妖魔夜行 穢された翼
柘植めぐみ/北沢慶/山本弘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)軍艦《ぐんかん》マーチ
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(例)「|お祭り《フィーバー》は終了です」
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目次
第一話  五グラムの願い   柘植めぐみ
第二話  人形使いの黒い箱  北沢  慶
第三話  穢された翼     山本  弘
妖怪ファイル
妖魔夜行誕生秘話
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Take-1――――――――
幼いころは思ったものです。
わたしはぜったいに死なない。病気になっても交通事故に遭っても、奇跡的に生き延びてみせる。誰《だれ》よりも長生きして、テレビや新聞に取り上げられるんだ、と。
たとえ世界が滅びようと、わたしだけは生き残るはずでした。無限の荒野にひとり立ち、新しい歴史を作ろうと心に誓うんです。
世界の中心にいるのは、このわたしのはずなのだから。
いつのまにか世紀末。
とりあえずここまで生き延びてきました。
いまは都会の雑踏に押しつぶされそうになりながら、たくさんのなかのひとりにうまくおさまり、せちがらい世の中をどうにかくぐり抜けています。
この七月、『ノストラダムスの大予言』が世間を騒がせましたね。正直言って、当たってくれてもよかったんです。みんな死ぬならそれもいいじゃないですか。たとえ生き残ったとしても、世界はますます生きにくくなっているでしょうし。
現実には、世界は滅びませんでした。パニックになった人たちの思いこみが、『大王』という名の妖怪《ようかい》を作り出すんじゃないかと心配したけれど、誰もそこまで思いつめてはいなかったようです。
そういうわけで、世の中はちっとも変わっていません。猛暑も気づくと去り、当然のように秋がやってきます。
わたし自身は、ずいぶん変わりました。むかしのような根拠のない自信は、もう跡形もありません。身分不相応な夢も抱かなくなりました。
それでも、いまの自分はけっこう好きです。
あまり「むかしはよかった」なんて連呼するもんじゃありませんね。現実を忘れて過去にしがみついてばかりじゃ、妖怪にあなたの存在を乗っ取られるかもしれませんよ。そう、『むかしの自分』という名前の妖怪に。
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第一話  五グラムの願い  柘植めぐみ
プロローグ
1.「開店」
2.下見
3.ハマリ台
4.勝負
5.リーチ
6.「大当たり」
エピローグ
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プロローグ
「でね、その新入生っていうのが、けっこうかわいくってさあ」
歩道の向こうから、女の子の二人連れが歩いてきた。はらはらと舞い落ちる桜の花びらが、パステルカラーのコートに吸い寄せられていく。
「若い子に手を出すんじゃないわよ。あんた、ちゃんと彼氏いるんでしょ」
二人とも、いまどきの女子大生だ。明るく染《そ》めた髪、華《はな》やかなメイク、小さなリュック。五センチもあるヒールが、いっそう足を長く見せる。
「だってさあ、いっしょにいると、こっちまで若返るような気がするんだもん」
「なに年寄りみたいなこと言ってんの」
けらけらと屈託《くったく》のない笑い声をあげる。
河原《かわはら》早苗《さなえ》は視線を落とし、歩道と車道の境目《さかいめ》をなぞるようにしてすれ違った。ネギが頭をのぞかせたスーパーの袋を、さっと後ろ手に隠《かく》す。
女子大生たちは、同じ年ごろの早苗を気にとめたふうもない。そのまま遠ざかっていく。
しばらく歩いて、早苗は立ち止まった。カーブミラーに映った自分が見える。鴉《からす》のように黒い髪は、いまは長さもちぐはぐだ。手入れに時間をかけている余裕はないから、こんどあの美容室に行ったときはひどく叱《しか》られるだろう。
それに寝不足を隠すための濃いめのメイク。野暮《やぼ》ったいトレーナーにだぼだぼのジーンズ。あの女子大生たちのようにおしゃれをしたくでも、しょせんは子供がすぐに汚してしまう。
いつしか、足早に歩き出していた。帰るべき家とは反対の方向、二年前まで友だちとよく遊んでいた渋谷《しぶや》の街へと入っていく。
あのころは毎日が楽しかった。イベント設営《せつえい》のアルバイトで知り合ったいまの夫も、自分の知らない世界を知っている、大人の男に思えたのに。
いまや家で待っているのは、泣いてばかりの赤ん坊と、口やかましい義母。広告代理店に勤める夫の帰りは遅く、愚痴《ぐち》を聞いてもらおうにも風呂《ふろ》からあがるなり寝てしまう。友だちと長電話だってできやしない。
まだあたしは、こんなに若いのに。
喉《のど》になにかがつまったようで、涙がこみあげてくる。いけない、こんなことじゃ。最近、どうも情緒不安定だ。同じように育児に悩む母親の手記を読んだりもしたのだが、自分の人間としての未熟さを思い知らされただけだった。
そのとき、にじんだ視界の片隅に、パチンコ店のネオンが見えた。昼間だというのに電気代を惜《お》しむこともなく、色とりどりの光で文字や模様《もよう》を浮かび上がらせている。
自動ドアが開くたび、流行《はや》りの曲に混じってじゃらじゃらという玉の音が聞こえた。いつもなら耳障《みみざわ》りなだけなのに、今日はなぜか、やさしく誘っているように思える。
泣くことはない。
自由はここにある、と。
ぼんやりとネオンを見つめながら、いつしか早苗の手は、ポケットの財布をまさぐっていた。
1 「開店」
(……ここはどこ?)
大岩《おおいわ》三衣《みい》は、『東京』と書かれた地図を片手に考えこんでいた。指は渋谷区のページに挟んである。道玄坂《どうげんざか》一丁目にあるBAR <うさぎの穴> を目指していたのだが、すでに二十分が経過。電話では「駅から五分」と聞いていたのに。
(どこかに有月《ありつき》のおじさんでも転がっていないかしら)
有月とは、三衣より何百歳も年上の妖怪《ようかい》うわばみだ。その大先輩をつかまえて「転がって」とは失礼な話である。
そんなことは気にもせず、道路|脇《わき》のポリバケツをのぞきこむ。食事中の野良猫が、「ナァ」とうらめしそうな鳴き声をあげて逃げていった。
やせこけた背中を目で追いかける。と、すうっと視界に飛びこんでくるものがあった。
(ペン……ギン?)
それは巨大なマリンブルーのペンギンのオブジェだった。建物の屋根を抱えこむようにして、まんまるの目で三衣を見下ろしている。淡い色合いのネオンには横文字で、『パーラー・ペンギン』と記してあった。
パチンコ店だ。しかも、かなり新しい。
(……しばらく、このあたりにはお世話になるんだし)
三衣はそれを言い訳とは思わない。
(ちょっとくらい、いいわよね)
慣れた動作で自動ドアをくぐり抜ける。その向こうは、ぴかぴかに磨《みが》かれた水色のフロアだった。一昔前なら威勢のいい軍艦《ぐんかん》マーチが耳に飛びこんでくるところだが、ここは違う。流れているのは有線のポップスだ。いまどきの若者は、パチンコ店でカラオケの定番を覚えるともいう。
店内はなかなかにぎわっていた。平日の昼間であることを考えれば、「とても」と言ってもいい。
三衣は入口のそばに掛《か》かった『店内案内図』をながめた。最近の機種はほとんど知っているので、これを見れば打ちたい台をたやすく探すことができる。
(定番は <源さん> に <ギンパラ> か……。時間がないから、スロットで勝負したほうがいいかなあ。あ、でも <いれてなんほ> がある)
狸《たぬき》や狐《きつね》のキャラクターがかわいく、最近の三衣のお気に入りである。
悩む三衣の目は、フロアのいちばん端にある『レディース・コーナー』に止まった。隣に「終日オール無制限」と吹き出しがある。
(むむむっ。そう言われちゃ、打たないわけにいかないわねえ)
時間がないと思ったことももう忘れ、三衣は胸を躍らせてそこに向かった。が、すぐにがっくりする。向かい合わせの計二十四台は、どこもすでにいっぱいだったのだ。
しぶしぶ引き返そうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「お客さま、空《あ》きましたよ」
振り向いた三衣は、思わずぷぷっと吹き出した。ここの店員なのだろう。清潔そうな白いシャツに、マリンブルーのベストと蝶《ちょう》ネクタイ。青い革の手袋が、まるでペンギンのヒレのようだ。着ているのが丸っこい男性というのも似合いすぎる。
「あれっ?」
店員はなにかに驚いたようだった。
「どうかした?」
「あ、いえ」
それ以上の追及を避けるように、店員は台のほうをああてて指差した。
「あそこの七七番です。 <ルパンV世> という台なんですが」
爪先立《つまさきだ》ちで見ると、たしかにそこだけぽっかりと空いていた。席をたったばかりと思われる、ドル箱を抱えた中年の女性の後ろ姿が見える。けっこう好きな台だし、選り好みはできまい。
「ありがとう。打ってみるわ」
「どうぞお楽しみください」
深々と頭を下げる店員から離れ、席へと向かった。椅子《いす》の足もとに旅行|鞄《かばん》を下ろし、券売機に向かう。買ったのは、三千円のプリペイドカード。
(今日はこれだけ。ぜったいこれだけ)
決意を固め、席に戻る。パキパキと指を鳴らして気合いを入れると、右手でグリップを回した。
ふと視線を感じて顔を上げると、さきほどの店員がなおも三衣を見つめていた。
五時間後。
あたりがすっかり暗くなって、ようやく三衣はBAR <うさぎの穴> にたどりついた。マスターが挨拶《あいさつ》代わりに注いでくれたビールを一気に飲み干す。パチンコ店の空気は乾燥していて、すっかり喉がかわいてしまったのだ。
「……ミイちゃんや」
横で有月がじろりと丸い目を向けた。
「昼間っから待っちょったんだぜ。どこをどう歩いたら、いまごろ着くんかな」
「ははは。ごめんなさい」
「ふんっ。心細いだろうと思ってやったのに」
たしかに <うさぎの穴> の知り合いといえば、有月くらいしかいない。ほかには算盤《そろばん》坊主の大樹《だいき》とちょっと言葉を交わしたことがある程度だ。
三衣はあらためてカウンターの椅子から飛び降り、薄暗い店内にいる数人に向かってお辞儀《じぎ》をした。
「兵庫の西宮から来た大岩三衣です。ミイと呼んでください。向こうではネットワー <かすみ> に所属していました。看護婦をしてたんだけど、いまは辞めてます。これからしばらく、よろしく」
「ミイちゃんはわしと同じ、蛇《へび》妖怪なんだ」
有月がすこし機嫌が戻った顔で、三衣の腰に手をあてた。慣れた手つきでそれを跳《は》ねのけ、言葉を続ける。
「正確には、蛇石の妖怪なんだけど。ま、おじさんとは腐《くさ》れ縁《えん》っていうか、なんだか妙にウマが合っちゃって」
「聞きましたよ。以前、有月さんを競馬場へ連れていかれたそうですね」
マスターが、無茶なことをするものだ、と苦笑を浮かべた。焼《や》き網《あみ》の上で、三衣が注文したあたりめが、ひとりでに裏返る。
「ええ。おじさんはお気に召さなかったようだけど」
「いろいろあったけんな。でも、ま、おかげでかわいい女の子と友だちになれた」
三衣はうなずいた。もう四年以上も前のことになる。あのとき知り合った人間の松宮《まつみや》駿美《はやみ》も、いまではれっきとした女子大生だ。大学では国文学を専攻しながら、写真部に所属して、あいかわらず馬の写真を撮り続けているらしい。
「へえ……あなた、ギャンブルがお好きなの」
すこし戸惑《とまど》いの混じった口調で、テーブル席に腰かけていた女性がつぶやいた。いや、女性と思ったのは声のせいで、外見だけでは男性に見えなくもない。黒髪が薄闇《うすやみ》に溶けていきそうな、神秘的な雰囲気を漂わせている。
「あたくしは神谷《かみや》聖良《せいら》。美容室を経営しています」
三衣の視線を受けて、女性が自己紹介をした。
「ああ、毛羽毛現《けうけげん》の」
有月から噂《うわさ》は聞いている。髪に対する愛情と恐怖から生まれた妖怪だ。
「パチンコはなさるのかしら?」
唐突《とうとつ》に聖良は訊《き》いた。
「え、ええ、まあ。正直言うと、いまもパチンコを打ってて遅れちゃって。ちょっとだけ、って思ったんだけど、つい無制限でついちゃったものだから」
「無制限?」
「どんな図柄《ずがら》で当たっても、やめなくていいってことです」
聖良がますます首をかしげた。どうやら詳しい説明が必要らしい。
「最近のパチンコ台はほとんどがフィーバー台で、同じ数字が三つそろえば当たりです。だいたい三五〇分の一くらいの確率かな。で、普通なら一回当たればそれで交換なんだけど、店によっては『無制限』っていうのがあって、持ち玉を使って好きなだけ打っててよかったりするんです」
うんうんと聖良がうなずく。
「もちろん条件があって、たいていは七で大当たりすれば無制限、って感じです。他にも夜九時以降はオール無制限とか、毎週火曜日は女性だけ無制限とか、いろいろあるんですよ」
「お店によってサービスが違う、というわけですのね」
「ええ」
どうやら理解してもらえたらしい。ふだん当たり前のように受け入れていることを、いざ説明するとなると難しいものだ。
「ミイさん?」
聖良の話は終わっていなかった。
「はい?」
「あなた、東京に出ていらしたはいいけれど、仕事のあてはあるのかしら?」
痛いところを突いてくる。
「それはまだ。これから看護婦の口を探そうかと」
「なら、引き受けてほしいことがありますの」
その中性的な外見と同じで、聖良という妖怪の考えていることはまるでわからない。
「あるパチンコ店について、調べてくださらないかしら。本当ならあたくしがするべきなんですけれど、ほら、パチンコ店って空気が悪くて、髪の毛によくないでしょう」
パチンコについてはろくに知らないくせに、悪い噂だけはかぎつけているようだ。
「ここ一か月ほど、このあたりで主婦の失踪《しっそう》が三件も起きています。三人とも、同じパチンコ店に通っていたそうですの」
「はあ」
「それだけならまだ他人《ひと》ごとですむのですけど、あたくしの美容室のお客さまが一人、その店に入りぴたりになってしまわれて……」
聖良は心配そうな表情を浮かべた。人間の友人がいるとは、彼女もああ見えてけっこう親しみやすい性格なのかもしれない。
「もともとギャンブルなんかに手を出す子じゃないの。まだ若いけれど、結婚して、ちゃんと家のこともやっていると聞いていたわ。ただ、最近はあまり美容室にもいらっしゃらなくて……」
「わかりました」
聖良はすこし意外そうな顔をした。
我ながら安請《やすう》け合《あ》いだ、と思う。でも、うずき出した好奇心は押さえられない。
「ありがとう。たしかお店の名前は……そう、『パーラー・ペンギン』。駅から十分くらいのところにあるはずですわ」
三衣は目を見開いた。さっきの店だ。とすると、今日見た客のなかに、聖良が言っている女性がいたのかもしれない。
三衣があの店に心を引かれたのは、なにか別の理由があったのだろうか。
聖良の鋭い視線を感じて、三衣は我に返った。
「まだなにか?」
「……髪が短すぎるわね」
まるで婦長に些細《ささい》なミスを指摘されているようだった。
「それに染《そ》めたりしちゃ、髪がかわいそうでしょう。事件が解決したら、お礼にうちのお店にご招待しますわ」
「は、はあ」
戸惑う三衣の手に、聖良は店の名前が入ったカードを押しつけた。
2 下見
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。本日は『パーラー・ペンギン』にご来店いただきまして、誠に、誠に、まことに[#「まことに」に傍点]ありがとうございます」
最後の「まことに」にことさら力をこめる。
「日頃のご愛顧《あいこ》に感謝いたしまして、本日もじゃんじゃんばりばり、じゃんじゃんばりばり、出ます、出します、取らせます。どうぞ最後まで、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
しめくくり、マイクのスイッチを切る。
(うーん、なかなか)
一人ほくそえんでいると、どたどたと大きな足音が聞こえてきた。白髪頭《しらがあたま》の店長が、血相《けつそう》を変えてカウンターに飛びこんでくる。
「ちょっと君、なんだね、いまのは……」
どうやらウケなかったらしい。いつの日か店内放送をさせてもらえることがあれば、とひそかに練習を積んできたのだが。
「うちの店は、洗練《せんれん》された大人の社交場を目指してるんだ。まったく、経験があるからってやってもらったはいいが……」
くどくどくどくど。
たっぷりしぼられたあげく、三衣はカウンターからホールへと配置替えをされた。
ここは『パーラー・ペンギン』。三衣はさっそくアルバイトを始めていた。こうすれば、聖良の依頼にも応えられるし、お金も稼《かせ》げる。店は人手不足だったらしく、なんなく雇ってもらうことができた。もちろん店長の気持ちを動かすために、「経験がある」と嘘《うそ》をつく必要はあったが。
ホールに出ると、すぐに古株らしい眼鏡《めがね》の店員が近づいてきた。
「はい、これが台の鍵《かぎ》。全部の台に共通だからね。くれぐれも失くさないように」
店員はきりりと眼鏡を正した。この仕事に、ぜったいの誇りを抱いているらしい。
「ええと、パチンコには詳しいんだよね。このあたりが普通のCR機で、あっちがスロット。スロットには担当者が別にいるから、放っておいていいよ。ああ、それに『レディース・コーナー』にも成十郎《せいじゅうろう》がいるから」
「成十郎?」
「奥村《おくむら》成十郎。あの丸っこい手袋野郎だ」
どうやら手袋をしているのは彼だけのようだった。あれも店員の制服の一部かと思っていたが、他の店員はみな素手《すで》だ。もちろん、三衣も。
「……毎日女性に囲まれてるなんて、いい身分ですね」
「そうでもないさ。来るのはダンナ持ちばっかりだし。まあ、彼が自分から言い出したのを、若い男のほうがウケがいいだろうって、店長も同意してね」
眼鏡の店員はさらに、ドル箱を持っていくタイミングや玉が出なくなったときの処理の仕方などについて、ひととおりまくしたてた。
「あとはおいおい覚えていってね。質問は?」
「この店、ずいぶん新しいんですね」
「まあね。半年前までは、『渋谷会館』っていう古い店だったんだ。オーナーが一念発起《いちねんほっき》して、大改装したってわけ。二か月前にオープンしたばかりだよ」
「大成功ですね。こんなにお客さんが入ってるんだもの」
「やっぱりパチンコ店も、どんどん新しいものを取り入れていかなきゃいけないってことかな」
まるで自分の業績であるかのように、店員は胸を張った。
三衣は店のなかを見てまわりながら、台の大当たりを告げる放送に耳を傾けた。ほとんどの店ではやかましいほどに響き渡っている放送だが、この店ではイヤホンをつけた店員にしか聞こえない。
台が向かい合って並ぶ、いわゆる「シマ」は全部で十二あった。それほど大きな店ではないが、街中なのでこんなものだろう。台は三百台ほどで、うち五十台がスロット、残りはすべてパチンコだ。人気の台や新しい台が比較的そろっている。
なかでも繁盛《はんじょう》しているのが、『レディース・コーナー』だった。
三衣の姿に気づいて、昨日の店員、奥村成十郎がぽかんと口を開けた。今日の三衣は、白いシャツに青いベストとキュロット。どこからどう見ても店員だ。
成十郎はこっちに来ようとして、近くにいた女性に呼び止められた。女性は台のガラスをとんとんと叩《たた》いている。玉が引っかかっているのだろう。成十部はガラスを開け、指を伸ばして玉を落とし、サービスとして、スタートチャッカーに玉を二個入れ……。
(ようし、いまのうち)
三衣は彼に目を凝《こ》らした。
絶好の機会だった。昨日、聖良に話を聞いてから、自分でもあれこれ考えたのだ。ギャンブルに興味がなかった主婦たちが、急にパチンコにはまる。この店では、女性はほとんどが『レディース・コーナー』にいる。担当は奥村成十郎。
三衣は彼のことが気になって仕方がなかった。彼は昨日、三衣をじっと見つめていた。あれが妖怪《ようかい》だと気づいてのことだとしたら……。
幸い、自分には妖怪のオーラを感じ取る力がある。昨日はまるで警戒《けいかい》していなかったが、彼はもしかすると同類かもしれない。
三衣は目を凝らし続けた。
(おかしい。おかしくないなんておかしい)
別の店員に「ぼうっとするな」と注意をされて、ようやく三衣はあきらめた。彼は普通の人間だ。主婦たちのご機嫌とりがうまいだけの、朴訥《ぼくとつ》そうな青年に見える。
それでも三衣は、緊張を解かなかった。妖怪のなかには、まれにオーラを隠すことができる者もいる。
三衣はシマを行ったり来たりしながら、今度は聖良が言っていた女性の姿を探した。たしか二十歳くらいの中肉中背で、名前は河原早苗。
同じような女性は『レディース・コーナー』に数人いたが、三衣はすぐに目星をつけることができた。聖良は客に、髪が傷《いた》むような真似《まね》はぜったいにさせない。
若い女性はみな、いちように髪を染めたり、パーマをかけたりしていた。
たった一人を除いて。
昼休み、好きに食事をしてきていいと言われた三衣は、同じように休憩《きゅうけい》をとって店を出た早苗とおぼしき女性を追いかけた。
「こんにちは」
肩をぽんと叩く。やりすぎかとも思ったが、友だちになっておいたほうが調査もしやすいだろう。それに彼女のオーラは、声をかけずにはおられないほど不安定だったのだ。
「えっ?」
女性はびっくりして振り返った。ちょっと化粧が濃《こ》いようだが、素顔《すがお》はおそらくかわいらしいタイプだろう。寝不足なのか目が落ちくぼみ、唇《くちびる》も荒れている。
「こ、こんにちは。お店のひとね?」
「うん。今日から働いてるの。常連さんみたいだから、挨拶《あいさつ》しておこうかなって思って」
三衣は明るく笑ってみせた。疑われたときの言い訳はいくつも考えてある。
「常連っていうほどじゃ……まだパチンコを始めて一か月ちょっとだし」
三衣は記憶をたどった。店の改装が二か月前。聖良から聞いた最初の主婦の失踪《しっそう》が一か月前。
「わたしから見たら、この店の『先輩』よ。そうでしょう?」
女性は控《ひか》えめな笑みを浮かべた。三衣は彼女を誘って、近くの喫茶店に入った。あまり持ち合わせがないからコンビニでパンでも買う、と言われたのだが、三衣が「おごる」と無理やり連れこんだのだ。
三衣はスペシャルランチを、女性はペスカトーレを目の前に、話は続いた。
「へえ。早苗さんて、お子さんがいるんだ」
名前はすでに聞き出し、確認してある。それでも三衣は驚いた。日がなパチンコを打っている主婦に、手間のかかる赤ん坊がいるなんて。
「家にいなくて大丈夫なの?」
「お義母《かあ》さんがみてくれてるから。あたしだって、たまには息抜きしたいし」
息抜きにしてはちょっと程度が……と思わないでもないが、口には出さない。
「パチンコって、そんなに面白い?」
三衣は尋《たず》ねた。
「ええ、とっても」
「そうかな?」
不思議そうにしてみせる。
「打ってるといやなこと、みんな忘れられるもの。勝つことだって、たまにはあるし」
「お金はどうしてるの?」
それがいちばんの謎《なぞ》だった。手に職を持たない主婦が、パチンコにどれだけ注ぎこむことができるものだろうか。
案の定、早苗は言葉につまった。
「それは……あの……どうにかなってます」
なんだか気の毒になって、三衣は話題を変えた。
「そうそう、噂《うわさ》で聞いたんだけど、あの店に来てた女のひとたちが、消えちゃったんだって?」
「ええ。警察も調べに来ていました」
早苗はうなずいた。
「上野さんも石田さんも長井さんも、いい人だったのに……」
「知ってるの?」
「短いつき合いでしたけど。パチンコのパの字も知らないわたしにいろいろ教えてくださって、家族の愚痴《ぐち》とかも聞いてくれて」
「ふうん」
「あたし、近所に友だちとかいなくて、毎日つまらなかったんです。お店に来れば、あたしと同じ思いを抱いてる人が誰《だれ》かいて……嬉《うれ》しかったのに」
他の客たちが席をたち始めた。そろそろ話を切り上げる時間だ。伝票を取り上げ、最後に一つだけ質問をする。
「『レディース・コーナー』を担当してる男の子がいるでしょう? 彼ってどう?」
「どうと言われても……」
「普通かしら?」
「は、はあ。先週、店に来たばかりだけど、親切だし、一生懸命だし。なんでも、パチンコ店で働きながら全国を旅してるんですって」
先週? すると主婦の失踪事件とは無関係なのか。あてが外れてがっかりした気分で、三衣は店へと戻った。
その夜、BAR <うさぎの穴> でくつろいでいると、聖良から電話があった。
「ミイさん? うまく潜《もぐ》りこめました?」
「任せてください。早苗さんって方とも、お友だちになれましたし」
もっとも、向こうはどう思っているかわからないが。
「よかったわ。それでね、今日も美容院の他のお客さまからお聞きしたんですけれど、彼女、パチンコに通い出してから、ずいぶん明るくなったそうなの」
店にいた早苗を思い出してみる。たしかに彼女は楽しそうだった。でも、なにかごまかしているような、嘘の雰囲気も感じられた。
「ただ、夫婦仲はうまくいっていないらしくて。そりゃ、家庭を守るのが仕事のはずの主婦がパチンコに通ってばかりでは、旦那《だんな》さまもよくは思わないでしょう」
引き続き調査をよろしく、と言って、聖良は電話を切った。三衣はバーボンの水割りを傾けながら、小さくため息を吐き出した。自分には、ギャンブルに走っても文句《もんく》を言うような相手はいない。誰にも縛《しば》られたりはしない。
3 ハマリ台
三日が過ぎていった。相変わらず主婦たちはパチンコ通いを続けている。しかし調査のほうはまるで進展していなかった。店員にも客にも目を光らせていたのだが、いっこうに手がかりは見つからない。
月曜日、午後一時。にぎやかなモーニングタイムが終わり、ぼちぼちと客が引き始める。
そんなころ、事件は起きた。
まず、スーツ姿の男が店に入ってきた。難しい顔できょろきょろと左右を見渡し、そばにいた店員になにごとか話しかける。そして、指差された方向に歩き出した。
男が向かったのは、『レディース・コーナー』だった。
シマの入口にいた成十郎を押しのける。成十郎は、あっ、と声をかけた。
「お客さま、こちらは女性の方専用のコーナーになっておりまして……」
「わかってる! 俺《おれ》はパチンコを打ちに来たんじゃない!」
男のどなり声が店内に響き渡った。隣のシマからも、なんだなんだ、と見物客がやってくる。
男は脇目《わきめ》もふらず、ずんずんと通路を歩いていった。ある台の後ろで立ち止まる。
「おい」
つかんだ肩は、早苗のものだった。早苗もとっくに男に気づいてはいる。だが、振り向こうとしない。
「帰るぞ」
早苗は動かなかった。背中が拒否している。
「早苗!」
男は無理やり振り向かせた。三衣からも、彼女の表情が見えた。怯《おび》えているのかと思ったが、そうではない。まるで悪戯《いたずら》を見つかった子供のように、うろたえている。
「いつまでこんなところでぶらぶらしてるんだ。お前には他にすることがあるだろう!」
「……どうして?」
早苗は言った。ぐいっとあごを突き出す。
「どうしてあたしがしなきゃいけないのよ」
「なんだって?」
思わぬ反撃《はんげき》に、男がたじろいだ。
「子育ても、あなたの世話も、お義母《かあ》さんの嫌味《いやみ》も、どうしてあたしが一人で引き受けなきゃいけないのよ。好きで子供をつくったわけでも、好きで結婚したわけでもないのに……」
さすがにそこで、早苗は言いよどんだ。
「……だからって、責任逃れすんなよ」
男は苦しそうに言った。ぷいっと視線をそらす。
「泣き言ばかり言いやがって、ほんとは浮気でもしてんじゃねえのか?」
視線は、成十郎を向いていた。
「ば、ばかなこと言わないでよ! あなたじゃあるまいし!」
「なにを――」
男が本気で早苗につかみかかった。見ていられなくなって、三衣が飛び出そうとした、そのとき。
音もたてずに、パチンコ玉が一個、床を転がっていた。ころころころ、と男の足もとに向かって。
三衣はそれをゆっくりと見送った。誰《だれ》かが蹴飛《けと》ばしたのだろう、と思いながら。
が、次の瞬間。
(誰かが動かしている……)
三衣は確信していた。玉はころころと転がり、早苗につかみかかろうと踏み出した男の右足の下に潜りこんだのだ。
「う、うわっ!」
男が悲鳴をあげた。玉の上を、革靴《かわぐつ》がみごとにすべった。身体《からだ》がふわりと苗に浮き、スローモーションのように落ちていく。
がつん、と大きな音がした。着地の音ではない。通路は狭い。男は椅子《いす》の背もたれに、したたかに頭を打ちつけた。
遅ればせながら、主婦たちから「きゃあ」と悲鳴があがる。早苗も、口に手を当てて震えていた。
「ちょっと、ごめんなさい」
気づくと三衣は人垣《ひとがき》を押しのけていた。これも看護婦の習性だろうか。勤かなくなった男のそばに膝《ひざ》をつき、脈をとる。大丈夫、たんなる脳震盪《のうしんとう》のようだ。
やがて誰が呼んだのか、救急車のサイレンが聞こえてきた。三衣は立ち上がり、成十郎のそばに歩み寄った。
彼はさっきから一歩も動いていなかった。代わりに挑戦的な目で、なにかを見つめている。三衣は彼の視線を追ってみたが、そこにあるのはずらりと並んだパチンコ台だけだった。
翌日。開店の時間を迎え、自動ドアのスイッチを入れにいった三衣は、あっけにとられた。いつものように、早苗が外に並んでいる。
(ちょっと、昨日の今日で、なんで……)
さすがに三衣は、早苗の無神経さに腹が立った。しかしいち早く、早苗の前に立ちはだかる姿があった。
「河原さん、旦那さんはいいんですか?」
成十郎だった。
「どうして?」
早苗は微笑《ほほえ》んでみせた。
「あのひとなら、家で寝てます。ちゃんとお義母さんがついてるし」
「心配じゃないんですか」
早苗の態度が、目に見えていらいらしてきた。
「じゃあ、なに? あたしがパチンコ打つことに、文句でもあるの?」
「ええ、あります」
成十郎はきっぱりと言った。早苗はわなわなと両手を震わせた。仮面《かめん》がはげ、子供のように唇を尖《とが》らせる。
「どうして? どうしていけないの?」
「いまのような気持ちでパチンコを打っていても、楽しくないでしょう?」
早苗は言葉を失った。三衣も、なにをとぼけたことを、と思った。
「お帰りになったほうがいいと思います。あなたはもう、この店に来るべきじゃない」
早苗が両手を伸ばした。成十郎の襟《えり》もとにつかみかかり、ぐいと引き寄せる。その目には、涙がにじんでいた。
「あなたになにがわかるの! パチンコ打っちゃだめなの? あたしだっていろんなことがしたいのよ。あたしだって、あたしだって……」
そこまでだった。
「奥村ぁ! なにやっとる!」
騒ぎを聞きつけた店長がものすごい形相《ぎょうそう》で走ってきた。早苗の怒《いか》りがおさまるまでぺこぺこと頭を下げ、それから成十郎に向き直る。
「店員の分際《ぶんざい》で、お客さまに失礼な真似《まね》ばかりしおって。お前なんぞクビだ! さっさと出ていけ!」
「そんな……」
成十郎は急に、泣きそうな顔になった。
「そんなことをすれば……」
「な、なんだ、お前。脅《おど》すつもりか?」
店長が後ずさった。他の男の店員たちが、ささっと成十郎を取り囲む。成十郎はさすがに観念したようだった。
「……わかりました」
悔《くや》しそうに唇《くちびる》を噛《か》み、三衣がいるはうに歩いてくる。この通路の先は階段。その上は更衣室だ。着替えて出ていくつもりなのだろう。
だが、彼の目的はそれだけではなかった。三衣の横を通り過ぎるとき、彼は耳もとでささやいた。
「……彼女をお願いします」
「えっ?」
あわてて振り向いたが、丸い背中はすでに店の奥へと消えていた。
持ち場に戻ってからも、三衣はときどき早苗のようすを見に行くことを忘れなかった。彼女はぼんやりと台の中央を見つめている。玉が飛ばないことに気づいてはじめて、新しいカードを買いにいくありさまだった。
「どう?」
三衣は休憩で持ち場を離れたとき、さりげなく早苗のそばに近づいた。あまり具体的なことを口にして、神経を逆なでしたくはなかった。
「……ん、ああ、さんざんです」
早苗は疲れた顔で微笑んでみせた。
結局、彼女は閉店時間まで店に残り、手ぶらで帰っていった。
清掃が終わると、三衣はある場所へと急いだ。「忘れ物を届ける」と言い訳して、店長から成十郎の住所を聞き出したのだ。握《にぎ》りしめたメモには、『○×町三丁目花水木アパート一〇一号』と書いてある。
今度は道を間違えないよう、途中の交番で尋《たず》ねつつの捜索《そうさく》だった。が、努力は無駄《むだ》だった。教えられた住所には、アパートとは似ても似つかぬ雑居ビルが建っていただけだった。
4 勝負
あくる日、早苗は店に来なかった。
(素直《すなお》に成十郎の言うことをきいたとも思えないし……)
三衣の胸には、不安が渦巻《うずま》いていた。たんに外《はず》せない用事ができただけかもしれない。風邪《かぜ》をひいたのかもしれない。それでも、引っかかっていることがあった。
『彼女をお願いします』
あの成十郎の言葉だ。思い出せば思い出すほど、彼の真剣な表情が気になった。店内では彼女から目を離さなかったが、まさか外でなにかあろうとは。早苗が四人めの失踪者になる可能性は、じゅうぶんあったのに。
『レディース・コーナー』は、相変わらずのにぎわいを見せていた。いつも早苗が座っている台にも、今日は入れ替わり立ち替わり、客がやってくる。ただ、いつにも増して台は絶不調で、誰《だれ》もがすぐに、いらだたしげに出ていった。
さらに気になることがあった。常連客を含めた、主婦たちの顔つきだ。誰もが目をぎらぎらさせていた。まっすぐに台を見つめ、周囲には見向きもしない。際限なく紙幣《しへい》を突っこみ、当たると奇声《きせい》をあげて喜んでいる。
(成十郎がいたときは、もうすこしみんな楽しそうだったな……)
もちろん、三衣もパチンコが好きだ。それでもあそこまでのめりこむ気にはなれない。いつも限度を決めているし、たとえ勝っても、勝ち続けることはないと胆《きも》に命じている。
昼になって、三衣は「急用ができた」と店を早退した。
向かうのは早苗の家だ。道すがら聖良に電話をし、美容室の顧客データから住所を聞き出す。
(ええと……ここだ)
街中からすこし離れた閑静《かんせい》な住宅地に、その家はあった。左右には同じような家ばかりが並んでいて、違う点があるとすれば、屋根の色と、庭で咲いている花の種類くらいだ。門からのぞきこむと、植木鉢《うえきばち》やプランターがいくつも見えた。が、どれも土が乾《かわ》ききっているか、空《から》っぽだ。流行《はや》りのガーデニングに手を出したが、いまはすっかり興味がなくなった、というところだろう。
(とにかく、早苗さんの無事を確かめなくちゃ)
三衣は呼《よ》び鈴《りん》を押した。ややあって、「はい」という声がスピーカーの向こうから聞こえる。早苗ではない。もっと歳をとった女性だ。
「あの、大岩と申しますが、早苗さんは……」
「おりません」
ぶっきらぼうな答えが返ってくる。
「どちらかにお出かけですか?」
「さあ」
「いつごろお帰りになるか……」
「知らないって言ってるでしょう! あの人なら、昨日から帰ってないんです。家族を放っておいて遊び歩くなんて、まったく最低だわ」
たしかに世話を押しつけられたほうは、たまったものではないだろう。
「あなた、早苗さんのお友だち?」
「はあ、まあ、そんなもの……」
「やめておいたほうがいいわよ。あんな、お金にルーズで、子供の学資保険にまで手をつけるような女は……」
気持ちはわからないでもない。それでも、見知らぬ他人に家庭の恥《はじ》を訴《うった》えるなんて、どうかしている。三衣はそれ以上、我慢《がまん》できなかった。
「失礼します」
頭のなかは、後悔《こうかい》でいっぱいだった。聖良からも成十郎からも、あれほど信頼してもらっていたのに。早苗が家出したとは思えない。彼女に、そんな勇気はない。
(どうしよう)
電信柱に背中を預《あず》け、頭を抱えこんだ。髪の毛が指に触れる。聖良は短すぎると言ったが、自分ではけっこう気に入っている。
(そうだ!)
はたと思い出した。聖良ならそれができる。たしか、道具が必要だが。
三衣はきょろきょろと左右を見渡した。
ちょうど午後のけだるい時間で、人通りは少ない。三衣は決意を固め、慎重に早苗の家の裏口へとまわった。
5 リーチ
「ほんとに入るんか?」
耳もとで、有月がぼそりと言った。あたりはすでに、濃《こ》い闇《やみ》に包まれている。ここは『パーラー・ペンギン』の従業員出入口。表通りにはまだ酔《よ》っ払《ぱら》いがうろついているが、この路地には誰も入ってこない。閉店時間からは、すでに二時間が経っている。
「だって聖良さんの話じゃ、早苗さん、やっぱりここにいるかもしれないって」
あれから三衣は、聖良が経営する美容院、その名も「セーラ」に行った。もちろん、彼女の力を借りるためだ。髪の毛をもとに、その持ち主の状能をうかがい知ることのできる力を。
三衣の手には、盗み出した早苗の髪の毛があった。聖良はほんのちょっと調べただけで、眉を曇《くも》らせた。
「いやな予感がしますわ。早苗さん、動きたくても動ける状態ではないようですわね……」
そして三衣はいま、ここにいる。自分の失敗は自分で償《つぐな》う。それが信念だ。もっとも一人では心細く、つい有月を誘ってしまったのだが。
「いいわね、おじさん」
「ん……でも、こんなところに服を置いてって、誰かに持ってかれんかなあ」
「だあれが、おじさんのきったない服なんか」
「わしのはいいさ。代わりはいくらでも転がっちょるけん。それよかミイちゃんのは? 誰かにとられるくらいなら、いっそわしが……」
ぼかっ。胸に手を伸ばしてきた有月を殴《なぐ》りつけ、さっさと服を脱ぎ捨てた。有月が額《ひたい》を押さえ、あわてて顔を上げたときには、すでに三衣は蛇《へぴ》の姿になっていた。
いや、「戻った」と言うべきだろう。これこそが三衣の本当の姿、正体《しょうたい》である黒蛇なのだ。濡《ぬ》れたようにしっとりした鱗《うろこ》は、暗がりに隠れるのに適している。小さな耳は、人間の姿のときよりはるかに鋭い。もちろん、早苗の家に潜《もぐ》りこんだときもこの姿だった。
有月のほうも、しぶしぶ人間としての殻《から》を捨てた。こちらは、妖怪《ようかい》の姿のほうがずっと目を引く。まるで内側から光を放つように、緑色の鱗がきらきら輝いているのだ。いまは三衣よりひとまわり大きいが、自在に小さくなることができるのが強みでもある。
三衣はうなずくと、先導するように、裏口の下の隙間《すきま》を抜けた。
まずはそのまま更衣室に向かい、ロッカーに入れたままの制服に着替える。蛇の姿は潜入には便利だが、手足が使えなくては調査もままならない。
「おじさんも着替える?」
隣の男子更衣室へ行けば、有月にも着られるものがあるはずだ。
「いらんわ。そんな煙草《たばこ》の臭《にお》いがしみついた服なんか着たら、死んじまう」
緑色の蛇はぶるぶると首を振った。
二人は階段を降り、店内に足を踏み入れた。シャッターが降りているので、外からは完全に遮断《しゃだん》されている。三衣は明かりをつけようと、電源ボードのほうに歩いていった。
そのとき、なにかが聞こえてきた。
「……チャンチャカチャッチャッ」
きょろきょろとあたりを見まわす。どこからか、小さな音楽のようなものが聞こえてくる。
「気ぃつけろ」
有月も耳をそばだてていた。いや、いまの有月に、耳はないのだが。
「チャーンチャチャッチャッチャッチャチャチャチャチャーンチャチャッチャッチャ……」
音楽は続いた。どこかで聞いたような……。
(軍艦《ぐんかん》マーチ!)
三衣はぽんと手を打った。
「こっちだ!」
有月がカウンターのほうに身体《からだ》をくねらせていく。たしかに音楽は、カウンターの横にあるジュースの自動販売機から聞こえていた。正確には、その下から。
三衣は膝《ひざ》をつき、ほこりがつくのもかまわず、のぞきこんだ。真っ暗でなにも見えない。手を突っこもうとしたのを、有月が止めた。
「わしが見てきちゃる」
緑色の蛇はひとまわり小さくなり、するすると自動販売機の下に潜っていった。
「どう、おじさん?」
返事はない。が、有月はすぐに戻ってきた。口にパチンコ玉をくわえている。そのせいで返事ができなかったらしい。
口からぺっと玉を吐《ま》き出す。
「危なかったわ。どうも丸いもんを見ると、飲みこみたくなるけんな」
音楽はたしかに玉から聞こえていた。ただ、パチンコ玉にしてはかなり大きいような気がする。この店のものなら『Penguin』の文字が刻《きざ》んであるはずだが、これにはない。
ふいに、軍艦マーチがやんだ。
三衣は本能的に身を引いた。
「ふうううう」
大きなあくびのような声とともに、瞬く間《またたま》に玉が消え、一人の青年が現れていた。
「いやあ、助かりましたよ」
「ちょ、ちょっ、成十郎……」
三衣は指差すのがせいいっぱいだった。妖怪が人間の姿をとるときはいつもこんなものなのだが、あまりに突然で、言葉にならない。
「もうだめかと思いました。身動きできないし、かといって人間の姿になるわけにもいかないし。そのうち掃除機に吸いこまれてそれきり、かと」
たしかに自動販売機の下で人間に戻っては、つぶれてしまうのがオチだろう。
三衣はようやく息を整えた。
「そうじゃないかとは思っていたけど……あなたって、パチンコの妖怪?」
「ええ。正確には玉から生まれました。いまはこうして、人々が楽しくパチンコを打てるよう、全国を放浪《ほうろう》しています」
正義の味方のような台詞《せりふ》を、平然と口にする。
「大岩さんは?」
どうやら成十郎は、三衣が同類であることに気づいていたらしい。だからこそ、あの視線、あの台詞があったのだろうが。
「わたしは蛇石から生まれたの。こっちの有月のおじさんは……」
緑色の蛇が、成十郎をじろりとにらんだ。普通の人間なら卒倒《そっとう》するか腰を抜かすところだが、さすがに成十郎は耐《た》えている。
「見てのとおりのうわばみ。ぐうたらで大酒飲みだけど、いざってときは頼りになるわよ」
「ミイちゃんや」
有月は、三衣の説明に怒《おこ》っているわけではなかった。疑わしそうに、成十郎との距離を計る。
「なしてこいつが怪しいとは思わんのか? もしかすると、失踪《しっそう》事件の黒幕かもしれんぞ」
「それなら違います」
成十郎は即座に首を振った。
「ここにはもう一人、妖怪がいるんです」
「妖怪が?」
「ええ。ぼくと同じ、パチンコがあるがために存在する妖怪が」
「どこに?」
三衣は店内を見渡した。まるで気づかなかった。パチンコ店のなかには重苦しい想いがいつも渦巻《うずま》いていて、姿を隠すにはうってつけなのかもしれない。
「おそらく『レディース・コーナー』のどこかに。ぼくとは違って、台そのものなんだと思います」
「そいつが早苗さんたちを? いったいどうして?」
「よくわからないんです。河原さんのことが気になって、昨夜、彼女が店を出てから後をつけていたら、一時間ほど街を歩いてこの店に戻ってきたんです。あ、鍵《かぎ》は開いてましたよ。それでドル箱の陰《かげ》から……」
成十郎は柱のひとつを指差した。そばにはドル箱がうずたかく積み上げられている。
「のぞいていたんですが、急に、その、ドル箱が降ってきまして、あんな始末に」
「は?」
三衣には納得がいかなかった。成十郎が恥ずかしそうに目を伏せる。
「ぼく、ドル箱に触ると、こう、むずむずしてきて、パチンコ玉に戻っちゃうんです」
「は、はあ、だから手袋を」
妖怪にはみな、なにかしら弱点がある。三衣もなめくじを目の前にしては、一歩も動けない。
「そしたら河原さんがぼくを拾い上げて、ぽいって投げたんです。ジャストミート、さっきの自動販売機の下にぴったりはさまっちゃって」
情けない話である。
「助けを呼ぼうにも、あの姿じゃ人間の言葉がしゃべれないもので……」
「で、軍艦マーチ?」
「ええ。あなたなら助けてくださると」
さすがに音楽を奏《かな》でているのが成十郎だとは思いもしなかったが。
「それで早苗さんはどうなったの?」
「店を出た気配《けはい》がありません。台を打つ音がしたかと思うと、すぐに静かになって……」
三衣は『レディース・コーナー』に目をやった。早苗はまだ、このどこかにいるのだろうか。
「壊《こわ》しちまったらどうだ?」
有月が面倒《めんどう》くさそうに言った。
「全部の台を壊しちまえば、妖怪もおだぶつだ」
「だめです!」
「だめよ!」
二人は同時に叫んだ。
「それじゃ、店の人たちがかわいそうです」
成十郎はまた、とぼけたことを言った。
「それにね、おじさん、もしかすると早苗さんたち、台の妖怪に取りこまれてるかもしれないわよ。台を壊して、いっしょに死んじゃうようなことがあれば……」
「困ったもんだな」
有月はだるそうに息をついた。
そのとき、真っ暗だった『レディース・コーナー』に、ぼんやりと明かりがともった。
6 「大当たり」
眠らぬ都会のイルミネーション。
三衣はふと、そんなものを連想した。よく似ている。異国に迷いこんだような、現実のしがらみから解放してくれる空間だ。
数台のパチンコ台が、動き出していた。ちかちかと、赤、青、黄の誘うような光が瞬く。
「ひい、ふう、みい……五台か」
有月が興味なさげにつぶやいた。ギャンブルなど、彼にはなんの意味もない。興味があるのは、酒と女だけだ。
点滅《てんめつ》する明かりに心を奪われそうになりながら、三衣は有月の言葉を噛《か》みくだいた。動き出した五つの台。いなくなった主婦は四人。
「どれかが目指す相手なのでしょうか……」
成十郎も迷っている。どの台からも、同じようなオーラを感じるのだろう。
ふと三衣は、なかの一台が、いつも早苗が打っていたものだと気づいた。今日の昼間、主婦たちからとりわけ不評を買っていた台だ。
他の四台をかわるがわる見る。記憶をたどる。働いていたことが役に立った。あの台も、あの台も、あの台も、店では出ないと評判の台だ。
そして、あの台だけが違う。
「あれじゃないかしら……」
指を差す。有月がひょいと首を伸ばした。
「真ん中から右に二つめ、 <ゴジラ> って台よ」
最新の機種だった。店でもいちばんの優秀台として、みんなから好かれている。
賭《か》けてみるしかなかった。
目を閉じ、両脇《りょうわき》を引き締める。さまざまな攻撃手段を持つ有月とは違って、三衣にはたいした力はない。せいぜい土の固まりを呼び出すくらいだ。それでも台を破壊するにはじゅうぶんだろう。
「おい、ミイちゃん、言ってることとやってることがちが……っ!」
足もとが揺れ、床が裂《さ》ける。そのあいだを割って、褐色《かっしょく》の固まりが持ち上がった。三衣は呼び出した土の固まりを、一気に目指す台へとぶつけた。
ガラスが砕《くだ》ける。板が割れ、玉がばらばらと飛び散った。
三衣は胸をなでおろした。
「……どう?」
有月たちに、誇らしげにウィンクしてみせる。
ぴかぴかの新台は、土くれとともに消え失せていた。代わりに、もう一つの台が姿を現している。
いまや化石となった、古いバネ式の台だった。スタートチャッカーもデジタルもなく、ただ釘《くぎ》が並んでいる。左右のくすんだ赤色のチューリップが、台にささやかな彩《いろど》りを添えていた。
『簡単すぎたようだな』
ずしりと胸に響く声だった。髭面《ひげづら》の老人のイメージが頭をかすめる。
「わたし、台の出る出ないにはうるさいの」
やはり、残りの四台に早苗たちが閉じこめられているのだろう。これは想像にすぎないが、あの四台がそろって不調なのは、早苗たちが他人の大当たりを拒んでいるせいかもしれない。
ならばなぜ、この台の妖怪は人間を喜ばせていたのか。それは謎《なぞ》だった。人間を憎むなら、玉を出してやる必要など、どこにもないのに。
「ミイちゃん、一気にやっちまおうぜ!」
出番とばかり、有月が進み出た。しかし三衣の返事はワンテンポ遅れた。それが、いけなかった。
『お前はふさわしくない』
天井からウィーンという大きな音が聞こえてきた。そう、モーターが回転するような。
「ぐっ……」
有月が身体《からだ》を引きつらせた。
「おじさんっ!」
強烈な煙草《たばこ》の臭《にお》いが押し寄せてくる。
「空気|清浄機《せいじょうき》が逆流してますね」
成十郎は平然としていた。パチンコ店の生まれだから、これくらいなんともないのだろう。
だが、有月はだめだ。もともと蛇は、煙草のヤニに耐えられない。幸い、三衣は度重なる競馬場通いのおかげですっかり慣れてしまったが。
「わ……わりいな、ミイ……ちゃん」
緑色の鱗《うろこ》がくすみ始めている。三衣はあわててベストを脱ぎ、有月のなめらかな身体をくるんだ。
「ちょっとあんた、なんてことすんのよ」
台をにらみつける。
『弱点を口にするほうが悪いのだ』
先ほどの更衣室での会話のことだ。おそらくこの妖怪《ようかい》は、店内のものを自由に操《あやつ》ることができるのだろう。
「立ち聞きするなんて、卑怯《ひきょう》だわ」
『では、お前はなぜ、わしの邪魔《じゃま》をする?』
「それは……」
三衣は一瞬、言葉につまった。台の妖怪の沈黙が、ますます三衣をあせらせる。
「……頼まれたからよ」
他にもいろいろ理由はある。早苗が心配だから、人間を傷つける妖怪は許せないから、ただ腹が立つから。
『違う』
台はきっぱり言った。
『お前も、逃げたいだけなのだ』
三衣は凍《こお》りついた。まさか、そうじゃない。自分は人間が好きだ。悪い妖怪に困ってたら、助けてあげなくちゃいけない。そう思うから、だから……。
「三衣さん!」
成十郎の声が三衣を我に返らせた。
「やつの言葉に乗っちゃだめです!」
『若造が!』
がこん、とものすごい音がして、今度は天井《てんじょう》が崩れ落ちた。ざざあっと鋭色の雨が降ってくる。
「ぐわっ」
成十郎が叫《さけ》んだ。行かなきゃ、と思ったが、身体が動いてくれなかった。まるで自分のものではないようだ。
成十郎が床に叩《たた》きつけられた。天井裏を流れるパチンコ玉が、いまや彼の上に雨と降り注いでいる。たとえ一つがたった五グラムの玉でも、あれだけの大量に降り注げば、立派な凶器となる。
『こいつの考えていることは感じておった。パチンコを愛するとかなんとかほざいているが、台の気持ちなどこれっぽっちもわかってはいない』
「台の……気持ち?」
口を動かして呪縛《じゅばく》から逃れようとするのだが、三衣の足はいつしか勝手に動き出していた。パチンコ台に向かって。
『お前ならたやすそうだ。他の女たちと同じ運命を味わってもらおう』
三衣が座ったのは、いつも早苗が座っていた台だった。
右手が持ち上がる。グリップを回す。バネがささやかな抵抗を試みた。しかし玉は負けじと、ぱん、ぱん、と軽やかに飛び出していく。
三衣はパチンコを打っていた。いつものことだ。いつもこうやって、頭を空《から》っぽにしている。
正面のガラスに、早苗の顔が映った。
『毎日、子供の泣き声で頭ががんがんするの』
『あのひとはなにも手伝ってくれないし』
『いっそどこかに逃げてしまいたい……』
三衣はうなずいた。彼女の気持ちは、痛いほどにわかる。
(わたしだって、いやなことはあるもの)
頭のなかに、数週間前の出来事がよみがえる。思い出したくもない、苦い過去だ。
(あんなに一生懸命、働いてたのに。夜勤《やきん》にだって、文句一つ言わなかった。なのにあのバカ医者、ちょっと誘いを断わっただけでクビにして。いっそ怖《こわ》い思いでもさせてやればよかった)
だから、三衣は東京に来た。腹が立って、情けなくて、じっとしていられなかったから。
スタートチャッカーに玉が入り、くるくると画面が回転する。
早苗が泣いていた。
『好きで子供をつくったわけじゃないのよ』
『そんなつもりはなかったのに、たまたまできちゃって』
(ええ、そう。わたしも好きで生まれたんじゃない。人間たちが勝手にわたしを生み出した。流行《はや》り病いを誰かのせいにしたくて、わたしをつくって、それで『助けてくれ』ってすがりつくのよ)
頬《ほお》が濡《ぬ》れる。こんなにも自分は不幸だったのだ。
(わたしはなにもしちゃいないのに。なのにみんな、わたしを怖がって……)
『すべてを忘れられる場所に行きたい……』
(わたしもよ。だからわたしも逃げ出したの。いやなことを全部、忘れられるから……)
心がぴったりと重なり合った。
『もう帰りたくない……』
(ええ、帰りたくない)
三衣はくり返した。身体が、空気のように軽くなった。
「ミイちゃん!」
誰かが名前を呼んだ。
(止めないで)
いまの三衣にはうざったいだけだ。
「ミイちゃん! だめだ!」
声が有月のものだと気づく。彼の、つぶらな瞳《ひとみ》が思い浮かんだ。やることなすこと頭にくることもあるが、三衣にはいつもやさしい。
やさしい。神戸の駿美も。三衣が妖怪だと知ってからも、姉のように慕《した》ってくれる。それに、病院の患者たち。彼らからは、微笑《ほほえ》みが人を癒《いや》すのだと教えてもらった。
病院には帰りたくない。自分たちかわいさに三衣を祭り上げるあの村にも、帰りたくない。
でもいま逃げれば、失うものもある。
『ううん、失うものなんてない』
早苗は首を振った。
『赤ちゃんも、あのひとも、大嫌い』
「ほ……んとに?」
三衣は、ようやく口を動かすことができた。生きているという実感が湧《わ》いてくる。視界の片隅に、ほっとしたのか有月が床に倒れこむのが見えた。急がなくては。
「早苗さん。楽しいことだって、あるはずよ」
『だめ……子育てなんて、もううんざり』
「なに言ってるの。いまの状態が永遠に続くわけじゃないでしょう?」
早苗が首を振った。
『でも、いやだもの』
「あなたの子供なのよ。あなたが産んだんでしょ? どんな理由にせよ、結局は産むことを選んだんでしょう?」
しだいに腹が立ってくる。人間の心の弱さにつけこむ台の妖怪に、それを受け入れた早苗に、そして同じ弱さを持っていた自分に。
「決めたのは自分なのよ。あなたのことを省《かえり》みてくれない旦那《だんな》さんを選んだのだって、あなた自身のせいじゃないの。自分の不幸を他人のせいにして、他人まで不幸にしちゃいけないわ」
早苗の思考が止まった。迷っている。
「ねえ、早苗さん。本当は気づいてるんでしょう。いやなことばかりじゃないって」
答えはなかった。代わりに、イメージが飛びこんでくる。白い病室。心地よい焦燥感《しょうそうかん》。差し伸べられた、小さな手。
『赤ちゃんを産んだとき……』
早苗がつぶやいた。
『産んでよかった、って思った……』
三衣の手はグリップから離れた。もう早苗の声は聞こえない。
『わしにはない』
台の妖怪が声を震わせていた。
『わしには希望など、なに一つない』
「そうは思わないわ」
三衣は台を正面から見つめた。
『なぜそう言える? わしはずっと昔に、人間たちから見捨てられた。若いものに時代を譲《ゆず》るのもよいかと思っていたが、人間たちはパチンコそのものから離れようとしておる。台を楽しむのでなく、雰囲気や見かけばかりに気をとられている』
「たしかに人間は気まぐれだわ。愚《おろ》かだって思えるくらい」
『そうだろう? だが人間は自分たちの愚かさに気づかない。だから、思い知らせてやるのだ』
「それは嘘《うそ》よ」
すがるような思いだった。
「あなただって、本当は人間に自分のことを知ってほしいだけなのよ。もっと好きになってほしいんでしょう……わたしみたいに」
『ばかな!』
激しい憤《いきどお》りが伝わってきた。三衣は負けるもんかと声を張り上げた。
「あなただって、ほめてもらいたかったはずよ。だから……だからみんなを喜ばせてあげたんだわ」
この台は自分と同じ。
「本当は愛されたかったんでしょう?」
『ぬかすな!』
成十郎を埋めつくしていた玉が、いっせいに浮かび上がった。蜂《はち》の大群のように、黒い固まりとなって三衣を襲《おそ》う。肩に、膝《ひざ》に、こめかみにぶつかった。唇《くちびる》が切れる。
『わしをこんなふうにしたのは人間たちだ。憎んでやる。引き返せないところまで突き落としてやる』
床に据《す》えつけられた椅子《いす》が、べきっと音をたててはがれた。くるくると回転しながら、三衣の足もとをすくう。転んだ拍子に、三衣は腰を強く打ちつけた。
一瞬、息ができなくなる。
「……つう」
それでも痛みをこらえ、よろよろと立ち上がる。
「……なら、どうして人間を台にとりこんだりしたのよ。本当は彼女たちと、辛《つら》さを分かち合いたかったんじゃ……」
「そのくらいにしてあげてください」
やさしい声がした。
成十郎が、立ち上がっている。
「ありがとう。ぼくでもそこまで彼の気持ちはわからなかった」
足を引きずりながら、台の妖怪《ようかい》のほうに歩いていく。三衣のまわりに落ちていた玉が、今度はいっせいに彼を狙《ねら》った。
が、あと一センチというところで、玉は止まり、床へと落ちた。
「ぼくたちは、似たような力を持っている。本当なら太刀打《たちう》ちできないところですが、いま、あなたには迷いがあります」
台の妖怪は答えなかった。
「しばらく、眠っておいていただきます」
成十郎がすっと右手を上げた。そこにはいつの間にか、一枚のプレートが握られていた。なにか言葉が書いてあるようだが、三衣からは読めない。
「|お祭り《フィーバー》は終了です」
成十郎はそのプレートを、びしっとガラスの真ん中に叩《たた》きつけた。
その瞬間、台の電気がすぅっと消えた。空気清浄機が止まる。四台のパチンコ台の前に、消えた主婦たちが現れていた。意識がないのか、椅子にぐったりともたれている。
『……若造め、なにをした?』
「『打ち止め』ですよ」
成十郎は静かに言った。その言葉に、からかうような響きはみじんもない。
『動……けん。なぜだ……?』
「この札《ふだ》を貼《は》られて、抵抗できるパチンコ台はありませんからね」
彼は深々と頭を下げた。敬意を表するように。
「もうしばらく、ぼくたちを見守っていてください。あなただって、本当はパチンコを憎んでほしいわけではないでしょう?」
返事はなかった。
成十郎は右手を持ち上げた。今度は鉄の固まりが握られている。釘師《くぎし》が台を調節するために使う、小さなハンマーだ。
振りかぶる。
『しょせん、わしは忘れ去られる運命か……』
それが、最期《さいご》の言葉だった。台は、粉々《こなごな》に砕《くだ》け散った。成十郎の足もとに、ころころと一本の釘が転がる。
「そんなことはありません。あなたのパチンコに対する愛情は、ちゃんと伝わっていますよ」
成十郎は釘を拾い上げ、大切そうにポケットにしまった。
エピローグ
「いろいろありがとう。すっかりお世話になっちゃったわね」
三衣は右手を差し出した。あれから丸一日が経っている。上野駅のプラットホームは夜も遅く、人気はあまりない。
「こちらこそ。ご迷惑をかけました」
成十郎が握り返す。
「北へ行くの?」
「ええ、青森まで」
成十郎はきりっと顔をひきしめた。
「あそこにも、パチンコで困っている人たちがいます」
彼にはパチンコに関わる事件を嗅《か》ぎつける力があった。そして彼は、それを放っておくことができない。
「おおい!」
階段を昇ってくる人影があった。手を振っている背の低いほうは有月だとすぐわかる。もう一人は、驚いたことに聖良だ。
「あなたが奥村さんね」
「う、うわっ、はい」
話しかけられて、成十郎はうろたえた。たしかに聖良は、まれに見る美人だ。
「河原さんのことで、お伝えしておかなければならないことがあって」
「なにかあったんですか?」
成十郎は険しい顔になった。台から解放された彼女を、今朝早く聖良のもとに送り届けたのは三衣と有月だ。彼女のところでしばらく落ち着かせた後で、家に帰らせるつもりだったのだが。
「あ、いえ、心配することではありませんのよ。ただ、ね」
聖良はくすりと笑った。
「お家のほうに電話をしたら、旦那さまが飛んでいらしたの。頭に包帯《ほうたい》を巻いたまま。やっぱり心配だったんですわ」
「そうですか……」
成十郎は安心したようだった。
「彼女にはもう、パチンコは必要ありませんね」
微笑んでみせるが、どこか寂《さげ》しそうだ。
「ところがね、河原さん、帰りにこう言ってらしたの。今度からは旦那さまと二人で、パチンコを打ちに行きますって。あなたが努力してきたことも、無駄《むだ》ではありませんでしたのよ」
成十郎の顔がぱっと明るくなった。それこそが彼の生きる糧《かて》、妖怪として生きる喜びなのだ。
軍艦マーチのように、発車のベルがいさざよく鳴り響いた。
北へと走り去る夜行列車を見送り、三衣は心を決めた。明日になったら、自分も故郷へ帰ろう。生まれた村に帰り、久しぶりに蛇石として、人々の心に耳を傾けてみよう。
「ミイちゃんや?」
有月が声をかけていたことに気づく。
「なに?」
有月は聖良をあごで示した。どうやら訊《き》きたいことがあるのは彼女のほうらしい。
「ミイさんは、どうしてギャンブルをするようになったのかしら? わたしたちは妖怪よ。お金がなくてもどうにかなるし、人間のように仕事や家族に追いつめられることもないわ」
なるほど、そのことか。
「もちろん、面白いからです」
即答する。
「それだけ?」
「他になにがあるんです?」
聖良は不思議そうにうなずいただけだった。だが有月は、「ふふうん」と意地の悪い笑みを浮かべた。
どうやら見透かされているらしい。三衣にはそれが、嬉《うれ》しくもあった。
理由など、わかりきっている。
自分は、人間のようになりたいのだ。勝手に作られた虚像から、抜け出したいのだ。だから看護婦として働いたり、あちこちのパチンコ店や競馬場に顔を出したりしている。
だが、無理な話だとわかっている。それは「現実|逃避《とうひ》」にすぎないのだから。自分は妖怪として生まれた。妖怪として、生きていくしかない。
それでも、どこかに希望を抱き続ける自分がいた。あの妖怪が、三衣だけをパチンコ台に取りこもうとしたのは、自分が人間に近づきつつある証拠ではないのか。だとすれば、現実から目をそらさず、変えていこうという強い意志を持ち続ければ、奇跡《きせき》は起こるかもしれない。
幸いなことに、妖怪の生命は永遠だ。ゆっくりあせらず、泣いたり、笑ったり、怒ったりしていこう。
それが、妖怪としての三衣の誇《ほこ》りだ。
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Take-2――――――――
好きなことをしていると、身体が熱くなりますよね。
誰《だれ》にだって、「好き」はいっぱいあるはずです。
わたしの場合、大好きな馬たちに声援を送ったり、渋いおじさまが出ている映画を観たり、ビールを飲みながらテレビゲームしたりしていると、とても幸せです。
もちろん、静かに本を読むのが好きとか、友だちとわいわいしゃべるのが好きとか、カラオケで思いきり歌うのが好きとか、「好き」にもいろいろあるでしょう。
『好きこそものの上手なれ』って言葉がありますけど、あれ、真実だと思います。
だって、「好き」のパワーはものすごいですから。それがいまの自分、未来の自分を作り出すんです。誰かをとことん好きになれば、一生顔を突き合わせることになるかもしれません。ひょっとすると、大切にしていたレコードに生命が宿り、あなたのことを「お父さん」なんて呼ぶ日がくるかもしれないんですから。
でも、考えてみてください。
その「好き」を誰かに邪魔されたら、どんな気持ちですか。なにより大切な、生命よりも愛しいものを誰かに奪われたらどうしますか。
世の中には、他人の「好き」を平気で踏みにじるやつらがいます。自分たちの目的のために、あたり前のような顔をして他人を利用するやつらがいます。
悲しいですね。つらいですよね。生きていくのもいやになってしまうかもしれません。
でも、あきらめないでください。「好き」のパワーは、そんなものにはぜったい負けませんから。殴《なぐ》られても蹴《け》られても、きっと立ち上がれます。
最後まで想いを貫いたほうが、結局は勝利をつかむんですよ。ええ、きっと。
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第二話  人形使いの黒い箱  北沢慶
1.覚醒
2.乱入
3.消えた男
4.緒方という男
5.オープン予選大会
6.<うさぎの穴>
7.猿淵
8.襲いくる刺客
9.緒方の正体
10.グランプリ・トナメント、開幕
11.緒方対、野ロ
12.決戦
13.黒き怨念の箱
14.戦い終わって
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1 覚醒
ぶんっと、拳《こぶし》が鳴る。
鍛《きた》え上げられた鉄拳が、風を切る。その速度は、降りしきる雨粒すら両断するほど、鋭い。
まるで岩のような拳が、目標の胸を突いた。長年親しんだ習慣で、無意識に顔面への攻撃を避けたのだ。そうでなければ、相手は顔の骨をぐちゃぐちゃに潰《つぶ》されて、即死していただろう。
胸に拳が当たった瞬間、相手の骨が砕《くだ》ける感触が、伝わってきた。しかしその感触は、まるでバルサ材で作った模型《もけい》のように、もろい。
(なんなんだ……?)
車のヘッドライトの、明かり。男はその中に立ち尽くし、胸を陥没《かんぼつ》させ、動かなくなった相手を見下ろした。
(殺した……? おれの拳が、殺したのか……?)
確証は、ない。だがその拳の破壊力は、普段感じる自分の力を、軽く凌駕《りょうが》していた。
男は思わず、呆然《ぼうぜん》と立ちつくす。しかしそんな男の背後から躍《おど》りかかる相手をあっさりと後《うし》ろ蹴《げ》りで倒し、再び自分の両手を見下ろした。
(なにが、どうなっているんだ……?)
蹴りを受けた相手も、もう起き上がってはこない。見れば、ガードした両腕《りょううで》がへし折れ、アスファルトで頭を強打したのか、白目を剥《む》いて気絶《きぜつ》している。
男は、自分の力に戦慄《せんりつ》した。
なにか制御できない力が、体の奥底から溢《あふ》れ出してくる。その力を振るえば、軽く人が潰《つぶ》れる。それはとても恐ろしいことだと思う反面、思いきり敵を叩《たた》き潰してみたいと思う気持ちも、強く感じる。
「うおりゃあああああ!」
「ちぇすとおおおおおっ!」
男を取り囲む連中は、さらに奇声《きせい》をあげて躍りかかってきた。その動きは明らかに武道の有段者クラスであり、実戦慣れもしている凶悪《きょうあく》なものだ。
だが男には、それが妙にゆっくりに見えた。
ひとり目が、容赦《ようしゃ》なく顔面へと突きを繰り出してくる。もうひとりは、背後から鋭いローキックだ。顔面をブロックすれば、ローにやられる。下段を回避すれば、正拳はよけられない。
実戦ならではの、見事なコンビネーションだ。これでいままでも、何人もの猛者《もさ》を倒してきたのだろう。
しかし男は、その攻撃にまったく脅威《きょうい》を感じなかった。息が合った二人の攻撃といっても、微妙にずれがある。そのずれだけで、男にとって充分すぎるほど、時間があったからだ。
わずかに早く迫る相手の拳を、半歩前進して肘《ひじ》の頂点で受ける。そして直後に振り下ろされたローキックを、すねのもっとも硬い部分で受けた。
「ぐあっ!」
二人の男はほぼ同時に悲鳴をあげ、離れる。ひとりは拳が砕け、ひとりはすねが裂《さ》け、白い骨までのぞいていた。
ほんの、コンマ何秒かの誤差。その一瞬で、二人の相手を戦闘不能にしたのである。しかしそれだけの実力を見せた当人の顔には、戸惑《とまど》いの表情が浮かんでいた。
(おれの体は、どうなったんだ……?)
熱い血が、たぎっている。いままで感じたこともないような力が、みなぎっている。並み居る敵を粉砕したいという想いが、溢れている。
(おれは……おれは……おれは……っ!)
次の相手を、殴《なぐ》った。左右から迫る相手を、次々と蹴倒した。振り向きざまに肘を打ち、隙《すき》をついて懐《ふところ》に入ってきた相手に頭突《ずつ》きを食らわした。背後からしがみつく男を停車していた車の屋根に叩きつけ、呆然とする相手の側頭部に上段回し蹴りを叩き込む。
その間、頭の中は真っ白だった。ただほとばしる暴力への想いそのままに、長年|鍛練《たんれん》を積んできた拳を、脚を、全身を、敵へと叩き込んでいた。
初めは、誰《だれ》かを助けるために、屈強な男たちへと飛びかかっていったはずだ。なのに、気がつけば、己の衝動を満たすためだけに、拳を振るっていた。
(どうしちまったんだ……おれは……?)
もはや呻《うめ》き声をあげることすらやっとという襲撃者《しゅうげきしゃ》の中に立ち、男は自分の拳を見下ろす。
拳は血でぬめり、雨がそれをゆっくりと洗い流してゆく。
ふと顔をあげれば、そこにはがたがたと震《ふる》える女がひとり、いた。そしてその表情は、はっきりとした恐怖に、歪《ゆが》んでいる。
「おれは……」
男はつぶやき、女に手を伸ばす。
女は、「ひいっ」と悲鳴をあげた。同時に雷光《らいこう》が走り、雷が鳴る。
一瞬、世界は真っ白な光に、染《そ》まった。あらゆる明かりを凌駕した光が、アスファルトにくっきりとした影を描く。
「なんなんだ、いまのは……?」
男は自分の影に、恐怖した。しかしそれは一瞬で、消え去る。
遠くから、パトカーのサイレン音が聞こえてくる。男は怯《おび》える女の横を大股《おおまた》で歩き、開け放たれたドアに固定されているサイドミラーを、無雑作《むぞうさ》にむしり取った。
「これが、おれの姿……これが、おれ……これが、おれなのかぁぁぁぁぁぁっ!」
鏡に写った己の姿に、男は叫《さけ》んだ。
無数のヘッドライトが近づき、赤い回転灯の明かりが周囲に乱舞《らんぶ》する。
そんな光のカクテルの中、男は己の意識が遠退《とおの》いていくのを、感じた。
2 乱入
「ったく、なんでおれが、かなたとラーメン食わなきゃならないんだよ……」
渋谷にあるラーメン屋、『気楽亭』。その店の四人がけテーブルにつき、水波流はついぶつぶつと文句を言う。その様子を尻目《しりめ》に、井神かなたも流の対面に向かった。
「フラレてハチ公前で暇《ひま》してたあんたの相手をしてあげてるんだから、文句言わないの」
「誰がフラレた!」
「約束すっぽかされたのを、普通フラレたって言わない?」
「うるせぇ」
流は意地悪な笑みを浮かべるかなたに、ぷいっとそっぽを向く。今日はデートの約束があったのだが、一時間近く待っていても、相手が現れなかったのだ。携帯電話は圏外《けんがい》、自宅も留守電では、さすがにプレイボーイの流とて、手も足も出ない。
「一日に二人の相手とデートしようなんてするからよ」
「しょうがないだろ、スケジュールがずれちまったんだから」
「自業自得《じごうじとく》。おばさーん、特製ラーメン二つねーっ!」
元気よく注文するかなたに、厨房《ちゅうぼう》から「あいよーっ」と威勢のいい返事が返ってくる。そしてかなたが座ろうとすると、椅子《いす》の上には大きな荷物がでん、と置かれていた。
「あれ、先客がいたんだ……」
店内に、もう空《あ》いている席はない。どうしたものかと首をかしげていると、そんなかなたのほうへと、ひとりの男がのしのしと近づいてきた。
「すんません、荷物、いまどけます」
その男は重そうなズダ袋をひょいっと持ち上げると、となりの席の下へと放り込む。
「お兄さん、先に席取ってたんだね」
「まあ、一応そうだけど……店も混んでるし、よかったら相席でも構いませんよ」
そう言って、男は笑った。
かなり大柄《おおがら》な男だ。Gパンに、白い麻《あさ》のシャツという恰好《かっこう》だが、太腿《ふともも》はぱんぱんで、袖《そで》からのぞく腕もかなり太い。かなたの対面にいる流もかなり筋肉質な体格だが、この男の前では、それですら普通に見える。
「あたしは相席でもいいけど……流もいいよね?」
「どうぞ」
よほど約束をすっぽかされたことが気に入らないのか、ぶっきらぼうにそう告げる。しかし男は気にした様子もなく、軽くぺこりと頭を下げると、席についた。
席についた男は手にしていた情報誌を開き、ページをめくる。どうやらそれを取りに、席を立っていたようだ。
「でも、雑誌の威力ってすごいよねー。このお店が紹介されたのって前の号なのに、まだこんなに混んでるんだもん」
ちらっと椎誌を覗《のぞ》きこみ、かなたがつぶやく。
確かに、店内に空いている席は、ほとんどなかった。わざわざ五時前という客の少なそうな時間を選んできたというのにも拘《かか》わらず、である。
「先週なんかずっと、店の前は長蛇《ちょうだ》の列だったしな。しかも意外なことに、女の子も多いんだよなぁ」
「女の子がラーメン食べないってのは、偏見だよ。それに、流行《はや》りものには弱いしね」
かなたはそう言って、くすくすと笑った。
「そうやってすぐにマスコミだの情報誌だのに踊らされて、ある意味最近、個性的な女の子は少ないんだよな。かといって、あんまり鈍感なのも、どうかとは思うけどさ」
流行りの発信源ともいえる渋谷《しぶや》を中心に行動している流としては、ときどきふとそう思うことがある。しかもその流行りも、異様な速度で死滅《しめつ》し、新しいものに取って変わられる。中にはルーズソックスのよがな、ロングセラーも誕生するのだが……。
「はい、お待ち」
そんな彼らの前に割って入るように、湯気《ゆげ》が立つラーメンが運ばれてくる。先客である男の分だ。しかしその香りに、かなたと流の喉《のど》がごくりと鳴る。
「うまそうでしょ? おれは数年前まで、毎日のようにここでメシを食ってたんだけど、雑誌に紹介されるのも、わかる気がするよ」
相席していた男がうれしそうにドンブリを受け取り、そう言った。
「お兄さん、常連さんなんだ」
「昔はね。今日は、四年振りだ。さて、じゃあお先にいただきます」
律義《りちぎ》にお辞儀《じぎ》をし、男は割《わ》り箸《ばし》をぱきりと割った。そしてうまそうにストプを一口飲み、麺《めん》を一気にすすり上げる。
「はい、こっちのお二人さんも、お待たせ」
おいしそうにラーメンを食べる男をぼんやりと眺めていた二人のところにも、ようやく待望の特製ラーメンが運ばれてくる。
「待ってました! じゃあ、いただきまーすっ」
そう言って、かなたが割り箸を割ったときだった。
誰かがチャンネルを変えたのだろう、店内に置かれているテレビから、派手《はで》な音楽が流れ出した。かなたがなにげなく振り返ると、大きな会場の花道から、選手が入場してくるシーンが映し出されている。
その派手にショーアップされた入場は、一瞬プロレスを連想させる。しかしガウンからのぞくその両手には、ボクシングで使うようなグローブがはめられていた。
「あ、今日って|KO《ケーオー》の生中継やってるんだっけ」
かなたの言葉に、流もドンブリから顔をあげる。
「ホントだ。確か今回のKOって、日本人対外国人だったっけか?」
「KO?」
かなたのとなりで一心不乱にラーメンを食べていた男も、その言葉に改めて、テレビを振り返る。
「野口先輩……」
反対側の花道から入場してくる日本人選手を見て、男がつぶやいた。
KOは、日本の空手《からて》団体が六年前から提唱し始めた、格闘技《かくとうぎ》大会の名称だ。正確には|K―0《ケイ―ゼロ》なのだが、各試合のノックアウト率が高いことから、KOと呼ばれている。
それまでの空手の試合ルールは、普通寸止めか、顔面攻撃なしの直接打撃制が一般的だった。しかしKOはグローブを着用することで、顔面への攻撃を認めたのである。そのため実戦度数が高まり、格闘技ファンの間で人気を呼んでいた。
「これが、KOか……」
「あれ、お兄さんKO知らないの?」
そう尋《たず》ねるかなたに、男は軽く苦笑する。
「四年ほど南米にいて、今朝帰ってきたばかりだからね。だけど五年前におれが出たときは、もっとマイナーだったんだがなぁ……」
「へぇっ! お兄さん、KOファイターなんだ!」
「昔、ね」
男はそう言って、もう一度苦笑する。
「KOも数年前からの格闘技ブームに乗って、最近じゃ夕方のゴールデンタイムに生放送だもんね。大きなスポンサーもついてるし、選手はテレビCMによく出てるし、日本中で知らない人はいないんじゃないかって勢いだよ」
「まるで、浦島太郎だな」
男の口許《くちもと》に、つい苦笑が洩《も》れる。
「KOルールを提唱したのは、おれのいた神道会館だってのに……おれはなんにも知らないってんだからなあ」
男のその言葉に、流がぴくりと反応する。
「ひょっとして、あんた野口の一番弟子だった、緒方《おがた》庸平《ようへい》か?」
「確かにおれは緒方庸平だが……あんた、詳《くわ》しいな」
緒方と名乗った男がそう言うと、流は「まあね」と答える。
「へぇー、流がKOに詳しいなんて、知らなかったなぁ」
「確か、第二回K―0のベスト4だよ。昔付き合ってたコが、格闘技ファンだったんでね」
そう告げる流の言葉を緒方が訂正しないあたり、間違いではないのだろう。
しかしKOがテレビ中継されるようになったのは、人気が高まってきた第三回からだ。それ以前のこととなれば、格闘技ファンでもなければ知らない情報だ。
「ということは、四年間も海外で修業してたってこと?」
「まあね」
少し照《て》れ臭《くさ》そうに、緒方は答える。
「じゃあ、今年のグランプリ・トーナメントに出場するの? 野口選手の一番弟子ってぐらいだし、それに南米で修業したっていうんだったら、いいとこまで行けそうだもんねっ」
かなたはそう言うと、再びテレビを振り返る。そこでは、野口がようやくリングに上がったところだった。
「だけど野口選手、最近勝てないんだよなぁ。せっかく数少ない世界レベルの日本人選手なんだから、がんばってほしいんだけどさ」
そのかなたの言葉に、緒方がぴくりと反応する。
「野口先輩が、勝てない……?」
それは緒方にとって、いささか信じられないことのようだった。
日本人離れした恵まれた体格と、卓越《たくえつ》した格闘センス。それに持ち前の努力家ぶりで、四年前のKOでは、野口はまったく他を寄せつけない強さを誇《はこ》っていた。しかも第二回K―0では、緒方を破って決勝進出、見事優勝している。
「野口|将明《まさあき》より、強い……」
驚きを隠せない様子で、緒方はつぶやく。
「やっぱり外国人のほうが、体格いいからな。互角《ごかく》に戦えるだけでも、立派なんじゃないの?」
そう切り返したのは、流だ。その言葉に、かなたはうーんと唸《うな》る。
「KOに、外国人が出ているのか?」
その問いに、かなたは少し意外そうな顔をする。
「KOが積極的に外国人を出場させるようになったのは、第三回大会からだからな。逆にいまじゃ、活躍してる選手の大半が、外国人だよ」
「そうなのか……これじゃ本当に、浦島太郎だな」
つぶやき、緒方は複雑な表情を見せる。
確かに四年も日本を離れていれば、あらゆるものが変わっているだろう。特にこの東京という街は、そうした変化が早く、激しい。
「外国の選手、本当に強いんだもん。日本人じゃ、実質野口将明だけって感じ」
物怖《ものお》じというものを知らなさそうに、かなたがそう言って画面を指差す。
「今回は日本人対外国人っていうコンセプトの大会だったと思うんだけど……ほら、やっぱり全敗してる」
かなたの解説の途中で、画面にこれまでの試合経過が流れる。その対戦表には、4―0という結果が、表示されていた。
「住田先輩……小次郎のやつも、負けたのか……」
対戦表に並ぶ同門の格闘家の名前に、緒方は思わず落胆《らくたん》の表情を見せる。そして残る対戦カードは、野口戟だけだ。
「一応KO発祥《はっしょう》の地は日本だから、無名の選手とでも当てて、日本人選手の士気《しき》を高めようってハラだったんだろうが……それでも四敗しちまうんだからなぁ」
そう言ったのは、流だ。
「せめて野口選手には、勝ってほしいよねっ」
箸を持つ拳《こぷし》をぎゅっと握りしめ、かなたが画面を振り返る。しかし相手選手が入場してくると、その箸がぽろりと落ちた。
リングに上がったその選手は、巨漢《きょかん》の黒人選手だ。一八七センチの野口よりも、さらに頭半分はでかい。全身に盛り上がった筋肉も、かなりのものだ。
「なにあれ! あんなの存在自体反則だよっ!」
かなたは箸を拾い上げると、ぶーぶーと文句を言った。緒方もその外国人選手の体格には、驚いているようだ。確かに、普通に道場で鍛《きた》えた程度で通用する相手ではない。
店にいる他の客からも、口々に「ありゃ勝てねぇ」「野口もこれまでだな」「景気づけじゃなくて、引導《いんどう》渡す試合かよ」とつぶやく声が聞こえてくる。
しかし相対する野口の体格も、四年前とは比べものにならないぐらい、鍛えられている。闘い方しだいでは、勝てない相手ではないはずだ。
と、そんなとき。
「なんだ!?」
いままさに第一ラウンドのゴングが鳴ろうとする直前、一つの影が、リングの上に飛び乗った。そしてそいつは突然、巨漢の外国人選手を殴《なぐ》り倒《たお》したのである。
「乱入だ!」
その様子に、かなたが叫ぶ。
「だけど、プロレスじゃあるまいし……」
混乱した様子で、流が首をかしげた。しかし画面の中の乱入者は、止めに入った係員と外国人選手のセコンドを蹴散《けち》らし、いきなりマイクを構えている。
『こんなデカイだけの噛《か》ませ犬じゃ、物足りねぇだろ? だからこの俺様《おれさま》――猿淵《さるぶち》武志《たけし》が相手になってやるぜ、野口さんよ』
乱入した男は大声で、マイクパフォーマンスを始める。どうやらそれは前代未聞《ぜんだいみもん》の出来事らしく、場内もラーメン屋の店内も、騒然《そうぜん》としていた。
「最近はこういうプロレスみたいな演出も、あるのか……?」
「ないない! でもマジでプロレスみたいだよ、これ」
緒方に答え、かなたは少し興奮した様子で、画面に食い入った。
乱入してきたのは、名乗った通り日本人らしかった。TシャツにGパンというラフなかっこうで、体格はテレビの画面越しにもかなりがっしりして見えるが、身長そのものは野口よりも頭半分は小さい。しかしその体格で、この猿淵という乱入者は、グローブをつけた拳で巨漢の外国人選手を一撃のもとに粉砕《ふんさい》していた。
不意打ち、ということもあるだろう。しかしそれでも、グローブをつけた拳の一撃で、鍛えられた格闘家を倒すのは簡単ではない。
だがそれをやってのけたということは、かなりの腕前、そしてパンチ力の持ち主ということになる。
『さあ、ゴングを鳴らしな。ちゃんと放送時間内に終わらせてやるからよ』
乱入者のその言葉に、見ている誰もがむっとなる。それはリング上の野口もそうなのか、黙って一歩前に出た。
そしてついに、ゴングが鳴る。
速攻で、容赦《ようしゃ》なく襲《おそ》いかかる野口。左からのワンツー、左アッパー、右ローキック。そのすさまじい連続攻撃に、勝負は一瞬で終わったかに見えた。
――だが。
リングにくずおれたのは、野口のほうだった。
3 消えた男
「なんだってっ!?」
テレビの前で、緒方庸平は思わずテーブルを叩《たた》いていた。その衝撃に、どんぶりからラーメンの汁がこぼれる。
「先輩が、負けた……?」
マットに横たわる野口の姿を前に、緒方は力が抜けたように、いつの間にか浮かしていた腰を下ろす。
「……野口、負けちゃったね」
かなたも、残念そうにつぶやく。画面の中では、無法な乱入者が親指を下に向けて勝ちポーズを決めていた。
『――日本一を倒したってことは、この猿淵武志さまが、いまから日本一ってことだ! 年末のグランプリじゃ俺さまが世界一だってことを見せてやるから、楽しみにしてなッ!』
再びマイクを奪い、画面の中で猿淵が吠《ほ》える。その傲慢な態度に、場内はブーイングの嵐《あらし》が吹き荒れていた。当然それを見ていた緒方も、思わず握っていた箸を握りつぶしてしまう。
「……なんだ、野口また負けたのかよ」
しかしいきり立つ緒方の態度とは反対に、気楽亭の客の反応は、冷たいものだった。一時は興奮したようだが、彼らは再び目の前にあるラーメンに注意を戻している。
日本のエースである、野口将明。実質的に唯一の日本人KOファイターだが、並み居る外国人選手を前に、数年前からいい成績が出せないでいた。最近では、野口が外国人選手に追いつめられるコーヒーのCMまで作られる体《てい》たらくだ。
唯一の日本人選手なだけに、同じ日本人として応援したい気持ちはある。しかしうらはらに、誰の胸にも「やっぱり勝てないんだろうな」という想いが、潜《ひそ》んでいた。
「……ま、しょせん野口なんざ、こんなもんさ」
誰かが発したその言葉に、緒方の耳がぴくりと反応する。
「今年で三十歳だろ? もうトシだよトシ。さっさと引退すりゃいいのに」
「日本じゃ最強か知らないけど、初めから世界の器《うつわ》じゃなかったのさ」
ぴくくっと、緒方の耳がさらに反応する。怒《いか》りに全身の筋肉が膨張《ぼうちょう》を始めており、いまにもシャツを引《ひ》き裂《さ》きそうだ。
「空手家《からてか》がグローブはめてパンツいっちょで試合するだけでも恥《は》ずかしいのに、毎回毎回負けやがって……同じ空手家として、これ以上の恥の上塗《うわぬ》りは、やめてはしいもんだぜ」
緒方の拳が、ボキボキと音を立てて握られる。その音に気がついて、対面の二人は驚きに目を丸くした。その体格は、もはや常人の域を逸脱《いつだつ》するほど膨張していたからだ。
「だいたい主催してる神道会館の菱井《ひしい》館長も、商売がうまいぜ。自分が空手家として実績が残せなかったからって、あんな野口なんて野郎をヒーローにしたてあげて、へボな試合させて金だけは儲《もう》けてるんだからな!」
「緒方さんっ、あんな連中の言葉、気にしちゃだめだよっ」
小声でなだめようとするかなたの言葉に、緒方はどうにか怒りを押さえ込もうとする。
しかし。
「どうせ今回も、八百長《やおちよう》で野口が勝つ試合を演出したかったんだろうが、変な乱入者にやられるとはお笑いだぜ。なにがKOだよ。かっこうばかりの空手ゴッコどもが」
ぶちっ。
シャツの胸元のボタンが、弾《はじ》けた。それと同時に、緒方の堪忍袋《かんにんぶくろ》の尾も、切れる。
「口先だけのきさまらに、野口先輩のなにがわかる!? 実戦を謳《うた》いながら、他流試合を断わり続けた腰抜けどもが!」
緒方は椅子《いす》を蹴飛《けと》ばして立ち上がると、叫《さけ》ぶ。
「なんだと……?」
それに呼応するように、野口を扱《こ》き下《お》ろしていた四人連れの客が立ち上がった。見れば、全員黒帯でくくられた遺著を手荷物に持っている。
「おまえ、神道会館のモンかよ?」
四人のリーダー格らしい男が、嘲《あざけ》るように尋《たず》ねる。
「北辰練武館の有段者四人にケンカを売るとは、やっぱり神道会館はバカ揃《ぞろ》いらしいな」
そう言って、四人は大声で笑った。
北辰練武館は、世界にたくさんの支部を持つ、実戦空手では世界最強といわれる道場だ。その名を聞くだけで、スラムのジャンキーもケンカを売るのをやめるといわれるほどである。
だが緒方はまったく動じることなく、静かに全身に怒りをみなぎらせていた。
「おれたち北辰練武館が神道会館ごときを相手に試合を受けたとあっては、それだけで株が下がるってもんだ」
にやにやと笑いながら、四人の男たちは緒方を取り囲むように動く。
「しかしどうしても知りたいってんなら、おまえら神道会館空手がいかにまがいもの空手か、俺が教えてやるぜ」
リーダー格の男は両手の拳《こぶし》をボキボキと鳴らし、一歩前に出る。そしてかなたが助けを求めるように、流を振り返ったときだ。
「あっ!?」
テレビの映像が目に入ったのか、かなたが驚きの声をあげる。緒方も思わず、それにつられて画面に目をやった。
「な、なんだ……!?」
画面には、いままさに担架で運ばれていこうとしている野口が映されている。しかし医療スタッフが担架《たんか》に移そうとした野口の体に、ノイズのような揺《ゆ》らぎが走ったのだ。
会場もその異変に気づいたのか、観客がざわめきはじめる。そしてその直後、野口の体は塵《ちり》のように分解され、消えてしまった。
「せ、先輩が、消えた……!?」
直後、会場の明かりが一斉に落ち、画面は真っ暗になる。そしてそれをごまかすように、CMが強引に挿入《そうにゆう》された。
「ケンカの最中に、よそ見なんかしてるんじゃないぜ!」
思わず呆然《ぼうぜん》とテレビを見つめていた緒方の顔面に、北辰練武館の男が正拳突きを叩《たた》き込む。さすがに無防備だったため、緒方はもんどり打って倒れた。テーブルを粉砕し、咄嗟《とっさ》に跳《と》びのいた流とかなたの足許《あしもと》に、転がる。
「あんたたち、不意打ちなんて卑怯《ひきょう》じゃない!」
緒方が起き上がるのを手伝いながら、かなたが叫ぶ。
「実戦の最中に注意をそらすほうが、悪いんだよ。これでわかっただろうが。神道空手なんぞ、実戦じゃクソの役にも立たないって事がな!」
そう言い放ち、四人の男たちは大声で笑う。テレビは彼らの背後にある。そのため、画面内のあまりに異様な出来事は、彼らには見えていなかった。
「おら、立ってかかってこいよ。おれが稽古《けいこ》つけてやるぜ」
「いい加減にして! ここまでやれば、もう充分でしょ!?」
かなたは前に立ちはだかり、男たちを睨《にら》みつける。
「多勢に無勢だ。それに思いきり殴《なぐ》って、気がすんだだろ?」
流もかなたと並び、男たちの真正面に立つ。
「これ以上やるんだったら、北辰なんちゃらは弱いものいじめする卑怯者だって言いふらしてやるんだからっ!」
かなたの言葉に一瞬むっとなった男たちだったが、これ以上は利がないと悟ってか、軽く舌打ちをして拳を下ろす。
「女に助けられるとは、とことん情けないやつだぜ」
その言葉に、緒方の眉がびくりと動く。だが、それ以上の動きは見せない。
「次に街であったら、ちゃんとあいさつしろよ。この未熟者が」
リーダー格の男が唾《つぱ》を吐《は》きかけ、四人は金も払わず店を出てゆく。緒方の両手は激しく震《ふる》えていたが、決して拳を、握りしめはしなかった。
4 緒方という男
「本当に、もうしわけない」
緒方はテーブルに頭を押しつけるようにして、深々と礼をする。そんな大男を前に、流とかなたは苦笑しながら手を振った。
「そんなに気にしなくていいよ。あれは、相手も悪いんだし」
そうかなたが苦笑混じりに告げると、となりに座る流も、うんうんとうなずいた。
「いや、あそこでカッとなるようでは、武道家として恥《は》ずかしい。おまけにきみたちの食事まで台無しにしてしまって……せめてものお詫《わ》びに、じゃんじゃん食べてくれ」
そう言って、緒方は二人に食事を促《うなが》す。彼らの前には、たったいま、料理が運ばれてきたばかりなのだ。
「じゃあ、遠慮なくいただきまーす」
かなたは手を合せると、さっそくフォークを掴《つか》む。
ラーメン屋での乱闘《らんとう》のあと、緒方たち三人は少し離れた場所の、ファミリーレストランに入っていた。乱闘を起こした店にいるのが気まずくなったことと、緒方がかなたたち二人に礼をしたいと言ったからだ。
もちろん二人が、緒方という男に興味を持ったことも、大きな理由ではあった。
「緒方さんって、神道会館じゃ野口将明の一番弟子だったんでしょ? 体もすごくがっしりしてるし、あんな連中、本当は楽勝だったんじゃないの?」
少し食べる手を休めると、かなたが尋《たず》ねる。緒方はその問いに、苦笑を浮かべた。
「なんとも言えないな。一対一でならともかく、四人同時となれば、ちょっと難しいよ」
そうは言うものの、殴られたはずの緒方の顔には、骨折どころか青アザひとつない。
「まだガキだったころは、自分の強さを試してみたくて、ずいぶん暴《あば》れたりしたけど……そのころはチンピラなら十人だろうと、怖《こわ》くはなかったな」
昔を懐《なつ》かしむような緒方の顔に、そんな狂暴《きょうぼう》な印象はまるでない。
「でもいきがって道場破りみたいなことやって、そこであっさりと野口先輩に負けてね」
「へーえ、やっぱり空手《からて》の有段者には、かなわないんだ」
感心するかなたに、緒方は恥ずかしそうに笑って、うなずく。
「それでおれは、神道会館に入門したんだ。打倒野口将明を目指して、な」
つぶやき、緒方は顔の前で拳をぎゅっと握った。鍛《きた》えられたそれは、まさしく岩の塊《かたまり》のように無骨《ぶこつ》で、力強い。
「でも人間ってやつは、同じ間違いを何度もやるもんさ」
「なになに、またどこかへ道場破りにいったの?」
少し飛躍したことを尋ねるかなたに、緒方は苦笑する。
「道場破りとはちょっと違うけど……他流派の有段者十人と、乱闘したことがあるんだ」
「すごーい! で、どうなったの?」
期待に目を輝かすかなたを前に、緒方は困ったように頭を掻《か》く。
「残念ながら、あっさりとやられたよ。警察の拘置所《こうちしょ》で目を覚ますまで、完全に記憶はなし」
「ありゃ!」
かなたは残念そうに舌を出すが、別にそれで落胆《らくたん》したり、緒方を馬鹿にしたりする雰囲気はかけらもない。
「しかもそれが原因で、破門《はもん》くらっちまって……で、野口先輩のコネで、南米に逃がしてもらったんだ」
「それでいままで、海外にいってたわけだ。日本格闘界の次代を担《にな》うホープだって期待されてたのに、惜《お》しい話だな」
「まったく、お恥ずかしい」
流の言葉に、緒方は本当に恥ずかしそうに苦笑する。
「でも別に破門されたからって、日本まで追い出さなくてもよかったんじゃないの?」
「いや、それがそうもいかなかったんだ。なにせ相手が、あの北辰練武館だったんでね。詳しくは聞かされてないけど、何人か大怪我《おおけが》をさせちまったらしい」
「多勢でかかって怪我人を出したとなれば、北辰もメンツが立たない……特に神道会館の菱井館長は北辰を抜けて独立した人だろ? 北辰の過激な若い連中なら、お礼参りぐらいはやりかねないからな」
緒方の言葉尻《ことばじり》を、流が継《つ》ぐ。
しかしその意見は、かなたにもわからなくはなかった。
北辰練武館は、世界規模の団体。しかも実戦空手を謳《うた》い文句《もんく》にしている。それだけにメンツの問題も深刻だろう。
「お礼参りぐらいならともかく、そこから事態が発展して、道場同士の抗争《こうそう》にでもなったら大変だからね。おれはせめて最後ぐらいカッコつけようと思って、実は自分から破門にしてもらったんだ」
そう告げる緒方の笑顔は、どこか寂しそうだった。そしてその寂しさは、かなたにも理解できる。長年慣れ親しんだ仲間たちと別れることが、辛《つら》くないはずがない。
「しかしあんた、すごい筋肉だな。南米とやらで修業したから、そんなになったのか?」
少し話をそらそうとしてか、流がそんなことを尋ねた。それを受け、緒方はぎゅっと力こぶを見せる。
「空気の薄いアンデスの高地で、自然の中を駆《か》け回る……体格はふた回りは大きくなったし、心肺機能は比べものにならないほど強くなった。けど、大自然に包まれることで、心理的に落ち着いたってことのほうが、大きな修業の成果かな? 昔はカッとなると、手当たりしだいに暴れ回る、バカ野郎だったからな」
そう言って苦笑する緒方からは、やはりそんな過去があったとは思えない。どちらかというと、熊のぬいぐるみのような愛敬《あいきょう》があるぐらいだ。
「あっちの師匠《ししょう》は厳しくてね。野口先輩のお祖父《じい》さんの兄貴とかいう人なんだけど……それもあって、すっかり角が取れて丸くなったよ。おまえには大いなる力と、大いなる邪気《じゃき》が含まれておる……それを押さえ、操《あやつ》るすべを学ぶのだ≠チてのが口癖《くちぐせ》だったなぁ」
南米の高地を思い出しているのか、緒方は少し遠い目をする。
「それで、修業が終わったから、日本に帰ってきたワケ?」
かなたのその問いに、緒方は小さく首を振る。
「あいにくと、まだ修業中の身なんだ。実はあのままあっちに、永住しようかと思ってたぐらいでね」
そう言って、緒方はもう一度力コブを作ってみせる。だが乱闘に及ぶ直前に見せた筋肉の異常な盛り上がりに比べて、それはずいぶんと普通に見えた。
「それじゃ、なんで今回は日本に帰ってきたんだ? なんか用事でもあったのか?」
流がそう尋ねると、柔和《にゅうわ》な緒方の顔に、突然|困惑《こんわく》の表情が浮かんだ。
「……野口先輩から、電話があったんだ」
低い声で、ぽつりと告げる。
「村長の家にしか電話がないような田舎《いなか》だ。先輩も電話口で、ずいぶん待たされたんだと思う。だけどあの電話は、あまりに妙《みょう》だった」
「妙?」
「ああ。電話口で、野口先輩はひどく慌《あわ》てた様子でこう言ったんだ。俺《おれ》より強い俺がいる。俺が俺に消されちまう≠チてね」
緒方の話を聞き、かなたと流は思わず顔を見合わせる。
「それで、その電話は、ほかには?」
「なんにも。そこで乱暴な物音が聞こえて、電話は突然切れちまった」
そう言って、緒方は指で電話線が切れるジェスチャーをする。
「それからおれほ慌てて日本に帰ってきて、渋谷の道場を訪ねていったんだ。だが野口先輩には会えず、連絡方法を聞いても、部外者には教えられないの一点張り」
今度はお手上げとばかりに、緒方は両手を広げる。
「確かに生中継で試合に出てたんじゃ、会えないのはしかたないけど……部外者ってのは、正直ちょっとショックだったな」
自主的とはいえ、破門されている以上は部外者だ。だがかつての同門たちに冷たくあしらわれるのは、悲しい。
「その電話、さっきの野口が消えたことと、なにか関係があるのか?」
流の言葉に、一瞬沈黙が走る。
「なんで人間なんてものが突然消えるのか、おれにはわからない。でもだから、おれは野口先輩本人に、直接会ってみようと思ってるんだ」
「会うって、どうやって?」
問い返すかなたに、緒方はにこりと笑ってみせる。
「年末のKOグランプリは、オープン参加|枠《わく》が四つある。そこに、エントリーするのさ」
緒方は袋から雑誌を取り出すと、その紙面に掲載されている、KOグランプリ、オープン予選大会の案内を開いて見せる。
「招待選手のリストに、野口将明の名前もある。勝ち進めば、直接会う機会もあるだろう。それがたとえ、リングの上でもね」
「なるほどねー。でも、オープン予選って、何百人って応募があるんでしょ? 大丈夫なの?」
かなたの指摘通り、KOのオープン予選は全世界から広く受け付けている。成り上がろうとする世界中の猛者《もさ》たちが、たった四つのオープン参加枠を求めて鍛えてくるのだ。生半可《なまはんか》な強さでは、勝ち上がれない。
「勝ち上がれる確証は、ない。だけど、おれは自分の力を信じてる」
そうつぶやく緒方からは、名状《めいじよう》Lがたい闘気のようなものが、溢《あふ》れ出していた。それが熱気となって、流やかなたにも感じられる。
「野口先輩は、おれの目標だった。KOで日本一になって、おれがあの人よりも強いことを、証明したかった……その野口将明を倒し、嘲笑《あざわら》ったあの男は……このおれが絶対に倒す」
メキッと、拳《こぶし》が鳴る。体の筋肉が、再び膨張《ぼうちよう》を始めていた。
「他の誰にもやらさせない……あの男がたとえ人間離れした力を持っているとしても、必ずこのおれが、この拳で叩《たた》きのめしてやる……」
つぶやく一言ごとに、緒方の表情が険《けわ》しくなり、眼光に狂暴さが浮かび上がる。
緒方の中で、明らかに何かが変化している――流もかなたもそれを敏感に感じ取り、その体をびくりと震《ふる》わせた。
そのせつな、かなたの手からフォークが落ちる。それが食器に当たり、がちゃりと大きな音を立てた。その音に、緒方もびくりとなる。
「っ……あ、ごめんごめん。女の子には、こんな話つまらないよな。ささ、冷めないうちに食べて食べて」
急にわれに返ったように、緒方は二人に食事を勧《すす》める。かなたと流は再び顔を見合わせ、改めて、食事を再開するのだった。
5 オープン予選大会
「うわあ、やってるやってる!」
会場に入るなり鳴り響く打撃音に、かなたは思わず歓声《かんせい》をあげる。
予選会場である武道館には、四つのリングが作られていた。そこで五百人近い選手が、わずか二つの出場枠を目指して競《きそ》い合っている。
予選トーナメントも、今日で三日目。この日にグランプリ・トーナメント出場者が決定するというだけあって、予選だというのに会場は超満員だ。
「かなた、こっちだ!」
四つのリングと手元のチケットと座席の番号をぐるぐると見回していたかなたに、男の声がかかる。見れば、座席から身を乗り出して、流が手招きしていた。
「ごめーん、思ったより遅くなっちゃった」
軽く舌を出して謝《あやま》り、かなたはエキサイトしている客の間をすり抜け、自分の座席へと向かう。大勢の客入りが予想される最終日だけに、今日は日曜日だ。しかしちょっと調べものに出ていたので、朝一番から観戦はできなかったのだ。
「緒方さん、勝ってる?」
「まあ、なんとかってところだな」
座席に座りながら尋ねるかなたに、流はため息混じりに答える。
「どの試合も、ずいぶん打たれてる。毎試合時間一杯まで粘《ねば》って、どうにか最後に一発食らわせて、KO勝ちはしてるけどな」
「じゃあ、やっぱり勘違《かんちが》いかな?」
流はかなたのその問いに、小さく首をかしげる。
「そいつを判断するのは、少し早計《そうけい》だな。少なくともあの頑丈《がんじょう》さは、人間離れしてるぜ」
一瞬真剣なまなざしで、二人は顔を見合わす。
「ほれ、出てきた」
花道を通って、空手着に身を包んだ緒方が、リングへと歩いてくる。連日の苦しい死闘の連続のため、ほとんどの選手が怪我《けが》をしたり、疲労|困憊《こんぱい》している中、緒方はわりと堂々と歩いているように見えた。
しかしその体は包帯だらけで、顔もダメージのためにかなり変形しており、絆創膏《ばんそうこう》だらけで人相《にんそう》が変わっている。
「この三日間、いままで勝ち抜くために、もう五回も試合しているからな。勝ってる側もけっこう負傷してるやつが多い。そろそろ不戦勝も増えてきたしな。ほら、対戦相手も全身テーピングだらけだぜ」
「ホントだ……」
キックボクシングの選手なのか、緒方の相手はトランクス姿だ。しかしその両手両足のテーピングが、どうにも痛々しい。
「そろそろだね」
リングに上がった二人を見て、かなたがつぶやく。
レフリーの諸注意を聞き、対戦者二人が軽くお互いの拳を合せた。それが合図となり、ゴングが鳴る。
先にしかけたのは、キックボクサーだ。ジャブの連打から、左右のストレート、それにフック。ときどきローキックを混ぜる巧《たく》みなコンビネーションだったが、緒方はそれをどうにか受け、いなしていく。
それでもキックボクサーは、必死に連打を続ける。ここまで勝ち上がってきただけに、その持久力と回転力はすばらしいものがあった。が、しかし。
緒方は、倒れなかった。
何発という打撃をその身に受けていたが、倒れない。そのうち徐々に、対戦相手はどんな攻撃をしても通用しないのでは、という恐怖感にとらわれてゆく。
息が切れ始め、いらだった対戦相手は、思いきりローキックを緒方に浴《あ》びせる。そしてそれを緒方がスネでブロックしたとき、勝負は意外な結末を迎えた。
なんと蹴った側の選手のほうが、足を骨折してしまったのである。
「あれあれ……」
「な?」
ほとんど攻撃らしい攻撃もせずに相手をTKOしてしまった緒方に、かなたは正直驚いた。
しかしそんな地味で泥臭《どろくさ》い試合を、観客はまるで気にも留めていない。
なぜなら、緒方の立つ第四リングの、対角線上にある第一リング。そこへ向かう花道に、猿淵武志が姿を現したからだ。
猿淵が現れた瞬間、会場は歓声と罵声《ばせい》でびりびりと震えた。あの乱入事件から、一月。猿淵はあちこちのマスコミに姿を現し、挑発的な言葉や暴言《ぼうげん》を吐《は》きまくっていた。そのため、いまでは格闘技ファンのみならず、お茶の間の主婦でさえもその名を知っているほどだ。
K―0の運営サイドとしては、当初猿淵の存在を抹殺《まっさつ》したがっていた。しかし生中継であれだけのパフォーマンスをされては黙殺することもできず、逆に宣伝として利用したというのも大きい。特に最近野口がいい成績を残せていないだけに、新しい日本人のヒーローもほしい。
「よくも悪くも、人気者には違いないわな」
まるで世界チャンピオンのような派手《はで》なガウンをひるがえし、猿淵はリングへと向かっている。しかし彼の存在のおかげで、この予選トーナメントは前代未聞《ぜんだいみもん》の集客を記録していた。
「緒方さん、よくこんなプレミア・チケット、手に入れられたなぁ」
かなたは手の中のチケットを見下ろし、つぶやく。
実際オープン予選は、わりとコアな格闘技ファンだけが見に来るようなものだ。それだけに、満員にはなっても立ち見までは出ない。しかし今日は、武道館の壁といい通路といい、客が溢れ出している。
「やっぱ顔も、悪くないし。ああいうアウトローっぽいのって、受けがいいからな」
流がそう言った瞬間、猿淵はひらりとロープを飛び越える。その過剰《かじょう》なまでに派手な入場に、女の子の矯声《きょうせい》と、男の罵声が飛び交う。
確かにリングに立つ猿淵という男は、絵になる男だった。格闘家とは思えない整った顔だち、切れ長の鋭い目に、冷笑を浮かべた口許《くちもと》。体格も筋肉質だが均整がとれており、さながら希代の芸術家が彫り上げた、彫刻のようだった。
しかも緒方とは正反対に、猿淵は派手なKO劇を見せてきた。圧倒的な連打で相手を追い込み、鋭い決め技でKOを奪うのだ。そのたびに、会場には男の罵声と女の嬌声が木霊《こだま》するのである。
「あの猿淵って男……彼もやっぱり、同類だと思う?」
「おれは間違いないと、思うけどね」
かなたの問いに、流はかなり確信を持って答える。
「そろそろ始まる……あっ!」
ゴングが鳴った瞬間、対戦相手が一気に飛び込んでくる。アメリカから来た黒人選手で、体格も猿淵の二回りは大きい。
しかしその巨漢の黒人選手がまず右の拳をわずかに引いた瞬間、目にも止まらない猿淵の左ハイキックが顔面に炸裂《さくれつ》していた。
次の瞬間、まるで丸太《まるた》が倒れるように、黒人選手がマットに倒れる。レフリーはカウントを取ることすらせず、両手を交差させた。
「KOタイム、三秒……やっぱりやることが派手だわ」
さすがに驚いた様子で、流は座席の背もたれに体を預ける。かなたも猿淵の蹴りのあまりの美しさに、鳥肌《とりはだ》が立っていることに気づいた。
「確かにあれ、女の子受けもよさそうね……」
漫画《まんが》でならともかく、実際にそんなKO劇が起こることは稀《まれ》だ。しかし格闘技ではなく、猿淵武志というキャラクターを見に来ている女の子には、そんなことはわからない。
ただわかるのは、猿淵という男が圧倒的に強いこと。
そして圧倒的に、かっこいいということだけだ。
「今週の女性週刊誌じゃ、さっそく抱かれたい男ナンバーワンにランキングされてたし」
「格闘技のみならず、女心もKOってわけかよ」
試合時間の二十倍はファンサービスのパウォーマンスをして、猿淵は退場してゆく。再び会場は、男の罵声と女のため息で包まれる。
「あと、一試合だよね? 緒方さんとあの猿淵って男、当たるの?」
かなたのその問いに、流はトーナメント表を取り出す。
「見ての通り、猿淵はAブロック、緒方はDブロックだからな。この予選じゃ当たらないよ」
「そっか。じゃああの二人がグランプリ・トーナメント出場するのは、もう確定しているようなもんなのね」
「緒方さんはともかく、猿淵は間違いないだろ」
流の答えに、かなたは小さくため息をつく。
「そうなるとますます、緒方さんにはがんばってほしいなぁ」
その言葉に、流は軽く唸《うな》る。
しかしそんな彼らの心配をよそに、たった四人のオープン参加枠の中に、当然のように猿淵と、ぼろ雑巾《ぞうきん》のようになった緒方の二人が残っていた。
「ふう」
試合後のインタビューを簡単にすませ、緒方はようやくベンチに腰を落ち着けた。
猿淵という圧倒的な人気と話題性を持つ選手がいるだけに、無名の緒方へのインタビューなどおざなりなものだ。もし予選を突破した日本人が彼だけならば、緒方ももっと取りざたされたかもしれないのだが。
「やっほー」
そんな緒方の控室《ひかえしつ》に、遠慮がちに陽気な声がかけられる。見れば、入口のドアからかなたの頭と手だけ、のぞいていた。
「どうぞ。入っていいよ」
かなたの様子に苦笑しつつ、緒方はそう告げた。それに応えてかなたと、それについてきた流が控室に入ってくる。
「とりあえず、おめでとうを言いに来たんだ」
「ありがとさん。だけどあんまりはしゃぐと、怖《こわ》いからな」
そう言って、緒方は目だけで周囲を見る。
控室といっても、予選トーナメントレベルでは個室というわけにはいかない。わりと大きな部屋に、十人以上の選手が詰め込まれているのである。
ほとんどが負けた時点でさっさと帰ってしまうため、いまはずいぶんとがらんとしていた。しかし中にはまだ傷で呻《うめ》いていたり、勝敗に納得がいかずいきり立うたままの選手もいる。確かにうっかりはしゃげるような雰囲気では、なかった。
「ずいぶんと打たれたな」
「ん……まあ、な」
流の言葉に、緒方は少しうつむく。
一応大会が用意した医者の診断と治療を受け、応急処置はすんでいる。しかしその顔面はボコボコにひしゃげ、腫《は》れ上がっていた。打ち身も、全身いたるところにある。
「あまりにもひどい有り様だから、大きな病院で精密検査を受けろって言われたよ。やっぱこれだけの予選トーナメントを勝ち上がるのは、簡単じゃないってことだな」
緒方は顔をあげ、苦笑した。しかしそこまで傷だらけになっても勝ち残った緒方を、かなたはすごいと思うし、立派だとも思う。
「だけど予選通過した日本人だっていうのに、インタビュアーがもうひとりもいないってのは、どうなってるわけ?」
まがりなりにも応援している緒方の、このあまりな扱われように、かなたが唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
「記者さんも、猿淵のインタビューのほうが大事だからな。おれみたいな泥臭《どろくさ》い試合をするポッと出よりも、あっちを優先させるのはよくわかるよ」
おざなりながらも行なわれたインタビューの内容を思い出し、緒方は小さくため息をつく。
「あんたへのインタビュー、どうせ暴力事件や、破門《はもん》のこととかばっかりだったんだろ?」
「流!?」
驚いて振り返るかなたに、緒方は笑ってみせる。
「いいんだよ。それに、流くんの言ったとおりだ。スネに傷持つ格闘家の、辛《つら》いところだよ」
そう告げる緒方に、卑屈《ひくつ》な様子はかけらもなかった。それにさっさとインタビュアーから解放されたことのほうが、彼にとってはうれしいのだ。
しかしそんな彼に、近づいてくるものがまだひとりいた。
灰色のスーツに、地味《じみ》なネクタイ。そしてきっちりと七・三に分けた髪。どこにでもいそうな、平凡なサラリーマン風の男が、緒方へと近づいてくる。
「緒方庸平選手、でいらっしゃいますね?」
姿勢よく立ち止まると、その男はていねいな物腰で、尋《たず》ねた。
「そのとおりだが、あんたは誰だ?」
「失礼、申し遅れました。わたくし、田中と申しまして、こういうものでございます」
そう言って、男は完璧《かんぺき》な作法《さほう》で名刺を取り出した。緒方はそれを無造作《むぞうさ》に受け取り、見る。
「シャイアーテックス社、コンシューマ・ゲーム事業本部、開発二課……の田中浩さん?」
そのどこか偽名臭い名前に、緒方は怪訝《けげん》な表情を見せる。それはまわりにいる、流やかなたも同じだ。
「それで、そのゲーム屋の田中さんが、おれになんの用だい?」
「はい。本日は緒方さまに、お願いがあって参りました」
「お願い?」
「ええ。お疲れでしょうから、手短にご説明させていただきます」
田中と名乗った男は、そう言って手に持っていたアタッシュケースから、一冊のパンフレットを取り出す。
「あ、ノヴァのKOグランプリだ」
そうつぶやいたのは、かなただ。
確かにパンフレットの表紙には、KOグランプリのロゴが、大きく描かれている。そしてその下では、コンピュータ・グラフィックスの格闘家たちが、描かれていた。
「なんだよ、それ?」
「シャイテクが出してるノヴァ2000用の、対戦格闘ゲームだよ。実際のKO選手をゲーム用のキャラクターにしてるのがウリで、最新作は六十万本くらいの大ヒット作」
かなたの流への説明を聞きながら、緒方も「ふーん」とうなずく。
「説明の手間が省《はぶ》けまして、たいへん助かります。そこで今回の依頼《いらい》の話ですが――」
「緒方さん、ゲームのキャラクターになるの!?」
「はい。そうさせていただきたく、お願いに参ったわけです」
かなたににっこりと笑いかけ、それから緒方に小さく礼をする。
「すでにわが社では、本年度のKOグランプリのゲーム製作に着手しております。このゲームにキャラクターとして出演していただきますと、当然相応の報酬《ほうしゅう》はもちろん、今後KOでのスポンサーとして、わがシャイアーテックス社が緒方さまのトレーニングその他を全力でバックアップさせていただきます」
シャイアーテックスは、現在KO最大のスポンサーだ。世界規模の複合企業であるシャイアーテックスのバックアップともなれば、資金面やトレーニング設備などの面でも、とても多くのメリットがあるだろう。
それにプロ選手にとって、人気はなににも代えがたい要素のひとつだ。知名度があがり、人気が出れば、それだけでCMやバラエティー番組などへの出演依頼も増える。
そしてシャイアーテックス社のゲームのキャラクターとして登場すれば、当然知名度も人気も高まる。普通、これほどの依頼を断《こと》わるプロ選手はいないだろう。
「もしご契約いただけましたら、わが社に一週間ほど、お越し願います。ゲームのキャラクターのために、緒方さまをモーション・キャプチャー、すなわち動きをCGに落とし込む必要がありまして……」
そう言って、シャイアーチックスのスカウトマンは、パンフレットのあるページを差し出す。そこには体に奇妙な装置をつけて、得意の技を繰り出す野口将明の写真が、掲載されていた。
昨今のポリゴンと呼ばれるCG技術を駆使《くし》した対戦格闘ゲームでは、そうやって実際の人間の動きをコンピュータに記憶させ、再現する形でキャラクターを勤かしている。逆にそうすることで、ゲームのキャラクターの動きを、より本物らしく見せることができるわけだ。
「仕事内容といたしましては、こうしたモーション取りに一週間ばかり社にお越しいただく以外、特にありません。あとはトレーニングに集中して、大会でいい成績を出していただくだけで結構なわけです」
普通は格闘家《かくとうか》といっても、なにか他に生活を支える仕事をしながら、訓練を積んでいる場合が多い。たとえ道場の指導員になっても、門下生《もんかせい》の指導やその他の雑務《ざつむ》に追われることになる。常に最高のトレーニングができるとは、限らないのだ。
しかしシャイアーチックス専属《せんぞく》の格闘家となれば、最高の設備でひたすら格闘技の練習に集中することができる。こんなおいしい話は、普通ない。
だが。
「申しわけないが、その話、お断わりします」
緒方のその答えに、背広《せびろ》のスカウトマンは驚きの表情を見せた。おそらくいままで、この誘いを断わられたことがなかったのだろう。
驚いたのは、流やかなたも同じだ。しかしどこかに、緒方なら断わるだろうという気持ちも、持っていた。それだけに、驚いたのもほんの一瞬だけだ。
「おれはこの大会に、腕試《うでだめ》しのつもりで参加している。格闘技のプロとして、やっていくつもりはないんでね」
その言葉に、スカウトマンは残念そうに首を振る。
「それはとても残念です。ですがもとより、本日はあいさつのために来ただけですので……もしその気になられましたら、わたくしまで、ご連絡ください」
そう言って、ぺこりとお辞儀《じぎ》をする。
「またいずれ、ご連絡させていただきます。そのときには、色よい返事がいただけること、期待しておりますよ」
それだけ告げると、スカウトマンは「それでは、失礼いたします」と言って、その場を退出する。
「いいのかよ、悪い条件とは思えなかったぜ?」
そう尋ねる流に、緒方は首を振って苦笑する。
「金や人気になんて、興味はないんだ。野口先輩のことを解決したら南米に帰るつもりの男に、大金を払わせるのは申しわけないだろ?」
緒方の言葉に、流とかなたは顔を見合わせた。その様子に、緒方はもう一度笑う。
「だけど猿淵なら、すぐにOKしそうだけどね」
反対側の控室のほうを向き、かなたがつぶやく。
「……かもな」
緒方は立ち上がると、着替えるべく道着の帯《おび》に手をかける。
「ま、とにかくグランプリ・トーナメントも、応援してくれ。なにせ応援してくれそうなのは、きみたちだけだからな」
「うん。もちろん応援するよ! そっちも、がんばってね!」
かなたの声に、緒方はボコボコの顔でにっこりと微笑《ほほえ》む。
グランプリ・トーナメント一回戦まで、あと一月。
緒方は野口のこと――そして猿淵のことを思い起こし、拳《こぶし》を強く、握りしめた。
6  <うさぎの穴>
入口の扉《とびら》が、少し乱暴に開く。
「わりい、遅くなった」
そう言いながら入ってくる客に抗議《こうぎ》するように、バー <うさぎの穴> の扉につけられている鐘《かね》が、少し乱暴な音を立てた。
「なによ、流。また女の子といちゃついてたわけ?」
「ま、いいじゃないの」
テーブル席で待っていたかなたの文句《もんく》を、流はにこにこと笑ってごまかす。
「遅刻されると困るな。これでも、ぼくだって夜は忙《いそが》しいんだぞ」
そう言ったのは、かなたのとなりでノートパソコンを開いている、太った青年だ。
「だからわりぃって言ってんじゃんか、大樹」
流はカウンターの前を通り抜けざまにバーボン・ロックを頼み、席につく。
「それじゃ、さっさと始めようぜ。おれも、もうひとり待たせているしさ」
「やっぱり女の子といちゃついてたんだ」
「え、あ、やだなぁ。冗談《じょうだん》だよ、ジョーダン」
ひらひらと手を振り、再びごまかそうとする。だが待たされていた二人の目は、あまりなごまない。
「きみのガールフレンドのことはどうでもいいけど、一応いろいろと情報は集めておいたよ」
大樹はノートのタッチパッドを操作して、いくつかファイルを開く。
「まず過去に野口将明選手のように、リング上で消滅《しょうめつ》した例はない」
「やっぱ、ないか」
そうつぶやく流を前に、大樹は眼鏡《めがね》を指で押し上げる。
「だけど、歌手がライブ中に消えた例はある」
「歌手?」
大樹の言葉に、流は怪訝《けげん》な声を出す。
「二年ほど前に解散したロックバンドなんだけど、ライブ中に客席へダイブしたっきり、姿が消えたそうだ。一瞬場内は騒然《そうぜん》、ファンの女の子の失神者続出、パニックになった」
「そりゃなるだろうなぁ」
うなずく流を前に、大樹はカーソル・キーを押して画面をスクロールさせる。
「ただ直後にその歌手は舞台袖《ぶたいそで》からなにごともなかったように姿を現し、消失騒ぎは演出だったということで落ち着いてる」
「それ、本当に演出じゃないんでしょうね?」とかなた。
「もちろんその可能性もあるけど、その日のファンクラブ系ホームページの書き込みを調べただけでも、かなり無理がある状況だったことが想像できる」
大樹はネットからダウンロードしてきた書き込みを、かなたに見せる。そこには当日の様子が、かなり克明《こくめい》に説明されていた。
「実際にその場にいた人何人かにも聞いてみたけど、人間ひとりを衆人環視《しゅうじんかんし》の中で消すようなトリックは無理だったらしい。そもそも、スタッフたちもかなりパニックになってたらしいからね」
「それでも、トリックなんて一般人に見抜けるもんじゃないだろう?」
「そりゃそうだ。ただその直後にそのバンドは解散、半年後にはその消えた歌手が、変死体になって見つかったっていう事件がある」
その言葉に、かなたも流も、うーんと唸《うな》った。その事件は、二人とも新聞やニュースで見て、知っていたからだ。それにその歌手と同じように、野口将明は試合後の記者会見を受けている。しかし緒方とともに道場を訪れた流たちは、再び門前払いを食らっていた。
「もちろんそれにしても、関連性があるかどうかわからない。あくまで参考程度の情報さ」
唸る二人を尻目《しりめ》に、大樹はさらに次のファイルを開く。
「次にK―0の予選大会だけど……きみたちの報告にもあった通り、疑わしいことは特にない。ただ以前から不穏《ふおん》な噂《うわさ》の絶えないシャイアーテックス社が最大手のスポンサーってのが、うさん臭《くさ》いと言えはうさん臭いけどね」
一度シャイアーテックスがらみの事件と関わったことのある流は、その言葉に素直《すなお》にうなずく。だがそれだけでは、選手消滅事件との関連性はわからない。
「もっともうさん臭さだけなら、こっちの猿淵武志のほうが、より疑わしいね」
「なにか、わかったのか?」
そう尋《たず》ねる流に、大樹は首を横に振る。
「その逆さ」
「逆?」
「そう。猿淵武志に関しては、ほぼまったくデータなしだ。経歴、家族構成、実年齢、そういったものが一切わからない。あるのは、予選トーナメント出場時に彼自身が書いた、嘘《うそ》か本当かわからないプロフィールだけだ」
大樹はかばんからコピーを二枚取り出し、二人に一枚ずつ渡す。
「猿淵武志、二十一歳。身長百七十六センチ、体重七十八キロ、右利き。流派は猿淵流ケンカ殺法百八段……なんだかナメたやつだな」
「ふざけたやつなのは、きみたち二人が会場で見たとおりさ。しかもいくら体重制限がないK―0でも、その体格はかなり小さい部類だ。なのに予選での相手選手は、ことごとく病院送り。中には再起不能の選手もいる」
その言葉に、流とかなたは顔を見合わせた。いくら実力に差があっても、体格で劣《おと》る選手に、対戦者全員が病院送りにされたりするものだろうか?
「やっぱりこの猿淵って人……普通の人間じゃない、ってこと?」
「ああ。たぶん、間違いない。この猿淵武志って男……妖怪《ようかい》だ」
流の言葉を受け、その場にいる全員が驚くどころか、納得したようにうなずいた。
妖怪――本当ならば、この世に存在するはずのないもののけ。誰もが迷信《めいしん》と一笑《いっしょう》に伏す存在と思われている。
しかし、妖怪は実在していた。なぜなら、この <うさぎの穴> にいるすべての者が、人間ではないからだ。
「妖怪なら、体格に関係なく、すごい力を発揮できる。それにいくら鍛《きた》えても、素手《すで》の人間の攻撃で、妖怪が倒されるはずがない」
大樹の言葉に、流もうなずく。彼ら妖怪だって、傷を受けることもあれば、死ぬことだってある。しかしそれは妖怪同士が闘えば、の話だ。人間相手なら、マシンガンで撃《う》たれでもしなければ傷もつかないし、簡単に死ぬこともない。
大樹やかなたのように――大樹は算盤《そろばん》坊主、かなたは化けたぬきだ――戦闘を得意としていない妖怪なら、世界レベルの格闘術があれば、倒せる可能性もあるだろう。しかしその正体《しょうたい》が半人半龍の流のように戦闘が得意な妖怪であれば、まったく歯が立たないはずだ。
「正体は――」
「不明。ネットワークに連絡を回して聞いてみたけど、心当りはないらしい」
流ににべもなくそう答え、大樹は次のファイルを開く。
「東京の外からやってきた妖怪、新しい都市伝説から生まれた妖怪、昔に倒されて、最近|蘇《よみがえ》った妖怪……ネットワークでも簡単には見つけられない妖怪は、いくらでもいるからね」
そう言われては、流もかなたも唸るしかなかった。
妖怪は、人の強い想い≠ゥら生まれる。恐怖や妬《ねた》み、恨《うら》み。そして強い願望や憧《あこが》れ。そうした激しい感情が、妖怪を生み出す原動力となるのだ。
しかしそうした力をもとに生まれてくる妖怪だけに、人々に忘れられては、存在することができなくなる。人間にその存在を知られて、トラブルになるのも問題だ。
だから、彼ら妖怪たちはネットワーク≠ニ呼ばれる組織を作った。妖怪同士が連絡を取りあい、妖怪に関係するトラブルを妖怪の手で解決するためだ。
そしてここ、バー <うさぎの穴> こそ、東京でももっとも有名なネットワークの拠点《きょてん》なのである。だが妖怪が生まれる理由が理由だけに、彼らも東京に住むすべての妖怪を把握《はあく》しているわけではない。
「KO人気が生み出した、格闘家妖怪ってのは、どう?」
「可能性がないとは言いきれないけど、生まれたばかりの妖怪にしては、人間臭すぎる」
かなたの意見を笑い飛ばすことなく、大樹が答える。そしてその答えに、かなたは唸るしかない。
生まれたばかりの妖怪は、生まれた理由に忠実であろうとして、多くの場合人間味に欠ける。その点リングでマイクパフォーマンスし、インタビューに答え、ワイドショーやバラエティに出演する猿淵の姿は、お調子者の人間そのものだ。
もちろんそうした部分まで含めて、妖力なのだとも考えられる。しかし長年人間の間で暮らしてきた妖怪だと考えたほうが、自然だった。
「もし猿淵が妖怪で、どこかでその正体がばれでもしたら……」
「そいつは、厄介《やっかい》なことになるな」
大樹の言葉を繋《つな》ぎ、流は大きくため息をつく。
人間は、自分たちよりも強力な存在に、怯《おび》える。もしその人間が妖怪の存在に気がついてしまえば、彼らは妖怪を滅《ほろ》ぼそうとするだろう。
そんな事態だけは、招くわけにはいかなかった。
「できるならばさっさと正体を調べ出して、たちの悪い妖怪なら、早めに排除《はいじょ》してしまったほうがいい」
わりと物騒《ぶっそう》なことを、大樹はさらりと言ってのける。
「ま、排除するかどうかはともかく、正体は早く知りたいところだ。少しぐらい、わかったことはないのかよ?」
流のその言葉を受けて、大樹はマスターにビールを注文する。そしてノートパソコンの後ろ側に、テレビチューナーとテレビのアンテナ線を繋いだ。
「そう言うだろうと思ってね。うわべりに調査を依頼《いらい》しておいたんだ」
大樹はタッチパッドを操作して、ノートの画面をテレビに切り換える。するとやがて、初めはただ砂嵐《すなあらし》が映っているだけだった画面になにかが現れた。
「そっか! あの目立ちたがり屋の猿淵なら、確かに自分の出てたテレビぐらい、確認するわよねぇ」
「まあね。大会運営側の関係者から猿淵の現住所は押さえてあるし、そこにはテレビもあるはず。うわべりなら、監視役には最適だ」
そうこう言っているうちに、うわべりが画面から姿を現した。そして窓からでも入ってくるかのように、のっそりと外へと出てくる。
その姿は、銀色のヤマアラシのようだ。身の丈《たけ》は小学生の子供ぐらい。頭が大きく、口は人間の三倍ほどだ。目は一つしかなく、車のヘッドライトのような大きさで、複眼になっている。
「よう、大樹ちゃん。お、流にかなたちゃんもいるな。元気してたか?」
陽気に尋ねてくるうわべりに、かなたは「もちろん♪」と答える。うわべりはそんな彼女の横の席にちょこんと座ると、置かれていたビールのグラスを取り、うまそうにそれを飲んだ。
「それで、調べはついたかい?」
前置きもなしに、大樹は単刀直入《たんとうちょくにゅう》に尋ねた。そんな彼に対して一発ゲップをかまし、うわべりはグラスを置く。
「確かにあの住所に、猿淵って男は住んでたよ。いつも自分の出てる番組を見ては、楽しそうに笑ってやがったなぁ」
その報告に、三人は「やっぱり」と言って顔を見合わせる。
「家族は妹がひとりで、名前は泉。昔出てた、なんとかってアイドルに似た、かわいい子だったよ」
「へぇ」
その言葉に、流がすばやく反応する。しかしすぐに、かなたに小突《こづ》かれた。
「普段の生活は、ほとんど人間と見分けがつかなかったなぁ。ただ食事だけは、少し偏《かたよ》りがあったけどよ」
「偏り?」
「ああ。運動選手のくせに、野菜ばっかり食ってたな。KOは体重制限もないってのに、菜食《さいしょく》主義なのかねぇ」
問い返す流に答え、うわべりはあごに手を当てる。
「菜食主義の妖怪って、いたっけ?」
「さあなぁ。海外の妖怪なら、そんなのがいるかも知れないけどさ」
そう言って、流とかなたは首をかしげる。
「それから例の選手消滅したときのVTR、もうテレビ局にゃ残ってないね。処分《しょぶん》されたらしいぜ」
「となれば、やはり後ろ暗いことがあるってことだな」
やっぱりと言わんばかりに、流がうなずく。
「ついでに前から気になってたんだが、KOの主要選手……あいつらも放送されるとき以外、姿を見ないな。空港やホテルは当然、試合会場の防犯モニターとかも見てみたが、専用の控室《ひかえしつ》に引き込んだきり、どこかへ消えちまうんだ」
「……なんだって?」
そのうわべりの報告に、誰《だれ》もが一瞬|硬直《こうちょく》した。
「じゃあ野口だけじゃなくって、他の選手も消える可能性があるってことかよ?」
「そいつはわかんねぇけど、かもしれんな」
うわべりの言葉に、三人はもう一度「ふうむ」と唸《うな》る。
「とにかくあのK―0という大会そのものが、うさん臭《くさ》いことは間違いない。それからあの緒方庸平って男……あの男も、妖怪である可能性は高いね」
大樹に言われるまでもなく、それは流やかなたも感じていることだった。
「四年前の乱闘事件も調べてみたけど、かなり異常だ。暴行されそうになった女性を救《すく》いに入り、しかも相手が北辰練武館の有段者十人だったこともあって正当防衛《せいとうぼうえい》が立証され、無罪にはなっているけど……全員が病院送り、七人が再起不能、ひとりが半身|不随《ふずい》だ。全員、まるで大型ハンマーで殴《なぐ》られたみたいだったそうだよ」
「緒方さんは、すぐにやられちゃったって言ってたけど……」
「確かに本人は、乱闘のショックか一時的な記憶|喪失《そうしつ》になってたみたいだ。だから本人の記憶も、警察の記録も、間違いはないよ」
その言葉に、流がうなずく。
「どっちにしろ、そいつは並の人間にできることじゃないな」
「とにかく、これからも監視は続けたほうがいい。そして問題が大きくなる前に、どうにかしないとね」
それは、その場にいる全員の思っていることだった。
「流は、大会関係者や各道場を調べてみてくれ。かなたは、緒方の監視だ。ぼくは、もう少し情報を集めてみるよ」
「了解《りょうかい》」
流はうなずくと、席を立つ。
「調べもの、ちゃんとやってよね!」
「心配すんなって。やることはちゃんとやるよ」
その言葉に、残った大樹とかなた、それにうわべりはやれやれと首を振る。そしてそれぞれがそれぞれに、動き始めた。
7 猿淵
厳しい残暑の中、緒方とかなたは青梅《おうめ》の静かな住宅地を歩いていた。
夏の名残《なごり》を最後に叫《さけ》ぶかのようにツクツクボウシが鳴き、太陽はまだその力を衰《おとろ》えさせずに、二人の頭上に照りつける。
「結局ここの道場も、だめだったね」
滝のように滴《したた》る汗を拭《ぬぐ》い、かなたが緒方を見上げる。
「これで先輩の行きそうな道場は全部だ。となれば、残っているのは例のシャイテクの練習場だけだな」
緒方も汗を払い、いま出てきた道場を振り返る。
「でも住所もなにも不明でしょ? シャイテクのゲーム開発ビルだってかなりたくさんあるし、社員寮なんかも含めたら、どこにあるのかなんてぜんぜんわかんないよ」
「そうだよなぁ」
かなたの意見に、緒方はがっくりと頭を垂《た》れる。
いま、彼ら二人は野口の足跡を追って、東京中を歩き回っていた。本来は緒方がひとりでやっていたことなのだが、監視の意味も含めて、かなたがそれに協力しているのである。そしていまや、その捜索範囲は青梅にまで、至っていた。
「それよりさ、そろそろ休憩《きゅうけい》しない? 汗でべたべただし、陽《ひ》に当たりすぎて頭くらくらするし、喫茶店でお茶とかしたいなー」
同じ汗だくでも、まだまだ元気そうな緒方を見て、かなたは子供っぽい声を出す。果たして妖怪《ようかい》が日射病や脱水症状で倒れるかどうかは試したことはないが、かなたはいまならできるような気がしていた。
「……そうだな。もうこの近くには目的の場所もないし、ちょっと休憩でもするか」
「わーいっ、やったね!」
緒方の言葉に、かなたは元気に飛び跳《は》ねた。ちょっと暑さにくらくらしたが、涼しいクーラーの効いた喫茶店で飲む冷たいジュースを思い浮べれば、どうということはない。
「喫茶店か。このへんに、どこかあったかな……」
緒方は周囲を見回し、手元のポケット地図を見る。
「えーと、いまがここだから……あれ?」
「どしたの? 早く行こうよっ」
突然歩みを止めた緒方の腕を、かなたはぶらさがるようにして引っ張る。
「ちょっと待ってくれ……ここが二丁目だから……こっちだ」
「ねぇっ、どこ行くの!? 喫茶店は? クーラーは? 冷たいジュースは!?」
「悪い、もうちょっとがまんしてくれ」
あっさりとかなたを一蹴《いっしゅう》し、緒方はずんずんと歩いていく。そして十五分ほども歩いたころだろうか。緒方は突然、足を止めた。
「もうっ、いきなりどうしちゃったのよ?」
長年|鍛練《たんれん》を積んでいる緒方はともかく、かなたはもうバテバテだ。だけど妖怪が日射病で倒れたって言ったら、流や大樹がなんと言って笑うか知れたものじゃない。
「やっぱりここだ……」
疲労|困憊《こんぱい》しているかなたなど眼中《がんちゅう》になく、緒方は多摩川の土手近くにある、一軒のアパートを見上げていた。プレハブ二階建ての、白を基調にしたちょっとシャレた印象のある建物だ。
「ここって、このアパートに誰か知りあいでもいるの?」
どうにかブロック塀《べい》の日蔭《ひかげ》にもたれかかり、かなたは帽子で胸元に風を送り込む。
「正確には知りあいってほどのもんでもないがな……ほら」
そう言って、緒方は集合ポストのひとつを、指差す。
「やだなぁ、また日向《ひなた》に出るの……なによ、誰が住んで……って、ええ!?」
緒方が指差したポスト。
そこには、猿淵≠ニいうネームプレートが、貼《は》られていた。
「まさか、あの猿淵?」
「そう。流くんが調べてくれた住所を、なんとなく覚えてたんだ。まさかちゃんと表札《ひょうさつ》まで出してるとは、思わなかったけどね」
そうつぶやく緒方の顔が、一瞬|狂暴《きょうぼう》な色を見せる。普段が柔和《にゅうわ》な表情なだけに、かなたは思、わずぞくりとした。
「でも、緒方さん。猿淵武志のアパート見つけて、どうするつもりなの? まさか襲撃《しゅうげき》するわけにもいかないでしょ?」
かなたの問いかけを受け、緒方は少し驚いたようにかなたを見下ろす。その表情は、もとの穏やかなものに戻っている。
「そうだな……すまん。近くだと思うと、ついどんなところに住んでいるのか、見てみたくなってな」
緒方は猿淵のプレートに手を置くと、苦笑する。
そんなときだ。
「どちらさまですか?」
緒方とかなたの背中に、詰問《きつもん》口調の声が、浴びせられる。凛《りん》とした、聞き取りやすい女の声だ。その声に、二人は思わずびくりとなって、振り返る。
「なにか、うちにご用でしょうか?」
明らかに警戒心《けいかいしん》をむき出しにして、声の主はもう一度|尋《たず》ねる。
「いや、あの、その……」
緒方は一瞬、言葉に詰まった。驚いたこともあるが、相手が声の印象そのままの美人だったからだ。
年のころは、二十歳前後だろうか。白いワンピースに艶《つや》のある真っ黒な髪が、とても印象的だ。しかも緒方は、その顔にどこか見覚えがあった。
「ご、ごめんなさいっ。別にあたしたち、怪しいものじゃないから……ほら、緒方さんっ」
かなたはぺこぺこと頭を下げ、呆然《ぼうぜん》としている緒方の腕を引っ張る。しかし当然、びくともしない。
「あんた、猿淵泉さん?」
「ええ、そうですけど……それがなにか?」
うわべりからの――緒方にとっては流からの情報で、猿淵に妹がいるのは知っていた。だがその存在を、あまり認識していなかったのだ。しかし冷静に考えれば、武志があれほどテレビ映えする美男子なのだ。妹が美人なのは、ある意味当然かもしれない。
「あんた……どこかで……」
「緒方さんってばっ!」
必死に踏ん張るかなたを引きずり、緒方は泉に一歩近づく。
「わかったぞ! あんた、川村いずみだ!」
緒方はぽんっと手を打ち、喉《のど》のつかえが取れたかのように、はっとした表情を見せる。
「へ……? 川村いずみって、四、五年前に突然引退したアイドル歌手の、川村いずみ?」
緒方の言葉に、かなたも腕を引っ張るのをやめて泉を見やる。メイクも薄いしショートだった髪もずいぶんと伸びているけれど、言われてみれば確かにテレビでよく見たアイドル、川村いずみだった。
「ひょっとして、あなたあのとき、わたしを助けてくれた……」
そうつぶやく泉の表情から、警戒心が消える。そしてどこか懐《なつ》かしむような表情が、浮かびあがった。
「なに? どして? 二人は知り合いなの?」
かなたは事情がわからず、お互いの顔を交互に見る。
「なんというか、まあ、おれはもともと川村いずみのファンだったんだが……」
そう言って、緒方は照れ臭《くさ》そうにかなたを見下ろす。
「前にちらっと話したと思うけど、おれが日本を出る理由になった、乱闘《らんとう》事件……あれ――」
「ひょっとして、川村いずみを助けようとして!?」
驚くかなたを前に、緒方ではなく泉本人が、うなずく。
「緒方さん、日本を離れてらしたんですね……どれだけ連絡を取ろうとしても、できないわけだわ」
どこか震《ふる》える声で、泉は告げる。それは数年来会うことのできなかった、恋人同士のようでもあった。
「おれも、まさかあんたが引退してて、しかも猿淵の妹だなんて思わなくて……」
「立ち話もなんですし、とりあえず上がってください。兄以外でせっかく会えた特別な人ですもの……さあ」
どこかぎこちない二人の態度に軽くため息をつきつつ、しかしかなたは泉の言葉を聞き漏《も》らしたりはしなかった。
兄以外の特別な存在[#「兄以外の特別な存在」に傍点]――運命の出会い、などとロマンチックなことを考えているわけではないだろうと、かなたは感じている。
(この人は、緒方さんの正体《しょうたい》を知っている……)
それが、かなたの推測だった。
「そちらのお嬢さんも暑さに参っているみたいですし、どうぞ遠慮しないで」
笑うのが商売だったアイドルだけに、そう告げる泉の笑顔は、眩《まぶ》しいぐらい魅力的だ。しかも、それは作り笑いではない。
「あ、はあ、それじゃ――」
「遠慮してもらおうか」
頭を掻《か》き掻き泉について行こうとした緒方の動きが、ぴたりと止まる。
「遠慮しろって言ってるんだよ、デカブツ」
その声に、かなたは恐る恐る振り返る。それに続いて、緒方も振り返った。
「猿淵……武志」
「人んちの前で、妹ナンパしてんじゃねぇぜ」
タイトなレザーパンツに、着崩《きくず》したワイシャツ。
そこに立っていたのは、いま日本で一番強いと呼ばれる男――猿淵武志であった。
8 襲いくる刺客
「兄さん、やめて! この人はわたしの恩人《おんじん》なの!」
ゆっくりと緒方に近づいてゆく兄を止めようと、泉が武志の前に立ちはだかる。だがそれをぐいっと押しのけて、猿淵武志は緒方の数歩前まで、間合いを詰めた。
「どこの誰《だれ》かと思えば、必死に予選を突破したナントカってデカブツじゃねぇか」
噸《あざけ》るような笑みを浮かべ、猿淵は緒方に言い放つ。
「コケの一念ってやつかい? ずいぶんとみっともない試合ばっかりだったが、予選突破オメデトウ。すぼらしい健闘だったヨ」
その人を小馬鹿にしたような物言いに、緒方の眉《まゆ》がぴくりと動く。じりっと地面が鳴り、二人の間合いがさらに狭《せば》まった。緒方が、一歩前へと出たのである。
「……こっちは限りなく普通の人間なんでな。化物《ばけもの》とは、いっしょにされたくはない」
そう言い放った緒方に、今度は猿淵が眉を動かす番だった。再び半歩進み、お互いの視界がお互いの体で遮《さえぎ》られるほどに、近づく。
「なんならその化物の力で、てめぇをプチっと潰《つぶ》してやろうか?」
すさまじい眼光で、猿淵は緒方を睨《にら》みつける。身長差は十センチを越えるが、その迫力は伯仲《はくちゅう》していた。
「望むところだ、と言いたいところだがな……おれはリングの上でだけ、おまえと闘う」
「ケッ、腰抜けが。おれはいつでもいいんだぜ?」
そう言い放って拳《こぶし》を鳴らす猿淵に、緒方は初めてにやりと笑ってみせた。
「野口先輩を公衆の面前で倒したおまえだ。おまえの血で味付けしたキャンパスをたっぷりと舐《な》めさせなきゃ、おれの気がすまないんでな」
「そーかい。てめぇ、あのロートルおやじの後輩かよ。どうりでイモだと思ったぜ」
猿淵がそう言った瞬間、風が喰《うな》りをあげた。同時にパパンッと乾いた音がなり、二人の体が離れる。
「……なるほどな。それが泉を助けたっていう、化物の拳かよ」
猿淵は頬《ほお》を流れる血を拳で拭《ぬぐ》い、それを舐め取る。緒方も眉から滴《したた》る鮮血《せんけつ》を親指で払い、静かに体の左を猿淵に向けた。
「二人ともやめて! あなたたちが本気で闘ったら、どうなると思ってるの!」
泉が再び二人の間に割って入ろうとするが、今度は緒方がその体を止めた。そしてかなたのほうへと、軽く押しのける。
「……かなたちゃん、泉さんを、頼む」
そう告げる緒方の体から、ぼうっと闘気のようなものが、かなたには見えた。それは緒方が、本気[#「本気」に傍点]で闘うつもりであることの、表われのようにも思える。
「緒方さん、マズいよ……こんなところで闘ったら、人がいっぱい集まってくるしさ」
「いや」
かなたの意見を、猿淵が否定する。
「人はこない。来るのは、化物だけだ」
「えっ?」
そのとき初めて、かなたはこの場を包む不思議な空気に気がついた。そしてその空気は、一般の人間が近づくことを、許さない。
「人払いの結界《けっかい》!?」
思わず、かなたは叫ぶ。
人払いの結界とは、妖怪《ようかい》がその正体を現すとき、人に見られないようにするために張る結界のことだ。普通の人間なら、その結界の中へは「なんとなく」入りたくなくなる。無意識のうちに、近づくことを避けてしまうのだ。
「ちょっと、マジ……?」
かなたは猿淵がそこまで本気なのかと、正直驚きを隠せなかった。もしここで猿淵が正体を現して緒方を完全に抹殺《まっさつ》しようとするならば、その対象にかなたも含まれるはずだ。
そしてかなたには、猿淵のような戦闘型《せんとうがた》の妖怪と闘う力は、ない。
「コソコソ隠れてないで、出てきたらどうだよ!?」
振り返り、猿淵は叫んだ。すると外のブロック塀《ベい》の角から、ぞろぞろと数人の若者が姿を見せる。
「な、なんなの……?」
再び、かなたは驚かされた。
まず、人払いの結界の中に、猿淵や緒方以外の存在がいたこと。
そしてその若者たちの、珍妙《ちんみょう》な恰好《かっこう》に、驚いた。
「なかなか、ふざけてやがるな……」
さすがの猿淵も、口許《くちもと》に複雑な笑みを浮かべる。それほど、その若者たちは異様だった。
「……あれって、ゲームのキャラクター、よね?」
「うん……NJPのキング・オブ・バトラーズに出てくる、人気キャラクターだよ」
泉の疑問に答えつつも、かなたはそれが意味することがよくわからなかった。
若者の数は、四人。ひとりは短い学ランに、鉢巻《はちま》き姿。ひとりは赤く染《そ》めた髪に、ビジュアル系の服装。ひとりはテコンドーの遺著らしいものを着た、青年。あとひとりは女性で、異様に布地の少ない和服という恰好をしていた。
「最近|流行《はや》ってる、コスプレってやつ?」
「それにしちゃ、よくできすぎてる気がするなぁ……」
コスプレという単語自体がよくわからない緒方にも、かなたの言葉の意味は理解できた。
見るからに異様な仮装行列。しかしその全員から、緒方は危険なほどの戦闘力を感じていたのだ。強いものだけが感じる、強い相手を嗅《か》ぎ分ける嗅覚《きゅうかく》。それが、この奇妙な集団を鼻で笑うことを、させないでいた。
「そんだけ目立つ恰好をして、人払いをするとはもったいない話だぜ」
そう言ったのは、猿淵だ。そして現在日本最強の男は、静かに構えをとる。それに反応するように、四人の若者はそれぞれ構えをとった。
「人払いをしてる……じゃあそいつら、みんな妖怪なわけ!?」
「そういうことだ!」
ビジュアル系の赤毛と学ランの男が奇妙な構えを見せたとき、猿淵と緒方は咄嗟《とつさ》にガードを固めた。それと同時に、赤毛と学ランの手から、それぞれ炎がほとばしる。
「うそっ、必殺技まで使えるわけ!?」
「ゲームのキャラクターだからな!」
まるで動じることもなく、猿淵は一気に炎を飛び越え、間合いを詰める。さすがに突然の炎に驚かされた緒方は、身を捻《ひね》ってやりすごすのが精一杯だ。
先を取った猿淵は、赤毛の男に横蹴《よこげ》りをガードの上から叩《たた》き込む。そこからさらにラッシュをかけようとするが、人間とは思えない跳躍を見せた女が上空から体ごと飛び込んで来たため、やむを得ず後退してかわす。
逆に先手を取られた緒方には、やはり人間離れした跳躍を見せたテコンドー男が飛びかかっていた。頭上からの踏みつけをどうにか受け、着地と同時の足払いを避け、そこからどう見てもおかしな繋《つな》がりを見せる開脚《かいきやく》かかと落としをなんとかいなす。
「なんだってんだ、こいつら……ぐわっ」
一瞬の隙《すき》をついて、学ラン男が駆《か》け込んでくる。そいつは緒方をひょい《ヽヽヽ》と片手で掴《つか》み上げると、突然手のひらから炎を吹き出させ、緒方を火だるまにした。
「どん臭いことしてんじゃねぇよ、オラ!」
地面を転がる緒方に追い打ちしようとしていたテコンドー男を猿淵は突き飛ばし、緒方の前に立つ。四人のゲームキャラたちは、いったん間合いを離し、様子を見るようにフットワークを刻んでいた。
「人間離れ、とかそういう次元の話じゃあないな」
大火傷《おおやけど》にはいたらなかった緒方は立ち上がると、燃えカスになったTシャツを破り捨てる。
「なかなかゲームに忠実な動きを、見せてくれるな。よっぽど、本物志向のコスプレイヤーらしいぜ」
そうつぶやく猿淵の表情からも、余裕が消えていた。実際の格闘技では無敵とはいえ、彼には飛び武器も無敵技も、超必殺技もないのだから。
「さすがに辛《つら》い相手だが……なんでやつら、一気にしかけてこないんだ?」
かなり遠い間合いでじっとしている四人組を見て、緒方が首をかしげる。なにか腰だめにして、力んでいるかのようだ。
「やべぇ、あいつらゲージまで溜《た》め始めやがった!」、
「なんだその、ゲージってのは?」
「超すごい必殺技を放つための、エネルギーみてぇなもんだよッ」
「……おまえ、ゲームに詳しいな」
「いいから黙って突っ込め!」
叫《さけ》び、猿淵は四人組へと駆け込んでいく。今度は緒方も遅れずに、それに続いた。
敵の接近を感知し、四人組は気合いを溜めるようなポーズを解除する。そして前に立った学ランと赤毛が、二人の攻撃に反応して、炎をまといながら上空へ昇るような技を繰り出す。
「ぐわっ」
「くそっ、ちくしょうがッ」
二人はあっさりと吹き飛ばされ、転がされる。しかも炎の影響で、体のあちこちに火傷ができていた。
「いまの手ごたえ、妙だぞ!? まるでおれのパンチがすり抜けるみたいだった!」
「格闘ゲームのキャラクターってやつはな、必殺技の発生時には、無敵時間があったりするんだよ!」
「……そいつはうらやましい話だ」
二人がどうにか起き上がったときには、四人は再び気合い溜めのポーズをとっていた。四人ともが周囲の砂塵《さじん》を巻き上げるようにして気合いを集め、やがてその全身がピカリと光る。
「二人とも、気をつけて! ゲージ溜まっちゃったよ!」
かなたの声に、猿淵が舌打ちする。
「おい、猿淵。おまえゲームに詳しいなら、その超必殺技ってのの弱点、知らんのか?」
「知ってるよ」
「ホントか!?」
半分ヤケくその質問に返事があったので、緒方は思わず猿淵を見る。しかしその横顔は、皮肉な笑みに歪《ゆが》んでいた。
「二人は全身火だるまになって突っ込んでくる。あとの二人はダッシュで近づいて、十数発の攻撃を数秒間に叩き込む連打系だ」
「……それで、弱点は?」
「ガードすれば、反撃できる」
猿淵の答えに、緒方は思わずひっくり返りそうになった。数秒間に十数発ガードするだけでも至難《しなん》の技だろうに、どうやって炎の塊《かたまり》をガードすればいい?
「レバーを後ろに入れたり、ガードボタンを押したり、誰かしてくれねぇかな……」
いまにも超必殺技を繰り出してきそうな四人を前に、さしもの猿淵も途方に暮れていた。そんなとき、彼らの背後にいたかなたが、すばやく対峙《たいじ》する両者の真横へと移動する。
「かなたちゃん、危ないから下がってて!」
そう叫ぶ緒方の声も無視し、かなたは互いの真横の位置で動きを止めた。そしてスケッチを描くときのように、指で四角のマスを作り、微妙《びみょう》に後退する。
「あなたたちのレバー、あたしが操作してあげるわ!」
位置を決めたかなたの声に、二人は一瞬意味を図りかねる。
「いいから、あと三歩前に出て、しゃがんで!」
「しゃがんでって、おまえ……」
「いいからっ!」
三歩前といえば、ほとんど敵の間合いだ。そんなところでしゃがめば、ゲームのキャラクターと違って、回避もガードもままならない。しかし緒方は、黙って慎重に、かなたの指示に従って前進した。
「おい、てめぇっ」
「あんたもやるのっ!」
即座に、かなたの叱咤《しった》が飛ぶ。それを受けて、猿淵もしかたなく、緒方にならった。
二人が動き出したことに合せて、四人の敵も反応する。しかしすぐに、攻撃してくる様子はない。まるでしゃがんだ緒方を警戒《けいかい》するように、前後運動を始めていた。
「そこで、軽く足払い出して!」
「んなの当たらねぇだろが!」
「出せっつってんでしょ、このサル公――」
かなたのあまりの口ぶりに、猿淵は思わずカッとなる。
「そこまで言ってどうにもならなかったら、あとでフクロにしてやるからなッ!」
「いいからさっさとやれ、猿淵」
「てめぇにまで指図《さしず》されたかねぇ!」
緒方にそう言い返しつつも、二人は呼吸を合せて同時に軽い足払いを出す。するとどうしたことか、相手は四人が四人とも、無防備にふわりとしたジャンプで飛び込んできた。
「そこでアッパー!」
今度はかなたの指示通りに、二人は同時に立ち上がりざまのアッパーを繰り出す。すると今度は、まるで吸い込まれるように二人ずつ、重なり合うようにして猿淵と緒方のアッパーを食らっていた。
「うおっ」「きゃあ」「ぐわっ」「ちぃっ」
四人はそれぞれ小さな悲鳴をあげ、地面に着地する。今度は二人ともばっちり手ごたえを感じていたが、しかし相手は顔色一つ変えていない。
「さすがゲームキャラ、疲労の色はないってわけかよ」
「いいからもう二歩踏み込んで、しゃがんで足払い!」
「へいへい」
二人は指示通りに踏み込み、足払いを放つ。再び四人はジャンプし、猿淵と緒方はこれをアッパーで撃墜《げきつい》する。悲鳴もさっきと同じ。吹き飛ぶポーズも同じだ。
「今度は一歩踏み込むだけ! 足払いは軽く二回――」
緒方たちが指示通りに一歩踏み込むと、不思議なことに四人は壁にでも追いつめられたかのように、それ以上後退しなくなった。そして再び、足払いに反応してジャンプしてくる。
「なんだか急に、作業みたいになってきたな」
敵をアッパーで撃墜しながら、緒方が横目で猿淵を見る。
「思い出した」
「なにをだ?」
「このゲームの、ハメ・パターンをだよ」
つぶやきつつ足払いを二回出し、飛んできた相手を再び撃墜する。
そのパターンを、十数回は繰り返したころだろうか。四人の敵はひときわ大きな悲鳴をあげてダウンすると、そのままぴくりとも、動かなくなった。
「やったぁ!」
反復運動にいいかげんうんざりしていた二人の代わりに、かなたが歓声《かんせい》をあげて勝ちポーズを決める。
そして疲れ果てた二人は、どさりとその場に、しゃがみこんだ。
9 緒方の正体
「ただいまー」
少しぐったりした声と共に、かなたはバー <うさぎの穴> の扉《とびら》をくぐった。そんな彼女を、このバーのマスターであり、彼女の父親である初老の男が優しい声で「おかえり」と笑いかけてくれた。
「よぉ、かなた」
今日は先に来ていた流が、苦笑混じりに振り返る。見れば大樹と、それから高校の制服を着たままの女の子――名前は穂月《ほづき》湧《ゆう》という――もいた。
「ずいぶんへばってるじゃないか。今日は緒方の正体《しょうたい》、掴《つか》めたのか?」
「うーん、掴めるかもねー」
冷たいコーラを二つ頼み、かなたは帽子で頭をばたばたと仰《あお》ぎつつ、流のいるテーブル席へと向かう。
「掴めるかもって、どういうことだよ?」
「ま、こういうことだ」
そう答える声と共に、大柄な男が扉を文字どおりくぐるようにして、入ってきた。その姿に、流は思わずどきりとなる。
「お、緒方……さん」
「ども、お久しぶり」
複雑な笑みを浮かべながら、緒方は流たちのいるテーブル席へと向かう。決して狭い店ではないのだが、この男が入ってきた瞬間、少し手狭《てぜま》になったように見えた。
「当人を連れてくるとは……ちょっと大胆《だいたん》すぎやしないかい?」
当人が目の前にいるのに、大樹はかなたにそう告げる。
「大丈夫だよ。この人、悪い人じゃないし」
あっさりとそう言って、かなたは運ばれてきたコーラを一気に飲み干す。
「本性を現したら、そうともかぎらないじゃないか」
「大樹さん、一応本人の前なんだし……」
そう言って横から大樹をつついたのは、湧だ。しかし緒方は、さほど気を悪くした様子もなく、少し恥ずかしそうに頭を掻《か》いている。
「安心してください。あなたたちの言う本性ってやつ……実はおれ、自分の意思では出せないんで」
緒方の言葉に、流が「それって安心できないじゃん」と口の中だけでつぶやく。
「緒方さん、酒さえ飲まなければ大丈夫なんだって。だから悪いけど、今日はみんな、お酒は遠慮して」
「ひょっとして、酒乱なわけ?」
「いや、お恥ずかしい」
かなたに勧められるままに席に座り、緒方はまた、苦笑する。流は飲んでいたビールを一息で飲み干すと、ジンジャーエールを注文した。
「それで、かなたはこの人の正体、突き止めたのかい?」
「ううん、まだだよ。実は緒方さん自身、自分の正体がわからないらしくって……」
かなたの言葉を受け、緒方は珍しく寂《さび》しげな表情をちらりと見せた。それをごまかそうとしてか、コーラを一気に飲み干す。
「おれは自分が普通じゃないことは、ずいぶん昔から感じてた。ガキのころからケンカでは負けなし、少々のことじゃロクに怪我《けが》もしない。それを気味悪がられて孤立して、思春期のころは結構無茶もやったしね」
そう言って苦笑するものの、緒方の表情には、どこか陰《かげ》がある。
「でもそれは全部、あんたたちのいう本性の仕業《しわざ》だったんだろうね」
「緒方さんの正体……あたしはたぶん、鬼≠セと思うんだ」
「鬼!?」
その場にいた全員が、驚きと警戒《けいかい》の声をあげる。
鬼は、日本に限らず全世界で同様の民話や伝説があるほど、ポピュラーな妖怪《ようかい》だ。中でも日本の鬼は、天狗《てんぐ》と並ぶメジャーな存在である。
巨漢で、角があり、乱暴で酒と女を好み、ときどき山から降りてきては人里に害を為す。それが、一般的な鬼のイメージだ。そしてそれは、確かに緒方の特徴と、符合《ふごう》する部分も多い。
もし緒方が本当に鬼で、それも狂暴な本性を持っているとすれば、危険極まる存在だ。場合によっては、龍《りゅう》を正体に持つ流ですら、手に余るかもしれない。
「……それで、その根拠《こんきょ》は?」
一番に冷静さを取り戻した大樹が、静かな声でかなたに尋《たず》ねる。しかしそれには、緒方が身を乗り出して反応した。
「……以前おれが日本を離れる原因になった、乱闘《らんとう》事件……おれはあのときすぐに気を失って、倒れたものだと思ってた。だが、そうじゃなかったんだ」
テーブルに両肘《りょうひじ》を置き、手の上に額を乗せる。
「おれはあのとき、夢を見てたんだ。すさまじい力で、何人もの敵を薙《な》ぎ倒す夢を……しかもそれは、自分が化物《ぱけもの》になって人を殺すっていう、悪夢だった」
そこまでつぶやき、顔をあげる。
「だがそれは、夢じゃなかった! ミラーに映ったおれの姿こそ、おれの本性だったんだ!」
少なからずショックを受けた様子で、緒方は再びうつむいてしまった。
「おれはいままで、自分が強いこと、そして武道家であることを誇りに思っていた。人より努力して、人より強くなったんだという自信があった……だけどそれが、実は化物の力だったなんて……な」
緒方はどうにか顔をあげたが、その表情には皮肉な笑みが張りついていた。そんな緒方の手を、咄嗟《とっさ》に掴《つか》むものがいた。
湧である。
「緒方さんの、その苦悩……わかります。あたしも自分の力が、自分の努力の結果なのか、そうじゃない力によるものなのか、悩んだことがありますから」
そう告げる彼女の両耳には、真新しい絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》られていた。半袖《はんそで》の制服からのぞく肘のあたりも、擦《す》り傷だらけだ。
「柔道、かい?」
緒方の問いに、湊はこくりとうなずく。一見すると普通の女子高生だが、湧はかなり熱心な柔道少女だ。練習で腕は擦りむけるし、寝技の練習のあとは、手当てを怠《おこた》ると耳がすぐに潰《つぶ》れてしまう。
「確かに超常的な力を持っているってことは、アンフェアに感じられるかもしれない。実際勝負を決する競技になれば、その差は歴然だし……」
その言葉に、緒方は自分の異常な打たれ強さを、思い出す。
「あたしの場合は柔道だから、力や頑丈《がんじよう》さはあんまり関係ないけど……でも、超常の力があるからって、武道を学ぶ心に違いはないと思うんです」
そう言って微笑《ほほえ》む湧を見て、緒方ははっと気づく。
「ひょっとして、きみも……」
「ええ。実はあたし、蜘蛛女《くもおんな》なんです」
湧はあっけらかんと、そう言い放った。その態度に、緒方は思わず目が点になる。
「それにそもそも、ここに集まった人間……あ、人間じゃないか、ま、いいや、ともかく」
ごほんと呟払《せきばら》いひとつして、湧はにっこりと微笑む。
「ここに集まってるのは、全員妖怪なの。笑っちゃうでしょ?」
「妖怪?」
「そ。流さんは半人半龍、大樹さんは算盤《そろばん》坊主。かなたちゃんは化け狸《たぬき》だし、あたしなんてさっきも言ったけど、よりにもよって蜘蛛女ですよ?」
湧はそう言って、両手の指をわしゃわしゃと動かした。どうやら、蜘蛛のつもりらしい。
「きみが、蜘蛛女……」
「そう」
「かなたちゃんが、化け狸」
「驚いた?」
どう見ても中学生ぐらいの女の子にしか見えないかなたを、緒方は見開いた目で頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで見下ろす。
「それからおれが、鬼……」
そして最後に、緒方は自分の両手を見下ろした。
「おれは、妖怪……ここにいるみんなも、妖怪……」
緒方の両手が、両肩が、小刻《こきざ》みに震《ふる》え始める。大きく力強い緒方の腕が震えるだけで、テーブルに乗ったグラスも、大きな音を立てて揺れ始める。
「く、くくく……」
緒方の口から洩《も》れる、かすれた笑い。その様子に、その場にいる全員が思わず身構《みがま》えた。緒方がショックのあまり、妖怪化して暴れ出すのではないかと警戒したからだ。だが。
「わーはっはっはっはっはっはっはっはははははははははは!」
緒方は突然、大声で笑い出した。それも気の触れた類《たぐい》ではなく、心底愉快そうな笑いだ。
「こいつは驚いた! 世の中広いもんだ! おれだけ異常だと思って自殺まで考えたことだってあるってのに、これじゃ笑い話だな」
笑いが落ち着いてきたのか、緒方はグラスに残っていた氷を頬張《ほおば》ると、ばりばりとかじる。
「かなたちゃんや大樹さんなんかは最初から妖怪だけど、流さんなんて龍と人間のハーフ。あたしなんてある朝目が覚めたら、突然蜘蛛女だったんだもんね。その点、緒方さんと共通点は多いと思うよ」
「まったくだ。思い返せば、うちもお袋が鬼だったんだなぁ」
緒方の口ぶりに、流は眉《まゆ》を寄せる。
「……まさか、鬼ババとか言うオチか?」
「オチを先に言われちゃ困るな」
残念そうな緒方の顔に、流は思わずつんのめる。
「マジか!?」
「冗談《じょうだん》だよ」
冗談など言いそうにもない顔で、緒方はにたりと笑う。
「しかしお袋の迫力がすごかったのは、マジな話だ。おれはガキだったからそう見えただけだと思ってたんだが、冷静に考えてみればあのときのお袋の姿……あれがお袋の本性だったんだろうな」
「……つまり、鬼の姿をしていた、と?」
「ああ。証拠になるかどうかはわからんが、一度夫婦ゲンカで、一戸建てだったおれの家が完全に破壊されたことがあるんだ。お袋が、柱を全部|叩《たた》き折っちまったんだと」
緒方のその話を聞いた一同は、冗談として笑っていいのか、驚いていいのか反応に困り、お互いの顔を見合わせた。
「……お父さん、無事だったの?」
的外れな質問とは思いつつ、湧がそう尋《たず》ねる。それを受け、緒方は苦笑しながら頭を掻《か》く。
「ピンピンしてるよ。親父も名うての格闘家《かくとうか》だったらしくてね。牛や熊と闘った人間は何人かいるけど、鬼と闘った人間は珍しいわな」
まだくっくと笑う緒方は、どうやら本当に愉快な気分らしかった。いままで苦悩し、葛藤《かっとう》していたことを受け入れられた安心感、秘密を共有できる解放感が、彼をそうさせたのだろうか。
「おれはガキのころから、強さに憧《あこが》れていた。誰にも負けない強さ……小学校のころ、将来の夢に世界最強の男≠チて書いたぐらいだからな」
すうっと真剣な表情を見せると、緒方は拳《こぶし》をぎゅっと握りしめる。
「お袋から受け継いだ鬼の血と、格闘家だった親父の影響もあるだろう。とにかく、おれは誰《だれ》よりも強くなりたかった……」
「緒方さん……」
武道を志して、強くなりたいと思わないものはいない。だから同じ武道を学ぶものとして、湧にも緒方の気持ちは理解できた。
「だけど、ただ暴《あば》れていただけだったおれに、武道というものを教えてくれたのが……野口先輩だった。あの人に負けて、初めておれは本当の強さがなんなのか、考えるようになったんだ。確かにおれの力は、鬼としての本性のなせる技かもしれない。しかし腕っぷしだけが、強さじゃあないんだ。武道を学ぶ心に、違いはない……か」
湧を見やり、緒方はにっこりと笑う。
「ありがとう。忘れていたものを思い出した気分だよ」
「あ、その、いや……なんだかそんな風に言われると、照れちゃうなぁ」
本当に顔を赤くして手をばたばたと振る湧を見て、緒方は小さく吹き出す。その様子に、かなたや流も、笑った。
「もうっ、なによみんなまでっ」
そう言って湧が頬を膨《ふく》らますと、ますます笑いが大きくなる。
そんな笑いが、どうにか治まり始めたころ。緒方の表情が、固くなる。
「……すると、やはり猿淵の野郎も、妖怪か?」
「たぶん、間違いなくな」
急に真顔になった緒方に、流がうなずく。
「じゃあ、今日襲ってきた連中、それにリング上で消えた先輩も……」
「妖怪、もしくは妖怪が背後で操《あやつ》っている人形の類なんだろうね」
招力の言葉を、かなたが継ぐ。
それから二人は、今日猿淵家の前で起きた出来事を、手短に話して聞かせた。
まず野口将明の消息探しから始まり、猿淵兄妹との遭遇《そうぐう》。そして奇妙なコスプレイヤーの刺客《しかく》たちとの闘い。
「そいつらも、例の野口選手消滅事件のときみたいに、チリになって消えたってわけか」
「そ。あたしリアルタイムで見ちゃったけど、あれは人間なんかじゃ絶対ないわ」
流に答え、かなたはうんうんとうなずく。
「妖怪って、死ぬと消えちゃうんでしょ? じゃあやっぱり妖怪なわけ?」
そう尋《たず》ねる湧を前に、かなたは「うーん」と唸《うな》る。
「ちょっと違和感があるんだよね。ゲームのキャラクターのカッコをしてたからかもしれないけど、なんかこう点滅して消えるというか、なんというか……」
どう表現していいのかわからず、かなたは首をかしげる。
「しかしゲームのキャラクターで、チリになって消えたんだろ? 流、それってなんとなく、思い出すものがないか?」
「ああ。おれもいま、それを考えてたところだ」
流と大樹の二人は、以前コンピュータ・ゲームに潜《ひそ》む妖怪を退治《たいじ》したことがある。マーフィーという名のそいつは、ゲーム内のキャラクターの姿、力をコピーして、圧倒的な戦闘力を発揮してみせたのだ。
「当時と比べて、ポリゴン技術も格段に向上している。あのころ同時に秒間三十万少々のポリゴンしか表示できなかったのに比べて、シャイテクの次の新機種は、数千万という話だからね。光源の処理なんかも圧倒的に発達してるし、外見だけなら本物の人間並のモデリングも可能だよ」
ポリゴンというのは、昨今のゲーム業界では当たり前の言葉になってしまったコンビュータ・グラフィクス技術のことだ。三角や四角の板を組み合わせて立体のCGを作る技術――と数年前までは紹介されていたが、いまではもはやポリゴンの精度が上がり、一個のポリゴンはチリのごときつぶつぶになりつつある。数年後には、さらに細密になっているだろう。
「そういえば確かに、どこかマネキンみたいな硬質感《こうしつかん》があったな」
闘いのときを思い出している緒方に、かなたも同意するようにうなずく。
「するとリング上で消えた野口は、偽物《にせもの》のポリゴン人形ってことかよ?」
「おそらくね。たぶんライブで消えたロック歌手も、同じだよ」
「じゃあ本物の野口先輩は、どこにいるんだ?」
緒方のその問いに、誰も答えられるわけがなかった。だがどうしていなくなったかは、誰にでも連想できることだ。
「あのうさん臭いスカウトマン……シャイテクの開発部とやらに一週間来いとか言っていたが、その間にコピーを取られちまうってカラクリだろう?」
流のその意見に、誰もがうなずく。
「歌手やアイドルにしても、そうだ。泉さん――猿淵の妹だが――が拉致《らち》されそうになったのも、事務所近くのマンションに引っ越せという命令を拒否した直後らしい」
そう言って、緒方はぽんっと拳で手のひらを打った。
「今日猿淵のアパートに来た四人のゲームキャラも、猿淵兄妹を拉致するために送られた刺客だと思うんだ。だってあれだけの人気者、コピーして自分の管理下に置いたほうが楽でしょ?」
「確かにね。するとKOの人気選手はほぼ全員、すでにコピーされたキャラクターというわけか。うわべりがモニターできなかったことも、これでうなずける」
かなたの意見を肯定し、大樹は開いたノートパソコンに最新情報をメモる。
「しかし目的はなんなんだ? そして誰が、そんな手の込んだことをしている?」
流の言葉に、大樹の眼鏡《めがね》がきらりと光った。
「シャイアーテックス」
世界規模の勢力を持つ、複合企業。大樹は以前から、その背後になにか大きな陰謀《いんぼう》が隠されていると、睨《にら》んでいた。そしてKOの最大手スポンサーはシャイアーテックスであり、川村いずみの所属していた事務所も、資本はシャイアーテックスから出ていた。
いまやシャイアーテックス社はその名を、姿を変え、あらゆるメディアにその手を広げている。コンピュータの二千年問題も、シャイテクが周到《しゅうとう》に準備した計画の一環《いっかん》ではないかと、最近では思っているほどだ。
「目的は、わからない。でもぼくはシャイアーテックス社――その背後に潜む何かが糸を引いているのは間違いないと思う」
「そいつは、たぶんそうだな」
流にうなずいて見せ、大樹は話を続ける。
「それに目的にしても、想像がつかないわけじゃない。アイドル、ロックバンド、KO、テレビゲーム、どれにしても若者が熱狂するものだ。しかもそこにマスコミの扇動《せんどう》が加われば、昨今《さっこん》の日本じゃ楽にブームやヒットが作れる」
「最近の若者は、情報に弱いからねー」
そう告げるかなたの言葉に、湧もしぶい顔でうんうんとうなずいた。彼女の級友であり悪友でもある詩織《しおり》と亜紀《あき》の二人は、やたらと流行《はや》りものに弱い。そして湧自身も、そんな悪友の影響で流行りものは一通り試していたりするのだ。
実際一時はルーズソックスをはいていたこともあるし、携帯のストラップはたれぱんだだ。それに以前流行りものを身につけていたせいで、ひどい事件に巻き込まれたこともある。
「それでコピーされた本体は、どうなってるんだろ?」
「たぶん、殺されたり処分されたりはしてないだろうね。万が一コピーのほうがトラブって消えたりしても、本体があればまたコピーできるわけだし」
かなたの質問にさらりと答えた大樹だが、その不穏《ふおん》な言葉の数々に、緒方の顔がときどき引きつっていた。
「ロック歌手が消えて変死体が見つかったときには、たぶん本体を始末してしまったあとだったんだろう。それが事故で、コピーが消えた。バックアップも取っていたはずだけど、それもなんらかの理由でうまくはいかなくなった……だから始末した本体を使って、変死事件を演出したんじゃないかな」
「その反省を活かして、それ以降は本体を残している、と?」
「憶測《おくそく》だけどね。けれど、本体ほど頑丈《がんじょう》で正確なバックアップはないんじゃないかな?」
流や湧も、「なるほど」とうなずく。
「それにいくらポリゴンの技術が発達しても、日常的な仕草や表情まで完璧《かんぺき》に表現することは無理だ。たぶんインタビューやなんかのため、それに新しいデータ取りのためにも、本体は処分してないはずだよ」
そう告げる大樹の答えに、緒方は安心していいのか心配していいのかわからなかった。
南米の緒方のもとに電話してきたとき、野口はどうにかして脱出していたのだろう。そして結局見つかり、連れ戻されたのだ。
「とにかく、これでKOが危険なことはわかったな。緒方さん、あんたやっぱり、出場はやめたほうがいいんじゃないか?」
そう提案する流に、緒方は静かに首を振る。
「グランプリ・トーナメントには、あの猿淵が出る。それにコピーとはいえ、野口先輩も」
緒方の中で、猿淵に対するライバル意識は、いまだに強い。野口を越えたいという想いも、もちろんある。
しかしそれ以上に、いま緒方を突き動かす想いがあった。
華やかにショーアップされ、きらびやかなイメージが全面に押し出されているKO。しかしその頂点を目指し、鍛練《たんれん》を積む者たちの気持ちは同じだ。
強くなりたい。
金もうけや名誉欲《めいよよく》にかられてのことも、あるだろう。
しかし強くなりたいという想いにおいて、参加者全員の意識は共通していた。強くなければ、なにも手に入らない。強くなければ、前進することすらできないのだから。
緒方はそうした格闘技の世界が、好きだった。そしてなによりも、格闘技が好きだった。
だがこの選手をコピーするやり口は、格闘技そのものを侮辱《ぶじょく》している。プログラムどおりに動くコピー人間同士の対決など、まさしく究極の八百長《やおちょう》だ。
そんなことは、緒方にはがまんならない。
だから、グランプリ・トーナメントには出場する。
武道を愚弄《ぐろう》し、悪事に利用しようとする連中に一矢報いるために。
そしてひとりの武道家、格闘家《かくとうか》として、筋《すじ》を通すためにも。
その目的のために、予選トーナメントではいくつもの夢を倒してきた。その夢ひとつひとつのためにも、いまさら引くことは、できない。
「おれは、グランプリ・トーナメントに出場する。そうすれば、背後にいる連中の注意は、おれと猿淵に集中するだろう。その隙《すき》に、捕《と》らわれた本体たちを、探してほしい」
緒方の決意、そしてその想いに、その場にいる全員がうなずく。
グランプリ・トーナメントまで、あと一週間。
闘いの日は、眼前に迫りつつあった。
10 グランプリ・トーナメント、開幕
『全世界から格闘の達人たちが集まる、世界最高の格闘技の祭典……K―0。いまここに、その最高峰である十六人のKO戦士が結集した……』
照明を落とした会場の中、静かな口調のナレーションが流れる。
『まさに世界最強を賭《か》けて闘う、最強トーナメント……KOグランプリッ!』
ナレーターがその名を叫《さけ》んだ瞬間、広大な東京ドームの中に、KOのテーマが鳴り響く。それに負けず劣らずの大音量で、観客たちが声援をあげた。
カクテルライトが七色に闇《やみ》を切り裂《さ》き、地響《じひびき》するような大音量と大声量がその場にいるすべてのものを震《ふる》わせる。
そして、激しい火薬の爆発音。
『幾多の激戦を闘い抜いてきた、鋼の男たち! 最強十六人のKO戦士、一ここに見参!』
バックスクリーン前に作られたステージに、十六本のスポットが下りた。そこから十六人の選手が、ステージの床からせりだすようにして、登場してくる。
「……テレビで見てたときから派手《はで》だなぁとは思ってたけど、その場にいるのとじゃ迫力が違うね!」
選手紹介が始まり、かなたはとなりに座る流に耳打ちをする。ちなみに彼らがいるのは、リング脇《わき》のセコンド待合い席だ。日本の格闘技関係からは村八分にされている緒方が、流たちに頼んだのである。
「最近はこうした派手さが、逆に客を安心させるからね。本当に騙《だま》されやすいものさ」
そう言ったのは、大樹だ。彼もセコンドとして、参加していた。相手がコンピュータがらみらしいということで、アドバイザーとして連れてきたのである。
「ま、メディアってやつの影響だろ」
受売りっぽい口ぶりで、流がそうつぶやく。
そんな彼と大樹は、トレパンに急遽《きゅうきょ》作った「緒方」というロゴの入ったTシャツ姿。かなたも服装は同じだが、いまは長身の女トレーナーに化けて≠「た。
「女の子も多いしなぁ。おれもKOに参加しようかな」
「バーカ」
観客席を振り返る流の言葉を一蹴《いっしゅう》し、かなたは十六人の選手を見回す。ひとりずつ紹介されるたびにファンは声援をあげていたが、さすがにかなたはそんな気分になれない。
彼らの予測では、オープン参加選手四人を除く全員が、コピー人間だと思われていた。ひょっとすれば、猿淵と緒方を除く二人のオープン参加選手も、すでにコピーかもしれないのだ。
しかしそんな中、ひときわ大きな声援があがる選手がいた。
猿淵武志である。
「やっぱ人気あるわねー」
「あれだけテレビでの露出《ろしゅつ》が多ければな。それにコピー選手と違って、あいつは生身《なまみ》だ。いかに情報やメディアに最近の人間が弱いといっても、生理的に感じ取ってるんだろうな」
ほぼすべての選手がステージ上で仁王立《におうだ》ちなのに対し、猿淵はひとりおどけたポーズを次々と披露《ひろう》している。そのたびに嬌声《きょうせい》と罵声《ばせい》があがるが、予選のときに比べて、圧倒的に罵声の比率は少ない。
「あ、次は緒方さんだ。なーんか固い顔してるなぁ」
「緊張してるんだよ。コピーじゃない証拠さ」
大樹の言葉に、かなたはうなずく。
バックスクリーンに設置されているオーロラビジョンに映し出された緒方の顔は、少し引きつっていた。これほどショーアップされた会場は初めてなのだから、緊張しない猿淵のほうが、普通ではないというべきだ。
そうこうしているうちに全員の紹介が終わり、選手|宣誓《せんせい》、そして主催者である神道会館の菱井館長のあいさつが行なわれる。
「いよいよだね」
「ああ。そうだな」
会場全体の光量が落ち、スポットもすべて消える。そしてBGMがフェイドアウトして一瞬会場がシンとした直後、すさまじい音量で音楽が会場全体に吹き荒れた。
花道にスポットが当たり、ひとりの選手が入場してくる。音楽はその選手のテーマ曲だ。激しいロックの伴奏《ばんそう》に乗って、リズミカルな足取りでリングへと向かっていく。
そしてその選手がリングに上がると、今度は別のテーマ曲が大音量でかかった。ラテン系の独特のリズムが会場を揺らすが、花道を歩く選手の足取りはまるで熊が歩くかのようにのそのそとしている。
「もう少しかっこよく現れてもいいのになぁ」
花道に現れた緒方を見て、流が苦笑した。鮮《あざ》やかなオレンジのカラー道着はなかなか映えているが、いかんせん本人が地味《じみ》すぎる。
「一回戦は、優勝候補の一角、マイケル・トンプソンだよ。がんばって応援しなきゃね」
「それ、セコンドのセリフじゃないぜ」
かなたにそう突っ込みを入れつつも、実際それ以上のことができないという意味では、流も大樹も同じだ。あとはせいぜい、ラウンドごとに椅子《いす》を入れて、うがいをさせることぐらい。傷の手当ても、まともにできはしないのだ。
「麟ちゃんがいてくれればねー」
思わず、かなたがぼやく。
麟というのは、秋葉原にある <海賊《かいぞく》の名誉《めいよ》> 亭というネットワークに所属する麒麟《きりん》である。癒《いや》しの能力を持つ数少ない妖怪《ようかい》だが、それだけに引く手|数多《あまた》で都合がつかないことが多い。
それに加えて、緒方が嫌がったこともあって、無理に呼び出さなかったのである。武道家として、これ以上超常の力に頼りたくなかったのだろう。
「なにもかも不利なのはしょうがないが、とにかく頑張ってもらおうか」
リングにやってくる緒方を迎え、流たちもリング脇に移動する。
数分後には、一回戦のゴングが鳴る。流やかなたも、徐々に緊張が高まってゆくのを、自覚し始めていた。
「あいたたたた……」
一回戦を終えた緒方は、控室《ひかえしつ》に戻るなり、床に大の字になった。その顔面は、ボコボコに腫《は》れ上がっている。
「よくそこまで殴《なぐ》られて、平気ね」
「平気なら、痛がったりしないさ」
グローブを外してもらいながら、緒方はかなたに反論する。その両腕も、かなり赤く腫れ上がっていた。
「まるで人間サンドバッグだぜ。でもよく勝てたな」
流のその言葉に、緒方は軽く親指を立てる。
「相手がボクシングからの転向選手だから、あまりローを気にしなくてよかったんでね」
「それでもニラウンド一分十三秒KO勝ちは、立派だと思うよ。しかも相手は、優勝候補だったわけなんだしさ」
「ま、パターンが読めたからな」
純粋に感心しているかなたに、緒方はそう言って笑う。
「相手が一定の行動パターンを持っているのは、この間の連中で理解したからな。これも、かなたちゃんのおかげだよ」
「えへへ、それほどでも」
少し照れた笑みを浮かべるかなたを前に、緒方はひょいっと起き上がる。
「お、猿淵は勝ったか」
控室に置かれているテレビの中で、猿淵が腕をぐるぐる回して勝ち名乗りを上げていた。すぐに試合のハイライトが流れ、KOシーンが角度を変えて三度流される。
さすがにグランプリ・トーナメント本戦、選手には小さいながらも個室が与えられていた。そこでは場内の様子がすぐわかるように、テレビが用意されているのである。
「一ラウンドKO勝ち、か。試合時間も一分かかってないとは、さすがだな」
緒方と並んでテレビを見ていた流が、ふうむと唸《うな》る。
「猿淵は緒方さんと違って、人間の姿のままでも本来の力が発揮できるみたいだからね。筋力もスタミナも、人間とは比べものにならないよ」
冷静に分析する大樹に、緒方はうなずくしかない。
「次の試合からは、生放送だからな。これから先、パターン解析程度で勝たしてくれないだろうな……」
「ここからが、苦しいね」
かなたにうなずくと、緒方は立ち上がる。
テレビの中では、次の対戦組み合わせが流れていた。それによれば、猿淵と緒方以外のオープン参加選手は敗北しており、優勝候補たちが順当に勝ち上がっている。野口将明の名前も、その中にはあった。
「猿淵の次の相手は、去年準優勝のフランコJrか」
「そういうあんただって、おととし優勝してるアントニオ・サーディンだぜ? 次も、大丈夫なのかよ?」
そう告げる流に、緒方はニッと笑ってみせる。
「少々殴られたり蹴《け》られたりは平気だからな。アントニオ得意のカカトさえ食らわなければ、問題ないさ……たぶんね」
「不安だなぁ」
心配げな顔をするかなたを前に、緒方は軽くワンツーからハイキックを素振りする。
「アントニオに勝てば、次はたぶん野口先輩だ。負けられないよ」
緒方は静かに呼吸を整えると、再び腰を下ろす。
しかしその全身からは、すでに湯気《ゆげ》のような闘気《とうき》が、溢《あふ》れ始めていた。
11 緒方対、野口
一目がかりの格闘の祭典、KOグランプリも、ついに中盤戦を終えて、後半戦へと移ろうとしていた。
現在二回戦が終わり、ベスト4が決定している。その顔ぶれの中に、緒方も猿淵も、残っていた。
「いよいよ、野口戦だな」
リングに上る緒方の道着を、流が受け取る。
「ああ。どうにかここまでって感じだがな」
振り返った緒方の顔は、予選と同じく原形をとどめていなかった。両目の上は腫れ上がり、体中テーピングだらけだ。
二回戦である、対アントニオ戦。どうにか最終ラウンドで逆転KOを収めたものの、KO戦士|屈指《くっし》のテクニシャンであるアントニオに、いいように殴り回されたのである。あれほど警戒していたかかと落としも一発肩に食らい、そこも派手《はで》に腫れ上がっていた。もし緒方でなければ、鎖骨《さこつ》を砕《くだ》かれていただろう。
しかし、いかに人間離れした頑丈《がんじょう》さがあるといっても、殴られ続ければ判定で負ける。結局のところ、相手をKOできるだけの技量がなければ、トーナメントは勝ち上がれないのだ。
「やっぱり思ったとおり、パターンは通用しなくなってる。実力の勝負になるな」
「……野口先輩には、実力で勝たないと意味がないからな。望むところだよ」
流の押さえるロープをくぐり、緒方はリングに立った。その反対側のコーナーには、すでに野口将明が立っている。
相手がコピーだとわかっていても、緒方は全身にみなぎる闘志《とうし》を、押さえることができなかった。少し形は違うが、目標だった男と聞えるのである。自然、気分は高ぶってくる。
「湧ちゃんからは、まだ連絡はないのかい?」
「うん。まだみたい」
緒方に答え、かなたはトレパンのポケットに入っているPHSを手に取る。しかしあいにく、伝言もメールもない。
「なにか手がかりが見つかれば、いいんだけどな」
その言葉に、かなたも軽く笑う。
シャイアーテックス社の関連施設に潜入を試みていたうわべりが、警備員にかかと落としを[#「警備員にかかと落としを」に傍点]食らわされて、きのう大怪我《おおけが》をしたのだ。咄嗟《とっさ》にテレビの中に逃げ込んだにも拘《かか》わらず、なにものかに追撃《ついげき》までされたのだという。
それだけ厳重《げんじゅう》な防備をしている施設となれば、なにかあると考えた <うさぎの穴> の面々は、さらなる調査を進めることにしたのだ。そして潜入能力と戦闘力のバランスを考えて、湧が抜擢《ばってき》されたのである。
「ま、どっちにしろ、おれは目の前の相手と闘うだけだ」
バンバンと、両手のグローブを打ち合せる。闘気が、両肩から滲《にじ》む。
「武道家として、野口先輩を越えること……そして超常の力に溺れ、武道家たちの夢を踏み潰《つぶ》していった猿淵を、リングの上で叩《たた》きのめすこと……」
グローブを握る拳《こぶし》が、ぎゅうっと音を立てる。
「行ってくる」
審判のコールを受け、緒方はリング中央へと進んでいった。セコンドである流とかなたはリング外へと下がり、闘いの開始を待つ。
一定の距離で立ち、野口と緒方は睨《にら》み合う。そして審判の諸注意が終わると、準決勝のゴングが鳴った。
「せいっ!」
先にしかけたのは、野口だ。彼も緒方と同じく二回の激戦をくぐってきただろうはずなのに、疲労もダメージも感じさせない。すばやい踏み込みから、後ろ回《まわ》し蹴《げ》りが飛んできた。
「つぉっ」
緒方はそれを両腕でブロックするが、それでも体が吹き飛ばされる。普通の選手なら、腕の骨が折れかねない打撃力だ。
行動パターンの変更だけでなく、攻撃力の設定も変えてきたか――緒方はびりびりと震《ふる》える腕を見下ろし、そう判断する。
だが当然、野口がその一撃だけで攻撃を中断するわけがない。続け様に左右のパンチ、裏拳、ローキック。どれもが投げつけられた岩をブロックしているかのような破壊力だ。
「くっ」
どうにか直接受けずに攻撃をよけ、反撃に転じる。しかし緒方のパンチはあっさりとブロックされ、反撃のハイキックを肩口に受けてしまった。
「緒方さんっ!」
コーナーで観戦しているかなたが、悲鳴をあげる。その声は聞こえたものの、緒方は自分が倒れることを止められなかった。しかし野口は容赦《ようしゃ》なく、倒れる緒方の顔面に蹴りを叩き込む。
「ぐぁっ」
不自然な蹴りなので、クリーンヒットはしない。しかし無防備なところを蹴られただけに、衝撃は相当なものだった。
マウスピースをしていてもなお、口の中が切れる。マットに這《は》いつくばった緒方の口から、真っ赤な鮮血がこぼれた。審判がダウン中の相手に攻撃をしかけたことを野口に警告していたが、場内アナウンスは容赦なくダウンを告げ、カウントを開始している。
「くそっ……」
どうにか立ち上がろうとするが、視界が歪《ゆが》む。手足に力が入っているのかどうかも、曖昧《あいまい》だ。しかし緒方はロープを掴《つか》むと、どうにか立ち上がろうともがいた。
「フォー、ファーイブ……」
カウントは無情に進んでいくが、ひどいダウンをすれば一発でKO扱いされることも多い。そうならなかっただけでも、緒方は自分は運がいいと思えた。
「野口、先輩……」
目の前に立つ、冷ややかなまなざしの野口。その顔を見上げ、緒方は必死に立ち上がった。そしてどうにか、カウント9でファイティングポーズをとる。
レフリーが闘えるかどうかを確認するため、緒方の目を覗《のぞ》き込む。緒方自身、まだ視界はぐにゃぐにゃと歪んでいた。だがその瞳《ひとみ》には、はっきりと闘いへの意志がある。
「ファイトッ!」
レフリーが宣言し、再び二人はリング中央で対峙《たいじ》した。弱った獲物を仕留《しと》めるがごとく、野口が猛然《もうぜん》と攻撃に出る。
最初の大振りな右ストレートをどうにかかわし、ローキックをすねでブロックする。だがそれだけで、すでに痛みが激しい。へたをすると、ローキックだけでKOされかねない。
「ええいっ、くそっ」
緒方はかすむ目を、必死にしばたかせた。ほとんど開いてないに等しいほど、まぶたは腫れ上がっている。それでもなんとかして、緒方は攻撃をかわすべく、その目を見開く。
「くぁっ」
鋭い左フックをバックスウェーでかわすが、背中にロープが当たる。コーナーを背負うまいと左に足を運ぶが、今度は重い右フックがブロックした腕ごと、緒方をコーナーへと叩き込んでいた。
(やばい……っ)
ブロックした腕ごと頭を打ち抜かれ、緒方の意識が揺らぐ。コーナーにぶつかった衝撃で息が一瞬詰まり、視界が暗くなる。
(とどめに、くる……っ)
どうにかガードをあげ、緒方はラッシュに備えた。一発でも受けそこなえば、間違いなく次は意識を刈《か》り取られる。
ぼんやりとした視界の中で、緒方は必死に野口の攻撃を追った。墨《すみ》の中でなにかが泳いでいるような、そんな曖昧な視界。そんな中、緒方は奇妙なものに気がついた。
正面に見える、野口とおぼしき影。その頭部から、青白い線が伸びている。それはリング外のどこかへと消えており、妙《みょう》にそれだけがはっきりと見えていた。
(なんだ……?)
緒方は必死にラッシュをガードし、かいくぐり、大振りになったところを転がるようにしてリング中央へと脱出する。
だが、バランスを崩した。振り返った野口が、今度は逃がさんとばかりに間合いを詰めてくる。ローは後退して避けた。だが勢いのままに来る右ストレートはガードするのが精一杯だ。それで体勢を崩されれば、次は避けられない。
「くぁっ」
緒方は必死に、ストレートをガードした。しかし予測通り、体勢が激しく崩れる。腕の骨がみしりといやな音を立て、かなりの激痛が走る。ヒビぐらいは、確実に入っただろう。
「しゃあッ!」
鋭い呼気《こき》と共に、野口がラッシュの体勢に入る。ぐらりと傾いた体では、もはや受けることすら難しい。
緒方は思わず咄嗟《とっさ》に、ぼんやりと見える白い線に、手を伸ばした。ロープまでは、遠い。せめてなにかに掴《つか》まって、倒れるのだけは阻止しようとしたのだろうか。それは、無意識の行動だった。
だが。
(どうなってる……?)
野口のラッシュは、来なかった。見れば、野口はスリップダウンしている。
(まさか……これか?)
緒方の手の中にある、線。それを、軽く引っ張ってみる。
「ぐ、うううっ」
すると立ち上がろうとしていた野口が、引っ張られた方向へとよろけた。どうやらラッシュに行こうとしてスリップしたのも、これを引っ張られてバランスを崩したらしい。
「ひょっとして、こいつがコピーたちをコントロールしているコードかなにかなのか!?」
緒方はつぶやき、思いきりその線を引っ張った。それはしばらく弾力《だんりょく》のある抵抗を見せていたが、緒方の怪力《かいりき》には耐《た》えきれず、ぶちりと切れる。
「お、が……」
その瞬間、野口の動きが完全に止まった。ガードがだらりと下がり、ほうけたように、野口は口をぽかんと開けている。
「チャンスだ!」
コーナーから、流の声が届く。緒方は当然そんな隙《すき》を逃すことなく、一気に踏み込んでいた。
「ぬぅりやああっ!」
緒方は渾身《こんしん》の力を込めて、右のストレートを繰り出す。それを野口はかわそうともせず、モロに顔面に食らっていた。野口はそのまま糸が切れた操《あやつ》り人形のように吹き飛び、マットへと倒れ伏す。
その瞬間、会場は興奮のるつぼと化した。倒れたままぴくりとも動かない野口を前にレフリーは両腕を交差させ、セコンドたちが慌《あわ》ててリング内へと駆《か》け込んでくる。
「やったぁ、緒方さんっ!」
そしてレフリーが緒方の勝ちを宣告したとき、流とかなたもリング内へ飛び込んでいた。タオルで体を拭《ふ》き、道着を肩にかける。
「やったな」
「……ああ」
流も激励《げきれい》の言葉をかけてくれるが、緒方はどこか、釈然《しゃくぜん》としない様子だった。
「野口先輩……」
手の中には、もうあの白い線はない。しかしあれがなければ、確実にマットに這《は》っていたのは、緒方のほうだ。いくらおかしな力で強化されていたとしても、結局は野口には勝てなかったのである。
「どうした、もう少し嬉《うれ》しそうな顔をしろよ」
「…そうだな」
少し無理をして、緒方は唇《くちびる》の端を歪める。そして担架《たんか》で運ばれていく野口を背に、緒方はかなたや流と共に、リングをあとにした。
12 決戦
「緒方、さん」
そう言って少し遠慮がちに控室《ひかえしつ》に姿を現したのは、元アイドルの川村いずみこと、猿淵泉だった。しかしいまは猿淵武志≠フロゴ入りTシャツにスパッツというかっこうなめで、アイドル時代のイメージはまるでない。
「泉さんじゃないスか」
簡易ベッドの上で横になっていた緒方は、慌てて身を起こす。それで体中を冷やしていた濡《ぬ》れタオルが、ばらばらと落ちた。
「こら、緒方さんっ! まだ体冷やしてないとまずいんだからさ!」
必死にベッドに緒方を押さえつけようとするかなた――といってもいまは女性トレーナーの姿だが――を見て、泉はくすくすと笑う。
「猿淵選手の、妹さんですよね? そちらも決勝に進出したわけですから、対戦相手の控室に来るのは、セコンドとしてまずいんじゃありませんか?」
大樹はそう告げると、油断なく眼鏡《めがね》の奥から泉を見る。流も少し警戒《けいかい》するように、身構《みがま》えていた。ほっそりとした女性を前に筋骨たくましい青年が身構えるのも変な話だが、あの猿淵の身内だけに、油断できない。そもそも正体《しょうたい》がなになのかも、まだわからないのだ。
「普通に考えれば、まずいですよね。でも兄に頼まれて、これを持ってきたんです」
そう言って泉が取り出したのは、小さな陶製の壷《つぼ》だった。
「わたしたちの家に伝わる、秘伝《ひでん》の薬です。緒方さん、かなりダメージが深刻みたいだから、兄が持って行けって」
その言葉に、流と大樹は顔を見合わす。
「敵に塩を送るってことかい?」
最初の少しでれっとした顔とは打って変わり、緒方は怖《こわ》いぐらい真剣な顔で泉を見る。
「兄も準決勝で、かなり手ひどいダメージを受けましたけど、これでほとんど回復してます。わたしが勝手に使って、兄に怒《おこ》られたんだけど……だから緒方さんにも渡してこいって」
泉は軽やかな足取りで緒方に近づくと、そっとその手に壷を渡す。
控室のテレビで見ていたが、確かに準決勝の猿淵の戦いは、これまで通りというわけにはいかなかった。
対戦相手は、去年優勝したアニー・エバンス。その動きは常人のそれをはるかに上回っており、一打ごとに響く打撃音も、とてもグローブをつけた拳《こぶし》とは思えないものだった。
すばやさが信条の猿淵をあっさりと追いつめ、連打を浴《あ》びせ続けるその攻撃には、さしもの猿淵も閉口したようだ。
ただ、エバンスの体がときどき透けて見えるような瞬間があること、動きがどうにもコマ落ちしているように感じることなどは、テレビを通して見ているからだけとは、思えなかった。
しかし猿淵も、パーフェクト・マシーンの異名を取るエバンス相手に真っ向から打撃戦に持ち込み、これを撃破《げきは》している。そのため、初めてその体に深刻なダメージを負っていた。
「兄は、できるだけベストの体調の緒方さんと闘いたいって言ってます。それからいまは、なるべく体調を万全にしておいたほうがいいって……」
その言葉には、緒方だけでなく流やかなたもうなずかずにはいられなかった。
今年のKOグランプリは、大方の予想に反してオープン参加選手の、しかも日本人同士の対決となった。日本|発祥《はっしょう》のKOとして、これは興行的《こうぎょうてき》にも大きく盛り上がることだ。特に猿淵は大会前からのパフォーマンスもあり、にわかフアンも含めて会場はかなり熱狂している。
だがそれは、大会運営サイドの予定≠ノはなかったことなのである。それだけに、この大会にコピー選手を送り込んでいる影の存在が、彼らになんらかの接触を持ってくることは容易に想像することができた。
「本当はわたし、兄にもあなたにも、もう大会なんてやめて、ここから逃げ出してほしいぐらいなんです。この大会には、危険な匂《にお》いがします……この会場自体からも……」
心配げに目を伏せる泉を前に、緒方も目線を壺に落とす。
「……OK。この薬、使わせてもらおう」
「緒方さん!?」
その言葉に、かなたが驚きの声をあげる。
「猿淵は、おれと闘いたがってるんだ。格闘家として、存分にその力を発揮できる相手として、な。あの男にこんな気の使いかたができるとは思わなかったが……まがりなりにも、おれのほうが格下だ。厚意はありがたく頂戴しておくよ」
そう言って緒方は壷の蓋《ふた》を開け、中のどろりとした軟膏《なんこう》を肩や腕の傷に塗《ぬ》りつける。それだけで、痛みが嘘《うそ》のように消え、腫《は》れも見る見る引いていった。
「普通の薬じゃない……妖術《ようじゅつ》の類《たぐい》か?」
流の言葉を受け、泉は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべただけだ。
「なにも言ってませんけど、兄は決勝戦を楽しみにしています。緒方さんも、がんばってくださいね」
泉はそれだけ告げると、軽く手を振って控室を出ようとした。緒方はそれを見送ろうと、道着を羽織《はお》って立ち上がる。
しかし扉《とびら》を開けた瞬間、泉は分厚い胸板にぶつかって、思わず尻餅《しりもち》をついた。
「きゃっ」
「泉さんっ……なんだぁ?」
慌てて泉を助け起こし、緒方は控室の入口に立つ男を見上げた。
「アントニオ・サーディン……それにマイケル・トンプソン、アニー・エバンスまで……」
居並ぶ男たちを見やり、流は思わず呆然《ぼうぜん》とつぶやいていた。そこにいたのは、すでに敗北したKOの猛者《もさ》たちだったからだ。
ぞくりと、緒方の背筋に悪寒《おかん》が走る。到底決勝戦の激励に来たようには、見えない。
入口に立つアントニオと、その正面に立つ緒方の間に、奇妙な緊張感が走る。しかしその緊張を断つように、突然かなたのPHSから、間の抜けたアニメソングの着信メロディが流れ出した。
「湧ちゃん!? どう、なにかわかった!?」
かなたがPHSを手に取り、通話ボタンを押した瞬間だった。
先頭に立つアントニオが、突然かかとを振り上げたのである。ほとんど不意打ちだったが、緒方は咄嗟《とっさ》にそれをブロックした。鉄パイプで殴《なぐ》られたような衝撃が、ブロックした腕に響く。
「やっぱそういうことかよッ」
緒方はかかとを押し返し、アントニオの体に横蹴《よこげ》りを食らわす。相手は大勢いるが、控室の入口から入れるのはひとりだけだ。緒方ひとりでも闘えないことはない。
「緒方さんっ、やっぱりシャイテクは黒だよ! 湧ちゃんが、野口さんとか他にもいっぱい、見つけたって!」
「そう……かっ!」
アントニオの鋭い突きを受け、緒方はそれだけ答える。もし泉に軟膏をもらっていなかったら、もうその攻撃を受けることはできなかったはずだ。
「しかしそっちをどうこうする前に、こっちをなんとかしないとな!」
押され気味の緒方に、流も加勢する。しかし所詮《しょせん》流は街のケンカレベルだ。手数や技の質で、格闘のプロにはかなわない。
しかも徐々に、アントニオの動きは速くなってきていた。それにつれて、だんだんアントニオの姿が粗《あら》くなっていく。
「ポリゴンの精度を落として、処理速度を上げてるんだ! 気をつけろ! 相手の動きは、まだまだ速くなるぞ!」
「んなこと言ったって……っ」
大樹の説明を受けたところで、流や緒方が劣勢《れっせい》なのは覆《くつがえ》らない。しかも大樹の意見が正しいことを肯定するかのように、アントニオの動きは異様なまでに速くなっていた。
「くそっ」
アントニオの横蹴りを食らい、緒方はたまらず後退する。そこへ、エバンスがするりと割り込んできた。
「一対一じゃ、分《ぶ》が悪いよっ!」
そう叫《さけ》んだものの、かなたにはどうすることもできない。しかも本来格闘家である緒方はまだしも、流ではKO最高のテクニックを持つエバンスの相手は、荷が勝ちすぎる。
「大樹くんっ、なんとかできないの!?」
「ぼくに格闘家相手になにをさせるつもりだい!?」
ほとんど逆ギレ気味に、大樹は叫ぶ。その間にも流が連打を浴び、ついにもんどり打って倒されていた。
「やばいっ」
外で待機《たいき》していたトンブソンが、部屋の中に入ってくる。そうなれば、逆転の目はない。
だがトンプソンが部屋に入る直前、気合いの声とともに影が躍《おど》った。その影はトンプソンの側頭部に飛び蹴りをかまし、そのままダウンしたところを踏みつける。
「泉の帰りが遅いから心配して来てみれば、てめぇらなにチンタラやってやがる!」
いままさに流に躍りかからんとしていたエバンスにパンチを一発ブチ込み、その男は部屋の中で仁王立《におうだ》ちになった。
もちろん、猿淵武志である。
「相手は得体《えたい》の知れない怪物、しかも人を寄せつけない結界《けっかい》まで張ってるんだろうが! だったらおまえらはおまえらの闘いかたで、闘え!」
流とエバンスの間に割り込み、猿淵は叫ぶ。そして全身に、念を込めた。
見る見るうちに、トランクス姿の猿淵の肌が、緑色に染《そ》まってゆく。全身に剛毛《ごうもう》が生え、逆に頭頂部からは髪の毛が消えた。両手は鋭い鉤爪《かぎづめ》になり、その指の間には水かきが広がっている。しかも顔は尖《とが》り、口はくちばしのようなものになる。
「カッパ!」
その姿に、かなたがすっとんぎょうな声をあげた。
そう。まさしくいまの猿淵の姿は、河童《かっぱ》以外のなにものでもなかったのである。
「そうか! どうせこいつらは人間じゃないんだから、正体を隠す必要はなかったんだ!」
よほど動転していたのか、大樹はそんな単純なことを失念していた自分を嘆《なげ》く。
「流! マーフィーのときと似たような体構造をしているなら、こいつらは水や電気に弱いはずだ。電撃を使え!」
「わかってらいっ!」
流も一気に本来の姿である五メートルほどの金龍に姿を変えると、カッと口を開いて紫色の電撃を放つ。それはエバンスのコピーを的確に捉《とら》え、一瞬にして粉々のポリゴンの粒《つぶ》に分解してしまった。
河童になった猿淵も、水撃で緒方と闘っているアントニオを吹き飛ばす。水に濡《ぬ》れて動きが鈍ったところへ、緒方がとどめの一撃を放ち、やはりこちらもポリゴンの粒子になって、消えていった。
「なんだ、楽勝じゃない!」
喜色《きしょく》を浮かべて飛び跳《は》ねるかなただが、緒方は緊張を解かない。
「いや、まだだ。まだ、敵は来る」
廊下から迫り来る足音にいち早く気がつくと、緒方は廊下へ飛び出した。そこにはいままさに倒したはずのアントニオやエバンス、それに野口やフランコの姿まで、あった。
「なりふり構わなくなってきやがったな」
「そっちもな」
廊下に飛び出してきた猿淵に、緒方は苦笑混じりに告げる。
「向こうはコピーだから、何体やられても関係ないんだ! 操《あやつ》っている本体を倒さないと、きりがない!」
大樹にそう言われるまでもなく、緒方もそれはわかっていた。そして彼は本体の居場所を突き止める手がかりを、知っている。
「本体なんて、どこにいるんだよ!?」
廊下へ出てきた流は電撃を放つが、次から次へと格闘家たちは姿を現してくる。しかもその数は増え、同じ選手も複数存在していた。これが廊下でなければ、いまごろ包囲されて袋叩《ふくろだた》きにされていただろう。
「おい、大樹! なんとか……ぐわっ」
一瞬よそ見をした隙《すき》に、流の顔面に飛び蹴りが炸裂《さくれつ》していた。鼻先がひしゃげ、その勢いのまま壁に叩きつけられる。
「数が多すぎる! このままじゃ手数が追いつかなくなるぞ!」
そう叫びつつも、大樹にもどうすることもできない。算盤《そろばん》坊主である彼はそもそも戦闘向きではないし、廊下は狭くて緒方と猿淵、それに天井《てんじょう》ぎりぎりに飛ぶ流がいるだけで精一杯の広さだ。
「兄さんっ!」
泉も、応援することぐらいしかできない。彼女も兄と違って、戦闘向きではないのだ。
「うっとうしいぜッ、こいつら!」
河童の猿淵は本来の力を全開に、拳や鉤爪を相手に叩き込む。そのすさまじい一撃はほんの数発で敵を一人、ポリゴンの粒子に変えてしまうが、それでも数は一向に減らない。
しかもコピーたちは、どんどんポリゴンのグレードを下げていた。体は角張り、関節の繋《つな》がりかたが適当になっていく。もはや初期のポリゴン格闘ゲーム並の精度だ。しかしその分処理速度は速くなり、猿淵ですら手数で負け始める。
「緒方さん、これっ!」
かなたは決死の覚悟で廊下へ飛び出すと、ボストンバッグに忍ばせていた酒瓶《さかびん》を緒方へと渡しにいく。スピリタス――アルコール度九十八パーセントの世界最強の火酒である。
緒方は躍りかかる何人目かわからないエバンスに横蹴りをかまし、その瓶を受け取った。手刀《てがたな》の一閃《いっせん》で瓶の口を切り飛ばすと、無雑作《むぞうさ》に酒を自分の頭に浴《あ》びせる。瓶から飲んでいる暇など、ない。
むっとするような、酒の臭気が廊下を満たす。その匂《にお》いだけで、緒方の中のなにかが、もぞりと動いた。
「……かなたちゃん、頼みがある」
「え?」
緒方がなにを言うつもりなのか確認するよりも早く、かなたはその大きな腕で掴《つか》まれていた。その腕の筋肉は大きく膨張しており、さらにメキメキと膨《ふく》れ上がっていぐ。
「やつらの頭上から、コードが伸びている。そいつを……切ってくれ!」
「ええええええ!?」
緒方はぶんっと、かなたの体を投げた。空中をばたばたともがきながらも、かなたは体にひっかかる紐《ひも》のようなものに、必死にしがみつく。
「な、なにこれ!?」
「そうか、こいつら有線で操られてたのか!」
一見なにもない空中にぶら下がるかなたを見て、大樹が叫ぶ。
以前マーフィーと戦ったときは、マーフィーはモニターから遠く離れることはできなかった。コンピュータと密接な関係にあるため、離れれば離れるほど、力が弱まるためだ。
しかしコピーたちは、似たような妖怪《ようかい》のはずなのに、本体から離れても動きが鈍らない。
「なんのことはない、本体と繋がったままだったんだ!」
コードはじっと注意してみれば、見える。ただそれは、妖怪やある種の霊感がある人間にしか見えない類《たぐい》のものなのだろう。そしてそれは天井に配線され、コピーたちの頭へと繋がっていた。
「ひええええっ」
天井に張り付いていたコードがはがれ、かなたの体が落ちる。
体重の軽いかなたとはいえ、緒方のすさまじい膂力《りょりょく》で投げつけられたのだ。コードはすごい勢いで引っ張られている。そのためにコピーたちは後ろへつんのめり、動きが乱れた。
「あのコード伝いにいけば、敵の本体がいるってことかよ!?」
「それ以外になにがある!」
猿淵の声に緒方が答え、二人はコードを引っ張られなかった残りを、叩《たた》き潰《つぶ》す。コピーたちはコードを切られることを恐れてかなたに注意を移していただけに、たやすい。
「流! これあたしじゃ切れないよっ! 電撃でやって!」
「おうっ!」
紫の電光がパッと走り、かなたのそばすれすれを打ち抜く。その瞬間、大半のコピーたちは動きを止め、バタバタと倒れ伏した。
「かなたちゃん、コードは掴んでるか!?」
「バッチリ!」
緒方の声に答え、かなたはほとんど透明なコードを振り上げる。しかも切れたそれは、本体へと戻ろうとしているのか、しきりにかなたの体を引っ張っていた。
「このチャンスに、一気に本体を倒してしまおう!」
「当然だ!」
大樹の声を受け、流がまだコードの繋がっているコピーを雷撃で粉砕《ふんさい》する。そしてまばらに送り込まれてくるコピーを蹴散《けち》らしながら、緒方と猿淵を先頭に、彼らはコードをたぐっていった。
13 黒き怨念の箱
東京ドームの真下に位置する、機械室。
その扉《とびら》へと、コードは伸びていた。緒方と猿淵はその扉を蹴破り、一気に中へと飛び込む。
「へへっ、大勢でお出迎えだぜ」
そうつぶやいた猿淵の言葉通り、さまざまな機械が並ぶ部屋の中に、コピー格闘家たちがずらりと並んでいた。しかもすでにポリゴンのグレードは最低まで下がり、肌の質感を表現するためのテクスチャすら、貼《は》られていなかった。
「コミックの世界へようこそ、ってところだな。大樹、どいつが本体だ?」
緒方や猿淵と肩を並べるようにしながら、流が尋《たず》ねる。その声に、大樹は眼鏡《めがね》をずり上げて部屋の奥を見た。
「オニクスじゃないか!」
「オニクス?」
大樹の言葉を、かなたが反復する。
「部屋の一番奥にある、黒い冷蔵庫みたいなやつだよ」
「あいつが、オニクスって名前なのか?」
流の質問に、大樹はうなずく。
「数年前に、アメリカの大手コンピュータ・メーカーと、日本のゲーム会社が提携して完成させた、ゲーム開発用の大型コンピュータだよ……当時はポリゴン格闘ゲームが大流行して、どのメーカーもこぞって格闘ゲームを開発していたんだ」
それは、日本を離れていた緒方以外、みんな知っていた。それほど、ポリゴンを利用したゲームは流行していたのである。
「オニクスはその最盛期に鳴物入《なりものい》りで開発が発表されたんだけど、完成したときにはブームは下火になっていたんだ。一応オニクスで格闘ゲームも作られはしたけど、ブームに乗ろうとして開発されたものだっただけに、ブームが下火になっては、ろくにフォローもされないまま、消えていった……」
大樹の人間としての職業は、フリーのゲーム・プログラマーだ。そうした悲劇はいくつも伝え聞いている。
コンピュータ・ゲームの開発スパンは長い。ときにはゲームが完成した頃にはブームが去り、時代遅れのものになっていることもある。
そんなとき、大手メーカーは往々にして開発を打ち切ったり、その開発ラインそのものを切り捨てることがあった。無理して続けるより、プロジェクトそのものを破棄《はき》したほうが、損失が少ないという大企業的判断である。
「こいつは、そうした開発途中で放棄されたゲームや、その開発に携《たずさ》わった多くの人間の怨念《おんねん》で、妖怪化したんだな……確かにじゅうぶん、ありうる話だよ」
思わず、大樹はそんなオニクスに同情の気持ちが湧《わ》く。おそらくいまこの瞬間も、オニクスはシャイアーテックスという大企業の都合で働かされているに違いない。妖怪化してなお、企業の都合で利用されているのだ。
「それは哀《あわ》れな話だが……。んな物騒なものは、破壊するしかない」
緒方は一歩前に踏み出すと、全身に力を入れた。道着に染み込んだ酒の匂いが、その鼻孔《びこう》を通って緒方の中の力を、呼び覚ます。
「うおおおおおりゃああああああっ!」
叫び声とともに、緒方の体が膨張《ぼうちょう》してゆく。隆々たる筋肉は焼けた鋼《はがね》のごとく真っ赤に染《そ》まり、その額には二本の角、口許《くちもと》には鋭い牙《きば》が生えた。
完全にその姿を鬼と化した緒方は、一気にオこクスの黒い体|目掛《めが》けて突進する。オニクスもその背面から伸びるコードから指示を送り、ポリゴン人形たちを迎撃《げいげき》に向かわせた。
もはやテクスチャすらないポリゴン人形たちの動きは、人間の目には捉《とら》えられないほど速い。しかし鬼と化した緒方は蚊《か》でも払い落とすかのように蹴散らし、オニクスへと突っ込んでいく。
それに、猿淵と流も続いた。水撃を打ち、雷撃を放ち、オニクスへと迫る。
「同情はしてやる……だから、成仏《じょうぶつ》しろ!」
オニクスの黒い体を前に、緒方は叫《さけ》んだ。そして振り上げた手刀を、瓦割《かわらわ》りのように一気に振り下ろした。
ガゴォッ!
激しい破壊者が響き、オニクスの黒い体が真っ二つに砕《くだ》ける。それでもコードを動かし、ポリゴン人形たちを操ろうとするオニクスへ猿淵が水撃を浴びせ、流が電撃を放った。それで今度こそ、完全に沈黙する。
基盤を失い、ポリゴン人形たちもつぎつぎと砕け散り、その姿を消滅させていった。その様子に、かなたと泉は手を取り合って飛び跳ねる。
「ふーっ、やれやれ、やっと片付いたか」
適当なところに座り込み、猿淵は人間の姿に戻る。しかし頭だけは、河童《かっぱ》のときと同じく皿状に髪がない。
「あれっ、あんた髪の毛は!?」
「ヅラだよ、ヅラ。だからあんまり人前で正体見せたくないんだよ」
初めは驚いたかなたも、その滑稽《こっけい》な姿に思わず吹き出す。
「笑うな! ハゲは深刻な悩みなんだぞ!」
「ごめんごめん。でもあれだけテレビでもパフォーマンスしてたカッコつけの猿淵が、ハゲだなんてねーっ」
「ハゲハゲ言うなっ! ったく」
笑い転げるかなたを無視し、猿淵は鬼の姿のままの緒方を、見上げる。
「泉から聞いてるぜ。おまえ、あいつを助けたとき、自分の姿を見て気絶したらしいじゃないか。もう、大丈夫なのか?」
その言葉を受け、緒方は鉤爪《かぎづめ》の生えた、鬼の手を見下ろした。しかしすぐに、顔をあげる。
「仲間がいるってことが……わかったからな。それに二度目だ。インパクトも少しは減っているさ」
そうつぶやき、緒方はしばらく目を閉じた。すると、体がしゅるしゅると縮まり、もとの緒方の姿に戻る。
「酒乱なんじゃ、なかったのかよ?」
少し意地悪そうに尋ねる流に、緒方は苦笑する。
「匂《にお》いだけで酔っ払えるほど、酒に弱くはないさ。だからって調子にのって、おれに酒は飲ませないほうがいいぞ」
その言葉に、流も苦笑する。
「さぁって、緒方よぉ。問題も解決したし、行くか」
「兄さん、行くって……?」
怪訝《けげん》そうに尋ねる妹に、猿淵は逆に不思議そうな顔を見せる。そして立ち上がると、すかさず泉の髪の毛を引っ張った。
「物事のわかってねぇやつだな。罰《ばつ》にこいつは借りてくぞ」
「あっ」
そのときにはすでに、泉の頭頂部の髪は奪われ、皿のような頭皮をさらしていた。
「泉さんも、ハゲ……」
「ひどい、緒方さんっ」
思わず口を突いて出た言葉に傷ついたのか、泉は頭を押さえて、泣きながら飛び出してゆく。
「あ……」
「カッパの妹がカッパ以外でどうするよ。あーあ、おまえ間違いなく、嫌われたな」
妹を傷つけた張本人は悪びれもせずにかつらをかぶり、適当に手櫛《てぐし》で自分の頭に馴染《なじ》ませる。
「なんなら改めて、妹紹介してやってもいいんだぜ?」
呆然《ぼうぜん》としている緒方に向かい、猿淵は意地悪な笑みを見せる。
「ただし、条件はあるがな」
「おまえら、まさか……」
人間の姿に戻った流が、かすかな驚きを含んだ声で、尋ねる。
「決まってるだろうが。なあ、緒方」
「ああ。そうだな」
二人は一層と首の骨をバキバキと鳴らすと、にたりと笑い合う。
「まさか、二人とも……」
「昔から、鬼と相撲《すもう》をとったらどっちが強いか、試してみたかったんだよな」
そう言って、猿淵はリングへと続く通路へ向けて、歩き出す。
「おれもこのトーナメントに参加した理由は、おまえと決着をつけるためだからな」
緒方は猿淵とは反対側の花道に続く通路へ向けて、歩き出す。
「おれが勝ったら、ちゃんと泉さんを紹介しろよ」
「勝てたらな」
最後にそう言い合うと、二人は大声で笑い、それぞれの通路へと消えていった。
「ほんっとうに、格闘バカね、あの二人」
呆《あき》れたようにつぶやくかなたの横で、大樹もため息をつく。
「あんな連中にリアルファイトされた日には、オニクスもいい迷惑だったろうね。絶対ゲーセンで、力任せにゲーム機を壊《こわ》すタイプだよ、あの二人」
「ま、いいんじゃない? 対戦ゲーマーを直接|殴《なぐ》り倒さなければさ」
そう告げる流の言葉に、大樹は改めてため息をつく。
そして機械はもう少し大事に扱ってくれと、心の中でつぶやくのだった。
14 戦い終わって
「最終ラウンド終了間際、両者最後は壮絶《そうぜつ》なクロスカウンターによるダブルKO。今年のKOグランプリ決勝はノーコンテストで決着……か」
昼過ぎ。まだ仕込み中の <うさぎの穴> でスポーツ新聞をばさりと広げ、流はその見出しを音読みする。
「よくやるわよねぇ、ホントに」
かなたは苦笑して、ストローでオレンジジュースをすする。
「……しかし大会終了と同時に、両選手は突如《とつじょ》として行方《ゆくえ》をくらまし、いまなお連絡がつかない、か。本当にこれでいいのかい、緒方さん?」
流はストゥールを回して、テーブル席を振り返る。
そこには、絆創膏《ばんそうこう》だらけの緒方がいた。
「猿淵にしろ、おれにしろ、普通の人間のいる大会に出ることは、よくないからな。人間の純粋な努力を否定するようなことは、しちゃあいけない」
ニッと笑い、緒方はジンジャーエールをひとくち飲む。
「妖怪《ようかい》だけの大会なら、いいってわけか?」
「それなら、ぜひ参加させてもらうよ」
緒方はそう答え、笑う。
「それから、野口先輩のこと……いろいろ世話になった」
軽く礼をする緒方に、流はひらひらと手を振る。
「なぁに、こういうのがおれたちの仕事みたいなもんだからな。別にあんたが気にすることはないさ」
そう告げる流に、かなたが「えらそうに」と言って苦笑する。
湧が見つけた施設に眠らされていたコピー元である本体たちは、全員無事保護されていた。 <うさぎの穴> やその他のネットワークの協力も仰いで、どうにか警備を破っての救出劇だったらしい。
そこに捕《とら》えられていた人々は、かなり多岐《たき》に及んでいた。大学入学で騒動になったアイドル、数々のヒット曲を生み出した作曲家、人気お笑い芸人。どれも流行の発信源になるような、有名人ばかりだ。
ただ一番|危惧《きぐ》されていた、捕われていた人たちの記憶操作は、それほど難しくはなかった。大樹の見立て通り、インタビューなどの際には本体が出演しており、試合をした記憶などもちゃんと持っていたのである。どうやらオニクスは、定期的に本体へのアップロードとダウンロードを繰り返していたらしい。そのため、記憶の操作は最低限ですますことができたのだ。
「全部が全部ってわけじゃないけど、流行の何パーセントかは、あのオニクスが作ったコピーの仕掛けだったんだもんな。ブームの廃《すた》りで打ち捨てられたコンピュータには、最高の仕返しだったかもしれないなぁ」
流がぼんやりとつぶやいた言葉に、緒方もうなずく。
「でも結局、シャイアーテックスには逃げられたんだよね?」
「逃げられたっていうか……シッポ切りだな。本体たちが捕えられてたのは下請《したうけ》の会社のビルだったわけだし、大っぴらに調べようにも、いまことを荒だててどうにかできるほど、こっちの戦力も整っているわけじゃないからな」
流はお手上げとばかりに、両手を広げる。
「ただ今回の事件が原因かどうかはわからんが、シャイテクはKOのスポンサーを降りたんだと。後釜《あとがま》にはライバル会社のJETが入るみたいだが……こいつは近年|稀《まれ》に見る、シャイテクの敗北ってのがこの新聞記者の見立てだね」
そう言って、流はかなたに新聞を投げてよこす。
「大会も、記憶を操作された本人たちが、継続して開催していくわけよね? 考えてみたら、あたしたちも怖《こわ》い組織だなぁ」
かなたの感想に、カウンターの中で仕込みをしているマスターが、小さく苦笑する。
妖怪のネットワークは、悪用しようと思えばいくらでも人間の世界に激しい混乱を呼べる。しかし悪しき妖怪たちにそうさせないためにこそ、ネットワークは存在するのだ。
だが少し間違えば、自分たちもそうした存在になりかねないと、ふとかなたは思う。
「しかし結局、猿淵ってなにが目的でKOトーナメントに参加したんだ? まさかシャイテクの陰謀《いんぼう》に気がついて、それを打ち破ろうって魂胆《こんたん》でもないだろうに……」
そう言って首をかしげる流に、やはり <うさぎの穴> に来ていた大樹が、ノートを操作してファイルを開く。
「その可能性がないとは言えないけど、ただの目立ちたがり屋ってところだと思うよ。知り合いのアイドル系マニアに調べてもらったんだけど、いろいろ面白いものが見つかってる」
「なになに?」
面白いものと聞いて、かなたは好奇心むき出しに大樹のノートを覗《のぞ》き込む。
「猿淵は最初、役者としてデビューしようとしてたんだ。妹の泉さんと二人で、オーディション受けたりしてね。一応二人とも合格はしてるんだけど、売れたのは泉さんだけ」
そう言って大樹は画面に三枚の画像を呼び出す。一枚は川村いずみのグラビア写真で、もう一枚は音楽番組のバックで躍《おど》る武志らしい人物。そして最後の一枚はなにかの映画ので、武志らしい人物が銃《じゅう》で撃ち殺されるシーンだった。
「役者としては、才能なかったわけだ」
「さすがに顔がいいだけとか、腕っぷしでは通用しないからね」
そう言って、大樹とかなたはくっくと笑う。あの傲慢《ごうまん》な猿淵に、こんな写真を見せたらどんな顔をするだろう?
「そのあと少しヤケになったのか、猿淵はコスプレ・ダンパやビッグサイトのコミケにも姿を現してる。ほら、これだ」
大樹が操作して呼び出した何校かの写真は、ゲームキャラのかっこうでポーズを決める猿淵らしい人物だった。しかもそれは、緒方と二人で襲撃を受けたときの学ラン男や、赤毛のビジュアル男のかっこうである。
「なるほど。どうりで詳しかったわけだ」
後ろから画面を覗き込み、緒方が苦笑した。
「ときどきいるからなー。目立ってないと気がすまないって妖怪がさ」
「猿淵の場合、やり方がずいぶんと歪《ゆが》んでるけどねー」
流の意見に、かなたはくすくすと笑う。
「結局最終的に、自分の力でどうにかできる格闘技《かくとうぎ》で目立とうとしたわけだ」
そう言って、大樹はノートを閉じる。
「だけど、カッパなら相撲《すもう》じゃないの?」
「相撲の世界は、なにかと手順が多くて、妖怪がまぎれこむには難しいからね。それにあの猿淵が、まわしをつけて土俵《どひょう》にあがると思うかい?」
その大樹の言葉に、緒方もかなたも流も、爆笑した。
「とにかく、猿淵もこれからは要チェックだよ。目立ちたがりやの妖怪ほど、困りものはないからね」
そう告げる大樹に、流とかなたもうなずく。
「ともかく、少し釈然《しゃくぜん》としない部分もないわけじゃないが、これで事件は解決ってわけだ。緒方さん、あんたこれから、どうするんだい?」
突然話を振られ、緒方は顔をあげる。
「そうだな。今度は自分の力をコントロールするため……それからおれより強い妖怪でも探して、修業の旅でも続けるさ」
ジンジャーエールを最後まで飲み干すと、緒方はすっくと立ち上がる。
「今回は、本当にいろいろと世話になりました。もしお役に立てることがあったら、呼んでください」
緒方はマスターにぺこりとお辞儀《じぎ》をすると、お代を置いて出口へと向かう。
「緒方さん、泉さんはどうするの? あきらめちゃうわけ?」
かなたのその問いに、緒方は軽く照れ笑いを浮かべる。
「きちんと修業し直して、もう一度あのお調子者の兄貴に挑戦するさ。鬼は酒と女が大好きなんだ。諦《あきら》めるわけがないだろ?」
「うん、そだね。がんばって。ときどきは、手紙とかちょうだいね。どこにいるかわからないと、呼び出しようもないしさ」
「ああ。そうしよう」
それだけ告げると、緒方は <うさぎの穴> の扉《とびら》をくぐった。
がたがたと鳴る土レベーターを降り、渋谷《しぶや》の雑踏の中へと出てゆく。
道玄坂《どうげんざか》を下り、駅へと向かう道のりは、流行を追う若者で溢《ぁふ》れ返っている。そのどれが誰《だれ》かの仕掛けで、どれが自然発生したものなのか、緒方にはまるで見分けがつかない。しかしたれたパンダはけっこうかわいいと思うし、ルーズソックスもそんなに嫌いじゃない。
自分が好きなら、それでいい。ただ流行《はや》りを追うだけでなければ、それで……。
緒方はそう思いながら、ハチ公前までやってくる。そこでふと見上げれば、駅前の大きなモニターに野口将明の姿が映っていた。
一年近く眠っていたはずなのに、そんな様子は微塵《みじん》も感じさせず、野口は来年のKOへの抱負を語っている。
「お世話に、なりました」
その姿に緒方は一礼し、駅の改札へと向かう。
もう、人間として野口と技を競うことはできない。それは緒方にとって、とても寂《さび》しいことだった。
しかしいまは、自分の中に眠る力があることを、知った。その力の可能性を、試してみたいとも思っている。
格闘家緒方庸平の旅は、いま始まったばかりだった。
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Take-3――――――――
ふと気づくと、自分を誰かと比べていることがあります。
モデルを見て、あんなプロポーションになりたいと思ったり。有名作家を見て、あんなふうにたくさん本を出せたら、とうらやんだり、自分より不幸な人を見ては、ほっと胸をなでおろしたり。
あまり嬉《うれ》しい体験じゃありません。だってたいていは、他人をねたんだり、自分の努力が足りないのを隠したり、小さな自尊心を満足させたりしようとしてるだけなんですから。
わかってるんです。他人は他人、自分は自分。無理なものは無理だし、ほんとうに努力すれば叶《かな》えられる夢はあるはずです。
それでも、やっぱり比べてしまいます。
どこで道を間違えたんだろう。あそこまでは順調だったはずなのに。あのとき右に曲がらずに左に曲がっていれば、こんなみじめな思いをせずにすんだのだろうか。
でも、過去を変えることはできません。妖怪《ようかい》にですらできないことが、ただの人間にできるわけもありません。
だからつい、他人に頼ってしまいます。自分に果たせなかった夢を、押しつけてしまうんです。自分が間違えた曲がり角を、他人に正しく曲がってほしいと思ってしまうんです。
そうなったところで、あなた自身の人生が変わるわけではありませんのにね。自分の手でなにか始めなければ、幸運の女神が微笑《ほほえ》んでくれるはずはないんです。
あきらめ、と呼んでもかまいません。でも過去に見切りをつけたとき、明日への意欲が湧《わ》くような気がします。
いまの自分を選んだのは、過去の自分です。一秒前の自分がいたから、十年前の自分がいたから、いまの悩める自分がいるんです。
そのことを、くれぐれも忘れないように。現実に背を向けた代償は、けっこう高くつくかもしれません。
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第三話  穢された翼  山本弘
1.二五年目の二人
2.ポニーテールの少女
3.サイは逃げる
4.なつきの決意
5.禁断の実験
6.見えない脅威
エピローグ
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1 二五年目の二人
「……そんな話、聞いてなかったぞ」
小早川《こばやかわ》晴哉《せいや》はうつむいたまま、暗い声でつぶやいた。コーヒーカップを手にしでいるものの、口をつけようとはせず、黒い水面をじっと見下ろしている。心の奥の静かな怒《いか》りと動揺《どうよう》が、かすかな手の震《ふる》えとなってカップに伝わり、熱いブラックコーヒーにさざ波を立てていた。
「俺《おれ》はまともな番組だと聞いたから……」
「まともな番組だとも。だからそう説明しただろ?」
仙道夏夫《せんどうなつお》は悠然《ゆうぜん》とタバコをくゆらせながら、細い目をさらに細めて、楽しそうに小早川を見つめている。
ここは仙道の経営するコンサルタント会社の応接室。小さなテーブルをはさんで向かい合っている二人は、どちらも三八歳だが、外見はまったく正反対だった。
小早川は長身のひょろりとした体格で、いかにも病弱そうな蒼《あお》ざめた顔色をしている。時代遅れのロックバンドのロゴが入ったTシャツを着て、すり切れたジーンズを穿《は》いていた。老人のように背中を丸めて座っており、いかにも人生の荒波に打ちひしがれたといった風情《ふぜい》だ。一方の仙道はよく太っており、血色もいい。高級なスーツに身を包み、腹を突き出してソファに踏んぞり返っている。
二人の間のテーブルには、コピーを綴《と》じた台本が置かれている。そのオレンジ色の表紙には、 <土曜ハイパーワイド/世紀末プロジェクト! ついに明らかになる超能力の真実(仮題)> とあった。
「よくあるバラエティ番組じゃない。そういうのは私もずいぶんたくさん出たけどね。影響力という点ではイマイチだ。いくらゼナー・カードを当ててみせてもだめだよ。単純な女子供は信じるが、やっぱりいい年した大人はなかなか信じない。バラエティ番組なんてみんなヤラセだと思っている――実際、そうなんだがね。今度の番組はそうじゃない。私立とはいえ、ちゃんとした大学教授の立ち合いで、あくまで学術的に行なわれる実験だ。ディレクターやプロデューサーとも綿密《めんみつ》に打ち合わせをやって、こちらの意志は通してある。あくまでギャグや興味本位じゃなく、真面目《まじめ》に超能力を取り上げてくれるように――」
「それは分かってる」小早川は不機嫌な口調で、相手の説明をさえぎった。「だったら、なぜ、あんたがやらない?」
「ん?」
「あんたが出ればいいだろうが。あんたがスプーンを曲げてみせりやいい――昔やったように」
仙道は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。面白がっているのか困っているのか、表情からだけでは推測できない。
仙道はいつも微笑《ほほえ》んでおり、めったに怒ることがない。彼の信奉者たちは、そのうわべだけの笑顔を見て、優しくて心の広い人なのだと勝手に解釈している。しかし、彼とのつき合いの長い小早川は、そんな初歩のトリックには騙《だま》されなかった。仙道は実際には計算ずくの男なのだ。その人なつこい笑顔は、他人に本当の感情を読ませないための仮面なのだ。
彼が本当は何を考えているのか、誰《だれ》にも分からない。
「本音を言ってみろよ。今度の番組、あんたはアドバイザーとしてクレジットされてるだけで、一カットも出演しない。出たがりのあんたが――どういうことなんだ? 表面に出たくない理由があるのか?」
仙道は微笑んで答えない。
「万一の場合に、俺をトカゲの尻尾《しっぽ》みたいに切り捨てるつもりでいるなら――」
「そんなことはない」仙道は慌《あわ》てて打ち消した。「万一の場合なんてあり得ないよ。君の予言は間違いなく的中するんだからね。誰も問題にするわけがない」
「だったらどうして――」
「君の方がネームバリューがあるからだよ。だからこそ君に声をかけた」
「あんただってそこそこ有名なはずだ。よくテレビに出てるしな。俺はもう、何年もテレビに出ていない……」
「それでも君はスターなんだよ」仙道はスター≠ニいう部分に力をこめた。「我々の世代の人間で、君の名前を知らない者はいない。小早川晴哉――二五年前、一世を風靡《ふうび》したじゃないか」
「二五年……?」
小早川はその言葉にあらためてショックを受けた。日々の生活に疲れ、もう時間の感覚も曖昧になっていたのだ。
(そうか……あの日から、もう二五年になるんだな……)
一九七四年三月七日、来日していた超能力者ユリ・ゲラーが、日本のテレビ番組に出演し、カメラの前でスプーンを曲げてみせた。おりしも『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーになっており、子供たちの間ではUFOやオカルト・マンガがブームになっていた。そうした下地《したじ》もあって、番組は三〇パーセント近い視聴率を記録し、熱狂的な反響を呼んだ。
当時、中学二年生だった小早川は、その日の驚きと感動を鮮明に記憶している。彼も他の何百万という子供たちと同じく、ブラウン管に釘付《くぎづ》けになり、ゲラーが見せた奇跡に魅了《みりょう》された。
自分にも超能力があるかもしれない。そう考えた彼は、食器棚《しょっきだな》から持ち出したスプーンを握り締め、勉強部屋にこもった。そしてゲラーの真似《まね》をして指でこすりながら、一心に「曲がれ、曲がれ」と念じ続けた。
そうしたら――曲がったのだ!
指でさすっていただけなのに、堅い金属のスプーンが、まるでゴムのようにひょいと曲がったのだ。
「お父さん! お母さん!」
彼は狂喜《きょうき》して両親を呼び、その成果を誇《ほこ》らしげに見せびらかした。最初は疑わしい目で見ていた両親も、息子が他のスプーンやフォークも次々に曲げてみせたのを見て、信じざるを得なくなった。
小早川だけではない。その日、日本中で何百人という子供がスプーンを曲げることに成功したのだ。彼らは「超能力少年」(女の子もいたのだが)と呼ばれ、マスコミの脚光《きゃっこう》を浴《あ》びた。
特に有名になった超能力少年が何人かいた。小早川はその一人だった。彼は何度もテレビや週刊誌の取材を受け、請《こ》われるままに、カメラの前で次々とスプーンを曲げてみせた。どれぐらいの数のスプーンを曲げたか、自分でも覚えていない。大学の偉い先生が調べに来たこともあった。カードを透視する実験、箱の中のものを当てる実験にも挑戦し、いずれも好成績を収めた。
当時、彼はまさにスターだった。テレビ番組にゲストとして招かれ、ブラウン管でしか見たことのなかった有名タレントとじかに話せて、有頂天《うちょうてん》になった。学校では級友たちからもてはやされた。家族と旅行した先で入った食堂で、店のおばさんからサインを求められたこともあった。自分のことが載っている雑誌や新聞の記事を切り抜き、ノートにスクラップした……。
今から思えば、あの時代こそ、彼の人生が最も輝いていた時だった。
(あの頃《ころ》は本当に楽しかった)
小早川はしみじみと回想した。あの頃の自分は大きな希望に満ちていた。明るい未来が来ると確信していた。
まさか二五年後の自分がこんなになっているなんて、想像もしていなかった。
「そう、あれから二五年も経ったんだ」仙道は説明を続けていた。「あの頃の子供たちも、今ではみんな三〇代後半から四〇代……社会の中核に食いこんでいる。今回のプロジェクトは彼らがターゲットだ。だからこそ、君が出演することに意義がある――分かるか?」
「しかし、俺はテストに合格する自信は――」
「心配ない。番組の主役は君じゃない。神林《かんばやし》なつきという、この女の子だ」
仙道は台本にはさみこんでいた写真を引き抜き、小早川に見せた。どこにでもいそうな中学二年生の少女だ。眼鏡《めがね》をかけ、長いポニーテールを背中に垂《た》らしている。さほど美人というわけではなく、内気そうで、クラスでもあまり目立たない存在だろう。卒業して何年もすれば、「そんな子、いたっけ?」と言われるようなタイプだ。
「私も会ったが、彼女には確かに才能がある。予備的に行なったゼナー・カードのテストでも、平均一〇・五を出した。あの子なら間違いなく実験は成功する」
「そんなにうまく行くかな? 下降効果が――」
「いや、決定的な大成功を収める必要はない。重要なのは番組のスタンスだ。真面目な実験風景を見せて、視聴者に『超能力は確かにある』と信じさせることだ。そこでおもむろに君が登場して、久しぶりにカメラの前でスプーンを曲げてみせる……」
「何も知らない女の子をダシに使うわけか?」
「彼女に迷惑《めいわく》はかからないさ」
仙道には悪びれた様子はまったくなかった。小早川は上目使いに彼の顔をうかがった。言うべきかどうか少し迷ってから、思いきって口にした。
「……あんた、太ったよな」
「?」
「昔――高校生の頃に、初めて会った時には、俺と同じくらい痩《や》せてた……」
「おかげさまでね」
仙道は苦笑した。彼は頭がいい。小早川の皮肉《ひにく》の意味はすぐに理解したはずだが、それでも腹を立てた様子はない。その悠然《ゆうぜん》とした態度に、ますます小早川は苛立《いらだ》った。
仙道も当時の超能力少年の一人だが、小早川ほどの能力はなく、マスコミにもあまり露出《ろしゅつ》しなかった。その代わり、うまく立回って、細くしぶとく生き残った。八年前にそれまで勤めていた証券会社を辞めてコンサルタント会社を設立、風水《ふうすい》、気功《きこう》、ダウジングなどを取り入れ、企業のトップに経常方針をアドバイスするビジネスをはじめた。これがヒットした。大企業の社長や幹部にもオカルトや超能力に凝《こ》っている者が多く、大きなプロジェクトを立ち上げる際などには、仙道にこっそりお伺《うかが》いを立てにくるのだ。
バブル崩壊以後の混迷の時代。誰も明日のことなど分からない。オカルトでも超能力でもいいから、何かすがるものが欲しい。仙道はそんなニーズに応えたのだ――いや、「つけこんだ」と言うべきか。
時代の流れに乗ってうまく立回る仙道に、小早川は羨望《せんぼう》を覚える反面、反感も隠《かく》せなかった。
「俺は……俺はあんたみたいに器用《きよう》には生きられない」
「そんなことはないだろう。君だって充分に器用≠カゃないか?」
今度は仙道が皮肉を投げかける番だった。小早川はポーカーフェイスを保つことができず、かっと顔を赤らめた。
「あんたにそんなこと言われる筋合いは――」
「ああ、もちろんないさ。我々は言ってみれば同じ穴の狢《むじな》ってやつだ。けなし合ってもしょうがない。手を握るしかないんだ――違うか?」
小早川は怒りが爆発しそうになるのを懸命にこらえた。
「俺は……俺は……」
「それとも、降りるか? 超能力者廃業を宣言するか? そんなことをしたら、この二五年間の人生を否定することになるんだぞ。なあ……」
仙道は急に猫撫《ねこな》で声になり、上体を傾けて小早川に顔を近づけた。
「これはチャンスなんだ。オウム事件以後、テレビでオカルトや超能力を肯定的に扱うことはタブーになった。二年前あたりから、ようやく風向きが変わってきて、オカルトやUFOを扱う番組が増えはじめた。世紀末を迎えて、神秘的なものに対する視聴者の興味はますます高まっている。この番組がきっかけになって、またオカルト・ムーブメントがブレイクするかもしれん。この波に乗らない手はないぞ。このまま落ちぶれて、ずるずるとみじめな一生を送るつもりか? そんなのは嫌だろう? もう一度、表舞台に立ちたくはないか? もう一度、スポットライトを浴《あ》びたくはないか?」
「それは……」
小早川は口ごもった。その欲求がないと言えは嘘《うそ》になる。
「そうだろう!?」仙道は笑顔で詰め寄った。「思い出せ! 我々は超能力者だ。エリートなんだ。ここで一発、派手《はで》に花を咲かせてやろうじゃないか! 世間の連中を見返してやるんだ!」
この楽天主義はどこから来るのだろう、と小早川は白けた気分で思った。超能力者が社会のエリートだなんて、時代|錯誤《さくご》もはなはだしい思想だ。スプーンを曲げられるからといって、偉いわけでも賢いわけでもないということに、すでに多くの人間が気づいてしまっている。確かに若い頃は彼も自分を「エリート」だと思ったことはあったが、今ではそんな言葉は口にするだけでも恥《は》ずかしい……。
いや、楽天主義はうわべだけで、単に相手を騙《だま》すための方便《ほうべん》なのかもしれない。仙道は食えない男だ。いざとなれば旧友を切り捨てるぐらいは平気でやる。
だが――今はその男に自分の将来を託《たく》すしか選択肢がないのも確かなのだ。ローンは膨《ふく》れ上がる一方で、返せる見こみはない。仙道が言う通り、このまま何もしなければ、みじめな余生を送るだけなのだ。
「ああ……そうだな」小早川は苦々しげにつぶやいた。「やるしかないだろうな……」
2 ポニーテールの少女
「ほーんと、守崎《もりさき》さんのおかげで助かりますゥ」
鉛筆で下書きした美形キャラの髪にペン入れをしながら、神林なつきは朗《ほが》らかな口調で言った。
「ごめんなさいね。なんかアシスタントみたいなまねさせちゃって」
「ううん、いいの。本当にマンガ家さんのお手伝いしてるみたいで楽しいし」
ペン入れの終わった原稿をドライヤーで乾《かわ》かしながら、守崎|摩耶《まや》は答えた。充分に乾いたところで、消しゴムかけにかかる。
ここは摩耶のアパート。六畳の狭い部屋で二人の未成年の女性が真っ昼間から黙々とマンガ原稿に向かっている姿は、お世辞にも健康的とは言い難い。唯一のテーブルはなつきが占拠《せんきょ》しているので、摩耶は洗濯かごをひっくり返した上にベニヤ板を置き、その上に原稿を置いて作業をしている。テーブルで消しゴムかけをしたら、テーブルが揺れてなつきがペン入れができないからだ。
もうすぐ九月とはいえ残暑はきびしく、クーラーを買う金もない。安物の扇風機で室内の空気をかき回しているものの、あまり効果はなく、全身からねっとりと気味悪い汗が滲《にじ》み出してくる。原稿を汚さないよう、手の汗を頻繁《ひんぱん》にティッシュでぬぐわなくてはならなかった。
「あ、そのキャラの背景、63番のトーン貼《は》ってフラッシュかけてください。ピシャーンって感じで」
「ベタフラッシュの方が良くない?」
「ベタフラ、けっこう難しいんですよお。守崎さん、できます?」
「う……自信ない」
「でしょ? 私もいざとなるとデリーターの819あたりに頼っちゃうし――まだまだ未熟ですよね」
「そんなことない。神崎さん、中学生なのにすごく上手《じょうず》だもの」
消しゴムかけの終わった原稿を眺《なが》め、摩耶はしみじみと言った。天使のような白い羽根を持つ美少年だった。まだ稚拙《ちせつ》ではあるが、将来性を感じさせる絵だ。
「えへへ。そうですかあ? そのクローってキャラ、お気に入りなんですよ。前に夢に出てきたことがあって、これだーって感じで、起きてから思わず絵にしちゃったんです」
「うん、すごくいい」
「でも、デッサンとか画面構成とか、まだまだですよね。プロへの道は遠いです」
摩耶が五歳年下のこの少女と知り合ったのは二週間前のこと。イベントの帰りに、たまたま同じ電車の中で同じジャンルの同人誌を読んでいたら、なつきの方から声をかけてきたのだ。
なつきは最初からやけに馴《な》れ馴れしく、一方的に自分のことばかり話した。好きな作品のこと、お気に入りのキャラのこと、感動したシーンのこと、将来はマンガ家になりたいと思っていること……電車の中でスケッチブックを開いて、自分の描いたキャラを見せたりもした。
摩耶は最初、ひどくとまどい、迷惑に思った。なつきの性格は自分と正反対のように思えた。話題がぽんぽん飛ぶうえ、ろくに相手の意見を聞こうともしない。摩耶はもともと無口なせいもあって、彼女のお喋《しゃべ》りについていけず、相槌《あいづち》を打つぐらいしかできなかった。
だが、そのうち、この少女に親近感を抱くようになった。自分と趣味が同じということもあったが、未来の夢を熱く語る純粋な姿に好感が持てたのだ。「私、ほんっとにマンガ家になりたいんです!」と力説する時、彼女の目は生き生きと輝いていた。
なつきの最大の悩みは、家でマンガを描くことを母親に禁止されていることだ。下書きだけなら学校で休み時間に空《あ》いた教室で描いたり、休日にハンバーガーショップで描くこともできる。だが、ペン入れやトーン貼りとなると、やはり外では難しい。同情した摩耶は、仕事が休みの日に、なつきの同人誌用の原稿のペン入れに協力してあげることにしたのだ。
無論、なつきは大喜びである。幸い、二人の家はすぐ近くだった。なつきは母親に「図書鰐で勉強してくる」と言って、カバンの中に原稿用紙と用具一式を詰めこみ、いそいそと家を抜け出してきたのだ。
「でも、そんな風に自分の欠点まで分かってるなんて偉いな」
貼りつけたスクリーントーンをアートナイフでかりかりと削《けず》りながら、摩耶はため息をついた。
「そうですかあ?」
「だって、その欠点を克服したら、もっと伸びるってごとでしょ? 私なんて、はなから何の取《と》り柄《え》もないし……」
「そうですかあ? 私、守崎さんってすごい人だって思いますけど」
「え?」
「だって、一七歳で家を飛び出して、学校も辞めちゃって、働いて一人暮らししてるんでしょ? すごいなあ。私、そんな度胸ありませんよ」
「あのね……」摩耶は苦笑した。「私を見習わないでね。私の場合、お母さんとの関係が破綻《はたん》したの。つまり失敗例なんだから」
「何で破綻しちゃったんですか?」
「それは……」
摩耶は口ごもった。なつきは原稿に向かっているので、その瞬間、摩耶がどんな悲しい表情を見せたのか、気づいていない。
なつきに本当のことは話せない。荒唐無稽《こうとうむけい》なうえ、口にするにはあまりにも辛《つら》すぎる記憶だからだ。母が娘に悪魔《あくま》が憑《つ》いているのではないかと疑って、騙して山奥の教会に監禁《かんきん》し、悪魔|祓《ばら》いを受けさせ、発狂寸前に追いやっただなんて……。
「あ? ごめんなさい。やっぱりまずかったですか?」
「ん……まあね」
「うーん、でもまあ、うちだってけっこう破綻してますからねえ、親子の関係」
「喧嘩《けんか》とかするの?」
「ううん、ぜんぜん。面と向かって話すことすら、あんまりないから……そういう破綻じゃないんですよ。うーん、何て言えばいいのかなあ。親子の間の感情がそもそも希薄《きはく》なんですよね。この人が私の親だ、っていう実感が湧《わ》いてこないというか……そういうの、分かります?」
「……分かる、と思う」
いや、分かりすぎるほどよく分かる――摩耶の心がずきんと痛んだ。それこそ、自分と母の関係そのものだ。芝居《しばい》の配役のように、与えられた「母と娘」という役柄《やくがら》を義務的に演じていただけで、ついに心を交わすことはなかった……。
「まあ、マンガ家になる夢を認めてもらえないってのもアレですけどねえ」休みなくペンを動かし続けながら、なつきはぼやいた。「でもねえ、母の言い分も分かるんですよね。だって、マンガ家なんて新人賞に入選するのは何百人に一人、その中から生き残るのはさらにひと握りじゃないですか。高校受験なんかよりはるかに狭き門でしょ? そんなのに人生|賭《か》けるのは、どう考えたって無謀《むぼう》ですよ。私が母親でも止めますよ。『バカなこと考えるんじゃない。受験勉強しろ』って。
それが分かるから困っちゃうんです。そういう大人の理屈が――それが理屈としては正しいってことは、痛いほどよく分かるんです。だから反論できない。でも、私がマンガが好きなのは理屈じゃないんです。理屈じゃないからどうにもならない。高校に入るまで待つなんて、とてもできない。どうしても今、描きたいんです。
だいたい、マンガって描かないとうまくならないじゃないですか。デビューするにしたって、もっと経験値積まないと。この原稿だって、一種の修業ですよ。今のレベルでラスボスに挑《いど》んだって、勝てませんから……あ、ごめんなさい、なんか愚痴《ぐち》ばっかになっちゃって」
「ううん、いいのよ」
自分よりずっと若いにもかかわらず、この少女はしっかりと現実を見つめている。その事実に、摩耶は驚きとともに恥《は》ずかしさを覚えた。私ももっとがんばらなくちゃ……。
「でもね、ここんとこちょっと機嫌いいんですよ、うちの母親。それで私も嬉《うれ》しくて。関係修復のきざしかな、なーんて」
「何かいいことあったの?」
「それがね……えへへ」なつきはいたずらっぽく照れ笑いをした。「言っちゃおうかなー、どうしようかなあー……でも、秘密にしてたって、どうせすぐにバレることだし、やっぱり言っちゃお」
「だから何?」
「私ね、今度、テレビに出るんですよ」
「ふうん? 何の番組?」
「それがね……」
なつきはペンを動かす手を止め、顔を上げた。話せるのが嬉しくてたまらないという様子でにこにこと摩耶を見つめる。
「ここだけの話ですよ――私ね、超能力者なんです」
「へえ」
「透視したり、スプーンとか曲げられるんですよ。あと、念写も少し」
「ふうん……」
「あれ? 感動薄いなあ。ひょっとして冗談《じょうだん》だと思ってます?」
「え? ううん、そんなことない」摩耶は慌《あわ》ててかぶりを振った。「びっくりしてる、うん」
「ちょっとやって見せましょうか――そこの本棚《ほんだな》から、どれでもいいから一冊、抜いてもらえます?」
「どれでもいいの?」
「ええ、適当に」
摩耶は目を閉じて、コミック本がぎっしり詰まった本棚に手を伸ばした。真っ先に指に触れた本を一冊抜き出す。『こどものおもちゃ』の一〇巻だった。
「どこか適当にページを開いてください。私に見せないように」
そう言って、なつきは目を閉じた。摩耶は指示通りにした。二六ページだった。
「ページの右上に何か丸いものがありますね」
しっかり目を閉じたまま、なつきは言った。その通り、右上のコマには遊園地のループコースターが描かれている。摩耶は彼女に本の表紙を向けているから、たとえ薄目を開けていても見えるはずがないのだが。
「ええ……」
「あ、言わないで。当てますから」なつきは額《ひたい》に手を当て、考えこんだ。「その横、何だか人の顔がさかさまになってる……その下にあるのは樹?……変な怪物《かいぶつ》みたいなのがいて……二人が……車に乗ってんのかな?……ああ、分かった!」
なつきはぱちんと手を叩《たた》き、目を開けた。
「遊園地のシーンでしょ? 右上のはジェットコースター!」
「正解」
摩耶は拍手した。なつきは照れて頑をかいている。
「どうして分かるの?」
「頭の中にぼんやり浮かぶんです。正解のイメージが」
「テストでカンニングに使えそう」
「あー、それ、試してみました」なつきはあっけらかんと言った。「でも、だめですね。細かい字とかは読めないから。あんまり役に立たないですね」
「そうかあ……」
「スプーン曲げだってそうですよ。いくら曲げたって、実生活じゃ役に立たないですから。スプーンが無駄《むだ》になるだけで――でも、母は喜んでくれてるから。何の取り柄もないと思ってた娘に、テレビに出られるような才能があったって」
「いつ放映なの?」
「まだずっと先です。さ来週の土曜日、収録の予定ですから」
「他にも誰《だれ》か出るの?」
「司会は……ええっと誰だったかなあ? アナウンサーの人ですよ。あと、小早川さんって人が出るらしいです」
「誰?」
「何か昔活躍した超能力者だそうだけど……知ってます?」
「うーん、そう言えば、雑誌か何かで読んだような気も……」
二人が知らなくても無理はない。小早川がテレビで活躍したのは、彼女たちの生まれる前なのだ。
「放映されたら見てくださいよね――おっと、そうそう。お仕事に戻らなくちゃ」
そう言うと、なつきはまた原稿用紙にペンを走らせはじめた
その日の夕方――
ペン入れをひと通り終えた後、摩耶はなつきを途中まで送って行くことにした。家はたいして離れていないし、帰りにスーパーで買い物をするつもりだったからだ。歩きながらも、なつきはずっと喋《しゃべ》り続けていた。
そうしたら思いがけないことが起きた。
「なつきちゃん?」
「あ、ママ……」
なつきはびっくりして立ち止まり、路上で硬直《こうちょく》した。偶然にも買い物帰りの母親と出会ってしまったのだ。摩耶は初対面だったが、狐《きつね》のようなつんとした顔つきで、いかにも性格のきつそうな女性という印象だった。
「なつきちゃん、その人は?」
「え、えーと……」
なつきはたちまちしどろもどろになった。摩耶がすかさず助け舟を出す。
「あの、私、なつきちゃんの勉強を見てあげてたんです。図書館で知り合って、分からないところがあると言われたもので……守崎と言います。よろしく」
よく言うわ、と摩耶は内心、自分にあきれていた。ほんの二年前には、こんなにすらすらと嘘《うそ》なんてつけなかった。それもこれも、かなたたち <うさぎの穴> のメンバーと知り合って、生きるための裏技《うらわざ》をいくつも学んだからだ。
「まあ、そうですか。それはどうも……」
なつきの母はそう言って頭を下げながら、疑惑《ぎわく》の目で摩耶を頭の先から爪先《つまさき》まで観察した。質素《しっそ》な服装や、上品で礼儀《れいぎ》正しい物腰《ものごし》から、どうやら悪い友達ではなさそうだと判断し、ようやく警戒心《けいかいしん》を緩《ゆる》める。
「それにしても、あなたにお友達なんて珍しいわねえ」
「は?」
「いえね、この子って見ての通り内気《うちき》で無口でしょ? だから、学校でもぜんぜん友達ができなくて……」
(内気で無口……!?)
摩耶はびっくりして、なつきに目をやった。母親の隣に立つなつきは、ついさっきまでのお喋り好きな少女とは、まるで別人のようだった。うつむいて黙りこくり、捕《と》らえられた犯罪者のように、おどおどと視線を周囲にさまよわせている。肩をすくめているので、さっきよりひと回り小さくなったような印象を受ける。
なつきの母はさらに喋り続けていたが、摩耶の頭には入らなかった。ショックが大きすぎたからだ。いったいこの変化はどういうことなのだろう? 母親の前では、なつきは仮面をかぶっているのだろうか……? いや、違うーと摩耶は直感《ちよつかん》した。こっちが本来のなつきなのだ。私が知っているなつきは……。
「じゃあ、これで」
軽く会釈《えしゃく》をすると、母娘は立ち去った。別れ際《ぎわ》、なつきがちらっと悲しそうな視線を投げかけたのを、摩耶は見逃さなかった。
(あの子、私と同じだ……)
摩耶は茫然《ぼうぜん》と路上に立ちすくんでいた。
3 サイは逃げる
アパートに帰りついた時には、すでに時計の針《はり》は七時を回り、暗くなりかけていた。七時からいつも見ている番組があったことを思い出したが、部屋は散らかしっぱなしで、テレビのリモコンが見当たらない。やむなく摩耶は、小声でつぶやいた。
「点《つ》けて」
リモコンに触ってもいないのに、テレビのスイッチが点いた。さらに、ぱっぱっとチャンネルが切り替わる。
いつもの番組は、どうやら野球中継で流れたらしい。やむなく摩耶はNHKのニュースに切り替え、夕食の材料を詰めこんだポリ袋をテーブルに置くと、部屋の一画にぺたんと座りこんだ。蒸し暑い外を歩き回ったので、ひどく咽喉《のど》が乾《かわ》いている。
小さな冷蔵庫の扉《とびら》が開き、冷えた缶ジュースがポンと飛び出してきた。摩耶はそれを空中で受け止めると、「ありがとう」と言ってリングプルを開けた。冷蔵庫の扉は元通りに閉まった。
さすがにこれだけ長くつき合っていると、夢魔《むま》の扱いにもかなり慣れてきた。目には見えなくても、夢魔は常に形のないエネルギー体として彼女の周囲に存在している。わざわざ実体化させなくても、小さなものを動かすぐらいの芸当ならできる。心の中で強く夢魔に命令しさえすればいいのだ。不完全な妖怪《ようかい》である夢魔には独立した意志というものがなく、摩耶の意志に忠実に従う。
なつきが超能力を持っていると告白しても、たいして驚かなかったのは、これが理由だ。
これまで、いろいろな妖怪と出会ってきた。その中には常識や科学では考えられない奇怪《きかい》な能力を持つものがいた。テレビの中を通り抜けて移動できるうわべり。影に変化して人間を襲《おそ》ういじん。姿を消し、炎やポルターガイストを操《あやつ》る女悪魔モリガン。電気を武器にする雷獣・黒焔《こくえん》……妖怪がそんな力を持っているのなら、人間に少しばかり超能力があったって、何の不思議があろう。今さら透視《とうし》ぐらいでは驚けない。
摩耶が気にかけているのは別のことだった。
(なつきちゃん、あんな子だったのか……)
アパートに帰る途中も、ずっとなつきのことを考え続けていた。彼女の性格が自分と正反対だと思いこんでいたのは、彼女のほんの一面しか見ていなかったからだ。あの子はかつての自分にそっくりだ。
あのとりとめのないお喋りは、普段、誰とも話さないことの反動なのだろう。自分と共通の話題を持っている人間、心を開くことのできる友と出会えて、嬉《うれ》しくてたまらず、思わず喋りすぎてしまうのだ。不躾《ぶしつけ》けなまでに親しくしたり、相手の言うことを聞かなかったりするのも、会話というものに慣れていないだけなのだ。
彼女もまた、孤独な人間なのだ。
(母は喜んでくれてるから)
そう言った時の、なつきの明るい表情が忘れられない。どんな形であれ、母親が自分のことで喜んでくれるのは、彼女にとって嬉しいことなのだろう。
そう言えば、父親に喜んでもらうためにロボットに乗る少年のアニメがあったっげ。
(でも……)
摩耶の心に、ある不安が浮かんだ。超能力を持った少女との出会いは、単なる偶然なのだろうか? それとも何かの事件の前兆《ぜんちょう》なのだろうか?
そう考える根拠《こんきょ》はある。妖怪同士は引かれ合う性質があるらしいのだ。
人間が普通に暮らしていて妖怪に出会う確率《かくりつ》はきわめて低い。悪い妖怪に襲われる心配をするぐらいなら、交通事故に遭《あ》う可能性や、殺人事件に巻きこまれる可能性を心配した方がいい。ところが、妖怪はしばしば他の妖怪が起こした事件に偶然に出くわす。それは通常の確率の法則では説明できない現象《げんしょう》だ。この世界の法則というか、一種のシンクロニシティが作用して、妖怪同士を出会わせるらしい。摩耶は人間だが、夢魔を憑依《ひょうい》させている。きわめて短い期間に、いじんに襲われたり、黒焔の起こした事件の現場に遭遇《そうぐう》したり、復讐《ふくしゅう》の女神フューリーの標的《ひょうてき》になった人を助けたりしたのも、そうしたシンクロニシティだったと考えるべきだろう。
「私、霊感《れいかん》もあるんですよね」となつきは言っていた。「でも、迷惑《めいわく》なんですよ。夜中にベッドの傍《かたわら》に何かうずくまってる気配《けはい》を感じちゃったりして……気づかない方が幸せですよね、ああいうの」
摩椰の不安はますます膨《ふく》らんだ。なつきは何か妖怪がらみの事件に巻きこまれようとしているのだろうか?
鍵《かぎ》になるのは彼女の超能力だ。それが何か妖怪とつながりがあるか、あるいは妖怪を呼び寄せているのかもしれない。
そもそも超能力って何だろう? 摩耶は首をひねった。以前からオカルトが好きで、そうした不思議な力がこの世に存在することは、ごく当然のこととして受け入れていた。だが、あらためて考えてみると、「超能力とは何か」という初歩的な疑問に対して、明確に答えることができないことに気づいた。あまりにも当たり前すぎて、深く考えたことがなかったのだ。
こういう場合に頼りになるのは <うさぎの穴> だ。妖怪のことは妖怪に訊《たず》ねるのが一番。あそこに行けば、たぶん大樹あたりが、「超能力の定義とその歴史について」というテーマで、得意げに一席ぶってくれるに違いない。
少し前までの摩耶なら、迷《まよ》わずそうしただろう。
(だめだめ。いつまでもあの人たちに頼ってちゃ。もう子供じゃないんだから)
彼女は自分を戒《いまし》めた。もう一八歳。こんな些細《ささい》な疑問までいちいち <うさぎの穴> に相談に行ってたら、いつまで経っても独《ひと》り立《だ》ちできない。
(今度、自分で調べてみよう)
摩耶はそう決心した。
次の休日、摩耶は近くの図書館に出かけ、超能力について調べた。露骨《ろこつ》にオカルト色の強そぅな本は軽薄《けいはく》そうなので避け、『超心理学史』とか『超心理学入門』といった堅そうな題のハードカバーの本を選んだ。
超能力にはおおまかに分けて二種類ある。ひとつはESP(超感覚的知覚)で、透視、予知、テレパシーなど、通常の五感以外から得られる情報のことだ。もうひとつはPK(サイコキネシス)、いわゆる念力《ねんりき》で、物理的な力を加えることなく、物体を動かしたり変質させたりする力だ。
ESPとPKをひっくるめて「サイ現象」と呼ぶ。サイ(Ψ)というのはギリシャ語で「精神」を意味するプシューケーの頭文字《かしらもじ》である。
超能力という概念は比較的新しい。たとえば他人の心を読む能力が注目されるようになったのは一九世紀になってからで、F・W・H・マイヤーズという研究者がそれを「テレパシー」と命名したのは一八八二年なのだ。摩耶にはちょっと意外だった。もっと昔からある概念《がいねん》だとばかり思っていた。
無論、完世紀以前にもESPらしき現象の報告はたくさんある。遠くの親戚《しんせき》の死を夢で知ったとか、未来を予知したとか−だが、それらは「虫の知らせ」「神のお告げ」「霊示」などと呼ばれ、霊や神からもたらされるものだと考えられていた。人間自身の持つ能力とは考えられていなかったのだ。
ダウジング――振り子や棒《ぼう》を使って地中の水脈などを探知《たんち》する術にしても、すでに一六世紀から知られていたが、超能力の一種だと考えられるようになったのは、つい近年のことだ。二〇世紀初頭までは、地中から発する磁気《じき》のようなものを振り子や棒が検知するのだと考えられていた。
PKも同じだ。一九世紀以前にも「魔術」「呪術《じゅじゅつ》」という概念はあったが、やはり悪霊《あくりょう》や精霊《せいれい》の力を借りるものだと考えられており、人間自身が精神の力で物を動かしたという話はほとんどない。スプーン曲げにいたっては、一九七〇年代にようやく登場した現象で、それ以前に類似した例はまったくない。
一九世紀にサイ現象が注目を集めるようになった背景には、当時の科学の急速な進歩と、唯物論《ゆいぶつろん》の台頭《たいとう》に対する反発があった。一八世紀から一九世紀にかけて、医学、化学、物理学などの分野で重要な発見が相次ぎ、世界の構造がしだいに明らかになりつつあった。生物学の世界では進化論が登場し、人間は神に創造されたのではなく、原始的な生物から進化したと考えられるようになった。
このまま科学が発展し続けたら、あらゆるものが合理的に説明されてしまうのではないか。人間の心というものも、脳の中で起こるただの化学現象にすぎないと証明されてしまうのではないか――そんな危惧《きぐ》が一部の信仰|篤《あつ》い人々を不安に陥《おとしい》れた。精神というものは幻《まぼろし》にすぎず、自分たちが魂《たましい》のない機械人形にすぎないという可能性を、彼らは断固《だんこ》として認めたくなかった。
かくして一九世紀中頃から、心身二元論(精神は肉体とは独立して存在するという考え方)が盛り返してきた。多くの人が、心とは物質世界を超越《ちょうえつ》した存在であるはずだと信じ、その証拠を求めた。
そこで注目されるようになったのが超能力だ。人間の心には物理法則を超越する力があると実証されれば、心身二元論の証明になると考えられた。
一八八二年、ロンドンでSPR(心霊研究協会)が設立された。これは世界最初の学術的な超常現象研究団体で、多くの科学者、心理学者、政治家、聖職者が名を連ねていた。初期のメンバーの中には、作家のコナン・ドイル、数学者のチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン(ルイス・キャロル)、ノーベル賞科学者のJ・J・トムスンの名もある。
ところで、ここで奇妙《きみょう》な事実がある。SPRの初期の研究テーマの中には、「死後の世界の存在」が含まれていないのだ。
SPRのメンバーが死後の世界を信じていなかったわけではない。まったく逆だ。彼らの多くは霊魂《れいこん》の実在を信じており、究極的には魂が死後も存在することを証明したいと願っていたのだ。
ここに当時の研究者の抱えていたジレンマがある。霊魂の実在を証明したいなら、超能力を調べるより、幽霊現象《ゆうれいげんしょう》を研究した方がいいに決まっている。しかし、当時の科学合理主義の風潮《ふうちょう》では、「幽霊」という言葉を出しただけで非科学的と決めつけられ、白い目で見られた。当時の(そして今も)研究者が最も過敏《かびん》になっていたのは、自分たちの研究が非科学的だと思われることだった。そのため、遠回りではあるが、まず超能力の研究から手をつけることになったのだ。
(おかしな考え方だわ)
と摩耶は思った。幽霊も超能力も、科学で説明できない現象という点では同じなのに、幽霊は非科学的で超能力は科学的と考えるのは矛盾《むじゅん》している。
向にせよ、当時の研究者たちは、自分たちの研究が怪《あや》しげなオカルト扱いされることを極端に嫌った。そのため、霊のように見える現象でも、もっともらしい用語を命名し、強引にESPやPKで説明をつけようとした。
遠くにいる人物が死んだ時刻の前後、まだその死を知らないはずの友人や親戚が、死者の幻を見るという現象が、世界各国で多数報告されている。研究者はこれに「危機的霊姿」という名前をつけた。これは霊のしわざではなく、幻を見た本人がESPによって遠くにいる人物の死を知ったのだと解釈された。
霊媒《れいばい》が呼び出した霊が、本人しか知らないはずの生前の出来事を正確に話すのは、どう解釈すればいいのか? 研究者たちは「超ESP仮説」を考慮《こうりょ》し、結論を出すのを避けた。トランス状態に陥った霊媒が、無意識にESPで知った事実を口にしているのではないか、というのだ。
幽霊屋敷やポルターガイストという現象には、「RSPK(回帰性自然発生PK)」という名前がつけられた。霊が物体を動かしたり家具を揺《ゆ》らしたりするなど、迷信《めいしん》にすぎない。そうした現象は、その家に住んでいる人間、特に思春期の少年少女が、無意識にPKで起こしている現象なのだ……。
摩耶にはこうした説明はかなり無理があるように思えた。何と言っても、ベッドや椅子《いす》を動かせるような強いPKを持った超能力者など、一人も確認されていないのだ。にもかかわらず、子供がPKで家具を動かせると考えるのはバカげている。
そもそも彼女は、ポルターガイストがPKなどではないことを、モリガンの事件で知っている。それは目に見えない小さな妖怪《ようかい》のしわざなのだ。
ちなみにポルターガイストとはドイツ語で「騒《さわ》しい霊」という意味である。昔のドイツ人の方が的確《てきかく》に事実を見抜いていたらしい。
それにしても――と摩耶は思った。超心理学者という人たちは、奇妙な考え方をする。超常現象を肯定《こうてい》するどころか、超自然的な存在を躍起《やっき》になって否定しようとしているようにさえ見える。不思議な現象に「サイ」だの「RSPK」だのといった名前をつけて、それで説明したような気になっている。
名前をつけただけでは、何も解明したことにならないのに。
さらに問題なのは、もう一世紀以上も続いている彼らの研究が、まったく実を結ぶ気配《けはい》がないということだ。いや、サイの実在を示すかのような証拠はたくさん得られている。だが、決定的な証拠となると、どうしても得られないのだ。
特に有名なのは、一九三〇年代、デューク大学のJ・B・ラインが行なった一連の実験である。ラインは共同研究者のカール・ゼナーとともに、「ゼナー・カード」を考案した。星型・十字・波・丸・四角の五つの図柄《ずがら》のカードが各五枚ずつ、二五枚が一セットになっている。これを離れた場所から被験者《ひけんしゃ》に透視させる。偶然なら五分の一、つまり二五枚中平均して五枚前後しか当たらないはずだが、ESPが存在するなら、偶然期待値を上回る成績が得られるはずである。
ラインらは学生たちを被験者にしてテストを行なった。驚くべきことに、たちまち高得点者が何人も発見されたのだ。たとえばアダム・リンツマイヤーという学生は、六〇〇回に及ぶ実験で平均九・九という驚異的《きょういてき》成績を上げた。ヒューバート・ピアースは一八五〇回の試行中、偶然期待値が三七〇であるところを、五五八もヒットした。ジョージ・ザークルは連続して二六枚ものカードを当てたことがある。これは偶然では絶対に説明できない数字だ。ラインや当時の超心理学者たちは、これこそESPの存在の証明だと考えた。
だが――ラインの喜びは長く続かなかった。その後、被験者たちの成績はいっせいに下降し、ついには偶然期待値と大差ない成績しか出せなくなったのだ。
現在でもゼナー・カードはESPのテストに用いられており、たまに良い成績を上げる者がいる。しかし、リンツマイヤーやピアースに匹敵《ひってき》する好成績を上げる超能力者は、一人も見つからない。当然のことながら、懐疑論者《かいぎろんしゃ》たちは、ラインの被験者たちは何らかの方法でこっそりカードを盗《ぬす》み見ていたのではないかと批判している。
ライン以後も同様のパターンが何度も繰り返されている。六〇年代にニューヨークのマイモニデス医療センターで行なわれた、夢による遠隔視《えんかくし》の実験。七〇年代にラッセル・ターグとハロルド・パソフが行なった遠隔視実験。ヘルムート・シュミットによる乱数発生器を用いた実験……そのいずれも、ESPやPKの存在を疑いなく証明するものと思われた。
だが、勝利は長続きしない。実験を繰り返すにつれ、被験者の成績はがた落ちになる(この現象は「下降効果」と呼ばれている)。別の実験者が同じ条件で実験を行なってみてもうまくいかない。批判者《ひはんしゃ》たちは、最初の実験に重大な不備があったか、データが故意《こい》に歪曲《わいきょく》されたのではないかと指摘する……。
批判者の言い分ももっともなのである。実際、超心理学者が実験データを捏造《ねつぞう》したという不名誉《ふめいよ》な事件がいくつもあるのだ。おそらく、サイ現象の実在を強く信じるものの、それを証明するデータがなかなか得られないのに苛立《いらだ》ち、つい不正に走ってしまうのだろう。
スプーン曲げに関して言えば、トリックが不可能な状況下で超能力者がスプーンを曲げ、その一部始終がビデオに記録されたという例は、ただのひとつもない。テレビに出演してやすやすとスプーンを曲げてみせる超能力者も、実験室に入れられるととたんに能力を失ってしまうのだ。あのユリ・ゲラーも、スタンフォード研究所のテストでは一本のスプーンも曲げられなかった。
長年、サイ現象の実在を信じ、マイモニデス実験にもたずさわったスタンリー・クリップナーでさえ、こう認めている。
「誰《だれ》がやっても一貫《いっかん》して同じ現象が観察されるような実験的方法は、いまだに開発できていない。さらに、超常現象の背後にどのようなメカニズムがあるのかも解明できていない。そして、厳密《げんみつ》な実験室での研究では、超能力が実在するという証拠は、まったく得られていないのである」(守秀子・訳)
クリップナーの言葉は世界の超心理学者たちの共通した見解《けんかい》である。彼らはみな、サイ現象の実在を堅く信じている反面、確かな証拠がどうしても得られないことに、苛立ちと落胆《らくたん》を覚えている。
超能力なんてみんなイカサマだ、と否定論者は嘲笑《ちょうしょう》する。実際、超能力の世界にはたくさんのイカサマが存在する。初歩のトリックを「超能力」と称し、人を騙《だま》す者は跡《あと》を絶《た》たない。そして、純真な研究者はそれにコロリとひっかかる。
一九七九年、セントルイスのワシントン大学に設立されたマグダネル超心理研究所では、スティーブ・ショウとマイケル・エドワーズという二人の十代の若者を調査した。その期間中、彼らは厳重に密閉された箱の中の物品を透視し、ガラスのドームの中の風車を回し、電気のヒューズを手を触れずにショートさせ、ビデオカメラにたくさんの不思議な渦巻《うずま》き模様《もよう》を記録し、デジタル時計を狂わせ、透明なプラスチックの箱の中に入れられたクリップをからみ合わせた。三年間にわたる調査では何ひとつ不審《ふしん》な点は発見できず、研究者たちはこれこそサイ現象の証拠だと発表した。
しかし、超常現象のトリックを暴《あば》くことで有名な奇術師《きじゅつし》ジェイムズ・ランディが真実を発表したことによって、マグダネル研究所の権威《けんい》は地に堕《お》ちた。ショウとエドワーズはアマチュアの奇術師で、ランディの指示を受け、研究者たちの観察眼を試す目的で行動していたのである。ガラスのドームの中の風車は、隙間《すきま》から息を吹きこんで回していただけだった。ビデオカメラに記録された「渦巻き」は、ショウがレンズに吐《は》きかけた唾《つば》だった。よく観察しさえすれば、彼らがトリックを行なった痕跡《こんせき》はたくさん残っていたのだが、研究者は誰も気がつかなかった。
騙されていたことを知らされて狼狽《ろうばい》した研究者の一人は、雑誌のインタビューに答え、二人が本当は超能力者なのに嘘《うそ》をついているのだと発言した。「なぜこの子らは、これがトリックだと分かるんだ」と。
残念ながら、超心理学者がトリックにひっかかったのは、これが最初でもなく、最後でもない。だが、いくら恥《はじ》をかき、嘲笑されても、超心理学者は決してへこたれることはない。
彼らはこう主張する。
「すべてのカラスが黒くないことを証明するには、たった一羽の白いカラスを見つけるだけで充分である」
すなわち、すべてのサイ現象がイカサマでないことを証明するには、たったひとつでいい、確かな証拠を見つければいいのだ。
しかし、その「確かな証拠」はいつ見つかるのだろう?
「サイ現象は実証されることを嫌う性質がある」
そんな奇妙な説を真剣に唱《とな》える研究者も少なくない。ゆるやかな監視《かんし》の下ではよく曲がったスプーンが、監視を厳《きび》しくしたとたんに曲がらなくなる。また、実験中にしばしばカメラやテープレコーダーなどの機材が故障《こしょう》することがある。それも決定的な証拠が得られそうな時にかぎって。
この世にはサイ現象の実証を阻《はば》む強い力が働いている、と彼らは主張する。サイ現象の存在を疑いなく証明しようとする実験は、必ず失敗に終わるというのだ。確かに、これほど失敗を重ねてきては、そう信じたくもなるだろう。
ウィリアム・ジェイムズという研究者はこう書いている。
「本当にわれわれの科学的|性癖《せいへき》を単にはねつけ嘲《あざけ》るためだけに、創造主がおびただしい数の現象をこの世に創出させたとは信じがたい。したがって、われわれ心霊研究者は、希望をもってまっしぐらに進みすぎたのであって、二五年程度で進歩が望めると考えるのは早計《そうけい》であり、五〇年ないし一〇〇年を想定しなければならないのである」(笠原敏雄・訳)
摩耶はため息をついた。ジェイムズの心意気は確かに立派だ。だが、彼がこの文章を書いたのは一九〇九年。それからすでに一〇〇年近く経ち、多くの研究者がこの間題に取り組んできたにもかかわらず、依然《いぜん》として超能力や霊の存在は謎《なぞ》のままなのだ。事実上、ジェイムズの時代からほとんど進歩していないのである。
白いカラスはまだ捕《と》らえられていないのだ。
家に帰ると、思いがけず、なつきから電話があった。テレビの収録に立ち合わないか、というのだ。
「学者の先生の話だと、リラックスしてる方が実験はうまくいくって言うんです」彼女はまた朗《ほが》らかな口調に戻っていた。「周りが大人ばかりだと緊張しちゃってまずいだろうって。だから誰かお友達を連れて来なさいって。でも私、守崎さんぐらいしか心当たりなくて――来てくれます?」
摩耶は即座に返答した。「ええ、いいわよ」
「良かったーっ! 断《こと》わられたらどうしようかって思ってたんですぅ!」
なつきの声は本当に嬉《うれ》しそうだった。他に心当たりがない、というのは事実だろう。家でも学校でも孤立しているなつきには、摩耶の他に頼れる人間がいないのだ。
(私があの子を守ってあげなきゃ……)
摩耶は唇《くちびる》をぎゅっと噛《か》み締《し》め、決意した。一八年の人生で、自分より弱い者を守ろうと思ったのは、これが初めてだった。
4 なつきの決意
翌週の土曜日・都内の私立大学の心理学実験室――
実験開始予定の一時間前、摩耶はなつきに付《つ》き添《そ》って、大学に到着した。なつきの母は用事があるとかで、少し遅れて来るらしい。
「ずいぶんラフな雰囲気なんですね」
それが実験室を見学した摩耶の第一印象だった。壁《かべ》が真っ白で、電子機器がぎっしり並んでいるような部屋を想像していたので、少し意外だった。ソファやテーブルが置かれていて、ちょっとした応接間のような雰囲気だ。壁にはカラフルな壁紙が貼《は》られ、風景画が飾られている。部屋の四隅にビデオカメラを載《の》せた三脚《さんきゃく》が立っているのだけが、ちょっと場違いだ。数人の学生がカメラの角度を調整したり、映り具合をチェックしたりしている。
「被験者《ひけんしゃ》を緊張させない工夫ですよ」
そう説明したのは、この大学の心理学部の教授の竹之内《たけのうち》である。人の好さそうな中年男性で、もう二〇年近くも超心理学研究に取り組んできた。この分野のオーソリティーの一人だという。
「あまり厳格《げんかく》な雰囲気だと、緊張して失敗してしまいますからね。でも、いちおう実験室としての条件は完璧《かんぺき》に満たしてるんですよ――ほら、窓も穴もないでしょ?」
摩耶はぐるりと室内を見渡した。この部屋は地下一階にあり、かつては倉庫《そうこ》だったのを改装《かいそう》したのだそうだ。
実験室の隣には同じ広さの観察室があり、ビデオモニターやスピーカーがある。テストの最中、実験室に入れるのは被験者を含めた数人だけだ。他の者は観察室で待機《たいき》し、カメラを通して実験の様子を見る。実験室と観察室、観察室と廊下は、厚い防音扉で隔てられている。実験室には出入口がひとつしかなく、観察室を通過しないと入れない。不正を防止するため、実験室に勝手に出入りできないようになっているのだ。
「壁も天井《てんじょう》も防音材が二重に貼ってあります」竹之内は嬉《うれ》しそうに解説した。「外部からの音や電波は完全に遮断《しゃだん》されています。被験者をリラックスさせるためと……」
「不正を防ぐため?」
「まあ、そうです。なつきちゃんを疑っているわけじゃありませんよ。世の中には細かいことにケチをつけたがる懐疑論者《かいぎろんしゃ》が多いですからね。彼らを黙らせるためです」
竹之内の考えは杞憂《きゆう》ではない。ユリ・ゲラーが一九七二年にスタンフォード研究所で透視の実験に成功した際も、彼が小型の電波受信機を使って外部の共謀者《きょうぼうしゃ》と交信していたのではないかと疑われたことがあるのだ。
「先生、ちょっと」作業をしていた学生の一人が竹之内を呼んだ。「これから配線《はいせん》するんですけど……」
「ああ、そうか」
竹之内は二人の方を振り返って言った。
「申し訳ない。ちょっと作業が残ってるもんで、一時間ほど外をぶらついてきてもらえませんか」
二人は疑うこともせず、その指示に従った。
「君、神林なつきさんだね?」
キャンパス内をぶらぶらと見て回っていると、不意に見知らぬ男が声をかけてきた。
「は、はい……?」
反射的にすくみ上がるなつきに、男はぎこちなく微笑《ほほえ》みかけた。
「怪《あや》しいもんじゃない。俺《おれ》、小早川ってもんなんだ。よろしく」
男が示した運転免許証の名前を見て、なつきはその名前を思い出した。
「ああ、番組に出演される……?」
「そう」ちらっと摩耶の方を見て、「こちら、お姉さんかな?」
「いえ、お友達ですけど……」
「ちょっとだけなつきちゃん、借りていいですか? ぜひ二人だけで話したいことがあるんだけど」
摩耶は警戒《けいかい》した。人を見かけで判断するのは良くないと分かっているが、この陰気《いんき》で顔色の良くない男には、どこか得体《えたい》の知れないところがある。
「どんなお話でしょう?」
「いや、二人だけで話したいんだけどな」
「私がいっしょじゃだめなんですか?」
「うん、だめなんだ、これが」小早川は済まなさそうに、フケのたまった頭をポリポリと掻《か》いた。「企業秘密ってやつで、部外者には聞かれたくない話なんだよね」
「でも――」
「心配しなくても、誘拐《ゆうかい》するつもりなんてないさ。俺はロリコンじゃない。すぐそこの――」
と、背後にある学生食堂を指差して、
「学食で一〇分ほど話すだけだ」
「本当ですか? 本当に一〇分?」
「くどいね、君も」彼は苦笑した。「そんなに俺、怪しそうに見える?」
摩耶は恐縮《きょうしゅく》した。「すみません……」
「本当に一〇分で帰るから。そこで待っててくれ。な? な?」
そう言いながら、小早川は茫然《ぼうぜん》としているなつきの手を取り、なかば引きずるようにして学生食堂の方に歩いていった。
二人は食堂の隅《すみ》の席に座った。土曜日の午後とあって利用する学生はまばらだ。これなら立ち聞きされる心配はなさそうだ。
「時間がないから単刀直入に言うと」と小早川。「君の意志を確認したいんだ」
「意志?」
「そう。本当に番組に出る気なのか?」
なつきはおどおどとうなずいた。「で……出ます」
「出るのはいいが、覚悟《かくご》はできてんのかな?」
「……え?」
「君、学校では目立たない方だろ? 君が超能力持ってること、みんな知ってんの?」
「……いえ。まだ家族と親戚《しんせき》だけです」
「だろうと思った――番組が放映されたら、君は一躍《いちやく》クラスの人気者だ。いや、全国の人気者だな。取材もいっぱい来るだろう。有名人だ――」
小早川は言葉を切り、真剣な目で少女の顔をじっと見つめた。
「――そうなったら、もう後には引けないんだぜ?」
「……あの……どういう……?」
「君、今いくつ?」
「一三……ですけど」
「そうか――俺が初めてスプーンを曲げた歳と同じだな」
彼は悲しそうに微笑み、過去を振り返った。
「学校でも成績は下の方。何の取《と》り柄《え》もない平凡なガキだった。そんな奴《やつ》が急に世間の脚光《きゃっこう》を浴《あ》びたんだから大変さ。最初は有頂天《うちょうてん》だったよ。テレビに出たり、雑誌に取り上げられるのが、嬉しくてたまらなかった。本当にあの頃はガキだったんだな。先のことなんて何も考えちゃいなかった」
彼と対談したあるマンガ家は、「これは人類の意識の変革だ」と評した。人類は物質文明至上主義から精神的なものを重んずる文明への大転換《だいてんかん》の時期に差しかかっている。超能力少年の大量出現はその最初の顕《あら》われだ、というのだ。
今世紀の末までには、人類の文明のあり方は今とがらりと変わっている。超能力の存在も日常的なものになっているだろう――マンガ家はそう断言した。小早川もそれを確信した。そう、自分は人類の新しい時代を切り開く偉大な人間になるんだ……。
だが、そんな喜びは長くは続かなかった。ある超能力少年が、雑誌の取材を受けた際に、トリックを使ってスプーンを曲げているのを見破《みやぶ》られたのだ。そのせいですべての超能力少年が疑惑《ぎわく》の目で見られることになった。小早川も学校で「インチキ野郎」と罵《ののし》られた。
時を同じくして、マスコミの反オカルト・キャンペーンが開始された。子供たちに蔓延《まんえん》するオカルト・ブームに危惧《きぐ》を感じた知識人たちが、超能力を否定しはじめたのだ。「コックリさん」遊びが原因で集団ヒステリーを起こす子供が現われたことも、そうした風潮《ふうちょう》に拍車《はくしゃ》をかけた。
やがて超能力ブームは去った。日本中に大勢いたはずの超能力少年たちは、みんなスプーンなど曲げなくなった。そんなことをしていったい何になる? スプーンが曲げられたところで、大学受験や就職に少しでも有利になるわけではない。
「だが、俺はバカだった」小早川は吐《は》き捨てるように言った。「どんなに叩《たた》かれても、マスコミに出るのをやめようとしなかった。俺には他に何の才能もない。俺にとって、スプーン曲げは唯一《ゆいいつ》の誇《ほこ》りだった。それをインチキ呼ばわりする連中は許せなかった! 俺の能力を証明して、連中を見返してやりたかったんだ。
ところが、その頃から俺の能力が低下しはじめたんだ。だんだんスプーンが曲げられなくなってきた。それもここ一番って大事な時にかぎって曲がらない。超能力者なら誰にでも訪れる下降効果ってやつだが、その頃の俺はそんなことは知らない。
あせったよ。不安だった。スプーンが曲げられなくなったら、それこそ『ほら、やっぱりインチキだったんだ』って笑われるような気がした。そんなことは俺のプライドが許さなかった――断じて! 俺がどうしたか分かるか?」
なつきは蒼白《そうはく》な顔で沈黙《ちんもく》していた。何となく予想はついているが、口にするのが恐ろしい。
「見せてやろう」
小早川は食器置場からスプーンを何本か取ってきた。
「こういう安物のやつはよく曲がる。いいか――」
彼は一本のスプーンの両端を握り、ささっと素早く動かした。速すぎてなつきにはよく見えなかった。気がつくと、まるで雑巾《ぞうきん》を絞《しぼ》ったように、スプーンの首の部分が一八〇度ねじれていた。
「もう一度やってみせよう。よく見てな」
彼は別のスプーンで同じ動作をゆっくりと繰り返した。まず両腕に力をこめ、スプーンを折り畳《たた》むように曲げる。次にそれを戻すのだが、最初に曲げた方向とは九〇度異なる方向に、時計の針のように回転させながらねじってゆく。すると雑巾のようにねじれたスプーンができあがる。
「練習すれば、この動作には二秒しかかからない。つまり、二秒だけ周囲の目をそらせればいいわけだ。次にこれをこう握る――」
小早川はスプーンのねじれた部分を握り締めた。ちょうど一八〇度ねじれているので、一見すると正常なスプーンのように見える。
「これを回転させながら押し出すと――」
スプーンを押し出しながら、ねじれた箇所《かしょ》を少しずつ露出《ろしゆつ》させてゆくと、あたかも手の中でスプーンがねじれてゆくように見える。
「どう? 分かったかな?」小早川はねじれたスプーンを少女の前にかざした。「これが俺の開発したテクニックのひとつさ。他にもいろんなテクニックがある。超能力は修業したって上達しない。減衰《げんすい》するだけだ。ところがトリックってやつは練習すればするほど上達する。必死に練習したおかげで、すっかりうまくなっちまった」
彼は自嘲《じちょう》の笑みを浮かべた。
「バカな話さ。超能力者としてのプライドを守るために、人間としてのプライドを捨てちまった。最後に超能力でスプーンを曲げたのは、もう十何年も前だ。ブームが終わっても、完全に能力が消え失せても、超能力者を演じ続けなくちゃならなかった。いつかまたスターの座に返り咲ける――そんな幻想《げんそう》だけを抱いて、二五年間、生きてきた。だからまともな職にも就《つ》かなかった。ギャラとか本の印税《いんぜい》とかで食いつないできたが、それも限界だ……」
気がつけば、もうあのマンガ家が予言した二〇世紀末になっている。しかし、物質文明には本質的に何の変化もないように見える。ソ連が崩壊《ほうかい》して冷戦は過去のものになったが、戦争はやはり世界のあちこちで起きている。大気汚染《たいきおせん》の問題はかなり改善されたものの、慢性雨《さんせいう》、ダイオキシン、環境ホルモン、オゾン層破壊など、新たな脅威《きょうい》が浮上《ふじょう》してきた。モラルは乱れ、凶悪犯罪《きょうあくはんざい》は増加し、学校は荒れている……。
「何が人類の意識の変革だ!」小早川は吐き捨てるように言った。「カードを当てられたり、スプーンを曲げられる人間が何人かいたところで、この文明は何も変わりゃしないんだ。それどころか、今や超能力は金儲《かねもう》けの道具にまで成り下がっちまった……」
「金儲けの道具……?」
「今度の番組、裏があるのを知ってるか?」
「裏?」
彼は大きくうなずいた。
「ある男が君をダシにして、金儲けを企《たくら》んでいる。今度の番組で君をスターにして、超能力は存在するってことを視聴者に印象づける。もう一度、日本に超能力ブームを起こす。そこで往年のスターである俺の出番だ。俺はテレビでスプーンを曲げてみせて、超能力がまだ衰えていないことを見せつけてから、いくつか予言してみせる。
たとえば、俺がこう予言したとする。『今年の末に日本近海で新たな油田《ゆでん》が発見されます』――ビジネスの世界にもオカルト信者は多い。連中が俺の予言を信じて石油会社の株を買えば、株価は一時的に急上昇する。仙道たちはその会社の株を先に買っておいて、株価が上がったところで売る。証拠は残らない。いわば完全犯罪だ……」
小早川は言葉を切り、またなつきの顔を覗《のぞ》きこんだ。
「どうだ、お嬢ちゃん? こんな裏を知って、まだやりたい? 今ならまだ、引き返せるんだぜ。目立たない平凡な女の子として一生を終えた方が幸福ってもんじゃないか? もし俺が人生をやり直せるなら、そうするがな」
「私……」
なつきは拳《こぶし》を握り締め、うつむいていた。たっぷり二〇秒ほど沈黙してから、ようやく決心して口を開く。
「私……やっぱりやります」
「おい……」
「有名になりたいんじゃないんです。誰がお金儲けしようと、どうでもいい。ただ、母を喜ばせてあげたいんです。私がテレビに出られるって知って、母ったらものすごくオーバーに感激しちゃって、私をぎゅっと抱き締めて――あんなに強く抱き締められたの、なんか久しぶりで……」
彼女は苦笑しながら、目尻《めじり》からあふれた涙をそっと指でぬぐった。
「親戚に電話かけまくったり、もう大はしゃぎしてるんです。ここで『出ない』なんてわがまま言ったら、それこそ親子の関係、毀《こわ》れちゃう気がして……ああ、やだな。こんなに動揺《どうよう》してたら、それこそ実験、失敗しそう」
彼女は顔を上げ、小早川を正面から見つめた。もう涙は出ていない。
「だから、やります。実験、成功させます。母と仲良しでいたいから……」
「しかし……」
「お話、それだけですよね?」
「ちょ、ちょっと待って!」
男が止めようとするのも無視し、なつきは立ち上がった。振り返って歩み去ろうとして、はっとして立ちすくむ。
すぐ後ろの柱の蔭《かげ》に摩耶がいた――心配になって立ち聞きしていたのだ。
なつきはちょっとたじろいだものの、顔を伏せて摩耶の横をすり抜け、逃げるように小走りで去って行った。残された摩耶と小早川は、お互いに気まずい思いで見つめ合う。
「ごめんなさい。あの……」摩耶は素直に頭を下げた。「盗み聞きなんて悪趣味だとは思ったんですけど――」
「軽蔑《けいべつ》したか?」
「は?」
「俺のこと、軽蔑したろ」彼はぷいっと顔をそむけた。「しょうがないよな。人生を嘘《うそ》で塗《ぬ》り固めた男だからな……」
「そんなことありません」摩耶はきっぱりと言った。「あなたはいい人だと思います」
「え?」
「だって、なつきちゃんの将来のこと、本気で心配してくれたんでしょう? 絶対にいい人だと思います」
「よせ……」
小早川は露骨《ろこつ》に狼狽《ろうばい》した。清純な娘の目で優しく見つめられるのは、大声で罵倒《ぼとう》されるよりも辛《つら》いことだった。
「俺は……俺はそんな男じゃないんだ」
5 禁断の実験
午後三時。実験は開始された。
テレビ番組になるというので、テレビ局のスタッフも大勢《おおぜい》来るのかと摩耶は予想していたのだが、やって来たのはディレクターの藤野《ふじの》という男だけだった。今回の実験の映像はテレビ局側では一切《いっさい》撮影《さつえい》しない。藤野らは竹之内教授の撮影したビデオのコピーを提供してもらうだけだ。実験が成功すれば、なつきはあらためてスタジオに招《まね》かれ、そこでまたスプーン曲げや透視を披露《ひろう》することになっている。
こうした手順は教授の意向《いこう》だった。テレビ・スタッフが実験に口出しすると、実験の厳密性《げんみつせい》が失われる。あくまで学術的な実験とテレビ用のパフォーマンスは分けて収録するべきだ――というわけだ。
実験に立ち合う人間は最小限だ。被験者であるなつきの他には、なつきの母の圭子、摩耶、小早川、藤野、それに竹之内教授である。準備を手伝った学生もすべて帰らせ、教授が一人で実験を指揮する。
「立ち合う人間は少なければ少ないほどいいんですよ」と教授は解説した。「目撃抑制《もくげきよくせい》を避けるためにはね」
「目撃抑制……って何ですか?」この分野にうとい圭子が質問する。
「人間には誰《だれ》でも潜在的《せんぎいてき》に、サイ現象《げんしょう》を目撃したくない、サイの存在を否定したいという心理がある。これが目撃抑制です。そうした心理的抵抗がサイ現象の発現を妨害《ぼうがい》する原因と考えられています」
「つまり、超能力者の超能力が発現するのを、観察している人間の潜在意識が妨害するわけですね?」と藤野。
「そういうことです。目撃する人間を最小限にすれば、抵抗も最小限になる」
「でも、先生は超能力を――サイ現象を見たいと思ってるんでしょう? だったら、先生には目撃抑制はないわけですか?」
藤野が素朴《そぼく》な疑問を口にすると、教授は苦笑した。
「そんなことはない。私にだって目撃抑制はありますとも。絶対にあるはずです。その証拠に、私は二〇年近くもこの研究をしているが、いまだに決定的証拠を一度も目撃できない。これはもう目撃抑制があるという証拠でしょう」
藤野は混乱した。「ええっと……でも、先生はサイ現象の存在を信じておられるんですよね?」
「それはもう、熱烈《ねつれつ》にね。しかし、いくら長期的に信じていてもだめなんです。長期的信念と短期的信念は別物《べつもの》なんですよ」
また新しい言葉が出てきた、と摩耶は思った。目撃抑制、長期的信念と短期的信念――いったい超心理学者はいくつ言葉を発明したら気が済むのだろう?
もっとも、自分の心の中に、自分の信念に反する衝動《しょうどう》があるというのは、分からない考え方でもない。彼女自身、夢魔の凶暴《きょうぼう》さと淫《みだ》らさを嫌というほど見せつけられている……。
何はともあれ、実験はスタートした。
「最初のセッションはカメラを回しません」
教授がそう宣言すると、藤野はびっくりして抗議《こうぎ》した。約束が違う、実験の一部始終を撮影してもらわなくては困る、というのだ。しかし、教授の信念は堅い。
「最初はまず、被験者にリラックスしてもらうのが大切です。監視されているとどうしても緊張しますからね。だからビデオも回さないし、観察室のモニターも切ります。なつきちゃんにこの部屋の中で自由にやってもらうんです」
彼は四台のビデオカメラの蓋《ふた》をすべて開け、中にテープが入っていないことをなつきに確認させた。
「この通り、カメラは動いていない。制限時間も特に決めない。終わったら壁《かべ》のブザーを押して知らせなさい」
なつきはうなずいた。いきなり難《むずか》しい条件を出されなかったことで、少し緊張がほぐれたようだ。
彼女に与えられた課題は、金属の棒《ぼう》に手を触れることなく曲げることだった。棒は直径二ミリから一センチの計五本。テーブルに置かれた台の上に垂直《すいちょく》に立てられている。テーブルや台には触れてもいいが、棒に触れてはいけないという条件だった。
無論、監視がつかないのだから、トリックを使って曲げても分からない。すべてはなつきのモラルに任されているのだ。
なつき一人を実験室に残し、他の五人は観察室で待機《たいき》することになった。
「実験、成功すると思います?」
観察室の片隅《かたすみ》で、パイプ椅子《いす》に並んで座り、摩耶は小早川に小声で話しかけていた。
「君は?成功して欲しいのかな?」
「それは――」
摩耶は口ごもった。分からない。なつきの願いを叶《かな》えてやりたい気もする。しかし、小早川の言う通り、彼女の将来のことを考えれば……。
「俺《おれ》は成功しない方が彼女のためだと思う」小早川はささやいた。「ということは、俺の意識が実験を妨害するかな?――いや、だめだろうな。彼女はとても純粋だ。純粋な人間ほど強い者はない。俺の穢《けが》れた心なんかにゃ負けないだろう」
「はい……」
「君だって純粋だろう。あの教授の言葉を、一から一〇まで信じてるんじゃないか?」
摩耶はびっくりした。「どういうことですか?」
「あのビデオデッキ、見な」
彼は顎《あご》をしゃくり、部屋の反対側の棚《たな》に無雑作《むぞうさ》に積み上げられた四台のビデオデッキを指した。使われていないように見える。
「ビニールテープが貼《は》ってあるだろ?」
「はい」
四台とも操作ボタンや液晶《えきしょう》パネルの上に、なぜかべたべたと黒いビニールテープが貼ってある。
「なぜあんなことをすると思う? あんなにテープを貼ったら、電源ランプやカウンター表示が見えないじゃないか」
「あ……!」
摩耶は彼が何を言いたいのか理解した。ランプやカウンターが見えなければ、ビデオが回っていても分からない……。
「そう言えば、カメラの準備をしている時、私たちを外に出しました……」
小早川はうなずいた。
「あのカメラも改造してあるな。電源ケーブルが妙《みょう》に太い。中に信号ケーブルが隠してあるんじゃないか」
「それじゃあ……?」
その時、ブザーが鳴った。摩耶は顔を上げて時計を見た。なつきが実験室に入ってから、まだ九分しか経っていない。一同は期待と不安を胸に、ぞろぞろと実験室に入っていった。
「終わりました」
そう報告するなつきの表情は晴れやかだった。
金属棒は五本とも見事にねじ曲がっていた。最も太い一センチの棒は、少女が全体重をこめてのしかかっても、曲げるのは難しいだろう。それが「く」の形に曲がっている。最も細い棒は一八〇度も曲がり、ヘアピンのようになっていた。
「やったわね、なつきちゃん!」
圭子が娘に抱きつき、強く抱き締めた。摩耶たちは感嘆《かんたん》し、賞賛《しょうさん》の拍手を送った。小早川も複雑な表情で拍手している。なつきは頬《ほお》を赤らめていた。
圭子は娘の一屑を愛《いと》しそうに抱きながら、実験室から出た。
「じゃあ、次はいよいよカメラを回すんですね?」
興奮《こうふん》が収まると、藤野が発言した。あの曲がった金属棒だけでも充分にセンセーショナルだが、やはり棒が曲がる瞬間の映像がぜひ欲しい。それがなくては、なつきの能力の証明にはならない。
「え、ええ。そうですね」教授は観察室の中を見回し、なぜかそわそわしている。
「リハーサルは成功ですから、段階を追って少しずつ……」
「その必要はないんじゃないか?」
そう言ったのは小早川だった。一同は不審そうな目で彼を見る。
「今のはリハーサルじゃない。本番だったんだ。違うかこ
「小早川さん……!」
摩耶が慌《あわ》てて彼をさえぎろうとする。しかし、小早川は聞く耳を持たない。
「いくらリラックスさせるためかは知らんが、女の子を騙《だま》して隠《かく》し撮《ど》りするなんて、モラル的に問題あるんじゃないか?」
「隠し撮り……?」
なつきは目を丸くした。教授はと言えば、金魚のように口をぱくぱくさせ、しどろもどろになっている。
「い、いや、騙したわけじゃなく、期待を最小限にして、目撃抑制を……」
「同じことだろ。まあ、あんたは嬉《うれ》しいかもしれんがね。あんたら超心理学者の長年の夢がついに実証されたんだからな。そのデッキの中に――」
彼は教授の背後のビデオデッキを指差した。
「サイの決定的証拠が入ってるんだ」
その瞬間、密閉《みっぺい》されているはずの室内を、一陣《いちじん》の風が吹き抜けた。
カタカタカタカタ……奇妙《きみょう》な音に気がつき、摩耶は振り返った。テーブルの上に誰かが置きっぱなしにしていた紙コップが揺《ゆ》れていた。まだ中にコーヒーが半分以上入っているので、風で動くはずがない。紙コップは振動しながら滑《すべ》ってゆき、テーブルの端から転落して、床にコーヒーをまき散らした。
それがきっかけで、室内のあらゆるものが音を立てて動き出した。
6 見えない脅威
「きゃあ!?」
なつきはおびえて母にしがみついた。圭子もびっくりして室内を見回している。
パイプ椅子《いす》ががたがたと踊《おど》っていた。ボールペンが跳《は》ね上がり、矢のように空中を飛んだ。記録用紙が舞い上がった。本が蝶《ちょう》のようにはばたいた。藤野たちは何が起こったか理解できず、それを避けるのに精いっぱいだ。
「何だこれけりどうなってんだ!?」
「RSPKだ!」
教授が絶叫《ぜっきょう》した。彼にはそうとしか解釈できなかった。
違う――ただ一人、摩耶だけが冷静に、事態の真相《しんそう》に気づいていた。教授は間違っている。ポルターガイストは思春期の子供のPKなんかじゃない……。
ビデオデッキが奇怪《きかい》な音を立て、四本のカセットを次々に吐《は》き出した。床に落ちたカセットの中から、見えない手がテープを引きずり出す。
「テープが!?」
教授はとっさにタックルし、散乱したテープごとカセットをかき集めた。それを抱え、飛《と》び交《か》う小物体をかわしながら出口に走る。大事な証拠を何としてでも保護《ほご》したかった。
扉《とびら》にたどりついた瞬間、彼の目の前でさらに異常な現象が起こった。扉のノブが半回転したかと思うと、派手《はで》な音を立てて吹き飛んだのだ。慌《あわ》てて体当たりするが、厚い防音扉はびくともしない。錠前《じょうまえ》のボルトがねじ曲がり、扉を封鎖《ふうさ》してしまったのだ。
空中を飛んでいた本やボールペンが、ばらばらと教授にぶつかっていった。今やポルターガイスト現象は彼を標的にしているのは明らかだった。他の者は近寄ることもできない。
「それを捨てて! 早く!」
摩耶が叫《さけ》んだが、おびえてパニックに陥《おちい》っている教授には届かない。カセットを抱えこんだまま、扉の前にうずくまり、空中からの乱打に必死に耐《た》えている。
一台のビデオデッキが棚《たな》から飛び出してきた。空中で少しもがくような動きをしてから、背面に接続されたケーブルを強引に引きちぎる。重たく黒いデッキは、空中に引かれた見えないレールを滑るように移動し、一直線に教授の方に向かう。摩耶は戦慄《せんりつ》した。あんなものの直撃を受けたらただでは済まない。
やむをえない。彼女は夢魔を発動させた。
教授の前に黒い影が出現し、瞬時に人の形になった。教授に向かって突進してきたデッキは、そいつの拳《こぶし》の一撃で粉砕《ふんさい》された。飛び散った部品が床にばらばらと落下する。
「何だ、こいつは!?」
小早川は悲鳴のような声をあげた。室内に突如《とつじょ》として出現した黒い巨人は、常識を絶した存在だった。顔には目も鼻もなく、のっぺりしている。背中には巨大な黒い翼《つばさ》と尻尾《しっぽ》があった。その姿は西洋の悪魔のイメージそのものだ。なつきと圭子は抱き合ったまま、声も出せずに震《ふる》えている。
だが、摩耶はそんなことを気にしていられない。さらに三台のビデオデッキが教授めがけて突進してくるのだ。彼女は夢魔を教授の方に向かせ、翼をいっぱいに広げて彼を攻撃から防いだ。
相手の姿が見えないのが厄介《やっかい》だ。どうすればいい?
摩耶はとっさに名案を思いついた。わけの分からない悲鳴をあげている教授の手から、強引に四本のカセットをもぎ取ると、それを空中に投げたのだ。
夢魔のPKを使い、テープを盛大に引きずり出す。膨大《ぼうだい》な量の黒い磁気《じき》テープが、もつれ、はためき、室内を舞い踊《おど》った。
(あそこだ!)
テープが空中で何かにぶつかった。摩耶はそこにすべてのテープを集中させた。目に見えない何かがテープにからみ取られ、がんじがらめに縛《しば》られてゆく。そいつはひどくもがいている様子だが、テープの量はあまりにも多く、容易には引きちぎれない。
「クァアアアアアーッ!」
人間のものではないけたたましい悲鳴《ひめい》が室内に充満《じゅうまん》した。
相手の動きが鈍ったところで、夢魔が突進し、太い腕でそいつをがっしり捕《と》らえた。そいつはばさばさと羽音《はおと》を立て、必死に暴《あば》れているが、夢魔の怪力《かいりき》にはかなわない。やがて苦しくなったのか、しだいに姿が見えてきた。室内にいた一同は、その姿に息を飲んだ。
鳥だ――くちばしから羽根の先まで、全身が雪のように美しい純白だ。だが、白鳥ではない。首が短いし、白鳥のくちばしは湾曲《わんきょく》して尖《とが》ってはいない……。
「そんな……バカな!?」
教授は愕然《がくぜん》となっていた。それは確かに自分が追い求めてきたものだ。だが、そんなものが現実に存在するなんて……。
「クァアアアアアーッ!」
鳥は再び鳴いた。
カラスだ――純白だし、普通のカラスより何倍も大きいが、確かにカラスなのだ。
「落ち着いて! 落ち着いて!」
摩耶は暴れ続けるカラスを懸命《けんめい》になだめようとしていた。
「誰もあなたを実証しないわ! 証拠は全部消すから! だから落ち着いて! 誰も傷つけないで!」
それでもカラスは暴れるのをやめない。摩耶は再び夢魔のPKを発動させた。今度は念写《ねんしゃ》だ。膨大な磁気テープをスキャンし、すべてのフレームに空白の画像を焼きつける。
「ほら、今、テープをみんな消したわ。もう証拠はないのよ。ここにいる人たちも、みんな喋《しゃべ》らないから――」
彼女ほおびえている人々を見回し、説得した。
「みなさん、約束してください! ここで起こったことは絶対に喋らないって! 白いカラスを見たことは秘密にするって!――約束してください!」
摩耶の気迫《きはく》、そして夢魔に対する恐怖が、彼らを圧倒した。最初に小早川がうなずいた。次になつきと母が、藤野が……轟後に教授が、おずおずとうなずいた。
「さあ見て。みんな約束してくれたわ。あなたはずっと秘密のままなのよ」
落ち着いてきたのか、カラスの暴れ方は断続的になってきた。もうひと息だ。
「おびえてたのね。こわかっただけなんでしょ? 分かってる。あなたは決して悪い妖怪《ようかい》じゃないんだから……」
ようやくカラスは安心したようだ。はばたくのをやめ、おとなしくなった。安全と判断し、摩耶は夢魔を消滅させた。
束縛《そくばく》から解放されたカラスは、床にふわりと降り立った。まだ羽根にからみついているテープの残骸《ざんがい》を払い落とし、まん丸い目でなつきを見つめる。
「クゥ……」
カラスは優しい声で鳴いた。
その瞬間、なつきの頭の中に不思議なイメージが浮かんだ。背中に白い翼を持つ神秘的な美少年――いつか夢で見たのと同じイメージ。
「あなただったのね……?」なつきは茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。「あなたがいつも、私の頭にイメージを送ってたの……?」
「クゥ……」
なつきは母の手を振りほどき、カラスににじり寄った。カラスは逃げようとしない。それどころか、差し伸べられた少女の手に頭をすり寄せ、甘えるようなしぐさをする。
「ごめんね……」カラスの頭を優しく撫《な》でながら、なつきはささやいた。「あなたのこと気がつかなくて、ごめんね……」
「何……これ……どういうこと?」圭子がどうにか声を絞《しぼ》り出した。
「なつきちゃん、私と同じなんです」摩耶はなんとか分かりやすく説明しようとした。「私たち、超能力なんて本当はないんです。私にはあの黒い夢魔が憑《つ》いてます。なつきちゃんにはこのカラスが……スプーンを曲げたのも、なつきちゃんにイメージを送っていたのも、このカラスだったんです。危険は何もありません。こういう妖怪は、憑依《ひょうい》した相手の望みを叶《かな》えるために行動するんです」
「そんなバカな……」教授は弱々しくつぶやいた。「妖怪なんて……あるわけがない」
「超能力は信じるけど、妖怪は信じないんですか?」摩耶は非難の目を教授に向けた。「あなたたちのせいですよ。あなたたちが、超能力が本当にあると信じこんで、超能力の性質はこれこれだって決めつけて――それで白いカラスが生まれたんです。さっき暴れたのもそのせいです。あなたたちが『サイ現象は実証されることを極端に嫌う』って思いこんだから、白いカラスはそういう性質を持ってしまったんです。実証されることを何よりも嫌うカラスが、騙されて実証されてしまったから、パニックに陥ったんです」
「そんな……」
教授はそう洩《も》らしたきり、沈黙してしまった。人生をかけてきた信念が根底からひっくり返されたのだから、さぞショックだろう。
「妖怪……白いカラス……」
小早川はつぶやいた。もう恐怖は去っていた。少女になついて「クゥクゥ」と鳴いているカラスは、まったくおとなしく、無害に見える。とてもあんな大騒ぎを惹《ひ》き起《お》こしたようには見えない。それどころか、親しみさえ感じさせた。
親しみ? そう、親しみだ――小早川ははっとした。俺は初めて見たはずのこいつに親しみを覚えている。まるで何年も別れていた友のように……。
「ねえ、お母さん」
摩耶は圭子の方に向き直り、穏やかな表情で語りかけた。圭子は緊張して、「は、はい!」と背筋を伸ばす。逆らったら悪魔に食われるとでも思っているのだろう。
「なつきちゃんのこと、嫌いにならないでくださいね。私、母に嫌われました。あの黒い妖怪のことで……それで破綻《はたん》しちゃったんです。でも、なつきちゃんには同じ思い、味わあせたくないから……。べつに超能力なんてなくたって、学校の成績が良くなくったって、いいと思うんです。人間にはみんな、それぞれの生き方があるから――なつきちゃんの生き方、大事にしてあげてください」
圭子はまだ蒼白《そうはく》な表情で、こっくりとうなずいた。摩耶の言ったことを理解できたのかどうかは分からない。だが、この親子の関係にこれ以上深入りするつもりは、摩耶にはない。それは彼女たち自身が努力して解決すべき問題だろう。
自分の役目はここまでだ。
「さて」摩耶は一同を見回して明るく微笑《ほほえ》んだ。「そういうことで――みなさん、忘れてくださいね」
エピローグ
「実験? 大失敗だよ、大失敗。番組の企画もお流れだ。ディレクターもそう言ってたよ。話はなかったことにしてくれって。理由? 知らねえよ、そんなこたぁ。せっかくの儲《もう》け話もおじゃんだな」
キャンパスをぶらぶらと歩きながら、小早川は携帯電話で報告していた。仙道の怒り狂った声が受話口から響く。小早川は愉快《ゆかい》に思った。あのポーカーフェイスの男が感情をあらわにして狼狽《ろうばい》しているのを聞くのは、ちょっと痛快《つうかい》な気分だ。
「はあ? もう株を買っちまったのか? そりゃ気の早いこって。ご愁傷様《しゅうしょうさま》だな――いや、べつに俺《おれ》のせいじゃないしさ。俺? うーん、どうするかなあ……」
彼は立ち止まり、初秋の美しい夕焼けを見上げ、身の振り方を考えた。まずは自己破産を宣告してローンをチャラにして……その後は?
「まあ、どうにかなるさ。日本人の平均|寿命《じゅみょう》って八〇年以上だろ? まだ半分残ってるからな。いくらでもやり直しはきくさ――じゃあな。バーイ」
仙道がなおも何か喋ろうとするのを無視して、小早川は電話を切った。
「白いカラス……か」
二五年間のわだかまりが消え、彼は心が軽くなったように感じていた。
目には見えないが、きっと白いカラスは日本中に何百羽もいるに違いない。二五年前のあの日、真剣に超能力の実在を信じた少年のところに、白いカラスはやって来たのだ。彼はそれを自分の能力だと思いこみ、歪《ゆが》んだプライドを抱いてしまった。そのプライドは重荷となり、彼の人生を束縛《そくばく》した。
そしていつか、白いカラスは去った――人間の醜《みにく》い心に愛想《あいそう》を尽《つ》かしたのかもしれない。きっとあれは、純真な心を持つ者のところにだけやって来るのだ。子供たちだけがスプーンを曲げられたのも、そのせいだろう。
なつきのような少女なら、もっと長く、親しく、白いカラスとつき合えるだろう。超能力を実証する必要などない。彼女にとってカラスは友達なのだ。友達を実証する必要があるだろうか? そう考えると、少し嬉《うれ》しい気分だった。自分は失敗したが、あの子にはまだ希望がある。誤ったプライドに振り回されることなく、まっすぐに進むことができるだろう。自分にできなかったもうひとつの人生を、彼女が代わりに歩んでくれる……。
いや、俺の人生もまだ終わっちゃいないぞ、と小早川は思った。純真な心を取り戻せば、白いカラスはまた戻ってきてくれるかもしれないじゃないか……。
「おっとっと、夢を見るのはもうおしまい」彼は苦笑し、自分の頭をこつんと叩《たた》いた。「現実に向かい合わなくちゃな」
彼は長い夢から醒《さ》めた気分で、力強く歩き出した――新しい人生に向かって。
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妖怪ファイル
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[奥村《おくむら》成十郎《せいじゅうろう》(パチン宝の付喪神《つくもがみ》)]
人間の姿:二十代前半の丸っこい男性。
本来の姿:直径一センチほどの銀の玉。
特殊能力:妖怪のオーラを感知する。自分のオーラを隠蔽《いんぺい》する。パチンコ玉を自由に操る。軍艦マーチを奏でる。
職業:さすらいのパチンコ屋店員。
経歴:名古屋出身。パチンコで大当たりした人々の喜びから生まれた。
好きなもの:パチンコ。人々を楽しませること。
弱点:ドル箱に触れると妖怪の姿に戻ってしまう。
[妖怪パチンコ台]
人間の姿:なし。
本来の姿:釘と赤いチューリップが並んだ古いバネ式のパチンコ。
特殊能力:店内の物体を自由に操れる。人が隠そうとする逃避願望を呼びさます。
職業=なし。
経歴:三十年前ごろ、『渋谷会館』という店で、パチンコを楽しむ人々の心から生まれた。
好きなもの:パチンコ。年長者に対する礼儀。
弱点:パチンコ店から離れることができない。
[緒方《おがた》庸平《ようへい》(半人半鬼《はんじんはんき》)]
人間の婆:筋肉質の大男。
本来の姿:赤い肌に黄色い角《つの》を二本生やした鬼。
特殊能力:怪力。
職業:武道家。
経歴=鬼の母親と、格闘家の父親を持つ半人半鬼。ある暴行事件をきっかけに、鬼の血に目覚めた。
好きなもの:格闘技。
弱点:酒と女。
[猿淵《さるぶち》武志《たけし》(河童《かっぱ》)]
人間の姿:ビジュアル系の大男。
本来の姿:全身を剛毛で覆われた、くちばしのある河童。
特殊能力:口から水撃を放つ。水中で呼吸ができる。
職業:フリーターから格闘家へ転向。
経歴:河童の系譜としては、広島の淵猿が源流。両親の代に東京の青梅にやってきた。
好きなもの:目立つこと。瓜科《うりか》の野菜。
弱点:お辞儀をすると皿の水がこぼれる。皿の水がなくなると、身動きできなくなる。人間に変身しても頭頂部がハゲ。
[川村《かわむら》いずみ(河童《かっぱ》)]
人間の姿:美少女アイドル系の美女。
本来の姿:全身を剛毛で覆われた、くちばしのある河童。
特殊能力:水中で呼吸きる。さまざまな美女に変身できる。癒しの軟膏《なんこう》を作ることができる。
職業:アイドル引退後、フリーター。
経歴:本名、猿淵泉。兄武志とともに、青梅で育つ。目立ちたがりは兄と変わらず、アイドル稼業を数年続けた後、暴行事件をきっかけに引退した。
好きなもの:目立つこと。瓜科《うりか》の野菜。
弱点:お辞儀をすると皿の水がこぼれる。皿の水がなくなると、身動きできなくなる。人間に変身しても頭頂部がハゲ。
[オニクス]
人間の姿:なし。
本来の姿:小型冷蔵庫ぐらいの、真っ黒い箱。
特殊能力:ポリゴンでモデリングした人形を操る。コピー人間を作る。人間の記憶を操作する。
職業:業務用ゲーム開発コンピュータ。
経歴=プロジェクトごと破棄されたゲーム開発用大型コンピュータが、開発者の怨念を受けて妖怪化した。
好きなもの:自分の開発したゲームを遊んでもらうこと。
弱点:水や電撃に弱い。ポリゴン人形を同時に大量に出したり、遠距離に送り出すと、プログラムされた一定のパターンでしか行動させられない。
[白いカラス]
人間の姿:なし。
本来の姿:普通のカラスより何倍も大きい純白のカラス。普段は霊体の状態にあり、目に見えない。
特殊能力:金属を曲げる。念力。念写。テレパシー。霊体となって壁を通り抜ける。
職業:なし。
経歴:超能力の存在を信じる人々の心が生み出した。
好きなもの:純真な子供。
弱点:超能力の存在を実証されることを極端に嫌う。
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妖魔夜行誕生秘話
安田 8年前の91年、ある暑苦しい梅雨《つゆ》の頃、どんよりとした空模様の神戸で……。
友野 「どんより」は作ってませんか?(笑)
安田 いやあ、暑かったのは確かなんだ。で、新しいシェアード・ワールド・ノベルをやろうと、僕が突発的に思い立って、その当時、仕事部屋として借りてた一室に、山本弘、友野詳、水野良、下村家惠子といったメンバーが集まって話をしたんだよね。みなさん、才能もあるしノリもいいから、すぐにやりましょうということになって。
友野 そのときガーブスにはルナル・シリーズというファンタジーの柱がすでにあったので、何か新しいものを、ということで安田さんがホラーにしようと言い出したんですよ。
山本 妖魔夜行の言いだしっぺは友野くんだということは覚えてますね。
友野 とにかく妖怪モノをやろう、と言ったのはわたしです。主役を人間ではなくて妖怪にすることを強硬に主張したのも、わたしです。そして、登場する妖怪を「想い」の結晶にしよう、と言ったのは山本さんですよ、たしか。
安田 でも山本くんは、その時はハッキリとは言っていなかったんじゃないかな。G文庫から出た『ガーブス・妖魔夜行』の冒頭で、妖怪の成り立ちをものすごく論理的に説明していたのを読んで、「へー、会議のときはあまり話してなかったのに、こんなことを考えていたんだ」と驚いた記憶があるから(笑)。
山本 その会議のとき印象に残っているのが、友野くんが「ゲゲゲの鬼太郎から脱皮しましょう」と言ったことですね。
安田 下村さんがゲゲゲの鬼太郎のマンガを持ってきて「こんな感じになるのかしら」と言ったのを受けて、友野くんがそう発言したんだよ。
山本 妖怪が現代に生きているなら、現代に適応した形で暮らしているはずだ、って。
友野 同じことをやっても越えられませんから。昔から妖怪やモンスターといった異形の者が好きで、それを主人公にしたかったんです。
安田 たしか、僕が山本くんに期待していたのは、都市伝説のことだった。
山本 その頃、都市伝説にハマってた時期でしたからね。そういう都市伝説から怪物が生まれてきたら面白いな、という発想がありました。
友野 あの時はみんなで、あーだこーだ言ってましたから、大まかな部分では誰の発想なのか分かりますけど、細部のアイデアを誰が出したのかは覚えていないですね。
山本 僕が第一作を書いた時点で <うさぎの穴> の設定はほぼ出来てたから、妖魔夜行の基本アイデアは友野くんで、それを補強したのが僕になるのかな。ただ、第一作の時点で、正体を決めてなかった人も何人かいますけど(笑)。大樹とか未亜子さんとかの設定は考えてなかった。
友野 大樹なんか二、三年してから設定が決まったでしょ(笑)。
安田 グループSNEの作品ではよくあるんだけど、誰かが柱になって創った作品に、周りのメンバーが、これは面白いと付け加えていく、という形が、妖魔夜行でもとれたんじゃないかな。
山本 霧香なんかは、僕が名前だけ出したんですよ。そうしたら下村さんが「この人使います」と言って二作目で主役にしてしまった。
友野 そこで助手として出てきたのが蔦矢。作品が進むにつれて、だんだんキャラも変わってきますけど、一番変わったのは蔦矢ですね(笑)。
安田 最初の頃は印象が薄かったんだけど……。
山本 蔦矢は、青木邦夫さんのイラストのおかげでイメージが固まった部分がありますね。
安田 そうそう、文庫本第一巻の口絵に使った、 <うさぎの穴> に全員が集合しているイラストを見たとき、これはイメージに合うなぁと思ったよ。
短編じゃないとダメ!
安田 正直な話、あのときは「わはは」と面白い話をしたけれど、実際にこういう作品として結実するとは想像できなかった(笑)。
友野 我々を甘く見てもらってほ困ります。
全員 (爆笑)
山本 でも確かに作品としてうまくいってるよね。著者それぞれが書きたいものを書いてる。友野くんは友野くんしか書けないものを書いてるし。同じ世界、同じキャラクターを使っても、こんなに違うものができるってのが面白い。
安田 そうだね。シェアード・ワールドという世界に妖怪の設定がうまく噛《か》み合っているのが、作品を重ねるにしたがって感じるね。ああ、これならうまくいくと。
山本 妖魔夜行では、みんながキャラクターを使いあって、うまくリンクしていますよ。誰かが好き勝手なことをやったり、舞台設定だけを借りて全然別のキャラクターの話を創ってしまったり、ということがないですね。
安田 最初の文庫本を出すときに、編集部からは「長編にしましょう」と言われて、それに対して執筆陣は「短編じゃないとダメ!」と強く主張したんだ。特に山本くんが短編にする理由を論理的に展開して、それには僕も納得した。
山本 短編の方が書くのが楽だと思って(笑)。
安田 僕らは「トワイライトゾーン」(注1)とかが大好きで、そういうのが面白いと思ってたから、妖魔夜行も短編の読み切りにして、各話はゆるやかなつながりを持っている形にしたい、と主張したんだよね。
山本 そういえば一番最初の会議の後、作品の内容についての話し合いをしたことがないですね。
友野 会議はないけど、事務所で顔を合わせたときに、今後の方向性なんかを話したことはあった。
山本 誰かに内容を喋《しゃべ》って、それを先に書かれちゃうと悔しいから(笑)。
安田 ブルーウェーブが好きだから、野球の話を書きたいな、と思ってたら清松くんが書いちゃったし、馬が書きたいなとくれば柘植さんだし。
友野 山本さんが特撮の話を先に書いてしまったので、わたしはその後、自主制作映画の話を書かせてもらいました(笑)。
山本 僕が妖魔夜行を書くときのポイントは、好きなものを見つけることなんですよ。妖魔夜行は現代が舞台ですから今≠フことを書きたいわけです。で、今、自分は何に興味を持っているか、と考えて、好きなものを出していく。自分が好きなものを出しているわけですから、作品も愛着を持って書けるという。
友野 するとわたしはドロドロした人間模様に愛着を持っているのでしょうか?(笑)
安田 首酒(「真紅の闇」)とか鳩(「鳩は夜に飛ぶ」)とか。
山本 でも妖魔夜行では友野くんが一番正統派なんじゃないかな。
友野 珍しく(笑)。それはちょっとだけ意識しています。わたしの場合、基本を押さえるってことかな、色々な意味で。古い革袋に新しい酒をって感じで、古典的なホラーを現代にリニューアルする。何度も語られてきたような古典的な怪談や妖怪話を、妖魔夜行の世界で語り直したい、というのがありますね。
どうして舞台は東京なのか!?
山本 ええっと、なんで <うさぎの穴> が渋谷にあるのかといいますと、当時『アイドル天使ようこそようこ』(注2)にハマってまして(笑)、その同人誌を作るので渋谷の地理を徹底的に調べていて詳しかったから(笑)。
友野 『ようこそようこ』の存在をわたしが教えたのに、いつのまにか山本さんのほうがハマってた(笑)。
山本 でも小説に登場する舞台は可能な限り取材に行ってるんですよ。『悪夢ふたたび……』のラストの青山墓地も、深夜一人で取材に行きました。
安田 グループSNEはメンバーのほとんどが関西在住だけど、あえて関西性≠出さずにいこう、という意識がSNE内部には最初からあるね。ベタな大阪モノをやろうと思えばいつでもできるわけだから。
山本 それにね。東京の人は東京の面白さに気付いていない、ってのもありますよ。関西人だからこそ東京の面白い場所を発見できる。
友野 一度大阪を舞台にしたものを書いてみたかったんですけどね。摩耶ちゃんの修学旅行編だとか(笑)。
安田 書いてて、最初の怖いシーンとかがうまくいって、この妖怪は殺したくないなあ、と思ったりしない?
山本 すごく強い妖怪とか、カッコいい妖怪だからこそ、最後は壮絶に決めたいと思いますね。だから黒焔(「魔獣めざめる」)の最後とか気に入ってますよ。
友野 わたしは、どうすればコイツをやっつけたくなるだろう、って思いながら書いてますから(笑)。
山本 「魔獣めざめる」の場合、最後の舞台がエンタープライズなんで、結構ムチャクチャできたんですよ。僕にしても友野くんにしても、派手な話が好きなんだよね(笑)。ただ、人間は妖怪の存在をまだはっきりとは知らない、というような制約の中で、どう派手にするかという点でいつも悩む。
友野 台風が来てる中だったら誰も見ていないだろうから、とかね(笑)。
安田 確かに二人の話はスケールが大きくって、比べると他の人のはこぢんまり型が多いかもね。
山本 もっとみんな派手にやってもらっていいのになあ。
友野 やっぱり遠慮があるのかも。もっとケンカをしかけてほしいね。反則技でもいいから。
山本 5カウント以内なら反則じゃないよ(笑)。
友野 そうそう、反則負けしても試合が盛り上がっていればいいんだから、プロレスは(笑)。
妖魔夜行の明日はどっちだ!?
友野 でも、妖魔夜行もずいぶん長くなりましたねぇ。雑誌でのスタートから考えると、足掛け九年やってて、小説だけでも、この本で十三冊目になりますよ。
山本 キリのええ数やね(笑)。ミニ文庫やテーブルトーク関連も入れると二〇冊を越える。
安田 けど、長く続けるばっかりでは、いつか衰退していくからね。断線を作ることっていうのも、たまには必要じゃないかな。妖魔夜行は、安定しすぎてる感じもあるから、ここらで揺さぶりをかけたいね。
友野 情報量が蓄積しすぎて、はじめてのお客さんが入りづらくなってかかなあ、というのは、僕もちょっと考えてます。
安田 グループSNEのモットーは、常に新しいものを求めてゆくということだから、そろそろ一度、模様替えをしてもええかという気もする。
山本 それは例えば、主役の交替とかそういったことですか?
安田 やっぱり、年寄りがいつまでも大きい顔をしてたらあかんやろ(笑)。
友野 でも、それを、やるには一度 <うさぎの穴> の面々に決着をつけないといけませんね。いや、決して死なせちゃおうとか、そういうことじゃないんですけど(笑)。
安田 そういえば、最初からそのうちやろうと言っていた妖怪大戦争の話、まだやってないじゃないか。友野くん、やりたいって言ってたのに。
友野 いやまあ、もともと、妖魔夜行の発想そのものが、大映映画の『妖怪大戦争』(注3)からきてるんですけどね。大戦争ものは山本さんもアイデアがあるって言うてはりませんでした?
山本 ほんとは、一九九九年の七月にやろうかなと思ってたんだけど、機を逸した(笑)。
安田 別にいいじゃないか。二〇〇〇年がほんとの世紀末なんだから。
友野 やりましょう、ぱーっと。ほんでもって、新世紀の妖魔夜行セカンドステージにつなぐんですよ。あ、なんか、色々アイデアが……(笑)。
高井信 ちょっと待った!
友野 乱入とはまた、ほんまにプロレスみたいになってきましたな。
高井 長編のアイデアなら、ぼくにもあるんだけど。
山本 じゃあ、二〇〇〇年の前半は、妖魔夜行第一期をしめくくる長編二連発ということで。
友野 そして後半には、謎《なぞ》の新展開が(笑)。新シリーズでは、僕もちょっとイロモノ系が書かせてもらえるかな〜(笑)。
安田 それはいいけど、やりすぎて場外乱闘にならないように。これまでの妖魔夜行ファンの人たちを裏切らない、面白いものにしないとな。
山本 これまでのキャラクターたちも、それなりに関わらせてあげないとかわいそうだし。
友野 ではでは、またもやひそかにミーティングなどをはじめるといたしますか……。
注1…59年〜64年にアメリカで制作されたホラーやファンタジーをテーマにした一話完結のテレビドラマ。オープニングの音楽はあまりに有名。
注2…90年〜91年制作のテレビアニメ。実在のアイドルとのメディアミックスが評判になったが、徐々にオリジナル路線へ脱線(?)していった。
注3…68年大映制作。吸血妖怪ダイモンと日本妖怪たちの戦いを描いたホラー・アクション映画。
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参考資料(山本弘氏『穢された翼』分)
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笠原敏雄編『超常現象のとらえにくさ』(春秋社)
萩尾重樹『超心理学入門』(川島書店)
松田道弘『超能力のトリック』(講談社現代新書)
T・ギロビッチ『人間この信じやすきもの』(新曜社)
テレンス・ハインズ『ハインズ博士「超科学」をきる』(化学同人)
ジョン・ベロフ『超心理学史』(日本教文社)
ジェイムズ・ランディ「プロジェクト・アルファ」(『Journal of the JAPANSKEPT ICS』Vol.1)
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<初出>
第一話 五グラムの願い   柘植めぐみ
「ザ・スニーカー」99年6月号
第二話 人形使いの黒い箱  北沢  慶
書き下ろし
第三話 穢された翼     山本  弘
「ザ・スニーカー」99年10月号
ブリッジ      柘植めぐみ
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底本
角川スニーカー文庫
シェアード・ワールド・ノベルズ
妖魔夜行《ようまやこう》 穢《けが》された翼《つばさ》
平成十二年一月一日 初版発行
著者――柘植《つげ》めぐみ・北沢《きたざわ》慶《けい》・山本《やまもと》弘《ひろし》