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池上永一
あたしのマブイ見ませんでしたか
目 次
マブイの行方
サトウキビの森
失踪する夜
カジマイ
復活、へび女
前世迷宮
宗教新聞
木になる花
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マブイの行方
金城《きんじよう》優子の一大事の始まりが、その月のその日だったことは、はっきりしていた。旧暦十二月一日は神事《かみごと》の総括の月で、しかも一日は拝みの日である。そんな日に祝い事を行うことは、島社会の御法度だ。しかし、金城家は周囲の大反対を押し切って、その日の午前中にオバァの七十三歳の祝いの宴を、午後には姉の幸子《さちこ》の結婚披露宴を強行した。
万事|上手《うま》くいくわけはなかった。オバァの祝いのホールと幸子の披露宴の会場を招待客が間違えたため、オバァの宴には若者が、幸子の結婚式には島中の老人たちが詰め寄せた。オバァは御機嫌ではしゃいでいたが、幸子の式は沈んでいた。そのことで両親が喧嘩《けんか》して一瞬のうちに家庭不和が訪れた。金城家の旧暦十二月一日は、そんな日だった。
罰が当たったのだ、と島の賢者はしたり顔で話す。さて、問題はどんな罰が誰に当たったかである。
*
「うそ。あたしのマブイ(魂)が落ちているですって?」
今年二十歳を迎える優子の新年の幕開けは、島のシャーマン、ユタとの出会いだった。確かに友人からぼんやりしていることが多いと指摘されるようになったが、彼女は生きている。けっしてゾンビのような妖怪《ようかい》ではない。それでも霊と交信する巫女《みこ》の目はごまかせない。間違いなくマブイが落ちているというのだ。しかも優子は、最悪のソーヌギーと呼ばれる七つの魂をいっぺんに落としているらしい。
「七つのマブイをすぐに拾わないと、あたしが死ぬですって?」
ユタは試練だといって、彼女の視界から消えた。優子は珊瑚《さんご》の砕けた島の一本道で唖然《あぜん》としていた。髪を触ろうとすると、虚《むな》しく手櫛《てぐし》が空振りする。自慢の髪だったのに、彼女はいつ髪を切ったのかわからなかった。やっとできたボーイフレンドの明がいつも褒めていた髪だった。なのに彼女はショートカットの茶髪頭になっていた。こんなスタイルは彼の趣味ではない。
「そういえば、明に会っていない」
明は姉の結婚式以来、顔を見せたことがなかった。急いで彼の家に向かおうとすると、角から明が現れた。何故か彼は不貞腐《ふてくさ》れた顔である。
「えっ? あたしがあんたをフッたですって? そんな馬鹿な」
明がいうには、今朝、髪を切って関係を絶ちたいと優子が現れたそうだ。
「そんなことないわよ。あたしが髪を切りたいわけないでしょう」
優子はいよいよ混乱してくる。さっきユタにマブイが落ちていると告げられ、明には、身に覚えのない行為を咎《とが》められた。マブイが落ちると分身が現れるとオバァから聞いたことがある。優子はオバァにマブイを戻す方法を尋ねようとした。
オバァは那覇の病院に出張してきます。探さないでください
オバァの家の戸にそのような張り紙がされており「さらばだ」と優子に別れを告げていた。オバァが正月の食中《しよくあた》りで入院するのは毎年恒例のことだ。しかしそれは方便である。ただお年玉を孫にあげたくないだけなのだ。
優子はマブイを戻す方法なんて知らなかった。なにしろ初めての体験である。
マブイのことは島の日常会話で耳にするさして珍しい言葉ではない。どちらかというと生霊に近い存在のマブイは、肉体に断りなく簡単に離れたりする。通常は落ちて一つか二つ、七つ全部落ちるなど、滅多《めつた》にあることではない。
マブイの落ちる原因は、ある種のショック体験が引き起こすものだ。優子はいつマブイが落ちたのか考えた。ショック体験で思い当たることといえば、旧暦十二月一日の大混乱の日しかない。年寄りに囲まれてキャンドルサービスをしたとき、悔し泣きしていた姉の姿を思い出す。オバァが余興のロックでノリにノッて血圧をあげて倒れ、病院送りになった。
「だから、あんな無茶なことしない方がいいって反対したのに……」
マブイを落としたら拾えばいい、と単純に理解していた彼女は、自分のマブイを探してみることにした。
「あたしのマブイを見ませんでしたか?」
迷い犬を探すように優子は行く人に声をかける。どんなマブイか、と問われたら、
「こんな顔をしたマブイです」
と自己紹介すればいい。落としたマブイは七つ。それらはどんなものなのか彼女にはわからない。もし優子と同じ顔をしたマブイが七体も島を彷徨《さまよ》っていると考えると、不気味で仕方がなかった。選挙が好きなオバァなら、肉体を含めて八票獲得したと大喜びするに違いない。
島の道は縦横無尽に入り組んでいる。背の低い石垣の角を曲がると、魚売りのオバァが、宝石箱をひっくり返したような色とりどりの魚を道で売っていた。
「あたしのマブイを見ませんでしたか?」
オバァは魚の腐ったような目を見開いて、この魚を一目見よ、と手招きする。
「ええっ。あたしのマブイのひとつは海に流れて、魚の餌になったですって?」
オバァは、この魚を食べれば、マブイは自然と体内に摂取されること間違いない、と喋《しやべ》りたてる。優子はオバァが勧める高級魚アオブダイを買わされてしまった。見れば、人の魂魄《こんぱく》を食らってきたに違いない、悪辣《あくらつ》な顔をしているではないか。彼女に睨《にら》まれてアオブダイも真っ青である。そういえば優子が青ざめているとき、明が必ず「おまえの顔はアオブダイにそっくりだ」と言う。なるほどこいつがマブイを食ったに違いない。優子はどんな料理にして食ってやろうか、と怒りながらも冷静だった。
アオブダイを袋にぶら下げて、再び角を曲がる。そこには豚の頭を売っているオバァがいた。いつもの紫のペイズリー柄の服を着て、足を抱えて座っている。
「あたしのマブイを見ませんでしたか?」
このオバァもまた饒舌《じようぜつ》な女で、豚がマブイを手懐けてペットにしているところを、お仕置きしてこの様になったと説明した。頭と耳と足と肉と内臓、どれにマブイがあるか、選ぶのはあなたの運次第、と膝《ひざ》を叩《たた》いて優子を煽《あお》る。
沖縄料理に欠かせない豚は通常、可愛い顔をした豚の頭を重宝するものだ。しかし、オバァの売っている豚は性格の悪い豚だったので、みんな揃ってブスだった。いつも、通りで今日も売れなかったと泣いているオバァを見かける。しかしそれは豚のせいばかりではない、単にオバァの性格も悪いために、客が来ないだけである。豚のせいにできる分、オバァは幸せである。
「どの豚もみんな、あたしのマブイを玩《もてあそ》んでいたような気がする……」
彼女はもっとも凶悪な顔をした豚の頭を選んだ。オバァはまさに正解、こいつが正真正銘の悪党豚だ、と拍手|喝采《かつさい》をして盛り上げた。料理は決まっている。この豚をスライスして、あえ物にするのだ。
巨大なアオブダイと豚の頭をぶら下げて、優子は島を散策していた。島がいくら小さいからといって、炎天下を歩くだけで疲れてしまう。彼女は木陰で一休みすることにした。
残るマブイはあと五つである。優子は考える。どうしてマブイなどという面倒《めんどう》なものが島人には備わっているのだろうか。しかも七つもあるとはどういう理由なのだろう。ひとりの人間にひとつのマブイ、これが筋ではないだろうか。
遠くからやってくるのは、黄色のアロハシャツに縁のサングラスのフリムン鈴木だ。彼はかつて東京のエリート商社マンだった。リフレッシュ休暇を沖縄で過ごした三年前の夏が、彼の第二の人生の始まりだった。
毎日を海で遊び、夜には浜で酒を呑《の》んで、昼まで寝ていても誰も文句をいわない島社会に、彼は最初は、唖然とするばかりだった。休暇十日目の朝、ついに彼の何かが破壊されてしまった。
彼は都会を捨てた。スーツを脱ぎ捨て、アロハシャツにドレッドヘアの男に変身していた。フリムンとは『お馬鹿さん』とでもいうニュアンスの方言だ。島人みんなが彼のことを親しみをこめてフリムン鈴木と、笑顔で声をかける。
クーラーボックスにアイスキャンディーを詰めこんで、彼は今日も楽しく商売をしている。木陰で転がっている優子を見つけて、ヘーイと声をかけてきた。
「今日はフリムン鈴木と付き合う気分じゃないの。もう、あっち行ってよ。マブイを探すのに大変なんだから」
邪険に手で追い払っても、フリムン鈴木はけっして動じない。ここはひとつアイスキャンディーでも食べて、頭を冷やしてはどうかと勧めるのだ。そしてかつての有能なビジネスマン生活で培った巧みな話術で、彼女を陥落させる。
まず先日、商品のアイスキャンディーを作っているとき、不思議な火の玉が冷蔵庫に入っていくのを目撃したと証言した。そして彼がそれを逃げないようにロックしたそうだ。そのために半日を費やし、すっかり商売することを忘れたほどだという。
「つまり、このアイスキャンディーの中にあたしのマブイが凍ったまま保存されているというわけね」
フリムン鈴木は、島人にしては随分と理解が早いではないか、と感心してクーラーボックスを開ける。優子は彼の手作りアイスキャンデーを気に入っていた。グァバ味、シークァーサー味、マンゴー味と島の熱帯果実をふんだんに使ったそれは、島のヒット商品になっていた。
島外持ち出し禁止のローカル色が受けて、彼のアイスキャンディーは売れに売れている。優子はパッションフルーツ味のアイスキャンディーを食べた。
「あっ。当たっている」
『あたり』と書かれた棒を振って、これで三つ目のマブイを取り戻したと喜んだ。しかし彼の商品はすべて『あたり』なのが隠れた人気の秘密であって、『おまけ』は彼の歌が聞けるだけなのだ。まってましたとばかりにフリムン鈴木が三線《さんしん》を奏で、島の民謡を歌ってくれた。
実はアイスキャンディーは彼にとって、紙芝居屋の駄菓子と同じ扱いである。あくまでも本業は歌手だと自負している彼は、とてもシャイな男なのだ。
アオブダイと豚の頭とアイスキャンディーの『あたり』の棒を持って、優子は残り四つのマブイを探しに出かける。途中で友人から、化粧の濃さを指摘された。急いで鏡を覗《のぞ》いてみると、今までしたこともない、紫色の口紅をさした死に顔メイクではないか。次第に優子がマブイの趣味に侵されている。落ちたマブイと肉体は感応するものだ。マブイの個性が肉体を支配したら、優子は死んでしまう。
「あたし、こんな顔じゃない」
きっとマブイのひとつが流行に敏感なのだろう。しかしどこかダサイのは否めない。服はどう見てもヤンキーとしか思えない補色の組合せのファッションなのだ。早くマブイを見つけなければ、島の笑い者になりかねない。
観光客を乗せた水牛車の後ろにこっそり座って、優子は化粧を直していた。ポーチの中身は見たこともないブランドの化粧品ばかりだ。どうやら流行に敏感なマブイは、手癖も悪いようだ。笑い者どころか、このままでは犯罪者になってしまう。
車中の観光客の子供が、ジロジロと優子を見ている。そして母親にこっそりと耳打ちするのだ。気になって耳をたてると、なんと『あのお姉さん、さっきそば屋にいた人だよね』と話しているではないか。マブイのひとつは沖縄そば屋でアルバイトをしているらしい。
「マブイめ、逮捕してやる。あたしに断りなく働くんじゃない」
水牛車を飛び降りて、そば屋まで駆けていく。いらっしゃいませ、と声をかけたウェイトレスの声は優子の声そのものだった。優子の顔を見るなり、エプロン姿の女は裏口から遁走《とんそう》していた。
その女もやはり紫色の顔をしていた。同じ女として、いや同じ人格としてあんな恰好《かつこう》だけは許せなかった。
追いかけようとすると、店の女主人が三人分のそばを給仕しろと膳を渡す。
「あたし、違うんです。よく似ているけど違う人なんです」
そんな理屈が通用するほど、世の中は甘くない。しっかり五時まで働かされて、優子はボロ雑巾《ぞうきん》のようにくたくたになっていた。
「あの、アルバイト料をください……」
と女主人に請求すると、あんたタダで働かせてくれって頼んできたのよ、とにべもなく帰されてしまった。単に優子のマブイは暇だったのである。よく考えてみたら、霊体のマブイが食っていくために働くわけはないのだ。
トボトボと歩いていると、ギャッという悲鳴が聞こえた。前を見ると野菜売りのオバァが腰をぬかしていた。優子そっくりの女がオバァの籠《かご》に飛び乗って、押し倒したのだという。
優子は籠の品を見た。やはり、どうにも解せない形のニンジンがあるのが気になって仕方がない。
「オバァ、これは一体なんなの?」
人の形をしたニンジンは、へたの部分が茶色の短い葉で、そのすぐ下の口に見える括《くび》れが紫色をしていた。優子は勝ち誇ったようにそのニンジンを力強く握った。紫色の括れが開いて、ムンクの「叫び」状に悶《もだ》えている。
これはマトゥラグーナという野菜だよ、とオバァは夕日に金歯を輝かせる。これを畑から引き抜くときは犬に引かせないと、マトゥラグーナの叫び声で耳を潰《つぶ》してしまうといってオバァは笑った。
なんで島にマトゥラグーナがあるのかは謎だが、このオバァは珍奇な野菜を売ることで有名な人物だ。なんでも島に存在するシャーマンたちには人気なのだそうだ。
「これ。これを四本買うわ。絶対にマブイが入っていそうな形だもの」
アオブダイと豚の頭とアイスキャンディーの棒とマトゥラグーナを四本携えた彼女は、すっかり御機嫌だった。さっそくこれらを夕食にするのだ。マトゥラグーナは野菜チャンプルーにするつもりだ。アイスキャンディーの棒は、盛りつけの最後に卒塔婆《そとば》のように刺せばいい。これで彼女のマブイは肉体に吸収されるのである。
明が息をきらせて走ってきた。優子を捕まえるなり、いきなり抱擁するではないか。こいつもまたマブイを落としているのではないだろうか。明は抱きしめながら結婚してやるという。
「なんで、結婚してやるのよ」
明は戸惑いながら、本当に優子なのか、と確かめてくる。彼がいうには、さっき水牛車を追い抜いてダッシュで走ってくる優子に掴《つか》まったというのだ。そしてエプロン姿の優子が、お願いだから結婚してくれと泣いて謝ってきたそうだ。
明は申し出をすぐには受けなかったが、優子の熱心さに心を打たれた。彼がカッコよくプロポーズをしようと髪を直している間に、優子はまた遁走したそうだ。明は彼女を追いかけて、やっと捕まえたと安堵《あんど》していたのだ。
「わかったわよ。でもあたしの髪が伸びるまで待ってよ。この髪にウエディングドレスは似合わないもの。今にもパンクを歌いそうだわ」
明がアオブダイと豚の頭を持ち、優子がマトゥラグーナを胸に抱えた。
「明にこれあげる」
アイスキャンディーの棒を渡すと、彼はそれを口にくわえた。俺もさっき当たったんだぜ、と明が自慢して歩いていると、今朝会ったばかりのユタのオバァがやってきた。
「オバァ、マブイを取り戻したわよ」
彼女が今日の経緯を話すと、ユタは、そんな馬鹿みたいな方法でマブイが戻ってくるはずはない、と呆《あき》れている。マブイを戻したいならちゃんと儀式を執《と》り行わなければならないのだ。優子は商売人たちに騙《だま》されていたことを知り、憤慨する直前だった。
「だったらなぜ、それを先にいわないの」
ユタは怒りに震えている優子の足元に落ちていた石を三つ拾って、
マブヤー マブヤー ウーテーク
とお呪《まじな》いを唱えた。明は、そんなの常識だろうと腹を抱えて笑っている。これで優子のマブイは戻ってくる。こんな簡単な方法で戻せるなら島にシャーマンなどいらないのではないか。
「何が試練よ。このエセユタ!」
優子の声が通りを勢いよく抜けていく。ユタは代金をしきりに請求してくる。優子はアオブダイと醜い豚の頭をオバァにやっただけだった。
「この恩知らず」
と無視して歩くふたりにユタは罵声《ばせい》を浴びせ続けた。
夕暮れで島の道はオレンジ色に焼けている。フリムン鈴木の下手な民謡が微《かす》かに聞こえてくる。最終便の船はもう出港した時間だ。宿泊施設が少ない島では、夜には島人だけになってしまう。魚売りのオバァも、豚肉売りのオバァも、そば屋の女主人も、野菜売りのオバァも、ユタも、今日の仕事はお終《しま》いである。
「結婚式はいつにする?」
明の腕を捕まえると、彼は、さっき今年の旧暦十二月一日にしなければ絶対に嫌だといったのは優子だろう、と小突いた。
「マブイめ。また脱走するつもりなのね」
力まかせにマトゥラグーナをへし折ると、ギャッという叫びが聞こえたような気がした。
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サトウキビの森
背の高いサトウキビの森は夏の日差しのなかで豊かに実り、痩《や》せた赤土の大地を覆っている。珊瑚礁《さんごしよう》の海からやってくる南西の風を絶え間なくうけて育くんだ緑の甘さを幹にたっぷりと宿して、十二月の収穫を待っていた。
でこぼこの農道には三日前に農家のオジィが付けた軽トラックの轍《わだち》が走っているだけで、今日になってもその上に重ねられた足跡ひとつない。島の内陸にあるサトウキビの森は今日も深く静かである。
数十分ばかり経った頃だろうか、サトウキビの森の中から風のざわめきと逆らって真っ直ぐに農道に向かってくる音があった。棒で地面を叩《たた》く音がする。風が吹いて葉先が割れると、リボンで飾った麦わら帽子がみえた。細い腕の先に棒を持ち、森を掻《か》き分け掻き分け歩いてくる。サトウキビの森に三日ぶりに現れたのは島の少女だ。彼女は農道の前までようやく辿《たど》り着くと、あたりをきょろきょろと見渡した。
「確かこっちだったかなあ。ウージ《サトウキビ》はみんな同じに見えるさぁ」
彼女が出た農道は小高い丘になっている。海岸から駆け上った風は牧草地を飛び越して、最初にサトウキビの森にあたる。彼女は麦わら帽子を押さえて風と対峙《たいじ》した。
「ダール(そう)ここ、ここ」
ワンピースの裾《すそ》を風にはためかせて、彼女はここが去年と同じ場所であることをようやく確認した。
限りなく土色に近い肌、大きな瞳《ひとみ》をラクダのようなぼさぼさ睫毛《まつげ》で縁取り、意志の強そうな濃い眉毛《まゆげ》をした東子は典型的な沖縄女の顔をしている。
大股《おおまた》で歩き、大地を自由に跳ねる彼女は、ワンピースくらいでおとなしくなる少女ではなかった。しかし、今日は特別である。先週、洋介から葉書が届いた。指定された場所は、去年の夏に初めて会ったこのサトウキビの森の前だった。
去年は出《い》で立ちこそ違え、やはり風の吹きつける入道雲の多い日だった。彼女はよれよれのTシャツに穴の空いたジーンズを穿《は》き、野球帽を被《かぶ》っていた。あるとき、突風が吹いて帽子が飛ばされてしまった。彼女は帽子を追いかけたが、帽子は腹に風を受けとめてなかなか捕まらない。前方に観光客らしき男がいて、帽子を取ってくれと頼んだ。それが洋介である。彼は大学最後の夏休みを沖縄で過ごすためにやってきたのだと言っていた。
その洋介が今年もやってくる。そう思うと、いてもたってもいられなくなるのだ。この日のために彼女は街でワンピースと麦わら帽子を買い、今年は女の子らしく迎えてやろうとしている。今日のファッションは祖母からも御墨付をもらったぐらいだ。
出掛ける前に彼女は祖母の家に立ち寄った。祖母は東子をみるなりこう言った。
「東子、イッペーチラカーギーヨー(とっても可愛いよ)。ほんとにネーネー(娘さん)になったね。オバァはシカンダ(びっくりした)さぁ」
「ハーメー(おばあちゃん)、本当にそう思う? これからウージで人に会うんだけど、綺麗《きれい》に見えるかな。このワンピース、似合っているかな」
東子は庭のなかで舞いあがっていた。裾を大きく翻し、はしゃぐたびに肩の紐《ひも》がずれかかる。祖母はそんな東子に温かい微笑みを与えた。
「こんなに元気な東子を可愛いと思わない人はひとりもいないさぁ。上等グァー、上等グァー。自信を持って会ってきなさい」
祖母に勇気づけられ、いつもずれ落ちる右肩の紐を押さえると、熱い空気を軽やかに引き裂き走っていったのだ。
ここに来るまでの間、こんな恰好《かつこう》をした自分をはたして洋介がすぐにわかってくれるかどうか、はにかみながら考えていた。出会ったらなんと言ってくれるだろう。お世辞でも「綺麗になったね」と言ってくれるだろうか。それともあまりにも見違えて通り過ぎたりしないだろうか。それとも……とあれこれ洋介の態度を思い浮かべていた。
「もう十六になったんだもんね。去年より大人になっているはずなんだ」
ボーイッシュな彼女は普段化粧品になんて目もくれないのに、今朝ないしょで姉の口紅を手に取ってみた。みようみまねで、唇の輪郭をなぞると厚い唇がひときわ大きく描き出された。初めて塗った口紅はなんだかそこだけが急に十は歳をとったようにみえた。いつも柔らかい唇が緊張している。東子は姉の化粧品をあれこれ探ってみて、どれも自分の顔に馴染《なじ》まないことに苛々《いらいら》した。とりあえず口紅をさしただけでも、なんだか特別の日に相応《ふさわ》しい儀式をしたような気分になった。
化粧品を手に取ったり、祖母に激励を受けたりと、ここに来るまでの間は慌ただしかったものの、いざ現場に来てみると誰もいないのは退屈だった。ゆるりと何処か間の抜けた景色は時間が緩慢になっている。風が吹けば急速に時間が流れ、凪《な》いでいると完全に止まってしまう。それでも際限なしに気温が増していた。彼女は景色をぼんやりとみること以外に何もすることがない。
「あっガジャン(蚊)」
どのくらい時間が過ぎたのだろうか。気がつくと全身を蚊にくわれていた。ふと、幾つくわれたのか数えてみると三十はくだらない様子である。上腕のリンパ腺《せん》に沿って乳房の近くまで、まるで副乳のように赤い斑点《はんてん》が連なっている。蚊は約一分おきに身体を刺していたから、おおよそ三十分が経過していたことになる。そのうちの八匹ばかりが彼女に叩き潰《つぶ》されて皮膚にへばりついていた。惨めにはらわたを噴き出し、蚊は押し花のように潰れている。彼女のワンピースには春の花柄、褐色の肌には赤い夏の蚊が八輪咲いている。
遠くからバイクの音が一直線に聞こえてきた。バイクが視野に入るよりも先に、おおよそ誰かの見当はついた。あの軽薄でお気楽なエンジン音は近所に住んでいる政人《まさと》に違いない。
「東子どうしたんだよそのスガイ(恰好)は。フリ(気が変になっ)たのか」
50ccバイクが止まらないうちに厭味《いやみ》たっぷりの声がかかった。
「カシマサヨ(うるさいわね)。あたしは人を待っているんだから、邪魔しないでよね」
彼女は手に持っている棒でバイクの尻《しり》を叩いた。
「なんでそんなボーギラー(棒)持っているんだよ」
「ハブ避《よ》けの棒よ。早くマーガラー(どこか)に行けってば。これから洋介さんが来るんだから」
「ああ、洋介って去年も来たあのヨーガリー(ガリガリに痩せた)のナイチャー(日本人)か。そうか、あいつを待っているんだ。それで今日はハブを警戒しながら命がけの逢引《あいびき》ですか。で、もう姦《や》ったの」
政人はいつも人を馬鹿にしたような言い方しかしない。
「そんなことしてないわよ。あんたみたいに姦る姦らないの二元論で物を考えているような単純な人じゃないんだから。洋介さんは立派な人よ」
「じゃあ去年なにをしたっていうんだよ」
東子は洋介との思い出を昨日の出来事のように生き生きと話し出した。
「洋介さんと竹富《たけとみ》島に行ったり、西表《いりおもて》島のマングローブをみに行ったわ。洋介さんは大学で生物学を専攻していて、とても頭がいいのよ。誰かさんとは大違いね。洋介さんから勉強を教えてもらう代わりに、観光客の来ないビーチを案内してあげたの。とっても喜んでくれたわ」
「で、何もなかったのか」
政人はそのことばかりが気になるようだ。
「あんなヨーガリーと姦ったってつまんないぞ。男はな、グテー(力強い身体)よ。グテー。ワン(俺)みたいにな」
知性も教養も感受性もない政人の自慢といったらそんなものくらいだった。大柄な体躯《たいく》はおろか顔面の筋肉まで隆々としている。彼が笑うと、顔面筋肉の解剖図をみているようだ。
「瞼《まぶた》にまで筋肉をつけているあんたと洋介さんとは根本的に構造が違うの」
「それで洋介はいつ来るんだい。なんでこんなところで待ち合わせなんだよ」
政人はますます小馬鹿にした様子でせせら笑った。
「去年もここで洋介さんに会ったから、ここで今年も待っていることにしたの」
東子は大きな唇から大粒できちんと揃った乳白色の歯をこぼした。よくみると前歯に口紅が少しだけ付着している。政人には何か猥褻《わいせつ》なものをみたように思えてならなかった。彼がいつもみる東子の清潔な歯が汚されているような気がした。
「ワン(俺)あの男好かん。ああいうタイプの男は絶対に約束を守らないね。化粧なんかして女装しても無駄だぞ。つい色気づいちまったんだろうけど、はっきり言ってみっともないよ、そのカッコ」
政人は軽快に開く口腔《こうこう》から勢い余って、手品師が口から万国旗を引き出すように次々と悪口雑言を紡ぎだしてみせた。そんな政人の台詞《せりふ》を聞くたびに東子の表情が凍り、大きな瞳が小刻みに揺れた。いつの間にか政人はなにも言わなくなった。東子は真っ赤になった小鼻を震わせて麦わら帽子を目深に被り直した。
「早くマーガラーに行けってば。どうせあたしはナイチャーに騙《だま》されたフラー(馬鹿)よ」
政人はひどくばつが悪い様子で、頭を掻《か》いている。ようやくバイクに跨《また》がるとさっきとはうって変わったしょぼくれたエンジン音でのろのろと走り、逃げるように一番手前の角を曲がった。
疲れた彼女は、農道にそのまま膝《ひざ》を抱えて座ることにした。身体をかがめると服の隙間からぺしゃんこの裸の胸がみえた。
「やっぱり洋介さんは来ないのかなぁ」
砂利の農道に落ちる影が適度な涼みになっている。サトウキビの森に土と葉の芳香が漂っていた。匂いをかぎわけるとその奥には微《かす》かに、精製されてできる黒砂糖の素朴な香りがした。
「あたし、この香り好きなんだ」
東子が目を閉じて嗅覚《きゆうかく》に意識を集中すると、黒砂糖の菓子に囲まれている気分になる。口に含むと最初に酸味が一瞬だけ広がり、それが次々と深い甘さに弾《はじ》けていく。そして最後は輪郭の強い香りだけが残った。
去年の夏を一緒に過ごした洋介は、島のあちこちに興味を示していたものだった。
洋介は好奇心が強い、知的な男性だった。彼は品がよく、物事を順序だてて考える。帰りはきちんと家まで送ってくれるし、話の内容は抽象的でよくわからないことばかりだったけれども、そこが恰好《かつこう》よかった。通りすがるたびに猥褻な話しかしない政人とは雲泥の差である。彼と一緒にいると、なんだか数段上等の男性と付き合っている気持ちになれた。
「洋介さんは約束を破る人じゃない」
農道の数百メートル先から人が歩いてくる。一瞬彼女は目をみはった。しかし遠景にあるのは、腰の曲がった老婆の姿だった。東子は溜《た》め息《いき》をついた。老婆は時をゆっくり刻むようにこちらに近づいてくる。
東子は無視して顔を反対側に背けた。約束の洋介は未だ現れず、出没するのは軽薄な男と老婆だけである。彼女は律儀に約束を守っていることが惨めに思えてきた。その間にも蚊が東子の肌を刺し、さらにもう十ヵ所もの刺され跡を残していた。痒《かゆ》さが堪えられず蚊を一匹叩き殺して振り返ると、老婆は先ほどよりも近くなったとはいえ、まだ遠くを歩いているのだ。最初に老婆を発見してからどう少なく考えても十分以上は経過していた。普通の足ならとっくに通り過ぎていてもいいはずだ。
「なんてヌッサン(遅い)オバァなんだ」
オバァを捕まえて世間話でもして洋介が現れるまでの時間|潰《つぶ》しでもしようかと思っていたのに、こんなに悠長ではたまったものではない。しかし老婆の足はすこぶる穏やかで、右足を前に出して、左足が地面から離れるまでの時間が普通の人の五、六歩分に相当する。東子は手招きして老婆を急《せ》かした。
「ヘークナー(早く)。オバァ、ヘークナー」
彼女の手招きを視野に捕らえたオバァは、余裕を持って手を振りかえしてきた。オバァの手振り加減もこれまた、ゆったりゆったりと大きなガラスでも拭《ふ》いているように頭をのけ反らせて両腕を百八十度動かしている。まるで無人島にひとり残されて、遥《はる》か沖にいる船をみつけて救助を求めているようだ。
オバァの反応が面白くて、東子も両手を上げてジャンプした。彼女が跳ねるたびにワンピースがパラシュートのように開き、下着はおろか臍《へそ》まで見えた。遠くで傘のように閉じたり開いたりしている物体をみて、あれはきっと、私にも同じことをしろという合図ではないだろうか、と浅はかなオバァは考えた。そこで東子のようにジャンプしてみることにした。しかしオバァにはパラシュートのように開く裾《すそ》はなかった。それどころかオバァはジャンプするためのバネもないようだ。気持ちは跳んでいるのだろうが、せいぜい腰や、膝が伸縮する程度である。
「なんで屈伸運動をしているのかしら。イカれたオバァね」
東子はジャンプすると空中で一回転クルリと身体をひねった。広がる裾が腰を中心にして捩《ね》じれる。老婆は対抗してか、やはり回転運動を始めた。足腰が弱いと見えてクルクル回るといった芸当はさすがにできないようである。まるで老朽化した失速寸前の人工衛星のようだ。それは間もなく大気圏に突入して火葬されてしまう直前の姿にみえた。
「調子のいいオバァね。ヘークナー、ヘークナーってば」
東子の言う通り、複雑な運動を求められたために、オバァは歩くことを忘れてしまっていた。さっきからずっと同じ場所に立ったままだ。きっとオバァはなんで歩いていたのかすら覚えていないだろう。東子は腕を素早く振って走れと合図した。遠くにいるオバァはそれを理解したようで、再び前進を始める。しかしさっきまでの運動によほど疲れたとみえて、足取りは以前よりもはるかに遅くなっていた。どうやらオバァのバッテリーの残量が少なくなってしまったようだ。多分オバァはどんなおもちゃのロボットの歩行よりも遅かった。
空を見上げると、南から現れた雲がオバァを後ろから次々と追い抜いてゆくのがみえた。雲よりもゆっくり歩く老婆が今日の夜までにはたして目的地に到着することができるのか疑わしい。後ろから津波でも襲ってこないかぎり、オバァは走ったりしないだろう。
するとオバァが手持ちのバッグから折り畳み傘を取り出して開いた。それは血よりもみっともない派手な赤い傘だった。オバァのさした傘は彼女の体躯《たいく》よりずっと大きく、全身をすっぽりと隠してしまうほどだ。そんなオバァの姿がカタツムリやヤドカリといった、とにかく足の遅い動物を連想させてならなかった。
「こんなに天気がいいのに。やっぱり頭がおかしかったんだ」
東子はゲラゲラ笑った。きっと傘を開いたために空気抵抗が増したのだろう。オバァの足はますます遅くなっていた。
突然、インクをこぼしたような黒い雲が空一面に広がった。サトウキビの森が、みるみるうちにすっぽりと影の中に入り、空気が張りつめてきた。
「スコールが来る!」
彼女が言葉に出すよりも早く、大粒の雨が機関銃のような射撃を始めた。雨が降る前の予感も前触れもなく、いきなり高密度の雨が斉射された。
「きゃあ、雨、雨、傘を持ってきていないよ」
叫び声すら雨音に消されてしまっていた。サトウキビの森を貫通した雨が、方々の葉に当たって怒号ともつかない音をたてている。雨宿りできる場所を探したが、辺りに雨をしのげる場所はどこにもなく、ただ立ち尽くすしかなかった。しかし雨宿りはすぐに諦《あきら》めることができた。降り始めた最初の十秒でこれ以上|濡《ぬ》れることはなくなったからだ。
「オバァが傘をさしたらスコールになるなんて、ユクシー(こんな馬鹿な)」
突発的なスコールなんか予測できるわけがないのにオバァはこれをやってのけた。サトウキビの森は空気の入りこむ隙間もないほど水浸しの空間になっていた。もし彼女の周りをガラスの器が囲んでいたら、五分で水族館になりそうな豪雨である。激しいスコールは東子の視界を半分以下に落としていた。しかしどうにかオバァのさす赤い傘がぼんやりと確認できた。オバァは一斉に落ちてくる雨の重みに耐えて、傘を持っているだけで精一杯のようだった。
「もうこうなったらやけくそだ」
覚悟した瞬間、ドラムのように鳴っていた雨がピタリと止んだ。スコールには叙情的な始まりも、ドラマチックな高まりも、衰えてゆく終息も、何もない。まるで台所にある食器を投げつける年増のヒステリー女のようなスコールだ。もう空を見上げても一粒の雨すら落ちてこなかった。白けたような青空が晴れ晴れと澄み渡っていた。
それにしたってこの無様な姿を一体どうしてくれよう。おろしたての服がぺたりと彼女の身体にへばりついて、真空パックの食品のように痩せた身体のラインをことさら強調している。
スコールの後の空気は清澄で、農道の穴に水溜まりが点在している他は、雨が降っていたという証拠がどこにもなかった。いつの間にか遠くを歩いているオバァの赤い傘がたたまれて、再び匍匐《ほふく》前進よりも、五体投地よりも遅い前進が始まっていた。
また人が現れた。オバァの後ろからせっかちに誰かが接近してくる。今度は自転車で高速移動中の白髪のオバァである。
「遅いオバァと速いオバァが現れた」
速いオバァは、ビデオを早送りしているように、とにかく急いでいる。何を急いでいるのか知らないが、一心不乱になって猛進中だ。この日差しで日射病にやられたのか、すこしばかりハイになっているようだった。そんな彼女を遅いオバァが呼び止めたが、気がついて止まったのは数十メートル先だった。速いオバァが引き返すと、遅いオバァは巾着《きんちやく》から封筒を手渡した。そしてまた速いオバァが走り出した。東子は速いオバァを呼び止めた。
「あのオバァが渡したものは何?」
速いオバァは息を切らせている。
「香典さぁ。さっき父親が階段から転げ落ちて運ばれたんだって。もうデージ(大変)さあ。病院に行かないと」
「で、オバァはキッサ(もう既に)香典|貰《もら》ったのか」
「順番が違っても同じさぁ」
と、よく考えもせず、再び自転車を漕《こ》ぎだした。カラカラに干からびた足が高速でペダルを回転させている。後ろで遅いオバァが手を合わせていた。自転車は勢いよく、角に消えた。するとサトウキビの森を縫って急ブレーキの甲高い音が鳴り、すぐさま衝突音が聞こえた。
「エーッ(おい)、オバァ大丈夫か。シナンケヨー(死ぬなよ)」
誰かの声が聞こえてくる。速いオバァは事故に遭ったらしい。東子は勘違いをしていたようだ。あの香典は速いオバァ自身に渡されたものだったのだ。意表をついたフェイントに危うく騙《だま》されるところだった。今回の予知はスコールと違って構造が複雑である。
「ちょっと待てよ」
東子は考える。もし、遅いオバァが速いオバァを呼び止めないで、あのまま直進させておけば事故に遭わずにすんだのではないかと。だから香典はやはり速いオバァの父のものではないか。話がややこしくなってきた。「順番が違っても同じさぁ」と言っていたが、本当に順番が違ってしまったようだ。
速いオバァは農道に現れて消えるまでに命がなくなり、遅いオバァはまだ存命である。やはり人生はゆっくり生きようという示唆なのだろうか。
オバァが路肩に向かって移動し、また傘を開いた。
「アキサミヨー(ひゃあ)。また雨が降るのか」
東子は茂みで拾った段ボールの板を頭に翳《かざ》し、半乾きの裾《すそ》をほとんど下着がみえる高さまでたくしあげた。
オバァは傘を道路側へ横向きにさした。まさか横向きに雨が降るのだろうか。するとオバァの後ろから乗用車が通りすぎ、水溜《みずた》まりにできた泥水をはねた。どうやら今度は泥水を予知したらしい。オバァの能力は足の遅さを補ってあまりあるものがある。
「案外たいしたオバァなのかもしれない」
オバァを追い抜いた車は一直線に東子を目指してくる。街ではあまりみかけないスポーツカーだった。きっと観光客が借りたレンタカーなのだろう。東子の側まで来ると車はスピードを落としてきた。
「やあ、東子ちゃん。なんて恰好《かつこう》しているんだい」
車の中から降りてきたのはずっと待っていた洋介だ。慌てて裾を解くと、頭の上に段ボールが落ちてきた。
「一年ぶりだね。ちっとも変わっていないよ」
洋介は細面の顔で懐かしそうに笑う。
「洋介さん、就職決まったんでしょ。あとどれくらい島にいられる。あたしどこに行こうか考えたんだ。唐人墓に行こうか、そこは去年行ったっけ。あと、あたしのおばあちゃんにも洋介さんを紹介したいし」
東子が洋介の細い腕を掴《つか》んだ。彼の腕は肩からぶらりと力なく垂れ下がっているようで、東子の腕に揺すぶられて共振した。随分と冷たい腕をしているものだと彼の肌の感触に躊躇した。
「ちょっと、東子ちゃんまいったな。すこし落ち着いてよ」
彼女に圧倒された洋介は半ば呆《あき》れている。
「わかったすこしだけ黙ってあげる。ただし十秒だけね」
いたずらっぽい笑顔を向けると、整列した歯がずらりと現れた。まるで麻雀《マージヤン》で「ロン」といって七対子《チートイツ》を出されたときのように、上下の歯が見事に噛《か》み合ってペアになっているのだ。
『人の歯ってこんなにたくさんあるんだな。あっ血がついている』
洋介は歯の標本でもみるように冷静に観察していた。
ふたりのそんなやりとりの最中にも、オバァはなお接近中である。もはやオバァの存在なんて興味の対象外になっていた。初めて出現を確認してから数十分が経過しようとしていた。遠くにいて小さかったオバァは順調に巨大化しつつある。
一息ついて再度スコールを浴びせようとしたときだ。ふと洋介が乗ってきたスポーツカーに目がいった。つい洋介の姿ばかりを追って全く気がつかなかったが、スポーツカーの助手席には誰かが乗っている。彼女は目を凝らした。
「あっ」
助手席に座っているのは女性である。東子の呼吸が止まって、今まで溜まっていた洋介への言葉が「あっ」という一言で一瞬のうちに蒸発してしまった。とっさに「みちゃいけない」という強迫に囚《とら》われたが、瞳《ひとみ》がいうことをきかない。もし東子の身体が風船でできていたら、さっきの一言でガスが抜けきって萎《しぼ》んでいたことだろう。ざわざわとサトウキビの森が鳴り、スコールで葉についた雨水を落としている。
車内の女性に釘付《くぎづ》けになっている東子に、洋介はようやく自分のタイミングをみつけたらしく中の女性に手招きをした。車から降りたのは色白で髪の長い女性だった。
「紹介するよ、こちらは飯塚恵子さん。彼女がどうしても今年は一緒に沖縄に行きたいって言ったものだから連れてきたんだ」
洋介は照れ笑いを浮かべた。
「はじめまして、あなたが東子ちゃんね。洋介からいつも話を聞かされていたわ。可愛らしい娘《こ》ね。どうぞよろしく」
控え目で穏やかな声だった。絹よりも肌理《きめ》の細かい白い腕、ほっそりとした長い脚、ワンピースが似合う女性とは彼女のことだろう。恵子がよろしくと手を差し出した。東子は反射的に小麦色の手で握り返してやる。
「こいつ都会育ちで東子ちゃんみたいに逞《たくま》しくないんだ。いつも俺が側にいないと何もできないから、いっちょ鍛えてやってくれよ」
どうしてなのか自分でも驚くほど感情が消失していると思った。車中の恵子をみつけた瞬間にすべてが終わった。あとは説明だけである。だらだらと意味のない時間が流れて、空間が弛《ゆる》んでいく。
「あなたって洋介が言ったとおりの女の子ね。私も今年の夏は海で焼いてあなたみたいな小麦色になるつもりよ」
恵子が微笑みかけた。彼女は東子のように奥歯までみせて笑ったりはしない。恵子の顔は化粧品を適度に要求する顔だった。上品な唇、切れ長の目、細い眉《まゆ》、何ひとつ東子にあたるものがない。恵子が太陽を背にして立つと、彼女の影がちょうど東子に重なった。
「こんなはずじゃなかったのに……」
「どうしたんだよ。元気ないじゃないか。俺たちこれから市内のホテルに泊まるんだけど。どうだい一緒に車に乗って行くかい」
恵子が洋介の腕をとった。ふたりはひとつの雰囲気を共有している。東子はもう一度、七対子の歯をみせて笑った。
「いいよ遠慮しておく。あとで会いに行くからさ。さっきのスコールでビショビショなんだ。車のシートが濡《ぬ》れちゃうよ。ほら麦わら帽子だってこう」
頭に被っていた帽子を掌《てのひら》で押さえつけると、顔を伝って水が滴り落ちた。それでも足りないのでもう一度強く帽子を押さえて、ポタポタと顔を濡らした。ふたりが声をたてて笑う。
ふたりの車が消えてしまうまで両手で顔を隠すことはやめようと思った。洋介の車が通り過ぎると水しぶきがあがり、裾にすこし泥がついた。東子はオバァのようにスコールも不慮の事故も泥も予知できない。脚についた泥はすぐに彼女の肌と同化して、何でもないさと慰めてくれた。
農道に、冷たい風が過ぎていった。麦わら帽子をとると、濡れそぼった赤毛がぺしゃんこに潰《つぶ》れていた。
のっそり、のっそり、と満を持したようにオバァは今まさに東子との最短距離に到達しようとしていた。せっかく車が消えたのに、今度はオバァが軌道を離脱するまで待たなければいけない。仕方なく東子は愛想笑いをした。オバァも応《こた》えて笑い返す。皺々《しわしわ》の口のなかには白い犬歯だけが残っていた。
オバァの足が止まった。止まったといっても元々緩慢な動作なのだから、次に踏み出す一歩が限りなく遅いだけである。左手に持った巾着《きんちやく》がぬっと手前に伸びて東子の前で止まった。それは弁当の汁が滲《し》みでたような海老茶《えびちや》色の染みがついていた。次に巾着のなかを攪拌《かくはん》するようにまさぐりだした。そこにはこれから起こることが予知されている。こんな最悪の気分のときに、これ以上の不幸はいらない。彼女は今、立っているのもやっとだった。
オバァは初めに赤い折り畳み傘、次に白髪がついた櫛《くし》、小銭で膨れたがま口財布、と東子に手渡してゆく。最後に渡されたのはなんと預金通帳だった。開いてみると乱脈に引き落とされて残高が五千二十円しかなかった。
「オバァ、ヌードゥシーリャ(何やってんのよ)」
こっちはオバァの荷物整理を手伝っている場合じゃない。東子の腕はガラクタでいっぱいになった。そんなことはお構いなしとばかりに鷹揚《おうよう》なオバァはひとつひとつゆっくりと巾着を漁《あさ》っていた。
「マッチョーチミソーリヨー(ちょっと待ってね)」
人懐っこそうに皺を折り畳んだ隙間からこぼれたオバァの瞳は、透き通った明るい茶色をしていた。なんでも見透かしてしまいそうな、それでいてとても優しい瞳だった。
「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ウサミチョーキー(取っておきなさい)」
東子の手をとって包み込むように渡したのは、紫色のペイズリー柄のハンカチだ。
「なんで、オバァ。これ何ね」
オバァは笑ってまたゆっくりと歩き出した。腰を九十度に折ったオバァの後ろ姿のシルエットは頭も胴も隠れて、下半身だけで歩行する妖怪《ようかい》にみえた。しばらくオバァを見送る。満潮に達した潮がゆっくりと干《ひ》いていくようにオバァの下半身が小さくなっていく。
麦わら帽子もすっかり乾ききっていた。
サトウキビの森が潮騒《しおさい》に似た音をたてて鳴り響く。
東子が目を閉じると香ばしい匂いが漂ってきた。ここは優しい黒砂糖の森。静かで豊穣《ほうじよう》な甘い森。その懐に抱かれれば、心がほぐれてくる。
東子は頬にそっとハンカチをあてた。
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失踪する夜
島に十八番街と呼ばれる旧《ふる》い歓楽街がある。名前の由来はしらないが、誰もがそこを声を顰《ひそ》めてそう呼ぶのだ。狭い一本道の一区画に百軒を超す中小酒場が密集していて、ひどく薄暗いネオンが灯《とも》る心《うら》寂しい通りだ。ネオンの明かりをすべて足しても、月明かりほどにしかならない。殊に夏の夜、建物の間を縫って這《は》い出た生命力|旺盛《おうせい》な木々の梢《こずえ》に光が紛れると、おそらく星明かりにも満たなくなるのだ。
そこは歓楽街のなれの果ての形態をしていた。ひと夏が巡るごとに風化を増していく。白日の光に照らされるたびに看板は色|褪《あ》せ、コンクリートにひびが入っていく。
そんなさびれた場所なのに、何故か十八番街は島でもっとも賑《にぎ》わう健康的な商店街と、優良市民の多く住むまっとうな住宅地の間に位置している。
繁華街に行く人たちは一度必ず、そこを通らなければならない。十八番街の通りは陸にありながら、橋の役目を担っていた。それゆえ昼間の人通りはそれほど少なくはない。善良な女たちは早足に十八番街を駆け抜ける。子供たちは通りの持つ妖《あや》しさに魅《ひ》かれていつまでもウロウロとたむろい、十回も夏が過ぎる頃にはすっかり店に入りびたるようになる。
十八番街に通うホステスたちはきまって五十代以上の強者《つわもの》のオバァばかり、寄りつく客は泥酔者ばかり。たまに狂気に満ちた人物が刃傷沙汰《にんじようざた》を起こすけれども、それらは多分に旧い歓楽街が持っている要素のひとつで十八番街に固有のものではない。妖しさとはまた違う話だ。
寂れ加減が妖しくないとすれば何が妖しいのだろう。実は妖しさの要《かなめ》となる場所が十八番街にはある。そこには何故か神様が住む御嶽《ウタキ》という社があるからだ。御嶽は島の庶民の祈りの場であり、永いあいだ島に根づいている信仰の場である。つまり十八番街の妖しさは聖と俗が交錯する妖しさなのである。
ビッチンヤマ御嶽は街中にある小さな社と一本の巨大なガジュマルの樹を擁した御嶽だった。祠《ほこら》は風雨で黒ずみ、枝から降りてくる樹の蔦《つた》のヴェールを纏《まと》ってひっそりと建っている。どんなに強い日差しのなかでもビッチンヤマ御嶽だけは、いつでもひんやりとした空気が漂っていた。
そんなビッチンヤマ御嶽を見つめる若い瞳《ひとみ》があった。その眼差《まなざ》しは昼夜を問わずに注がれ、ときおり悲しみに満ちた瞳を投げかけた。
「睦子、そんなにビッチンヤマを見ているとマブイ(魂)を落としてしまうよ」
祖母からその台詞《せりふ》は何度もきいた。彼女が十八番街のビッチンヤマ御嶽を見据えていれば、必ず祖母がそう言って制する。昨日も一昨日も、もしかすると何年も前から同じ言葉を繰り返し言われ続けているのではないだろうか。睦子は迷信なんて信じていない現代っ子の素振りはするものの、祖母の言葉をきくたびに思いは確信に変わっていったのだ。
『あたしのお母さんも、ビッチンヤマに消されたのだろうか』
十年前、睦子が五つのときに母は蒸発したまま行方がしれない。書き置きも、その後の手紙も一切ない。新しい男とどこかに蒸発したならこの狭い沖縄のこと、どこからか噂がはいってくるものだ。まるで神隠しにでも遇《あ》ったようにそれは見事な蒸発だった。いつしか睦子は窓からみえるビッチンヤマ御嶽のいわれに母を絡めて考えるようになっていた。
母が蒸発するその日の夜も確か夏の厳しい暑さの夜だったときいている。失踪《しつそう》いらい彼女は祖母とふたりだけの生活だ。祖母はよく働く女である。昼間は盥《たらい》を頭に載せて魚を売り、夜もまた働いている。
「オバァは今夜もちょっとでかけてくるからね。早く寝るんだよ」
祖母が化粧をしていた。すっかり弛《ゆる》んでしまった肌へ擦り込むように入念にファンデーションを重ねている。埃《ほこり》を被《かぶ》ってところどころはげ落ちてしまった三面鏡のある薄暗い部屋で、祖母は丹念に肌を塗る。
祖母は自分の顔をよくしっている女だと睦子は思っていた。若い女ならこうはいかない。理想の顔を追い求めて、化粧するたびに一喜一憂する、ということがないのだ。祖母の化粧はそれは見事にピタリと自分の顔を捜し当ててしまう。
今夜で百日連続の熱帯夜だった。今夜の暑さは百日分の熱だ。照射された密度の高い太陽光線は大地に潜み、夜間の放射をうかがっている。夜は冷却に充分な時間を与えているはずなのに、明け方までに逃げきれなかった熱は繰り越してふたたび大地に押し戻される。その上からまた新しい熱が順次|堆積《たいせき》してゆくものだから、夜毎暑さが厳しくなった。
十八番街に日が落ちて、陽炎《かげろう》立つ夜の街にネオンが灯りはじめる。いつからか睦子は夜のビッチンヤマを覗《のぞ》くことが日課になっていた。
「昨日はかまぼこ売りの安子オバァ、てんぷら屋のシズオバァの順番だったっけなぁ」
闇が頭上近くまで降りている。樹の陰《かげ》に隠れているのは影からシズオバァと推察された。シズオバァはビッチンヤマ御嶽の蔭《かげ》で着替えを始めた。
「てんぷら臭いシンデレラのはじまり、はじまり」
睦子は冷やかしながら着替えを眺めている。夜風がガジュマルの樹の蔦を揺らすと、睦子の視界が塞《ふさ》がれて、一瞬オバァが見えなくなった。パッと赤いドレスが翻ると、てんぷら屋のシズオバァは立派な十八番街のホステスに変身し終えていた。ビッチンヤマ御嶽は、生活力旺盛なホステスをその懐から産み出す。南島の変身はいつも闇夜の絆《ほだ》された地熱のなかで密《ひそ》かに行われるのだった。
「これはあたしとオバァだけの秘密」
睦子が苦笑して指を「しーっ」と当てる。働き者が多い島のオバァたちは昼間は実直に魚を売り、夜は華麗にその身を売る。時間の無駄のない効率のいい仕事をしていた。
ただし、採算があうかどうかは別である。たとえば、てんぷら屋の比嘉シズは、昼間てんぷらを売って五千円稼ぐ。夜は十八番街の「さおり」というクラブで時給五百円でこれまた五千円を稼ぐ。一日の収入は一万円だが、支出のほうが問題だ。シズオバァの旦那は昼間パチンコで五千円失う。夜は「さおり別館」で五千円分飲んだくれるから、比嘉家の支出は着実に一日一万円なのだ。つまりオジィが出した飲み代の五千円がシズオバァの夜の収入になっているというミニサイクルが完成しているのである。だからシズオバァの夜の働きはタダに等しい。
何故かこの島では生活苦ではないのに、老婆が夜に働く。睦子の祖母やシズオバァが働くオバァばかりの「さおり」と「さおり別館」は、別称「オランウータンの館《やかた》」と心ない者に呼ばれていた。なんでも酔い醒《ざ》ましにことのほか効くそうである。彼女らの顔には身を落としたという表情は微塵《みじん》もなく、むしろ生き生きしている。島の夜の暗さはオバァを女に変えるのだ。
睦子が眺めているあいだにも、ビッチンヤマ御嶽から続々と昼間の働き者のオバァたちが夜の蝶《ちよう》に変身し、巨大な蛾《が》の群れをなして十八番街の帳《とばり》に吸いよせられていった。
島の夜はことさら甘い匂いを奏でる。夜暗いのは、日の当たる明るいところではできないことをするためとしか思えないほど、島の夜は魅惑的である。オバァや泥酔者がネオンに集光性を示すように、民家の明かりだって馬鹿にならない。
「睦子、エーッ(おい)睦子」
一階から声がきこえる。あれは毎晩性懲りもなく夜這いに勤《いそ》しむ、弘一である。暇はあるが金のない男はこうやって地道に遊ぶしかないのだ。弘一は器用に壁を這い上がってきた。彼は今夜こそ睦子の貞操を狙っていた。
「きゃあああ、なにしに来たのよこの変態」
この台詞は毎晩のきまり文句になっていた。身体がだいぶ大人びてきた近年は「おやすみなさい」を言うよりも彼女にとって日常的な言葉になりつつある。夜這いの弘一も命懸けなら、抵抗する彼女も命懸けである。ゴキブリを見たら殲滅《せんめつ》するまで戦うように、手加減してはいけないのだ。
睦子は窓からモップを下ろして抵抗している。それがまずかった。十八番街を訪れる人々が遠目にふたりの様子を窺《うかが》えば、睦子は這い上がってくる弘一に、モップで手助けしているように見てとれるからだ。
「アキサミヨー(おやまあ)。あそこでネーネー(娘さん)が夜這いの手引をしているさぁ。お熱いことだねぇ」
狭い島のこと、ここは見て見ぬふりをするのがエチケット、とでもいうように、寛大な島人の精神に支えられて睦子は夜な夜な不用な戦いを強いられていた。攻防は熱帯夜が続くかぎり繰り返される熱い熱い闘いだった。
ひとくちに島の熱帯夜といっても明瞭《めいりよう》な季節感がない亜熱帯の気候なのだから、ひと夏の辛抱というわけではない。この島の熱帯夜は年間でなんと二百日以上もあるのだ。
「こら、そんなに女がほしけりゃ十八番街に行け」
「ベーヒャー(いやだね)。アマー(あそこは)、オバァしかいないだろうが」
弘一は窓枠に手をかけた。ここまで登ってきたのは初めてだ。
「若い女が入ったってさ。半額だすから、試してこい」
睦子は咄嗟に取引をもうけた。睦子が三千円ばかりを弘一に握らせる。その言葉を受けて弘一の顔に満面の笑みがこぼれた。睦子は束の間の貞操を死守し、弘一は雨樋《あまどい》をつたって降りていった。その後、弘一はくじ運悪く娼館「カトレア」で、勤続三十五年のベテランに精も根も吸い尽くされてしまった。それからしばらくのあいだ睦子への夜這いを控えるほど弘一はおとなしくなった。
次の日、睦子はマチグァー(市場)にでかけるために、十八番街の入口にでむいた。ビッチンヤマ御嶽の巨木に、夏の果実のような蝉がたわわに実り、ジンジンと豊作を歌っている。夏蝉のバイブレーションが幾重にも空気を振動させ、樹をゆすると、湿った空気に波紋がひろがっていった。
その蝉の鳴き声に相まって、低くしゃがれた女の声がきこえる。今日は旧暦の十五日、拝みの日である。昼間すっぽりと日陰にはいり、けっして日のあたることのないビッチンヤマ御嶽に、見慣れないオバァが祈りを捧げていた。睦子がこっそり覗いてみると、白髪を染めた赤毛のオバァが座っていた。彼女は小振りの祠《ほこら》に背中を丸めて蝉のようにへばりついていた。
朽ち果てそうな御嶽に、オバァが供えた餅《もち》や果物が新鮮に光っている。
「オバァ、何を祈っているの」
睦子が祈りを終えて静かに手をあわせているオバァに声をかけた。オバァはすぐには答えなかった。耳が遠いのかと問い直そうとすると、
「神様に、息子を返してほしいって頼んだのさ」
と、振りかえらずにオバァが言った。
「オバァの息子は、なんでいなくなったわけ。死んだのか」
「死んじゃいないよ。あいつは必ず生きている。今から一昔も前のことだけどさ、息子が仲間と十八番街で酒を呑《の》んでいたらしいんだよ。それが息子の最後の姿。酔っぱらった息子と仲間がちょうどビッチンヤマ御嶽で別れたのを最後に、息子は失踪《しつそう》してしまったんだよ」
彼女は興奮してオバァの話にきき入った。
「あんた若いからしっているかどうかわからないけど、ビッチンヤマ御嶽はよく人を隠してしまうって聞いたことないかい。本当に不思議なんだよ。消えた人たちは失踪してしまう理由なんてこれっぽっちもないんだ。しかも最後の目撃は必ずこの御嶽にいたってことなんだ」
オバァは静かに話し続けた。
「おかしいよオバァ、だってビッチンヤマには神様がいるんでしょ。なんで神様が人を消したりするの。そんなの悪い神様じゃない。そんな神様にお祈りしたり、供物を捧げたりする必要なんてないじゃない。消された家族は悲しがっているわ。あたしだって……」
ガジュマルの樹からひんやりと静かな御嶽中に、さんさんと蝉の鳴き声が降り注ぐ。立っているだけで、蝉が身体を蝕《むしば》んでゆく感覚に襲われる。睦子はぼんやりと祠を見つめていた。
「ハーメー(おばあちゃん)。今日ビッチンヤマでウガン(拝み)しているオバァがいてさ、息子を返してほしいって祈っていたの」
夕刻、魚を売って帰ってきた祖母に、そんな話をしてみた。祖母はあまり感心しない、とでもいう表情だった。
「よしておくれ。そんな話おばあちゃんききたくないよ。それよりも、今日は魚がたくさん売れたんだよ」
祖母が嬉《うれ》しそうに笑う。
「今日もいけすかない女が来てね、魚を売ってくれって頼んだんだけど、私は売らなかったんだよ。毎日それだけが楽しくってね。ヒヒヒ」
祖母が売れ残った高級魚のミーバイに頬擦りをしている。
睦子は構わずに話し続けた。
「でさ、もしかしたらって思ったんだ」
祖母は馬鹿なことを、とせせら笑った。この話題になると祖母はいつもこうだった。睦子はもう子供ではない。母が淫放《いんぽう》な女で、どこかの男と蒸発しようがそれはそれで構わないと思っていた。彼女がしりたいのは失踪の原因なのである。
「あたしも今度の旧暦の一日、ビッチンヤマにお祈りに行こうかな」
「やめなさい。あそこには近づいちゃいけないって言っただろう」
祖母と睦子の間にある扇風機が、会話のはしばしで右顧左眄《うこさべん》を繰り返していた。
ある日、睦子がいつものようにビッチンヤマ御嶽を覗いていると、いつもとは違った喧騒《けんそう》があった。五十代くらいの男が御嶽に駆け込み、何やら騒がしく頼みごとをしているようだ。
祈りに捧げる供物もやたらと仰々《ぎようぎよう》しく、絢爛《けんらん》豪華だ。餅や果物の他に重箱には御馳走《ごちそう》が並んでいた。神様に捧げる紙銭《ウチカビ》も大判に金箔《きんぱく》が貼られており、普段みる沖縄のものとは大分違っているように思われた。
男の祈りの言葉はガチャガチャとうるさい音で構成され、声が大きければ祈りの効果も上がると思っているのか、やたらと騒々しい。蝉が一斉《いつせい》に鳴けば、挑戦的にボルテージがあがってゆくのだ。
「大浜にできた私の新しいお店の、商売を繁盛させてください。従業員の給与を安くおさえても不平がでないようにしてください。先月売りにだした土地を三千万円で売れるようにしてください。島中のお金を私にください。新しい車をください。新しい家をください。広い家にしてください」
彼の祈りは見事なまでにエゴと直結している。彼の祈りとは彼の欲望なのである。言葉に若干の訛《なまり》があった。彼はきっと台湾人なのだろう。八重山諸島のすぐ隣にある台湾からは移住者が多い。見慣れない紙銭はきっと台湾で使っている紙銭なのだろう。
「新しい家には新しい女もつけてください。若い女にしてください。ブスはいやです。綺麗《きれい》な女がほしいです。気の強い女がいいです。抵抗する女がもっといいです。男性機能も回復させてください。できればひとまわり大きくしてください」
男の祈りはエスカレートしてゆく一方だ。見ると男の顔に、ある種の恍惚感《こうこつかん》が漂っているではないか。なんと男は延々と二十分以上、尽きることのない願いで祈り倒しているのだ。
「すぐに願いを叶《かな》えてください。今です。この瞬間です」
ついに祈りは止《とど》めの言葉を放った。男は絶頂感を味わい、うつろな眼でまどろんでいた。
「オジィ、そんなこと神様に頼んだって仕方がないだろう」
睦子がけらけら笑いながらビッチンヤマ御嶽にはいってきた。
「おお、すぐに願いが叶ったよ。神様若い女をありがとう」
男は目を輝かせて睦子に飛びついてきた。
「うわっ、フラー(馬鹿)。そんなんじゃない。なんであたしがオジィの新しい女なんだよ。ハゴーサン、タックァールナ(汚らわしい、くっつくな)」
睦子の抵抗ぶりが男の劣情をいやが上にも昂《たかぶ》らせた。
「こらっ、どさくさに紛れてどこ触ってるんだ。きゃあああ、なにするのよこの変態」
しばらく口にださなかったいつもの金切り声が御嶽を突き抜けていった。
ビッチンヤマ御嶽に十六夜月《いざよいのつき》がのぼっていた。島にかかる月は照明弾の明かりのように、隅々まで照らし渡る巨大な月だ。泥棒の人相が識別できるほど煌々《こうこう》と灯《とも》っている。島の月は夜警を兼ねる。あくまでも相対的にだが、今夜の十八番街のネオンは風前の灯し火に等しかった。
いつもビッチンヤマ御嶽のガジュマルの樹に隠れて着替えをするてんぷら屋のシズオバァも、かまぼこ売りの安子オバァも現れていない。こんな月明かりの夜には、かわって娼婦《しようふ》の富士子オバァが春を売るのだ。いかり肩の屈強な肉体で石段を昇ってきたのが彼女だ。鼻息だけで梢《こずえ》をざわめかせると、落ち葉のシャワーになる。彼女の瞳《ひとみ》には倫理感はないが、正義感はある。これでも昼間はちょっとした堅気の仕事をしている女である。
カサカサに乾燥した茶色の肌はほとんど鱗化《りんか》し、月明かりに硬質なダイヤモンドの輝きを以《もつ》て浮かびあがると、酩酊《めいてい》した男なら誰でもひっかかる。富士子オバァの活動期は満月を含めた前後三日間しかない。今夜は最後のかきいれどきだ。
「兄さん、安くしとくよ」
ビッチンヤマ御嶽に燦然《さんぜん》と降り注ぐ月明かりを綿密に考慮して、富士子オバァはプリンセスラインの服から伸びる棍棒《こんぼう》のような四肢を輝かせた。しかし、今日は客の食いつきが悪かった。富士子オバァは月明かりを受けている間しか働けないのだ。
「今夜はちっとも客がつかないねぇ。いっそ通り魔にでもなってやろうか」
富士子オバァが石段の上にすわって溜《た》め息《いき》をついた。
「ヌーガー(なんだ)」
十八番街の狭い道をふらふらと歩いてくるオバァを発見した。きちんと化粧したオバァは放心状態でビッチンヤマ御嶽の前を通りすぎようとしている。彼女は富士子の喧嘩《けんか》友達のひとりだ。
富士子はそのオバァが売る美味《おい》しい魚をいちど食べてみたいものだと切望していた。こんな風に表現すると富士子はまるで民話にでてくる魚食いの妖怪《ようかい》みたいであるが、一応れっきとした市民である。その魚売りの彼女がなぜか富士子にだけは魚を売ってくれない。富士子はたいそうその女を恨めしく思っていた。そんな険悪な間柄でも、夜の顔の匿名性だけはきちんと守られるのが不思議だ。それは島が永く培ってきた相互扶助の精神に基づく淑女協定なのである。
富士子はその女の挙動がおかしいと感じた。いつもなら、痰《たん》を絡ませるように因縁をつけてくるはずなのに、富士子には目をくれず、ふらりふらりと歩いているのだ。
「姉さん、あんた、マーカイ(どこ行くの)」
そんな富士子オバァの台詞も虚《むな》しく空間に消えてしまう。口をポカンと開けて通り過ぎていくその女を、富士子オバァの大きな目が視界から完全に消えるまで目撃していた。
翌日騒ぎはじめたのは睦子である。
「ハーメー(おばあちゃん)が帰ってきていない」
几帳面《きちようめん》な祖母は遅れて帰るときには必ず連絡を入れるものなのに、それがなかった。すぐに親戚《しんせき》に連絡をとってみたが、どこにも祖母が寄った形跡がないのだ。唯一の目撃が市の議員をしている角質肌のオバァの証言だった。
「あたしゃ見たんだよ。ちょうど昨夜、ビッチンヤマ御嶽でその婆さんを見たんだ。えっ? あたしがなんでそんなところにいたかって。夏休みの生徒の非行取締り巡回にきまっているじゃないか。えっ? 昨夜そんな巡回はなかったって。うるさいね」
いらぬ輩《やから》が昨夜あそこに立っていたのは娼婦のはずだが、と怪訝《けげん》そうに首をかしげた。
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。昨日あたしは誰とも姦《や》っていない。あわわっ。あたしが十八番街を仕切る伝説の娼婦ムーンライトレディ≠ネわけないじゃないか」
そんな呼び名は初めてきいたと皆がざわめいた。そしてそこにいた男は誰もがその伝説の「ムーンライトレディ」を抱きたいと妄想した。「さぞかし魅惑的な女なのでしょうな」と密《ひそ》やかに噂が浸透してゆく。気丈に男を睨《にら》み、セクハラ問題を市議会で標榜《ひようぼう》するいかついオバァがそんな伝説の女ではない、と再び失踪の件に話題が移った。オバァにはいらぬ嫌疑がかけられたが、毅然《きぜん》とした日頃の正義感でこれを退けたのだった。やはり人は日の当たる部分の人格しか問題にされない。
「満月のころ、ビッチンヤマ御嶽……」
いやな予感がしていた睦子は、ビッチンヤマ御嶽に走った。
「どうか神様、あたしから母も祖母も奪わないでください。どうかお願いです」
祈りの方法なんて巫女ではないからよくわからない。先日息子のことを祈っていた老婆の口調を真似ているにすぎなかったが、とにかく祖母を返してほしくて必死だった。そんな彼女を島のオバァたちがよく慰め、知恵を授けてくれた。
「いいかい、もしもだよ。オバァが見つかったときにはね、霊力で惑わされているから、すぐに触ってはいけないよ。過って触ってしまったら、あんたまで憑《つ》かれてしまうからね。オバァを正気に戻してあげられるのは、神様が宿ると云われている樫《かし》の木の棒で打ち据えることだけなんだよ」
すぐに民間の捜索隊が編成され、祖母の救出のためそれぞれが樫の木の棒を携えた。先頭に立ったのは正義感の強い富士子オバァである。彼女は血縁の親族でもないのに自ら志願してきたのだ。「正義感の強い」と枕言葉を冠する熱血漢の富士子の心意気に人々は感銘した。富士子は目を爛々《らんらん》と輝かせ、口元には発見の瞬間に味わえる嗜虐《しぎやく》のひとときの予感でアルカイックスマイルを浮かべてすらいたのだ。
「ウヲッシャアアッ、気合入れて捜すぞお」
富士子の号令で捜索隊は勇猛果敢に深い山にまで押し入ってゆく。昼も夜もない不眠不休での捜索だった。田んぼの畦《あぜ》を渡り、滑った足で稲を踏みつける。サトウキビ畑に押し入れば、斥候の富士子がなぎ倒す。編成された捜索隊はときどき富士子の命令で民家の略奪を働いたりもした。しかし、それらは発言力のない小市民の家ばかりだったので事後問題とされることはなかった。また、
「彼女は、月明かりでダイヤモンドの肌を露《あらわ》にするのよ。彼女は男の憧《あこが》れ、ああ麗しの南国の娼婦、ムーンライトレディ」
などと、たまに休息がてら農家の濡《ぬ》れ縁《えん》を借りて、すっかり枯れてしまったオジィに「ムーンライトレディ」の逸話を吹聴《ふいちよう》したりと、営業努力も怠らなかった。富士子はあわや愚連隊となりかけた隊をよく治め、概《おおむ》ね真面目に睦子の祖母を捜していた。
「おーい、いたぞ、見つけたぞ」
その成果があって数日後に、祖母は島の霊山のひとつと呼ばれる前勢《まえせ》岳の山中にある、巨大な霊石の懐で発見されたのだった。第一発見者はもちろん富士子である。
彼女は祖母を発見するなり、つい興奮して襲撃の命令をだしてしまった。
「フクロだ、フクロ叩《だた》きにしてしまえ」
捜索隊が一瞬ためらう。しかし、偽善者で世渡りの上手《うま》い富士子は取り繕いも素早い。
「いや、正気に戻してやりなさい」
と七色の声を器用に使い分けるのだ。
しかし相手は老婆である。樫の木で打ち据えればいいときいてはいても、やはり手加減をしてしまうのだ。そんなことでは憑きものは落ちない。富士子だけはココロを鬼にして遠慮なく衰弱した老婆を打ち据えた。
「これでもかっ。これでもかっ。『今度こそ魚を食わせろよ』ひーひっひっひっひっ」
「富士子さん、オバァが血まみれなんですけど……」
「カシマサヨー(うるせえな)こんなことじゃあたしの恨みはおさまらないんだ。クルセー、クルセー(殺せ、ぶっ殺せ)」
彼女は金歯を不敵に輝かせている。富士子の醜怪な顔に恐れをなして誰も止めようとはしなかった。惨劇はしばらく続いた。
「ようし、今回はこれぐらいで勘弁してやらあ」
その場にいた全員が『なにを?』と思ったが、口にだして問うほど勇気のある者は初めからいやしない。とりあえず祖母を発見できたことは奇跡である。オバァは憑きものが落ちたあと正気に戻ることもないまますぐに失神してしまったけれど、富士子の功績は大きかった。彼女は市街に帰ると、身にあまる栄誉と発言権の拡大を約束されることになる。
祖母は病院にかつぎ込まれた。医師らは悪意を感じさせる暴行|痕《こん》と、それでも骨折ひとつしていない祖母の生命力に驚かされた。祖母は混迷する意識のなかで、なんとか睦子に意思を伝えようと口をぱくぱく動かしている。それは音声にはならなかったけれど、きちんと唇を読めば、
「フ、ジ、コ、ニ、サ、カ、ナ、ヲ、ヤ、ル、ナ」
というメッセージになっていた。
睦子は何度も何度も感謝の言葉で富士子を労《ねぎら》った。
「富士子オバァ、おばあちゃんを救ってくれてありがとう。あっちこっちを打撲して、二、三週間は入院しなくちゃいけないんだって。でも帰ってくれて本当に嬉《うれ》しいよ。富士子オバァにはなにもしてあげられないけど、おばあちゃんが入院しているあいだ、あたしが代わりに魚を売ることになったから、お礼にいちばん上等で美味しい魚をあげるね」
「ヴァチクァイーッ(ラッキー)」
富士子は願ってもない幸運に驚喜した。なぜか富士子の思うままに動いている世の中である。ビッチンヤマ御嶽|失踪《しつそう》事件はこうやって幕を下ろしたのだ。
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アイヨー アイヨー アイヨー
アイヨー アイヨー アイヨー
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翌月の旧暦の一日早朝、怒号ともつかない声がビッチンヤマ御嶽から響いてきた。感極まった声は一オクターブ昇りつめて、やがてファルセットに変わった。睦子がそっとビッチンヤマ御嶽に近づいてみると、泣いているのはこの前の旧暦の十五日に御嶽で祈っていた男だった。
「オジィなんで泣いているのよ。泣かないで。ハジカサンヨー(恥ずかしいわよ)」
睦子が声をかけようが、男はお構いなしに号泣している。泣き方も尋常ではないほど仰々しい。ビッチンヤマ御嶽にそびえるガジュマルの樹から蝉が伴奏つきで、けたたましく悲哀を奏でている。
「あれから店もさっぱり客が寄りつかない。従業員も逃げていった。土地も売れない。車もこない。家も女もこない。男性機能も回復しない。ひとまわり小さくなった」
「なにが?」
「この神様うそつき。全然いうこときかない。だから壊してやる」
男が泣きやむと、持ってきた鍬《くわ》を握った。それを高々と振りあげて、祠《ほこら》を打ち据えようとする。睦子は男にしがみついた。
「やめて。ビッチンヤマを壊したら、消されてしまうのよ。息子をなくしたオバァは毎月の祈りの日にどこで自分を慰めたらいいの。噂になっている、満月の夜に現れる伝説の娼婦《しようふ》ムーンライトレディはどこで商売すればいいの。ビッチンヤマは十八番街の神様なのよ」
「どけっ」
男が鍬を振りおろした。腐った板が鈍い音をたてて壊れる。その音は今まできいたどんな音よりも悲しかった。睦子の耳に悲鳴の高音と嘆きの低音が合わさった奇怪な音の響きがこびりつき、リフレインする。
ビッチンヤマの祠の屋根が半分なくなってしまった。睦子は腰を抜かした。
「チャースガー、チャースガー(どうしよう、どうしよう)」
「どこに神様がいる。ここの神様がほんとうに人を消すなら何故俺は消されない。ここには初めから神様なんていやしなかったんだ」
────音がきこえない。
睦子は耳を疑った。街の音が消えている。ビッチンヤマ御嶽が街の生活音すべてを遮断して無音状態になっていた。
「こんな馬鹿な……」
風がビッチンヤマ御嶽を周回して、つむじ風を巻き起こしている。砂埃《すなぼこり》が走り、一枚の落ち葉が高く舞い上がった。葉はどこまでも、どこまでも高く一直線に空に昇ってゆき、やがて見えなくなった。
ビッチンヤマ御嶽の祠のなかは一枚のぼろぼろの御札が留められているだけの、みすぼらしい部屋だった。ガジュマルの樹の梢《こずえ》がいつになくザワザワと騒ぎ、近づくなと警告を放つ。地面にまで伸びた蔦《つた》がさっと動いて、男と睦子の動きを遮った。睦子は地面にぺたりと座りこんだ。
永いあいだ風化の浸食を押しとどめていた最後の防波堤が壊された。冷たい風が祠にうちいり、御札を砕いて細かな塵《ちり》にかえてしまう。塵は灰に、そして灰よりも微細な粒子になって風に完全に溶けていく。
最後がらんどうになってしまった祠は百葉箱にも玩具箱《おもちやばこ》にもならない、ただのガラクタに変わっていた。半分屋根のもげた御嶽はまるでゴミ箱のようだった。
はらり、と睦子の長い髪に葉が落ちてきた。しばらくして、はらり、また、はらり、はらり……。
「あっ」
見上げると樹齢数百年はあろうと思われる神木のガジュマルの樹から、一斉に葉が落ちていた。数メートル四方しかないビッチンヤマ御嶽にしんしんと葉が降り積もる。黒緑の葉で天蓋《てんがい》のように覆っていたガジュマルの樹が静かに、それは静かに、すべての葉を落としている。
座っている睦子の膝《ひざ》のうえに、茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしている男のくるぶしに、時間をかけてゆっくりと。やがて御嶽の赤土が緑色に染まってしまうまで。
睦子は見ていた。落ちてくる夥《おびただ》しい葉の隙間から男の姿を。屋根の壊れた祠に葉が積もりゆく姿を。瑞々《みずみず》しさを保った葉が睦子の頬にあたる。それはひんやりと冷たかった。
いつも薄暗がりだったビッチンヤマ御嶽に、裸になった梢から空が見えるようになった。温かい光が満ちてきた。
ビッチンヤマ御嶽のガジュマルの樹が丸裸になった事件は、島の人々をたいそう驚かせた。何より困ったのは十八番街への出勤に利用していた、てんぷら屋のシズオバァやかまぼこ売りの安子オバァだろう。あのオバァたちが現在、何処でどうやって着替えているかは知る術《すべ》もない。あれから睦子は祟《たた》りを気にして弘一をボディガードに雇った。一年間|護《まも》り通せばごほうびがもらえるそうだ。今のところ災厄にあたることは何も起こっていない。
ムーンライトレディは噂が噂を呼び、ビッチンヤマ御嶽に女子供まで詰めかける騒ぎになったために、現在失業中だ。それでも富士子オバァは、
「あのお方は、ガジュマルの樹の精霊だったのかもしれないね。あたしが最後に見た彼女は、お月様に飛翔《ひしよう》してゆくそれは綺麗な姿だったよ。ちょっとあたしに似ていたけど」
と、性懲りもなくデタラメを並べ立てて、一方的に伝説をつくりあげてしまった。
現在のビッチンヤマ御嶽には昔のあの妖しさはもうないけれども、ガジュマルの樹に新緑が芽吹いて、ちょっとした公園のように島の人に親しまれている。
わずか数段の石段があるだけの高台。鉢を逆さまにしたような小さな御嶽。
神隠しの伝説が生きていた小さな聖域は、今はその力を潜めて、満月の晩に冷たい輝きで十八番街を見つめている。
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カジマイ
旧暦二月の疾風が島に舞い降りた。
常夏の島が寒さに震えあがるのは、カジマイの頃。亜熱帯の島に雲が蓋《ふた》をして、荒涼とした風がそのなかを高速で循環するのだ。風のひと振り毎に昨日まで大地に蓄えられていた温かな地熱が奪われていく。エメラルド色の柔らかな海が硬く表面を閉ざし、冬ごもりする。この日から一週間、島がほんの短い冬を迎える。
市内に住む金城初枝は八十回目のカジマイを迎えようとしていた。彼女は老練な知識と経験を正しく使い、カジマイの備えを怠らなかった近所でも指折りの知恵者だ。まず彼女が成したことは、卵と缶詰でポークチャンプルーを中華|鍋《なべ》いっぱいに作っておいたこと、昆布と豚肉でクーブイリチーをタッパーいっぱいに詰め込んでおいたこと、ボロボロジューシーを鍋に溢《あふ》れんばかりに拵《こしら》えたことである。
食料の備蓄にかまけていたので、昨年の反省事項であったたてつけの悪い戸の修理は行われておらず、今年もまた反省されることになる。戸のみならず、築三十年の赤瓦の家は屋根も窓も柱も傷んでいた。
初枝はひとり身の老人だった。夫と死に別れて二十年が過ぎた。結婚生活のなかの十数年は夫の不貞により、別居状態が続いていた。しかし彼女は孤独ではなかった。なんのことはない、夫は隣の家の女に懸想していたからだ。毎朝夫の顔を見ることができた。初枝は内気で気立てのよい女だったので憤りを表すことはなく、別居生活にすら満足を見出《みいだ》していた。痩《や》せた首に真珠のネックレスをしていたが、どこへやらなくなってしまっていた。薬指にアメジストの指輪をして、肌身離さず持っていたが消えてしまっていた。そんなときにも彼女は、
「私、惚《ぼ》けたのかしらね。最近よく物がなくなるんですよ」
と笑ったのだった。質素ではあるが身綺麗《みぎれい》で純白の髪を短く揃えた彼女に余計な装飾はいらない。ときおり見せる寂しげに憂いを漂わせた表情が、彼女自身を飾るなによりのアクセサリーだった。
そんな女だから周囲は放っておくはずがなく、哀れに思う人々と、彼女自身の魅力で家に人が絶えたことはなかった。彼女の家は笑い声に溢れている。
しかし彼女を快く思っていない女もいた。隣に住む女、民江である。彼女は島の女にしては珍しく、豪奢《ごうしや》な生活をしている。逞《たくま》しく肥え太り、苦労のために作った皺《しわ》は一本もないことを自負していた。初枝の家を威嚇するようにスラブ家《ヤー》(コンクリート住宅)を作りあげ、泥棒も近づけない要塞《ようさい》のような住宅に住んでいる。
驕慢《きようまん》で無慈悲な性格だと民江は周囲からけむたがられているが、単に人のものが欲しいだけの普通の性格の女である。ただ、欲しいものは圧倒的な実現力を駆使して手に入れているので、みんながやっかんでいるだけなのだ。その性格は八十二歳にもなって老獪《ろうかい》さを増すばかりだ。
民江は初枝の夫をそんなに愛してはいなかった。毎日笑い声の絶えないおしどり夫婦が癪《しやく》に触って一度寝取ってみただけのつもりが、初枝の夫の関心をひくところとなってしまった。夫婦の相手としては、そんなに具合のいい男ではなかった。それでも利用価値がなかったというわけではなく、民江は銀行員だったその男を巧みに騙《だま》して横領の手引をしこみ、豪邸を建ててしまった。男が死んでからは、いらないし手間がかかるのでトートーメー(位牌《いはい》)を初枝に返した。
初枝の家は疾風があたるたびに軋《きし》み、腐った壁から木屑《きくず》が舞う。隙間から無理やり吹き抜けていく風は奇怪な音が初枝の心を凍らせた。
門の奥に衝立《ついた》てられた一枚壁のピーフンは漆喰《しつくい》の壁に穴があき、そこに冷たい音をたてて風が通り過ぎている。
ピーフンとは古くから沖縄にある魔除《まよけ》の壁だ。真っ直ぐにしか進めないと云われている悪鬼悪霊を、門から家に入ってこないようにする役目があるという。門から見るとピーフンで家が目隠しされている。人はピーフンの左右両脇から出入りするのだ。
初枝は冷たく震えるガラス戸から冬景色を見つめていた。いつも客が絶えない一番座には人もなく、毎日お菓子欲しさに遊びに来る近所の子どもたちが走り回る縁側には、迂回《うかい》してきたカジマイの風が自由に駆け抜けている。
こんな日ほど寂しさを思い知ることはない。暖かい日なら庭に出て、昔の豊かな思い出で感傷に耽《ふけ》り、孤独を癒《いや》すこともできただろう。無理して笑顔をつくろうとすると、痩せた歯の隙間に冷たい風が忍び込んで、歯の根をカチカチと震わせるのだ。
「寂しいねぇ、寂しいねぇ」
ガラス板が氷のように見える。少し曇ったガラスは柔らかなスクリーンになって淡い景色を映し出してくれる。家のなかは暗く、ちょうど映画館にでもいるような気分だ。
そのときだ。映写された記憶と外の景色に女の子が割り込んだ。少女は初枝に気づきもせず、クロトンの木の庭を陽気に走り回っていた。少女はこの庭を気に入っているようだった。
「どこの子なのだろう」
少女を見ていると外は冬なのだということを忘れてしまう。けっして枯れることのない南国の庭に、まだ柔らかな蕾《つぼみ》の少女が駆けている。初枝はつい表に出たくなった。
「あなただあれ。近所に住んでいる子かい」
「オバァがこの家の人なの? なんて綺麗な庭かしら」
少女が透き通った声で笑う。近寄って少女の顔を見ると、沖縄の子にしては珍しい顔立ちだ。つんとした鼻は鼻の穴まで透けて見えるほど明るく、口数は多そうだが、好奇心を満たして薄く尖《とが》った唇は、利発さを表しているように見えた。どこか寒さを孕《はら》んだ一重|瞼《まぶた》の瞳《ひとみ》が印象的である。その瞳の黒さは光をよく反射して輝いていた。それになんといっても、ヴェールを何層にも覆ったような肌の透明感が素晴らしい。沖縄ではまず見られない肌だ。
「家にあがってお菓子でも食べないかい」
お菓子と聞いて少女は頷《うなず》く。そして、おませに手を引いてくれと初枝の手を催促する。少女の柔らかな関節がオレンジ色に透き通っていた。愛《いと》しく自分の手よりも大切に握ってやった。
家にあがると少女は初枝が勧める炬燵《こたつ》を断り、冷えた縁側に座った。
「こんなに寒いんだから、ココアを入れてきてやろうか」
「それは駄目。ココアは嫌いなの」
はっきりと物を言う子だと思った。好みがしっかりとしている。初枝は学校のことやら、家庭のことを聞こうとする。しかし少女はなにも答えてくれず、ただカジマイの日の美しさを興奮して喋《しやべ》るばかりだ。
「あたしは今日みたいな島が好き。椰子《やし》もアダンもバオバブもみんな震えて固まっているわ。時間が止まったみたいで、あたしは風と一緒に止まった世界を見るのを楽しみにしているの」
「面白いことを言うのね」
初枝はカジマイを楽しみにしている島の子がいるとは意外で、むしろ新鮮に思った。少女がトートーメー(先祖の位牌)を見る。そこには初枝の夫の遺影があった。
「この人、銀行員だったでしょ。顔を見ればわかるわ。横領とかしそうな顔よ。オバァは泣かされたでしょ」
まるで決めつけるかのように少女は鋭い言葉を放つ。
「まあ泣いたこともあるし、銀行員だったけども、横領とかする人ではなかったですよ」
彼女は夫の横領のことは知らない。隣の民江が知恵に知恵を重ねた完全犯罪だったから、未だ事件が表に出ることはないのだ。
「そう、ごめんなさい。あたしって早とちりするから」
推理が上手《うま》くいかなかった、とでもいうように幼い探偵は切れ長の眼を伏せた。しかし好奇心はすぐに新しいことを発見するようで、初枝の時計に目をつけた。
「その腕時計、とてもかわいいわ。ダイヤが入っているみたい」
初枝の腕時計は量販店で売っている安物だ。
「そんなに立派な時計ではないですよ。まあ、恥ずかしい」
初枝はいつものように明るく笑った。少女が訪れてからは、暗い家が何かがきらめいた残像のように微《かす》かに明るくなっていた。こんなに楽しいカジマイを迎えるのは初めてのことだった。
「また、明日も来ていいかしら」
数時間が経って、少女が席をようやく立った。彼女は一通り庭を駆け抜けて明日の約束を取りつける。もちろん初枝は大歓迎だった。縁側まで見送ると、今まで少女が座っていた場所が少しも温まっていないことに気がつかなかった。
そんな光景を細大|洩《も》らさず、覗き見ていたのは隣の民江である。
「羨《うらや》ましい。羨ましい。あの子を家に呼びたい」
普段は不活発な民江を、羨望はいやがおうにも焚《た》きつけてしまう。そんな彼女を見て、孫の秀樹が溜《た》め息《いき》をついた。
「またババアの悪い癖が始まったよ」
「カシマサヨー(うるさいね)。誰のお蔭《かげ》でこんな上等ヤー(家)に住めると思っているんだい」
民江は秀樹のことを煩わしい孫だと思っていた。そんなに可愛くないし、口答えも多い。しかし、何故かふたりはウマが合う。秀樹は十歳の割に、祖母の素行をよく知っている。そこが民江の愛憎半ばするところなのだ。あと十年経てば民江に劣らぬ怪人物に育っていることだろう。その日が待ち遠しいが、その時は秀樹の下剋上《げこくじよう》が起こる時でもあるのだ。幸いまだ秀樹は民江の手中にある。
「寝転がっている暇があったら、あの子をナンパでもしておいで。そうだ、あんたがあの子を襲っているところに、私が助けに参上するっていう筋書きはどうだい」
民江はそんな恐ろしいことを簡単に言ってのける。しかし秀樹も秀樹だ。
「俺は、年上じゃないと勃《た》たねえんだよ」
と嗤《わら》い飛ばすのだ。
「ああ、羨ましい。羨ましい」
初枝は朝から少女のためにサーターアンダギーを揚げていた。上等な余所《よそ》行きの服を着て、少しでも少女の印象をよくしようとしていた。客の足も途絶えるカジマイの日に、こんなに興奮することは初めてのことだ。
「オバァ、今日も来たわよ」
と少女がガラス戸越しに声をかけた。頬を紅潮させた初枝が急いで戸を開けた。
「今日はサーターアンダギーを作ったのよ。アチコーコー(ほっかほか)よ」
初枝が少女に勧める。
「ごめんね、オバァ。もう少し冷ましてからいただくわ」
と無下《むげ》に断った。初枝はサーターアンダギーの美味《おい》しさを損なわないように勧めるのだが、やはり少女は嫌だと譲らなかった。
『この子はきっと最近まで都会にいた日本人《ヤマトンチユー》なのだろう。だからこんなにはっきり物を言うし、色が白いんだわ』
初枝はそう解釈することにした。ちらりと少女が初枝の腕を見る。
「オバァ、昨日していた時計どこにやったの。あれ似合っていたのに」
それは初枝も気づいていた。そんなに気に入ったのなら少女にあげようかと思っていたが、朝起きたらなかった。昨夜鏡台の上に確かに置いたはずなのになくなっていた。
「オバァも歳なんだろうね。惚《ぼ》けてしまってどこに置いたのか忘れてしまったみたい」
初枝はそう言っていつものように笑う。
「なくなっている物って真珠のネックレスとか、アメジストの指輪もじゃないの?」
少女がまた決めつけたかのように言い放つ。その時の表情ときたら、とても子どものものとは思えないほど鋭敏な眼をする。
『昨日そんなこと話したかしら……』
と彼女は記憶を遡《さかのぼ》ってみた。しかしやっぱり思い出せない。すっかり耄碌《もうろく》しているのだと気分が暗くなった。先を越すように話してくる若さとはなんと素晴らしいものだろう。かつては自分もそんな時期があったはずなのに、と少女が羨ましくなった。
「でもオバァは時計をしていなくても綺麗《きれい》よ。それにその金歯も素敵だわ。オバァが笑うとキラキラ光ってよく合っている」
「まあ、お世辞が上手《うま》いのね。でも今日あなたがしている雪のブローチも可愛らしいわよ」
少女が胸のブローチに手を当てて「宝物なの」とはにかんだ。
「これから毎日でも来てくれないかい。オバァはあなたと話していると時間が経つのを忘れてしまうわ」
すると少女が口籠《くちご》もった。硬くて悲しげな表情だった。そんな顔をすると、彼女が生まれつき持っている人を寄せつけない美しさがより際立つ。この子の魅力はその上に成り立っていたのだと気づかされる。
「ずっと先の約束はできないけど。でも明日は来れるからそれでいいかしら」
「いいよ。いいよ。明日もまた楽しみだ」
初枝は深く訳を聞くと少女がどこかに行ってしまいそうな気がしてならなかった。
「ねえ、また庭を見ていい?」
クロトンの庭は毎日が盛りだ。細い幹のひと房ひと房に、打ち上げ花火のスターマインが炸裂《さくれつ》したときの瞬間を維持している。風に吹かれても雨に打たれてもその美しさは消えることがない。
「この庭の後ろにあるコンクリートの家がなかったら、空に映えてもっと綺麗だったでしょうね。あたしこの家嫌いだわ。心に影を持つ人の家よ。オバァに害をなすわよ」
「そんなこと言うものじゃありませんよ。ちょっと気難しい人なだけですから」
家は人を表すのか、と初枝は思った。少女の利発さは度を越して鋭い。庭でしばらく遊んでから少女は帰ってしまった。初枝はそれでも充分満足だった。
門を出て「きゃあああっ」という悲鳴みたいなものが聞こえたが、カジマイの暴風と家の軋《きし》みでそら耳だろうと、初枝は引っ込んだ。
「ようこそ、お嬢さん。近所で一番の金持ちの家へ」
民江が作り笑顔で微笑んだ。自己主張の激しい民江の登場にはいつでもバーンババンバンバーン≠ニいう邪悪な効果音が入っている感じがする。秀樹をけしかけて少女を無理やり連れ込んだ。
「秀樹でかしたぞ」
と小遣いを渡し、「ハウス」と言って犬でも扱うように退けた。三階吹き抜けの応接間からは禍々《まがまが》しいシャンデリアがとぐろを巻いたように垂れ下がっている。室内はセントラルヒーティングの効いた暖かさだ。僅《わず》かなカジマイの日だけのために備えた設備だ。これだけの贅沢《ぜいたく》な作りは島にそうあるものではない。
「さあ、お嬢さん。せっかく来たのだからゆっくりしていきなさい」
民江が猫なで声ですかしても少女は脅《おび》えていた。きっと寒いのだろうと民江は暖房の温度をあげた。
「あ、あたし帰らなきゃ」
「まあ可哀そうに、さっきまであんなボロ家にいたから凍えてしまったんだね、大丈夫よ。オバァが温かい紅茶を入れてあげますからね」
ふんふんと鼻唄《はなうた》混じりで民江は得意気だった。初枝に対抗して焼き上がったプリンをレンジから出した。
「さあ、食べなさい」
しかし少女は拒んだ。どうしても食べられないと言う。
「知らない人から物をいただいちゃいけないって言われているのね。でもオバァのお菓子だけは特別だよ。おあがり」
と民江はできもしないのにウインクをする。唇の端と頬が引きつった痙攣《けいれん》みたいなウインクだ。そしてなにがなんでも熱い紅茶に口をつけさせようと強要した。ついに少女は民江の恐ろしさに観念して、ひと口だけ紅茶を飲んだ。それでも民江は全部飲めと言う。
「あ、あたし気分が悪いの」
そう言われてみると、大分顔色が悪くなっている。風邪でもひいたのかと民江は温かい生姜湯《しようがゆ》を持ってきた。
「ひいいいいい」
少女はべそをかく。自分は猫舌だからと言っても通らなかった。
民江もまた少女の美しさに魅入られていた。二階から初枝の家を覗《のぞ》いていたときにはない、近くにしての品に見惚《みと》れている。民江は思った。この子は笑顔なんかより、こうやって少し脅えているくらいの方が美しさが際立つと。踏んづけられても蹴《け》られても、決して音をあげないからこそ尚《なお》さらいじめてみたくなるのが人情だ。その悦《よろこ》びといったら他人に教えたくないほどだ。
「今日は家に帰さないよ。オバァとずっとユンタク(お喋り)をするんだ」
少女が目頭いっぱいに涙を湛《たた》えていた。赤くなった小鼻がヒクヒクと動いて、何かのきっかけでワッと泣きだしそうになる。この顔も好きだと民江は冷静だった。しかし嫌われてしまっては元も子もない。今日のところは帰してやろうと思い、
「生姜湯を全部飲んだら帰してやるよ。大人の言うことは聞くもんだ」
とまた恐ろし気なウインクをする。これは意地悪ではなかった。本当に少女の顔色は悪くなっていくばかりなのだ。民江は電気ストーブのスイッチを入れようとした。
「やめて、それだけは。全部飲むから、全部飲んだら帰っていいでしょう」
少女は覚悟を決めた。ふうふう、と極力冷ましてから毒入り杯でも飲むように、一気に飲み干した。するとますます顔色がくすんでいくではないか。
「明日も来てくれるかい。明日来たら子どもにはちょっと早いけどエスプレッソを淹《い》れてあげるから。お母さんには内緒だよ」
民江はこんな時でも誘惑を怠らない。しかし少女は約束があると言って断った。それでも民江は食い下がる。ついに形《かた》にと少女の胸元にあるブローチを取り上げた。
「明日来たら返してやるよ」
「駄目、それは大切なブローチなの。お願い返して」
少女はホロホロと涙を流した。目尻《めじり》に朱をさしたように涙目で訴える。青ざめた顔はますます人離れした肌を強調してやまない。
少女は両手で顔を隠し、ワッと泣きだしながら屋上に駆けて行った。
「屋上は寒いからこのマフラーをかけなさい」
民江が後を追った。しかしどうしたことだろう。扉が開いたままの屋上に少女はいなかった。民江は狐につままれた気持ちになった。
「秀樹、あの子を見なかったかい」
階下の孫に声をかける。
「さっき泣きながら上にあがって行ったよ。しょうがねえな、無抵抗な奴にほどババアは強いんだから」
秀樹が屋上にあがってきた。ぽつねんと寄る辺なく立つ祖母の後ろ姿があった。いつもは尊大な態度で大きく見える彼女が、意外と小さく見えた。
「あっそれ、マフラー? 今朝出掛けたと思ったら、それを買いに行ったのか。でも趣味悪いよな。俺が赤いマフラーなんかできると思う? 少しはチブル(頭)を使えよ」
普段、こんな口を叩《たた》いたら往復ビンタものである。三万円と値札の付いた赤いカシミアのマフラーを、秀樹の首にかけてやると弱々しく呟いた。
「おまえにやるよ」
少女の消えた屋上で秀樹はなにかがおかしいと感じていた。
「初枝オバァの家に確か壊れたピーフンがあったよな、俺ちょっと悪戯《いたずら》してくるよ」
秀樹は障子紙と糊《のり》を携えて、深夜こっそりと魔除《まよけ》のピーフンに細工を施したのだった。
「金歯がなくなっている」
カジマイの三日目、初枝は鏡を覗き込んで不甲斐《ふがい》なくなった自分の顔に驚いた。
風は一段と冷え込んでいた。慣れてくると、この島はずっと以前からこんな風景が続いていたような気持ちになってくる。ソテツもとっくり椰子《やし》もタイガの針葉樹のひとつにすらみえてくる。今日がカジマイのピークだった。
初枝は物思いに耽《ふけ》っている。
『あの子のように溌剌《はつらつ》とした言葉を持っていたら、もっとみんなに愛されたかも知れない。あの子のように神秘的な顔をしていたら、きっと恋を告げられる回数ももっと多かったのかも知れない……』
ガタガタと家が揺れた。台風にも耐えるようにと建築された沖縄の赤瓦住宅ですら、カジマイには弱いとみえて温度差の激しさから家鳴りを起こしてやまない。倒壊寸前かと聞き間違うほど、バキバキと音が鳴る。その日、少女は現れなかった。
次の日も初枝は少女の来訪を待っていた。カジマイは一層寒さを震撼《しんかん》させている。今年のカジマイはいつにない寒さだ。初枝は炬燵《こたつ》に入り、寂しく家に籠もっている。
「やっぱりこんな貧しい年寄りの家になんか来ないわよね。きっとどこかで遊んでいるんだろう。もう一度だけあの子に会いたいねぇ」
頬を卓に押しつけ静かに一日を過ごしていた。初枝はトートーメーの夫の写真を見る。彼は呑気《のんき》そうに笑っていた。
「夫を取られても文句を言わなかったのは、つまらない女だと思われたくなかったから。何度怒鳴り込んでやろうと思ったことか。何度悔しくて泣いたことか……」
初枝は首筋と左手の薬指を摩《さす》った。今では思い出の夫から貰《もら》った真珠のネックレスも、息子から誕生日に貰ったアメジストの指輪もない。こんな時にこそ寂しさを癒《いや》してくれただろうに、と炬燵布団を悔しそうに握った。
「那覇にいる孫も滅多《めつた》に来やしない。私はこの家とともに朽ち果てていくだけだよ。寂しいねぇ」
初枝はアルバムを開いた。昔の数少ない写真は独り語りのいい相手だった。それらは変色して遠い記憶の色に染まっていた。若い頃の写真は、無表情の集合写真ばかりで、どれもがきまりきった余所《よそ》行きの顔ばかりしている。それでも懐かしがるには充分だった。彼女は昔の顔を見て溜《た》め息《いき》をつく。どうしてあの頃は自分をもっと自慢に思っていなかったのだろうか。もっと誇りやかに笑わなかったのだろうか。恥ずかしがらずに堂々としていなかったのだろうか。過ぎ去った今では後悔するばかりである。
『やり直せるなら、私もあの子のように可愛らしく生きてみたい……』
小さな溜め息だけが部屋に沈澱していた。そして陽が温まらぬうちに暮れようとしていた。
外で遊んでいた秀樹が家に戻る途中、初枝の家の門の前で立っている少女を見つけた。
「おまえ、なにしてんだ」
少女の顔は少し青ざめているように思えた。彼女はなにも答えない。
「やっぱり。おまえ、ピーフンから先に進めないんだろう」
少女は恨みがましそうに秀樹を目尻でみつめた。
「あたし、あなたなんか嫌い」
風が冷たい。帰りが遅くなった秀樹を心配して、民江が制裁のバットを持ってきた。
「秀樹、あんたはいつもヤーマーレー(家に帰らず遊び歩き)して」
民江は秀樹のふと股《もも》をぶつ。秀樹が悲鳴をあげないように口を手で塞《ふさ》いでぶつ。
少女は民江の制裁を見て震えていた。民江がピーフンの前の少女に気づくと、作り笑顔で微笑んだ。胸元に少女のブローチをしている。すっかり自分のものだった。
「おや可愛い子、私の家を探していたのかい。今日は温かいシチューをあげようね」
民江が痙攣型のウインクをする。少女の腕を掴《つか》むと有無を言わさずに家に連れ込んだ。
「あたし、熱いのは嫌なの」
少女の泣き声が風にかき消された。
次の日、聞き覚えのある声を初枝は耳にした。
「オバァ、オバァ、いないの。お願い助けて」
初枝はぎょっとした。彼女が来てくれたんだ、と急いで戸を開ける。しかし誰もいないのだ。ほんの微《かす》かに声が聞こえる。
「見ないで、見ないで……」
「オバァは待っていたんだよ。どうして来なかったんだい」
初枝は声のする塀の向こうの空き地に出た。奥のデイゴの木の陰に少女は隠れていた。こっちにおいでと誘っても首を振ってきかない。彼女は扇子よりも大きな芭蕉《ばしよう》の葉をさして顔を隠していた。
「見ないで、見ないで……」
「どうしたんだい一体。助けてくれってどういうことなんだい」
初枝はデイゴの木に近づいてみた。女性の身体のような滑らかな幹を持つその木は、まるで懐に少女を抱く母のようである。初枝が近づくと少女は母の裾《すそ》の後ろに隠れるように身体を反らした。
「あたしオバァの家に入れないの。どうして入れてくれないの。あたしを苛《いじ》めているんでしょ」
「どうしてって、来ればいいじゃないか」
「ひどいわ。この前まであたしに優しかったのに」
「何を言っているんだい……。あっ」
初枝は葉を払いのけようとして再び驚いた。そこに立っている少女は昨日までとは比べようもないほどに痩《や》せているのだ。初枝は息もできない。よく悲鳴があがらなかったものだと自分を褒めたくなるほどだった。
頬は削げ落ち、あれだけふくよかだった瞼《まぶた》も窪《くぼ》んで、ギョロッと睨《にら》む三白眼になっていた。清潔に編み込まれたいつもの髪が解け、ばらばらになって風に四方八方に飛び散っている。あの見事な肌が腐りかけた餅《もち》のように無数に固く皹割《ひびわ》れ、紫がかった色に変色していた。顔だけではない。腕も脚も、極端に痩せているのだ。ちょうど氷の彫像が溶けてひと回り歪《いびつ》に小さくなった感じだ。たった数日でこれほど人が変わるのだろうか、もしかすると別人ではないかと思ったほどだ。初枝はかける言葉を失っていた。
「だから見ないでって言ったのに。オバァあたしのこと嫌いになったでしょう」
ひと回り以上大きくなった瞳には、辱められた女の涙がたっぷりと湛えられていた。少女がポロリと涙を流す。目頭から頬のカーブに沿って流星のように流れるはずの涙は、固くなった皹の溝に入り、上手《うま》く流れてはくれない。異形の涙だった。
少女から腐りかけた悪臭が放たれている。初枝は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「あんなに、綺麗な子だったのに」
「氷をちょうだい。たくさんの氷をちょうだい」
近寄ってきた少女の手を初枝は咄嗟《とつさ》に払いのけた。それでも少女は助けを求めて初枝に纏《まと》わりつこうとする。痩せた瞳と皹割れた顔に皺《しわ》をよせて初枝の裾を掴んだ。
「よしなさい。離しなさい。ハゴーサン(汚らしい)」
べとりと汚れた裾が股に密着すると、吐き気がしてくる。魚が腐った臭いだった。
「そんなこと言わないで。あたしオバァが好きだったのに」
黄ばんだブラウスを見ると、真珠のネックレスがかけられていた。初枝はピンときた。
「私の真珠じゃないのかい」
そういえば少女は初枝の紛失物に異様に詳しかったではないか。めくるめくスピードで記憶が回復してきた。アメジストの指輪、腕時計、それに今朝なくした金の入れ歯。初枝は少女の指を見た。腕を見た。そして口を見る。
「あんたが盗んだんだろう。どうりで詳しいはずだ。よくもぬけぬけと喋《しやべ》れるもんだね。返せ、返せ泥棒。私の真珠を返せ」
「違うわ。あたし泥棒なんかじゃない。これはオバァの真珠じゃないわ。オバァのはもっと大きな粒で数も多かったじゃないの」
目を真っ赤にして少女がネックレスを握った。
「私の真珠が大きかったなんてどうして知っているんだい。泥棒の証拠じゃないか。あんたの顔は泥棒の顔だよ。やっと本性を見せたか。あんなに可愛い顔して私を騙《だま》すなんてひどいじゃないか」
ブチリと初枝がネックレスをもぎ取ると、玉が零《こぼ》れて雑草のなかに紛れ込んだ。
「ひどい、ひどい、あたしの宝物だったのに……」
少女が地面に伏せて泣いた。初枝が唾を吐いて通り過ぎた。
力なく崩れた少女の元に赤いマフラーをした少年が現れた。一部始終を三階から覗《のぞ》いていた秀樹である。彼は何も言わずにアイスキャンディーを差し出した。足りないだろうとクーラーボックスいっぱいに入ったアイスキャンディーを置く。少女は芭蕉の葉で顔を隠し、震えていた。
「これ食って元気になれよ。ごめんな、ババアがシチューを三杯も食わせて」
少女は背の高い雑草に隠れてしまった。秀樹が目を逸らしたまま言う。
「ババア、これだけは自分の金でおまえに買ってやったんだぜ。おまえには必要ないかも知れないけど取っておけよ」
それはふんわりと暖かなマフラーだった。家路に帰ろうと走った少年が、振り返って、
「俺ってけっこういいやつだろ」
と声をかけ、照れてまた走って行く。
そして幾日かが風とともに過ぎた。
ある日、初枝は門の側にある魔除《まよけ》の壁のピーフンに貼られた障子紙を見つけた。壁の穴が紙で塞《ふさ》がれていた。
「誰だい、ピーフンに悪戯《いたずら》をしたのは。隣の秀樹の仕業だね。孫ぐるみで私を馬鹿にして。みんなで私を馬鹿にして」
初枝は障子紙を破り捨てた。
一方コンクリートの要塞《ようさい》では、民江と秀樹がエスプレッソを飲ませろ、飲ませんと喧嘩《けんか》が続いていた。秀樹は少女のことを思い出して、民江を殴ろうと振り上げた金属バットを宙に止めた。
『あの子、可愛かったよな』
そんな秀樹の思考に割り込んで民江は感傷に浸った。
「あれは私の恋だった……」
「あっぶねえ、ババアだな」
隙ありと民江の蹴《け》りが秀樹に入る。民江の首には大粒の真珠のネックレスがかけられていた。民江の腕にはしっかりと安物の時計が、指にはアメジストの指輪も嵌《は》められている。歯には形の合わない金歯までしているのだ。彼女のすることは抜け目ない。テレビでは沖縄地方の天気予報が流れていた。
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沖縄県石垣島地方、明日は晴れ。寒い日々が続いていましたが、ようやく晴れ間が覗き、暖かい日になるでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
一週間ばかりの、島の短い冬が終焉《しゆうえん》を迎えようとしていた。カジマイの次の日からは夏である。正確には夏のひと時を冬が間借りしていただけのことだ。
「カジマイもようやく終わりかい。炬燵《こたつ》をかたづけなきゃね」
明日から再び賑《にぎ》やかな縁側になるだろう。寂しいカジマイが今日までだと思えば、彼女のみならず島の誰もが安堵《あんど》するものだった。明日からは季節感のない、いつもの島に戻るのだ。寝仕度をしようと炬燵を立つと、ガラス戸を叩《たた》く音がした。外を見ると、あのいつかの少女が暗闇のなかに立っている。初枝は悲鳴をあげた。あの少女が、元の顔に戻っているのである。唇を噛《か》み締め、冷たい眼をして初枝を睨んでいる。
「あんた何者なの。助けて、誰か、助けてぇ」
初枝が逃げるように奥の部屋へ入った。戸の開く音と冷たい風が入る気圧差が、奥でも感じられた。冷たさがだんだん近づいてくる。一番座、二番座が冷え、部屋の廊下を渡り、裏座までもうすぐだった。
「今度は私の命を取ろうってんだろ。私の何もかも奪い取ろうってんだろ」
初枝は布団にくるまって叫んでいた。裏座の手前でピタリと足音が止まる。
「今日やっと入れたわ。どんなに待ったことか。あたし、泥棒なんかじゃないわ」
声が明瞭《めいりよう》に伝わった。布団の中まで突き刺すような声だった。初枝が耳を塞いでも少女の声がした。
「命まで取ろうってんじゃないわ。ただ、あたし悔しいの」
少女が箪笥《たんす》の引き出しを開ける音がする。初枝は恐ろしくて布団から外に出られない。パラパラとアルバムを捲《めく》る音がした。
「それは、私の最後の思い出なんだよ。取るのはやめておくれ」
初枝が怒鳴った。
「駄目よ。あんたの本当の姿を見せてあげる」
少女が笑う。初枝は勇気を奮い立たせ布団から飛び出した。するとどうしたことだろう。そこには誰もいなかった。しかし、そこに誰かがいた痕跡《こんせき》は残っている。開いた箪笥と床に転がり落ちたアルバムがあった。
「ひいいいい」
初枝はアルバムを開いて叫んだ。写真のどれも、どのページを開けても、そこに当時の自分がいない。いや初枝の顔はあった。ただどれもみな、年老いた皺だらけの今の顔ばかりなのだ。四十年前の写真も、結婚式の写真も、息子の十三祝いに写真館で撮ったものも、初枝の中学校の卒業写真にも、今の顔が写っていた。どの写真も絶叫して顔を歪《ゆが》めた自分が、時代を越えて写っている。
「ひどい、私の思い出を返して、私の自慢だった時代を返して」
冷たい空気が部屋から抜けていくのが感じられた。家の軋《きし》みが増幅してくる。初枝の無様《ぶざま》さを嘲《あざけ》って響いているようだった。
轟音《ごうおん》とともに風が過ぎ去ろうとしていた。クロトンの庭もシーサーも風に必死で抵抗している。冷たく厳しい冬の台風だった。初枝は耳を塞いで身をかがめている。赤瓦が何枚か吹き飛び、パリンと割れる音がした。ペパーミントグリーンの壁が剥《は》がれ、葉のように暗い空を舞った。付近から家屋の半壊する音、人の悲鳴が聞こえ、風にすべての音が溶けて混ざる。それから外でなにが起こっているのかわからなくなっていた。島を根こそぎ抉《えぐ》るようにゆっくりとカジマイが過ぎていく。
耳が慣れたのだろうか、気がつくとなにも聞こえなくなっていた。初枝の庭のピーフンがガラガラと崩れ落ちた。いつしか静寂が戻っていた。
外から人の声が聞こえてくる。初枝は恐る恐る戸を開いた。
「ババア、星が見えるぞ」
秀樹の甲高い声がした。見上げると今まで島を覆っていた分厚い雲が一筋も残っておらず、ぽかんと拍子抜けしたように下界を見下ろしている。
カジマイの最後の風だった。大地から島の地熱が蘇《よみがえ》りつつあった。
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復活、へび女
「今夜も来てたのか」
敷布団に落ちた人型の窪《くぼ》みを見て、僕はそれを手で撫《な》でてみる。
僕がはじめて彼女に会った日より、ずっと前から、彼女は僕のことを知っていた。正確には彼女に何度も会って、しかも何度も一緒に寝ていたのに、気がついたのが先月の朝のことだ。畳を温めているぺたんこの布団が、小さな人の形に窪んでいた。彼女はときどき僕の布団にそうっと忍び込んで、明け方までにはいなくなっている。六畳一間の安いだけが取り柄のアパートに、彼女はこうやってときどき現れる。
このところ寒い夢を見なくなっていたのは、彼女が側で寝息をたててくれていたからだろう。人型の窪みを見つけた驚きは、どこか幸福に限りなく近いものだった。
女が来たら絶句するほど散乱した僕の部屋は、あちこちに性のはけぐちになった痕跡《こんせき》の白い紙と、途中で何回もイッてしまって、なかなか最後まで見終えることのできないビデオテープが巻き戻されずにたわんでいる。そんな男の部屋に文句もなく、掃除もせず、書き置きもなく、朝食も作らず、彼女は何度も来ているのだ。
僕は月明かりに照らされて浅く窪んだ人型を前に、ぼんやりと正座している。腰を丸めてこちら側をむいた三日月の人型は、いったい誰が残した重さなのだろう。
プンと街路樹の草いきれが、青い臭いをたてて部屋に充満していた。
咄嗟《とつさ》に僕は周囲の紙ゴミを集めた。脱ぎっぱなしのパンツを丸めてビニル袋に捨てる。
「なんでこんな汚い日に来るんだよ」
汚い日はいつものことだ。ゴミと共存している僕にとって、ゴミはインテリアですらあるのだ。もし掃除をしたら殺風景な部屋になってしまうだろう。
「でも、彼女は一体誰なんだ」
ふと手を休めて、招待されていない謎の彼女のことを考えた。僕はもう一度布団を眺めて、検分を始めた。シーツの窪みからわかることは、小柄であること。痩《や》せていること。甘い体臭がすること。布団の端に寝ていることから、控え目な人物であること。無断で忍び込んでくるから、大胆な人物でもあること。
「そして、僕のことを好きであること」
口にして僕は今ひとつ自信がなくなってきた。
「でも、飽きずに彼女は通っているじゃないか」
そう思うと再び掃除を続けてしまうのだ。彼女を部屋に呼ぶために掃除をする男は山ほどいるだろうが、彼女が帰ったあとで掃除に勤《いそ》しむ男は僕くらいのものだろう。とにかく、僕はいつになく笑みを浮かべて、久し振りに味わう心の落ち着きのなさを喜んでいた。月の最後の明るさと、これから昇る太陽の滲《にじ》みがちょうど混ざった時間のことである。
「あら武山さん、もうでかけるの。おほほほほ」
大家の声を聞いてはっと夢から覚めさせられた。この大家は善意と称したゴミ暴《あば》きを日々の生業にしている。ゴミの日、大家は住人を痴漢する。最近はやりの地球にやさしいおばさんだ。
野良犬が生ゴミを漁《あさ》っちゃいけないから、と大義名分をたてて、近所の野良犬が数十匹たかったようにゴミを暴く。昨夜掃除したのは失敗だったと後悔した。案の定、大家の好奇心たっぷりの手は、僕のゴミを裸にしようとしている。
「まあ、だめよ武山さん。インスタントラーメンばかり食べちゃ。おほほほほ」
ラーメンの容器をとりあげると、ティッシュがどさりとこぼれ落ちた。
「まあ、雑誌はちゃんとまとめて捨てないとね」
朝のやさしい光に露《あらわ》にされた僕のゴミは、恥ずかしいと悲鳴をあげている。いつも、どうして僕は怒らないのだろうかと思う。肝心なときにはいつも、
『うそだろ。やめてくれよ』
と笑っているだけだ。そんなことはお構いなしに、若い男の生理には慣れていますから、と大家は上機嫌だ。僕はその場から逃げだしたかった。
「あら、あら、ちょっと、なにこれ」
大家はクリスマスプレゼントを広げる子どもみたいに、語尾がうわずる悦《よろこ》びをあげている。そして、小さなゴミ袋に指がのびた。
「まああっ。なに考えてんのかしら、北里さんったら」
そういって両手で広げたのはピンクのパンティだった。僕は目をまあるくして、朝日に白く透ける下着を見る。
「ねえ、武山さん。あの人絶対アタマおかしいと思うんだけど」
へばりついた口紅が大家の顔を曇らせている。僕は大家の目線がやっと人のゴミに移ったことを安堵《あんど》し、出現したパンティに驚いた。
「だってあの人、おばあちゃんなのよ。嫌だわ汚らわしい。こんなもの捨てなきゃ」
もともと捨ててあったものだということも忘れて、大家は勝手に憤り、パンティをくしゃくしゃにしてもう一度、ゴミ袋に投げ捨てた。
『おまえが穿《は》いてリサイクルすればいいだろ』
と思ったが、僕の顔は薄皮一枚で笑っている。
僕の部屋に見知らぬ彼女が現れてからというもの、日があたっても、月が隠れても、気持ちのよい唇の不在感がある。顔の下にうまく口が収まってくれない感じだ。大学でぼうとしていて、
「おい武山、たるんでるぞ」
と先輩にいわれたときなどは、座標でいえば頬の下、鼻の横あたりに唇がふわふわと浮かんでいたのだろうと思う。僕は今度はいつ彼女が現れてくれるのかばかりを考えているし、彼女が誰なのか知りたくてまち遠しかった。珍しく僕の部屋は空っぽだった。できれば部屋のきれいな今週中に現れてほしかった。当然日課のオナニーも我慢しなければならないのがつらいところだ。
僕は毎日できるだけ寄り道をしないで部屋に戻るようになっていた。共同玄関の階段を天井の梁《はり》に気をつけて昇ると、廊下を挟んで六つの部屋がある。僕の部屋は一番奥の右端だ。ある日、手前の二〇一号室のドアが開いていた。薄暗がりの廊下で唯一ぼんやりと明るい。僕はなんとなしに覗《のぞ》いてみた。
「暗いな」
よく見えなかったので、本格的に目を凝らした。ぷんと甘い香りが漂って、最初に鼻が敏感になった。僕の部屋以上に籠《こ》もる湿気が肌を押してくる。変色した畳色の空間に引っ越し忘れの荷物のような塊が置いてある。それは逆光で夥《おびただ》しい白い黴《かび》に覆われた塊に見えた。
「お兄ちゃんかい?」
塊が喋《しやべ》った。ようやく目が慣れてきて黴に覆われた忘れものが、人であることがわかった。そこには半裸で涼をとる老婆の背中があった。老婆は外の景色をずっと眺めて、掃除機のように大量のうどんを吸いこんでいる。あまり美味《おい》しそうな食べかたではなかった。
「部屋を間違えました。すみません」
僕は急いでドアをでて、なぜかしら外から頑丈な鍵《かぎ》をかけたくなった。二〇一と掲げられた表札を目の高さにして、そこに「北里のり子」と楷書《かいしよ》で書かれた名をみつけた。いつか大家が羨《うらや》ましがっていたピンクのパンティの持ち主だ。「あの人、アタマおかしいんじゃないの」という大家の声がだんだん僕の声に相まって、やがて完全に僕の声になった。
こんな僕だから、彼女は来てくれなくなったんだ。僕はまだ見ぬ彼女が全てお見通しに思えて、大家と共謀しているような自分が情けなくなった。
窓の外には、ビルの隙間から僅《わず》かに見える縦長の空がオレンジに伸びている。小さな夕暮れだった。この部屋はずっと前からひとりだったのだ。空っぽの部屋が冷たく僕を笑っている。仄《ほの》かな錯覚を抱いた自分が馬鹿だった。不在がちだった唇が定位置よりも下に収まって、重く感じた。
シーツの上に大切に保存していたはずの人型の窪《くぼ》みは、ここ何日かの寝返りのせいで判別できなくなっている。もうずっと彼女は現れてくれない。僕のことが嫌いになったのだろうか。電気を灯《つ》けるとなにもかも消えてしまいそうな気がして、僕はろくに着替えないまま壁を見ながら床に就いた。寝返りを打ってもそこに誰もいないあたりまえを僕は信じたくなくて、関節を曲げて固い昆虫のように眠った。
「やっぱり来てくれていたんだ」
あの人型の窪みが、はっきりと残っている。少し体重が増えたのだろうか、この前の形よりずっと深いように思った。どうして僕を起こしてくれないんだ。ウズウズした不満が腰を揺さぶる。そして昨夜ぐっすり寝てしまった不覚に後悔する。しかし僕の唇は浮かれて散歩にでかけてしまったようで、顔のどこにもない気がした。シーツに頬を押しあててみる。ほんのり温かく湿っていた。
「少なくとも一時間前まではここにいたんだ」
僕は俄然《がぜん》やる気になって、彼女の捕獲作戦にでた。思い切って布団をとり、ふかふかになるまでベランダに干した。下を見ると地球にやさしいおばさんがいる。
「まあ、まあ、なんてまあ」
ゴミの日の大家が桃色の声で朝からうるさい。こんなはしたない女は、燃えないゴミの日に清掃局の車に誘拐されてしまえばいいのに、今日は燃えるゴミの金曜だ。また小さなゴミ袋をレイプしている。
「武山さん。今度は寄せて上げるブラジャーよ」
僕は共犯になっている。せっかくの朝なのにそのことで不機嫌になった。
「あの人、北里さん。やっぱりオカシイわよ。最近まで働いていたっていうから、信用していれてあげたのに。本当はね、嫌だったのよ年寄りが住み着くなんて」
大家は木造のアパートを斜めに切る鋸声《のこぎりごえ》で、誰にいっているともなく勝手に喋る。
「おばあちゃんがこんなブラジャーなんて恥ずかしくないのかしら」
僕は素知らぬふりをしながら大家がポケットにそれをしまうのを見ていた。今度はリサイクルしてみるつもりらしい。北里さんに同情してしまう。でも彼女はいったいどんな身寄りの人なのだろう。僕は浮かれ加減の気分のよさで、微《かす》かに興味をもった。
わざとらしくお菓子を買い、狙い澄まして、よかったらどうぞ、というつもりで二〇一号室の前に立った。ドアは半開きになっていた。
「あのう。この前は失礼しました」
とドアを開けると荷物のような人影はなかった。畳に赤いチラシが数枚散らかっていて、「立川祭り」と書いた宣伝がうたってあった。その一枚を僕はポケットにしまいこみ、長居してはこの前の二の舞だと、買ってきたあられをドアの前に置いた。バイト帰りに再び二〇一号室を通ったとき、あられはなくなっていた。きっと北里さんは食べたのだろう。僕はこっそりと笑った。
僕は冷やかし半分に、北里さんのドアの前に再び、あられを置いた。数時間経つとあられが消えている。餌を食べるところを見せないハムスターと交流している気持ちに近い。このまま習慣になりそうな気がする。
謎の女捕獲作戦は順調に進み、三倍くらいに膨らんだ。日焼けの匂いのする敷布団に、絹のシーツを被《かぶ》せ、人型を採取しやすくしてある。布団は今や快適な罠《わな》になりつつある。これでかなり手掛かりが増えるにちがいない。できれば生のまま捕獲したいが、いつでもこっちは眠っているときだ。
「そうだ。眠っていなきゃいいんだ」
根本的に計画が誤っていたことが露呈してしまった。僕はその日から若さを使いきって丸三日間、寝たふりをきめこむことにした。
一日目、背後の気配に集中して、背中全体を目にしていた。へびだって赤外線を感知して餌を捕らえるというではないか。きっと背中は人の体温を感じとるだろうと頑《かたく》なに信じて、イメージするオレンジ色の物体をまった。ときどき、背中が熱くなり、これはと思う瞬間が何度かあったが、振り向くと誰もいず、かえっておばけの恐怖を味わう夜になった。そういえば彼女自体姿がないではないかと考えると、恐怖が倍増する。眠るつもりは毛頭なかったが、怖くて眠れなかったから好都合だった。
二日目、廊下をわたってくるだろうと考え、足音に集中して耳を鋭敏にさせていた。結局僕は爬虫類《はちゆうるい》ではないことが昨夜わかったので、今夜は蝙蝠《こうもり》になってみる。近づいてくる足音に超音波の成分があれば、先にわかるというものだ。しかし、夜は思った以上に静かなもので、集中してきいていると発狂しそうになってくる。気を紛らわそうとBGMをかけて過ごすことにした。気分は楽になったが、これでは起きていますと証明しているようなものだ。そのことには翌朝になって気がついた。
三日目、二日間の反省に基づき、残り香の甘い匂いを探すことにした。今夜の僕は鼻の利く犬になっている。もともと哺乳類《ほにゆうるい》は鼻が進化しているのだ。あたりまえだが、赤外線や超音波など感じられるわけがない。犬になった僕は楽な姿勢で鼻を利かせていた。鼻だけを起こし、目も耳も何も感じないようにする。そのうち脳みそまで眠ってしまって、気がついたら朝だった。鼻は集中力の持続しない器官らしく捕獲にはむいていない。それに僕はアレルギー性鼻炎だということを忘れていた。
しまったとバネじかけに跳び起きた朝、ふかふかの罠に獲物がいないことを確認して、「来なくてよかった」と安堵すると同時に、「なんで来ないんだよ」と不満にもなった。僕はいつしか彼女のことで一喜一憂するようになっている。
バイトにでようと階段を下りかけたとき、二〇一号室のドアの前に、あられをひとつまみ紙の上に置いた。給料日前だから、最近はあられを小出しにしている。
「ケチだと思わないでくれよ。給料入ったら一袋あげるからな」
すっかり情が移ってしまっていた。そういえば北里さんの姿は初めに見た半裸姿のときだけだ。この人はなにをして暮らしているのだろう。
昼下がり、早めにバイトが切り上がったこともあってぶらりと公園に立ち寄り、煙草をふかしていた。睡眠不足で明るい景色が緩慢に見える。子どもの声が人数以上にきこえる小さな遊戯区画に、ブランコに乗る小さな姿があった。腰の曲がった老婆が元気よくブランコを漕《こ》いでいた。
「北里さん……かな?」
近くにいた主婦が噂をしていた。
「あの人、ちょっとおかしいんじゃない。あんなに勢いよくブランコ漕いで」
「この前、もう一度やり直すんだっていってたわよ。なにをかしら。人生をかしら」
「人間、ああはなりたくないわね。いつも、うどんばかり買っていくわよ」
そういって冷笑していた。遠くでブランコを漕ぐ彼女が北里さんかどうかわからないけれども、公園内に溢《あふ》れる子どもの声のどれかに彼女の声があるように感じた。空を見ると雲灰色の真昼の月があがっていた。しみだらけの若くない顔をしていた。
部屋に帰って昼寝をすることにした。二〇一号室には供えた紙だけを残して、あられがなくなっていた。北里さんは今日も生きているらしい。
薄い月のあがった昼、僕は油断して正体がわからなくなるほど徹底的に眠った。
「昼間に現れるなんて卑怯《ひきよう》じゃないか」
罠には深々と彼女が添い寝した跡が残っていた。今までよりも満足のいく人型の採取に一応成功してはいたが、不意打ちには納得できない。いや、いつだって彼女は不意打ちだ。了解をとって寝たためしなど一度もない。
そんなに僕の性欲が怖いのだろうか。僕の下半身は最近いうことをきくように躾《しつけ》てあるから、いつも従順にうなだれたままだ。誘われているのなら断るつもりは全くないが、野獣のように襲うつもりもない。ただ淡い気持ちのまま、一緒にいたいだけだ。
しかたなく僕はいつものように検証を始めた。今回は手形の一部に頭頂部の側面と交差させた両足の形状がとれた。立体的に人が沈んだ跡は、これに石膏《せつこう》を流せばかなりリアルな人型がとれるほどグロテスクな代物だった。まるで恐竜の化石の発掘でもしている気分だ。身長は一五〇センチメートル程度、足の細さが顕著である。若い女は下半身が重いと思っていたが、この窪《くぼ》みは上半身に重心があるように推察された。腕もけっこう細い。痩《や》せた女性は僕のタイプだ。満足である。学名を「ソイネサウルス」と名づけた。
「これでホシを挙げる日も近いぞ」
僕はこの言葉通りの動かぬ証拠を記憶に焼き付けた。あとは記憶を手繰るだけだ。僕は洗いざらい女の子の交遊関係を洗った。
バイトで一緒の女子高生。ゼミで僕のことをじろじろ見ている清水さん。毎日駅で煙草を買うキヨスクのおばちゃん。踏切で一緒に並ぶショートヘアのOLさん。大家さん……これが僕の女関係なのかと情けなくなってきた。思いきって小学校三年生のとき初恋だった洋子ちゃん。溜《た》め息《いき》がでてくる。
「ホシを挙げる日は遠そうだ」
僕の知り合いのなかにとてもこの人型にピタリと合う人物はいなさそうだ。僕は王子様というほど身なりは立派じゃないけれど、この布団を崩さずに繁華街にもっていき、
「この形に合う女性はいませんか」
とシンデレラを探したくなる。ごろりと身体をなげうって甘い匂いを嗅《か》いだ。香水とはちがう身体からでるやさしい香りだ。
「なんだこりゃ」
シーツにへばりついた小さなゴミを見つけた。よく見るとポツポツとまるい粒が点在している。これは今までなかったことだ。僕は腹這《はらば》いになりながらその粒を次から次へと拾い集めた。主に横顔の口元とおぼしき窪みから発見できた。それは米粒みたいなものだ。仄《ほの》かに食用の臭いがする。試しに口に入れてみた。しばらく考えてもう一粒食べてみた。
「あられだ」
頭の相関図がなにやらいけない図式を導きだそうとしていたので、僕は思考をやめた。なにか別のことを考えて気を紛らわそうと、ポケットに入っていたチラシを取りだした。いつか北里さんの部屋で一枚拝借した赤い紙の祭りのチラシだ。
立川祭り。へび女復活!
恐怖漫画からへたくそに模写したらしきチープなイラストは、半分へび顔の美女の絵だった。センスが昭和四十年だ。こんなのが添い寝してたら嫌だな、とチラシを置いた。
布団に目をやると硬直したソイネサウルスの雌型《めがた》が、僕の気も知らず呑気《のんき》に横たわっている。窓を開けようと腰をあげると、あられが靴下にびっしりとついていた。
月の深い晩、夜這いに来る謎の彼女のことを忘れて眠っていた。時間が増すごとに落ちていく心地好い眠りのまま、意識はぼんやりと外の甘い香りを探しあてていた。
僕は夢を見ていた。雌型の布団をもって新宿の歩行者天国で、パフォーマンスをしている。僕はかぼちゃパンツに白いタイツ、赤いビニルのマント姿でシンデレラを探している。きれいな姉ちゃんたちが、次から次へと雌型に飛びこんでは残念そうに去っていった。そのうち意地悪な継母顔をした大家がやってきた。大家がいう。
「王子様。うちの娘たちこそあなたが探されていた意中の人です。この人型にピタリと合わせてみせましょう」
大家が連れだってきたのは、この世の最終形態をしたキュビスム顔の娘たちだ。夢のせいだろう。目を覆ってもその顔は消えてくれない。頼みもしないのに娘が雌型に寝転んだ。もしピタリと合ったら、このまま寝たきりの人生にしてしまおう。
「きいいい。お母様合わないわ」
「なんで合わないの。お母さんはそんな娘に育てた覚えはありません。次女はいりなさい」
「いやああ。お母様、私余ってしまったわ」
僕の夢は与《あず》かりしらぬ方向に暴走していた。そんなやりとりの中、後ろに存在感の薄い女がたっている。くすんだ色の身なりをしていた。
大家がおまえは無理よと笑う。キュビスム顔の娘たちも追従する。それでも強引に押しわけて彼女は布団に寝転んだ。
「ピッタリだ」
僕は驚いた。顔はよく見えないが、雌型に余りもせず、足りなくもなく、見事に収まった。僕は歓喜した。あなたこそ僕が望んでいた最愛の人。まだ会ったこともないけれど恋をした人。あなたは誰ですか。僕は目を凝らした。しかし、ぼんやりとして見えない。大家が悔しそうに騒いでいた。
「おまえがそうだなんて、お母さん許しませんよ」
大家は逆上して、横たわった彼女に襲いかかった。服を細切れに破き折檻《せつかん》している。夢の中でも大家の行動は破天荒だ。僕は仲裁に入った。
布団には下着姿にされた彼女がさめざめと泣いている。髪が乱れて顔がよくわからなかった。淡いピンクのパンティと寄せて上げるブラジャーが印象的だった。
「これはお母さんの下着じゃないの。歳を考えなさい、はしたない」
どこかで聞いた台詞《せりふ》だ。その言葉とともに彼女を覆っていた黒い霧が晴れつつあった。だんだん、だんだん、彼女の姿が見えてきた。白い黴《かび》で覆われた背中が、白髪が混じった髪が、ああこれは悪夢だ。大家がとどめをさした。
「北里さん。いい歳をして恥をしりなさい。下着は没収します」
耳元で怒鳴られたような強烈な台詞で、次の瞬間、僕は部屋の中にいた。
「夢だったのか……」
安堵《あんど》と落胆が混じったすっぱい溜め息がでてきた。強烈な夢のせいでしばらく僕は静かな現実に戻れずにいた。時計を見ると深夜の三時だ。暗闇の中、ぼうと蛍光色の時計が九十度に手を広げていた。いつもとなにかが変わっている寝覚めだ。なんだろう。
背中のへびがオレンジ色の赤外線を捕らえている。蝙蝠《こうもり》の耳が僕とはちがう誰かの寝息をきいている。犬の鼻が甘い匂いを嗅ぎわけている。
「まさか」
セメントの土砂をかけられて生き埋めにされたように、僕の身体が固まった。
これは夢ではない。今この暗闇のむこうに彼女がいる。寝返りをうてばあの人がそばにいるのだ。心臓のドラムがここぞとばかりにスポットライトの当たる誰かを探している。甘い気持ちとは裏腹に、緊張というミサイルが垂直に打ちあげられた。僕はそれでも心の中で、じんわりと広がる切なさを感じている。ブルースとハードロックを同時にきき分けている感じだ。
僕はそうっといくか、がばっといくか、どっちでもいいことに支配されていた。「せっかく俺らが捕まえてやったのによ。そんなだから女もできないんじゃないか」背中と耳と鼻が僕に説教している。よし決めた。三秒後の気持ちでいくことにする。三、二、一。
がばっと振りむいた。ドラムがジャーンとなってスポットライトが当たる。
「お兄ちゃん」
夢の世界に永遠に旅立ちたくなった。
僕は飛んでいったミサイルを遠隔操作で自爆させ、ブルース歌手とロックバンドに解散を命じた。輪郭は僕の想像した通りだ。今そこにいる彼女をベタで塗り潰《つぶ》せば、あの愛《いと》しい人になる。この妙な気持ちをどうしてくれよう。頭に習いたてのヴァイオリンを弾く奏者が、僕を必死で慰めていた。
雌型に石膏を流しこむとできあがるはずの絶世の美女は、乾燥させすぎたのか、干からびた女になっていた。運命の、念願の、はじめての出会いである。人は第一印象とはちがうというが、本当にそうだとは思わなかった。
北里のり子さんは、痩せた顔の大きな瞼《まぶた》と薄い唇が特徴のおばあさんだ。いつか公園でブランコを漕《こ》いでいた人だと思った。すっかり安心しきった寝顔に僕は失望という布団をかけている。それでも北里さんは、暖かそうに両手を小さく曲げて眠っていた。
僕は北里さんを隣にして、煙草に火をつけた。ふうと吐いた煙は倦怠《けんたい》めいて部屋に籠《こ》もる。誰かがこの状況を見れば、禁断の恋をしているカップルの逢瀬《おうせ》のあとに見えることだろう。「もう終わりにしようや」と僕は呟《つぶや》きたくなった。
「お兄ちゃん……」
今度は彼女に布団をかけてやった。薄い夏布団は痩せた北里さんの身体にほっそりとまとわりつく。僕は外にでた。朝まで帰るつもりはなかった。
コンビニの強烈な光が深夜の路《みち》に輝いていて、あてのない僕は吸い寄せられる。そこで雑誌を読んで時間を潰した。所々の電柱には赤い貼り紙がへばりついていた。三十年前からそこにあったような古めかしいイラストに、新品の紙が糊《のり》づけ正しくピンと貼ってあった。「へび女復活」と。
何時間も同じ場所を通ったり、新しい路に迷いこんだり、それでもなんの目新しいことも発見できないまま僕はアパートの前に立っていた。今日もゴミの日だ。僕は大家よりも早くゴミ捨場の前にいる。不燃物の日なのに、大家は捨てられていなかった。
「あらあら武山さん早いわね」
大家は朝から陽気だ。昨晩、僕の夢をめちゃくちゃにしてくれたのを思い返すと、劫火《ごうか》が燃える。なのに僕はまたへらへらと笑ったりしている。
「ねえ、調べたのよあたし。北里さんって、なにしていた人だと思う」
その話題は避けたかった。
「あの人、見世物小屋にいたらしいのよ。やあねえ、どうりで不潔だと思った」
「見世物小屋って」
さっき避けたはずの話題に僕は興味をもっている。
「驚くわよ。あの人、へび女だったのよ。やだやだ、おぞましい。早くでていってくれないかしら。武山さん、なにか彼女に変なとこあったらすぐにおしえてね」
とても、ちょくちょく夜這いに来ていますとはいえなかった。大家はめぼしいゴミがなかったらしく、ちょっと残念そうだ。こんな人はスモーキーマウンテンにでも住めば生きがいができるはずだ。戻ろうとする大家にきいてみた。
「大家さん、娘さんはいますか」
「ええ、二人いるわよ。あたしの若い頃によく似ているわよ」
おまえの昔の顔はキュビスムかと思ったが、笑うしかない。ふざけて、
「もう一人、いませんか。歳をとった娘さん」
と尋ねたらびっくりして、
「ええ、まあね。あたし後妻だから、継子《ままこ》の娘もいるんだけど、あたしより年上なの」
と答えたので僕は唖然《あぜん》とした。
もう帰っただろうと恐る恐る階段を昇る。二〇一号室を見て、ここから通っていたのかとある種の感慨を覚えた。ドアの横にはいつしか菓子皿が置いてあって、無言であられを要求している。どうやら癖になっているらしい。
部屋には見事にソイネサウルスの型が残っていた。今まで以上のできばえだった。もうこの型を見て興奮することはないし、甘い気持ちになることもない。でも不思議なことに嫌悪感はなかった。僕は布団を畳んで、溜《た》め息《いき》をつく。
「お兄ちゃんっていってたな」
かなり年上の妹をもつとこんな気持ちになるのだろうか。多分、北里さんが起きたとき、僕がいなかったのでバレたと思っただろう。案の定その日から北里さんは来なくなった。悪いことをした気がして、僕も鬱《うつ》になった。それからしばらく僕の毎日は、朝でも夜でもない締まりのないぼんやりとした日になっていた。そういえばずっとあられをやっていないと気づき、ひとつまみ菓子皿に置いた。二日くらい経ってなくなっていた。
北里さんが現れなくなってもう二週間になろうとしている。ある月の晩、蝙蝠癖のついた耳が廊下の足音を捕らえた。足音は僕の部屋にだんだん近づいてきた。電気を灯《つ》けようか、CDをかけようか迷ったが、僕はどれもしなかった。ドアの前で足音がとまる。
鍵《かぎ》を開けようとしている音がする。そういえば僕はいつも鍵をかけていたのだ。彼女は忍びこむ夜ごとに、こうやって鍵を開けていたのだ。僕の心臓は鳴り響き、目は暗闇の中からはっきりとドアを凝視していた。この恐怖を今まで僕が二十年生きてきた経験では、表せない。年寄りの女吸血鬼に襲われている青年なら、きっとわかってくれる恐怖だと思う。
鍵が開いた。ドアがぎいと鳴った。僕は目を固く閉じた。
プンと甘い香りが先に部屋にはいってくる。犬癖がついた鼻がくんくん匂いを嗅いでいる。これが北里さんじゃなかったら、勃起《ぼつき》してしまうところだ。
「あれっ変だぞ」
むずむずと僕の身体が変化していた。気づくまい、気づくまいとして頭のなかで別のことを想像することにした。なにか平和なこと、なにか純粋なことはないか、僕は記憶を検索する。目を閉じているのに、へび癖のついた僕の背中は彼女の放射熱を捕捉《ほそく》している。僕の下半身はすでに別の生物に変身しつつあった。
「ア、アルプスの少女ハイジ≠考えよう」
僕はときどきビデオでこっそりと見ているアニメに集中することにした。オタクだと馬鹿にされそうだから、誰にもいわないけれど泣くことすらある。
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口笛はなぜ遠くまできこえるの
あの雲はなぜ私をまってるの
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北里さんの熱残像が、添い寝の体勢にはいった。僕は歌いながら子どもになろうとしているのに、下半身は大人になってそそり立っている。あんまり立派じゃないけど機能は充分だ。いけない、もっと歌わなければ。
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おしえておじいさん おしえておじいさん
おしえてアルムのもみの樹よ
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本当におしえてほしかった。僕はなぜこんなにオカシイのだろう。じいちゃん、おしえてくれよ。頭がヘンになりそうだ。こんなに冷静なのに、こんなに興奮している。北里さんはおばあさんなのに、僕は変態なんだろうか。だから彼女もできないんだろうか。周りの女たちはもっと早くに僕の変態に気がついていたのかもしれない。ハイジをもってしても僕の興奮は収まらない。また別のことを考えよう。そうだ、とっておきのフランダースの犬≠ゥらネロとパトラッシュが死ぬシーンを思い返そう。
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ラララ ラララ ジンゲンジンゲン クライネブリンダース
ラララ ラララ ジンゲンジンゲン ララ
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いつも大泣きをしている、教会でルーベンスの絵を見たネロとパトラッシュのシーンだ。ふたりが天国に昇っていくあのシーンだ。悲しくなって、僕の固く閉ざした瞼《まぶた》の裏に熱い涙が込みあげてきた。あんなハードアニメはもう見られないだろう。僕は鼻を真っ赤にし、枕を濡《ぬ》らして勃起していた。万策はつきた。僕は、泣きながら勃起もできる変態です。
「お兄ちゃん」
北里さんのあの声だ。興奮は胸まで達していた。やがて僕は下半身の悪魔に脳まで冒《おか》されて正気を失うことだろう。まだ正気のあるうちに気仙沼《けせんぬま》のお母さんごめんなさい。健自はこれからヘンになります。
唾《つば》をごくりと飲みこんだ。喉《のど》までウイルスが昇ってきている。乾いた唇を舐《な》めた。耳が熱い。もうそろそろだ。ぱん、とハイジとネロが弾《はじ》けた。
ある瞬間から僕はひとつの野生になっていた。身体の中は一本のそそりたつ火柱だった。息が水蒸気のようなのに、喉が渇いている。動いていないのに、汗をかいている。春先でもないのに、アレルギー性鼻炎が再発している。
そうっといくか、がばっといくか僕には迷いがなかった。三秒後にがばっと振りむこうと決めた。三、二、一。
身体が動かない。もう一度ゆっくり数えよう。三、二、一。
僕は、そうっと振りむいた。
大きな瞼を閉じた北里さんの寝顔がすぐ側にあった。振りむいても僕は動けないでいる。勇気がないのはヘンになったあとでも同じだ。僕は三日月型に身体を曲げて固くなっているのに、目は爛々《らんらん》と冴《さ》えわたっていた。敏感な人ならその殺気だった気配で跳び起きるのだろうか。北里さんは大胆な人だから寝息をたてている。
「お兄ちゃん」
穏やかな寝顔だった。寝息とともに北里さんから静かな時間が湧いている。それは、ちょっぴり懐かしくて、切なく心に染みいり、しかし涼やかな時間だった。彼女の身体から湧きでた透明なそれは、部屋を満たし、僕の火照《ほて》った身体を冷やす。水嵩《みずかさ》が増し、僕は包まれて興奮のない静けさにいた。生じた浮力で、僕の身体も弛緩《しかん》した人形になる。やがて僕たちはしんと音のない水球儀の中で寄り添うように浮かんでいた。
「お兄ちゃんは、ここにいるよ」
僕は北里さんの手をそうっと握った。僕の片手でふたつ分は握れそうなほど小さくて細い。彼女の手は、まるで水垢《みずあか》がついてぬるぬるする掴《つか》みどころのない割り箸《ばし》の束みたいだ。強く握るとぐにぐに静脈が動く。しかしあまりの冷たさに血が流れていないように感じた。僕の掌《てのひら》まで冒されてしまう冷たさだ。彼女が本当に生きているのか不思議だった。
ぺこん、ぺこんと呼吸のたびに膨らむ胸があった。足も手も生命感なく支点からぶらさがってくっついている。彼女の胸だけが辛《かろ》うじて生きている感じだ。まるで緩んだ皮の奥に別の生命が寄生して、規則的に押しあげ脱出を試みているようだ。僕の顔はゆっくりとその胸に近づいていた。
胸の中心に耳をあてて静かに澄ましてみる。肋骨《ろつこつ》の波が耳にあたった。皮膚がとても薄い。僕の熱い耳が冷たい胸に冷やされて心地好かった。
どくん、どくんと聴診器の音がきこえる。しっかりと正確な心臓の刻みだった。少なくとも六十年は動いているその時計は、一ヵ月に十五分は遅れる僕のめざまし時計より遥《はる》かに正確だった。北里さんの皮膚は安い塩化ビニルみたいで、顔も表情のない人形みたいだ。だけど、この人形には生きた心臓がはいっている。冷たい人形の中には熱い心臓が動いている。そこには別の小さな魂が宿っていた。僕の鼓動も籠《こ》もってきこえてきた。彼女が一拍すると、僕の鼓動は三拍は刻んでいる。やがて僕は二拍になり、そしてついに彼女と重なった。
僕は等身大の古い人形を抱いていた。北里さんは起きなかった。僕はそれに安心して眠った。僕たちは寄り添って半月くらいの大きさになっていた。
朝起きたときには、いつもの人型のソイネサウルスの形が残っていた。僕は失敗したと激しく後悔した。北里さんは僕の頭をゆっくりと持ちあげて、起こさないようにでていったのだろう。僕は枕をしてきちんと布団を被《かぶ》っていた。もう二度と彼女は来ないかもしれない。頭は空白だった。その日は恥ずかしくて布団からでられなかった。ぐるぐる考えているうちに夜になってしまえばいいと思った。
次の日、意を決して僕は二〇一号室の前に立った。お詫《わ》びにあられを一袋買ってきて、菓子皿のうえに置いた。「ごめん」といおうとしたが、どうしても声にならなかった。
日を改めて僕は昨日のあられと重ねてもう一袋置いた。まだ食べてくれない。僕は北里さんが許してくれるまで、毎日あられを置いた。
五日経っても、あられはそのままずっと残っていた。
僕はゴミの日をまって大家にきいてみることにした。
「大家さん。二〇一号室の北里さん、どうしました」
大家はなぜそんなこときくのと怪訝《けげん》そうに僕をみつめ、ふんとそっぽをむいて答えた。
「あの人には、でていってもらいました。家賃を滞納したのよ。非常識にもほどがあるわ」
僕は愕然《がくぜん》とした。彼女は黙ってでていったのだ。
「幾ら滞納していたんですか。僕払います」
「十日遅れたの。もともとお金がなさそうだし、この際だからでていってもらったのよ」
たった十日。僕は二ヵ月滞納したこともあるのに、たった十日でこの大家は北里さんを追いだしたのだ。僕は怒りが沸騰してきた。もう笑ってなんかいられない。
「ひどいじゃないか。北里さんは一人暮らしだったんだぞ。そんなに冷たくして、あんた良心が痛まないのかよ。あんた最低だよ。このゴミ漁《あさ》り」
僕はかっとなって思いのたけをぶつけた。みんな大家にいいたかったことだ。でてくる言葉のどれもがリアルだった。
「なんで武山さんが北里さんのことを庇《かば》うのよ。恋人でもあるまいし」
心にぐさりと刺さる。そう彼女は恋人ではなかった。
「ゴミ漁りだなんて失礼よ。だったらちゃんと分別しなさいよ。あんたのゴミにペットボトルの蓋《ふた》がはいっていたわよ。あれは金属だから燃えないゴミよ」
一気に形勢が逆転していた。僕は延々とお説教されてしまっている。やっぱりおばさんにはかなわない。ぺこぺこ謝ってやっと解放してもらった。すごくかっこ悪かった。
階段を踏むたびに片足にずしりと体重をかけてゆっくりと昇った。昇りきった先がどうして二〇一号室なのかと悲しくなった。僕はこの階段を昇るたびに、二〇一号室を通るたびに、胸がつまることだろう。
二〇一号室の前にはお供えものになったあられが、菓子皿から溢《あふ》れていた。ドアの前にたつとやるせない気持ちになる。そういえば自己紹介もしていない仲だった。恋人じゃないからあたりまえだ。僕はドアをノックしていた。返事はなかった。
ドアを開けると、畳色の空間に生活が逃げた跡があった。初めてここにはいったときの引っ越し忘れの荷物の塊もなかった。僕はぺたりと座りこんで、北里さんがいつか見ていた、窓の景色に顔を合わせる。路を挟んだ隣のビルしか見えない偏平な景色だった。
「この景色をいつも見ていたのか。こんなつまらない景色を見ていたのか」
たまらない思いで空き部屋独特の埃《ほこり》粒の匂いを嗅《か》いだ。甘い香りまで引っ越していた。来るときも去るときも、いつも彼女は僕に相談なしだ。うなだれて畳の縁を見る。なにか落ちていた。僕はそれを指で押して拾い、口にした。
「あられだ」
湿っているのと傷んでいるのと悲しいのとで、酸っぱかった。隅を見るとあのへび女のチラシがあった。大家は彼女がへび女をしていたといっていた。急いで日付を見る。
七月二十日〜七月二十三日。
今日は七月二十三日だ。祭りの最後の日ではないか。ここにいけば北里さんに会える。会ってどうするかはきめていなかったが、北里さんの復活を見たかった。僕はすぐに立川にむかった。
混雑した祭りは露店で賑《にぎ》わい、人と光と食べ物の細長い縁日になっている。僕は見世物小屋を探した。そしてさんざん迷った末に辿《たど》りついた。ここに彼女がいるのだ。看板もチープなあのイラストだ。なるほど祭りの混雑にこの絵はかなりインパクトがある。これなら人の好奇心を駆りたてよう。しかし、他の店は繁盛しているのに、見世物小屋には不思議と誰も並ぶ人はいない。不人気なのだろうかと心配になった。こんなだしものは時代遅れなのだろうか。僕は主を見つけた。
「あのう、へび女が見たいんですけど幾らですか」
痩《や》せた人のよさそうな男が残念そうにいった。
「今この紙を貼ろうとしていたところだよ。さっき救急車が来ていたの知らなかったの」
なんのことだか僕にはわからなかった。男がぺたりと看板に貼った紙には、「へび女は終了いたしました」と書いてあった。
「どういうことなんです。北里さんになにかあったんですか」
「あなた、のり子さんの知り合いなの。いやあ、彼女は途中までは良かったんだけどさ。へびの五匹一気|喰《く》いで喉《のど》をつまらせちゃってね。昔は十匹はいけたんだけどなあ」
言葉を全部きき終えるまでに、僕の身体が軽くなって消えてしまいそうだった。
「惜しかったよなあ。もし成功したら完全復活だったのに。やっぱり無理だったか」
祭りの軽い光が眩《まぶ》しい。僕の目の前は暗くあってほしかった。もう立っているのもやっとの軽さだ。
「北里さん、死んだんですか……」
祭りの喧騒《けんそう》に僕の声は届いただろうか。笑顔の溢れる縁日に僕の隠れる場所はない。目を閉じて三つ数えたら部屋に戻っていたかった。鼻水みたいな涙がポタポタと垂れてくる。男は妙な顔をした。
「死んでなんかいないよ。ただ大事をとらせただけ。あの人はプロなんだから、無茶なことはしないよ。がはははは」
男は高らかに笑った。早合点した恥ずかしさと、すぐに湧いてこない喜びで戸惑っている僕は、やっぱり部屋に戻りたかった。
「あんた、お兄ちゃんだろ」
なんで知っているんだ。僕の体重が現実の六十五キロに戻った。
「のり子さん、いってたよ。若くして死んだお兄さんに似ている青年がいるって。お菓子をくれたり、手を握ってくれたり、とても親切にしてくれるって」
僕のことだ。でも大して親切にしてはいなかった。
「のり子さんが三十代のころかなあ。あの人、自分にはなにも才能がないから、せめてへびを食べますっていってきてさあ。ところがだよ、これが大当たり。たちまち俺たちは祭りのひっぱり凧《だこ》になったんだよ。あちこちふたりでいったなあ」
男は得意そうだった。僕は北里さんのことならなんでも知りたかった。
「でもいつだったかな、歳だから辞めるっていってきて、長いこと会っていなかったんだ。それに差別だのいろいろ問題があるだろ。財も成したしちょうどいいからやめたのさ」
男はひょうきんな顔を混ぜながら北里さんとの思い出を語ってくれた。
「そしたらだよ、お兄ちゃん。今年になってひょっこりのり子さんが戻ってきて、もう一度やりたいっていってきたんだ」
僕はいつしか男にお兄ちゃんと呼ばれていた。しかし、嫌な気分じゃなかった。
「のり子さんはいい女だよな、お兄ちゃん。やさしくしてくれてありがとうな」
どうしてだか、僕はまた軽くなっている。結局、北里さんには会えなかったけれど今の高揚は会ったときよりも大きい。満足して最後に男に尋ねた。
「今夜はもうかりましたか」
男はニヤリと笑った。
「まあまあだよ。お兄ちゃん」
僕の部屋に北里さんが現れなくなって、すでに三ヵ月が経とうとしている。二〇一号室には若い女性が入居していた。彼女は陽子さんという。よく挨拶《あいさつ》を交わすし、立ち話もする。朗らかな印象のいい女性だ。ある日、陽子さんが田舎のお土産のおすそ分けに、僕の部屋のドアを叩《たた》いた。
「武山さん、前からずっと気になっていたんだけど、ドアの前のあられ。これはなに」
僕は毎日のようにあられを菓子皿に盛っておくようにしていた。ときどき忘れて湿らせたりもするが、まめにとり替えて僕が食べている。大切な北里さんとの思い出だ。
「恋のおまじないだよ」
「あたしが食べてもいいかな」
僕の生活は変わりつつあった。
中央線に乗ったある日、女子大生たちの会話を立ち聞きして、大月の祭りにへび女が現れていたことを知った。なんでも彼女は伝説の十匹喰いに成功したそうである。「元祖日本一のへび女」と呼び名を変えているらしく、話しぶりから、この女子大生たちはへび女の追っかけをしているようだった。
揺れる車窓から北里さんのことを想う。今もあの男とふたりで全国を巡っているのだろうか。へびで喉をつまらせたりしていないだろうか。お腹をこわしていないだろうか。
そして月の晩、彼女が添い寝した夜を思いだしては、胸を切なくさせるのだ。
[#改ページ]
前世迷宮
都内のある高層団地の屋上に、少女の影が立った。柵《さく》を乗りこえてはるか下のコンクリートの大地をみつめている。初めてこの高みに立ち、襲ってくる高所の恐怖で両足が震えていた。数棟ならんだ団地は、風を圧縮して強烈なビル風を生みだしている。捲《めく》れたスカートの襞《ひだ》が彼女の下半身を高速で巡回し、横脇からパンツを何十回とちらつかせた。たまに垂直に湧き起こる上昇気流が、彼女のスカートを巾着《きんちやく》型に逆だたせ、嬲《なぶ》りものにする。み開いた眼が乾き、何度も瞬《まばた》きをした。こんなに風が強くては満足に呼吸も整えられない、と少女は不満気であった。
「徳ちゃん、みててよ」
彼女が下でみている徳夫に声をかけた。ふたりは同じ中学に通う同級生で、幼なじみでもある。下で徳夫は高空に佇《たたず》む彼女をみていた。彼はやっと正気にかえったようだ。
「理子、やめろよ」
両手を口の脇に添えて徳夫は大声で制止した。徳夫の良心が痛む。この高層団地を推薦したのも、一番高い三号棟を指定したのも彼だった。高ければ高いほど落下時間が長いから、と理子にいったのも彼だ。
理子は靴を履《は》いていた。添えられるべき遺書もない。建物の縁に立って去来する思い出も懺悔《ざんげ》も無用だった。それもそのはずである。彼女には死ぬ意志など毛頭ないからだ。
古田理子は気の弱い普通の中学生だった。彼女を語るときに特筆すべきことは社会的にも外見的にもこれといってない。すこし変わっていることといえば、理子が占い好きの少女であることだろうか。それでもこの年代の女性で占いに関心を示さない者が変わっているくらいだから、理子はごく普通の少女といってよかった。
彼女は占いならすべて、占星術や四柱推命学、血液型占い、姓名判断から手相までに興味を示していた。自分の運命や恋の相手を知ることが、彼女の日常生活のほとんどを占めており、書物で得るかぎりの運命を知っていた。雑誌も占いのコーナーから先に読み、立ち読みで複数の雑誌から今月の運命を受理していた。
占星術では双子座の彼女は二面性をもった社交人で、恋をゲームとして楽しむ傾向がある人物とされていた。四柱推命学では運命星に天乙貴人が月柱にあるお蔭《かげ》で、富貴《ふうき》に恵まれるそうである。A型の血液は真面目で几帳面《きちようめん》とされ、十六画の人格と二十四画の総格は頭領運と財運を表しているらしい。手相に至っては月丘から寵愛《ちようあい》線がでてクラスの人気者になるといわれていた。
古田理子はそんな少女である、と彼女は自分にいいきかせていた。それだけでは飽き足らず、理子は占いの館にまで通いつめた。鰯《いわし》を食う白装束の女が、「今年は新たな発見があります」と予言してくれた。理子はそれに満足した。
幼なじみの伊藤徳夫からみれば、理子は内向的で人見知りが激しく、クラスでもグループから外れがちな女であった。よく教室の隅で思い出し笑いばかりして不気味がられている。
理子は占いの結果が不満だった。恋の相手は、路《みち》に迷っているのか、はたまた野垂れ死にしてしまったのか、二年前から遅刻してやってこない。その待ち時間のあいだにも先月を含めて、通算九人が理子のもとに辿《たど》り着けないでいる。また、予言された数々の不慮のアクシデントも理子のもとに訪れていない。彼女はかんがえる。ある日、今まで詰まっていた九人分の彼と、十二回ものアクシデントが一挙にやってきたらどうしようと。そして彼女はその日が何かに予言されていないかしらと手相をみる。人相をみる。歯茎をみる。
現在、理子が熱中しているのは前世占いだった。
「ねえ、徳ちゃん。自分の前世が何だったのか興味ない」
ある日、彼女は占いの雑誌を開いて徳夫にみせた。彼女は新しい占いを発見すると手始めに、その占いの信憑性《しんぴようせい》を確認するため徳夫をイケニエに捧《ささ》げる。占評があたっていた場合において彼女の熱中が始まるのだ。すでに誌面には徳夫の生年月日を書き込んでいて、占評を読みあげるだけだった。
「また妙な占いを始めやがって。おれは今の自分に満足しているから前世なんて興味ないね」
徳夫の台詞《せりふ》が終わらないうちに理子は畳みかける。
「徳ちゃんの前世は、戦国の武士だったらしいのよ。そこで何人もの人を殺したらしいのね。だからそのカルマが現世において、貧弱で気弱な男になっているんだって。あんたって力もないのに野望は大きいじゃない。それは前世の武士の魂が残っているからなのよ」
『あたっているわ』
理子は満足していた。徳夫は不貞腐《ふてくさ》れ気味に窓から校庭を覗《のぞ》いてそっぽをむいた。それでも理子の分析はやまない。
「それにね。どうやら飢饉《ききん》で飢え死にしたらしいの。あんたガリガリに痩《や》せているのはそのせいじゃないの。可哀そうな百姓たちをいじめた罰なんだよ」
理子の語調はあがっていくばかりだ。ここまで理子に貶《さげす》まれても徳夫は怒鳴らない。クラスに厳然と存在するうつり気な階級構造では、理子みたいな狂言をはく女は最下層に組み込まれているからだ。しかし理子にはそれがわからない。徳夫は社会性に敏感な少年だった。彼はクラスのなかでは安定勢力の中間層に属していて、刻々とうつろうボスの存在と力関係を把握していた。
教室が吼《ほ》えるといじめが始まることを、徳夫は知っていた。あるとき教室は生《い》け贄《にえ》を要求する。それと引き換えにまわりは束の間の安全を授かるのだ。それがいつ起こるかわからない。彼は自分でないことを祈るばかりだ。
「だったら、理子の前世はどうだったんだよ」
徳夫はむくれて呟《つぶや》く。下校のチャイムが生徒を促していた。さっそく彼女は複雑な誕生日計算に勤《いそ》しんでいる。放送が終わらないうちに理子は自分の前世をつきとめていた。
「あたしの前世は神官だったって書いてあるわ。とても重要な役割と使命をもって国をよく治めさせたんだって。あたしの神秘主義もきっとこの影響なのよ。絶対そうだわ。この本によると、人は使命をもって生まれてきているらしいのね。前世でやり残した仕事を現世で成すらしいの。あたしは知識と預言で人々を導く運命なんだわ」
大長編の物語を読み終わったカタルシスでも、これほど満足気な表情をつくらないだろう。理子は興奮していた。
「おまえに導かれたら、来世で呪《のろ》ってやるからな」
徳夫は馬鹿馬鹿しいと教室をあとにした。
昏《くら》がりの教室のなかで理子は占いの検証をはじめだした。周囲の人間の前世をつきとめることで、彼女の前世を強化しようとしたのだ。クラスの片っ端からの作業だった。
「ケチな智佳子の前世は商人だったんだ。意地悪な有紀は農民か。デブの先生は……相撲取りじゃない。あたっているわ。これぜんぶ」
理子の押し殺したうすら笑いが、静かで硬く冷えた教室にこだましていた。
以来、理子の生活の道しるべと人間関係の基盤は前世占いによるところとなった。授業中に教師にさされても、
「なにさ。相撲取りだったくせに」
と秘密を握ったかのように笑う。たまに有紀が彼女を「のろま」と馬鹿にしても、
「あたしの前世は神官だったのよ。あんたみたいな下級な生まれとはちがうんだから。農民は飢饉の心配でもしていな。もっとも雨乞《あまご》いなんてしてやらないけどね」
と逆に優越感を誇示するようになった。
「あたしがみんなに対していつも感じていた希薄さは、きっと前世の高貴さゆえなんだ。なんで庶民と神に選ばれし者が同じ教室に今いるのかしら。あたしは使命をまっとうする預言者として生まれてきたのに。早く力に目覚める日がこないかな」
そう思って理子は鞄《かばん》のなかに入っている占い本で目覚める日を探す。手相の運命線をみる。血液型をみる。歯茎をみる。
しばらくはそんな毎日が続いていた。
そしてある日、教室が吼えた。
「理子、おまえ今前世に凝っているんだって。そんな薄っぺらい本でよくわかるもんだ」
放課後、クラスの有紀と数人の女子が理子の机をかこんだ。彼女たちはうすら笑いばかりしている理子を吊《つ》るそうと集まったのだ。
『農民に高利貸し、芸者にジプシーか』
そう思うと笑わずにはいられない。以前だったら脅《おび》えていた状況である。口を籠《こ》もらせたようにぼそぼそと不満をいい、「なんか文句あるの」と一喝されればすごすごと引きさがっていた理子が今は笑っている。
「あたしは、あんたたちの秘密を知っているのよ」
小柄でぽっちゃり体型をした理子は今、白装束を纏《まと》っている気分だった。
「前世、前世って、今がよければどうってことないんだよ」
有紀があざけった。追随して女子たちが嗤《わら》う。
「そうよ。授業中に『あんたの前世はジプシーだから、転校ばかりしているんだ』って不気味な手紙をよこさないでよ」
「私がバレエを習っているのは芸者だったからじゃないわ」
「あたしが寄付を集めているのは、高利貸しをしていたからじゃなくて、有紀が妊娠したせいなんだから」
「ちょっと黙りな」
裕子の頬に有紀のビンタが飛んで、黄色い騒ぎがおさまった。有紀が前世占いの本を取りあげて、ぱらぱらと捲《めく》る。
「理子、前世をこんな本で確かめられるとでも思っているの。出てくる前世って何種類かのパターンじゃないか。なんで普通の人とか、奴隷とか悲惨なものが出てこないわけ。百万人いたら百万通りの前世があって当然じゃないか」
有紀がこんなものと本を投げた。
「ちょっとそれは、あたしの大切な本なのよ。ひがむなんて最低よ。この農民」
「なんだと。こいつロッカーに閉じ込めちまいな」
教室が黄色の惨劇となった。多勢に無勢だが今回、理子は初めて彼女たちに抵抗した。何回か形勢が逆転しかけたくらいだった。理子は助けを求める声をたてず、必死で戦った。しかし現実には彼女になんの力もない。理子は集団で暴行され、力尽きた後に、清掃用具入れに捨てられてしまった。
「おまえの前世が神官だったのなら証拠をみせな。証拠をよ」
有紀らの捨て台詞がロッカーの冷たい戸に籠もって共鳴する。理子は水を含んだ灰色のモップに涙を滴らせ、前世の誇り高き自分に誓った。
「あたし、自分の前世を絶対に突きとめてみせる」
その夜、理子は夢をみた。強い光のなかに神々しく輝く背の高い女の姿があった。女は祭壇の上に立ち、天に剣をむけて祝詞を捧げている。足下に跪《ひざまず》いている民衆が一斉に女に喝采《かつさい》を送る。祭りの様子らしかった。
理子はこれが自分の姿なのだとみ惚《と》れていた。いつもの夢とは比較にならない、肌に打ちいる臨場感に溢《あふ》れていた。太鼓の音が鼓動にあわせて響く。民衆の声が夢を飛び出て、理子の寝ているベッドの外まで溢れてしまうほど大きくきこえる。神々しい女の光が、暗闇を照らす。祭りは最高潮に達して、音と光が混ざった白い世界に一気に昇りつめる。
「みた。あたしの前世。嘘じゃなかった。神官だった」
寝汗をかきながら目覚めた彼女は、興奮と満足とでいっぱいだった。あとはこれに証拠が揃えば、有紀を見返すことができる。
それからの毎日は徳夫を従えての前世探究の日々だった。百ページ程度の前世本のなかの、わずかに一ページしか掲載されていない「神官」の欄に疑問をもったのだ。重要な役目がある彼女にこの程度の扱いでは不満だった。
「いいかげんにしろよ理子。俺は占いなんかに関心ないんだってば」
徳夫は文句をいいながらも理子の後を追う。理子は彼をこういいくるめていた。
「有紀は前世で農民だったのよ。あんたが辻斬《つじぎ》りした農民だったかもしれないんだよ。私が神官に目覚めたら、徳ちゃんの不幸を先に教えて危険を避けてあげるから。あたしの勘では徳ちゃんになにか起こりそうな気がするの」
「な、なんだよそれ」
理子は目を閉じて考えているふりをする。
「あたしの力が完全に覚醒《かくせい》していないから、詳しくはいえないわ」
結局、徳夫はそれに弱い。今日は徳夫を従えて占いの館の前世コーナーで詳しく使命をきこうとやってきていた。
香《こう》が漂う緋色《ひいろ》のカーテンに龍《りゆう》をあしらった、インドなのか中国なのかわからない部屋で彼女は待っている。香炉は象の形で鼻から煙が出ている。壁には雅《みや》びな扇子が飾られている。天井はシャンデリアだ。場末の娼館《しようかん》でもこれほど徹底できるだろうか。ちょうどオリエンタル調を誤解した外国人が陥りそうなインテリアデザインだった。
「古田理子さん、お入りください」
巫女《みこ》姿の受付の女が奥から声をかけた。前世商売は繁盛しているとみえて、一時間以上も待たされた。理子と徳夫は恐る恐るカーテンの奥に入った。水晶球をみつめた黒の紗《しや》で口を隠した女が曼陀羅《まんだら》を背景に座っている。偉そうなこいつがボスであろうと思われた。女は仰々《ぎようぎよう》しく声帯を震わせた。
「誰もがこの世に使命をもって生まれてきました。あなたの前世を知ることはこの世における使命を知ることなのです。ようこそ前世館へ。どうぞお座りください」
迫力と緊張でふたりは固唾《かたず》をのんだ。徳夫は占い師が瞬《まばた》きをしないことに驚いていた。
「あたしの前世のことを占ってほしいんです。とても重要な前世だったと思うので、ぜんぶ話してくれないでしょうか」
占い師は「わかりました」と呟き、般若心経《はんにやしんぎよう》に似た呪文《じゆもん》を唱え始めた。香の強さと独特な低音の声でふたりは渾然《こんぜん》と意識を溶かしていた。経がやんだ。
「あなたの前世はモンゴルにいた遊牧民でした。そこで自然とともに暮らし、長《おさ》の妻として尊敬を集めていたようです」
女はゆっくりと占評を告げた。
「あたしは神官だったって本に書かれているんです。夢でもみました。権力のある立派な人物だったんです。絶対に正夢です。もう一度占ってください」
理子はくいさがる。しかし女はこれは霊力に依《よ》った占いであるので正しいと伝え、占いは終わった。帰り際、徳夫は理子をからかうために遊牧民の真似をして馬に乗って駆けるふりをする。
「なんだ。おまえ大したことないじゃん。牧場にいけば使命が授かるんじゃねえか」
理子はなにも答えない。そのまま本屋にいき、前世本を買いあさった。それから自室に籠《こ》もってひたすら前世を追求する作業が始まる。しかしどれもこれもみんなちがった前世を提示してくる。ある書では理子は古代の戦士であると告げ、ある書ではフランス革命に生きた衛兵であるという。彼女はアメリカ独立戦争にも出現し、トルコ後宮にもいたらしい。仮に前々世、前々々世と考えても、時代の同じ箇所がいくつもある。とても同時期に存在できそうもなかった。理子は悩んだ。そしてある結論にたっした。
「あの夢を、現実でみてやる」
本の巻末の前世をみるコーナーでは、恐ろしげなレイアウトにこう書かれてあった。
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十三日の金曜日の深夜零時、刃物をくわえて蝋燭《ろうそく》の明かりで
鏡を覗くと、そこにはあなたの前世の姿が映ります。
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カレンダーをみると好都合にも来週が十三日の金曜日だった。さっそく彼女は徳夫に電話して家にくるように誘った。
そして十三日の金曜日の零時を迎えようとしていた。ふたりは部屋の明かりを落とし、ドレッサーの前に置いた蝋燭の明かりで鏡を覗いていた。前世を覗くに相応《ふさわ》しい静かな夜だった。外では人ひとり歩く気配がない。
「なんで俺まで付き合わせるんだよ。こんなくだらないこと」
徳夫は刃渡り十八センチの刺身包丁をくわえている。
「徳ちゃん怖いんだ。自分の前世が惨めだったら嫌だもんね」
理子は裁縫用の裁《た》ち鋏《ばさみ》をくわえて鏡に映る徳夫をからかった。ふたりとも刃物を口にしているために上手《うま》く話せないでいる。長時間くわえた刃物は案外重かった。下から照らされた細い蝋燭の明かりに頬をよせあって鏡を覗いている。ときどき涎《よだれ》が垂れるかなり情けない恰好《かつこう》だったが、迫りくる時間に抗《あらが》うわけにはいかない。あと二分だ。理子が唾《つば》を飲んだ。あと一分。徳夫が瞬きをとめた。静かに深夜零時の運命の鐘が鳴ろうとしていた。仮死状態にでもなったようにふたりは硬直していた。
みえた? 全然。嘘。じゃあおまえはみえたのかよ
昏がりのなかで声をかけあう。とっくに零時をまわっていた。シンデレラの魔法が解けたふたりは、ただの刃物をくわえた不気味な中学生になっていた。あの緊張はいったいなんだったのだろう。ふたりは口論を始めていた。
「あんたが冷やかし半分で覗くから前世がみえなかったのよ」
「馬鹿いえ。おまえこそ怖いんじゃねえか。俺は前世なんて興味ないんだよ」
「あたし怖くなんかないわ」
「あっ俺みえた。おまえ馬に乗って走っていたよ」
「馬鹿にしないで。飢饉《ききん》で死んだくせに」
涎まみれになった刺身包丁と裁ち鋏を握って、喧嘩《けんか》は収まることがなかった。
教室では再びいじめが勃発《ぼつぱつ》し、理子のまわりでは箒《ほうき》に乗った有紀と従った集団がギャロップしていた。
「あんたジョッキーになった方がいいかもよ。お馬とは前世からの友達なんだって?」
「有紀、それはお馬が可哀そうよ。太った理子なんか乗せたら潰《つぶ》れちゃうもの」
「そりゃそうだ。あっ馬糞《ばふん》の臭いがする。あっちいけ」
そういわれても理子には反撃する気力がない。本当に前世が遊牧民だったのではないかと思えてくる。できることならもう一度、あの自信に満ちた前世像を取りもどしてみたかった。
「できれば女王であってほしい。そしたら、こいつらをみんな軽蔑《けいべつ》してやるんだ。そうだ。あの夢、あたしは神官だと思っていたけれど、あの高貴さは女王の風格だった。あたしは本当は女王だったんだ」
占い狂いを排除するクラスのいじめは執拗《しつよう》になってきている。なぜかしら気にいらない理子に妄想狂というとば口が開き、一気にクラスは理子を排除しはじめた。先頭にたったのは有紀である。今までクラスの五番手くらいにいた彼女が、うつり気な階級社会の頂点に君臨していた。有紀が望んでそうなったのではない。追随者が有紀の真似をしているだけのゲームだった。クラスはある瞬間から有紀の分身で溢れだしたのだ。
「理子、おまえ自分の立場をかんがえろよ」
徳夫が忠告する。彼の知っている理子は確かに危ういところはあったが、いじめられる少女ではなかった。今やクラスの生《い》け贄《にえ》にされた理子と友達だということだけで、徳夫は自分までいじめられないかと不安になる。保身のために理子とは距離をとりたかった。徳夫にとってもこれは理子の裏切りに等しかった。彼はいじめられっ子と友達になった覚えはないのだ。しかし当事者の理子にはわかっていない。それが彼には鬱陶《うつとう》しくもある。
教壇の前では女子らが自作自演の「理子物語」を演じていた。いつしかこの芝居は定番になっており、連続ドラマの様相を呈してきた。
はじめは理子の前世の遊牧民の芝居だったのだが、次の日には前々世の物乞いになり、前々々世の売春婦に、そして今日は八代前の前世で見世物小屋の、たこ女になっていた。
「さあよってらっしゃい、みてらっしゃい。なんの因果か知らないが、親の罰があたったのか、たこに生まれた可哀そうな女。歳はまだ十四歳」
嬉々《きき》として行われる芝居には、理子に扮《ふん》し、下半身に八本のホースを巻いた有紀が泣き真似をしている。観衆が円陣をくんで「おえっ、おえっ」と野次を飛ばしていた。有紀の扮装した、たこ女が叫ぶ。
「あたしの本当の前世は神官なんです!」
一斉に嗤《わら》いの声があがった。理子は教室の後ろで耳を塞《ふさ》いでうずくまっている。芝居は理子の塞いだ耳を通りこすように大声で続いた。
「じゃあ明日はおまえの前世が本当に神官だったのか、確かめてやろうじゃないか。ええ、たこ女。それでは前世にターイムスリップ」
こうやって次回へと続く芝居だった。
「あたし耐えられない」
理子が教室を飛びだした。理子は走った。走りさることが唯一の、纏わりついた教室の怨嗟《えんさ》と侮辱の糸を切る手段だった。しかし粘着質な糸はどんなに走っても伸びるばかりで、切れることはない。理子は不登校に陥った。
「あたしが女王だったら、あんなやつら死刑にしてやるのに」
一週間も学校を休んだ後、教師の説得と親の勧めで理子は渋々学校に通いだした。いつの間にか「理子物語」の芝居は打ち切られており、なんだか拍子抜けする久し振りの学校だった。徳夫は「理子物語」の最後がアメーバで終わったことを告げなかった。
机のなかに手を入れると新聞の切り抜きがたくさんあることに気づいた。嫌がらせだ。
「なにこれ?」
新聞の切り抜きには飛び下り自殺した生徒の事件が書かれていた。どれもみな自殺の記事ばかりである。そのなかに興味深い記事をみつけた。
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一九八二年、愛知県の市立中学校の少女が飛び下り自殺。
死亡した武田美智子さんは、前世の記憶をみるために、飛び下りた模様。六月七日、学校では臨時生徒集会を開き、美智子さんへの追悼をおこなった。
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理子はその記事を諳《そら》んじるまで読み返した。十四年も前に自分と同じく前世を探した者がいることに興味を覚えた。そういえば本にも臨死のときには前世の記憶が蘇《よみがえ》るとあったことを思いだした。
「だけど死ぬなんて……」
理子は鼻で笑った。こんな無計画な飛び下り自殺なんて愚にもつかない。よっぽど他の方法がいいのにと半ば軽蔑しながら記事を置いた。しかし他の新聞の切り抜きを捨ててしまったのに、なぜだかこの記事だけは捨てられなかった。放課後、理子は掃除をしながらもその記事を頭で追った。
「もし、計画的に飛び下りて、助かるのだとしたら……」
そんなことが脳裏に焼きついて離れない。理子は徳夫にそれとなしにきいてみることにした。
「徳ちゃん、もしよ。もし、高い所から落ちて助かったりすることってあるのかしら」
徳夫が怪訝《けげん》そうに彼女をみる。
「まあな。下に衝撃を吸収するようなものがあったら助かるだろうな」
「それって例えばどんなもの」
なにをかんがえているのかと徳夫は気味が悪くなった。前世の次はバンジージャンプでもしようというのか、と理子の真意を把握できずにいた。
「まあ、例えば植え込みとか、テントの上とか、柔らかい紙ゴミの上とか、そうだな」
「じゃあ、飛び下りている最中に意識とかあるのかな」
「それはあるだろう。スカイダイビングで実証済みだよ。なんなんだよおまえ」
「なんでもない」
理子は一度大きく頷《うなず》いたことに自分でも気づかなかった。いつしか、今まで理子に向いていたいじめが収まりつつあった。
また教室が吼《ほ》えて生け贄を要求している。今新たな犠牲が生み出されようとしていた。
「おまえ、運動神経なしの偏食女。おまえのせいで給食当番が先生に叱られるんだよ」
けっして力の強くない有紀が今度は槍玉《やりだま》にあがっている。
「理子をいじめてる暇があったら、ちゃんと牛乳を飲めよ」
「ひどい。有紀ちゃんが可哀そうじゃないの」
取り巻きが有紀を弁護するが、言葉は収まらない。
「前から、おまえのことムカついていたんだよ。人の欠点ばかりみつけるこの眼鏡猿」
有紀の時代も終焉《しゆうえん》を迎えつつあった。日増しに有紀の分身たちが消えて、彼女は孤独になっていた。代わりに増えたのが義憤に満ちた委員長の分身たちである。彼らは正義の名のもとに弱者をいじめていた有紀を糾弾していた。にわかに裁判形式の法廷が学級会で編成され、教師を前にした弾劾裁判が行われた。
「有紀は『理子物語』の脚本を書き、私たちを無理矢理芝居に参加させました」
「ひどい。佳子あんただって楽しんで脚色していたじゃない」
「前世を信じるも信じないも個人の自由だと思います。いじめはよくないと思います」
有紀の顔は青ざめていた。つい先日まで自分の分身のように振る舞っていた誰もが、みんな委員長側についている。有紀に弁解の余地はなかった。
「有紀さん。あなたがこんなひどいことをするなんて、先生は信じられません」
裁判は教師と正義を楯《たて》にした委員長側に有利だった。有紀はすべての罪を着せられ断罪された。先日まであれだけの力を誇っていた有紀が、今では罪人である。
理子はこれといってその裁判に関心があるわけではなかったが、悲劇のヒロインとしての役回りには満足していた。そんな裁判のなか、理子の片手に握られていたのは、あの新聞記事である。徳夫を三日かけて説得し、バザー後のテントが残っている団地を探させたのだ。テントの側には植え込みがあり、かなり柔らかな樹だった。万が一テントを跳ねて側に落ちても、助かる見込みは充分だ。そして明日、決行されるのだ。
「理子やっぱりやめようよ」
徳夫が団地のエレベーターの前で彼女をとめた。
「あたし怖くなんかないわ。徳ちゃんの計算では重傷ですむんでしょ」
「計算ではだよ。本当はよくわからないんだって」
晴れて日曜日、ふたりはこの団地にやってきていた。
「大丈夫よ。すぐに救急車を呼んでよ。あたし絶対に女王だと思うのよ。死ぬつもりなんてぜんぜんないし。逆よ、生まれ変わってくるんだから」
理子は新聞の記事を固く握った。
「あの美智子って人は馬鹿だったのよ。あたしの用意は万全だわ」
理子は屋上に向かった。徳夫は恐怖で震えていた。もし惨事が起きたら自分は罪に問われるのだろうか。自殺を幇助《ほうじよ》したと責められるのだろうかと背筋が冷たくなる。
「徳ちゃん、みててよ」
「理子、やめろよ」
理子は風をあびて縁に一歩一歩近づく。下にはテントが四つ張られていた。すこし軌道がずれても安心できる広さである。念のために徳夫がテントの下に段ボール箱を何層にも積み上げて置いたことも知っていた。
理子は下をみる。とてつもない高さだと思った。しかしこの高さがないと前世を充分にみられないのだ。下までの高さは五十メートル。地面接触までの約三・二秒間、前世をみるのだ。緊迫した死と隣あわせでないと前世はみられないと書いてあった。だからスカイダイビングやバンジージャンプでは無理なのだ。あれは娯楽にすぎない。
徳夫が下からやめろと声をかけている。人が集まりだしていた。このままだと警察や消防まで来てしまう。迅速な対応は結構だが、できれば飛んだ後にしてほしかった。
群衆のなかに有紀がいた。ここは彼女の住む団地なのだ。
「理子じゃない。嘘。自殺するつもり」
助けてくれ、と叫びたかったのは有紀の方だ。新たな恐怖が湧いてくる。
「あたしにあてつけて、飛び下りるつもりなんだ」
有紀の頭に幾十もの誹謗《ひぼう》の声がこだまする。このままでは「殺人者」のレッテルが貼られて再び糾弾されてしまう。有紀の耳に教室の咆吼《ほうこう》がはっきりときこえた。
「あたしはもう償ったのよ。理子、謝るから死ぬのはやめて。お願い」
しかし有紀の叫びも屋上の理子までは届かなかった。理子は、下の様子などに気を取られてはいられなかった。瞬きをせずにしっかりと前世をみてこなければならないのだ。
息を吐くと、ふとどこかで経験したことのある状況だと気づいた。懐かしい、静かな気分になる。不思議な既視感と海の香りがした。
「やめなさい」
屋上に人があがってきた。急がなければと理子は前にでる。彼女は自分にいいきかせた。
「あたしは使命をもって生まれてきた。だからそれを知らなければならない」
目を閉じてわずかに身体を傾斜させ、引かれる力に身を委《ゆだ》ねた。脚が一瞬どこに立てばいいのか戸惑っている感じで、すうと魂がぬける気がした。観衆が一斉に目を覆う。
「理子やめろ」
「やめてえ。誰か助けて」
徳夫と有紀がそれぞれ涙目で絶叫していた。
理子は空を飛んだ。加速度と風の引き裂くなかを、刃物を振りおろしたように真っ直ぐに落ちていく。そして三・二秒間の前世を覗いた。
あたしは使命をもって生まれてきた。だからそれを知らなければならない
誰かの声が滲《にじ》んでこだまする。理子がみた前世は、海岸の崖《がけ》から飛び下りようとしているみ知らぬ少女の姿であった。理子の前世は武田美智子といい、一九八二年に愛知県で前世をみようと飛び下り自殺をした、あの新聞記事の人物だったのだ。
「こんな馬鹿な、馬……」
群衆が理子のまわりを囲んだ。彼女はテントをつきぬけ、段ボール箱を潰し、地面と衝突していた。救急隊員が駆けつけ、理子の姿をみて静かに首を横に振った。
またどこかで彼女の前世の旅が始まる。
[#改ページ]
宗教新聞
「来るな来るな来るな。誰も来るな」
三つの鍵《かぎ》をかけたドアに厳重な番をさせた。もう誰にも会いたくなかった。誰も来ないのにぐっと拳《こぶし》を握りしめて、俺はまた呪文《じゆもん》になったさっきの台詞《せりふ》を叫んでいる。昨日の酒が頭にたっぷり残って醗酵《はつこう》しているのか、吐いた言葉が頭蓋骨《ずがいこつ》に戻ってくるときに激しくノックして中を震わせる。自分の言葉すら聞きたくなかった。人間の身体に鍵があれば、俺はとっくに目鼻を塞《ふさ》いでいたし、この煩《うるさ》い呪文を呟《つぶや》いて心を煩わせる口などは、端から端まで密封していただろう。
逃げ出してやってきた街は、縁のない土地だ。第一印象はフンという鼻息で、それが引っ越しする勢いになった。もう誰も来ないだろう。それが一番だ。この部屋のドアを叩《たた》く者は覚悟を決めてから来い。
「おはようございまーす。産業新聞です」
「ばっきゃろう。来るんじゃねえ」
「おはようございます。毎朝新聞です。ひと月とってもらえませんか」
「うるせえんだよ。帰れ」
今の俺に声をかけるとこういうことになる。ドアに唾《つば》を吐いて、手間をかけるなと蹴《け》りを入れた。
俺はある事情で誰とも会いたくない二十八歳の夏を迎えていた。
ひとりにしてほしい、この単純で強い願いも新たな街は叶《かな》えてくれそうもない。訪問販売員がひっきりなしにドアを叩く街なのだ。しかしどんな勧誘でも、あいつよりはマシだろう。俺はかつてあれほど不気味でしつこい勧誘を受けたことがない。さっき来たのが産業新聞と毎朝新聞だから、次に来るとしたら奴しかいない。もちろん一撃で退治してやるつもりだ。そして奴の滑稽《こつけい》な逃げ様を笑ってやるんだ。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
奴だ。惨めったらしい情けない声だ。こいつが今一番ムカついている勧誘だ。
「うっせえぞ、てめぇ。何の新聞なのかはっきり言えよ馬鹿野郎」
「……………………」
「新聞はお断りなんだよ。さっき、オヤジにも兄ちゃんにも言っただろうが」
「…あの…宗教新聞です……」
「だからお断りだって言ったんだよ」
「……………………」
「黙っていても、そこに立っているのはわかるんだよ。さっさと帰れ」
「ありがとうございます。では契約書にサインをして戴《いただ》けないでしょうか……」
先週も同じパターンだった気がする。気が弱いくせに粘着|糊《のり》みたいにドアの前から離れない。俺はこいつが大嫌いだった。
「なんでそうなるんだよ。いつ誰が読むって言ったんだよ」
「…それでは契約のお礼に、お線香を三ヵ月分置いていきます……」
「置くなーっ。何だその三ヵ月分の線香の基準は」
勢いよくドアを開けた瞬間、脱兎《だつと》のごとく逃げ出す若い女の後ろ姿があった。これも先週とまったく同じ光景だ。ふわりとしたショートヘアに白い半袖《はんそで》のブラウスと紺のタイトスカートの取り柄といえば清潔さくらいだ。慌てて逃げるノッポの彼女の足元で、カポカポ鳴る大きめのローファーが滑稽で、俺はフンと鼻でせせら嗤《わら》った。
ここに引っ越してきたのは、先月の初めのことだ。部屋はまだ片付けが終わっていない段ボールが積み重なって、埃《ほこり》を撒《ま》き散らしているが、見ようによってはここを引っ越してどこかに移ろうとしているようにも見えた。俺はこの部屋を曖昧《あいまい》な状態のまま放置している。横たわったままのサイドボード、スイッチの入っていない大きな冷蔵庫、木の匂いのする四人掛けのダイニングテーブル、すべて新品のまま持ってきた。
三ヵ月前に独身の資格を失って会社の寮を出た。以前は既婚か未婚かはっきりと意識できたのに、今どの状態なのかよくわからない。世間が独身だと言えば、きっと俺は違うと言うだろう。離婚したのかと問えば、それも違うと主張するつもりだ。では妻はどこにいると聞かれれば、俺は黙るしかない。
三ヵ月前のほんの瞬きくらいの間、俺には妻がいた。そして今はいない。離婚したわけではないから独身ではないが、妻となった女性は、はっきりしない理由で結婚を解消したいと手紙で告げてきた。
もっと自分のやりたいことをしてから結婚したい
そのような文面だった。俺たちに新婚生活など一日もなかった。初めて新居に入ると、新品の家具だけを残して妻がいなくなっていた。どうして彼女がこんなことをするのか理解できなかった。何が不満だったんだ。言い訳ならもっと上等なものを考えろ。俺があいつのことを一番よく知っている。断言してもいい。あいつにやりたいことなんて絶対になかった。彼女の帰りをムカつきながらふた月ほど待ったが、あいつは戻らなかった。
新居に帰るのが辛《つら》くなって、引っ越しをした。そのとき処分しなかった荷物が、今の部屋でゴミ同然に転がっている。ふたりの名前と判を押した婚姻届も、一緒に持ってきた。まだ婚姻届を提出していなかった。そんな暇などないくらいの速攻であいつは出ていった。だから俺たちは法律的にも実質的にも夫婦とはいえない。この紙を提出すれば、結婚したことになるし、この紙を処分すれば結婚はなかったことになる。俺は未婚者でもなければ、既婚者でもない。かといって所謂《いわゆる》バツイチでもなかった。なんだか宙ぶらりんの位置にいて、所在ない感じは独身とも違っていた。今手元にあるこの紙キレが俺の処遇を握っている。
会社に通える遠い街にやってきて、毎日ひとりでずっと酒を飲んだ。きっとみんな嗤《わら》っているに違いない。説教したがる奴は一度痛い目に遭《あ》った方がいい、と言っていたが、俺にはそんなものは無縁だと信じていた。そんなドジは踏まないはずだと思っていた。そして脳細胞が破壊されて頭の重い土曜日に、俺は大声をあげて怒鳴っている。
「なにが新聞だ。なにがお礼に三ヵ月分の線香だ」
ワイシャツのポケットから煙草を取り出して、口にくわえた。煙草に火をつけずに線香のひと束を燃やしていた。薄い青みがかった煙を見ながら、なんでこういう目に遇うのか、この境遇を呪った。
次の週から、ゴミがもうひとつ増えた。ドアに新聞が挟まっているではないか。咄嗟《とつさ》に広げると「宗教新聞」と書かれたタブロイド判の新聞があった。
「だから、いつ、誰が、読むって言ったんだよ」
新聞は四面で構成されたDTPソフトの手作りだった。裏面にはしっかりと違法コピーしたに違いないテレビ欄までついている。新聞の一面には大きな文字で「あなたは幸せですか?」と書かれていた。
「大きなお世話だ。ふざけんな」
クシャクシャに丸めた新聞を投げつける。なんて図々しい奴なんだと怒りで意識がはっきりしてきたほどだった。そして翌朝からずっと新聞が投げ込まれるようになった。
あなたはどうして不幸なのか?
温かい家庭はどこにある?
あなたにも幸福になる権利はある
毎朝の見出しは憂鬱《ゆううつ》になるものばかりだ。いつだったか「あなたの人生は間違っている」と書かれた日の新聞などは細切れに破り捨てたほどだ。俺は土曜日を待って彼女に抗議してやるつもりだった。
「おはようございまーす。産業新聞です」
「すいませーん、毎朝新聞の者ですが」
とやってきたふたりを無難に追い払った土曜日、ドアのすぐ側で仁王立ちの構えで待っていた。ほどなくカサコソと階段を昇ってくるいじけた足音が聞こえてきた。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
と階段を上る足音がした瞬間、ドアを蹴破《けやぶ》るように開けた。
「てめえ。誰に断って毎日不気味な新聞を配達しているんだ」
と開口一番に怒鳴ると、また逃げ出した彼女の後ろ姿があった。よっぽど驚いてしまったのだろう。彼女は配り物の線香を入れた鞄《かばん》を置いたまま走り去っていった。これに懲りて二度と現れまい。何気なく鞄を見ると、なにやら子供の頃、算盤《そろばん》塾に通っていたときの不恰好《ぶかつこう》なビニル鞄が落ちていた。その鞄は名札入りだった。どんな名をしていやがるんだ、と見ると「板里紀子」と書いてあった。
「二度と現れるなよ、板里紀子」
月曜日、新たな怒りで俺の頭は沸騰しそうだった。またもやあの怪しい「宗教新聞」が入っているではないか。すっかり慣れた手付きで新聞を破って出勤すると、帰宅までにはなんと夕刊まで入っていた。俺はこの新聞に魅入られてしまったのか。他の部屋のドアには新聞が入っていない。俺にだけこの新聞がやってくるのだ。
朝刊の配達される水曜日の午前四時すぎ、電気を消して徹夜で彼女が来るのを待ち構えた。朝の静寂の中、カサコソと足音が近づいてくる。きっとあの不気味な声で新聞を投げ込むつもりだろう。その現場を押さえるつもりだった。しかし、
「…きゅーかーん。…きゅーかーん」
とドップラー効果で通り過ぎ、肩すかしを食らった。急いでドアを開けても、奴の姿は見えなかった。次の日、新聞がまた投げ込まれていた。その日初めて隅々まで宗教新聞を読んだ。中に書かれてある記事は驚くほど俺の日常を捉《とら》えていた。
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新婚早々妻に逃げられ、私は失意のどん底に。
高橋雅秀さん 二十九歳会社員
私は昨年結婚したばかりの者です。お互いによく理解しあって結婚したのですが、妻が蒸発してしまいました。何が原因なのかまったくわかりません。私が困っているときに、出会ったのが、宗教新聞です。ここに書かれている記事を読みますと、世の中には私と同じ苦しみを味わっている人がたくさんいます。私はこの人たちのお手伝いをしようと心に決めました。
不思議とそれからは悩みもなくなり、奉仕活動に喜びを見出せるようになりました。私を立ち直らせた宗教新聞に感謝しております。これからも益々頑張ってください。
[#ここで字下げ終わり]
俺は馬鹿馬鹿しいと思いつつも、三度もその投書を読んでしまった。そしてその日の新聞を破り捨てることができなかった。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
朝な夕なと彼女が新聞を配達してくれる。その言葉は最後まで聞き取れない微《かす》かな声だ。俺はいつしか、宗教新聞を酒の肴《さかな》に読むようになっていた。新聞は現代の家族の問題を取り上げていた。子供の非行、介護の苦労、相続問題、みんなそれなりに苦労しているようだ。しかし読んだからといって、妻が帰ってくるわけではなかった。
「…しゅーきーん。…しゅーきーん」
嫌々ドアを開けると、また逃げ出した彼女の後ろ姿があった。
「こら。なんで逃げるんだよ。集金しに来たんだろう」
はっと気づいて、彼女は立ち止まった。どうやら反射的に逃げる癖がついているようだ。育ちの悪い葉野菜のように細長い彼女が、もじもじしながら振り返った。
化粧気のない顔は素朴で、どこか疲れているような雰囲気だ。歳はまだ二十代だろう。彼女は俺と目を合わすのをひどく躊躇《ためら》っているみたいで、終始|俯《うつむ》きっぱなしだった。
「新聞の代金なんだろう。幾らなんだよ」
「…………………………」
「まさか一千万円って言うんじゃないだろうな」
「…千二百円です……」
しかし油断は禁物だ。この安さの裏にはきっと墓を売ったり、仏壇を売ったりと法外な金をせしめる次の段階があるに違いない。
「おまえら新聞以外に何売っているんだよ」
「…新聞だけです……」
彼女はバツが悪そうに片足で円を描いている。カポッとローファーが脱げてうなじのように白い踵《かかと》が現れ、まじまじと見るのを遠慮した。
「で、この新聞を読むと百日命が縮まるってわけだな」
冗談めかして言うと、彼女は微かに唇の端をあげたような気がした。
「…いいえ。百日幸せになるんです……」
俺は苦笑しながら代金を渡した。
「そうだ。あんた前に鞄を落としていっただろう。返してやるから待ってろ」
名札の入った草臥《くたび》れた鞄を渡すときに彼女の名前を口にしたら、どうして自分の名を知っているんだ、と口を両手で押さえて驚いていた。トロい娘だ、とからかうつもりで、
「俺は紀子さんのことなら何でも知っているんだよ」
と秘密めいた笑いを浮かべた。すると彼女は真剣な表情で、
「あなたは予言者なのですか?」
と尊敬の眼差《まなざ》しを送ってきたので、妙な罪悪感が生じてしまった。
「…来月も取ってくれますか……」
俺は肯定も否定もせず、フンと鼻で返事しただけだった。
次の日からも宗教新聞は毎日配達された。いつしか雑誌を読む気楽な気分でペラペラと新聞を読むようになった。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
と声が聞こえてドアを開けると、彼女が駆けていった後ろ姿だけだ。ある日、俺は新品の大型冷蔵庫を下取りにだした。家具ひとつなくなっただけで、随分新鮮な部屋になった。すこしずつ段ボールを開き出した。部屋はまた散らかってしまったが、賑《にぎ》やかさが生まれてきた。それと同じくする頃、婚姻届が紛失していた。
「ない。ない。ない。ない。ない」
どこを探してみても、婚姻届がないのだ。まだあの用紙をどうするのか決めていなかった。破談にするときはこの手で破くと決めていたのだ。運がなくなったのは、結婚を境にしてからだ。今まで何とか人並み以上にやってきたのに、人生の歯車が狂ってきているような気がした。最近の俺はヘンだ。この前、取引先の相手から苦情を初めて受けた。失意のどん底で帰宅する電車の中、哀れんだ老人が俺に席を譲ってくれた。雑踏を歩くとき、よく足を踏まれてしまう。みんなが俺を置いていくような気がする。新聞配達のあの女が現れてから、人生の上昇気流を掴《つか》んでいたはずの俺はエアポケットに落ちていた。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
この声を聞くと俺の人生に、雑音が生じてきているような気にさせられる。まだまだこれからの時に、なんで俺は新聞なんか読んでいるのだ。それでいて、最初に感じていた嫌悪感はなくなっていた。一体こいつは普段何をして生きているんだ。ふとそんなことを考えたある日、彼女の声と共にドアを開けた。
「ちょっと待てよ。どうしてすぐに逃げるんだよ」
よっぽど驚いたのか、彼女は新聞を撒き散らして走っていく。俺は新聞を拾いながら彼女を追いかけた。通りで彼女を捕まえる。彼女の肩は奥行きのない薄さで、片手で簡単に握り潰《つぶ》せそうな脆《もろ》さをしていた。彼女は黙ったままだった。
「あんたなんでこんな仕事しているんだ?」
「…仕事ではありません。奉仕活動です……」
「若いのに宗教なんかやって、親は心配しているぞ」
と偉そうなことを言う俺も、親を心配させることをしたばかりだ。
「あんたいつも怒鳴られてばかりで楽しいか? 他にやれることあるだろう」
「…これが私の使命だと思っていますから……」
彼女は掌《てのひら》を胸の前で握って答えた。しかし俺の目を見て話してはくれない。
「相手の目を見て話さないと、怪しまれるぞ。使命だったらもっと堂々としろよ」
そう言って新聞の束を彼女に渡した。
「…ありがとう山口さん。…山口光士さんでしたね」
いつかの彼女みたいに俺もフルネームで言われて驚いた。
「どうして俺の名前を。表札もまだ付けていないのに」
「一九六九年六月十二日、山梨県生まれでしょう……」
「どうして、どうしてそんなことまでわかるんだ」
「…秘密です……」
そう言って口を閉ざした彼女に、寒気すら覚えた。もしかしたら彼女は怪しい宗教の占い師かもしれない。俺の秘密を握って、宗教に勧誘してくるかもしれない。そう思うと、彼女の肩から手が離れていた。
「あんた俺をどうするつもりなんだ」
「…別に……」
「俺を宗教に入れてもいいことないぞ。第一神様なんてハナから信じちゃいないんだ」
慌てて弁明しながら、はっと気づいた。俺はずっと宗教新聞を購読しているではないか。知らないうちに信者にされてしまったのかもしれない。初めてこの宗教のからくりがわかった気がした。
「俺はもう信者なのか。なんで信者なんだよ。いつ、誰が、決めたんだよ」
「…山口光士さん、それは違います」
「うわぁ。俺の名前を呼ぶな板里紀子」
「…あなたは信者ではありません。ただの購読者です……」
「嘘をつくな。だったらなんで俺のプライバシーを知っているんだ。教祖様の占いで俺をターゲットにしたんだろう。やめてくれよ。宗教なんかしている場合じゃないんだ」
俺の肩に大きな負債が乗った気がした。それはこれから宗教団体に徴収されるであろう、法外なお布施やら何やらの未来の借金の重さだった。
「馬鹿野郎。俺はあんたが可哀そうで、新聞をとってやったんだぞ。その恩を仇《あだ》で返しやがって。一体全体どんな宗教なんだよ。やっぱり百日命を縮める新聞だろうが」
とにかくこの深みから逃げ出すのに必死だった。咄嗟《とつさ》にクーリングオフのことが閃《ひらめ》いた。しかし購読してからひと月は経っている。消費者の最後の知恵も無効だとわかり、俺は絶望していた。どんどん運が悪くなって今の俺は地面スレスレの低空飛行だ。
「…説明しますので、どこか喫茶店でも……」
「それが手だな。その喫茶店には仲間がいて、俺を洗脳するつもりだな」
「…違います。私たちはそんな怪しい宗教ではありません……」
「目茶苦茶怪しいぞ。第一おまえの宗教の名前も教義も知らないんだ」
「…愛の教えを説く、一会教《いちえきよう》といいます」
「うわっ、ますます怪しい。さては本格的な邪教集団だな」
「お黙りなさい。山口光士」
彼女の甲高い声が響いて、俺は呼吸すら止めてしまっていた。
「…ごめんなさい。あなたが興奮していたもので、つい……」
俺は浅い呼吸を何度も繰り返していた。彼女は喫茶店が嫌なら公園で事情を話すと言った。俺たちはベンチに座って、顔を合わせないように空を見ていた。隣で話す彼女はゆっくりとした口調で宗教のことを語っていた。
一会教は、はっきりとした教祖はいないようで、団体の中心的な役割をしているのは、宗教新聞を発行している編集部だと言う。しかしそれもただの窓口的役割にすぎず、編集部は食っていくために地方のミニコミ紙や、冊子、企業のPR紙などを作っているようだ。宗教新聞で金儲《かねもう》けをするつもりなどさらさらないようで、収益を新聞購読料の値下げにあてているらしい。道理で安いはずだった。
「だったら編集長が教祖様じゃないのか」
彼女は違うと言い張った。編集長は一年に一回替わるし、記事もすべて信者からの投稿によるものらしい。俺は聞いていて頭が痛くなってきた。この宗教団体は一体何を目的に活動しているのだろう。彼女は答える。
「より素晴らしいパートナーと出会うことが一会教の教義です」
彼女は新聞を配達する以外にも様々な奉仕活動をしていると言った。
「街角でお祈りをしたりしているのか」
「…それは既婚者の方がする活動です。私がそれをすることは禁止されています……」
「なんで?」
「そういう決まりなんです」
「お祈りって手をかざしたりするのか」
彼女は何か勘違いしていると言って笑った。一会教はそういうことはしないそうだ。
「だったらどんなお祈りをするんだよ。やってみせてくれよ」
あまり気がすすまないと彼女は言った。俺は彼女たちがどんな祈りをするのか興味があった。それに巻き込まれてやばくなったら、いつでも逃げることだってできる。そのために放ったらかしにしたままの部屋ではないか。
「…あまり本気にしないでください。これは妄《みだ》りにやってはいけないことですから……」
「なんだよ。手からビームでも出すってのか?」
「いいえ。私たちは目を使います。あなたの素晴らしい人生をお祈りいたしますから、私の瞳《ひとみ》を一分間見つめてください」
俺は噴き出しそうだった。こんな馬鹿馬鹿しいお祈りをする宗教なんて傑作だった。面白半分で彼女の瞳を見つめて、初めて彼女と目を合わせた。ビクビクしているばかりの娘だと思っていたが、彼女は祈りに入るとしっかりと俺の目を見つめてきた。黒い瞳の中には小さな星のきらめきが無数にあって、ついうっとりと覗《のぞ》いてしまう。日陰育ちの野菜みたいな女なのに、一点を貫いてくるようなこの情熱的な瞳はなんだ。
ごくりと眼差しを飲み込んだ瞬間、俺は彼女に恋をしていた。
*
「目かざし、目かざし、あの目かざしをもう一度」
譫言《うわごと》のようにあの瞬間のことばかり考えている。ある日、会社の女子が世間で面白いことが流行していると教えてきた。
「山口さん。あたしの目を一分間見つめてくれないかしら」
なんで、と思いながらも俺はそいつの瞳をまじまじと覗いていた。違う。板里紀子の瞳はこんな目じゃなかった。
「やっぱり無理みたい。山口さん、結婚しているもん」
女子が言うには、これは運命の赤いビームと言うらしい。なんでも運命で結ばれたふたりは瞳を交わすだけで、相手を見つけてしまうことができるという。俺はなんでこれを知っているのか、尋ねてみた。
「だって、駅前で宗教団体の人たちがやっているのよ」
「あたしも知ってる。あれって目かざしって言うのよ。この前オヤジに見つめられて鳥肌が立ったもん」
「最近、コギャルたちが面白がって真似しているわよ。あっ係長、あたしの目を一分間見つめてくれませんか」
俺は唖然《あぜん》としていた。あれが運命の赤いビームなら、本当にそれはあるのかもしれない。ふとプロポーズをしたときのことを思い出した。求婚の瞬間ですら、俺には生じなかった感覚だ。妻の瞳を見たことはあったが、一度も瞳の奥から放たれる赤いビームなどは感じたことはない。あんなものが人間の目から出るなんて初めて知った。
「ひょっとしてそれが原因だったのか」
今日一日だけで、六人の見ず知らずの女から目かざしに協力してくれと頼まれた。しかし、あの身を捩《よじ》るような感覚は一度も得られなかった。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
しめたと部屋を飛び出した土曜日、配達の彼女は隣の男のドアを叩《たた》いていた。そしてふたりは見つめあう。これはマズイと俺はビームに割って入った。
「ちょっと、奉仕活動の邪魔しないでください」
男を見ると半分彼女に恋をしかけているような、トロンとした目つきだ。
「やるなら俺にやれ」
「あなたにお祈りするのは、無理です」
彼女はけっして俺と目を合わそうとはせず、頑《かたく》なに声を震わせている。今までの態度が気に入らないとでもいうのだろうか。地面にビームが反射しているなら、それを拾ってでもあの眼差《まなざ》しを受けてみたかった。
「おまえの代わりに俺がこの男に目かざししてやる」
そう言って隣の男の胸ぐらを掴《つか》んで殺気を孕《はら》んだ目かざしをしてやった。男はすっかり脅《おび》えてドアを閉めた。
「紀子さん、俺の赤いビームを見ただろう」
彼女はそんなものは存在しないと言い張る。肩を掴んで顔を合わせようとすると、サッと彼女の顔が逃げる。上から覗くと下を向き、下から見上げると空に逃げる。顔を両手で押さえれば目を瞑《つぶ》る。まったく埒《らち》があかなかった。
「どうして、俺にはお祈りできないって言うんだよ」
すると彼女は子供みたいな泣き声をあげて、ぺたりと腰を落とした。靴が脱げて天気占いの雨を示すようにひっくり返っていた。算盤塾の鞄から宗教新聞がこぼれている。俺はどうしたらいいのかわからなくて、彼女が泣き止むまで傘のように立っているだけだった。
今日、洗濯機を下取りにだした。ペアで揃えた食器を処分しようと持ち出したら、階段で見事に砕け散った。その音を聞いて何かが変化しているのを知った。空に近づきつつある部屋には新しい空気が入っていた。そして宗教新聞を読みながら朝食をとった。
日曜日、所沢《ところざわ》の駅を降りると、怪しげな団体が改札から流れてくる人を見つけて、目かざしをしないかと声をかけている。なんとも凄《すさ》まじい光景だった。熟年のおばさんと青年が、初老の男性と女子大生が、駅前の人の流れを阻んで、しっかりと見つめあっている。おばさんが俺の手をとって、お祈りさせてくれと頼んでくる。いいよ、とばかりに目を見開いてビームを押し返してやった。あの団体がいる。俺はすぐに彼女を探した。
「いた。紀子さん。ちょっとだけ俺に付き合ってくれ」
彼女はお祈りに参加せずに、ビラをコソコソ配っていた。手元にあるビラを奪うと猛烈な勢いで配り、ものの三十分もしないうちに彼女の手を空にしてやった。駅に飛び交うビームを躱《かわ》しながら、彼女を喫茶店に連れ込んでいた。彼女は終始俯きっぱなしだ。
「はっきり言って俺、宗教なんかにのめり込むタイプじゃなかったんだ。今でもそうだと思っている。どうしてもあの感じが好きになれないんだ」
「だったらなんで私に構うの……」
「なんでかな。君がお祈りしてくれてから、ちょっとだけ変わった気がする。俺の田舎は山梨なんだ。あっ、もう知っているんだよな。上京してからまだ一度も帰ってないな」
なんでこんな話をしているのか、自分でもわからなかった。彼女と話をしていると、口をついて昔のことが出てくる。田舎の友達とでもこんな会話をするのを避けていたくらいなのに、自分のことを話そうとすると、田舎のことしか出てこなかった。今の俺を話そうとすると、何もないことに気がついた。
「あなたは宗教活動をするような人ではないです……」
「なんだか褒められている気がしないな」
「褒めていませんよ。あなたは違う世界の人間です……」
「そんなことはない。あんたこの前のお祈りで何も感じなかったのか」
「……………………」
今まで目まぐるしく追いたてていた現実は、俺を置き去りにしようとしていた。ただひとつ実存した瞬間は彼女の瞳の中にある。あれはどんな経験よりも確かに俺の身体を貫いてきた。化粧気のない顔のどこにあのビームを放つ動力源があるのかわからない。二十代の女性にしては、彼女の身なりはあまりにも質素で、禁欲的にすら見えた。目を合わさなければ、彼女は少しも魅力を感じさせない女だった。
「俺、紀子さんのことを知りたいな。なんで宗教活動しているんだよ。ある日、神様の声が聞こえてきたとか?」
「私、二年前まではOLをやっていたんです。ずっと毎日同じことの繰り返しで、私がいなくても、全然構わないんだなって思ったの……」
彼女がボソリと話しだした。進学で上京したとき周囲との違和感を伴ったまま、必死で慣れようとしたこと。考え込んでいる間にみんながさっさと行動していくようで、遅れまいと頑張ったこと。どれも俺が過ごしてきた経緯とよく似ていた。やはり彼女も田舎のことを話すときが生き生きしていた。
「私は気がついたの。周りには私の声を真剣に聞いてくれる人がいないってわかったの」
彼女が絶望しているときにやってきたのが宗教新聞の勧誘だったらしい。
「初めは嫌で仕方なかったわ。どうして私のところにだけヘンなものがやってくるのかって悩んだわ。ゆっくり自分のことを考えていると、どんどん周りが変化して、置いていかれるのが怖かったの。でも違ったの。周りがおかしいってわかったもの」
そう言って彼女の顔は明るくなった。断りきれずに会合に連れていかれたとき、似たような悩みをもっている仲間とたくさん知りあえて嬉《うれ》しかったと言う。その仲間は真剣に彼女の悩みを聞いてくれたそうだ。
「友達も同僚も私の悩みを真面目に聞いてくれたことはなかったわ。私はやっと居場所を見つけた気がしたの。宗教団体っていうけど、お金はかからないし、騙《だま》されているわけでもないのよ。入信して三年経つけどお布施や講習料なんて払ったことがないわ」
「それで、紀子さんは今幸せなの?」
俺の質問に彼女はしばし考えた様子だった。
「一会教には満足しているわ。ただ……」
「ただ? どうしたの」
「…私、教えに背いてしまったの……」
「何かしたのか。横領したとか、誘拐したとか、生《い》け贄《にえ》を逃がしたとか?」
「違うわよ。山口さん宗教を完全に誤解しているわ。覚えていないの、あの時のこと……」
「あの時って?」
そう言いつつも俺はほぼ確信していた。街が暗くなってウインドーに彼女の顔が映っていた。ビームは夜を突き抜けているようで反射して戻ってくることはなかった。
「恋視力ビームって言うんです……」
「は?」
唖然としていると彼女はメソメソと泣き出した。
「上級信者の方から、使ってはいけないとあれほど釘《くぎ》を刺されていたのに、私は……」
「紀子さんにお願いがあるんだ。もう一度、お祈りをしてくれないか」
「だから、あれは使ってはいけなかったんです。あなた何を聞いているの」
「だって、あのお祈りを駅でしていたじゃないか。どうして使ってはいけないんだ」
「あれは修行を積んだ人しかしてはいけないんです。それに私は資格がありません」
「なんでさ?」
「独身者が妄りにやってはいけないんです。その理由がやっとわかったわ」
これ以上のことは彼女は何も答えてはくれなかった。真面目一筋できたから、教えに背いたことが殊更大きく感じるのだろうと思って、これ以上無理にお祈りを頼めなかった。駅まで送っていく途中、大きな月がデパートの上に浮かんでいた。
「だったら一緒に月を見てくれないか」
と言うと彼女は頷《うなず》いて月を見てくれた。あの算盤《そろばん》塾の鞄《かばん》をぶらさげて、口を軽く開いた様《さま》はどこか子供っぽい感じである。まるで空にUFOでも見つけたように眺めているので、通りすがりの人たちまで空に目を向けてしまう。顔を合わせていないのに、不思議な満足を得ていた。俺はデパートの屋上にある時計が欠けていくのばかりを気にしていた。
相変わらず新聞はやってきた。以前に抱いていた一会教に対する怪しげな警戒心はもうなかった。立ち止まったら終わりだ、と自分を脅迫していた言葉が過《よぎ》った。立ち止まったら、幸福はすぐに逃げてしまうとずっと思っていた。なのにそれよりも早い速度で俺の幸福は逃げていってしまった。部屋にはもう何もなかった。
「あいつも立ち止まってみたかったのかな」
どこに行ったのかわからない妻のことを考えてみる。早晩こうなったかもしれない、と思いだしたのは最近になってからだ。ヘンなのはあいつだと決めつけていたが、俺に何もないとわかって愛想を尽かしたのかもしれない。世間の足並はとっくに自分を見捨てて、どこか遠くに行ってしまったのはわかる。今やもうそんなことはどうでもよくなっていた。宗教新聞を読んでいると、自分もこの中のひとりだということが自然に理解できるようになっていた。
ある日、一会教の道場を覗いてみることにした。思っていたほど怪しい場所ではなかった。彼女はそこでインストラクターをしていた。
「山口さん、入信するんですか」
と言った彼女は迷惑そうな感じだった。講習会の終わりに彼女を誘い、気持ちを伝えたが彼女の反応は冷たかった。
「私は犯してしまった罪の贖《あがな》いをしているんです。邪魔しないでください」
「どうしてさ。俺がお祈りの相手だったことがそんなに罪だったのか」
「あたりまえです。私はなんて馬鹿だったの……」
ショックだった。彼女は俺を相手にしてしまったことを激しく後悔しているのだ。俺が何をしたと言うのだ。生理的に嫌いとでも言うのだろうか。
「俺はあなたが好きになってしまったんだ。付き合ってください」
「そんなことができるわけないでしょう。罪が大きくなるだけだわ」
「なんでさ?」
「なんでって。常識を知らないんですか」
見返した彼女の顔は、驚愕《きようがく》と絶望と軽蔑《けいべつ》が混ざっていた。いつか彼女が俺は違う世界の人間だと言っていたが、そんなことはない。彼女と同じようなことを感じていたのに、気がつくまいと振り払ってきたのだ。もっと早くに気がつくべきだった。そしてついに完全に立ち止まって周りを見た。おかしいのは周囲の人間だと大真面目に感じた。俺はこれからどうすればいいのだろう。唯一の救いになるかもしれなかった宗教にすら見捨てられ、どこに行けばいいのか心は彷徨《さまよ》っていた。
「なんだか空っぽになってしまったな」
部屋と身体の密度が等しく釣り合うようになった頃、玄関の鍵《かぎ》をかけるのも意味がないので、かけなくなっていた。来るなと叫んで護《まも》っていたものが実は空の箱だったことがわかり、あまりの下らなさに、絶句していた。あのとき紀子さんの瞳はそれを見透かしていたのだろう。自分の身体に何か大切なものが入っていると思っていたのに、正真正銘の空とは神様も意地が悪い。
「俺、これからどうするんだろう」
ごろりと身体を床になげうって酒を探すと、瓶も空だった。呟《つぶや》くたびにどんどん中身が薄くなっていくのがわかる。心がマイナスになってしまうのも時間の問題だった。
ある日、彼女が朝刊と共にやってきた。ドアがベロをだして宗教新聞の配達を知らせている。それから呪いの藁《わら》人形を槌《つち》で打つような連続した音が響いてきた。寝ぼけ眼を擦《こす》りながらドアを開ける。朝の霞《かすみ》と彼女のブラウスが溶けて首だけが浮かんでいるようで、はっと目を覚ますと、ノッポの彼女が立っていた。
「どうして。あんた俺のことが嫌いじゃなかったのか」
「…もう一度、もう一度だけ、お祈りをさせてくれませんか……」
カポッと彼女の靴が落ちた音がした。大きく息を吸うと冷たい空気を取り込んでいるのに、身体の芯《しん》が熱くなってくる。どうぞ、お願い、して、とばかりにしきりに頷いて彼女を部屋の中に入れる。彼女は入るのを躊躇《ためら》っていたが、俺の部屋に何もないと気づいて意外そうに見渡していた。
「…あの、ご家族は……」
「殺風景だろ。俺ひとり暮らしなんだ」
「単身赴任だったんですか……」
「へっ、違うよ。それより顔を洗うから待っててよ。コーヒーでも飲んでて」
顔を洗うどころか、全身くまなく洗っていた。特に顔周辺はいつもの三倍時間をかけて洗った。身支度して完璧《かんぺき》な男前になり、いつでもお祈りを受ける用意ができていた。なぜ彼女が突然やってきたのかはわからない。どうしてあんなに後悔していたお祈りを捧《ささ》げる気になったのだろう。気合を入れるために景気よく頬を叩いた。
「さあ、いつでもどうぞ」
腕を背中に回して俺はビンタを待つように歯を食い縛っていた。彼女の方が緊張しているみたいで、ウロウロ俺の周りを回っている。漸《ようや》く覚悟ができて祈りの位置についたとき、間近に彼女の顔があった。
「…では、これから、あなたの幸せのために一分間お祈りをさせていただきます。私の目を見つめてください……」
俺は大きな深呼吸をして息を止めた。じっと見つめて数秒後、胸はかつての軋《きし》みでキュッと音をたてていた。彼女の目は涼しげな睫毛《まつげ》に縁取られて、中心に大きな星図を湛《たた》えた瞳がある。まるでプラネタリウムを眺めているときの飛翔感《ひしようかん》だった。星の数を数えて、カシオペアのWを瞳の中に結びながら、じっと眺めていた。突如幕がおりた。彼女は瞼《まぶた》を閉じ、顎《あご》を微《かす》かに上げて震えている。俺は倒れてくる彼女の肩を掴《つか》んだがやや不安定な感じがして、もうひとつの支点を設けた。それから俺も目を閉じた。とっくに一分間は過ぎていたが、俺たちはAの姿勢を保ち続けていた。自然と離れたと気づいて目を開けたとき、彼女の走っていく後ろ姿があった。
「紀子さん。ちょっと待ってくれ。どうして逃げるんだ」
「…ごめんなさい。…ごめんなさい」
「なんで、そんなに俺と付き合うのが嫌なのか」
「…私、本当に悪いことをしてしまったと思います」
「してないよ。あんた嫌だったのか」
「…あなたはそう思わないの……」
正論を言っているように切り返されて戸惑った。何故キスをしてはいけないのだろう。もともと宗教心の薄いのが致命的なのだろうか。それとも今まで気がつかなかったが俺は先天的な悪魔なのだろうか。彼女の言っていることがまったく理解できない。しかし彼女との出会いを幸運に感じている。空になってしまった自分の中に最初に入れたいのは、彼女だ。そうでなければこれからも自分は空虚なままだろう。鍵をかけるなら大切なものをしまいたい。それが罪なのか尋ねてみた。
Yes
なんと彼女は頷いたではないか。疑いの余地のない見事な肯定ぶりに眩暈《めまい》がした。
「理由を説明してくれよ。俺はそんなに違う世界の人間なのか」
彼女は俺の手を取り、グイと押し戻して自分の胸に聞いてみろと促す。それでもさっぱりわからない。さて、何か悪いことでもしただろうか。
「……男の人っていい加減なんですね……」
そう言って彼女は明けの靄《もや》の中に消えていった。朝から狐に摘《つま》まれたようで、不可思議な気分が終日続いていた。歯磨きのしすぎで一日中キスよりも酸っぱいミントの香りが漂っていた。結局、何故俺が悪なのか自分ではわからなかった。
「…ごーがーい。…ごーがーい」
休刊日の水曜、ばさりと宗教新聞が投げ込まれた。新聞を見た俺は、彼女を捕まえるのを忘れて、紙面に釘付《くぎづ》けになった。そこにはかつて妻だった名の女性が実名で記事を寄せていたのだ。
[#ここから2字下げ]
結婚を捨てて、本当の自分に出会えた。
[#地付き]佐々木里香 二十五歳
[#地付き]イタリア在住
私は数ヵ月前に結婚したばかりの夫を捨てて、渡航しました。私は彼のことが好きでした。ただ、私は結婚を前にして大きな不安を抱えていました。このまま何もせずに結婚していいのだろうかと思ったのです。夢や希望をたくさんもちながら、結婚を前にそれらをすべて諦《あきら》めようと努力しました。しかし私は夢を捨てることができませんでした。
私の夢はクレモナでヴァイオリンの製作者になることです。夫に相談すると、反対されるのはわかっていました。私は突然に思いたちすぐに成田に向かっていました。私は今かつて経験したことがない充実した時間を過ごしています。いつも私を紙面で励ましてくれた宗教新聞のお蔭《かげ》だと感謝しております。
いつもこの新聞を読むたびに勇気づけられました。意気地無しだった私が、今はひとりで外国で生活していることを考えると、自分が一番驚いてしまいます。
しかし夫だった彼には、本当に申し訳ないことをしたと反省しています。彼にどうやって謝っていいのかわかりません。私の我《わ》が儘《まま》のために迷惑をかけてしまったことをいつも寝る前に思い出します。
せめて彼に今の私が輝いていることを見せることができればと思います。宗教新聞をイタリアで見つけ、懐かしくて投稿しました。みなさんも、自分の夢を叶《かな》えるために頑張ってください。
[#ここで字下げ終わり]
新聞を読んで愕然とした。妻がまさかこんな事情で出ていったとは知らなかった。驚いたのは、おとなしい彼女が外国に住んでいたことだけではなかった。彼女に夢があったこと、俺に詫《わ》びていること、そして何よりの驚きは彼女が宗教新聞を読んでいたことである。妻だった彼女の情報が他に載っていないか、新聞の隅々まで読んだ。しかし号外は一面のみで、大したことは書かれていなかった。すぐに電話をかけた。もちろん妻だった佐々木里香のイタリアの住所を聞き出すためだ。しかし編集部は頑なに彼女の連絡先を教えることを拒んだ。
「おまえらが妻を誑《たぶら》かしたんだろう。俺の幸せを目茶苦茶にして、何が愛の宗教だ。人のプライバシーを勝手に占うくせに、仲間のプライバシーは守るって言うのか。とんだ悪辣《あくらつ》宗教だぜ。教えろ、おまえらまとめて訴えてやるぞ」
しかし結局妻の住所はわからなかった。すべての気力を失い心はマイナスに転じていた。ついに何もない以上の状態が訪れたのだ。言葉を生み出す意識がすべて闇に飲み込まれていくような感覚だった。そのまま眠りについても、目を開けている今と何も変わらない気がする。こんなに自分が脆いなら、もっと大事にすればよかったと妙な後悔をして、それすら闇に落ちていくのを食い止められない。その日、会社という組織が外部にあることをすっかり忘れて欠勤していた。
それからずっと、号外を逆さに読んだり裏返したりして、暗号などが隠されていないか眺めていた。ある時ふと、どうしてこれが部屋に投げ込まれたのか不思議になってきた。衝撃的なニュースであることには間違いないのだが、あまりにも個人的すぎる。いつものように新聞の投稿欄だけで充分ではないか。なんでこの新聞は自分の号外を刷ってくれたのだろう。そう考えるとこの号外はあまりにも不気味すぎる。一度紀子さんに新聞のシステムを尋ねてみる必要がある。
チラシを配っている街に出向いて彼女を探したがどこにもいなかった。道場を覗いてもいない。明け方に聞こえるあの惨めったらしい声がなくなっていたが、それでも新聞は配られてくる。俺は、配達員が彼女ではないことを薄々感じていた。
最近すっかりメジャーな宗教になってしまった一会教は、恋の宗教だとマスコミが取り上げていた。若者たちはこぞって初対面の男女で見つめあうようになっている。信者でない若者が真似をするようになり、街は無数の恋の光線に満ちていた。見つめあった初対面の男女が一分でカップルになる様は壮観ですらある。スクランブル交差点では信号が青になるのと同時に対岸から光線を放ってやってくる感じで、誰もが必死の形相で相手を探している。擦れ違いざまに相手を見つけ、渡りきるまでに恋に落ちている男女が何十組といた。男も女も下手な鉄砲で次々と光線を放っている。目尻《めじり》に横Vサインをして見つめると光線の威力が上がるそうだ。みんな恋を捕まえるのに必死のようだ。上手《うま》くいかなかった者は立ち直りも早く、もう次を捕まえている。街をひとりでぶらりと歩いていると必ず声をかけられた。
「お願いします。私の目を見つめてください」
「運命の人があなたかもしれないんです」
しかしどんなに優しく見つめられても、俺の心をうつあの光線と出合うことはなかった。紀子さんの眼差しは誰よりも強烈で痺《しび》れるものだった。
出会いとはこういうものを言うのかもしれない。街には見つめあう男女が氾濫《はんらん》していた。それを横目にしながらまた声をかけられる。誰の光線も俺にはまったくの無力だ。自分を素通りしていったはずの雑踏が立ち止まって逆戻りしたような気がした。みんな何か忘れものに気がついたのかもしれない。
「集金です」
いつもとは違う声に驚いてドアを開けると、別の女が立っていた。かなり足腰に自信がありそうな大柄なおばさんで、俺は肩すかしを食らった。
「なんで? あの、彼女は、板里さんじゃないんですか」
「あの人が担当の地区を変えてほしいって言ってきたのよ。これからどうぞよろしく。これはつまらないものですけど、落雁《らくがん》です」
と菓子折りを渡された。
「彼女どこの担当になったんですか」
「板里は狭山《さやま》地区の担当になったんですけど」
「なんでですか。いつ、誰が、決めたんですか」
「だから彼女がそうしてほしいって言ったんです。そうそう、初めてのご挨拶《あいさつ》代わりにお祈りをさせていただこうかしら。はい、私の目を見つめてください」
俺は茫然《ぼうぜん》としていた。いくらおばさんが俺の幸せを祈ってくれても、何の効き目もなかった。それどころか気分が悪くなってくる。祈りは彼女の瞳でなければ駄目なのだ。どんなに中身のない男と言われようが、彼女のビームで再起動させてくれないと、新しい生活は始まらない。
「はーい。もっと集中して私の目を見てくださーい」
十秒も経たないうちに俺は目を背けていた。
「恥ずかしがり屋なんですね。そのうち慣れますわよ。おほほほほほ」
俺は咄嗟に隣の部屋の男も宗教新聞をとりたがっていたと嘘をついて、ドアを閉めた。
「あなたは僕の運命の人です」
と隣の男が叫んで、おばさんを追いかけていく足音が聞こえた。
彼女がいなくなったことは衝撃だった。こんなときにこそ、宗教新聞は号外を出すべきではないかと苛立《いらだ》ってくる。彼女がどういう理由で俺を拒んでいるのかわからない。拒んでいるというより、抗《あらが》っているように見える。それがますます不可解なのだ。
その日の午後、ポストを覗いてみると、そこには切手の貼ってない封筒が投げ込まれていた。何日も放置されていたのだろう。表面が土埃《つちぼこり》でざらついていた。裏面には板里紀子と控え目な文字で書かれてある。封筒をひっくり返してみると、いつか無くした婚姻届と簡単なメモが入っていた。小さな薄い文字だったので、声をあげて読んだ。
「返すのが遅くなってごめんなさい。いつかあなたに鞄を返してもらったとき、中に入っていたものです。号外は編集部に頼んで、ボツ原稿だったものを特別に一部だけ刷ったものです。あなたには失礼なことをしてしまいました。これも修行が足りない私の不徳のせいです。お元気で。さようなら」
なるほどこういう訳か、と合点がいくと腹の中に力が漲《みなぎ》ってきた。すっかり片づいてしまった部屋に佇《たたず》むと一気に行動に出た。まずイタリアに行った彼女に葉書を出し、編集部から回送してもらうことにした。文面はすこぶる簡単だった。
心配することはない。俺は元気だ。夢のために頑張れ
それから婚姻届を二つに破いて捨てた。次に段ボール二つになった荷物を車に積み込み、唯一の家具だったダイニングテーブルを部屋に残して狭山に引っ越しをした。不動産屋に頼んだ条件は、勧誘がもっとも多いアパートだった。新聞勧誘が嫌で出ていったというアパートを見つけるとすぐに入居した。
「すいませーん。産業新聞です」
「お引っ越しおめでとうございます。毎朝新聞です」
「ごめんなさい。うちは宗教新聞と決めているんです」
やってきた二人を微笑で断り、こいつは縁起がいいと好調な出だしに満足していた。今度は俺の光線を彼女にお見舞いする番だ。ドアを開けた瞬間に、強烈な恋視力ビームを浴びせてやろう。目尻に横Vサインを作って玄関で待ち伏せする。
「…しーんーぶーん。…しーんーぶーん」
あの聞き覚えのある声がカサコソやってくる。
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木になる花
コツコツと靴を鳴らして歩く冬の散歩道、朽ちた葉がカサカサと渦巻きをたてて通り過ぎていく。私は今日も暗い道を歩いている。二十年も足跡を重ね、これからも靴をいくつも潰《つぶ》して歩くだろう。かつてここに一本の不思議な木があった。私が望めばそこにはいつも、花を咲かせた木があった。あんなに幸せだった日の足跡は、もうみつからない。
初めてあの木を見たのは、梅の香の頃だろうか。私は大きな木の下で母を求めて泣いていた。
*
「母さんがいない。母さんがまた迷子になっちゃった。手を離さないでって言ったのに」
冷たい日だった。たくさんの手があたしの頭を撫《な》でる。それは母さんの手ではない。ひんやりと、泣かないでとあたしの頬の形をする。その手をあたしはビショビショにしてやった。あたしの声は周囲を引きつけただろうけど、あたしはひとりぼっちだった。あたしの濡《ぬ》れた声が空に舞い、何かをひっかけたのだろう。空から酸っぱい香りが落ちてきた。見上げると、そこには大きな梅の木が、傘をさしたようにあたしの涙を弾《はじ》いていた。
「こんなきれいな梅の花、みたことない」
ちょっと酸っぱい香りを枝につけて、その香りと同じ数の紅の花が羽虫のように揺れている。花弁の一枚一枚が赤ちゃんの爪のようにそろって、唇のいちばん赤い部分よりも鮮やかだった。すこし胸をもちあげられたような透き通った匂いに、あたしはボウッとしてしまう。ここに梅の木があったなんて。
梅の花はあたしよりもきっと大声で香りを飛ばしたにちがいない。微《かす》かに母さんの匂いが混じったかと思うと次の瞬間、あたしはやっと「この手」と思う柔らかな手で空に掲げられた。
母さんがあたしを連れ戻すときは、初めにキャンキャン金切り声で叱って、それからあたしを抱きしめて泣く。あたしもさんざん泣いて、ごめんなさいと謝っている。そしていつもあたしを大事そうにおんぶして「みかんの花」を歌う。
「母さん、もう瞳《ひとみ》は七つなんだから」
誰かがみていたら恥ずかしいけど、母さんの背中は温かい。母さんはよいしょとあたしを背負いなおして、また歌う。ぎゅっと手を回した母さんの首は、あたしでも驚くほど細かった。あたしはあの梅の花のことがずっと忘れられなかった。
「瞳がまた迷子になっちゃって」
「今年で五回目じゃないの」
「母さんまた、黒のセーター着ているの」
「昨日は白だったわよ。ねえ瞳」
「違うっていってやれよ、瞳」
家の会話はちょっと変わっていると思う。必ずあたしを通して誰かが会話している。あたしがテレビをみていても、兄さんが「靴下脱いじゃうぞー」とか「次は中指の爪を切るぞー」とか、ひとり言にしては面倒《めんどう》くさい会話をする。それは母さんも父さんも同じだ。あたしはそんなとき「勝手にすれば?」と心の中で呟《つぶや》いている。
あたしはとても甘やかされている子供だ。部屋には同じ歳の女の子がもっていないようなたくさんの人形がある。だけどそこにはお気に入りのものはひとつもない。ほしくて買ってもらっているわけではないのだ。それはいつも父さんが、
「ほら瞳、この人形かわいいぞ」
と嬉《うれ》しそうな声で帰ってくるときに渡される。父さんのその声を聞くだけで、あたしは抱きついてしまう。そのときあたしと父さんの間にある人形はひどく邪魔で、こいつさえいなければと思う。人形がいくつあるのかは見当もつかないけれど、もし百体あったとしたら、百回父さんに飛びついているはずだし、百回こいつらを邪険にしている。母さんがよく、無様《ぶざま》な恰好《かつこう》で並んでいる人形をかたづけるけど、あたしはこいつらの手足がひとつふたつなくなっても一向にかまわないのだ。
「ねえ父さん、今日すごくきれいな梅の木をみつけたの」
いつもなら間髪いれずに入ってくる言葉の多い家族が、一瞬だけ沈黙する。そしてみんな声をそろえて、そうかそうか、と収まり所のない言葉が散らかっていく。
「本当なんだよ。瞳はちゃんとみたんだよ。公園の梅の木にしてはやけに背が高くて、枝も大きくて、赤い花がいっぱい咲いていて、香りがどんどん積もって、足首までいっぱいで……」
あたしが必死に話すと、みんなが泣いているような気がしてくる。それで、あたしはどうしたらいいのかわからなくなって、最後はごめんなさいって呟く。甘やかされていても不幸なことだってきっとある。だけどあたしはあの木のことは忘れない。あの香りが母さんを呼んでくれたんだもの。
あたしはクレヨンを手にとった。だけどあの鮮烈な赤はみつからない。家中を探してやっとみつけた絵の具は、母さんのドレッサーの上にあった。その優しい匂いを嗅《か》いで、冷たい板にそっと五つの花弁を押しつけた。母さんは知らないはずはなかったけど、絵を残してくれた。あの梅の花は母さんの唇だったのかもしれない。あたしは一日のうちに何度もその絵の前で鼻をくっつけていたものだ。もっと、もっと、たくさんの梅があそこにはある。そう思うとあたしはマフラーを巻いて、兄さんの部屋をノックしていた。
「あの梅の木のある公園につれていって」
「今度つれていってやるよ」
兄さんが今度と言ってやってくれた約束は一度もない。そして後で、
「このCDを聴いてごらん」
って部屋にやってくる。いつもはそれで丸く収まっていた。兄さんの膝《ひざ》の上で聴くCDが心地よくて、それを目当てで無理を言うこともしばしばだったからだ。兄さんにもう一度お願いする。それでも駄目だった。理由はいつも同じだ。
「危ないから駄目だよ」
その言葉を聞くたびに、あたしは絶望の淵《ふち》に追いやられる。幸せの毒がぼんやりあたしを侵しているようで、ときどき迷子になったときのように絶叫したくなる日がある。外が危険だと教えられている子供は、多分あたしくらいのものではないだろうか。みんな優しいけれど、外に出さないために優しくしているような気がする。あたしは兄さんに言ってやりたい。外が危ないのは兄さんも同じでしょ、と。
くらくらくらくらと花びらが舞うように、あたしの中の梅は日に日に大きくなり、いまや心は押し潰されそうだ。香りが爪先《つまさき》から溜《た》まって頭のてっぺんまで潤った香水の瓶のようになっていた。もう入らない。あたしの毛穴という毛穴がいっせいに開いて、夥《おびただ》しい香りを放つのは時間の問題だった。もう一度、もう一度あの梅をみたい。そう思った瞬間、あたしは家族に内緒で夜の道を駆けていた。
切なくなるほど遠くて、一歩ごとに闇が深まっていく夜だった。背後から家族の、おまえは方向音痴なんだから、という声が追いかけてくる。あたしはそれから逃げるように足を前に出しつづけた。公園の場所はだいたい覚えている。母さんが歌った「みかんの花」三曲分くらいだ。なのにあたしは四曲目を歌い終えようとしている。さんざん迷って、足がくたびれてきた。石につまずいて、やっとの思いで保っていた涙をパシャンと零《こぼ》したとき、じんわりと冷たい土を握っていた。気がつくと上から香りが落ちてくる。あたしは椿の木の前に立っていた。
「どうしてここに椿があるの」
あたしは辺りを見渡した。風に軋《きし》むブランコの音、昼間の子供たちが忘れた玩具《おもちや》が砂を被《かぶ》って寝ている。その公園のまん中に立つ一本の木、これは梅ではなかったのか。母さんを呼んだあの梅の花ではなかったのか。身体の中に詰まっていた香りがプシューと抜けていくのがわかった。それは思っていたよりもあっけなく外気に馴染《なじ》んでいった。椿はたくさんのギョロ目の花で、公園を警備しているかのように瞬《まばた》きひとつせず、ふんぞり返った姿勢で辺りを見渡している。そのひとつがあたしの方をみて、ここには椿しかなかったとでもいうように睨《にら》んでいた。
「梅じゃなかったんだ……」
落胆よりもあたしには奇妙な感覚の方が強かった。街灯に照らされた椿の花は緑の葉を広げて、ぐいと伸びをしていた。ボトリと椿の顔が落ちる。あたしはそれをすぐに拾って、まじまじとみつめた。けっして巨大な梅などではなかった。立ち尽くして夜の長さに痺《しび》れをきらした警察官の眠たい目のようだった。あたしは梅のことなどすっかり忘れて、落ちた椿を胸に抱いていた。
「ひとみー。ひとみー。ひとみー」
と冷汗を含んだ最初の声は母さんで、次のオロオロしたのが兄さんだ。最後の番犬のうなり声よりも大きなのは父さん。いつでも家族は声から先にやってくる。あたしの名前のセールでもやっているかのように、ここに着くまで三十回は叫んでいた。そしてあたしをみつけると六つの手がいっせいに抱きしめる。まるであたしが手足をどこかに忘れて、それを拾ってきたようだ。胴体との具合をみんなで確認して、あたしの姿が不恰好《ぶかつこう》ではないと安心したいのかもしれない。家族を心配させておいて、こんなことを言うのはいけないとわかっているのだけど、あたしは人形にさせられた気がする。
「どうしてこんな無茶するの」
「ばっか野郎。心配したぞ」
「怪我はなかったんだろうな」
みんなはさんざん叱って、さんざん泣いて、さんざん抱きしめた。よっぽど慌てていたのだろう。あたしが椿の花の下にいたのに、誰も変だとは気がついていないようだった。あたしは帰り道、椿の警備のおかげで後ろを気にしないですんだ。そして今度こそ迷うことがないように道はしっかり記憶に焼き付けておいた。
「あのね、梅がね、椿に変わっていたの」
それから思い出すのは椿のことばかりだ。どうして梅が椿になったのか、そればかりを考えていた。クレヨンを握ってもあのギョロ目の感じはつかめない。
でも、ある夜の食卓が素晴らしいインスピレーションを与えてくれた。
「瞳、お父さん酔っぱらっちゃったよ」
とあたしの手を掴《つか》んで頬を触らせたあの感触が、ひどく花の温かさを思わせた。
「まるで椿みたいな顔だよ」
「本当、お父さん顔まっか」
「親父が花みたいなんて、瞳だから言うんだぜ」
心の梅は散ってしまったけど、新たに咲いたのが椿だ。椿にみつめられていると、悪い子ではいられない気がする。あたしはいつもより用心深く行動するようにつとめた。いちばん気に入っている人形は手足が脱着できる奴だ。胴体の中にアクセサリーを入れてカラカラ鳴らすと、これが心地よかった。右手と左手の装着が逆だろうとあたしはかまわない。首を引き抜いてひっくりかえすとたくさんの小物がでてくる。そんな楽しみさえも慎まなければならなかった。
いつでも椿はあたしを睨んでいる。いい子も悪い子も関係のない寝静まった夢の中ですら、椿は警備を怠らなかった。いまやあたしは椿の前に跪《ひざまず》いた惨めな女の子である。椿にうなされる夜が何週間もつづいた。
兄さんは、いただきますの挨拶《あいさつ》は忘れても、メニューを口ずさむことを忘れない。あたしはそんな子供じみたことは嫌いだから黙っているけれど、今日もまた言っている。
「おっ、ブリだ」
「馬鹿だなスズキだろ」
母さんがあたしにそっと耳うちをしてくれた。
「ふたりとも馬鹿よ。ボラなのにね」
「なにそれ?」
「ああ、出世魚だったな」
と父さんが言う。魚には成長にあわせて名前を変える出世魚というものがあるらしい。それであたしはピンときた。梅の花は成長すると椿になるんだ。あれは出世花なんだ。
では椿は成長すると何になるのだろう? これが新たにわいた疑問である。兄さんに尋ねてみた。
「うーん。チューリップじゃないのか」
ふん、馬鹿ね。魚の区別もつかないのだから、花のことなど知るはずもない。父さんに聞いてみた。
「マーガレットだろう」
あたしにものを教えたがる口調で得意そうに間違う。あたしはふたりに木になる花を尋ねているのに、この男たちはなんだ。ではマーガレットがどんな花なのかと詰めよったら、その香水があるという。次の日人形の代わりにとびきりの声で帰ってきた父は、なんと薔薇《ばら》香水を買ってきたのだ。
花音痴はこれだから嫌だ。
椿に睨まれたあの夜からひと月は経っただろうか。あたしは椿が成長するのを待って、再びでかけてみることにした。こんどはアクセサリーを内臓にしたあの人形も一緒だ。部屋に鍵《かぎ》をかけCDを鳴らして窓から出た。道はだいたい覚えている。あたしは頭の中の地図を広げ、何度も形を指で追った。
はずなのに、あたしは道に迷っている。あまりの恐怖に足がすくんでいたら、女の子があたしの人形に関心を示してきた。右足の穴からプラスチックのネックレスがこぼれて難儀をしている様がなにか特別に面白いようだ。
「見世物小屋でもやるつもり?」
女の子はサユリちゃんという子で、濁った声をしていた。なにか喋《しやべ》ってもそれは「だぢづでど」と聞こえる。顔の可愛い子はたくさんいるだろうけど、声が魅力的な子はそうはいない。あたしはサユリちゃんをひと耳で気に入った。
「お願い。椿のある公園につれていって。お礼にこの人形をあげるから」
あたしはサユリちゃんにあの不思議な木の話をした。サユリちゃんは初めはまさか、という風に「だぢづでど」と笑ったが、あたしが嘘をついているのではないとわかってくれたのか、それともよっぽど奇形の人形がほしかったのか、
「それならウチもみたいわ」
と手を引いて先に歩いていく。もう椿の頃じゃないけれど、あの木はなにかに成長しているはずだとあたしは確信していた。サユリちゃんは、近道をしようと、塀をこえたり、生ゴミが散乱している家の脇道をカニ歩きしながら進んでいく。
「ウチもその公園行ったけど、そのときは気がつかんかったな」
サユリちゃんは汗の匂いのする女の子だ。あたしのように花をみたりはしないだろう。どういう遊びをしているのか、聞かなくてもだいたいわかった。
そしてサユリちゃんが「ここだろ」と角を曲がる。あたしは声をあげた。
「桜だ。桜だ。桜だ」
椿は出世すると桜になるんだ。綿菓子をたくさん抱えた女の人みたいだ。あんなに充血していた椿の警備もすっかり終わって、今度はうっすらと頬を染めている。公園のまん中にある一本の木は見事な桜に変身していた。やっぱりあたしの考えは間違っていなかった。そう言おうとサユリちゃんの袖《そで》を引っ張ると、
「ウチもほんまびっくりやわ」
と呆《あき》れたように眺めている。
風もないのにフワフワと花びらを舞わせて、空気の彩りもすっかり桜に譲っている。枝の先がしなやかな母さんの指みたいで、揺れてもうすこしであたしの頭を撫でそうになる。捕まえようと腕を伸ばすと、さらさらとした爪を落とした。
ごめんね。もう触らないから。
あたしたちは木の下でお喋りをした。ときどき桜が舞いおりて会話を遮ったけど、サユリちゃんは気にしなかった。あたしが、家族は好きだけど自由に外出できないのをこぼしたら、
「だったらウチがつれだしてやるワ」
と言って、濁った声で笑った。そういえば友達ってこういうものなのかな、と思った。あたしは初めて会ったばかりのサユリちゃんに、家族にも話したことのない特別なことをたくさん話しているのに、何度も驚いた。ねえ、サユリちゃん賭《か》けてみない? 桜は成長するとなんになると思う?
「桜ってサクランボになるんじゃない?」
言うと思った。サユリちゃんはまだこの木の正体を知らないから、そんな子供じみた考えなのよ、と言ったらサユリちゃんが、
「ウチの方がひとつ上やで」
とムッとした。桜はサクランボになるって本に書いてあったと言って譲らない。だけどこの木は出世花だ。そこらの木とは違っている。あたしは第一発見者という強い思いがあった。みててよ、サユリちゃん。
サユリちゃんはあたしを家まで送ってくれた。あたしはサユリちゃんの汗ばんだ背中にいつかの薔薇香水をかけてやった。家族はあたしがずっと部屋にいたと思っているみたいだ。
サユリちゃんは足音よりも先に、薔薇の香りを放ってやってくる。そして誰にもわからないように、あたしを窓から外につれだしてくれる。そろそろ桜は出世したはずだ。桜は成長すると……。
ひと月後あたしたちは半袖《はんそで》の服を着て、またこの木の前に立った。
「そう。藤になる」
若い紫を吊《つ》るして葡萄《ぶどう》のような花をつける。花の根本はまだ桜の名残なのか、淡く小さく震えている。どうサユリちゃん?
「うーん。シュールやなあ」
素直に負けを認めないのが、サユリちゃんだ。だけど興奮して発散する薔薇の香りは、ムムムと唸《うな》っていた。花は空の高い部分と同じ色をしている。そしてそこから地上めがけて腕をおろすと藤の花になる。もう少しで地面まで届きそうなのに、触れることができなくてモゾモゾともがいているようだ。そのたびに花から香りが飛ぶ。きっと空の高い部分の匂いなのだろう。あたしは地面にいちばん近い空を知っている。
サユリちゃんをみるとゴツゴツ土を掘り返している。そのたびにツンとした活気のある土の香りが放たれて、季節が和らいでいるのがわかった。
サユリちゃんはじっとしている子ではない。すぐに他の子たちと大声をあげて、鬼ごっこを始める。いつも誘われるのだけど、あたしにこの遊びは向いていないようだ。だけどみんなの声を聞きながら花を眺めていると、すごく満たされていく。サユリちゃんが香りの帯をたなびかせて、8の字に駆けていく。そして噎《む》せる匂いで隣にデンと座ったら、そこには花壇ができたような気がした。あたしにはこの木があればいい。サユリちゃんの濁った声がどこかで聞こえていれば、それでいい。あたしは初めて味わう自由をひとりで楽しんでいた。
藤は出世するとなんになるんだろう?
また薔薇の香りのする背中を追いかける。あれからひと月ぶりのことだ。藤がハナミズキの白に変わり、あたしはこの木の前にいる。モンシロチョウが羽を休めてまたどこかへ飛んでいってしまわないかと、はらはらするようなハナミズキは、ここが蝶の宿だといっていた。飛ぶことをためらって木に身をあずけている蝶々は、その羽の使いかたを忘れてしまうだろう。ハナミズキに止まった蝶は、一度も飛びたつことのないまま羽を捨てて、命を終える。
こんな不思議な木があるのに、どうして誰も気がつかないのだろう。
そんなある日、木から男の人の声がした。誰かがこの木に登っているんだ。大きな車がやってきて、たくさんの男の人がなにやら難しい話をしている。クレーンのモーター音が鳴る。ガチャガチャ鳴る箱を持った男の人が、木になにかを取りつけている。なんとなくこの日がくるのをどこかで予感していたあたしは、男の人たちの間に割って入った。
「この木を切るつもりなの?」
あたしは幹にしがみついた。すると男の人は優しい手であたしを撫《な》でた。
「切るわけじゃないよ。調べにきたんだ。安心して」
どうやらこの木を調査しにきた学者さんらしい。やっぱり気がついていた人もいたんだ。確かに不思議な木だもの。これから本にのって、みんなが知るようになるのだろう。そしたら人がいっぱい集まって、こんな風《ふう》に木の下でゆっくり花を眺めたりできなくなるのかな。ちょっとだけ淋《さび》しいな。
「ねえ、あんた学校いかんの」
とサユリちゃんが聞いてきた。学校には行っていたけど、あたしには合わなかったみたい、とだけ伝えた。サユリちゃんは羨《うらや》ましそうだ。
「それで休めるんなら、あんたツイてるワ」
あたしは黙ったが、本当はツイていないから、学校なんかに行かされる羽目になったのだ、と言いたかった。だけどこみ上げる気持ちがあって、サユリちゃんにうまく説明できない。あたしはすっかり幸せに浸っていて学校のことなど忘れていた。いつまでもこの木の下にいられるものと思っていた。
「学校なんか嫌いよ」
あたしはちょっと前まで本物の不幸の中にいたのだ。今の気持ちのように出口を探してぶつかっては悲鳴をあげるような恐怖の世界に閉じこめられていたのだ。あの学校から逃げ出すのにどんな苦労をしたのか、きっとサユリちゃんにはわかってもらえないだろう。毎日毎日くだらないことの繰り返しで、誰もあたしの望みなんて叶《かな》えてくれなかったし、あたしがもっている希望を罪悪のように否定した場所だった。そのときあたしがどんな希望をもっていたのか、あたしも上手《うま》く言えなかったけど、今はわかる。あたしはこんな木の下で花をみつめていたかったのだ。
ハナミズキはもっとみなさいとばかりに腕を広げ、大きな丸い花弁を開いていた。
「あんたいつまでこんなことしてるつもりなん?」
死ぬまでよ、と答えたら、だぢづでど、だぢづでど、と腹を抱えてサユリちゃんが笑った。またつれてきてくれるよね。
雨の日だった。あたしはサユリちゃんと傘をさして木の前にいる。
「サユリちゃんは今、幸せ?」
「全然。ママは離婚したばかりだし」
そして聞こえないくらいの小さな溜《た》め息《いき》をついた。この子はひとつ上だというけれど、ときどき母さんがつくような疲れた溜め息をする。苦労している子供はあたしくらいのものだと思ってきたのだけど、サユリちゃんも大変のようだ。そういえばサユリちゃんの濁った声はいつかのあたしもしていたような気がする。学校ではいつもあたしはあんな声をしていたような気がする。
「あんたは今、幸せ?」
あたしは「はい」と言うのをためらった。そして木を指して、紫陽花《あじさい》が咲いているとだけ言った。学校には花なんかなかった。それが問題だったのだと今なら先生に言えるかもしれない。
「ママはね、新しい男の人と結婚するねん」
あたしは紫陽花の色が変わったことを告げる。
「本当にきれいなオレンジ色ね」
違うよサユリちゃん、あれはね紫色っていうの。サユリちゃんがどんな顔をしたのか知らないけど、背中の香りが雨に流されていた。そこにいつものサユリちゃんがいないことが不安でならなかった。
あたしはこの木が最後になにになるのか、実は予想がついている。あと半年でこの木はすごいことになっているはずだ。きっとサユリちゃんの夢も叶うと思う。だからそれまでじっと待っていよう。
しかし、サユリちゃんは、それから窓を叩《たた》かなくなった。あたしは再び狭い部屋の中にいて、出口を探して叫びそうになっていた。何度か家族に当たって、それでもまだ収まらない苛立《いらだ》ちを抱えるようになった。サユリちゃんのことは家族に聞けない。外出のことも内緒だ。あたしはサユリちゃんの名をずっと呼んでいた。
そして一ヵ月がすぎた。今頃はあの木にはどんな花が咲いているのだろう。ちょうど今は薔薇が咲いているはずだ。サユリちゃんがたくさんいて、みつけられずに泣いている夢をみた。あの木に登って、薔薇をひとつひとつ折っては、香りを潰《つぶ》した。そして最後の一輪に手をかけたとき、どこにも香りはなかった。あたしは裸になった木の前で迷子になったときのショックに襲われていた。
次の日窓を叩く音がした。いつもより何倍も大きな音に聞こえた。急いでカーテンを開け、シッと指をあてて窓をまたぐ。ゴツンとなにかにぶつかったそれは、酸っぱい汗の背中だった。サユリちゃんとは違う立ちかただ。
「おてんばだなあ。庭に出るつもりなのか」
と兄さんが笑っている。あたしは肩をすくめて、ちょっと羽目を外したかっただけよとしらをきった。
「さっき通ったら瞳の部屋の窓になにかが挟まっていてさ」
そう言って兄さんはいちいち丁寧に、それが埃《ほこり》にまみれたボロの手紙だとか、雨にうたれて紙が崩れているとか、言いながら読みあげた。あたしはそれを最後まで聞くことはできなかった。
パパのいる大阪に転校します。瞳ちゃん、さようなら。
[#地付き]サユリ
あたしは震えが止まらなかった。そして布団にこもってひたすら泣いた。喉《のど》をしぼって泣いた後のあたしの声はサユリちゃんにすごく似ていた。
「よかったな。初めて友達ができたじゃないか」
ずしりと重い兄さんの手は軽くあたしを包んで、日差しの温《ぬく》もりを伝えた。
「でも瞳、おまえどこでその子と会っていたんだ」
あたしはもっと大声で泣いた。部屋の人形が無表情にあたしをみている。まるで椿の眼差《まなざ》しだ。それに腹が立って、つかんでは投げた。こいつらが百人いたって、サユリちゃんにはかなわないのだ。こいつらが代わりに大阪に行けばいいと思った。
あたしの目は泣くためにあるのではない。瞼《まぶた》を押さえながら唇を噛《か》む。この目は花を見るためだけにある。あたしにはいつだって花がある。これから芙蓉《ふよう》が咲くはずだ。そのかんばせは母さんの白い肌のようだろう。
「瞳、犬がほしくないか」
ある日父さんがそう言ったのを聞いて、あたしは驚いた。犬なんてうるさい動物は趣味じゃなかった。だったら猫にして、とお願いしたら、みんなが口をそろえて言う。
「瞳には絶対に犬がいい」
しかも大きな犬を飼おうというではないか。犬は吠《ほ》えたり噛んだり舐《な》めたりするから、嫌いだ。だって家は昔マーウという猫を飼っていたではないか。あんなにマーウをかわいがっていながら、次は犬という。それに誰が面倒をみるというのだろう。あたしは絶対に反対だった。すると、
「瞳のためにそう言うんだよ」
と返された。その言葉を聞くたびに、身体からとてつもなく黒いものが噴き上げてくるのを感じる。家が学校みたいになってきている。あんなに苦労して逃げ出したのに、家の中まで汚染されつつある。次はどこに逃げればいいのだろう。
学校に入れられる前は、あたしは本当に普通の女の子だった。いつも猫のマーウの背中を撫でながら、テレビの前にいた。ほめられるほどの行儀だって身につけていた。なのになにが悪かったというのだろう。突然あたしは知らない人の中に放りこまれていた。
ドスンとした壁があたしの周りにできて、あたしのためとされることが毎日毎日繰り返された。そうそう黙って従っていたわけではない。ときには無茶なことをして、先生を呆《あき》れ返らせた。その間だけ息がつけた。しかし大人はしぶとくねばり強い。あたしは身体をバラバラにしながらぶつかっていくには、小さすぎた。あたしの最後の抵抗は、固い蕾《つぼみ》になって口を閉ざすしかなかった。それからあたしは本当におかしくなった。ある日を境に身体がうんともすんともきかない、壊れた子供になっていた。
家に戻るまえに病院で身体を修理した。家に戻ってきてマーウの死を知った。父さんと母さんが毎日|喧嘩《けんか》をしているのを聞いた。仲のよかった家族があたしのせいで喧嘩をしている。いつの間にか家も壊れていた。兄さんですら、どこにいるのかわからないくらい静かになっていた。
自分で閉じた口なのに、開くためには長い時間がかかった。あたしの心の中ではたくさんの言葉が喉をノックしていたのに、一言はっするためのエネルギーは、途方もない力を使わなければならなかった。あの時あたしはずっと絵を描いていた。
あたしは仲直りのために家族の絵を描いた。なかなか上手に描けなくて「これだ」という絵を渡せたのは、スケッチブックの最後の一枚だった。父さんも母さんもとても喜んでくれた。それからあたしはいつも家族と暮らしている。みんな楽しく話をするようになった。兄さんもうるさいくらいお喋りになった。
「兄さん、あの公園につれていって」
また今度な、危ないよ、とあたし自身が先に口走っていた。相手の言葉をうばって、これからさあ、どうなるのかと構える。兄さんは、辛《つら》そうに黙っていた。
いつかあの公園にきていた学者の人たちが、また観察しにきているかもしれない。貴重な木だから、どこかの植物園に保護されるのだろうか。そしてどんな名前をつけるのだろうか。ウメツバキサクラフジハナミズキアジサイ──。ちょっと長すぎる。あたしだったらぴったりの名前を知っているんだけど、今は言わない。
金木犀《きんもくせい》って中国の花なんだって。空気のきれいな所でしか花を咲かせないって母さんが言っていた。香りの中心は色がついているほど濃くて、噎《む》せてしまうそうだ。来月はその金木犀がうっとりするような香りを湛《たた》えて、虫の音に揺れることだろう。だけど今のあたしは檻《おり》の中にいて、あの木には近づけない。
ずっと暗い家の中にいた。ある夜、甘い香りが途切れて、あたしは金木犀の時期が終わったことを知った。
山茶花《さざんか》って知っているか、父さんに尋ねてみた。
「演歌のか?」
違うよ。ちょうど今あの木は山茶花に出世しているはずだ。早く花をみたいとあたしは焦っている。もう時間がない。来月にはこの木の正体が明らかになるはずだ。それがあの木の本当の名前。実はみんなが知っている。
サユリちゃんはもういないけれど、あたしはあの場所を覚えている。家からまっすぐ行って右に曲がってすぐ左。それからまっすぐ……。サユリちゃんは塀をこえたり、道草したりしたから複雑で仕方ない。お菓子を買わずに犬に餌をやらずに、橋もあったような気がする。水溜まりもあった。もう一度さいしょから。
寒い夜のことだ。いよいよあの木は最後の成長を迎えるのだ。夢の中であの木が最後の姿に変身した光景がみえた。まず間違いない。あたしは直感を信じてこっそり家をでた。まっすぐ歩いて右に曲がった。それからすぐ左。そして塀を乗りこえて犬。また歩く歩く。本当に暗い夜だった。もし蝋燭《ろうそく》ひとつ分の明かりでもあれば、どんなに遠くてもみつけられただろう。一歩すすむたびに闇が背後に落ちていく。あたし自身も影になって平たく立っている心境だった。風がセーターの編み目から肋骨《ろつこつ》を通って熱をうばっていく。目的地がなかったらあたしは途中で絶叫していたことだろう。
かすかに誰かの足音が聞こえた。とっさに振り返ってみる。後ろはもっと真っ暗だった。そして耳をすませて、息をのんだ。どうやら気のせいのようだ。お化けだったら道くらいはきけたのに、ますますひとりだと思い知らされた。それでもあたしは、あの木のことが知りたかった。そしてとっておきの願いをするのだ。それはどんな人にも言ったことのない、特別のお願いだ。木をみて願いが叶《かな》ったら、ひとりで家に帰る。きっとできるはずだ。
そしてあたしは最後の角を曲がった。強い風が吹いて、突然開けたあの空間は、あたしが大好きなあの木のある公園だった。
「ついにやった。ひとりでできた」
あたしは誰もみていないことをいいことに、上機嫌にはしゃいで公園の中を走った。そしてまん中にある木は、
「そう。クリスマスツリー」
色とりどりの光がキラキラ輝いて、一年中の花がみんな咲いている。母さんの唇のようなあの日の梅、酔っぱらった父さんの椿の顔、サユリちゃんとみた桜や藤やハナミズキもある。紫陽花がどんどん色を変えて金色に輝いている。サユリちゃんの好きなオレンジ色もある。薔薇もある。芙蓉もある。兄さんの匂いに似ている金木犀もある。やっぱりあたしの勘は正しかった。木は出世して最後はクリスマスツリーになる。サンタクロースはこの木を目印にやってくる。
そうだ。あたしへのプレゼントは、あたしへのプレゼントは。大きく深呼吸して息をのんだ。
「瞳、気がすんだか?」
兄さんの声だ。父さんも母さんもきている。あたしの後をこっそりつけてきたんだ。
「ひとりで外に出ちゃ危ないって言っているだろう」
「ほら、この木をみて。あの日の梅がこんなに立派になったんだよ。この木には桜も咲くんだよ。藤も咲くんだよ。毎月毎月たくさんの花を咲かせるんだよ。あたしがみつけた不思議な木。みんなびっくりしたでしょう」
あたしは夢中で喋っていた。学者の人も興味をもって調べていること。この木の名前はクリスマスツリー。一年に一度のクリスマスの日に、一年中の花をつける。そして木のてっぺんに星がやってきたとき、ひとつだけ願いを叶えてくれる。
「ほら、プレゼント。新しい杖《つえ》だよ」
「学校で教わっただろう。これを持たないと危ないんだぞ」
父さんも兄さんも嫌い。あたしは杖なんか使わなくても平気だ。ひとりで歩けるんだ。
「工事の穴に落ちるぞ」
どうして父さんは信じてくれないの。この木をみようとしてくれないの。
「変な奴だなあ。これのなにが面白いんだ」
いいえ、兄さん。これは出世花というんです。これだから花音痴は嫌い。
「来年にはまた学校ね」
母さん、あたし普通の学校に行きたい。あんな学校、だいっ嫌い。
お願い。みんなあたしから光をうばわないで。あたしのサンタクロースが消えてしまう。サンタさん、明かりを、もっとたくさんの明かりを下さい……。
*
それは私の幼い日のできごとだ。二十歳をすぎて盲導犬のアヤメを従えた私は、いつもの散歩道を歩いている。ここに不思議な木があったことは事実だ。私は同じ場所に立ち、あの木に手を添えてみる。冷たい電柱が私を拒む。いいえ。拒んでいるのは私の方だ。あれから私は、二度と目を開けることはなかったのだから。
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角川文庫『あたしのマブイ見ませんでしたか』平成14年4月25日初版発行