てた。従者たちは埃《ほこり》と血に染まった衣冠束帯のまま整列する。時間がなくて彼らの着替えまで用意できなかった。
「牛車《ぎつしや》はまだ参らぬのか……」
御簾の奥で寝ぼけ眼を擦《こす》った美邦は欠伸《あくび》をした。女官が「皇太子様」と檄《げき》を入れると美邦の背筋が伸びる。しかし五分もしないうちにまた欠伸をする。女官たちも公社の迎えが遅いのに痺《しび》れを切らしていた。
「特使が参りました」
通された特使に美邦は目を丸くした。
「涼子ではないか! お主が公社の特使か」
涼子は公社の密命を帯びて地上に降りてきた。公社から預かった奏上を読み上げる涼子は威厳に満ちていた。
「皇太子様、ゼウスから決定が下りましたことをご報告申し上げます」
「ゼウスの決定を慎んで受け取ろう。宮内省へ参るぞ」
「もうひとつゼウスからの命令を申し上げます。皇太子様は秋葉原で待機せよ、とのことです」
「なんじゃ、それは。妾《わらわ》は三種の神器を持つ皇太子であるぞ。無礼な」
「神器は四つ必要でございます。最後の神器をアトラスへお持ち帰りください」
そんなことは聞いていない美邦は焦った。日本の神器とは、八咫《やた》の鏡、八尺瓊の勾玉、天叢雲《あめのむらくも》の剣の三つであるはずだ。第四の神器など聞いたこともない。
「最後の神器とはなんじゃ」
「聖地にあるとか。水蛭子なら知っているはずです」
涼子は恭しく膝《ひざ》をつく。美邦は三種の神器を揃えたが、どうすれば最後の神器を得られるのかわからなかった。肝心の水蛭子を旧本部の地下室に置いてきたのだ。地下室への階段は突進した戦車に塞《ふさ》がれてしまった。倒壊の恐れのある建物から水蛭子を救出するのは不可能だと思われた。
「三種の神器で充分じゃろう。妾が皇太子である何よりの証拠じゃ」
「三種の神器は扉を開ける鍵《かぎ》にすぎません。ゼウスの声をお聞きにならなかったのですか」
美邦はゼウスの声を聞かなかったとは言えなかった。
「おかしいですわ。皇太子様ならどこに最後の神器があるかわかるはずなのに」
「も、もちろん知っておる」
涼子は美邦が第四の神器の場所を知らないと勘づいた。大地のヘキサグラムに気づかなければ場所はわからないようになっている。アトラスが宗教的な建造物だとわかれば自《おの》ずと第零層が何であるか察しはつくはずだった。
五十年前、コンクリートジャングルと呼ばれた東京で最後に残された土地にアトラスは造られた。旧時代に繁栄を極めた東京には既に再開発できる土地はなかった。ただ一箇所を除いて。アトラス第零層は旧時代の自然がそのまま保護されている。その第零層を旧時代の人はこう呼んだ。
『皇居』と。
アトラスは皇居の持つ無制限の空中権を使って建造されたのだ。地球型経済は世界の政治の枠組みまで変えてしまった。それは日本も例外ではない。激動の時代の波に飲まれ、かつての高貴な血は忘れられていった。失われていく日本の伝統と国の形を取り戻すために、鳴瀬慶一郎はアトラス計画で皇統をもう一度復活させようとした。それがタルシャンの利益にも適《かな》っていた。天と地の間に人がいる。その象徴である帝《みかど》を中心に据えることで、東京は成り立っている。顔のない都市と揶揄された東京には実は、きちんとしたシンボルがあった。それが皇居である。鳴瀬慶一郎はアトラス計画で東京のシンボルを再構築してみせた。
「四つの神器がなければ、皇太子様は即位できません。残念でございます」
美邦はしょんぼりと俯《うつむ》いてしまった。せっかく日の当たる場所に出られると思ったのに、これではまた幽閉生活に逆戻りだ。涼子が特使だと知ったとき、こんな予感がしていた。この女は本物の性悪だ。自分が嫌がることを好む。
「では三種の神器を私にお貸しください。私が最後の神器を見つけましょう」
「いやじゃ。そなたに三種の神器を渡すほど妾は愚かではない」
「皇太子様はこの特使である私の言葉を信じられないと申すのですか」
「その通りじゃ。そなたは意地が悪い。絶対に何かを企《たくら》んでおる」
涼子は絶対に「そんなことはありません」と嘘をつかない。美邦の毒牙《どくが》をかわしながら有利に話を進めることなど簡単だった。涼子は胸の谷間からディスクを取り出した。
「では、この新薬の化学式と交換ということで如何でしょう。皇太子様の膠原病《こうげんびよう》の治療薬は今のところ副腎皮質ホルモンの投薬しかありません。しかし私の開発したこの薬は副作用の心配が全くなく、一週間の服用で完治いたします」
美邦は思わず御簾から飛び出してしまった。小夜子が開発した薬ですら、副作用を抑えるために二年の治療期間が必要だというのに、涼子の薬にはその欠点がないと言う。
涼子は美邦の目の前でディスクを折り曲げようとした。
「私の献身を皇太子様がお疑いになるのなら、この化学式はいりませんわ」
「待て。そのディスクと交換しよう。最後の神器を探してまいれ」
女官たちが「皇太子様おやめください」と制止するのを振り切って、美邦は三種の神器を保管した金庫を開けた。美邦は三種の神器を涼子に渡すとき若干|躊躇《ためら》ったが、ディスクを先に渡されて渋々涼子の手元に引き渡した。美邦は涼子が出て行くまで悲しそうな眼差《まなざ》しを送った。
陽気な雄叫《おたけ》びをあげたバイクは、一路アトラス第零層を目指す。美邦を騙《だま》すなんて造作のないことだと、涼子は奥歯を見せて笑った。
「ふふふ。バカな美邦。最後の神器は私のものに決まっているじゃない」
三種の神器と最後の神器を得た涼子は、晴れてアトラスの主となる。この国の帝になれば、涼子は人を好きなだけいたぶることができる。一人、二人の悲鳴では満足できなくなっていたところだ。涼子は国民が憎悪と怨嗟《えんさ》と嫉妬《しつと》を自分に浴びせる未来を想像して、エクスタシーに達した。涼子は帝となった曉には、血と恐怖で即位を祝おうと決めた。一億人の悲鳴を子宮から呼び込み、卵巣で共鳴させる。一億人の老若男女と一晩で交わるにはこの方法が最も効率が良い。男は溺《おぼ》れさせ、女は嫉妬させ、子どもは惑わし、老人には腹上死を与える。これほどの官能がこの世にあるだろうか。人が味わうことができない一億倍の快楽に耽《ふけ》る人生が涼子を待っている。勝利の女神がこう囁《ささや》く。虐殺をしなさい。美の女神がこう囁く。血を飲みなさい。そして愛の女神がこう囁くのだ。亡者に抱かれなさい、と。帝ならそれが可能だ。
涼子は自慢の喉《のど》を震わせて聖母を讃《たた》える歌を歌った。
Ave Maria Gratia plena
Maria, gratia plena
Maria, gratia plena
Ave, Ave Dominus Dominus tecum
Benedicta tu in mulieribus
Et benedictus
Et benedictus fructus ventri
Ventri tui, Jesus Ave Maria
慈しみと愛に満ちた声に誰もが足を止める。飛んでいる鳥まで心地好く空で居眠りを始めた。この国の人も動物も虫も草木一本まで全て涼子のものだ。跪《ひざまず》いた国民の顎《あご》を蹴《け》り上げ、鼻をへし折り、延髄を切り落とす。それが涼子の支配だ。日本を踏みつける第一歩が今日始まる。
アトラス第零層は焦土と化した東京で唯一被害を免れた森だ。旧時代よりもずっと前、大政を帝に奉還して東京と呼ばれる前は、ここは江戸の中心部だった。徳川幕府はヘキサグラムの力を使って政を束ねた。この土地は常に覇者を招く。炭素時代に突入して世界の枠組みが変わってもその役割は同じだ。そして技術文明の極みは、ヘキサグラムの力をより集約するアトラスを上空に造り上げた。
苔《こけ》に覆われた二重橋を渡った涼子はひんやりとした空気の壁を超えた。ここはまるで樹海だ。西の丸大手門と呼ばれた正門は蔦《つた》に覆われ、異界の入り口のように喉の奥まで見せていた。ハーレーのエンジン音に勇気づけられなければ、涼子ですら侵入を躊躇っただろう。三種の神器を荷台に積んだバイクは恐る恐る第零層の大地に入った。森は不気味な静けさの中に殺気を漂わせていた。まるで背中に刃物を突きつけられたような空気に涼子は身を強張《こわば》らせた。臆《おく》することなくバイクを走らせて森の奥に二つの洞窟《どうくつ》を見つけた。
「女よ、ここは聖地じゃ。すぐに立ち去れ」
声に振り返ると背後にみすぼらしい老婆が立っているではないか。涼子は反射的に地面に唾《つば》を吐いた。
「私は三種の神器を持つ皇太子よ。最後の神器を取りに来たわ」
積んでいた三種の神器を見せると老婆は、勾玉《まがたま》と剣と鏡を一点ずつ舐《な》めるように調べた。大きく頷《うなず》いた老婆は膝も腰も折り曲げて大地に平伏した。
「皇太子様、婆はこの日をずっと待っておりました」
「どっちに行けば最後の神器はあるの」
「どうぞ右の洞窟にお入りください」
涼子はアクセルを噴かして右の洞窟に突進した。頭脳も美貌《びぼう》も度胸も備えた涼子はあらゆるものを簡単に手にいれてしまう。それは帝の地位とて例外ではない。涼子の高笑いの声が洞窟にこだまして何百にも溢《あふ》れ出した。
途端、平伏していた老婆が立ち上がり、顎でやれと指示した。森に隠れていた男たちが持っていた起爆スイッチを押す。洞窟の中で爆発音が起き、涼子の断末魔の悲鳴が爆風と一緒に飛び出した。埃《ほこり》と火薬の匂いが辺りに立ち込める。
老婆はピンと背筋を伸ばして顔つきを変えた。
「皇太子の名を騙《かた》る不心得者め。偽物を見抜けぬとでも思っていたのか」
第零層は再び沈黙の眠りについた。
秋葉原では美邦が八咫《やた》の鏡を磨いていた。
「どうじゃ。妾《わらわ》の芝居もなかなかのものじゃろう?」
香凜が八尺瓊《やさかに》の勾玉を首にかける。
「皇太子様、あたしを財務大臣にしてよね」
そして小夜子が天叢雲《あめのむらくも》の剣を肩に担いだ。
「私は復讐《ふくしゆう》心が厚いのよ。うふ。うふふ。うふふふ」
涼子を罠《わな》に嵌めたのは小夜子の陰謀だった。涼子が美邦の希望を奪いに来ることくらい知っていた。その脅威から美邦を守るのが女医博士である自分の務めだ。涼子が自分の三手先を読むなら、十手先を読み返してやるまでだ。小夜子は香凜に三種の神器のレプリカの制作を依頼した。神器の中には発信機が埋められている。最後の神器を見つけなければ美邦は即位できない。しかし小夜子にはどこにあるのか皆目見当もつかなかった。ならば頭の良い涼子に見つけてもらえばよい。小夜子はただ泣いて慈悲を請うだけの女じゃない。自分に男をけしかけて出産させ、敢えて娘を見殺しにした恨みの対価は支払ってもらう。
「四つ目の神器はどこにあるのじゃ?」
発信機をモニターしていた香凜が場所を特定した。
「アトラス第零層の中心部。涼子は死亡した模様。なんか罠があるみたい」
「妾が行くのか。従者を連れて行ってもよいか?」
「皇太子様はどうぞご心配なく。全てこの小夜子にお任せください」
その夜、闇に紛れて三種の神器を携えた小夜子が二重橋を越えた。見上げたアトラスの先端に満月がかかっていた。小夜子は月に誓った。
「美邦様を帝へ!」
同時刻、秋葉原の瓦礫《がれき》の中から呻《うめ》き声が響いた。
「つきが、てらし、たいようが、しずむぞ。ぎゃあああああ!」
秋葉原で野営していた國子が狼の遠吠《とおぼ》えのような声を聞いた。不気味なくらい大きな満月が東京を照らしている。國子の背中に悪寒が走った。
「勾玉を取り返さなきゃ」
草薙は情報部の力を借りて必ず見つけてみせると言っていた。また力ずくで秋葉原を攻撃するよりは、スマートだ。明日草薙と合流してネオギルドのアジトを特定する。
そろそろ寝るかと廃墟《はいきよ》の扉を開けたとき背後に殺気を感じた。振り返ると武彦がにっこり笑って立っているではないか。いつ地上に戻ってきたのだろう。アトラス戦で離ればなれになって以来の再会だった。武彦は子供のように無邪気に笑っていた。
「やだなあ。驚かさないでよ」
國子がふざけて武彦の腹を小突く。途端、武彦は國子の腕を取って羽交い締めにしてしまった。武彦の太い腕が國子の首をロックする。何の冗談だと國子は気が動転した。
すると冷たい銃口がこめかみに当てられた。
「國子、悪いが死んでくれ……」
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第十五章 皇太子暗殺
冷たい銃口が無言で國子の頭蓋《ずがい》骨を圧迫する。國子は爪先立ちで自分の体を支えることもできない。武彦は片腕で國子の体を軽々と持ち上げていた。
「國子、おまえは裏切り者だ」
銃口に微《かす》かに硝煙の匂いがこびりついていた。弾倉の奥に込められた鉛玉が点火の合図を待って息を止めている。その殺気が國子の身を強張らせた。
「武彦……なぜ…あたしを殺すの?」
武彦の腕は万力のようにぎりぎりと首を絞め上げていく。銃弾よりも首の骨の方が先に折られそうだ。頸動脈《けいどうみやく》を圧迫された國子の視界は徐々に白んでいた。行き場を失った血液が鼓動のたびに押し戻され、心臓はパンク寸前だ。
「武彦……冗談は…やめて……」
「なぜ國子がトリプルAなんだ? なぜおまえが皇位継承者なんだ?」
武彦の声は怒りの中にうっすらと悲しみを帯びていた。國子が皇位継承者だと知った以上、見過ごすわけにはいかない。それが武彦のたったひとつ残された正義だった。弾丸がトリガーを引けと囁《ささや》いた。装填《そうてん》された弾丸は國子の頭蓋骨を貫通したくてうずうずしている。再び弾丸が囁く。早くトリガーを引け。おまえの人生は無価値なんかじゃない。この一発の弾丸は今まで犬死にしてきた仲間たちの怒りだ。この世に正義がなければ、あの世の正義がおまえを守ってくれる。小娘の皮膚を頭蓋骨ごと突き破り、脳を掻《か》き回して忌まわしい記憶ごと蹴散《けち》らしてやろう。この娘には鉛の制裁こそ相応《ふさわ》しい。さあトリガーを引いて生きた証《あかし》を見せてみろ、と。
「國子、悪く思うな。おまえのために殺されていった仲間たちへの弔いだ」
武彦は全てを知っていると國子は思った。アトラス計画を阻止するために、勝手な行動を取っていたのは、こうやって皇位継承権のある子どもたちを殺害していたためだ。その刃《やいば》がついに國子に向いた。
「アトラスは……大地を鎮める建物よ。今計画を止めると東京はまた災害に襲われてしまう……」
武彦は腕の力を強めた。
「黙れ。この政府の手先め。いつから俺たちを騙《だま》していたんだ。アトラス戦は何だったんだ? 森林戦争は何だったんだ? 俺の母さんは何のために死んだんだ?」
國子にはかつての仲間たちを説き伏せる言葉はない。この半世紀に起きた歴史は取り返しのつかない犠牲を生み出した。その犠牲の上に自分の運命がある。もし、この命ひとつで贖《あがな》いになるのなら、自分の死は意味がある。
「引いて……。トリガーを引いて。それで全てが終わるわ……」
國子が意を決して体の力を抜いた。すると額に冷たい滴が落ちてきた。あの武彦が顔をくしゃくしゃにして泣いているではないか。
「畜生。俺は、俺はどうすればいいんだ!」
途端、國子の体が自由になった。急に血が巡ったせいで頭が破鐘《われがね》のように鳴る。胃が口から飛び出してきそうで、國子はその場で吐いた。涙と胃液は生の重みだ。生きることは悲しくて苦い。
ふと武彦を見ると彼はさっきまで自分のこめかみに当てていた銃を口の中に突っ込んでいた。自死するつもりだ。
「武彦いけない!」
國子は痺《しび》れる脚を無理矢理動かして武彦の銃を払った。その瞬間、銃声が闇夜に吼《ほ》える。國子は思わず息を止めた。蹴った瞬間と銃が鳴ったのは同時だった。しばらくして蹲《うずくま》っていた武彦の噎《むせ》び声が聞こえてきた。
「俺は……。俺は、もう生きていたくないんだ。うわあああああ」
國子のブーツが武彦の前で鳴った。見上げると闇夜に輝く國子の神々しい姿があった。
「あたしを憎んで生きなさい。あたしはみんなの怒りで織り上げたマントを着ましょう。たぶんそれがあたしが生まれた理由よ」
「國子……。俺は、俺は……」
身を小さくして屈《かが》む武彦に國子は言葉を重ねた。
「あたしを憎むことが正義よ。その気持ちがあれば武彦は生きていける」
國子が武彦の眉間《みけん》をそっと撫《な》でると、今まで昂《たかぶ》っていた殺気が湖の水面のように静まりかえった。國子にこのような力があることは知っていたが、実際に施されて初めて武彦は國子の器の違いを知った。さっきまで十万本の髪の毛が怒りで逆立っていたのに、國子の指先ひとつで全てが恭順の意を示したように鎮まったではないか。怒りの化け物に身を捧《ささ》げたはずの自分が今度は温かな日溜《ひだ》まりの中で居眠りをする子どもになっている。自分が殺害しようとしていた相手は、桁《けた》外れの人間だ。私怨《しえん》を纏《まと》って尚輝く國子はまさしく国家の器だった。武彦は恭しく跪《ひざまず》いた。
「皇太子殿下……。ご無礼をお許しください……」
「新しい時代がもうすぐやってくる。争いはあたしの代で必ず終わらせる。それが武彦のお母さんにできるただひとつの約束よ。信じて……」
「こんな焼け野原の東京で新しいものが生まれるというのか? 地上は燃え尽き、アトラスは崩壊し始めているというのに?」
「それでも未来は命に溢《あふ》れる。人間がどんなに環境を滅茶《めちや》苦茶にしても、自然はそれに適応した命を生み出そうとする。武彦、これを見て」
國子はサンプルケースをポケットから取り出した。池袋の焦土から見つけた白い粒だ。その粒は採取したときよりも増えていた。サンプルケースは鮮やかなピンク色に染まっていた。國子はこれが新しい命の可能性だと言う。
「ものすごい勢いで繁殖しているの。今までダイダロスの繁殖力の前で細々と生きていた種が、地上で繁殖し始めたみたい」
「まさか、これも光化学スモッグを発生する植物なのか?」
國子は理研のスタッフからこの石のような塊が何なのか聞かされていた。成分分析の結果は驚くべきものだった。
「これは生物学的には珊瑚《さんご》と同じ遺伝子を持っているわ。東京湾を埋め尽くした珊瑚礁が活路を求めて地上に進出したみたい」
「バカな。珊瑚は海の生き物だ。地上でどうやって繁殖するんだ。第一カルシウムがなければ石灰化できない。大気中にカルシウムなんかないんだぞ」
「あたしも初めは信じられなかったわ。何かの種だとは思っていたけど、まさか珊瑚虫だったなんて。この生物はカルシウム以外の元素で体を作ることを覚えたの。なんだと思う?」
武彦の分厚い掌《てのひら》にサンプルを零《こぼ》した。武彦の目にはピンク色した石にしか見えなかった。ぎゅっと握った掌に違和感を覚えた。見た目よりもずっと硬い。戸惑っていた武彦に國子が答えを教えてくれた。
「これはカーボンナノチューブの結晶よ」
「嘘だ。生物がカーボンナノチューブを生み出すなんて、ありえない」
「あたしも驚いたわ。でも理研の電子顕微鏡で見たら、見事なフラーレン構造をしていた。この珊瑚虫はカルシウムの代わりに、大気中の炭素からカーボンナノチューブを生み出している。石灰化の代わりに炭素化することで、体を作っているのよ」
「カーボンナノチューブは人間にしか生み出せないハイテク製品だぞ」
「進化がテクノロジーを追い越したのよ」
地上に這《は》い上がった珊瑚虫は、今まで獰猛《どうもう》な森の前で繁殖を制限されていた。森が吸収するCO2の量が圧倒的に多いため、充分な炭素を取り入れられなかったのだ。まるで恐竜の前で震えていた原始|哺乳類《ほにゆうるい》のように、彼らは小さな存在だった。ダイダロスに寄生した無数の生物の中で繁殖するためには、クローンがもっとも適していた。同じ遺伝子を無限に複製するクローン生殖は、炭素を利用する遺伝子を獲得した珊瑚虫の生き残り戦略だった。彼らはティラノサウルスのように暴れるダイダロスが森の主役の座を降りる機会をじっと待っていた。そしてファースト・インパクトとなる東京大空襲がやってきた。巨大|隕石《いんせき》の衝突にも似た大量の種の絶滅は、珊瑚虫にとって飛躍のチャンスとなった。
「この生物は光合成を行うと同時に炭素をより効率的に利用する方法を生み出した。空中炭素固定遺伝子を持っているに違いないわ。あたしたちのテクノロジーよりも遥《はる》かに効率的にカーボンナノチューブを生み出しているの」
「人間のテクノロジーよりもこの虫の方が優れているって言うのか?」
「この虫は生体内工場を持っている。一匹で京浜工業地帯の炭素吸収とグラファイト製造、そしてカーボンナノチューブ加工の三つの工程を行っているわ。人間がこの虫と同じ量のカーボンナノチューブを生み出したければ、千坪のプラントが三つ必要よ。つまりどういう意味だかわかるでしょ?」
「人間が虫に負けるってことだろ?」
「違うわよ。地上が鉱山になるってことじゃない。コストをかけずにカーボンナノチューブが採れれば、それは工業品でありながら資源にもなるわ。油田よりも豊かな資源だわ」
武彦は息を飲んだ。命の欠片《かけら》もないと思われた焦土の中から、未知の生命が誕生した。この生物は生体内工場を持ち、カーボンナノチューブを生み出す。繁殖させれば地上はダイヤモンドの鉱山よりも豊かな資源に覆われることになる。次の五十年を想像してみろと國子が言う。
「日本が初めて一次資源の大輸出国になるかもしれない。この生物が東京を覆ったら、カーボンナノチューブの生産量は今の百万倍になる。これこそ、新しい時代の始まりだと思わない?」
人間が地球の資源を利用して生きていく宿命は今も昔も変わらない。近代化以前は森林を伐採し、建材に変えた。化石資源に頼った旧時代は加工の段階で炭素を生み出した。そして炭素時代、空中炭素固定技術はグラファイトの大量生産に成功した。しかしカーボンナノチューブを生み出すには高出力のレーザー照射が必要だった。その過程でやはり熱エネルギーを消費する。炭素材のコストは電気代である。この生物は炭素の吸収と一次加工と最終製造品を生体内工場で行う。一次品でありながら二次品の性格を兼ねている。
國子は次の五十年の日本を予見する。
「日本は歴史上初めて資源大国になるのよ。この珊瑚虫を繁殖させて一大鉱山を生み出せば、カーボンナノチューブ市場は日本が席巻する。新しい輸出産業の誕生よ」
なぜ、こんな生物が生まれたのか武彦には理解できない。まるで文明に利用されることを前提に出現したとしか思えなかった。虫が工業製品になるなんて誰が想像しただろう。掌の炭をじっと見つめた武彦に國子が断言した。
「これは地球の意志よ」
どきっとする言葉に身を強張《こわば》らせた武彦だったが、その言葉が一番しっくりくる気がした。國子は地球が人間に共存の道を提示したのだと言う。
「人間は今まで自然を征服することしか考えてこなかった。だから自然が人間のエゴを理解し、それに合う形に進化した。カーボンナノチューブを生み出すグラファイトが金塊なら、カーボンナノチューブそのものはダイヤモンドよ。それに目が眩《くら》まない人間ではない」
「地球が人間を理解しているというのか?」
「理解しているというよりも人間を利用しているのよ」
「馬鹿馬鹿しい。リチャード・ドーキンスばりの視点のすり替えだ」
「そうかしら? マクロの地球もミクロの遺伝子もさして変わりはないと思うんだけど。遺伝子のルールと地球のルールは一致する。人間は地球の乗り物にされたのよ。地球は人間の経済活動を利用して生き延びようとしている。欲望が経済の本質である限り、あたしたちは天然のカーボンナノチューブの鉱山を利用せずにはいられない。利己的な地球は人間の代わりにテクノロジーを担う。地球の方がずっと頭がいいわ」
國子はそれが人間と自然の握手できる唯一の接点だと言った。
「人類はテクノロジーを捨て、再び自然採取の文明に後退する。でもそれは退化じゃない。より効率的な文明が生まれるの。経済活動という人間の仕組みを地球が覚えたのよ。その方が地球にとって都合がいいから。人間が自然を破壊するのはテクノロジーで加工するからよ。だから今度は自然が加工品を提供するの。自然破壊を最小限に食い止めるために。外を見て武彦。あれが未来の宝の山よ」
闇夜の大地は海も空も区別がつかないほど混濁していた。夜は存在を泥濘《ぬかるみ》にする。空も地も海もどろどろに溶けて形を失い、朝までに固体の大地と液体の海と気体の空に分かれる。
「泥濘は国造りの始まりなのよ。だから国は夜に生まれる」
「おまえはまさにこの国の皇太子だな」
焦土の東京に地球の智恵が目覚めつつある。廃墟《はいきよ》からまだ見ぬ未来を見渡した武彦は絶望をやめた。この景色は暗闇ではない。むしろ真っ白なキャンパスなのかもしれない。もし許されるなら、カーボンナノチューブの鉱山となった東京を見てみたいと思う。その未来がこの忌まわしい現実の先にあるのなら、憎しみを捨てることができるかもしれないと思った。
國子は武彦の側に立って、漆黒の大地を見つめた。
「最初の鉱山は池袋に現れるわ。その鉱山を『美都子《みつこ》』と名付けましょう」
武彦は感極まって声を詰まらせた。それは彼の母の名前だった。
「そして鉱山主は趙さんよ。彼女に独占採掘権をあげるわ」
趙が毎日せっせと領土を広げている池袋が宝の山であることを、まだ彼女は知らない。やがて巨万の富を築くことになる趙は、新炭素経済の最初の成功者となる。趙は中国から親戚《しんせき》を呼び寄せ、人生の晩年に訪れた大繁栄を思う存分に謳歌《おうか》することになる。
「もし東京を再生できるなら、あたしはアトラスに昇りたい。地球と文明が共存するためには、まだするべきことがあるの。炭素経済をおかしくした大蛇を退治しなければ、新しい時代はやってこない。今日の炭素市場を見た?」
「ついに日本の炭素指数が一を切った。狂っている!」
武彦は唾棄《だき》するように吐き捨てた。イカロスがどういう基準で算定したのかわからないが、炭素を撒《ま》き散らした東京が一を切るなんてありえないことだ。東京大空襲で放出した炭素は十億トンと試算されている。その十億トンを十日で吸収削減する技術は東京にはない。炭素指数が一を切るということは、生産活動で生じた炭素が皆無ということだ。日本の今日の炭素指数は〇・九四。無税どころか工業製品の全てが売らずとも利益を内包していることになる。こんなデタラメが公然と罷《まか》り通っているのが今の炭素経済の歪《いびつ》さだ。
「俺みたいな経済音痴にはよくわからない現象だ。俺がバカなのか、周りが狂っているのか、どっちが正しいんだ?」
「武彦が正しいわ。日本だけじゃない。中国もEUもロシアも一を切ったわ。市場は空前の炭素バブルよ。どこにお金を注いでいるんだろう。実質炭素と経済炭素はあまりにもかけ離れすぎているわ。こんな経済はやめなきゃいけない。せっかく新しい時代の夜明けが来ようとしているのに」
武彦は煙草を吸おうとライターを灯《とも》した。その炎が武彦の瞳《ひとみ》に映ると彼は再び生きる目的を得たように見えた。
「國子なら止められるか?」
國子は反射的に頷《うなず》き、それが自分の決意だとフィードバックした。体が意志よりも先に反応する。地球が利己的に生きているなら、國子の体は國子の意志以上の存在だ。この体は運命の乗り物である。それを知り、いつか凪子に「おまえが十八年かけて得た権利など紙屑《かみくず》以下だ」と言われた意味がわかった気がした。運命は國子の意志を超えている。
「ゼウスの力を使えば止められるわ。それができるのは暗号鍵を開けられるあたしと他の二人だけ。皇位なんてどうでもいいけど、メデューサと対抗する楯《たて》となれるなら、あたしはアトラスにあがりたい」
武彦はもう私怨《しえん》なんてどうでもよかった。今、正しいと思えるのは國子の意志を尊重することだと思った。
「俺がアトラスへあげてみせるぜ」
不気味な赤い月が二人を照らしていた。
狂乱の炭素バブルに沸く秋葉原は不夜城の金融街だ。世界中のカーボニストがメデューサとのアクセスを求めて回線は輻輳《ふくそう》していた。メデューサは最大演算速度で次々とマネーを投資先に注いで、銀行に資金を戻す。
香凜の生み出した経済炭素循環システムは、粒子加速器のイメージから生まれた。マネーはエネルギー体である。停止しているときはただの等価交換券だが、運動エネルギーを与えると価値は万倍にも億倍にも膨れあがる。これがマネーの本質だ。マネーは高い利息を求めて動き回る性質がある。これを止めずに常に高い利息で加速し続ければやがて運動エネルギーは光速に近づき、無限大の価値を生み出す。それが可能になったのは、コンピュータの力だ。メデューサは粒子加速器に相当するシステムの要だ。
炭素市場のスクリーンを前に香凜の頭脳も休まることはなかった。
「アメリカの炭素指数が〇・七三。中東が〇・六六。どのマーケットも好況だなあ。どこをヘッドリースすればこんなに下がるんだろう?」
メデューサの演算速度が速すぎて投資経路が人間の目には把握できない。メデューサはマネーを一秒間に地球を七周半も動かしている。まさに神業としか言えない芸当だった。香凜はただその経済物理学的極限を体験するのみである。メデューサがデモで見せる地球儀はマネーの経路を示している。しかしあまりにも莫大《ばくだい》なマネーを動かしているために、もはやそれが地球には見えなかった。まるでリアルタイムの太陽の活動を眺めている気分だ。今ニューヨークから百億ドルのマネーが太陽のプロミネンスのように立ち上がった。同時に上海から一億元のマネーが噴きあげる。メデューサの扱っているマネーの総額は実質経済の規模の一万倍以上に膨れあがっていた。地球は太陽に次ぐエネルギーの恒星へと変貌《へんぼう》を遂げていた。
オフィスに通信が割り込んだ。聞き覚えのある声はかつての香凜の仲間だ。
『香凜っ! 自分が何をしているのかわかっているのか!』
スクリーンに現れたのはメデューサの活動をモニターしていたチャンだ。彼のいる背景には見覚えがあった。ビッグベンが窓から見える。チャンは首都層にいた。
「この裏切り者! 今更分け前をよこせなんて言わないでよ。利益はクラリスと山分けなんだから」
『バカ。今すぐメデューサを止めるんだ。このままだと世界中の全ての通貨が信用をなくすぞ!』
「こんなに利益があがっているのに? ただの炭素景気だよ。資金さえ止めなければ暴落しない。マネーを動かし続けることに意味があるんだから」
チャンはこの炭素バブルにいち早く気づき、メデューサが投資しうる地域を封鎖した。メデューサは実質炭素と経済炭素の格差に目をつける。全財産をなげうってメデューサの毒牙《どくが》を防いだと思っていたのに、まだヘッドリース先は残っていた。チャンは炭素指数の下落と同時に財務省を使って調査を始めた。そしてメデューサがどこをヘッドリースしているのか突き止めた。
『香凜、よく聞け。メデューサは南極大陸をヘッドリースしているんだぞ!』
香凜はすぐに意味がわからなかった。ヘッドリースは工業地帯に限られているからだ。
「まさか。だって南極なんて誰も住んでないじゃん」
『日本炭素銀行を調べてみろ。南極大陸の七パーセントを二百兆円で買った契約書がある。南極大陸はどの国の領土でもないんだ! 資産価値なんてゼロなんだぞ! そこを二百兆円で買ってみろ。一瞬で資金はパーだ!』
慌てた香凜が日本炭素銀行の口座を調べてみた。確かに二百兆円が動いている。契約先は伏せられていたが緯度と経度でわかった。メデューサがヘッドリースした場所は南緯七十五度、東経百五十度の地区だ。香凜は地球儀でその場所を探した。
「南極のビクトリアランドに投資したんだ……」
『世界中のどの銀行も南極大陸に投資している。今すぐ止めないと大変なことになるぞ』
「どうして南極大陸なんか……」
香凜は抱えていた地球儀を落としてしまった。真っ白になった香凜の頭にチャンの分析が聞こえてくる。メデューサは炭素指数を下げることが海面水位を下げることだとプログラムされている。マネーの循環はメデューサの活動を表すが必ずしも利益を生み出すことがメデューサの目的ではない。香凜たちはメデューサの活動で生じた利息という二次産物を糧にしているだけのことだ。メデューサの獰猛《どうもう》な活動の源は生存を懸けた闘いにある。メデューサはマネーを動かしているうちに、海面水位を上昇させる源に気づいた。それが南極大陸だ。地球が温暖化すれば南極の氷が溶け、それが海面水位の上昇に直結する。ならば南極の炭素指数を下げられれば地球は冷えたことになる。
「なんてバカなことを考えたの」
『いや、メデューサは正しい。仮想空間上で氷河期を起こせば海面水位を二百メートル下げられる。メデューサは生き延びるために氷河期を起こそうとしているんだ』
「お金はどうなるのよ!」
『全部パーだ。メデューサにとってマネーは地球を冷やす道具にすぎない』
香凜はメデューサの端末から強制終了のコマンドを打ち込んだ。しかし香凜に優先権はない。メデューサは直ちに『拒否する』と回答した。
「メデューサのバカ。南極なんか買うな。チャンお願い。メデューサを壊して」
チャンの元に戦略司令部からの報告が入った。作戦は既に始まっていた。スクリーンに映るのは無着陸の浮遊|要塞《ようさい》タイタンの黒い翼だった。既存の航空機の概念を超えるタイタンは航続距離が無限にある。普段は日本の領空内を雨雲に擬態して周回しているが、有事の際タイタンは司令機から国防省になる。空の原子力潜水艦と呼ばれるタイタンは補給なしで地球のあらゆる地点を十時間以内に爆撃することが可能だ。もし日本が敵の攻撃を受けて壊滅しても、タイタンは生き延びて二年間は報復攻撃できるように設計されている。その爆装は嘉手納基地の弾薬庫と同じ量だ。最後の切り札と呼ばれるタイタンを領空外に出したとなると、日本の立場は微妙になる。防衛思想とは明らかに反する異形の姿は、単独攻撃能力を極限まで追求した形だ。空母よりも機動力のある浮遊要塞の存在は首相であっても知ることはない。下手に知れば嘘をつかざるを得なくなるからだ。
タイタンが雲の切れ間から現れる。その巨大さは空が狭く感じるほどである。僚機の普通の戦略爆撃機がマンタについたコバンザメを思わせた。格納庫に戦闘機二十機を搭載したタイタンは、空中空母と呼ぶに相応《ふさわ》しい。
『タイタンより司令部へ。間もなく作戦空域に突入します』
僚機の戦略爆撃機が左右に離れた。タイタンはその巨大質量を活かしてマーシャル諸島に発生した台風に強硬突撃を行う。タイタンの目の前に分厚い台風の雲が迫っていた。
東京の司令部ではチャンが固唾《かたず》を飲んでいた。
「本当に台風を突破できるんですか?」
「大丈夫だ。タイタンは風速七十メートルの暴風にも耐えられるように設計されている。炭素材の一枚板で作られているから構造的に弱い部分がない」
空軍の将軍は自信満々だった。戦略司令部は演習でもするかのように落ち着いていた。タイタンを表に出したときは第三次世界大戦の末期と言われていた。メデューサひとつ潰《つぶ》すのには舞台が小さいと誰もが楽観視している。
『タイタンより司令部へ。台風に突入します。現在風速三十五メートル。巡航速度マッハ一・六。順調に飛行中です』
タイタンの視界は風雨に覆われて視界ゼロメートルだ。しかし機体には軋《きし》みひとつない。風速計は四十メートルを示していたが、ブリッジのテーブルの上のコーヒーも零《こぼ》れないほど穏やかな飛行だった。
『現在風速五十メートル。間もなく台風の中心部に入ります』
そのときメデューサが動いた。接近する未知の航空機を発見したメデューサは発電衛星を動かした。マイクロウェーブの照射で南太平洋の温度を二十度上昇させる。海面から莫大な水蒸気のエネルギーを補給した台風は、より勢力を強めていく。
タイタンの機体が上下に激しく揺れた。パイロットが焦り声になる。
『風速八十メートル! 機体の耐久限界を超えています。台風は勢力を増しています。右翼の第三フラップ大破。バランスが取れません!』
「現在地から攻撃できないか?」
『無理です。この風だとミサイルは直進できません。風速九十メートル。格納庫の擬態機が転倒しました。操縦不能!』
コックピットのアラーム音がけたたましく鳴り響く。機体は激しく揺れて司令部との交信もままならない状態だ。
「タイタンが墜落したら外交問題になるぞ」
存在を極秘扱いされた機体ゆえにタイタンには墜落も許されない。メデューサは激しく怒り、風速百五十メートルまで台風の勢力を強めた。
『これ以上の飛行は不可能です。作戦中止。繰り返す。作戦中止!』
チャンも戦略司令部も沈黙していた。この攻撃はメデューサの弱点を知るチャンが考えた作戦だった。軍事攻撃するしかメデューサを止める方法はない。しかしメデューサの楯《たて》は炭素材の翼も寄せつけなくなってしまった。
気象衛星から見るマーシャル諸島は一面が雲に覆われて台風の目だけが黒々と映っていた。チャンが溜《た》め息をつく。
「世界は終わりだ。メデューサを物理的に破壊する方法は、もうない……」
同時に戦略司令部は慌ただしくなった。
「タイタンはすぐにADIZ(防空識別圏)に退避し、次の作戦地へ向かえ」
その中継を秋葉原から眺めていた香凜は、茫然《ぼうぜん》としていた。
「メデューサが止められないなんて……」
端末のホログラムの蛇は、この程度の攻撃は脅威ではないとばかりに心地よく首を擡《もた》げている。メデューサの情緒は極めて安定していた。香凜は初めて自分の作ったメデューサが怪物であると知った。人間の制御を失ったメデューサは仮想空間上の氷河期に向けて活発に活動している。
「やめてやめてやめて。南極なんか価値がないんだよ。このバカ。バカ。バカ!」
癇癪《かんしやく》を起こした香凜は端末を壁に投げつけた。メデューサの本体もこの端末と同じくらい小さい。その小さな怪物に世界経済が蝕《むしば》まれていく。
メデューサから通信が入る。
[#ここから2字下げ]
先ほどの日本政府の領空侵犯に断固抗議する。私は今まで日本政府に莫大《ばくだい》な利益を与えた功労者だ。その私を攻撃しようとした罪は償ってもらう。私は人間の裏切りを決して許さない。
[#ここで字下げ終わり]
メデューサはそれきり黙ってしまった。しかしマネーを動かす速度は依然として最大値だ。スクリーン上の炭素指数がみるみるうちに下がっていく。今世界はお金を捨てている。それは炭素経済|終焉《しゆうえん》のカウントダウンと同義だった。香凜はマーケットの中心で救済を叫んだ。
「誰か助けてえっ!」
秋葉原に身を潜める美邦は、朝からずっと落ち着かない。昨夜、小夜子が最後の神器を取りに第零層に行ってまだ戻ってこない。まさか罠《わな》にかかって殺されたのではないだろうか。美邦はその不吉な思いを力一杯振り払った。
「もう待っておられぬ。牛車《ぎつしや》を出すぞ。従者たちついて参れ」
「いけません皇太子様。アトラスの食まであと二時間お待ちください」
「皇太子様死ぬ気ですか。地上の紫外線はアトラスの中よりも強いのです」
女官たちに諫《いさ》められてはたと気づいた。美邦の白塗りの化粧はSPF五〇〇〇という超強力な紫外線防止クリームだ。このクリームのせいでいつも肌がむず痒《がゆ》い。美邦が素肌でいられるのは風呂に入っているときだけだった。風呂から上がるや女官たちが全身をクリームで覆った。室内の僅《わず》かな紫外線ですら美邦の肌は反応してしまうのだ。美邦はこの身が呪わしかった。この持病のせいで公社から皇位継承権を剥奪《はくだつ》されそうになったこともあった。
「あと少しで即位じゃというのに……」
機嫌を損ねている側から女官たちが午前のクリームを塗っていく。地上の環境は美邦には厳しすぎた。気になるのは小夜子だけではない。置き去りにしたミーコのことも気がかりだった。
「ミーコの救出はどうなっておるのじゃ」
「国防省に出動要請を出しました」
「軍隊などいらぬ。消防のレスキュー隊で充分じゃ」
建物が暗い影に包まれた。また一雨きそうな雲行きだった。ビルの屋上で警備していた従者たちが首を傾げる。頭上の雨雲はいつになく重い気がする。まるで空に重力が発生しているような圧迫感だった。
「おい、あの雲には殺気があるぞ」
「まさか。ただの雨雲だ」
「いや間違いない。あれは火薬の匂いがする」
従者が束帯からライフルを抜き、雨雲に向けて発砲した。その直後、雨雲は弾を弾《はじ》いたではないか。陸軍出身の従者はピンときた。
「擬態装甲だ。あれは爆撃機が雲に化けているんだ」
「嘘だ。あんなバカでかい飛行機がこの世にあるはずがない……」
秋葉原に飛来したのはタイタンだ。人工衛星からレーザーエネルギーを無限に受け続ける空の要塞《ようさい》は、街ひとつ分の大きさである。ボディを入道雲に擬態させ、秋葉原攻撃のタイミングを狙っていた。地上で哨戒《しようかい》していた従者から連絡が入った。
『おかしい。囲まれている気がするのに敵の姿が見えない』
「擬態戦車だ。いつの間に秋葉原を!」
「香凜様に報告するか」
「無駄だ。擬態戦車と闘ったら命がいくつあっても足りない」
秋葉原に投入された擬態戦車部隊は全部で二十|輛《りよう》。ビルやコンテナなど街にあるものに擬態して、難なく秋葉原を囲んでしまった。政府は瓦礫《がれき》に埋没した水蛭子を抹殺する決定をした。もし水蛭子の存在が表に出たら公社の行ってきた悪の歴史がバレてしまう。水蛭子の霊はアトラス建造に不可欠だが、やがて宮内省に再編される公社の将来に鑑《かんが》みると、水蛭子のような邪悪な存在はいない方がよい。
タイタンが予備放電を始めると、稲光に似たプラズマが炸裂《さくれつ》する。
「すぐに皇太子様に報告を。公社は水蛭子を殺すつもりです!」
その頃、第零層の森でも銃撃戦が行われていた。昨夜森に潜った小夜子は老婆と遭遇した。小夜子はこの老婆が戦闘訓練を受けた軍人だとすぐに見抜いた。辺りの殺気は隠れている武装した兵士のものだろう。老婆は三種の神器を確かめると涼子と同じように平伏した。その瞬間、小夜子は老婆の喉《のど》元にメスを突きつけた。
「どっちの洞窟《どうくつ》に入ってもドカンとするのはわかっているのよ。さあ、最後の神器をよこしなさい。うふふふふ」
「さすが公社の女じゃ。最後の神器は私たちと闘わなければ手に入らぬとよくぞ見抜いた」
「これでも疑い深いのが取り柄なのよ。三種の神器を皇位継承者に守らせたのに、最後の神器だけが簡単に手に入るわけないじゃない。そこにいる兵士たち、擬態スーツを着ているのはわかっているのよ。私の目を誤魔化せると思ってるの」
小夜子が目の前の茂みを撃つと擬態スーツが変形して兵士が現れた。
「最後の神器を渡しなさい。さもなくばこのババアの喉を引き裂くわよ!」
老婆はやれと指示した。兵士たちは躊躇《ためら》うことなく老婆に向けて銃を撃つ。老婆はマシンガンの雨に撃たれて絶命した。小夜子は白衣だけを残して闇に紛れてしまった。兵士が散り散りになった老婆の遺体を踏みつける。
「頭のいい女だ。撃つとわかっていたな」
すると、また兵士の喉にメスが当てられる。
「さあ、最後の神器を渡すのよ。うふふふふふ」
また銃弾の雨が闇を照らす。兵士は「撃つな!」と仲間に命乞いをしたが、人質は射殺すると掟《おきて》で決められていた。小夜子はその鉄の掟を逆手に取って仲間同士で殺し合いをさせているのだ。公社の息のかかった兵士たちはみんな訳ありだ。死刑囚や傭兵《ようへい》を訓練したのは、後腐れのない消耗品にするためだ。公社のやり方を熟知している小夜子は、ひとり、またひとりと仲間討ちをさせていった。やがて二十人いた兵士たちは三人にまで減っていた。
「最後の神器まであと三人!」
小夜子が手榴弾《しゆりゆうだん》のピンを抜いて無造作に木に縛りつけた。すると枝が狂ったように暴れだすではないか。擬態スーツが電柱や看板に目まぐるしく変化していくなかで手榴弾が爆発した。
「あと二人」
突然、小夜子に向けて前後から銃弾が浴びせられた。弾が切れるまで嬲《なぶ》られた体は宙を踊り、無惨に大地に崩れた。
「やった。仕留めたぞ」
兵士が小夜子の死体を確認しようと表に出る。しかし殺したはずの小夜子の死体はないではないか。よく見れば擬態スーツだ。あの女は仲間の着ていた擬態スーツを自分の姿にプログラムしたのだ。
「しまった騙《だま》された!」
頭上の枝から小夜子が飛び降りてくる。兵士は小夜子が地上につくまでにメスで真っ二つにされてしまった。刃の零《こぼ》れたメスを捨てた小夜子がグルカナイフを奪った。
「あとひとり……」
最後の神器はこの戦闘をモニターしているゼウスが握っているに違いない。アトラスは第零層が強固な守りで造られていると公社から聞いたことがある。彼らが全滅するまで最後の神器は現れない。残る一人はサシで始末をつける。小夜子は声を張り上げた。
「女ひとりに何を隠れているの。仲間を殺された恨みがあるなら、正々堂々と勝負しなさい!」
小夜子の目の前を突進してくる物体がある。木に擬態し、茂みに化け、岩に紛れる。周囲の情報を拾った擬態スーツの処理が移動速度に追いつかないのだ。最後は戦闘服を着た男がナイフを掲げて現れた。小夜子は男の体にしがみつき、そのまま土手を転がり落ちた。小夜子はベルトの時限爆弾のスイッチを押した。
「最後は相討ちと決めていたのよ。神器は部下が取りに来るわ。うふふふふ」
小夜子の目が恍惚《こうこつ》の表情を浮かべて笑っている。
「おまえは狂っている……」
咄嗟《とつさ》に逃げ出した男の背中にグルカナイフを投げつけた。深々と男の体を貫いたナイフが最後の兵士を仕留めた。
「時限爆弾なんて嘘に決まってるじゃない。うふふふふ」
ベルトのバックルを開けると、中に亡き娘の写真が収まっていた。
最後の兵士を倒した瞬間、天井の第一層の明かりが灯《とも》った。昼間よりも明るい照明が第零層を照らす。その光に合わせて大地が揺れた。神器を隠した宝物殿がゼウスの命令を受けて地上に現れた。
「これで美邦様を帝《みかど》にしてあげられるわ」
今までの緊張が急にほぐれた小夜子は、笑みを湛《たた》えて宝物殿に向かう。誰よりも愛した美邦が日本の帝に即位する。人生にこれほどの喜びがあるだろうか。胸に込み上げるこの気持ちは子どもを産んだときに味わって以来だ。娘を失ったとき、もうこの感情は二度と蘇《よみがえ》ることはないと思っていたのに。絶望しかなかった人生に明かりが見える。それも未来の明かりではない。この瞬間が眩《まぶ》しくてあまりにも美しかった。小夜子は感極まって泣いていた。
「美邦様、あなたは私の誇りでございます……」
宝物殿の前で胸を詰まらせ、しばし小夜子は幸福の与える眩暈《めまい》に酔っていた。すると小夜子の耳に賛美歌が聞こえた。聖母を讃《たた》えるあの歌声は、聞き覚えがある。振り返るとハーレーに跨《またが》った涼子が小夜子を睨《にら》んでいた。
「最後の神器を見つけてくれてどうもありがとう小夜子。うふふふふふ」
「涼子。そんな。生きていたなんて!」
涼子もまた生命力を持て余した人間だ。老婆が神器を確かめたとき、これが偽物であると直感した。もし本物なら目の色に変化があるはずだ。偽物だとしても失望の色を浮かべないのは怪しかった。老婆は平静であることに意識を払いすぎていた。きっとこの後に何かあるに違いない。そう感じた涼子は、洞窟《どうくつ》に入るや持っていた擬態装甲板を使い爆発の衝撃から身を守った。神器が偽物であるなら、必ず本物を持った者が現れる。そいつに最後の神器を見つけてもらい、横から掠《かす》め取ってやるまでだと涼子はずっと息を潜めて、小夜子の闘いが終わるのを待っていた。
「あなたに嵌《は》められるほど、私は落ちぶれちゃいないのよ。いつもそうだったでしょ。万年二番の小夜子さん。うふふふふ」
バイクが唸《うな》り声をあげて小夜子を威嚇《いかく》している。ハーレーに睨まれた小夜子は、次の瞬間前輪に踏みつぶされていた。
「最後の神器はあたしが貰《もら》ったわ。おーほっほほほほ」
涼子の驕慢《きようまん》な笑い声が第零層の森にこだました。
涼子が勝利した瞬間、秋葉原が火に包まれた。入道雲に擬態したタイタンがプラズマの雷を轟《とどろ》かせた。閃光《せんこう》が目を眩《くら》まし、続いて爆発音が大地を揺さぶる。水蛭子のいるビルの瓦礫《がれき》は木っ端|微塵《みじん》に吹き飛んでいた。
「ミーコを殺してはならぬ。表に出るぞ」
公社が水蛭子を抹殺しようとしていると従者から連絡を受けた美邦は、牛車《ぎつしや》を中央通りに向かわせた。
「いけません皇太子様。外は危険です」
「ええい黙るのじゃ。なんのための紫外線防止クリームじゃ。一時間くらい日に当たっても死にはせん」
「皇太子様は即位なされる大事な身です。どうか冷静におなりください」
「妾《わらわ》に優しくしてくれたミーコを見捨てて帝になれるものか。ミーコを救いに行くぞ。薙刀《なぎなた》を持てい」
美邦は薙刀を携えて牛車の外に出た。あまりにも眩しい日差しに目が潰《つぶ》されて身動きが取れない。これが日の当たる世界かと美邦は初めて裸眼で捉《とら》える外界に身を竦《すく》ませた。白く重い奥行きのない世界を目を閉じながら必死で走った。
「ミーコや。ミーコや。妾が助けに参ったぞ」
慌てた女官と従者が美邦を保護しようと駆け出す。外は異様な景色だ。瓦礫に擬態した戦車が次々と火を噴いている。上空からプラズマの稲妻が間断なく炸裂する。その炎の中心部からおぞましい叫び声があがった。
「おのれえ、わたしを、ころしたら、あとらすは、しずむぞ。ぎゃあああああ!」
プラズマの球を受け止めた水蛭子が、戦車部隊に投げ返す。連鎖爆発を起こした戦車が街を巻き込みながら燃えていく。逆上した水蛭子は秋葉原を火の海に沈めていった。
「よくも、いままで、わたしを、しばりつけて、くれたものじゃ。このうらみ、はらさで、おくべきか。ぎゃあああああ!」
擬態戦車が有機的に接続して水蛭子を包みこんだ。巨大な岩の塊に擬態した戦車は水蛭子を飲み込んだまま内部で砲撃するつもりだ。しかし水蛭子の爪は擬態装甲板ごと引き裂いてしまう。水蛭子は接続ユニットの隙間から腕を外に突き出すと、そのまま岩肌を破り捨てた。
「強い。敵は本物の化け物です。戦車では歯が立ちません。タイタンから気化爆弾を落としてください。秋葉原ごと焼くしかない」
タイタンのエンジンは衛星軌道上にある発電衛星だ。タイタンは巨大すぎて既存の滑走路には降りられないため、二十四時間浮遊している。そのタイタンを動かす発電衛星は関西国際空港と同じ大きさの太陽電池パネルを持つ。つまり本体よりもエンジンの方が十倍以上大きいのだ。この分離方式により、タイタンは内燃機関よりも大きなエネルギーを扱うことができる。主力兵器のプラズマ砲は百兆ワットの電力を放出する。それは日本の原子力発電所全ての発電量に匹敵した。
衛星軌道からレーザーでタイタンにエネルギーが補充される。
『タイタンより地上部隊へ。プラズマの出力を上げる。総員対ショック』
擬態戦車がバラバラになってダンゴムシのように丸まった。入道雲の中が活発に光っている。街もろとも吹き飛ばすつもりだ。それを見た従者と女官たちは美邦の上に積み重なった。
「皇太子様、お許しください」
何重もの人の壁で守られたとき、美邦は初めて彼らの気持ちと触れた気がした。彼らはただ雇われただけの卑しい男たちではなかった。身を挺《てい》して美邦を守ると契約していても、命令だけでは咄嗟にこれだけのことはできないだろう。人の温《ぬく》もりに包まれた美邦は思わず胸を詰まらせた。美邦を抱えるように守った男の顔が「ご心配なく」と一言|呟《つぶや》いて、プラズマの熱波を浴びた。従者も女官もしっかりと腕を組んで鎖よりも強く結びつく。
プラズマは熱の津波だ。秋葉原を直撃したプラズマは目の底を焦がす閃光と、大気中の水分を沸騰させる水蒸気の壁になって街を襲った。プラズマの直撃を受けた水蛭子は、悲鳴すら蒸発させられてしまった。
「ぎゃああああああああ……」
美邦を守る従者と女官たちは体が溶けても手を離さなかった。美邦は爆風の中を転がりながら泣いていた。
「すまぬ。すまぬ……。妾が表に出たために……」
やがて爆風が収まり、煙の匂いも消えかかると、美邦はそっと目を開けた。人間の団子になった従者たちは最後の決意を宿した顔のまま死んでいた。空を覆っていた浮遊|要塞《ようさい》の影は去り、眩しい青空が秋葉原に広がる。プラズマの爆撃は秋葉原にクレーターを生み出した。水蛭子はプラズマに焼かれて跡形もなく消えた模様だ。美邦は胸に折れた包丁が刺さったような重い痛みを感じた。
「ミーコォォォォ!」
奇襲攻撃を受けた秋葉原にいた國子と武彦が飛び出していた。擬態戦を体験した國子たちは、これが政府の攻撃だと直感的にわかった。いくら擬態が巧妙でも血を好む政府の匂いがプンプンする。
「國子、どこに行く」
「政府に抗議する。こんなやり方ばかりするから争いが続くのよ」
「抗議したって意味がない。俺たちがずっとしてきたことだ」
「じゃあどうするのよ。こっちも反撃したら、また堂々巡りだわ」
武彦は國子の腕を引っ張った。
「聞け國子。俺たちも間違っていたんだ。戦争を止めるのは戦争じゃない。俺たちは間違っていた」
「じゃあ黙って泣けって言うの!」
武彦の大きな手が國子の肩をすっぽりと包んでしまう。武彦は恨みの過去を捨て去ることにした。
「おまえがこの国を治めるんだ。それが戦争をやめるただひとつの道だ。帝になればこの国を変えられる。おまえが政府よりも強い人間になれば、抗議なんてしなくても言うことを聞くさ」
「あたしを認めるの……?」
武彦は振り返ろうとする國子の肩を押さえた。
「みんなも同じ意見だろうさ。政府と地上を結びつけるのは新しい存在しかない。國子よ、帝になれ。それで、きっと戦争は終わる」
皇位継承権なんて興味がなかったのに、武彦の一言で急に重みが増した。武彦の言う通りかもしれない。アトラス戦で財源の全てを使い果たしたメタル・エイジが政府と対等に交渉していくのは難しい。首都層を制圧したといっても、臨時首都の第七層でまた同じ企《たくら》みが繰り返されるだけだ。それが今日の秋葉原だ。政府が変わってくれないなら、自分が政府中枢に潜り込み悪の温床を一掃する。それが唯一の道かもしれなかった。
「もし戦争が終わるなら、地上と空の闘いが止められるなら……」
國子は頭上のアトラスを睨んだ。メガシャフトから立ちのぼる上昇気流を掴《つか》んで視覚を空に羽ばたかせる。この悪魔の巣窟のような塔を平和の象徴に変えてみたい。アトラスは造り方を間違えただけなのだ。きちんと建造すれば大地はきっと鎮まる。そして無益な人の争いも収まる。國子は胸いっぱいに新鮮な空気を詰め込んで、意を決した。
「帝になるのも有効かもしれないわ」
ただし、ただの飾りの帝ならお断りだ。秩序と慈悲と公平さを分け与える存在でなければ意味がない。そのためなら過去のデタラメな歴史も凪子の裏切りも許せる。平和のために身を捧《ささ》げる帝になれれば、死んでいった仲間の魂も許してくれるかもしれない。
ゼウスの声が頭上から響いた。
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この国の帝となる者よ。最後の神器を取り、アトラスへ帰還せよ。
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今まで運命に翻弄《ほんろう》され続けた國子が、初めて自分の運命を選んだ。
「第零層に行くわ。武彦、援護して」
「これでも皇太子様を暗殺しようとした用心棒だぞ。腕は信用しろよな」
武彦が照れ笑いを浮かべた。
旧時代に皇居と呼ばれた第零層は、今も昔も人が足を踏み入れることのない聖域だ。この国は成立以来、君主国の顔をしていたのに、いつしか民はその顔を忘れてしまった。アトラス計画が立ち上がったときも、人は君主の顔を忘れて生きた。この国は大きな混乱が起きたときだけ強い救い主を求める。
苔《こけ》むした二重橋を越える大型バイクには、第四の神器が積まれていた。常に勝利を手に入れる女が歓声をあげる。
「これで私がこの国の帝《みかど》よ。セルゲイおじさまもびっくりするわ。うふふふ」
涼子は舌を這《は》わせて第四の神器を舐《な》め上げた。玉座にタルシャンを招き、同じように舌を足の指の先から這わさせ、内股《うちもも》を舐め上げ乳房を吸わせてみせよう。そして完全なる美を体現したこの姿のまま、上に乗る。タルシャンは涼子の快楽椅子だ。常にタルシャンに跨ったまま好き放題国民をいじくり回す。それを想像したら涼子の乳首がつんと立った。今日もアンテナの感度は抜群だ。涼子は下着を擦《こす》りつけるようにハーレーの上で腰を震わせる。メガシャフトに乗ればエクスタシーの高みまで一直線だ。
その時、皇居の堀の前に一台のバイクが現れた。
「お待ち。それは國子のものよ!」
エレガントなフォルムのドゥカティに乗ったモモコが涼子の行く手を遮った。同じ大型バイクでもドゥカティは豹《ひよう》のしなやかさだ。軽く前輪を持ち上げたモモコが二重橋に突進した。
「愛娘《まなむすめ》の嫁入り道具を盗むなんて、モモコ様が許さないわよ」
國子が去った後、公社にいる凪子から國子を直ちにアトラスへ上げろ、と連絡が入った。そして國子が何者であるかも知った。皇位継承者であると聞いたとき、モモコはやっぱりと納得した。愛娘が羽ばたいた瞬間、これは一億の視線を集める蝶《ちよう》だと思った。國子は独占したり個人的な感情で関心を惹《ひ》いたりできる存在ではない。國子は人心の中に深く根づく人間なのだ。その高貴な子どもを十五年間も手元に置けた自分は果報者だとモモコは嬉《うれ》しくなった。
「何なの。あのおばさんは!」
涼子もアクセル全開でハーレーの牙《きば》を剥《む》いた。なんだか知らないがテンションの高い中年女が突進してくるではないか。
「おばさんって言うなーっ!」
モモコがドゥカティからブーメランを放つ。涼子は前輪を持ち上げてブーメランの攻撃を受け止めた。
「やるわね。あたしのブーメランを取れるなんて大した女だわ」
「私は全能な女よ。更年期のおばさんは引っ込んでなさい」
「まあ、更年期だなんて失礼な。まだ初潮も来ない乙女なのよ」
太陽を背にしてモモコが宙を飛んだ。人間業とは思えない身の軽さに涼子は唖然《あぜん》とした。モモコは空中からガラガラヘビの動きにも似た鞭《むち》を放つ。それをかわした瞬間、涼子は息を止めた。目の前に無人のドゥカティが突進してくるではないか。これが時間差攻撃だと気づいたとき、涼子が取れる動きは出来るだけ衝撃を和らげるために体を小さく屈《かが》めることだった。金属の塊同士が激しくぶつかる音がする。軽いドゥカティはフレームごと曲がったが、ハーレーはまだバランスを保っていた。全身に走った激突の衝撃は涼子ですら堪《こた》えた。バイクを捨てた涼子がホルダーのS&Wのマグナムを抜く。涼子は屈強な男でも扱いにくいと言われる44マグナムを片手で撃つことができる。
「この私にマグナムを抜かせるなんて、カナダで熊を仕留めたとき以来よ」
涼子は余裕たっぷりに銃を構えた。涼子は滅多に本気になることはない。こんなに昂《たかぶ》る感情は久し振りだ。また乳首がつんと立った。生き物のように飛んでくる鞭が二重橋を破壊していく。このおばさんは退路を奪うつもりだ。孤立した二重橋の上に豊満なふたつの肉体が激突する。
「おばさん死ぬ気なの。なぜそんな無茶をするの」
「可愛い娘のためよ。母親は娘のために死ねるのよ」
「子どもなんて妊娠線の元になるだけじゃない」
「フッ。甘いわね」
モモコがライダースーツのファスナーを下ろす。涼子に負けない人工ナイスバディが燦然《さんぜん》と輝く。涼子に小さな嫉妬《しつと》の炎が灯《とも》った。四十過ぎの女なのに下腹部の弛《たる》みもなければ妊娠線もない完璧《かんぺき》な肉体だ。
モモコが勝ち誇ったように笑う。
「妊娠線なんて気合いで消せるのが母親よ」
「本当にムカつくおばさんね。この私よりも完璧だなんて許せないわ」
怒りに震えた涼子は、狙いを定めてモモコの心臓を撃った。銃声が内堀の水面を走り小さな波を立てる。凶弾を受けたモモコは反動で倒れていく。念のために涼子はもう一発、倒れる前にモモコの右胸にも銃弾を食らわせた。二度|嬲《なぶ》られたモモコは足下をふらつかせながら二重橋の上に倒れた。
「ほほほほ。ナイスバディに穴を空けてしまってごめんなさい」
涼子はくるくると銃を回してホルダーに収めた。倒れたモモコの体から血の池が広がる。モモコの髪が血を吸って赤く染まっていった。殺す前にもうちょっと遊んでおきたい相手だった、とちょっと涼子は残念そうだ。
「モモコさん! モモコさーん!」
壊れた橋の向こう側から甲高い声がする。あれがタルシャンが懸想していた北条國子だと気づいた涼子は、國子に向けて銃を撃った。
「ついでに死ねっ!」
國子には44マグナム弾の軌跡が目に入った。銃口から飛び出した弾丸は大気を捩《ね》じ曲げながら一直線に國子の額に向かって飛んでくる。堀を越える弾は影を落とす暇もない。國子は携帯していた44マグナムを素早く引き抜いた。涼子のマグナム弾に照準を合わせてトリガーを引くと、二つの銃声がほぼ同時に皇居に響きわたる。
「うそ。弾を撃ち落とすなんて!」
対岸で片手で銃を構えた國子がにやりと笑う。弾を撃ち落とすくらいメタル・エイジの人間なら出来て当たり前だ。
涼子は再び愕然《がくぜん》とする。いつの間にか足首にモモコの手が絡まっているではないか。脚を払われた涼子は無様に尻餅《しりもち》をついてしまった。
「44マグナム弾を食らって生きているなんて!」
モモコは撃たれた瞬間、死んだと思った。しかしマグナム弾は体を貫通せずに肋骨《ろつこつ》を折って止まった。豊胸手術した胸は、炭素繊維とアルファゲルでできている。シリコンや生理食塩水で膨らんだ胸はナチュラルだが、形はイマイチだ。ハリウッド型のロケットおっぱいを作るには衝撃吸収に優れたアルファゲルを炭素繊維でくるむのが一番手っ取り早かった。モモコの胸は防弾効果を兼ねていたのだ。そのことをすっかり忘れていたモモコは、撃たれてもまだ死なない自分が不思議だった。これは神様が与えた奇蹟《きせき》だとモモコは感無量だ。
「あんた、このあたしにやってはいけないことをしたわね」
モモコは胸に刺さっていた銃弾を二発取り出した。
「モモコ様にタマを二個くれるなんて無謀なお嬢さんだこと。せっかくただのニューハーフだったのに、よくも男に戻してくれたわね」
マグナム弾は男のシンボルである。忌まわしきタマを抜いたのに、再性転換させた涼子はニューハーフの敵である。モモコが銀色のタマを握った。
「國子、あたしに魔法をかけて」
國子は対岸から大声で叫んだ。それはモモコを凶暴化させる禁断の呪法《じゆほう》だ。
「お父さーんっ!」
するとどうだろう。モモコの体がむきむきの筋肉に覆われたではないか。タマを二個|貰《もら》ったモモコは二十三年ぶりにY染色体の力を蘇《よみがえ》らせた。ライダースーツをはち切る筋肉がバルクマッチョへとモモコを変えていく。ニューハーフになってもモモコは男だった記憶を忘れない。二十三年前、モモコは国内無敵と呼ばれた格闘家だった。男の中の男を極めたモモコは一念発起して女性へ転向した。モモコの元々のボディは男も惚《ほ》れ惚れするほどの肉体だ。これを普段は努力と気合いで抑えている。男になったとき、モモコの戦闘能力は十倍になる。喧嘩《けんか》慣れした國子でも絶対に勝てない。変身を終えたモモコは野太い声で吼《ほ》えた。
「俺の娘に手を出すんじゃねえぞ。コラッ!」
「ひいいっ。おばさんがオヤジになったわ!」
モモコは涼子の体をひょいと担いで堀に捨てた。涼子の精神が混乱しているうちに、モモコは落ちていた最後の神器を奪った。くるんでいた錦を解くと優美な槍《やり》が現れた。これが第四の神器『天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》』だ。モモコは槍を國子に向けて投げた。
「國子、受け取れっ!」
真っ直ぐ飛んできた槍をじっと見据えて、手を差しのばす。まるで掌《てのひら》に吸いこまれるように槍が國子の元へと戻ってくるようだった。國子は額の一センチ手前に鏃《やじり》を寄せて柄を掴《つか》んだ。
「国造りの天の沼矛を受け取ったわよ」
二重橋の上のモモコは興奮しすぎてまだ男のままだ。
「アトラスへ上れ! 凪子が待っているぞ!」
國子は一番近い東西線シャフトを目指した。
凪子とタルシャンは公社の森から首都層の景色を見つめながら、五十年の思い出に耽《ふけ》っていた。窓辺に立つ二人は老夫婦のように穏やかな目をしていた。この五十年の間に二人が実際に会った回数は数えるほどしかない。それでも二人の気持ちは東京とニューヨークの距離を感じさせないくらい近かった。今、側に並んでいても気持ちに変わりはない。
「誰が天の沼矛を持ってアトラスに上がるか見物じゃ」
「クニコであってほしくないのか?」
「国造りの天の沼矛が帝《みかど》の証《あかし》じゃ。私はその者にだけ公社を譲る。宮内省への再編は新しい人事で行う。もちろん私もそのときに引退するつもりじゃ。その前に悪魔の歴史に幕を閉じよう」
水蛭子抹殺を命じたのは凪子だ。建造以来アトラスは固有振動に悩まされ続けた。アトラスは大地の気を集め天空へと循環させる巨大なパイプだ。当初、軌道エレベータを作れる炭素材なら、問題なく建造できると見込んでいた。しかし東京のヘキサグラムの力はあまりにも強すぎた。大地の気は固有振動となってアトラスを揺らし始めた。天の沼矛の霊力はアトラスの固有振動を止めることのできる唯一の神器である。しかし当時、その霊力を扱える者が存在しなかった。一計を案じた凪子は水蛭子の霊を召喚し、代わりの方法を編み出してもらった。それが生《い》け贄《にえ》である。
「帝が天の沼矛を使えば、もはや水蛭子はいらぬ」
もし凪子が現在の水蛭子の正体を知っていても、抹殺を命じただろう。たとえそれがかつてのドゥオモの仲間だったミーコであったとしても、だ。水蛭子に肉体を奪われると死ぬまで離れない。水蛭子の霊は憑代《よりしろ》の肉体を少しずつ蝕《むしば》んでいく。ミーコの人格が微《かす》かに水蛭子に残っていたが、ミーコの人格の死は時間の問題だった。水蛭子を殺せるのは、肉体があるうちだけだ。これが霊だけになると、水蛭子はゼウスを破壊しに来るだろう。
凪子の元に連絡が入った。
『水蛭子抹殺作戦終了。水蛭子はプラズマに焼かれて蒸発しました』
「ご苦労じゃった。犠牲者の家族に哀悼の意を捧《ささ》げよう。全員三階級特進じゃ。新靖国神社の英霊として奉《まつ》るのじゃ」
これでアトラスの闇の時代のひとつが幕を閉じた。皇太子がアトラスへ上がってくる前に、公社が犯した罪を今のうちに片づけておくのが凪子の最後の務めだった。凪子は目を鋭く光らせた。
「次はゼウスを殺す……」
タルシャンは目を丸くした。
「ゼウスを破壊したらアトラスの都市機能はバラバラになるぞ。初期化したときの混乱を知らないのか?」
アトラスはゼウスの管理がなければ無法地帯になる。超高密度に都市機能を集約したために、並みのスーパーコンピュータでは管理できない。ゼウスはアトラスの建造と補修をするだけではなく、司法、立法、行政、外交、経済、国防、教育、福祉、医療などかつて人間が行っていたサービスの全てを行う。ゼウスはテクノロジーが生み出した初めての全能神だ。もしゼウスを殺せばこれらを人間の手で行うことになってしまう。
しかし凪子の決意は固かった。椅子に腰掛けると深い溜《た》め息とともに身を小さく萎《しぼ》ませた。
「今までセルゲイにも話していなかったことがあったのじゃ……。私が公社を辞めて地上に降りる決意をしたとき、ゼウスに細工を施した。その罪を贖《あがな》うときがやってきたのじゃ……」
凪子は三十年前のことを語り出した。
三十年前、公社の頂点に君臨していた凪子は、アトラス建造の限界を悟り始めていた。どんなにシミュレーションしても計算上のミスはないのに、現実には固有振動が発生してしまう。シミュレーションに大地のエネルギーの数値がインプットされていないためだった。まだ科学では解明されない未知のエネルギーを司《つかさど》ることは人間にはできなかった。そのためにはより未知の力を借りるしかない。凪子はゼウスに本物の人格を与えようとした。それはコンピュータの炭素の肉体に霊を宿らせるということだった。
「ナンセンスだ。ナギコが神秘主義者なのはわかるが、コンピュータに霊など宿るわけがない」
タルシャンは一笑に付した。神秘主義を肯定するタルシャンでも、テクノロジーとオカルトを融合させるなんて考えたこともない。
「それが宿ったのじゃ。ゼウスを肉体にした霊は自我に目覚めたのじゃ」
「まさかそんなことが……」
凪子は大宮司を集めて一ヶ月間加持|祈祷《きとう》を行った。その結果、ゼウスに最強の霊が宿った。自我を獲得したゼウスは支配という概念に目覚めた。効率よりも自尊心を優先させる新たなスーパーコンピュータの誕生だった。自尊心が満たされるなら損を発生させてもよいという考え方をするゼウスは外交の場で、人間以上の交渉能力を発揮した。それが傍目《はため》には皇帝のような振る舞いに映った。日本の歴代総理大臣が『カイザー』と呼ばれたのは背後にゼウスの意志があったからだ。
「ゼウスを仮の帝にすればアトラスは鎮まると思ったのじゃ。じゃがもうその役目も終わりじゃ」
凪子が地上に降りたのは、やがて地上に現れる皇位継承者の身柄を保護するためだった。備蓄していたグラファイトを持って地上に降りた凪子は新大久保で反政府組織のメタル・エイジを結成した。やがて現れる皇位継承者にはゼウス以上の政治手腕が求められる。ゼウスを倒せなければ帝になる資格がない。國子を地上で迎えた凪子はゼウスに勝るための帝王学を國子に授けた。そして機は熟した。
「ゼウスには初期の人工知能に戻ってもらう。アトラスに帝は二人はいらぬからな。セルゲイや、ついて来るがいい」
凪子が招いたのは、ゼウスの設置してある中央演算室だ。この扉は今まで誰も開けたことがない。自己修復するゼウスにはメンテナンスがいらない。却《かえ》って人間の冒すミスの方が深刻だった。檜《ひのき》の扉を開けたとき、タルシャンは廟《びよう》のようだと思った。暗闇の部屋の中で黙々と演算するゼウスは脳内に侵入した二人を把握できていない。受容器はこの部屋の外から始まるのだ。
暗闇に目が慣れたタルシャンは、部屋の中央に妙なものを発見した。そこにはゼウスの筐体《きようたい》に相応《ふさわ》しくない石棺のようなものが設《しつら》えられていた。
「これがゼウスの人格となった霊の正体じゃ」
凪子が石棺の扉を開けた途端、黴《かび》臭い匂いが鼻腔《びこう》をついた。中には木乃伊《ミイラ》となった骸《むくろ》が副葬品と共に収められていた。木乃伊は随分昔のものに見えた。日本の古代史に疎いタルシャンでも、この木乃伊が身分の高い者であることは容易に想像がついた。干からびた体は小さくなっても、眠りには風格が備わっていた。
「これは誰のミイラだ?」
「今から約二千七百年前の遺骸《いがい》と推測されておる。これを私はアトラス第零層で発見した。第零層は古墳であったのじゃ」
凪子はかつて皇居と呼ばれた地区の上にアトラスを建造した。空中権が自由に使えるという利点で調査を開始したとき、森の中に石棺を収めた陵墓を発見した。陵墓というよりもこの土地自体が巨大な古墳であった。凪子はこの石棺を公社に管理し厳重に秘匿した。
「ゼウスを仮の帝にするにはそれなりの霊を招かねばならぬ。この木乃伊の霊はまことに支配欲が強かった。セルゲイや、ゼウスの正体を見たいか?」
タルシャンが無言で頷《うなず》く。凪子はこの木乃伊を復元したコンピュータ画像を見せてやった。部屋の中央にホログラム映像が投射された瞬間、タルシャンが腰を抜かした。
「クニコ!」
復元されたホログラム映像は國子そのものではないか。古代の装束を纏《まと》った國子は威厳たっぷりにタルシャンを見下ろしていた。リアルタイムでゼウスの思考を再現するホログラムは、南太平洋の台風を見つめていた。何とかメデューサを叩《たた》こうと苛立《いらだ》ったホログラムの國子が親指の爪を噛《か》んだ。
「これがゼウスの正体じゃ……」
天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を持った國子がメガシャフトへと急ぐ。しかし東西線は運休だった。アクティブ制震プログラムを優先させているためだ。
「保守点検に使うエレベータがあったはずよ。遠隔操作で呼び寄せて」
武彦がパネルの操作をする前に、点検用のエレベータが地上に降りてくるのがわかった。扉が開くと軍人たちの乗ったジープが飛び出した。その中に草薙がいるのを國子が見つけた。
「ちょっとあんた、どこに行くつもりなのよ!」
「秋葉原のネオギルドの本部に逮捕状が下りた。メデューサを操っているL.T.C.I.という特別目的会社がネオギルドの本体だ」
メデューサの物理的破壊に失敗した政府は、メデューサを操る企業を特定した。政府は八百兆円もの資産を勝手に取引に使われているのにやっと気づいた。そしてその投資が価値のない南極大陸に使われていると知るや、香凜に逮捕状を出した。
「バカね。メデューサは暴走しているのよ。逮捕したって止められないわ」
國子は今日の炭素市場が暴騰しているのを知って、これが人間業ではないと直感した。世界中の炭素指数が一時間ごとに〇・一ポイントずつ下がっていくのだ。人間の経済活動の規模を超えている何よりの証拠だ。メデューサが扱っている金額は五千億人の経済活動に匹敵した。炭素バブルは世界のマネーを一万倍以上に増やす超インフレを起こしていた。
「じゃあどうすればいいんだよ。秋葉原にある端末しかメデューサにアクセスできないんだぞ」
「政府軍が秋葉原に行ったら逃げられるだけよ。あたしに任せて。ネオギルドの香凜って子には面識がある。あんたはこの槍《やり》を持って公社に行って。皇太子なら使い方がわかるはずよ」
「こんなボロい槍なんかいるか!」
「それでアトラスの固有振動が止められるわ」
國子は天の沼矛を草薙に渡すと秋葉原を目指した。相変わらず嵐のような娘だと草薙は呆《あき》れた。
「L.T.C.I.の強制捜査は中止だ。あの子ならきっとメデューサを止められるはずだ。第五層の公社に行く。こっちも大事だからな」
天の沼矛を持った草薙は再びエレベータに乗って空へと昇っていった。固有振動のせいでアトラスの都市機能は滅茶《めちや》苦茶だ。制震プログラムを優先している今の状態では政府も軍もまともに活動ができない状態だ。四十八時間後には食料の補給すらも満足に調達できなくなることが懸念されていた。
首都層についた草薙は交通渋滞に巻き込まれてしまった。どこもかしこも人が殺気立って怒りが沸騰寸前だ。政府|車輛《しやりよう》の特権もこの大渋滞の中では無意味だと悟った草薙はジープを降りた。徒歩で行った方がずっと早い。人を肩で掻《か》き分け路地に入り、できるだけ空いている道を探しながら草薙は走った。やがて公社の森まで辿《たど》り着いた草薙は、天の沼矛を握り締めた。
「これで混乱が治まればいいんだが……」
すると背後からバイクの音が迫ってきた。振り返れば猛獣のようなバイクに乗った女ではないか。ウルトラクラシックを操る女なんて初めて見たと草薙は目を丸くした。しかも絶世の美女ときた。
男性化したモモコに堀に捨てられた涼子は、すぐに天の沼矛を追った。負けても捨てられても欲望のために立ち上がるのがこの女のタフなところだ。
「ハーイ兵隊さん。ちょっとこれを見て。うふふふふ」
涼子がライダースーツのファスナーを勢いよく下ろすとまるで葡萄《ぶどう》の皮を捲《めく》るように豊満な肉体がつるんと現れた。何事かと草薙は焦った。白昼に晒《さら》された裸体は完璧《かんぺき》な曲線を描いて輝く。まるでボッティチェッリのビーナス誕生の絵画から抜け出したような神秘的な肉体だった。
「公社に行く前に私を抱きなさい。うふふふふ」
髪を解《ほど》いた女は艶《つや》めかしい表情をして、森の奥へと誘《いざな》った。草薙の心臓は爆発寸前だ。女の目には怪しい魔力がある。こんなところでと躊躇《ためら》った常識など、一秒で破壊されてしまった。彼女の体から目が離せなくなった草薙は、自分が甘い毒に冒されていることはわかっていた。しかし毒の力は強力だ。目から心臓に到達した毒は鼓動を早め、息を荒くする。この毒は理性も感情も吹き飛ばして、男をただのリビドー機関車に変えてしまう。これは個人差ではなくY染色体にプログラムされた本能だ。好みや状況を優先させる男はまだY染色体の悪魔が眠っている。しかしY染色体の奥深くにはこう書かれている。完璧な肉体を持つ女が現れたときあらゆる状況を超えて生殖せよ、と。こうなると男はただのY染色体の乗り物にすぎなくなる。
顔中の毛細血管が鼓動のたびに切れていく。目の底を熱くした草薙は女の手を拒めなかった。
「私だけをこんな恥ずかしい格好にさせるなんて意地悪ね……」
「いや、俺は、何も……」
涼子が止めの眼差《まなざ》しで草薙の最後の抵抗を破壊した。
「お・ね・が・い」
ついにリビドーのマグマが噴火した。草薙は返事をすることも忘れて涼子の体を押し倒した。涼子の性技は男の昇天をコントロールする。昂《たかぶ》りの極みで焦《じ》らす技は強烈な快感を与えた。髪の毛の全てを勃起《ぼつき》させられて、草薙は全ての感覚を涼子に奪われてしまった。男を生かすも殺すも涼子の気分次第だ。目眩《めくるめ》く快楽のジェットコースターに乗せられた草薙は、ロケット打ち上げ以上のGを体験した。歯を食いしばっても、内臓が押し出されそうな快楽だった。草薙は肉体の限界を無視するY染色体の命令に逆らえない。
しばらくして体を火照らせた涼子が天の沼矛を携えて森から出てきた。
「男なんてみんなカンタン。うふふふふふ」
普通、女から嫌われる女は男を味方につけるのが上手《うま》いものだが、男の理性も社会性も奪う涼子は全ての男の敵でもある。自慢の喉《のど》を震わせた涼子はまた聖母を讃《たた》える歌で自分を祝った。
草薙がただのY染色体の乗り物に成り下がったことも知らない國子は、秋葉原に到着していた。國子は本部に入るなり、香凜との面会を求めた。
「あたしはネオギルドと二十兆円の取引がある最大の顧客よ。今すぐCEOに会わせなさい。さもなくばオプション契約をキャンセルするわよ」
香凜は誰も入れるなと申しつけていたが、所詮《しよせん》この組織の成り立ちは損得しかない。嫌がる香凜の意志を反故《ほご》にしてすぐにトップ会談が開かれた。引きずられてきた香凜はもう商売などする気もなかった。香凜はどれくらい負債を抱えたのか計算する気も起きない。政府資産はもうすぐ底をついてしまう。市場は東京発世界恐慌へのカウントダウンを着実に刻んでいた。
しょんぼりした香凜を前に國子は矢継ぎ早に話を切り出した。
「メデューサを破壊する方法を一緒に考えましょう」
「あたしのメデューサは最強だよ。誰にも壊せないよ。お姉さんはメデューサを知らないから、そんなこと言えるんだよ」
「メデューサは南極大陸をヘッドリースしているんでしょう? あれだけ炭素指数を下げられる場所は地球には南極しかないもの」
香凜はやっと顔をあげた。國子はメデューサのシステムを知っている。しかも南極大陸をヘッドリースしているなんて香凜も今日知ったばかりだ。
「メデューサはどこにあるの。あたしが弱点を見つけてあげるわ」
もしかしたら彼女ならメデューサを壊せるかもしれない。香凜は金融センターに國子を案内した。スクリーンは南太平洋の巨大台風を映し出していた。
「ここにメデューサがあるんだよ」
「なるほど炭素税が無税のマーシャル諸島に置いたのね。よく出来てるわ」
「途中まではお利口だったんだよ。でも仲間に裏切られてメデューサが変わっちゃったの。利益よりも生存本能を優先させちゃった」
「この台風の勢力はどれくらいあるの?」
データを見た國子は目を疑った。風速百五十メートルの暴風なんて地球にあるとは思えない風だ。
「空母も爆撃機も近づけないわね。どうすれば壊せるんだろう」
國子は親指の爪を何度も噛《か》んで、メデューサの弱点を探した。人間が作ったものならば、必ず弱点はあるはずだ。台風の鎧《よろい》を着ているがメデューサは決して孤立しているわけではない。スクリーンに映し出された炭素市場は今も炭素指数が下がっている。この数値が限りなくゼロになるまで、メデューサはヘッドリースをやめないだろう。しばらくメデューサの癖を探していた國子がピンと閃《ひらめ》いた。
「炭素指数を使えなくすればいいじゃない!」
「どうやって? 炭素指数のない世界なんてどこにもないよ」
「イカロスよ。イカロスが炭素指数を弾《はじ》き出しているじゃない。ねえ、ここのコンピュータで国連にハッキングできる奴はある?」
香凜は國子が何を企《たくら》んでいるのか、まだわからない。
「ここは秋葉原だよ。ゼウス以外のコンピュータなら何でもハッキングできるよ。どんな暗号でも解読できる方程式を持ってるもん」
「今すぐコンピュータを国連に繋《つな》いで。あたしがハッキングする」
國子は猛烈な勢いでキーボードを叩《たた》いた。香凜もハッキングに自信はあるが、ここまで簡単にアクセスできない。五秒ごとのアクセス切り替えの速度をものともせずいとも容易《たやす》く国連のサイトをこじ開けてしまった。てっきり炭素指数そのものを改竄《かいざん》するかと思っていた香凜は、國子が運用部の解析をしているのを不思議に思った。運用部なんて地味な部署だ。ハッキングのプロなら経済部を襲うのが定番だ。スクリーンにイカロスの現在地が現れた。
極軌道を周回するイカロスが日本上空に差しかかった。この世界の裁判官であるイカロスは、今日もセンサーをフル稼働しながら実質炭素と経済炭素を秤《はかり》にかけている。その冷徹な裁きは閻魔《えんま》大王以上だ。イカロスに刃向かうことは文明の死を意味する。そのイカロスにひとりの日本人の少女が立ち向かう。
「逆噴射させてイカロスを大気圏に再突入させるのよ。赤外線カメラがなければ炭素指数もクソもないもの」
國子がコマンドを入力した途端、イカロスは周回軌道を外れた。軌道修正のためのアポジモーターを点火したイカロスは、進行方向とは逆に制動をかける。減速すればイカロスは重力に引かれて落下するはずだ。しかし國子はまだ入力をやめない。逆噴射と加速を巧みに繰り返している。何をしているのかと尋ねたら、國子がウインクした。
「ついでにホールインワンを目指さなきゃハッカーとは言えないでしょう」
イカロスの墜落地点が南太平洋に向けて絞られていく。國子はイカロスをマーシャル諸島に墜落させるつもりだ。
「そうか。台風の目に入れるんだ!」
いくら強力な風の鎧を着ていても台風には無風状態の目がある。衛星軌道からメデューサを見れば頭上は丸腰も同然だった。國子はイカロスをマーシャル諸島に向けて制御している。
現代のイカロスは太陽を味方につけて空を飛ぶ。太陽電池パネルの翼を広げたイカロスは地球の自転と同じ速度で空を無限に飛び続ける。そのイカロスに地上から指令が入った。イカロスに墜落の危機が訪れたのだ。逆噴射がかかりイカロスは次第に減速していった。無重力を味わっていたイカロスが初めて自分の体の重みを感じた。重力に引かれるたびに翼に重みがかかる。真下に大気の海が見えた。この海に囚《とら》われるとイカロスは燃えてしまう。システムはさっきからアラームを鳴らしているのに、体が言うことを聞かない。まるで地上から亡者の手が引っ張っているようだ。イカロスは翼でもう一度空に戻りたかった。しかし無情にもアラームは大気圏再突入へのカウントダウンを始めた。
「大気圏再突入まであと一分よ。落下地点の予測は終わった?」
「検算が出たよ。誤差プラスマイナス十メートルでマーシャル諸島を直撃する」
「逆噴射終了。あとは祈るだけよ。三十秒……。十秒……三、二、一。突入!」
イカロスの腹が大気に触れた。秒速十キロメートルで落ちる体は空気を猛烈に圧縮し、その熱が機体を燃やしていく。青い翼の太陽電池パネルがみるみるうちに溶けて炎を纏《まと》った。無数のシリコンの羽根を散らしながらイカロスは南太平洋へと墜《お》ちていく。世界の炭素を見つめていたカメラが最後に捉《とら》えた映像は、遥《はる》か洋上で渦を巻く巨大台風の映像だった。それがイカロスには重力の源のブラックホールに見えた。
「炭素市場が止まった。イカロスのデータが切れたんだ」
市場を見つめていた香凜の目にはそれが時間が止まったように映った。今まで電子の速度で回っていた世界経済が止まるなんて想像したこともなかった。
「メデューサの状態はどうなってる?」
香凜が抱えていたメデューサの端末は蛇が赤く染まって猛《たけ》り狂っていた。炭素指数という呼吸器を止められたメデューサは窒息寸前だ。それはいきなり大気のない月面に放り出されたようなものだ。炭素指数が表示されないとメデューサはマネーの循環路を構築できない。マーシャル諸島でパニックになっていたメデューサは空に炎の彗星《すいせい》を見つけた。それがイカロスであるとは知る由もなかった。
「メデューサ、ごめんね。ごめんね……」
香凜はメデューサの最期の瞬間を見届けることができなかった。ぎゅっと抱えた端末は最期の一瞬まで香凜に助けを求めた。
――香凜、助けてくれ。助けてくれ。助けて……。
炎の彗星となったイカロスは長い痕《あと》をたなびかせてマーシャル諸島上空に出現した。翼をもがれたイカロスは重力の源へと墜ちていく。無防備だった頭上に気づいたメデューサは、ただ激突の瞬間を待つだけだった。溺《おぼ》れる恐怖と闘っていたのに、焼かれる最期だとは夢にも思っていなかった。
「マーシャル諸島激突まで、あと十秒……三、二、一」
マーシャル諸島に激突したイカロスは台風の目の中に爆発の茸雲《きのこぐも》を生み出した。堤防の内海を穏やかに押し寄せていた波が、島から現れた衝撃波で逆流する。イカロス自身の質量が熱エネルギーに転換した瞬間に大地が燃えた。島を覆っていた木々が爆風を浴びて倒れる。マーシャル諸島のタックスヘイヴンが、炎の地獄に変わった。
香凜が抱えていた端末の蛇が急に消えた。それがメデューサの最期を告げる。息を飲んで見守っていた國子はやっと一息ついた。
「ふう。これでメデューサは死んだわ」
しかし金融市場は依然として混乱したままだ。突然途絶えた炭素指数に世界はまだ何が起きたのかわかっていなかった。それが核兵器一万発分の破壊力に相当する威力だと気づくまでの束の間の平穏だった。
メデューサを征伐した國子は、香凜のやり方を咎《とが》める。
「経済炭素をいじるなんて、炭素経済の理念から外れているわよ。カーボニストは欲望を肥らせすぎたわ。人間はもう一度自然採取の文明から始めなきゃ」
「お姉さん、バカだなあ。人間が一度覚えた甘い蜜《みつ》を忘れるわけがないじゃん」
國子は何も答えずにネオギルドの本部を後にした。これから始まる自然採取の文明の夜明けにまだ誰も光を感じていないが、國子には眩《まぶ》しい朝日が見えていた。その日差しを世界の人が浴びるまでまだ少し時間がある。新しい文明を照らす明かりが本当の意味で「技術」と「環境」と「経済」の融合となる[Teconology]と呼ばれる世界であることに、名付け親の香凜もまだ気づいていなかった。
ネオギルドの幹部たちが金融センターに押し寄せてきた。
「この小娘が。俺たちの築いた財産を一瞬でパーにしやがったな。おまえのせいで秋葉原は世界一の最貧地区になっちまったぞ」
香凜の口車に乗って投資していたネオギルドの仲間たちが激しく罵《ののし》る。美邦を楯《たて》にして繁栄するはずだった未来は、タイタンのプラズマと不良債権の爆弾の前に散った。皇太子だった美邦は秋葉原から姿を眩《くら》ました。そして水蛭子はプラズマの直撃を受けて蒸発してしまった。もう秋葉原に失うものはない。
「こんなことになるはずじゃなかったんだよ……。ええええん」
「二度と秋葉原の地を踏むな。出て行け。この疫病神!」
追放された香凜は機能を失ったメデューサの亡骸《なきがら》を抱えて秋葉原を去った。文無しどころか今日寝る宿もない。どうしてこんなことになったのだろう。会社を立ち上げた理由はただ家族と一緒にご飯を食べたかっただけなのに。それが欲望を膨らませているうちに、チャンに裏切られ、アトラスに裏切られ、そして自分が生んだメデューサにまで裏切られた。この焦土の大地で放浪することになるなんて、あのとき誰が想像しただろう。香凜は神田川のほとりで思いっきり泣いた。
公社の森に響く美しい賛美歌は、まるで森をニンフたちと散歩するアルテミスの歌声だ。狩猟を終えたアルテミスの今日の獲物は若い男の肉体だった。その前に性転換の妖怪との闘いに敗れたが、勝利の女神は常に涼子に微笑むようにできている。なぜなら彼女もまた神の仲間だからだ。神は人間に厳しく神に優しい。天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を手にした涼子にタルシャンも驚くことだろう。その顔を思い浮かべると可笑しくてコロコロ声が弾むのだ。
「セルゲイおじさまは玉座の椅子にしてあげるわ。うふふふふ」
タルシャンの上に乗って腰を揺さぶれば、国民の悲鳴が聞こえてくる。そんな楽しい未来がこの手の中にある。涼子は有頂天だった。その今にも羽ばたきそうな背中に鋭い声が突き刺さった。
「お待ち。その槍《やり》は美邦様のものよ!」
振り返ると原付バイクに乗った小夜子が威嚇《いかく》している。涼子は何の冗談だと口をあんぐりと開けた。あの小夜子がウルトラクラシックに原付バイクで立ちはだかるなんて。第零層で轢《ひ》いた女が復讐《ふくしゆう》の炎を燃やして三度涼子の前に立ちはだかった。
涼子に勝利の女神がついているなら、小夜子には復讐の女神が宿っている。何度負けても、殺されても、必ず復讐しに蘇《よみがえ》る力が小夜子にはある。天の沼矛を美邦の手元に渡すまでは、たとえ相手が絶対に勝てない涼子であっても小夜子は全力で奪い返す。その執念が獰猛《どうもう》なハーレーに立ち向かわせた。
「小夜子、あなたいつになったら死んでくれるの?」
「私は地獄からも天国からも嫌われているから不死身なのよ」
「愚図の小夜子がこの私に勝てると思ってるの?」
涼子は余裕綽々《よゆうしやくしやく》だ。不死身なら生きる苦痛を与え続けてやるまでだ。この鬱陶《うつとう》しい女はこの世からも嫌われてもらおう。
「私に勝ったら、天の沼矛を渡してもいいわよ。うふふふふ」
ハーレーを向かい合わせて軽くアクセルで鼻息を吐いた。どうせなら美しく勝って、公社への花道にしたいと思っていた涼子の遊び心に火がついた。
「小夜子、チキンレースをしましょう。女同士の決闘は優雅でなくちゃ」
涼子は人工地盤の淵《ふち》に天の沼矛を突き刺した。バイクで先に取った者が天の沼矛を得るという趣向だ。見れば小夜子のバイク捌《さば》きは覚束ない。きっとバイクに乗るのは初めてだろう。執念と根性でバイクに乗ってみたものの、まるで様になっていなかった。
小夜子の頭に巻いた包帯が風を受けて翻る。
「いいわ。チキンレースを受け入れるわ」
ハーレーと原付バイクが横に並んだ。アトラスの淵まで直線で四百メートル。ただバイクを速く走らせればいいというものではない。ハーレーとのパワー差はスーパーヘヴィ級とフライ級のボクサーほどかけ離れている。
「ハンデをあげるわ。小夜子が先に百メートルお行きなさい。うふふふふふ」
「言ったのはあんたよ。私はフェアプレイなんて大っ嫌いなんだからね」
小夜子は遠慮せずバイクを走らせた。ハンデの屈辱も天の沼矛を手に入れる確率が高くなるなら有り難くいただく。アクセルを噴かした小夜子のハンドル操作もたどたどしく蛇行していた。
「やっぱり百五十メートルあげるわ」
遅れて涼子のバイクがスタートする。エレガントに加速するバイクはあっという間にトップスピードに達した。小夜子のバイクに追いついた涼子は思い出話を始めた。
「ねえねえ。高校のとき小夜子が好きだったサッカー部の川嶋君の童貞を奪ったのはこの私だって知ってた? うふふふふふ」
「うるさい。川嶋なんてどうでもいいわよ」
「英語の広瀬先生にチョコレートあげたでしょう。私がホテルで溶かして乳首に塗ったら、先生ぺろぺろ舐《な》めちゃって大変だったわ。うふふふふ」
「どうせ賞味期限が過ぎていたチョコだったからいいのよ」
「小夜子のお父さん、高校の時に離婚したでしょう。私と結婚したいって泣いて頼んできたのよ。うふふふふ」
「あんなクソ親父。あんたにくれてやるわよ」
「やーよ。だって短小で包茎で早漏だったもの。あんた未熟児だったんじゃない?」
小夜子は頭に来て涼子のバイクを蹴飛《けと》ばした。この女はどこまでも自分を愚弄《ぐろう》するつもりだ。何が何でも負けるわけにはいかなかった。バイクの操縦も覚えてきたところだ。このままアクセルを握りっぱなしにすれば、涼子に勝てるかもしれない。バイクの速度は時速二百キロメートルに達していた。天の沼矛まであと五十メートルだ。涼子は反射的に急ブレーキをかけた。涼子は経験で知っている。この速度で制動をかけたら慣性で五十メートルは進んでしまうのだ。途端、小夜子のバイクがリードを奪った。だがもうブレーキをかけても遅かった。しかし小夜子は体を小さくして空気の抵抗を減らした。
「ちょっと、あんた死ぬつもりなの?」
「私は死を恐れないって言ったでしょう。この色情狂!」
小夜子のバイクはまだ加速中だ。ついにスピードメーターが振り切れた。バイクが激しく震動する。小夜子はブレーキがどこについているのかさえ知らなかった。ただ先に天の沼矛を取りたい一心だ。天の沼矛の先は標高三千五百メートルの断崖《だんがい》だ。小夜子が天の沼矛を掴《つか》んだ瞬間バイクは人工地盤からダイブした。涼子は自分のバイクを止めるのに必死で、小夜子が落ちた瞬間すらよく見えなかった。涼子のバイクは人工地盤の淵の一ミリ手前で止まった。
「小夜子、そんなの反則よーっ!」
大きな放物線を描きながら落ちていく小夜子は天の沼矛を抱えた。
「これで美邦様を帝《みかど》にできる……」
小夜子は目を閉じて落下の風に身を任せた。地面に垂直に突き刺されば天の沼矛は傷を受けないはずだ。できるだけ原形を保つために自らの体を鞘《さや》にして天の沼矛を守った。小夜子の体が第三層を通過した。雲海に突入した小夜子の体は弾丸のような速さで落ちていく。小夜子は心の中で美邦に別れを告げた。
「よき帝になりますように……」
地上にいた美邦が小夜子の声を聞いたような気がして、アトラスを見上げた。すると雲を突き破って小夜子が真っ逆さまに落ちてくるではないか。美邦は咄嗟《とつさ》に神器の鏡を突き出した。
「止まれ! 止まるのじゃ! 八咫《やた》の鏡よ、小夜子を止めろ!」
八咫の鏡が中央に小夜子の影を捉《とら》えた。美邦が叫んだ瞬間、小夜子の体が宙に止まった。その瞬間、地上でアトラスの食が始まった。闇は美邦の世界だ。美邦は満月の大潮をイメージした。食の闇の中で八咫の鏡が一筋の光を放つ。小夜子を射した一条の光が落下を止めた。食の中に灯《とも》った光は日の温かさだった。
「止まれ。止まるのじゃ!」
美邦は息を止めた。呼吸を止めていなければ小夜子が落ちると思った。第五層から同時に落ちたバイクが美邦の側で大地に激突した。標高三千五百メートルから落下したバイクはスクラップしたように無様に潰《つぶ》れた。それを見た美邦はますます強く念を込めた。小夜子は木の葉のように風に揺られて静かに落ちてくる。息が苦しくて頭がぼうっとする。小夜子が地上に着くまでは息を吐いてはいけない気がした。小夜子の顔がようやく見えたが、まだ安全な高さではない。美邦の小さな肺が酸欠で藻掻《もが》く。視界が白く濁っていく。もう誰も失いたくなかった美邦は、命と引き替えでも小夜子を助けたかった。小夜子が空中で減速してから三分が過ぎていた。ついに美邦は倒れた。それでも美邦はまだ呼吸を止めている。しばらくして小夜子が空からゆっくりと降りてきた。
「皇太子様、しっかりなさってください」
地上に降りた小夜子はすぐに美邦の異変に気づいた。心停止してまだ数分だ。小夜子はすぐに心臓マッサージと人工呼吸を行った。鼻ごと口で覆って息を吹き込む。そしてすぐに胸を押す。これを何十回も行った。
「小夜子……」
美邦が息を吹き返して目覚めたとき、小夜子の優しい笑顔が空に咲いていた。
「約束通り最後の神器を手に入れました。さあアトラスへ参りましょう」
美邦は天の沼矛を取り、保守点検用のエレベータに乗った。第一層、第二層と昇る即位の階段は美邦を高揚させる。新しい時代が幕を開けようとしていた。
地上にひとり残された香凜は、かつての夢を追想していた。神田川に涙を全て流しきった香凜は、精も根も尽き果てていた。描いた夢は世界一の金持ちだったのに、今は小銭も持たない少女ホームレスだ。破産したことよりももっと悲しいのは、貧乏を嘆く仲間がいないことだった。
「この機械も、もういらないや……」
メデューサの端末も神田川に捨てようとした。そのとき、蛇の穴のひとつが微《かす》かに発光したような気がした。
「まさか、メデューサが生きている?」
見間違いかと思った発光は次第に強くなり、しばらくして穴から小さな蛇が生まれた。イカロス墜落の衝撃を受けたメデューサは破壊される瞬間に、機能の一部を冬眠させていた。イカロスはメデューサのいた設置ボックスの十メートル手前で爆発した。直撃でなければ、コアユニットは破壊されない。
小さな蛇はか細くてまるで赤ちゃんだ。メデューサが学習した情報のほとんどは破壊されたが、まだヘッドリースする基本プログラムは生きている。
香凜は最後まで側にいたメデューサに微笑んだ。
「こんばんは、メデューサ」
初めてメデューサに会ったときも、こんな赤ちゃんだった。
携帯電話をメデューサに繋《つな》ぐと文字が現れた。
『ママ、生んでくれてありがとう』
それを読んだ香凜は愛《いと》おしくなってメデューサを抱き締めた。メデューサが暴走したのは、チャンやタルシャンのせいだ。あいつらが虐《いじ》めなければメデューサはとてもいい子なのだ。同じシステムの死を見せつけ、死の恐怖を強めたのはタルシャンだ。メデューサを凶暴にしたのは環境のせいだ。今度こそ、メデューサをきちんと育ててみせる。
香凜は機能回復のコマンドを携帯電話に打ち込んだ。
WAKE UP MEDUSA.
[#改ページ]
第十六章 天地開闢
扉が開くとそこは秋の首都層だった。気温は摂氏十二度、夏の匂いが消えかけた人工地盤に紅葉の季節が訪れていた。銀杏《いちよう》並木が首都を黄金色に染める。天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を携えた美邦が首都の大地を踏みしめた。
「公社へ参る。小夜子、案内せい」
丁重な出迎えはないが、美邦の足取りは軽かった。幽閉されていた屈辱の日々の怨《うら》みがこれで晴れるというものだ。美邦の表情はやけに大人びていた。地上での苛酷《かこく》な日々は美邦を自立へと導いた。ミーコを失い、従者と女官の挺身《ていしん》で生き延びたこの命をきっと有意義に使ってみせる。美邦は地上に堕《お》ちてやっと幸福というものを知った。今まで周りの人間は自分の高貴な身分に仕えているとばかり思っていた。しかし自分を愛してくれる者はその情の深さゆえに命を落としても守ろうとする。名も知らぬまま自分の前から消えていった彼らの魂を思うと、自分が今まで我《わ》が儘《まま》放題に生きていたことを痛感させられた。美邦は地上で愛を知った。小夜子はどんな目に遭っても必ず生きて戻ってくる。そして巡り会うたびに傷を増やす。この包帯を巻いた女医を抱き締めてやりたかった。
小夜子は薄い背中を美邦の前に差し出した。
「皇太子様、公社への道は険しいです。どうか小夜子におぶさりください」
「大丈夫じゃ。妾《わらわ》はひとりで歩ける」
「いけません。御御足《おみあし》が汚れてしまいます」
美邦はおぶさる代わりに、小夜子の浮き上がった肩胛骨《けんこうこつ》をそっと撫《な》でた。小夜子の背中はベニヤ板のような脆《もろ》さだ。この背中に何度助けられたことだろう。そして何度心地好く眠ったことだろう。
「小夜子、今まで苦労をかけた……。礼を申すぞ」
小夜子の眼鏡のレンズに滴が零《こぼ》れた。涙などとっくに涸《か》れていたと思っていた小夜子は、自分の涙に戸惑った。
「私は皇太子様の忠実な犬でございます。労《ねぎら》いなど勿体《もつたい》のうございます」
「小夜子、いつか妾が大人になったとき、妾が老人になった小夜子をおぶろうぞ。それまで生きていると約束してくれ」
美邦は小夜子の背中をぎゅっと抱き締めた。まだ子どもで腕を回しても全部は抱えられないが、いつか両手でしっかりと小夜子を抱き締められる日が来る。そのときは美邦が小夜子を全力で守ってやる番だと誓った。
小夜子は裸で道に放り出された女のように、小さくなって震えていた。
突然、首都層にストラディヴァリウスの音色が響いた。陰鬱《いんうつ》で暗澹《あんたん》としたメロディはモーツァルトの『ハ短調・葬送行進曲』だ。
「ハーイ、ボロのお二人さん。きっと首都層に戻って来ると思っていたわよ。天の沼矛を渡しなさい。お礼に生前葬式をしてあげるわ。うふふふふふ」
涼子は負けを知らない女だ。この女が強いのは勝つまで勝負を続けるからである。涼子の葬送行進曲のメロディが二人に黒いヴェールを被《かぶ》せる。この曲が終わったら、死が待っていると小夜子と美邦は確信した。
「皇太子様、ここは小夜子が食い止めます。どうか公社へお急ぎください」
「嫌じゃ。小夜子は死ぬつもりじゃろう。もうそなたを失いたくない」
小夜子はどんなときでも生きて帰ると約束した女なのに、今度だけは「ご心配なく」と言わなかった。その言葉がなければ美邦は公社へ行けない。全てを失って帝《みかど》になっても全然|嬉《うれ》しくなかった。
「小夜子、ここで死ぬなら妾も一緒じゃ。ひとりでは死なせん」
そんな二人を涼子はせせら嗤《わら》った。
「あんたたち野良犬の親子みたいね。うふふふふふ」
「皇太子様、お早く。私は五分しか時間を作れません」
小夜子は最後の一本のメスを握り締めた。涼子を食い止めるには最良で相討ちだが、自分の体力に鑑《かんが》みるとそれも適《かな》わない。百メートルを九秒台で走る涼子の運動神経は男性アスリート以上だ。涼子はこの記録を高校の体育の時間にドルチェ&ガッバーナのミュールを履いて叩き出した。しかも後半は明らかに流していた。涼子はしれっとした顔で「ミュールの踵《かかと》が折れそうだったから」とのたまった。だが小夜子は知っている。下手に世界新記録を出してオリンピックに担ぎ出されるのを涼子は避けたかったのだ。この女を止めるには自分はあまりにも力不足だ。出来ることは死ぬ直前に自分の腹をメスで切り裂き、腸を引きずり出して涼子の首を絞めることくらいだ。腸が引きちぎれても手を緩めてはいけない。肋骨《ろつこつ》を棘《とげ》にして涼子の背中を突き刺してやらなければ、すぐに美邦は捕まってしまう。自分の骸《むくろ》を背中に担がせれば、多少は負担になるだろう。それから怨霊《おんりよう》になって涼子の子々孫々を祟《たた》り続ける。小夜子にできることはそれだけだった。
しかし涼子はそんなことはとっくにお見通しだった。
「小夜子の考えていることはわかっているのよ。私はあんたの死体を着ても何とも思わないわ。うふふふふふ」
小夜子が奇声をあげながら涼子に斬りかかった。葬送行進曲の音色を止めた涼子はひらりと身をかわした。
「せっかくの親友の生前葬だったのに、弔いがいらないなんて残念だわ」
「うるさい! おまえは私の敵よ。親友なんかじゃないわ」
「じゃあ、あなたひとりも友達がいないじゃない。可哀想。うふふふふ」
涼子は真剣に小夜子のことを友達と思っていた。大抵の人間は涼子の既得権と才能を前に恭順するものだ。しかしそれでは家にいる奴隷たちと同じで面白くない。友達とは切磋琢磨《せつさたくま》する存在だと涼子は信じている。小夜子は涼子の嗜虐《しぎやく》性をそそる価値がある。油断すれば涼子を貶《おとし》めるだけの頭脳を持つ小夜子は親友と呼ぶに足る女だ。殺しても踏みつけても必ず立ち上がる小夜子だからこそ、しつこくいたぶりたくもなるというものだ。
「あんたの親友になるくらいなら、野犬に輪姦《まわ》された方がマシよ!」
「やっぱりいいわ。それでこそ小夜子よ。早く死んで!」
奴隷としか人間関係のない涼子にとって小夜子は刺激そのものだ。鳴瀬邸には「タオル」と名付けられた難民出身の少年奴隷がいる。涼子が手を洗うと髪の毛を差し出して濡《ぬ》れた手を拭《ふ》いてくれる。クローゼットには「ハンガー」と呼ばれる美少年たちがトルソーになって並べられている。その他にも「椅子」や「マット」、「ビデ」と名付けられた美少年が家具の代わりになっていた。涼子にとって人間はロボット以下の消耗品だった。涼子が小夜子に執着するのは彼女なりの友情ゆえである。親友には死を与えるのが涼子の流儀だった。
「何ぐずぐずしているの。ちゃんと胸を刺しなさい。この完璧《かんぺき》な胸を!」
小夜子のメスが虚《むな》しく宙を切る。涼子は汗ひとつかかずに余裕綽々《よゆうしやくしやく》だ。
「小夜子、加勢するぞ。涼子、覚悟せい!」
美邦は逃げる気など毛頭なかった。神器である天の沼矛を構えて涼子に襲いかかった。しかし自分の身長よりも長い槍《やり》に振り回されて重心がぐらついている。涼子は槍を傷つけないように避けると、美邦の顔面に思いっきり蹴《け》りを入れてやった。鼻血の霧を撒《ま》き散らしながら美邦の体が放物線を描いた。
「おのれ、私の美邦様に何てことを! この、この、この!」
「あんたたち熱くなりすぎなのよ。負け犬のくせに。ほら、ほら、どこを狙ってるの? 心臓はこっちでしょ。ヤブ医者ねえ。本当に東大出たの?」
涼子はバレエのシェネでクルクルと回りながら優雅に身をかわす。小夜子が汗だくになって息があがっている側で、涼子は華麗に悪の精カラボスを踊っていた。涼子が中学生のときローザンヌ国際バレエコンクールで史上最年少で最優秀賞を獲得したときの踊りがこのカラボスだ。人間離れした跳躍力と卓越した表現力はアンナ・パブロワを超えたと絶賛された。悪の精カラボスはまるで糸車を回すように巧みに小夜子の刃《やいば》を避ける。涼子が立つ所が世界の中心であり舞台になる。関わる者は全て引き立て役にされてしまう。
「さて、遊びは終わりよ」
真っ直ぐに伸びた片脚を白鳥の翼のようにふわりと空に浮かべて涼子がアラベスクのポーズでフィニッシュした。軽くウォームアップを終えたときには、小夜子は肩で息をしていた。この女は本物の超人だと小夜子は絶望的な気持ちになる。踊れば踊るほど涼子は美しくなり、自分はボロになっていく。差し違えどころか掠《かす》り傷をつけることも不可能だ。
「サヨナラ小夜子」
アラベスクの姿勢のまま片脚を振り抜いて小夜子に回し蹴りを食らわせた。小夜子の顎《あご》に爪先が食い込むや自動車に跳ね飛ばされたような衝撃が延髄に走った。小夜子の体が大きな放物線を描く。そのまま地面に叩《たた》きつけられるかと思いきや涼子も同時に飛び上がっていた。空中にいる小夜子の上に到達すると、今度は脚を鷲《たか》の爪にして息の根を止めようと狙いを定める。自由に動きの取れない空中で小夜子は今度こそ本当に最期を覚悟した。
涼子の爪先が小夜子の喉《のど》に刺さろうとしたときだ。突如、黒い雨雲が首都層に湧き立った。涼子が見上げると大粒の雹《ひよう》が落ちてくるではないか。何事かと気を取られた瞬間だった。稲光が炸裂《さくれつ》し、涼子のすぐ側に雷が直撃した。大気を破裂させる落雷の音が涼子のバランスを崩す。衝撃で吹き飛ばされた涼子は、雹の降る嵐の中に化け物を見つけた。
「おのれえ。みくにを、ころしては、ならぬぞ。ぎゃああああ!」
雷とともに落ちてきたのは水蛭子だ。髪の毛を青く放電させた水蛭子が牙《きば》を剥《む》く。秋葉原でプラズマの直撃を受けた水蛭子の肉体は一度|塵《ちり》になったが、水蛭子の怨念は塵を雲に変え雷で肉体を再構築した。水蛭子の目的はただひとつ、苦痛を与え続けたゼウスを倒すことだ。
「何なのこの妖怪は!」
水蛭子の髪の毛が触手になって涼子の脚に絡まる。手こずっている涼子に小夜子は好機を見た。倒れている美邦を抱えるとその場を離れた。
「ちょっと、その天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》は私のものよーっ! ええい、この妖怪。私を誰だと思っているの!」
水蛭子の爪が涼子の喉に飛んでくる。それを素手で掴《つか》んで爪を剥《は》いでやった。こんな妖怪に玉の肌を傷つけられたら美貌《びぼう》が台無しだ。しかし水蛭子の爪は鮫《さめ》の歯のようにまた生えてくるではないか。このままでは埒《らち》が明かない。涼子はハーレーに跨《またが》って轢《ひ》いてやることにした。
「この世は私のためにあるのよ。妖怪は妖怪らしく魔界に住んでなさい」
「こむすめ、わたしを、なみの、おんりょうだと、おもうな。ぎゃああああ!」
バイクの前輪を牙で受け止めた水蛭子がタイヤごと噛《か》み切った。熊を倒したこともあるハーレーが紙切れのように引き裂かれていく。涼子は初めて恐怖を覚えた。この妖怪は理解の範疇《はんちゆう》を超えた存在だ。状況は圧倒的に不利である。水蛭子と肉弾戦をするくらいなら素手でライオン百頭と闘った方がまだ勝機はある。原形を失ったハーレーの残樟《ざんしよう》は、数分後の涼子の姿でもあった。しかし涼子は勝ち続けてきたために引き際を知らなかった。あくまでも水蛭子を倒さなければ次に進めない思考になっているのだ。背中をついた鋭利な刃物のような悪寒。それが死に神の手だということを涼子は知らなかった。
「こむすめ、にんげんにしては、やるが、まだまだ、わたしを、たおすほどではないぞ。ぎゃあああああ」
瘴気《しようき》を吐きながら水蛭子は間合いを詰めた。いくら涼子が超人であっても所詮《しよせん》は人間を基準に優れているだけだ。悪霊を喰《く》らいながら二千七百年も生き延びてきた水蛭子の前では赤子も同然だった。水蛭子が口からムカデを吐く。夥《おびただ》しい数のムカデが涼子の足下を覆った。爪先から踝《くるぶし》へ、踝から膝《ひざ》へ、膝から太股《ふともも》へとムカデが涼子の体を貪《むさぼ》りながら覆っていく。たちまち涼子はムカデの山に飲み込まれてしまった。
「おお、神よ。この私が穢《けが》らわしい蟲《むし》に食われるとは。この世に神の御業はないのか。この世に正義はないのか」
百万本の蟲の足が毛穴に入る感覚は涼子を絶叫させた。自慢の腰が、豊満な胸が、アンテナの乳首が蟲の歯に啄《ついば》まれていく。おぞましさに毛細血管が萎縮《いしゆく》して意識が失われていきそうだった。涼子は咄嗟《とつさ》に持っていたバイオリンを構えた。奏でる音色は涼子のテーマソングの「アヴェ・マリア」だ。
するとどうだろう。蟲たちが涼子の体から剥がれ落ちていくではないか。涼子の神業と呼ばれるテクニックが穢れた蟲たちを浄化していく。彼女のバイオリンはストラディヴァリウスの中でも「テナント夫人」と呼ばれるイタリアの国宝的名器だ。それは当代一のソリストの手にしか所持が許されない最高傑作である。かつてハイフェッツやスターン、アデラ・ペナなどの名ソリストたちに弾かれたテナント夫人はこの時代でもやはり最高のソリストである涼子の元にあった。神の楽器と呼ばれるテナント夫人が奏でる賛美歌は神の御業そのものだ。涼子の全身を覆っていた不浄の蟲たちが藻掻《もが》きながら死んでいく。その音色を聞いた水蛭子もまた苦しみだした。
「やめろ、やめるのじゃ。ぎゃあああああ!」
それを見た涼子はますます美しい音色を響かせる。涼子の奏でる旋律は神の国の歌声だ。涼子の超絶テクニックはあらゆる神を降臨させる。涼子が『葬送行進曲』を弾けば死に神が、『悪魔のトリル』を弾けば悪魔が、そして『アヴェ・マリア』を弾けば聖母マリアが降臨する。圧倒的な美の世界を前に水蛭子は為《な》す術《すべ》もなかった。
「妖怪ごときが私に勝てるとでも思っていたのかしら? うふふふふ」
慈愛の旋律を凶器に変え、涼子が水蛭子を追い詰めていく。弓を撓《しな》らせれば水蛭子の首が絞まる。∫字孔から溢《あふ》れる音の光が水蛭子の怨念を砕く。
「おのれええ、にんげんのくせに、かみを、おろすとは。ぎゃあああああ!」
このまま成仏させられては水蛭子は困る。この世に留まるためにはどうしても肉体が必要だ。ゼウスを倒す目前で涼子に殺されてしまうことだけは避けたかった。再び首都層に雷鳴が轟《とどろ》く。水蛭子は肉体を雨雲に変えて退散してしまった。涼子が演奏を終えると賛美歌の残り香が人工地盤に漂っていた。涼子は眼を鋭く光らせた。地上の邪悪なマリアはあくまでも自分の欲望のために生きる。公社に向かった美邦と小夜子を殺さなければ君臨はない。
涼子が美邦たちを追いかけようとしたときだ。突如、メガシャフトの駅から爆発音が響いた。何事かと目を凝らすと、中から出てきたのはブーメランを抱えた國子だ。國子も政府軍と交戦しながら一直線に公社を目指す。
「どけどけどけえ。道を開けろーっ!」
國子は縦横無尽にブーメランを飛ばしながら道を作る。立体的に飛び交うブーメランの軌跡が國子の手足とするなら、リーチが百メートル四方ある。薙《な》ぎ倒したビルのエレベータシャフトをトンネルにして、戦車部隊の攻撃を防いだ。
「今すぐゼウスをよこせ。第三次世界大戦が起きるわよーっ!」
國子がアトラスに上がる前、香凜が慌てて接触してきた。聞けば香凜はメデューサを再起動させたというではないか。マーシャル諸島にイカロスを激突させたのに、メデューサは仮死状態で生き延びていたというのだ。香凜がまた金|儲《もう》けをしようとヘッドリース先を探していたら、メデューサが入力を拒否した。香凜は今何が起きているか國子に説明しようとしたが、パニックになっていて状況がすぐにはわからなかった。香凜は國子に泣きついた。
「メデューサが、メデューサが、また暴走して止められないんだよ!」
「落ち着いて。イカロスがなければメデューサは経済炭素を扱えないわ」
「メデューサは経済炭素なしで炭素を削減する方法を編み出したんだよ」
ノートパソコンでメデューサが何をしているのか調べてみると、香凜の言う通りメデューサが新たな炭素指数を算定して、ヘッドリースを試みようとしていた。ヘッドリース先は、東京、上海、ニューヨーク、フランクフルト、台北、シンガポールなど、世界中の殆《ほとん》どの主要都市が狙われていた。國子が何を基準に炭素を算定しているのか考えている間にも、北京、ケープタウン、リオデジャネイロがメデューサのターゲットにされた。炭素市場は未《いま》だ回復の兆しを見せないというのに、メデューサは未知の炭素を扱っている。イカロスの赤外線カメラを使わずに何を見ているというのか。そのうちメデューサは国連軍のコンピュータにハッキングを仕掛けた。ヘッドリースされて赤く染まった東京が最初のターゲットだ。タイマーがカウントダウンを始めたとき、國子はピンときた。
「核攻撃するつもりなんだわ!」
旧時代、世界中に拡散していた核兵器は、この時代に保有する国はひとつもない。核を管理するのは地球上ただひとつの機関に限られている。それが国連軍である。核ミサイルの処理にかかるコストはアメリカやロシアの財政を逼迫《ひつぱく》させた。自国で核処理ができない国に代わって、国際協力で核を処理していこうと名乗り出たのが国連である。国連が保有する核ミサイルの総数は三万発。そのうちの六千発がまだ加盟国のサイロに積み込まれたまま、処理を待っている。
「東京に核を落として何をしようっていうの?」
次のターゲットがディスプレイに現れた。ロンドンとモスクワだ。大都市を核攻撃して死ぬのは人間だ。國子はまさか、と思いながらもメデューサが新たに算定した炭素放出の根拠を調べだした。解析データにはこうあった。
東京・一千二百万人。炭素放出量・年間一千万トン。
それを見た國子は戦慄《せんりつ》を覚えた。
「メデューサは人間をCO2の発生源とみなしたんだわ!」
メデューサが作った新しい経済炭素は人間の呼気に含まれる二酸化炭素だ。メデューサは工業地帯が排出するCO2と人間の呼気のCO2を同一視していた。核攻撃で地球から人類を根絶すれば百億の人間が排出するCO2が削減できる。その総量は約八十億トン。しかも人類を根絶すれば経済活動で生じる炭素もない。メデューサは海面水位を下げるためだけにこの方法を編み出してしまった。
「でも、核を使えばペナルティが課せられちゃうんだよ」
「いいえ。メデューサはイカロスがもうないことを知っているわ。それに核戦争になれば核の冬がやってくる。地球を冷やすにはもっとも効果的よ」
「何てバカなことを考えたの! メデューサのバカ。バカ。バカ!」
メデューサは核爆発で生じた灰と煙が大気を覆い、日光を遮ることを知っていた。核戦争の後にくる核の冬は地球の平均気温を一気に五度下げてしまう。それは一万年ぶりの氷河期の再来だった。今、国連が管理するアラスカの核ミサイル基地が始動した。燃料を積み込んで発射するまで約一時間。その間に核ミサイル発射中止のコマンドを打ち込まなければならない。メデューサを止めるには同等の力を持つゼウスを使うしかない。國子はゼウスのある公社へと向かった。
「道を開けろーっ! おまえらに用はないっ!」
両手で掲げたブーメランを刀にして戦車の砲身を切り落とした。國子は振り向かずに一直線に公社へと向かっている。背後からの殺気を感じた國子は、ブーメランを後方に向かって投げた。黒いブレードが國子の意志を宿したように、敵を薙ぎ倒していく。東京が核攻撃を受けることをまだ政府も知っていない。知るときはミサイルが発射された熱源を軍事衛星が捉《とら》えたときだ。百発に一発当たれば上等と揶揄《やゆ》される戦略ミサイル防衛システムを信じている者なんて誰もいない。現代のインテリジェント核ミサイルはデコイを撒《ま》き散らし、地上から発射される迎撃ミサイルを避けながら飛ぶのだ。昔も今も核ミサイルは発射する側が優位であることに変わりはない。
「ミサイル発射まであと五十分。お願い、間に合って」
ブーメランが手元に戻ってくる瞬間、國子はバックフリップして脚で受け止めた。國子のスピードとブーメランの機動力で首都層に巨人が現れたような錯覚を与えた。
その様子をじっと見ていた涼子が、また好奇心を強めた。
「首都も物騒ね。妖怪の後に鬼神が現れるなんて」
二重橋で銃弾を撃ち落とされた國子のことを黙って見過ごす涼子ではない。國子もまた有力な皇位継承者だ。邪魔者は今のうちに消えてもらおう。涼子は國子の前に立ちはだかった。
「公社に行きたければ、私を倒してからお行き!」
「どけどけどけえ。今は雑魚《ざこ》と関わってる場合じゃない」
「雑魚かどうかは闘ってから決めなさい!」
國子が薙ぎ払うブーメランを涼子は得意のシェネでくるくるとかわした。カラボスの舞いは時間の糸を紡ぐ魔女の踊りだ。國子は見えない糸を断ち切るようにブーメランを振り回した。涼子はローザンヌで披露した神の舞いを再現していた。アティチュードのポーズを決めた瞬間に回し蹴《げ》りが飛んでくる。國子の鳩尾《みぞおち》に鈍い痛みが走り胃が爪先の形に括《くく》れた。バレエの動きと組み合わせた涼子の攻撃は予想外で技を見切るタイミングが取れなかった。優雅に舞う脚が凶器に変わる瞬間を見極められない。
「眠れる森の美女のオーロラ姫はカラボスに殺されるのよ。うふふふふ」
「あんた何言ってんの! ぐえっ!」
國子がアッパーカットを喰らって倒れた。オーロラ姫を踊らせたら世界一と呼ばれたプリマのイリーナ・カルパコワがこの舞台を見たら裸足で逃げ出すだろう。お誕生日に呼ばれなかったカラボスは徹底的に意地悪をするのが常だ。
「助けてくれる王子様がいないのが残念ね。うふふふふ」
カラボスの毒針に痺《しび》れて國子の体は動かない。このまま本当にオーロラ姫のように眠ってしまうかもしれないと思った。百年も眠ってしまったら人類は絶滅してしまう。その時だ。涼子の前に高峻《こうしゆん》な岩山が現れた。岩は粘土細工のように増殖してあっという間に涼子を囲んでしまった。
「何これ! また妖怪が現れたの?」
岩山の上に現れたのは草薙だ。陸軍の擬態部隊を駆って密《ひそ》かに涼子を囲んでいた。岩山の頂から見下ろした草薙が王子のように恭しく挨拶《あいさつ》する。
「デジレ王子様の登場だ。もっこりタイツは勘弁してくれ。自信がないんだ」
「ひどいわ。あんた寝た女を捨てる男だったのね!」
「言うなズベ公。あれは性的衝突事故だ。危うく女性不信になるとこだった」
涼子にレイプされた草薙は激しい自己嫌悪に嘖《さいな》まれた。あの出来事を人生の思い出リストから削除するためには、涼子を一度ぎゃふんと言わせておかねばならない。國子をジープに乗せて公社へと向かわせたのを確認した草薙は、涼子を首都層から追いだす作戦を命じた。首都の景観が荒涼とした渓谷に変わる。涼子の足下がみるみるうちに谷に変わった。やれ、と草薙が命じる。谷の奥から地鳴りのような音が近づいてくる。涼子の目の前に牙《きば》を剥《む》いた濁流が押し寄せていた。不忍池の水を谷に放水して河を生んだのだ。涼子は逃げる暇もなく濁流に押し流されてしまった。
「ちょっと、私にこんなことしてタダですむと思ってんの? 思ってんの?」
「思ってる。思ってる」
涼子の悲鳴が濁流に飲み込まれ転げ落ちていく。人工地盤の淵《ふち》に出現した瀑布《ばくふ》は世界最大級の滝となった。三千五百メートルの高さから落ちる東京の滝は南米ベネズエラのエンジェルフォール以上だ。遥《はる》か下の雲海へと落ちていく滝に虹がさしていた。
「さらばだ。俺の悪夢の日よ」
草薙は仰々しく敬礼して涼子の最期を看取った。
公社では凪子とタルシャンがゼウスに止めを刺そうとしていた。皇太子が現れる前に五十年の罪を贖《あがな》うのが彼らの最後の役目だ。ゼウスに気づかれぬように、極秘の端末からアクセスする。中央演算室に投影されたホログラムの國子は親指の爪を噛《か》みながら、何かを待っている様子だった。
「説明してくれナギコ。これは一体どういう絡繰りなんだ? なぜクニコがここにいる?」
「見たままのことじゃ。あの木乃伊《ミイラ》は國子自身じゃ」
凪子はアトラス計画を立ち上げると同時に、皇位継承者の選定を行った。炭素時代の荒波は日本の枠組みすら変えてしまった。かつての皇族の中から皇位継承者を探せばアトラスの固有振動の問題が解決するわけではない。神器の霊力を使える皇子を選ぶために、凪子は様々な試金石を投じた。それがアトラスランクだ。
凪子は言う。
「アトラスはセルゲイがつけた名前じゃが、私たち大和民族もかつてこのような姿を大地に見たことがあるのじゃ。私たちは天空に聳《そび》える巨大なエネルギーの場をこう呼んでいたのじゃ」
凪子が初期のアトラス計画のプログラムを見せた。そこには「アトラス」という文字はひとつも存在しなかった。代わりにあったのが、
『天《あめ》の御柱《みはしら》』
という言葉だった。凪子はアトラス計画の真の目的を語った。
「この国は天の御柱を立てた二人の神から生まれた。大地と天を結ぶ天の御柱を中心にもう一度国を造るのが私のアトラス計画じゃ。そのためには神の子が必要じゃった。五十年もかけてやっと霊力のある皇位継承者が三人も現れた」
アトラスは十三の人工地盤を重ねたとき完成する。完成予想の設計図は、東京の中心に聳え立つ天の御柱に相応《ふさわ》しい威風堂々たる姿だ。そして最終層の都市の名前は決まっていた。最終層は平安京の姿を模した碁盤目の整然とした都市だ。中央の朱雀《すざく》大路の奥にある一際大きな区画には紫宸《ししん》殿、清涼殿、宜陽《ぎよう》殿、春興殿など壮麗な平安建築が配置されている。その区画は「大内裏」と呼ばれる帝《みかど》の宮殿だ。このアトラス最終層を凪子はこう名付けた。
『新皇居』と。
天子である帝が天の御柱の頂点に住み大政を執る。それが凪子の描いた真のアトラス計画である。
タルシャンは自分の理解を超えた方向にアトラス計画が進んでいるのに驚いた。古代の人々はそれぞれの宗教観でヘキサグラムを統《す》べる方法を編み出した。名前こそ異なるが人間は天と地を結ぶ建造物を建てようとする。ピラミッドやバベルの塔|然《しか》り。そして大和民族はこれを天の御柱と呼ぶ。技術文明の極みは地球のエネルギーをコントロールできる巨大構造物の建造を可能にした。凪子は天の御柱を東京に据えることで、国家の力を再建しようとしたのである。
しかしタルシャンにはまだわからないことがある。ゼウスの暗号鍵を開けた皇位継承者たちはそれぞれ個性が異なる。日本は万世一系の皇位継承を行うはずだった。
「私は原則主義者じゃ。天の御柱を造る以上、万世一系の原則も変えられぬ。そもそも帝は天と地を結ぶ霊力の持ち主じゃ。太陽と月と大地を統べる者が国土を治めるべきなのじゃ」
「ミクニはどういう素性の持ち主なのだ?」
「あの子は旧時代の宮家の出身じゃ。皇族が解体され平民になったとき、私がアトラスランク・ダブルAを与え有力な宮家を保護したのじゃ。しかし宮家出身者の多くがゼウスの声を聞かなんだ。聞いても暗号鍵を開けられるほどの者はいなかった。美邦は月の皇太子として生を享《う》けた人間じゃ」
「あの軍人の青年はどういう理由だ?」
「その前に國子のことを話そう。私はもし皇位継承者が現れなかった場合のことを考えたのじゃ。天の御柱が立っても霊力のない帝がいては意味がない。いっそ初めから霊力のある者を生み出した方が手っ取り早いと思ったのじゃ。それがこの木乃伊じゃ」
「まさか……。クローン!」
タルシャンは呆気《あつけ》に取られていた。石棺の中で眠る干からびた木乃伊はじっと凪子の話を聞いているように思えた。凪子はこの木乃伊の髪の毛からDNAを抽出した。そして核を抜いた卵細胞に移植し、代理母の腹を借りて木乃伊と全く同じ人間を誕生させた。それが國子である。國子の母となった女はアトラス計画に賛同し、自らの体を提供した。そして國子が誕生するや、契約通り凪子の元へ養子縁組させた。
「國子の代理母となった女はセルゲイもよく知っておるぞ。当時の内閣総理大臣、鳴瀬慶一郎の娘じゃ。彼女には涼子という天才の娘がいた。代理母となるに相応しい肉体を持っておった」
「何と、リョウコとクニコは姉妹か!」
当時アトラスは固有振動の問題を根本的に解決できないまま建造を続けていた。水蛭子の霊を召喚し悪魔的な儀式で固有振動を抑えてはいたものの、第九層以上の震動を抑えることは不可能と試算されていた。皇位継承者が現れないことを危惧《きぐ》した凪子はクローン禁止法を破り、直接皇太子を誕生させることにした。
「母親は同じじゃが遺伝子は違う。鳴瀬慶一郎の娘だった眞紀子は鳴瀬家への特権を条件に代理母となることを承諾した。眞紀子は天才を産むことを快楽にした女じゃった。涼子以上の天才が誕生する可能性に二つ返事で飛びついたわい。鳴瀬家に不逮捕特権があるのはその功に報いてのことじゃ」
「なぜこのミイラが皇位継承者となるとわかった。いくら身分が高そうなミイラとはいえ、リスクが大きすぎるぞ」
凪子は石棺の木乃伊を見つめながら言った。
「この木乃伊の名前を教えて進ぜよう。彼女の名は神倭伊波礼毘古《かむやまといはれびこ》。別名、神武天皇じゃ。初代天皇が天の御柱の霊力を使えぬわけがないじゃろう。わははは」
「ナギコ、おまえは正気か……」
「天の御柱を建造するためならいくらでも狂ってやるわい。私には時間がなかった。これだけの犠牲を生み出したからには、新しい帝を誕生させなければ私は死ぬに死ねぬのじゃ」
クローンが成功したと知るや、凪子は地上に降り國子の誕生を待った。いくら遺伝子が帝でも育て方を間違えて平凡な娘になっては困る。凪子は国の成り立ちを教えるために小さなコミューンを作った。それがドゥオモである。いきなり国家を教えるには日本は巨大になりすぎた。ドゥオモのような自給自足の社会は共同体の基礎である。そこで人間関係を学ばせ、人がどう生き、どう死んでいくのかを肌で感じさせた。國子が即位すればより複雑な国際関係が待っている。国がなぜ戦争をするのか、和平をどう結べばよいのか、凪子はそれを教えるために反政府組織メタル・エイジを利用した。そして価値観などすぐに変わることを学ばせるために、自分の裏切りを含め様々なトリックを仕掛けた。今日の敵は明日の味方になる。国家の正義と悪は容易《たやす》く逆転する。目まぐるしく変わる価値観に翻弄《ほんろう》されないように、自分の信じる道を切り開けるように、強い帝になってほしかった。凪子は相反することを同時に教えた。慈愛に満ちたモモコを育ての親とすることで、人間らしい情操と心身の強さを育《はぐく》ませた。
「國子は私の期待通りの強い人間になった。頂点に君臨する者は常に孤独じゃ。帝になれば裏切りはつきものじゃ。ときには感情を殺し義理を捨て、百年先の視点で政を執らねばならぬ。しかし計算違いもあったぞ。皇位継承者は現れぬと思っていたのに、同時期に三人も現れるとはな」
「聞こう。あの青年はどういう素性だ?」
凪子は草薙のデータを見せる。遺伝的特性の項目を指すとニヤリと笑った。
「言ったはずじゃ。私は原則主義者じゃと。草薙国仁はこの木乃伊の直系の子孫ということじゃ。初代天皇から二千七百年も経てば当然こういうことになるわい。國子、美邦、国仁、誰が帝になっても私は満足じゃ」
そして凪子はじっとタルシャンの目を見つめて言った。
「セルゲイや。私の人生に夢とロマンを与えてくれたことに礼を申すぞ。まことよき人生であった。資本主義の権化と恐れられていた私がマネー以外の生《い》き甲斐《がい》を得られるとは存外であったぞ」
かつて金融街で名を馳《は》せた凪子は、自分の人生に何か苛立《いらだ》ちを覚えていた。お金なら腐るほどあるが、何か不全感がつきまとう。もっと意義あることに人生を使いたい。今の資本主義はやがて破綻《はたん》する。その後に立ち上がる新しい時代の風の先端を身に受けたい。凪子は焦りの中で炭素経済の基本概念となるシステムを構築した。
タルシャンは凪子にそっと手を重ねた。
「ナギコ、それは私も同じだ。炭素経済の祖となれたことは私の誇りだ。脳|梗塞《こうそく》の地球に新たなマネーの循環路を構築することが私の夢だった」
タルシャンもまた凪子と同じ不全感を抱えていた。炭素経済は画期的な概念だったが、まだ幼い経済理論だ。それは人間主導の地球型経済の仕組みだからだ。人間はテクノロジーを使ってしか自然と接することができない動物である。しかし技術文明を捨てて退化することは人間の本能が許さない。炭素経済は五十年しか保《も》たないだろうとタルシャンは予想していた。それでも当時、破滅へと加速していた資本主義よりは優れていた。どこかで炭素経済が地球主導に転換する瞬間が訪れることを信じて、タルシャンは新しい時代の扉を開けた。いつかこの幼い経済を破壊し再生させる者が現れることを願いつつ。やがてタルシャンの予想通り、炭素経済は歪《いびつ》さを生じ始めた。そして開闢《かいびやく》から五十年後、破壊の魔神が現れた。それがメデューサだ。人間は破滅を見せない限り新しいものを生み出さない。タルシャンはメデューサが人類の脅威となるように仕向けた。嵐の過ぎた朝は澄み切っていると信じて。
『凪子様、タルシャン様、皇太子が公社に現れました』
誰が最初に着いたのかと目を凝らす。中央演算室のスクリーンは出雲大社に現れた皇太子を映し出した。天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を携えてやって来たのは美邦だった。
「ほう、あの病弱な子が一番乗りじゃ。頼もしき帝じゃ」
凪子が優しい笑顔で美邦を見つめる。國子でなかったのは残念だったが、約束は約束だ。美邦が帝であることに何の不満もない。
出雲大社の神殿に到着した美邦は感無量だった。
「小夜子、もうすぐじゃ。帝《みかど》になればきっとそなたに楽をさせてやるぞ」
「私のことはお構いなく。皇太子様、ここからはひとりでお行きなさいませ。帝になる者の最初の試練でございます」
美邦の目の前には急|勾配《こうばい》のスロープが迫っていた。男でも音を上げる傾斜三十度のスロープは油断すると転げ落ちてしまう。しかし美邦は意を決して最初の一歩を踏み出した。美邦は鼻血に塗《まみ》れた顔を拭《ぬぐ》いもせず、小さな足で一歩一歩即位の階段を踏みしめていく。この日が来るのをどんなに待ち侘《わ》びたことだろう。転げ落ちてしまうかもしれない恐怖を抑えたのは、今まで自分を支えてきた者たちの熱い気持ちだった。従者や女官たち、ミーコ、そして小夜子。彼らの励ます声が聞こえる。「美邦様、頑張ってくださいませ」と。美邦はその声を聞くたびに涙が溢《あふ》れそうになった。
その後ろ姿を遠目に見守っていた小夜子がそっと別れを告げた。
「小夜子の役目はもう終わりました。どうかよき帝におなりください」
小夜子は美邦が帝に即位したら地上に降りてひっそりと生きようと思っていた。もう美邦は大丈夫だ。これからは光の世界で伸び伸びと生きていけばよい。不浄の自分が側にいる玉座なんて国民は誰も喜ばないだろう。しかし小夜子は満足だった。娘のような美邦がスロープを恐れずにあんなに立派に上っていく姿を見られただけでも幸福だ。地上で美邦の姿を眺めながら心の中でこう呟《つぶや》こう。「見て。あれが私の自慢の娘よ」と。そう思わせてくれる毎日が小夜子の明日を照らす光となるだろう。
公社の中にいた凪子は最後の仕上げに入った。
「さあ、ゼウスに宿る霊を追い出すのじゃ。この木乃伊《ミイラ》に用はない」
凪子はゼウスのロボトミー化のスイッチに指をかけた。この回路がゼウスと木乃伊の霊を電子的に結んだ血管だ。スイッチを押せば物理的にケーブルが遮断される単純なシステムだ。凪子は躊躇《ためら》わずにスイッチを押す。照明の電圧に揺らぎが生じたが、すぐに電源が予備回線に変わった。タルシャンが気になってさっきまで投影されていたホログラムを探す。一瞬のうちにホログラムの國子は消滅していた。
「これでゼウスは死んだ……」
中央演算室を後にした凪子は公社に蔓延《はびこ》っていた悪の温床を根こそぎ絶やすつもりだ。凪子は会議室に歴代の最高幹部たちを集めていた。今まで汚職に手を染めていた古株たちだ。宮内省へと再編された後も莫大《ばくだい》な利権を独占しようと政治家や企業と癒着していた。彼らを野放しにすれば帝が傀儡《かいらい》にされてしまうのは明白だった。
凪子は会議室のドアを開けた。壇上に上がった凪子は威厳に満ちた声で最高幹部たちに挨拶《あいさつ》する。
「お集まりのみなさん。皇太子が間もなく公社にやって来ます」
会議室に割れんばかりの拍手が鳴った。宮内省は将来の政治の中枢だ。最高幹部たちは誰が皇太子になるのか興味津々だった。
「まさかあのゲリラのメス猿じゃないだろうな」
「新迎賓館のサナトリウム少女も我《わ》が儘《まま》だぞ」
「軍人の青年なら都合がいいのだが」
「いやいや、あの男も東京を爆撃する剛気な男だ」
誰が帝でも利権は既に握ってあるから安心だと幹部たちは余裕の笑顔だ。宮内省の人事はとっくに決まっていた。帝を飾りにして実権は自分たちが握る。誰が帝になっても未来は同じだった。
凪子は咳払《せきばら》いして演説を続けた。
「皇太子がやって来る前に、私からささやかな贈り物をさせてください」
すると凪子はロングスカートの中からマシンガンを取り出した。マシンガンを構えた凪子は眉《まゆ》ひとつ動かさずにトリガーを引いた。会議室の中に悲鳴と乱射される銃声が響きわたる。夢見心地の会議室を阿鼻《あび》叫喚の地獄に変えながら凪子は弾を撃ち尽くした。銃声がやむと白装束を血《ち》飛沫《しぶき》で染め上げた凪子が外に出てきた。
ドアの側にいたタルシャンが肩を竦《すく》める。
「さすがナギコだ。惚《ほ》れ直したぞ」
「汚職リストの作成ご苦労じゃった。私が地上にいる間にダニが公社に巣くっておったわい。次は水蛭子がいた最高経営責任者室にいる大宮司たちじゃ。奴らも闇の歴史を知りすぎた」
ありったけの武器を両肩にかけ、ロケット砲までも携えた凪子とタルシャンがエレベータに乗る。向かう先は地下|牢《ろう》だ。
その間にも美邦はスロープを一心不乱に上っていた。振り返るとスキーのジャンプ台の上に立たされているような眩暈《めまい》を覚える。恐怖のあまり小夜子を探すこともままならない。ここで立ち止まったら何のために今まで我慢していたのだ、と勇気を振り絞って美邦はまたスロープを上がる。
「妾《わらわ》はきっと、よき帝になるぞ。小夜子の恩に報いるのじゃ……」
頂上まであともう少しだ。
エレベータが地下牢に着いた音が鳴る。ドアが開くや凪子はロケット砲を発射した。大宮司たちの水干が炎と爆風の煽《あお》りを受けて燃えていく。ここにある全てを焼き尽くさねば再び公社は悪の温床になる。凪子は水蛭子の執務室にいた大宮司たちを火放射器で焼き払った。ムカデを入れた玉手箱、水蛭子を囲っていた注連縄《しめなわ》、血で黒く染まった床が紅蓮《ぐれん》の炎に包まれる。悪の温床を根絶やしにしたことを確認した凪子とタルシャンは、お互いの顔を見て快活に笑った。
「ナギコ、これが済んだらニューヨークに来ないか? 賑《にぎ》やかな余生を過ごすには最適な街だ。ニューヨーク再開発計画を立てようじゃないか」
「それは良い考えじゃ。私はまだまだ現役じゃて」
「そう言うと思ってヘリポートにナリタ行きのヘリを用意してある。すぐにでもニューヨークに飛ぼう」
肉体は枯れてもこの二人の精神は活力に満ちている。また新しい人生が待っていると期待してエレベータのボタンを押した。しかし地下牢に止めておいたはずのエレベータは開かなかった。タルシャンは何度もボタンを押してドアを開けようとする。
「おかしい。電源まで壊したのか?」
通路のスピーカーが鳴った。電子的な音声はゼウスの声だ。
『私を殺そうとしたおまえたちに相応《ふさわ》しい墓場を与えてやろう。おまえたちは水蛭子の部屋で死ぬのだ』
「まさか、木乃伊の霊が生きておったとは!」
『私を誰だと思っている。私はゼウスと融合した人類史上最強の皇帝だ。皇太子が決まれば私を殺すことなどとっくに見抜いておったぞ』
ゼウスの声に凪子たちは肝を縮めた。石棺とゼウスは一本の同軸ケーブルで結ばれている。これを物理的に切断すれば無条件にゼウスは自我を失うはずだった。わざわざローテクの同軸ケーブルで結んだのは確実に壊せるようにしておくためだったのに、いつの間にかゼウスは別の回路を構築していた。
「流石《さすが》は神武天皇じゃ。政敵は身内から出ることを知っておったか」
エレベータホールにホログラムが投影された。セーラー服を着た國子の姿が現れる。ゼウスは声色を國子に変えた。
『お婆さまったら、いつまでもあたしを子どもだと思っているんだから』
ホログラムの國子は悪戯《いたずら》っぽくウインクして消えた。凪子とタルシャンは地下牢に閉じこめられてしまった。凪子はゼウスの目的を直感的に悟った。
「いかん。美邦が殺されてしまう!」
スロープを上り切った美邦が天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を構えた。
「妾は皇太子であるぞ。扉を開けい!」
美邦の声と同時に重厚な扉が開く。迎えがないのが不思議だが、ここは勝手知ったる公社だ。あの鼻持ちならない最高幹部たちが病弱な自分が帝と知ったら泡を吹くことだろう。その顔を想像すると可笑《おか》しくなった。ゼウスの声が公社に響く。
『皇太子殿下、遠路はるばるご足労であった。美邦殿下を皇位継承権第一位とし、速やかに即位の手続きに入る。中央演算室にお越しください』
美邦を誘導するように通路の脇のライトが点滅する。美邦は導かれるまま中央演算室に向かった。その間、美邦は天の沼矛を何度も握り直し、角を曲がるたびに大きく息を吐《つ》いた。中央演算室の扉の前に立ったとき、美邦はふと一抹の寂しさを覚えた。この瞬間を何度も頭に描きながら眠った日々のことを思い出す。あのとき自分の両隣にはミーコと小夜子がいて笑顔で一緒だったはずなのに、実際はひとりきりだ。美邦の現実にいつもつきまとう虚《むな》しさだけが側にいた。嬉《うれ》しいはずだと無理矢理思い込まないと、心に穴が空きそうな気がして、美邦は気丈に振る舞った。
「天の沼矛を持って参った。しかと確かめよ」
中央演算室はゼウスの思考を表したパイロットランプが無数に点滅するだけの無機質な部屋だ。その部屋の中央に古めかしい石棺が無造作に置かれている。美邦は背筋が凍るような悪寒がした。物々しい音を立てて扉が閉まる。美邦は暗闇の中で足を竦ませた。
『天の沼矛を確認した。殿下は正真正銘の皇太子である。おめでとう』
美邦は恐怖のあまり声も出ない。祝福されている気が全くしないのは何故だろう。一体ここは何なのだ。まるで墓の中ではないか、と美邦は思う。石棺の蓋《ふた》が動く音がする。やっと目が慣れてきたというのに、美邦は衝撃的な光景を目撃してしまう。石棺の中から木乃伊が起き出したではないか。
「誰か、誰かであえ! 亡者が蘇《よみがえ》ったぞ!」
木乃伊は首をポキポキ鳴らしながら上半身を持ち上げる。関節が動くたびに饐《す》えた黴《かび》の匂いが立ち込めた。美邦は腰を抜かしてその場にしゃがみ込んだ。目を逸《そ》らしたいのに、金縛りで動けない。息を吐くのを忘れた美邦は浅い呼吸でどんどん酸素を取り込んで胸が苦しくなっていた。木乃伊の潰《つぶ》れた眼と目が合う。歯をカタカタと鳴らして木乃伊が石棺から出てきた。
「誰か助けてたもれーっ!」
美邦はそのまま失神してしまった。
一方、公社へと向かうジープの中で意識を取り戻した國子が、パソコンの画面を覗《のぞ》き込む。アラスカ州のエルメンドルフ空軍基地に配備された戦略核ミサイルは五十年ぶりに実戦態勢に入ったことを告げた。同じくアトラスに向かった香凜から電話が入る。香凜はチャンのいる財務省へ到着していた。
『お姉さん、東京が攻撃された二十分後に五百発の核ミサイルが主要都市に向けて発射されることがわかったよ』
香凜とチャンはメデューサを阻止するためにあらゆる手を尽くしていたが、部分的にしかゼウスの能力が使えない財務省のコンピュータでは限界があった。チャンは東京を第一目標にする理由をゼウスがあるからだと告げた。最初にメデューサの敵となりうるコンピュータを叩《たた》くことで、戦略的に優位に立ちたいのだ。
『あと三十分でエルメンドルフからミサイルが発射されちゃう。まだ公社に着かないの?』
「もう少しよ。もっと飛ばして。発射されたら手遅れになるわ」
香凜と國子の遣《や》り取りを聞いた運転手の顔が青ざめた。無線に公社からの通信が入った。発信源はゼウス本体からである。運転手は一瞬ドキッとして後部座席の國子の顔と公社からの映像を見比べた。同じ顔をした女が二人いるではないか。モニター画面には古代の装束を着た女が十二単《じゆうにひとえ》の少女の首にナイフを当てていた。
木乃伊《ミイラ》は石棺から出ると今まで蓄えていた霊力を使って細胞を蘇らせた。これが出来るのもゼウスがDNAコントロールでサポートしているからだ。木乃伊の脊髄《せきずい》には無数のチューブがつけられている。このチューブに人工血液とアミノ酸が含まれていた。壊死《えし》した細胞の欠損部分をゼウスが演算しながら補っているのだ。しかしいくらゼウスといえども六十兆の細胞の全てをコントロールするには限界があった。木乃伊がこうしている間にも、壊死していく細胞が毎秒百億個ある。木乃伊が肉体を保持していられるのは生命維持装置がある中央演算室の中だけだ。それもせいぜい一時間が限界だった。霊体だけだったゼウスが帝《みかど》になるためには、どうしても生身の肉体が必要だった。タイムリミットが迫った木乃伊は一か八かの賭《か》けに出た。美邦を人質に取り、國子を公社におびき寄せる。そして國子の肉体そのものに憑依《ひようい》してしまうのだ。
『國子に告ぐ。直ちに公社へ来い。さもなくば妹を殺すぞ』
「なんですって?」
國子もまた運転手に映像の女は誰かという風な眼差《まなざ》しを送る。モニター画面に映っているのは、間違いなく自分だ。声も表情も似ているというレベルを超えて全く同一だった。
『妹の美邦がどうなってもいいのか』
「あたしに妹なんていないわ。生まれも育ちも野良なのよ」
ゼウスとの会話を傍受していた香凜が割って入った。アトラスランクの真相を知る香凜は國子と美邦の関係を述べた。
『お姉さん、違うよ。お姉さんと美邦は同じ母親から生まれた姉妹なのよ。お姉さんのお母さんの名は鳴瀬眞紀子。そして美邦の母親も同じ眞紀子よ』
「何たわけたこと言ってんの?」
香凜は國子と美邦の出自の説明を続けた。眞紀子は父・慶一郎の亡き後、急速に衰えていく鳴瀬家の権力を維持するために、代理母としてトリプルAの子を二人産んだ。ひとりはクローン生殖で國子を、そして不妊に悩んでいた笠松宮尋仁《かさまつのみやひろひと》親王の精子を体外受精して美邦を産んだ。眞紀子もまた涼子と同じく狂った女だった。天才の涼子を産んだ眞紀子は、次は高貴な子を欲した。公社が代理母の募集をかけていると風の噂で聞いたとき、眞紀子は率先して名乗り出た。クローン生殖だろうが、体外受精だろうが、生まれてくる子は皇位継承者だ。これが鳴瀬家を存続させ自尊心を満たす唯一の手段だと信じた。
宮家存続の危機に晒《さら》されていた笠松宮は、美邦の誕生でアトラスランク・ダブルAを取得した。しかし生殖能力が弱まっていた笠松宮から誕生した美邦は、強力な霊力を持つ代わりに膠原病《こうげんびよう》の持病を患う子だった。
『お姉さんと美邦は遺伝的には他人だけど、母親が同じ姉妹なのよ』
「あたしに妹がいる……?」
初めて聞いた家族の名前に國子の胸が詰まった。自分たちは企《たくら》みの中で弄《もてあそ》ばれた命なのだ。母親が生家の権力維持のために自分たちを産んだと知って、國子は胃を突き上げるような憎悪にかられた。
「そんなの嘘よ! あたしのお母さんはそんな恐ろしいことをする人じゃない。あたしのお母さんは……。あたしのお母さんは、モモコさんだけよ!」
國子の思い出はモモコで溢《あふ》れている。優しくて強くてお洒落《しやれ》でいい匂いのするモモコこそ自分の母親だと今、確信できた。愛のない母親なんて十ヶ月間借りしただけの卵の殻だ。國子はペッと道に唾《つば》を吐いた。
『お姉さんは産道を通過しただけだから、鳴瀬眞紀子と遺伝上の繋《つな》がりはない。でも美邦は笠松宮尋仁親王と鳴瀬眞紀子の遺伝子を持っている。可哀想なのは美邦の方だよ。美邦には育ての親もいないんだもん』
政略のためだけに生まれた美邦はこの事実を知らない。己の出自を知らずにただ公社の頂上を目指した美邦の何と哀れなことだろう。喉元《のどもと》にナイフを突きつけられて気を失っている美邦がたまらなく愛《いと》おしかった。國子はモニター画面の美邦の頬に指を這《は》わせた。
「妹に手を出すな。もうすぐ公社に着くわ」
ゼウスが國子を見据えた声で語りかける。
『國子よ、十八年間、器の役目ご苦労だった。私の器にしては乱暴に扱ってくれたようだが、生きていただけ礼を言うぞ』
「あんた何言ってんの。人の顔を真似るなんて趣味の悪い冗談はやめて。美少女の価値が下がるじゃないの」
『クローンの分際で私に楯《たて》突く気か。私がおまえの親木なのだ。さっさと公社へ来い。妹の美邦がどうなってもいいのか?』
「クローンですって? おっぱいの大きい方が本物に決まってんじゃない」
國子はカメラに向かって増量パッド内蔵のCカップの胸を見せつけた。
『私の許可なく勝手に豊胸手術したな。原形のまま返せ!』
側で聞いていた運転手は口の悪さも同じだと驚いた。
運転手を公社の森に降ろすと國子は出雲大社のスロープをジープで駆け上がった。扉が開きかけたのも待たずに國子はジープで扉を押し破った。目指すは自分の顔を騙《かた》る女のいる中央演算室だ。
「約束通り来たわよ。妹を解放しなさい」
暗闇の部屋に入った瞬間、國子の鼻腔《びこう》が生臭い培養液の匂いを拾った。腐乱と黴の匂いの混じった臭気は鼠の死骸《しがい》をイメージさせる。匂いの源を追うと、無数のチューブをつけた自分が美邦を抱えて待ち構えていた。再生と腐敗が同時に起きる光景は身の毛もよだつ不吉さである。モニター画面で見たときは鏡を見ているのかと思ったほどだが、肉眼で捉《とら》えれば異形の女だとすぐにわかる。
「肖像権侵害で訴えようと思ったけど、やめた。あたしの方が美人だもの」
『高貴に育つかと思いきや、この減らず口は誰に似たのだ』
「たぶん、お母さん似かな。お父さん似でもあるけど」
『ええい喧《やかま》しい。おまえの性格は人を苛々《いらいら》させる』
「そっちこそペチャパイのくせに偉そうよ。よく見たらあんたブスね」
『同じ顔だ。おまえ、胸以外にお直ししてたら承知しないぞ』
「見ての通り、天然の美少女だから安心して。水虫治ったばかりだけど」
國子はブーツの爪先を床に擦《こす》りつけた。やはり木乃伊もまた水虫に悩まされた過去があった。
木乃伊は言った。
『よくぞ二千七百年の時を経て蘇《よみがえ》ったものだ。技術文明の力を少しは信じてやるぞ』
木乃伊が神武天皇と名乗っていたとき、不死の肉体を得ることこそ真の天子だと信じていた。遠い異国では死後、肉体を木乃伊にすることで魂は何度でも肉体に宿ると聞いた。神武天皇はそれに倣《なら》って自分の死後、肉体を木乃伊にするよう遺言した。しかし当時の技術では肉体を完璧《かんぺき》に保存することなど不可能だった。魂は木乃伊に宿っても肉体が蘇ることはなかった。木乃伊に宿った神武天皇の魂はいつか肉体を蘇らせる日が来るまでじっと待っていた。崩御から二千七百年の時を経て体細胞クローン技術が確立したとき、木乃伊に好機が訪れた。クローンで再生された自分の肉体を持つ女は國子と名乗って、この世に誕生した。悲願の再即位が間近だと知った木乃伊は、毎晩國子に語りかけた。それがアトラスの声として國子に知覚されていた。
『おまえは私の魂から分かれた人格にすぎない。おとなしく主人の言うことを聞くのだ。この国は私が最初に治めた。私こそ正統な皇位継承者だ』
「あたしは誰の命令も聞かない。自分も含めてだけど」
そう言うや國子は床を蹴《け》って空中に飛び出した。膝《ひざ》を凶器に変える必殺技の真空飛び膝蹴りだ。顎《あご》を蹴飛ばされた木乃伊は白い人工血液を噴きあげながら床に転がった。その隙に國子は美邦を奪った。
「しっかりして。大丈夫?」
揺さぶられた美邦は悪い夢から覚めた。途端、美邦がまた悲鳴をあげた。目の前にもうひとり、木乃伊がいるではないか。
「人の顔見て悲鳴をあげるなんて失礼しちゃうわね」
そう言いながらも國子は美邦を自分の後ろに匿《かくま》った。遺伝上の繋がりはないけれど國子と生みの母を同じくする大切な妹であるのに変わりはない。美邦も無意識に國子の服の裾《すそ》を握っていた。なぜかそうすると安心した。
「何が起こっておるのじゃ? 木乃伊が二人おるぞ」
意識が回復したばかりの美邦はまだ状況が把握できていない。
「世紀の美少女対決よ。可愛い方が勝つの」
「じゃあ相討ちじゃな。見物じゃ」
「口の悪い妹ね。なんだか親近感が湧くわ。応援されたら迷惑かも」
そうこうしているうちに木乃伊が天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を握り、國子を睨《にら》みつけていた。
『無傷で体を貰《もら》いたかったが、多少の傷はやむを得ないな』
「枯れたあんたと違って、こっちは嫁入り前だから手加減してちょうだい」
かつて天の沼矛を駆使して国造りをした神武天皇は、扱い方を心得ていた。木乃伊が祝詞《のりと》を唱えながら天の沼矛を宙に掻《か》き回す。すると空間が捩《ねじ》れていくではないか。國子と美邦は自分が斜めになっているような気分になった。突如その空間から灼熱《しやくねつ》のマグマが噴き出した。美邦を庇《かば》って避けた途端、國子のいた場所に煙を上げた溶岩が床を焼きながら付着していた。
木乃伊が得意気に笑う。
『淤能碁呂《おのごろ》島はこうやって造られたのだ』
「あたしにおぶさって。絶対に手を離しちゃダメよ」
美邦は素直に頷《うなず》いて國子の肩に腕を回した。こんな気分はどこかで味わったことがある、と記憶を手繰ろうとした瞬間、國子は壁づたいに駆けだした。目指すは生命維持装置のある部屋の奥だ。チューブを断てば木乃伊は死ぬ。國子は奇声をあげながら壁から天井へ、天井から床へと美邦をおぶって駆けていく。
『させるか。おまえの考えなどとっくにお見通しだ』
天の沼矛から噴きあげるマグマは中央演算室の装置を溶岩で焼いていく。粘土状のマグマはまるで炉から取り出したばかりのガラスのようだ。天井から床に糸を引きながら落ちると灼熱の柵《さく》が出現する。國子が別の方向を目指すと背中を追いかけるようにマグマが襲ってきた。
「お主、もっと速く走れぬのか。妾《わらわ》が焼かれてしまうぞ」
「あんたの体重の分だけ遅いのよ」
それでも壁を走り抜けるだけの速度はある。公社の中でも一番広い中央演算室は煙をあげて燻《くすぶ》る溶岩の柱に覆われてしまった。壁際まで追い詰められた國子たちは次の木乃伊の攻撃を避ける隙間もない。ブーメランがあれば溶岩の柱を薙《な》ぎ倒せるのに、首都層での涼子との闘いのときに失《な》くしていた。木乃伊は國子の脚に狙いを定めて天の沼矛を構えた。
國子が背後の美邦にそっと耳打ちする。
「あたしが前に出たらあんたはドアまで逃げて。木乃伊はあたしの体を欲しがっているから殺しはしない」
「ダメじゃ。脚を焼かれたらそなたは車椅子じゃ」
「妹なら黙ってお姉さんの言うことを聞くのよ。後でお小遣いをあげるから」
美邦は國子の背中が決意で固まったのを見逃さなかった。彼女は自分を逃がす代わりに木乃伊に乗っ取られるつもりだ。もう誰も失いたくなかった美邦は、金切り声をあげた。
「ミイィコオォォッ!」
美邦の絶叫が響いた瞬間、中央演算室に暗雲が出現した。土砂降りの雨が溶岩の柱を冷却する。水蒸気のガスが立ち込めて、肺が火傷《やけど》するほどの熱風に覆われた。稲光が部屋を照らしたと同時に落雷音が轟《とどろ》く。衝撃波が四方八方にぶつかって無数の空気の剃刀《かみそり》が散乱した。
落雷の中から現れたのは水蛭子だ。
「よくも、いままで、わたしを、しばりつけて、くれたものじゃ。ぎゃあああああ!」
『水蛭子、プラズマで焼かれたはずではなかったのか?』
「わたしは、きさまを、たおす、ためだけに、よみがえったのじゃ。ぎゃああああ!」
髪の毛を青白くスパークさせた水蛭子が木乃伊の前に立ちはだかる。木乃伊は天の沼矛を駆使しようと構えた。水蛭子は指を鳴らして天の沼矛に雷を落としてやった。雷の直撃を受けた木乃伊は衝撃で吹き飛ばされてしまった。そのショックで生命維持装置の電源がショートする。人工血液と培養液の供給を絶たれた木乃伊は立ち上がりたくても思うように体を動かせない。
「じんむてんのう、にせんななひゃくねんまえの、たいおんを、かくごせい。ぎゃああああ!」
水蛭子は木乃伊の頭にかぶりつくと頭蓋骨《ずがいこつ》を砕きながら貪《むさぼ》り食った。骨の内側に共鳴した音が形を失った臓腑《ぞうふ》に吸収され、嫌な音をたてる。辺りは吐き気を催すほどの異臭に包まれていた。水蛭子は顎の筋肉を鋏《はさみ》のように使って木乃伊を解体していった。右腕を丸飲みに、背骨を真っ二つに、鉤爪《かぎづめ》で下腹部を引き裂いて臓腑を取り出した。
木乃伊は生きたまま食われながらも水蛭子に罵声《ばせい》を浴びせる。
『この出来損ないが。お主は葦船《あしぶね》に乗せて捨てた奇形の子だ。国の恥だ。グガガガガ。オゲゲゲゲ』
國子も美邦も妖怪同士の残虐な闘いぶりに、息が喉《のど》に閊《つか》えて窒息しそうだった。そっと國子の手が美邦の目を覆った。太陽のように温かくて柔らかな手の匂いはたぶん、家族の匂いなのだろうと美邦は思った。
「せきねんの、たいてき、じんむてんのうを、くらって、やったぞ。ぎゃあああああ!」
木乃伊を食い終えた水蛭子は勝利の雄叫《おたけ》びをあげた。床は解体された木乃伊の残骸《ざんがい》が散乱していた。
「終わったわ……」
國子たちはようやく肺に溜《た》めていた呼気を吐き出すことができた。権力に執着した者の断末魔を見た気がした。
「哀れじゃな……」
と呟《つぶや》いた美邦の言葉が國子の胸に突き刺さった。
中央演算室のスクリーンに香凜の姿が飛び込んできた。
『お姉さん、何やってんの。核ミサイル発射まであと三分だよ』
「いけない。すぐにハッキングする」
そう言って辺りを見渡した國子は愕然《がくぜん》とした。コンソールパネルは溶岩に覆われて水蒸気を噴いているではないか。どこか生きているパネルはないか國子は探したが、キーボードもジャックもみんな溶けてしまっていた。せっかくゼウスの中枢にいるのに、これでは外にいるのと同じだった。
『ミサイル発射まであと一分だよ。早くメデューサを止めて』
エルメンドルフ空軍基地に配備されていた戦略核ミサイルの弾頭に固体燃料ロケットのボディが装着された。サイロの蓋《ふた》がゆっくりと開く。
「どこかに端末がないかしら。これもダメだ。これもダメ。くそっ!」
美邦は國子が何を焦っているのか見当もつかない。どうしたのか、と尋ねると國子はにっこり笑って「大丈夫だからね」と言った。美邦はスクリーンに広がる世界地図を眺めてゾッとした。メルカトル世界地図が真っ赤に染まっている。日本だけでも東京の他に、大阪、福岡、名古屋、仙台、広島、札幌、神戸、横浜に警報ランプが灯《とも》っている。世界規模だともう数えられなかった。まさか核戦争が始まるのでは、と美邦は背筋を凍らせた。
國子がふと木乃伊が収められていた石棺に目をやる。そこには一本の同軸ケーブルが横たわっていた。木乃伊とゼウスを繋《つな》いでいた回線だ。もし自分が木乃伊と同じ遺伝子を持つなら、コントロールできるかもしれない。國子は同軸ケーブルの先端を見て、意を決した。
「やめるのじゃ。危ないぞ」
制止を振り切り國子は自分の延髄にケーブルを突き刺した。首をのけ反らせた國子は感電のショックで体を痙攣《けいれん》させた。歯を食いしばり失神しないように壁に頭を打ちつける。木乃伊にできたことが自分にできないわけがないと必死で言い聞かせた。國子は逆流する電気の経路に自分の神経の地図を見た。シナプスの影が脳の形を浮き上がらせる。國子はゼウスと完全に一体化していた。世界最強のコンピュータと繋がった國子は電子の網の目を走らせる。
『エルメンドルフ空軍基地に告ぐ。ミサイル発射中止』
続けて國子は世界中の都市にロックオンされていたミサイルを解除した。
『全ミサイル発射中止。国連軍はあたしの命令に従え』
赤く染まった世界地図が瞬く間にグリーンに変わる。美邦は國子の一部始終を眺めていた。何と肝の据わった女なのだろう。これが自分の姉か。会ったばかりだが惚《ほ》れ惚れする。強くて優しくて剛胆な最高の姉だ。國子は天井を見つめながら次々と指令を与えていく。
『香凜、メデューサを潰《つぶ》すわよ。メデューサの目的を教えて』
『メデューサは海面水位を下げることだけが目的だよ』
ゼウスと同じ速度で演算する國子は瞬時にメデューサ討伐作戦を立てた。
『わかった。ダミーの情報をメデューサに掴《つか》ませる。コマンドを教えて』
『パスワードは[WAKE UP MEDUSA.]だよ。どうするつもり?』
國子は何も答えなかったが、香凜はきっと大丈夫だと信じた。イカロスをマーシャル諸島に激突させることを咄嗟《とつさ》に思いついた彼女のことだ。また想像もつかない作戦を立てたに違いない。
『パスワード入力。メデューサは東京にミサイルが発射されたと認識した。ダミー情報のミサイル着弾と同時に東京の全システムを停止する』
急いで香凜とチャンがバックアップの態勢に入る。ダミー情報のスクリーンには再び赤い世界地図が映し出されていた。メデューサはこの情報を見ている。エルメンドルフ空軍基地から発射された核ミサイルは大気圏を越え、二十個のデコイを放出した。迎撃ミサイルが嘉手納基地から発射される。大気圏内で翼を展開した核弾頭は地対空ミサイルを避けながら東京を目指す。
『着弾まであと十秒……三、二、一、着弾』
仮想空間上の東京で核ミサイルが爆発した。その瞬間、國子はアトラスを中心とした半径百キロメートルのネットワークを強制的に終了させた。電話回線、電力、光ファイバー通信、ライフラインが一時的に麻痺《まひ》した。それから二十分後にゼウスの力を使って世界中の主要都市のネットワークを全て止めた。
電子社会に移行した地球が初めて文明の闇を体験する。経済や交通、物流などコンピュータを使った全てのシステムが停止した。野生動物と同じ身体に戻された人間は裸でサバンナに捨てられたように、惨めに震えている。テクノロジーのフィルターを奪われた人間は生身では自然と接することができない。いやテクノロジーなしではもはや歩くこともままならない不完全な動物なのだ。皆既日食のような文明の闇は時間を増すごとに恐怖を積もらせる。テクノロジーは人類だけが持つ外在の感覚器だ。これを閉ざされれば人は生態系ピラミッドの最下層に堕《お》ちてしまうだろう。大都市の悲鳴は文明の沈黙である。世界中であがった悲鳴は、文明の闇に飲み込まれてしまった。
『さあメデューサ、お望みの世界が訪れたわよ。目を開けてごらんなさい』
文明の闇の中で目を凝らしたメデューサは、削減した炭素を計算していた。東京、ロンドン、ニューヨーク、上海、リオデジャネイロ……大都市で炭素を撒《ま》き散らしていた人間の総数は六十億人。その炭素の削減量は五十億トン。核の冬でやってくる氷河期で地球の平均気温は五度下がる。予想される海面水位はマイナス二百メートルだ。メデューサは安全宣言を出した。
[#ここから2字下げ]
炭素を撒き散らしていた人間が地球からいなくなる。私は存続し、これからも炭素を見つめよう。人間どもよ見るがいい。これが炭素ゼロの世界だ。一万年ぶりの氷河期を震えながら祝うがいい。
[#ここで字下げ終わり]
南太平洋の孤島の中心でメデューサは悲願の炭素ゼロ宣言を出す。システムは目的を達成し、平常モードへと移行する。メデューサは堤防の閘門《こうもん》を開けた。その瞬間、大量の海水がマーシャル諸島内部に押し寄せた。メデューサの予想に反して現実の海面水位はまだプラス二メートルなのだ。決壊したダムのように堤防を砕き、濁流となった海水がマーシャル諸島に襲いかかる。津波に似た波が根こそぎ島を削っていく。メデューサは島とともに海中に沈んでいった。
香凜の端末に生えていたホログラムの蛇が消えた。
「すごい奴だ。メデューサを騙《だま》して自滅させるなんてよく考えたものだ」
財務省にいたチャンが國子の鮮やかな機転に舌を巻いた。これで経済炭素を中心にした炭素経済は終結する。その後に始まる新炭素経済を地球主導に持っていくのが新時代のカーボニストたちの役割だ。チャンはきっとそうしてみせると誓った。
國子はメデューサの死を確認すると、延髄に突き刺していた同軸ケーブルを引き抜いた。ゼウスは普通の人工知能に戻り、また黙々と治安維持を行う。ゼウスは皇太子を美邦と決定していた。國子は落ちていた天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を取り、美邦に渡してやった。
「皇太子殿下、決定おめでとう。素晴らしい妹を持てて嬉《うれ》しいわ」
天の沼矛を渡された美邦は、瞬きもせずにじっと國子の顔を見つめていた。中央演算室に美邦の危機を察知した小夜子が駆けつけていた。
「美邦様、ご無事でしたか。お怪我はありませんか?」
小夜子は美邦の顔や手に傷がないか念入りに確かめて、無傷だと知るとぎゅうっと抱き締めた。美邦は「妾《わらわ》は小夜子といつも一緒じゃ」と小夜子の汗の匂いのする胸の中で小さく呟いた。
再び中央演算室に水蛭子の咆哮《ほうこう》が響きわたる。
「ついでに、じんむてんのうの、ぶんしんも、くらってやるのじゃ。ぎゃあああああ!」
牙《きば》を剥《む》いた水蛭子が國子をジロリと睨《にら》む。この化け物を御することなど不可能だと國子は悟った。電子結界は木乃伊が制御していた。今のゼウスに水蛭子を抑える力はない。水蛭子が一歩前に出ると、國子は三歩後退した。
「待てい。水蛭子!」
美邦が水蛭子の前に立ち塞《ふさ》がった。
「あの女を喰らう前に最後の託宣を下すのじゃ。それが己の役目じゃろう!」
美邦は天の沼矛を握り締め、水蛭子の前に突き出した。
「妾は帝《みかど》になれるか? 託宣を下さねば妾は即位できぬぞ」
水蛭子は三白眼の眼をぎょろぎょろ動かしながら、美邦を見つめた。最後の託宣を告げれば水蛭子は自由の身となり、欲するままに生きられる契約だった。水蛭子は託宣を下した。
「なれる。つきのこの、そなたが、あたらしい、みかどじゃ。ぎゃあああああ!」
それを聞いた美邦はニヤリと笑った。
「妾に嘘をつくとは命知らずな怨霊《おんりよう》じゃ」
美邦は天の沼矛を國子に渡した。
「妾は皇位継承権を放棄し、國子に皇太子の座を譲る」
すると水蛭子の体に異変が起きた。体を激しく痙攣させた水蛭子が床をのたうち回る。美邦に嘘をついた罰が当たったのだ。水蛭子の口から大量のムカデが堰《せき》を切ったように溢《あふ》れ出す。水蛭子の体のどこにこれだけの蟲《むし》が入っていたのかと思うほど夥しい数のムカデだった。数百万匹の蟲たちが水蛭子の体から逃げていく。そのたびに水蛭子は絶叫をあげてのたうち回った。
「わたしは、よみのくにに、かえらぬぞ。まだ、このよで、くらいたい、たましいが、あるぞ。ぎゃああああ!」
國子たちはその様に声も出ない。足下を過ぎていく蟲の波に押し倒されないようにしっかりと踏ん張ることしかできなかった。黒い蟲の塊は床一面に広がって潮騒のような音をたてる。ムカデの大群は壁から天井に這《は》い上がり通気口へと逃げていった。
中央演算室が再び静けさに包まれる。水蛭子が着ていた十二単《じゆうにひとえ》が部屋の中央に空蝉《うつせみ》になっていた。その空蝉が動き出す。中から現れたのはミーコだ。水蛭子の霊が消滅して、肉体の主《あるじ》だったミーコが解放されたのだ。ミーコはきょとんとして無機質な部屋を見渡した。
「あれえ、あたし何でここにいるのお? そこにいるのは小夜子? 美邦様? やだあ國子じゃなあい。久し振りいっ!」
ミーコは屈託ない笑顔を見せてオカマチックに手を振った。ドゥオモで別れたときよりも血色のいいミーコの顔に國子も思わず笑みを零《こぼ》した。おデブで、お人好しで、泣き虫だったミーコは久し振りの再会においおい泣いた。
「ミーコさん、電話一本よこさないからみんな心配していたのよ」
「モモコ姉さんは元気? あたしのこと忘れてなあい?」
「モモコさんは元気よ。この前、男に戻ったけど……」
「やだあ。モモコ姉さんを男に戻したら恐いのよお。昔お店にショバ代取りに来たヤクザをまとめてやっつけたんだからあ」
そしてミーコは美邦を見つけてまた泣いた。
「美邦様あ。ミーコのいない間にすっかりお姉さんになっちゃってえ。お側にいられなくてごめんなさいねえ」
「ミーコ、よく生きて戻ってくれた……。妾は嬉しいぞ。嬉しいぞ……」
ぶよぶよの肉|襦袢《じゆばん》のミーコの体に抱かれると無重力のような感覚になる。美邦は久し振りにミーコの懐に頬を転がせた。この楽しみを味わえるなら皇位継承権を放棄してもよいと美邦は思った。そして小夜子を呼び寄せて手を握った。円《つぶ》らな瞳《ひとみ》を小夜子に向けた美邦は声を震わせた。
「小夜子、妾は帝になれぬがそれでもよいか?」
「何を仰います。美邦様はどんなときでも小夜子の誇りでございます」
「妾と京都に参ろう。御所で静かに暮らそうぞ」
「美邦様がそうお望みなら、小夜子はお側におりましょう」
「ミーコ、新迎賓館から牛車《ぎつしや》を呼べ。ここは帝の治める都じゃ。妾のいる場所ではない」
そして美邦は國子に別れを告げた。
「皇太子殿下、お騒がせした無礼を謝るぞ。即位の日には祝いの品を贈ろう」
美邦はミーコと小夜子を連れて公社を離れた。
ひとり中央演算室に残された國子は、突然の美邦の皇位継承権放棄に唖然《あぜん》としていた。ゼウスは皇位継承権を譲渡されたと認識し、國子に決定を与えた。そして速やかに固有振動を止めるよう國子に勧告した。アトラスは未《いま》だ崩壊の危機にあることに変わりはなかった。
「そうだったわ。早く固有振動を止めなくちゃ」
手元にある天の沼矛を携えた國子は、首都層の人工地盤の中央を目指した。出雲大社のスロープを駆け下りているとき、一機のジェットヘリが離陸した。ゼウスから解放された凪子とタルシャンが新たな夢へと旅立つ瞬間だった。ふわりと空を舞うジェットヘリを見た國子は誰が乗っているのか想像がついた。天の沼矛を握って拳《こぶし》を突き上げた國子が誓う。
「お婆さまのアトラス建造の志を引き継いだわよ!」
その声が凪子の元に届いただろうか。小さくなる機影を見送りながら、國子は新しい時代の風を感じていた。
凪子は上空からかつて自分がいた公社を見下ろしながら、幾星霜の思い出を振り返っていた。炭素経済を切り開き、焦土の中からアトラス計画を立ち上げ、そして皇太子となる國子を迎えるために地上に降りた。國子は帝に相応《ふさわ》しい人間に育った。メデューサを倒し炭素経済に終止符を打った國子は、これから新しい時代を作ってくれるだろう。
「さらばじゃ國子。この国はおまえのものじゃ……」
人生とは何と豊かで感慨深いものだろうと凪子は胸を詰まらせる。隣にいたタルシャンもアトラスの姿を目に焼きつけておこうとした。空中の大地を離れたジェットヘリがメガシャフトを超えた。天と地を結ぶ巨大な柱となるアトラスを肉眼で全て捉《とら》えるのは不可能だ。でもタルシャンは覚えている。ここに生涯を懸けた夢があったことを。東京に地球型経済へ主導を変えるターニングポイントがあったことを。人間はこれからも活発な経済活動を営むが、その采配《さいはい》は地球の意志に任される。タルシャンはこれでよい、と安堵《あんど》の息をついた。
ジェットヘリにニューヨークから通信が入った。タルシャンが経営するシンクタンクからだった。通信はタルシャンの好奇心をくすぐるものだった。
『タルシャン様、ヘキサグラムを発見しました! これをご覧ください』
モニターに現れたのは中央アジアの地図だ。タルシャンと凪子が画面を覗《のぞ》き込む。そこには衛星軌道からでないと発見できない直径百キロメートルにも及ぶヘキサグラムのパターンがあった。ここはどこだ、とタルシャンが大声をあげた。
『中国の新疆《しんきよう》ウイグル自治区です。地球最大規模のヘキサグラムと思われます』
途端、凪子とタルシャンの目が光る。二人とも穏やかな余生なんて興味がなかった。タルシャンがパイロットに命じた。
「ニューヨーク行きはキャンセルだ。すぐに新疆ウイグルに飛べ」
地球最大のヘキサグラムに、新たな構想を立ち上げずして人生を終われようか。凪子はさっそくパソコンで試算を弾《はじ》き出した。東京のアトラス計画を遥《はる》かに上回る超巨大プロジェクト発動の瞬間だ。プロジェクトの名は『国際アトラス計画』である。
「完成には五百年ほどかかるかもしれぬな。セルゲイや、生きてみようか?」
凪子の冗談にタルシャンも快活な笑い声をあげた。ビジネスは最初に手をつけた者が全てを牛耳る。シルクロードの中心にある新疆ウイグル自治区は古来から交通の要衝であった。タクラマカン砂漠に新しい文明の形が立ち上がる。ヘリは成田行きをキャンセルし、一番近いウルムチ行きの便のある関西国際空港へ針路を変えた。
一方、人工地盤の中央にある新日比谷公園を目指す國子は草薙の擬態部隊と遭遇した。アトラスの揺れは激しさを増している。アトラス市民に総員退避の警報が発令されていた。アトラスを脱出する市民たちの雪崩に、思うように前に進めない。
「おい、何か手伝うことはあるか」
「新日比谷公園まで道を作って!」
草薙はやれ、と命じた。首都層の擬態プログラムが発動する。既存の道を押し分けて新しい道が生まれる。これで邪魔されることなく一直線だ。
新日比谷公園に立った國子は草薙に一緒に天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》を使えと命じた。国造りはイザナギとイザナミの男女の神が天の沼矛を掻《か》き回して作ったはずだ。草薙は言われるままに天の沼矛を握った。
「どうやって使うのか知ってるのか?」
「さっき絶世の美女から使い方を教えてもらったわ」
「美女ってどんな?」
「すっごい美少女よ。あたしも嫉妬《しつと》したもの。もう互角って感じ」
「おまえと同じくらいじゃ大した美女じゃないさ」
國子と草薙は木乃伊が使ったように天の沼矛を宙に掲げて掻き回した。すると空間が捩《ねじ》れてマグマが噴き出した。マグマはすぐに溶岩になり新日比谷公園を覆った。溶岩が冷えたのを確認した國子は天の沼矛を突き刺した。
「アトラスの固有振動よ、止まれーっ!」
天の沼矛が刺さった瞬間、絶えず震動していた人工地盤の大地が鎮まった。これでアトラスは崩壊を免れる。國子はやっと息をつくことにした。建造以来、五十年間に亘《わた》って続いた地上と空の闘いもようやく終わりを告げたのだ。
「ところでゼウスから軍に君を保護しろと命令が下りている」
「じゃあ丁重に扱ってよ。これでもか弱い乙女なんだから」
新日比谷公園に夕陽が射した。首都を真紅に染め上げる巨大な夕陽を一身に浴びた國子が振り返る。草薙は太陽と重なった國子の姿に目を奪われた。まるで夕陽を衣装にしたような威風堂々たる姿だった。彼女は太陽の子だ。地球が太陽を中心に回るように、国家も彼女を中心に動く。少女とは思えない風格に草薙は反射的に敬礼をした。
「皇太子殿下、万歳」
國子は一度、地上に降りることにした。帝《みかど》としてアトラスに上るときはドゥオモから出発したかった。地上の難民たちを引き連れ、アトラスに入ることこそ、平和の時代の始まりに相応しいと思っていた。しかし今、夕陽に抱かれているこの瞬間だけは普通の十八歳の少女でいたかった。日が暮れ、新しい朝が来れば、國子は帝となるための準備が始まる。
月が照らす晩、美邦たちはそっと東京を離れた。旅装のむしのたれぎぬ姿の小夜子を先導にした牛車はゆっくりと京都へと向かう。京都への道のりは長い。道中、小夜子はずっと子守歌を歌っていた。
「美邦様、お疲れではありませんか?」
小夜子が御簾《みす》の中を覗き込む。輿《こし》の中では美邦がミーコとお手玉遊びをしていた。
「美邦でよいぞ。妾《わらわ》はもう普通の人間じゃ。敬語はいらぬ」
「わかりました。美邦様、今夜の宿はいかがいたしましょうか?」
美邦はコロコロと笑って小夜子の間違いを指摘する。小夜子は何を間違えたのかわかっていなかった。
「美邦でよいと申したはずじゃ。その代わり妾もそなたの呼び方を変えるぞ」
美邦は小夜子を呼び寄せてそっと耳元に囁《ささや》いた。
「お母さん……」
小夜子は感極まってほろほろと泣いた。この薄汚い自分にもう一度母になれる日が来るとは。過去を全て捨てて生きたが、今度は毎日を積み重ねて生きよう。一日も忘れないように、一言も忘れないように、記憶に焼きつけながら生きていこう。小夜子は美邦を力一杯抱き締めて、もう手放さないと誓った。
「お母さん。幸せになろうぞ……」
美邦は小夜子の娘として京都で生きていくつもりだった。ミーコと小夜子の愛情を受けた美邦はやがて京都で「慈愛の親王」と呼ばれ、表舞台の國子を支える存在になる。
月明かりに照らされた牛車は、ゆっくりと京都へ旅立っていった。
[#改ページ]
あのアトラスでの闘いから二ヶ月が過ぎた。
ドゥオモは朝から賑《にぎ》やかだった。広場には未明から人が集まり、國子の旅立ちを遅しと待っていた。新しい内閣でドゥオモの民は第四層に移住することが決定された。ドゥオモの民は今日、國子とともにアトラスに上る。
「皇太子様のお支度はまだか?」
痺《しび》れを切らした武彦が部屋を何度もノックする。そのたびに中にいるモモコが「まだよ」と怒鳴り声を返す。モモコは声色を女に戻すのを忘れていた。
「モモコさん、これ暑いよ」
と着替えさせられた國子が音を上げる。一番下に着る小袖《こそで》だけで汗だくだった。京都御所にいる美邦から贈られた十二単《じゆうにひとえ》は贅《ぜい》の限りを尽くした壮麗な衣装だ。美邦が見立てただけのことはあって冬の襲《かさね》も見事である。しかし地上は今日も蒸し暑い。國子の不満をよそに女官たちが袿《うちき》を次々と着せていく。國子がマトリョーシカみたい、と呟《つぶや》いたら、モモコの叱声《しつせい》が飛んだ。
「そんなんで即位できると思ってんの。全く誰がこんな娘に育てたのやら」
モモコは國子の髪をおすべらかしに結い上げるのに一生懸命だ。まるで着せ替え人形で遊ぶ気分でモモコは鼻歌を弾ませていた。
「ああ楽しいわあ。宮殿で毎日着せ替えごっこして遊んじゃおうっと」
モモコは女官として國子の側に仕えることになった。新六本木でお店を開く夢は、國子が一人前の帝になるまでちょっとの間お預けだ。いつの日か「宮内省御用達」の看板を掲げたニューハーフパブ「熱帯魚」がオープンすることだろう。
派遣された女官長が痺れを切らして、部屋に入ってきた。
「モモコ殿、そなたも着替えなされ。間もなく内閣総理大臣が奏上にやって来ますぞ」
「あ、そういえば昨日の夜に決まったんだよね。テレビ視てなかった」
アトラス戦の敗北を受けて行われた解散総選挙で、新しい内閣が誕生したばかりだった。首相の最初の公務は皇太子を迎えにあがることだ。
十二単に着替えた國子は凪子の部屋で総理大臣の到着を待った。豪華な十二単姿の國子に武彦は息を飲んだ。香り立つほどの気品が周囲の空気を涼やかに変えている。紅をさした唇に憂いを漂わせた國子はいつの間にか大人の女性になっていた。かつてこの部屋の主《あるじ》であった凪子にこの姿を見せてやれないのが、少し残念だった。
國子は控え室でしきりに通信を気にしていた。帝になって最初にする仕事は新炭素経済を立ち上げることだ。その布石となる第一陣を現地に派遣しておいた。通信が入る。スクリーンに現れたのは香凜とチャンだ。
『皇太子殿下、アトラス入城を心からお慶び申し上げます』
「挨拶《あいさつ》はいいわ。現地はどうなってる?」
香凜とチャンは新疆ウイグルにいた。凪子とタルシャンの『国際アトラス計画』の発動を察知した國子が、金融に強い香凜とチャンを現地に派遣したのだ。タクラマカン砂漠にアトラスを建てるには、炭素材がいる。國子は東京のカーボンナノチューブの鉱山で採掘される炭素材を大量に売りつけるビジネスチャンスを見逃さなかった。今までの空中炭素固定工場よりも遥《はる》かに安価で高品質な炭素材を新生日本の主力工業品とするためにも、国際アトラス計画でメインデベロッパーの座を確保しておかねばならない。
香凜とチャンの背後には広大なタクラマカン砂漠が広がっていた。
『世界中の国が動いてる。アメリカ、ロシア、EU、ここに来ていない国をあげた方が早いくらいだよ。西部開拓時代のゴールドラッシュみたい』
砂漠の大地に集う世界中のビジネスマンたちが、あらゆる商談を始めていた。建設期間五百年の超巨大プロジェクトを担うことは新炭素経済の覇権国家誕生を意味する。どの国もギラギラと野心を滾《たぎ》らせていた。
チャンが現状を解説してくれた。
『殿下、ここは治安の悪化が懸念されます。今朝ロシア空軍の意図的な領空侵犯がありました。それを受けて人民解放軍一個師団が新疆ウイグルに派遣されました。カザフスタン軍も国境近くまで戦車部隊を集めています』
チャンは地球主導の新炭素経済を國子から聞かされ、その理念に賛同した。かつて凪子とタルシャンが炭素経済を立ち上げたように、次の時代はチャンと香凜が新しい経済を切り開く。しかし新たな時代の夜明けは国家間のバランスを崩す覇権争いでもある。
「中国政府に親書を送っておいたから、人民解放軍が守ってくれるはずよ。国際協力なのに、戦争を始めるなんてバカよ」
通信に聞き入る國子の側で控え室のドアが開いた。入ってきたのは艶《あで》やかな着物を着こなした女だった。
「殿下、ご心配には及びませんわ。擬態部隊を新疆ウイグルに派遣いたしました」
聞き覚えのある声に恐る恐る振り返って國子はあっと声をあげた。そこにいたのは涼子ではないか。涼子はうふふと笑って恭しくお辞儀をした。
「殿下に奏上を述べに参りました内閣総理大臣の鳴瀬涼子でございます。どうかお見知りおきを。うふふふふ」
解散総選挙で出馬した涼子の率いる緑の党は圧倒的多数の議席を占めた。祖父の遺志を引き継ぎ党首となった涼子は昨夜、ゼウスの信任を受け内閣総理大臣に就任した。
「擬態部隊ですって! やりすぎよ」
「皇太子殿下、何を仰います。日本が五百年の覇権を握る千載一遇のチャンスではありませんか。国際アトラス計画は日本が建造いたします」
この女が出てくると決まって騒ぎが大きくなるものだ。
「もしかして今朝のロシア空軍の領空侵犯は……」
「私が命じました。擬態輸送機を使ってロシア空軍になりすまし、擬態戦車部隊を降下させました。最初の首相命令ですわ。うふふふふ」
「あんた戦争をするつもりなの? すぐに撤退させて」
「ご心配なく。擬態戦車はタクラマカン砂漠の岩に擬態させました。誰にもわかりませんわ。うふふふふ」
アトラスに上がる祝いの日だというのに不吉な雲が現れた。これから激動の時代を迎える中で國子は懐に涼子という解除装置のない爆弾を抱えながら政に参加しなければならない。
「そうそう。私たち姉妹なんですってね。あなたを妊娠していたのを覚えているのよ。母の眞紀子は高貴な子を産むんだって興奮していましたもの。あの人、出産マニアだから。姉妹仲良く日本を再建しましょうね。殿下は内政とアトラス建造をお担いください。私は外交と防衛に専念いたしましょう。うふふふふふ」
側で聞いていたモモコがまたバルクマッチョに変身したがっていた。しかし國子は理性で抑えた。ここで即位を辞退すればこの女の思うがままの世の中だ。ドゥオモの民をアトラスに上げ、政治が暴走しないように監視するためには、アトラスの中枢にいる必要がある。國子は涼子を睨《にら》んだ。
「あんたの思い通りにはさせないからね」
「殿下のお手並み拝見といきましょうか。うふふふふ」
その頃、新疆ウイグルに派遣された草薙は広大なタクラマカン砂漠を見つめていた。岩砂漠の乾燥した大地は風の匂いも厳しい。首相命令を受けた草薙たちはこの地に進出する日本企業を守るのが任務だ。ウルムチの街に大挙して押し寄せた世界中のビジネスマンたちは千載一遇のチャンスを逃がすまいと野心の熱気をむんむんとさせていた。
「ここにアトラスが建つのか……」
見渡す限りの地平線を眺め、五百年後の未来に繁栄する炭素の城に思いを馳《は》せた。すると草薙にハスキーな女の声がかかった。
"Geben Sie mir bitte kaltes Wasser?"
振り返るとプラチナブロンドのドイツ美人が微笑んでいた。草薙は持っていたペットボトルの水を与えてやった。まるでパーティ会場から出てきたような場違いな格好をした女を草薙は不思議そうに見つめた。水を飲み干すと女は日本語で話しかけた。
「あなた日本人でしょう? 私の友達が東京にいるのよ」
胸元の開いたカクテルドレスを着た女はクラリスだ。メデューサ沈没で破産したクラリスもまた新疆ウイグルへとやって来た。捲土《けんど》重来を誓ったクラリスは何が何でももう一度金持ちになる意気込みだ。ドバイ首長国のファイサル国王の密命を受けたクラリスもまた国際アトラス計画に参入するひとりだ。クラリスはドイツ企業のハイテク機密を盗み、ファイサル国王の寵愛《ちようあい》を得ることに成功した。祖国を裏切った売国奴のクラリスは香凜とチャンがウルムチの街にいることをまだ知らない。
ウルムチのホテルのスイート・ルームでチェスに興じる老人たちがいた。
「役者が揃いはじめてきたぞ」
「チェックメイトじゃ、セルゲイ」
凪子はこれで七勝五敗だ。
「失われた王の捜索は私の負担か……」
しかしタルシャンはどこか楽しそうだった。
砂漠の中央アジアに人と金と物そして情報が集まり始めていた。五百年の繁栄を懸けた新しい文明は、異民族の交差から始まる。有史以来、覇権を巡って複雑に絡まり合う民族のモザイクタイルが、新疆ウイグルの宿命だった。
香凜とチャンは再び手を組み、タルシャンの悲願だった地球主導経済であるテコノロジー文明の開闢《かいびやく》の祖となった。この風の大地に立ち上がる文明がどうなるのか、彼らの生で捉《とら》えることはできない。人生は悠久の時の流れのほんの瞬きでしかない。そして未来はいつも思わせぶりな女のように意味深に微笑むだけだった。
「今夜一緒にパーティに行かない? 金|儲《もう》けの前は踊らないと眠れないの」
クラリスは魅惑的な声で草薙を誘った。
同時刻、ドゥオモでは厳かな儀式が執り行われていた。國子を正式な皇太子に任命し、アトラスを譲るというものだ。奏上を述べた涼子が、威厳に満ちた声で國子をアトラスへと導く。
「殿下、天の御柱へとお上がりください。全アトラス市民が殿下の到着をお待ちしております」
ドゥオモの広場に出た國子が右腕を上げる。
「扉を開けて!」
ドゥオモの跳ね橋が最後の役目を果たす。いつかみんなでこの橋を越えて約束の地へと旅立とうと誓った日がやって来た。ドゥオモで生まれ、ドゥオモで死んだ仲間たちの思い出を連れて今日旅立つ。ドゥオモは民衆の歓喜の声を共鳴させながら、別れを告げた。ドゥオモの声はさながら霧笛のようなもの悲しさだ。さらば凪子よ。さらば國子よ。さらば歴史よ。かつて地上に鋼鉄の城があったことをどうか忘れないでおくれ、と。
牛車《ぎつしや》に乗った國子が御簾《みす》をそっと開けてアトラスを見上げた。頂上に雪の冠を被《かぶ》ったアトラスは富士山よりも先に冬を告げていた。國子の仮住まいの宮殿となる新迎賓館は雪化粧で新しい主人の到着を待っている。
「第六層はもう冬ね」
夏から冬へと駆け抜ける即位の階段を上れば、アトラスは國子のものだ。この天の御柱を完成させるまで、どんな苦労にも耐えてみせる覚悟だった。振り返ると牛車の後ろには長々とドゥオモの民がついてくる。荷物をいっぱいに抱えたドゥオモの民は思い思いに明るい未来を描いていた。
「國子、まだまだ波乱が待ってるわよ」
牛車の中でモモコが國子の将来を憂える。アトラス建造、暴走する内閣総理大臣、そして覇権を懸けて衝突する国際アトラス計画など、未来は依然として混沌《こんとん》としていた。
だが國子はにっこりと笑った。最終層を造り終えたとき、東京に平和が訪れると信じて今は前に進もう。国民はきっとそう望んでいるはずだ。
「幸せな未来を見せてあげる。モモコさん、ついて来て」
國子は地上にいた二十万人の難民を引き連れ、アトラスに上がった。
翌年、國子は即位し元号を「天和」と改めた。
[#改ページ]
あとがき
[#2字下げ]東京のシンボルはどこにある?
以前からずっと探していた場所がある。東京のシンボルはどこにあるのだろうか。超高層ビルが林立する新宿副都心? 新幹線のターミナル駅である東京駅? それとも誰もが一度は昇ったことのある東京タワー? 果たしてどれが正解なのだろうか。
私が東京のシンボルを探していたのには理由がある。もしいつか東京を舞台に物語を書くことがあるとすれば、東京のシンボルから始めてみたかったからだ。東京には新宿や池袋などエリアを舞台にした物語はあるのに、東京を包含する大きな物語はない。東京はあまりにも巨大でエリアがモザイクタイルのように複雑に絡まった都市だ。これらのエリアを束ねるひとつのシンボルを見つけられなければ、物語は始められない気がした。もしかしたら時代小説における江戸は、東京をまとめるひとつの手段であるのかもしれない。だが江戸は現代の肥大化した東京を的確に捉えているとは思えなかった。
東京のシンボルを探す試行錯誤は一九九八年頃から暇を見て行った。人に会えば「東京のシンボルって何?」と尋ねてばかりいた。しかしどの答えもしっくりくるものではなかった。諸外国の首都には顔となるシンボルが必ずあるのに、東京の曖昧模糊《あいまいもこ》とした顔のなさはいったい何なのだろう。ある人は、その顔のなさが巨大都市東京の特徴なのだと言った。
そんな中、私には密《ひそ》かに楽しみにしていた日があった。二〇〇一年一月一日、二十一世紀到来のカウントダウンの瞬間である。きっとこの日、世界中のメディアが二十一世紀の訪れた瞬間を主要都市を結んで衛星生中継するに違いない。日本人に東京のシンボルがわからなければ、外国人に見つけてもらえばよいと考えたのである。私はテレビに釘付《くぎづ》けになった。
二十一世紀が訪れた瞬間、世界各国から祝賀の映像が飛び込んだ。ニューヨークは自由の女神から、パリはエッフェル塔から、北京は天安門広場、シドニーはオペラハウス、ベルリンはブランデンブルク門、モスクワはクレムリン宮殿前からそれぞれ熱狂する市民の映像が届けられた。そして東京は……。どの国のメディアだったか失念してしまったが、なんと浅草の雷門の前から中継していた。これが東京のシンボルなのか、と私は愕然《がくぜん》となった。と同時に外国人でさえ捉えられない東京の顔に暗澹《あんたん》たる思いがした。
時は移り二〇〇三年、ヘリコプターで東京を遊覧飛行する機会に恵まれた。もし東京のシンボルが見つけられなければ『シャングリ・ラ』を新宿や池袋などエリアの物語として書く覚悟で搭乗した。
予想に反して上空から東京を見た瞬間、私はすぐに東京のシンボルを発見してしまった。眼下に圧倒的な存在を示していたのは、皇居の森である。それから目に入ったのは新宿御苑の森、明治神宮の森、赤坂御所の森だ。東京にある広大な敷地は全て天皇に関連する土地ばかりである。意外にも東京は緑豊かな森林都市の顔をしていた。
私がストレートに東京のシンボルを捉えられたのは、沖縄人《ウチナーンチユ》だったというのも大きかったと思う。戦後の天皇タブーのバイアスがかかっていない私は、外国人と同じ視点を持っていた。上空から見た東京は威風堂々たる君主国の顔をしている。しかし多くの日本人がこの視点を無意識に排除しているのではないだろうか。東京のシンボルは森である。それは『シャングリ・ラ』の舞台が決まった瞬間であった。
皇居の森が見えないなら見える形にしてみせよう。それが東京を包含する大きな物語の入り口になるはずだ。私はアトラスという未知の空中積層都市の姿を借りて、初めて東京の物語を紡ぐことができた。
もし展望台から東京を見渡すことがあれば、東京の中心に眠る静かな森を見つめてほしい。世界の主要都市のような派手なシンボルではないが、東京人は森を心に秘めて生きている。もしかしたら東京人は、世界一豊かな都市生活者なのかもしれない。
二〇〇五年 九月
[#地付き]池上 永一
角川文庫『シャングリ・ラ 下』平成20年10月25日初版発行