天使の耳
東野圭吾
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17行41字
深夜の交差点で衝突事故が発生。信号を無視したのはどちらの車か!? 死んだドライバーの妹が同乗していたが、少女は目が不自由だった。しかし、彼女は交通警察官も経験したことがないような驚くべく方法で兄の正当性を証明した。日常起こりうる交通事故がもたらす人々の運命の急転を活写した連作ミステリー。
(『交通警察の夜』改題)
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目 次
天使の耳――――――――7
分離帯―――――――――57
危険な若葉―――――――103
通りゃんせ―――――――141
捨てないで―――――――187
鏡の中で――――――――231
解説 山崎洋子――――277
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天使の耳
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天使の耳
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午前零時の時報がラジオから聞こえた。
「さて次にお届けするのは、ちょっと前に流行《はや》った曲です。特に出だしのフレーズは、やたらあちこちで使われていましたよね。では松任谷由実さんの、『リフレインが叫んでる』をどうぞ」
陣内瞬介は報告書を作成していた手を止めると、ラジオのボリュームを上げた。お気に入りの曲だからだ。DJがいったように、彼も最初のフレーズだけはよく覚えていて、曲に合わせて口ずさんだ。
どうしてどうして僕たちは出会ってしまったのだろう 壊れるほど抱きしめた
あとはよく知らない。ハミングでごまかした。
「いい歌だな。何となく心が動かされる」
主任の金沢巡査部長が、陣内の湯のみ茶碗に茶を注ぎながらいった。
「あっ、どうもすみません。――でしょう。これを歌っている女性は、新曲を出すたびに何億って稼ぐんですよ。才能があるってのは、すごいことですよね」
「我々は一生働いても、この一曲のレコードの儲けにも届かんというのにな」
「そういうことです。もっとも今はレコードじゃなく、CDですけどね」
それから少しして、机上《きじょう》の電話が鳴り出した。金沢が素早く取る。緩《ゆる》んでいた表情がさっと締《し》まるのを見て、
――仕事だな。
と陣内は腰を上げた。
「C町三丁目の交差点だ。車同士の衝突らしい」
受話器を置きながら金沢はいった。
「通報したのは目撃者ですか」
「いや、一方の運転手だ」
ということは、それほど大きな傷を負っていないということか。陣内はひとまず安堵した。が、金沢はそんな後輩を見て首をふった。
「ほっとするのは早い。相手の運転手は瀕死の重傷だという話だからな」
「瀕死……」
それでまた陣内は顔を引き締め直さねばならなかった。
ワゴン型の事故処理車に乗り込み、二人は現場に向かった。C町三丁目といえば、花屋通りという片側二車線の道路に面して、小さな店が並んでいる商店街だ。昼間はにぎやかだが、夜九時を過ぎると人気は少ない。
事故現場はすぐにわかった。すでに外勤パトカーが駆けつけてきて、他の車の通行を誘導したりしていた。ヤジ馬もかなり集まっている。
「やれやれ、ひどいことになってるな」
現場の状況を車の中から見て、金沢はため息をついた。ぶつかっているのは、黒い外車と黄色の軽自動車だった。軽自動車が交差点の左角に立っている電柱に激突し、その運転席に外車のボンネットがめり込むように当たっている。外車は殆《ほとん》ど変形していないが、軽自動車の方は紙屑を丸めたように潰れていた。
どちらかの信号無視だなと、陣内は今までの経験から推測した。
彼らがパトカーのそばに車を止めると、
「御苦労さんです」
と、外勤警官の一人が挨拶してきた。陣内たちも同じように挨拶した。
「救護隊は来ましたか」金沢が訊《き》いた。
「来ました。怪我人一人を運んで市立病院の方に向かいました。軽自動車の運転手です」
そうだろうなと陣内は思った。あれでは軽傷ですみそうにない。
「ほかの人に怪我はなかったのですか」
「ええ、幸い大したことはなかったのです。奇跡的ですよ」
「やはり外車は頑丈ですな」
金沢がいったが、相手の巡査は首をふった。
「そういう意味じゃありません。軽自動車に同乗していた人も、殆ど無傷だったんです」
「えっ、乗っていた人がいたのですか」陣内は思わず声をあげた。
「助手席ではなく、運転席の後ろに乗っていたのが幸いしましたね。車はかなり変形したのですが、ちょうどその隙間《すきま》に入り込むような形になって、殆ど無傷ですよ」
「へえ、そりゃ確かに奇跡的だ」
陣内は今度は感嘆の声を発した。
現場は、花屋通りと片側一車線の通りとが交わっている交差点だった。車両用の信号以外に、花屋通りを渡るための歩行者用信号機が設置されている。青になると、『通りゃんせ』のメロディが流れるタイプだ。
道路脇には歩道があり、そのさらに奥には小売店が並んでいた。中には小さな銀行もある。銀行の表には電光掲示のデジタル時計がぶら下がっていて、零時二十二分を示していた。
「目撃者は?」金沢が外勤警官に訊いた。
「今のところだめです。引き続いて探すつもりですが」
「よろしくお願いします」
早速、実況見分を行うことになったが、当事者が残っているということで、事情聴取を兼ねて行うことになった。まずは外車を運転していた友野和雄という男からだ。
友野は二十三歳というわりには幼さの残る顔だちで、せっかくのダブルのスーツも痩せた身体にはあまり似合っていなかった。職業を訊くと、
「フリー・アルバイター」
ちょっと胸をそらせるようにして答えた。今は定職のない人間でも、外車に乗れる時代らしい。
陣内は何気ないふりをして顔を近づけたが、アルコールの匂いはしなかった。
本格的に見分が始まると、友野はかん高い声でわめいた。
「青だったんですよ。こっちが青。それなのに、あの軽が突っ込んできやがって」
まあまあと陣内はなだめた。
「最初からいきましょう。まずあなたはどこから来て、これからどこへ行くつもりだったのですか」
「だからあっちから来て」と友野は交差点の東を指し、次に正反対の方向を見た。「こっちへ行くつもりだったんですよ」
南北に走っている花屋通りを横切る道を、友野は東から西に向かって走っていたというわけだ。
「スピードはどのくらい出してました?」と陣内は訊いた。
「ちゃんと制限速度を守ってましたよ」
友野は唇を突き出す。
「ですから、時速何キロですか」
陣内はしつこく尋ねた。友野は口を歪め、顔をそらした。横目で道路標識を探しているのがわかる。そのうちに、四十キロぐらいだったかな、と小声で答えた。
「本当ですか。タイヤ痕を見れば、嘘をついてもすぐにわかるんですよ」
威《おど》すようにいうと、友野はげんなりした顔で自分の髪を整えるしぐさをした。
「よく覚えてないんですよ。まあ安全だと思えるスピードで走ってました」
「ふうん……まあいいでしょ。――信号は青だといいましたね」
すると友野は陣内の方に顔を突き出した。
「青、青。絶対に青」
「いつから青でした?」
「えっ……」友野はきょとんとした。「いつからって?」
「何メートル手前で、青に変わりましたか。それとも赤信号で待ってて、青に変わったから発進したのですか」
友野は少し考えたあと、「いや、ずっと青」と答えた。
「ずっと? ずっと青だったわけ?」
そんなこと、あるはずがない。
「そうじゃなくて、気がついた時には信号が青になってたんです。その前の信号を通ったあとあたりかな。で、俺……僕たちが通る時も青でした」
「その前の信号はどういうふうに通ったのですか。信号待ちしましたか」
「どうだったかな。しなかったように思うけど……」
友野はここでも考えているようすだが、結局、「忘れちゃったな」と投げ捨てるようにいった。
陣内は横で聞いているだけの金沢を見た。金沢は、まあいいだろうというように目で頷《うなず》いた。
「それでは事故の時のようすを詳しく話して下さい。あなたは青信号で交差点に入ったわけですね」
「そうそう。そしたら、左からあの車が走ってきて、僕の前に来たんです。それで咄嗟《とっさ》にブレーキを踏んだけど、間に合わずに――」
友野はお手上げのポーズをし、下唇を出して首をふった。
「相手の車が近づいてくるのには、気づかなかったんですか」
「それはええと……」友野は口ごもって「気づきましたけどね、向こうの信号は赤なわけだし、まさか突っ込んでくるとは思わないですよ。実際の話」
「なるほどね」
陣内がいうと、自分の言い分を理解してもらえたと解釈したのか、友野は嬉しそうな顔をした。そんな表情はまるで子供だ。
事故後のことも質問してみた。友野の話によると、彼と同乗の女友達はすぐに車から出て、近くの公衆電話で一一九番と一一〇番をしたらしい。相手が傷を負っているので何とかしなければと思ったが、ドアが変形していてとても助け出せそうになかったという。
「だいたいわかりました」
陣内はペンを置いた。「あなたも一応病院で診てもらって下さい。交通事故はこわいですからね。それから車の退去をお願いします。動くかもしれませんが、あれに乗って帰るのはやめた方がいいです。JAFに頼めばいいと思います」
友野は頷いてから、ふと思いついたようにいった。
「ねえ、こっちは悪くないんでしょう? 青で通ったわけなんだから」
それで陣内が答えを考えていると、
「それは状況次第だよ」
金沢が初めて口を出した。
「相手の車の人間が、どういうかわからんしな」
すると友野はちょっと唇を動かした。微妙な変化だったが、かすかに笑みを滲ませたようで、陣内は何となく嫌な気がした。
友野の女友達からも話を聞くことにした。畑山瑠美子という女子大生で、焦点のさだまっていない目と、頼りなく開いている唇を我慢すればなかなかの美人だった。身体を動かすたびに、灰白色の毛皮コートの間からミニスカートの脚が覗く。
陣内は友野にしたのと同じような質問をした。だが彼女は、あまり満足には答えられなかった。
「だって眠ってたんだもの」というのが彼女の言い分だった。「がんとすごいショックがあって、それで目が覚めたらあんなことになってたの。だから何も知らないわ」
何も知らない、というところを彼女は強調した。
「すると信号がどうなってたかも知らないわけですね」
陣内が言うと、瑠美子ははっとした顔になった。それからあわてたように顔の前で手をふった。
「いえ、信号は青。あたしたちの方が青」
「でも眠ってたんでしょう?」
「だから……ぶつかって目が覚めて、外に出たら信号が青だったんです」
「しかしそれは、赤から青に変わった直後だったかもしれない」
「いいえ、だって……そのあとすぐに青から黄色それから赤って変わったんだもの。青に変わった直後だったら、もうしばらくは青のままのはずでしょ」
瑠美子は訴えかけるように、陣内の顔を見上げた。
「なるほど。おっしゃってる意味はわかります」
彼がいうと、彼女はほっとしたようだった。
畑山瑠美子と別れると、陣内は周りを見渡してから外勤警察官に近づいていった。軽自動車の同乗者というのが見当たらなかったからだ。
「ああ、その人ならあそこにいますよ」
相手の巡査は、信号のそばにある電話ボックスを指差した。ガラス張りのボックスの中に、茶色のダッフルコートを着た高校生ぐらいの娘が立っている。ボックスのドアを開けたまま、どこかに電話をかけている。
「一緒に救急車に乗るようにいったんですけどね、大したことないといって聞かないんですよ」
「へえ」
陣内は近づいていくと、彼女に向かって軽く手を上げて会釈した。だが彼女は全く気づいたようすがない。顔は彼の方を向いているのだが。
「無駄ですよ」
後ろから巡査が声をかけてきた。「あの人、目が見えないんですよ。あそこに電話ボックスがあることも、私が教えてあげたんです」
少女の名前は御厨《みくりや》奈穂といった。病院に担ぎ込まれた男は彼女の兄で、健三というらしい。兄妹は隣町にある親戚の家から帰る途中だった。その家の住所から判断すると、御厨健三は花屋通りを南から北に直進してきたと考えられる。
奈穂は薄い色のついた眼鏡をかけていたが、その奥の目はしっかりと開かれていて、知らなければ視力がないとはとても思えなかった。陶器のように肌が奇麗で、立派に美少女で通用する。
彼女からの事情聴取は、ワゴン車の中で行われた。
「何が起こったかはわかっているね」
陣内は柔らかい口調を心がけて尋ねた。奈穂はこくりと首を折った。
「事故が起きる前のことを覚えているかい」
「はい」
「お兄さんと何か話をしていたの?」
「いいえ、親戚の家を出た頃は話していましたけど、事故が起きる前は殆ど黙ってラジオを聞いていました」
高校二年生ということだが、一般の同年齢の娘よりも、はるかに明瞭な話し方だった。
そう、と短く答えて、陣内は次の質問を考えた。目の不自由な彼女から、何らかの情報を得るにはどうすればいいか。
「これは君の感覚で答えてくれていいんだけど、車のスピードはどのくらい出ていたと思う? かなり出ていたようだったかな」
訊きながら、拙《まず》い質問だと思った。スピードがかなりのものかどうかなんてのは、個人の主観によるものだ。
ところが陣内の反省をよそに、奈穂は意外な返答をした。
「たぶん、時速五十キロから六十キロの間だと思います。夜中だから、兄もスピードを出してたみたいです」
陣内は思わず金沢と顔を見合わせた。
「どうしてわかるんだい?」
金沢が訊くと、
「いつも兄に乗せてもらっているから、震動やエンジンの音でわかります」
奈穂は何でもないことのように答えた。
そこで陣内はさらに非常識と思える質問をした。つまり信号は何色だったと思うかと訊いてみたのだ。そして彼女はここでも、わかりませんとはいわなかった。
「青だと思います」自信たっぷりに答えた。
「なぜ?」
「事故が起きる少し前、兄がいったんです。よし青だ、いいタイミングだって」
「よし青だ、か」
こういう証言はどう扱うべきなのかなと陣内は迷った。彼女自身は、青を確認したわけではないのだ。
彼が考えていると、「それに」と彼女はやや声を高め、少し間を置いてから続けた。
「それに兄はそんないい加減なことをする人じゃありません。信号を見落としたり、無視したりするなんてこと、絶対にあり得ないんです」
実況見分を終え、事故車の移動を確認したあと、陣内と金沢は御厨健三が運び込まれた市立病院に向かった。この時、奈穂も同乗させた。友野和雄と畑山瑠美子は、外勤の警官が運んでくれた。
病院に着くと奈穂の両親がいて、彼女を見ると心配そうに駆け寄った。
「お兄さんは?」と奈穂は訊いた。手術中なのよ、と母親が答えた。
陣内と金沢は少し離れた場所で待つことにした。助かるのかどうかを確認したいし、医師から健三の血液をもらうという目的もある。アルコール・チェックのためだ。
「どう思います?」
家族たちの方を横目で見て、陣内は金沢に訊いた。
「難しいな」と主任はいった。「どちらも青だといっているが、何しろあの子の場合は目で見たわけじゃない。障害者を軽んじるつもりはないけれども、やっぱり不利だ」
「兄貴の供述待ちですか」
「そういうことだ」
しかしもし健三の意識がこのまま戻らなければ、結果的に友野たちの言い分を聞かざるを得なくなるかもしれない。
「いずれにしても看板を立てることになりそうですね」
「そうだな。当てにはできんが」
お互いが青信号を主張している以上、目撃者を探すのが最大の解決策である。だが現場に集まっていたヤジ馬の中に、事故の瞬間を目撃した者はいなかった。そこで現場付近に看板を立て、目撃者が出てきてくれるよう呼びかけるわけだ。もっとも陣内の経験の範囲では、その看板が効果をもたらしたことは一度もなかった。
「終わったらしいぞ」
金沢にいわれて見ると、手術室から医師が出てくるところだった。医師が険しい顔で、御厨家の両親に何かいった。その声が耳に届いたのだろう、真っ先に泣き崩れたのは奈穂だった。
モニターで映像を確認すると、加瀬紀夫は納得して頷いた。満足のいく出来栄えだ。無駄なことは撮影していないし、何より迫力がある。
――何しろ本物の事故だからな。
紀夫がビデオカメラに凝り出したのは、去年、大学に入ってからだった。入学祝いにカメラを貰ったのだ。最初は片っ端から撮影して喜んでいるだけだったが、そのうちに自分で作品を作ってみたくなった。といってもドラマを作るのは大変だ。彼がこのところ熱中しているのは、ちょっとした事件があればすぐに駆けつけて撮影し、自分なりに編集してニュース番組を作ることだった。テロップも入れてみたりする。
ただ問題は、事件と呼べるものが周囲に多く転がっているわけではないことだ。それでどうしても、紅葉の季節が来たとか、初雪が降ったとかいうニュースばかりになってしまう。その点が不満だった。
そんな時、今夜の事故だ。ガシャーンというものすごい音を聞いて窓を開けると、ちょっと先の交差点で車がぶつかっていた。そこで紀夫は意気揚々と、ビデオカメラを持って駆けつけたのだった。したがってパトカーや救急車が駆けつけるところや、事故車から怪我人を救出するところまで撮影できたのだ。
――贅沢《ぜいたく》をいえば、事故の瞬間を撮りたかったな。
まあ無理だけど、とモニターを見ながら紀夫は悦に入った。画面には信号機や周囲のようすが写っている。意識的に現場以外の場面も撮影したのだ。
――さてと、これをどう編集するかな。
その方法について、紀夫は考えをめぐらせた。
翌朝、明るくなってから、陣内と金沢は再び現場に出向いた。スリップ痕などは二、三日残っているので、なるべく明るい時に撮影した方がいいのだ。
「ブレーキ痕から察すると、友野の方は七十キロ近く出してたな。あの野郎、嘘ばっかりいいやがって」
日頃、温厚な金沢が珍しく強い口調でいった。御厨健三が死んだからだろう。しかも直接の加害者である友野は、いつの間にか病院から消えていたのだ。遺族に、挨拶ひとつしていない。それで先程、陣内が自宅に電話したところ、
「俺が悪いんじゃないよ」
と、ふてくされたような声でいった。
「信号無視したのは向こうだぜ。死んだのは、自業自得ってもんだよ」
それでも挨拶ぐらいはしておくものだというと、
「被害者はこっちなんだ。挨拶なら向こうから来ればいいんだよ」
ふてぶてしく答える有様だった。
主な見分項目を確認したあとで、
「あの子のいった通りだな。御厨健三の方は五十から六十ってところだろう。ブレーキのタイミングが少し遅れ気味かな。いっそ、走り抜けていたら死亡事故は防げたかもしれんが、まあいっても仕方のないことだ」と金沢がいった。
「制限時速を十キロや二十キロオーバー程度なら、許せる範囲ですよ」
友野の印象が悪いので、ついつい御厨健三を擁護する言い方になった。
引き揚げる前に看板を立てた。次のようなものだ。
『今月七日午前零時頃、ここの交差点で乗用車同士の衝突事故がありました。現在目撃者を探しています。お心当たりのある方は、××署交通課まで御連絡下さい』
文面を見直してから陣内は吐息をついた。仮に目撃者がいたとしても、名乗り出てこないのは何らかの理由があるからだ。その理由がたとえ「面倒くさいから」という単純なものであっても、この看板を見たからといって心変わりするとは思えなかった。いやその前に、いったい何人の人間がこの看板に目を止め、その文面を最後まで読むだろう?
「嫌な予感がしますね。このまま終わってしまいそうで」
大勢の人々が横断歩道を渡るのを見ながら、陣内は呟《つぶや》いた。どんなに大きな事故でも、三日|経《た》てば殆《ほとん》ど忘れられてしまう。
「まあもう少し待つさ」
金沢も力なく答えた。
この夜、陣内は、地味な服に着替えると、ふらりと散歩に出た。といっても目的がないわけではない。御厨家が陣内のアパートからさほど離れておらず、今夜そこで通夜が行われるということを知っていたのだ。ちょっとようすを見に、というのは自分に対する言い訳で、じつのところは御厨奈穂に会いたかったのだ。
御厨家は、住宅地の中に建った古い木造住宅だった。敷地は六、七十坪というところか。庭に柿の木を植えてあるのが、塀の外から見えた。
玄関を見て、陣内はおやと思った。何だかようすがおかしいのだ。数人があわただしく出たり入ったりしている。奈穂たちの母親がいたので、どうしたのですかと訊きながら近づいた。母親は最初はわからなかったようだが、すぐに昨夜会った交通課の警官だと思い出した。
「奈穂と友紀がいないんです。ついさっきまではいたんですけど」
友紀というのは、奈穂の二つ下の妹らしい。その二人の姿が、一時間ほど前から見当たらないというのだ。
「姉さん」
太った中年の男が駆け寄ってきた。奈穂たちの叔父らしい。
「そこの通りにある煙草屋で聞いたんだけど、それらしい女の子二人がタクシーに乗るのを見たっていうんだ。何か心当たりあるかい?」
「タクシー?」奈穂の母親はさらに不安そうな顔になった。「いいえ全然……。あの子たち、どこへ行くつもりなのかしら」
――もしかしたら……。
陣内の頭に閃《ひらめ》くことがあった。彼はその場を離れると、彼女らがタクシーに乗ったという通りに出た。折よく空車が来たので乗り込むと、
「C町三丁目の交差点まで」
と彼はいった。
事故があった場所より少し手前で降りると、彼はそこから歩いた。銀行の前のデジタル時計は九時十二分を示している。この時間になると車の交通量もぐっと減るし、歩いている人もまばらだった。
彼の予想通り、奈穂はここにいた。紺色の制服姿で、交差点の角のあたりに立っていた。横にいるのは妹の友紀だろう。奈穂よりも背が高いうえに、黒のスーツを着ていた。それで一見しただけでは、彼女の方が姉のように見えた。
「何をしているんだい?」
陣内が声をかけると、一人はびくっと身体を動かした。友紀の方が警戒するように後ずさりする。勝ち気そうな目をしていた。
「昨日のおまわりさん?」
奈穂がちょっと首を傾《かし》げて訊いた。そうだと答えると、ようやく安堵の色を浮かべた。
「君の家に行ったんだよ。そしたら皆、心配していた。送っていくから早く帰ろう」
すると奈穂は少しの間黙っていたが、
「妹に、事故の場所を見せてあげに来たんです」
と落ち着いた声でいった。「この子がどうしても見たいっていったから。それで二人で来て、この場所でお通夜をしていたんです」
「そうだったのか」
陣内は妹の方を見た。友紀は前で軽く手を重ね、自分の手を見ていた。その手首には、ディズニーのデジタル・ウォッチがつけられている。それが彼女の大人っぽい服装とは、ずいぶんかけはなれて見えた。
彼女らの自宅に電話したあと、陣内は二人をタクシーで送っていった。車の中で奈穂は、その後の進捗《しんちょく》状況を尋ねてきた。
「何しろ目撃者がいなくてね」
陣内は言い訳がましくなるのを感じながらいった。
「もし、はっきりしたことがわからなければどうなるんですか。相手の人には何の責任もなかったということになるんですか」
「いや、それはわからない。一応検察に書類を送ることにはなると思う。ただ」
「ただ?」
「証拠がないとね、公判を維持できないということで、不起訴になる可能性は強いよ」
「訴えられないということですか」
奈穂の声が鋭くなった。
「まあそうだね」と彼がいうと、彼女は唇を噛んだ。
「しかし、そういうことにはならないようにするつもりだよ。だからこそ目撃者を探すための看板まで作ったんだ」
「知っています」
奈穂はサングラスの位置を直した。それからちょっと陣内の方に顔を向けていった。
「おまわりさん、目撃というのは目で見たということなんでしょう?」
「そうだよ。それがどうかしたかい?」
「ううん、別に」
奈穂は小さく首をふると、妹の方を向いた。その妹は窓の景色を眺めているだけで、タクシーに乗ってから一度も声を発しなかった。
翌日、事故を目撃したという男が現れた。石田という学生で、黒のレザージャケットにジーンズという格好だった。髪の一部を茶色に染めている。
陣内と金沢は、交通課の隅の机で男から話を聞いた。
「十二時ちょっと前だったかな、あの道を走ってたんです。そしたら偶然、見ちゃったわけで……。目の前でしょ、びっくりしちゃいましたよ」
石田はガムを噛みながらいった。
「あの道っていうのは、どの道かな?」
陣内は道路地図を出し、石田の前で広げた。石田は顎《あご》を突き出すようにして眺めると、「ここ」といって一本の道路を指した。花屋通りと交差している道だ。
「ここをどういうふうに?」と陣内は訊いた。
「こっちからこっち」
爪の伸びた指で石田は示した。それによると、友野の車とは逆の方向から来て、正反対に走り去ったということになる。
「じゃあ事故現場の横を通ったわけですか」
「そうそう」と石田は何度も首を縦に動かした。
「しかし」と陣内は相手の目を見た。「事故直後にそういう車が走り去ったのを見た人はいないんですがね」
すると石田は、ふんと鼻から息を出した。
「皆、忘れてるんだよ。それとも事故車に気をとられてたか」
陣内は横目で金沢を窺《うかが》った。金沢は小さく一度だけ頷いた。
「それでは見たことを詳しく説明して下さい」
「だから俺が走ってて、前の信号が青だったわけ。それで行こうとしたら、右から急に黄色の車が突っ込んできたんですよ。俺は距離もあったしブレーキが間に合ったんだけど、向かいから来た外車はぶつかっちゃったってわけ」
石田は自分の掌を車に見たてて説明した。
「なるほど」と陣内は頷いた。「要するに黄色の車の方が信号無視をしたというわけですね」
ふうん、と彼はボールペンで机を叩きながら、
「なぜ今頃、知らせる気になったんですか?」
と訊いてみた。石田は薄笑いを浮かべた。
「厄介事に巻き込まれたくなかったんですよ。褒美がもらえるわけじゃないしさ。だけどやっぱ、俺の証言で誰かが助かるかもしれないと思うと、教えた方がいいのかなと思ってね。で、来たってわけ」
「それは良い心変わりでしたね」
「だろ? 俺の証言でどっちが助かるのかは知らないけどさ、助かった方から小遣いぐらいは欲しいぜ。――それじゃ、これで」
立ち上がりかけた石田の服の袖を陣内は掴《つか》んだ。何だよ、と石田は顔色を変えた。
「もうちょっと詳しく話してほしいんですよ」
「これ以上しゃべることなんてないよ」
「そんなことはない。肝心なのはこれからですよ。まずは、どうしてあんな時間にあの道を走っていたのか――そこから説明してくれますか」
石田の供述は、だいたい筋が通っていた。あの道を走っていた理由は、バイト先の経営者の使いで隣町まで行った帰りだったかららしい。車はその経営者のもので、車種はクラウン。使い先を出た時刻も妥当だし、その間の道程に関する話にも不自然さはなかった。
しかし陣内は、この程度のことで全面的に信用する気はない。石田という人間の印象からすると、目撃したからといって、わざわざ名乗り出るようなタイプではないのだ。友野側のサクラである可能性は大いにある。
「あなたが確かに、その時間その現場にいたという証拠でもあれば、非常にいいんですけどね」
口調を変えていってみた。すると石田は鼻の穴を膨らませて、意外にも、「あるよ」と答えた。陣内は少なからず驚いた。
「どういう証拠ですか?」
「そのあとすぐ店に電話したんだよ。自動車電話でね。見たい番組をビデオに録画してくれっていう用件。そのついでに、たった今すごい事故を見たんだってマスターにいったんですよ。マスターに訊いてもらえばわかると思うけど」
「それは何時頃ですか?」
「ええっと、そうだな」
石田は顎を掻《か》きながら考える顔をしていたが、ぱちんと指を鳴らした。
「そうだ、別に考えることないんだ。十二時ちょっと前ですよ。だってさ、十二時からの番組を録画してもらおうと思ったんだから」
「ふうん、十二時ちょっと前ねえ」
陣内は石田を見た。どことなく爬虫《はちゅう》類を思わせる顔だちで、蛇のような笑いを作っていた。
石田を帰してから、陣内はすぐに彼が働いている喫茶店に電話をかけた。荻原というマスターは、石田のいっていることを全面的に認めた。電話のかかってきたのが十二時少し前だという点も認めた。
「その時に録画したビデオも残ってますよ。何ならお持ちいたしましょうか」
荻原は余裕のある口ぶりでいった。そんなビデオを見ても仕方がないと思ったが、一応持ってきて下さいと答えた。
「どう思いますか」
陣内は金沢に相談した。
「信用できんな」というのが、主任の感想だった。「いかにも練ってきたという感じだった。不自然なわりに、当事者しか知らないようなことも知っている。どこかで友野和雄とつながってそうだな」
「同感ですね」
だいたい信号関係の事故で、二、三日してから現れる目撃者というのは怪しいのだ。どちらかに頼まれて偽証しているケースが殆どだ。ひどい時になると、双方からニセの目撃者が現れたりする。
「とにかく、石田の言葉の裏付けをもう少しとろう。グルなら根回しをしとるだろうが、どこかで必ずボロが出るものだからな。場合によっては応援を頼んでもいい」
「わかりました。でもすぐに見抜いてみせますよ」
陣内は電話機を引き寄せた。だが受話器を上げる前に、金沢の方を向いていった。
「あの、石田の話を彼女に聞かせたらどうでしょう?」
「彼女?」金沢は眉を上げた。
「御厨奈穂です。本当に石田が事故直後に通過したのなら、何か覚えているかもしれません」
「しかし、自分たちに不利なことはいわないんじゃないか」
「石田がどう証言したかは伏せておくんです。そうすれば、自分たちに不利なのかどうかもわからないはずです」
「なるほどな」
金沢はしばらく考え込んだあと、「よし、やってみよう。だめで元もとだ」と、気合いを込めていった。
が、じつはだめではなかったのだ。
「その人のいっていることは嘘です」
奈穂は、よく通る声で断言した。あまりによく聞こえるので、ほかの警官たちも彼らに注目した。
「なぜ嘘だといえるんだい」金沢が穏やかに尋ねた。
「だって事故のすぐあとに、あたしたちの横を通り抜けた車なんてなかったからです。もし通ったなら、音でわかったはずです」
彼女には、目撃者の車がすぐ横を通ったといっただけで、その車がどの道を通ってきたかは明らかにしていない。従って彼女には目撃者が敵なのか味方なのかは判断できないはずだった。
「でも君は気が動転していたからね。聞こえなかったのかもしれない」
陣内がいうと、奈穂は彼の方に顔を向けた。まるで見えているかのように的確な動きだった。
「おまわりさんは、気が動転して目が見えなくなることがありますか?」
「いや、目はそんなことないけど……」
「そうでしょう。あたしたちの耳は、皆さんの目なんです」
毅然として奈穂はいった。陣内は返す言葉がない。代わりに金沢が、
「ただね、その人には事故時にそこを通ったという証拠、まあ証拠といえるほどではないんだけど、それがあるわけなんだよ」
こういって、石田が午前零時少し前に知り合いに電話をかけた話をした。すると彼女は驚いたように口を開け、それからいった。
「それも嘘です。事故が起きたのは、零時以後なんですから。あたし、そのことを思い出したので、お話ししなくちゃと思っていたところだったんです」
「どうして零時以後だといえるんだい」陣内が訊いた。
「あたし、車の中でラジオを聞いていたといったでしょ。事故が起きたのは、零時の時報のあとなんです。そうしてユーミンの曲を聞いていたら、突然すごい衝撃があって……」
「ユーミン?」
陣内ははっとした。そして金沢に目くばせすると、一人でいったん席を外した。
「彼女のいっていることは本当です」と彼はいった。「主任も覚えておられるでしょう。あの夜、確かに時報の少しあとにユーミン、松任谷由実の曲がかかりました」
「だが彼女が聞いたのは、ぶつかったあとで、それを前だと錯覚しているのかもしれん」
「いや、彼女が乗っていた車は前半分がつぶれてしまい、ラジオも壊れていました」
すると金沢は顎を撫《な》でてから、人差し指を立てた。
「つまり事故があったのが零時前であるなら、彼女はそのムーミンとかいう曲は」
「ユーミンです」
「何でもいい。とにかくそれを聞くことはできなかったわけだ」
「もう少し詳しく訊いてみましょう」
二人は奈穂のところに戻った。
「ユーミンの曲は何だったか覚えてるかい」
陣内が尋ねると、もちろんというように頷いた。そして『リフレインが叫んでる』を口ずさんだ。どうしてどうして――から始まる素敵な歌詞だ。奈穂の声も、透明感にあふれていて素晴しい。
「最後の春に見た夕日は鱗雲照らしながら――」
ここで彼女の声が途切れた。彼女はいった。
「この『照らしながら』で事故が起きたんです」
えっと陣内は彼女の顔を見直した。
「ですから」と彼女はいって、「『照らしながら』の最後の『ら』で事故が起きたんです。間違いありません」
午前零時〇分四十八秒。
もし御厨奈穂の記憶が正しければ、事故発生の正確な時刻はこのようになる。ラジオ局に問い合わせた結果、判明したことだ。
さらに彼女はその驚異的な聴力と記憶力を発揮して、もう一つ新たな証言を行った。それは、『リフレインが叫んでる』の出だし、「どうしてどうして」の最初の「どう」の時に、運転していた彼女の兄御厨健三が、「よし青だ、いいタイミングだ」といったというのだ。これは零時〇分二十六秒前後に相当する。
問題の信号は、青の時間が六十秒である。奈穂の証言を信用すれば、健三は楽々青信号で通過したことになるのだ。
「長い間この仕事をしているが」金沢は苦笑しながらいった。「時刻を秒単位で扱ったのは初めてだ。いい経験になる。さっき課長に話したら、大いに関心があるようすだった」
「へえ、あの頑固者が」と陣内は、窓際で鼻毛を抜いている課長の大きな顔を見た。
「ただし、あまりいい関心の持ち方じゃない。そんな証言は信じられんから、早急にはっきりさせろということだ」
「やっぱりね」
陣内はがっくりして受話器を取り上げた。彼が電話をする先は三興製作所、信号機を作っている会社だ。
奈穂としては、事故の正確な時刻が判明すれば、信号機の記録を調べて、その時に信号が何色だったか判明すると思ったらしい。しかし現実には、信号機の記録などというものは存在しなかったのだ。
そこで陣内は一つの方法を思いついた。仮に信号機が秒単位で正確に作動し続けているなら、現在の時刻から逆算していけば、指定の時刻に信号がどうだったか判明するのではないかというものだった。
問題は信号機がどれだけ正確に動いているのかということだ。それを調べるため、陣内は作った会社に問い合わせることにしたのだ。御厨奈穂はこの結果を、下の待合室で母親と共に待っている。
電話に、技術部の酒井という男が出た。若い声だが礼儀正しい言葉遣いをする。陣内も負けずに丁寧に、用件を説明した。
「いや、それはだめですね」
だが、酒井の回答はあっさりしていた。
「だめ……それほど正確なものじゃないんですか」
「いえ、信号機のタイマーは正確です。あそこに使われているのは、S型プログラム式交通信号制御器というものですが、一年間使用していただいても数秒と狂いません」
「だったら」
「ただしそれは通常に作動している場合です。御存知のように、信号の点滅時間は時間帯によって変わります。ラッシュ時、夜中、昼間、全部違います。そのたびにタイマーの時間を切り替えてやる必要があるわけです。じつはこの切り替え時だけは、時間誤差が生じるのです」
「どのくらいですか」
「そうですね。最大七秒ぐらいでしょうか」
「七秒……」
陣内は暗い気分になった。事故発生から相当時間が経っている。当然何度も切り替えが行われている。
「ですからタイマーが切り替わる前なら、御質問のような逆算も可能です。それは保証いたします」
陣内は礼をいって電話を切った。そんなことを保証されても、何の足しにもならなかった。
彼は問い合わせの結果を金沢に報告した。かなり期待していたらしく、金沢も落胆したようすだった。
しかし一番辛いのはこれからだった。陣内は一階の待合室に行くと、奈穂にこのことを話した。彼女は兄の正当性を証明できると信じ込んでいたらしい。彼が話し終えると同時に、顔を両手で覆って泣き出した。それで彼女の母が彼女の背中を撫でたが、泣きやむ気配がなかった。周りにいた人間たちが驚いて彼らの方を見た。
陣内はどう対処していいのかわからず、ただどぎまぎするだけだった。その彼の肩を、ぽんと叩く者がいた。
「どうしたんですか、いったい?」
顔見知りの、社会部の新聞記者だった。
社会面の片隅に載ったその記事を、加瀬紀夫は食いいるように読んだ。先日の事故のことが載っていたからだ。
記事に書かれているのは、死んだ男性の妹のことだった。彼女は目が不自由だが、抜群の耳を持っていて、それによって事故発生時刻が秒単位で明らかになったというのだ。そして彼女は兄が青信号で通ったことを主張している。しかし、現在それを証明する手段はないということだった。
そこに載った少女の顔を見て、かわいいと紀夫は思った。こんな子の力になってあげられればと思う。
――だけど事故のあとで撮影しただけで、その瞬間を撮ったわけじゃないものなあ。
それでも紀夫は自分の部屋に入ると、一応先日のビデオテープを再生してみた。まだ編集作業はしていない。
「やっぱりだめだよな。事故が起きたあとで、いくら写してたって意味ねえよ」
画面を見て紀夫は独り言を呟いた。信号が写ってはいるが、事故から何分も経ってからのものだ。
諦めて停止スイッチを押そうとした時だ、背景が少し変わった。彼は手を止めた。後ろに時計が写っているからだ。銀行の前にある電光のデジタル時計だ。『0:13』という具合に数字が並んでいる。この時点で手前に写っている信号は青だ。
「面白いけど、これじゃ何の証明にもならないよな。せめて秒まで出る時計だったら、何とかなったかもしれないけど。おや――」
ぼやいた時、その時計の数字が『0:14』に変わった。手前に写っている信号は、青のままだ。
――これはどういうことかな。時計が変わった瞬間というのは、零時十四分〇〇秒ということだ。この瞬間が青だとわかれば、何かの役に立つかな?
紀夫はあぐらをかいて考え込んだ。もしかしたら、とんでもない証拠を自分は持っているのではないかという思いが湧きおこり、次第に心臓の鼓動が激しくなった。
――青にもいろいろある。青に変わったばかりか、赤に変わる直前かで違う……。
どうにも整理がつかず、彼は自分の頭を叩いた。
その時だ。画面にさらに変化が現れた。彼は呆然と見送ったが、ふと我に返ってテープの巻き戻しをした。もう一度今の場面を見てみる。
「あっ」
彼は立ち上がるなり叫んだ。「おふくろ、電話」
「よくわからんな。もう一度最初から説明してくれ」
口|髭《ひげ》を生やした課長は、椅子にふんぞり返っていった。御厨奈穂が新聞に取り上げられたこともあって、この男も今回の事件のことは気になっているらしい。
「ですから、まず信号の時間間隔ですが」
「それはわかった。五十六、六十、四だろ」
「そうです」
陣内は頷いた。課長が今いった数字は、例の信号のタイミングだ。赤が五十六秒、青が六十秒、黄色が四秒ということだ。これは花屋通りを走ってきた車に対する信号の方で、横切る道の信号は、当然これとは逆になる。ただし赤の中には、双方とも赤という時間が四秒間含まれている。
「つまり全サイクルは百二十秒、ちょうど二分ということになります。ということは信号は、二分ごとに同じ状態に戻るわけです」
「うん、それもわかった」
「そこで問題のビデオですが」
陣内は加瀬紀夫から借りたテープを再生した。画面上に銀行の時計が写っている。その表示が『0:13』から『0:14』に変わったところで画像を静止させた。
「御覧のように、この瞬間信号は青です」
「うむ。零時十四分〇〇秒には青だったわけだ」
「はい。ところがこの銀行に問い合わせたところ、この時計は標準時を示しているわけではなかったのです。四十一秒、遅れていました。ですから零時十四分に変わった瞬間は、実際には零時十四分四十一秒ということになります」
課長は額の横を二度ほど叩いてから、「それで?」といった。
「ここで画面を動かします」
陣内は自分の時計を見ながら、再び画面を動かした。が、少ししてすぐにまた静止させる。何だ、というように課長は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「先程から七秒経過しています。零時十四分四十八秒というわけですね。御覧のように、信号はずっと青です」
「そのようだな」
「ここで先程の信号サイクルの話です。二分ごとに同じ状態になるのですから、この二分前の零時十二分四十八秒の時点でも、やはり信号は青だったということになります。同様に引き算していきますと、御厨奈穂が事故発生時と証言した零時〇分四十八秒の時も、この信号は青だったといえます」
陣内は一気にしゃべって課長の反応を見た。課長は唸《うな》り声をあげ、腕を組んだ。そしてしばらく口を閉じて考えていたが、ゆっくりと瞼《まぶた》を開くと首をふった。
「いってる意味はわかった。零時〇分四十八秒の瞬間、その信号が青だったという論理は認めよう。問題は、本当にそれが事故発生時と考えていいかどうかだ。目が不自由で耳が敏感らしいが、記憶違いということもある。だいたい歌を聞いている途中に何かが起こった時、歌手がどの部分を歌っていたのかを克明に覚えているなんて、常識では到底考えられん」
「でもその常識があの少女には通用しないのです」
「どうしてそんなことがいえる?」
「これを見ていただければわかります」
そういって陣内は再びさっきのビデオをスタートさせた。同じ場面の続きだ。信号と、時計が写っている。
「何だ。これがどうかしたのか?」
「次です」
陣内が信号を指差した。その瞬間、信号が青から黄に変わったのだ。「おっ」と課長が声を出した時には別の画面に変わっていた。
「切れる直前に信号が変わったな」と課長はいった。
「そうです。あの時刻を計算すると、零時十五分二十五秒になるんです。青の点灯時間は六十秒ですから、零時十四分二十五秒に赤から青に変わったということになります。そしてこの現象もやはり二分ごとに現れるはずですから、零時〇分二十五秒にも赤から青に変わったはずです」
「零時〇分……それがどうかしたのか」
「思い出して下さい、御厨奈穂の話を。彼女は事故直前に、御厨健三が、『よし青だ』といったのを聞いたといっています。その時刻を彼女の証言に基づいて割り出したところ、零時〇分二十六秒前後という結果が出たんですよ」
課長の頬がぴくりと引きつるのがわかった。
「これでもまだ、彼女の奇跡の力を疑いますか」
陣内は唇を結んだ。「課長」と金沢も横から声をかけた。
やがて課長は顔を上げ、徐々に口を開いた。
「その前に俺の方から提案がある」
こんな実験はおそらく警察史上でも初めてだろう、と陣内は思った。会議室には署長を始め、各部署の課長以上が集まっている。そして壇上で一人座っているのは御厨奈穂だった。付き添ってきた彼女の母親は、一番後ろの席で心配そうに成り行きを見つめている。
「気分はどう?」
奈穂の傍らに立つと、陣内は小声で尋ねた。「少し緊張してるけど、大丈夫」と彼女は答えた。
「では始めたいと思います」
金沢の声で会議室内のざわめきがおさまった。さらに彼は、隅で待機している婦人警官に合図した。彼女の前には、オーディオ機器が並んでいる。
静寂の中、音楽が始まった。松任谷由実の『ANNIVERSARY』だ。奈穂の希望だった。
なぜこんなこと気づかないでいたの
さがし続けた愛がここにあるの
事情を知らない人間が見れば、ひどく異様な光景に思えるはずだった。ティーン・エイジャーに絶大の人気を誇る松任谷由実の歌を、おそらくユーミンという呼び名さえ知らない中年の男たちが真剣な顔つきで聞いている。
曲が始まって間もなく、婦人警官が不思議なことを始めた。
「ワープロ……香水……ゴルバチョフ……煙草……」
という具合に、全く脈絡のない言葉を不規則に読みあげるのだ。何の法則性もない。読まれる言葉も、女子高生なら知っていると思われるものが適当に選ばれたにすぎない。
曲が続く。婦人警官の無機質な言葉も続く。署長が咳《せき》をひとつした。
こうして曲が終わった。陣内は奈穂のようすを見た。始める前と、表情に変化はない。
「さて、それでは皆さんにはこれをお見せします」
金沢の指示で、婦人警官は一枚の大きな表を出した。そこには彼女が読みあげた単語を書き写してあった。
「では、質問を始めます。どなたか、この中の単語をおっしゃって下さい」
金沢がいうと早速後ろの席から、「ゴルバチョフ」という声が飛んだ。発したのは警備課長だ。金沢は、「わかるかね」と奈穂に訊いた。
彼女は、かなり長い時間考えていたように、陣内には感じられた。全員の視線が集中し、呼吸をするのも憚《はばか》られるほどに空気が張りつめている。
奈穂が息を吸う気配があった。そして、いった。
「『手をつなぐ二人の上に』の『手』の時に読まれました」
明瞭な口調だった。次に皆の視線は婦人警官に移行した。彼女は手元のメモをチェックすると、
「間違いありません。そのとおりです」といった。ほう、という声が一斉に漏れた。
そのあとも質問は続いた。「電卓」――「『瞳を見上げてる』の『を』の時です」。「赤ん坊」――「『明日を信じてる』の『信』の時です」。彼女はすべての質問について、完璧に答えた。歌を聞いている途中で起こった出来事を、その時の歌詞と対応させて覚えているというのは、これで証明されたのだ。
ちょうど十個の質問が終わった時、誰も何もいわなくなった。彼女の驚異の能力を、現実主義者たちも認めざるを得なくなったのだ。
「もう、よろしいでしょうか」
金沢が黙っているので、陣内が問いかけた。しばらく返事がなかったが、署長が手を上げた。
「私が歌の途中で咳をしたのを覚えているかね?」
陣内はどきりとして奈穂を見た。彼女は黙っている。
「どうしたんだい? 突発的なことでも覚えていなければ、完全とはいえないんじゃないかね」
署長は温厚な笑みを浮かべながらも、鋭い目で彼女を見た。陣内は自分が責められているようで、思わず下を向いた。
が、この時彼女がいった。
「『ありふれた朝でも私には記念日』の『記』、です」
陣内は顔を上げた。すると署長の口元が震えているのがわかった。署長はゆっくりと前に出てくると、彼女の手をそっと握った。
「私もこの歌が好きなんだよ」と彼はいった。「素晴しい。じつにすごい。まさに奇跡の耳だよ」
すると奈穂も、ここで初めて白い歯を見せた。天使の笑顔だ、と陣内は思った。
驚くべき実験が行われてから二日後、友野和雄は自分の運転ミスを認めた。任意で取り調べを受けていたのだが、ニセの目撃談を話した石田や同乗の畑山瑠美子が白状したので、もはや観念せざるを得なくなったのだ。石田は友野の麻雀仲間で、彼からの負けがかなりあったらしい。それを帳消しにするという条件で偽証に応じたということだ。
友野の話によると、あの日、彼は瑠美子をマンションまで送っていくつもりだった。だが途中、彼女が機嫌を悪くして、今すぐ降ろしてくれと騒ぎ出したらしいのだ。実際、彼女は走っている車から飛びおりそうな剣幕だったので、友野は彼女の腕を掴んで逃がさないようにした。ところが彼女が暴れたのでそちらに気をとられ、つい信号を見逃したというわけだった。
「赤信号だっていうのは、遠くにいる時からわかってました。だけどタイミング的にそろそろ青に変わる頃だと思ったんで、つい油断して……」
友野は弱々しくいったが、
「でもあの女が悪いんですよ。あいつが運転の邪魔をしたんだ」
瑠美子のせいにすることは忘れなかった。
それから一週間後、他の用事があって陣内は例の交差点の前を通りかかった。すると畑山瑠美子が信号の脇でしゃがんでいるのが見えた。手に白い花を持っている。
「奇麗だな」
声をかけると、びくっとしたように振り向いた。そしてひどく気まずそうな顔をした。
「まずいとこ、見られちゃった」
「まずくはないさ。まあ考えてみれば、君も被害者の一人といえるんだよな」
だが瑠美子はかぶりをふって苦笑した。
「嘘ついて友野の味方をしたんだもの。共犯よ」
「嘘は必ずばれる」
「そうみたいね」彼女は、ふうーっと長い息を吐いた。「あの女の子、すごいわね」
「うん、すごい」
「あたしなんか、目が見えるくせに何にも覚えてないんだものね。情けない」
そういって瑠美子は遠くに視線を向けたが、銀行の前の時計に目を留めた。
「詳しいことは知らないんだけど、あの時計が決め手になったらしいわね」
「ああ」
「零時〇分四十八秒だっけ。だとすると、あたしの記憶力もまんざらじゃないのかな」
鼻の横をこすりながらいった。「ぶつかって顔を上げた時、どういうわけか真っ先に目に入ったのが、あの時計だったわけ。その時〇時〇〇分って、ゼロが三つ並んでたのが、見た途端に零時〇一分って変わったように思うのよね。だから事故の起きたのが、零時〇分四十八秒なら、だいたい辻褄《つじつま》が合うじゃない。当たってから顔を上げるまで、十秒ぐらい経ってただろうから」
陣内はどきりとした。この女、何をいってるんだ?
「まあ、今さらどうでもいいことだけどね」
瑠美子は自嘲気味にいうと、陣内の顔を見て不思議そうな顔をした。「どうしたの、顔色が悪いわよ」
「いや、何でもない」と彼はいった。「じゃあこれで」
「うん、さよなら」
そういって瑠美子は片手を上げると、一度も振り返らずに歩いていった。
彼女の姿が見えなくなってから、彼は改めて銀行のデジタル時計を見た。頭の中で目まぐるしく数字が踊っている。
――事故直後に見たら、零時〇〇分から〇一分に変わったって? そんな馬鹿な。
そんなはずはないと陣内は思った。なぜなら、この時計は四十一秒も遅れているのだ。だから零時○一分に変わった瞬間というのは、実際には零時〇一分四十一秒のはずである。そうなると先程の彼女の話からすると、ぶつかったのはその約十秒前、零時○一分三十秒頃ということになる。奈穂の証言と、四十秒以止食い違う。
――もしこれが木当の衝突時刻なら、その時、信号はどうなっていたのだ?
彼は頭の中で素早く計算した。そして、あっと声を出した。
零時○一分二十五秒までは青だが、そこから二十九秒までは黄色、そしてさらにそこから三十三秒までは双方の信号が赤になる。
――御厨健三も友野和雄も赤信号で交差点に入ったのか?
そう考えると辻褄が合うことがある。友野和雄が、「タイミング的にそろそろ青に変わると思った」と供述していることだ。
だが陣内はこの考えを打ち消そうとした。もしそうなら、御厨菜穂があれほど見事な供述をできるはずがない。零時〇分二十五秒に信号が赤から青に変わることなど、加瀬紀夫のビデオがなければ誰にもわからなかったのだ。
彼は歩きかけた。ここに長く留まっていると、余計なことばかり考えてしまう。
しかしその足もすぐに止まった。電話ボックスを見たからだ。事故の夜、奈穂は電話をかけていた。
――彼女は時報を聞いていたのではないか?
信号機にはふつう音がない。しかしたった一つだけ音を出す。歩行者用信号だ。盲人向けに『通りゃんせ』のメロディが出るようになっているのだ。彼女は左耳でそれを聞き、右耳で時報を聞くことで、メロディの始まる正確な時刻の一つを予《あらかじ》め記憶しておいたのではないか。
そして後日、彼女は再び信号機の調査を行う。信号機のインターバルを計るのが目的だ。
――そうかあの夜……。
通夜の夜を思い出した。奈穂は妹と二人でここに立っていた。あれは兄の事故現場を見せるためなどではなく、インターバルを計りに来たのだ。そして陣内の瞼に、友紀がしていたデジタル・ウォッチが蘇《よみがえ》る。あれはストップ・ウォッチの役目を果たしたのではなかったか。
『通りゃんせ』のメロディが始まる正確な時刻と、各信号のインターバルがわかれば、零時〇分二十五秒に赤から青に変わったこともわかる。あとは彼女の特殊な能力を生かして、もっともらしく事故発生時を設定すればいい。本当は、『リフレインが叫んでる』の歌詞のもっと後ろの方で、実際の事故は起きたのではないか。
陣内は頭をふった。まさかそんなことはないと思った。彼女の奇跡の耳は、真実を訴えるために使われたはずなのだ。警察を手玉に取ることに使われたのではない。
あの時の奈穂の笑顔を陣内は思い出した。
風邪でもひいたのか、ぞくりと背中が寒くなった。
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分離帯
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白石街道という道路がある。
A市のほぼ真ん中を横切るように東西に走っており、東に進むとB市、西に行くと隣県に入る。この近辺の住民、特に商用で車を使う人間にとっては、主要な道路である。それだけに朝や夕方はかなり車が増え、A市の中心地に向かう交差点付近などは、いつも渋滞している。
片側二車線の、よく整備された道路だ。中央分離帯にはツツジの木が植えられ、数メートルおきには街灯が立っている。信号は多いが、夜間は連動しているので、制限速度を守っている分には決適に走れるはずだった。
十月二十日、午後十一時過ぎ。
この白石街道を、西に向かって白のチェイサーが走っていた。運転しているのは県内の建設会社で係長をしている男だった。彼は隣県のさらに奥に入った町から、車で通勤しているのだ。残業で最終電車に間に合わないことが多いからだった。だからこの夜は、彼としては早く帰れた方だといえる。
道路はすいていた。このくらいの時間になると車はぐっと少なくなるのだ。彼は現在右側車線を走っているが、数十メートル先にトラックの姿が見えるだけだった。後ろからは何も来ていない。先程まで降っていた雨も、どうやらあがったようだ。
前方のトラックとは、かなり長い間一緒に走っていた。荷台に書いてある、『ライナー運送』という社名には覚えがある。彼の会社でも、建設資材の運搬などを頼んだことがあるからだ。
いつもの彼なら、早々にトラックを追越しているところだった。しかし今夜はそういう気になれないほど疲れている。何も考えず、『ライナー運送』の文字を遠くに眺めながら、ぼんやりとハンドルを握っていたい気分だった。それに前方のトラックにしても、格別スピードが遅いということはない。制限速度五十キロのところを、五十五から六十で維持しているのだ。これ以上速く走ったところで、連動している信号に捕まってしまうだけだった。
彼が追越しをかけない理由がもう一つあった。右車線を走っているトラックを抜くには、一旦左車線に入らねばならない。ところが、左車線には路上駐車している車が多く、まともに走ることが困難なのだった。
――まあいいさ、のんびり帰ろう。
欠伸《あくび》をひとつすると、彼はハンドルを握り直した。
トラックの停止灯がついた。赤信号だ。彼は少し迷ったが、結局そのまま車をトラックの後ろにつけた。
信号を待つ間、まわりの景色を眺めた。道路の左、交差点の手前にファミリーレストランがあって煌々と灯りがついている。見たところ客は少ない。このレストラン以外の建物の窓は殆《ほとん》ど真っ暗だ。信号のずっと先を見ると、二十四時間営業のコンビニエンス・ストアが道路の右側にあった。
信号が青に変わった。トラックが発進する。少し遅れてから彼もチェイサーのアクセルペダルを踏んだ。
このすぐ先にも信号があるが、トラックが前にいるので、現在赤なのか青なのかわからなかった。しかしトラックがかなりの勢いで加速を始めたところを見ると、青で抜けられるかどうかが微妙なところらしい。
スピード・メーターの針が五十を回った。さらにアクセルを踏む。
その時だ。
前方のトラックが急ブレーキを踏んだのだ。彼も咄嗟《とっさ》に右足をふんばった。しかし、その意思に反して車体の制動は遅い。ひきずられるようにタイヤが滑る。
――やばいな。
そう思った彼の目の前で、信じられないことが起こった。
ブレーキをかけるのと同時に、トラックは右に急ハンドルを切っていたのだ。そのために雨上がりの濡れた路面で、タイヤがスリップしたらしい。トラックは激しい音をたてて、そのまま中央分離帯に突っ込んだ。だがそれでも勢いは止まらない。トラックの前半分ほどが分離帯を越え、そこで。バランスを崩して横転してしまったのだ。
そこへ対向車が来た。
その車はタイヤを鳴らして止まろうとしたが、やはり路面の影響からか九十度程回転し、車の後部が倒れているトラックの運転席に激突した。
チェイサーの男は、そのようすを呆然と見ていた。交通事故を、これほど目のあたりにしたのは初めてだった。あまりの衝撃に、しばらく身動きできなかったほどだ。
だが彼が我を失っていた時間というのは、実際は大した時間ではなかったのかもしれない。なぜならその直後に、前方左車線に路上駐車していた車が発進するのを、はっきりと目撃していたからだった。
外勤指令からの連絡が入った時には、世良一之は出動の準備を整えていた。県警本部からの無線を、彼等も聞いていたのだ。
「ついてない。幕の内弁当を頼んだらこれだ」
廊下を小走りに進みながら、主任の福沢巡査部長がいった。世良はこの福沢と組んで仕事をしている。今夜の当直は、もう一組いるが、そちらは別の事故で出動していた。
二人でパトカーに乗りこむと、赤灯をつける。サイレンは鳴らさないのがふつうだ。
「トラックが分離帯に突っ込んで横転か。だめかもしれんなあ」
走り出して間もなく、福沢は無線で、すでに現場に到着しているはずの外勤パトカーに連絡をつけた。たった今救護隊が到着、トラックの運転手を救出中、対向車線を走ってきてぶつかった乗用車の運転手も、右腕と腰に軽傷を負っているので、病院に連れていく予定――了解と福沢は答えた。
「白石街道か。現場のあたりは交通量の多いところではないですね。スピードの出しすぎかな」
世良がいった。
「そんなところだろうな。道が良すぎるというのも考えものだよ。おまけに今夜は雨で道路が濡れているからな」
やがて事故現場に到着した。無線で聞いた通り、ひどい状況だ。分離帯の上にトラックが載っかった状態なので、両側の車線とも、左側だけの一車線通行になっている。
交通整理をしていたのは、外勤パトカーで駆けつけた二人の警官だった。そのほかにこの地域の派出所からも二人の警察官が応援に来てくれていた。彼等に挨拶してから、世良たちは事故車に近づいていく。
「ひどいな」
トラックは右側を下にするように倒れていた。そしてフロント・ガラスのところに、対向車線を走ってきたシーマの後部が激突した形になっている。ガラスは割れ、シートも形をなしていなかった。血は四方に飛び散っている。
「助からんかもしれんなあ」
福沢も隣に来て、トラックの運転席を覗きこんでいった。「身元を確認できるものを探してくれ」
世良はガラスを払いのけ、ひしゃげた窓枠の間から懐中電灯を入れて中を照らした。黒いセカンドバッグが落ちている。中を開けると、免許証と財布、ポケットティッシュに煙草が一箱入っていた。免許証によると、名前は向井恒夫。住所は県内になっている。生年月日から計算すると年齢は三十三歳。
――俺と大して歳が違わないのに、気の毒だな。
心の中で合掌しながら、それらのものをセカンドバッグにおさめ直した。
このあと世良は近くの公衆電話でライナー運送に連絡してみたが、すでに会社では事故のことを知っていた。おそらく救護隊の方から連絡があったのだろう。病院でも、患者の身元がわからないのでは困ってしまう。
事故車の処理は当人たちが行うことになっている。世良はライナー運送の担当者に、レッカー車で事故のあったトラックを移動してくれるよう頼み、ついでに向井恒夫の自宅の連絡先を聞いてから受話器を置いた。
続いて向井家に電話する。コールサインは鳴っているが、誰も出なかった。たぶん病院に向かっているのだろう。
シーマの運転手の身元は、すでに派出所の警官たちが聞いていた。望月という男だ。そこに電話し、事情を説明する。誰も連絡していないのか、妻は初耳のようすで、驚きのあまり受け答えする声が何度も吃った。軽傷らしいと説明しても、簡単に安心できるものではない。
望月の妻にも、事故車の移動をお願いしたいのだがというと、JAFに依頼しますという返事だった。
電話を終えると現場に戻った。
実況見分としては、事故のあった車の位置を測定したり、タイヤ痕やスリップ痕、ホイール擦過痕などを調べることになる。しかし夜中で、しかも路面が濡れているとなれば、スリップ痕などの調査は殆ど不可能といえた。これらは明日の早朝行うことになる。
あとは目撃者である。
世良はまず、現場のすぐそばにあるコンビニエンス・ストアを訪ねた。周りで灯りのついているのは、この店だけだった。
だがブルーの制服を着た店員は、ものすごい音を聞いて表に飛び出しただけで、事故の瞬間は見ていないといった。事故当時、店内には数人の客がいたらしいが、目撃していた者はいなかったようだ。
店を出て、世良が福沢に報告していると、
「一応、我々が駆けつけた時に、近くにいた人たちの連絡先は聞いておきました」
派出所から来た、世良と同じくらいの歳の警官が、リストを見せてくれた。五人の名前が書いてある。福沢はそのリストを見渡してから、
「何ですか、このコメ印のついている人は?」
と、一人の男の名前を指差した。
「トラックのすぐ後ろを走っていた会社員です。どうやら事故の一部始終を見ていたらしいです。一一九や一一〇番したのもこの人なんですよ」
「なるほど」と福沢は頷《うなず》いた。
助かった、と世良は胸をなでおろしていた。何が面倒といって、事故の原因を探るぐらい厄介なことはない。本人が死んだりしたら尚更のことだ。目撃者がいてくれるなら、その話を聞いて調書に書くだけでいい。
「明日の朝、連絡をつけといてくれ」
彼にそう命じた福沢の目にも、やはり安堵の色が浮かんでいた。
事故車の移動を確認すると、世良たちは病院に向かった。トラックの対向車線を走っていたシーマの運転手の方は、早々に治療を終えていた。手首に包帯を巻いている程度だ。
「びっくりしましたよ。いきなり前から現れるんですからねえ」
望月という中年男は、声に負けないぐらい目玉も大きくしていった。職業はアパート経営で、今夜は隣県の友人宅に行っていて、その帰りに事故に遭ったという。
事故前の状況について尋ねたが、望月の方には特に問題はないようだった。おそらく制限速度を若干オーバーしていたと思えるが、そのことで責任を追及することはないだろう。
「対向車線のことで、何か気がついたことはありませんか」
福沢が訊《き》いたが、望月は即座に首をふった。
「そんなものはありませんよ。何しろ、きちんと前を見て運転してましたからね。よそ見なんかはできません。だからこそ、こうして軽い傷で済んだんですよ。ねえ、おまわりさん。私の方に悪いことなんて全然ないでしょう? あんなので前方不注意なんていわれたら、そりゃあ殺生ってものですよ」
望月がすがるような目をし、それから何度も、「ツイてない」と繰り返した。
とりあえず望月を帰宅させると、世良と福沢はトラックの運転手の家族に会っておくことにした。現在手術中で、運転手の妻が待っているということだった。
妻は手術室の前の長椅子に座っていた。福沢が近づいていって挨拶すると、彼女も頭を下げた。その顔を見て世良は驚いた。彼女の方も、彼に気づいたようすだった。
「知り合いか?」
二人のようすから察したらしく、福沢が訊いてきた。
「高校の同級生で、菅沼さん……だったかな」
彼女は小声で、はい、といって頷いた。今は目のまわりが赤く腫《は》れているが、大きい目と長い睫《まつげ》は少しも変わっていない。あの時のままだ。
「そうか」と福沢は少し考えてから、
「じゃあ、世良が話を聞いておいてくれ。俺は署の方に連絡をしておくから」
彼の肩を軽く叩くと、廊下を歩いていった。たぶん気をきかせたのだろう。
「大変だね」
福沢の姿が見えなくなってから、世良はいった。彼女はこくりと首を折ると、
「事故なんて起こす人じゃないのよ。無事故でずっと通してきてるし……」
掌で顔を覆った。膝の上には四つに畳まれたハンカチが載っている。それがぐっしょりと濡れているのを見て、世良はかけるべき言葉を失った。
「でも知ってる人がいてよかったわ。こんな偶然ってあるのね」
顔を手で隠したまま彼女はいった。
「世良君、おまわりさんになってたのね」
「昔から、体力ぐらいしか取り柄《え》がなかったからね」
世良は彼女の隣に腰を下ろし、横顔に視線を注いだ。自分と同じ年齢なのだから、三十は過ぎたはずだ。それでも彼女の頬のあたりの肌は、あの頃と同じように白く、きめが細かかった。
菅沼彩子――。
先程名字をはっきりとは覚えていないふりをしたが、じつは名前まで克明に記憶していた。彩子――。受験勉強中、ノートの端に書いたものだ、AYAKO。そしてとうとう何も告白できないまま、卒業と同時に別れてしまったのだった。
話したいことは山のようにあった。だが今の彼が彼女に訊くべきことは、彼女が愛しているはずの男性のことだった。
「御主人はいつからライナー運送に?」
少し間があって、「もう十年ぐらいになるんじゃないかな」と彩子は答えた。「あたしと会う前からだったはずだから」
どこで出会ったのか訊きたかったが、事故とは何の関係もない。
「無事故だっていったね」
「無事故よ。それに無違反。会社で表彰だってされたのよ。向井の運転はおとなしすぎるって、仲間の人たちから冷やかされるぐらいだったわ」
そして彼女は、「信じられない」と絞り出すような声を漏《も》らした。
「最近の勤務状況はどうだったのかな。忙しくはなかったかい?」
「少し忙しかったわ。景気が良いからっていってたけど……」
ここで彩子は世良の質問の意味を感じとったようだ。泣き腫《は》らした顔を上げて、世良を睨《にら》みつけるように見た。「でも身体を休める暇もないってことはなかったわ。あの人、そういうところは充分に気をつけてて、決して無理はしなかったのよ」
世良は黙って頷《うなず》いた。
この時手術中のランプが消えた。彩子が立ち上がると、世良も反射的に腰を浮かせていた。
白いドアが開き、医師が姿を現した。彼は彩子の方を向くと、
「お気の毒ですが」
と乾いた声でいった。
一、二秒ほど彼女は目を見開いたまま立ち尽くしていたが、崩れるように床に膝をつくと、激しく泣き叫び始めた。
翌朝早く、世良と福沢は再び現場を訪れた。昨夜満足にできなかった見分の続きをするためである。スリップ痕などは、たとえ雨が降っていても、翌日ぐらいまでは残っているものなのだ。
「このあたりで急ブレーキを踏んでいるな。それからハンドルを右に切っているようだ。それでタイヤが滑って、分離帯に突っ込んだらしいな」
トラックが倒れた位置から十数メートル手前を調べて、福沢が見解を述べた。横について世良は写真をとる。白黒の全自動カメラだ。
「何かをよけようとしたんじゃないでしょうか」
「かもしれん。とにかく目撃者に会えば、はっきりするだろう」
この時点では、まだ楽観していた。
署に戻ってから、世良はトラックの後方を走っていたという男に電話することにした。勤務先は県内の建設会社だ。太田吉男というのが、その目撃者の名前だった。電話に出た太田は、まるで世良からの連絡を待っていたかのように、勢いこんでしゃべり始めた。
「昨日からずっと気になっていたんですよ。でも朝が早いので、とりあえず先に失礼させてもらったんです。ほかの目撃者から何か聞きましたか?」
「いえ、太田さんが最初ですが」
「そうですか。いや、あれだけはっきり見たのは私だけだと思いますよ」
まるでそのことを誇示するように前置きすると、何やら妙にはりきって事故の模様を話し始めた。事故の直前までトラックの後方を走っていたこと、信号を抜けて加速し始めたところで、突然トラックが急ブレーキを踏んだこと。
「その急ブレーキについて、どういう原因だったか御存知じゃないですか」
世良がいうと、「そこなんですよ」と太田は声のトーンを上げた。
「事故が起こるまではトラックのせいで前方はよく見えなかったし、事故の時はそっちに気をとられていたので、くわしくは覚えていないんです。ただ左側に路上駐車していた車が、突然頭を出したんじゃないかと思うんです」
「えっ」と世良は思わず漏らした。「本当ですか。もう少しくわしくお願いします」
「いや、だからくわしくっていわれても、この程度なんですがね。あの道の左側に路上駐車していたのが、たしか三台ぐらいあったと思うんです。で、事故が起きた直後にそちらの方を見ると、たぶん三台のうちの真ん中の車だと思うんですが、先端をずいぶん右にはみ出させていたんですよ。おや、と思っていたら、すごい勢いで発進してどこかに行っちゃいましたけどね」
世良たちが駆けつけた時、左側車線には路上駐車している車など一台もなかった。たぶん事故が起きたことを知った持ち主たちが、とばっちりをくらうのを恐れて逃げたのだろう。そういえば道の反対側には二十四時間営業のコンビニエンス・ストアがあった。あそこの客なのかもしれない。
「その車は方向指示器を出していましたか」
「いや、出してなかった」と太田は断言した。「たしかですよ。だからトラックも驚いたんじゃないかと、私は想像しているんです」
「急ブレーキを踏む前に、トラックはクラクションを鳴らしましたか」
「鳴らしました。でもよほど突然のことだったんでしょうね。鳴らしていた時間は、ずいぶん短かったですから」
太田はかなり冷静な分析をした。目で見たものに較べて、耳で聞いたことというのは、記憶が曖昧《あいまい》になりやすいのだが、大したものだ。
「その、事故直後に発進した車の形なんかは覚えておられますか」
「覚えています。私は結構車種にはうるさいんですよ。黒のアウディでした。間違いありません」
「黒のアウディ……ナンバーは見ましたか?」
「いや、そこまでは見ていないんです」
「そうですか」
これだけでも、充分な収穫といえた。
電話を切ると、世良は福沢に相談してみた。進路妨害の疑いが出てきたわけで、福沢の目も険しくなった。
「何とかそのアウディを見つけたいな。他の目撃者を当たってみよう」
二人は昨日受け取った目撃者のリストを頼りに、二台の電話を使って問い合わせを開始した。質問の中心は、目撃した内容についてと、事故の前後に問題のアウディを見たかどうかだ。
だがそのリストの者たちは、いずれも事故の後で集まってきただけで、太田のように事故そのものを目撃したわけでも、その場に居合わせたわけでもなかった。したがってアウディも見ていない。
「やむをえんな」
時計を見ながら福沢はしかめっ面をした。正午で、世良たちの当直勤務は一応終わりだ。
「上には俺の方から報告しておくよ。しかしこの状況だと、アウディを特定するのは難しいかもしれんな。証拠があるわけでもないし」
「今夜、もう一度あのコンビニエンス・ストアに行ってみますよ。アウディの運転手も、あの店に入ったはずです」
世良の熱っぽい口調に驚いたのか、福沢は少し虚をつかれたような顔をした。
グリーンハイツというアパートは、碁盤の目のように区画整理された住宅地に建っていた。二階達ての、プレハブである。築年数を物語るように、外壁につけられた階段の手すりは鉄|錆《さび》だらけだった。
ここの二〇一号室が向井夫婦の部屋のはずだ。
世良はドアの前に立ち、玄関のチャイムを鳴らした。少し時間を置いてから、かすれたような声が中から聞こえた。××署交通課の世良です、と彼は大きな声でいった。誰がどこで聞き耳をたてているかわからないからだ。
ドアが開き、昨夜見たばかりの彼女の顔が現れた。目は相変わらず充血しており、頬の色は青白かった。
「事故の原因がわかったから、知らせに来たんだ」
世良がいうと、彩子の目が大きく見開かれた。そしてドアをさらに開くと、「入って」といって彼を招き入れた。
向井夫婦の部屋は、二人で住むなら狭くもないだろうと思える程度の2DKだった。入ったところがまずキッチンだ。ダイニング・テーブルの上に、伏せた茶碗や焼魚を載せた皿などが置かれている。おそらく彼女の夫が、昨夜食べる予定だったものだろう。
世良が通されたのは、四畳半の和室だった。テレビとビデオデッキと、小さな棚があるだけの部屋だ。
「通夜の準備やらで忙しいかとも思ったんだけど」
茶をいれてくれる彼女の横顔を見ながら世良はいった。
「あの人の実家ですることになったの。遺体はさっき引き取りにみえたわ。あたしもそろそろ出かけなきゃいけないんだけど、何も手につかなくて」
「わかるよ」と世良はいった。「御主人の実家は?」
「群馬よ。寒いところ」
彼女は世良の前に湯のみ茶碗を置いた。そこから立ちのぼる湯気を見ながら、
「結婚したのはいつ?」と訊いてみた。
「五年前……かな」と彼女は答えた。「少しの間だけど、ライナー運送でバイトしてたことがあるの。その時に知り合ったのよ」
「なるほどね」と世良は頷いて、「バイトって、学生時代にかい?」
すると彼女はほんの少しだけ唇の端を曲げて、「違うわよ」といった。
「あたしが大学なんて行くわけないじゃない。世良君だって知ってるでしょ、あの頃のあたしのこと」
「どうだったかな……」
ここでも忘れたふりをしたが、世良はよく覚えていた。彩子はいわゆる不良ではなかったが、学校側の指示を無抵抗に受け入れるタイプでもなかった。ある意味では、教師が扱いにくい部類の生徒だったかもしれない。その彼女が決定的に学校嫌いになる事件があった。あの、『寿司事件』だ。
世良たちの学校は、夏休み以外での生徒のアルバイトを厳しく禁じていた。しかし彩子は放課後、隠れて働いていた。近所の寿司屋で、自転車に乗って出前をしていたのだ。彼女の家は裕福ではなく、少しでも家計を助けようと思ってのことだった。
だが彼女が寿司桶を運んでいるところを見つけた者がいた。ふだんから彼女にちょっかいを出していた男子生徒だった。彼は彼女が寿司屋から出てくるところを待ち伏せし、バイトしていることを学校にばらされたくなければ、自分と付き合えと迫ったのだ。しかし彼女は彼の言葉を無視し、出前に行こうとした。するとその男子生徒は、いきなり自転車を蹴っとばしたのだ。彼女は転倒し、脚に二週間の怪我をした。また運ぶ途中だった寿司は道路に散乱し、その代金を彼女が支払わねばならなくなった。
このことがどういう経路からか、学校に知れた。生徒指導部の教師は二人を呼び、事の真偽をたしかめた。その男子生徒は、「彼女が校則を破っているので注意したら逃げ出した。それで引きとめようとしたところ、誤って自転車を倒してしまったのだ」と主張した。彼女はもちろん反論した。事実を泣いて説明した。男子生徒は横を向いて笑っていたという。
間もなく二人の処分が決定した。男子生徒は何も注意されず、彼女は三日間の停学となった。学校側が二人を呼んでたしかめたかったことは、彼女が校則を破ったのかどうかということだけだったのだ。
それ以来彼女はめったに学校に来なくなった。世良は遠くで彼女を眺めながら、何もできないでいる自分を腹立たしく思った。
「高校を出てから専門学校に行ったりしたの。でも就職口がなくて、結局バイトをしながら食いつないでたわ。格好よくいうとフリー・アルバイターね」
「そうして旦那さんと出会ったわけだ」
「そういうこと。あの人ったら、不器用な人でね……」
そこまでいいかけて語尾が揺れ、彩子はうつむいた。スカートの端を握りしめた拳に、涙が二つ落ちた。
世良はかけるべき言葉が見当たらずに黙っていたが、やがて彼女の方が、
「ごめんなさい」
と顔を上げた。「こんな話をしてる場合じゃないんだ。世良君の話を聞くんだったわ。事故の原因がわかったんでしょ」
彼女の話をもっと聞きたい気持ちはあったが、
「まだ断定はできないんだけれど」
こう前置きして、世良は黒のアウディの話をした。彩子の夫は、咄嗟によけようとして事故を起こしたのではないか――。彼女は真っすぐに彼の目を見返してきた。真摯《しんし》な眼差しが、より一層熱を帯びたようだ。
「そのアウディの持ち主はわかったの?」
「いや、まだこれからだよ。正直いって難しいけどね」
「そう」と彩子は唇を噛んだあと、「もし持ち主がわかったら、今度の事故の責任をとってもらえるのかしら」と訊いた。
「ある程度はできると思う」と世良は答えた。「目撃者の話では、アウディはウィンカーも出していなかったらしいんだ。それが事実なら、当然進路を妨害したということになるからね」
「そういう規則があるのね」
「そうだよ」
彩子は頷いた。そしていった。
「そのアウディの持ち主がわかったら、すぐにあたしに教えてくれる?」
「もちろんそのつもりだよ」と世良は答えた。
「お願いね」
そういって彩子は大きな目で宙を見据えた。その表情は間違いなく高校時代にはなかったもので、世良は思わずどきりとした。
この夜、世良はもう一度事故現場を訪れた。といっても彼の目的は破壊された分離帯を見ることではなく、そばのコンビニエンス・ストアに行くことだった。
昨日会った店員が、この夜もレジのところにいた。たぶん一週間交代か何かで夜勤をしているのだろう。世良は制服ではなかったが、店員の方も彼のことを覚えていた。
世良は、昨夜の事故直前に店内にいた客のことを訊いた。数人いたという話だったが、その中に馴染みの客はいなかったか。さあ、どうだったかなと店員は首を傾《かし》げた。
「思い出してほしいんだよ。どういう客がいたか」
「そういわれましてもねえ。……何にしても、うちのお客さんはあの事故には関係ないはずですよ」
店員の口調は、昨夜に較《くら》べて少し歯切れが悪くなっていた。おそらく上司から注意があったのだろう。客に迷惑がかからないようにしろ、と。事故現場のそばに、この店に入るために路上駐車した車があったことは、彼等にしても承知しているのだ。
「じゃあね、アウディに乗ってきた客がいたはずなんだけど、知らないかな」
「さあねえ」
店員は薄笑いを浮かべて、レジスターのキーを叩いた。出てきたレシートを客に渡す。
それを見て閃《ひらめ》くことがあった。
「ねえ君、昨夜のあの時間にどういう売上があったのかは、全部この機械に入っているんだろう? ちょっと見せてくれないかな」
え、と店員は目を丸くした。
「構わないだろう? 何なら、署の方から正式に頼んでもいいんだけれど」
強引にいうと、
「ちょっと待っててください」
店員は上司に連絡をつけるためか、店の奥に入っていった。その間世良は雑誌売り場のあたりに立ち、トラックが激突した分離帯を眺めていた。
――おや?
世良が目をみはったのは、問題の場所に路上駐車した車があったからだった。赤のスプリンター・トレノだ。そこから降りてきた学生風の男が、分離帯を跨《また》いでこちらに向かってくる。横断歩道は二十メートル先にあるのだが、遠回りをしたくないらしい。
その学生風の男が入ってくるのと、奥から店員が出てくるのが同時だった。店員が、あっという顔をした時、学生風の男がいった。
「やあ。昨日の事故、あれからどうなった?」
学生風の男は小林と名乗った。小林は何度も、「昨日と今日だけなんです」を繰り返した。路上駐車のことをいっているのだ。
「今後はやらないようにね。ところで――」
世良は小林の車の横に立ち、昨夜前か後ろに黒のアウディが止まっていなかったかと訊いた。小林はぽんと手を叩いて、
「止まってました。俺がアウディの前に止めたんですよ」といった。
「なるほど。ところで君は事故が起きたと知るや、すぐに買い物を済ませて逃げたといったね」
「逃げたわけじゃなく、いろいろと迷惑になってもいけないと思って……」
あとは口の中でごまかした。
「まあいいさ。で、君が出る時に、アウディはもういなかったのかい」
「ええ、いなかったです」
「君が店を出る前、つまり事故の直前に店を出た人間のことを覚えているかい?」
「えっ、どうかな」
小林は長い前髪を何度もかきあげたあと、
「おばさんだったような気がするな」
「おばさん……どういう感じの?」
「忘れちゃったな。おばさんのことなんか、しっかり見てねえもん」
世良は一枚のコピー用紙を出した。そこには昨日の事故前後の、コンビニエンス・ストアでの売上内容がコピーされている。時刻と金額を打ち出したものだ。
「君が買い物をした時のものはどれかな」
世良が訊くと、小林は真剣な表情で見つめたあと、確信に満ちた顔で指差した。
「これですよ。この百十五円が五個っていうのは、カップラーメンなんです」
翌日、世良は福沢に事の次第を説明した。だが福沢の表情は冴えない。
「たしかに貴重な手がかりだとは思うが、それだけで問題のアウディを特定できるかどうかだな。コンビニエンス・ストアの店員が顔でも覚えてりゃ別だが」
「もう少し目撃者を探してみれば、何とかなると思うんですが」
「しかしこれから先、何かを見たという人間が現れるとは限らないからなあ」
福沢は腕を組む。彼のいうとおり、交通事故の場合、証人があとから出てくるということは殆どない。
「せめてナンバーの数字ひとつでもわかればいいんだが、それすらないとなると、仮にアウディが見つかったとしても、その日はそんなところに行ってないといわれる恐れもあるからな」
「それはそうですが」
世良は反論しようとしたが、彼の肩に手を置いて福沢はいった。
「死んだ運転手の奥さんが同窓生ということで力が入るのはわかるが、とりあえず今回はここまでにして書類を作ってくれ。もちろん事故原因は継続して調べるということで、目撃者の調書もとっておいてくれればいい。それからコンビニエンス・ストアの客の話もな。まあとにかく事故はこれだけじゃない。今すぐにでも次の事件が起きるかもしれないということを忘れないでくれよ」
まるでなだめるような口調だ。世良は決して納得したわけではなかったが、自分の意見を通しても、福沢が困るだけだということもよくわかる。胸の中にもやもやが残っているのを自覚したまま、彼は頷いた。
事故から三日後、署で待機していた世良のところに、彩子の方から電話がかかってきた。進展状況はどうかと尋ねてくる。今日の仕事の帰りに喫茶店で待ちあわせることにして受話器を置いた。
――進展状況……か。
俺の仕事は何なのだろうと世良は思った。人ひとりが死んだというのに、その原因を探ることもしないで、何が交通課事故係だ。
しかしこの不満を福沢にぶつけるわけにはいかなかった。実際あの事故以後にも、何件かの人身事故が起こっており、まるで教師がテストの採点をするように書類を仕上げていかなければならないのも事実なのだ。
約束の喫茶店には少し早く着いたが、それでも彩子が先に来ていた。それが彼女の期待度を示しているようで、世良は少し辛かった。
「葬式に出たかったんだけど」
テーブルにつき、コーヒーを注文してから彼はいった。
「いいのよ、忙しいんでしょ。あんな儀式、形だけのものなんだから。焼香に来た人なんて、あたしの知らない人ばっかり」
彩子は吐き捨てるみたいにしていった。こういう台詞《せりふ》が出るところをみると、一時のショックからは、かなり立直ったのかもしれなかった。
「それより、アウディのことで何かわかった?」
思いつめたような目を向けてきた。世良はついうつむき加減になり、
「正直いって、進展はないんだよ」
と小声でいった。彼女の顔に失望の色が広がっていく。彼は上着のポケットから、コンビニエンス・ストアで貰ってきたレシートの写しを取り出した。そして店員や、赤のスプリンターに乗った客から聞いた話を彼女にした。
「じゃあ手がかりがないというわけでもないのね」
彼女はレシートの写しを真剣に見つめていた。そこから人物像を嗅《か》ぎつけようとしているようだ。
「ねえ、もし」と彼女は世良の顔を見ていった。「もしアウディが見つかっても、本人が進路妨害なんかしてないって主張したらどうなるの?」
「そんなのは関係ないよ。書類はきちんと検察庁に送るさ」
世良はきっぱりといった。「よくあるんだよ。ひどいのになると、当てたくせに当ててないって主張する輩《やから》もいる。現場から逃げたってことは、認める意思がないってことだからね。だけどそんなのは見逃さないさ。こっちには目撃者がいるんだ。調書もとってある。必ず責任を追及してみせる」
これを聞いて彩子は安心したようすだった。少しだけ唇を緩《ゆる》めて頷いた。
「もっとも現在のところでは、肝心のアウディを見つけられる見通しがたってないんだけどね」
世良は頭に手をやった。それで彩子も下を向いたが、レシートのコピーを手に取ると、「ねえ、このコピーを借りてもいい?」と訊いた。
「それはいいけど、どうする気だい?」
「うん。ちょっと……」
そういって彩子はコピーをバッグの中に入れた。そしてコーヒーの残りを飲むと、どこか遠くを見るような目をして呟《つぶや》いた。
「あたしにとって、大事な人だったのよ。その人を殺しておいて知らん顔してるなんて、あたし、絶対に許さないわ」
彩子がどういう方法でアウディを見つけるつもりなのか、それを世良が知ったのは、それから一週間後だった。何となく気になって電話してみるが誰も出ない、そんなことが三日続いたので、ふと思いついて事故現場に行ってみた。すると例のコンビニエンス・ストアに彼女はいたのだ。
彩子は雑誌売り場で、主婦向けの雑誌を立ち読みしていた。といっても彼女の目は誌面に向いていない。ガラス越しに、道路の方を見ていたのだ。
世良が近づいていくと、彼女も気がついたようすだった。小さく手を振っている。
「驚いたな。ずっと見張っているのかい?」
店に入り、彼女のそばに行ってから話しかけた。幸い先日の店員ではなく、世良の顔は知られていない。
「アウディの客は必ず来るわ」と彼女はいった。「それまでここで待ってるつもり」
「気持ちはわかるけど、それはどうかわからないよ。ずっと遠くに住んでいて、あの夜だけたまたまこの店に寄ったってことも考えられる」
彼女の横に立ち、同じように雑誌を読むふりをしながら世良はいった。
しかし彩子は首をふった。
「住んでいるのはこの近くよ。あのレシートを見て確信したの」
「レシート? なぜだい」
「買った品物の中に、コオリというのがあったわ。袋に入った氷を買いに来たのよ。家がそんなに遠くだと、溶けちゃうじゃない。アウディなんて乗ってるってことは、会社の部長夫人か何かよ。たぶん突然の客が来て、水割りの用意をしていたら、氷が足りないことに気づいて慌てて買いに来たのよ」
なるほど、と世良は感心した。さすがに女性の目は違う。レシートは何度も見たが、そんなことは少しも思いつかなかった。
「それからたぶん」と彼女は続けた。
「その女性客は『クック・ロビン』を買うんじゃないかと思う。だから来週の金曜あたりが狙い目かも……」
「クック・ロビン? 何だい、それは」
「これよ」
といって彩子が手にとったのは、外人女性の笑顔が表紙になっている雑誌だった。世界各国の家庭料理の作り方を紹介している本らしい。
「隔週の金曜に出るのよ。あのレシートに、ザッシ¥540というのがあったわ。この雑誌が五百四十円、中年の女性ということから、この本に違いないと思う」
これまた鋭い読みだと世良は思った。この手の雑誌を集める人間は、毎号買わないと気がすまないというところがある。
「すごい推理だよ。それなら見つけられるかもしれない」
「うん」と彩子は頷いた。「あたしもそう信じてる」
「で、何時から何時までここにいるんだい?」
「ええと今日は」彼女は腕時計を見て、「九時からかな」
世良は目を剥《む》いた。ということは二時間近くここにいることになる。
「何時までいるつもりなんだい?」
「十二時頃まで」
一瞬声を失い、それからゆっくりと首をふった。どうりで先程から店員が胡散《うさん》くさそうに見るはずだ。
「君の気持ちはわかるけど、あまり遅くまでいるのは危険だよ。タチの良くないのも、このへんは少なくないからね」
「大丈夫よ、隙《すき》を見せたりしないもの」
「君がいくら気をつけていても駄目なんだよ。だいたい君はどうやってここまで来たんだい?」
彩子は車を持っていないはずだった。
「タクシーで来るのよ。帰る時も無線タクシーを呼ぶの」
世良はもう一度首をふった。それから大きく頷き、
「よし、こうしよう。俺も付き合うよ。車の中で二人で見張ろう。そうすれば店員に変な目で見られることもない」
「悪いわ、そんなこと」
今度は彼女がかぶりをふった。
「悪くなんかないさ。これも仕事の一環だよ。いや、でも二人きりが嫌だというなら、俺の車を貸すだけでもいい。運転はできるんだろ?」
世良はポケットからキーを出した。それと彼の顔を交互に眺めたあと、
「車はどこに止めるつもり?」と彼女は訊いた。
「もちろん路上駐車さ。すぐに追えるようにね」
世良は片目をつぶって見せた。
次の日から二人での張り込みが始まった。世良は仕事を終えて警察署を出ると、食事してから彼女を迎えに行く。彼女を助手席に乗せると、アウディが止まっていたという場所から約十メートル後方に車を止め、あとは二人で目を光らせた。
「どうしたんだ。最近はやけに機嫌がいいじゃないか」
署で仕事をしている時、福沢や同僚からこんなふうに声をかけられることが多くなった。傍《はた》からだと、何となく浮き浮きして見えるらしい。そんなはずはないんだが、という気持ちと、そうかもしれないと思う気持ちが半々だった。
二人きりで見張っていると、どうしても会話は高校時代のことに及んでしまう。そうすると彼女のことを思い続けていた、あの頃の自分が蘇《よみがえ》ってくるようだった。そしてその憧れの彼女が、今は手の届くところにいる。
「もしもあの事件がなかったら」
目はじっと前方に向けたままで、彩子はいった。「あたしの人生はもっと違ったものになっていたはずだわ。勉強も真面目にしたと思うし、やっぱり大学にも行ったと思う。もちろん、それが今より良い結果を生んでいたかどうかはわからない。でもね、あたしは一番大切な時期に、一番大切なものを奪われたと思っているの」
世良は黙って聞いていた。あの事件、とはあれのことだ。例の寿司事件。彼女の人生を変えることになった事件。
「規則なんて、人間がつくったものよね」と彼女はいった。「それが一体何だっていうのよ。どうして家のために働いてた人間が三日間の停学で、その邪魔をした人間が何の注意もされなくて済むのよ」
「規則というのは諸刃《もろは》の剣なんだよ。自分を守ってくれるはずのものが、ある日突然自分にしっぺ返しをする。だからその剣を使う人間が重要だということになるね。無能な木偶の坊だと、ただそれを型通りに振り回すだけだということになる」
「あの教師たちは無能だったわ」
彩子は永遠の恨《うら》みをこめるように、いい放った。「まるでテープレコーダーみたい。校則で決まっているから――これよ。でもあたしは怪我したんですよっていったら、何もいわないでニヤニヤしているだけ」
「目に浮かぶようだね」
「世良君……世良君も法をあずかる仕事だけど、そんな無能な人間にはならないでね」
「努力するよ」
そういって彼は笑いかけた。
こんなふうな会話をしながら張り込みを続けて十二日目、ついに黒のアウディが彼等の前に現れた。
車が止まり、女性が左側のドアを開けて出るのとほぼ同時に、世良も車を降りていた。そして彩子も続く。二人はアウディの女性と同じように道路を横切って、コンビニエンス・ストアに入った。
セミロングの髪に軽くウェーブをかけた、やや太った体形の女性だった。茶色のカーディガンは安物ではなさそうだ。部長夫人という彩子の推理は、案外近いのかもしれない。重役夫人までいけば、こんなところへ買い物には来ないように思えるからだ。
女性は何かを探す目で店内を歩き回っていたが、結局目指すものは見つからないようすだった。世良は彩子と目で合図しながら女性の動きに注目する。女性が雑誌のコーナーに行くと、二人もそのあとに続いた。
太った女性は婦人雑誌のあたりをさっと見渡すと、殆どためらいなく一冊の本に手を伸ばした。『クック・ロビン』だ。そして彼女がそれを持ってレジに行くのを確認して、世良と彩子は店を出た。
「間違いないわ」
彼女の声は興奮のあまり、少し上ずっていた。「あの女はあの雑誌をここで買うことに決めているのよ。あの時もそう」
やがて女が戻ってきた。左側からアウディに乗り込む。発進する時に指示器を出さないのを見て、世良は確信を深めた。
翌日他の仕事で外出した帰りに、世良はC町に寄った。高級分譲住宅が立ち並んでいるあたりだ。その中の、石井という家の前で彼は足を止めた。駐車場には黒のアウディが止まっている。ということは、亭主は電車通勤か。
門の横にあるインターホンを鳴らす。少し時間を置いて返事があった。女の声だ。昨夜の女に違いないと世良は思った。
××署交通課の者ですが――こういうと相手は絶句したようだ。何の反応も聞こえぬまま、いきなり玄関のドアが開いた。
「ここから五百メートルほど北に行ったところの白石街道で、二週間ほど前トラックが横転する事故があったことは御存知ですね?」
玄関に立ったまま訊いてみる。女は不機嫌さを露《あらわ》にしたまま、「ええ」と低い声で答えた。
「じつはその夜、道路脇に黒のアウディが止まっていたのを、何人かの人が目撃しているんですよ。近くのコンビニエンス・ストアで調べたところだと、どうやらこちらの車のようなんですが、間違いありませんか」
多少の脚色はあるが、嘘はいっていない。この女は、「おしゃべりな店員のいるコンビニエンス・ストア」には、二度と足を運ばないことだろう。
「そうですけど、別に悪いことはしてませんよ」
女は渋々認めた。路上駐車を悪いことだとは思っていないらしい。
「で、問題なのはここからですが」
世良は黒のアウディが突然頭を出したところを目撃した人間がいること、トラックはそのせいでスリップしたと考えられていることなどを話した。案の定《じょう》、女の顔は険しくなった。
「そんなこと、誰がいってるんですか。あたし、そんなことしていません」
唾《つば》が飛び、世良の顎《あご》のあたりまで達した。彼は少し下がりながら、
「しかし事故直後にあなたの車が発進したのは事実でしょう?」
「それは……偶然ですわよ」
「でもですね、トラックは急ブレーキを踏む前にクラクションを鳴らしているんですよ。ということは、トラックの前に何か進路を妨害するものがあったということです。そうなると石井さん、あなたの車しか考えられないんですよ」
「そんな妨害なんて、してません」
女は横を向いてしまった。よく経験する局面だった。誰がいい出したのかは知らないが、交通事故を起こした時でも、警察が何といおうと自分の非を認めなければ何とかなるという考えが、一般ドライバーに広まっている。
「石井さん、人がひとり亡くなっているんですよ」
世良がいったが、女は腕を組んだだけだ。それがどうしたという顔をしている。
「正直に話していただけませんか」
それでも無視だ。黙っていればいいと思っている。
「わかりました」と世良はいった。「あくまでも否認されるなら、それでも結構です。ただこちらとしては調書を作らねばなりませんので、免許証を御持参の上、署まで来ていただけますか」
ここでようやく女は彼の方に視線を戻した。赤い口紅を塗った口元が歪《ゆが》んでいる。醜い顔だ。
「調書を作って、どうするんですか」
「検察庁に送ります。目撃者は見たといい、あなたは進路妨害などしていないという。そうなれば裁判で決着をつけるしかありません」
女の顔に明らかな脅《おび》えの色が現れた。裁判になればどういう結果が出るかわからない。それが彼女を不安がらせているのだ。
「今日中に署の方に来てください。受付で、交通課の福沢主任の班だといっていただければ結構です」
「待ってください」
女は何か不味《まず》いものでも口にしたような顔を作ると、口を歪めたまま、「わかりましたよ。あのことをしゃべればいいんでしょ」といった。
「あのこと?」
「トラックがブレーキ踏んだのはね、前をあたしが通ったからなんですよ。だいたいあそこに横断歩道がないのがいけないのよ」
「ちょっと待ってください。トラックの前を通ったというのは、奥さんが歩いて道路を横切ったということですか」
「そうですよ。あのトラックにしてもスピード違反だわ」
「いや、でもそれだとおかしいですね」
世良は必死で情景を思い浮かべながらいった。「トラックはブレーキのあとで右にハンドルを切っているんですよ。それは左に障害物があって、それをよけようとしたことを物語っています」
「だから」と女は眉の間に何本も皺《しわ》を作った。「道路を渡ったんですけど、途中でサンダルの片方が脱げたんですよ。それで間に合うと思って――」
「また道路に飛び出したところ、トラックがそれをよけようとして右に切ったと……。しかし目撃者は事故直後にアウディの先端が出ていたことを覚えているんです」
「それはね、あたしがそういうふうに停車させる癖があるからなの。おまわりさんも左ハンドルの車を運転してみなさいよ、結構難しいんだから」
つまりアウディは停車している時から先端をはみ出させていたということなのか。そしてこの中年女が歩いて道路を行ったり来たりしたために、彩子の夫は死んだと――。
「一応」といってから世良は唾《つば》を飲みこんだ。「一応それでも調書はとります。署に来ていただけますね」
「しかたないわね」
女は鼻から息を吐き出した。「でもおまわりさん、あたしは別に罪にはならないんでしょ。あの時は歩行者だったんですものねえ。こういう時はトラックの、前方不注意ってことになるのかしら」
頬を曲げ、かすかに薄笑いを浮かべていった。あまりの醜悪さに、世良は吐き気を催《もよお》した。
彩子の顔は能面のようになった。世良が事情を話した直後のことだ。血の気がひいて真っ白になり、表情が死んだ。
世良は彼女の前につっ立ったまま、首をうなだれた。何かうまい説明をしたかったが、的確な表現が何ひとつ浮かんでこなかった。
「要するに」
彩子の声で彼は顔を上げた。彼女は空間のどこかを見ているという目で、表情をなくしたまま、唇だけを動かした。
「要するに、あの女には何の責任もない、ということなのね」
「調書は送るけれど……」
不起訴になるのは確実だ、という続きを彼は飲みこんだ。
「ふうん」
彩は鼻を鳴らし、まるで風に揺れるように首を動かした。「うちの人は、あの中年女の身代わりになって死んだということなのね。だけどあの女は悪くないというわけなの。道路を歩いて横切って、おまけにトラックの前に飛び出したりしたっていうのに。法律によると、そういうことなのね」
世良には返す言葉はなかった。たしかにそれが法律なのだ。二人乗りの自転車が一旦停止を無視して走り抜け、交差点で車にぶつかったとする。この場合でも車が全面的に責任を負うことになる。馬鹿げたことに、二人分の治療費を払うことになるのだ。しかしそれが現在の道路交通法だ。
「ごめん」と世良はいった。「俺は無能だよ。無能な木偶の坊だ」
すると彩子は初めて彼の顔を見た。だが能面のような顔に変化はない。唇だけを動かして、彼女はいった。
「そのとおりよ」
それから一週間後――。
世良が泊りの夜、またしても白石街道付近で人身事故が発生した。だが今回は街道ではなく、少し入ったところのC町のあたりだということだった。
C町?
嫌な思い出のあるところだと世良は顔をしかめた。あの事件を忘れるには、あとどのぐらい時間が必要なのだろう?
現場に向かいながら、例によって福沢が無線で状況を聞く。黒のアウディが自宅の駐車場を出て数十メートル走ったところで、前を通りかかった若い女性をはねた――。
「黒のアウディ?」
ハンドルを切りながら、世良は声を出していた。
現場に着くと、救護隊が担架で怪我人を運んでいるところだった。彼は福沢が呼ぶのも無視して、駆け寄っていった。
彩子だ。やはり彼女だ。思ったとおりだった。
「大丈夫かい、俺だよ」
彩子の額の右のあたりには切り傷があり、赤黒い血がこびりついていた。世良が呼びかけると、彼女は彼に気づいたようだ。そしてかすかに唇が動くのを彼は見た。
救護隊が彼女の身体を救急車に運びこみ、サイレンを鳴らして去ったあとも、世良はしばらくその場に立ち尽くしていた。彼女の唇の動きが瞼《まぶた》に焼きついている。声は聞こえなかったが、何をいったのかははっきりとわかった。お・ね・が・い・よ――お願いよと彼女はいったのだ。
「おい、世良」
福沢に呼ばれて我に返った。黒のアウディを運転していた人間の事情聴取をせねばならない。
太った中年女は世良の顔を覚えていた。少しでも顔見知りだと便宜をはかってくれるとでも思うのか、やけになれなれしく話しかけてくる。この間とは大違いの態度だ。
「飛び出してきたんですよ、あの人。全然こちらを見ずにいきなりでした。あれじゃ、よけられるはずがないわ。自殺でもする気だったんじゃないんですか。ねえおまわりさん、こういう場合にはあたしの方には責任はないんでしょ?」
早口でまくしたててくる。しかし世良は何とも答えなかった。福沢が型通りの質問をし、パトカーに乗るようにいう。
「ねえ、信じてくださいな。あの人、本当に自分から当たってきたんです」
署に向かうパトカーの中でも、女はしゃべり続けていた。被害者の女性から話を聞けばわかるからと福沢がいうと、
「そうですよね。でもあの人、正直に話してくれるかしら。まさか嘘をつくなんてことは……」
女は不安そうな顔をした。
世良は彩子のことを考えていた。法律はほんの少し何かがズレるだけで、敵にも味方にもなる。彼女は自分の身を投げ出して、その分離帯を越えたのだ。
白石街道に出て署に向かう。つい先日トラックによって破壊された中央分離帯は、早くも補修がなされていた。
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危険な若葉
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大きくハンドルを切り、橋の手前を左折した。途端に周囲が暗くなる。それで一瞬スピードを緩《ゆる》めたが、またすぐにアクセルを踏みこんだ。
――ここまで来ればあとは早いな。
時計を見て、男は満足した。今夜は思ったよりも早く帰れそうだった。見たいテレビ番組にも間に合う。
D市を横断している高速道路の側道は、主要幹線道路に出るための便利な抜け道で、地元のドライバーならば誰でも知っている。距離が短くなる上に信号がないので、急いでいる時には助かるのだ。
欠点は街灯が少ないことと、道幅が狭いことなどである。それに舗装の状態もあまりよくない。一方通行なので車同士がすれ違うことはないが、たまに人が歩いていたりすると、かなり注意を要するのだった。今日のように雨上がりの状態だと、いたるところに水たまりができていたりする。
男は前方に気をつけながら、快調に車を飛ばした。右側には高速道路の壁があり、左にはキャベツ畑が広がっている。道は適度に曲がりくねっていた。
少し走ったところで、
――ちっ、ついてねえな。
男は舌を鳴らした。前方に車のテールランプが見えたからだ。急いでいるだけに、この道を一気に走り抜けたいところなのだが、前に遅い車がいるのではそれもできない。
男はスピードを保ったまま前方の車に近づくと、その手前でブレーキを踏んだ。先行車は思った以上に遅いようだ。後方から車が来たというのに、急ぐようすもない。
「何をぐずぐずしているんだ。ここで飛ばさなきゃ意味がないじゃないか」
男はぼやいた。だが前の車のテールを見て、彼は事情を了解した。初心者であることを示す、若葉マークがついていたのだ。
「例によって、か」
男は呟《つぶや》いた。同時に底意地の悪い考えが湧き起こった。
アクセルを踏み、車をぐいと加速する。前の車のテールが、すぐ目の前に迫った。ナンバープレートが、こちらの車のボンネットで隠れてしまうほどだ。
さすがにあわてたのだろう、前の車がスピードを上げた。少し車間があく。そこで彼はさらにアクセルを踏んだ。メーターの針が上がり、差がまた縮まった。
ぴったりとついたまま両車の速度は増していく。カーブが多いので、ハンドル操作も易しくはない。初心者マークをつけたドライバーがどんな必死の形相《ぎょうそう》をしているのか、見てみたいものだと思った。
カーブのたびに前の車のストップライトが点灯した。そうなると彼としてもブレーキを踏まざるをえない。
――ちんたら走りやがって。
次のカーブにさしかかる前、彼は少し車間をあけると、ヘッドライトをハイビームにして前方の運転席を照らした。乗っているのはドライバーひとりのようだ。
なおもライトで威圧しながら、車間をつめていく。もう充分にスピードが出ているのだが、彼の目的は急ぐことではなく、運転に不慣れな若葉マークをいたぶることに変わっていたのだ。
煽《あお》られるのに嫌気がさしたらしく、初心者ドライバーもどうやら思いきってアクセルを踏みこんだ。速度がまた少し上がる。逃がすものかと、男も右足に力を入れた。
その時だ。
少し急なカーブにさしかかり、前の車がブレーキを踏みながらハンドルを切ったのだ。濡れた路面の上で当然のようにタイヤはスリップし、悲鳴を上げた。
――やばいっ……。
男がそう思った瞬間、前の車はカーブを曲がりきれず、タイヤを鳴らしながらそのまま外へ流れた。
やがて激しい音がして車はガードレールにぶつかった。
だがそれだけでは済まない。
車間距離を殆《ほとん》どとっていなかったため、男の方も対応が間に合わなかったのだ。急ブレーキを踏んだが止まりきれず、左の先が前の車の後部に当たった。その瞬間尻が浮き、男はフロントガラスに頭を打ちつけた。
ようやく車が停止すると、男は頭をこすりながらあわてて外に飛び出した。ガードレールに激突した車に駆け寄ってみる。
運転手は女だった。ハンドルを両手で握り、その間に顔をうずめるようにしていた。
男はおそるおそる近づくと、窓ガラスをこつこつと叩いてみた。しばらく、女は全く動かなかった。死んだのか、と彼は思った。もしそうならどうすればいいかを考えた。警察はこの状況を見て、どう思うだろう。
その時女の頭が動いた。むっくりと起き上がると、首を捻《ね》じって彼の方を見た。
歳は三十代といったところだ。顔に外傷はなかった。
――生きているようだな。
男はとりあえず安堵した。
運転手の女性は、彼の顔を見て何かいっているようだった。唇がかすかに動いている。そしてその目も何かを訴えているようで、彼はどきりとした。
「大丈夫、そのうちに誰か来るさ」
男は彼女にではなく自分に言い訳しながら後ずさりした。ここに留まっていれば、厄介なことになるのは目に見えていた。
幸い自分の車の方に異状はなかった。彼は素早く乗りこむと、急いでその場を逃げ出した。
通報したのは、通りかかった中年のドライバーだった。
「ここは暗いしカーブが多いので、すぐ近くに来るまで気がつきませんでしたよ。最初は駐車しているのかなあと思ったんです。ひどいところに停めてやがると内心ぼやいてたんですけどね、事故車だとわかった時には驚きました」
「ほかに何か見ませんでしたか。走り去っていく車だとか」
交通課事故処理班の三上が訊《き》いた。中年男は首をふった。
「見ませんでした。通りかかったのは、私が最初じゃないですか。でなけりゃ、もっと早く大騒ぎになっていたでしょう」
「ふつうはそうですが、あなたのように的確に対処する方ばかりじゃないのでね」
三上がお世辞半分にいうと、
「通報もせずに見捨てていくっていうんですか。へえ、そんな人間がいるんですかねえ」
中年男は禿《は》げ頭をつるりと撫《な》でた。
通報者からの事情聴取を終えると、三上は事故車に近づいた。白の大衆乗用車だ。ファミリーカーや主婦用のセカンドカーとして人気が高い。排気量は一二〇〇t。その車の左前部から側面がつぶれている。
今朝からの雨で路面が濡れていることもあり、カーブを曲がりそこねてガードレールにぶつかったものと判断できた。
「特にこれだしな」
後部に貼りつけてある初心者マークを指でつつきながら、三上は呟いた。最近は初心者ほどスピードを出す。
「おい、ちょっと」
主任である篠田巡査部長が三上を呼んだ。篠田は小柄だが胸板は厚く、ごつい感じのする上司である。
「ここを見てみろ」
篠田が指さしたのは、右側面の一番後端だ。
「凹んでますね」
タイヤの横にしゃがみこんで、三上はいった。明らかに何かが当たった形跡がある。
「どうしてこんなところが凹んでいるのだと思う?」
篠田が訊いた。
「どうしてって……以前にぶつけたんでしょう。あるいはぶつけられたか」
「いや」
篠田は首をふった。「以前じゃない。これはぶつかったばかりの跡だ。よく見てみろ、塗膜片がついてる」
いわれて三上は懐中電灯で照らして凝視してみた。なるほどたしかに黒っぽい塗膜が付着している。
「すると、追突?」
「だろうな。ただし、それが事故とどう関わっているかはわからない。事故車の脇を抜けようとして、過《あやま》って当ててしまったのかもしれん」
「いずれにしても、本人の口から話を聞くのが先決のようですね」
「そういうことだ。家族には連絡したか」
「しました。すぐに病院に向かうということでした」
「じゃあ我々も行こうか」
篠田は立ち上がった。
福原映子というのが、事故を起こした女性の名前だった。年齢は三十三歳。免許証の住所に三上が電話したが、予想に反して映子は独身だった。電話に出たのは、同居している妹だ。事故のことを聞くと、ひどく取り乱していた。
病院に着くと、窓口で状況を尋ねた。現在治療中で、家族の者が待合室にいるということだった。
三上たちが待合室に行くと、一人の女性が立ち上がって会釈《えしゃく》した。髪が長く、日本的な顔だちをしている。
福原真智子と彼女は名乗った。三上が電話で話した女性だった。かなり落ち着きを取り戻しているようすだったが、顔色はあまりよくなかった。
「信じられませんわ」
待合室のベンチに座り直すと、真智子はまずこう切り出した。「姉はたしかに免許を取ったばかりですけど、それだけにすごく慎重な運転を心がけているんです。決して無理をしませんし、交通標識なんかも融通《ゆうずう》がきかないぐらいに守るんです」
「それを融通がきかないとはいいませんよ」
横から篠田がいった。それで彼女も少し表情を和《なご》ませた。
「その姉がそういう事故をするなんて、本当に信じられないんです。雨の日なんかは、特にスピードを落とすはずなのに」
「でも我々が見たところでは、かなりスピードを出していたようでした。だからカーブで曲がりきれずにスリップしたのです」
三上がいうと、そんな話は到底承服できないというように、真智子はかぶりをふりながら吐息《といき》をついた。
「そんなことのできる人じゃないんです。何か事情があるとしか思えませんわ」
「御本人が何とおっしゃるかですね」
三上の言葉に真智子も頷《うなず》いた。
彼女によると、福原映子はリハビリテーションセンターの指導員をしているということだった。そのセンターは、市の北端にある自然公園のそばに建てられている。その付近にはテニスコートや美術館なども並んでいた。
映子が免許を取ったのは二ヵ月ほど前らしい。今までは忙しくて自動車学校に通う暇もなかったのだが、仕事が増え、帰宅時刻が遅くなると、バスや電車を乗り継いでの通勤はきつくなり、思いきって自動車通勤をすることにしたのだという。
車を買ったのは一ヵ月前だが、毎日のように乗っているので、免許を取ってから何年にもなるペーパードライバーよりは格段に運転技術はあるはずだと真智子は強調した。
そんなことを話しているうちに、治療室から映子が出てきた。頭と首に包帯を巻いている。看護婦に付き添われ、まだ呆然としたようすだった。
「お姉さん、大丈夫?」
真智子が駆け寄った。映子は目をうつろに開いたが、言葉は出てこなかった。
彼女らのあとから医師が出てきた。四十過ぎのインテリ風の男だった。三上たちを見て、目くばせした。
「どうですか?」
と篠田が訊いた。医師は難しい顔をした。
「思ったよりも軽傷で、骨にも異状はありませんが――」
「何か?」
「頭が重くて痛いというんですよ。それに意識もあまりはっきりしていないようです。レントゲンをとりましたが……」
「事情聴取は可能でしょうか」
「短い時間ならいいでしょう。でも看護婦の指示にしたがって下さい。考えごとをするのが辛いようですから」
わかりました、と篠田は答えた。
二、三日入院が必要だろうということで、映子は病室に移された。気になるのは、病室のベッドに腰かけるまで、彼女が一言も口をきかないということだった。
「福原さん、少しいいですか。事故について、お訊きしたいのですが」
篠田が彼女の顔を覗きこみながらいった。だが彼女の顔には何の反応もない。そこに警官の姿などないように、目の焦点がさだまらない。
「福原さん……」
もう一度篠田が呼びかけた。しかし表情は同じだ。やがて真智子が、
「お姉さん、しっかりして」
と声をかけた。するとここでようやく映子の顔が動いた。彼女は首を動かして真智子を見ると、夢見るような目をしていった。
「あたし、どうしてこんなところにいるの?」
「部分的な記憶喪失、とでもいうのかな」
翌朝早く、現場検証の補充調査を行っている時に篠田がいった。福原映子のことだ。昨日彼女はとうとう事故のことを思い出さなかった。事故だけではない。ここ一週間ほどのことを、全く思い出せないでいるのだ。
「精神的なもの、と医者はいってましたけどね」
だから時間が経《た》てば、徐々に記憶が蘇《よみがえ》るのではないかということだった。あまり自信のある口調ではなかったが、あの医者にしても、こういう症状に遭遇するのは初めてなのかもしれない。
「ところで」
スリップ痕を調べていた篠田が、やや険しい顔になっていった。「福原映子のスリップ痕はいいとして、もう一つ別の車のスリップ痕があるな。位置が全然違うし、タイヤの間隔も違う」
「例の追突した車でしょうか」
「たぶんそうだろうな。このあたりでスリップして、先に事故を起こしていた福原映子の車にぶつかったのだろう。直接の加害者ともいえないが、ほうっておくわけにもいかん。福原映子の話次第では、例の塗膜片からの割り出しを急ぐことになるかもしれない」
そういう厄介なことにはなってほしくないと、篠田の曇った表情が語っていた。
調査を終えたあと、三上だけは改めて病院に出向いた。何とか早く映子から話を聞き出したいのだ。
病室では真智子が姉の世話をしていた。昨夜は一旦自宅に戻り、今朝改めて着替えなどを持ってきたということだった。ほかの病院の看護婦をしているそうで、何かにつけて手際がいい。昨日に比べて、今日はまた元気を取り戻したようだ。てきぱきと動く彼女を見て、姉妹の二人暮らしも悪くないなと三上は感心した。男兄弟ではこうはいかない。
「少しは良くなりましたか」
ベッドで横になっている映子に彼は話しかけた。彼女は答えず、不安そうに黒目を動かすだけだ。代わりに真智子が、
「気分は良いんですって。でもやっぱり記憶が戻らないらしくって」
残念そうにいった。
「そうですか。我々としても、福原さんから話を聞けないと、どうにも手の打ちようがないものですから」
「目撃していた人はいないのですか」
真智子が訊いたので、三上は顔をしかめてみせた。
「地元の人間以外、あまり使わない道ですからね。それに高速道路と畑に囲まれていて民家から遠いので、少々大きな音がしても気づかないようです」
彼の説明に、真智子は黙って頷いた。
「ああ、でもひとつだけ可能性があります」
三上は思い出していった。「福原さんの車の後部に、誰かが軽く追突した形跡があるのです」
「追突?」
「といってもそれが事故の原因ではなく、追突したのは、福原さんが事故を起こしたあとだと考えられていますがね。とにかくその車の運転手を探すことになるかもしれません」
「その調査には、どれぐらい時間がかかるのでしょう?」
「さあ、本人が名乗り出てくれば早いのですが、そうでなければ手こずるでしょうね。幸い車の塗膜片が落ちていたので、そこから車種や年式ぐらいまでは判明するかもしれません」
「車種と年式……」
真智子は窓の外に目を向けて呟いた。
病室を出たあとで、三上は担当医師に会った。
「脳波にも異状はありません。レントゲンの結果も同様です。おそらく心理的なものでしょう」
福原映子の容態について、医者はこのようにいった。
「思い出したくないような、何かそういう心理的プレッシャーでもあるんでしょうか」
三上が思いつきをいってみると、
「そうかもしれません。事故の瞬間の恐怖が、相当大きかったんじゃないですか」
相変わらず、あまり頼りにならない口調で答えた。
三上は署に戻って報告した。仕方ないな、と篠田も諦めた顔で頷いた。
調書を作れないのは、頭の痛いことではあったが、今のところそれほど厄介な問題でもなかった。現場を見た限りでは自損事故だということが明らかだし、誰かが死亡しているわけでもない。現在の映子の症状は特異だが、乱暴な言い方をすれば今後の生活に支障はない。つまり今回の事故処理は、何ら複雑な手順を踏むことなく解決する見込みだった。
唯一問題があるとすれば例の追突をした車だが、これについてはあまり積極的な追及はされない見通しだった。仮に車を特定し、運転手を見つけたところで、どういう責任を負わせるかが難しいからだ。目の前で事故が起きたのであわててブレーキを踏んだが、間に合わずに当たってしまったのだといわれればそれまでだ。
「記憶待ち、だな」
篠田がいった。その表現が面白くて、三上は笑った。
新聞を三紙買って読んだが、昨夜の事故について書いてあるものはなかった。どうやら死亡事故にはならなかったようだ。
――助かった。
男は新聞を閉じて吐息をついた。轢《ひ》き逃げをしたわけではないが、ああいう形で関わっただけに死なれると寝ざめが悪い。
――それに、少し当たったしな。
事故車に自分が追突したことを思い出した。何かの痕跡が残っている可能性は充分にある。死亡事故となれば、警察も必死で自分のことを探すだろう。
とにかく助かった、と彼はもう一度口の中で呟《つぶや》いた。
三つの新聞をもう一度点検する。これほど熱心に読んだのは、生まれて初めてだった。といっても、目を通したのは社会面だけだが。
今日はどの新聞も、社会面の記事の内容は同じだった。先日行方不明になった四歳の少女の死体が発見されたというニュースだ。死後一週間から十日。胸を鋭利な刃物で刺されていたらしい。発見された河原というのを見て、男は驚いた。自分がよく行くところの、すぐ近くだ。
――あんな近くでこういう残酷な事件が起きていたとはな。怖い世の中だ。
もちろん第三者として、彼は感想を抱いた。
事故から四日が経っている。
三上を呼び出したのは、福原真智子だった。すぐに家に来てくれというのだ。映子は昨日退院して自宅に帰っている。三上は篠田と共に駆けつけた。
ベージュ色のレンガ作りを模したマンションの四階が、福原姉妹の住まいだった。三上たちが行くと、真智子は二人をリビングルームに案内してくれた。女性だけの住居らしく、部屋の隅々まで綺麗に掃除がいきとどいていた。
リビングルームに置かれたソファには映子が座っていた。まだパジャマにガウンを羽織っただけの格好だ。それでもずいぶん回復したようすで、その目は先日までのようなうつろなものではなかった。三上たちを見ると、しっかりと会釈してきた。
「何か思い出されたのですか」
姉妹の顔を交互に見ながら三上は訊いた。真智子が頷いた。
「まだ完全ではないんですけど、断片的に記憶が戻ってきたようなんです」
「事故に関係したことですか」
「ええ、それが……」
真智子は何となく話しにくそうにして姉を見た。
「話していただけますか。覚えていることだけでも」
篠田が映子を促した。すると彼女は警官たちの顔を見て一旦うつむいたが、やがて何かを決心したように顔を上げた。
「あの夜、あたしは……殺されかけたんです」
真智子に比べてハスキーな声だった。仕事柄大声を出す必要があるのかなと、三上は一瞬全く場違いなことを考え、そのあとで彼女のいった意味を理解した。
「えっ、何ですか?」
篠田の反応もずいぶん遅かった。血の巡りの悪い警官二人に、
「殺されかけたんです。あたしが車で走っているところを、後ろから襲ってきたんです」
映子は本を読むような調子で繰り返した。
「そんな馬鹿な。なぜあなたを?」
三上が訊くと、
「わかりません。でも、あたしが誰かに命を狙われているのは確かなことなのです」
そういって映子はおびえるように肩をすぼめた。
「詳しく話していただけますか」
篠田がいい、三上も身を乗り出した。
彼女によると、危険な目に遭ったのは今回が最初ではないのだという。この十日間に、最低三回は狙われている。一度目は、ちょっと車から離れた隙《すき》にブレーキペダルの下にジュースの空き缶が挟んであった。その時はまだそれほどスピードが出ないうちに気づいたので、クラッチ操作とハンドブレーキで止まることができたが、もし下り坂にさしかかっていたりしたら命に関わるところだった。
二度目は、走っている時突然大きな音がして、フロントガラスに何かぶつかった。あわてて車を止めて降りると、道路上にレンガが転がっていた。おそらく誰かが道端に潜んでいて、映子の車目がけて投げたのだと思われた。彼女はそのあたりを少し探し回ってみたが、人の姿はすでになかった。この時もしフロントガラスが割れたりしていたら、どんな事故になったかわからない。
そして三度目が先日の事故だ。
「後ろからものすごいスピードで煽《あお》ってきたんです。おまけにヘッドライトをちかちかさせていました。最初は単なる嫌がらせかと思ったのですが、前二回のことがありますし、どうにも怖くなって、あたしはスピードを上げざるをえませんでした。そのうちにカーブにさしかかりましたが、後ろの車はスピードを緩めずに迫ってくるのです。追突して、あたしの車をはじき飛ばそうとしているのは確かでした。あたしは無我夢中で逃げようとしましたが、カーブを目の前にして咄嗟《とっさ》にブレーキを踏んでしまったのです。その結果、こんなことになってしまって……」
その時のことを思い出すと寒気がするのか、映子は自分の両腕をしきりにこすった。真智子が彼女の肩にカーディガンをかけてやった。
「あの時に相手の車種だけでも確認しておけばよかったんですけど、とてもそんな余裕はなくて」
悔しそうに唇を噛んだ。
「そういうわけですか」
篠田は唸《うな》りながら三上を見た。どう解釈すべきか困っている顔だった。
「単なる偶然とは考えられませんか」
篠田はいった。「空き缶がブレーキペダルの下に入りこむというのは、最近よくある事故原因のひとつなんです。我々もドライバーの皆さんには注意していただくよう、常日頃指導しているのですが」
「全く見覚えのない空き缶だったのです」
小さい声だが、映子はきっぱりと否定した。「それにレンガが偶然どこかから飛んでくるなんて考えられませんわ。先日の事故にしてもそうです。明らかに殺意がこもっていました」
彼女が怖がるのも当然だといえた。続けてこんなことがあれば、単なる偶然が重なったとは思えないだろう。
篠田は何度も頷くと、三上の耳もとで囁《ささや》いた。
「厄介なことになったな。こうなると我々だけで処理するのは無理だ」
「どうしましょう」
「刑事課に任せよう。署に連絡してくれ」
三上は現在の部署に配属されて四年になるが、刑事課と絡んで仕事をするのはこれが初めてだった。篠田にしても、それほど経験はないだろう。
刑事課からやってきたのは、斎藤という刑事だった。篠田と同じぐらいの歳に見えるが、身体ははるかに大きい。そしてさすがに鋭い目つきをしていた。
斎藤は映子に、もう一度同じ話をさせた。そして十日間に三回も危険な目に遭っているという話を聞き、彼の顔はさらに険しくなった。
「狙われることについて、何か心当たりはあるんですか」
斎藤刑事が訊いた。それで映子は考えるように顔を傾けたが、やがて頭を両手で抱え、何度もかぶりをふった。
「だめです。頭がまだ何となくぼんやりして、うまく思い出せないんです」
彼女のようすに、斎藤は困ったようにため息をついたが、
「そういえば十日ほど前、変なことをいってたじゃない」
真智子が姉に向かっていった。
「変なこと?」
映子は顔を上げた。
「美術館の横の林よ。あそこで何か見たっていったじゃない」
真智子にいわれると、映子は眉を寄せた。そして頭痛をこらえるように、目頭のあたりを指で押さえた。
そのままの状態でしばらく静止したあと、「ああ」と映子は呻《うめ》くような声を出した。
「あのことね。でも、あれがどういう関係があるのか……」
「それはわからないけど、姉さんが危険な目に遭い出したのは、あれ以後よ。もしかしたら関係があるのかもしれないわ」
二人の会話が続く。その意味ありげなやりとりに興味を感じたらしく、
「話していただけますか」
斎藤が椅子に座り直しながらいった。
それでも映子は真智子や他の警官の顔を見たりしていたが、やがて心を決めたようにこっくりと頷いた。
「十日前のことです。あたしはいつものように車に乗ってリハビリテーションセンターを出ました」
映子は低い声で、しかし比較的歯切れのいい口調でしゃべり始めた。「夜の九時頃だったと思います。美術館を通り過ぎる時、何かの拍子でコンタクトレンズがずれたんです」
「コンタクトレンズ?」
「ええ、目が悪いものですから。それでそのままでは運転できないので、道路の脇に車を止めることにしました。そうしてあたしがコンタクトレンズを直し終えた時、林の奥から小さな悲鳴みたいな声が聞こえたんです」
「悲鳴……女の?」
三上は思わず横から口を出した。
「そうだと思います」
映子は自信なげにいった。「それで怖かったんですけど、思いきって足を踏みいれてみることにしました。すると林の中で、誰かがうずくまっているのが見えました。気分でも悪くなって倒れているのかと思って、『どうしたんですか』と声をかけてみました。すると人影がむっくりと起きてこちらを見たのです。驚いたことに、その人影の下にもう一人誰かいました。まずいところを見ちゃったのかな、とあたしは思いました。カップルの邪魔をしたのかと思ったんです」
自分が映子の立場でも、やはりそう思うだろうと三上は横で聞いていて思った。
「それであなたはどうしたのですか」
斎藤刑事は訊いた。
「気まずくなって、急いで車に戻りました。それからすぐに立ち去りました」
それだけです、と映子は締めくくった。斎藤刑事は腕組みをしてしばらく考えこんでいたが、
「その時あなたは、相手に顔を見られたと思いますか」
と尋ねた。映子は首を傾《かし》げた。
「見られたかもしれません。でもよくわかりません」
「相手の顔は見ましたか」
「見ていません」
「何か特徴のようなものは?」
「さあ」
映子は掌を頬に当て、どこか遠くを見る目をしていたが、そのうちに何かに気づいたように口を開いた。
「どうかしましたか」
斎藤が彼女の顔を覗《のぞ》いた。彼女は宙を凝視《ぎょうし》したまま、
「一人は子供だったかもしれません。下になっていた方の人は、すごく小さかったように思うんです」
「子供?」
斎藤の目が光ったようだった。「男の子ですか、それとも……」
映子は辛そうに頭をふった。両手で顔を覆う。
「わかりません。そんなことまで、とても思い出せないんです」
「あなたはその場所を、今も正確に示すことができますか」
この質問に映子はずいぶんと考えこんでいたが、
「今は思い出せません。でも実際に出向けば、わかるような気がします」
と、か細い声で答えた。
――おかしいな。
バッグの中を何度も調べた。しかし見つからなかった。ほかのところに入れた覚えはない。この中に入っていなければおかしいのだ。
リストバンドがないのだった。
手首に巻く汗止めのことだ。テニスをする時の必需品だ。その片方が見つからない。
いや正確にいうと、片方だけいつの間にかすりかわっているのだ。よく似てはいるが、微妙に色の感じが違う。それにイニシャルも入っていない。
三日前まではたしかにあった。更衣室で着替えた時、両方にイニシャルがついていたことを確認した覚えがある。それをはめてコートに出たはずだ。
――いや、待てよ。
前半の練習を終えたあとで外した覚えがあった。外してどこに置いたか? 無意識に置いたのだから、たぶんバッグの上だ。
それからどうしたか。
――だめだ、思い出せない。
彼は頭をふった。愛着のある品物なので未練が残るが、仕方がなかった。おそらく誰かが間違えたのだろう。そのうちに出てくることを期待するしかない。
――三日前といえば、一般客も多かったな。
あの日の情景を思い浮かべた。あまり見たことのない女性客などが、結構たくさんコートに出ていた。
――まさかな。あんな汗臭いリストバンド、誰も欲しがらないよ。
自分の想像に、彼は自分で苦笑した。
福原映子が不審な人影を見たという林の捜索は、翌日早速行われた。鬱蒼《うっそう》と木の茂った場所で、夜ならば殆ど外からは見えないだろうと推測された。
捜査員たちが映子の証言に飛びついたのは、もちろんわけがある。先日発覚した幼児殺害事件に、関係していそうな話だと感じたからだ。
映子が見たのは一人の影で、一方は小さかったように思うというのだ。そちらが殺された少女かもしれない。
やがて捜査員たちは、この現場で薄汚れた布を発見した。ハンカチぐらいの大きさで、半分近くが黒い染みで覆われている。その染みの正体が何なのかを、勘の鋭い捜査員は、鑑識の所見を待つまでもなく予想していた。
「福原映子が見た人影は、やはり幼児殺しの犯人らしい」
三上が報告書を作成していると、すぐ横に篠田が来ていった。
「確実なんですか」
「いや、まだそこまではいかないが、可能性がかなり高くなったみたいだな」
篠田によると、捜査陣が色めき立つような情報があったらしい。例の林で発見された布に付着していた染みは、やはり血痕だったのだ。しかも殺された少女と同様、AB型だった。
「すると犯人は福原映子に見られたと思って……」
「そうだろうな。彼女の方は何も見てはいなかったんだが、犯人にしてみれば安心していられない。それで彼女を殺すことにしたというわけだ」
茶を啜《すす》りながら篠田がいった。
「でも彼女は今度のことがあるまで騒がなかったのだから、犯人としてはもう少し様子を見た方がよかったと思うんですけどねえ」
「そこが犯罪者の心理だ」
篠田はしたり顔で、机を軽く叩いた。
「今まで彼女が騒がなかったのは、まだ事件が発覚していなかったからだと考えたんだな。事件が発覚した時、そういえばあの夜あの場所にこういう人がいたと、警察にしゃべられてはまずいと思ったのだろう」
「へえ、そういうものですかね」
何となくしっくりこない説明で、三上も素直には頷けなかった。
「ところで、例の塗膜片から車種がわかったぞ」
篠田が思い出したようにいった。話によると、昨年某メーカーから発売されたスポーツタイプの車らしい。
「若い層に人気があるが、新車登録台数はまだそれほど多くはない。地元に限れば、数十台というレベルだ」
「すると、一台一台をしらみつぶしに当たっても、大した労力じゃないですね」
三上がいうと、
「いや、どうやらその必要すらないようなことを、刑事課の連中はいってたぞ」
篠田は少し声をひそめていった。
――冗談じゃない。
新聞を持つ手が震えた。男は社会面を読んでいた。
幼児殺害事件で重要な手掛かりが得られたという記事が、そこには書いてある。新たに貴重な証人が見つかったということらしいが、その証人が名乗り出るまでの経過を読んで腰を抜かした。
何度も命を狙われたというのだ。
いやそれはいい。問題なのは、先日も車に乗っているところを襲われて事故に遭ったという部分だ。それを読むと、紛《まぎ》れもなく先日のあの事故を指していることがわかる。
「冗談じゃない」
今度は声に出した。あれは単純な事故以外の何物でもない。命を狙われたなどというのは、全くの見当|外《はず》れだ。
しかし記事を読んだ限りでは、警察は幼児殺害事件と先日の事故を結びつけて考えているようだ。どちらも同じ人物の仕業《しわざ》というニュアンスなのだ。
――まずいな。
このままでは自分に疑いがかかってしまうかもしれなかった。だからといって、名乗り出るわけにもいかない。
――どうしたらいいんだ……。
唇を噛んだ時、ドアをノックする音が聞こえた。彼は立っていってドアの鍵を外した。表にいたのは、一人の男だった。両方とも人相があまりよくない。
「警察の者ですが、森本恒夫さんですね」
前にいた背の低い男がいった。どきり、と心臓が大きく打った。
「そうですが……」
「先日××高速道路の側道で事故があったのですが、御存知ですか」
やはりあのことでやって来たのだ。下手《へた》にとぼけても無駄だ、と彼は判断した。
「すみません。あの時すぐに届けようかとも思ったんです」
恒夫は頭を掻《か》き、愛想笑いをしながらいった。「でも急いでましたし、あの人も大丈夫そうだったから、そのまま行っちゃったんですよ」
だが二人の刑事はにこりともしなかった。
「ということは、あの車の後ろについていたのは認めるんですね」
背の低い刑事が無表情のまま訊いた。
「認めますけど、新聞に書いてあるような、あんな話は嘘ですよ。僕が殺そうとしたなんて……」
「しかしかなり乱暴な運転をしたらしいじゃないか」
大柄で、いかつい顔の男が横から口を挟んだ。
「それほどでもないですよ。あの程度のことは、誰だってやっています。あの人が事故を起こしたのは、運転が下手だったからです。それに僕が関係しているのはあの事故だけで、命を狙われたとかいう話とは、何の関係もありません」
恒夫は懸命に抗弁した。
「ふうん、そうかな」
いかつい顔の刑事が、一歩前に出た。「それじゃまあ、それでいいとして、先々週の水曜と金曜の夜、どこにいたかね」
急に全く違うことを訊いてきた。厄夫は面食らい、目を丸くした。
「何ですか、それ」
「なんでもいいから答えてくれないか。どこにいた?」
威圧的だった。逆らったら余計にまずいことになりそうだと判断した。
「水曜と金曜なら、テニススクールですよ。コーチのアルバイトをしているので」
「どこのテニススクール?」
「河合町の」
「ふむ」
いかつい顔の刑事は頷いた。「偶然だな」
「偶然? 何がですか」
「例の命を狙われたという女性だが、彼女の勤め先が河合町にあるんだよ。で、その帰りに二度ばかり危ない目に遭ったといっているわけだよ」
「へえ……本当に偶然ですね」
「それだけじゃない」
刑事は大きく踏み出すと、恒夫の鼻先まで顔を近づけてきた。「しかもそれが先々週の水曜と金曜ときている」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
恒夫は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。「それもまた本当に偶然ですよ。僕は何もしていません。だいたい、なぜ僕が何の関係もないあの人の命を狙わなきゃいけないんですか」
すると刑事は不気味な笑いを浮かべて、
「あんた新聞を読んだんじゃないの。読めば書いてあるだろう」
低い声でいった。刑事のいいたいことが、恒夫にもわかった。
「僕は女の子を殺してなんかいませんよ。いい加減なことをいわないで下さい」
「じゃあもう一つ訊くが、同じ週の月曜はどこにいた? 彼女が不審な人物を目撃したという日だよ」
「月曜?」
恒夫は絶望的な気分で首をふった。「その日もテニススクールですよ。月、水、金が僕の担当なんですから。でも、だからといってその人影が僕だということにはならないでしょう?」
「それはまあそうだ。しかし、あんたがあの林に入ったという証拠はある」
刑事は上着のポケットから、ビニール袋を取り出した。そこに入っている物を見て、恒夫は声を上げそうになった。先日から探しているリストバンドだ。
「それ……どこに?」
「どこだと思う?」
刑事はにやりと笑った。垣夫は首をふった。
「問題の林の中だよ。血痕のついた布のそばに落ちていたんだ。それで我々は近くのテニススクールを当たったというわけさ。このリストバンド、あんたのものだろ? T・Mっていうイニシャルまで入ってる。ついでにあんたの車を調べてみたら、最近追突した形跡があるし、現場から見つかった塗膜片と車種も一致したというわけさ」
「違うんです。これにはいろいろとわけがあって……」
「わけがあるのはわかっていますよ」
背の低い刑事が、恒夫の脇から声を出した。「だからそのわけは署で聞かせてもらいましょう」
「そうじゃなくて、僕は何もやってないんです」
「そんなことはない。事実追突をしているじゃないか」
「だからあれは相手が事故をするから……」
「彼女は後ろから、ものすごい勢いで煽られたといっている。殺意を感じたとね」
「そんなはずないですよ。そりゃ、ちょっとは煽ったけど、あんなことになるなんて夢にも思わなかったんです」
「なぜ煽ったりしたんだ」
いかつい顔の刑事が、ますます顔を歪めた。
「なぜって、だからそれは相手がもたもた走っているから……。それに初心者マークをつけてたので、ちょっとからかってやろうかと思ったんです」
「ふざけるなよ」
刑事は恒夫の胸ぐらをつかんだ。ものすごい力で、両足が浮きそうになった。「初心者マークをつけてたので、からかおうとしたって? いい加減なことをいうなよ。マークはつけてないらしいが、あんただって免許を取って一年目じゃないか」
「あの男、捕まったらしいわよ」
真智子が外から帰ってくるなりいった。声が弾んでいる。
映子は黙って頷くと、ステレオのスイッチを入れた。モーツァルトがスピーカーから流れてくる。それを聞きながら、
「当然よ」
と、一言呟いた。
「でも、こんなにうまくいくとは思わなかったわ。さすがは姉さん、計画が完璧だったってことね」
真智子にいわれ、映子はふっと笑みを漏らした。そしてまた目を閉じる。そうするとあの時の恐怖が脳裏に蘇ってくるようだ。
事故に遭った時の恐怖だ。後ろから煽られてついスピードを出したが、スリップしてガードレールに激突した時には死んだと思った。当たる直前の身体が浮くような感触と、ぶつかった瞬間の衝撃、今思い出しても震えがくる。
他人にあれほどの恐怖を与えておきながら、あの男は怪我人を助けようともせずに逃げていった。何かいったようだが、その口元には薄笑いさえ浮かんでいた。
踵《きびす》を返した時に、ウインドブレーカーの背中にテニススクールの文字が入っていた。それであのスクールの人間なのだと知ったのだ。
助けられ、治療を受けている間に、映子は作戦を練った。あの男に復讐する方法だ。自分がどれほど卑劣なことをしたのかということを教えてやらねばならない。
記憶喪失のふりをしたのは、時間稼ぎをするためだった。充分な計画をたてないうちに警察に供述してしまっては、あとの動きがとれなくなる。もちろん真智子には早々に打ち明けた。
幼児殺害事件が近くで起こったというのがラッキーだった。逆にいえばあの男の不運というべきか。あの事件に関係しているとなれば、警察も目の色を変えて動くはずだった。
真智子が調べてくれたおかげで、事故の翌日には男の身元がわかっていた。森本恒夫、私立大学の三年。軽薄を絵に描いたような男――真智子の印象だ。
また彼女は看護婦という立場を利用して、AB型の血がついた布を準備してくれた。森本のリストバンドを盗んでくれたのも彼女だ。そしてこっそりと美術館の横の林の中に捨ててきてくれた。
これで準備完了である。あとは警官を呼んで、謎の殺人におびえる女性を演じるだけだった。
真智子のいうように、計画は完璧だった。いずれ森本も釈放されるだろうが、それまではたっぷりと責められるはずだ。
それでいいのだ、と映子は思った。
たとえ今回のような罠《わな》に引っ掛からなくても、あの男の行為が殺人未遂であることに変わりはないのだから。
ただ、それを取り締まってくれる者がいないだけで――。
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通りゃんせ
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その電話は、雄二が会社から帰り、ネクタイを緩めた時にかかってきた。尚美かなと思ったが、それにしては少し時間が早い。ネクタイを片手に持ったまま受話器をとると、低い声で、「はい」とだけ答えた。
「もしもし、佐原さんのお宅ですか」
ややかすれ気味の、あまり若くない男の声だった。聞き覚えはない。
「そうですが」
「あの、私は前村という者です。じつは××署の交通課で佐原さんの御連絡先を伺いまして……」
「はあ」
もしかしたら、という考えが浮かんだ。
「このたびは誠に申し訳ございませんでした。お車は、私共の方で修理させていただきます。親しくしている修理会社がありまして、そこに任せれば大丈夫だと思います」
「ちょ、ちょっと待ってください。前村さんとおっしゃいましたね。つまり僕の車の傷は、あなたがつけたものなのですか」
「はい、あの……そういうことなんです。本当にすみませんでした」
男の声は一層頼りなさそうに震え、語尾が消えそうになった。
ついている、と雄二は思った。殆《ほとん》ど諦めていた件だ。傷のついた車では恋人の尚美も乗りたがらないので、この時期に痛いと思いながらも数万円の出費を覚悟していた。それが加害者が出てきてくれたとはありがたい。
雄二は受話器を少し耳から離すと、息を整えた。内心は喜んでいるが、その気配を相手に悟られるのは癪《しゃく》だった。まずは太いため息をつくと、
「どうしてもっと早く連絡してこなかったんです」
意地悪く、無愛想にいい放った。
「すみません。いろいろと忙しかったものですから」
「電話ぐらいできるでしょうが。それで××署には行ったんですね」
「行きました。斎藤さんという主任さんがおられまして、ずいぶん叱られました」
ざまあみろと雄二は心の中で舌を出した。あの斎藤というポリ公には、俺だって小言をいわれたんだ――。
「電話でいくら謝ってもらっても仕方がない。とにかく一度、こちらの方に来てください」
「はい、それはもうお詫びに伺わせていただくつもりです。ええと、御自宅は……」
「家に来られても迷惑です。近所の喫茶店で会いましょう」
雄二は、場所と日時を一方的に指定した。交通事故関係は、高飛車に出た方が勝ちだとわきまえている。特に今回は、こちらが被害者だ。遠慮する必要などない。
「ではその時に、修理会社の者も連れていきましょうか」
「いえ、結構です。あの車はもう修理に出しましたから。ですからその時には請求書をお渡しします。それでいいですね」
「はい……ええ、それで結構でございます」
「一応あなたの連絡先も聞いておきましょう。自宅と職場の両方を教えてください」
「はい、職場の電話番号は××××です。これは直通になっています。白宅は××××でファクスは××××です」
自宅にファクス用の回線を引いているということは、金回りは悪くなさそうだと雄二は安堵した。加害者の中には、修理費が高すぎると文句をつける輩《やから》が多いと聞く。
「では来週、お会いしましょう」
「はい、どうも本当にすみませんでした。失礼いたします」
前村と名乗る男は、電話の向こうで土下座しているのではないかと思えるような口調で終始した。
雄二は受話器を置くと、「やった」と思わず指を鳴らした。そして再び受話器を上げると、尚美にこの朗報を知らせるため、プッシュボタンを押し始めた。
去年の年末から正月にかけて、雄二は上機嫌だった。尚美と二人だけでスキーに行ったあと、一月二日からは彼女のアパートに泊まり込んだのだ。尚美というのは夏に知りあったOLで、性交渉は何度もあるが、一緒に旅行したり部屋に泊まったりしたのは初めてだった。三日の朝にベッドで目覚めた時には、この女となら結婚してもいいかなと、鼻の高い横顔を眺めながら思った。雄二も今年は二十九になる。コンピュータ・サービスの会社に勤めているが、職場にこれといった女性はいなかった。
やがて目覚めた尚美は、カーテンの隙間《すきま》から外の景色を見て驚きの声をあげた。
「見て、すごく積もってるわ。スキー場みたい」
「そんなに降ったのか」
雄二も窓際に立って外を見下ろすと、なるほど家々の屋根は真っ白だし、道路の表面は薄茶色のシャーベットと化していた。昨夜から粉雪が降り続いていたことは知っている。
「正月で助かったな。平日にこの大雪じゃ、パニックだぜ」
人々は皆、家の中でテレビでも見ているのだろう。街全体がひっそりとしていた。
昼前までベッドの中にいて、朝昼兼用の食事をとったあと、初詣《はつもうで》に行こうと尚美がいい出した。雄二は目を剥《む》いた。
「いくら雪が積もっているといっても、あんなところは人がいっぱいだぜ」
「有名な神社なんかに行こうとするから混んでるのよ。あまり名前の知られていないところに行きましょ。ねっ、ドライブのつもりでさ」
尚美はしつこくねだる。
「この雪の中を出ていくのか」
「いいじゃない。スキー場に行くことを思えば楽なものよ」
「やれやれ、仕方ないな」
面倒臭いと思いながらも、雄二は恋人の希望を叶《かな》えることにした。
二時過ぎに部屋を出ると、二人は細い道を歩き出した。車一台通るのがやっとという狭さだ。尚美のアパートには駐車場がない。雄二の車は、少し離れたところに路上駐車してあった。雪を踏む、サクサクという音が耳に心地よい。
道が少し広くなったところに、雄二の車は置いてあった。家の屋根と同様、かなり雪が積もっている。
「参ったな。雪ダルマだ」
雄二は苦笑しながら車のドアを開けた。その時尚美が、「あーっ」と声をあげた。
「何だよ、どうしたんだ」
「これ、ひどいよ」
彼女は車の右後方のあたりを指さしている。その部分を見ると、雄二もあっと口を開《あ》けた。テールランプが割れ、ボディに擦ったような傷がある。昨日はなかったものだ。
「くそっ、当て逃げか」
雄二は唇を噛むと周りを見回した。そんなことをしたところで、当てた犯人が付近にいるはずもないのだが。
「正月早々ついてないわね。警察に知らせたら?」
「面倒臭いからいいよ、もう。諦めて出かけようぜ」
「これに乗って行くの?」
尚美は腕組みすると、車の傷跡を横目で見た。口の端が歪んでいる。
「大して目立たないさ」
「嫌よ、あたし。それに何だか気分がしらけちゃった」
「ここに車を止めときゃいいっていったのは尚美だぜ」
「何よ、あたしが悪いっていうの」
尚美の目が吊り上がった。
「そうはいってないだろ。傷つけられたのは俺の車なんだ。少しは同情してもらいたいもんだね」
「してるわよ。だから警察に届けたらっていってるじゃない」
「どうせ犯人なんてわかりっこねえよ。知り合いが何人も泣き寝入りしてる」
「そんなことわかんないわよ。もしかしたらってことがあるじゃない。あの時届けとけばよかったって、あとで後悔しても知らないから」
尚美はつんと横を向いた。呼吸の荒くなっているのが、鼻から漏れる白い息でわかる。雄二は顎《あご》をこすりながら、もう一度あたりを見回した。煙草の自動販売機があって、その横に公衆電話がある。
「仕方ねえな」
吐き捨てるようにいうと、電話に向かって足を踏み出した。「あたし、部屋で待ってるから」と尚美がいったが、雄二は振り返らなかった。
一一〇番して少しすると、近所の派出所から警官がやってきた。事情を説明すると、車に乗って警察署まで行ってくれという。雄二は目を丸くした。
「ここでの見分とか、そういうことはしないわけですか」
「交通課は忙しいからねえ。特にこの雪で、今朝は事故が多かったみたいだし。はっきりいうと、当て逃げぐらいで一々駆けつけてられないんだよ」
首に茶色のマフラーを巻いた初老の警官は、気の毒そうにいった。雄二はため息をついた。これでは自分も泣き寝入りの仲間に入るしかなさそうだ。
警察署に行くと、三十分近く待たされて、ようやく雄二の番になった。斎藤という、四角い顔をした中年の警官が担当だった。雄二が一通りの説明を終えると、斎藤はしかめっ面をした。
「あんたさ、あの道が駐車禁止だってこと知らないの?」
「知ってますけど、あそこにはいつもどこかの車が止めてあるって、知り合いがいうものですから……」
「だからそういうのはみんな違反なんだ。考えたってわかるだろうが、あんな狭い道を駐車場代わりにしていいはずがない。本音をいわせてもらうと、少々当てられたって仕方ないと思うよ。当て逃げされたっていってくる連中の八割以上は、駐車違反をしているんだが、自分の方の非はわかっているのかねえ。あんたはどう、わかってるの?」
「わかってます。どうもすみません」
雄二は頭を下げた。心の中では、なぜ自分が謝らなければならないんだと、怒りが渦巻いている。
「本当に反省してるのかい。ええ? まったく」
斎藤は書類に何事か書き込みながら、ぶつぶつと小言を繰り返した。
恨むぜ、と雄二は尚美の顔を思い浮かべた。やはり警察に連絡なんかしなければよかった。さすがに駐車違反の罰則を食うことはなさそうだが、こんなに嫌味をいわれたのではたまらない。おまけに加害者がわかる見込みは薄いときている。
「まあこれからは、止めてはいけないと表示されている場所に、駐車したりはしないことだね。免許を貰う時に、そう習っただろ」
事故証明の手続きを終えてからも、斎藤はねちねちと続けた。
正月休みが明けるとすぐ、雄二は車を修理工場に持っていった。見積金額は五、六万円だといわれた。
「なるべく安く頼むよ。格好だけつけばいいんだ」
雄二は修理工場の担当に、くどく頼んだ。年末に貰ったボーナスは、もう殆ど残っていなかった。
尚美とはその後会っていない。くだらないことで意地を張るつもりはないが、何となく電話しづらいのだった。向こうからかかってくればと思うが、あちらはあちらで媚《こび》を売るようなことをしたくないらしい。何しろプライドの高い昨今のOLだ。
全く年明け早々さえない話だと、雄二は憂鬱な気分でこの二、三日を過ごしていた。
そんなところへ思いもかけず、加害者から電話がかかってきたというわけだ。
どうやらそれほど悪い年でもなさそうだと、尚美にかけた電話のコールサインを聞きながら、雄二はにやりと笑った。
わざと約束の時刻より五分ほど遅れて行くと、一番奥のテーブルに、三十代半ばと思える男が座っていた。隣の椅子に白い大きな紙袋を置いている。それが電話で打ち合わせた目印なのだ。大股で近づいて、前村さんですかと訊《き》くと、相手は弾《はじ》かれたように立ち上がった。
「あっ、これはどうも、佐原さんですか。わざわざ来ていただいて申し訳ございません」
前村がぺこぺこ頭を下げるのを無視して、雄二は椅子に腰かけた。そして相手を改めて観察する。背が低いうえに猫背だ。しかも目尻は下がっているし、口はかすかに開かれたまま。どこから見ても、しまりのある風貌とはいえない。
雄二がコーヒーを注文したあと、前村は名刺を出してきた。指先でつまんで眺める。おや、と雄二は目を見開いた。
株式会社前村製作所 技術部長 前村敏樹――。
「前村製作所ですか。じゃああなた、前村社長の……」
「はい、社長は伯父にあたります」
家系について訊かれるのが嬉しいらしく、猫背の小男は白い歯を覗かせた。
前村製作所というのは、工作機械などの中堅メーカーだ。雄二のいる会社とは、仕事上の関連もあるはずだ。
雄二も名刺を出すと、「ああ、あちらの会社にお勤めでしたか。これはいつもお世話になっております」と、前村も企業人の顔になっていった。
さらに彼は横の紙袋を持ち上げると、つまらないものですがと雄二の方に差し出した。中を見ると、有名デパートの四角い包みが入っている。
「これはどうも」
遠慮する必要はないと雄二は思った。この程度の慰謝料は当然だ。
やや相手のペースに流されそうになるのをくい止めるため、雄二は無表情のまま内ポケットから封筒を取り出した。
「今回の修理費です」
すると前村は、またびくんと背筋を伸ばした。
「拝見させていただきます」
前村は丁寧な手つきで封筒を取り上げると、中から紙きれを抜いた。雄二は男の顔色を窺《うかが》ったが、格別の変化はなかった。
「十万円……ですか」
前村はため息まじりにいった。
「よく調べてみると、思ったよりも重傷だったんですよ。それでいろいろな部品を取り換えなきゃならないってことになりましてね、結果的にそれだけかかったというわけです」
つい言い訳じみた口調になったのは、雄二の方に若干後ろ暗いところがあるからだった。実際に今回傷ついたところだけを修理するなら、五、六万で済ませられる。だが前村が名乗り出た直後、修理工場に連絡して、前々から調子の悪かったところなどを全て修理するよう依頼したのだ。誘求書には、その額も含まれている。
何か不満を述べるかなと思ったが、逆に前村は納得したように頷《うなず》いた。
「そうですか。いや、正直いうとこの程度の額で助かりました。もう少し高いのかなと思っていたんです。明日にでも早速振り込ませていただきます」
「保険をお使いになるんですか」
「いえ、これぐらいでしたら、下手に保険を使わない方がいいでしょう。じつは今まで無事故無違反でしてね、保険料の割引率も最高になっているんです。でもここで使えば、来年から割引がありませんから」
つまり自腹を切るということらしい。雄二は内心ほっとした。まさかとは思うが、万一保険屋が修理の内容について騒ぎ出したら厄介《やっかい》だ。
「無事故無違反の人が当て逃げとは、一体どういうことですか」
そういうと雄二はコーヒーを啜《すす》った。相手が簡単に要求を飲んでくれたことで、余裕が出てきた。
「当て逃げ……ええ、まあそういうことになるんでしょうなあ」
前村は顔をこすった。犯罪者扱いされたようで、不快に思ったのかもしれない。
「とにかくあの朝は急いでましてねえ。近道しようとあの道を走ったのですが、何しろ狭い道ですから、佐原さんの車の脇を抜けようとして、つい当ててしまったというわけなんです。特にあの日は大雪で、タイヤが滑りました。道幅がもう少し広ければ問題なかったのですが、あの道で止まっている車があると苦労します」
どうやら、駐車していたおまえにも責任はあるのだぞといいたいようすだ。雄二は片頬を動かした。
「ちょっと停車していただけですよ」
露骨に不機嫌な声を出すと、途端に前村は肩をすぼめた。
「ええ、わかっています。ちょっと停車するなんてことは、誰にでもあることですからね。もちろん佐原さんの方に責任はありません。ただまあ何といいますか、現在の道路状況を一刻も早く何とかしてもらいたいものですねえ」
雄二はコーヒーの残りを飲みほした。この粘着質な男の話し方を聞いているとイライラしてくる。請求書を受け取ってもらえば、こんなところにいる用はもうない。
「修理費は、なるべく早く振り込んでください。じゃあこれで」
コーヒー代の伝票を残して立ち上がった。その彼の背に、前村の言葉が飛んだ。
「ではまたいずれ」
雄二は一瞬足を止めたが、また歩き出した。ではまたいずれ、だと? おまえに会うことなんか、もう二度とないはずさ――この台詞《せりふ》を喉《のど》の奥で飲み込んだ。
部屋に帰って前村から貰った紙包をあけると、中には高級ブランデーが入っていた。この夜雄二はその酒を、ボトルの三分の一ほど飲んだ。旨《うま》い酒だった。
雄二が再び前村に会ったのは、それから一週間ほど経《た》った頃だった。帰宅する途中の電車の中で、向こうから声をかけてきたのだ。満員の乗客をかきわけながら、前村は雄二のそばにやってきた。
「その節は大変失礼いたしました」
吊り革にしがみつき、苦しそうな格好で彼は挨拶を述べた。
「いえ、こちらこそ。いつもこの電車に乗っておられるんですか」
「いいえ、今日は得意先との打ち合わせがありまして、その帰りなんです。いやしかし偶然ですねえ」
「はあ……」
本当に偶然なのかなという考えが脳裏をかすめたが、雄二はすぐに打ち消した。二人の立場を考慮すれば、向こうの方が顔を合わせたくないはずだ。
「その後、車の調子はどうですか」
「いいですよ。おかげさまで」
「そうですか。それはよかった。バンパーも傷んでいたそうですね。本当に申し訳ないことをしました」
雄二は曖昧《あいまい》に頷いた。バンパーのことは修理工場から聞いたのだろう。傷んでいたのは事実だが、それは今回のことが起こる前からあった傷なのだ。前村はそのことに気づいているのだろうか。知っていてとぼけているようにも見えるし、そんなことは全く知らないようにも思える。つかみどころのない男だなと雄二は思った。
「佐原さんは次の駅で乗り換えですね?」
しばらく無言で過ごしたあと、前村が訊いてきた。そうだと答えると、彼は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあお茶でもいかがですか」
「いや、今日はこれから予定がありますので」
無論、嘘だ。こんな男と向かいあって茶を飲んだところで、楽しくも何ともない。
「そうですか。それは残念だなあ」
前村はあっさりと引下がった。
この夜雄二のところに尚美から電話があった。車が無事直ったこともあり、二人の仲も元通りになっている。彼女は次の三連休の予定を訊いてきた。
「スキーに連れてってよ。近間でいいから」
「だからそれは無理だって、前からいってるだろ。今から予約しようったって、どこも皆満員だよ」
雄二は眉を寄せた。尚美は最近スキーを始めたばかりだ。先日二人で行った時、雄二が指導して上達したこともあり、滑《すべ》るのが楽しくて仕方がない時期といえるだろう。
「どこか穴場はないの? 有名なところでなくてもいいのよ」
「簡単にいうなよ。誰だってそういう場所を探してるんだぜ。まあ、日帰りで行くしかないな。それも早起きして、高速の渋滞に巻き込まれてさ。おまけにゲレンデは満員電車なみ、リフト待ちに一時間ってところか」
「うんざりさせるようなことばかりいってないで、何とか方法を考えてよ」
「努力してみるがね、無理だと思うぜ」
雄二はいったが、努力する気などなかった。無駄に決まっているからだ。
「ところであたし、最近変な気配を感じるんだけど、あなたはそんなことない?」
「変な気配?」
雄二は少し面食らって訊いた。尚美はこんなふうに突然話題を変える癖がある。
「何ていったらいいのかな、誰かに見られてるような気分」
「見られてるんだよ、会社の男たちにさ。あまり短いスカートは考えものだぜ」
「違うわよ。あたし、会社にはそんなの穿《は》いていかないもの。でもたしかに誰かに見られてる。これは直感よ」
「ふうん」
それは自意識過剰というものだぜ、という言葉は口には出さなかった。
「俺はそういう気配を感じたことはないね。うちの職場は女子社員が少ないからな」
「逆にあなたの方がじろじろ見ていそうね。まあ、いいわ。とにかくスキーのこと、何とかしてね」
突然話題が戻った。期待しないでくれと、雄二は念を押した。
翌日の帰り、またしても前村と会った。昨日と同じ電車の中だ。雄二は初め、気づかないふりをしていたが、しつこく声をかけてくるので無視するわけにもいかなくなった。
「よくお会いしますね。佐原さんはいつもこの電車ですか」
「ええ、まあ。今日も仕事の帰りですか」
「そうです。得意先との打ち合わせです」
昨日と同じことをいっていると雄二は思った。そして持っていた新聞に目を向けて、前村が話しかけにくい雰囲気を作った。
だが乗り換え駅の手前になると、前村は昨日と同じように茶に誘ってきた。そこで雄二も昨日と同じように断ったが、前村は今日はすんなりとは諦めなかった。
「少しだけでもだめですか? じつはちょっとしたお願いがあるんです」
「お願い?」
雄二は警戒をこめた目で小男を見下ろした。「何ですか」
「佐原さんはスキーをされるんでしょう?」
「ええ、少しやりますが……」
なぜそんなことを知っているんだという目で見ると、前村は媚《こ》びるように笑った。
「車にスキーキャリアを積んでおられたでしょう? それでわかったんですよ」
「ああ、なるほど」
「今シーズンも、まだ何度か行かれる予定があるんですか」
「行きたいとは思っていますが、はっきりとした予定はまだ……」
「そうですか。いや、それならうちの別荘を使っていただけないかと思いましてね。そのお願いをしたかったんです」
雄二は吊り革を持ち換えると、前村の顔を正面から見返した。
「おたくの別荘を僕が使うわけですか」
「ええ、ちょっと事晴がありまして。どうです、少しだけ話を聞いていただけませんか」
前村がいうと同時に電車は駅に到着した。ドアが開く前に、
「じゃあ少しだけ」
雄二は小男に向かっていった。前村はにっこりと白い歯を見せた。
二人は駅前にあるカウンターだけの店に入った。前村は、信州にある前村家の別荘について話し始めた。どうやらそれは彼の伯父である、前村製作所社長の持ち物らしい。
「じつは来月、その別荘で親戚一同が集まることになっているんですが、ひとつ心配事があるんですよ。というのは、ここ何ヵ月か使ってませんので、中が一体どうなっているのか見当がつかないんです。まさかそれほどひどいことにはなってないとは思うのですが、不安な面もあります。そこで今度の集まりまでに、誰かに二、三日住んでもらったら、空気の入れ替えなんかもできていいんじゃないかということになりまして、適当な人を探しているというわけなんです」
「要するに、換気と臭い抜き係ということですか」
「失礼なお願いとはわかっているのですが、なかなか適当な人が見つからなくて」
前村は首の後ろに手をやった。「でもなかなかいいところなんです。車を使えばスキー場へも二十分ほどで行けますし、別荘地帯じゃありませんから、周りに人がいなくて静かなものです」
「しかし結構遠いですね。行くだけでも大変そうだ」
雄二は煮えきらない態度をとることにした。が、胸の内では悪い話ではないと計算を始めている。
「ひとつ考えてみていただけませんか。御利用になるのは、いつでも結構なんです。そうですね、二週間以内ならいつでも」
三連休には間に合う。あとは尚美が何というかだ。
「わかりました。そこまでおっしゃるなら、一度考えてみましょう。ただ御希望に副《そ》えるかどうかはわかりませんよ」
「よろしくお願いします」
前村はわざわざ椅子から下りて頭を下げた。
帰ってから尚美に電話して事情を話すと、彼女は予想以上に喜んだ。
「すごいラッキーじゃない。別荘に泊まってスキーができるなんて夢みたい。今回の当て逃げは、ついてたわねえ」
「じゃあ、オーケーしていいんだな」
「当然よ。早く返事してちょうだい。ぐずぐずして、ほかの人に取られたら悔しいわ」
「そんなことはないと思うが、早速返事しておこう」
電話を切ると、すぐに前村の家にかけ直した。コールサインが七回鳴ったあと、前村が電話に出た。ほかに家族はいないのかなと、雄二は一瞬疑問に思った。
別荘を使ってもいいと答えると、前村は大袈裟《おおげさ》ともいえる安堵の声を発した。
「助かりました。断られたらどうしようかと思っていたんです」
「前村さんぐらいだと、顔が広いから何とでもなるでしょう」
「いや、是非佐原さんに引き受けていただきたかったのです。本当に良かった」
詳しいことは後日連絡すると前村がいうので、待っていますと答えて雄二は受話器を置いた。だがこの時、ふと嫌な予感が胸の内をよぎった。
是非佐原さんに引き受けていただきたかった――あの言葉が妙に気にかかったのだ。
「考えすぎだよな」
おかしな考えをふりきるため、雄二はわざと陽気な歌をハミングした。
三連休の初日は晴天で、絶好のドライブ日和となった。さすがに道路は混んでいるが、これからの楽しさを考えれば少々のことは我慢できる。いつもはすぐに文句をいい出す尚美も、今日は機嫌よくカーステレオのテープを取り換えたりしていた。
中央高速を出ると、国道を北上した。前村から貰った地図を頼りに二時間ほど走ると、本格的な雪景色になってきた。
「素敵、スキーに来たっていう実感が湧いてきたわ」
尚美は益々はしゃぎ始めた。
途中までは他のスキー客やバスも一緒だったが、やがて雄二たちの車だけが主要道路からそれた。前村家の別荘は、俗っぽい観光地からは離れているのだ。そのことがある種の優越感を雄二たちに与えた。
道は徐々に狭くなり、やがて曲がりくねった山道に変わった。ガードレールのないところもある。雪道には馴れているが、雄二は慎重にハンドルを切った。
「何だかすごいところね。道を間違えたんじゃないの」
尚美が不安そうな声を出した。
「大丈夫だよ。間違えるような道なんてなかっただろ。それに少し細い道が続くって、貰った地図にも書いてある」
そのまましばらく上っていくと、小さなY字路が現れた。地図にしたがってその道を進む。林を抜けると、切り開かれた平地があって、北欧風の建物が姿を見せた。
広大な敷地内に車を止めると、二人は荷物を持って外に出た。さすがに豪壮な建物だ。一族が集まるのにふさわしいといえるだろう。尚美も、「素敵」を連発した。
雄二はあたりを見回した。定期的にようすを見に来る管理人がいるそうで、今日ここへ来るという話だったのだ。鍵もその管理人から受け取ることになっている。
「誰か来ているのはたしかみたいね」
駐車場を見て尚美はいった。ランドクルーザーが一台止まっている。
それから十五分ほど待った頃、どこからか車のエンジン音が聞こえてきた。振り返ると、ハイラックスが敷地内に入ってくるところだった。停車すると、一人の男が進転席から顔を出した。
「いや、どうもすみません。お待たせしてしまって」
前村がにこやかに笑った。
別荘内は自由に使っていいということだった。尚美は二階の南側の寝室を選んだ。セミダブルのベッドが二つ置いてあり、トイレにシャワー室までついている。
「しかし気になるな。なぜ前村はわざわざこんなところへ来たんだ?」
ベッドに腰かけて雄二は呟《つぶや》いた。
「だからそれは管理人の都合が悪くなったからでしょ」
「それなら誰か代わりを差し向ければいいだけだろ? 何も自らが来なくてもいい」
「誠意を示してるつもりなんじゃない」
「誠意ねえ……」
どうも気味が悪いと雄二は思った。今回のことは最初から何か変だ。
「ねえ、あの人本当に明日の朝には帰ってくれるかしら。ずっと屠座られたりしたら、せっかくの別荘ライフが台無しだわ」
「向こうの持ち物なんだから、居座るという言い方は変だな。しかし明日早く帰るといっているんだから、変更したりはしないだろう」
「だといいけど」
尚美が憂鬱そうな表情を見せた時、外からまたエンジン音が聞こえてきた。雄二が窓際に立って見下ろすと、軽の四駆車が入ってくるところだった。運転席から前村が降りてくる。
「変だな。さっきはランドクルーザーで出掛けたはずなのに」
「あっ、あの軽自動車……」
尚美が隣に来ていった。「ここへ上がって来る途中、道端に止めてあったわ」
「そういえば、見た覚えがあるな」
前村は手をこすり合わせながら、玄関に向かって歩いていく。その足跡が、雪の上にくっきりと刻まれていった。
「ねえ、あたしちょっと疑問に思うことがあるんだけど」
「何だよ」
「スキー場ってさ、本当にここから近いのかな。地理がよくわからないから、はっきりしたことはいえないんだけど、どうもそれらしきものは見当たらなかったように思うのよ」
「まさか、その点は大丈夫だろう。俺たちがスキーをするから、ここを貸してくれることになったんだぜ」
「それはわかってるけど……」
ノックの音がした。返事をするとドアが開いて、前村の頼りない顔が現れた。
「夕食の準備ついでに、キッチンの使い方を御説明しておこうと思いまして」
「あっ、はい」
尚美は部屋を出ていった。今夜は前村が手料理を食べさせてくれるというのだ。
雄二は胃袋が押し上げられるような不快感を覚えていた。窓から再び外を見る。先程前村が乗ってきた車が、ほぼ真下にある。
奴はランドクルーザーをどこに置いてきたのだろう?
前村の料理の腕前はなかなかのものだった。本格的にオードブルから始まり、ワインの栓が開けられた。
「すごくお上手なんでびっくりしちゃった。プロみたいなのよ」
一緒に厨房にいた尚美は、前村の腕にすっかり感心したようすだ。
「料理は昔から好きで、フランス人のシェフについたこともあるんです。でも才能がないといって見放されましたがね」
謙遜しながらも、この特技には自信を持っている口調だった。
「前村さんは結婚しておられるんでしょう?」
雄二は、ずっと気になっていたことを口にした。前村はフォークを持った手を止め、真っすぐに雄二の目を見返してきた。
「ええ、結婚しています」
「お子さんは?」
すると前村はいったん目を伏せ、それから改めて雄二の顔を見た。
「いえ、子供はいません」
「そうですか」
雄二は皿に目を落とし、料理を口に運んだ。前村の視線が気になったからだ。
「じゃあ今夜は、奥様お一人でお留守番なんですね」
尚美がいうと、前村は少し間を置いてから答えた。
「いえ、女房は今病気でしてね。入院しているんですよ」
雄二は顔を上げた。「どこがお悪いんですか」
前村はすぐには答えず、自分のグラスにワインを注ぐと、一気に半分ほど喉に流し込んだ。そして右手の人差し指で、こめかみを指した。
「ここですよ」
えっ、と雄二は声を漏らした。
「頭です。今、女房は精神病院に入っているんです。入院して、そろそろ。一週間になります」
雄二は返す言葉を失った。食器の音をたてていた尚美も手を止めた。
「どうも、つまらないことをいいました。さっ、どんどんやってください」
前村は二人のグラスにもワインを注いだ。雄二は、ぐいとひと飲みすると、再び料理に没頭することにした。
「いや、それにしても羨《うらや》ましい。こんな綺麗な女性と付き合えるとは。いずれは結婚されるんでしょう」
前村は黙って食事をする気はないらしい。仕方なく雄二は、「まだわかりませんよ」と下を向いたまま答えた。
「結婚するなら早い方がいいですよ。晩婚はよくない。子供は若いうちに作っておかないと、後々苦労することがありますから」
雄二が顔を上げると、前村は揺れるように何度も頷いた。
「前村さんのところは、わざと子供をお作りにならなかったのですか」
尚美が質問した。前村は笑いながらかぶりを振った。
「そうじゃありません。結局は、神様から授からなかったというわけです。我々に子供はふさわしくないと、神様はお考えになったのかもしれません」
人に説明するというより、自分を納得させるような言い方だった。
「失礼ですけど、御結婚はかなり遅かったのですか」
尚美がさらに訊いた。
「ええ、三十四の時ですから、世間一般から見れば遅いといえるでしょうね」
「それで若いうちに子供を作らなかったことを後悔しておられるんですか」
雄二が訊くと、前村は苦笑して手を振った。
「それは我々のことじゃありません。我々が若いうちに結婚していたとしても、子宝には恵まれなかったでしょう。私がいっているのは、早いうちに子供を作っておけば、仮に不幸なことがあったとしても、やり直しがきくということなんです」
「不幸なこと?」
「私の知り合いにいるんですよ。最近、不幸な目に遭った男がね」
前村はグラスを空にすると、またワインを注ぎ足した。そして続けた。「子供が死んだんです、その男の子供が」
ちくりと、雄二の胸に何かが刺さる感覚があった。
「その男も晩婚でしてね、たしかええと、私と同じぐらいの歳で結婚したはずです。でもそこも子供がなかなか出来なくてね、身体が悪いんじゃないかと夫婦で病院に通ったりしていましたよ」
淡々とした前村の声が食堂に響く。なぜこんな話をするんだろうと雄二は思った。
「それが二年目に、ひょいと妊娠しましてね、そりゃあもう大変な喜びようで、親戚はもちろん我々友人にまで電話をかけまくる始末でした。嬉しかったんでしょうなあ。生まれたのは男の子で、母親によく似ていました。誕生日は十一月三日、文化の日です。その年の正月には、早速写真入りの年賀状が届きました」
前村はどこか遠くを見るような目をした。
「その後の一、二年は、その男にとって幸福の絶頂でしたね。会社での地位は着々と築かれていくし、家に帰れば妻と赤ん坊が待っている。傍で見ていても、生き生きしているのがわかりましたよ」
でも、と前村は急に表情を沈ませた。「それだけに子供が死んだ時の落ち込みようは悲惨でした。この男も死んでしまうんじゃないかと思ったほどです」
「そのお子さんはどうして……?」
尚美が重そうに口を開いた。
「事故です。つまらないことが原因でした。親が気をつけていれば防げたことです」
前村は、やや投げやりともいえる調子でいった。「少し動きまわれるようになると、子供には特に注意しなければならないのです。その両親もふだんは気をつけているのですが、その日は年始の挨拶に訪れた客が多くて、つい目をはなしがちでした」
年始ということは、正月の話らしい。それがまた雄二の胸に引っ掛かった。
「風呂に落ちたんです」
今までよりも強い語気で前村はいった。まるで胸の中に溜《たま》っていたものを吐き出したようだ。
「その子がバスルームに近づいたことなど、それまではなかったのです。だから両親はすっかり油断していました。でも子育てに油断は許されない。その日に限ってなぜ、とあとで悔やんでみても遅いのです。子供の姿が見えないことに気づいた母親が、風呂場で見つけたのはずいぶん時間が経ってからのことです。子供はすでにぐったりとなり、揺すっても反応がありませんでした。両親はあわてて病院に連れていきましたが、すでに手遅れだったのです」
前村はテーブルの上で両手の指を組み合わせた。その手がかすかに震え始めているのを雄二は目撃した。
「悔やんでも悔やみきれない事故でした。親のミスとしかいいようがない。その父親……私の知り合いの男ですが、奥さんに辛く当たったそうです。こういう時、男というのは全く勝手な動物です。責任を母親の方になすりつけてしまうんですね。気の強い奥さんなら、いい返して罪の押しつけ合いになったのでしょうが、その女性は気の弱い、優しい人でした。愛児を失ったショックに加え、夫から責められ、すっかり消耗してしまったのです。間もなく彼女は重度のノイローゼに陥り、入院しなければならなくなりました」
あっ、と尚美が横で発したのが聞こえた。雄二はナイフもフォークも置き、話し続ける男の顔を凝視した。
「事故の原因が親のミスにあることは明白なのですが、彼等にとって不運な点もありました。病院側の説明では、あと三十分、せめてあと十五分早く連れてくれば何とかなったかもしれないということだったのですが、不運さえなければもっと早く連れていけたはずでした」
「不運って、何ですか」
尚美がおそるおそるというように口を動かした。
すると前村は背中を伸ばし、二人の顔を交互に見ると、大きく深呼吸してからいった。
「それはですね、いつも通れる道が、その日に限って通れなかったということなんです」
ずきん、と心臓がひと跳ねしたのを雄二は感じた。
「救急病院に行くための最短コースの途中に、少しばかり道幅の狭いところがありました。狭いとはいっても、車一台は悠々通れます。ところがその日に限って、路上駐車している車があったのです。その友人の車は外国製で、幅が少し大きかった。それでどうしても横を通り抜けることができませんでした。当然クラクションを鳴らしましたが、誰も出てきません」
自分のことを話しているのだと雄二は確信した。この男はこの話をしたくて、雄二たちをわざわざこんな場所に呼びよせたのだ。
「結局彼は延々とバックする道を選びました。これがなかなかに厄介で、ここで大きく時間を奪われてしまったのです。あの路上、駐車していた車さえなければと、彼は悔しがっていましたよ」
「それはしかし、少しおかしいんじゃないかな」
雄二は反撃することにした。黙って聞いている必要はない。前村の眉が、ぴくりと動いた。「ほう、どうおかしいのですか」
「それは正月のことだったのでしょう? それなら裏道を使わず、最初から広い道を使うべきじゃないですか。正月はどこの道だってすいていますよ。その路上駐車した人も、正月にこんな細い道を使う人間などいないだろうと踏んでいたのではないですか」
「なるほど、そういう考えもありますか。しかし状況というのは、どんなことで変化するかわかりませんからね。その友人だって、最初は表通りを走るつもりだった。ところがあの時に限り、表通りも結構混んでいたのです」
「正月に? 信じられないな」
「本当のことです。というのは、前夜から朝にかけて記録的な大雪で、事故が相次いだからなんです。どんなに車の数が少なくても、事故車が道路を塞《ふさ》いでいたのではどうしようもありません」
雄二は、はっとした。そういえば派出所から来た警官も、今朝は事故が頻発して交通課が忙しいのだといっていた。
「救急車を呼ぶべきだったのじゃないかしら。それならもっと早く着けたと思うわ」
尚美が口を挟んだ。彼女もすでに前村の話の意味はわかっているはずだ。
前村は、ふんと鼻を鳴らした。
「救急車が来るまで待っていられないというのが、そういう時の親の心境ですよ。それに救急車に乗せられたあとも、病院をタライ回しにされるということだってあるんです。馴染みの病院に駆けつけた行動は間違っていなかったと思います」
尚美は、「だって……」といっただけで、あとは続かなかった。
重苦しい沈黙が、しばし三人を包んだ。もう誰も料理に手をつけようとしない。
「誰だってしていることだ」
雄二はいった。「路上駐車なんて、誰でもしていることさ」
「ええ、そうです。誰でもしている。警察が取り締まりに音《ね》を上げるほどです。誰も彼も、そのことを少しも悪いことだと思っていない。違反シールを貼られても、平気ではがして捨てたりする。駐車場もないくせに、大きな車を購入する。全く、狂っているとしかいいようがない」
「そんなことをいう人間だって、駐車違反したことはあるはずさ」
雄二が口を曲げていうと、前村は胸を反《そ》らせるようにした。
「はっきり申し上げておきましょう。その死んだ子供の父親は、記憶する限りでは違反を犯したことがありません。無論駐車違反もです。それだけに、余計悔しくて憎いといっていました。無神経に路上駐車して、人の迷惑になったことを知ったあともなお、『ちょっと止めていただけだ』なんていう人間がね」
そして彼は深呼吸して続けた。「殺してやりたいほどだ、とも」
雄二は彼の顔を見たまま、手をグラスに伸ばした。喉がからからに渇いている。だが震えた指はグラスを倒し、白いクロスにワインがこぼれた。
部屋に戻るなり、雄二は尚美に荷物をまとめるよういった。今すぐここを出ていくつもりだ。
「明日の朝じゃだめなの?」
「だめだ。奴は何かたくらんでいるに違いないんだ。子供の復讐だよ」
雄二はバッグを開けると、乱暴に衣類などを詰め込んだ。
「どうしてあたしたちが復讐されなきゃいけないの。たかが路上駐車じゃない」
「あの男にそういってやれよ。だけどあいつは、子供が死んだのは俺たちのせいだと思い込んでいる。それでここへ来るように仕掛けたんだ。俺たちがスキーに行きたがってるってことは、探偵か何かを雇って調べたんだろう。そういえば誰かに見られてるような気がするって、尚美もいってたな」
「やっぱり気のせいじゃなかったのね。でも一体何をするつもりかしら?」
「知らない。知りたくもない。とにかく急ぐんだ、命が惜しいならな。これは冗談でいってるんじゃないぜ」
「ほんとに冗談じゃないわよ」
尚美は口を尖《とが》らせ、半ば泣き出しそうな顔になって荷作りを始めた。
十一時過ぎに、二人は部屋を出た。足音を殺して階段を下りる。前村の部屋は食堂のすぐ横だ。ドアの前を通る時、雄二は耳を近づけてみた。中から物音は聞こえなかった。
足早に玄関に向かうと、鍵を外して外に出た。凍るような冷気が全身を襲い、手足が震えた。
「寒いわ。早く車のドアを開けて」
「ああ、わかってる」
車に乗り込むと、すぐにエンジンをかけた。この寒さではアイドリングが必要だ。エンジン音で万一前村が気づいたとしても構わなかった。何かしようとしたら、発進して振りきればいい。
エンジンの回転数が落ち着くのを見ながら、なぜ前村はこんな場所を選んだのだろうと雄二は思った。復讐するには人気のない場所が必要だったのだろうか。そういえばここへ来る道は、今の時期なら他の車が上がってくることはないといっていた。まさに密閉された空間だ。
「さあ、脱出だ」
雄二はサイドブレーキを外した。
昼間上ってきた道を、ゆっくりと逆戻りしていった。二人とも無言だ。尚美は頬杖をついて、ヘッドライトの先に目を向けている。
「テープでもかけてくれよ。音がないと気味が悪い」
雄二がいうと、尚美は大儀そうに手近にあったテープをデッキにほうり込んだ。昼間聞き飽きた曲が、スピーカーから流れてきた。
「ねえ」と尚美がいった。「客観的に考えると、やっぱりあたしたちの方が悪いんでしょうね」
嫌なことをいいやがると、雄二は舌打ちしたくなった。自分たちが悪くないとは思っていない。ただそれほど責められることではないと思っているのだ。
「たまたまだよ」と彼はいった。「世の中には平気で駐車違反してる連中なんか、星の数ほどいる。偶然前村みたいな男とかかわったのが俺たちだったってことさ。ついてなかったんだよ。不運というものさ」
「そういえば、あの人も不運だっていってたわね。あの道に路上駐車してある車があったこと……」
「そんな言い方はよせ」
雄二が鋭くいい放つと、尚美は牡蠣《かき》のように口を閉ざした。それで車内は再び、息が詰まりそうな沈黙に包まれた。
別荘を出て十分ほど経った頃だろうか、目の前に黒いものが現れた。雄二はその手前でブレーキを踏んだ。
山側に寄せて、大きな車が止まっている。
「あっ」と尚美が小さく叫んだ。「これ、ランドクルーザーよ」
「そのようだな」
細い道の半分以上を占めているので、雄二の車が通れるかどうかは微妙な幅となっていた。しかも反対側にはガードレールがない。崖ともいえる急斜面の先は、深い闇に包まれていた。
「そういうことか。ふっ、つまりこういうことをやりたかったわけか」
「何よ一人で納得して。気味が悪いわね」
「あの男、俺たちが夜中に抜け出すことを予想していたのさ。そう仕向けたといった方がいいだろうな。で、ここにランクルを置いておく。道に車を駐車することがどれほど迷惑か、俺たちが思い知るとでも思っているらしい」
雄二の説明に、尚美は大きく口を開けた。
「ばっかみたい。これをしたくて、あたしたちをこんなところに連れてきたってわけ? 子供じゃないんだから、いいたいことはわかってるわよ」
「しかし困ったな。この路上駐車が迷惑なのは事実だ」
「どうする? 引き返す?」
「馬鹿いうなよ。あんなところに戻るのはごめんだ。まあ、俺に任せろよ」
雄二はハンドルを切り、アクセルをゆっくりと踏んだ。
「大丈夫?」と尚美は心配そうな顔をした。
「俺の腕を信用しろ。ぎりぎり通れるはずだ。少しぐらいランクルに当たったって構うものか」
雄二は車を少しずつ進めていった。実際、道幅はぎりぎりだった。ドアミラーがランドクルーザーに当たったので、窓から手を出して倒した。
「気をつけてね、こっちはもう全然余裕がないわ」
窓から下を覗き込んで、尚美は細い声を出した。
「わかってる。この調子でいけば通れるさ」
雄二がそういった時だ。がくんという軽い衝撃があって、俄《にわか》に車体が左に傾いた。尚美が悲鳴をあげた。
「おい、どうしたんだ?」
「わかんないわよ」
「窓を開けて、ようすを見てみろ」
尚美はパワーウィンドウを下ろすと、びくびくしたようすで顔を出した。次の瞬間、彼女は目玉を剥《む》いた。
「大変、崖が崩れて後ろのタイヤが落ちてるわ」
「何だって?」
全身から汗が吹き出した。雄二はハンドルをしっかりと握ると、慎重に車を進めようとした。この車は前輪駆動だ。
「ああ、だめよ。動かしちゃだめ」
尚美の声が飛んだ。「前の方も崩れそうになってるわ。下手に動いたら、前輪も落ちちゃう。もっと右に切れない?」
「無理だよ。ランクルが邪魔しているんだ」
雄二は車を止めるとサイドブレーキを引いた。その瞬間、また車体が左に傾いた。道が少しずつ崩れているのだ。
「どうするの? このままだと、車ごと落ちちゃうかもしれないわ」
「がたがたいうなよ。今、考えてるところだ」
怒鳴ったが、雄二に何かいい考えがあるわけではなかった。後輪が落ちているのだからバックはできない。といってこのまま前進すれば、今度は前輪があぶない。ドアを開けてとりあえず外に出たいところだが、右にはランドクルーザーがあって塞がれているし、左は崖だ。
「ねえ、何かいい手は思いつかないの」
尚美は雄二の肩を揺すった。その手をふりほどいた。
「暴れるな。車が揺れるじゃないか」
「だって……」
尚美は手で顔を覆った。
何ら解決策は思いつかなかった。このままここでじっとしているしかない。誰かが来てくれるだろうか。しかしこの道を利用する人間は殆どいないということだった。
「そのうちに前村が来る。それを待とう」
「助けてくれるかしら?」と尚美は呟いた。「あの人、あたしたちのことを恨んでるわ」
「助けないなら、どうするっていうんだ? 奴だって、ここを通らなきゃ帰れないんだぜ」
いってから雄二は、はっと息を飲んだ。尚美も灰色の顔をしている。
そういうことか、と雄二は今初めて前村の本当の狙いを理解した。彼は雄二たちが、こういう目に遭うように仕掛けたのだ。崖が崩れたのも偶然ではない。雄二たちが車で通ったら崩れるよう、細工をしておいたのだ。そしてそれはすべて計算通りになった。唯一の誤算は、雄二たちの車はまだ転落せず、辛うじてしがみついていることだ。
「殺したいっていってたわ。殺したいほど憎いって……」
「うるさいな。黙ってろ」
ハンドルを持つ手は、汗でぐっしょりと濡れていた。唾を飲もうとしたが、口の中はからからに渇《かわ》いていた。
その時、ルームミラーに後方から明かりの近づいてくるのが写った。振り返ると、ハイラックスが数メートル後ろに止まった。運転席のドアが開き、前村が降りてきた。彼は雄二の車の後ろに立つと、状況を見極めるように少し腰をかがめた。
しばらくそうしたあと、彼はランドクルーザーの向こうを通り、雄二たちの前に回った。ヘッドライトに照らされて、前村の能面のような顔が浮かびあがった。彼は細い目で、じっと雄二たちを見下ろしていた。
「助けて、お願い……」
横で尚美が呻《うめ》くようにいったが、その声は彼には届かなかったようだ。
何秒間か、彼はそうしていた。網にかかった獲物を見る蜘蛛《くも》のような目だと雄二は思った。どう料理しようかと考えているのだ。実際、どうにでもできる。少し車体を横から押すだけでいいのだ。そしてそのための道具が――さっきまでは道を狭める役目をしていた道具だが――すぐ横にある。
やがて前村は動き出した。ランドクルーザーに乗り込む気配がある。ガチガチという音がどこからか聞こえてきた。気がつくとそれは雄二自身の歯の音だった。尚美も震えていた。二人とも、悲鳴すらあげられなかった。
ランドクルーザーのエンジン音が響いた。その途端、雄二たちの車がまた傾きを増したようだった。雄二は固く瞼《まぶた》を閉じた。
みしみしと、タイヤが雪を踏む音がした。ランドクルーザーが前に出ているらしい。やがてそれは止まったようだが、次の行動にはなかなか移らなかった。
どうするつもりだろうと雄二は思った。バックで突き落とす気だろうか。ずいぶん長い時間が経ったように思えたが、目を開ける勇気はなかった。
その時ガクンと衝撃を受けた。横で尚美が悲鳴を上げる。雄二も一層固く目をつぶった。
だが車が落ちている様子はなかった。逆にずるずると前に引っ張られている感覚がある。雄二はおそるおそる目を開けた。
前方にランドクルーザーが見えた。その後部からロープが伸び、雄二の車につながれていたのだ。
雄二の車が中央まで引っ張り上げられた時、前村が降りてきた。彼は雄二たちの方を見ずにロープを外すと、再びランドクルーザーに乗り込み、道を下っていった。
雄二は放心していた。今起こったことがよくわからなかった。わかっているのは、自分たちが無事だということだけだ。
「ねえ、行きましょうよ」
尚美がいったが、彼女もまだ夢を見ているような顔をしていた。
「ああ、行こうか」
雄二はアクセルを踏んだ。
数百メートルほど進んだ時、道の左脇にランドクルーザーが止まっていた。ここは道幅があるので、横を通り抜けるのは難しくない。
雄二は少し緊張しながら追い抜いた。まだ何かあるのではないかと思ったのだ。だが通り抜けたあとも、何も起こらなかった。尚美も横で吐息をついた。
雄二はミラーで前村のようすを窺った。暗くてよく見えない。運転席でじっとしているのだけがわかった。
ブレーキを踏んで車を止めた。「どうしたの?」と尚美が訊いた。
「ちょっと待っててくれ」
雄二は車から降りると、ランドクルーザーに近づいていった。前村は彼の方を見ず、じっと瞼を閉じていた。
「あの、前村さん……」
呼びかけたが、反応はなかった。雄二は続けた。「どうも……すみませんでした。路上駐車のこと、謝ります」
それでも前村は動かなかったが、何十秒かして、目を閉じたままいった。
「早く……行ってくれ」
雄二は頭を下げると車に戻った。何をしていたのかと尚美は訊いたが、何でもないと彼は答えた。
ハンドルを握り、車を走らせた。闇の中から白く曲がりくねった道が現れてくる。その道が永遠に続きそうな気がした。
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御殿場から東名高速に入った。ゴルフをした帰りだった。
「それで、どうするの?」
助手席に座った春美が、缶コーヒーから口を離していった。
「どうしようかと思ってね、弱ってるわけだよ」
斎藤和久は前を見たまま唇を歪めた。
「奥さん、あたしのことも知っているわけでしょ?」
春美の言葉に、和久はふっと鼻から息を吐いた。
「知っているからこそ、離婚をいい出したんだろ」
「そうよね。で、このまま離婚しちゃうとどうなるわけ? あなたは何も貰えないの」
「当然だろ。責任はこっちにあるんだからな。下手をすると慰謝料を取られるかもしれない。もっとも、俺にそんな金がないことは、あいつが一番よく知っているんだけどさ」
「ふうん」
春美はまたコーヒーを一口飲むと、「離婚してくれれば、あたしは嬉しいけど、奥さんの財産が全然入らないっていうのは悔しいわね」
「悔しいなんてものじゃないぜ。はっきりいうと、俺は無一文になっちまう。何しろあいつの会社に雇われてる身だからな」
この車だってあいつのものだ――ボルボのハンドルを軽く叩いて斎藤は呟《つぶや》いた。
「そうなると、あたしに回ってくるお金もゼロになるわけね」
「当たり前だ、俺に金がないんだから」
「弱ったわね」
「だからそういってるじゃないか」
斎藤は前を見たまま右手を横に出すと、春美の手から缶コーヒーを奪い取って飲みほした。生ぬるくなった甘い液体が、ぬるりと喉《のど》を流れた。
「何とかしなくちゃな。あいつはもう離婚の準備を始めてるかもしれない。それまでに何かうまい手を考えなけりゃあ」
そして彼は横目で春美を見た。「おまえも手伝ってくれるだろうな」
すると彼女は少し当惑した顔をしてから、
「あたしに出来ることなら、何でもしてあげるけど」
と、ためらいがちに答えた。
「本当だな。その言葉、忘れないでくれよな」
そういうと斎藤は空になったコーヒー缶を、ぽいと窓の外に捨てた。
前の車から、何かが投げ出されたと思った直後のことだった。
ハンドルを握る深沢伸一の隣で鈍い音がし、それと同時に田村真智子が「きゃあ」と悲鳴を上げた。
深沢はちらりと横を見て驚いた。真智子が左目を押さえている。
「痛い、いたい、いたいよお」
彼女が泣き叫び始めた。深沢はあわてて車を路肩に停止させた。
「どうしたんだ」
「わかんない、痛い、いたいの。助けて伸一さん、たすけて」
真智子は左目を押さえたままだ。その手を離させようとして深沢はやめた。彼女の指の間から血が滲《にじ》み出していたからだ。
「すぐに病院へ行こう」
深沢は車を発進させた。
次のインターチェンジで高速道路を下り、ガソリンスタンドで病院の位置を訊《き》くと、一日散に向かった。スタンドの店員は助手席の真智子を見て、ぎょっとしていた。
ようやく見つけた病院は、残念ながらあまり大した病院ではなかった。医者は真智子の怪我を見ると、すぐに地元の大学病院に連絡してくれた。それで深沢はまた彼女を車に乗せて、数キロ離れたところにある大学病院に向かうことになった。その頃になるとあまりの激痛からか、真智子は一言も口をきかなかった。
連絡してあったので、真智子はすぐに治療室に運び込まれた。一体何があったのですかと看護婦が尋ねてきたが、深沢にも訳がわからないのだった。
治療を待つ間、深沢は静岡にある真智子の実家に連絡しなければならないことに気づいた。それで公衆電話に歩みよったが、何をどう話せばいいのかわからず、受話器を持ったままで困惑した。
彼女の両親とは、ついさっき別れの挨拶をしてきたばかりだった。
深沢は今日、正式に結婚を申し込みに行ったのだ。
二人の交際を以前から承知していた両親は、寂しさよりもむしろ安堵感を滲《にじ》ませて深沢の申し入れを受けてくれた。母親は終始にこにこしていたし、父親は早くも子供のことをいい出すのだった。
「よろしくお願いしますよ。何しろ世間知らずな娘ですから」
先程別れ際に真智子の母がいった台詞《せりふ》だ。それに対して真智子は、
「子供みたいにいわないでよ。お母さんたちを心配させたことなんか、一度もなかったでしょ」
と勝気にいい返した。そんな彼女を相変わらずにこにこと、母親は見送っていた。
――心配させたことなんかなかった、か。
もしかしたらこれが最大の心配事になるかもしれないと思い、深沢は深呼吸を一度してから受話器を上げた。
辛い連絡を終えた後、深沢は病院を出て駐車場に向かった。なぜこんなことになったのかを調べるためだった。本当に、一体何が起こったというのだろう。電話に出た真智子の母も、しつこいぐらいその点を質《ただ》してきたが、何かが目に当たったらしいと答えるのが精一杯だった。
深沢は助手席側のドアを開けて中を見回してみて、すぐにそれに気づいた。足元に転がっていたのだ。
コーヒーの空き缶だった。
自分たちが飲んだものでないことは明らかだった。深沢も真智子も、缶コーヒーは好きではない。
そういえば、と深沢は事故の起きる直前の光景を思い出した。前を走っていた車から、何か投げ出されたではないか。あれが、この空き缶だったに違いない。
「くそお」
激しい怒りがこみ上げてきた。空き缶を投げ捨てようと手を伸ばしたが、それに触れるところで手を引っ込めた。これは重要な証拠物件だ。迂闊《うかつ》に指紋をつけたりしたらまずいかもしれない。車内を見回し、ビニール袋が落ちているのを見つけると、自分の指紋をつけないよう用心しながら空き缶を袋の中に入れた。
――それにしても、どういうやつだ。
深沢の職業はカメラマンだった。アウトドアを主な活動の場にしており、植物や野鳥を撮ったりする。そのため各地の観光地やキャンプ地を訪れることが多いが、投げ捨てられた空き缶の量にはいつも驚かされる。しかしまさかこんな形で自分たちが被害に遭うとは、夢にも思わなかった。
深沢は病院に戻ると、再度公衆電話の前に立ち、地元の警察署に電話をかけた。だが応対に出た係官は、彼の話を半ばまで聞いたところで遮《さえぎ》った。管轄が違うというのだ。事故が起きた場所なら、隣の署だという。深沢がそこの電話番号を訊くと、いかにも面倒臭そうに答えた。
教わった番号にかけて交通課を呼び出してもらったが、ここでも深沢は失望することになった。まず彼の話を聞き終えた係官は、
「多いんですよね」
と気のない感想を述べた。
「多いって?」
「空き缶を窓から捨てる輩《やから》ですよ。一体どういう神経をしているんだか」
「あのう、それで私はどうすればいいでしょうか。こちらで待っていればいいですか」
被害者の訴えを、まるで世間話でも聞くような調子で受け答えする係官に、深沢は少々苛立ちを覚えていた。
「うーん、そうですねえ」
係官は相変わらず煮えきらない。「それだけの話じゃ、相手の車を特定するのは無理ですからねえ。仮に見つかったとしても、自分は空き缶なんか捨ててないっていわれればそれまでだし」
深沢は沈黙した。すると係官は挙げ句のはてにこんなことをいった。
「じつは今日は事故がいくつも重なってましてね、ちょっと忙しいんですよ。申し訳ありませんが、こちらに来ていただけませんか。一応調書を作りますので」
この瞬間深沢は、やめよう、と思った。警察に期待しても無駄だ。彼等は被害者と加害者がはっきりしている事件以外には関心がないのだ。投げ捨てられた空き缶で怪我人が出たとしても、運が悪かったで済ませればいいと思っているのだ。
係官が住所と氏名を、それこそ『一応』といった感じで尋ねてきたので、深沢も一応答えた。しかしもう署に行く気は失せていた。そして彼が行かなくても、警察から問い合わせがくるはずがないこともわかっていた。
受話器を乱暴に置くと、治療室に戻った。ちょうど真智子が運び出されるところだった。彼女の顔半分には白い包帯がぐるぐると巻かれていた。
「お連れの方ですか」
担当医師らしい男が深沢に声をかけてきた。四十くらいの、痩《や》せた男だった。そうですと答えると、医師は彼を廊下の隅に招いた。
「思った以上に傷が深いですね。一体何が目に当たったのですか」
「これです」
深沢は手に持っていたコーヒーの缶を差し出した。
「高速道路で、これが前から飛んできたのです」
「なんと……」
医師は眉間《みけん》に皺《しわ》を刻み、二度三度と首を横に動かした。「時々いますね、窓から物を捨てる馬鹿が。しかし高速道路上というのは、私もあまり見たことがない」
「先生、それで彼女の目は?」
すると医師は一旦目をそらし、それからもう一度彼の顔を見た。だめらしいなと、この瞬間、深沢は察した。
「何しろ傷が深いですから」
と医師はいった。「視力が戻る見込みはないと思われます」
「……そうですか」
深沢はビニールの中の空き缶を見つめた。どうせ警察に提出することもあるまい。それならばいっそのこと踏み潰してやろうかと思ったが、やはりここでも我慢した。そして頭の中では、間もなく到着するであろう真智子の両親に、どのように説明すべきかを考えていた。
「冗談でしょ?」
春美は目を剥《む》いて斎藤の顔を凝視した。だが彼は首をふった。
「残念ながら、今はもう冗談をいってる余裕なんかないんだ。早いところ、何とかしなけりゃ間に合わない」
「でも、だって、殺すなんて……」
春美は自分の親指を噛み、小刻みに身体を震わせた。「ほかにもっといい方法はないの? そんな……殺すなんてだめよ」
「じゃあ、俺と別れるか?」
斎藤はベッドから身を起こした。「俺がおまえと別れて、あいつに土下座でもすりゃあ、あるいはあいつも離婚を思いとどまってくれるかもしれない」
「いや、そんなの」
春美は斎藤の身体にしがみついた。「あなたとは別れないわ。それだけは絶対にいや」
「だろう? となると、ほかに方法がないじゃないか。俺があいつに追い出されたら、ここのマンションの部屋代だって払ってやれなくなる。おまえだって、そういうのは嫌だろ」
彼女の身体を離すと、斎藤は枕元に置いてあった煙草を取り、一本くわえて火をつけた。灰白色の煙がゆらゆらと天井に上った。
春美はうつ伏せのまま黙っていたが、やがてゆっくりと彼を見上げた。
「捕まったらどうするの?」
「捕まるもんか」
と斎藤はいった。「捕まらないような、うまい手を考えてあるんだ」
「どうするの?」
「アリバイを作っておくんだ。もちろん偽のアリバイだけどな」
斎藤は灰皿を引きよせ、ぽんぽんと煙草の灰を落とした。「そのために、おまえの協力が必要なわけだよ。何でも手伝うっていったこと、忘れてないだろ?」
「それは忘れてないけど……」
「難しいことじゃない。おまえのすることは、ちょっと車を運転することだけさ」
「運転?」
「ああ、うちのボルボを運転してくれればいいんだ」
斎藤は下着を穿《は》いてベッドから出ると、電話台からメモ用紙とボールペンを取ってきた。「じつは来週、俺と女房は、山中湖にある別荘に行くことになっている。別荘仲間が年に一度集まって、自分たちの繁栄ぶりを確認しようという悪趣味な催しがあるんだ。その日ばかりは我々も、仲の良い夫婦役を演じるわけだよ」
そういって彼はメモの上の方に、『山中湖 斎藤和久 昌枝』と書いた。昌枝というのが斎藤の妻の名である。
「一方おまえは電車に乗り、こっそりと東京を出る。行き先は無論俺たちのところだ。夕方までに着いてくれればいい」
『東京 春美』と書く。
「電車に乗って? 車じゃだめなの」
「ああ、車はだめだ」
斎藤はきっぱりといった。「車は目立つからな。万一人目についたら、せっかくのトリックが台無しになる。いいか、俺たちの別荘まで来たら、おまえはこっそりとボルボのトランクに隠れるんだ。キーは前もって渡しておくし、別荘の裏口も開《あ》けておく」
「トランクに? いやよ、そんなの」
春美はベッドの中で身もだえした。「閉じこめられるみたいでいや。もし出られなくなったらどうするの?」
「俺がついてるから大丈夫だ。とにかく最後まで聞けよ。俺は夕方過ぎに、女房を連れて買い物に出る。とはいっても、本当に買い物に行くわけじゃない。人目のない山奥まで入っていったら、隙《すき》を見て女房を殺すのさ。これをX地点とでもしておくか。死体をこの場所に置いたら、トランクを開けてやる。おまえは外に出て、すかさず女房の服を身につけるんだ。といっても上着を羽織る以外には、眼鏡をかけたり帽子をかぶったりする程度だがな。おまえは女房と背格好が似ているから、ちょっと見には判別がつかないだろう。扮装が終わったら、おまえが運転席に座る。俺は助手席に座るから、運転して元の別荘地に戻ってくれ。その頃になると隣の庭でバーベキューが始まるはずだから、その前で止まるんだ」
「皆の前で止まるの? 変装だってこと、ほかの人にばれないかしら」
「心配いらない。親しいとはいえ、一年に一度会う程度さ。外は暗くなっているだろうし、まして車の中に乗っている人間の顔なんて、それほど正確に判別できないに決まっている」
「それならいいけど……。その後はどうするの?」
「俺だけがそこで車から降りる。おまえはもう一度車を運転して、今来た道を引き返すんだ。俺は隣近所の連中に、女房は何か買い忘れをしたものがあるらしいとかいっておく。そしておまえはX地点に行く」
「死体のところに行くの? 一人で行くの?」
春美は今にも泣き出しそうな顔をした。斎藤は灰皿の中で煙草を揉《も》み消した。
「少しの辛抱さ。どうってことないじゃないか。到着したら上着だとか眼鏡だとかの借り物を死体に戻しておく」
「だめ、あたしにはできない」
春美は絶望的な表情で、激しくかぶりをふった。
「やるんだ。このぐらいのこと、どうってことないじゃないか。俺のためだと思ってやってくれ、頼む」
「だって……帽子や眼鏡はともかく、服は無理よ。死体は時間が経てば固くなるって、何かの本で読んだことがあるもの」
「じゃあ上着は車の中に脱ぎ捨てていけばいい。それなら出来るだろう?」
斎藤がしつこくいったが、春美は依然として憂鬱そうだ。
「夜中に死体と二人きりだなんて、怖くてきっと身体が動かないわ」
「出来るさ。おまえはいざとなれば出来る女なんだよ」
斎藤は彼女の肩をつかむと、前後に小さく揺すった。彼女は辛そうに彼の顔を見返した。
「そのあとはどうすればいいの?」
「もう一度トランクに隠れるんだ」
「またトランクの中に……」
春美は顔をしかめた。
「その頃、俺は騒ぎ始める。買い物に出た女房が帰ってこないといってな。皆で探しに行こうということになるから、俺も誰かの車に乗せてもらってX地点に向かう。ボルボが見つかり、同時に死体も発見される。俺は連れの人間に、警察に連絡してくれるよう頼む。そいつの姿が見えなくなったら、俺はボルボを運転して近くの駅まで行き、トランクからおまえを脱出させる。おまえは何でもない顔をして、電車に乗って東京に帰ればいい」
「そのあとあなたはどうするの?」
「当然現場に戻る。もし先に誰か来ていたら、親戚に連絡しようと思って、公衆電話を探していたとでもいうさ」
「そうするとつまり」
春美は唇を舐《な》めた。「奥さんは一人で買い物に出かけて、その途中で何者かに襲われたということになるのね。そうしてその時あなたは、別荘の仲間の人たちとバーベキューを楽しんでいたわけだから、アリバイがあるということになる」
「そういうことさ」
斎藤はベッドに腰をのせ、春美の髪を撫でた。
「でも、あたしのアリバイはないわね。もし警察があたしを疑ったら、どういって逃げればいいの?」
「警察が春美を疑うことはないさ」
斎藤は楽観的にいった。「俺とおまえのことを知っているのは、今のところ女房だけだ。しかもあいつはプライドの高い女だから、まだ誰にもしゃべってはいないはずさ。だからあの女が死んだからといって、すぐにおまえに疑いがかかることはない。もっとも、事件以後は、しばらく会わないようにした方がいいだろうがな。それからもう一つ。俺はあいつを殺す時、女の力では無理だと思えるような方法を選ぶつもりだ。だから仮におまえのことが警察に知れたとしても、容疑の対象になることはない」
彼の説明を聞いた後も、春美は鬱然とした表情を変えなかった。まだ決心がつかないでいるのが斎藤にもよくわかった。
「じつは、もう一つ考えていることがあるんだ」
彼は再び口を開いた。「念のために、春美にもアリバイを作っておこう」
「あたしのアリバイ? どうやって?」
「大したトリックじゃないんだけどな、電話を使うのさ。まず俺がおまえの店に電話をかける。春美さんはいらっしゃいますかと訊くわけだ。相手は当然いうよな、今日は休んでますって。それで俺は電話を切る」
「それから?」
「次におまえが携帯電話を使って店に電話をかける。もちろん別荘地からだが、自分の部屋からかけているように話すんだ。今、変な男から電話がかかってきたんだけれど、そっちにもかかってこなかったかってな。かかってきたって店の者はいうよな。そこでおまえはいかにも嫌そうな声で、しつこい男につきまとわれて困っているんだとか何とかいって電話を切る。こうすれば、おまえは自分の部屋にいると思われる。アリバイ成立というわけさ」
斎藤の話を頭の中で整理しているのか、春美はしばらく考え込んでいた。それからぽつりと、
「うまくいくかしら」
と呟いた。斎藤はベッドの中に滑り込み、彼女の肩を抱いた。
「うまくいくさ。俺が保証する」
「でも……怖いわ」
彼女はまだ少し震えていた。
ボルボだったな、そしてたしか御殿場から東名高速に乗ってきた――これが深沢伸一の唯一の記憶である。あの時自分の前を走っていた車のことだ。色は白、たしかそうだ。
それ以外には何も手掛かりはなかった。そしてこれだけの情報で真智子の目を傷つけた犯人を探し出そうというのは、土台無理な話だった。
――もう少し手掛かりがあればなあ。
田村真智子の実家に向かう道を歩きながら深沢はため息をついた。事故の二日後に退院した彼女は、現在実家で静養しているのだ。
本当は明日見舞いに行く予定だったが、昨夜真智子の母親から電話がかかってきて、少しでも早く来てもらえないかといわれたのだ。
「気が立ってましてね、私や父親に当たるんですよ。深沢さんの顔を見れば、少しは落ち着くんじゃないかと思うんです」
母親の訴えを聞いて、無理もない、と深沢は思った。片目とはいえ、突然視力が奪われて平静でいられる人間など存在しないだろう。まして真智子はヘアデザイナーという、視力を大切にしなければならない職業についていた。
田村家では深沢を歓待してくれた。真智子も左目に巻いた包帯が痛々しかったが、彼の顔を見て嬉しそうにした。日常生活については、全く不便はないという。
「あと一週間もすれば包帯が取れるそうよ。とはいっても、目が見えるわけではなさそうだけど」
真智子はかすかに笑みさえ浮かべて、吐き出すようにいった。そうすることで悲しみに包まれそうになるのを防いでいるのだろう。それがわかるだけに深沢としては、かける言葉を思いつかない。
「ねえ、あたしの部屋に行きましょう」
真智子は彼の手を取った。彼女の部屋は二階にあるのだ。「お母さんは入ってきちゃだめよ。若い二人だけの会話を楽しむんだから」
「はいはい、邪魔しませんよ」
真智子の母は笑って答えた後、深沢を見て小さく頷いた。
自室に入ると、彼女は深沢に抱きついてきた。突然のことで少し驚いたが、彼も彼女の背中に手を回した。
「嫌いにならない?」
と彼女は訊いた。「片目がつぶれちゃったけど、あたしのことを嫌いにならない?」
「つまらないこというなよ。僕は君の左目と婚約したわけじゃない」
深沢がいうと、真智子はすすり泣きを始めた。彼女の涙で彼のポロシャツが濡れた。
「痛い」
視力がなくても涙は出るのだろう。彼女は包帯の上から左目を押さえた。
「大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫。心配しないで」
真智子はにっこり笑うと、机の上に置いてあったビニールの袋を手に取った。その中には例の空き缶が入っていた。
「ねえ伸一さん、怒りというのも時には役に立つものよ。伸一さんが置いていったこの空き缶を見ていると、悲しみなんか吹き飛んでしまうもの」
「精神衛生上、あまり良くないかなとも思ったんだけどね」
真智子がまだ病室にいた時、彼がこの空き缶を見せたところ、どうしても自分が持っていたいと彼女がいいはったのだった。
「ねえ……何とか犯人を見つけ出せないかしら」
ビニール袋の中の缶を見ながら真智子はいった。
「僕もそのことを考えてはいるんだけれど、どうにもうまい手が見つからなくてね。しかも我々は警察と違って、調査する方法を持たないから」
「轢《ひ》き逃げとかだったら、警察も熱心になるんでしょうけどね。やっぱり被害者が死なないとだめなのかな」
「そうじゃなくて、轢き逃げの場合は捜査が報われる可能性が高いからだと思うよ。現場に痕跡が残るし、車体にだって傷がついている。犯人を割り出すことも、それほど難しくないんだ。それに比べて今回みたいな事件は、捜査しても実になる公算が低いだろうから、初めから熱がはいらないんだよ」
「苦労しても手柄にならないというわけ?」
「そういうことだろうね」
深沢は肩をすくめた。「警察でさえそれだから、我々が犯人を探し出すのは不可能に近いだろうな」
「諦めるしかないわけね……」
「いや、まだ諦める気はない」
深沢は、はっきりといいきった。「白のボルボということはわかっているからね、そこから何とかならないものかと考えているところさ」
「白のボルボ……ね」
真智子はぼんやりと宙を見つめた後、「ねえ、これはあたしの見間違いかもしれないんだけれど、あの車のリアウィンドウのところにガス・ボンベが置いてあったように思うの。ほら、前にキャンプに行った時、伸一さんがランプ用に持ってきてたボンベよ」
「ガス・ボンベ? 本当かい」
「だから自信はないの。でもあの事故が起きる前、あたし、前の車を見てぼんやり考えていたのよ。この人たち、キャンプにでも行ってきたのかなって。だってあの時のボンベによく似ていたんだもの」
「ふうん」
真智子が何のことをいっているのかはわかった。ガス・ランタン用の燃料のことだ。緑色の平たい筒型をしたボンベだ。
「でもそんなものを後部棚に置いておくかな。しかもボルボに乗ってるような人間がさ」
「わからない。やっぱり見間違いなのかな」
真智子は力なくうなだれた。そのようすを見ていると、せっかくの彼女の記憶を生かしてやりたくなる。
「御殿場から乗ってきたということは、富士五湖から来たのかもしれないな」
彼はいった。「そこでキャンプをした帰りだったということは考えられる。それならそういうアウトドア・グッズを積んでいるかもしれない」
「富士……きっとそうよ」
真智子は手を叩いたが、すぐに顔を曇らせて、「でもそれだけで見つけ出すのは無理よね。週末に富士に行く人なんて、大勢いるもの」
「たしかにそうだけど、もし別荘人種なら、また現れるかもしれない」
「別荘? ああ、そうか。驚くほどの高級車でもないけど、ボルボに乗っている人間なら、別荘を持っている可能性もあるわね」
「よし」
彼は大きく頷いた。「明日から富士の周りの別荘地を当たってみよう。問題の白のボルボを発見する奇跡が起こるかもしれない」
「雲を掴むような話……でも白のボルボがあったとして、それが犯人の車だってことを、どうやって確かめるの?」
「そうだな」
深沢は少し考えてから、「そうなったら、その時に考えるよ」と答えた。
土曜日の昼、斎藤和久はボルボを運転して自宅を出た。助手席には妻の昌枝が座っている。昌枝は自動車電話を切ると、
「これでひと仕事完了。今日は電話の入る予定はないわ」
といって、にっこり笑った。
「去年は突然呼ばれてあわてたからな」
「まったくよ。せっかくのパーティが台無しだったわ」
昌枝は父親の会社を継いで、ファッションビルを何軒か経営している。しかも単なる二代目ではなく、持ち前の強気な性格で、どんどんと業績をあげていた。斎藤とは恋愛結婚だが、仕事の上では完全に上司と部下だった。
斎藤がブレーキを踏んだ時、後部座席に何かの落ちるような音がした。昌枝は身体を捻《ね》じって拾い上げると、「何よ、これ?」といって斎藤に見せた。それは平たい緑色の缶だった。
「ああ、それか。この前ガソリンスタンドで、何かの記念品だとかいってくれたんだ。カーワックスだろう」
「ふうん、つまらないものをくれるわね」
そういって彼女は緑色の缶を後部席に投げ捨てた。
山中湖の別荘には六時過ぎに着いた。外観はカナディアンタイプのログハウスである。しかし中は高級ホテルの観がある。
斎藤が荷物を運びいれる間に、昌枝は早速近所の別荘仲間に挨拶しに行った。彼女の姿が見えなくなるのを待って、彼は別荘の電話の受話器を取り上げた。春美に持たせてある携帯電話の番号を押す。二度のコールサインで繋がった。
「あたしよ」
春美の声が聞こえた。
「今どこにいる?」
「あなたの別荘の近く」
「ここに来る途中、誰にも見られなかっただろうな」
「見られてないわ」
「よし」
斎藤は腕時計を見た。六時半だった。「じゃあ予定通りにやる。準備しておいてくれ」
一旦電話を切ると、再び番号ボタンを押した。今度は春美が働いているスナックの番号だ。すぐに相手が出た。女の声だった。
「春美、いるかい?」
わざと粗野な口調でいった。相手の表情の変わるのが、目に浮かぶようだった。
「今日は休んでますけど、おたくはどなた?」
「誰でもいいんだよ。それより本当にいないのか。隠してるんじゃないだろうな」
「隠してなんかいませんよ。一体誰なんですか。変なこというと、警察に連絡するわよ」
それには答えず、乱暴に受話器を置いた。我ながらうまい芝居だったと悦に入りながら、再度春美に電話をかける。
「電話したぜ。次はおまえの番だ。それが終わったら、打ち合わせ通り車のトランクに隠れてくれ」
「本当に、すぐ出してくれるんでしょうね」
「当たり前じゃないか。俺を信用しろよ」
電話を切ると、別荘を出た。駐車場は建物の裏になるので、表からは見えない。
「やあ、こんにちは。今年もよろしく」
隣の別荘の主が、斎藤を見つけて声をかけてきた。
深沢伸一は河口湖から山中湖に向かっていた。このあたりの写真を撮る仕事があったからだが、別荘地ばかりを選んで走っているのには、仕事以外の理由があった。
――それにしても、案外ないものだな。
駐車場に止めてある車を眺めて、彼は呟いた。白のボルボというのが、なかなか見当たらないのだった。今日はこれまでに一台も見ていない。
真智子と約束して以来、深沢は白のボルボを見つけると写真に収めるようにしている。もしかしたらこの中に犯人がいるかもしれないと思って撮っているのだ。
山中湖の近くで喫茶店に入った。絵本に出てきそうな白い建物で、店内は案の定若い娘ばかりだった。深沢は隅の席についてコーヒーを注文した。
――白のボルボを見つけてどうなるというものでもないのだが。
バッグからビニール袋を取り出し、その中に入っている空き缶を見つめてため息をついた。初めから、本気で犯人を探し出せるとは思っていなかった。真智子の気持ちを考えると、何もせずに諦めるという態度をとれなかっただけのことだ。
昨日、真智子に会ってきた。彼女はまた少し元気を取り戻していた。
「お父さんに叱られちゃったわ」
こういって彼女は舌をぺろりと出した。「済んだことは仕方がない。そんなことにいつまでも拘《こだわ》ってちゃいけないって」
彼女の父親は大工だ。昔気質で、人にも自分自身にも厳しい人だ。
「伸一さんにも迷惑をかけることになるっていってたわ。仕事があるのに、そんなことに時間を取られたら良い仕事が出来ないって」
「耳が痛いな」
深沢は苦笑した。
「でもあたしもそう思ったわ。ねえ、だから明日で終わりにしましょ」
真智子は真摯《しんし》な目を彼に向けていった。「何もしないままだとあとで悔やんだでしょうけど、もうだいぶ気が済んだわ。だから最後にもう一度だけ探して、それでもうこれっきりにしましょう。あたしも忘れるよう努力するわ」
「それでいいのかい?」
「いいわ。だってお父さんがいうように、済んでしまったことなんだもの」
彼女は例のコーヒー缶を彼に差し出した。「明日、これをどこかに捨ててきて。それがあるといつまでも拘《こだわ》ってしまうから」
「わかった」
こうして深沢は空き缶を受け取ったのだった。
――そろそろ捨て場所を考えた方がよさそうだな。
ビニール袋の中の缶を見ながら、彼は薄いコーヒーを啜《すす》った。
バーベキューの準備が整い始めていた。いつものメンバーが顔を揃《そろ》えている。話の中心にいるのは常に昌枝だ。そうでないと気が済まない性格なのだ。
時計をちらりと見てから、斎藤は昌枝にいった。
「ちょっと買い物をしてくる」
「あら、何か忘れもの?」
「酒だよ。バーボンを忘れた」
「じゃあついでにワインを買ってきてちょうだい。どうも足りないみたいだから」
「オーケー」
別荘の裏に回り、車に近づくとトランクを開けた。中には予定通り春美が入っていた。
「ああ、よかった」
心細かったのか、彼の顔を見ると春美は泣きそうな顔をした。「暗くて、おまけにとても寒いの。まだ入ってなきゃいけない?」
「あと少しの辛抱だ。もうすぐ女房が来る。おとなしくしていてくれ」
春美がさらに何かいいたそうにするのを無視して、斎藤はトランクを閉めた。
約一分待ってから、彼は車に乗り込んでエンジンをかけた。ゆっくりと車を駐車場から出す。別荘の前を通る時、バーベキュー仲間が手を振った。
場所は決めてあった。万一声を出されても聞こえないような森の中だ。犯行は難しくないだろう。何しろ春美は、殺されるのが自分だとは夢にも思っていないだろうから。
かわいそうだが仕方がない、と斎藤は思った。単なる遊びで付き合い出したにすぎないのに、本気になる方が悪いのだ。以前別れ話を持ち出した時、あっさりと別れてくれれば問題はなかった。それが、別れるぐらいなら今までのことを全部奥さんにばらしてやるなどというものだから、殺すしかないという結論に達してしまったのだ。
馬鹿な女だ。
そして馬鹿だからこそ、今回のような計略にも、簡単に引っ掛かる。
「頭の悪いやつは死ねばいいのさ」
唇を歪めて呟いた。
目的の場所には予定通り到着した。周りはすべて木に囲まれている。斎藤は車を止めると、手袋をはめてから外に出た。
トランクを開ける。春美は上半身を起こすと、きょろきょろと辺りを見回した。怯《おび》えているのが暗がりの中でもよくわかる。
「終わったの?」
彼女は訊いた。昌枝を殺し終えたのかという意味だろう。斎藤はかぶりをふった。
「いいや、これからさ」
「これからって?」
「これから殺すということさ」
そうして彼は春美の首に手をかけた。
深沢が高級別荘地に足を踏み入れた途端、すぐそばの敷地内から白のボルボが出てきた。あわててカメラを構えようとしたが、車はすぐに走り去ってしまった。
だがこの瞬間、奇妙な感覚を覚えていた。今までに白のボルボと出合った時とは違う。この車じゃないか、という直感があったのだ。
――まさかな、いや、もしかしたら……。
車が出てきたところを見た。別荘の持ち主と思える人間たちが数名集まって、庭先でパーティを始めていた。全員三十代から四十代前半というところだ。
深沢は別荘の周りを歩いてみた。駐車場は建物の裏にあった。今は車が入っていないということは、先程のボルボはここに止められていたのかもしれない。
敷地の周囲は金網で囲まれているが、裏口と思えるドアがついていて、鍵もかかっていなかった。深沢は思いきって中に入ってみた。
駐車場は屋根つきで、シャッターを閉めることができるようにもなっていた。たしかにその方がいいだろう。別荘人種に反感を抱く連中が、夜中に車に悪戯をするという話を、深沢も聞いたことがあった。
駐車場の中は広く、物置も兼ねているようだった。壁際にちょっとした棚があり、ロープやテントがしまわれている。折畳み式のピクニックテーブルもあった。
――ガスボンベはなさそうだな。
深沢がそう思った時、
「何してるの?」
と突き刺すような声が飛んできた。驚いて、彼は片手に持っていたビニール袋を落とした。中から空き缶が出て転がった。
振り返ると、化粧の濃い小柄な女が、彼を睨みつけていた。
「あ、これはどうもすみません。じつはこういう者なのですが」
深沢は名刺を出した。「素敵な建物なので、是非写真を撮らせていただけないかと思いまして」
女は名刺を一瞥しただけで、すぐに彼に返してきた。
「残念だけど、ご要望には応えられないわ。そういうのには興味ないから」
「そうですか」
「用がなかったら出ていってちょうだい」
「その前に一つお尋ねしたいのですが、先週の土曜日にも、こちらにいらっしゃいましたか?」
「先週の土曜日?」
女は怪訝《けげん》そうな顔を横にふった。「いいえ、来なかったわ。それがどうかしたの?」
「いえ、何でもないんです。失礼しました」
「ああ、ちょっと」
今度は女が彼を呼び止めた。「忘れものよ」
彼女は深沢が落としたビニール袋を拾ってくれたのだった。彼は駐車場の中を見回した。空き缶はどこに行ってしまったのだろう。
「どうかしたのかしら?」
「あっ、いえ、別に何でもありません。ではこれで」
深沢は足早に裏口から出た。これでもういい、と思った。
――空き缶も消えちゃったしな。
真智子もわかってくれるだろうと深沢は思った。
日曜日の夜、斎藤は昌枝と共に自宅に到着した。ここでも荷物運びは斎藤一人でする。昌枝は疲れた疲れたといって、早々にソファに横になってしまった。
「俺、トッポを受け取りに行ってくるよ」
トッポというのは飼っている犬の名前だった。旅行の時には友人に預けていくのだ。
「ああ、お願い」
半分眠ったような声で昌枝は返事した。
斎藤は車を運転し、春美のマンションに向かった。トランクの中には彼女の死体が入ったままだ。だから別荘を出る時、荷物はすべて後部席に積んだのだが、自分で荷物を運ぶ意思のない昌枝は、何ら疑っているようすがなかった。
春美のマンションに着いたのは、午後九時を過ぎた頃だ。
斎藤は車を地下駐車場に入れた。その一番奥に止めてあるプリメーラが春美の車だ。その横に自分の車を止めると、手袋をはめて外に出た。
ボルボの後ろに回り、ひと呼吸置いてからトランクを開けた。昨夜ほうり込んだ時のままの格好で、春美は横たわっていた。恐れていた異臭はまだない。春美がいっていたように、トランクの中は案外寒いのかもしれない。
死体は目を開けていた。その目を見ないようにして彼女の。バッグからキーを取り出すと、プリメーラのドアを開けた。それから死体をひきずり出し、後部シートに寝かせた。
彼女のキーはバッグに戻し、何もぬかりがないことを確認してからドアロックをした。
――よし、誰も見ていないな。
素早くボルボに乗り込むと、斎藤は勢いよくエンジンを吹かせた。
10
死体発見は十月三十日の月曜日だった。発見者は中井春美の隣に駐車場を借りている銀行マンだ。朝、出勤しようとして何気なく隣の車を覗き込み、死体に気づいたらしい。若い銀行マンは死体を見るのは初めてらしく、警察官の事情聴取中も青い顔をしていた。
早速マンション住人の聞き込みが開始されたが、死体がいつからあったのかはさだかではない。ただ、春美の車が金曜の夜から置かれたままになっていることは、ほぼ確実のようだった。
盗まれたものはなく、暴行の跡もない。怨恨のセンが強いというのが、捜査当局の見方だった。
そんな中で、刑事の一人が興味深い情報を得た。情報提供者は春美が働いているスナックのママだった。
「土曜日の六時過ぎ頃、変な男から電話がかかってきたんです。春美はいないかって。休みですっていったら、名前もいわずにガチャン。その後すぐに春美ちゃんから電話があって、店に変な男から電話があったんじゃないかっていうんです。あったわよっていったら、やっぱりって、ため息をついてました。どうやら彼女の部屋にも電話がかかってきたらしいんです。つきまとわれて困ってるっていってました」
「どういう男かは聞かなかったんですか」
「教えてくれませんでした。話したくないみたいだったし、本当に困ったら打ち明けてくれるだろうと思いましたから」
この話は捜査のひとつの方向づけをした。春美の相手の男を探せというわけである。昔の男、何らかの関係のある男が、片っ端から容疑の対象となった。
斎藤和久の名前が浮かんだのは、事件から四日目のことだった。以前春美の友人が彼女の洋服を褒《ほ》めた時、これは店に来るお客さんで、洋服関係の仕事をしている人からプレゼントされたのだと、彼女が口を滑らせたことがあったというのだ。調べたところ、それに該当するのは斎藤だけだった。また春美の部屋を調べたところ、斎藤の妻が経営しているファッションビル内で売られていたものと同種の洋服が、続々と出てきたのだ。
すぐに捜査員二人が斎藤に会いに行った。警視庁捜査一課の金田刑事と、所轄の田所刑事だ。
二人の刑事と対峙した斎藤は、中井春美という名前を聞いても、すぐには思い出せぬような表情をした。それでスナックの名をいうと、ああ、と小さく手を叩いた。
「彼女ですか。店で一、二度話をしたことがあります。あの子が殺されたんですか? へえ、そいつは驚いたなあ」
洋服をプレゼントしたのではないかと金田刑事が問うと、斎藤は心外そうな顔で、付き合いもないのにそんなことをするはずがないと否定した。
「ところで先週の土曜から日曜にかけて、あなたはどこにおられましたか?」
金田刑事は尋ねた。死亡推定時刻は、幅を持たせて、土曜の昼から日曜の朝ということになっている。
「アリバイですか」
斎藤はにやりと笑ってから、その日なら山中湖の別荘に行っていたと供述した。証人は近くの別荘の仲間だという。
「殆《ほとん》どずっと皆と一緒にいましたからね。誰に訊いてもらってもかまいませんよ」
自信満々の口ぶりだった。
捜査本部に帰った二人の刑事は、本部長に斎藤和久の印象を訊かれた。二人は、心証は大いに黒いと口を揃えていった。
その週の土曜日に、金田、田所両刑事は山中湖を訪ねた。先週の土曜日に斎藤夫妻とバーベキューパーティをした山下夫妻が、今週もまた来るという話を聞いたからだった。山下夫妻は静岡市に住んでいるが、月に二度は別荘に来るらしいのだ。
刑事からの質問を受けた夫妻は、戸惑いながらも斎藤和久の供述とほぼ同じ内容の証言をした。
「ええ、そうです。六時過ぎぐらいにお見えになって、それからはずっと我々と一緒でした。盛り上がりましてね、バーベキューが終わったあとも、斎藤さんの別荘で夜中の二時ぐらいまで騒いでました。おかげで二日酔いがひどかったですよ」
気の良さそうな顔をした亭主は、目を細くしていった。
「斎藤さんの御主人に、何か変わった様子はなかったですか。たとえば考え事をしていたとか」
田所が訊いたが、
「さあ、覚えがないですねえ」
といって山下は首を捻《ひね》るだけだ。
「本当にずっと一緒だったのでしょうか。少しの間、斎藤さんだけがいなくなったということはありませんか」
金田が念を押すように尋ねた。それで山下は腕組みをして唸《うな》っていたが、
「そういえば、一度だけいなくなりましたね」
と顔を上げていった。「本格的にパーティが始まる少し前だから、六時半頃かなあ。酒を買いに行くといって、車に乗って出かけられましたよ」
「一人でですか?」
「そうです。三十分か四十分ぐらいで戻ってきたと思いますけど」
「三、四十分ねえ」
刑事たちは日曜日のようすなども訊いたあと、礼をいって山下と別れた。
「三十分あれば、春美を殺害してトランクに載せるのも可能でしょうね」
田所がいう。金田も頷いた。
「後は春美がこっちに来ていたという確証さえ得られればな」
捜査本部では、春美の恋人は斎藤とみてまず間違いないという結論に達していた。今までに春美が店を休んだ日と、斎藤が外泊した日がぴたり一致すること、春美が持っていたアクセサリーの中に、斎藤が買ったと思われるものがあることなどがその根拠だった。
とはいっても、斎藤が財産家の妻との離婚を考えているとは思えなかった。結局は別れ話がこじれて、斎藤は春美を殺すことを思いついたのではないか、というのが捜査会議で出された意見だ。
問題はアリバイだった。
スナックのママの証言によると、土曜日の夕方春美は自室にいたことになる。一方その頃、斎藤は山中湖にいる。これでは犯行は不可能だ。
しかし若い捜査員の中に、興味深い説を出した者がいた。春美がスナックに電話した時、彼女は山中湖の近くにいたのではないかというのだ。変な男の電話というのは、もちろん斎藤がかけたものである。春美に何かいい含めて、そういう偽《にせ》の電話をかけさせたのではないかというのが、若い刑事の推理だった。
もし当日、春美が山中湖に来ていたなら、犯行は可能になる。まず斎藤は春美を殺害すると、車のトランクに隠す。翌日東京に帰る時、ついでに死体を運び、春美のマンションに捨てていく。こうすればアリバイが成立するのだ。
じつは昨日、別の捜査員が斎藤に会いに行き、ボルボのトランクを見せてほしいといったのだった。斎藤は愛想よく見せたそうだが、中には明らかに最近掃除したという痕跡が残っていたという。
これでますます彼への疑惑が深まった。
金田と田所は、春美の写真を持ち、山中湖周辺のレストランや売店の聞き込みを行った。しかし彼女の姿を見たという者はいなかった。
「仕方がない、とりあえず帰るか」
沈みかけた太陽を見ながら金田がいった。
「残念ですね。斎藤はうまく春美を隠していたということでしょうが」
「うん、一体どこに隠していたか、だが……」
金田は足を止めた。「殺した後、死体をトランクで運んだことは間違いないんだ。ということは生きている時も、車のそばに隠していたのかもしれないな」
「駐車場ですか」
田所は指を鳴らした。
「行ってみよう」
二人は東京に連絡し、別荘の駐車場に入る許可を受けてから中に足を踏み入れた。駐車場は建物の裏にあった。
「ここなら春美を隠せないこともないでしょうね」
「うむ、しかし女房の目があるからな」
二人は春美の痕跡らしきものを必死で探した。煙草の吸い殻がいくつも落ちているが、彼女が吸わなかったことはわかっている。
「ありませんね」
「うん……おや、これは」
金田がピクニックテーブルの陰から拾い上げたものは、コーヒーの空き缶だった。
「おかしいな」
と金田はいった。「ほかの場所はともかく、別荘の敷地内だけはやたらに奇麗なので感心していたところさ。ゴミひとつ落ちていない。ところがこういう空き缶が無造作に捨ててあるというのは、どういうことかな。おまけにこの缶は、それほど古いものじゃない」
「隠れている間に、春美が飲んだんじゃあ」
田所が緊張した声でいった。金田は大きくひとつ頷いた。
「だめで元もとだ。こいつを持って帰ろう。春美の指紋が出てきたら万々歳だ」
11
「六月六日がいいよ。大安だから」
カレンダーを見て深沢はいったが、真智子は首をふった。
「だめよ、外国ではあまり縁起の良い日じゃないんだもの。やっぱり五月にしましょう。五月の二十九日か三十日。それがいいわ」
「式場、空いてるかなあ」
「空いてるところを探せばいいのよ」
真智子は急須に湯を入れると、少し待ってから二つの湯のみ茶碗に注《つ》ごうとした。だが茶は茶碗に入らず、テーブルにこぼれた。
「ああ、大変」
彼女はあわてて布巾《ふきん》を持ってくると、テーブルの上を拭《ふ》いた。
「ごめんなさい、濡れなかった?」
「うん、大丈夫だ」
布巾を手にしたまま、真智子はうなだれた。
「遠近感が狂ってるのよね。片目だけだから。こんなことで、伸一さんの奥さんになれるのかしら」
「馴れれば平気さ。そういうことは、いわない約束だったろ」
話題を変えるために深沢はテレビのスイッチを入れた。ニュース番組をしていて、殺人犯人が捕まったとキャスターが説明していた。財産家の妻を持つ夫が、愛人を殺したのだという。
「いろいろな人がいるものねえ。何が不満だったのかしら」
本当に不思議そうに真智子がいう。
「僕たちには関係のないことだよ」
そういって深沢はチャンネルを変えた。
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鏡の中で
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「あと十日か。待ちどおしくてたまらんというところじゃないか」
織田が報告書を書いていると、主任の古川巡査部長が湯のみに茶を入れながらいった。織田は顔を上げると、しかめっ面をして首をふった。
「冗談じゃないですよ。式場や司会者との打ち合わせやら、引っ越しの準備やらで大変なんです。待ちどおしいというより、早いところ片付けたいという心境ですね」
「といいながら、それが結構楽しいんじゃないのか」
「勘弁してください。この上まだ旅行の支度まで残っているんですから」
「新婚旅行か。うらやましいねえ」
古川は音をたてて茶を啜《すす》ると、織田の机に貼りつけてあるカードサイズのカレンダーを指さした。「たしかハワイに行くっていってたな。十日間か。警官でも、ずいぶん休めるようになったものだなあ」
「たかが七日の結婚休暇に、有休をくっつけただけじゃないですか」
「いやいや、これだけたっぷり休めるのも、これが最後と思っていた方がいいぞ」
古川はにやにやしながらいう。織田は舌を鳴らした。
「小学校を週休二日にしようって時に、警官だけ働きすぎってのはないでしょう。どんどん休めるようにすべきです」
「そのためには事件や事故が、もう少し減ってくれんとな」
古川がそういった時、横で無線を聞いていた山下という交通課員が声をかけてきた。
「主任、事故発生です」
途端に古川の顔色が変わった。織田も立ち上がる。
「場所は?」
古川が訊《き》く。山下が聞いているのは、県警本部から外勤指令室に送られる無線だ。
「E町交差点です。乗用車とバイクの衝突」
「よし」
古川と共に織田も準備を始めた。机上の電話が鳴る。外勤指令室からの出動命令だ。古川がメモを取りながら応対した。
「なあ織田、俺のいった通りだろう」
パトカーに乗り込むと、古川がいった。
「日本が本当に豊かな国になったんなら、真っ先に俺たちが暇になるはずなんだ。ところが事件も事故も一向になくならない」
「モノはあってもゆとりはなし、ですか」
「その通りだ」
織田は赤色灯をつけ、パトカーを発進させた。時計を見ると夜中の一時半。こんな時刻でも事故が絶えないようでは、本当に長期休暇は今度が最後になるかもしれんぞと織田は思った。
現場は信号のある交差点だった。道路はどちらも片側一車線で、制限速度は四十キロ。周囲にはガソリンスタンドや小さなビルが建ち並んでいる。昼間でも、特に交通量が多いという場所ではなかった。
織田たちが到着すると、事故車両は近くのガソリンスタンドの敷地内に移動されていた。乗用車は白の国産車。バイクも国産らしいが、すぐには車種が判別できなかった。だが五〇t未満の、いわゆる原付であることはわかる。
救護隊の姿はなかったが、外勤警官が二人残ってくれていた。バイクに乗っていた若者は病院に連れていかれたらしい。
「家族に電話して、病院の場所を教えておきました。レンタルビデオの会員証に電話番号が書いてあったものですから」
中年の外勤警官が、こう説明した。
「御苦労さまです。怪我の程度はどうでしたか」
古川が尋ねた。
「頭を強く打ったらしくて、道路上で伸びたきり動きませんでした。救護隊員の呼びかけにも答えられないようすでしたね」
「頭ですか。ヘルメットはかぶっていなかったのですか」
「ええ、どうやらノーヘルです」
横で聞いていて、織田は唇を噛んだ。今は原付に乗る場合もヘルメット着用が義務づけられているが、守らない若者が依然として多い。
「困ったものですな。出血がなさそうなので安心していたのですが」
古川が道路上を見ていう。
「ええ、外傷は大したことなさそうでした」
「目撃者はいましたか」
「だめです。何しろこの時間ですから」
「でしょうな」
古川の指示にしたがって、現場検証が行われることになった。事故地点は一方の道路の停止線付近。走ってきたバイクがそのあたりで止まろうとしたところ、乗用車が左の角から突っ込んできたということだった。
「一体、どういう原因でそんなことになるんだ?」
古川が目を丸くした。
「本人に訊けばわかりますよ」
織田は事故を起こした乗用車に近づいた。運転手は中にいる。首をうなだれ、両手で頭を抱えていた。織田が窓ガラスをこつこつと叩くと、ゆっくりと顔を上げた。年齢は三十代半ばか、頬のとがった、精悍な感じのする顔つきをしていた。
「ちょっと話を聞かせてください」
男はドアを開けて出てきた。少し右足を引きずるようにしている。
「あなたも怪我をなさったのですか」
織田が訊くと、
「いや、大したことはありません。気にしないでください」
と男は答えた。この時織田は、相手の吐く息に注意していた。飲酒運転の可能性を疑ってみたのだ。しかし彼の感じたかぎりでは、アルコールの臭いはしなかった。
男は中野文貴と名乗った。聞いたことのある名前だなと織田は思った。勤め先を尋ねると、ややためらいを見せたあと、東西化学という地元では知られた会社の名前を口にした。
中野の話によると、彼は交差点を右折しようとしたのだという。信号は肯から黄色に変わるところで、少々焦っていた。それでたぶんスピードが出すぎていたのだろう、車は激しくスリップした。あわてた中野は体勢を立て直そうとして逆にハンドルを切り損ない、反対車線に突っ込んでしまった――。
ありそうなことだと織田は思った。
だが道路表面を調べていた古川は首を捻った。
「それにしてはちょっとおかしいな」
「何がですか」
「スリップ痕だ。見たところ、それほど強くは残っていない」
「なるほど、そういえばそうですね」
自らもスリップ痕を確認してから、織田は中野の方に向き直った。
「スピードはどのくらい出していましたか」
「制限時速を少しオーバーしていたと思いますから……五十キロぐらいでしょうか」
「でも曲がる前には、もう少し速度を落としたんじゃないですか」
古川が横から尋ねる。中野は自信なさそうに首をふった。
「よく覚えていません。何しろ咄嗟《とっさ》のことで……」
「ははあ」
古川は指先で頬を掻《か》くと、「それほどすごいスピードで曲がったとも思えないんだよなあ」と独り言のように呟《つぶや》いた。
「あなたはこんな時間にどこに行くつもりだったのですか。急ぐような用事があったのですか」
織田が質問した。中野は力なくうなだれると、
「知り合いのところに行っていて、帰る途中でした。特に急ぎの用があったわけではないのですが……」
歯切れの悪い口調で答えた。
写真撮影などを一通り終えると、JAFによる事故車の移動を確認してから織田たちは中野を連れて署に戻った。改めて事情聴取を行ったが、彼の供述に大した変わりはない。というより、あまり覚えていないの一点ばりなのだった。事故を起こした人間というのは、大抵自分に都合の良いことだけは主張するものだが、中野はそれすらも殆《ほとん》どしなかった。信号が青だったことは間違いないと述べているのみである。
中野には家族がいないということなので、会社の上司に連絡してあった。事情聴取が終わった頃、その上司が署にやってきた。
「中野、大丈夫か」
交通課の部屋に入ってきたのは、長身の浅黒い顔をした男だった。中野よりも少し年上に見える。
「どうも御迷惑をおかけしております。高倉といいます」
男は織田たちに向かって丁寧に頭を下げ、名刺を出した。その名刺を見て織田ははっとした。同時に古川も、「おっ」と声を出した。『東西化学株式会社業務部労務課』という職場名の横に、『陸上部監督』という肩書きがついていたからだ。
「ああ、マラソンの高倉さん」
名刺を持ったまま古川が大きな口を開けて頷いた。織田も思い出していた。この高倉というのは、十年ほど前にマラソンで活躍した選手だったのだ。オリンピックにも出たはずだ。
「そうか、中野さん……あの中野文貴さんだったのか」
織田は手を叩いた。「一万メートルだとか、マラソンに出場しておられましたよね。たしかあの頃は××食品に所属しておられて」
彼にいわれ、中野は照れくさいというより、バツの悪そうな顔をしてうつむいた。これがほかの場所であったなら、彼も少しは誇らしげな表情を見せたのだろう。
「彼は今、うちのチームのコーチをしてくれているんです」
高倉がいった。
「いやあ、驚きました。長い間この仕事をしていますが、有名人に当たったのは初めてです」
古川は相好《そうごう》を崩したが、だからといって特別扱いはしないぞとばかりに、すぐに厳しい顔つきに戻った。「どうも夜中にお呼び立てして申し訳ありませんでした。事情を御説明しますから、こちらへどうぞ」
来客用のテーブルにつき、織田と古川は事故の状況を簡単に話した。明らかに中野に非があることを知って、さすがに高倉の目元は曇った。
「そうですか。それは大変なことになってしまったものですねえ。じつは今夜彼は、私の指示で大学の先生のところに行ってくれたのです。スポーツ生理学を研究しておられる先生ですが、トレーニングのことで相談したいことがありまして。忙しい方で、昼間はたっぷり時間を取れないものですから夜になったわけですが、やはり深夜の運転は危険だということですね」
高倉は事故の遠因は自分にあるとでもいうように肩を落とした。中野は横で小さくなって話を聞いている。
念のため、織田はその大学名と教授名を中野本人に尋ねた。しかし彼は高倉の方を気にしたようすで、答えようとしない。
「中野君は、先方に迷惑がかかるのではないかと気にしているのですよ」
高倉が庇《かば》うようにいった。織田はあわてて手をふった。
「そういうことは一切ありません。それは保証します」
「そうですか。では私が代わりにお答えします。大学は――」
高倉が口にしたのは地元の国立大学の名だった。そこの丸山という助教授に会いに行ったらしい。
彼が答えるのを、中野は横で心配そうに見ていた。高倉は、いいんだ、とでもいうように小さく頷いた。
「まあ一応伺っただけです。これも役所仕事の一つと解釈してください」
古川が少し和んだ顔つきでいった。
「それで相手の怪我はどの程度なのですか」
おそるおそるといった感じで高倉は訊いた。古川は首をふった。
「まだ何の連絡も入っておりません。我々もこれから病院に行くつもりです」
「私たちも行った方がいいでしょうか」
「今夜は遅いからいいと思いますがね。もし何かあったら連絡します」
「お願いします」
高倉は頭を下げたが、『何かあったら』という言葉の意味をわかっているのだろう、その表情は硬かった。
高倉が中野を連れて引き取った後、織田たちは早速病院に向かった。病院は事故現場から車で十分ほどのところにある市民病院だ。
萩原昭一というのが被害者の名前だった。免許証によると年齢は十九歳。他に身分証明書らしきものはなかったから、学生なのかどうかもわからない。
病院に着くと、被害者のようすを確かめてくるといって古川は治療室に向かった。それで織田が一人で待合室に入ると、萩原の両親と思える男女がいた。二人とも小柄な中年で、待合室で寄り添うように座っている姿は、置物の人形のようだった。織田は帽子を取って挨拶した。
「おまわりさん、一体どういうことです。昭一は悪くないんでしょ」
母親が立ち上がり、織田の前に詰め寄ってきた。両目はすでに真っ赤だ。「おい、やめないか」と夫が彼女を窘《たしな》め、再び椅子に座らせた。
「息子さんからも詳しい話を聞きたいと思いますが、相手側の話では、息子さんに非はないようです。自分が一方的に悪いのだと認めています」
織田の言葉に、二人は少し安堵の色を見せた。損害賠償のことを気にしていたからに違いない。しかしまたすぐに険しい顔つきに戻った。
「その相手はどこにいるんですか。人の息子をはねといて、知らん顔はないでしょう」
父親が吐き捨てるようにいう。向こうも気が動転しているようなので、今夜のところは帰らせたのだと織田がいうと、父親は口の中でもぐもぐいいながらやがて黙り込んだ。
「で、怪我のようすはどうでしょうか」
織田の問いに、母親が憂鬱そうに顔を傾けた。
「それがどうもよくないみたいなんです。ここに連れてこられてからも、全然意識が戻らないらしくって……」
「頭を打ったってことですからねえ。ちょっとヤバイなあと思っているんですよ。くそお、あいつの身にもしものことがあったら、ただじゃおかんぞ」
苛立《いらだ》ちを示すように、父親は貧乏揺すりをした。この怒りは無論加害者に向けられたものだろう。
「息子さんはヘルメットをかぶっておられなかったんです。もしかぶっていたなら、これほど大事には到らなかったと思いますが」
事故はともかく、怪我については自業自得の面もあるのだということを織田は仄《ほの》めかした。これは効果があったようだ。父親は舌を鳴らした。
「ヘルメットを……。やっぱりそうですか。あいつはいつもそうなんです。おまえがちゃんといわないからだ」
「だってあの子、あたしのいうことなんか聞かないのよ。あんたがいってくれればいいのに……」
「俺は忙しいんだ。――おまわりさん、ノーヘルってことになると、何かこっちに都合の悪いことがあるんですか」
「ヘルメット着用義務を怠っていたわけですから、その点は処罰されます。でも事故原因については無関係として扱われます」
「そうですか。それなら助かった」
父親は吐息をついた。
「ただ、加害者側から治療費がどの程度支払われるか、ということに響いてくる可能性はあります。おそらく保険を使うことになるでしょうが、息子さんがヘルメットをかぶっていなかったことを保険会社が知れば、黙って全額支払ったりはしないと思います」
「何割か削られるということですか」
「そうです。半額ぐらいになるかもしれません」
「半分かあ……」
父親は頭を掻《か》いた。
「あんた、お金なんかどうだっていいわよ。とにかくあの子が助かってくれないと」
かん高い声で母親がいったその時、治療室の方が騒がしくなった。看護婦があわてたようすで出入りしている。
「おい、どうしたんだ。昭一に何かあったんじゃないのか」
「そんな……」
夫婦が不安そうに腰を上げた時、眼鏡をかけた医師が現れた。
「萩原さん、こちらへ」
医師は顎《あご》を引いて夫婦を呼んだ。彼らが廊下に消えるのと入れ違いに、古川が戻ってきた。古川は織田を見ると、眉を寄せたままかぶりをふった。
「だめらしい」
「え……」
織田が声を漏らした直後、萩原昭一の母親の叫び声が廊下から聞こえてきた。
翌朝織田たちはもう一度現場に戻り、見落としがなかったかどうかの確認を行った。新たに見つかったものはなかったが、この時もまた古川は不思議そうにいった。
「解《げ》せんなあ。どう見ても大したスリップ痕じゃない。スピードを出した状態で急ハンドルを切ったなら、もっと顕著に残るはずだ」
「それにそのあとの動きもおかしいですね。いくらハンドルを切り損ねたとはいえ、対向車線に突っ込んでしまうというのは」
「そうなんだ。これが曲がり損ねて、反対側の角にぶつかったというなら話もわかるんだが」
「飲酒運転でしょうか。それを隠すために嘘をついているとか」
そういうことは、しばしばあるのだ。
「俺が見たところでは、アルコールは入ってなかったがな」
「それは自分もそう思いますが。じゃあ単なる居眠り運転だったとか」
「それなら正直にいうだろう。ハンドルを切り損ねようが、居眠り運転だろうが、罪に大した差はない。それにもし眠っていたなら、交差点で曲がることすらできんだろう」
「するとやはり飲酒運転を疑うことになりますか。例の大学助教授に会ってみたいですね。中野が酒を飲む可能性があったかどうか、はっきりするはずです」
「それも一つの手ではある」
作業を終えて、二人は車に乗った。どちらの顔色も冴えないのは、萩原昭一の命が助からなかったからにほかならない。脳内出血がかなりひどかったというのが、医者の説明だった。
すでに中野と高倉のところには知らせてある。朝になったら自分たちから萩原家に連絡すると、高倉はいっていた。さすがにショックを隠せないようすだった。
「おい、あれを見てみろ」
織田が車を出そうとした時、古川が左横を指していった。「あのビルの二階だ。こっちを見てる男がいるだろ」
織田はその方向に目を向けた。古びた灰色のマンションが建っていて、その二階のベランダに男が一人いた。
「あの男、俺たちのことをずっと見ているんだ。さっきなんか、双眼鏡を使っていた」
「ヤジ馬かな。でも何となく気になりますね。当たってみますか」
「そうしよう。あの位置からだと、事故現場を真っすぐに見通せるだろう。何か目撃したのかもしれん」
「わかりました」
織田は車を発進させ、そのマンションの前で止めた。四階建てだからエレベータはついていない。階段をかけ上がり、部屋の位置を確認してから玄関ベルを鳴らした。ドアの向こうから男の低い声が聞こえる。織田は身分を名乗った。絶句したような間があって、ゆっくりとドアは開いた。出てきたのは不精髭を生やした痩《や》せた男だった。年齢は三十前後だろうか。
「お休みのところ、申し訳ありません」
謝ってから、織田は昨夜の事故のことを話した。男の顔にあまり変化はない。事故のことを知っているのだなと直感した。
「先程から我々のようすを見ておられましたが、昨夜何か目撃されたのですか」
続けてストレートに質問する。それが予想外だったらしく、男はあっというように口を開いた。そしてこういう狼狽《ろうばい》を見せた以上、ごまかすのはまずいと思ったのか、不承不承といった顔で頷いた。
「事故の音を聞いて、すぐにベランダに出たんです。そうしたらまあ、あのようなことになっていたわけです」
「寝ておられたのですか」
「いや、仕事中でした。ベランダの窓を網戸にしてあったので、余計に音がはっきり聞こえたんです」
男の名前は三上耕治といって、雑誌社に記事を売っている、いわゆるフリーライターという人種らしい。
「事故直後のようすはどうでしたか」
「どうといわれてもなあ……車の運転席から男の人が出てきて、バイクの若者のようすを見たりして、とにかくあわててました。車に乗ってたのは、その男の人だけです」
どうやらこの三上の話にも、事故原因を探る手掛かりはなさそうだった。
「事故の音というのは、どんな感じでしたか。単に車が当たる音ですか」
古川が訊くと、
「まあそうですが……」
三上は何やら少し考えていたようだが、
「タイヤの音もしたな」と、ぽつりといった。
「えっ、タイヤの音?」
「キキーッていう、タイヤのきしむ音です。カーブを曲がる時に鳴ったんじゃないかな」
三上は、珍しいことでもないだろうという顔をした。
マンションを出て車に戻ってから、古川は改めて唸《うな》り声を上げた。
「タイヤの音がしたということは、中野のいうように、スピードが出すぎてスリップしたということか。だがあのスリップ痕は、どう見てもそんな代物じゃないんだがなあ」
「何らかの原因で、痕がつきにくかったということじゃないですか」
「そう考えるしかないかな……」
巡査部長は、納得できないという表情だった。
織田もまた別の意味で釈然としないでいた。三上の証言に、何か引っ掛かるものを感じるのだ。それが何なのかはわからなかった。単に気のせいかもしれない。
「ゆっくり寝て考え直すか。夜勤明けは、どうも血の巡りが悪い」
両手でこめかみを押さえると、古川は大きな欠伸《あくび》をひとつした。
「ほんと? あの高倉監督が事故を起こしたの?」
靖子は大きな目をさらに開いた。
「高倉じゃない。その部下の中野文貴だ。何しろ死亡事故だからな、そのうちにマスコミも騒ぐんじゃないか」
「わあ、すごい。雅之さんもテレビに出たりするのかな」
「俺が出るわけないだろ」
織田は苦笑してテーブルについた。その上には靖子手作りのサンドウィッチやサラダが並んでいる。夜勤明けの昼には、こうして靖子が食事を持って彼のアパートに来てくれるのだった。もっとも、それもあと十日で終わるのだが。
「東西化学っていったら、陸上の強いところよね。マラソンなんかで、よく優勝とかしてるじゃない」
「ああ、高倉なんかもオリンピックの選手だったはずだ」
「今は女子マラソンに強い選手が多いのよね。そういえば、何日か前の新聞にも出てたんじゃないかな」
靖子は冷蔵庫の横に積み上げてある新聞の束を調べ始めた。もうすでに自分の家のような気軽さだ。
「あったあった。これよ、この記事」
彼女はテーブルの上で新聞を開いた。スポーツ欄の一角に、『五輪代表狙う東西化学の三選手』という記事があった。
「ふうん、三人もいい選手がいるのか」
その記事は、東西化学陸上部に所属している三人の女子マラソン選手を紹介したものだった。ベテランの山本和美、一万メートルから転向した堀江順子、米国留学から帰った新鋭田代由利子が、同チーム内で熾烈《しれつ》な争いを展開しているとある。現在では伸び盛りの田代がリードしている模様だが、まだどうなるかはわからない――。
「バルセロナ目指して大切な時期だ。こんな時に今度みたいな事故があるとは、東西化学もついてないな」
新聞を畳みながら織田はいった。
「コーチがそんなことになっちゃ、選手も落ち着かないでしょうしね」
「他のチームが喜んだりしてな」
織田はハムサンドをかじった。「ところで我々の旅行の準備はどうだい?」
「完璧よ」
新婚旅行の話題に移って、靖子は目を輝かせた。「回りたいところを全部チェックしたわ。ちょっと強行軍だけど、一週間しかないんだもの、仕方ないわね」
「オアフ島を中心にするんだろ」
「そう。ホノルル空港でレンタカーを借りるの。運転、がんばってね」
「それより英語が心配だよ」
「何いってるの。ハワイで英語を使ってる日本人なんて、殆どいないわよ」
もうすでに何度もハワイに行っている靖子は、からからと明るく笑った。
昼食後、織田は二時間ほど仮眠した。その間靖子は家具の配置を検討していたようだ。明日はいよいよ彼女の荷物が、この狭い2DKのアパートに運び込まれるのだった。
起きてから織田は電話を一本かけた。例の大学の助教授にアポイントメントを取ってみたのだ。幸い、今日ならいいという返事だった。
「なんだ、せっかく掃除を手伝ってもらおうと思っていたのに」
むくれる靖子を残し、織田は自分の車に乗ってアパートを出た。
丸山助教授は、小柄だが筋肉の張ったスポーツマンタイプの男だった。尋ねてみると学生時代は水泳の選手だったということで、織田は合点した。
「トレーニングのやり方について相談を受けたのです。中野さんがお一人でお見えになりました。夜になったのは、昼間はお互いに忙しいからです」
高倉と同じことを助教授はいった。
「ここへは何時頃来られたのですか」
「ええと、九時頃だったかな」
「ここを出たのは?」
「十二時頃でした」
「ずいぶん長い間話をされていたのですね」
「それはまあ、いろいろとありますから。――そのことが事故と関係あるんですか」
少し質問が立ち入りすぎたようだ。丸山は不快そうに眉をひそめた。
「いや、ちょっとお訊きしただけです。ところで中野さんは、ここを出てからどこかに行くようなことをおっしゃってましたか」
「いえ、別に。真っすぐに寄宿舎の方へお帰りになったはずです。あまり遅くなると、翌日の練習に差し支えますから」
「なるほど」
織田は頷いた。東西化学陸上部には専用の寄宿舎があり、中野も選手たちと共にそこで生活しているのだ。
「中野さんは急いでおられるようすでしたか」
「そうですね。それで、運転には気をつけてくださいといったのですが」
丸山は残念そうに首をふった。
これ以上尋ねるべきことを思いつかず、織田は研究室内を見回した。机の上には複雑な機器が並んでいる。コンピュータも置いてあった。
「最近ではスポーツも、科学抜きでは進歩がないんですねえ」
「世界レベルになると、完全に科学の勝負です」
丸山は少し鼻を膨《ふく》らませた。仕事の自慢をしたいらしい。「努力と根性だけで勝てる時代は、とっくの昔に終わっています」
「最近ではどういったことを研究なさっているのですか。いやあの、こちらは素人ですから専門的なことはわかりませんが……」
「主に、長距離走における筋肉の働きについて研究しています。走るフォームやリズムによって、筋肉がどのように変化するかといったことを調べるわけです。無論、変化が少ない方がいいということになります」
「それで高倉さんのところでは、先生の助言を必要とされるのですね」
「持ちつ持たれつですよ。こっちにしても、一流選手のデータは貴重ですから」
そういって丸山は気分よさそうに胸を張ったが、次の瞬間、その顔がふっと曇った。そして、ちょっとしゃべりすぎたとでもいうように口元を引き締めた。
「ほかに御用は?」
今までとはうって変わった、空々しい口調だ。
「用件は以上です。どうもお邪魔しました」
織田は椅子から立ち上がった。
家具屋も電気屋も、ほぼ約束通りの時刻にやってきた。大勢の大男がうろつきまわるので、狭い部屋が余計窮屈に感じられる。
「タンスはそこ。ああ、縦じゃなくて横。大丈夫、きちんと寸法は測ってあるんだから。あっ電気屋さん、その古い冷蔵庫は持ってってちょうだい。それから電子レンジはそこ」
靖子が工事現場の監督のように、てきぱきと指示を出している。織田は自分も手伝おうかと思ったが、
「雅之さんは手を出さないで。ちゃんと運び入れるまでが料金のうちなんだから。向こうが傷つけたなら、文句をいって取り換えてもらえるわ」
と彼女にいわれたので、黙って見ているしかなかった。
「よう、やってるな」
玄関で声がしたので見ると、古川がトレーナーにジーンズという格好で現れた。
「あっ、どうも」
「人手は多い方がいいと思ってな。ええと、この椅子はどこへ運べばいいんだ」
古川がドレッサー用の椅子に手を伸ばしかけた時、
「触らないで」
織田と靖子が同時に叫んだ。古川は腰をかがめた格好で静止した。
「いや、つまり、家具屋に任せちゃってください。それより主任、ちょっと」
織田は古川を連れて部屋を出た。家具屋のトラックの横まで行って事情を話すと、古川は声をあげて笑った。
「しっかりした嫁さんだな。なあに、尻に敷かれるというのも、なかなかいいもんだぞ」
「主任と一緒にしないでください。ところで、昨日あれから例の大学に行ったんですが」
織田は丸山とのやりとりを報告した。古川の顔が途端に厳しくなった。
「そうか、別に矛盾はなしか。酒を飲んだ可能性もなし」
「我々の考えすぎだということですか」
「かもしれん……が」
古川はそれまで以上に声をひそめた。「じつは昨日、署に妙な電話がかかってきたらしいんだ。かけてきたのは、あのフリーライターとかいう男だ。三上といったかな」
「あいつが何と?」
「警官が来て事故について訊かれた時、タイヤのスリップ音がしたといったけれど、聞き間違いだったような気がする――こういったそうだ」
「聞き間違い?」
織田は思わず頓狂な声を出していた。「どういうことです、それ?」
「わからん。ただ気になるのは、わざわざその程度のことで電話してきたということだ。普通ならどうだ、仮に自分の供述に間違いがあったとしても、それがよほど重要なことでないかぎり、ほうっておくんじゃないか」
「つまり三上が何か隠していると?」
「そんな気がする。しかし奴が何を隠す必要があるんだ。事故を起こしたのは中野で、本人がそれを認めている」
古川は腕を組み、首を左右に曲げた。ぽきぽきと関節の鳴る音がする。
「タイミングも良すぎますね。こっちがスリップについて疑問を持っているのを見越しているようだ」
「それは、いえる」
古川は大きく頷いてから、何かに気づいたように顔を上げた。「もしかしたら……いや、まさかな」
「何ですか」
「中野と三上に何らかの繋《つな》がりがあるとは考えられんだろうか。スリップ痕が少ないことを俺たちが不思議がっていたことは、中野も知っている。それで三上に、スリップは大したことがなかったように証言するよう頼もうとしたが、すでに俺たちが三上から話を聞いたあとだった。そこで三上はあわてて訂正の電話を警察にかけたというわけだ」
「三上は中野側のサクラだということですか。でも三上には我々の方から当たったんですよ」
「わざと目立つ行動をして、こっちの注意を引いたのかもしれん」
「なるほど……だけど、何のためのサクラですか」
交通事故の証人に、一方のサクラが使われることは珍しくない。もちろん自分に有利な証言をさせるためだ。しかしこの場合、中野たちには何のメリットもない。
「わからん。全然わからん」
古川は苦い顔でため息をついた。
家具や電化製品の運び込みは午後には終わった。織田と古川は部屋に戻り、雰囲気のがらりと変わった居間で靖子の入れてくれた茶を飲んだ。
「よくまあ入ったものだよな」
織田は周囲の家具を見て感嘆の声を上げた。
「家具の中で生活してるみたいだ」
「だから早く広いところに引っ越せばいいのよ」
靖子はあっさりという。
「今の安月給じゃ、当分無理だよ。ねえ、主任」
おかしなところで同意を求められ、古川は複雑な顔をした。
「がんばれば何とかなるわよ」
そういって靖子はテレビのスイッチを入れた。狭い部屋に不似合いな大画面だ。ニュースキャスターの顔が大写しになった。と同時に、三人が声を上げた。例の事故のことをいっているからだ。続いて高倉が映る。
「皆さんにご迷惑をおかけして、本当に申し訳なく思っています。御遺族の方々には、誠意をもって、出来るだけのことをさせていただくつもりです――」
群がる報道陣に、沈鬱な表情で答えていた。
「監督も大変よねえ。こんな時でも皆の前に出てこなきゃいけないんだもの」
「まあ本人が出るわけにはいかないからな」
織田がいった時、画面は陸上部の練習風景に変わった。三人の女子マラソン選手の表晴が映る。
「ちょっとお話を伺えますか」
記者が近寄っていってインタビューしようとする。しかし彼女たちは顔をそむけると、
「あたしたち、何も知りませんから」
といって逃げるように立ち去った。山本和美、堀江順子、田代由利子の横顔をカメラが捉える。
その瞬間、織田ははっと息を飲んだ。もう一度目を凝らす。だが画面は次のニュースに移っていた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと……」
織田は首を捻った。今まで考えもしなかった疑惑が、胸に渦巻き始めていた。ちらりと古川に目を向けると、彼もまた考え込んでいるように見えた。
例の事故から三日が過ぎている。織田はそれ以後起こった事故の書類作成に追われていた。交通事故が起こらぬ日など殆どないといってよく、一つの事故にこだわっている余裕はなかった。
それでも織田は報告書を書く手を休めた時など、つい考えにふけってしまう。あの事故の真相は果たしてどうだったのだろうか、と。
じつは彼は仮説を一つ持っていた。真実はこうだったのではないかという自分なりの推理だ。だがそれは完璧なものではなかったし、何より証明する手立てがなかった。
「冴えない顔をしているじゃないか」
隣席の古川が話しかけてきた。「それとも早くも新婚ボケか」
「冗談いわないでください。忙しすぎてボケてる暇もありません」
織田はボールペンの先で報告書を叩いてから、「中野文貴の事故について、ちょっと考えていたんです」といった。
「あれか」
古川の顔が渋くなった。あの事故については古川も割り切れないものを感じているはずだが、次々と発生する事故を処理するのに精一杯で、あまり考えないようにしているようすだった。
「調べてみると、中野はこれまで無事故無違反なんです。もう十年以上もですよ。そんな模範的ドライバーが、今回みたいな軽率な事故を起こすでしょうか」
「無事故無違反だから模範的とはかぎらんぞ」
古川は織田の机の上に置いてあった旅行ガイドブックを手に取り、ぱらぱらとめくった。「むしろそういう油断が事故を生むもんだ」
「それはわかっていますが」
「何がいいたいんだ」
織田は少し躊躇してから、ゆっくり口を開いた。
「運転していたのは、中野ではないんじゃないかと……」
これにはさすがに古川の顔が険しくなった。
「めったなことをいうものじゃないぞ。勝手な考えを口にして、それがマスコミの耳にでも入ったらおおごとだからな」
「でも、そう考えると辻褄が合うんです」
しかし古川は首をふった。
「もうあの事故のことは考えるな。中野が罰せられるということで、全部終わってるんだ。今のおまえは、もっとほかに考えなきゃならんことがあるだろ」
そして彼はガイドブックを戻すと、席を立ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、
――やっぱり主任も気づいているんだな。
と織田は思った。
「よっ、新郎。あと一週間だな」
突然後ろから肩を叩かれた。振り向くと、大きく四角い顔の真ん中に鼻髭を生やした交通課課長がにたにた笑っていた。
「浮かれ気分で仕事が手につかんというところじゃないか。ええ?」
いいながら古川と同じようにガイドブックを開く。頁の折り曲げてある箇所を見つけて、「レンタカーを借りるのか」と訊いてきた。
「はあ……」
「ふうん。昔は外国で運転するなんてことは想像もつかなかったが、近頃の若い者は大胆だからな。まっ、せいぜい気をつけてくれ。交通課の警官が外国で捕まったなんてことになったら、日本の恥だからな」
大袈裟《おおげさ》な、と思いながら織田は殊勝に頷いた。
「ほう、ここにいろいろと注意事項が書いてある。しっかり読んどけよ」
課長はガイドブックを開いて織田の目の前に置いた。太っ腹で小さなことにこだわらないのがこの課長の長所だが、デリカシーに欠けるところがある。
織田は本を戻そうと手を伸ばしかけた。が、その時文中の一つの単語が目に飛び込んできた。
右側通行、という四文字だった。
東西化学陸上部の寄宿舎はモルタルの二階建てだが、ちょっと見たところでは品の良いアパートという感じだった。一階が事務所や食堂になっているらしい。
織田が身分を名乗ると、それまで無愛想だった男子事務員の態度が豹変した。事務所の一角にある応接用ソファまで案内してくれ、さらに茶まで出してきた。警官の心証を悪くして、中野の立場が今以上に苦しくなったらまずいと思っているのだろう。
織田は制服を着ていなかった。マスコミに気づかれたらまずいという配慮からだ。
二、三分待ったあと、高倉が現れた。今日は紺と赤のトレーニングウェアだ。胸にチーム名が縫い込まれている。
「お忙しいところを申し訳ありません」
織田は立ち上がって頭を下げた。
「いやいや、こちらこそお手数をおかけしております」
高倉は織田の前に座った。以前会った時よりも精悍《せいかん》な印象を受けるのは、トレーニングウェア姿だからだろう。この種の人間には、やはりこういった服装が一番よく似合うらしい。
「被害者との話し合いの方はどうですか」
「保険会社と、それから弁護上の先生に間に入ってもらって、何とかスムーズにいきそうです。中野君個人ではなく、東西化学全体で責任を取らせていただく方針でしてね。幸いといいますか、向こうの親御さんも、息子さんがヘルメットをかぶっていなかったことが大きな要因だということは理解しておられるようすなのです」
「そうですか」
死んだ萩原昭一の両親のことを織田は思い出した。東西化学側の会社ぐるみのペースに巻き込まれて、自分たちの主張を通せないでいるのではないか。
「ええと、それで今日の御用件は?」
何気なさそうに尋ねてきたが、高倉の顔に警戒の色が走ったように感じられた。
「じつは事故の詳細について、再度お訊きしたいことがあって伺ったのです」
「どういったことですか」
「いや、ですから、御本人にお訊きしたいと思いまして」
「ははあ……」
高倉は怪訝《けげん》そうに織田の顔を見た。「じゃあ、中野君を呼んでくればいいのですか」
「いえ、そうではなく――」
織田は唇を舐《な》め、思いきっていった。「選手の方からお話を伺いたいのです」
「何ですって?」
高倉は眉をひそめ、それから唇を曲げて笑い出した。「選手は関係ないでしょう。何を訊く必要があるんです」
「理由はおわかりだと思うのですが」
「何のことやら、さっぱりわかりませんな」
高倉はソファから立ち上がった。「そういう話でしたら失礼させていただきます。こっちも忙しい身ですから」
「事故の真相をはっきりさせたいだけなんです」
「おかしなことを。そんなものは、すでにはっきりしているじゃないですか」
その時、入り口からユニホームを着た三人の女子選手が入ってきた。織田が目を向けたので、高倉も彼女らに気がついた。
「何をしに来たんだ。ランニングが終わったなら、トレーニング室に行ってろ」
監督にいわれ、女子選手たちは戸惑った顔つきで再び事務所を出ていこうとした。織田が彼女らに声をかけようと腰を上げると、高倉は手を広げてそれを制した。
「お帰りください。あまりしつこくするようなら、こちらとしても対策を考えることになります。警察にコネクションがないわけでもない。そんなことになったら、困るのはあなたでしょう」
織田は相手を睨みつけた。高倉は目をそらせている。
「わかりました。失礼します」
頭をひとつ下げると、彼はその場を離れた。威《おど》しに屈服したわけではなかった。これでほぼ真相がわかったと思ったからだ。やはり自分の考えに間違いはなかった。
織田は駐車場に戻り、自分の車に近づいた。ドアを開けて乗り込もうとした時、目の端で何かが動くのを捉えた。
見ると、陸上部のトレーニングウェアを着た田代由利子が立っていた。こちらのようすを窺《うかが》うような目をして、小さく会釈してきた。
織田は周囲を見渡した。誰かに見られている恐れはなかった。
「少し話せますか」
彼が訊くと、由利子は無言のまま頷いた。
「じゃあ、車の中で」
織田はドアを大きく開け、彼女を招くように掌を出した。彼女はためらいがちに近づいてから、彼の顔を見た。
「運転席へどうぞ」
この言葉の意図がわかったのだろう、彼女は観念したように目を伏せてから車に乗った。織田はドアを閉めてやってから、反対側に回って、助手席に乗り込んだ。
「ハンドルを握るのは初めてではないですね」
だが由利子は沈黙している。織田はキーを差し出した。
「エンジンをかけてください」
「えっ?」
「エンジンです」
「あ……はい」
キーを受け取ると、彼女はぎこちない動作でエンジンをかけた。
「ウインカーを出してください」
「はい……」
返事のあと、由利子の左手が動いた。その手はワイパーを動かすレバーにかかった。その瞬間彼女は、「あっ」と声を漏らし、あわててその手を引っ込めた。
「やはり間違えましたね。外国車とはウインカーとワイパーの位置が逆だから」
彼女は黙ってうつむいている。
「結構。エンジンを止めてください」
織田はいった。彼女は吐息をついて、エンジンを切った。車内に再び静寂が戻った。
「やはりあの夜、あなたが運転していたんだ」
彼がいうと、由利子の目からみるみる涙があふれた。
「あたしが運転したのは、あの時だけだったんです。それ以外はずっと中野さんがハンドルを握っていました」
泣きながら由利子はいった。
「わかっています。いくら何でも、無免許でそれほど長時間は運転できないでしょうからね」
「大丈夫だと思ったんです。日本に帰ってから随分時間が経《た》つし、人の車に乗せてもらったりして、左側通行には慣れているつもりでした」
「ハンドルを握ると、全然違うものです」
「ええ、よくわかりました。でもあの時は平気だと思って……夜中で車も少なかったから」
「あなたが運転したいといい出したのですか」
「はい……。早くこっちでも運転できるようになりたかったんです」
オリンピックを目指す選手でも、やはり中身は普通の若者なのだなと、彼女の横顔を見ながら織田は思った。
彼女は最近まで米国に留学していた。そして向こうで運転免許を取得したのだった。その免許を国内免許にすることはできるが、その手続きを彼女はまだしていなかった。だが今回重要なのはそういうことではない。日本は米国とは違って左側通行だが、その運転に彼女が慣れていなかったという点こそが重大なのだ。
「中野さんは危ないからやめようといいました。それをあたしが、少しでいいからって無理をいったんです」
「運転はどうでした?」
「右ハンドルにはさほど抵抗がなかったんですけど、対向車が右側から来るのは少し怖かったです。でも直進している間は、左側通行をさほど意識せずに済んでいました」
「直進の間はね。しかし交差点で曲がる必要があった」
その時のことを思い出しているのだろうか、由利子は目を閉じた。
「交差点に入る直前までは、曲がったあとも左側車線に入るんだぞって自分にいいきかせていたんです。ところが信号のことをちょっと気にした途端、ふらふらと反対側車線に入っていました。あっと思った時は遅くて……」
両手で顔を覆った。その指の間から涙が流れる。
「よくあることです」
慰めるつもりで織田はいった。「もっともあなたとは逆に、日本人ドライバーが海外に行った場合のことですがね。咄嗟の時、ついいつもの癖が出る」
織田が持っているガイドブックにも書いてある。発進時と左折時に左側車線に入ってしまうドライバーが多い、と。立場を逆にすれば、米国で免許を取ったドライバーは、右折時に反対車線に入ることが多いということになる。由利子のケースがまさにそれだった。ハンドル位置や車線、すべてが鏡に映したように逆なのだから無理もない。
「あわてて外に出ると、バイクの人は倒れて全く動きませんでした。どうしようかと思いました。こんな大事な時に、大変なことになってしまった……と」
「大事な時、つまりオリンピックを来年に控えて、ということですか」
彼女はこくりと頷いた。
「人身事故を起こしたら、どんなに成績がよくてもオリンピックには出場できないと思いました。仮に選ばれても、辞退しなくちゃならないでしょう」
何年か前にもそういうことがあったなと織田は記憶を探っていた。あれは冬季五輪だ。メダルを狙える日本の名ジャンプ選手が、人身事故を起こして出場を辞退したのだ。本人は無論そうだろうが、ファンまでもが大いに悔しい思いをしたものだ。
「そうしたら中野さんがおっしゃったんです。ここは何とかするから逃げろって」
「自分が運転していたことにしようと考えたわけだ」
「はい。それであたし、とにかくその場を離れなきゃいけないと思って走り出したんです。そうしたら途中で人に呼びとめられました。びっくりして声のした方を見ると、知らない人が車の中から呼んでいるんです」
そういうことか、と織田は納得した。
「それが三上さんだったのか」
「三上さんは事故のようすを目撃していて、あたしが逃げ出すところも見ていたんです。あたしが誰なのかも御存知でした。事情はわかっているから早く乗りなさい。部屋まで送ってあげるから――そうおっしゃいました」
三上の狙いは何だったのだろうと織田は考えた。単に女子マラソンのファンなのか。そうではあるまいと思った。ここで恩を売っておき、後で独占取材か何かの形で返してもらおうと計算したのではないか。あの男の仕事はフリーライターだった。
「ここに戻ってきてから、すぐに監督に相談しました。すごく叱られました。そのあと、とにかくおまえは何も知らなかったことにするんだといわれて……」
「なるほどね」
大したチームワークだと感心した。由利子から事情を聞いた瞬間、高倉は中野の狙いを察知したのだろう。そして今後どうすべきかというシナリオも、組み立てられていたに違いない。
まず車に由利子は乗っていなかったことにしなければならない。そこで高倉は、真っ先に丸山のところに電話したはずだ。事情を話し、研究室に行ったのは中野一人だということにしてほしいと頼んだことだろう。
丸山と会った時のことを回想すると、織田には思いあたることがいくつかあるのだった。まず丸山は、中野が一人だったことを殊更強調していた。また、遅くなると翌日の練習に差し支えると口を滑らせた。来たのがコーチの中野だけなら、そんなことはいわなかっただろう。さらに、一流選手のデータは貴重だといってから、しゃべりすぎたというように顔を曇らせたこと。データをとるためには選手が研究室に来なくてはならない。その矛盾に自ら気づいたのだろう。
織田たちが三上に目をつけたのは偶然だったかもしれない。そこで三上は高倉に連絡したのではないだろうか。交通課の警官から事情聴取されたが、目撃者を装っておいたから、という具合に。三上の証言内容を聞いて、高倉たちは不安になった。あまりスリップ音を強調すると不審がられるからだ。そこで三上は警察に電話し、スリップ音について訂正した――こんなところだろう。
「それにしてもすごいな。選手を守るために自分が犠牲になるなんて」
中野のことだ。すると由利子はぽつりといった。
「中野さんとは……結婚する約束をしているんです」
「ああ、どうりで」
コーチと選手が――それもまたよくある話だと聞く。
「何もかも、あたしがいけなかったんです。せめてオリンピックが終わるまでは、好きなことの一つや二つは我慢しなきゃならないのに」
由利子は涙ぐみ、声を詰まらせた。
「これに懲りて、気をつけることですね。そうしないと、皆の苦労が水の泡になる」
織田の言葉に彼女は驚いたように顔を上げた。
「書類は全部、検察に送っちゃいましたよ。中野さんが被疑者ということでね」
「あ……それじゃあ」
「自分が納得できなかっただけです。とにかく真相を確かめたくてここに来たんです。丸くおさまっている話を、今ここでひっくり返しても誰も喜ばないでしょう」
返す言葉が思いつかないのだろうか、由利子は唇を噛みしめていた。
「マラソン、がんばってください」
「はい」
小さな声だが、強い決意が感じられた。
織田は車を降り、運転席側に回ってドアを開けてやった。彼女が降りる時、トレーニングウェアの襟元から、白い首筋が見えた。
「最後に一つだけ注意しておきます」
織田はいった。「完治するまで人前で首を出さない方がいいです」
あっと小さく叫んで彼女は右の首筋を押さえた。そこにはかなり幅広い擦過傷がある。シートベルトの痕《あと》だ。そして右側にそういう痕が残ったということは、彼女が運転席にいたことを物語っている。それがテレビに映った時から、織田は由利子を疑い始めていたのだ。たぶん古川も、あの時に気づいたのだろう。気づいていて、黙っていることにした。古川もまた由利子の将来を守る道を選んだのだ。
「じゃあ、これで」
車に乗り、織田は出発した。車が駐車場を出るまで、由利子は立って見送っていた。
少し走ってから、公衆電話を見つけて彼は車を止めた。
テレフォンカードを入れて番号ボタンを押す。靖子はすぐに出た。
「旅行のことだけど、一つだけ希望がある」
「なあに?」
「レンタカーはやめよう」
「えっ、どうして?」
「どうしてもさ。今回はやめだ」
「変なの」
不審そうにしながらも、靖子は笑っているようだった。「いいわ、じゃあやめましょ。ねえ、今夜はあたしの家に来て。御馳走するわ」
「了解」
電話を切ると、織田は鼻歌をうたいながら車に乗り込んだ。
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初出誌「週刊小説」
天使の耳  '90年3月16日号
分離帯   '89年11月10日号
危険な若葉 '90年6月22日号
通りゃんせ '91年2月15日号
捨てないで '91年7月19日号
鏡の中で  '91年10月25日号
本書は'92年1月に実業之日本社より刊行された「交通警察の夜」を改題した作品です。
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解 説
[#地付き]山崎洋子
東野さんの小説に『同級生』というのがある。それとはなんの関係もないのだが、わたしと彼とは同級生である。
学校が一緒だったわけではない。江戸川乱歩賞も彼のほうが一年先輩だ。年齢はといえば、わたしのほうが一回りも上である。
ではなぜ同級生なのかというと、一緒に落選したことがあるのだ。乱歩賞に――。たしか、高橋克彦氏が、『写楽殺人事件』で受賞された年だったと思う。
『小説現代』という小説誌が講談社から発行されているが、乱歩賞はその誌上で発表され、一次予選を通過した応募者の名前も掲載される。その中で、ちょっと濃い字になっているのが二次予選まで残った人、*印がついているのが最終選考に残った人だ。
わたしの名は、そのちょっとだけ濃い字≠ノなっている二十人ばかりの中にあった。二次予選は通ったものの、最終候補にはなれなかったわけだ。
それでもわたしは、その『小説現代』を大事にとっておいた。落ちたとはいえ、この作品は、わたしにとって初めて書いた推理小説、そして初の応募作である。
で、その翌々年のこと。またあらたな受賞者が発表された。若い男性二名の受賞である。
東野圭吾
森雅裕
あれ、と思った。東野圭吾という名に、見覚えがある。急いで前々年の『小説現代』を取り出してみた。
やっぱり! わたしと一緒に落っこちた人ではないか。
こういう時の気持というのは、ちょっと複雑である。まず、「よかった!」という、無条件に嬉しい気持。
自分が受賞したわけでもないのに、なぜ、と思われるだろう。だが不思議なもので、一昨年一緒に落ちたんだと思うと、『共にがんばってきた同志』という気分になる。東野さんのほうにはそんな気分などはなかったかもしれないが、わたしにはあった。
『同志』の受賞は自分の可能性でもある。同じところで落ちたものが、同じ実力の持ち主だとは限らないが、そう信じることは励みになる。
しかしその喜びとは裏腹に、焦りや寂しさを感じるのも、また事実である。彼は、落選経験があるというものの、その後順調に実力をつけ、ほどなく受賞にいたった。それに若い。二十代での受賞は、それ以前、栗本薫さん、井沢元彦さんの二人きりだ。
かたやわたしのほうは、相変わらず習作を書き続ける身。しかも三十代も半ばを過ぎている。困ったもんだ、とため息が出た。
だが、落ち込みより励みのほうが勝ったのだろう。その翌年、わたしもようやく、受賞者の列に加えていただくことができた。発表の直後、先輩乱歩賞作家の方々から、手紙や祝電をいただいて感激したのだが、中に東野さんからの葉書もあった。
同じ時に落ちてましたね、といった内容のものである。嬉しかった。彼のほうも、わたしの名前に気づいてくれたのである!
そんなわけで、彼のほうが『先輩』『年下』であるにもかかわらず、わたしのほうは、勝手に『同級生』だと思っている。
だからというわけではないだろうが、時々、編集者さんから、名前を並べてお説教されることもある。
「東野さんと山崎さんは、器用貧乏なんだよね」
というふうに。
ごめんなさい、東野さん。
わたしごときものと一緒にされて、こんなふうに語られることは、彼にとって、ほんとに不本意なことだと思う。
要するに、東野さんとわたしは、最初からいろんなタイプのミステリーを書いてしまった、そのため、看板になるものをまだ持っていない、ということらしい。
たしかにミステリーの世界では、Aさんはトラベル・ミステリー、Bさんは密室物、Cさんは警察物といったふうに、自分の看板を持っている作家が多い。
看板は、そのジャンルにおいて、優れた作品、さらに売れる作品を連発した結果、掛けられるものだから、大事だし、作家たるもの早く看板を持てるよう、こころすべきことでもある。
そういう観点から見れば、たしかに東野さんもわたしも、看板がないかもしれない。わたしもあれこれ手を出したがるほうだが、東野さんに関して言えば、デビュー作の学園物が高く評価されたにもかかわらず、惜しげもなくそこから離れ、いろんなジャンルのミステリーを手掛けておられる。
でもそれは、
「ぼくは器用だからなんだって書けちゃうんだ。だから書くんだよ」
ということでは、絶対にないと思う。むしろ、東野さんもわたしも、逆にひどく不器用なのではないかと思う。
『商売』とか『イメージ』ということを後回しにして、つい、好奇心と意欲のおもむくままに、次を書いてしまう――そういうことではないだろうか。
自分がそうだから、彼も同じなのではないかと勝手に決めてしまったが、東野さん、違ってたらごめんなさいね。
なんだかみょうな話になってしまったが、ほんとうのところ、わたしはこの、東野圭吾さんという作家をいつも気にしている。彼はすらりと背が高く、トレンディ俳優かとみまごうほどのハンサムではあるが、そのせいで気になるのではない。気取りのない人柄も、テンポのいい関西弁も魅力的だが、そのせいでもない。
わたしは、彼の才能が気になる。
作家になる人間は、たいてい子供のころから読書好きなものだが、彼は小説など大人になるまで読んだことがなかったという。学校の先生に、「この子は、てにをは[#「てにをは」に傍点]もろくに書けない人間になるかも」と心配されたほど、読み書きには縁がなかったそうだ。
なのに、二十代の若さで長編小説の賞をあっさり取ってしまった。さらにその後、勤めていた会社もやめ、プロの小説家になった。
これはたいへんなことである。長いこと作家修行していてまだプロになれない人など、聞いたら絶句して、自分のペンかワープロを蹴飛ばしたくなるだろう。
わたしだって、「なんでやねん!」と叫びたい。小学生のころは少年少女文学全集に読みふけり、思春期にはノートに片思いの詩を書き散らすという、まっとうな文学少女だったわたしが、なんで彼の『後輩』なのか!
「書いてみたら、なんやしらん、書けてしもたんやね」
と、彼はあのひょうひょうとした口調で言うだろう。その調子で、この先どんなものを「書けてしまう」のか、考えるだに恐ろしい。彼の若さと才能を思えば、前途はひたすら明るい。しかも傲慢なところなどみじんもないので、周囲からも愛されている。
体力も才能もない『同級生』としては、またそれを喜び、ちょっと焦り、励みにして後からついていくしかないのだが……。
*[#底本「クローバーの記号」]
東野さんに関してもっとも羨ましいのは、彼が理工科系の頭を持っていることである。作家でそれのある人は少ない。わたしなど、そういった方面には極端に弱いから、もう時刻表の数字でさえよくわからない。従ってトラベル・ミステリーは書けないし、物理的なトリックも苦手だ。
だが東野さんは、形状記憶合金だの、なんたらかんたらだの、わたしには宇宙語としか思えないような言葉の出てくる世界を、小説の中になんの苦もなく取り入れることができる。
当然、車なんかにも強いんだろうなと思っていたが、この短編集でそれを確認した。ここに出てくる事件は、交通警察で扱うものばかり――つまり交通事故である。それも特殊な事故ではなく、ほんとによく見聞きするようなものばかり。だから当事者も、たいへんなことをしたとはみじんも考えていない。
たとえば、運転しながら喋っていて、瞬間的に信号を見落とす、急いでいて横断歩道ではないところを渡る、車の窓からゴミを捨てる、駐車場がなかったから、やむなく路上駐車する……誰だって、一度くらいやってしまいそうなことばかりだ。
が、そのありふれた行為が、自分ばかりか他人の人生まで大きく狂わせる。身にしみて怖いとは、まさにこのことだろう。
じつは、わたし、運転免許を持っていない。取ったほうがいいかな、と思ったことは何度かある。ことに作家になってからは、車がわからないことの不便を痛感した。世は車社会だというのに、登場人物をいつも電車に乗せてしまうしかない。
それでも取らなかったのは、たいへんな機械音痴、方向音痴である上に、反射神経がかなり鈍いからである。こんな人間は運転などするべきではない、社会の迷惑になる、という自覚があった。
いま、この短編集を読んで、わたしは正しかったとつくづく思う。事故は、悪くすると人の肉体を傷つけるが、それ以上に心を傷つける。その傷が激しい憎悪にまでふくれあがり、とんでもない事件へと発展していく。
さりげなく始まって、背筋が寒くなるような結末を迎える――この短編集をひとことで言うならば、そういうことになる。
その過程が、なんともスリリングで切ない。ごくごく日常的な事件を、こういう形で描くことのできる東野さんの才能に、わたしは嫉妬してしまった。近い将来、彼はもたもたしている『同級生』など置き去りにして、ビッグな看板を打ち立てるに違いない。
[#改ページ]
著者 東野圭吾 1958年、大阪府生まれ。大阪府立大学電気工学科卒業後、生産技術エンジニアとして会社勤めの傍ら、ミステリーを執筆。
1985年『放課後』(講談社文庫)で第31回江戸川乱歩賞を受賞、専業作家に。1999年『秘密』(文春文庫)で第52回日本推理作家協会賞、2006年『容疑者Xの献身』(文藝春秋)で第134回直木賞を受賞。近著に『さまよう刃』(朝日紙聞社)、『黒笑小説』(集英社)などがある。
天使《てんし》の耳《みみ》
東野圭吾《ひがしのけいご》
1995年7月15日第1刷発行
2005年12月4日第39刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
平成十九年六月十四日 入力 校正 ぴよこ