東郷 隆 著
太閤《たいこう》殿下の定吉七番
定吉七番シリーズ
目 次
掛け取りの一「秀吉の黄金」
掛け取りの二「真昼の温泉」
掛け取りの一「秀吉の黄金」
大阪人は町を守る、という。
いや別に大阪市民が全員スカートやコートの下に、スイス製ソロサーン対戦車ライフルを隠し持って、郷土防衛の念に燃えているわけではない。
自分の暮して来た、子供の頃から慣れ親しんで来た風景を庇《かば》う、という意味である。
軒の低い横町(古風な大阪人は、あまり横丁などという言葉は使わないのだ)。古ぼけた格子戸と脇《わき》に作られた鉢植えの棚。幼い頃より知っているオカズ屋(惣菜《そうざい》屋)から漂《ただよ》う揚げ物の香り。走りぬけるソロバン塾帰りの小学生。お風呂《ふろ》帰りの濡《ぬ》れタオルをさげて表通りに出れば、ラフな格好をした幼馴染《おさななじ》みに出会う。
「やあ、久っしぶりやなあ。どないしとってん?」
「あっちゃこっちゃ飛ばされとったんやけど、グツ悪うなってなあ。しゃあないから戻って来てン」
「そうかあ、エライしんどそうやなあ」
「そや、今度寄ろか。積る話もあるし、ゴテクサ言うカス混ぜんと、オモロイ奴だけ声かけて、ひとつパアッといこか?」
「ええなあ。パアッとかあ。やるとき寄せて。ぜったい行くし」
たわいない言葉を交し、ほならまたな、と手を上げて二、三歩行きかけ、アレッと首を傾《かし》げる。あ奴は半年|程《ほど》前に、アテネの北大西洋条約機構軍兵士出入りのディスコを爆破して、インターポールから追われている国際テロリスト。テレビのニュース・ショーで声高に報道されていた奴ではないか。
あわてて背後を振り返れば、公設市場の入口に群がるおばはんの、買物|籠《かご》の彼方に友人の姿は消えて行く。その後姿《うしろすがた》には何の違和感も無く、昔別れたときのまま。
そんなカンフタブルな場所をいとおしむ心が、町を守る心なのである。
間違っても、朝早起きして町内の箒《ほうき》がけを強制してまわるとか、日照権を声高に叫んで隣近所と血みどろの抗争を繰り返す、といった意味ではない。なし崩しに近い現状維持、自分がこの世にある限りは、町も人も我が古い記憶のままにあれかしと願う後向きで矮小《わいしよう》な気分が「守り」の真意なのだ。
しかし、その大阪人の姿勢も近年えらく様変りした。
いつも朝風呂をたててくれた銭湯の煙突に、何時《いつ》しか解体屋の足場が組まれ、駅前の猥雑《わいざつ》な飲み屋街に、工事許可標示の板が張り渡される。
美味《おい》しい素《す》うどんを茹《う》でていた立ち食い屋のおっさん、いつもスカ≠フ空《から》クジばかり出して来た駄菓子屋のお婆《ば》ン、お天道《てんと》サンの下で、眠そうな眼をこすりながら子供と遊んでくれていたお水関係の姐《ねえ》ちゃんが、ある朝|忽然《こつぜん》と姿を消し、代って彼らの住んでいた場所には小ぎれいなマンションが建てられる。
大阪人が、町を守ることを放棄しつつあるのだ。
「こら極めて重大な事態と言わざるを得んな」
坂田小六(東大阪市|鴻池徳庵町《こうのいけとくあんまち》在住・推定年齢六十代前半)は、
ズルリッ、とコーヒーを啜《すす》った。
「大阪三郷一帯の地価が、東京並みにドン、と高騰《こうとう》する兆《きざ》しかも知れん」
「へえーっ、さいでっか」
瓦町|靫屋《うつぼや》の番頭平七(豊中市名神豊中インター下でアパート住い・大阪商高中退)が声をあげた。
「どのくらい上りまンね?」
今橋で貸ビル業を営む諸口八十助《もろぐちやそすけ》(和歌山県|御坊《ごぼう》出身・海南中学中退)も競馬新聞から眼を離して、身を乗り出す。
「ん、まあ、場所によって違うが、おまはんの住んでるとこは?」
「羽曳野《はびきの》の埴生《はにゆう》ニュータウンで」
八十助は昨年の十一月、南大阪線沿線が良いという友人の言葉でマンションを購入し、キタで拾ってきた十九歳のホステスをそこに住まわせている。
「ああ、すぐ近くを三本も高速が通ってるアソコかい」
小六は、コーヒー・カップを置いて、ちょっと首を傾《かし》げ、
「某証券会社が物色《ぶつしよく》しているという噂《うわさ》もあるし、まあ、あそこはやがて」
厚焼のホットケーキに手をのばした。
「東京の多摩丘陵みたいになるなあ」
「タマキュウリョウて、どんなとこでス?」
「それほど交通の便がようないクセして地価だけはメッチャ高い。ワンルームの賃貸料でもだいたい」
シワだらけの指が一本立った。
「ひえぇ、千円でっか」平七がスットンキョウな声を出した。
「今どきそんな家、吉野の山奥にかて無いわい。フタケタ違う」小六はホットケーキへ丹念に蜂蜜《はちみつ》をかけた。
「すると、わいの住んどるとこは、そのうち超高級住宅地いうことになりまんな」
「よかったなあ、ヤッさん」八十助と平七は手を叩《たた》いた。
「アホ」
小六はケーキの半切れを口の中に放りこんで勢いよく咀嚼《そしやく》し、
「見も知らぬ人間ばかりが闊歩《かつぽ》するケッタイな街に、高速道路の埃《ほこり》。飯食いに行く言うても、周囲にあるのはどこも味が同じのレストラン・チェーンばかり、エエモン食お思うたら長いこと車走らせなならん。地価があがれば税金かて高う払わんならんやろ。ええことなんかひとつもあるかい」
「はあ」
「それにつれて、市内二十六区でも地価があがる。おまはんの生業《なりわい》かて大変やで」
蜂蜜だらけのフォークを八十助の鼻先へ突き出した。
「大規模に地価が上るのは、大手金融機関や建設会社が暗躍しとるからや。おまはんのような小さい貸ビル業者は、当初|大儲《おおもう》けできてもやがてはそういった企業に弾き飛ばされてまう」
「さ、さいでっかあ」八十助は震え上った。
「地価が上るというのは、そういうこっちゃ。古い知り合いが四散する。昔からある建物が消える。ついでに土地の文化も無《の》うなってしまうンや。今の東京見てみい」
これも、と小六は荒々しくホットケーキを突き刺した。
「遷都《せんと》、いうけったいなこと言い出した奴のおかげやな」
関西遷都*竭閧ナここのところ大阪人の会話は盛り上っている。一昨年暮れの、
「東京への過剰な政経機能集中を排し、多極分散型国土を形成する」
という政府発表は、関西財界人を奮起せしめ、お祭り好きの市民を喜ばせた。
なにしろ、大阪にこれだけ遷都論が取り沙汰《ざた》されるのは、大正十二年、関東大震災以来のことである。
「関西を国際文化首都圏にするため、まず文部省・文化庁などの関係省庁を移転せよ」
と、関西経済連がブチ上げれば、
「国会を千里の万博跡地に移転させるため再整備を」
と、文化人が提唱し、
「なによりも先に証券取引所を大阪で一本化して金融の主導権を取れ」
と、証券筋も力コブを入れる。
それを小耳に挟《はさ》んだ天下茶屋一丁目今宮小学校裏に住むとあるタクシー運転手が、夕餉《ゆうげ》の席で、
「なあ、お母《か》ン。今度な、大阪がな。首都になるんやて」
「なんやのン、ソレ?」
「よう知らんけど、太閤サンが大坂城作った時と同じようになるらし」
「秀吉サンがいた頃て、アヅチ・モモヤマいう時代やろ。半分戦国時代やんか」
「大変な時代になるンやなあ。あした松屋《まつちや》町《まち》で刀買《こ》うてこんならん」
「すると、うっとこも首都圏住民ということになるな」
「そや、言葉使いも、な。キチンと直さなアカン」
「ほなら、買いモン行ってイッちゃん(これは近所の八百屋のオッサン)とこで大根値切る時、『あーら、このお白いトコ(東京でも流石《さすが》に大根をこうは呼ばない)半分ばかり、切っちゃってくれちゃって、包んでくれちゃったり(大阪の下町人の大部分は東京人の言葉を、だいたいこんな感じに誤解している)するとスッゴクうれしいじゃん』とか言わなアカンのかいな」
「そうや。『ひ』と『し』の区別かてつけたらあかんのやで」
「そんなん、しんどいわ」
「そやけど大阪が首都になってみい、ええこともあるゾ。吉本興業から総理大臣がぎょうさん出よる。阪神かて首都圏球団や。もっと強よなるかも知れんで、うははは」
と、いった支離滅裂な言葉を交したりするのである。
「大阪人は昔っから政治いうもんに疎《うと》かった。それが今裏目に出とる」
坂田小六は、喫茶店の煤《すす》けた天井をあおいで溜息《ためいき》をついた。
「大阪は古くから『官《かん》に阿《おも》ねず、権《けん》に近付かず』、我が身を低めて笑い、己《おの》れのサイフを固く守った商人《あきんど》の町やったンや。なぜかわかるか?」
「わかりまへん」
八十助と平七は首を横に振った。
「それは、江戸時代から、お上《かみ》に痛いめェばかりあわされて来たからや。商人は官を信じることなく、稼《かせ》いだ銭《ぜに》を公共事業・教育に投下した。官より自立するためや。おかげでここは昔っから川に掛かった橋も自前、大学も官立より私大が強かった。この町から出た首相はたった一人、たった一人やで」
「誰でス?」
「終戦後半年だけ内閣作った幣原《しではら》キジューローやがな。ま、あの人かて生まれは門真《かどま》やけど、東大出て外務省入ったから、本当の意味での大阪人やないが」
「ふーん」
まったく、ここに来るとタメになる話がぎょうさん聞ける。
定吉七番は、マホガニー塗りのカウンターで、マスターの入れてくれたダッチ・フランネル・ドリップのコーヒーを飲みながら、窓際に坐《すわ》った小六の話に耳を傾けていた。
「シデハラキジューロー、か。まるで時代劇の剣術使いみたいな名やな」
「そうか、定吉ッどんは戦後生まれやから、幣原喜重郎は知らんのやな」
コーヒー・マグを磨《みが》きながら白髪《しらが》のマスターが微笑《ほほえ》んだ。
「へえ」
「わしがこの店の看板出したのがちょうど、幣原内閣の総辞職した年やった」
マスターは煤《すす》けた天井を指差した。
「空襲で半焼けになったこのビルを居抜《いぬ》きで買い取ってな。闇《やみ》でコーヒー豆の卸し始めたんや」
「ここは前は何でしたん?」
「進駐軍《しんちゆうぐん》民生局《G・S》のクラブや。その前はたしか英国から布地入れてる商社のショールーム、とか言うてたな」
なるほどそれで、と定吉はあらためて店の内部を見まわした。
カウンターとトイレの間仕切りは妙に真新しいマホガニー塗りだが、通りに面した窓枠や、飾り柱の柱頭《キヤピタル》がネオ・モダニズムの洒落《しやれ》た形で、三色の木材を組み合わせた床《ゆか》の造りも尋常なものではない。
「昔の大工さんは、建物の細かいとこにもずいぶと手ェ入れて造ってはったんでんなあ」
「実際よう出来とるで」
マスターは、カウンターの上に下ったヒモを引いて天井の通風シャッターを動かし、
「えらいもんで、戦前のンがまだスムーズに動きよる」自慢気に眼鏡をズリ上げた。
「ほんに、たいしたもんや」
定吉がこの古ぼけた喫茶店に通うようになって彼此《かれこれ》七、八年になろうか。会所で子供衆《こどもし》と呼ばれる見習いの時代からである。
別に彼がコーヒーの味にうるさい、というわけではない。
本部のある西本願寺津村別院(北御堂)裏から歩いて十分。通勤コースの途中にあって息の抜きやすい場所だからだ。店のマスターも長《なが》っ尻《ちり》の常連も皆、彼が大阪商工会議所秘密会所の情報部員、しかも定吉七番と呼ばれる「世界で最も危険な丁稚《でつち》」であることを知っている。と、言うより、この店は会所に関係する者の溜《たま》り場なのだ。
ま、洒落《しやれ》て言うなら、十九世紀スコットランド・ヤードの腕ききたちが捜査の疲れを癒《いや》しに集ったパブ「ホッピング・ホール」、KGBの若手エリートが党中央の愚痴をこぼしに来るゴーリキー通りのバー「ノブゴロド」のようなものなのである。
だから定吉は楽しいこと辛《つら》いこと――敵の女情報員からバレンタインデーに爆弾チョコを貰《もら》ったとか、同僚にパンツを借りてインキンを伝染《うつ》されたといったほんの瑣細《ささい》なことまで――があると、店を始めて四十年、酸《す》いも甘いも噛《か》み分けたマスターの顔を見に訪れる。枚方《ひらかた》に住む彼が京阪《けいはん》電車で淀屋橋《よどやばし》まで来て、地下鉄に乗り換えないのも、定期代が惜しい、ということの他にこの店へ通いたいがためであった。
「で、これ、どのくらい儲《もう》かりまんね?」
八十助の声が店内に響いた。
「おまはんらは、ホントに金の亡者やのう」
辟易《へきえき》する小六に、
「そやかて、この新聞読んでみなはれ、えろごっついコト書いてありまっせェ」
平七がたたみかけている。どうやら話題は別のところに飛んでいるらしい。
「見てみなはれ、ここ。大阪版の端っぽのとこや」
平七が老人の鼻先に新聞を突きつけた。
「んー、なんやて、『太閤隠し金のカギか? 天満橋《てんまばし》でナゾの古文書発見』?」
小六は老眼鏡をかけなおした。
「……『三日午後二時頃、東区京橋一丁目通称天満橋南詰で遊んでいた小学生野坂昭如ちゃん(七つ)が穴の中から発見した鉛の箱は、四日以来大阪市立博物館学芸員藤本義一氏(三十九)の手で放射線・炭素測定を受けていたが、このほどその中間報告が発表された。藤本氏のレポートによれば箱は、外側が厚さ二センチの鉛製、表面に〈慶長《けいちよう》三年吉月〉の銘が入り、内部は漆《うるし》で固めた真鍮《しんちゆう》と木の三重張り。長期間河の泥に埋もれていたため保存状態は良好という。内容物は、現時点では不明だが、重量その他から推定して古文書絵巻物の類《たぐい》である公算が強く、市立博物館では八日朝からこの箱を大阪城天守閣二階の研究室に移し、蓋《ふた》の部分を切断開放する。藤本氏談「慶長三年(一五九八)言うたらやねえ。秀吉サンが死んだ年や。箱の出て来た大川のあたりは昔っから大阪城の濠《ほり》を兼ねてたとこやから、もしかしたらアンタ、太閤サンの隠し金の在《あ》り処《か》を書いた紙が入ってるかもしれまへンで。入ってるとよろしなあ。ほなら、わしゃこれで」……』か。ふーむ」
「どうです、キョウジュ、太閤はんの財宝いうのンは?」
平七は老人の肩を揺すった。常連の間で小六は「教授」とか「薄木《すすき》の褌《ふんどし》」などと呼ばれている。ススキのフンドシ、とは大阪人独特の下卑《げび》たシャレで、何でも「尻切っている(知りきっている)」という意味だ。
「太閤さんの財宝いう話は昔っからあってなあ。大阪人の射幸心《しやこうしん》が旺盛《おうせい》になる時期には必ず人の口にのぼる。わしがまだ小さい頃にも天王寺《てんのうじ》の南河堀《みなみかわほり》で、井戸掘りのオッサンが太閤大判を一時《いつとき》に三枚も掘り出してな。近在のモンが我も我もと集ったもんやから、もうワヤで、しまいには大阪Z憲兵隊《けんぺいたい》が出動する騒ぎになった」
「大判三枚でナンボです?」
「太閤大判は大きいからなあ。今の値やと、骨董《こつとう》価値も入れて一枚千二、三百万」
「わあっ」
平七は老人の首を両手でつかんだ。
「そ、それで、太閤はんは全部でどれくらいのお宝隠してまんねんな、な、教えて!」
「くっ、苦しい。こ、興奮すな」
脇《わき》で見ていた八十助があわてて平七を押さえつけた。
「アホ、キョウジュが死んでまうやないか」
「かまいまへん、お宝の話さえ聞けたら本望や」
どうやらこの衣料問屋の番頭は、刹那《せつな》主義の権化であるらしい。老人は、ゴホゴホと咳《せき》をし、
「どうも、荒っぽい奴ちゃな。あー、驚《おろ》ろいた」
コップの水で一息ついた。
「それで、なんぼ?」
「なんぼ、ナンボとさっきから。鴻池新田《こうのいけしんでん》の畔道《あぜみち》計ってンのと違《ち》ゃうで。ええか、よう聞けよ」
教授は老眼鏡を外した。
「太閤秀吉公は朝鮮出兵に際して全国から約十億両分の黄金を集め、内五億五千万両を軍用金に、残り四億五千万両を予備金として各地に分割埋蔵したらしい。当時日本は全世界の金の三割から四割を産出していたというから、こら今の南アフリカみたいなモンやがな」
「隠し財宝て、よ、四億……」
「今の価格にして」
平七が再び飛びかからないように八十助は彼の身体を押さえつける。
「四十兆円、いうとこかなあ」
老人は事もなげに言ってのけた。
四十兆……。
平七と八十助が目を剥《む》いて黙りこみ、マスターが、ヒューッと口笛を吹いた。
「そのお宝の在《あ》り処《か》が今日、わかるかも知れんいうわけでんな」
「たいしたもんや。よんじゅうちょう、なあ」
定吉の左腕に巻いた丼池《どぶいけ》センタービル落成記念のデジタル時計が、ピピッと鳴った。
そろそろ行かなくては。彼はカウンターに小銭を置いた。
帽子掛けからハンチングを取り、平七たちの頭越しに小六へ頭を下げる。
「おお、定やん。もう行くんかいな」老人は老眼鏡をズリ上げた。
「へえ、朝からおもろい話聞かせてもらいました。ほなら、また」
定吉はそう言うとガラス戸を開き、ゆっくりと御堂筋《みどうすじ》に歩み出た。
朝十時。
大阪・御堂筋の北御堂裏にあるレトロなビルの四階、財団法人「井原西鶴行跡保存会」受付で、豊満な肉体を持つ美人秘書万田金子(萬田久子風の古手モデルタイプ)は栗色《くりいろ》の長い髪を右手でかきあげながら、上司に出す朝のお茶の用意をしていた。神戸の女子大を出て早や五年、この受付で働くようになってから三年近くたっている。以前勤めていた中之島美術館企画室の仕事に比べてここはずいぶんとヒマな部署だが、その代り極秘の書類を扱わねばならない分、骨が折れた。同級生の大部分はすでに結婚するか東京に出て華《はな》やかな職につき、そんな連中の中から時おり別の仕事をしないか? とか、それなりの社会的地位のある良家の坊ンボンとつき合ってみないか? という話がくるのだが金子はいつもあいまいに言葉をにごしている。それは、ここにいればある種の心理的緊張感を維持することによって美しさを保つことも出来るし、また彼女が日頃《ひごろ》好もしく感じている人物とひんぱんに口もきけるからであった。
金子が隣の煮沸《しやふつ》室(古いビルだから湯沸し室にはドイツ製のユンカース湯沸し機と古いガスレンジがついている)から重いポットを抱えて出て来た時、その「好《す》いたらしい人」がドアを開けて入って来た。
その男は身体を半分だけ室内に差し入れ、被《かぶ》っていたハンチングを部屋の帽子掛けにポン、となげてひっかけた。
「お早ようさん」
ペコリ、と頭を下げた時、その長身の人物の右後頭部にある十円玉大のハゲがキラリ、と光った。
「今日は早いんやねえ、定吉どん」
金子は婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》みながら席についた。
「御隠居はんに呼ばれたった。朝早ようからしんどいこっちゃ」
定吉はテーブルの端へ無作法に腰をひっかけると、お仕着せの懐《ふところ》から早朝割引で買って来た大判焼の袋を取り出して一個かじり、金子に残りを袋ごと差し出した。これがこのシャイな男の精いっぱいの厚意の示し方である。
「やあ、あったかそうやねえ」
「懐に入れてきましたさかい」
金子は好いたらしい男の胸のぬくもりがついたつぶアンの菓子をかじりかけた。
と、その時、
「金子はん、そこに定吉どんが来てるやろ」
「は、はい」
金子は、あわててインターホンに飛びついた。
「来ております」彼女は上司の地獄耳に内心舌打ちした。
「早よこっちによこしなはれ」インターホンは無慈悲にもそう命じる。
定吉は、食べかけのつぶアンを未練たらしく懐に収め、奥のドアを開けた。
金子はそのさびし気な後姿《うしろすがた》を見送りながら小さい声でそっとつぶやく。
「御隠居はんのイケズ」
粋《いき》に黒紋付を着こなした宗《そう》右衛《え》門《もん》は、スペイン皮の大きな肘掛《ひじか》け椅子《いす》に腰を降し、煙草をふかしながら報告書を読んでいた。
「お早うさんでごわります」
定吉はペコリ、と頭を下げながら上目使いに御隠居の顔色をうかがった。老人はその口元をヘの字に曲げ、片方の眉《まゆ》をたえずピクピクと動かしている。
こらだいぶ頭に血ィ昇ってはるな。
定吉はもみ手をしつつ猫なで声で老人に語りかけた。
「御隠居はん、何ぞ変ったことでもおましたんか?」
「変ったなんてもんやあらへん」
宗右衛門は、吐きすてるようにそういうと、
「ここ一週間で十人以上やられてる」
顔をしかめた。
「全員、腕っこきの情報員ばっかりや」
「ああ、その話なら聞いてます。ほんに非道《ひど》いもんでんな」
定吉は薄い胸をポリポリと掻《か》いた。
「非道《ひど》いもん? 定吉どん、あんたえらいエライ他人ごとのように言うな。死んだのは全部会所の同志やで」
「スンマヘン」
定吉は前掛けの裾《すそ》をもじもじといじくりまわした。
「相手は神出鬼没の工作員や。やり口はあざやかで証拠は髭《ひげ》の毛一本残さん。変装の名人で若い奴という以外になにもわかっていない」
「やはり、……NATTOの?」
宗右衛門はうなずいた。
NATTOとは、昭和二十年代に関西人嫌いの東京人が中心になって作りあげた一種の宗教団体である。彼らの究極の目的は、日本の政財界から関西人を追い出し、彼らすべてに納豆を食べさせることにある。組織は戦後の経済成長とともに年々肥大化、現在では政治・経済・文化の中枢に多くの構成員が潜《もぐ》り込み、江戸時代以来日本の経済を動かして来た大阪商工会議所の存在を脅《おびや》かすまでに成長している。下部組織には「KIOSK」(関東一円お弁当殺人協会・別名「ゼイロク殺し」)や高級愛人クラブ「リカちゃん会」、宗教団体「関東救生小粒納豆団」、「トーボグ人バカにすっと米食わせねーだぞ友の会」、「川越焼イモ倶楽部」、「大宮デンスケを偲《しの》ぶ会」等があるが前記二団体は定吉七番の活躍により数年前、壊滅した。
「今回のわての相手は、そいつでっか?」
「うむ」
宗右衛門は煙管《きせる》を煙草盆にピシリ、と打ちつけ報告書を定吉の前に押しやった。彼はそれをつまみ上げる。
「昨夜……」と、老人は煙管の先で書類の表紙を差し示した。
「……その工作員らしいやつが大阪城の天守閣博物館に忍び込んで、鑑定中の鉛箱を盗み出した」
「えっ!?」
定吉はあわてて報告書に眼を向ける。
「鉛の箱′セうたら、巷《ちまた》で今評判の、太閤サンのお宝地図が入っとるかも知れン言われてるアレでっか?」
「ほう、定吉どん。早耳やな」
「わてかて情報員の端くれだす。毎朝出がけに新聞のチェックぐらいしまんがな」
さっき淀屋橋の喫茶店で小耳に挟《はさ》んだ情報である。定吉は胸の内でペロリ、と舌を出した。
「そや、あの箱や。正確に言うと箱の中身、やな。先刻入った報告によると鉛箱の外身は、大阪城森林公園の音楽堂|脇《わき》で発見された。中はカラッポだったそうや。賊はどうやら森ノ宮から電車で逃げたらしい」
「逃走費用節約したんでっしゃろか」
流石《さすが》だ、と定吉は腕を組んだ。ちなみに大阪城南東の森ノ宮には地下鉄中央線と大阪環状線の駅がある。
「これはまだ正式には発表してへんのやけど、な。市立博物館の若い連中、新聞発表の前に待ちきれず、昨晩のうちに箱を開けてしまったらしい。中味はやはりボロボロの古文書でな。連中、早速そのコピーを撮《と》ろうとした。そこへ主任学芸員の藤本義一いうヒトが入って来て」
義一というのは、新聞でケッタイなコメントを発表していた人物であろう。
「オノレら、一体なにさらすンじゃ、と一喝《いつかつ》、コピーを破棄して、箱を自分の研究室に移した。ところが……」
「そ奴《やつ》が賊の変装だったンでんな」
「うむ、本モンの義一《ぎいつ》っあん、翌朝、天守閣一階の女便所で見つかった。L・S・D85を嘗《な》めさせられてヘロヘロだったそうや」
宗右衛門は、煙管《きせる》の口へバージニア種の刻《きざ》みを丹念に詰めこみ始めた。
「L・S・D」
定吉は御隠居の指先をじっと見つめ、
「なんや気色悪《きしよくわる》い技を使う奴でんな」
「義一っあんは、クスリでイカレてもうて相手の顔もよう覚えてへんかったそうや。どうやら、そ奴」
宗右衛門は、煙管の先に通天閣型の卓上ライターを近付け、火をつけた。
「古文書の値打ちを正確に把握しているらしい。世間の噂《うわさ》通りその文書が、豊太閤隠し金の在《あ》り処《か》を示すものとすればおおごとや」
四十兆円……。定吉は、喫茶店で聞いた教授の言葉を思い出す。それだけの黄金がもしNATTOの手に落ちたら、一体どういう結果をもたらすか。
「大変なことにならはりましたな」
「今回定吉どんに与える指令は二つ」
宗右衛門は、煙草の煙をスパリ、と吐いた。
「一つは、古文書の奪還。もう一つは敵方の変装名人を探り出し、仲間の仇《かたき》を討つことや」
「わかりました。まかしとくなはれ」
定吉は自分の薄い胸を拳《こぶし》で力いっぱい叩《たた》き、叩きすぎて思わず咳《せき》こんだ。
「対内情報部《カウンター・インテリジエンス》の報告によれば、そ奴にはぎょうさん手下がいてるらしい。あんたもな、手伝いの人間を何人か連れていくといい。人選はもう雁之助《がんのすけ》どんが済ましてる」
「へッ、おおきに」
定吉は御隠居さんに深々と頭を下げた。
定吉の直接の上司、小番頭雁之助のオフィスは、同じビルの三階、東側の便所脇にある。
「小番頭はん、いてはりますかあ」
お義理にノックを二度ばかりくれて、彼は勢いよくドアを開いた。
「あれっ、お留守でっか?」
いや、雁之助はいた。
書類を積み重ねた大型机の陰に蹲《しやが》み込んで何やらゴソゴソやっている。
「小番頭はん」定吉は彼の背後から声をかけた。
丸まった背中がビクッ、と動き、雁之助の巨大な顔がこちらを向く。その口元にはソースと青ノリのカスが黒々とこびりついていた。
「何してまンの?」
聞かなくともわかる。隠れてタコ焼を食べていたのだ。雁之助は大あわてで着物の懐《ふところ》にタコ焼のパックを収め、
「いや、エライとこ見つかってもうた」
ドスのきいた声を出した。
「な、何ぞ用か?」
「そのう……、わての仕事手伝うてくれる情報員の名簿いただきに参じましたン」
定吉は小番頭の口元を見つめて笑いをこらえた。
「こ、これや。持っていき」
雁之助は机の上のコピー用紙を彼の手元に押しつけた。
「一応使えるモンを八人ピックアップした。ただし今月の出張経費が足りンさかい、この中から二人しか使えへんで」
「二人……でっか?」
定吉は口を尖《とが》らした。神出鬼没の変装怪人を追いつめるには、人数が多ければ多いほど有利なのである。なのに……。
「とにかく、課の経費が足りんのや」
雁之助は太い眉《まゆ》と眉の間を寄せた。
「例の変装屋に、対外活動員が十人もいっぺんにやられてもうて、な。その葬儀費用やら、遺族手当やらで今月は首がまわらん。ま、これで何とかヤリクリせえや」
「へえ」
定吉は肩をすくめ、名簿を広げた。
NATTO一級工作員(会所コード・変一号)追跡用員候補リスト
一 天王寺釜吉(通称カマキチ)
住所・阿倍野《あべの》区|天王寺町《てんのうじまち》
元地下鉄工事請負業・穴掘りの達人
特技・つるはし使い、酒の早飲み
二 天満屋銀兵衛(通称サイフ)
住所・東区南久太郎町《みなみきゆうたろうまち》
呉服問屋近江屋の手代、金の管理にかけては超一流
特技・ハエ叩《たた》き
三 坂田小六(通称キョウジュ)
住所・東大阪市|鴻池徳庵町《こうのいけとくあんまち》
郷土史研究家・元大学教授
特技・古文書解読、抱え大筒
四 河内菊乃(通称キクちゃん)
住所・南区|道頓堀《どうとんぼり》二丁目
ブティック店員・元少女漫才師
特技・社交辞令(おべんちゃら)、ハリセン
五 放天《はなてん》の間寿夫《ますお》(通称マスやん)
住所・浪速《なにわ》区|難波中《なんばなか》一丁目
松茸《まつたけ》興業所属の現役漫才師、大食い
特技・大声
六 甲子園トラノスケ(通称トラキチ)
住所・兵庫県|尼《あま》ヶ崎《さき》市
クリーニング屋「オオトラ」経営、タイガース好きのただのオッサン、性格狂暴(ただしタイガースが負けた時だけ)
特技・紙ふぶき(木ノ葉隠れみたいなもの)
七 今池平之助(通称じいやん)
住所・住之江南港東《すみのえなんこうひがし》四丁目
大阪南港での釣りが好き・元は渡し船の船長
特技・入れ歯外し、老人手帳の見せびらかし
八 桃谷くめ(通称おくめさん)
住所・天王寺区|玉造本町《たまつくりほんまち》
洗濯と買物途中の世間話が趣味
特技・うそ泣き
これは非道《ひど》い。読んでいて定吉は頭が痛くなった。
「全員、会所の臨時雇用員《アルバイト》でんな」
「ズブのシロウトいうわけやない」
消音拳銃《サイレンサー》や爆発物が扱えるならともかく、入れ歯外しやうそ泣きが、今度の一件で一体どんな役に立つというのだろう。
「少し考える時間が欲しいンでっけど」
「今日中に決めィ」
素《そ》っ気《け》なく雁之助《がんのすけ》は答える。
「へえ……、ほなら後ほど電話いたしますでごわります」
定吉は上司に頭を下げ、入口に足を向けた。
「電話て、お前どこ行くンや」
雁之助はあわてて声をかけた。
「大阪城」
殺しの番号を持つ丁稚《でつち》は気落ちした声でそう言うと、のろのろとドアを開けた。
「現場検証に行《い》て参じますう」
多くの大阪人はいまだに誤解しているのだが、現在見られる大阪城は、豊臣秀吉がその居城として築いた大坂城とは大いに異っている。
別の城、と言い切ってもよいかもしれない。
秀吉が死の直前まで、その全精力を傾けて普請を続けた広大な城郭は、元和《げんな》元年(一六一五)の戦い、いわゆる大坂夏の陣で完膚《かんぷ》無きまでに破壊され、後に幕府が再建に着手する際、土中深くに封じ込められた。盛土の厚さは薄いところで六メートル、旧本丸の部分で平均十メートルと膨大なもので、この時|城砦《じようさい》全体の規模も秀吉時代の六分の一にまで縮められたという。
つまり、現在我々が見ることのできる大阪城は純正な「徳川普請」で、大阪人が言う「太閤サンのお城」は、この石垣の下にスッポリと収められているのだ。
この驚くべき事実は、近年になってやっとわかった。昭和三十四年、城内において初の発掘調査が行われた際、現在の天守閣から南南西四十五メートルの土中で古い石垣の遺構が発見されたのである。石垣は地中約八メートルの部分に約四メートルの高さで立ち、貧弱な野面積《のづらづ》みであったという。発見に驚いた研究者たちは古地図をもとに昭和四十年代初頭より城内二十五か所のボーリング調査を行い、この大規模な盛土工事の事実を確認した。
「関東方はこの地上から太閤さんの匂《にお》いがついたモンを、一つ残らず消し去ろうとしくさったんや」
天守閣下の本丸広場で記念写真屋を営む浜口神助は、客の去った撮影用の長椅子《ながいす》に席を勧めながら言った。
「この足の下に」
写真師は、たのしそうに地面を踵《かかと》で蹴《け》り、
「ホンマモンの太閤さんの城が埋ってる。早い話ワシは、毎日貴重な埋蔵文化財を踏んづけて暮してるいうワケや」
定吉に紙コップ入りのコーラを手渡した。
「あ、おおきに」
「それにしても自分(あんた)、ずいぶん久しぶりやんか。どういう風の吹きまわしや?」
写真師は日焼けした顔をほころばせた。この男は、数年前まで定吉と同じ秘密会所の情報員として働いていたのだが、出社拒否症を起して城内の公園でサボリ続けるうち、ついにその地位を捨ててここに居ついてしまった。一種の変人である。
「急にあんたの顔が見となってな」
「相変らずウソのヘタな奴ちゃな」
神助は含み笑いをする。長いこと同じ職場にいただけあって、定吉の考えは先刻承知なのである。
「例の、太閤古文書の箱が盗まれた件で来たんやろ?」
「誰から聞いた?」
定吉は片眉《かたまゆ》を上げた。盗難の話は極秘で、まだ新聞にも発表されていない。
「なに、この城内で働いてるモンは売店のおばん、公園管理のおじんに到るまで、皆もうとっくの昔に承知の話や」
「げっ」
「安心せい、全員口が固いだけが取《と》り得《え》の連中や。まだ外には洩《も》れてへん」
洩れれば今頃《いまごろ》、摂河泉《せつかせん》(摂津、河内、和泉)一帯はパニックやろ。と、神助は鼻を蠢《うごめ》かせた。
「神やん」
「ん?」
「蛇《じや》の道はヘビ、かい」
定吉は苦笑した。
箝口令《かんこうれい》の敷かれた城内で最初に事件を嗅《か》ぎつけ、売店のおばはん連中に広めたのは、おそらく神助本人に違いない。
「今度の一件……」
神助はくたびれかけた背広のポケットに手を突っ込み、
「……どうせ定やんあたりが調べに来よると踏んで、ワシが先に調査したった」
くしゃくしゃの紙片を取り出した。
「これ、ワシが事件の起きた直後に推理したテキの侵入経路やけど」
ボールペンでヘタクソな線が何本も書き込まれたそれを定吉に押しつけた。
「当日の警備情況、人の出入り具合から見てまずこんなとこやろな」
「んーと、これ」
定吉は紙キレを手に取ってためつすがめつし、
「どうやって見るねんな?」情無さそうな顔で尋ねた。
「ああ、定やん、方向オンチで地図よう読めんのやったなあ」
神助は溜息《ためいき》をつき、彼の持っている地図を逆さまに持ち直してやった。
「ええか、定やん。地図っちゅうもんは、な。だいたい上がいつも北≠「うキマリになってる。この端っこにNと書いた矢印《やじるし》があるやろ」
小学生でも知っていることを噛《か》んで含めるように言って、
「この地図でいうと、川がYの字型になってるとこが城の北側や」
大阪ビジネスパーク、ツイン21、の走り書きがある部分を指した。
「ああ、こっちが平野川で、これが寝屋川《ねやがわ》か。平行して書いてあるギザギザの線が京阪《けーはん》(電鉄)やな」
定吉が毎日乗っている電車の線路に丸のマークがついている。
「この印は?」
「今回の事件の発端、古文書入りの鉛箱が発見されたとこや。タニマチ線(地下鉄谷町線)天満橋《てんまばし》駅の駅舎改修工事やってるとこで、な。川の淵《ふち》におっけな穴が開いてる。工事の機材出し入れするアナや。発見者のガキどもは、そのアナん中に入って遊んどったちゅうわけやな」
「丸印からテンテン(点線)が延びとるけど」
京橋一丁目の谷町筋から大手前之町外濠《おおてまえのちようそとぼり》側の、大阪府庁正面に向けて線がひかれている。
「これが俗に言う『八連隊の穴』や」
神助はイタズラ小僧のように鼻をこすった。
「テキはここを伝って城に近付いた。定やんは穴のこと聞いたことあるかあ?」
「うん……、名前だけは」
八連隊とは「また負けたか八連隊」でおなじみ、歩兵第八連隊のことである。日本陸軍史上最も弱いと評判をとったこの部隊は明治六年、大阪城南西角の法円坂町《ほうえんざかまち》、今の国立病院から中央体育館にかけての一帯に駐屯《ちゆうとん》していた。いや八連隊ばかりではない。明治初期、大阪は軍都だった。城の周辺には歩兵第七旅団、歩兵二十連隊、騎兵四連隊、工兵四連隊、輜重《しちよう》、憲兵、陸軍病院、といった軍関係の施設で充満していたのである。その中心である八連隊本部は、建軍以来弱い弱いと言われ続けながらも各地を転戦させられ、それなりに実戦体験を積まされていった。
「八連隊の穴」は、こういった経験豊富な部隊が作り上げた一種の防御施設である。いったん本営に事が起きた場合、四方二百メートルの本営ビルの中庭から隣の歩兵第四大隊駐屯地に連隊旗を移し、さらに大手前から外濠を渡って城内に入る。それが不可能な場合は、谷町筋に沿って掘られた抜け道を通って天満橋に逃れ、大川を渡って対岸に出る。戦前は、この二通りのコースが地下の交通|壕《ごう》として用意されていたらしい。
「わしの調べたところでは、な」
谷町筋を表わす線を指で差しつつ神助は言った。
「八連隊の穴、というのんはどうも大坂の陣の頃に名将|真田幸村《さなだゆきむら》が掘った抜け穴を流用しているらしい。これはけっこう掘られたモンらしくて、昭和四十年頃に谷町線を掘った時もあっちゃこっちゃから穴の口が顔を出したという話や。穴の末端は、大坂城|惣構《そうがま》え外の東南、つまり、今の『真田の抜け穴』のあたりまで通じてるそうな」
この穴のおかげで地下鉄谷町線の天満橋、谷町四丁目間は予定より大幅に早く工事が完成したのだ、と神助は大手門の向う側を差し示した。
「なるほどな、地下を通れば深夜人目につかずに官庁街を抜けることができる。そやけど、お城の外濠《そとぼり》と内濠《うちぼり》はどないしたんやろ」
「さあ、そこや」
神助は腕まくりした。
「大手門、京橋口、玉造《たまつくり》口、それに内濠の桜門と極楽橋には、大阪市公園局が近所の府警本部に赤外線|警報装置《アラーム・システム》を直結させてる――こら主に公園の中で寝よるプータロー対策で始めたもんやけどな――から、夜十一時を過ぎたら通常のコースでは城に入られへん。こいつはおそらく、忍者の水グモみたいなモン使うて南外堀の六番|櫓下《やぐらした》にある石垣の穴に潜《もぐ》り込み、二ノ丸を抜けて内濠の東側に出たんやな。あそこには本丸へ入る穴がもう一つ開いてる。空堀と水堀のちょうど境目ンとこや」
あとは簡単、市立博物館の裏口から窓を破って中に入り込み、学芸員に変装して箱を奪った。と、元情報|丁稚《でつち》は自分の地図を指で弾いた。
「ま、これがわしの考えたベストの侵入コースや。ただし、これをクリアするには三つほど条件がいる」
「なんや?」
「一つは、西ノ丸庭園、二ノ丸一帯の重要文化財を守るため仕掛けられた赤外線警報施設を突破するための暗視装置。二つ目は、抜け穴の正確な古地図。三つ目は」
自分の肩を神助は叩《たた》いた。
「これや」
「これって?」
「身長百五十センチ前後で肩の骨を外せること」
「曲馬団の箱抜けやないで」
「いや、それに近い」
南外堀石垣から二ノ丸に抜ける横穴の幅は、縦横九十センチ。昭和三十四年の学術調査で発見されたものだが、その後、人が潜り込まないように公園当局が入口から二メートルのあたりに太い鉄柵《てつさく》をハメ込んでいる。ここを抜けるのは身体の骨を自由に調節できる人間だけ、と彼は肩をすくめた。
「ふーむ」
御隠居はんが落ちこむのも無理はない。定吉は紙コップに入ったコーラの氷をガリッとかじり、
「敵ながらアッパレな腕前やな」
立ち上った。
「ありがとさん、ええヒント貰《も》ろうたわ」
「あ、もう行くんか?」
「うん」
定吉は顎《あご》をしゃくった。万博記念タイム・カプセルの裏から三々五々、学生服の団体が歩いて来る。それは神助の写真コーナーに集合する修学旅行の生徒たちらしい。
「コーラごちそうさん」
「定やん、事件が解決したら会所に内緒で教えたってや」
神助は定吉の耳もとにささやいた。
「敵がどんなキャラクターか、わしもよく知りたい」
「わかった」
定吉はハンチングのツバに軽く指先を当てて別れのポーズをとった。
帰り道、彼は二ノ丸に出て、来たついでだからと豊国《ほうこく》神社にお参りし、玉造口門から森林公園に入った。
「ほう、なんやにぎやかにやっとるなあ」
公園内の野外音楽堂では、ちょうど市内の女子高生がオープニング・コンサートを開いている。敵が盗み出した古文書の箱を破棄した場所がこのあたりだ。
定吉は芝生に腰を降して、しばらくの間女子高生たちの演奏に眼を細めていたが、やがて、
「まさか、いや……わからんぞ」
懐手《ふところで》のまま、フラリと立ち上った。
彼は首をひねりつつ法円寺坂に向けて歩いた。
定吉の灰色の脳ミソが、ゆっくりと回転を始めたのだ。
「そうかもしれん、いや、しかし」
ブツブツとつぶやきながら小道を行く彼の姿に、散歩途中の人々が気味悪そうに道を開けたが彼は気にも止めず歩き続けた。
歩むうちに南外堀の六番|櫓《やぐら》向い側に出た。
濠《ほり》の水面に水鳥が数羽浮び、ゆるやかな勾配《こうばい》を持つ石垣は冬の日を浴びて白々と輝いている。その水面からおよそ八メートルぐらい上の方に石の抜けた部分が見える。筑後柳川《ちくごやながわ》の立花家が担当して造ったといわれる「抜け穴」である。
「あそこから入ったんか」
この抜け穴は結構有名で、大阪城関係のパンフレットには必ずと言ってよいほど書かれている。そのため発見当時から、大阪城の財宝を探《さぐ》ると称する酔狂な太閤サン狂い(フランス人のナポレオン狂のようなものである)が市当局の目を盗んで大勢入りこみ、彼らを防がんがため税金によって内部へ柵《さく》が仕掛けられたのである。
なるほど、小さい穴や。定吉はヘボ絵書きがデッサンをするように指先で対象物を計った。
そのまま彼は袖口《そでぐち》を噛《か》んで上目使いに石垣を見つめていたが、数分後、気をとりなおして濠端《ほりばた》の電話ボックスに入った。
サイフから東梅田《ひがしうめだ》日活で貰《もら》った「にっかつロマンポルノさよなら記念」のテレホンカードを出して、会所の調査課を呼び出す。
「へい、船場《せんば》観光案内所でおま」
「もしもし、わてや、定吉七番」
「おきまりの文句を言うておくれやす」
抑揚のない若い男の声が言った。
「ええっと……、 娘のお末があ両面のお、紅絹《もみ》の小袖《こそで》に身を焦《こが》すうー」
電話ボックスの外を通る男女が、怪《け》ッ態《たい》な声を張り上げる彼の姿に驚いて逃げ出した。
「 これを曲げては勘太郎があー」
近松の『心中天網島《しんじゆうてんのあみじま》』の一節である。傍で見ていても恥かしいことこの上ない。
「へえ、ごくろうさん、結構でおます」
小さな信号音が二秒ほど受話器の中で跳《は》ねまわり、定吉の声が登録された彼本人のものであることを確認するや、声はコンピューター合成のそれに切り換った。
「第六課デス。調査依頼のデータヲドーゾ」
「調べて欲しいことが二つおます。一つは、大阪城抜け穴に関する一番正確な情報が載《の》ってる本の名前。もう一つは、市内で赤外線暗視装置を扱っている店のリストと、最近になってそれを買うた客のプロフィールや」
数秒間の沈黙。やがて声が返って来た。
「前者ニ関スル回答。『関西抜け穴考』、著者中島らも吉、昭和四十一年大阪市浪速区|大国《だいこく》一丁目、田楽屋書房刊、現在絶版。大阪府立|中之島《なかのしま》図書館二階地域出版物コーナー室外持チ出シ禁止図書、書籍分類ナンバー、5999・S8・K75、後者ニ関スル情報、現在調査中。調査終了マデ三日ホドカカリマス。ドウイタシマスカ?」
「わかった、調査を続けとくなはれ。後ほどまたかけますさかい」
「調査続行シマス。マイドオオキニ」
「ありがとさん」
コンピューターに礼を言って定吉は電話を切ると、次に本部を呼んだ。
「はい、井原西鶴行跡……、あら、定吉どんなの?」
万田金子がはしゃいだ声を出す。
「小番頭はんに伝えとくなはれ」
「うん」
「リストの候補から二番と四番をピックアップするさかい、至急該当者をリスト・ナンバー三番の待機場所に集合させとくなはれ。以上」
「わかったわ」
金子はメッセージ内容を復唱し、
「定吉どん、この仕事終ったら、心斎橋《しんさいばし》の明治軒でオムライス食べよ、な」
甘えた声を出した。
「へえ、よろしなあ」
「ほなら約束やで」
受話器を置いた定吉は、テレホンカードをサイフに戻すと腕時計を覗《のぞ》く。急げば集合時間前に中之島図書館へ立ち寄ることができるだろう。
会所臨時雇用員、リストナンバー三番にランクされているキョウジュこと坂田小六。住居は片町線の徳庵町《とくあんまち》だが、この老人、別に一軒店を持っている。場所は北区|茶屋町《ちややまち》の、ビルの中の古本屋である。
一時間後、定吉は梅田の薄ら寒い高架下を歩いて「阪急古書のまち」に入った。
小六の店「銭屋書店」は、ビルの自動ドアから数えて二軒目右側、切手屋と浮世絵専門店に挟《はさ》まれた間口二メートルほどの小さな店舗である。出入口近くの棚には「中世河内ノ国における人糞《じんぷん》の運搬と一揆《いつき》」、「紀州湯浅ノ荘で行われるマラ出し踊りの研究・全十巻」、「縄文《じようもん》時代のにらめっこ」といったワケのわからぬ書籍がうず高く積み上げられ、身体を横に傾けないと奥に入れない怪《け》ッ態《たい》な造りになっている。が、ここは知る人ぞ知る、古地図の宝庫として府内近県の好事家垂涎《こうずかすいぜん》の的なのである。
定吉は、「食事に出ております。店主」の札が下ったガラス戸をかまわず押して中に入った。
「ひゃあ、相変らずエライ散らかりようやな」
本の山を崩さないようにソロリソロリと奥に入ると、二つ目の棚の先に雁之助《がんのすけ》の巨大な背中が見えた。
「おう、待っとったで」
小番頭は太い眉《まゆ》をピクリ、と動かした。
「お前の指示通り、二人連れて来たった」
彼の声に応じて背後の人影が立ち上った。
「お初に」
「もうかりまっかあ」
一人は大柄の中年男、もう一人は小柄な女性である。
「紹介しとく。こっちがナンバー二番、南久太郎町《みなみきゆうたろうまち》のサイフこと天満屋《てんまや》の銀兵衛どん。そっちがナンバー四番の……」
「河内菊乃ですう。トンボリ(道頓堀)浪花座隣のブティックに勤めてます。よろしゅう」
フリルのついたスカートをひらめかせて女がしゃしゃり出た。
「会所で船場汁当て合うてもろてます、定吉いうケチな丁稚《でつち》でおます。以後よろしゅうに」
定吉はハンチングを脱いだ。菊乃、と名乗る女は見たところまだ少女と言ってもいい年齢である。化粧もどぎつく、身に着けたものも少々ケバケバしいが、よく見ると目鼻立ちもクッキリとして可愛《かわい》らしい。
「キクちゃんは、な。ちょっと前まで二丁目劇場¥oとった、芸人はんや」
「吉本のオーディション受かって少女漫才師してましてん。そやけど、お給金安いさかいに」
洋品店に鞍替《くらが》えし、ついでに会所のアルバイトを始めたのだ、と自分で説明した。
「銀兵衛どんの方は、わいと古い仲でな。昔っから個人的な雑仕事よう引き受けてもろてる」
雁之助がそこまで言った時、奥からカップを盆に乗せて小六が現われた。
「来たか、定やん」
「今日はほんによう会いまんな」
「ま、一杯」
小六は全員を隅のテーブルに手招きした。
「うまいコーヒーやでえ。わしが懇意にしてるコロンビアのコカイン王が、年に二度送って寄こすモンテリア≠フ最高品種や。酸味が強《つよ》うてな、これがまたこたえられん味」
小六は嬉々《きき》としてカップにコーヒーを注《つ》いでまわった。
「コカイン王て……、定吉」
雁之助は部下の顔に頬《ほお》を寄せ、
「大丈夫なんかいな? このコーヒー」
恐るおそる囁《ささや》いた。
「コカインとか、メスカリンとかいうもんは入ってへんのやろな?」
「さあ……わてに聞かれたかて……」
定吉は気味悪そうにカップを取り上げ、そっと口を付けるマネをした。雁之助は、小六が隣を向いた隙《すき》に定吉のカップへ自分のコーヒーを流し込み、
「さて、と」
何気ない風を装って空咳《からせき》を一つくれ、懐《ふところ》からレポートの束を出して一人に一部ずつ配付した。
「これはウチ方《かた》の東京支局員が、ぱそこん通信やらいうもんでついさっき送って来た最新情報や。各自よう読んで頭の中に叩《たた》き込んでや」
「何でっか、これ、ニュータイプ・納豆五人組≠ト?」
サイフこと銀兵衛が、レポートを一目見るなり目を剥《む》いた。
「中学校の日本史の時間に習うた、江戸時代のお百姓対策みたいたもんでっか?」
「NATTO内部で今売り出し中の奴らや。なんでも対大阪商工会議所向けに新しく編成された窃盗《せつとう》チームらしい」
「すると、この中に例の変装名人が?」
「東京支局の人間は皆そう思うてる」
コップになみなみと注がれたコーヒーを、零《こぼ》さぬように手で押さえながら定吉はレポートを覗《のぞ》きこんだ。
「んーと、なになに?」
真っ白なページの真ん中に、黒々と無機質な文字が並んでいる。
一 鈴木一郎(サラリーマン)
中小企業に勤める会社員、役職は課長代理。
武器・ハンコ、臭い足、カラオケ攻撃。
弱点・家族の写真、住宅ローンの話。
二 ランボー富岡(コマンドウ)
元自衛隊員、現在建築資材会社勤務。
武器・バズーカを含む重火器、肉体。
弱点・お笑い(笑い上戸《じようご》)、シェイプアップに悪影響を与える食物(タコ焼、厚焼のウドン入りお好み焼等)
三 五十嵐《いがらし》さやか(サヤカ)
家事手伝い・六本木のディスコによくいる通称「バカヤロ女」の一種。
武器・ハイヒール叩《たた》き、曲線美
弱点・納豆、ゴキブリ
四 中沢アキラ(センセ)
作家・外車ばかり乗りまわして全然仕事をしない。
武器・名刺、万年筆(パーカーの二十四金ペン)投げ
弱点・暴力的な言葉、田舎《いなか》(故郷)の話
五 大沢俊彦(トシちゃん)
モデル兼ディスコの黒服・ファッション雑誌の表紙みたいな奴。
武器・ディスコ・カンフー(踊りながら攻撃)
弱点・耳栓《みみせん》、クレジット・カード、変装がヘタ
「なんや知らん、けったいな奴ばっかりでんな。小番頭はん」
サイフが声をあげた。
「このカッコの中に書いたあるセンセ≠ニかサヤカ≠「うのんは何です?」
「ああ、それは奴ら同志で呼び合う時に使うとるアダ名や。定吉」
雁之助は横を向き、いかつい顎《あご》をしゃくり上げた。
「教授が入れてくれた貴重なコーシー、いつまで手の上で遊ばしとくつもりや。冷《さ》めんうちにさっさと飲まんかい」
自分で飲まんと人に押しつけて、何ちゅう言いぐさや。定吉は下唇を突き出し、渋々その薄気味悪い液体を喉《のど》に流しこんだ。
「こ奴らいつも一緒に動いてるんでっか?」
キクちゃんが声をあげた。
「さいな」雁之助は顔をしかめ、
「サラリーマンのあるところサヤカあり、サヤカのあるところセンセあり、や」
「金魚のフンみたいなもんでんな」
それにしても、と定吉は思った。サラリーマンのコード・ネームを「サラリーマン」にするとは人を舐《な》めきっている。
「怪《け》ッ態《たい》な奴らやで」
「雁之助どん」
複雑な仕組みのサイフォンをいじりながら小六が尋ねた。
「これだけの情報、ようこんな短期間にパッチリと集めたもんやな」
定吉もその点が少し気になった。レポートにはコード・ネームのみならず、NATTOの最重要機密である構成員の個人名まで書かれている。普通こういった情報を収集するには、多人数の調査員を送り込み、相手側の人事担当者を金や女やカラオケ・スナックのボトルキープ券で買収するのだが、それほどの手間をかけても早くて二、三か月、一度に三人以上は割り出せない。NATTOの下級戦闘員は、旧ALN(アルジェリア民族解放軍)が採用していた「細胞《セル》」を真似《まね》たネズミ講型組織に属しているため、本人は自分の上司と直続のサポート役しか顔を知らない仕組みになっているのである。
「東京支局員にハッカーが趣味の奴、おってな」
雁之助は羽織の袂《たもと》から箱入りのゲルベ・ゾルデを掴《つか》み出す。
「そ奴が運良く敵の連絡回線をパクったんや」
定吉はあわてて喫茶店のマッチを取り出し、上司の煙草に火をつけた。
「小番頭はん、はっかー≠ト、食うとスーッとするアレでっか?」
「アホ、それは薄荷《はつか》や」
「ウチ、それ聞いたことあるわ」
キクちゃんが口を挟《はさ》んだ。
「こんぴゅーたぁに入りこんで、勝手によそさんの情報持ってく人のこと」
「へえ、情報|盗《ぬす》っ人《と》だっか」
定吉はポカン、と口を開けた。あんな狭いコンピューターの中にどうやって身体を潜《もぐ》りこませるのだろう。第一、情報≠ニは一体どのような形をしているのか……。
「やはり、感電せんようにゴムの上下など着て潜り込むんでっしゃろな」
「へっ?」
キクちゃんは一瞬、彼の言葉に目を丸くしたが、急にケラケラと笑い出した。
「盗っ人いうても、夜中に黒い服着て塀の上歩くようなンとわけが違《ち》ゃうねん。ハッカーいうのんは、自分の持ってる機械使うて、遠くから信号送って相手のコンピューターに入ってるカラクリ破るヒトや。ま、言うてみれば坐《すわ》ったままの犯罪者≠竄ネ」
定吉はますます話が見えなくなって腕組みした。彼の頭の中には、椅子《いす》に坐ったまま千両箱を抱える鼠小僧《ねずみこぞう》が、大型のロボットみたいなコンピューターと闘っている図が浮んでは消えた。
「どっちにしろ大変な世の中になったもんや」
雁之助は平べったい両切りをくわえた。
「いずれ情報活動はすべて、カチャカチャ板っきれ叩《たた》く子供衆《こどもし》と、スパイ衛星たらいうもんにとって代られるやろ。そうなったらわいらのようなソロバン商《あきな》いしか知らん無学なお店《たな》もんは、座敷の裏手で番茶すするだけの存在になってまう」
「悲しい話でんなあ」
サイフ男は、ズルズルと音をたててコーヒーを啜《すす》った。
「ま、もっとくわしい話は、東京で聞けるやろ。これ持って行き」
小番頭は、サイフ男にJRのマークが入った紙袋と茶封筒を渡した。
「今回の仕事は全部銀兵衛どんが経費の仕末する。旅先でわからんことがあったら、ここの店に直接電話せい。キョウジュが答えてくれる」
「何でも答えるさかいに、な」
小六は嫌がるキクちゃんのカップへ無理やりコーヒーを注ぎながら、自信たっぷりにうなずいた。
「ただし、長距離電話は高いさかい、一回きりやで。それから、定吉」
雁之助は、大きな眼をギョロリ、と剥《む》いた。
「出かける前にお初天神行ったらあかんど。お孝《たか》ちゃんに会うのは、仕事が終ってからや」
「ヘ……ヘイ」
相変らず無慈悲《むげつしよ》なお人やで。恋人に会ってはならぬと釘をさされた定吉は渋々頭を下げた。
東京、麻布《あざぶ》。
ここは、名の知られた町の割りには、交通の便が良くない。定吉たちは地図を片手にあっちこっちさんざん迷い歩いたあげく、ようよう支局員の隠れ家を捜し当てた。
麻布十番、と呼ばれる韓国《かんこく》料理屋と和菓子屋ばかりが目立つ古い商店街の外れ。麻布十番温泉の二軒隣にある関西風|串《くし》あげ屋がそれである。
バタリアン
という真新しい看板が小さなビルの地下階段踊り場に吊《つ》り下っていた。
「いや、ここがそうですわ」
サイフ男がホッとした声をあげた。
「えらい下町やね、まるで大阪の西長堀《にしながほり》みたい。うち、こんなところなら住んでもええわ。一本通り向うに『マハラジャ』かてあるし」
キクちゃんもはしゃいだ。
「あほやな、この辺のアパートへたに借りたら地上げ屋が入れ替わり立ち替わりやって来てそらもうごっつい騒ぎや。それに六本木《ろつぽんぎ》へ遊びに来て帰れんようになった知り合いが、年中泊りに来て仕事もでけへんようになってまうで」
定吉は首を振った。
「けったいやな、店の戸が開かへん」
サイフがガタガタとドアのアームを引っぱった。
「あかん、あかん」
定吉はあわてて彼の手を押しとどめ、店の軒を指差した。
「セキュリティ・システムや。ほれ」
レンズと小さな黒い棒が壁の間から窺《のぞ》いている。
「テレビ・カメラとマシンガンの銃口や」
ひっ、と喉《のど》を鳴らしてサイフは戸口から離れた。
「開けとくなはれ、会所の定吉だす」
定吉は店の前で大きく頭を下げた。
「合言葉を」
「『おかたがおいどか、いっかいものじゃと、声も高間が原づつみ』」
彼が声を張り上げた。
「『鳴るか鳴らぬか引いても見やれ』」
ガチャン、という音がして扉が外側に開いた。
「がっはっは、わてが支局長の大串勝吉《おおぐしかつきち》でおま」
マスター姿の長身、痩《や》せ型の男が頭を下げた。
「さっそく、五人組のデータ見せてもらいまひょか」
「こちらへ」
カウンターの鉄板を持ち上げた勝吉は、中からビデオ・カセットを持ち出した。
「奴らが出没するのはおもにこのあたり」
勝吉は東京二十三区の地図を店の大型テレビに映した。
「番号順に出します」
一 浅草・仲見世《なかみせ》演芸場(台東《たいとう》区浅草一丁目)
二 新宿・関東テレビ本局(新宿区|抜弁天《ぬけべんてん》町)
三 芝・ディスコ「東京タワー」(港区|愛宕《あたご》下《した》)
四 青山・ブティック「菅原文太」(港区南青山三丁目)
五 原宿・竹下通りのフルーツ・パーラー(渋谷区|神宮前《じんぐうまえ》一丁目)
六 渋谷・芸能人マンション(渋谷区|代官山町《だいかんやまちよう》一丁目)
七 池袋・小料理屋「おます」(豊島区東池袋)
八 上野・ガード下のオデン屋(台東区|御徒町《おかちまち》)
「なんや、これ?」キクちゃんが口を尖《とが》らせた。
「まるでトレンディなとこが無いやんか」
「わての考えでは新宿が臭《くさ》いな」
定吉は抜弁天の地図を指差した。
「テレビ局は、現代の伏魔殿《ふくまでん》といわれている。奴らが隠れるにはピッタリや」
「NATTOは昔からマスコミを使って悪いことばかりしてますさかいなあ」
サイフ男が定吉の読みに同意した。
「それにあそこなら入るのはタダや。ディスコなんか行ったら入場料が高い」
「いやあ、ウチ、東京のテレビ局一度でいいから行って見たかった」
キクちゃんも大よろこびである。
三人はさっそく新宿区抜弁天町の関東テレビに向った。定吉はこういう場所に入り慣れている。
アイドルの追っかけどもをつまみ出すために入口でガンバッているガードマンの眼をキクちゃんの色気でなんとかかわした一同は、人気《ひとけ》のないスタジオに迷いこんだ。
「わあ、なんや気色《きしよく》悪いとこ入ってしもた」
奇妙な建物の残骸《ざんがい》や、化物《ばけもの》のヌイグルミが林立する大道具置き場の陰から突然、
「定吉七番だな!」
長身の若い男が現われた。
「早々と出くさったな。納豆小僧」
定吉は履《は》いていた雪駄《せつた》を脱ぎ捨て、懐《ふところ》に手を入れた。
「俺がここにいるとどうしてわかった?」
「木を隠すには林の中=Bおんどれのような変装下手で目立つ奴が大手を振って歩きまわれる場所はここしかあらへん」
「いい読みだ」
定吉が脇《わき》の下に吊《つ》ったバーンズ・マーチン三点タイプ改造のホルスターから抜き出したのは、藤原|有次《ありつぐ》六代の作、名物「富士見西行」九寸五分の鍛えぬかれた柳刃包丁。
「六本木防衛庁横のディスコティックで毎夜鍛えた足技、こいつで貴様の顎《あご》を打ちくだいてやる」
「アホぬかせ」
定吉は包丁の柄《え》にペッ、とツバを吐いた。
不敵に笑ったモデル風の男は、スタジオのスイッチをひねる。
と、たちまちあたりに響き渡るのは全米ヒットチャート第一位に輝くディスコ・ミュージック。
「わっ、うるさい」
「行くぞ!」
スターライト・エクスプレスに出演した川崎麻世そっくりなポーズで大沢俊彦はクルリ、と爪先《つまさき》立った。
「アチョー!」
ブン、と長い足が定吉のハンチングをかする。首をすくめて辛《から》くも攻撃を避けた定吉は、包丁を逆手に持ってその内懐《うちぶところ》へ飛びこもうと身がまえる。
バシッ、と第二の攻撃。
俊彦の足は先ほどとは逆に回転して、定吉の腰をかすめた。パラリ、と斜めに切れて落ちる彼の前かけ。
「どうしたゼイロク、かかってこい」
リズムに合わせて軽々と動きまわる俊彦を定吉は用心深く観察した。
こいつの動きは、どうやら音楽に左右されているらしい。あそこのスイッチを切れば動きが止まる。しかし、スイッチに手をかける前にこちらが足蹴《あしげり》を食らうのは必定。どうしたらいいんや。その時、定吉の脳裏に勝吉の見せてくれたスライドの文字が浮んだ。
そうだ、こいつの弱点、
「銀兵衛どん、こいつにサイフを投げろ」
「えっ? そんなんイヤや」
スタジオの隅でサイフ男は震え声を出した。
「早よ言うことを聞かんかい!」
定吉の怒鳴り声に驚いたサイフ男は、首にかけたサイフを俊彦の足元に投げつけた。
ジャラリ、と小銭が床《ゆか》に飛び散り、いっしょに収めてあったキャッシュカードや領収書も宙に舞った。
「あっ、カードだ!」
カードに弱い俊彦は、一瞬あらぬ方を向いた。
今や!
定吉は脱ぎ捨てた雪駄《せつた》を両手に握って跳躍《ちようやく》し、俊彦の頭上に舞い上ったかと見ると、彼の耳に力いっぱい雪駄の底を叩《たた》きつけた。
「うあぁ、耳が、耳が」
俊彦の背後に飛び降りた定吉は、口にくわえた包丁を握りなおし、背中を向けてのたうちまわる敵に向って得物《えもの》を突き出す。
包丁を避けようとした俊彦はリズムがとれず、グラリよろけて、そのまま腹部に刃先を受け、ゆっくりと崩れ落ちた。
「ああっ、早よお金拾わな」
銀兵衛は肩で息をする定吉を押しのけ、散らばった小銭やカードをあわてて拾い集めた。
「ひい、ふう、みい、よかった全部そろってる」
ホッと胸をなでおろした銀兵衛は、床から紙きれを摘《つま》み上げた。
「あれ? これはわしのもんやないな」
「このヒトのんやないの?」
物陰から這《は》い出して来たキクちゃんが文面を覗《のぞ》きこんだ。
「カラオケの歌詞みたいね。『8時ちょうどの……』あーん、その後の文字が汚れて読めへん」
「いったい何のことかな?」
「とにかく死体|片《かた》して早よここから逃げなアカン」
三人は俊彦の死体を大道具の間に押しこむと急いでテレビ局の外に逃げだした。
「バタリアン」に帰ってみると入口に「本日閉店」の看板が出ている。
「どうしたんやろ? 留守かいな」
店のドアに手をかけようとした銀兵衛を、定吉は黙って押しとどめた。
「何です?」
「これ」
ドアの把手《とつて》から室内に向って細いピアノ線が延びている。定吉は包丁を取り出すとドアの端を押さえ、そっとピアノ線を切断した。
「ブービー・トラップや。キクちゃん、ヘア・ピン一本おくれ」
そっとドアを開き、隙間《すきま》に差し込まれた安全ピンのない手榴弾《しゆりゆうだん》をゆっくりと持ち上げた。
レバーを握り、ヘア・ピンを安全装置の穴に入れてホッ、と息をつく。
「どうやら敵の奴、ここを見つけたらしい」
店の中はメチャメチャに壊されている。
「勝吉さん、居てるかなあ」
カウンターの裏でうめき声があがった。
「大丈夫でっか?」
「すんまへん、油断していたらこのザマや。奴ら警備システムを破壊して進入した」
定吉が抱き起すと、勝吉は弱々し気に笑った。
「どうやら奴らは太閤さんの財宝を捜しに出発したようです」
「すると、古文書のナゾを解いたいうわけでっか?」
「何でも……狩人《かりゆうど》の歌がどうのとか、終点が何だとか……言っていましたが、それが何のことか……」
勝吉は苦しい息の下からそれだけ言うと、ガックリと首をたれた。
「さっき倒したアホは、わしらの目を引きつけるための囮《おとり》だったんでんな」
サイフが歯ぎしりする。
「狩人? 終点? うーむ」
定吉はしばらく腕を組んでジッ、と天井を睨《にら》んでいたが、やがて、
「そうか」
ポン、と手を打った。
三人は新宿駅へ向った。
「八時ちょうどの特急『あずさ』で終点の松本まで行くんや」
「あれだけのヒントから昔|流行《はや》った狩人≠フ歌を思いつくなんて、定吉どんも結構古いな」
キクちゃんが笑いながら言った。
定吉はサイフ男を突っついて中央線の周遊券を三枚買うと大急ぎで車内に入る。
「あっ、しまった。駅弁買うのを忘れた」
電車が発車してから定吉はスットンキョウな声をあげた。
「大丈夫、朝が早いんやもん。車内販売かてやってるやろ」
「あずさ」とすれ違う新宿行の超満員電車をノンビリと眺めながらキクちゃんが言う。
「わて少し車内を見まわってくるわ」
定吉は一号車から十六号車までゆっくりと捜索した
敵は変装の名人たち、もとよりこんな姑息《こそく》な方法で発見できるわけもない。が、じっと座っているよりはいい。
そうこうするうち列車は甲府に到着した。「弁当ー、弁当ー」とホームで声が聞える。
「車内売りより、やはりホームで買うのが駅弁の正しい味わい方やな」
定吉は窓から首を出して駅弁売りの手押し車を見つめた。
甲府の三大駅弁と言えば、
一にあわび煮貝すし
二に陣中|鍋《なべ》めし
三に甲州焼肉弁当
である。
「うーん、あと一歩パッとしないなあ」
買おうか買うまいか迷っているうちに電車はついに発車してしまった。
「わて、もう一度車内を見まわって来るさかい」
定吉は再度列車内を捜索した。敵の新手が甲府から乗車した可能性もある。
「小淵沢《こぶちざわ》でカツ弁買おうかなあ。それとも茅野《ちの》までがまんして編笠《あみがさ》弁当買うたろかいなあ」
三十分弱で小淵沢到着。
「弁当ー、弁当ー」
高原列車|小海《こうみ》線に乗り換えて清里《きよさと》へ行く不気味に派手な青少年たちをボンヤリと眺めていた定吉は、やがてホームの端を歩いて来る駅弁売りに気付き、ニヤリと笑った。
その駅弁売りは紺の帽子を被《かぶ》り、同じ色のユニフォームを着た中年男である。手押し車の上にはお茶や弁当の折り箱がゆらゆらと揺れ、出来たてを表わす白い湯気がうっすらとあたりに漂《ただよ》っていた。
「小淵沢の弁当にしては妙なもんがある」
小淵沢駅で売られているのは、
一 元気|甲斐《かい》(カツ弁当)
二 万作弁当
三 牧場牛弁当
四 八ケ岳ランチ
五 りんどうちらし
等であるという。
定吉はその手押し車の中に「納豆弁当」という見知らぬ弁当が紛れ込んでいるのを即座に見破ったのであった。
恐るべき大阪人の食い意地!
定吉はその駅弁売りを何気ない風をよそおって見のがした。
「あれはNATTOの連絡員にちがいない。弁当なんか買うたら大変なことになるところや」
背中を向けて去って行く中年のオッサンを横目で見て車内に戻った。
「あんなモンがウロウロしてるところを見ると、テキはこの列車に間違いなく乗っているな」
列車はこの駅も定刻通り発車する。
定吉はもう一度車内の捜索をした。新宿から乗って来たミーハーたちは大部分降りたとみえて、車内は急に地味になっている。
東京の土産《みやげ》袋をいっぱい持った帰郷組の男女、北アルプスへ向う登山客、ういろうをピチャピチャなめている名古屋人、松本へ働きに行くフィリピン人とその監視役のヤクザ(この連中は他から浮き上って非道《ひど》く派手だった)。
「ああ、おなかすいたあ!」
定吉は手近な空席に腰を降して眼を閉じた。じっとしていれば空腹を忘れることができる。
悲しい丁稚《でつち》の知恵であった。
「こんなことなら納豆弁当でもいいから買っておけばよかったなあ」
彼はそのままうつらうつら船をこいだ。
「定吉どん、おきとくなはれ。なあ定吉どん」
誰かが肩を小突いている。定吉は、ハッと我に帰った。
「なかなか席に帰って来ないから心配して捜しに来たら、こないなところで寝てはったんでっか」
サイフ男とキクちゃんが心配そうに彼の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「NATTOの間者《かんじや》に襲われたのかと思ったわ」
キクちゃんは定吉の口元からたれたよだれをハンカチで拭《ふ》きとってくれた。
「あ、おおきに。ところで、ここは?」
「さっき岡谷《おかや》を通過したから、そろそろ塩尻《しおじり》だす」
「ゲッ!」
ほんの数分寝たつもりが、どうやら三十分以上も寝込んでしまったらしい。
「塩尻から終点の松本までは十分とないやないか!」
定吉は叫んだ。わずか十分の間に地図を奪ったNATTOの工作員を車内で発見しなければならない。
「これは一大事」
三人があせるうち、列車はとうとう松本の一駅前、塩尻に到着した。
「弁当ー、弁当はいかがですかあー」
ホームには再び駅弁売りの声があがる。
「ジタバタしてもしかたがない。こうなればヤケや、ゆっくり弁当でも食うたろ」
サイフ男から金を受け取った定吉は、駅弁売りを呼び止めた。
「おっさん。すまんがこっちゃの方に来とくなはれ」
窓から半身を乗り出して声をかける。
「なんぞうまいモンあるかあ?」
「どれもおいしいですよ」
駅弁売りは、ニッコリと笑って手押し車の中を指差す。
塩尻の駅弁は、五種。
一 ワイン・ランチ
二 岩魚《いわな》ずし
三 山菜|釜《かま》めし
四 とり釜めし
五 信濃《しなの》の四季弁当
である。
「お客さん、関西の人でしょう。だったら岩魚ずしなどいかがですか。幻の魚でめったに味わえないし、作りも関西風の押寿しになってますよ」
「ええなあ。なら、それ三つおくれえ」
「ヘイ、おおきに、定吉七番サン」
定吉はその言葉に思わず懐《ふところ》の包丁を抜きかけた。
「誰や、お前!」
「心配せんかてよろしい。わては長野地区担当の幾松《いくまつ》九十八番でおます。会所の支部から最新情報を持って参じました」
駅弁売りは帽子のつばを指で押し上げ、ニンマリと笑った。
「敵のボスは地元の人間で、松本近辺の土地カンがある、若い男らしいでっせ」
「土地カン?」
「ええ、いつも東京と長野の間を行ったり来たりして暮しているとか」
「そうか、読めた!」
定吉は細長い岩魚ずしの折詰めを、ギュッ、と握りしめた。
列車が塩尻のホームを離れると車内の人々はそわそわしはじめる。車内便所に走ったり、食べ散らした駅弁のカスを座席の下に押し込めたり、子供の足に靴を履《は》かせたりする。皆、降りる準備をしているのである。
松本での乗り換え線を案内する車掌のアナウンスを聞きながら定吉は、ゆっくりと前方の車輛《しやりよう》に歩いて行った。
最前列の車輛に入ると、一人の男が網棚からお土産の紙袋を降ろそうと悪戦苦闘しているのが眼についた。その車輛には彼以外に客はなく、ガランとしている。
「大変でんなあ、お手伝いしまひょか?」
定吉は男へ気軽に声をかけた。
「すいません、お願いします」
東京タワーや浅草の紙袋に手をかけた時、
「キェーイ!」
殺気とともに何かが定吉の耳元を飛びすさった。
定吉、すばやく懐から富士見西行を抜くや、半身をひねって飛び道具を打ち落す。
見れば、それは先の方に鋭い刃先を付けたウォーターマンの万年筆であった。
「僕の第一撃をかわすとは、流石《さすが》定吉七番だね」
「お褒《ほ》めいただきまして」
定吉は注意深く通路の端に身をかがめた。
「どうして僕が敵とわかった?」
若いパンチ・パーマの男は、軽業師《かるわざし》のように座席の背もたれへヒョイと飛び上ると、手にした文芸誌の間から数本の万年筆を取り出した。
「そのお土産袋でんがな」
定吉は網棚の上に顎をしゃくった。
「長野の人間は義理固い性格よって、田舎帰る時は隣近所に土産を欠かさん」
「…………」
「問題はその中身や。そこに入ってるモンは見たところ全部、『納豆五人組』が出没する場所のすぐ御近所で売ってるモンばっかし」
それに、と大阪人は唇を嘗《な》めた。
「言うては何やけど、あんさんわてが見てもあんまり変装が旨《う》もない」
「なにっ!」
「だってそやないか。よう自分の姿鏡に映して見てみい。どこぞの世界に、ブルックス・ブラザーズのアイビー・スタイルで上下固めて、頭だけパンチ・パーマの奴がおるんや?」
「くそっ、ぬかった」
男は万年筆の筆先を指先に挟んでジリジリと窓際に移動し始めた。
「さて、第二撃はどうかな?」
「フン、『剣はペンよりも強し』といったところかい」
定吉は包丁を上段に構えた。敵の手の動きを見て手裏剣の飛行角度を計る。
降ると見れば、つもらぬ先に打ち払え。風にあう松に雪折れはなし。岩園流|鎧通《よろいどお》しの術の極意である。
「やあーっ!」
定吉は音を立てて飛ぶパーカーの万年筆を力いっぱい打ち落した。その瞬間、彼の左肩に激痛が走る。
「痛《つ》う!」
肩先に四角い板のようなものが刺さっていた。
「何やこれ?」
「業界の名刺だよ、先の方にしびれ薬が塗ってある」
グラリ、と彼の視界がゆれた。
「早く手当をしないと薬が全身にまわるよ」
「汚い奴……」
音のする万年筆を投げて注意を引き、その陰から無音の名刺を投げる。伊賀《いが》の忍者四貫目が編み出したという「甲割《かぶとわ》り」の手裏剣術だ!
だめや、このままではやられてしまう。銀兵衛どん、キクちゃん、助けに来てくれ……。
だが、彼の口はしびれ、もう声が出なかった。
「どうした? もうそれまでか?」
パンチ・パーマのカツラをかなぐりすてた小説家は、手裏剣を構える。
こいつの弱点は……。そうだ……
「 母さんが夜なべーをして」
定吉はろれつのまわらなくなった口でゆっくりと歌いはじめた。
「 手袋編んでくれたあ――」
小説家の構えが一瞬ゆるんだ。彼の脳裏に暗くさびしかった故郷の生活が、文学で身を立てるべく夜逃げのように東京へ出た頃の思い出が走馬燈のようによみがえる。
「 こがらしふいて冷めたかろうと、せっせーと編んだだよ――」
小説家は両手をダラリ、と下して同じ歌を口ずさみはじめた。
そこだ!
定吉は最後の力をふりしぼって包丁をアンダー・スローに投げた。
「ぐわっ!」
小説家は思わぬ攻撃に身をかわす余裕もなく、網棚の荷物とともに車内の床《ゆか》へ転げ落ちた。
「く、くそ……最後の武器を手離すとは……不覚」
「殺《や》った……」
定吉は薄れゆく意識の中で「かあさん」の歌を唄《うた》い続けた。
松本駅に停車する寸前、定吉は誰かに抱き起された。
「大丈夫かいな」
それは彼を捜しに来たサイフ男とキクちゃんであった。
「かららがひびれへよううごへへん(身体が痺《しび》れてよう動けへん)」
定吉は辛《かろ》うじてそう言うと、通路に倒れている小説家の死体に目を向けた。
「何ぞおかしな薬でもかまされはったんか?」
キクちゃんは心配そうに肩の傷口へハンカチを押し当てる。
「まあ、しゃべくってられるとこ見れば、そう強い薬でもなさそうやな」
サイフ男は、そこは秘密情報員らしい冷酷さで小説家の死体を探《さぐ》った。
「何も出てこんなあ」
そうこうするうちに列車は松本駅のホームに滑り込んだ。こんなところを誰かに目撃されたら大騒ぎになる。二人は定吉の身体を両側から抱きかかえた。
「やふのにもふをわふれないれもっへっへ(奴の荷物を忘れないで持ってって)」
定吉は小説家の持っていた紙袋を持ち出すようにキクちゃんへ言いつけた。
改札口から外に出るといやでも人目につく。酒に酔ったように足元のおぼつかない和服姿の大男を担《かつ》いで歩きまわれば、周囲の記憶に残り、後々死体が発見された時その関連性を疑われるだろう。そう頭を働かせたサイフ男はホームの高架通路の脇《わき》から線路に降り、貨物線のコンテナ搬入口から駅の西口裏へ出た。
「ちょっと出費がかさむけど、この際しゃあない。どこぞ人目のつかないとこ行ったれ」
駅裏で不法駐車している自家用車のドアを万能キイでこじ開けたサイフ男は、キクちゃんとヨレヨレの定吉を車内に押しこめ、国道十九号線を塩尻の方に走り始めた。
鉢伏山の山裾《やますそ》を南に向って少し行くと沿道のあちこちにトラック運転手相手の食堂や、ケバケバしいモーテルが見え隠れする。文教県としての誇りを持つ長野は、風俗営業を一切許していないため若い連中は性欲のハケ口がなく、いきおい手近な女の子を誘ってこのような場所に出入りする。おかげで長野県は若者のモーテル利用率が全国でも一、二を争う県になっているのである。
サイフ男は、「全室自動」と書かれたモーテルを発見すると、すぐに車を建物の地下駐車場に入れた。従業員に姿を見られることなくうまい具合に二階の部屋へ潜《もぐ》りこんだ彼はキクちゃんに手伝わせて定吉を風呂《ふろ》に入れ、傷口を洗って万能薬「山城国|笠取山《かさとりやま》名産毒消し軟膏《なんこう》(大濫膏《だいらんこう》)」をすりこんだ。
「ああ、おなかすいたあ」
一時間ほど眠ってすっかり体調を整えた定吉の最初に口にした言葉がコレである。
「あんさんは心底|挫折《ざせつ》というモンが無い人間でんなあ」サイフ男は呆《あき》れ声を出した。
「この程度で負けてたまるかい」
キクちゃんにウインクを送った定吉は、小説家の持ち物を一つずつ紙袋の中から取り出して円型ベッドの上に並べた。
小説家の持っていた東京|土産《みやげ》は、
一 浅草雷門《かみなりもん》の雷おこし
二 原宿竹下通りの記念ティーシャツ
三 名菓ひよこ十五個入り
四 東京タワーのペン立て
五 上野土産西郷さんの文鎮
六 重盛|永信堂《えいしんどう》の人形焼
七 麻布|浪花《なにわ》家《や》総本店のタイ焼
といった、どれもこれもキッチュで鳴らした名品ばかりである。
「ようこれだけしょーのないもんばっかり集めくさったなあ」
定吉は並べられた品々をゆっくりと見まわしていたが、やがて、
「そいつや」
包丁を抜くや、タイ焼の尾に刃先をからめて、ポン、と宙に飛ばした。
タイ焼きはクルクルと回転し、ペシャリと床《ゆか》に落ちる。
定吉がホルスターの中に包丁を収め、パチン、柄《え》を鳴らすと同時に、タイは尾から頭にかけて張り合わせの部分が真っ二つになった。
「どや、うまそうなアンコやろ」
体長七五グラム、アンコ重四〇グラム、カロリー一七八キロカロリーを誇る浪花家のタイ焼に彼は指を入れ、ビニール袋に包んだ古い紙片を取り出した。
「大阪城からぬすまれた密書や」
「タイ焼の中に入ってるというのがどないしてわからはったん?」
キクちゃんが不思議そうに尋ねる。
「他の六つの品物はすべてお土産屋サンやデパートで売ってるけど、これだけは地元の人間も並ばんと買えへんとこに売ってる」
定吉はいじきたなく指についたアンコをなめた。
「それに、ここの店は麻布十番一丁目NTTの近くにある」
「勝吉はんの店とは目と鼻でんな」
サイフ男がポン、と膝《ひざ》を打った。
「そうか、支部を襲撃した後でお土産に買うたのか!」
「さいな、名物があれば買わずにはいられない、という中沢アキラの悲しい東京コンプレックスや」
「けったいな奴!」
キクちゃんが吐き捨てるように言った。
「さて、ナゾの暗号というのはどないなもんやろか」
定吉はアンコがくっついたままの汚い指先で大事な「秀吉公の手紙」を開いた。
「ふーん、こら折紙《おりがみ》いうやっちゃな」
脇から覗《のぞ》いたサイフ男がうなずく。
薄い奥州風紙《おうしゆうふうし》を横長に折り、折り目を下にして右から左に書いていく古い形式の手紙である。
「伸びやかな筆致やな。流石《さすが》秀吉はんの手ェや」
サイフ男は、文字に指を置いて読みはじめた。
さだめなき浮世にて、一日さきは知れざる事に候。秀《ひで》より事なりたち候ように、此かきつけ候。
この句ぜひぜひ覚え候て、後の御代に伝え申すべく候。
つゆとおき つゆときえにしわがみかな
なにわのことも ゆめのまたゆめ
この句|頭音《とうおん》そろへて伝えるべきことくれぐれも忘れなきよう仰《おおせ》つけられ候て給《たまうべ》く候。
慶長三年五月吉日   松
あわのかみ殿 まいる
「何や、これ太閤はんの手紙やないのんか」
「わしゃこれでも昭和ヒトケタやから草書はなんとか読めるが、……意味はさっぱりやな」
サイフ男は腕を組んだ。
「こういうときは、長距離かけて大阪のキョウジュに聞くのがエエ」長距離と聞いて顔をしかめるサイフ男を横目に、定吉は梅田の阪急古書のまち≠ナ古本店を営むキョウジュこと坂田小六を電話で呼び出した。
「かくかくしかじかやけど、こら一体なんでっか」
キョウジュは、受話器の向うでしばらく考え込んでいたが、やがて、
「慶長《けいちよう》三年の五月いうたら太閤はんが伏見《ふしみ》の城で病気になった頃やな。翌月には食事も喉《のど》を通らんようになり、七月に死期を悟った太閤はんは十一か条の遺言を書いて八月に死なはった。署名の『松』いうのんは太閤はんの雅号やから問題ない。『あわのかみ』は……どうも安房《あわの》守《かみ》昌幸《まさゆき》のことらしいな」と断言した。
「昌幸いうのんは誰だす?」
「真田幸村《さなだゆきむら》はんのお父上や」
キョウジュは答えた。
「文面は?」
「簡単に言うとやな。『人の世は一寸先が闇《やみ》やさかい、息子秀頼が無事成長するようにこの句を書く。よく覚えて後世に伝えたれや』いうこっちゃ。句はおなじみの辞世の歌で、これはあんたも教科書で読んだことあるやろ」
「へえ」
「あとは、読み方の注意やな。つまり、句のひと区切りごとに頭を揃《そろ》えろいうこっちゃがな」
「何で、です?」
「さあそないなことまでわしが知るかい。それより定やん、長距離は金かかるで。大丈夫か?」
「あっ、そやった。いや、こらどうも。ほならサイナラ」
定吉は電話にペコペコと頭を下げると大急ぎで受話器を下した。
「……というわけや」
「怪《け》ッ態《たい》な話でんなあ」とサイフ男。
「でも真田というのは太閤思いの武将で、このあたりの人やったわね」
キクちゃんも腕を組んだ。
「この辺いうても、もっと群馬寄りの上田盆地出身やで」
定吉は、モーテルのパンフレットの裏へ秀吉の句を書きつけた。
つゆとおき
つゆときえにし
わがみかな
なにわのことも
ゆめのまたゆめ
文の頭を揃《そろ》えてそこを読むというのは、暗号として一番原始的なタイプである。
「『つつわなゆ』?」
定吉は首を左右に振った。
「いったい何やろ?」
「つつ……、『つつ』って、もしかしたら湯筒《ゆづつ》のことやないかしら」
キクちゃんが突然言い出した。
「『湯筒』って何やねん?」と定吉。
キクちゃんはポケットから長野県の観光案内を取り出した。
「温泉のお湯を流す石で囲った洗い場みたいなモンや。ほれ、観光地のポスターなんかにようけ出てるやろ」
「ああ、温泉地のオバハンが洗濯モン洗うたり玉子ゆでたりするアレかいな」
「この本の索引に『菜の湯』という古い湯筒のことが出てる」
彼女は定吉の顔の前にガイドブックを突きつけた。
「ふむ、たしかに。上田から南西に少し入った別所《べつしよ》いうとこにある、と書いてある」
定吉は首をひねった。
「つまり……、病気になって己れの死期を悟った太閤はんは、真田一族に命じてその領内の温泉に息子秀頼のため財宝を隠さしめた、というわけかいな」
「そういうこっちゃ」
「よし!」
定吉は立ち上った。
「ものにはついでということがある。ここまで来たのも何かの縁、ひとつ宝さがしと……」
「あきまへん!」
定吉の袖《そで》をあわててサイフ男が引いた。
「宗右衛門はんは、あんさんに、工作員を倒して手紙をうばい返すことだけ命令しはったんでっしやろ? 目的は達したことやし、早よ帰らな命令違反になりまっせ」
「大丈夫や、ここから別所温泉は近いさかい、すぐ済ませたる」
「だいたいあんさんこの手紙の暗号は」
サイフ男は苦々しげに顔をしかめた。
「専門家でも難物やいう話やおまへんか。それがなんでこないな風にわてらのような無学もんが簡単に解けまんねん」
「そやかて解けたもんしゃあないやないの」
キクちゃんも口を尖《とが》らせた。
「宝さがしの経費は出せまへんで」
サイフ男は冷たく言い放った。
「そうでなくても今度の件では使いすぎてまっさかいにな」
「ド・ケチ」
キクちゃんが経理係にアッカンベーをした時、
「シッ!」
口の前に人差し指を立て、定吉は窓のそばに歩み寄った。
「どないしはりました?」
彼はサイフ男とキクちゃんを黙ってカーテンの端に手招きした。
外に見える十九号線に面したモーテルの入口へ、長野県警のパトカーが数台、斜めに停《とま》り、リボルバーを抜いた白いヘルメットの警官たちがジッとこちらをうかがっている。
「松本駅の死体が見つかったみたいやな」
「しかし、どうしてうちらがここにいることを知ったのかしら」
「警察なら心配おまへんやろ」
サイフ男が安心しきった声で言った。
「あんさんは殺人許可証を持つ丁稚《でつち》や。大阪の会所から長野県警にかけおうてもらえば無罪放免……」
「どうもそう簡単にはいかんらしい。見てみィ」
定吉は警官たちの拳銃《けんじゆう》を指し示した。
「あ奴らは全員、357マグナムを持ってる。本物の警官ならもっと小さなチャカ持ってるはずやろが」
「すると、あれはNATTOの!」
定吉は小さくうなずいた。
「ど、どないしまひょ」
サイフ男は、金銭計算に強いがこういう情況にはきわめて弱い。
「この調子では完全に包囲されたな」
「楽しそうに言わんといて」
キクちゃんも顔をこわばらせる。
「なあに、非常口通って地下の駐車場に出ればいい」定吉は気楽なものである。
「あんさん、今、包囲されてると言うたでしょう。非常口なんか真っ先に見張られてまっせ」
「普通のホテル旅館と違うて、こういうモーテルは安全基準もへったくれも無い。客が御休憩料踏みたおして逃げ出さないように非常口はガッチリ鍵《かぎ》かけてあって出られへん仕組みになってる。その代り」
定吉はウインクをした。
「必ずフロントに抜ける従業員通路がある」
「あんさん物識《ものし》りでんなあ」
「昔、女と入ったホテルで代金踏みたおしそこなったことあんねん」
三人はさっそく廊下に出て従業員出入口のドアを開いた。案の定、そこには階段があり、フロントとリネン室に通じていた。
「な、言うた通りやろ」
「ここからシーツやタオルを運び入れるんでっか」
すでに「警察」の指示で逃げ出したらしく、従業員控室には誰も残ってはいなかった。
定吉は、駐車場のドアを細目に開けて外を窺《うかが》った。
駐車場に停《とま》った車の脇《わき》に二つの人影が見える。彼らは定吉たちがまだ部屋の中にいると思い込んでいるらしく、ドアに背を向けてまわりを見まわしている。
定吉は、一人の背後に忍び寄り、そいつの口に手をまわすと、包丁で思いっきり脇腹をえぐった。
「うぐっ」
物音に驚いたもう一人がマグナムを向ける暇《いとま》もあたえず、脇腹から引き抜かれた包丁がそ奴の胸に飛んだ。
ニセ警官たちは、半地下の駐車場から突如飛び出して来た車にビックリして拳銃《けんじゆう》を構えなおした。
「う、射てえ!」
轟音《ごうおん》とともにマグナムが連射され、フロントグラスは粉々になったが、車はそのまま停車することもなくパトカーの列に突っ込んで行った。
ガッシャン!
斜めに止めたパトカーの横腹へもろに車は鼻先を叩《たた》きつけ、壊れた豆腐みたいになった。
「誰も乗っていないぞ」
車のアクセルの上に重そうな工具箱が置かれ、車内には人影がなかった。
「突入しろ」
ニセ警官たちは一斉にモーテルの入口へ走る。と、入れ違いに無傷だったパトカーの一台が動き出した。
「あっ、ぜいろくどもが!」
「すまんなあ、これ借りるでえ」
パトカーの中から声があがった。
マグナムの銃口が向けられ、杭打《くいう》ち機のピストンみたいな鈍《にぶ》い銃声がパトカーに浴びせられる。
「アホが見るブタのケツー!」
地団駄《じだんだ》を踏むニセ警官たちを尻目《しりめ》にパトカーは一目散、国道十九号線を松本方向に走り去った。
「こらええモン手に入れた」
サイレンを目いっぱい鳴らして市街地に入った定吉たちは、大糸《おおいと》線の線路を越えて女鳥羽《めとば》川と平行に走り、「牛つなぎ石」を左折して中町《なかまち》通りに入り、再び左折して女鳥羽川を渡った。左手の建物の間から松本城の堀が見える。城東二丁目|葭町《よしちよう》の十字路を渡って北に進めば浅間《あさま》、鹿教湯《かけゆ》、田沢《たざわ》の各温泉に向う道である。
「前方の車輛《しやりよう》、緊急車に道を開けなはれ」
定吉はマイクで怒鳴りながら国道一四三号をひた走った。
「便利なもんやなあ、みーんな道をあけよる」
「あたりまえでんがな、パトカーやもん。そやけど、こないにハデなことして本物に見とがめられんやろか」ビクつくサイフ男に、
「そやけど、別所温泉に行く経費がこれで浮いたやろ」
キクちゃんが笑いかけた。
信州大学の先で道は二つに分れている。左はそのまま一四三号、右は国道二五四号。定吉は右折してしばらくすると路肩《ろかた》に車を停《と》めた。
「どないしはりました?」サイフ男が尋ねた。
「このまま真っ直ぐ行けば丸子温泉郷、鹿教湯から沓掛《くつかけ》に抜ければ上田・別所は眼と鼻やが……」
「それであきまへんのんか?」
「国道は追手に尾行されやすい。山道を行った方が眼をくらましやすいな」
定吉は「美鈴湖《みすずこ》・美《うつくし》ケ原《はら》スカイライン」と書かれた標識の下を右に入った。
「これから先はちょいとした観光コースや」
美鈴湖を過ぎると七曲りの美ケ原スカイラインである。
雪の積った昇り道を行くパトカーは、途中何度か観光バスの大きな尻を追い抜いた。
「あー目がまわる」
キクちゃんはカーブの多い道と定吉のお世辞にもうまいと言いかねるドライビング・テクニックのおかげで、アッという間にグロッキーになった。
「定吉どん、窓開けていい?」
「御自由に」
キクちゃんが車の窓を開け放ち、定吉が車のスピードをゆるめた。
「おかしいなあ」
サイフ男が頬《ほお》をポリポリと掻いた。
「おかしいて、何が?」
「あれでんがな」
彼は前方を行く大型の観光バスに顎《あご》をしゃくった。
「東京の観光バスやろ。窓に『足立区観光老人会』の札が張ってある」
定吉は素早くその文字を読み取った。
「後を走ってるバスも同じステッカー張ってまっしゃろ」
いつの間にか車は二台のバスに挟まれていた。
「別に不思議なことあらへん。お爺やんお婆やんがバス連ねて団体旅行や」
荷物が満載されたリアシートの間から白髪頭の男女の手踊りが見え隠れしている。おおかた車内でカラオケ大会でもしているに違いない。
「お気楽なもんやないか」
「あそこに行き先が書いてありまス」
サイフ男は運転席横のバスガイド席に張られた別のステッカーを指差した。
「『美ケ原高原美術館見学コース』か」
「牛伏《うしぶせ》山の美術館からビーナスライン昇るのがコースでっせ。こっちから昇るとごっつう遠まわりになる。それに」
サイフ男の声が震えはじめた。
「今は冬や。美ケ原の美術館は、来年四月まで閉館と違ゃいまっか?」
「なんやて!?」
定吉は眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。と、突然、後方のバスがスピードをあげ始めた。
「ワッ、ぶつかる!」
「なに大丈夫。前の奴追い抜いたらええんやろ」
定吉は車のスピードをあげた。前方のバスはその尻先《しりさき》を、まるで猫がネズミをじらすように振って容易に前へ出そうとはしない。
もう疑う余地もない。二台のバスは定吉たちを押しつぶそうとしているのである。
「とんでもない団体旅行やで」
定吉はバスの巨大な尻を睨《にら》んで唇を噛《か》んだ。
キクちゃんが後部席の半分開きかけた窓に頭を突っこんであせり出す。
「キクちゃん何してる?」
「うち、サンドイッチの具になるのはイヤや。今のうちに外へ飛び出したる!」
「あほやなあ。そないな狭いとこに頭挟んでもしゃあないやんか」
「うち、これくらい開いてれば大丈夫なんや」
「猫みたいな子やな」
パトカーの後のバンパーがガリガリと音を立てている。リアウインド一杯にバスのフロントノーズが迫り、今にもその前輪へトランクルームがまきこまれそうだ。
「銀兵衛どん、さっきの東京|土産《みやげ》まだ持ってるかあ!」定吉は叫んだ。
「へえ」
「袋ごと貸してみ」
さし出された紙袋に片手を突っこんだ定吉は、重く細長い物体を掴《つか》み出した。
左手でハンドルを操りながら右手で窓を開く。カーブが右にかかった時、その細長い物体を力いっぱい後方に投げつけた。
金色の光が弧を描いて路上に落ち、
パーン! タイヤのバーストする音が続いた。
カーブの曲り際で猛スピードを出しているところにパンクが来たからたまらない。バスはバランスを失ってガードレールを壊し、袴腰《はかまごし》山の山裾《やますそ》に転がり落ちた。
「い、今のは何だす?」
「東京タワーのペン立てや。あれならバスの前輪にだって楽々突き刺さる」
仲間の車をつき落されて頭に来たのか前方のバスは、ますます怒り狂って車体を振りまわし、パトカーのバンパーをこすった。
「前の車はそれほどこわくはないな」
定吉はアッカンベーをした。刹那《せつな》、バスのリア・グラスが打ち壊され、老人たちがパトカーめがけて何かを構え始めた。
「あ奴ら、射つつもりでっせ」
サイフ男が悲鳴をあげた。
「そうはさせるかい」
定吉はブレーキを踏んでカーブの退避コーナーに突っ込む。
バスはパトカーを射つため大あわてでブレーキをかけ、対向車線に入ったが運悪く上から降りて来た一般車と激突した。
瞬時にして二台の車は火を吐き、これもまた崖《がけ》の下に転がっていく。
「あーあ、とうとう民間人を巻き込んでもうたがな」
定吉は舌打ちすると、急いで現場を走り去った。
「危機一髪でんな」
「緊張したら、おなかすいたわあ」
「そういえば、なんやわても腹の虫が泣き出したわい」
「あっ、ちょうどいい具合に!」
キクちゃんが道の端に顔を向けた。
「タコ焼のチョーチンが出てる」
「なんとおあつらえむきに」
定吉は大喜びで車をドライブ・インに入れた。
「タコ焼三つ、作ったってー」
サイフ男が店の奥に声をかける。
「ハーイ、いらっしゃーいませー」
野太い声がノレンの向うからあがった。
「むっ!」
定吉は殺気を感じて思わず後ずさり、二人に眼で合図を送った。
「この店も、NATTOのワナや」小声でそういうと、ジリジリと出口の方に後退する。
「はーい、お待ちどーさまーあ」
タコ焼を手に、ノレンをかきわけて出て来たのは身の丈《たけ》二メートル、筋肉質で目つきの鋭い茶店のお婆さんだった。
「お客サーン、お茶もおつけしますかあー」
丸髷《まるまげ》の白髪《しらが》カツラを斜めに被《かぶ》った「彼女」は、分厚い胸を張って三人の前に内股《うちまた》で歩み寄った。
「お、お前は」定吉は叫んだ。
「NATTO中級工作員、ランボー富岡」
スラリ、と懐《ふところ》の包丁を抜く。
「な、なぜ、それがわかった」
こんなに巧みに化けたのに……。
ランボー富岡は、表情を強《こわ》ばらせた。彼は自分の能力に絶対の自信を持つリーサル・ウェポンだった。
「お前は日本のことを良く知らんらしいな。着物を左前に着ている」定吉は冷たく言い放つ。
「く、食らえっ」
逆上したコマンドウは、毒入りタコ焼を放り投げた。
飛んで来るそれを包丁で切り落した定吉は、
「食いモン粗末にする奴は後生《ごしよう》がようないでえ」鋭く指摘した。
「うるさい、私は炭水化物が嫌いだ。こいつはシェイプアップの大敵なのだ」
掴《つか》みかかろうとするコマンドウ・ランボー富岡の手を危うくかわした定吉は、店の柱に切りつけた。ドドッと崩れる天井! 思った通りその店は安普請《やすぶしん》だ。
「逃げろ」
三人はパトカーに飛び乗ると、大あわてで走り出した。
「ガッデム!」
崩れた屋根の間からノッソリと現われたコマンドウは、店の裏手に造った仮設ヘリポートに走った。
「殺《や》ってやる!」
擬装《ぎそう》ネットを取り払うと、下から現われたのは、AH64アパッチ¢ホ地攻撃ヘリコプターだ。
「あのプロレスラーみたいな奴、追って来まへんなあ」
昇り坂のカーブにさしかかるたびにサイフ男は下を見降ろした。
「茶店といっしょにつぶれてもうたのと違《ち》ゃうかあ」
定吉がホッとして息を抜いた瞬間、崖《がけ》の裏側から突然、対地ヘリのフロントがヌッ、と姿を現わした。
出た!
ヘリはパトカーの前方に30ミリ・チェインガンを一連射すると、後方に飛び去って半転する。
「『あーあー、本日は晴天なり。感度良好、スペインの雨はおもに平野に降る』」
パトカーの無線が突然しゃべり始めた。
「『こちらは攻撃ヘリ・ブルーサンダー一号。眼下のゼイロクたちに告ぐ!』」
ヘリからの通信である。
「何やねん、ワレ」
サイフ男がマイクを取った。
「『すぐに停車し、車側に並んで立て。さもなくば対戦車ミサイルをおみまいする』」
「勝手なこと言うてまっせ、どないします?」サイフ男の顔が青ざめた。
「マイク貸してみ」
定吉はハンドルから片手を離した。
「この無線、ええ感度でてまんなあ。どこの機材でんね?」
「『アメリカ陸軍省|御用達《ごようたし》XA22356タイプだ。妨害《ジヤミング》電波クリア装置付で業務《ユーテイテイ》から違法CB、テレクラのコードレステレホンまで瞬時にしてセレクトすることができるのだぞ』」
コマンドウは自慢気にメカの説明をした。
「ほならFM局ゴッコも出けるわけでんな」
突然なにを言い出すのだろう、とサイフ男は定吉の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「わて咄家《はなしか》になって一度ラジオで落語しゃべってみたかった。ほなら一席……」
「『バカやめろ。俺《おれ》は落語が大嫌いなんだ』」
「ええ、毎度おなじみ上方話でごわります」
攻撃ヘリはパトカーの真上を威嚇するように通り過ぎた。
「明石《あかし》の蛸《たこ》が昼寝をしておりますと、猫がやって来て、八本の手のうち七本まで食うてしもうた……」
「『や、やめろ、やめないと40ミリ・グレネードを射ち込むぞ!』」
「……目が覚めてビックリした蛸は」
定吉はしゃべり続けた。道路のカーブはゆるやかになり、武石峠と「思い出の丘」が見えてくる。
「……よし、今度近寄って来たら残った一本の手で猫を巻き込んで海に引きずりこんだろと、寝たふりをして待っておりますが猫はなかなか近づかない」
「『黙れ!』」
「蛸がたまらず『残りの一本を食うてしまえ』と声をかけると、猫は」
「『うっ、ぷぷぷ』」
「その手は食わん!」
「『うわっはっはっは』」
ついにコマンドウは大声で笑い出した。見上げると攻撃ヘリは右に左に|酔ったような飛行《ローリング・フライト》をしている。AH64は乗員のヘルメットに情報投影機能やミサイルの目標捕捉装置が連動しているため、乗員が笑ってヘルメットがゆれると必然的に自動操縦機能も乱れるのである!
「『わはははは。誰か、俺の笑いを止めてくれー』」
ヘリはそのまま高度を落し、「思い出の丘」に降下して行く。数秒後、轟音《ごうおん》とともにオレンジ色の炎が吹き上った。
「ミサイル積んでるからようけ火柱が上るわ」
定吉は額の汗を拭《ぬぐ》ってホッと息をつく。
「あんな小咄《こばなし》ぐらいで大笑いするなんて、単純なヤツ」
何がコマンドウや、とキクちゃんが言った。
10
ゆるやかな下りの道を丸子町まで出た定吉たちのパトカーは、細い村道を通り、上田市の外側を大まわりして上田交通|別所《べつしよ》線の終点別所温泉駅に出た。
あたりはもうすっかり暗くなって、どこがどこやらさっぱりわからない。
「ここに流れているのが愛染《あいぞめ》川や。そやから温泉街はもっと上流の方ということになるな」
「わお、今日はゆっくり温泉に入って、シイタケ御飯に山菜料理」キクちゃんがうっとりと目を細めた。
「うーん、わては露天の混浴にチャポチャポつかって……」
定吉は自分が湯舟に肩まで浸っている図を想像した。
わてが頭の上にタオルなんぞ乗せて気持ちよう湯に浸ってると、キクちゃんが「定吉どん、入ってはるう?」とか言うてモチモチの肌をポッと赤らめ、入ってくる。「エエからこっち来ィ」「イヤヤ、恥かしい」「何の恥かしいことあるかい。同志やないか」「ほなら遠慮|無《の》う」「もっとそば寄りいな」互いに見合わす顔と顔。キクちゃんの手がおずおずと、わての……
「何ニヤついてまんねん、気色《きしよく》悪い」
サイフ男のダミ声が定吉の甘美な妄想《もうそう》を唐突に断ち切った。
「旅館入ってエエモン食おうなんて、とんでもない料簡《りようけん》でっせ。そんな予算持ち合わせてまへん」
「そやかて、野宿ってわけにもいかへんやろ」
キクちゃんが頬《ほお》をふくらませた。
「ここで金使うたら、帰りの旅費が無うなってしまいま」
「この車があるやんか」定吉も口を尖《とが》らせる。
「あんさんニセのパトカーで大阪まで行くつもりでっか。それにこいつかてガソリン食いまんのやで」
言われてみればその通りだった。
「なに、いざとなれば、うちがヒッチハイクしてでも二人を連れてったるわ」
キクちゃんは豪胆にもそう言い切ると、
「だから、な、ええやろ? 銀兵衛はん」
サイフ男の手をギュッと握った。
「……そ、そやなあ。ほなら出たとこ勝負で行きまひょか」
彼は思わぬ女性の攻撃に、デレッと鼻の下を伸した。
泊るときまれば後は早い。三人は傷だらけのパトカーを田ンぼ脇の物置きに押しこめると、共同浴場やスナックの集中する北向《きたむき》観音の方へ歩き出した。
別所温泉は、清少納言の『枕草子』に七久里《ななくり》の湯≠ニ記されているほど歴史が古く、昔から美人の湯として知られていて、外湯も多い。慈覚《じかく》大師が入ったという大師湯、真田幸村が入った石湯、木曾義仲が入った大湯、そして北条氏が開いたという菜の湯などが有名だが、そのどれもが江戸時代以前の湯治場《とうじば》といった雰囲気を残している。
手ごろな宿に入って食事をとった定吉は、食後ただ一人肩にタオルを引っかけ、ブラリと菜の湯に向った。
「湯筒」などというから、田のあぜ道にしつらえられた小さな洗い場を想像していたが、案に相違して「菜の湯」は立派な風呂《ふろ》屋の造りになっていた。聞けばこの辺の共同湯は数年おきに村内で入札をして、選ばれたものが経営する方式だという。
「すんまへん、湯筒を見せてもらいたいんでっけど」定吉は番台に坐《すわ》った中年の男に声をかけた。
「案内しましょう」
中年男は気さくにそう言うと定吉を小川の流れる裏口ヘ招いた。
「これです」
四角い小さな石の囲いで、中央部から湯がこんこんと湧《わ》き出している。
「ここで野菜なんぞを洗ったりするんでっか?」
定吉は石で組まれた足場へ降り、湯筒の辺を手でなでてみた。
「江戸時代の石組みです」
「江戸時代? 安土桃山時代ではないんでっか?」
「掘られたのはその頃ですが」
中年男は笑った。
「ここに宝が埋っているという噂《うわさ》で、一度徹底的に破壊されたそうです。再建は江戸中期でして」
「宝は出たんでっか?」
中年男は首を横に振った。
「ただ文字の書いてある銅板が一枚、湯筒の中から出て来たとか」
それや! 定吉は心の中で叫んだ。
「銅板いうのは今どこにあるんです?」
「裏のお寺で代々保管していましたが、昭和六年に大阪城天守閣が再建された時、大阪市に買い取られたそうですよ。何でも、大阪城に関係した文句が彫り込まれていて学術上たいへん貴重なものだそうで」
「ひえっ」
定吉はのけぞった。
11
キクちゃんのお色気でトラック便のヒッチハイクを繰り返し、ヘトヘトになって大阪に戻った定吉たちは、休む間もなく大阪城内天守閣博物館に直行した。
「いやあ、取り戻してくれはったんでっか。おおきに、おおきに」
定吉が差し出す「秀吉の手紙」をおしいただいて学芸員たちは、何度もなんども頭を下げた。
「このお礼はいかようにもいたします。ほんまにありがとさんだす」
「そうでっか。ほなら……」
定吉は別所の湯筒から出た銅板を見せてくれるように頼みこんだ。
お安い御用と学芸員は、彼を城の貴重品収蔵庫へ案内する。
「これでんがな」
角が丸い長方形の青い銅板である。
「以前は表面に金箔《きんぱく》張ってあったみたいでんな」
慶長《けいちよう》大判のニセ物なのだ、と学芸員は説明した。
「表に彫ってある文字は」
定吉は銅板に眼を近付けた。
(銅板の文字)
露――六
なにわ――七二八
夢――六
大坂二ノ丸|惣構《そうがま》え外東南
「またわけのわからん判じモンや」
定吉は文字を大福帳に書き写すと、サイフ男とキクちゃんを連れたまま梅田へ向った。阪急古書店街の「銭屋書店」でキョウジュをつかまえると、挨拶《あいさつ》もそこそこにさっそく文字の解読を依頼した。
「露、なにわ、夢。これは太閤はんの辞世の歌に出てくる。つまり、この文句を数字の六に置き代えればいいわけやがな」
キョウジュはサラサラと数字を書き並べた。
「六とおき六と消えにし我が身かな、七二八のことも六のまた六」
「よけいわからんようになってもうたがな」
定吉はポリポリと頭を掻《か》いた。
「こういう仮説はどうや」
キョウジュは鉛筆を走らせた。
「上の句の六は真田《さなだ》の六文銭、下の句の七二八と六は宝に到達するまでの距離のヒントとする。すると、上の句の訳は『六文銭と起き、六文銭とともに消えてしまう我が身である』となり、あまり重要な文句ではなくなる。一種の|騙し《フエイク》やな。こういう手は西洋の暗号なんかにもよくある。意味の無い句を付けることによって解読者を混乱させるんや」
「『七二八のことも六のまた六』というのは?」
キクちゃんが尋ねた。
「七二八を六の二乗、三十六で割ってみたらどうやろ?」
サイフ男がボソリ、とつぶやいた。
「20・22222……になるけど」
「ま、それを宝に到るまでの距離とすれば、後は出発点やな」定吉は首をひねった。
「『大坂二ノ丸|惣構《そうがま》え外東南』と言うと……待てよ」
キョウジュは大阪城の絵図面を古書の間から引っぱり出した。
「うーむ、惣構えの外側東南角というと、大坂冬の陣の時、真田幸村が出城を造ったあたりやな」
「すると、例の『真田の抜け穴』の辺?」
「やった! 出発点もわかったわい」
四人は眼を輝かせた。
定吉はその場からすぐに四天王寺の裏手に住む会所雇用コード一番|天王寺釜吉《てんのうじかまきち》、のもとへ電話をかけた。
穴掘り、穴|潜《もぐ》りとなると、メンバーの中で彼にかなう者はない。元は有能な地下鉄工事の請負《うけお》い業者で、地下鉄谷町線・御堂筋線の設計者であったのだが、酒で身を持ち崩し、妻子にも逃げられて、今は簡易宿泊所暮しの身である。
「なんぞワイに用だっか?」
ボロ旅館の呼び出し電話にカマキチは元気良く飛びついて来た。
「ちょいと地面の底に潜る。用具|揃《そろ》えて玉造《たまつくり》の駅前に来たってんか?」
「穴潜り? よろしいなあ」
カマキチは大喜びで仕事を受けた。
「さ、これで用意は成《な》った。キョウジュはん、すまんがわての懐中電灯用意しておくれやす」
「なんやの、定吉どん、うちらは連れてってくれへんの?」
キクちゃんが目を剥いた。
「あったり前や。土砂崩れかてあるかも知れん場所に、女子供を連れて行けるかいな」
「そやかて、うち穴の中では役に立つで。身体かて小さいし、暗いとこで眼も利《き》くし、お砂場でしかオシッコもせえへんし……」
「ほんまに猫みたいな子やな」
あきまへん、と定吉は強く首を振った。
一時間後、定吉はカマキチと大阪環状線玉造駅前で落ち合った。
頭にライト、腰にバッテリーをつけ、ラメ入りの腹まきにゲートル、地下タビ。手にはツルハシと一升ビンを下げたカマやんは、どこから見ても「ドカチン」の帝王然としている。
「カマきっつぁん、一杯やってんのとちゃうか?」
心配そうに尋ねる定吉へ、
「なあに、出がけに通天閣《つうてんかく》下でコップ一杯ひっかけて来ただけや。景気付けぐらい目ェつぶったってや」
酒焼けした頬《ほお》をテカらせてカマキチは大笑いした。
二人は玉造《たまつくり》の交差点から南に入った真田山町《さなだやまちよう》の公園に向った。「真田の抜け穴」入口は、ここの三光神社境内にある。
12
「実いうと、わて……」
定吉は鳥居の下でモジモジと身をよじった。
「暗いとこ苦手やねん。カマやん一人で行ってくれるかあ」
「ガッハッハ、何子供みたいなこと言うてまんね」
カマキチは彼の背中をドン、と叩《たた》き「名所真田の抜け穴」と書かれた立て札を無雑作に引き抜いた。
「気ィすすまんなあ」
カマキチは定吉の言葉にかまわず、神社の石段下に掘られた「抜け穴入口」の鉄柵《てつさく》へツルハシの柄を差し込む。
ピチン、と南京錠《ナンキンじよう》が弾け飛び真新しい柵の戸が開いた。
「中も結構キレイに作ったるやんけ」
「二年前に大阪と上田のライオンズクラブが金出し合うて入口だけ工事しましてん。出入口開けっぱなしにしとくと、近所のガキどもが不純異性交遊の場にしますさかいに、な」
定吉はカマキチにせかされて、恐るおそる穴の中へ頭を押し込んだ。
「真田の抜け穴」と称するものは、現在三か所ほど残っているが、戦前、このあたりがまだ区画整理される前には、およそ十か所以上もあったと記録されている。中でも一番有名な「穴」は、この真田山から南に一キロほど下った鶴橋《つるはし》駅前の、下味原《しもあじはら》交差点そばに口を開けていたらしい。昭和初期に大阪府社寺課で作成された資料によれば「穴」は古い石垣の横にあり、内部は南に三十メートル入ると土の大広間があって、等身大のハニワみたいな鎧武者《よろいむしや》の人形が幾つか飾られていたという。
「その穴はどないしましてん?」
カマキチは天井にライトを向けつつ質問した。
「玉造筋の道路拡張工事で背後の山を切り崩した時に埋めてしもうたそうやけど、その時に工事人が入ってみたら」
定吉は気味悪そうにまわりを見まわしつつ答えた。
「土の広間には三本の道があって、一本は真東の玉津《たまつ》、もう一本は四天王寺《てんのじさん》隣の六万体町《ろくまんたいちよう》方向、最後の一本は真北、つまりこの真田山に向いていたとか」
「てんのじさんから玉造いうたら直線で二キロ近くもありまっせ。地下鉄ふた駅分や」
豪気なモンやなあ、とカマキチはうれしそうに言った。
「おまけに六万体町で戦時中、防空壕《ぼうくうごう》掘っていたらその穴の続きが出て来てな。真っすぐ南に向うとったそうや」
「六万体の南いうたら、四天王寺の一丁目とか茶臼《ちやうす》山の動物園(天王寺動物園)のあたりでっか?」
「そうや」
茶臼山のラブホテル街に隣接した寺の境内に、その穴は今も残っている、と定吉は説明した。
「茶臼山は大坂冬の陣で徳川家康が本陣を築いた場所で、な。講談の『難波《なにわ》戦記』には、真田十勇士が家康を狙撃《そげき》するためにその穴から飛び出した、と書いてある」
「そういう話、てんのじさんの縁日の覗《のぞ》きからくりで見たことおま」
どうやらカマキチは、見た眼よりズッとフケているらしかった。
穴は五メートルほど奥に行くと左右に別れ、右側は土砂崩れで埋っている。
「左の方が広くなってるみたいでんな」
「わて、おしっこ行きとなった」定吉はつぶやいた。
「なんぎな人やな。入る前にしてこなかったんでっか」
高さ七、八十センチの低い石穴をしばらく行くと、急に広い場所に出る。
「ライトの光、もっとパワー・アップしまひょ」
石室の中が明るくなった。
「ギョエーッ!」
「ど、どないしはりました?」
「あ、あ、あれ」
定吉は尻餅《しりもち》をついたまま部屋の片隅を指差した。
「お、お、おばけや。幸村はんの亡霊が出よった」
「まさか」
カマキチは頭につけたライトを壁の方に向けた。
光の中に身の丈《たけ》六尺ほどの鎧武者《よろいむしや》が立ち尽している。
「これ、土人形でっせ」
豪胆なカマやんは、ツルハシの先で人形の頭を小突いた。
「昔、下味原の地下広場にあったといわれてるものと同じヤツでっしゃろな」
「なんや、驚かせるなあ。小便ちびってもうたやないか」
定吉が歩きにくそうに着物の裾《すそ》をめくりかけた。と、何気なく見上げた彼の眼が凍りつく。
「カ、カマきっつあん」
「なんでんねん。定吉七番ともあろうお方が気のちっさい……」
顔を上げたカマキチも、息を飲んだ。
何と、土人形の手が少しずつ動き始めている。
「お……おのれ……内府《ないふ》……」
鎧《よろい》の頬当《ほおあて》の間から不気味な声が発せられた。
「右大臣公のうらみ……今こそ晴らしてくれようぞ」
「ひえ、幸村さま」
二人は震え上った。
「逃げろ!」
「逃げるいうて、どこへ?」
「穴の奥や」
二人は天井の高くなった奥の道を駆《か》け出した。
「まて、内府う」
ガチャガチャという金属音とともに不気味な声が二人を追ってくる。
「『内府』て何でんね?」カマやんが尋ねた。
「徳川家康のことや、右大臣は豊臣秀頼」
「浪花《なにわ》のモンが何でタヌキ親爺《おやじ》のために逃げなあかんのでっか!」
「そないなことわてが知るかい」
二人は不平を唱えながら穴の中を懸命に走った。
十五分ほど駆けると道が二つに別れているあたりに出た。
「どうやら鎧《よろい》お化けをまいたみたいでんな」
「そやけど、ここはどの辺やろか?」
「ぐちゃぐちゃに曲りくねった道走ったさかいようわからへんけど、ははあ、磁石は真南を指してまっせ」
カマやんは腕に装着したコンパスを示した。
「さっき右にカーブして五百メートル程入ってまた逆戻りしたから……」
懐《ふところ》から電卓を取り出した彼は、自分の歩幅と経過時間を計った。
「近鉄の奈良大阪線越えて筆ケ崎の町内に入ったあたりでんな。右に行くと大阪赤十字病院で、左が環境科学研究所の真下……」
「なんや、二キロ近く走ったと思うたが、まだそないなもんかいな」
真田山町から筆ケ崎は直線コースで八百メートルもない。
「どっかで、河内《かわち》音頭《おんど》唄うてる奴がいまっせ」
「ひっ」
右の道からにぎやかな音楽と、人のざわめきが聞こえてくる。
「新手の化けモンと違うかあ?」
定吉は後ずさった。
「ゆーてきが河内音頭唄うなんて聞いたことない。きっとどこぞの家の地下室に通じてまんのやで」
カマキチは、景気づけに一升ビンをグッとあおると、ツルハシを握り、ジリジリと前進した。
定吉もしかたなく彼の尻《しり》に隠れて少しずつ進む。
「いかん! パワー上げすぎてバッテリーが弱まりだした」
カマキチの頭につけたライトの光がチラチラと点滅し始めた。
「この先がまたフタマタに別れてまっせ」
曲り角に来た時、とうとう灯は消えてしまった。
「ど、ど、ど、どないしよ」定吉は震えがとまらない。
バスッ!
闇《やみ》の中で消音|拳銃《けんじゆう》のような音が轟《とどろ》き、やがて異様な臭気が彼の鼻腔《びこう》を刺激した。
「メ、メタンガスや。どこぞで毒ガスが吹き出してる!」
定吉は叫んだ。
「いや、ちゃいまんね。こらあ、わいの屁《へ》でおます」
暗闇にカマキチの恥かしそうな声が響いた。
「出がけに酒のサカナやいうて、串《くし》アゲ屋行きましてな。イモのテンプラぎょうさん食いましてん」
「こ、このいそがしい時に、ややこしいことすな!」
「ともかく、河内音頭のする方角に行ってみまひょか」
音をたよりに二人は手さぐりで歩いた。
「突き当りや。ここに石の壁がある」
「どうやらこの裏から聞こえてくるなあ」
やにわにカマキチがツルハシを石垣に叩《たた》きつけた。
「わっ、何すんねん。ここかて一応、市の文化財やど」
「石の隙間《すきま》から空気が漏れてる。裏側はきっと外へ通じてるに違いおまへん」
ガキッ、とツルハシの先が石に食いこみ、やがて内側に崩れると、一条の光が二人の足元に差し込んだ。
「光や!」
カマキチはかまわずどんどん穴を掘り広げる。
「なんと、まあ……」
「こらまたどうじゃろかい」
穴の向う側に顔を出した二人は息を飲んだ。
そこには信じられない光景が広がっていたのである。
13
そこは和風の大広間だった。
広さはおそらく大阪ロイアル・ホテルの宴会場ぐらいもあるだろう。
天井は絵入りの格子天井。欄間《らんま》には趣向を凝《こ》らした彫刻がほどこされ、床《ゆか》は全面畳敷き。そして、それらはどれも黄金色に輝いているのだった。
「き、金や。キンでんがな」
カマキチは、泥だらけのツルハシをひっさげてズカズカと畳の上にあがりこんだ。
「大阪城黄金の間や……」
定吉は放心したようにその後へ(しかし、その前に丁稚《でつち》の心得としてちゃんと雪駄《せつた》を脱いで)続いた。
古今東西を通じて金ほど富と権力の象徴になったものはない。豊臣秀吉は、そのあたりをよく心得ていて、己《おの》れを飾るためこの金属を惜しげもなく身辺へ投入した。桃山時代に書かれた『宗湛《そうたん》日記』には、彼の好んだ茶室に関する記述がある。
「……柱は金を延べて包み、敷も鴨居《かもい》も同前也。壁は金を長さ六尺ほど、広五寸ほどづつに延べてガンギにしとみ候。縁の口に四枚の腰障子にして、骨と腰の板は金……」
秀吉は、この部屋に坐《すわ》り、黄金の茶釜《ちやがま》、黄金の茶碗《ちやわん》を手にしたのだという。
「大阪環状線の内側地下にこんなモノごっつい部屋が」
定吉はつぶやいた。思えば自分はこの部屋の真上を毎日汗を流しつつ掛け取りに走りまわっていたのである。
「人目にもつかんと、大阪の大空襲にも天井を落さず、四百年間ようもまあ」
「さ、定やん、あれ見てみィ」
広間の真ン中でカマキチが彼の袖《そで》を掴《つか》んだ。
「床の間に……」
定吉は眼がくらみそうになった。
一段高くなった部屋の奥に、小型トラックほどの丸い物体が鎮座している。
「黄金のヒョウタン!」
秀吉の馬印《うまじるし》である千成《せんなり》ビョウタンが黄金色に輝いていた。
「あれはきっと金ムクだっせ」
「とうとうやったな、カマきっつぁん」
二人は手に手をとって感涙にむせんだ。
「わしらこれで成金でんなあ」
「千日前《せんにちまえ》の自由軒で毎日別カレー$Hうて、蓬莱《ほうらい》のブタマン食うて、たまにはシネマ裏の重亭《じゆうてい》で特製ハンバーグ食うことも……」
夢の食い倒れを思い浮べ、定吉は絶句した。
「わては、なあ」
カマキチも拳《こぶし》でゴシゴシと眼をこする。
「まず、この愛用のツルハシに金メッキして、地下タビの小ハゼ金に代えて、ハラマキもジョル……ジョル……何やったかいな」
「ジョルジュ・アルマーニかね?」くぐもった声が教えた。
「そや、そのジョロジョロの有馬の湯とかいう店で作ってはるブランドモンのラメ入りに代えて……」
そこまで言った時、二人は顔を見合わせた。
「誰や、そこにおるのは!?」
「ふっふっふ」
くぐもった笑い声がヒョウタンの裏から響いてくる。
「出てこんかい!」
定吉とカマキチは身構えた。
「どうも、どうも」
床の間から出て来たのは、意外にも髪を七三に分け、ブルーグレーの既製服を着た中年男だった。
「いやあ、君たちについて来てよかったですよ。おかげでいいもの見せてもらいました」
金縁のビジネス・フレーム眼鏡を光らせた中年男は、拳銃《けんじゆう》を片手にゆっくりと二人のそばへ近づいた。
「えー、お初にお目にかかります。わたくし、こういうものでして」
男は物腰やわらかく、名刺を差し出した。
「えっ、『NATTO特別工作員兼経理課長代理、千代田七号』?」
「以後お見知りおきを」
「こんガキゃあ、しばきたおしたろかい!」
カマキチがツルハシを振り上げる。が、銃火|一閃《いつせん》、その先端は無残にも吹き飛ばされた。
「ああっ、わ、わいの愛用ツルハシがあ」
「いやあ、馬鹿なことはやめてほしいものですね。臨時|雇用《こよう》肉体労働者の方」
壊れたツルハシを抱きしめてベソをかくカマキチに彼は冷たく言い放った。
「次はその汗くさいタオルを巻いた首のあたりを狙《ねら》いますよ」
「おんどれが五人組の片割れ、『サラリーマン』か」定吉は呼びかけた。
「そうです。スーパーマン、ウルトラマン、トーマス・マンと並び称される奇蹟《きせき》の人、NATTOコード・ネーム、サラリーマンが私です。宝はいただいて行きますよ」
「アホなこと言うたらアカン。こないにおおきな金のカタマリ、どないして持ち出すつもりや」
「頭上の建物を壊してクレーンを入れます。白昼堂々とね。そうすれば誰にも不審に思われない」
「壊す? この上は赤十字病院やど。大勢の入院患者はどないすんねん」
「そういう方たちには御迷惑だが死んでいただく。その露払いとして定吉さんには、お先に死んでいただきましょう」
銃口が定吉の薄い胸板に向けられた。
ま、まずい。なんとか逆襲せねば……。定吉はサラリーマンの眼をにらみつけた。
「鈴木一郎、年齢42歳、岩手県出身。城東商科大学経営学科卒。本籍地埼玉県所沢市!」
「むっ」
「勤務先、千代田区有楽町の狸山《たぬきやま》商事経理部、課長代理。妻一人、子一人」
「ど、どこで調べた?」
定吉は相手の動揺する姿を見て内心ニヤリとした。
「一昨年千葉県八千代市米丸に一戸建てを購入。住宅ローン支払いのためNATTOの工作員養成機関に入る。年賞与……」
定吉は、サラリーマンの顔に指を突き出し、
「3・5パーセント!」
重々しく言った。
「だ、だ、だまれ」
銃口が一瞬横にブレる。定吉はそれを見のがさなかった。
すばらしい跳躍力でジャンプし、包丁を抜いて彼の背後に飛び降り、
「五人組のデータはすべて頭の中に入れてる。これが殺人|丁稚《でつち》の心得いうもんや」
包丁をパチリ、とホルスターに収めた。
サラリーマンの構えていた拳銃の銃身《バレル》と、彼の背広の胸ポケットが一直線に切れて、黄金の
床に名刺サイズの紙きれが散った。
「それもあんさんの弱点、黒百合女子短大卒の愛妻と五歳になる娘の写真やな」
今度から持ち歩くときは、コクヨの携帯アルバムに入れなはれ、と定吉は言った。
「おのれー」
拳銃が使いものにならない、と知ったサラリーマンは、銃のフレームをカラリと捨てると、自分の靴を片方脱いだ。
「そこまで調べあげたのなら、私の得意技も知っているだろう。この靴はただの通勤靴ではない」
彼は靴の踵《かかと》を突き出した。
「中に、超小型カラオケアンプと、マイクが組み込まれているのだ!」
さらに、と彼は靴下も脱いだ。
「下に履《は》いているソックスは、とっても臭い。私は会社でも一、二を争う臭い足なのだ」
「げげーっ」
今度は定吉がのけぞった。
「では行くぞ。騒音カラオケと臭い付き靴下の『二段階宴会お座敷攻撃』!」
サラリーマンは両手に必殺の隠し武器を握りしめて大声をあげた。
これは不覚。
定吉は唇を噛《か》んで鼻を押さえた。圧倒的に彼の方が弱い。サラリーマンの靴下の臭いがすでに彼の鼻をネジ曲げんばかりになっている。
「では、一番、鈴木一郎。『男と女のみだれ酒』行きますっ!」
定吉の手は二つしかない。しかしその一つはすでに鼻をつまんでいる。だから耳をふさぐのに一本足りない計算だ。彼はうなった。
前奏曲が高らかに鳴り響く。
くそっ、鼓膜が破れる前に刺し違えたる。彼はやけになって包丁を再び抜きかけた。
「あいたたた」
突然、鈍《にぶ》い打撃音が響き、サラリーマンは後頭部を押さえてその場にうずくまった。
背後にゲンコを固めたカマキチの姿があった。
「なーにが宴会お座敷攻撃や、このドアホが」
「しまった、お前が残っていることを忘れていた」サラリーマンはくやしそうに目を細めた。
「けったいな奴ちゃ。おい、ヒラリーマン」
「ひ、ひらではない、課長代理だ」
「どっちゃかてあんまり変りないわい。おんどりゃ、ようもワイの『スタインヘーガー5号』壊してくれたなあ」
スタインヘーガーとはどうやら彼の愛用ツルハシのことらしい。
「お前はこの臭いがなんともないのか」
サラリーマンは、手にしたものをカマやんの鼻先にひらつかせた。
「これは、お前らが一番嫌う納豆の臭いがするんだぞ!」
「臭いが恐うてドカチンやってられるかい、アホンダラ」
カマキチは大きなゲンコツでもう一度思いっきりサラリーマンの頭をドついた。
「ちくしょー、ホワイト・カラーがレザーネックに負けるとは不条理」
彼はわけのわからない言葉を残し、その場に昏倒《こんとう》した。
「鈴木一郎……うーむ、恐ろしくない奴……」定吉は額の汗をぬぐう。
「定吉どーん、居たはりまっかー」
ドタバタと足音が轟《とどろ》き、黄金の襖《ふすま》が開け放された。
「おお、お前らは会所の!」
「留吉に松吉に幾松やないか」
おばんでごわりますっ、と頭を下げて入って来たのは大阪商工会議所秘密会所の後輩|丁稚《でつち》たちだった。
「お助けにまいりましたあ」
「どうやってここがわかった?」
留吉はヘッヘッヘと笑ってモミ手をした。
「襖の向うは、こんな風になってまんね」
彼が奥の襖を開けると、巨大なトンネルとレールのポイントが見えた。
「実をいいますと、この部屋、地下鉄千日前線の引き込みラインに乗っかってるんだす」
「そな、あほな……」
定吉の眼の前を、野田阪神行の標示をつけた車輛《しやりよう》が轟音《ごうおん》とともに通り過ぎた。
14
「うっひっひ、定吉どん。驚かしてすまなんだのう」
宗右衛門はソファーの上で腹をかかえた。
「秀吉の手紙なんてハナっからウソの八百、タヌキの八畳敷。抜け穴も作りもんなら、鎧武者《よろいむしや》のお化けもロボットや」
「ほなら、わてらを長野くんだりまで行かせたのは?」
「敵をだますにはまず味方から言うでしょ、定吉どん」
秘書の金子が、お茶とヨーカンを持って入って来た。
「金子はんもこの計画知ってはったんでっか?」
「うん」
「定吉どん」
宗右衛門は金子の方に顎《あご》をしゃくり、
「そもそも、今回の企画を出して来たのはこのイトはんやがな」ケケケと笑った。
「なんやあ?」
「かんにんしてや、定吉どん」
金子はモジモジと豊かなお尻《いど》を振って、恥かしそうに秘書室へ引っこんだ。
「まったく、もう。誰も信用でけへん」
「まあ、おこりなや。少々|銭《ぜに》のかかる謀略計画やったが、当初の目的通り敵の大物活動家も倒すことができたし、会所内に潜入したスパイも割り出すことができた。あれもこれも、みーんな定吉どんのおかげ」
宗右衛門は袂《たもと》を探《さぐ》ってポチ袋を取り出した。
「ようやってくれた、これは少ないが御祝儀や。取っといてんか」
定吉の膝《ひざ》にポン、と袋が落ちた。
「わっ、おこづかい」
もーろた、もろた、おこづかいもろた、と彼はポチ袋を額に乗せてステップを踏んだ。
「どれどれ、なんぼ入っとるのやろ」
袋の中を覗《のぞ》くと、穴に赤いリボンをつけた真新しい五円玉と、宝クジが一枚入っているだけである。
期待したわてがアホやった。再度裏切られた定吉はガックリと肩を落し、ソファーに坐《すわ》りなおした。
「ところで定吉どん、この計画はまだ完了してはおらん」
実は、な。と宗右衛門は煙草盆を引きよせる。
「ヘッ? まだ終ってまへんのか」
「さっき会所から連絡があって、な。金ムクのヒョウタンをうばわれたと言うて来た」
「金て、あれは会所で作ったニセモンと違いまんのか?」定吉は首をひねった。
「そや、あれをな、あんたが見つけた本物やいうふれこみで、会所の大型金庫に運び込んだんや。そしたら案の定、会所内のNATTOスパイが見事、引っかかった。定吉どん」
宗右衛門はニタリ、と笑った。
「最後の大物と勝負やで」
「最後?」
「よう考えてみなはれ、あんたは『変装五人衆』のうち四人しか片付けてへんやろが」
定吉は、ハッとして顔を上げた。
15
銀色のケーブルが、二本の柱から斜めにたれ下り、その翼をいっぱいに広げたような形から「かもめ」と名付けられた斜張橋がある。定吉は、大阪|南港《なんこう》名物の、その優美な姿を横目に見つつ埠頭《ふとう》を歩いた。
一昔前のロシア人SF作家が描いたような未来都市を連想させるポートタウンと、巨大な箸置《はしおき》みたいなフェリーが見えるあたりまで来ると、釣り人の姿もなく、ただ大型のコンテナ運搬車がせわしなく行き交っているばかりである。
定吉は、倉庫街の外れまで歩いて、そこに見覚えのある後姿《うしろすがた》を見つけると、やっと足を止めた。
「キクちゃん、ここに居たんか?」
「あ、定吉どん」
キクちゃんは驚いて口に手を当てた。
「なんや、エライ大人びたかっこうしてるやないか」
いつもはジーンズにウインドウ・ブレイカーの彼女が、今日は髪を長くたらし、タイトスカートにハイヒールを履《は》いている。
「定吉どんこそ、なんでここへ来はったん?」
「心が寒うなると、南港に来とうなる。特にオナゴが信じられへんようになった日は、なあ」
定吉はさびし気に笑うと、足元の空《あき》カンをポンと海中に蹴《け》り落した。
「島田紳助がここでオナゴ捨てて以来、大阪のパープーは失恋すると皆南港に思い出を捨てにやってくる」
「誰かさんにフラれたんやね。お孝ちゃん? それとも会所の金子さん?」
「いや」
定吉は突堤のアンカーに片足をかけてハンチングのツバを親指で持ち上げた。
「それは……」
「それは?」
「あんたやがな」
「私?」キクちゃんの眼がキラリ、と光った。
「トンボリのブティック店員アルバイト、吉本興業の若手タレント河内菊乃とは仮の姿。本当は」
定吉は彼女の顔に人差し指を突き出した。
「NATTO五人衆の首領、麻布納豆坂《あざぶなつとうざか》でその名も高い遊び女『糸引きのサヤカ』こと五十嵐《いがらし》沙矢花《さやか》」
「そうかー」
キクちゃん、いやサヤカは、フフッ、と物憂《ものう》く笑い、
「バレちまったんじゃ、しようがないわねえ」
長い髪をサラリと掻《か》き分けた。そのポーズは、どう見ても飯倉《いいくら》の交差点で男をふってみせる港区バカヤロ女そのものだった。
「思い返して見れば、東京支部の位置がバレたのも、塩尻のモーテルがニセ警官に包囲されたのも、美ケ原でバスやヘリコプターに捕捉《ほそく》されたナゾも、あんたが敵を手引きしてたと仮定すれば説明がつく」
「『|女をさがせ《ウ・エ・ラ・フアム》』ね」
「さいな。探偵の初歩やがな」
定吉はアンカーから足を降し、懐《ふところ》に手を入れた。
「殺《や》る気?」サヤカはナザレノ・ガブリエリのバッグに手をさし入れた。
「わての富士見西行は、まだオナゴの血ィ吸うたことがない。残念やけど、その掟《おきて》を破る時が来たらしいなあ」
「あたしの拳銃《けんじゆう》とどちらが早いかしら」
風が二人の足元で渦を巻いた。
「行くぞ」殺気が最高潮に達した時、
「待て!」
かたわらに停《とま》っていたコンテナ・トラックの運転席から声がかかった。
「サヤカさん、そいつは私にまかせて下さい」
ドアが開き、身体のあちこちに膏薬《プラスタア》を張りつけた巨大な男が降り立つ。
「不肖R・富岡、殺された同志と落ちたブルーサンダーの仇《かたき》をうつため地獄から帰って来たぞ!」
「筋肉ゴリラ、生きとったか」
ランボー富岡は、特大ボンレスハムのような腕を振って、定吉の前に立ちはだかる。
「だめよ、富岡クン。あんた怪我《けが》がなおってない」
止めようとするサヤカの手を払いのけた彼は、背負っていた四連ロケット・ランチャーのスリングを外した。
「こんなところでロケット射ったら、大ごとになるわ」
サヤカは悲鳴をあげた。定吉はその言葉にハッとして頭上を見上げる。案の定、そこにはクレーンにぶら下った大型コンテナの姿があった。
「てめえを淡路島の向うまで吹き飛ばしてやらあ」
「ふん、当ったらおなぐさみや」
定吉は、アッカンベーをすると、クレーンのタワーに向って走り出した。
「死ね」
「やめてェ!」
サヤカの制止も聞かず、単純なコマンドウはゼロ距離射程(照準無し)で肩に乗せたランチャーを発射した。
オレンジ色の炎が彼の肩先で輝いた瞬間、定吉はタワーから外れて海に飛び込んだ。
四発のロケットは、そのまま水平に飛んでクレーン・タワーの基部に吸い込まれて行く。
ドッカーン!
大爆発とともにタワーが傾き、コンテナを吊《つ》るワイヤーが千切れて、大型の金属ケースが二人の頭上に落下した。
「うわあっ」
ズシーン。
サヤカとコマンドウ、それに彼の乗っていた十二トン・トラックの運転席は、金づちで叩《たた》いた干菓子のように粉々に押しつぶされてしまった。
数秒後、無傷だったコンテナの中から巨大な金色の物体が転がり出た。
ヒョウタン型をしたその固りは、ゴロゴロと埠頭《ふとう》を転げて、ドボン、と灰色の海に落ちる。 やがて、水中から手が伸びて、ヒョウタンの口を掴《つか》んだ。
「あー、驚いたあ。ビックリしすぎてくっさい水ぎょうさん飲んでもうたがな」
ザバリ、と定吉の頭が現われた。
「あいつら、ここからフェリーでヒョウタン持ち出そうとしたらしいが、アホな奴らやで」
見上げれば埠頭は黒煙と炎に包まれている。
「それにしても……」
定吉は濁った海面に映るオレンジ色の炎を見つめて、そっとつぶやいた。
「この色、大阪城の神助が見たら何というやろか」
聞かなくともわかっている。彼ならきっとこう言うはずだ。
悲しい色や……と。
秀吉の黄金 しまい
一九八八・八・八
掛け取りの二「真昼の温泉」
雨千代《あめちよ》が、その乗客の存在に気がついたのは、列車が城《き》の崎《さき》を過ぎて、温泉目当ての客が大部分降り、車内がガラ空《す》きになってからだった。
斜め向いの席でその人物は、駅弁の容器に顔を押しつけ、ものすごい勢いで飯を掻《か》きこんでいた。
なんてすごい食欲……。
雨千代は、男の箸《はし》の動き、飯の合い間あいまにテンポ良く注ぎ込まれるお茶の流れ具合に目を丸くした。
よほどお腹《なか》が空いていたのね。
雨千代は、男の広げている駅弁の包装紙に描かれている松茸《まつたけ》のイラストを見た。
ああ、この人も。
と彼女は思った。
京都からではなく、神戸・大阪方面から来たのだわ。
季節物の代表選手まつたけ弁当≠ヘ、山陰本線沿線では園部《そのべ》のものが最も有名なのだが、男の食べているのは三田《さんだ》駅「なにわ」の松茸めしだった。
つまり彼は武庫川《むこがわ》を渡り、福知山《ふくちやま》線から乗り換えてきた客なのである。
きっと食べ道楽なのね。
雨千代は頬笑《ほおえ》んだ。けっして「食通」という手垢《てあか》にまみれた、品の無い言葉を冠されない人種であることは見ている彼女にもわかった。この沿線数ある駅弁の中から三田の松茸めしをチョイスする眼力もさることながら、その迫力ある食べ方の中にも一種気品のようなものが漂《ただよ》っていた。箸《はし》の運び、口に放り込まれる茶飯やお添えの奈良漬《ならづけ》が、その動きの激しさにもかかわらず歯の間で小さなモシャモシャという音しか立てないのである。
ちゃんとした食事の教育を受けている人間、たとえば食そのものを修行にとり入れる禅宗の僧侶《そうりよ》、老舗《しにせ》の料亭で働く料理人、行儀作法を教授する家系の跡取り、といった人々に多く見受けられる食べ方だった。
雨千代は仕事柄、物の食べ方でその職種を推理することができる。
板前さんの見習いかしら?
彼女は男の姿からそう判断した。唐桟《とうざん》のお仕着せに紺の帯、髪を思いっきり短く刈り上げて足元は俗に言う「冷めし草履《ぞうり》」というのを履《は》いている。上から下まで一分の隙《すき》もない和風の下働きルックだった。
でも……変ね。板前さんなら下駄のはずなのに?
たしかにそうだった。料理人は夏冬関係なく下駄を、それも歯の高い奴を必ず履く。調理場の三和土《たたき》が常時|濡《ぬ》れているためにそれを使うわけなのだが、この男は足の指先へさも履き慣れた風に草履の鼻緒を引っかけ、子供のようにブラつかせていた。
雨千代が首をひねりかけた時、男が顔を上げた。
キリッとした眉《まゆ》、通った鼻筋。昔の東映時代劇に出てくるイイモンの脇役《わきやく》みたいな美男子である。その顔が彼女と正面から向き合った途端デレリと崩れ、眉と目尻《めじり》が八の字に垂れ下った。
雨千代は男の愛敬溢《あいきようあふ》れる笑顔を見た瞬間、ドキリ、として胸を押さえた。
首筋が熱くなるのが自分でもわかった。
なに? この気持ち……。
雨千代は自分自身でもよくわからぬ感情の動きに狼狽《ろうばい》した。
以心伝心という奴だろうか。その男もポッと顔を赤らめると、彼女から目を逸《そ》らせ大あわてで弁当を片付け始めた。
おかしなヒト。
雨千代もこみあげてくる笑いを押さえながら車窓に視線を移した。
列車は竹野のあたりにさしかかっている。あと数分で山陰海岸国立公園に指定されている暗く淋《さび》しい日本海に出会えるはずであった。
雨千代、という名は芸者名である。半玉《はんぎよく》から一人前になる時、ちょうど秋霖《しゆうりん》の季節だったので名付親がこうきめたのだ。
生まれは三重県の伊勢|小俣《おばた》。伊勢湾台風以来という大嵐《おおあらし》が御座岬《ござみさき》を襲った日、屋根を、半分吹き飛ばされた実家の台所で彼女は取り上げられた。これがいけなかったのだろう。幼少の頃より彼女は「雨女」になってしまった。小学校の入学式、遠足、運動会は彼女が出席すると必ず雨。中学の修学旅行は台風で中止になった。高校の時、好きな男ができて初めて近鉄の特急に二人乗り、名古屋の町でデートをしたが、帰途に木曾川《きそがわ》が大水で決壊し、その晩最初の外泊をした。
高校を終えて遠縁の置屋を頼り、金沢で芸者となっても雨女のジンクスは付いてまわった。彼女が侍《はべ》ると必ず酒席の坪庭《つぼにわ》にシトシトと雨が降り始め、帳場では帰り客のハイヤー手配で天手古舞《てんてこまい》。時おり御常連が外で食事に誘ってくれてもいつも途中でずぶ濡れになってしまう。朋輩は着物が濡れるのを嫌って踊りの稽古場《けいこば》には彼女を先に行かせ、出入りの料亭は「雨千代」の名を聞くと前の日から雨具を多めに出しておく、という騒ぎ。
「弁当忘れても傘忘れるな」と言い習わす加賀の人々も彼女の雨運には皆閉口し、これも名前が悪いから、と誰もが強く改名を勧めた。
しかし雨千代は頑《かたく》なにそれを拒み続けた。
大粒の雹《ひよう》や雪ダルマが降ってくるのなら問題だが、雨なら我慢できぬこともない。なによりも自分はこの名前が気に入っている。というのが彼女の言葉だった。
人々は雨千代の頑固な運命論者ぶりに呆《あき》れ果てた。が、そこは数百年の歴史を誇る金沢の町、懐《ふところ》が深い。おもしろい奴、と噂《うわさ》が立ってヘソ曲りの老舗《しにせ》旦那衆から結構お声もかかる身分になったのである。
雨千代は座席の背もたれに肩を押しつけ、ホーッと溜息《ためいき》をついた。
「あーあ、あの頃は大変だった」
小さなトンネルを抜けると、窓の外は鉛色の日本海だった。
案の定、小雨が降っている。雨千代は窓に当る水滴を、いとおしむかのようにそっとガラスの裏側から指先でなぞった。明るい瀬戸内から丹波《たんば》を越え、この暗い空の下に戻ってくると、やっと家に帰ったのだ、という実感が湧《わ》く彼女であった。
待ってて下さいね、シーさん。
雨千代は、網棚に乗った大きな荷物へ視線を移した。
カラフルな防水シートに包まれた紙製の衣装ケース。その中には彼女のささやかな夢と、これから彼女の生涯の伴侶《はんりよ》となる男性の愛が詰まっているのである。
雨千代がデパートのマークが入ったその包みを満足そうに見上げた時、列車は竹野の駅に到着した。
斜め向いの席に坐《すわ》っていた例の妙な男が、いつの間にか姿を消している。
「あら、どこに?」
行ったのかしら、と見まわす彼女の眼に、ひょろ長い背中を不器用そうに丸め駅舎の改札口を潜《くぐ》る男の後姿《うしろすがた》が映った。
なんだ、あの人は今庄《いまじよう》温泉に行くんじゃなかったのね。
彼女は少しがっかりした。なぜがっかりしたのかよくわからない。
やがて列車は、発車のベルも鳴らない駅舎をのんびりと発進した。
旅先でそば屋のカツ丼《どん》ばかり食べる人間がいる。
軽食店のカツ丼なら味覚オンチの地域でも味はたいして違いはないし、よほどの贅沢《ぜいたく》を言わないかぎり出した金に見合うだけのボリューム感が得られる、というのである。
しかし、定吉は、そんなアバウトな奴をいつも心の中で軽蔑《けいべつ》し続けていた。
手近なところに気のきいた店が見つからなければ空腹を抱えて我慢すればよい。その土地のうまいものを出す店を発見した時、初めて満腹感を得ればいいのだ。それが真の「旅する男」の姿ではないか、とさえ思っている。
その彼が今日はどうしたわけか駅前バス停横のうらぶれたそば屋の前に立っていた。
「ここやな」
薄汚れたノレンをかき分けた彼は、ガランとした店の中に頭を突っこむ。
客の姿はない。
「ごめんやっしゃ」
ズカズカと入りこみ、安っぽいビニール張りの椅子《いす》を引いた。
「いらっしゃい」
気の抜けた声があがり、奥から水の入ったコップ片手にエプロン姿のおばはんが顔を出した。
「何にしましょ?」
「カツ丼」定吉も気の抜けた声で答える。
「うちは上、中、並、並の上、並の中、並の並、並の並の上、並の並の中、並の並の並とありますけど」
おばはんはデコラ張りのテーブルに、ビール会社のマークが入ったコップをデンと置いた。
「ええっと、そやなあ……」
定吉は古ぼけたテレビの隣で埃《ほこり》を被《かぶ》っている大きな福助人形を見上げ、ペロリ、と唇を舐《な》めた。
「わては丁稚《でつち》の身分やさかい贅沢はでけん。並の並の並カツ丼にしてもらいまひょか」
その言葉を聞いたおばはんの顔がサッと強張《こわば》った。
「ちょ、ちょっと、待って下さいね」
おばはんは大股《おおまた》で入口の方に歩み寄ると、軒に本日休業≠フ札を下げ、ガラス戸に鍵《かぎ》をかけ、汚れたカーテンを引いた。
「おとうちゃん、ちょっと来てえ」
カウンターの奥に声をかける。
「なにやねん?」
調理場から大柄な中年男が血だらけの包丁を片手に現われた。定吉は反射的に懐《ふところ》へ手を入れ、中腰になる。
「あっ、これは」
男はテカテカと輝く頭へ巻いた手拭《てぬぐ》いを急いで外し、
「さ、定吉はんでんな?」
深々と頭を下げた。
「兵庫|但馬《たじま》地区担当の幾松《いくまつ》三百二十一番でおます。こっちゃは女房の……」
「ひろ子二十一番ですう」
おばはんも、含羞《はにか》みながら名前を告げる。
「こないなむさいところへようこそおこし」
「その包丁……?」
ああ、これでっか? と幾松はあわてて手拭いで血をぬぐった。
「裏でサバ捌《さば》いてましてん。おどかしてすんまへん」
「さよか」
定吉はホッとして坐《すわ》りなおした。
「で、テキの動きは?」
「へえ、それが」
幾松は定吉の向いに坐って顔を近付け、
「裏切りモンのデバ七、三日前たしかにここを通りました。店の前からバスに乗ったンをこいつが……」
と、ひろ子二十一番を指した。
「……見ましてん」
「たしかにこの目で見ました。会所の手配書通りの顔でしたから、間違いないです」
ひろ子は首を振った。
「デバ七は一人で?」
「はい、こんなおっきい……」
おばはんは宙に両手を広げてみせる。
「……段ボール箱を重そうに抱えて……」
「箱?」
定吉は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「で、そのバスはどっち方向へ?」
「ここから出るバスといったら行く先は一つしかありませんよ」
大阪スパイの妻は、カウンターの中から地図を取り出した。
「山陰線に沿って西に十キロほど入って、矢田川にぶつかり、そのまま上流に五キロほど入るコースです。終点は今庄いう温泉地」
「温泉、か」
定吉は国土地理院の白っぽい地図をのぞきこんだ。
「ほとぼりがさめるまで、山奥の旅館にでも隠れる算段かいな」
「温泉行くなら、バスは遠まわりです」
幾松は魚のうろこがついた指で鉄道の路線を指した。
「香住《かすみ》駅からJR但馬《たじま》川島《かわしま》線いう単線が伸びてます。これ使えば今庄温泉まで三十分で行けま」
「電車か」
「デバ七の奴、このバス路線の途中で何か用事作ってんのと違《ち》ゃいまっしゃろか?」
定吉は舌打ちし、顎《あご》をポリポリと掻《か》いた。
「だとすると難儀やなあ」
「バス停をひとつひとつ当らななりまへんな」
困ったことになった、と定吉は思った。
彼が現在やっきになって捕捉《ほそく》しようとしている人物は、元大阪商工会議所秘密会所の神戸支局員である。
「定吉はん、そのデバ七いう奴」
幾松は手にした手拭《てぬぐ》いで目の前のテーブルに付着した油染みを拭った。
「手配書に罪状が出てへんかったけど、一体何やりくさったんでっか?」
「会所本部の恥や、口外でけん」
「話しとくれやす、わてらかて二つ名を拝領してる非合法|丁稚《でつち》の端くれや」
洩《も》らさしまへん、と彼は頭《かぶり》を振った。
「そやな」
定吉は店の亭主と女房の顔を交互に見返し、しばらく口ごもっていたが、やがて、
「あんさんたち、大阪伏見町四丁目芝川ビル隣のほっこり屋£mってるか?」
「へえ、船場《せんば》に昔っからあるレンガ造り二階建の」
「そうや」
定吉はうなずいた。ほっこり≠ニいうのは大阪でいう焼芋《やきいも》の異称である。珍書『守貞漫稿《もりさだまんこう》』にも「京坂《けいはん》にては、蒸して売る店僅《わず》かに四、五戸あり。又|荷《にな》いて巡り売るあり。所荷《になうところ》甘酒売《あまざけうり》の筥《はこ》に似て、行燈《あんどん》無きなり。売詞《うりことば》にほっこり、ほっこり≠ニ云う意は、温の貌《ぼう》なり」と出ている。元々は焼芋ではなく蒸し芋だったのがいつの間にか焼いたものだけを指す言葉になったらしい。つい近年までは、町々をこうした焼芋屋がリヤカー、大八車を引き、独特のかけ声で売り歩いた。「やあ――、ほっこり、ほっこり、ぬくいのあがらんけー、ほっこりじゃあ」、というのが彼らの常套《じようとう》句で、今のイモ屋が軽四輪でマイクでがなるのとはまるで情緒が違う。
「あの伏見町のほっこり屋≠ヘ歴史が古うてな。幕末の頃、立ち売りの小商《こあきな》いから身を起して小銭を溜《た》め、屋台引きのかたわら小間物屋を開いてついにはレンガ造りのビルを建てた」
焼芋屋にしては異常な立身だが、そのありようは徳川末期京大坂で活動した勤皇派浪士の間者あがりで、維新後、太政官《だじようかん》から引きたてられたのだろう、と定吉は唇を舐《な》めた。
「一種の政商、でんな」
「規模はえらいちんまいが、ま、そんなもんや。デバ七はそこの坊《ぼ》ンチでな」
ひろ子が怪訝《けげん》そうな顔を作った。
「老舗《しにせ》の坊ンぼん? それがなぜ御手配に」
「ようある奴ちゃ、欲に目ェくらんだ」
デバ七は学生の頃から父デバ六の意向で会所にまわされ、各種の非合法|丁稚《でつち》訓練を受けていたのだが、つい最近家に戻った。彼は若旦那《わかだんな》になった途端やる気を出し、ほっこり屋の経営規模拡大を思い立った。が、代々芋と小間物の商いでは身上はたかが知れている。先立つものが無い。
「そこにあの関東のド外道《げどう》どもが口かけて来た」
定吉はコップの水を二口に分けて飲んだ。
「ニューヨークのハドソン川沿いにNATTO所有のファッション・ビルがある。そこのテナント権譲るかわりに言うこと聞け、て言うて来たそうや」
「今日びの若いモンはニューヨーク′セうたら手もなくコロリといきまっさかいに、な」
「デバ七は合点承知と会所に潜《もぐ》りこんでコンピューターにニセのデータを登録し、敵は間者を臨時雇いの丁稚として会所内部へ送り込むことに成功した」
「昨年の『五十嵐《いがらし》さやか潜入事件』でんな」
「あの時は万田金子はんの才覚で何とか切り抜けたが、デバ七の内通を調べあげるのにそれから半年かかった。なにせテキは老舗の坊ンやさかい」
「だけど、NATTOも豪気ですねえ」
ひろ子は定吉のコップに冷たい水を注ぎ足した。
「外国の不動産をエサにするなんて」
「なに、そんなン空手形やがな」
NATTOに高飛びの費用提供を申しこんで断わられたデバ七は、店を叩《たた》き売り、天王寺《てんのうじ》のフィリピン・パブに勤める馴染《なじ》みのモロ族ホステスとバシラン島に逃亡した。出《で》が乳母《おんば》日傘《ひがさ》の坊ンチ育ち、金に困れば国内に舞い戻って来るだろうと会所側では予想をたてていたのだが案にたがわず今年の夏、ニセのパスポートで伊丹から帰国、神戸三の宮の筋モン宅に転り込んでいるのがわかった。ヤクザ者の家からデバ七を燻《いぶ》り出したのは定吉である。彼は本部の指令でデバ七をわざと泳がし、NATTOの連絡員と接触する現場を押さえようと企《たくら》んだ。ところが……。
「あガキ意外に身ィ軽いよって、ちょいと眼ェ離した隙《すき》にドロンや」
定吉は頭をポリポリと掻《か》いた。
「坊ンぼんとは言え非合法丁稚の心得がありますさかいに、なあ」
幾松は相槌《あいづち》をうった。
「昨日、やっと奴が山陰線に乗ったという情報が入った。今のところNATTOのアジトに逃げこんだ様子はないが、その荷物の段ボール箱いうのンが少々気になるなあ」
「何ぞ悪い話でも?」
「デバ七が丁稚基礎訓練の時、いつもいい点数をとっていた科目が一つあって、な」
「何だす?」
「爆発物教程=v
「……………」
一膳《いちぜん》飯屋の夫婦は顔を見合わせた。
「まさかとは思うけど、奴がもしそないなモン持ち歩いてる、となったらこら大事《おおごと》や。追う方も気ィ締めてかからならん」
殺人丁稚は煤《すす》けた福助人形を鋭い眼差《まなざ》しで見上げ、大きく息を吐いた。
「ほっこり屋デバ七」こと伊勢戸の芋七《いもしち》は、その頃山陰の草深い山道を一人歩いていた。着ている背広は水気を吸ってズッシリと重く、ズボンの裾《すそ》は野棘《のいばら》や倒木の小枝で無数の切り裂きができている。彼はこの姿で一昼夜山の中を歩きまわっていたのである。
くそっ、重い。
彼は肩にかけた振り分け荷物を何度も揺《ゆす》りあげた。
そろそろ見えてくるな。
デバ七は、そのニックネームの元である大きな前歯を剥《む》き出し、泥濘《でいねい》の坂道を這《は》うようにして昇った。
両脇《りようわき》の谷間はあちこちに散り腐《く》ちた広葉樹の葉が盛り上り、巨大な茶色のクッションが出来上っている。それを横目に見て木立の間を行くと急に視界が開け、頂上に出た。
ここやな。
デバ七は担《にな》っていた段ボールの箱を降し、汚れた袖口《そでぐち》で額の汗を拭《ふ》いた。
見晴らしの良い場所で、山道の途切れるあたりに大きな看板が立っている。
彼は熊笹《くまざさ》の茂みを踏み分けてそれに近付き、風雨にさらされて半分消えかけた板面の文字を読んだ。
「『史跡・但馬《たじま》錦城《にしきじよう》跡・兵庫県教育委員会』……か」
山城の跡なのである。よく見ると頂上の平たくなったあたりには、金属製のゴミ箱や食事用のテーブル、コンクリート製のベンチ等も幾つか置かれていた。
「こんな時期に登って来る酔狂モンは、どうやらワシ一人らしいな」
デバ七は自嘲《じちよう》気味にそう言うと、段ボールを置いた場所に戻り、箱にかけたビニール紐《ひも》を解いた。
中から現われたものは丹波《たんば》・立杭《たちくい》焼の壺《つぼ》である。彼は蓋《ふた》の代りに張り付けてある油紙とガムテープを破り、中に指を突っこんで小さなオペラ・グラスを掴《つか》み出した。
「さて、線路はどっちゃ」
展望台のベンチに歩いて行って、その上に足をかけた。
デバ七は目標を即座に発見した。高さ三十七メートル、長さ二百五十メートルの大きな鉄骨である。橋脚の中央部が赤と白に塗り別けられ、鉄道橋だ、ということがよほどのアホでないかぎり見別けられる仕組みになっていた。
「なんちゅう色に塗っとるねん。まるで遊園地のジェット・コースターやないかい」
デバ七は自然の美観を損ねているその造形物に悪態《あくたい》をつき、オペラ・グラスを眼に押し当てた。
「ふむ、ジェファーソン式の張り出し工法やな」
足元の谷に掛かる巨大な橋を、彼はまるで持ちこまれた車を値踏みする中古車ディーラーのような気楽さで点検する。
再び段ボール箱を置いた場所に戻ったデバ七は、箱の中から壺を二つ取り出し、両脇に抱えて谷間へ降り始めた。
熊笹《くまざさ》の生い茂ったハイキング・コースを十五分|程《ほど》歩くとやがて鉄道保線用の小道に出、さらに行くと谷川の流れに突き当った。頭上に巨大な鋼鉄のアーチが張り渡されている。
デバ七は足を滑らさぬように注意しつつ河を渡り、橋脚の基部に到達した。
「金属疲労も進んでる。こら楽な仕事や」
キット三本分、いや二本分で充分か。
ぶつぶつつぶやきながら壺の中に手を突っこみ、ハトロン紙に包まれた小さな固りを出して地面に並べる。
彼はその包みを破く。ピンク色と灰色の粘土みたいなものが顔を出した。
トリニトロ・トルエンとコンポジションC5。どちらも油脂を加えた可塑《かそ》性高性能爆薬である。
デバ七は二種の化学製品をゆっくりと捏《こ》ねまわし、大きな固りにすると再び壺《つぼ》の中に収めて、ポケットからシガレット・ケースを取り出した。蓋《ふた》を開くと中に長さ十センチほどの金属棒が並んでいる。彼はそれを丹念に点検し、二本抜いてそれぞれの壺の中に差し込んだ。
「さあ、どこに仕掛けたろ」
壺を抱いて灌木《かんぼく》の間に隠れているコンクリートの土台によじ昇り、一番太い鉄骨の間へそれを差し入れた。
あとは発火時間の設定……。
彼は背広の懐《ふところ》に入れてあったポケット版の時刻表を取り出す。本は山の湿気を吸って重く濡《ぬ》れそぼち、なかなか目的の部分を開くことができなかった。デバ七はイライラと指先でページを押し開き、「但馬川島線」の載《の》っているコーナーを見た。
「ひい、ふう、みい」
営業キロ数と駅の数、一日の便数を数え、
「ヘッ、何やこれ」
首をひねった。
「朝五往復、夕方に八往復だけやんか」
第三セクター方式のケチな地方路線。これなら派手に壊しても社会的影響は少ないだろう。
デバ七は頭上の鉄路に痩《や》せた顎《あご》を向け、一人納得すると、尻《しり》のポケットからフィリピン製のカード型FMラジオを抜いた。
「十三往復というと……一日二十六回やから、予定日まで五十二回」
イヤホーンのジャックから延びた剥《む》き出しの銅線コードを壺の金属棒に接続し、周波数目盛りを五十二の位置に合わせる。それが済むと、ビニールテープの端を口で解き、橋ゲタの鉄骨へラジオの本体を巻き付け、電源を入れた。その電源も乾電池ではなく、近くの保線用ジャックから巧みに取られている。
発光ダイオードの赤い光がポッ、と灯《とも》る。
「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ、や」
背広の裾《すそ》で手の泥を払ったデバ七は、爪先《つまさき》立ちでその場を離れ、足早に熊笹の中へ消えて行った。
幾松の駅前食堂で一泊し、種々の情報を検討した定吉は、早朝一番の城《き》の崎《さき》発|米子《よなご》行普通列車に乗った。
夜半まで降り続いた雨はすでにあがっていたが、空は相変らずの鉛色で、沿線の山並みはいまだ水煙の中にあった。
「ああ、辛気臭《しんきく》さあ」
定吉は列車の窓から見える陰鬱《いんうつ》な風景に眉間《みけん》を曇らせた。
気が滅入《めい》るのは天気のせいだけではなかった。かつては同じ釜《かま》の飯を食い、同じように小番頭はんから拳固《げんこ》を食らい、同じ掛け取りに走りまわった仲間をその手で倒さなければならない、という心理的圧力感がこの殺人|丁稚《でつち》の心を暗いものにしていた。
竹野から次の駅の佐津《さづ》まではわずか十分。駅を降りた定吉は、幾松の情報源である今庄温泉バスの発着所に一人の運転手を尋ねた。
目的の人物は、古ぼけた車庫の裏手にある乗員控え室で一人、テレビのニュースを見ながら朝食のサンドイッチを頬張《ほおば》っていた。この男も実は会所の「草」(諜者《ちようじや》)である。
「大阪の会所のモンでおます」
ハンチングを脱ぐ定吉に初老の運転手は黙って座布団《ざぶとん》を勧めた。すでに幾松から連絡が行っているらしく、彼は静かに立ち上るとテレビの上から折りたたんだ路線地図を取り出し、ついでテレビの音量を落した。
「わしの同僚で神鍋《かんなべ》(高原)まで遅便《おそびん》を走らせるのがおりまして、その男が」
このあたりで、と運転手は路線図の端を指した。
「たしかに降した、と言うてました」
「ここには何か変ったもんでも?」
「夏場はハイキング・コースになってます。近所に無住の寺が一つと城跡が二つ」
定吉は、運転手の左手小指の付け根に出来たハンドルのギヤー胼胝《だこ》と、それが指し示している「但馬錦城・オリエンテーリングが基点」の文字を睨《にら》み、うーむと唸《うな》った。
「途中、寝泊りできるようなところは?」
「雨露をしのぐ場所いうたら、ハイキング客用の東屋《あずまや》が山中に二、三軒。夏場は土産《みやげ》物屋・茶店の類《たぐい》もありますが」
今の季節どこの店も戸を立て、経営者は下の町に降りているという。
「その無住の寺に潜《もぐ》りこんでいるのかも知れんなあ」
「まず、それは無い思いまスわ」
定期バスの運転手は、顔の前で手を振った。
「無住とはいえ南北朝の頃から続く古刹《こさつ》やさかい、兵庫県の文化財保護課が香住《かすみ》の町まで警備センサー引いてますし、近所には電力会社の高圧線も通っていて、しょっちゅう保全作業員が境内を歩いてます。観光客はおらずとも、人目には結構つく場所で」
秘密会所の下請《したう》け工作員は、自分が食いかけていたサンドイッチの皿を取り上げ、
「どうぞ、おひとつ」
「あ、おおけに」
朝食がまだだったことを思い出した定吉は、三角形の玉子サンドにあわてて手をつけた。
「土地カンも無い、長期活動の用意もしていない人間が、どうしてこんな山の中へ?」
「一つ考えられることは」
ハムサンドをかじりながら運転手は、温泉のマークが付いた今庄の周辺を、マスタードの付いた手で押さえた。
「デバ七は逃げているのではなく、誰かの囮《おとり》になってワシらの眼ェ引きつけているいう筋書きでス」
「まさか、それは」
「矢田川沿いのエライ辺鄙《へんぴ》な場所に人手を大勢引きつけておいて、仲間が神戸あたりでひと騒ぎ起こす。デバ七の方はと言えば、あわや捕縛《ほばく》といった時分、中国山地のどっからかヘリなと飛ばして身柄をサルベージ。丹後《たんご》半島の沖合いでイカ釣り船か韓国《かんこく》の貨物船にドッキングしてあとはソウルかタイペイに」
「その線は無い、な」
定吉はにべもなく言った。
「NATTOはデバ七を見かぎった。デバ七かて一度煮え湯を飲まされた組織をよう信用せんやろ」
「すると、ただやみくもに山中を逃げまわっていると、でも?」
玉子サンドをくわえたまま定吉は再び唸《うな》った。そう言われてみれば、たしかにおかしい節《ふし》もある。無目的に逃げまわっているにしては、彼の行動パターンには迷いというものがまるで感じられないのだ。
「こら、わて一人の手ェでは余りそうやな。会所から定吉六番か八番でも呼ばなアカンかもしれん」
「ヘッ、定吉どんは知らされてへんのでっか?」
運転手は驚いた顔をした。
「何が?」
「何が、て、山の中にはもう会所の別手がぎょうさん入ってまっせ」
「ほんまか?」
「兵庫地区のカウンター・インテリジェンス(対内情報員)がずいぶんと大勢ここを通って行かはりました」
「知らんかった。幾松もその女房もそんな話してくれへんかったが……」
「二日前の朝のことでス。全員猟師やら営林署の工事人に化けてはって」
「どういうこっちゃ?」定吉は口を尖《とが》らせた。
バス会社の控え室で足ごしらえを整えた定吉は、「草」の運転する湯村温泉行の循環バスに乗ってデバ七の後を追った。
その日の彼の出で立ちは、唐桟《とうざん》の袷《あわせ》に、下は中国|青海《チンハイ》省毛織物公司製のラクダのつなぎ。筑前博多《ちくぜんはかた》の帯を貝の口にキュッと結び尻《しり》はしょり、山道でしゃらほどけせぬようにビニール縄《なわ》を帯の上から三まわり巻きつけて、さらにその上から予備の弁当箱(中身は、バナナ一本、チューブ入りのチョコレート、カバヤのキャラメル、腹痛止めに奈良吉野山藤井利三郎薬房の御存知「陀羅尼助《だらにすけ》」を一箱)を風呂敷《ふろしき》に包んで腰に挟《はさ》む。足元は、といえばバス発着所で借りうけたブカブカのゴム長靴、おまけに山道で滑らぬように靴先には荒縄まで巻いているといったとんでもないスタイルであった。
バスに乗り合わせた人々は皆その珍妙な服装に笑いをこらえていたが、彼はまるで気にしていない。
「但馬錦城跡です」
やがて目的地に着いた定吉は、バス料金と整理券を料金箱に放りこみ、
「ごくろうさんでしたな」
別にポチ袋を運転手の懐《ふところ》にねじ込んだ。
「気ィつけておくなはれ」
「ほなら、会所の方に連絡たのんますう」
定吉は、バス停の脇《わき》から伸びている坂道を、手にしたワンタッチ傘を杖《つえ》代りにゆっくりと昇り始めた。
この道は今でこそ平和なハイキング・コースだが、戦国の頃は、織田信長の一党が中国山地の毛利勢を攻めるために活用した軍用道路であったという。
攻め手の主力は羽柴筑前守、後の豊臣秀吉。後詰めは丹後の細川|幽斎《ゆうさい》・忠興《ただおき》親子である。当時、織田軍の敵地占領策は武将の請負《うけお》い制、つまり先に実力で領有したものがその土地を貰《もら》う仕組みになっていた。そのため鼻っ柱の強い細川忠興は、羽柴方にのみ但馬《たじま》を占有されてたまるものか、とこの一帯へ盛んに自軍の野伏《のぶせ》り・乱波《らつぱ》(ゲリラ)の部隊を送りこみ地侍の城を落していった。当然先口の羽柴勢はいい顔をしなかっただろうが、細川家は旧|足利《あしかが》将軍家に仕えた名門の一族で信長の受けもいい。我慢強い秀吉はこの地区だけを自分の軍管区から切り離して忠興の好き勝手にさせた。但馬錦城はこの時、細川勢の手で落城したのだ、という。
忠興は城攻めに奇策を用いた。
陰暦の一月五日、千秋万歳《せんしゆうまんざい》の日に、城下へ万歳師に化けた乱波を多数放ったのである。
もちろんこの日は祝いの日で、人々は甲冑《かつちゆう》を脱ぎ家々は華《はな》やいでいる。万歳ゲリラは錦城の重臣たちの屋敷を一軒ずつまわっては隙《すき》を見て主だった者を殺害し、ついで城中に入った。
やがて城主|矢田式部《やだしきぶ》は、この変化《へんげ》どもの企《たくら》みに気付いた。が、時すでに遅く、城の大手は占領され、屋形は火を吹き始めている。
「羽柴筑前、このうらみ忘れぬぞ」
言い残すなり式部は太刀を口に食わえて高櫓《たかやぐら》の上から飛び降り、自害したという。この男は汚い手で自分を攻めたのが秀吉と、最後まで思い込んでいたのだった。羽柴勢にとってはいいツラの皮だが、おかげでこのあたりの集落では今も摂津《せつつ》・山城《やましろ》方面から来る観光客にあまり良い顔をしないし、上方漫才のテレビも人気がない。
「あほらしい話やで」
定吉は佐津のバス発着所で貰った観光案内のパンフレットを読みながら坂を昇り続ける。
「こないな怪《け》ッ態《たい》な言い伝えばかり気にしてけつかるさかい、矢田・今庄の温泉は、湯村や城《き》の崎《さき》みたいに繁盛せえへんのや」
山のところどころは熊笹《くまざさ》の群生地で、ハイキング・コースはその脇を遠慮するように曲りくねっている。
「頂上まで二百メートル」
と書かれた看板が出ているあたりで彼はフッ、と一息ついた。
「ほう、あれは?」
渓谷と渓谷の境を切り裂くようにして大きな鉄橋がかかっている。
「今庄温泉行の単線やな」
高さ三十数メートルのアーチの上を、玩具《おもちや》のような二輛《にりよう》連結の列車が渡って行く。定吉は懐《ふところ》から手拭《てぬぐ》いを取り出して額の汗を拭った。
「いい眺めやなあ」
先にここを越えたカウンター・インテリジェンスの連中も、この美しい風景を見たのだろうか、と思いかけて彼は汗を拭う手を不意に止めた。
「妙やな?」
対内情報部の人間が大勢山狩りをしているのなら、なぜここまで来る間に一人も出会わないのだ。
「捜索の掟《おきて》として、山道の出入口、休息地点には必ず人数を伏せておくもんや。それが今までの道筋でその気配さえないやないか」
定吉は鉄橋を見つめてしばらく顎《あご》を掻《か》いていたが、急に熊笹の中へ飛び込み、谷間へ走り降りた。
山道の途中、足元にせせらぎがあれば人間はごく自然にそちらへ足を向ける。水を確保したい気持ちも出るだろうし、追われる者には水路を通って足跡を消したいという願望も起きる場所である。当然カウンター・インテリジェンスの一隊もそこへは降りているに違いない、と彼は思った。
渓流の岩場に立った定吉は、ハンチングのツバをグイと持ち上げた。
「うーむ」
鼻を蠢《うごめ》かせ、冷たい流れの中に人差し指を漬《つ》ける。
これは……。
指先に微《かす》かだが血の臭《にお》いが付着していた。
定吉は渓流の上に張り出した杉の枝にヒラリ、と飛び乗った。
こっちの方や。
ヒョイ、ヒョイと枝を飛び移るうち、臭いの強い場所に出た。水の流れが淀《よど》んでいる、岩魚《いわな》でも出そうな大岩の間。
水の中に釣り師の服装をした一人の男性が沈んでいた。
定吉は懐からヒモ付きの小さな三つ又|鉤《かぎ》をつかみ出し、水中の死体に引っかけて、淵《ふち》の外れまで持って行った。
見たことのある顔である。
「神戸商工会議所の内情員やな」
毎年やぶ入りの時に、神戸オリエンタル・ホテルで関西|丁稚《でつち》会議というのが開かれる。定吉はこの人物に一度言葉をかけられ、プレゼント用の日本|手拭《てぬぐ》いを交換し合った記憶があった。
「小口径のライフルで心の臓を一発か」
ポケットがいっぱい付いた釣り用のベストに穴が開いている。背中の穴は、ほんの指先|程《ほど》の大きさしかないが、正面に開いているそれは子供の握《にぎ》り拳《こぶし》ぐらいはあった。
「後《うしろ》からダムダム弾で一発か、えげつないことしよるで」
定吉は念仏を唱えつつ死体を岸辺に引き上げ、灌木《かんぼく》の中に隠した。手拭いの裂いたものを木の葉に結び、死体回収班の目印《めじるし》とする。
「まだ他に臭《にお》う」
流れを伝って三十メートル程行くと、岩場の陰に地下《じか》足袋《たび》がのぞいていた。
「!」
定吉は死体に走り寄った。
これはひどい……。
岩の窪《くぼ》みに大量の血が溜《たま》っている。営林署の伐採作業員に変装した男は、顔の右半分を失い、まるで「オペラ座の怪人」みたいな形相に変っていた。
「至近距離から散弾銃を食らいはったんやな」
こちらの方は、敵に少しでも抵抗しようと努力した形跡があった。
「全弾射ちつくしてる」
死体の傍《かたわ》らに転っている|H&K《ヘツケラー・ウント・コツク》・P7は、スライドをオープンにした位置で止まっている。
定吉はこの死体も岸辺の茂みに隠し、目印を吊《つ》り下げた。
「ここで射ち合いが、確かにあった。それなのに仲間の姿が他に見えへん」
まずいやんか。定吉は先程《さきほど》自分が歩いていた峠道と、平行に走る渓流をさらに溯《さかのぼ》った。
崖《がけ》を越え、イタチのごとく岩から岩へ走った彼の足が山の尾根近くでピタリ、と止まる。鉄錆《てつさび》のような血潮の臭いと、甘酸っぱい腐臭が木々の間に絡《から》みついていた。
「うっ」
定吉は思わず袖口《そでぐち》で口を押さえた。
枯れ葉の積もった窪地《くぼち》の中に人間が思いおもいの姿で倒れている。
釣り師、ハイカー、営林署員、電力会社の工事人、猟師といったスタイルの男たちは誰もが定吉の顔見知りだった。
「さっきの二人は、ここから辛《かろ》うじて逃げ出した連中やな」
窪地の周囲から複数の敵に釣瓶《つるべ》射ちを受けたらしく、死体の弾傷はすべて上半身に集中している。
「むごいもんや」
南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、と数度唱え、定吉は死体の山に忍び寄って懐《ふところ》を探《さぐ》った。
拳銃《けんじゆう》やホルスターはそのままになっているのだが、不思議なことに財布と地図がどの死体にも無い。
「くすねて行きくさったか」
非合法な得物を持った身元不明の死体を第三者が発見した場合、まず暴力団の抗争、と思うのが常である。地元の警察とマスコミが先に動き、会所の対応がそれだけ遅れて現場は混乱。その間に真犯人たちは悠々逃亡というわけだ。
わてが第一発見者で良かったな。
定吉は一人一人の頭を北に向け、一列に並べて両手を胸の上で組ませた。
「任務で死ぬるも丁稚《でつち》の定めや。此世《このよ》は常の栖《すみか》にあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなお……」
引導をわたしつつ死体に草を被《かぶ》せ終えると彼は急いでその場を離れた。
このことは一刻も早く本部に報告しなければならない。
「これでわかった。デバ七には手練《てだれ》の仲間がいっぱいついている」
定吉は猛スピードで今来た坂を下って行った。
大阪人は、いついかなる場合にもその場に相応《ふさわ》しい美しい言葉を用意していて、そのうちの半分はいつも正しい。正しいのは銭《ぜに》に関する言葉だ。
銭以外の話はおよそ現実の前ではおちょくりでしかない。
たとえば、こんな風だ。
「飢えた天王寺の立ちん坊を前にして大阪の大衆文学に何が出来るか?」
答は不毛でしかない。では、こういうのはどうだろう。
「漫才師のラッパが『天王寺の亀』を語る時、言語はいかなる意味を持つか?」
これも無駄な台詞《せりふ》だ。
それではこういうのはどうだろうか。
「大量虐殺を前にして殺人|丁稚《でつち》は何をすべきか?」
これなら答が出る。
会所に緊急の電話をかければよい。三度の呼び出し音の後にコンピューターの合成音が入り、チェックが済み次第無愛想な声が出て、状況に応じた指示を与えてくれる。
但馬《たじま》錦城《にしきじよう》跡で大量の死骸《しがい》を発見した定吉は、大あわてで山を下り、ちょうど下の道を通りかかった矢田町青果組合の小型トラックを停《と》めて佐津の町へ向った。
駅前のバス発着所で例の「草」のオッサンを捜し求めたが、折悪しく循環バスは、あと二時間は帰って来ないという。定吉はバス停の赤電話から竹野駅前の食堂を呼び出した。
「あ、松やんか? わてや定吉だす。もうかってるかあ? こっちはボチボチや」
彼はわざとノンビリとした口調で幾松に語りかけた。
「何ぞオモロイことないか、と思うとったらな。ナンバー|8《エイト》≠竅Bブツ持って、ちっとこっちゃの方へ遊びに来てみる気ィ無いか?」
「はあ、おもろいでんな。ほなら女房に内緒で寄せてもらいまっさ」
ナンバー8、というのは秘密会所のコードナンバーで「第三種緊急警報」を現わす。電話の向う側で答える幾松の声が少しうわずっていた。
ちなみに秘密会所の暗号規定では、
コードナンバー・7が敵の全面攻撃
コードナンバー・6が大阪証券取引所の取引き中止
コードナンバー・5がエイリアンの地球侵入
コードナンバー・4がやぶ入りの中止
コードナンバー・3がお給金の支払い停止
コードナンバー・2が第三次世界大戦の勃発《ぼつぱつ》
コードナンバー・1が御隠居さんの老衰死
と、いうことになっている。
定吉が三十分ほど駅前で待っていると、幾松が自動岡持ち機付のスーパー・カブで現われた。
「定吉どん、一体何事だす?」
「音声合成機持って来なはったか?」
「ヘッ」
幾松はゴム引きの岡持ち機械にぶら下った出雲《いずも》ソバの容器に目をやった。
「ほなら公衆電話行こか」
定吉は駅舎の花壇前にあるガラス張りの電話ボックスに入り、懐《ふところ》のカード入れを探《さぐ》った。
「あっ、これはアカン」
「どないしはりました?」
「こ、これは杉良太郎の中国公演記念テレホンカードや。もったいなくて使われへん。おっと、こっちは定吉七番のゲーム・ソフト化記念カードや。あっ、これもだめや。なんばグランド花月の落成御祝儀テレカ……」
「この大事な時に何ごちゃごちゃ言うてまんね」
「すまんが幾松どん、手持ちのカードあったら貸してくれへんか?」
「難儀な人やな」
幾松は渋々自分の、中国自動車道全線開通記念カード(未使用)と、出雲ソバの容器を差し出した。
「何や、定吉か? 緊急≠「うのんは何や?」
煩雑《はんざつ》な手続きを済ませるとすぐに小番頭|雁之助《がんのすけ》のダミ声が聞こえてきた。
「大変でんね」
定吉はソバの容器から伸びた通話用コードを受話器の口に押しつけ、手早く事態を説明した。この音声合成機を使えば、たとえ盗聴されていても互いの会話が第三者にはアヒルかペリカンが鳴いているようにしか聞こえないのである。
彼の状況説明に、流石《さすが》の雁之助も驚いたようだった。
「わかった。早速神戸の秘密会所に連絡とって死体の回収班をまわさせるワ」
「よろしゅうに」
「そやけど……、変やで。これ」
「何が、だす?」
「兵庫の秘密会所が何でデバ七を追うとるんやろ?」
雁之助は電話の向うで牛ガエルのような唸《うな》り声を出した。
「えっ? うちらの会所が捜索協力を依頼したんやないんでっか?」
「アホ、大阪うちの裏切りモンの制裁、何で他県の秘密会所に頼まなならんねん。そんなん恥になるだけやんか」
「そう……でんなあ」
定吉は後頭部の十円ハゲを掻《か》いた。
「デバ七をなぜ兵庫の連中が追うとるのか、御隠居はんの口からアチャラに問い合わせてもらう。定吉、お前は今までどおりの方法で独自に奴を追え」
雁之助はそう言うと、定吉の返事も聞かずガシャリと電話を切った。
「本部の方も不要領や。こらどうなっとんのやろ?」
定吉はカードと音声合成機を幾松に返しながら首をひねった。
「こうなれば、わしも店休んであんさんに協力します」
食堂の親父はハゲあがった頭を片手でツルリ、と撫《な》でた。
「一人より二人の方が情報を集めやすい。それにさっき横で聞いてたら、デバ七にはとんでもないド外道《げどう》の鉄砲射ちが大勢付いとるいう話やないですか。わてかて、幾松三百二十一番と呼ばれた男や、一緒に戦いまっせ」
「あかん」
定吉は顔の前で手を振った。
「これは並みの仕事やない。戦争や。あんたのような女房持ちにはまかすわけにはいかん。それより」
彼は駅舎の前に出ている「山陰国定公園内温泉地図」の前に幾松を手招きした。
「このあたりの温泉地について、一時間以内に情報を集めたい。やってくれまっか?」
「そら、お安い御用やけど……」
「敵の奴ら、少なくとも五人は居る。しかも、すでに犯罪を犯した。普通の犯罪感覚いうもんを持ってる奴なら自分たちが起した事件現場から一歩でも遠くへ逃げるのがセオリーや。しかし、神戸のカウンター・インテリジェンスもそうはさせじ、と海岸沿いと中国山地の北側一帯に網を張るやろ。犯人たちとしては山狩りを一番恐れる」
「すると?」
「人気《ひとけ》の多い場所に隠れるのんが一番や。見も知らずの赤の他人がぎょうさん入りこんでおかしくない場所といえば、観光地いうことになる」
「なるほど」
定吉は、山陰本線と播但《ばんたん》線に囲まれた神鍋《かんなべ》高原一帯の小さな温泉地を一つ一つ指で押さえていった。
「浜坂の近所、たとえば湯村とか、数キロ戻って城《き》の崎《さき》に行く、いうコースはどうやろか?」
「山道が険しすぎまっせ」
幾松は今庄温泉≠ニ書かれたイラスト・マップに目を向けた。
「自家用車もバスも使わんで山中を抜けるとなると、ここしかおまへんな」
「今庄なあ」
定吉は腕を組んだ。
今庄温泉行の電動車モハ一〇型がホームに到着すると、人々はのろのろと座席から立ち上り、枕木を流用して作った柵《さく》の間を通って改札口に向った。
定吉は袂《たもと》から今時珍らしくなった固いボール紙のキップを取り出し、その後に続く。ホームの向い側には、ボロボロになったウェスチングハウス製のED三〇型機関車が小雨に濡《ぬ》れながらうずくまっていた。おそらく、冬期にはこのオンボロ車輛《しやりよう》も除雪用に駆り出され、摩滅した線路の上を行ったり来たりするのだろう。
「はあ、こらホンマにひなびてるワ」
とても温泉地とは思えない風景である。
「ええなあ、こういうとこ」
まだマスコミの害毒、たとえば安易な企画しか出さない製作会社とか、売れないタレントが遊びがてらやって来て、町の観光課にいらざる夢を与えたりしていないのだろう。
情《なさけ》の里、但馬《たじま》今庄
という文字が駅員詰め所の上で踊っている。墨痕淋漓《ぼつこんりんり》、安っぽいケント紙にデカデカと書かれたそれは、どうやら筆自慢の駅長あたりがヒマにあかせて仕上げたものに違いない。
定吉はあたりをキョロキョロ見まわしながら柵《さく》を抜け、線路に渡された踏み板を渡った。
このあたりの駅舎でよく見かける、アクリルの高い風除けを巡らせた改札口で、紺色の帽子を被《かぶ》った小太りの男が小さく頭を下げた。
「湯治《とうじ》でっか?」
「はあ、少し腰痛めましてな。ここの湯がようきくと聞きましたさかい」
定吉は如才なく答えた。
「宿はおきまりで?」
駅員は定吉と同じ訛《なまり》で語りかけた。
「いやあ、着いてから決めよ思うてましたから」
「キップ売り場の横にパンフレットが置いてありまス。ま、ここには宿言うても五軒しかあらしまへんけどな」
わしのお勧めは、と男は笑った。
「鶴亀館《しようきかん》いうのンがよろしおま。ここではいっちゃん歴史が古うて、設備も上々や」
「おおけに」
定吉は男にキップを渡し、手にした風呂敷《ふろしき》を大きく振りながら外に出た。
時計を見ると午後の四時である。小雨はまだパラついていたが、西の空がほんのわずかだけ赤く染っていた。
夜には雨が止むな。
ハンチングのつばを引き下げた定吉は駅員に言われたとおり鶴亀館≠フパンフレットを手にして、ゆるやかな坂道を昇って行った。
その旅館の位置は方向オンチの彼にもすぐにわかった。一本道になっている坂の突き当りに大きな看板をかかげ、デン、と鎮座している。
「うむ、ここならサービスも良さそうやな」
旅慣れしている彼は、建物の造作を一目見ただけでその家の格式、従業員のマナーから夕餉《ゆうげ》に出される刺身の切り口まで推察することが出来る。
「浴衣《ゆかた》は白地に鶴と亀の紋様入り、どてらは茶色に黒の細縞《ほそじま》、三尺帯は紺地に白一本入り、風呂は大浴場二つ、新婚用の露天型三つ。夕食はカニづくし、朝飯は、やきのり、さわらの塩焼、小梅が三粒、おすましに三つ葉が二枚いうところかいな」
彼ぐらいになると、翌朝の椀物《わんもの》に何枚三つ葉が入るのかまでわかってしまうのである。恐るべき洞察力と言ってよい。
「デバ七は」
定吉は旅館の庭木の間から吹き上っている露天風呂の湯気を睨《にら》みながらつぶやいた。
「絶対にこのあたりへ来る」
ギュッと風呂敷包みを握りしめ、鶴亀館と書かれた看板の錆《さ》びたポールに手をついた。
「大事や」
小太りの駅員は、バス・ロータリーをいく定吉の後姿《うしろすがた》を見送った後、大急ぎで駅長室に飛び込んだ。
「どないした?」
駅長室の一番奥にある大きな机に裸足《はだし》の足を乗せ爪《つめ》を切っていた浅黒い男が、ドスのきいた声を出した。
「とんでもない奴が来おったで」
「県警の奴か?」
回転|椅子《いす》に坐《すわ》ってマンガを読んでいた若い男が、バネ仕掛けの人形みたいに上半身を起した。
「違《ち》ゃう」
「なら筋モンけえ?」
「もっと仕末《しまつ》が悪いワ」
「誰やねん、ハッキリ言わんかい」
浅黒い肌をテカテカに光らせた痩《や》せぎすの男は手にした爪切りを小太りの駅員に投げつけた。
「会所の奴や。昔、|尼ケ崎《あまがさき》駅前に立っとったとき何度も見たことがある」
有名な奴ちゃ、と彼はテーブルに両手をついた。
「定吉七番」
「何やてえ!?」
回転椅子の男はマンガ雑誌を手荒く閉じた。その拍子に、男の膝《ひざ》に置いてある黒っぽい棒のようなものがズリ下り、彼はあわててそれを持ち上げた。
「お前、気付かれなんだか?」
「わしゃ無名の元立ち番や。こっちゃが向うを知ってても、あっちがわいのこと知ってるわけないやろ」
「ちょっと静かにでけへんか?」
テーブルの下に腰を降して何やら作業をしていた小柄な男が怒鳴《どな》った。
「今、一番大事なとこやねんで」
「室井《むろい》はん、金庫いろてる場合やない」
駅員姿の男は床《ゆか》に手をついて作業中の男に顔を近付けた。
「あんたも知ってはるやろ、大阪商工会議所の秘密会所」
「ああ、シークレット・ミーティング・プレスいうアレか」
室井と呼ばれた小男は興味なさそうな顔で再び金庫のダイヤルを回し始めた。
「その会所一番の手練《てだれ》がさっき改札を通った」
「そやけど妙やな」
浅黒い痩《や》せっぽちが見るからに臭《にお》いそうなナイロン靴下を履《は》きながら首をひねった。
「そ奴、本当にわしらの動きに感付いて出て来たんやろか」
「あったり前田のクラッカー、でんがな。わしらのやった神戸の情報員殺しがバレたんでっせ」
「いや、わしはそう思わんな」
火の入っていないガス・ストーブの前で目の大きな男が顔を上げた。
「殺しがバレたんならもっとぎょうさん追っ手が来るはずや。近所の島根県警かて応援寄こすやろ」
しかし、と彼は目を剥《む》いた。
「こっちの無線にはまだ何も聞こえて来ん。だいいち、協力体制にあるとはいえ、神戸の事件になんで大阪の情報員がしゃしゃり出て来んならんねん」
「そら……デバ七の件、でんがな。そやから言うたんや。あんなフィリピン帰りのボケカス使うたら足がつく、て」
「あいつがおらんと、わしらも自由に動けんのや」
回転|椅子《いす》の男が頬《ほお》の傷を指で撫《な》でながら静かに言った。
「あいつの爆弾いじくりする力が今回はどうしても必要なんや」
「よっしゃ、わかった。永田」
浅黒い男が駅員を手招きした。
「お前、定吉にベッタリ張りついて見張っとけ。ヤツはお前の顔を知らんし好都合や。ただし、俺《おれ》が言うまで奴に手ェ出したらアカンで。もしかしたら、ほんまに温泉へ来ただけなのかも知れん」
「ヘッ」
駅員姿の男は制帽に指を当て、見事な敬礼をした。
「いらっしゃいませ」
の黄色い声とともに渋い和服姿の女が三つ指をついた。
ついで法被《はつぴ》を着た頭髪の薄い男が定吉の風呂敷《ふろしき》包みを受けとり、フロントに案内する。
「御予約は?」
「駅でこちらさんを紹介されましてん」
「あ、ああ左様で」
フロントの中に入った法被姿の男は、「駅」という言葉にビクリ、と肩を震わせた。
「お泊りは何日ほど」
「そやなあ」
定吉は天井に目を向けた。檜《ひのき》張りの豪華な厚板に、手描きの秋草が散りばめられた古風な天井である。
「三日|程《ほど》にさせてもらいまひょ、あ、そや予約無しで来たんやから宿泊費は前払いで」
「恐れ入ります」
フロントから大きなアクリル棒のついた鍵《かぎ》が出て来た。こういうところは和洋折中の宿である。宿帳に名前――もちろん偽名で住所も大阪北浜の、今は空地《あきち》になっている場所を書いた――を記入すると、最初に彼を迎え入れた仲居《なかい》が鍵を持って先導する。
「こちら新館の方でございます」
風呂敷包みを抱えた仲居は、大理石の床に敷きつめられたカーペットを越え、ロビー左手のアーチに入った。
「お、お風呂《ふろ》はいつ入ってもいいんでっか?」
定吉はわくわくして尋ねた。
「露天風呂は旧館に一つ、新館に二つ、地下大浴場は三号館に二か所。いつでもお入りいただけるようになっております」
仲居は妙な節まわしで説明し、これ以上はできない、といったお愛想笑いを作った。
部屋に入り仲居にポチ袋を渡して早々に下らせた彼は、部屋の中を観察した。
明るいモダンな洋室と十畳敷の和室、それに浴室と庭に面した廊下がついている。庭は階段状になっていて、向いは一段低く造られ、プライバシーを守るように小さな竹垣が立てられていた。
「冷蔵庫どこやろか?」
床の間の金庫といっしょに小さなそれが並んでいる。
開けると、酒類とともに定吉の大好きなオロナミン・ドリンクが山のように入っていた。
「わー、うれしいな。うれしいと十円ハゲが光るんですよ。あとで生玉子たのんでオロナミン・セーキ作ったろ」
レースのカーテンを引いて大きなガラス戸を開け、外の空気を入れた。
どこからかせせらぎの音が聞こえてくる。
「ええなあ、ここ」
これもデバ七を追っているおかげや。
定吉はホルスターから富士見西行を抜いて壁の絵を外し、ソファーの縫い目に刃を当て、あちこちいじりまわした。が、何の仕掛けもない。次に彼は電話の受話器をフロントにつながらないよう指でボタンを押さえながら、レシーバーの底板ネジを外した。
なんと、
底の板に小さなマイクが付着している。
「何や、これ」
直径三ミリ程の導線が電話の受口体《マウス・ポツト》に直結され、その先端には小型発信体が下っていた。
「古臭い手口やな」
彼は電話をそっと元の位置に直し、ソファーに足を乗せた。
定吉が湯から戻ると、廊下に女中が立っていた。
「何だす?」
足を止めて聞くと、
「お知り合いの方から御伝言です」
古手の仲居《なかい》はまるで熊本の民謡に出てくる「おてもやん」そっくりな赤い頬《ほお》を光らせた。
「口上聞きまひょ」
「桜の間まで御足労ねがわしゅう」
仲居は定吉をただの観光客とは思っていないらしかった。
殺人|丁稚《でつち》はちょっと気がかりになって、
「わてを誰やとお思いなさる」
と聞いてみた。仲居はプンプクリンに膨《ふく》れた下腹をゆすって、
「足袋《たび》の行商の人ですやろか」
「ヘヘッ、当り」
定吉は、この道中では宿帳に摂津《せつつ》池ノ宮の和服問屋手代兼落語家というとんでもない肩書きを使っている。
「それは?」
「ああこれ」
仲居は袖《そで》の上に乗せた包みをほどいた。
「そのお客さまがこなたさんにお持ちするようにって」
中身は大ぶりの丁稚羊羹《でつちようかん》が二本。
「なるほど」
これで読めた。相手はどうやら定吉のなにから何までお見通しらしい。
「御案内しますう」
「ちょっとまっとくなはれ」
定吉は部屋に戻ると、控えの間に置かれた化粧鏡の間に隠した包丁をホルスターごと取り出し、浴衣《ゆかた》の懐に収めた。
「行きまひょか」
丁稚羊羹を受け取り、手で重さを計ってみる。今庄温泉の「丁稚羊羹」が有名なことは定吉もよく知っていた。江戸時代、この地に流された松平菊千代こと松平少将信正が幽閉のつれづれに土地の菓子職人を相手に作ったのが今まで伝わっているのだという。
定吉は仲居に導かれて庭へ降りた。
呼び出しの相手は庭の反対側にあるすきや風の離れにいるという。
誰やろ。
大阪商工会議所の使いであるはずはない。それならば佐津の駅前で待機する幾松が伝えるはずだからだ。先程《さきほど》別れたばかりの人間が、わざわざ丁稚羊羹をひけらかせて驚かせるわけがなかった。
こら用心するにこしたことがないな。
庭の端まで行くと仲居は一礼した。ここからは一人で入れということなのだろう。
「おおきに。これでお仲間と茶でもすすっとくなはれ」
定吉は「おてもやん」に羊羹を一本渡し懐手《ふところで》のまま廊下に上りこんだ。
離れの縁側奥に誰か坐《すわ》っている。
「お待ち申しておりましたでごわります」
船場《せんば》言葉を使う。定吉と同じ唐桟《とうざん》のお仕着せを着用し、なぜかスーツ・ケースを抱えていた。
「丁稚やな」
「へい、左様《さい》で」
この顔に定吉は見覚えがあった。非合法丁稚ではない。合法的丁稚。つまり船場センター街横呉服問屋の新入社員である。
「どこのお人だす?」
「手前|主《あるじ》は三州屋|股平《またへい》だす」
なるほど、南船場の下着メーカーか。
「股平|旦那《だんな》は?」
「こちらへ」
スーツ・ケースを抱えてひょこひょこ歩く丁稚の姿を見て彼は、ははあ、こ奴入社二年目やな。と一人うなずいた。
船場の丁稚も最近は大卒ばかりである。四年間社会の公認遊び人としてプラプラした後に船場が安定していると聞いて大学の就職課から直《じか》で入ってくる。入社までは普通の会社――少し歴史が古く、営業成績はあまりかんばしくない、まあ言ってみればごろごろできる社会――のつもりで考えていたのが、入ってみると大違い。江戸時代とまるで変らぬ船場のお店《たな》制度にびっくりしてカルチャー・ショックを受け、二年目にしてどこか空気の抜けたような人物になる。
この丁稚もその口らしかった。
「定吉どんがおこしで」
「ごめんやっしゃ」
定吉はガラリと障子を開き、ズカズカと室内に入った。
「よう、定やん、もうかっとるかあ」
女性下着メーカーの社長三州屋股平は彼の顔を見るなりにこやかに笑いかけた。
「ぼちぼちでんな、股平社長の方は?」
「さっぱり、わややがな」
彼は口元についた黒いアンコを浴衣《ゆかた》の袖口《そでぐち》でぬぐった。たった今まで羊羹《ようかん》を盛大に頬《ほお》ばっていたらしい。
「いや、ロビーであんたの姿見てな。こらてっきり何ぞ会所の捕りモンでもあるんやないか思うて」
「いや、わては今回休みもろうて来てまんね」
股平は立ち上って上座を明けようとしたが、定吉はだまって手を振り、下座の方に腰を降した。
「いいんや、気にせんでも。わいかて会所の表に名の出てる中小企業の社長会メンバーやないか」
股平、しきりに定吉へ茶を勧める。
これが危いんや、このオッサンは。定吉は内心気をひきしめた。股平の口の軽さ、変り身の早さは船場でも評判である。秘密を隠しておけない性格、といえば聞えがいいが、本当は人の知らない秘密を第三者にしゃべって一人いい気持ちになるという、一昔前に流行《はや》った写真雑誌・スキャンダル週刊誌の編集者みたいなクズである。
定吉は遠い目をした。
「ほんまに休みだす。なんなら会所の御隠居さんに聞いてみとくなはれ」
「さよか」
股平は急にガックリと肩を落し、眼を細めた。
「定やんがそこまで水臭《みずくさ》いとは思わなんだ」
「困ったお人やなあ」
「裏仕事やないとすると、銭《ぜに》もうけの口か?」
「ま……まあ、そんなとこだす」
非合法活動と思われるより、そっちの方がなんぼかましや。定吉はわざと相手の推量が当ったような顔をした。
「なんや、そうか。ほなら端《はな》からなんでそう言わへんのや」
股平は目尻《めじり》で笑い、定吉の膝《ひざ》を小突いた。
「わいにも、ひと口、乗せてくれはらへんか。よほどのもうけ話と見たが、どや?」
「ん……まあ」
「まあ、まあ、ばかりでは話にならん。な、一口乗して」
「いや、わての口に乗らんでも社長さんの方が充分もうけてまっしゃろ」
「それがさっぱりこれや」
と股平は顔の前で手を振った。
「こんどの商談ツアーはえらいしけててな。丹波《たんば》、丹後《たんご》から但馬《たじま》まで観光バス仕立てて来たわりにはバイヤーのサイフのヒモがガッチガチや。プレゼント用に持って来た本場フランス製の前アキ・パンティ十枚セットもよう受け取らん。道中どこぞの洋品店で売りこみしよ思うてもこのあたりには水商売用の下着ルートは無し、や。このまま帰るとなると何や心細うてなあ」
「しかし、先程ここの離れについた階段で仲居《なかい》さんのおいどいらわれたとか」
「ケケケッ」
股平は怪《け》ッ態《たい》な笑い声をあげた。
「知ってまっせ」
これは定吉の当て推量だったが、股平は本当にそんなことをやったらしく顔を赤くした。
「あんた地獄耳やな」
「わても船場《せんば》の情報|丁稚《でつち》だすがな」
なかなか、と定吉は鼻をすすった。
「元気があまってるやないですか」
「これくらいせんでは力が保てへんわ」
股平はウインクした。
「このホテルの女中さん片っぱしから手ごめにして派手はで下着無理やり買うてもらわな旅行費が足りんようになってまう」
「むちゃしたらあきまへん」
「なに、わいがやるんやない」
ほれこ奴や、と股平は丁稚の方に顎《あご》をしゃくった。
「旦《だん》さん、アホなこと言わんとき。あんなおてもやん≠ンたいな山出しどうやってこますんでっか?」
「お前、あれ趣味やないんかあ?」
「あたりまえだす」
股平はのぼせ性らしく、額に浮いた脂汗《あぶらあせ》を手のひらでツルリとなで降すと、急に下卑《げび》た顔になった。
「まあ、ええ、それはわいがやるのがいいかもな。ところで定やん」
定吉の方に向きなおり、
「大阪へ帰ったらあんたんとこの御隠居はんに言わなならんことがあんね」
「何でおますか?」
「神戸の会所連中のことや」
「?」
「ここの温泉地へ勝手に工作員大勢送り込んどる」
ちっ、しまった。こ奴結構鼻がきくな、と定吉は唇を噛《か》んだ。
「何や定やん、もう知ってるんか」
「い、いや」
「ここだけの話やけどな。このホテルにはNATTOの工作員もおるねん」
「げっ」
「工作員言うても、その下っ走りで本物はホテルの外におるんや」
「外から操っとるんで?」
「町の、な」
「へえ」
交番におる、と股平は言った。
「ま、まさか」
「ほんまや、うちの音吉《おときち》どんが」
股平は自分の丁稚を指した。
「露天|風呂《ぶろ》入った帰り、たしかに警官姿の男と芸者姿の女が庭の隅で納豆弁当たべ合うとるの見たいうてる」
「それは……」
「見まちがいおへん。けったいな臭いする食い物やったからよう覚えてますう」
丁稚の音吉は大きくうなずいた。
「さよか、そらええ情報ありがとさんで」
では、と行きかける定吉を股平は手で制した。
「情報はタダやないで、定吉どん」
「へっ?」
「うちの新製品『前アキ・レース・パンティ』十枚買うてもらう」
「そんなん……」
「十枚六千円……と言いたいとこやけど、本日はお日がらもいいようやから二割引いて四千八百円」
しかたがない、と定吉は渋々サイフを腹巻きの下から抜いた。
「まいど、おおきに」
下着会社の社長は満面笑みを浮べてもみ手をした。
やがて仲居が、食事の用意が出来たことを告げに来た。
「今日はサービスでバンブー・ダンスがあります。食事のしたくはそちらでいたしましたので」
「フィリピンの踊り見ながらカニ料理が食えるんでっか」
「はい」
定吉はペロリ、と舌なめずりした。
「ああ、たんのしたなあ」
大宴会場でバンブー・ダンスを見てすっかりリラックスした定吉は、部屋に帰って腹を摩《さす》った。
たんの≠ニは「堪能」と書く。充分、満足の意味だ。単身で泊ったこの身が思いもかけず宴会場に招き入れられ、盛りだくさんの料理を供された上にフィリピン・ショーのおまけまでついた。
「やっぱり、旅行はシーズン・オフにかぎるで。客の絶対数が足りないさかい、あの手この手でサービスしよる」
控えの間にぶら下げた濡《ぬ》れタオルを手にして、さて、もう一度風呂にでも入ろうか、とそれを手にした刹那《せつな》、
「ん?」
パラリ、とタオルの裏から何かが落ちた。
「ああ、股平《またへい》社長から買うた女性用下着かい」
畳の上に広がった人工の電気クラゲを拾い上げ、定吉はいつものクセでそれを鼻先に持って行き、ふと顔を赤らめた。
ヘッ、こりゃまだ未使用品やないか。わてはいったい何考えてるんやろ。彼は自分で自分の頭を叩《たた》き、冷蔵庫の扉を開いた。
オロナミンCを一本抜いてキャップを開き、ゴクゴクと喉《のど》を鳴らして約一・二秒の早飲みをする。
「プハーッ、うまいな。風呂あがりは何といってもこれやね」
酒類のまるでダメな彼は、その茶色い小瓶を眺めて目を細めた。
そのまま座椅子《ざいす》に腰を落し、壁の絵に目を向ける。今庄温泉の駅前を描いたヘタクソな油絵。おおかたこの家の主人か、宿泊したシロウト画家の手になるものだろう。
絵を見つめるうち、定吉は急にあることを考えた。
「そうや、さっき股平社長……」
なんや怪《け》ッ態《たい》なこと言うとったな。
「このホテルにはNATTOの工作員がおって、外のオマワリとつるんでる……とか」
あほくさい話や、と定吉は思った。なんでNATTOがこないな辺鄙《へんぴ》なところで活動せんならんねん。奴らは東国の、根っからの田舎《いなか》モンや。工作は大部分都市部のミーハーを対象に行われ、それによって組織の売り上げも伸ばす。売り物は主に「覚醒剤《シヤブ》入り納豆」とか「メスカリン入り納豆」で、こういう危険なものは、ネズミ算式に購買者が増していく人口密集地以外で売ればすぐに足がついてしまう。
「まったく、おかしな話ばかりやな」
定吉は座椅子の背もたれを思いっきり後に倒し、ストレッチ体操を開始した。
ちょうどその頃、「ほっこり屋のデバ七」が、播磨《はりま》から山中を抜けて香住《かすみ》に出る深夜トラック便へ便乗して今庄に到着した。
「ごめんやす」
今庄温泉駅のひなびた駅舎に上りこみ、駅員の一人に頭を下げた。
「よう来たな、首尾は?」
ガラの悪そうな男たちが一斉に彼の顔を見た。
「へっ、上々でおます。明後日がお楽しみで」
デバ七は山道で痛めた足を引きずりながら部屋の隅に歩いて行った。
「失敗するようなことはないやろな?」
「そら、もう大丈夫だす。会所仕込みの腕はダテやおまへん」
ドッカリと肘《ひじ》掛け椅子《いす》に腰を降した。
「その、会所のことなんやけどな」
若い男がデバ七に茶を勧めながら言った。
「実は、さっき一人この町に来おった」
「えっ!?」
デバ七は顔色を変えた。
「何人ぐらい?」
「たった一人や」
「さよ……か」
「たった一人やが……」
名前を聞いて驚くな、と肌の浅黒い男が駅長の帽子をもてあそびながら言った。
「定吉七番やで」
「うげげっ」
デバ七はデングリ返りをうち、小脇《こわき》に抱えた段ボール箱をもう少しで取り落しそうになる。
「わしを追うて来たんやろか?」
「さあ、その辺はようわからん」
「ちょい静かにしてくれんか。もう少しやねん」
床《ゆか》に坐りこんで金庫をいじくりまわしている男が目を血走らせて怒鳴《どな》った。
「室井、それ少し手ェ休めるわけいかんのか?」
若い男が床に唾《つば》を吐いた。
「いや、今やめるわけにいかん、あとチョットなんや」
「いいかげんにしとけよ。わしらの本来の任務は別にあるんやからな」
男はもう一度唾を吐くと、ソファーに坐《すわ》りなおし、テーブルの下から四角い鉄の固りを掴《つか》み出した。
「あのう……高田はん」
デバ七は不安そうに首を伸ばし、
「本当に、定吉でしたんか?」
鉄の固りを磨《みが》き始めた男に尋ねた。
「仲間の一人が顔を覚えとった。まず、間違いないやろ」
「ど、どないしょ、とうとう来おった、あの大阪一の手練《てだ》れが」
「心配すな。薄い頭がもっと薄《う》すうなるで。いざとなったらこいつに物を言わしたる」
男は磨いていた固りをデバ七の鼻先に突き出した。
「本場神戸の筋モンがイタリアから直輸入したベレッタM2・ショットガンや。いくら大阪一の丁稚《でつち》や言うたかて、得物《えもの》は包丁一本。|O・O《オー・オー》バックの一連射にはグーの音も出えへんやろが」
「あんさんは、あいつの恐さを知りまへんのや」
「デバ七」
若い男が頬《ほお》の傷を光らせながらケタケタと笑いかけた。
「お前、長いことフィリピン行ってて頭にウロ来たんと違《ち》ゃうか。定吉がもしお前を追うてたとしても、お前にわしらのような助《すけ》っ人《と》が付いてることはまるで知らんはずや。こっちは五人、いや明後日には六人になる。圧倒的に有利やないか」
「は……はあ、そらまあそうでっけど」
「とにかく心配なら明後日までこの駅舎から一歩も出んようにするこっちゃ」
ベレッタを磨《みが》き終えた男は、スライドに安全装置をかけ、ニッと唇をゆがめた。
「お客さん、どこ行かれるんですか?」
どてら姿で玄関を出ようとする定吉に仲居《なかい》が声をかけた。
「へえ、ちょっと散歩に」
「だったら傘お持ち下さい。外は結構降ってますよ」
「おおきに」
仲居はホテル・鶴亀館≠ニ書かれた黄色い番傘を差し出した。
「坂道すべりますからお気をつけて」
ほなら行って来ます、と頭を下げ定吉は宿の外に歩み出た。
駅までは一直線、坂の下に点々と水銀灯の列が並んでいる。そこが今庄温泉の駅で、ホームには玩具《おもちや》のような電車の頭ものぞいていた。
「ええっと、交番はどの辺やろか?」
傘の柄を持ちあげてあたりをうかがう。
駅前の花壇があるロータリーから続く小さな商店街の真ン中に赤い灯が輝いている。
「あそこか」
定吉は念のため懐《ふところ》に飲んだ包丁を点検し、どてらの裾《すそ》を尻《しり》はしょりした。
「本当にNATTOの外道《げどう》なら、仕末したろ」
彼は旅館の下駄をカラコロと鳴らし、坂を下って行った。
今庄温泉商店街と書かれたアクリル・ライトの道を曲り、駅のロータリーを越えて交番の前に出ると、「温泉|最中《もなか》、これはうまい」と書かれた看板の陰に隠れ、中の様子をうかがった。
「誰もおらんようやな」
交番の中は灯がついていたが、人の気配がない。
定吉は傘を収めてその場にしゃがみこみ、「止観《しかん》」をした。
「止観」というのは一種の千里眼術である。息を止め、身体の脈搏《みやくはく》数も低めて気を一点に集中し、見たいものの姿を脳裏に描く。すると本当にその像が息をし、動き出す。修業を積んだ山伏や高僧が使う術だが、定吉はこの心得を持っていた。と、いっても煩悩《ぼんのう》の徒大阪人の権化《ごんげ》である。あまり長時間は術を使えない。
「ぷはー」
数秒後、彼は湯当りした老人のように顔を紅潮させて息を吐いた。
「本当に中は猫の子一匹おらんわ。そやけど、隣の建物にはぎょうさん人が集ってるな」
交番の隣にあるモルタル二階建の家は、一階がストリップ小屋、二階がどうやら集会所のような造りになっているらしい。
定吉は二階へ昇る非常階段に目を向けた。
「今庄温泉三業組合、か」
商店街の寄り合いでもあるのだろう。もしかしたら交番の人間も顔を出しているのかも知れない。彼は足音を忍ばせて通りを渡り、その非常階段に足をかけた。
傘を畳み、濡《ぬ》れた軒先に腕をかけてのび上り、灯のともっている窓に身を乗り出した。
「ほう、ぎょうさんおるなあ」
集会所の中には五十人近くの男女が坐《すわ》っていた。あまりいっぱい入っているので誰もが膝《ひざ》を抱え、肩をくっつけ合っている。室内には異様な熱気があふれ、窓ガラスはその熱気で白く曇っていた。
「お祭りの相談でもしとるんやろか」
一人の男が立ち上って何か叫んでいる。しかし、その声は周囲の人々の声のためによく聞きとれなかった。
「しゃあない。屋根裏に入るか」
定吉は軒伝いに屋根へ昇り、瓦《かわら》の間を計って通気口の真下を手で探った。雨で濡れた瓦を数枚はぎ取ると、一枚だけ厚みが違う瓦が出てくる。これは山陰地方独特の造作で、昔は非常の場合ここから屋根を破って中に入ったりしたという。定吉は包丁を抜いて瓦の真ん中を切断し、根太《ねだ》を露出させた。
「昔の職人さんは粋《いき》なことしよるで」
板を外し、そろりそろりと身体を潜りこませる。
梁《はり》の上を歩いて節穴から光の漏れているところまで来ると下の方に耳を近付けた。
「私は断固として反対です!」
白髪《しらが》の男が声を荒げていた。
「今まで町の治安を守り、我々がのんびりと暮してこられたのは一体誰のおかげか、よっく考えて下さい」
「しかし、そんなことを言っても、ねえ」
脇《わき》に坐《すわ》っていた赤ら顔の男が口をすぼめた。
「この人一人のために町中の人が迷惑するというのも考えもんですよ」
そうじゃありませんか? と、男は背後を振り返った。
「だいいち、今度の件はこの人が神戸で起した事件が原因なんだ。町としては何の関係もない」
「その口ぶりは気に入らんな」
白髪の老人は目尻《めじり》を吊《つ》り上げた。
「それじゃあまるで上山巡査が凶悪犯みたいな口ぶりですぞ。彼は自分の信念によって正義の行動をし、その結果この町に飛ばされて来た。奴らが来たのは上山さんが呼んだわけではない。奴らが理不尽な逆うらみをしているんだ」
「どっちにしろ、迷惑なのは……」
赤ら顔の男はフン、と鼻を鳴らした。
「何や妙な具合やな」
定吉は天井の節穴から床の間の方を見た。警察官の格好をした無帽の男が座布団《ざぶとん》の上に正坐し、情無さそうにうつむいている。
ははあ、あれが股平社長はんの言うてはったNATTOのスパイか。定吉は合点した。
「そやけど、何で皆にタコ釣られとんのやろか?」
タコ釣る、とは大阪の地口《じぐち》で吊《つる》し上げを食う、という意味である。
人々は口角泡を飛ばしてののしりあい、ついに部屋のあちこちで掴《つか》み合いのケンカまで始まった。
「あのマッポが、このややこしさの原因らしい」
定吉は天井板から顔を離すと、再び梁《はり》を渡り、屋根に出て瓦の穴を元通りにする。
「ちっと、こっちの方も調べてみるか」
足音を忍ばせて非常階段を降りた。
宿に戻った定吉は、屋根裏の埃《ほこり》がついた衣服を脱ぎ、空き部屋に入り込んで新しい浴衣《ゆかた》を手に入れると、もう一度|風呂《ふろ》に入り、その汚れを落した。
濡《ぬ》れ手拭《てぬぐ》いをぶら下げ、廊下を歩いていると、庭を隔てた斜向《はすむか》いの部屋で三味の音が聞こえて来る。
「おや?」
開け放された座敷の真ん中で股平社長と丁稚《でつち》が芸者相手に酒を飲んでいた。
定吉はその芸者に見覚えがあった。
「あれは……この前、山陰線の車内で合《お》うたキレイな姐《ねえ》ちゃんやないか」
ちょうど廊下を通りかかった仲居《なかい》の袖《そで》を彼は掴《つか》んだ。
「すんまへん、あそこで酌《しやく》してはる芸者さん」
「ああ、雨千代《あめちよ》さんのこと?」
「雨千代はん、言いまんのか?」
仲居は小さく頬笑《ほおえ》んだ。
「きれいな人でしょう。もとは金沢の町で売れっ子だったんですよ」
「へえ、左様《さい》で」
「今はこの町で芸者さんたちの『おかあさん』もしてます」
置屋《おきや》の女主人を「おかあさん」と呼ぶ習慣は定吉も知っている。
ははあ、この女も股平の言っていたNATTOの間者《かんじや》やな。彼は手拭《てぬぐ》いを握りしめた。
「股平はんも食えんお人や。おもしろがって、わざとあんな女呼んではるんやな」
「仲居はん」と膳を捧《ささ》げて行きかける女に呼びかけた。
「あの雨千代いう人、この町のお巡さんと出来てはるいう噂《うわさ》でっけど、ホンマで?」
仲居の顔がサッと変った。
「お客さん、誰からそんなこと聞いたか知りませんけど」
丸顔の仲居は膨《ふく》らんだ片頬《かたほお》を吊《つ》り上げ、低い声を出した。
「ここではそれをあまり言わない方がいいですよ」
「どうして?」
「どうしてもです」
定吉は袂《たもと》に入れた小銭入れから札を掴み出し、素早く仲居の胸元に差し込んだ。
「あ、こんなことしてもらっても……」
「理由《わけ》教えとくなはれ」
「言えません。固く口止めされてますので」
彼女は泣きそうな顔をして、
「一つ忠告しておきます」
「何でっか?」
「あの社長サンにも言ったんですが」
「へえ?」
「この町を早く出た方がいいです」
「へ?」
「近々この町で恐ろしいことが起きます」
言葉の意外さに、定吉はポカン、と口を開けた。
「恐ろしいこと、て?」
「それ以上は勘弁して下さい」
仲居は早口でそう言うと膳を持ち上げ、小走りで廊下を出て行った。
「ケッタイな話やな」
定吉は首をかしげ、庭の向うを見た。唄《うた》が聞こえて来る。
何が因果《いんが》で貝殻漕《かいがらこ》ぎ習《な》らした
色は黒なる、身は細る
股平たちは雨千代の喉《のど》に合わせて手を打ち、盛んに「かわいやのー、かわいやのー」と間《あ》いの手を入れてはしゃいでいた。
「何ちゅう太平楽《たいへいらく》な」
定吉は急いで自室に戻り、鍵《かぎ》をかけて夜が更《ふ》けるのを待った。
子《ね》の刻《こく》過ぎ、黒の忍び装束に身を固めた定吉は、そっとホテルを抜け出す。
駅へ続く坂道を避けて民家の軒伝いに遠まわりし、商店街に入った。
「ふむ、集会所には泊りこみの人間も居らんようやな」
隣接する交番の灯も消え、通りには猫の子の歩く姿さえ見えない。が、どういうわけか道に人の気配がある。
「妙なこっちゃ」
定吉は、遮蔽物《しやへいぶつ》を利用して交番に近付き、裏手の便所から小窓を破って室内に忍び入った。
「ま、世の中広しといえども交番に不法侵入するアホはわてだけやろな」
汚れた茶碗《ちやわん》や皿が放り込まれた台所の流しを横目に見て、小さな階段を昇った。
オレンジ色のパイロット・ランプが灯る部屋で寝息が聞こえている。
襖《ふすま》の隙間《すきま》から窺《のぞ》くと、先程見た初老の警官が布団《ふとん》を被って休んでいた。
定吉はスルリと部屋に入り、懐の包丁を抜く。
「もし、さわいだらあきまへんで」
警官は薄眼を開けた。
「誰や?」
「あんさんに少々ものを尋ねたい者やがな」
「定吉七番……か、鶴亀館に泊っている」
定吉は男の首筋に当てている包丁の柄を、ギュッと握りしめた。
「布団の上から離れてくれへんけ」
重うてかなわん、と警官は平家蟹《へいけがに》のような顔をゆがませた。笑っているらしい。
「これが目に入らんのか」
定吉は包丁の刃を男の喉元《のどもと》で上下させた。
「それならおあいこや」
「ハッタリや」
「そうかな。布団剥《は》いで見い」
定吉は空いた手の方でゆっくりと布団の裾《すそ》をめくった。中から.38口径ニュー・ナンブ・リボルバーを握った手がゆっくりと現われる。
「どや、ハッタリやないやろ」
包丁を収めい、と彼は顎《あご》をしゃくった。
「おんべこちゃん(おあいこ)でいつまでいても、らちがあかん。話しあおやないか」
「そやな」
定吉は注意深くホルスターに包丁を戻し、男も枕《まくら》もとのガン・ベルトに拳銃《けんじゆう》を収めた。
「定吉どん」
警官は手さぐりで灰皿と煙草を布団の脇から探し出し、一本取って火をつけた。
「あんたのこの行為は、『器物損壊』、『住居侵入』及び『傷害未遂』やで」
「わては非合法丁稚やさかい、な。何でもやる。それより」
定吉は下唇をなめた。
「わての部屋に盗聴器を仕掛けはったあんさんの方も罪深いで。あれは『偽計業務妨害《ぎけいぎようむぼうがい》』を構成する」
「無学な丁稚にしては大変な言葉を知ってるやないけ」
「船場の丁稚は勉強を怠《おこ》たらんのや」
「へっ、威張《いば》ってくさるワ」
薄暗い部屋の中で、煙草の火ばかりが赤々と輝いている。
「お前《ま》はん一人をチェックしとったわけやない。あの大阪の下着屋も、その社員も……、この町に来る他所《よそ》モンは全員調べてた」
定吉は布団の脇に片膝《かたひざ》をついた。
「何で、や?」
「命が惜しい」
警官は布団の上に胡座《あぐら》をかいた。定吉は目を細めて彼の顔を上目使いに見上げていたが、やがて、
「そうか」
急に顔の筋肉をゆるめた。
「どこぞの筋《すじ》モンとでもトラブル起したな」
定吉の推理が当ったらしく相手は不快そうに下唇を突き出した。
「この関西ではスジモンとマッポのゴタゴタは日常茶飯事《にちじようさはんじ》や。おまはん、もしかするとサラ金か何かのゴタつきで神戸あたりのケッタイな組とひともんちゃくあるのと違《ち》ゃうか?」
「アホぬかせこれは正義の戦いや」
警官は低い声で言った。
「正義?」
「そや」
「ローン・レンジャーみたいなこと言う奴《やつ》ちゃな。わけ聞かせてくれへんか」
「言うたらこの部屋から出てってくれるか」
「場合によっては」
老警官の小さな眼がギョロリ、と光った。そのまま数秒間の沈黙が続いたが、
「定吉……いや定やんと呼ばせてもらお。あんさん……」
やがてゆっくりと口を開いた。
「数年前、兵庫県警|押塚《おしづか》署管内で発生した大規模なゲーム機汚職の話、知ってるな?」
「ああ、県警の刑事課長や係長まで絡んどったいうアレか」
定吉は小さく首を振った。
「ゲーム機汚職」というのは、今を去ること五年前、西神戸の住宅地を中心に起きた「ドボン」や「ファンタン」の自動|賭博《とばく》機械|摘発《てきはつ》事件に端を発している。当時、暴力団資金源根絶の一環として地下賭博場を捜査していた県警特捜部は、情報|洩《も》れで何度も大物を捕り逃がし、本部長自らの判断で神戸商工会議所の秘密会所員をスパイとして署内に送りこんだ。彼らの調査によって所轄署《しよかつしよ》内部の汚職が公《おおや》けになり、一時は関西系新聞の一面がこの記事ばかりで埋められていたのだが……。
「よう覚えてるで。サツの内部に巨大な内通者組織があり、かなり地位の高い連中まで暴力団から鼻薬嗅《か》がされとったいう話やったな」
「その時、わしは証人席に立って同僚たちを告発する役にまわったんや」
十五人、と彼は言った。
「十五人の人間がわしの証言でブチ込まれた。その他|懲戒免職《ちようかいめんしよく》やら戒告処分《かいこくしよぶん》やらいうのんを合わせたら百人近くになるやろか」
「NATTOの秘密結社員が、ようそこまで思いきったことやったもんやな」
定吉は腕を組んだ。
「NATTOでいることと、警察官としての矜持《きようじ》を持つことは両立する。わしは摂津明《せつつあ》ケ田尾山《だおやま》の西行者《にしぎようじや》村出身で、な。代々納豆を食べて暮している。そやから他の関西人みたいに納豆に偏見を持たへんし、親の代から納豆教の隠れ信者でいる」
摂津|豊能《とよの》郡|豊能町《とよのちよう》の西行者村一帯は、その昔|源義経《みなもとのよしつね》に味方した摂津源氏が多く隠れ住んだ地域で、古くから納豆を食べる風習を持つ村が多い。関西では異風な土地として民俗学者の研究対象にもなっている場所である。
「NATTOは悪の結社と言われてるが、それは一般関西人の眼ェで見るからや。わしらの方からすれば、きわめて当然の行動としか思えへん。しかし、国民からお給金もろうてる警察が筋モンの味方するのは道徳的に間違うとる。違《ち》ゃうか?」
「あ……? ああ、そうやな」
定吉は頭がちょっと混乱して来た。
「あんさんの言うことは何やよくわからんが、筋は通っとる」大きく坊主頭を振った。
「そう言うてくれると、わしはうれしいで。県警の奴らは、そうは言わんかった」
警官は、プハッ、と煙を空中に吹き上げた。
「わしは仲間を売った奴と言われ、検察官から場違いなキツイ訊問受け、署長から『おんどれが出すぎたマネさらすから自分まで訓告処分を受けた。いずれ暇を見て懲戒免職に持ってったるさかい覚悟せい』とののしられ、あげくの果て平巡査としてこんなド田舎に飛ばされた」
「この世で正義を行ういうのんは大変なことなんやねえ」
「依願《いがん》退職という考えもあったが、一生うだつのあがらん平巡査でいるのもまた一興と、この町に住み付くことになった。退職金もバカにならんし、な」
「この町に好きな人も出来たし」
警官は、ハッと顔をあげて殺人丁稚を睨《にら》みつけたが、すぐに肩をすくめ口元に頬笑《ほおえ》みを浮べた。
「知っとったンか。流石《さすが》やな」
「きれいなヒトでんな」
「あれは不幸なおなごや。わしが助《す》けてやらんと自殺しとるとこやった。悪どい男がついとってな。男いうのは、元わしの同僚や」
「そのゲーム機|賭博《とばく》に手ェ出してたデカでっか?」
警官は口を噤《つぐ》んだ。どうやらそこには第三者の入り込む余地の無い世界が広がっているらしい。
「誤解せんといてくれよ、定やん。わては女手に入れたいからいうてその相手をム所に送りこんだわけやないで」
「…………」
「わしと雨千代とは明日結婚するはずやった。互いに薹《とう》の立ったセコハンやけど、第二の人生、ひそひそと背を縮めて助け合うて行こ思うとったんや。それが……」
「どないしたん?」
「男がム所から出て来る。それもわしを殺しに出て来るいうことがわかったんや」
苦しそうに警官は白髪《しらが》頭《あたま》を振り、煙草をもみ消した。
「いつ」
「明日、や」
「何で応援呼ばへんのや」
「わしはマッポの裏切りモンや。近隣の警察は、わしの支援依頼を皆断わって来おった」
「ひどい話やな」
「そやけど、わしかてアホやないで」
警官は人差し指で自分の額を指した。
「自分でも手ェ打っといた。コネ使うて神戸の秘密会所に連絡入れたんや。大阪モンと違うて神戸の人間は国際感覚あるさかい心が広い。わしがNATTOの人間やいうこと知ってて心安う応援の人数出してくれたで。まあ、こんなことが他県の連中にバレたら兵庫県の恥になるいうこともあるけどな」
そうか! 定吉は心の中で叫んだ。あの但馬《たじま》錦城跡《にしきじようあと》で殺されたのはこの男のバックアップに向った連中だったのか。
「その神戸会所の人数いうのンは、もうここに到着してるんかいな?」
「人目避けるために山中を抜けて来るいう話やが、まだ来ていない。そやからこうして夜もハジキ構えてイラついとんじゃ」
この男は、まだ自分が孤立無援の状態にいることを気付いていない。
「ところで、あんたはなぜここへ?」
警官は鋭い眼差《まなざ》しに戻り、ニュー・ナンブの撃鉄《げきてつ》へ親指をかけた。
「まさかNATTOのわしを狙《ねろ》うて……」
「あほ、誰があんたのようなドサまわりの田舎駐在員狙いにわざわざ大阪から出張《でば》って来《こ》んならんねン。そやない。組織の裏切りモン追うとるんや」
「裏切りモン?」
彼は一瞬信じられン、といった表情で定吉の目を見つめていたが、やがてドッと笑った。
「ウハハ、これはおかしいわい。組織の裏切りモンのところに別の組織員が裏切りモン探しに来る、か」
「訪ね人を教えるのが田舎の駐在さんの、第一の勤めやろ」
定吉はニコリともせずそう言うと、不意に首を傾げ、窓の方に歩み寄った。
「やはり、そうや。路上に気配がある」
「わしも気付いてた。どうやらわしを逃がさんように見張っているらしい」
「いつ頃から?」
「二、三日前からやな」
定吉はしばらく考え込んでいたが、
「ずいぶんとお邪魔《じやま》さん」
ペコリ、と頭を下げると急いで階段を駆け降りた。
元|尼《あま》ヶ崎《さき》駅前交番勤務、今は神戸大丸竜王会客分の永田昭は、飲み終えたコーヒーの空き缶を足元に転がし、ハンドルの上で大きく伸びをした。
足元がひどく冷える。そろそろヒーターを入れなければならない季節に来たようだ。
「ああ、辛気臭《しんきくさ》いのう」
リアウインドの向うに見える商店街の水銀灯を眺め、ため息をついた。
「たかが相手はダボなマッポ一人や。なんでこないに大人数で囲まんならんねん」
ぶつぶつと独り言をつぶやきつつ、シートの隙間《すきま》から。.45口径のバルティクス(フィリピン製ガバメント)を抜き、スライドを引いて薬室の弾をたしかめる。
「いっそ、このまま乗り込んで行って奴のタマ殺《と》ったろかい」
パチン、とスライドを戻した刹那《せつな》、彼の全身から血の気が引いた。後部シートの方から含み笑いが湧《わ》き起ったのである。
「短気は損気だっせ」
「なにいっ?」
永田は思わず45口径の銃口を向けようとした。が、その頬《ほお》に冷たいものがペタリと張り付く。匕首《やつぱ》の二倍はあろうかという切先《きつさき》が彼の脂ぎった肌をなぶっていた。
「大声出したらあきまへん」
「だ、誰や?」
咄嗟《とつさ》にバックミラーを見上げた。ハンチングを目深《まぶ》かに被った顔と刃物だけがシートの間にのったりと漂っている。
「あんさん、出は尼《あま》ヶ崎《さき》やな」
「なんで知っとるネや」
永田の額からドッと冷や汗が吹き出した。
「車の停め方やがな」
男は笑いながら言った。
「道路の突き当りや曲り角に無理やり停車させるのは角停《かどど》め′セうて、な。尼ヶ崎と岸和田《きしわだ》の人間が好んでやるやり方や。他県の人間ならこんなこと絶対にやらんわい」
「おんどれ、こないなマネさらすと、後で出した唾《つば》飲まんならんようになるで。わいはこれでも大丸竜王会の……」
「そうか、昼間会った時、どっかで見たツラや思うとったら竜王組長ンとこの三下《さんした》かい」
「き、客分や。バカにすな!」
永田は拳銃《けんじゆう》のグリップをギュッと握った。
「ほう、さよか、そら失礼さん」
広刃の切先が首筋に降りて来た。
「その客分はんが、なぜドン臭い駐在サンを見張ってなさる?」
「そないなこと、おんどれふぜいに」
言えるかい! と叫び永田は拳銃の引き金を引こうとした。が、広い手のひらがガッキとスライドを押さえつけた。
「どや、引き金がピクリともせんやろ」
「く、くそったれ」
「ショート・リコイルのハジキは、な。銃口をこうやって押さえつけると発砲でけへんのや」
男はものすごい力で永田から拳銃を奪い取り、
「これはもらっとくで」
「くそっ、定吉七番」
元警官は歯噛《はが》みをした。
「ほう、わてを知っとンのやな」
「大《おお》けな顔でけるのも今のうちやで。明日になれば兄貴がやって来る。そ、そうなれば、おんどれのようなダボ……」
「大物が明日来はるんかい?」
「元兵庫県警の刑事部長。そこの田舎巡査の密告で五年間も臭《く》っさい飯食わされとった早坂元部長殿が復讐《ふくしゆう》のために御到着や。ひねりつぶされんうちに早よ山の中にでも逃げた方が身のためやで」
「口の減らん奴ちゃな。トウフ屋で油揚《あぶらげ》でも買うて食ろうたか?」
定吉は永田の首をチクリ、軽く刺した。
「しゃべりついでに教えてもらおか。元刑事部長殿は、あんさんの他に何人の助っ人を連れとるんや?」
「痛たた」
永田の喉仏《のどぼとけ》から一筋、血が流れ落ちた。
「わてもこんなことしとうはないんや。な、教えたって?」
「わかった、は、刃物離してくれ」
永田は車のハンドルを両手で叩《たた》いた。
「ひ、ひちにん……七人や」
「爺さんの巡査一人を相手に七人も、か。この人件費の高い折りに豪勢なもんやな」
「元部長殿の言うこと聞かんと、わしらも非度《ひど》い目ェにあわされる」
「そうか……」
定吉は前部シートの背もたれによりかかってしばらく考え込んでいたが、
「なあ、客分はん」
「なんやい」
「ちょっと右側のドアの方、向いてくれへんか?」
恐るおそる首を曲げた永田の右首筋に、先程の.45口径のスライドが振り降された。
「起きとくなはれ、股平社長」
浴衣《ゆかた》の前をはだけて寝《い》ぎたなく眠りこけていた大阪商人は、
「な、なんや、定吉どんか」
酒臭い息を吐きながら目を覚した。
「なんぞ、おましたんか?」
「一大事だす。この里で明日、騒乱《そうらん》が起きる」
「そ、騒乱て、日本海から某国軍でも上陸して来まんのか?」
「ま、それに近いもんだす。あんさんは会所のスポンサーや。先に無事逃がそ、思いましてな」
「そら、おおけに」
「何ぞおましたんか?」
隣の部屋から寝乱れた格好の丁稚《でつち》がスーツ・ケースを抱えて現われた。頬《ほお》にベタベタと大きな口紅の跡がついている。どうやらこ奴は、ついさっきまで温泉の安芸者でも抱いていたらしい。主人も主人なら、丁稚も丁稚やな。定吉は腹の中で舌打ちした。
「あんたらも使うたあの今庄駅や」
定吉は下着会社の丁稚に顎《あご》をしゃくった。
「わての見たところ、あのローカル線の駅は、ここ数日の間にヤクザモンの巣窟《そうくつ》になっとる。おそらく本物の駅員は全員殺されたに違いない」
「そんなアホな」
丁稚はスーツ・ケースを小脇に抱えたまま坐《すわ》りなおした。
「電車は毎日、ちゃんと動いとるやないですか」
「ローカル線の運転手、車掌の類もグルや。町の連中も知ってて黙ってるんやろな」
定吉はこの間の出来事を手短かに説明した。
「で、わたいらは、どないしたらええんや?」
股平は、会所丁稚の肩を掴《つか》んだ。
「早朝一番の電車で、急用ができたとか何とか言うてここを逃げなはれ」
「定吉どんは、どないする?」
「山陰線の沿線にいる大阪会所の秘密メンバーを集めます。今から連絡とっても間に合わんかも知れへんけど……」
「間に合わなんだら?」
丁稚がおずおずと尋ねた。
「身一つで戦わなならん」
「関西一帯の治安維持も、大阪会所の仕事や」
「定吉どんがそないな大胆な人とは知らなんだ。社長」
丁稚は股平の方に向きなおった。
「わても、定吉どんの側に付いて戦《たたか》お、思います」
「ドシロウトは引っこんどけ!」
定吉は彼を一喝《いつかつ》し、ペチン、と頭を張《は》った。
「こらでいすいず・まい・びじねす≠竅v
雨千代は蛇《じや》の目《め》の番傘《ばんがさ》を細目に差して商店街交番の裏手に歩いて行くと、あたりをそっと見まわし、戸をほたほたと叩《たた》いた。
「開けて下さい、しーさん」
四十ワットの灯がつき、戸が静かに開かれた。
「私です、中に入れて下さい」
「雨……いや、お千代さん」
戸の内側で男の低く押し殺した声があがった。
「今時分、どうして、こんな所に?」
「戸を開けて下さい」
「…………」
上山巡査はしばらく黙りこくっていたが、やがて戸を開いた。
台所の上り框《かまち》に立った二人は、薄暗い灯の下で強く抱き合った。
「しーさん」
雨千代は、先笄《さきこうがい》の形に結った日本髪を上山の厳《いか》つい肩に押しつけた。
「もうこんな騒ぎは嫌」
逃げましょう、と彼女は泣きそうな声を出した。
「鶴亀館の御主人が仕出し用に使う小型トラックを町の人に内緒で貸してくれるそうよ。夜のうちに村道へ出て蒲生《がもう》峠《とうげ》(兵庫と鳥取の県境)を越えましょう、ね」
「千代さん」
巡査は、四角く刈り上げたゴマ塩頭を静かに動かした。
「それはでけん」
「なぜ?」
「あいつは県警本部時代、『蛇蝎《だかつ》の早坂』と呼ばれとった。わしが今庄を逃げ出して他の町に行っても、やがて奴はそこを見つけ出し同じように暴れよるやろ。ここで対決せな迷惑のバラ撒《ま》きや」
「戦えば、しーさん負けるわ。相手は大勢よ」
「こっちには町の人もついてる」
「あんな人たち」
雨千代は吐き捨てるように言った。
「誰も、しーさんのことなんか考えていない。町会長は言ってたわ。『上山巡査の長年にわたる功労は賞賛に値する。そやけど、長く町に居すぎた』って」
「町会長は……」
老警官は泣きそうな顔をした。
「先程、集会所の集まりでは一人で自分を守ってくれはった」
「あの人は『ええかっこしい』なの。人前でポーズをつけるだけのタヌキ爺《じじ》いよ」
雨千代は自分の膝《ひざ》を強く叩《たた》き、台所の板敷にしゃがみこんだ。
「みんな恩知らずだわ。暴力団が取りしきっていたこの町が平和になったのも、しーさんの拳銃のおかげじゃないの」
「この拳銃《チヤカ》」
上山は手にしたニュー・ナンブ・リボルバーを持ち上げ、銃把《じゆうは》のランヤード・リングに絡まったスリングを外した。
「満足に構えることもでけん。この四年の間に身体もずいぶんと衰えた」
手で銃の重みを計るように闇《やみ》に向って構え、フッと笑う。
「昔はこれでも抜き射ち〇・三秒。『拝み射ちのお巡りさん』と町内で異名をとったもんやが」
「逃げるのよ」
雨千代は、縋《すが》るような眼で老警官を再び見上げた。
「いや、逃げん」
上山は蓋付《ふたつき》のホルスターに拳銃を戻し、妻となるべき女性の肩へ手をかけた。
「さあ行ってくれ、千代さん」
「しーさん……」
上山は強い力で、雨千代の身体を戸の外に押し出した。
10
「心に通ずる道は、胃を通っている」とイギリス人は言う。たしかにそうだ、と定吉は一人部屋の中で思った。
カーテン越しに見える外の風景は、もう淡いブルーに染まっている。
「とうとう一睡もせんかったなあ」
首の骨をコキコキと鳴らし、下腹を撫《な》でた。
昨晩から何も食べていないのに、腹の虫がまるで鳴かないのである。
「人間緊張していると腹が減らんのやな」
立ち上って部屋の隅に歩いて行き、そこに猿ぐつわをかませて転がしてある元警官のヤクザを観察した。
「よう寝てクサるで」
正確に言えば、気絶しているのである。
「ま、このまましばらく寝ててもらおか」
定吉は男の片眼に指を当てて、目蓋《まぶた》の裏が白眼になっていることを確認した後、ゆっくりと唐桟《とうざん》のお仕着せに着がえた。
遠くで電車の警笛が聞こえる。始発の合図である。
「どうやら股平社長たちは、無事この町から出たようやな」
さて、わてはどう行動したもんか。定吉はバーンズ・マーチン・三点式ホルスターから愛用の包丁を抜き、その刃紋を薄明りの中にかざす。
「ひとつ、やってこましたろか」
デバ七がヤクザ者に囲まれて駅舎の中に居ることは、足元に転がっている永田が昨晩吐いた。これで彼も大手を振って老警官の味方をすることができる。彼は満足そうにうなずき、庭の塀を飛び越えてホテルの外に出ると、物陰伝いに坂道を駆け降りた。
今庄温泉駐在所巡査上山茂雄は、朝もやの中、ゆっくりと路上に歩み出た。制帽の顎《あご》ヒモをかけ、ガン・ベルトのスリングを固く締めてホルスターの位置を腰骨の下に密着させる。
蓋《ふた》を上げ、二、三度|銃把《じゆうは》のプラスチック・グリップに指をかけて抜き射ちの動きをとった。
「グリップの引っ張り出しが、少々おかしいな」
ホルスターの後をもう少しカッターで切り裂いておけば良かった、と彼は小さく舌打ちした。
新中央工業製ニュー・ナンブ・リボルバー38口径。製造ナンバーBの01224。全長198ミリ、銃身長77ミリ。
「今日は頑張ってもらうで」
ホルスターに蓋を掛けた時、彼の背後で声がかかった。
「誰や!」
「う、射たんでくれ。わしや」
「町会長はん……」
朝もやの中から、ずんぐりむっくりした身体を揺って年配の男が現われた。
「防犯協会の方々はどこでス?」
「誰も来いへん」
「…………」
町会長は上山の被った制帽の天辺《てつぺん》から、ピカピカに磨き上げられた官給品のジャック・ブーツまでジロジロと見まわし、
「上山はん」
もじもじと身をよじった。
「言わんでもわかってます」
上山は苦笑し、腰に手を当てた。
「逃げてくれ、でっしゃろ?」
大丈夫、と彼は片頬《かたほお》をゆがめ、
「心配せんといて下さい。わしにはコレがある」
拳銃をポン、と叩いた。
「そやない、言ったら何やけど、わしらあんたの心配してるのやない」
「え?」
「あんたに居られると迷惑なんや」
温泉町の町会長は拳を握りしめ、声を荒げた。
「迷惑?」
「そうや、ここで大騒ぎが持ち上ると、ただでさえ少ない温泉客が減ってしまう。ヤクザの出入りがあるような町に誰が湯治《とうじ》に来る、え、そうやろ?」
町会長は眼を真っ赤に血走らせていた。昨夜も眠らずに町内の人々と討論を続けていたに違いない。上山は彼を凝視し、
「わしが」
さびしそうに肩を落した。
「迷惑でっか?」
「大きに迷惑や。そもそも、あの連中は何や。あんたを追ってここに来たんやろが。町とは何の関係も無い。町会の人たちは全員あんたに出てってもらお、いう話をきめたんやで」
「何てこと言うんですか、町会長さん」
いつの間にかそこに雨千代が立っていた。
「千代さん……」
「非度《ひど》い、あんたも、町の人たちも!」
雨千代は白い頬に一筋こぼれた乱れ髪をかき上げながら町会長に叫んだ。
「今から町のために戦おうという人に……。人間じゃない。あんたたちは恩を忘れて……」
「もういい、もういいんだ、千代さん」
上山巡査は芸者姿の婚約者を押しとどめ、
「こうなれば一人で戦うだけや」静かに言った。
「出て行かんと、あとで後悔するで」
町会長は口から泡を飛ばす。
「あんたの方こそ、もう行かんと流れ弾に当りまっせ」
ジロリ、と上山は町の実力者を睨《にら》みつけ、
「千代さん、あなたも行って下さい」
雨千代を町会長の方に押しやった。
「これは警察命令や」
「しーさん」
上山は雨千代の視線に背を向け、まわれ右をした。二人はしばらく彼の紺色の制服と、左肩に掛かったホルスターのスリングを見つめていたが、やがて諦《あきら》めて朝もやの中に戻って行った。
11
壁の大時計が十一時の時報を告げた。
「いいか、みんな抜かるんやないで」
ショットガンのチューブに十二番ゲージの|O・O《オー・オー》バックを装填《そうてん》しながら高田が言った。
「それにしても永田の奴、どこ行っちまったんだ」
川口が頬の傷を掻《か》きながら口を尖《とが》らせた。
「びびりくさったんやがな。これやから元マッポは信用でけへん」
「何やて!?」
高田はショットガンを川口の胸に向けたが、その銃口は室井のベレッタ拳銃によって遮《さえぎ》られた。
「仲間うちのケンカは別に止め立てせんが、今はやめとけや」
「けっ」
高田は、短く刈り詰めた銃身を下に向けた。
「早坂サンは何時の電車で来はるんでっか?」
丹波《たんば》・立杭《たちくい》の壺《つぼ》を抱えたデバ七が心細そうに尋ねる。
「元大阪非合法丁稚でも、ドンパチが恐いんか?」
川口が薄笑いを浮べたが、デバ七は首を振り、
「そやないわい。わては、ドンパチのどさくさに定吉が攻めて来るのを恐れとるだけや」
「気にすんな」
室井がベレッタの大きくカットされた排莢口《はいきようこう》に息を吹きかけた。
「そのドサクサ紛れに定吉言う奴も殺《い》てもうたるわい」
「何度も言うようやけど、あんたらは定吉の恐さを知らん」
「それほど恐いんやったら……」
高田はショットガンのスライドを上げ、トリガー・ガードのセフティをかけた。
「……わしらが帰って来るまで、鍵《かぎ》ぎょうさんかけて奥の駅長室入ってたらどやねん」
「言われんかて、そうさせてもらいまっさ」
やがて三人の刺客は得物の点検を終え、駅の外に散った。入れ違いに駅の構内へ入って来たのは定吉である。彼は殺し屋どもが出て行ったことを知らない。
引き込み線に置かれているウェスチングハウス製のED三〇型除雪車へ忍び寄り、建物の中を伺った。
「おかしい、人の気配が少ない」
灯のついているホームの小部屋に走り、軒先に飛び上って懐に手を入れた。
取り出したのは缶入りの手投げ弾である。
「汚い手やが、汚い奴らにはこれしかない」
カルドウス・マリアヌス(ヒレアザミ科)の花から摘出した粉末と、クロロアセトフェノンを混ぜた無力化剤が仕込まれている。定吉は折り畳み式の小型ガスマスクを顔に装着し、ガス弾の安全ピンを飛ばした。
「食らえ!」
ガチャン、とガラス窓が割れ、ガス弾は駅舎の中に投げこまれる。
数秒のうちに建物のあちこちから白煙が吹き上がった。
なんや、誰も出て来んやないか。
定吉は駅のホームに踞《うずく》まって敵の気配を確かめていたが、ついに我慢しきれなくなって煙の中に入り込んだ。
「どこや、デバ七!」
ガスマスクをしているため彼の叫び声はゴボゴボとしか響かない。
逃げたか!
定吉は煙のまだ昇っていない天井板に飛び移り、梁《はり》を伝って隣の部屋に移動した。
駅員の控え室らしい大きな空間にも煙は流れこんでいる。煙っているテーブルのあたりを見降し、散らばった食いかけのレトルト食品や散弾の空箱を数えた彼は、床に着地した。
「デバ七もマッポを襲いに出かけくさったか」
と、その時、彼の頭上数センチのあたりに光るものが走った。
いかん!
もう一度天井に飛び移ろうとした彼の袖口を刃物が切り裂いた。
背後の壁にフィリピン製らしい波形刃のスローイング・ナイフが刺さっている。
「デバ七やな。どこにおる」
「ずいぶんと御無沙汰《ごぶさた》やったな、定吉どん」
おお、と定吉は声をあげた。
控え室の壁一面に、元フィリピン大統領夫人イメルダ女史の巨大な姿が浮び上ったのだ。
「|ようこそ《マブハイ》」
イメルダ夫人は相撲《すもう》取《と》りのような丸髷《まるまげ》を揺って嫣然《えんぜん》と頬笑《ほおえ》みかける。
「|ごきげんいかが《クムスタ・ポ・カヨ》? サダキチ・セブン」
いかん、目くらましや。
定吉はゆっくりとあたりを見まわした。
「どや、定吉どん。息苦しくなって来たやろ。あんさんのガスマスクは簡易式や。吸入口のフィルターはすぐにイカれてまうで」
たしかにそうである。彼の被っている西ドイツ製ESCNタイプ|88《アハト・アハト》は、通称「フォックス・タイプ」と呼ばれる鼻先の尖《とが》ったコンパクト・マスクだが、小型すぎるためフィルター内の活性炭が微量で、大量のガスには無力なのだ。
「おのれの投げたガスで苦しむなんて、あんたらしいなあ」
イメルダ夫人は、デバ七の声でそう言うと、赤い唇を開いて高らかに笑った。
息を詰め、定吉はジリジリと部屋の片隅に移動した。声のする方を見てはいかん。デバ七は、わてがガス弾を放り込むのと同時に自分の持っている発火性の幻覚剤を作動させたんや。
ガスマスクのフィルターが生きているうちに早くこの部屋を出なくては。
彼はマスクの上から日本|手拭《てぬぐ》いで顔を覆い、目を閉じた。
心眼や。
刹那《せつな》、人の気配がした。
「この部屋の隣に小さな部屋がある」
定吉は包丁を抜き、柄を逆手に持った。
イメルダ・マルコス女史の巨大な腕がニューッと伸び、彼の襟首《えりくび》を掴《つか》もうとする。
「そこや!」
定吉はイメルダの豊満すぎる胸元に走り寄り、片刃を一閃《いちせん》させた。
ギャッ、
という野太い声が上り、壁の一部が斜めに断ち切られる。
イメルダの幻影は消え、「駅長室」と書かれた衝立《ついた》てが音をたてて倒れた。
「くっそう、このボケ丁稚《でつち》が」
胸元を切り下げられた出っ歯の男が、バタフライ・ナイフを握った手を宙に泳がせた。
「しばらくやったな、デバ七。今のはフィリピンで覚えた幻術かい」
「くたばれ、これがわいの、最後の術や」
デバ七は抱えていた丹波・立杭の壺に手を入れる。
パチン、と何かが弾け、次の瞬間、駅舎は轟音《ごうおん》とともに四散した。
12
爆発音は今庄温泉の一帯に轟《とどろ》き渡り、駅前商店街のガラス戸というガラス戸は、爆風と震動でその多くが叩き割られた。
が、しかし、町の人々は一人として路上に飛び出して来ない。
商店街の道路上では、別の戦いが進行しているのである。
「アホンダラ、姿を見せい」
高田が声を荒げ、ショットガンを放った。
まだ灯《とも》りっぱなしになっている水銀灯が音を立てて砕け、薄いガラスの破片が店舗の日除けに降り注いだ。
「今の爆発を見ただろう。お前の味方になるはずの定吉は、駅と一緒にスッ飛んだ!」
室井がスケルトン・ストック付のベレッタ93Rを腰だめにして叫ぶ。
「もう誰も助けてくれんぞ。さっさと出て来い」
連射音が響き、9ミリ・パラベラム弾が温泉最中《おんせんもなか》≠ニ書かれた巨大な看板に一直線のミシン目を入れた。
「わかった」
銃声がおさまると同時に、商店街の外れから上山のしわがれた声が聞こえて来た。
「これ以上町の建物を傷つけんでくれ。わしはここや、逃げも隠れもせん」
「いい了見や」
高田は肉の薄い頬をゆがめてショットガンの銃床にキスをした。
「一対一で相手になったる」
上山の声は落ち着いていた。
「室井、川口はどこに配置した?」
「駅前の看板の上だ」
「よし、お前は商店街の集会所がある屋根昇って、川口をフォローせい」
「わかった」
室井は連射用のロング・マガジンを銃把に叩き込むと、そっと高田の脇を離れた。
いつの間にか小雨がシトシトと降り始めている。
上山巡査はスイング・アウトしたシリンダーからスミス&ウェッソン・38スペシャル弾の空薬莢《からやつきよう》を弾き出し、銀色に光る新しい実包を装填《そうてん》した。
あと五発か。
泣いても笑ってもこれだけである。
「何で日本の交番は、十射分しか弾を置いとかへんのやろか」
理由はわかっている。拳銃弾をあまり多く置き過ぎると暴徒の攻撃目標になり、また警官個人の管理がずさんになる恐れがあるのだ。
「敵は三人。いや、早坂の野郎はまだ町に到着していないようやから……」
最低どうしても四発は必要になる。
「各自一発で仕止めるには、もう少し近付かないとアカンな」
上山は穴だらけになったコンクリート製のゴミ箱から顔を出した。
「今出て行くでえ」
路上に低くたれこめたもやの中に彼はのっそりと歩み出た。
小雨に煙る駅前のロータリーに、長身の男が立っているのが見えた。
「さすがは兵庫県警にその人ありとうたわれた上山茂雄巡査や」
ショットガンの銃口を宙に向け、男は高笑いをした。
「わしを射つのは早坂本人やなかったんか?」
上山は右手に下げた670グラムの得物の銃口に雨水が入らぬよう心がけながら、ゆっくりと歩いた。
「早坂さんが到着するのは昼過ぎや。わしら、そこまで待っとられへん。怪《け》っ態《たい》な大阪丁稚どもが騒ぎを起したさかいな。どっちみち、あんたは十二時過ぎには骸《むくろ》や」
「仲間の姿が見えんな」
「あっちの方でみんなノビとるわい」
高田は黒焦げになった駅のホームに顎を向けた。
「たいした腕や、マッポにしとくには惜しい」
「下らんこと言うとらんと、早よ勝負きめようやないか。どないしたらええんや」
上山は拳銃についた水滴を払った。
「ロータリーを時計の針と同じ向きに二十歩進んで射ち合う、いうのはどや?」
「よかろう」
二人は貧弱な花壇のある温泉駅のバス・ロータリーに足を向けた。
「ここの時計が十一時五十分になった時」
高田は、花壇の真ん中に立つガラスの割れた大時計をショットガンの先で差し示した。あと三十秒ほどである。
「二十歩ずつ歩く」
上山は首を縦に振った。
何ちゅうアホなマネさらすねん。まるでボケた西部劇やないか。
駅前広告塔の裏に隠れた川口はストック無しのベレッタを構えて舌打ちした。
「大仰《おおぎよう》なことの好きな奴ちゃ」
少しずつ動き始めた上山の背中に照準を合わせ、足を踏ん張った。こうしなければ連射の反動で広告塔から振り落されてしまう。
フル・オートで射てばロータリーにいる高田にも当るな。川口は小さく笑った。
「まあいい。どっちみち奴には、いずれ死んでもらうんやから」
二人の歩数を数えながら彼はイタリア製大型自動拳銃のセフティを降した。
十五、十四、十三、十二、十一、
「十、九、八、七……」
二人の男は銃を構えゆっくりと動いて行く。
川ロはトリガー・ガードの前部に突き出た指かけと、そのすぐ後にあるトリガーに力を込めた。
やがて二人は拳銃のマズル・ブレーキと一直線上に並んだ。
「……三、二、一、今や!」
強い衝撃が彼の脇腹を突如襲った。
ダダダダ。
川口の身体は拳銃のトリガーを引きながらもんどり打って地上に落下し、広告塔の土台で一度バウンドした。
「!」
動揺した高田は、ポンプ・アクションのトリガーを引く。
「死ね」
ドヒューン!
上山の帽子が千切れ、空中に舞った。
「こ、こんな……」
高田は信じられん、といった顔で自分の胸元を見た。.38スペシャルの小さな貫通口が開いている。
そのまま刺客は俯《うつぶ》せになって花壇の中に倒れて行った。
「怪我は?」
広告塔の下から血潮にまみれた柳刃《やなぎば》包丁を手拭《てぬぐ》いで拭いながら定吉が現われた。
「定……吉どん」
「でぼちん(額)に一、二発散弾食ろうたみたいでんな」
上山は制帽の顎《あご》ヒモであったあたりを指でなぞった。血が少しばかり附着している。
「どうして、そこに?」
「爆発の直前に駅の窓破って広告塔の下に逃げてましてん。そしたら、上の方で何やらハジキ構えてはる人がいたさかい、包丁投げましたんや」
「そら、おおきに」
「定吉どん!」
商店街の入口で声がする。
振り返ると股平旦那の連れが女性用下着のサンプルが詰まった例のスーツ・ケースを抱きかかえて立っていた。
「なんや、あんた。股平はんと逃げたんやなかったのか」
「社長に無理言うて残らせてもろうたんです」
見とくなはれ、と若い民間丁稚は自分の足元を指差した。
「集会所の屋根で、あんさんたちを狙《ねろ》うてました」
「ははあ、こいつは元同僚の室井や」
上山は頭から血を流し横たわっている男の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「あんたがやっつけたんか。なかなかやるやないか」
「ヘッ、おおきに」
騒ぎがおさまったと知った町の人々が一斉に戸口を開いて集まって来た。
「現金なもんやで」
定吉は包丁を急いでホルスターに戻し、若い丁稚の袖を引くとそ知らぬ顔で群衆の中から離れた。
「大変や、大変や」
町会長が人々をかき分けて上山の前に出て来た。
「今、電話があって、な。但馬錦城の鉄橋が粉々になったそうや。電車も谷底に落ちた、いうてる」
ロータリーの時計が、十二時の時報を打ち始めた。
「早坂部長は、とうとう正午過ぎにわしを殺《と》れなんだな」
上山は皮肉っぽく笑う。
そうか、デバ七の奴、爆弾のセット時間を読み間違えたな。
定吉は上唇を嘗《な》めた。恐らく彼は、振動感知式の電気信管を鉄橋に仕掛け、早坂の到着後、この町を完全に孤立させようと謀ったのだろうが……。
「夜間に通る貨物と保線便の数を勘定に入れなんだのやな」
いや、そうではない。彼が起爆用に用いたフィリピン製ラジオは東京のアキハバラ型。関西では電圧の誤差を生じたのだった。
「しーさん」
雨千代が駆け寄り、上山の広い肩に抱きついてきた。
「よかった、よかった、本当によかった。わしゃ、最初からあんたが勝つと思うてたでえ」
町会長は猫撫《ねこな》で声を出して彼の肩を叩《たた》こうとした。
「町会長、そして町の皆さん」
上山は静かに頭を上げ、その手を振り払った。
「自分は、この年になって……」
悲し気な眼差しで居並ぶ人々の顔を見まわした。
「……初めて人の心の奥底いう奴を見せてもらいました」
この町を出ます。きっぱりと彼は言った。
「出る? どうしてかね」
土産《みやげ》屋《や》の親爺《おやじ》がお追従笑《ついしようわら》いをして近寄った。
「あんたはこの町に無くてはならん人ですよ」
雨千代のその美しい横顔に一筋の涙が伝った。
「汚いわ」
定吉は遠く離れた広告塔の下で人々のやり取りを聞きながらため息をついた。
「どや、一般小市民いうのは食えんもんやろが」
彼は隣りに立っている若い丁稚に声をかけた。丁稚は身じろぎもせず血のにじんだ上山の背中を見つめている。
定吉はその男に強い殺気を感じ、息を飲んだ。
な、なんやねん?
丁稚の手にした小型ケースがゆっくり上山の方を向いた。
ケースを握る彼の手が小さく動き、ガン・オイルの臭いがした時、彼はすべてを悟った。
定吉の包丁が鞘走《さやばし》り、鈍い音が若い丁稚の脇腹に響いた。
ふー、危いとこや。十二時過ぎの殺し屋はこいつやったんかい。
定吉は袖口に包丁を隠し、丁稚に化けた若い殺し屋の身体を抱えてコンクリートの床に坐《すわ》らせた。
「どうかしましたか?」
そばに立っていた見物人の一人が尋ねた。
「いえ、こ奴気が小さいさかい、そこの死体見て気分悪うしたらしい」
定吉は広告塔の鉄骨に殺し屋の身体を引きずって行き、その手に握っているケースの把手《とつて》を外した。
スーツ・ケースの中身は案の定、小さな自動小銃が組み込まれていた。
「把手さえ握ればいつでも発射できる仕組か」
自動小銃は|H&K《ヘツケラー・ウント・コツク》・MP5K。ケースの蓋《ふた》をしたまま操作するVIP警備用のコッファー<^イプガンである。
定吉は、ケースを持ち上げ、何気無い風を装って巡査に近付いていった。
「これから、どないしまんねん」
「こんな土地はまっぴらや。警官でいるのにも飽いたな」
上山は手にした38ニュー・ナンブをホルスターに戻し、苦笑した。
「そう言えば、あんさんのNATTOでのコード・ネーム聞いとらへんかった」
定吉は老巡査の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「教えてくれへんか」
「余部《あまるべ》十八号や」
上山は小声で答え、ニッと歯を剥《む》いた。
「今度会う時は敵味方やな」
「うむ」
上山は警察手帳を足元のドブに投げ込み、クルリと背を向けた。定吉も宿に戻るべく、ゆっくりと駅前の坂を昇り始める。
「あの……」
道の途中に雨千代が立っていた。
彼女の背後には雲が途切れ、青い空が広がっている。定吉は眩《まぶ》しいものでも見るように眼を細めた。
「ありがとうございました」
「わては何もしてまへんで」
「わかってます」
定吉はハンチングのつばを押さえ、彼女の脇を通り過ぎた。
「せめて……お名前を」
定吉は恥かしそうに肩をすくめ、
「名乗るほどのもんやおまへん。わては……」
小さく鼻をすすった。
「ただの通りすがりの丁稚《でつち》だす」
振り返って小さく一礼すると、旅館の下駄をカラカラと鳴らし、彼は足早に去って行った。
真昼の温泉 しまい
一九八八・八・八