幻夜
東野圭吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)その様子は雅也《まさや》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中年男は一瞬|眉間《みけん》に
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第一章
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薄暗い工場の中に工作機械の黒い影が並んでいる。その様子は雅也《まさや》に夜の墓場を想起させた。もっとも、親父が入れる墓はこれほど立派なものじゃないがとも思った。黒い影たちは主を失った忠実な召使いのようにも見えた。彼等はたしかに雅也と同じ思いで、しめやかにこの夜を迎えているのかもしれなかった。
湯飲み茶碗に入った酒を彼は口元に運んだ。茶碗の縁がわずかに欠けていて、それが唇に当たる。飲み干した後、ため息をついた。
横から一升瓶が出てきて、彼の空いた茶碗に酒が注がれた。
「これからいろいろと大変やろうけど、まあ気い落とさんとがんばれや」叔父の俊郎《としろう》がいった。顎を包むように生えた髭には白いものが混じっている。顔は赤く、吐く息は熟れた柿の臭《にお》いがした。
「おっちゃんにも、何かと世話になったな」心では全く思っていないことを雅也はいった。
「いや、そんなことはええ。それより、これからどうするのかなと思てな。まああんたは腕を持ってるから仕事に困ることはないやろうけど。西宮《にしのみや》の工場で雇てもらうことになったそうやな」
「臨時雇いや」
「臨時でもええがな。今の時代、働き口があるだけましや」俊郎は雅也の肩を軽く叩いた。そんなふうに触られるのさえ不快だったが、愛想笑いを返しておいた。
祭壇の前ではまだ飲み会が続いていた。雅也の父である幸夫《ゆきお》が生前親しくしていた三人組だ。工務店主、鉄屑業者、そしてスーパー経営者という顔ぶれだった。麻雀仲間で、よくこの家に集まってきたものだ。景気がよかった頃には、五人で釜山《プサン》あたりに出かけていった。
今日の通夜に姿を見せたのはこの三人と親戚数名だけだ。雅也が各方面に知らせていないのだから当然ともいえたが、仮に知らせたところで大した違いはなかっただろうと彼は想像している。取引先の人間は無論、同業者たちだって来てくれるわけがない。親戚にしても、下手に長居して金の無心でもされたら厄介だとばかりに、線香を上げたら早々に退散していった。親戚で残っているのは母方の叔父の俊郎だけだが、彼がなぜ帰らないかについては雅也にも見当がついている。
工務店のおやじが日本酒の瓶を空にした。彼等にとって最後の酒だった。残っているのは俊郎が大事そうに抱えている一升瓶だけだ。工務店のおやじはコップ三分の一ほどの酒をちびちびと舐《な》めながら俊郎の酒を見ていた。俊郎はストーブのそばに腰を落ち着かせ、するめを齧《かじ》りながら一人で飲んでいる。
「ほな、そろそろ失礼しょうか」鉄屑業者が切り出した。彼のコップはとうの昔に空になっていた。
そうやな、ぼちぼち、と他の二人も尻を浮かせた。
「雅ちゃん、そしたら、帰るわ」工務店のおやじがいった。
「今日はお忙しいところ、ありがとうございました」雅也は立ち上がって頭を下げた。
「大したこともでけへんと思うけど、何かわしらにできることがあったらいうてや。力になるさかいな」
「そうや。おたくの大将には世話になったよってなあ」鉄屑業者が横からいう。スーパーの商店主は黙って頷いている。
「そういうてもらえると心強いです。その時はよろしくお願いします」もう一度頭を下げた。老いの目立ち始めた三人の男たちは頷いて応じていた。
彼等が帰ると戸締まりをし、雅也は部屋に戻った。工場と繋がっている母屋には、六畳の和室と狭い台所、そして二階に二間続きの和室があるだけだ。三年前に母の禎子《さだこ》が病死するまでは、雅也は自分の個室を確保できなかった。
祭壇の置かれた和室では、俊郎がまだ酒を飲んでいた。するめがなくなったらしく、工務店主らが残していったピーナッツに手を伸ばしている。
雅也が散らかったものを片づけ始めると、俊郎は呂律《ろれつ》の怪しい口調でいった。「調子のええことぬかしとったな」
「えっ?」
「前田のおやじらや。できることがあったらいうてくれ、力になる、とはなあ。ようあんな心にもないこといえるで」
「単なる社交辞令やろ。あのおっちゃんらもそれぞれに火の車や」
「いやそうでもないで。前田なんか、細かい仕事で結構小金を稼いでるはずや。幸夫さんを助ける程度のことはできたと思うけどな」
「おやじも、あの人らには頼みとうなかったんやろ」
雅也がいうと俊郎はふんと鼻を鳴らし、口元を歪《ゆが》めた。
「そんなことあるかい。雅ちゃんは何も聞いてへんねんな」
俊郎の言葉に、雅也は皿を重ねていた手を止めた。
「ダライ盤の支払いで不渡り出しそうになった時、幸夫さんは真っ先にあの三人に相談しよと思たんや。ところが連中はどこから嗅ぎつけたか、揃って居留守や。あの時、誰かがたとえ百万でも出してくれとったら、えらい違《ちご》うてたで」
「おっちゃん、その話は誰から?」
「おたくの親父さんからや。景気のええ時はええ顔して近づいてきた連中も、ちょっと左前になったらころっと態度を変えよるいうて怒ってたで」
雅也は頷き、片づけを再開した。初耳だったが、意外な話でもなかった。彼は元々あの三人組を信用していなかった。死んだ母も嫌っていた。母の口癖は、「相手変われど主変わらずで、うちのお父ちゃんばっかり金を使わされてる」というものだった。
「なんか、腹減ってきたな」俊郎が呟いた。一升瓶の酒はとうとうなくなったようだ。ピーナッツの入った皿も空になったので、雅也はそれも盆に載せた。
「なあ、何か食うもんないか」
「饅頭やったらあるけど」
「饅頭かあ」
顔をしかめる俊郎を後目《しりめ》に、雅也は汚れた食器を載せた盆を台所に運んだ。それらを流し台に置いていくと、すぐにいっぱいになった。
「ところで雅ちゃん」後ろで声がした。ちらりと振り向くと、いつの間にか俊郎が台所の入り口に立っていた。「保険屋とは話したか」
ついに本題に入ってきたかと思いながらも、雅也は表情を変えず、一度だけかぶりを振った。「いや、まだやけど」
湯沸かし器のスイッチを入れ、湯を出して食器を洗い始める。築四十年の水原《みずはら》家に、蛇口から温水の出る設備はない。
「連絡はしたんやろ」
「いろいろと忙しかったから、まだやってない。こんな時に来られても困るし」
「そうかもしれんけど、なるべく早《は》よやったほうがええで。手続きが遅れたら、その分支払いも遅れるからな」
雅也は食器を洗う手を休めることなく無言のまま頷いた。俊郎の狙いはわかっている。
「保険証書、あるやろ」俊郎がいった。
雅也は手を止めた。それから再び皿をこすり始めた。「あるよ」
「ちょっと見せてくれへんか」
「ああ……後で出すわ」
「確かめたいことがあるんや。洗いものなんか明日でもかめへんやろ。今すぐ見せてほしいんやけどなあ。どこにあるのか教えてくれたらわしが出すけど」
雅也は吐息をつき、泡だらけのスポンジを置いた。
和室の隅に小さな茶箪笥《ちゃだんす》がある。両親が結婚して間もなくに買ったという代物だから、かなりの年代物だ。その一番下についている小さな引き出しに青色のファイルが入っていて、生命保険や火災保険、さらには自動車保険の証書類が、丁寧に収められていた。こういう細かい気配りの利いた仕事は、禎子が得意とするところだった。あの母が死んでから経営も雑になった、と雅也は思っている。父の幸夫は、彼女が仕事について何かいうたび、女のくせに口出しするなと罵倒していたものだったが。
「三千万円やなあ、やっぱり」火のついたハイライトを指に挟んだまま、ファイルの中を見て俊郎がいった。不満そうなのは、金額が思ったよりも小さいからだろう。
「銀行で金を借りた時に入らされたらしい」雅也はいった。
「工場を拡張した時やな」
「うん」一九八六年。日本中が踊り始めている頃。
俊郎は一つ頷いてファイルを閉じた。ハイライトの煙を何度か空中に向かって吐いた後、なあ雅ちゃんと声をかけてきた。
「残ってる借金はどれぐらいや」濁った目の玉が一瞬光ったようだった。
「二千万……ぐらいかな」
債権者との話し合いは先週行われた。その場には雅也も同席していた。
「ということは、それを全部返しても、一千万は残るわけやな」
「計算上はそうやけど、実際にはどうなるかわからんで。保険金が全額支払われるかどうかもわからんし」
「支払われるやろ。変な死に方をしたわけやないんやし」
雅也は黙っていた。あれが変な死に方でなくて何なのだといいたかった。
「それでなあ雅ちゃん。あんたも聞いてるかもしれんけど」俊郎が上着のポケットに手を入れた。
何を出してくるのかは雅也にも察しがついた。案の定、俊郎が手にしていたのは茶封筒だった。そこから丁寧に折り畳まれた書類を取り出し、雅也の前で広げた。
「雅ちゃんのおかあちゃんが死ぬ前やから、もう三、四年前になるかなあ。どうしてもまとまった金が必要やと頼まれてな、わしが四百万ほど都合したんや。この不況やし、じつのきょうだいの間で貸した金を返せとはいいにくうて今日まで来てしもたけど、いよいよわしのほうも危ななってきてなあ」
俊郎は神戸や尼崎を中心に、眼鏡や時計の卸しをしている。回る先は町の小売店ばかりだ。ライトバンでこまめにかけずり回り、数をこなすことで収益を上げてきた。だがバブル景気が弾けて以後、収入はめっきりと減ったらしい。得意先である小売店側に品物を仕入れる体力がなくなっているのだ。
ただ、俊郎の金回りが悪くなったのはそれだけではない。いつか禎子が話していたことを雅也は覚えている。彼女によれば、俊郎は株で大きく儲けることを覚えて以後、地道に働くことを忘れてしまったということだった。
「ほんまはこんなこといいたないんやけど」俊郎はしかめっ面をし、頭を掻いた。「わしのほうにも借金があってなあ。しかもちょっとたちの悪いとこで借りてしもた。このままやったら何されるかわからんし、正直弱っとるんや」
「ええよ、わかってる」雅也は頷いた。「ほかの借金を清算した後、おっちゃんから借りた分も返すから」
「そうか。そういうてもらえると助かるわ」俊郎は黄色い歯を剥《む》いて笑った。「何しろ相手がただ者やのうてなあ、わしがおたくに金を貸してることも掴んどるんや。それで、もし金が返せんのやったら、その借用証出せとかいわれてなあ。そんなことになったら、結局雅ちゃんにも迷惑がかかることになるし、どうしようかと思てたんや」
「返すから、きちんと」雅也はもう一度いった。
「そうか、助かるわ。すまんなあこんな時に」俊郎は申し訳なさそうな顔を作り、ハイライトを指に挟んだまま手刀を切った。
その後俊郎は、まだ少し残っていたビールを飲んだ後、眠くなったといって二階に上がっていった。昔から出入りしているあの男は、水原家のどこの押入に客用の布団が入っているかも熟知している。
何が、まとまった金が必要やと頼まれて、だ――。
借金の経緯については幸夫から聞いている。両親は俊郎にそそのかされて仕手株に手を出したのだ。いや、俊郎が噛んでいた仕手戦に巻き込まれたといったほうがいい。あの男は、一時自分が立て替えておくからといって、あの借用証を幸夫に書かせたのだ。大して意味のない借用証やけど、まあ形だけや――そんなふうにいったらしい。幸夫もまさか、妻の弟に騙《だま》されるとは夢にも思わなかったのだろう。今となっては、本当に俊郎がそんな仕手株の売買をしていたのかも怪しい。
雅也は葬儀屋が勧める中で一番低価格だった棺に向き直り、胡座《あぐら》をかいた。幸夫の遺影は虚無の顔をしていた。きっと死ぬ直前もこんな顔をしていたんだろうと想像した。何もかも失い、絶望し、未来にも自分の存在にも自信が持てなくなっていたのだろう。
雅也は立ち上がり、工場に面したガラス戸を開けた。冷えきった空気が彼の全身を急速に包んだ。ぶるると一震えした後、彼は足元のサンダルを履いた。コンクリートの地面は氷のように冷えていた。機械油と埃の臭いが鼻をつく。好きではなかったが、子供の頃から嗅ぎ続けてきた臭いだ。
彼は天井を見上げた。鉄骨の梁《はり》が左右に走っている。暗いせいでよく見えないが、そこにあるはずの錆《さび》やペンキの剥《は》げた形まで彼は思い描くことができた。その中の一つは日本地図によく似た形をしていた。
一昨日の夜だった。雅也が外から帰ってくると、その日本地図のすぐ下にロープをかけ、幸夫が首を吊って死んでいた。
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鉄骨にぶら下がった父親の姿を目にしても、不思議と衝撃はなかった。いや、まるでなかったわけではない。その証拠に雅也はスーパーの袋を落としていた。あわてて父の下に駆け寄りもした。だが底冷えのする工場に立ち、全く動かなくなった父の死体を見上げながら、ああやっぱりな、と思ったのも事実だ。こんな日がそう遠くない将来に訪れることを予期していながら、考えまいとしていたのだ。
身体《からだ》がまた震えた。雅也は壁にかけてあった防寒用ジャンパーを羽織った。百八十センチもある彼には少し寸足らずだ。逆に百六十センチもない幸夫が着ると、ぶかぶかだった。
ポケットに手を入れると煙草の箱が指に触れた。取り出すと、ハイライトの箱に使い捨てライターが押し込んであった。煙草も数本残っている。幸夫が最後に吸った残りかもしれなかった。
少し曲がった一本をくわえ、火をつけた。工場内禁煙の張り紙を見ながら煙を吐く。まだ従業員がいた頃の張り紙だ。父子だけで仕事をこなすようになってからは、幸夫はくわえ煙草で機械に向かうようになった。
父の形見の煙草は湿っていてまずかった。三分の一ほど灰にしたところで、父が灰皿代わりに使っていた空き缶に放り込んだ。
ふと思いつき、雅也は一台の機械に近づいた。放電加工機という機械で、その名のとおり放電現象を使って金属を希望の形状に加工する装置だ。特殊なものだし、高価なので、ふつうの町工場では置いているところは少ない。この装置を入れた時、幸夫は、これで型彫りの仕事がいつ来ても安心だと息巻いていた。まさかその数年後に、仕事そのものが激減するとは夢にも思っていなかった。
機械の横に小さなキャビネットがある。その戸を開けた。四角いガラス瓶がうっすらと埃をかぶっている。取り出し、埃をジャンパーの袖でぬぐった。オールド・パーの文字がくすんでいる。振ってみると液体の音がした。
「そんなあほなことあるわけないやろ。聞いたことない」雅也の言葉に、周りにいた従業員たちも笑った。ただ一人真顔だったのは幸夫だ。
「いや、わしも最初に聞いた時は絶対に嘘やと思た。けど、メーカーの人間がいうとるんや。二、三割は加工が速くなりますて断言しよった」
「からかわれたに決まってるやろ。おい、やめとけよ、親父。もったいないやんけ」
「やってみんとわからへんやろ」そういうと幸夫は、放電加工機の加工槽の中に、オールド・パーの中身をどぼどぼと注いだ。
加工槽には元々油が入っており、その中で放電を起こさせるのだが、その油にウイスキーを入れると加工速度が向上するという話を、幸夫はどこかで仕入れてきたのだ。しかも高級ウイスキーのほうが効果的だという。
だが、どうやら担がれたらしいと幸夫が気づくのにさほど時間はかからなかった。首を捻《ひね》る彼を見て、雅也たちは腹を抱えて笑った。そしてしばらくは機械の周りがウイスキー臭かった。
雅也はオールド・パーの蓋を開け、直に口をつけて瓶を傾けた。とろりと口の中に入ってきた液体は、あの時と同じ匂いがした。
約五年前。バブル景気の真っ直中。
幸夫は水原製作所をワンランク上の工場にしようと躍起になっていた。元々は中古の旋盤一台で始めた会社だ。それを高度成長期の波にうまく乗ることで、いっぱしの金属加工会社に仕立て上げた。幸夫の夢は、そこからさらに飛躍し、大企業の仕事を直接請け負える会社にすることだった。孫請け、曾孫《ひまご》請けでは将来の見込みがない、というのが口癖でもあった。
その少し前まで雅也は家電メーカーの工機部にいた。生産設備を作る部署だ。高専を出てから二年が経っていた。その彼に、会社を辞めて家の仕事を手伝うよういいだしたのも、幸夫にそれなりの成算があったからだろう。たしかに経営は順調そうだったし、雅也にも不安はなかった。
しかし今から振り返ってみると、あの時点でかなり無理をしていたことは否めない。輸出製品の大部分が現地生産されるというのが世間の流れであったし、東南アジアがライバルになりつつあった。国内の下請け業者は、仕事と引き替えに、かなり厳しいコスト削減を強いられていた。
あの時期、本当に体力を持っていた会社など殆どない。どこも皆、見せかけの数字に騙されていたに過ぎないのだ。そのことに気づかず、銀行に乗せられて設備投資や事業拡大に走った者の何と多かったことか。
だから雅也としても父だけを責める気にはなれない。あの頃は皆が浮かれていた。この宴が永遠に続くように錯覚していた。
それにしてもこの二、三年の自分たちの転落ぶりを振り返ると、雅也は目眩《めまい》がしそうになる。最初は、仕事がないのは今日明日だけの話だと思った。次には、自分たちの周りにだけ仕事がないのだと思った。その後は何かの間違いだと思った。間違いでも何でもなく、日本の産業全体が傾き始めているのだと知った時には、従業員の給料を払えなくなっていた。
付き合いの長い会社から、頼み込むようにしてもらってくる仕事だけでは、食べていくのがやっとで、莫大な借金を返せる目処など立たなかった。何しろ、先月水原製作所が作ったのは、高周波焼入れ用のコイル一つだ。銅のパイプを叩いて加工し、ろう付けする。ただそれだけだ。何万円にもなりはしない。おかげでこの正月には鏡餅すら買えなかった。
先日の債権者との話し合いで、水原製作所の運命は決まった。水原父子の手元には何も残らない。今後決めねばならないのは、いつここを出ていくかということだけだった。
「どん詰まりやな」債権者が去った後、工場の隅に座り、幸夫がぽつりと呟いた。ただでさえ小柄な彼が背中を丸めている姿は、枯れた盆栽を雅也に連想させた。
父の自殺を予期しながら考えまいとしていた、というのは正確ではなかった。自殺の気配に気づかない演技をしていた、というのが正しい。誰に対しての演技か。ほかならぬ自分に対してだ。気づいているならば、それを阻止すべく最大限の努力を払うのが息子の務めだとわかっているからだ。
落ちぶれた父の背中を見つめていた彼の胸をかすめたのは、いっそのこと死んでくれないか、という思いだった。彼は父の生命保険のことも知っていた。だから首を吊っている父を見た時の最も正直な気持ちは、これで助かった、というものだった。
オールド・パーが空になった。雅也は瓶を床に転がした。四角い瓶は半回転しただけで止まった。壁の時計を見る。もう夜が明ける時刻になっていた。
寝ようと思って部屋に向かいかけた時だった。突然足の裏に衝撃を受けた。雅也はバランスを崩し、四つん這《ば》いになった。
轟音と共に床が大きく波打ち始めた。彼は驚き、周りを見回そうとした。ところがその余裕さえなかった。まるで斜面を転がるように彼の身体は回転した。
壁にぶつかって止まった後も、地面の揺れは止まらなかった。彼はすぐそばのボール盤に掴まった。周りの光景は信じがたいものだった。
鉄骨に支えられた壁が大きく湾曲し始めていた。壁に取り付けられていた黒板、時計、工具棚が外れ、空中で踊っている。何百キロもあるはずの工作機械の土台が揃って軋《きし》み音を立てている。
頭上で破裂音がした。その直後に無数の板片が落ちてきた。天井が壊れたのだ。
雅也は動けなかった。恐怖のせいもあるが、揺れが激しすぎて立つこともできないのだ。彼はボール盤に身を寄せ、頭を両手で覆った。地響きは間断なく訪れ、砂嵐のようなものが彼の全身を襲った。爆破音のようなものも時折聞こえる。
彼は指先の間から母屋を見た。開け放ったままの入り口から、幸夫の棺が見えた。しかしその棺は棚から落ちていた。祭壇は形を留めていない。
次の瞬間、巨大な塊《かたまり》が落ちてきて、部屋そのものが消えた。つい先程まで祭壇のあったところが一瞬にして瓦礫《がれき》の山に変わった。
揺れがどれぐらい続いていたのか、雅也はよくわからなかった。どうやら収まったらしいと思った後でも、身体の中に揺れは残っていた。恐怖も消えなかった。彼はしばらくうずくまったままだった。
身体を起こす決心をしたのは、「火事やあ」という声を聞いたからだった。
雅也は周りを見ながらおそるおそる立ち上がった。工場の壁の殆《ほとん》どが壊れていた。その一部は内側に倒れていたが、頑丈な工作機械がそれらから彼を守ってくれていた。彼の防寒用ジャンパーはところどころ引き裂かれたようになっていたが、彼自身が負っている傷は幸い大したことがなかった。
壁のない工場から外に足を踏み出した雅也は、あたりの光景を目にし愕然《がくぜん》とした。昨日までたしかに存在したはずの街が消えていた。向かいにあったはずのお好み焼き屋も、そばの木造アパートも、跡形もなく壊れていた。どこまでが道路でどこからが家屋だったのかもわからない。
誰かの悲鳴が聞こえた。雅也は声のしたほうを見た。灰色の服を着た中年の女性が泣き叫んでいる。彼女の頭も灰色だった。
気づくと、彼女以外にも人はいた。奇妙なことだが、それまで雅也の目には彼等の姿は入ってこなかったのだ。それほど廃墟の光景は激烈だった。
中年女性が雅也に気づいた。彼女は顔を泥だらけにしたまま駆け寄ってきた。
「うちの子が中にいるんです。手伝《てつど》うてください」
「どこですか」彼は駆けだしていた。
彼女が指差したのは、瓦屋根がすっかり落ちた家屋跡だった。サッシが折れ曲がり、ガラスの破片が飛び散っている。一部から煙が立ち昇っていた。
一人ではとても無理だと思い周りを見たが、他人の手助けをできるほど余裕のある者はいそうになかった。皆、生き埋めになっている家族を助けることで必死なのだ。
雅也は落ちていた木材などを使い、屋根の下敷きになっている瓦礫を少しずつ取り除いていった。すると地面にしゃがみこんで隙間を覗き込んでいた女性が、急に声を上げた。
「あっ、あれ、うちの子やわ。うちの子の足やわ」
えっ、といって雅也も覗き込もうとした時だった。それまで煙が立ち昇っていたあたりから、突然火柱が上がった。
「あっ、あっ、あーっ」女性が目を剥き、悲鳴を上げた。炎はたちまち広がり、たった今まで覗き込んでいた部分まで埋め尽くした。手の施しようなどなかった。女性は獣のように叫んだ。
地獄や――雅也は首を振りながら後ずさりした。
火の手はその後もあちこちから上がった。消防隊は一向に現れず、人々は家族や財産が燃えていくのをどうすることもできなかった。
水原家の母屋は全壊していたが、燃えてはいなかった。雅也は呆然《ぼうぜん》としたまま近づいていった。
俊郎が梁の下敷きになって仰向けに倒れていた。ぴくりとも動かない。
あるものを雅也の目が捉えた。俊郎の上着のポケットからはみ出ている茶封筒だ。
彼は足元に気をつけながら俊郎の横へ行った。しゃがみこみ、内ポケットから茶封筒を抜き取った。
これで借金はちゃらや――そう思って俊郎を見て、ぎくりとした。
叔父は瞼を開けていた。濁った目で彼を見つめ、何かを訴えるように口を動かしていた。
思考よりも本能に近いものが雅也を突き動かしていた。彼はそばにあった瓦を手にすると、それを俊郎の頭に振り下ろしていた。躊躇《ためら》いも恐れもなかった。俊郎は声を上げることもなく、今度こそ目を閉じた。額がぱっくりと割れていた。
雅也は立ち上がった。もうこれでここには用はない。どうせ人手に渡った工場と家だ。
ところがそこを去ろうとした彼の目の前に、若い女が立っていた。
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彼女がいつからそこにいたのか、そこで何をしていたのか、雅也には全くわからなかった。彼が確信したのは、たった今自分のしたことが、この見知らぬ女に目撃されたということだけだった。
雅也は彼女を見つめながら立ち上がった。女の年齢は二十代半ばに見えた。パジャマ代わりにしているのか、クリーム色のスウェットスーツを着ている。当然のことながら化粧気はなく、長い髪を後ろで束ねていた。顔が小さく顎が細い。やや吊り上がった目を見開き、彼を凝視したまま動かなかった。
彼は一歩二歩と彼女に近づいた。自分が何をするつもりなのか、彼自身にもわからなかった。
その時、再び地面が揺れた。
雅也は身体のバランスを崩し、その場に両膝をついた。軋み音と共に、そばに立っていた鉄柱が倒れる。がらがらと周りの建物が崩落していく音が続いた。
気づくとすぐ近くで火災が起きていた。その火は瞬く間に大きくなった。
女はいつの間にか消えていた。雅也はしばらく目で探したが、火災による煙と舞い上がった埃で、遠くを見通すことは不可能になっていた。
何かが雅也の近くに落ちた。見ると喫茶店の看板だった。中に照明器具が入っているタイプだ。上を見ると、傾いたビルの二階付近から、ちぎれたコード類が垂れ下がっている。
ここにいては危ない――。
彼はサンダル履きのまま、南に向かって歩きだした。そっちの方向に小学校があるからだ。
路面はうねり、ところどころでひび割れが起きていた。そのうねった道を挟んで、倒壊した民家や建物が続いていた。いたるところで火災が起き、人々は泣き叫んでいた。街全体が燃えているというのに、消防自動車は一向に現れなかった。雅也は何人かの救出に手を貸したが、命を救えたのは半分以下だった。冷たくなった手足に触れるたび、これは悪夢だと思った。
ようやく現れた消防隊員たちも、気が遠くなるほどに広がった炎の海を目の当たりにし、どうすることもできなかった。彼等の持つ消火手段は何の役にも立たなかった。水の出ない消火ホースを持ったまま呆然とする彼等に、被災者たちは罵声を浴びせた。
「何をやってるの。早《は》よ……早よ火を消してっ、家が燃えてるやないの」
「そんなこというても、もう水がないんやっ」
「中に人がおるんよ、何とかしてえっ」
消防隊員と被災者が言い争う前で、多くの家屋が焼け、人が死んでいった。そんな光景をたっぷりと瞼に焼き付けた状態で、雅也はようやく小学校のグラウンドに到着した。校庭には青いビニールシートが敷かれ、近辺から逃げてきた人々がその上でうずくまっていた。
校庭の隅に机が出され、防寒着を着込んだ数名の男たちが被災者たちに紙を渡していた。雅也もそこへ近づいていった。
「被害は?」防寒帽をかぶった中年男が彼を見て訊いてきた。腕に腕章を付けている。地元の消防団員らしい。
「家と工場が壊れました」
「怪我人は?」
「それは……」少し考えてから雅也は答えた。「叔父が死にました。たぶん」
中年男は一瞬|眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せただけで頷いた。死人が出たという話も、もはや珍しいことではなくなっているのだろう。
「遺体は?」
「そのままです。家の下敷きになってるから」
「そう」防寒帽の男はもう一度頷き、雅也に紙を差し出した。ざら紙だった。「ここにおたくの住所と名前を書いてくれるか。それから被害状況をなるべく詳しく。できたら地図も描いて。あと、亡くなった人のことも」
鉛筆を借り、雅也はそこを離れた。ビニールシートの端に腰を下ろし、ざら紙にまず氏名と住所を書いた被害状況を一通り書いた後、叔父の米倉《よねくら》俊郎が死亡と書き添えた。俊郎の住所や連絡先は覚えていない。
午後になってから、雅也は消防団員らと共に自宅に戻った。俊郎の遺体を確認するためだった。俊郎は地震直後と同様、梁の下敷きになっていた。額から流れた血は、すでに黒く乾いていた。
「気の毒に。天井が壊れた拍子に、何かが頭に当たったんやな」年輩の消防団員がいった。雅也は黙って頷いた。
「ほかには人はおらへんかったね」消防団員が訊いてきた。
「ほかにはいませんけど……」
「何か?」
「父の遺体があるはずです。昨夜、通夜やったんです」
「ああ」消防団員は意表をつかれたような顔をした後、少し口元を曲げた。「地震の被害者でないということやったら、ちょっと後回しにさせてもらうわ。まだ生きてる人間を助けるのが先決やから」
それで結構です、と雅也は答えた。
俊郎の遺体は近所の体育館に運ばれることになった。雅也も同行すると、すでに二十体以上の遺体が運び込まれていた。床の上に寝かされた遺体の傍らで、家族と思われる人々が悲嘆にくれた様子でしゃがみこんでいる。
警察による検視が次々に行われていた。俊郎の死体が調べられている間に、雅也は別の警察官から事情聴取を受けた。
「工場と繋がってる母屋が全壊したんです。俺は工場にいたから助かりました」
雅也の説明に、警官は疑問を抱いた様子はなかった。頭の割れた死体など、すでに何体も見ているに違いなかった。
「米倉さんに家族は?」警官が訊いてきた。
「奥さんとは何年か前に離婚してます。子供は女の人が一人いますけど、結婚して奈良に行ってるはずです」
「その娘さんに連絡はとれますか」
「どうかな。親戚に当たったら、何とかなると思いますけど」
年輩の警官は少し考えるように黙ってから口を開いた。
「おたくから何とかその娘さんに連絡してもらえんかなあ。ほかに遺体の引き取り手がおるんやったら話は別やけど」
「それは構いませんけど、親戚に電話しようにも、連絡先を書いたものが手元にないし、ちょっと時間がかかると思います」
「構いません。連絡がとりにくいのはお互いさまや」警官は浮かない顔でいった。彼もまた何らかの被害に遭っているのかもしれなかった。
検視はあっけなく終わった。続々と遺体が運び込まれている状況では、担当者たちも一人の遺体を詳しく調べている余裕はないようだった。もっとも仮に調べたところで、俊郎の額に瓦が激突した原因について明らかにできる道理はなかった。
雅也は俊郎の遺体から離れた。折り畳まれた卓球台が壁のように並べてある場所があったので、その裏に回ってみた。そこでは数組の家族らしきグループが、疲れた様子で座り込んでいた。誰もがパジャマに毛布をかぶった程度の軽装で、お互いの体温で暖め合うように身体を寄せている。
雅也は隅に腰を下ろし、壁にもたれた。何もかもが現実ではないようだった。街が突然壊れ、大勢の人々が死んでいった。これからも犠牲者は出るに違いない。一体世界はどうなってしまったのか。自分たちはこれからどうなるのか。
先のことについて皆目見当がつかない中で、彼は俊郎の頭を砕いた感触を思い出していた。あのこともまた夢の中の出来事のようにしか感じられない。本当に自分がしたことなのだろうかと記憶に自信が持てなくなったりする。
また新たな遺体が運ばれてきた。今度は二体だ。雅也のすぐそばにそれらは並べられた。毛布でくるまれているので、どんな被害に遭ったのかはわからない。
少し遅れて先程の警官と一人の女がやってきた。その女を見て雅也は身体を硬直させた。俊郎を殺した時、そばにいた女だった。
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雅也は素早く卓球台の裏に身体を移動させた。
「おたくの名前は?」警官が訊いている。
「シンカイミフユです。新しいの新に、海です。ミフユは美しいと冬です」女が細い声で答えるのも聞こえてきた。
新海――雅也はその名字には覚えがあった。すぐそばのアパートに、そういう名字の夫婦が住んでいた。旦那とは面識がある。何年か前の年末、町内の夜回り当番で一緒になったのだ。六十歳ぐらいの痩せた男性で、会社を定年退職したばかりだといっていた。品が良さそうで、いかにもかつてのエリートビジネスマンといった雰囲気だったが、なぜ古びたアパート住まいなのかは不明だった。
「で、亡くなられたのは御両親?」警官が続けて質問している。
「そうです。寝てたら急に天井が落ちてきて……」
「部屋の間取りとか教えてもらえますか」
「おおよそやったら……あの、あたしは今まであそこに住んでなかったので」
「あ、前はどちらに?」
「東京です。でも、そこはもう引き払ってて、これからは両親と一緒に住もうと思ってたんです」
「ははあ、そうでしたか」
その後も事情聴取は続いていた。警官と女の声は、徐々にぼそぼそとした低いものに変わっていき、雅也の耳には届きにくくなった。どうやら女にも、両親が建物に押し潰されて死んだということ以外に話せることはなさそうだった。自分がどうして助かったのかもよくわからないらしい。
警官から解放された後も、新海美冬という女は両親の遺体のそばに座り込んでいた。その様子を卓球台の陰から確認し、雅也はその場を離れた。
俊郎の遺体を引き出した際、雅也は自分の財布だけは回収しておいた。中には三万円少々入っている。通夜に来た客が置いていった香典をすぐに財布に移しておいたのが功を奏した。その財布の感触をポケットの中で確かめながら彼は体育館を出た。今のうちに食料を調達しておこうと思ったのだ。
しかし商店はどこも壊れているか閉まっているかで、営業していなかった。辛うじて難を逃れたコンビニエンスストアの前には長蛇の列ができていた。その列に並んだところで、食べ物を入手できる見込みはなさそうだった。雅也は足の感覚がなくなるほどに歩き回った挙げ句、元の体育館に戻った。
体育館は避難してきた人々でいっぱいになりつつあった。電気が復旧していないため、日が落ちるにつれ暗くなってきた。さらに辛いのは寒さだ。防寒服を着ている雅也でさえ、じっとしていると身体が震え、歯ががちがちと鳴った。着の身着のままで逃げてきた人々の苦痛は、並大抵のものではないだろう。
空腹と寒さと暗さが、身も心も痛んでいる被災者たちを追いつめていった。そこへ余震がしばしば襲ってくる。揺れるたびに体育館中に悲鳴が響いた。
入り口付近で物音がし、懐中電灯を持った者が数人入ってきた。その中の一人がメガホンを口に当て、今から食料を配るという意味のことをいった。救われたような歓声が上がった。
「数に限りがありますので、お茶は一家族で一つ、パンは二、三個ということでお願いします」役所の職員と思われる若者がいった。
段ボールを抱えた職員が、それぞれの家族のところへ行き、人数を尋ねてから、それに応じてパンと缶入りの茶を渡していった。
「お茶はいいから、水はないですか。赤ん坊にミルクを飲ませたいんですけど」雅也のすぐ横で若い男が職員に訊いている。そばには乳飲み子を抱えた女性がいた。
「すいませんけど、今はこれだけしかないんです」職員は気の毒そうに答えた。
職員が雅也のところへ来た。
「俺は一人やから、パンだけでええよ」
「そうですか。助かります」職員は頭を下げ、袋に入ったパンを一つ差し出した。あんパンだった。
雅也が袋を開けようとした時だった。すぐそばにいた家族の会話が耳に入ってきた。
「そんなこというても、数が足らんのやからしょうがないでしょ。我慢しなさい」母親らしき女性が子供を叱っている。子供は二人だ。小学校の高学年と低学年といったところか。どちらも男の子だ。彼等は三人でパンを二つしかもらえなかったらしい。
「おなかすいたもん。こんなちょっとなんかいやや」ぐずっているのは弟のほうだ。
雅也は吐息を一つつき、彼等に近づいた。あんパンを母親の前に差し出した。「これ、食べさせたってください」
母親は驚いた顔で手を振った。
「そんな……おたくも食べてはらへんのでしょ」
「構いませんから」そういってから雅也は男の子を見た。「もう泣くな」
「ほんまにええんですか」母親が訊いた。
「どうぞ」
母親が繰り返し礼をいったが、雅也は聞かずに元の場所に戻った。空腹は辛いが、子供の喚き声を聞かされるよりはましだと思った。
どの家族も、与えられたわずかな食料を大事そうに食べている。そんな彼等の中に、膝を抱えて雅也のことをじっと見つめている者がいた。彼はぎくりとした。新海美冬にほかならなかった。
雅也と目が合うと美冬は俯《うつむ》いた。そのまま膝の上で組んだ両腕の中に顔を埋めてしまった。雅也も彼女から目をそらした。
何時間か前の光景がまたしても脳裏に蘇《よみがえ》る。俊郎の頭を砕いた感触、流れ出す血――。
なぜあんなことをしてしまったのか。俊郎のことを憎いとは思っていたが、殺すことなど考えたこともない。
下敷きになっている俊郎を見て、死んでいると思った。上着からはみ出ている茶封筒を見て、これで借金の件は助かったと思った。思考したことといえばその程度だ。
ところが俊郎が目を開けた。叔父は死んではいなかった。そのことに気づいた時、雅也の頭の中で混乱が起きた。それは次にパニックとなった。何も考えずに瓦を手にし、振り下ろしていた。
雅也はちらりと美冬のほうを見た。彼女は先程と同じ姿勢のままだった。
新海美冬は、あの瞬間を目撃したのだろうか。
地震があまりにも凄まじかったため、今までそのことについて考える余裕がなかったが、こうして形だけでも落ち着いてみると、そのことが頭の中を占めてくる。
俺が俊郎を殺すところを、あの女は見たのか――。
あの時は見られたと思った。彼女のいた場所は、雅也から十メートルと離れていなかった。何もかもが壊れた後だったので、二人の間には何もなかった。おまけに雅也は彼女と目を合わせた。彼女の驚きに満ちた表情が、彼の網膜に焼きついている。
しかしもし目撃したのなら、彼女は警察に話すのではないだろうか。両親が死に、他人に構っていられる精神状態ではなかったのかもしれないが、殺人となると話は別ではないか。それとも、彼女は話したが、それを聞いた警官が動いていないというだけのことか。たしかに今の警察には、個々の事件に関わっている余裕はないだろう。だが、殺人事件までほほうっておけないのではないか。しかも容疑者を特定するのは容易だ。彼女の証言をもとに現場を調べれば、殺人の被害者が米倉俊郎だということはすぐにわかるはずだ。となれば、捜査員が雅也のところへ話ぐらいは聞きに来そうなものだ。
もしかしたら見てないのか――。
その可能性は決して低くない。状況から推察すれば、彼女は地震で潰れたアパートから脱出した直後だったはずだ。何が起きたのかもよくわからず、途方に暮れていたに違いない。余震の恐怖に怯《おび》え、どうしていいかわからずパニックに陥ってもいたはずだ。つまり、雅也のほうに目を向けていたからといって、すべてを見ていたとはかぎらない。見れども見えず、という精神状態だったことは大いに考えられる。
そもそも彼女の位置から見えたかどうかも不確実だった。俊郎は瓦礫に埋もれるような形で下敷きになっていた。だからその瓦礫に遮られて彼女からは俊郎の姿が見えなかったこともありうるのだ。雅也が瓦を振り上げたのは見えたかもしれないが、何に向けて振り下ろしたのかまではわからなかったのではないか。
都合よく考えすぎているのだろうかと思い、雅也がもう一度新海美冬の様子を窺おうとした時、すぐそばから話し声が聞こえてきた。
「なあ、やっぱり家を見てきたほうがええんと違うかな」中年男がひそひそ話している。
「そんな、危ない……」答えているのは中年女だ。二人は夫婦のように見えた。
「けど、ヤマダさんのとこでも被害があったみたいやぞ」
「何か盗《と》られはったん?」
「レジスターに入ってた金をごっそりやられたらしい。一番高い品物もなくなってるとかいうてたな」
「こんな時に悪いことする奴おるなあ。いつの間にやりよってんやろ」
「そら、いつでもできるやろ。うちにしても、ろくに鍵もかけんと出てきたからな」
「そんなこというても、鍵なんか意味ないてあんたがいうから……」
「意味ないやないか。壁が壊れとるんやから。あんな状態で家が建ってること自体不思議や」吐き捨てるように男はいった。「けど、どっちみち建て直さんとしょうがないな」最後は妻に向けてというより、独り言のような呟きだった。
「一応、通帳と印鑑は持ってきたけど」妻がいう。
「それ以外にも、持ってきといたほうがええもんもあるやろ。株券とかいろいろ」
「あんなもん盗りよるかなあ」
「そんなことわからんぞ」男は舌打ちして、さらにため息をついた。「やっぱり、いっぺん家の具合を見てきたほうがええかな」
「やめとき。まだ余震が来てるやないの。あんたが家に入った途端に余震で潰れたりしたらどうするの」
「潰れるかなあ」
「潰れるかもしれんやないの。ササキさんの家、見たやろ」
二人が何の話をしているのかは雅也にもわかった。どうやら震災泥棒とでもいうべき犯行が起こっているらしい。倒壊もしくはそれに近い状態の家屋に侵入して、金目のものを漁《あさ》るのだろう。被害届を出したところで、警察がまともに対応してくれるとは思えない。泥棒にとっては、まさに稼ぎ時ということになる。
雅也は家に何か価値のありそうなものを置いていないかどうかを考えた。通帳などはどうでもよかった。どうせ大した金額は入っていない。強いていえば例の生命保険証書などがまとめられたファイルだ。もっとも、今すぐに取りに行かねばならないというほどのものでもない。
尿意を催したので雅也は腰を上げた。隣の夫婦は、まだ延々と震災泥棒の話をしていた。
明かりがないので、人にぶつからないよう歩くのが大変だった。廊下も真っ暗だ。壁づたいに歩いていくと、トイレの前に人だかりができていた。
「どうかしたんですか」雅也は野球帽をかぶった男に訊いた。
「ああ……便所、使われへんそうや。水が出えへんから、大便のほうは元々あかんかったけど、小便用のほうも詰まってしもたらしい。えらいことになったで。これからどないなるんやろな」野球帽の男は力のない薄笑いを浮かべた。
中年の男女がそばを通りかかった。
「あたし、できるだけ何も食べんようにするわ」妻らしき女性がいっている。「外で用を足さなあかんぐらいやったら、おなかすいてたほうがましや」
「けど、体力をつけとかなあかんぞ」
「そう思うけど、便所に行かれへんのやったら……」
適切な答えが思いつかないのだろう。夫と思われる男性は、ただ唸っただけだった。
雅也は体育館の外に出た。建物の前では焚き火が行われていた。倒壊した建物の材木などを燃やしているらしい。火の周りには人の輪ができている。老人や子供の姿もあった。炎に照らされた顔はどれも、その赤さとは対照的に沈んでいた。しゃべっている者も少ない。
建物の脇に植え込みがある。雅也はそこへ入っていき、適当な暗闇を見つけて小用を足した。少し離れたところでも、一人の男性が木に向かって立っていた。男はこういうことができるからいい。女性は大変だと雅也は思った。
体育館に戻りかけると、一人の女が出てきた。新海美冬であることに気づき、雅也は足を止めた。咄嗟《とっさ》に、焚き火を囲む人の後ろに隠れた。
美冬は炎にちらりと目を向けただけで、その前を通りすぎていく。スウェットスーツの上から小さな毛布をマントのように羽織っていた。
雅也は焚き火の輪から離れ、彼女の後を追った。
声をかけてみようかと思った。もし彼女が殺人場面を目撃していたのなら、雅也を見て平静でいられるはずがない。きっと逃げ出すだろう。その時には彼女を捕まえて、何としてでも説得しなければならない。どう説得するか。人を殺したように見えたかもしれないが、それは誤解だと釈明するか。それとも俊郎の悪行を話し、やむをえずやったことだと説明するか。
何とも考えがまとまらぬまま、雅也は美冬の後を追い続けた。あまり近づきすぎると気づかれるおそれがある。しかし離れすぎると見失ってしまいそうだった。焚き火から離れるに従い、闇は濃さを増した。彼女は小さな懐中電灯を持っていて、彼女の進む少し先に光の輪が落ちている。それが雅也にとっても目印になった。
美冬が突然脇道に入った。角に小さなビルがある。そのビルは箱を潰したような形のシルエットを作っていた。雅也が近くまで行くとサンダルの裏に何かが当たった。足元には、無数のガラス片が散らばっていた。窓ガラスが割れたのだろう。
美冬がビルの裏に入っていくのが見えた。雅也は彼女の目的を察した。トイレが使用不能では女性はさぞかし大変だろうと想像したのは、ついさっきのことだ。
声をかけにくくなったなと彼は思った。彼女としては、誰にも会わずに体育館まで戻りたいだろう。しかし人目があるところで彼女に話しかけるのは、雅也にとってあまりに危険だった。
見られたのか、それとも見られていないのか――。
考えても仕方がないとわかっていながらも、あれこれと思考を巡らせてしまう。とにかく答えを知りたかった。
美冬が入っていった路地に目を向けた時だった。小さな悲鳴が聞こえた。さらに鋭く低い人の声。何かの転がる物音。
雅也はあわてて路地に飛び込んだ。闇の中にいくつかの人影があった。地面の上でもつれあっている。点《とも》ったままの懐中電灯が落ちていた。
男の背中が見えた。黒い服を着ている。次にその男が両腕で抱えあげているものに気づいた。白い脚だった。男はその脚から衣類を剥ぎ取ろうとしていた。二本の脚は泳ぐように空中をかいていた。何が起きているのか、雅也は即座に理解した。
「おまえ、何しとるんじゃっ」
彼は駆け寄ると同時に男の背後から股間に蹴りを入れた。男は呻き声と共に前に倒れた。その瞬間、男の下になっているのが新海美冬であること、彼女の口に何か詰められていること、彼女の両腕を押さえている男が別にいることを知った。
そのもう一人の男が雅也に殴りかかってきた。その拳は彼の頬をとらえたが、指が骨張っていることによる痛みを除けば、衝撃は大したものではなかった。雅也は体勢を立て直し、頭から男の腹に突っ込んだ。相手が倒れると馬乗りになり、両手でめちゃくちゃに顔を殴った。
すると今度は後ろから首を締められた。股間を蹴り上げられた男が逆襲してきたらしい。雅也は敵の手を掴み、首から引き剥がそうとした。
鈍い音がどこかでして、相手の力が不意に緩んだ。その隙をついて雅也は肘打ちを脇腹に食らわせ、立ち上がった。男は両手で頭を押さえていた。
美冬が男の後ろに立っていた。彼女はコンクリートの破片らしきものを両手で持っていた。それで男の後頭部を殴打したらしい。
雅也と美冬の視線が一瞬空中で合致した。一秒の何分の一かの沈黙と停止があった。それが暴漢たちにチャンスを与えることになった。雅也に殴られていた男は駆けだし、もう一人の男も頭を押さえたまま後に続いた。雅也は後を追おうとしてやめた。婦女暴行未遂の犯人を捕まえたところで、警察がまともに対応してくれるとは思えない。
「怪我は――」ないかと美冬に訊きかけて雅也は目を伏せた。彼女の剥き出しの下半身が、懐中電灯の光で白く浮かびあがっていた。
彼女が衣服を整え終えた気配を察して、彼は顔を上げた。
「怪我、ないか」改めて訊いた。
彼女は小さく頷き、足元に落ちていた懐中電灯を拾い上げた。
「気持ちはわかるけど、一人で行動するのはやばいで。あんな奴らがうろうろしてるからな。懐中電灯なんか持ってたら、獲物がここにおりますて宣伝してるようなもんやし」
美冬は何も答えない。声を出す余裕がないのかもしれなかった。
「体育館に戻ろ。懐中電灯を貸してくれ。俺が先に行くから、後からついてきてくれ」
だが彼女は後ずさりすると、そのまま駆けだした。懐中電灯の光が揺れながら遠ざかっていった。
雅也は歩こうとして脚を止めた。柔らかいものを踏んだ感触があった。拾い上げてみると、彼女が羽織っていた毛布だった。
体育館に戻ると、焚き火の数が増えていた。寒さに耐えきれない人々が倣い始めたようだ。
新海美冬は、焚き火を囲む人の輪から少し離れたところにあるベンチに腰掛けていた。体育館にいた時と同じように、両膝を抱え、腕の中に顔を埋めている。
雅也は彼女に近づくと、持っていた毛布を後ろからかけた。びくっとしたように背中を伸ばした彼女は、彼を見て息を呑んだような顔をした。
「大事な毛布、忘れていったらあかんやないか」
なるべく軽い口調を心がけて声をかけた。だが美冬の硬い表情に変化はなかった。両手で毛布の端を掴むと、身を守るようにしっかりと前で合わせた。
「焚き火の近くに行ったらどうや。ここでは寒いやろ」
彼女は焚き火のほうをちらりと見たが、すぐに目を伏せた。
雅也は焚き火を囲んでいる人々を見て、彼女の気持ちを理解した。ドラム缶の周りにいるのは殆どが大人の男たちだった。子供や若い女の姿はなかった。
「大丈夫や。あの人らはさっきの連中とは違う。今は自分のことで必死や」
しかし彼女は俯いたままで、声を発しようとはしなかった。雅也は彼女の隣に腰を下ろした。彼女が全身に力を入れる気配があった。
「何やったら、俺が一緒に――」
雅也がそこまで話した時、美冬は突然立ち上がった。一、二歩進んだ後、くるりと彼のほうに身体を向けた。
「毛布、ありがとうございました」
そしてぺこりと頭を下げ、歩きだした。しかし彼女は焚き火のほうには向かわず、そのまま体育館に入っていった。
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殆ど眠れぬままに朝を迎えることになった。雅也は体育館の隅で丸くなっていた。拾ってきた新聞紙を全身に巻き付けていたが、板張りの床は氷のように冷たく、体温が奪われていくのを食いとめることはできなかった。
目は覚めているが起き上がる気力がなかった。空腹も限界に達していた。周りの人々も同様らしく、立ち上がる者はわずかだった。
そんな彼等を一斉に動かしたのはやはり不気味な余震だった。ゆらゆらと床が揺れると同時に、悲鳴と共に皆が身体を起こした。小さな子供の、「ヨシン、ヨシン」という声が雅也の耳に届いた。
丸一日飲まず食わずだったにもかかわらず、尿意だけは確実に訪れた。雅也は体育館を出た。外にはまだ焚き火をしている人々がいた。
昨日とほぼ同じ場所で用を足した後、雅也は家に戻ることにした。着替えや食べ物を取ってこようと思ったのだ。
道路に出てあたりを見回し、彼は大きく吐息をついた。街の壊滅は夢でも何でもなく紛れもない事実なのだと再認識した。家という家が瓦礫の山と化していた。電柱は傾き、電線は垂れ下がっている。ビルは途中で折れ、無数のガラス片を道路上にまき散らしていた。真っ黒に焼けこげた建物も少なくない。
頭上にはヘリコプターが飛んでいた。テレビ局のものだろうと雅也は見当をつけた。彼等はこの映像を、興奮したアナウンサーの言葉と共に全国に流しているのだ。視聴者たちはそれを見て、驚き、心配し、同情し、最後には自分たちの身に起こらなくて幸いだったと胸を撫で下ろしていることだろう。
家まではかなりの距離がある。雅也は歩きにくいサンダル履きで、黙々と足を動かし続けた。行けども行けども壊れた建物の連続だった。それらのそばに人影を見ることもある。彼等の中には、まだ号泣している人がいた。人の名前を呼んでいるところをみると、依然として家族が生き埋めになったままなのかもしれない。
小さな商店街にさしかかった。しかしそこはもう商店街の体《てい》を成していなかった。殆どの店は壊れ、看板は落ち、一体何の店だったのかもわからなくなっていた。
一軒だけシャッターの上がっている店があった。薬屋だった。中は薄暗かった。
近づいてみると、ガラス戸が外れていた。雅也はおそるおそる声をかけてみた。「すみません」
だが返事はない。彼は足元に気をつけながら中に入ってみた。薬品の臭いが漂っているのは、何かの瓶が破損したせいかもしれない。
店内を見回したが、商品は殆ど残っていなかった。辛うじてあるのは内服薬ばかりだ。怪我人が多く出ただろうから、外傷用の薬は昨日のうちに売り切れたのだろう。ティッシュやトイレットペーパー、歯ブラシといった生活必需品も、おそらく早々に品切れになったに違いない。ドリンク剤が入っていたと思われる小さな冷蔵庫も空っぽだった。
すみません、ともう一度声をかけた。しかし人のいる気配はなかった。店主も避難しているのだろう。
サービス品と思われるポケットティッシュが二つ、隅に落ちていた。雅也はそれを拾って防寒着のポケットに入れ、その店を出た。
少し歩いたところで右腕を掴まれた。振り向くと四十歳ぐらいの太った男が雅也を睨《にら》んでいた。手にゴルフのパターを持っている。その後ろにもう一人いた。同じぐらいの年格好で、こちらは金属バットを手にしていた。
「おたく、あの店で何をしてたんや」パターを持った男が訊いてきた。眼鏡の奥の目が鋭くなっている。
「何もしてへんよ。何か売ってへんかなと思て、覗いてみただけや」
「ポケットに何か入れたやろ。わし、見とったんやで」バットを持った男がいう。
雅也はうんざりしながらもポケットティッシュを差し出した。二人の男は顔を見合わせた。
「何やったら、身体検査をしてもろてもええで」雅也は両手を上げた。
パターを持った男が渋面を作りながらも頷いた。
「どうやら見当違いやったみたいやな。申し訳ない。悪う思わんといてくれ。ゆうべからいろいろとあってな」
「このどさくさに、泥棒する奴がおるみたいやな」雅也はいった。
「ひどい話や。警察にいうても取り合《お》うてくれへんし、自分らで守らなしょうがない。兄ちゃんにはえらい失礼なことをしてしもたけど、堪忍してくれ」
雅也は首を振った。彼等を責めることなどできなかった。
「悪い連中は泥棒だけと違うで」雅也はいった。「女を狙う奴らもおる」
二人の男性は意外そうな顔をしなかった。パターの男が苦々しそうに頷いた。
「兄ちゃんの近くで、誰か襲われたか」
「幸い未遂やったけど」
「それはよかった。ゆうべのうちに二人ほど襲われたという話や。どっちも便所に立った時を狙われた。女は立ち小便というわけにいかんから、人目のないところまで行くよってにな」
「そのことをいうても警察は知らん顔らしい。犯人らもそれをわかってるから、やりたい放題や」金属バットの男が口を尖らせた。
商店街を通り抜け、またしばらく歩いた。壊れた民家から荷物を取り出そうとする人の姿が目立ち始めた。こんなふうにして他人の物を持ち出す者がいたとしても、余程のことがないかぎり捕まらないだろうと雅也は思った。窃盗を目的にした人間たちが徘徊《はいかい》していたとしても不思議ではない。
しかし、と雅也は思った。震災に乗じて犯罪を起こす者を責める資格が自分にあるのだろうか。何しろ自分は人を殺しているのだ。
ようやく家の近くまで戻ってきた。あたりにはまだ黒い煙がたちこめている。つい先程までどこかが燃えていたのだろう。消防が来た様子はないから、燃えるままにされていたのかもしれない。
工場は昨日最後に見た時のままだった。壁は壊れ、鉄骨の柱だけが辛うじて立っている。工作機械は落ちてきた天井の破片に埋まっている。
母屋は見事に全壊していた。父の棺桶が置かれていた場所には瓦が散乱している。折れた材木、砕けた壁が、小さな山を作っていた。
雅也は玄関のあったあたりの瓦礫をどかしていき、まずはスニーカーを見つけた。埃だらけになっていたが、破損はしていなかった。サンダルをそれに履き替え、次の作業に移った。食べ物を探すことだった。
台所のあたりの瓦礫を取り除こうとして手を止めた。倒れた冷蔵庫が剥き出しになっている。昨日はそんなふうにはなっていなかった。
はっとして彼は冷蔵庫の扉を開けた。予想通りだった。中に入っていたはずの食べ物がすっかりなくなっていた。残っているのは調味料類や脱臭剤などだけだ。冷凍食品、ソーセージ、チーズ、缶ビール、飲みかけのウーロン茶といったものが消えている。梅干しや佃煮までない。
理由は考えるまでもない。食べ物に飢えた何者かによって盗まれたのだ。家には金目のものはないと安心していた自分の迂闊さを彼は呪った。ある意味、金よりも大事なものが置いてあったのだ。
全身が鉛のように重くなり、立っている気力さえなくなった。彼はその場にしゃがみこんだ。すぐ目の前にソーセージのラップが落ちていた。何日か前に雅也が買い、冷蔵庫に入れたものに違いなかった。
脱力感から頭を抱えそうになった時、人の気配を感じた。顔を上げると新海美冬が立っていた。雅也は驚きのあまり、後ろにのけぞりそうになった。
「これ、よかったらどうぞ」硬い表情のまま、彼女は両手を出した。そこにはラップに包まれた握り飯が載っていた。
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米倉|佐貴子《さきこ》が被災地に入ったのは、大地震から三日目のことだった。奈良から難波《なんば》経由で梅田まで出るところまではスムーズだったが、その後が難関だった。電車の本数が少なく、しかも甲子園までしか行けない。そこから先は歩くしかなかった。
被災地に向かう人々は、皆大きな荷物を抱えていた。リュックサックを背負っている者も少なくない。被害に遭った家族や知人に差し入れを持っていくつもりなのだろう。佐貴子は万一のことを考えて自分の着替えと簡単な食事をバッグに入れていたが、誰かに差し入れをするということは全く考えていなかった。彼女は何とかこの面倒な状況から一刻も早く逃れたいと思っていた。
地震が起きた時、彼女は奈良の自宅で眠っていた。揺れには気づいたが、さほど大きな地震だとは思わなかった。大変なことが起きたと知ったのは、夫の信二《しんじ》がテレビをつけてからだ。壊れた高速道路が大蛇のように横たわっているのを見て、これは何かの間違いだと思った。
阪神地区には知り合いも多い。しかし真っ先に頭をよぎったのは、やはり父のことだった。俊郎は尼崎で独り暮らしをしていた。
電話はまるで通じなかった。大阪に住んでいる親戚にかけてみても同じだった。ようやく一軒の親戚に電話が通じたのは、午後になってからだ。その時にはすでに未曾有《みぞう》の大災害だと認識していた。
その親戚の被害は大したことがなかったようだ。しかし彼等も俊郎の安否については知らなかった。
佐貴子が困惑していると、叔母が電話口でいった。
「そういうたら昨日は通夜やったやろ。ほら、水原さんとこの」
「ああ」
いわれて佐貴子も思い出した。水原の伯父が死んだということは俊郎から聞いていた。しかし殆ど付き合いはなかったので、弔電を打とうという気にもならず、聞き流していたのだ。だが俊郎は電話で、通夜に行くといっていた。
水原家とも連絡はとれなかった。佐貴子が父の死を知ったのは、翌日の夕方になってからだった。俊郎の名前がテレビで流されたのだ。
俊郎の遺体の安置されている場所を調べようとしたが、どこに電話をかけても話し中ばかりで、なかなか埒《らち》が明かなかった。ようやく安置場所が判明したのが昨日の夜だ。大阪の親戚から電話があったのだ。水原雅也から連絡があったという。やはり俊郎は水原家にいる時に被害に遭ったらしい。
雅也と連絡をとる方法はなかった。彼には佐貴子の電話番号が知らされているようだが、避難所にいるせいで電話はかけにくいだろうということだった。
甲子園に着くと、彼女は線路づたいに歩きだした。同じ方向に歩いていく人も多い。悲嘆にくれた背中を眺め、まるで戦地のようだと彼女は思った。周りの光景も、何かの写真で見た空襲後の街そのものだった。
俊郎の死は唐突な出来事ではあったが、突然の悲劇だとは思っていなかった。正直なところ、むしろせいせいしたという思いがある。地震の被害を知った時にすぐ俊郎の安否が気になったのは、もしかしたら死んでくれたのではないか、という期待があったからだ。
佐貴子はあの父親が好きではなかった。酒癖が悪く、仕事に対しても真面目だとはとてもいえなかった。そのせいで妻とはしょっちゅう口論になっていた。佐貴子の母親は気の強い女性で、パートで多少なりとも稼げるようになると、露骨に亭主を罵《ののし》った。それである時俊郎が手を出し、そのことがきっかけで別れるところまで話が進んだのだ。どちらも嫌気がさしていたのだろう。
佐貫子はどちらとも同居しなかった。その頃すでに現在の夫と知り合っており、半同棲のようなことを始めていたから、住むところには困らなかった。それ以来、めったなことでは両親と会わなくなった。母親は、娘は自分のことを気に掛けてくれるだろうと期待していたようだが、極力無視することにした。あの両親と関わることが自分の将来にとってプラスになるとは思えなかった。それでも母親は時折、信二の留守を見計らって家にやってきた。用件は金の無心と決まっていた。またそのたびに、俊郎の悪口をさんざん垂れ流していくのだった。
俊郎は小遣いをせびったりしなかったが、佐貴子に老後の面倒を見てもらおうと企んでいる様子が見え見えだった。信二は奈良でバーを経営しており、佐貴子も店を手伝っているので、羽振りがいいように思っていたのだろう。
結局一時間以上歩いて、ようやく俊郎の遺体が安置されているという体育館に着いた。大勢の人々が外に出て、焚き火をしたり、非常食に食らいついたりしていた。いたるところから号泣が聞こえた。
人だかりがしているので覗き込んでみると、小さな机の上に画用紙が置かれ、その上に写真が何枚か貼ってあった。地震直後を撮影したもののようだ。画質が粗いので奇妙に思ったが、隅に書き込んである文面を見て納得した。『地震直後にビデオ撮影した画面の一部です お問い合わせは下記まで』とある。問い合わせ先は大阪になっているから、撮影者はすでにここを出ているようだ。
腕章をつけている若者がいたので、佐貴子は彼に遺体の場所を尋ねた。その若者は体育館の隅まで案内してくれた。そこには数十体の遺体が並べられていた。棺に入っているものもあるが、毛布にくるまれたままというのも多い。
遺体の協に身元を書いた紙が置かれていた。それを見ながら佐貴子は進んだ。足元が極端に冷える。そして嫌な臭いがする。死体が腐り始めているのかもしれなかった。
「サキちゃんっ」
どこからか声がした。顔を上げると、薄汚れた緑の防寒服を着た男が立っていた。髪は脂で絡んだようになり、髭は伸び放題、顔色は悪く、頬はこけていた。それが自分の知っている人間だと佐貴子が気づくのに、数秒間を要した。
「ああ、雅也ちゃん。えらいことやったねえ」
「ここまでどうやって来た?」
「甲子園から歩いてきたんよ。足が棒になったわ。それより……」
「わかってる。おっちゃんはこっちや」雅也は親指で後ろを指し、歩きだした。
俊郎の遺体は毛布でくるまれていた。開くと白い煙のようなものが流れ出た。ドライアイスを入れてあるのだ。
俊郎は灰色の顔で目を閉じていた。安らかというより無表情といった感じだ。マネキンが発する雰囲気と同じものだと佐貴子は思った。死に顔を見ても特に何とも思わなかったが、身に着けている服に見覚えのあることが、彼女の心を少し揺さぶった。このくたびれた上着を羽織って出かけていく父親の背中を、何度見送ったことか。
涙腺がわずかに熱くなった。ハンカチを出し、目を押さえた。涙の出たことが自分でも意外だった。しかしそれでもう気分がすっきりした。
「地震の時、おっちゃんはうちの二階で寝てた。ところがうちはあのとおりのボロ家や。屋根から壁からみんな落ちてぺっしゃんこになってしもた。頭の傷が致命傷で、たぶん即死に近かったという話や」
雅也の話を聞き、佐貴子は黙って頷いた。俊郎の額には布が置かれていた。顔中が血まみれだったのだろうと彼女は想像した。
「葬式、せなあかんな」合掌した後、ぽつりといった。内心では面倒だと思っている。
「ガスが来てないから火葬場はどこも休業や。こっちでは葬式はでけへん」
「そしたら……どうしたらええのやろ」
「サキちゃんの家のほうでやるしかないんと違うか。昨日あたりから、遺体を県外に運び出す人が増えてる。ふつうの場合は個人で遺体を動かしたらあかんけど、こういう時やから、役所に届けたら許可が出るらしい」
「運ぶって、車を使うの?」
「そうするしかないやろな。サキちゃん、車はあるやろ」
「あるけど……」
「よかった。うちの車を貸してやりたいけど、倒れた電柱の下敷きになってパアや。どこまでもついてへん。頭痛いわ」
頭が痛いのはこっちだと佐貴子はぼやきたかった。信二も俊郎を嫌っていた。だから今日も一緒に来てくれなかったのだ。「適当にあっちで火葬にしてもろてこい。骨も持って帰ってくるなよ。どこかの寺にでも預けてきたらええ」彼女が出かける時にも、そういっていた。
家で葬式をあげるなんていったら――。
信二は烈火のごとく怒るに違いなかった。ましてや遺体を運ぶとなると、彼の愛車を使うことになる。彼がそれを承諾するとはとても思えなかった。
「役所の手続きやったら、すぐにできるで。出張してきてる連中がおるから」
雅也の言葉に佐貴子は曖昧《あいまい》に頷いた。彼は親切心からいっているのだろうが、彼女としては余計なお節介という心境だった。彼が俊郎の遺体を瓦礫の中から引っ張り出し、こんなところまで運んだということ自体、ありがた迷惑なのだ。ほうっておいてくれたら、身元不明死体ということで処置されたかもしれない。
何とか信二を説得しなければならないと佐貴子は思った。そのためには餌が必要だ。
「雅也ちゃん」彼女は彼を見上げた。「お父ちゃんの荷物は?」
「荷物?」雅也はかぶりを振った。「いや、あの日は香典を持ってきはっただけで、ほかに荷物はなかった。手ぶらやったと思う」
「財布とか免許証とかは? 家の鍵も持ってたと思うけど」
「財布は俺が持ってる」雅也は防寒着のポケットから黒革の財布を取り出した。「ほかのものはポケットに入ったままと思う。財布は盗む奴がおるから」
「そうかもしれんね。ありがとう」財布を受け取り、中を覗いた。千円札が数枚入っているだけだ。疑問はあるが、口には出せない。
「形見が欲しいんやったら、おっちゃんの家に行ったほうがええやろな。尼崎も被害がひどいらしいから、無事かどうかはわからんけど」
「そうやね。ねえ、雅也ちゃん。悪いけど、ちょっと独りにしてもらわれへん?」
「ああ、わかった。ごめん」
亡き父との対面の邪魔をしていたとでも思ったか、雅也は申し訳なさそうな顔をして立ち去った。
彼の姿が消えるのを確認し、佐貴子は俊郎の上着のポケットを探った。ズボンのポケットからしわくちゃのハンカチと鍵が出てきたが、それだけだった。上着の内ポケットにも何も入っていない。
首を傾《かし》げた時、ふと視線を感じた。前を見ると、知らない女と目が合った。髪を後ろで束ねた、二十代半ばぐらいの女だ。クリーム色のスウェットスーツを着て、上からダウンジャケットを羽織っている。その女性も遺族のようだ。
相手の女はすぐに目を伏せた。それ以後は、特に佐貴子のことを気にしているふうでもなかった。自分を見ていたわけではないのかなと彼女は思い直した。
彼女は改めて俊郎の着衣を調べた。目的のものは見つからなかった。
おかしいな――。
水原の通夜に行くことを電話で伝えてきた際、俊郎は妙なことを漏らした。まとまった金の入る目処がついた、というのだった。
「前にもいうたことがあるけど、あの家には金を貸したことがある。利息を含めたら四百万ほどになってるはずや。今までは返してもらえそうになかったけど、これで大丈夫やろ。幸夫さんは生命保険に入ってたはずやからな」
その貸し金のことは知っていた。どういう経緯があったのかは聞いていない。どうせ俊郎が自分の投機に幸夫を巻き込んだのだろうと踏んでいる。
「けどあの家には、ほかにも借金があるんやろ。そっちを返したら、お父ちゃんに返す分なんか残ってへんのと違う?」
「せやから通夜に行って、雅也に釘を刺しとくんや。こっちには正式な証書もあるんやから、それを見せたら納得するやろ」
「お通夜にそんな話をするの?」
「しょうがないやろ。ぼやぼやしとったら、ほかの債権者に食われてしまう。まあこれでわしのほうの借金も清算できるから万々歳や。おまえに迷惑をかけることもない」
だからこれからも親子として付き合ってくれ、そういいたそうな口振りだった。
自分には関係のないことだと佐貴子は思っていた。実際、すっかり忘れていた。しかし俊郎が水原家で死んだという知らせを受けた時、不意に思い出した。きっかけは、「あの人が死んでも、どうせおまえに入ってくる財産なんか何もないねんやろな」という信二の言葉だった。
今四百万あればかなり助かると佐貴子は考えた。店の経営は苦しい。数年前までは黙っていても満員になったが、今は一日に一組二組ということも珍しくない。人件費を削減しようと女の子の数を減らしたら、それがさらに客離れを引き起こしてしまった。
じつは佐貴子が今日わざわざこんなところまで来たのは、その貸し金のことが頭にあったからだ。それがなければ来ようとは思わなかっただろう。母親に電話して、あんたの元亭主なんだからあんたが何とかしろといっていたところだ。
四百万のことを話せば、信二も俊郎の葬儀をあげることに反対はしないのではと思った。大したことなどしなくていいのだ。要するに火葬を済ませればいいだけのことだ。
しかしそのためにはまず借用証を入手する必要があった。正式な書類もなく、父が金を貸していたはずだから返してほしいと主張しても、無視されるだけだろう。
佐貴子は立ち上がり、遺体から離れた。借用証が見つからないのはなぜか。あの日の電話で、俊郎はたしかに、借用証を雅也に見せるつもりだといっていた。ならば、持っていなければおかしい。
「サキちゃん」廊下に出ると雅也が駆け寄ってきた。「これ、もろてきたけど」そういって線香を差し出した。
「ああ、ありがとう」受け取った線香を見つめた後、佐貴子は顔を上げた。「ねえ、雅也ちゃん。お父ちゃん、何か持ってへんかった?」
「何かって?」
「書類みたいなもの」雅也の顔を覗き込んだ。
「書類か。さあ、俺は知らんけどなあ」
「見たこともない?」
「うん」
「そう。わかった。変なこと訊いてごめん。線香あげてくるわ」佐貴子は踵《きびす》を返し、再び体育館に入った。俊郎の遺体のもとまで戻りながら、彼女は心で舌打ちをしていた。やられた――。
俊郎が雅也に借用証を見せていないわけがない。雅也は俊郎の死体を見て、真っ先にそれを奪ったのだ。今はもうたぶん灰になっている。
俊郎の貸し金が戻ってくる見込みがないとなれば、何のためにこんなところに来たのかわからない。父親の葬儀という厄介事を抱え込んだだけだ。このことを信二にどう説明すればいいのか。
「勝手にせえや。おまえの親やろ。俺は知らんぞ」信二が吐くに違いない冷たい台詞《せりふ》が頭に浮かんだ。
体育館を出て、廊下で佇《たたず》んでいると、またしても雅也が近寄ってきた。
「どうする、サキちゃん」
「うん、どうしようかなあ」
様々な思いが彼女の胸中を駆け抜けた。借用証をまんまと奪われた悔しさがある。俊郎の遺体という面倒なものを渡されそうで忌々しくもある。しかしその感情を顔に出さぬよう気をつけた。
「旦那さんに車で来てもろたらどうや。そのままおっちゃんを載せて帰ったらええやないか」
「そうやねえ……」
雅也のいっていることは正論だ。ふつうの家ならそうするのだろう。だが自分たちはそうではないと佐貴子は思った。自分は父親の遺体など欲しくない。自分の手で葬式をあげたいとも思わない。
「けど、今日は無理やわ。こんな時間になってしもたし、あの人、お店があるし」
「そしたら、明日、来てもらうしかないな。サキちゃんはこっちで泊まらなあかんけど、昨日からストーブが入ってるから、それほど寒いこともないで」
次から次と憂鬱《ゆううつ》な提案をしてくる。佐貴子は雅也の横っ面を張りたくなった。襟首を掴み、借用証はどうしたと詰め寄りたかった。
「あたし、今日は一旦家に帰るわ」考えあぐねた末という顔を佐貴子は作った。
「えっ、奈良にか」
「うん。こっちで火葬できるとばっかり思てたから、うちの人にもそういうてきたんよ。家でお葬式をあげるとなったら、まず相談せなあかんし、いろいろと準備することもあるから。今枝もう一晩だけ、お父ちゃんの遺体はここに置かせといてもらうわ。雅也ちゃんには悪いけど」
「いや、俺は別にかまへんよ」
雅也は首を振ったが、そんなことはないだろうと佐貴子は思った。ドライアイスの交換をはじめ、いろいろと煩わしい仕事があるはずだった。しかしそんなことをおくびにも出さないことが、佐貴子には彼の後ろめたさの現れのように感じられる。
「ほんまに、えらい迷惑かけて申し訳ないと思てる。ごめんね」
四百万の借金をちゃらにしたんやから、この程度のことは何でもないわな――腹の中ではそう罵っていた。
「雅也ちゃんはこれからどうするつもり?」体育館の出入り口まで見送ってくれた彼に尋ねた。
「正直いうて、当てはない。雇てくれることになってた工場も、この分では仕事どころやないやろ。転がり込む先もなし。当分、この避難所で寝泊まりすることになりそうや」
「大変やね」
「そうやな。けど、大変なのは俺だけやない」
雅也は体育館の前の広場に目を向けた。どこからか現れた軽トラックの荷台で、パックに詰めた弁当を売っている。法外ともいえる価格だが、飢えた人々は諦めたような顔つきで買っている。
「とにかく、亭主と相談して、明日また来るから」
「うん、気をつけて」
雅也と別れ、体育館の門に向かって歩きだした。例の地震直後の写真は、まだ張り出されたままだった。誰が何のためにそんなことをするのかわからなかった。今は誰も見ていない。
前を通りかかりながら佐貴子は何気なく眺め、そして足を止めた。一枚の写真に彼女の気を引きつけるものが写っていた。水原製作所、と書かれた看板だ。それが傾いて地面に落ちている。
彼女は写真に顔を近づけた。水原の家には何度か行ったことがある。工場の裏にある母屋が、ものの見事に崩れていた。
佐貴子の目が、ある一点を捉えた。細かいところまではわからないが、誰かが瓦礫の下敷きになっている。
これは――。
俊郎ではないか、と彼女は気づいた。服の色は、遺体が着ていたものと同一だった。しかしそうだとすると、明らかに事実と矛盾している点がこの写真にはあった。
佐貴子は手を伸ばし、その写真を剥がした。ビデオをプリントしたものだから細部が見にくくもどかしかった。だが彼女は胸騒ぎを感じ始めていた。それはやがて疑惑へと変わっていった。
彼女は写真をバッグに入れ、歩きだそうとした。その時、すぐ横に人がいたことに気づき、ぎくりとした。彼女が俊郎の遺体と対面した時にも、そばにいた女だった。その若い女は佐貴子には目もくれず、くるりと向きを変えて歩きだした。
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午後十一時過ぎになって電話が鳴りだした。木村は風呂を出て、缶ビールに口をつけたところだった。髪はまだ濡れていて、首にタオルを巻いている。テレビではニュースキャスターが相変わらず震災の模様を伝えていた。キッチンで洗い物をしていた奈美恵《なみえ》が、テーブルの上のコードレスホンを取った。
「もしもし……あっ、はい、そうです。あの、ちょっと待っててください」奈美恵が送話口を塞いで木村を見た。「あんたや」
「俺? マジか」
「うん」彼女はコードレスホンを差し出した。
「もしもし、電話代わりました。木村ですけど」
「どうも夜分に申し訳ありません」女の声だった。奇麗な標準語だ。「私、ジャパンテレビ報道局のクラサワといいます」
「ジャパンテレビ?」
かっと全身が熱くなった。テレビ局だ。ということは、あの件に違いない。電話機を持つ手に力が入った。
「じつは木村さんがお撮りになったビデオについてお尋ねしたくてお電話しました。今、ちょっとよろしいでしょうか」
「ええ、はい、どうぞ」木村は空いている手で拳を作った。ビデオ。やっぱりそうだ。
「池川体育館の前に、ビデオをプリントしたものを掲示しておられますよね。あれはどういった目的でなさっていることなんでしょうか」
「目的って……それは、あの、被災者の関係者の方とかに、どんな地震が起きたのかをお見せしたいと思って。あの、地震が起きた時の写真とかって、あんまりないみたいだから」
嘘だった。全く別の狙いがあって、ビデオの一部をプリントして張り出したのだ。
「あれはたまたまお撮りになったんですよね」
「もちろんそうです。僕はビデオカメラが好きで、いつでも撮《うつ》せる準備をしているんです。それで地震の時も、咄嗟にカメラを持って外に出たんです。幸いうちのアパートは、傾いただけで壊れなかったですから」
「そうですか。じつはあのお写真を拝見しまして、非常に貴重な資料だと感じました。おっしゃるとおり、地震の最中の映像というのは少ないんです。それで、元のビデオテープというのは木村さんのお手元にあるんでしょうか」
「はい。僕が持っています」
「では、非常に厚かましいお願いなんですけど、二、三日お借りするわけにはいきませんでしょうか。こちらのほうで見せていただいて、場合によっては番組内で使わせていただきたいんですが」
「ええと、それは構いませんけど」木村は頭の中で素早く計算を始めた。「どういった使われ方をするんでしょうか」
「それはまだ何とも。ニュース番組の特集といった形になると思いますけど」
「特集ですか。なるほど」
悪くない話だなと思った。自分の撮った映像が全国ネットで流れる場面を想像し、木村は心が浮き立った。
「わかりました。いいですよ。でもその、お貸しするにあたって何らかの……」
「謝礼はもちろん出させていただきます。放送が決まりましたら、その時点で金額をお知らせすることになりますけど。今の時点では、私のほうから正確な額を申し上げるわけにはいかないんですけど」
「それで結構です。ええと、じゃあどうすれば」
「早速で申し訳ないんですけど、今日これから取りに伺ってもよろしいでしょうか」
「えっ、これからですか」
「じつはかなり急いでおりまして、今夜中に準備を進めたいんです。御迷惑かと存じますが」
明日の朝のニュース番組にでも使う気なのかなと木村は推測した。
「わかりました。ええと、こちらの住所はですね」
住所とマンションの部屋番号をいい、藤村という表札が出ていることを添えた。すでに大阪まで来ているので三十分ぐらいで着くと思うと相手の女はいった。
「やったで。あのビデオが売れた。俺の狙い通りや。あの場所に写真を張り出したのは正解やった」電話を切った後、木村は親指を立てた。
「ふうん、やっぱりやってみるもんやね」奈美恵が感心したようにいう。
「おまえはあんなもん相手にされるわけないていうたけど、このとおりや。ジャパンテレビやぞ。大手やぞ。おい、何をぐずぐずしてるんや。ちょっとは片づけろよ。これからすぐにテープを取りに来るらしいから」
「もう、勝手なんやから」
木村はビールを喉に流し込んだ。格別の味がした。
彼はビデオ撮影など趣味にしていなかった。ビデオカメラ自体が、自分のゴルフスイングをチェックしようと思って友人から借りた物だ。あの時枕元にそれが置いてあったのは、その日出かけたついでに返そうと思っていたからにすぎない。地震が起きた時にカメラを持って飛び出したのも、単にそれだけは壊すわけにはいかないと思ったからだった。
撮影した動機というのも特にない。強いていえばカメラを持っていたから、ということになる。しかし奈美恵の部屋に転がり込んできて、撮影した映像を見ているうちに一つの考えが閃《ひらめ》いた。これをどこかのマスコミに売り込めないか、ということだった。とはいえその業界にコネクションはない。そこで思いついたのが、被災地で映像の一部を公開するということだった。知り合いの電器屋に頼んで何枚かをプリントしてもらい、今朝早くに池川体育館の前に張り出した。たちまち何人かが集まってきた。あの分ならマスコミ関係者の目に留まる可能性も高いと期待していた。
さすがにテレビ局だ、動きが早い――ビールを飲みながら、クラサワという女が来る前に髪を乾かしておこうと思った。
電話を切ってからほぼ三十分後に玄関のチャイムが鳴った。現れたのはキャメルのコートを羽織った三十歳前に見える女だった。震災を取材しているにしては華美な格好だと思ったが、それ以上に、彼女の顔を見て木村はどきりとした。こんな美人が来るとは想像していなかったからだ。肌は白く、少女のように肌理《きめ》が細かい。しかし、やや吊り上がり気味の大きな目が妖艶《ようえん》な光を放っており、彼女が大人の女であることを主張していた。
木村はこの部屋に呼んだことを後悔した。どこか別の場所で会えばよかった。こんな女性とは、めったに知り合えるものではない。
「クラサワです。木村さんでしょうか」形のいい唇に笑みを滲《にじ》ませて彼女はいった。それだけで木村はどぎまぎした。
「ええ、そうです」自分の服装のことも後悔していた。彼は古びたトレーニングウェアを着ていた。髪も適当に乾かしただけで、セットらしきことはしていない。
「このたびは急なお願いをお聞きくださり、本当にありがとうございました」
彼女は名刺を出した。倉沢|克子《かつこ》と印刷されている。住所も電話番号も職場のものだけで、彼女個人の連絡先を示すものは記されていない。
「いえ、お役に立てるんなら、僕は……満足です」うまく言葉が出てこなかった。
「それでビデオテープは?」
「あ、はいはい」玄関の靴箱に置いてあった封筒を彼女に渡した。「これです」
「8ミリビデオですね」彼女は中を覗き込んだ。「ダビングはされましたか」
「いえ、してませんけど」
「そうですか。では、慎重に取り扱うようにいたします。どうもありがとうございました。これで素晴らしい番組になると思います。放送が決まりましたら、すぐに連絡させていただきますので」
彼女は丁寧に頭を下げた。花のような香りが木村の鼻先にまで漂ってきた。
「あのう」彼は唇を舐めた。「テープはいつ返してもらえるんですか」
「放送が済み次第お返しいたします。郵送でよろしいでしょうか」
「いえ、あの、できましたら直接お会いして……」
「では誰かに届けさせます。詳しいことは後ほど御連絡いたします」
それでは、と立ち去ろうとする彼女に、「あの、ちょっと」と彼は声をかけた。背後をちらりと見て、奈美恵が聞いていないことをたしかめた。
「あなたにお貸ししたんだから、返す時もあなたに持ってきてもらいたいんですけど」思い切ってそういった。心臓の鼓動が速くなった。
倉沢克子は一瞬不意をつかれたような顔をしたが、すぐに微笑んで頷いた。
「わかりました。では私から連絡させていただきます」
「お待ちしています」
彼女を乗せたエレベータの扉が閉まるまで、木村はドアの外で見送った。
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被災四日目――。
雅也は家に帰っていた。辛うじて壊れなかった工場の一画をテントで囲い、中に石油ストーブを持ち込んで寒さをしのいでいるのだ。理由は、避難所に居続けるのが嫌になったからだ。昨日あたりから、避難してくる人が増えた。度重なる余震で、いつ壊れるか知れない家に住み続けるのが怖くなったからだろう。あの体育館には人が溢れている。家族連れにスペースを占拠されるため、雅也のような独り身の人間は徐々に身の置き場がなくなってきた。夜は騒がしくて眠れないし、周りにいる人間の泣き言や愚痴《ぐち》を聞いているのにも辟易《へきえき》してきた。食べ物や水を入手する要領はわかってきたから、その時以外は無駄に動き回らないようにしている。
彼はそろそろここを脱出することを考え始めていた。どうせここには住めない。ならば別の土地で次の道を模索するしかない。
といっても、そのあてはまるでなかった。就職するつもりだった西宮の工場にも連絡がつかない。連絡できたとしても、色好い返事をもらえるとは思えなかった。見通しの立たぬまま動き回って、残り少ない所持金を食い潰すようなことは避けたい。それに父の保険金を確実に受け取るには、むやみにここを離れないほうがいいように思えた。
ストーブの火を調節し、傍らに置いた袋から握り飯と缶入りの茶を取り出した。今朝、避難所で配られたものだ。握り飯には少々飽きたが、贅沢はいえない。
一口齧り、あの時のことを思い出した。冷蔵庫の食べ物が盗まれたと知って落胆していたら、新海美冬がラップに包まれた握り飯を差し出してくれたのだ。雅也が体育館を出た後で配られたものだと彼女はいった。
あの後、美冬と少し話をした。彼女は元々は関西の生まれらしい。就職して上京し、その会社を辞めてこっちに戻ってきたら、今度の地震に遭ったということだった。
「何の会社?」雅也は訊いた。
「洋服とかアクセサリーを扱う会社。海外の商品を並行輸入して、ふつうよりも安い値段で売るの」
「ふうん、なんか、おしゃれな仕事やな。外国とかにも行くんやろ」
「行くよ。年に何度か」
「ええなあ。俺なんかハワイも行ったことない」
「遊びに行くわけやないもん、楽しいことなんかないよ。スケジュールはハードやし、向こうの人間との交渉には神経を遣うし、仕事が済んだらホテルで寝てるばっかりで、観光地なんか行ったことないんよ」
「ふうん、それでもやっぱり羨《うらや》ましいな」
美冬と言葉を交わしながら、雅也は心の底から安堵《あんど》していた。どうやら彼女は彼が俊郎を殺した場面を目撃していなかったようだ。もし見ていたのなら、こんなふうに打ち解けて話せるわけがない。いや、そもそも握り飯を持ってきてはくれなかっただろう。彼女によれば、彼が体育館でパンをほかの子供にあげているのを見て、きっと今頃は腹をすかせているに違いないと思ったらしい。
「なんで会社を辞めたんや?」
「いろいろあってね。女も三十近くになったら難しいんよ」美冬は目を細めて笑った。その表情には雅也の心を惹きつける何かがあった。
「そんな歳でもないやろ」
「もうあと二年しかない」彼女は指を二本立てた。
「二十八か。俺と同い年やないか。もっと若いと思てたけど」
「ふうん、水原さんも二十八か」彼女はなぜか満足そうに頷いた。「たぶんそのぐらいやろなあと思た」
その後もいろいろな話をした。美冬は誰かと話すことに飢えていたのかもしれない。無論雅也もそうだったが、仮にこんな状況でなくても、彼女と一緒にいられれば楽しいに違いないと思った。化粧をしていないし、身なりは被災者そのものだったが、美しい顔立ちは少しも色褪せていなかった。そうした飾りがない分、余計に真の輝きが強調されているようでさえあった。
美冬は暴行されかけた時のことを話題にしなかった。忘れたいことなのだろうと思い、雅也も触れなかった。
雅也がこの場所を離れられない理由の一つに、美冬のことがあった。彼女はこれからどうするつもりなのだろう。東京に戻るのだろうか。それとも何かあてがあるのか。
その彼女の姿が昨夜は避難所になかった。もしかしたらすでに脱出したのかと思って焦ったが、彼女の両親の遺体は体育館に安置されたままだった。あれがあるかぎり彼女は戻ってくるに違いない。とりあえずほっとした。
午後になって間もなくのことだった。彼が壁代わりのテントの補強をしていると、後ろから声をかけられた。「雅也さん」男の太い声だった。
振り向くと頭をオールバックにした四十前後の男が立っていた。黒の革ジャンを着て、サングラスをかけている。ポケットに手を突っ込み、足元に気をつけながら雅也に近づいてきた。途中でサングラスを外したが、その顔に見覚えはなかった。
「ものすごいことになっとるな。えらい災難やったなあ」世間話の口調で男はいった。
「失礼ですけど……」雅也は身構えていた。
「よう考えたら初対面やったかな。こっちは写真で見てるんやけど」男は口元だけで笑って名刺を出した。コタニ・カンパニー代表取締役小谷信二と印刷されていた。
「小谷さん……ええと、どちらの……」
「佐貴子の亭主や」
「ああ、サキちゃんの……」
小谷という名字には覚えがなかったが、佐貴子が正式には入籍していないということを俊郎から聞いていたのを雅也は思い出した。
「話は佐貴子から聞いた。あいつの親父のことで、雅也さんにえらい迷惑をかけたみたいやな」
「迷惑やなんてそんな。俺は別に何もしてませんから」
「いやあ、あんたの親父さんの葬式も済んでへんのに、ほんまに大変やったと思うわ」
「いいえ」頭を掻きながら、この男がここへ来た理由は何だろうと雅也は考えた。単に礼をいいに来ただけとは思えなかった。水に落としたインクのように、不吉な予感が胸の中で広がった。
「しかし寒いなあ。底冷えするがな。そこ、入らせてもろてもええかな」小谷は背中を丸めた後、テントを指差した。
どうぞ、と雅也は答えた。
逆さに置いたバケツを椅子代わりにして、小谷はストーブのそばに座った。両手を火にかざし、「生き返ったわ」と笑った。めらめらと揺れる光に下から照らされると、小谷の顔は一層酷薄に見えた。
「サキちゃんは体育館のほうですか」
「いや、あいつは後から来る」
「後から?」
「ちょっと寄るところがあって、その用を済ませてから来よる。駅に着いたら電話をしてくるはずや」小谷は革ジャンのポケットから携帯電話を出した。
「車で迎えに行くんですか」
「いや、バイクや」
「バイク?」
「奈良からバイクで飛ばしてきた。佐貴子の話では、えげつない渋滞で、車ではいつ着くかわからんということやったからな」
「けど、バイクではおっちゃんの遺体を運ばれへんやないですか」
「うん、それはまあしょうがない」
「しょうがないて……遺体を引き取りに来はったんやないんですか」
「せやからいうてるやろ」小谷は下から睨《ね》めあげてきた。「道が混んでて車では来られへんのや」
雅也は口を閉じたまま、小谷の革ジャンのファスナーのあたりに目を向けた。だったら何のために来たのだ。しかも体育館ではなく、なぜここへ来たのか。
「地震もえらいことやったけど、その前も大変やったようやな。親父さん、まだそれほどの歳でもなかったんやろ」
「はあ……」不安を抱きながら雅也は頷いた。狙いがわからない。
「佐貴子から聞いたけど、おたくの工場、結構厳しかったみたいやな」
「ええまあ。何しろこれだけ不景気やから」
「不景気いうても、どこの社長も首吊ってるわけやないがな」小谷は肩を揺すって笑った。この状況で、被災者に向かって平気でこんなことのいえる神経を、雅也は疑った。わざといっているとしか思えなかった。明らかに雅也を怒らせようと刺激しているのだ。
「じつは佐貴子があいつの親父さんのことでいろいろと調べたらしい。そうしたら、気になるメモというか、書き込みみたいなもんが見つかってなあ。それによると、あいつの親父さんはおたくに金を貸してたらしいんや。四百万とかいう話やった。その話、何か聞いてないか」
やっぱりそれかと雅也は思った。昨日来た佐貴子は、しきりに俊郎の持ち物について尋ねてきた。たぶん借用証のことをいっていたのだろう。雅也はとぼけたが、彼女は明らかに不審そうだった。雅也を疑っている気配さえあった。
佐貴子は昨日、事情を亭主に話したのだ。それで小谷が来た。この男は雅也から金を回収する自信があるのだ。その根拠は何だろう。借用証はもはや存在しない。大地震の夜、避難所の焚き火の材料となった。
「俺は聞いたことないです」雅也は首を振った。「金の工面のことは親父が全部やってましたから。ただ債権者との話し合いの時には、おっちゃんの姿はありませんでしたけど」
「そら、義理とはいえ兄弟の間柄で、ほかの債権者とするような話はせえへんやろ。二人だけでゆっくり、ということになったんと違うかな。ところがおたくの親父さんが死んでしもた。となると佐貴子の親父はどうするかな。あんたと話すんやないやろか」
「何も聞いてません」
「ほんまか?」睨みつけてくる。声に不気味な凄みが加わっていた。
雅也は無表情を心がけ、黙って顎を引いた。下手なことはいわないほうがよかった。
「ふうん。そういうことやったら、それはそれで仕方ないけどな」小谷はそういい、ストーブの上で両手をこすり始めた。乾いた皮膚の擦れ合う音がした。
「そういうことをいうために、わざわざここまで来はったんですか」
「そんな言い方はないやろ。女房の父親が死んだんやで。来るのは当然と違うか」目は雅也を捉えたまま、口元だけを緩めた。だがそれは小谷の悪意が増幅した印のように雅也には感じられた。
小谷が革ジャンの内側に手を入れた。出してきたのは一枚の写真だった。
「昨日、佐貴子が持って帰ってきよった。こんな写真を見つけたとかいうてな。ちょっと変な写真なんや」
雅也が手を伸ばすと小谷は写真を引っ込めた。
「わしが持っとくさかい、顔だけ近づけて見てくれ。何しろ貴重な証拠になるかもしれん写真や。焼き増しはでけへん代物やからな」
それは写真ではなく、プリンターで印刷されたもののようだ。ビデオテープの一コマらしいことは雅也にもわかった。いわれたように顔を近づけた。
写っているのはこの工場だ。地震に遭い、壊れた直後らしい。誰がこんなものを撮影していたのか。あの時は全く気づかなかった。
「どうや?」小谷が片方の眉を上げた。口元も曲がっている。
「この工場が写ってますね」
「そうやろ。工場だけやない、裏の家も写ってる。おまけにほらここ。ここで挟まれたみたいになってるのは佐貴子の親父と違うか」
小谷が指したところには、たしかにそうとしか見えない人影が写っていた。位置といい着ているものといい、俊郎に間違いなさそうだった。
「変やと思えへんか」小谷がにやりと笑った。「二階が潰れて屋根も落ちてる。瓦もぐちゃぐちゃや。聞いた話では、その瓦が額に当たって殆ど即死。そういうことやったな。ところがこの写真に写ってる人間は、這い出そうとして両手を動かしてるみたいに見えるで。おまけに額に傷らしいものもないんや」
雅也は表情を変えずにいた。どのような演技をすればいいのかわからなかったからだ。手足が冷えていく感覚がある。そのくせ腋《わき》の下を汗が流れていく。冷たい汗だ。
「わし、思うんやけど」写真を雅也のほうに突きつけたまま小谷は続けた。「佐貴子の親父は生きてたんと違うか。少なくともこの時までは、な」
雅也の全身に鳥肌が立った。思わず自分の腕を擦りそうになったが、寸前で我慢した。
彼が見た時、俊郎はぴくりとも動いていなかった。だから下敷きになった拍子に気絶したのだろうと今まで思ってきた。そうではなかったのだ。俊郎は一旦は自力で這い出ようとしたのだ。力尽きてぐったりとしたところに雅也が来たというわけだ。
「即死やと聞いてますけど。警察はそういうてました」
「まあ即死なんやろなあ。そういうことで警察は間違えへんからな。しかしや、この写真の時点では親父は生きてた。それはたしかやろ」
雅也はもう一度写真を凝視するふりをし、首を傾げた。
「この写真だけでは何ともいわれへんでしょ」
「なんでや」小谷は意外そうに目を剥いた。「どう見ても生きてるやろ。壊れた家の間から這い出ようとしてるやないか」
「そう見えんこともないですけど、地震で何もかもが揺れたり壊れたりしてたから、何かの弾みでこんなふうに写ったのかもしれません」
「弾みで死体がこんなふうに踊ったりするか? 第一、でこに傷がないやないか。死体の頭は割れとったんと違うんかいな」小谷は自分の額を指差した。
「傷がないといいはりますけど、こんな写真では断言でけへんでしょ。おっちゃんの顔なんか、小さすぎてぼけてるやないですか」
「額が割れとるんやろ。ふつうやったら顔中血みどろのはずや。ピンぼけでもわからんとおかしい」
「そんなこと、俺にいわれても……」雅也は口ごもった。
「佐貴子の親父は生きてた。これは生きてるところを撮ったもんや」小谷は写真を革ジャンの内側に戻した。
「そうなるとおかしいわなあ。何で瓦が額に当たったんや。もう家は崩れた後やないか。どこから瓦が飛んでくるんや」
「そんなこと知りません。俺が見た時には、おっちゃんは死んでたんです。余震が続いてたから、そばの建物の破片か何かが落ちてきたんと違いますか」
「台風やあるまいし、なんで別の建物の破片が飛んでくるんや。そんなことありえへんやろ」
「そしたら――」雅也は息を吸い込み、小谷の顔を見ながらゆっくりと吐いた。「そしたら、どうやというんですか。小谷さんは何をいいたいんですか」
小谷はまた口元を緩めた。ほくそ笑んだように見えた。革ジャンの外のポケットから煙草とジッポライターを取り出した。自分が一本くわえてから、雅也のほうにも箱を差し出した。雅也は首を振った。
小谷はジッポライターで火をつけ、もったいをつけるようにのんびりと煙を吐いた。雅也を不安にさせる効果を狙っているのだろう。
一本を灰にし、さて本題に入ろうかとばかりに小谷が口を動かしかけた時だった。
「すみません」どこからか女の声がした。
間を外されたように小谷は嫌な顔をした。雅也はテントを出た。
工場の入り口に小柄な中年女性が立っていた。ダッフルコートに体操用ジャージという格好だった。何ですか、と雅也は訊いた。
「あのう、何か暖房用の器具は余ってませんか」遠慮がちに訊いてきた。
「暖房用の器具て……ストーブとか?」
「いえ、あの、ストーブはあるんですけど、灯油がないし、電気もまだ来てないんです。それで、そういうものを使わずに暖かくなる機械がないかなあと思て……」中年女性はいいながら俯いた。そんな魔法のような機械があるわけないと思いながらも、探さずにはいられないのだ。小さな子供たちが震えながら彼女を待っているのかもしれない。
「そういうのは聞いたことないです。ここにはありません」
「そうですか」彼女はさらに項垂《うなだ》れた。
その時、道の向こうから新海美冬が歩いてくるのが見えた。彼女も雅也に気づいたようだ。かすかに微笑んでいる。両手には紙袋を提げていた。
中年女性は頭を一つ下げ、出ていこうとした。不意に雅也はあることを閃いた。
「ちょっと待ってください。石油ストーブはあるんですね」
「はい。けど、灯油がないんです」
昨日あたりからガソリンや灯油が不足しつつある。皆が一斉に買うせいだけではない。行政機関や自衛隊の分を確保するため、販売量が制限されているのだ。
「灯油、ありますよ」
彼の言葉に中年女性は細い目を開いた。「えっ、あるんですか」
「ええ、わりとたくさんあります。よかったら、お譲りしますけど」
「ああ……助かります。そしたら、入れ物を取ってきます」彼女は急ぎ足で立ち去った。
美冬が近くまで来ていた。やりとりを聞いていたらしく、「灯油、そんなにあるの?」と不思議そうに訊いてきた。
「うん。俺もすっかり忘れてた。そのドラム缶の中、灯油や」壊れた壁のそばに立っている四百リットル入りのドラム缶を指した。
「なんでこんなにあるの」
「この機械に使うんや。というても燃料と違うで」彼は父が自慢にしていた放電加工機のそばに立った。「これは油の中で金属を加工するんやけど、その油が灯油なんや」
「へえ……」理解できたのかどうかは不明だが、美冬は感心したように頷いた。
「ただし、変なものがちょっと混ざってるけどな。親父のアホがウイスキーを混ぜよった。まあ、ええ匂いがする程度で影響はないと思うけど」
美冬は笑って聞いていたが、急に眉をひそめた。
「誰、あの人?」
彼女の視線の先にはテントがあった。小谷が顔を引っ込めた。
「昨日来てた従姉《いとこ》の旦那や」
「遺体を引き取りに来はったんやね」
「いや、車が混んでて無理らしい。今日のところは挨拶だけや」
「ふうん」腑に落ちぬといった顔を美冬はした。
「それより昨日はどこに行っとったんや」
「うん、ちょっと大阪まで買い出しに」彼女は両手に提げた紙袋を小さく振った。それからまたテントを見た。「あの人、またこっちを見てるわ」
「あとで体育館に行く。その時にゆっくり話そう」
「わかった」
美冬を見送った後、雅也はテントに戻った。小谷は相変わらず煙草を吸っていた。足元に吸い殻がいくつも落ちている。
「誰や、あの女」
「近所の人です」
「ふうん。まあ、ええけど」小谷は吸っていた煙草を落とし、靴で踏み消した。「この工場、建て直す気はないんやろ」
「そんな金、どこにあるんですか。それに、もううちのものやないし」
「残る借金は親父さんの生命保険で完済か。けど気になるのは佐貴子の親父の話や。佐貴子によると、親父さんが持ってたはずの借用証も消えてるというやないか」
「そんなもの、俺、見たこともないから何ともいえません」
「見たこともない、か」小谷は雅也の爪先から頭までを舐めるように見た。「もし佐貴子の親父のいうてたことが本当やったら、あんたにとってこの地震は幸運やったということになるな。貸した人間は死んでるし、借用証も行方不明や。実質的に借金は消えたも同然やねんからな」
「どういう意味です」
「事実をいうとるんや。おまけにこういうおかしな写真がある」小谷は革ジャンの上から胸元を叩いた。「となると、当然こっちはいろいろと想像してしまうわな。あんまり想像したくはないことやけど、怪しいものは怪しい。臭いもんは臭い」
「俺がサキちゃんの親父さんに何かしたというんですか」
「さあ、それはどうかな」
「そんな写真一枚で、ええ加減なことをいわんといてください」
「そうやな。この写真一枚では弱いかもしれんな。けど、写真は一枚だけやないで。ほう、顔色が変わったな。さすがにびびったか」
「ほかに写真があるんやったら見せてください」雅也は手を出した。
「写真やない。ビデオや。さっきの写真の元になってるビデオテープがある。佐貴子がそのテープの持ち主に会いに行ってる。そのビデオを見たら、佐貴子の親父が死んでたのか生きてたのかわかるはずや」
雅也はぎくりとした。たしかにビデオなら、俊郎の様子がもっと詳しくわかるだろう。
「どないした。急に黙り込んだな」
「別に」雅也は首を振った。「煙草、もろてもいいですか」
「おう、吸ってくれ」小谷はマルボロの箱とライターを重ねて寄越した。
煙草を吸いながら、雅也は頭の中であらゆる可能性を考えていた。何があっても言い逃れなければならない。だがもしビデオに、俊郎の頭を殴るシーンが映っていたら――。
「なあ、雅也さん。ほんまのところはどうやねん」小谷の口調が急に柔らかいものになった。「佐貴子の親父から借金のことを聞いてたんと違うんか。そこのところを正直に話してくれたら、俺も佐貴子も、こんなしつこい真似はやらんで済むんや。あんたも変な疑いをかけられとうないやろ。そのへんのところを、もうちょっと考えてくれる気はないか」
取引を持ちかけているのだ。いや、脅迫というべきか。いずれにせよ小谷の狙いは金だ。
「そういわれても、俺は別に嘘なんかついてへんし」
「そんなこというてもかめへんのか。後悔することになるで」小谷はねっとりといった。
その時、革ジャンの内側で携帯電話が鳴った。佐貴子やな、といって小谷はそれを取り出した。
「おう、わしや。行ってきたか。……うん? テレビ局に? ……なんやそれ。番組に使うっちゅうんかい。……ああ、わかった。そういうことやったらしょうがない。……うん、そうしたら今日のところは帰ろか。……こっちの話は大体済んだ。……わかった。これから行ったる」小谷は携帯電話を革ジャンのポケットに戻した。
「えらいことになったで。例のビデオテープ、持ち主がテレビ局に貸したらしい。変なものが映っとったら大騒ぎになるかもしれん」
「変なものなんか映ってるはずがない」
「さあ、それはどうやろな。どっちにしても、わしらが見たらわかることや。テープがテレビ局から戻ってきたら、すぐに貸してもらえる手筈になってる。それまで、よう考えといてくれ」小谷は立ち上がった。「佐貴子の親父の遺体はまだ焼かんほうがええかもしれんな。場合によっては、警察が調べるていいだすかもしれんからな」低く笑い、テントを出ていった。
バイクの音が遠のいてから雅也は外に出た。
どうしたらいいだろう、どうすればこの局面を逃れられるだろう――。
思わず両手で頭を抱えそうになった時、「水原さん」と後ろから声をかけられた。どきりとして振り返ると美冬が立っていた。さっきと同じように荷物を提げている。
「避難所に行ってなかったのか」
「渡したいものがあるから」美冬は雅也のそばに来ると、片方の紙袋を差し出した。
「何や、これ」
彼が開けようとするのを彼女は手で制した。「後で開けて」
「ふうん……わかった。ありがとう」
「ねえ」美冬が彼の目を見つめてきた。「もうこんなところ、出ていかへん?」
「え……」
「出ていこう。一緒に」
雅也は息を止め、彼女の目を見つめ返した。心臓の鼓動が大きくなっていた。
その時だった。「すみません」と女の声がした。見ると、先程の中年女性が赤いポリ容器を持って立っていた。すぐ後ろにも同じような年格好の女性がいて、彼女もポリ容器を提げている。最初の女性が知り合いにも声をかけたらしい。
「灯油、いただけます?」
「ああ、どうぞ」雅也はドラム缶のほうに案内しようとした。
「一リットル、二百五十円です」美冬がいった。雅也は驚いて彼女を見た。
「えっ、二百五十円……」中年女性が自分のポリ容器を見る。
「それは二十リットル用ですから五千円になります」
事務的な口調でいう美冬の顔を雅也は凝視した。彼女はちらりと彼に目を向けた。黙って自分に任せてほしいとその目は語っていた。
二人の女性から金を受け取った美冬は、それを雅也のところに持ってきた。金なんかよかったのに、と彼はいおうとした。だがそれを見越したように彼女は囁《ささや》いた。
「甘いことをいうてたら、生きていかれへんよ」
雅也は目を見開いた。美冬はくるりと踵を返し、工場を出ていった。
中年女性たちに灯油を売った後、彼はテントの中に入り、美冬からもらった紙袋の中を見た。箱が一つ入っている。その蓋を開けて、はっとした。中身は液晶画面のついた家庭用ビデオカメラだった。さらにメモが一枚添えられている。『再生してみてください』と書いてあった。
バッテリーは充電されているようだ。雅也はカメラのモードをビデオデッキに切り替え、再生ボタンを押した。
液晶画面に現れたシーンを見て雅也は声を上げそうになった。傾いている建物は、この工場に相違なかった。さらに裏の母屋まで撮影されている。
そして――。
下敷きになってもがいている俊郎の姿がそこにはあった。泳ぐように両手を動かしている。
画面はゆっくりと横に移動した。緑色の防寒着を着た長身の男が、その画面を横切っていった。
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木村は迷っていた。彼の手には一枚の名刺が握られている。ジャパンテレビの倉沢克子からもらったものだ。あれから二日が経つが、まだ何の連絡もない。
「何をそわそわしてるの」化粧をしている奈美恵が、うんざりした顔を鏡に映した。彼女はこれから出勤だ。キタ新地のバーで働いている。
「なあ、ニュースにするとしたら、もうそろそろ何かいうてきてもええんと違うか。あれっきり連絡なしとはおかしいやないか。借りに来た時にはあんなに急いでた様子やったのに。ボツになったのかなあ」
「そんなに気になるのやったら電話して訊いてみたら? 名刺もろたんやろ」
「そうやなあ」
電話をかけることは木村も考えていた。じつのところ、連絡を待っているのは、放送予定を知りたいからではなく倉沢克子に会いたいからだった。
もちろんあのテープがどうなったかも確認しておきたい。ほかにもあのテープを見せてほしいという人間が現れたからだ。
昨日のことだ。米倉佐貴子という変な女が訪ねてきた。目つきの鋭い、奈美恵とはまた違った水商売の気配を漂わせる女だった。その女も例の被災地で写真を見たらしい。
震災で亡くなった父親が映っているかもしれないので、と女はいった。いかにも失意のどん底にいるという表情をしていたが、どこか芝居臭かった。
テレビ局に貸したというと、米倉佐貴子は落胆を見せた。テープが戻ってきたら、ぜひ知らせてほしいといって名刺を寄越した。奈良にある、何をしているのかよくわからない会社の名が印刷してあって、小谷信二という名前に並べて米倉佐貴子とボールペンで書き添えてあった。
「それまでは、ほかの人には絶対に貸さないでください。うちに最初に連絡をください。十分なお礼はさせていただきますから」女はぺこぺこ頭を下げた。
十分なお礼とはいかほどのものなのか、それを知りたかったが、木村は訊かずに承諾した。もしかしたらあのテープには思ったよりも価値があるのかもしれない。謝礼についてはじっくりと交渉してみるつもりだった。
それよりも今は倉沢克子だ。
「ちょっと電話借りるぞ」コードレスホンの子機を手にし、木村は立ち上がった。倉沢克子とのやりとりを奈美恵に聞かれたくなかった。
洗面所に行き、名刺に印刷された番号を押した。呼び出し音が鳴っている間、少し緊張した。
電話に出たのは男だった。ジャパンテレビ報道局です、といった。
「もしもし、木村というものですけど、倉沢さんはいらっしゃいますか」
「倉沢、ですか。今ちょっと出ているようなんですが、どちらの木村さんですか」
「二日前にテープをお貸しした者です。震災直後に撮影したビデオテープですけど」
こういえばすぐにわかってもらえると思ったが、相手の反応は鈍かった。
「テープ? ははあ、倉沢に訊いてみないとわからないかもしれませんねえ。木村さんでしたっけ、ではそういった内容のお電話をいただいたと倉沢には伝えておきます。それでよろしいですか」相手は明らかに面倒臭そうだった。木村としては、倉沢克子に電話をさせますという一言が欲しかったが、いいだせなかった。それでいいですと答えて電話を切ってしまった。
今の男がどの程度の立場にいる者かは不明だが、少なくともあのテープが局内でさほど話題になっていないらしいことは明らかだった。ボツになったのかもしれない。それならそれでいいと木村は思っていた。仮にそうだとしても、テープは返してもらわなければならない。そしてテープは倉沢克子自身が返しに来てくれる約束になっているのだ。
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「おい、どないなっとるんや、テープのほうは」佐貴子が店に行くと、カウンターの中にいた信二がいきなり訊いてきた。客は一人もいない。
「まだ返してもろてないそうやわ」
「いつ返ってくるんや」
「それがようわかれへんらしいんよ。あっちのほうでも連絡待ちらしいんやけど」
あっちとはビデオテープの持ち主である木村のことだ。ここへ来る前にも佐貴子は電話をかけてみた。あまりにもたびたび催促するからだろう、木村は明らかに煩わしそうに答えた。
「あれから何日経っとるんや。テレビ局に問い合わせたほうがええんと違うか」
「問い合わせたけど、担当者が捕まれへんねんて」
信二は舌打ちし、カウンターの上に置かれた小さなカレンダーに目をやった。
「あの写真だけでは、雅也の奴は金を出さんやろな」
「けど、写真を見てびびってたんやろ。そないいうてたやん」
「びびりよったのは、ビデオの話を聞いてからや。せやから、絶対にテープには何か映ってるはずなんや。それさえあったら、こっちのもんや」
「テープは手に入れたって、嘘ついたらどうやろ」佐貴子は思いつきを口にした。
「嘘ついて、どないするんや。何が映ってたかて訊いてきよるぞ」
「そこを適当にいうんよ。お父ちゃんが生きてた証拠が映ってるとか何とか」
「そんなはったりが通用するかい。あいつは結構根性がすわっとるぞ」信二はマルボロに火をつけ、一口二口吸ってから、すぐに灰皿の中で揉み消した。
そうかもしれないなと佐貴子は思った。避難所で会った時、雅也はごく自然に彼女に接してきた。父親を亡くした従姉に対する態度としては、ほぼ完璧だった。ふつうの人間ならば、自分が殺した男の娘に、あんな優しい顔は見せられない。
いつだったか俊郎もいっていた。水原の工場も、経営を息子に任せておけば、あれほど悲惨なことにはならなかっただろうと。
カウンターの電話が鳴った。信二が受話器を取る。不機嫌だった顔が、途端に愛想笑いに変わった。
「えらいお世話になってます。……ええ、それはもうようわかってます。今月中でしたな。……はい……はい。……いや、こちらも何とかしたいと思ってます。……ええ、絶対に何とか。……はあ」
借金返済の督促だなと佐貴子は察した。このところ店の電話が鳴るといったらこれだ。信二の言い訳の口調も滑らかになってきたように感じる。
乱暴に受話器を置いた後、彼はまた仏頂面に戻り、棚からヘネシーのボトルを取った。ブランデーグラスに二センチほど注ぎ、がぶりと飲んだ。
「木村とかいうたな。もういっぺん電話してみい」
「さっき電話したばっかりや。それよりあれのことはどうする?」
「あれ? 何のことや」
「お父ちゃんの遺体。ええ加減、あのままにはしとかれへんねんけど」
案の定、信二の顔が歪んだ。どんな罵言雑言《ばりそうごん》が吐かれるだろうかと思い、佐貴子は萎縮した。
信二は床に唾を吐いた。「知るか」そしてブランデーの残りを飲み干した。
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倉沢克子は疲れ切った身体を安っぽい長椅子に投げ出した。ここ何日間か、ベッドの上で寝ていない。指示されるまま被災地を回り、避難所を取材し続けている。風呂にもしばらく入っていない。食べ物はバイクで届けられる弁当ばかりだ。
「考えようによっては」ペアを組んでいるカメラマンの塩野がいった。「戦地の取材のほうがましかもしれないな。民間人がこれほど広範囲で、しかも同時に被害に遭うなんてことはないから、取材対象を絞りやすい。それに移動も楽だ。キャンプも張りやすい」
克子は答えない。塩野の愚痴は毎度のことだ。それに答える気力がない。体力的にも限界が近いが、それ以上に精神的に参っていると自分でも思う。この数日間に一体何百人の悲劇を見てきただろう。遺体を人間ではなくモノとしてしか見られなくなっていることに気づいていた。このままここにいたら精神がおかしくなると危機感さえ抱き始めている。
携帯電話が鳴った。克子は塩野と顔を見合わせた。どうせデスクからだ。今度はどこへ行けというのだろう。どんな悲惨な絵を撮れと命ずる気だろう。
電話の指示は、大臣が被災地を回るそうだから、その模様を取材してくれというものだった。くだらない仕事だ、と克子は思った。お飾りの大臣が防災服を着て歩くだけのパフォーマンスを撮れというのか。
「それから今日も木村って人から電話があったぜ。あれ、何なんだろうな」
「さあねえ。そっちに戻ってから、調べてみます」
電話を切った後、次なる仕事を塩野に伝えた。彼は苦笑するだけだった。
木村という人物から電話が入っていることは昨日から聞いている。だが心当たりがなかった。テープを貸したといっているそうだが、克子にそんな覚えはない。
彼女の名前と職場を知っているのだから、名刺か何かを見たのかもしれない。名刺はここへ来てからも何人かに渡している。誰にでもというわけではないが、要求されると断りにくい。いつだったか、ある避難所で撮影している時にも、若い女性から求められた。自分はボランティアの者だが、被災者を勝手に撮らないでくれというのだった。奇麗な女性だったということは覚えている。名刺を手にすると、納得したように去っていった。
いずれにせよ克子には、木村なる人物に電話をかけるつもりはなかった。それほど暇ではなかった。
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瓦礫の山の中から必要なものを拾い上げても、ボストンバッグ一つで十分に収まった。金目のものは殆どない。大事なのは生命保険の証書と通帳、実印ぐらいだ。通帳にしても、入っている金額はたかが知れている。あとは着替えを少々。
ここ数日間着続けてきた防寒服はついに脱ぎ捨てた。安物だが黒のダッフルコートが見つかったので、それをセーターの上から羽織ると、多少は文化的な生活に戻れたような気がした。
家を捨てるに当たって最大の難問は、その中に埋まっていた父幸夫の遺体だった。棺桶は跡形もなく壊れ、遺体はぼろぼろになっていたが、ボランティアや役所の力を借りて、何とか避難所まで運ぶことができた。
棺桶が黒のビニール袋に代わってしまったのは仕方がない。葬儀屋から連絡が来ないが、雅也はほうっておくことにした。どうせ葬儀代は後払いだ。この局面で、まさか通夜の分だけを請求には来ないだろうと踏んでいた。各地の火葬場が使用不能で、葬儀屋だって混乱しているはずなのだ。
雅也が体育館の出入り口で待っていると、前から美冬が歩いてきた。ジーンズにダウンベストといういつもの格好だ。だが少し化粧をしている点がこれまでと違っていた。化粧をすると美しさが際立った。もし髪型もきちんとし、それなりのおしゃれをして街を歩けば、たぶん誰もが注目するだろうと彼は思った。
「お待たせ」
「車は?」
「門の前に止めてある。遺体は?」
「こっちもオーケー。いつでも運べる」
台車を使い、美冬の両親の遺体と、幸夫の遺体を運ぶことにした。ここでもボランティアたちが協力してくれた。
外に止めてあったのは白いワンボックスのバンだった。建材屋の屋号が横に入っている。車は自分が調達するといったのは美冬だが、どこから持ってくるのかはいわなかった。建材屋に知り合いでもいるのかと雅也は訊いた。
「建材屋? なんで?」
「ここにそう書いてあるやないか」バンの側面を指していった。
「ああ、ほんまやね。ふうん、建材屋の車なんや」美冬は、今初めてそのことに気づいたようだった。
「どこから借りてきたんや」雅也は訊いた。
「それは内緒」彼女は人差し指を唇に当てた。
「何か気になるな」
「ねえ、雅也。世の中にはモノが溢れてるんよ。車もそうや。溢れてこぼれそうになってるものを、ちょっとお金を出して借りてきただけ。そんなもののことを気にしてもしょうがないやろ。さあ、遺体を載せよ」
遺体を載せると、二人は車に乗り込んだ。すでに美冬の荷物も積み込んであった。バッグが三つ。いずれもブランド品だった。
「さあ、出発や」助手席で美冬がいった。ひどく楽しそうに見えた。
雅也は複雑な思いのままエンジンをかけた。行き先は和歌山だ。そこの火葬場で処理してもらえるよう話をつけてきたと彼女がいうのだ。
例のビデオテープについて、雅也はまだ何も訊いていない。訊くのが怖いからだ。彼女はすべてを知っている。知っていて、彼を助けてくれた。それはなぜなのか。暴行されそうになったのを助けたからか。それもあるかもしれない。だがそれだけとは思えなかった。いやそもそも、なぜ彼女は佐貴子たちよりも先にテープを入手できたのか。
走りだして間もなく渋滞に遭った。予想していたことだった。
「和歌山で火葬を終えた後はどうする」雅也は気になっていたことを口にした。
「雅也はどうしたい?」
「いや、俺は特に考えてない」
「そう。それやったら、東京や。東京に行く」
「東京?」
「うん。決まってるやろ」
どう決まっているのかわからなかったが、雅也はそれ以上質問するのはやめた。とにかく今は彼女の指示にしたがうしかなかった。
ラジオのスイッチを入れた。天気予報の後、ニュースが始まった。地震による被害状況を伝えている。死者の数は五千人を超えている。身元不明の死体もあるようだ。
美冬の手がラジオに伸びた。スイッチを切る。
「あたしらにはもう関係のないことや」そういって微笑んだ。
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第二章
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高円寺駅を出て少し歩いてから、畑山《はたけやま》彰子《あきこ》はその気配を察知した。
まただ――。
身体に震えが走った。あたりに人影はない。街灯の少ない通りで、すぐに駆け込めそうな民家もない。思わず歩く速度を上げる。駆けだしたいところだが、余計に取り返しのつかない事態になりそうで怖かった。
アスファルトを叩く自分の靴音がやけに大きく聞こえた。その音の合間に、もう一つ低い音が重なっているように感じられる。彼女の靴音が速まれば、もう一つの音もリズムを速める。速度を落とせば、同じように『相手』のリズムも遅くなる。
初めて『相手』の存在に気づいたのは、もう二週間も前だ。今日のように曇り空で、月も星も見えない夜だった。最初は自分の靴音が反響しているのだと思っていた。しかし缶ジュースを買おうと自動販売機の前で立ち止まった時、単なる反響にすぎないはずの音が、不自然に遅れて聞こえた。彼女は振り返った。黒い影が、さっと駐車中の車の陰に隠れるのが見えた。
ぞくりとした。誰かにつけられている。
彼女はジュースを買うのをやめ、急いで歩きだした。すると後ろから足音がついてくるような気がした。今度は振り返る勇気が出なかった。恐怖と焦りで心臓が破れそうになりながらマンションに辿《たど》り着いた。共同玄関のガラス扉をくぐってから、ようやく背後を見ることができた。薄暗い通りに人影はなかった。
だが部屋に戻って間もなく、電話が鳴りだした。受話器の向こうから聞こえてきた声は彼女を凍りつかせた。
「お帰り」
それだけで電話は切れた。男だということがわかっただけで、誰の声かまではわからなかった。低く、くぐもった声だった。
異様な出来事はその後も続いた。ある夜などは彰子が部屋に戻るとドアのノブに紙袋がぶらさげてあって、中には有名和食店の弁当と『お帰りなさい』と書かれたメモが入っていた。もちろん彼女はその弁当には手をつけず、メモと共に捨てた。またある時には郵便で写真の入った封筒が送られてきた。その写真には彰子の通勤姿や、店で客の相手をしているところなどが写っていた。それも捨てた。
三日前には、郵便受けにワープロで文章が書かれた紙が入っていた。はじめ彰子はそれをマンションの管理組合からの通知だと思った。それと思わせる書き出しだったからだ。しかしやがて血の気が引いた。そこには次のように書かれていたのだ。
『……というわけで最近ゴミの分別を徹底していない人が増えています。その点五〇三号室の畑山彰子さんのゴミ分別は素晴らしい。乾電池だって、ちゃんと分けてあります。僕は君のそういうところが好きなんだ。』
どこの誰の仕業なのか、まるで見当がつかなかった。彼女は翌日、最寄りの警察署に出向き、事情を説明した。しかし応対にあたった警官は、お世辞にも親身になってくれたとはいい難かった。
「気味悪いというのはわかるけどねえ、そういうことだけだと、瞥寮としてもどうしようもないんですよねえ」今にも欠伸《あくび》をしそうな顔で警官はいった。
「でも後をつけられたり、勝手に写真を撮って送ってきたりするんですよ。あとそれから、あたしのゴミを調べたりしてるんです。それって、犯罪じゃないんですか」
「犯罪とはいえんでしょう。そんなのが犯罪だったら、私立探偵のやってることはみんな犯罪ってことになる。大体、おたくの被害は何なんですか。犯罪だというなら、何らかの被害届を出してもらわないとねえ」
「精神的に苦しめられています。最近では、通勤途中だって緊張しているんです。働いている時でも、どこからか見られてるんじゃないかって気になって、ちっとも仕事に集中できないんです。こういうのって被害といえませんか」
それでも警官は退屈そうに苦笑した。
「精神的なものは被害といえるかどうか。人によって物事の感じ方はまちまちでしょう」
「でも離婚なんかで、精神的な苦痛を受けたからとかいって慰謝料をもらえたりするじゃないですか」
「それは民事だよ。警察へそんな話を持ってこられても困るなあ」言葉遣いまでぞんざいになっていた。「要は、肉体的苦痛を受けたとか、危険な目に遭ったとか、そういうことがあったら来なさいよ。今のままじゃ、事件とはとてもいえないでしょ」
「身の危険を感じてるんですよ。それでも警察は何もしてくれないんですか」
「だから」警官は面倒臭そうにいった。「身の危険を感じるとか感じないとかいうのは、人それぞれでしょうが。そういう話を持ち込んでくる人は多いんだけど、まだ何も起きてないのに、我々にどうしろっていうわけ? あなたにつきまとってる人が、あなたに危害を加えるという証拠がどこにあるの?」
返答できないでいる彰子に、その警官は笑いながらこう付け加えた。
「まあ、そう心配することもないですよ。要するにあれでしょ。あなたに気のある男性が、何とかあなたの気をひこうとがんばってるわけでしょ。それって考えようによっちゃあ幸せなことじゃないですか。あなたはなかなかの美人だから、まあ美人税みたいなものだと割り切ったらどうです。そうそう美人税ですよ、美人税」
その美人税という言葉が余程気に入ったらしく、警官は何度か繰り返した。
警察が当てにならない以上、自分の身は自分で守るしかなかったが、相手の正体がわからないのではどうしようもなかった。とりあえずいたずらに相手を刺激せず、あまり気にしないようにしようというのが、唯一思いついた対策だった。
だがそんなものは対策でも何でもない。相手の行動は日に日にエスカレートしてきているように思える。今夜の尾行にしたってそうだ。これまでよりも大胆な気がする。まるで、見つかっても構わないと腹をくくっているようだ。そんな相手に対し、たとえば今から彰子が突然踵を返し、逆に駆け寄ったらどうなるだろう。詰問するつもりが、逆に敵の思うつぼにはまってしまうだけだろう。
まだ何も起きてないのに、我々にどうしろっていうわけ――。
警官の無責任な台詞が耳に蘇る。何かが起きてからでは遅いのだ。そして今のままではきっと起きる。取り返しのつかない何かが必ず起きてしまう。
しかしそれを防ぐ道を思いつかなかった。見えない敵の足音に震えながら、彰子は駆けだしたい衝動を必死で抑え、マンションまでの道を歩き続けた。
「どうしたの、元気ないね」
声をかけられ、彰子は我に返った。またしても、ぼんやりしてしまった。頭の中にあったのは、無論あの姿を見せない『相手』のことだ。
新海美冬が心配そうな顔で首を傾げていた。彰子と同い年の彼女だが、時にひどく大人っぽく見えたり、少女のようなあどけなさを覗かせたりする。今はどちらかというと後者のほうだ。
「あっ、ごめん。考え事をしてたものだから」
「最近顔色がよくないみたいだけど身体の具合がよくないの? それとも、何か悩みがあるとか」
「悩み……かな」彰子は無理に笑顔を作った。商売柄、笑うのは苦手ではないが、それでも少し頬の引きつる感覚があった。限界かな、とも思う。
「もしあたしでよければいつでも相談してね。聞くだけで何の役にも立たないかもしれないけれど」美冬はそういって微笑むと、デザインリングのコーナーに戻っていった。そこが彼女の持ち場だからだ。彰子はエンゲージリングのコーナーにいる。この店の最も奥に位置する。
『華屋《はなや》』は銀座に古くからある宝飾品店だ。三階建てのビル全体が店舗になっていて、一階では小間物や装身具全般を、二階では高級調度品を売っている。そして三階こそが、高価な宝石や貴金属を扱う『華屋』のメインスペースだ。
ここ一か月、店の売り上げは落ちていた。理由は明白で、例の地下鉄サリン事件があったせいだ。いつ何時テロの犠牲になるか知れない状況では、特に急な用件のないかぎり都心に出ていくのはよそうと人々が考えるのは当然のことだった。それに多くの犠牲者が出た事件の後は、自粛ムードが高まって、贅沢の極みのような宝飾業界は真っ先に影響を受ける。阪神淡路大震災の直後もそうだった。
そういえば彼女は被災者だっけ――新海美冬の背中を見ながら彰子は思い出した。
美冬が中途採用で『華屋』に入ってきたのは震災の直後だった。詳しい経緯を彰子は知らない。最初は一階の売場にいたが、二週間ほどでこの三階に移ってきた。余程のことがないかぎり、そうした異動はないので、当初は皆が驚いたものだ。だがそれから二か月あまりが経つ現在では、彼女がここにいることに異を唱える者は、彰子の知るかぎりでは一人もいない。美冬は宝飾品に詳しく、客への応対も見事だった。語学が堪能なので外国人の客が来た時でも頼りになる。この不景気な時代に中途採用されるはずだと誰もが合点していた。
被災し、両親を亡くしたと聞いているが、美冬にその暗さはなかった。彼女自身がそれについて語ったこともない。余程芯のしっかりした女性なのだろうと思い、彰子は一目置いていた。同い年だと知った時には、コンプレックスを感じたものだ。
彼女なら何かいいアドバイスをくれるかもしれない、ふとそんな気がした。
『華屋』の営業時間は午後八時までだ。その後、ミーティングが三十分ほどあって店員たちは解放される。控え室で着替えを終えた彰子は、新海美冬に声をかけた。
「ねえ、この後、ちょっと時間ある? お茶でも飲まない」
「いいよ」美冬はにっこり笑って頷いた。
中央通りに面したケーキ屋の二階が喫茶店になっていた。窓側のテーブルが空いていたので、そこで向き合って座った。彰子はコーヒーを、美冬はロイヤルミルクティーを注文した。
「今日もひどかったよね。サリンのせいで客足が落ちてるのはわかるけど、結婚指輪を見に来る人まで減っちゃうってのはどういうことなのかな」彰子はまず、当たり障りのない話題を振ってみた。
「今年は不吉だから、結婚は来年に延期しようって人が多いそうよ。テレビでいってた」
「ふうん、そうなの。まあそうかもしれないね」震災のことを口にしようとし、彰子はその言葉を呑み込んだ。
飲み物が運ばれてから、彼女は例の話を始めた。美冬は真剣な顔つきで聞いていたが、やがてその口元が苦痛そうに歪められていった。聞いているだけでも不快になったのかもしれない。
「それって、心当たりないの?」話を聞き終えた後で美冬は訊いてきた。
「ないから困ってるの。誰なのかがわかったら、何とか対処できるかもしれないけど」コーヒーを飲んだが、少しもおいしくなかった。
美冬はティーカップに指をかけたまま、考え込むように斜め下を見つめた。俯くと睫《まつげ》の長さが強調される。アーモンド形の目と見事にマッチしていて、ファッション雑誌のグラビアモデルのようだ。この人はどうして今の仕事を選んだのだろうと、自分の悩みとは全く関係のないことを彰子は考えた。
美冬が顔を上げた。「びっくりした」
「そうでしょ。あんなことをする人間がいるなんて信じられない」
「そうじゃなくて」美冬は周囲を見回してから、顔を少し近づけてきた。「あたしにも最近、似たようなことがあったの」
「えっ」思いがけない告白に、彰子は声を漏らしていた。「それ、ほんと?」
美冬はゆっくりと瞬きを一度した。
「一週間ぐらい前だったかな。部屋に帰ったら、ドアに紙が挟んであったわけ。また保険屋さんの名刺かなと思って取ってみたら、字が書いてあるの」
「何て?」
「お帰りなさい、今日も君と同じぐらい美しい宝石をたくさん売ったようだねって」
「ええ……」彰子の腕に鳥肌が立った。それをさすりながらいった。「何それ。ほかには何かあった?」
「無言電話が何回かあったかな。ゴミ袋を調べられてるかどうかはわからない」
「どういうことだろ。あたしにつきまとってる奴と同一人物かな」
「どうしてあたしと畑山さんを狙うの?」
「それはわからないけど」彰子はコーヒーカップを両手で包み込んだ。「こんなことって偶然起きると思う? 二人とも同時期に、同じような気味の悪い目に遭うなんてこと」
「そうよねえ」美冬は首を傾げた。
不可解ではあったが、自分だけが嫌な思いをしているのではないと知り、彰子は少し気が楽になった。
「ねえ、もし同一犯人だとして、狙われてるのはあたしたちだけかな」
美冬のいいたいことは彰子にもすぐにわかった。
「ほかの子たちも被害に遭ってるかもしれないってこと?」
「うん。でも、こういうことって、なかなか人に話せないでしょ。だから自分だけで悩みを抱えてるってこともあるんじゃないかな」
そうかもしれない。自分がそうだったからよくわかる。
「明日、みんなに訊いてみよう」そういって彰子は頷いた。
『華屋』の三階フロアには彰子と美冬以外に三人の女性従業員がいる。翌日、客がいない時を見計らって、彰子は彼女たちに話しかけてみた。質問内容は、最近妙な男につきまとわれた経験はないか、というものだった。
驚いたことに、三人とも何らかの形でおかしな体験をしていた。一人は通勤中の写真を送られてきており、一人は無言電話に困っているという。そして残る一人は美冬と同様、ドアにメッセージ入りの紙が挟んであったらしい。
同一人物に違いない、という結論に達した。一体誰の仕業なのか。美冬を加えた五人で話し合ってみたが、犯人像は一向に浮かんでこなかった。
仲間ができた心強さはあるが、一方で彰子にとって不安なこともあった。他の四人の被害と自分とでは、その程度において明らかに差があることだ。気のせいだとは思えなかった。
彰子は会社の帰りに男性用の下着、小物、消耗品などを買った。そしてその夜ゴミを袋に入れる時、それらを混ぜた。『相手』がゴミ袋を調べた時、この部屋に男が来たと思い込んでくれることを期待した。
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店内を見回し、桜木《さくらぎ》はこっそりため息をついた。デザインリングのコーナーに若いカップルが二組いるが、どう見ても冷やかしだ。買ったところで三万円程度の安物だろう。新海美冬が、少しましな服装の男女相手に、しきりに新作の指輪を売り込んでいるが、乗り気なのは女のほうだけで、男は一刻も早くこの場から逃れたいという顔をしている。あれでは買わない、と桜木は判断した。
エンゲージリングのコーナーでは、畑山彰子が三十代と思われる男女にいくつかの指輪を見せている。ここは辛うじて期待できそうだと彼は思った。冷やかしだけでエンゲージリングをいくつも手に取る客は少ない。しかも見たところ、男の服装には金がかかっている。『華屋』に来るつもりで身なりを整えてきたと桜木は睨んだ。あとは畑山彰子がどれだけのものを売れるかだ。あの娘《こ》は人が好いから、馬鹿正直に安いほうを勧めたりする。客が迷うようなら様子を見に行ったほうがいいかもしれない。
他の売場にもそこそこ客はいる。しかし大抵の連中は、水族館の中でも歩いているようにガラスケースの前を通りすぎるだけだ。単品を飾ってあるケースに見入っている若いカップルなど話にならない。中に入っているのは、最低でも三百万円以上の逸品なのだ。
不景気の上に阪神淡路大震災、おまけに地下鉄サリン事件ときては、客足が遠のくのも無理はなかった。
フロア長の浜中《はまなか》が、エスカレーターで上がってきた。四角い顔に愛想笑いを浮かべ、何かしゃべっている。後ろからついてくる中年の男女に桜木は見覚えがあった。急成長したディスカウントショップの社長夫妻だ。旦那はバーバリーのスーツに太った身体を押し込め、金ぴかのロレックスの腕時計をはめている。妻は全身エルメスだ。スタイルも姿勢も悪い上に、化粧が田舎臭い。あれではブランド品が泣くと桜木はいつも思う。
「いらっしゃいませ。本日は何かお探しで」社長夫妻に歩み寄り、桜木は挨拶した。二人に微笑みを投げる比率は五対一。もちろん妻のほうを重視する。
「特には決めてないんだよ。浜中君から良い物が揃っていると連絡をもらったものでね」
「先日のネックレスは気に入っていただけたようだ」浜中がいう。
「ああ、黒真珠の」桜木は頷く。まるで似合っていなかったが、社長夫人が御満悦だったことを思い出した。
「エメラルドの良い物が入ったそうじゃないの」頬紅を醜く塗った社長夫人が、鱈子《たらこ》のような指をこすりながらいった。その指にはすでにダイヤとルビーの指輪がはまっている。どちらもここで買ったものだ。
「あれはきっとお気に召すと思いますよ」桜木は社長夫人に笑いかけた。
浜中がVIPコーナーに二人を案内するのを見送りながら、安売りで儲けた連中に威張られるようでは『華屋』の看板が泣くと桜木は思った。
ありがとうございました、という声が聞こえた。見ると新海美冬が店のロゴの入った紙袋を、先程のカップルに渡しているところだった。買わないと睨んだ桜木の判断が間違っていたことになる。デザインリングでは大した儲けにならないが、それでも売れないよりはずっといい。
あの女は掘り出し物だった、と桜木は新海美冬を見て思った。突然一階の売場から配属されてきた時にはどうなることかと思ったが、客の心を掴む術《すべ》を心得ている。かつては有名なブティックで働いていたらしいが、なぜその店を辞めたのかは知らされていない。何か致命的な欠点でも持っているのかと思ったが、今のところ何も問題はなさそうだ。
いずれにしても畑山彰子よりはるかに使えると桜木は評価していた。その畑山彰子は、相変わらず一本の指輪を売るのに手間取っている。
助太刀するかとエンゲージリングのコーナーに向かいかけた時、桜木はそれに気づいた。
『草屋』のロゴの入った紙袋が、ダイヤをちりばめたティアラの陳列ケースの下に置かれていた。客が置いているのかと思ったが、それらしい人間はそばにいない。
桜木は歩み寄り、紙袋を持ち上げた。その直後だった。
しゅーというかすかな音と共に、鼻がつんとする異臭が漏れ出した。
彰子は自分があまり仕事に集中していないことを自覚していた。あのこと、が気になっているのだ。考えまいとしているのだが、どうしても頭の隅に浮かんできてしまう。
男性客が何か尋ねてきた。ぼんやりしていた彰子はそれを聞き逃してしまったので、「はっ?」と問い直した。
「だからプラチナの――」
客がそこまでいった時だった。彰子の視界の中で、桜木が妙な動きをした。彼女はそちらを見た。桜木が床で四つん這いになっていた。口をぱくぱくと動かし、片方の手を振っている。
どうしたのだろうと思ったのと同時に、刺激的な薬品の臭いを感じた。途端に息が苦しくなり、目が痛くなった。
そうなっていたのは彼女だけではなかった。たった今まで二本の指輪を見比べていた女性客が、しきりに咳を始めた。目からは涙が出ている。彼女を抱きかかえた男性客も、喉を押さえていた。彼はその姿勢のままで叫んだ。「サリンじゃないのかっ」
この言葉が、その場にいた全員に状況を認識させた。異臭には皆が気づいていたらしい。どよめきが起こった。
「出よう」彰子の前にいた男性客は、そういうと連れの女性の腕を取って階段に向かった。他の客たちも、彼等に続いた。
奥のVIP席から浜中が出てきた。「どうした?」
彰子は事情を説明しようとした。だがうまく呼吸ができず、声を出せなかった。無理にしゃべろうとするとむせそうだった。
「何かのガスです」新海美冬が彰子のところにやってきて、出しっぱなしになっている指輪を棚に戻し始めた。「早くここから出ないと。それから桜木さんを助けないと」そこまでいったところで、激しく咳き込んだ。
この時になってようやく事態を理解したらしく、浜中が大声を出した。
「商品を片づけて、下に避難しなさい。ケースの鍵を忘れないように」
その指示が出される前に、店員たちは行動を起こしていた。客があまりいないので、出されている商品は殆どなかった。彼女たちはハンカチを口に当て、階段に向かった。桜木は彼女たちに助けられていた。誰かが作動させたらしく、警報機が鳴りだした。
浜中がVIP席にいた社長夫妻を階段まで案内するのを見て、彰子は新海美冬の肩を叩いた。「早く逃げないと」
「うん」
美冬が階段とは逆方向に歩くのを見て、逆よ、と彰子はいった。だが彼女は足を止めず、上り専用エスカレーターの非常停止のスイッチを押した。止まるのを確認し、下りていく。なるほど、と彰子は感心してついていった。
喉と目が痛い。頭痛と吐き気を覚え始めていた。
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約一時間後、彰子は明石町《あかしちょう》にある総合病院にいた。ここに連れてこられたのは、彼女のほかに十人ほどいた。三階の従業員と、そこで買い物をしていた客たちだ。彰子を含め殆どの者は軽症で、少し休んでいるうちに回復した。だが桜木だけは別の部屋に担ぎ込まれて治療を受けているようだ。しばらく入院する必要がありそうだという。
「びっくりした。まさかお店でこんな目に遭うなんて夢にも思わなかったもん」
「そうだよねえ。地下鉄とかに乗らなきゃ大丈夫だと安心してたのに」
「でもどうしてうちの店なわけ? ああいうことはふつう、もっと人の集まるところでやるんじゃない?」
彰子の仲間たちがしゃべっている。体調が戻ったので、彼女たち従業員は病院の待合室にいるのだ。
新海美冬は会話に加わらず、少し離れたところで俯いている。彼女は彰子と共に一番最後まで現場にいたせいで、回復が皆よりも遅かった。
彰子も話をする気にはならなかった。しかしそれは体調のせいではなかった。ある考えが彼女の頭を占拠していた。それはあまりに不吉で、考えたくないことだったが、頭から追い出すのは不可能だった。誰かに相談したいと思うが、こんなことを聞けばどんな人間だって驚愕し、怯え、狼狽《ろうばい》するに違いなかった。
やがて浜中が現れた。その表情は憔悴《しょうすい》しきっていた。
「警察の人が話を訊きたいそうだ」
女性従業員たちの間で、空気がぴんと張りつめた。
「ありのままを話せばいい。ただし、憶測や想像ではしゃべらないようにな。事実だけを話すんだ。わかったか」
浜中の言葉に全員が頷いた。
連れていかれたのは病院内にある会議室のような部屋だった。長い机を挟んで、彰子たちは五人の警察官と向き合った。
自己紹介らしきものもなく、中央に座っている男が口を開いた。スポーツ刈りの、四十前と思われる人物だ。目が鋭く、顎は尖《とが》っている。仕立ての良さそうな、濃紺のスーツを着ていた。覚えていることを、どんなことでもいいから話してくれと彼はいった。しかし誰も話しださないので、「では最初に異変に気づいたのはどなたですか」と訊いてきた。
皆が彰子を見た。それで彼女は話さざるをえなくなった。
桜木の異状に気づいた時の様子を、なるべく細かく説明した。中央の男は彰子の目をじっと見つめたまま聞いていた。他の四人はメモを取ったり、頷いたりしている。
彰子に続いて新海美冬が話し始めた。それから他の三人の女性従業員、浜中の順に、事件のあらましを語った。
「あの紙袋を見つけたのは桜木さんのようですが、それ以前に気づいていた方はいらっしゃいますか」中央の男は全員に問いかけた。
誰も答えなかった。そこで男は質問を変えた。
「では、何時まではそんなものはなかった、と断言できる方はいらっしゃいますか」
ここでも返事はなかった。警察官たちは失望を露《あらわ》にし始めた。
中央の男は浜中を見た。
「今日は何人ぐらい客が来ましたか。冷やかしも含めてですが」
「何人ぐらいかなあ」浜中は首を捻り、女性陣に顔を向けた。「私は常に三階にいるわけではないのでちょっと……何人ぐらいかな?」隣にいた女性に訊いた。
「四、五十人……かなあ」彼女は自信なさそうに答えた。
「そんなことないわよ」別の女性がいった。「ただやって来て、帰るだけの人を入れたら、百人以上になるんじゃない」
そうかなあ、と最初に発言した女性は呟いた。あとは誰も発言しない。客の数など数えていないからわからない、というのが本音だろう。少なくとも彰子はそうだった。
「その中に不審な人物はいませんでしたか。たとえば、商品を見るわけでもなく、ただ店内をうろつき回っているだけといった」
やはり全員が黙っている。
そんなことを訊かれても困る、と彰子は思った。商品をろくに見ないで店内を歩き回っている人間など、いつだっていっぱいいるからだ。待ち合わせまでの時間潰しに入ってくる者も多い。そんな人間のことを一々気にしていたらきりがない。
「それでは今日にかぎらなくても結構です。不審な人物を見かけたとか、おかしな電話がかかってきたとか、とにかく印象に残っていることはありませんか」
しかし浜中をはじめ店の者たちは黙っていた。それで中央の男がまた何かいおうと口を開きかけた時、「あの……」と一人が声を漏らした。坂井《さかい》静子《しずこ》という女性だった。
「何でしょう?」男の顔がそちらを向いた。
「これ、全然関係ないかもしれないんですけど」
「どんなことでも結構です。何かありましたか」
「はあ、あの……」坂井静子はなぜか彰子を見た。「あのこと、話してもいいよね」
「あのことって?」
「変な男のこと。だって、ほら、みんなが被害に遭ってるみたいだし」
彰子はどきりとした。自分以外の人間が、あのことを話すとは思わなかった。
「何ですか。被害とおっしゃいましたが」
「はい、あの、あたしもそうなんですけど、ここにいる子たちは全員、最近変な悪戯《いたずら》に遭ってるんです」
「悪戯、といいますと、具体的にどのような」
「それはたとえば……家に帰ったらおかしなメモが置いてあったり、おかしな写真が送られてきたり、それからええと、後をつけられたり」
「ちょっと待ってください。そういうことを最近あなたがされたのですか」
「あたしはメモだけですけど、ほかの人は写真とかいろいろ」
警察官たちの顔に、困惑と驚きの色が現れた。意外な場所で思いも寄らぬものを見つけたように、彰子たちをじろじろと眺め始めた。
結局彰子も、最近自分につきまとっている謎の男のことを話さねばならなくなった。他の女性たちが話したからだ。ただ彰子は、事実よりもかなり矮小化して説明した。自分だけが皆よりも被害を受けている点を気にしていた。それに、じつはもっと大きな理由があった。
「謎の男ねえ……」中央の男が首筋に手をやった。彼は明らかに、彼女たちの話に失望していた。彼が聞きたかったのは、そういう話ではないらしい。
「変質者だな」突然そう呟いたのは、一番左端に座っていた男だ。無精髭を伸ばし、長めの髪を無造作に後ろにかきあげている。呟いた後は、ただにやにや笑っていた。中央の男が不愉快そうに口元を歪めた。
事情聴取の後、彰子たちは店に戻った。売場は立入禁止になっていたので、控え室で着替えると、そのまま帰宅することになった。明日からの営業については後に連絡するということだった。
店を出たところで肩を叩かれた。新海美冬が唇だけで微笑んでいた。目には真剣な光が宿っていた。
「時間があるなら、お茶でも飲んで帰らない?」
「あ……いいけど」
彰子が答えると、すぐに美冬は歩きだした。
「大変なことになっちゃったね。店、どうなるのかな」前と同じ店でロイヤルミルクティーを飲みながら美冬はいった。
さあ、と彰子は曖昧に答える。店のことを考える余裕はなかった。
「さっき、どうして本当のことを話さなかったの」美冬が訊いてきた。「あたしたちに比べて、畑山さんの被害はもっと大きいでしょ。それなのに、大したことはされてないみたいな言い方をしたじゃない」
彰子は下を向いた。やはり彼女は気づいていたのだ。
どうして、と美冬はもう一度いった。責めるような響きがある。あんな事件が起きたのに隠し事をされたら困る、とでもいいたげだった。
顔を上げると、美冬のアーモンド形の目が彼女を見つめていた。内面のすべてを見透かされているような気がした。
「やっぱりあのことをいうべきだったかもしれない」
「何かあったの?」
「うん、まあ……ね」
迷いながら彰子はバッグを開け、中から一枚の紙を取り出した。それを広げ、テーブルの上に置いた。そこにはワープロの文字で次のように書いてある。
『よくも裏切ったな おまえの命はおれのものだ そのことを思い知らせてやる 油断するな おれはいつだっておまえのそばにいる。』
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「ガスは塩素系。問題の紙袋からはプラスチック容器と割れたゴム風船が見つかっている。容器の中身は次亜塩素酸ナトリウムで、風船は硫酸で満たされていた可能性が高い。この二つの薬品が混じり合って化学反応を起こし、ガスが発生したとみられている。地下鉄サリンとの共通点は今のところ見つかっていない」
向井《むかい》の声が会議室中に響いている。小柄で痩身、きっちりと背広を着こなしているので、一流企業のビジネスマンに見えなくもない。ただし鋭い眼光を除けばの話だ。
向井が手にしているのは、警視庁科学捜査研究所から届いた報告書だ。内容は、昨日銀座の『華屋』で起きた異臭事件において、犯人が置いていったとみられる紙袋の分析結果である。
塩素系ガスと聞き、加藤《かとう》亘《わたる》は含み笑いをした。どうりで今日は公安の連中が顔を見せないはずだと納得した。地下鉄サリン事件の捜査本部にも、当然この資料は届いているのだろう。サリンと無関係なものに、今の彼等は関心がない。銀座で毒ガス発生と聞いた時には、真っ先に駆けつけ、被害に遭った店員らから話を聞くのにも勝手に主導権を握っていたくせにと思う。
加藤をはじめ向井班の捜査員らは築地《つきじ》東警察署に来ていた。一応ここに捜査本部は置かれている。一応というのは、現在毒ガス関連の捜査については、すべて警視庁で仕切っているからだ。
今日は昨日に続き、現場周辺での聞き込みが行われた。といっても現時点での収穫は極めて少ない。唯一の目印が、『華屋』の紙袋だが、銀座ではその紙袋を持っているからといって人々の印象に残るはずがなかった。
今のところ唯一の手がかりは、『草屋』の三階に設置されている二台の監視カメラの映像だった。紙袋が置かれていた場所の前を百数十人の客が通過していた。足元は映っていないので、その中の誰が紙袋を置いたのかはわからない。そこで、カメラに映っている客一人一人の人相風体や特徴を、捜査員が書き出し、リストにする作業が進められていた。また、過去の監視カメラのビデオ映像と照合する作業も行われている。犯人は必ず下見をしていると考えられるからだ。
「特筆すべきは」向井は話を続ける。「二つの薬品を混じり合うようにした仕掛けだ。報告書によれば、次亜塩素酸ナトリウムを入れた容器に硫酸入りのゴム風船を入れ、そのゴム風船が、ある刺激によって割れるよう工夫されていたらしい」
「ある刺激というのは?」捜査員の一人が質問した。
「紙袋を動かせば、スイッチが入り、電磁石でゴム風船に針が突き刺さるようになっていた。詳細は報告書のコピーを見てくれ」
回ってきたコピーを見て、加藤は純粋に感心した。電磁石で針が飛び出す仕掛けもそうだが、スイッチのメカニズムも、さほど難しいものではなかったからだ。スイッチにはパチンコ玉が使われていた。紙袋を動かせばそのパチンコ玉がレール上を転がり、一方の壁に触れた瞬間に乾電池から電磁石に電流が流れるという仕組みだ。おそらく小学生でも作れるだろう。
「パチンコ玉か……」加藤が呟いた。
「今、店を特定しているところだ。すぐに判明すると思う」向井がいった。「プラスチック容器、ゴム風船についてもメーカーを特定中。電磁石は何かの部品と思われる。針、その他の部品については、詳しいことはわかっていない。ガスの発生装置についてはそんなところだ」
わからないことだらけじゃないか、と誰かが漏らした。向井は声のほうを睨んだ。
「ヒントはないわけじゃない。報告書にもあるように、仕掛けはいたって単純。中学生レベルの知識があれば簡単に作れる。君たちだって、ここに描かれた略図を見れば、すぐに仕組みは理解できるだろう。しかしだ。果たして考えつくことはできるだろうか」
班長の言葉に全員が沈黙した。加藤も心で同意する。大人になれば電磁石や電気の原理など、仕事や趣味で使わないかぎりは忘れてしまうものだ。
「それからもう一つ。原理は単純だが、実際に機能させるとなると、パチンコ玉を使ったスイッチにしても電磁石にしても、適正な条件を整えなければならない。何も考えずに作ったら、まず正常には動作しないだろうということだ。今回使われた装置は、その点でじつによくできているそうだ。犯人はモノ作りのプロか、試行錯誤を繰り返したかのどちらかだろうというのが科技研の見解だ」
「いずれにせよ、かなり手先の器用な人間の仕業でしょうね」
加藤の意見に、「その点は同感だ」と向井はいった。さらに声を落として続けた。
「公安がどう捉えているかは知らないが、こちらとしては最初から地下鉄サリンに結びつけて考えるつもりは毛頭ない。地下鉄という公共の場を狙ったテロ行為と、宝飾品店を標的にした今回の事件とは、性格が全く異なるというのが刑事部全体の見方だ。まずは『華屋』の関係者の周囲から洗っていこう」
「もし捜査の過程でサリンとの結びつきが見つかったらどうします」加藤は訊いてみた。
「その時は」向井は一旦言葉を切ってから、かすかに片方の頬を緩めた。「その時はその時だ。こちらは手順に沿って捜査を進める。公安からの情報が必要な場合は、何とかして引き出す。しかし、尋ねられもしないことをこちらからわざわざ連絡するつもりはない」
なるほど、と加藤もかすかに笑ってみせた。
加藤は、女性従業員たちが口にした、最近彼女たちにつきまとっている謎の人物のことが気にかかっていた。塩素系ガスは危険だが、確実に死に至らしめるというものでもない。犯人の目的は『華屋』にいる誰かを怯えさせることにあったのではないか。そういった陰湿なやり方と彼女たちが話す謎の人物の影は、イメージが合致した。事情聴取の際、「変質者だな」と呟き、地下鉄サリン事件との関連を期待する公安の連中からは嫌な顔をされたが。
とにかく『華屋』の関係者、特に従業員一人一人について詳しく事情聴取する必要があった。その手順について加藤が他の捜査員と打ち合わせをしていると、『華屋』の女性従業員二人が警察署に来たという連絡が入った。話したいことがあるということだった。
加藤は、同じく向井班の西崎《にしざき》という若い刑事と二人で、彼女たちに会うことにした。
刑事部屋の一画に設けられた来客室で二人の女性は待っていた。加藤はどちらにも見覚えがあった。二人とも美人だ。特に一方の女性は、女優としても通りそうなほど華やかな顔立ちをしている。新海美冬という名前を記憶していたのは、その名字が変わっていたからだけではなかった。
しかし新海美冬は付き添いで、主役は畑山彰子という従業員のほうだった。昨日の事情聴取で話せなかったことがあるのだという。
「どういったことでしょうか」加藤は笑いかけながら訊いた。
だが畑山彰子がバッグから取り出してきた一枚の紙を日にし、加藤の作り笑顔は吹き飛んだ。それは今回の犯行を予告したものといえなくもなかった。
「いつこれを?」加藤は訊いた。
「事件の二日前です。仕事から帰るとドアに挟んでありました」
「よくも裏切ったな、とありますが、これはどういうことですか。あなたは謎の男のことを裏切ったということでしょうか」
「そう思ってるみたいです」畑山彰子は頷いた。
「というと?」
すると新海美冬が口を開いた。
「あたしが畑山さんに、恋人がいるように見せかけたほうがいいといったんです。洗濯物を干す時に男性用のものを一緒に干すとか、表札を男性名にするとか、ゴミに男性が使ったようなものを混ぜるとか」
「なるほど。で、あなたはそれを実践されたわけですか」加藤は彰子に視線を移した。
「ゴミに、わざと男性用の消耗品を混ぜました。それから洗濯物も……」
「そういったことはいつ頃からされたのですか」
「一週間ほど前からだったと思います」
「今日までの間に、このメモ以外に変わったことは?」
彰子は少し考える顔をした後、小さくかぶりを振った。
「これといったことは何もなかったように思います。変な郵便が来ることもありませんでしたし、電話もかかってきませんでした。だから新海さんのアドバイスが効いたのかなと思ってたんですけど……」
加藤は腕組みし、再びメモに目を落とした。
『よくも裏切ったな』という部分については、それで説明がつく。謎の男は彰子に恋人ができたと信じたらしい。この手の男は、相手の女性に夢中になるあまり、もはや彼女は自分のものだと思い込む傾向がある。それで殺人事件にまで発展した例を、加藤も少なからず知っていた。
『おまえの命はおれのものだ そのことを思い知らせてやる』には、この男の精神構造が危険な状況にあることが示されている。思いを遂げられない苛立ちと愛する者に裏切られた怒りとで、はらわたが煮えくりかえっているということだろう。
しかし、と加藤は考える。この一文からは切羽詰まった殺意は感じられない。これが示そうとしているのは、いざとなればおまえの命などどうにでもできるということだけだ。つまり警告である。そして警告という見方をすれば、あの塩素系ガスの発生はじつに効果的だ。
当たりかもしれないと彼は思った。そう考えると、見逃せないのは最後の一文だ。
『おれはいつだっておまえのそばにいる』とは、どういうことか。単に、畑山彰子の行動をすべて把握しているという意味なのか。それとももっと別の意味があるのか。
「事件の後、何か変わったことはありましたか」加藤は彰子に訊いた。
「昨日の夜、電話がありました」
「何と?」
「思い知っただろう、俺を裏切るな――それだけいうと切れました。あたしもう怖くなって、それで……」
「今日、ここへいらしたというわけですね」
彰子はこくりと頷いた。
捜査本部に戻った加藤は、すぐに向井に報告した。向井はメモを見て唸った。
「このことをマスコミには?」
「漏らしてません。彼女たちにも口止めしました」
向井は頷いた。
「畑山彰子に見張りをつけるか。しかし、他の女性従業員も何らかの被害を受けてたといったな。その謎の男から」
「解《げ》せないのはその点です。畑山彰子に御執心の男が、かわいさ余って憎さ百倍というわけで今回の事件を起こしたのだとしたら、他の女性への嫌がらせは何だったのか。それとも何らかのカムフラージュか」
「何をカムフラージュするんだ」
「わかりません」
「最初は『華屋』の女性従業員全員に興味があったが、やがて畑山彰子一人に絞ったということかな」
「可能性はあります」同意はしかねるが、というニュアンスを加藤は込めた。
「おれはいつだっておまえのそばにいる……か。気になる文章だな」
向井も加藤と同じ印象を抱いたようだ。
「単に脅しのフレーズにすぎないのか、もっと実質的な意味を持っているのか、引っかかる点だと思います」
「実質的というと?」向井は加藤を見上げる。自分と同じ考えを部下が口にするのを期待している顔だった。
「内部か、もしくは極めてそれに近いところに犯人がいるということです。ただ、もしそうならば、逆にこんな文章は書かないのではないかという疑問が生じます。畑山彰子が警察に届けないと高をくくったのかもしれませんが」
向井は何事か考え込むように目を閉じた。
「女性従業員は五人だったな。とりあえず、会社の行き帰りだけでも見張りをつけよう」
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対象者の自宅は江東区|門前仲町《もんぜんなかちょう》にある。葛西橋《かさいばし》通りに面した築五年のマンションで、一階はコンビニエンスストアだ。そのせいで昼間でも人の動きが激しい。マンションを出入りする人間だけをチェックすればいいとわかりつつも、神経はくたびれる。
くだらない仕事を押しつけやがって、と築地東署の捜査員は腹の中で毒づいていた。刑事課でも中堅の立場にある彼は、異臭事件の被害者の身辺を見張るという地味な仕事を命じられ、ブライドを傷つけられていた。見張りは今日で三日目だ。変わったことは何もない。どうせこれからもないだろうと諦めている。
本庁の奴らの魂胆はわかっている、と彼は思った。地下鉄サリン事件の絡みかと思ってあわてて捜査本部まで作ったが、どうもそれらしい気配がなく、浮かび上がってきたのはけちな変質者の影だから、面倒なことは早いところ所轄に任せてしまえと方針転換を図っているのだ。誰か一人でも死んでいたら多少は力が入るかもしれないが、最大の被害者の桜木という男さえ退院が間近だというから、下手をすれば殺人未遂ですら起訴できない公算が高い。それならそれで捜査をすべて所轄に任せればいいものを、そうしないのは、万一サリン事件との繋がりが出てきた時のことを考えてのことだ。
彼はライトバンの運転席に座っていた。車は知り合いの電器店から借りた。葛西橋通りの左端に路上駐車し、反対側のマンションに目を向けている。監視しているのは三階の中央部分。このマンションは外廊下が通りに面しているので、各部屋のドアもよく見える。
欠伸を立て続けに二つした時、助手席のガラス窓をこんこんと叩く音がした。後輩の刑事が覗き込んでいた。
ドアロックを外してやると、後輩はドアを開けた。「交代の時間です」
「やっと交代か。時間の経つのが遅いな」狭い車内で伸びをした。
その時だった。マンションに目を向けていた後輩が、あっと声を漏らした。それで反射的に彼もそちらを見た。
件《くだん》のドアの前に男が一人立っていた。グレーのブルゾンを羽織った、中肉中背の男だ。年齢は四十前後か、もっと上か。顔はよく見えない。
男はドアの郵便受けを触っている。このマンションには一階にメールボックスルームがある。ドアまで運ばれるのは郵便なら速達、書留だけだ。もちろん男は郵便配達員には見えない。宅配便でもなさそうだ。
「声をかけてみましょうか」後輩がいった。
「待て、様子を見よう」
やがて男はドアから離れた。エレベータのほうに向かう。ほかのドアには関心がなさそうだ。
「ここにいてくれ」後輩にそう命じ、彼は車から出た。大した金星ではないにしても、後輩に横取りされるわけにはいかなかった。
彼は小走りで通りを渡り、マンションの玄関前で待機した。そこからでもメールボックスルームを見通せることは、見張り初日に確認してある。
先程の男が現れた。もしメールボックスを素通りしたらどうするか。それでも一応声をかけてみようと刑事は決めた。
予期したとおり、男はメールボックスのほうに歩いていった。周りの様子を窺う気配がある。刑事は一度顔を引っ込めてから、改めて覗いてみた。
男の手が、あるメールボックスの差込口に突っ込まれていた。何かを入れるのではなく、明らかにそこから中のものをつまみ出そうとしていた。メールボックスの戸は暗証番号を知らないと開けられないタイプだ。
男が何かをブルゾンのポケットに入れた。それを見て刑事は中に入っていった。気配を察したらしく、男はメールボックスから離れた。何食わぬ顔で出ていこうとする。
「ちょっとすみません」刑事は声をかけた。
なんだ、という顔で男は立ち止まった。
「今ここで何をしておられたんですか」
「別に……何も」男は首を振った。顔を真っ直ぐ見せようとしない。
「ずっと見てたんですよ。郵便物を盗もうとしていたんじゃないですか」
「そんなこと、してない」
「じゃあ何をしていたんですか」
「だから何もしてないといってるだろう。うるさいな」
男は逃げようとしている。それを察知し、刑事は相手の腕を掴んだ。さすがに男は表情を強張らせた。だが何かを喚きだす前に、刑事は手帳を出していた。
「一応、住所と名前を教えてもらえるかな。それからポケットに入れたものを見せてもらおうか。あんたのしたことは明らかに違法行為なんだよ」
音をたてそうな勢いで男の顔から血の気の引いていくのがわかった。職務質問して見事的中した時の快感を刑事は味わっていた。
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取り調べにかかりながらも、加藤亘は目の前に突きつけられた解答に戸惑っていた。まだ正解と決まったわけではないが、自分たちの張った網にかかってきた以上、容疑者であることは事実だ。
浜中|洋一《よういち》は短時間のうちに憔悴しきっていた。焦点のさだまらぬ目を取調室の机に向け、口は半開きのままだ。その様子と表情だけを見れば、とても銀座の有名宝飾品店のフロア長とは思えない。
机の上には一通の封書があった。NTTからのもので、利用明細書と請求書が入っている。浜中がメールボックスから盗み出したものだ。
宛先は新海美冬、となっている。浜中が彼女の部屋のドアについている郵便受けを触っていたことも、見張りの捜査員が目撃している。
「ねえ、浜中さん。いい加減に本当のことをいおうよ。どうして新海さんの郵便物を盗んだりしたわけ?」加藤はいった。何度目かの質問だ。
浜中は俯いたまま口を開いた。「だからそれは……」
「盗んだんじゃなく、拾ったってわけ? それで彼女に渡そうと思ってマンションまで持っていったって? ドアの郵便受けに入れようと思ったけど、思い直して一階のほうにした? ところがうまく入らないので諦めて帰ろうとした時に刑事から声をかけられた?」加藤はこれまでの浜中の供述をおどけた口調で繰り返した。「浜中さんさあ、あんたが刑事だったとするよね。こんな供述を真に受けるかい? ああそうですかって納得する? しないよねえ。だからさあ、俺たちが納得できるような話をしてくれないかなあ」
浜中はますます深く首を折る。何とか窮地を脱しようとしているのだ。だが名案が思いつかず、黙り込んでいるほかないのだ。浜中が隠していることは何か。
「浜中さん、時々パチンコをするそうだね。さっき奥さんから聞いたよ。近所に行きつけのパチンコ屋があるそうじゃない」
急に話題が変わったからか、浜中は瞬きして加藤を見た。
「そのパチンコ屋からパチンコ玉を持って帰ったことあるでしょ」
「パチンコ玉? いいえ」
「そうかなあ」加藤は顎を引き、浜中の顔を斜めに見上げた。「その店のパチンコ玉が使われてるんだよね。例の毒ガス発生装置にさ。これ、偶然といえるかなあ」
ここでようやく加藤の意図を悟ったらしく、浜中は大きく手を横に振った。
「知りません、そんなこと。私は無関係です。そんな……パチンコ玉なんて」
「じゃあ質問を変えましょうか」加藤はいった。「『華屋』さんほどの店のフロア長となると、パソコンなんかを使う機会もあるんでしょうねえ」
浜中がかすかに首を起こした。
「どうなんですか」加藤はさらに訊く。
「それは、たまにありますけど」
「自宅にもパソコンを?」
少し考える様子を見せた後、ええ、と浜中は頷いた。
「機種は?」
「機種……どうしてそんなことを?」
「いいから訊かれたことに答えりゃいいんだよ」声に凄みを込めていった後、加藤は元の柔らかい口調に戻した。「パソコンの機種を教えてください」
「富士通の……何といったかな」浜中は口の中でぶつぶついった後、首を傾げた。「すみません。詳しいことは覚えてなくて」
「ワープロは使うんでしょう?」
「使います」
「ワープロソフトは?」
「一太郎ですけど」
「プリンターの機種は? 覚えてないならメーカーだけでも教えてください」
「たしか……エプソンです」
加藤は椅子にもたれ、俯いたままの容疑者を眺めた。ワープロソフト、プリンターとも、畑山彰子が受け取った脅迫状の分析結果と一致している。しかし、このように正直に述べていることが、逆に気になった。浜中の、背中を丸め、肩をすぼめる姿からは、怯えしか感じ取れない。
ノックの音がして、ドアが開いた。向井が顔を覗かせた。加藤に向かって小さく頷きかけてくる。加藤は立ち上がり、取調室を出た。
「新海美冬の事情聴取が終わった」向井が小声でいった。
「彼女は何と?」
「驚いてたさ。当然だろう」
「浜中との関係については何か?」
向井は首を振った。
「フロア長には世話になっているし、いい上司だと思ってた。だからいい部下であろうとした。こんなことになるとは今でも信じられない――まあ、優等生の回答だ」
「もう帰したんですか」
「いや、待たせてある。会ってみるか」
「会いたいですね」
「いいだろう」向井は頷いた。「浜中のほうはどうだ」
「あのままです」
「そうか。まあ、今夜は帰さなくてもいいだろう。明日になったら、奴の気が変わるかもしれない」
「班長」
「なんだ」
「毒ガスについては、浜中はシロです」
向井は虚をつかれた目をし、その後しげしげと部下の顔を見つめた。口元にかすかに笑みが宿る。
「根拠は?」
「奴に、あんな芸当はできません。あの仕掛けを実行するには、相当な度胸が必要です」
「奴にはそれがないというのか。勘でそんなことをいってるんだとしたら、おまえらしくないな。さっさと新海美冬に会ってこい」
新海美冬はノースリーブのニットを着ていた。白く細い二の腕が眩《まぶ》しい。これまでは制服やスーツ姿しか見ていなかったので、加藤には彼女の普段着姿が新鮮に映った。
「現在『華屋』は休業中だそうですね」挨拶代わりに彼はいった。
ええ、と美冬は頷くが、その表情はさすがに硬い。
「今日は部屋にいたそうですね。ドアの郵便受けがいじられていることには全く気づかなかったのですか」
「奥でテレビを見ていましたから……」
「浜中氏によれば、何度かあなたに電話したそうなんです。ところが誰も出ないので、部屋まで訪ねていったということなんですが」
「電話線を抜いてあったんです。前にもいいましたけど、このところ変な電話がよくかかってきたので……」
「でもそれじゃあ不便でしょう。誰もあなたに連絡できない」
「仕方ないです。変な電話に出て、ストレスが溜まるよりはましです。それに今は、あたしに急な連絡なんてあるわけがないです。家族もいませんし」美冬は項垂れていった。
彼女が阪神淡路大震災の被災者だということは加藤も承知していた。
「今回のことですが、何か思い当たることはありませんか」
「さっきほかの刑事さんに……」
「すみません。もう一度お願いします」加藤は小さく頭を下げた。
美冬は小さく吐息をついてから話し始めた。彼女によると、先月もNTTからの通知書が来なくて変だと思ったらしい。それ以外にも、ガスや電気の領収書が届いていないという。
「もし郵便物が盗まれていたのだとしたら、すごいショックです。正直いって、信じたくないです」
美冬は胸の前で祈るように指を組んでいた。その手がかすかに震えている。前に会った時にはしっかりした女性だという印象を加藤は受けたのだが、さすがに今回のことでは神経が参ったらしい。
「フロア長の浜中氏をどう思いますか。職場において、これまであなたに対して妙な態度をとったことはなかったですか」加藤は単刀直入に質問した。
新海美冬はしばらく黙っていたが、顔を上げると、はあーっと大きく息を吐いた。
「今もいいましたけど、まだ信じられないんです。何かの間違いじゃないんでしょうか。浜中さんは本当に、あたしの落とし物を届けるため、部屋までいらっしゃっただけじゃないんですか」
「その話に説得力があると思いますか」
加藤が訊くと彼女はまた一瞬口を閉ざした。やがて前髪をかきあげ、苦痛をこらえるように眉を寄せた。
「信じられない。浜中さんは仕事もできるし、上司として尊敬していたのに。もう明日から、誰も信じられなくなりそうです」
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リビングボードの上に小さな写真立てが載っていた。中に入っているのは、絵に描いたように平和で幸せそうな家族のスナップ写真だ。小学生ぐらいの息子が真ん中に立ち、その後ろに夫妻が並んでいる。三人は揃って眩しそうに目を細めたまま笑っていた。どこかの山にでも行った時のものだろうか、夫だけでなく妻もジーンズにスニーカーという出で立ちだ。
その妻が加藤の前で項垂れていた。膝に置いた左手にはハンカチが握りしめられている。服装はニットのカーディガンに白いスカートというものだ。この女性にはジーンズよりもこっちのほうが似合うと加藤は思った。
「すると、様子がおかしいことには気づいておられたわけですね」加藤の問いに浜中|順子《じゅんこ》は小さく首を縦に動かした。
「何かほかのことを考えているようなことが多くなりました。あたしの話なんか全然上の空という感じで……」
何もなくても世の中の夫の大半はそういうものだ、といいたいのを加藤は我慢した。彼自身は四年前に離婚していた。結婚していた時は自分もそうだったという自覚がある。
「それから」彼女はつけ足した。「帰るのが前よりも遅くなりました。以前は九時頃には帰ってたんですけど、最近は十一時近くになることもあります」
「外泊することはなかったんですか」
「それは特に……」
「では逆に、朝早く出かけるということはありませんか」
加藤がいうと、順子は今初めて思い当たったという顔で頷いた。
「そういえばそうです。しょっちゅうというわけじゃないですけど、いつもより一時間近く早く出ていくことがたまにありました。店で準備することがあるとかいって……」
「そういった変化はいつ頃から始まったか御記憶にないですか」
順子は痩せた頬に手を当てた。
「たぶん二月ぐらいからだったと思います」
加藤は頷いた。畑山彰子や新海美冬たちにつきまとっていたのが浜中だとすれば、今の話と辻褄《つじつま》は合う。帰りが遅くなったり、出かけるのが早かったりしたのは、彼女らの尾行やゴミ漁りなどのためと考えられる。
「あのう」順子が怯えたような目で見上げてきた。「主人は本当にそんなことをしていたんでしょうか。お店の女の人たちに対して、嫌がらせみたいなことを……」
「ある女性の郵便物を盗んだのは事実のようです。捜査員が目撃していますから」
順子は目を閉じ、再び首を前に深く折った。彼女にとっての確固たるもの、安定した生活であるとか、将来とかいったものが大きく揺らいでいるのを加藤は見届けた。
彼女の口から、主人にかぎってそんなことがあるわけがない、という意味の言葉は出てこなかった。薄々、何らかの異変に気づいていたからだろう。
浜中洋一の部屋では家宅捜索が行われていた。見つけたいものは二種類に分けられる。一つは『華屋』の女性従業員たちに対する嫌がらせの痕跡、もう一つは毒ガス発生装置を作った形跡だ。
「話を変えましょう」加藤はテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗に手を伸ばした。茶を淹《い》れる時に順子の手が震えていたのを思い出していた。「先週の今頃ですが、御主人が部屋で何かしておられた気配はなかったですか。たとえば何かを作っていたとか」
順子は首を斜めにした。眉間には皺が刻まれたままだ。
「さっきもいいましたけど、最近あの人が部屋にこもりっきりになることが多かったのは事実です。でも何をしていたのかはよくわからないんです」
「奥さんはよく御主人の部屋に入られますか。御主人のおられない時に、ですが」
順子はかぶりを振った。
「前にそういうことをして、ずいぶんと叱られたことがあります。お客様からの大事な預かりものも置いてあるから、勝手には絶対に入るなと」
「じゃあ室内がどんなふうなのかは御存じないのですか」
「ええ、殆ど。本当に、ひどく叱るんです。つい数日前も、勝手に入っただろうとかいって、怒りました」
「先程、御主人の部屋をちらりと見せてもらいましたが、ずいぶんと変わったものが置いてありますね。作業台とか、バイスとか、小さな工具とか」
「趣味で彫金をするんです。宝飾品を売る以上は、技術的なこともマスターしておきたいとかいって」
「彫金というと、かなり細かい作業ですよね。御主人は手先が器用なほうですか」
「さあ、どうでしょう。人並み程度じゃないでしょうか。主人が作ったという指輪やブローチを見せてもらったことがありますけど、やっぱり素人の仕事としか思えませんでした」
答えながらも、なぜこんな質問をするのだろうと順子は怪訝《けげん》に感じているようだ。『華屋』での異臭騒ぎとの関連については、彼女には話していない。
「加藤さん」若手刑事の西崎がドアのところから声をかけてきた。彼は家宅授累に参加している。白い手袋をはめていた。「ちょっと」
失礼、といって加藤はソファから立ち上がった。
「何か見つかったか」廊下に出てから加藤は訊いた。
「こいつが」西崎が手にしていたのは数枚の写真だった。
そこには新海美冬の姿が写っていた。明らかに盗み撮りしたものだった。
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待ち合わせに指定された場所は、水天宮《すいてんぐう》の近くにあるホテルのティーラウンジだった。ウェイターというよりギャルソンと呼ぶほうがふさわしい黒服の男が、洗練された動きで加藤と西崎を隅の席まで案内してくれた。
加藤はメニューを見て、思わずのけぞった。
「これを見ろよ。コーヒー一杯で千円もするぜ」
「ホテルなら当然ですよ。それにたぶんおかわりは自由のはずです」
「そうなのか。じゃあ、最低二杯はおかわりしなきゃな」
加藤は周りを見回した。ビジネスマンらしきスーツ姿の男たちが多い。加藤もスーツだが、彼等の着ているものは、名称が同じなだけでまるで違う衣服に見えた。外国人も多い。落ち着いて座っていられる気分ではなかった。
「どうしてまたこんなところを指定してきたんだろうな」
「用があって、このあたりに来ているそうです。それにふだんからよく使っている店だとか」
「コーヒーが千円もする店に、しょっちゅう来てるっていうのか。宝石店の店員ってのは、そんなに給料がいいのか」
「知りませんけど、独り暮らしの女ってのは小金を持っているそうですよ。それにバブル時代に贅沢をしていただろうから、その癖が直りきらないんじゃないですか」
「あの手の女を嫁さんにすると苦労するだろうな」
「俺もそう思います。でもかなりの美人だから、引く手あまたでしょうがね」
「美人は美人だが、俺はごめんだね。しっかりしていそうで、そのくせ弱々しいところを見せたり、どうも本音が見えにくいんだ」
「心配しなくても、あっちは加藤さんのことなんか気にも留めてませんよ」
西崎が減らず口を叩いた時、コーヒーが運ばれてきた。香りも色も、ふつうの喫茶店で出てくるものとは違っているように加藤には感じられた。実際、飲んでみると旨かった。
「来ましたよ」西崎が小声でいい、ロビーのほうに目を向けた。
白いスーツを着た新海美冬が歩いてくるところだった。モデルのように姿勢がよく、歩き方も美しい。しかも毅然とした風格のようなものも漂わせている。本当にただのOLなのか、と加藤は改めて思った。
刑事たちに気づいた彼女は、口元を少し緩ませて近づいてきた。
「お待たせしてすみません」
「いやあ、我々も今来たところです」
黒いロングスカートを穿《は》いた女性がやってきた。美冬はロイヤルミルクティーを注文した。迷う様子がなかったので、ここでのお気に入りの飲み物なのだろうと加藤は察した。
「お忙しいところ、申し訳ありません」加藤は座ったまま頭を下げた。
「いえ、特に今は忙しくありませんから」
「お店は明日からだそうですね」
「ええ。あんなことがありましたから、イメージを回復するためにもがんばらなきゃって思っています」真っ直ぐに加藤の目を見つめてくる。思わず、引き込まれそうになる目だ。加藤はコーヒーカップに手を伸ばした。
「じつは今日お時間をいただいたのは、非常に微妙な問題について確認したいことがあるからなんです。場所をあなたに決めていただいたのもそのせいです」
「何でしょうか」美冬の目に真剣な光が宿った。
加藤は浜中が逮捕された時のことを思い出していた。あの時にはこの女性はひどく怯えていた。ところが今日は堂々として見える。たった数日で立ち直ったのだろうか。
「先日、浜中氏の自宅を捜索しました。それで、いろいろなものを押収しました。それらの品を元に浜中氏を問い詰めたところ、じつに意外な話を聞かされたのです」
ロイヤルミルクティーが運ばれてきた。美冬はありがとうと礼をいい、まず一口飲んだ。加藤の目には動揺のかけらも認められなかった。
「浜中氏によれば」美冬の表情の変化を見逃すまいと心がけながら彼は続けた。「彼の狙いはあなただけだったというんです。しかも単に一方的に心を寄せているだけではなく、あなたとは特別な関係にあると主張しています」
美冬の顔に変化はなかった。というより、無表情の仮面が張り付いているようだった。彼女はしばらく加藤の顔を見つめた後、瞬きを二度した。そして無表情のままいった。
「何ですか、それ。どういうことですか」
「言葉のとおりです。浜中氏は、あなたのことを恋人だといっているんです」
「あたしが?」美冬は手で自分の胸を押さえた。「そんなわけないじゃないですか」
「嘘だとおっしゃる?」
「当たり前です。どうしてあたしがそんなことをいわれなきゃならないんですか」
「我々がいっているのではなく、浜中氏がそういっているんです。だから確かめるために、こうしてお呼び立てしたというわけです」
「でたらめです。あたしがフロア長と……」大きく息を吐きながら首を振った。「それ、本当に浜中さんがいってるんですか」
「そうです」
「信じられない」激しく瞬きし、唇を噛んだ。「あたし、浜中さんとは何の関係もありません。上司と部下というだけのことです」
「しかし浜中氏の話は、やけに具体的なんですよ。関係が始まったのは、あなたが同じ職場にやってきて間もなくの頃で、会う場所はホテル・ネオタワー。東陽町にある大きなホテルです。あなたのマンションからも近い。彼の話では、先にあなたがチェックインして部屋で待っていて、そこに行ったそうです」
「やめてください」美冬は鋭くいい放った。「そんなところ、行ったこともありません」
彼女は本当に怒っているように加藤には見えた。演技とは思えない。だが彼女との関係を告白する浜中にも嘘の色はなかったのだ。どちらが真実を隠しているのか。
「嘘だとしたら、なぜ浜中氏はそんなことをいったんでしょう?」
「知りません。大体あたし、『華屋』には入ったばかりで、フロア長のことだってよく知らないのに」
「浜中氏からそういったアプローチを受けたこともないのですか。つまり、その、くどかれなかったかという意味ですが」
「そんなこと……」
美冬の顔に変化が出た。今初めて何かに気づいたという表情だ。
「何か思い当たることでも?」
「いえ、思い当たるってほどでは」
「どんな些細なことでも結構ですから話していただけませんか。事件と関係ないとわかれば、今後この手の質問は一切しませんし、不快な思いをさせることもないと思います。我々としては、あなたの私生活に立ち入る気は全くないんです」
美冬は少し迷っていたようだが、やがて口を開いた。
「今の職場に移った直後、二度ほどフロア長とお茶を飲みに行ったことがあります。仕事が終わった後、ちょっと打ち合わせたいことがあるからということで」そこまでしゃべってから、彼女は頷いた。「ああ、そうだ。あの店がもしかしたら……」
「何ですか」
「さっきおっしゃいましたよね。東陽町のホテルって」
「ホテル・ネオタワー」
「そこだったかもしれません。家に送っていってもらう途中に寄ったんですけど、ホテルの名前までは知らなかったものですから」
「そこでお茶を飲んだ?」
「はい」
「お茶だけですか」
「そうです」美冬の表情が幾分和らいだ。「お茶を飲みながら、店の方針だとかの話を聞きました。それだけです」
「しつこいようですが、その場でくどかれませんでしたか」
「あれは」彼女は首をわずかに傾けた。「くどかれたのかもしれません」
「といいますと」
「バーに誘われたんです。もう少しじっくり話をしたいとかいって」
「でもあなたは誘いには乗らなかったと」
「時間が遅かったですから。それに、そんなよく知らない人と飲んでも楽しくないし」
「なるほど」
職業柄、人の言葉の真偽を見抜くことには自信のある加藤だったが、新海美冬についてはこれといって掴めるものはなかった。本当のことをいっているか、余程の役者か、だ。
「職場の他の女性から似たような話を聞いたことはありませんか。つまり浜中氏から誘いを受けたという話です」
さあ、と彼女はかぶりを振った。
「あたしは入って間がないので、あまり打ち明け話みたいなことはされないんです」
「そうですか」
加藤が次の質問を考えていると、あの、と彼女から声をかけてきた。
「浜中さんは、どうしてあたしの郵便物を盗んだといってるんですか」
「それですが」
話していいものかどうか迷ったが、答えなければこの女性も納得しないだろう。
「あくまでも彼の話ですがね、あなたに他の男性ができたように思えたので、相手を調べようと思ってしたことだそうです」
「はあ?」美冬は眉間に皺を寄せた。「あの人、頭がおかしいんじゃないですか」
「まあ、ふつうではないですね」加藤は苦笑した。「仮に奴の話が本当で、あなたと特別な関係にあったのだとしても、郵便物を盗むなんてのは異常です」
「あたし、あの人とは何でもありません」厳しい目で加藤を睨んできた。
「あなたの言い分はよくわかりました。本部に戻って、検討してみます。ただ、もしかしたらまた何かお伺いすることもあるかもしれませんので、その時にはどうか御協力をお願いいたします」
「あたし、嘘なんかついてませんから」
加藤は頷くだけにしておいた。テーブルの上の伝票に手を伸ばそうとすると、それより先に彼女が素早く奪った。
「ここは結構です。この場所を指定したのはあたしですから」
「いや、しかしそういうわけには」
「もう少しここにいたいんです。気分を直したいから」
「はあ、そうですか」加藤は頭を掻いた。「では遠慮なく」
ホテルを出た後、加藤は西崎に訊いた。「どう思う? あの女が嘘をついてると思うか」
「何ともいえませんね。ただ……」西崎は後ろを振り向いてから小声で続けた。「気の強い女だ」
同感、と加藤もいい、にやりと笑った。
捜査本部に戻る前に、二人は東陽町にあるホテル・ネオタワーに向かった。白い高層の建物で、ファミリーレストランやホームセンターの並ぶ街の中では異色な存在だ。
加藤はフロントで一枚の写真を見せた。『華屋』から借りた、新海美冬の履歴書の写真だ。こういう女性を見たことはないか、と尋ねてみた。
髪を七三に分けたホテルマンは、そばにいた何人かに訊いて回った後、加藤たちのところに戻ってきた。
「見た覚えがあるという者はいないようですが」
「では新海美冬、あるいは浜中洋一という名前の宿泊客はいなかったでしょうか。こういう字を書くんですが」二人の名前を書いたメモをホテルマンに見せた。
「少々お待ちください」
コンピュータの端末を慣れた手つきで操作していたホテルマンは、何かメモを書いて戻ってきた。
「浜中洋一様には、二度御利用いただいております」
「えっ、いつですか」
「平成五年ですから、一昨年ですね。十月に二度」
「一昨年……」
「新海美冬という方のお名前では記録がございません」
それは意外ではない。不倫をするのに、本名を書くほうがおかしい。
加藤はもう一枚写真を出した。今度は浜中洋一のものだった。
「このお客様でしたら、何度かお見えになったことがあるように思います」写真を見ながらホテルマンはいった。
「いつ頃ですか」
「ええと、今年になってからだと思うんですが」ホテルマンは自信がなさそうだった。
「女性が一緒ではなかったですか」
「さあ、そこまでは」弱ったようにホテルマンは首を振った。加藤は頷いた。覚えていろというほうが無理なのだ。
築地東署に戻った加藤は、すぐに浜中を取調室に呼んだ。新海美冬が関係を否定したと聞くと、浜中は椅子から腰を浮かせ、激しく首を振った。
「あの女が嘘をついてるんだ。何の関係もなかったなんて、そんなことはありません。刑事さん、信じてください」すがるような目をしてきた。
「だけどさあ、あんたいったよね、ホテルは彼女がチェックインしてたって。だけどホテルじゃ、彼女を覚えてる人間がいないんだよね」
「客なんて大勢いるから忘れてるだけでしょう」
「だけどあんたのことは覚えてるんだよ。チェックアウトはあんたの役目だっけ? ああいうホテルじゃね、フロントで手続きするのは圧倒的に男のほうが多いから、あんたのことを覚えてて、新海さんのほうを覚えてないっていうのは不自然なんだよな」
「そんなこといっても……」
「あんた、前にもあのホテルを使ったそうだね。一昨年の秋頃。誰といったの?」
加藤の質問に、浜中の歪んだ表情からふっと力が抜けた。不意をつかれたような反応だった。
「そんなこと……どうだっていいじゃないですか」
「どうだっていいよ。あんたが浮気常習犯だろうと、誰と不倫しようと、女性従業員を何人つまみ食いしようと、こっちには何の関係もないことさ。俺たちが知りたいのは、異臭事件の犯人が誰かってことだけだ。でもさ、こういうものが見つかっている以上、これを書いた人間を探し出そうとするのは当然じゃないか」そういって彼が浜中の前に置いたのは一枚のコピーだった。畑山彰子に送られた例の脅迫状だ。「白状しなよ。あんた本当は、女性従業員に片っ端からアタックしてんだろ。新海さんもその一人。畑山彰子さんもその一人。だけど誰もなびかねえもんだから、頭にきてあんなことをやったんだろ」
「違います、違います。私はそんなことはしてない。美冬を呼んでください。あいつと話をさせてください」
懇願する浜中を、加藤は見下ろした。これが演技に見えるか、と醒めた頭で自問していた。
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「二人いる?」向井が眉間に皺を寄せた。
「そう考えると辻褄が合います」加藤は向井の机の前でいった。いいながら、おそらく受け入れられはしないだろうと諦めていた。
向井は軽く腕を組み、部下を見上げた。
「変態が二人いるというのか」
「変態かどうかはわかりませんが、『華屋』の女性従業員たちをつけ回していたのは浜中だけではないと思うんです。どこかにもう一人います。浜中がつけ回したのは、本人がいうように新海美冬だけじゃないでしょうか」
「新海は浜中との関係を否定しているんだろ」
「本当のことをいっているとはかぎりません。職場での立場もあるでしょうから」
「浜中の狙いは新海だけで、ほかの店員には何もしてないというのか」
「もし浜中が全員に対しておかしな行動を起こしていたのなら、全員に対して否定するはずです。新海のことだけを告白したのは解せません」
「郵便物を盗むところを見つかったから、言い訳できないと思ったんだろ」
「その点もです。浜中は、新海に新しい男ができたようなので、相手を突き止めようと郵便物を盗んだといっています。この動機については説得力があると思います」
「それで?」
「新海に対してそのような異常な嫉妬心を抱いている男が、同時期に別の女に対して同様の思いを抱くものでしょうか。畑山彰子が受け取った脅迫状まがいのメモは、別の人物の別の嫉妬から生まれたものだと思うのです」
「だから変態が二人か」向井はにやりと口の端を曲げた。「君の言葉を借りるならこういうことになるな。『華屋』という宝飾品店があり、そこの女性従業員に対して、同時期に同様の思いを抱く者が、たまたま二人出現した。さらに二人は同時期に同様の嫉妬心をそれぞれの女に抱いた。一人は郵便物を盗み、一人は毒ガス発生装置を店に仕掛けた。なあ、加藤、そんなことがありうると思うか」
「班長はストーカーという言葉を御存じですか」
「何だって?」
「ストーカー。アメリカで注目されている言葉です。訳すとすれば、つきまとう人間、とでもなりましょうか」
「君が海外事情に詳しいのはよくわかったよ。そのストーカーがどうかしたのか」
「ストーカーは一種の精神病です。相手を思う気持ちが高じて、日常のすべてを支配しないと気が済まなくなるんです。今回の浜中の新海に対する行為がそれに当たると思われます。で、そのストーカーは年々増えているんです。日本でもいずれ問題になってくるかもしれません」
「増えているから、同時期に二人現れてもおかしくないというのか」
「たしかに今度のケースでは、何もかも同時期に合致しすぎていますが」
「考えすぎだ。合理主義者の加藤にしては、偏った答えを出してきたもんだな」
「では偶然ではないとしたら?」
「何だと?」
「浜中を第一のストーカーとします。第二の人物は浜中の行動を知っていて、彼に便乗する形で第二のストーカーとなったのです。手口などがそっくりなのはそのせいです。やがてその人物は、浜中に罪をなすりつけるつもりで毒ガスを――」
加藤の話の途中から向井は首を振り始めていた。
「たった今、君はいったよな。ストーカーは一種の精神病だと。つまり本人の意思にかかわりなく発症するものだろ。さあ今がチャンスだからといって、その精神病になるわけじゃないだろう」
「だから」加藤は唇を舐めてから続けた。「第二のストーカーは精神病ではないのです。ストーカーを演じているのです」
これには向井も驚いた顔をした。「何のために?」
「それはまだわかりません。でも班長、昨日届いた科技研からの報告書を御覧になられましたか」
「技術の話か」
加藤は頷いた。
「報告書によれば、部品の加工の一部に、極めて高度な研磨仕上げが行われているということでした。一級の技術を持っている人間の仕事と思われる――そうでしたよね。趣味で彫金をやっていた程度の男には到底無理のはずです」
「だから第二のストーカーの仕業だというのか」向井は再び首を振った。「話としては面白い。しかし空想だけでは捜査は進まない」
「ですが」
「おまえがすべきことは」向井は冷徹な口調でいった。「浜中の周りに、そうした高度な技術を持った職人がいないかどうかを調べることだ。浜中が一人でやったことだとは決まっていないからな」
「ストーカーは常に一人で行動します」
「ストーカーの話はもういい」向井は手を振った。
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桜木が職場に復帰したのは、異臭騒ぎ後に『華屋』が再開してから五日目のことだ。その日彼はまず営業担当役員に呼ばれ、事件の被害のことで陳謝された後、その場でフロア長就任を命じられた。フロア副長は当面置かないという。望外のことだったので彼は驚き、「浜中さんは?」と思わず尋ねてしまった。口にしてから、余計なことをいったと後悔した。
桜木の懸念通り役員は不快感と困惑を顔に浮かべた。
「今の状態じゃあ、フロア長に置いておくわけにもいかんだろ。まあ、実際のところはどうなのかわからんが、仮に容疑が晴れたとしても、彼にはしばらく休んでもらうことにしたよ」
答えはそれだけだった。それ以上の質問は許さないという気配を役員は全身から発していた。
久しぶりに戻った職場から、桜木は新鮮な空気を嗅ぎ取った。単に空白期間があったせいだけではなさそうだった。女性従業員たちが皆、生き生きとして見えた。彼女たちは桜木がフロア長に昇格したことをすでに知っていた。早々にその役職名で呼ばれ、どぎまぎした。
不景気な上にあんな事件があった直後だから、さすがに客足が増えているとはいいがたかった。しかし極端に減っているわけでもなさそうだ。『華屋』は老舗だ。この店の品でなければ、というこだわりを持ってくれている客も多い。大丈夫やっていけるさと彼は自分を励ました。
彼はいつもの制服で店内を見回した。畑山彰子は、相変わらず要領が悪いながらも、男性客相手に懸命にエンゲージリングを勧めている。新海美冬はそつがない。通りかかる、いかにも金を持っていそうな客に、さりげなく新作を見せている。ほかの店員たちも、何とか『華屋』のイメージを回復させようと励んでくれているようだ。
浜中さん、あなたがいなくなったおかげでこのフロアの結束力は高まったみたいですよ――桜木は、今は自宅にいるに違いない元上司に心の中で告げた。
浜中洋一は、現在も勾留中である。しかし犯人と断定されたわけではなさそうだ。彼が逮捕された経緯を含め、詳しい事情を桜木は知らない。浜中が逮捕されたという知らせを聞いた時、彼はまだ療養中だった。
だが正確なことを知らないのはほかの従業員も同じだった。このところ女性従業員たちを悩ませていた嫌がらせの数々と今回の異臭事件に何らかの関係があると警察は睨んだようだが、それでなぜ浜中の名があがったのか、まるでわからない。
今も『華屋』には時折刑事が姿を見せる。彼等が発する鋭い眼光は、浜中の犯行を裏づける何かを追い求めているのだ。
果たして浜中が毒ガス発生の犯人なのか。それについて考えようとしても、桜木は実感が湧かなかった。浜中のことをよく知っているわけではないが、彼にあのような複雑な仕掛けが作れるとはとても思えなかった。いつだったか、誰かがビデオカメラを持ってきた時、浜中だけは触れるのさえ避けていたのだ。新聞などで読んだところによると、あの毒ガス発生装置は相当巧妙に作られていたようだ。浜中は彫金の心得があるだけに手先は器用だろうが、それと科学の知識とは無関係だ。
もちろん、仮に浜中が犯人ではなかったとしても、『華屋』にとってはそれでいいというものではない。一旦は逮捕されたような人間を、そのまま同じ職場に置いておくわけにはいかない。証拠不十分というような曖昧な状況だったらなおさらだ。また、万一彼が嫌がらせの犯人ならば、女性従業員たちへの影響も心配だ。今回の人事上の処置は当然といえた。
あれがやっぱり命取りになったな、女には気をつけなきゃあな――。
桜木は浜中の悪癖のことを考えていた。浜中は女好きで、気に入った女性がいると、別のフロアであろうと何とかして接触しようとする。いずれ何か問題が起きるのではと思っていたが、ついに現実になった。
自業自得だな、と彼は思った。俺はそんなことはしないぞ、職場の女に手を出すような愚かなことはしない。
そんなことを考えながら店内を見回っていた桜木だったが、あるショーケースの陰に紙袋が置いてあるのを目にし、ぎくりとして足を止めた。あの時の悪夢が蘇った。
刺激臭、吐き気、頭痛、息苦しさ――そういったものが瞬時にして思い出された。病院のベッドで寝ている時も、その悪夢で何度か目を覚ました。今でもそうだ。たぶん当分は忘れられないだろう。あの地下鉄サリン事件で生き残った人々も、きっと同じ思いでいるに違いない。もし犯人が逮捕されたとしても、被害者にとっては事件は終わらないのだ。
彼はおそるおそる紙袋に近づいた。だが迂闊に手を出したりはしない。一メートルほど手前で足を止め、首を伸ばして中を覗き込んだ。
中は空っぽだった。誰かが置き忘れたものらしい。桜木はほっとして近づき、手を出した。それでも持ち上げる時、一抹の不安が脳裏をよぎった。
もちろん空の紙袋を持ち上げたところで何も起こらなかった。彼は深いため息を一つつき、その紙袋を丁寧に折り畳んだ。
高円寺駅に着いた時、時計は午後十一時を少し過ぎていた。いつものように街灯の下を選んで歩いていた彰子だったが、後ろからついてくる足音を耳にした瞬間、総毛立った。まさか、と思った。それでも足の動きが速まるのを抑えられなかった。
前方に人影が見えた。中年女性の後ろ姿だ。彰子は救いを求める思いで、彼女に追いつこうとした。すると後ろの足音もリズムを上げてきた。前と同じだ。あの男がまた現れたのか。
あと数メートルで前の女性に追いつくという時だった。
「おい」後ろから声をかけられた。
彰子は悲鳴を上げそうになった。そのまま走りだそうとした。
「おいったら」またしても男の声。
彰子は前の中年女性に助けを求めようと思った。するとその直前、中年女性が振り向いた。彰子ではなく、彼女の後方に目を向けた。
「あら」中年女性は足を止めた。
「今、帰りか」彰子の背中から声がした。さっきの男の声だ。
彰子はそっと振り向いた。眼鏡をかけた背広姿の男が早足で近づいてくる。しかし彼の目は彰子にではなく、中年女性に向けられていた。その足音は、先程から彰子が聞いていたものに相違なかった。
彰子は中年女性を追い越して歩き続けた。夫婦と思われる二人は、並んで歩きだした様子だ。二人の声がしばらく後ろで聞こえていたが、やがてどこかに消えた。
自分の早とちりに、彼女は一人苦笑した。あの実直そうな男性は、つい先程まで変態扱いされていたと知ったら激怒するに違いない。
結局マンションに着くまで何事もなかった。このところずっとそうなのだ。尾行されることもない。気味の悪い手紙や電話を受け取ることもない。ゴミ袋を荒らされた形跡も、郵便物を探られている気配もない。何もかも、平和だった頃に戻った。
浜中洋一が逮捕されてからだ。あれ以来、おかしなことが起こらなくなった。
彼が異臭事件の犯人なのかどうかはわからない。しかし自分に対しておかしなことをしていたのは浜中に違いないと彰子は確信している。タイミングが合いすぎている。
他の女性たちにもそれとなく確かめてみたが、やはり彼の逮捕以後は何もないらしい。新海美冬も同じようなことをいっていた。
それにしても浜中はなぜあんなことをしていたのだろうか。二日ほど前、またしても加藤という刑事が現れて、浜中から誘われたことはないかという意味のことを訊いてきた。彰子は懸命に記憶を探ったが、思い当たることがなかったので、そのように答えた。刑事は黙って頷いていた。
浜中について、変な噂を聞いたことはある。真面目そうに見えて、案外女性に対してルーズだというものだった。くどかれそうになった女性も何人かいるらしい。しかし彰子自身にそういう経験はなかった。
マンションに入ると、彼女はメールボックスの中を見た。新聞とダイレクトメール以外、おかしなものは入れられてはいなかった。次に自分の部屋の前まで辿り着くと、今度はドアの隙間に何か挟まれていないかを確認した。いつの間にか、そういう習慣がついてしまったのだ。
しかし何も異状はなかった。彼女はほっと息をつき、ドアの鍵を外した。
部屋の明かりをつけた後、鳴りださない電話機を見つめながら、彼女は永久に浜中が戻ってこないことを祈った。
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第三章
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目をつぶり、金属の加工面を指先でなぞった。ごくわずかな凹凸を感じる部分がある。直感的に、約二十ミクロンと見当をつけた。紙ヤスリでその部分を軽くこすってやる。こすってはもう一度指先で触れる。十ミクロンというところか。あともう少しだ。額から流れる汗をタオルでぬぐった。今日も暑い。たぶん三十度を超えているだろう。エアコンは殆ど効かない。
再び紙ヤスリを金属面に当てようとした時、雅也は後ろから肩を叩かれた。
「三時だよ。休憩にしようや」福田《ふくた》がぶっきらぼうにいう。顔が大きくて頬が垂れ気味、おまけに耳も大きいので福の神という渾名《あだな》がつきそうだが、大抵の場合は無愛想な表情しかしていない。今もそうだ。
「これを仕上げたら行きます」
福田はわずかに顔をしかめた。
「休憩ぐらいまともに付き合いな。急《せ》いてる仕事でもねえだろ」
「はあ」
本当は現在の指先の感覚を失いたくなかったのだが、社長にいわれたのでは逆らえない。雅也は紙ヤスリを置き、作業台から離れた。
休憩所は工場の隅だ。古いテーブルを囲んでパイプ椅子が置かれている。中川《なかがわ》と前村《まえむら》が座って煙草に火をつけていた。雅也も作業ズボンのポケットから煙草を取り出した。中川は六十過ぎの小男で、溶接や焼き入れを得意にしている。三十代半ばの前村は工作機械全般を扱える。
福田の妻が麦茶の入った薬缶とコップを持ってきた。
「社長、この後はどうなってる? 例のシャフトの溶接、今日やることになってただろ。ブツがまだ届いてないけどな」中川が訊いた。
福田は早くも麦茶をおかわりしていた。こめかみから汗がしたたっている。
「あれはとりやめになった。いうのを忘れてたな」
「なんだ、キャンセルかよ」
「当分は必要ないってさ。あの口調からすると製造中止だな。あの健康器具、あんまり売れてないみたいだったし」
「またかよ」前村が口を尖らせた。「次々にアイデア商品を売り出すのはいいけど、いい加減にヒットさせてみろってんだ」
「この後はエアガンのほうをやってくれ。新しい図面が来てる」
「またエアガンか。売れるねえ」前村が感心したような声を出した。「今度はどういう銃だい。やっぱりピストルかい」
「コルトとかいうやつだ」
「あっ、俺、それなら聞いたことあるよ」
「フレームの図面が来てる。ちょっと細かいところがあるけど、それほど難しくない」
「この歳になってまさかピストルを作るとは思わなかったな」中川が短くなった煙草を空き缶に放り込んだ。じゅっ、という音がする。
「ただの玩具《おもちゃ》だよ、中さん」福田が宥《なだ》めるようにいう。
「それはわかってるけど、なんか落ち着かないんだよな。悪いことに使われたりしないかってね」
「考えすぎだって」前村がいう。「第一、そんなこといってる場合じゃねえぜ。仕事があるだけましだと思わなきゃあ」
福田もその言葉に頷いた。
「今のうちに作れるだけ作って、卸せるだけ卸しとこうと思ってるんだ。いつ、製造が禁止されるかわからんからな」
「そんなにやばいの?」前村が目を丸くした。
「エアガンメーカーの組合が抗議してるんだよ。この間、売らないでくれっていう申し入れが、小売店のほうに正式にあったらしい」
「で、小売店はどういってるんだ? まさかいうことをきくわけじゃないだろ」
「とりあえずは突っぱねてるみたいだ。だけど、そろそろ警察庁が動きだしてるそうなんだ。あんまり突っ張って警察を怒らせるのはまずいから、ある程度の時期が来たら自主規制ってことになるかもしれん」
「それまでが花ってわけか」前村が麦茶を飲み干した。
雅也は話に加わらなかったが、内容は理解していた。
サバイバルゲームの流行に伴ってエアガンの人気が高いが、昨年あたりから、エアガンの本体ではなく、その部品だけが売り出されることが多くなった。部品の特徴はただ一つ、金属製ということだ。
日本遊戯銃協同組合は、「けん銃型エアガンの本体はプラスチック製にする」という自主基準を作っている。プラスチックならば、いかに本物そっくりでも銃刀法に引っかからないからだ。
ところが昨年、複数の部品メーカーが、アルミ製の部品を作り始めた。エアガンマニアはその部品を買い、プラスチックの部品と取り替えるわけだ。殆どすべての部品が発売されているので、その気になれば完璧に金属製のエアガンを作ることもできる。その完成品は明らかに銃刀法でいうところの模造拳銃である。
この事態に最初に反応したのは警察ではなく日本遊戯銃協同組合だった。何か事件が起きた時、エアガンそのものが問題視されるおそれがあるからだ。組合は、いくつかの部品メーカーに製造販売の中止を求めている。しかし今のところ、その指示にしたがっているメーカーはない。当然だった。人気のある銃の部品ならば、一万円前後するものでも一万個近く売れるのだ。一つの銃に部品はいくつもある。エアガンの種類が増えれば、さらに需要もあがる。部品メーカーにとっては、久々のヒット商品だった。
福田の妻が盆に何か載せてやってきた。
「昨日と同じもので悪いんだけど」痩せた妻は申し訳なさそうにいった。
テーブルに置かれたのはカップ入りのゼリーだった。中川が真っ先に手を伸ばした。甘いものが嫌いな前村は苦笑している。
「ところで、最近ヤスの顔を見たかい?」中川が福田に訊いた。
「ヤス? いいや」
「このところパチンコ屋でも見かけないんだよ。どうしてるのかな」
「奥さんなら見かけたぜ」前村がテーブルに頬杖をつき、麦茶をコップに注いだ。
「どこで?」福田が訊いた。
「川口の駅前。スーパーでレジやってた。胸に実習生って書いた札をつけてた」
「パートか」早くもゼリーを食べ終えた中川がため息をついた。「ヤスは働けないからなあ、奥さんとしちゃあ自分がやらなきゃって気になるよな。健気なことだ」
「だけど川口じゃ、ヤスの家からはちょっと遠いんじゃないか」
「わざと遠くのスーパーにしたんだよ、決まってるだろ。知り合いとかに会いたくねえだろうからな。だから俺だって、声をかけるのを遠慮したんだよ」
前村の答えに、福田と中川は合点したように頷いた。
「ヤスさん、ついてなかったわねえ。これからどうするのかしら」福田の妻がぽつりといった。彼女の名前を雅也は知らない。
「どうするんだろうな。職人が指を動かせないんじゃ、話にならねえもんなあ」前村が顔を歪め、短く刈った頭を掻いた。
「やっぱり動かないのか。あれから何か月も経つじゃないか。病院には通ってないのかな」中川が首を傾げる。
「前に会ったのは四月だったけど、あの時はまだ動かないみたいだったな」福田が自分の右手を見つめながらいった。「コーヒーのカップも左手で持ってた。右手は全然使ってなかった。手術をすりゃあ見込みがあるようなことをいってたけど、どうなったのかな」
「馬鹿な奴だ。あれだけ気をつけろっていってたのに、性懲りもなく遊ぶから、ああいうことになるんだ。おかげで女房を働かせなきゃならないなんて、みっともないとは思わんのかなあ」
「まあそういうな。ヤスだって、あんなことになるとは思わなかっただろうよ」
「そうはいうけど、社長にだって迷惑がかかったじゃないか。あの時、型彫りの仕事がいくつかあっただろ。ヤスがいないと進まないんで困った」
「それはそうだけど」
「社長はそんなに困んなかったよな」前村が立ち上がり、タオルを首に巻いた。ちらりと雅也に視線を投げる。「腕のいい代わりがすぐに見つかったからよ。あの事件に感謝してんじゃないの」
「おい」
「ごちそうさん。仕事にかかるよ」
前村は雅也の横を通って作業場に向かった。
「じゃ、俺もそろそろ」中川も腰を上げた。
雅也は、まださほど短くなっていない煙草を、空き缶に入れた。福田が尻を浮かし、彼の耳元に囁きかけてきた。「気にするな」
「別に気にしてませんけど」
福田の妻がテーブルを片づけ始めた。それを横目で見ながら福田は小声でいった。
「後で話がある。仕事が終わった後、残ってくれ」
フクタ工業は千住《せんじゅ》新橋のそばにある小さな町工場だ。小さな、とはいっても、かつて雅也の父が経営していた水原製作所よりは一回り大きい。経営状態も、昨今の不況を考えれば健闘しているといってよかった。従業員は三人だ。社長の福田は以前脳血栓で倒れたことがあり、それ以来めったなことでは自分では作業をしないという。
雅也がこの工場で働くようになったのは、二月末からだ。上京してきたはいいが、なかなか働き口が見つからず、焦っていた。父親の生命保険金は入ってきたが、水原製作所の債務整理を済ませると、思った程には残らなかった。だが製造業が伸び悩んでいる昨今では、技能を持っている彼でも、就職先を見つけるのは容易ではなかった。どこの工場でも、現場作業者を減らす方針だった。
そんな時、美冬がフクタ工業のことを教えてくれた。比較的安定して仕事のある会社らしいから雇ってもらえるのではないか、というのだった。彼女はそのことを、『華屋』に来る客から聞いたらしい。
だが最初に雅也が訪ねていった時には、門前払いも同然だった。人手が足りているから職人を増やす気はない、と福田に冷淡な口調でいわれた。
それでも雅也は自分の履歴書だけは渡しておいた。彼の取得している資格や免許の多さに福田は一瞬目を見張った後、何かあったら連絡するといっただけだった。
その福田から突然電話があった。放電加工機を使って型彫りをしたことがあるか、と訊かれた。前に何度も使っていると答えると、だったら明日工場に来てくれと福田はいった。
翌日雅也はフクタ工業に出向いた。その場ですぐに仕事を与えられた。正式な紹介も何もなかった。その日が雅也にとっての入社日ということになる。
何があったのか、雅也は詳しいことを殆ど知らない。教えられたのは、安浦《やすうら》という職人が事故に遭って仕事ができなくなった、ということだけだ。しかし最近では、単なる事故ではなかったらしいと雅也は気づいている。どうやらそれは、事件と呼んだほうがふさわしい出来事だったようだ。だがそのことについて詮索する気はなかった。
五時になると、前村や中川はさっさと仕事をやめて帰っていった。というより、元々仕事があまりなかったのだ。三時に休憩をとったばかりだというのに、中川などは四時過ぎになると煙草ばかり吸っていた。
雅也が着替えを終え、休憩所で雑誌を読んでいると、福田がやってきた。
「なんだ、もう着替えちまったのか」
「あかんかったですか」
「ちょっと頼みたいことがあったんだ。これ、作れるかい」
福田がテーブルに置いたのは一枚の図面だった。ステンレス鋼板に何本かの細い溝が斜めに入っている。その寸法の細かさに雅也は目を見張った。面の仕上げも最上級のものが要求されている。これは何の部品だろうと思った。これまでに作ったことのないものだ。
「何ですか、これ」
「うん……機械の部品だ。個人的に頼まれた仕事でな」
「結構、きつい精度が求められてますね」
「無理か」
「時間さえかければできると思いますけど」
「そうか。あんたならできるんじゃないかと思った。残業手当をつけるから、今からちょっとやってもらえないか」
「いいですよ」雅也は椅子から立ち上がった。作業着に着替える必要もなかった。どうせTシャツにジーンズという出で立ちだ。
フライス盤に鋼板をセットしていると、福田が近づいてきた。
「じつはな、中さんに辞めてもらおうと思ってる」
雅也は手を止めた。「なんでまた……」
「正当な理由はある。この間納入した部品の一割にクレームがついた。溶接の歪みが大きすぎるんだ。ビードも汚い。以前じゃ考えられないことだが、中さんも歳のせいで目が怪しくなってる。本人は隠してるが、仕事はごまかせんよ」
「仕事はほかにもあるやないですか」
「ないんだよ」福田はいった。じっと雅也の目を見つめてきた。「仕事なんて、そんなにないんだ。大企業がリストラに励んでるって時に、うちみたいな町工場が役立たずを置いとけない。中さんには近いうちに話す。本人には、溶接の仕事がないからと説明するつもりだ。忙しくなったらまた声をかける、というふうにな」
実際にはそんなつもりはない、というニュアンスが、その口調から読み取れた。
「あんたは溶接の腕もたしかだ。あんたがいてくれれば中さんはいらない」
「けど、俺が溶接の仕事をやりだしたら、前村さんの口から中川さんに伝わりますよ」
「だから溶接の仕事は、前村がいない時にしてくれればいい。前村も、これからは毎日工場に来てもらう必要がなくなるし」
「時間雇いにするということですか」
「まあ、いろいろとやり方はあるよ」福田は頭を掻いた。
雅也は吐息をついた。ここも同じなのか、と絶望的な気分になった。
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東武伊勢崎線を曳舟《ひきふね》駅で降り、アパートに帰る途中、雅也は行きつけの定食屋に寄った。『おかだ』という店だ。夕方からは居酒屋も兼ねている店で、近所の商店主といった雰囲気の客や、職人風の男たちの姿が多い。六人掛けのテーブルが主なのは、相席を想定しているからだろう。たまたま隅の四人掛けが空いていたので、雅也はそこに座った。頭上にテレビがあり、ナイター中継がかかっている。その席が不人気なのはテレビが見られないからだった。
ユウコがおしぼりを持ってきた。
「今晩は」にっこり笑いかけてくる。
「焼き魚定食とビール」
はい、と短く返事して彼女は厨房に下がった。
ユウコの年齢は二十代前半といったところだ。化粧気は殆どなく、いつもジーンズにTシャツという出で立ちだ。ユウコという名前は、他の客や彼女の母親らしき女性が呼んでいるのを聞いて知った。母親はふだん奥にいるが、忙しくなると店を手伝う。料理は父親がすべて行っているようだ。かつては有名な料亭の板場にいたらしい。雅也は上京してきた時、果たしてこちらの料理の味が自分の舌に合うだろうかと不安に思っていたが、この店に出会えたことでその心配は消えた。
ほかの客がテレビを見て、手を叩いた。贔屓《ひいき》の球団が得点したらしい。もちろん巨人のことだ。自分は阪神ファンではないが、迂闊には口をきけないと雅也はいつも思う。関西弁を聞かれたら、忽《たちま》ち難癖をつけられそうだ。
言葉を早く直せと美冬はいう。関西弁が有利な時もあれば不利な時もあるから、自在に使い分けられたほうがいいのだそうだ。実際美冬は見事に使いこなしている。いわれなければ、彼女が関西出身だとは誰も思わないのではないか。
「標準語なんか簡単やろ。英語やフランス語を覚えろというてんのと違う。日本語や。しかもテレビから毎日流れてくるんやから、いやでも耳に入ってくる。それを覚えていったらええことやないの」
簡単にいってくれるが、いくら耳に残っていても、話せるかどうかは別問題だ。言葉は話してこそ身につく。しかし今の雅也に、頻繁に会話する機会などなかった。元々話が上手なほうでもない。
ユウコが料理を運んできた。雅也が割り箸を割る間に、コップにビールを注いでくれた。彼は驚いて彼女を見上げた。
「阪神は、今年はどうだろうね」彼女は彼の顔を見ずにいった。
「さあねえ」彼は苦笑してみせた。彼女は彼のことを阪神ファンだと思い込んでいる。おそらく言葉のアクセントから勝手に推測したのだろう。彼も敢えて否定しない。
「今日、おにぎりはどうする?」
「そうやな、じゃあ梅干しと鰹節を一つずつ」
「梅と鰹ね」彼女は頷いて戻っていった。
雅也は鯵の塩焼きを食べながらビールを飲んだ。一日の疲れが取れる瞬間だ。家の工場で働いていた時には、こういう幸福な時間が殆どなかった。頭の中ではいつも工場の経営状態のことが引っかかっていた。
しかしフクタ工業にしても、安穏としていられるわけではないようだ。福田とのやりとりが蘇る。
何のことはない、これでは水原製作所の末期と全く同じだと雅也は思った。大勢雇っていた従業員を次々と解雇し、仕事の規模も縮小させる。物事が悪いほうへ向かっていく悪循環の典型的パターンだ。
とはいえ福田の気持ちはわかる。雅也も働き始めてすぐに、この工場で職人三人は不要だと思った。すべてをこなせる人間が一人いれば、おそらくやっていける。福田は雅也の腕を見て、彼一人で十分だと判断したのだろう。
それにしてもあの部品は一体何だろう――。
雅也が作り上げた部品を見て、福田は満足したようだった。出来を褒めた後、彼は小声で付け加えた。
「このことはほかの二人には黙っておいてくれ。奴らの知らない部品だ。それから、たまに注文があるから、これからも頼む」
雅也は黙って頷いた。手当をもらえるなら文句はなかった。
夕食を終えると、煙草を一本吸ってから雅也は席を立った。勘定の後、ユウコが紙に包んだおにぎりを差し出した。「はい、これ」
「ありがとう」夜食用に、おにぎりを買って帰るのも習慣になっている。
「あっ、それから」ユウコが小さな紙袋を出してきた。「甘いものは苦手?」
「そうでもないけど」
「じゃあこれも。特別大サービス」彼女は鼻の上に皺を寄せた。
『おかだ』を出て五分ほど歩いたところにアパートはある。二階建ての小さな建物だ。上京してきた当時、雅也は無職だった。保証人もいない。その状況で部屋を見つけるのはかなり困難だった。土地鑑もまるでないのだから、彼一人ではどうにもならなかったかもしれない。
部屋に帰り、蛍光灯をつけたところで電話が鳴った。
「もしもし、あたし」
「うん」
「今から行ってもええかな」
「ええよ」
「じゃあ、十分後に」そういってすぐに電話が切れた。
十分後ということは、彼女はこの近くから電話をかけてきたことになる。いつもそうだ。彼女が自宅からかけてきたことは、彼の覚えているかぎり一度もない。
間もなくドアホンの安っぽい音がした。雅也は立っていって鍵を外した。彼女はこの部屋の鍵を持っていない。雅也も彼女の部屋の鍵を預かっていない。
新海美冬はTシャツの上にデニムのシャツを羽織っていた。下はジーンズだ。ここへはあまり女っぽい服を着てこない。髪も丁寧にはセットされていない。
「元気やった?」足を投げ出すようにして座り、彼女は訊いてきた。最後に会ったのは十日ほど前だ。
「まあ、ぼちぼち」
「仕事のほうはどう?」
「おかしなことになってきた」
雅也はフクタ工業でのことを美冬に話した。彼女が深刻な顔をするのではないかと思ったが、逆に目を輝かせてきた。
「要するに雅也の腕が見込まれたということやろ。よかったやないの」
「けどそのために、二人が職を失うことになりそうや」
「それがどうしたの? この世は弱肉強食、弱い者が食われるのは仕方ない」
雅也は黙った。美冬のいっていることはわかる。しかし何か釈然としない。
「雅也」美冬が静かにいった。「あたしらは、きれい事をいえる身分やないねんで」
彼は頷いた。そのとおりだと思う。あの大地震の日、俊郎を殺した瞬間から、自分の人生は変わってしまったのだ。
「これ何? ケーキ?」重たくなった空気をほぐすように明るい声を出し、美冬はテーブルの上の紙袋に手を伸ばした。「あっ、『ハーモニー』のシュークリーム。珍しいね、雅也でもお菓子なんか買うことあるの?」
「買《こ》うたんやない。定食屋の女の子からもろた」
「定食屋の?」一瞬美冬の目が光った。「そういえば、かわいい子がいるっていうてたね」
「かわいいなんていうてへん」
「そうやったかな。どっちにしても雅也に気があるんやな」
「そんなわけないやろ」
「隠さんでもええやん。別に悪いことをしてるわけやなし。一つもろてもええ?」
「ええよ」
いただきますといって彼女はシュークリームを齧った。唇についたクリームを指先でぬぐってから彼を見た。「雅也」
「なんや」
「その子と寝たいのやったら、寝てもええで」
彼女の言葉の意味が咄嗟にはわからず、雅也の反応が遅れた。
「何をいうてるんや、あほらしい。そんなことするわけないやろ」
「寝てもええけど、条件がある」美冬は彼のほうに顔を近づけてきた。じっと目を見つめてくる。「絶対に女の子の中で出さへんこと。それだけは誓って」
雅也は眉を寄せた。美冬が冗談でいってるのではないことを感じ取っていた。
「もしそんなことをしたら、あたしらの仲は終わりや。全部パーやで」
「くだらん。そんなことせえへんというてるやろ」
雅也は煙草とライターに手を伸ばした。
美冬はにやりと笑い、シュークリームを頬張った。
「おいしいわ。やっぱり『ハーモニー』のシュークリームは最高や。雅也も食べたら」
舌打ちを一つし、彼は煙を吐いた。
ペニスが彼女の中で脈打っていた。雅也は快感を求めて、全身の筋肉を駆使した。噴き出した汗が美冬の乳房に落ちる。頭の芯が周期的に痺《しび》れてきた。
射精の気配を感じ始めた。今夜はいいのではないか、と彼は頭の隅で考えていた。ほかの女の中には絶対に出すなといった。あれはつまり、出すならば自分の中に、という意味ではないのか。
彼女が何もいわないなら、このまま最後までいってしまおうと雅也は思った。妊娠するかもしれない。しかしその時はその時だ。覚悟はできている。
快感の波がやってきた。彼は下半身の動きを強めようとした。
「あかんよ」
だがその時、美冬の身体がするりと上に逃げた。彼女は素早く上体を起こした。
「なんで……」
「あかんの」
美冬は雅也を座らせ、唇を重ねてきた。彼女の手は彼のペニスに伸びていた。指先が尿道を撫で、陰茎を擦った。どこをどう刺激すればいいのか熟知している動きだった。
再び快感のピークが迫ってきた。雅也は小さく呻き、彼女に導かれるまま放っていた。
「なあ、ちょっと訊いてもええか」
雅也は布団に横たわり、天井を見つめていた。右手を自分の腕枕にし、左手を軽く曲げている。その腋の中には美冬の頭があった。彼女は彼の胸に手を置いている。
「なあに?」美冬が甘えた声を出してくる。
彼は唇を舌で濡らしてからいった。
「コンドームをつけてもあかんのか」
この言葉を聞くや否や、彼女の様子が変わった。顔は見ていないが、その表情が厳しくなる気配があったのだ。
「そのことやったら、前に話したやろ」
「忘れた。もう一回説明してくれ」
美冬はため息をついた。彼の腋から離れ、上半身を起こした。
「なんで雅也はそんなに中でいきたいの?」
「そんなん男やったら当然やないか。一番気持ちのええ時に、自然に出したいもんや。妊娠が怖いから外に出すこともあるけど、ほんまは誰もそんなことしたくない。せやからコンドームをつけるんやろ」
「あたしが手でしたげるやないの。気持ちええことないの?」
「そんなことはないけど、やっぱり好きな女を抱きながらいきたいもんや」
美冬はさらに少し離れ、タオルケットで身体の前を隠し、壁にもたれた。
「それで嬉しい女も多いと思う。ただあたしは、雅也にはそんな男になってほしくない。本能に流されて、セックスに支配されてほしくない。どんな時でも欲望をコントロールできる男であってほしい」
「俺は欲望に流されたりせえへん」
わかってないな、というように美冬は頭を揺らした。
「射精できるとなったら、それがセックスの目的になる。雅也は快感を求めることを優先する。それでは凡人と一緒や。あたしらはそれではあかん。セックスするかぎりは、相手を支配するつもりでないとあかん。自分の快感は二の次三の次や。そうするためには射精を目的にしないこと。それしかない」
「美冬はセックスも人間を操るための手段やというのか」
「当然やろ、そんなこと。自分の利益にならんセックスになんか何の意味もない」
雅也はゆっくりと起き上がり、頭を掻きむしった。
「俺とのセックスには意味があるのか」
美冬がふっと笑った。
「雅也とは愛情を確認し合うという意味がある。けど、それでも雅也には欲望に負けてほしくない。セックスはしても射精を求めない男であってほしい。そうなった時、雅也はまた一回り強い男になれる」美冬は雅也の足に触れた。その手をゆっくりと動かし、脹《ふく》ら脛《はぎ》を撫でた。
雅也は釈然としない思いをどうすることもできずに困惑していた。美冬のこの奇妙なセックス感がどこから来ているのか知りたかったが、これ以上問い詰めることは、危険な泥濘《ぬかるみ》に足を突っ込むようで怖かった。
「ああ、そうや。あれ、できてるで」空気を変える目的で雅也はいった。
「ほんと?」美冬の目が輝いた。
雅也は全裸のまま立ち上がり、小さな机の引き出しに入れてあったものを取り出した。それを掌に載せ、美冬の前に差し出した。「ちょっと苦労したけどな」
彼女の目の光はますます強くなった。彼の掌からそれをつまみ上げた。
それは指輪だった。材質は銀だ。材料は彼女から渡されていた。
「すごいやないの。やっぱり雅也やわ。あたしの希望通り」
「彫金は高専時代にちょっとやっただけやから、一から勉強し直したで。それでも何遍も失敗した。たまたまうちに専用の機械があったからよかったけど、そうでなかったら難しかったやろうな」
彼の話を聞いているのかいないのか、美冬は指輪に見入っている。やがて輝きに満ちた目を彼に向けた。
「この三つの石の取り付け、上手にできてるね。難しくなかった?」
「それは一番難しかったな。いろいろと試行錯誤した」
「すごいわ。雅也やったらできるかもしれへんと思たけど、こんなに早く、しかもこんなに奇麗にできるとは思わへんかった」彼女は改めて指輪を眺めた。「ありがとう、雅也。これで一勝負する自信が出てきた」
「そのことやけど、一勝負って一体何やねん」
「それは内緒。うまいこといったら教えたげる」美冬は指輪にキスした。
雅也は台所に行き、冷蔵庫から缶ビールを一つ出してきた。プルトップを引き、溢れそうになった泡をすくいとるように一口飲んだ。
指輪の図面を見せられたのは一か月ほど前だ。これを作れないかというのだった。じつは上京した直後に、彫金はできるかと尋ねられたことがあった。少しはできる、とその時彼は答えた。実際、経験があったからだが、本格的なことを要求されるとは思わなかった。
彼女から見せられた指輪の図面が奇抜なものであることは、彫金については基礎的なことしか知らなかった雅也にもわかった。大きな特徴は宝石の配置にあった。三つの異なる石が立体的に配置されているのだ。そんなデザインの指輪は一度も見たことがなかった。
缶ビールを持ったまま彼は美冬の隣に戻った。彼女はまだ指輪を見つめている。
「ひとつだけ確認しておきたいんやけどな」雅也はビールを飲んでから続けた。「その一勝負というのは、やばい話やないやろうな」
美冬が指輪からゆっくりと彼のほうに顔を巡らせた。
「どういう意味?」
「この四月みたいなことはないやろうな、という意味や」
雅也は厳しい顔を作ったつもりだったが、それをかわすように彼女は微笑んだ。
「やばいことなんか何もない。四月の件にしてもそう。雅也に何か迷惑がかかった? 何もなかったやろ? あたしを信じて」
「けどあれは」
「きれい事をいうのはやめよ、雅也」彼の心中を見抜いたかのように釘を刺した。「二人で戦い抜いていくと約束したやろ。周りは全部敵。あたしらが生き残っていくためには、お上品なことはしてられへん」
「それはわかってるけど、俺は美冬のことが心配なんや」
「あたしは大丈夫。雅也が味方でいてくれるかぎりは戦い続けられる。だから雅也」彼女はやや吊り上がり気味の大きな目を彼に向けてきた。「あたしを裏切らんといてね」
彼女に見つめられると雅也は身体の芯まで引き込まれそうな錯覚を感じる。瞬きをし、軽く頭を振ってから頷いた。
「俺はいつでも美冬の味方や。絶対に裏切らへん」
「ありがとう、嬉しい」美冬は右手を彼の首に回した。そのまま彼を引き寄せ、鼻の上にキスした。
服を着た後、二人で缶ビールを飲んだ。美冬がこの部屋に泊まったことは一度もない。今夜も帰るつもりらしかった。
「ところで、何か俺に用があったんと違うのか」雅也はピーナッツを口に放り込んだ。
「うん、ちょっと頼みたいことがあって」
「何や」
「ある人について調べてもらいたいと思て」
「またか」雅也は顔をしかめた。「また尾行したり、ゴミ袋を漁ったりするのか」
「ゴミ袋は漁らんでもええけど、尾行は必要かな」彼女は首を少し傾げた。
「誰のことを調べるんや。また『華屋』の従業員か」
「今回は『華屋』は関係ない」
彼女はバッグから一枚の写真を出してきた。それを雅也の前に置いた。
そこには一人の男が写っていた。顔が小さく、顎が尖っている。小さめのサングラスはよく似合っているといっていいだろう。細いパンツを穿き、白いシャツをラフに着こなした姿も野暮ったくはない。何かの店の前らしいが、立ち方も垢抜けていて、芸能人のような雰囲気が漂っていた。
「誰や、これ」
「名前はアオエシンイチロウ」美冬はそばにあった週刊誌の余白にボールペンで、青江真一郎と書いた。
「美容師や」
「美容師? へえ、男の美容師か」雅也はもう一度写真を見た。その職業に関する知識は何もなかった。
「別に珍しくないよ。今はどこの店にも男性美容師がおる」
「何のためにこいつのことを調べるんや」
「それはもちろん、あたしらの夢を叶えるためや」
「夢を? こいつが叶えてくれるんか。ただの美容師が?」
「雅也、馬鹿にしたらあかんで」美冬は写真を両手で持ち、彼のほうに向けた。「この男の顔をよう見とき。あたしらの運命を変えてくれるかもしれん男や。あたしらにとっては金の卵を産む鶏かもしれん男やで」
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翌週のフクタ工業の仕事はモデルガンの部品作りが主だった。鋳造されてきた部品を一つずつ丁寧に仕上げていくのが雅也の仕事だった。
引き金の部品をヤスリで仕上げていた時だ。手元が暗くなったので顔を上げると、作業台の向こうに見たことのない男が立っていた。ランニングシャツの上にアロハシャツを羽織っている。口には楊枝をくわえていた。年齢は三十代半ばというところか。
「社長は?」ぞんざいな口調で訊いてきた。奥に目を向けたままで、雅也の顔を見ようとしない。
「奥にいると思いますけど」
雅也のアクセントが関西弁だったからか、男は不思議なものを見るような目を送ってきた。雅也が見返すと、男の視線は作業台の上に移った。仕上げの終わった部品を一つ手に取った。皮脂がつくから素手で触らないでくれ、という前に、男はそれを元の位置に戻した。
「まあまあってところだな」そういった後、男は奥に入っていった。
「ヤス、何やってんだ」ボール盤の陰から声がした。前村だ。
よう、と男は答えた。左手を上げる。右手はズボンのポケットに突っ込んだままだ。あの男が安浦なのか、と雅也は合点した。
前村が通路に姿を見せた。
「ずいぶん久しぶりじゃねえか。どうしてるんだろうって、この間もしゃべってたところだ。元気かよ」
「まあぼちぼちやってるよ。そっちはどうだい」
「相変わらずさ。玩具ばっかり作ってるよ」
「でも仕事はあるんだな」
「さあ、どうかねえ」前村は首にかけていたタオルで顔を拭いた。「今日は何しに来たんだ?」
「ああ、まあ、ちょっと挨拶にさ。ところで中さんの姿が見えねえな。また腰痛かい」
「そのことだけどよお」
前村の声が低くなって雅也には聞こえなくなった。しかし何の話をしているのかは察しがついた。
土日の間に、福田は中川に解雇通告を行ったらしい。週が明けてから中川は来なくなった。異変に気づいた前村が福田から事情を聞き、大声で抗議していたのを雅也は聞いている。あの歳でクビにするなんて無茶じゃねえか、これから中さんはどうすりゃいいんだ、今までさんざんこき使ったくせによくそんな薄情なことができるよな――。余程腹に据えかねたのか、午後になると前村は帰ってしまった。だが皮肉なことに、彼が早退けして判明したことは、雅也一人でも工場は十分に機能するということだった。前村は、そのことを知らない。明日は我が身という危機感も、今はまだ抱いていないだろう。
「ひでえ話だな。溶接ができないんじゃ、仕事に響くだろ」安浦がいった。
「最近は溶接の仕事はさっぱりなんだ。それで社長も踏ん切ったみたいだな」
「ふうん」安浦は何かを考えているようだった。「社長、いるかい」
「いるはずだよ。帳簿とにらめっこして唸ってるんだろ、どうせ」
「ちょっと挨拶してくるよ」安浦は事務所兼母屋のドアをくぐった。
それから少しして三時の休憩に入った。雅也が休憩所に行くと、前村が一人で煙草を吸っていた。雅也が来てから何か月にもなるが、前村から話しかけてくることは殆どなかった。雅也にも話す気はない。気まずい休憩になりそうだと思っていたら、福田の妻が例によって麦茶の入った薬缶とコップ、それからスナック菓子を盆に載せてやってきた。中川がいなくなったので、おやつに甘いものが出なくなった。
「ヤスと社長、何話してんの?」前村が訊いた。
さあ、と福田の妻は首を捻る。話の内容を知らないはずはなかったが、口にすべきではないと考えているようだ。
やがて福田と安浦が出てきた。
「なあ、頼むよ。とにかく一度見てくれよ。もう大丈夫だからさ」安浦が何か食い下がっているようだ。福田は難しい顔をしている。
「そういわれても、うちにはそんな余裕はないんだ。悪く思わんでくれ」
「俺がいなくて困ったはずだぜ。ここの機械はどいつもこいつも癖があるからよ、俺でなきゃ使いこなせねえはずなんだ」
「その言葉を何年も信じてたがな、今じゃあ三味線だったってわかってるんだ。さあ、諦めて帰ってくれ。こんなところにいるより、ほかを当たったほうがいい。奥さんがスーパーで働いてるそうじゃないか。早く次の勤め先を見つけんとな」
「だからこうして」
「うちはだめなんだ。すまんな」福田は安浦に背を向け、パイプ椅子に腰掛けた。
安浦はしばらく福田の丸い背中を睨んだ後、そばのバケツを蹴飛ばした。
「わかったよ。そこまで冷たい男だとは思わなかったぜ」捨て台詞を吐き、工場を出ていった。
前村が福田を見た。「雇ってくれってかい?」
「ああ。右手はもう大丈夫だとかいってな。見たところ、あれはまだだめだ。もっとも、治ってたとしても雇う余裕はないけどな」
がたんと音をたてて前村は立ち上がった。その後何もいわずに飛び出していった。安浦の後を追うつもりらしい。
福田がため息をついた。
「あいつも、自分のことを心配したほうがいいのにな。今のまま、ずっと仕事があると思っているとしたら、とんだ間抜けだ」
「あなた……」
「いいんだよ、こいつには話してある」福田は麦茶を飲んだ。
「安浦さんって、手が動けへんのですか」
「全くということはないけど、仕事は無理だろ。隠してるけど、見ればわかる」
かわいそうにねえ、と福田の妻が呟いた。
「刺されたんだよ」福田がいった。
えっ、と雅也は聞き直した。意味がよくわからなかったのだ。
「女に刺されたんだ。ここんところをな」右手の甲を指差した。
「事故に遭ったって聞きましたけど」
「世間体が悪いからな。本当のところはそういうことなんだよ」
「なんでまた……」
「自業自得さ」ふん、と福田は鼻を鳴らした。「池袋で女を買ったらしい。それでホテルに行ったら、お決まりのやつさ。睡眠薬を飲まされて眠り込んじまった。財布をとられるだけならよかったが、手をナイフで刺された。神経までやられて、おかげであのザマさ」
雅也は自分の手の甲を撫でていた。「警察には?」
「届けたさ。だけど似たような事件が多いからな、なかなか本腰を据えて調べちゃくれない。助平根性を出したほうが悪いっていう本音も警察にはあるんだろ。まあ、俺もそう思うよ」
「すると犯人は捕まってへんのですか」
「捕まるわけないだろ」福田はスナック菓子に手を伸ばした。
仕事が終わった後、雅也は夕食を済ませてから渋谷に出た。最近になってようやく東京の地理にも慣れてきたが、まだ少し迷ったりする。渋谷は特に苦手な街だったが、美冬の頼みはきいてやらねばならない。
宮益坂《みやますざか》沿いのいつもの喫茶店に入った。いつもの、というのは、このところ連日通っているからだ。
窓際のテーブルが空いていた。そこに腰を落ち着け、コーヒーを注文した。煙草とライターを取り出す。
道を挟んで向かい側に真新しいビルが建っている。二階に『ブーシュ』という美容院がある。ガラス張りで、下からだと白い天井が見えた。
雅也は時計を見た。八時五分前だった。『ブーシュ』の営業時間は午後八時までだ。しかし客が残っていることが多いので、完全に閉店となるのは八時半頃だ。さらにスタッフが出てくるのは、それより十五分ほど後になる。したがって、目的の相手が出てくるまで四十五分ほど待たねばならない計算だが、それを見越して遅く来るわけにもいかなかった。八時ちょうどに店が閉まることもあるからだった。
彼はシャツのポケットから写真を出した。もう必要がないほどに顔は覚えている。
青江真一郎――この男がなぜ金の卵を産む鶏になりうるのか、雅也にはまるでわからなかった。美冬に訊いても、「それは今後のお楽しみ」というだけなのだ。「雅也の働きにかかってるしね」とも付け加えた。
昨日までの調査で、青江が戸越《とごし》銀座の近くに住んでいることはわかった。五階建てのワンルームマンションだ。自家用車は持っていない。行きつけの飲み屋は現時点では不明。マンションのそばのコンビニでファッション雑誌をかなりたくさん買う。コンビニ弁当も頻繁に買うから、自炊は殆どしていないようだ。
雅也はコーヒーを飲みながら煙草を吸った。コーヒーがなくなったので、しばらくしてミルクティーを注文した。時計の針は九時近くになっていた。『ブーシュ』の明かりはついたままだ。これほど遅くなったことはこれまでになかった。美冬によれば、大きな美容院では定期的に勉強会のようなことをするらしい。洗髪だけを任されているような新入りも、そうした勉強会で腕を磨いていくのだそうだ。今日がそれだとしたら長丁場になるかもしれないと思い、雅也は憂鬱になった。
九時を回り、さらに時計の長針が三分の一ほど動いた。ミルクティーがすっかり冷めてしまった頃、『ブーシュ』のドアが開き、店のスタッフと思われる若者たちが出てきた。その中に青江真一郎も混じっているのを見つけ、雅也は腰を浮かせた。
いつもならば青江は渋谷駅に向かって歩き始めるはずだった。ところが今夜は新米のスタッフに手を振って別れを告げると、そのままそこに残った。
雅也は支払いを済ませ、喫茶店を出た。青江がタクシーを拾うのではないかと思ったからだ。この通りは混んでいて車の動きは緩やかだが、青山通りに出れば方向によっては一気に走りだすおそれもある。尾行するには一秒でも遅れたくなかった。
青江に気づかれぬよう道を渡った時、ビルから一人の若い女が出てきた。ジーンズに白いTシャツ、ショートカットの髪は茶色く、帽子をかぶっていた。
女は青江に歩み寄った。二人は当然のような顔をして並んで歩きだした。渋谷駅の方向だ。
女の写真を撮りたい、と雅也は思った。単なる職場の同僚ではないと直感していた。
「たしかに写真が欲しかったなあ。けど、名前がわかったんやから、『ブーシュ』に行ったらいつでも顔は見られるわけやね」雅也の話を聞き、美冬は頷きながらいった。
「住所もわかってる」彼は自分で書いたメモを指した。神泉町とある。「しんせんちょう……かみいずみ、て読むのかな」
「しんせん、でええんよ。で、青江は彼女のマンションに泊まったわけやね」
「十一時半まで待ったけど出てけえへんかったから、たぶん泊まったんやないかと思う」
女の名前は飯塚《いいづか》千絵《ちえ》だ。名字は表札からわかったが、名前は後日改めてマンションに行き、郵便物から調べた。他人の郵便物を覗くことに以前は抵抗を覚えたものだが、今はかなり慣れた。
「青江が千絵の部屋に行ったのは、一週間のうちでも水曜日だけ。勉強会で遅くなったついでに泊まるんと違うかな」
「同棲してる気配はないんやね」
「今のままでは無理やな。というのも、どっちも小さなワンルーム住まいや。同棲しよと思たら、引っ越さなあかんやろ」
「付き合《お》うてる期間はどれぐらいかな」
「最近付き合いだした、という感じではなかった」
「そう」美冬はそれを聞いて考え込んだ。
「なあ、あいつのことを調べて一体どうする気や。十日近くも張り込んだけど、別にどうってことのない男やないか。あの美容師がなんで金の卵を産む鶏なんや」
すると美冬は雅也の顔をじっと見つめた。
「雅也、髪の毛ずいぶん伸びたな。そろそろ切ったほうがええんと違う?」
「まさか俺に『ブーシュ』で切ってこいとかいうんやないやろな」
「ええやないの、どうせどこかで切るんやから」
「勘弁してくれ。美容院なんか入ったこともない」
「やっぱり恥ずかしい?」
「当たり前やないか」
「そう? けどね、その当たり前が当たり前でなくなる時が来るかもしれんよ」
「どういう意味や」
「これからは男も当然のように美容院に行く時代や。若い男の子だけでなく、雅也みたいな大人も行く」
「まさか」
「景気が悪うなっても、人間は自分を磨くことには金を惜しまへん。むしろ、自分を磨くことにしかお金を使えへんようになる。中でもヘアスタイルを整えるのは、一番手っ取り早いことやからね」
「それで美容院が流行《はや》るとでもいうんか? そんなうまいこといくかな」
「まあ見とき。あたしの直感は外れたことがないんやから」美冬はにやりと笑った。
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新海美冬が店に入ってきた時、青江真一郎はまだ前の客の髪を切っているところだった。鏡に映った彼女は彼と目が合うと、にっこりして会釈してきた。青江も鏡に向かって小さく頭を下げた。彼女の今日の服装は白のツーピースだった。どうせシャネルだろうと青江は思った。いつもそうだからだ。
今日、彼女が来ることはわかっていた。予約表に名前があったからだ。カットのみ、となっている。前にカットしたのは二週間前だ。彼女はこのところ月に一、二度はやってくる。いつも青江を指名する。
前の客のセットを終えた頃、アシスタントが近づいてきて、美冬の洗髪が終わったことを告げた。青江は黙って頷いた。
美冬は鏡の前で雑誌を読んでいた。青江が後ろから近づくと、気配を察したように顔を上げた。またしても鏡越しに目が合った。
「こんにちは」
「相変わらず忙しそうね」
「おかげさまで」青江は彼女の濡れた髪を両手でほぐした。「今日はカットだけで?」
「そう。いつものように」
わかりました、と小声で答えて青江は鋏を手に取った。
美冬の髪は栗色がかっていて細い。そのわりに一本一本はしっかりしていてつやもある。青江はいつも大胆な髪型にしてみたくなるが、我慢している。美冬の大人びた雰囲気と合わないからだ。
「今日、いいわね?」前髪を揃えている時に美冬がいった。青江が一瞬鋏を止めて答えを躊躇《ちゅうちょ》していると、やや吊り上がり気味の大きな目で見つめてきた。「いいでしょ?」
「ええ……」
「じゃあ九時に、前のお店でね」
はい、と彼は答えた。そして今のやりとりを千絵に見られなかったかどうかを素早く確認した。幸い千絵はほかの客のセットに没頭しているようだ。
新海美冬が『ブーシュ』に来るようになったのは、記録を調べたかぎりでは今年の三月からだ。最初から青江を指名してきた。紹介者の欄が空白になっていたので、なぜ彼女が自分を知っていたのか、また自分を選んだのか、その頃の青江にはわからなかった。敢えて尋ねてみたこともなかった。
それ以来、月に一度は来るようになり、次第に間隔が狭まっていった。美冬のことは店でも少々話題になっていた。絶対にモデルか芸能人、さもなくば超高級クラブのホステスだ、と若い女性スタッフたちはいった。一般人にあんな美人はいない、と。そうかもしれないな、と青江も考えていた。
お仕事は何をされてるんですか、と訊いてみたことはある。美冬の答えは、「ふつうの仕事よ」というものだった。客がはっきり答えない以上、深く詮索するのは御法度《ごはっと》だ。
「仕事の後、少し時間ないかしら?」美冬からこう訊かれたのは前回彼女が来た時だ。髪をセットしている最中のことだった。
青江は少々驚いて鏡の中の彼女を見た。彼女はくすっと笑った。
「安心して、デートに誘ってるんじゃないから。相談したいことがあるの」
「僕に、ですか」
そう、と鏡の中の彼女は上目遣いに彼を見た。その瞬間、どきりとした。妖艶というのはこういうのをいうんだろうなと青江は思った。
店から歩いて二、三分のところにある喫茶店で待ち合わせた。彼女は奥のテーブルで待っていた。青江は姿勢を正して近づいていった。相談したいことがあるのだと彼女はいったが、どうせ大した話ではないだろうと高をくくっていた。結局のところ、二人だけで会いたいということなのだ。こんなふうに客から誘われることがごく稀にある。今まで応じたことは一度もない。面倒臭いことになったら店に迷惑をかけることになるし、千絵にばれたらもっと厄介だ。
しかし新海美冬が相手となると話は別だった。この謎の美女の正体を知りたいという欲求がある。そしてもちろん、男としての欲望も胸の内に潜んでいた。
しかし青江が飲み物を注文した後で美冬が切り出した話は、彼が全く予想していないことだった。
「店を? 僕が……ですか」
「あなた一人じゃない。あなたと私が、よ」彼女は唇に笑みを浮かべていた。青江の狼狽を楽しんでいるようだった。
「それ、冗談ですか」
「とんでもない。冗談で、わざわざ呼び出したりするわけないでしょ」
彼女によれば、彼のことは様々なリサーチによって知ったという。たとえば街で素敵な髪型をしている女性を見つけては声をかけ、どこの店の誰に切ってもらったのかを尋ねたというのだ。そのようにしてピックアップした美容師のところへ自ら出向き、その結果、青江を選んだらしい。
「条件はいくつかあった。まず独創性があること。若いこと。現在自分の店を持ってないこと。そして何より、輝きがあること」
「輝き?」
「そう。ただ上手なだけじゃ、これからの時代は生き残っていけない。客の心を掴む何かを持ってないとだめ。極端なことをいうと、客をどれだけ盲信させられるかが勝負の分かれ目なの。あの美容師に任せれば格好いい髪型にしてもらえる――そういう時代じゃないの。あの美容師が手がけた髪型だから格好いい――そうならないとだめ。いわば美容師そのものがブランドになる。そういう輝きがあなたにはあると確信したわけ」
熱く語る美冬の勢いに青江は圧倒されていた。美容界の今後をそこまで考えたことはないし、自分のことを特別な存在だと思ったこともなかった。
狐につままれているようだった。からかわれているのではないかという疑問を捨てきれずにいた。
彼女の話はさらに続いた。これからの美容院は、単にいい仕事をしているだけでは生き残れない。技術者と経営者とプロデューサーの資質が要求される。
「要するに」美冬は一呼吸置いてから続けた。「お金は私が用意する。どんなコンセプトで、どんな店にしていくかは二人で話し合って決めましょう。後はそのコンセプトに則ってあなたは髪を切る。私はいかにすればお店が繁盛するかを考え、お金の計算もする。二人が力を合わせれば、きっとうまくいく」
「待ってください。そんなことを急にいわれても……僕はあなたのことを何も知らないんですよ。『ブーシュ』に来る多くのお客さんの一人、ただそれだけです」
彼女は困ったように眉をひそめ、両手で自分の胸を押さえた。
「それで十分じゃない。それ以外に何を知る必要があるの?」
「たとえば何をしている人かってことです。美容界に関係ある人なのか、どこに住んでるのか……僕は何も知らない」
「それを知ればいいだけ? じゃあ答える。今は銀座の『華屋』という宝飾品店にいる。美容界にはこれから関係するつもり。住んでいるのは江東《こうとう》区。これでいい?」
『華屋』という名前は青江の警戒心を少し解く材料にはなった。しかし心を開かせるほどの力は持っていなかった。
「熱心に店に通ってこられたことは知っています。でもあなたを信用する根拠がない」
彼の言葉に美冬は吹き出した。
「じゃあ何? 私があなたを騙そうとしているってわけ?」
「そうはいわないけど」
「だったら訊くけど、もし私がとんでもない詐欺師だったとして、こんな話をあなたに持ち込んで、私にどんなメリットがあるの? さっきもいったけど、お金は私が出すの。あなたには一円だって出させない。何かの連帯保証人にもさせない。つまりこの話が嘘っぱちだったとしても、あなたには何の被害もない。違う?」
青江はいい返せなかった。彼女のいうとおりだった。リスクを負うのは彼女なのだ。経営が失敗した場合、青江は頭を下げて元の店に戻れば済むが、消失した金は返ってこない。
「資金は本当にあなたのものなんですか」青江は言葉に意味を持たせて尋ねた。
彼の意図を察知したらしく、新海美冬は微妙な笑みを唇に滲ませた。
「お金に妙なヒモがついていることを心配してるのね。まあ、それは無理ないかな」
「『華屋』は一流店でしょうけど」
「そこの給料だけでそんな資金が貯まるとは思えない、といいたいわけね。御明察のとおりよ。でも私のお金には疑わしいところは何もない。悲しいところはあるけれど」
「悲しいところ?」
「生命保険金なのよ、両親の」さらりといった。「阪神淡路大震災で亡くなったの」
さっきとは別の理由で青江は言葉をなくした。
地震では通常支払われにくい生命保険金が、阪神淡路大震災では特例として支払われることになった、という話は青江も聞いたことがある。美冬もそのおかげで大金を手にすることができたが、使途については決めかねていたという。
「何千万円もあったって、細かい贅沢を続けていたらすぐに消えてしまう。私は何か形あるものとして残したいと思ったの。できれば、この先の未来を支えてくれるものがいい。そこで決心したのよ。独立しよう、一人で事業を始めようって」
「それで美容院経営ですか。どうしてよりによって……」
「説明するのは難しいんだけど、強いていえば閃き、かな」彼女は自分の頭を指差した。
「その閃きのせいで大金を失うかもしれない」
「そうなったら諦める。でもね、三年後にはあなたはきっと私に感謝する」彼女は自信満々だった。
このことはすぐに千絵に話した。飯塚千絵とは交際して二年半になる。いずれは二人で店を持とう、ということは何度も話している。だが具体的にどうするかというところまで踏み込んだことはない。青江は今年二十九歳で、千絵は二十三歳だ。結婚という言葉はどちらからも出ていない。店を持ってからと青江は考えていたし、千絵もそうなのだろう。
「何それ、胡散《うさん》くさーい」というのが千絵の第一声だった。さらにこう続けた。「やばいよ、それ。断ったほうがいいよ」
「でも新海さんのことは千絵だって知ってるだろ。あの人、悪い人には見えないぜ。千絵は前に、あんな素敵な大人の女になりたいとかいってたじゃないか」
「だけど、なんか話がうますぎるよ。シン君がお金を出さなくていいなんて」
「そう特別うまい話でもないぜ。共同経営ってことはさ、何もかも折半ってことだろ。だけど実際に仕事をするのは俺だぜ。あっちは算盤《そろばん》弾くだけだ」
「だったらシン君にとって損な話ってことじゃないの」
「そうなるのかな」青江は首を捻った。
今の店に入ってちょうど十年になる。そろそろ独立する頃だとは思っている。自分の店を持ったらああしようこうしよう、というイメージは十分過ぎるほど膨らんでいた。それが実現すれば必ず成功するという自信もあった。
ただ資金がなかった。無論、妥協すれば何とかならないことはない。早い話、家賃の安いところで店を開けばいいのだ。しかし家賃が安いということは、それだけ都心から離れることを意味する。ファッション情報に疎《うと》い土地では、自分の腕を十二分に発揮することは難しそうに思えた。やり甲斐を感じられるかどうかも疑問だ。
新海美冬は青山あたりに出したいといった。それが本当なら文句はない。現在の店は渋谷だから、縄張りを荒らすことにもならず、義理が立つ。
「やめたほうがいいよ」しかし千絵は彼の内心を見透かしたようにいった。「お店はさあ、やっぱり地道にお金を貯めて、自分の力で出すべきだと思うよ。河村《かわむら》先生だってそういってたじゃん」
河村先生というのは、『ブーシュ』の経営者兼トップ美容師だ。
「先生はそういうよ。俺に出ていかれちゃ困るもんな。だけどあの給料じゃ、いつになったら金が貯まるかわかったもんじゃないからな」
「シン君はその話に乗りたいわけ?」千絵は非難の目をした。
「そうはいってない。いろいろと考えてるところだ」
「ねえ、断ってよ」不安そうに千絵はいった。「何か、嫌な予感がするよ。あたしさあ、新海さんのこと、素敵な人だと思うよ。でもそれはあくまでも外見だけでさあ、中身については怖いんだ」
「怖い?」
「うん、シン君を変なところに連れていきそうな気がする」
「変なところ? ラブホテルとか?」結局はやきもちかよと、青江はにやにやして恋人を見た。だが彼女は笑わず、彼を睨んでいた。
「断って。お願いだから」
「うん……そうだな。もう少し考えてみるよ」
青江の答えに千絵は不満そうだった。しかし彼としては、彼女が反対すればするほど、目の前のチャンスが大きなものに思えてくるのだった。
待ち合わせ場所は前と同じ喫茶店だった。窓際の席で新海美冬はロイヤルミルクティーを飲んでいた。スツールの腰掛けの位置が高く、ミニスカートから伸びた脚が一層長く見えた。その長い脚を彼女は軽く組んでいた。
青江は向かい側に座り、コーラを注文した。仕事の後はいつもひどく喉が渇く。
「お疲れさま」美冬が微笑みかけてきた。どんな警戒心をもぐらつかせる力を持った笑みだ。千絵はこんなところが怖いのかもしれない。
「この間の話ですけど」
彼がそこまでしゃべったところで、美冬が制するように掌を広げて出した。
「あわてないで。そんなに急いで結論を出させようとは思ってないから」
「でも」
「今日はね、前回と逆なの」彼女は悪戯っぽく肩をすくめた。「前はこういったでしょ。デートに誘ってるんじゃなくて相談したいことがあるんだって。でも今日はその反対。用なんか何もないけど、デートに誘ったわけ」
妖《あや》しく笑いかけられ、青江の中でまた何かがぐらついた。
何か食べたいものは、と訊かれ、何でもいいです、と答えていた。その直後、食事に付き合うことを承諾してしまったことに気づいた。撤回する余裕などなかった。新海美冬は伝票を手に、レジカウンターに向かっていた。
まあいいか、食事ぐらい――均整のとれた後ろ姿を見ながら思った。
タクシーに乗って向かった先は青山だった。ビルの地下への階段を美冬は下りていった。青江はついていくしかない。
階段の下には一見和風の店があった。店内の装飾にも竹や木が使われている。その一方で洋酒の並んだカウンターもあった。
予約が成されていたらしい。美冬が名前をいうと、二人は奥の部屋に案内された。竹で仕切られたテーブル席だ。
食べられないものはあるかと訊かれたので、ない、と彼は答えた。すると料理はすべて美冬が決めた。
「飲み物はどうする? ここはワインが揃っているんだけど」
「お任せします」
美冬がウェイターにワイン名らしきものを告げた。青江が耳にしたことのない名前だった。もっとも彼が知っているワインの数はたかがしれている。
「この店はよく来るんですか」
「たまにね。わりといい店でしょ。料理が気に入ったら、使ってあげて」
はあと頷きながら灰皿を引き寄せる。こういう店だといくらぐらいかかるんだろうと想像を働かせていた。千絵を連れてきたら、きっとびっくりするだろう。そんな余裕があるなら貯金したほうがいいというかもしれない。
「青江君、最近歯医者に行った?」
「歯医者ですか。いいえ」唐突な質問だった。彼は煙草を指に挟んだまま、火をつけないでいた。
「煙草を吸うのなら、月に一度は歯医者に行ったほうがいいわね」
「歯は丈夫なほうです。虫歯だってないと思いますよ。それに、わりときちんと磨いてるつもりだし」
美冬は白い歯を見せてかぶりを振った。
「磨いてればいいってものじゃないし、虫歯がないからといって油断はできないわよ」
青江は煙草に火をつけ、灰色の煙を彼女の顔にかからないよう吐き出した。
「煙草のヤニがつくっていうわけですか」
「ヤニだけならいいけど、歯茎によくないの。煙草は歯周病菌を活発化させるの」
青江は首を少し傾けて煙草を吸い続けた。歯周病という病名は知っているが、詳しいことは何も知らない。なぜこんな話を彼女が持ち出してくるのかもわからない。
「青江君はプロよね」
「そのつもりです」
「だったらあたしのいうことを聞きなさい。歯を健康に保つことはプロの美容師としての義務よ」
「そうですか」
「あなただってニンニク臭いお客さんの髪を切るのは嫌なはずよ」
青江は口元から煙草を離した。「俺、口臭がありますか」
「大丈夫。今のところはね。でも歯に無神経だと、いずれはそういうことにもなりかねない。お客さんにしてみれば、すぐ目の前にある美容師の歯が汚いよりは奇麗なほうがいいに決まってるじゃない。真っ白なほうが」
それはそのとおりだな、と青江も納得して頷いた。ニンニク程度のことは気にしているが、そこまで深く考えたことはない。
「月に一度は歯をクリーニング。これは守りましょ。あたしもそうしてるから」
美冬が指を立てるのを見て、この人はもう俺をパートナーにした気分なのかなと青江は思った。
料理が運ばれてきて、二人はワインで乾杯した。和食とイタリア料理を混合させたような料理だった。
美冬は店のことを切り出さなかった。旅行や、そこでの食べ物のことを主に話した。それらの話を聞いたかぎりでは、彼女はかなりいろいろな国を旅行しているようだ。特にフランスやイタリアには何度となく行っているらしい。
「そういう国へは観光で行ったんですか」
「観光もあるけど、殆どは仕事。アクセサリーだとか洋服の買い付けにね」
「ああ、『華屋』の……」
美冬は小さく首を振った。
「『華屋』で働くようになったのは今年から。以前いたお店の仕事で、そういうことをやってたの」
「前のお店はどうして辞めたんですか」
「うん……それは一言では説明しにくいんだけど」美冬はわずかに首を傾げた。「簡単にいっちゃうと、飽きたってことかな」
「飽きた?」
「自分のできることは全部したっていう感じがしたの。逆にいえば、できないという限界も見えてきた。今のままじゃだめ、変わらなきゃいけないと思ったわけ」彼女は上目遣いに彼を見た。「こういう説明じゃだめかな」
「いや、だめってことはないですけど」
「ねえ青江君、人間は何回ぐらい生まれ変わると思う?」
またしても唐突な質問だ。
「俺、そういうことは信じてないから。生まれ変わりとか前世とかは」
「そういう意味じゃなくて、一生のうちに何度人生をやり直せるかって訊いてるの。たとえば結婚すれば人生が変わるじゃない。就職してもそう。そういうことって、大体何回ぐらいあるのかな」
「さあ、どうかな。その意味だと俺の場合は、大学へ行くのをやめて、上京して美容師になろうと決心したのが最初になるかな。でもそれ以後、劇的に生まれ変わったってことはないと思います」
「じゃあ、そろそろ生まれ変わる頃なんじゃない」
「どうかな」青江はワインを口に含んだ。本題に入る布石なのかなと思った。
しかし美冬は美容院開業の話に移ろうとしなかった。これまでの経験で得た商売の知識、客との駆け引き、マーケットの広げ方などを、様々なエピソードを交えながら披露するだけだった。それらの話は青江の心を掴んだ。彼女の話し方もうまかった。彼女は自分が一方的にしゃべるだけでなく、常に彼の意見や感想を求めた。それも単に訊くのではなく、彼の話からさらに話題を広げたり、問題を掘り下げたりするのだ。話が途切れることはなく、時間はあっという間に過ぎ去っていった。ワインは白と赤のボトルが空になった。
「どこかで飲み直さない? 明日はお店、休みでしょ」店を出てから美冬がいった。
食事代は彼女の奢りだ。このまま帰るのでは食い逃げという気がした。何より青江自身が、まだもう少し彼女と一緒にいたかった。
いいですよ、と答えると、彼女は手を上げた。青江の背後から近づいてきたタクシーが二人の横で止まった。
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徳利の酒を盃に注ごうとしたが、手元が狂ってテーブルにこぼした。ちっと舌打ちし、そばにあったおしぼりで拭いた。ズボンまで濡れている。
酒を注ぐこともできねえのか――安浦達夫は自分を罵り、右手を睨んだ。縫い痕はまだ生々しく残っている。
箸を使うことにはようやく慣れた。鉛筆で字を書くのもほぼ問題はない。しかしそれは指先に神経を集中させていれば、の話だ。少しでも気を抜くと、箸も鉛筆もぽろぽろと手からこぼれる。指先に感覚がないからだ。目を閉じると、指そのものがないようにすら感じられる。
職人は指先が命だ。これでは翼を奪われた鳥と同じで、何の役にも立たない。
このところずっと仕事を探し歩いているが、雇ってくれるところはなかった。諦めて工事現場で働いたこともあるが、利き腕の指が自由にならないと、重いものは運べないし、鶴嘴《つるはし》を振るうこともできない。結局すぐにクビになった。
あんなことさえなければ、と悔やんでみるが遅い。指は元には戻らない。
ふっとテーブルが暗くなった。目の前に中川が立っていた。
「飲む金はあるのかい」中川は向かいに腰掛けた。
「これが最後だよ」安浦は、さっき半分ほどこぼした徳利を左手でつまみ上げた。
中川が居酒屋の店員を呼び、冷奴《ひややっこ》と日本酒を注文した。
「奥さんから、たぶんここだろうって聞いてきたんだ」
「そうかい」
「いいかみさんだよなあ。スーパーで朝から晩まで働いて、亭主が酒を飲みに行くのを止めもしないなんてさ。感謝しなきゃなあ」
中川の言葉に、安浦は返す言葉がない。妻に詫びなければならないのは百も承知だ。そもそも怪我をした原因は、彼の女遊びにあるのだ。しかし妻は愚痴ることなく、さっさとパートの仕事を見つけてきた。彼女がいなければ、彼は確実に餓死していただろう。
だから何としてでも働きたい、仕事が欲しい、と思う。
「中さんもフクタをクビになったんだろ。今は何をしてるんだい」
「俺はもう引退よ。わずかな貯金で食いつないでいくしかない。年金をもらえるようになるまでの辛抱だ」
「それでいいのかい」
「よくはないが、仕方ないだろ。こんなおいぼれを、どこが雇ってくれる?」
「社長もひどいよな。長年一緒にやってきた俺たちを、ああも簡単に切れるものかよ。結局残ってるのはキヨシさんだけだろ」
「さあ、そのキヨシもどうかな」中川は運ばれてきた徳利で安浦の盃を満たしてから自分のほうに注いだ。割り箸を割り、豆腐に手をつける。
「どうかなって……キヨシさんまで辞めさせる気かよ」
「昨日キヨシから電話がかかってきた。月給じゃなくて時給に変わったらしい。で、いきなり仕事が二時間ほどで切り上げになったそうだ。これじゃあ家賃も出ないといってこぼしてたよ」
「そんなんでやっていけるのかよ。そんなに仕事がないのかよ」
「仕事はあるはずだ。例のエアガンの注文は減ってない。それにこの間工場のそばを通りかかったら、鉄材を仕入れてる様子だった。また何か仕事が入ったんだろう」
「変じゃねえか。それでどうして人を減らすんだ」
「仕事はあるが、職人が一人いれば十分ってことなんだろ」
「一人って、あの若い奴か」
ああ、と中川は酒を飲み干し、また注いだ。
顔はよく見なかったが、背が高かったことは覚えている。仕事ぶりも見た。安浦の目から見ても一級品だった。こんな男を雇い入れたのなら、社長はもう自分には用がないだろうと思った。
「フクタにある機械は全部使えるし、溶接もたしからしい。おまけに仕上げの腕もいいときちゃ、あのケチ社長としては、あっちを選ぶしかないだろ。関西から流れてきたらしいが、余計な疫病神が来てくれたもんだ」中川はふんと鼻を鳴らした。
「あいつさえ来なきゃ、よかったってことかな」
「俺やキヨシはそうだ」中川は煙草を取り出した。「ヤスだって、何とかなったかもな」
「そうかな」
「俺やキヨシだけじゃ間に合わないことも多いからな。ヤスの指が、前と同じようにとまではいかなくても、そこそこ動くようなら、という条件付きだけどな」
「動くよ。ほら、見てくれ」安浦は右手で割り箸を動かし、新香の残りをつまんだ。
中川は頷いたが、表情は浮かないままだった。
「まあしかし、事実あいつがいるんだから仕方がない。あいつがヤスみたいに、誰かに腕でも切られりゃいいんだけどな。いやこれはここだけの話だ。聞き流してくれ」中川は周りを見回し、唇に指を当てた。
居酒屋を出て、安浦は中川と別れた。真っ直ぐ家に帰らねばと思うが、その気になれない。反対方向にふらふらと歩きだした。
気がつくとフクタ工業のそばに来ていた。何か目的があったのか、通い慣れた道だから足が向いてしまったのか、彼自身にもよくわからなかった。
うんざりするほど嗅ぎ続けてきた機械油の臭いが懐かしい。
もう一度社長に頭を下げてみようか、と思った。どんな下働きでもするからといえば、何とかわかってくれるのではないか。
だが彼は首を振っていた。そんなにうまくいくはずがない。前だってあれだけ頼んだのに、結局は冷たくあしらわれた。
そこに立っている理由がなく、引き返そうとした。その時、工場の出入り口の隙間から光が漏れていることに気づいた。
俺たちをクビにしておいて、残業かよ――。
安浦は工場に近づいた。出入り口の扉が少し開いている。大きな工作機械を動かしている音はしない。
扉をさらに数センチほど開け、中を覗いた。長身の背中が正面に見えた。マイクログラインダーを使って、何か削っているようだ。削っては、その具合を確かめている。何か極めて小さいものを削っているらしく、安浦には見えない。
いずれにせよ残業だ。時給を稼いでいるわけだ。こんな、どこの馬の骨ともわからない男が。
誰かに腕でも切られりゃいいんだけどな――中川の言葉が頭に浮かんだ。
安浦はあたりを見回していた。人気《ひとけ》がないことを確認し、工場の裏に回った。そこは廃材や壊れた機械などの置き場になっている。年に何度かは業者に金を払って処分してもらうのだが、不景気な昨今ではその余裕がなく、金属ゴミの山は大きくなる一方だ。
薄暗い中で目を凝らし、安浦は獲物を物色した。奴は長身だから長手のものがいい、できれば鉤《かぎ》形に曲がっていて、その先端は尖っている――。
だがそんな要望にぴったりなものなど落ちてはいなかった。結局彼が手にしたのは、五十センチほどの鉄のパイプの先に短いパイプを溶接したものだった。アーク溶接の出来はあまりよくない。中さんの仕事だなと彼は思った。老眼が進んでから、たしかにあの人の腕は落ちたと思う。
しかしそれだけのことで職を追われちゃたまらない。生きているんだから、年老いて腕が鈍ることもあれば、思わぬ事故で身体が不自由になることだってある。それを補ってこそ仲間じゃないか。単なる雇い主と使用人の関係ではなかったはずだ。安浦は福田の顔を思い浮かべた。
彼はそこにじっと身を潜めた。少し酔っていることは自覚している。だがそれほどでもない、酔った勢いでこんなことをしているんじゃないと自分にいい聞かせた。もはや、これしか方法がない。仕方がないんだ。
ふと数か月前の夜が蘇った。寒い夜だった。安浦は厚手のジャンパーを着ていた。池袋の行きつけの店で、今夜よりもう少し深く酔う程度に酒を飲んだ後だった。
どこの風俗店に行こうか、それとも外国人の女がたむろしているところをうろついてみるか、そんなことを考えながら歩いていた。阪神淡路大震災の影響で、建築用部品の注文が増えた。おかげで残業が続き、臨時手当が出たばかりだ。財布に金は入れてきてある。気は大きくなっていた。
「おにいさん」不意に横から声をかけられた。
夜だというのにサングラスをかけた女が、安っぽいコートを着て立っていた。派手にウェーブのかかった髪は赤かった。
いい女だ、と安浦は一目見て思った。コートの前がわずかに開いており、その隙間から白い脚と胸の谷間が見えた。
女は黙って指三本を出した。それは高いと思ったが、同時にこの女なら、という考えも頭をかすめた。
安浦は女のそばに寄った。香水の匂いがぷんぷんとした。女は安物のアクセサリーを首や手首にじゃらじゃらとつけていた。おまけに化粧が濃い。
「ちょっと高いよ。これでどうだ」彼は指二本を出していた。
女は彼の手を上から押さえ、二本指を出した後で掌をぱっと広げた。二万五千円、という意味らしい。
「オーケー、いいぜ」
安浦が答えると女は彼の腕を掴んでいた。案内するように歩きだす。
今夜はついている――能天気にもそう思った。
全くどうかしていた、とあの時の自分を振り返るたびに安浦は歯がみする。あの通りにたちんぼがいたことなど、それまで一度もなかったのだ。それなのにまるで怪しまなかった。
女の容姿に気を奪われたからだった。こんな女とできるのか、と有頂天になってしまった。これほどの女がたちんぼなどしているわけがないと疑うには、頭に血が上りすぎていた。
女に導かれるまま安ホテルに入った。消毒薬の臭いと、それを消すための芳香剤の匂いが充満しているようなところだった。女は全く口をきかなかった。ただ身振りだけで意思表示してきた。言葉がよくわからないのだろうと安浦は判断した。きっと日本に来て短いのだ。だからうまい稼ぎ方がわからず、誰かに教わったまま、あんなところでたちんぼをしていたのだ。不自然な部分を、安浦は勝手にあれこれと想像することで打ち消していった。この女を早く抱きたいという思いで、頭の中はいっぱいだった。
部屋に入るなり、安浦は後ろから女に抱きついた。長い髪をかきわけ、首筋に舌を這わせた。女の項《うなじ》には小さな黒子《ほくろ》が二つ並んでいた。
続いてコートを引き剥がそうとした。だが女は彼のほうに向き直ると、キスを求めるように顎を上げた。形のいい唇が目の前にあった。彼は貪るようにそこに自分の唇を重ねていった。
そこからだ。
記憶はそこから飛んでいる。気づいた時には床で転がっていた。同時に激痛を感じた。右手を見ると、夥《おびただ》しい量の血が流れていた。その光景はあまりに現実離れしていて、瞬時には事態を受け入れられなかった。
彼は身体を起こし、声を上げた。何と叫んだのかは覚えていない。だが誰も来なかった。当然のことながら、女の姿はどこにもなかった。
激痛に脂汗を流しながら彼は電話機のところに辿り着いた。外線で119番にかけた。電話が繋がるや否や、安浦は現在の状況を訴えた。刺された、血が出ている、とても痛い、知らない女に、いつの間にか気を失っていて、池袋、たちんぼ――頭が混乱しているままにしゃべったものだから、相手はなかなか事情を呑み込んでくれなかった。
応急手当を受けた後、警察の事情聴取に応じた。刑事は明らかに安浦を馬鹿にしていた。助平心を突かれ、怪我をさせられた上に財布を奪われた間抜けだと思っていた。質問する言葉の端々に侮蔑が込められていた。
だから、というわけでもなかったが、安浦はいくつか嘘をついた。女と会ったのは公園で、しばらく話しているうちに意気投合してホテルに入ったのだといった。買春を咎《とが》められたくなかったからだ。また、気を失うまでの経緯についても、はっきりしたことはいいにくかった。よく覚えていないせいもあるが、部屋に入るなり抱きついたことを告白したくなかった。
結局彼は、女に何か飲まされたのだ、と主張することになった。女がドリンク剤を出してきたので、それを飲んだら急に眠たくなったのだ、と。
刑事もそのあたりのことについては、あまり深くは突っ込んでこなかった。よくある話だし、少々違っていたところで事態に影響は少ないと踏んだのだろう。要するに、犯人が捕まる可能性は極めて低いということだ。
あの事件の捜査がどの程度進んでいるのか、安浦はまるで知らない。まともな捜査が行われたのかどうかもわからない。警察から何の連絡もないのだから、容疑者さえ上がっていないのだろう。
警察にとってはちっぽけな事件かもしれないが、自分の一生を狂わせる事件だったと安浦は思っている。職業をなくし、人間関係を破壊された。
だから、と彼は鉄パイプを握る左手に力を込めた。もう一度ちっぽけな事件を起こしてやる。そうして自分の人生を取り戻すのだ――。
工場の明かりが消えた。
安浦は目を凝らした。身を低くして工場の出入り口を窺った。しばらくすると、長身の人影が出てきた。出入り口の戸を閉め、鍵をかけている。一番の新入りのくせに、工場の鍵を渡されているのだ。以前、それを持っていたのは、ベテランの中川だけだった。
新入りの男はTシャツに作業ズボンという格好だった。片手をズボンのポケットに入れ、もう一方の手で上着を肩に担いでいる。
安浦は後を追った。できるだけ工場から離れたところで襲いたい。通り魔の犯行に見せかけるためだった。工場のそばだと、特定の相手を狙ったとばれそうな気がした。
とはいえ、駅に近づきすぎると人気が多くなる。住宅が密集した路地に入ったら、と彼は決意を固めた。
新入りの男が自動販売機の前で足を止めた。缶入りの飲み物を買っている。その場でプルトップを引いた。二の腕の筋肉が盛り上がっている。痩せて見えるが、力は強そうだ。
男は飲みながら歩きだした。缶は右手で持っている。ナイフがあれば、と安浦は思った。それなら後ろから忍び寄り、相手の右腕にそれを突き刺せばいい。顔を見られる前に逃げ出せば、犯人はわからないだろう。
日を改めて、ナイフか包丁を用意してからにしようか、という考えが浮かんだが、すぐにそれは頭から消えていた。理由はない。今すぐ行動を起こしたいという欲求が勝っただけのことだ。
新入りの男が道を曲がった。街灯の少ない路地だ。今しかない、と安浦は足を速めた。
後を追って、角を曲がった。ところが男の姿が消えていた。安浦は立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回した。
「おい」電柱の陰から男がぬっと姿を現した。
安浦はびっくりして後ずさりした。それから自分が武器を持っていたことを思い出し、がむしゃらに殴りかかって行った。しかし長身の男は苦もなくかわすと、安浦の腹部に蹴りを入れてきた。安浦は呻き、鉄パイプを落とした。声が出せなくなった。
「何の真似や」男が訊いてきた。その声には狼狽のかけらもなかった。
安浦はあわてて鉄パイプを拾い直した。しかしそれは右手でだった。握って振り上げたまではよかったが、重みに指が耐えられない。鉄パイプは手から落ちた。
そこでようやく新入りの男は暴漢の正体に気づいたらしい。「あんた、安浦さんか」
安浦は顔を両手で隠し、その場にしゃがみ込んだ。涙が出てきて、やがてはひいひいと声を出して泣きだした。何もかも終わりだという思いと、鉄パイプを振り下ろすことすらできない情けなさが頭の中でごちゃまぜになっていた。
「立てや、とにかく」
男に襟首を掴まれ、立たされた。そのままそばの塀に背中を押しつけられた。
「どういうことや。なんで俺を襲った」男はいつの間にか鉄パイプを手にしていた。それの先端で安浦の脇腹をぐりぐりと押した。
「あんたさえ……いなけりゃと思って」喘ぎながらそれだけいった。
新入りの男は不可解そうに眉を寄せた。だがすぐに意図を察したらしく、安浦の顔を見ながら何度か頷いた。
「そうか。そういうことか」
「警察へでも、どこへでも突き出してくれ。もう、どっちみちだめだ」安浦は自棄《やけ》になっていい放った。
男は安浦から離れた。大きくため息をつく音。「もうええ、行けや」
「いいのかい」
「ええていうてるやろ」
安浦はそそくさと逃げだそうとした。だがその背中に声がかけられた。「待てや」
ぎくりとして足を止め、振り向いた。新入りの男が鉄パイプで自分の肩を叩きながら近寄ってきた。
「せっかくやから、どっかで一杯どうや。あんたの話、ちょっと聞きたいし」
安浦は驚いて相手の顔を見返した。
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正午より少し前に青江は自分のマンションに辿り着いた。風が気持ちよく感じられるのはまだ頭が若干|逆上《のぼ》せているせいか。
それにしても今朝の紅茶は旨かった。起き抜けにはいつもコーヒーを飲むが、モーニングティーがあれほど気分を快適にしてくれるとは知らなかった。
いや紅茶が旨かったのではなく一緒に飲んだ相手がよかったのだ、と思い直す。青江が起きた時、美冬はすでにベッドから抜け出していた。紅茶の香りにつられてリビングルームに出ていくと、彼女はキッチンから優しく微笑んだ。メイクは済ませていた。しかも朝にふさわしいさっぱりとしたメイクだった。
ずいぶんと酒を飲んだ気がするが、二日酔いの気配はない。ただ、身体がふわふわするような感覚があった。昨夜のことが現実とは思えない。記憶を辿ると、目眩がしそうな快感が蘇ってくる。
向こうが誘ってきたのだ、だから自分に責任はない、と青江は思っている。どこかで飲み直そうといわれた時、期待がちらりと胸をかすめたことは否定できない。しかし自分から誘うつもりは毛頭なかった。
彼女の部屋に行くことになった経緯については、よく覚えていない。まだ飲み足りないわね、どこかでもう少し、でもこんな時間に開いている店なんかあったかな――そんなやりとりの末のことだった。
青江は自分の部屋のドアを開けた。その瞬間、千絵が来ていることを察知した。玄関に彼女の靴があった。
仕切のカーテンを開けて千絵が丸い顔を覗かせた。
「どこ行ってたの?」咎める口調だ。昨夜から待っていたらしい。
「六本木。友達のライブに付き合ってた」
「朝まで飲んでたの?」
「カラオケ屋でちょっと寝たかな」青江はトイレに入った。千絵と顔を合わせにくい。
「電話してくれればいいのに。休みの前の日は、あたし大抵ここに来るんだから」彼がトイレから出るなり千絵はいった。唇が尖っている。
「ちょっと気になったけど、電話するきっかけがなかったんだ。ごめん」
千絵はまだむくれている。安物のガラステーブルの上には、彼女が買ったらしいスナック菓子の袋と、ジュースのペットボトルが出たままになっていた。何という違いだと青江は思った。優雅さのかけらもない。
「ねえ、買い物に付き合ってほしいんだけど」
「今日は勘弁してくれよ。すっげえ疲れてるしさ」青江は横になった。爪先がテレビ台に当たる。耐えられない狭さだ。
「えー、だって約束したじゃん」千絵は青江の身体を揺すった。
こいつはまだ子供だ、と彼は思った。大人の女じゃない。本物の女でもない。
新海美冬の項にあった二つの黒子を彼は思い出していた。
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第四章
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昔から何度も行ったことのある三宮《さんのみや》のステーキ店は、元の場所から百メートルほど離れたところに移転していた。看板だけは以前のままだった。そのことが曽我《そが》を少しほっとさせた。街にはまだいたるところに震災の爪痕が残っている。ようやく復興の兆しが見え始めたというところか。
「この鉄板だけは持ってきたんよ」店の女主人が誇らしげにいった。ふくよかな体形も、ややピンクがかった顔色も前に会った時と変わらない。しかしこの表情を出せるようになるには、それなりの時間が必要だったに違いなかった。
鉄板はうちの財産やから、といって女主人は銀色に光る板を撫でる手つきをした。
「だけど大したもんだよ。たった一年で、これだけの店を復活させたんだから」赤ワインの入ったグラスを手に、曽我は店内を見回した。時刻は午後十時近く。すでにほかに客はいない。本来は九時半でオーダーストップなのだが、予《あらかじ》め電話をしておいたので、曽我が来るまで待っていてくれたのだ。
「そういうてもろたらうれしいけど、やっぱりいずれは元の場所に戻らんとね。時間はちょっとかかるかもしれんけど。前の店を知ってる人がここを見たら、やっぱり寂しいなあと思わはるやろうし」
「ここだって立派な店だと思うよ」
「ありがとう」
女主人は微笑んでから生ビールを飲んだ。お世辞だとわかっている顔だった。前の店は今の倍の広さがあった。何より、古き良き時代の風格が漂っていた。あれを人工的に再現するのは難しいだろう。
彼女によれば、前の店は地震では壊れなかったらしい。しかし周りの家が次々と燃えていく中ではどうすることもできず、結局全焼した。何十キロもある鉄板を運び出すのがやっとだったという話は誇張ではあるまい。
「結局、昔の家のほうが頑丈やということやわ。前の店は外人さんが住んではった屋敷を改装して作ったものやったからね。近所の新しい家なんか、全部壊れてしもたのに」
曽我は適当に相槌《あいづち》を打つ。実際には、最新のプレハブ工法を使った家が最も頑丈だったのだが、そんなことをわざわざいう必要はない。
「曽我さんは今は東京やったね。もうこっちに戻ってくることはないの?」
「そうだね。当分はあっちだろうね」
曽我は大阪に本社がある商社に勤務している。埼玉の出身だが、三年前までは本社にいた。その後、東京支社に移った。支社とはいえ社屋の大きさも扱う仕事の規模も本社に勝っているから、実質的には栄転といえた。近々、東京本社という名称に変更される予定だ。
彼は主に産業機器を担当していた。今日は大阪で打ち合わせがあった。その仕事を終えて神戸にやってきた。当初から予定していたことだった。
「今夜はこっちで泊まり?」
「うん。明日は西宮に行くつもりなんだ」
「西宮? へえ、何しに?」
「知り合いがいてね」そういってから彼は首を横に振った。「いた、というべきだな。ママ、新海さんのこと覚えてるかな」
「しんかいさん?」記憶を辿る顔になってから彼女は大きく頷いた。「ああ、もしかして京都の三条に住んでたとかいう――」
「そうそう」
「品のええ人やったわ。髪の毛が真っ白で金縁眼鏡をかけてはった」
「あの新海さんが西宮にいたんだ。で、去年の地震で亡くなった」
「そう」女主人は眉をひそめた。その顔に驚きの色はない。あの地震を体験した者にとって、被災者の死は珍しいことではないのだろう。「それはお気の毒やったねえ。ふうん、あの人が……」
「奥さんも亡くなったそうなんだ。それで、ちょっと花でも供えに行こうと思ってさ」
「曽我さんが、昔えらい世話になった人やていうてたもんね」
「俺に仕事を教えてくれた人なんだ。会社を辞めた後、奥さんと二人暮らしをしていたみたいだけど、あんなことになるなんてね」
「亡くなった人の大半は年寄りや。ようやく悠々自適という時にねえ。ほんまに残酷な話やで」誰かのことを思い出したのか、女主人はエプロンで目頭を押さえた。
ステーキ店を出た後、倒壊を免れたビジネスホテルに向かった。ホテルに着き、部屋に入ると、曽我はまず窓のカーテンを開けた。あれほど奇麗だと思った神戸の夜景が、今は殆ど真っ暗だった。人の住んでいないビル、壊れたままのネオンサインなどが、その闇の中に沈んでいる。
シャワーを浴びてからベッドにもぐり込んだ。ナイトテーブルの明かりを消す時、そばの壁に小さな亀裂が入っているのを見つけた。地震によるものかどうかはわからない。そうだったとしても、震災後の検査では問題なしと判定されたのだろう。
つい先日、「阪神・淡路大震災犠牲者追悼式典」が神戸で行われた。首相らも出席したようだが、被災者らに十分な援助がなされているとはとてもいえない。今もなお十万人近くの人々が仮設住宅や学校、公園などに住んでいる。曽我の友人の一人は、買ったばかりのマンションが使用不能になり、ローンだけが残った。しかし国が真剣に彼等を助けようとしているようにはとても見えない。負債を抱える住専に七千億円近い公的資金を投入しようとしているらしいが、その何パーセントかでも被災者に回せないものかと思う。
大阪本社に七年いたから、こちらには知り合いが多い。被災したらしいとわかっているだけでも十人以上いる。ただ、死亡が確認できたのは新海夫妻だけだ。
その死はテレビで知った。死亡者の氏名をアナウンサーが淡々と読み上げていた。その中に新海|武雄《たけお》、新海|澄子《すみこ》の名前があった。
新海は曽我が大阪にいた頃の部長だった。大学の後輩だったのでかわいがってくれた。
定年退職までにはまだ二、三年あったはずだが、突然会社を辞めたと聞いた。事情は公にされていないが、詰め腹を切らされたのだということは、当時大阪本社にいた者なら大抵は知っている。
バブル景気絶頂の頃だった。某大手自動車メーカーが新工場を造った。その際、生産機器の大半について曽我の会社が仲介した。現在の不況下では考えられないような大きな仕事だ。それに応じて裏金も莫大になる。関わる人間の数も増える。そのうちの一人がぼろを出した。不正な金銭の授受について芋蔓《いもづる》式に明るみに出るおそれがあった。糸をどこで断ち切るか。結局、新海が犠牲者に選ばれた。
詳しいことは不明だ。だが社長や役員たちが「何も知らなかった」はずがない。その連中が今ものさばっているのを見るたび、憤りを覚える。
噂にはいろいろと尾鰭《おひれ》がついていた。口止め料のこともその一つだ。一説によれば新海が受け取った金額は正規の退職金の二倍以上だという。だから部長は詰め腹を切らされて得をしたという者さえいた。
噂の真偽は明らかではない。仮に本当だとしても、新海が本望だったわけがないと曽我は確信している。誠意を持って地道に動くことこそが、役に立つ商社マンへの近道だと新海はいつもいっていた。不正疑惑をかけられての退職など、さぞかし無念であったろうと想像できる。受け入れたのは会社を思う気持ちがあったからにすぎない。身を隠すようにして生活していたのも、不正の追及から逃れるためだった。
その挙げ句に被災だ。彼の死を知って小躍りした連中が何人もいるに違いないと思うと、我慢ならなかった。
明かりを消して目を閉じたが、なかなか眠れそうになかった。新海のことを考えたせいか、神経が昂《たかぶ》っていた。
翌朝、ホテルを出て西宮に行くと、タクシーを拾った。曽我は年賀状を手にしていた。退職後も新海は毎年送ってくれたのだ。いつも手書きだった。達筆で丁寧に書かれた文面には誠実な人柄が滲み出ていた。
賀状を取り出したのは、運転手に場所を確認してもらうためだった。以前一度だけ新海夫妻の住んでいたアパートには行ったことがある。しかしその記憶は何の頼りにもならなかった。街はその時とは全く違う顔をしていた。
運転手は地図で確かめてから車を出した。
「あのあたりも被害が大きかったところですわ。知り合いがおりましたけど、火事で焼け出されてしもうてね」
「運転手さんもこちらの方ですか」
「私はアマの……尼崎ですわ。幸い、住んでるところは無事やったけど、車が壊れてしもうてね。しばらくは仕事ができんで苦労しました」
そういわれて曽我は、これが個人タクシーだと気づいた。
「その年賀状の人は無事やったんですか」
「いや、亡くなったんですよ。御夫婦ともね」
「そうですか」運転手は吐息をついた。ステーキ店の女主人と同じ反応だった。「けどね、夫婦揃ってやったら、もしかしたらよかったかもしれませんで。こんなこというたら不謹慎かもしれんけど、どっちか片方だけ残るというのも辛いもんでっせ。旦那一人残されても何もでけへんし、奥さんだけ残っても生活の目処が立てへんし、何より死んだ者のことが忘れられませんからな」
運転手の言葉を不謹慎だとは思わなかった。震災によって独りきりになった老人が、仮設住宅で衰弱死したという記事を読んだばかりだった。彼等に必要なのは金や食料だけではない。生きる気力を振り絞らせる何かこそが大切なのだ。
新海夫妻の死亡を知った時、すぐに現場に飛んでいきたかった。だが入ってくる情報によれば、とてもそれができる状況ではなさそうだった。また、震災の影響で急に仕事が忙しくなった。結局行けぬまま、一年が過ぎた。
曽我は鞄を開け、年賀状を内ポケットに入れた。そのポケットには、もう一つ大切なものが入っていた。それの存在を確認してから鞄を閉じた。
今回ここまで足を延ばすことにしたのは、花を手向《たむ》けることのほかに、別の大きな目的があるからだった。その目的とは、新海夫妻の娘に、ある品物を手渡すことだった。
それを見つけたのは昨年暮れのこと。会社の机の中を整理していたら、たまたま出てきたのだ。それは本来曽我が持っているはずのないものだった。何かの時に新海から預かったのが、そのままになっていたらしい。
それを何とか新海の娘に返したいと思った。曽我が持っていても仕方がない。かといって勝手に処分するわけにもいかない。何より、彼女にとっては大切な品に逮いなかった。
たしか、美冬、といったはずだ。曽我は会ったことがない。しかし働いていた店には行ったことがある。
「今度、南青山のブティックで働くことになったらしい。『ホワイトナイト』という店だ。どんなものを売ってるのか知らないが、暇があったら様子を見に行ってくれ。別に何も買わなくていいからな」以前、新海からそういう電話があったのだ。
南青山というからには高級品しか置いてないだろうと思いつつ、曽我は会社の帰りに足を運んでみた。前面ガラス張りの店内には、予想通り、彼には手を出しにくい商品が並んでいた。しかもその日は、肝心の美冬が休みだった。彼に応対してくれたのは、店を経営している女性だった。年齢はまだ三十そこそこと思われたが、落ち着いた物腰には気品が感じられた。
「せっかく来ていただいたのに申し訳ありません。新海さん、めったに休まないんですけど、今日はどうしても外せない用があったらしくて」その女性は心底すまなさそうにいった。「彼女は大変よくやってくれていますよ。御両親にも、是非そのようにお伝えいただけたらと思います」
伝えます、と曽我は約束した。実際、その夜には新海に電話をかけた。
『ホワイトナイト』に行ったのは、それが最初で最後になった。今回、美冬に会うために行ってみたところ、そこはレストランに変わっていたのだ。あの気品のある若き女性経営者も、不況の波には勝てなかったのだなと思った。
ともかく曽我としては、美冬の居所を掴みたかった。それについて有効な手だては思いつかなかったが、とりあえず夫妻が住んでいた場所に行ってみるしかない。
まだあちらこちらに瓦礫の残る街をタクシーは走っていた。テントを張っただけのような商店がいくつか並んでいる。皆、必死で生き抜こうとしているのだ。
「このあたりやないかなあ」運転手が速度を緩めた。
曽我はあたりを見回したが、記憶を喚起してくれる景色はどこにもなかった。何もかもが変わりすぎている。
「ここでいいです」曽我はいった。「後は歩いて探してみます」
「そうですか。役に立てんですんません」
タクシーを降りる時、鞄と一緒に紙袋を持った。その時、運転手が納得したように頷いた。
「なるほど、そういうことですか。どうりで何かええ匂いがすると思た」
曽我は笑みを返した。紙袋には現場に手向けるための花が入っていた。
タクシーが走り去った後も、曽我はしばらくその場に佇んでいた。瓦礫が奇麗に撤去され、ほぼ更地にされているところもあれば、まだ手つかずといった場所も少なくなかった。運良く難を逃れたらしい家屋も目につくが、交通の便は不自由なままだ。いずれにせよ復興への道は険しい。何もかもがこれからなのだと思い知った。
人影は少ない。たまに見かけるのは決まって工事関係者だ。これでは新海夫妻が住んでいた場所を見つけるのは難しそうだった。
小さな家の前で中年女性が鉢植えに水を撒いていた。新築には見えないから、運が良かったグループなのだろう。しかしコンクリートの塀には補修が成されていた。
曽我は女性に声をかけた。彼女はゆっくりと彼のほうに首を巡らせた。彼は新海からの年賀状を見せた。
「この住所やったら、たぶんあの建物の向こう側あたりですわ」彼女は灰色のビルを指した。「けど、あのへんは殆どの家がだめでしたよ」
「わかっています」礼をいってその場を離れた。
新しく建築に取りかかっている家も何軒かあった。災害に強い町づくりをということで、地域ぐるみで再建に取り組んでいる地域もあるが、ここはさほど足並みが揃っていないということだろうか。しかし住む家を失った人々に、行政の計画が立つまで新しい家を建てるのを我慢しろというのも酷な気がした。それぞれに事情が違うのだ。
中年女性にいわれた場所に着いた。やはり更地になってしまっているところが多い。曽我の記憶では、住宅よりも小さなビルが多かった。基礎工事の始まっている場所がある。ヘルメットをかぶった男たちが重機を操作していた。
一枚の看板が道路の端に落ちていた。それを見て曽我は足を止めた。水原製作所とある。記憶を刺激するものがあった。新海武雄の声が蘇る。
「信号を曲がって少し進めば、左側に水原製作所という工場がある。その先がうちのアパートだよ。二階建ての、どうということのない建物だ」
前に行った時、そんなふうに電話で説明を受けた。あの工場だ。間違いない。
水原製作所の工場は辛うじて無事だったようだ。鉄骨が少し傾いているが、今もしっかりと建っている。しかし中を覗いてみると、コンクリートの床が剥き出しになっているだけで、何ひとつ残っていなかった。床には様々な形の跡がついている。産業機器を扱っている曽我には、それらが工作機械の跡だとすぐにわかった。
そこから少し歩いたところに空き地があった。その節で、曽我は立ち止まった。横に細長いその地面は、かつて新海夫妻の住んでいたアパートが建っていた場所に相違なかった。左端にコンクリートの階段の一部が残っている。そこを上がった覚えがあった。
「やあ、よく来たね。意外に遠かっただろ」
「ほんとによく来てくださいました。二人で楽しみにしていたんですよ」
夫妻の顔が交互に浮かんだ。あの夜、彼等はそれこそ首を長くして曽我の訪問を待ち受けていたのだ。新海夫人の手料理が、それを物語っていた。
曽我は紙袋から花を取り出し、空き地の隅に置いた。それからその前で合掌した。目を閉じると風の音が感じられた。それは死者たちのざわめきのように聞こえた。
合掌を終えた後も、しばらく立っていた。やがて何となく人の気配を感じて振り返った。一人の老人が彼を見ていた。セーターの上に分厚いコートを羽織っている。しかも毛糸の帽子をかぶっていた。
老人が何かいった。だが声が小さすぎて聞き取れない。えっ、と聞き直した。
「アサヒハイツか?」老人がそういいながら近づいてきた。
アサヒハイツと聞いて、ぴんときた。新海夫妻が住んでいたアパートの名前だ。
「そうです。知り合いがいたんです。壊れたらしいですね」
「ああ、もう無茶苦茶や。あんまり頑丈な造りになってへんかったみたいやな」
「おじいさんもこのあたりの人ですか」
「うちはこの先や。幸い、ちょっと傾くだけで済んだけどな」
「このアパートに新海さんという人が住んでたんですけど、御存じないですか」
「しんかいさん? さあなあ、聞いたことないなあ」老人は首を捻った。「その人は知らんけど、アパートの大家やったら知ってるで」
「大家さん?」
「サカモトていう人や。すぐそこの角を曲がったところで家を新築してはるわ」
さっき見た建築中の家かもしれなかった。
「建てている最中なら、まだ住んではおられないんでしょうね」
「どうやろな。そうかもしれへんな」
曽我は礼をいってから、歩いてきた道を逆行した。先程の建築中の家に着いた。防寒服を着た男が通りに立って図面を睨んでいる。ちょっとすみません、と声をかけた。男は図面から顔を上げた。
「ここはサカモトさんのお宅ですか」
「そうですけど」
「すみませんが、サカモトさんの連絡先を教えていただけませんか。サカモトさんが貸しておられたアパートについて、ちょっとお尋ねしたいことがありまして。私はこういう者です」名刺を差し出した。
男は当惑した表情で名刺と曽我を交互に見た。
「アパートていうと、すぐそこに建ってたやつかな」
「そうです。アサヒハイツです。あそこに住んでた人の知り合いの者なんです」
「ふうん……ちょっと待っててください」男は一旦建築中の家の中に引っ込んだ。
間もなく戻ってきた彼は、小さなメモ用紙を持っていた。
「電話番号しかわかれへんけど」
「あ、それで結構です」
電話番号を見ると市外局番が06になっている。大阪に住んでいるらしい。
西宮駅から電話をかけた。幸い、相手は在宅していた。新海さんのことで尋ねたいことがあるのだが、と単刀直入に切り出した。
「新海さんのお知り合い? それはちょうどよかった。こっちも用があったんですわ」男性の声がそういった。
「といいますと」
「新海さんとこの娘さんを探してるんですわ。連絡先がわからんで困っとりましてね」
曽我は落胆した。彼の知りたいことこそが、まさにそれなのだ。そういうと電話の向こうからも失望の吐息が聞こえてきた。
「なんや、そうですか。せっかくですけど、今もいいましたように、うちもわかってないんですわ」
「市役所に行けばわかりますかね」
「いや、わかれへんと思います。私も調べに行ったんですけど、あそこの娘さんの住所は不明やったんです。地震の時は両親と一緒にアパートにいたらしいんですけどね」
「じゃあ、お嬢さんも被災されたんですか」
「そういうことになりますな」
親子三人で被災――思ってもみないことだった。
「あの、サカモトさん。今からそちらにお伺いしてもよろしいでしょうか。詳しいお話をお聞きしたいんですけど」
「そらかまいませんけど、大した話はできませんで。今話した程度のことしか」
「それでも構いません。お願いします」受話器を耳に当てたまま頭を下げた。
約三十分後、曽我は大阪の福島《ふくしま》区に来ていた。大阪環状線|野田《のだ》駅から歩いて数分のところに、阪本から教えられたマンションが建っていた。賃貸マンションで、地震直後に知り合いの不動産屋から紹介された物件らしい。
「地震の直前に空いた部屋やったんです。クリーニングも何もしてなかったけど、住めたら上等やというわけで、あわてて越してきました。あの頃はもう、賃貸物件の取り合いでしたからな。人に部屋を貸しておきながら、自分の住むところがなくなるとは夢にも思いませんでしたで」
阪本は曽我に茶を勧めながらいった。自宅が全焼、経営していたアパートも倒壊という状況では笑っていられないと思うが、その口調に暗さはなかった。阪本は梅田で喫茶店も経営しているということだった。
「で、アサヒハイツですけど、アパートがああいうことになったんで、敷金は返さんといかんのですわ。ほかの人には全部返したんですけど、新海さんのところだけが残ってましてね」
「それで市役所に調べに?」
「そういうことです。電話でもいいましたけど、結局何もわかりませんでした」阪本は薄くなった頭をつるりと撫でる。いかにも抜け目のなさそうな顔つきだが、律儀に敷金を返そうとしているのだから善人なのだろう。あるいは被災者同士という仲間意識が不正をさせないのか。
「娘さんも被災されたというのは本当なんですか」
「体育館に、両親の遺体と一緒に避難してたみたいですわ。我々はあの朝、広島におりましてね、家やアパートがどうなったのか気になって仕方なかったんですけど、何しろ電車も車も動けへんから往生しました」
「すると阪本さんはお嬢さんにはお会いになっていないのですか」
「私は会《お》うてません。けど、新海さんの隣に住んでた人が、避難所で挨拶したそうです。その人の話では、お嬢さんは地震の前の晩にアパートに来たんやないかということでした。いつもは聞こえんような賑やかな声がしてたそうです」
「地震の前夜に? それはまた何と――」運のない、という言葉を曽我は呑み込んだ。阪本も被災者だったことを思い出した。
「というようなわけで、こちらとしても娘さんの居所を探してるという状態なんですわ。せっかくこんなところまで来てもろて申し訳ないですけど」
「いえ、こちらが勝手にお邪魔したわけですから」曽我は手を振った。「新海さんと賃貸契約を結んだ時の契約書は残っていますか」
「それはもちろんあります」阪本は椅子の横に置いてあった平たい鞄を開け、中からファイルを取り出した。
「これですけど」
ちょっと失礼といって曽我は手を伸ばした。
彼が当てにしたのは保証人の欄だった。親戚の名前があるのではと思ったのだ。しかしそこは空欄になっていた。かわりに緊急の連絡先が書き込まれていた。
東京都渋谷区|幡ヶ谷《はたがや》2−×−×−306
新海美冬(長女)
電話番号03−××××−××××
「ここには?」阪本を見た。
「一応電話してみましたけど、もうそこにはいてないみたいです。この番号は使われてませんていうアナウンスが流れてきましたから」
曽我は上着の内ポケットから手帳を取り出した。
「控えてもいいですか」
「構いませんけど、そこへ行っても無駄と違うかなあ」阪本は首を捻った。「もし娘さんが見つかったら、うちに連絡してもらえるよう伝えてもらえませんか」
もちろんそのつもりです、と曽我はメモを取りながら笑いかけた。
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予約表を見た時、何かの間違いではないか、と青江は思った。今週だけでなく、来週の分までほぼ埋まっている。こんなことはオープン以来、初めてだった。
「すごいですよ。電話が鳴りっぱなしで」見習いの浜田《はまだ》美香《みか》が目を丸くしていった。彼女は電話番でもあるが、今までは予約受付に追われたことなどなかったはずだ。
予約表に並んでいる名前を見ると、青江の知らない客が殆どだった。それらの客が何をきっかけに彼の店に行ってみようと思いついたのかは明らかだった。
「やっぱり宣伝の力って大きいんですね」浜田美香が青江の内心を代弁した。
そうだな、と彼としては頷くしかない。そして改めて思った。彼女はすごい、と。
浜田美香がいった宣伝とは、ファッション雑誌での紹介記事だ。このところいくつかの雑誌で、立て続けにヘアデザインの特集記事が組まれているのだが、それらの中で青江の店『モン・アミ』が必ずといっていいほど紹介されているのだ。無論ほかにも紹介されている店はあるが、いずれもすでに美容業界では確固たる地位を築いている店だった。オープンしたばかりの店といえば、『モン・アミ』だけだ。
もちろんそれは偶然ではない。といって、各誌の編集者が東京中の美容院を回った結果、全員が全員『モン・アミ』に目をつけた、というわけでもない。
仕掛け人は美冬だった。彼女は店がオープンする前から、青江にこういうことをいっていた。
「オリジナリティがあって、しかも当然自信作といえるデザインをいくつか考えてちょうだい。出来上がったら写真に撮るのよ」
その写真をどうするのかと尋ねると、彼女はそんなこともわからないのか、というように大きく手を広げて苦笑した。
「『モン・アミ』の売り込みに使うのよ。決まってるじゃない」
青江がいくつかのヘアスタイルを考案すると、美冬はどこからかモデルになってくれる女の子とカメラマンを連れてきた。青江が彼女たちの髪を仕上げると、次々にカメラに収めていった。
美冬は出来上がった写真をいくつかの出版社に送った。いずれも若い女性向けのファッション情報誌を出している会社だった。特にこれはと目をつけた会社へは、彼女自らが写真を持って、編集者に会いに行った。彼女はすでに『華屋』を退職している。
美冬のそうした努力の結晶が、先の紹介記事に繋がったわけだが、各社が揃ってヘアデザインの特集記事を組まなければ、その努力も実らなかった。今、世の中でどんな情報が求められているか、情報発信側がどんなものを出そうとしているかを冷静に見極めた末での、美冬の戦略勝ちといえた。
雑誌で紹介されて以来、『モン・アミ』は有名美容室へと変身した。青江は前に働いていた『ブーシュ』から二人のスタッフを連れてきていたが、それでは忽《たちま》ち手が足りなくなった。急遽《きゅうきょ》数名のスタッフを雇い入れた。それでも足りずにバイトを雇った。
俺は賭けに勝ったのだと青江は思った。
この日の夕方、飯塚千絵が店にやってきた。たまたま入り口近くのカウンターにいた青江は、ガラスドアの向こうにいる彼女と目が合った。
彼は近づいていってドアを開けた。「よう」
「こんにちは」千絵はばつの悪そうな顔をした。「忙しいみたいだね」
「そうだな」彼は時計に目をやった。「この後、予約が入ってるんだ。でもカットだけだからそんなには時間はかからない。八時には出られると思うけど」
「じゃあ、その頃にもう一度来ようかな」
「それでもいいけど、この近くにイタリアンの店がある。そこで待ち合わせないか」
「いいよ」
青江は店の場所を教えた。じゃあ八時に、といって千絵は立ち去った。
次の客の髪を切りながら、彼は千絵のことを考えていた。『ブーシュ』を辞めて以来、彼女とは会っていない。喧嘩別れしたわけではないが、気まずくなっているのはたしかだ。
その原因は、青江が彼女の忠告を無視したことにある。彼女は彼が新海美冬の力を借りて独立することに最後まで反対だったのだ。
千絵の言い分もわからなくはなかった。さほど親しいわけでもない人間に出資してもらうというのは気味の悪いものだ。独立したいなら地道に貯金して、という堅実な考え方には一分の隙もない。
以前の青江ならば、彼女のそんな意見を尊重しただろう。しかし美冬と会った後では、千絵の言葉のすべてが子供っぽく思えた。世の中は堅実なだけでは渡っていけない、努力が必ず報われるとはかぎらず、成功するにはどこかで勝負をかけなければならない――そんな考えのほうが現実に即しているように感じられた。
美冬と出会ったことで、青江の女性観も変わっていた。彼はこれまで恋人にかわいさを求めていた。千絵に対してもそうだった。しかし美冬には全く違う魅力を感じている。大人の色香というような単純なものではない。彼女といると、鋭い刃物に向かう時のような鋭敏な感覚が要求され、自分の中の何かが高められる実感がある。
要するに青江はあらゆる面で千絵に物足りなさを感じたのだ。そんな彼の変化に千絵が気づかぬはずがない。もしかすると彼と美冬の関係を疑っているかもしれなかった。結果的にどちらからともなく距離を置くようになってしまった。
なぜ今になって千絵が会いに来たのだろうと青江は考えた。よりを戻そうという話だったらどうしようと思った。自分の中にそれを望んでいる気持ちがあることに彼は気づいていた。
八時ちょうどに約束の店に出向いた。地下にある店だった。
「お店、すごいことになってるね」彼がテーブルにつくなり千絵はいった。
「雑誌の影響力はすごいよ」
「でもそれもシン君の力が認められたってことだから」
「どうかな」
ウェイターに料理を注文した。シェフお薦めのコースメニューだった。
「それ、よく似合ってるね」千絵がいった。「そのペンダント」
「ああ、これか。この前、六本木で買った。わりと気に入ってるんだ」青江は首飾りを触った。髑髏《どくろ》と薔薇《ばら》の彫り物がしてある。千絵と別れてから買ったものだ。
お互いの近況を報告し合った後、千絵がためらいがちに訊いてきた。
「ねえ、あたしのことを馬鹿だと思ってる?」
「どうして?」
「だって、シン君が店を出すことに反対したから。でも店は成功してる。ざまあみろって思ってるんじゃないの」
「そんなこと思ってないよ。それに、まだ成功したと決まったわけじゃない。何もかもこれからだよ」
「だけど、あたしのいうことなんか聞かなくて正解だったとは思ってるでしょ」千絵は上目遣いに彼を見た。
それは、といったきり青江は言葉に詰まった。うまく取り繕う言葉が出てこない。
「ごまかさなくていいよ。そう思って当然だから」
「ごまかしてるわけじゃないけどさ……」青江は口ごもった。
せっかくのコースメニューの味がよくわからなくなっていた。
「そういうことをいうために、わざわざ来たのか」彼のほうから訊いてみた。
「そうじゃないけど……何となくシン君の顔を見たくなって。どうしてるのかなあと思って」千絵はフォークとナイフを持ったまま俯いた。
やはり、よりを戻そうという話なのだなと青江は思った。だがそれを切り出せずにいるのだ。自分から切り出してみるべきかどうか彼は迷った。
その時だった。いらっしゃいませ、という声がした。千絵がそちらを見て目を見張る。それにつられて青江も見た。ぎくりとした。
新海美冬が入ってくるところだった。彼女は青江たちがいるのを承知していた顔で近づいてきた。
「今晩は」千絵に向かって微笑んだ。
今晩は、と千絵は会釈した。それから青江を見た。あなたが呼んだのか、と尋ねている顔だ。彼は小さくかぶりを振った。そんなわけないだろ、という気持ちを込めた。
「ここ、いいかしら」美冬は青江の隣の椅子を引いた。
どうぞ、と答えるしかない。
美冬は腰を下ろすと、ウェイターにシェリー酒を注文した。
「この店だと思った」
「どうしてですか」
「『モン・アミ』の子に訊いたのよ。かわいいお客さんが青江さんに会いに来てたようですって。青江君、この店がお気に入りだから、たぶんここで待ち合わせたんだろうと推理したわけ」美冬は鼻の上に皺を寄せて笑った。
「ええと、彼女は前にいた『ブーシュ』の……」
青江が千絵のことを説明しようとすると、美冬は微笑んだまま頷いた。
「わかってる。飯塚千絵さんでしょ。何度か見かけたことがある」
千絵がまた小さく頭を下げた。
「ねえ、何の相談?」美冬が二人の顔を見比べた。千絵は下を向いた。
「別に相談ってわけじゃあ……。近くまで来たからって、寄ってくれたんです。それでせっかくだから食事でもと思って」青江は言い訳した。
「そう。じゃあ、あたしのほうから話してもいい?」
「どうぞ」
「千絵さんに用があるのよ」美冬は千絵のほうを向いた。「ねえ、今お給料はいくらもらってるの?」
えっ、と千絵が声を漏らした。
「もしよかったら、『モン・アミ』で働かない? 今、スタッフが足りなくて困ってるの。あなたなら青江君とも息が合うと思うし、来てくれたら最高なんだけど」
これには青江も驚いた。
「待ってください。そんなわけにはいきませんよ」
「どうして?」
「だって『ブーシュ』から連れてくるメンバーについては、先方と何度も話し合って決めたんです。今さらもう一人引き抜いたりしたら、何といわれるか」
「『ブーシュ』に話をつける自信はあるわよ。千絵さんがオーケーしてくれたらの話だけどね」
「せっかくですけど、あたし、『ブーシュ』を辞める気はありません」千絵は美冬を見て、きっぱりといいきった。「ずっとあの店にいるつもりです」
「そう? 残念だな。青江君のいい片腕になってくれると思ったのに」青江を見て、意味ありげに笑った。
「あの、あたし、これで失礼します」千絵は立ち上がった。
「待てよ。まだ料理が残ってる」
「ごめんなさい。おなかいっぱいになっちゃった」千絵は青江の顔を見ずにいうと、バッグを手に出口に向かった。ウェイターがあわてた様子で彼女のコートを差し出している。
青江は彼女を追いかけようとした。しかし美冬の横顔を見た途端、足が動かなくなった。みっともないことをするな、と無言で語っていた。
千絵の姿が消えてから、美冬はゆっくりと腰を上げ、千絵が座っていた椅子に座り直した。「あーあ、もったいない。こんなに残しちゃって」
「どうして急にあんなことをいいだしたんですか」
「だってグッドアイデアだと思わない? 青江君だって、腕のいいスタッフが欲しいといってたでしょ」
「それはそうですけど」
「でも」美冬は口元に笑みを浮かべたまま、彼を睨んだ。「さすがに前の恋人だと雇いにくい?」
どきりとして目を見開いた。そんな反応を彼女は楽しんでいる様子だ。ウェイターを呼び、テーブルの上を片づけるよう命じると、青江たちが食べていたコースメニューを改めて注文した。
「ねえ青江君、馬鹿なことはこれっきりにしてね」美冬はいった。「あなたにとって、これからが正念場なの。ただの美容師で終わるか、ワンランク上の存在になるか、今が分かれ目なの。中途半端な気持ちでいられたら困るな」
「昔の同僚と食事をするのが馬鹿なことですか」
「あなたはまだわかってないのね。今のあなたは昔のあなたじゃない。昔は捨てなさい。そうしないと勝負に勝てないわよ。あなた、勝ちたいんでしょ」
「それはもちろん……」
「だったら」美冬は並べられたナイフを手にし、その先端を青江に向けた。「ちらっとでも考えないことね。あたしを裏切るなんてことは」
冷たい口調にぞくりとしながら、青江は無言で顎を引いた。
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新宿での打ち合わせが思ったよりも早く終わった。曽我は時計を見た。午後七時を少し回ったところだ。職場の行き先表示板には、打ち合わせ後に直帰と記してきた。曽我の自宅は杉並だ。
行ってみるか、と曽我は思った。コートの中に手を入れ、背広の内ポケットからメモを取り出した。新海美冬の旧住所が記されている。
関西から戻って以来、行ってみようと考えたことは何度かある。しかし仕事に追われたり、休日は家族サービスをせがまれたりして、結局そのままになっていた。それに、訪ねて行っても無駄ではないかという気持ちもあった。メモに書かれた場所に新海美冬が住んでいたのは一年以上も前だ。
それでも奥歯にものの挟まったような違和感がずっと胸にあった。とにかく一度行ってみないことには、このメモを処分することもできない。
新宿駅からタクシーに乗った。甲州街道を直進し、高速の幡ヶ谷入り口の手前で右折した。ちょうど幡ヶ谷二丁目だった。曽我はタクシーを止め、そこからは歩いて探すことにした。大きな病院や有名光学機器メーカーの建物などが並んでいる。そのメーカーにも仕事で何度か足を運んだことがあったのを曽我は思い出していた。
メモに記された住所には、こぢんまりとしたマンションが建っていた。あまり新しくはないようで、オートロックにもなっていない。
正面玄関を入ってすぐ左に管理人室があった。今は小窓が閉じられ、中の明かりも消えている。早い時間でなければ管理人はいないのだろう。
右側にはメールボックスが並んでいた。曽我は三〇六号室のネームプレートを見た。鈴木、という名字が書かれていた。三〇五号室は中野と出ており、三〇七号室にはプレートが入っていない。
少し迷ったがエレベータに乗り、三階で降りた。
三〇六号室は廊下の中程にあった。その前を通り過ぎ、三〇五号室の前で足を止めた。
軽く深呼吸してからインターホンのチャイムを鳴らした。できれば男性が出てくればいいなと思った。女性だと妙に警戒されそうな気がするからだ。しかしスピーカーから聞こえてきた「はい」という声は、女性のものだった。
「突然すみません。以前隣に住んでおられた新海さんについて、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
「……どちら様でしょうか」
「私は曽我といいます。新海さんを探しておりまして」
「はあ、そうですか」
少し間があって、ドアが開いた。現れたのは髪の長い女性だった。ドアチェーンは繋がれていない。無警戒なのかなと思って足元を見ると、明らかに男性のものと思われる靴が置いてあった。
「どういったことでしょうか」声に怪訝そうな響きがあった。
「じつは――」
曽我はこれまでの事情を大まかに説明した。かつての上司の娘を探していること、その上司と妻は阪神淡路大震災で亡くなったこと、わかっていることは娘がかつて住んでいた住所、つまりこのマンションだけだということなどだ。
中野という女性は最初疑念の表情を浮かべていたが、阪神淡路大震災という言葉を聞くと小さく頷いた。
「新海さんなら、何度か話したことはあります」彼女はいった。「引っ越してこられた時に、挨拶にみえたんです。今時珍しいなと思いましたけど」
曽我は頷いた。たしかに単身者の多いマンションなどでは、引っ越し時に挨拶するということも少なくなっている。しかし新海美冬なら、きっときちんとするだろうと想像がついた。美冬のことを知っているわけではない。たぶんそのようにしつけられているだろうと察したのだ。
「じゃあ、部屋を出る時にも挨拶に来られたんじゃないですか」
「ええ、来られました」
「その時に何か聞いておられませんか。次の引っ越し先のこととか」
だが彼女は気の毒そうな顔でかぶりを振った。
「だいぶ前のことなのでよく覚えてないんですけど、そういうことは聞かなかったと思います」
「そうですか」予想していたことだが、曽我は落胆した。
「でも、彼女があの地震で被災してたなんて全然知りませんでした。てっきり、外国にいるんだろうと思ってました」
曽我は顔を上げ、彼女を見つめた。「外国?」
「ここのマンションを引き払って、しばらく外国に行くようなことをいっておられました。ロンドン……だったかな」
「いつ頃のことですか」
「あれはたしか……一昨々年の暮れだったと思います」
「一昨々年……」
意外な答えだった。美冬が部屋を出たのは西宮に帰る直前だと思い込んでいた。
「外国に行っておられたのは、どれぐらいの期間でしょうか」
中野という女性は首を傾げた。
「さあ……もう一人の人と一緒にアパートを借りて住むとかいってたから、一年ぐらいかなあと漠然と考えてたんですけど」
「もう一人の人?」
「ええ。すごく慕っている人がいて、その人と一緒に行く……とか聞きましたけど」
「男性ですか」
曽我の質問に彼女はようやく少し微笑んだ。
「あたしもそう思ったんですけど、女性だとおっしゃってました」
「仕事はどうされたんでしょうか」
「仕事は辞めるとか……いえ、そうじゃなくて」彼女は記憶を探る顔になった。「仕事先が潰れたとか、経営者が代わったとか、そういう話を聞いた覚えがありますけど」
南青山のブティックだなと曽我は合点した。
「あの……」女性が口を開いた。「もういいでしょうか。ずいぶん前のことなんで、よく覚えてませんし、今は何の付き合いもありませんので」
「あ、お時間をとらせて申し訳ありませんでした。あの、ついでに厚かましいお願いなんですが」彼は名刺を出し、何か心当たりがあれば連絡してほしいと頼んだ。
ドアが閉じられるのを確認してから、彼は三〇六号室の前を通り過ぎ、逆隣の三〇七号室のチャイムを鳴らした。この部屋には男性が住んでいた。しかし彼は新海美冬のことをよく覚えていなかった。
「出張が多いんでね、挨拶に見えたかもしれないけど、留守だったと思うんですよ。だから、気がついた時には隣が空き部屋になってたって感じかな」スウェットスーツ姿の男性は面倒臭そうに答えた。
「いつ頃のことでしょう?」
「さあ、覚えてないなあ。今隣に住んでる人が入ってきたのが、たしか三年ぐらい前だったと思うから、前の人が出ていったのはそれよりちょっと前じゃないのかなあ」
曖昧な言い方ではあるが、先程の女性の話と合致する。
曽我は礼をいってその場を離れた。この男性には名刺は渡さないことにした。
マンションを出て、タクシーで自宅に向かいながら曽我は考えた。整理すると次のようになる。まず、新海美冬が部屋を出たのは一昨々年つまり九三年の暮れだ。彼女は仕事を辞め、「慕っている女性」と海外に行った。そして約一年後、両親の住む西宮で阪神淡路大震災に遭った。
その「慕っている女性」とは誰だろう。そんな人間がいるのならば、震災後に美冬が真っ先に頼りにするのではないか。またその女性にしても、被災した彼女をほうってはおかないだろう。いったんは自分のもとで暮らすように勧めるのではないか。だがそうだとすれば、美冬が緊急の連絡先として、その女性の住所なり電話番号を役所や警察に残しておくはずだ。
彼は右の胸を押さえた。そちらの内ポケットには新海美冬に渡さねばならないものが入っている。いつでも渡せるように、ずっと持ち歩いているのだ。
曽我のもとに情報がもたらされたのは、その三日後だった。三〇五号室の中野という女性が電話をかけてきたのだ。一昨年の正月に新海美冬から受け取った年賀状を見つけたという。
曽我は早速その賀状を見せてもらうことにした。マンションに出向くと、中野という女性は彼にその賀状を差し出した。
「内容を写させてもらっていいですか」曽我は手帳を取り出した。
「いえ、差し上げます。あたしが持っていても仕方ないし」
「そうですか。ありがとうございます」
マンションを出てから、改めて賀状を見た。文面が印刷された年賀葉書で、『お隣さん同士の時はお世話になりました。外国で揉まれてきます。お元気で!』と書き添えてあった。丁寧な楷書だった。
住所と電話番号も印刷されていて、その横に、『居候の新海美冬』とワープロで印字したと思われる紙が貼ってあった。おそらく部屋の主から、余った年賀葉書をもらったのだろう。紙の下には、その主の名前が印刷してあったに違いない。
住所は三田になっている。マンションのようだ。曽我は少し迷ったが、心を決め、携帯電話を取り出した。
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今日の焼き魚定食は鰊《にしん》の塩焼きだった。雅也はビールを一口飲んでから割り箸を鰊に伸ばした。昔から魚を食べるのは得意だったので、骨の多いことなど何でもない。猫またぎ、などと親戚のおばさんからはいわれた。猫もまたいでいくほど、身を残さずに食べるからだという。だから雅也ちゃんは職人向きや、ともいわれた。
鰊は適度に脂がのっていて旨かった。『おかだ』は御飯のおかわりが自由だ。早々に碗を空にし、ユウコを手招きした。
「食欲旺盛だね」碗を受け取り、ユウコが微笑んだ。「仕事が忙しいの?」
「そうでもない。ここの飯が旨いからや」
「それ聞いたら、大将喜ぶよ」ユウコは笑いながら下がっていった。彼女は店では自分の父親のことを大将と呼ぶ。
仕事が忙しいというのは事実だった。今年に入ってからミニチュアカー部品の注文が増えた。さらには、福田が使途不明のおかしな部品を作ってくれといってくることも多い。おかげでずっと残業をしている。だが雅也が疲れているのはそのせいだけではなかった。美冬から不定期に頼まれる仕事が彼の重荷になっていた。神経を遣うし、何より社長の福田に気づかれないようにするのが大変だった。
美冬は相変わらず、指輪やペンダントの図面を持ってきては、彼に作ってくれと頼むのだ。それも最近では図面ではなく、パソコンで立体的に描いたイラストなどを持ってくる。どこで習ったのか、美冬はパソコンにも強いのだ。時には有名ブランド品の写真をオリジナルらしく加工して、「この写真みたいにして」と渡すこともあった。彫金を本格的に習っていない雅也にとっては、試行錯誤の連続だ。それですっかりくたびれてしまうのだ。
しかし完成品を目にした時の美冬の喜ぶ顔を見ると、そんな苦労も消えてしまう。この女のためなら何でもできると確信してしまう。
一体何のために自分にこんなものを作らせるのかと質問することがある。返ってくる台詞はいつも同じだ。
「あたしらの未来のため。雅也が作ってくれた作品の一つ一つが、いずれはあたしらを支えてくれる」
その意味については教えてくれない。どうやら宝飾品の世界で勝負しようとしているらしいが、具体的な手順については不明だった。
例の美容師のことも気になっていた。美冬は雅也も知らないうちに店を始めていたのだが、そこの店長があの青江だと知った時には驚いた。どうやって彼を懐柔したのか。いやそもそも、店を出したこと自体が青天の霹靂《へきれき》だった。
「どうってことないよ。部屋を借りて内装工事をするだけのことやから。大変なのはここから。いかにして名前を売り出すか、それが勝負の分かれ道や」
美冬はどうやらその勝負に勝ったらしい。彼女が経営する『モン・アミ』は、今ではすっかり有名店の仲間入りだ。青江は雑誌でインタビューを受けるほどの人気者になった。
事業が成功するのはいい。しかし美冬の行動を見るたびに、雅也は得体の知れない不安を抱いてしまう。彼女が何のためにそこまでするのか、彼女がどこへ行き着こうとしているのか、それがまるで見えてこない。
美冬の項にある、二つ並んだ黒子のことを彼は考えた。フクタ工業の職人だった安浦は、おかしな女に引っかかって職を失った。その女の正体は謎のままだが、唯一彼が覚えている特徴は、項に二つの黒子があることだという。
まさか、と思う。しかし彼女ならやりかねない、とも思えた。フクタ工業はかつて銀細工を売り物にしていた時期があり、彫金の設備も残っている。だからこそ雅也も美冬の注文に応じられるのだが、今となっては、それを知っていて彼女はあの工場を勧めたのではないかと勘繰ってしまう。さらには雅也が働ける場所を確保するために同系の職人である安浦に罠《わな》を仕掛けた――いくら何でも考えすぎだろうか。
焼き魚定食を奇麗にたいらげ、ビールも空にして席を立った。
「今日はおにぎりはいらないの?」勘定の時にユウコが訊いてきた。
「うん、今日はいらん。風呂入って、すぐに寝る」
「疲れてるんだね」ちょっと心配そうな顔をした。「独り暮らしでしょ。掃除とか洗濯はどうしてるの?」
「洗濯は気が向いた時にする。掃除はしたことないな」
たまに来る女がしてくれるのだとはいえなかった。
「部屋が汚いのは身体によくないよ」ユウコは顔をしかめてから、小声で囁いた。「今度、掃除しに行ったげようか。あたし、片づけとか結構得意なんだ」
「ああ……」
ほかの客が声をかけてきた。ユウコはそちらを見て返事し、じゃあね、と雅也にいった。彼は小さく頷いて店を出た。
ああいう女と暮らしたらどうなんだろう、とアパートに帰る途中で考えた。ユウコのことを詳しく知っているわけではない。だが彼女とならば、堅実で落ち着いた生活を手に入れられるような気がした。大博打を仕掛けることがないから、一攫千金《いっかくせんきん》ということは一生起こり得ないだろう。大きな上昇を見込めない収入の中で、細々とやっていくしかない。しかし彼女ならそのことで不平不満をいわないのではないか。地味な生活の中にも喜びを見つけだし、それなりに幸福な家庭を築いてくれるのではないか。
少なくとも自分に過剰な緊張感を強いることはないはずだ、と雅也は思った。
部屋に戻るとドアの郵便受けに何かが挟まっている。取り出してみると彼宛ての封書だった。戸惑いと驚きがあった。手紙など、引っ越してきて以来、ただの一度も受け取っていない。ここの住所を知っている人間も殆どいないはずだ。
宛名はワープロで書かれていた。雅也は裏を見た。そこにもワープロの文字が並んでいた。差出人の名前を見て、彼は声を上げそうになった。
米倉俊郎、とあったからだ。
無論その名前を忘れたことなど一度もない。何をしている時でも、あの時の情景は飛蚊症《ひぶんしょう》の影のように目の前でちらついている。阪神淡路大震災の朝、雅也が頭を叩き割った叔父の名前だ。
なぜその名で封書が送られてきたのか。差出人の意図をあれこれ想像しながら雅也は慎重に封を切った。
中から出てきたのは一枚の便箋と写真だった。便箋にはやはりワープロで、次のように書いてあった。
『あの朝の証拠品を売却したい。当方の希望価格一〇〇〇万円。これ以下での取引は不可。振込先××銀行新宿支店普通口座1256498 スギノカズオ 期限一九九六年三月末日。
期限内に入金がなかった場合は取引不成立とみなし、今後の連絡はしない。証拠品は第三者に譲渡する。第三者には司法関係者も含まれる。以上』
身体が震えだした。雅也は写真を見た。それを見た途端、今度は目眩がしそうになった。そこに写っているのは、まさにあの朝の光景だった。壊れた建物、傾いた水原製作所の看板、そして緑色の防寒着を着た長身の男。男は何かを振り上げている。彼の足元にはもう一人男がいた。瓦礫の下敷きになっている。
写真を手にしたまま雅也は座り込んだ。
真っ先に思い出したのは佐貴子のことだった。さらに彼女の内縁の夫である小谷だ。彼等は雅也が俊郎を殺したのではないかと疑い、その証拠を掴もうと躍起になっていた。
するとこの手紙の差出人は彼等か。新たな証拠をついに見つけだしたということか。
だが彼等なら匿名など使わないはずだ。
改めて写真を見る。画質が奇麗だとはとてもいえない。この画像には見覚えがあった。佐貴子たちが手に入れようとした例のビデオテープの画面に酷似している。しかしあのテープには、雅也がこのように殴りかかっているシーンは映っていなかった。
例のテープと比較したかったが、もはやそれは不可能だった。美冬から受け取った直後に彼自身の手で焼却したからだ。
一体どこの誰が、と思った時、電話が鳴りだした。雅也は一瞬飛び上がった。
電話をかけてきたのは美冬だった。今から来るという。雅也はあわてた。脅迫状のことを話すべきかどうか迷った。
「どうしたの? 今、都合が悪いの?」
「いや、そんなことはないけど」
「じゃあ、これから行く。あと五分ぐらいで着くから」
電話を切った後、雅也は写真と便箋を封筒に戻し、作業着のポケットに入れてから着替えを始めた。トレーナーにスウェットという格好になった時、玄関のドアホンが鳴った。
「晩御飯は?」ドアを開けるなり美冬が尋ねてきた。
「もう済ませた」
「そう。一応、マクドに寄ってきたんやけど」白い袋を掲げた。雅也と一緒にいる時、彼女は相変わらず関西弁を使う。マクドナルドのことをマクドというのも、おそらく彼の前だけだろう。
「急にどうしたんや。また指輪を作るんか」雅也は訊いた。
「そんな、頼み事をする時だけ来るみたいにいわんといて。雅也の顔が見たかっただけ」美冬は彼に笑いかけたが、その顔がすぐに曇った。怪訝そうに眉をひそめる。「どうかしたの?」
「いや、別に」彼は目をそらした。
「けど、顔色悪いで。風邪でもひいた?」美冬は雅也の額に手を伸ばしてきた。
なんでもない、といって彼はその手を払った。彼女は驚いたように彼を見上げた。
「すまん。ほんまに、何もないから」彼は手を振った。「コーヒーでも淹れよか。美冬はハンバーガー食べるんか」
だが彼女は答えない。雅也が見ると、彼女は立ったまま唇を噛んでいた。
「雅也」彼女が口を開いた。落ち着いた低い声だ。「何かあったんやろ。なんであたしに隠すの? あたしらは一心同体やろ。困ったことがあったら助け合うて誓ったやんか」
いやほんまに、といったきり後が続かなくなった。美冬の真摯《しんし》な目に圧倒されていた。
雅也は作業着から封筒を取り出し、黙ってそれを差し出した。本当は、俊郎殺しについて彼女と話すのは避けたかった。二人の間のタブーだと思っていた。
脅迫状を読んでいた彼女の目が、一瞬大きく開かれた。何度か読み直した後、畳の上で正座して雅也を見た。
「この写真に心当たりは?」
「ない」
「差出人についても、思い当たることはないわけやね」
「強いていえば佐貴子とこの夫婦やけど、あの二人やったら、こういうやり方はせえへんと思う」
「この写真、ふつうのカメラと違うね。ビデオテープからプリントしたものや」
「あのテープから取ったものかなと思たんやけど」
あのテープ、で通じるかどうかわからなかったが、その心配は無用だった。
「あれにこんなシーンが映ってた?」美冬は即座に訊いてきた。
「映ってなかったと思う。俺の姿は映ってたけど、ここまでのシーンはなかった」
美冬は写真に目を戻し、首を捻った。
俺たちは異常だな、と彼女の横顔を見ながら雅也は思った。人殺しを、ちょっとした出来事のように話している。
彼女が顔を上げた。「それで、どうするの?」
雅也は答えられない。どうしていいかわからずに途方に暮れていたら、彼女から電話があったのだ。
「お金、払うの?」
雅也はふっと息を吐いた。
「一千万なんて金、今の俺にあるわけない」
「あったら払うわけ?」
「どうかな……」首を捻る。何とも答えようがない。払わなければ当局に訴える、と脅迫者は宣告してきているのだ。単なる脅しだとは思えない。
「雅也がどうしても払うていうなら、あたし、お金を出してもええよ」
「え……」雅也は彼女の顔を見返した。
「けど、あたしは払うべきやないと思う」美冬は写真を指でつまみ、ひらひらさせた。「これは落とし穴や。しかも行き先は地獄。アリ地獄や。この脅迫状を出した人間が、これ一回きりで満足すると思たら甘いで。これからもずっと強請《ゆす》られ続ける。たぶん一生つきまとわれる。それでもええの?」
「ええわけないやろ。けど、警察に訴えられたらアウトやないか」
美冬は写真をテーブルに置いた。
「あたし、相手はそんなことしないと思う。少なくとも、雅也が期限までに払わんからというて、すぐに届けたりはせえへん。そんなことをしても何のメリットもない」
「そういうても、無視するわけにもいかんやろ。ほっといたら、絶対に次の手に出てくるぞ」
「そこや。今のままではこっちに打つ手は何もない。相手がどこの誰かもわからんからね。対抗するには、とにかく敵の正体を突き止めることや。そのためには手がかりが必要やろ? 今回はとりあえずほうっておく。すると雅也のいうように、敵は必ず何らかのアクションをしてくる。次は向こうも無視されたくないから、多少思い切った手に出てくるやろうけど、それが狙いや。人間というのは、焦ったらぼろを出す」
目を見開き、笑みさえ浮かべながら話す彼女を見て、もしかしたらこの女はこういう駆け引きが楽しいのだろうか、と雅也はふと思った。
「そんなにうまいこといくかな」
「成り行き任せではあかん。こっちも精一杯知恵を絞らんとね。けど、今はこっちにできることは何もない。この銀行口座の主を調べてもええけど、どうせ偽名に決まってる。今は架空口座も買える時代やからな」
それは雅也も同感だった。
「まずは様子を見るわけか……」
「それがええと思うよ」美冬は頷いた。
「なあ美冬、俺、前から訊いておきたいことがあったんやけど」雅也は顎を引き、上目遣いに彼女を見た。
彼女の顔に真剣な表情が戻った。「ビデオテープのことやろ?」
「あれ、どうやって手に入れた? 佐貴子らも動いてたはずやのに」
「あれは危ないところやったわ。もう少しもたもたしてたら、確実に先を越されてた。ツキがあったということかな」
「せやからどうやって――」
「テープを持ってたのは大阪のプータローや。ちょっとうまい話を持ちかけたら、簡単に信用して渡しよった。あの男は今回のこととはたぶん無関係や」
「そうかな……」
雅也はその男とは会っていないのだから、何ともいえなかった。
美冬が封筒を手に取った。表書きを凝視している。
「消印は麹町《こうじまち》郵便局になってる。関西におる人間やったら、手紙を出すだけのために上京したりはせえへんやろ」
「そういうたら、指定の銀行も新宿支店やな」
「架空口座なんか、日本全国どこの地域のものでも手に入る。わざわざ新宿支店の口座にしたということは、そこが敵にとって都合のええ場所やからと思う」
そうかもしれないな、と雅也も思った。
「でも俺は東京に知り合いなんかおれへんぞ。大体、あの震災中のことが、東京におる人間にわかるはずがないやないか」
「震災当時は関西に住んでいて、今は東京に出てきてるのかもしれんね。あるいは、ずっと東京にいるけど、何らかの理由で写真かビデオを手に入れたか……」美冬は遠くを見る目をしてから続けた。「あたし、西宮に行ってくるわ」
「西宮に?」
「どっちにしても敵は雅也の居場所を突き止めるために動いたはずやから、どこかにその足跡が残ってるはずや。それを調べてみる。幸い、今あたしは自由な時間があるから」
「俺も一緒に行ったほうがええかな」
「雅也はやめといたほうがええ。敵が西宮でどんなふうに動いたかわからんから。それに、工場、結構忙しいんやろ。このところずっと残業してるみたいやし。おまけにあたしからも変な仕事を頼まれるから大変やね」
「いや、それほどでもないけど。じゃあ、美冬一人で行ってきてくれるか」
「うん、任せといて」彼女は自分の胸をぽんと叩いた。それから真摯な目に戻って雅也を見つめてきた。「これはあたしらにとって最初の難関やな。けど、こんなことで負けてられへん。絶対に切り抜けなあかん」
わかってる、と雅也も彼女の目を見たままいった。
美冬がせっかく買ってきたマクドナルドのハンバーガーはすっかり冷えていた。彼女はそれをオーブントースターで焼き直し、冷蔵庫から缶ビールを出してきた。
「雅也と一緒やったら、何を食べてもおいしい」美冬はそういってハンバーガーを頬張った。
雅也もビールを飲んだ。その後は布団の中で抱き合った。しばらく干していない布団は固く、冷えていたが、裸の身体を密着していると、汗ばむほどに暖かくなった。
美冬の手が彼の下半身に伸びてきた。だがそこの反応はあまり鋭くはなかった。どうしたの、と尋ねるように彼女が顔を覗き込んできた。
「やっぱり脅迫状のことが気になってるんやね」
図星だった。今は考えても仕方がないと思いつつ、やはり文面が頭から離れない。
美冬は雅也の胸を撫で、次に自分の頬をそこにこすりつけてきた。
「大丈夫。絶対にあたしが何とかしてみせる。どこの誰が雅也のことを苦しめようとしてるのか、突き止めてみせる」
雅也は彼女の肩に腕を回し、もう一方の手で髪を撫でた。彼女の髪はいい香りを放っていた。経営している美容室で使っているシャンプーかなと考えた。
「ねえ雅也」美冬が顔を上げた。「もし相手の正体を突き止められたら、どうする?」
その質問に雅也は答えられなかった。どうすればいいのか、本当にわからなかったからだ。相手がわかったからといって、脅迫されなくなるわけではない。当たり前の話だが、警察に届けることもできない。
美冬が雅也の胸の上で指を動かし始めた。何か文字を書いているようだ。
「雅也、あたしは覚悟ができてるよ」
彼は首を起こした。彼女と目が合った。
「覚悟……」
彼女は彼の目を見たまま頷いた。
「前からいうてるよね。この世は戦いや。あたしの味方は雅也だけ。雅也の味方はあたしだけ。生き抜くためやったら、あたし、どんなことでもする覚悟はできてる」
彼女が何をいっているのかはわかった。今後、脅迫者の影に怯えなくて済むようにするには、方法は一つしかない。そのことは雅也も考えないではなかった。ただ、あまりにも恐ろしい想像だったので、意識的に排除していたのだ。
「雅也」彼が黙っていると美冬がいった。「都合のええ方法なんかはないよ」
「えっ……」
「嫌なことを避けて、道を拓くのは無理や」
彼の内心を見抜いている台詞だった。
「それはわかってるけど、できることとでけへんことがある」
「でも、あの時はできた」
美冬の目が光ったように見えた。彼女のいう「あの時」の意味が雅也にはわかった。
「あれは……間違いや」
「後悔してるの? あの時、雅也がああしなかったらどうなってた」
それは雅也にもわからなかった。あの時俊郎を殺さなければ、一体どうなっていただろう。父の保険金を取られたのはたしかだろう。そのほうがよかったのか。
「あたし、詳しい事情は知らんけど、雅也のことやから、衝動的にせよ何にせよ、どんな時でも咄嗟に一番ええ道を選んでると思う。それができる人間や」
「あれがええ道やったというのか」
「あたしは雅也の判断力を信じる。それにね、ええ道にするかどうかは、その後の行動にかかってると思う。どんなに正解を選んでも、後のやり方がまずかったらあかんと思う」
後のやり方――邪魔者はすべて消せということなのか。それが自分の進む道だというのか。雅也は美冬に問いたかったが、口には出せなかった。
「ねえ、昼間の道を歩こうと思たらあかんよ」美冬がいった。深刻な口調だった。
意味がよくわからず雅也は彼女を見た。
「あたしらは夜の道を行くしかない。たとえ周りは昼のように明るくても、それは偽りの昼。そのことはもう諦めるしかない」
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その次に美冬が雅也のアパートにやってきたのは、ちょうど一週間後だった。東京駅から直接来たという彼女は、濃紺のスーツの上から黒のコートを羽織っていた。そんな姿でアパートに来たことは、これまでに一度もなかった。
美冬はコートを脱ぎ捨てると、座布団の上に正座した。
「気になる話、いろいろと仕入れてきたで」
「どんな話や」
「雅也はオオニシさんという人を覚えてる? おたくの近所に住んでた人やけど」
「オオニシ? ああ、大西という家があったのは覚えてる。わりと大きな家やったな。町内会長をやってたのと違うかな。あそこの人間と話をしたことはないけど」
「その大西さんに聞いたんやけど、去年の暮れに、近所の被害を写真やビデオに収めたものはないかって訪ねてきた男がおるらしいの。しかも、町工場の被害状況がわかるものがあればありがたいとか」
「町工場だけ?」
「そう。その男は商社マンで、産業機器を扱う仕事をしてるというたそうよ。それで、地震による機械の被害を調べて、今後の参考にしたいとかいってたみたい。ほら、あのあたりは雅也のところ以外にも、町工場がたくさん建ってたでしょ」
「ふうん……それだけでは、特にどうってこともない話に聞こえるけど」
阪神淡路大震災の被害分析は、あらゆる企業、研究機関が行っている。産業機器を扱う商社が被害データを集めるのは不思議なことではない。
「問題なのはここから。その男が、今年になってからもう一度大西さんのところに来たそうなんよ。しかも今度は前と違って、ずばり水原製作所のことを根掘り葉掘り訊いてきたらしいわ」
「俺の家のこと? たとえばどんなことを訊きよったんや」
「雅也の家の経済状態はどうやったかとか、工場の経営はうまくいってたかどうかとか、あとそれからお父さんのこと」
「親父のこと?」
「保険金目当てで自殺したというのは本当か、とか……」美冬はこの時だけ少し俯いた。
「あほらしい」雅也は横を向いた。「うちが火の車やったこととか、そのせいで親父が自殺したことなんか、わざわざ訊いて回らんでもわかることや」
美冬は睫の揺れが見えそうなほどのゆっくりとした瞬きをした。
「あたし、その話を聞いて、何となく読めてきた。脅迫状の犯人はその男や」
「説明してくれ」
「たぶん最初は、その男がいったように、仕事でデータ集めをしていたんやと思う。それで集めた写真やビデオテープを見ているうちに、あのシーンを見つけたんやないかな」
「俺が……あれをしてる場面か」
叔父を殺しているところ、とは口にできなかった。
美冬は頷いた。
「今はどこの家庭でもビデオカメラぐらいは持ってるからね、あの時に周辺を撮影してた人間が一人や二人いても不思議ではないわね」
雅也は頭を振った。ビデオカメラなら水原家にもあった。しかしあの局面では、撮影のことなど露ほども頭に浮かばなかった。
「そのテープを見つけた瞬間、男の目的は変わったんやと思う。ふつうなら警察に届けるところやけど、そうはしなかった。映っている人間がどこの誰か、まず割り出すことにした。水原製作所の息子、ということはすぐにわかったと思う。次に、その時に死んでる人間を調べる。水原製作所で死んだのは二人、雅也のお父さんと米倉俊郎。ただし、お父さんのほうは自殺やから論外。頭に傷を受けて死んだ米倉俊郎が、殺された人間だと断定できる」
「それで俺に脅迫状を……」
雅也がいいかけたところで、美冬はかぶりを振った。
「その前に男は米倉についても調べたと思う。それには当然、娘のところに行ったはずやね」
「佐貴子のところか」雅也は唇を噛んだ。状況が少しずつ呑み込めてきた。
「男は、さりげなく米倉と雅也の関係について探りを入れたやろうね。佐貴子さんはどんなふうに答えるかな」
「例の借金のこと、しゃべるやろな。震災に乗じて雅也が父親を殺したんじゃないかと疑ってる――その程度のことはいいかねん女や」
「それで男は、ジグソーパズルのすべてのピースを手に入れたことになる。殺人動機、証拠、それから雅也の手元には父親の生命保険金があること。ここまで揃って初めて、男は脅迫することを決心したと思う」
「そうか」雅也は吐息をついた。「それで要求額が一千万円か。親父の保険金から借金を引いたら、残りがそのぐらいになるはずやった。そのことを佐貴子から聞いたんやろ」
「あとは雅也の居場所を突き止めるだけやけど、それは難しくない。お父さんが入ってた生命保険会社にも記録が残ってるし、銀行債務を整理した時の連絡先もここになってるやろ。何とでもして、現住所を探し出せると思う」
雅也は顔を歪めた。美冬の話は筋が通っており、どこにも矛盾はなかった。
「その男の名前とかはわからんのか」
「そこまでは大西さんも覚えてなかった。会社の名も忘れたみたい。もっとほかの家にも聞きに回ったら、もしかしたらわかったかもしれんけど、あたしがあまり動きすぎるのも怪しまれると思ってね」
「それはそうやろ。けど、そこまでよく調べられたな」
「ちょっと疲れたけどね」美冬はふっと苦笑した。
雅也は頭を抱えた。突然脅迫者が現れた理由についてはわかった。しかしこれからどうすればいいのか、皆目わからなかった。
美冬は正座していた脚を崩し、上着も脱いだ。ブルーのシャツのボタンが二つ外れている。髪をかきあげた拍子にブラジャーの端がちらりと覗いた。
「雅也、その男をほっといたらまずい。命取りや」
「そういうても、相手の正体がわからんのやからどうしようもない」
「正体はわかれへんけど、必ず相手のほうから近づいてくる。そうなってから迷っても遅いよ。今のうちに腹を決めておかないと」
「腹を……か」
「あたしは決まってるから」美冬はじっと雅也の目を見つめてきた。心の奥まで見透かされそうな視線だ。心の揺れを見抜かれたくなくて、彼は目をそらした。
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美冬の予言は的中した。四月に入って間もなく、二通目の手紙が届いた。差出人の名前は前回と同様、米倉俊郎となっていた。
『前回、ある商品の買い取りを持ちかけたが、期日内に支払いがなされなかったことは遺憾である。しかし貴兄にも都合があったのであろうと判断し、もう一度だけチャンスを与えることにする。ただし今回は銀行振込はやめ、直接商品と現金の交換を行う。
日時 四月八日午後七時
場所 銀座二丁目中央通り 喫茶『桂花堂』
必ず一人で来ること。当方は貴兄の顔を知っている。こちらから声をかける。それまでは店内で不審な行動などとらぬこと。
時間厳守。一分でも遅れれば取引は中止とする。
繰り返すが、これは最後のチャンスである。貴兄が現れることを切に祈る。』
手紙を読んだ美冬は、一度大きく頷いた。
「この男が書いてるように、たしかにこれが最初で最後のチャンスや。これを逃したら、相手の正体を突き止めることはでけへん」
「一体どうやって相手の正体を暴く? 金を渡しても、自分のことを正直に話すとは思われへんぞ」
雅也がいうと美冬は身体を少しのけぞらせ、顔の前で掌を振った。
「金を渡してどうするんよ。前にもいうたやろ、こういう場合のセオリーは一つや」
「セオリーて……」
「相手を焦らせる。徹底的に焦らせる。そうしたらぼろを出す。必ずね」そういって美冬は唇の端を上げた。
四月八日、午後六時五十分――。
雅也と美冬は銀座の喫茶店にいた。しかしそこは指定された『桂花堂』ではない。道路を挟んだ向かい側にある店だ。壁がガラス張りになっており、さほど目を凝らさなくても『桂花堂』の店内を眺めることができる。
「結構混んでるな」
雅也がいったのは、『桂花堂』のことだった。向こうもガラス張りだ。手前にテーブル席が五つ、その向こう側にも四つある。客の入りは八分といったところか。カップル客が四組、女性同士が二組、あとは男性二人だが別々のテーブルにいる。だが男性のどちらかが脅迫者と断定するのは早い。遠くで観察していて、雅也を確認してから現れるつもりかもしれない。
「西宮で聞いた話では」雅也の向かいに座っている美冬が呟いた。「中肉中背、身長も高からず低からずということやったから、平均的な体格ということやね」
「すると右端の男は消えるな」雅也は『桂花堂』に目を向けたままいった。右端のテーブルに座っている男は、ふつうの人間ならば肥満体という印象を受ける体格をしていた。
もう一人の男は奥のテーブルにいる。顔はよく見えない。雅也は持参してきた小型の単眼鏡を覗いた。奥の男にピントを合わせる。眼鏡をかけた男だ。そのことをいうと美冬は首を傾げた。
「眼鏡をかけてたという話は聞けへんかったけど」
「するとあの男でもないということか」
「早合点は禁物やで。ふだんはかけてないのかもしれへん。あるいは、ふだんはかけてるけど、西宮で聞き込みをした時にはわざと外してたのかもしれへん」
雅也は黙って頷き、観察を続ける。眼鏡の男はテーブルの上で雑誌のようなものを広げていた。
そこへもう一人男が現れた。グレーのスーツを着たサラリーマン風だ。唯一空いていた左端のテーブルにつくと、腕時計を見るしぐさをした。それから突然外に目を向けた。まるで雅也を見るような動きだったので、彼はあわてて単眼鏡から目を離した。
「もう一人登場やね」美冬がいった。
彼女が時計を見たので、雅也もつられて自分の腕時計に目を落とした。七時ちょうどになっていた。
それから五分間、大した変化はなかった。右端の太った男の席に、彼の待ち合わせ相手らしき女性が現れたぐらいだ。
「行ってくる」美冬が立ち上がった。「後の段取りは、打ち合わせ通りに」
「どこから電話をかける?」
「この下に公衆電話があったから、そこからかける」
「わかった」
美冬が階段を下りていく。それを見送った後、雅也は再び『桂花堂』の観察を始めた。
彼女が電話をかける先は、その『桂花堂』だ。脅迫者の名前はわからないから、ヨネクラという客を呼び出してくれというのだ。脅迫者も無視はできないだろう。何らかの動きを見せるはずだ。無論、美冬は何も話さない。脅迫者が受話器を取った時には電話は切れている。
美冬が席を立ってから三分が経過した。すでに電話をかけているだろう。
その時、『桂花堂』の中で変化があった。ウェイターが出てきて、何か客にいっている。それを聞いて反応したのは左端の男だ。立ち上がるとウェイターに案内されるように奥に消えた。
一分もしないうちに男は戻ってきた。席には座らず、テーブルの上の伝票を取った。帰る気らしい。雅也もあわてて席を立った。
精算を済ませて階段を下りていくと、ちょうど美冬が現れた。
「どうやった?」彼女は尋ねてきた。
「最後に現れた男や。帰る気らしいぞ」
「こっちの計算通り、怪しんでくれたみたいやね」
二人が店を出た時、『桂花堂』から男も出てきた。中央通りを四丁目に向かって歩きだす。雅也と美冬も同じ方向に足を踏み出した。
今日の雅也の服装は濃紺のスーツだった。下には白いシャツを着て、ネクタイも締めている。そういう格好が一番目立たないと美冬がいったからだ。これだけのために、すべて量販店で購入した。
美冬のほうはジーンズにニットという出で立ちで、さらに綿の帽子を目元まで下げ、サングラスをかけている。これは、『華屋』がそばにあるので、万一知り合いと出くわした時の用心だ。
やがて男は地下に潜り、丸ノ内線に乗った。雅也たちも隣の車両に乗り込んだ。混んでいるので、男の姿を確認するのが大変だ。駅に止まるたびに美冬はホームに降り、隣の様子を見てから再び乗ってきた。
「どこまで行く気かな」
さあ、と彼女は小さく首を捻る。「とにかく、電車を降りてからは別々に行動しよ」
オーケーと彼は頷いた。
新宿で多くの乗客が降りた。男は乗ったままだった。西新宿、中野|坂上《さかうえ》、新中野、男に変化はない。吊革に掴まって、軽く目を閉じているようだ。尾行を警戒している気配は感じられない。雅也はかすかに違和感を覚えた。喫茶店に不審な電話がかかってきたことから急いで店を出た人間が、これほど無警戒なものか。
心の迷いがはっきりとした形を作る前に、男に動きが現れた。南阿佐ヶ谷《みなみあさがや》に着く直前になって、乗降口のほうに移動した。雅也は美冬を見た。目が合った。
南阿佐ヶ谷に着くと、やはり男は降りた。それを見て美冬が先に降り、少し遅れて雅也も続いた。
男は外に出た後、中杉《なかすぎ》通りをJR阿佐ヶ谷駅に向かって歩いていく。その十メートルほど後を美冬が、さらに十メートル置いて雅也が続く。通行人は多い。尾行に気づかれるおそれはなさそうだ。
またしても雅也の胸に疑念が湧いてきた。話が簡単すぎるのでは、と思った。架空口座まで用意して脅迫してきた男が、なぜこれほどあっさりと姿を見せたのか。
何か間違っているのではないか――そう思えてならない。人違いをしたのか。しかし美冬が呼び出し電話をかけた時、それに反応したのはあの男だった。
前方を行く男が左に曲がった。美冬が少し早足になり、それに続いた。曲がる時、ちらりと雅也を見た。
脇道に入ると人気が少なくなった。怪しまれないよう先程よりも少し距離を置くが、離れすぎると、突然どこかの建物に入られた場合、見失うおそれがあった。雅也は尾行に集中した。
男が急に身体の向きを変えた。振り返ったのかと思い、ぎくりとしたが、そうではなかった。右側のマンションに入っていったのだ。
美冬が雅也のほうを向き、小さく掌を出した。ここからはついてくるなという指示らしい。たしかに顔を知られている雅也がこれ以上接近するのは危険だった。
彼は立ち止まり、そばの自動販売機で煙草を買うことにした。その場で火をつけ、吸いながら彼女が戻ってくるのを待った。
五分ほどして美冬がマンションから出てきた。それを見て雅也は歩きだした。南阿佐ヶ谷駅に戻る道順だ。
中杉通りに出たところで彼女が追いついてきた。
「名前、確認できたよ」
「何というやつだった」雅也は前を向いたまま訊いた。
美冬は無言で一枚のメモを差し出した。「知ってる名前?」
「いや」彼は首を振った。「全く知らん名前や」
そこには『曽我|孝道《たかみち》』と書かれていた。
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トーストに野菜スープ、ハムエッグと食後のコーヒー――定番の朝食を孝道は新聞を読みながら食べている。その習慣は改めてくれと何度か頼んだが、彼はいつも言い訳をするだけで、妻の願いを聞こうとはしない。最近では恭子《きょうこ》も諦めている。むしろ、テレビを見ないだけましかなと思うようにしている。娘の遥香《はるか》には、食事中のテレビは厳しく禁じてきた。父親がそれを破ってはしめしがつかない。
「援助交際ってのが増えてるみたいだなあ」新聞の向こうから孝道がいった。「これって結局売春だぜ。ひどいなあ、最近の若い子は。何を考えてるのかねえ」
「でも男も悪いのよ」
「そりゃあそうだ。ここに記事が出てるんだけどさあ、援助交際をしたことのあるサラリーマンの中には、女子中学生や女子高生の娘を持っている奴もいるそうなんだ。そういう奴でも、自分の娘には絶対にこんなことはしてほしくないと思ってるっていうんだから、全く勝手な話だよな」
「そんな奴は死刑にしちゃえばいいのよ。ちんちんをちょんぎるとか」
恭子の言葉に孝道は吹き出した。ようやく新聞を閉じる。
「今日はちょっと遅くなるかもしれない」
「また接待?」上目遣いで見る。
「違うよ。人と会う約束をしてるんだ。前にも話しただろ、新海さんの娘さん」
「あっ、ようやく会えるわけね。先週はドタキヤンされたんでしょ」
喫茶店で会う約束をしていたが、店に電話がかかってきて、急用ができたので行けなくなったといわれたらしい。
「まあそうだけど、ドタキャンなんていったら気の毒だな。こっちが急に会いたいといいだしたわけだし」
「とにかくよかったじゃない。ずいぶん手こずってたみたいだけど」
「まあね。正直いって、こんなに手間がかかるとは思わなかった。でも何とかあれをお嬢さんに渡さないことには、気持ちがすっきりしない」
孝道は立ち上がり、上着を羽織った。椅子の上に置いてあった鞄を手に取り、玄関に向かった。恭子も後についていく。
「夕食は家で食べるんでしょう?」
「そのつもりだ」彼は靴を履きながら答えた。
そのつもりだが、約束はできない――商社マンの夫の背中は、妻にそう告げていた。結婚して七年。もう慣れたことだった。
「もし外で食べてくるようなら電話してね」
「ああわかった。どっちにしても八時までには電話するよ」
夫を送り出した後で遥香を起こした。今年から小学生の娘は、まだ自分では起きられない。眠いので学校を休みたいとぐずることもしばしばだ。
しかし今朝は珍しく、すんなりと目を覚ましてくれた。パジャマのままでリビングに行った。
「パパは?」きょろきょろと見回してから訊いた。
「もう会社に行っちゃったわよ」
「えー、もう行っちゃったのお? パパに会いたかったなあ」
「何いってるの。いつものことじゃない。だからもっと早く起きればいいのに」
だが遥香はすねたような顔で立っている。恭子は少し苛立った。いつもは父親が先に出かけていることなど気にも留めない。今朝にかぎってなぜこんなことをいいだすのか。
テーブルについた後も遥香の様子はおかしかった。フォークの先でハムエッグをつつくばかりで、少しも食事がはかどらない。
「パパ、早く帰ってこないかなあ」
「何なのよ。パパに何か用でもあるの?」
「そうじゃないんだけどお」
「わけのわかんないこといってないで、早く食べなさい。遅れるわよ」
ふだんはどちらかといえば父親に無関心な子供だ。孝道は忙しく、あまり顔を合わせないからだろう。恭子に甘えてくることは多いが、孝道には殆ど甘えない。そのことを彼は時々寂しがっている。
娘を送り出した後、恭子は一人で朝食をとり始めた。遥香はトーストを半分と、野菜スープをほぼ全部残した。それをまず胃袋におさめ、さらにトーストを一枚焼いた。こんなふうに余分に食べるから太っちゃうんだ、と呟いた。
恭子は現在の生活に満足していた。一流商社に勤める夫は勤勉であり、悪癖も持たず、誰に対しても優しい。一人娘の遥香も健康に育ってくれた。
このマンションにも納得していた。南阿佐ヶ谷まで歩いて数分。買い物にも便利だ。ローンの返済も今のところはさほど大変でもない。孝道は妻がカルチャースクールに通うことにも難色を示さなかった。
今の生活がずっと続くのであれば、さほど贅沢なことはいわないでおこうと恭子は考えていた。そして続くはずだと信じていた。それが壊れるような気配など、全く感じていなかった。
朝食の後、洗濯を始めた。それからガラス拭きをし、ついでにベランダを掃除した。今日はふだんやらないところを掃除しようと決めた。キッチンのシンク下を整理し、冷蔵庫の棚を拭いた。革張りのソファの汚れを専用のクリーナーで落とすのは、なかなか重労働だった。
テレビを見ながら遅い昼食をとっていると遥香が帰ってきた。恭子はあわててテレビを消した。
パパのためにケーキを作ろうと遥香がいいだした。今日はおかしなことばかりいう。しかし悪くないアイデアだと恭子も思った。孝道は酒が強くない。そのかわりに甘いものを好む。新婚時代にはよくクッキーを焼いてあげたものだ。
母娘でケーキ作りに励んでいると忽ち時間が経った。恭子は遥香を連れて、夕食の材料を買いに出た。
「今夜は何が食べたい?」スーパーの食料品売場を歩きながら娘に訊いた。
「グラタン」遥香が即答した。「パパが好きだから。エビグラタン、好きだよ」
「ああそうねえ」
夕食のメニューには毎晩悩まされる。今夜はあっさり決まってよかった。それにしても、なぜ遥香は父親のことばかり気にするのだろう――。
帰宅するとすぐに支度にとりかかった。孝道が帰ったらすぐに焼けるようにだ。
だがその準備がすっかり終わっても孝道は帰ってこなかった。遥香はテレビを見ながらも、しきりに時計を気にしている。彼女の好きなアイドルタレントが出ている番組だが、なかなか集中できない様子だ。
「パパ、遅いね」
「そうね。でも八時までには電話をくれるっていってたから」恭子は時計を見た。七時半になろうとしていた。
それからさらに十数分が過ぎた。リビングボードの上に置いてある電話が鳴りだした。
「パパだ」
「やっとかかってきたわね」ほっとしながら恭子は受話器を取った。悪いけど外で食べることになっちゃったよ――そんな言葉を聞くことになるんだろうなと思った。
しかし受話器から聞こえてきたのは彼の声ではなかった。
「もしもし、曽我さんのお宅でしょうか」若い女の声だった。
「はい、そうですけど」
「突然申し訳ありません。私、新海という者です」
「新海さん? ああ、主人から聞いております。新海部長のお嬢さんですね」頷きながら、なぜこの女性から電話がかかってくるんだろうと訝《いぶか》しんだ。夫は今、この人と会っているはずだ。
「このたびは曽我さんに親切にしていただきまして、本当にありがとうございます」
「いえそんな。お世話になった人のことだから当然だと主人も申しております」
「そうですか……あの、それで、曽我さんは御在宅でしょうか」
「えっ?」恭子は混乱した。「ええと、主人と一緒ではないんですか。今夜、新海さんのお嬢さんと会うことになっているといってたんですけど」
「はい。そのようにお約束させていただきました。でも、待ち合わせの時刻になってもいらっしゃらないので、もしやお忘れなのかもしれないと思って――」
「そうなんですか。申し訳ありません。いやだわ、何してるのかしら。忘れているはずはないと思うんですけど。今朝もそのことをいってましたし」
「じゃあ、もう少し待ったほうがいいのかもしれませんね」
「お約束の時間というのは……」
「七時です。銀座の『桂花堂』という喫茶店にいるんですけど」
では五十分近くも待たせていることになる。どんな事情があるにせよ、それほど遅れるなら店に電話を入れるはずだ。
「もう少し待ってみます」恭子の戸惑いを察したように新海美冬がいった。
「いえ、それは申し訳ないですから」恭子は頭をフル回転させた。ここで恥をかいてはいけない。孝道の妻として的確な判断を下さねばならない。「ではこういたしましょう。八時までに主人が来なければ、どうかお帰りになってください。その後で主人がお店に行くかもしれませんけど、それは仕方がないと思います。もし主人と連絡がつけば、私のほうから新海さんにお電話させていただきます。そういうことでいかがでしょうか」
「私はそれで結構です。じゃあ八時まで待っています」
「では、あの、御自宅の電話番号を教えていただけますか」
新海美冬がいう番号を、恭子は急いでメモした。これで大丈夫だろうか。手抜かりはないだろうか。それにしても孝道は一体何をしているのだろう。
電話を切った後、急速に不安が彼女の胸に広がった。今までにこんなことはなかった。遅くなることはあっても、必ず何らかの連絡が入った。
孝道の携帯電話にかけてみた。しかし電源が切られているのか、つながらなかった。
「パパは?」遥香が訊いてくる。
「お仕事でどっかに行っちゃったみたい。いけないパパね。先にグラタン食べちゃおうか」
しかし娘は首を振った。「パパと一緒に食べる。パパが帰るまで待つ」
おなかがすいてるはずなのに――恭子は不思議な気持ちで娘の顔を見た。
彼女は思い切って会社に電話してみた。ところが電話に出た男性は、違う部署の人間だった。孝道の部署には誰も残っていないという。
結局グラタンは母娘で食べることになってしまった。十時過ぎになり、再び電話が鳴りだした。恭子は急いで受話器を上げた。ところがそれは新海美冬からのものだった。
「すみません。まだ主人と連絡がとれないんです」
「そうなんですか。お忙しいんですね」
「何か仕事上のトラブルでもあったのかもしれません。今までこんなことはなかったんですけど……本当に申し訳ありません」
「私のほうは構いませんから、どうかお気になさらないでください」
「ありがとうございます」
謝らねばならない相手に逆に慰められる格好で電話を終えた。またしても時計を見た。
恭子が新海美冬に会いに行ったのは、その二日後だった。あの夜、孝道はとうとう帰らなかった。翌日会社に電話したところ、出社もしていないという。午後になって彼女は警察に出向いた。事情を話すと警官は調書を作ってくれたが、すぐに何かをしてくれそうな気配はなかった。もう少し待ってみてください、というのが唯一のアドバイスだった。
恭子はじっとしていられなくなり、夜になって新海美冬に電話をかけた。彼女だけが手がかりのような気がした。
喫茶店で会った新海美冬は、想像していたよりもずっと大人びた女性だった。あまりにもイメージがかけ離れていたので、声をかけられてもぴんとこなかった。しかし彼女が出した名刺には、たしかに新海美冬と印刷されていた。美容室を経営していると聞いて少し驚いた。
「それは御心配でしょうね」恭子の話を聞き、彼女は奇麗に整えられた眉をひそめた。
「それで失礼とは思ったんですけど、何かお心当たりがないかと思いまして」
しかし新海美冬は気の毒そうにかぶりを振った。
「私は曽我さんとは電話でお話ししただけなんです。何か渡したいものがあるとかおっしゃってました。詳しいことは会って話したいとか……」
「そうなんですか……」会っても無駄だろうと覚悟はしていたが、実際にそうとわかると落胆が大きかった。思わず吐息が漏れた。
「何だったのかしら、渡したいものって」新海美冬が独り言のように呟いた。
「写真です」恭子はいった。
「写真?」
「御両親と美冬さんが写っている写真です。たまたま見つけたので、是非お渡ししたいといってました。震災でアルバムなどは焼けただろうからと」
「そうだったんですか。そんなことのためにわざわざ」新海美冬は小さく首を振った。
その表情を見て、なぜ自分のイメージとこの女性が合致しなかったのか、恭子はわかった。その写真は孝道から一度だけ見せられている。そこに写っていた顔をよく見たわけではなかったが、その時に受けたイメージとこの女性の発するそれが一致しないのだ。
無論そんなことはどうでもいい。今は夫のことが心配だった。
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第五章
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残りのワインを二つのグラスに分けて注ぐと、ちょうどボトルが空になった。隆治《たかはる》は自分のグラスを持ち、前に差し出した。
「じゃあ、最後にもう一度」
彼の意図を察したらしく、新海美冬も微笑みながらグラスを手にした。二つのグラスの合わさる音が軽く響いた。
隆治はワインを口に含み、鼻で大きく呼吸した。ワインと花の香りが混じって感じられた。窓際に花が飾られているのだ。その向こうには東京の夜景が広がっている。高層ホテルの最上階にあるフレンチレストランだった。シェフはフランスで何度も勲章を受けたことがあるらしい。そのふれこみに疑いの余地がないことは、今夜の料理が証明していた。
「肩の荷が下りた、というお顔ですね」美冬がにっこりした。
「その指摘は否定できないな。たしかにほっとしている。君のような曲者が相手だと、ちっとも気が抜けないからね」
「私は曲者ですか」
「曲者だよ。その奇麗な顔に見とれているうちに、こっちに不利な、そっちに都合のいい契約書に判を押さされているというわけだ」
「今回の契約が『華屋』さんにとって不利だとは、ちっとも思いませんけど」美冬が睨んできたが、無論敵意の籠もった目ではない。
「だからその君の武器に惑わされないよう、常に気をつけてたんだよ。おかげで、くたくたに疲れた。で、その分、こうして飲むワインの味も格別ということだ」
「私こそ緊張しました。これほど大きな取引になるとは思いませんでしたから」
「君の口からそんな謙虚な言葉が出てくるとは意外だね。宝飾品業界をあっといわせるようなことを平気でやってのける君でも、緊張することなんてあるのかい」
「私だってふつうの人間ですから」彼女はワイングラスを口に近づけた。食事に備えて口紅を抑えてきたようだが、それでも彼女の唇は艶っぽく光っていた。
「何度もいうようだがね」隆治はグラスをテーブルに置いた。「あの指輪を見せられた時には驚いた。コロンブスの卵、とでもいうのか。いや違う。それまで全くなかった発想だった。さすがは女性だと思った」
「ありがとうございます」彼女も真顔になって軽く頭を下げた。
「でももっと驚いたのは、あの指輪を持って、突然僕のところに現れたことかな。強引な業者、身の程知らずのデザイナー、いろいろな人間がアポなしで会いに来るけど、従業員用エレベータの中で待ち伏せしていたのは君が初めてだ」
「秋村《あきむら》社長が必ず現れる場所で、しかも簡単には逃げられないところを考えたら、結局あそこになっちゃったんです。あの時は失礼いたしました」
「君はうちの店にいたことがあるから、僕の行動範囲についてもある程度把握していたわけだ。おそれいったよ。でも面白い体験だった。エレベータの中で懇願されたのも、あれが最初だ。たぶん最後になるだろうな」
「私も最後にしたいです」彼女はまた笑った。
約四か月前の話だった。社長室に向かうつもりでエレベータに乗ったら、知らない女性がいた。彼女はエレベータが動きだすやいなや、自分の作品を見てほしいといいだしたのだ。そして隆治が答える前に、彼女はケースを彼の前で開いた。
こんなところでそんなことをされても、といおうとした。しかしケースに並んでいる指輪を目にした途端、その言葉を呑み込んでいた。
そこには彼がこれまでに見たことのないデザインがいくつもあった。中でも目を引いたのは、宝石を立体的に配置したデザインだった。ルビーの下にダイヤがあったり、二つのサファイアが上下に並んでいたりするのだ。彼はその構造に見入った。宝石がどんな具合に留められているのかを確かめたかったのだ。
興味を持っていただけましたか、と彼女は訊いてきた。少しね、と彼は答えた。
隆治は彼女を社長室に入れた。さらに彼は社内電話の受話器を上げた。すると彼女がいった。「まずはお一人で御覧になってください」
彼が宝石や貴金属に詳しい部下を呼ぼうとしていることに彼女は気づいたのだ。彼は困惑した。部下たちを呼ぼうとしたのには理由がある。
だが彼女はその理由についても見抜いていた。微笑みながらこういったのだ。
「技術の人たちを呼んで、このデザインの構造を覚えさせようと思われても無駄なことです。私共以外には、これは作れません。作ってはいけないんです」
「どういうことかな」
「この構造についてはすでに特許出願済みです。公開もされています。審査に通るのも時間の問題でしょう」
本音をいえば、隆治が真に驚いたのはこの時だろう。デザインを売り込みに来る者は多いが、特許の準備までしてきた者には出会ったことがなかった。
「それをまず了解していただいてから、じっくりと見ていただきたいんです」美冬はそういって、改めてケースを開いた。
その場で彼女の作品を見た隆治は、直感的に確信していた。これは商品になる――。
「君の目的は?」
「一言でいえば業務提携であり技術提携です。道はいくつかあると思います。うちで作った商品を『華屋』さんで売っていただくというのもその一つです。このデザインに関する工業所有権をお貸しして、『華屋』さんでオリジナルを作っていただくというのもその一つ。いずれにしましても、業務提携商品については、新しいブランド名をつけていただくことになります」
彼女が差し出した名刺には、『BLUE SNOW代表取締役社長 新海美冬』とあった。
その日美冬はサンプルをいくつか置いて帰った。隆治は自分の信頼するスタッフを集め、それを見せた。彼等の意見は二つの点で一致していた。一つは、今までありそうでなかったデザインで、必ずヒットするだろうということ、もう一つは、わけのわからない新規参入者と提携するのは危険だということだった。どちらも隆治の予想したものだった。
まずは特許出願されている内容について調査が成された。その結果判明したことは、審査を通る可能性が極めて高いということだった。異議を出すには、類似の製品が特許公開される前に存在していたことを証明しなければならない。
それでも部下の何人かは反対した。しかし隆治は自分の直感に賭けることにした。彼が新海美冬と会うことにしたのは、初対面からちょうど十日が経った時だった。
「そういえば君に教えてもらってないことがあったな」コーヒーを飲んでいる時に隆治はいった。
「何でしょう?」
「最初に僕に見せてくれたサンプル。あれを作ったのは誰かということだ。僕は初め、君が作ったのかと思った。ところが何度か話しているうちに、そうではないとわかってきた。現在『BLUE SNOW』には五人の技術者がいるそうだけど、その人たちは最近になって雇ったんだろう? となると、サンプルを作った人間のことが気になる」
「どうしてですか。誰でもいいじゃないですか。構造さえわかれば、それなりの技術を持った人間なら誰でも作れるんですから」
「もちろん今なら誰でも作れる。ノウハウがあるし、現物がある。でも君があのデザインを思いついた時点では、そのどちらもなかったはずだ。君がイメージしたあのデザインを実体化するには、かなりの苦労があったと想像する。特許になっているのは、まさにその部分なんだからね。君に彫金の技術がない以上、誰かがそれを成し遂げたわけだろ。極論をいえば、特許を取得したのはその陰の功労者ということになる。だからこそ気になるんだよ。その人物はどこで何をしているのだろう、とね」
あのサンプルを目にした時の技術者たちの表情を隆治は思い出していた。彼等はその発想にも驚いたようだが、もっと舌を巻いたのは、宝石を立体的に配置するための工夫のほうだった。
中でもある技術者のいった一言が隆治の印象に残っている。彼はサンプルを見て、こういったのだ。
「これはプロの彫金師の仕事ではないんじゃないですか」
意外な言葉だったので、隆治はその意味を尋ねた。
「たしかに見事な出来だと思うのですが、単純なところをやけに凝りすぎてるんです。彫金教室を出た程度の人間でも知っているようなテクニックさえ知らないのかと思うほどです。そのくせ複雑なところでもじつに丁寧に仕上げてある」
いわば職人芸のオンパレードだ、と彼は表現した。
「これから手を取り合っていく仲じゃないか。そのぐらいのことは教えてもらう権利はあると思うんだけどな」
美冬は柔らかい笑みを浮かべ、なぜか窓のほうに目を向けた。窓に彼女のアーモンド形の目が映っている。
「あれを作ったのは」ゆっくりと口を開いた。「下町の、どこにでもいそうな職人さんです。彫金のプロではなく、金属加工の職人さんでした」
やはり、と隆治は思った。技術者の目はたしかだった。
「でも、もうこの世にはいません」
「えっ」
美冬は隆治のほうに顔を巡らせた。
「父の知り合いだったんです。それで私が頼んで、あのサンプルを作ってもらいました。御承知のとおり私には彫金の知識がなかったので、その人と試行錯誤しながらデザインも決めていったというのが真相です」
「亡くなったというのは事故か何かで?」
彼女は彼を見つめながら首を振った。
「震災です。例の阪神淡路大震災。あっさり事故とはいえないほど悲惨な出来事でした」
隆治は眉を寄せ、頷いた。彼女が被災者だということは知っている。
「あの震災では多くの優秀な人材を亡くしたといわれている。そこにも一人、そういう人物がいたわけだ」
美冬は俯いた。コーヒーカップに手をかけていたが、口に運ぶ気配はなかった。
「嫌なことを思い出させたのかもしれないな。河岸《かし》を変えよう」隆治は手を小さく上げてギャルソンを呼んだ。
同じ階にバーがあったが、彼はエレベータで地下まで行くことにした。そこがメインバーになっているのだ。奥にはVIP客用に仕切られた席もある。
しかし二人はカウンター席に並んで座った。美冬がそれを望んだからだ。
「今夜はカップルが多いな。クリスマスが近いせいかな」後ろをちらりと振り返ってから隆治はいった。「いつもは商談を終えたビジネスマンが目立つんだけどな」
「秋村さんはVIP席にばかり行ってるから、カップルなんて目に入らないんじゃないんですか」
「そんなことはない。こう見えても人間観察が好きでね、どこに行っても周りをきょろきょろ見てしまう」首を小さく動かしてから彼は笑った。「僕たち二人は傍からどう見えているだろう?」
「さあ」
「女性に年齢を訊くのは失礼だけど、たぶん僕と君との年齢差は十五歳ぐらいだと思う。いや、それとも二十歳ぐらいは開いてるかな」
彼の言葉に美冬は吹き出した。
「お世辞はやめてください。秋村さんと二十も離れてたら、私は二十歳そこそこってことになるじゃないですか」
「僕は今年四十五だよ。君は見た目は二十五に見えなくもないが、あの辣腕ぶりを見せつけられると、もう少し人生経験を積んでいると思わざるをえない。そこでまあ、十五と踏んだわけだ」
「御自由に」
「それぐらい離れた二人というのは、どんなふうに世間の目には映るのだろうね。親子にしては近すぎるし、兄妹にしては離れすぎてる。上司と部下? 恩師と教え子?」
「どちらにしても、こういうところでは飲まないんじゃないですか。二人きりでは」
「となると、二人は深い仲ということになる。しかも男には妻と子がいる。いわゆる不倫の関係だ」そういってから彼は親指で肩越しに後ろを指した。「賭けてもいいけどね、ここにいる連中の三人に一人は、我々をそういう仲だと思っている」
「まさか」
「ところがそうなんだ。人間というのは邪推が大好きなんだよ。とはいえ、彼等の考えがまるっきり間違っているわけでもない」
彼の真意がわからないのだろう、美冬は黙ったまま首を傾げた。
「彼等が間違っているのは二点だ。ひとつは僕に妻子があると思っている。もう一つは、我々がこの店を出た後、ホテルの一室に行くだろうと思っていること。だけど、それ以外はさほど違っていない。少なくとも僕の気持ちに関しては、彼等は真実を見抜いている」
ようやく意味を理解したらしく、美冬の顔つきが真摯なものになった。背筋をぴんと伸ばし、カウンターに正対した。
「業務提携についての契約は今日で終わった。だけどこれから仕事の件で、僕たちは何度か会うことになるだろう。こんなふうに食事をして、酒を飲むこともあるだろう。その時僕の目的は、仕事だけに留まらないと思う。そこで君に確かめておきたい。そのことを受け入れたくないならば、はっきりとそういってくれ。今後こんなことはいわないし、君が妙な気遣いをせずに済むよう配慮するつもりだ」
この台詞は昨日考えた。結婚を前提に、などという言葉は口が裂けてもいえないと思った。しかし気持ちを伝えねば前進はない。それが彼の主義だった。
美冬が深呼吸した。唇を舐め、彼のほうを向いた。
「びっくりしました」
「そうかい? そのわりには驚いた顔をしていないね」
「本当に驚いた時には、そういう顔をする余裕もないものなんですよ。それとも、私を驚かせるための冗談だったのかしら。だとしたら、もっと大きなリアクションをするべきでしたね」
「君はしたたかな女性だなあ」ドライマティーニを口に運び、隆治は苦笑した。「そんなふうに話を横道にそれさせて、そのじつ頭の中では素早く計算しているというわけだ。さて、この局面でどのように答えるのがベストか、とね」
今度は彼女が苦笑を浮かべる番だった。唇が艶っぽく光った。
「ひどい悪女みたいにおっしゃるんですね」
「とんでもない。君のそういうところが気に入ったんだ。僕が今まで身を固めなかった理由はただ一つ、頭のいい女性に巡り会えなかったということだ。君はこれまで会った女性の中で、ずば抜けて頭がいい。そして頭がいい女性というのはしたたかなものさ。そう、見方によっては悪女と誤解されるおそれもあるね」
美冬は小首を傾げ、そのまま軽く頬杖をついて彼を見た。
「褒められてるのかしら。それとも真正直に受け取ったら、それこそじつは頭の悪い女だと軽蔑されるのかしら」
「はぐらかしの台詞はそのへんにして、何らかの答えを聞かせてもらえないかな」彼女の目を隆治は正面から見据えた。
美冬は頬杖していた手を戻し、膝の上で指を組んだ。彼女の指には独自のデザインを誇る指輪が二本はまっていた。
「秋村さんのお気持ちはわかりました。光栄だし、ありがたいことだと思います」
「ありがたい……か。でも、という具合に言葉が続きそうだね」
「ええ。でも、と続けさせていただきます。こんなふうに不意をつかれる身にもなってください。秋村さんのお気持ちは理解しました。そういう意味では受け入れられます。ただ、私のほうはどうかと訊かれると困ります」
「脈はないのかな」
「そんな言い方は秋村さんに似つかわしくないですよ」
美冬に指摘され、隆治はきまりが悪くなった。全くそのとおりだ。
「正直いって戸惑っています。ただ、今の秋村さんの告白を聞いたからといって、これから私が秋村さんと会いにくくなったということはありません。会うたびに何らかの答えを要求されるというのなら話は別ですけど」
隆治は小さく笑い声を上げた。
「要するにしばらくペンディングにしておいてくれということなのかな」
「ええ、そのようにとっていただいて結構です」
「助かった。首の皮一枚でも繋がっているのなら希望がある」隆治は再びカクテルグラスを手にした。「とりあえず一人で祝杯をあげるとしよう」
「生意気な女だと思われますか」
「生意気? どうしてかな」
「天下の『華屋』の社長から告白されて、有頂天にならないのはおかしい、とか」
隆治は吹き出し、かぶりを振った。
「僕が自信家であることは認めるよ。傍からは滑稽に見える場合も多いだろうってことも認める。でもそれは仕事に関してだけだ。真に賢い女性に出会った場合には、どうしていいかわからない。一体どうすれば君の心を掴めるんだろうな」
「私もドライマティーニをいただこうかしら」美冬はバーテンに声をかけた後、隆治に微笑みかけた。「率直にいいますと、今は仕事のことで頭がいっぱいです。夢を叶えるために考えること、考えなきゃならないことがたくさんあるから」
「夢……か。君の夢というのは具体的にどういうこと?」
「簡単には説明できないんですけど、敢えていうならば――」彼女は顎をわずかに突き出し、斜め上に視線を投げた。「美の追求……でしょうか」
「それはまたスケールの大きい言葉が出てきたな」
「人は誰でも美を求めるものでしょう? そのためにはお金を惜しまない人だって少なくありません。私はそういう人に美を与えられる役割を担いたいんです。もちろん美といっても多種多様です。宝石を奇麗だと思う人もいれば、ヘアスタイルを美しいと思う人もいるでしょう。女性の容姿そのものに美を求める人も多いと思います。私はそれらすべての要求に対応していきたいと思っているんです」
「たしかに君は美容業界でも成功を収めつつあるようだ。ではもう一つ訊くけど、君が思い描く夢の完成図というのはどういったものなんだろう。美を扱う業界のすべてを牛耳ることかい」
隆治の言葉に、美冬は掌をひらひらと振った。ちょうどその時バーテンが彼女の前にカクテルグラスを置いた。彼女はそれに指をかけた。
「そこまで大それたことは考えていません。私が考える夢の形はこういうものです。まずトンネルがあって入り口と出口がある。入り口には女の子がいます。あまりかわいくなくて化粧気もなく、服のセンスもよくない。でも少しばかりお金を持っています。アルバイトか何かで貯めたお金でしょう。彼女はそのお金を持って、トンネルの中に入っていきます。しばらくして出てきた彼女は、奇麗にメイクアップされていて、ヘアスタイルもよく似合うものに変わっています。少し奇麗になった彼女は、また少ししてからやってきます。今度は前よりもお金をたくさん持っているんです。どうしてかというと、奇麗になったおかげで率のいい仕事をできるようになったからです。彼女は再びトンネルに入っていきます。出てきた彼女は前よりもさらに」
奇麗になっている、という台詞を隆治も彼女と声を合わせていった。
「よく似合う洋服を身に着けたのかな。あるいはアクセサリーか」
「ダイエットしたのかもしれませんよ。肌の手入れをしたのかも」
「美容整形は?」
「それもありえます」美冬は頷いた。「トンネルを通るたびに美しくなるんです」
「つまりそういう魔法のトンネルが、君の描く夢の形というわけだ」
「強いていえば、ですけど」
「だけどそれだと女性側のニーズに応えているだけだね。男性は無視かい」
「私は結果的に男性の要望にも応えることになると思います。だって男性は、このトンネルの出口で待っていればいいんですから。そうすれば美しくなった女性が次々に現れるんです」
「男性にとっての美の探求とは、美しい女性を求めることだけだと思うのかい」
「私はそう確信しています」美冬は断定的にいった。「違いますか」
隆治は反論せず、彼女から少し身を引くしぐさをし、そのくせわざとじろじろと爪先から見上げていった。煙草をくわえ、火をつける。
「何ですか?」
「もしそうだとしたら、その魔法のトンネルで美しくなった女性そのものが、君が生み出す商品でもあるということだ」
「商品という言い方が正しいかどうかはわかりませんけど、男性に対して自信を持って提供できる美であるとはいえますね」
隆治は立て続けに煙草を吸い、周囲に煙を漂わせた。
「君が最初に見せてくれた指輪の試作品、あれも見事だったが、そうすると、もっと素晴らしい試作品を君はすでに披露しているということになるね」
えっ、と美冬は瞬きした。
「君自身だよ」彼はカクテルグラスを持ち、彼女の前に差し出した。
美冬は白い歯を覗かせた後、ドライマティーニを唇に含んだ。
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久しぶりに店にやってきた水原雅也を見て、有子はぎょっとした。すぐに彼だと気づかなかったぐらいだ。それほど変わり果てていた。元々細身ではあったが、頬は一層こけ、目は落ちくぼんでいる。顔色は悪く、何より表情がどんよりと濁っていた。
「どうしたの?」おしぼりを置くのも忘れ、彼女は訊いた。
何が、というように彼は深い眼窩《がんか》の奥から見返してきた。
「身体の具合、悪いの?」
「いや、別に……どこも悪ない」しかしその声にも張りがなかった。
「それならいいけど……このところ全然来なかったし、病気でもしたのかなと心配してたんだ。でも本当に大丈夫? 仕事、忙しすぎるんじゃないの?」
すると雅也はなぜか薄く笑った。
「たまにしか会えへん有子ちゃんのほうが、俺のことを心配してくれる。変なもんやな」
「どういう意味?」
「何でもない」彼は壁にかけてある黒板に目を向けた。そこにメニューが書き込んである。「炊き合わせと卵焼き、それからビールをもらおうかな」
「それだけでいいの? 定食は?」
「今日はいらん」彼は年末のスペシャル番組を流しているテレビを見始めた。
有子がビールと突き出しを持っていくと、彼は時折テレビに視線を向けながら、黙々とビールを飲んだ。注文した料理を運んでいった後も、その様子に変化はなかった。
小一時間をかけて彼はビールの大瓶二本を飲んだ。料理は追加しなかった。
「今日は夜食はいらないの?」勘定の際、彼女は小声で訊いた。
「いらない」
「でもあまり食べてないよ」
「食欲ないんや」彼は五千円札を出してきた。
釣り銭を渡す時、有子はメモ用紙とボールペンを先に差し出した。
「住所を教えてくれない? 年賀状、出したいから」
「俺に?」怪訝そうにしたが、彼はすぐにボールペンを取った。なかなかの達筆だ。腕のいい職人は字もうまいという話を、有子は客から聞いたことがあった。
住所を書き終え、釣り銭を受け取ると、彼は顔を上げることもなく店を出ていった。
『おかだ』の閉店時刻は十二時だ。最後の客が帰ると、有子は握り飯を作り始めた。何事かと訝る母の聡子《さとこ》に、彼女はいった。
「あたし、これから友達のところに行ってくる」
「えっ、こんな時間に?」
「忘年会をしてるらしいから差し入れしてくるの。これ、もらっていいよね?」マグロの刺身が残っていたので、指差して尋ねた。
「あまり遅くならないようにね」
「わかってる」
遅くまで店を手伝っているからか、有子の夜遊びに関して両親はあまり口うるさく注意しない。また夜遊びといっても、彼女が付き合っているのは地元の幼なじみや同級生が中心で、いかがわしい場所に出入りすることもなかった。
しかし今夜彼女が出かける先は友達のところではなかった。コートのポケットには、先程水原雅也に書いてもらったメモが入っていた。
番地を確かめながら行き着いたところには、古い二階建てのアパートが建っていた。手すりに錆の浮いた階段を上がり、部屋番号を確認してからドアホンを押した。
ドアが開き、雅也が痩せた顔を覗かせた。彼女がぺこりと頭を下げると、彼はぱちぱちと瞬きした。
「有子ちゃん……今頃なんで……」
「差し入れ」彼女は提げていた紙袋を持ち上げた。
「俺に? わざわざ?」
「だって、どう見ても栄養失調だもん。ちゃんとしたものを食べてないんじゃないかと思って」そこまでしゃべったところで雅也の困惑した表情が目に入った。「迷惑だった?」
「そんなことはないけど、びっくりした」
「そうよね。突然ごめん」有子は紙袋を差し出した。「嫌じゃなかったら食べて」
雅也はためらいがちに手を伸ばしてきた。しかし紙袋を受け取る前に彼女を見た。
「寒かったやろ。ちょっと中に入ったらどうや。お茶でも淹れるし」
彼が迷いながらこの言葉を口にしているのが彼女にもわかった。若い女性を部屋に入れることの意味を考えたのだろう。
「いや、もう遅いからそれはまずいかな」有子が答える前に彼はいった。「俺が送っていく。そのほうがええやろ」
「ちょっと待って」彼女はあわてていった。「少しぐらいならいいんだけど」
「そう?」
「うん」彼女は頷いた。
「そうか。汚い部屋やけど、じゃあ……どうぞ」雅也はドアを大きく開いた。
部屋に一歩入った途端、有子は一瞬冷気を感じた。湿度の問題ではない。外のほうがはるかに寒いはずなのだ。電気ストーブの赤い光が見える。しかし背中がぞくりとする感覚がたしかにあった。
雅也が座布団を出してくれた。小さなテーブルの上には吸い殻でいっぱいになった灰皿と、ビールの空き缶、ピーナッツの袋などが載っていた。十四型のテレビからは今年のスポーツ名場面が流されている。
有子は座布団の上で正座し、室内を見回した。男の独り暮らしにしては片づいている。というより、ろくにものがないのだった。生活感のない部屋だなと彼女は思った。
「何してたの?」
「別に、何も」薬缶を火にかけながら雅也は答えた。「テレビを見てただけや」
「いつもそういう感じ?」
「そうやな。仕事して、飯食って寝るだけ」
「雅也さん、家族は?」
「いわへんかったかな。阪神淡路大震災の直前に親父が自殺して、一人きりになった」
「あっ……」悪いことを訊いたのかなと彼女は思った。「ごめんなさい」
「謝らんでもええよ」雅也がようやく白い歯を見せた。彼の笑顔を有子が見るのは久しぶりだった。
「じゃあ、お正月も一人?」
「まあそうやろうな。特に何の予定もない。正月というても、俺らには関係のない話や」
「関西に帰ったりもしないの? 昔の友達に会うとか」
雅也はふっと笑った。
「帰ろうにも家がない。友達とは……もう何年も連絡をとってへんな。みんなどうしてるのかなあ」
一瞬遠い目をした彼の顔を見て、この人は本当は帰りたいのではないかと有子は思った。しかし何か事情があって帰れないのではないか。
「ねえ、予定がないのなら、一緒に初詣に行かない? あたしも最近は行ってないんだけど、久しぶりに行きたいし」
「初詣か。ええな」
「どうせなら浅草寺《せんそうじ》に行こうよ。すごい人だろうけど、そのほうが初詣らしくていいじゃない。雅也さん、浅草に行ったことある?」
「いや、ないな」
「じゃあそれで決まり。いつがいい? あたしは三が日ならいつでもいいけど」
薬缶の湯が沸いた。雅也は立ち上がり、急須を使って茶を淹れ始めた。お揃いの湯飲み茶碗が二つある。それを見て有子はかすかに胸騒ぎを覚えたが、あまり深く考えないことにした。
「せっかくごちそうを持ってきてもろたんやから、ちょっと食べようかな」雅也が茶を運びながらいった。
「うん、食べて。当店自慢の料理。といっても、雅也さんの知ってる味ばかりかもしれないけど」
「『おかだ』は最高や。大将の腕は天下一品やで」雅也は割り箸を手にした。
「ありがとう。それ聞いたらお父さんも喜ぶよ、きっと」
雅也はほうれん草の煮浸しに箸を伸ばした。次に卵焼きや蕗の煮物にも手をつけていく。一口食べるたびに、やっぱりおいしいな、と呟いた。
「ねえ、初詣、いつ行く?」有子は上目遣いに雅也を見た。彼は黙々と料理を口に運んでいる。ねえ、ともう一度訊こうとした時、彼が口を開いた。
「約束はでけへんな」
「あ……何かあるの?」予定はないといったくせに、と彼女は思った。
「急に用が入ることもあるから」
「その時は仕方ないよ。電話してくれたらいいじゃない。いくらでも変更できるし」
「うん。けど、やっぱり約束はでけへん。俺、そういうのは苦手なんや。悪いけど、ほかの人を誘ってくれるか」
有子は俯いた。自分なんかとは初詣に行きたくないのかなと思い、少し傷ついた。
雅也は相変わらず野菜の煮物などを食べている。彼女は蓋の開いていない容器があることに気づいた。
「お刺身も持ってきたよ」
「えっ」なぜか雅也の顔が険しくなった。
「マグロのお刺身。今日はネタがいいんだってお父さんも自慢してた」有子は器を開け、彼のほうに差し出した。
しかし雅也の顔は浮かない。刺身を見て眉を寄せ、次に目をそらした。
「どうしたの?」
「いや、何でも……」
有子は小皿や醤油、ワサビなども用意してきた。それを彼の前に並べた。
雅也は一呼吸置いてから割り箸をマグロに近づけていった。一切れ挟み、醤油につける。しばらくそれを見つめた後、口に入れた。
「おいしいでしょ。珍しくいいネタが入ったってお父さんが――」そこまでいったところで彼女は言葉を切った。明らかに雅也の様子がおかしいからだった。
彼の顔がみるみるうちに蒼白になった。脂汗が出そうな気配だ。やがて彼は口を押さえた。そのまま立ち上がり、台所に駆け込んだ。
流し台に向かってげえげえと嘔吐を繰り返す雅也を、有子は呆然と見つめていた。しばらくしてからはっとして背中に駆け寄った。
「大丈夫? どうしたの?」
雅也は吐き終えた後も肩で息をしている。ぜえぜえという呼吸音が聞こえた。
「ごめん、何でもない」
「何でもないって……だってそんなことになってるじゃない。マグロ、おかしかった?」
雅也は向こうを向いたまま首を振った。
「マグロは関係ない。けど、ちょっと俺には無理やから、片づけてくれへんか」
「あ、はい」有子は刺身の入った容器を片づけた。その前に一切れ口に入れたが、別段悪くなっているふうでもない。いつもの脂がよくのったマグロだった。
雅也は流し台の中を洗い、自らもうがいを繰り返した。口元をタオルでぬぐい、呼吸を整えるように肩を上下させてから戻ってきた。
「悪いな。せっかく持ってきてくれたのに」
「そんなことはいいけど……何がいけなかったのかな。特に悪くなってるふうでもないんだけど」
「だからマグロには問題はない。俺のほうに原因がある」
「原因って……どういうこと?」
しかし雅也は答えない。再び割り箸を手にし、野菜類に伸ばしかけた。しかしもはや食欲は失せたのか、その動きは途中で止まった。そのまま箸を置いた。
「悪いけど、持って帰ってくれるかな」
「あ、はい。ごめんね」有子はあわてて料理の入った容器を片づけた。わけがわからなかった。自分が何か余計なことをしたのだろうかと不安だった。
「料理はどれもおいしかったよ。マグロもたぶん……おいしいんやろうと思う」
「雅也さん、やっぱりどこか悪いんじゃないの?」有子は訊いた。
雅也は煙草に手を伸ばした。顔を歪めて吸う姿は、少しも旨そうではなかった。
「雅也さん……」
「大丈夫や」彼はぶっきらぼうにいった。「ちょっと胃の具合が悪いだけと思う。気にせんといてくれ」
「お医者さんに診てもらったら?」
「ああ、そのうちにな」
そんなんじゃない、と有子は直感していた。単に胃の調子が悪いだけのことで、こんなことになるはずがないと思った。この人は何を隠しているのだろう。
煙草を挟んだ雅也の指が震えていた。顔は青白いままだ。
「どうして震えてるの?」
「何でもない」彼は煙草を持った手を隠そうとした。
「あの、雅也さん……」
「うるさいな。ほっといてくれ」
雅也にいわれ、有子は凍りついたように動けなくなった。張りつめた空気がひどく重く感じられ、息苦しくなった。
「わかった。あたし、帰る。ごめんね、余計なことばっかりして」
有子は紙袋を持ち、立ち上がった。雅也は胡座をかいたまま動かない。煙草の先からは白い煙がゆらゆらと出ている。
靴を履こうとした時、彼の脇に小皿が落ちているのが目に留まった。有子が持ってきたものだ。さっき彼が台所に駆け込んだ拍子に落ちたらしい。
彼女は戻り、そっと小皿を拾った。中の醤油がこぼれている。そばにあったティッシュペーパーで拭いた。
その時だった。雅也の腕が突然伸びてきて、彼女の手首を掴んだ。彼女は、あっと声を漏らした。
どうしたの、そう訊こうとした時には手を引っ張られていた。強い力だった。有子は畳の上に倒されていた。そこに雅也がのしかかってきた。
「やめてっ、何するの――」
彼の唇で口を塞がれた。さらに彼の手は有子のセーターの中に強引に押し入ってきた。
頭が真っ白になりながらも、有子は必死でもがいた。雅也の唇が離れた一瞬を逃さず、彼女は彼の唇の端に噛みついていた。
雅也の力が緩んだ。彼女は彼を突き飛ばし、四つん這いで逃げた。玄関に脱いであったスニーカーを手にすると、そのまま裸足で部屋を駆け出た。靴を履いたのは、通りに出てからだった。
家に着いてからも興奮はおさまらなかった。雅也があんなことをするとは思わなかった。優しく迫られていたらきっと身を任せていただろう。それなのに、どうしてあんな乱暴なことをしたのか。この女は自分に気があると思って、甘く見たのだろうか。
されたことよりも、彼の裏の顔を見せられたことのほうが有子にはショックだった。その夜はなかなか寝付けなかった。
二、三日は気持ちが落ち込んでいた。だが次第に別の思いが彼女の中で膨らんできた。彼の行為よりも、その前の異変のほうが気になり始めてきたのだ。
何かよからぬことが彼の身に起こったのではないだろうか。それを忘れたくて、彼は自分にあんなことをしたのではないか。あれは彼の必死のSOSだったのではないか。そう思うと、わけも訊かずに逃げだしてきたことが悔やまれた。
さらに日が経ち、大晦日になった。『おかだ』はいつも通りに店を開けた。紅白歌合戦が終わると同時に店を閉めるのが毎年の恒例になっている。
有子は出前に忙しかった。『おかだ』では正月料理の予約を受け付けており、何組かの特別な客のところへは配達しなければならない。
夕方、彼女が店に帰ると、空いたテーブルの上に見覚えのある紙袋が載っていた。それは雅也のところに置いてきたものに相違なかった。あの時彼女は気が動転するあまり、料理の入った容器を彼の部屋に忘れてきたのだ。もちろん後ですぐに思い出したが、受け取りに行くこともできず、どうしようかと思っていたところだった。
「お母さん、これは?」店に出ていた聡子に尋ねた。
「ああ、それ、うちによく来る背の高い職人さんが持ってきたよ。あんたから借りたとかいってたけど」
「いつの話?」
「たった今だけど」
有子は踵を返し、走りだしていた。雅也のアパートに向かう道を急いだ。
間もなく前方に、緑色の防寒服を着た長身の後ろ姿が見えた。上着のポケットに手を突っ込み、当てのない様子で歩いている。
「雅也さん」
声をかけると彼は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。虚ろだった目が、彼女を見てしっかりと開かれた。
「有子ちゃん……」
彼女は彼の元に駆け寄った。だがいうべき言葉が思いつかなかった。何のために追いかけてきたのだろうと自問した。
「この前は悪かった」雅也がいった。「俺、どうかしてた。怒ったやろ」
「怒ったというより、びっくりした」
「そら、そうやろな」雅也はぺこりと頭を下げた。「ごめんな」
有子は彼を見つめた。
「ねえ、何かあったんでしょ。あたしでよかったら、話してくれない?」
雅也はふっと笑った。
「ありがとう。そんなこというてくれるのは有子ちゃんだけや。有子ちゃんは優しいな」
「子供を相手にするみたいな言い方しないで」彼女は彼を睨んだ。「心配してるのに」
すると雅也は真顔になり、眩しいものを見るような目をした。その目をそらした。
「俺なんかに関わらんほうがええ。ろくな人間やないんやから」
「そんなことない。あたし、人を見る目には自信があるんだ」
「そしたら」雅也が有子を見下ろしてきた。真摯な光が宿っていた。「俺が人を殺したというたらどうや。それでも俺のことを信用できるか」
有子は息を呑み、彼の目を見返していた。心臓の鼓動が速まっている。
雅也が低く笑いだした。
「嘘や。冗談や。けど、騙されたやろ。有子ちゃんの人を見る目もまだまだやな」
雅也は歩きだした。有子は彼を追った。
「ひとつだけ教えて。この前、あんなことをしたのは、相手があたしだったから? それとも、気を紛らわすためなら誰でもよかったの?」
雅也は足を止めた。眉間に皺を寄せた。
「なんでそんなことを訊くんや」
「もし後のほうだったら許せないと思うから。はっきり答えて。どっち?」
雅也は瞬きを繰り返し、彼女から目をそらした。ふっと息を吐いた。
「さっきもいうたやろ。あの時の俺はどうかしてた。相手なんか誰でもよかった」
「うそ……」彼女は首を振った。「そんなの嘘」
「有子ちゃん、勘弁してくれ。もう俺には関わらんといてくれ」雅也は歩きだした。ついてくるな、背中がそう語っていた。
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足立区扇大橋のそばで男性の変死体が見つかった。放置自動車のトランクルームに押し込められていたのだ。死体は全裸で、顔と指紋が潰されており、首には絞殺の痕があった。また、車は盗まれたものだった。
捜査陣としては死体の身元を明らかにすることが急務だった。そこで都内を中心に、最近捜索願が出されている家出人や失踪人について再調査が行われることになった。手がかりは歯の治療痕だけだった。
捜査一課向井班の加藤亘も、この作業に当たっていた。彼は単調な聞き込みの繰り返しにうんざりしていた。課せられたノルマはあったが、喫茶店で時間を潰すことのほうが多かった。
この夜も彼は大した聞き込みもせぬまま、警視庁に戻った。捜査本部に寄らないのは、上司である向井の仏頂面を見たくないからだ。
自分の席に行くと、後輩の西崎が机に向かって何か書いていた。報告書だろう。彼は先日、変死体と極めて特徴のよく似た失踪人を見つけだしたが、コンピュータによる解析で別人と判明していた。
「班長がぼやいてましたよ。加藤の動きが悪いって」西崎が顔を上げ、にやにやした。
「ほっときゃいいんだよ。大体、非合理的なんだ。情報化の時代に、いちいち話を聞いてまわるなんて馬鹿げてる」加藤は椅子に腰を下ろし、ネクタイを緩めた。
「虱《しらみ》潰しが一番合理的だ、というのがお偉方の言い分ですがね」
「全部調べましたっていう実績がほしいだけなんだよ。捜査に穴があるのが見つかった時、責任問題になるからな。そんなことばっかり考えてるから、悪党にいつも先を越される。連中はパソコンを使いこなしてるというのに、警察はいまだに算盤だ」
西崎は苦笑して立ち上がった。トイレらしい。
加藤は煙草に火をつけ、首を回した。ぼきぼきと関節が鳴った。
煙草を二センチほど灰にした時、彼の目がふと隣の西崎の机の上にいった。書きかけの報告書が載っている。
加藤はその報告書を取り、文字を拾い読みしていった。曽我孝道という失踪人の妻から話を聞いた時のものだった。先日、事件と無関係と確認されたケースだ。こんなものをわざわざ書かなくてもいいのにな、と加藤は思った。
ぼんやりと文面を追っていた加藤の目が、ある一点で停止した。次に見開かれた。彼はその前後を熟読し、もう一度最初から読み直した。
そこへ西崎が戻ってきた。
「どうかしましたか」
「おい、これ」
「ああ……結構大騒ぎして鑑識にも世話になりましたから、一応まとめておこうかと」
「そんなことはどうでもいい。ここに出てくるこの女、おまえ会ったのか」
「女?」
「ここに書いてあるだろ。曽我孝道は当日、かつての上司の娘に会いに行った。その娘のことだ」
「ああ、喫茶店で待ち合わせてたという女ですよね。何という名前だったかな」
「新海だよ。新海美冬。会ったのかって訊いてるんだ」
先輩は何を興奮してるんだというように、西崎はきょとんとした顔で首を振った。
「会ってませんよ。だって、死体が曽我孝道かどうかまだわからなかったから。結局、違ってたし」
「この新海美冬って、あの女じゃないのか」
「あの女?」
「おまえ、新海美冬と聞いて、何も思い出さないのか。結構変わった名前だぜ」
「いや、結構珍しい名前だなと思ったんですけど……誰でしたっけ」
「『華屋』の異臭事件だ。忘れたのか」
「『華屋』? あの事件なら覚えてますけど」そこで西崎の顔つきが変わった。目と口を同時に大きく開けた。「あっ、新海……そうだ。ストーカーの……」
「浜中だ」加藤は記憶を辿った。「あの時のストーカーの名前だよ。『華屋』のフロア長だった。あの男が自分の愛人だといったのが新海美冬だ」
「思い出しました。気の強い女でしたよね。とうとう最後まで浜中との関係は否定し続けました。加藤さんは嘘だと睨んでたようですが」
「この新海美冬は」加藤は西崎の報告書を指でつついた。「あの新海美冬じゃないのか」
「さあ」西崎は首を捻る。「珍しい名前だし、同姓同名ってことはないかもしれませんね。ただ、さっきもいいましたように、死体が曽我孝道だと判明してから動こうと思っていたので……。班長の指示もそうでしたし」
「それはいいよ。わかっている」加藤は報告書を西崎の机に戻し、新しい煙草に火をつけた。
「同一人物だとして、何か気になることでもあるんですか」
「いや、気になるってわけでもない」
「でも、気にかかってる顔ですよ。あの時加藤さんは、大胆な推理を組み立ててたじゃないですか。ストーカーは二人いる。新海美冬を狙っていたストーカーと、ほかの女性従業員を狙っていたストーカーは別人。その、もう一人のストーカーが異臭事件の犯人――面白いと思いましたけど」
「小説ならな。だけど上を納得させることはできなかった」
当時のことを加藤は思い出していた。奇抜だが自信のある推理だった。上司たちがその気になってくれれば、人を使って徹底的に裏づけを取っているところだ。しかし上司は浜中にこだわった。挙げ句、迷宮入りした。
加藤は新海美冬の顔を明瞭に覚えていた。特に彼女の目は、脳裏にくっきりと焼きついている。彼女に見つめられた時の、心が引き込まれるような何ともいえぬ不安定な気分は、あの目を思い浮かべるだけでも再現できる。
あの女がまた出てきた――。
無論、偶然に決まっている。長年刑事をしていると、こういうことはあるものなのだ。何しろ一つの事件のたびに、膨大な数の人間と会うことになる。全く別の事件なのに、数年を経て同じ人間から話を聞くことになった、ということも彼の経験の中にはある。
しかし加藤はあの新海美冬については、単なる偶然と見過ごせないのだった。『華屋』の事件においても、妙な位置にいた女だった。そして今度は、あの女と待ち合わせをした人物が失踪しているという。
気がつくと心配そうな顔で西崎が見ていた。加藤は苦笑いを浮かべ、煙草の灰を落とした。
「どうかしてるよな。俺たちの死体は曽我孝道じゃないんだから、どこに新海美冬が絡んでこようが知ったこっちゃないのにな」
加藤の心情を見抜いているように、西崎は何もいわずに口元だけで笑った。
扇大橋の死体の身元が判明したのは、その二日後だった。三鷹にある歯科医院で、合致するカルテが見つかったのだ。男は小さな印刷所の経営者だった。間もなく、その妻と愛人が殺人容疑で逮捕された。
いうまでもなく、新海美冬とは何の関係もなかった。
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いつものように遥香と二人きりで朝食を食べていると、電話が鳴りだした。恭子よりも先に反応を見せたのは娘のほうだった。箸を持っている手を止め、さっと電話機を見たのだ。その目には、期待、というよりもっと悲壮な懇願の光が宿っていた。次に母子は目を合わせた。約一年、何度となく繰り返されてきたことだった。恭子は娘に向かって微笑み、小さく首を振った。違うよ、きっと――そういう意味を込めていた。娘の落胆をなるべく小さくしておきたかった。自分に対する予防線でもあった。
恭子は受話器を取った。「はい、曽我ですが」
「もしもし、モリカワといいます」やけに明るい口調の男性だった。「じつは小学生のお子さんをお持ちの方々にとって、大変いいお話があるんです。失礼ですがお宅様では、お子さんに何らかの英語教育を行っておられるのでしょうか」
「英語教育?」
「はい。もし今のところまだ何もしておられないということでしたら、一度是非使っていただきたいものがあるんです。従来のようなテープを使ったものではなく――」早口でまくしたててくる。
「あの、うちは結構です。そんな余裕ありませんから」
「大した費用ではないんです。なんでしたら一度製品の説明に伺わせていただきたいと」
結構ですから、ともう一度いって恭子は電話を切った。最近はこの手の電話が多い。マンションを買ってくれ、墓を買ってくれ、投資をしないか等々。一体どこでうちの番号を知ったのだろうと不思議になる。
気がつくと遥香が悲しげに母親を見つめていた。恭子は無言で首を振った。娘は項垂れ、のろのろと朝食を再開する。その顔には落胆という言葉では片づけられない暗さがあった。この子をこんなふうに落ち込ませただけでも、無神経に勧誘の電話をかけてくる人間は罪深い、と恭子は思った。
暗い表情の娘を励まし、どうにかこうにか学校に送り出すと、彼女は朝食の後片づけもそこそこに出かける支度を始めた。形ばかりの化粧をし、バーゲンで買った地味なスーツを着た。一応姿見の前に立ってみるが、華やいだ気分などかけらほどもない。憂鬱で、空しく惨めな思いが胸の中で渦巻いている。
去年の今頃はこんなふうになることなど夢にも思わなかった。幸福の絶頂期だった。遥香の小学校入学を間近に控え、恭子は浮かれていた。入学時に着ていく服を選ぶのに友達に付き合ってもらい、ブランド品を買える経済力を羨ましがられたものだ。たった一年で何という変わりようだと彼女は鏡に映る自分を見て嘆いた。十歳も老け込んだようではないか。表情にもまるで輝きがない。
あの悪夢の一日から間もなく一年――。
いや、悪夢はまだ続いているのだと彼女は思った。あの日いつもと変わらぬ様子で出ていった夫がどうなったのか、まだ答えは出ていない。もうこの世にはいないのではないかという覚悟はしている。しかし、ある日突然帰ってくるのでは、という淡い期待はいつまでも残っている。とても諦めきれるものではない。電話が鳴るたびに孝道からではないか、と思ってしまうのは遥香だけではないのだ。
働き始めたのは去年の秋からだ。それまでは孝道が残してくれた蓄えから生活費を捻出してきた。しかしマンションのローンがあり、特にボーナス月に引き落とされる額は大きく、忽ち預金残高は激減した。いつまでも夫を家で待ち続けているだけというわけにはいかなくなった。
孝道のことは会社では休職扱いにしてくれている。それまでに消化していない有給休暇があったので、それを全部充てて、一か月分ほどの給料はもらうことができた。去年の夏のボーナスも、いくらかは支給された。それを手にした時には、いかに夫の稼ぎがありがたいものか骨身にしみた。しかし同時に、これからは保証されないのだという恐怖が彼女を襲った。
生命保険のことは極力考えないようにしている。それが入ればたしかに楽にはなる。ローンのことも心配しなくていい。だがそれを得るためには当然のことだが孝道の死が確認されなければならない。恭子は自分が夫の死体が見つかることを望んでしまうのをおそれていた。
最初に得た職はウェイトレスだった。場所は荻窪《おぎくぼ》のファミリーレストランだ。知り合いに顔を見られるおそれのある職場は避けたかったのだが、贅沢はいえなかった。それまでにもいくつかの面接を受け、自分の年齢では、そして小さな子供がいるという制約の中では、働ける場を手に入れるだけでも大変だとわかっていたからだ。孝道が常々こぼしていた、「不景気は政府が考えている以上に深刻だよ。そのうちに日本は失業者だらけになるぞ」という言葉を痛いほど実感した。
そのファミリーレストランには今年の一月までいた。二月からは銀座の宝飾品店でバッグや財布などを売っている。不特定多数の人間に見られるという点ではファミリーレストランよりも危険だったが、仮に見られたとしても、若い娘と同じユニフォームを着てウェイトレスをしている時よりは恥ずかしくなかった。その店の品物を持っていることは一種のステータスでもあるから、むしろプライドを持てるといってもいい。元々バッグや小物類には関心があるので、職場で品物を眺めているだけでも楽しい。そして何より実入りが違った。ここで働き続けられれば遥香と二人だけの生活を支えていくことはできる、そう考えていた。
あの人と知り合えてよかった――恭子はその店で働けるよう取りはからってくれた人物のことを思うたび、心の底から感謝した。
それにしても孝道は一体どこに消えてしまったのか。
彼の失踪当時、恭子はあらゆる知人友人に問い合わせてみた。年賀状や名簿類をひっくり返し、明らかに付き合いなどはないとわかる相手にまで電話をかけ、最近夫と会わなかったかと尋ねた。失踪していることを他人に知られたくないと思ったのは初めの頃だけで、やがてそんなことを気にする余裕もなくなったのだ。
孝道の職場の人間もいろいろと協力してくれた。失踪直前の孝道の様子を細かく聞き込み、その結果を報告してくれたりもした。しかしそれを読んでみてわかったことは、どう考えても孝道には失踪する理由などないということだった。彼は当時いくつかの仕事を抱えていたが、そのどれもがまずまず順調に進んでいた。翌週には大きな契約が一つまとまるはずでもあった。
恭子が最もリアルに考えたのは女性問題だった。男が理解不能な行動を取った時には必ず裏に女性がいるという話を聞いたことがあったし、事実そうだろうとも思った。孝道をよく知る人間たちは、心当たりは全くないと断言したが、恭子は鵜呑みにしなかった。彼女は孝道の友人たちから、夫がかつて交際したことのある女性の名前を聞き出すと、あらゆる手を使って連絡先を調べあげ、決死の覚悟で電話してみた。そんな電話を突然もらって不愉快にならない人間がいるはずもなく、誰もが恭子に冷たい言葉を投げつけてきた。電話口で怒りだした女性もいた。恭子は惨めな思いと引き換えに、夫の失踪に過去の恋人は関わっていないという確信を得た。
現在の恭子は、夫と特徴の一致する身元不明死体が見つかった、という知らせを待っている毎日だった。一か月ほど前にも、そうした死体が足立区で見つかり、警視庁まで出かけていった。いろいろと細かいことまで訊かれた時には覚悟を決めたが、結局他人の死体だった。その犯人は先日捕まったという。妻と愛人の共犯らしいが、細かいところまでは知らない。孝道のことがはっきりするまで、殺人事件絡みのニュースや記事はできるだけ避けるようにしている。
死体が別人とわかった時、複雑な思いが彼女の胸中に去来した。安堵した反面、早くはっきりしてほしいと苛立ったのもたしかだった。失望に似た気持ちが自分の中にあることに気づき、彼女は愕然とした。同時に自らを嫌悪し、責めた。
店で働いている時は、恭子にとって夫のことを意識の表面から追い出せる数少ない時間だった。それでも店の前を通り過ぎていく通行人の中に孝道らしき人影を見つけ、客がいるのも忘れて表に飛び出したことが何度かある。人違いとわかっていても身体が止まらないのだ。今は職場の人間に事情を話しているが、最初はずいぶんと気味悪がられたものだった。
恭子の勤務時間は六時までだ。片づけを終え、店を出るのが六時半。家へ帰る前に実家に寄る。古い木造の一軒家だ。両親と兄夫婦が住んでいる。恭子が働いている間、そこで遥香を預かってもらっている。
娘を引き取って自分たちのマンションまで戻ると、部屋の前に一人の男が立っていた。無精髭を鼻の下と顎に生やしている。髪は長めでネクタイはしておらず、とてもふつうの勤め人には見えなかった。しかも目つきが鋭く、恭子たちにじろりと視線を投げてきた時には、彼女は思わず足がすくみそうになった。
俯いたままバッグから鍵を出そうとしていると、男が尋ねてきた。「曽我さんですか」
話しかけられるのではとびくびくしていただけに、その低い声にも恭子はびくんと身体を反応させた。
「そうですけど……」声が震えてしまった。遥香を自分の後ろに隠した。
「こんな時間に申し訳ありません。たぶん昼間はいらっしゃらないだろうと思ったものですから」
「あの、どちら様でしょうか」
「警視庁の者です」男は手帳を出してきた。「加藤といいます」
「警察の……」
ついに見つかったのだろうかと彼女は思った。それともまた夫らしき身元不明死体が発見されたということだろうか。
すると加藤という刑事は、彼女の先走りを制するように掌を出した。
「旦那さんが見つかったというわけではありません。ちょっとお話を伺いたくて、失礼を承知でやってきたわけです」
「話というと?」
「旦那さんが失踪した時のことです」
「はあ……」今さら何を、と思った。
「すでにこちらの警察でいろいろと話をされていることは存じています。先日は足立区での事件で協力していただきました。ただ、私が今日お訊きしたい内容は、それらとは少し違ったものでして、どうしても直接お目にかかりたかったんです」刑事は恭子の後ろに隠れている遥香に目をやり、にっこり笑った。「少々話が長くなりますが、極力お時間はとらせないようにします」
立ち話というわけにはいかないのだなと恭子は了解した。しかし一体どういう内容だろう。いずれにせよ孝道の失踪の解明に繋がる話なのだろうが――。
「では中で」仕方なくそういった。
知らない男性を部屋に入れたことなどなかった。もしこの男が偽刑事で急に強盗にでも豹変したなら、自分たち母子にはどうすることもできないだろう――そんなことを考えながら恭子は茶を淹れた。だが男が態度を変える気配はなかった。
加藤の質問は最初に彼が断ったとおり、孝道の失踪前後の話に集中していた。特に彼が念入りに尋ねたのは、孝道が新海美冬と会う約束をしていた点についてだった。どういう用件か、新海美冬とはどういう経緯で知り合ったか、孝道の失踪後は何か連絡してきたのか、そんなことを細かく尋ねてきた。その目的は恭子にはわからなかった。
質問を終えると刑事は立ち上がった。お邪魔しました、と丁寧に頭を下げた。
「あの、新海さんが何か?」玄関で見送る時に恭子は訊いた。
いえいえ、と加藤は笑って手を振った。
「状況を詳しく把握しておきたかっただけです。どうも失礼いたしました」
刑事が帰った後も、恭子は腑に落ちなかった。夫の失踪と新海美冬とは直接関係はない。それなのに何を知りたかったのだろう。
このことを美冬に話すべきかどうか迷った。今や彼女は恭子にとって恩人だった。何しろ今の職場を紹介してくれたのが美冬なのだ。
不愉快にさせるだけかもしれない――黙っておこうと彼女は決めた。
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現場は港区海岸。すぐ上をゆりかもめが通っており、日の出駅がすぐそばに見える。
死体は若い女だった。道路脇に捨てられていた。発見したのは、通りかかったトラックの運転手だった。死因は不明だった。
所轄では一応本庁に連絡しておこうということになった。本庁では事件のあらましを聞き、じゃあ一応誰かを行かせようということになった。そういう『一応』がいくつか重なって、運の悪いことに自分たちが貧乏くじを引かされたのだと加藤は思った。
煙草を吸っていると西崎が戻ってきた。薄笑いを浮かべている。
「ごくろうさまっていわれました。俺たちが帰るのを待ってたみたいです」
「そうだろうさ。こんなちっこい事件にまで本庁の刑事に顔を出されちゃ、連中だってやりにくいからな」
道路脇に止めてあった西崎の車に乗り込んだ。
加藤の住む賃貸マンションは大森にあり、西崎はさらにその先の蒲田《かまた》に住んでいる。第一京浜に出れば、あとは一直線だ。自分たちにお呼びがかかったのは、単に現場までの便がよく、西崎が車を持っているというだけの理由からだろうと加藤は踏んでいた。おまけにどちらも独身だ。夜中に呼び出しても家族に気を遣わなくてもいい。
「そこでラーメンでも食って帰ろうぜ」加藤は左側に見えた看板を顎でしゃくった。
「いいっすよ」西崎の反応もよかった。死体を見たからといって食欲をなくす感性は、すでに二人にはなかった。
路上に車を止め、朝の五時までやっているというラーメン屋に入った。
みそラーメンを三分の一ほど食べたところで加藤は箸を止めた。
「新海美冬の話、していいか」
「シンカイ?」西崎が怪訝そうな顔をした。「ああ、例のあの女ね。いいですけど、まだ何か引っかかってるんですか」
「例の阿佐ヶ谷の未亡人……じゃなかった、旦那が失踪中の奥さんに会ってきた」
「ええー」西崎はのけぞった。「えらく引っかかってるんですね。どうしてまた?」
加藤はそれには答えず、ラーメンをひと啜りした。
「同姓同名じゃなかったぜ。やっぱりあの新海美冬だ」
「だから何なんですか。そういう偶然はあるって、加藤さんもいってたじゃないですか」
「あの女だけはどうもしっくりこないんだ」
「あんまりいい女だったから、忘れられないっていうだけのことじゃないんですか」
無論、西崎は冗談でいったのだろう。しかし加藤はにこりともせず、薄っぺらい焼豚を箸で突き刺した。
「あの女、今何をやってると思う? 驚くなかれ、今や二つの会社の経営者だ」
これにはさすがに西崎も返事が遅れた。コップの水で口の中のものを飲み込んだ。
「この不景気な御時世に、派手な話もあったもんですね」
「一つは美容室だ。今はやりのカリスマ美容師ってのを抱えて商売繁盛らしい。で、もう一つが何だと思う? オリジナルアクセサリーの製造と販売だ。しかも『華屋』と業務提携してるんだってさ」
「ははあ……」西崎はラーメン丼の中を箸でかきまぜる。「何と答えていいのかわからないな。そういうことはよくあるのか、それとも珍しいのか、見当がつかないですから」
「よくある話のわけがないだろう。ほんの二年前には、ただの店員だったんだぜ。しかも阪神大震災の被災者だ。いうなれば生活するのがやっとだったはずだ。それがどうしてカリスマ美容師だの、『華屋』と業務提携だのといった話になるんだ」
「そんなこといっても、実際できたんだから仕方がないでしょう。世の中には、そういうすごい人間がいるもんなんですよ。ひと癖もふた癖もある人間というのがね」
「そこだ」加藤は箸の先を西崎に向けた。「そういう得体の知れない女だから、偶然二つの事件に絡んでるというのが、どうにもしっくりこないんだ。裏に何かあるんじゃないかと思っちまう」
西崎はラーメンを食べながら苦笑した。
「考えすぎですよ。大体、曽我……といったかな、あの失踪した阿佐ヶ谷のサラリーマンの件にしたって、事件かどうかはわからないじゃないですか」
「大の男が一人消えてるんだ。立派な事件じゃねえか」
「そのへんの感覚が理解できないんだよな」西崎は丼を持ちあげ、首を捻る。「でもねえ加藤さん、絡んでるといったって、新海は消えた曽我と待ち合わせをしてたんでしょう? で、結局すっぽかされた形になったわけだ。加藤さんはその話が嘘だというんですか」
「そうはいわないけどさ」
「だったら、やっぱりたまたま関係してしまったというだけのことじゃないですか」西崎はラーメンのスープをごくごくと飲み始めた。
加藤はそれ以上話すのをやめた。どう説明しようが、自分の中にあるもやもやを他人に理解させるのは難しいと思った。
曽我恭子によれば、新海美冬の口利きで、現在は『華屋』で働いているという。そのことにも加藤は違和感を覚えてしまう。新海美冬にとって曽我恭子は、単に家族写真を届けようとしてくれた男の妻にすぎない。亡くなった父親のかつての部下らしいが、その程度の関係で、就職の世話までしてやるものなのか。美冬と恭子は、曽我孝道失踪までは会ったことさえなかった仲なのだ。
加藤は杉並署にいる知り合いに頼み、曽我孝道失踪に関する情報を取り寄せていた。もちろん杉並署では捜査らしきことは殆どしていない。新海美冬や曽我の会社の人間から、型通りの事情聴取をしている程度だ。ただ、美冬が曽我と待ち合わせたという喫茶店への問い合わせは行われていた。喫茶店側では、たしかに美冬らしき女性が一人でいたと証言しているらしい。
ラーメン屋を出た後、加藤は殆ど無言だった。西崎も話しかけてはこない。新海美冬の話に乗らなかったから先輩は機嫌が悪いらしい、と勘繰っているのかもしれなかった。
翌日の午後、加藤は麹町にある喫茶店にいた。三時を少し過ぎた頃、背広姿の太った男が現れた。肌寒い気候だというのに、こめかみから汗を流している。その手には大きな茶封筒があった。それが目印だった。加藤は立ち上がり、会釈してみせた。
「加藤さんですか」相手が訊いてきた。
「そうです。突然、すみません」
「いえいえ、曽我君のことでしたら、何でも協力します。昨日、奥さんとも電話で話をしたんですよ。ようやく警察が動いてくれそうだと、喜んでいましたよ」
男は菅原《すがわら》といった。曽我孝道の同僚で、恭子によれば孝道と最も親しい人物ということだった。
失踪前の曽我孝道の様子について話してほしいと加藤はいってみた。
「奥さんからお聞きになっていると思いますけど、仕事も順調で、翌週に大きな取引を抱えて忙しそうにしていましたよ。私たちと話している時でも、いつもと違ったところなんかなかったと思います。彼が家出とか蒸発とかいうのは、全く想像できないんですよ」
建前ではなく、心底そう思っているというのが、細い目を見開いている表情から窺えた。
「あの日菅原さんは、会社を出る直前の曽我さんと話をされたとか」
「そうです。珍しく早く帰宅の準備をしているので、何か予定があるのかと尋ねたんです。そうしたら、人と会う約束があるとか。交わした会話は、それだけのことでしたけど」
「それが何時頃ですか」
「ええと、よく覚えていないんですが、六時はもう回っていて、六時半近かったんじゃないかと思います。彼が失踪した直後、奥さんからも同じように尋ねられて、そのように答えた記憶があります」
たしかに曽我恭子からも同様の話を加藤は聞いていた。
「菅原さんは新海美冬という女性を御存じですか」
菅原は頷いた。
「奥さんから聞きました。曽我君が会う約束をしていた人でしょう? 前にうちにいた新海さんのお嬢さんだとか」
「その女性について曽我さんが何かいっていたのを覚えておられませんか。どんなことでもいいんですが」
「さあねえ」菅原は首を捻った。「新海部長のことはよく話に出ていました。でも、お嬢さんのことを聞いたことはなかったと思うなあ」
「ではその新海部長――美冬さんのお父さんですよね、その人についてはどんなことを話しておられましたか」
「それはもう、昔大変お世話になったということを」菅原は顎を引くようにして頷いた。そんなふうにすると二重顎になる。「だから例の震災でお亡くなりになったと知った時には、ひどく落ち込んでいましたよ。たしか震災の一年後だったと思いますけど、ちょうど大阪本社に出張があって、ついでに神戸にも寄ってくるというようなことをいってました」
「震災の一年後、というと去年ですね」
「ええと、そうなるのかな。ああ、そうだそうだ。へえ、まだあれから一年しか経ってないんだな。ずいぶん前みたいな気がするけど」
「奥さんによれば、曽我さんは長らく新海美冬さんの居所を見つけられなかったそうなんです。でも会う約束をしたということは、何らかのきっかけで見つけられたということだと思うんですが、そのきっかけについては奥さんも御存じないようでした。菅原さんは何かお聞きになっていませんか」
「いやあ、そこまでは」菅原は渋面を作った。「新海部長の昔の写真を渡したいというようなことは、何度か彼から聞きましたが」
「その写真を御覧になられましたか」
「いや、僕は見てないんですよ。曽我君は律儀な男で、恩人の家族写真を勝手に他人に見せるのはまずいと思ってたみたいです」
加藤は頷いた。曽我は妻の恭子にも、あまり見せたがらなかったらしい。それでも一度だけ見たことがあると恭子はいっていた。何の変哲もない親子の写真だったという。美冬についての印象も薄く、どんなふうに写っていたかもよく覚えていないらしい。
「菅原さんは新海美冬さんのお父さんとお会いになったことはないんですか」
「私はないんです。ずっと東京ですから。新海部長は大阪本社におられたそうですね。曽我君はその頃大変世話になったといってました」
「どなたか、新海さんについて――お父さんのほうですが、よく御存じの方はいらっしゃいませんか。ちょっとお話を伺いたいんですけど」
「はあ、それは大阪にいた者で、そこそこの年齢なら、たぶん新海さんのことも知っていると思いますが」菅原の目に警戒の色が浮かんだ。「どうして新海部長のことをお尋ねになるんですか。曽我君の失踪とはあまり関係がないように思うんですが」
やはり深追いしすぎたか、と加藤は思った。彼は笑顔を作った。
「じつはこれから新海さんにも会いに行こうと思っているんですよ。それで一応予備知識を仕入れておこうと思いまして」
「ははあ……」菅原の怪訝そうな表情は消失しない。「その程度のことでしたら、新海部長のことはあまりお調べにならないほうがいいと思いますが」
「といわれますと?」
「私も曽我君から聞いただけなので、詳しいことは知らないんですが」菅原はテーブルに身を乗り出し、少し周りを気にする様子を見せた。「新海部長は、何年か前にうちで起きたトラブルの責任を取って、会社をお辞めになったということなんです」
「ははあ、トラブルですか」
「曽我君によれば、新海部長に責任はないということでしたがね。まあそれはともかく、そういう背景があるものですから、公の場では誰も新海部長については話したがらないだろうと思うわけです」
それを聞き、加藤は笑ってみせた。
「公の場だなんて大層な。私にちょっと話してくださるだけでいいんです」
すると菅原も、明らかに作り笑いとわかる顔を作った。
「加藤さんは警察官でしょ。警察相手に話すということは、公になるということじゃないですか。違いますか」
「なるほど、よくわかりました」
「そういうことなので、申し訳ありません。ほかのことなら何でも協力させていただきます」
「ありがとうございます。こちらの会計は私のほうで」加藤は伝票に手を伸ばした。
「いや、結構。この分の税金は、曽我君を探す費用に回してください」そういって伝票を奪うと、菅原はレジに向かって歩いていった。
刑事が曽我の失踪ではなく、会社のトラブルのほうに関心を持ったと感じ、菅原は少し機嫌を損ねたようだ。加藤はこっそり肩をすくめた。
喫茶店を出た後、彼は地下鉄に乗った。有楽町線で銀座一丁目まで出ると、中央通り沿いに歩きだした。間もなく右側に『桂花堂』という看板が見えた。曽我孝道が新海美冬と待ち合わせた店だ。
菅原の話によれば、曽我は六時半頃に麹町の会社を出ている。新海美冬と約束した時刻は七時。当日の曽我も、今の加藤と同じルートを辿るつもりだったと推定できる。ところが曽我は『桂花堂』に現れなかった。この単純なルートの中では、大の男を拉致するのは不可能といっていいだろう。
拉致が不可能となると、曽我自身が自分の意思で寄り道をしたことになる。何かほかに用があったのか。だが約束の時刻は迫っている。誰かに誘われたとしても同様だ。急用が突然発生したのなら、約束の相手である新海美冬に電話をするはずである。
しかし、もしその新海美冬から電話がかかってきたらどうだろう。
たとえば待ち合わせ場所を変更したいといってきたらどうか。曽我は何の疑いも抱かずに、新たに設定された場所に向かうに違いない。その場所はどこでもいい。銀座でなくても構わない。それこそ人気のない、拉致するのにもってこいの場所であってもいい。
曽我孝道の失踪を演出できるのは新海美冬しかいない、加藤はそう確信した。
ただし問題は残る。美冬が曽我をどこか別の場所に誘い出したとしても、彼女自身はそこには行けないのだ。彼女が『桂花堂』にいたことは確認されている。
共犯者がいるということか――。
だがそこまで発想を広げることには、さすがに抵抗があった。根拠もなく、ただ辻褄を合わせるためだけに「もしも」を重ねても意味はない。
それだけに加藤としては、曽我孝道と新海美冬の繋がりについて、もっと深く掘り下げたかった。単に家族写真を届けに来るだけの男を失踪させる必要など、どこにもないはずだった。
『桂花堂』を通り過ぎて少し歩くと、今度は『華屋』が見えてきた。加藤は中に入ると、一階にいるはずの曽我恭子に見つからないよう気をつけながらエスカレータに乗った。
三階売場の顔ぶれは二年前とあまり変わっていないようだ。ただしストーカーの最大の被害者と思われていた畑山彰子の姿はなかった。
異臭ガスで昏倒した桜木が、店内を見回るように歩いていた。二年前よりも幾分太ったようだが、貫禄がついたと見えなくもなかった。
加藤が近づいていくと、桜木はすぐに思い出したようだ。驚いた様子を見せながらも、品のいい笑顔を浮かべた。
「御無沙汰いたしております。その節はお世話になりました」桜木は奇麗に髪を分けた頭を下げた。
「別の用件で近くまで来たものですから、ついでといっては何ですが、その後のことを伺っておこうと思いましてね」
「そうですか。では、こちらへ」
桜木は加藤を奥のテーブルに案内してくれた。客の前で異臭事件のことなど話されたらたまらないと思ったのだろう。
加藤が尋ねたいのは新海美冬のことだけだったが、カムフラージュのために他の女性店員のことから質問していった。最近の様子はどうかとか、ストーカー被害の後遺症はないか、といった内容だ。さりげなく恋人の有無なども確認してみた。桜木によれば、おかしなことはその後何も起きていないし、女性たちも今ではすっかり忘れているのではないかということだった。畑山彰子は横浜支店に移ったらしいが、事件とは無関係の人事だという。
さりげなく新海美冬のことも質問した。辞めて独立していることは知っているが、桜木からそのことを聞かされた時には、初耳だという顔をしてみせた。
「大したものですよ、今じゃ『華屋』と業務提携をしているんですからね。顔を合わせたら、こっちが敬語を使わなきゃならない」桜木は苦笑した。
「若いのにすごいですね。まだ独身なんでしょ。恋人はいないのかな」加藤は軽口を叩き、わざと下品な笑みを作った。
すると桜木は突然真顔になり、人差し指を唇に当てた。
「彼女についてそういった話題を出すのは、ここでは御法度ですよ。他の従業員にも、どうかお尋ねにならないでください。そのことで刑事さんから質問された、などという噂が一人歩きするとまずいので」
「どういうことですか」
「刑事さんだから申し上げますが、彼女、結婚するという話があるんです。しかもその相手というのがただ者ではないんです。これはまだ一部の者しか知らないことなので、内密に願いたいのですが」そう前置きし、桜木はその相手のことを教えてくれた。
それが『華屋』の社長と聞き、加藤は愕然とした。
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タクシーは青山通りに出ていた。加藤は運転手に細かく指示し、表参道の少し手前で降りた。番地を確認し、建ち並ぶビルを見上げながら歩きだした。
シルバーグレーの建物の前で加藤は足を止めた。表に出ているプレートによれば、いくつかの会社が入っている。『BLUE SNOW』のオフィスは四階にあった。
加藤はエレベータに乗り、四階で降りた。
『BLUE SNOW』の入り口にはガラスドアが入っていた。オフィスはショールームも兼ねているらしく、陳列ケースがいくつか置いてあるのが見える。加藤は中に入っていった。ショーケースの向こうには机が並んでいて、七人の従業員が仕事をしていた。全員が若い女性だった。
「いらっしゃいませ」手前にいた髪の長い女性がにこやかに尋ねてきた。まだ二十歳前後だろう。
加藤は名刺を出した。「新海さんにお会いしたいんですが」
受付嬢は名刺に書かれている肩書きを見て、目を見開いた。
「お約束は?」
「してませんが、二年前に『華屋』で起きた事件の担当者だといってもらえればわかると思います」
彼女は少し迷った様子だが、少々お待ちください、といって奥のドアに消えた。
待っている間、加藤はそばのショーケースを眺めた。中には指輪などのアクセサリーが並んでいる。売り物というより、商品紹介用の品だろう。加藤は貴金属のことは何もわからないが、この会社の商品に特殊な技術が使われていることは、先日桜木から聞いて知っていた。
「何か御興味がおありのものでも?」近くにいた女性が尋ねてきた。
「見事なものですね」ケースの中を覗いたまま彼はいった。「こんなふうに宝石が二階建てになっている指輪なんて、初めて見たな」
「我が社の特許ですから」彼女は誇らしげにいった。
「この指輪は?」加藤は、他とは別に単体でケースに入っている指輪を指差した。それだけが雰囲気が違っている。金属部分が、全体的にややがっしりした感じなのだ。
「それは新海が最初に作ったものです。試作品とでもいいましょうか。うちの原点というべき品です」
「作った? 彼女が自分で作ったんですか」
「いえ、実際に作ったのは親しい職人さんだという話です。貴金属のプロじゃなくて、ふつうの金属加工の職人さんだったそうですが、新海がお願いして作ってもらったという話です。大変腕のいい方だったらしく、『華屋』さんでも驚かれたようです」
「へえ」
特に興味のない話のはずだが、何かが加藤の頭に引っかかった。だがその正体がわかる前に奥のドアが開いて、先程の若い女性が戻ってきた。
「このビルの地下に『カペラ』という店があります。そこでお待ちになっていてくださいとのことです」
「『カペラ』ですね。わかりました」会釈をひとつして加藤はオフィスを出た。
指定された店は喫茶店ではなくイタリアンレストランだった。彼が入っていくと黒い服の男が現れて、加藤様でしょうか、と訊いてきた。彼は驚いて頷いた。
黒服の男は彼を奥のテーブルに案内した。どうやら新海美冬が連絡しておいたようだ。
「何かお飲み物でも?」
「いや、まだ結構。灰皿がほしいな」
「かしこまりました」
煙草を半分ほど灰にしたところで新海美冬が現れた。彼女を見て加藤は、頭を下げるのを一瞬忘れた。彼女は変わっていた。グレーのスーツという地味な服装だが、華やかな空気が全身にまとわりついていた。顔つきも輝き、自信に溢れて見えた。別の場所でたまたま見かけただけならば、たぶん彼女だと気づかなかったのではないかと加藤は思った。
「お久しぶりです、加藤刑事」美冬はにっこり笑い、彼の向かい側に腰を下ろした。
「御無沙汰しております。お仕事中、突然申し訳ありません」
「大丈夫です。それよりお昼はもうお済みでしょうか。よろしければ一緒にいかがですか」美冬のアーモンド形の目が妖しく光った。加藤は目をそらした。
「いえ、少しお話を伺うだけですから。自分はコーヒーか何かを」
「じゃあカプチーノをいただきましょう」彼女は黒服の男を呼び、注文した。
この女のペースにはまっていると加藤は思った。逆にいえば、この女は自分のペースに持ち込もうとしている。それは何らかの意図があるからだ、と彼は考えた。
「大変な成功をなさってますね。驚きました」
「成功だなんて、まだまだこれからです。無謀なことをしたとおっしゃる方も少なくありませんし」
「しかし宝飾品に美容室、どちらも大成功じゃないですか」
「今のところは。でも油断はできません。どうぞ、お煙草をお吸いになってください。私は平気ですから」
「では失礼して」彼は二本目の煙草に火をつけた。ゆっくりと煙を吐いてから改めて彼女を見た。相変わらず心が引き込まれそうな目だった。「じつは、曽我孝道さんの失踪事件について捜査をしています」
美冬は目を見張った。「加藤さんがあの事件の担当に?」
「担当というわけではありませんが、少々首を突っ込むことになりました」
彼女は頷いた。
「それは幸運でした。恭子さんも強い味方を得たということですね。じゃあ、今日いらしたのはそのことで?」
「そういうことです」
「だったら食事なんかしてる場合ではなかったですね」
カプチーノが運ばれてきた。彼女はそれを一口啜った。唇の形の良さも相変わらずだ。
「新海さんは曽我さんと会う約束をされていたそうですね。あなたが御両親と写っている写真を曽我さんがお持ちだったとか」
「そうです。ただ写真を受け取るだけなら、郵送してもらえばよかったのかと、ちょっと後悔しています」
「なぜあなたが後悔を?」
「だって私と会うことになっていなければ、あの日曽我さんは真っ直ぐに帰宅されたはずです。そうなっていれば、今のようなことにはならなかったのではないかと思ってしまいます」
「曽我さんは何らかの事件に巻き込まれたとお考えですか」
「そう考えるしかないんじゃないでしょうか。警察はあまり熱心には調べてくれなかったようですけど」そういって美冬はまたカプチーノを飲んだ。
「新海さんは、曽我さんとはそれまでに面識はなかったわけですね」
「一度もございません」
「曽我さんのことをお父さんからお聞きになったことは? 部下だったわけでしょう?」
美冬はかぶりを振った。
「父は会社のことは話してくれませんでした。あまりいい思い出もないらしくて」
菅原がいっていたトラブルのことらしい。
「曽我さんの失踪について、何か心当たりはありませんか。何か気になることを曽我さんがおっしゃってたとか」
「今もいいましたように、写真の受け渡しについてお約束するまで、全く何の繋がりもなかった人なんです。ですから心当たりといわれましても……」彼女は吐息をついた。
「曽我さんはあなたを探し出すのに、ずいぶんと苦労されたようです。結果的にどのようにして、あなたの連絡先を突き止めたんでしょうか」
「私もそれは気になっていました。だからお会いした時に伺おうと思っていたんです」
美冬の口調に淀みはない。本当のことをいっているのかどうか、加藤にはわからなかった。
「待ち合わせの場所は銀座の『桂花堂』でしたね。指定したのはあなたですか」
「そうです」
「どうしてあの場所に?」
「わかりやすいと思ったからですけど、何か問題が?」
「いえ、念のために伺っただけです」
この後、当たり障りのない質問をいくつかした。元々、新海美冬から何か有益な情報を得られるとは思っていない。彼女に接触し、反応を窺うのが今日の目的だった。
適当なところで質問を打ち切り、加藤は店を出た。彼の触覚は見えない何かを捉えていたが、その輪郭さえも掴めなかった。
建物を出て、タクシーを拾う前に一度だけ振り返った。その瞬間、頭に閃いたことがあった。
腕のいい職人――。
先程引っかかった理由がわかった。あの異臭事件の際、有毒ガス発生装置の仕組みについて科技研が同様のコメントをしていたのだ。プロの金属加工屋の仕事だ、と。
彼がさらに推理を組み立てようとした時、胸元で携帯電話が鳴りだした。うんざりしながら出てみると、案の定西崎からだった。事件発生、大至急戻ってください――。
またしても、しばらくはくだらない事件に忙殺される。加藤は顔を歪め、空車タクシーに向かって手を上げていた。
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第六章
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福田に呼ばれ、事務所に入っていった。製図台には埃がうっすらとかぶっている。机の上は書類やらファイルやらが積まれたままになっていて、しばらく手を触れた形跡がなかった。伝票ファイルの上に置かれたアルミの灰皿は吸い殻で溢れ、灰がこぼれていた。
「雅さん、とりあえず、これを渡しておく」福田が俯き加減のまま茶封筒を差し出した。
雅也はそれを受け取り、中身を覗いた。一万円札が二枚と千円札が数枚入っている。
「これは?」
「今日までの日当だ」
雅也は社長の顔を見返した。給料が日割り計算になってから半年近くになる。あまりに仕事が少ないため、たった一人の従業員である雅也でさえ、毎日工場に出る必要がなくなってしまったのだ。だが、給料が支払われるのは毎月二十五日前後と決まっていた。今日は十一月十五日、いつもより十日も早い。
「工場、閉めるんですか」雅也は訊いた。
福田は肩をすくめるようにして頷いた。
「ここまで仕事がないんじゃあ、どうしようもない。雅さんには仕事のある時だけ来てもらってるけど、あんただってそれ以外の時間、遊んでるわけにはいかんだろ。こっちも、週に三、四時間機械を動かす程度のことで、こんな工場を維持していくのは大変なんだ」
雅也はため息をついた。うちと一緒だと思った。
「借金、あるんでしょ」
「それはまあな」福田は頭を掻き、事務所内を見回した。「ここはもうおしまいだ」
工場も家も手放すということらしい。
「悪いな、そんな端《はし》た金で」福田は雅也の手元にある封筒を見た。
「今月に入ってから、ろくに仕事してませんからね」
「そろそろ景気が回復してくれるかと思ったが、ここまで落ち込むとはなあ」福田は首を振った。「まだまだ悪くなるぞ、こりゃあ」
「これからどうするんですか」
「わからん。ここにいられる間はいるしかない。行くところがないからな」
雅也はかけるべき言葉が見当たらなかった。何をいっても無駄だということを、誰よりもよく知っていた。
「あんたがここへ来てからもうすぐ三年か。早いな」
「いろいろとお世話になりました」
「こっちこそ世話になった。あんたのおかげでうちは多少生きながらえた。あんたがいなきゃ、去年、こうなってた。あんたは腕がいい。探せば、職も見つかるだろう。がんばることだな」
「社長もがんばってください。それから、あれはもう手を引いたほうがいいですよ」
「あれ?」
「内職のほうです。俺にいろいろと作らせてたでしょ。何の部品か、俺がいつまでも気づかへんと思ってましたか」
福田はばつが悪そうに顔をそむけた。
「ちょっとでも寸法を間違えたら命取りです。まあ社長自身が使うことはないやろうけど、事故があった時に恨まれるのは社長ですよ」
福田は頷かなかった。苦笑とも自嘲ともとれる表情を浮かべ、首の後ろを叩いた。
工場を出た後、雅也は真っ直ぐにアパートに帰った。夕飯を食べるには時間が早すぎるからだ。服を着替え、風呂を洗った。身体を暖めてから食事に出ようと決めていた。またいつものラーメン屋だなと思った。このところ、『おかだ』には行っていない。
風呂の湯加減を見ているとドアホンが鳴った。一瞬、有子の顔が浮かんだ。
「はい」ドアの内側に立って尋ねた。
「あたし」
その声を聞き、雅也は身体を緊張させた。次にあわてて鍵を外した。薄手のコートを羽織った女が立っていた。ショートヘアで、縁の黒い眼鏡をかけている。それが美冬であると確信するのに、雅也は二、三秒を要した。
「なんや、その格好」
「ええから、入れて」美冬は素早くドアの内側に身を入れてきた。
部屋に上がると、コートを脱ぐ前にまず眼鏡を外し、かぶっていたウイッグを取り外した。セミロングの髪はネットのようなものでまとめられていた。美冬はそのネットも外し、髪をほぐすように指を動かした。押入の襖《ふすま》に映った彼女の影が揺れる。
「それ、変装か」雅也は訊いた。
「そのつもりやったけど、あんまりええことないな。もっとふつうの主婦みたいにしたほうが目立ちにくいかも。まあ、もう関係ないけど」彼女は座布団の上に座った。まだ立ったままの雅也を見上げ、にっこりと微笑んだ。「久しぶりやね」
「一か月ぶりや」
「そんなになる? ふうん」
雅也も腰を下ろし、胡座をかいた。「電話もなかった。何をしとったんや」
「ごめん。いろいろと忙しかったから」美冬は手を合わせた。「今日も、時間の隙間を縫うてやってきたんよ。何しろ大きなイベントが控えてるやろ」
雅也は横を向き、唾を飲み込んだ。相槌を打つ気にはなれなかった。
「何、どうしたの?」美冬が顔を覗き込んできた。
彼は彼女の顔を見返した。「美冬、おまえ、本気か」
「何が」
「何がて……本気であの男と結婚する気なんか。あの『華屋』の社長と」
「当たり前やないの。そんなこと、伊達や酔狂でできるかいな」
雅也は大きく息を吸い込み、美冬のほうを向いて座り直した。
「考え直す気はないんか」
「今さら何を考え直すの」
「けど美冬はあの男のことを好きでも何でもないんやろ。それやのに――」
「ちょっと待って」美冬は両掌を彼のほうに向けた。苦笑し、ふっと鼻を鳴らした。「そのことやったら前から何遍も説明してるやないの。あたしはあの男が好きなのと違う。あの男の妻という座が好きなんよ。好きなものを手に入れたいと思うのは自然なことやろ」
「そんなん……おかしい」
すると美冬は真顔に戻り、腕を組んだ。低い声でしゃべりだした。
「雅也、あんた、金のために結婚するのは動機が不純やとかいいだすんやないやろね」
再び横を向いた彼に、しょうがないなあ、と彼女は呆《あき》れたような声を出した。
「ええ歳して、結婚に理想を求めてどうするの。結婚はね、人生を変える手段なんよ。世の中で苦労してる女を見てみ。みんな旦那選びをしくじってる。真面目第一とか、子供好きとか、そんな寝ぼけたようなことを結婚の条件にしてるからや」
「好き同士が一緒になる、というのが本当の結婚と違うのか」
「好き同士やで。秋村さんはあたしのことが好きやし、あたしは秋村夫人という立場が好き。何も問題ないやろ」
「俺のいいたいのは」
「わかってる」美冬は彼の口の前に手を出した。「惚れ合ってる者同士のことやといいたいんやろ。けどな、そういう二人に結婚という形が必要か。あたしが本当に好きなのは雅也だけ。雅也もあたしのことを愛してくれてる。そうやろ?」頷く彼を見て続けた。「あたしらには結婚なんていう形式は必要ない。そんなものより、もっと強い絆で結ばれてる。あたしが結婚した後も、二人はずっと一緒や。前にもいうたやろ、あたしにとって雅也はこの世で信用できる唯一の同志。あたしも雅也にとって、そういう存在でありたい。ただし二人の関係は誰にも知られないようにする。相手が苦しい時、舞台の裏側から助けてやる。世間の目には真実は見えへん。警察にもわかれへん。それでええのと違うの?」
雅也は無精髭の伸びた顎をこすり、次に頭を掻きむしった。
「けど俺は、美冬がほかの男のものになるというのが我慢ならん」
「結婚したからというて、あの男のものになるわけやない。名字が変わるだけや。たったそれだけのことで、遺産の相続人と生命保険の受取人になれる」
「あの男に抱かれるわけやろ」雅也は呟いた。「もう何回か抱かれてることはわかってる。それがこれからも続くわけやろ、ずっと」
彼の言葉に美冬は少しうんざりしたようにため息をついた。「あほらし」
「あほらしい? 何がや」
「なあ雅也、世間の夫婦を見てみい。二年も経ったら旦那は女房の身体に飽きる。五年もしたら見向きもせえへんようになる。ちょっと金を持ってる男やったら、外に女を作ってくれる。それまでの辛抱や。大体、セックスが何やの。ただの生殖行為や。犬でも猫でもしてることや。気にすることなんかない。雅也もほかの女とどんどんしたらええ。大事なのは気持ち、心と違うんか」美冬はそういって自分の胸を叩いた。
雅也は両手を固く握りしめ、テーブルをどんと叩いた。
「俺はそこまで割り切られへん」
「お願いやから割り切って。何の武器もないあたしちが世間を向こうに回して戦うには、こういう方法しかないんよ」
雅也はゆらゆらと頭を振った。
「美冬は二人の幸せについて考えたことはないんか」
「幸せ?」意外な言葉を耳にしたというように美冬は目を丸くした。
「こんなふうにこそこそ隠れて会わんでもええ生活、贅沢はでけへんかもしれんけどいつでも一緒にいて穏やかに過ごしていく生活、というのに憧れることはないんか」
「いわゆるホームドラマみたいな家庭を持ちたいということ?」美冬の口調には揶揄《やゆ》の響きが含まれていた「残念やけど雅也、それは幻想やで」
「幻想?」
「二つの意味で、ね。一つは、そんな家庭はこの世のどこにもないということ。幸せそうに見えても、どこの夫婦にもドロドロとしたものがある。みんな仮面をかぶって、それを隠してるだけや。もう一つは、もしそんなものがあるとしても、あたしらがそれを求めるのは虫がよすぎるということ。自分らが何をしてきたか、忘れたわけやないやろ」
彼は下を向き、唇を噛んだ。胃袋のあたりに塊のようなものが生じるのを感じた。
「けど、あたしらにはあたしらの生き方がある。あたしらにふさわしい生き方がな。一時の思いに流されて、本筋を忘れたらあかん。でも――」美冬の口調が優しいものに変わった。「嬉しいで。雅也がそういう幻想を求めてくれてること自体はね。雅也の幻想の中では、あたしは雅也のかわいい奥さんなわけや」口調だけでなく、彼女の眼差しも穂やかなものになっていた。
雅也は息をつき、唇を緩めた。「美冬は強いな」
「負けたらあかんと思ってる。もっともっと強くなりたい」
「俺はあかん。美冬のええパートナーになれそうにない。おまけに職なしや」
「職なし? 工場、クビになったの?」
雅也は今日のことを話した。美冬は、なんやそういうことか、と笑った。
「何か失敗でもしてクビになったのかと思った。工場が潰れるのやったら仕方ないやないの。雅也のせいやない」
「早《は》よ、次の仕事を見つけんとな。自分の食い扶持《ぶち》ぐらいは稼がなあかん」
「お金のことなんか心配せんでもええ。あたしが何とかする。そのためのパートナーや」
「俺はヒモになる気はない」
「誰がそんなものになれというたの。雅也にはこれからもどんどん力を貸してもらわなあかん。でもその前に」彼女は持ってきた紙袋からタッパーの容器を出した。「晩御飯まだやろ。雅也に食べさせようと思って、持ってきた」
彼が見つめる中で彼女は蓋を開けた。そこに入っているものを見て、雅也は思わず身を引いた。牛の生肉だった。
「何や、これ……」彼は呻くように訊いた。
「見たらわかるやろ、牛刺や。レバーもある。タレはニンニクと生姜《しょうが》、どっちがええ?」
「片づけてくれ」雅也は手で口を押さえ、横を向いた。強烈な嘔吐感が襲ってきた。
だが美冬は片づけようとしなかった。彼の肩を掴み、ぐいと引きつけた。彼の顔の前に生肉の入った容器を突きつけた。
「食べなさい。食べなあかん。そんなことで、これからどうやって乗り切っていくの」
雅也の腹の中で胃袋が痙攣《けいれん》を起こしかけていた。口の中には胃液の味が広がっている。彼は顔をしかめた。美冬の身体を押しのけようとした。
すると彼女は、突然彼のズボンのジッパーに手をかけた。彼が呆然としている間に、ジッパーを下げ、下着をずらし、ペニスを引き出した。彼のそれは小さく縮んでいた。
「何を……」
「ええから」
美冬は手でゆっくりとしごき始めた。驚きのあまり萎縮していた雅也のペニスは、忽ち勃起した。それを確認すると、彼女は顔を近づけていった。まず舌で先を舐め、裏側を刺激し、そして唇に含んだ。
雅也は思わず声を漏らした。
彼女の口がペニスから離れた。彼女はいった。「肉を食べなさい、雅也」
「美冬、そんな……」
美冬は再びそれを口に含んだ。一定のリズムで前後に動かすと、快感が雅也の背筋に走った。彼はまた少し声を出した。
「食べるんよ、雅也。食べてる間中、あたしはこうしてる。肉が何やの、血の何が怖いの。あたしが何もかも、ええ思い出にしてあげる」そういうなり、彼女はまた奉仕を始めた。
めくるめく快感が雅也の全身を包んでいった。吐き気は収まっている。胃袋も正常だ。それでも生肉を見ると、鳥肌が立った。
彼は箸を手にした。肉を挟もうとするが、腕が動かない。つい目をそらしてしまう。するとそれを察知したかのように美冬の動きが激しくなった。萎《な》えかけていたペニスに再び血が集中していく。
雅也は肉を挟んだ。タレをたっぷりつけると、目をつぶり、口に運んでいった。
その瞬間、彼の瞼に夥《おびただ》しい血にまみれた肉の塊が現れた。
激しい吐き気と寒気、それを打ち消すような快感、それらが交互に、時には混ざり合いながら雅也の全身を襲った。
一時間近くを要して、雅也は美冬が持ってきた肉を胃袋に収めた。またそれは彼が射精に要した時間でもあった。ことが終わると彼は畳の上で仰向けになった。頭の中は真っ白になっている。
雅也が目を閉じて息を整えていると、美冬の気配がした。目を開けると彼女の顔がすぐ上にあった。彼女は彼の頬骨のあたりにキスし、そのまま唇を彼の口まで滑らせた。彼の口の中に舌がもぐりこんできた。彼は彼女の頭に手を回し、髪を撫でた。
「どう、気分は?」
「わけがわからん」
美冬は、くすっと笑った。
「それでええんや。余計なことは考えんでもええ。雅也は考えすぎや」
雅也は身体を起こした。空になったタッパーの容器を見て、自分の胸を撫でた。
「変な感じや。吐くかもしれん」
「死んでも吐いたらあかんで。吐いたら負けや」美冬は彼の股間を軽く握った。「気分が悪なったらいうて。またしてあげるから」
「大丈夫や」雅也は苦笑した。
美冬は頷き、コーヒー淹れるわ、といって立ち上がった。
「雅也に力を貸してもらわなあかん」野暮ったいデザインのマグカップでコーヒーを飲みながら美冬はいった。
「何や?」
「うん、ちょっと面倒臭いことになっててね。青江、覚えてる? 青江真一郎」
「美容師やろ。あいつがどうかしたんか」
「あいつ、何をどう勘違いしたのか知らんけど、あたしと結婚できると思ってたみたい」
「えっ?」
「ここのところ毎晩のように電話をかけてくるし、昨日なんかマンションに押し掛けてきた。部屋には入れへんかったけど、宥めるのに苦労したわ」
雅也は事情を察した。マグカップのコーヒーを一口飲んだ。
「青江、美冬が結婚することを知ったんやな」
「あたしが話したわけやないんやけど、『BLUE SNOW』で聞いたらしいわ。関係者には口止めしてあるはずやけど、人の口には戸を立てられんもんやな。まあ、いずれわかることではあるけど」
「それで青江は怒ってるわけか」
美冬は頷いた。微苦笑を浮かべた。
「かんかんや。俺を騙したとか裏切ったとか。男のヒステリーはみっともない」
「美冬にも責任があるのと違うか」雅也は敢えて感情を押し殺した口調でいった。「勘違いするように仕向けたのは美冬やないか。青江は美冬に惚れたから、引き抜きに応じたんやろ。それが突然ほかの男と結婚すると知ったら、ふつう怒るやろ」
「青江と結婚の約束なんかはしてへんで。仕事上のいいパートナーでいよう、とはいうたけどね」
「仕事上だけのパートナーやったら、寝たりはせんやろ」
「女が女の武器を使《つこ》て何が悪いの? 男かて、それは百も承知やろ」そこまでいってから、彼女は面倒臭そうに手を振った。「そんな話はどうでもええの。とにかく青江を何とかせんと。そのことを雅也に相談したかったんよ」
雅也はマルボロの箱を引き寄せ、一本抜き取った。口にくわえると素早く美冬の手が伸びてきて、使い捨てライターの火をつけた。
ありがとう、と彼はいった。
「青江はどんなことをいうてくるんや」煙を吐いてから訊いた。
「結婚をとりやめろ。やめなければ、自分にも覚悟がある。まあ、そんなところやね」
「覚悟って、どういうことや」
「そこよ。あいつは何をする気やと思う?」
「まず考えられるのは、自分と美冬との関係を結婚相手の男にばらす、ということやろな。結婚相手だけでなく、世間にもばらす、ということも考えられる」
美冬は頷いた。「それから?」
「後は結婚式そのものをぶちこわすということや。式場に乗り込んでいって暴れるとか。『卒業』のダスティン・ホフマンやな」
「ダスティン・ホフマンは暴れてへんで。花嫁をさらっただけや」そういってから美冬はため息をついた。「参ったわ。どうしたらええと思う? うちの大事な売れっ子美容師やから、痛めつけるわけにもいかんし」
身勝手な、と思ったが、雅也は口に出さなかった。
「まずあいつが今すぐにやりそうなことは、秋村に告げ口することやろな」
「秋村さんにしゃべられるぶんには別にかめへんわ」
「そうか?」
「あの人が青江のいうことなんか信用するわけないもん」
「それぐらい美冬のことを信じてるということか」雅也は口調に皮肉をこめた。
「それもあるけど」美冬はふふんと鼻を鳴らした。「色恋に関して人間というのは、自分に都合のええ話しか信用せえへんもんや。傍から見てたら騙されてるのが見え見えやのに、たちの悪い男から離れられへん女というのがおるやろ。あれなんかもその一種や」
俺もそのくちかもしれないな、と思いながら雅也は美冬を見た。しかし彼女はそこまで深い意味を込めたわけではなさそうだった。
「だから秋村さんにいわれるのはええんよ。あの人はまずあたしに真偽を確かめる。あたしはあの人の疑いを奇麗さっぱり洗い流したげるわ」自信たっぷりに彼女はいった。
「秋村への告げ口が実を結ばんとなると、今度はあちこちに吹聴して回るかもしれんな。みんながどこまで本気にするかはわからんけど、ありがたい話ではないやろ」
「大変な迷惑。秋村さんの家族や親戚の耳に入ったりしたら面倒や。何しろこっちは、末永く付き合うつもりなんやから。それともう一つ厄介なのは、青江が一部の世界では有名人ということ。カリスマ美容師がおかしなことを喚きだしたとなると、物好きなマスコミが寄ってくる。そんなことになったら結婚にケチがつくどころの騒ぎやない。『華屋』にとっても『BLUE SNOW』にとってもイメージダウンや」
「青江を黙らせなあかんな」
「せやから相談してるんよ。どうしたらええ?」美冬は甘えるように上目遣いをした。そんな表情をすると、雅也がはっとするほど妖艶に見える。無論、その効果を自覚してのことだろう。
雅也は首を振った。
「正直いうて、どうしたらええかわからんな。金で解決できる問題でもないんやろ」
「金で済んだら話が早いんやけどな」美冬はテーブルに頬杖をつき、その姿勢のまま雅也を見た。「ひとつだけ考えがあるんやけど」
「どうするんや」
美冬は目を伏せ、少し顔をしかめた。
「あんまりええ考えでもないんよ。効果的とは思うけど、実際にやるとなると、結構難しい。それに……雅也にも頼みづらい」
「何でもええからとりあえずいうてみろよ」
「うん」美冬は姿勢を正した。「ひとつのアイデアやからね。絶対にこれをやってくれと頼むつもりはないからね。雅也が嫌やったら、正直にそういってくれてええから」
「とにかく話せというてるやろ。しつこいな」
彼女は深呼吸を一つした。そしてそのアイデアをしゃべりだした。
それを聞くうちに雅也は徐々に気持ちが暗くなっていった。なるほど、たしかにいい考えとはいい難かった。実行するのも難しい。だが効果は期待できそうだった。もし実際にやったなら、青江の口を封じることはできるかもしれない。
おそらく彼女は今日来る前から、このことを計画していたのだ。相談という形を取っているが、じつは彼女の中では気持ちが固まっている。いつものことだ。
「どう?」話し終えると、美冬は窺うように彼の顔を覗き込んできた。
「きついな」雅也はいった。「気乗りせえへんアイデアや」
「やっぱりね」美冬はため息をついた。「だから、いいたくなかった」
「ほかにもうちょっとええ方法はないのかな。それと同じような効果がありそうな手は」
「たとえば?」
美冬に訊かれ、雅也は黙ってしまった。
「仕方ないね」彼女は両手で髪をかきあげた。「雅也が嫌がることは予想してた。たぶんあかんと思った。あたしも、本当は雅也にそんなことさせたくないし。何かほかの方法を考えるしかないか。けど、時間もあまりないしなあ」
「青江の奴、相当頭にきとるんか?」
「まあね。明日にでも何かやらかしそうな雰囲気」
雅也は自分の額を掻いた。気温が高いわけでもないのに、やけに汗が出る。
「それをやるしかないかな」
「でも……嫌やろ?」
「嫌やけど、ぐずぐずしてるわけにもいかんやないか。それに俺は何としてでも美冬の力になりたいし。曽我の時には手伝《てつど》うてもろたしな。あのお返しを、俺はしてへん」
「曽我のことなんかどうでもええ。もう忘れなさい」
忘れられるもんか、と雅也は思ったが、彼女の前では頷いておいた。
「それ、やるか」彼は呟いた。
「ええの?」
「やるしかないやろ。で、どの女を狙うかは決まってるのか」
「候補は何人か」
美冬の答えを聞き、案の定だ、と雅也は思った。彼女の中ではすべての青写真は出来上がっている。最初から彼に口を挟む余地などないのだ。また、彼が最終的に合意することも計算済みだ。そこまでわかっていながらも、やはり雅也は彼女の力になりたかった。
「実行はいつ?」
「早いほうがええね。今週か来週、かな。必要なものはあたしが揃える」
「工場をクビになったから、工具を買い揃えんとあかんな。けど、それは俺が何とかする」
雅也は立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二つ出した。一つを美冬の前に置き、もう一つを飲み始めた。彼女は缶ビールに手を伸ばそうとしなかった。
「あたし、もうここには来んようにするわ」
彼女の言葉に雅也はむせそうになった。彼女を凝視した。
「なんでや」
「あの加藤という刑事が気になる。用心するに越したことはないから」
「その刑事、また来たのか」
彼女はかぶりを振った。
「一回会社に来ただけ。けどあいつは何かに気づいてる。いや、気づいてるというほどではないけど、嗅ぎつけてるという感じかな。鼻のええやつや。刑事はみんな犬みたいに鼻がきくけど、中でも特別に鋭いやつがおる。あいつはそのタイプや」
ほかにもそんな刑事を知っているような美冬の口振りだった。
「そいつに俺と美冬の関係がばれたらまずいということか」
「まずいやろね。あいつは『華屋』の異臭事件でも、曽我の失踪事件でも、あたしのことを疑ってる。ただあいつがもう一歩踏み込んでこられへんのは、あたしに仲間がいることを証明でけへんからや。雅也みたいな人間のことを知ったら、腹ぺこの狂犬みたいに噛みついてきよるで」
「つまりこれから俺たちがやろうとしていることで、その刑事にまた妙な臭いを嗅ぎつけられたらまずいということか」
「あいつは嗅ぎつけるかもしれん。もしそうなったら、本気であたしの仲間を探そうとするやろ。尾行、盗聴、脅し、何でも使いよるで」
雅也はビールを飲み、口の周りについた泡をぬぐった。
「それでもう美冬はここには来られへんわけか。当分は会うこともでけへんのか」
「そう簡単には会われへんやろね。けど、何とか考える。会えるようにする」
「ほんまか」
「雅也」美冬が身体をずらし、彼の腰に抱きついてきた。「雅也と会われへんのやったら、何のために生きてるのかわかれへん。全部、二人のためにしてることや。二人が幸せになるためにがんばってるんよ」
雅也は美冬の髪を撫で、そのまま彼女の身体を包み込むようにした。彼女の鼓動が腕に伝わってきた。
「美冬」
「何?」
「俺も、本当は青江と同じ気持ちやぞ」
彼女は黙っていた。答えに窮してるのかなと雅也は思った。
やがて彼の腕の下から、わかってる、とくぐもった声が聞こえてきた。
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八時半を少し過ぎた頃、最後の客が出ていった。スタッフは後片づけを始める。いつもなら支度の終わった者から帰っていくのだが、木曜日の夜は特別だ。彼等の大半は簡単に食事を済ませた後、再びここに戻ってくる。『モン・アミ』では週に一度、スタッフの勉強会が行われる。それが木曜日の夜なのだ。ミーティングが盛り上がる時には、帰りが十二時を回ることもしばしばだ。
「悪いけど、今夜は欠席させてもらう」青江はそばにいた男性スタッフにいった。
周りの何人かが残念そうな顔をした。それを見て青江は優越感を覚える。皆、俺のテクニックを盗もうとしているのだ、人気のカリスマ美容師青江真一郎の――。
「そういうことだから、後はよろしく頼むよ」
わかりました、と男性スタッフは頷いた。
青江は自分の上着を羽織り、店のドアを開けようとした。だがその手前で床を掃除している中野《なかの》亜実《あみ》の姿が目に入った。亜実は最近雇ったスタッフだ。腕前はなかなかのものだし、勉強熱心だ。小柄で顔立ちも整っているので、客からもかわいがられている。
「亜実、おまえ今日も車か?」
「そうですけど」亜実は大きな目で瞬きした。
「いつものところに止めてるのか」
彼女はぺこりと頭を下げ、悪戯っぽく笑った。そんなしぐさも人気の秘密だ。
「気をつけろよ。いい加減に駐禁で捕まるぞ」
「気をつけます」彼女はもう一度頷いた。
亜実は駒沢《こまざわ》で母親と暮らしている。父親は現在札幌に単身赴任中らしい。兄はすでに就職して家を出ているということだ。高校を出てすぐに運転免許を取得したという亜実は、勉強会の日には父親の車を運転して出勤することが多い。しかし有料駐車場を使っているわけではなく、いつも路上駐車だ。亜実によれば、取り締まりのない穴場があるそうだが、そんなことがいつまでも続くとはかぎらない。いずれはレッカー移動されるんじゃないかと仲間うちでも話している。
青江は店を出ると、すぐそばにある月極の駐車場まで歩き、自分のBMWに乗った。現在の自宅は目黒にあるマンションだ。新築で、家賃は三十万以上する。
二年前ならこんなことは考えられなかったな、と青江は思う。人に使われているだけでは、どんなに美容師として名前が売れても、収入が劇的に伸びることはなかった。なけなしの貯金をはたいて独立したとしても、借金を返すことが先決で、生活を向上させるのは後回しになっていたはずだ。
あの時、新海美冬の誘いに乗ったのは正解だった。自分の金を出さずに独立できたし、彼女のおかげで一気に知名度も上がった。店名も青江真一郎という名も、若い女性の間では知らない者のほうが少ないのではないかと思われるほどだ。
しかし、と青江は考える。このままの状態で満足するわけにはいかない。独立できたといっても、『モン・アミ』は自分だけの店ではない。いや、誰の所有物かという話になれば、新海美冬のものでしかない。自分は『BLUE SNOW』という会社の役員にすぎない。『モン・アミ』が稼ぎ出す儲けの半分近くを得てはいるが、すべてが自分のものにならないのは、そういう仕組みになっているからだ。
収入だけの問題ではない。正真正銘自分の店、一から百まで自分が作りあげた店というものを持ちたい思いが、最近どんどん膨らんできている。
だがあの美冬がそれを容認するとは思えなかった。青江真一郎がいなくなることは『モン・アミ』の客が半減することを意味する。それは自惚れではないと青江は確信している。
彼としても美冬を裏切りたくなかった。彼女には恩があるし、何より彼女のことを愛していた。だからもし彼女と結婚できるのだとしたら、自分だけの店を持ちたいなどという思いは簡単に封印できただろう。
しかし裏切ったのは美冬のほうだった。彼女が『BLUE SNOW』の業務内容を拡張していることや、『華屋』と提携したことなどは知っていた。だがまさかその『華屋』の社長と結婚するとは夢にも思わなかった。
そのことについて問い詰めた時も、彼女は詫びる様子などなかった。
「あたしだって三十路《みそじ》に入っちゃったし、将来を考えるのは当然でしょう? それともあたしは一生結婚しちゃいけないの?」
自分とのことはどうなのか、と青江は恥を忍んで訊いてみた。すると彼女は困惑したような顔を見せた。
「あなたとあたしとはビジネスパートナーじゃない。それもとびきりうまくいっているパートナー。あたしはそういう認識だったんだけど」
君はビジネスパートナーともセックスをするのか、という質問にも、彼女は動じなかった。
「セックスするかしないかに立場なんか関係ないでしょ。男と女の問題なんだから。あの時あたしはまだ秋村さんと出会ってなかったし、あなたのことを男性として好きだった。だからああいうことになったわけ。でもその後、男女の関係は深まっていないとあたしは思っている。だってあなた、あたしにプロポーズした?」
君のことは恋人だと思っていた、と青江はいった。
「ありがとう。でも、あたしは違う。あたしにとってあなたは素晴らしいビジネスパートナー、あたしもあなたにとってそういう存在でなきゃいけないと思ってた」
こんな説明で納得できるはずがなかった。だが、どうやら自分は振られたらしい、という事実だけは受け入れねばならないようだった。要するに天秤《てんびん》にかけられたのだと青江は解釈した。もてはやされてはいるが自分は一介の美容師、かたや大手宝飾品店の社長、比べられれば勝ち目はない。
しかしあっさりと引き下がる気にはなれなかった。向こうが裏切ったのだから、こっちだって裏切る権利はある。
独立したい、と青江は表明した。三週間ほど前のことだ。二人はレストランで食事をしていた。美冬はしげしげと彼の顔を見つめ、次に首を振った。
「あなたもやっぱりふつうの人間なの? 少しうまくいくと、すぐに欲を出したくなるの? 欲は悪くないけど、もっと別の方向に持ってくれればいいのに」
「君とは公私でパートナーだと思ってた。でもビジネスだけの付き合いだというなら、僕だってビジネスに徹するしかない」
「売れれば独立したくなるタレントと同じね。でもそういうタレントの殆どが失敗していることを、あなただって知らないわけじゃないでしょう?」
「僕はタレントじゃなく美容師だ。腕で食べている」
「プラスアルファを演出しているのはあたしよ。わからないの」
「もう演出は必要ない。カリスマなんていう飾り言葉もいらない。欲しいのは、自分一人で操れる船だ」
「船ね、うまいこというわね」美冬は苦笑し、吐息をついた。「今自分が乗っている船に、どれだけすごい装備がついているかも知らないくせに」
「両方はとれないよ、美冬さん」
「えっ?」
「『華屋』の社長と美容師青江真一郎の両方を手に入れておこうっていうのは虫がよすぎますよ、といってるんだ」
「まるで、あたしが結婚しなければこんなことはいいださなかった、という口調ね」
「そのとおりだよ。君が裏切らなければこんなことをいうつもりはなかった」
美冬は肩をすくめ、やや厳しい顔つきになって彼を見つめた。心をぐらつかせる力を秘めた目だったが、彼はそらさなかった。テーブルの下で両手を握りしめていた。
考えておく、と彼女はいった。
それ以来ゆっくりと話したことはない。経理などをチェックするために美冬は時折店にやってくるが、言葉を交わすとしても、事務的なことだけだ。彼から電話を入れ、例の話はどうなっているかと催促したこともある。もう少し待ってくれ、というのが彼女の返事だった。
そして今日ようやく美冬から青江の携帯電話に連絡が入った。今夜、彼の部屋に行く、ということだった。ゆっくり話ができるのは今夜ぐらいしかないから、とも付け加えた。
どういう話になるのかな、と彼は想像した。まさか結婚を中止するはずはない。だがすんなりと独立を認めてくれるとも思えなかった。
特別ボーナスを出すとか、待遇をよくするとか、どうせその程度の提案がなされるだけだろうと彼は予想した。どんなに好条件を出されても気持ちをぐらつかせてはならないと自分にいいきかせた。
マンションに帰り、部屋で着替えていると、携帯電話が鳴った。美冬からだった。近くの喫茶店にいるから出てきてほしいという。
「部屋に来るんじゃなかったの」
「そのつもりだったけど、気が変わったの。じゃあ、待ってるから」彼女は一方的に電話を切った。
大事な時期だけに、男の部屋に上がり込むというのは気が引けたのだろう、と青江は解釈した。ここまでこけにされたのなら、いっそこっちも割り切りやすい、と思った。
喫茶店に行くと美冬は白いスーツを着て待っていた。会社から直接来たのだろう。脇には彼女が持つにはやや無骨な書類鞄が置いてあった。
「初めて会った頃のことを思い出すね。いや、初めてビジネスの話をされた時、というべきかな」椅子に座りながら青江はいった。
「あの時と同様、今夜もあなたにとっていい話を持ってきたつもりよ」
「僕にとっていい話というのは、君にとってはあまりいい話ではないはずだから、そんなに優雅な顔はしていられないと思うんだけどな」
「だから折衷案よ。お互いにとっていい着地点を見つけたの」
彼女が書類鞄を引き寄せるのを見て、やっぱり予想したとおりらしいと青江はすでにうんざりし始めていた。
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中野亜実が父親の車に戻った時には十一時過ぎになっていた。新しいデザインについて先輩スタッフからアドバイスをもらっているうちに遅くなってしまったのだ。しかしもっと遅くなることも少なくない。だから木曜日は車を借りている。父も、車というのはたまには動かしてやらないと傷むから、といってくれている。
車は旧式のアウディだ。内装、外装、ともにかなり古びていたのだが、亜実が運転するようになって、さらに傷が目立つようになった。もっとも、ちょっと当てたりこすったりという程度で、事故を起こしたことはない。
駐車違反で取り締まられていないことを確認し、亜実はほっとして乗り込んだ。こんなことを繰り返したらいずれは取り締まりに遭う、とは彼女も思っている。しかし夜遅くに駅から歩くことを考えれば、車は捨てがたい。彼女の自宅は駅から一キロ以上あるのだ。
いつもの道をいつものように運転した。勉強会の前にコンビニのおにぎりを食べただけなので空腹だった。家に帰ったらカップラーメンでも食べようと思った。
自宅のマンションが近づいたが、彼女はいったんその前を通りすぎた。駐車場は別の場所に借りている。亜実の母親は、賃料がもったいないから車を処分すればいいといつもいう。しかし父親が、いずれ自分が赴任先から戻った時、新たに駐車場を確保するのは難しいから借りておけばいい、といってくれている。
マンションから百メートルほどのところに駐車場はある。十台ほどが止められる小さなスペースだ。周りは建物で囲まれていて、街灯の光もあまり届かない。
奥から二番目がアウディの場所だった。運転をし始めた頃は、バックでそこまで入れるのに一苦労したものだが、近頃では慣れた。
切り返しをすることなくぴたりと所定の場所に止め、亜実は心の中でガッツポーズをした。エンジンを切り、荷物を持ってドアを開けた。
外に降り立ち、ドアの鍵穴にキーを差し込もうとした時、何かの気配を背後に感じた。
だが振り返る隙もなかった。強い力で身体を引きつけられたかと思うと、次の瞬間には何かで顔全体を覆われていた。恐怖よりも驚きのほうが先に全身を駆け抜けた。
悲鳴を上げようとし、彼女は息を吸い込んだ。だが声を出すことはできなかった。急速に意識が遠のいていった。
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美冬と会った翌日、青江の機嫌はいいとはいい難かった。それが顔に出ているらしく、スタッフもあまり話しかけてこない。彼は控え室でコーヒーを飲み、たて続けに煙草を吸った。たちまち室内に煙がたちこめた。
不愉快の原因はいうまでもなく美冬との話し合いにあった。どんな好条件を出されても受けないつもりだったが、彼女の出してきた提案は、ほんのわずかな報酬アップにすぎなかったのだ。話し合う以前の問題だ、と彼はいった。
「あなたは経営の細部を知らないからそんなことがいえるのよ。たしかに業績はアップしてるけど、見た目ほど収入が増えているわけではないの。今は油断できないのよ。いつ悪くなるかわからないんだかち、その時に耐えられる体力も温存しておかないと」
企業の経営者が春闘で口にしそうな台詞を聞かされ、青江はげんなりした。怒る気にもなれなかった。
小一時間話したところで彼は立ち上がった。これ以上の話し合いは時間の無駄だといった。
「わかった。じゃあ、もう一度考えてみる」
「何度考えても同じだと思うけどな」
捨て台詞を残し、美冬を置いて喫茶店を出た。
美冬らしくもない、と青江は思った。彼女なら、もっと大胆なプランを提案するかと期待していた。たとえ、いずれにせよ青江が承諾しないとしてでも、だ。それが単なる報酬アップとはどういうことか。しかも、役員報酬は一年間は変えられないから、とりあえずは臨時ボーナスで手を打てという。あんな条件を呑むと思われたこと自体、青江としては心外だった。そこまで扱いやすい男だと思われていたのかと悔しくもあった。
こうなったら意地でも出ていってやる、『モン・アミ』にいるのはあとわずかだ、と彼は決意を固めた。
「青江さん」男性スタッフが声をかけてきた。青江が煙草を灰皿の中で捻り潰している時だった。
「なんだ」
「ついさっき亜実のおかあさんから電話があって、今日、休むそうです」
「風邪か」
「いえ、それが」男性スタッフは首を傾げた。「事故だってことなんですけど」
「事故? なんだよ、いわんこっちゃない」青江は顔を歪めた。「だから車で通うのなんてやめとけっていってたんだ。俺だって疲れてる時の運転はきついんだからな」
「いえ、それが車の事故じゃないみたいなんです」
「えっ? じゃあ、なんだ」
「それがよくわからないんです。おかあさんも詳しいことはいってくれなくて。ただ、もしかしたらしばらく休ませてもらうかもしれないと……」
「ふうん。車じゃない事故って、どういうのかな」
さあ、と若い男性スタッフは首を捻った。
「まあいいや。じゃあ、亜実の分はみんなでカバーするようにいっといてくれ」
「わかりました」
交通事故でないなら一安心だと青江は思った。万一亜実が車で人をはねたりしたのだったら、そしてもしそのことが新聞記事にでもなったら、この店のイメージダウンになりかねない。そこまで考えてから青江は首を振った。馬鹿馬鹿しい。自分はもうこの店からは出ていくのだ。今さらイメージがどうなるかなんてのは関係ない。もちろん青江真一郎という名前に傷をつけるわけにはいかないが。
中野亜実の欠勤について、青江はさほど深くは考えなかった。まだ新人で、固定客がついているわけではない。かなり忙しい日なら一人欠けただけでも大変だが、今日はさほどでもなかった。
夕方になって、この店にはふさわしくない人相風体の男が二人、ガラスドアを押して入ってきた。どちらも背広の上に薄手のコートを羽織っている。四十代ぐらいの男と、それより一回りほど下に見える男だ。女性客の髪を整えながら、青江はそちらのほうを気にした。どう見ても客には見えない。
受付をしていた女性スタッフが青江のところにやってきた。
「あのう、警察の人なんですけど」彼の耳元でいった。
「けいさ……」客に聞かれるのを恐れ、彼は口を閉じた。受付カウンターに目をやる。二人の男が彼に向かって会釈してきた。
「わかった。ちょっと待っててもらってくれ。控え室で」
「はい」
青江は女性客の髪を仕上げながら、小さく首を捻った。
彼が控え室に入っていくと、二人の男は同時に立ち上がった。灰皿の上には火のついた二本の煙草があった。
「お忙しいところをすみません」年嵩《としかさ》の男がいった。
「いいえ」青江は彼等と向き合う形で腰掛けた。それを見て彼等も座った。二人は同時にそれぞれの煙草を揉み消した。
二人は玉川署の刑事だった。年嵩のほうは尾方《おがた》、若いほうは桑野《くわの》という名字だった。
「中野亜実さんを御存じですね」尾方が訊いてきた。
「うちのスタッフですが」青江は答えながら、今朝の話を思い出した。「そういえば事故で休むという連絡がおかあさんからあったようです。そのことですか」
「事故ね。なるほど」尾方は桑野と顔を見合わせた。気まずそうな表情だ。
「違うんですか」
「事故というのとはちょっと違いますな。ええと……」尾方がドアのほうを気にした。
「大丈夫です。外には聞こえないはずです」
「そうですか。ええと、じつは事故ではなく、事件なんです。中野さんは昨夜、被害に遭われましてね」
「被害? どういう被害ですか」
青江が訊くと、尾方は唇を舐め、少し身を乗り出してきた。
「このことは内密に願いたいのです。被害者のおかあさんの希望でもあります。ただ、青江さんにはお話ししておかないと、捜査ができないものですから」
「誰にもいいません」青江は頷いていった。
「そのようにお願いします。じつは昨夜中野さんは、自宅の近くの駐車場で襲われたんです。財布など、二万円ちょっとの金品が盗まれていました」
「強盗ですか」青江は心底驚いていた。思ってもみない内容だった。
「中野さんが車から降りたところを背後から襲い、気を失わせた上で犯行に及んだとみられています」
「気を失わせたって……後ろから殴られでもしたんですか」
「いえ、薬を嘆がされたようです」
「薬というとクロロホルムか何か?」
「ほう」尾方は青江の顔を見つめ直した。「よく御存じですな」
「ドラマとかでよくある手じゃないですか。クロロホルムなんですか」
「ではないか、と考えられています。あれは瞬時に気を失うので、被害者は殆どその時のことを覚えていないようです」
「彼女は元気なんですか」
「昼過ぎまで病院で横になっていたそうです。肉体的なものより、精神的なショックが大きかったようです。それにクロロホルムというやつは、気がついた後もひどく頭が痛むようです」
「そうなんですか」
青江は中野亜実の人なつっこい笑顔を思い出した。昨夜、店を出る時にもその笑顔を目にした。あの亜実がそんな被害に遭ったということに、彼は現実感を抱けずにいた。
「昨日はこちらで勉強会というものがあったそうですね」
「そうです。木曜の夜はスタッフが自分の腕を磨くためにそういうことをしています」
「中野さんが車でこちらに来られるのは、その時だけだとか」
「そのように聞いています。駅から遠いので、という理由でしたけど、まさかそんなことになるとは」青江は顔を横に振った。「もっと強くやめるようにいえばよかったな……」
「中野さんが車を使っておられることは皆さん御存じで?」
「うちの者はみんな知っていると思います」
「その勉強会が終わる時刻というのは決まっているんですか。昨日は十一時頃まで行われていたようですが」
「特に決まってはいませんが、十一時というのが一つの目安です。でももっと遅くなることも多いです。もちろん終電には間に合うようにしていますが」
「昨日は長引くこともなく、ふつうに終わったということですね」
「だと思います。僕は昨夜は参加しなかったので、詳しいことはわかりませんが」
「ははあ、青江さんはお休みでしたか」尾方が虚をつかれたような顔を見せた。
「経営者と会っていたんです。新海という人ですが」
「あっ、こちらの経営者は青江さんでは……」
「会社になっているんです。僕は役員です」
答えながら青江は、刑事の自分を見る目が一段下がったのを感じていた。なんだ雇われ店長か――そういう目になった。
刑事は新海美冬の連絡先を尋ねてきた。青江は彼女の名刺を渡した。
「この店のことは僕がすべて任されています。だから中野君のことについても、僕のほうがよくわかっているはずです。というより、新海は中野君のことなんかは知らないかもしれないな」青江はいった。せめてもの意地だった。
「わかりました。では引き続きお尋ねしますが」尾方が息を吸った。「中野さんがそういった被害に遭われたことについて、何か心当たりはありませんか」
「強盗に襲われたことについて?」
「ええ」
「そんな……あるわけないじゃないですか。いやその、車で来ているというので、駐車禁止で取り締まられるんじゃないかと心配はしていたんですが、まさかそんなことになるなんて思ってもみませんでした」
「では少し言い方を変えますと」尾方は考えを巡らせる顔をして続けた。「最近中野さんの周りで何か変わったことはありませんでしたか。たとえば店に電話がかかってきたとか、彼女のことを待ち伏せしている者がいたとか」
青江は眉間に皺を寄せた。刑事の質問の意図がすぐにはわからなかった。だが刑事たちの何かを含んでいるような顔を見ているうちに、事情が徐々に呑み込めてきた。
「えっ、まさか」
「何ですか」
「彼女は……中野君はたまたま強盗に襲われたわけじゃないんですか? そうではなくて、犯人は最初から彼女を狙って、そういうことをしたというんですか」
「それはまだ何ともいえません。流しの犯行である可能性もあります。しかしもしそうだとすると、犯人はいつ誰が帰ってくるかもわからない駐車場で、延々と待ち伏せしていたことになる。また、現場は暗く、外からでは車の中は殆ど見えないんです。にもかかわらず犯人は、中野さんが降りた直後に背後から襲っている。ということは、降りる前から乗っているのが中野さんだけだと知っていたとしか思えないのですな」
青江は尾方の顔を見返した。とても人相がいいとはいえない刑事は、その視線を受けとめるようにゆっくりと頷いた。
中野亜実がどういう駐車場に止めているのか青江は知らない。だが刑事たちの言い分は一理あると思った。亜実の車は黒のアウディだ。ふつうならば、そこから若い娘が一人で降りてくるとは考えない。
「犯人は、その駐車場を日頃よく見ていたんじゃないんですか」彼はいってみた。「それで、木曜日の夜遅くに女の子が一人で運転するアウディが帰ってくることを知っていた、とか」
「それも考えられます」尾方は頷いた。「ですから近所の聞き込みもしています。ただやはり我々としては、中野さんの行動をもう少し詳しく把握できる人間がいるところに目を向けたくなります」
遠回しな言い方だった。要するにこの『モン・アミ』の関係者に犯人がいると彼等は睨んでいるのだ。
「そういうことをする人間は、少なくとも僕の周りにはいませんね」
「あなたが気づいてないだけかもしれませんよ。最近はそう、ストーカーという人種もいますし」
「彼女は何といってるんですか」
「それがまあ」尾方は弱ったように眉を曲げた。「事情聴取をできる状態ではないんですな。おかあさんによれば、心当たりは何もないといっているらしいですが」
いつもにこにこしている亜実がそんな状態だと聞き、青江はいっそう気分が暗くなった。
「他のスタッフにも訊いてみます。でも、事件のことは話しちゃいけないわけですよね」
「それはあなたの判断にお任せします。事件のことを話さずに、いろいろと訊き出すのは困難でしょうし」
「そうですね。でも弱ったな。なんといえばいいのかな」
「中野さんに付き合っておられる男性はいたようでしたか」
「どうかな」青江は首を傾げた。「男性スタッフからも人気はあったけど、そんな話は聞いてないですね。僕が知らないだけかもしれないけど」
「よくあるんですか。スタッフ同士で付き合うということが」
「まあ、たまには。でも中野君にはそんな噂はないなあ」そういってから青江は刑事の顔を見返した。「うちのスタッフが犯人だと?」
「いえいえ」刑事は苦笑して手を振った。「そういう人がいれば、もっと詳しく中野さんのことを教えてもらえるかなと思ったわけです。何しろ、今もいいましたように、本人が落ち着いて話せない状態なのでね」
どうだか、と青江は尾方の狡猾《こうかつ》そうな笑いを眺めて思った。
「ところで、これに見覚えはありませんか」刑事が写真を出してきた。
そこに写っているのは首飾りだった。髑髏と薔薇を彫ったものだ。
青江は自分の鼓動が乱れるのを感じた。「これは?」
「見覚え、ありますか」刑事は重ねて訊いてきた。自分の質問に答えるのが先だ、とでもいうようだった。
青江の頭の中で様々な思いが瞬時にして交錯した。彼は唾を飲んだ。
「いえ」彼は答えていた。「見たことありませんが」
答えてから、それでよかったのかと不安になった。
「それが何か?」青江は訊いた。
「いえ、御存じなければ結構。忘れてください」刑事は写真を裏返した。
青江は事件について気になることがあった。それを尋ねるべきかどうか迷いながらも、口にしていた。
「あのう、お金だけなんですか」
写真をポケットに戻していた刑事が瞬きした。
「と、いわれますと?」
「財布などを盗られたんでしたよね。彼女が受けた被害はそれだけだったんでしょうか」
ああ、と尾方は頷いた。隣の若い刑事と顔を見合わせ、何かを逡巡する表情をした。
「中野さんが性的被害に遭ったかどうかを訊いておられるわけですね」
刑事が突然あけすけな表現を使ったので青江は面食らった。ええまあ、と曖昧に返事した。
「今のところ、婦女暴行にあたるかどうかは微妙な状況だと申し上げておきましょう。何もなかったわけではない。しかし直接的なことは行われなかった――まあ、こういう言い方で勘弁してください。被害者のプライバシーに関わることですし」
「あ……はあ」
質問が尽きたのか、青江に根掘り葉掘り訊かれるのを嫌ったのかは不明だが、お邪魔しましたといって刑事たちは帰っていった。
青江はしばらく控え室にいた。煙草を吸いながら、彼等から見せられた写真のことを考えていた。
髑髏と薔薇を彫った首飾り――それは彼が愛用しているものに酷似していた。
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この夜、自宅に帰った青江は、真っ先に自分のアクセサリーを確認することにした。例の首飾りがあることを確かめておきたかった。ところが、いつもそれを入れてあったはずの引き出しを探しても見当たらない。彼は最後にそれをつけた時のことを思い出そうとした。
一週間から十日ほど前だと思ったが、記憶がはっきりしない。いつも気紛れで、その日の服装やアクセサリーを決めているからだ。
頭を整理しようと思い、缶ビールを片手にソファに腰掛けた時、電話が鳴った。出てみると新海美冬だった。
「ついさっき刑事が来た。中野亜実って子のことで」
「うん」刑事たちは早くも美冬のところに行ったらしい。
「襲われたらしいわね。お金を盗られて、しかも何かされたみたいね。詳しくは話してくれなかったけど」
「こっちにも来たよ」
「わかってる。あたしはその子のことよく知らないんだけど、どういう子なの?」
「いい子だよ。熱心だし、客への態度も悪くない。こんなことになってびっくりしてる」
「ほかのスタッフには話した?」
「いや、まだだけど」
「そう。話しにくいわね。話さないほうがいいかもしれない。皆が動揺して、店の雰囲気が悪くなるといけないから」
「事件について心当たりがないかどうか皆に訊いてみてくれって、刑事からはいわれてるんだ」
「そんなのほうっておけばいいわよ。どうせ連中はスタッフにも訊いてまわるだろうから」
そうかもしれないな、と青江も思った。
「それより、変なものを刑事から見せられたんだけど」
美冬の言葉に青江はどきりとした。
「何?」
「写真よ。ペンダントの写真。髑髏と薔薇の彫り物がしてあるやつよ。どこかで見たことはないかって、刑事から訊かれたわ」
やっぱりそうかと青江は思った。刑事への自分の対応を今さらながら悔いた。
「あれと同じものを、あなた、持ってなかった?」
美冬は覚えていたのだ。彼女と会う時にも、何度かつけていったことを彼は思い出した。素敵なデザインね、と彼女から褒められたこともあった。
「持ってたでしょ?」彼が答えないので、さらに問い質してきた。
「……持ってたよ」彼は仕方なく認めた。
「やっぱり。あの写真、あなたも見せられたんじゃないの?」
「見せられた」
「何と答えたの? 同じものを持ってるって答えたの?」
「いや、見たことないって……」それについて非難されそうな気配を感じたので、彼は続けていった。「そういったほうがいいと思ったんだ。下手に同じものを持ってるって答えたら、おかしなふうに勘繰られそうでさ」
「やっぱりそう……。刑事があたしに尋ねてきたってことは、そういうことじゃないかと思ったのよ」
「美冬さんは何と?」
「見たことないって答えておいたわよ。あたしがとぼける分には問題ないと思ったから。でもあなた、正直に答えたほうがよかったわね。あの刑事たちは、きっとあちこちであの写真を見せるに違いないんだから。そのうちにあなたが持ってたってことをいいだす人間が出てくるかもしれない。そうなったら、ちょっと面倒よ」
「僕も後悔はしている」
「で、あのペンダントはあなたの手元にはあるんでしょ?」
美冬の質問は、青江の憂鬱な部分を刺激した。彼はコードレスホンを握りながら顔を歪めていた。
「どうなのよ、まだ確認してないの?」彼女はじれったそうに訊いてくる。
「いや、確認はしたんだけど」
「じゃあ、手元にあるわけね」
「それが……」口ごもった。
「ないの?」
「どこかに紛れ込んでるんだと思うんだけど」いいながらも青江は不安だった。彼はアクセサリーなどの場所はきちんと決めていて、どんなに急いでいる時でもそこにしまわないと気の済まない性格だった。
「よく探しなさいよ。あなた、それが見つからないと大変よ」
「わかってるよ。いちいちいってくれなくていい」つい語気が荒くなった。吐息をつき、ごめん、と謝った。「なんか突然のことでさ、ちょっと焦ってるんだ」
「あたしも大げさにいいすぎたかもしれないわね。別にあなたが疑われてるわけじゃないんだから、どっしり構えてればいいのかもしれない」
「もう一度よく探してみるよ」
「それがいいと思う。あとそれから、もう一つ気になることがあるんだけど」
「何だい」
「あなた、エゴイストを使ってたわよね」
「エゴイスト? シャネルの?」男性用の香水だ。
「時々使うけど」
「そうよね。やっぱり……」美冬は電話の向こうで何か考え込んだ様子だ。
「何だよ、エゴイストがどうかしたのかい」
「わからない。ただ、刑事がおかしなことを訊いたのよ。青江さんに会ったら、何かいい匂いがしたけれど、香水でも使っておられるのでしょうかって。あなた、そのことについては訊かれなかった?」
「僕には訊いてこなかったな。何だろうそれ。どういうことだろう」
「美容師はお客様のそばに近づくので、人によっては体臭を消すためにそういうものを使っている者もいますから、青江もそうじゃないですかと答えておいたけど、なんだか気になるのよね。刑事は世間話風に訊いてきたんだけど、何か目的があったのかもしれない」
今日やってきた刑事たちの顔を青江は思い返した。何の疑いも持っていない顔だったが、じつはいろいろと観察していたのだろうか。
「ペンダント、見つかったら連絡をちょうだい」
「うん、心配をかけて申し訳ない」昨日は捨て台詞を残して美冬の前から立ち去った青江だが、今は彼女の仲間意識に感謝していた。
電話を切った後、彼は再びペンダントを探し始めた。思いつくところをすべて当たってみたが、やはり見つからなかった。
それから三日が過ぎた。中野亜実はまだ店に出てこない。
「亜実、どうなってるんだろうな。家から何か連絡はないか」青江はそばにいた鶴見《つるみ》という男性スタッフに訊いた。
「何もないみたいですけど」鶴見は首を振った。
「しばらく休むのかな。もしそういうことなら、こっちとしても対応を考えなきゃならないし……困ったな」
「昨日、サトミが様子を見に行ったみたいですけど」
「鶴見君っ」開店前の準備をしていたサトミが、厳しい目で鶴見を睨んだ。サトミは一年ほど前から働き始めている。ほかの店で三年ほど働いた経験を持っている。
「そうなのか」青江はサトミを見た。
彼女は不承不承といった感じで頷いた。亜実に会いに行ったことをしゃべられたくなかったようだ。
「亜実のやつ、どうしてた?」
「どうって、別に……」サトミは俯いている。青江と目を合わせようとしない。
「元気そうだったか」
サトミは答えない。首を小さく捻っただけだ。
「何だ、亜実に会ったんじゃないのか。彼女の様子を見に行ったんだろ」
「青江さん、彼女に何があったか知ってるんでしょ?」サトミが上目遣いに彼を見た。
青江はちょっと躊躇ったが、頷いた。「知ってるよ」
「だったら、彼女が元気なわけないってこともわかるんじゃないですか」
「そりゃあそうだけど」青江は言葉に詰まった。気がつくと、周りのスタッフが彼を見つめているのだった。
「亜実、当分無理だと思います」それだけいうとサトミは青江の前から立ち去った。それが合図のように、ほかの者もそれぞれの仕事を再開した。青江に話しかけてくる者はいなかった。
スタッフの様子がおかしいことには昨日から気づいていた。いつもの明るい雰囲気がすっかり消えている。誰もが口数が少なく、胸に何かを秘めているような気配があるのだ。亜実の身に何が起こったのかを知ったのだなと青江は察していた。刑事から何か訊かれたのかもしれない。
あのペンダントのことだろうか、と青江は考えた。スタッフの誰かが、あれと同じ物を青江が持っていることを思い出し、事件と結びつけているのだろうか。
この日、店を終わる頃になって青江の携帯電話が鳴った。刑事の尾方からだった。これから会いたいので、青江のマンションの前で待っているという。不審に思いながらも彼は承諾した。
「何度も申し訳ありません」尾方が丁寧に頭を下げた。あまりに丁寧過ぎるので、腹に一物あることをわざと示しているのかなと青江は感じた。
刑事たちは話をする場所を決めているようだった。黙ってついていくと、そこは近所の喫茶店だった。数日前、美冬と会った店だ。偶然なのかどうかはわからなかった。
「以前お会いした時、青江さんは一つ何か勘違いをなさったんじゃありませんか。思い違いというか早とちりというか」コーヒーを三つ注文した後で尾方が切り出した。
「何のことですか」
「これですよ」刑事が出してきたものを見て、やっぱり、と青江は思った。例のペンダントの写真だった。
「そのことですか。それについては僕も御説明しなきゃならないと思っていたんです」
「といわれますと、やはり見覚えのある品ということですか」
「それと同じ物を持っていたんです。あの時は、つい見たことがないといってしまったんですけど」
「ほほう。どうしてそんな嘘を?」嘘、という部分を刑事は強調した。
「僕がそれと同じ物を持っていること自体は事件と関係がないと思ったものですから、何といいますか、刑事さんたちに紛らわしい思いをさせないほうがいいと……」
「気をきかせてくださったわけだ」
「いや、まあ、そういうわけでもないんですが」冷や汗が出た。青江はポケットからハンカチを出した。
コーヒーが運ばれてきた。青江はすぐに口をつけた。喉が渇いていた。
「あの後、何人かの人から話を聞きましてね。その中にはおたくで働いている方もいます。で、そういった人たちの中に、これと同じ首飾りをあなたがつけていたのを見た、という人がいたんです。それは一人ではありませんでした」
「うちのスタッフなら覚えているかもしれません」青江は小声になっていた。
「ふむ、是非ともあなた御自身の口から、まず話していただきたかったものですな。そうすれば、我々の手間も省けたわけですし」
「すみません。正直なところ、妙な誤解を受けたくありませんでした」
「妙な誤解、とは何ですか」
「それは――」青江は刑事の顔を見返し、どきりとした。彼等の口元は緩んでいたが、目つきには冷酷さが宿っていた。「そのペンダントが事件に関わりがあるのでは、と思ったからです。だからそれと同じ物を持っているといったら、何か疑われるのではと……」
「おっしゃるとおりですよ」刑事はいった。「事件に大いに関係があるとみられています。この際だからお話ししておきましょう。中野亜実さんが襲われた現場に落ちていたんです。鎖が切れた状態でね。しかし、だからといって、すぐに犯人が落としていった物だと考えるほど我々は単純ではありません。でもあなたが、これと全く同じ物を持っていながら、そのことを隠していたとなると、ちょっと違ってきます」
「待ってください」青江は目を剥いていた。「僕は本当に何の関係もないんです。ペンダントのことを黙っていたのは謝ります。でもそれだけです。たまたま同じ物を持っていたにすぎません」
尾方は相変わらず冷え切った目つきで彼を見つめた。コーヒーを一口飲んだ。
「たまたま、ねえ」
「たまたまです」青江は繰り返した。
「では申し訳ないのですが、これからあなたの部屋にお邪魔してもよろしいですか」
「えっ……」
「見せていただきたいんですよ」刑事はにやりと笑った。「そのペンダントをね」
全身の血がすっと引くのを青江は感じた。
「いや、それが……」彼は髪に指を突っ込み、頭を掻いた。「この間から探しているんですが、どうやらなくしたみたいなんです」
「なくした?」尾方が目を見開いた。隣の若い刑事は下唇を噛んでいる。
「いや、その、もっとよく探せば見つかるかもしれないのですが」
「とりあえず現在手元にはない、ということですか」
「手元にはって……部屋のどこかにはあると思うんですが」
「結構」尾方が隣の刑事に何か目配せした。若い刑事は手帳に何か書き込んだ。何が書かれているのか青江はひどく気になった。
「事件の起きた夜、あなたはお店の勉強会には出席されなかったんでしたね」尾方が訊いてきた。
「ええ、前にもいいましたように、新海と会っていました」
「新海さんにも確認しました。十時から四、五十分話したということでしたが、それに間違いはありませんね」
「そんなものだったと思います」
「新海さんとはこの店でお会いになったそうですね」
「そうです」
やはり刑事たちが自分をこの店に連れてきたのは単なる偶然ではなかったのだなと青江は思った。
尾方は店内をぐるりと見回した。
「新海さんと会った後はどうされましたか」
「もちろん自分の部屋に帰りました。すぐそこですから」
「部屋にお戻りになった後は?」
「後はって……何をしてたのかってことですか」
「そうです」刑事は頷く。言葉遣いは丁寧だが、高圧的な雰囲気が滲み出ていた。
「何もしてませんよ。何か食べて、ビールを飲んで、それから眠ったと思います。テレビを見てたかもしれませんが」
「どういったテレビ番組ですか」
「えっ……」青江は途方に暮れた。「そんなの覚えてませんよ。じっくり見ていたわけじゃないから。どうしてそんなことをお訊きになるんですか。まるでアリバイを調べられてるみたいだ」
そういうわけではない、と刑事はいわなかった。セブンスターの箱を出してきて、一本くわえると、使い捨てライターで火をつけた。やけにゆったりとした動作だった。そのリズムのまま、煙を吐き出した。
「中野亜実さんが被害に遭った駒沢までは、ここからならどれぐらいで行けますかね。車を使えば二十分、いや十五分、もっと短いかな」
「ちょっと待ってください。あなた方は僕を疑っているんですか。そりゃあ、僕が持ってたペンダントと同じ物が現場に落ちてたってことなら、多少は疑われても仕方ないかもしれませんが、僕がそんなことをするはずないじゃないですか」
「誰でもいうんですよ、そんなふうにね」若い刑事が憎々しげにいい放った。
「黙ってろ」尾方が窘《たしな》めてから青江を見つめた。「容疑者を絞り込んでいくのが我々の仕事なんですよ。事件が起きた直後は、この世の人間すべてが容疑者です。世界中の人間を疑っている。信じられるのは自分だけです。そこから物証なり状況証拠なりで、多くの人間の容疑を晴らしていきます。そういう意味では青江さん、あなたのことは最初から疑っていた、ということになります。同様にあなたの店のスタッフ全員のことも疑っています。ただ、ほかの人たちよりもあなたに対する疑念が濃いのは、今おっしゃったようにペンダントの件があるからです。だからあなたの名前を容疑者リストから外すには、ほかの人たちよりも幾分強い理由が必要なんです。いやもう、まったく、嫌な仕事ですよ」
「僕がどうして中野君を襲わなきゃいけないんですか。盗まれたのは二万円でしたっけ。そんな端た金のためにそんなことをする理由がないでしょ」
「金を盗んだのはカムフラージュでしょ」尾方はいった。「犯人の狙いは別にあった。目的は中野亜実さんの肉体です。しかし金銭を奪うことで、流しの犯行に見せかけられると思った。我々はそう見ています」
「僕は中野君に関心なんかない」
「それは他人にはわからないことです。ただ、彼女を気に入っておられたのは事実でしょう? なぜなら彼女を面接して、採用を決定したのはあなたなんだから」
「僕が気に入ったのは彼女の人柄や仕事ぶりであって、女性として興味を持ったからじゃない」
「だからそれは他人にはわからない、あなただけにしかわからないことだといってるじゃないですか。ところで青江さん、今日は香水をつけておられないのですか」
「香水?」青江は美冬から聞いた話を思い出した。「それがどうかしましたか」
「あなたはいつもつけておられるそうじゃないですか。この間、我々がお店にお邪魔した時も、いい匂いをふりまいておられた。ええと、何という銘柄だったかな」隣の刑事に尋ねた。
「エゴイスト」
「そうそう、エゴイストだ。シャネルの製品だそうですね。男性用のそういうものがあるということを、この歳になって初めて知りましたよ」
「それがどうかしたんですか」青江は苛立ってきた。
「第二の遺留品です」刑事はいった。「いずれわかることですから、お話ししてもいいでしょう。犯人は香水をつけていたようなんです」
亜実が証言したのだなと青江は察した。
「だから何ですか。香水をつけている男性なんて、いっぱいいます。エゴイストだって珍しいものじゃない」そう答えながらも青江の声は震えていた。
「まあいいです。遺留品はそれだけじゃない。ほかにもいろいろあります。現場で採取された毛髪だとか、車についていた指紋とかね。それらについてもおいおいわかってくるでしょう。最後にもう一度お尋ねしますが、例のペンダント、今は持っておられないわけですね。では最後にそれをつけたのはいつですか」
「十日ぐらい前だと思いますが、はっきりとは……」
「そうですか。もし見つかったら連絡してください。いうまでもないことだと思いますが、あなたにとって非常に重要なことなのでね」
尾方は隣の刑事に声をかけ、立ち上がった。青江が伝票に手を伸ばしたが、それより先に尾方が奪った。
「これはこちらで」にやりと笑った。容疑者に奢ってもらうわけにはいかないとその目は語っていた。
青江は部屋に戻っても、しばらく何も考えられなかった。身に覚えのないことなのに、何かに追い詰められているような気がした。中野亜実の顔が頭に浮かぶ。彼女は青江を犯人だと疑っているのかもしれない。そして彼女から話を聞いたサトミがそれを皆に伝え、スタッフ全員が青江を白い目で見ているのかもしれない。
「冗談じゃない」
思わずそう呟いた時、電話が鳴った。
「もしもし、青江ですが」
「あたしよ」新海美冬だった。彼女の声を聞き、彼はなぜかほっとした。「ペンダント、見つかった?」
「見つからないんだ。それで、おかしなことになってきた」
青江は刑事とのやりとりを詳しく説明した。頼れるのは彼女しかいなかった。
「どうしてそんなことになっちゃうわけ?」美冬の声は憤っていた。
「わけがわかんないよ。ペンダントといいエゴイストといい、なんでまたそんな偶然が重なるんだ」
「それ、偶然じゃないんじゃないの。もちろん、だからといってあなたが犯人だという意味じゃないわよ」
美冬の言葉に、青江は一瞬絶句した。思いもよらぬことをいわれたからではなく、彼自身も薄々感じていたことだったからだ。
「あなた、誰かにはめられたんじゃない? あなたを犯人に仕立てあげようとして、誰かがわざとペンダントを落としたり、同じ香水をつけたっていうことは考えられない?」
「そのことは僕もちょっと考えた」
「あり得ないかしら」
「わからない。でも誰がそんなことを?」
「店の人間でないことはたしかね。あなたが捕まったら店の存続が危うくなる。そうなれば自分が職を失うことになるもの」
「じゃあ誰がそんなことを?」
青江の問いかけに美冬は黙り込んだ。考えているのではなく、発言を躊躇しているように彼には感じられた。
「あなた、目立ちすぎたかもしれないわね」
「えっ、どういうこと?」
「カリスマ美容師青江真一郎といえば、今や下手なタレントよりも知名度が高い。そんな状況を、誰もが喜んで見ていると思う? 美容業界には、何とかして足を引っ張ってやろうと思っている人間も少なくないんじゃないかな」
「だからって、ここまでやるかな」
「あなたは自分の置かれている状況がよく見えてないのよ。だから独立したいなんていう見当はずれな夢を見たりする」
青江はコードレスホンを握りしめたまま顔を歪めた。
「今はそんな話、したくない」
「そうね、そんな場合じゃないわね。とにかくあたしは、これは誰かの仕掛けた罠だと思う。それにあなたは見事に引っかかったってわけ」
青江は反論が思い浮かばなかった。そう考えたほうが、不幸な偶然が重なったと考えるよりも合点がいく。
「どうすればいいかな」
「一番いいのは例のペンダントを見つけることだけど、たぶん不可能ね。現場に落ちていたのはあなたのペンダントよ。あなたの部屋から盗み出して、わざと落としたのよ」
「この部屋から……」電話を耳に当てたまま彼は室内を見渡した。侵入された形跡などなかったが、目的がペンダントだけならば、部屋を荒らすまでもなかっただろう。
「三日待って」美冬がいった。「三日間で何とか手を打ってみる。あなたはその間辛いだろうけど、店を休んだりしないで、毅然とした態度を保つこと。わかった?」
「わかったけど、手を打つって、一体どんなふうに?」
「それはあたしに任せて。それから三日間は出歩かないこと。なるべく部屋にいなさい。あたしとのやりとりは、絶対に人にしゃべっちゃだめよ」
「わかった」
「じゃあ、三日後の夜に電話する」そういって彼女は電話を切った。
コードレスホンを置き、青江はため息をついた。独立の件があるので、今は美冬の世話になりたくはなかった。だが今の事態をうまく収拾する自信もない。手を打つといったが、どんな手段があるのだろう。青江にはまるで思いつかなかった。
三日後の夜、美冬から電話がかかってきた。
「『シルキー』という店を覚えてる?」
「六本木通りにある?」
「そう、欧風料理の店。二か月ほど前に行ったわよね。あれから行った?」
「いや、行ったのはあの時だけだ」
「よかった。じゃあそれでいい。あたしのいうとおりにするのよ。まず、明日、あの店に行きなさい。開店は午後五時だったと思う。なるべく開店直後に行くのよ。そうして店員に――」
美冬の指示は難しいものではなかった。しかしそれを聞き、青江は愕然としていた。彼は彼女に対して山のように質問があった。だが彼女はそれをさせなかった。
「余計なことは考えなくていいの。全部手を打ってあるから心配しないで。わかった」
わかった、と彼としては答えるしかなかった。
翌日、彼はいわれたとおり、六本木通りの『シルキー』を訪ねた。ビルの三階にある、アンティーク調の内装が施された店だった。
黒い服に身を包んだ、痩せて頬骨の張った男が近寄ってきた。「お一人様でしょうか」
「いえ、あの、客ではなく」彼は手を振った。「二週間ほど前にこの店に来た者ですが、どうやらその時に忘れ物をしたようなんです。ペンダントなんですが」
黒服の男は何か思い当たるような顔をした。
「お連れの女性がつけておられたんでしょうか」
「いえ、僕がつけていたんです」
「どういったものでしょうか」
「銀製のペンダントで飾りがついています。髑髏と薔薇の彫り物がしてあるものです」
「髑髏と薔薇」黒服の男は復唱してから、少々お待ちください、といって奥に消えた。
待っている間、青江は気が気でなかった。手は打ってあると美冬はいったが、本当にそんなことが可能なのだろうか。この店と彼女とはどういう繋がりがあるのだろう。しかし彼女は青江に、店では絶対に余計なことを訊いたりしないように、と厳しく釘を刺した。
黒服の男が戻ってきた。「こちらでしょうか」
差し出されたものを見て、青江は思わず目を見張った。まさにあの飾りだった。髑髏と薔薇だ。
「これです、間違いありません」
「では申し訳ありませんが、こちらにお名前とご連絡先をお書きいただけますか」
出された書類に必要事項を書き込みながら、あの女はやっぱりすごい、と彼は思った。
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「このペンダントですよ、間違いありません」
尾方が差し出した写真を見て、小川《おがわ》はぶっきらぼうに答えた。面倒な話は早く切り上げたい様子だった。
玉川署の尾方は、後輩の桑野と共に『シルキー』を訪ねていた。彼等の応対に当たったのは小川というマネージャーだ。忙しい時間帯にやってきた、客でもない人間に対し、小川は無愛想な顔を隠そうとしなかった。
「来たのは青江さんに間違いないですね」
「そういうお名前だったと思いますが……ちょっと失礼」
小川は一旦奥に消えてから、再び現れた。一枚の書類を持っていた。
「そうですね。青江真一郎様、ですね。ここにお名前とご連絡先を書いていただきました」
尾方はその書類を確認した。たしかに青江の名前がある。
「青江さんがこちらにペンダントを忘れていったのはいつですか」尾方は訊いた。
「二週間ほど前だったと思います。床に落ちていたのをほかの従業員が見つけたんです」
「その従業員の方というのは?」
「吉岡《よしおか》という者です」
「今、いらっしゃいますか。できたらお話を伺いたいんですが」
小川の顔が一層曇った。「今すぐですか」
「お願いします」尾方は深々と頭を下げた。隣で桑野もそれに倣う。
小川はため息をつき、近くにいたウェイターに吉岡を呼ぶよう指示した。
「一体何があったんですか。あのペンダントがどうかしたんですか」小川がうんざりしたように訊いてきた。
いやちょっと、と尾方は言葉を濁す。それがさらに気に障ったらしく、小川は口元を歪めた。
若いウェイターがやってきた。二十歳そこそこといったところだ。
「彼が吉岡です。私はもういいですか」小川が訊いた。
「すみません、もう少しお尋ねしたいことがあるので」尾方は小川に向かって手刀を切ってから吉岡に視線を移した。「このペンダントを見つけたのはあなたですか」例の写真を見せた。
「そうです」吉岡は頷いた。
「見つけたのはいつですか。できれば正確な日時が知りたいんですが」
「いつだったかな」吉岡は頭を掻き、そばのレジカウンターの上を見た。彼が覗き込んでいるのはカレンダーだった。「たぶん、十一月十八日か十九日だったと思います」
「床に落ちていたということですが、落とし主はわからなかったんですか」
「それは無理です」横から小川が口を挟んだ。「一日にたくさんのお客様がお見えになりますから。テーブルにあったのなら、その前のお客様のものだと見当がつきますが」
「閉店後、掃除をしていて見つけたんです」吉岡がいった。
「先月の十八日か十九日とおっしゃいましたよね」
「ええ」
吉岡が頷くのを見て、尾方は小川のほうを向いた。
「そのどちらかの日に青江さんがこの店に来られたかどうか、覚えておられますか」
小川は困惑の色を浮かべた。
「毎日たくさんのお客様がお見えになりますが、お顔をすべて記憶しているわけではありません」
「じゃあ予約した人の名前はどうです。こういう店は予約をするのがふつうなんでしょ」
「はあそれは……御予約をいただいた方のお名前なら、遡って調べられますが」
「すみませんが、調べていただけますか」
「今すぐですか」小川が嫌な顔をする。
お願いします、と尾方は頭を下げた。
少々お待ちを、といって小川はまた奥に下がった。その間に尾方は吉岡に質問した。
「青江真一郎という名前を御存じないですか。カリスマ美容師と呼ばれているんですが」
「青江……ああ、聞いたことありますね」
「ペンダントを落とした青江さんというのは、その青江真一郎なんですよ」
「へえ、そうなんですか」吉岡はあまり驚いた様子ではなかった。
「そういった有名人が来たとなれば、皆さんの間で話題になると思うのですが」
尾方の言葉に若いウェイターは苦笑した。
「うちには芸能人の方とかもしょっちゅういらっしゃいますから、いちいち騒いだりしません。それにカリスマ美容師といったって、顔までは知らないし」
軽く一蹴され、尾方は落胆した。マスコミに惑わされているのは自分たちのほうかもしれないと思った。
小川がファイルを持って戻ってきた。
「青江さんのお名前では御予約はいただいておりません。お連れの方が予約されたのではないでしょうか」
「ちょっと見せていただけますか」小川の返事を待たずに尾方はファイルを奪い取った。ずらりと並んだ名前に目を走らせていく。やがて彼は新海という名字を見つけていた。
尾方はそこを指して小川に訊いた。「このお客さんのことは覚えておられますか」
小川はちらりと見ただけで首を振った。
「ですから、たくさんのお客様がお見えになりますから」
「つまりこの人は常連ではない、ということですか」
「そうかもしれませんね」小川の回答は曖昧だった。
礼をいって店を出た。通りに立ち、地下鉄の駅に向かいながら尾方は舌打ちをした。
「青江のセンはないのかねえ。だけど妙だよな。現場に落ちてたのと同じペンダントを、たまたま持ってたなんてことがあるか? 別に流行の品ってわけでもないのによ」
「でも現に見つかったといってるわけですから」
「そうだけどよ」
今日の昼間、青江から連絡があった。髑髏と薔薇のペンダントが見つかったというのだ。尾方たちがあわてて『モン・アミ』に行ってみると、勝ち誇ったような顔で青江はペンダントを取り出した。二週間ほど前に行った六本木の『シルキー』で落としたというのだった。
二週間前に落としたのなら、事件後にあわてて購入したということはあり得ない。尾方たちは早速、青江の供述の裏をとるために『シルキー』に来たわけだが、どうやら彼の言葉に嘘はないようだ。実際、彼は新海美冬と行ったのだと話している。
「まさか全員が口裏を合わせてるんじゃないだろうな」尾方は思いつきを口にした。
「口裏って?」
「あのレストランの連中だよ。それから新海だ。みんなで青江を庇《かば》おうとして、どっかから買ってきたペンダントを、二週間前に落ちてたものってことにしてるんじゃないか」
「まさか、いくらなんでも」
「わからんぜ。この不景気じゃ、金を積まれりゃ人間は嘘の一つや二つは簡単につく。青江にその力はなくても、新海ならできるんじゃないか」
「考えすぎですよ」
「そうかな」地下鉄の階段を下りる前に尾方は後ろを振り返った。「どっちにしても、青江を追う理由はなくなったな。このヤマはきっとお宮入りだぜ。そんな気がする」
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「おかしなことを尋ねてましたね。何ですか、あれは」吉岡は小川に訊いた。
「刑事だよ。何の事件だか知らないけど、ああいう見てくれの悪い人種にうろうろされると店のイメージに関わる。全く営業妨害だよ」
「あのペンダント、何か問題あるんですか」
「あるんだろうね。あの口振りからすると、うちで見つかったってのが気に入らないみたいだな。青江さんっていう人が嘘をついてるんじゃないかと疑ってる様子だった」
「青江さんって人、僕は知らないな」
「俺も知らんよ。だけど、ペンダントを取りに来たのは事実だし、そのペンダントが二週間前に落ちていたのも事実だ」
「ええ、僕が見つけたんですから、それは保証します」吉岡は大きく頷いた。
「まあ、いいさ。諦めたみたいだから、もう来ないだろう。持ち場に戻ってくれ」
はい、と返事をして吉岡は立ち去った。小川は手元のファイルを見てため息をついた。
新海という女性客のことを、彼はうっすらと覚えていた。とびきりの美人で、女優かと思ったからだ。その時、連れがいたことも記憶にある。男性だった。
しかしその男が昨日やってきた青江だったかどうかは、よく覚えていない。もう少し長身だったように思うのだが、記憶違いかもしれない。
まあいいさ、と彼は思った。うちには関係のないことだ。
入り口のドアが開き、カップル客が入ってきた。小川はプロフェッショナルの笑顔を作り、本来の仕事に戻ることにした。
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ドン・ペリニヨンの入ったグラスを合わせた。軽い金属音を耳に残したまま、青江はシャンペンを喉に流し込んだ。
「まずは一安心ね」向かい側の席で美冬が微笑んだ。
すぐ横の窓からはレインボーブリッジが見える。ここ何日間か、胸に溜まっていたものがすっきりと取れ、青江にとっては最高の夜となった。
「本当に助かったよ。これ以上刑事につきまとわれたら、ノイローゼになってしまうところだった。店のスタッフの誤解も解けたみたいで、今日はみんな明るかったし」
「それは何より。あなたの信用を取り戻さないことには、『モン・アミ』はやっていけないものね」
「あれから刑事は何もいってこないから、たぶん疑わしいものは何も出てこないんだろうね。うまくいったよ」
「だからいったでしょ、あたしに任せてって。あたしがすることは、いつも完璧なの」そういって彼女もシャンペンを口に含んだ。
青江はグラスをテーブルに置いた。深呼吸を一つした。
「今までもそう思ってたけど、今回、改めて思い知ったよ。美冬さんはすごい」
「見直した?」
「見直すだなんて、そんな……」彼は唇を舐めた。「正直いうと、半信半疑だったんだ。手を打つといってくれたけど、どんなやり方があるのか、僕にはさっぱりわからなかった。例のペンダントをどこかで入手したとしても、それで警察が納得するとも思えなかったから。だけど二週間前にレストランで落としてたってことなら、刑事たちも疑いようがない。見事だと思ったよ」
「まあ、いつも使える手ではないけどね」そういってから彼女は笑った。「もっとも、こんなことはこれっきりにしてほしいけど」
青江も頬を緩めた。しかしすぐに真顔になり、少し身を乗り出した。
「あの『シルキー』って店には、どれぐらい渡したんだい?」
美冬は顎を引き、上目遣いをした。
「そんなこと訊いてどうするの? どうでもいいことじゃない」
「気になるんだよ。嘘の証言を刑事相手にさせるわけだから、生半可な条件じゃ承知してくれないだろ」
すると彼女はいったん目を伏せてから、改めて彼を見つめた。
「そんな大事なこと、お金なんかでどうこうしようとしても無駄よ。かえって危険だったりする」
「お金じゃないなら……」
「人を動かすには、いろいろな方法があるのよ。お金を使うのは最低のやり方。お金で動く人間のことは信用しちゃいけない」
「今回はどういう手を使ったのか、知りたいな」
「そのうちにね」
最初の料理が運ばれてきた。ウニとエビを使ったオードブルだ。おいしそう、といって美冬はフォークを手にした。青江もそれに倣ったが、料理に手をつける前に彼女を見た。彼女はじっくり味わうように瞼を閉じている。
この女性は底知れぬ力を持っているのかもしれない、と青江は思った。刑事事件の重要な証拠に関する情報を、力ずくでねじ曲げてしまったのだ。
「どうしたの、食べないの?」彼女が訊いてきた。
「あっ、いや、食べるよ」エビを口に入れた。「うん、おいしい」
「でも油断はできないわよ」美冬はいった。「今度のことは、明らかにあなたを陥れるための罠よ。これで敵が諦めるとはかぎらない。次は何をしてくるか、予想できないんだから」
「それは……わかってる」青江はフォークを置いた。「あのさ、美冬さん」
「何?」
「独立したいって前からいってたけど、あれはしばらく保留にしておくよ。いや、とりあえず撤回ってことにしておく。僕はちょっとこの世界を舐めすぎてたのかもしれない。まだまだ美冬さんの力に頼らなきゃいけないみたいだ。それに今回みたいな迷惑をかけて、ピンチが過ぎたらはいさようならっていうのは、虫がよすぎると思う」
美冬が、ふふんと鼻を鳴らした。
「船がほしいんじゃなかったの? 自分で自由に舵《かじ》を取れる船が」
「あれはもっと先の夢ってことにしておく。僕はまだまだ船長にはなれない」
「本当にそれでいいのね」
「美冬さんが、あんたなんかもういらないっていうんなら、話は別だけどさ」
彼がいうと美冬は片方の眉だけをぴくりと動かした。そして傍らのグラスを手にした。
「もう一度、乾杯したほうがよさそうね」
青江はあてて自分のグラスを持った。
かちん、と二つのグラスの重なる音がした。
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第七章
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入ってきたのは二十代前半と思われるカップルだった。どちらも髪を茶色に染めていた。娘のほうはショートヘアだが、男は肩まで伸ばしている。おまけに髭までうっすらと生やしていた。
表のショーウインドウをずいぶん長い間眺めていたから、脈はありそうだと睨んでいた。しかしあまり期待はできない。せいぜい一、二万のデザインリングを買う程度だろう。
「いらっしゃい」それでも彼は愛想笑いを若い二人に向けた。
「表に置いてある、赤い石の入ったネックレス、見せてくれます?」娘が訊いてきた。
「赤い石? どれかな」
「赤い石が入ってて、それを小さな蛇が取り巻いてるやつ」
「ああ」彼は内側からガラス扉を開け、品物に手を伸ばした。それを娘の前に置く。「これですか」
「そうそう。これかわいいね」
「いいでしょう。メノウですよ」
「ふうん」
娘は中央の石にはあまり関心がない様子だ。もっと詳しく知りたそうなら、これが人工着色されたものであることを教えるつもりだったが、彼はその気をなくした。娘は石を囲んでいる小さな蛇の飾りが気に入ったらしい。恋人らしき男は、彼女が早く買い物を終えてくれたら何でもいいとばかりに、手持ち無沙汰にしている。
「これ、この値段のままなの?」品物を手にしたまま娘が訊いてきた。最近の若者は値切ることに抵抗を示さない。この店に来てから、彼はそれを痛感した。以前にいたところでは実感できなかったことだ。
もちろん値引きは可能だった。それを踏まえた値段をつけてある。どの程度まで引けるかは彼の裁量に任されている。
「消費税分はサービスできますよ」
彼の答えに茶髪の娘は顔をしかめた。
「えー、もうちょっと何とかして」
あと三千円、と男がいった。少しは後押ししないと、店を出てから彼女に責められるのかもしれない。
「それじゃこっちの儲けがなくなっちゃう」彼は笑いながらいった。
「えー、絶対嘘だよお」娘は唇を尖らせる。
三千円ぐらいは引いてもいいかと思った時、ドアが開いて別の客が入ってきた。いらっしゃい、と反射的に声をかけたが、相手の顔を見て彼はぎくりとした。
知っている顔だった。手入れもせず伸ばし放題の髪、無精髭、鋭い目つき、そげた頬、どこかで見たことがあった。宝石の売人か。いや違う。もっと別のところで会っている。しかも自分にとってあまりいい相手ではない。そのことだけは確信した。だから、ぎくりとしたのだ。
「ねえおじさん、じゃあ二千円引こうよ。現金で払うからさあ」
たかが二万円の買い物に現金払いを誇示されても困惑するしかなかったが、彼はとりあえずこのカップルを追い払いたかった。
「わかりました。最近の娘さんにはかなわないな」
彼の答えに若いカップルは歓声を上げた。後から入ってきた男が、ちらりと彼のほうを見た。目が合うと、なぜかにやりと笑いかけてきた。気味が悪かった。
その瞬間、彼の記憶の一部が鮮やかに再現された。男がどこの誰であるかをはっきりと思い出した。彼は凍りついた。
「おじさん、どうしたの?」
「あ、いや、すみません」
商品を包む指先が震えた。今頃何のためにここへ? 俺にどんな用があるのか? 何かよからぬ因縁をつけるつもりだろうか? 昔のことをほじくり返すつもりなのか? ――不吉な想像が次々に浮かんだ。男は彼にとって会いたくない人物だった。
商品を受け取ったカップルが店を出ていった後も、彼は男に話しかけるのをためらっていた。だがやがて男のほうから近寄ってきた。彼は俯いていた。
「俺のこと、覚えていてくれたみたいですね」
ああそうだった、と彼は思った。たしかにこういう声だった。この声で恫喝《どうかつ》され、責められた。忌まわしい過去だ。
「ねえ、浜中さん」男はさらにいった。
彼は仕方なく顔を上げた。目が合うと思わず瞬きした。「ええ、覚えてますよ」
「久しぶりですねえ。ええと、三年ぶり……かな」
「加藤さん……加藤刑事さん、でしたね」
「名前まで覚えていてもらえたとは光栄だなあ」加藤は髭面を崩した。浜中洋一には、不吉な風を運んできた使者が舌なめずりをしたように見えた。
浜中は乾いていた唇を舐めてから口を開いた。
「何の用ですか。もう私には用がないはずでしょ」
「すっかり嫌われてるようだなあ」加藤は苦笑した。「浜中さんがここにいることは奥さんから聞きました。あっと失礼、元奥さん、というべきでしたね」
わざとらしい、と浜中は腹の中で毒づいた。
「迂闊に他人にはいうなと釘を刺してあったんですがね」
せめてもの皮肉だったが、刑事には通じなかったようだ。加藤は頷きながら煙草の箱を取り出した。この男がヘビースモーカーだったことを浜中は思い出した。取調室では、いつも煙たい思いをさせられた。
「長野オリンピックの記念メダルなんてのも売ってるんだ。今回の日本はよくがんばったよねえ。日の丸飛行隊の活躍で、こういうものの価値もちょっとは上がるのかな」加藤はショーケースの中を覗き込んだ。
「御徒町《おかちまち》に貴金属店が並んでいることは知ってたけど、中に入ったのはたぶん初めてだな。有名な店に比べて、ずいぶんと安いんでしょ。さっきみたいな若いカップルも気軽に入ってこられるわけだ」そういってから顔を上げた。「銀座の『華屋』なんかとは根本的に違う」
「嫌味をいうためだけに、わざわざいらしたんですか」
まあまあ、と加藤は煙草に火をつけた。
「三年前の事件じゃ嫌な思いをさせたけど、まあお互い様ってことにしましょうよ。浜中さんにだって、俺たちに疑われるような点がいっぱいあったわけだし」
浜中は横を向いた。思い出したくない話だった。
加藤が煙を吐いてきた。
「異臭事件についてはね、俺は最初から浜中さんのことを疑ってなかった。今だからいうけど、かなり凝ったガス発生装置が使われててね、素人には無理だと思ったんですよ」
「そのわりにはずいぶんと厳しくやられましたけど」
「だからそれはおたくが悪いんだよ。タイミングが悪かったともいえるけどさ。かたっぽで異臭事件が起きてて、もうかたっぽでストーカーとくれば、関係あると考えるのがふつうでしょうが」
「そのストーカーについても」
「自分には心当たりがない――そういいたいんでしょ。わかってますよ」
浜中はため息をつき、表を見た。客が来てくれないかと思った。どんな安っぽい客でもよかった。
「でも浜中さん、おたくは一人については認めましたよね。新海美冬さん。彼女のことを追い回してたことは事実なんでしょ」
「今さらそんなことを訊いてどうするんですか」
「訊かれたことに答えてくれりゃあいいんですよ。それとも何ですか。また面倒な手続きをしてほしいんですか。こっちはそれでもいいですよ。そのかわり、おたくが困るんじゃないかなあ」加藤はくわえていた煙草を指先で挟み、その手でこつこつとショーケースをつついた。「せっかく就職できたんだから、昔のことをあれこれほじくり返されたくないでしょ。だったら、腹を割ってくれないかなあ」
この男に友人はいないに違いないと浜中は思った。
「あの時にもいいましたけど、私は彼女と付き合っていたんです」
「そう聞きましたよ、たしかにね。俺も報告書にそう書きました。だけど新海美冬は否定しました」
刑事が美冬のことを呼び捨てにしたことが引っかかったが、浜中はその前にいっておきたいことがあった。下を向いたまま口を開いた。
「もっとよく調べてもらえればわかったはずなんだ。私たちは付き合っていました。たしかなことです」
「ふうん……」刑事が煙を吐く気配があった。
どうせにやにや笑っているんだろうと思い、浜中は顔を上げた。だがそこにあったのは加藤の厳しい表情だった。
「なんで彼女は否定したのかな」
「だってそりゃあ」浜中は大きくため息をついた。「ストーカー騒ぎで、私が疑われてたから、関わり合いになるのを嫌がったんでしょうよ。女子社員全員をつけ回してた男と、たとえ一時でも交際していたとわかれば、世間からどんな目で見られるかわかりませんからね。会社での立場も悪くなるだろうし」
「あの後、彼女と何か話を?」
「とんでもない」浜中は首を振った。「何度か連絡をとろうとしましたが無理でした。あまりしつこくして騒がれたら、余計にこっちの立場が悪くなると思って諦めたんです。まあ結局、事態は大して変わりませんでしたがね」
警察から解放された後、浜中はしばらく自宅謹慎を命じられた。その後彼を待っていたのは閑職への異動であり、辞表を出してくれという無言のプレッシャーだった。突っ張ればよかったのかもしれないが、あの時にはそんな精神力も体力も残っていなかった。退職金をもらえるだけましと思い、届けを出したのだった。
だが彼を襲った悪夢の波はそれだけではなかった。しばらくして妻の順子が離婚を申し出てきた。応じなければ弁護士を雇うともいった。裁判になれば勝ち目はなかった。何しろ彼自身が新海美冬と付き合っていたと警察で証言しているのだ。
マンションと子供を奪われ、さらに養育費を支払うことまで約束させられた。彼にとって何ひとついいことのない、まさに人生を暗転させた出来事だった。自殺を考えたことさえあった。
「浜中さん、あなた」加藤がじっと彼を見つめてきた。「誰かに恨まれてませんでしたか」
「私が? どうしてそんなことをおっしゃるんですか」
「同情してるんですよ」加藤が再び嫌な笑いを浮かべた。「女をつけ回したのはよくなかったけど、その後の展開を考えると、浜中さんはついてなかったと思ってね。同じようなことをしてる輩《やから》は世間にいっぱいいるけど、みんな何とかうまくごまかしてる。ところがあなたの場合はそうはいかなかった。異臭事件なんてものが起きただけでなく、ほかの女子社員まで変な男につきまとわれてると騒ぎだしたりしてね。まあそれがあなたの仕業でないと仮定したら、の話ですが」
「どっちも私じゃありません」浜中は刑事を睨みつけた。
「だとしたら偶然が過ぎると思うんだなあ。異臭事件にしてもストーカー事件にしても、いくつかの状況証拠があなたのことを指してた。それって偶然ですかね」
「でも私じゃない」
「だからあ」加藤はじれったそうにいい、煙草を灰皿の中で捻り潰した。「おたくがやったのではない。でも偶然でもないとしたら、誰かがおたくをはめようとしたってことになるんじゃないかなあ」
浜中は加藤を見た。刑事はその視線を受けとめ、二度三度と頷いた。
「誰がそんなことを?」
「それで訊いてるんですよ。恨まれてなかったかって」
「そんな覚えは……」
「そうあっさり答えず、じっくりと考えてくださいよ」加藤は二本目の煙草をくわえた。しかし火はつけずに続けていった。「たとえば新海美冬とか」くわえた煙草がぴくぴくと上下した。
「彼女が? どうして……まさか……」
「あなた、あの時にこういいましたよね。なぜ彼女の郵便物を調べたのかという質問に対して、男ができたようなので相手を確かめるためにやったんだって。あの話が本当なら、彼女があなたと別れたがっていた可能性があることになる」
「それはそうかもしれないけど……だから彼女が私を罠にはめたと?」
「そういうことも考えられるんじゃないかなあ」
「馬鹿馬鹿しい」浜中は顔の前で手を振った。「彼女がそんな面倒なことをする必要はないでしょ。こっちは女房持ちなんだから、別れたいといわれればどうしようもない。でも彼女のほうから別れ話なんか出なかったんです。結果的に別れることになったけど、それはあの事件があったからで……」
「彼女には男がいたんでしょ」
「それは……わからない。今となってはね」浜中は首を振った。
「新海美冬に男がいたと思った理由は?」
「理由……」
「何か根拠があったわけでしょ。だからこそ、郵便物を調べたり、後をつけたりしたんでしょうが」加藤の言葉にはいちいち棘《とげ》が含まれていた。
浜中は顔をこすった。店の前に目を向けるが、相変わらず客の来る気配はない。
「他の女子社員から聞いたんですよ」浜中はいった。「『華屋』の社員です」
「新海さんには恋人がいるらしい、と?」
「それほど直接的な言い方ではありませんがね。美冬が電話で話しているのを盗み聞きしたらしいです。デートの約束をしていたようだった、とね」
「その女子社員の名前は?」
浜中はため息をついた。「畑山君です」
加藤はポケットから手帳を取り出し、どこかの頁を開いた。指でその上をなぞった。
「ははあ、記録にありますな。畑山彰子さん。ストーカーの被害を訴えた女性の一人だ。彼女から新海さんには恋人がいるようだと聞いたわけですか」
「ええ」
「でも電話の相手が恋人かどうかはわからんわけでしょう。もしかしたら女友達と会う約束をしていただけかもしれない」
「私もそう思いましたがね、畑山君が、あの電話の相手は男に違いないと断言を……。その頃の畑山君はまだストーカーの被害に遭ってなかったようで、私にも気安くそんなことを話してくれたわけです。彼女によれば、女が素顔を見せるのは好きな相手の前だけだとかで……」
「素顔、というと?」
「その時の電話で、美冬は方言でしゃべっていたそうです。つまり関西弁です。しかも友達に対しての口調ではなく、もっと甘えるようだったと。これは畑山君の表現ですが」
「関西弁、ねえ」加藤は考え込む顔つきになった。「それを聞いて何か心当たりが?」
「たしかに変だなと思ったんです。美冬は震災で両親を亡くしているし、長らく関西を離れていたせいで、あっちには知り合いは全くいない、といってましたから。それが本当なら、美冬が関西弁で話す相手なんているはずがないんです」
「それで男がいると睨んだわけだ」
「睨んだというか……確かめたいと思いました。郵便物を調べたのは、関西方面からの手紙がないかどうかを見たかったからです」
あの当時のことを思い出すと浜中は全身が火照《ほて》ったようになる。なぜあそこまであの女にのぼせ上がってしまったのか。同時に、どうして今さらこんなことを告白せねばならないのかと悔しかった。
「もういいでしょう、刑事さん。何を調べたいのかはわからないけど、今は『華屋』とも美冬とも繋がりがないんです。どうか勘弁してくださいよ」
だが加藤は彼の声が聞こえぬかのように質問を続けた。
「あなたが調べたのは郵便物だけですか。ほかに何か探ったことはなかったんですか」
「ほかには別に何も……」
「本当ですか」加藤が舐めるような目つきをした。「勝手に郵便物を盗み見するような人が、それだけで気が済んだとはとても思えないんですけどね」
浜中が黙っていると、加藤は新しい煙草に火をつけた。
「ゴミ袋だって漁ったんでしょう? 彼女を尾行したこともあるはずだ」
「刑事さん、怒りますよ」浜中は相手を睨みつけた。「もう終わったことじゃないですか。何を今さら」
「終わったことだから、今さらあんたをどうこうしようって気はない。だから正直に白状すりゃあいいんだよ」胃袋に響くような低い声で加藤はいった。「さっきもいったけど、あんただって今の生活を守りたいだろうが。ここを追い出されたら、ほんとあんた行き場がなくなるぜ」
「……彼女、一体何をしたんです。どうして今頃になって、そんなにしつこく調べてるんですか」
加藤は煙草をくわえたまま、にやりと笑った。「あんたが知る必要はないよ」
「だけど――」
浜中がいいかけた時、加藤が上着の内ポケットから何か取り出し、ショーケースの上に置いた。小さく折り畳まれたパンフレットのようなものだった。宝石や貴金属の写真が載っており、『華屋』のロゴが目についた。浜中は手を伸ばす気になれなかった。
「何ですか、これ」
「『華屋』は生まれ変わったそうだ。あんた、知ってるかい。『華屋』は『BLUE SNOW』っていう会社と業務提携して、従来とは全くコンセプトの違った貴金属を売り出し始めたんだってさ」
その業務提携したという会社の名も、『華屋』が新しい商品を出したという話も、浜中は知らなかった。『華屋』に関する情報には極力近づかないようにしているのだ。
「その顔つきからすると知らないようだねえ」
「関心ありませんから」
「そうかい。でもさ、その『BLUE SNOW』の社長が新海美冬だと聞いたらどうかな。ちょっとは興味が湧いてくるんじゃないのかな」
浜中は加藤の髭面を見返した。「まさか……」
「まさかってことが起きるのが世の中なんだよ。ついでにもう一つあんたを驚かしておこうかな。新海美冬は、今や『華屋』の社長夫人でもある。したがって現在の本名は秋村美冬ってことになる」
「えっ」浜中は目を見開いた。「秋村社長と結婚……彼女が?」
「どんな経緯があったのかは俺も知らないよ。新海美冬が『華屋』で働いている間に社長が見初めたのか、『BLUE SNOW』の関係で出会ったことがきっかけかはね。いずれにせよ新海美冬は公私両面で、『華屋』を掌握することに成功したわけだ」
浜中は唸った。「信じられない」
「全く信じられない女だよ。あんたとのことで揉めてたのがたったの三年前だ。ところが今じゃそこまで上りつめてる。かたやあんたはどうだい。こんなちっぽけな店で、貧乏くさいカップルを相手に安っぽいアクセサリーを売る毎日だ。割が合わないと思わないか」
屈辱的な言葉に腹が立ったが、浜中はいい返す気力もなくしていた。階段を踏み外す者もいれば、幸運へのエレベータに乗り込める者もいる。それはわかっているが、あまりにも自分が惨めだと思った。
「だからね、浜中さん」加藤の口調が突然穏やかになった。「どんな小さなことでもいいんですよ。新海美冬についていろいろと探っていた時に、何か面白いことを見つけませんでしたか。男のことじゃなくてもいいよ」
「そんなものは何も見つけられませんでしたよ」
「そんなこといわないで」
「本当です。男のことだけでなく、もっと彼女のことを詳しく知りたいと思ったのは事実です。本気で彼女のことを思っていましたから」
あたかも彼の気持ちがよくわかるとでもいうように加藤は大きく何度も頷いた。無論、揶揄している気配も濃厚だった。
「休日を利用して、彼女の故郷を訪ねたことだってあるんです。当時はまだ震災直後で、復興工事なんてろくに進んでませんでしたけどね。彼女のことを少しでも知っている人間がいないかと思って、丸一日歩き回りました」
「それで?」加藤が身を乗り出す。
「それだけですよ」浜中は両手を広げた。「彼女の両親が住んでいたという場所を見つけるのがやっとでした。とにかく交通手段さえ、なかなか確保できないんですからねえ。瓦礫の山の写真を撮って帰っただけです。彼女の知り合いには一人も会えなかった」
「その時の写真は?」
「さあねえ」浜中は首を捻った。「自宅に置いてあったと思うから、今頃は女房の手で処分されてるんじゃないですか」
「その時のことを新海美冬には話しましたか」
「話した……と思いますよ。ああ、そうだ、話したんだ。その写真を見せた覚えがありますから。君の故郷を見てきたよって」
「彼女の反応はどうでした。驚いてたようでしたか」
「そうでもなかったけど、どうしてそんなことをするのかって、少し怒られました。君のことは何でも知りたいからだ――そう答えた覚えがあります。馬鹿みたいだと思うでしょうが」
加藤は答える代わりに薄く笑った。馬鹿だよ、とその顔には書いてあった。
「後悔してますよ。でもね、あの時には真剣だった。あの女を手放したくなかったんです。だから彼女のことなら何でも知りたかった。あの女にはそういう男を狂わせる何かがあるんです」
浜中の言葉に加藤も頷いた。なぜかその顔には先程までのからかうような色が見えなかった。
「もういいでしょう。これ以上問い詰めても、私からは何も出ませんよ。それより教えてください。何のために今になってそんなことを調べてるんです。彼女が何かやったんですか。何かの事件に関わってるんですか」
加藤は彼を見ようとせず、煙草とライターをポケットに収《しま》った。
「お邪魔しました」そういって出口に向かった。
「刑事さんっ」
加藤はドアを開けた。だが外に出る前に振り返っていった。
「おたくがたった今いったじゃない。あの女は男を狂わせるって。新海美冬がやったことはそれだよ」にやりと笑い、また来るよといって出ていった。
加藤が消えた後もしばらく、浜中は呆然としていた。胸の奥に溜まっていたものを吐き出した虚脱感に襲われていたのかもしれない。ふと我に返って椅子に座り込んだ。
美冬の整った顔、見事に均整のとれた肢体は、今もありありと思い出すことができる。今までに交わった女性の中で、間違いなく最高の魅力を持った女だった。
だが出会った当初は、そこまで魅せられたわけではなかった。一階のバッグ売場に配属された新海です、と挨拶に来た時には、なかなか奇麗な娘だとは思ったが、不倫の対象には考えられなかった。
しかし何度か顔を合わせるうちに、次第に惹かれるようになっていった。強そうでいて、ほんの一瞬垣間見せる脆《もろ》さ、危うさに、つい手を差し伸べたくなる。そのくせ本当には手助けさせない頑固さがある。それを冷たいと感じる時もあれば、健気さに映ることもある。その匙加減が絶妙なのだ。加えて彼女の目には、ほかの女には到底真似のできない魔力があった。彼女に見つめられると、心の奥底まで見透かされ、何かに引き込まれるような気がするのだ。
元々浮気性で、アルバイトの店員などには手を出したことのある浜中だったが、正採用の女性従業員と不倫関係になったことは一度もなかった。だが新海美冬は別格だった。彼女への思いは、というべきか。また浜中には、美冬もそれを望んでいるのではないか、という手応えがあった。アプローチすればきっとうまくいく、と確信していた。
彼の予想は的中した。美冬が『華屋』に来て二週間が経つ頃には、二人の仲は密かにホテルで会うところにまで進展していた。
「あなたと同じ職場で働きたいな」美冬が浜中の腕の中で囁いた。「いつもあなたと一緒にいたいから」
「店の者に怪しまれるよ」
「今ならまだ大丈夫よ。あたしまだ、入ったばかりだもの。まさかあなたとの仲を疑ったりしないと思う」
「それもそうだなあ」
フロア長だった浜中には、人事に対して要望を出す権限があった。彼は美冬が三階の宝飾品売場に移れるよう画策した。その計略はすぐに実を結んだ。
職場では、やり手のフロア長と新米社員という演技に徹し、ベッドの上ではそれまでの抑圧を振り払って彼女の肉体を貪った。浜中は満足だった。家庭を壊す気はなかったが、美冬を手放したくもなかった。
「いずれは自分のオリジナルブランドを作りたいという夢があるんだけどね」ベッドの上で美冬の肩を抱きながら、彼はしばしば語った。「そのために彫金だって勉強した。自宅には作業台もあるんだ。いくつかデザインを思いついたものもある」
そのデザインを見たい、と美冬がいった。ある日浜中は、自宅から図面をいくつか持ち出し、彼女に披露した。彼女はそれを見て目を輝かせた。
「どれも素晴らしいじゃない。今までに見たことのないものばっかり」
彼女の感想はお世辞には聞こえなかった。
「そうだろう。俺も自信があるんだ」
「特にこれはすごい。宝石が二段重ねになってるのね」
「宝石を平面的に並べるデザインは無数にあるけど、立体的に配置したデザインは皆無だからな。これは特許ものかもしれないぞ」
実際のところは、浜中は自分のデザインが世間でどの程度通用するかまるで自信がなかったし、独立するという夢についても、どうせ夢のままで終わるのだろうと諦めていた。それでも美冬に話している間は、心が浮き立った。
あんな女にはもう出会えないだろうな、と浜中は思った。何もかも、あの一連の事件で崩壊してしまったのだ。
ショーケースの上にふと目を向けた。加藤が置いていった『華屋』のパンフレットがある。彼は顔を歪め、それを屑箱に捨てようとした。しかし手を離す直前で思い返した。彼は深呼吸をひとつしてからそれを開いた。
『華屋』は今、新たなるステージへ――そんなキャッチフレーズが飛び込んできた。その下に、最近発表されたという新しい指輪の写真が並んでいた。
ぼんやりとそれらを眺めていた浜中の目が、俄《にわか》に険しくなった。パンフレットを持つ手も震えだした。
「そんな……馬鹿な」呻くように呟いた。
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翌日、浜中は青山通りにある『BLUE SNOW』を訪れていた。舐められてはいけないと思い、久しぶりに背広に袖を通していた。一番新しい背広だが、それでも四年前に買ったものだった。
会社は四階にあった。彼は自分が気後れしていることに気づき、自己嫌悪を感じた。ほんの数年前なら、どんな大物を相手にした時でも動じない自信があった。それが今はどうだ。エレベータに乗っただけで落ち着かない――。
ショールームを兼ねた『BLUE SNOW』のオフィスはガラス張りになっていた。通路に面するように商品が置かれている。貴金属だけでなく、健康食品のようなものも並んでいた。
彼が入っていくと、若い受付嬢が、いらっしゃいませと笑顔で挨拶してきた。彼は懐から名刺を出しながら近づいていった。今の店に入ってから作ったものだが、めったに人に渡したことはない。その用がないのだ。
「社長さんにお会いしたいのですが」
浜中がいうと受付嬢は、意外なことを聞いたという目で彼を見返した。しかし笑顔は絶やさず、少々お待ちくださいといって彼の前を離れた。
彼女は少し離れた席にいる、やや年輩の女性に何やら話しかけている。その手には浜中の名刺があった。
彼は顔をそらし、そばのショーケースの中を覗き込んだ。『B.S. original no.1』とある。飾られているのは指輪だった。そのデザインを見て彼は大きく深呼吸した。声を出したいのを我慢した。
やがて受付嬢と共に年輩の女性もやってきた。
「申し訳ありませんが、お約束はされておられませんよね」その女性はいった。
「ええ、まあ」
彼が答えると、彼女は金縁眼鏡の奥に冷たい光を宿らせたまま、口元だけで愛想笑いを浮かべた。
「どういった御用件でしょうか。私共でわかることでしたら、お開きいたしますが」
「新海社長に直にお会いしてお話ししたいことがあるんですよ。どうか、取り次いでいただけませんか。もしどちらかに出かけておられるということでしたら、こちらで待たせていただきます」彼もまた笑顔で応じた。作り笑いは慣れたものだ。
金縁眼鏡の女性は少し困惑したようだが、それでも態度に揺らぎは見せなかった。
「社長は現在接客中でして……ええと」彼の名刺に目を落とした。「浜中様、でございますね。浜中様のことは間違いなくお伝えしておきます」
彼女には取り次ぐ意思がないようだ。予想通りの対応なので意外ではなかった。かつては彼も彼女と似たような立場だった。
浜中は背広のポケットから二枚目の名刺を出した。できれば使いたくはなかったが、このままでは埒が明かない。彼はそれを金縁眼鏡の女性に差し出した。
「ではこちらの名刺を、今すぐ社長のところに持っていっていただけませんか。それでももし社長が何の関心も示さないようでしたら、諦めて退散いたします」
『華屋』にいた頃の名刺だった。いずれは捨てねばと思いながら、引き出しに入れたままになっていた。今日はそれを三枚ほど持ってきた。
相手の女性はさすがに戸惑ったようだ。『華屋』の人間となれば、無下《むげ》に追い返すわけにもいかない。だが聞いたことのない名前なので、どう扱っていいものか悩んでいるのだ。彼女は異臭事件など知らないに違いない。
「『華屋』さんの宝飾品売場のフロア長といえば、桜木さんでは……」
さすがによく知っている。桜木という名を聞いて、浜中は不快感に襲われた。あの若造め、まんまと俺の後釜に座りやがった――。
「新海社長に見せていただければわかりますよ。どうかよろしくお願いします」笑顔のまま彼は頭を下げた。
金縁眼鏡の女性はしばらく思案した後、ここでお待ちください、といって奥に消えた。浜中は吐息をつき、そばで立ったままの受付嬢を見た。彼女はどうしていいかわからない様子で、もじもじした。
「怪しい者ではありませんよ」
彼が優しく笑いかけると、彼女も笑顔に戻った。そうして自分の席に腰掛けた。
「健康食品まで扱ってるんですね」彼は訊いてみた。
「ええ。美容にいいとされている健康補助食品をいくつか。試供品がございますが」
「いや、結構。僕は男だし、見かけを気にする歳でもないから」
浜中がそういった時、奥からさっきの女性が現れた。
「お会いになるそうです。こちらへどうぞ」
「よかった」受付嬢に笑いかけ、浜中は足を踏み出した。
オフィスの奥にドアがあった。金縁眼鏡の女性がノックして開け、お連れしました、といってから浜中に頷きかけた。
浜中が入っていくと美冬は応接セットの向こう側にある机で、何かの書類を見ているところだった。彼女は顔を上げたが浜中を見ようとはせず、彼の後ろにいる金縁眼鏡の女性に声をかけた。
「私が呼ぶまで、誰も部屋に入れないでちょうだい」
わかりました、といって金縁眼鏡の女性は出ていった。ドアが閉まってから美冬は立ち上がった。真っ直ぐに浜中を見て、つかつかと歩み寄ってきた。
「お久しぶりですね」
「君の活躍は聞いているよ。『華屋』のパンフレットも見た」
「どうぞおかけになってください。何か飲み物でも?」彼の言葉が耳に入っていない様子だった。
「飲み物は結構。話ができればいい」
「本当にお久しぶり。名刺を見て、驚きました。さあ、どうぞ」彼女はもう一度ソファを勧め、自分も腰を下ろした。
浜中は彼女の顔を見据えながら座った。それから改めて室内を見回した。余分な調度品は全くといっていいほどない。目立つのはガラス張りのキャビネットぐらいで、それにしても中に飾られているのはこの会社の商品のようだ。
「正直なところ、会ってもらえないんじゃないかと思ったんだけどね」
「どうしてですか。いろいろな人に会うのも社長の務めだと私は思っています。特にうちのような小さな会社の場合は」
「そんなことをいってるが、やってることはでかい。あの『華屋』と手を組んだそうじゃないか。そうそう、お祝いをいうのを忘れていた」浜中は膝を揃え、頭を下げた。「このたびは結婚おめでとう」
もちろん皮肉のつもりでいったのだ。さぞかし嫌な顔をしているだろうと思いながら顔を上げてみた。ところが美冬はまるで動揺していないのか、鷹揚とさえいえる様子でゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。双方とも忙しすぎて、まだ結婚したという実感は湧かないんですけどね」
「君があの人と結婚したと聞いた時には驚いた」浜中は辛抱強くこの話題にこだわることにした。「まさかあの『華屋』の社長が相手とは」
「縁、なんでしょうね」美冬はさらりと受け流す。
徹底的にしらを切るつもりなのだな、それならそれでこっちにも覚悟がある――浜中は座り直した。咳払いをひとつした。
「二、三、尋ねたいことがあるんだけどね」
「何でしょうか」美冬は腕時計に目をやった。のんびり話している時間はない、ということを示したつもりなのだろう。だが浜中は無視することにした。
「まず三年前のことだ。君も思い出したくはないだろうが、こっちだって同じなんだ。でもはっきりさせておきたい。今さらどうしてといいたいかもしれないが、原因はそっちにある。まあそのことは後で話すがね。とりあえず今は三年前のことだ。君は警察に、僕とは付き合ったことがないといったそうだね。なぜそんな嘘をついた?」
美冬の顔から笑みが消えた。唇を真一文字に結び、鼻から大きく息を吐いた。続いて腕組みをし、浜中を見つめてかぶりを振った。
「まだそんなことをいってるんですか。いい加減にしてもらえません?」
「まあ、君が僕との関係を隠したがったのはわからないでもない。あの時点では僕に妙な疑いがかかっていたからね。僕との不倫関係が明るみになれば、君だって『華屋』にはいられなくなる。でも知ってのとおり、僕は犯人じゃなかった。異臭事件の犯人でもなければ、ほかの女子社員にストーカー行為を働いていたわけでもない。だからここで一言、僕に謝ってはもらえないかな。あの時、君が僕との関係を認めてさえくれていたら、僕への疑いだってもっと早くに晴れたわけなんだから」
美冬は憐れむような目をした。
「私がそんなことを認めると思うんですか」
「ここでは誰も聞いていないよ。君と僕だけだ。一言、嘘をついてごめんなさいといってくれればいいんだ」
美冬は首を振り、立ち上がった。ドアを指差す。「お帰りください」
「おい、ちょっと待てよ」
「正直なところ、お会いしたくはありませんでした。でも、たとえ一時的にせよお世話になった上司ですから、会うぐらいはいいだろうと思い直したんです。まさかこんなことをいわれるとは思ってもみませんでした」
「待てよ、美冬」
「あなたに呼び捨てにされる覚えはありません」
美冬は机に近づくと、電話機の受話器を取った。人を呼ぶつもりらしい。
「話はまだ終わってないんだぞ。あの話だ。『B.S. original no.1』とかいったかな。あの指輪のことだ」
今まさに何かのボタンを押そうとしていた彼女の指が直前で止まった。受話器を耳に当てたまま彼を見た。
「あれが何か?」
「察するところ、この会社の第一号試作品じゃないのか」
「そのとおりです」
「デザインは誰が?」
「私です」そういいながら美冬は受話器を戻した。「何がいいたいんですか」
浜中はソファにもたれかかり、脚を組んだ。美冬を見上げた。
「よく平気な顔をしてそんなことがいえるものだね。あの指輪のデザインは僕のものだ。何といったかな、江東区にあるホテルで、君に図面を見せてやったものだ」
美冬は笑いながら首を振った。
「何のことをおっしゃってるのか、全然わからないんですけど」
「とぼけるなよ。『華屋』のパンフレットをじっくりと見させてもらった。あの中には僕のデザインを基にしたと思われるものが、少なくとも五つはあった」
「妙ないいがかりはやめてください。あれはすべてうちと『華屋』とで開発したものです。第三者のデザインなんてありません」
「君の記憶を通じて、僕のデザインを使っただろうといってるんだよ。デザインした本人がいってるんだから間違いない」
浜中は立ち上がり、キャビネットに近寄った。その中にも指輪が何点か飾られている。
「これも僕のデザインだ。この右から二番目のやつ」美冬のほうを振り返った。「宝石を立体的に配置するアイデア自体、僕のものだ。パンフレットによれば特許を取得したそうじゃないか。特許を取れる可能性があると教えてやったのも僕だ。ベッドの中でね」
さぞかし悔しげな表情を見せるかと思ったが、美冬はやはり落ち着いていた。大きくため息をつくと、片腕を机についた。口元に微笑すら浮かんでいるのを見て、浜中はやや狼狽した。
「あの特許については各方面から問い合わせが来ています。問い合わせというより抗議といったほうがいいかしら。同じようなデザインは自分も考えていた、だからおたく独自のものという捉え方は困る、というようなものね」
「僕がいっているのは」
「そういった抗議については、このようにお答えすることにしています。特許について物言いがあれば特許庁に所定の手続きで行ってください。またもし、従来から同じデザインのものを考えていたということでしたら、その証拠をお見せください。もちろん、図面や完成品をいくら見せてもらっても無意味です。うちのを真似ただけだとしか思えませんからね」
美冬は浜中に対しても、証拠を見せろといっているのだ。寝物語で聞いたアイデアを盗んだという自覚は無論あるのだろう。だがたしかに彼女の指摘するように証拠はない。
「僕はね、特許がどうとか、デザイン料を払えとか、そういうことをいいたいわけじゃないんだ。ここだけの話ってことで結構だ。僕のデザインで君が成功を収めたのならよかったと思うよ。ただ、僕は君の口から聞いておきたい。あれはあなたから教えてもらったデザインだけど、自分のものとして使わせてもらった、だから感謝している、とね。ついでに、交際していたことを隠して悪かった、といってくれると満足だ。僕は気分よくここを出ていく」
美冬はお話にならないとばかりに両手を広げた。右手が電話機に触れた。
「おい、美冬」
「呼び捨てにされる覚えはないといったはずです。このような難癖をつけられる理由もありません」
「そんなことをいってもいいのか。君とのことを秋村社長に話すぞ」
ノックの音がし、ドアが開いた。さっきの女性が顔を出した。
「お客様がお帰りだから、お見送りして」美冬が乾いた声でいった。
「待ってくれ。まだ話がある」
「もう十分です。『華屋』を辞めさせられた人の話を聞く暇はありません」
「辞めさせられたのは誰のせいだと思ってるんだ」
「あなたでしょう?」美冬は平然といった。「あなたが卑劣なストーカー行為をしたからでしょう?」
金縁眼鏡の女性の表情が強張った。不潔なものを見る目つきになっていた。
「お帰りください。社長は忙しいんです。いうとおりにしないと警備の人を呼びますよ」
「覚えてろよ。きっと後悔させてやる」浜中は金縁眼鏡の女性を押しのけ、部屋を後にした。
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(……特許について物言いがあれば特許庁に所定の手続きで行ってください。またもし、従来から同じデザインのものを考えていたということでしたら、その証拠をお見せください。もちろん……)
そこまで聞いたところで加藤はテープレコーダのスイッチを切った。髭に覆われた顎を掻き、ため息を一つついて煙草を取り出した。
「どうですか」浜中は訊いた。
しかし刑事はすぐに答えない。煙を吐き、店内に飾られた観葉植物を眺めている。霞が関にある喫茶店の隅に二人はいた。浜中が加藤を呼び出したのだ。
「ねえ加藤さん、何とかいってくださいよ」
加藤は気のない目を浜中に向けてきた。「何とかって?」
「どう思うかと訊いてるんです。私のいってたことが嘘じゃないとわかってもらえたでしょう?」
「俺は別にあんたが嘘をついてるとは思ってないよ。三年前から」加藤は煙草の灰を落とした。「だけどこんなテープはクソの役にも立たないな」
「どうしてですか。私はちゃんとあの女に抗議しているんですよ」
「たしかにあんたは抗議している。だけどあの女は認めちゃいない。テープってのは元々証拠能力が低いんだけど、こいつは論外だ」
「そりゃあ美冬は否定しています。でも……でもですよ。もし私のいっていることがでたらめなら、こんなに堂々と本人に抗議しに行くはずがないでしょう? 付き合ってた件にしてもそうです。実際には何の関係もなかった相手に、どうして自分との仲を隠したんだなんていえるわけがないじゃないですか。それじゃ、ただの頭のおかしい男ですよ」
必死で語る浜中の顔を冷えた目つきで眺めてから、加藤は小さく肩を揺すった。その口元が緩んでいた。
「そうだよ。あんたはただの頭のおかしな親父だよ」
「なに……」
絶句した浜中に、加藤は煙を吹きかけた。
「このテープを聞いたかぎりでは、そう判断されても仕方がないってことだよ。ねえ浜中さん、あんた、テープレコーダを懐に仕込んで、新海美冬が本当のことをしゃべるのを録音できたら、一体どうするつもりだったんですか」
「だからそれを証拠に……証拠能力は低いかもしれないけど……裁判とかで争ったら負けるかもしれないけど、マスコミとかに流せば絶対に話題になるわけで……」
「ははあ、それをネタに美冬を強請る気だったわけだ」加藤はにやりと笑った。
「いやそんな、強請るだなんて……ただ私は」
「いいんだよ、そんなことはどうでも」加藤は面倒臭そうに手を振った。「たださあ、そういうことをあの女が予想してないとでも思うかい?」
「えっ……」浜中は目を瞬《しばたた》いた。
「あんた、どういう格好で乗り込んでいったんだい? 鞄は持ってたかい」
「鞄? いや、手ぶらですよ。ワイシャツにネクタイを締めて、背広を着て……」
「落ちぶれたところを見せたくなかったわけだ」
「そういうわけでは……」浜中は俯いて口ごもった。図星だった。
「だけどそれじゃだめだな」加藤はいった。「あの女はあんたがテープレコーダを隠し持っていることを知ってたんだよ。あるいは、万一持っていた場合のことを考えて、一言一言に気をつけながらあんたの相手をしたんだ」
浜中は胸に手を当てていた。あの時、テープレコーダを入れていたのは背広の内ポケットだった。その時の感触を思い出していた。
「まさか……」
「俺はあんたのいうことを信じるよ。信じた上でこのテープを聞くと、あの女が徹底して演技していることがよくわかる。全く隙がない。あんたが何度もいっているように、ほかに聞いている者が誰もいないにもかかわらず、だ。つまりはあの女は、自分の言葉が記録されることまで計算に入れてたってことになる」
浜中は呆然とし、コーヒーカップの中の黒い液体を見つめた。
「ねえ浜中さん、あんた、もう手を引いたほうがいいよ」加藤が静かにいった。
浜中は顔を上げた。「手を引くって?」
「あの女はおたくには手に負えないといってるんですよ。下手にいつまでも絡んでると、痛い目をみるのはたぶんおたくのほうですよ」
「私はこのままじゃ引き下がれない。生活のすべてを奪われたのも、元はといえばあの女のせいなんだ。しかも指輪のデザインまで盗まれて……。黙って引っ込むなんてことはできません。何としてでもあの女に仕返しをしないことには気が済まないんです」
「だからそれは俺に任せてくださいよ。浜中さんは情報を提供してくれりゃいい。今日みたいにね。このテープは役に立たないが、指輪のデザイン云々って話は面白かった。貴重な新情報だ。これからもこの調子で頼みますよ」加藤の口調は浜中をおだてているようであり、媚びているようであり、そして馬鹿にしているようでもあった。
浜中はテーブルの上に両手を置いた。左右の握り拳で、どんと一回叩いた。
「私は納得できない」
「わかってないな」加藤はうんざりしたようにいった。「あんたのような素人にうろちょろされたら困るといってるんだ。ただでさえあの女はガードが堅い。あんたが妙な揺さぶりをかけたら、相手は尻尾を出すどころか、穴蔵の中にもぐりこんで、こっちが手を出せなくなるおそれだってあるんだよ」
浜中は刑事を上目遣いに睨んだ。なんだ、というように加藤は睨み返してきた。
「あなたには私の気持ちなんかわからない」彼は小銭入れから自分の分のコーヒー代を出し、テーブルに置いた。代わりにテープレコーダを手に取り、立ち上がった。
「ちょっと浜中さん、キレてどうすんのさ」加藤は浜中の腕を掴んだ。「俺に任せろといってるだろ。とにかく座りなよ」
浜中が席につくと、それでいいというように加藤は頷いた。
「指輪のデザインをしてるってことを新海美冬に話したのは、彼女と付き合ってからかい。それとも付き合う前?」
「前にもいいましたよ、それ」
「もう一度。確認の意味でね」加藤はにやりと笑う。
浜中はため息をついた。「付き合ってからです」
「間違いないね」
「間違いないですよ。指輪のデザインをしてることは、親しい人間にだって話したことがなかったんだ」
「なるほど」
「ねえ刑事さん、さっき自分に任せてくれとかいったけど、あの女に仕返しなんてできるんですか」
すると加藤は肩を揺すって苦笑した。
「俺は新海美冬に恨みがあるわけじゃないから、仕返しって言葉は当たらないな。強いていえば、化けの皮を剥がしてやりたいってところかな」
「だけどあの女を逮捕できるわけでもないでしょ。罪を犯したってことでもないんだから」
この質問に加藤は答えなかった。ただにやにや笑っているだけだ。
「前に神戸に行ったって、いってたよね」加藤は訊いてきた。「新海美冬のことを調べるため、とかで」
「神戸じゃないですよ。西宮のあたりです」
「どっちでもいいんですよ。具体的には、どんなところを調べてきたわけ?」
「だからそれも前にいったと思いますけど、震災で壊れた彼女の実家とか、その付近とかです」
「ほかには?」
「向こうではそれだけです。本当は京都のほうも回りたかったけど、時間がなかったんで、諦めたんです」
「京都?」
「彼女の両親は元々京都に住んでたそうです。だから彼女も小学校とか中学校は京都だったわけで、その頃のことも知りたいと思ったんです」
加藤が真剣な目で彼を見つめてきた。
「京都時代の住所はわかってるんですか」
「住所はわからないけど、学校ならわかりましたから。履歴書に書いてあるでしょ」
「彼女の履歴書を盗み見たわけだ」
浜中が口元を歪めるのもお構いなしに、加藤はさらに尋ねてきた。
「その履歴書、今も持ってますか」
「まさか。捨てましたよ」
「でも出身校とかは覚えてるでしょ。それほど入れあげた相手なんだから」
「覚えてるとしたらどうなんですか」
「是非教えてください」そういって加藤は内ポケットから手帳を取り出した。
浜中が加藤と別れて店に戻ると、シャッターが半分ほど開いているのでぎくりとした。出かける前に閉めてきたはずだ。浜中は駆け寄り、シャッターを押し上げた。店の中に人影がある。それが小泉《こいずみ》であることを確認し、胸を撫で下ろした。小泉は彼の雇い主だ。この店以外にも、三軒を経営している。
「出かけてたのかい」伝票をチェックしていたらしい小泉は、浜中を見て不機嫌そうな声を出した。煤《すす》けた色のポロシャツに、くたびれた上着を羽織っている。経営者なのだからもう少し身なりに気を配ればいいのにと浜中は思うのだが、吝嗇《りんしょく》家の小泉は聞く耳を持たない。
「ちょっと買い物に……」
「ふうん」小泉の仏頂面は変わらない。「あんた、『華屋』の商品に文句をつけに行ったそうだねえ」
浜中は立ち尽くした。「どうしてそれを?」
「やっぱりそうなのか」小泉は売上帳を置いた。口元が曲がっている。「どういうつもりだい。『華屋』とは揉め事を起こさないっていう約束だっただろ。その約束があったから、訳ありのあんたに店を任せることにしたんだぜ」
浜中は事情を察知した。美冬が夫の秋村隆治に、浜中のことを告げたのだ。たぶん、妙ないいがかりをつけられた、という表現を使ったのだろう。
「『華屋』に文句をいいに行ったわけじゃない。新商品を開発したとかいう、提携会社の」
小泉は首を振っていた。浜中がしゃべり続けることを拒否していた。
「そんなことはどうだっていいんだよ。デザインを盗んだとか盗まれたとか、そういう因縁をつけに行ったのは事実だろ」
「因縁じゃない」浜中は唇を舐めた。「聞いてくれ、小泉さん。その新商品ってのは、元々は私が考えたものなんだ。それを『BLUE SNOW』の社長が私に無断で盗んだんだ」
小泉は今度は両手を顔の前で振り始めた。
「そんな話、聞きたくはないんだよ。いいかい、『華屋』を敵に回して、うちみたいなちっこい宝石屋が生き残っていけると思うか。問屋仲間から総スカンを食ってみろ、たちまち干上がっちまう」
「……何かいってきたんですか」
「いってきたさ。やんわりとな。今回だけは勘弁してやるということだった。だから俺も今回だけは大目に見てやることにした。もう二度と、こんなことは御免だぜ」まくしたてながら、小泉は何度も浜中の顔を指差した。
垢の詰まった小泉の指先を見つめながら、浜中はつい先刻加藤からいわれたことを思い出していた。下手にいつまでも絡んでると、痛い目をみるのはたぶんおたくのほう――。
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浜中と別れた後、加藤は夜風に当たりながら駅に向かって歩いた。頭の中では様々な考えが渦巻き、そして形を成そうとしていた。
新海美冬が浜中を誘惑した時点では、彼が指輪のデザインに関して独創的なアイデアを持っていることなど彼女は知らなかったはずだ。ということは、誘惑のそもそもの目的は、『華屋』での地位向上だけだったと考えられる。浜中を踏み台にして、のし上がっていこうということだ。事実、彼女は浜中の働きかけにより、入社間もないというのに、『華屋』の中枢である宝飾品売場に配置転換されている。
ところが浜中と交際を続けるうちに、彼女はもっと別の利用価値が彼にあることに気づいた。それが指輪の画期的なデザインだ。それをものにすれば、自分で事業を興せるとまで考えた。
そこで浜中のデザインを横取りすることにしたが、そうなってくると味方だったはずの彼の存在が邪魔になってくる。デザインの盗用で騒がれないようにするには、彼を『華屋』から追放しなければならない。しかも、その後もつきまとわれないようにする必要があった。
そこで仕組まれたのが一連の事件だ。
女子従業員全員に対するストーカー行為とは、よく考えたものだと思う。美冬一人に対するものならば、浜中が馘首《かくしゅ》されることもなかっただろう。全員に対して行われたから、『華屋』も無視できなかったのだ。しかも大勢いる被害者の一人という立場を貫くことで、美冬は浜中との関係を否定し続けることができた。
だが『華屋』から追放されたからといって、浜中が美冬に執着しないという保証はない。それゆえ、もう一つの事件を起こす必要があった。それが異臭事件だ。
地下鉄サリン事件で警察全体が緊張していた時期だ。異臭ガスが発生したと聞き、それこそ公安まで出張《でば》ってきた。模倣犯だとしても、何としてでも犯人を捕まえねばという雰囲気が捜査陣にはあった。怪しい人間には長期間監視をつけることも厭《いと》わなかった。その結果、浜中は、美冬はおろか『華屋』の関係者にも近づけなくなった。それこそが美冬の目的だったのではないか。
新海美冬はとんでもない女だ。自分の目的のためならば、誰であろうとも容赦しない。誰が不幸になろうとも一向に構わないという考えの持ち主だ。
それにしても、ああまでして浜中を追放する必要があったのだろうか。うまく操り、利用し続ける道もあったのではないか。
気になるのは、浜中が美冬の故郷を訪ねたという話だ。その時に彼女は怒ったという。そしてその後で事件が起きている。
あの時には真剣だった。あの女を手放したくなかったんです。だから彼女のことなら何でも知りたかった。あの女にはそういう男を狂わせる何かがあるんです――浜中が必死の目をして語った台詞が蘇る。
傍から見れば滑稽だが、浜中の行動は理解できなくもない。だがそれが美冬にとっては忌まわしいことだったのではないか。
もう一つ、加藤の脳裏に蘇ったことがあった。曽我孝道の失踪事件だ。曽我は新海美冬が両親と共に写っている写真を彼女に渡そうとしていた。しかしそれを果たす直前で姿を消した。今も消息は不明だ。
浜中と曽我、どちらも新海美冬の過去に触れようとした。そして結局、彼女の前からは姿を消すことになった。曽我にいたっては、生きているのかどうかもわからない。
今度は俺がストーカーになるしかないかな――。
夜の闇に向かって加藤は笑いかけた。
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第八章
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一九九九年、元日――。
秋村邸では恒例の新年会が行われていた。一階の居間と応接室は仕切の壁を取り外せるようになっていて、二つを合わせれば約四十畳のパーティ会場に変わる。そこにテーブルが並べられ、古くから付き合いのある料亭から運び込まれた正月料理が、その上に飾られていた。テーブルを囲んでいるのは親戚連中だ。その中には、『華屋』の重役を務めている者もいる。
大声で笑う者がいる。秋村隆治の母方の叔父だ。酒が入ると誰かれ構わず演説を始めるのは昔からの癖だが、歳をとってからそれがひどくなった。
「二十一世紀なんてのはなあ、車が空を飛んでる世界だと、昔は思っとったよ。マンガとかにはそんなふうに描いてあったからなあ。マンガだけじゃない。偉い学者なんかも、同じようなことをいうとった。誰でも宇宙旅行できるみたいなことをな。ところがどうだ。せいぜい誰もが携帯電話を持つようになった程度だ。車は相変わらず地面を這い回っとるし、古くなった気象衛星をどうすることもできん。文明の進歩なんてのは、結局のところそんなものなんだ」
ついさっきまでは、自分がこの歳まで生きていられるとは思わなかった、健康に気をつけて生きてきてよかった、というような話をしていたはずだ。皆が適当に相槌を打っているうちに、演説のテーマが変わったらしい。
そんな叔父に美冬が酒のおかわりを持っていった。おまけに酌までしている。叔父は赤ら顔を大きく崩した。
「いやあしかし、隆治君もやるものだよなあ。あの歳になってまだ身を固めんものだからやきもきしとったが、何のことはない、こんないい人を隠しとった。これだけ奇麗な人がいたんなら、そりゃあ我々がどんな縁談話を持ってこようが、ちっとも耳を貸さんはずだわな」
彼の言葉に同意して頷く者もいたが、大抵は苦笑している。隆治が美冬と結婚してから一年近くが経つ。その時からこの叔父は、同じことばかりいっている。
「もうその話は聞き飽きたよ。年が変わったんだから、違う話をしよう」この家の主である隆治が、うんざりした様子で手を振った。彼は着物を着ていた。仕立てたばかりのもので、生地は美冬が選んだという。その美冬も和服姿だった。着付けができるそうで、着物での動きにも慣れている様子だ。
それならば、と別の親戚が子供の話を始めた。隆治たちが早く跡継ぎを作ってくれないと安心できない、という話だ。これには周りも同調した。そんなことをいわれてもこればっかりはどうにもできないよ、などと隆治は答えている。美冬は少し恥ずかしそうに俯き、そのまま厨房に下がった。
「やめなさいよ。新婚のお嫁さんをからかっちゃかわいそうでしょ」叔母が窘めている。
「美冬さんをからかっちゃいない。この『華屋』の若社長をからかってるんだ。十五も十六も下の、しかも美人の嫁さんをもらった幸せ者を」
「まったく隆治さんは幸せ者だ。美冬さんは美人なだけじゃなく、仕事もしっかりできる人だろう。そのくせ気取ったところが全然ない。隆治さんなんかにはもったいないね」隆治より二つ年下の従弟がいった。「こんなことなら、俺もあわてて結婚するんじゃなかったな。じっくり待つっていうのも手だった」
「何いってるのよ、隆治さんだからこの歳でも大丈夫なのよ。あなたみたいな太鼓腹のところになんか、誰が来てくれるものですか」隣に座っている彼の妻がいい、どっと笑いが起きた。
一年前、突然秋村家に嫁いできた新妻を、一族の人間は比較的好意的に見ているようだった。昨年夏の法事で集まった際も、彼女の的確な仕切りぶり、義理の通し方には、皆が感心した。若いのに大したものだ、あれなら隆治の伴侶として申し分ない、という意見が大半だった。
今日も美冬は朝から甲斐甲斐しく働いている。手伝いの女性が二人いるが、彼女たちへの指示にも漏れがない。次々と訪れる親戚への挨拶の際でも、隆治をたてた上で、相手が心地よくなる程度に応対するというそつのなさだった。
これでは彼女の評判がよくなるのは当然だったが、倉田《くらた》頼江《よりえ》だけはそんな状況を冷めた眼で眺めていた。彼女は、皆から冷やかされてまんざらでもない様子の弟を見て、あの子はいくつになっても成長しない、と白けていた。
頼江は隆治よりも三歳上だ。勉強においてもリーダーシップという点でも弟に劣っていると思ったことは一度もないが、自分が『華屋』の跡を継ぐという意識は子供の頃から一度も持たなかった。両親が昔から、跡継ぎは隆治だと決めていたからだ。それで彼女は高校時代から、好きな絵画の世界を目指すようになった。女子大時代には、一年間だけパリに留学した。残念ながら画家にはなれず、卒業後二年して見合い結婚をした。
「頼江さんは、これでもう完全に心配事がなくなったんじゃないの?」隣席の従妹が話しかけてきた。「光一《こういち》君は一人前になったし、隆治さんもようやく所帯を持ってくれたから」
光一は頼江の長男だ。今年、二十五になる。医学部を出て、今は大学病院にいる。
「光一はまだ一人前とはいえないわよ。それに、隆治のことは前から心配してなかったし」
「いずれいい相手が見つかると信じてたわけ?」
「そうじゃなくて、下手な相手とくっつくぐらいなら、独身のままでもいいんじゃないかと思ってたのよ。お手伝いさんだっているし、特に不便にしている様子もなかったから」
「それにしたって一安心じゃない。あんなに若くてしっかりした人が来てくれたんだから」
「まあね」従妹の意見は頼江の感想とは全く違うものだったが、彼女は話を合わせておくことにした。
頼江たちの父親が死んだのは七年前だ。その直前、彼女は父親の枕元に呼ばれ、隆治のことをよろしく頼むといわれた。父は自分が癌であること、余命いくばくもないことを察知していたのだ。
「あいつは仕事はできる。『華屋』のことは、たぶんうまくやっていけるだろう」父親は痩せ細った喉を動かしていった。「心配なのは、家のことだ。わしもあいつに仕事を教えるばかりで、家庭を持つということを教えなかった。かあさんが生きていれば、そういうこともなかったんだろうが」
頼江たちの母親は、そのさらに二十年近く前に亡くなっていたのだ。
あたしがいい相手を見つけるわよ、と頼江は父にいった。父は布団の中で頷いた。
「よろしく頼む。あいつは自分で思ってるほど厳しい人間じゃない。変な女につけ込まれないかと心配だ。女のことは女でないとわからん。だからおまえに頼むんだ」
「わかってるわよ。でもお父さんも元気になってよ。二人で隆治の相手を探しましょう」
彼女の言葉に父は力無く微笑んだ。単なる形だけの言葉であることを知っている目だった。
死ぬ間際まで、父の最大の心配事は、跡継ぎがいないということだった。一代で『華屋』を築き上げた彼としては、何としてもそれを自分の直系に継がせたかったのだ。
父の遺言を守るべく、頼江はしばしば隆治に縁談の話を持っていった。しかし隆治はろくに話を聞こうともしなかった。
「俺の相手は自分で見つける。人に探してもらおうとは思わない」
「そんなことをいっているうちに四十を過ぎちゃったじゃないの。あなた、本当に誰も来てくれなくなるわよ」
姉の脅しも効果はなかった。
「相手が見つからないなら、見つからないでいい。老後が寂しくならない程度には友達だっている。とにかく俺は妥協しての結婚なんていう馬鹿げたことはやりたくないんだ」
「でもあなたに子供がいないんじゃ、『華屋』はどうなるの」
「どうにもならない。皇室じゃないんだぜ。血は繋がってなくても、優秀な人間に任せればいい。一族で仕切り続けようなんてのは時代遅れだ」
頼江だけでなく、彼に縁談を勧める人間すべてが、こうした反論に遭った。やがては誰も彼にそんなことはいわなくなった。頼江でさえ、諦めかけていた。そんな時、突然隆治が結婚するといいだしたのだった。
夕方になって、親戚たちが続々と帰っていった。それぞれ明日も予定が詰まっている。元日の新年会は早めに切り上げるというのが、以前からの慣例になっていた。
最後の客を送り出したところで、頼江は自分の肩を揉んだ。彼女も自分の家に帰らねばならないのだが、何となく今も本家の立場で行動してしまっている。
「やれやれ、ようやく元日のお務めから解放されたか」
居間では隆治がソファに座り、足を投げ出していた。アルコールには強いはずの彼も、さすがに少し顔が赤い。テーブルの上は、すでに大方片づけられている。厨房から洗い物をする音が聞こえていた。
「美冬さんは?」
「後片づけをしている。お手伝いさんに任せておけばいいといったんだけどさ」うんざりした顔をしてはいるが、妻の働きぶりを誇っている気配がその口調には濃厚だった。
頼江も腰を下ろし、壁のリビングボードに目を向けた。その上に置かれているもののことが気になっていた。
「ねえ、あれ、年賀状?」頼江は弟に訊いた。
「えっ? ああ、そうだよ」
「すごい数ね。何枚ぐらいあるのかしら」
「さあね。数えたことはないな。千枚ぐらいあるのかな」
「全部、あなた宛て?」
「そこにあるのはそうだ。まだ中身は殆ど見てない。さすがに親父宛てのものはなかった」
二、三年前までは、父親の名前宛てで何通か届いていたのだ。
「美冬さん宛ての年賀状も届いてた?」頼江は声を落とした。
「届いてたよ、もちろん。だって、転送届も出してあるんだから」
「でも仕事関係のものは、会社に届くんじゃないかしら」
「そうだろうな、たぶん」
「ふうん……何通ぐらい?」
「何が?」
「ここに届いた美冬さん宛ての年賀状よ」
頼江の質問に、隆治は顔をしかめた。
「知らないよ、そんなこと。年賀状の差出人をチェックしてて、美冬宛てのがあったら横にはねておくだけだ。何しろその数だから、差出人に目を通すだけでも大変なんだ」
「正確な数なんてどうでもいいのよ。多かったか、少なかったかぐらいのことはわかるでしょ」
「そりゃあ、俺よりは少なかったよ」
「五十枚ぐらい?」
「そんなにはなかったと思うけどな。なんでそんなこと訊くんだよ」
拗《す》ねたような目で睨みつけてくるのを見て、こういう表情は子供の頃と少しも変わらないと頼江は思った。
「友達とか昔の知り合いとかからは、どれぐらい来てるのかなと思って」
「またその話か」隆治は口元を歪め、煙草の箱に手を伸ばした。「姉さん、ちょっとしつこいぜ」
「だって気になるもの」
「だからそれを気にするほうがおかしいといってるんだ。彼女が阪神淡路大震災に遭ったことは知ってるだろ。それで御両親も亡くなったんだ。それをきっかけに、人間関係も全部リセットされてしまった。一体どこがおかしいんだ」
「御両親の家が全壊したことは聞いたわよ。でも美冬さんは、元々そこで生まれ育ったわけじゃないんでしょ。それなのに震災で、それまでの交際が全部絶たれるなんてことあるのかしら?」
「前にもいっただろ。彼女は両親と同居するつもりで帰ったんだ。その時震災に遭って、住所録もアルバムもなくしてしまった。仕方なく上京してきたわけだけど、彼女と昔から付き合いのあった人間は、そのことを知らない。だからお互い、連絡しようにもできないんだ」
「たしかに向こうはできないかもしれないけど、美冬さんが連絡をとろうと思えば、何とでもなるんじゃないかしら。たとえ住所録が焼けちゃってたとしても」
「なあ、姉さん、何がいいたいんだ」隆治は口元に運びかけていた煙草を箱に戻した。声が苛立っていた。
「別に何も。ただ、ちょっと変だといってるだけよ」
隆治は吐息をつくと、頭を振り、腰を上げた。
「どこへ?」頼江は訊いた。
「着物じゃ動きにくいから着替えてくる」彼はドアに向かいかけたが、途中で立ち止まり、振り返った。
「いっておくけど、今みたいな話、絶対に美冬にはしないでくれよな。美冬だけじゃない。よそでそんな話、しないでくれよ」
「しないわよ」
頼江の答えを聞くと、隆治は口を真一文字に結んで部屋を出ていった。
ドアが閉まるのを待って、頼江は立ち上がった。リビングボードに近づき、年賀状の山を見下ろした。何枚か見てみたが、やはりいずれも隆治宛てのようだ。彼女はその周囲を見回し、引き出しも開けてみた。しかし美冬宛ての年賀状は見当たらなかった。
結婚したい相手がいる、と隆治から聞かされたのは、一昨年の秋だ。その時には頼江は単純に喜んだ。本人が理想の相手を見つけられたのなら何よりだと思った。相手の女性が、最近『華屋』と提携を始めた会社の経営者だと知った時も、格別抵抗は感じなかった。日本も、これからは女性起業家が増えるだろうし、弟の結婚相手がたまたまそういう女性だったというだけのことだ。むしろ、『華屋』の社長夫人となるからには、仕事のことをまるで知らないよりは精通していたほうがいいと思った。ただし家庭を築くという点において、妻が忙しすぎるというのはどうだろうという心配はあった。しかし隆治は一笑に付した。
「悪いけど、姉さん、俺には家庭を築くなんていう意識はない。彼女とできるだけ一緒にいたいから、最もシンプルな方法を選ぶことにしただけだ。だから彼女に家事をしてもらおうとは思わないし、秋村の古臭いしきたりを押しつけようとも思わない。彼女とは結婚してからも、良きパートナー関係を保っていくつもりだ」
隆治らしい言い分だった。父親が生きていたら何といっただろうと思ったが、頼江は黙っていることにした。弟が結婚する気になったことだけで嬉しかった。
相手の女性とは、それから数日後に会うことになった。頼江は弟の話から、ばりばりのキャリアウーマンを想像していた。若くして会社を興すぐらいだから、かなり勝ち気な性格でもあるはずだ。古い因習にはとらわれないと、全身でアピールしてくるかもしれない。それについて、まずはとやかくいわないでおこうと頼江は決めていた。
だが隆治が連れてきた女性は、そんな頼江の想像とはまるで違っていた。
新海美冬は物静かで、控えめな女性に見えた。もちろん、受け答えがしっかりしていることや、自分の意見を持っていることなどから、芯の強い性格であることはわかる。しかしあくまでも隆治をたてようとする態度や、極力出しゃばらないでおこうとする姿勢には、女性起業家の面影はなかった。緊張しているせいかと思ったが、しばらく話しているうちに、そうではないと気づいた。新海美冬からは余裕が感じられた。結婚相手の姉に会うことぐらい何でもない、といわんばかりの余裕だ。わざと一歩|退《ひ》いた位置に身を置いて、婚約者とその姉のやりとりを楽しんでいる。
悪意のある言い方をすれば、彼女は演じているように見えた。無論、そういう時には人は多少演技をするものだろう。だが美冬のそれは、そんな単純で本能的なものではなかった。彼女は秋村家の嫁として気に入られる女性像を練りに練って組み上げ、完璧にその役をこなしていたのだ。少なくとも頼江にはそう見えた。
ふだんでも彼女はああいう人なのかと、頼江は後日隆治に尋ねてみた。
「多少、硬くなってたみたいだね。いつもはもう少し口数が多い。きっと姉さんのことを怖がってたんだよ」隆治は陽気な口調でそういった。
新海美冬は硬くなどなっていなかったし、断じて自分のことを恐れてもいなかった、と頼江は思った。そして、それを見抜けない弟を見て、「あいつは自分で思ってるほど厳しい人間じゃない」といった父の言葉を思い出した。要するに頼江は、女の勘で、あの女性は隆治には不向きだと直感したのだった。
だが隆治の縁談は着々と進行していった。頼江がそれに口を挟むわけにはいかなかった。反対の理由を訊かれて、単なる直感だと答えれば、隆治から馬鹿にされるだけだろう。
新海美冬について、せめてもう少し身上調査してみるべきだったのではないか、と今も頼江は悔いている。そのことを全く考えなかったわけではないが、実家が震災に遭ったという話を聞き、それならば調査しようにもできないだろうと勝手に決めつけてしまった。美冬の生まれ育った場所は、じつは京都だと知るのは、結婚式が終わってしばらく経ってからだった。
その結婚式だが、『華屋』の社長がようやく嫁を迎えるというわりには、地味で小規模なものになった。隆治の意思だというが、美冬の意向がかなり反映されたのではないか、と頼江は感じている。というのは、新婦側の出席者が驚くほど少なかったからだ。しかもわずかな出席者にしても、『BLUE SNOW』の関係者ばかりで、親戚はおろか学生時代の友人の名前さえもなかった。
頼江の美冬に対する不信感が強まったのは、その頃だったといえる。いかに震災で人間関係が絶たれたとはいえ、かつての繋がりが全く途絶えたというのは、理解しがたかった。まるで美冬が過去を隠しているように感じられた。
「考えすぎだよ」頼江の懸念に対し、隆治は不快さを露骨に顔に出した。「結婚式を地味にやろうというのは、二人で話し合って決めたことだ。俺もこの歳だし、今さら派手なことはしたくないからさ。彼女はその考えに沿ってくれただけだ」
「それにしても親友ぐらいは呼ぶはずでしょ。それとも美冬さんには、親友と呼べる人が一人もいないわけ? それはそれで、少し問題だと思うんだけど」
「彼女がどうしても呼びたいと思う人間には声をかけている。それで十分じゃないか」
「でも昔からの知り合いというのが――」
彼女の言葉を隆治は途中で遮った。
「デリカシーのないことをいうなよ。彼女が震災でどんなに苦労したかは話しただろう? 世の中には、過去に縛られたくない人間というのもいるんだ」
頼江が何をいっても、隆治は聞く耳を持たぬ様子だった。
結婚後、美冬は見事に秋村家の嫁の役割を果たしている。だが頼江は納得していなかった。美冬について、怪しげなことが多すぎるからだ。
数年前に起きた『華屋』での異臭事件の際、当時フロア長だった浜中が逮捕された。容疑は直接異臭事件に関わるものではなく、部下の郵便物を盗んだということだった。当時『華屋』では、複数の女性従業員が不審な男につけ狙われるという事件も起きていた。
その時に郵便物が盗まれた女性というのが、美冬だった。浜中は結局異臭事件については無関係ということで釈放されたのだが、当然のことながら会社からは追放された。その際彼は、新海美冬の郵便物を盗んだのは事実だが、それは彼女が自分の愛人だからであり、その他のストーカー行為は身に覚えがないと一部の上司に釈明している。それについて美冬は完全否定し、上司たちも浜中の苦し紛れの嘘であろうと判断した。
その話を頼江が耳にしたのは、隆治が美冬と結婚した後のことだ。話した人間は、単なる笑い話のつもりだったのだろうが、頼江は引っかかった。さらに最近、奇妙な噂を聞いた。浜中が昨年の春頃、『BLUE SNOW』に現れたというのだった。
美冬は本当に浜中とは何事もなかったのか。それについて頼江は隆治に尋ねてみた。予想されたことだったが、彼は激昂した。
「そんな古い話を今頃持ち出してきて、どういうつもりなんだ。あの件は俺だって聞いているし、ずいぶん迷惑したと美冬もいっていた。どうやら浜中は一方的に美冬のことを想っていたらしいけど、彼女にはそんな気は全くなかったということだ。『BLUE SNOW』に現れたのも、単にいいがかりをつけに来ただけだった。もう二度と彼女には近づかないよう、俺が手を打っておいたよ」
美冬が本当のことをいっているとはかぎらないと頼江が指摘すると、彼の怒りは一層増幅された。
「あの時には警察が大がかりな捜査を行っていたんだ。そんな中で、嘘をつき通せると思うかい? 浜中がほかの女子社員にもおかしなことをしていたことは事実なんだ。奴が美冬とは特別な関係にあるといったのは、見つかったのが、彼女の郵便物を盗むところだったからだ。ほかの女子社員に対するストーカー行為を見つかっていたら、全然違うことをいっていたさ。とにかく俺は美冬を信じているし、疑う余地なんてこれっぽっちもない。姉さんも、もう二度とそんなことは口にしないでくれ。あの件については、彼女だって傷ついているんだからな」
怒りをぶちまけながらの台詞ではあったが、隆治の話は筋が通っている。だがそれでも頼江は納得できなかった。美冬に対する第一印象が、自分の感覚をねじ曲げているのかもしれなかったが、何か得体の知れない気味悪さを美冬には感じるのだった。
改めて美冬のことを調べてみようかと思うことが時々ある。だが思うだけで、なかなか実行には移せなかった。結婚前ならともかく結婚後では、調査員を雇うわけにもいかない。それがきっかけで妙な噂がたったら厄介だ。
そんなふうにして時間だけが過ぎていき、とうとう一年が経ってしまった。今さらどうすることもできないと自分にいい聞かせてはいるが、やはりふとしたことで気になってしまう。年賀状にしてもそうだ。本当に美冬は、単に連絡がとれなくなったという理由だけで、昔の知人との交流を絶ったのだろうか。
ソファに座り、そんなことをあれこれと考えていると、美冬が厨房から戻ってきた。和服の上からエプロンをつけている。義姉を見て、彼女はそれを外す手を一瞬止めた。「あら、お義姉《ねえ》さん」
「ああ、美冬さん。今日はどうも御苦労様。疲れたでしょ」
「お義姉さんこそ、いろいろな方のお相手をなさってお疲れでしょ。今日はお義兄《にい》さんもいらっしゃらなかったから」
頼江の夫である倉田|茂樹《しげき》は、航空工学博士だ。現在はシアトルにいる。現地の航空機メーカーとの共同研究に参加するためだ。正月は帰らないということは、ずいぶん前から聞いていた。彼の単身赴任は、今年で三年目になる。日本に帰ってくるのは年に一、二度だ。
「私が疲れることなんてないわよ。どうせ昔からよく知っている親戚ばかりなんだから。隆治も、もう少し美冬さんのことを気遣ってくれればいいのにね」
「いえ、私は平気ですから」美冬もソファに腰を下ろした。
「美冬さん、あなた、京都には帰らなくていいの?」頼江はいってみた。「向こうにもお知り合いがいらっしゃるんでしょう? お正月ぐらい、一度顔を見せておいたはうがいいんじゃないかしら」
着替えてくるといった隆治は、なかなか姿を見せない。この手の話題を出すには、今しかなかった。
「京都……ですか」美冬は頼江から目をそらし、遠くを見る表情をした。「しばらく帰ってません。帰るといっても、私が生まれ育った家は、今はもうないんですけど」
「だったら、久しぶりに帰ったら? 学校時代のお友達とかは、まだ住んでおられるんでしょう?」
「さあ、とにかく全然連絡をとっていませんから」美冬は頼江を見て、首を振った。
「せっかく結婚したというのに、そのことを誰にも伝えられないんじゃ寂しいじゃない。特に京都は、美冬さんにとって懐かしい場所でしょ?」
「ええ、それはもう」
「それなら一度、京都に顔を出すべきだと思うわ」頼江は少し強い口調でいい、美冬の反応を窺った。
「そうですね」彼女はあっさりといった。「私も折を見て、行ってみようと思ってたんです。忙しくて、ついつい延ばし延ばしになってたんですけど、いい機会かもしれませんね」
彼女の態度には些《いささ》かの揺らぎもなかった。
「そうだわ。私も京都に行きたいと思っていたところなの。どうせだから、一緒に行かない? 二、三日、向こうでゆっくりしましょうよ。私も美冬さんが生まれ育った街を見てみたいし」
仮に美冬が過去に何らかの秘密を抱えているのなら、こんな提案は迷惑なはずだった。やんわりと断ってくるはずだと頼江は思った。
だが美冬は表情をぱっと明るくしてこういった。
「それ、いい考えですね。私もお義姉さんとなら寂しくないし」頼江が拍子抜けするような反応だった。
「しばらく行ってないから、京都もずいぶん変わったと思いますけど、昔ながらの名店なんかはそのままのはずです。いろいろなところを御案内します」
彼女の口調には、頼江の提案を避けたがっている気配はなかった。
「じゃあ、今決めちゃいましょうよ。いつにする? 私はいつでもいいわよ」
「そうですね、スケジュール表が手元にないので、何ともいえないんですけど」美冬は考える顔になった。「今月の末頃なら、たぶん身体が空くと思います」
「あら、お正月の間じゃだめなの?」
「だって、お正月の間は隆治さんのほうのお付き合いがありますから」
「そうか……」
「お正月明けは、うちの会社もいろいろとばたばたすると思うので、二、三日空けるというのはちょっと難しいと思うんです。でも月末なら、何とかなると思います。それじゃ御都合悪いでしょうか」
「いえ、私は今もいったように、いつでもいいのよ。じゃあ月末ということで」
「はい、楽しみにしています」
美冬が微笑んで答えた時、階段を下りる足音が聞こえてきた。頼江は急いで美冬にいった。
「今の話、隆治には当分内緒にしておきましょう。やきもちを焼くといけないから」
美冬は一瞬怪訝そうにしたが、すぐに笑顔に戻って頷いた。
これでいい、と頼江は思った。一緒に美冬の故郷に行けば、何かわかるかもしれない。そして本当に何もなければ、それに越したことはない。
「二人で何ひそひそ話をしてるんだ」隆治が入ってきて訊いた。
「別に。ねえ」頼江は美冬と目を見合わせた。
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雅也が駅に向かって歩いている時だった。数メートル前方で誰かが立ち止まった。俯いていた彼には足元しか見えなかったが、それが誰なのかは直感的にわかった。彼は視線を上げていった。ダウンジャケットを羽織った有子が、彼を見つめて立っていた。手にスーパーの袋を提げている。
雅也は再び視線を落とし、足先の方向を微妙に変えた。彼女の横を通り過ぎていくつもりだった。
「雅也さん」彼女が声をかけてきた。
雅也は立ち止まった。しかし俯いたままだ。
「どこ行くの?」
少し間を置いてから彼は答えた。「どこでもええやろ」
「仕事?」
黙っていると有子は近づいてきた。雅也は観念して顔を上げた。彼女と目が合った。
「髪、伸ばしてるんやな」
だがそれには答えずに彼女は尋ねてきた。「元気? ちゃんと食べてる?」
雅也は薄く笑った。「おふくろにいわれてるみたいやな」
「最近、全然来てくれなくなったね。引っ越したのかなって思ってた」
「引っ越す理由なんかない。そんな金もないし」
「今はどこで御飯食べてるの? よその店?」
「まあ、そうかな。自分で作ることもあるし」
そう、と彼女は呟いた。それに続ける言葉が見つからない様子だった。
どこかでお茶でも、と彼女はいってほしいのかもしれなかった。雅也も久しぶりに彼女と向き合いたい気分だった。しかし向き合ってどうなるわけでもない、という気持ちもあった。何より、そんな時間はなかった。午後五時。ぐずぐずしていたら遅れてしまう。
「うちには来にくくなったの?」有子が改めて訊いてきた。
「そういうわけやない」
「じゃあ、どうして?」
さらに詰問され、答えに窮した。こんなことならあっさりと、行きにくいのだと答えればよかったと後悔した。
「一応いっておくけど、あたしは何も気にしてないから」
有子が何のことをいっているのかはすぐにわかった。二年ほど前、食事をアパートまで持ってきてくれた彼女に突然襲いかかった。しかも、相手は誰でもよかった、とまでいって彼女を傷つけたのだ。
「もし、まだ雅也さんのほうが気にしてるということなら、あたし、雅也さんが店に来た時には、注文係はおかあさんに代わってもらうから。雅也さんには近づかないようにするから」
雅也は苦笑を浮かべた。「そんなこと、する必要ない」
「でも、そうでもしないと来てくれないでしょう?」
「俺が行けへんぐらいのこと、『おかだ』にとってはどうでもええことやろ」
彼女は苛立ったようにかぶりを振った。
「お店の儲けのことなんかいってるんじゃない。そんなことは雅也さんだってわかるでしょ。あたし、雅也さんのことが心配でいってるの。雅也さん、うちの料理がおいしいっていってくれたじゃない。この店があるから食べることでは心配がないって。それなのに来られなくなったんなら、何だか申し訳ないなと思って」
「有子ちゃんが謝ることはないやろ。元々は俺が悪いわけやから」
「やっぱりあの時のことを気にしてるんだ」
有子に指摘され、雅也は黙り込むしかなくなった。
「ねえ、本当にあたしは気にしてないから、遠慮しないで来てよ。お父さんも気にしてた。あの職人さん、最近姿を見せないけど、どうしたのかなって」
『おかだ』の主人が自分のことなどを気にかけているわけがない、と雅也は思った。
「近いうちに行く」彼はようやくそれだけいった。
「本当? 本当に来てくれる?」
「うん、行くよ」雅也は彼女の目を見て答え、それからまたすぐにそらした。
「よかった。約束だからね。しばらく待って顔を見せなかったら、あたし、部屋まで行っちゃうかもしれないよ」
有子の快活さが復活したようだ。雅也も思わず自然に顔が綻んだ。
「近いうちにきっと」
「じゃあ待ってるから。引き留めてごめんね」
いや、と彼は首を振った。有子が笑顔で遠ざかっていくのを、立ち止まって見送った。複雑な思いが胸に広がっていた。
曳舟から浅草に出て、地下鉄で人形町《にんぎょうちょう》に向かった。ドア際に立ち、外を流れる黒い壁を見つめながら、有子とのやりとりを反芻《はんすう》した。嬉しいような、切ないような気分が振り子のように彼の中で揺れている。その振り幅が少し大きくなった時、ふとこんなふうに思う。
あんな女となら幸せな家庭を築けたかもしれない――。
いつもは考えまいとしていることだ。考えたって仕方がない。自分はもう人生の選択を終えてしまっている。あとはどんなことがあろうとも、今歩んでいる道を目をつぶってでも突き進むしかない。余計なことは考えないことだ。美冬からもそういわれた。
「あたしのことを信じて。絶対に雅也のことを不幸になんかしないから。雅也が喜んでくれるようにするから。今は余計なことは考えないでいて」
年が明けて最初に会った夜、美冬が彼にいった言葉だ。その前に彼は彼女の口の中で一回、掌の中でもう一回射精していた。依然として美冬は、彼が彼女の中で射精することを許さなかった。場所は都内のシティホテルだ。結婚前に宣言したとおり、彼女は今では雅也のアパートには来ない。
電車が人形町に到着した。彼はホームに降り立った。時計の針は五時半になろうとしている。予定通りだ。彼は出口に繋がる階段に向かった。
外に出ると、新大橋通りまで歩いた。交差点のそばに立ち、通りを挟んで反対側のビルに目をやった。三階の窓ガラスに『ミフネ陶芸教室』と書かれている。
書店で立ち読みするふりをしながら十分ほど様子を窺っていると、ビルの一階から六人の女性が出てきた。雅也はそのうちの一人を凝視した。白いコートを着て、薄い色のサングラスをかけている。栗色に染めた髪は肩の少し下あたりまである。
女性たちの年齢は似たようなもので、全員が五十歳前後だ。だが雅也が注目している女性は、一人だけ若々しく見えた。体形が崩れていないせいかもしれない。
彼女たちは二人と四人に別れて歩きだした。白いコートの女性は四人組に含まれている。雅也は手にしていた雑誌を置き、彼女たちから目を離さぬよう気をつけながら交差点に立った。信号機がなかなか青に変わらず、少し焦った。
幸い彼女たちは、すぐそばのファミリーレストランに入っていった。雅也はほっとして、ようやく青に変わった交差点を渡った。
レストランに入っていくと、一番奥のテーブルを占拠している彼女たちの姿が目に入った。彼はウェイトレスに案内されるまま、少し離れた席に腰を落ち着けた。
薄いコーヒーを飲み、煙草を吸いながら、白いコートの女性の様子を観察した。彼女は今はコートを脱いでいた。その下にはグレーのニットを着ていた。ネックレスをつけているが、その先に光るものは本物のダイヤに相違なかった。『華屋』の品だろうと彼は見当をつけた。
彼女は笑顔こそ浮かべているが、どことなく退屈そうに見えた。言葉数も四人の中では一番少ない。彼女の向かい側には、一番太った、それでいて最も派手な服装をした女性が座っている。しゃべっているのは殆どその女性で、他の三人は彼女に相槌を打つばかりだ。
一時間ほどして、雅也が注視している女性が立ち上がった。コートを手にしているから、帰るつもりらしい。しかし他の三人は、まだ腰を上げる気はないようだ。好都合だと彼は思った。
雅也は伝票を手にし、彼女よりも一足先にレジカウンターに向かった。代金を支払いながら目を向けると、彼女はまだ太った女性と何やら言葉を交わしているところだった。なかなか解放してもらえないようだ。
レストランを出ると、少し離れたところで見張った。数分で白いコートの女性が出てきた。彼女は水天宮の交差点に向かって歩きだした。
もしタクシーを捕まえるようなら、すぐに自分も拾わねばならない。そう思って雅也は後を追った。しかし、今日もまたこのまま収穫なしで終わるのではないか、という気もした。追跡を続けたところで、品川にある彼女の自宅の前まで行くだけではないか。実際、これまでの三度の追跡はそういう結果に終わっている。
ところが今日は、彼女にタクシーを拾う気配はなかった。交差点を渡った後、水天宮のほうに歩いていく。
雅也がさらに尾行を続けると、彼女は水天宮の前も通り過ぎた。やがて前方にホテルが現れた。彼女は正面玄関から中に入っていった。彼は少し躊躇ったが、結局後を追うことにした。
ロビーに入ると、真っ先にフロントに目をやった。チェックインするのではないかと思ったのだ。だがそこに彼女の姿はなかった。急いで周囲に視線を配った。左側にあるオープンスペースのティーラウンジに、彼女が入っていくところだった。
雅也は彼女の動きに注目しながら、ロビーの中をゆっくりと移動した。ロビー内にもソファの並んだスペースがある。そこからラウンジ内を見通せることを発見し、とりあえず店には入らないことにした。
彼女はコートを脱ぎ、端のテーブルについた。二人掛けのテーブルだ。誰かと待ち合わせをしているのだなと雅也は読んだ。彼女が時計を一瞥する。相手が少し遅れているのかもしれない。
ようやく当たりか、と彼は期待した。美冬の喜ぶ顔が浮かんだ。
先日美冬に会った時、彼女は一枚の写真を雅也に見せた。スナップ写真だった。写っている女性は和服姿だった。
倉田頼江という名前だと美冬はいった。
「あたしの義理のお姉さんで、旦那は大学の教授。今はアメリカに行ってるけどね」
この女性について調べてほしいのだと彼女はいった。
「どんなことでもええ。趣味についてでも、お金についてでも。けどやっぱり第一希望は男のことやね」彼女はにやりと口元を緩めた。
何のために、と雅也が尋ねると、美冬の顔から笑みが消えた。
「ちょっと鬱陶しいんよ。あたしのことを怪しんでる」
「怪しむて……何を?」
「いろいろや。浜中とのこともそうやし、もしかしたら雅也のことも何か勘づいてるかもしれん」
「俺のこと? まさか」
「雅也のことはまだ知られてへんと思うよ。けど、あたしに裏の顔があって、ほかに恋人がいるんやないか、という程度の疑いは持ってるかもしれん。どっちにしても厄介な話なんよ。ほっといたら、探偵か何か雇うかもしれん」
「それは……やばいな」
「そこで先手を打つわけや」美冬は頼江の写真を指先でこつこつとつついた。「この世に弱みのない人間なんかいてない。今のうちに相手の弱点を握っておけば、何を仕掛けてこようが安心やろ」
こういうことを話す時、彼女の全身からは冷気を含んだオーラが発せられている。そばにいるだけで雅也は寒気を感じてしまう。
「狙いはわかるけど、俺に見つけられるかな?」
「そんな気弱なことでどうするの。大丈夫、雅也なら見つけられる。あたしが見込んだ男やねんから」
「そういわれても……」雅也は自信がなかった。写真の女性は颯爽《さっそう》としており、何事にも動じなさそうな気配を漂わせていた。
「もし弱みを見つけられそうになかったら、弱みを作ったらええだけのことや。大したことやない」
「作るってどうやって」
「それはケースバイケースや。けど、それほど難しいことはないで。なあ雅也。あたしのことを信じて――」
美冬の力になりたいという気持ちはある。自分が縁の下の力持ちになることで彼女が幸せを掴めるなら、それはそれで本望だ。しかし、震災の被害から逃げるように上京してきた時とは、明らかに様子が違ってきている。美冬のいう「幸せ」や「成功」が、雅也には単なる虚構としか思えない。
また、彼女の要求が急速に過激になったのも事実だ。他人を罠にはめる程度のことならば、こんな世の中だから仕方がないと割り切ることもできたが、極限までエスカレートしてきた彼女の提案内容は、それを実行するたびに雅也の心を痛めつける。
あたしが見込んだ男やねんから――その言葉の裏にあるものを雅也は考えた。それが本当なら、彼女は一体いつ「見込んだ」のか。その答えは一つしかない。
彼の脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。震災の直後、叔父の頭を叩き割った。美冬はあの光景を目撃していたに違いない。彼女はそれを目にして、恐ろしさとは別のものを胸に抱いたのだ。この男なら使えるかもしれない、そう思ったのではないだろうか。
彼女に見込まれた以上、自分にはこの道しか残されていないのか――疑問を胸に抱いたまま、雅也は倉田頼江の監視を続けた。
頼江が反応を見せた。顔を上げ、入り口に目を向けている。ちょうど一人の男がラウンジに入っていくところだった。濃紺のスーツを着て、手に黒っぽいコートを持っていた。年齢は五十歳前後か。中肉中背で、髪をオールバックにしている。スーツが高級品だということは、遠目にもわかった。会社役員、もしくはそれに近い立場の人間だと雅也は値踏みした。
男は頼江の席まで行くと、頭を下げ、申し訳なさそうな顔で何やらしゃべりながら彼女の向かい側に腰を下ろした。約束の時刻に遅れたことを詫びているのかもしれない。恋人に対する接し方ではないと雅也は感じた。
男は手帳を取り出し、しきりに何か語っている。頼江は頷きながら聞き、時折言葉を挟む。会話の内容を聞きたかったが、近づくのは危険だった。これからも頼江の監視は続けねばならないから、彼女の印象に残りたくなかった。
相手の男が突然立ち上がった。携帯電話がかかってきたらしい。男は電話を耳に当てながらラウンジを出ると、雅也のいるほうに歩いてきた。
雅也は咄嗟の判断でソファから腰を上げ、そばの柱の陰に隠れた。今後のことを考えると、相手の男に顔を見られるのもよくないと思ったのだ。場合によっては、この男を尾行する必要も出てくるかもしれない。
柱の脇には灰皿があったので、雅也はいかにも一服つけるために席を立ったのだという顔で、コートのポケットから煙草を取り出した。それから男の様子を窺うため、柱の陰から顔を覗かせたが、すぐにその顔を引っ込めることになった。なんと男が、そばに立っていたのだ。
「……だから、今その客と会ってるところなんだよ。……まだ何ともいえないが、怪しんでる様子はない。ただ、ちょっと慎重になってるだけだ。何しろ金額が金額だからな」
男の話が耳に飛び込んできた。男は柱の反対側に人が潜んでいることなど気づいていないらしい。
「……急かしたってしょうがないだろ、金を出すのは向こうなんだから。……無茶いうな。一千万が限度だ。欲を出しすぎて失敗したら元も子もないだろうが。せっかくのカモを逃がす気か。……ああ、とにかく俺に任せろ。もう切るぞ」
男の立ち去る気配があり、雅也も柱から離れた。男はラウンジに戻っていった。愛想笑いを頼江に向けている。
面白いことになった、と雅也は思った。どうやら頼江が会っている相手は、何らかの投資を彼女に持ちかけているようだ。しかもそれは彼女に利益をもたらすものではなく、おそらくその逆だ。彼女は彼等の「カモ」なのだ。
一千万円の投資の件を、彼女は夫に話しているだろうか。たぶん話していないだろう、と雅也は推測した。男というのは、そういう話にはなかなか乗らないものだ。まして彼女の夫は科学者だという。物事を理論的に考える習慣のある人種は、うまい儲け話には基本的に懐疑的だ。
夫に内緒で投機をし、結果的に金を騙し取られたとしたらどうか。ふつうならばそのことを隠そうとするだろう。しかも夫は長期出張中だ。すぐにばれることはまずない。
美冬のいう、頼江の弱みを握るチャンスだった。問題は相手の男の正体だ。
話が一段落したらしく、男がコートを持って立ち上がった。頼江は座ったままだが、男は伝票を手にレジカウンターに向かっていく。
雅也は思考を巡らせた。頼江はまだ紅茶を飲んでいる。飲み終えてから店を出ていこうと思っているのかもしれない。男は支払いを済ませると、下りエスカレータに向かって歩きだした。頼江と男、どちらを尾行すべきか。
雅也は大股でエスカレータに向かった。今度、頼江がいつ男と接触するかはわからない。今日を逃せば男の正体を突き止めるチャンスはないかもしれない。
エスカレータを下ったところには、地下鉄水天宮前駅に繋がる通路があった。地下鉄ならば尾行はしやすい。
だが男は通路を途中で曲がった。駐車場の表示がある。雅也は舌打ちして後を追った。
地下駐車場には高級車がずらりと並んでいた。そのうちの一台に近づいていく男の背中を見つめながら、雅也はそばの車の陰に身を潜めた。
男が乗り込んだのはグレーのベンツだった。雅也はポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、ナンバーを控えた。いつだったか美冬が、警察以外にナンバーから持ち主を探してくれる人間がいるという意味のことをいっていた。コンピュータ・ネットワークを利用した裏ビジネスに彼女は詳しい。
エンジンのかかる音がした。ベンツが動きだし、走り去るのを、雅也は身を屈めて待った。音が聞こえなくなってから彼は立ち上がり、ホテルの入り口に向かおうとした。その瞬間、ぎくりとした。頼江が立っていた。
彼女は雅也の不自然な行動を逐一見ていたようだ。不審げな表情が、それを物語っていた。
だが雅也は彼女から目をそらし、狼狽を表に出さないようにして足を踏み出した。何より今は、この場を切り抜けることが先決だった。
黙って頼江の横を通り過ぎた。地下通路へのドアを開ける。しかし彼が中に入ろうとした時、彼女の声が飛んできた。「ちょっと、あなた」
聞こえないふりをしようかとも思ったが、無駄だと観念し、振り返った。頼江は表情を少し強張らせて歩み寄ってきた。
「ヤマガミさんのお知り合い?」咎める口調だ。
「ヤマガミ? 何のことですか」
「だって今、隠れてヤマガミさんの車を見てたでしょ」
「そんなことしてませんけど」雅也は、心外な、という顔を作った。腋の下に汗をかいていた。
頼江は彼の顔を見つめた後、何もいわず、彼の脇を抜けて先にドアをくぐった。小走りで通路を進んでいく。彼女の手に携帯電話が握られているのが見えた。
まずい、と直感した。彼女はヤマガミに連絡を取る気でいる。逃げれば一層怪しまれ、今後彼女に近づくのは不可能になるだろう。
雅也は彼女を追った。それに気づいたか、彼女も急ぎ足になった。
「待ってください。ちょっと待ってください」
頼江は立ち止まろうとしなかった。雅也の態度が変わったことで、余計に疑いを濃くしたらしい。エスカレータに乗った後も、彼女は足を止めなかった。
「待ってください」やむをえず彼は最後の手段を使うことにした。「倉田さん」
頼江の足が止まった。驚いたように振り返った。雅也はエスカレータに乗った状態で彼女を見上げた。
エスカレータを降りたところで頼江は待っていた。
「どうして私の名前を?」
雅也は瞬時に言い訳を案出せねばならなかった。しかも彼女を十分に納得させるものでなくてはならない。また、美冬の計画に支障をきたすものであってはならない。
「ここでは何ですから、座ってお話を」ロビーを指差した。
彼女は警戒の色を薄めず、かぶりを振った。
「ここで十分よ。早く説明してください」責める目つきだった。
雅也は唇を舐め、視線を落とした。ホテル内のレストランを紹介するパネルが光っている。傍からだと、歳の離れた男女が、どこで食事をするか吟味しているように見えるかもしれない。
「どうしたの? 早く話しなさい。なぜヤマガミさんを見張ってたの?」
頼江は、雅也が尾行していたのはヤマガミのほうだと思っているようだ。それは辛うじて救いだった。この窮地を脱するには、その勘違いを利用するしかなかった。
雅也は腹をくくり、口を開いた。「頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に?」
「知り合いです。以前俺が働いてた工場の社長ですけど」
「ヤマガミさんを見張れっていわれたの? 何のために?」
「それは……」雅也はおそるおそる顔を上げた。頼江の厳しい視線が待ち受けていた。その目を見返しながら彼はいった。「あの男は山師だから、その証拠を掴んでくれって」
「山師?」頼江の顔に不安の色がよぎった。
「社長の奥さんが、あの男に騙されて金を取られたらしいんです。それで、調べてほしいって」
頼江の表情が明らかに曇った。眉根が寄った。「それ、本当なの?」
「本当です」彼女の心が揺れるのを雅也は感じ取った。「あなたと話している最中に、あの男が席を立ったでしょ? ケータイに電話がかかってきて」
「ええ」
「あいつの会話をこっそり聞きました。その時に、今会っている相手は倉田という女性だってあいつがいったんです。で、カモだって」
カモ、という形に彼女の唇が動いた。
「一千万円以上出させるのは難しいとか、そういうことも聞こえてきました。倉田さんはあの男に、そんな大金を預けるおつもりなんですか」
「そんなこと、あなたに関係ないでしょ」頼江は余裕をなくしていた。声がかすかに震えていた。
「あの男を信用してはだめです」雅也はいった。「あなたは騙されています」
頼江は彼から目をそらし、そのまませわしなく視線を動かした。何か迷っている様子だ。
不意に彼女が雅也を見上げた。瞬きしてから訊いてきた。
「あなたのお名前を伺ってなかったわね」
「名乗るほどのものじゃないです」
「一応訊いておきたいのよ。できたら免許証も見せてほしいんだけど」彼女は掌を出してきた。
頭が混乱しているはずなのに冷静だと雅也は舌を巻いた。
「水原です」そういって彼は免許証を取り出した。
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雅也が話している間、美冬は頬杖をつき、ずっと窓の外に目を向けていた。眼鏡をかけているが度は入っていない。変装のつもりなのだろう。服装は、グレーのニットに黒のスカートという地味なものだ。
葛西橋通りに面したファミリーレストランに二人はいた。午後三時という中途半端な時間帯のせいか、店内に客は少ない。
「免許証を見せろといわれたから、嘘の名前をいうわけにはいかんかった。免許証を持ってないというても、別の方法でこっちの身元を確認しようとしたと思う。あの場合、どうしようもなかった」無言を続けている美冬の横顔を見ながら雅也は続けた。「とにかく、ヘマをして申し訳ない、としかいいようがない。ほんとに、すまん」そう締めくくり、彼は頭を下げた。
美冬はそれでもまだ黙っていた。ティーカップを持ち上げ、ミルクティーを飲んだ。カップを置き、ふっと吐息をついてから、ようやく口を開いた。
「まあ、仕方ないね」
「怒ってへんのか」
「雅也を怒っても意味がないでしょ。いつも綱渡りの仕事ばっかりしてもろてるから、こういうことも覚悟しておかんとね。済んだことは気にせんといて」
「そういうてくれると、ちょっとは気が楽になる」
「それに収穫はあったわけでしょ。そんなにしょげることないよ」
「収穫というても、今はもう無駄になったかもしれん。倉田頼江はヤマガミのことを調べるやろ。自分が騙されてたとわかったら、金を出すこともないやろうし」
すると美冬は雅也を見つめ、口元を緩めた。
「あの人が儲け話をいろいろと探して、あちこち手を出してたのは知ってるの。自分に経済力がないことを、じつは結構気にしてるとあたしは睨んでる。そういうコンプレックスが、財テクに走らせるんやろうね。亭主の留守中に一山当てたいというわけや」
「それで失敗してくれたら、こっちにとっては絶好のネタになったんやけどな」
「まあね。けど、そのヤマガミとかいう男に易々と騙されてたかどうかはわからんよ。あの人は慎重派でもあるからね。金を出す前に、『華屋』が使ってる調査会社に調べさせてたと思うよ」
「そうか。となると、俺の名前を知られただけで、どっちみち何の収穫もなかったということになる」雅也は唇を噛んだ。頼江に見つかったことを、今さらながら悔やんだ。
「ものは考えようやろ。あたしが収穫というたのは、全く別の意味。雅也があの人に近づけたやないの。しかも怪しまれることなく」
「近づけたからどうやというんや」
「尾行してるだけでは掴めんこともある。頑張って仲良くなってちょうだい。あの人が陶芸に凝ってることは知ってるやろ。一緒に習ってみるというのもええかもしれんよ」
「冗談はやめてくれ」
雅也がいうと、美冬は真剣な目になった。「冗談をいうてるつもりはないよ」
どういう意味だと雅也が尋ねようとした時、ジャンパーのポケットから携帯電話の着信音が聞こえた。彼が携帯電話を持つようになったのは一昨年からだ。
「珍しいね。雅也のケータイが鳴るなんて」
そのとおりだった。そもそも美冬との連絡用に使っているだけなのだ。彼の番号を知っている人間は殆どいない。美冬を除けばほんの数名だ。しかも、一年以上話していない者ばかりだ。
液晶画面を見て、雅也は瞬きした。先日登録したばかりの、『倉田頼江』という文字が表示されていた。あの時、お互いの電話番号を教え合ったのだ。
彼は液晶画面を美冬のほうに向けた。
「噂をすれば、やね」彼女はにやりと笑った。「出て」
雅也は通話ボタンを押した。「もしもし、水原ですが」
「もしもし、倉田です。先日はどうも」頼江の声は少しうわずっているようだった。
「こちらこそ失礼しました」
「例のネオウォーターの件、よく調べてみました。やっぱりあなたのおっしゃってたとおりです」
「やっぱり」
ヤマガミという男が、頼江に持ちかけていた件だ。ネオウォーターなる怪しげな水の製造販売事業に出資しないかという話だったらしい。
「私の手元にあの会社に関する調査資料があります。もし御希望とあれば、お見せしてもかまいませんけど。あなたもどなたかに頼まれて、ヤマガミさんのことを調べておられたみたいだから」
「いいんですか、俺なんかにそんな大事なものを見せても」
雅也がそういう前で、美冬が急いで何事かを手帳に書き始めた。
「私としては、誰にお見せしても痛くも痒くもありませんわ。それに、こういう情報交換はすべきだと思いますし」
「はあ、そうですね」
美冬が手帳を彼のほうに向けた。そこには、『会うチャンスがあるなら断らないこと』と走り書きがしてあった。彼は彼女に向かって頷いた。
「わかりました。俺も、そういう情報があるなら、是非見ておきたいです。日時をいっていただければ、どこへでも伺います」
「明日はどうかしら。明日の一時」
「結構です」
「じゃあ一時に、この前のホテルのラウンジで」
「わかりました」
電話を切った後、話の内容を美冬に話した。彼女は二度三度と頷いた。「面白くなってきたね」
「そうかな。資料を見せてくれるっていうだけのことやで」
「面白くなりそうな気がするんよ。こういう時のあたしの勘は、まず外れへん」彼女は企みに満ちた光を目に浮かべた。「明日、がんばりや。ちゃんと身なりを整えて、髪型もびしっときめていくんよ」
雅也は苦笑した。「五十のおばさん相手に、格好つけてどうするんや」
「五十でも女や。そのことを忘れたらあかんで」美冬は顎を引き、低くいった。
翌日、約束の時刻よりも十分ほど早く、雅也は待ち合わせの場所に着いた。コーヒーを飲みながら待っていると、間もなく頼江も現れた。薄い紫色のセーターを着て、黒のパンツを穿いていた。手にコートと大きなバッグを提げている。
「お待たせ」彼女は雅也を見て、にっこりと微笑んだ。
「わざわざ御連絡をいただきありがとうございます」雅也は頭を下げた。
「私のほうこそお礼をいわなくちゃ。もう少しでとんでもない目に遭うところだったから。――あっ、私にはロイヤルミルクティーを」ウェイターに注文してから、すぐに雅也に顔を戻した。「あの時に忠告してもらって助かったわ」
「余計なことをしたのでなかったならよかったんですけど」
「余計なことだなんて」彼女はかぶりを振った。「じつをいうと、すっかりあの人を信用してたの。特許を取得してるのは本当だったし、効果を示すデータには権威ある研究機関名が入ってた。おまけに役員には、元代議士をはじめ、大物の名前がずらりと並んでたんですもの」
「でもインチキだったわけだ」
「インチキと断言できるかどうかは微妙ね。会社が存在するのは事実だし、そういう水を作っているというのも嘘じゃないみたい。問題は、実際に会社として機能するかどうかということだけど」
「そのネオウォーターというものは、本当に商品として通用するんでしょうか」
彼女は苦笑を浮かべて首を振った。
「複数の化粧品会社や薬品メーカーに当たってみたところ、ネオウォーターなんて聞いたこともないという回答だったそうよ。分子構造を変化させた水を使うという発想は昔からあるらしいけど」
「まるで嘘ではないということですか。でもそんな状況で出資させて、どうするつもりだったのかな。金を持ち逃げするには、元手がかかりすぎてるような気がするけど」
「連中の狙いは別にあったの。私には単に出資してくれとしかいわなかったけど、別のルートでもっと小口の会員を集めてたのよ。そういう人たちには、会員を集めれば配当が入るシステムだと説明してたみたい」
「ははあ、なるほど」雅也は大きく頷いた。構造が見えてきた。「所謂《いわゆる》ネズミ講みたいなものですね。豊田商事事件と同じだ」
「実際にネオウォーターというのが今後どれぐらい市場に出回るかはわからないけど、結局のところ配当金を自転車操業で回すってことになるんじゃないかしら。そうして会員を信用させて、それぞれの知り合いを紹介させたりしたら、かなりのお金が集まるわけよね。調査会社で調べたかぎりでも、数百人ぐらいの会員は見つかったそうよ」
雅也は肩をすくめた。「すでにそれだけ被害者が出ているということか」
「その人たちはまだ自分たちが被害者だと思ってないわけ。株をやっても儲かる時代じゃないから、どこかに確実な投資先がないか探してる人は多いわ」そういってから頼江は自嘲の笑みを作った。「こんなことをいう資格は私にはないわね」
「まあでも、結果的に思い留まったわけだから」
「だからそれは水原さんのおかげだと思ってるのよ」
頼江はバッグの中から調査資料を出してきた。雅也はそれをざっと読んでみたが、今彼女が話した内容を補足しているだけだった。それに彼にとっては、ヤマガミもネオウォーターも被害者も、どうでもいいことだった。
「よくわかりました。俺に調査を頼んだ社長にも、この話をしてみます」資料を返しながら雅也はいった。
「それがいいわね」頼江は資料をバッグに戻した。その時、バッグの中にトレーナーのようなものが入っているのが見えた。
「スポーツクラブにでも行くんですか」雅也は訊いてみた。
「ああこれ? 違うのよ。今から陶芸教室に行くから、その準備。土を使うから、服が汚れちゃうの」
そうでしたね、と思わず口から出そうになるのを雅也はこらえた。彼女が陶芸教室に通っていることなど、彼は知らないことになっている。
「陶芸を習っておられるんですか」
「まだ始めて二年にもならないんだけど」
ロイヤルミルクティーを飲む彼女を見ながら、雅也は美冬とのやりとりを思い出していた。冗談をいうてるつもりはないよ、と彼女はいった。
「陶芸……いいですよね」雅也はコーヒーカップを持ち上げた。「ろくろとか、一度やってみたいと思ってるんです。あとそれから、たまつくりとかひもつくりとかあるんですよね。たたらってのもあったかな」
あら、と頼江の眉が上に動いた。「よく御存じなのね」
「前に少しだけ勉強したことがあるんです。始めようかなと思って。結局、時間とかなくて諦めちゃいましたけど」
もちろん嘘だ。陶芸の話題が出ることを予想して、昨夜大急ぎで知識を詰め込んだのだ。いうまでもなく美冬からの指示だった。
「今はもうそういう気はないの?」頼江が覗き込むように雅也を見た。
「気持ちはあるんですけど、きっかけがなくて。それにこの不景気な中、そんなことをしてる場合でもないかなとも思うし」
「でも仕事だけが人生じゃないでしょ。たまには息抜きもしないと」
「まあそうですけど」
前に会った時、自分の本業は金属加工だが、最近はあまり仕事がないのでアルバイトのつもりで探偵の真似事をしたのだと説明してあった。
「陶芸教室は二時半からなの。よかったら、一緒に行きません? 一日体験みたいなこともできるのよ。場所はこの近くだし。歩いて五分ぐらいのところよ」
「でも何の準備もしてないし」とりあえずは断ってみる。
「準備なんかは何もいらないわ。最初はたぶん土をこねるだけ。菊練りというのよ」
「聞いたことがあります。菊の模様ができるようにこねるんですよね」
「水原さんは職人さんだから、きっとすぐに上手になるわ。行きましょうよ。費用だって大したことないし。一度やってみて、やっぱりつまらないと思ったらやめればいいのよ」
「俺みたいなのが行って、浮かないかな」
「若い人だって結構来てるのよ。それにみんな自分の作品のことに夢中で、人のことなんか気にしてないから」
頼江は熱心だった。単に形式的に誘っているという様子でもなかった。
「じゃあ、ちょっとだけ覗いてみようかな」
雅也がいうと、頼江の表情がぱっと輝いたようだ。
「そうしましょうよ。これも何かの縁だし」
はい、と雅也は答えた。頼江は時計を見て、腰を浮かせると同時に伝票を手にした。
「ここは私に奢らせてちょうだい。あなたのおかげで大損を免れたんだから」
颯爽とレジに向かう頼江の後ろ姿を見ながら、後戻りのきかない道に足を踏み入れた感覚を雅也は抱いていた。
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午後二時になると、『おかだ』は一旦店を閉める。夜の営業は五時からだ。有子が準備中の札をかけていると、中年女性がにこにこしながら近づいてきた。近所に住む主婦で、有子の母親と仲がいい。子供たちはすでに独立していて、毎日が退屈だと漏らしているのを聞いたことがある。こんにちは、と有子は挨拶した。
「母は今ちょっと出かけてるんです。すぐに帰ってくると思いますから、中で待っていてください」
すると相手の女性は笑顔のまま首を振った。
「今日は有子ちゃんに用があって来たの。後でおかあさんや大将にも聞いてもらうつもりだけど」
彼女は脇に大きな封筒を抱えていた。それを見て有子は彼女の用件を察したが、露骨に嫌な顔をするわけにもいかず、無理に笑みを保持した。
「おばさん、もしかしてまたお見合いの話?」
「今度は絶対に気に入るから。建設会社に勤めてる三十歳。次男坊だし、実家もしっかりしてる。これ以上の話は、そうそうはないよ」
「でもあたし、前にもいったけど、まだそんなこと考えてないし」
「そんな呑気《のんき》をいってるうちに歳をとっちゃうの。いいから、話だけでも聞いて。話を聞けば、きっと会ってみようって気になるから」
おばさんは有子の腕を掴み、店の戸をくぐった。
暇を持て余しているせいか、このおばさんはやたらと縁談を持ち込んでくる。すでに二度、無理矢理に写真を見せられた。その時には母親が、まだちょっと早いから、といってやんわりと断ってくれたのだった。
「ほらね、三十歳にしちゃあ若く見えるでしょ。学生時代は卓球をしてたんだって。だから体力には自信があるみたいよ。男はやっぱり中身と体力だからね、見かけなんかじゃなくってさ」
おばさんは早口でまくしたてる。有子は気持ちのこもらない目で釣書と写真を眺めた。見かけじゃないとおばさんが強調するだけあって、写真の男性は女性にもてそうな容姿ではない。服装でごまかしているが、かなり太っているようだ。背も高くないだろう。しかし真面目そうな印象は受ける。経歴を見るかぎりでは、堅実な生活を築けそうではある。
こういう男性と結婚すれば、たぶん世間一般でいわれる幸せを手にできるのだろうと有子はぼんやりと考えた。だがその空想を自分と結びつけることはできなかった。
有子が生返事を繰り返しているうちに母親が帰ってきた。おばさんは母親を相手に、写真の男性の売り込みを始めた。母親は苦笑いして話に付き合っている。
頃合いを見計らって有子は腰を上げた。「あたし、買い物に行かないと」
「あっ、ちょっと待って。もう少し話を聞いてよ」おばさんはあわてた。
「日本橋まで鰹節を買いに行かなきゃいけないの。また今度ね」そういうと有子はエプロンを外し、おばさんの引き留める声を無視して店を出た。
今日のところは母親がうまく断ってくれるだろう、と彼女は思った。しかしいずれそうしてくれない日が来るかもしれない。
先日のことだ。閉店後、有子がテーブルをふいていると、父が近づいてきた。
「あの職人さん、やっぱりもう来ねえのかな」
「職人さんって?」誰のことをいっているのかわかったが、有子はとぼけた。
「雅也って人だよ。どっかへ越しちまったのかねえ」
「さあ……知らないけど」
「この不況だから、どこか別の土地に移ったのかもしれねえな。まあ、いなくなっちまった者のことをいってたって始まらねえや」それだけいうと父は奥に消えた。
板場から常に店内を眺めていた父が、娘の様子に気づかないはずがない。雅也に惹かれていることはとうの昔に見抜いていただろう。彼が現れなくなり、娘がどこか沈んでいることも気にしていたのかもしれない。だからそんな娘を心配して、両親が縁談話に乗り気になることも十分に考えられた。
そんなことを考えていたせいだろう、彼女の足はいつの間にか雅也のアパートの方角に向かっていた。道路から見上げれば、彼の部屋の窓が見える。ごくたまにだが、そこに洗濯物がぶらさがっていることがある。それを見て、彼がまだこの街から去っていないことを確認するのだった。
窓に雅也の姿が見えた。有子は駐車中のトラックの陰に隠れた。
雅也は彼女には気づいていない様子だ。洗濯物を取り込んだ直後なのだろうか、窓を閉じている。
やがてグレーのカーテンも引かれた。出かけるのだろうかと有子は思った。
彼女はアパートの正面に回った。しばらくすると二階から雅也が下りてきた。手にスポーツバッグを提げている。
有子はまたしても身を潜めていた。彼は駅に向かうようだ。彼女も後を追った。
雅也の背中を見つめながら、彼女は雅也の行き先にっいて想像を巡らせていた。先程、声をかけようと思った。だが彼を見た途端、それができなくなった。彼の雰囲気がいつもと違っていたからだ。
珍しく髪を奇麗に整えているし、レザーのジャケットも有子が見たことのないものだ。靴やズボンにしても、いつもの古びたものではない。要するにしゃれた格好なのだ。
誰かに会うのだろうか、と有子は思った。もしそうだとしたら、相手は女性に違いない。根拠などはなかったが、それ以外には考えつかなかった。
雅也は曳舟駅に着くと、切符を買い、改札を通った。それを見て有子も少し離れた券売機で、適当に切符を買った。
雅也は浅草行きの電車に乗った。そこからは都営浅草線ではないかと有子は睨んだ。もしそうならば好都合だ。元々日本橋に行くつもりだった。
予想通り、雅也は浅草で都営浅草線に乗り換えた。有子は後を追い、隣の車両に乗った。首を伸ばし、彼の様子を窺った。彼はドア付近に立ち、何が見えるわけでもないのに、じっと外に目を向けている。
そんな表情を観察しているうちに、女性と会うわけではないような気がしてきた。少なくとも、デートではないように思われた。好きな相手に会うのならば、もう少し楽しげな気配が漂うのではないか。だが雅也からは、そんなものは微塵も感じられなかった。気の進まない場所に仕方なく向かっている、というふうにさえ見えた。
雅也は人形町で降りた。少し迷ったが、有子も降りていた。
何のためにこんなことをしているんだろうと彼女は自問した。雅也に恋人がいようがいまいが、どちらでもいいことなのだ。どちらにしても、彼は自分を選ばない。そのことだけは明白だ。
自分の気持ちに踏ん切りをつけたいわけでもなかった。失恋など、よくあることだと思っている。経験がないわけでもない。
あたしは彼が何者かを知りたいんだ――。
ようやくそこに考えが到達した。雅也という男の正体を結局何も知らないままでこの思いに決着をつけることが、どうしてもできないのだ。
地下鉄の駅から地上に出た雅也は、迷いのない足取りで歩道を進んでいく。時折腕時計に目をやるのは、やはり誰かと待ち合わせをしている証拠のように見えた。
やがて大きな交差点を渡った彼は、そばにあるビルに入っていった。エレベータに乗り込むのが見える。有子も急いでビルに入った。階数表示に目をやると、エレベータは三階で止まった。壁の案内板によれば、三階は『ミフネ陶芸教室』となっている。
雅也さんが陶芸教室に? どうして――。
有子が佇んでいると、一人の中年女性が入ってきた。彼女はエレベータのボタンが押されていないことに一瞬怪訝そうな顔をしてから、自らボタンを押した。
「あの……」有子は声を発していた。「陶芸教室に行かれるんですか」
「そうですけど」中年女性は頷いた。
水原雅也という人もいるのか、と問い質したいところだったが、有子はそれを呑み込んだ。自分がこんなところまで追ってきたことを雅也に知られたくなかった。
「教室は何時から何時までですか」咄嗟に質問内容を変えた。
「曜日によって違うんですよ。今日は三時から五時ですけど。私はちょっと遅れちゃって」
「そうなんですか」どうりで雅也も時刻を気にしていたわけだ。
「入会希望の方?」
「あ……まだ考えているところです」
「そう? 是非おやりなさいよ。楽しいわよ」
エレベータの扉が開いた。お乗りになる、と尋ねるように中年女性が有子を見て首を傾げた。有子は作り笑顔で、手を横に振った。
ビルを出てから、彼女は三階の窓を見上げた。窓いっぱいに、『ミフネ陶芸教室』の文字が並んでいる。あの雅也と陶芸教室――どう考えても繋がらなかった。
日本橋に鰹節を買いに行って、それからまた来ようかなと彼女は思った。それでも五時までは時間がある。どこで時間を潰そうかと考えた。
「今さっき、下に入会希望の女の子がいたわよ」
「あら、どうして連れてこなかったの」
「ちょっと迷ってるみたいだったのよ。でも、また来るんじゃないかしら」
「どんな子? 奇麗な子?」
「うん。結構美人だったわよ」
「じゃあ、そんな子が入ったら、また先生、その子ばっかり贔屓しちゃうかもよ」
隣で二人の中年女がひそひそ話をしている。彼女たちがここへ来ている最大の目的がおしゃべりであることを、雅也は過去二回の経験で見抜いていた。今も彼女たちの前にある土は、一向に形を成さない。彼女たちはただ土をひねくり回しているだけなのだ。
雅也は電動ろくろの前にいた。回転する土の外側を左手で支え、右手の指を使って内側から土を押し広げていく。力を入れなくては土はびくともしない。ところが入れすぎると突然変形を始める。急な動作は禁物だ。
指の腹に違和感を覚えた。ろくろを止め、その部分を見ると、土の表面に小さな突起が生じている。
「それはね、泡よ」頼江が横から声をかけてきた。彼の作業をずっと見ていたらしい。
「泡?」
「土の中に空気が残ってたのよ。だからろくろにかける前に、土をよく練っておく必要があるの」
「これ、もうだめですか」
「そんなことないわ。ちゃんと救済措置はあるの」
頼江は自分の作業台から細い棒を取り上げると、雅也のすぐ横にやってきた。その棒の先には針がついていた。彼女は彼の前で身を屈め、その針を「土の泡」に突き刺した。彼女がつけている香水の匂いが雅也の鼻先をかすめた。
「はい、これで大丈夫よ」身体を起こし、彼女は微笑みかけてきた。驚くほどすぐそばに彼女の顔があった。
雅也は彼女が処置した跡を触ってみた。土の小さな突起はたしかに消えていた。
「いいみたいだ」彼は再びろくろを回し始めた。しかし頼江はすぐに立ち去ろうとはせず、彼の横でじっとその手つきを見ている。
「やっぱり職人さんね。もうこんなに上手になってる。私なんか、すぐに追い越されちゃいそう」
「作るだけならね。だけど問題はデザインじゃないのかな。俺、そういうセンスはあまりないから」
「そうなの? 設計図通りに作るのは得意なわけね」
「まあ、そうです」
「ところで」頼江は少し声をひそめた。「今日この後の予定は何かあるの?」
「いえ、ありませんけど」
「じゃあ、また食事に付き合ってくれない? イタリアンのおいしい店があるのよ」
「いいですけど、いつも御馳走になってばかりで悪いから、今日は俺が出します」
「そんなこと気にしなくていいの。まだ次の仕事が見つからないんでしょ」頼江は彼の膝を軽く叩き、自分の作業台に戻っていった。
雅也の耳に、昨日美冬からかかってきた電話の声が蘇っていた。彼女は低く笑ってからこういったのだ。
「彼女に近づくことには完璧に成功したみたいやね。しかも、かなり気に入られてる」
そんなことはまだわからないと雅也はいったが、美冬の声の調子は変わらなかった。
「今日、頼江さんに会《お》うたんよ。一目見て、すぐにわかった。女の顔になってた」
「女の顔?」
「女というのは、意識する男ができたら、それがすぐに顔に出るんや。恋をしたら女は奇麗になるていうやろ。まあ、あれやな」
「仮にそうやとしても、相手が俺とはかぎらへんやろ」
「あんた以外に誰がおるんや? ほかに恋人がおらんことは、ずっと見張ってた雅也が一番よう知ってるはずやで」
そのとおりなので彼が黙っていると、美冬は続けていった。
「ええか、雅也。ここからが肝心やで。でっかい獲物を釣ろうとしてるんやからな、絶対にしくじったらあかんで」
獲物を釣るとはどういうことだ。倉田頼江に惚れさせろということらしいが、雅也には途方もない空想としか思えない。何しろ相手は五十過ぎの女性で、しかも夫がいる。息子だっている。
「年の差なんかどうってことない。それを気にするのは向こうや。亭主がおることも関係ない。むしろ亭主がおることで鬱憤が溜まってる。そのはけ口を求めてるはずや」
「仮に美冬のいうとおりとして、俺にどうしろというんや。あの人が俺に惚れたところで、美冬には何の得もないやろ」
すると美冬は電話の向こうで少し黙ってから続けた。「惚れただけではそうやろな」
「どういう意味や」
彼女の吐いた息が送話口に当たる音がした。
「忘れたんか。あたしがあの人のことを調べろと頼んだのには理由があったやろ」
「弱みを握る……」
「それや」彼女は短くいった。「亭主の留守中に若い男と不倫――その証拠を押さえたら、これはかなり強力な武器になるやろな」含み笑いをした。
「ちょっと待ってくれ。不倫てどういうことや。俺はあの人と変な関係になる気はないぞ。あくまでも弱みを握るために近づいてるだけや。それとも、不倫現場をでっちあげるということか」
それならば理解できなくもなかったが、次に美冬が発した台詞は彼に鳥肌を立たせた。
「でっちあげではしょうがないやろ。本当の弱みでないと」
「おい、それはまさか……」
「なあ雅也」美冬が低い声でいった。「前にもいうたやろ。何としてでもあの女の弱みを握る必要があるんよ。弱みが見当たらんということやったら、作りだすしかない。しかも今の雅也は絶好のポジションにおるんよ」
「勘弁してくれ」雅也は電話機を撮ったまま首を振っていた。「いくら何でも、俺にそんなことをさせるな。あんなおばさんを抱けとでもいうんか」
「でけへん?」
「当たり前やないか。美冬は俺がそんなことをしても平気か?」
またしても美冬が黙り込んだ。少しは自分の思いが伝わったのかと雅也は思ったが、そうではなかった。彼女は静かにいった。
「あたしも雅也にそんなことはさせたくないよ。けど、ほかに道がないんやから仕方ないやないの。何もかも二人が幸せになるためや。あたしが好きでもない男と結婚するのを、雅也は黙って耐えてくれたやろ。今度はあたしが耐える番ということ。雅也があんなおばさんを抱くのは辛いと思うよ。けど、あたしもあんな男に抱かれてる。あたしらは、こうやって生き残っていくしかないんよ」
絞り出すような声を聞いていると、雅也は反論できなくなった。だが納得したわけではなかった。
「何遍もいうようやけど、あの人が俺に惚れてるとはかぎらん。だから、あの人を抱くことになるかどうかもわからん」
「大丈夫。雅也やったら絶対うまくいく」美冬はいつものように、最後は彼を励ます言葉で締めくくった。
そんな方法しかないのか――ろくろの上で回る土を手で包みながら雅也は自問した。幸せを手にするには、本当に美冬のいうような道しか自分たちにはないのだろうか。いやそもそも、幸せとは何なのだ。富や力を得ることだけではないはずだ。
美冬の愛情というものについても疑問が湧く。彼女はああいうが、彼女の結婚について雅也は納得していなかった。それどころか死ぬほどの苦しみを感じている。どんな理由があるにせよ、愛した相手がほかの人間と性交渉を持つことなど、絶対に耐えられないはずではないか。
気がつくと周りの人間が帰り支度を始めていた。頼江がそばに来て微笑んだ。
「熱心ね。でも、そろそろおしまいにしましょう。あなたの湯飲み茶碗も、形が出来上がったみたいだし」
うん、と頷き彼は傍らの糸を手にした。ろくろの速度を少し緩め、両手でぴんと張った糸を茶碗の高台《こうだい》に当たる部分に近づけていく。糸が土に半分ほど食い込んだところで左手を糸から離し、右手でさっと引っ張った。糸は土に巻き付くように食い込み、茶碗の部分を下の土から切り離した。いわゆる糸切りという手順だ。
「お上手」頼江が冷やかした。前はよくこの段階で、肝心の作品を飛ばしてしまったものだ。雅也は口元を緩め、慎重に茶碗を持ち上げた。
ろくろの周囲を片づけた後、更衣室で汚れた服を脱いだ。着替えを終えると、教室の外で頼江が待っていた。尾行していた時に見た、他の女性陣の姿はない。早々に例のファミリーレストランに行ったのかもしれない。
「お仲間とは一緒に行かなくていいんですか」
頼江は苦笑を浮かべた。
「前はよくお茶を飲みに行ったんだけど、正直いってつまらないのよ。ろくでもないゴシップばかりが話題でね。芸能人の誰それが浮気をしたとか離婚したとか。教室で孤立しちゃうとまずいから、いやいや付き合ってただけ」
二人でエレベータに乗り込んだ。頼江は白いハイネックのニットを着ていた。だから身体のラインがはっきりとわかる。外側から見るかぎりでは、さほど崩れているようには思えなかった。この年齢の女性としてはプロポーションはいいほうだろう。しかし下着姿になればどうかはわからない。さらにその下着さえも外した時、果たして自分はどこまで欲情できるだろうかと雅也は思った。化粧がうまいのか、顔を見ているかぎりでは五十過ぎにはとても見えない。整った顔立ちで、あと十歳若ければ何の問題もなかっただろう、などと考えてしまう。
何もかも二人が幸せになるためや――美冬の声が耳に蘇る。その声に彼は改めて心の中で答える。勘弁してくれ。
エレベータが一階に着いた。雅也は頼江と並んでビルを出た。その時だった。視界の端から近づいてくる人影があった。彼はそちらを見て、思わず小さくあっと声を上げた。有子がそこにいた。彼女はダッフルコートを着て、右手に白い大きな袋を提げていた。
「有子ちゃん……」
「……こんにちは」彼女は雅也を見た後、頼江に目を向けた。それからまた彼に視線を戻した。だがその目の焦点はうまく定まっていなかった。
「なんでこんなところにおるんや」
「うん、ちょっと、買い物の帰り」彼女は、またちらりと頼江を見た。
「お知り合い?」頼江が訊いてきた。
「ええ……近所の食堂のお嬢さんです」
「そうなの。へえ」頼江は目を見張り、笑顔を作った。その視線がさっと有子の全身を舐めるのを雅也は認めた。
「雅也さんは?」有子から訊いてきた。
「あ、俺はちょっとこのビルに用があって」後ろの建物を指した。陶芸教室とはいいにくかった。
そうなの、と彼女は答え、俯いた。何かを躊躇っている気配があった。
「よかったら、一緒にお茶でもどう?」頼江がいった。そして、ねえ、と雅也に同意を求めた。
「そうするか?」雅也は有子に訊いた。
有子は首を振った。「あたし、すぐに帰らなきゃいけないから」
「そうか。じゃあ、大将やおばさんによろしく」
うん、と頷き、彼女はにっこり笑った。さらに頼江に向かってお辞儀すると、さようなら、といって小走りで立ち去った。
「よかったのかしら。あなたに用があったんじゃないのかな」
「そんなはずないですよ。ここでたまたま会っただけですから」
「そう?」
「ええ。偶然です」
頼江は少し腑に落ちない表情を浮かべたが、ふうん、といって頷いた。
「じゃあ、行きましょうか。タクシーを拾うわね」そういうなり彼女は手を上げていた。
タクシーに乗った後も、雅也は有子のことを考えていた。彼女は自分と頼江とを見比べ、どんなことを思っただろう。二人の間柄をどんなふうに想像しただろう。年齢差のあることは彼女にもわかったはずだから、恋人とは思わなかったのではないか。しかし、頼江は若く見える。それに、金銭目的の交際ならば年齢差など関係ないと思うかもしれない。
そこまで考えてから、彼は自分がそんなふうに思いを巡らせていることに少し驚いた。有子にどんなふうに思われようが構わないはずだ。
有子には嫌われたくない――自分がそう思っていることに気づき、彼は動揺した。その感情こそが、しごくまっとうで、本当に好きな相手に対して抱くものだと思ったからだ。では美冬に対してはどうか。軽蔑されたくない、彼女の力になれる男でありたい、期待に応えたい、彼女にふさわしい男でありたい。そんな感情はいつも持っている。しかし、嫌われたくない、というような素朴な思いを抱いたことがあっただろうか。
「奇麗な子だったわね」突然、頼江が口を開いた。
えっ、と雅也は彼女を見た。彼女は前を向いたままだった。
「さっきの女の子。あんな子がいるなら、食堂に行くのも楽しいでしょうね」彼女の口調には抑揚がなかった。
「最近はあまり行ってないんです」
「あら、そうなの。じゃあ、それでかもしれないわね」
「何がですか」
「会う機会が少なくなったから、あんなところまで来たんじゃないかしら」
雅也はふっと笑った。
「あそこで会ったのは偶然だといってるじゃないですか」
すると頼江も口元を緩め、彼のほうに顔を巡らせた。
「彼女、あそこであなたを待ってたのよ」断定的な言い方だった。
「まさか。俺があの教室に通ってることを彼女は知りません」
「じゃあ、誰かから聞いたのかもね。誰にも話してないということなら、あなたのことをつけたのかも」
雅也は笑い顔のまま首を振った。「考えられないな」
「街で偶然会った時に、ああいう顔はしないものよ。彼女、ちっとも驚いてなかった」
「そうかな」そういわれればそんな気もした。
「まあ、どっちでもいいんだけど」頼江は顔を元の位置に戻した。「あの子、あなたのことが好きなのね」
「やめてください」
「あなただってわかってるんでしょ。そういう顔よ」ちらりと横目で雅也を見た。
「参ったな」彼は窓の外に目を向けた。タクシーは昭和通りを走っている。頼江が運転手に命じた行き先は、彼には把握できない場所だった。上京して数年になるが、下町以外の地理は覚えられない。
「あなた、彼女と話す時には関西弁になるのね」
「あっ、そうでしたか」
「私といる時もアクセントは関西風だけど、あそこまではっきりとした関西弁じゃないわ」
「なかなか直らなくて」
「直さなくていいと思うけど。私といる時も」
「そうですか」
雅也は唇を舐めた。妙な緊張感が彼の全身を包みつつあった。頼江の言葉に、嫉妬の響きを感じ取ったからだった。
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雅也にとって一回り以上も年上の女性との交際は、順調に続いた。もっとも交際といっていいのかどうか、彼自身にもよくわからなかった。週に二度の陶芸教室で会い、その後一緒に食事をするだけのことだ。
頼江から好意を持たれているというのはわかる。しかしその好意がどういった種類のものなのか、把握しきれなかった。そのことを彼が電話で伝えると、美冬は迷うこと自体が論外だといわんばかりの声を出した。
「しょっちゅう会《お》うてる雅也がそんなことをいうてどうするの。あたしなんか、あの人にはたまにしか会えへんけど、以前とは表情や態度が全然違うと思うよ。頻繁に会ってると、かえってそういうことには気づかへんのかな」
「あの人が前はどんなふうだったか、よく知らんからな」
「尾行して、あの人のことはよう見てたはずやろ。とにかく、あたしの目に狂いはない。頼江さんは雅也に夢中や。そうでないのなら、そんなにいつもデートに誘うかいな」
美冬のいっていることはわかるが、雅也はどうしても頼江をそういう目で見ることはできなかった。そういう目とは、女として、ということになる。だが美冬は彼にそれを要求した。
「大丈夫。もう機は完全に熟してる。あとはタイミングだけ。雅也から誘いをかけたら、絶対に拒まれへん。小器用にやる必要はない。ぶっきらぼうでも、ぎくしゃくしてもええから、ホテルに誘ってみたらどう?」
「そんなことして、あの人が乗ってくるとはとても思われへん。あの人はプライドの高い人や。馬鹿にされてると思て、怒りだすような気がする」
「そんなことはないって。プライドが高いから、まだ十分に女として通用すると信じてる。自分の魅力で若い男を惹きつけることもできると思ってる。雅也から誘われたら、ああやっぱりと悦に入るはずや」
「そんなにうまくいくかな」
「いくって。あたしを信じて」
どんなに美冬から太鼓判を押されても、雅也には自信がなかった。それには二つの意味があった。一つは頼江が誘いに乗ってくるとは思えないというものであり、もう一つは、果たして頼江を抱けるだろうかということだった。
「なあ、抱く必要はないんと違うか。あの人の関心は、今のところ美冬からは離れてる。それでもう目的は果たしたことになるやないか」
「今のところ、やろ」美冬は冷たくいった。「たしかに今は若いボーイフレンドができてルンルン気分や。けど、そのうちにまた余計なことを考え始める。その若いボーイフレンドが、結局は単に一緒に食事をするだけの存在やとなったら、別の方向に関心が移る。そうさせんためにも、今が肝心なんよ」
雅也が黙り込むと、ねえ、と美冬は甘えたような声を出した。
「抱いて。あの人を」
雅也は答えられなかった。もう少し考えさせてくれといって電話を切ったのだった。
美冬とのやりとりを終えた後、彼の脳裏に浮かぶ顔があった。有子だ。先日陶芸教室の前で出会って以来、なぜか気になって仕方がない。
彼女に会いたいと思うようになっていた。『おかだ』に行けば簡単にそれは叶うのだが、まだ気持ちが固まらずにいた。有子に会って何をしたいのか、自分でもわからなかった。
「やけに深刻な顔をしてるわね。相変わらず仕事が見つからないから?」隣から頼江が話しかけてきた。タクシーの車窓から外を眺めていた雅也は、彼女に顔を戻した。
「そんなところです。貯金もそろそろ寂しくなってきたし、いつまでも陶芸をしてる場合じゃないかなと思って」
「だからそれについては前もいったでしょ。陶芸教室の費用ぐらいは私が出してあげる。今辞めるなんて、もったいないじゃない。先生だって、あなたの上達ぶりには目を見張ってらっしゃるのよ。始めたばかりなのに、もうすでに殆どの生徒を追い越しちゃってるんだから当然だけど」
「でも陶芸じゃ食っていけないしな。費用を倉田さんに出してもらう理由もないし」
「水臭いこというのね。私はあなたのスポンサーになるといってるだけなのに」
「スポンサーというのは金を稼げそうな人間に投資するものです。今の俺はただの職なしだ。プータローってやつですよ」
「あなたほどの腕があれば、何をやっても成功するわよ。ただ腕をふるう場がないだけでしょ。――何を笑ってるの?」
「いやあ、俺の腕なんか御存じないのに、と思って」
「陶芸の技術を見てればわかるといってるの。こう見えても、いい陶芸品を見抜く目には自信があるの。自分じゃ作れないけど」頼江はそういって微笑んだ後、何かを思い出す目になって続けた。「あなた、彫金はどう?」
「彫金? どうって?」
「できるの? 指輪を作ったり、ネックレスの飾りを作ったりだけど」
雅也は内心の動揺を悟られぬよう、表情を引き締めた。どう答えるべきか迷ったが、最後には頷いていた。「それはまあ少しぐらいなら。ほんの真似事だけど」
「そうっ」頼江が目を見開いた。「じゃあ今度、弟に話してみようかしら」
「弟さんって、『華屋』の……」
「『華屋』にも工房はあるし、外注しているところもあるの。彫金ができるのなら、どこかに紹介できるかもしれない」
雅也は手を振っていた。
「それほどのことはできません。商品になるようなものを作れるほどのことは」
「そうなの? 練習してもだめ?」頼江は少女のように首を傾げて訊いた。
「一朝一夕には無理です。ありがたいお話ですけど、仕事は自分で見つけます」
ふうん、と彼女は鼻を少し上げた。やや機嫌を損ねたようだった。
タクシーは赤坂にあるホテルに到着した。車から降りる二人を、ボーイが恭しく出迎えた。歴史も威厳もありそうな正面玄関を通り抜ける時、雅也は小さく深呼吸した。自分の身なりが傍からおかしく見えていないか心配だった。彼は新しいスーツを着ていた。ここへ来るために買ったものだ。金を出したのは頼江だった。そんな超高級ホテルに行けるような服を持っていないと雅也がいうと、じゃあプレゼントするわといったのだ。スーツのほかに、シャツ、ネクタイ、靴までも買ってもらうことになった。
今日はこのホテルで着物の展示会が行われるということだった。それに付き合ってくれと先日頼江に誘われたのだ。陶芸教室以外の日に会うのは、これが初めてだ。
二階の宴会場が展示会場にされていた。入り口に受付があり、和服を着た女性が大勢集まっている。頼江も今日は着物姿だった。黒っぽい色で、紬《つむぎ》という種類らしいが、どれほど価値のあるものかは雅也にはわからない。
中年の太った女性が愛想笑いをしながら頼江に近づいてきた。頼江が贔屓にしている店の責任者らしい。大げさな物言いで来場を歓迎すると、受付の手続きなど省略して、頼江を場内へと案内し始めた。彼女は雅也にも愛想笑いを向けてきたが、彼が何者であるかについては詮索してこなかった。しかし関心を持っているらしいことは、好奇心まるだしの目つきから容易に窺えた。
展示会場にはびっしりと畳が敷き詰められ、複数の呉服業者がそれぞれの場所で自慢の品をディスプレイしていた。頼江を案内していた中年女性は、中央付近に広いスペースを確保している店に彼女を連れていった。雅也も後からついていく。並べられている着物の価格を目にして彼は小さく首を振った。こんなものに金をかける人種の気持ちがわからないと思った。
中年女性は早速、頼江にいくつかの品物を薦め始めた。二人の間で交わされる言葉の殆どが、雅也には意味不明だった。
「ねえ、これどうかしら」頼江が反物を広げて雅也に尋ねてきた。光沢のある、渋い緑がかった色の生地だった。
「どうって?」
「私に似合うと思う?」
「俺にはわかりませんよ」雅也は苦笑した。
「見た感じをいってくれればいいのよ。そのためにあなたに来てもらったんだから」
「そういわれても……」
よくお似合いですよね、と中年女性が横からいった。彼にも同意してほしそうだった。面倒になり、彼は小さく頷いた。「悪くないと思いますよ」
「中途半端な言い方ねえ。悪くないけど、良くもないってこと?」
「いや、そういうわけじゃあ」
雅也が頭に手をやった時だった。「いいじゃないか、それ」と背中から男の声がした。
頼江がそのほうに目をやり、驚いた表情を見せた。「あら、どうして……」
雅也は後ろを振り返った。直後、目を剥いていた。ダブルのスーツを着た体格のいい男と一緒に、和服姿の美冬が立っていた。
美冬はちらりと彼に目を向けたが、すぐに視線を頼江のほうに戻した。表情にも全く変化がなかった。見知らぬ他人と遭遇しただけ、という芝居を完璧にこなしていた。
「どうしてあなたたちがここにいるの?」頼江は二人に訊いた。
「美冬にねだられたんだよ。たまには着物の展示会に連れていってくれって。着物好きの姉さんも来てるに違いないと思ったけど、案の定だったな」
「美冬さん、ここで展示会があることを知ってたの?」
「知り合いから聞いたんです。一度、こういうところに来てみたくって」美冬は周囲を見回した。その視線が一瞬だけ雅也の顔を舐めた。
雅也はまだ少し混乱をきたしていた。それで、自分が呼びかけられていることにもすぐには気づかなかった。
「どうしたの、ぼんやりして」頼江が訊いてきた。
「あっ、いえ、何でも」雅也は首を振った。
頼江が二人を紹介した。弟と奥さんの美冬さんよ――。
秋村隆治がにやにや笑った。
「姉さんの陶芸仲間に、こんなに若くてハンサムな男性がいるとはね。隅に置けないな」
「何いってるの。こんなところに女一人で来るのも格好がつかないから、ついてきてもらっただけよ。ねえ」
同意を求められ、雅也は曖昧に頷いた。それから秋村を見て、頭を下げた。「お噂はかねがね」
秋村も真顔に戻って頷いた。「こちらこそ、今後とも姉をよろしくお願いします」
雅也は唾を飲み込んだ。この男が美冬の正式な夫なのだ。人前を堂々と美冬を連れて歩くことができ、夜には彼女の肉体を貪れる。その際には彼女の中で射精することも許されているのだ。雅也は両手の拳を固めていた。
彼がそんな思いに駆られている間も、美冬は素知らぬ顔をしていた。義姉の知り合いになど何の用もないという素振りに見えた。
なぜ美冬がこんなところに現れたのかを雅也は考えた。今日ここに誘われたことを彼は彼女に話している。それを聞いて、彼女は夫と共にやってくることを思いついたわけだ。その目的は何か。夫との仲むつまじい様子を見せつけたかったのか。
「ねえ、あっちに行ってみましょうよ。あたし、帯が欲しいんだけど」美冬が夫の腕に自分の細い腕をからませた。
「何だよ。ちょっと見るだけとかいってたくせに」忽ち秋村は脂下《やにさ》がった。「まあ、今日はとことん付き合うとするか。じゃあ姉さん、また後で」
腕を組んで立ち去る二人を見送って、頼江は小さくため息をついた。
「いい歳をして人前で……みっともない」
「若い奥さんですね」雅也はいってみた。同時に頼江の反応を窺う。
「長年独身だったから、結婚するかぎりは人から羨ましがられたいと思ったんじゃないのかしら。だからせめて若い相手ってね……」頼江は自分の言葉の毒に気づいたか、照れ隠しのように微笑んでみせた。「さあ、こっちはこっちで品選びしなくちゃ。あなたの意見も開かせてね」
はあ、と雅也は頷いた。
会場を出るまでに頼江はいくつかの品物を注文した。その総額は二百万を下らないはずだった。それでも大したものが買えなかったと、ホテルのラウンジで彼女は残念そうにこぼした。雅也は適当に相槌を打ちながら、まだ美冬のことを考えていた。
「ねえ、あなた関西の出身よね」不意に頼江が尋ねてきた。「神戸だったかしら」
「西宮です。まあ、似たようなものですけど」
「じゃあ、京都には詳しい?」
「京都? いや、詳しいってほどじゃないです。何度か行ったことはありますけど」
「でも交通機関とかは大体わかるんでしょう?」
「それはまあ」
「ふうん」頼江は何事か考え込んでいる。
「何ですか」
しかし頼江はしばらく黙って紅茶を飲み続けた。その表情は何かを企んでいるようであり、迷っているようでもあった。やがて彼女は雅也を見た。
「お願いがあるんだけど」
「何ですか」
「私と……」そういってから彼女は一旦目を伏せた。紅茶を一口飲んでから、再び真剣な眼差しを彼に向けてきた。「私と京都に行ってくれない?」
雅也は一瞬息を呑んだ。驚きが表に出るのを抑えきれなかった。
様々な思いが、ほんの短い間に彼の頭の中を駆け巡った。この誘いにはどういう意味があるのだろう。京都ならば日帰りが可能だが、泊まるつもりなのだろうか。泊まるとすれば部屋は別々なのか。それにしても京都へ、とはどういうことか。
「冬の京都か。悪くないですね。でもどうして急に?」彼は懸命に表情を戻した。「京都に何かあるんですか」
「京都には見所がいっぱいあるわよ。金閣寺に清水寺、あとは嵯峨野《さがの》とか」
「そりゃそうだろうけど」
雅也が戸惑いを浮かべたのを、頼江は楽しそうに眺めた。
「じつはね、ちょっと調べたいことがあるのよ。それに付き合ってもらおうかなと思ったわけ」彼女は真顔に戻っていった。
「何を調べるんですか」
「ある人物について、といえばいいかな。でも歴史上の人物とかじゃないわよ」
「僕の知らない人間なんでしょうね」
「そうね……」頼江は考える顔になった。「殆ど何も知らないといったほうがいいでしょうね。最初は、その本人と行くことを考えたんだけど、やっぱりそれはやめることにしたの。ごめんなさい、思わせぶりな言い方をして」
「いいたくないならいわなくてもいいですけど、気になるのは事実だな」
「もし一緒に行ってくれるのなら、いずれあなたにもわかることよ。でも、今はいえないな。ある意味、身内の恥を晒《さら》すことになるから」
「身内の方なんですか」
「さあ、どうかしら」頼江はティーカップを手にし、微笑んだ。
間違いない、頼江は美冬のことを調べようとしているのだ、と雅也は確信した。
「京都のどのあたりに行くんですか」
「さあ、そこが問題なんだけど、とりあえず三条のあたりに行ってみようかと思って」
「三条ですか」
そういえば、と雅也は過去を振り返る。美冬の出身地が京都だということは聞いているが、詳しいことは何も知らなかった。何度かそうした話題が出たことはあるが、彼女があまり語りたがらないため、彼も深くは詮索しなかったのだ。それでも三条という地名を聞いた覚えはあった。
「どう? 私みたいなおばさんとじゃ行く気になれない?」頼江が上目遣いにいった。
彼女の表情から、雅也は自分が重大な選択を迫られていることを実感した。彼女は探りを入れてきているのだ。もしここでやんわりとでも断れば、それこそ彼女のプライドは傷つき、今後二度とこのような誘いはかけてこないだろう。それどころか、陶芸教室の後のささやかなデートも、なくなってしまうかもしれない。
「時期によりますね」迷った末に彼はいった。「知ってのとおり失業中の身で、毎日ハローワーク通いです。採用してくれそうな会社から連絡があれば、何をおいても出向かなきゃいけません」
「そうなったら、私のほうの予定を変更するわ。それじゃだめかしら」
「いや、そんなことはないです」
「だったら」頼江が雅也の表情を窺う目を向けてきた。口元は笑っているが、その目には真剣な光が宿っている。彼女がこの京都旅行に美冬の調査以外の目的を見いだしていることは明らかだった。
もはや引けない、と雅也は腹をくくった。彼は笑顔で頷いていた。
「じゃあ、行きましょうか。京都に」
「よかった」頼江はここで初めて目にも微笑みをたたえた。目尻に皺が生じた。
彼女と別れ、雅也は電車で帰路についた。曳舟駅で降り、アパートに戻る途中、ふと気が変わって足の向きを変えた。
『おかだ』の看板が見える。だが入り口の手前で彼は立ち止まった。自分の服装がいつもとあまりに違っていることに気づいたからだ。
出直すか――そう思った時、店の戸ががらがらと開いて、セーター姿の有子が出てきた。彼女は店先に出ているメニューを書いた黒板の内容を書き換えるつもりだったようだ。しかしその前に彼女は雅也に気づいた。大きな目をさらに見開き、ぱちぱちと瞬きした。「雅也さんっ」
やあ、と彼は声をかけた。
「どうしたの、その格好。すっごい。見違えちゃった」有子は雅也に駆け寄ってきた。改めて彼の服装を上から下まで眺め、次に吹き出した。「でも、なんだか雅也さんじゃないみたい」
「全然似合ってないやろ」
「そんなことはないけど……いつものほうがいいかな」
「やっぱりそうか」彼はネクタイをほどいた。
「あっ、うそうそ。格好いいよ。でも本当にどうしたの? 面接?」
「まあ、そんなところかな」彼は丸めたネクタイをスーツのポケットに押し込んだ。
「ねえ、うちに来てくれたんでしょう?」有子は彼のスーツの袖を掴んだ。「入って」
彼女に引っ張られるように雅也は『おかだ』の入り口をくぐった。
店内には三組の客がいるだけだった。隅のテーブルが空いていたので、彼はそこに腰を落ち着けた。有子が厨房に行き、何かしゃべっている。奥から出てきた彼女の父親が、雅也に向かって小さく会釈してきた。雅也も無言でそれに応じた。
有子がおしぼりと突き出しを盆に載せて戻ってきた。雅也は野菜の炊き合わせとビールを注文した。彼女は心得顔で頷き、奥に下がった。その後ろ姿を眺めた後、彼は割り箸で突き出しをつまみながら店内を見回した。
メニューの書かれた黒板、年季の入ったテーブル、角に設置されたテレビ、何もかもが以前のままだった。一仕事終えてきたと思われる職人風の男が手酌で飲んでいる。その光景さえも懐かしかった。
自分の本来の居場所はここだ、と彼は思った。とびきり大きな野心など抱かず、日々のささやかな幸せのために汗水流して働き、その疲れを一杯のビールで癒す――そういう生活こそが自分には向いている。なんだ、この服は。こんなものは俺の服ではない。七五三じゃぁるまいし、いつまでちゃらちゃらした格好しているんだ――雅也は上着を脱ぎ、横の椅子に丸めて置いた。
有子がビールと料理を運んできた。「わあ、雅也さん、寒くないの?」
「ええんや、肩が凝る」
雅也がコップを持つと、有子がビールを注いでくれた。その顔を彼は下から見つめた。
「どうかした?」幾分照れ臭そうに彼女は訊いた。
「いや、何でもない」
「ところで雅也さん……陶芸始めたの?」ビール瓶を持ったまま彼女は訊いてきた。
ビールを口に含んでいた雅也は、もう少しでむせるところだった。「陶芸?」
「だってこの間、あんなところにいたから」
「ああ……」
あの時雅也は陶芸のことなど一言もいわなかったのだが、彼女はあそこに教室があり、彼がそこにいたことを知っているらしい。やはり頼江がいったように、有子は雅也を待ち伏せしていたのかもしれない。
「ちょっと気分転換に、な」雅也は笑ってごまかした。「人から誘われて……」
「ふうん、一緒にいた女の人?」有子が探る目をしてきた。
「うん、まあ」
「雅也さんに、あんなタイプの知り合いがいるとは思わなかったな。どこかのお金持ち夫人という感じなんだもん」冗談めかした口調だが、彼女の頬は少し強張って見えた。
「大した知り合いやない」
「そうは見えなかったけどな。なんか、いい感じだった」
「やめてくれよ。ものすごい年上のおばちゃんやないか」
「でも、なんだかすごく色気のある人だった」有子は彼のコップにビールを注ぎ足すと、まあいいけど、といって奥に下がった。
雅也は料理に箸を伸ばした。野菜の炊き合わせは以前と同じ味がした。家庭の香りもする。それらを味わいながら彼はビールを飲み、先程の有子の反応について考えた。彼女は嫉妬しているのかもしれない。相手の女性の年齢など関係ないのだ。彼が見知らぬ女性と親しげに、しかも自分の知らない世界で会っていたことに妬《や》いたわけだ。
有子の反応がふつうではないかと雅也は思った。好きな相手が別の異性と親しくしているのを見て、愉快なわけがない。あれこれと想像し、心を痛めて当然だ。だが美冬にはその気配すらない。
勘定の時、再び有子がやってきた。雅也は金を払いながら彼女に訊いた。
「有子ちゃんは生まれも育ちもここやな。ということは、小学校や中学校も地元?」
「うん。小学校はすぐそこ。中学も歩いて五分ぐらいのところ。お金がないから私立なんかには行かせてもらえなかったのよねー」
奥から彼女の母親の、「そんな頭だってないくせに」という台詞が飛んできた。有子は舌をぺろりと出した。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、ちょっと知りたくなっただけ」雅也は代金を支払い、ごちそうさま、といって店を出た。すぐに後から有子が追いかけてきた。
「雅也さん、これからもちょくちょく来てね」
「そうする」彼はもう一度、ごちそうさま、といった。
アパートに戻るとすぐにスーツを脱ぎ捨て、いつものスウェットに着替えた。テレビのスイッチを入れ、煙草に火をつける。煙を吐きながらぼんやりと画面を眺めているが、内容はまるで頭に入らなかった。
有子は何でも教えてくれる――。
もしかしたら俺は美冬のことより有子のことのほうをよく知っているのではないか、と雅也は思った。どんな両親がいて、どんな家に育ち、どんな街で育ったのか、特に関心をもって聞き出したわけでもないのに知っている。料理の腕前だって見当がつく。
美冬についてはどうだろうか。知っていることといえば、例の震災で被災したということ、ただそれだけだ。亡くなった両親がどんな人だったか、生まれ育った街がどんなふうだったか、全く知らされていない。それなのに一蓮托生の人生を送ろうとしている。
俺たちは異常だ、狂っている――雅也は吸いかけの煙草を灰皿の中で潰した。
その時、携帯電話が着信音を鳴らした。液晶画面は非通知を示していた。
「帰ったのか」かけてきた相手が誰かはわかっていたので、雅也はいきなり訊いた。
「うん、さっき帰ったところ」やはり美冬だった。「今日はおどかしてごめんね」
「ほんまにびっくりした。どういうつもりや」
電話の向こうで美冬は含み笑いを漏らした。
「そろそろ手を打っておいたほうがええと思ってね。伏線よ」
「伏線? 何の?」
「これから先、頼江さんは若い男と深い仲になる。それをあたしは偶然知るわけ。具体的にいうと、二人がホテルから出てくるところで鉢合わせするんよ。その時、あたしが相手の男の顔を知ってたほうが、頼江さんに対する威嚇《いかく》効果は大きいやろ」
美冬の話を聞き、雅也は唸った。なるほどそういうことかと合点した。同時に、美冬の冷徹さに改めて驚いていた。
「そっちのほうはどう? 何か進展はあった?」美冬が訊いてきた。
旅行に誘われたことをいえば、彼女は喜ぶに違いなかった。この機会を絶対に逃すなとはっぱをかけてくるだろう。一方で、その行き先が京都だと知ったらどんな反応を示すか。目的が自分のことであることを彼女は察知するだろう。彼女なりに警戒すべきこともあるかもしれない。
いずれにしても雅也としては、頼江からの誘いについて話すべきだった。そのことは十分にわかっている。そのために美冬は電話をかけてきたのだ。
そう、美冬が電話をかけてくるのは、俺と話をしたいからじゃない――。
「ねえ、どうしたの? 何も進展はなし?」美冬が催促してきた。
雅也は呼吸を整えた。いつもと変わらぬ口調を心がけて答えた。
「着物の展示会の後、ホテルの喫茶室でコーヒーを飲んだ。それだけや」
「ふうん、次のデートの予定は?」
「決まってない。向こうから連絡してくるということやった」
「あの人も意外に慎重やね。着物の展示会に連れていくくらいやから、かなり大胆な気分になってるはずやのに」
「美冬らに会《お》うたから、慎重になったんと違うか」
「そうかもしれんね。けど、時間の問題や。絶対に何か誘いをかけてくる。雅也、そのチャンスは逃したらあかんで」
「誘いがあったらな」
「ある。あたしのいうことを信用しなさい。じゃあ、また連絡するから」
電話は一方的に切れた。雅也は無言になった携帯電話をしばらく見つめ、そして投げ捨てた。
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第九章
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路上に止められた車が、ただでさえ狭い道をさらに窮屈にしていた。それでもトラックは、何事もないようにタクシーとすれ違っていく。さらに自転車の籠に大荷物を載せた中年女性が、タクシーの左側をすり抜けて行こうとする。それでも運転手は、平然とアクセルを踏む。
「道が細いね」加藤はつい漏らした。
「こんなもん、ふつうですわ」運転手はぶっきらぼうにいう。タクシーを拾ったのは天王寺《てんのうじ》駅だ。そこからは電車でも二駅。近すぎて機嫌が悪いのかと思ったが、そうでないことを降車時に知った。
「裏道を使《つこ》たのに、時間かかってすんません」釣り銭を出しながら運転手はいった。
いや、といって加藤はタクシーを降りた。何となく気分がいい。走り去るタクシーの会社名を確認し、次に苦笑した。大阪人の商売のうまさとはこういうことかと思った。
地図を見ながら少し歩き、目的の二階建てアパートを見つけた。一階部分はコンビニエンスストアになっている。駐車場はなく、店の前にはびっしりと自転車が止められていた。桃谷《ももだに》駅を利用する人々が置いているのだろう。
二階に上がり、二〇五号室のドアホンを鳴らした。ドアの塗装はあちこち剥げていて、錆が浮いている。表札には長井《ながい》とある。
女性の声で返事があり、ドアが開いた。顔色の悪い、四十代半ばと思われる女性が隙間から加藤を見上げた。彼女の顔の下にはドアチェーンがあった。
「昨日、電話した加藤ですが」彼は精一杯の愛想笑いを作った。「御主人から聞いておられませんか」
「東京から来られたとかいう」
「警視庁から来ました」手帳を見せた。
「聞きましたけど、うちは別に新海さんとは特に親しくしてなかったんですよ」
「それは昨日御主人からも伺いました。でも一応……」愛想笑いを続けた。
「ふーん、そうですか……」長井家の主婦は思案顔のまま一旦ドアを閉じると、チェーンを外して再び開けた。しかし加藤を部屋に入れる気はないらしく、上がり口に立ったまま彼を見下ろした。「一体何なんですか」
加藤は中に入ると後ろ手でドアを閉めた。他人に話を聞かれたくないこともあるが、何より寒かった。大阪の夏は東京よりもはるかに暑いらしいが、冬は同様に寒いようだ。
「アサヒハイツというアパートに住んでおられたことがありますよね」
「西宮におった頃でしょ。ええ」
「すぐ隣に新海さん御夫妻が住んでおられましたよね」
「そうですけど、そんなに話をしたこともないんですよ。顔を合わせたら挨拶はしましたけど」
「震災の直前はどうですか。新海さんと……御夫婦のどちらかと話をされましたか」
「震災の直前ですか……」彼女の顔が曇った。厄介なことを尋ねられたせいもあるだろうが、それ以上に、震災という言葉に反応してしまったに違いない。アパートの全壊により、彼女たちも行き場を失ってしまったのだ。今でこそ、この地に落ち着いているようだが、様々な苦労を重ねてきたのだろう。
「嫌なことを思い出させるようで申し訳ないのですが」加藤は本心からそう詫びた。
「もう結構忘れましたけどね。私らよりもひどい目に遭《お》うてる人がたくさんいるし、全壊したというても、自分の家やなかったから失うものも少なかったし」主婦は他人を思いやる目になっていた。「そういうたら新海さんのところは、御夫婦とも亡くなったんやそうですね」
「そうです」
「お気の毒に……あんな時やから、線香の一本もあげる余裕がなかったんです。避難することで精一杯で」
「そうだろうと思います」
「そういえば、新海さんの奥さんと話しましたわ。前日やったかどうかは覚えてないんですけど、亡くなったと聞いて、ああ、あれが最後の会話やったんやなあと後で振り返った覚えがあります」
「どんなことを話されましたか」
「お嬢さんのことです。今夜娘が帰ってきて、しばらく一緒に暮らしますからよろしく、というような内容やったと思います。明日にでも挨拶させます、ともいうてはったように覚えてますけど」
「今夜帰ってくる? で、挨拶にはみえたんですか」
「いえそれが……」主婦は遠い目になり、やがて大きく頷いた。「そうですわ。その翌日に震災があったんです。それで結局、お嬢さんともお会いせえへんかったんです」
「すると娘さんが帰ってたかどうかも御存じないわけですね」
「いえ、お帰りにはなってたと思いますよ。うちの主人が避難所で挨拶したとかいうてました。それに前の晩、何かの拍子に話し声が聞こえてきたのを覚えてますから。えらい楽しそうにしゃべってはりました。話の中身まではわかりませんけどね。新海さんのところは、御夫婦とも物静かな人でしたから、話し声が聞こえてくるなんてこと、それまでにはいっぺんもなかったんです」
加藤の脳裏に、親子三人が仲むつまじく談笑している光景が浮かんだ。
「あんなに楽しそうにしてはったのに、その翌日に震災ですからねえ。ほんまに、神も仏もありませんで」主婦は顔を歪めた。「お嬢さんにしてみたら、一晩かぎりで御両親を失うことになったわけですもんねえ」
「新海さんのお嬢さんについて、ほかに何か聞いておられることはありませんか」
「ほかには何も――」そこまでいったところで何かを思い出した表情になった。「そういうたら、外国から帰ってくる、というようなことを奥さんはおっしゃってたように思いますけど」
「外国? どこですか」
「そこまでは聞いてませんけど、なんか長い間旅行してはったみたいでしたよ」
「旅行ねえ」
「あのう、刑事さん」主婦がやや顎を引き、上目遣いをした。「新海さんのところで何かあったんですか」噂話を好む目になっていた。
「大したことじゃないんです。新海さんには直接関係のない事件のことで調べていましてね。どうもお忙しいところ、お邪魔しました」さらに何か尋ねられる前に彼は後ろ手にドアを開けていた。部屋に上がり込まなくてかえってよかったと思った。
アパートから出て、コートから煙草を出そうとした時、その同じポケットの中で携帯電話が鳴った。加藤は舌打ちをし、取り出した。案の定、西崎からだった。ほーい、と気のない返事をする。
「どこにいるんですか」後輩刑事は明らかに苛立っていた。
「おまえ、先に帰っていいよ」
「そんなわけにいきませんよ。府警本部と曾根崎《そねざき》署には挨拶しておかないと」
「俺がいなくたっていいだろ」
「加藤さんがいなかったことが後でばれたら、上からどやされますよ。ただでさえ大阪に世話になったことで、うちのお偉方は機嫌が悪いんだから」
「しょうがねえだろうが、ホシが大阪でくたばっちまったんだから」
「とにかくまずは梅田に来てください。待ち合わせ場所はわかってますね」
「わかってるよ」
よろしく、といい放って西崎は電話を切った。いつもは加藤に対して、かなり従順な後輩だ。これ以上怒らせるとまずいようだと加藤は思った。
今回は仕事にかこつけて大阪に来ている。江戸川区で人を殺して財布を奪った男が、大阪の路上で凍死したのだ。所持品に盗んだものが入っていたので、そのことがすぐに発覚した。犯人が大阪に行ったのは、被害者が大阪行きの新幹線の切符を持っていたからだと推測された。おそらく大したあてもなく、ただ遠くへ逃げたかっただけであろう。
たまたま加藤の所属する班が担当することになっていたので、彼は大阪出張を立候補した。もちろん、狙いは別にあった。
彼は昨年のうちに二度関西に来ている。いずれも休暇を利用した。
まず加藤は新海夫妻の住居であったアサヒハイツの元住人を探した。不動産屋に当たってみたところ、彼等の殆どは大阪に移っていた。賃貸住宅の住人は持ち家の主よりも動きやすい。ろくに仕事のない西宮や神戸に留まるより、被災が殆どなかった大阪に職と住まいを求めるのは当然かもしれなかった。
そのうちの何人かから話を聞いたところ、新海夫妻はどちらも大人しく目立たない人物だったらしい。特別に親しく交流していた人間は、少なくとも同じアパート内にはいなかった模様だ。それでも顔を合わせた時には必ず丁寧な挨拶を受けたと、どの住人も語っていた。ただし娘のことを聞いたことはないという。
加藤は新海が勤務していた大阪本社にも出向いてみた。とはいえ、突然警視庁の人間が訪ねてきたら、先方は警戒するに違いない。彼は曽我孝道の失踪事件を前面に出すことにした。曽我も大阪本社にいたことがあるからだ。
曽我が所属していた職場の、神崎《かんざき》という人物が会ってくれた。神崎は曽我よりも二年先輩らしい。
曽我の失踪を神崎は知っていた。しかしそれについて手がかりとなりそうなことは何ひとつ知らなかった。加藤は落胆する表情を作ったが、予想できたことなので、内心ではそれほどでもなかった。
二度目の休暇では、加藤は京都に向かった。新海家がかつて住んでいた町を見るためだった。だが京都も変わっていた。元の住所を彼は西宮市役所で入手していたが、その場所に行き着くのにひどく手間取った。新海一家が住んでいた頃からは十数年が経過していたからだ。
だがこの京都で、加藤は驚くべきことを掴んだのだ。
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東京駅『銀の鈴』で待つこと約十分、煙草が吸いたいなと雅也が感じた頃、ルイ・ヴィトンの大きなバッグを提げた頼江が柱の向こうから現れた。
「ごめんなさい。出かける間際になっていろいろと用を思い出しちゃって」
「旅行に出ること、どなたかに話してあるんですか」
頼江は首を振った。
「独り暮らしだもの、そんな必要ないでしょ。私が二、三日東京にいなくったって、きっと誰も気づかないわよ。まあ、そのぶん気楽でもあるんだけど」
夫との繋がりも殆どないのだということを暗に仄《ほの》めかしているように聞こえた。彼女は腕時計を見た。
「大変、急がないと」
新幹線の出発時刻が迫っていた。
すでに入線していた『ひかり』に乗り込み、二人並んで席についた。グリーン車に乗るのは、雅也にとって生まれて初めてのことだった。そもそも彼は旅行自体、あまり経験がなかった。
頼江は旅慣れて見えた。待ち合わせの時刻には遅れてきたが、車内で食べるための弁当や飲み物はきちんと用意していた。雅也のために缶ビールも買っていた。
「結構混んでますね」列車が動きだして間もなく、雅也は周囲を見て呟いた。車内は八割方の席が埋まっていた。
「朝はビジネスマンが多いの。午後の中途半端な時間帯ならがらがらよ」
「不景気だというのに、グリーン車を使う人って多いんだな」
「大した金額じゃないわよ。ささやかな贅沢ってところじゃないの」頼江は雅也のためにテーブルをセットし、食べ物や飲み物を並べた。
傍からは自分たちはどんなふうに見えているだろうと雅也は想像した。年輩の女と若い男。しかも男はネクタイを締めておらず、スーツも着ていない。朝から缶ビールを買い込んでいる。女は見るからに裕福そうだ。有閑マダムと若い燕――そんな古臭い言葉が頭に浮かんだ。もっとも周りのビジネスマンたちは、他人のことなどまるで気にしていない様子だ。通路を挟んだ隣にいる男たちも、一人は仕事の資料らしきものを読んでいるし、もう一人は背もたれを倒して目を閉じている。
中学や高校にいた、成績のよかった同級生の顔がいくつか思い出された。彼等も今頃はこんなビジネスマンになっているのかもしれない。所帯を持っている者も多いだろう。リストラ、給与削減――そんな言葉に囲まれながら、現代社会を生き抜いているに違いない。そう思うと、自分だけがやけに浮世離れした世界にいるように雅也は感じた。失業中の身にもかかわらず、生活面では苦労していない。美冬からの援助があるからだ。
「ビール、飲む?」頼江が首を傾げて訊いてきた。
「今はいいです」雅也は断った。飲みたい気持ちはあったが、缶ビールを開ける音が、周りの男たちの耳に届くのを恐れたのだ。
「相変わらず、丁寧な言葉を遣うのね」頼江が妙なことをいいだした。
「そうですか」
「だってほら、そうですか、なんて」
「いやそれは……」彼は軽く笑った。「倉田さんは目上の方だし、いろいろとお世話になっているし」
「目上というより年上、でしょ」上目遣いで睨んできたが、不快感を抱いたわけではないようだ。「向こうに行ったら、なるべく関西弁を使ってほしいんだけど」
「はあ……」
「人にものを尋ねる時、その土地の方言を使ったほうが相手も警戒しないでしょ?」
「京都と西宮じゃ微妙に違いますよ」
「あら、どう違うの?」
「それは僕にもうまく説明できないんですけど……とにかくちょっと違うんです」
「でも同じ関西なんだから、東京人に対してよりは心を開いてくれるんじゃないのかな」
「さあ」雅也は首を傾げた。そんなに甘いものではないと思ったが、面倒なので反論しなかった。「向こうでは、いろいろと人に尋ねなきゃいけないんですか」
「たぶん、ね。ほかに調べる方法がないから」
「ある人物のことを調べたいとおっしゃってましたよね。その人が京都の三条に住んでるんですか」
「前に住んでたことがあるようなの。だから、その頃の家をまず見つけたいと思ってる」
「当時の住所はわかってるんですか」
「だからそれが三条ということぐらいしかわからないの」
「ちょっと待ってください。それで一軒の家を見つけようなんて無茶ですよ。しかも、今はもう住んでないわけでしょう? 三条といっても広いですよ」
「手がかりはあるの」彼女はバッグから小さな手帳を取り出した。それを開き、そこに書き込んであるらしいメモに目を落とした。「昭和五十四年新三条小学校卒、昭和五十七年三条第一中学校卒……」
「その人の経歴?」
「そう」彼女は頷いた。「高校や大学もわかってるけど、住所の範囲をある程度特定できるとしたら、やっぱり中学や小学校でしょ。学校名からすると、どちらも公立みたいだし」
「校区を当たるということですか」
「それでも大変だということはわかってる」頼江は手帳を閉じ、バッグに戻した。「でもほかに手がないのよ」
「その人の現住所はわからないんですか。もしわかっているなら、そこから辿れるんじゃないのかな」
「現住所はわかってるけど、遡るにも限度があるのよ。何度も転居していたら、もうわからない。住民票に記載されてるのは前の住所だけだったと思う」
雅也は頷いた。美冬はたしかに何度も転居している。秋村と結婚する前は門前仲町のマンションに住んでいた。それ以前は一旦西宮の両親のアパートに移ったわけだが、住民票は幡ヶ谷のあたりだと雅也は聞いている。
小学校や中学校に目をつけたのはさすがだと思った。おそらく頼江は『華屋』のルートから、美冬の履歴書を入手したのだろう。
「その人の名前はまだ教えてもらえないわけですか。向こうに着いて聞き込みをするには、どうしてもそれを口にしなきゃならないと思うんですけど」
雅也の問いに頼江はため息をついた。「教えないわけにはいかないわよねえ」
「僕は部屋で待っていればいいというのなら話は別ですけど」
「あなたの力は不可欠よ」彼女は微笑んだ。「じゃあとりあえず名字だけいっておくわね。新しい海と書いてシンカイと読むの。新海という人が住んでた家を探すのよ」
「新海さん……ですか」
「わりと珍しい名字だから探しやすいと思うんだけど」
「そうですね」雅也は頷き、車窓の外に視線を移した。予想していた名字だったが、実際に聞かされるとやはり緊張が走った。その表情の変化を頼江に悟られたくなかった。
おそらく頼江は、美冬の両親の住んでいた場所を知らない。西宮で震災に遭ったことぐらいは了解しているだろうが、詳しい住所は把握していないのだ。もしそれを知っていたなら、今回の行き先は西宮だったかもしれない。
焼け崩れたアパートの残骸が不意に瞼に浮かんだ。そばに美冬が立っていた。あれから四年が経つ。彼女と上京することになるとは、出会った時には想像さえできなかった。考えてみれば、新幹線に来るのはあの時以来だった。
二時間半後、雅也と頼江は京都駅を出ていた。荷物をコインロッカーに預け、タクシー乗り場に向かった。
「前に来たのは何年前だったかな。あの時とずいぶん様子が変わってる」駅周辺を見回しながら頼江はいった。「あなたはいつ以来?」
「十年は来てないですよ」彼は答えた。「だから案内役は無理です」
「仕方ないわね。二人で相談しながら動きましょ」頼江は楽しそうだった。
タクシーに乗り込むと、彼女は京都の地図を出してきて、それを運転手に見せた。会話から、彼女が新三条小学校に行きたがっているのだとわかった。彼女なりに、小学校の位置は事前に調べておいたらしい。
「問題は校区なんだけど、それはよくわからなかった」タクシーが動きだしてから頼江はいった。「だからとりあえず、学校を中心に範囲を広げていこうと思ってるの」
「それなんですけど、どうやって聞き込みをすればいいですか。片っ端から歩いている人に、新海さんの家は知りませんか、と聞いて回るわけにはいかないでしょう?」
「それはそうね。だから、お店の人とかに尋ねてみようと思ってるの。お寿司屋さんなんかいいかもしれないわね。出前をするから、お得意さんの名前は覚えてるんじゃない?」
「時期にもよりますね。その新海という人がそこに住んでいたのは、何年ぐらい前のことなんですか」
頼江は小首を傾げた。「十年……十五年ぐらい前になるかもしれない」
「十五年ですか……」
「私ぐらいの歳になると十五年なんてあっという間なんだけど」彼女は肩をすくめてみせた。「若い人にとっては、大昔ってことになるかもしれないわね」
「それほどじゃないですけど」
難しいだろうなと雅也は思った。美冬の父親はサラリーマンだったらしい。商売をしている人間に比べて、近所の住人との繋がりは浅い。十数年経った今でも覚えている人間がいるかどうかは怪しかった。
雅也の気持ちは複雑だった。美冬のためを思えば、頼江の調査は頓挫したほうがいいのかもしれない。だが彼自身の中に、この機会に美冬のことを知りたいという気持ちがあった。だから今回のことは美冬には内緒にしているのだ。
タクシーは住宅地に入っていた。繁華街からは離れている。やがて小学校らしきものが見えてきた。校舎は小さく、グラウンドも狭そうだ。タクシーはその前で止まった。
「まだ授業中みたいですね」雅也は正門から中を覗き込んだ。校庭では三年生か四年生と思われる子供たちが、跳び箱の練習をしていた。
「学校に卒業生名簿みたいなものはないのかしら」
「そりゃああるでしょうけど、部外者には見せてくれないと思いますよ」
「そうね、きっと」頼江はあっさりと諦めた。「さっき、小さな商店街の前を通ったでしょ。あそこまで戻ってみましょう」
地図を手に歩きだした彼女の後を雅也は追った。細身の後ろ姿を眺めながら、長い一日になりそうだなと覚悟を決めた。
最初に当たったのは精肉店だった。昼食時を過ぎたからか、中年の女性店員が暇そうにしていた。それでも雅也たちが近づくと、その顔に愛想笑いを浮かべた。
「いらっしゃい。何しましょ」
「いや、ちょっとお尋ねしたいことがありまして」雅也は関西弁のアクセントを使った。「このへんで新海さんという家、御存じないですか」
「シンカイさん?」
「十五年ぐらい前まで住んではったはずなんです」
「十五年? そんな前のこと、覚えてませんなあ。シンドウさんやったら、知ってますけど」真面目に思い出そうとする気配はなかった。
雅也は礼をいって、店を出た。思わず吐息が漏れた。
「この調子で訊いてまわるのは、かなりきついですよ」
「そう簡単に見つかるとは思ってないわよ」
結局、半日をかけて歩き回った。しかし新海家を知る人間は見つからなかった。
「あの小学校の校区内は、ほぼ当たったと思うんだけど」テーブルに広げた地図を見て、頼江はいった。京都駅のそばのレストランで簡単な夕食を済ませた後だった。
「店の人間は客の名前なんて知らないものです」
「お寿司屋さんも何軒か当たったわよね」
「たったの五軒です。新海さんがしばしば出前をとっていたとしても、小学校の校区内にある寿司屋だったとはかぎらない」
雅也の言葉に頼江は苦笑を浮かべている。どうしたんですか、と彼は訊いた。
「少しは肯定的な意見はないのかしら、と思ったのよ」
「あ、すみません」
「いいのよ。ホテルに行って、作戦を練り直しましょう」頼江はレストランの伝票を手に、立ち上がった。
預けてあった荷物を出し、駅のそばにあるホテルに入った。頼江がチェックインの手続きをする間、雅也は落ち着かない気持ちを煙草によって紛らわせた。美冬がこの状況を目にしたなら、間違いなくこうはっぱをかけただろう。雅也、今夜がチャンスやで、これを逃したらあかんで――。
頼江が戻ってきた。「はい、これが鍵」カードキーを差し出してきた。
すみません、といって彼はそれを受け取った。まさか同じ部屋では、と思った時、彼女がもう一枚のカードを見せた。
「私は隣だから」
「あ、はい……」
チャンスやで、という美冬の囁き声が聞こえた気がした。
部屋に入る直前に頼江が訊いてきた。「どこで相談する?」
「あ、いや、どこでも」
「私の部屋に来てくれてもいいし、私がそっちに行ってもいいわよ。それともバーにでも行く?」
「そうですね」雅也は救われた気がした。「せっかくだからバーに行きましょうか」
「わかった。じゃあ、少ししたら呼びに行くから」彼女は先に自分の部屋に入った。
雅也もドアを開けた。部屋はシングルだった。それを見て少しほっとした。頼江にその気はないらしいと思ったからだ。だがベッドに横たわって天井を見つめているうちに、あっちの部屋がシングルとはかぎらないと思った。
部屋を訪ねていくべきなのかどうか、雅也は迷った。そんなことはしたくなかったし、頼江も望んでいないように思えた。美冬はたしかに常人離れした洞察力を持っている。しかし今回ばかりはそれが空回りしているように感じられた。
ノックの音がした。雅也は首を起こした。「はい」
「用意できたけど、あなたのほうはどう?」頼江の声だ。
「大丈夫です」ベッドから下りた。
バーはホテルの最上階にあった。案内された窓際の席で、二人は向き合った。頼江はマティーニを注文した。雅也はメニューを少し眺めてからジンライムにした。カクテルの名前など殆ど知らなかった。
「天気がよくてよかった。夜景がこんなに奇麗」外を見て頼江はいった。
彼女は白いワンピースに着替えていた。スカートの丈が短く、細い膝が雅也のほうを向いていた。化粧も直したらしく、夕食時よりも顔立ちがくっきりとして見えた。
雅也が視線を上げると頼江と目が合った。彼はあわてて煙草に火をつけた。
「収穫がなくて残念でしたね」マッチの火を灰皿に置きながらいった。
「そう簡単にいくとは思ってなかったわ。何しろ手がかりが少なすぎるもの」
「明日もありますしね」
頼江が頷いた時、飲み物が運ばれてきた。彼女がグラスを差し出してきたので、雅也もそれに自分のグラスを合わせた。ガラスの触れる音がした。
「あなた、何にも訊かないのね」一口飲んでから彼女はいった。
「何をですか」
「私が調べている人間について。名字を訊いただけで、私とどういう関係のある人物なのか、ちっとも訊いてこない」
「訊いたほうがよかったですか」
「そういうわけじゃないけど」彼女はグラスをコースターの上に置いた。「こんなこと、なかなか無条件じゃ協力してくれないものよ。でもあなたは黙々と手伝ってくれている」
「倉田さんにはお世話になってるから」
雅也が答えると、彼女は微笑した。「硬い言い方。まあ、仕方ないか」
お世話になっている、という台詞が気に障ったのかなと雅也はまず思った。だがすぐに、もしかしたら『倉田さん』のほうかもしれないと思い直した。この女性は、名前で呼んでもらいたがっているのだろうか――。
「いもうとなのよ」俯いたまま、不意に頼江がいった。
「えっ?」
「妹。ただし弟の奥さん。義理の妹。いつか着物の展示会で会ったでしょ。彼女の旧姓が新海なの。義妹《いもうと》のことを調べるため、わざわざ京都までやってきたってわけ」
雅也は面食らっていた。ここでそれを話されることは予想していなかった。
「何のために、ですか」
彼女は微笑んだ。
「これも古い家のあまり良くない体質ってことなんでしょうけど、長男が結婚するとなれば、相手のことをいろいろと調べないわけにいかないのよ。ところが弟は、私たちがそれをする前にさっさと籍を入れちゃった。じゃあ仕方がないってことで、私も一旦は割り切ったんだけど、やっぱり気になることが多くて、改めて自分なりに調べてみようって気になったの。このことは、もちろん誰にも話してない。弟にばれたら、鬼の形相で怒るでしょうね」
「気になることが多いって、たとえばどういうことですか」
「いろいろあるんだけど、一言でいえば過去がないっていうことかな」
「過去がない?」
「そうなの。彼女、例の阪神淡路大震災で被災したらしいんだけど、それ以前のことは全く不明なのよ。弟もよく知らないみたい。おまけに御両親もその震災で亡くしているし」そこまでいってから頼江は何事かに気づいたように雅也を凝視した。「あなた、震災の時はどこにいたの?」
「俺は……」一瞬いい淀んでから雅也は続けた。「その頃は大阪にいました。それで震災の被害は全然なかったんです」
「そう。それならよかった」
「震災ですべてをなくした人は多いですよ」彼はいった。「財産や家族だけでなく、過去も。過去って結局人との繋がりですから」
「それにしたって、昔からの知り合いが一人や二人はいるものじゃないかしら。それなのに彼女のところには年賀状の一枚もこないのよ」頼江は少しむきになっているようだ。
たしかに美冬から昔の知り合いについての話を聞いたことがない、と雅也も思った。
頼江がマティーニを含み、彼を見て苦笑した。
「こんなふうにいっても、あなたには伝わらないでしょうね。結局は直感的なものなのよ。最初に会った時から、彼女には何だか得体の知れないものを感じてたの。その理由はうまくいえない。ありきたりな表現を使うなら女の勘ってやつね」
雅也は調子を合わせて笑ってみせた。内心では、彼女の慧眼《けいがん》に舌を巻いていた。
「でもね、さっき部屋で化粧を直しながら思ったの。私、こんなところで何をしてるのだろうって」頼江はマティーニのグラスを、光にかざすように持ち上げた。
「せっかくこんな素敵な場所に来て、おいしいものも食べて、奇麗な夜景にも囲まれてるっていうのに、どうして探偵の真似事なんかをしてるんだろうって」
「だって、そのために来たんじゃないですか」
「そうなんだけど……何だか急に空しくなってきちゃった。人のことなんかどうでもいいじゃないか、それよりも自分のことを考えたほうがいいんじゃないかってね。あなたにも迷惑をかけてるわけだし」
あなた、といって上目遣いをした時、頼江の瞳が妖しく光ったように雅也には感じられた。彼はジンライムをごくりと飲んだ。
「じゃあ、明日はもう調査はやめますか」
「ううん。一応、明日は続ける。でも明後日はわからない。すぐに帰るかも」
「それがいいと思いますよ」
それぞれが同じものをもう一杯ずつ飲み、バーを後にした。頼江の頬は店に入る前よりも赤くなっていた。しかし足元はしっかりしている。
頼江の部屋の前で二人は立ち止まった。彼女はカードキーを手にし、彼を見上げた。
「部屋でもう少し飲み直す?」
さりげない口調だったが、その言葉の裏に重大な決意が潜んでいるようだった。
美冬の顔が雅也の脳裏をかすめた。
「いや」彼は微笑んでかぶりを振った。「今夜はこのへんにしておきます。まだ明日があるし」
頼江の表情に格別の変化はなかった。口元を緩め、小さく頷いた。
「そうね。じゃあまた明日」彼女はカードキーをドアに差し込んだ。「おやすみなさい」
おやすみなさい、といって雅也もキーをポケットから出した。
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翌朝、雅也がバスルームで髭を剃っていると、電話が鳴りだした。出てみると、「おはよう。私」と頼江の声がした。
「朝食に行きますか」
「うん……それがちょっと調子が悪いの」声に張りがなかった。
「どこか体調が?」
「風邪ひいちゃったみたい。ここ、空気がすごく乾燥してるからだと思うんだけど」
「熱は?」
「あるかもしれない。悪いけど、朝食は一人で済ませてくれる?」
「それは構いませんけど……大丈夫ですか」
「大したことないから、少し休めば治ると思う」
「そうですか。ええと、じゃあ今日はどうすればいいかな」
「とりあえず、朝食を済ませたらノックしてちょうだい? もし返事がないようなら電話して」
「わかりました」
部屋は二泊分予約してあるから、チェックアウトのことは考えなくていい。これで今日の調査は流れることになるのかなと雅也は思った。
ホテル内のティーラウンジでモーニングセットを食べた後、インフォメーションで近くに薬屋がないかどうか訊いてみた。ホテルの地階にある、ということだった。
薬屋で総合感冒薬と栄養ドリンク、それから体温計を買った。頼江の部屋をノックすると、細い声で返事があり、やがてドアが開いた。彼女はTシャツの上からホテルに備え付けの寝間着を着ていた。顔色がよくなかったが、うっすらと化粧はしているようだ。
「具合、いかがですか」
「ちょっとだるいかな」頼江は額に手を当てた。
「薬、買ってきました。それから体温計も」
「あ……ありがとう。お金、渡すわね」
「そんなことはいいです。それより、横になってたほうがいいですよ。その前に薬を飲んだほうがいいかな」雅也は冷蔵庫からミネラルウォーターを出した。
頼江はベッドに腰掛けていた。シングルベッドだった。風邪薬を彼の差し出した水で飲み、さらに栄養ドリンクを飲んだ。ベッドに横たわり、毛布を肩までかぶった。
「熱、計ったほうがいいですよ」雅也は体温計を箱から出し、頼江に渡した。
「ごめんなさいね。変なことに付き合わせた上に、こんなことになっちゃって。最悪ね」
「気にしないでください。疲れたんですよ、きっと。昨日はずいぶん歩いたから」
「あの程度で……」頼江は吐息をついた。「やっぱりもう歳ね」
雅也はその台詞は聞こえないふりをし、ポケットに手をやった。だがすぐにその手を戻した。
「いいのよ、吸ってちょうだい」頼江が察していった。
「いや、そんなに吸いたいわけじゃないから。それより今日は寝てたほうがいいですよ。無理してこじらせると、明日帰るのが大変になるから」
「でも、今日はどうしても会いたい人がいるの。会えなければ連絡だけでも」
体温計が電子音を発した。頼江は毛布の中でもぞもぞと動き、それを取り出した。
「三十七・三度……か。微熱ってところね」
「御存じでしょうけど、人間というのは朝は体温が低いんです。これからもっと上がるかもしれない」
「でもせっかくここまで来たのに」頼江は枕の上で首を振った。
「ゆうべ、今日でもう終わりにするようなことをおっしゃってたじゃないですか。予定より一日早いだけです」
「だけど……」彼女は何か心残りがあるようだ。
「わかりました。じゃあ、僕が一人で調べます。そのかわり、あなたは休んでいてください。それでどうですか」
頼江は迷った顔で雅也を見上げていた。やがてその目を窓際に向けた。
「私のバッグを取ってくれる?」
「これですか」
彼女はバッグを開き、中からメモ用紙を出してきた。
「この人に連絡をとりたいんだけど」
「中越《なかごし》さん……ですか」
そのメモには、『ミツヤ工芸 中越|真太郎《しんたろう》』とあり、電話番号と住所、さらにホームページアドレスが書き込まれている。
「インターネットを使って、新三条小学校で検索してみたの。そうしたらその人が作ってるホームページに辿り着いて、略歴を見たら、新三条小学校卒ですって。ただし昭和五十年卒だけど」
「なるほど……」雅也は頷いた。そういう手があったか。「この人に会えば、何か手がかりが掴めるかもしれないというわけですね」
「あまり期待はできないけど」頼江は力無く目を細めた。
「じゃあこの人に連絡をとってみます」
「やってくれる?」
「ええ。ただし、それだけです。長時間病人を一人にはしておけないから」
雅也がいうと、頼江は瞬きを何度かした後、毛布の下から手を出してきた。
「ありがとう、優しいのね」
「早く元気になってください」雅也は彼女の手をそっと握った。
『ミツヤ工芸』は四条河原町《しじょうかわらまち》にあった。清水焼の品を主に扱っているようだが、売場には染め物や、土産用アクセサリーなども並んでいる。不景気で、修学旅行の学生なども当てにしないとやっていけないのだろう。今も主人の中越は、何を象《かたど》ったのかよくわからないキーホルダーを、女子中学生らしき少女のために包んでいるところだった。中越は小柄で小太り、おまけに顔も丸く、愛想笑いのよく似合う男だった。数百円の買い物をした少女に対してもぺこぺこ頭を下げ、丁寧に釣り銭を渡していた。
「どうもお待たせしました。ほんまにもう、ふだんは暇やのにこんな時にかぎって客が来るんやから、おかしなもんですわ」レジスターを閉めてから中越は雅也にいった。「ええと、水原さんでしたね。人をお探しとか」
「電話でもお話ししましたけど、新三条小学校に通ってた人なんです。ただ、その人は五十四年卒ですから、中越さんよりは四学年下ということになりますけど」
「そうですねえ。近所に住んでた人間やったら、ある程度はわかるんですけど」
「新海という女性です。新海美冬さん……記憶、ないですか」
「シンカイさんねえ。聞いたことがあるような気もするんやけど」中越は腕組みをして唸った。「御存じかどうか知りませんけど、そんなに子供の数が多い学校やないんです。けど、さすがに四学年下となるとなあ……。ええと、学校には問い合わせられたんですか」
「それが、どなたを訪ねていったらええのかわからんものですから。当時の先生は、たぶんもうおられないやろうし、学校の卒業生名簿というものは、なかなか部外者には見せてもらわれへんと聞いてますし」
「個人情報について厳しい時代ですもんねえ」中越は自分の頬をこすった後、独り言のように呟いた。「もしかしたら、あの先生やったら何か知ってるかもしれんな」そして傍らの電話機に手を伸ばした。
雅也には何もいわず、中越はどこかに電話をかけ始めた。彼は自分のホームページを頼りにわざわざ東京からやってきた見知らぬ男に対して、一肌脱ぐ気になっているようだ。
「あ、アラキ先生ですか。中越です。『ミツヤ工芸』の。どうも御無沙汰しております」電話で話す時、彼の声のトーンは高くなった。「ちょっと変なことをお尋ねしますけど、昭和五十四年というたら、先生はどちらの学校にいらっしゃいました? ……えっ、あ、そうですか。やっぱりまだ新三条のほうに。はあはあ、なるほど」彼は雅也のほうを見て、にっこり笑って頷いた。「いやじつはね、五十四年に新三条を卒業した人を探してる人がこちらに見えてるんです。……あれを見て訪ねてきはったんですよ。あの例の僕のホームページを。……何をいうてはるんですか、見てくれてる人は結構多いんですよ。それでね、その頃の卒業生名簿みたいなものをアラキ先生やったら持ってはるんやないかと思って、それでお電話した次第なんですわ。……えっ? あ、それがね、何でも阪神淡路大震災で被災して、それ以来行方不明になってしもたらしいんです」
相手のアラキという人物は、何のための人探しかを尋ねているようだ。中越は雅也が話した内容を、そのまま伝えてくれている。
「手がかりが新三条を五十四年に卒業したということ以外にないから、僕のところまでわざわざ来はったんですよ。東京からですよ。何とかなりませんか」中越は粘っている。
雅也は彼の耳元でいった。「新海美冬という生徒に覚えがないかどうか、尋ねていただけませんか」
中越は頷き、その問いかけをした。だが相手のアラキなる人物は思い出せないようだ。
「生徒の名前は何年経っても忘れへんて、前に威張ってはったやないですか。……なんや、自分の教えたクラスだけかいな。……学年が違うというても、あんな学校、なんぼも生徒はおりませんで。ねえ先生、何とかなりませんか。遠いところを訪ねてきてもろて、手ぶらで帰すのは申し訳ないんですわ。五十四年の卒業生名簿、どっかで手に入れられませんか。……えっ、何ですか」
早口でまくしたてていた中越が、ここで相手の話を聞く顔つきになった。やがて送話口を塞いで雅也のほうに身体を捻った。「昔の教師仲間を何人か当たってくれるそうです。ええと、水原さんはいつまでこちらにいらっしゃいます?」
「明日には東京に帰る予定なんですけど」
中越はそのことを電話でいい、なるべく早く調べてくれと念を押して電話を切った。
「アラキ先生というのは?」雅也は訊いた。
「僕らの担任やった先生です。もうおじいちゃんで、教師を辞めてから十年以上経つんと違うかな。おもろい人でね、同窓会なんかの時には、今や僕らの玩具ですわ」そういってから中越は何かに気づいた顔をした。
「そうか。同窓会に来る連中に片っ端から電話したら、一人ぐらいシンカイという名前を知ってるやつがおるかもしれん」
「いや、そんな、お忙しいのに……」
「見たらわかるでしょ。忙しいことなんかあるかいな。それにね、震災と聞いたら、ほっとかれへんのですわ」中越は真顔になった。「いとこがね、尼崎におったんです。まだ新婚ほやほやでね、さあこれからという時に、買《こ》うたばっかりのマンションが倒壊したんですわ。かわいそうにお嫁さん、たったの二か月で未亡人ですがな」
雅也は目を伏せていた。数千人が死んだのだ。そういう出来事もあったに違いなかった。思い出したくもない光景がありありと浮かび、一瞬震えが起きた。
「ちょっと調べさせてもらいます。何かわかったら連絡しますわ」
「お願いします」雅也は携帯電話の番号を中越に教えた。
『ミツヤ工芸』を出ると、雅也は特にあてもなく四条河原町を歩いた。途中経過を頼江に知らせるべきかどうか考え、結局知らせないことにした。中越は協力的だが、いい結果が出るとはかぎらない。それにもし美冬のことが何かわかれば、まずは自分一人で確認したかった。
喫茶店に入ろうとした時、携帯電話が鳴った。非通知電話だった。中越にしては早すぎると思いながら通話ボタンを押した。
「もしもし、あたしやけど」
声を聞いてどきりとした。美冬だった。ああ、と曖昧に答えた。
「ちょっと訊きたいことがあるんやけど、今大丈夫?」
「うん……何や」
「頼江さんのことなんやけど、昨日から留守みたい。あんた、彼女がどこに行ったか聞いてない?」
「いや、聞いてないけど」鼓動が速くなった。
「そう? じゃあ、あんたから彼女に電話してみて。で、どこにいるのか訊き出して」
「ちょっと出かけてるだけやろ。友達と旅行にでも行ったのと違うか」
「旅行に出たのは間違いないんよ。息子さんにそういうてたそうやから。ただ、行き先については何もいうてなかったらしいの」
「それがどうかしたのか」
「何か気になる。今、あの人の頭の中は雅也のことでいっぱいのはずや。それやのに雅也にも黙って旅行に出るなんて、ちょっと考えられへん」
雅也は低い笑い声を電話に向かってたてた。
「それは決めつけすぎやろ。あの人にはあの人なりの予定というものがある」
「それにしても雅也に何もいうてないのは絶対におかしい。本当やったら、毎日雅也に会いたいはずやのに」
美冬の言葉はあまりに断定的すぎる。しかしその思い込みが必ずしも的はずれでないところが、この女の恐ろしいところでもあった。
「そんなに気になるんやったら、美冬が電話したらええやないか」
「あたしが電話する理由がないでしょ。それで雅也に頼んでるんやないの。あんたにやったら変な嘘はつかへんと思うし」
「一体美冬は何を恐れてるんや。頼江さんがちょっと留守する程度のこと、どうってことないやろ」
「何でもええから、とにかく雅也から電話してみて。それで、何かわかったらあたしに連絡してちょうだい。わかった?」
「ああ、わかった」
「じゃあよろしく」美冬は自分の用件を済ませると、一方的に電話を切った。
携帯電話をポケットに戻し、雅也は頭を掻いた。面倒なことになった。自分が同行していることを隠したとしても、頼江が京都にいることを美冬に教えるのはまずいような気がした。
喫茶店に入る気は失せていた。彼はタクシーを捕まえ、ホテルの名を告げていた。
ホテルに着くと、一旦自分の部屋に戻り、煙草を二本吸ってから頼江の部屋の電話を鳴らしてみた。二回鳴ったところで受話器が取り上げられた。
「すみません、お休みだったんでしょうか」
「大丈夫。ちょっとうとうとしてただけ。どこからかけてるの?」
隣の部屋からだと答えると、じゃあ部屋に来て、と頼江はいった。どこか甘える響きがあった。
ノックをするとすぐにドアが開いた。頼江は今朝と同じ格好をしていた。
「何か食べたんですか」
雅也の問いかけに彼女は笑いながら首を振った。「食欲がなくて」
「せめて水分だけでもとったほうがいいですよ。熱はどうです」
「さっき計ったら三七。六度だった」
「やっぱり少し上がりましたね」
「寝てればよくなると思うんだけど。この部屋、乾燥しすぎるのよね」頼江は顔をしかめて天井を見上げた後、雅也を見た。「で、何かわかった?」
雅也はかぶりを振ることにした。
「中越さんに会ってきましたが、これといって収穫はありませんでした。やっぱり卒業年度が違うので……」
「そう……」ある程度は覚悟をしていたのか、さほど濃い落胆の色は見せなかった。「悪かったわね。わざわざ行ってもらったのに」
「いいえ。それより、気になっていることがあるんですけど」
「何かしら」
「今回のことは誰にも話してないとおっしゃいましたよね。でもお宅を留守にしている以上、帰ったら、何か訊かれるんじゃないですか」
「独り暮らしだもの、私がいなくたって誰も困らないわ。それに息子には旅行に出るっていってきたの。行き先はいわなかったけど」
「だけどもし訊かれたら……たとえば弟さんとかに」
「訊かれないと思うけど……訊かれたら、そうね、関西を回ってたとでもいうわ」
「関西、ですか」
「嘘じゃないでしょ。関西のどこだって訊かれたら、あなたには関係ないでしょっていってやるわ」熱のせいか、やや赤みのさした顔で頼江は笑った。
雅也は追従笑いを浮かべながら考えを巡らせていた。では美冬にもそう連絡すればいいのか。彼女は関西にいるらしい、詳しい場所は教えてもらえなかった、と――。
その時だった。携帯電話が鳴りだした。中越からだ、と雅也は直感した。ここで出るわけにはいかない。
「東京の友人からです。じゃあ、また後で」携帯電話を手に、あわてて頼江の部屋を出た。
自分の部屋のドアを開けながら電話に出た。相手はやはり中越だった。
「先生から連絡がありましたで。アラキ先生から。五十四年卒の子供を教えてたという人が見つかったそうです。上京《かみぎょう》区に住んではるそうです」
「上京区……」
「同志社大学のあたりですわ。フカザワという人やそうです。深い浅いの深に、ふつうの沢です。今は教師を辞めて、実家の本屋を継いではるということです。一応連絡先と住所を聞いときましたけど」
「助かります。ありがとうございます」
中越のいう住所と電話番号を雅也は控えた。
頼江には何もいわずにホテルを出て、タクシーに乗った。得られた情報によっては彼女に事後報告してもいいと思った。
中越のいっていたとおり、『深沢書店』は同志社大学の正門から二百メートルと離れていないところにあった。さほど大きな店ではないが、大学で使われるらしいテキスト類のコーナーがあり、若者がその前でたむろしている。雑誌のコーナーも充実しているようだ。しかし売上額が大きいはずのマンガコーナーは隅に少しあるだけだ。元教師の信念なのかもしれなかった。
奥のレジカウンターに女性店員がいた。雅也は近づいていき、深沢さんはいるかと尋ねてみた。女性店員は通路を指差した。ずんぐりとした体格の男が、雑誌の荷をほどいているところだった。
「深沢先生ですか」雅也は男の背中に声をかけた。
男はしゃがんだまま振り返った。表情が少し和んでいるのは、久しぶりに先生と呼ばれたからかもしれない。「今は本屋ですけど……深沢です」
「水原といいます。新三条小学校の卒業生を探している者です」
「ああ、さっきアラキ先生から電話がありました。おたくですか」深沢は立ち上がり、腰を伸ばすしぐさをした。「まさか早速訪ねてきはるとは思いませんでしたわ」
「すみません、急に。でも明日は東京に帰らなきゃいけないので」
「そうですか。ではまあ、こちらへ」
レジカウンターの横にあるドアを深沢は開けた。その向こうは小さな事務所になっていた。机やキャビネットが置いてあり、至るところに本が積まれている。
「ええと、五十四年卒の子について訊きたいことがあるとか」
「そうです。ずいぶん前のことですから、お忘れかもしれませんけど」
「どの子についてお訊きになりたいんですか」
「新海さんです。新海美冬という人です」
「ははあ、新海さん……」柔和だった深沢の顔が、ふっと一瞬曇ったように見えた。「その人が何か?」
「西宮に住んでたんですけど、例の震災で行方不明になったんです」
「それはアラキ先生からも聞きましたけど、今どこにいるのかは私も知りませんねえ」
「覚えておられますか、新海さんのこと」
深沢は少し躊躇いを見せた後、小さく頷いた。「覚えてますよ、何となく」
「どういう子でしたか」
「どういうて……まあ、ふつうの女の子やったと思いますよ。特別に目立ってなかったけど、何か問題があったわけでもないし。成績もまずまずやったと記憶してますけど」そこまでしゃべってから、深沢は上目遣いで雅也を見た。「ええと、水原さん……でしたね」
「はい」
「おたく、警察の方ですか」
雅也は目を見開き、小さくのけぞった。「違います。どうしてですか」
「いや、あの……」深沢は眉間に皺を寄せ、迷いの表情を浮かべながらいった。「三か月ほど前に、やっぱり新海のことを訊きに来た人がおったんです。その人は東京の刑事さんでした」
「刑事? 何という名前でしたか」
「カトウ……とかいうたんやなかったかな」
警視庁捜査一課の加藤だ、と雅也は気づいた。あの男がなぜこんなところに――。
「その刑事さんが調べてた件とは別なんですか」深沢は訊いてきた。
「別です。どうしてそんな……刑事が来たのか、さっぱりわかりません」
「そうですか」しかし深沢は釈然としない様子だ。
「あのう、その刑事さんはどんなことを訊いていかれましたか」
深沢は顎をこすり、疑念の籠もった目で雅也を見上げた。
「まあ、小学校時代のことですわ。大した話はしてません。あとそれから、なるべく顔がよう見える写真がほしい、といわれましたな」
「それで?」
「当時の写真はないけど、もうちょっと後の写真やったらあると答えたんです。私が教師を辞めると聞いて、同窓会を開いてくれたんです。あの子らは高校生になってました」
「その写真、刑事に渡したんですか」
「いや、私にとっては大事な写真やから、見せただけです」
「刑事はそれを見て、何かいってましたか」
「別に何もいうてませんでしたけど」深沢は明らかに憂鬱そうになっていた。厄介なことに巻き込まれる予感を抱いたのかもしれない。
「その写真、今ありますか?」雅也は訊いた。
深沢は吐息を一つつくと、そばの机の引き出しを開けた。加藤が来た時に家から持ってきて、その後そこに入れたままになっていたらしい。
これですけど、といって深沢は写真を差し出した。
雅也は写真を手にした。今よりもずいぶん若い深沢が中央に座り、彼を囲むように若者たちが写っている。
「これが新海ですけど」そういって深沢は右端の娘を指差した。
雅也は頷いた。何かいわねばと思ったが、言葉が見つからなかった。平静を保つのが精一杯だった。
それは美冬ではなかった。全く別の誰かだった。
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浜中はショーケースの上に商品の指輪をいくつか並べ、布で一つ一つ拭いているところだった。客の姿が見えないことを確認してから加藤が店に入っていくと、一瞬愛想笑いを浮かべた顔を、すぐに曇らせた。
「そんなに嫌な顔をすることはないでしょうが」加藤はにやにや笑ってみせた。正直なところ、こういう浜中の反応を眺めるのが快感でもあった。高級宝飾品店のフロア長時代は、さぞかし気取った立ち居振る舞いをしていたことだろう。その仮面の裏で、若い女の身体を求めて舌なめずりをしていた男だ。それが高じて人生を棒に振ったとしても、同情の余地などかけらもないと加藤は思っている。
「何の用ですか。もういいでしょう」浜中は視線をそらし、指輪を拭く手を再び動かし始めた。
「履歴書のことを訊きたいんですよ」加藤は客用の椅子を引き寄せて腰を下ろした。浜中の顔を下から覗き込む格好になる。
「履歴書って……」
「あの女のですよ。新海美冬のだ。あんた、履歴書を見て、あの女の経歴を知ったわけなんでしょう」
「それがどうかしたんですか」
「その履歴書には、当然写真も貼ってあったわけだよねえ」
「そりゃあもちろん……履歴書ですから」何を訊きたいんだ、というように浜中は顔を上げた。
「その写真を見て、何か気づいたことはなかった?」
「気づいたって、どういうことですか」
「ふつうの写真だったかな。あの女の?」
浜中は質問の主旨が理解できない様子だった。
「何をおっしゃりたいのかわかりませんけど、別に変わったところのない写真でしたよ」
「ふうん、そう」
「加藤さん、あの――」
「新海美冬がさ」浜中の言葉を遮って加藤は質問を続けた。「『華屋』に入った経緯ってのを教えてもらえませんかね。あんたフロア長だったんだから、知ってるでしょ」
浜中は口元を歪め、そのまま唇を舐めた。
「詳しいことは知りません。私が彼女を知った時には、すでに採用されてましたから。それに前にもいったように、最初は私のいる売場じゃなかったんです」
「それをあんたが見初めてスカウトしたんだったね」
加藤の言葉に浜中は唇を真一文字に結んだ。指輪を片づける手つきに苛立ちが表れていた。それを観察しながら加藤はいった。「詳しいことではなくていいですよ。彼女から何か聞いてるでしょ。どういうふうにして採用されたか。彼女のことなら何でも知りたがった浜中さんが、そういうことを全く知らないとは思えないなあ」
指輪をショーケースに戻した浜中は、加藤をひと睨みしてから煙草に火をつけた。
「特別なことは聞いてないです。ふつうの中途採用です」
「そこなんだけどね、中途採用ってのはそんなにしばしばあるんですか」
「別に珍しいことじゃないです。景気によって人手が急に足りなくなることもあるし、『華屋』あたりの店になると、パートやアルバイトではまかなえないし」
「店員の質を落としたくないってこと?」
「それなりの経験を積んだ者じゃないとだめってことですよ」そういってから浜中はふと遠くを見る目つきをした。「そうだ。彼女、経験者だった」
「というと?」
「アクセサリーや宝飾品に詳しいってことが採用の条件だったみたいですよ。それで彼女は前にも同様の店にいたってことで、採用が決まったようなことをいってたなあ」
「前にいた店は? 履歴書にも書いてあったんでしょ」
「店の名前なんか忘れました」
「どうして? 小学校や中学まで調べようとしたあんたが、前に働いてた店に興味を持たないってことはないと思うんだけどね」
浜中は吐息をついた。「潰れたって聞きましたから」
「えっ?」
「潰れたそうなんですよ、その店。だから興味を持ったところで仕方がない」
「潰れた……ねえ」
「だから彼女も再就職先を探したってことなんでしょ。ねえ、もういいですか。何度もいってるけど、私はもう彼女のことは忘れたいんです。こっちがようやく落ち着いてきたって時に、いつもおたくがやってきて嫌なことを思い出させるんだ。もういい加減にしてください」浜中はきつい口調でいい、煙草の先を灰皿に押しつけた。
加藤は薄笑いを浮かべたままゆっくりと立ち上がった。浜中はまだ彼を睨みつけている。加藤は鼻の下をこすった。その手を顔から離すや否や、浜中のシャツの胸ぐらを掴んでいた。ショーケース越しにぐいと引き寄せる。浜中の顔に怯えの色が浮かんだ。
「舐めた口きくんじゃねえよ。あの女に手玉にとられて、いいように利用されたのは誰だ。てめえがもうちっとしっかりしてりゃあ、ほかの人間が迷惑することもなかったかもしれねえんだぜ」
「ほかの人間?」
浜中の問いかけには答えず、加藤は手を離した。もう一度椅子に腰掛け、足を組む。浜中がシャツの乱れを直すのを下から眺めた。
「その店の名前、何とか思い出してもらえないかな。まるっきり覚えてないってことはないんだろ」
「いや、本当によく見てないんです。その店の名前をいわれたら思い出すかもしれませんけど……」
「ふうん、まあいいや。で、新海美冬の採用が決まったのはいつ?」
「いつって、そりゃああの年の初め頃だと思います。あれはええと、一九九五年かな」
加藤は首を振った。
「もうちょっと正確に教えてもらえないかな。じゃあ、阪神淡路大震災の前だったか後だったか、それだけでも覚えてないか」
「震災の?」そういってから浜中は小さく口を開いた。「そういえば美冬が、震災後に仕事を探しに上京してきたっていってました」
「震災後? やっぱりそうか」
「それがどうかしたんですか。震災が何か関係あるんですか」加藤は彼の声を聞き流した。
「浜中さん、人事の人間を紹介してもらえないかな」
「はあ?」
「『華屋』の人事担当だよ。新海美冬の採用を担当した人間に会いたいんだ。何とかセッティングしちゃもらえないだろうか」
「おたくの目的がどこにあるのかは知りませんけど」浜中はため息をつき、また煙草の箱に手を伸ばした。「私が『華屋』の人間に顔が利くはずがないでしょう。向こうが嫌がって逃げますよ」
「そうか。そうかもしれねえな」加藤は頭を掻いた。
「ねえ、加藤さん」浜中が感情を抑えた低い声でいった。「履歴書だとか採用時期だとか、どうしてそんなことばっかり訊くんですか。今までにそんなことを訊いたことは一度もなかったのに、一体どうしたっていうんです。少しは私にだって教えてくれたっていいじゃないですか。私だって知る権利はあるはずですよ」
眉の両端を下げてそんなことをいう浜中の顔は、女に捨てられた男の表情そのものだった。加藤はふと、この男には教えてもいいかな、と心が揺らいだ。だがその揺れが収まるのに長い時間は要しなかった。まだ誰にもいえない――彼はそう決めていた。
「新海美冬の出身大学だけどさ、どこだったかな」
またしても自分の質問には答えてもらえないのかというように浜中は肩を落とした。
「西南女子大……でしょ。大阪にある。そこのたしか文学部」
「そう、西南女子大だ。その頃のことについて、あんた、調べようとはしなかったのか」
「調べようがないでしょ」浜中はげんなりした顔を作った。「卒業生名簿なんて、そう簡単には手に入らないし」
「そうか」加藤はゆっくりと腰を上げた。「どうせストーカーをするんなら、もうちょっと徹底的に、そのあたりのことも押さえておいてくれてたら、俺がこんなに苦労することもなかったのにな」
彼の言葉の意図がわかるわけがなく、浜中は途方に暮れたような顔で刑事を見つめている。その呆《ほう》けた表情を見返して、加藤は訊いた。「なあ、あんたが惚れた女の名前は何だっけ? あんたをここまで落とした女は何といったっけ?」
浜中は不安げに首を傾げている。
「名前をいってくれよ」加藤はさらにいった。
「美冬……でしょ。新海美冬」
「そう、新海美冬だよな。たしかにそういう名前だ」加藤は頷いた。「仕事の邪魔をして悪かったな。指輪をしっかり磨いてくれ」浜中の視線を背中に感じつつ、加藤は店を出た。
だけど違うんだよ――御徒町駅に向かって歩きだしながら加藤は心で呟いた。違うんだよ、浜中さん。あんたの人生を滅茶苦茶にした女はそんな名前じゃないんだ。新海美冬とは全くの別人なんだよ――。
加藤が京都に行ったのは約三か月前だ。彼がまず訪ねたのは、美冬が卒業した中学だった。彼はそこで昭和五十七年の卒業生に関する資料はないかと訊いてみた。理由については適当にでっちあげた。捜査のためだといえば、余程のことがないかぎり拒否されない。
やがて見せられた卒業アルバムには、集合写真のほか、体育祭や文化祭、修学旅行の写真が並んでいた。加藤は名簿の中に新海美冬という名前があるのを見つけたが、彼女がいるはずの集合写真をいくら睨んでいても、それらしき少女が見当たらなかった。何しろ写真が小さすぎた。
美冬の担任教師や同級生に連絡をとろうとしたが、アルバムには連絡先が書かれていなかった。当時のことを知る人間も、中学校には残っていなかった。
そこで加藤は小学校に足を向けた。そこで深沢という元教師のことを知った。新海美冬のいた六年三組の担任だった男だ。教師を辞めた後は実家の書店を継いでいるとかで、居場所を突き止めるのは容易だった。
深沢は美冬のことをよく覚えておらず、大した情報は得られそうもなかった。だが彼が出してきた写真を目にして、加藤は心臓が大きくバウンドするのを覚えた。卒業から数年後に行われたという同窓会に新海美冬という娘は出席していたが、それは加藤のよく知っているあの女性ではなかったのだ。
あの女は偽者だ――そう考えるしかなかった。どこかで本物の新海美冬とすり替わったのだ。そしてそのまま美冬として生きている。
ではいつどこですり替わったのか。また本物の新海美冬はどこに消えたのか。
その疑問を解消する答えは一つしかなかった。加藤は阪神淡路大震災に関するデータを徹底的に調べてみた。そして自分の仮説を裏づける数字を発見した。
犠牲者六千四百三十二人。そのうち身元不明は九人――。
いずれも火災が激しかった地域で見つかっている。損傷が激しかったり、複数と見られる遺骨が混ざり合って見つかったりしたため、科学的に身元を特定することができなかったらしい。九人は死者数として数えられてはいるが、犠牲者名簿にも記載されていない。今年一月、神戸市北区にある市立|鵯越《ひよどりごえ》墓園の無縁墓地に慰霊碑が建立されている。加藤の調査では、身元不明死体が発見された場所は、もはや正確には特定できなくなっていた。
その九人の中に――。
本物の新海美冬がいたのではないか。西宮にあったアサヒハイツという古いアパートからも、一体の身元不明死体が見つかっていたのではないか。それがもし新海美冬ならば、なぜ身元が確認できなかったのか。
理由は一つだ。新海美冬と名乗る人物が別に存在したからだ。また美冬の両親はどちらも死んでいた。
加藤は、全壊し、焼失した建物を思い浮かべた。そこから発見される三人の遺体。それは本当は両親とその娘だったのではないか。だがそこにもう一人、別の人物が現れる。娘と年格好の似た女だ。その女は死体のうちの二体を指していう。この二人は私の両親です。私の名前は新海美冬です。
さらに残る一体の死体を見ていうのだ。その人は知らない人です。私たちとは関係のない人です――。
加藤が警視庁に戻ると、報告書を作成する仕事が待っていた。西崎を見ると、彼もまた何やらデスクワークをしている。新海美冬が偽者だという話を聞かせたら、後輩刑事はどんな顔をするだろうかと加藤は想像した。
本格的に調べたいと思った。しかし上司たちが認めてくれるとは思えなかった。新海美冬がたとえ別人であろうと、何らかの事件に関わってこないかぎり、刑事が関与することは不可能だ。『華屋』の異臭事件は未解決だし、曽我孝道の失踪事件についても片はついていないが、どちらにも今さら上司たちが興味を示すとも思えない。曽我については、事件かどうかさえも不明なのだ。
もし曽我の死体が見つかったら話は違ってくる。捜査本部が設けられ、大勢の捜査員が投入されるだろう。加藤の持っている情報にも価値が出てくる。
新海美冬は偽者かもしれないと知った時、真っ先に加藤の頭に浮かんだのは、これで動機が見つかった、ということだった。曽我は殺されていて、その裏では美冬が動いていたのではないかと疑った時でも、動機だけは見当がつかなかったのだ。しかし彼女が偽者ならばすべて辻褄が合う。
例の写真だ。
曽我孝道は美冬が両親と写っている写真を持っていて、それを彼女に渡そうとしていた。その写真に写っているのは、間違いなく本物の美冬だ。つまり偽者の美冬にしてみれば、彼に会うことは、というより、彼の存在そのものが非常に厄介な問題となったわけだ。
無論、解決しなければならない問題はまだある。美冬にはアリバイがある。彼女は曽我と待ち合わせをしていて、待ちぼうけを食わされた格好になっているのだ。
死体の始末をどうしたかという疑問も残る。女一人ではとても無理だ。
またしても共犯者がいたという推論に落ち着くわけだが、その候補者となると、加藤はまだ一人も見つけだせないでいた。
死体が見つかり捜査員が動員されることになれば、おおっぴらに美冬の周囲を調べられる。ただ、その場合に加藤自身がどれだけ動けるかとなると話は別だ。
正直なところ、加藤は新海美冬に関する捜査を他人に委ねたくはなかった。彼女の過去、彼女の目的、さらにはどんな裏の顔を持っているのか、すべて自分の目で確かめたいのだ。誰にも邪魔されたくないし、捜査が進めば当然訪れるはずの最後の対決の場においても、自分以外の人間には立ち入ってもらいたくなかった。
なぜそんなふうに思うのか。誰も気に留めなかった新海美冬という女に、自分だけが目をつけたという自負があるからか。それもある。だがそれだけではない。
俺はあの女に惚れてるのかもな――。
少しも筆の進まない報告書を前に、加藤はにやりと笑った。
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新幹線の窓の外を景色が流れている。しかしそれは雅也の目には単なる模様としか映っていなかった。頭の中では様々な考えが交錯している。いつまでたってもまとまらない、混沌とした思いだ。
話しかけられていることに気づき、雅也はあわてて振り向いた。頼江が苦笑を浮かべていた。
「またぼんやりしてる。昨日から何だか変よ」
「いや、東京に帰ってからのことを考えて、ちょっと憂鬱になったものですから」
「だから弟の会社に紹介するといってるのに」
「彫金の仕事ですか。僕には無理です。それより、今何かおっしゃったようですけど」
「わざわざ京都まで付き合ってもらったのに、私の看病だけで終わっちゃったわねっていったのよ」
「そんなことは気にしないでください。久しぶりに京都に行けてよかったし。それより気分はどうですか」
「もう平気。朝食だってしっかり食べたでしょ」頼江は目を細めた。
昨日、雅也は夜まで京都中を動き回った。何とかして美冬のことを知っている人間がいないかと探したのだ。だが短時間で、しかも何のコネクションもないのでは、打つ手がなかった。ホテルに戻った時にはすっかり疲れ果てていた。それでも怪しまれてはまずいと思い、隣の部屋を訪ねてみた。薬のせいか、頼江は彼がノックするまで眠り続けていたようだ。彼に対して、どこに行っていたの、とも訊かなかった。
「義妹《いもうと》さん……美冬さんでしたっけ。彼女のことはこれからも調べるつもりなんですか。一昨日の夜はもうやめるようなことをおっしゃってましたけど」雅也は訊いてみた。
頼江は首を傾げた。
「どうかしらね。今回はとにかく準備不足だったし、肝心の私が寝込んじゃったわけで、全く話にならなかったんだけど」
「生意気なようですけど、僕も、もうおやめになったほうがいいと思います。現時点で義妹さんに何か問題があるわけではないんでしょう? だったら弟さんの目を信じるべきだと思います。それに何より――」雅也は呼吸を整えてから続けた。「こんなことで時間を費やすのは勿体ないです。あなたにはあなたの人生があるんですから」
俯いていた頼江の睫が、ぴくりと動いた。彼を上目遣いで見て、瞬きした。
「ありがとう、優しいのね」
いえ、といって雅也は首を振り、再び車窓の外に目を向けた。
元教師だった深沢から見せられた写真が、今も彼の思考を支配していた。そこに写っていた、美冬とは別人の娘。だが彼女こそが本物の新海美冬なのだ。
では彼女は一体誰なのだ。あの震災の朝以来、俺と一緒に苦難を共にしてきた女――。
雅也はまだ、彼女が偽者だということを受け入れられずにいた。雅也にとって彼女は新海美冬以外の何者でもなかった。
昨夜は殆ど眠れなかった。何度も、美冬に電話をかけようと心が揺れた。電話をかけ、君は一体誰なのかと尋ねてみるのだ。しかし結局彼が電話機に手を伸ばすことはなかった。もう少し確認してから、というのは自分自身を納得させるための口実にすぎない。じつのところ彼は、その質問を発した時に彼女が一体どんな反応を示すか、それを知るのが怖かったのだ。
雅也が初めて彼女と出会ったのはあの震災の朝だ。そして彼女の名前を知ったのは、次々と死体が運ばれてくる避難所においてだった。彼女は両親の死体を前にして、警察の事情聴取を受けていた。その際に彼女は身分を証明する何かを警官に提示しただろうか。おそらくしていない、と雅也は推測する。少なくとも提示する必要はなかった。あの未曾有の災害から辛うじて逃げ延びた人間が、身分を証明するものを所持していないからといって、誰に何を疑われるだろう。事実、雅也にしても、警官からそういったものの提示は求められなかったし、求められたとしても応じることはできなかった。
すり替わったとしたら、あの時だ――。
雅也は避難所での美冬の姿を今も鮮やかに覚えている。着の身着のままの姿で、荷物もなく、寒そうに膝を抱えていた。暗闇の中ではレイプされそうになり、それを雅也が助けたのだ。あの姿は突然の不幸に見舞われた被災者そのものだった。周りにいる人々と何ら変わるところがなかった。
しかし寒さに震えながらも、彼女の頭の中はサバイバル以外のことで埋められていたのだ。この災害を利用して別人の名前を騙《かた》り、見事にその人物になりすますという危険な賭けのことに――。
それにしてもなぜ彼女はそんなことをしたのか。新海美冬になりすますことのメリットは何だろう。新海夫妻の財産か。そんなものは何もなかったはずだ。では保険金か。
雅也にとっての疑問はもう一つあった。仮に別人の名前を騙っているのだとして、彼女はなぜそのことを自分に教えてくれないのか。この四年あまり、二人で様々な苦難を乗り越えてきた。そのためには手段を選ばなかった。二人はどちらも裏の顔を持っていた。本当の顔を見せるのは二人きりの時だけだった。暗い夜の中にこそ、お互いが本性をさらけだせたはずだ。
しかし彼女のほうは俺にも本当の顔を見せていなかったことになる。俺が彼女と過ごした夜は、全部幻だったのか――。
気がつくと頼江は隣の席で寝息をたてていた。まだ微熱が残っているのかもしれない。東京に着くまでは一時間近くある。
頼江は今後も美冬について調査を続けるつもりだろうか。今回の京都行で少し気持ちに変化があったようだが、疑念が払拭《ふっしょく》されたわけではない。何かのきっかけで、また美冬に対して何らかの警戒感を持つおそれは十分にある。
今回は突然の発熱で、美冬の秘密を頼江に嗅ぎつけられずに済んだ。だが次も幸運が続くとは思えない。その時に雅也が同行しているかどうかも不確実だ。
頼江の寝顔を見つめた後、雅也も瞼を閉じた。彼はある決心を固めつつあった。
東京駅に着いたのは午後五時を少し回った頃だった。
「どうしようかしら、夕食には少し時間が早いんだけど」東京駅を出てから頼江は腕時計を見ていった。
「今日は早くお帰りになったほうがいいですよ。また熱がぶり返すと厄介だ」
「もう大丈夫よ」
「その油断がよくないんです。タクシーに乗りましょう。送っていきます」
雅也の申し出に、頼江は驚きと喜びの混じった目をした。
「送ってくれるの?」
「ええ」
「まるで逆方向じゃない。大変でしょ。いいわよ」
「それぐらいしないと気が済みませんから」雅也は彼女の手からバッグを奪い、タクシー乗り場に向かって歩きだした。
「待ってよ。じゃあ、やっぱりどこかで食事ぐらいしていきましょうよ。このまま帰っても、食べる物が何もないし」
「それは僕が何とかします」
「何とかって?」
だがその質問には答えず、雅也は再び歩きだした。
頼江の自宅は品川にある。細い坂道の途中に建てられた洋風の一戸建てだ。以前雅也は彼女を尾行して、その近くまでは行ったことがある。外観を見ただけでも、女独りで住むには広すぎるだろうという印象を受けた。
「立派なお屋敷ですね」タクシーを降りてから雅也は屋敷を見上げていった。その直後に、すぐにどの屋敷が頼江の家かわかったことについて、彼女に不審がられるのではないかとひやりとした。しかし彼女は何も疑わなかったようだ。
「建築業者のいいなりに建てたのよ。だから使い勝手が悪くって」苦笑を浮かべながら頼江はハンドバッグから鍵を取り出した。
雅也は荷物を手に、彼女の後をついていった。躊躇い、迷い、そして自らを叱咤する思いが彼の頭の中では渦巻いていた。頼江がドアの鍵穴に鍵を差し込んでいる。決断しなければならない、と彼は自分にいい聞かせた。
ドアを開けた頼江のすぐ後ろに彼は立った。室内は真っ暗だった。街灯の光が彼女の背中を照らしている。
「宅配便が来たみたいね」ドアに挟んであったらしい伝票を頼江が拾いあげた。
雅也はバッグを持ったまま、彼女を押すように中に入った。ドアが背後でばたんと閉じた。
「あら、真っ暗」頼江が壁のスイッチを探る気配がある。
雅也はバッグを離した。それから間髪を入れず、両腕を伸ばしていた。頼江の細い身体がその中にすっぽりとおさまった。
彼女は何か声を漏らしたようだ。言葉だったのかもしれない。だが雅也にそれを聞いている余裕はなかった。彼は彼女の身体を抱きすくめると、そのまま唇を自分の口で塞いだ。
全く予期していなかった出来事であるはずなのに、頼江は抵抗してこなかった。香水の匂いを嗅ぎながら、雅也は自分に誓っていた。
何があっても美冬を守る。たとえ彼女との夜が幻であっても――。
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第十章
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「自分が美容師以上の何かだなんて思ったことはないですよ。たしかに今はテレビなんかにも出てますけど、あくまでも見てもらいたいのは自分の技術やセンスだけで、お客さんの髪を使って自己表現しようとかは考えてない。肝心なのはお客さんに満足してもらえるかどうか、それに尽きます。カリスマなんて言葉も正直いって好きじゃないです。料理人と同じで、表に出過ぎるのはよくないんじゃないかな」
斜め左からカメラマンが狙っているのを意識しながら、青江はやや早口でしゃべった。写真はその角度から撮ってくれと事前にいってある。彼自身はそう思わないのだが、美冬によれば最も写真映りがいいのだそうだ。
インタビュアーの女性ライターはメモを取りながら頷いている。再来月発売の女性雑誌に載る予定なのだそうだ。今話題のカリスマ美容師に直撃、とかいうタイトルらしい。
青江は話があまり得意ではない。客相手だとそうでもないのだが、あるテーマに沿って要点を押さえながら語るというのは苦手だ。だがこの手の仕事は断らないようにと美冬からはいわれている。テレビの仕事も同様だ。
「今の時代は売れているものだけが売れる。人の集まるところにだけ人が来る。とにかくトップにならないとだめなの。そのためにはどんな手段を使ってでも有名になること。通好みの店がはやるなんていう時代じゃないのよ。そんなのがうけるのは、庶民にも贅沢が許されてたバブル時代だけ」それが美冬の持論だった。
だが彼女は、出過ぎるのもいけないという。神秘性が薄れるからだそうだ。本当はあまり表に出たくはないのだが諸般の事情から仕方なく、というポーズをとれという。インタビューされた際のコメントにも、そんなニュアンスを込めろと指示されている。
口下手な青江にそんな微妙な匙加減などできるわけがなく、大抵は美冬が脚本を用意してくれる。先程しゃべった内容も、彼女から事前に渡されたものを暗唱したにすぎない。
「お忙しいところ、ありがとうございました」女性ライターは満足そうにいった。「ほかのインタビュー記事なんかを読んで感じてたことですけど、青江さんは本当にしっかりとしたスタンスをお持ちなんですね。今日はそれを再認識させていただきました」
「どうも」青江は腹で舌を出しながら短く答える。何と答えていいかわからない時は可能なかぎり短く、しかも曖昧に、と美冬からはいわれている。
ライターとカメラマンが帰った後、控え室で青江が煙草を吸っていると、見習いの少年が戸惑った顔で入ってきた。
「先生、あの、警察の人が見えてるんですけど」
「警察?」青江は眉間に皺を寄せていた。「何の用だって?」
「いや、それがちょっとわかんなくて」見習いの少年は不安げな表情で首を傾げた。
青江の脳裏に嫌な思い出が浮かんだ。中野亜実が襲われた事件だ。あの事件についてまだ何か訊きたいことがあるのだろうか。
店に出ると待合いスペースに場違いな男が座っていた。年齢は三十代半ばだろうか。髪も髭も手入れがされておらず、黒っぽいスーツもどことなく薄汚れて見えた。ネクタイも締めず、シャツの胸元を開いている。薄く瞼を閉じているが、黒目が間断なく動いているのは遠目にもわかった。ほかに二人の若い女性客が待っていたが、気味が悪いのか、二人とも男から離れて窮屈そうに座っている。
これでは店のイメージが悪くなる、と青江は思った。
男が彼に気づき、立ち上がって近づいてきた。不気味な笑みを浮かべている。
「青江さんですね。お忙しいところ、申し訳ありません」
「何でしょうか」
「ちょっとお尋ねしたいことが。十分で結構ですから、お時間をいただけませんか。五分でも結構です」
「今すぐですか」青江は不愉快な思いを隠さないことにした。
「すぐに終わりますから」男は相変わらず笑みを浮かべている。獲物を狙って舌なめずりしているようにも見えた。
青江は周りを見た。スタッフは明らかにこの不気味な男に神経を奪われているようだった。彼はため息をついた。「じゃあ十分だけ」
ありがとうございます、と男は頭を下げた。その丁寧すぎる態度さえも気味悪かった。
『モン・アミ2』は表参道にある。昨年の十二月にオープンしていた。今のところ青江は週に二日、この二号店に出ている。この刑事は、それらのことを知った上で、表参道までやってきたことになる。
「ああいう店に入ると緊張しますよ。周りが若い女の子ばっかりだから」近くの喫茶店でコーヒーを注文した後、警視庁の加藤と名乗る刑事はそういって笑った。
「どういった御用件でしょうか」青江は頬が少し強張っているのを感じていた。
「昨年の暮れに早くも二号店ですか。お若いのに大したものだ。さすがはカリスマ美容師ですね」
「あの……」青江は腕時計を見た。時間がない、ということを示したつもりだった。
「この場所に店を出そうというのは、やっぱり新海さんのアイデアですか」
青江は虚をつかれて口を開いた。美冬の名前が出てくることは予期していなかった。
「失礼、今は新海さんではなく秋村さんと呼ばなきゃいけないのかな」
「いえ、あの、我々の間では新海と呼んでますけど」
「そうですか。店の経営については、やっぱりあの人の影響力が強いんでしょうね」
「それはまあ……」
美冬の名前を知っているということは、『モン・アミ』の経営形態を承知しているということだ。
「新海のことを訊きたいんですか」
「ええまあ、いろいろですよ」加藤はマルボロの赤い箱を出してきた。「新海さんとは頻繁に打ち合わせを?」
「はあ、それは時々。あの、どういう事件に関する捜査なんですか。新海が何か関係しているんでしょうか」
青江の問いかけに、加藤は意味ありげに頷いた。くわえた煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
「それはまだお話しできない、としか申し上げられないんですよ。捜査上の秘密というやつです。下手に話して、御迷惑をおかけしてもまずいですからね」
「でも、こういうのは何だか気味が悪いな」
「新海さんとはどういう縁で知り合われたんですか」青江の呟きが聞こえないかのように加藤は質問を再開した。
「彼女から声をかけてきてくれたんです。こういう事業を考えてるけど、一緒にやらないかって」
「それまでは何の付き合いもなく?」
「僕が前に働いてた店のお客さんでした。スカウトを目的にいろいろな店を回っていたんだと聞きました」
「いつ頃の話です」
「店を始めるちょっと前だから、三、四年前かな」
「なるほど」加藤は煙草を吸い、その合間にコーヒーを飲んだ。「恋人はいるんですか」
「えっ、何ですか」
「恋人ですよ。いい男だし、人気絶頂だから、あちこちでもてるんでしょう?」
自分のことをいわれているのだと青江はようやく理解した。しかし質問の目的はわからなかった。わからないままに答えた。「今はいません」
「前にはいたわけだ。別れたのは、店を始められた後ですか」
「どうしてそんなことまで訊くんですか。何か関係があるんですか」
青江がやや声を尖らせると、加藤は煙草を指に挟んだまま、いやいやと手を振った。
「単なる興味本位です。ほら、芸能人だと、デビュー前に恋人と別れさせられるって話があるでしょ。それと同じようなことが新海さんから指示されたのかなと思いましてね」
「そんなことまで指示されませんよ」
「そうでしょうね。ところで新海さんの経歴については御存じですか」
「経歴?」青江は眉をひそめた。この刑事の質問はあっちこっちに飛ぶ。「それは、ある程度は。前は『華屋』で働いておられたこととか」
刑事は首を振った。「もっと前です」
「もっと?」
「『華屋』で働く前とかです。何かお聞きになったことはありませんか」
青江は肩をすくめた。「そんな前のことは知りません」
「つまり新海さんの過去についてはあまり御存じじゃないと」
「変な言い方をするんですね。彼女の過去がどうしたっていうんですか」
加藤は答えず、短くなった煙草を灰皿の中で潰し、伝票を手にした。
「お忙しいところをすみませんでした。ところで」刑事は青江の胸元に目をやった。「今日はつけてないんですか」
「は?」
「ペンダント、というのかな。髑髏と薔薇の形をしたやつです。前はつけてたそうじゃないですか」
青江はどきりとし、無意識に襟元に手をやっていた。
「話を聞きました。あの時は災難でしたね。危うく容疑者扱いされるところだったとか」
青江は唾を飲み込もうとした。しかし口の中はからからに渇いていた。
「あなたを窮地に陥れそうだったペンダントが、結局あなたを救ったそうですね。玉川署の刑事が、あんな偶然もあるのかと首を捻っていましたよ」
「偶然って……」
「だってあなたが愛用していたペンダントと全く同じものが現場に落ちていたわけでしょう? しかも玉川署の調べによると、世間に多く出回っている品物じゃない。ポルトガルだかスペインだとかに行かなきゃ手に入らないらしい。そんなものがたまたま落ちていたなんて、すごい偶然としかいいようがない」
「そんなことを僕にいわれても……」
青江はようやくわかった。この刑事の真の目的はこの話題を出すことだったのだ。なぜ今さらあのことを蒸し返すのかはわからない。しかし青江の反応を窺っていることだけは確実だった。狼狽してはいけないと青江は自分自身にいいきかせた。それでも全身が熱くなっていくのをとめられなかった。
「玉川署の刑事の中には、本気であなたが最初からペンダントを二つ持っていたんじゃないかと疑っている者もいたそうですよ。一つはわざと落としてアリバイ工作に使う。そしてもう一つは現場に落としておく」
「そんな馬鹿な。どうして僕がそんなことをしなきゃいけないんですか」
「そう。あなたがそんなことをする理由がない。疑われたくないなら、最初からペンダントを落とさなきゃいいんです。つまり、刑事がそんな馬鹿なことをいいだすほど、ちょっと考えられない偶然だということです」
あれは商売敵が自分を陥れるために仕組んだことなのだ――青江は加藤にそういいたかった。だがそれはできなかった。そのことを説明すると、現場に落ちていたペンダントが青江のものだということまで告白しなければならない。
「あなたがペンダントを忘れていったというレストランについても、玉川署は徹底的に調べたようですよ。口裏を合わせてるんじゃないかと疑ったんですね。でも怪しいところは何もなかった。買収されている気配もない」
「そんなことはしませんよ」青江は刑事を睨みつけた。美冬も、レストランを買収したのではないといった。一体どういう手を使ったのかは未だに青江も知らないのだが、彼女が断言した以上は間違いない。
「全く不思議な話です」ようやく加藤は立ち上がった。「ペンダントは家にあるんですか」
あるのならば見せてほしい、そういいたい口調だった。
青江は首を振った。「処分しました」
「ははあ、それはまたどうして?」
「嫌な思い出の品になっちゃったからです。それにもう飽きてたし」
「そうですか。あなたにとっては幸運の品でもあると思うのですが」加藤はじろりと青江を見た。「もしかしたら、処分しろ、というのも新海さんの指示ですか」
「えっ……」
「いや、冗談です」加藤は笑いながらレジに向かった。
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やっぱりあれじゃないな――青江と別れ、表参道の交差点に向かいながら加藤は思った。あんなやわな男に、新海美冬の共犯などという大役が務まるわけがない。
新海美冬を追い詰めるには、彼女が阪神淡路大震災の際に本物の美冬とすり替わった、ということを示すだけではだめだ。彼女にまつわる様々な事件の背後に、陰の協力者がいることを証明しなければならない。
そこで加藤がまず目をつけたのが青江だった。
青江と美冬が仕事上のパートナーであることは公然の事実だ。したがって利害関係も一致している。表のビジネスにおいてだけでなく、裏の策謀についても協力し合っている可能性は大いにあった。
青江についてはさっき本人に会うまでに、いくつかのことを調べておいた。彼が成功を収めたのは、美冬と組んで『モン・アミ』を始めてからである。カリスマ美容師の一人として、今やあちこちで引っ張りだこだ。
だがいい話ばかりではない。彼に関する噂の一つに、かつてスタッフの女の子が暴行を受けた事件で容疑者になりかけたことがある、というものがあった。
加藤はその事件について詳細に調べてみた。玉川署の刑事は無愛想だったが、それでも当時の資料を見せることを渋りはしなかった。
事件の内容と捜査の顛末《てんまつ》は、加藤の関心を引くものだった。状況から見て、青江が疑われたのは当然といえる。
ところがそこから大逆転だ。青江がなくしたと主張するペンダントが、全く別の場所で見つかったのだ。青江がそのペンダントを紛失したのは事件発生よりも前だと判明し、一気に容疑は晴れることとなった。
何者かが青江をはめようとしたんじゃないか、というのが玉川署の刑事たちの推理だ。加藤もそうだろうと思う。しかし彼の推理が玉川署の刑事たちと違っている点は、はめようとしたのは青江の敵ではなく味方ではなかったかと考えているところだ。
その考えを喚起させたものは、例の髑髏と薔薇のペンダントだ。
青江にもいったように、特殊なペンダントが、一つの事件にたまたま二つ関わってきたとは考えにくい。青江を陥れようとした犯人が、どこかでもう一つ調達してきたと考えるのが自然だ。
しかし特殊なペンダントを、そう簡単に調達できるものか。
加藤は彫金業者に当たってみた。玉川署で借りてきた写真を見せ、同じものを作るのはどの程度に大変かを尋ねてみた。
慣れた職人なら一日で作る、というのがその答えだった。ただし、そっくりに作るとなると、相応の腕が必要となる。
金属加工の腕のいい職人――このキーワードが出てくるのは三度目だ。一度目はいうまでもなく『華屋』の異臭事件においてである。有毒ガス発生装置の部品には、熟練工の仕事の跡があった。二度目は『BLUE SNOW』に行った時だ。ショーケースに入った試作品を作った人物について、従業員がそう評していた。
青江を罠にはめたのは美冬だ。それ以外に考えられない。
最初からストーリーを組み立ててみると次のようになる。
まず美冬は共犯者に命じ、青江の部屋から髑髏と薔薇のペンダントを盗み出させる。さらにそれと酷似した複製を作らせる。次に美冬はその複製を手にレストランに行く。その際、共犯者も同行したと考えたほうがいい。レストランの記録には、予約者の名前と連れの人数が残るからだ。目だたぬよう食事した後、美冬はペンダントの複製を店に置いてくる。店では遺失物としてそれを保管することになる。
以上の仕込みを終えた後、いよいよ犯行に移る。といっても実際に行動するのは共犯者だ。彼は美冬の指示通り、『モン・アミ』のスタッフ中野亜実を襲う。その際、青江が使っている香水を自分の身体につけておいたのはいうまでもない。亜実の気絶を確認すると、実行犯は髑髏と薔薇のペンダントを現場に落としていく――。
細部に多少の違いはあるかもしれないが、大体以上のようなことが行われたのではないか。そう考えれば、絶妙のタイミングで青江がレストランにペンダントを探しに行ったことにも合点がいく。玉川署の刑事に対して彼は、「ペンダントを紛失した場所を必死で考えて、あのレストランのことを思い出した」と供述したそうだが、それほど愛着のある品物を紛失したのだから、もっと早くに気づいているのがふつうではないか。
おそらく美冬に、あのレストランで落としたことにしたから取りに行け、と指示されたのだ。だから青江は彼女が裏から手を回したと思っているに違いない。
問題は、仕事上のパートナーである青江を、なぜ美冬が陥れたのかということだ。それについて詳しいことは加藤も推理しきれていない。だが想像できることはある。
わざと陥れておいて、窮地になったところで救いだす――このマッチポンプともいえる策略がどんな効果を生むか。
青江の絶対服従だ。
彼にしてみれば、今や美冬に決定的な弱みを握られている気分だろう。またそれ以上に、彼女がどれほどの力を持っているか思い知ったことだろう。彼女には逆らえないと、今は心底思っているに違いない。
あの時期、青江は美冬と手を切ろうとしていたのかもしれないと加藤は思った。彼の決心が固いことを知った彼女は、脅すのではなく、恩を売ることで、彼にとって自分がいかに重要な存在かを思い知らせた――。
あの女ならそれぐらいのことはする、というのが加藤の考えだ。
この推理によれば、美冬の陰の共犯者は、青江とは別人ということになる。加藤は実際に青江に会ってみて、自分の考えに自信を持った。青江は美冬の操り人形かもしれないが、それは単に仕事の上だけの話だ。金属加工の職人という条件を度外視しても、犯罪の手助けをできる器ではない。
もっとも、青江に会う目的はそれだけではなかった。もう一つ大きな狙いがあった。
新海美冬の過去について青江に質問してみたが、最初から大した答えなど期待していなかった。加藤の狙いは、今日のことについて青江が美冬に連絡することだ。自分の過去について加藤という刑事が嗅ぎ回っていることを彼女は知るだろう。そこからどういう行動に出るか。
美冬の正体を暴くには、共犯者をあぶり出すのが早道だ。ではどういう時にその陰の協力者は動くか。
これまでの出来事を振り返れば、その答えは簡単に出る。要するに美冬にとって都合の悪い人物が現れた時だ。浜中であり、曽我だ。青江のようなケースでも、美冬はその奥の手を出す場合がある。
さてあの女は、この厄介な刑事をどう料理しようと企むか――。
その時のことを想像すると、加藤は身体が震えた。怯えているのではない。あの魔性の女の本当の姿に出会える瞬間を、心の底から楽しみにしているのだった。
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写真の中の頼江はサングラスをかけていた。淡い紫色のレンズが入っている。服はベージュのパンツスーツ。頼江の隣に写っている雅也は、グレーのカットソーの上から白いシャツジャケットを羽織っている。
背景は都内の有名ホテルのロビーだ。別の写真には頼江がチェックインしている後ろ姿が写っている。さらに二人でエレベータに乗るところも撮影されている。
「隠し撮りのわりにはなかなか奇麗に撮れてるでしょ」美冬が満足そうに微笑んだ。
例によってファミリーレストランで会っていた。それでも店員に顔を見られたくないのか、美冬は彼等に背中を向けられる場所を選んだ。
「撮られてることなんか、全然知らんかったな」雅也はいった。
「前もって教えといたら、雅也がカメラを意識するやろ。写真が不自然になったのでは意味がないからね」
「これ、美冬が撮ったんか」
「もちろん。あたしが探偵に、頼江さんの素行調査を依頼するわけにはいかへんからね」
雅也が美冬から、次にデートするのはいつかと訊かれたのは先週の月曜日だ。こういう目的があったのかと納得した。
「これで無事、あの人の弱みを握ったというわけか」雅也はアメリカンコーヒーのカップを持ち上げた。「亭主が長期出張中に若い男と浮気してる証拠写真――さすがのあの人もうろたえるやろな」
「鬼に金棒、といいたいところやけど、残念ながらあと一歩という感じかな」
美冬の言葉に、雅也はコーヒーカップを口から離した。「なんでや」
「これでは決定的とはいい難いんよ」
「何が不足や。二人でホテルに入ってる。チェックインしてる写真もある」
しかし彼女は首を振った。
「これでは何とでも言い逃れできるやろ。泊まったのは自分一人だけで、雅也は部屋まで荷物を運んでくれただけ、とか。それ以前に、チェックイン自体を否定することもできる。これはフロントでちょっとものを尋ねてるだけで、チェックインしたわけじゃない、とかね」
「そんなのは不自然やろ」
「不自然でも何でも、言い訳が可能なかぎりは決定的といわれへんのよ。やっぱり、不倫を認めざるをえないような証拠がほしいね」
「俺にどうしろというんや。まさか、やってるところを撮れとかいうんやないやろな」
雅也は美冬を睨みつけながらいった。だが彼女は彼が冗談をいったと思ったらしく、肩を小さく揺すって笑った。
「インターネットで流したら、マニアが喜びそうやな」
「俺はマジでしゃべってるんやぞ」
「雅也は何もせんでええ。あんたはとにかく、あの人とデートしてくれたらええの。で、ホテルに行ってくれたらええの」
「せやから行ったやないか」
「こういうホテルではあかんのよ」美冬は写真を指先でつついた。「家庭裁判所でも、ふつうのホテルを出入りしているだけの写真では、浮気の証拠物件として認められへんの」
「それはつまり……」
「そう」美冬は周りを窺ってからいった。「ラブ、のほう」
雅也は顔をしかめ、かぶりを振った。「それは無理や」
「なんで?」
「あの人が」といってから彼は声をひそめた。「ラブホテルになんか行くわけない」
「それを行かせるのが雅也の腕やないの」
「俺にそんな腕なんかない。買いかぶるな」
「買いかぶりやない。あたしが期待したとおり、まんまとあの人の心を掴んだやないの。大したものやと思う。雅也はジゴロになっても成功したで」
本気とも冗談ともつかぬ口調でそんなことをいう美冬の顔を、雅也は見返した。
「俺はもう嫌や。この件はもう終わりにしたい。その写真があったら十分やないか。裁判では勝たれへんかもしれんけど、頼江さんを黙らせる効果はある」
「念には念を、や」
雅也は首を振った。
「そもそも頼江さんの弱みを握ろうとした理由は、あの人が浜中とのことを嗅ぎ回ったり、美冬にほかに男がおるんやないかと疑うおそれがあるからということやったな。けど俺の見たかぎり、あの人がそんなことをしてる様子はない。これからもたぶん大丈夫や」
「それはわかれへんよ。油断はでけへん」
「大丈夫や。それとも何か、ほかに理由があるのか」
「ほかにって?」
「浜中のこと以外にや。頼江さんに嗅ぎ回られたら困ることが、何かほかにもあるのかと訊いてるんや」
たとえば自分の正体、自分が本当は新海美冬ではないということとか――雅也はそれらの問いを胸にしまったまま彼女を見つめた。
美冬はそんな彼の視線を受けとめた。
「とにかくあの人は、あたしを秋村家から追い出したがってる。そのためには手段を選べへんかもしれへん。その時の用心のためでもある」
「本当にそれだけか」
「ほかに何があるというの?」美冬は目を見張った。
雅也は顔をそむけた。彼女の顔をまともに見られない。
おまえは本当は誰なんや――その質問が喉元まで出かかったが、直前で呑み込んだ。
「あの人とは、どうやってしてるの」美冬が訊いてきた。
質問の意味がわからず、雅也は彼女を見つめ返した。「何の話や」
「だから」彼女はさっと後ろを振り返ってから彼のほうに顔を近づけてきた。「ゴム、つけてやってるの?」
雅也はぎょっとして身体を引いた。「何を訊くのかと思たら……」
「マジな話や。どっちやの」
「つけてるに決まってるやろ」雅也は横を向いた。
「ふうん。そういうたら、あの人はまだ生理があるていうてたわ」
相槌を打つのも不愉快で雅也は黙っていた。
「いつも必ずつけるの?」
彼は顔をそむけたまま頬杖をついた。「そんなに何遍もやってない」
「そう。そしたら、たまにはつけんとやってみたら?」
軽い調子で発せられた台詞に、雅也は手を頬から離していた。彼女を見ると、いつもの妖艶な眼差しがあった。
「たまにはナマで。どう?」
「ナマでやって、外に出したらええというんか」
すると美冬は唇を緩め、ゆっくりと瞬きを一回した。
「前に雅也に頼んだことがあったでしょ。セックスする時の約束事。覚えてる」
「忘れたことない」
誰とセックスをしてもいい、ただし挿入したまま射精しないこと、たとえコンドームをつけていても――というものだった。
「あの約束、今回にかぎっては守らなくてええよ」
雅也は驚き、一瞬息を止めた。「なんやて?」
「ナマでやって、中で出してもええというてるんよ。あの人の中やったら」
「何をいうてるんや。そんなことをしてもし――」そこまでしゃべったところで雅也は目を見開いた。美冬のいいたいことが不意にわかった。「妊娠させろ……ということか」
「何しろ五十過ぎだからね。ちょっと無理かな」
「おまえそれ、正気でいうてるんか」
「あたしは真剣やで」彼女の表情はぞくりとするほど冷たいものに変わっていた。
雅也は頭を振った。
「よくそんなことを思いつくな」
彼はテーブル上の煙草に手を伸ばした。だがその箱を掴む前に、美冬の手が伸びてきて、彼の手の上に重なった。彼女の掌は温かかった。
「ひどいことをいうてるのは自分でもわかってるよ。けど、絶対的なものがないと安心でけへんの。あたしは何も信じない。この世の誰も信用しない。雅也以外の人間は誰も。だから頼れるのは雅也しかおれへんの」
「それやったら……」
どうして本当のことを教えてくれないんだ、と彼はいいかけた。自分が新海美冬という女性ではないこと、そして本当はどこの誰なのかということ。
だが彼はその問いを発することができなかった。それを口にしたら最後、美冬との関係は崩壊するような気がした。
「何?」美冬が小首を傾げた。
「いや、何でもない」雅也は首を振った。「ちょっと気分が悪くなった。はっきりいうて、想像したくない話やな。あの人の妊娠なんか」
「ちょっと無理なことをいいすぎたかな」美冬はテーブルの伝票を取った。「気分直し、しにいこ」
それから数十分後、二人はお台場にあるホテルの一室にいた。美冬が雅也の名で予約を入れておいたらしい。部屋に入るなり二人は抱き合っていた。雅也は美冬のみずみずしい肉体を貪り、その肌の感触を自らの全身で味わった。興奮の象徴を彼女の中に挿入することまでは許された。しかし最後には彼女の口の中に射精していた。無論それがめくるめく快感を伴っていることに変わりはなかった。
美冬の柔らかい髪を撫でながら、雅也は頼江とのことを考えていた。すでに四回、肉体の交わりがある。当然のことながら、最初の印象が強く残っていた。
頼江の寝室に入った時、彼女はまず電気をつけないでくれと頼んできた。とても見せられるような身体ではないから、というのだった。雅也は彼女の頼みを聞き入れた。彼自身も、彼女の裸体を目にすれば、性行為に及べなくなるような気がしたからだ。
だが暗闇の中で交わった感触は、彼が覚悟したほど悪いものではなかった。頼江の身体には張りがあった。そして彼を受け入れる部分には、十分とはいえぬまでも、必要なだけの潤いがあった。彼女の腋に手を入れた時、そこが奇麗に手入れされていることも発見した。やはり京都行きを前に、彼女にはある程度の覚悟があったのかもしれない、と雅也はその時初めて思った。
最初の行為の後、闇に慣れた目で改めて頼江の裸体を見た。線が崩れていないといえば嘘になる。乳房も小さく萎《しぼ》んでいた。しかし醜いとは思わなかった。
見られていることに気づいたらしく、頼江はあわてて布団をかぶった。見ないで、と小声でいって背中を向けた。そんな様子は経験の少ない娘のようだった。実際彼女は行為中も殆ど声を出さず、身を硬くしていた。
「私なんかとして……楽しかった?」頼江が訊いた。
「よかった?」でも、「感じた?」でもなく、「楽しかった?」という言葉を選んだところに、彼女の照れのようなものを雅也は嗅ぎ取った。
「嬉しいですよ、僕は」
雅也がいうと、頼江はくるりと身体を反転させ、彼の首に両腕を回してきた。
「何を考えてるの?」雅也の腕の下から美冬が訊いてきた。
「いや、別に……」
彼が言葉を濁すと、ふふっと彼女は含み笑いした。
「わかってるよ。あの人のことやろ」彼女は彼の胸に手を置いた。「頼江さんのこと。もっと詳しくいうと、頼江さんとのセックスのこと」
雅也は眉を寄せた。「あほなこというな」
「怒ることないでしょ。悪いのはあたし。そんなことはわかってる。好きでもない相手と、しかもあんな年上の人とやらせて、申し訳ないと思ってる」
「考えてないというてるやろ。しつこいぞ」雅也は彼女の手を胸から離し、ナイトテーブルのほうに身体を捻った。煙草の箱から一本抜き出し、火をつけた。不機嫌を装っているが、美冬の勘の鋭さに内心寒気さえ覚えていた。
彼女はゆっくりと上半身を起こし、毛布を引き寄せて身体に巻きつけた。剥き出しになったままの肩が、艶《なま》めかしく光っていた。
「昨日、青江から妙な話を聞いてね」
雅也は肺に入れかけていた煙を吐き出した。
「刑事が来たらしいわ。覚えてる? 警視庁の加藤」
「あいつが?」雅也はどきりとした。「何しに来よったんや」
「青江の話では、例の美容師の卵が襲われた事件について探りに来たらしいわ。おかしな話やろ。今頃になって」
雅也はまだ長いままの煙草を揉み消した。「何か嗅ぎつけとんのか」
「髑髏と薔薇のペンダントについて疑ってるみたい。たぶん、あたしの周辺を嗅ぎ回ってるうちに、あの事件のことも知ったんやと思う。『華屋』の異臭事件のことで、未だに何か疑ってるみたいやから。それに何より――」美冬は顎を引いて雅也を見つめた。「曽我の失踪についても……」
雅也は横を向き、煙草をくわえた。表情を美冬に読まれたくなかった。
京都でのことが頭をよぎる。加藤は美冬が偽者であることを知っている。知った上で、青江に探りを入れに行ったのだ。
「いずれにしても、あの刑事をほうっておくのは、あたしらにとってあんまりよくないかもしれんね」
雅也は煙草を指に挟んだまま振り返った。「どうするというんや」
「だからそれを雅也と相談しようと思って」
「美冬、おまえまさか……」
「あの刑事はね」雅也の言葉を遮って美冬は続けた。「あたしの陰に男がいることを見抜いてるよ。男の共犯がおることをね。『華屋』の事件についても、そのセンで絵解きをしてると思う。けど、あの事件についてはそんなに気にすることはない。加藤にしても、人の死んでない事件には興味がないやろ。問題は曽我のほうや」
雅也は息を呑み、自分の手元を見つめた。煙草の灰が長くなっていた。あわてて灰皿に落とした。
「曽我は殺されてる、とあいつは読んでる。もちろん根拠なんかはないと思う。けど、あいつがそういう推理を働かせて、しかもあたしの共犯を探し回ってるというのは、あたしらにとってものすごく危険なことやと思うの」
「もしそうやとしても……」
「今はまだあいつしか動いてない。警察の中で、あいつだけがあたしに目をつけてる。今やったらまだ何とでもなる」
煙草の先が小刻みに揺れていた。それが自分の指先の震えのせいであることに雅也は気づいた。
加藤が厄介な存在であることは事実だ。美冬がいったような理由もある。そのほかに、彼女の秘密を知っているということがあった。仮にあの刑事がその秘密を暴露したらどうなるだろう。美冬の本当の姿を知らない雅也には、その先がまるで想像できない。はっきりいえるのは、二人とも破滅するだろうということだ。
もう一度、あれ、をするのか――。
そう思った途端、頭の奥から黒い雲が広がってきた。それは瞬く間に彼の思考を覆った。同時に激しい嘔吐感がこみ上げてきた。彼は歯を食いしばり、胃が痙攣を始めようとするのを堪えた。短くなった煙草の火を、指先で挟んで消した。
「どうしたの?」美冬が彼の肩に手をかけてきた。
雅也は黙って首を振った。煙草を離した手で口元を押さえた。
状況を悟ったらしく、美冬が包み込むように雅也の背中に抱きついてきた。彼は冷や汗で冷たくなった背中に、彼女の肌のぬくもりを感じた。
「もう、させられへんかな。あんなことは」彼女が耳元で囁きかけてきた。「雅也が苦しむ姿は、あたしも見たくない」
雅也は呼吸を繰り返し、突然襲ってきた不快感が去るのを待った。
「俺は……」彼は喘ぎながら声を出した。「二人の幸せのためやったら何でもする。どんなことでも、何回でもする。本当に幸せになれるのやったら……」
美冬は彼の頭を撫でてきた。「幸せになれるよ、絶対に」
雅也は彼女のほうに顔を回した。「ほんまやな」
「あたしはそう信じてる。だから雅也も信じて」
美冬の目は真摯な光をたたえていた。赤く充血し、潤んでもいた。
「わかった。俺も信じる。そのかわりに約束してくれ。俺を裏切るな。絶対に」
「裏切らない。約束する」美冬は彼の目を見て頷いた。
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来場者に署名してもらうノートは、初日でほぼいっぱいになった。もう少し大きなノートを用意しておけば、とも思うが、空欄をたくさん残したら不人気の印象が強くなる。二冊目のノートを用意したと聞けば、御船《みふね》孝三《こうぞう》の機嫌もいいだろう。
頼江は時計を見た。午後六時三十分を少し過ぎている。閉場時刻は七時だ。御船は会場の中央に設けられた談話コーナーで、画廊主と談笑中だ。
頼江は受付を離れ、会場の隅に歩いていった。御船の個展ではあるが、彼の教え子たちの作品もいくつか出品されている。皆さんの作品が大勢の人に見てもらう機会も用意したい、というのが御船の言い分だが、個展用の作品が足りなくなったからだという裏事情があることは、教室の誰もが知っている。
教え子の作品は全部で十七点あった。そのうちの三点が頼江の手によるものだ。たまつくりによる菓子鉢と、ろくろで作った茶碗が二つだ。
彼女は自作の茶碗を手に取った。釉薬《うわぐすり》には白萩を使っている。もっと薄い色にしたかったが、焼き上がると思ったよりも茶色が強くなってしまった。それでも形は気に入っている。両手で持つと、しっくりと掌に馴染む。この茶碗でお茶を点《た》てたら、と想像が膨らんだ。
茶碗を戻す時、すぐ横の徳利に目がいった。唯一、雅也が出した作品だ。ついこの間陶芸を始めたばかりだというのに、彼は誰よりも見事にろくろを使いこなす。御船が真っ先にこの作品を選んだ気持ちもよくわかった。茶碗や湯飲みと違い、口の部分が胴体よりも狭まっている徳利は、初心者にはそう簡単に作れない。
「俺、酒が好きだから」そんなふうにいい、少し照れながらろくろを回していた雅也の顔が頼江の瞼に浮かんだ。
彼のことを思い出すと、身体の芯が少し熱くなったような気がした。このところ毎日のように会っている。それでもまた顔が見たい。あの声が聞きたい。
年甲斐もない、と自分でも思う。一回り以上も年下の青年に恋をしている。しかし自分の気持ちを持て余しているわけではない。焦りもない。非常に危険だし、厄介な状況だとわかっているが、そんな渦の中に身を置いていることを楽しんでいるのも事実だ。
自分が女であることを思い出した、というような単純な話ではない。そういう意味でいうならば、女の部分は心の奥にずっと存在していて、その扉を誰かがノックしてくれるのを待っていたといえる。だが同時に、今後そういう日が来ないことも覚悟していた。期待と諦め、その二つを絶妙のバランスで保持しつつ、歳を重ねてきたのだ。
雅也と出会った時、彼がそのノックの主になるとは想像もしなかった。素敵な青年だとは思ったが、その程度の感想を抱くことならこれまでにもあった。違ったのは、彼が扉の前まで近づいてくる気配を発したことだ。
頼江は自分からその扉を開けようとは思わなかった。そうすることで多くのものを失うのが怖かったからだ。おそらくこれが最後のチャンスだと思ったが、彼女は扉の内側で待つ道を選んだ。雅也は結局通り過ぎてしまうだろうと思いつつ、扉には近づけなかった。
だからあの日彼が突然ノックしてきた時、彼女の中に自制心というものが芽生える余地はなかった。彼女は扉の内側で、彼が入ってくるのを呆然と見ていただけだ。
いい歳をして、若い男に夢中になっている――そんなふうに自己分析をしてみることがある。そうすることで、自分が冷静であることを確認しているのだ。こんなことをいつまでも続けられるはずがないとわかっていながら、夢から目が覚めるまでのほんの一時を楽しんでいるだけだと自分を納得させている。
しかしそれだけに悔いの残らないようにしたいという思いは強い。雅也と過ごす時間を充実させたい。彼のためにはどんなことでもしてやりたい――。
「失礼ですが」
不意に話しかけられて頼江はぎくりとした。右斜め後ろに男が立っていた。無精髭を生やした、三十過ぎぐらいの男だ。一応背広を着ているしネクタイも締めているが、どこか野卑な印象を受けるのは、背が低いわけでもないのに上目遣いをしてくるからか。
「倉田頼江さんですね」
「そうですけど」
男は名刺を出してきた。それを見て彼女は眉をひそめた。警視庁の刑事に訪ねてこられる覚えはなかった。
「少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」加藤という刑事は訊いてきた。
「構いませんけど、七時まではここを離れられないんです」
「では、このままで結構です」
加藤は展示品に近づいた。閉場間際にやってきた客を装っているつもりかもしれない。
「見事なものですね。教え子さんたちの作品だって、十分に商品として価値がありそうだ。失礼ですが、倉田さんの陶芸歴は?」
「一年になります」
「へえ、一年でここまでできるようになるんですか」加藤は頼江の作った菓子鉢を眺めた後、隣の徳利に手を伸ばした。「これなんかすごい。相当のベテランですか」
頼江は微笑んだ。雅也の作品を褒められると嬉しかった。
「最近始めたばかりですよ、その人は」
「そうなんですか」加藤は本当に驚いたようだ。しげしげと徳利を見つめ、元の場所に戻した。「世の中には器用な人がいるもんだな」
「その人は職人さんですから」
「職人?」
「本業は金属を加工して、いろいろな細かい部品を作ったりする人なんです。だから完全な素人とはいえないかもしれませんね」
「ははあ、なるほど」加藤は頷き、改めて徳利を眺めている。その横顔が妙に真剣そうなのが頼江には気になった。
「あの、御用件というのは」
「あ、失礼」加藤は我に返ったような顔をした。「じつは、九五年に起きた、『華屋』での異臭事件について捜査をしています」
「ああ、あの事件」もちろん彼女も知っていた。「まだ捜査は続いてるんですか」
「細々と。何しろ、解決してませんから」刑事は横を向いたまま笑った。
「てっきり迷宮入りしたものと……」
「そう思われて当然でしょうね。事実、捜査本部なんかはとっくの昔に解散しています。当時は例の地下鉄サリン事件があったので、上層部も気合いが入っていましたが」
「あのことで、私に何か?」
「あの時、もう一つ別の事件があったことを御記憶でしょうか。ストーカー事件です。犯人は宝飾品売場のフロア長をしていた人物でした。名前は浜中といいました」
「そんなようなことがあったことは聞いていますが、詳しいことは知りません。それに、あの事件とストーカーとは無関係だったんじゃありませんか」
「そういう意見が支配的ですが、まだ断定はできません」
「だからって……」
「浜中がストーキングした女性の中に、新海美冬という女性がいました。調べによると彼は複数の女性を狙っていたようですが、本人が認めたのは彼女に対しての行為のみです。しかもその言い分は、彼女は愛人だった、というものでした」
頼江は周囲を見回し、今の台詞が誰かに聞かれていなかったかを確認した。幸い、そばには誰もいなかった。
「今頃どうしてそんな話を蒸し返されるのか、理解に苦しみます」
「あなたが困惑されるお気持ちはよくわかります。何しろその新海美冬という女性は、現在ではあなたの義妹、つまり秋村社長夫人になっているわけですからね。しかし、だからこそお尋ねしたいのです。あの一連の事件については、あなたをはじめ、秋村家の人々は承知していたはずです。それなのに彼女を社長夫人として迎えるからには、相当の調査が行われたのではないか、と」
「もちろんそれなりの調査は行いました。でも、最後には本人たちが決めることですから、周りから口出しされるようなことは――」
彼女がいい終える前に、加藤が制するように掌を出してきた。
「調査はしたとおっしゃいましたよね。それはどの程度のものだったのでしょうか。新海さんの過去に至るまで、詳細にお調べになったんでしょうか」
「どうしてそんなことをおっしゃるの?」
「大事なことだからです。ある事件の容疑者が、苦し紛れにせよ、自分の愛人だったと告白している女性のことを気にするのは、刑事として当然のことです」
「あなた……加藤さんとおっしゃいましたわよね」頼江は深呼吸し、刑事のほうに向き直った。胸を張り、顎を引いた。「あなた、御自分が何をいっているのかおわかりなのかしら。『華屋』の社長夫人を誹謗するようなことは、たとえ捜査のためという名目があったにせよ、容認できることじゃありません。その気になれば、上からあなたに注意していただくこともできるのですよ」
睨みつけたが、加藤の表情に臆した色は浮かばなかった。むしろ彼女の怒りを観察するような醒めた眼をしていた。それを見て頼江は、もしかしたらこの男の計略に引っかかってしまったのではないかと不安になった。
「失礼しました。こうした立ち話だったものですから、つい調子に乗りすぎました。どうかお気を悪くなさらないでください」加藤はその顔つきとは逆に丁寧に謝ってきた。
「倉田さん、時間よ」その時背後から声をかけられた。一緒に受付をしていた山本すみ子という女性だった。特に気の合う相手でもなかったが、今日にかぎっては救われた思いがした。
「あ、すぐに行くわ」頼江は彼女に答えた。
山本すみ子が加藤と頼江の顔を交互に見た。
「倉田さんのお知り合い?」
「『華屋』の関係で。でももう失礼します」加藤が答えた。
「何かお気に入りの品はありました?」
「たくさんあります。特にこれなんか」彼が取り上げたのは徳利だった。
「ああ、それ」やっぱり、という顔を山本すみ子はした。「水原さんの作品ね。倉田さんがスカウトしてきた男性なんですけど、あっという間に私たちよりも上手になっちゃいました」
余計なことをしゃべってくれるなと頼江は思ったが、山本すみ子はにこにこしている。
「倉田さんがスカウトされたんですか」加藤が訊いてきた。
「陶芸に関心がありそうだったから誘ってみただけです」
「本業は職人さんだそうですね。江戸職人の腕、ここにありってことかな」加藤は腕時計に目をやってから頼江を見た。辞去の言葉を述べる気配があった。
しかしその前に山本すみ子がいった。「水原さんは東京じゃなくて関西よね」
「関西? 大阪ですか」加藤が頼江に訊いた。
「神戸のほうって聞きましたけど」頼江は答えた。
「神戸……ははあ」
加藤は再び徳利に目を戻した。水原雅也、と書かれた札を見つめているようだ。しばらくそうした後、お邪魔しました、といって頭を下げ、出口に向かった。
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加藤という刑事が個展に現れたという話を聞いた途端、雅也は持っていたグラスを落としそうになった。グラスの中で揺れた赤ワインが少しこぼれ、彼の手を濡らした。彼はあわててそこを舐めた。白いバスローブについたら目立つところだったが、どうやらそれはくいとめた。
「どうして刑事が来るんだろう?」彼はいってみた。
「私にもよくわからないの。今さらどうしてあの異臭事件のことなんかを調べてるのかしら」彼女は首を傾げた。
「どんなことを訊かれたの?」
「だから異臭事件のことよ。というより」彼女は窓の外に目を向けた。「美冬さんのことかな」
「……どんなこと?」
「簡単にいうと、私がずっと気にしている点をその刑事も気にしているというわけ」
頼江の話によれば、加藤は秋村家がどの程度美冬の身辺や過去について調査したのかを尋ねたらしい。
「きちんと調べましたと答えたけれど、あの刑事は疑っている様子だったわ」頼江はテーブルのワイングラスに手を伸ばした。
六本木から少し離れたところにあるホテルの一室に二人はいた。密会にここを使うのは初めてだった。場所を決めるのはいつも頼江だ。
「美冬さんの過去について気にするのはもうよそうと思ってたんだけど、あんな刑事が来ちゃったものだから、また意識するようになっちゃった。雅也さんに叱られるかもしれないけど」頼江はワインを口に含み、微笑んで上目遣いをしてきた。部屋は薄暗くしてあるが、バスローブの合わせ目から見える胸元が少し赤らんでいるのがわかった。
加藤が頼江のところに現れた理由については、雅也は見当がついた。あの刑事は美冬が偽者であることを知っている。それだけに、天下の秋村家の人間がそれに気づかず主人の妻として迎えたことが不思議なのだろう。
あの刑事を野放しにはしておけない、と雅也は思った。美冬によれば、美容師の青江のところへも同じような聞き込みに行っているらしい。加藤は彼女の過去を探り、彼女の仮面を剥がそうとしている。
雅也自身、美冬の本当の顔を知っているわけではない。それでも彼は美冬を守ろうと決めていた。彼女の本当の顔を知る資格があるのは自分だけだという自負もある。
何とか加藤よりも先に美冬の正体を知らねばと思った。彼女自身には問い質せない。それをすることは二人の関係を壊すことに繋がりそうだからだ。仮に正体を知り得たとしても、雅也は美冬自身が告白するまでは黙っているつもりだった。
しかし美冬の正体を探る方法があるだろうか。彼女は幾重ものベールをかぶっていて、その一枚一枚が容易には剥がせない代物のように思える。
「どうしたの、ぼんやりして。私のいったこと、何か気に障った?」頼江が不安そうに彼の顔を覗き込んできた。
雅也は苦笑を浮かべ、ワインを飲み干した。
「美冬さんが個人的に親しくしている人を誰か知ってる?」
頼江は意外そうな顔をした。「どうして?」
「もしそういう人がいるなら、その加藤という刑事は、その人のところへも行ってるかもしれないと思ったんだ」
「ああ、そうかもしれないわね。でも、私はよく知らないな。彼女がどういう人と交流があるのかなんて……」頼江は右手を頬に当て、顔を少し傾けた。しばらくそうした後、何かを思い出したように雅也のほうを向いた。「どの程度親しいのかは知らないけど、『華屋』の従業員に、彼女と個人的に繋がりのある人はいるみたい」
「働いていた頃の同僚とか?」
「そうじゃないと思う。だって、美冬さんが口をきいて、その人が『華屋』で働けるようにしてやったという話だったから」
「へえ……」
そんな話は美冬から聞いたことがなかった。彼女がそういうことをしてやるほど義理のある人間の存在を雅也は知らない。
「前に弟から、そういう話を聞いたことがあるのよ。今もその人は『華屋』の一階にいるそうよ。何でも、旦那さんが失踪しちゃったらしいの」
「失踪?」雅也の脳裏を一本の信号が走った。
「そう。蒸発というやつかしらね」
「その人の名前は知ってるの?」雅也は心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
「あれはたしか……」頼江は自分の唇に指先を当てた。「ソガさん、といったんじゃないかしら。うん、たしかそうだった」
「ソガさん……」
「その人の名前がどうかしたの?」
「あ、いや、名前なんかはどうでもいいんだけれど」雅也は作り笑いを浮かべ、空になったグラスに自分でワインを注いだ。顔が強張るのがわかった。それを何とかごまかそうとしていた。
疑う余地などない。あの曽我孝道の妻に違いない。
曽我の妻の就職を美冬が世話したというのか。そんな話は聞いていない。美冬はなぜそんなことをしたのか。曽我孝道は雅也を脅迫してきた男だ。誰にも知られてはならない雅也の秘密を握っていた男だ。だからこそ、あの身の毛もよだつような決断を下したのではなかったか。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」彼は表情を隠すために口元を手で覆った。「少し酔ったのかな」
「珍しいわね、あなたが酔うなんて」頼江は立ち上がり、雅也のそばにやってきた。首に手を回し、彼の頬を撫でた。「横になりなさいよ」
雅也がバスローブを着たままベッドに横たわると、頼江も身体を寄せてきた。そんなふうにして朝まで眠ってしまうのが、二人のデートの仕上げだった。セックスはしないことのほうが多い。そのことを頼江も不自然に思っていないようだった。
「その、曽我さんって人に会えないかな」雅也はいってみた。
「えっ、どうして?」
「その人にさ、美冬さんのことを訊いてみるんだよ。もしかしたら昔のこととか、いろいろと知っているかもしれないだろ」
「でもあなた、美冬さんのことを気にするのはもうやめたほうがいいっていったわよ」
「それはそうなんだけど、やっぱり頼江さんは気にしてるでしょ。だから、ある程度は気の済むようにしたほうがいいかなと思って。京都に行ったりするのはやりすぎだけど、美冬さんの知人とちょっと話をするぐらいのことはいいんじゃないかな。刑事が来たっていうのも何だか気になるし」
「そうねえ……」頼江はピアノを弾くように、雅也の胸の上で指を動かした。「わかった。明日にでも『華屋』に行きましょ。向こうは常に店にいるわけだから、会って話す程度のことならいつでもできると思う」
「怪しまれないようにしないとね」
「そうね。美冬さんに変なことをしゃべられると困るし」頼江は再び身体を横たえた。さっきと同じように雅也の胸の上で指を這わせた。「ありがとう。私の力になろうとしてくれてるのね」
「いろいろと世話になってるからね」
「そういう言い方はしないでといってるでしょ」頼江は彼の胸をつねった。
雅也はそんな彼女の髪を撫でた。しかし頭の中では、曽我孝道の妻に対してどんな質問をするかを考え始めていた。
翌日、朝昼を兼ねた食事を済ませた後、二人はタクシーで銀座に出た。雅也は軽い頭痛を覚えていた。昨夜、よく眠れなかったからだ。曽我の妻の話を聞いた時から、嫌な記憶が意識の表層に浮かんできた。同時に、美冬への疑念も濃くなっていた。
晴海《はるみ》通りで二人はタクシーを降りた。『華屋』のクラシックな雰囲気を残した建物が通りに面して建っている。頼江に続いて、雅也は店に入った。一階のアクセサリーやバッグのコーナーは女性客で賑わっていた。
雅也は自分の身体が硬くなっていることに気づいた。あの時の緊張が蘇っているのだ。
四年前だ。彼は目立たない服装でこの店にやってきた。その手には紙袋が提げられていた。『華屋』のロゴが入った紙袋だ。そして中身は――。
次亜塩素酸ナトリウム、硫酸を入れた風船、さらには電磁石を応用した装置がそこには入っていた。雅也の自懐の品だった。フクタ工業の機械を用いて、極力シンプルに、そして確実に動作するように作りあげた。水準器の原理を使った仕掛けだった。
今となっては、あれについても疑念が湧いてくる。果たしてあんな事件を起こす必要があったのだろうか。
頼江がバッグ売場に近づいていった。すると一人の小柄な中年女性があわてた様子で駆け寄ってきた。頼江に対して、畏怖に似た表情を浮かべている。
「これは、倉田様」彼女の顔は紅潮していた。「今日は何か……」
どうやら彼女は頼江が何者かを知っているようだ。
「近くまで来たから寄っただけよ。陶芸教室のことでちょっと打ち合わせがあってね」頼江はそういって雅也のほうをちらりと見た。「先週、私たちの先生の個展がこの近くの画廊であったものだから」
「さようでございますか」中年女性は雅也を見て、また視線を頼江に戻した。「何かお探しのものがございましたら、お手伝いさせていただきますけど」
「そんなに大げさにしないでちょうだい。私だって気軽に商品を見て回りたい気分の時があるんだから」
「かしこまりました。では何かございましたら、お声をかけてくださいませ」
「ありがとう。それから、私がここへ来たことは上に報告しないでね。用もないのに店をうろうろするなって弟に文句をいわれちゃうから」
「あ、はい、あの、わかりました」中年女性は馬鹿丁寧に一礼した。
まだ直立不動のままの彼女を無視し、頼江は売場内を移動し始めた。雅也は黙ってついていく。
「あなたが姿を見せただけで、店内の空気が変わったようだ」雅也は小声でいった。
頼江はかすかに笑った。
「弟がいかに威張りちらしてるか想像できるでしょ」
やがて頼江が足を止めた。彼女の視線は少し先に向けられていた。一人の女性店員が棚の上のバッグを置き換えているところだった。三十歳前後と思われる、痩せた女性だ。栗色に染めた髪を後ろで縛っている。
「彼女が?」雅也は訊いた。
「ええ、たぶん。胸に名札がついてるでしょ」
頼江にそういわれ、雅也は女性店員の胸元に目をやった。四角いプレートに、『曽我』と書かれている。
頼江は彼女に近寄っていった。曽我の妻は手を止めた。客に対する営業用の笑顔が浮かんだ。
「曽我さんね」
頼江の問いかけに、彼女は戸惑いを見せた。「ええ、そうですけど」
「義妹《いもうと》から話は聞いています。どう? もう仕事には慣れたかしら」
「あの、ええと……」曽我の妻は目の前にいる女性が誰か、わかっていないらしい。
「私、倉田です。秋村の姉です」
彼女の言葉を聞き、曽我の妻は目を見張った。
「緊張しないで。私は『華屋』とは関係のない人間なんだから。今日も、陶芸教室のついでに寄っただけ。こちらは教室の仲間で水原さん」頼江は相手に微笑みかけた。
雅也も彼女に倣って薄く笑った。
「あ、そうなんですか。あの、私、美冬さん……いえ、秋村社長の奥様には大変お世話になって、ほんとにもう何とお礼をいっていいかわからないんです」曽我の妻はしどろもどろになっていた。
頼江はゆっくりと頷いた。
「それで、どうなのかしら。御主人のこと、何かわかりました?」
途端に曽我の妻は悲しげな表情になった。「まだ何も……」
「警察からも連絡がないわけ?」
「ごくたまに、身元不明の死体が見つかった時なんかに連絡が入ることがあります。でも全部別の人でした」
「そう……。まあ、別の人でなきゃ困るわけですけど」
「でも」彼女は目を伏せた。「正直なところ、もう諦めてます。こんなに長い間見つからないなんて、絶対におかしいですから」
「そんなこといっちゃだめよ。最後まで望みを捨てないで。見つからないってことは、どこかに身を隠している可能性だってあるわけだから」
曽我の妻は頷かず、寂しげに口元だけで笑った。こういう気休めは聞き飽きているのかもしれない。
雅也は彼女の姿を見ているのも、その声を聞いているのも苦痛だった。彼女には何の罪もない。彼女を苦しめたかったわけではないのだ。
もしかしたら美冬も同じ思いなのかもしれないと彼は思った。突然夫を失うことになった彼女へのフォローの意味で、この職場を与えたのかもしれない。
しかし美冬はどのようにして曽我の妻に近づいたのか。
すると頼江が、彼の疑問を代弁するように質問した。
「美冬さんから詳しいことは聞いてないんだけど、彼女とはどういった関係?」
曽我の妻は少し考えをまとめるような顔をしてから口を開いた。
「美冬さんのお父様が、主人の昔の上司だったらしいんです」
彼女の答えに、傍で聞いていた雅也は息を呑んだ。もう少しで声を上げてしまうところだった。
「そうだったの。彼女のお父さんが。じゃあ彼女のことは昔からよく知ってらしたの?」
「いえ、美冬さんとお会いしたのは、主人の失踪事件がきっかけなんです。あの日主人は美冬さんと会う約束をしていたらしいんですけど、その場所に現れず、そのまま行方不明になってしまったんです」
「へええ」頼江は心底驚いたような声を出した。美冬がそこまで曽我の失踪事件と絡んでいるとは思わなかったのだろう。
だが頼江の驚きも、雅也が受けている衝撃とは比べものにならないはずだった。
「あの、どういう用件で会う約束をしていたんですか」彼はつい訊いていた。自分が口を挟むのは不自然だとわかっていたが、黙っていられなかった。
案の定、曽我の妻は戸惑ったような目をした。すると頼江がいった。
「私もそれを訊こうと思ってたところなの。どういう用件だったのかしら」
「昔の写真を渡す、ということだったようです」
「写真?」
「美冬さんが御両親と写っている写真を、たまたま主人が会社で見つけたそうなんです。それで何とかそれを美冬さんに渡そうと思ったらしいです。阪神淡路大震災で御両親を亡くして、たぶんアルバムなんかも焼失しただろうからって主人はいっておりました」
「そういうことだったの」得心したように頼江は大きく頷いた。「それで美冬ざんとは失踪事件がきっかけで知り合った、ということなのね」
「そうです。たったそれだけの縁なんですけど、仕事までお世話してもらって、本当に感謝しています」
「美冬さんとは時々お会いになるの?」
「最近は殆どお会いしてません。お仕事のほうがお忙しいでしょうし、私なんかとは立場も違いますし……」
「あの我が儘な弟の世話にも追われてるでしょうからね」頼江は振り返った。この分だと曽我の妻からは大した話は訊き出せないだろう、とその顔は語っていた。
雅也は黙って頷いた。それが精一杯だった。彼の心の中では嵐が吹き荒れていた。曽我の妻の肩を掴み、問い詰めたいことが山のようにあった。
「お仕事中ごめんなさい。辛いと思いますけど、がんばってくださいね」頼江は曽我の妻にいった。
「ありがとうございます。美冬さんによろしくお伝えください」彼女は頭を下げた。
「無駄足だったわね」売場を離れながら頼江が小声でいった。「でも、ああいう経緯があったんだとは知らなかった。それを聞けただけでも収穫かな」
「そうだね」
「どうしたの? 浮かない顔して」
「いや、何でもないよ。阪神大震災のことを思い出してたんだ」
「そうか。あなたも無関係じゃないものね」
『華屋』の店を出ると、頼江は中央通りを歩きだした。
「まだそんなにお腹はすいてないわよね。どこかでお茶でも飲みましょうか」
「うん……あ、でも」雅也は時計を見た。「これからちょっと寄りたいところがある。悪いけど、今日のところはこれで失礼するよ」
「あら、何なの?」彼女は咎める顔になった。
「大した用じゃないんだけど、今日のうちに済ませておきたいんだ」
「そう。じゃあ、また連絡するわね」
微笑んだ頼江に軽く手を振り、雅也はその場を離れた。最初の角を曲がったところで身体の向きを変え、こっそりと彼女の様子を窺った。
頼江はタクシーを止めているところだった。彼女を乗せたタクシーが発進するのを見届けてから、雅也は今来た道を引き返した。行き先は無論『華屋』だ。
さっき出てきたばかりの店に入っていき、彼は曽我の妻を探した。彼女は女性客にバッグを見せているところだった。その様子を少し離れたところから眺めた。
このことは頼江にばれるかもしれない。なぜ自分に嘘をついてまで店に引き返し、そんなことを尋ねたのかと問い詰められるだろう。その時にどう言い訳するか、彼はまだ考えていなかった。とにかく今は、曽我の妻に確かめたいことがあった。そのことは頼江との関係よりも重大だ。いや、場合によっては、頼江と会っている意味さえなくなる。
女性客がいなくなるのを待って、雅也は曽我の妻に近づいていった。彼女のほうも彼に気づき、あら、というように目を見張った。
「何かお忘れ物でも?」
「いえ、いくつかお訊きしたいことがありまして」彼は彼女の目を見ていった。
「はあ……」
「失踪される前に、御主人は神戸や西宮のほうに行かれましたか」
「あ、それは」彼女は戸惑いを見せながら頷いた。「震災のちょうど一年後ぐらいに西宮に行ったはずです。さっきもいいましたけど、あの写真を新海さんのお嬢さんに渡したいからとかいって。だから、美冬さんの居場所を探すために行ったんだと思います」
「それで、西宮で居場所がわかったんですか」そんなはずはないと思いながら訊いた。
曽我の妻はかぶりを振った。
「西宮ではわからなかったようです。でもこっちに帰ってきてからいろいろと調べて、ようやく連絡がとれたということでした」
「それですぐに会うことにしたら……そのまま行方不明になったというわけですか」
「そうです。その前にも一度、会う約束はしていたみたいですけど、待ち合わせ場所に美冬さんから突然電話がかかってきて、急用ができたから行けなくなったといわれたようです。それで後日、会うことになったんだと聞いています」
待ち合わせ場所に電話がかかってきた――。
その光景を雅也は鮮やかに思い浮かべることができる。『桂花堂』という喫茶店でのことだ。雅也はその時向かい側の店にいて、脅迫者の正体を掴もうと見張っていた。電話をかけたのは美冬だ。
「では最後にもう一つだけ。失踪前に、御主人が誰かに手紙を書いていた、ということはありませんでしたか」脅迫状の文面を思い出しながら雅也は訊いた。
「手紙? いえ、私の知るかぎりではそんなことは……」
「わかりました。お仕事中、申し訳ありませんでした」
「あの、今お話ししたことが何か問題なんでしょうか。倉田様が気にしておられるんでしょうか」彼女は、頼江が雅也に訊きに来させたのだと思っているらしい。
「大したことではありません。お忘れになってください」そういうと雅也は彼女に背中を向けた。
『華屋』を出た後、雅也は混乱する気持ちを鎮めようと努めながら、中央通りを歩いた。周りの景色は殆ど目に入らなかった。
気がつくと『桂花堂』の前に来ていた。彼は向かい側の喫茶店に目をやると、通りを横切り、中に入っていった。あの日、美冬と一緒にいた席が空いていたので、そこに腰を下ろした。あの日と同じように『桂花堂』を見つめた。
曽我の妻の話は筋が通っている。彼女が嘘をいっているようには思えない。
雅也は今、到底受け入れがたい事実と直面していた。それを拒否することはもはや不可能だった。
脅迫状を書いたのも美冬だったのか。彼女ならたしかに可能だ。脅迫材料の写真はどうか。あの、叔父の俊郎を雅也が殴り殺そうとしている写真は――。
あれはビデオテープからプリントアウトしたもののようだった。ビデオテープといえば、親戚の佐貴子が手に入れようとしたテープがある。そこには雅也が俊郎を殴り殺す直前までは映っていた。だが殺すところは映っていなかった。
しかしパソコンを使えば画像の加工は可能だ。雅也がただ立っているだけのシーンを、凶器を振り上げているように見せかけられるかもしれない。送られてきた写真は画質も悪かった。それほど高度な画像加工テクニックは必要ないだろう。そして美冬はパソコンを使える。誰に教わったのかはわからないが、じつは彼女がかなりの腕前であることを雅也は知っている。
元となるビデオテープは雅也が処分したが、そもそもテープを入手したのは美冬だ。彼に渡す前に彼女が複製を作っていなかったとはいいきれない。
二通日の脅迫状のことを彼は思い出した。そこで脅迫者は、直に会うことを指示してきた。呼び出した場所が『桂花堂』だった。しかし考えてみればおかしな話だ。なぜ一回目と同様、銀行振込を指示してこなかったのか。
すべて美冬の仕組んだことだと考えれば辻褄が合う。彼女の目的は、曽我孝道という男を脅迫者に仕立てることだったのだ。
なぜそんなことをしたのか。それはもう明白だ。
雅也に曽我孝道を殺させるためだ。
注文したコーヒーをろくに飲まず、雅也は喫茶店を出ていた。あてもなく、銀座の街を歩き続けた。彼の目は何も捉えていなかった。意識は遠い過去に飛んでいた。
なぜ美冬は俺を選んだのだろう――その疑問が意識の最上位にあった。彼は初めて彼女と出会った時のことを思い出していた。あの未曾有の大災害が起こった朝だ。
俊郎を殺害した直後、すぐ目の前に若い女性が立っていることに気づいた。その時の彼女の表情を雅也は一生忘れないだろう。地獄の光景を目の当たりにした顔だった。
雅也は、彼女が警察に告げることを覚悟していた。ところが彼女はそうしなかった。たしかに殺害現場を見ていたはずなのに、誰にもいわなかった。最初雅也は、両親を失ったショックで記憶が欠落してしまったか、あるいは意識が混乱しているのかと思った。
だがそうではなかった。彼女は打ちひしがれた姿を見せながら、その内側で綿密な計画を立てていた。
計画の一つは、震災を利用して完全なる別人になりすます、ということだ。
彼女が新海美冬になった瞬間を、雅也は鮮やかに思い出すことができる。薄暗い体育館に、次々と遺体が運び込まれていた。その中に年輩の夫婦の遺体があった。傍らには彼女がいた。警察官の質問にこう答えた。名前はシンカイミフユです――。
あれが彼女の新海美冬としてのスタートだった。あの時からやり直しのきかない、命がけのストーリーが始まったのだ。
しかし彼女はそのストーリーを一人だけで作りあげようとは思わなかった。彼女は自分の遠大なる野望を実現するためにはパートナーが必要だと考えた。計画の二番目、それは信用できるパートナー、彼女のために命を捨てられる人間を作ることだった。
彼女はその適任者を被災者の中に見つけだしていた。それが雅也だ。
震災直後の様々な出来事が雅也の脳裏に蘇った。彼女が暴漢に襲われたこともある。彼はそれを救った。まさかあれまでが彼女の企みだったわけではないだろう。しかし彼女が雅也をパートナーに選ぶ決定打となったのは間違いない。佐貴子がやってきて、亭主と共に彼を強請ろうとしたのはその直後だ。それを美冬――本名は不明だが、彼女が救ってくれたのだから、その時点ですでに彼女にはある程度の青写真ができていたのだろう。
結果的に美冬の目は正しかった。雅也は自分でも、彼女にとって忠実で出来のいいパートナーだったと思う。『華屋』の異臭事件、浜中をストーカーに仕立てた罠を手始めに、次々と彼女の指示を実行していった。
だがそれは彼女の仮面を守るためではなかった。彼が彼女の指示に従ったのは、彼女を愛していたからだ。彼女が何度も口にした、「二人で幸せになるため」だ。それ以外に理由はなかった。
だからこそ、自らのおぞましい過去からも逃げなければならなかった。米倉俊郎と名乗る人物からの脅迫状は、過去から伸びてきた黒い手に思えた。
「あたしらは夜の道を行くしかない。たとえ周りは昼のように明るくても、それは偽りの昼。そのことはもう諦めるしかない」
美冬の言葉には強烈な説得力があった。魔力といってもいい。彼女が口にすると、どんなに恐ろしいことでも、それは避けて通れない道だと思えてくる。
脅迫者の正体は曽我孝道という人物だと結論づけた夜、彼女は雅也のアパートで、淡々と計画を語った。それを彼は黙って聞いていた。まるで催眠術にかけられていたような記憶がある。
そしてあの思い出すのもおぞましい悪夢のような一日に繋がっていった。
あの日雅也は都内のホテルにいた。日比谷にあるホテルだ。シングルルームで煙草を吸いながら、じっと耳を澄ませていた。
その部屋を予約したのは美冬だ。その際、彼女はもう一つ部屋をとっていた。雅也のいる部屋の隣だ。そちらもシングルルームだった。
時計は午後七時近くになろうとしていた。雅也は心臓が激しく跳ねるのを感じていた。どんなに深呼吸しても、それは収まろうとしなかった。これから実行することを考えれば、落ち着けというほうが無理だった。
かすかに隣の部屋で物音がした。雅也は煙草を消した。入り口のドアを開け、隣を見た。ドアがぴたりと閉じられている。それは先程までは、ドアロックを挟む状態で、完全には閉じられていなかったのだ。
いよいよか、と彼はもう一度深呼吸をした。
あたしが曽我を呼び出す、と美冬はいった。場所は都内のホテル、なるべく大きなところがいいと思う、ともいった。
「何というて呼び出す気や」雅也は訊いた。
美冬は軽く笑った。
「そんなもん、何とでもなるわ。簡単なことや」
今考えてみると、たしかに簡単なはずだ。何しろ、曽我のほうが美冬と会いたがっていたのだ。二人はあの日、『桂花堂』で会う約束をしていた。それならばホテルに呼び出すことなど容易《たやす》い。待ち合わせ場所を変更したい、といえば済むことだ。
だがあの時にはそんなことは露ほども知らない雅也は、隣の部屋に曽我が誘い込まれたのを確認し、美冬はやっぱりすごいと改めて感心したのだった。
間もなく電話が鳴った。外線電話だった。もちろん、かけてきたのは美冬だ。
「曽我は?」彼女は短く訊いてきた。
「今、部屋に入ったところや」
「じゃあ、いよいよやね」
うん、と雅也は低く答えた。消極的になった気持ちが声に出た。
「雅也、迷ったらあかんよ」彼の内心を見透かしたように美冬はいった。「やる時にはやる。あたしらが生き延びてこれたのは、そう決めて行動してきたからやろ」
「わかってる。迷ってるわけやない」
「大丈夫やね。信用していいね?」
「任せてくれ」
「わかった。じゃあ、計画通りに」
「うん、計画通りに」
電話を切った後、雅也は再び受話器を上げた。0のボタンを押して外線に繋いでから、机の上に置いたメモのとおりに番号を押していった。それはポケベルの番号だった。
そのポケベルは隣の部屋のライティングデスクの下に隠してある。ただし、ブザーも鳴らないし、バイブレーションも起こさない。そのかわりに、接続されたある装置を作動させる。その装置は、麻酔ガスを発生させる。『華屋』に仕掛けた装置を応用したものだ。
電話を切った後、雅也は時計を睨んだ。そして十分経ったところで再び受話器を取った。今度は隣の部屋番号を押した。すぐに呼出音が聞こえた。ここでもし曽我が出たら計画は中止だ。
しかし呼出音は鳴り続けていた。それを十回聞いたところで雅也は電話を切った。
彼はベッドの横に置いてあったバッグを開けた。中からガスマスクと短く切った洗濯ロープを取り出した。さらに机の上に置いてあった二枚のカードキーを手に取った。一枚はこの部屋の鍵であり、もう一枚は隣の部屋のものだ。
それを所持してから、そっとドアを開け、廊下の様子を見た。誰もいなかった。彼は素早く部屋を出ると、隣の部屋の前に立った。ガスマスクを装着すると、カードキーでロックを解除し、ドアを押し開いた。そのガスマスクもまた美冬が調達してきたものだ。
「例の異臭事件の後、会社がいくつか置くことにしたんよ。けど、今ではみんな、どこに置いてあるかさえも忘れてる。だから一つぐらいなくなっても誰も気づかへんし、元の場所に戻しておいたら何の問題もない」美冬は事も無げにいった。
そのガスマスク越しに室内の様子を窺った。曽我孝道がベッドの脇で俯せになって倒れていた。傍らには缶コーヒーが、まだ開けられていない状態で転がっていた。
ライティングデスクの下を覗き込んだ。小さな段ボール箱が隠してある。それを引っ張り出して蓋を開けると、小さな容器が二つ見えた。容器はチューブで繋がれている。彼はそのチューブを取り外した。これで化学反応は停止し、ガスの発生も止まる。それから彼はバスルームのドアを開け、換気扇を回した。
雅也は曽我を見下ろした。背中がリズミカルに上下している。まるで泥酔しているように見えた。
麻酔ガスではなく、そのまま死に至るようなガスではだめなのかと美冬に訊いてみた。
「方法はあるよ。青酸ガスを使うの。青酸カリと硫酸を混ぜ合わせたら、簡単に発生させられる。けどね、あれは危ない。ちょっとでもドアの隙間から漏れて、それをたまたま外を歩いてる人間が嗅いだりしたら、その場で昏倒してしまうから。とりあえず眠らせる程度のガスにしておくのが安全なんよ」
その説明で納得したが、彼女がなぜそんなことに通暁しているのかが不思議だった。
彼は洗濯ロープを手にした。俯せになっている曽我の首に回し、端を両手で持った。全身が震えを起こし始めていた。ガスマスクの下で、奥歯ががちがちと鳴った。
迷ったらあかんよ――美冬の声が聞こえたような気がした。
雅也は目を閉じ、両腕に力を込め、思い切り引っ張った。途端に曽我の身体が大きく反り返った。だが意識を取り戻したわけではなく、反射的な動きのようだった。
どのくらい絞めていたのか、雅也は覚えていない。ごきっという何かが折れるような手応えがあったことはたしかだ。それをきっかけに彼は力を緩めた。曽我は単なる物質と化していた。呼吸する気配も消えていた。念のために頸動脈のあたりを触ってみたが、全く動かなかった。
死んだ――。
雅也にとっての二度目の殺人だった。それでも恐ろしさは一度目に勝っていた。あの時は衝動的な行動だった。震災という非日常的で、非現実的な状況に置かれたからこそ、彼自身もまた異常性を発揮できた。しかし今回は違う。何もかも計画的だ。段取りを決め、そのとおりに行動したら、目の前に死体が一つ生じた。
したがって、自分は人殺しなのだという意識も、初めての時より強烈に彼を襲った。取り返しのつかないことをした、もはや後戻りはきかないという意識が、覚悟していた以上に大きく彼の胸の中で膨らんでいた。
雅也はもはやそれ以上その場には留まっていられなかった。本当はまだまだすべきことがあった。早く始めなければ間に合わないほどの大仕事だ。しかし彼はガスマスクをつけたまま部屋を出ていた。震える手で自分の部屋の鍵を開け、中に入るとベッドに倒れ込んだ。胸が痛いほどに心臓は暴れ、息は乱れていた。ガスマスクをつけたままだと気づくまでに数分かかった。
そんな彼を飛び上がらせたのは電話の音だった。思わず小さな悲鳴を上げていた。
おそるおそる電話機に近づいた。壁に据え付けられた鏡に彼の青白い顔が映っていた。
電話は美冬からだった。
「やっぱりそっちの部屋に戻ってたね」
「やっぱりって?」
「動転してるやろうと思ったの。それで……やった?」
「ああ」雅也は呻くように返事した。「やった」
「そう。じゃあ、これからひと仕事やね」
「ちょっと休んでからとりかかる」
「うん。それでええと思う。夜は長いし。あたしも、もう少ししてから行く」
「わかった」
電話を切った後、雅也は再びバッグの中を覗き込んだ。
そこには大小様々な刃物が入っていた。折り畳み式の鋸《のこぎり》まである。
これからすべきことを想像し、目眩を起こしそうになった。
もちろん、気を失っている場合ではなかった。雅也は刃物の入ったバッグを提げ、立ち上がった。ドアに向かって歩きだしたが、足がひどく重かった。
再び隣の部屋に入った。曽我の死体はさっきのままだった。
雅也は曽我の両足首を掴むと、力を込め、引きずり始めた。幸い曽我は大柄ではない。体重も七十キロはないだろう。バスルームの中に引きずり込むのに、さほど体力は要しなかった。むしろ消耗を覚悟しなければならないのはこれからだ。
雅也はバスルームを見回すと、バスタオルやハンドタオルを外に出した。さらにシャンプー、リンス、石鹸といった備品もすべて運び出した。シャワー用のカーテンは取り外せなかったので、カーテンレールに結びつけると、持参してきたビニール袋で丁寧に包んだ。バスルーム内には曽我の死体以外、何もなくなった。それを確認してから、雅也は服を脱ぎ始めた。下着だけになると、シャワーキャップをかぶり、手術用の手袋をはめた。
『死の接吻』という映画を見たことがあるか、と美冬から訊かれたことを雅也は思い出した。見てないというと、是非見ておいたほうがいいと彼女はいった。
「主人公はマット・ディロンという二枚目の俳優や。その主人公の死体処理のシーンは参考になると思う」
「処理するところが映ってるのか」
もしそうならグロテスクな映画だと思ったが、美冬は首を振った。
「まさかそれはないよ。けど、参考にはなる。主人公がどんなふうにそれをするのかはわかるようになってる」
彼女からいわれた後、雅也は『死の接吻』のビデオを見た。たしかに参考になった。ホテルのバスルームで死体処理をする要領が、かなり明確に掴めた。下着だけになったり、頭にシャワーキャップをかぶったりしたのも、映画から得たノウハウだ。
しかし美冬もいったように、そのものずばりのシーンは映画にはない。仄めかされているだけだ。したがって、最も過酷で残虐な行為については、雅也が全くの手探りで始めていくしかなかった。
自分の衣類をバスルームの外に出すと、代わりにバッグに入れてあった刃物類とプラスチック製のまな板を中に持ち込んだ。
雅也が最初に手にしたのは衣類用の鋏だ。それを使い、遺体が着ている洋服の腕の付け根の部分、さらにはズボンの付け根の部分を切っていった。
次に彼は死体を床に寝かせ、腕の下にまな板を置いた。そして肉切り包丁を手に取った。合羽橋《かっぱばし》の道具屋で購入してきたものだ。まだ一度も使っていないそれの刃は、恐ろしいほどに光っていた。
たった今切ったばかりの布の切れ目から、死体の白い皮膚が見えていた。腋の下から覗いている体毛が、これが先程まで生きていた人間の肉であることを改めて雅也に告げていた。彼は自分の指先が震えていることに気づいた。
躊躇っている時ではなかった。もはや後戻りなどできないのだ。この死体を何としてでも今夜中に処理しなければならない。
雅也は深呼吸を繰り返し、両手で包丁の柄を握った。遺体の腕の付け根をめがけ、力一杯振り下ろした――。
猛烈な勢いで雅也の胃袋は痙攣を始めた。銀座の街を歩いていた彼は、無我夢中で地下道への階段を駆け下りていた。トイレを探したが、見当たらなかった。仕方なく柱の陰でしゃがみこんだ。口から手を離すと、胃液が口から噴き出した。それと同時に激しい痛みが彼の下腹部を襲った。
嘔吐がおさまると、彼は柱に掴まって立ち上がった。しかし歩きだす気力はなく、異臭を放つ液体をぼんやりと見下ろしていた。
これほど激しく吐いたのは久しぶりだ。あの悲惨な夜のことはなるべく考えないようにしてきた。忘れられるわけはなかったが、頭から追い出そうと努めてきた。
だが今や、思い出さないわけにはいかなかった。何もかも美冬に騙されてやってしまったことなのだから、もう一度思い出し、一体どんな罠だったのかを検証する必要がある。
遺体の切断には、思った以上の体力と時間を要した。そして何より、想像を絶する精神力が求められた。雅也は途中で何度も正気を失いそうになった。何もかも放り出し、逃げようと思った。そのたびに、これを成し遂げなければ自分たちの幸福はないのだと自らにいい聞かせた。自分が殺人罪で捕まったりしたら美冬も共犯になる、彼女だけは不幸にできないと必死で自分自身を鼓舞し続けた。
両腕と両足の切断が終わると、雅也は用意してきたビニールシートで、できるだけコンパクトになるように包んだ。包み終えるとガムテープでぐるぐる巻きにした。胴体も同じようにした。
二つの異様な包みが出来上がると、彼はその場に座り込んだ。精も魂も尽き果てつつあった。彼の目は何も見てはいなかった。精神が肉体から遊離する感覚があった。
彼を我に返らせたのはノックの音だった。バスルームのドアが叩かれているのだ。
「雅也? そこにいるの?」美冬の声がした。
「ああ……俺や」呻くように彼は答えた。
「死体は?」
彼女から質問され、雅也は改めて自分の周りに目をやった。バスルームは血に染まっていた。床には汚物も飛び散っていた。雅也の身体も汗と血でどろどろに汚れていた。鏡に目をやると、そこには自分のものとは思えない顔が映っていた。表情は醜く歪み、目は淀んでいる。そんな顔に、まるで蕁麻疹《じんましん》のように血の斑点がこびりついていた。
「ねえ、雅也……」美冬がもう一度声をかけてきた。
「ちょっと待ってくれ」彼はドアに向かっていった。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫や」声を絞り出した。「死体は……ビニールで包んだ」
「何か手伝うことある?」
「まだ開けるな。部屋中がべとべとや。掃除せなあかん」
「手伝うよ」
「いや、俺一人でやる。ベッドで待っててくれ」
こんな凄惨な光景を彼女には見せたくないと雅也は思った。何より、今の自分の姿を見られたくなかった。
「そんなにひどいの?」
「まあな。『死の接吻』と一緒や」実際には映画の場面など比較にならなかったが、美冬を安心させるためにそういった。
「そう……マット・ディロンも掃除してたもんね」
「せやから、ちょっと待っててくれ」
「うん、わかった。洗剤はある?」
「ああ、持ってきた」
持参してきたスポンジに洗剤を含ませ、雅也はバスルームの掃除を始めた。手早く済ませないと血はどんどん固まっていく。思いがけないところにまで血が飛んでいて、覚悟していたよりも時間がかかった。
すべての作業を終えると雅也はバスルームのドアを開けた。美冬はベッドに腰かけていた。彼の下半身を見て、目を大きく開いた。トランクスが真っ赤に染まっていた。
「やっと終わった」
「……お疲れさま」美冬は頷いた。「ちょっと休んだら?」
「そうしたいけど、今横になったら、もう二度と起き上がられへんような気がする。一気に仕事を済ませたい。それに、そんなに時間はないやろ?」
「うん……」美冬がナイトテーブルの時計に目をやった。その時計は午前二時過ぎを指していた。
部屋の隅に二つのスーツケースが置いてあった。どちらもかなり大きい。新品でないことは一目見ればわかった。
「ディスカウントショップで買ってきた。現金で払ったし、足はつけへんよ」美冬がいった。
「車は?」
「地下駐車場に止めてある」美冬が車のキーを自分の傍らに置いた。
その車は、今朝雅也が借りてきたレンタカーだ。白のワゴン車だった。ふつうの乗用車では、大型のスーッケース二つは運べない。
スーツケースに死体を詰め込む作業も、彼は一人でこなした。美冬も手伝おうとしたが、彼が拒んだのだ。彼女の手を、こんなひどい仕事で汚したくなかった。
荷造りの後、彼は身体を洗って服を着た。死体を刻んだ場所でシャワーを浴びるのは抵抗があったが、血や体液を身体に塗りつけたままでいるよりはましだった。
スーツケースは二つとも、底にキャスターがついているタイプだった。二人で部屋を出て、スーツケースを押しながら廊下を進んだ。深夜だから人目に触れる心配はあまりなかった。もし見られたとしても、二人の顔色が妙に青白いことを除いては、さほど不自然なカップルには見えないはずだった。
地下駐車場でワゴン車にスーツケースを積み込み、二人で乗り込んだ。エンジンをかけて夜の車道に出ていく間も、二人はずっと無言だった。
「にいさん、どうかしたのかい」
声をかけられ、雅也は横を見た。灰色の衣服を身に着けた男が、不思議そうな顔をして立っていた。白髪混じりの髪は伸び放題で、後ろで縛っている。髭もしばらくは剃っていないようだ。そして灰色に見える衣服は、単にひどく汚れているだけのことだった。
「いや、何でもない」雅也は首を振った。
「えらく吐いたなあ、昼間っから」男は顔を歪め、雅也の足元を見ていった。
まだ何かいいたそうなホームレスの男に背を向け、雅也はふらふらと歩きだした。しかし当てはなかった。とりあえず、あのアパートに帰るしかない。だがあんなところに帰って、明日からどんなふうに毎日を過ごせばいいのかと思った。
自分たちのような人間が幸せを掴むためには、ふつうのことをしていてはだめだと美冬はいった。そのとおりだと雅也も思った。特に、自分のように人殺しをしている人間が、まともな方法で人並みの生活を手に入れられるとは思わなかった。
だからいつだって美冬の提案に逆らわなかった。浜中を陥れ、青江を罠にかけ、曽我を殺した。
二人のため――そう思っていたのは自分だけだったと雅也はようやく気づいた。美冬が願ったのは自分の成功だけだ。正体を隠し、別人になりすまして、人生の勝利者になることだけが彼女の野望なのだ。そのためにはどんなことでもする。誰でも利用する。
雅也は自虐的な笑みを浮かべた。何のことはない。ほかの人間がはめられたように、自分もまた彼女に弄《もてあそ》ばれただけなのだ。騙され、人殺しまでやらされた。反吐《へど》で足元を汚しながら、死体の切断までやった。その挙げ句、肉も魚も喉を通らなくなった。
雅也は地下道を歩き続けていた。周りの光景は何ひとつ見えていなかった。彼は独り言を呟いていた。
何かに躓《つまず》き、雅也はその場に倒れた。そのまま彼はじっとしていた。コンクリートの冷たい感触が全身に染みていった。
美冬、おまえは俺に曽我を殺させた。自分では手を下していないつもりか。いいや、おまえも人殺しだ。おまえは俺を殺したぞ。俺の魂を殺したぞ――。
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第十一章
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ろくろの上では、人の頭が入りそうなほど大きな鉢が回っていた。頼江は鉢の側面を両手で挟み、上からゆっくりと外側に倒していく。彼女が作りたいのは大皿だった。
大物だけに慎重さが必要だ。しかし勇気を持って力をこめないと形は変わらない。慎重かつ大胆に、その匙加減が難しい。
彼女の手の中で、土がバランスを崩しかけた。両手で必死に支える。その時、前方から伸びてくる手があった。疲女の仕事をサポートし、なおかつ、崩れかけていた土の形を見事に整えていく。
頼江は一瞬、雅也が助けてくれたように錯覚した。前にも何度か、そんなふうに助けられたことがあったからだ。しかし目の前にいるのは講師の御船だった。御船はろくろの上の土が安定していることを確認すると、頼江に一つ頷いて、その場を離れていった。
雅也がここにいるはずがないのに――頼江はタオルを手にし、額の汗をぬぐった。
教室を出て、少し歩いたところで、「倉田さん」と背後から声をかけられた。振り返ると、どこかで見たことのある男が笑顔で近寄ってきた。無精髭に、どことなくだらしないスーツの着こなし、そのくせ鋭い眼光――。
「以前、銀座の画廊でお声をかけさせていただきました。警視庁の加藤という者です。覚えておられますか」
「加藤さん……ああ」そういわれて記憶が明瞭になった。
「少しお話ししたいことがあるんですが、よろしいですか」
「ええ、構いませんけど」
「恐縮です」
二人は水天宮前駅にあるシティホテルに入った。ロビーには早くもクリスマスツリーが飾られていた。一階のティーラウンジで向き合いながら、頼江は懐かしい思いにとらわれていた。雅也と初めて出会ったのもこのホテルだった。
「あの男性は、今も教室にいらっしゃるんですか」
加藤から話しかけられ、頼江は我に返った。「はっ?」
「徳利の制作者ですよ。水原さんとおっしゃったかな、職人さんだと聞きましたが」
「ああ……」加藤が雅也のことを覚えていたとは驚きだった。頼江は自分の心を見透かされたのかと思った。「ここしばらく、教室には来ておられないみたいですね。お仕事がお忙しいんじゃないかしら」
「最近はお会いになってないんですか」
「ええ、このところずっと……」
「そうですか」加藤はコーヒーカップを口元に運びながらも、上目遣いに頼江を見つめてきた。何かを観察する目つきで彼女は不快になった。
「半年以上も前の話ですが、二人で『華屋』に行かれましたね」
「えっ?」
「『華屋』です。一階のバッグ売場で、曽我恭子さんと話をされましたよね」
頼江は目を見張った。この刑事はなぜそんなことを知っているのだろう。
「たしかに行きましたけど、それが何か?」
「その時のことをよく思い出していただきたいんですがね、『華屋』を出た後は、どうされましたか?」
「『華屋』を出た後?」
「そうです。水原さんと食事にでも行かれましたか?」加藤はにやにやした。
頼江はかぶりを振った。
「あの日はそのまま彼とは別れ、私は一人で帰宅しました」
「たしかですね」
「たしかです」
間違うはずがない、と頼江は思った。結果的にその日は、後で重大な意味を持つことになるのだ。つまり、雅也を見た最後の日だった。
あの日以来、雅也とは完全に連絡が途絶えてしまった。なぜそんなことになったのか、頼江には今もわからない。彼のアパートまで出向いたこともある。だが扉は閉ざされたままだし、ノックしても反応はない。
「それが何か?」頼江は刑事に訊いてみた。
だが加藤はあっさりとは彼女の質問に答えてくれなかった。
「あの水原という人物とは、どこでお知り合いになったのですか。陶芸教室の方に伺ったところ、あなたが彼を教室に引き入れたそうじゃないですか」
「そんな、引き入れただなんて……ちょっと誘ってみただけです」
「ですから、どういう知り合いなのかとお尋ねしているわけですが」
「何のためにそんなことを質問されるのか、さっぱり見当がつかないんですけど」
「どうしてお隠しになるんですか。彼との出会いは人に話せないようなことなんですか」
加藤の言葉に頼江は顔がひきつるのを感じた。彼女は刑事を睨みつけた。
「いや、これはどうも失礼」加藤は両手を軽く上げた。「ただね、現段階では詳しいことを御説明するわけにはいかないんです。我々には捜査上の秘密というものがありますし、同時に個人のプライバシーを守る義務もある。御理解ください」
「水原さんが何かの事件に関係しているとでも?」
「ですから、それは今お話しするわけにはいきません。いずれは御説明できることもあると思いますが」
頼江はティーカップを引き寄せた。雅也が何かの事件に関与しているのか。そのことと彼が行方をくらましたことと、何か関係があるのだろうか。
「彼とはこのホテルで会いました」彼女はゆっくりと口を開いた。
「ここで?」
「ええ。といっても、その時には私は彼を知りませんでした」
頼江は彼と出会った時のことを、できるだけ克明に加藤に話した。加藤は真剣な顔つきで手帳にメモを取っていった。
「つまりあなたはそのヤマガミという人物から、新ビジネスに投資する話を持ちかけられていたわけですね。で、かなり乗り気でもあった」
「気持ちは傾いていました」
「ところがそこへ水原さんが現れ、あなたは騙されていると警告してくれた。それがきっかけで付き合うようになったということですね」
「付き合うだなんて……親しくしていたのは事実ですけど」
だが加藤は彼女の言い訳など耳に入らぬかのように遠くに目をやり、ボールペンの頭でテーブルをこつこつと叩いた。
「彼と会う以前に、何か変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?」
「たとえば誰かに見張られていたとか、後をつけられた、というようなことです。いわゆるストーカー的なことです」
頼江はかぶりを振った。
「心当たりはありません。どうして私がそんなことをされなきゃいけないんですか」
「ないのであれば結構。しつこいようですが、今は彼とは連絡をとってないのですね」
「とってません」
「彼の携帯電話の番号を教えていただけますか」
「それは構いませんけど」
その番号にかけたところで繋がらない――頼江は刑事にそう教えてやろうとしてやめた。実際にかけてみればわかることだ。
通じない番号をメモすると刑事は手帳を閉じ、頭を下げた。
「お忙しいところを申し訳ありませんでした」
「水原さんを探しておられるの?」
「ええ、そうですね。探すことになると思います。もし見つかったなら、あなたにもお知らせしたほうがいいのかな」
加藤の問いかけに頼江は思わず頷きかけて、思いとどまった。
「彼は私に用なんてないでしょう。私だって、別に用はありません」口にしてから後悔した。惨めな強がりに聞こえたに違いない。
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ホテルのラウンジを出た後、加藤はタクシーを拾った。運転手に行き先を告げ、手帳を開いた。
間違いない、ついに見つけた――。
新海美冬の共犯者、それは水原雅也なのだ。彼ならばすべての条件を満たしている。
きっかけは、つい先日、曽我恭子に会いに行ったことだった。特別な理由はなかった。曽我孝道の失踪について、何かわかったことがあるのかどうかを確かめたかっただけだ。
ところがそこで恭子から意外なことを耳にした。
四月頃に倉田頼江がやってきて、曽我孝道の失踪や、それがきっかけで恭子と美冬が親しくなったことについて質問していったというのだ。それだけならばまだ何ということもなかったが、加藤の注意を引いたのは、そこから先だった。
「一旦お二人でお帰りになられた後、水原さんという男性だけが戻ってこられて、さらに詳しいことをいろいろと質問されたんです。どうしてこの人がこんなことを訊くんだろうと思いながら、とりあえずお答えしましたけど」
水原雅也のことは画廊で知って以来、気になっていた。金属加工の職人という点が引っかかっていたのだ。しかも関西出身だという。新海美冬が『華屋』で働いていた頃、私用電話をかけていたのを同僚に聞かれている。その時、美冬は関西弁だったらしい。
曽我恭子の話を聞き、加藤は俄然水原という人物に興味が湧いた。
ところが陶芸教室で教わったアパートに行ってみたところ、水原はすでにいなくなっていた。いつから消えたのかはわからない。大家に問い合わせてみたところ、半年ごとに家賃を前払いしているので、まだ騒ぎ立てる必要もないのだという。
その大家に頼み込み、加藤は部屋の中を見せてもらった。生活をしていく上での最低限度の家具、電化製品、調度品、衣類などが残っているだけの殺風景な部屋だった。職人ならば必ず持っているはずの自前の道具類も見当たらなかった。
だが冷蔵庫の下から覗いていた紙切れを引っ張り出した時、加藤は背骨に電気が走るのを感じた。その紙には鉛筆で指輪のイラストが描かれており、細かい寸法なども書き込まれていたのだ。
加藤は倉田頼江の話を整理してみた。頼江は偶然水原と出会ったように感じているようだが、おそらくそうではあるまい。水原は頼江の周辺を徹底的に調べて、彼女に近づくチャンスを窺っていたのだ。無論、それは美冬の指示だろう。どんな目的があったのかはわからないが、秋村家において力を持っている頼江に対して何らかのイニシアティブを取ろうとしたのかもしれない。
タクシーが止まった。水原雅也のアパートがすぐ前にある。無駄足とはわかっているが、もしや戻ってきているのでは、という期待を捨て去ることはできない。
水原はなぜ行方をくらましたのか。自分の正体がばれそうになったからか。数か月前に何があったのか。
水原が曽我恭子に孝道失踪の詳細を問い質した、というのが引っかかっている。水原が美冬の共犯者ならば、そんなことはすべて承知のはずだ。なぜ改めて恭子に確認する必要があったのか。
そんなことを考えながら加藤はアパートの階段を上がっていった。すると、雅也の部屋の前に一人の若い女が立っていた。ジーンズにジャンパーという出で立ちだった。彼女は何かメモのようなものをドアの隙間に挟んでいた。
加藤が近づいていくと、彼女は俯いてすれ違おうとした。
「水原さんに御用?」彼は訊いた。
彼女はぎくりとした様子で顔を上げた。「えっ?」
「彼に用があったんじゃないの? 水原雅也さんに」
「用っていうか、まだ帰ってきてないのかなあと思って……」
「彼の行き先を知ってるの?」
「知りません」彼女は首を振ってから上目遣いに彼を見た。「あのう、あなたは?」
「その前に、君が誰かを知りたいな」加藤はドアの隙間に挟んであったメモを抜き取った。
そこには、『帰ってきたら連絡ください。有子』とあった。
「有子さん、か。彼とはどういう関係?」
「どうしてあたしがそんなことに答えなきゃならないんですか」彼女は勝ち気そうに睨んできた。
「お互いのためだと思うからさ。俺も彼を探している。力を合わせたほうがいいんじゃないかな」加藤はゆっくりと警察手帳を取り出した。
店に入ると鰹だしの香りがした。客は一人もいなかった。夜の営業は午後五時からとなっている。今は五時を数分過ぎたところだった。
「何か飲みますか」有子が訊いてきた。硬い口調だ。
「いや、俺はいいよ」加藤は手を振った。
有子はかすかに眉をひそめた。
「何か注文してください。でないと、うちの親が変に思うから」
「ああ、なるほど。じゃ、ビールでももらおうかな」
有子は無愛想な顔で頷いてから奥に消えた。その後ろ姿を見送ってから、加藤は『おかだ』の店内を見回した。典型的な下町の定食屋だった。水原雅也もここで仕事帰りに夕食をとっていたという。
有子がビール瓶とグラス、それから突き出しの入った小皿を盆に載せて戻ってきた。奥から話し声がする。
突き出しはジャコとわかめの和え物だった。加藤はそれを一口食べ、ビールにも口をつけた。有子は盆を抱えた格好で、テトブルの脇に立っている。
「しつこいようだけど、本当に水原の行き先には心当たりがないんだね」
加藤の問いに有子はうんざりしたような顔でため息をついた。
「ありません。行き先を知ってたら、あんなことはしません」
ドアに挟んだメモのことをいっているようだ。
「水原とはいつ頃からの付き合い?」
彼女は首を振った。「別に……付き合ってません」
加藤は苦笑した。「知り合った頃を訊いてるんだ」
「五年くらい前だったと思います。春でした」
九五年の春だなと加藤は察した。新海美冬が上京してきた時期と一致する。
「親しくなったきっかけを教えてもらえるかな」
「だから特別に親しくは――」
彼女がそこまでいったところで加藤は笑いながらかぶりを振った。
「特別に親しくなきゃ、行き先不明の人間からの連絡を待つなんてことはしないだろ」
有子は唇を真一文字に閉じ、加藤を睨みつけた。
「特にきっかけなんかはないです。店で顔を合わせているうちに何となく……」
「なるほど」加藤はもう一口ビールを飲んだ。「彼の勤め先は知ってる?」
「前のですか」
「そう」
「千住新橋のそばの鉄工所だって聞きましたけど」
「工場の名前は?」
「たしかフクタ工業といったかな。フクダ……だったかも」
加藤は手帳に『フクタ フクダ工業』とメモした。
「彼が行方をくらます前に、何か変わったことはなかったかな」
「気がつきませんでした。だって、その前でも殆ど会ってなかったから。全然顔を見せないので、どうしたのかと思って部屋に行ってみたら、もう誰もいなかったんです」
この娘は水原雅也に好意を寄せているのだろうと加藤は想像した。
「彼に特定の女性がいた気配は?」加藤は、有子にとってやや酷なことを訊いてみた。
案の定、彼女は一旦目を伏せた。「わかりません」
「そんな気配はなかったってこと?」
「そういう話は彼から聞いたことがないし、そんな人を見たこともないってことです。それにあたし、そんなに彼のことをよく知っているわけじゃないんです」
「それは俺もわかっている」
もし君があの男の正体を知ったなら、愛想よく料理を運ぶことさえできなかっただろう――そんな台詞を加藤は腹の中で続けた。
彼は上着のポケットから一枚の写真を取り出した。彼が自分で盗み撮りしたものだ。写っているのは、会社から出てくる美冬の姿だった。それを有子の前に差し出した。
「この写真の女性に見覚えは?」
有子は十秒ほど写真を眺めてから首を横に振った。
「見たことのない人です」
「本当かな。服装とか化粧の感じなんかを変えている可能性もあるんだけど」
有子は写真を加藤に返した。
「雅也さんの周囲にこういう女の人がいなかったかって尋ねておられるわけでしょう? でもあたし、彼がほかの誰かと一緒にいるところなんか一度だって見たことないし……」そこまでいってから、有子は何かを思い出したように視線をそらした。
加藤はそれを見逃さなかった。「何か?」
「いえ、あの、雅也さんが女性といるところを一度だけ見たことがあります。でも、この人じゃなかった。もっと年輩の……奇麗な人だったんですけど」
「五十歳ぐらいの婦人?」
「ええ、五十歳よりもっと若いかもしれないけど」
倉田頼江だなと加藤は合点した。
戸が開き、作業服を着た二人の男が入ってきた。有子はそちらを見て、いらっしゃい、と元気な声を出した。笑顔になっていた。
常連らしい二人は、軽口を叩いてからビールを二本注文した。有子は軽い足取りで奥に下がった。
加藤はビール一本分の代金と消費税をテーブルに置き、立ち上がった。有子から訊き出すべきことはもうない。
だが彼が店を出て間もなく、背後から声をかけられた。「あの……」
振り返ると有子が小走りで追ってきた。後ろを少し気にしてから加藤にいった。
「さっきの写真、もう一度見せてもらえますか」
「写真? いいけど」加藤は美冬の写真を彼女に渡した。
有子は写真を一瞥してから加藤を見上げた。「この写真、いただけませんか」
加藤は少し面食らった。「いや、それはちょっと困る。捜査資料だから」
「そうですか……」
「どうしてこの写真が欲しいんだ」
「どうしてって……この人、雅也さんの恋人なんでしょう?」
「それは、俺の口からは何ともいえないな」
「いいんです。わかってます。彼には誰かいるとは思ってたんです」
「女の勘ってやつかい」
「そうかもしれません」有子は下を向いてから写真を加藤のほうに出した。「この人、どこの誰なんですか。刑事さんは御存じなんでしょう?」
「もちろん知っているけど、君に教えるわけにはいかない」加藤は写真を受け取り、ポケットに戻した。「水原のことは忘れたほうがいい」
有子は顔を上げた。大きく見開かれた目に敵意が宿っていた。
「雅也さん、一体何をしたんですか。刑事さんはどうして彼を探しているんですか」
「それはまだいえないな」
「刑事さん、捜査一課の刑事さんなんでしょ。あたし、よく知らないけど、捜査一課って殺人とかを扱う部署じゃないんですか」
加藤は吐息をつき、彼女に笑いかけた。
「だから詳しいことは話せないといってるだろ。もし彼が戻ってきたなら、訊いてみるといい」おそらくそんな日はこないだろうが、という言葉を加藤は呑み込んだ。「もう一度いうよ。彼のことは忘れたほうがいい。それが君のためだ」
言葉をなくしたように立ち尽くす有子に背を向け、加藤は足早に歩きだした。あの娘を選んでいたら水原雅也の人生もまるで違ったものになっていただろう、などと考えていた。
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加藤がフクタ工業を見つけだせたのは、その日の午後八時を過ぎた頃だった。何としてでも非番の今日中にフクタ工業を訪ねておきたかったのだ。
フクタ工業の工場に明かりは灯っていなかった。しかし隣接している住居の窓からは光が漏れていた。加藤は住居の玄関に回り、ドアの横についているインターホンのボタンを押してみた。
だがしばらく待っても返事がない。留守かなと思い、ドアのノブを回すと、あっさりとドアは開いた。
入ってすぐのところが事務所になっていた。事務机やキャビネットの上には埃が溜まっており、この工場にしばらく仕事が回ってきていないことが窺えた。
「ごめんください」加藤は奥に向かって呼びかけた。「どなたかいらっしゃいませんか」
やがて奥からのそりと人影が現れた。六十歳前後に見える背の低い男が、無表情の顔を加藤に向けてきた。
「社長の福田さん……ですか」
彼の問いに男はふんと鼻を鳴らした。
「会社もねえのに、社長ってことがあるかよ」しわがれた声でぼやいた。
フクタ工業は潰れたらしい、と加藤は解釈した。
「警察の者ですが、ちょっとお話を伺いたくて」
福田は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。
「借金を返せないからって、警察が来るのかい。そんな話は聞いたことがねえな」
「福田さんのことが訊きたいんじゃありません。前にここで働いていた人のことです」加藤は前に歩み出た。「水原雅也という人を覚えてますよね」
皺に埋もれたような福田の目が、少しだけ大きくなった。
「あいつも何かやらかしたのかい」
「あいつも、とは? ほかに誰か……」
ふん、と福田は再び鼻を鳴らした。
「誰かってことはねえよ。この不景気だ。仕事にあぶれた連中がすることといえば二つしかない。悪いことに手を出すか、死ぬか、だ」福田は足をひきずるようにして移動すると、埃だらけの椅子に腰を下ろした。
「で、あいつは何をやった?」
「ある事件に関わっている可能性がある、という段階です。ところが話を聞きに行ったところ、当人が消息不明でしてね。それでここに来たというわけです」
「あいつも借金取りから逃げ回ってるんじゃないのかい」
「最近、彼から連絡は?」
「そんなもん、あるわけないだろ。二年近くも前に辞めてるからな。というより、こっちが辞めてもらったんだけどよ」福田はジャンパーのポケットから煙草の箱を出してきた。しかし中身は入っていないらしく、苛立ったように手の中で捻り潰した。
加藤は自分のマルボロの箱を机の上に放った。
福田は彼の顔と煙草の箱を見比べてから煙草に手を伸ばした。「こいつはどうも」
「水原ってのは、どういう男でした」
福田は旨そうに煙を吐いた。
「無愛想だけど、腕のいい職人だったよ。あいつがいなかったら、うちはあと一年早く潰れてたな」
「というと?」
「何でもこなせるんだよ。旋盤でも研削でも溶接でも何でもござれだ。関西から流れてきたようだが、余程修業を積んだんだろうな。あいつ一人いたおかげで、ほかの職人を辞めさせられた。恨まれたけど、こんな御時世だからな」
「彫金は?」
「彫金? どういう彫金だい」
「指輪を作ったり、ネックレスを作ったりっていうやつです」
「そんな仕事はうちじゃ請けてないよ。まあ、やろうと思えばできただろうけどさ。道具は全部揃ってるから。何しろ、昔は銀細工で売ってたからな。古い話だよ」
「ふうん、銀細工を」
「アクセサリーとか盃とか、いろいろ作ったよ。あれはねえ、技術がいるんだ。丸い板から、叩きだけで盃を作る。もっとも、一番腕のいい職人がぽっくりいっちまってからは、やらなくなったがね」
「銀細工じゃ、有名だったってことですか」
「まあ、知る人ぞ知るってところだ。そんなことと雅とどういう関係があるんだ」
「どういう経緯で、彼を雇うことにしたんですか」
「経緯なんていう大げさなものはないよ。向こうが急にやってきて、雇ってくれっていったんだ」
「それですんなり採用したわけですか」
「そうだよ。いや、違ったか」福田はすぐに訂正した。煙草を指に挟んだまま、斜め上に目を向けた。「ヤスのやつがだめになったから、代わりにあいつを雇ったんだった」
「ヤス? だめになったって?」
「ヤスウラといって、前にいた職人だ。怪我して、仕事ができなくなったんだよ。商売女に手を刺されて指が動かなくなった。本人もへこんだだろうが、こっちだって参った。何しろ、そいつしか扱えない機械がいくつかあったからな。こんな御時世で納期を遅らせでもしたら、たちまち仕事がこなくなる」福田は、ふっふっと肩を揺すった。「どっちみち、早い遅いの問題で、仕事はこなくなっちまったけどな」
「それでピンチヒッターに水原を雇ったわけですか」
「そういうことだ。さっきもいったように腕は申し分なかった。災い転じてってやつで、うちとしちゃあヤスの事件がいいほうに転がったわけだ。まあ、ヤスには聞かせられないけどさ」福田は短くなった煙草を名残惜しそうに見つめてから、灰皿で火を消した。
「水原は、ここではどんな様子でした?」
「なんだい、それ。どういう意味だ」
「何でもいいんですよ。水原のことで、何か覚えてることがあったら教えてもらいたいんですがね。たとえばどんな女と付き合ってたかとか」加藤は福田に近づいた。先程机に置いたマルボロの箱を手にし、蓋を開けて彼に勧めた。「もう一本どうです」
福田は加藤を見上げながら煙草を引き抜いた。加藤は彼が煙草をくわえるのと同時に、ポケットから出したライターに火をつけた。福田は警戒心のこもった目をしながらも、小さく会釈して火に煙草を近づけた。
「どういう事件なんだ。あいつ、何をやらかしたんだ」
「細かい話は勘弁してください。女が絡んでる事件だということはいっておきましょうか」
「ふん、女か。あいつはいい男だったからな」福田は勢いよく煙を吐き出した。「だけどここじゃそんな話は出なかった。あいつは無口で殆ど誰とも話さなかったんだ。仕事以外のことは何にもさ」
「じゃあ特に親しくしていた従業員もいなかったんですか」
「親しくしてたどころか、みんなあいつを恨んでたんじゃねえか。あいつが来たせいで、ほかのやつの仕事がなくなっちまったからな」
加藤は頷いた。水原雅也が極力他人との繋がりを避けていたというのは十分に考えられる。親しくなれば、裏の顔を知られるおそれがあるからだ。
「工場を見せてもらっていいですか」
福田は眉間に皺を刻んだ。
「構わねえけど、明かりはつかないぜ。機械だって動かない」
「電気が来てないんですか」
「配線を切られたんだよ。勝手に使えないようにしてある」
「勝手にって?」
「俺たちが勝手に、という意味だよ。もう何もかもうちのもんじゃない。銀行のものだ」福田は二本目の煙草を灰にすると、腰をさすりながら立ち上がった。
福田のいうとおり、工場の明かりはつかなかった。窓から入るわずかな光が、ずらりと並んだ工作機械を照らしている。
「もっと悪くなるよ」福田がいった。「世の中はもっと悪くなる。自分の懐を肥やすことしか考えてない連中がこの国を仕切ってるんだから当然のことだ。今までは庶民が強かったから何とかなった。だけどもうだめだ。がんばりにも限界がある」
「水原はいつもここで仕事を?」
「ああ、そうだよ」
「水原が仕事しているところは、いつも誰かが見ていたんですか」
「別に見てたってことはない。図面を渡して、細かいことを指示したら、後は職人に任せる。こっちは注文通りのものが出来上がってくれば文句はないからさ」
「じゃあ、ほかのことをしていてもわからないわけだ」
「はあ? あんた、何のことをいってるんだ」
「水原がここの設備を使ってほかのことをしていたとしても、誰にもわからないんじゃないかと訊いてるんですよ」
福田の顔に警戒感が蘇った。胡散臭そうに加藤の顔を下から見上げてきた。三白眼になっていた。
「あいつがここで何かしてたっていうのかい」
「その可能性があるかどうかを知りたいんです」加藤は相手の目を見つめ返した。
福田は無精髭の伸びた顎をこすり、横を向いた。
「そりゃあ、やろうと思えばできただろうさ。仕事は職人に任せてある。必要に応じてどの機械を使ってもらっても構わない。職人は何人かいたけど、ほかのやつが何をしてるかなんて特に気に留めてなかっただろうし」
「さっき、水原以外の職人は辞めさせたといいましたよね。するとその後は水原の天下だったわけだ。ここで何でも好きなことができる」
福田は何もいわず口元を歪めた。
背後で物音がした。五十歳ぐらいの痩せた女がコンビニの袋を提げて立っていた。
「お客さん?」女は訊いてきた。
「いや、刑事さんだ」福田が答えた。
「刑事さん……」福田の女房と思われる女は、怯えの混じった目で加藤を見た。
加藤は彼女に笑いかけた。
「前にここで働いていた水原という人についてお話を伺っていたところです」
「ああ、雅さんの……」彼女は安堵した顔で加藤と亭主とを交互に見た。「そういえば二か月ぐらい前に来たよね」福田に同意を求めるようにいった。
「来た? 二か月ぐらい前?」加藤は彼女の顔を凝視した。「水原が来たんですか」
鋭い口調だったからか、彼女の顔に再び怯えの色が浮かんだ。顎を引き、ええ、と小声でいった。
「本当ですか。さっきはそんな話は出なかったけど」加藤は福田を振り返った。
「そうだったかな」福田はどこかふてくされたような様子で呟いた。加藤のほうを見ようとしない。
加藤は女房に視線を戻した。彼女は何か余計なことをいったのかという表情だ。
「水原は何をしに来たんですか」
「別に……。ただの挨拶だとかいってました。――ねえ」夫に呼びかけた。
「近くまで来たから寄ったとかいってた。それで、ちょっと話をしただけで、すぐに帰っていった」福田がいった。
「ははあ」加藤は腕組みをし、二人を見比べた。福田は相変わらず横を向いている。女房は俯いていた。
奥さん、と彼は呼びかけた。彼女はぴくんと身体を動かして顔を上げた。
「ちょっといいですか」それだけいうと、加藤は返事を待たずに先に工場を出た。さらに事務所も横切って、入り口のドアを開けた。
間もなく福田の妻が不安そうな顔で現れた。
「外に出て話しましょう」加藤は彼女を外に連れ出した。
彼女は怯えきっていた。顔の青いのが薄暗い中でもわかった。
「御主人は何か隠しておられるようだ。水原が来た時、何か変わったことでもあったんですか」
「特に何もありませんでしたけど」彼女は加藤に見つめられていることに気づいて狼狽を見せた。「嘘じゃありません。だから主人が何か隠しているといわれても、思い当たることがないんです。水原さんが来たことなんて、隠す必要もないと思うし」
彼女が嘘をついているようには見えなかった。
「水原は何の用があって来たんですか」
「それは……よくわかりません。主人と工場で話をしていたようでしたけど」
「その場にあなたはいなかったのですか」
「お茶を持っていっただけです」
「水原が帰った後、御主人に訊かなかったんですか。今頃何の用があって来たのか、と」
「それは……」福田の女房は下を向き、口ごもった。
「奥さん、何か知っていることがあるなら今のうちに話しておいたほうがいいですよ」諭すように加藤はいった。「今ここで何か隠し事をすると、かえって厄介なことになるかもしれません」
加藤の言葉に彼女は顔を上げ、目を見開いた。「厄介って……」
「話してください。悪いようにはしませんから」加藤は微笑みかけた。
福田の女房はちょっと背後を気にする様子を見せてから口を開いた。
「図面を売ったって主人はいってました」
「図面? 水原に売ったんですか」
彼女は頷いた。
「前にうちで扱ってた製品の図面を何枚か……。うちに置いてても仕方ないから売ったって主人はいいました」
「どうして今さら水原はそんなものを買いに来たのかな」
「よくあることだよ」突然声が聞こえた。事務所の入り口から福田が出てきた。「図面にはいろいろなノウハウが詰め込まれてる。だから工場が廃業したら、そこの図面を欲しがる輩がいっぱいやってくる。うちだって、図面を買いに来たのは雅だけじゃない。だけど本来そういうのは顧客の許可を得なきゃならないんだ。それで全部断ってた。だけど雅はうちにいたやつだし、こっちに迷惑のかかることはないだろうと思って渡したんだ」
「売ったんですね」
「少しは金をもらったよ。当然だろ。――おまえはもう家に入ってろ」福田は妻にいった。彼女は逃げるように中に入った。
「水原に売ったのは何の図面ですか」加藤は改めて福田に訊いた。
「いろいろだ。うちはいろんな部品を扱ってたからな。水原は、次の働き口を見つけるのに、自分の腕前の宣伝材料としてほしいんだとかいってた。もういいだろ。水原が来たのはその時だけだ。それ以来会っちゃいないし、電話だってない。連絡先だって聞いてない。あいつが何をしたのかは知らんが、うちには何の関係もないんだよ」
福田は苛立ち始めていた。加藤は不審に思ったが、これ以上この男を詰問してもしゃべらないだろうと判断した。
「ヤスウラさん、といいましたね。水原の前に働いていた職人さん」
「あいつが何か……」
「連絡先を教えてもらえませんか」
「ヤスは雅とは面識がない。あいつに会ったって仕方がねえだろ」
「こっちにはこっちの考えがあるんですよ」加藤はマルボロの箱を取り出し、蓋を開けて福田のほうに差し出した。
福田は仏頂面をしたまま手を伸ばす。だがその手が煙草に届く前に、加藤は彼の二本の指を掴んでいた。ぐいと力を込めると福田の顔が歪んだ。
「手間をとらせないでくださいよ。俺だって暇なわけじゃないし、いつまでも機嫌がいいとはかぎらないんだから」笑いながらそういってから加藤は指を離した。
福田は手を引っ込め指先をこすると、もう煙草を取ろうとはせず、無言で事務所に入っていった。加藤は煙草をくわえ、ライターで火をつけた。
図面……か――。
何のために水原雅也はそんなものを買いに来たのか。福田のいっていたような理由とは思えない。水原には新海美冬という仲間がいる。働き口が見つからないからといって、今すぐに生活が苦しくなるわけではない。
行方をくらましたことと無関係ではないはずだった。その図面を使って、水原雅也は何かをやろうとしているのか。
もう一つ引っかかっていることがある。
水原雅也がこの工場にやってきたのは単なる偶然だろうか。かつて銀細工で有名だっただけに、アクセサリー類を作るのに適した環境だと考えたからではないのか。それはいうまでもなく、新海美冬にとって都合がよかったということになる。
前任者が怪我をしたので急遽雇うことになった、と福田はいった。果たしてそれは偶然だろうか。そんなタイミングのいい話があるだろうか。
商売女に手を刺されて指が動かなくなった――。
きな臭い話だ。商売女とは何者だろう。
福田が事務所から出てきた。加藤は煙草を足元に捨て、踏み潰した。
「最近は全く連絡をとってないから、今でもここにいるかどうかはわからんよ」福田は一枚のメモを差し出した。
加藤はそれを一瞥し、上着の内ポケットに入れた。
「商売女に刺されたといってましたね。相手の女は安浦さんと面識があったんですか」
福田はふんと鼻を鳴らした。
「街で拾った女だよ。どこの誰かもわかりゃしない。ホテルで眠らされて、金を取られた挙げ句に刺されてたってわけだ。警察だって、そんな事件は真剣に捜査してくれねえし。踏んだり蹴ったりだって嘆いてたよ」
「なんで手まで刺されたんでしょうね」
「さあね。その女に訊いてみなきゃわからんよ」
加藤は頷いてから、どうもお邪魔しました、と福田にいった。福田はもう二度と会いたくないとばかりに苦々しい顔をしていた。
フクタ工業を後にしながら加藤は想像を働かせていた。職人が行きずりの女に刺され、代わりに水原雅也が雇われた。そしてそこは水原と美冬にとって絶好の工場だった。これを単に偶然と片づけられるか。
まさか、と思った。あの女でもそこまではやるまい。
だが加藤は即座にその考えを打ち消していた。歩きながら首を振った。
あの女ならやる。あの女だから、そこまでやるのだ――。
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夕焼けが西の空に広がっていた。その下には巨大なビルが建ち並び、さらにそれぞれの周辺を大小様々な建物が埋めている。野心や希望を持った人間たちが作りあげた街だ。しかし現実には、疲れ果てた人々が、そんな建物の隙間を這い回るようにして生きている。
自分もその一人だ、と雅也は思った。
彼は隅田川の縁にいた。目の前をゆっくりと小型船舶が通過していく。船の後ろには小さな波が幾筋もの模様を作っていた。
俺は一体ここで何をしているのだろうと思った。何のためにこんなところまでやってきたのだろう。あの悪夢のような大震災から間もなく五年になろうとしている。その間に自分のしてきたことを思い出し、雅也は身体の中を冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
俺は自分の魂を殺すためにこの街にやってきたのか――そう思った。
いやそうではない、ここへ来る前から俺の魂は死んでいた。大震災の朝、それは死んだのだ。叔父の頭を叩き割った時、自分は自分でなくなった。
そんな抜け殻のような男に、彼女は近づいてきた。今だからわかる。彼女はそんな男だったからこそ近づいてきたのだ。魂を失い、行き先を見失った人間だから、自分の操り人形にできると考えたのだ。
雅也はふっと自嘲して笑い、懐からサングラスを取り出してかけた。夕焼けに染まった空が、灰色に変わった。
この世に自分ほどの馬鹿はいないだろうと思った。惚れぬいた相手が単に自分を利用するために一緒にいただけだとは、とんだ喜劇だ。彼女が示した愛情表現はすべて周到な計算に基づいたもので、彼女の言葉は操り人形を意のままに動かす呪文にすぎなかった。
時計を見た。午後五時になっていた。二人の男女が彼の前をジョギングで通り過ぎていった。川の反対側には、スーパーの袋を提げた母子らしき三人組が見える。晩御飯の材料を買いに行くのに、母親が二人の子供を連れていったのだろう。幸せそうに見えた。
右側から一人の男が近づいてきた。黒いジャンパーを着た、二十代前半と思われる男だった。黒いニットの帽子を目の少し上ぐらいまで深くかぶっている。男は雅也を見て、明らかに歩みを遅くした。さらに様子を窺うように周りに視線を配ると、ゆっくりと近づいてきた。
「隣、いいですか」男は雅也の座っているベンチを顎でしゃくった。
「どうぞ」雅也は尻を少しずらした。
男は腰を下ろすと、再び周囲を見回した。かなり慎重になっているようだ。
怪しげな人間はいないと判断したらしく、男はようやく雅也に話しかけてきた。「杉並さんですか」
ええ、と雅也は小さく頷いた。
「約束の品は?」男が訊いてきた。
雅也は紙袋を男の横に置いた。「どうぞ、中をたしかめてください」
男は緊張した顔つきで紙袋を手に取った。だが彼が開ける前に雅也はいった。
「外に出さないでくださいよ。誰がどこで見ているかわからないから」
「ああ、そりゃあもちろん」男はもう一度周りを見てから、ゆっくりと紙袋を開けた。おおっ、と小さく声を上げるのが雅也の耳に届いた。
男が袋の中に手を突っ込んで品物を確認している間、雅也は煙草を吸った。隅田川の表面はきらきらと光っている。この川を遡っていけば、あのアパートのそばに戻れる。様々な悪夢を見せられた部屋だ。そろそろ無人であることに不動産屋も気づいているかもしれない。しかし騒ぎ立てたりはするまい。適当な時期を見て、部屋を片づけ、また別の人間に貸すだけだ。この東京では、他人が消えようが死のうが気にする者などいない。
ふと有子のことを思い出した。彼女はどうしているだろう。『おかだ』を手伝いながら、今も無口な男が来るのを待ち続けているのだろうか。
「すごい」隣の男が呟いた。
雅也は横を向いた。男は目を輝かせ、驚きに満ちた表情をしていた。
「これをおたくが? 一体どこで……」
雅也は薄く笑い、首を振った。「詳しいことは話さないという約束だったでしょう」
「それはそうだけど……」男は再び紙袋の中を覗き込み、小さく首を振った。「思ってた以上だ。もう少しいい加減なものかと……」
「そっちはどうなんですか。いい加減なものを持ってきたわけじゃないでしょう」
雅也の台詞に男は心外そうにむっと唇を結んだ。ジャンパーのポケットに手を突っ込み、四角い包みを出してきた。
雅也はそれを受け取ると、煙草の吸い殻を踏みつけ、黙って立ち上がった。
男が驚いた顔で彼を見上げた。「確認しなくていいんですか」
「そんな必要はないでしょ。それとも確認したほうがいいですか」
「いや、品物は間違いない。おたくがそれでいいんなら、俺には文句はない」
「では、お互い会うのはこれっきりということで」少し歩いてから雅也は立ち止まり、男を振り返った。「俺のメールアドレスは、もう使えませんから」
「わかってる。こっちも同じだ」
雅也は頷き、歩きだした。男から受け取った包みを、ウインドブレーカーのポケットに入れた。
日は一層沈んでおり、街は夜の色に変わりかけている。
雅也は茅場町《かやばちょう》まで歩き、地下鉄日比谷線に乗った。
シートの一番端に座り、ぼんやりと広告を見上げた。そのうちの一つが彼の目に留まった。
『ミレニアム・オープン! The HANAYA 2000』
その広告を目にするのは今日が初めてではなかった。一か月ほど前から方々で見かけるようになった。テレビでCMが流れることもある。
この御時世に豪気な話だと思う。あの『華屋』が大々的なリニューアルを敢行したのだ。近くのビルを買い取って、売場も拡張したらしい。宝飾品や装身具を扱うのは従来通りだが、さらにエステサロンをはじめとする美容部門を作ったという。ごくふつうの目立たない女性が、『華屋』というブラックボックスに入れば、今度出てくる時には洗練された美女に変身している、というのがCMの内容だった。これからは美に関するすべての商品を扱っていく、と社長の秋村はテレビのインタビューに答えていた。
美へのブラックボックス――。
その言葉を雅也は別の人間から聞いたことがある。いうまでもなく美冬だ。彼女がよくいっていた。自分の夢は美を追求すること、美に関するすべてを扱うこと、それらをシステムにしたブラックボックスを作り上げること――。
同じ台詞を夫の秋村にも聞かせていたのだなと再認識した。今回のプロジェクトは秋村の発案ではない。後ろで糸を引いているのは美冬だと雅也は確信していた。秋村もまた、彼女の操り人形なのだ。
彼女はなぜあそこまでやるのか。何が彼女を動かすのか。あくまでも冷徹に、計算高く、そして残酷に。
電車が銀座に到着した。雅也は立ち上がった。ウインドブレーカーのポケットに入れた包みの感触を、指先で確かめた。
地上に出ると銀座中央通りをゆっくり歩いた。すでに空は暗い。だが各店舗の明かりは街を昼間のように照らしていた。いくつかの店は、クリスマスを意識した電飾を施している。そんな歩道を大勢の人々が行き交う。サラリーマンやOLの姿が目立つ。
雅也は足を止めた。道路の反対側に『華屋』を臨める場所だ。
彼女との日々が幻であったと悟った時、雅也は美冬の前から身を隠すことにした。もはやこれ以上彼女と共に生きていくことはできないと思ったのだ。しかしすべてを白紙にできるわけではない。受けた心の傷はそれほど軽くない。それ以前に、自分たちの過去は白紙にするには汚れすぎていると思った。
アパートを出た彼が最初にしたことは、新海美冬の過去を探ることだった。といっても、あの美冬ではない。彼女にすり替わられた、本物の新海美冬のほうだ。
彼女が本当は誰なのかを、是非とも知っておく必要があった。しかもその作業は急がねばならない。警視庁の加藤も美冬が偽者だと知っているからだ。あの男が本格的に始動する前に、雅也はすべての決着をつけておきたかった。
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雅也がインターネットによる人捜しサイトを知ったのは、アパートを出てから一か月目のことだ。コンビニで雑誌を立ち読みしていて知ったのだ。彼は中古のパソコンを購入し、その日のうちにインターネットへのアクセスを試みた。
人捜しのサイトはいくつかあった。彼はそれらのサイトのすべてに次のような内容を登録した。
『私の亡妻の友人を探しています。一九八九年か一九九〇年に私立西南女子大文学部を卒業した方、御連絡ください。』
新海美冬という名前を出すべきかどうか迷った。結局伏せることにしたのは、何らかの経緯で、この内容が美冬に知られるのを恐れたからだ。無論、あの偽者の美冬に、である。この文面だけなら、いかに明敏な彼女でも、自分と結びつけることはないはずだった。
正直なところ、あまり期待はしていなかった。インターネットが一般的になってきているとはいえ、実際に常時利用している人間は、まだそれほど多くはないだろうと思ったからだ。また仮に該当する年度に西南女子大を卒業した人間が見たとしても、連絡を寄越す可能性は低いように思えた。相手が何者か詳しくわからぬままメールを出すというのは、何となく気味の悪いものだからだ。
ところが彼のこの予想はいいほうに外れた。サイトに登録してから一週間もせぬうちに、三件の情報提供があったからだ。雅也はそれらすべてに返信メールを出した。次のようなものだ。
『情報提供ありがとうございます。私が探しているのは新海美冬という女性です。おそらく八九年に卒業していると思います。文学部ということ以外、何もわかりませんが、就職先、嫁ぎ先等、もし御存じならば教えてくださると助かります。』
ここでは新海美冬という名前を出さないわけにいかなかった。また雅也は自分の携帯電話の番号も書き記した。できれば直接電話で話したかったからだ。
間もなく三人から返信が来たが、そのうちの二人は新海美冬という名前に心当たりはないということだった。だが一人はその名を知っていた。英文科で一緒だったというのだ。
『残念ながら私は新海さんとはあまり親しくなく、卒業後にどうされたかは把握しておりません。でも当時の友人に当たれば何かわかるかもしれませんので、その場合にはまた御連絡いたします。』
このメールを受け取った直後、雅也はすぐに、当時のアルバムか何かから新海美冬の顔写真をスキャンするなどして送ってもらえないか、という意味の返事を書こうと思った。しかし結局それはしないでおいた。相手が不審がるおそれがあると思ったのだ。それにもはやそんな写真を見ることに、大した意味はなかった。あの美冬が偽者であることは確実なのだ。
それから二週間ほどが経ったある日、全く知らない人間からメールが届いた。次のようなものだった。
『私は、先日あなたに新海美冬さんのことで情報提供しようとした人の友人です。その人から事情を聞き、私が直接メールをお出ししたほうがいいと思ったので、あなたのアドレスを教わりました。
私も新海さんとはそれほど親しくなかったのですが、ゼミが同じだったので何度か話をしたことはあります。就職先についても覚えています。たしか外国製の家具を扱う会社だったと思います。BBKだったか、DDKだったか、なんかそんな名前でした。ごめんなさい、はっきりしません。ところで奥様を亡くされたというお話ですが、奥様も西南女子大の文学部だったのですか。もしよければお名前を教えてください。』
メールを読み、雅也は自分の体温が上昇するのを覚えた。間違いなく本物の新海美冬の過去に迫りつつあるという感触を得たからだ。
彼は早速メールを返した。
『貴重な情報をありがとうございます。新海美冬さんのことをもう少し詳しく教えていただけませんか。できれば直接電話でお話ししたいです。電話番号を教えてほしいとは申しませんから、私の携帯に電話をしていただけないでしょうか。もちろん料金は私のほうでもちます。(妻は残念ながら西南女子大ではありません)』
そしてその三日後、雅也の携帯電話が鳴ったのだった。
電話番号は非通知になっていた。だが雅也は情報提供者だと確信した。なぜなら彼が使用している携帯電話の番号を、ほかの人間には教えていないからだ。以前使っていた携帯電話は、現在ずっと電源を切りっぱなしだ。
電話をかけてきたのはコシノという女性だった。やはり情報提供者だった。
その女性はまず、新海美冬の就職先について訂正した。
「メールではいい加減なことを書きましたけど、WDCでした。ワールド・デザイン・コーポレーションの略だそうです。赤坂に本社があるそうです」
「新海さんは今もその会社にいらっしゃるんですか」雅也は尋ねた。
「それはわかりません。卒業後は一度も会ってないものですから。とにかく正確な会社名をお知らせしなきゃいけないと思って、お電話してみました。お忙しいところ、すみませんでした」相手は電話を切るつもりのようだ。雅也はあわてた。
「待ってください。一度お会いできないでしょうか。新海さんのことを、もっと知りたいんです」
相手は困惑したように少し黙った。
「ごめんなさい。メールに書きましたけど、あたしも彼女のことはよく知らないんです。だから、お会いしても大したお話はできません」
でも、といってから雅也は、これ以上強引に頼み込むのは逆効果だと判断した。見ず知らずの人間に電話をかけてきてくれたこと自体奇跡的なのだ。
「わかりました。では、このままもう少しお話しさせていただけませんか。じつは昨年亡くなった妻が新海さん宛てに手紙を書いてまして、それをどうしても本人に渡したいんです。それが妻の願いだと思いますから」
雅也は前もって用意しておいた嘘を述べた。亡き妻の願いを叶えたがっているかわいそうな夫を演じることで、相手が無下には断れない雰囲気を作ろうとしていた。かつての彼はこんな小細工が苦手だったが、今は平気でできる。皮肉なことに、あの偽者の美冬によって教育された成果だった。
演技の効果はあったようだ。少上黙った後で相手の女性はいった。
「少しぐらいなら構いませんけど、何度もいうように、あたしは大したことは知らないんですけど」
「覚えていることだけで結構です。新海さんはどういう女性でしたか」
「どういうって……そう訊かれても困りますけど、まあふつうの女の子でした。英文科に進んだのは文学に興味があったからというより、欧米の生活に関心があったからだ、という意味のことを話していたのを覚えています」
「派手な女性でしたか」
「特別に派手ということはなかったと思います。ふつうじゃないかな。どちらかというと目立たないタイプでしたよ」
「特に親しくしていた人というのを御存じないですか」
「何人かいたようです。だけど、その人たちの連絡先は知りません。あたしたちとは別のグループだったものですから」
「恋人やボーイフレンドは?」
「さあ」電話の相手は苦笑を漏らしたようだ。「いたかもしれませんけど、あたしは知りません」
どうやら本当に新海美冬とはさほど付き合いがなかったらしい。
「わかりました。どうも長々と話して申し訳ありませんでした。厚かましいようですが、もし何か思い出すことがあれば、知らせてくださるとありがたいです」
すると相手は少し間を置いた後でこんなことをいった。
「今思い出したんですけど、彼女の論文がちょっと変わっていて面白かったんです」
「論文? 卒業論文ですか」
「ええ。彼女は題材に、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を選んでいたんです」
「ははあ……」
その題名なら雅也も知っていた。ただし本ではなく映画のタイトルとして認識している。もっとも彼は映画にしても見たことがなかった。
「主人公の女性の名前がスカーレット・オハラというんですけど、新海さんはそのヒロインに心酔してて、論文も徹底的に彼女の生き様を賞賛するものだったらしいです。助手の人が、あれはちょっとやりすぎだな、なんてことをおっしゃってました」
「へえ……」
ストーリーを知らず、当然そのヒロインについての知識がない雅也としては、どう反応していいのかわからなかった。それを電話の相手も感じ取ったらしい。
「ごめんなさい。関係ないことでしたね。もう少し役に立ちそうなことが何かあったら、また御連絡します」そういうと、雅也の礼の言葉もろくに聞かずに電話を切った。
結局コシノという女性が電話をかけてきたのは、それが最初で最後だった。予想していたことなので、雅也としては特に失望しなかった。収穫がなかったわけではない。ついに本物の新海美冬に関する情報を得られたのだ。まだおぼろげに輪郭がつかめた程度だが、大きな前進だった。
行かねばならないところがあった。『WDC』という会社だ。そこには間違いなく新海美冬の足跡が残っている。彼は何度か会社の下見をした後、周到にシナリオを組み立て、ある平日の朝、赤坂にあるショールームを訪ねていった。出で立ちはスーツ姿だった。いつだったか頼江からプレゼントされたものだ。こんなことに役立つとは、もらった時には想像もしていなかった。
ショールームに入るとすぐに三十歳ぐらいの女性スタッフが近寄ってきた。愛想笑いを浮かべていた。今日はどういったものをお探しでしょうか、というお決まりの台詞を口にした。
「イタリア製の化粧台を探しているんです。ドレッサーというのかな」雅也は笑顔で答えた。「ちょっとしたこだわりがありましてね。こちらでしか手に入らないようなんです」
男性客が化粧台を探しに来たことについて不思議に思ったはずだが、彼女は笑顔を途切れさせなかった。
「かしこまりました。当店へお越しになられたのは、今日が初めてでしょうか」
「足を運んだのは初めてです。でも以前、こちらで働いている人からカタログを見せられたことがあって、一度実際に見てみたいと思ってはいたんです」
案の定、この言葉に女性スタッフは反応した。
「ええと、こちらの何という者でしょうか」
「新海さんという女性です。あれはもう……数年前になるかな」
「シンカイ……」女性スタッフは戸惑いを見せた。その名字に心当たりはないようだ。
「その人から見せてもらったカタログに載ってた化粧台をうちの家内が気に入りましてね、ずっと欲しかったんだけど、なかなか買いに来る機会がなかったんです。最近になってようやく余裕ができたので、じゃあ思い切って買おうということになったのですが、今度はその新海さんと連絡がとれなくて、仕方なく直接出向いてきたというわけです」雅也は予め準備しておいた台詞を淀みなくしゃべった。
「そうですか……では、ちょっとこちらでお待ちになっていただけますか」
女性スタッフにいわれ、雅也は来客者用ロビーのようなところで待つことにした。腋の下に汗が滲んでいた。
間もなく別の女性が現れた。やはり三十歳前後に見えた。小柄で、丸い顔をしている。彼女は待たせたことを詫び、名刺を出してきた。野瀬《のせ》真奈美《まなみ》、と印刷されていた。
「新海ですけど、七年前に辞めているんです。それで、もしよろしければ私が御案内させていただきますが」
「あっ、お辞めになってたんですか。そうかあ……」雅也は当惑の表情を作った。
「新海がお見せしたカタログというのはどういったものでしょうか。七年以上前となると、カタログも新しくなっていますが、一部昔のカタログも保管してあると思うんですけど」
「それがよく覚えてないんですよ。カタログを見たのは女房でしてね。どんな家具を気に入ったのか、よく知らないんです。でも女房は新海さんと連絡をとっていたようだから、彼女ならわかると思ったんですが」
「それでは奥様にお越しいただく、というわけにはいかないのでしょうか」
野瀬真奈美は雅也が予想したとおりの問いかけをしてきた。彼は予定通りの演技にとりかかった。
「できることならそうしたいのですが、女房は去年亡くなりましてね」
あっ、という形に野瀬真奈美の唇が開いた。その顔を見ながら雅也は続けた。
「つい先日一周忌を終えたんですが、その時に思い出したんですよ。彼女が化粧台を欲しがっていたことをね。それで、今さら変だと思われるかもしれませんが、その品物を是非手に入れたいと思い立ったわけです。本当に、死ぬ前まで、あの化粧台の前に座りたかったといっていたものですから」
わざとらしくない程度に声のトーンを落とし、それでいて唇には笑みを残したままで彼は語った。
「そういうことだったんですか」
野瀬真奈美は彼の演技に引っかかったようだ。眉の両端を下げ、同情の色を顔面に広げた。もっともそれは彼女なりの演技なのかもしれない。
「弱ったな。新海さんに訊かないと、どんな家具だったのかまるでわからない」
「あの、新海とは全然連絡がとれないんですか」
「彼女から教わっていた番号に電話しても繋がらないんです。元々僕は、彼女の御両親と懇意にしていただいてたんですけど、お二人とも五年前に亡くなりましてね。例の阪神淡路大震災ですよ」
ああ、と野瀬真奈美は大きく頷いた。
「そういえば彼女、実家は神戸のほうだといってましたね」
「あなたは新海さんとは親しかったんですか」
「同期入社です。職場は違いましたけど。彼女は少しだけショールームにいて、その後は別の部署に異動になったんです。それからしばらくして辞めたんだったと思います」
「そうですか。いや、それにしても困った」雅也は頭を抱えてみせた。「イタリア製、ということぐらいしか覚えてないからなあ。諦めるしかないか……」
「一応カタログを御覧になられますか。当時のものがすべて揃っているわけではありませんけど、もしかしたら御覧になっているうちに何か思い出されることもあるかもしれませんし……」野瀬真奈美がいった。彼女としては最大限のサービス精神を発揮しているつもりなのだろう。
「そうですね。自信はないけど、何もしないで帰るよりはましかもしれない。でもいいんですか。こちらに迷惑じゃありませんか」
「念のため、上の者に話してみますけど、問題はないと思います」そういうと彼女は事務所に消えた。
彼女のいうとおり、上司たちも特に問題はないと判断したようだった。来客用ロビーの端にあるテーブルを使い、雅也はイタリア製家具が載っているすべてのカタログを眺めることになった。何もかも計算通りだった。
ショールームの営業時刻は午後七時までだった。その少し前になって野瀬真奈美が近づいてきた。「いかがでしょうか」
「だめですね」雅也は力なく首を振った。「見れば見るほどわからなくなってくる。女房のことを何ひとつわかってなかったんだと再認識しました」
「失礼ですが、奥様は御病気か何かで……」
「白血病です。まだ若かったんですけどね」
「そうなんですか」彼女は頷いた。
雅也はカタログを閉じ、目頭を押さえてから改めて彼女を見た。
「お手数をおかけしました。もし新海さんに連絡をとれたなら、また来ます」
「そのことですけど、こちらでも新海の連絡先を調べてみたんです。そうすると、こちらを辞めた後、南青山のブティックに再就職したらしい、ということまではわかりました」
「南青山のブティック? この近くですか」
「それが、今はその店、もうないらしいんです。だから、その後彼女がどうしたのかは、こちらでは全くわからない状況なんです。お力になれなくて申し訳ないですけど」
「当時の彼女の住所とかはわかりますか」
「わかると思います。少々お待ちください」一日事務所に消えた彼女は、一枚のメモを手に戻ってきた。「だけど、ここにももう住んではいないようです」
雅也はそのメモを受け取った。幡ヶ谷二丁目、となっていた。
「そのブティックの名前、わかりますか」雅也は訊いた。
「正確かどうかは断言できないんですけど、『ホワイトナイト』とかいったそうです」
「ホワイトナイト……」
「眠れない夜、という意味ですよね。白夜、と訳されることもあるそうですけど」
「白夜……ね」
雅也は新海美冬の住所を書いたメモの端に、ホワイトナイト、と書き込んだ。
『WDC』に行った翌週、彼は青山へ出かけていった。そこで目についたブティックに入り、『ホワイトナイト』という店を知らないかと尋ねて回った。当然のことながら、どこの店でもいい顔はされなかった。それでも三軒目の店で、有益な情報を得ることができた。
「南青山にあった店じゃない? 今はイタリアンの店になってるけど」三十歳ぐらいの女性店員が、一緒に話を聞いていた同僚に同意を求めた。
「そんな店、あったかな」同僚は首を傾げた。
「あったじゃない。やけにバブリーな品物ばっかり置いてる店。ステンドグラスみたいな装飾が窓にしてあって……」
すると同僚も何かを思い出した顔になった。
「ああ、あそこかあ。あの店、そんな名前だったっけ」
「名前、変えたんだって。一時は都内に三つぐらい店があったんじゃなかったかな。大阪にも進出したって聞いたことがある。でもバブルが弾けちゃって、思ったよりも経営が苦しくなったんだと思う。それで店名を変えて巻き返しを図ったんだろうけど、やっぱりうまくいかなくて潰れたんだよ。あそこの社長、当時まだ三十代なかばの女性だったって知ってる? しかも、すごい美人だったんだって」
その二人の女性店員も、『ホワイトナイト』について知っていることはそれだけだった。入ったことはないし、無論、どんな人間が勤めていたかも知るはずがなかった。雅也は場所を教わると、丁寧に礼を述べてその店を出た。それから教わった場所に向かった。
そこにはたしかにイタリアンレストランがあった。ブティックの面影などまるでない。
次に雅也が向かった先は幡ヶ谷だった。『WDC』の野瀬真奈美から教わった、本物の新海美冬が住んでいたマンションだ。
築十年は経っていると思われる灰色の建物だった。新海美冬は、三〇六号室に住んでいたらしい。現在の居住者は鈴木という名字のようだ。だがその人物が前の住人のことなど知っているはずがない。迷わず隣の中野という部屋のインターホンを押した。すぐに女の声で返事があった。
雅也は興信所の調査員だと偽り、以前隣に住んでいた新海さんについて尋ねたいことがある、といった。
間もなくドアが開けられた。顔を覗かせたのは、この家の主婦らしき女性だった。長い髪を後ろで束ねていた。
雅也は一礼し、先程と同じことを繰り返した。興信所、という言葉に相手が関心を寄せている手応えを感じた。
「新海さんなら、ずっと前に引っ越されましたよ」相手の女性はいった。
「それはわかっています。ここに住んでおられた当時のことを教えていただけたらと思いまして」
「当時のことって……別に、そう親しくはしていなかったですから」
「では、親しくしていた人に心当たりはありませんか。たとえば、しょっちゅう友達が遊びに来ていたとか」
「特に記憶に残ってませんけど。近所迷惑のようなことはなかったですよ。礼儀正しい、真面目そうな人でした」
「男性関係はどうでしたか」雅也は少し声を落として訊いた。「恋人とか、そういう人がいた気配はなかったですか」
「さあねえ。あの人ならそういう人はいたかもしれないけれど、私は見たことなかったですねえ」
この主婦からは大した話は訊き出せそうになかった。雅也は諦め、礼をいって切り上げようとした。するとその前に彼女がいった。
「あのう、前にも新海さんのことを訊きに来た人がいましたけど、それと何か関係があるんですか」
「前に……ですか」
雅也は思考を巡らせた。誰のことだろう――。
「どういう人でしたか」
「ふつうのサラリーマンという感じの人でしたよ。ああ、そうそう。新海さんの御両親が阪神淡路大震災に遭われたって、その人はいってました。新海さんも一緒に被災して、そのまま行方不明だって。それで新住所を知らないかって、訊きにみえたんです」
雅也の脳裏に一人の名前が浮かんだ。彼はそれを口にした。
「それは……曽我、という人じゃありませんか」
主婦が口を開き、大きく頷いた。
「そうそう。曽我さん。たしかそういうお名前でした」
「それで、あなたは新住所を御存じだったのですか」
主婦はかぶりを振った。
「それは知らなかったんですけどね、年賀状を差し上げました。新海さんからいただいた年賀状です」
「年賀状?」
「彼女、ここを出た後、しばらく外国に行くっていってたんですよ。でもそれまでの間、知り合いの家で厄介になってるって。で、そのお宅から出された年賀状です」
外国――そんな話は聞いたことがなかった。いやそれよりも、主婦の話にはもっと重要なことが含まれている。
「その知り合いというのは?」
「一緒に外国へ行く人だといってました。すごく信頼している女性で、たしか働いていた先の社長さん、とかいってたんじゃなかったかしら。ごめんなさい。ちょっとよく覚えてないんですけど」
「新海さんが当時勤めていたのは『ホワイトナイト』というブティックでしたよね。そこの社長ということですか」
だが中野という主婦は困惑したように手を振った。
「だから、はっきりとはしないんです。そんなことをいってたような気がするだけです。思い違いかもしれないから、あまり信用しないでください」
雅也は青山のブティックで聞いた話を思い出していた。
あそこの社長、当時まだ三十代なかばの女性だったって知ってる? しかも、すごい美人だったんだって――。
「その年賀状は曽我さんにあげたとおっしゃいましたよね。ほかに新海さんから来た郵便物か何かは残ってないですか」
「彼女から郵便をもらったのはそれが最後です」
「じゃあ、その時に年賀状に書いてあった住所とか連絡先は、どこかに控えてはおられませんか」
「ごめんなさい。控えてないです」
「では、ほかに何かその女性について覚えていることはありませんか」
「その女性って……」
「新海さんが信頼していたという女性です。どんなことでも結構です」
「そういわれても、その話をしたのは、彼女が引っ越す前に挨拶にみえた時だけだし」主婦は少々困った様子で、自分の頬に手を当てた。「女性と二人だけで海外に行くってことだったから、十分に気をつけなさいねといったんです。そうしたら、大丈夫、一緒に行く人がとても頼りになる人だから、自分は全然心配してないって楽しそうにいってました」
「ほかには何か」
「聞いたかもしれないけど、何しろ昔のことだから」主婦は首を振った後、付け足すようにいった。「スカーレットみたいな人だっていってたのは覚えてますけどね」
「スカーレット?」
「ええ。スカーレット・オハラ。変なたとえをするんだなと思ったので、印象に残っているんです」
スカーレット・オハラ――『風と共に去りぬ』のヒロインの名だ。
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グレーのジャンパーを着た男が、奥から二番目の台に向かっていた。皿に残っている玉を見て、加藤はふんと鼻を鳴らした。空になるのに五分とはかからないだろう。
横の席が空いていた。加藤はそこに腰かけ、不機嫌そうに玉を弾く男の横顔を見つめた。やがて視線に気ついたらしく、男は手を止めて彼を見た。眉間に皺が寄っていた。
「何だよ。俺の顔に何かついてるのか」
「安浦さんだね」加藤は上着から手帳を覗かせていった。
安浦達夫の顔色が変わった。唾を飲む気配があった。
「俺、何もやっちゃいないぜ」声が少しうわずっている。
「あんたが何かしたとはいっちゃいないよ。ちょっと話を聞きたいんだ。外へ出ないか。どうせ、今日もツキがなさそうだし」
安浦の目に怒りの色が浮かんだ。しかし刑事相手にいい返す言葉は思いつかないらしく、むっと押し黙った。
「引き上げ時だぜ。奥さんが働いてるんだから、ほどほどにしときなよ」加藤は安浦の肩を叩いた。「一杯奢るからさ」
安浦の顔がふっと緩んだ。
二人は王子《おうじ》駅のそばにある居酒屋に入った。加藤は一番隅のテーブルを選んだ。ビールと酒とどちらがいいかと安浦に尋ねると、酒がいいと彼はいった。
「フクタ工業について教えてほしいんだ」安浦に酒を注いでやりながら加藤はいった。
途端に安浦の顔が歪んだ。「あそこのくそ親父、何かやらかしたのかい」
「あの工場は潰れたよ。福田社長も首を吊りそうなほどの落ち込みようだ」
へっと安浦は口元を曲げた。「ざまあみろ、だ」
「あんた、あの工場は長かったんだろ」
「十年ぐらいにはなる。それなのにあのくそ親父、俺がちょっと怪我をしたぐらいのことでクビにしやがって」猪口《ちょこ》に入った酒を左手で一気に飲み干した。右手の甲には醜い刺し傷が残っている。
加藤はまた酒を注いだ。「指は動いてるようだね」
「動くよ。まあ、軽く痺れたりはするけど、どうってことない」
しかしそれでは職人としては役に立たないだろうと加藤は思ったが、口には出さないでおいた。
「フクタ工業じゃ、何を作ってた?」
「何って、そんなことは社長に訊きゃあわかるだろう。部品とかいろいろだ」
「安浦さん、俺がそんな当たり前のことを聞きたくて、わざわざこんなところに連れてきたと思うかい?」加藤はさらに酒を注ぐ。「もっと飲みなよ。あんたがしゃべってくれたら、酒だって追加するしさ」
「そんなこといったって、実際、いろいろなものを作ってたんだから仕方ねえだろうが。どんな仕事でも請けるってのが、ああいう工場のいいところなんだよ」
「じゃあ、あんたが辞める頃は何を作ってた? もう少し具体的に訊こうか。工場には図面がたくさん残ってるだろ。当時、どんな図面が多かった。思いつくかぎりいってくれて結構だ。全部メモするからさ」
安浦は猪口を持ったまま、怪訝そうに加藤の顔を見返してきた。
「そんなこと訊いてどうするんだ。あの工場、何かの事件と関係あるのかい」
「あんたには関係ないよ」そういってから加藤はふと思いついて付け足した。「いや、全然無関係でもないな。もしかしたら発端はあんたかもしれない」
「俺?」
「あんた、その手は女にやられたんだろ」
加藤がいうと、安浦は右手をテーブルの下に隠した。
「その女の顔、覚えてるかい」
「よく覚えちゃいないよ。暗かったし、じろじろと顔なんか見てなかったし」
「会えばわかるかい?」
加藤の問いに、安浦は目を丸くした。「会えるのかい?」
それには答えず、加藤は懐から写真を取り出した。全部で六枚ある。そのうちの五枚は無関係な女性五人の写真だ。そして残る一枚は新海美冬を盗み撮りしたものだ。
「その女、この中にいないか」
安浦は猪口を置き、写真に手を伸ばした。目を見開いて一枚一枚凝視していく。写真を持つ右手は震えていた。
「どうだ」
「わかんねえなあ」安浦は悔しそうにいった。「何しろ化粧が濃かったからな。それに、時間も経っちまってるし」
「そうか。仕方ないな」加藤は安浦の手から写真を取り上げた。
「ちょっと待ってくれよ。それどういうことなんだ。その写真の中に俺を刺した女がいるのかい。なんでそんな写真をあんたが持ってるんだ」
「それはいえないな。捜査上の秘密だ。忘れてくれ」加藤はさらりといった。
「そんな……」
「ただし」加藤は徳利をつまみ上げた。「事件が片づいたら特別に教えてやる。だけどそのためにはあんたの協力が必要だ。――どうした、酒を飲みなよ」
安浦が空にした猪口に加藤はまた酒を注いだ。
「フクタ工業について、知ってることを話してくれればいいんだよ」
一時間後、加藤はフクタ工業に乗り込んでいた。乱暴にドアを開けると、勝手に母屋に上がり込んだ。福田は布団の上で寝そべっていた。女房の姿はない。
「おい、社長、起きろ」加藤は福田の上に跨《またが》り、襟首を掴んだ。
福田は目を白黒させていた。顔が赤く、息が酒臭かった。
「てめえ、俺を騙したな」
「な、何のことだ」
「とぼけるな。図面を渡しただけだと? 違うだろ。工場も使わせただろ」
福田の顔色が変わった。口をぱくぱくと動かすが声が出てこない。
「水原に機械を使わせただろっていってるんだ。いや、たぶんそれだけじゃねえな。材料も渡しただろ。機械は全部止められてるなんていいやがって」
「違うんだ。あんたが来た時には本当に止められてたんだ」
「水原が来た時はどうだ?」
福田は気まずそうに横を向いた。その頬を加藤は叩いた。
「はっきりいえよ、奴に機械を使わせたんだな」
「ちょ、ちょっとだけ……」
「どれぐらいだ。一時間か? 二時間か?」
「いや……」
「どれぐらい使わせたかって訊いてるだろ。答えろ」
「み、三日ほど」
「馬鹿野郎っ」加藤は福田を突き飛ばした。
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第十二章
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扉をノックする音がした。机に向かって書類に目を通していた隆治は、眼鏡を外し、顔を上げた。スリッパをひきずって歩く足音が聞こえていたから、ノックの主は家政婦の西部《にしべ》春子に違いなかった。仕事はよくこなしてくれるが、ややがさつなところが玉に瑕《きず》だ。
「どうぞ」
隆治が返事すると、ドアが開いて、案の定春子が丸い顔を覗かせた。
「奥様がお帰りになりましたけど」家の主を見てそういった。口調が早く、言葉遣いも雑なところがある。
「下にいるのか」
「はい。リビングにいらっしゃいます」
「わかった」隆治は椅子から腰を上げた。だが春子がまだ何かいいたそうにしていることに気づき、その動きを止めた。「どうかしたのか」
「あ、いえ、別に……」春子はかぶりを振った。
「ああそれから、西部さん。明日からは夕方まででいい。一か月間、どうもごくろうさまでした」
わかりました、といい、春子は顔を引っ込め、勢いよくドアを閉めた。その音に隆治は顔をしかめた。
一階に下りていくと、美冬がリビングの端に立ち、庭を眺めているところだった。白いスーツを着たままだ。肩までの髪の色が、少し明るくなったようだ。ついでに髪も染めたのか、と隆治は思った。
気配を察したらしく、隆治が声をかける前に美冬は振り返った。その瞬間、彼は発しかけていた言葉を呑み込んだ。
美冬の顔が一回り小さくなっていた。無論、それは錯覚だろう。顔の各部分の微妙な変化が、全体の印象を変えているのだ。
「どう?」美冬は彼に笑いかけてきた。「少しは奇麗になったかな」
隆治は眉の上を掻きながら妻に近づいていった。かけるべき言葉を探していた。
その時、背後で声がした。
「では私、失礼させていただきますので」
振り向くと、帰り支度を済ませた西部春子がリビングの入り口に立っていた。
「ああ、ごくろうさま」隆治はいった。声が少しかすれた。
春子が立ち去る物音を聞きながら、先程彼女がいいかけた内容を隆治は想像していた。彼女も美冬の変化に戸惑っていたのだろう。
改めて美冬のほうを向いた。
「いいじゃないか」だが彼は妻と目を合わせられなかった。「いいと思うよ。気に入ってないのかい」
「すごく気に入ってる」妻は作られた顔で頷き、両手を頬に当てた。「こういうふうにしたかったの」
「満足しているならよかった」隆治は顔をそむけ、ソファに腰を下ろした。
美冬が上着を脱ぎ、彼の隣にやってきた。彼はテーブルの煙草を取り、ライターで火をつけた。
「ねえ、どうして?」
「何が」
「どうしてあたしの顔をもっとよく見てくれないの? 何か不満?」
「そういうわけじゃないけど」
「わけじゃないけど……か。やっぱり気に食わないわけね」
「気に食わないとか、そういうことじゃなくて」彼は煙草を指の間に挟んだまま、手を小さく振った。「ちょっと納得できないだけだ」
吐息をつく気配があった。「またその話?」
「別に蒸し返したいわけじゃない。ただ、何というか、率直な感想を述べているだけだ」
「そういうの、蒸し返すっていわない?」
「僕はさ、前の君だって十分に奇麗だったと思ってる。初めて会った頃の君の顔のことだ。僕だけじゃない。みんなそう思ってた。それなのに、一体何が不満なんだ」
「今のあたしの顔は嫌い?」
「そういうことをいいたいんじゃない」
「お願い、こっちを見てよ」美冬は隆治の膝に手を置いてきた。
隆治は彼女のほうに首を回した。視線が彼女の向けてくる眼差しとぶつかった。少し吊り上がった大きな目が、夫の顔を見据えていた。心が引き込まれそうになる目だ。それは前と変わっていない。しかし鼻筋のスロープは一層完璧さを増し、顎は鋭利になっていた。そして皺が一本も見当たらない肌からは皮膚感が消えていた。
人形のようだ、と隆治は思った。あるいはコンピュータ・グラフィックで描かれた顔だ。人工の香りに満ちている。
「どう?」彼女は訊いた。「こういう顔、嫌い?」
隆治は目をそらした。煙草の灰が長くなっていた。あわてて灰皿に落とした。
「わからないな。君みたいに奇麗な女性が、どうして顔にメスを入れようとする? こんな時期に一か月も家を空けてさ」
「あなたに迷惑をかけたことは謝ります。でも、仕事に支障はなかったはずよ。あたし、全部段取りを整えておいたし、入院中だって電話とメールで連絡をとってたし」
「そういうことをいってるんじゃない。君の気持ちがわからないといってるんだ」
「美しくなりたいとか、いつまでも若くありたいと思うのは、どんな女性も持っている共通の夢よ。あたしたちの仕事だって、そういう夢の上に成り立っているんでしょ」
「君は美しかったし、若かった。それで何が不満なんだ。少なくとも、僕は満足していた。何ひとつ文句はなかった」
「ありがとう」美冬はにっこりと笑った。だがその表情さえも、パソコン画面に映し出されたもののように隆治には見えた。その顔で彼女は続けた。「でもね、コンプレックスというのは、本人以外の人間にはわからないものなの。そのことは今回の手術の前にもいったと思うけど」
「不満をいえばきりがないよ。何年か経って、また顔に小皺が出てきたらどうする気なんだ。また手術するつもりかい」
「それはわからない。その時にならないと」
隆治は煙草の火を灰皿の中で捻り潰し、首を横に振った。そんな彼の首に彼女の手が伸びてきた。
「ねえ、あたしを見て」彼女は夫の顔を自分のほうに向けた。「若くなったと思うでしょ。まだ二十代でも通るんじゃないかって病院でもいわれたのよ。あなた、自分の妻が若返って嬉しくないの?」
そんな人形のような顔をした妻など求めていない――そういいたかった。だがさすがにその言葉は口にできなかった。かわりに彼は彼女の手を自分の首から引き離した。
「疲れてるんだろ。着替えてこいよ」
「そうね。スーツなんか着てるからいけないのかもしれない。普段着に替えたら、あなたも違ったことをいってくれるかもしれないし。――とにかく、ただいま」
「あ……お帰り」
美冬は隆治の首に抱きつくと、彼の頬にキスをした。そして、妖しい含み笑いを漏らしてから離れた。ソファから立ち上がり、舞うようにくるりと身体を翻してリビングを出ていった。
隆治は彼女の唇の触れた部分に手を当てた。そこだけが熱を帯びている気がする。そのことが彼を少し安心させた。あの唇には体温がある。血が通っている。プラスチック製の作り物ではないのだ。
彼はリビングボードからブランデーのボトルとグラスを出し、飲み始めた。愛する妻の顔を久しぶりに見たというのに、少しも心が晴れなかった。
美冬が整形手術を受けたのは、今回が初めてではなかった。最初の手術は結婚直後だ。目の下の小皺が気になるから取りたい、といいだした。気にするほどでもないと彼は思ったが、大した手術ではないし危険もなさそうだったので、希望をかなえてやることにした。ただし、そのことは誰にも話していない。術後の変化に、ほかの者はまるで気づかなかった。化粧をすればカバーできる程度の小皺だったし、元々美人の女がそれに磨きをかけたところで、不自然さを感じる者などいない。
だがそれからしばらくして、また別のことをいいだした。今度は頬のたるみを消したいというのだった。隆治の目には、彼女の頬がたるんでいるようには見えなかったが、本人はひどく気にしている様子だった。そんな必要はないと反対したが、結局彼女は勝手に手術を終えてきた。それ以後、彼女はしばしば美容整形を行っているようだった。いずれも短期間で終わるものなので、隆治は彼女がどこをどう直したのか殆ど把握していない。中には、定期的に何かを注入するだけの簡単なものもあるらしく、隆治もあまり気にしなくなっていった。
しかし今回は少し事情が違った。彼女は一か月間、アメリカに行くといいだしたのだ。その理由を聞いて彼は仰天した。全面的に顔を整えたい、というのだった。
「あたしの顔、変だと思わない」その時に美冬は夫を真正面から見ていった。「左右のバランスがおかしいの。目だって対称的じゃないし、鼻は少し曲がっている。口も位置が少しずれてる。そもそも輪郭が非対称なのよ」
人間の顔というのは誰でも左右非対称なものだと彼がいうと、彼女は大きくかぶりを振った。
「赤ん坊の顔を見たことないの? 赤ん坊はね、左右対称なの。それが成長するにつれて、生活習慣とか老化の影響でだんだんずれていくのよ」
だったら仕方ないじゃないかという夫の意見にも、彼女は耳を貸さなかった。
「鏡を見るたびに嫌になるの。完璧にする方法があるのに、それをしないなんて我慢できない。もしあなたがだめだといっても、あたしはアメリカに行きます」
美冬の決心は固く、隆治が何をいっても考えを改める様子がなかった。彼女は自分がいない間のことも十分に考えていた。『華屋』リニューアルのセレモニーには支障をきたさないようにすると約束した。
「だって、せっかくあなたがくれたチャンスだものね。あたしが今まで『BLUE SNOW』でしてきたことを、今度は『華屋』を舞台にしてできる。そのチャンスを台無しにするようなことは絶対にしない」彼女は隆治の手を握った。
たしかに彼女が仕事をおろそかにすることなど考えられなかった。あなたがくれたチャンス、というが、そもそも今度の大リニューアルを提案したのは彼女なのだ。
なぜこんな時に手術をしたいのかと隆治は訊いてみた。
「早いほうがいいからよ。来年になれば、今よりもっと忙しくなる。それにね、ビジネス面でも考えていることがある」
それは美容整形部門を作ることだ、と彼女はいった。リニューアルによって、『華屋』はそれまで『BLUE SNOW』が手がけてきた美容、健康にまでビジネスの幅を広げていくことになる。美冬は、さらに病院と提携して、整形ビジネスを確立しようと考えていた。
「法的な面でいろいろと問題はあるけど、抜け道がないわけじゃない。やがてどんな女性も、ううん男性だって、手術によって美貌を手に入れたいと思う時代が来る。これは絶対に成功する。いわば美へのブラックボックスの完成形がそれなの」
だからまず自分がそれを実践するのだ、と美冬は自信たっぷりの口調でいった。
それならなぜもっと積極的に人前に出ないのかと隆治は訊いた。美冬は公の場に殆ど出ようとしない。『華屋』主催のパーティも、これまでずっと欠席を続けてきた。今年の大晦日には、ミレニアムを祝うパーティが予定されているが、それに出るかどうかさえ、まだわからないのだ。
「何度もいってるでしょ。そういうのは苦手なの。それに、『華屋』の顔はあなたよ。あたしは結婚した時から、裏方に徹するつもりだった。美へのブラックボックスを実践するといったけど、広告塔になる気はないの。プロトタイプの役目を果たしたいだけ」
結局、美冬はアメリカに旅立った。そして今夜帰ってきたのだ。
自分はとんでもない女を妻にしたのかもしれないと隆治は思い始めていた。単に才能豊かというだけではない。彼女の中には魔性ともいうべきものが潜んでいて、それが彼女のすべてをコントロールしているように感じられた。そのことに気づかず、それに触れようとした者は、忽ち彼女の術中にはまってしまう。
足音がした。リビングのドアが静かに開き、美冬が入ってきた。彼女は薄紫色のシルクのガウンを羽織っていた。
「お待たせ」彼女は壁のスイッチに手を伸ばした。照明が暗くなった。薄い闇の中に彼女の肉体が浮かび上がった。
「何のつもりだい」隆治は訊いた。
彼女は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと彼に近づいてきた。ガウンの下で脚が艶めかしく動くのがわかった。やがて彼女は立ち止まった。
「病院でいわれたのよ。身体のほうは何も手を加える必要がないって。まだ二十代並みの美しさだって」
美冬はガウンの前を開いた。白い裸身が隆治の目の前にさらされた。彼は息を呑んだ。持っていたグラスが傾き、ブランデーがこぼれた。
美冬がガウンを脱ぎ、隆治に寄りかかってきた。彼は彼女の身体を抱き留めていた。次の瞬間には二人の唇は重ねられていた。彼はブランデーグラスを離した。彼女の腰に手を回し、背中を撫でた。
思考が止まりつつある感覚を隆治は抱いていた。この女といるといつもそうだ。何も考えられなくなる。操られていると思いつつ、それが快感になっていくのだ。
頭の中が真っ白になりつつ、それでも彼は一つの疑問を生じさせていた。美冬は結婚後、変わった。手術により、一層の美貌と若さを手に入れた。
しかしそれは結婚後、だけだろうか。
自分と出会うまでは、彼女は一度たりともその欲望を果たそうとはしなかったのだろうか――。
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タクシーを降りた時、加藤は腋の下に汗をかいていた。冷たい風が吹き抜けていたが、彼はコートを手に持ったまま、深川署に向かった。
彼が会う約束をしていたのは、生活安全課の富岡《とみおか》という男だった。警察学校での同期だ。
来客室に現れた富岡は、以前よりも少し太ったようだ。そのことをいうと彼は加藤をしげしげと見つめた。
「おまえこそどうしたんだ。やけにやつれてるじゃねえか。おまえでも気疲れすることなんてあるのかい」口が悪いのは昔のままだった。
加藤は作り笑いを浮かべてから本題に入った。
「密造銃を押収したそうだな」
富岡は、煙草に火をつけかけていた手を止めた。
「早耳だな。パクったのは一昨日だぜ」
「銃器対策課の人間から聞いた。持ってたのはどんなやつだ」
「どうってことない銃マニアさ。どこの組とも関係ない。門前仲町の路上で悪ガキ相手に銃を見せていきがってたところを地元の商店主に目撃された。通報を受けてそいつの部屋を調べたところ、密造銃が出てきたってわけだ」
「そいつ、留置場にいるのか」
「まあな。余罪がいろいろとありそうだし、ゆっくりと訊き出すつもりだ」
「余罪って?」
「銃マニア同士でいろいろと取引をしていたらしい。インターネットを使うんだってさ。今じゃ悪いやつらのほうがパソコンに詳しくて、俺たち警官はさっぱりよ。やりにくい世の中になったもんだぜ」
「そいつがコルトを手に入れたのも、裏ネットを通じてか?」
加藤の質問に富岡の顔つきが険しくなった。組んでいた脚を下ろし、身を乗り出してきた。「おまえ、何をやってんだ?」
「一人で追ってるヤマがある。そいつが関係しているかもしれないんだ。会わせてもらえないか」
富岡は顔を歪めた。
「何、馬鹿なことやってんだよ。スタンドプレーで手柄を立てたって、出世にゃ繋がらねえぞ。そんなことはおまえだってわかってるだろうが」
「なあ、頼むよ」加藤は頭を下げた。「力を貸してくれ」
富岡は額に手を当て、そのまま頭を掻いた。「俺に何か見返りはあるか」
「こっちのほうで目鼻がついたら、おまえに真っ先に情報を流す。それでどうだ」
富岡はしばらく考え込んでいたが、やがて舌打ちした。
「見返りのこと、忘れんなよ。くだらん手土産だったら承知しねえからな」
「恩にきる」加藤はいった。
富岡は取調室の一つを提供してくれた。ただし彼も同席することが条件だ。
取調室で待つ間、加藤はフクタ工業で働いていた安浦とのやりとりを反芻していた。
「あの当時頻繁に作ってたものといえばエアガンだな。エアガンの部品だよ。元々はプラスチックでできてるんだけど、そんな玩具丸出しじゃマニアは納得しないんだろうな。それで金属製の部品を売るわけだ。マニアはそれを買って、自分で交換するんだ。全部取り替えたら、本物そっくりになるって話だった。あとそれから、モデルガンも作ってたよ。エアガンよりは数が少なかったけど」安浦はいった。
「どんなモデルガンだ」
「俺はよく知らないんだけど、コルトとかだよ」
「ふつうのモデルガンなのか。エアガンみたいに、マニア向けの小細工がしてあったんじゃないのか」
加藤の指摘に、安浦は一瞬目を伏せた。それからゆっくりを顔を上げ、声をひそめて訊いてきた。
「協力したら本当に女のことを教えてくれるかい。俺の手を刺した女のことをさ」
「嘘はいわないよ。知ってることがあったら、さっさと話せ」
すると安浦は周囲をさっと見回した後で、意外なことを話しだした。
フクタ工業は密造銃を売っていた、というのだ。
「もちろん社長が勝手にやってたことだぜ。俺たちにはモデルガンだといって、本物の銃の部品を作らせてたんだ。で、それを誰かに流してた。客が銃マニアなのか、ちょっと危ない筋の人間なのかは知らなかったけどさ。あれはたぶん結構いい稼ぎになったんだと思うね」
「どうしてあんたがそれを知ってるんだ。モデルガンの部品だと聞かされてたんだろ」
安浦はふっと笑った。
「玩具かそうでないかぐらいはわかるよ。もっとも、ほかの二人は知らなかったかもしれないな。一番肝心な部品を作ってたのは俺だけだったからな。残業で作ってたんだよ。弾の出ないはずのモデルガンに、ライフルの入った銃身なんか必要ないはずだもんな。それもおそろしく高い精度を要求してくるんだ。すぐにぴんときた。だけど、なんかやばそうだったから、誰にも話してない」
「あんたにわかったということは、後任の水原にもわかったかもしれない、ということだな」
加藤が訊くと安浦は口元を曲げて頷いた。
「そうだな、あいつも知ってたかもしれないな。俺の辞めた後も、あの社長が密造銃を売ってたんだとしたら、という話だけどさ」
加藤は確信した。水原がフクタ工業から持ち出した図面は、その密造銃のものだ。
安浦に会った日から、加藤は生活安全課や銃器対策課の動きに注意を払った。密造銃に関する情報が寄せられるとしたら、これらの部署だからだ。
そして今日、深川署が密造銃を押収したという話を聞いたのだった。銃はコルト三八口径を精巧に模したもので、銃器対策課が発射実験を行ったところ、十分に実用に耐えたという。改造モデルガンではなく、すべての部品が手作りされている。工作機械の扱いに相当熟練した人間の仕事だと鑑識では話しているらしい。
ドアが開き、富岡が入ってきた。
連れてこられた男の名字は日下部《くさかべ》といった。年齢は二十五歳。顔色が悪く、目が落ちくぼんでいる。
「例の銃の入手経路について教えてもらいたいんだがね」
加藤がいうと、日下部はげんなりした顔をした。
「またかよ。もう何度も話してるだろ」
「いいから何度でも話せばいいんだよ」富岡が横からいった。「こちらは本庁の刑事さんだ。俺たちとは違って甘くないから、舐めた真似してるとえらい目に遭うぜ」
加藤は富岡を見た。彼はにやりと笑った。
日下部は小さく吐息をついてから唇を舐めた。
「俺のやってるガンマニアのサイトに、あいつのほうからアクセスしてきたんだ」
「メールが来たのか」
「ああ。手製の銃があるから、実弾と交換してくれる人間を紹介してほしいって内容だった」
「それでどんなふうに返事したんだ」
「胡散臭い話だと思ったんだよ。それで、実弾なんて扱ってないけど、その手製銃というのには興味があるから、できればどういうものか教えてほしいって返した」
「すると?」
「奴から返事がきた。添付ファイルで銃の部品の写真を送ってきたんだ。それを見て、信用してもいいかなと思った」
「それで取引に応じたわけか」
「応じるとはいわなかった。とりあえず会ってから詳しい話をしたいと返事した。銃の実物を持ってきてくれたら、その場でそれなりの対応をするってことにした」
自分が実弾を扱っていることは、メールでは最後まで明言しなかったらしい。ここまで慎重にやっておきながら、悪ガキ相手に銃を見せびらかしてしまうとは間が抜けている、と加藤は思った。
「相手の名前は?」加藤は訊いた。
「スギナミといった。杉並区の杉並だよ。でもたぶん偽名だと思う」
だろうな、と加藤も思った。
「実弾はどうやって入手した」
「それもネットでだよ。刑事さんも知ってるだろ。今はネットでいろいろなものを買えるんだ。裏ネットの世界には、実弾を売ってくれる業者もいるんだよ」
富岡が机を叩いた。「だからその売り主を教えろといってるんだよ」
日下部は顔をしかめて首を振った。
「相手の正体なんて知らないといってるだろ。こっちは指示されたところに現金書留で金を送っただけだ。そうしたら、郵送されてきたんだよ」
「名無しのごんべえ相手に金を送ったわけじゃないだろ」
「そりゃあ、それらしい会社名はあったけど、そんなの忘れちまったよ。ああいうところはしょっちゅう名前を変えてるんだ。アドレスだって変わってるし、俺に訊かれても、わかんないものはわかんないんだよ」
「いい加減なことをいいやがって」
「本当だって」日下部は苛立ったように頭を掻き、横を向いた。
富岡がいっていた余罪というのはこのあたりの話かと加藤は合点した。たしかに富岡たちにしてみれば、見逃せない点だろう。しかし今の加藤には関心がなかった。
「で、いつどこで取引したんだ」加藤は話題を戻した。
「十日ほど前に、永代橋《えいたいばし》のそばで……」
「相手は何人だった」
「一人。俺の見たかぎりでは、そばに仲間はいないみたいだった」
「すぐにブツを交換したのかい」
「まずこっちから、ものを見せてほしいといった。そうしたらすぐに出してきた。思った以上の出来なんで、正直ちょっとびっくりした」
「それで弾を渡したわけか」
日下部は頷いた。
「ほかに何か話はしなかったのか」
「特に何も。あいつは銃のことを根掘り葉掘り訊かれるのが嫌みたいだった。それで、すぐに別れた」
「どんな男だった。背格好や顔つきぐらいは覚えてるだろ」
「背は高かった。百八十センチぐらいあったかも。でも顔はよく見てない」
「年齢は?」
「俺よりは上だった。三十過ぎってところかな。あんまり自信ないけど」
「何か特徴はなかったのか。どんなことでもいい。服装でも、話し癖でも」
「服は黒っぽかったってことしか覚えてないな。黒い服を着ているというのが、お互いの目印だったから」
「ほかには?」
「ほかに……」日下部は考え込んだ。
すると横から富岡がいった。「関西弁だったんだろ。そういったじゃないか」
「関西弁?」加藤は富岡を見てから日下部に目を戻した。「そうだったのか」
「いや、そんな気がするだけなんだ。俺、関西弁はよく知らないから、もしかしたらほかの方言かも。とにかく、アクセントがおかしかった。ちょっとだけだけど」
加藤は富岡に向かって頷きかけた。
日下部を留置場に戻した後、加藤は富岡に訊いた。
「あいつのパソコンは調べたんだろうな」
「もちろん調べたさ。いろいろと出てきた。だけど例の密造銃の男はわからん」
「日下部は嘘をついてないようだ」
「俺もそう思う。それで、銃の受け渡しをしたっていう永代橋付近を聞き込みしている。今のところ、収穫はないけどな」そういってから富岡は声を落として訊いてきた。「おまえの追っかけてるヤマと繋がりそうか」
「あれだけでは何ともいえないな」
「本当か。俺をはぐらかそうとしてるんじゃねえだろうな」
加藤は富岡の顔を見て苦笑した。「そんなことはしないよ」
「どういうヤマなんだ。ヒントぐらい教えろよ」
「今にわかるさ。もし、こっちの役に立ちそうだとわかったら、誰よりも先におまえに知らせる。それは約束する」
「嘘じゃねえな」
「しつこいぜ」
深川署を出ると、加藤はタクシーを拾った。
間違いない、水原だ――。
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到着口から続々と人が出てきた。どの顔にも長旅による疲労の色が滲んでいたが、表情は明るく見えた。出迎えに来てくれた者を早々に見つけ、破顔して挨拶する姿があちらこちらにあった。
茂樹は他の乗客よりも幾分遅れて現れた。見事な白髪が頼江にとって目印になった。彼女は夫と目を合わせようとしたが、彼のほうはなかなか妻に気づかない。小さなバッグを肩に提げたまま、どこかぼんやりとした様子で歩いている。
茂樹の横に三十歳くらいの青年がいた。草野《くさの》という男で、茂樹の助手をしている。彼のほうが頼江に気づいた。笑顔で会釈した後、茂樹に知らせた。
茂樹は彼女を見ても格別表情を変えることもなく、金縁の眼鏡を直した。
二人はゆっくりと頼江に近づいてきた。
「お帰りなさい。疲れたでしょ」彼女はまず夫にいい、それから草野を見た。
「気流が悪かった」茂樹がぼそりという。
「気流?」
「日本に近づいてから、少し揺れまして」草野が説明した。
「あの機体の泣き所だな。性能は悪くないんだが、制御系に問題がある」
久しぶりに帰国して、妻を前に最初に話す内容が飛行機のこととは――頼江は呆れた思いで夫を見つめた。怒る気はない。何十年も前からそうなのだ。
「すぐに帰ります? それともどこかでお茶でも」頼江は二人を交互に見た。
「僕はどちらでも――」
「さっさと帰ろう」茂樹がぶっきらぼうにいい放った。「こんなところでまずいコーヒーを飲んだって仕方がない」
「じゃあ、車を呼びます」頼江は携帯電話を取り出し、駐車場で待たせてあるハイヤーの運転手に連絡した。
電車を使うという草野と別れ、頼江は夫と共に車の乗り場に出た。タイミングよく黒塗りのハイヤーが滑り込んできた。
「リムジンバスでもよかったんだぞ」車が動きだしてから茂樹が低くいった。
「隆治が用意してくれたのよ。迎えに行けないことの詫びだって」
茂樹はふっと息を吐き、肩を小さく揺すった。
「『華屋』の社長がわざわざ出迎える相手でもないだろう」
「そんなこといって……。会えるのを楽しみにしてたわよ」
「社交辞令だろうが、ありがたく聞いておこう」
「大晦日の夜、パーティをするそうなんだけど、お義兄さんもどうかって」
「パーティ?」
「『華屋』のパーティですって。船を貸し切りにしてあるそうよ」
「船上パーティか。彼はそういう派手なことが好きだな」
「どうする?」
「行かないよ。義理が立たないということなら、君だけ行ったらいい」茂樹は前を見たままあっさりといった。行くわけがないだろう、という響きさえあった。
ある程度予想できた答えだったので、頼江は驚かなかった。理由も訊かなかった。
生粋の学者である茂樹は、元来ビジネスの話があまり好きではない。だから金儲けを生き甲斐にしているような義弟とは、相性がよくないようだ。もちろん、会えばそれなりの対応をするが、心を完全には開かないことは妻の頼江にはよくわかる。
「シアトルからの荷物は着いてるか」茂樹が訊いてきた。
「二日前に届きました。すごい量なんで、びっくりしたわよ」
「そうか。あれでもかなり処分したんだがな」
「資料類は書斎に運んでおきました」
うん、と茂樹は頷いた。「草野のこと、何とかしてやらんとな」
「あなたが大学に引っ張ってやれるんじゃないの?」
「そのつもりだが、まだ何ともいえん。学部長と電話で話したが、今は助手が余っているらしい。就職難で、大学に残る学生が多いからだそうだ」
「草野さん、どこかの企業に就職はできないの?」
「航空機業界が活発なら、我々がこうして帰ってくることもない。まあいい。草野のことは俺が何とかしてやる」茂樹は大きくため息をついた。「大学か。またあそこに戻るわけか。仕方ないな」
やはり落ち込んでいるのだなと頼江は思った。こうして横に座っていても、精気が以前のようには感じられない。数年前、空港まで見送りに行った時には、全身から熱気のようなものが発散されていた。新型ジェットエンジンを搭載した次期型ジャンボの開発に、今後の全生涯を賭けると豪語していた。
彼から国際電話が入ったのは二週間前だ。急遽帰国することになった、という内容だった。研究一筋の人間でも、ミレニアムぐらいは自国で迎えたいのかなと思ったが、そうではなかった。研究が打ち切りになったというのだった。
詳しいことは頼江にはわからない。しかし航空機産業の低迷が無関係でないことは明らかだった。アメリカでは旅客機が余っている、という情報は常々耳にしていた。
品川の自宅に近づくまで、茂樹は殆ど無言だった。彼の胸の内にある悔しさを想像し、頼江は憂鬱になった。ただでさえ無愛想なこの夫が、明日から一層重たい空気を発するのは目に見えていた。大変な年越しになりそうだ、と彼女は思った。
「まずお風呂ね」彼女は夫にいった。
「そうだな。その後は、少し眠るかな」茂樹は、こりをほぐすように首を回した。
ハイヤーが速度を緩めた。自宅はすぐ目の前に見える。その時だった。一人の男が家の前に立っているのを頼江は認めた。その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
水原雅也だった。灰色のコートを着て、ぼんやりと家を見上げている。
車が近づくと、彼は道路の端に身を寄せた。頼江が乗っていることには、まだ気づかない。
車が停止した。頼江は迷った。今出ていけば、雅也から声をかけられるかもしれない。彼との関係を夫にどう説明すべきか、咄嗟に考えた。
先に降りた運転手が手でドアを開けた。降りないわけにはいかない。頼江は雅也を見た。彼と目が合った。
次の瞬間、雅也は踵を返し、歩きだしていた。頼江に気づくと同時に、彼女が一人でないことも察知したらしかった。彼女は救われた思いで車から降りた。すでに雅也の背中は角の向こうに消えていた。
茂樹は風呂に入った後、ビールを一本飲み、ベッドで横になった。やはり疲れているのだろう。すぐに鼾《いびき》をかき始めた。
頼江は何も手につかなかった。夕食の支度をしなければと思いながら、頭の中は雅也のことで占められている。彼は一体何のためにやってきたのだろう。何か用があったのではないのか。
雅也に電話をかけてみようかと思ったが、かけられずにいた。彼が突然行方をくらました時、何度かかけてみた。しかし繋がらなかった。あの時の喪失感を再び味わいたくなかった。
彼のことは忘れたつもりでいた。だが久しぶりに顔を見たことで、風化したはずの気持ちが蘇っていた。前にも増して、会いたい思いは強かった。
自分の携帯電話が鳴っていることに気づいたのは、いい加減夕食の準備を始めなければと立ち上がった時だった。リビングのソファに置いたままのバッグから、呼出音が聞こえてきた。
頼江はあわててバッグを開けた。携帯電話の番号表示は非通知になっていた。それでも迷わず通話ボタンを押した。「はい」声がうわずっていた。
「今、話せますか」
懐かしい声だった。忘れられない声だ。頼江の胸が急速に熱くなった。
大丈夫、と彼女は答えた。
「さっきはごめん。あんなふうにあなたが帰ってくるとは思わなかった」
「そんなことはいいんだけど、一体どういうこと?」
「大した用があったわけじゃない。ちょっとした気紛れだよ。もう、お宅に行ったりしないから心配しないでください。そのことをいいたくて電話したんだ」
「待ってよ。訊きたいのはそういうことじゃないの」苛立ちのあまり声が少し大きくなった。彼女はリビングのドアに目を向けてから、声を落としていった。
「あなた、今どこにいるの?」
雅也は黙り込んだ。電話を切る気ではないかと頼江は焦った。
「ねえ、お願い」彼女はいった。「どこにいるの?」
ため息をつくような音が聞こえた。その後で彼は呟くようにいった。「渋谷」
「渋谷ね。わかった。今から行くわ。渋谷のどこ?」
「やめたほうがいいよ。御主人、いるんでしょ」
「眠ってる。しばらくは起きないから大丈夫」
「だけど」
「答えて。渋谷のどこにいるの?」
雅也はまた無言になった。電話を持つ頼江の掌に汗が滲んだ。
「わかった。俺が品川に行く。そのほうがあなたの負担にならないと思うから」
「負担だなんてことはないけど……」
雅也は駅のそばにあるホテルのラウンジを指定してきた。了承し、頼江は電話を切った。
気持ちが高揚していた。彼女は寝室を覗き、夫が眠り込んでいることを確認してから支度を始めた。急がねばならない。しかし化粧には手を抜きたくなかった。洋服も、熟考して選んだ。
家のそばでタクシーを拾った。すでに待ち合わせの時刻は過ぎている。運転手の丁寧すぎるハンドルさばきがじれったかった。
急ぎ足でホテルのラウンジに駆け込んだ。夕方のせいか、客は多かった。それでも彼女が雅也を見つけだすのに十秒とはかからなかった。彼は奥のテーブルで煙草を吸っていた。服装はさっき見た時のままだった。彼女は息を整え、深呼吸をひとつしてから歩きだした。無様なところを彼に見せたくなかった。
「また痩せたみたいね」そういいながら彼女は雅也の向かい側に座った。ウェイターが近づいてきたのでミルクティーを注文した。
「御主人、帰国されたんですね」雅也は彼女の目を見つめてきた。
「ええ。今日帰ってきたの。それで成田まで迎えに行ってたのよ」
「そうですか」彼はコーヒーに口をつけた。
「それより、あなたには私に話すことがあるんじゃないの?」
彼女がいうと、雅也はふっと笑った。「なぜ急に姿を消したのか、ですか」
「事情があったんだろうけど、何もいわないで消えるというのはちょっと――」
「卑怯、ですか」
「そうは思わない?」頼江は首を傾げてみせた。
雅也は煙草に手を伸ばした。
「個人的な理由です。あなたには関係がない。迷惑をかけるつもりはありませんでした」
「そういう問題じゃないでしょ」
ミルクティーが運ばれてきて、会話を切られた。雅也は煙草を吸い続けている。
「私との関係を切りたいなら、そういってくれればよかった。それとも私がストーカーに変貌するとでも思った?」
「すみません」雅也は小さく頭を下げた。「消えたのは別の事情からです。あなたに知らせる余裕もなかった。でも、電話の一本ぐらいはすればよかった」
頼江はティーカップに手を伸ばそうとしてやめた。指先が震えていることに気づいたからだ。
「それで、私に何の用があったの?」
「電話でもいったでしょう。大した用があったわけじゃない。気紛れです」
「気紛れで、突然行方をくらました人間が現れるかしら」
雅也は曖昧な笑みを浮かべたままだ。信用されなくても構わない、というふうに見えた。
「御主人が帰ってこられたということは、暮れから正月にかけて、何か予定があるんですか」
「別に何も予定はないけれど」
もしかすると自分を誘うつもりなのだろうかと頼江は思った。今さらそんなことをされても困ると思いつつ、茂樹には何と言い訳しようかと考え始めてもいる。
「世間はミレニアムということで騒いでいるし、『華屋』の関係で、あなたもいろいろと出ていく用があるのかと思ったんですが」
「私は『華屋』とは直接関係ないわ。弟たちは忙しいみたいだけど」
「何か特別な催しでも?」
「大晦日の夜に船上パーティをするそうよ。海の上で二〇〇〇年を迎えようということらしいわね」
「船上パーティ?」雅也の目が光ったように感じられた。「場所はどちらですか」
「東京湾よ。日ノ出桟橋から出るんじゃなかったかしら。どうしてそんなこと訊くの?」
「あなたがどこで新年を迎えるのか、ちょっと気になっただけです。そうですか。海の上で、ですか」
「行くかどうかはわからないわよ。何か予定が入るかもしれないし」頼江は上目遣いに雅也を見た。彼の口から誘いの言葉が出るのを待ちわびていた。
しかし彼はコートのポケットに手を突っ込むと、千円札を一枚、テーブルに置いた。
「あなたに会えてよかった。お幸せに」そういうなり立ち上がった。
「ちょっと……」
「あなたにとって素晴らしい二〇〇〇年であることを祈っています」
雅也は出口に向かって歩きだした。
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加藤は足を止めた。いつもの場所だった。煙草をくわえ、火をつける。煙を吐きながら通りの反対側にある『華屋』を見上げた。深川署を訪れた日以来、時間があればこうしている。だが何ひとつ進展はない。水原雅也がいつ現れるのか、皆目見当がつかなかった。
水原はおそらく、銃をもう一挺作っているに違いない。だからこそ実弾が必要だったのだ。彼が新海美冬の命を狙っていることは疑いようがなかった。
腕時計を見た。午後七時を少し過ぎていた。『華屋』の出入り口はすでに閉じられている。いつもならまだ開いている時刻だ。だが今年の大晦日は通常よりも一時間早く閉店にするということを、加藤は三日ほど前から知っていた。理由は、例の二〇〇〇年問題らしい。コンピュータの誤作動がどのような形で、またどの程度起きるか誰も予想できない状況では、早めに営業を切り上げて、万一のトラブルに備えたほうがいいということだろう。銀行なども今年は早々に仕事納めを終えている。首相が、三日間程度の食料を確保しておいたほうがいいなどといいだしたから、各業界が戦々恐々とするのも無理はない。
加藤たちも、今日は早めに解放された。とはいえ、何か起きた時のために、いつでも出動できるようにしておいてくれと釘も刺された。
ミレニアムを目前にした大晦日というのに、街の賑わいが今ひとつなのも、人々が二〇〇〇年問題を意識しているからに違いなかった。今年ばかりは海外旅行客も減っているという。家でじっとしていたほうが無難だ、という空気が巷に漂っていた。
水原も今日から二、三日は動かないのではないか、と加藤は読んでいた。肝心の美冬が家を出ないと考えられるからだ。水原が動くとすれば、早くても『華屋』の仕事始めの日だろう。問題は、どういうタイミングを狙っているか、だ。
加藤は、水原に関することを一切上司に報告していなかった。どう考えても、相手にされるとは思えなかった。密造銃を作った男が『華屋』の社長夫人を狙っている、その男は夫人と共犯で曽我孝道という男を殺害した疑いがある、さらに夫人は新海美冬の名を騙った別人の可能性がある――そんな話をあの頭の固い連中が、保身だけを考えている役人たちが本気にするとはとても思えなかった。いや、話を最後まで聞いてくれるかどうかも怪しい。推論と空想の積み重ねだと一笑に付され、これまでの単独行動を責められるのがオチだろう。
それに元々加藤には、この問題を他人に委ねる気はなかった。あの女を追い詰めるのは自分だと決めていた。
新海美冬の首根っこを掴むチャンスが確実に一つだけ生まれた、と加藤は考えていた。水原が彼女を狙う瞬間だ。その場で水原を逮捕すれば、さすがの彼女も知らぬ存ぜぬでは押し通せない。
加藤が煙草を吸い終わった時だった。『華屋』の建物の脇から、一人の女性が現れた。白いコートを着ている。加藤はその女性に見覚えがあった。行方不明になった曽我孝道の妻、恭子だ。
先日、水原が来たことについて彼女から話を聞いた時、もう一つ別の情報を得ていた。それは彼女がずっと隠し続けてきたことだった。
それは曽我孝道が新海美冬の連絡先を突き止めた経緯についてだった。
曽我は美冬の旧住所を当たり、隣人から一枚の賀状をもらったらしい。そこには、一時的に身を寄せている知人の住所と電話番号が記されていたという。
その番号にかけてみると、転送される気配があり、そのまま繋がった。電話口に出た相手に、曽我は自分の身元と新海美冬を探している旨を伝えた。
そして、その日のうちに相手と会った。帰宅した曽我は、恭子にこういったという。
「驚いたよ。会ってみると、初対面じゃなかったんだ。以前美冬さんが勤めていた店の社長さんだったよ。しかも、えらく若返ってるし、顔立ちも変わってる。名前を聞かなきゃ気づかなかったかもしれないな」
恭子がこのことを黙っていたのは、夫の失踪とは無関係だと思ったし、美冬からそのように頼まれたからだという。
「以前、大変お世話になった人だから、迷惑をかけたくないということでした。それでいわなかったんですけど、もうそれほど捜査も行われてないようですから、一応お話ししておこうと思いまして」
この話を聞いた時、加藤は全身が総毛立った。曽我が殺された本当の動機を掴んだと思ったからだ。
偽者の新海美冬にとって、昔の写真を持ってくる曽我はたしかに邪魔な存在だっただろう。しかし子供の頃と顔が変わっていても何とでもごまかせる。問題なのは、曽我が、偽者を以前から知っているということだった。それこそが美冬にとって最大の問題だったのだ。
加藤は横断歩道を渡った。恭子は中央通りに沿って歩いている。急いでいる様子は見えないが、時折腕時計に目を落としていた。
喫茶店の前で彼女は立ち止まった。加藤はその機を逃さず追いつくと、曽我さん、と後ろから声をかけた。なるべく柔らかい口調を心がけたつもりだったが、彼女はぎくりとした様子で振り向いた。加藤を見て、やや驚いたように口を開いた。
「今、お帰りですか」彼は笑顔で訊いた。
「ええ。あの、どうしてここに……」
「御心配なく。あなたを見張ってたわけじゃありません。たまたまお見かけしたので、御挨拶したくなっただけです」
ああ、と彼女は幾分表情を和らげた。
「今年は店じまいが早かったようですね」
「はい。二〇〇〇年間題で、システムの監視をする必要があるとかで……あたしにはよくわからないんですけど」
「お正月は、三日からオープンと書いてありましたね」
「三日の午前十時オーブンです。ただ、二〇〇〇年間題で何かトラブルが起きた場合には、変更になる可能性もあると聞いています」
「するとオープンの日には、『華屋』の社長をはじめ役員たちは勢揃いでしょうね」加藤はさりげなく核心に迫った。その中には新海美冬もいるはずだ、と考えている。
曽我恭子は頷いた。「たぶんそうなると思います」
「そういう日には、何か特別な催しでもあるんですか。たとえば、役員全員で鏡開きをするとか」
さあ、と彼女は苦笑して首を捻った。「そういうことは、今まではありませんでした」
「でもミレニアムだし」
「そうですね。もしかしたら何かあるかもしれません」
「あなた方は、特に何も聞いてはいないんですね」
「ええ。三日に出勤するように、としかいわれてませんけど」
「そうですか」
もしかしたら年始の恒例行事があり、その時を水原雅也は狙っているのかもしれない、などと加藤は考えたのだが、恭子の話からすると、その可能性は低そうだ。
恭子の視線が加藤の背後に向けられた。同時に彼女は少し気まずそうな顔をした。加藤が振り返ると、ベージュ色のコートを羽織った四十歳ぐらいの男が近づいてくるところだった。知らない顔だった。
男は胡散臭そうな目で加藤を見つめ、それから恭子に視線を移した。こいつは誰だ、と問うている目だった。
「あの、警察の方なんです」恭子が男にいった。言い訳めいた響きがあった。
「警察?」
「主人のことを調べてくださっている刑事さんで……」
彼女の説明に、男は得心がいったというように頷いた。
「何か進展があったんですか」男が加藤に訊いてきた。
「いや、そういうわけではないんですが」そう答えてから加藤は恭子を見た。
「職場の課長です」彼女は幾分抑えた声でいった。
「モリノといいます。曽我さんのことで何かわかったことがあるのなら、私も是非お聞きしたいですね」モリノという男は、じっと加藤の顔を見つめていった。
加藤は二人の関係を察知した。店が終わった後で会う約束をしていたのだろう。彼女がしきりに時計を見ていた理由もわかった。
「いえ、偶然お見かけしたので声をかけただけなんです。残念ながら、旦那さんに関する新たな情報は入ってきておりません」
そうですか、と恭子は目を伏せた。特に落胆しているようには見えなかった。夫が消えたことについては、もはや諦めているのだろう。だからこそ次のパートナーを求めようとしているのだ。
恭子を責めるのは酷だ。夫が失踪してからの数年間、おそらく不安と孤独感から解放されることなどなかっただろう。頼れる相手ができたのなら、それはむしろ喜ばしいことに違いなかった。
時間は確実に流れ、人の心も変わっていくのだと加藤は再認識した。また、変わらなければ生きていけない場合もある。
「お邪魔して申し訳ありませんでした。これで失礼します」加藤は二人を交互に見ながらいった。
「二〇〇〇年問題、どうなりそうですか」モリノが訊いてきた。「警察でも、トラブルに備えていろいろと準備していると聞きましたが」
「さあ、どうなんでしょうね。担当外なのでちょっと……。とりあえず年越しの瞬間は、どなたもあまり外出されないほうがいいと思いますよ」
「我々はそのつもりですよ。部屋でじっとしています」モリノはちらりと恭子を見た。
彼が独身ならば彼女のマンションに行くのかもしれないな、と加藤は思った。
さらにモリノは続けていった。「船上パーティに呼ばれる身分でもないし」
「船上パーティ?」
「うちの社長が、身内や幹部連中を集めてやるんだそうですよ。コンピュータのトラブルで飛行機が墜落することはあっても、船が沈むことはないだろう、とかいってね」
「それは今夜行われるんですか」加藤は自分の脈拍が速くなるのを感じていた。
「そのように聞いてますけど」
「場所はどこですか。竹芝ですか」
「ええと、詳しいことは知りませんけど、あのあたりから出るんだと思いますよ」
「何時からですか」
「さあ、それは……」モリノは戸惑った顔で首を捻った。「それがどうかしましたか」
「いや、何でも。じゃあ、これで失礼します」加藤は一礼した直後、踵を返していた。
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黒ビールがグラスの半分ほどになった時、雅也は腕時計で時刻を確認した。時計の針は午後九時過ぎを示している。
あと一時間ちょっと――。
彼はコートのポケットに手を入れた。金属の重みと感触を確認し、またグラスに手を伸ばした。酔っ払うほどには飲めない。しかし現在の重苦しい気分を少しでも忘れるには、アルコールの助けを借りるしかなかった。
海岸通りから少し入ったところにあるバーにいた。一九〇〇年代最後の夜を、愛する人間と過ごそうとするカップルの姿が目立つ。一人でカウンターに向かっているのは雅也だけだった。
ウェイターは無関心を装っているが、店に入ってもコートを脱ごうとしない、この薄気味悪い男性客のことを気にしているに違いなかった。明日以降、おそらく殺人事件担当の刑事たちは、この店にもやってくるに違いない。そして雅也の写真をウェイターに見せる。ウェイターは証言する。ええ、大晦日の夜、たしかにこの人はうちに来ましたよ――。
刑事たちは何のために俺の足取りを追うのだろう、と雅也は思った。そんなことが無意味であることは、その時の刑事たちにもわかっているはずなのだ。しかし彼等はその無意味なことを続ける。この世の中は、そうしたことの積み重ねで成り立っているのだ。
雅也がこの店を選んだことに深い理由はなかった。この付近ならばどの店でもよかった。もっとも、店の入り口に古い映画のポスターが貼ってなかったら、この店には入らなかったかもしれない。
店内にもポスターは飾られていた。『第三の男』、『雨に唄えば』、『いちご白書』。いずれも題名は知っているが、見たことはなかった。
『風と共に去りぬ』は見当たらなかった。経営者のお気に入りには入っていないのかもしれない。そういえば、いわゆる大作といわれる映画のポスターはないようだ。
スカーレット・オハラのような女性――。
本物の新海美冬が尊敬していたという女性を表現した言葉だ。『ホワイトナイト』というブティックを経営していたという。
その女と新海美冬とは、二人で外国に出かけた。そして帰ってくると、二人で美冬の両親が住むアパートを訪れた。その時点では、おそらく「女」に具体的な計略はない。
ところが天変地異が起きた。阪神淡路大地震だ。すべてを破壊し尽くしたあの大災害は、「女」に一世一代の勝負を賭ける決断を迫った。
「女」は過去を完全に消したかったのだろう、と雅也は考えている。どんな過去なのかは想像もつかない。犯罪歴かもしれないし、莫大な借金があるのかもしれない。しかしそれは大した問題ではない。
なぜなら、人間なら誰もが消したい過去を持っているからだ。また、全くの別人になって、それまでとは全然違う人生を歩みたい、というのも万人が密かに抱いている夢ではないだろうか。しかも彼女の場合、若返り、という特典もついていた。「女」は本物の新海美冬より、たぶん六、七歳は上だろう。
あの大震災の朝、彼女は決断した。あれだけの恐怖と混乱に包まれながら、彼女だけは冷徹に状況を分析し、自分が生まれ変われるチャンスにあることを確信したのだ。瓦礫の下に閉じ込められた三つの遺体。新海夫妻とその娘。だが「女」は、遺体の身元を明らかにできる人間が自分しかいないことを知っていた。
見事だった、としかいいようがない。幸運にも恵まれていたのだろうが、卓越した判断力と洞察力、それに何より精神力がなければできないことだ。
彼女がいかにしてそれほどの力を身につけたのかは、雅也には見当もつかない。生半可な半生を歩んできたのでないことはたしかだ。おそらくそれこそが消したい過去でもあるのだろう。
しかし彼女はやりすぎた。自分の過去を消すため、一人の人間を殺した。それだけでなく、一人の男の魂を殺した。
再び時計を見た。先程からあまり針は進んでいない。そのことで少し安堵している自分に気づき、雅也は密かに苦笑した。何のことはない。この期に及んで、俺はまだ躊躇っているぞ。彼女に銃口を向ける瞬間を先延ばしにしようとしているぞ。
ポケットに手を入れた。それを指先で触る。
自信作だ。生涯で最高の、そして唯一のものを作りあげた。このコルトは、間違いなく自分の目的を果たしてくれるはずだ。
グラスの黒ビールがなくなった。彼はじっくりと時間をかけて煙草を一本吸ってから立ち上がった。即座にウェイターが、ありがとうございました、と声をかけてきた。やはり俺が席を立つのを待っていたのだなと雅也は思った。
外の空気は冷えていた。ちょうどいい。わずかな量だが、アルコールで少し顔が熱くなっている。頭は冷やせるだけ冷やしたほうがいい。
銃口を向けられた時、彼女はどんな顔をするだろうか。あんな女でも恐ろしさに顔を歪めることがあるのだろうか。泣いて命乞いするだろうか。
雅也はふっと笑った。馬鹿な。あの女がそんなことをするはずないじゃないか――。
コートのポケットの中で銃を握りしめた。前方に港が見えてきた。
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竹芝にある有名ホテルのロビーに、加藤は一時間以上も居座り続けていた。大晦日の夜、しかも記念すべきミレニアムを迎える直前とあって、夜の十時を過ぎているにもかかわらず、ロビー内は着飾った男女の姿で溢れていた。加藤は自分の身なりがこの場にふさわしいものでないことを十分に自覚していたし、ボーイが怪訝そうに見ていることにも気づいていたが、今はこの場を離れるわけにはいかないと心に決めていた。
船上パーティのことを聞いた瞬間、加藤の頭に閃くものがあった。水原雅也はその時を狙うに違いない。『華屋』の関係者となれば、新海美冬も必ず出席する。人前に出てくるわけだ。水原が、その絶好のチャンスを逃すはずがないと思った。
問題は、いつ狙うか、だ。水原がパーティに紛れ込むことは困難だろう。となれば、乗船時か下船時、ということになる。船の乗降口は一箇所だ。客は一人ずつ順番に乗り降りする。その付近に潜んでいれば、美冬を仕留めることは容易だ。周囲に銃を持った人間がいるなどとは、パーティで浮かれている連中には想像もできないだろう。
加藤としては何としてでも乗船前に美冬の所在を確認しておく必要があった。そこで彼は『モン・アミ』に電話をかけた。現在ではあの美容室も『華屋』の傘下にある。
通常ならば閉店時刻を過ぎているはずだが、『モン・アミ』にはスタッフが残っていた。大晦日は特別に営業時間を延ばしているのだろう。加藤は青江を呼んでほしいといった。だが青江はいなかった。
「じゃあ、『華屋』さんのパーティに向かわれたんでしょうか」加藤は鎌をかけてみた。
「そのように聞いております」女性スタッフは彼の誘導に乗ってきた。
「ええと、船に乗る前にどこかで集合されるんでしょうか」
「はい。あの、『華屋』の皆さんと――」
女性スタッフはホテルの名を口にした。それを聞くなり加藤は礼をいって電話を切った。
新海美冬はこのホテルのどこかにいる――。
とにかく彼女のそばにいれば、水原が現れるはずだと加藤は確信していた。水原は銃作りについては名人級かもしれないが、射撃の腕は素人のはずだ。仮に試射していたとしても、二発や三発撃った程度で弾道が安定しないことは、定期的に射撃訓練を受けている加藤にはよくわかる。五メートルの距離であっても、相手を確実に仕留めることは難しい。
水原は至近距離で美冬を撃とうとしているはずだった。その後はどうする気か。自らも命を絶とうとしているのか。それとも、周囲が恐怖に怯えている隙をつき、闇に逃げ込むつもりなのか。
いずれにせよ、すべてのシチュエーションが水原にとって好都合であることは間違いなかった。ミレニアムを前に人々は平常心を失っている。また二〇〇〇年問題を前にし、あらゆるシステムが休止状態にある。
加藤は何本目かの煙草を取り出そうとした。だが箱の中はすでに空っぽだった。自動販売機を目で探しながら立ち上がった。
その時、フロントの奥のエレベータホールから、十人ほどの男女が現れた。全員が豪華なコートを羽織っている。
その中に、一際輝く女がいた。加藤の目は彼女に釘付けになった。
だが一瞬、人違いか、と思った。彼が頭に描いていた美冬の顔とあまりに違うからだった。いや、よく見るとさほど大きな違いはない。しかし全体から受ける印象はまるで変わっていた。美冬は以前にも増して妖しい光に満ちていた。人間たちの中に、魔力を持った人形が紛れ込んでいるような印象を受けた。
加藤は上着のポケットから携帯電話を取り出しながらその場を離れた。化粧室に繋がる通路の脇に立ち、予め記憶させておいた番号にかけた。
二度の呼出音の後、相手が出た。
加藤はいった。「今、そちらに新海美冬という方がいらっしゃるはずなんですが」
「シンカイ様、でしょうか」
「新海美冬さんです。『華屋』の秋村社長の夫人です」
ああ、とホテルマンは合点した声を出した。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「水原といいます」
ミズハラ様ですね、と確認してから相手は電話を離れた。
加藤は携帯電話を耳に押し当てたまま美冬の様子を見た。正面玄関に近いところで立ち止まり、周囲の人間たちと談笑している。加藤に気づいている気配はなかった。彼女の周りには夫の秋村や青江真一郎、そして倉田頼江の姿があった。頼江の傍らに立っている白髪の男は、彼女の夫だろうか。
黒服を着たホテルマンが美冬に近づき、何事か耳打ちしている。彼女の顔を加藤は凝視した。華やかな表情に、一瞬だけ翳《かげ》りのようなものが走ったのを彼は見逃さなかった。ミズハラの名を聞き、さすがに動揺したはずだった。
彼女はホテルマンに導かれ、フロントのほうに歩いていった。ほかの人間たちは特に気に留めた様子もない。
彼女がフロントの端にある電話の受話器を持ち上げた。加藤の耳に、「もしもし」という声が届いた。紛れもなく彼女の声だった。警戒している気配が濃厚に含まれていた。
「御安心ください。水原じゃありません」加藤はいった。
「あなたは……」
「加藤です。警視庁の刑事ですよ。お忘れですか」彼女は言葉をなくしているようだ。彼は続けていった。「今、あなたのすぐ近くにいます。化粧室のほうを見てください。そばに観葉植物があります」
美冬は受話器を持ったまま顔を巡らせた。やがて彼女は加藤に気づいたようだ。彼に向かってかすかに微笑んだように見えた。
「今年最後の悪戯にしては手が込んでますね、加藤刑事」彼女はいった。早くも余裕を取り戻しつつあるようだ。
「重要な話があるんです。これから少しだけ時間をください。十五分、いや十分で結構」
「無茶いわないでください。そこにいらっしゃったのなら、私が今それどころじゃないことは、あなただってよくおわかりでしょ」
「急を要するんです」
「私だって」美冬はゆったりといった。「何しろミレニアムまで、そんなに時間がないんですから」
「お願いです。あなたのためだ。あなたの命がかかっている」
「大げさなことをおっしゃるのね」
「ホテルマンから聞いたでしょう。俺は水原の名を騙りました。そうすればあなたが電話に出ると思ったからです。その水原があなたを狙っている」
美冬の表情から笑みが消えた。加藤のほうをじっと見つめてくる。離れていても、その瞳に彼の心は吸い込まれそうになる。
「話が長くなりそうですね。じゃあ、お正月明けにでも」
「今でないとだめなんだ」
「困ります。もう切りますから」
「待ってくれ。じゃあ、ひとつだけ質問します」加藤は息をついてからいった。「あなたは誰なんです。そこで新海美冬として、秋村隆治の妻として振る舞っているあなたは、一体どこの誰なんですか」
美冬の目に宿る光が深みを増したのを、加藤は離れたところからでもはっきりと認めた。彼女は受話器を手にしたまま彼を睨みつけてきた。
数秒間の沈黙の後、彼女は唇を開いた。
「あたしの部屋は二〇五五号室です」そういうと彼女は電話を切った。
加藤は携帯電話をしまいながら美冬の姿を目で追った。彼女はにこやかな表情を復元させて元の場所に戻っていき、夫の耳元で何か囁いた。秋村隆治はやや虚をつかれた顔で妻を見返したが、すぐにその顔にも笑みが戻った。美冬に向かって頷いている。
美冬は踵を返し、エレベータホールに向かって歩きだした。彼女の姿が見えなくなるのを確認してから加藤もその場を動いた。
二十階までエレベータで上がり、足音を完全に消してしまうようなカーペットが敷かれた廊下を歩いた。二〇五五号室のドアの前では、一度深呼吸した。
ノックするとすぐにドアは開いた。美冬はコートを羽織ったままだった。彼女の背後には夜景が広がっていた。薄暗い中でも彼女の瞳は光っていた。
「五分間だけ」美冬はいった。「それ以上だと、主人が不審がります」
「じゃあ手短に話さないと」加藤は部屋に足を踏み入れた。
そこには応接セットがあった。ほかにリビングボードや机もある。
「スイートルームに入ったのなんて初めてですよ」彼は室内を見回した。
「部屋の内装の話で五分間をお使いになるつもり?」
「いや」加藤は彼女のほうに向き直った。「水原があなたを狙っている。殺すつもりだ。手製の拳銃でね」
「水原さん? どちらの?」
「この期に及んで、まだとぼけますか」加藤はソファに腰を落とした。「おそらく奴はすべてを知っている。自分があなたに利用されただけだということも、あなたの本当の名前が新海美冬でないこともね」
彼女は立ったまま彼を見下ろし、唇を緩めた。「私は秋村美冬です」加藤は口元を歪めた。
「ねえ、そういうのはもうやめましょうよ。本当に狙われてるんだ。水原は本気だ」
「おっしゃってる意味がわかりません。じゃあ、私は誰だというんですか」
「それはこっちの質問ですよ。あなたが新海美冬でないことはわかっている。京都に行き、あなたの、じゃなかった新海美冬さんの昔の写真だって見てきた。あなたとは全くの別人だった」
彼の言葉を聞き終えると、彼女はふっと息を吐いた。
「たったそれだけのことで私を偽者扱いなさるわけ?」
「たったそれだけ、といえることではないと思いますが」
すると彼女はそれまで羽織っていた白い毛皮のコートを脱ぎ始めた。彼女はその下に真っ赤なドレスを着ていた。その色の鮮やかさに、室内が一瞬明るくなったような錯覚を加藤は抱いた。さらに彼女の肌の白さを一層際立たせている。
「お会いするのは久しぶりね。今日、私を御覧になって、何かお気づきになったことはありません?」美冬は彼を見下ろして訊いてきた。
加藤が返答に窮していると、彼女は続けてこういった。「すぐに私だとおわかりになったかしら?」
彼女のいわんとすることを彼は理解した。
「たしかに以前とは印象が違うと思いましたよ」
「印象だけ?」彼女は小首を傾げた。
「いや……」彼は小さくかぶりを振った。
「そう。顔も変わっているでしょ。前にお会いした時には、どの段階だったのかな」
「段階?」
「もうお察しだと思うけど、私、美容整形を受けています。しかも何段階にも分けてね。今もまだ継続中。完璧というのは、本当に遠いゴールだと思います」
「整形手術を受けたというんですか。だから昔の写真とは顔が変わったと」
「顔を変えるのが整形手術というものです」
「じゃあ、一体いつその顔になったというんですか。最初に手術をしたのはいつですか」
「それをお話しすれば、そんな馬鹿げた妄想を捨ててくださるわけ?」
「それはわからない。聞いてみないことには」聞いたところで信用する気はなかったが、加藤はとりあえずそういった。
美冬は脱ぎ捨てたコートを拾いあげた。部屋の時計に目をやる。約束の五分間が過ぎようとしていた。
「大学卒業後、いろいろな道を模索しました。自分がどう生きていくべきか、よくわからなかったからです。そんな時、一人の女性と出会いました。私はその人こそ自分の理想だと思ったんです。私はその人のそばで働き、常にその人と行動を共にしました。その人がすべてを投げ捨てて外国で暮らそうとした時も、私は頼み込んで同行させてもらいました」
「その女性とはどこの誰ですか」
「それはあなたには関係ないでしょ」美冬はさらりといい、深呼吸して続けた。「私はその人になりたいと思ったんです。何もかもその人の真似をしました。やがては姿形、つまり顔さえもその人のようにしたいと思うようになりました」
「まさかそれで手術を……」
「その、まさか、です」美冬はにっこりした。「その女性の写真が手元にないのが残念。もしあればあなたに見せてあげられたのに。そうして、どれほど私がその人に近づいたか、あなたに確認してもらえるのに」
「教えてください。その女性とは誰ですか。それは重大なことです」
加藤は立ち上がり、美冬を睨みつけたが、彼女はそれ以上に鋭い眼差しで見返してきた。例の、彼の心を引き込む魔力も発揮されていた。彼はそれ以上、彼女に近寄れなかった。
「その人は私にとっての太陽です。迂闊には名前を口にできません」毅然として彼女はいい放った。
「その女性こそがあなたじゃないんですか。あなたは昔、本物の新海美冬さんから、そのように慕われたんじゃないんですか。そしてその頃、あなたは曽我さんと会っている。だから今になって、新海美冬として生きているあなたのところに現れた彼が邪魔だった。違いますか」
だが彼女は彼の言葉を無視するようにコートを羽織ると、ドアに向かって歩きだした。
「待ってくれ」
「タイムリミットよ」そういうと彼女は部屋を出ていった。
加藤は後を追った。美冬はすでにエレベータホールの前にいた。彼は彼女の傍らに立った。
「あなたのせいで何人もが不幸になった。浜中も曽我さんも、それから水原もね。ほかにもたぶんいるだろう」
「ひどいいいがかり」美冬はエレベータのドアを見つめたまま唇を綻ばせた。「あなたも私のせいで不幸になったの?」
エレベータのドアが開いた。彼女が乗り込むのに続いて、加藤も足を踏み入れた。
「あなたの過去を知りたいもんだな。どんなふうに生きてきたのか。なぜそんなふうになったのか」
「どういう意味?」
「尋常じゃないと思うからですよ。あなたはまるで何かに操られているみたいだ」
「私が? 何に?」
「だからそれを知りたいんだ。あなただって、生まれた時からそんなじゃなかったはずだ。何かがあなたをそんなふうにした。それはトラウマかもしれない」
「トラウマ?」美冬は吹き出した。「何かっていうとその言葉を持ち出してくる人が多いわね。幼い時に何か傷つくことがあって、それが私を操っているというわけ? そんな安っぽいストーリーは勘弁してちょうだい」
「過去には何もなかったとでも?」
「仮にあったとしても、私はそんなものに縛られたりしない。ただ、生き方を学習していくだけ」
エレベータが一階に到着した。美冬は降りてから加藤を振り返った。
「私のすぐ後にはついてこないで。主人が変に思うから」
「あなたを警護させてくれ。狙っている男がいるとわかっているのに、放置はできない」
「だったら、どうしてあなた一人で来るの? 大晦日だからって、手の空いてない警官がいないわけじゃないでしょ。結局、あなただって、自分のしゃべってることが妄想だとわかっている。少なくとも、人が聞けば妄想だと馬鹿にされることを知っている」美冬は彼に一歩近づくと、にっこりと笑って付け加えた。「教えてあげる。妄想よ」そしてくるりと踵を返した。
「水原はこの近くにいる。絶対に狙ってくる」
美冬は首だけを少し彼のほうに回した。
「そんなことはありえない。だって、水原なんて人、私は全然知らないんですから」
「ちょっと待ってくれ」
しかし美冬は加藤の声を無視して歩き始めた。ここで強引に彼女を引き留めようとしたところで、周りの人間から阻止されるだけだろう。下手をすると彼自身の身動きがとれなくなってしまうおそれがある。
加藤は離れたところから美冬たちの様子を窺った。彼女は夫と共にホテルの正面玄関から出ていくところだった。車を使うのだろう。
彼等の姿が見えなくなってから、加藤も出口に向かった。ガラス扉をくぐり、タクシー乗り場へと急いだ。空車に乗り込むと、日ノ出桟橋に行ってくれと指示した。
「すぐそこですよ。歩いたって――」運転手が不満そうにいう。
「いいから行ってくれ」彼は警察手帳を見せた。
タクシーは急スタートした。加藤は背中に圧力を受けながら、先程聞いたばかりの美冬の言葉を反芻していた。水原なんて人、私は全然知らない――。
何という女だと思った。自分のために人殺しまでした男を、まるで使い終わった口紅のように捨て去ろうとしている。しかも顔色ひとつ変えない。自分のことを狙っていると聞かされても、一向に動じる気配がない。
たしかに彼女はトラウマなどに支配されているのではないだろう。生きていくためにどうすべきか、彼女なりに確固たる意思があるのだ。それは地底で圧縮された岩盤のように固く、決して揺らぐことがない。
水原雅也、か――まだ会ったことのない男のことを加藤は思った。
おそらく水原こそ最大の被害者なのだ。浜中など比較にならない。あの新海美冬と名乗る女の魔性に捕えられ、操られ、自らの人生を犠牲にしてしまった男だ。
そして今、その幕を下ろそうとしている。
ホテルから日ノ出桟橋までは一直線だ。間もなく左側に東京港管理事務所のレンガ色の建物が見えてきた。その建物の前を少し過ぎたところでタクシーは止まった。加藤は千円札を運転手に渡し、車から降りた。
日ノ出埠頭営業所の駐車場には、数十台の乗用車が止まっていた。いずれも今夜のパーティに出席する客たちが乗ってきたものだろう。観光バスも止まっているが、そちらのほうはひっそりとしており、人気はない。
駐車場の先に平たい二つの建物が並んでいる。定期便が出る乗り場と、クルージングレストランを利用する客のための建物だ。加藤は迷わず、後者の建物に向かった。
建物の入り口には派手な装飾が旅されていた。着飾った客たちが次々に入っていくのに紛れ、加藤も自動ドアをくぐった。
建物の中は華やかさに満ちていた。まるでここがパーティ会場のようだった。百人近くはいると思われる男女が、あちこちで輪になって談笑している。飲み物を手にしている者もいた。
加藤は素早く視線を走らせた。まずは美冬を探した。だが彼女の姿はなかった。秋村隆治も見当たらない。すでに着いているはずだから、どこかで待機しているのだろう。
次に彼は客の一人一人を観察していった。彼は水原の顔を知らなかったが、もしいたならば発見できる自信があった。これから人殺しをしようとしている人間ならば、必ず尋常でない空気を発しているはずだと思った。
だが見回したところでは、それらしき人物はいなかった。加藤は隅に移動しながら、全体を見渡すことにした。眼光が鋭くなっているのが自分でもわかった。
「大変お待たせいたしました」どこからか男の声がした。
加藤が見ると、デッキに出る出入り口の前に、ベージュの制服を着た男が立っていた。出入り口の上には、『A HAPPY NEW YEAR 2000』と書いた看板が掲げられていた。
「ただ今より御乗船いただきます。どうか急がず、順番にお乗りください」
男がそういった直後だった。今度は建物の奥にいた人垣が崩れた。その向こうには、船上結婚式の相談サロンがある。ガラス張りだが、今は白いカーテンが引かれていて、中の様子は見えない。
そこのガラス扉が開いた。出てきたのはシルバーグレーのタキシードを着た秋村隆治だった。そして彼に続いて、新海美冬が現れた。彼女は純白のドレスに着替えていた。
客たちの間から歓声ともため息ともつかぬ声が漏れた。いうまでもなく美冬に向けられたものだった。彼女はまるで雪の女王のようだった。
二人はデッキへの出入り口まで進むと、その場で並んだ。どうやら夫妻で乗船客たちを迎えるという趣向らしい。彼等は一番最後に乗船する気なのだろう。
客たちが次々にデッキへと出ていった。秋村と美冬は、彼等一人一人に声をかけ、頭を下げている。出入り口の扉が開けられたせいで外の冷気が入りこんでいたが、美冬は肩が剥き出しのドレス姿ながら、寒そうな表情を全く見せない。
客たちが残り少なくなつてきた。彼等の中の誰かが、突然美冬に襲いかかるのではと恐れていた加藤だったが、どうやらそれは杞憂に終わりそうだ。では水原はここには現れないのか。今夜美冬を狙うはずだという予想は外れたのか。
最後の一人がデッキに出ていった。待合室に残っているのは、わずかなスタッフと加藤だけになった。
秋村隆治の目が彼に向けられた。同時に美冬も彼を見ていた。睨むようであり、また一方、何かを楽しんでいるようにも感じられる視線だった。
美冬は夫に何か耳打ちした。あの人は関係ないわ――そんなふうに囁いているのかもしれない。実際、秋村隆治は興味を失ったように加藤から視線を外した。
スタッフが二人にコートを持ってきた。彼等はそれを羽織るとデッキに出ていった。美冬はもう加藤のほうを見ようとしなかった。
加藤は出入り口に近づいた。するとベージュの制服を着た男が彼の前に立ちはだかり、そこのドアをぴしゃりと閉めた。関係者以外はお通しできません、とその顔には書いてあった。
仕方なく加藤は窓越しに二人の姿を見送った。埠頭には豪華客船が停泊していた。覆いのついた短いブリッジがかけられている。美冬は夫と共に、それに近づいていく。
水原の狙いは下船時か、と加藤は思った。客たちがほろ酔い加減の時のほうが、隙ができやすいと考えているのかもしれない。
「船が戻ってくるのは何時だ」加藤は制服の男に訊いた。
「一応、午前一時ということにはなっておりますが」
「一時か……」そう呟いて加藤が腕時計に目を落とそうとした時だった。視界の中で何かが動いた。彼は顔を上げ、窓の外を見た。
隣の定期使用デッキから柵を越えてくる人影があった。長身の男だ。
加藤は制服の男を突き飛ばすと、ドアを開けてデッキに飛び出した。長身の男は今まさに目の前を通りすぎようとしていた。加藤は懸命にタックルした。男の身体のバランスが崩れる手応えがあった。次の瞬間、彼の身体も転がっていた。素早く立ち上がった時には、相手も体勢を立て直していた。二人は睨み合った。船は加藤の背中だ。この様子を美冬たちが見ているかどうかはわからない。
「諦めろ、水原」加藤はいった。
男の眉がかすかに動いた。しかし表情は能面のようだった。何という暗い目だ、と加藤は思った。絶望で濁りきったガラス玉の奥で、憎しみの炎が揺れているようだった。
男の手はコートのポケットに入っていたが、その中で銃を握っていることは明白だ。
「加藤……か」男はいった。
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この男が加藤という刑事だな、と雅也は思った。自分たちの周りを、うるさい蠅のように飛び回っていた男だ。なぜこの男がここにいるのかはわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
雅也は男の肩越しに船を見た。美冬が夫に手を取られ、乗船していくところだった。彼女はちらりと彼を見た。二人の目が合った。
どうしてだ、美冬――雅也は自分の思いを目に込めた。
なぜ裏切った。なぜ俺の魂を殺した。自分たちには昼なんかないとおまえはいった。いつだって夜だといった。夜を生きていこうといった。
それでもよかった。本物の夜ならばよかった。だけどおまえはそれすら与えてくれなかった。俺に与えられたのは、すべて幻だった。
だが美冬の目には、何の返答も込められていなかった。すっと目をそらすと、夫に微笑みかけた。そして幸せそうに船の中に消えていく。
「諦めろよ」
その声で雅也は目の前にいる男に視線を戻した。加藤はさっきからずっと雅也を見つめ続けていたようだ。
「おまえの恨みは俺が晴らしてやる。だから馬鹿なことはやめろ」
「恨み?」
「あの女の化けの皮は俺が剥がす。それまで待ってろ」
雅也は加藤の目を見返しながら、吐息と共に笑みを浮かべた。この男は何をいっているのだ。
「何がおかしい?」加藤は訊いてきた。
ちょうどその時、汽笛が鳴った。豪華客船はゆっくりと港を離れている。その様子を雅也は目で追った。船はみるみるうちに小さくなっていく。美冬の姿は甲板にはない。
今頃彼女は最高の華やかさを身に纏《まと》い、その美しさを顕示しているのだろう。彼女の目指したものが何なのか、雅也にはとうとうわからなかったが、そこに至る階段を上がり続けていることだけはたしかだ。
「水原、銃を寄越せ」加藤が手を差し出してきた。「おまえのことも逮捕しなきゃならんが、あの女も刑務所に送る。約束する」
雅也はコートのポケットから手を引き抜いた。銃を握ったままだった。加藤が深呼吸する音が聞こえた。
雅也は加藤に近づいていった。その手に銃を渡す素振りをした。
しかし銃から手を離さなかった。美冬と運命を共にするために作った特製の銃だ。彼は引き金に指をかけ、加藤の喉元に銃口を向けた。同時に自らも銃に身体を寄せた。
「そんなことはさせない」雅也はいった。「俺と彼女だけの世界に入ってくるな」
そして引き金を引いた。
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秋村は苦々しい思いで携帯電話を切った。相手は地元の警察署長だった。その数分前、彼はスタッフから、不愉快な報告を受けていた。よりによって自分たちの船が離れた直後に、日ノ出桟橋で事件が起きたというのだ。爆発事件らしい。たしかに大きな音がしたのを秋村も聞いている。その時には、ミレニアム用の花火を勇み足で打ち上げたんじゃないかと他の客と話していた。
事情を知りたくて、懇意にしている署長に電話をかけたのだが、詳しいことは話してくれなかった。署長にしても正確な報告をまだ受けていないのかもしれない。何しろ、ついさっきの出来事らしい。
「拳銃が暴発したらしいんですがね」署長はそういった。
「拳銃? そんな物騒なものを持っている人間がいたんですか」
「いや、それがよくわかりませんで。とにかく、ふつうでは考えられないほどの激しい暴発だったそうです。二人、死にました」
「二人も……」
新年を迎えたばかりだというのに嫌な話を聞いたものだと思った。せっかくの気分が台無しだ。とにかく客たちには伏せておくようにスタッフたちには命じてある。船は竹芝桟橋に帰港するよう変更した。現場には死体の肉片が飛び散っているらしい。
自分たちが乗船する時、二人の男が揉めていた。死んだのは彼等だろうか。それにしても、なぜあんなところにいたのか。
秋村は表情を和やかなものに戻し、パーティ会場に戻った。美冬を目で探したが見つからなかった。そばにいた人間に尋ねてみると、つい先程甲板に出ていくのを見たという。
彼はコートを羽織り、外に出た。美冬は白いドレス姿で風に当たっていた。
「何してるんだ、そんな格好で」秋村は自分のコートを脱ぎ、妻に羽織らせた。
ありがとう、といって美冬はコートの前を合わせた。
彼女の背後にレインボーブリッジが見えた。今夜はライトアップを続ける気らしい。その光を受けて、彼女の頬が輝いていた。
事件のことは彼女にも黙っていようと秋村は決めていた。
「中に入ろう、今夜は我々がホストなんだから」
「そうね。ごめんなさい」
秋村は歩きだした。しかし妻がついてこないことに気づいて振り返った。
「どうしたんだ。気分でも悪いのか」
美冬はかぶりを振った。
「いいえ、こんなに素晴らしい夜は初めて。幻みたい」そういうと妖しく微笑んだ。
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本作品は「週刊プレイボーイ」2001年No.19/20号〜2003年No.16号まで連載されたものに、加筆訂正を加えたものです。
底本
単行本 集英社刊
二〇〇四年一月三〇日 第一刷