東郷 隆 著
ゴールドういろう
定吉七番シリーズ
目 次
1 プロローグ
2 とっても素敵《すてき》な有馬《ありま》の湯
3 たいこもちにおまかせ
4 元湯《もとゆ》のバルブ
5 アンコだらけの死体
6 懲罰《ちようばつ》のバーゲン会場
7 小豆《あずき》のお話
8 定吉《さだきち》カー
9 戦いの始まり
10 ゲートボール五人衆
11 ゴールド・キャデラック
12 「小豆《あずき》釜《がま》」と「雷電《らいでん》」
13 「金のしゃちほこ雨ざらし」
14 外郎《ういろう》の口上《こうじよう》
15 金蔵の御招待《ごしようたい》
16 逆《さか》さ釣《つ》り天井《てんじよう》
17 ジャンピング・ポイント
18 原爆とヨウカン
19 エピローグ
あとがき
登場人物
定吉《さだきち》七番《セブン》(安井友和)……船場《せんば》の丁稚《でつち》。大阪商工会議所秘密会所直属の殺し屋兼情報部員
千成屋《せんなりや》宗《そう》右衛《え》門《もん》(土佐堀の御隠居)……秘密会所の元締め
万田金子(ミス・マネー)……宗右衛門の秘書
小番頭・雁之助……情報主任。定吉の上司
中番頭・九作……秘密会所兵器主任
増井屋お孝《たか》……お初天神境内の茶店の娘。定吉の恋人
鯱鉾屋金蔵《しやちほこやきんぞう》……名古屋の実業家。「しゃちほこういろう」本舗会長
乙戸岩権之助《おつといわごんのすけ》(オットー・シュワルツネッガー)……元外人力士。金蔵のボディガード
星乃真王《ほしのまお》……レスキュー部隊出身の女パイロット
ゲートボール五人衆……金蔵の子分。不良老人
餅屋光乗《もちやこうじよう》……禁裡御用《きんりごよう》第十四代|丹波大掾《たんばのだいじよう》。関西豆和菓子製造連合会理事長
伝法橋《でんぽばし》の弁吉……元定吉二番
茶目八……餅屋御ひいきの太鼓持ち
1 プロローグ
遥《はる》か彼方《かなた》、ポートタウンの先でブタの悲鳴のような汽笛《きてき》が鳴っている。
倉庫街の屋根を杏《あんず》色に染めつけていた夕陽は瀬戸内《せとうち》に身を隠《かく》し、代って水銀灯があたりに寒々《さむざむ》とした光を放ち始めた。
打ち捨てられた港、安治川口《あじがわぐち》にまたうらぶれた夜がやってくるのだ。
船首《せんしゆ》に澪標《みおつくし》の市章をつけた渡《わた》し船が一|隻《せき》、鈍色《にびいろ》の川面《かわも》をゆっくりと逆上《さかのぼ》っていく。
白い雨避《あまよ》けに被《おお》われた船の甲板《かんぱん》にはおそらく、錆《さび》た自転車を抱《かか》えた虚《うつ》ろな眼差《まなざ》しの労働者たちがギッシリと詰《つ》めこまれているはずだ。が、しかし、そのあたりはすでに黄昏《たそがれ》の、闇《やみ》に溶けこんでしまって見分けもつけがたい。
大阪出身のブルース・シンガーが悲しい≠ニ形容した港の水が刻一刻色を深め、潮《しお》の香りも一段と強くなるこの時間。
「ううっ、寒《さ》ぶ」
阪神《はんしん》電鉄本線|福島《ふくしま》駅下車徒歩五分|出入橋《でいりばし》の高速|環状線《かんじようせん》道路下に住む今津徳悟郎《いまづとくごろう》(無職・75歳)は、汚水《おすい》の表面に白い線を描《えが》いて進んでいく渡し船を横眼でにらみ、痩《や》せた背中を震《ふる》わせた。
彼岸《ひがん》の入りも過ぎたというのに波間を渡ってくる風は肌《はだ》を刺《さ》すようである。今年は春の到来《とうらい》が遅《おそ》い。つい先おとといは季節|外《はず》れの大雪がこの大阪にも降った。
「何とかならんのかいな。この寒ぶさは」
年甲斐《としがい》もなく真っ赤なアノラックを着込《きこ》んだ徳悟郎《とくごろう》は、そのモコモコしたポケットから使い捨ての簡易カイロを取り出し、揉《も》みしだく。
「なんや、全然|温《ぬ》くならんやないか」
彼は三日も使い続けて効力の無くなった紙包みに毒づき、それでも大事そうに仕舞《しま》いなおすと、器用な手つきで手洟《てばな》をかんだ。
対岸に眼を移せば、そこには荷上げ用のクレーンが長い腕先《うでさき》でこれまた寒々とした赤灯を明滅させ、河口を横切る安治川大橋の向うでもラブ・ホテルのサインボードが大阪|環状線《かんじようせん》の客たちに色目《いろめ》を使っている。
「ぼちぼち尻《しり》の上げ刻《どき》かいな」
老人は堤防《ていぼう》のコンクリートに置かれた愛用の釣《つ》り竿《ざお》を取り上げた。
「夜釣りと洒落《しやれ》て風邪《かぜ》ひいてはナンもならん」
家には帰りたくなかった。しかし、帰らなければまた息子《むすこ》の嫁《よめ》がヒステリックに怒鳴《どな》り散らす。ここで風邪でもひいて家族に移そうものならどのような目に会うか……。
「『安治川で 釣った魚は 猫《ねこ》またぎ』か」
徳悟郎は汚水《おすい》に濡《ぬ》れた魚籠《びく》を覗《のぞ》きこんだ。家に下げて帰っても、誰も喜ばない魚たちである。
「昔《むかし》はここもええとこやったのになあ」
彼は遠い眼をした。老人が物心《ものごころ》ついた頃には安治川河口と言えば「釣り」だった。明治の末、河口に大|桟橋《さんばし》が完成した時、あまりの利用客の少なさにビックリした大阪市が魚釣《うおつ》り電車を走らせて人を集めて以来この場所は釣りの名所として知られていた。
今ではその水も汚《よご》れるだけ汚れ、桟橋は弁天埠頭《べんてんふとう》に、釣り場はカモメ埠頭の人工魚釣り場に移されて、ここはただの工場地帯に成り果てている。
徳悟郎は廃油《はいゆ》焼けした魚を河に放すべく魚籠を持って立ち上った。
と、その時である。
「ハックション!」
堤防の陰《かげ》で誰かが大きくくしゃみをした。
釣人ではない。櫛《くし》の歯状に水中へ鋭《するど》く突き出した防潮《ぼうちよう》プレートの先に人が立っていられるような空間などあるわけがない。
老人は、おっかなビックリ腰《こし》を浮《う》かせつつ堤防の向うを覗きこんだ。
「こらかなわんわ。早よあがろ」
工場地帯へ帰って行く艀《はしけ》の作り出した波が、防潮プレートに打ち当って白く泡立《あわだ》った水面。そこに黒っぽいボールのような物が漂《ただよ》っていた。
「あーあ、手足がネトネトになってもうたがな」
間《ま》の抜《ぬ》けた独《ひと》り言《ごと》をしゃべっているのは何とその物体だった。
「!」
今津《いまづ》徳悟郎の背筋に一瞬冷たいものが走った。
「が、がたろ(河童《かつぱ》)や……」
彼は思わず魚籠《びく》を取り落した。
黒いボールは波間の芥《あくた》をかき分けながらゆっくりと岸辺に近付いてくる。
老人は幼い頃《ころ》、慶応《けいおう》三年生まれの祖母から聞かされた安治川の河太郎伝説を思い出し、息をのんだ。
物体は突堤《とつてい》の先端《せんたん》まで来ると、ヘドロに染った手すりにからみつき、油っぽい飛沫《ひまつ》をまき散らしてブルリ、と身ぶるいする。
「えらい難儀《なんぎ》や」
化物《ばけもの》はそうつぶやくと雑喉場《ざこば》の鱧《はも》を思わせるヌメヌメとした手足を簡易階段に巻きつけてゆっくりと上へ昇《のぼ》り始めた。
「うぎゃー!」
老人は釣《つ》り道具をその場に放り出して悲鳴をあげる。
「がたろや、がたろや。尻こだま抜《ぬ》きにやって来おった!」
今津徳悟郎は喜寿《きじゆ》間近とも思えぬ派手《はで》な身のこなしで倉庫街の彼方《かなた》に駆《か》け去っていった。
「何や? あれ」
怪物《かいぶつ》は、ひれの付いた足をペタペタと鳴らして堤防の内側に降り立ち、もう一度身ぶるいした。
「けったいな奴《やつ》ちゃなあ」
水銀灯の淡い光が、怪物を照し出す。なんのことはない。それは、黒っぽいウェットスーツを着た人間だった。
そいつの方こそ「怪態《けつたい》な奴《やつ》」である。
この寒空の下、ヘドロにまみれながら泳ぎまわるアホがどこの世界にいるというのだろう。
「あー、あんばいうとてもうた(うんざりした)」
声からして若い男らしい。彼は、コンクリートの上に散乱した釣り道具を、不思議そうに眺《なが》めまわしていたが、やがてその濡《ぬ》れそぼったウェットスーツを脱《ぬ》ぎにかかった。
まず、被《かぶ》っていたフードを外《はず》す。中から現われたのは短く刈《か》り上げたネギ坊主のような頭だった。右後頭部が水銀灯の光に反射してキラリと光った。と、そこには十円玉ほどの大きさのハゲ。
続いてスーツを脱ぐ。下から唐桟《とうざん》の和服を裾《すそ》短かに着た大柄《おおがら》な男の身体が現われた。
男は足のフィンを外し、帯の間に挟《はさ》んでいた草履《ぞうり》を引き抜《ぬ》くと、パン! と底を打ち合わせ、足元に並《なら》べる。
懐《ふところ》から、八つ接《は》ぎのハンチングも取り出して手早く被った。
最後に袂《たもと》の中へ手を入れて、中から白梅《しらうめ》の小枝を一本|掴《つか》み出し、唐桟の襟元《えりもと》にクイッと差《さ》す。
「これで良し、と」
着物の合わせ目を整え、ニッコリ笑った。
「ヘッヘッヘ、これならどっから見ても粋《いき》なボンボンやがな」
男は、ウェットスーツを小脇《こわき》に抱《かか》え、草履の音も高らかに倉庫の陰《かげ》へ消えていった。
安治川口の駅から線路に沿って西九条《にしくじよう》の方に進み、貨物線が何本も交わるあたりで右に折れると植木鉢《うえきばち》がゴタゴタと並べられた小さな路地に行き当る。
和服姿の男は、気軽な調子でその横道に入って行った。
路地のつき当りはTの字に分かれ、一方は行き止まり、もう一方は安治川の川っぷちに向って延びている。
男は両側から張り出した民家の低い軒先《のきさき》を避《さ》けるように背を丸め、路地を曲った。
味噌《みそ》の焦《こ》げる匂《にお》いが狭い道一杯に漂《ただよ》っている。
「ええ匂いやな」
大雪の名残《なご》りが残る路地の途中《とちゆう》に、汚《よご》れた白暖簾《しろのれん》を吊《つる》した飲み屋が口を開けている。
男はピクピクと鼻をうごめかすと、足早に店の前へ進み、ドテ焼≠ニ書かれた暖簾へ痩《や》せた肩先を突《つ》っこんだ。
油の染《し》みたガラス戸をガラリ、とあければそこは細長いカウンターである。サンショや七味の容器がズラリと並んだその奥で、把手《とつて》の付いた四角い鍋《なべ》がグツグツと音を立てている。
「大将もうかってるかあ?」
ハンチングのつばをクイッと持ち上げ、男はカウンターの中に声をかける。
「チョボチョボや」
屑肉《くずにく》の串《くし》を鍋の縁《ふち》に並べていたダボシャツ姿の男がぶっきらぼうに答えた。
ささくれ立った畳《たたみ》が敷《し》かれた追い込みには、工場帰りらしい作業服の一団が、カラオケの歌詞カードを必死になってめくっている。
「なんや、景気ええやん」
男は奥に向って顎《あご》をしゃくった。
「ええことあるかい」
店主はズズッと水洟《みずばな》をすすりあげた。
「毎日ああして徒党《ととう》組んでやって来て、口開《くちあ》けから店閉《みせじま》いまで居続けや。その間、わしの自慢《じまん》のドテ焼も食わん、酒も飲まん。カラオケのマイク握《にぎ》ってただ怒鳴《どな》るだけ、三日に一度はマイクの奪《うば》い合いでド突きあいや。ほんにやってられへんで」
「ふーん。そらしんどいな」
男はカウンターの、入口近くに腰《こし》を下した。
「やわらかいとこ二、三本」
店主は少し首をひねると鍋の端に漬け込んだ雑肉の固まりを串の先でチョンチョンと刺し、首を振った。
「あかんな。さっき仕込んだばっかりやよって。まだどれもジクジクしとらん」
「さよか」
「モシ、あんさん。よかったら一緒《いつしよ》に食べまへんか?」
カウンターの曲りっ端《ぱな》に坐って、さっきから二人のやりとりを聞いていた背広姿の中年男が声をかけてきた。
「わしが今日の一番客でな。昨晩の残りモンのトロトロしたとこ全部もろうてしもたんや。分けたるからこっちゃおいでえな」
「おおきに。けど、それではあんさんに悪い」
「構《か》めしまへんがな」
「そうでっか?」
遠慮《えんりよ》無く、と和服姿の男は、中年男の脇《わき》に坐りなおした。
「ほならいただきますう」
よく煮込まれて、半分味噌焼けした肉の串に男が手を伸《の》ばした途端《とたん》、奥の方からドラム缶を引っくり返したような騒音《そうおん》が巻き起る。
「な、なんや」
「うちのカラオケ機械、アンプのとこが半分イカれてて……、な」
カラオケ愛好者たちは、ノイズに負けじとドラ声を張り上げ始めた。
「これが毎晩のこっちゃがな」
店主は首から下げた手ぬぐいで、小鼻をゴシゴシと擦《こす》った。
「半端《はんぱ》やないな」
サンショの粉を串にふりかけて男はむしゃぶりつく。
「話に聞くあっちの国のへびめた≠「うもんやろか?」
「違《ち》ゃう、違《ち》ゃう」
隣《となり》に並《なら》んだ背広の男が首を振《ふ》った。
「よう聞いてみなはれ。あれ、『|釜ケ崎《かまがさき》ブルース』や」
「ひええ」
御当地《ごとうち》ソングをメタルっぽく唄いこなす。器用と言えば器用な連中であった。
「『釜ケ崎ブルース』言うたら、原たかしが昔|唄《うと》うとったアレでっか? たしか……シングルでA面に『夫婦《みようと》道《みち》』が入ってた……」
「さいな。アレや」
五階百貨店の吊《つる》しで買ったとおぼしきペンシル・ストライプのダブルを着込んだ中年男は満足そうにうなずく。
「さすがは、定吉《さだきち》さんやな。何でも知ってはる」
和服の男は端正《たんせい》な一重目蓋《ひとえまぶた》をピクリ、と動かし、右手をす早く袂《たもと》の中に滑《すべ》りこませた。
「おっと、待っとくなはれ。早まったらアカン」
中年男は、カウンターに乗せてあったスポーツ新聞の間からハガキ大の木札《きふだ》を一枚取り出した。
「わしゃ此花《このはな》区担当の男衆《おとこし》で、『伝法《でんぽ》橋の弁吉《べんきち》』言うもんだす」
彼が示す白木《しらき》の板には、黒々と「SECRET MEMBER OF THE OSAKA CHAMBER OF COMMERCE AND INDUSTRY」の文字が焼き付けてある。
「味方かいな。脅《おど》かしたらあかん」
「かんにん」
中年男はニッと笑い、小声で尋《たず》ねた。
「……で、定吉ドン。首尾《しゆび》は?」
定吉、と呼ばれた男は、ハンチングのつば先を親指でグイと持ち上げ、カウンター脇《わき》に掛《かか》った古時計を指差した。
「結果は、な」
「ウン」
「もうすぐわかる」
奥《おく》の席で突然《とつぜん》マイクの奪《うば》い合いが始った。
「次はわしの番や。ボディひろしの『木屋町《きやまち》みれん』唄《うた》うんや」
「あかん、あかん。ジョージ・ヨシムラの方がええわい。『遊び人《にん》ブルース』わいに唄わしたれや」
「もう、あんたらいいかげんにしといてんか」
見かねた店主がエプロンの裾《すそ》で手を拭《ふ》いてカウンターを離《はな》れた。
油だらけの時計は正確に秒を刻んでいく。
「あと十秒」
二人は時計の秒針を見つめた。
八、七、六、五、四、三……。
「わしが、わしがブルース・スプリングスティーンのノリで『先斗町《ぽんとちよう》の夜』唄うたるんやー」
座敷《ざしき》の取っ組み合いで、最後にマイクを手にしたアホが勝利の雄叫《おたけ》びをあげた。その瞬間《しゆんかん》、
ドーン!
という鈍《にぶ》い爆発音《ばくはつおん》が響《ひび》く。棚《たな》に並んだ「呉春」の一升瓶《いつしようびん》がチリチリと音を立て、安普請《やすぶしん》の天井《てんじよう》からポロポロと細《こま》かい埃《ほこり》が降ってきた。
「何や、どないしたん?」
「火事や。対岸の倉庫街が真《ま》っ赤《か》いけや!」
店の外を大勢の人々が駆《か》けて行く。
「朝潮《あさしお》橋の倉庫に火がついた言うてるぞ」
「ガス爆発やろか?」
「見に行こ、行こ」
マイクを取り合っていた男たち、それに店の亭主《ていしゆ》までが大あわてで外に飛び出して行った。
「さすがに九作はんが作ってくれはった時限装置は正確やな」
大阪商工会議所秘密会所直属の殺人|丁稚《でつち》「定吉《さだきち》七番《セブン》」はカウンターに片肘《かたひじ》をついて微笑《ほほえ》んだ。
「これでここ当分は、関東の納豆《なつとう》密売団も身動きがとれんようになる」
彼は、平皿の上に手を伸《の》ばし、二本目の串を取り上げた。
「倉庫二|棟《むね》分の藁苞《わらづと》と覚醒剤《シヤブ》入り納豆や。こら良《よ》う燃えるでえ」
「話には聞いてましたが、あんさん、見かけによらずやることが荒っぽいでんな」
「なんの。大阪人にゲテモン食わそういう計画立てる外道《げどう》には、これくらいでもまだ足りんくらいや」
ネトネトになったゼラチン質の固《かた》まりをゴクリと飲み込み、定吉は席を立った。
「さて、と」
「ああ、今来たばっかりやないですか。もそっとゆっくりしてったらどないだ?」
止めにかかる弁吉を定吉は手で制した。
「いや、まだ一|軒《けん》掛《か》け取り行かなならんとこが残っててな。また今度ゆっくりということに……」
ガラス戸を開《あ》けて出て行こうとする殺人|丁稚《でつち》の背中に弁吉は尋《たず》ねた。
「行くて、どこへ?」
「テンノジサン(天王寺さん)」
和宗総本山、推古《すいこ》元年(五九三)建立《こんりゆう》の荒陵山四天王寺《こうりようさんしてんのうじ》は、三月十八日から二十四日までの間、人の波で埋《う》まる。
彼岸会《ひがんえ》、俗《ぞく》に言う「天王寺詣《てんのじまい》り」である。参道には経木《きようぎ》書き屋、賽銭両替《さいせんりようがえ》、タコ焼屋から暦《こよみ》売り、今どき珍しい覗《のぞ》きからくりまでがズラリと顔を揃《そろ》えて客を引き、境内《けいだい》では、十万億土に届くという極楽往生祈願《ごくらくおうじようきがん》の引導鐘《いんどうがね》が跡切《とぎ》れることなく鳴り響《ひび》いてその騒《さわ》がしさといったら無い。
地下鉄|谷町《たにまち》線四天王寺駅で降りた定吉は、生来《せいらい》のお祭り好きの性格から人ゴミに釣《つ》られてついフラフラと歩き出し、講堂の北側、六時堂の手前でようやく思いとどまった。
「あかん、あかん。『釣鐘まんじゅう』買うのは仕事|済《す》んでからや」
自分で自分にそう言い聞かせると、クルリと踵《きびす》をもどし、もと来た道を天王寺警察署の方に引き返す。
警察署の裏を右に曲った彼は、そのまま五条小学校に向った。このあたりは、昔《むかし》、「巫女《みこ》町《まち》」と呼ばれていたと物の本にある。江戸の中期から大正の初めまで梓《あずさ》巫女《みこ》と称する占《うらな》い女《め》の集団が居を構え、二季の彼岸に人を集めて口寄《くちよ》せをしたという。つまり、青森県|恐山《おそれざん》のイタコのようなことをしたらしい。ただし、そのやり方はイタコとはかなり異る。あずさの木で作った弓を手に持ち、眼の前に置いた小さな箱をその弓で打ってまず神をおろし、その後、死んだ人や時には生きた人の心を引き寄せたという。
「たしか、この辺や思ったんやけど」
定吉は郵便貯金会館の位置を示す看板の下を左に入って行く。
「あった」
古いマンションと工具店の間に挟《はさ》まれた一|軒《けん》の古びた仕舞屋《しもたや》。
通りに面した部分は格子《こうし》作りで入口には大きく蝶《ちよう》の紋《もん》を打った木綿《もめん》の三幅|暖簾《のれん》を掛《か》け、軒《のき》に注連《しめ》縄《なわ》を張っている。なかなかにうさん臭《くさ》そうな構えだ。
「ごめんやす」
黒い墨塗《すみぬ》りの格子戸をガラリと開《あ》ける。
土間の一段と高くなっている場所に薄茶色《うすちやいろ》の屏風《びようぶ》を立てまわした式台があり、そこに「御教《おんおしえ》の要石《かなめいし》様、本日は終りにて候《そうろう》」と書かれた短冊《たんざく》が下っていた。
「定吉だす。あがらしてもらいますう」
彼は草履《ぞうり》を脱《ぬ》ぐと、勝手にズカズカと上りこんだ。
短い廊下《ろうか》の突《つ》き当りに白い幕が張りめぐらされている。
「小蝶《こちよう》大夫《だゆう》さん。こんばんは」
定吉はサッと幕をかき分けた。
白木《しらき》の祭壇《さいだん》、薄絹《うすぎぬ》の几帳《きちよう》。その陰《かげ》に白い布団《ふとん》が敷かれている。
若い女が一人で坐《すわ》っていた。
布団にはつい先程まで男女が睦《むつ》み合った痕跡《こんせき》が歴然と残っている。
髪《かみ》の長い女だ。彼女は低い祭壇にしつらえた八角の神鏡《しんきよう》に向って、その長い黒髪を一心に梳《くしけず》っていた。
「大夫《たゆう》さん、今日のお勤めはもう終《しま》いでっか?」
布団を踏み越えて彼女の方に歩み寄った定吉は、生絹《すずし》の水干《すいかん》に包まれた小さな肩を背後からそっと抱きかかえた。
「うふん、いけず言わんといて」
女は、彼の方を振り返り、首に手を回してくる。勝気そうな顔構えの女である。
「あんさんみたいなエエおなごが、なんでこないな商売してはるのか、良《よ》うわからん」
定吉は彼女の耳朶《みみたぶ》にソッとつぶやいた。
「わからんでええわ」
小蝶は甘《あま》い吐息《といき》の間から切れ切れに答える。
鯰《なまず》巫女《みこ》
というのが彼女の通称である。かつての梓《あずさ》巫女ではない。
今でこそ地震《じしん》は中部、関東、東北の専売特許のようになっているが、江戸の初期までは西国にも直下型が多く発生していた。ナマズ巫女と呼ばれる占い女たちは、こうした天災|祓《ばら》いを専門に扱う。
大阪ではここ二百年ほど大きな地震がない。「無い、ということはそれだけ地中にエネルギーが蓄《たくわ》えられている証拠《しようこ》である。大地震はいずれやって来る。それを鎮《しず》められるのは自分の祝詞《のりと》と信仰《しんこう》する『要石《かなめいし》様』だけである」と唱《とな》えてこの女は巫女の看板を掲《かか》げている。
大阪では時おりこんな妙なものが流行《はや》る。一種の新興宗教なのだ。が、これは表向きのこと。実態は布教活動に名を借りた売春《ばいしゆん》であった。
客筋は主に天王寺《てんのうじ》、阿倍野《あべの》、新今宮《しんいまみや》あたりの小金を貯めこんだ中小企業の経営者である。
小蝶大夫は、「口寄《くちよ》せ」と称してヒヒ爺《じじ》いたちを祭壇前の布団に誘《いざな》い、多額の御祈《ごき》とう料≠取っていた。
定吉は別にそうした彼女のやり口を、悪どいとは思っていない。金の使い道を知らない色ボケはたぶらかされるだけ誑《たぶら》かされれば良いのだ、とさえ思っている。
ただ……、彼が問題にしているのはこの女の正体だった。
「あん」
定吉の唇《くちびる》に軽く口付けした彼女は、なじるように身をよじった。
「また、そんなモン脇《わき》の下に吊《つ》ってからに……。お乳ンとこ、当って痛いやないの」
彼の胸元に収《おさま》ったホルスター入りの柳刃包丁《やなぎばぼうちよう》が、小蝶大夫の尖《とが》り始めた乳首に当っている。
「あ、こら済《す》まんことで。堪忍《かんにん》してや」
定吉はあわてて身を離《はな》した。
「なんや、定やん。妙《みよう》な匂《にお》いするな」
小蝶大夫は彼の肩のあたりをクンクンと嗅《か》いだ。
「さよか。やっぱり臭《にお》いまっか?」
自分の袖口《そでぐち》あたりを持ち上げ、あらためて嗅いでみる。微《かす》かにドブくさい。
「梅《うめ》の小枝、襟《えり》に差したぐらいではごまかせんなあ」
ヘドロだらけの安治川《あじがわ》を泳いで横断して来たばかりである。いくらウェットスーツを着ていたとはいえ、臭いはちょっとやそっとでは消え去らない。
「どないしたん?」
「そこの慶沢園《けいたくえん》(市立美術館の裏手)の溝《みぞ》にはまってもうたんだす」
彼はヘタな言いわけをした。
「ン、もう。どんくさい人やなぁ。そしたら先にお風呂《ふろ》入って」
小蝶大夫は彼を布団の脇《わき》から隣《となり》の間《ま》に誘《さそ》った。
総檜《そうひのき》造りの板敷《いたじ》き、壁面《へきめん》に棚《たな》が吊られ、大きな石の御神体《ごしんたい》と注連《しめ》縄《なわ》を張った水槽《すいそう》が並《なら》んでいる。風呂場の脱衣場《だついじよう》とも祈とう室ともつかぬ妙な部屋に彼は導かれた。
「また鯰《なまず》さんの水槽増えましたな」
「ブラジル帰りの信者がウチに……て献《けん》じてくれはってん」
定吉は一番新しい水槽に手を伸《の》ばす。
「あかん!」
小蝶大夫が声をあげた。
「テンブローレ≠「う電気ナマズや。触《ふ》れたらあかん。怒らせると牛でも殺すそうやで」
「ひゃあ」
彼はビックリして手を引っこめた。
四十センチほどのグロテスクな魚である。背びれも尾びれも小さく退化して頭だけが異様に大きい。ナマズというより巨大なオタマジャクシだ。
「危いモン飼《こ》うてはるんでんな」
「なあに、客寄せの看板や。ウチはナマズ巫女《みこ》やもん」
テンブローレという鯰は、アマゾン川の支流リオ・バグレ近くに生息し、体長一メートル、重量は二十キロ以上にも成長する。鰭《ひれ》はオレンジ色、頭のすぐそばに肛門《こうもん》を持ち、体の側面が発電帯になっている。主に両棲類《りようせいるい》を捕食《ほしよく》し、乾期《かんき》になると、岸辺の泥《どろ》にもぐりこんで卵を生みつけるが、その際それと知らずに近付いた人や家畜《かちく》に被害《ひがい》を与えるという。なにしろ最高一万ボルトの放電力があるというから恐《おそ》ろしい。
「ナマズは精付く言う話や。こいつの蒲焼《かばや》き食ろうたらさぞビンビンになりまっしゃろな」
「あほなこと言うとらんで、早よ着物|脱《ぬ》いで」
ガラス戸をガラッと開けると広い浴槽《よくそう》には湯が張ってある。
定吉はスルスルと帯を解き、襦袢《じゆばん》の上に付けていたバーンズ・マーチン・三点式ホルスター改造の包丁《ほうちよう》ケースを肩から外すと、湯舟《ゆぶね》の脇《わき》にあるタオル掛けへ無造作《むぞうさ》に引っかけた。
小蝶が待ちかねたように彼のひょろ長い身体へからみついてくる。
彼はゆっくりとその背中を抱《だ》き止めて接吻《せつぷん》した。
と、その時である。水槽のナマズがピシャッと小さく跳《は》ねた。
定吉は口付けしたまま上目《うわめ》使いに隣《となり》の部屋を窺《うかが》う。
祭壇の神鏡に何かが映っている。
頭の黒いネズミやな。彼は気付かぬふりをして小蝶を愛撫《あいぶ》する。
隣の部屋に一人の男が現われた。忍《しの》び足でソッとこちらへ寄ってくる。
定吉は、なおも彼女を抱きしめたままである。
革のスタジャンを着たパンチパーマのヤンキーの突《つ》っぱり兄ちゃんが、彼の背後に近づき、ブラック・ジャックを振《ふ》り上げた。
ブン!
得物が振り下ろされた瞬間《しゆんかん》、定吉は彼女を抱《だ》きかかえたまま、クルリと半回転する。
ボコッ。
「痛たあい」
小蝶の悲鳴があがった。ブラック・ジャックは彼女の頭に命中したのだ。
「出て来おったな。NATTOの間者《かんじや》め」
定吉は女の身体を突《つ》き飛ばし、男の手首へ手刀を当てた。
ポロリとブラック・ジャックが床《ゆか》に落ちる。ヤンキーは、チョーパン(頭突き)を食らわそうとして安物の仏像みたいなパンチパーマを突き出した。
「めげん奴《やつ》やな」
突進《とつしん》してくる男をヒョイとかわした定吉は、安物のジーンズに包まれた貧弱な尻《しり》を思いっきり蹴《け》り上げる。
ヤンキーは、勢い良く宙を飛び、ドボンと湯舟《ゆぶね》の中に落ちた。
「あちちち」
まだ水を埋《う》めていない熱湯である。彼は仰向《あおむ》けになってジタバタともがく。と、その手が偶然にもタオル掛けのホルスターへ届《とど》いた。
定吉は、ハッとした。それは、彼の自慢《じまん》の殺人道具。三品家内人|藤原有次《ふじわらありつぐ》六代目作といわれる九|寸《すん》五|分《ぶ》の業《わざ》もの、鋼鉄をも両断すると言われた「富士見西行《ふじみさいぎよう》」である。
ヤンキーは、湯の中で逆《さか》さになったままホルスターから包丁《ほうちよう》を抜こうとあせっている。
定吉はあわててあたりを見まわした。
彼の視線が先程の棚《たな》に行き当る。
彼は迷《まよ》うことなく棚に手を伸《の》ばし、水槽《すいそう》を持ち上げると湯舟に放り込んだ。
「ギャアー」
バリバリバリッ。紫色の光がきらめいた。湯の熱さに驚いた電気ナマズが放電したのである。
定吉は床に落ちた包丁を拾い上げ、襦袢《じゆばん》の袖《そで》でゆっくりと拭《ぬぐ》った。
「えらい災難《さいなん》やったな」
ヤンキーのパンチパーマは電圧でレゲェ・ヘアに変っている。湯の中で身体をねじ曲げたその姿は、吉本新喜劇《よしもとしんきげき》の井上|竜夫《たつお》が舞台《ぶたい》で演じる絶命≠フポーズそっくりだった。
「『シビリ江戸へ行け』や」
正座で痺《しび》れた時に唱《とな》える子供のまじない文句を引導《いんどう》代りに投げかけて、定吉は着物の帯をキュッと締《し》める。
「これで少しは懲《こ》りたやろ」
頭を押さえてうずくまる小蝶大夫に投げキッスを送り、彼は悠々《ゆうゆう》と部屋を出ていった。
2 とっても素敵《すてき》な有馬《ありま》の湯
アジサイの花を象《かたど》った街灯が、広小路通りの両側で一斉《いつせい》に花開き、名古屋|御園座《みそのざ》の周《まわ》りにも大阪と同じような夜がやって来た。
名古屋駅の東を流れる堀川の両岸で、料亭《りようてい》、割烹《かつぽう》、映画館、いずれ劣らぬ繁華街《ビジイ・ストリート》の雄《ゆう》たちが、川面に光を投げかける黄昏《たそがれ》刻《どき》。栄《さかえ》一丁目朝日新聞社社屋裏のとある横丁で一人の老人が目覚めた。
「おーい、だーれもおらんのかあ〜」
老人は、綿のはみ出た煎餅布団《せんべいぶとん》から首を伸した。
枕元《まくらもと》に今どき珍しい手回しの蓄音機《ちくおんき》が置かれている。
彼は、垢《あか》だらけの布団から這《は》い出して、機械の蓋《ふた》を開いた。回転体の上には78回転のSPが乗っている。
老人は、ゼイゼイと息を切らしながらハンドルを回し、古びて波を打っているレコードに針を下ろした。
一九三〇年式テレフンケン社製のスピーカーから物悲しい「チゴイネルワイゼン」の音色《ねいろ》が流れ出す。
老人は再《ふたた》び布団――それが布団と呼べるのなら――の中に潜《もぐ》りこみ、ゴホンゴホンと聞き辛《づら》い咳《せき》をした。
「お父っつぁん。きしめんが出来たわよ」
穴《あな》だらけの障子《しようじ》がカラリと開いて、二人の娘が部屋に入って来た。
一人は髪《かみ》を長く下ろし、もう一人はアップにしている。双子《ふたご》である。年の頃なら二十一、二といったところだろうか。色白の美人だ。
「いつも済《す》まないねえ」
老人は気弱に眼を伏《ふ》せた。
「お前たちにはいつも苦労ばかりかけて……」
姉妹は手にした盆をケバ立った古畳《ふるだたみ》の上に置き、老人の上半身を起こした。
「こんな時におっかさんが生きていてくれたらなぁ」
髪をアップにした娘《むすめ》が湯気《ゆげ》の立つ丼《どんぶり》に削《けず》り節をふりかけながら首を振った。
「それは言いっこなしでしょう。お父っつぁん」
「さあ、お箸《はし》持って」
肩《かた》までかかる髪をかき分けながらもう一人の娘が老人の胸元に手ぬぐいをかけた。
「そうだなぁ。言いっこなしだ」
二人の気配りに眼を潤《うる》ませた老人は、心もとない手つきで丼を持ち上げる。
一口、平たい麺《めん》をすすりあげた彼はううっ、と唸《うな》った。
「う、う、うー」
「どうしたの、お父っつぁん」
老人は箸を持った手をあわてて振った。
「心配ねえ、喉《のど》につまらせたわけじゃねえんだ。昔《むかし》、テレビでこんな劇を見たような……」
「へえー」
「……たしか、牛乳|石鹸提供《せつけんていきよう》シャボン玉ホ……」
老人は涙《なみだ》のいっぱい溜《たま》ったギョロ眼を窓《まど》の外に向けた。
「あら、あら、ちゃんとドンブリ持たなくっちゃダメよ。お汁《しる》が垂れてるじゃないの」
ロング・ヘアーの娘が、身につけていたエプロンの裾《すそ》で老人の膝《ひざ》を拭《ぬぐ》う。
「この指先が以前の半分も動けばなあ」
箸を持つ手に視線を落し、老人はいまいまし気につぶやいた。
「大丈夫よ。暖《あ》ったかくなったら、また動くようになるわよ。そうしたら……」
髪をアップにした方がそこまで言いかけた時、
「柿《かき》の木《き》さん。柿の木さんとこの家はここきゃーも?」
入口のドアが小さく鳴った。
ベニア板の外で男の低い声がする。
「ハイ、どなた?」
姉妹はデュエットで答えた。
「鯱鉾屋《しやちほこや》のモンじゃあ」
「しゃっちょこ立ちのモンジャ焼ですか?」
「違うがねー。鯱鉾屋|金蔵《きんぞう》の使いのモン、て言うとるがにい」
二人の娘は、ハッとして顔を見合わせる。
「あっ、ういろうの鯱金《しやちきん》!」
二人はあわててドアを開いた。
ネオンの光が、薄暗《うすぐら》い室内にパッと差し込《こ》む。その輝《かがや》きを背にして一つの人影がモジモジと身をくねらせて立っていた。
「んー、もう。早よ開《あ》けてくれんとイカンがねー」
「済《す》みません」
男は妙《みよう》な名古屋弁でネチネチと不平をとなえながら、背広の内ポケットを探《さぐ》った。
「旦那《だんな》さんが、急に関西の方へ行くと言い出したんだわ。それで、どちらか一人お伴《とも》してもらいたいんじゃがね」
貧相《ひんそう》な物腰《ものごし》の男は、名鉄トラベル・サービスのチケット袋《ぶくろ》から新幹線のキップを取り出して眼の前にかざす。
「どちらか一人?」
「二人とも出かけたら、おみゃーさんとこの爺《じい》さんが困ろうがね」
男は、継《つ》ぎはぎだらけの綿入れにくるまった老人を指差した。
「あたしが行くわ」
髪を長く下ろした娘が、もう一人の娘に向って言った。
「そうしてくれるかね。いやぁ、助かるわぁ。なにせ旦那さんは、待て暫《しば》し、がない人じゃからねえ」
「お店の方へすぐに伺《うかが》いますって、鯱金《しやちきん》さんにお伝え下さい」
娘は腰のエプロンを外《はず》すと奥《おく》へ入って行った。
「ほいじゃ、たのんだよ。わしゃこれで帰るでよ」
使いの男はラメ入りの腹巻きへ片手を突《つ》っこみ、ヒョイと頭を下げた。
「こりゃまた失礼いたしました」
「もーろーた。貰《も》ろた。休みを貰ろた」
桜の花弁《はなびら》が舞《ま》い散る道のド真ン中で、定吉は思わずスキップを踏《ふ》んだ。
歩いていた観光客の一団が、大声にビックリして振り返る。
「あー、ええなあ。こんなに伸《の》びのびするのは何ヵ月ぶりやろか」
彼は、空中に漂《ただよ》うピンク色の物体をくわえ込《こ》もうと大口を開けた。
ロープウェイの駅から新たに降りて来た人々が、坂道の途中で真っ赤な口を開きピョンピョンと飛び跳ねる大男を見て胆《きも》を潰《つぶ》した。
「何でんね、アレ?」
「春先になると、ケッタイなヒトが出て来まんな」
彼らは定吉と眼を合わせないように顔を伏《ふ》せ、大急ぎでコンクリートの坂を駆《か》け降りて行った。
「うーん、やっぱり桜の花ビラは、桜餅《さくらもち》みたいな味がするで」
ハンチングのつばに乗った花ビラを、指先でつまみ上げた定吉は、それを口の中に放り込んでモグモグと噛《か》んだ。
山道はどこもかしこもピンクの嵐《あらし》である。
「む、一句|浮《うか》んだ。『春の山 風邪《かぜ》をひいたか 洟《はな》(花)だらけ』」
汚《きたな》い句を一つひねり出すと、彼は眼を山の向うに転じた。新緑の中に点々と高層ビルが頭を覗《のぞ》かせている。坂の正面に見えるのが落葉山、その山裾《やますそ》に建っているのがグランド・ホテル、そのまた向う側のチョッと下ったあたりがウツギ谷と呼ばれる場所である。
「今日の宿はどこにしたろかいな」
定吉は懐《ふところ》から阪急電鉄発行のパンフレットを取り出した。
「あほがみるぶたのけつ、あほがみるぶたのけつ、……と」
宿泊ガイドのところを指で数え、首を振る。
「ひゃあ、こうやってあらためて勘定《かんじよう》してみると、いっぱいあるもんやなあ」
旅館・ホテルの類《たぐい》が、である。彼はあほらしくなってパンフレットを閉じた。
「ま、初めてやないんやし、出たとこ勝負で良さそうなとこ飛び込んだろか」
坂の途中《とちゆう》に止ったホテルの送迎《そうげい》バスを横目で見つつ、定吉はつぶやいた。
伝説によれば、有馬《ありま》温泉を最初に発見したのは、あの大きな袋を肩にかけ、の大国主命《おおくにぬしのみこと》であるという。
歴史に現われるのは「日本書紀」舒明《じよめい》天皇の三年(六三一)の項である。
以来現在に至るまで関西の人々はここをとっておきのリゾート地として愛用してきた。
三方を大きく山が囲み、春の桜《さくら》と秋の紅葉の美しさはたとえようもない。
「京阪神《けいはんしん》の奥座敷《おくざしき》とは良う名付けた」
温泉街の真ん中を流れる滝川《たきがわ》に沿ってブラブラと歩きながら定吉はしきりに感心した。
道なりに行くと有馬温泉会館の前に出る。右に行けば通称温泉寺と呼ばれる薬師堂《やくしどう》。彼は落葉山の麓《ふもと》に建つひときわ大きなホテルに歩いていった。
「たまには贅沢《ぜいたく》のひとつもしてみたろうかいな」
定吉は鼻をズズッとすすり上げ、手にした風呂敷包《ふろしきづつ》みを腰《こし》に巻きつけると、大股《おおまた》でホテルの坂を登り始めた。
ハイヤーが並んだ駐車場《ちゆうしやじよう》を抜けて玄関に入ると、そこは赤いカーペットが敷《し》きつめられたホールになっている。入口には、この種のホテルの例にもれず、土産《みやげ》物《もの》の屋内店舗が大きな顔をして居座《いすわ》っていた。
「炭酸せんべいにマツタケ昆布《こんぶ》か。そや、お孝《たか》ちゃんのために後でミヤゲ買うたろ」
ウィンドウを覗《のぞ》きながら彼は恋人《こいびと》の名をつぶやいた。
そのまま土産物売り場を通って団体客のたむろするロビーを抜け、フロントに近付いて行く。
「あのー」
大理石造りのチェック・イン・カウンターに長い肘《ひじ》が乗った。
「はい、お名前をどうぞ」
若いフロントマンが慇懃《いんぎん》に頭を下げる。
「わて……、そちらさんに予約してまへんのやけど」
フロントマンはあらためてこの珍妙《ちんみよう》な客の姿を見なおした。唐桟《とうざん》の着物に茶の角帯《かくおび》、裾《すそ》は臑《すね》まで見えるくらいに短く、足元は素足に草履《ぞうり》をつっかけている。腰《こし》にくくりつけた小さな風呂敷《ふろしき》以外荷物らしいものはない。
「恐《おそ》れ入りますが……、シーズン中でございますので、ただいま当方は満室になっております。他へ御問《おと》い合わせを……」
その奇妙な客は、見ているこちらが可哀想《かわいそう》になるほどガックリと肩を落し、落胆《らくたん》した表情を見せた。
「さよか……。ゴールデン・ウィークの前やし、こんなに大きなとこやから、もしかしたら空《あ》いてると思うてきてみたんやけど……」
男は被《かぶ》っていたハンチングを脱《ぬ》ぐと、その中から何か掴《つか》み出し、おずおずとフロントマンに差し出した。
「わて、実はこういうとこのモンやけど、これでもあきまへんか?」
「はあ?」
和服姿の男が見せたものは、小さな木の板である。表面に何かアルファベット文字が書かれている。
「何ですか? これ。……シークレット・メンバー・オブ・ザ・オーサカ……」
その瞬間《しゆんかん》、彼の後に立っていたフロント・マネージャーが血相《けつそう》を変えてスッ飛んで来た。
「これは、これは。大阪の……会所の方で。はい、ちょうど良いお部屋が一つ空《あ》いております」
マネージャーは、若いフロントマンに目くばせした。彼は一瞬何が起ったのかわからずポカンと口を開ける。
「君、何をしているんだね。早く最上階スペシャル・スウィートのキーをお出しして」
「あ、いや、そんなええとこでなくて結構ですう。わて、|丁稚《でつち》やさかい、身分不相応なとこ泊《とま》ったら肩凝《こ》って往生《おうじよう》します。普通の和室があったらそっちの方を」
男はあわててマネージャーの言葉をさえぎった。
「そうですか。では和室の控《ひか》えの間《ま》付をどうぞ。こちらもいいお部屋ですよ」
マネージャーはチーンと卓上《たくじよう》ベルを鳴らした。二人の女中が左右からサッと駆《か》け寄り、男のハンチングと腰に巻いた風呂敷を無理やりむしり取った。
「くれぐれも粗相《そそう》の無いように」
御案内いたします、の声とともに女中は、恐縮《きようしゆく》しきった男の大きな身体を押し包み、エレベーターに運んで行く。
3 たいこもちにおまかせ
岩石ローマ風呂《ぶろ》と名付けられた大型浴場の中はガランとしていた。
「こら、まるで貸し切りや。けっこうなこっちゃ」
定吉は、岩風呂の端《はし》から端まで思うぞんぶん泳ぎまわった。
「湯加減もエエし、これで温泉マニアの若いオナゴでも入って来たら最高なんやけどなあ」
彼は頭に乗せた手ぬぐいで顔を拭《ぬぐ》うと、デヘヘッと一人ほくそ笑《え》む。
「そやなー、年の頃《ころ》なら十九、二十《はたち》。そうそう、テレビによう出てる温泉紹介ギャルいうのんがええな。こんな風な大けな手持ち看板とマイク持って」
定吉は、突然《とつぜん》妙な声を張り上げた。
「『泉質は、ラジウム泉・含鉄強塩泉《がんてつきようえんせん》・炭酸泉デス!』『効能は、神経痛・婦人病・切り傷などに効くそーデス!』」
テレビに出ている温泉ネエちゃんの物マネのつもりである。彼は、しばらく大声ではしゃいでいたが、やがて虚《むな》しくなったのか、口をつぐんだ。
「あーあ、一人で来てもやっぱりおもろないわ」
もともと休暇《きゆうか》の使い方がヘタな男なのである。小一時間もジッとしていたらもう身体がムズムズして来る。こういう性格を大阪では「苛《いら》ち」という。
「ほんに貧乏性《びんぼうしよう》や。自分でも情けなくなるで」
勢い良く湯を顔に打ち当て、彼はタメ息をついた。
「もしもし」
突然、湯気《ゆげ》の向うから誰かが声をかけて来た。
「失礼ですが……」
あっ、いかん。あまり傍若無人《ぼうじやくぶじん》に振舞《ふるま》いすぎた。定吉はあわてて岩陰《いわかげ》に身を寄せる。
「すんまへん。一人やと思うてケッタイな声出してまいました。かんにんしとくなはれ。もう黙《だま》ります」
彼は湯気の彼方《かなた》へペコペコと頭を下げた。
「いやいや、別に責めてるわけやおまへん。あんさん、会所の定吉はんでっしゃろ?」
定吉は身をこわばらせた。なぜ自分の名を知っているのだ。「敵」か? だとしたら大変だ。ここは湯の中、得物《えもの》は針一|筋《すじ》身につけていない。持ち物といったら頭の上の手ぬぐい一本。さて、どうしよう。
「へえ、おっしゃる通り定吉でおます」
「そっちの方へ寄せてもろてええかな?」
定吉は全神経を声のする方に集中させた。
殺気《さつき》は感じられない。少なくとも今の段階では……。
「どうぞ、御随意《ごずいい》に」
彼は開き直って答えた。
「ほなら、遠慮無《えんりよの》う」
白い湯煙《ゆけむり》の中からバシャバシャとお湯を掻《か》き分ける音が聞こえ、やがて、湯出しの石組みの陰からカワウソのようなものが覗《のぞ》いた。
「ヘッ、おじゃまさん」
定吉は思わず吊《つ》りこまれてペコリと頭を下げる。
まん丸い額《ひたい》、少し薄《うす》くなった頭髪《とうはつ》、顔の中心には大きな鼻が胡坐《あぐら》をかき、二重《ふたえ》の眼尻《めじり》がベロリと垂れている。まるで吉本の「アホの坂田」である。
「わて、な……」
ニコニコと笑いながら近付いて来た男のおでこが定吉の視界《しかい》から急にフッと消えた。
次の瞬間《しゆんかん》、岩風呂《いわぶろ》の中に巨大な水《みず》飛沫《しぶき》が上る。
「わっ」
「す、すんまへんな。タ、タイルで滑《すべ》ってまいました」
湯の中から顔を出した男は、自分の額《ひたい》を両手で摩《さす》った。
「あー痛あ。湯舟《ゆぶね》の底でデボチン(額)打ってもうた」
「大丈夫でっか?」
これは、ホンマモンのアホや。赤く剥《む》けた男の出額《でびたい》を眺《なが》めて定吉は一人うなずいた。たとえ敵であっても、これなら恐《こわ》くはない。
「いやあ、不細工《ぶさいく》なとこお見せしました。心配おまへん。傷出来てもこの湯は薬ですさかい世話無しや」
「そらそうやけど」
「わて、大阪は安居《やすい》の天神さん裏『新清水《しんきよみず》』(天王寺区伶人町)に住居《すまい》いたします、茶目八《ちやめはち》いう幇間《ほうかん》でおます」
たいこもちか。定吉は相手の男をしげしげと見つめる。もとより|丁稚《でつち》の身分、茶屋遊びなんぞしたことがない。この種の芸人に知り合いは無かった。
「ええとこでええ人に会った。これも日頃《ひごろ》信心する新清水《しんきよみず》の千手観音《せんじゆかんのん》さんと、ここのお薬師《やくし》さんのおかげや」
茶目八は、栄養失調児のような太鼓腹《たいこばら》をペタペタと叩《たた》きながら笑いかける。
「わては商売柄、北の新地《しんち》やら新町やらに出入りさせてもろてますので、日頃よりあそこの仲居《なかい》さんたちからアンさんのお噂《うわさ》よーく聞かされとります」
大きなお茶屋では、主人《あるじ》よりも座敷《ざしき》の差配をする仲居の方が旦那衆《だんなしゆう》、芸妓衆《げいこしゆう》に対して発言力が強いのだという。彼女たちの間でウワサのネタになっている、という話を聞いて定吉は悪い気がしなかった。
「初めてお目もじいたしますが、いやあ、噂に違《たが》わずエエ男振《おとこぶ》りで」
「何でわてを一目で定吉と見抜《みぬ》きなはった?」
一応これでも秘密情報員である。トーシロの眼でそう簡単に見破られるようでは危くて道も歩けない。定吉は疑わし気に茶目八の顔を見上げた。
「いや、わてかてタダの人間だす。愛宕《あたご》聖《ひじり》や箕面《みのお》の修験者《しゆげんじや》みたいに眼力《がんりき》が坐《すわ》ってるわけやない。実は……、先程フロントでアンさんが秘密会所の身分証出しはったたのをそっと見てましてん」
茶目八は、どうだ目ざといだろう、と鼻の穴をグッと広げた(それは、アホの坂田が舞台の上で「わしホンマはアホちゃいますう」と威張《いば》る顔つきそっくりだった)。
「ああ、それで」
なんや、やくたいもない(くだらない)。まったく、誰が見ているかわからんもんや。これから鑑札《かんさつ》を出すときは充分《じゆうぶん》注意しなくては。定吉は、ザブザブと手拭《てぬぐ》いで顔をこすった。
「な、アンさん、仕事柄ナゾ解《と》きなんかもいろいろしまんのやろ?」
「まあ……、ちょっと前までは探偵《たんてい》やらスパイまがいの立ち働きもやりましたが、今はもうしてまへん。ああいうのんは、カタギのお店《たな》モンがすることと違《ち》ゃいますから」
定吉は肩《かた》をすくめてみせた。
「またまた、そんな御謙遜《ごけんそん》を――」
たいこもちは小狡《こずる》そうに眼の玉をクルクルとまわし、肘《ひじ》で彼の脇腹《わきばら》を小突《こづ》いた。
「あんさんの評判の腕《うで》を見込《みこ》んで頼み事がおます。いやいや、わて自身のことやおまへん」
「何だす?」
乗り気のなさそうな風《ふう》を装《よそお》って定吉は尋《たず》ねた。彼の好奇心の針がピッと震《ふる》える。
「ウチの旦那《だんな》のことでんね」
「あんさんとこのダンさん?」
「ま、話は長《な》ごうなりまんね。イチから話とったら全部言いきるまでに湯当りしてまいまんがな。別に一席設けてますさかい、詳《くわ》しいことはそっちゃの方で」
茶目八はタオルで前を押さえ、湯から飛び出す。
「悪い話やおまへん。後生《ごしよう》やから、聞くだけ聞いとくなはれ」
湯舟《ゆぶね》の外でペタリと正座した中年のたいこもちは、頼んます、とタイルへ薄《うす》くなった頭をこすりつけた。
「こちらでおます」
茶目八の露払《つゆはら》いで定吉はゆるやかな斜面《しやめん》を登っていった。
ホテルの裏手、山の中腹《ちゆうふく》にしつらえられた料亭《りようてい》の離《はな》れに至る道である。
「用件て何だす?」
「ええ、そらもう、席についてからゆっくりと」
沓脱石《くつぬぎいし》の前まで来て、いざ草履《ぞうり》を脱《ぬ》ぐという段になってから急にためらい始めた彼の手を、たいこもちは座敷《ざしき》から引っぱった。
「ささ、上席へ」
主客が床柱《とこばしら》を背にして坐《すわ》るのを見澄《みす》まして茶目八は手を打つ。
「さあ、お着きでっせえ」
「なんや急にお大尽《だいじん》になったみたいやな」
これはかなりの下心《したごころ》有り、と見た方が良《よ》さそうや。定吉は注意深く対処《たいしよ》しよう、と眉《まゆ》につばをつけた。
「ほなら、まあ駆《か》けつけ」
茶目八は徳利《とくり》を取り上げる。
「すんまへん。わてメチャクチャ無調法《ぶちようほう》で」
「ああ、さいでしたか。ほなら、すぐに料理行きまひょか」
定吉が本物のプア・ドリンカーであることを見てとった茶目八は、強《し》いて勧《すす》めず再び手を叩《たた》く。
「オナゴ衆、どんどん運んで来とくなはれや」
お通《とお》しは、卵、かまぼこ、八幡巻《やわたまき》、稚《ち》アユの南蛮漬《なんばんづけ》、アワビ、山椒漬《さんしようづけ》の六種。次が、ここの地掘りらしい腰《こし》の強いトロロ。汁物《しるもの》に、鯛《たい》のうしおと来て、お向《むこ》うがドーンと瀬戸内《せとうち》ものの桜鯛《さくらだい》。もちろん明石《あかし》の海峡から荒波にもまれて瀬戸内海に入った天然ものである。肥後青白磁桜花形《ひごせいはくじおうかがた》の大皿《おおざら》に盛られた一匹丸々の生き造りを見て定吉は我を忘れた。
まず姿を見て味わう。鯛の良《よ》し悪《あ》しは尾鰭《おびれ》の一番細まった部分を押してみれば瞬時《しゆんじ》にして知れる。ここに強い弾力がある鯛は身もプリプリしているのだという。
定吉は、無作法《ぶさほう》と知りつつも思わず突《つ》つき箸《ばし》をした。そんなことをせずとも、身を一口食べてみればわかることなのだが、そこが悲しい|丁稚《でつち》育ちなのである。
「うーむ、こらうんまいわ」
薄《うす》いピンク色の肉片を口に含《ふく》んだ定吉は、頬《ほお》の内側に広がるホンノリとした甘《あま》さに感動し、不覚にも涙《なみだ》をこぼしかけた。
桜鯛《さくらだい》の旬《しゆん》は、桜の時期ではない。端午《たんご》の節句《せつく》を過ぎた頃が本当の味わい時なのだという。だが、今の彼はそんな屁《へ》の突っ張りにもならないグルメ・ウンチクなどクソ食らえ、という気持ちで一杯だった。
「有馬の山の奥で、こないなエエ鯛を食えるやなんて」
器《うつわ》の趣味《しゆみ》も良ければ、包丁《ほうちよう》も冴《さ》えている。山中とはいえさすが古来より西国の名士|数多《あまた》集《つど》いける奥座敷《おくざしき》≠ナあった。
「喜んでもらえて、わてもうれしいですわ」
茶目八は、一人、手酌《てじやく》でニコニコしている。
その後、焼物の白皮|甘鯛《あまだい》。口替《くちか》えの海老《えび》の揚進女《あげしんじよ》、合肴《あわせざかな》の胡麻豆腐《ごまどうふ》と進む。そしてとうとう煮物《にもの》のフタ付きが運ばれてきたあたりで、彼はそれまでせわしなく動かしていた箸先《はしさき》を止めた。
「さて、師匠《ししよう》。この辺でそろそろ本題に入りまひょか」
「その椀《わん》もここの自慢《じまん》の品、三田《さんだ》の上《かみ》で今朝《けさ》取れたばかりの朝掘りのタケノコだす」
茶目八は、定吉が素直に椀のフタを取って箸をつける動作をしばらく観察していたが、やがて声をひそめて話し出した。
「定吉はん。あんさん尾張《おわ》り名古屋≠「う手なぐさみ知ってまっか?」
「知りまへん」
「明治の末から大正にかけて、東海あたりでエライ流行《はや》ってた遊びだしてな。ルールは実に簡単なもんだす」
茶目八は、藍弁慶《あいべんけい》の袷《あわせ》の下に重ねた浴衣《ゆかた》の懐《ふところ》から二つ折りの手拭《てぬぐ》いを取り出した。
「こういうサイを……」
手拭いを広げる。その中に奇妙《きみよう》な賽《さい》が五つ入っていた。一応、一《ピン》から六《ロンジ》まで彫《ほ》ってある。が、どれも六つの面のうち三つが黒い。
「……使いましてな」
「三面黒、三面白でっか。ドミノのダイスに似てまんな」
「これを五つ全部|壺《つぼ》で振りまして、張子《はりこ》は目やのうて色に賭《か》けます。黒が三つ以上出れば黒の勝ち、白が出ればその逆や。ところが五つ全部黒が出ると親が総取り、黒≠ニ張った方も金とられてまいます。反対に白≠ェ五つ出ると、黒の賭金全部と白の張子が賭けた額《がく》の半分だけ親が取ります」
たいこもちは、サイを卓《たく》の上に並《なら》べて説明した。
「全部白だと、白に賭けた方は辛《かろ》うじて自分の懐を保《たも》ってられるから『白で保《も》つ』」
「なるほど、尾張《おわ》り名古屋≠ニいう名は『城で持つ』のシャレでっか」
名前だけは粋《いき》なゲームである。
「これは、日清戦役《につしんせんえき》の頃《ころ》に流行《はや》った天災《てんさい》≠「うバクチの変形でしてな。先代のウチの師匠《ししよう》撞木《しゆもく》の茶目八≠ェ若い頃コレに引っかかってエライ散財《さんざい》したというハナシだすわ。見た目単純なもんやさかい一旦《たん》足かけられるとドドドッといってまう」
「ああ、天災=v
「知ってまっか」
定吉は懐手《ふところで》を組んだ。その名なら知っている。
「天災」というバクチは、もともと米相場《こめそうば》の隠語《いんご》から生まれたものであるという。明治になって地租税《ちそぜい》が金納制になると、農民は納税時期に米の一気売りをするようになり、春先は相場が暴落した。ところがこれに戦争や天候不順が重なると逆に暴騰《ぼうとう》し、米相場師はボロい儲《もう》けをする。天の配剤《はいざい》によって相場の明暗たちどころに変るところから米の「天災相場」と呼ばれたが、それをヒントにしたのがバクチの「天災」である。
定吉はまだ非合法活動者の見習い――柄《がら》は大きくても子供衆《こどもし》と呼ばれた――の頃に、堂島《どうじま》の古老から聞かされた昔話《むかしばなし》を思い出した。
「あんさんの御《ご》ひいき筋《すじ》が、その手の極道《ごくどう》に引っかかった……」
おおかた世間知らずのアホ坊《ぼ》ンがスジ者になぶられているとでも言うのだろう。
「いや、相手は極道やおまへんね。歴《れつき》とした会社役員で」
茶目八は意外な事を言った。
「かたぎ?」
「へえ、裏の裏はどうだか知りまへんけど、一応そういう話で」
茶目八は徳利《とくり》をかたむけた。
「『たいこもち、あげての果てのタイコモチ』て言いまっしゃろ。わてもこれで以前はお店《たな》預《あず》かる大番頭《おおばんとう》。結構イキな遊びもさせてもろてましたが、楽しみが過ぎて身を持ち崩《くず》し、飲む・打つ・買う、三拍子揃うた極道モンになり果てて、一時は丹後《たんご》の宮津《みやづ》に隠れ住んだこともおます。そやからバクチの裏表かて一応は知ってるつもりです。それが、今度のイカサマだけはよう見抜《みぬ》けまへん」
彼は杯《さかずき》をクッとあおった。
「サイに小細工《こざいく》してる形跡《けいせき》もない。もうお手上げですわ。旦那《だんな》といえば、今日で二日も一方的に負け続けで」
「え? 賭《か》けはここでやってはるんでっか」
茶目八は黙《だま》って席を立つと、部屋の隅《すみ》に歩いて行って、中庭に面した古風な半蔀《はじとみ》(格子《こうし》の引き上げ戸)を持ち上げた。
「温泉まで来て湯にも入らんと、ずっとああでんね」
彼方《かなた》の山の斜面に、小ぎれいな露天《ろてん》の風呂場が見える。
ホテルの特別客にだけ開放されたスペシャル・バス。湯気《ゆげ》さえあがっていなければ茶室の庭と言っても通じそうな風情《ふぜい》である。
「あそこなら他人の眼を気にせずに遊ぶことができまんな」
檜皮葺《ひわだぶき》のあずまやが中央にしつらえられ、その中に四つの人影《ひとかげ》が動いていた。
テレコ(互《たが》い違《ちが》い)に坐った二人は日本髪を結《ゆ》っている。温泉の芸妓《げいこ》だろう。あとの二人が茶目八の旦那と、そのイカサマ野郎というわけか。
「遠すぎて良うはわかりまへんけど、カラクリ仕込めるような環境やおまへんな」
定吉は小手《こて》をかざして目を細めた。
「どうです。あのイカサマのネタバラシを、やっていただくわけにはいかんもんでっしゃろか?」
半蔀《はじとみ》を降ろし席に戻《もど》った茶目八は、すがるような眼でこの高名な非合法活動|丁稚《でつち》を見た。
「『タケノコの早手まわし』、いう言葉があります」
定吉の眼は、すでに椀《わん》の中に注がれている。
「旬《しゆん》のタケノコは、掘ったその日のうちに調理する場合にかぎりアク抜《ぬ》きの米ぬかなんぞ使わんでええんだそうですな。一番ダシ取った後の昆布《こんぶ》を鍋《なべ》に敷《し》いて、一時間もコトコト煮《に》ればアクは消えてまうんだそうで……。ま、何ごとも早めに手ェ打てば、大げさにせんで済《す》むという教えだす」
輪切りにされたタケノコを箸《はし》でつまみあげ、彼は微笑《ほほえ》んだ。
「ほなら、わての頼《たの》み……」
たいこもちの顔がパッと明るくなる。
「あんさんには、今、鯛《たい》御馳《ごち》になりましたしな。実言うとわて、ヒマ持て余し始めたとこでんね」
定吉は象牙《ぞうげ》色に光る春の贈《おく》り物をモグモグと噛《か》む。
「賭《か》けのトラブルいうもんは、早目に手ェ打たねばアカンもんだす」
「あ、ありがとさーん」
茶目八は大声をあげた。
「うむ、一句出けた」
定吉は箸《はし》を止める。ここに来てからよく句が浮《うか》ぶようになった。
「ひま人《びと》が……」
「ふむ? ひまびとが、と来ましたな」
「鯛に釣《つ》られし 有馬山《ありまやま》」
茶目八はポンと膝《ひざ》を打ち、即座《そくざ》に下の句をつけた。
「起きつ湯《ゆ》の間《ま》に 金返《かねかえ》る見ゆ」
京極為兼《きようごくためかね》が聞いたら情け無くて涙《なみだ》を零《こぼ》すに違いない、ひどい本歌どりであった。
4 元湯《もとゆ》のバルブ
夢《ゆめ》の中で鐘《かね》が鳴っていた。
大阪市役所の塔《とう》で鳴り響《ひび》く「みおつくしの鐘」である。
「うわぁ、イカン。遊び過ぎてもうた」
定吉は悲鳴をあげた。
「こ、小番頭《こばんとう》サンに叱《しか》られるー!」
その瞬間《しゆんかん》、彼は自分の声で目覚《めざ》めた。
枕元《まくらもと》で電話が鳴っている。鐘の音、と思ったのは、どうやらコレらしい。
「ヘイ、ヘイ、今出ますう」
手をのばして受話器を取り上げる。聞こえて来たのは女性の声。
「お早ようございます。ただいま七時です。お食事のお支度《したく》は一時間後……」
「あ、こ、こらどうも御丁重《ごていちよう》に」
定吉は、それが機械的に送られてくるテープの声だとも知らず、電話に向ってペコペコと頭を下げた。
「ほなら、朝ごはんは八時ということで。おおきに、ありがとさんですう」
受話器を置くと、それを床の間の定位置に戻し、もう一度頭を下げる。
「さて、と」
彼は大きく伸びをして、浴衣を脱ぎ、脇に並べられた着物に袖《そで》を通した。自分が今まで寝ていた布団《ふとん》もクルクルと手早く折り畳《たた》む。
「歯磨《みが》く前に一|風呂《ふろ》浴びたろかいな」
起きがけに即《そく》、湯へ入りたがるのは温泉好き、というよりビンボ根性《こんじよう》の現われとされる。銭湯《せんとう》がタダになったようなものだから何度も入らなければ損だ、と感じるのである。
「ああ、何やしらん、どうも身体がしんどいわ。こら、タマにええ布団へ寝《ね》たせいやな」
定吉は部屋の隅に寄せた丹後縮緬《たんごちりめん》のフカフカ布団をうらめし気に眺《なが》めた。
疲れの本当の原因は布団ではない。昨日から一時間おきに入っている風呂のせいだ。
彼はそれに気付いていない。
「よっしゃ、風呂に行って疲れ取ったろ」
こういう奴が団体旅行などに行くと真っ先に湯当りする。
定吉は、次の間に歩いて行って、タオル掛《か》けに干《ほ》してあった温泉手拭《てぬぐ》いを手にした。
外に出ようとして、フト立ち止り寝室へ取って返す。
「そや、例のダンさんどないしたはるやろ?」
庭に面した雪見障子《ゆきみしようじ》の桟《さん》を少し持ち上げてガラス越《ご》しに外を窺《うかが》う。
緑の木立《こだち》が朝陽に輝《かがや》き、大小の錦鯉《にしきごい》が泳ぐ池も西陣織《にしじんおり》の緞帳《どんちよう》を広げたようにキラめいていた。赤松の植わった築山《つきやま》をグルリと巡《めぐ》る玉ジャリの小道には、早起きだけが取り得といった体の老人たちが三々五々足取りも軽く歩きまわっている。彼らはここでこうして英気《えいき》を養い、また家庭に帰って嫁《よめ》や孫《まご》たちと壮烈《そうれつ》な生き残りゲームを展開するのだ。
「えーと。おっ、あれや、アレや」
湯気《ゆげ》で霞《かす》む斜面《しやめん》を見上げた定吉は指先で目尻《めじり》をこする。
「たいしたもんやな。今日で三日もブッ続けか」
あずま屋の中には浴衣姿の男が二人っきりで壺《つぼ》を振っていた。御相伴《おしようばん》の温泉芸者衆も呆《あき》れ果てて帰ったものと見える。
「あの調子なら、まだ当分は続くな」
安心した定吉は、庭に降りた。縄鼻緒《なわはなお》の庭下駄《にわげた》を突《つ》っ掛《か》け、庭掃除をする従業員へ気軽にあいさつを交して離れの風呂部屋に入る。
「ひゃあ、ええあんばいやなー。極楽《ごくらく》、ゴクラク」
深めの風呂にプカリと浮かび、彼は大声をあげた。朝っぱらからこんな贅沢《ぜいたく》ができるのも会所の鑑札《かんさつ》が有ればこそである。もしこの部屋の料金を自分の懐《ふところ》から出すとすれば、彼のお給金一年分にやぶ入りの時のお小遣《こづか》いを合わせても二|泊《はく》が限度であろう。
「うーん、やはり旅はロハにかぎる」
湯舟《ゆぶね》の中から首をめぐらせ、山の湯殿《ゆどの》をもう一度見上げた。
「どれ、早よ飯食ってイカサマ潰《つぶ》しの算段でもしたろか」
定吉はほくそ笑む。
部屋に帰ると、すでに和服の女性が朝食の仕度を用意して待っていた。
「あ、自分で御膳《ごぜん》よそいますさかい、もう下ってもうてもけっこうで」
食事係を遠ざけた彼は、御櫃《おひつ》の飯を自分で注《つ》いで黙々《もくもく》と食べ始めた。
朝のおかずは、フナの甘露煮《かんろに》、黄檗豆腐《おうばくどうふ》、寂光院《じやつこういん》の柴漬《しばづ》け、そして特別注文の船場《せんば》名物「船場|汁《じる》」だった。彼は時間に余裕がある限りどんな場所に行ってもこれを食べることにしている。大根と塩サバのアラでしつらえられた淡口《うすくち》の汁を毎朝|啜《すす》ることによって「自分は大阪の|丁稚《でつち》である」という事実を確認《かくにん》するわけである。
これはもう朝食と呼ぶべきものではない。一つの儀式《ぎしき》、と言っても良い。
「心持ち胡椒《こしよう》が振《ふ》り足らんな」
文句を言いつつも椀《わん》の中味を全部平らげた定吉は、膳《ぜん》と一緒《いつしよ》に運ばれてきた新聞に目を通した。デイリー・スポーツと日経の大阪版、神戸新報。それに一日|遅《おく》れの新大阪新聞である。
「なになに、久しぶりに円が下ったところへ掛布《かけふ》が女と歩いているところを見つかって、小豆《あずき》の相場《そうば》が動いたから組の若い衆が相手の事務所にカチ込《こ》み(拳銃《けんじゆう》を射《う》ち込《こ》むこと)やらはって、おかげで今年の夏は三《さん》の宮《みや》でうどん入りアイスクリームが大《おお》流行《はや》りの兆《きざ》し……か。うーむ」
四つの新聞をいっぺんに読むというのは、かなりの荒ワザとされる。特にその中の一紙が、百円玉一つ出せば十円玉が大量に戻ってくるというアノ激安《げきやす》筋《すじ》モン向け夕刊紙「新大阪」である場合はなおさらであった。
これも非合法|丁稚《でつち》が毎朝行う、集中力|鍛練《たんれん》の一つなのである。
「ヘッ、ごちそうさん」
膳を離《はな》れた定吉は、座椅子《ざいす》を日当りのいい部屋の隅に引いて行く。
開《あ》け放った障子《しようじ》の彼方《かなた》に新緑が見える。彼は、その一角を見つめた。
「ウチのダンさんの相手というのは」
昨日の、茶目八の言葉が頭の中に甦《よみがえ》る。
「名古屋の大金持ちでんね。何でも、家は江戸時代から続いた和菓子の老舗《しにせ》、最近は若向けに洋菓子なんかも作ってエライ羽振《はぶ》りやいうこってスわ。全国に支店もぎょうさんあって、イカサマなんぞやらんでもええような御身分とか。いや、実をいうとな。ウチの旦那《だんな》も大阪で代々続いた和菓子の老舗」
「どこで知り合《お》うたんです?」
「ここの露天風呂《ろてんぶろ》でおます。裸《はだか》と裸の肩寄せ合《お》うて湯に入れば、妾《めかけ》と古女房《ふるにようぼう》かて仲良《なかよ》うなりますやろ。ましてや同業者、知り合うたその日のうちにパーッと盛り上りましてな」
「うーむ」
定吉は腕《うで》を組みなおした。
同業者を、どうしてそこまで汚い手を使って、追いつめなければならないのか。聞けば、金にも困っていない身分……。ことによると相手は単に賭《か》け事《ごと》好きの実業家で、茶目八の旦那は下手《へた》の横好き、文字通りの盆暗《ぼんくら》≠ネだけではないのか?
「その線も違うなあ」
たしかに違う。第一、その実業家が好んでいる白黒ダイスの賭け自体がもともと怪《あや》しすぎるシロモノだ。
彼の知識によれば、「天災《てんさい》」バクチの変形は全《すべ》てドギツイ|いかさま《フエイク》ということになっていた。明治の頃に現われたこの手目《しゆもく》(だまし)は、日本人が考えたイカサマのうちで最も奇想天外《きそうてんがい》なものとして英国のジェイムソン賭博事典《とばくじてん》ANASI(穴師《あなし》)という項にも記載《きさい》されている。
……日本人はこれを行う時、ダイスを転がすストローマットの下に小さな穴を掘り、ここにギムレット(錐《きり》)を持った「穴熊《パジヤ》」と称する男を潜《ひそ》ませる。ダイス・カップが振られた瞬間、穴熊はストローマットの裏からダイスの目を読み、ギムレットの先で胴元《どうもと》に具合いの良い目を突《つ》つき出す……
ダイスを白黒に作ってあるのは、暗い穴の中から見分けるための配慮である。
黒が全部出れば親の総取りというルール、ところが黒が四|目《もく》、白が一目という場面に出っくわす。その時、盆《ぼん》ゴザの下にいる手先が威力《いりよく》を発揮《はつき》するのだ。これはもちろん、かなり危険なワザである。気配《けはい》を悟《さと》られた瞬間、鉄火場《てつかば》の掟《おきて》、盆ゴザ越《ご》しに刃物《はもの》が降ってくる。これで命を落した不運な穴師も多い。
「そやけど、穴熊《あなぐま》を潜《ひそ》ませる場所も無いな」
二人がゲームに興じている湯殿《ゆどの》のあずま屋は、四方に白木《しらき》の柱を建てて屋根を載せただけ。素通《すどお》しなのだ。ダイスを転がす場所も端を湯舟《ゆぶね》に突《つ》き出した木のテーブル。人の潜《もぐ》り込《こ》む余地はないのである。
「お食事はお済《す》みでしょうか」
定吉が首をひねっているところへ、配膳の女性が入って来た。
「ああ、御苦労さんで」
「ウチのホテルの船場汁《せんばじる》、どないでした?」
「うん、うまかったわ。調理場の人にもそない言うといて」
配膳係《はいぜんがかり》はうれしそうにほほ笑むと、膳を持ち上げる。部屋を出ようとして何気なく庭の方を見た彼女は、オヤッという顔をした。
「あら、またやわあ」
「何でんね?」
「湯気が一杯に上って……」
「いつもはあんなやないんですか?」
「へえ」
風呂のあたりがいつの間にか真っ白だ。
「三日ほど前から、元湯《もとゆ》の勢いが急に良うなって」
「元湯いうのはどこに在《あ》るんです?」
「ほれ、そこの山です。あそこもウチのホテルの持ち山で」
湯殿《ゆどの》の反対側にも湯気が上っていた。小高い丘《おか》の中腹《ちゆうふく》だ。古い茶室のような建物が幾《いく》つも木々の間から覗《のぞ》いている。
定吉は目を細め、ちょっと首をひねった。
「すんまへん。頼《たの》まれてくれまへんか」
「へえ、何です?」
彼は懐《ふところ》から小銭《こぜに》入れを取り出した。
「下の売店行って、覗き眼鏡《めがね》みたいなモン買うて来て下さい」
小さく折り畳《たた》んだ札《さつ》をす早く彼女の袖《そで》へ滑《すべ》り込ませる。
「子供のオモチャみたいなものしかおまへんで」
「いや、チャチなモンで結構」
配膳係は何を勘違《かんちが》いしたのかニヤリと笑い、黙《だま》って部屋を出て行った。
「ヘッ、おじゃまさまでごわります」
定吉が、買って来てもらったオモチャのオペラグラスをひねくりまわしているところへ、茶目八が入って来た。
「お早ようさんで」
「そちらのダンさんの御様子は?」
「あきまへんわ」
太鼓持《たいこも》ちは情け無さそうに肩をすくめた。
「夜前《やぜん》(昨晩)も遅《おそ》うなってから、ヨレヨレんなって部屋戻って来ました。風呂にも入らんのに湯気《ゆげ》だけで湯当りして。あら、もう病気でんな。今日も、まだ日の出る前からお出掛けで」
「難儀《なんぎ》な人やな」
オペラグラスのおまけに付いて来た金平糖《こんぺいとう》を頬張《ほおば》りながら、定吉は彼に座布団《ざぶとん》を勧《すす》めた。
「おおきに」
「で、賭《か》けの負けはナンボになりました?」
座布団の上にチョコンと坐《すわ》った茶目八は懐《ふところ》から手帳を取り出した。
「この三日で……二億五千万チョイです」
「ひゃー、そんだけあったら八ッ筋《はつすじ》(戎橋筋《えびすばしすじ》)の北極≠ナ特製アイスキャンデー思いっきり食えまんな」
「そないに食うたら腹下《はらくだ》して死にまんがな」
冷凍人間が出来上ってしまうだろう。あまりに矮小《わいしよう》な発想に茶目八は悲しくなった。
「ともかく、このままで行けば旦那のシンショ(身代)は、あと数日でパーだすわ」
「賭《か》けに弱い人ほど負けが込《こ》んでくると注ぎ込むもんだす」
袖口《そでぐち》でオペラグラスのレンズを拭《ぬぐ》った定吉は、ドッコイショと立ち上った。
「あ、定吉はん。どこへ?」
「ノゾキでおます」
「女風呂でも覗《のぞ》きまんのか?」
どうも、とんでもない人に仕事を頼《たの》んでしまった。茶目八は泣《な》き出しそうになった。
「心配せんといて下さい。もし、わての勘が当っているとすれば」
下駄《げた》を引っかけて庭に降りた定吉は、茶目八にヘタなウインクをした。
「すぐに片付きます」
飛び石をヒョイヒョイと渡《わた》って築山《つきやま》の陰に消えていく彼の後姿に向って茶目八は力無くつぶやいた。
「|丁稚《でつち》どん。頼《たよ》りにしてまっせ」
定吉は散歩道をブラブラと山の方に昇《のぼ》っていく。自然石の急な石段を踏《ふ》み越《こ》え、若葉の香る山道を分け入って行くと、いつしかそれはゆるやかなコンクリート敷《じ》きに変っていった。
「なるほど、ここに出るわけやな」
ホテルの裏手である。足元に広がる入母屋《いりもや》の屋根は、昨日、茶目八に伴《ともな》われて入った料亭《りようてい》の離《はな》れだ。
ずっと下った左手がホテルの中庭。テニスコートや温水プールと並んで緑色の平地が見える。ゲートボールの練習場らしい。今しもゴルフハットを被《かぶ》ったヨレヨレの男が一人、トンカチの化物《ばけもの》みたいな木槌《きづち》を抱《かか》えて入って来た。定吉はオペラグラスを取り上げる。もったいぶった素振《そぶ》りで腕《うで》をまわす老人の姿が安物のレンズの中に浮びあがった。その痩《や》せ細った肢体《したい》はまるで、ジャコメッティの人体彫刻のようだった。首を心持ち斜めに傾け、足をグイッと踏ん張っている。コートの端《はし》に坐った婆《ばあ》さん連中が一斉《いつせい》に拍手を送る。中には手の平を合わせてしきりに念仏らしきものを唱《とな》えている奴もいる。
「お爺《じ》やん、止《や》めときよし」
定吉は、心の中でつぶやいた。そんな楽しい遊びを続けていると、五、六年でダメになる身体が十年もってしまう。運動によって全身に刺激《しげき》を与え、寿命《じゆみよう》が延びたとて、この世におもろいことなど何もない。
「早よ、お浄土《じようど》に行きなはれ。タレ流しせんうちに棺桶《かんおけ》に入ってしまうんや」
頬《ほお》に点々とお迎《むか》え染《じ》みが浮《う》いた老人の姿を眺《なが》め終えた定吉は、レンズをゆっくりと左の方に振った。
コの字型に曲ったホテルの端から再び山裾《やますそ》が始っている。建物の中二階、三階からそれぞれ山の中腹に廊下《ろうか》が伸び、その先は階段状の露天風呂《ろてんぶろ》だ。
有馬というところは昔から山の傾斜地に宿を建てることで知られている。懸作《かけづく》りという形式で、入口から見ると平家《ひらや》だが、山の下から見上げると二階、三階という構造に作る。
上方落語の「有馬小便」という少し尾籠《びろう》なハナシはこうした有馬の宿が舞台になっている。
湯壺《ゆつぼ》と便所が谷底にあって、一階や二階(この場合は地下一階)の客が小便に行き辛《づら》いことを知った一人の男が小遣《こづか》いかせぎに節《ふし》を抜いた竹を持って有馬に行く、という筋だ。
「なるほど、落語と同じやなあ」
たしかに地形は同じである。しかし、違う部分もあった。昔は谷底に降りなければ湯に入れなかったが、ボーリング技術が発達した今では中腹のあちこちに湯壺が開かれている。
例の名古屋と大阪の菓子屋がダイスの勝負をくりひろげている茶室作りの湯殿も、そんな技術進歩のお裾分《すそわ》けにあずかっているわけである。ただし、彼らの入っている場所から湯が吹き出しているわけではない。ホテルの配膳係《はいぜんがかり》が言うところによると、ここの湯は全《すべ》てホテル敷地《しきち》内の裏山、つまり現在定吉が立っている場所の横手からパイプで送られているのだという。
「木の枝がじゃまして良《よ》う見えへん」
やはり、もっと上に行かなければ無理やな。定吉は下駄《げた》をカラコロと鳴らして山道を再び昇《のぼ》り始めた。
彼のこの行動は、確たる根拠《こんきよ》があってやっているわけではない。直感なのだ。二人の賭《か》けが始ったのが三日前、ちょうどその頃から急に元湯《もとゆ》の勢いがよくなった。定吉は、この符合《ふごう》に何やら事件の臭《にお》いを嗅《か》いだのだった。
彼はズンズンと山の散歩道を昇り、山の尾根に出た。そこには、湯を反対側の谷底から汲《く》み上げ、下のホテルに送る送湯管と調節装置があるはずだ。
「元湯《もとゆ》のバルブは、どうやらこれらしいな」
道の脇に一軒の古びた家屋《かおく》が建っている。良《よ》くよく見れば、数寄屋風《すきやふう》の凝《こ》った造りである。昔はここもホテルの接客用施設の一つとして使われていたに違いない。
入口の格子戸《こうしど》には鍵《かぎ》がかかっていなかった。
定吉は剥《む》き出しになった送湯管が建物の土台に引き込まれているのを再度確認してから、ゆっくりと中に入って行く。
「こんな大事な場所にカギも掛《か》けず、番人も置かんて、どういうこっちゃ」
彼は口を尖《と》がらせた。
「もし怪しい奴が入りこんだらどないするつもりなんやろ?」
この状況では、怪しい奴とは彼自身のことを指す、ということに定吉は気付いていない。
「ん?」
送湯ポンプの低い唸《うな》りに混って何やらつぶやく声が聞こえる。
「さっきは鶴《つる》で、今度の手は巴《ともえ》、今の温度は六十度平均だから……」
女だ。それもかなり若そうである。
ツルやらトモエやら言うとるけど、何のこっちゃろ? まさか、こんなところで回転焼き焼いとるハズはないし……。定吉はそっと声のする方へ近付いて行った。
簀《す》の子張りの土間《どま》から一段上った、奥のガラス戸に人影が動いている。
定吉はゆっくりと磨《す》りガラスの戸をこじ開けた。板敷《いたじ》きの部屋がある。脱衣場のようだ。今も時おり従業員たちが使っているらしく、きちんと掃《は》き清められていた。
「この中やな」
湯気に曇《くも》った浴室の中を覗きこむ。
タイル張りの洗い場一杯にエア・マットが敷きつめられ、そこに細身の女が寝そべっていた。髪の長い、スラリとした臑《すね》を持つ美女である。
残念ながら裸《はだか》ではない。派手《はで》な柄《がら》のワンピース水着を着ている。
「うーん、良うない傾向や! 近頃のオナゴは風呂と温水プールをゴチャ混ぜに考えとる」
なぜスッパリと裸にならんのや! 定吉は、水着の太股《ふともも》あたりを睨《にら》んで歯噛《はが》みした。
女は、バード・ウォッチャーが使うような防水式の大型手帳を広げて何やらメモっていたが、やがて、マットの上をゴロリと一回転、窓の方に顔を向けた。大きな一枚作りの透明ガラス窓。向う側には有馬の盆地《ぼんち》が広がっている。
ほう、裏六甲《うらろつこう》の山並《やまなみ》が一望のもとか。こんなパノラマ風呂を一人で占領するなんて、思いの外《ほか》風流な姐《ねえ》ちゃんやで。
男に背後から覗かれているとも知らず、女は窓際にペッタリと顔を押しつけている。
「あの合図《あいず》は、ええっと……、椿《つばき》ね。そうすると」
何ゴチャゴチャと言うとるんやろか? 定吉は、もっとよく見ようと浴室に半身を乗り入れた。
女は前のめりになって外を覗いている。
水着に包まれたヒップがキュッと持ち上り、まるで彼に向っておいでおいでをしているようだ。股間《こかん》に薄《うす》い布キレが食い込むのを見た定吉はついに堪《こら》えきれなくなり、フラフラと立ち上った。
彼女の後ろにまわろうとして、タイル張りの床に一歩|踏《ふ》み出す。
と、その途端《とたん》ツルリ、と滑《すべ》った。
そこに転《ころが》っていた石鹸《せつけん》へ運悪く足を乗せてしまったのである。一瞬、彼の身体は宙に浮く。
ボッチャーン!
大きな音を立てて定吉は湯舟《ゆぶね》に落っこちた。
女は振り返り、キャッと悲鳴をあげる。
「な、何なのよ、あんた?」
「あ、あ、熱いい」
湯《ゆ》飛沫《しぶき》を撒《ま》きちらして定吉はもがき苦しんだ。熱くて当り前、元湯《もとゆ》に一番近い湯なのである。
「たすけとくなはれー!」
これも大阪|巫女《みこ》町《まち》の湯殿でNATTOのヤンキーをいたぶった報《むく》いなのだろうか。
定吉の脳裏《のうり》にチラリと「因果応報《いんがおうほう》」の文字が浮んで消えた。
「誰なの?」
「わては、わては……」
「あっ、わかった。配管工事の人、そうでしょ」
「ち、ち、ち……」
違う、という言葉が出ない。女はなおも考えている。
「んーとねー。じゃあ、お風呂のタイル張りの人」
彼は勢い良く首を横に振った。女はなおもノンビリと質問する。
「それじゃあ何なの? ただの覗きのスケベ?」
「ひ、引き上げてくれたらおしえますうー」
両足を踏《ふ》ん張って、定吉を見降ろしていた彼女は、しかたない、といった風に苦笑し、手にしたバスタオルの端を湯の中に投げた。
「さあ、つかまって」
「おおきに」
真っ赤に茹《う》であがった定吉は、彼女の手を借り、やっとのことで湯舟の縁《ふち》へ這《は》い上った。
「水、みず」
浴室の隅に走って行って水の蛇口《じやぐち》をひねり、桶《おけ》に何杯も受けて頭から被《かぶ》る。体温を急速に下げてやけどを防ぐのである。ドジな性格のクセにこういうことだけは抜《ぬ》かりがない。
「そのお風呂、膝《ひざ》までの深さしかないのよ」
女は呆《あき》れた。
「さよか」
人は動転するとどんな死に方でもできる、と定吉は思った。統計によると、転《ころ》んだ拍子《ひようし》に、深さ数センチの水溜《みずたま》りへ顔を押しつけて溺死《できし》する酔《よ》っぱらいが毎年三十人はいるのだという。
「さっきの質問に答えてちょうだい」
「ヘッ?」
「あなたは、だーれ?」
女はB85(推定)の胸を突《つ》き出して尋《たず》ねた。
「わ、わては……ただの……通りがかりの|丁稚《でつち》だす」
いつもの十八番《おはこ》が無意識のうちに彼の口をついて出た。
「丁稚」
女は眼を丸くする。大胆《だいたん》なカットの胸がブルッと揺《ゆ》れた。
「その……『通りがかりの』と『丁稚』の間に『覗きの好きな』という言葉が入ります」
濡《ぬ》れネズミになった定吉は肩をすくめる。
「なあんだ。要するにタダのスケベね」
女はコロコロと鈴を転がすような声で笑った。思ったより気さくな性質らしい。
「ここの管理の人じゃないとは思ってたけど」
「なんでホテルの従業員ではないと、わからはりました?」
袖口《そでぐち》を絞《しぼ》りながら定吉は尋ねた。
「だって、『鯱金《しやちきん》』の奴がホテルの副支配人に鼻薬を嗅《か》がせて(金銭を渡して)、ここを従業員立入り禁止にしたって聞いてたから」
「シャチキン? 立入り禁止?」
「いらっしゃい」
女は定吉を手招きした。誘われるままに彼は窓際へ近づいていく。
そこには小型の三脚に乗った単眼鏡が置かれていた。軍用の射撃場で着弾測定《ちやくだんそくてい》に使われるような大型のスコープである。
「野鳥観察でもしてはったんでっか?」
「見てごらんなさい」
定吉は言われるままに接眼レンズへ片目を押しつける。
浴衣姿の男が二人さし向いで坐っていた。一方は見るからに気の弱そうな金ブチ眼鏡の若い男、もう一方は眉毛《まゆげ》の薄いデップリと太った中年男である。まるで、戦前のハリウッド喜劇に出てくるローレルとハーディ≠見るようだ。
「ん」
そう、それは例の「インチキ」賭博《とばく》が行なわれている特別客用の露天風呂《ろてんぶろ》の情景である。
「太ったユデダコみたいな男が見えてるでしょ?」
「へえ、浴衣の前はだけてテーブルにへばりついてるヤツでっか?」
「あれが鯱金《しやちきん》よ」
「ヤセ薬の広告に出て来そうな御仁《ごじん》でんな」
ダイエット食品のパンフレットに必ず出てくるタイプだ。もちろん使用前≠ニして、である。頬《ほお》、首筋《くびすじ》、肩、胸、腹、全身いたるところに肉の重り《ウエート》が張りついている。まるで崩れかけた肉マンジュウ……。
「名古屋の大金持ちで、ね。シャチホコ屋キンゾーっていうの。変な名前でしょ、フフフ」
女は含《ふく》み笑いをした。
昨日、茶目八から聞かされたインチキ賭博師《とばくし》≠フ名である。そうか、こんな不細工《ぶさいく》な奴か。
定吉は納得《なつとく》した。オモチャのオペラグラスしか持ち合わせていなかったから、今の今まで顔を確めることすら出来なかったが、この望遠鏡さえあればそいつの毛穴までジックリと見ることができる。
「なるほどけったいな奴でんな」
長いこと湯気《ゆげ》に当っているおかげで、全身がピンク色に染っている。それを見た定吉は、急に高麗橋《こうらいばし》「菊屋《きくや》」の桜餅《さくらもち》と渋茶《しぶちや》が一杯欲しくなった。
「ケチでノロマでインケンで……、クズよ、あいつ」
女は形の良い唇《くちびる》を皮肉っぽくねじ曲げ、吐《は》き捨てるように言った。
「あんさん、そのシャチキンやら言う人と、どういう御関係で?」
定吉はレンズから目を離した。
「それに、最前から聞いてると、ツルとかトモエとか」
女の顔にサッと警戒《けいかい》の色が浮かぶ。
「あんた、本当は何者なの?」
彼女の瞳孔《どうこう》はネコの眼のように小さく、細くなった。
「どうやら、ただのネズミじゃなさそうね」
「ヘヘッ、おたがいさま」
定吉はドスのきいた(と、自分では思っている)笑いを返す。女は彼の右後頭部に光る十円ハゲをしばらく凝視《ぎようし》していたが、やがて、同じようにフッと笑った。
「負けたわ」
バスマットの上に水着の尻をペッタリと付ける。ビニールの表面が擦《す》れ合って思いもかけず淫猥《いんわい》な音を立てた。
「あんた、警察の人ね」
彼女は弱々しい眼差《まなざ》しで、そっと定吉を見上げる。
「賭博取締《とばくとりしま》りの風紀《ふうき》係、でしょ?」
定吉は又ボッと突《つ》っ立ったまま何も答えない。マッポの使いっ走りと思われるのは不本意だ。が、相手が恐れ入ってくれるのなら、それはそれでまた結構。手間入らずやないか……、と彼なりに頭をめぐらせているのである。
「たしかに、あたしは……、あなたの御推察通り鯱金《しやちきん》の手伝い人よ」
女は割りにキレイな関東言葉でそう言うと、伸びきった両膝《りようひざ》を抱え込み、膝頭に頬を寄せた。
「あいつに言われるまま、ここでサイの目の出方を操《あやつ》ってたわ。だけど、それは」
やはり! 定吉は心の中で手を打った。自分の動物的な直感は当っていたのだ。
「仕方無かったのよ。鯱金に逆らったりしたら……」
女は、定吉のダン広な足の甲《こう》に向って言い訳めいた言葉をつぶやき始めた。
「名古屋の町では生きては行けないの。家には病気のおとっつぁんが居るし……」
定吉は、もう彼女の言葉を半分も聞いてはいなかった。一つのことを気にし始めると、他の事まで気がまわらなくなるというきわめて無器用な性格《たち》なのである。
彼は窓の外を眺めて首をひねった。
向いの山に見える湯殿の屋根。それは、どう控え目に見積っても、ここから四、五百メートルは離れている。もちろん途中の谷間にはホテルの施設が建ち並び、地形も複雑きわまりない。顔の見分《みわ》けはおろか人体の輪郭《りんかく》さえさだかならぬこんな遠方から、いったいどんな方法であんな小さなツボの中味を操作するというのだ?
「見逃《みの》がしてよ」
いつの間にか女は定吉の足元に這寄《はいよ》っていた。
「ネ、お願い」
しなやかな指が定吉の濡《ぬ》れてズッポリと重くなった唐桟《とうざん》の袖先を握りしめる。
「まあ、それは……、考えんこともおまへんけどなぁ」
女はワンレングスの髪をかき上げ、鼻を鳴らした。
「私、兵庫県警賭博係のモットー、ちゃあんと知ってんだから」
「何です? ソレ」
「またまた、とぼけちゃってェ」
女は立ち上った。爪先《つまさき》立ちになって彼の耳たぶへ湿った唇を近付ける。
「『魚心《うおごころ》あれば、ミ・ズ・ゴ・コ・ロ』」
デヘヘヘ、久しぶりに聞くエエ言葉やで。
定吉は、背中の生《う》ぶ毛を総立ちにさせて身をよじった。耳がくすぐったい。
「マ、マッポの役得言うヤツでんな」
「見のがしてくれるわね」
彼の痩《や》せた肩へ手をまわし、女はなおもささやく。
「それは……」
耳たぶの表から裏へ、ねっとりとした女の舌が這って行く。そこは彼の性感帯の中でも一番ポイントの高い部分であった。こ、こそばゆーい。
「ひゃー、も、漏《も》れてまいまンがな」
女はニッコリとほほ笑むと、定吉の首に手をかけて腰を引く。二人はバスマットの上へもつれ合うようにして倒れ込んだ。
「やさしく、ね」
「ほなら、ま、遠慮無《えんりよの》ういただきますう」
腕立《うでた》て伏《ふ》せの姿勢になった定吉は、濡れて解きにくくなった貝の口結びに手をかける。
彼女も自分の肩にかかった水着のヒモへゆっくりと手をかけて……、さて、それからは……「言わぬが花の吉野山」である。
5 アンコだらけの死体
「遅《おそ》いなあ。定吉つぁん、何してはンのやろ?」
茶目八は一人|座敷《ざしき》で茶を飲みながらブツブツとつぶやいていた。
「うーん、船場《せんば》で一の裏仕事師と見込《みこ》んで事を頼《たの》んだがワテの見当違《けんとうちが》い。山伏《やまぶし》の夕立ち(ホラ貝を被《かぶ》る。転じて買いかぶりのシャレ)やったかいなあ」
彼は庭の小道を眺《なが》めて唸《うな》る。
「何と無《の》う見た目もこう、何と無うたよりない感じのお人やったしな。しかし」
茶目八は太い指先で目尻《めじり》のあたりをポリポリと掻《か》く。
「このままダンさんの負け込みが続くと、ここの払《はら》いもメド立たんようになってまう。あーあ、有馬くんだりまで忠義《ちゆうぎ》立ての伴《とも》などするんやなかった」
彼はそこで大きくタメ息をついた。
「やっぱりホテルの払いはワテが持たなならんのやろなあ。大散財《だいさんざい》やな。同じ散財すんのやったら馴染《なじ》みの娘《こ》オと、ドヒャーッと行きたかったなあ。伏見浜《ふしみはま》の船宿の河原に面した張り出しにアンタとワテの差し向い、仲居《なかい》が『ほなら、ごゆっくり』と引っこめばオナゴが早やワケ有りの眼差《まなざ》しでコッチャの方へコテンと寄りかかる。『ねー、チャーさん』とか何とか言うて鼻にかかった声出して。わても男や。こないしてグッと抱《だ》き寄せば、承知で入れさす懐《ふところ》の手、『こら何や』てなことを言う。オナゴは甘えた声で『乳《ちち》でおます』、『わてはまた大坂城の大手門にかかっとる鉄《くろがね》のクギ隠しかと思うた』『ンー、アホなヒト。こないな柔らかいクギ隠し、どこの世界におます?』『お城が出来て三百年もたてば、クギ隠しかて腐るわい』てなこと……」
「クギ隠しが腐るわい、か。ワーッ!」
「ワッ!」
耳もとで突然|轟《とどろ》く大声に茶目八はビックリ仰天。驚《おどろ》いて振り返ると、いつの間に入って来たのか定吉が畳《たたみ》の真ん中で仰向《あおむ》けになってはしゃいでいた。
「なんや、定吉さんか。いつ戻って来なはった」
「うははは、プロの太鼓持《たいこも》ちはおなごとの口合いがうまい」
「何言うてまんのや。こら『遊山船《ゆさんぶね》』のモジリでっせ」
「ハア、落語のネタでっかいな ふーん、喜んでソンしたあ」
ムックリ起き上った定吉は、首に巻いた温泉タオルで耳の穴をせせくった。
「ナンや着物がエライ濡《ぬ》れてるやおまへんか」
「ちょっとしたあくしでんとだす。それより、な」
着物の湿りを指摘された|丁稚《でつち》ははずかしそうに頭を掻き、懐から例のオペラグラスを取り出した。
「これで、ダンさんたちの居るとこ、見とくなはれ」
太鼓持ちは、いぶかし気な面持《おもも》ちでそれを受け取り、レンズの先を山の露天風呂《ろてんぶろ》に向けた。
と、その直後、
「これは……!」と彼は息をのんだ。
「様子が変ってまっしゃろ」
定吉は得意気に鼻をすすり上げる。
「ダンさんが笑ってはる!」
「イカサマ野郎《やろう》の方はどうです?」
「二の替《かわ》り(正月興行)のシコロみたいに手踊《ておど》りしてまっせ」
シコロとは、上方芝居《かみがたしばい》で景気付けに出方《でかた》が踊る舞《ま》いを言う。頭巾《ずきん》・羽織《はおり》に面を付けた踊り手が、両手にシデというハタキのようなものを持ってうかれ騒《さわ》ぐのである。くだんのデブ男は、両手に持ったタオルを湯気の中でグルグルと打ち振り、そのシコロ舞いそっくりな動作をくりかえしていた。
「ほんにけったいなことしてまんな。何です、アレ?」
「運の神サンが向きを変えたんだすわ」
定吉は、唄《うた》うように言った。
「イカサマの仕掛《しか》けがわからはったんでんな?」
茶目八はハッとする。
「ヘエ」
「教えとくなはれ」
「そこにある茶ワンを全部、それに水さしと魔法瓶《まほうびん》もコチラへ持って来て」
言われるままに茶目八は、テーブルの上へ茶ワンを並べた。定吉も、水さしの冷水とポットの湯を交互に混ぜて茶ワンの中に注ぎこむ。
「理科の実験でも始めるつもりでっか?」
「で、これを……」
定吉は懐から二つ折りにした手拭《てぬぐ》いを取り出した。開けると、中から現われたのは白黒のダイス。
「例の、天災サイコロでんな」
テーブルの上にそのダイスも並べ、ポン、と手を打つ。
「さても満座のみなさま方よ。まかり出ましたこのサイコロはただの賽《さい》ではありませぬ。口から出|次第《しだい》、角中両座《かどなかりようざ》は町中お旦那《だんな》、御《ご》ひいき評判、籠正《かごしよ》の細工《さいく》は不二のまきがり、茶屋の座敷《ざしき》は芸妓《げいこ》の押しモノ……」
「チョボクレ♂S《うと》うてどないしまんね」
「すんまへん。これ言わんと調子出まへんよって」
「なんぎな人やな」
水を差された定吉は、エヘンとせきばらいして茶ワンを取り上げた。
「茶ワンに三杯の湯がおます。見てのとおり先ほどこれに水を混ぜました。一杯目は日向《ひなた》水ぐらいの熱さ。これをチョッピリ、サイコロに浴びせます」
彼は茶ワンの白湯《さゆ》を数滴、ダイスの上にふりかけた。と、見る間にその二つのダイスはクルリ、と回転する。
「アリャ?」
茶目八は目をこすった。
「さて続きしは二杯目の湯、これは少々熱うおます」
今度は、少し湯気が立ってるヤツをダイスに注ぐ。白黒の固まりは、ポンと空中に飛び上った。
「ひゃー、何です、コレ?」
「さてさて最後は一番熱い湯、タラリたらせば化け賽《ざい》たまらずアチチと騒いで駆け回る」
定吉は、得意満面、三杯目の茶ワンを傾けた。テーブルの上に置かれたダイスは何と、ノミのようにピョンピョンと跳《は》ねだしたではないか。
「うわー、気色《きしよく》悪うー。この賽、生きてまっせ!」
茶目八は床柱《とこばしら》にしがみついた。
「心配おまへん、て。こらカラクリ賽でんねん。こうやって水かけると」
水さしの水をテーブルに注ぐと、ダイスの動きがピタリと止った。
「あーびっくりしたあ」
茶目八は屁放《へつぴ》り腰《ごし》でテーブルに近づき、ダイスをソッとつまみ上げた。
耳元へ持って行って振ったり、臭《にお》いを嗅《か》いだり、子細《しさい》に点検してみるが、どこも変ったところは見当らない。
「うーむ、どこも変ったとこおまへんな。金《かな》モンのムク賽《ざい》(一体成形品)や」
ムクのサイコロはアンコ(中に鉛《なまり》や水銀を入れたもの)やキンコ(鉛の代りに比重の高い金の粉を入れる)、針出し(目の部分から針が出てツボに引っかかる)といった仕掛《しか》けを組み込むことが難かしいのである。
「糸で操ってた、いうことは?」
「わては竹田《たけだ》近江《おうみ》(江戸時代の有名な人形師)やおまへん」
定吉は笑いながら首を振《ふ》る。
「これは、金モンの材質に問題がありまんね」
彼は茶目八の手からダイスを受け取った。
「下地は真《しん》ちゅうだす。そやけど、成形する時に地肌《じはだ》んとこへれあめたる≠「うもんを鋳込《いこ》んどるのやそうで。つまり、ここんとこが」
と、黒く塗《ぬ》られた面を指し示す。
「金属のサンドイッチになっとるんですワ」
「重さ懸《かか》り(バランス)を変えてますのやな」
「いや、熱で膨《ふく》れまんね」
「ヘッ?」
狐《きつね》につままれたような顔をする茶目八の前へダイスをかざし、定吉は説明を始めた。
「れあめたる≠「う金属は、熱で形を変えるという性質を持ってましてな。たとえば、最初ここの平らな面を一定の温度の中でバネの形に作っときます。ほてかられあめたる≠ノ『冷えとる間はペシャンコになっとってもエエけど、コレコレの熱がかかったら元のバネに戻るんやで』と因果《いんが》含《ふく》めときます。するとこいつは正直にソレ覚えとって、温度が上ると突然プッと膨《ふく》れ、今みたいに跳《は》ねまんねん」
「アホな。そらまるで落語の『狸賽《たぬさい》』や」
茶目八はタレ目を思いっきり(と言っても常人の半分ほどだが)吊《つ》り上げた。
「あんさん、わてが無学な太鼓持《たいこも》ちや思うてオチョクッテまんのやろ」
「違《ち》ゃいますう。こら本当のことで」
ここで定吉が話しているレアメタルとは、俗に言う「形状記憶合金《けいじようきおくごうきん》」のことである。この金属は、特殊な状況のもとで成形すると、いつまでもその形を記憶し続ける。たとえその後に変形させたとしても、ある一定の刺激――この場合は温水――を与えるだけで瞬時《しゆんじ》にして元の形に戻るのである。
「SM25≠「う名でおます。ロケットやらコンピュータやらの先端技術には欠かせんモンだとか」
S・Mとはシェープ・メモリーの頭《かしら》文字であろう。
「そもそも、このSM25≠フ本来(由来)は、今を去ること二十年前、イタリアはミラノ工科大学のルイジ・アンチンボルドなる学者はんが」
「へえ、あちゃらの国にも道成寺《どうじようじ》≠フ安珍《あんちん》はんが居てまんのか」
「話の腰折ったらあきまへん。……そのアンチンはんが実験室でマカロニを茹《ゆ》でてはるときに偶然作り出した金属や言います」
「ほーう」
「ナゴヤのクソガキは、この曲賽《くせざい》を使いたいがためにわざわざ風呂場を勝負の場に選んだらしい」
ちょっとこちらへ、と定吉は縁側へ出た。
「その曲賽かて自分で操るわけやない」
あそこに、と彼は山の尾根へ延びる送湯管を指差した。
「元湯《もとゆ》のところへ手下《てか》置いといて、勝負が立て込んでくると下から合図を送る。それ見た手下が露天風呂へ蒸気を吹き上げさす。その熱で壺《つぼ》の中の賽が動くいう手順です」
「サイコロ一つ動かすのにエライ大層《たいそう》な仕掛《しかけ》や」
茶目八は、アングリと口を開けた。
「あの手踊《ておど》りはブロックサインだす。タオルをこう、頭に乗せると『鶴《つる》(一)』、肩に置くと『蟹《かに》(二)』、頭の上で振りまわすと『巴(三)』といった具合いで」
「なるほど、湯の温度を指示して好きな目を出さすいうワケでっか」
「あれは、昔の駄菓子問屋《だがしどんや》が使うとった符丁《ふちよう》だす」
雪隠詰《せつちんづ》めになった西川きよしみたいに大きく眼を剥《む》いた茶目八は、定吉のタネ明かしにひとしきり感嘆のうなり声をあげていたが、そのうちフトあることに気付き、真顔に戻った。
「あんさんコレ、誰に入れ知恵されました?」
「へへッ、わかりまっか?」
定吉はポリポリと頭を掻《か》く。
「ちょっと考えたらわかりまんがな。鉄のクギ隠《かく》しが腐《くさ》るいう非科学的なこと聞いて喜ぶお人や。もとより小難《こむず》かしい金物の知識が有るとは思えん。だいたいからしてこのケッタイな賽《さい》、あんさんどっから持って来なはった?」
茶目八の言葉に彼は目を伏《ふ》せ、テレ隠しに湯飲みへ口をつけてゴクリと喉《のど》を鳴らした。
「実は……」
コレコレこういうワケで、と彼はホテルの裏山で出会った女との一件を正直にうちあける。
「む、むむむむー」
全てを聞き終るやいなや、茶目八は鼻の穴を全開にした。
「じゃ、そのオナゴがあんさんの言うこと聞いて裏切りはった」
「えへへ、そうでんね。わての魅力が物言いまして」
|丁稚《でつち》は、太い指で畳に「の」の字を描く。
「で? その娘《むすめ》は今どこに」
「山の上でわての帰り待ってます」
「なんという……この果報《かほう》モン」
「まあ、そういうわけですから」
湯飲み茶ワンをテーブルに置いた定吉は、着物の襟《えり》を正す。
「わて、その女ンとこへアフター・サービスしに戻らんならん」
ほなら、また後ほど、と彼は身をかがめ、縁側から庭へ降り立った。
「気いつけて、腰抜《こしぬ》かさんように」
「ヘイ」
築山《つきやま》の陰にイソイソと消えて行くヒョロ長い背中。
茶目八は、その後ろ姿へフーッと感嘆の吐息《といき》を洩《も》らした。
「なるほど……、聞きしにまさるコマシの腕。敵にまわしたら恐ろしい……丁稚どんや」
「行こか新町元竜《しんまちもとりゆう》が宅《たく》へ、ここが思案の戎《えびす》橋ィ」
懐で両の拳《こぶし》を握《にぎ》り、肩をそびやかした定吉は、先刻下ったその同じ山道を幼稚園児の遠足よろしくスキップを踏みながら昇っていく。
労働の後のすがすがしさが彼の足どりをより一層軽いものにしているのである。
近道を取り、送湯パイプに沿って急な斜面を野生動物のような身のこなしで駆け昇った定吉は、アッと言う間に動力ポンプのある例の建物の前へとたどりついた。
入口に立った彼は、乱れた着物の合わせ目を揃《そろ》え、ペッと唾液《だえき》を手に受けて、乱れようはずもない職人|刈《が》りの短髪にコテコテとなすりつける。
「これでええかな」
首をめぐらせて身じまいを点検した定吉は、入口の把手《とつて》に手をかけた。
労働のもう一つの報酬《ほうしゆう》、それがこの扉《とびら》の向う側に枕《まくら》を抱えて転っているのだ。
そう思うだけで定吉の前立腺《ぜんりつせん》神経は、爆発寸前のマラカイボ油田みたいに張りきった。
「へへへ、ネーチャン。先ほどのモンだす。裏を返しにまた参じましたァ」
ガラリ、と開けると例の脱衣場の板の間。
「なんや、湯気で何も見えへん」
部屋の上り口は乳白色の渦《うず》で煙っている。
「名古屋のネーチャン、わてでっせ」
ムッと来る熱気の中を定吉は手さぐりで湯殿の方へ歩いて行った。
「バルブを全開にしてるのやな」
すぐに戻ってくるとわかっていながら、どうしてそんなマネをするのやろ? こないな熱っ苦しい中でセックスしたら一発で頭の線切れてまうで。
定吉はブツブツと口の中でつぶやきながら湯殿の引き戸を引いた。
「ン?」
湯殿の中いっぱいに甘い匂いがたちこめている。
「ケッタイやな」
それはあまりにも場違いな、しかし懐《なつ》かしい香りだった。
眼をこらすと湯気の彼方《かなた》に何か黒っぽいものが見えた。
定吉は首をかしげ、一歩踏み出す。
と、その瞬間、
彼の後頭部に強い衝撃が走った。
眼と眼の間から巨大な流星群が飛び出して額《ひたい》へ突き刺《ささ》る。鼻の奥がキナ臭くなり、唾液がドッと逆流した。
「おー星さーま、チーカチカ」
定吉はタイル敷きの床へドッと転がる。
これは小豆《あずき》の匂いや。激痛の中で彼はその匂いの元をシッカリと感じ取った。
湯気の中で誰かがこちらを見ている。白い屈折した光の中に立つ影は巨大だった。頭の頂上に棒のようなものを乗せた異様な姿。
お、お相撲《すもう》さん……? 何でこんなところに……?
が、思考が続くのもそのあたりまで。定吉の意識はそのまま暗い奈落《ならく》の底へスーッと吸い込まれて行った。
「まあ、定吉はん。来てはったん?」
お初天神《はつてんじん》入って左手にある天神サンの牛≠撫《な》でさすっていた定吉は、ポンと肩をたたかれあわてて振り返った。
見れば唐土《もろこし》手《で》の八丈《はちじよう》、繻珍《しつちん》の丸帯を胸高《むなだか》に締《し》め、おつむりを丸く結《ゆ》った小柄な娘がニコニコ笑って立っている。定吉の恋人、この境内《けいだい》に茶屋を開く増井屋のお孝《たか》ちゃんである。
「お店の戸が閉ってたもんで、ここ来て待ってましてン」
「堪忍《かんにん》、かんにん。今日は月に一度の町内|親睦会《しんぼくかい》やったンよ。中座《なかざ》で藤山寛美《ふじやまかんび》ショー見に行ってン」
「ああ、それでおめかししてはるんでンな」
「さ、これから仕込みや。定吉はん、出来立てのお団子《だんご》食べてって」
「ほなら、わても手伝いまっさ」
神社横手の店に入り、お孝が二階で仕事着に着替える間、彼は看板を拭《ぬぐ》い、三和土《たたき》に水を撒《ま》いていそいそと店開きの準備をする。
そのうち調理場の方から小豆を茹《ゆ》でる匂いがプーンと漂って来た。いつの間に降りて来てたのか襷《たすき》姿のお孝がヘッツイ(かまど)の前に立って大納言《だいなごん》≠炊《た》いている。
それを見た定吉は胸のあたりがキュンと鳴った。
「ああ、早よ年季が明けないもんかいな」
年季明けて一人立ちしたら、こんな血生臭《ちなまぐさ》い丁稚奉公《でつちぼうこう》なんてスッパリやめたる。お孝ちゃんと二人で団子丸めて、いや団子だけやない。春は筍《たけのこ》ごはんにくもじ(菜の花)、秋はサツマイモの難波《なんば》だきに村雨餅《むらさめもち》こさえてこの店大きくしたるねん。
定吉がグイと顎《あご》を上げたその刹那《せつな》、お孝がノレンの内から姿を現わした。大きな黒いボールを何個も乗せた盆《ぼん》を捧《ささ》げ持っている。
「そ、それ」
近付くにつれ盆の上に盛られているものが何であるかがわかった。バカでかいアンコロ餅だ!
「そんなモン作ってはったんでっか?」
「定吉はんにおなかいっぱい食べてもらおうと思って」
「ひゃー」
一つが一キログラムをゆうに越える餅の固まりである。
「全部食べてくれたら今すぐ所帯《しよたい》持ってあげてもエエわ」
「ムチャクチャでんがな。こんなサッカーボールみたいなアンコ餅……」
「食べてくれへんの?」
お孝の顔がプッと膨《ふく》れ、両眼からアッと言う間に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「フエーン、定吉はんがウチの作ったモン食べてくれへんー。うわーん」
「弱ったな。どないしょ。わかった、わかりましたがな。食べます。死ぬつもりでいただかせてもらいますう」
定吉は半ベソをかきながら巨大な餅にかぶりつく。
「ううっ、喉《のど》に詰《つ》まった。お茶、おちゃ注いでー」
「これ定吉さん」
「ノドつまった、お孝ちゃん、今度はお茶がこわい」
「しっかりしなはれ」
誰かが力いっぱい肩をゆすっている。
ワァと叫んだその瞬間、定吉は我に返った。生暖かいタイルの上に横たえられ、額には冷たいタオルが乗っている。
「よかった、気ィつきましたか?」
「茶目八はん」
先程ホテルで別れたばかりの太鼓持ちが心配そうに覗《のぞ》きこんでいる。
「危いとこやった。もう少しで茹立《ゆでだ》ち死《じ》に≠キるとこです」
茹立ち死にとは酔客《すいきやく》がサウナの中で寝込《ねこ》んだままユデダコのように死ぬことである。
「しかし、ノンキなお人やな。オナゴの名呼んだりアンコロの、お茶の、とうわ言を」
「どうしてここへ?」
彼の肩を借りて定吉はゆっくりと起き上った。後頭部にズキンと痛みが走り、不覚にもポロリと涙が一筋こぼれる。
「いえ、な。アンサンがあまりに浮《う》きうきと山に登って行くもんやから、ついこちらも覗き根性出しましてな。こら、よほどいい女に違いない。ひとつ眼福《がんぷく》にあずかろうと後つけて……」
茶目八の助平心《すけべごころ》が彼を救ったのである。
「くそっ、いったい誰やねん」
キリキリと痛む首筋を摩《さす》りさすり、定吉は立ち上った。
気をきかせた茶目八が窓を大きく開く。
「ありゃ、妙なモンが置いてありまっせ」
部屋の隅でその茶目八が叫んだ。
またケッタイな声張りあげて。頭に響《ひび》くやんか。口を尖《と》がらせた定吉は湯殿の中を覗き、ギョッとした。
湯舟《ゆぶね》のバスマットに長さ一メートル半ほどの真っ黒な固まりが転っている。
「何やろな?」
茶目八が鼻を近付けた。
「おいしそうな匂いがしてまんな。コレ、餡《あん》こだっせ!」
「ゲッ」
定吉は今しがた夢《ゆめ》の中で見た化《ば》け餅《もち》を思い出し、息をのんだ。
「えらい堺筋《さかいすじ》≠ェ始末してある(砂糖《さとう》が節約してある)アンコや」
「何で風呂場にこんなモンが?」
茶目八につられて彼も餡こを一|欠片《かけら》、つまみ取って口に運んだ。
「うむ、|丹波腰ケ谷《たんばこしがや》の大納言《だいなごん》」
流石《さすが》に彼はプロ、豆の産地まで言い当てる。
「餡の下は半殺し(飯つぶを半分つぶした餅)かいな。それとも皆殺し(普通についた餅)……」
茶目八がまだホカホカと暖かい粒《つぶ》アンをかき分ける。定吉はハッとした。もしや……。
「中味は桃色、道明寺《どうみようじ》(糒《ほしい》)みたいやなあ」
アンコを分けていた太鼓持ちの手がピタリと止まった。
「さ、定吉はん……これ」
彼の声がブルブルと震《ふる》え始めた。
「な、な、中に入ってるのは、……に、に、人間や」
餡の中から細い女の腕がのぞいていた。赤味を帯びた肌が、黒い小豆の固まりの中でにぶく光るその様《さま》は、スコットランドの泥炭《ピート》に埋もれた高地族《ハイランダー》の墓石を思わせる。
「やはり……皆殺しか」
定吉は見覚えのある赤いマニキュアの爪《つめ》を眺《なが》めて唇を噛《か》んだ。
6 懲罰《ちようばつ》のバーゲン会場
バーゲンというやつは、どうしてこうも男心を逆撫《さかな》でするように出来ているのだろう。
喧噪《けんそう》、人いきれ、わざと乱雑に積み上げられた商品の山、真夏でもないのにゴウゴウと音を立てるクーラー……。
なによりも堪《た》え難《がた》いのは、「おばはん」と呼ばれる確認済歩行物体が絶えず発し続ける殺気である。
人より少しでも安く、少しでも多く、と意気込《いきご》む彼女らに正面から刃向《はむか》って行ける生物は恐らくこの地球上に存在しないのではないだろうか。
会場のオープンと同時にドッと飛びこんでくるおばはんたちの、振りまわす太い腕、床を踏みしめる石臼《いしうす》のような踵《かかと》の前には、グーデリアンのドイツ戦車師団でさえも一瞬《いつしゆん》にして崩壊《ほうかい》するに違いない。
レジの後に半分身を隠した定吉は、上目遣いにおばはんの密集方陣《フアランクス》を眺めて寒《さ》ぶイボ(鳥肌)を立てた。
「ナンマイダブ、ナンマイダブ」
彼は口の中でお念仏《ねんぶつ》を唱《とな》える。
おばはんたちが黒く群がるその場所には、本日の特売品ワゴン≠ニ呼ばれる誉《ほま》れの柩《ひつぎ》が置かれているのだ。
やがて、その群れの中から一人の勇者が現われることだろう。鏖殺陣《おうさつじん》(皆殺しの包囲戦)の中から敵将の首を剣の先にかざして走り出るチンギス・ハーンの醜夫《しこお》のごとく眼を血走らせ、肘《ひじ》に生傷《なまきず》をこしらえた人物が、お一人様三枚までの紳士用綿ジャージ≠ニか、高級パンスト五色セット≠ニいった獲物《えもの》を抱えてこちらに駆《か》けてくるのだ。
その時こそわての最期かも知れん。
定吉はレジ台の脇にしゃがみこんでギュッと目を閉じた。
「兄ちゃん、ほれ、ニイチャンて!」
来た! 彼は、その声にますます身を縮める。
「何してんの。早よ、レジ打ってんか」
頭上の声はオクターブを上げる。
「ああ、タダで持ってってええのやな。ほならそうさしてもらいまっさ」
いかん! それだけは阻止《そし》しなければ。定吉は急いで立ち上った。
カウンターの向うに、マメダ(豆狸《まめだぬき》)みたいなチンチクリンのおばはんが商品をかざして立っている。
「ヘッ、まいど」
「あんた、アルバイトやろ。時間きめて銭《ぜに》もろてンのなら、もっとしっかりしいや」
年の頃なら四十七、八。暴走族でもあるまいし、ショート・ヘアの右前にメタリック・イエローのメッシュを入れた典型的な関西オバンだ。
「ヘエ、スンマヘン」
アルバイト、と言われて定吉は、あらためて自分の姿を顧《かえり》みる。
いつもの唐桟《とうざん》のお仕着《しき》せではない。ポリエステルの白いワイシャツにだらしなく締《し》めた幅広《はばひろ》のナイロンネクタイ。ごていねいにアームバンドまで付けて頭はいつも通りのショート・カット。まるで浪商《なみしよう》の野球部員がたまの休みにミナミの繁華街をうろつく時のようなファッションである。
ほんに、これはアルバイトルックや。
彼は情けなさそうに商品のタッグを取り上げた。その刹那《せつな》、
「兄ちゃん、ものは相談や」
レジのキィを叩《たた》こうとする定吉の指を、おばはんの脂《あぶら》ぎった手がパッと押さえつけた。
「これ、なんぼに負けてくれる?」
「へ、へえ、もう何ボかんぼとおっしゃられましてもな」
何というズーズーしい性格してんのや。定吉は目を剥《む》いた。他の土地のバーゲン会場は知らず、ここは天下の大阪、しかもそこで知られた問屋街のバーゲン場である。これ以上安くできるわけがない。
「……もう軒並《のきなみ》がこれ、このとおり同じ商《あきな》い、問屋でございます。高いこと言うたかて通らしまへん。それにアフタヌーン・セールスのことでございますし、奥《おく》サン方のことでございますよってに、ベイルートのテロみたいにドカーンとおまけして、近頃のドル紙幣みたいにぐっとお安う願いまして、福沢諭吉《ふくざわゆきち》はんみたいに精々《せいぜい》勉強して、香港《ホンコン》の苦力《クーリー》みたいに働きましたところ、二千五百円がとこ一|文《もん》もまかりまへんので」
定吉は開店直前に読まされた従業員接客問答集の通例どおりペラペラとまくし立てた。
「さよか。ほなら、な」
おばはんはなおも食い下った。
「これ軒並が同じ商いやのうて、アフタヌーン何とかやのうて、わてが奥さんやのうて、ベイルートが平和になって、アメリカの経済が回復してヤンキーの坊《ぼ》ンみたいに勉強もせんと、インドの行者はんみたいに働かなんだら、このシャツ何ぼになる?」
定吉はその早口に思わず息をのみこんだ。
「え、ええと……二千五百円……」
「ほれ見て見い。元の値段も同じやないか」
しまった! 正直に答えてしまった。彼はおばはんの狸《たぬき》ヅラからサッと眼を逸《そ》らせた。
「五百円ほど負けなはれ」
おばはんは勝ち誇った声で宣言《せんげん》する。
「い、いっぺんに二割も! そんな殺生《せつしよう》な。ここは問屋街でっせ。元から三割ほど引いてありまんのや。五百円も引いたら原価《げんか》割ってまいますう」
定吉は、遅《おく》れた年貢《ねんぐ》の言いわけをする村年寄《むらどしより》のように泣き声をあげた。
「かんべんしとくなはれ」
「ああ、さよか。あんたがそういう態度ならこっちも覚悟《かくご》いうもんがある」
密集戦闘の繰り広げられるバーゲン会場に向っておばはんの太い腕がサッと突き出された。
「この中で、わてがここのバーゲン品はイカサマや、割り高や≠ニ叫んでまわったらどないする?」
その言葉に定吉はサッと青ざめた。パニック≠フ四文字が脳裏《のうり》に浮《うか》ぶ。そうだ、数年前に阿倍野《あべの》のデパートでそんなことがあった。食料品のバーゲン会場で主婦たちが熱気のために錯乱《さくらん》し、「今日の安売りはタラや」という売り子の声を「タダや」と聞き違えて殺到《さつとう》。干ダラ数百匹がアッと言う間に消滅し、会場も再起不能なまでに破壊された……。
「さ、どないする。ウチの声は評判や。近所では『殺人サイレン』と呼ばれてる」
敵は無慈悲《むじひ》にもそう言い放った。
「わ、わかった。わかりましたがな。お、おちついて」
「わかればよろしい」
おばはんはニヒルに笑うと、紳士用ゴルフ・ウェア二枚セットを彼の前に突き出した。
「かなわんなぁ、もう」
なんという可愛気《かわいげ》のない化《ば》けべそや。定吉は怒りにまかせてシャツの襟《えり》から商品タッグを力いっぱい引きむしった。ピンクの地に白い横縞《よこじま》、もう一枚は地が赤く袖口《そでぐち》が黄色、どちらも通天閣《つうてんかく》に蛇《へび》の巻きついた縁起《えんぎ》モノのワンポイント付き。目がチカチカするようなスポーツ・シャツである。
どこの世界にこないな派手《はで》なシャツ着て歩くアホがおるんや。彼は腹の中で罵《ののし》り声をあげた。
大阪のおっさんは休日になると皆、わけのわからんゴルフ・ウェアを着用する。遊びで少し遠出をする時は、金のバックルが付いた白エナメルの尖《とが》り靴《ぐつ》を履《は》き、チューリップハットを被り、御丁寧《ごていねい》にアーノルド・パーマー印が付いたニセ・サングラスをかけたりもする。こうした趣味は、おっさんたち自身の考えから出ているのではない。おっさんの配偶者たる「おばはん」の意志なのである。
大阪のおばはんは、カジュアル・ウェア≠ニ聞くと即「遊び着」と連想する。遊び着イコール「遊び人の服」すなわち「町内に必ず一人はいるソノ筋《すじ》の兄ちゃんの着る服」という風に曲がって解釈し、ソノ筋の兄ちゃんが外出する時の服装を眺めて、なるほど、ああいう服か、と納得《なつとく》する。それに輪をかけるのが休日に放映する「○○オープンゴルフ」と称するテレビである。居間でゴロゴロ寝っ転ってこれを見物し、たまに庭に出て貰い物のクラブを振るおっさんの姿を見たおばはんは、さてこそ我が亭主はああいうカラフルな文化を欲しているのか、とうなずく。それなりにおっさんを愛しているおばはんが、次の日スーパーの特売場へ足を向けると、そこかしこに堆く積み上げられたソノ手の衣料品の山……。
「あんた、あしこの安売りで、な。これ買うて来てん。着てみ」
「なんや、それ。わしには派手すぎるで」
「なんやの、ウチがせっかく買うて来たもんにケチつける気ィ」
おばはんの鼻息の前には男の意志や矜持《きようじ》などといったものは、ほとんど水の前のオブラート、炎天下《えんてんか》のアイスキャンディに等しい。
かくして大阪のおっさんは皆、襟の大きなスポーツ・シャツ、白のジャージー・ズボンを着用して町を闊歩《かつぽ》し、他県の人々に「わけのわからん筋者《すじもの》みたいな格好ばかりするセンスのない連中」というレッテルを張られてしまう。
大阪の悲しい「衣」の文化がここにある。
「それもこれも全て、おばんが悪い。おばんのセンスが問題なんや」
「エッ、何か言うたか?」
「い、いえ、なにも」
ドスのきいたおばはんの声に定吉はビクッと肩を震《ふる》わせる。
「ヘッ、毎度おおきに」
二人の夏目漱石《なつめそうせき》を受けとった彼は、早くここを立ち去ってくれ、と言わんばかりに紙袋をおばはんの胸に押しつけた。
「おおきに、ほならまた来るわ、な」
黄色い声を張り上げて、彼女は再び人ゴミの中に突入して行く。
ソバガラ枕のように盛り上った力強い両肩に向って定吉は、そっと毒づいた。
「また来られてたまるかい」
あの有馬《ありま》の一件から二週間ほど経《た》った四月の上旬、大阪商工会議所秘密会所直属の情報部員定吉七番は、船場丼池《せんばどぶいけ》の繊維卸問屋連合会が催《もよお》す初夏の大バーゲン♂場の出口に立たされていた。
秘密任務ではない。単なる衣料品の販売員として働かされているのである。
「あー、つかれたあ」
午後一時半のチャイムが短く鳴った。人々が仕事場に戻って来るこの時間帯に定吉は、やっとレジの前から離れることを許される。
空《から》っぽの胃袋を押さえ、彼はゆっくりと地下の飲食街へ降りて行った。
彼の今いるこの場所は、地上四階、地下二階、延長は何と九百三十メートルもあるビルの一角だった。
日本一横に長いこの建物を人はそっけなく「船場センタービル」と呼ぶ。
「朝っぱらからおばはんの毒気に当てられて身体がフラフラや。何ぞ精の付くもん食うたろ」
定吉は「アナゴ弁当・ランチタイム二時まで」と書かれた小さな店のノレンをかき分けた。
昼はビル内で働くサラリーマンの食堂となり、夕方五時を過ぎると帰宅前にチョッと一杯という炉端焼《ろばたやき》に変身する、このあたりではさして珍しくないタイプの店である。
「オバちゃん、アナゴ定食に肉ジャガ」
奥の調理場に向ってそう叫ぶと、定吉はヨロヨロと座敷に上り、巨大な狸の置物が立てかけられた床柱《とこばしら》の脇に長細い背中を押しつけた。
「はーあ、つかれた」
出されたオシボリで首筋をゴシゴシとこすり、冷水を一気に喉へ流しこむと、やっとひとごこちついた気持ちがする。
「ほんにバーゲン言うもんはシンドイわ。これに比べたら、NATTOの秘密基地爆破なんて、お子たちのお遊戯《ゆうぎ》やで」
二週間前の極楽《ごくらく》のような日々を思い出して、彼はホーッと深いタメ息をついた。
今、自分が置かれている情けない境遇、「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンも思わず貰い泣きしてしまいそうな悲しい地位に追いやられた原因は、その有馬の湯にあった。
あの日、元湯ポンプ室の風呂場で餡《あん》こに包まれた女の死体を発見してからが大変だった。
うろたえ騒ぐ太鼓持《たいこも》ちに、「蛇《じや》の道《みち》はヘビ、この場はまかせとくなはれ」と口を封《ふう》じ、それまでの一件を全《すべ》て隠したまま地元の警察に届け、揉《も》み消し工作をしたところまでは上出来だった。しかし、それからがいけない。警察が気をきかせて、秘密会所の本部に連絡を取ってしまったのである。
情況確認にやって来た同僚のエージェントたちは、定吉が公務以外に使用してはならないと規定されている会所の鑑札《かんさつ》を私用に使っている事実をすぐさま察知した。「ヤブヘビ」とはまさにこのことである。
彼は身柄を拘束されて大阪に連れ戻され、丁稚査問《でつちさもん》委員会にかけられてしまった。
判決は有罪。明治以前の非合法丁稚なら、こんな時は「お仕置きや。飯抜《めしぬ》きで三番|蔵《ぐら》にでも入ってなはれ。このアホ助め」で済まされるところなのだが、そこは現代のこと、「定吉七番はその身分及び特権を一時停止する。別命あるまで船場《せんば》センタービル内の秘密会所直営店で販売員として活動すべし」
と一札が出て、哀《あわ》れ定吉はバーゲン会場のレジ係に格下げ、とあいなった。
「ヘイ、アナゴ弁当おまちどお」
「おおきに」
四角いベークライト製の容器が目の前にドンと置かれる。定吉は悄然《しようぜん》としてその蓋《ふた》を取った。
いったいいつになったらこの懲罰措置《ちようばつそち》が解除されるのだろう。
「もしかしたら、一生このままバーゲン要員で終るかも知れんなあ」
重箱の中の茶色い物体が涙でボンヤリとぼやけ始める。
「暖簾《のれん》分けもして貰《もら》えん下級工作員や。お孝ちゃんかて愛想《あいそ》つかすやろ。グッスン」
彼が洟水《はなみず》をすすり上げた、その時である。
「ちょい、あんさん」
という声が、どこからか聞こえて来た。
「誰や?」
くぐもったダミ声だ。どこかで一度聞いたことのある……。
「わてでおます」
「わて、と言われても」
定吉はワイシャツの袖口《そでぐち》で涙を拭《ぬぐ》い、そっとあたりを見まわした。
ランチタイムもそろそろ終りの時間である。店にはもう彼以外に誰も食事を取っているものはない。午後の倦怠《けんたい》を漂《ただよ》わせた薄暗《うすぐら》い食堂、木の椅子《いす》だけが定吉の視線を跳ね返すように鈍く輝《かがや》いている。
「わてですがな。ほれ、前に一度情報をお届けした……、極秘連絡専門の留吉への二十六番」
「ああ、留吉かあ」
声は定吉の背後から響《ひび》いていた。どうやら床柱の脇に置かれた信楽焼《しがらきやき》の大狸《おおだぬき》に隠れているらしい。
「狸《たぬき》に入っとんのか?」
「へえ、お久しぶりでおます。お元気でなにより」
「そんな畏《かしこ》まらんでもエエ。わて、今はタダのレジ係や」
「聞きました。とんだ災難《さいなん》でおましたな」
「オチョクリに来たんか?」
瀬戸物《せともの》のタヌキは、めっそうもないといった風に、ブラ下げた大徳利《おおとくり》をブラブラと振った。
「違《ち》ゃいます。公用で」
「公用? そんなもん、もう関係ないワ」
気をとりなおした定吉は、狸の置物に背を向けて黙々《もくもく》と弁当を食べ始める。
「そないに拗《す》ねんと、まあ聞いとくなはれ」
「聞かいでもわかるわい!」
声を荒げた刹那《せつな》、ダシで炊《た》き込んだ薄茶色《うすちやいろ》の飯が喉《のど》に絡《から》みつく。彼は二、三度|咳《せき》こんだ。
「だいじょうぶでっか?」
「まずい飯やで」
アナゴは、「海鰻」とも書く。姿形は鰻《うなぎ》にそっくりで、味はそれよりもあっさりしている。関西地方では主に箱寿司《はこずし》や炊きこみ御飯の具として活用される魚だ。定吉は、アナゴについては少々うるさい。会所の仕事で瀬戸内地方へ出張するたびに食べ歩いて良《よ》し悪《あ》しがそれなりにわかっているのである。
一に明石《あかし》、二に宮島、三が高松。良質なマアナゴの中ぐらいのところを手早く開いて炭火でふっくらと……などと、いっぱしに通《つう》ぶっていた自分が、今はどうだ。血抜《ちぬ》きに失敗した冷凍の切り身を、ガスであぶっただけのクソまずいアナゴ定食にしがみついている。
悲しみがドッとこみ上げて来て、定吉は箸《はし》を放り出した。
「ああ、我が身がなさけない」
血と殺戮《さつりく》の日々、片手に包丁、片手に美女を抱いて掛け取りに奔走《ほんそう》した栄光の日々はどこに行ってしまったのか。
「な、定吉はん」
「うっさいなあ。人が過ぎ去りし日々の甘い思いにひたってる時、横からゴチャゴチャ言うな」
「そやけど……」
「お前の言いたいことは聞かんでもわかる。また、ガシンタレ爺《じじ》の呼び出しやろ?」
定吉は箸先で煮付けの芋《いも》を荒っぽく突き刺した。
「行かんで。わては行かん」
イモをポンと口に放り込んでフガフガと噛《か》む。
彼の言うがしんたれ爺≠ニは、大阪商工会議所秘密会所|筆頭《ひつとう》、その名を聞けば西国筋《さいごくすじ》の実業家は皆|居住《いず》まいを整《ただ》すという「闇《やみ》の元締《もとじめ》」千成屋《せんなりや》宗《そう》右衛《え》門《もん》を指す。
「わてをこんなケチ臭い配所に追いやっといて今さら呼び出しも無いもんやで」
定吉は吐き捨てるようにそういうと、箸《はし》を放り出し、立ち上った。
「あ、待っとくなはれ」
留吉への二十六番は、あわてて引き止めようとする。しかしそこは置き物の中に入っている悲しさ、とっさに身体が動かない。
「ああ、まずい飯やった。おばはん、銭《ぜに》ここ置くでえ」
「待って下さい。ちょっと、定吉さん」
床柱からゴロリと転り出る瀬戸物の狸をポンと足で蹴り、定吉は肩先で乱暴にノレンをかき分け、出て行った。
「定吉どん、いいとこ帰って来た。ちょっとこっちへ」
バーゲン会場の入口で売り場主任があわてて手招きする。
「へ、何でおます?」
「ケッタイなお客がアンタのことエライ捜《さが》してはったで。いや、もう大変で」
定吉が何か言いかけた時、背後でキンキン声が轟《とどろ》いた。
「いやあ、いたいた。最前《さいぜん》のバイトの兄ちゃん」
ゲエッ、さっきレジでごねてたおばはんやないか。ふり返った定吉は胃《い》がデングリ返りそうになる。
「あんた捜してたんや」
両手に一杯紙袋をブラ下げたおばはんは、ニコニコ笑いながら近付いて来る。
「そ、それじゃあ定吉どん、あとはよろしうたのむで」
売り場主任は後も見ずにそそくさと売り場の方へ去って行った。
「ものは相談やけど」
「またでっか?」
定吉は露骨《ろこつ》にイヤな顔をする。
「ウチは客やで。そう、じゃけんにするモンやない」
おばはんは紙袋からシャツの二枚セットを掴《つか》み出し、定吉の鼻先に突きつけた。
「これ四枚セットに代えてくれへん?」
「そんなことでわてを待ってはったんでっか?」
「あんたは、よう負けてくれるからな」
「かなわんなあ、もう」
「そのセリフは、さっきも聞いた」
不敵に笑うおばはんの真っ赤な口元を見て彼は泣きそうになった。
「四枚セットは二枚用の倍だっせ」
「ほなら二千円の倍で四千円やな」
つまりは千円も負けなければならないのか。なんという買いもののうまいおばはんや。
「あんさんにはもうグリコ(お手上げ)や」
どうにでもなれ、とフテクサレる定吉の前におばはんは四枚一組のスポーツ・シャツを出す。
「さっき二千円|渡《わた》したな?」
「ええ、いただきましたあ」
「ほなら、この二枚セットの方、二千円で引き取ってくれるな?」
「へえ」
「これで二つ合わせると四千円や。そやから、こっちの四枚セット持って帰れるワケやな」
「へ? ……へえ」
定吉がまごまごするうちに、おばはんはシャツの束《たば》を掴《つか》みサッサと売り場から出て行った。
「ええっと、前に二千円|貰《もろ》うて、今、この二枚セット戻したからコレで二千円と……、あれ? 何か変やな」
「ノンビリしてまんなあ」
脇に立っていた中年の客が定吉の腹を軽く小突《こづ》いた。
「え?」
古ぼけたペンシル・ストライプのダブルを着込んだ焼酎焼《しようちゆうや》けの赤ら顔が笑いかけている。
「久しぶりでんな。定吉どん」
「やあ、伝法橋《でんぽばし》の……」
一ヵ月前、定吉が安治川口《あじがわぐち》の倉庫街を爆破した時、戦果確認に来ていた此花《このはな》区担当のエージェントである。
「あんた、今『壺算《つぼざん》』されましたんやで」
伝法橋の弁吉は、おばはんの去って行った方角を顎《あご》でしゃくった。
「つぼざん、て何や?」
小学校で習う鶴亀算《つるかめざん》みたいなものだろうか?
「『勘定《かんじよう》合《お》うて、銭《ぜに》足らず』つまり買物|詐欺《さぎ》でんがな」
「な、なにい?」
定吉は先程食べたアナゴが喉《のど》から飛び出しそうになった。
「あのドクソババめ!」
「大声あげたかて手遅れや。もう雲を霞《かすみ》と逃《に》げ衛門《えもん》だす。それより」
弁吉は親指をクイと上げた。
「御隠居《ごいんきよ》はんが御指名だす。わても呼ばれてまんのや。一緒に行きまひょ」
「何や、今度はあんたが呼び出しか」
爺《じじ》いめ、ひつこいぞ、と定吉は顔をしかめる。
「いいかげんに聞き分けておくれやす」
「イヤじゃい」
「ああ、そうでっか」
中年男は背広の襟《えり》をピッと弾《はじ》いた。
「ほなら、今見たことを売り場主任に報告してもよろしいんでんな。おばはんのツボ算サギ引っかかった、て」
「それは……」商人《あきんど》の恥《はじ》である。定吉は進退《しんたい》きわまった。
「明治屋ビルの正面に車が待ってます。お仕着せに着替えて、早よ来とくなはれ」
有無《うむ》を言わせぬ弁吉の言葉に定吉は力無くうなずくのだった。
7 小豆《あずき》のお話
「土佐堀《とさぼり》の御隠居《ごいんきよ》」千成屋《せんなりや》宗《そう》右衛《え》門《もん》は何時《いつ》になく機嫌《きげん》が良さそうだった。
彼は革張りの後部座席に背を沈《しず》め、イヤホーンの付いた白髪《しらが》を左右に振って何やら唸《うな》っている。
また、山村《やまむら》流か。
定吉は目で会釈《えしやく》をすると老人の隣《となり》へ静かに腰《こし》を降ろした。
宗右衛門の唯一《ゆいいつ》の趣味は地唄舞《じうたまい》である。古き良《よ》き船場《せんば》人を自任する彼は、この妖《よう》にして艶《えん》な世界を事のほか愛し、気分の良い時はきまって四世宗家山村若のテープを聞くのである。
「どこへ行くんや?」
定吉は助手席の弁吉に尋《たず》ねた。
「さあ、わてもサッパリ」
彼も不安そうに振り返る。宗右衛門の専用車をもうかれこれ三十年は運転しているという初老のドライバーは、片頬《かたほお》をゆがめて小さく笑うだけ、何も答えない。
定吉は車窓にベタッと額《ひたい》を押しつける。
車は秘密会所の本部がある北御堂《きたみどう》(津村別院)大石垣の前で止らずに御堂筋をどんどん北上して行く。銀行街を抜け、淀屋橋《よどやばし》を渡《わた》り、大江橋《おおえばし》を渡ったあたりで一度左折した。
「堂島《どうじま》に来てもうたがな」
住吉大社《すみよしたいしや》の交通安全ステッカーを車体後部に付けた黒のトヨタ・センチュリーは、高速道路下の堂島公園脇を走ってクラブ関西の前を横道に入り、やがて淡い茶褐色《ちやかつしよく》の土壁《つちかべ》が続くあたりで停車する。
伏《ふ》せ駒寄《ごまよ》せの竹柵《たけさく》がアスファルトの道路に突き出し、手前には打ち水の撒《ま》かれた木造家屋。
「ここは、新地《しんち》(北新地)の『元蜆《もとしじみ》』やんか」
大阪の財界人が足しげく通う超一流の料亭である。
「さ、着いたな」
宗右衛門は二人の心配をよそに、ゆっくりとイヤホーンを外《はず》す。
運転手がドアを開くと、彼は袴《はかま》の裾《すそ》を伸ばし、籐《とう》のステッキを突いて車を降りた。
「早よ来んかいな」
老人の言葉に二人の情報員はあわてて車を転り出る。
聚楽壁《じゆらくかべ》の門を潜り、明り窓の下の下足《げそく》部屋でステッキを預けた宗右衛門は、ムッツリと押し黙ったまま、能楽師《のうがくし》のような身のこなしでスルスルと廊下《ろうか》を渡《わた》って行く。
「こんなとこに何の用やろか?」
「シッ、ムダ口たたくとドヤされまっせ」
二人の供人《ともびと》は、おどおどと老人の尻に付いて進んだ。
「こちらでございます」
案内の仲居《なかい》が小座敷《こざしき》の前で膝《ひざ》を付いた。
鷹揚《おうよう》にうなずいた宗右衛門は、廊下の端で腰をかがめている二人にも、入れ、と目で合図《あいず》する。
「ごめん下さりませ」
老人の後ろにひっついて座敷に入った定吉は、アッ、と声を上げた。
床《とこ》の間《ま》の前に座椅子が一つ。それを挟むようにして三人の男が平伏している。
「ようこそお越し下さりました」
「やあ、光乗《こうじよう》はん」
金属ブチの六角|眼鏡《めがね》をかけた白髪《しらが》の老人が宗右衛門に深々と頭を下げた。
「元気そうでんな」
「おかげさまで」
宗右衛門は床の間の正面にドッカリと腰を降ろし、後を振り返った。
「ほう、八代目の手ェですな」
袋床《ふくろどこ》に下った小さな掛《か》け軸《じく》を見て眼を細める。
「へえ、左様《さい》で」
蝙蝠《こうもり》が出てきて浜の夕涼み≠フ文字が読みとれる。江戸時代、堂島商人《あきんど》がえらく肩入《かたい》れしたという八代目団十郎の筆である。
「ちょっと、掛けるには時期が早いとも思いましたが、宗右衛門はんがお好みの軸《じく》と聞きましたので女将《おかみ》に頼《たの》んで特に……」
定吉は老人たちのやりとりを聞きながら、脇に坐った二人の男たちに無言の挨拶《あいさつ》を送った。中の一人は彼の良く知っている顔である。その男は薄くなった頭髪をペロリと撫《な》でて、定吉に笑いかける。
「で? どちらが定吉どんで?」
「ほれ、そっちの若い方」
光乗と呼ばれた老人は定吉の方に向きなおり、うれしそうに頭を下げた。痩《や》せた、温和な感じの年よりである。退官|間近《まぢか》の国立大の老教授といった雰囲気《ふんいき》の人物だ。
「これは定吉どん、ようこそお越し下された」
「定吉、こちらのお方は、な」
宗右衛門が口を挟んだ。
「関西豆和菓子製造連合会の理事長さんや。ほれ、お前も知ってるやろ。生玉《いくたま》さん(生国魂《いくたま》神社)≠フ前にある老舗《しにせ》の菓子屋サン」
「えっ、あの『餅屋《もちや》』さんでっか」
その店は彼のお好みの店である。お使いで谷町九丁目のあたりへ出かける時は必ず顔を出してボタ餅などを買っている。
「禁裡御用《きんりごよう》第十四代|丹波大掾《たんばのだいじよう》『餅屋』光乗《こうじよう》でおます」
「へ、へへーッ。定吉でごわりますうー」
宮中《きゆうちゆう》から官位まで貰《もら》っている老舗とは知らなんだ。定吉は、こういう押し出しには異常に弱い。驚《おどろ》いて這い蹲《つくば》った。
「定吉どん、頭《おつむ》上げとくなはれ。あんさんは、我が家《いえ》の恩人《おんじん》や」
光乗老人は連れの二人を指差した。
「二週間前、有馬温泉で何があったか、全《すべ》てこの者たちに聞きました」
髪《かみ》の色は黒いが顎《あご》の形から掛けている眼鏡《めがね》の造りまでそっくりな四十男が恥《はず》かしそうに眼を伏せる。隣に坐った派手な羽織《はおり》姿の男がコホンと咳払《せきばら》いした。
「わてが、ぜーんぶ大旦那サンにブッチャケましてん」
「茶目八はん……」
太鼓持ちは、デレッと笑い、扇子《せんす》の先でデボチンをパンと叩《たた》いた。
「飲むはさておき、打つ、買うは代々我が家の法度《はつと》。それをこの息子《むすこ》めは何を血迷《ちまよ》うたのか同業者の口車《くちぐるま》に乗って博打沙汰《ばくちざた》。危《あや》うく店も人手に渡《わた》りかけたその瀬戸際《せとぎわ》に、あんさんが御活躍とか。ほんにありがたいことで」
「いや、もう、そんな」
定吉は光乗に向って首を振《ふ》った。
「わては、そこに坐ってなさる茶目八|師匠《ししよう》に頼まれたことをしたまででおます。どうぞ、お手をお上げになって……」
「定吉、光乗はんは、な。今回の仕事は、ぜひともあんたに頼みたいと言うてなさる」
宗右衛門は懐《ふところ》から愛用の朱塗《しゆぬ》りナタ豆|煙管《キセル》をゆっくりと取り出した。
エッ? 仕事。定吉は老人の言葉に我が耳を疑う。あわてて顔を上げ、お迎《むか》え染《じ》み≠ェ浮き出た上司《じようし》の横顔を覗《のぞ》きこむ。
たしかに「仕事」と聞こえた。すると自分は再《ふたた》び裏仕事に戻れるのだろうか。彼は喜びで身体が浮き上りそうになった。これであのバーゲン会場ともオサラバだ。
「『定吉七番より腕《うで》の立つ|丁稚《でつち》は、それこそ掃いて捨てるほど居る。あんなもん、やめときなはれ』て言うたんやけどな」
しぼ革の煙草《たばこ》入れに煙管《キセル》の口をネジこみながら宗右衛門は意地悪く笑う。
「光乗はんはエライ御執心《ごしゆうしん》や。もう、わいも根負《こんま》けしてなあ」
くそ、余計なこと言いおって。
定吉は自分の復職に水を差《さ》す老人の態度に腹《はら》を立てた。
見とれよ。取り澄ましたおんどれの横っつら、いずれバチコーンと蹴《け》り入れたるでえ。
「ン? 何か言うたか」
宗右衛門は、首をかしげた。
「い、いや、何も」
危ない、アブナイ、勘のエエ爺《じじ》いやで。定吉はあわてて作り笑いをする。
「ほなら、わては部外者ですよって、消えさせてもらいまっさ」
その場の空気を察した茶目八が、扇子《せんす》をサッと前に突き出して部屋を出る。
「御相談が終るまで誰も来《こ》ささんようにいたします。では、ごゆるりと」
彼はペコリと頭を下げて障子《しようじ》を静かに閉じた。
「さて、本題に入りまひょか」
廊下《ろうか》に人の気配が消えた頃を見計《みはか》らって宗右衛門が口を開いた。
「ほなら、依頼主であるわての口から説明します」
光乗老人が金ブチ眼鏡を鼻の上にズリ上げる。
「定吉どん。『餅屋』は、なあ。身上《しんしよ》は小さいが、家は古うおます」
「へえ」
「初代は南都興福寺《なんとこうふくじ》の衆徒でおましたが、思うところあって京に移り住み、|洛北丸ケ峰《らくほくまるがみね》の麓《ふもと》で茶店を始めました。それが天正《てんしよう》年間というから今よりザッと四百年前や」
「はあー。もとは坊《ぼ》ンさんでっか」
定吉は適当に相《あい》づちをうつ。実は、このような由来《ゆらい》話は彼の一番|苦手《にがて》とするところなのである。
「寺の厨《くりや》(台所)で習い覚えた団子《だんご》など作り細々と暮すうちに、ある日、貴人が店の前に駒《こま》を止めました。それが誰あろう羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》、後の太閤秀吉《たいこうひでよし》さんや。太閤さんは、店の団子をエラク気に入られ、京の町に出て店を出すよう勧《すす》められました。そこで初代は洛中《らくちゆう》に降り堀川油町《ほりかわあぶらまち》に住《すま》いして、茶席用の菓子を作り始めたのどす。これが味わい良しと評判で時の帝《みかど》にも聞こえ、上菓子|司《つかさ》≠フ名乗りを許されて禁裡御用《きんりごよう》となりました」
「ひえっ」
「上菓子司いう位は、なまなかなもんやおへん。有職故実《ゆうそくこじつ》にもとづいて宮中《きゆうちゆう》の儀式典礼《ぎしきてんれい》に用いる菓子、あるいは茶道《さどう》に用いる菓子を注文の分だけ作る菓子職にのみ与えられる名誉《めいよ》の位どす」
光乗の語り口は観光ガイドのようによどみない。
「やがて太閤はんが大坂に城を築くと、初代は分家を京に残し、生玉《いくたま》さんの近所に引っ越しました。以来『餅屋《もちや》』は京菓子の司《つかさ》でありながら本家は長くこの地におます」
「ふーむ」
「そもそも、京の菓子というもんは、京をめぐる人と物の流れによって成り立つもの。材料を近辺の諸国より取り寄せて作ります。たとえば、米は近江の江州米《ごうしゆうまい》、葛粉《くずこ》は吉野、豆は丹波《たんば》」
「へえー」
「特に丹波の大納言《だいなごん》小豆《あずき》は京菓子に欠かせまへん。これが『大納言』と名付いたのは、大豆を五穀《こく》(米・麦・粟《あわ》・黍《きび》・豆)の大臣と見立てると、小豆の位はそれより少し下る、いうところから来たとかで……」
ほおー、と定吉が相《あい》づちを打とうとした時、隣《となり》に坐った弁吉が彼の脇腹《わきばら》を肘《ひじ》で小突《こづ》いた。定吉が、ただ意味無くハヒフヘホ≠フ順に声を出しているだけだと気付いたのである。
もっと気のきいた返事をせい、と弁吉は彼に目で合図《あいず》した。
「……宮中の女房《にようぼう》(女官《によかん》)言葉では、官職名を口にすることをはばかり『アカ』などと申しますそうな」
「なるほど。その伝で言うならば、マルクス・レーニンさんのお身内は、みーんな小豆の御兄弟」
定吉は慌《あわ》ててトンチンカンな合いの手を入れる。弁吉は彼の常識の無さにビックリした。
「あ、あ……あははは、定吉どん。冗談《じようだん》うまいなぁ」
彼は無理に笑って定吉の言葉をフォローする。
「ははは、あんさんはユーモアの才が有りなさる。いや、けっこうなことや」
光乗老人は、微笑《ほほえ》んだ。
「小豆《あずき》は和菓子の命……と言っても過言やない。京菓子は丹波小豆無くして成り立ちまへん。姿、味、香りを整え、四季の移ろいを菓子の上へ現わすのに欠かせん材料どす。定吉どん、あんさんは小豆の花いうもんを見たことがありますかいな?」
「いえ、不勉強で」
「ちんまりした黄色い花でな。きれいなもんでっせ」
老人は天井《てんじよう》を見上げ、眼を細めた。
「和菓子作りでは特に新しい小豆を大事にします。半年から一年以内の豆は、皮が薄《うす》くて早く煮《に》え、風味《ふうみ》もおます。梅雨《つゆ》を越した豆は絶対に使いまへん。あれは、皮が固くなって風味も落ちます。ウチでは毎年新しい豆を手に入れるため丹波の農家と直《ちよく》で取り引きしてました。ところが、今年は……」
「どないしました」
「小豆の花が咲きまへん」
老人は苦し気にそう言うと目をつぶった。
「咲かん、て、どういうことです?」
定吉はキョトンとした顔をする。
「ある人物が、ウチと取り引きしている小豆畑を無理やり買い取ってサラ地にしてもうたんだす。いや、ウチだけやない。聞けば同じように丹波で直《じか》取り引きをしている他の京菓子屋でも畑を潰《つぶ》されて困っているそうで」
定吉の脳裏《のうり》に二週間前、有馬でチラリと読んだ経済新聞の見出しが蘇《よみがえ》る。たしか、小豆《あずき》相場《そうば》が朝鮮戦争以来の異常な動きを示しているとか……。
「新物《あらもん》の小豆が手に入らなんだら大変と、あわてて問屋に行きましたところ、これが全部買い占めに遇《お》うてました。有るのは一年越しの皮の固いものばかり。小豆は春先に種をまけば夏に収穫できる早育ちとは申せ、今から畑をさがして種をまいても夏まで三ヵ月のブランクが出来てしまう。関西の和菓子業界にとっては大打撃どす」
定吉は宗右衛門の方をチラリと見た。ナタ豆|煙管《キセル》をくわえた老人は、相変らずノンビリと煙草《たばこ》をふかし続けている。
「その丹波大納言《たんばだいなごん》≠買い占めた奴の名前、わかってはるんでっか?」
光乗は小さくうなずいた。
「誰です?」
「名古屋の人間で、通称はシャチキン=c…」
「鯱鉾屋金蔵《しやちほこやきんぞう》!」
定吉は思わず大声をあげた。
そうか、あの桜餅《さくらもち》デブ。
「なるほど、奴は何ぞ関西の和菓子屋に恨《うら》みがあるようでんな」
腕《うで》組みをした定吉は、部屋の隅で小さくなっている「餅屋《もちや》」の若旦那に目を向けた。彼は申しわけなさそうに身を縮《ちぢ》め、座布団の端をひねくりまわしている。
奴が、この人畜無害なだけが取り柄の四十男にイカサマ博打《ばくち》を仕掛《しか》けて来たのも、どうやら関西の和菓子組合切り崩しが目的であったようだ。
「名古屋の鯱金《しやちきん》、か」
どん臭《くさ》そうなデブに見えたが、あれでなかなか悪巧みに長《た》けた男らしい。
彼は、宗右衛門の顔色を再度|窺《うかが》った。
タバコ盆《ぼん》の縁《ふち》にパシリ、と煙管《キセル》のガン首を打ちつけた秘密会所の元締めは、口の端をゆがめ、ジッと定吉を見返す。
「で、具体的に何をすればエエんでっか?」
定吉は光乗の方に向きなおった。
「やって欲しいことは三つほどおます」
菓子|司《つかさ》の老人は指を三本、顔の前に突き出した。
「ひとつは、鯱金の関連企業が買い占めた上物《じようもの》の丹波大納言を早急に市場へ放出させること。ふたつ目は、鯱金がなぜ関西の和菓子屋ばかり目の仇《かたき》にするのか、そのナゾを探ること。みっつ目は、鯱金がもし今以上の悪計を我々に対して企《たくら》んでいる場合……」
定吉は人差し指を自分の喉《のど》に当て、横にシュッと引いてみせた。
「コレ……でっか?」
眼鏡《めがね》の奥で老人の眼が鈍《にぶ》く光る。
「そこのあたりは全《すべ》て定吉どんの裁量《さいりよう》におまかせいたします」
光乗老人は内裏《だいり》に饗饌《きようせん》を献《けん》じる祭祇官《さいぎかん》そっくりな物腰《ものごし》でうやうやしく頭を下げる。
「ほなら、定吉どん」
黙っていた宗右衛門が、やっと口を開いた。
「明日、朝一番に本部へ出頭しなはれ。それから弁吉どん」
ヘッ、と弁吉は頭を下げた。
「あんたを定吉どんのサポート役にする。今すぐこの場から名古屋へ発っとくなはれ。現地の協力者とつなぐ(連絡をとる)んや」
「心得ました」
言うやいなや弁吉は、ハッと気合いをかけ、天井に飛び上る。
驚きの声を上げる間もなかった。
長押《なげし》に足をかけた弁吉は、天井の回り縁《ぶち》をポンと叩《たた》いて敷目板《しきめいた》を一枚|外《はず》し、棟《むね》の中にスルスルと入って行く。
「では、皆々様方、ごめん下さりませ」
天井板の間から、顔だけ出して一礼すると、彼はパチリと合わせ目を閉ざした。
ただの酔《よ》っぱらいのオッサンかと思うてたが、なかなかやるもんやな。
定吉はポカーンと口を開けて天井を見つめた。
「さて、依頼の件は全て話し終ったようや」
宗右衛門だけが何事も無かったかのように膝《ひざ》を崩《くず》す。
「そ、そうでんな」
あわてて光乗老人が手を打った。
「こんばんはぁー」
廊下《ろうか》の障子《しようじ》がカラリと開いて黄色い声が響《ひび》く。その途端《とたん》、定吉の鼻の下はデロリとのびた。宴《うたげ》の主賓《しゆひん》が自分であることを思い出したのである。
8 定吉《さだきち》カー
「ま、定吉どんやないの」
井原西鶴《いはらさいかく》行跡《こうせき》保存会≠フプレートが付いたマホガニー塗《ぬ》りの扉《とびら》に手をかけたその刹那《せつな》、誰かにポン、と肩を叩かれた。
「あっ、金子さん。おはようさんで」
振り返ると、宗右衛門の秘書、元ミス十日《とおか》戎《えびす》の万田金子が艶然《えんぜん》とほほ笑みながら立っている。
「御隠居《ごいんきよ》はんに呼ばれはったんやてね」
「へえ、やっと禁足《きんそく》が解けましてん」
お盆《ぼん》とポットを抱えた金子のために定吉はあわてて扉を開いた。
「おおきに」
「どういたしまして」
定吉は被っていた帽子を彼女の背後からポンと放り投げる。愛用のガンクラブ・チェック・ハンチングは狙い違わず隅の帽子掛けにスッとひっかかった。
「それ見るのもずいぶん久しぶりやわぁ」
「また毎日見せたげます」
金子はテーブルに盆を置くと、ハイヒールの踵《かかと》を鳴らして彼の脇にツイと寄り、その頬に軽く口付けした。
「う・れ・し・い」
デヘヘヘ、と笑った彼が何か言おうとしたその時、無情にもインターホンの呼び出し音が鳴り響《ひび》く。
「金子はん、定吉七番は出頭しとるかあ?」
金子の茶色く光る魅惑的な瞳《ひとみ》からアッと言う間に輝《かがや》きが消え去った。彼女は小さく舌打《したう》ちするとテーブルに歩いて行ってインターホンのスイッチを押す。
「はい、来ております」
「こっちよこしとくなはれ。それと、お茶も、な」
ザラついた声がプツンと切れた。
「ま、これからはしょっちゅう会えることやし……」
定吉は物欲し気な顔のまま小さく手を振り、入室OKの青ランプが灯った御隠居部屋に入っていった。
「んー、もう。御隠居はんのイケズー」
またしてもこのパターンの繰り返しや。金子は、自慢の長い髪を両手でかき分け、プッと頬を膨《ふく》らませた。
「御隠居はん、お早ようさんだす」
「ああ、定吉どん。ゆうべは御苦労さんやったな」
千成屋宗右衛門は、スペイン革の古風な肘かけ椅子に坐り、愛用のナタ豆|煙管《キセル》を磨《みが》いていた。
「その辺に坐っとってや。おっつけ雁之助《がんのすけ》どんも来るさかい」
まったくこのクソ爺《じじ》めは、ヒマさえあれば煙管ばかり磨いとる。他にすること無いんかいな。定吉は腹の中でつぶやく。やがてインターホンのランプが点滅した。
「なんや?」宗右衛門は煙管のガン首でスイッチを押した。
「小番頭はんがお見えです」
「入れとくなはれ」
圧縮空気の洩《も》れる音と同時にドアが開き、安手《やすで》の大島《おおしま》を着た眉《まゆ》の異様に太い固太《かたぶと》りの男と、お盆《ぼん》に茶を乗せた金子が入って来た。
「お早ようさんでおます」
小番頭の雁之助はドスのきいた声であいさつする。
また苦手なモンが来おった。首をすくめる定吉に、金子がソッとウインクした。彼も無器用にウインクを返そうと顔をゆがめる。その瞬間、不幸にも定吉の眼は鋭《するど》く光を放つ雁之助の眼とカチ合ってしまった。
「なんや、お前。目ばちこ(ものもらい)でも出来たんか?」
「い、いや、百面相の訓練してましてん」
定吉はあわてて目を剥《む》いた。
「新しいお座敷芸《ざしきげい》だす。ほれ、これが西川きよしで、これが西川のりお。ほてからここの、目尻《めじり》をギュッと押さえると岡八郎で……」
「なんや吉本興業《よしもとこうぎよう》のマネかいな」
ケッタイな奴ちゃ、と雁之助は宗右衛門の方へ向きなおる。
茶ワンを並べ終えた金子は一礼すると、豊かな胸を揺《ゆす》りながらゆっくりと出て行った。
「さて、雁之助どん。説明したってんか」
宗右衛門の言葉に雁之助は袖《そで》の中からビデオテープを取り出す。
「ごめんやす」
彼はテーブルの端をグイと押した。
「ひゃー、テレビが出て来たぁ」
テーブルの中央部が左右に開き、大型の受像器とビデオ装置が迫《せ》り上って来る。
「お前がよそへ行ってる間に買《こ》うたった。スライドはもう古いよってな」
雁之助は自慢そうにカセットを装置にセットした。
「定吉、お前、名古屋行ったことは?」
画面に名古屋駅とターミナルホテルが映った。
「へえ。二、三度、熱田神宮《あつたじんぐう》へ代参《だいさん》を」
「大須《おおす》いうところには行ったことないか?」
「おまへん」
雁之助は太短い指でカラー画面を弾《はじ》いた。
「ここや。名古屋駅から地下鉄一回乗り換えるだけですぐに着く」
天王寺の参道に似《に》た風景が映った。
「ああ、聞いたことおます。名古屋で一軒だけ常設の寄席《よせ》が残ってるとこでんな」
「うむ、昔はトンボリ(道頓堀《どうとんぼり》)並《な》みに芝居小屋がひしめき合ってたいう話やが、今はこの大須演芸場ただ一つや」
大須演芸場≠ニ書いてなごやおわらいよせ≠ニ振り仮名をふった看板の下に巨大な金色の外車が止っている。
「鯱鉾屋金蔵《しやちほこやきんぞう》はここがエライお気に入りでな」
手持ちの小型ビデオで盗み撮りしたらしい荒い画像だった。車のボディがアップになる。派手《はで》な柄《がら》の単《ひとえ》を着た巨大な男が大あわてで降りて来て、後部席のドアを開いている。
定吉はその男を見るなりハッとして息をのんだ。相撲《すもう》取りだ。
「こいつは、な。外国人のスモウ取りくずれや。金蔵のボディガード兼運転手。手ごわい奴ちゃ」
雁之助は、大《おお》銀杏《いちよう》に結《ゆ》われた金髪《きんぱつ》の頭を指差した。
なるほど。有馬《ありま》の元湯《もとゆ》でわての頭をドツイたのはこのクソガキやな。定吉は唇を噛《か》みしめる。
「で、こいつが御存知《ごぞんじ》シャチキンこと菓子屋の金蔵や」
相撲取りが開けたドアから、ドッジボールに手足を付けたような男が大儀《たいぎ》そうに降り立った。こちらは見覚えのある顔である。
「資本金二十億円。北は北海道|十勝《とかち》から南はヨハネスブルグにまで支店を持つ大手和菓子メーカー『しゃちほこういろう』本舗《ほんぽ》会長にしてプロのゲート・ボーラー」
「へ、プロのゲート・ボーラー?」
「そや、ロイヤル・セント・マーカス・ゲートボール・クラブいうハイソサエティ専門のクラブに入っとってな。そこの大名人いう話や」
「へえー、ケッタイな奴でんな」
「そやからお前は、ゲートボールをキッカケにして奴に近付き、いろいろひっかきまわしたるんや」
「ムチャや。わて、ゲートボールなんて爺婆《じじばば》の遊び、よう知りまへんで」
「ルールブックならその辺の本屋でも売ってる。読んで勉強するんやな」
雁之助は事もなげに言ってのけた。
「そやかて、相手はプロでっしゃろ?」
「なあに、たいした腕《うで》やない。だまし専門の似而非《えせ》プロや」
金蔵という男はイカサマ人生に徹《てつ》した奴らしい。画面に向ってうなずく定吉の前に細長い木箱が一つ置かれた。
「開けて見なはれ」
宗右衛門が言った。ヘッと一礼した定吉は箱を持ち上げる。手の平に伝わるズッシリとした感触《かんしよく》。これは……?
「『双葉《そうよう》』でんな」
蓋《ふた》を開けて、中を覗くなり彼は即座にその名を言い当てた。
「うむ」
宗右衛門は、ビデオを指差した。画面はいつの間にか変り、麻暖簾《あさのれん》の掛《かか》った京町家《きようまちや》が映っていた。
「知っとるやろ? 京都の『倉屋《くらや》』」
「へえ」
出窓格子《でまどごうし》に見覚えがある。中京区御池通下《なかぎようくおいけどおりくだ》ル西側で二百有余年一子相伝の秘法を守り、羊羹《ようかん》を練り続ける「倉屋|笑楽《しようらく》」である。ここも定吉の御《ご》ひいき店だ。
彼は木箱の中から棒状《ぼうじよう》の紙包みを取り出した。
「このようかん作ってるとこでんな」
「双葉」とは江戸時代に、京二条陣屋《きようにじようじんや》の茶席用として倉屋が考案した練り物である。小倉餡《おぐらあん》にむらさめと呼ばれる漉《こ》し餡と餅粉《もちこ》の合わせ物を重ね、その間へうす茶のういろうを挟《はさ》んだ、いかにも京の雅《みやび》を感じさせる菓子だ。別名「むらさめ外郎《ういろう》」とも呼ばれている。
「この菓子をどうしろと?」
まさか名古屋行きの餞別《せんべつ》というわけではあるまい。宗右衛門はメチャクチャドケチな老人だ。
「こいつを、名古屋のダンさんに見せたれ」
ニヤリと雁之助は笑った。
「ダンさん、お前がイヤや言うても向うから口かけてくる」
「しかし、何でまたこんな菓子一つで目くじら立てまんのやろ?」
「何でかな?」
雁之助はビデオの静止スイッチを押した。画面いっぱいに金蔵の肉マンジュウみたいな顔が映し出されている。
「ウワサでは、若い頃にこいつ、倉屋サンで何ぞあったらしい」
「金蔵は、一時《いつとき》その店に奉公《ほうこう》してたんや」
宗右衛門が口を挟んだ。
「調査部に調べさしたら、ようやくそこまでわかった。けど京の老舗《しにせ》は口が固いよって、それから先は真っ黒《く》らけの闇《やみ》や。金蔵がどこの生まれか、何で倉屋をクビになったか。その後どうやって今の地位までのし上《あ》がったか」
老人は通天閣型《つうてんかくがた》の卓上ライターを取り上げ、|煙管《キセル》に近付けた。
「ナゾを解くカギは、どうやら名古屋に有るらしい。金蔵の会社、個人資産、交際関係は全《すべ》てあの辺に集中している。そやから一足先に定吉二番を潜入《せんにゆう》させたんや」
「えっ、あの弁吉どんが『定吉二番』?」
宗右衛門の意外な言葉に定吉は驚《おどろ》く。
「『定吉二番』言うたら、わてが|丁稚《でつち》になるずっと以前から欠番やて聞いてましたが」
「正確に言うと元定吉二番や」
老人はスパリと煙《けむり》を吐《は》いた。
「昔、ちょっとしたスカ(失敗)やってな。殺人許可証を取り上げられて、あの歳まで下働きやってる。お前もそうならんようにせいぜい気ィつけるこっちゃ」
ひゃあ、あれはどう見たって四十|半《なか》ばは行っとるで。なんて可哀《かわい》そうなオッサンや。定吉は弁吉の酒焼け顔を思い出して涙《なみだ》が出そうになる。
「今度の件では、京都商工会議所の人間も動いているらしい。抜け駆けされんようにな」
雁之助はビデオのスイッチを切った。金蔵の膨《ふく》れっ面《つら》が四角い闇の中に溶ける。
「話はそれだけや。雁之助どん、この丁稚どんに例のモノを」
老人は小番頭《こばんとう》に向って顎《あご》をしゃくる。ハッ、と頭を下げた雁之助は左足を身体の真横に突き出し、大きく肩を揺った。
「定吉、下までちょっと来ーい」
彼が下っ端《ぱ》の人間を呼ぶ時の、得意のポーズである。
「ほなら、御隠居《ごいんきよ》はん。これで」
「うむ」
悠然《ゆうぜん》と煙草《たばこ》をふかす老人にペコリと一礼した定吉は、小番頭の後について部屋を出た。
直通のエレベーターで地下二階に降りた二人は、工作機械や穴の開いた人体標的《マン・シルエツト》が乱雑に積み上げられた倉庫のような部屋を抜けて、武器開発部に出頭した。
「ケッタイなもんがいーっぱい置いてありまんなぁ」
定吉は、あまりこの部署に来たことがない。物珍しそうにその辺のものをさわりまくった。
部屋の一方には、これまで秘密会所が捕獲《ほかく》した敵の武器。もう片側のガラスケースには、会所の開発した秘密兵器がそれぞれ簡単な説明プレート付きで並んでいる。
「こら五階百貨店の店先よりスゴイわ」
安物買いの銭《ぜに》失わず¢蜊纐シ物五階百貨店の安売り工具屋街は定吉が電化製品を揃《そろ》える時、必ず立ち寄る場所である。
「ええと、何なに……これが、NATTOの支部で捕獲した拷問《ごうもん》道具?」
定吉は等身大の鉄製人形にぶら下った説明板を読む。
「……通称『ストラスブールの許嫁《いいなずけ》』。十六世紀の宗教裁判に用いられた殺人人形で、内部に鋭《するど》い針が突き出し……」
胴の部分が蝶《ちよう》つがいで開くようになっている。
彼はヨイショとそれを手前に引いた。
「……うーん、エゲツない仕組みやな。これやから肉食人種は嫌《きら》いなんや」
と、突然《とつぜん》、鉄の胴体がガチャンと閉る。
「い、痛い。指、挟《はさ》まれたあ。誰かぁ」
白い作業着を羽織った研究員たちがあわてて作業場から走って来た。
「何してまんのや。まったく、もう」
「あら、フタが開《あ》かんようになってもうたがな」
「ふにゃあ、助けてえ」
研究員たちをかき分けて中番頭の「はも切り九作」が彼の前に進み出た。
「ふえーん、中番頭はん。早よ外しとくなはれ」
「もう、何て奴ちゃ。絶対にいろて(いじくって)はアカンて、ここにも書いてあるやろが」
貴重な資料になんてことするんや、とつぶやきながら九作は鋼鉄の処女《しよじよ》≠フ胸を開く。
「わっ、血マメ出来てもうた。痛あ」
指先をペロペロとなめる定吉にかまわず九作は人形をウエス(拭《ふ》き布)で撫《な》でた。
「よちよち、マリアちゃん。アホにはもう絶対さわらせへんからねえ。ごめんしてやあ」
何がマリアちゃんや。こっちは生身《なまみ》の人間やで。定吉は、鉢《はち》の開いた九作の後頭部に下唇《したくちびる》を突き出した。
「九作はん、どうしなはった?」
雁之助が背後から覗《のぞ》きこんだ。
「早よ、このアホ|丁稚《でつち》に新兵器の説明したって下さい」
小番頭の言葉に九作は渋々《しぶしぶ》立ち上った。
「こっちに置いてある」
地下鉄|御堂筋《みどうすじ》線トンネルに平行した地下駐車場を、半分程区切った兵器修理場へ二人を導いた九作は、旧日本海軍上海陸戦隊のビッカース装甲車《そうこうしや》と河内の装甲だんじり車の間に掛けてあるカバーをサッと外《はず》した。
「これやがな」
「おお!」
定吉は息をのんだ。
それは、シルバー・メタリックのボディを輝《かがや》かせた小型スポーツ・カーだった。
「ダ、ダ、ダイハツのコンパーノ・スパイダーでんな」
「ごっつうオシャレな車やんか」
流石《さすが》の雁之助も目をこすった。
「さわってもよろしいか?」
と、言いながら定吉はす早くドアを開き、デラクール張りのバケットシートに腰を降ろした。
「お前は、わいが苦労して作った秘密兵器をすぐにホカしてまうからなあ。こんな貴重なモン渡したくないんやけど」
定吉は九作の言葉などもう耳に入らない。口でブッブーとつぶやきながら、ロックがかかったままのハンドルを幼児のようにいじりまわしている。
「これは、わいがまだ池田のダイハツで研究生活送ってる頃手に入れた思い出深い車や。お前はどうせこれも、メチャクチャのスクラップにしてまうのやろなあ」
九作は情けなさそうに鼻をすすった。
「ええなあ。これ、昔っから乗ってみたかったんや。なんて言うたかてスポーツ・カーやもんなあ」
ダイハツの製品といったらミゼットの三輪車《バタコ》しか触《ふ》れたことのない定吉は、木目模様《もくめもよう》のインスツルメント・パネルをペタペタとさわりまくる。
「ああ、その辺をたやすくいろうたらあかん。危いもんがいっぱい付いとるさかい」
あわてて九作がその手を払いのけた。
「危いもん、て何です?」
「秘密兵器にきまったるがな」
九作は定吉の背中から身を乗り出して、コックピットの中を指差した。
「ここに付いてるカー・ラジオは音が出ん」
「ほなら、オナゴ乗せた時困りまんな」
「アホ。何考えとるんや。これは武器のセレクトスイッチや。まず電源を入れるとロックが解ける。使う直前までさわったらあかんで」
九作は端から一つずつスイッチの説明をして行く。
「一番左端が、熱線|追尾《ついび》式の小型ミサイル発射スイッチ。二番目は、ホイールベースから小型|出刃包丁《でばぼうちよう》が飛び出すスイッチ。三番目は後部バンパーの下から巻きビシを撒《ま》くスイッチ。四番目は煙幕のスイッチ。五番目は助手席が飛び出すスイッチ。最後が運転席の飛び出すスイッチや。以上、わかったか」
「ええと……、一番左が出刃包丁で……」
そういっぺんに言われたかてわかるかいな。定吉はふてくされる。ええい、現場で実際に使うてみたらわかるこっちゃ。
「何とか、わかりました」
「本当かあ?」
兵器開発主任は、|丁稚《でつち》の顔を心配そうに見上げた。
「ほなら、これ。名古屋行きのキップ」
雁之助が懐《ふところ》から近鉄難波《きんてつなんば》発の特急キップを取り出した。
「ヘッ、この車を使わしてくれまへんのか?」
「別便で名古屋支部まで運んだる」
小番頭は意地悪く笑った。
「今からお前に渡しとくと、いい気になってそこら中走りまわったりするからな」
出かける前にお孝ちゃん助手席へ乗せて千里《せんり》中央道でも飛ばそう思うとったに。
定吉は自分の計画に水を差されてふてくされた。
「出がけにオナゴんとこへ寄ることも許さん。真っ直ぐ難波駅へ行け」
雁之助は出口の方を顎《あご》で差し示した。
「ほなら行《い》て参じますう」
あーあ、わてはほんとに不幸な殺人丁稚や。いつになったら春が来ることやら。定吉は、トボトボと歩きかけ、フト足を止めた。
「どうした? 何か忘《わす》れモノか」
「大事なこと言い忘れてました」
いぶかし気に太い眉《まゆ》を寄せる雁之助へ定吉はポリポリと頭を掻《か》いた。
「小番頭はん」
「何や?」
「わて……原付《げんつき》の免許しか持ってしまへん」
9 戦いの始まり
「あー、天王寺《てんのうじ》サンと同じ匂いや」
階段を昇りきったあたりで定吉は、深呼吸した。
朱塗《しゆぬ》り柱《ばしら》に支えられた巨大な重層の屋根が、低い家並《やなみ》の間から覗《のぞ》いている。ここは真福寺宝生院《しんぷくじほうじよういん》の参道《さんどう》、俗に言う「大須《おおす》の観音《かんのん》さん」前である。
「やれやれ、やっと着いたか」
彼は疲れきった身体を引きずりながら町の奥へと入って行った。
細い通りを一分ほど歩く。と、これはどうだ。どちらを向いても寺、寺、寺。
「ひゃー、ここは下寺町《したでらまち》(大阪天王寺区の寺院密集地)みたいなとこやな」
名古屋市の観光案内によれば、この狭い地区に大小二十以上の寺院、神社が集っているのだという。
「しまったあ」
定吉はメモを見て、地団太《じだんだ》を踏《ふ》んだ。そこには、
「総見寺《そうけんじ》横ノ大須公園カラ光勝院《こうしよういん》抜《ぬ》ケテ、万松寺《まんしようじ》通リ入リ、正照寺《せいしようじ》ト光安寺《こうあんじ》ニ挟《はさ》マレタ横道ノ手前カラ三|軒目《げんめ》」
と書かれているだけ。地図が付いていないのだ。
「絵解きで教えてもらわんことには……。もうワヤやがな」
これだから小番頭《こばんとう》はんは不親切やて皆から言われるんや。
「ともかく、ここに書いてある大須公園というところに行ってみよ」
定吉は「大須演芸の灯を消すな」と書かれた立て看板の脇をトボトボと歩き始めた。
どこかで物悲しい音楽が鳴っている。
「懐かしいなあ」
定吉はクラリネットの音色につられてフラフラと向きを変えた。彼は子供の頃からこの音に弱い。まだ小学校に入る前、町内にやって来たチンドン屋がめずらしくて手踊《ておど》りしながら付いて歩き、最後には迷子《まいご》になって交番に保護されたこともある。
「あっ、居たいた」
仏具屋と安売りカバン屋に囲まれた小さな空地の前まで来ると音が急にやかましくなった。巨大なパンダの縫《ぬ》いぐるみが踊り狂っている。
「び、ビラ貰《もろ》うたろ」
さきほどまでの嘆《なげ》きぶりはどこへやら。瞬時《しゆんじ》にして幼児帰りした定吉は、パンダに向って駆《か》け出した。
「オッチャン、ビラおくれー」
縫いぐるみがクルリと彼の方に向きなおり、小さく頭を下げる。
「大須へようこそお越《こ》し」
定吉はビックリして手を引っこめた。
「あっ、お前は」
「へへへ、留吉への二十六番でおます」
「お前ここまで出張《でば》って来たんか?」
パンダは恥《はずか》しそうに身をよじった。
「いやー、やっと来てくれた。あんさん方向オンチやから道案内したろ、て思いましてな。一足先《ひとあしさき》に来て、仲間とここで朝からずっと踊《おど》ってましてん。コレ、小番頭はんに内緒《ないしよ》でっせ」
定吉が大阪を発《た》つ前からここで踊っていたのだという。
「まったく何と言っていいか……」
地獄《じごく》に仏とはこのことである。定吉は、自分を支えてくれる陰《かげ》の男たちの親切に、足の爪先《つまさき》までジンと来た。
「気にすることはおまへん。それより、早ようついて来とくなはれ」
留吉たちは、楽器をチャンチキチャンチキと打ち鳴らしながら動き始める。定吉は、あわててその後を追った。
大須太陽館の前から本町通りと呼ばれる太い道を横断し、中古品を扱う店の前まで来た一行は、そこでひとしきり口上《こうじよう》を述《の》べた後、横丁に入って行く。
「うわあ、こら楽しいワ」
いつの間に手にしたのか。彼は大安売りの赤いのぼり旗を高々と掲げ、行列の最後尾で飛び跳ねていた。
「特売や。大安売りでっせえ」
バーゲン会場で働かされていた頃の悲しい記憶《きおく》がまだ完全に抜けきっていないのである。
ケバケバしい一団は、やがて万松寺の門前を左に曲る。ここは織田信長《おだのぶなが》の父|信秀《のぶひで》の建立《こんりゆう》で、若き信長が父の葬儀の日、メチャクチャな風体で現われて抹香《まつこう》を投げつけた故事《こじ》で知られる寺である。
「あそこが弁吉ドンの隠《かく》れ宿だす」
パンダは明照寺と書かれた石柱の隣を指差す。
「何や、もう着いてしもたんか?」
もっとチンドン屋ゴッコをやっていたかったのにィ。定吉は渋々《しぶしぶ》ピエロに旗を返した。
「ほなら、これで失礼させてもらいます」
「ン、気ィつけてお帰り」
三人のチンドン屋はクルリと向きを変えると、「桶狭間慕情《おけはざまぼじよう》」を演奏《えんそう》しながら人ゴミの中に消えて行った。
「派手な道案内やで」
定吉は横丁に足を踏み入れる。
「ここかな?」
入って三軒目は仕舞屋《しもたや》であった。入口はぶ厚い板のドア。中央に小さな窓が付いている。まるでアメリカの禁酒法時代にあったという秘密酒場《スピーク・イージー》のようだ。
「モシ、おじゃましまんにゃが」
合言葉である。小窓がサッと開いた。中から香《こう》ばしい匂いがする。
「ドンチュー・スピーク」
ぎごちない英語が発せられた。
定吉は懐から、駅で買ったばかりの「大須ういろう」を取り出し、目の前にかざす。
「スピーク・ウイロー」
ドアがサッと開いた。
「おおきに」
ガランとした薄暗《うすぐら》い室内。もとは車庫か何かだったのだろう。コンクリートのたたきに油のシミが浮《うか》んでいる。
「ようこそおつきで。定吉どん」
定吉は声のする方に眼をこらす。
「あっ、屋台!」
リヤカーの上に板屋根を付けた本格的な屋台が一軒丸々部屋の中に入っている。その車を囲むようにして数人の人影。
「まあ、一本どうです?」
屋台の中からミソの匂いが立ち昇っている。
「名古屋名物ミソカツでっせ」
屋台の脇でニコニコ笑っているのは伝法橋《でんぽばし》の弁吉である。定吉は帽子を取って一礼すると屋台に近付いた。
「八丁《はつちよう》ミソでんな」
長イスに腰を降ろしていた人々が一斉に立ち上った。見たところ皆、かなりの高齢である。
「紹介しまひょ。こちらから、吉造さん、孫六《まごろく》さん、兵七さん」
老人たちは名前を呼ばれるたびにカクカクとアヤツリ人形のような動作で頭を下げた。
「みんな金蔵にうらみを持つ和菓子の職人さん。ま、わしらの同志いうことですワ」
「わてが|丁稚《でつち》の定吉だす。以後よろしゅうにお引きまわしのほどを」
あらためて定吉は自己紹介する。
「あんたがウワサに聞く定吉さんかね。固いこと言わずに、まあ、こっち来てカツ突っついたら」
吉造と呼ばれた白髪《しらが》頭の老人が長イスの端を空けて手招《てまね》きした。
「東京オリンピックの前にゃあ、そこの広小路《ひろこうじ》のあたりは、こんな風な屋台が何百軒と軒《のき》を並べて、カツ揚げてたんだがね。それが今では数軒しか残ってなくて」
老人は、さあ食え、とドテナベの中を指差した。ナベの隣に置かれたバットにはキャベツの厚切りと揚げたてのカツが山盛りに並べられている。そのあたりは大阪のカツ屋と変りがない。とんでもない違いは、やはり浅鍋《あさなべ》の中味であろう。八丁ミソを縁《ふち》の部分にベットリと塗《ぬ》りつけ、そこに串刺《くしざ》しのカツが大量に差し込んであった。ソース代りにミソを使うカツしか知らなかった定吉は目を剥《む》いた。
「うむ、甘味があってオモロイ味でんな」
定吉は一串かじって感心する。口の中にミソで分解された肉のゼラチン質が心地良く染《し》み通った。
「ミソカツ文化圏はここから岐阜《ぎふ》を通って郡上八幡《ぐじようはちまん》の方に伸びてましてな。西の方に向ってます。だから高山方面にはこんなモン有らしまへん」
屋台の亭主役《ていしゆやく》を勤める弁吉が説明した。
「弁吉さんは屋台も引きまんのんか?」
「昔は、これで食うてたこともおます」
弁吉は赤い鼻先を指でこする。
「それより、定吉どん。例の指令の件です」
「シャチキンに接触する話でっか?」
彼はもうミソカツの味見《あじみ》に夢中である。
「奴《やつ》は明日、岐阜|養老《ようろう》ランド近くのゲートボール場に現われます。試合はすでに申し込んでますけど……、アレ? 定吉どん、聞いてまんのか?」
「ヘ、ヘイ、聞いてま」
定吉は、一心不乱に串をかじっている。彼は朝から何も食べていないのだった。
「金蔵の奴めは、小豆《あずき》の先《さき》モノ取り引き話に誘い込んでワシらの店を潰《つぶ》したのみならず、ワシらの最後の楽しみであるゲートボール場まで荒しまわっておる」
「しかもイカサマの賭《か》け試合いを仕組むんだワ。引っかかったモンは、孫に貰った小遣いから年金まで吐《は》き出してスッテンテン」
「もう五組以上のゲートボールチームが世を儚《はかな》んで集団自殺しとる。わしの幼なじみのおくめさんも先月……」
「戦争に生き残ってゲートボールで死ぬなんて……うううー」
老人たちは一斉に声を上げて泣き出した。
わ、き、汚《きた》ない。ドテナベの中に洟水《はなみず》が入ってまうがな。定吉は串を放り出すとあわてて手近のぞうきんを取り上げ、老人たちの顔を拭《ぬぐ》った。
「ああ、ありがと。あんたは心そこ親切なヒトだにゃあ」
「同じ関西人でもあの金蔵とは大違いだて」
定吉の手がピタリと止った。
「エッ? シャチキンが関西人」
「聞いてみて、わいも驚いたんですワ」
弁吉は白いエプロンのポケットから小さな大福帳《だいふくちよう》を引っぱり出す。
「鯱鉾屋《しやちほこや》などともっともらしく名乗ってますが、アレはただの屋号です。本名は指《ゆび》金蔵。出は堺《さかい》の菓子屋で」
大福帳を受け取った定吉は、そこに書かれている金《かな》クギ文字を読んだ。
泉州《せんしゆう》堺の旧家には昔から妙《みよう》な姓《せい》が多い。これは、室町《むろまち》時代の対中国貿易と多少の関係があると言われている。割符《わつぷ》などを発行する時、相手に合わせてわかりやすい一字姓にしたり、帰化人伝説を系図に取り込んだりした名残《なご》りなのだという。たとえば、千利休《せんのりきゆう》の「千《せん》」、徳川家康《とくがわいえやす》に可愛《かわい》がられた茶屋《ちやや》四郎二郎の「茶《ちや》」、隆達節《りゆうたつぶし》を作った「劉《りゆう》」。他には「万《まん》」、「指吸《ゆびすい》」、上方落語《かみがたらくご》に出てくる大富豪《だいふごう》の「飯《めし》」、大阪で名高いうどんの「美々卯《みみう》」。「鼻《はな》」という名もある。戦国の頃、取り引きのイザコザで明《みん》の役人に自分の持ち船を奪《うば》われた堺|香木町《こうぼくまち》の「鼻」六兵衛《ろくべえ》は、仲間の「眼高《めだか》」三郎を語らって倭寇《わこう》を動かし、明暦《みんれき》の嘉靖《かせい》三年(一五二四)舟山《しゆうざん》列島の定海《じようかい》を襲《おそ》って巡按御史《じゆんあんぎよし》(検察官)斑文《はんぶん》を捕《とら》え、その身体を半分に割ったという。
「指」家は「眼高」三郎の分家《ぶんけ》として慶長《けいちよう》・元和《げんな》の頃大いに栄え、大坂夏《おおさかなつ》の陣《じん》の時、豊臣《とよとみ》方の大野《おおの》道犬に店を焼かれて一時|没落《ぼつらく》した。
「なるほど堺の『指』でっか」
「ま、末のまた末。ヘタすると名前だけいただいてるのかも知れん。その先はまだ調査中です」
「さよか」
「兄チャン、老人ホーム仲間の仇討《かたきう》って」
「試合の方はこの方たちがフォローしてくれます。なあに、奴らのイカサマネタは調べ済みや。対抗《たいこう》手段はすでに講《こう》じてありますさかい」
弁吉は頭に巻いたタオルをグイと持ち上げて片目をつぶる。
孫六が突然、ミソカツの皿《さら》に頭を押しつけた。
「心底|頼《たの》むでよ」
兵七も定吉の袖《そで》を握《にぎ》る。
「わかりました。同じ泉州《せんしゆう》の人間ならわても恐くはない。御老人の恨《うら》みは必ず数倍にしてお返ししまひょ」
さして厚くもない胸板をポンと叩《たた》き、彼はお愛想《あいそ》笑いを返す。老人たちはその姿にオオと歓声をあげた。
次の日の朝、一宮《いちのみや》インターで陸送便から車を受け取った定吉は、名神《めいしん》高速を大垣《おおがき》に向ってスッ飛ばした。もちろん無免許《むめんきよ》である。
「キャッホッホー。早い、はやい――」
彼は十九・九キロの道のりをアッという間に走り抜けて、大垣のインターを降りた。桑名《くわな》に向うトラック便の混雑を避《さ》けて国道二五八号線を左折し、水田のアゼ道を美濃高田《みのたかだ》の方に進む。この辺は関西地方より幾分田植えの時期が遅いらしい。左右の田にはまだ半分しか水が入っていなかった。
定吉は停《と》めてある農家のライトバンや耕耘機《こううんき》を器用にかわしながら時速八十キロで村道を走り、養老《ようろう》山地の北斜面《きたしやめん》まで来るとギアをセコンドに切り換えた。
「さすが中番頭はんの車や。こんなに古くても息切れ一つせん」
水冷四サイクル頭上弁式直列四|気筒《きとう》九六〇CCのオリジナルエンジンはきわめて快調だった。スパイダーは低い唸り声を轟《とどろ》かせ、木立の中を上っていく。
「『養老ゲートボールの森』か」
しばらく行くと水が酒に変ったという孝行息子の伝説で知られる滝へ向う遊歩道の途中が二つに分れ、一方が広い駐車場に続いている。
彼はいったん車から降りて一般の方立ち入り禁止≠フ看板とチェーンを道の脇に外《はず》し、車を駐車場の中に入れた。
「爺《じい》さんたちは早起きやな。もう来てるやんか」
森の中にハーフ・ティンバー・スタイルの建物が見える。前庭にはすでに数台のマイクロバスが停り、老人たちが盛んに荷物を出し入れしていた。定吉は十六世紀チューダー王朝時代の建物を模したというそのクラブハウスへ車を進めた。
「失礼ですが、会員の方でいらっしゃいますか?」
ファサードに立っていたブレザー姿の男がスッと車の脇に寄った。
「いや、わては……。『月刊ゲートボール・プレイ・マガジン』のモンだす」
定吉はグローブ・ボックスの中から「夏井留源五郎丸《げいるげんごろうまる》」と書かれた偽《にせ》の名刺を取り出す。
「ええ、県庁の老人対策課から連絡が来ております。取材でございますね」
頭を下げる支配人に定吉は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
弁吉の事前工作はうまく行っているようだ。彼はオープンカーからヒラリと降り立つ。こういう動作を一度してみたかったのである。
「出来たばかりやて聞いてましたが、御盛況《ごせいきよう》なことでんな」
「はい、みなさまのおかげでなんとか」
「あのおっきな外車は?」
定吉は駐車場の方に顎《あご》をしゃくる。ちょうど入口に巨大な金ピカのアメ車が現われたところだった。
「ええ、あれは……お菓子会社を経営なさっている方で……」
支配人はチョッと眉《まゆ》をひそめ、口ごもる。
定吉は荒っぽく停車するキャデラック・フリートウッドを睨《にら》みつけた。
車は停ったが人は降りて来ない。なぜだろう? 真っ黒なシェイディング・シートのおかげでリア・ウィンドウから中を窺《うかが》うことは無理だ。しかし、そこから発せられる殺気だけはモノスゴイものだった。
「ほなら、売店の方から見せてもらいまひょか」
定吉は笑いながら、玄関のダスター・マットでゆっくりと靴《くつ》を拭《ふ》いた。
「あんたたちはいったいやる気があるんかい!」
棘々《とげとげ》しい声が喫茶室の方から響《ひび》いて来る。
「いや、まったく済まんことです。急にメンバーがバタバタといきましてね」
聞き覚えのある弁吉の声がそれに被《かぶ》った。
「季節の変り目で、みんな体調を崩《くず》したらしくて、半助は腰痛《ようつう》だし、お徳さんは口内炎《こうないえん》でヨダレが止まらん。八ちゃんは喉《のど》にタンがからんで病院へ担《かつ》ぎこまれて」
「そんなことは聞いておらんでよう!」
棚に掛けてあったスティックを手に取ろうとした定吉は、伸び上って様子を窺《うかが》う。売店で買い物をしていた他のグループも何事ならんと喫茶室を覗《のぞ》きこんでいる。
「大きな声あげて、元気なお爺《じい》ちゃんたちでんな」
「ガラの悪い人たちですよ。実は困ってるんです」
用具の説明をしていた支配人は、悲しそうに眼を伏《ふ》せた。
「さっきお見えになった社長さんのお仲間です。自分たちのことを『ゲートボール五人衆』とか言ってましてね」
練習用のコートが見えるあかぬけたウェイティングルーム。その一段上ったあたりに十人ほどの人影《ひとかげ》が見えた。
「ウワサによると、あの人たちは腕《うで》の良いことを鼻にかけて、他の会員からお茶菓子を脅《おど》し取ったり、電車で席を譲《ゆず》ろうとする若い人を袋叩《ふくろだた》きにしたり、果ては老齢年金の二重取りや、弱い人たちを無理やり賭《か》けゲートボールに誘《さそ》ったりもしているそうでんな?」
「な、なぜ、そこまで知ってらっしゃるんです?」
支配人は獅子舞《ししまい》の面そっくりなギョロ目を丸くして驚《おどろ》く。
「老人の不良化は、あちらの国で年々問題化してるそうで」
定吉は、ちょっと話題を変えた。大阪城マークが付いたスポーツシャツの裾《すそ》をキュッと引いて胸をそらす。
「フランスでは第二次大戦が終り国民総人口の五分の一が老人になった時、年よりが突如《とつじよ》不良化したとか言います。機関銃を持って銀行|襲《おそ》うわ、車を暴走させるわ、若いオナゴかっさらうわ」
「そういえば、ジャン・ギャバンを始めとして、向うには年食ったギャングの出て来る映画が多いですね」
「これは戦時中の、レジスタンス運動の後遺症《こういしよう》とも言われてますけど。ま、それはともかくとして不良老人の増加は、日本が少しずつ老人大国になってるという証《あか》しです。西暦二〇二〇年には何と、全人口の二十二・三パーセントが……」
昨晩|一夜漬《いちやづ》けで覚えこんだウンチクを定吉はペラペラとまくしたてる。
「おきゃあせ(やめろ)!」
再《ふたた》び老人の怒鳴《どな》り声が聞こえた。
「このヒトが怒るのも無理はない」
別の男がそれをフォローしている。
定吉は耳をかたむけた。
「いいですか。これは昭和五十八年四月一日に施行《しこう》された、日本ゲートボール振興会の大会運営規則第十一条に抵触《ていしよく》する行為《こうい》なんですよ」
どうやら、それが鯱鉾屋《しやちほこや》金蔵の声らしかった。
「ちょっと見て来ますワ」
「あっ、お待ち下さい。危いですよ」
10 ゲートボール五人衆
止めようとする支配人の手をスルリとすり抜け、定吉は喫茶室のドアを開いた。
そのままゆっくりと窓際の席に歩いて行く。円形に椅子《いす》を並べた部屋の中央で人相の悪い老人が六人。向き合うようにしてコーチ姿の弁吉とその仲間たちが坐っている。
「……『競技開始時にコートへ集合しないチーム、あるいは主審が開始を命じたにもかかわらずこれをこばんだチームは試合を没収《ぼつしゆう》する』」
見覚えのある眉《まゆ》の薄い赤ら顔が、ルールブックを広げて弁吉たちに詰《つ》め寄っている。
「あんたら、試合放棄するならそれでもええ。約束の賭《か》け金《きん》はこっちのモンだ。このテーブルに耳をそろえてパッチリと積んでもらおうかあ」
眉間《みけん》に大きな古傷《ふるきず》のある老人が、カーペットにペッとツバを吐《は》いた。
こいつが五人衆のリーダー格、「与作」だな。弁吉どんのレポートどおりメッチャ悪党ヅラや。
定吉は澄《す》まし顔で人々の間を通り抜けた。
チラリと金蔵がこちらに眼を向けた。彼の肘《ひじ》が定吉の腰に触れそうになる。
金蔵の目が一瞬ものすごい光を放った。が、それはすぐに鈍《にぶ》い輝《かがや》きに変る。気付いている!
弁吉は、素知《そし》らぬ体《てい》で会話を続けていた。ここまでは全《すべ》て計画通り。
さて、これからがヤマや。
窓際のデッキチェアに定吉は腰を降ろした。
弁吉が不良老人たちへペコペコと頭を下げている。
「勘弁《かんべん》してやって下さい。こちらも悪気《わるぎ》があったわけでなし」
「コーチは口を出すな」
頬《ほお》に刀傷《かたなきず》のある老人がドスの利《き》いた声で彼を制した。
「老齢年金|貰《もら》っとらん奴は黙《だま》っとりゃあええがね!」
シャツの胸に「与平」の名を縫《ぬ》い付けたツルッパゲが声を荒げた。
今や!
定吉は、「ヒャッ」と小さく叫ぶと、大げさに驚いてみせる。
椅子から腰を浮かせた拍子に、シャツの下へ挟んだ細長いものが、カーペットの上に落ちた。
物体はそのまま金蔵の足元にコロコロと転って行く。
「あっ、すんまへん」
金蔵がゆっくりとそれを拾い上げた。
「どうぞ」
と、定吉に差し出そうとした手が凍《こお》りつく。
「これは……」
金蔵の顔が蒼白《そうはく》に変った。宗《そう》右衛《え》門《もん》から貰《もら》った例の「双葉《そうよう》」である。
「ああ、どうも。恐《おそ》れ入りますう」
礼を言った定吉は、手を伸してそれを受け取ろうとする。しかし、金蔵は動かない。
「『倉屋《くらや》』の、むらさめ外郎《ういろう》ですな」
彼はつぶやくように言った。
「ヘッ、左様《さい》でおます」
元気良く定吉は答えた。
「わてはこれが大の好物で、お茶受けにいつも持ち歩いてまンのや」
「京都の方で?」
「いえ、枚方《ひらかた》の在《ざい》で」
彼は突然歌い始めた。
「ここはどこじゃと船頭衆《せんどうしゆう》に問えば〜、ここは枚方|鍵屋浦《かぎやうら》、鍵屋浦には碇《いかり》はいらぬ。三味《しやみ》や太鼓《たいこ》で船止める〜」
与作たちはビックリして振り向いた。弁吉が、「それはやりすぎ」という眼で睨《にら》んでいる。
「……という三十|石船《こくぶね》の唄《うた》で有名なアノ枚方で」
「そ、そうかね」
「今、淀川沿《よどがわぞ》いでは、若いネーチャンたちの間でコレが流行《はや》ってましてな」
彼は包み紙をバリバリと剥《は》いだ。
「ちょっと食うてみなはるか?」
ういろうと羊羹《ようかん》のサンドイッチを金蔵の鼻先に突きつける。
「むっ!」
金蔵の薄《うす》い眉毛《まゆげ》が吊《つ》り上った。
「この印は!」
菓子の表面を見て彼は唇を震《ふる》わせる。
「ああ、これでっか」
定吉は何気《なにげ》ない様子で、羊羹に刻まれた鷲《わし》とハーケンクロイツの刻印《こくいん》を指差した。
「これは、倉屋の創業何百年かを記念したモンですワ。何でも昔の木型《きがた》を特別に出して来て作ったそうです。エライ人気で、コレ一本しか手に入らなんだ」
それは、昭和十一年日独防共協定|締結《ていけつ》後に日本へやって来たヒトラー青年団《ユーゲント》へ土産《みやげ》として持たせるため、京都市が特別注文した「双葉」の復刻版だった。
「少し塩気があって結構な味でっせ」
定吉は、ドイツ第三帝国が大戦の最終段階に隠匿《いんとく》したという金塊《きんかい》「帝国の同志《ライヒス・カメラード》」そっくりな形をした羊羹《ようかん》にズリズリと頬《ほお》ずりする。
「そ、そ、それを……」
金蔵の顔が再び桜色になった。
「わしに売ってくれい」
言うより早く彼は羊羹に飛びついた。
「まあ、それほどお好みなら」
ひったくった羊羹にむしゃぶりつく金蔵の姿に流石《さすが》の定吉もビックリする。
これはかなりの効《き》き目《め》だ。金蔵にとってこの菓子はどういう意味を持っているのだろう?
「あー、うまかった。牛負けたあ」
一気に食べ終えた金蔵は、下らないことを言いつつ、名残《なご》り惜《お》しそうに指先をペチャペチャと嘗《な》めまわす。
「済まんことをした。一本しかない羊羹だったろうに」
我に返ったデブ男は定吉に頭を下げる。
「いや、ええんです。同好の士に会えてわてもうれしい」
定吉はポリポリと頭を掻《か》き、それから向いの席に坐った老人たちの方に顎《あご》をしゃくった。
「さっきから、皆さんエライ揉《も》めてまんな。どないしましてん?」
「いや、こちらの『大須お達者プレイヤーズ』の方たちと私たちがプレイをするはずだったのだが」
ジロリと金蔵は弁吉たちのグループを睨《にら》む。
「あちらさんの人数が一人足りないんだ」
「チョイ、ニイちゃん聞いてチョウよ」
与三郎≠ニいう名札を付けた顔中|傷《きず》だらけの老人が身を乗り出して来た。
「わしらは補欠まで揃《そろ》えて来とるいうのに、このタワケ(馬鹿者)どもはノンビリしとるんだワ。コーチを入れても一人足りんでよう」
「なるほど、試合が出来んのでっか? そらお可哀想《かわいそう》になあ」
ハンチングをクルクル手でまわしながら定吉は小首をひねる。それからおもむろに顔をあげた。
「どうでっしゃろ。わてがその足りない分、穴埋《あなう》めするというのは?」
「エッ」
一同は驚《おどろ》いて彼を見る。
「わては、夏井留《げいる》いいまんねん。ゲートボールの専門誌《せんもんし》で記事書いてるモンです。けど、実際にはあまりやったことおまへん。一度ベテランの方に混ってプレイしてみたいと思うてました」
金蔵たちの、メンバー一人一人の顔を見ながら彼はお愛想《あいそ》笑いを浮べた。
「うむ、それは」
与作が金蔵の袖《そで》を引いて目くばせする。
「仲間と相談してみよう」
六人は席を立つと喫茶室の片隅に移動した。
弁吉と吉造、孫六と兵七はそれぞれ不安そうに顔を見合わせる。ここでことわられたらこの計画はワヤになる。
遠く離れて相談をする老人の口元を定吉は凝視《ぎようし》した。読唇術《どくしんじゆつ》である。
「奴はタダ者ではない」
「賭《か》けゲームに入れるのは危険だと思う」
「しかし……」
金蔵が皆を制する。
「あの贅六《ぜいろく》が何をたくらんでいるのか、私は知りたい。それにどうせトウシロウだ。例の手で行けば負けることはないだろう」
ホレ、うまいこと行ったでェ。
定吉は舌なめずりする。
人相《にんそう》の悪い老人たちは一列になって戻って来た。
「よろしい、夏井留《げいる》さんとやら。君を混ぜよう。しかし言っておくが、これは賭けゲームだ。もし負けた場合は君にもそれ相当の負担がかかるが、それでも良いかな」
金蔵の言葉に定吉は小さくうなずく。
「けっこう。では皆《みな》の衆、コートへ行こう」
与作が歯グキだけの口を開き、下品に笑いかけた。
「夏井留さん。なかなか良いスティックをお持ちのようで」
素振《すぶ》りをする定吉の脇に金蔵が寄って来た。
「いや、たいしたもんやおまへん」
「ほーう、これはすごい。奥美濃《おくみの》の名人|楊仙《ようせん》の作か」
スティックを持ち上げた金蔵は、柄《え》に彫《ほ》り込まれた銘《めい》を見て感嘆《かんたん》の声をあげる。
「それに、重い。かなりの古木だ。目もつまってる」
「樹齢《じゆれい》百年の柿の木使うてるそうですワ」
ゲートボールのスティックには寸法の規定はあるが、重量は特にきめられていない。木製で柄は七十から八十センチ。中心に印が引いてあり、それより下を握《にぎ》ると反則になる。
「私の得物はサニングディルだ。印度紫檀《サンダル・ウツド》でね」
黒い手縫《てぬ》い革のケースから英国製の特注品を取り出した名古屋の成金男《なりきんおとこ》は、自慢気《じまんげ》に二度三度素振りをしてみせた。
彼がスティックを回転させるたびにビュッ、ビュッという鋭《するど》い音がする。
スティック・ヘッドが重いだけではあんな音は出るまい。ヘッドキャップに何か仕掛《しか》けがしてあるのだ。急降下爆撃機の風切りみたいに相手を音で威圧しようというのだろう。定吉はバカバカしくなって一緒に素振りするのをやめた。これはゴルフやポロのように用具を大げさに振りまわすスポーツではない。
ピーッとホイッスルが鳴った。
特別コートの方で、審判員が手招きしている。
「さて、行こうか」
各個に打撃練習をしていた老人たちも三々五々連れ立ってコートに集合する。
白いアポロキャップ、白のトレーナー、白のジャージーパンツ姿の主審《しゆしん》と副審《ふくしん》が第二ラインの内側に立っていた。どちらも色の薄黒《うすぐろ》い学生風の男である。体育大学のボランティアといったところだろう。
「こいつら、シャチキンの息がかかってるかも知れん。気ィつけなはれや」
スタート・ラインに並んだ弁吉は、定吉の耳元にささやいた。
「では、両チーム。お互《たが》いの健闘《けんとう》を誓《ちか》って握手《あくしゆ》を……」
「いや、待て」
副審の言葉を金蔵が止めた。
「これは親睦会の試合ではない。互いの財産をかけた鉄火場《てつかば》勝負だ。握手はするまい」
「はっ、それでは」
主審が副審を押しのけて前に出た。
「先攻、後攻をきめます」
金蔵がポケットからメダルを取り出し、宙に放った。
「表だ」
コートの上に落ちたメダルを見て彼は叫《さけ》んだ。
「それ見ろ、表が出た。私たちが赤(先攻)だな。きまりだ」
「アレは裏表とも同じ図柄《ずがら》だがね」
吉造が呆《あき》れた。それは両側に同じ名古屋城の絵が付いている記念メダルだった。
「声の大きい方が勝ち、いうことでんな。ま、最初はアチラさんの顔立てまひょ」
老人の肩をやさしく叩《たた》くと、定吉はスティックの柄《え》を握《にぎ》りしめた。
「時間をセットします。所要時間は通常通り三十分」
時計を見ていた副審がうなずく。主審は右手の拳《こぶし》を開き、ナチス式の敬礼みたいに前へ突き出した。
「プレイボール!」
「与作さん、がんばってェ」
ゲートボール五人衆の紅《こう》一点(いや、この場合は焦《こ》げ茶色というべきだろうか)「補欠のおタネ」が黄色い声を張り上げた。
「元気なお婆《ばあ》ちゃんやな」
「あれもクセモンでっせ。手もとをよーく見てて下さい」
定吉はトレーナーのポケットに両手を突っこんだおタネ婆さんを盗《ぬす》み見る。
「一番の方」
ゼッケン一の与作がスタートラインに立った。
彼は老人特有のしわぶきをすると、第二ラインの外にペッと痰《たん》を飛ばす。
「早乙女与作《さおとめよさく》行きます!」
膝《ひざ》をゆるく曲げ、体重を足元にかけた与作は、ゆるやかにスティックを振った。
安定したショットである。
赤い玉は勢い良く第一ゲートを通過した。
「キャー、与作さん。カッコイイでよー」
声援を背に受けた老人は、額《ひたい》の三日月傷《みかづききず》を掻《か》いて顔を赤らめる。
「今のは不正スタートだ」
「主審は知らん顔だ」
孫六と兵七がささやき合う。第一ラインの内側からボールを打ったと言うのである。
「抗議しよう」
「待ちなはれ」
いきり立つ吉造を、弁吉が止めた。
「すでに打ってしまったものを言うてもせんかたない。ヘタに文句をつければ、こっちがゲーム進行妨害で打撃権《だげきけん》を失うでえ」
与作は第二ゲートも一撃で通過する。セオリー通り第二ゲートの角を曲って三打目を止めた。
「二番の方」
「はい」
「声が小さい!」
「二番、きしめん屋の吉造」
吉造はトロクセエ、と小声でつぶやく。
「何か言いましたか?」
「い、いえ何も」
「審判員を侮辱《ぶじよく》するような言動は、退場の対象になります。以後慎《つつ》しんで下さい」
「あのガキ、ヨッチャンにプレッシャーかけとる」
孫六がスティックで地面を激しく叩いた。
「主審は完全にえこひいきしてまんな」
定吉は白い帽子の下で陰険《いんけん》そうに光る主審のドングリ眼《まなこ》を睨《にら》みつけた。
「二番第二ゲート通過」
副審がゲートを差して呼称する。吉造はプレッシャーにめげず一番ボールのそばに第三打を付けて第一ラウンドを終えた。
「三番の方」
毛髪《もうはつ》の不自由な与平が大きくスティックを振り上げてラインの中に入ろうとする。と、そのポケットから小銭が落ちた。
「あっ、金が」
白い四番ゼッケンを付けた兵七が、コートに散らばったコインを拾おうと、反射的に腰をかがめた。
「四番反則行為!」
主審の声が飛んだ。
「えっ?」
「競技中、第二ライン内に入ることができるのは審判員及び打順打者のみである。相手チームの者が入った場合、そのチームの次の打者は打撃権を一回失う」
「そんな」
「まだ第一打前ですよ」
見かねた副審が兵七をかばうようにして前に出て来た。
「親切心で金を拾おうとしたんだ。九州ルール(九州各県連絡協議会規則)≠ノよれば警告、注意の範囲ですし、ここはひとつ……」
「アホタワケ!」
言うより早く主審は副審の右頬《みぎほお》にパンチを叩《たた》き込んだ。
グシャッ、という音がコートに轟《とどろ》き、副審は、隣接《りんせつ》コートに吹っ飛ぶ。
「ウチはなあ、全名古屋特別ルールで統一されとるんだあ。九州のルールが何ボのモンだあ」
主審は倒れている副審の脇腹《わきばら》に何度も蹴《け》りを入れた。
「だいたいおみゃあ(お前)は後輩のクセしてナマイキなんだ。神聖なゲートボールを甘く見とりゃあせんか?」
彼はすでに気絶している同僚の身体をこれでもか、これでもか、と痛めつける。
「やめて下さい」
隣のコートでビギナーを教えていた係員らが主審を引き止めた。このまま続けたら副審の内臓が破裂してしまう。
「こんな奴は殺した方が良いんだ」
タンカで運ばれて行く副審の身体へ彼はまだやり足りないといった風にツバを吐《は》きかける。
修羅場《しゆらば》を見慣れた定吉でさえも舌を巻く振舞《ふるま》いである。
「スポ根マンガに出てくる悪役コーチみたいな奴でんな。それにしても……」
何という恐ろしいスポーツだろう。これでは命が幾《いく》つあっても足りない。彼は自分のゲートボールに対する認識を完全に改めた。
「ゲーム再開!」
狂気の炎《ほのお》を両眼に宿したまま主審はコートに戻る。
「我々をビビらせようとするシャチキンの手ェですワ」
弁吉は冷静なものである。
「三番、尾張一宮《おわりいちのみや》の与平、行きます!」
与平がダミ声を張り上げた。
「さて、次はわての番やな」
定吉はラインの端に移動した。すでに打順は一まわりしている。現在プレイをしているのは金蔵だ。彼は安定した動きで次々と相手球をスパーク(打撃《だげき》)していく。
左ききらしく、右の足で自分の球を踏み、左足を半歩後ろへ引いて爪先《つまさき》に体重をかけ、ゆるやかにスティックを当てる。他のメンバーのように定吉たちのチームボールを憎々《にくにく》しげに遠方に打ち出すということは流石《さすが》にしていない。
「うまいことやりおるワ」
「十番の方」
主審《しゆしん》が叫《さけ》ぶ。
「十番、夏井留源五郎丸《げいるげんごろうまる》、見参《けんざん》!」
ヘッ、何て怪態《けつたい》な名や。シロウトが聞いても即《そく》わかる偽名《ぎめい》やで。どうせ付けるならゲイルよりバースにして欲しかったな。定吉はブツブツ言いながら相手球を弾《はじ》いて行く。
「うん、やってみんとわからんもんや。こら実に陰険《いんけん》なスポーツやで」
彼はタッチした九番の球を拾い上げた。静止した自分の球を足で踏み押さえる。
「こいつもペケにしたろ」
スティック・ヘッドをポンと当てた。
「そーれ、アウトボールや」
ピシッという音が響《ひび》く。十番ボールは見事金蔵のボールを第一ラインの外に弾き出した……。
と、見えたが、次の瞬間《しゆんかん》、
コートの外に転《ころが》り出た九番ボールは再《ふたた》びラインの内側にコロコロと帰って来る。まるで見えない手が押し戻《もど》しているかのようだ。
「こらまたどうしたこと?」
「風圧による戻りですね、九番は運がいい」
主審が含《ふく》み笑いをする。
違うな。定吉は舌打ちした。奴ら、とうとう奥の手を出して来おった。
弁吉の方をそっと窺《うかが》う。彼は相手チームの補欠、おタネ婆《ばあ》さんに鋭《するど》い視線を送っている。
彼女は、トレーナーのポケットでモゾモゾと手を動かしていた。
ラジコン操作だ。
大人の握《にぎ》り拳《こぶし》より大きな玉である。中にジャイロや受信装置を仕込《しこ》むことは、今の科学技術を以ってすればさして難かしいことではない。
「そろそろ、わてらもやりますか」
コーナーに戻った定吉は一同に目くばせした。
11 ゴールド・キャデラック
「きしめんで祝杯といこみゃーか(行きませんか)」
吉造の提案に従って全員が「かやくきしめん」を注文した。
「わっ、花かつおの大盛《おおもり》でんな」
「上で削《けず》り節《ぶし》が踊《おど》ってるうちに、手早く食べるのが通《つう》でんね」
弁吉のアドバイスを受けた定吉は、大急ぎで器に食らいついた。
ハフハフと喉《のど》を鳴《な》らし、平たい麺《めん》を流しこむ大阪人に老人たちは眼を細める。
「どうです?」
「はて? この汁《しる》、以前食うたきしめんと少し違《ちご》うてまんな」
「大垣《おおがき》から向うの麺類は薄口《うすくち》しょう油、名古屋近辺はタマリしょう油というのが普通です。ほやけどこれに、かやくもん(天プラ、ほうれん草、カマボコ)が入ると……」
「わかった。白しょう油でダシ作りしまんのやな」
「左様《さい》です」
褒《ほ》めようとした吉造は、背後の気配《けはい》に気付き、顔色を変える。
「なるほど、バースとは仮の名、実は大阪名物|丁稚《でつち》の定吉君というわけか」
いつの間に入って来たのか。鯱鉾屋金蔵《しやちほこやきんぞう》がそのデップリとした身体を喫茶室の入口に落ち着かせていた。
「バースやおまへん。夏井留《げいる》だす」
かまぼこを口にくわえたまま定吉はニヒルに笑った。
「うまくだまされたよ。最初に用具点検をしておけば良《よ》かった」
「そんなことをすれば、恥《はじ》かくのはあんたらの方や」
「まさか、この優美なスティックが」
金蔵は部屋の隅に並べられた象牙色《ぞうげいろ》のスティックを一本、ヒョイとつまみ上げた。
「電磁石《でんじしやく》付とはねえ」
「妙《みよう》な因縁《あや》つけんといて下さい」
素《そ》っ気《け》なくそう言うと、定吉は再び器に向きなおった。
「最初手にした時に気付くべきだった」
ネチネチとした口調で金蔵は、なおもスティックをいじりまわす。
その木槌《きづち》こそ中番頭《なかばんとう》九作のチームが開発した秘密兵器「お達者一号」だった。定吉は、弁吉があらかじめスリ替えておいたネオジウム合金入りのボールを、この超小型|電磁棒《でんじぼう》で動かし、試合を勝利に導いたのである。
「君らの使った白ボールを割ってみた。中から大きなベアリング玉が出て来たよ」
「それがどうした」
兵七が割り箸《ばし》をバキッと折った。
「別にサイコロ博打《ばくち》をするわけでにゃあぞ。ありゃあ玉のバランス用だ。ルールブックにも用具の重さは関係無い、と出とる」
「わしらも、あんたたちの使った赤玉を割って見たいもんだ」
孫六は脇腹をポリポリと掻《か》く。
「……中からラジコンの……」
「もういい!」
金蔵は怒鳴《どな》った。
彼の仕掛《しか》けたボールは、全《すべ》て定吉のスティックによって受信装置がショートしてしまったのである。
「ほんなら、約束の掛《か》け金払《はら》ってもらいましょうか」
「小切手でいいかね?」
「結構毛だらけ」
「車に置いてある。ついて来なさい」
「ほならわてが代表して」
定吉が立ち上った。
「乙戸岩《おつといわ》、小切手帳を出してくれ」
偏光《へんこう》シート張りのウィンドウが音もなく開き、中から巨大な手が突き出された。
「受け取り人は、『大須《おおす》お達者《たつしや》プレイヤーズ』……と」
ボンネットを机《つくえ》代りにした金蔵はパーカーの金ペンをサラサラと走らせる。
「毎度おおきに」
定吉は小切手を捧《ささ》げ持ち、ペコリと頭を下げた。
「今後ともよろしゅうに。リターン・マッチをお望みならいつ何時《なんどき》でも参上いたしますよって」
まるで掛《か》け取り巡《めぐ》りの口上《こうじよう》である。
「ほなら、これで失礼させてもらいまっさ」
「待ちなさい」
「何でんね?」
おもむろに小切手帳を閉じた金蔵は運転席のドアをコツンと叩《たた》いて合図を送った。
「君の魂胆《こんたん》はわかっておる。あの、お高くとまった関西の菓子屋どもに頼まれたんだろう。私につきまとって嫌《いや》がらせを続ければ、やがては根負《こんま》けして在庫の小豆《あずき》を放出する。そう考えているのだろうが……」
フリートウッドの長大なドアが音もなく開いた。
「……無駄《むだ》だな」
ミシリ、と車のボディが軋《きし》み、中から何か巨大なものが現われる。
「おっ」
定吉は思わず後ずさった。
「紹介しよう。私の運転手だ。『乙戸岩《おつといわ》』権之助《ごんのすけ》という。もと竜田山《たつたやま》部屋にいた外人相撲《すもう》取りだ」
派手《はで》な吉原つなぎ文様の浴衣《ゆかた》を着た肉布団《にくぶとん》が彼の前に立ちはだかる。
これはまた大きい。定吉はポカーンと口を開いて男を見上げた。
病的なまでに白い肌《はだ》。晴れた午後の日差しにキラキラと輝《かがや》く金髪《きんぱつ》は大《おお》銀杏《いちよう》に結《ゆ》われている。眼窩《がんか》は岡八郎のように落ち窪《くぼ》み、バルト海の波を思わせる青味がかった灰色の両眼がその穴の中から覗《のぞ》いていた。
六尺五寸、いや、七尺は行くかも知れん。胴まわりは難波橋《なんばばし》のたもとに飾ってあるライオンより太そうだ。定吉は両の手を握《にぎ》りしめブルブルッと身体を震《ふる》わせた。
「か、かっこいいやんけ」
彼はあわてて大福帳《だいふくちよう》と筆《ふで》ペンを取り出した。
「サイン下さーい」
「こ、こら。少しは怖《こわ》がらんか!」
金蔵があわててその手を遮《さえぎ》る。
「せっかく迫力《はくりよく》付けてしゃべっとるのに」
「そやかて、わて角力《すもう》が大好きなんですう」
乙戸岩は何のことかわからずキョトンとしている。
「困った奴だな。人が盛《も》り上げてる時は黙《だま》って聞くもんだ」
「スンマヘン」
「まったく教育のなってない|丁稚《でつち》だ。ええっと、どこからだったかな」
「『外人|相撲《すもう》取りだ』、というところからですう」
「あっ、そうそう。……その相撲取りの秘技をちょっと見てもらおうか」
金蔵は目で合図すると、指先で自分の頭を小さく叩《たた》いた。
「オットー、例のヤツだ」
「|承知しました《ヤボール》」
相撲取りは、まな板よりぶ厚い駒下駄《こまげた》の踵《かかと》をプロシア風にカツンと打ち合わせると、足を七三に広げ、頭に手をやった。
「あれを」
金蔵は駐車場の入口を指差す。
等身大の石像が建っている。ここのシンボル、「養老《ようろう》の滝《たき》伝説」孝行息子の像だ。
「|一、二の三《アイン・ツバイ・ドライ》!」
シュッ、という風を切る音がした。
次の瞬間、ひょうたんをくわえた石像の首がコロリと地面に落ち、粉々に砕《くだ》け散った。
「ヘッ? どないしたん」
相撲取りの方を振り返った定吉は、息をのんだ。
「あっ、頭が!」
彼の頭は光り輝《かがや》いていた。しかし、それは金髪《きんぱつ》のせいではない。そこには先程《さきほど》の大《おお》銀杏《いちよう》が乗っていなかった。
「テカテカやんか」
無遠慮《ぶえんりよ》な彼の言葉に傷《きず》ついたのか、乙戸岩は、グローブのような手で恥かしそうに頭を押さえ、石像の前に走って行った。
彼は金属の柵《さく》に引っかかった金色の物体を大事そうに袖口《そでぐち》で拭《ぬぐ》って頭に被《かぶ》る。
「奴の鬘《かつら》投げに刃向える奴はめったにいないのだ」
そうか、あの大銀杏の髷《まげ》が武器なのか! 定吉はその時になってやっと彼の恐ろしさを知った。
たぼ(首筋にたれ下る部分)の中に丸く刃物が仕込《しこ》んであるに違いない。こいつは手ごわい奴。
乙戸岩は髷を整えるとキャデラックのそばに歩み寄り、後部ドアを開いた。
「定吉君とやら」
金蔵は思いっきりドスのきいた声を出す。
「君も胴と首がお別れしたくなければ、私に付きまとうのはやめることだ」
「御忠告は胆《きも》に銘じますう」
「仲間にもそう伝えなさい」
キャデラックのシートにドッカリと腰を下ろした彼は相撲取りに「出せ」と合図する。
「気ィつけてお帰りやす」
「|さよなら《アウフ・ビーダーゼン》」
乙戸岩はドアを閉めると、意外に礼儀正しい態度で車を発進させた。
「おっとろちい(恐ろしい)奴や」
いつの間にか弁吉が彼の脇《わき》に立っている。
「まったく、何考えているやらようわからん」
定吉は去って行くキャデラックには眼もくれず、壊《こわ》れた石像を撫《な》でまわした。
「わてのようなモンに芸を見せたいばっかりに、ごっつう高い石の彫刻、こんなにしてしもうて……」
その場にうずくまって未練たらしく石の破片を拾い集める。
「ほんにもったいないことする奴ちゃ。後で請求書|貰《もろ》うて眼えまわしても知らんで、わては」
「何考えてるかわからんのはアンタの方や」
弁吉は彼の言葉に呆《あき》れ果てた。
金蔵の車が駐車場を出て正確に十分後。
定吉はダイハツ・スパイダーのエンジン・キーを回した。
「さて、車と道行きや」
「追跡《ついせき》でっか? 奴が出発してから、もうずいぶん経ってまっせ」
弁吉が心配そうに運転席を覗《のぞ》きこんだ。
「大丈夫。こういうのンは、あんまりピッタリくっついたらアカンのです。それより」
彼はクラブ・ハウスの出口を見まわした。
「最前《さいぜん》から『ゲートボール五人衆』の姿の見えんのが気になります。柄《がら》の悪い爺婆《じじばば》やさかい、帰り道で襲《おそ》って来んともかぎらん。大須の御老人たちをあんじょう頼みます」
「まかしとくなはれ。わいが責任持って、全員ちゃんと家に送り届けます」
「ほなら、あとで連絡させてもらいますう」
軽快なエンジン音とともにスパイダーは駐車場から飛び出した。
山道を一キロほど下ると三叉路に突き当る。一番右は、来る時に定吉が走ったコース、国道二五八号線に通じている。真ん中は根尾川《ねおがわ》に沿って西大垣《にしおおがき》に至る道、左は名神高速と平行に走って|関ケ原《せきがはら》インターに向う道である。
定吉は分岐点のすぐ横で営業しているトタン張りのドライブインに車を乗り入れた。
養老渓谷《ようろうけいこく》へ向う観光客を相手にする小さな店である。おそらく盛夏にはスイカやアユの塩焼き定食などを出すのだろうが、今のこの時期はまだ「ミソオデンあり|※[#□の中に/]《ます》」の看板を出していた。
「おばちゃん、関東炊《かんとだ》き(関西人はオデンをこう呼ぶのだ)おくれ!」
「はい」
「カラシも付けてなー」
彼は八丁ミソがたっぷり染《し》みついてマホガニー色になったハンペンを頬張《ほおば》った。
「う、うんまいわ。時におばちゃん」
「なんかね?」
「ここをオッケな外車通って行かへんかったかー?」
「大きな車って、金ピカでトラックぐらい幅《はば》のある?」
「それ、それ。車の鼻んとこ(ラジエーター・グリル)が刑務所《けいむしよ》の鉄格子《てつごうし》みたいな形してて、その上に金のシャチホコの飾《かざ》りがドーンと乗ってる怪態《けつたい》な奴」
「見た、見た。そこの山道を入ってったよ。関ケ原カントリーの方に行ったみたい」
「おおきに」
オデンを口にくわえた定吉は、スパイダーにポンと飛び乗り、左の道へハンドルを切った。
「派手《はで》な車乗ってくれて、こっちゃ大助かりや」
目も眩《くら》むようなキンキラのキャデラック・フリートウッド。しかもラジエーター・ヘッドに鯱鉾《しやちほこ》付である。幟《のぼり》を立てて走っているようなものだ。
道は河を越《こ》えると、国道二六五号に合流する。二キロほど行って名神関ケ原インターと新幹線をくぐり、やがて伊吹《いぶき》山地と鈴鹿《すずか》山脈に挟まれたゆるやかな丘陵地帯に出た。有名な関ケ原の古戦場である。
ここでまたしても大きな道路、国道二一号線の交差点だ。
「さて、次はあそこで聞いたろか」
関ケ原古戦場名物「合戦《かつせん》弁当・アユ菓子」と書かれた大きな看板の下へ定吉は車を突っ込んだ。
「おっちゃん、アユのお菓子おくれー。それと、チョイ物を聞くけどな……」
こうして定吉は養老渓谷を出てほぼ二時間後、関ケ原ウォーランド近くの路上で金蔵の車を捕捉した。
「けったいな奴《やつ》ちゃなあ。どこ行くつもりやろ?」
金色のシャチホコ車は北国街道《ほつこくかいどう》(国道三六五号)沿いの岩倉山麓《いわくらさんろく》をしばらく進んだかと思うと突如左折し、伊吹山のドライブウェイに入って行く。
「さっきの交差点で右折してくれたらよかったのに」
国道二一号線を東に行けば大垣、岐阜。名物の干柿《ほしがき》、鮎寿司《あゆずし》がたっぷり味わえるのである(しかも追跡《ついせき》中は食事が必要経費なのだ!)。
「試合に負けてカッカ来た頭を冷そういうつもりなんやろか?」
単なる気晴らしのドライブかも知れない。
「意外に可愛《かわい》いとこある奴や」
秘密のアジトにでも行くのではないか、と思ったがアテ外《はず》れだったな。
定吉は苦笑した。
道は七曲りどころか十曲り、二十曲り。ヘビのようにクネクネと山上へ延びている。
「とうとう滋賀《しが》に来てもうたがな」
少し行くと路端《ろばた》に県境表示板が出ていた。空気はどんどん冷たくなっていく。ここから米原《まいばら》にかけては有名な豪雪《ごうせつ》地帯だ。まだあちこちに雪が残っている。
定吉はスパイダーのヒーターを全開にした。
「さすがスペシャルカーや。パワーが違うわい」
OHCV8気筒《きとう》4087CCを搭載《とうさい》した金の重箱は、伊吹山の山腹《さんぷく》を平地と全く変らない優雅《ゆうが》な物腰《ものごし》でスルスルと昇って行く。
弁吉のレポートによればそのキャデラックは恐るべき怪物だった。
イギリスの有名なカスタマイザー「ラポート・インターナショナル・グループ」が一九七九年に兵器会社アーマーライトと提携《ていけい》して作りあげた特注|装甲車《そうこうしや》なのである。ラポート・インターナショナルは一九八一年一月にアーマーライトを吸収合併しているから、その車は事実上、初期ラポート社のラストメイキングということになろう。
特殊装甲オプションは全部で四十項目。フロントの防弾《ぼうだん》ガラスは厚さ約三十ミリ、インサイドはセラミックと鋼の二重張り、自動式のヒューズ及びタイヤ圧修復装置、ガン・ポート、2ウェイ内部通話器と盗聴防止電話、燃料消火装置、リア補助シートの中にエア・ボンベとホーム・バーセット、ドライバーシート後部には、きしめん調理用キッチンも付いている。
ラポート社は、客がベースとなる車を持ち込みそれにオプションを取りつけて行くシステムだから標準タイプというものがない。つまり目の前を走っているそれは、世界に一台しかない車ということになる。
「あー、見てて胸クソ悪うなる。これやから地方の成金《なりきん》は嫌《きら》いや」
定吉はハンチングのつばをキュッと横に回し、ハンドルを叩《たた》いた。
弁吉レポートには、金蔵がその車を手に入れた過程も克明に書かれていた。もともとは、アラブ・ルスタムの土侯王《どこうおう》アブドル・アル・アーメッドが、息子アユーブのオックスフォード入学祝いとして一九七九年に発注したものだという。
アユーブは同年のクリスマス、イギリス上流階級の子弟を大量に巻きこんだコカイン・パーティ「ハンプトン事件」に連座してスコットランド・ヤードに捕《とら》われ、保釈後、ウエストエンド出身のモデルとともに何処へか姿を消した。失意の王は病床に伏し、親族は受け取りを拒否したため、九分通り出来上ったこの車は郊外の秘密工場に半年程放置された。キャデラックという車種は人によって好き嫌いが激しい。まして八〇年代はベンツブーム、テロ対策用のスペシャルカーが引く手あまたの時代とはいえ、はたしてこれが転売できるかという不安がラポート社にはあった。なにしろプレスリーが墓場から乗って出て来そうな派手《はで》車なのだ。ところが世の中は捨てたものではない。ある日、奇特な客がロンドン・メイフェアにある本社の扉《とびら》をノックした。日本の若いディスコ経営者である。彼はナゴヤという土地に西アジア風の建物を作り、客引き用としてソレを飾《かざ》るのだ、と説明した。男はビタ一|文《もん》値切ることなく即金で車を買い取り、ただちに母国へ空輸したという。なるほどアラブの油が暴落して以来、金持ち国といえばまず日本であろう。
これを金蔵が自分のものにしたのは今から三年前。当時、名古屋東地区で最も豪華といわれたその店に、中村区一下品なキャバレーで引っかけた女たちを連れて現われた彼は、入口のチケット売り場に置かれた車を一瞥《いちべつ》してこう言ったという。
「これだけ重量があってトランクルームの大きな車を遊ばしておくのは天下の損失だ」
数日後、金蔵はディスコのオーナーを賭《か》け麻雀《マージヤン》に誘《さそ》い、いとも簡単に店と車を手に入れている。
「おっと、休憩するつもりやな」
定吉はゆっくりとブレーキを踏《ふ》んだ。金色の車がやっとスピードを落したのである。三百メートル先の無料休憩所に入るところまで確認した彼は、前を走る観光バスの陰《かげ》に隠れてそこをやり過ごした。つづら折りのカーブを上り、休憩所を見降ろす路肩《ろかた》まで来て車を止める。ここなら奴の行動は一目瞭然《いちもくりようぜん》だ。
「あっ、焼きとうもろこし買《こ》うてる」
無許可で経営する屋台のライトバンに金蔵と乙戸岩が首を突っ込んでいる。
数分後、二人は両手にいっぱいのとうもろこしと焼イカを掴《つか》んで離れた。ライトバンの主は突然の売り切れに大喜びだ。
定吉はゴクンと生ツバを飲みこんだ。
「くっそー、見せびらかしおって」
二人は手すりにもたれてガツガツと食べ始めた。遠くで春雷《しゆんらい》が鳴っている。山の天気は変りやすい。ついさっきまで見えていた山裾《やますそ》は、早くもガスに包まれていた。晴れた日には関ケ原盆地が一望のもとに見渡《みわた》せるはずなのだが。
「あー、また腹へって来た」
最前《さいぜん》あれだけガツガツ食べておきながらもうコレである。定吉の胃袋は、エッシャーの描く城壁階段みたいな構造をしているに違いない。
「この辺に売店でもないもんかな」
山腹を見上げた彼の眼が凍《こお》りついた。
何かが自分を狙《ねら》っている!
定吉の第六感が身体の各部を突き動かした。
彼は反射的に車の陰へ身を伏せる。
タイヤのそばに土煙《つちけむり》があがり、銃声が伊吹の峰々《みねみね》にこだました。
定吉は注意深く周囲を見まわす。路上には何事もなく車が走っていた。下を見たが、金蔵たちもノンビリとしたものである。皆《みな》、今の銃声を春の遠雷《えんらい》と思いこんでいるらしい。
どこだ? 一本上の道か。あの、それにつけてもおやつはカール≠ニ書かれた看板の裏か
「金蔵の手下?」
……にしては少々おかしい。ヘタをすると奴の車に当りかねない程の俯角《ふかく》で弾《たま》が発射されている。
「どうしました? パンクですかあ」
通りがかりの車から声がかかった。
「いえ、なんでもおまへん」
定吉は膝《ひざ》の泥《どろ》を払《はら》って立ち上る。
御親切に、と頭を下げかけたその脇を一台の赤いスポーツ・カーが走り抜けた。
「あっ、あ奴《やつ》や」
定吉はピーンと来た。
「ルート66」のジョージ・マハリス風にきめて運転席に滑《すべ》りこんだ彼は、そのまま猛スピードで「敵」の車を追った。
カーブを下り、休憩所のところまで来るとキャデラックの姿が見えない。狙撃者《そげきしや》に気をとられている隙《すき》に山を下って行ってたらしい。
しまった、見失ったか! しかし、今はこの小癪《こしやく》なスポーツ・カーをマークすべきだ。
定吉はせわしなくギアをチェンジし、赤い車の隣《となり》へ愛車をすりよせた。対向車線にいた軽自動車がビックリして路肩に乗り上げ、その後から来たマイクロバスがガードレールに激突した。が、そんなことはかまっていられない。
定吉は遮二無二《しやにむに》突進《とつしん》する。カーブを曲り横に並んだ時、チラリと運転席を覗きこんだ。ハードトップの狭い車内に小柄な女性が収っている。
「美人や!」
アップにした豊かな髪、細っそりした首筋、一度どこかで見たような……。定吉は舌なめずりするとアクセルをグッと踏《ふ》みこんだ。
女は憎々《にくにく》し気に警笛《ホーン》を鳴らし続ける。バックミラーにオタマジャクシのような鼻先が映った。
「ヨタハチ(トヨタ・スポーツ800)か。懐《なつ》かしい車やで」
定吉は子供の頃に読んだ「65年船橋サーキット・トヨタ8対ホンダS6」の名勝負を思い出してニタッと笑う。
カーブを五つまで数えた時、とうとうトヨタ・スポーツは定吉の真横に飛び出して来た。
彼はこの時を待っていた。
「ええっと、まず電源を入れて、たしか二番か三番を……」
カーラジオのスイッチを押した。
タイヤのバーストする音が轟《とどろ》く。スパイダーの車軸《しやじく》から突き出した小型出刃包丁が高速で回転するタイヤを切り裂いたのだ。
運転席で何か叫《さけ》んでいた女の顔がサッと青ざめる。
ハンドルを取られたヨタハチはヨタヨタと崖《がけ》の方に寄って行った。定吉はそのフロントノーズをいたわるように車体を接触させる。ガリガリといういやな震動《しんどう》が身体に伝ってきた。一瞬彼の脳裏《のうり》に九作の悲しそうな顔が浮んだ。
「中番頭はん、かんにんして」
二台のスポーツ・カーは故障車輛用の待避《たいひ》エリアでゆっくりと停車した。
「あんたいったい何なのよ!」
ドアを蹴《け》って現われた女性を見て定吉は、思わず、
「そんなバカな」
と両眼をこする。
ズタズタになったタイヤを指差し、大声でわめき散らすその女の顔に見覚えがあった。有馬の湯で彼と情を交し合った金蔵配下の娘と瓜《うり》二つだったのである。
「ナンマイダブ、ナンマイダブ」
口の中で念仏を唱《とな》え、定吉は女に近付いて行った。
「これ見てよ。いったいどういうつもり?」
やはり少し違うようでもある。死んだ女は右の口元にホクロがあった。こちらは左側に付いている。眼元も奥二重《おくぶたえ》だ。
「あんた、ちょっと聞いてるの?」
女に胸元を掴《つか》まれて定吉は我に返った。
「む、むちゃしたらアカン。わ、わては、アンタのタメを思うて車を擦《す》りましたんや」
女の手が少しゆるんだ。
「タイヤがバーストしそうになるのン見つけたんだす。ああするより停《と》める方法がなかった」
「うそよ。このタイヤ、刃物で切ったみたいになってるわ」
「冗談《じようだん》も休みやすみ言うて下さい。どないしたら走ってる車からそんな傷《きず》付けられる言うんです。わてはジェイムズ・ボンドやおまへんで」
女は、渋々《しぶしぶ》手を離《はな》した。
「見て下さい。わてかてこんなにボディ擦《す》ってもうた。大損害や」
骨折って叱《しか》られる傘屋の小僧や、とうそぶきながら定吉は無残にへこんだ車体後部を足で蹴《け》った。「ボーデシア(ナイフ付の戦車を開発した古代ブリテンの女王)の刃」は再びスポークカバーの隠《かく》し穴に引き込まれ何事もなかったかのようになっている。
「タイヤは取り替えたばかりの新品よ」
女は泣きそうになった。その仕草《しぐさ》はどことなく有馬の女に似ている。
「こうなったらレッカーで引いてくしかないやろなあ」
定吉は肩をすくめた。
「山の下まで乗せてってよ」
「ま、それは構いませんが」
女はヨタハチの助手席から黒いヴィオラのケースを引っぱり出すと、彼の車の後部シートに押し込んだ。
「電話があるところまでやってちょうだい」
サヴォイ・ホテルの配車係みたいな身のこなしで定吉はうやうやしく助手席のドアを開いた。香水の匂《にお》いが微《かす》かに匂う。ランバンの「マイ・シン(わが罪)」。しかし幸か不幸か、彼はその名を知らなかった。
「人の顔をそんなにジロジロ見るもんじゃないわよ」
女は定吉をにらんだ。
「すんまへん。いとはん(お嬢《じよう》さん)みたいなゴッツイベッピンさん乗せたの初めてやさかい」
「フン、口ほどにもないお世辞《せじ》言わないで」
端正な横顔を窓の外に向け、女は鼻を鳴らした。
向っ気の強いオナゴや。定吉はハンチングのつばを親指の先でグイと持ち上げて苦笑いした。どうやらこの娘《こ》は自分を狙《ねら》ったのではないらしい。
「そこのスタンドで停《と》めて」
女に言われるまま、彼は伊吹山《いぶきさん》ドライブウェイ昇り口のガソリン・スタンドに車を入れた。
「何なら米原《まいばら》の駅まで送りまっせ」
「結構よ。ここでタクシー拾うから」
女はピシャリと言い返すとドアを開けた。
定吉は後部席に転がしたヴィオラ・ケースに手をかける。思った通り、それはズッシリと重かった。
「いいの、さわらないで!」
女は窓から手を伸してケースを奪《うば》い取った。
「じゃあ、ね。ありがと」
運良く通りかかったタクシーに手を上げると彼女は、あいさつもそこそこに走り去った。
「死んだ女にそっくりや。声も仕草も……」
ことによると床《とこ》あしらいも、とつぶやきかけた定吉は、スタンドの従業員がニヤニヤ笑って立っているのに気付き、あわてて口をつぐむ。
「お客さん、フラれたんですかあ」
「おおきなお世話や。五リッターほど入れといてんか」
ケチ臭《くさ》く注文した彼は車を降り、トイレの隣《となり》に歩いて行って、アンモニアくさい電話に十円玉を放りこんだ。
「弁吉さんでっか? わてや、定吉だす」
「御苦労《ごくろう》さんで。どこまで行かはりました?」
「伊吹山。そやけど逃げられてもうた。暗いのでこれ以上は追跡不可能かも知れん」
彼は女の出現を手短かに説明した。
「なるほど、それはケッタイなオナゴでんな」
弁吉は電話の向うでちょっと考え込んでいた。
「これからどないしょ?」
「せっかくそこまで行かはったんや。岐阜羽島《ぎふはしま》でハエの甘露煮《かんろに》でも食うてゆっくり戻ってくるといい」
「ゲッ、ここらでは蝿《はえ》を煮つけて食べはるんでっか?」
川魚の「鮠《うぐい》(ハヤ)」を長良川《ながらがわ》の近辺ではハエというのである。それを知らない定吉はハチの子の佃煮《つくだに》みたいなものを連想して思わず顔をしかめた。
「わいはこれから栄町《さかえちよう》の方に出かけます。うまく行けば金蔵の過去を探《さぐ》る糸口ぐらい出るかも知れん。八時頃帰ります」
弁吉はそれだけ言うと向うから電話を切った。
12 「小豆《あずき》釜《がま》」と「雷電《らいでん》」
「ごめん下さい。どなたですか? 弁ちゃんです。どうぞお上り下さい。ありがとう」
「おいおい、誰かいないのかい。店に変な人が入って来たよ」
「ええ、どなたかお店の方。はい、お坐《すわ》り下さい。ありがとう。どっこいしょ」
「ああ、勝手に坐ってしまった。誰も居ないのならしようがない。わしが出て行くか」
念のため防犯ビデオのスイッチを入れて、主人は店先に顔を出す。
「いらっしゃいませ。手前が当『尾張屋《おわりや》』のあるじ一貫堂《いつかんどう》でございます」
「おじゃましまんにゃわ」
鼻の頭の異様に赤い男が頭を下げた。
「大須《おおす》の吉造さんから御紹介をいただいて参じました。伝法橋《でんぽばし》弁吉いうもんでおます」
「はい、はい、さきほど吉造さんから電話をいただきました」
主人はホッとして客に座布団を勧めた。陽気が良くなると危い奴が増える。尾張屋は商売が商売なだけにそういう人間を一番用心するのである。
「で、どのような御用件でございましょうか?」
「お宅サンは古いお店《たな》や、と聞いておりますが」
「はい、四代|藩主《はんしゆ》吉通公の頃より代々尾張徳川様の御用をうけたまわっております。元は店《みせ》も四間道《しけんみち》にございましたが、戦災でお城とともに焼けまして、以後こちらの方で細々とやらせてもらっている次第《しだい》」
「いやあ、細々となどと御謙遜《ごけんそん》を」
名古屋を代表する栄《さかえ》の繁華街の、その交差点近くに平家《ひらや》の庭付を構えるだけでも大変なことである。間口《まぐち》は小さいが奥行《おくゆき》は深く、建材は全て木曾檜《きそひのき》。表向きは簡素でも内懐《うちぶところ》はなかなかのもの、と弁吉は読んだ。
「古美術品の商いでもウチは特殊な方でございます。一見《いちげん》のお客さまは殆《ほとん》どお見えになりません。まあ、世の中が豊かになりましたおかげでうちのような店でも日々|生計《たつき》の煙《けむり》をあげることができますので」
装剣《そうけん》小道具商、一貫堂「尾張屋」万之助はあくまでひかえめに答える。
「実は少々お尋《たず》ねしたいことがおます」
弁吉は身を乗り出した。
「こちらに、さるお菓子会社の社長さんが刀を一振《ひとふ》りお預けになられましたな」
「えっ?」
「いえ、御心配は御無用。わては国税庁やら何やらいう不粋《ぶすい》なところのモンやおまへん」
「それは……」
一貫堂はためらう。口の固いことがこの商売の鉄則なのだ。
「御不審《ごふしん》ならこの場で吉造さんにお問いあわせ下さって結構で」
死のゲートボール訓練所で同じ地獄《じごく》の特訓を受けた友人の名を出され、彼は渋々《しぶしぶ》頭《かぶり》を振った。
「わかりました。あなた様を信用しましょう。たしかにウチで拵《こしらえ》の口ききをいたしました」
刀の拵《こしらえ》(外装)は一ヵ所でできるものではない。研《とぎ》師、鞘《さや》師、柄巻《つかまき》師、金工《きんこう》師などにそれぞれ頼んでまわらなければならないのだ。その周旋《しゆうせん》をするのも尾張屋の仕事であった。
「御承知のとおり、刀と申すものは一品一品長さ、反《そ》りが違っておりまして、既製品《きせいひん》の拵というものがございません。職人さんのところに持ちこんで一番質素な作りにしても約三ヵ月かかります。それが、あの刀の場合全て揃《そろ》えるまで一年もかかりましたでしょうか」
「さぞや立派な拵でっしゃろな」
「それはもう、はなやかなものでございました。まるで横綱《よこづな》の土俵入りに使われる太刀《たち》拵《こしらえ》のような……」
一貫堂は眼の中へ、微《かす》かに軽蔑《けいべつ》の色を浮べた。
「……金装《きんそう》でございます。ただし、太刀ではないので打刀《うちがたな》拵で」
打刀拵とは、刃を上にして腰帯《こしおび》へじかに指す形式である。
「他の注文もえらく凝《こ》っておりました。三所物《みところもの》は赤銅魚子地裏金《しやくどうななこじうらきん》に高彫色絵《たかぼりいろえ》、鐔《つば》は金の布目象嵌《ぬのめぞうがん》、柄前《つかまえ》は鉄刀木《たがやさん》の鋤出彫金押《すきだしぼりきんお》し、鞘《さや》は朱塗金蛭巻《しゆぬりきんひるまき》、これに全て金の鯱《しやち》の紋《もん》を打つように、と申されまして……」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
あまり難かしい言葉を並べられたので弁吉の頭は混乱する。
「まるでアナウンサー学校の早口訓練や」
ともかく、ラスベガスの大通りみたいにギラギラな作りであることは彼にもわかった。
「で、刀身《なかみ》は?」
一貫堂の眼がキラリと輝《かがや》いた。
「それが、たいしたものでございました。不肖《ふしよう》尾張屋、若い頃より名古屋徳川美術館にお出入りさせていただき、国宝七|振《ふり》を含む千点余の刀剣《とうけん》を見てまいりましたが」
彼はゴクリとツバを飲みこんだ。
「そのどれと比べましても、少しも見劣《みおと》りするものではございません。身幅《みはば》広く、重ねは厚く、猪首切先《いくびきつさき》。小沸出来《こにえでき》の丁字刃に互《ぐ》の目交《めまじ》り、地鉄《じがね》は板目肌地沸《いためはだじにえ》がつき、地景映《ちけいうつ》りが立っておりました。磨《す》り上《あ》げ(太刀の下を切りつめて刀にすること)で無銘《むめい》。登録証《とうろくしよう》には『美濃《みの》の介《すけ》直胤《なおたね》』と出ていましたが、おそらくは偽造《ぎぞう》でございましょう」
「御主人は何と見ました?」
「来《らい》一門の作。それも二字|国俊《くにとし》の……名物『小豆《あずき》釜《がま》』か、と」
「やはり」
「御存知《ごぞんじ》でしたか」
「名前だけは」
弁吉はうなずいた。
その刀は長く京都にあったという。由来《ゆらい》がある。
もとは「来」一族の二代目国俊が蒙古襲来《もうこしゆうらい》の頃、敵国|降伏《ごうぶく》の願いを込めて打った十|振《ふり》の太刀の一つであるとされる。それがどこをどう巡《めぐ》ったものか、室町《むろまち》の頃、越後栖吉《えちごすよし》に住むしがない農夫の持ち物となった。彼は家の梁《はり》にそれを吊《つる》し、日夜|野盗《やとう》の類《たぐい》に備えていたが、ある時手元|不如意《ふによい》となり、食の足しにしようと古物市に出した。太刀は数日市に並べられた。が、あまりにもみすぼらしく誰も手に取ろうとしない。そこへブラリと通りかかったのが、越後|与板《よいた》の鷲尾五郎左衛門《わしおごろうざえもん》という侍《さむらい》である。彼は田舎《いなか》侍にしては珍《めずら》しいほどの鑑定《めきき》で、その錆《さび》太刀を見るや急いでこれを買い、研《とぎ》に出した。
数日して戻って来た太刀は姿が豪壮《ごうそう》で気韻《きいん》高く、輝《かがや》きもただものではない。喜んだ五郎左衛門は、太刀を刀に改め差料《さしりよう》とした。
永禄《えいろく》四年(一五六一)越後勢は関東に乱入、大挙して小田原城を包囲した。帯陣《たいじん》は一ヵ月半に及び、五郎左衛門は主君|上杉謙信《うえすぎけんしん》の雑務役となったがある日、陣中に敵の間者《かんじや》が侵入《しんにゆう》するという事件が起きた。五郎左衛門は間者の一人を台所に追いつめ、小豆《あずき》を煮《に》る大釜《おおがま》の中に隠《かく》れたと見るや刀を大上段に振《ふ》りかぶり、ぶ厚い銅釜もろとも唐竹割《からたけわ》りにしたという。
「これが『小豆釜』という名の由来です」
一貫堂はそこでちょっと息を継《つ》いだ。
「|関ケ原《せきがはら》の役《えき》の後、上杉家が米沢《よねざわ》に転封《てんぽう》されると鷲尾五郎左衛門の一族は扶持《ふち》を離《はな》れ、京に出て菓子職になったと申します」
「刀も京都に持って行きはったんでんな?」
「はい。昭和二十年まで門外不出としてたしかにその店が持っておりました」
「終戦後は?」
「それがあなた」
非道《ひど》い話ですよ、と一貫堂は膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「占領軍《せんりようぐん》の刀狩《かたなが》りに遭《あ》ったんですよ。密告する奴がいましてね。一時は情報将校の私物になってアメリカに持ち去られたという話でしたが」
「アメリカ……」
弁吉には何やら思い当ることがあるようだった。
彼は鼻の下を人差し指でポリポリ掻《か》いた。
名古屋の山ノ手地区である今池《いまいけ》、覚王山《かくおうざん》から東山《ひがしやま》。そこから八事《やごと》に至る名古屋のファッショナブルロードをグルグルとまわって時間をつぶした定吉は、早目に大須《おおす》へ戻り、「ババテン」のエビ天を買い、観音裏《かんのんうら》の「宮田楼《みやたろう》」のうなぎを食べ、「百老亭《てい》」のギョウザだけ食べ、「天むす」の赤|海老《えび》天プラ入りおむすびを買う行列に並び、最後に万松寺横の加納屋《かのうや》で大判焼を買ってアジトに帰った。
弁吉はまだ出先から戻って来ていない。
合いカギを使って裏口からす早く車を引き入れた彼は、部屋に入るとスポーツシャツを脱ぎ捨て、着慣れたお仕着せに袖《そで》を通す。
「これは寝る前に食べる分、こっちは明日の朝食べる分」
買って来た天むすや大判焼を部屋の隅に並べた。これは完全な「過食症《かしよくしよう》(満腹感《まんぷくかん》がなくなり、度を越した食事をする病気)」である。危険な職業に就く人間に多く見受けられる一種のノイローゼだ。
醤油《しようゆ》の醸造樽《じようぞうだる》で大豆《だいず》が泡《あわ》を吹くように、定吉の神経も仕事に対する漠然《ばくぜん》とした不安感で少しずつ発酵《はつこう》しているのだろう。しかし、これだけ胃袋に詰《つ》めこんでも体重はまるで変らない。得な体質といえるだろう。
「これはどないしょ」
「富士見|西行《さいぎよう》」九寸五分を手に取って思い迷った。スパイダーを乗りまわしていればそのうち検問に引っかかる。どこでも同じだが名古屋の交通警官は、特にこういう遊び人車を目の仇《かたき》にする。出発まぎわに会所で作ってもらった偽造免許の出来は完璧だが、任意同行、身体検査という事態に立ち至った場合この包丁《ほうちよう》の存在はやっかいなものになる。
「やっぱりやめとこ」
結局、大阪へ送り返すことにきめた。少し心細いが武器は他にもある。スパイダーにはミサイルまで付いているのだ。
中京テレビのクイズ番組など見て待つことしばし、弁吉が戻って来た。
「お帰り」
「いろいろと収穫《しゆうかく》がおましたで」
弁吉は資料の束《たば》をテーブルの上に積み上げた。
「なんでんね、これ? 名古屋港の保税倉庫ファイルに、船の積荷目録(送り状)、保険証書、関税支払確認書……」
その半分以上は外国語で書かれていた。彼にはチンプンカンプンである。
「金蔵いう奴はケッタイな奴でっせ」
たとえば、と弁吉は束の中からピンク色の用紙をつまみ上げた。
「ロサンゼルスのパモーナいうところに、映画用の大道具・小道具ばかりを作る会社がおます。金蔵は今から二年前、そこに大量の機材を発注してまンのやけど」
「わて、無学な|丁稚《でつち》やさかい、英語なんぞ、よう読めん」
彼の隣《となり》に坐《すわ》った弁吉は、番号の付いたタイプの部分を指で差した。
「ええでっか。Farmers-Warrior Typical do 300 、Armour of haramaki Style 30 、Flag of nobori……」
「わーっ、わからん言うとるやろが!」
「おちついて下さい。今説明します。まず、のファーマーズ・ウォーリアーいうのは足軽《あしがる》のことです」
「あしがる?」
「三角形の笠被《かさかぶ》って、膝小僧《ひざこぞう》出して、『殿《との》の御馬前《ごばぜん》に討《う》ち死にするは本位にあらず……』」
「足軽、あしがる何してござる。おまんま見れば食べたがる、女を見ればやりたがる……、というあの足軽?」
「さいです。その足軽|胴丸《どうまる》が三百着、は侍《さむらい》の腹巻鎧《はらまきよろい》三十|領《りよう》、は旗差物《はたさしもの》、他にも槍《やり》、刀、馬具」
「黒沢明のマネでもするつもりかいな」
時代劇の道具をわざわざアメリカで作らせるとは、いったいどういうわけなのだろう。「もっと変な物も輸入してます。こっちは、同じアメリカ・ユタ州にある個人経営の航空博物館から『しゃちほこういろう』社に当てた送り状で」
シルバー・スターのマークが付いた封筒の口を開いた。
「『ミツビシJ2M3ジャック♀ョ動品五機、ただし内三機は改造機』」
「ジャック≠チて何でんね?」
「日本海軍|迎撃戦闘機《インターセプター》『雷電《らいでん》』」
「まさか」
「そのまさか、ですわ。二年前の暮、名古屋港へたしかに陸上げされてます」
真面目くさった態度で弁吉は別の紙をつまみ上げた。
「税関の検査は簡単にパスしたようです。当然、武装は無し。昨年の一月に倉庫の中で組み立てられて、再《ふたた》びコンテナ船に積まれました。行く先は」
弁吉は壁《かべ》に張り出された古い日本地図を見上げた。
「釧路港《くしろこう》とか」
「うーむ」
北海道とはまた妙《みよう》な処に運んだものである。
「そこで何か企《たくら》んどるのやろか?」
「オモロイ言うたら何ですけど、飛行機に関しては、別の情報も入ってます」
弁吉は先程の封筒を揺って、英字新聞の小さな切り抜きをつまみ出す。
「雷電を金蔵に売ったユタの博物館長、実は去年の一月に自宅で殺されてまんね。それも首を切られて」
「えっ」
定吉の脳裏《のうり》に昼間の光景が甦《よみがえ》る。金髪《きんぱつ》の髷《まげ》を飛ばすドイツ系の相撲《すもう》取り。首の離《はな》れた石像。ネチネチとおためごかしを言う金蔵の口元……。
「この館長いう奴は隠《かく》れ極道《ごくどう》でんね。終戦後、ドイツや日本で占領軍《せんりようぐん》空軍情報将校の肩書《かたが》き使って美術品をくすねまくり、一財産築いたいうことですワ」
「悪いやっちゃなあ」
「盗品の日本刀もコレクションしてましてな。残したメモを元にFBIが自宅を調べたら、まあ、出るわ出るわ。鴻池《こうのいけ》サンの刀|長持《ながもち》みたいな塩梅《あんばい》で」
江戸時代、今橋《いまばし》(大阪市東区)に屋敷を構えた天下の豪商《ごうしよう》鴻池家では、借金のカタに取った名刀が倉の長持ちに満ちみちて、夜な夜な泣き声を上げていたという。殺された男の自宅もさぞや刀の夜泣きでうるさかったろう、と定吉は思った。
「FBIがメモと照し合わせ大部分回収したそうですが、不思議なことに一本だけ、どこをどう探しても出てこなんだそうです」
弁吉は指を一本、顔の前に立てた。
「その刀の名は『小豆《あずき》釜《がま》』。京都|禁裡御用《きんりごよう》のある菓子屋からGHQが押収したものだとか」
「ある菓子屋とは?」
「『倉屋』だす」
「双葉《そうよう》」羊羹《ようかん》を作っているあの老舗《しにせ》である。
「話には、まだ続きがおまんね」
弁吉は唇をなめた。
「行方不明になった名刀『小豆釜』、なぜか今、ここ名古屋におます。持主というのが」
「金蔵の旦那やな」
うむっと定吉は目を剥《む》いた。
異様な品々を集めまくる金蔵、首を切られて死んだ退役将校、ここにもまた「倉屋」の名が登場する。この話から何やら一つの仮説が組み立てられそうな気がするのだが、
「味付けの材料が、もひとつ足りんなぁ」
彼は腕《うで》を組んで天を見上げる。
「吉造サンたちのコネを使うてもう少し情報を集めてみます」
弁吉は資料をファイル袋に放りこんだ。
「定吉さんの方は、あれから何ぞ?」
「ケッタイなオナゴ見た以外は収穫《しゆうかく》無し」
尾行中に立ち寄った店の名を彼は指折り数えた。
「まあ、ようけ食べなはったな」
「腹の中がゴッタ煮鍋《になべ》みたいになってますワ」
しょうがないヒトだ、と苦笑した弁吉は棚《たな》から「陀羅尼助《だらにすけ》」の胃薬を取り出し、彼の前に置いた。
「おおきに」
「伊吹山《いぶきやま》に登ったのは、もしかすると下見《したみ》かも」
丸薬を苦そうに飲み下す定吉に水を勧《すす》めながら彼はつぶやいた。
「下見とは?」
「新工場の敷地探しだす。金蔵は、今、名古屋の町なかに散らばった配下の小工場を整理して、岐阜に移動させてまんねん。もう幾《いく》つかの工場は稼働《かどう》してるいうウワサでっせ」
「車はそのどれかに向ったのかも知れんなぁ」
定吉は下唇を噛《か》む。残念や。あのオナゴさえ現われなんだら。しかし……、電話番号ぐらい聞いといたらよかった。
「この辺で一番新しい『しゃちほこういろう』の工場といえば」
弁吉は岐阜県の道路マップをガサガサと広げた。
「関ケ原近くの新垂井《しんたるい》に一つありまんな」
東海道本線は大垣を出て三キロ程西に行くと二つに分かれ、関ケ原で再び合流する。新垂井は山裾《やますそ》の方を通る路線である。
定吉はしばらく地図を睨《にら》んでいたが、やがて膝を叩き、立ち上った。
「ちょっとここへ行ってみる」
「こんな遅うなってから?」
弁吉は呆《あき》れた。
「わては今まで尾行《びこう》をまかれたことがない。このままではどうにも寝付けへん」
本当は、スパイダーで夜のドライブを楽しみたいのであろう。
「工場にはどんな仕掛《しか》けがしてあるかわからん。気いつけなはれや」
「これを、宅急便で会所の方に送っといておくれやす」
懐《ふところ》から「富士見西行」をホルスターごと取り出して弁吉に渡《わた》した。
「持ってった方がエエのんと違いまっかあ?」
「大丈夫。三時間程したら戻《もど》りま」
定吉はガレージの方に歩き出す。
13 「金のしゃちほこ雨ざらし」
名神関ケ原インターを下って揖斐《いび》方向にしばらく行くと道の両側に突然、鯱鉾《しやちほこ》の形をした派手《はで》な野立《のだ》て広告が現われた。
看板の片隅には「あと○○」という文字が書き込まれている。
「しゃちほこういろう」本舗《ほんぽ》・新垂井工場への距離を示す数字だ。
「へへっ、親切なこっちゃで」
おそらく出入り業者のトラック便を誘導《ゆうどう》するためだろう。方向|音痴《おんち》の定吉にとってこれは好都合このうえない。
看板は進むにつれてその数を増し、ついに新垂井の町外《はず》れで彼は、目的の工場を見つけ出すことに成功した。
「あっけないほど簡単に着いてもうた」
さて、どうやって中に忍《しの》び込むか。
正面は広々とした田畑、遮蔽物《しやへいぶつ》など何もない。敷地《しきち》の三方には、ナイターにでも使えそうな大型水銀灯が冷たい光を放っている。
「工場の裏手は山か」
そこだけまるで無防備に見える。しかし、侵入者をおびき寄せるワナということも充分考えられた。
「男は度胸《どきよう》。ここはセオリー通り行ったろか」
定吉は意を決すると、田の中の私道を迂回《うかい》して山道へ車を走らせた。
東海道線のトンネルを越《こ》え、線路の脇に車を止めた彼は冷めし草履《ぞうり》の鼻緒《はなお》を水たまりの泥《どろ》で湿《しめ》し、足ごしらえをする。車の後輪にも石を噛《か》ませ、草を被《かぶ》せて入念に偽装を施した。
「これで大丈夫や」
すこし離れて出来を確認する。道の真ン中にこんもりと盛り上った草の山は、誰が見ても自動車だった。彼はこういう作業が苦手なのである。
「大丈夫と思うけどなあ」
不安そうに何度も振り返りながら、間道《かんどう》を工場の方に向った。
草をかき分けて五分ほど歩くと、小高い場所に出た。鉄条網《てつじようもう》が行く手を遮《さえぎ》っている。
水色に輝《かがや》く工場の建物はすでに彼の足元だ。
「何もないやないか。心配して損した」
彼は鉄条網に手をかけようとして、支柱《しちゆう》を見た。
ん? 何やこれ。
柱から一本の綱《つな》が延びている。夜目に透《すか》して見ると、それは草むらの四方八方に散っているのがわかった。
「ははあ、鳴子《なるこ》(板に竹を吊《つる》した原始的な警報装置)か」
支柱と支柱の間に絵馬《えま》のようなものがいっぱいぶら下っている。
「ヘヘヘ、危ない、危ない」
お仕着せの裾を尻《しり》っぱしょりした定吉は、綱に触《ふ》れないよう細心の注意を払って鉄条網を通り抜《ぬ》けた。
前方を見るとスレート葺《ぶ》きの建物に、灯がともっている。
彼は抜き足で庭を通り抜け、その軒下《のきした》に忍《しの》び入った。
「屋根に昇ってみるか」
雨樋《あまどい》に手をかけ、クルリと尻上りする。
菓子工場特有の甘《あま》い匂《にお》いが屋根の上に漂《ただよ》っていた。
「と、言うことは、この辺に換気口があるはずや」
スレートを踏み抜かないようゆっくりと屋根の縁を歩く。換気口はすぐに見つかった。四角い網枠を止めているネジを指先でむしり取り、定吉は身体を滑《すべ》りこませた。
真っ暗な闇《やみ》の中を腹這《はらば》いになって進むと、やがて前方に一条《いちじよう》の光が洩《も》れてきた。
彼は行き止りの金網に顔を近付ける。真下で数人の男たちが作業に熱中していた。
「なにやっとんねん?」
皆、必死になって電動ドライバーを動かしている。歯医者のドリルそっくりないやらしい音に定吉は顔をしかめた。
「あれは、昼間見たキンキラキン車やないか」
男たちがいじくりまわしている金属板は、どうやらキャデラック・フリートウッドのボディらしい。
「上から見てるとプラモデルみたいやなあ」
しかし、バラバラにしてどうするのだろう? 暴走族の車みたいに改造するつもりなのか。その時、奥のドアがサッと開き、三人の男が現われた。
居た!
金蔵と例の外人|相撲《すもう》取りだ。三人目は作業衣を着た背の高い男だ。クルーゾ警部の家に住み込んでいる中国人みたいな顔をしている。
「一番内側を鉛《なまり》で囲い、その外側をクロム鋼《こう》と断熱材で包みます」
作業衣の男がボディの後半分を差して何やら説明する。
「そうすると、運転手以外は乗れなくなるな」
金蔵がボディの厚さを手で計りながら言う。
「もっとも、そんな危いものと一緒に乗りたいとは思わんがね」
電動工具の音に混ってそんな会話が聞こえて来る。
危いもの? 定吉は首をひねった。
「がんばってくれたまえ。『金のしゃちほこ雨ざらし』作戦の成否《せいひ》はこの改造にかかっていると言っても過言ではない」
金蔵は男の肩を叩くと、作業場を出て行った。
長居《ながい》は無用。定吉も換気パイプの中を音がせぬように後ずさりする。
「けったいなとこや。菓子工場というより、自動車の車検場やで」
屋根に上って新鮮《しんせん》な空気を吸った彼は、隣のプレハブに入って行く金蔵と乙戸岩《おつといわ》の姿を確認《かくにん》し、山の中に駆け戻った。
弁吉へ連絡を取り、明日一番にここを調べてもらわねばなるまい。
鉄条網を潜《くぐ》ろうと身をかがめた定吉は、ふと異変を感じて腰を落した。
香水の匂い。
それも一度嗅《か》いだことのある匂いだ。
「何でこんなところに」
両眼の焦点《しようてん》をぼかし目の端で闇《やみ》の中を窺《うかが》う。昔の忍者が夜中に遠目をきかせる際使った方法である。
黒々とした茂《しげ》みの先に人影が動いていた。棒のようなものを持ったブルゾン姿の小柄な姿。
「あっ、アカン」
人影は、鉄条網を乗り越えようともがいている。
次の瞬間、カラン、カランという乾いた音が裏山全体に轟《とどろ》いた。
チッ、と定吉は舌打《したう》ちした。鳴子《なるこ》の音は、盆踊《ぼんおど》りの手拍子《てびようし》そっくりにあちこちでリズミカルに鳴り響く。
工場のサーチライトが人影を捕《とら》えた。光の輪の中に、銃を手にした女が立っている。
定吉がタイヤを壊したトヨタ・スポーツの女である。
「伏《ふ》せて」
定吉は女に向って叫んだ。
驚いた女は、彼に向って発砲する。
このドメンタ、何さらす!
危うく弾《たま》をかわした定吉は女に飛びかかった。
「痛い、なにするの」
「それはこっちのセリフじゃい」
定吉は手刀で銃を叩き落す。名古屋|豊和《ほうわ》工業製のホーワ300カービンは茂みの中に転った。
「アホなことはやめとき」
「離して、お父っつぁんと姉さんの仇《かたき》を討《う》つのよ」
「?」
工場の裏庭からたて続けに銃声が聞こえた。ショック・ウェーブが二人の身体を包みこむ。
「逃《に》げるんや」
大勢の人間がやってくる気配《けはい》を感じて定吉は立ち上った。
「わては、あんさんの敵やない。安心せい」
「逃げるっていっても」
「こっちゃに車がある」
彼は女の二の腕《うで》を掴《つか》んで間道《かんどう》に転がるように駆け下る。実際何度も引っくり返り、泥をなめた。
「何? この草だらけの車」
「カムフラージュしてあんねん」
女の言葉に定吉は少し傷《きず》付いた。
「これが?」
「ボケッとしとらんで早よ草を降ろさんかい」
路上に盛り上った草を払いのけて二人はコックピットにとびこんだ。
「行くでえ」
エンジンが一発でかかる。
「スゴイ!」
女が思わず声をあげた。
埃《ほこり》を巻き上げてダイハツ・スパイダーは走り出した。
「しっかり掴まっとってや」
東海道線の踏切《ふみき》りを越《こ》え、田の畔道《あぜみち》に入ると車は大きくバウンドした。
「何であんなマネした?」
女は黙《だま》って前方を凝視《ぎようし》している。
「助けたったんや。それくらい言うてェな」
「金蔵は……、あたしの姉を殺したの。それも、熱したアンコで包んで窒息死《ちつそくし》させたのよ」
定吉は初めて合点《がてん》がいった。やはり、この娘は有馬で死んだ女の身内《みうち》か。
「……お父っつぁんは、長年尽くした金蔵に娘を殺されたと知って堀川《ほりかわ》に身を投げたわ。あたしにはもう復讐《ふくしゆう》しか残っていない」
「お姉さんの名は?」
「柿《かき》ノ木《き》桜子《さくらこ》」
定吉はバックミラーにチラリと目を向けた。案《あん》の定《じよう》、つけられている。
「あんたの名は?」
「……梅子《うめこ》」
「よっしゃ、梅子はん。ちょっと荒っぽいことするさかい、耳ふさいどってや」
車は畔道《あぜみち》からアスファルト道路に乗り上げた。
アクセルペダルを踏《ふ》みこむ。タコメーターとトリップメーターの針《はり》がブンと跳《は》ねた。
さらに加速。二人の身体は、バケットシートにギュッと押しつけられる。
「ひのふのみ、全部で五台か。チョイやっかいやな」
黒塗《くろぬ》りのダルマみたいな中型車が、ピッタリと後に付いている。
と、その右側のドアが前後に開き、二人の男が銃《じゆう》を構えて身を乗り出した。
「おっ、『観音開《かんのんびら》き』のクラウンやんか」
OHV一四五三CC、トヨペット・クラウン。定吉は自分が「月光仮面《げつこうかめん》」の悪役になったような気がして来た。
「貴重なクラシックカーや、けど仕方ないな」
インスツルメント・パネルの電源を入れた。
「端から行くか」
一番左のラジオ・スイッチをグイと押す。
左右のブレーキランプが外《はず》れ、熱線追尾式《ヒート・ガイデツド》の超小型ミサイルが後方に飛び出した。
「なんまいだぶ」
オレンジ色の火は、敵のエンジン熱に反応して真っ直に進んで行く。
ズシン! と腹《はら》に応《こた》える轟音《ごうおん》。マッシュルーム型の炎が後方に立ち昇った。
「やった。すごい仕掛《しか》けね」
梅子は指をパチリ、と鳴らす。
たしかに一発は先頭を走るクラウンに命中している。しかし、もう一発のミサイルは道路脇に店を出すカラオケ・スナックの調理場へ飛び込んで爆発した。運の悪いことにその店では大量の味噌煮込《みそにこ》みウドンを鍋で煮ていたのである。熱線追尾式は光に弱い。
「あと四台よ!」
「お次はこれや」
オレンジ色の丸形ウインカーが開き、撒《ま》きビシが路上にばら撒かれた。
二台のクラウンが、フラフラと鼻先を踊《おど》らせ、路溝《ろこう》に落ちる。
「まだ二台追ってくるわ」
渦巻《うずま》く長い髪を手で押さえて梅子は叫ぶ。
「もう打ち止め」
「早すぎるわよ。男でしょ」
「そやかて」
定吉は何を勘違《かんちが》いしたのか、片手で股間《こかん》を押さえた。
「あと残ったもん言うたら、煙幕《えんまく》だけやがな」
「煙《けむり》も出るの?」
「つまらんもんですが」
「それも使って!」
いつの間にか定吉は女に主導権を握《にぎ》られていた。
「脇道に入るのよ」
彼は、梅子に言われるまま、再び水田地帯にハンドルを切った。
観音開《かんのんびら》きのドアから安物の打上げ花火みたいな火花がたて続けに瞬《またた》き、土をかき上げたばかりの畔道《あぜみち》へ煙が列を作った。敵はとうとう機関銃を持ち出して来たのだ。
プスプスと車体に弾《たま》の当る音がする。
こんなん見たら、中番頭はん卒倒《そつとう》してまうやろな。帰ったとき何といって言い訳をすればいいのだろう。……もし生きて帰れたら、の話だが。
「バカな奴、追ってくるわ」
クラウンは畔道の中に入って来る。
「今よ。煙を出して」
定吉はスイッチを押した。
トランクルームが開き、もうもうと白煙が吹き出す。
「まるでカチカチ山のタヌキやがな」
水田の真ン中を煙だらけになってヨタヨタ走る穴だらけの小型車。こんなものを第三者が見たら一体何だと思うだろう。
「二台とも田んボにはまったわ」
梅子は定吉の肩を揺った。
視界《しかい》を遮《さえぎ》られたクラウンは、真っ逆《さか》さまに深田の中へ落ち、そのうちの一台は横転し、泥《どろ》の中で火を吹いた。
「これで一安心でんな」
「昼間あたしの車を壊《こわ》したのも、この手ね」
「その節は御無礼《ごぶれい》を」
定吉はペコリと頭を下げる。
「あなたとは少し話し合わなければならないようね」
「へッ、さいでんな」
笑いかけた彼の顔が再び強張《こわば》った。前方に何かが見える。
巨大なパワーショベルが畔道を崩《くず》しているのだ。
「戻りまひょ」
一本道だ。こちらに勝目《かちめ》はない。
ブレーキをかけて、ギアを切り換える。
「だめよ」
オレンジ色のブルドーザーがゆっくりと水田の中から現われ、車の後方を遮断《しやだん》した。
「降りて逃げるしかない」
幸いその下の田には水が入っていない。定吉は梅子の手を引いて畔道を駆け降りた。
「|止まれ《ハルト》!」
パワーショベルの上で誰かが叫ぶ。
闇《やみ》の中で銃声が鳴った。
「頭を低く。闇夜の鉄砲は上を狙《ねら》うもんや」
梅子の頭を押さえようとした定吉の眼の前を金色の光が走った。
「きゃあ!」
かん高い悲鳴があがる。
「どないした?」
彼は手さぐりで彼女を探した。梅子は泥《どろ》の中に横たわっている。
定吉はあわてて首筋に手を置いた。脈が止まっている。即死《そくし》だ!
「|止まれ《ハルト》。|手を上げるんだ《ヘンド・ホーフ》、|定吉君《ヘル・サダキチ》」
ブルドーザーのサーチライトが彼の姿を捕《とら》えた。
「なんてことすんねんな」
黄色い光の中で彼女はうつぶせに倒れていた。背中に金色の鬘《かつら》が突き刺さっている。
「両手を首の後で組んで、ゆっくりとこっちに来い」
日本語で誰かが叫んだ。
「ヘタなマネはするな」
「短いつき合いやったな。仇《かたき》は討《う》ったるでえ」
定吉は女のなきがらに一礼すると、畔道の上に昇った。
「|こんばんは《グーテンターク》」
着物姿の大男が道いっぱいに広がって足を踏んばっていた。
カーキ色のジャンプ・スーツを着た男たちが銃を構えて近付き、着物の懐《ふところ》や袂《たもと》をチェックする。
「おんどれも悪党やのう。オナゴと坊主《ぼうず》殺したら後生《ごしよう》が悪いいうこと知らんのかい」
定吉は手を上げたまま、乙戸岩《おつといわ》に毒づいた。
「よし、てめえの車に乗れ!」
彼の十円ハゲにルガー拳銃の銃口が押しつけられる。
「工場に戻《もど》るんだ」
「あんさんも、『しゃちほこういろう』の社員でっか?」
ハンドルを切りながら定吉は話しかけた。
「初任給なんぼでんね?」
「黙《だま》って運転しろ。バーカ」
助手席に坐った男は、ルガーの銃身《じゆうしん》で彼の後頭部を叩《たた》いた。
「痛《い》ったあ、何すんねん!」
「しっかり前を見てろ」
正面に工場の大きな門が見えてきた。
ブルドーザーを積んだトラックの荷台で乙戸岩が叫ぶ。
「|お願いだ《ビツテ・ビツテ》。|お婆さん《ババ》」
正門の守衛室から猫《ねこ》のように背を丸めた老婆《ろうば》が出て来た。
「おみゃーたちは、こんな夜遅うに何て大騒《おおさわ》ぎをするのかね。近所が迷惑するでえ、やめてちょ」
ブツブツと文句を言いながら婆さんは入口の遮断機を持ち上げる。
それはゲートボール五人衆の一人、「補欠《ほけつ》のおタネ」だった。両手に指先を切った軍手《ぐんて》をはめ、襟《えり》に造花を一本差している。守衛室で内職でもしていたに違いない。
これなら簡単に突破できるやんか。
定吉は、ほくそ笑む。中庭に出た時が勝負である。
先頭のシャベル・ローダーが工場の中に入る。
「行け」
助手席の男が拳銃を振った。後方のトラックは、まだ遮断機の後にいる。フォーメーションが崩れた。
今や、いてこませ!
定吉は、目いっぱいアクセルを踏んだ。
「バカやろう。止めろ!」
男が悲鳴をあげる。
スパイダーは工場の敷地を猛スピードで駆け出した。
「フン、射《う》ってみい」
射てば車は横転する。このスピードなら二人とも助からない。
建物の中から大勢の作業員が姿を現わした。
「おのれら、退《の》きさらせ!」
頭に血の昇った定吉は、中庭をグルグルまわりながら男たちを次々に跳ね飛ばす。
「わっ、やめてくれよー」
あまりの壮絶さに助手席の男はルガーを握《にぎ》りしめて泣き出した。定吉はそれどころではない。
「どこや? 出口はどこやねん」
あまり走りまわったので出口がわからなくなってしまった。方向|音痴《おんち》の悲しさである。
「わあ、死にたくないよう。俺《おれ》、まだ研修期間中なんだよう。四月の二十日から本採用なんだよー」
隣の男は顔中をベチャベチャに濡《ぬ》らしながら泣き叫んだ。
「初任給は十五万七千二百三十一円で、平均昇給率は五パーセントだよう。OBのコネでやっと就職できたのにィ」
えーい、脇でゴチャゴチャとうるさい奴ちゃ。助手席ごと吹き飛ばしたれ。
エジェクション・スイッチを拳《こぶし》で打った。
「うわあっ!」
定吉は悲鳴をあげた。
何と、空中に投げ出されたのは彼の方だったのである。
あ、あかん。スイッチ押し間違えた。
定吉の身体はバケット・シートごと中庭のコンクリートに叩きつけられた。
「みんな来ーい、バカが降って来たぞ」
遠くで誰かが叫んでいる。
気が遠くなって来た。身体がどこも動かない。これで最後か、カッコ悪い死に方やで。
「中番頭はんの言うこと、もっと注意して聞いとったらよかったなあ。お孝ちゃんの作るお団子もう一度食べたかった。あー、そう言えば出がけに便所の電気消してくるの忘れとった……」
過去の出来事が走馬灯《そうまとう》のように彼の脳裏《のうり》を駆けめぐる。
「こいつ、口から泡吹《あわふ》きながら何か言ってるぜ」
「変なやつ」
人々の声がレコードの遅《おそ》まわしみたいに聞こえ、そのまま彼は気を失った。
14 外郎《ういろう》の口上《こうじよう》
「定吉さん、見て。きれいな桜《さくら》」
お孝が頭上の花を傘《かさ》の先で突っつく。
「『金蓬莱《きんぽうらい》』、中華《ちゆうか》人民共和国寄贈やて」
背の高い定吉は、枝をヒョイと引き寄せ、ぶら下った短冊《たんざく》の文字を読んだ。
「八重《やえ》桜いうのは、雨に当っても花ビラがあまり散らんもんやなぁ」
「ええやないの。ウチ、頑丈《がんじよう》で長持ちするモン好きや」
傘の下で定吉の腕にぶら下ったお孝は、毛糸玉のようにボッテリと盛り上った桃色《ももいろ》の花を見て満足そうに笑った。
小雨《こさめ》混りの曇天《どんてん》だというのに、人も花も酔《よ》っているようだ。ここは大阪造幣局《ぞうへいきよく》の構内の、通称「通り抜けの道」である。例年四月半ば、大阪の人々はここで二度目の花見をして、行く春を惜《お》しむ。
「持ちのええ桜いうたら、これ以上のもんはおまへんな」
「葉っぱかて使えるし」
「そや、お孝ちゃん、久しぶりに料理作ったろか?」
エッ? とお孝は彼の顔を見上げた。
「どんな料理?」
「甘鯛《あまだい》の桜蒸《さくらむ》し≠竅B大《お》っけな桜の葉っぱ一枚敷《し》いてな」
彼は両手で皿の形を作ってみせる。
「甘鯛の切り身に、道明寺《どうみようじ》(糒《ほしい》)載《の》せて蒸すねん。これに吉野葛《よしのくず》のアンかけて食べると」
桜の香りが染《し》みて、それはもう……、と定吉は身をよじった。
「ま、それおいしそうやねえ。うち、急におなか空《す》いて来た」
「ほならすぐに黒門《くろもん》(市場)行って魚買おか」
「うれしい」
お孝が豊かな胸をキュッと押しつけてくる。
「デヘヘヘヘ」
「おい、起きろ」
「『通り抜《ぬ》け傘《かさ》のうちなる二人連れ』や」
「ニヤニヤ笑ってるぞ。水でもブッかけてやれ」
ザバッという音がして、彼の顔面に強烈なショックが伝った。
「ひゃあ、ブルル。なにすんねん」
彼はやっと眼がさめる。起き上ろうとしたが両手も両足も動かない。
「ありゃ、ここ桜の宮やないんかい」
薄暗《うすぐら》い建物の中だった。太い鉄骨の梁《はり》が眼の前に見える。天井らしい。仰向《あおむ》けに寝かされているのである。手足の先は革《かわ》のベルトで床に固定されていた。
「どうだ、吉本興業《よしもとこうぎよう》?」
ピンク色の肉塊《にくかい》が闇《やみ》の中から唐突《とうとつ》に現われた。
「軽い笑いは取ったようだね」
「あっ、桃色《ももいろ》マンジュウ」
定吉は叫んだ。
「誰が饅頭《まんじゆう》だ」
金蔵だった。ピンク・ブレザーの胸ポケットに金の鯱型《しやちがた》ワッペンを付け、指先でクルクルとステッキを振っている。彼の方こそ大須演芸場に出演する売れないボードビリアンといった風情《ふぜい》だ。
「たいした体力だな。七メートルの高さからアルミの椅子ごと落ちて、どこも骨折していない」
金蔵は、なんとか動こうともがく定吉の頭をステッキの先で軽く小突《こづ》いた。
「しかし、私の見たところ、君は仕事をし過ぎのようだ。気絶している間、ずいぶんいろいろなうわ言を口走っていたぞ。それはノイローゼの一歩手前だ」
「ふん、大きなお世話。わては健康人や」
強がりを言ってみたものの、内心そうかも知れぬ、と定吉は思った。ここのところ自分でも何かおかしいような気がしている。眠ればうなされ、起きれば食欲の固まり。しかし、いくら食べても腹《はら》に溜《たま》らず、二時間おきにイライラと買い食いをする。
「秘密情報|丁稚《でつち》の仕事というのは、ずいぶんと神経を酷使《こくし》するものらしいね」
金蔵は彼の足元にまわり込んだ。身体がしっかりと固定されているためにそこまで首をめぐらすことができない。
「定吉君、君はなぜあの女と一緒にいた?」
「『自分、茶ァ行かへん(あなた、お茶飲みませんか)』言うたらついて来たんだす」
「裏山の、狸《たぬき》が出そうな茂《しげ》みの中で誘《さそ》ったのかね?」
菓子会社のデブ社長は、定吉の脇にスッと寄って来た。
「それでは変態だ」
「わてがヘンタイなら、あんさんは何や?」
定吉は吐《は》き出すように言った。
「双子《ふたご》の片われをアンコ詰《づ》めにして殺し、親を自殺に追い込み、今またもう一人をあの化物《ばけもの》に殺させた」
「桜子《さくらこ》は裏切り者で、――この責任の一端は君にもあるようだが――梅子《うめこ》は銃で私を狙《ねら》おうとした。当然の報《むく》いだ。甚助《じんすけ》の死まで責任は持てん」
天井の梁《はり》から下った鎖《くさり》をいじくりながら金蔵は頬《ほお》をゆがめた。
「あの双子《ふたご》は、『栄町《さかえちよう》のリリーズ』『しゃちほこピーナッツ』などと呼ばれて少しいい気になっていたようだ。父親甚助は江戸で三代も続いた賽《さい》スリ師(サイコロ作り)で、彫金細工の腕《うで》も神技《かみわざ》だった。しかし最後の頃は寄る年波で手先もきかなくなってねえ」
「有馬の湯で使ったサイコロもその甚助いう人の作かいな?」
金蔵は鎖をガラガラと引っぱった。
「柿《かき》ノ木甚助|入魂《にゆうこん》の作だ。レアメタルという物質は加工が難《むず》かしい。よくあそこまで仕上げたものだと思うよ。また、それを見破った君の眼力もたいしたものだ」
鉄骨の梁から大きなアルミタンクが降りて来る。何だ? これは。
「双子の姉妹とつき合って、どうだったね?」
「どうだった、とは?」
「男同士の会話だ。別にとぼけなくともいい。その……外観から考え方までそっくりな女の……、微妙《びみよう》な違いという奴さ」
定吉はムカッと来た。わてはそこまで好色《こうしよく》やない。第一さっきはそんな時間など与えてくれなかったやないか。
「金蔵のダンさん、あんたこういう都々逸《どどいつ》知ってまっか?」
彼は突然《とつぜん》喉《のど》を震《ふる》わせた。
「梅《うめ》にゃ惚《ほ》れるが桜《さくら》にゃ惚れぬー、桜にゃホーホケキョの情夫《まぶ》がー居るうー」
「うーむ、なるほど。……音痴《おんち》だな」
いつの間にかアルミタンクが定吉の足のあたりに固定されていた。
「君は身体で稼《かせ》ぐタイプの芸人らしい」
このデブ、わてを完全に吉本興業と勘違《かんちが》いしているみたいやな。これでも歴《れつき》とした大阪商工会議所のお店《たな》もんやでぇ。定吉は口を曲げた。
「あんたにはかなわんわ」
「さて、用意も整ったようだ」
金蔵はタンクを軽く叩いた。
「断っておくが、これは拷問《ごうもん》ではない。君を単にイビリ殺そうという趣向《しゆこう》なのだよ」
「へーえ」
定吉はもう一度首を持ち上げ、まわりを見た。床に丸鋸《まるのこ》の刃が突き出しているわけでもなければ、電気の配線がしてある風でもない。
「仕掛《しか》けは単純だ。タンクの中には、よく撹拌《かくはん》した水戸《みと》の小粒納豆《こつぶなつとう》が一杯|詰《つま》っている」
「ゲッ!」
「歳末《さいまつ》福引きの抽選器《ちゆうせんき》を知っているね? ガラガラとハンドルを回せば、赤や白の玉が一つずつ出てくる例の奴だ」
「知ってるわい」
「このアルミタンクは、抽選器を巨大化したものだ、と思ってくれ」
ステッキの先で、底の部分を差した金蔵は小さく笑った。
「中の撹拌用モーターが回転すると、下の蛇口《じやぐち》から糸を引いた納豆が一粒ずつ落ちる。タンクを吊《つ》り下げているクレーンは一秒間に〇・五センチ前進する。君の身長は六尺以上。つまり、タンクの底は約六分で君の顔の上に到達するという寸法だ」
な、な、なにい。定吉は息をのんだ。
足元に吊り下ったもの。それは彼にとって、いや大部分の関西人にとって聞くもおぞましい大豆《だいず》タンパクの集積体だったのである。
「タンパク質、脂肪《しぼう》、炭水化物、それが程良く分解されて、グルタミン酸とアスパラギン酸、リジン、メスチオン、シスチン……」
金蔵は楽しそうに、納豆に含《ふく》まれている遊離《ゆうり》アミノ酸の種類を言い立てた。
「や、やめんかい!」
恐れていた事実だった。彼はやはりあの秘密結社「NATTO」の関係者なのだ。
「薬局でドリンク剤《ざい》を買って飲むより数倍も身体に良い食物が、自動的に君の口へ流し込まれる」
「寒《さむ》イボ(鳥肌《とりはだ》)が立つワ」
定吉は身をよじる。話を聞いただけで肌が粟立《あわだ》った。実際、彼は神経性胃炎と神経性|皮膚《ひふ》炎を持病として持っているのである。
もし喉《のど》に納豆《なつとう》が入れば、アレルギー反応が起きて彼の呼吸器は膨《ふく》れあがる。呼吸は少しずつ困難になり、数分で窒息死するだろう。しかも、納豆のアノ耐《た》えがたい糸と悪臭にまみれて!
「ぎゃー、助けてくれ」
「泣け、叫べ。私を愚弄《ぐろう》した報《むく》いを受けるのだ」
冒険少年小説に登場する悪漢のようなポーズで見得《みえ》を切った金蔵は、部屋の隅に歩み寄った。
「では、さらば。定吉君」
スイッチの音が響《ひび》き、天井のクレーンがゆっくりと動き出した。
腐敗《ふはい》した大豆《だいず》の臭いが鼻を突く。関東人なら平和な朝の食卓を連想するその匂いも彼にとっては地獄の香りだった。
「ま、まて。待つんや。わてが死ねば」
定吉は叫んだ。
「定吉六番が来る。あいつは、わてより上手《うわて》やで。揉《も》み手だってうまいし、掛け取りも取り外《はず》したことがない。そろばんだって一級で、ライフルもうまい。何より好き嫌いせずに物を食う。納豆かてお茶の子サイサイや」
「それは少しやっかいだな」
ステッキをクルリと回して金蔵は唄《うた》うように言った。
「しかし、そいつにだって何か弱点はあるだろう。女、幼少の頃の体験、趣味。人間なら何かあるはずだ。それを調べれば済むことだろう」
シーザース・パレスの舞台《ぶたい》を引っ込むボブ・ホープのようなキザっぽいポーズで彼は部屋を出て行こうとする。
「『金のしゃちほこ雨ざらし』作戦の話はどや?」
下の方から少しずつ迫ってくる銀色の発酵タンクを睨《にら》みながら定吉は怒鳴《どな》った。
「なぜその作戦名を知っている?」
金蔵は立ち止った。
やった! 奴の興味を引いたぞ。
「クレーンを止めたら教えたるわい」
「それほどまでして聞く必要も無い」
あっけない返事だった。あての外《はず》れた定吉は狼狽《ろうばい》する。
何か、何か他に奴の気を引く話題は
彼はあせる。茶目八、弁吉、宗右衛門、光乗老人の顔が目の前の闇《やみ》に浮んでは消えた。菓子屋のトラブルは菓子屋にまかせるべきだった。古人も「餅《もち》は餅屋」と言っているではないか。新地《しんち》の料亭で受けた秘密の依頼を安請け合いした我が身が情けない。あれは店の雰囲気《ふんいき》に負けてしまったのだ。ベテラン太鼓持《たいこも》ちにベッピンの芸者、床の間には八代目の手になる掛《か》け軸《じく》……、そうだ!
「あ、あ、あんた」
ドアのノブに手をかけた金蔵が怪訝《けげん》そうな眼差《まなざ》しでこちらを振り返った。
「歌舞伎《かぶき》好きかあ?」
こんな切羽《せつぱ》つまった時にいったい何を言い出すんだ、と彼は眼を細める。
「嫌いではない。古い演劇は皆好きだよ」
「成田屋《なりたや》の十八番は?」
「知っている。『暫《しばらく》』に『助六《すけろく》』、『鳴神《なるかみ》』『景清《かげきよ》』『勧進帳《かんじんちよう》』、それに『外郎売《ういろううり》』だ」
「う、ういろう屋さんなら、『外郎売』の口上《こうじよう》知ってはるなあ」
定吉は胃の腑《ふ》から絞《しぼ》り出すような声で叫んだ。足の爪先《つまさき》にペッタリと生暖《なまあたた》かいものが落ちる。ネバネバとした汁《しる》が踵《かかと》のあたりにたれ下るのが感じられた。
「そ、そ、それ全部|間違《まちが》いなく言えたとしたら、どうする!」
「君が?」
金蔵は首をひねった。無理だろう。納豆《なつとう》の列が彼の口に到達《とうたつ》するまで、あと三分程もない。定吉がいかな早口だとしてもそれは不可能だ。
「あれはずいぶん長いセリフだぞ」
「わては『蔵丁稚《くらでつち》』の定吉や」
金蔵は歯を剥《む》き出して笑った。
「いいだろう。うまく言えたら助けてやる。口の中へ納豆の入るのが先か、セリフを言い終えるのが先か」
「よっしゃ。行くでえ」
うまく行ったぞ。奴は大須演芸場から御園座《みそのざ》まで、連日小まめにまわるほどの演芸好き。乗ってくると思った。定吉は唇をペロリと嘗《な》めて、ペラペラと口上を述《の》べ始めた。
「……そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわって来たわ、まわってくるわ。あわや咽《のど》、さ足らな舌《した》にカ牙《げ》サ歯音《しおん》、ハマのふたつは唇の軽重《けいちよう》、開合《かいごう》さわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろを、一つへぎへぎに、へぎほしはじかみ、盆《ぼん》まめ、盆ごめ、盆ごぼう、摘蓼《つみたで》、摘豆《つみまめ》、つみ山椒《さんしよう》、書写山《しよしやざん》の社僧上《しやそうじよう》、粉米《こごめ》のなまがみ、粉米の生《なま》がみ、こん粉米の小《こ》生がみ、繻子《しゆす》ひじゅす、繻子、繻珍《しゆちん》、親かへい子かへい、子かへい親かへい、ふる栗《くり》の木の古切口《ふるきりぐち》、雨合羽《あまがつぱ》か、番合羽か、貴様のきゃはんも皮脚絆《かわきやはん》、しっかわ袴《ばかま》のしっぽころびを、三針《みはり》はりなかにちょっと縫《ぬ》うて、ぬうてちょっとぶん出せ、かわら撫子《なでしこ》、野石竹《のせきちく》、のら如来《によらい》、のら如来《によらい》三《み》のら如来に六のら如来、一寸先のお小仏《こぼとけ》におけつまずきゃるな、細溝《ほそみぞ》に、どじょうにょろり、京のなま鱈《だら》、奈良なま学鰹《まながつお》、ちょっと四、五貫目、お茶立ちょ、お茶立ちょ、ちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹|茶筅《ちやせん》でお茶ちゃっと立ちゃ……」
定吉はそこでグッとツバを飲みこんだ。ねばりを帯びた豆の列は、彼の着物の裾《すそ》から少しずつ上に昇り始めている。
「……来るわ来るわ何が来る、高野《こうや》の山のおこけら小僧《こぞう》、狸《たぬき》百匹《ぴき》、箸《はし》百膳《ぜん》、天目《てんもく》百杯、棒《ぼう》八百本、武具馬具ぶぐばぐみぶぐばぐ、合《あ》わせて武具馬具むぶぐばぐ、菊《きく》、栗、きく、くり、三菊栗、合わせて菊、栗、むきくくり、麦、ごみ、むぎ、ごみ、みむぎごみ、合わせてむぎごみ、むむぎごみ、あの長《なが》薙刀《なぎなた》は誰《た》が長薙刀ぞ、向うの胡麻《ごま》がらは荏《え》のごまがらか、真《ま》ごまがらか、あれこそほんの真胡麻殻《まごまがら》、がらびい、がらびい、風車《かざぐるま》、おきゃがれこぼし、おきゃがれ小法師《こぼうし》、ゆんべもこぼして又《また》こぼした……」
彼の顔は朱《あけ》に染《そま》った。舌《した》もだんだんもつれ始める。「外郎売《ういろううり》」口上《こうじよう》は、江戸時代、二代目市川団十郎が「若緑勢曾我《わかみどりいきおいそが》」の舞台で披露《ひろう》して以来、代々成田屋の当り芸の一つになっている。またこの口上の一部がNHKのアナウンサー訓練用語集にも採用されているという。
「……たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一丁だこ……」
低い電動音とともにアルミタンクは彼の胸のあたりまでせり上って来た。
「……大磯《おおいそ》がしや、小磯の宿《しゆく》を七つ起きして早天早々《そうてんそうそう》、相州《そうしゆう》小田原とうちん香、隠《かく》れござらぬ貴賎群衆《きせんぐんしゆ》の花のお江戸の花ういろう……」
口上がほとんど悲鳴に近くなった。
「これはたいしたものだ」
金蔵が小首《こくび》をかしげて口笛《くちぶえ》を吹いた。
「……あれあの花を見てお心をおやわらぎやという、産子《うぶこ》、這子《はうこ》に至《いた》るまで、この外郎《ういろう》の御評判《ごひようばん》、御存知ないとは申されまいまいつぶり、角《つの》出せ、棒《ぼう》出せ、ぼうぼう眉《まゆ》に、臼《うす》、杵《きね》、すりばち、ばちばちぐわらぐわらぐわらと……」
堪《た》えがたいほどの悪臭《あくしゆう》が定吉の鼻を塞《ふさ》いでいる。彼は口で息をせざるを得ない。ところがどっこい、その口はセリフをしゃべらねばならぬのだ。
「……羽目《はめ》を弛《はず》して今日《こんにち》お出《い》でのいずれも様《さま》に、上げねばならぬ、売らねばならぬと……」
ああ、酸素が欲しい。だんだん気が遠くなる。
「……息せい引っぱり、東方世界の薬の元〆《もとじめ》、薬師如来《やくしによらい》も照覧《しようらん》あれと……」
納豆《なつとう》タンクの蛇口《じやぐち》から白い糸が大きくたれている。ネバリ汁《じる》が彼の首筋に掛《かか》り始めた。
「……ホホ敬《うやま》って、ういろうは、いらっしゃりませぬかあー!」
口上を全て言い終えた定吉は、ガックリと力を抜く。彼の意識は再び闇の中へ落ちて行った。
15 金蔵の御招待《ごしようたい》
耳もとでブンブン音がする。虫の羽音だろうか?
けったいな。まだ蚊柱《かばしら》が立つ季節でもあるまいに。
定吉は煩《わずら》わし気に薄目《うすめ》を開《あ》ける。
「あれっ?」
彼は狭《せま》い畳敷《たたみじき》の和室に寝かされていた。
「なんやねん、ここ?」
騒音がひどい。虫の羽音、と感じたのはどうやらこの音らしい。隣にボイラー室でもあるのだろうか?
むっくりと起き上った定吉はまわりを見まわして、おっ、と声をあげた。フカフカの掛《か》け布団《ぶとん》が彼の裸《はだか》の上半身を覆《おお》っている。
「わて、どうなったんやろか?」
定吉はポリポリと胸を引っ掻《か》いた。
そうや、拷問《ごうもん》部屋で納豆《なつとう》の汁を足元から垂らされて……。ほてから、「外郎売《ういろううり》」の口上《こうじよう》をまくし立て……あれ? その後の記憶《きおく》があらへん。
二の腕《うで》のあたりをソッと嗅《か》いでみる。
「ウヘッ。嗅《く》っさー」
微《かす》かにあの発酵物《はつこうぶつ》の臭《にお》いがした。拷問は確実に受けたのだ。と、なるとここは。
「あの世かな?」
禅寺《ぜんでら》の茶室みたいな作りである。こういう極楽《ごくらく》もあるのだろう。そう思ってみれば何となく身体の調子も妙だ。腰の下がフワフワと落つかない。
「お目覚《めざ》めね。定吉クン」
障子《しようじ》の外で声がする。
「入っていいかしら」
女? それにしては少し野太《のぶと》い声だ。
「どうぞ。お入りやす」
ガラリ、と荒っぽく障子が開かれた。
大柄《おおがら》な人物がズカズカと部屋の中に入って来て、ドッカと腰を降ろした。
なんや、こいつ? 定吉は訪問者を上目遣いに睨《にら》んだ。
スマートな体形。短い髪型《かみがた》、真紅《しんく》の乗馬ブレザーに白のスラックス、シルクのフリルが胸元と袖口《そでぐち》を飾っている。鼻筋の通った端正《たんせい》な顔立ちに薄《うつす》らと化粧《けしよう》を施《ほどこ》しているが、その物腰《ものごし》はどう見ても男だった。
「どう、調子は?」
すみれ色の口紅《くちべに》を塗《ぬ》った幾分《いくぶん》大きめな口から、投げやりな質問が発せられた。その言葉には関西のナマリがある。
これは、オカマかな? 少なくとも天女《てんによ》やないな。
「ヘイ、何とのう足元が定まりまへん。まるで、その、雲に乗ってるようで。へへへ」
当りさわりのないよう彼は敬語を使った。なにしろその人物の手にはシルバー・メッキの大型拳銃が握《にぎ》られている。
「あっはっはっは」
男だか女だかわからないその人物は、よく通る声でカラカラと笑った。
「当然よ。あなたは本当に雲の上にいるんですからね。ほら」
片手を伸し、傍《かたわ》らの腰つき障子をサッと開《あ》け放った。
「わっ、これは!」
障子の向うは、狭い通路を隔《へだ》てて壁《かべ》になっていた。丸い窓が並んでいるのだが、問題はその外の風景だ。
雲海《うんかい》が見えるのである!
「ここは飛行機の中なの」
「ぎゃー」
定吉は生まれてこの方、単独で空を飛ぶものに身体を預けたことがない。辛《かろ》うじて乗った飛行物体といえば、あやめ池遊園地の飛行塔《ひこうとう》と宝塚《たからづか》ファミリー・ランドのフライング・カーペットだけなのだ。
「この機の機長は私なのよ」
「なんやてえ?」
第二のショックだった。
「そ、操縦《そうじゆう》する人がなんでここにおんねん」
丹後縮緬《たんごちりめん》の掛《か》け布団《ぶとん》をしっかと抱《だ》きしめて定吉はわめいた。
「早く運転席戻ってんか!」
「大丈夫よ」
男(女?)は胡坐《あぐら》の膝《ひざ》を崩《くず》して笑いころげた。
「自動操縦になっているの」
「そんなことでけるわけないやんけ」
「ばかね。飛行機が自動的に飛ぶことぐらい今時《いまどき》、幼稚園《ようちえん》の子だって知ってるわ」
「だいたいからして空気より重いもん、空飛べるわけない!」
救いようがない、といった風に「彼」は肩をすくめた。
「飛行機教徒(輸送機を神とあがめるニューギニアの特殊宗教)みたいな人ねえ。ま、いいわ。あなたがどう考えようと」
「彼」はアトランタのパーティ会場に現われたレッド・バトラーのようなポーズで立ち上ると外に呼びかけた。
「ちょっと、この人に着るものを持って来てあげて」
広蓋《ひろぶた》(衣服などを入れる箱の蓋)を捧《ささ》げ持ったチャイナ・ドレスの少女が静々と部屋に入ってきた。
「着陸した後も裸じゃ困るでしょ」
まだ仕付《しつ》けがかかっている結城《ゆうき》の着物、胡麻殻《ごまがら》の唐桟《とうざん》羽織、紺献上《こんけんじよう》の帯、さらしの六尺、白タビ、草履《ぞうり》、半紙が一|帖《じよう》に手ぬぐいが一本入っている。
「行きとどいてまんなあ。しかし、こら太鼓持《たいこも》ちの扮装《ふんそう》や」
わてには贅沢《ぜいたく》すぎる。定吉は着物の袖《そで》を肩に乗せてためつすがめつした。
「遊んでないで、早く着てちょうだい。そろそろ着陸の時間だから」
「ヘイ」
布団から出ようとして、彼はポッと顔を赤らめた。スッポンポンの丸裸なのだ。
「着付けしますさかい、出とっておくれやす」
「恥《はずか》しがることはないわよ」
「そやかて」
「あなたが妙《みよう》なマネしないように見張るのも私の役目なの」
なんや、こいつも変態かい。
定吉は渋々《しぶしぶ》、痩《や》せた身体にさらしを巻き始めた。
「オトイベツ・コントロール・レーダー、ジスイズ・チャリー・エイブル・ブラボー・ゴルフ、オーバー(オトイベツ管制レーダー、こちらCABG機、どうぞ)」
コックピットから先ほどの野太《のぶと》い声が聞こえてくる。
「CABG、こちらオトイベツ・キャンプ・レーダー」
「現在位置、襟裳岬《えりもみさき》東方五十キロ。これより低空飛行に移る」
「OK、VOR(超短波《ちようたんぱ》オムニレンジ)の周波数を予定の数字に変更し、コースセレクターをチェックせよ」
「ラジャー(了解《りようかい》)」
アホな奴ちゃ。無線でブラジャー≠フ話などしてけつかる。
「あそこで運転してる人」
定吉は、向い合わせに坐っているチャイナドレスの美少女に、気安く話しかけた。そうすることによって飛行機に乗っている恐怖を少しでも忘れようという心積りなのだ。
「怪態《けつたい》な性格してまんな」
「真王《まお》様の悪口を言うと許さないわよ」
彼女は、定吉の顔をキッと睨《にら》むと、銀磨《ぎんみが》きの拳銃を突きつけてきた。
「可愛《かわい》い顔して、そないなオチャメさんしたらアカン、て」
定吉は子供をあやすような口調で言った。
「あんたが今持ってるモンは、名古屋南部造兵|工廠製《こうしようせい》の8ミリ南部拳銃や。遊底指掛《ゆうていゆびか》け(コッキング・ピース)にミゾの付いてないとこ見ると、決戦タイプ(昭和十八年製)でんな。弾《たま》の威力《いりよく》はあまり無い方やけど、それでもこの距離《きより》なら充分や。わての身体と椅子《いす》を射《う》ち抜《ぬ》いて壁《かべ》にまで穴開けてまう」
少女はビックリして自分が今握《にぎ》っているものを見つめた。
「飛行機の壁壊《こわ》すと大変なことになりまっせ。わて、そういうの映画で見たことおます」
定吉は顔の前に人差し指を立ててチッ、チッ、と舌打ちしてみせた。そういうことだけはよく知っている。彼の科学知識の大部分は映画の受け売りなのだ。
「ま、そないに剣突《けんつく》にならんと」
窓の外が薄暗《うすぐら》い。床も少し傾斜し始めた。機が着陸態勢に入ったのだ。すでに定吉の恐怖心は、どこかに吹き飛んでいた。もともと環境には適応しやすい体質《たち》なのである。
「どこ連れてかれるかわからんけど」
彼は安全ベルトの端を弄《もてあそ》びながら、少女に笑いかけた。
「せっかくの御招待や。素直に受けるつもりでいます。それより」
デヘヘ、と彼はネコ撫《な》で声を出した。
「あんさん、電話番号教えてくれる気ィおまへんか?」
少女が気味悪そうに肩をすくめた時、ガクンと床が揺れた。
機が着陸したのだ。
少女は、まだ動いている機の中で立ち上った。
「あ、行ってしまうんでっか?」
うんざりしたような顔で彼女はカーテンの向うに歩み去る。
何や愛敬《あいきよう》の無い娘《こ》ォやな。男嫌いなんかいな。定吉はブツブツつぶやきながら腰の安全ベルトを解いた。
「ひゃっこいなぁ」
タラップを降りながら定吉は肩を震《ふる》わせた。冷気が針のような鋭《するど》さで肌《はだ》をチクチクと刺激する。
滑走路には氷結した雪が固くへばりつき、霧の間から顔を覗かせている高い建物――それは牧場のサイロらしかった――の屋根にも白いものが残っていた。
ここはいったいどこや?
霧のせいで周囲の様子が皆目《かいもく》わからない。その白いスープをかき分けるように数個のヘッドライトが這《は》うように近付いて来た。
「さっさと乗って」
オトコ女が銃の先で彼の背を小突《こづ》く。小型ジープに乗り込んだ定吉は何気なく後の方を振り返った。
滑走路では貨物《カーゴ》キャリアーが彼の乗って来たボーイング737型機に取りつき、手際良く荷降し作業を行っている。
おや、あれは
定吉は目を細めた。間違いない。機の胴体下部から引き降ろされるのは金蔵の専用キャデラックだ。
アレを運んで来た、ということは……。彼はズズッと鼻をすすり上げる。
ジープは滑走路を囲むフェンスに沿って進んで行った。フェンスの外側は牧草地らしい。泥だらけのトラクターや、枯草を食《は》むホルスタインの姿が霧の中に見え隠れしている。
そうこうするうち前方に格納庫と小さな管制塔が現われた。
「ここが終点」
ジープは格納庫の巨大なドアを潜《くぐ》り、その中で急停車した。
クソ寒いところやな。定吉は袖口《そでぐち》にハーッと息を吐《は》きかけた。ああ、ラクダのモモヒキが欲しい。その時だった。
格納庫内のライトが一斉に点《つ》いた。
「あっ!」
ピンク色の丸顔が、古臭い始動《エナーシヤ》トラックの荷台でニコニコ笑っている。その背後には例の外人|相撲《すもう》取りの巨大な姿も見えた。
思った通りや。定吉は鼻に小ジワを寄せた。
「北海道へようこそ」
なるほど、ここは北海道か。どうりで寒いはずやがな。
「さぞや快適な旅を過ごしてくれたことと思う」
金蔵はヨッコラショと、トラックのステップを踏んで下に降りた。
「いやあ、まったく君には感服した。危機に陥《おちい》っても芸を忘れぬその根性、浪花《なにわ》の人間はさすがに遊び心が豊かだ」
彼はゆっくりと定吉のそばに歩み寄った。
「これからも大衆演劇の火を消さぬよう頑張《がんば》って欲しいもんだね」
ナニぬかしてけつかる。わては「吉本」やないいうのがまだわからんのか。定吉はそう言いそうになる自分をグッと押さえた。
「遊びの心というものは、幾《いく》つになっても大切なものだ。『人をして高貴ならしめるものは富にあらず、その趣味なり』と、かのサー・フランシス・ベーコンも言うておる。かく言う私も少しおもしろい趣味を持っていてね」
金蔵は相撲《すもう》取りに目くばせした。
一礼した相撲取りは、格納庫に並んだ飛行機のカバーを次々にめくり上げる。
「あっ、雷電《らいでん》や!」
カバーの下から現われたもの、それは弁吉の情報にあったあの旧日本海軍局地戦闘機だった。
「ほう、なかなか目が高いな」
一目《ひとめ》で機種名を言い当てた定吉の眼力《がんりき》に金蔵はまたまた感心した。
「へえ、わて昔プラモマニアでしてん」
「来たまえ、さわってもいいよ」
ペタペタと草履《ぞうり》を鳴らして定吉は機体に近付いて行った。
「大きいなあ」
エンジンが巨大なのだ。京都|嵐山《あらしやま》にあった私設博物館の「疾風《はやて》」の倍近い大きさがあった。コックピットもやけに広い。
「アメリカの飛行機みたいでんな」
「アメリカ人もそう思うらしいね。これは、戦後|厚木《あつぎ》で米軍に押収《おうしゆう》され、コネチカットの捕獲《ほかく》兵器実験場で性能テストを受けた後、民間の空中サーカスに払い下げられた機体なんだが」
金蔵はスペイン葉巻みたいな雷電の鼻先を撫《な》でさすった。
「こいつを十年近く愛用していたサーカス団員は、ずっとグラマン社の製品だと思っていたそうだ」
「アホな奴ちゃ」
「こちらの機体は、ネバダで二十年近くドライブ・インの看板代りに使われていたものだ。露天に置かれていた割には保存状態がいい。後の三機はT6テキサンやテハビランドを寄せ集めて作った映画の撮影用だよ。しかし、立派に飛べる」
火星二三型|甲《こう》エンジンのカバーにペイントされた諸元《しよげん》を読むふりをした定吉は、機体下部から翼《つばさ》の側面を盗み見た。ダミーとわかるブリキの二十ミリ機銃《きじゆう》が左右に二門ずつ、これは問題ない。しかし不思議なことにはその下に増槽《ぞうそう》が三つも付いている。
「機体の色が妙でんな」
末期の海軍機にしては塗装が赤っぽかった。まるで小豆《あずき》のような色をしている。
「ペイントに少し凝《こ》ってみたんだ。当時の『誉《ほまれ》塗料』と全く同じ材質のものを作って塗《ぬ》ったんだが、しばらく放っておいたらこんな色に変色してしまった」
「ペンキまで四十年前と同じモン作らはったんでっか?」
よく見ると日の当らない部分は鮮《あざや》かなグリーンで残っていた。それだけではない。錆《さび》や煤《すす》といった汚れは同じ色のペイントで塗り分けられている。
「ダンさんは究極の模型マニアでんな」
その時、彼の部下の一人が滑走路の方から走って来た。
「ちょっと失礼するよ。他にも来客があるんだ」
金蔵は部下に伴《とも》なわれ、格納庫《かくのうこ》から出て行った。
「ゲスト・ルームに案内してあげて」
オトコ女がピシッと指を弾《はじ》く。
カチンと下駄《げた》の踵《かかと》を合わせた相撲取りが定吉の襟首《えりくび》をつまみ上げ、大映映画の大魔人《だいまじん》みたいな重々しい足どりでゆっくりと歩き出した。
「わっ、降ろしとくなはれ。わてはネコの子やないで」
定吉はそのままズルズルと格納庫から引きずり出され、隣《となり》の建物に連れ込まれる。
「痛あ、乱暴せんといてや」
相撲取りが後ろ手にドアを閉じようとする時、彼は大急ぎで滑走路の方に首をめぐらせる。
いつの間に到着したのか二機のパイパー・カブがエプロンに止っていた。
あっ、あいつらは。
日頃、会所のファイルでよくお眼にかかる顔が金蔵の後についてゾロゾロと歩いている。
間違いない。彼らは皆NATTOの中級幹部だ!
「すっばらくだのー、きょーだっきゃ、あめっこもかぜっこもなくてェ、まんずええてんきだなーす」
ゴマ塩頭の男が、ソファーにふん反《ぞ》り返って手をあげた。
「はあ?」
金蔵はポカンと口を開《あ》けた。相手がなにをしゃべっているのかよくわからないのである。
「……いや、支部長が今、言われたことは、ですね」
隣に坐った真面目《まじめ》そうな若い男があわてて通訳を買って出た。
「『御無沙汰《ごぶさた》いたしております。本日は雨風も吹かず、まずは良いお天気で』という時候《じこう》のあいさつでして」
「なるほど、御丁寧《ごていねい》なあいさつ痛みいります」
如才《じよさい》ない態度で金蔵は頭を下げる。
「さっそくじゃけんじょも」
「『さっそくですが』」
「ようむきを、はー」
「『用件の方を先に済ませたい』と申されております」
「作戦経費の帳簿でしたら全部お見せしておりますが、まだ何か?」
広い応接間の中央で、五、六人のNATTO派遣員たちが大きなバインダーを前にしてしきりにカリキュレーターを叩《たた》いたり、メモを作っている。金蔵は彼らを指差して微笑《ほほえ》んだ。
「そったらことは……」
「『それはよくわかっています。私が言いたいのはもっと本質的なことだ』」
若い男は、CNNニュースの同時通訳みたいな抑揚の乏《とぼ》しい声を出した。
「今度の……」
「『今度の作戦については、本部でもいろいろと取り沙汰《ざた》されている。あれだけ資金を融通してやったのに、君はいまだに作戦の全貌をこちらへ示そうとはしない。秘密主義もけっこうだが、度を越すと疑惑のタネとなる。こちらにも出資者の面子《メンツ》というものがあるのだ。今日は一つそれをジックリとうかがいたい』」
「んだあ」
自分が何も言わないうちにセリフを全部言われてしまった支部長は、できるだけ大きくうなずくと鼻毛をブチッと引き抜き、それがまるで自分の存在証明であるかのようにソファーへゆっくりとなすりつけた。
「ふーむ、困りましたな。NATTO側ではそのようにお考えですか」
金蔵は、しばらく腕を組んで考え込んでいたが、しかたがない、といった調子で肩をすくめた。
「作戦の第三段階までは極秘で進めたかったのだが、それほどまで言うのならお教えしよう」
彼は片隅のテーブルに手を置くと、インターホンに向って語りかけた。
「床の下をお客さまにお見せしろ」
象牙色《ぞうげいろ》の床がゆっくりとスライドし、応接間の大きなテーブルが壁の中に静々と入り始めた。出入台帳を覗《のぞ》いていたNATTO派遣員はビックリして脇《わき》に飛びのく。
「なにを始めるつもりだ」
客たちは口々に金蔵をののしった。
「静かに御覧ください」
シェークスピア劇の口上《こうじよう》係みたいな気取った声で彼は床を指す。
室内が暗くなり、床の一部が迫《せ》り出して来た。
「スポットを当ててくれ」
金蔵の言葉と同時にライトが床を照し出す。
「おお」
一同は息をのんだ。
光の中に浮び上ったのは巨大な立体地形図だった。
大部分は緑の森と田畑、中央に河と鉄道の線路が作られ、マッチ箱ほどの人家が道路の周辺にバラ撒《ま》かれている。
「精巧《せいこう》なものでしょう。全部HOスケールです」
得意満面、金蔵は立体模型の上で両手を広げた。たしかにこれほど広いジオラマは東京の交通博物館にもない。
「うんだぁ」
NATTO北部地区総支部長は、ゴマ塩頭をガサガサと掻《か》いて感心する。まるで空中から地上を見ているようだ。
「すかすー、これは一体どこの景色だなし?」
「北海道のヘソ。富良野《ふらの》ですよ」
「富良野?」
支部長は首を右に曲げたり、左にのけぞったりしてジオラマを眺《なが》めていたが、そのうち、
「んだば、アレはなんだあ?」
と声をあげた。
鉄道の線路が盆地の中程で二手に分れていた。どうやらそこが富良野の町ということらしい。東に延びているのが富良野線、西に行くのが根室《ねむろ》本線だ。野良《のら》仕事で鍬《くわ》ダコの出来た支部長の指はYの字で区切られた盆地の中央部を差している。
「おら、富良野は良う知《す》っとるだ。だども、あげなもんは無《ね》ど」
「本当だ」
他のNATTO結社員も皆彼の指先を凝視する。
そこには金色の高層建造物(といっても人間の膝ぐらいの高さだが)が燦然《さんぜん》と輝《かがや》いている。
「名古屋城じゃないか」
誰かが叫《さけ》んだ。五層五階の大天守と二層の小天守、壁面も銅葺《どうぶ》きの屋根も金色に塗《ぬ》られていたがそれは紛《まぎ》れもなく尾張《おわり》城のミニチュアだった。
「そうです。これから私が建てる予定になっているナゴヤ城です」
金蔵はおごそかに答えた。
「慶長《けいちよう》十五年、徳川家康《とくがわいえやす》公が西国《さいごく》の諸大名《しよだいみよう》に命じて築かせた奇跡《きせき》の巨城《きよじよう》。中日ドラゴンズ、外郎《ういろう》、守口大根《もりぐちだいこん》と並《なら》ぶ名古屋の誇《ほこ》り。閣上《かくじよう》のシャチホコは、北側の雄《おす》が高さ二・六二一メートル、鱗《うろこ》の数百十二枚、南側の雌《めす》は高さ二・五七九メートル、鱗の数は百二十六枚」
部屋の長押《なげし》に乗っていた大身の槍《やり》を指示|棒《ぼう》代りに取り上げた彼は、その穂先《ほさき》で模型の屋根を差し示した。
「こ、こ、こ」
「『こんなものを作るためにNATTOの貴重な資金を使ったのか』と支部長は申されています」
通訳が、ショックのあまり言語障害を起した上役に代って彼を詰《なじ》った。
「いやいや、御心配なく。これは『しゃちほこういろう』独自の計画です。全てが終った後、私はここにモニュメントとして城を建てるつもりなのですよ」
金蔵は落つき払って答える。
「全てが終った後?」
通訳の男は疑わし気な目を向けた。
16 逆《さか》さ釣《つ》り天井《てんじよう》
定吉が連れこまれた部屋は(それが部屋と呼べるものなら)天井ばかりが異常に高い、ミサイルのシェルターみたいなところだった。
床には一面に干し草のクズがバラ撒かれ、その香《こう》ばしい匂《にお》いに混って微《かす》かだが金錆《かなさび》と動物の臭《にお》いがする。
「ワッ、牛フンだらけやんか」
「黙《だま》ってその辺に坐ってろ」
見張りの男は、ドン、と定吉の背をド突くと勢い良くドアを閉じた。
「なんや、急にサービス悪《わ》るなったな」
以前は厩舎《きゆうしや》にでも使われていたのだろう。壁には鎖《くさり》のハンガーが並び、隅の方にはバケツや乳しぼり用のパイプラインが乱雑に立てかけられている。
他に出口は無いだろうか、と定吉は部屋中を徘徊《はいかい》してみたが、牛フンばかり踏みつけるのでいいかげんバカバカしくなり、すぐにその作業を中止した。
「あー、やめやめ、アホの考え休むに似たり、や」
あきらめの良いのが大阪人の取り得《え》である。
定吉は干し草の束《たば》へ、ドーンと大の字に寝転《ねころが》った。
スチームでも入っているのだろうか。寒さはそれほど感じられない。彼は天井からブラ下った裸《はだか》電球の玉をボンヤリと見つめてタメ息をついた。
「けど、気になるなあ」
先程《さきほど》見かけたNATTOの派遣員たちは、金蔵といったい何を話し合うつもりなのだろう。
「また何ぞ小汚《こぎたな》い陰謀《いんぼう》でも企《くわだ》てとるのやろか?」
この壁ひとつ隔《へだ》てた向う側で、奴らはまた関西人を陥《おとしい》れるための計略を練っているに違いない。そう思うと定吉は居ても立ってもいられなくなった。
「あー、わてはほんとに貧乏性や」
よっこらしょ、と起き上った彼は、入口に忍《しの》び寄った。
スチール扉の隣では数人の男たちが雑談を楽しんでいる。
「ひい、ふう、みい、ざっと四人か」
扉に耳を押しつけた彼は、見張りの人数を確認する。
「……で? おみゃあたち、出身校どこだあ」
「わし、ミャー大だ」
「僕《ぼく》もミャー大」
「ほうか、奇遇《きぐう》だにゃ。俺《おれ》もミャー大だがね」
「ぐーぜんだがや。わしもミャー大でよ」
「でも、変だにゃー。ウチの就職課では『しゃちほこういろう』に就職したの、わし一人だと言うてたんだがー」
「うーん、そう聞いとる。だいいち大学であんたらの顔見た覚えがにゃーぞ」
「わしもだ。宮崎で名古屋出身者といえば、みーんな顔見知りのはずだがにゃー」
「宮崎?」
「おみゃあ、東京のミャー大でにゃーのか?」
「東京? おみゃあの方こそ、三重の大学でにゃーのかや」
四人の見張りたちはそこでしばらくの間押し黙った。
「なんか変だがやー」
「もう一度各自|大学《でやーがく》の正式名を言うてちょー」
「わし、三重大学だあ」
「僕《ぼく》、東京の明治大学」
「俺、宮崎大学」
「何だ? わしだけが名古屋大学かあ」
つまり、みえ大、めい大、みや大、めえ大なのである。定吉は、やっと彼らの会話が理解できた。まるで猫語《ねこご》だ。
「……わしら、タモリのおかげでどこの土地行ってもアホ扱いだに」
「わしも……初めて東京出た時、新宿の紀伊国屋《きのくにや》前でナンパしようとして声かけた女に死ぬほど笑い飛ばされた」
「何て言うて?」
「『そこ通りなさるベッピンさん、わしと茶飲みに行こみゃーか』、て」
「それゃまるで大須《おおす》演芸場の呼びこみだがね」
「悲しいやらくやしいやら」
「まあ、その苦労もあとチョビットだで。社長の『ウイロー・ザ・ワールド』計画が成功したあかつきには、わしら世間のエリートだがね」
「ほしたら、東京の女はより取り見取り」
「それだけでにゃーぞ。新宿駅の東口でタモリを火あぶりにだってできるがや」
ウイロー・ザ・ワールド? いったい何のことだ。またまた訳《わけ》のわからぬ話が出て来た、と定吉は眉《まゆ》をひそめた。
「それまでここで苦労するのかあ」
「毎日《みやーにち》こう寒い日が続くとよー、持って来た外郎《ういろう》が、みーんなカチンカチンになってしまうがね」
「あーあ、早よう故郷に錦飾《にしきかざ》って、やわらかい青柳《あおやぎ》ウイロウと『天むす』腹《はら》いっぱい食いたい」
「わしは『地雷屋《じらいや》』の天むすびの方がええなあ」
「僕《ぼく》は餅文《もちぶん》総本店の黒ういろう」
男たちは口々に言いたい放題のことを言っている。
その時定吉の脳裏《のうり》にあるアイデアがひらめいた。
彼は部屋の隅に取って返すと、そこに落ちている牛フンを拾い始めた。
「少しきたないが、背に腹は変えられん」
定吉は顔をしかめつつフンの柔らかそうなところばかりを手で千切《ちぎ》り、長方形の棒を作る。
「ううっ、気色《きしよく》悪う。でもガマン、ガマン」
エチオピアやインドで人は家の壁や燃料を得るため、このような作業をするらしい。彼らに言わせると、牛は肉食|獣《じゆう》ではないためそのフンは、それほど不衛生なものでもないという。しかし排泄物《はいせつぶつ》であることには変りない。
「よし、大きさはこれくらいで良《え》えな」
その茶色い棒状のクソを定吉はコンクリートの床《ゆか》に滑《すべ》らせて表面を平らにならした。
「これを、端《はし》の方だけ手ぬぐいで包んで」
彼は、「魔法《まほう》の棒」を子細《しさい》に点検し、その出来上り具合に満足すると、再び扉の裏に近寄って行った。
「もし、もし見張りの方」
「用事か?」
三重大出身の見張りが覗き窓から顔を見せた。
「あんさんたち、それほど外郎《ういろう》が食べたいんでっか?」
「おみゃーら関西人には、チョイわからんだろうがよー。あれを茶請けにして一日二本程食わにゃあ、わしら力がよう出んのだがね」
「今日は朝から一本も支給されとらんでよー」
「さよか」
定吉はおもむろに懐《ふところ》から先ほどの牛フンを取り出した。
「わて、コーヒー外郎一本持ってまんね」
薄暗《うすぐら》い部屋の中で彼はその品物をチラつかせた。
「最前《さいぜん》より人肌《ひとはだ》であっためてましたさかい、カチカチにはなってまへん」
「あっ、いつの間にそんなものを」
見張りたちはゴクリと生ツバを飲みこんだ。
「わてなあ。熱いお茶が飲みたいんだす。ズーズーしい申し出とお思いでしょうが、熱いやつ一杯いただけまへんやろか? いえ、タダとは申しまへん。ホレこの外郎《ういろう》と交換ということで」
定吉は薄汚《うすぎたな》いニセ外郎を手拭《てぬぐ》いの間から出したり引っこめたりして、しきりと彼らを誘惑した。
「そ、そうか。よし待ってろ、今すぐ持って来てやる」
効果はてきめんだった。見張りの一人がストーブの上からアルミのヤカンを大あわてで降ろし始めたのである。
しめた。定吉は舌《した》なめずりする。
「やめときゃーせ。様子がおかしい。あいつ、さっき調べたときゃーナンにも持ってなかったがね」
流石《さすが》に四人もいれば一人ぐらいは頭の働く奴が混っているものだ。
「現にああして見せびらかしとる。なーに、イザとなってもこっちにゃハヤシも……いや違った、キカンジューもあるでよ」
「トロくせえこと言うとらんと早よう開《あ》けんかね」
「コーヒーういろーがたべたーい」
集団の中の俊才《しゆんさい》はこうして多数の愚者《ぐしや》に流されていくのである。彼は渋々扉のカギを開けた。
「おい、茶入れたでよ。早よう取りに来い」
戸の間からお盆と、短機関銃《たんきかんじゆう》の銃口《じゆうこう》が突き出された。
「あれ、どこ行った?」
見張りの男は部屋の中を見まわす。捕虜《ほりよ》の姿はどこにも見えない。
まずい、と彼が思った時はもう遅かった。扉の陰から、子持ちシシャモのような臑《すね》が、茶ワンを乗せた盆を力いっぱい蹴り上げた。
「あちー」
頭から熱い渋茶を浴びた男は、思わず銃を取り落す。その腹へもう一度蹴りの一撃。開いた口の中へ非情にも牛フンの棒が押しこまれた。
「どうした?」
続いて入って来た男の背へ肘打《ひじう》ちを食らわせ、風のように外へ走り出た定吉は、機関銃の安全装置《セーフテイ》を外《はず》そうとあせる男たちへ両手を奴凧《やつこだこ》のように広げて身体ごとぶつかって行った。
グシャ、と喉仏《のどぼとけ》の潰れる嫌な音がして二人の名古屋人は床に転る。ダブル・ウェスタンラリアートだ。
「うまいこといった」
定吉は倒れている男の作業服でフンまみれの手を拭《ぬぐ》い、転っている機関銃の中から手ごろなやつを一|挺《ちよう》拾いあげて奥の通路に向った。
「さっきの部屋は半地下やったな」
連れこまれる時に、建物の間取りはだいたい把握《はあく》していたつもりなのだが、これだけ広いとまたしても方向|音痴《おんち》になりそうだ。
「とにかく明るい方に行ってみたろ」
ボイラー室らしい油臭い部屋を抜《ぬ》け、アイドルのグラビアがベッドサイドに張りつめてある汗臭《あせくさ》い仮眠室を通り過ぎた定吉は、いつしか体育館のように広い部屋へ足を踏み入れていた。天井だけがやけに低い。彼の背丈と大差無かった。四隅に支柱が立ち、どうやらそれが油圧で上下する仕組みと見えた。
「釣《つ》り天井みたいなモンかな?」
だとしたら内側に支えの柱など付いているわけがない。
「ははあ、読めた。逆さ釣り天井やな」
普通の「釣り天井」は、天井が下って来て部屋の人間を押し潰す。これは床が天井に上って行って敵を潰す仕組みに違いない。
「うーむ、こういうアホらしいモンは東映の時代劇にも出て来ない」
いしいひさいちの漫画には出てくる。
「というと、これは床下という訳や」
耳を澄《す》ますと、人声が聞こえた。上ではかなり大勢の人間が集まっているらしい。
定吉は様子を探《さぐ》ろうと、天井の窪《くぼ》みに頭を突っこんだ。
「上富良野《かみふらの》西方十キロ。この何の変哲もない森林地帯の真ン中に関西の、いや日本国の重大な秘密が隠されているのです」
突然金蔵が目の前に現われて、定吉は心の臓がデングリ返る程驚いた。しかも、手にした槍《やり》の穂先を自分の方に向って構えているのである。
「この場所」
ズブリ、と槍が彼の目前に突き立った。定吉は思わずお念仏《ねんぶつ》を唱《とな》える。
「ここに二本の専用道路が走っています。一本は富良野、もう一本は芦別《あしべつ》から」
定吉は恐《おそ》るおそる薄目《うすめ》を開けた。
「中平別《なかひらべつ》という小さな集落を通り、どちらも旭川《あさひかわ》へ向って伸びています。これは大正四年に当時の旭川工兵連隊が敷設《ふせつ》したもので、現在は林野庁が管理しています」
定吉の眼前に小高いスポンジ製の山があった。その下を可愛《かわい》らしいディーゼルカーが走っている。
ははあ、これはジオラマのセットやな。
自分の存在が気付かれたのではないと知って彼はホッと胸を撫でおろした。
「さて皆さん。問題は、中平別の外《はず》れにあるこの小さな建物だ」
再び槍の先が模型の山に突き立てられた。
「表向きは北大地震研究所の観測機材設置場所ということになっている。しかし、その実これはとんでもない設備なのです」
四、五人の男たちが金蔵の背後からこちらを窺《うかが》っている。ジオラマ越しに見るとまるでそれはガリバーの集団みたいに感じられた。
「斜面に建てられた研究所。ところがこいつの地下室は五階建てになっている。屋根は鉄筋入りコンクリート二層作り、表面は磁気避《じきよ》けの特殊コーティング塗装。中央の入口は二トン車がそのまま地下に降りられるように大型エレベーターが設置され……」
定吉はジオラマの隙間《すきま》から彼らの動きを静かに観察した。彼は絶好の位置に身を隠している。何と床下から名古屋城の天守閣の中に直接頭を突っ込んで、その窓から外を見ていたのである。
「建物の四隅は三重の柵《さく》。第一の柵と第二の柵の間には犬を放し、第三の柵は高圧電流を流しています。万が一これを全て突破できたとしても、敷地内に仕掛けられている最新セキュリティ・システムからは逃れられない。システムの末端は」
金蔵は、山の周りにある大きな建物を指差して鼻にシワをよせた。
「周辺四ヵ所に分散している自衛隊北部方面軍富良野駐屯部隊の警報システムに接続されているのです」
「わかった」
NATTOの一人がポンと手を打った。
「そいつは国営の秘密物資保管庫だ」
「御明察」
「中味は何だ? 豊平《とよひら》で採れる金塊か? 古美術品か?」
「いやいや、もっと貴重なものです」
金蔵は薄笑《うすわら》いを浮べた。
「んだば、何だンべ?」
支部長が鼻の穴を広げてつめ寄った。
「いずわるせんで、早よおすえてけろー」
「羊羹《ようかん》ですよ」
金蔵はパチリとウインクをした。
「な、なんだあ?」
「本練《ほんね》りの京風|小豆《あずき》羊羹が二十トン、原料となる十勝《とかち》産|大納言《だいなごん》小豆が二十トン、ここの地下金庫に収っているんです」
NATTOの結社員たちは信じられない、といった風に顔を見合わせていたが、次の瞬間皆げらげらと笑い出した。
「笑いたければ存分に笑うがいい。しかし、これは本当の話なんですよ」
流石《さすが》に支部長だけは笑わなかった。
カバそっくりの顔を赤く膨《ふく》らませて金蔵に詰め寄った。
「あんしゃ、わだばこけにすたなー」
「『金蔵さん。あなたは、私を愚弄《ぐろう》したのですね』、と支部長は言っています」
通訳があわてて言い添えた。
「御静粛《ごせいしゆく》に」
槍《やり》の石突《いしづき》をトン、と床に付いて金蔵は皆を鎮め、支部長の方を真っ直に見返した。
「私の言うことをよく聞いて下さい。そうすれば、この話が冗談ではないとわかるはずだ」
彼はコホンと気取った咳《せき》を一つすると、ゆっくり話し始めた。
「日本には、年間約二千人のVIPが訪れる。外国の皇族、政治指導者、財界人、亡命者。親善訪問から借款《しやつかん》の申し入れ、会議の出席、家族連れの慰安旅行から愛人との浮気旅行まで、驚くほど多種多様な重要人物が我が国の土を踏《ふ》むのです。外務省、宮内庁、その他の政府機関は、こうしたVIPの接待費を毎年特別予算の中に組み込み、彼らが出国する際、その格式、用件、性格等に応じて土産《みやげ》物を持たせるしきたりになっています。ここまでで何か質問は?」
全員が首を横に振《ふ》った。
「では続けます。この政府が持たせる土産の内容というのは、ごく一部を除いて一般には極秘にされています。ある人には西陣《にしじん》の織物、ある人には陶器《とうき》の花入れ、ある人には銀座のホステスであったりするわけで……。これは、どこの国でもやっていることですが、ただ、我が国の場合、こうしたメインの土産物に必ずもう一品付ける慣習があります。例えて言うならば、勲章《くんしよう》に略綬《りやくじゆ》が付き、結婚式の引出ものに折詰《おりづめ》が付くようなものですな」
部屋の中にいる男たちは何とも言えぬ顔をして、押し黙っている。
「その土産に付けるもう一品が羊羹《ようかん》≠ニいうわけなのです」
彼はそこで少し息を継《つ》いだ。
「この風習は古く室町《むろまち》時代より始ったといわれていますが江戸時代に入ると一時|廃《すた》れ、明治十四年三月、ハワイ国王カラカウアが史上初の外国皇族として来日した際に復活しました。しかし本格的に始ったのは二十世紀に入ってからです。これには逸話《いつわ》がある」
金蔵は手を後に組んで部屋の中を歩き始めた。
「日露《にちろ》戦争の頃、軍部は将兵の慰問用として大量の和菓子を大陸に送りこんだのです。ところが、気候の変化が激しい中国では皆すぐに腐《くさ》ってしまい、兵士の口には届《とど》かない。しかしここに、ただ一つだけ腐らない菓子があった。これが佐賀県|小城《おぎ》に今も伝わる小城羊羹です。殺菌作用のある竹の皮に包んだ練りの固い羊羹は大陸派遣軍の中で大いに愛用され、ついには降伏した露西亜《ロシア》の将軍ステッセルに贈られるまでになりました。これ以後日本では、日持ちが良く味の落ちない手作り羊羹を外国人に送る慣例が出来上ったのです」
金蔵はそこまで言うと、少し皮肉っぽく頬をゆがめた。
「日本の官僚組織というのは実にしっかりと出来上っていましてね。こうした贈答用羊羹も今は完全に国家管理されている」
彼は壁際のライティング・デスクに歩み寄る。
「毎年春分の日を過ぎた頃、食糧庁|甘味料《かんみりよう》特別管理課から関西和菓子組合の秘密メンバー百人に|招へい状《インヴイテイシヨン》が出されます。選ばれた職人たちは皆|一子相伝《いつしそうでん》の羊羹製造技術を持つベテラン中のベテランばかり。それがここ富良野に集って、田道間守《たじまもり》(菓子作りの神様)の肖像の前で三、七、二十一日の間|精進潔斎《しようじんけつさい》し、小豆《あずき》の選別にかかります。使用される小豆は丹波《たんば》のある特定地域でのみ作られる『鳳瑞《ほうずい》六号』と、明治時代から十勝《とかち》の国立農事試験場で栽培されている『おしゃまんべ二号』。これを完全|滅菌《めつきん》した部屋に据え付けた直径三メートル程の大釜《おおがま》で茹《ゆ》でるのです。上皮を取り、また茹でて皮を取る気の遠くなるような作業が一週間以上続き、ここまでで全体の三分の一に当る職人が倒れます。さらに上澄《うわずみ》の湯を抜き、釜の下に沈澱《ちんでん》した小豆を漉《こ》して絞《しぼ》り、玉子でアク抜きした讃岐《さぬき》の三盆白《さんぼんじろ》を入れて昼夜兼行《ちゆうやけんこう》で練る作業が続くわけですが、この時の『練り』に関西菓子職の技が生かされるのです。しかし、ここでもまたあまりの重労働のために三分の一の職人が倒れると言われます」
「なんという過酷《かこく》な……」
思わずそうつぶやく声が聞こえた。
「左様《さよう》、まさに過酷の一語につきます」
金蔵は片手をライティング・デスクに置いた。
「残った三十人前後の職人は最後の力を振り絞り、広口《ひろくち》の羊羹舟《ようかんぶね》(内側に漆《うるし》を塗った木製の流し型)に練った小豆を流し込みます。舟は江戸時代末期に作られた通称『高瀬舟《たかせぶね》』と呼ばれるもので、この型一つから十二|棹《さお》の羊羹が取れるのです。切り分けられた約二トンの黒い宝石は、刻印を押され、福井|若狭《わかさ》の和紙でくるまれて食糧庁特別技官の検査を受けた後、地下の保温倉庫に運ばれて百個ずつ積み上げられます」
彼はテーブルの引き出しから長方形の紙包みを取り出して宙にかざした。
「これが、そのVIP用羊羹≠ナす」
大きい、と定吉は思った。遠くから見ているのではっきりとはわからないが、金蔵の背丈《せたけ》や手の大きさと比較して考えると、通常の市販品に比べ厚さも幅《はば》も二倍近くあるのではないか。
「『|丁稚《でつち》ようかん』のサイズやな」
江戸時代の羊羹舟型が、現在使われている型より大きいのだろう。
「重さ三十六・三六三六三五トロイオンス、普通の言い方になおすと約二ポンド半(一・一三五キロ)。職人の労力、原料の貴重さから算出して、価格は……」
全員の喉《のど》がゴクリと鳴った。金蔵は自分が発する言葉の重さを楽しむように、ゆっくりと口を開いた。
「同じ比重の金塊《きんかい》に等しい」
「そ、それを盗むのか?」
「盗んで、金に代えて……」
「NATTOの工作資金にするというのだな?」
人々は興奮した面持《おもも》ちでテーブルのまわりに集って来た。
「何てエゲツない奴や」
定吉は、口の中でつぶやいた。
その瞬間、膝《ひざ》にショックが走る。
彼の身体は、ものすごい力で模型の中から引きずり出され、下の床に叩きつけられた。
「わっ」
痛いやないか、と叫ぼうとする彼の口へ銀色の南部十四年式がねじこまれた。
「静かに」
ピカピカに磨《みが》き上げた乗馬ブーツが彼の薄い胸を踏みつけた。
「今、君に余計なマネをされると困るの」
例の「真王《まお》」と呼ばれる性別不明のパイロットだ。
「この部屋から出なさい。急いで」
定吉の口から拳銃の銃口を抜くと、ドアの方に歩け、と顎《あご》をしゃくった。
くそったれ。あと少しやったのにィ。
定吉は天井の窪《くぼ》みを見上げて残念そうに下唇を噛《か》んだ。
「地図には工場と出とるが、こらぁ飛行場やんけ」
茂《しげ》みから顔を出した弁吉は、白く塗《ぬ》られたフェンスの内側に双眼鏡を向けた。霧《きり》が少しずつ晴れるにつれて周囲の風景がジワジワと浮び上ってくる。
「格納庫に管制塔にX字滑走路にヘリポート。かなりの規模や」
「ずいぶんと銭持ってはる社長サンでんな」
隣に並んだ北海道支局員の幾松《いくまつ》三十一番が感心したような声をあげた。
「シッ、声がおおきい」
弁吉はフェンスの入口を眼で示す。そこには巨大なシェパードを連れた完全武装の警備員たちが丼《どんぶり》に入った味噌ウドンを啜《すす》っている。
「弁吉はん、アレを」
幾松が格納庫の人影を指差した。
「ほら、思った通り。ここに居《お》ったがな」
弁吉の双眼鏡の中に二人の人物が映っている。一人は行方不明になった定吉だ。
「案《あん》の定《じよう》、捕《つかま》っとったな」
「定吉はんの連れてはる人、なんや宝塚《たからづか》の男役みたいなヒトでんな」
「ふーむ。どっかで見たような」
「どないします。すぐに大阪から応援呼びまひょか?」
いや、待て、と弁吉は首を振った。
「シャチキンが何をたくらんどるのか、まだハッキリせん段階で踏みこむのはマズイ」
「そうでんな」
ウドンを食べ終えた警備員が犬のヒモを引っぱってゆっくりとこちらにやって来る。
「ここは一旦《いつたん》引きあげや」
二人は茂みをかき分け、シラカバ林の中に急いで身を隠《かく》した。
「盗むのではない?」
「あなた方は、私の立てた作戦がまだ理解できていないようだ。よろしい、もう一度わかりやすく説明しましょう」
金蔵は紙質の悪そうな平綴《ひらと》じのパンフレットを開いた。
「これは映画のシナリオです。内容は、一文字ゴム長という戦国武将がアンギラスの生き造りを食べて時間を飛び越え、現代に現われて同じように時間を越えて来た旧日本軍の戦闘機と巨大化して戦うというSFです。我が社は、この映画を角山《かどやま》プロと折半で作り、すでにスタジオ撮《ど》りは大部分終え、後はモブ・シーン(群集シーン)を残すのみになっています。ロケ先は上平別《かみひらべつ》。撮影許可は取りつけてあり、エキストラもスタンバイしています。もちろん、全員我が社の新入社員ですがね」
シナリオをクルクルと丸めると、彼はジオラマの中央、すなわち富良野《ふらの》の盆地を差し示した。
「山あいへ、トラックに乗せた人数を伏《ふ》せておき、飛行許可を取った戦闘機で神経ガスを盆地にバラ撒《ま》きます。四ヵ所の自衛隊キャンプはこれで沈黙する」
「味方は大丈夫なのか?」
「ガスはアメリカのさる友人から手に入れた新型で、散布後五分から十分で無力化します。その後、倉庫を占領し、小型原爆を仕掛けて引きあげるわけです」
「北海道の中央部が放射能汚染される!」
NATTOの一人が叫び声をあげた。
「左様《さよう》、倉庫内の十勝《とかち》産|小豆《あずき》『おしゃまんべ二号』は蒸発し、周辺の小豆畑は一立方メートルあたり二万四千ベクレル=二十七・三六ミリレムの放射線量を一時に浴びることになる。しかし、これは人体へすぐに影響する数字ではないのです。現代の放射線科学によれば、日本人の平均年間|被曝量《ひばくりよう》は約百ミリレム。内訳は、地底のマグマから発せられるものが五十パーセント、宇宙線が三十パーセント、食品含有が二十パーセント」
金蔵は平然と話し続けた。
「しかし日本は低い方です。アメリカのデンバーは五百ミリレム、インド・ケララ州は千五百ミリレム、ブラジルやウクライナでは七千から一万ミリレムという数字も出ています。問題は小豆が放射性物質を蓄積させる力を持っているということなのですよ。根菜類《こんさいるい》や豆類は放射線の中でも一番やっかいな存在であるヨウ素131とセシウム137を汚染された土の中から吸い上げて『生体濃縮《せいたいのうしゆく》』するのです。これをマスコミが一斉に報道したら、どうなると思います?」
「誰も小豆《あずき》を食べなくなる!」
「そうです。小豆は菓子の王者としての座を退かざるを得なくなる。同時に小豆の加工技術によって君臨していた関西の和菓子文化も崩壊するのです!」
嗚呼《ああ》、何という恐ろしい考えなのでしょう。悪漢はついにその正体を現わしたのです……と、故|江戸川乱歩《えどがわらんぽ》氏なら書くところであろう。彼は、関西の良質な小豆畑を潰《つぶ》し、今また北海道の優秀な小豆とその文化を毒牙《どくが》にかけようとしているのだ。
「そ、そ、そ」
「『それはあまりにも無謀な計画だ』と支部長は申されている」
支部長の頭をソファーに押しつけて数人の男たちが立ち上った。
「なぜかね?」
「富良野をチェルノヴイリにすれば、風下《かざしも》に立つ東北・関東地方は第二のキエフだ。十勝の小豆と引き換えに東日本の農作物が全てオシャカになってしまう!」
「納豆《なつとう》の原料である大豆《だいず》も損害を受ける。自分で自分の首を締《しめ》るようなものだ」
「被害額の推定は……」
金蔵は落ちつき払った態度でメモを読み上げた。
「東日本の農耕地と牧場に取り敢えず十年間の被曝使用制限を課すとして、ざっと百兆円程度……」
「ひ、ひゃくちょーえん!」
NATTO北部地区総支部長は口から泡《あわ》を吹いて失神した。
「もちろんこれは物的損害のみを単純に計算した数字ですが」
壁に丸っこい背中を押しつけて金蔵は天井のライトをノンビリと見上げた。
部屋の中を沈黙が支配する。
こいつはとんでもない食わせものだ。我々はメフィストフェレスと契約を結んだファウストだったのだ。人々の心を恐怖の黒雲が覆《おお》いつくした。
「この作戦をただちに中止しろ」
誰かが叫んだ。
「無理ですな。皆さんには悪いが、すでに作戦第三段階の突入命令を出してしまった」
金蔵は天井から垂れ下ったライトのワイヤースイッチを軽く引いた。
「言っておくが、私はNATTOの結社員ではない。対等の立ち場で契約しているのですよ。あなたたちの一方的な命令は受けられないですな」
「こいつにモノを言わせてでもやめさせてやる」
一人の男が自動拳銃を引き抜いた。
「射ちなさい。私は自分の心の命ずるままにのみ動く」
耳をつん裂《ざ》く轟音《ごうおん》が部屋中に鳴り響いた。
「ははは、無駄なことだ」
弾丸《たま》が発射されるたびに彼の身体へ蜘蛛《くも》の巣《す》状の白い条《すじ》が描き出される。
いつの間にセットされたのだろうか。彼の前面には特殊なラミネーテッド・グラスが立てられていた。
「これで交渉は中止です。ではみなさんさようなら」
金蔵は軽く手を振ると壁の秘密ドアからサッサと出て行った。
と同時に室内のライトがフッと消える。
「しまった。ワナだ!」
「床が動いている」
逆さ釣り天井がゆっくりと動き始めた。
17 ジャンピング・ポイント
「離しとくなはれ。手が痛い」
きき腕《うで》を逆手《さかて》にネジ上げられた定吉は、情けない声を上げた。
「さっさと歩かないからよ」
真王《まお》はぶっきらぼうにそう言うと、彼の手首をもう一度内側に軽く曲げる。
「ひゃー、い、いたた」
このガキ、合気道《あいきどう》を心得とるな。定吉は地団太《じだんだ》を踏んだ。
「歩きまス。あるきまんがな。乱暴なヒトやなあ」
引きずられるようにして納屋《なや》の外へ連れ出された定吉は、ふてくされた態度で滑走路を歩き始めた。
「どうしたね?」
隣の建物から声がかかる。
入口の階段にいつの間にか金蔵が立っていた。
「この大ボケが」
真王は、やっと定吉の手を離した。
「逃げ出そうとしていたんです」
「ふん、なるほどな」
金蔵は定吉のワラにまみれた頭や牛フンだらけの足袋《たび》を見まわし、鼻で笑った。
「で? どこに居たね」
そら、来た。定吉は身構える。ジオラマの下に隠れていたことを聞けば、奴はいったいどんな顔をするだろう? 彼は上目遣《うわめづか》いに金蔵の顔色を窺《うかが》った。
「厩舎《きゆうしや》の前で暴れていました」
真王の言葉は意外だった。
「私が駆けつけた時、警備は全て倒されていました」
「ほう」
金蔵は感嘆の声をあげた。予想に反したそのセリフに定吉も腹の中で驚く。
「この男は危険です。あのような未熟な連中に見張らせておくべきではありません」
真王は銃の照星《しようせい》で定吉の襟首《えりくび》を突っついた。
「定吉君、君は狸《たぬき》の皮を被《かぶ》った狼《おおかみ》のようだねえ」
金蔵は鼻の下を掻きながら楽しそうに言う。
「わてかて船場の秘密情報|丁稚《でつち》でんがな」
定吉は薄い胸を思いっきり張った。
「それは失礼した。これからはもっと気をつけることにしよう。ところで、真王君」
「はい」
肥満体の身体がクルリとオトコ女の方に向きなおる。
「作戦の発動が早まった。第四段階の開始時間《ジヤンピング・ポイント》は〇六〇〇(午前六時)だ。本部要員をただちに招集し、戦闘員には取っておきの外郎を配るように」
「はっ!」
「私は、アレを始末せねばならん」
金蔵は背後の建物の中から次々に運び出されるキャンバスの包みを指差す。
真王の口元が微《かす》かに強張《こわば》った。しかし、すぐに元の、男を小馬鹿にしたような表情に戻る。
「この大ボケ野郎はどうします」
「彼にはまだやってもらわねばならないことがある。そのためにここへ連れて来たんだからね」
では後ほど、と手を振った金蔵は足早にその場を立ち去った。
「さあ、もっと頑丈《がんじよう》な部屋に案内するわ」
「おおきに」
二人は再び歩き始めた。
「感謝なさい。私の言葉一つで……」
真王は小型トラックの荷台へ積み上げられた布包みに顎《あご》をしゃくった。
「君がああなっていたかも知れないのよ」
「あれ何ですかあ?」
「社長の性格を最後まで読みきれなかった惨《みじ》めな投資家たち」
定吉は口を大きく開《あ》けたまま、その場に凍りついた。汚《よご》れたキャンバス地の端からポタポタと垂れている黒い液体に気付いたのである。
「仲間までイテまうとは、どういう料簡《りようけん》してまんのやろ?」
「奴らは今度の計画にうまく利用されただけ」
「社長サンはNATTOやなかったんでっか」
釣り天井に押し潰《つぶ》された哀《あわ》れな秘密結社員を積み終えたトラックはフェンスの外に出て行く。
「死骸《しがい》はどこへ捨てまんね?」
「君、三徳屋の『自動車|最中《もなか》』って知ってる?」
「知ってま。トヨタ自動車に因《ちな》んで作られた豊田市の名物菓子や」
「社長は、『自動車最中』を真似《まね》た『北海トラック最中』という菓子を近所で作っているの」
真王はうんざりした表情でタメ息をつく。その声は驚くほどハスキーで艶《つや》っぽかった。
「その工場へ持って行って、小豆《あずき》を煮《に》る時の焚《た》き付けにするのよ。いつもの手だわ」
「ひゃー、それやったら骨も残りまヘンわ」
「灰は最中の皮で固めて海へポイよ」
管制塔の下から金髪の相撲取りが姿を現わす。
そいつがゆっくりと近付いてくるのを横目で睨《にら》みながら定吉は真王に尋ねた。
「あんさん、一体何モンや? なんでわてを助けてくれはりました?」
真王は、その質問を無視して乙戸岩《おつといわ》を手招きする。
「オットー、この男を預けるわ。明朝七時まで君が責任を持って監視するのよ」
「ヤボール!」
乙戸岩は直立不動の姿勢で下駄《げた》の踵《かかと》を打ち合わせた。
十勝《とかち》平野に朝が来る。空は完璧に曇《くも》っていた。コーン・スープのような層雲が低く垂れこめ、管制塔の脇に立てられた吹き流しもダラリと垂れ下っている。
近くの森にはまだ濃《こ》い霧《きり》が残っていた。しかし、フェンス内側の視界は良好だ。滑走路のまわりは、未明からすでに大勢の人々がいそがしそうに行き交い、ジープや燃料車を盛んに移動させている。
皆、これから始まる世紀の大ロケーションに備えて体内のアドレナリンをたぎらせているのだ。
〇六三〇時、格納庫の重い扉が静々と開き、胴の太い小豆色のプロペラ機が五機、滑走路に引き出された。
「操縦士、エプロンに出頭せよ」
管制塔のマイクが怒鳴《どな》る。
耳ざわりな声に応じて数人の人影が滑走路に走り出た。全員古臭い飛行服姿に身を固めている。
「まるで真珠湾攻撃《しんじゆわんこうげき》みたいな騒ぎでんな」
管制塔の窓から外を見降した定吉は口笛を吹いた。ウサギ革の襟《えり》が付いた荒いサージのつなぎ服に、ココナッツの皮を縫《ぬ》い込んだ防水|胴衣《どうい》、もみ革の飛行帽に四枚グラスのゴーグル。御丁寧《ごていねい》にも白いスカーフを靡《なび》かせている。
「君もよく知っている人たちだ」
脇に立った金蔵が笑った。
「ほら、『ゲートボール五人衆』だ。彼らは全員海軍の名パイロットでね。もっとも、日華事変の頃《ころ》の話だが」
飛行士たちはヨタヨタと愛機の前に走り寄り、ダラリと整列した。
「この部隊の指揮官は真王君だ。年は若いが彼女もベテランパイロットだよ。アラスカでは、レスキュー部隊として働いていたのだそうだ」
稲光《いなびかり》のマークを大きく側面に描いた雷電《らいでん》の前でコースを説明しているのは、まぎれもなくあのオトコ女だった。
定吉は身を乗り出した。彼女だけはピッタリと張り付くような水色のオーバーオールを身につけている。遠望すると、それはまるで宝塚のレビュー衣装《いしよう》のようにも見えた。星の形をした鈴《すず》の楽器でも持てば似合いそうやな。ヅカファンの彼は意味無く胸を踊らせた。
「さて、出発の時刻だ」
金蔵は壁の大時計を仰ぐ。雷電のプロペラが一斉に回り始めた。
飛行服姿の与平、与作、与五郎、与三郎は隊長である真王に海軍式敬礼をすると、「必殺」と書かれた日の丸のハチマキを飛行帽の上からグイと締めた。
「全機発進用意」
マイクに向って金蔵が叫んだ。
老人たちはアル中の少年ジェットみたいに白いマフラーをなびかせてノロノロとコックピットに走り寄る。
「あれが出発したら、十五分後に我々も出かけるんだ。君の衣装も用意してある」
「えっ? わても連れて行ってくれるんだっか?」
定吉は驚いた。
「タワー、タワー。ディスイズ、コマンド・リーダー、レディ・フォー・テイクオフ(離陸準備完了)」
ラジオから真王《まお》の声が聞こえて来る。
「ラジャー、クリアード・フォー・テイクオフ、ウィンド・ツー・フォー・ファイブ、テンノット(離陸許可。風は二百四十五度方向から十ノットだ)」
足軽姿《あしがるすがた》の管制官がマイクに向って怒鳴《どな》った。
「行くぞ」
五機の雷電は幅四十メートルの白い滑走路に次々と乗り入れる。
「飛べ、とぶんだ!」
金蔵が叫ぶ。
巨大なメバチマグロはランウェイをヨタヨタと走り始めた。先頭機の主輪《メイン・ギア》が持ち上り、尾翼《びよく》がそれに続く。
「全機無事離陸したな」
金蔵は五機の戦闘機が全て離陸し終えるのを見てホッと息を吐《つ》いた。もし一機でも事故を起したら、その機に搭載《とうさい》している例のモノがあたり一帯にバラ撒かれてしまう。
「よし我々も出発するぞ」
乙戸岩が無言で定吉の襟首《えりくび》をつまみ上げた。
陸上自衛隊北部方面隊|富良野分遣隊《ふらのぶんけんたい》の上平別《かみひらべつ》キャンプでは朝食前の体操が始まっていた。
列を作った男たちが一糸乱れぬ動作で手足を上げ下げし、食堂では炊飯《すいはん》の煙が幾筋も立ち昇り、夜間の警備を終えたハーフトラックが数輛、営門の入口でエンジンを空吹《からぶか》しする。
ミルク・シチューと汗とブーツ・オイルの匂い。キャタピラ音と金属食器の触れ合う音が宿舎全体を支配していた。
編隊は、いったんキャンプ上空を飛び越え、その外側でゆっくりと旋回《せんかい》する。
「こちら隊長機」
真王はコックピットの外に眼をやった。自衛隊員たちは、体操の手を止めてこちらを見上げていた。中には手を振っている姿も見える。映画の撮影で飛行機が飛ぶという話を皆知っている気配だった。
「トラ、トラ、トラだあ」
無線機から与作のはしゃいだ声が返って来た。
「二番機、三番機、四番機は各自担当のキャンプ上空に高度六十フィートで侵入し、予定の行動を開始せよ」
真王は機体の主翼《しゆよく》を左右に揺《ゆす》った。六十フィートと言えば約二十メートルである。高圧線でもあれば完全に引っかかる高さだ。
小豆《あずき》色の戦闘機群は、三機が扇状《せんじよう》に分離した。
「タワー、タワー、こちらコマンド・リーダー。これより我も攻撃に移る」
真王は操縦|桿《かん》を下げ、方向舵《ほうこうだ》ペダルをぐっと踏みこむ。
「五番機我に続け!」
フラップ・フルダウン、彼女は操縦桿の機銃ボタンを親指で弾《はじ》いた。
弾《たま》は出なかった。その代り両翼で圧縮空気の放出される音が響く。
さらに高度を十フィートほど下げる。
VSO(失速速度)ギリギリまでスピードを落した真王は再び地上を覗《のぞ》いた。自衛隊員たちがバタバタと倒れている。銃を抱《かか》えたままの衛兵が、白いエプロンの食事係が、ハーフトラックの運転兵が、身をのけぞらせて地面に転《ころが》っていく。その姿はまるでギネス・コンテストのドミノ倒しだった。
「タワーへ、こちらコマンド・リーダー。奇襲は完全に成功した。これより帰投する」
真王は飛行帽のスイッチを切ると、スロットルを開き、機体を一万メートルまで急速上昇させた。
「各自防毒面を装着しろ!」
トラックに分乗した足軽《あしがる》たちは大あわてで腰から黒い面を取り出した。
「君も着けたまえ」
金色の当世具足《とうせいぐそく》に金の陣羽織《じんばおり》を着込《きこ》んだ金蔵がガスマスクをポンと放った。
なんや、えらそうにして。
定吉は受け取ったイスラエル製のGタイプマスクを頭に乗せる。隣に坐った乙戸岩が手際良く装着を手伝った。
「あ、おおきに」
タコ入道《にゆうどう》の面みたいやな。
ガスマスクを被《かぶ》った己《おの》が姿をジープのミラーに映した定吉は、「蛸《たこ》タコ踊《おど》り(四天王寺《してんのうじ》の大道芸)」を舞い始めた。
「おい、おい。こんなところで暴れるんじゃない」
金蔵があわてて彼を助手席に引き戻した。
「君の出番はもっと後だ」
「すんまへん」
先頭のトラックでホイッスルが鳴った。全車出発準備良し、の合図《あいず》だ。
「よし、出せ」
旗差物《はたさしもの》をなびかせたトラック隊《コンボイ》は国道をゆっくりと進み始めた。
「…………」
金蔵が何か話しかけた。
「へッ、何でっかあ?」
定吉は耳をかたむける。ガスマスク越しなので言葉が良く聞きとれないのだ。
「君に……その格好《かつこう》は実に良く似合っている」
「お褒《ほ》めいただきまして」
何勝手なこと言うとンねん。人をオモチャにしてからに。定吉は自分の姿をあらためて見なおした。赤い襦袢《じゆばん》に黒|袖口《そでぐち》の水色|袷《あわせ》小袖、その上から朱《しゆ》の袖なし羽織《はおり》を着て、頭を水口の布で覆《おお》うという派手《はで》なスタイル。歌舞伎《かぶき》十八番「外郎《ういろう》売」の衣装を着させられているのである。
「わては着せ替え人形やないで」
彼は情けなくなった。
狩勝峠《かりかちとうげ》を下ったコンボイは、南富良野《みなみふらの》の先で国道三八号線を外《はず》れ、大雪山《だいせつざん》国立公園へ向う山道に潜《もぐ》り込んだ。
「寒《さ》むなってきたな」
前方の空にかかった雲がいつの間にか吹き払われ、晴れ間から純白の峰がのぞいている。標高千九百十二メートルの富良野岳《ふらのだけ》だ。上富良野の秘密羊羹貯蔵庫はその山裾《やますそ》が富良野盆地と接するあたりに存在する。
「全隊止まれ」
十勝を出発して約一時間半。トラックの隊列は大雪山国立公園の西の端で停車した。
「スカウトを出せ」
金蔵がジープの上に立って大きく采配《さいはい》を振る。後方のトラックから数台のモトクロス・バイクが降ろされた。
「盆地の様子を探って来い。|ガス検知機《ケミカル・デテクター》を忘れるな」
畏《かしこ》まって候《そうろう》、と一礼した頭形兜《ずなりかぶと》の黒|武者《むしや》が数人、エンジン音も高らかに斜面を駆け下る。
「黒沢映画に出てくる野伏《のぶせ》りみたいや」
「大げさな格好《かつこう》をしているのが不思議かね?」
自分の鎧《よろい》を指で弾《はじ》いて金蔵は笑った。
「日本の甲冑《かつちゆう》は、ボディアーマーとして最も完成された形をしている。これは一見|古臭《ふるくさ》い姿をしているがなかなか優《すぐ》れモノなのだよ。前面と膝《ひざ》はプレート状ケプラー(樹脂《じゆし》で固めた防弾繊維《ぼうだんせんい》)、鎧下《よろいした》は化学防護服《プロテクテイブ・クロージング》になっている」
「はあ?」
定吉にはそれが一体どのような役割を果たすのか想像もできなかった。もし、知っていたら彼はパニックを起していただろう。この集団の中で神経ガス防護スーツを着ていないのは彼一人なのだ。
「アメリカ製の特注品だよ」
「それ、一着なんぼでんねン?」
すぐに価格のことばかり口にする。悲しい|丁稚《でつち》の性《さが》である。
「斥候《スカウト》から報告です!」
無線担当の足軽《あしがる》がメモを持ってやって来た。
文面を一瞥《いちべつ》した金蔵の目は妖《あや》しく輝《かがや》き始める。
「富良野方面に動くものなし≠ゥ。よろしい、万事うまく行っているな」
彼は再びジープのステップによじ昇った。
「諸君、我々の前面を遮《さえぎ》るものは無くなった。一気に盆地へ突入するぞ」
前進のホイッスルが鳴り渡る。コンボイは土煙《つちけむり》をあげて坂道を下り始めた。
18 原爆とヨウカン
路上には猫《ねこ》の子一匹歩いていない。恐《おそ》るべき静寂《せいじやく》があたりを支配していた。
コンボイはスピードを落し、ゆっくりと富良野《ふらの》線の踏切《ふみき》りを越える。足軽《あしがる》姿の男たちはトラックの幌《ほろ》からサブ・マシンガンの銃口を突き出して辺《あた》りを窺《うかが》った。
彼らが最初に見たもの。それは町外《はず》れのコンビニエンス・ストアーに突っこんでいる養豚場のトラックだった。首に派手《はで》な色のタオルを巻いた運転手が座席から転げ落ちて即席ラーメンの山に埋《うま》っている。豚《ぶた》が数頭、精肉売り場の前で泡《あわ》を吹き、太った中年の女が自転車に乗ったまま隣に寝転んでいた。
道の真ン中にもいろいろなものが散乱している。
丼《どんぶり》に入ったままのイクラご飯、北海道牛乳の一リットルパック、ザルに入ったホタテ貝、みがき鰊《にしん》、毛ガニ、熊笹《くまざさ》に刺《さ》した生《なま》ザケを背負って倒れている大きなヒグマ。雪印アイスクリームを抱えた女子高生……。
コンボイはそれらの障害物を避《さ》けるようにして国道三八号の三叉路に到着した。
黒糸威《くろいとおどし》の甲冑《かつちゆう》を着けた武者たちがオートバイに打ち跨《また》がって走り込んでくる。
「検知機《デテクター》の数値はゼロです。付近に残留ガスは認められません」
すでに斥候《スカウト》たちはガスマスクを外《はず》し、代りに漆黒《しつこく》の面頬《めんぽお》(顔を防禦《ぼうぎよ》する鉄の面)を付けていた。
「よし、全員マスクを捨てろ」
金蔵の命令一下、皆その不格好《ぶかつこう》なゴムの面を外した。
「あんたら、大変なことを……」
ガスマスクを取った定吉の顔は蒼白《そうはく》だった。彼は今頃になって、やっと「神経ガス」の恐ろしさを知ったのである。
「こら大虐殺《だいぎやくさつ》や」
「予定通りに進んでいる」
興奮で頬を桜色に染めた殺人鬼は、彼の言葉を無視して懐《ふところ》から時計を取り出した。
「上平別《かみひらべつ》へ前進!」
トラックの隊列は、男爵《だんしやく》イモの山に乗り上げたトラクターの脇をすり抜け、右折する。定吉はそれ以上外を見続ける力を失い、ジープのボンネットに顎《あご》を乗せてじっと眼を閉じた。
が、彼はもっと路上に眼を向けておくべきだった。その交差点のまわりをもっと注意深く観察していれば、驚くべきある事実に気付いたはずなのだ。
道ばたや畑の畝《うね》に倒れている人々の多くが、彼とまったく同じ刈《か》り上げ頭になっていることを。そして、トラクターから身を乗り出し、うつぶせになった中年男の手が鼻の脇をポリポリと掻《か》いていることを……。
十分後、コンボイは自衛隊|富良野分遣隊《ふらのぶんけんたい》第二キャンプの正門アーチを潜《くぐ》り、巨大なフェンスの前で一列に停車した。
「さあ、お前ら。観光旅行はお終いだ」
足軽隊長たちが、シボレーC60L型トラックのぶ厚い荷台を刀の柄《え》で叩《たた》いてまわる。
「降りて整列!」
足軽たちはトラックから次々に飛び降り、「小さく前ならえ」をした。
「オットー、双眼鏡だ」
乙戸岩《おつといわ》は、特大の南蛮胴具足《なんばんどうぐそく》の懐《ふところ》からツアイス・ミリタリーを取り出して御主人様に差し出した。
「うまいぞ。犬も全部死んでいる」
フェンスの内側で五、六頭のシェパードが泡《あわ》を吹いていた。
「よし、爆破作業班を出せ」
槍《やり》の束を抱えた数人の足軽がフェンスに近付き、付近に散乱する自衛隊員の死体を取り除いた。
乙戸岩が定吉を車の陰に引きずり込む。
「あの槍は新型の破壊筒《はかいとう》(障害物破壊用の棒状爆薬)なんだ」
金蔵は自慢《じまん》そうに指差した。
「あれもアメリカへ特注したんでっか?」
「そうさ。デュポン社の新製品だ」
定吉は彼の耳もとでささやいた。
「正直なとこ、あの槍《やり》、一本なんぼでんね?」
ドカン、という爆発音が轟《とどろ》き、フェンスの中央に大きな穴が開いた。
「トラックを入れろ」
こうして第二、第三のフェンスも手際良く破壊されて行った。
「前進だ」
人々は、丘の中腹にあるコンクリート製の倉庫に殺到する。
「待ちたまえ、諸君!」
真っ先に駆けて建物の前にたどり着いた金蔵は、陣羽織《じんばおり》の裾《すそ》を翻《ひるがえ》して仁王《におう》立ちになった。
まるで出来そこないの桃太郎人形や。定吉は金尽《きんづく》しの鎧《よろい》に身を固めた成金《なりきん》男を冷やかな眼で見上げた。
「もう一度確認のために言っておく。私はここの宝物を奪い去るために来たわけではない。金庫内の羊羹《ようかん》を一本でも懐《ふところ》に入れる輩《やから》があればその時は」
彼は腰に差した黄金《こがね》作りの刀をスラリと抜いた。
「容赦《ようしや》なく斬《き》り捨てる! 左様《さよう》心得てもらいたい」
天空にギラリと光る氷の刃《やいば》、それは紛《まぎ》れもなく、あの名刀「小豆《あずき》釜《がま》」だ。
「オットー、出番だ」
金蔵は入口のシャッターを足で蹴った。
相撲取りは金髪の頭にネジリハチマキをすると、両手にツバを付け、シャッターの端に手をかける。
メキメキメキッと音を立てて鋼鉄のシールドは上に持ち上った。
「うひゃー、えらい力や」
定吉は自分の立場も忘れ、思わず手を叩いた。
と、その時、空の彼方から轟音が聞えて来た。
「時間通りだな」
金蔵は南の空を見上げた。
狩勝峠《かりかちとうげ》の方向に小さな黒い点が現われる。
「着陸場所を作れ」
入口近くの空地《あきち》に白い旗が並べられ、発煙筒のピンが抜《ぬ》かれた。
「大きなヘリやなあ」
鼓膜《こまく》を突ん裂くタービン音に、定吉は両耳を押さえた。人々の頭上に現われたのは巨大なカマキリだ。
洋服ハンガーのように細い胴、機首に垂れ下った丸いコックピット、側面に突き出た油圧式の昇降装置。アメリカ製の大型クレーン・ヘリCH54Aである。
「おや?」
胴体に妙な物が吊り下げられていた。黄金色のボディ、太いタイヤ、黒いウィンドウ・グラス……。
「また、けったいなもンぶら下げて」
「あれが作戦の、本当の主役さ」
金蔵はコックピットに向って采配《さいはい》を振《ふる》った。
クレーン・ヘリは、つむじ風を巻き上げてゆっくりと着地する。
「キャデラックをエレベーターに乗せろ」
ワイヤー・フックを外《はず》した金の装甲車に大勢の足軽が取りつき、掛け声を合わせて押し始めた。
あんなもんどうするつもりやろ?
壊れたシャッターの中に入って行くキャデラックを見て定吉は首をひねる。
ポン、と彼の肩が叩かれた。
「あっ、あんさん」
ヘリパイロットのヘルメットを被《かぶ》った真王《まお》がニヤニヤ笑いながら立っている。
「なあに、その格好《かつこう》? 太秦《うずまさ》(京都の映画村)でバイトでもするつもり?」
「御希望とあらば『鞍馬天狗《くらまてんぐ》』のマネかてしてみまっせ」
「君は、どっちかと言えば大村崑《おおむらこん》の『トンマ天狗』ね」
「あんさんも意外に古いな」
「話の腰を折るようで恐縮だが……」
甲冑《かつちゆう》の草摺《くさずり》をチャラチャラと鳴らして金蔵と乙戸岩《おつといわ》が近付いて来た。
「|丁稚《でつち》ドンを下に連れて行きたいんだ」
乙戸岩がワルサー戦時モデルの安全装置を不器用そうに外して構える。
「ほなら失礼しますう」
定吉は真王にペコリと頭を下げ、建物の中に足を踏み入れた。
「うーん、たいした作りや」
あたりを見まわして彼は唸《うな》った。内部は大阪造幣局の地下金庫も顔負けのハイテック・インテリアである。
「外観の見すぼらしさからは想像もつかなかったろう」
地下に降りる吹きっ晒《さら》しの大型エレベーターから身を乗り出して金蔵は説明した。
「外郭《がいかく》は四十五メートル×三十六・三メートル、高さは地上から二十二メートル。内部は特殊強化鋼入りのコンクリートとハニカム構造体のサンドイッチで固められている。ステンレスの棚《たな》は空気の流通を良くするために大きく作られ、二階から上は小豆《あずき》俵《だわら》の集積庫。金庫の内壁は」
エレベーターを降りた二人は直径四メートルもあろうかという厚い扉《とびら》の中に入った。
「厚さだけで二十メートル。もちろん鋼板入りだ。マグニチュード八以上の地震にも堪《た》えられる」
なんや、けったいな奴ちゃな。定吉は苦笑した。これではまるで、ドロボウが忍《しの》び込んだ先の家を誉《ほ》めてまわるようなものではないか。
「君はその椅子に坐るんだ」
金庫の中にはキャデラック・フリートウッドがデンと鎮座《ちんざ》し、周りに自動操作のテレビ撮影機やライトが並べられている。
「ここへ……でっか?」
勧《すす》められるまま定吉は、中央のディレクター・チェアへおずおずと腰を降ろした。
「記念にビデオでも撮りまンのか?」
乙戸岩が彼のきき腕に手錠をかけ、その一方をキャデラックの鯱鉾飾《しやちほこかざ》りに結びつけた。
「すんまへんけど、少しライトをあっちゃの方に向けてくれまへんやろか」
白熱灯がまぶしすぎて眼を開けていられない。
「最後の説明をしておこう」
定吉の願いを無視して金蔵は勝手に話し出した。
「周囲の棚《たな》には、一段につき百本の小豆《あずき》羊羹《ようかん》が大黒積《だいこくづ》みになっている」
棚は全部で二十段、つまりこの部屋には二千本近い小豆のインゴットが積み上げられている計算だ。
「見たまえ」
ステンレスの棚に手を伸《のば》した金蔵は、その内の一本を掴《つか》み出し、バリバリと包みを剥《は》ぎ取った。
「この色、艶《つや》、匂《にお》い。日本人が産み育てた小豆加工技術の究極の姿と言っても過言ではない。しかし」
彼はフン、と鼻を鳴らし、定吉の足元にそれを転がす。
「反面これは時の政治権力に密着して生き延びて来た味の権力≠ナもある」
彼の薄《うす》い眉《まゆ》は小刻みに震《ふる》え始めた。
「小豆という食物を私は憎《にく》む。そして小豆の背後にある京都菓子|司《つかさ》の権力をも憎む」
なんや、こいつ。何、寝《ね》とぼけたことぬかしとんねん。定吉は彼の言いたいことがまだよく読みとれない。
「私は小豆を日本の菓子社会から放逐《ほうちく》する計画を立てた。これはなかなか難問だったよ。三年かかった。そして……これが解答というわけだ」
彼は得意そうにキャデラックを撫《な》でまわす。
「ボンネットの中に小さな原爆が詰《つま》っている」
「な、なんやてェ?」
「おたおたするな。君らしくもない」
定吉はディレクター・チェアごと後ろに引っくり返りそうになる。もう少しで失禁《しつきん》するところだった。
「こ、これピカドンでっか?」
「パキスタンで六〇年代の終り頃試作されたハイデラバット≠セ。爆発力はからっきし、そのくせ放射能汚染だけは一人前という情けないシロモノさ。アメリカのある個人博物館が隠《かく》し持っていたものを譲《ゆず》り受けたんだ」
「持ち主を殺して盗《と》った、と言いなおしなはれ」
「ほう、そこまで知っているのか」
ボンネットの向うで金蔵の眼が青白く輝いた。
「すでに時限装置は作動させている。我々は引き上げるが、君はこいつが爆発するまでここに居るんだ」
彼は撮影機を指差す。
「私は安全圏まで避難し、このカメラで君の最後を見とどける。大阪人が死ぬ寸前、どんな芸を出してくるか、これは見ものだね」
古代ローマの皇帝ネロは、キリスト教徒の芸人をライオンの檻《おり》に追い込み、最後の芸を楽しんだという。つまり、それと同じことをこの男はたくらんでいるのだ。
「汚染が収った後、我々は再びこの地に戻ってくる。十年先か、百年先か、それはわからないが」
金蔵の頬《ほお》は紅潮《こうちよう》していた。
「その頃には我々は外郎《ういろう》で巨万の富を築き上げていることだろう。なにしろ外郎は小豆を使わなくても作れるのだからな!」
狂《くる》っている! 定吉はゲラゲラと笑う彼の顔をまじまじと見つめた。
「我々はこの土地に千年帝国《ミレニアム》を作る。ウイロー・ザ・ワールドだ。西から東から虐《しいた》げられた名古屋人はこの北方の地で理想郷を作るのだ。ワハハハ」
「くそっ!」
「オットー、君は爆発まで定吉君を監視するのだ。今から先、誰が命じても決して時限装置を切らせてはならぬ。これは最後の命令だ」
「ヤボール!」
乙戸岩《おつといわ》は直立不動の姿勢を取った。
その時である。扉の外で立て続けに銃声《じゆうせい》が轟《とどろ》いた。数人の足軽《あしがる》が血を吹いて転る。
「なにごとだ?」
金蔵は声を荒げた。ほぼ同時に、二人の黒武者《くろむしや》が短機関銃を抱えて飛びこんで来る。
間髪《かんはつ》を入れず乙戸岩が二人を射ち倒した。
「裏切りか?」
金蔵はまだ息のある武者の脇に走り寄り、面頬《めんぽお》をむしり取った。
「こいつらは、部下じゃない!」
出口のあたりで大きな爆発音が続けて二回。部屋の内部が小さく震《ふる》えた。
金庫の扉がゆっくりと閉じ始める。
「いかん。閉じこめられるぞ」
金蔵は扉に取りついた。
「オットー、扉を押さえろ!」
乙戸岩は定吉の隣に立ち尽《つく》したまま動こうともしない。
ズシンという低い音とともに金庫の扉は完全に閉じた。
「まずい」
金蔵の顔から血《ち》の気《け》が失せる。彼は大あわてでキャデラックのボンネットに飛びついた。
「このバカ|丁稚《でつち》と心中《しんじゆう》だ。早く時限装置を止めなくては」
車のインスツルメント・パネルに触《ふ》れようとする金蔵の手を乙戸岩がグイと捩《ねじ》りあげた。
「な、なにをする」
「最後の命令です。御主人様《ヘル・マスター》」
彼は先程の命令を忠実に守ろうとしているのだ。
恐怖にかられた金蔵は、腰の打刀《うちがたな》を抜こうとする。
ミシッという音がして彼の右腕が折れた。
「うぎゃあ!」
定吉はその隙《すき》に倒れている足軽の身体を探り、手錠のカギを拾い上げた。
「オットー、お前は……」
乙戸岩《おつといわ》は悲鳴をあげ続ける金蔵の首に手をまわし、名古屋コーチンでもひねるようにキュッと折り曲げた。
金色の甲冑《かつちゆう》に包まれた金蔵の身体は二、三度ピクピクと痙攣《けいれん》し、糸の切れた人形のようにガシャンと床へ転る。
その光景を横眼で見つつ定吉はカギを外《はず》そうともがいた。
乙戸岩がクルリとこちらを振り向く。
いかん!
パワーショベルのような手が彼の肩を掴《つか》もうと迫る。
危機一髪《ききいつぱつ》。カギが外れ、定吉はヒラリ、と部屋の隅に飛び退いた。
「アホな奴ちゃ。そんなに羊羹と心中がしたいのか!」
相撲《すもう》取りは金髪の大《おお》銀杏《いちよう》髷《まげ》をスッポリと頭から外す。
定吉は身構えた。以前、弁吉が見せてくれたレポートを頭の中に甦《よみがえ》らせてみる。
乙戸岩権之助《おつといわごんのすけ》。朝稽古《あさげいこ》の最中、兄弟子を二人殺して竜田山《たつたやま》部屋を追われた男。身長二メートル十センチ、体重百九十キロ。下半身は、かつての柏戸《かしわど》を思わせ、胴《どう》は琴ケ梅《ことがうめ》の二倍以上。本名はオットー・ウルフガング・シュワルツネッガー。バンクーバー生まれのドイツ系カナダ人。三年前、北米アマレスでチャンピオンとなるも、ネオ・ナチに属していたことがバレて協会を除名。趣味は、金魚すくいとリリアン……
ブン、と髷《まげ》が空を切った。
「あぶない」
金髪の殺人兵器は定吉の羽織《はおり》ヒモを断ち切って棚の羊羹に突き刺さる。
「ふん、今度はわての番じゃい」
こら、ドッジボールみたいなもんやな。定吉は汗臭い大銀杏を手にすると、アンダースローで投げた。
髷は乙戸岩の頭上スレスレに飛んで背後の棚に当る。たしかにこれは死のドッジボールだ。
乙戸岩は不用心にも定吉に背を向け、ノッソリと髷を拾いに戻った。
今や!
定吉はビデオの送信バッテリーから配線を引き抜くと、ステンレス棚の足に向って放り投げた。
バリバリバリ、という音とともに煙《けむり》が上り、相撲取りの身体は炎《ほのお》に包まれた。
「や、やったあ!」
いや、喜ぶのは早い。
白煙の中から黒こげになった乙戸岩がノッソリと姿を現わした。
こいつ、ターミネーターか?
両手を大きく広げた乙戸岩は再びジリジリと迫る。
「なむさん、これでわても終りや」
後ずさる定吉の足に何かが触れた。金蔵の死体だ。
そうだ、こいつの刀。
定吉は鎧《よろい》の帯から黄金造りの刀を抜く。薄笑いを浮べていた乙戸岩の顔が急に強張《こわば》った。
切れるだろうか。敵はリーチが長く動作も素早《すばや》い。腕《うで》の一本は切れるかも知れない。が、残ったもう一本でダメージを受けるだろう。
どうしたらこいつを倒《たお》せるのや? どうしたら……。
彼の眼が相撲取りの後に並ぶ羊羹棚に止った。
次の瞬間、定吉の身体はパッと宙に踊《おど》り上る。
「きえーっ」
乙戸岩の頭上を飛び越えた彼は、ステンレスの棚を真っ二つに叩《たた》き切った。
流石《さすが》京の名匠《めいしよう》来国俊《らいくにとし》。銀色の鋼板は水もたまらずスッパリと落ちた。
「うおーっ」
山のような羊羹が乙戸岩の頭上にくずれ落ちる。
「おっと、どすこい!」
乙戸岩は肩に力を込めて歯を食いしばった。
が、さしもの彼も総重量十トン以上の羊羹にはかなわない。ついに雪崩《なだれ》の中にドッと身を横たえた。
「やったあ」
定吉は身をひるがえすとキャデラックのもとに駆けた。時限装置を止めるのだ。
ボンネットの隙間《すきま》に刀の刃先を差し入れる。
「開いた!」
しかし何がなんだかさっぱりわからない。赤や青の配線、グルグルまわる金色の円盤、ピカピカ光る豆電球。
しまった。わては、メカ音痴《おんち》なんや。
電気スタンドの配線一つ修理できないのだ。
「ええい、男は度胸《どきよう》」
「定吉どん」
金庫の扉《とびら》が開き、カムフラージュ姿の弁吉が入って来た。
「来たらあかん」
定吉は青い配線を千切《ちぎ》り取った。
「わあ、機械が止まらん!」
金庫の入口にたむろする完全武装の丁稚たちをかき分けて「はも切り九作」がのっそりと現われる。
「あほやな。そら、ニセ物や。ここにいてはる情報員がスリ代えはったんやで」
「見てわからないの? その機械、ゲームセンターのピンボールよ」
九作の隣に並んだ真王《まお》が大声で笑う。
「ピ、ピンボール」
定吉はヘナヘナとその場に腰を落し、気を失った。そしてついでに失禁もした。
19 エピローグ
「なになに? うるち八合に、糯米《もちごめ》一合半、それに葛粉《くずこ》が半合……か」
定吉は古文書と首っ引きで粉まみれになっていた。ここは大阪お初天神《はつてんじん》境内《けいだい》、増井屋《ますいや》の台所である。
「えー、ごめんくださりませ」
表の戸を小さく叩《たた》く音がする。
「すんまへん。今日あすの両日は臨時休業でんねん。また日をあらためておこしやす」
鼻の頭に米粉を付けた定吉は外に向って叫ぶ。
「いや、客やおまへんのや。ちょっと入れとくなはれ」
なんや、人が仕事してる最中に難儀《なんぎ》やなあ。ぶつぶつ口の中でつぶやきながら定吉は戸に手をかけた。
「わーっ!」
開けた瞬間、彼は大きくのけぞる。戸の間から首を出したのは巨大なキリンの縫《ぬ》いぐるみだった。
「驚かせてすんまへん。留吉への二十六番でおます」
「な、なんや。またお前か」
まあ、中へお入り、と定吉は手招《てまね》きする。
「あれ、お孝《たか》ちゃんは?」
「二日ほど親戚《しんせき》の家に行ってる。わては留守番や」
「その留守番サンが鼻白く塗《ぬ》って何してまんねん?」
定吉はキリンの前に和綴《わと》じの本をポンと放った。
「金蔵のとこで押収《おうしゆう》した江戸時代の外郎《ういろう》製造法や。これでお孝ちゃんに古式の黒ういろうでも作ったろ、て思うてな」
「ふーん、まめなヒトやなあ」
「男はまめまめしくせんと、もてへんで」
定吉は葛粉《くずこ》を水でとき始めた。
「で、金蔵の正体いうのはわかりましたんか?」
「あの後、名古屋・岐阜のアジトをかたっぱしから襲撃してな。見つけた資料を会所の分析班にまわしたら、ようやく、な」
蒸籠《せいろ》の下に入れた鍋《なべ》がシュウシュウと音を立てている。
「やはり『指屋』ゆかりの人間で?」
「うん」
定吉は鍋の湯加減を調節しながら答えた。
「金蔵の家は代々|堺《さかい》で透頂香《とうちんこう》(薬の外郎)を扱《あつか》うお店《たな》やったそうやけど、その家は幼少の頃|没落《ぼつらく》して、奴は小学校を終えると、つてを頼《たよ》り、京都大宮通り『倉屋』の奉公人になった」
「なんや、あいつも|丁稚《でつち》上りでっか」
「金蔵は陰《かげ》日向《ひなた》なく働いて、店では大いに重宝《ちようほう》がられたが、菓子作りの一番|肝心《かんじん》な部分は絶対に教えてもらえなんだそうや。菓子|司《つかさ》のお家芸は一子相伝《いつしそうでん》が鉄則やさかい、な」
「京都人は、そういうとこシッカリしてまス」
「悪いことに……」
金蔵はある日、店の一人娘と通じてしまったのである。奉公の不満も手伝って、彼は娘が十七の誕生日を迎えた晩、手に手を取って出奔《しゆつぽん》した。
「是《これ》ぞほんの丹波越《たんばご》えと、ふ道化《どうけ》言うて忍《しの》び出る、言うやっちゃ」
「『淀鯉出世滝徳《よどのこいしゆつせのたきのぼり》』でんな」
留吉は手を叩く。大阪人は昔っから他人の駆け落ち話が大好きなのだ。
「若い頃から芝居《しばい》っ気《け》のある奴やったンやな。ところが困ったことに店を出る時、娘が家の家宝《かほう》を勝手に持ち出してしまった。『気の愚《おろか》さも育ちから』や」
「それがあの名刀『小豆《あずき》釜《がま》』でんな」
「娘一人なら見逃しもするが、伝家《でんか》の宝刀《ほうとう》まで盗《と》るとは許しがたい、と、追手《おつて》がかかった」
丹波越えをすべく小塩《こしお》山のあたりまで来た時、ついに二人は追手に追いつかれたという。
「その晩は月夜でな。丹波の畑には小豆の花が一面に咲いていたそうや」
定吉は、蒸籠《せいろ》の蓋《ふた》を持ち上げたまま、眼を宙に漂《ただよ》わせた。卵色の花が咲く山の斜面に着物の裾《すそ》を翻《ひるがえ》す一組の若い男女。映画ならテーマミュージックがかかるシーンである。
「で、二人はどうなりました?」
「すぐに捕《つか》まって嬢《いと》はんは連れ戻され、金蔵は他の職人の見せしめとして……」
ペロリ、と定吉は舌《した》を突き出した。
「舌の、甘味《かんみ》を感じる部分を削ぎ落された。二度と京都の菓子職人になれんように、言うて」
「非道《ひど》い話でんな」
「その時から奴は、復讐《ふくしゆう》の鬼《おに》になった。『いつの日か関西の和菓子文化をいてもうたる』と小豆《あずき》畑《ばたけ》の中で月に誓《ちか》ったんや」
網|布巾《ふきん》を蒸籠に敷《し》いた定吉は、アチチ、とその指を自分の耳朶《みみたぶ》に持って行った。
「ま、考えてみれば可哀《かわい》そうな奴」
彼は、ホッとタメ息をついた。後は、蒸《む》し物の枠《わく》に生地《きじ》を流し、四十分ほど湯気《ゆげ》を通せば出来上りである。
「ところで、留やん。お前」
肩から襷《たすき》を外《はず》した定吉は不思議そうに振り返った。
「そんなこと聞きにわざわざ出張って来たんか」
「あっ、忘《わす》れてました。わて、外に人待たせてまんね。面会人だす」
「わてに?」
キリンはブルブルと長い首を横に振った。
「いや、弁吉はんや。ここに居てはる、て聞きましてな」
「弁吉ドンなら上で黒砂糖《くろざとう》掻《か》いてもろてるワ」
定吉は二階に向って名前を呼んだ。
「用事でっか?」
階段の端から弁吉がチャンバラトリオのリーダーみたいな顔を覗かせた。
「留やんが、あんたに客連れて来た」
表のノレンがサッと押し開かれる。
「あっ! あんさん」
入って来た和服姿の人物を見て定吉は息をのんだ。
「星乃真王《ほしのまお》でございます。その節は大変|御無礼《ごぶれい》をいたしました」
淡紫《うすむらさき》の小袖《こそで》に、菖蒲《あやめ》流水《りゆうすい》のつづれ織《おり》をキュッと元禄結《げんろくむす》びにした背の高い女性が深々と頭を下げる。
これが、あのオトコ女か。彼は眼をしばたいた。
「やあ、真王」
「帰る前に一度弁吉どんの顔見ておきたかった」
弁吉と真王は燃えるような瞳《ひとみ》で見つめ合った。
「あんさん、わてらは席外《はず》しまひょ」
二人のただならぬ気配《けはい》を察した留吉は、ポカンと口を開けている|丁稚《でつち》の袖を引いた。
「最初見た時、あんたが同じ人かどうか自信なかった。ウチらが最後に会《お》うたのは」
「大阪球場の内野席や」
弁吉は彼女にカウンターの椅子《いす》を勧《すす》める。
「おぼえてはってンね。あれは……万博《ばんぱく》が終って二年、いや三年……」
「難波《なんば》のスコアボードに南海のチャンピオン・フラッグが上った最後の年や」
「そうね」
弁吉はカウンターの中から勝手に日本酒のトックリを取り出した。
「わいは、あの日のことは全部覚えてる。ホークスの応援団は緑の法被《はつぴ》に桃色《ももいろ》のハチマキ、あんさんはブルーのドレスやった」
「ウチは、宝塚《たからづか》研一(宝塚の一年研究生)の男役。あんたは離婚《りこん》寸前の殺人|丁稚《でつち》……」
真王は勧められるままにグイ飲みを受け取ると、大きめの口元にゆっくりと運んだ。
「ウチに言うた言葉も忘れへんワ。『ワイは鶴岡《つるおか》が好きや。グランドには銭が埋《うま》っとるんや』て」
「あんさんの声、ちっとも変っとらへん。まだ耳の底に残ったる。『弁吉はん、あんたと一緒《いつしよ》にどこまでも行くわ。南海電車へ乗ってどこまでも止まらずに行きましょう』て言うたのが、な」
「お願い。もう責めんといて」
定吉と留吉は、神社の境内《けいだい》にまわると、裏手の路地からソッと店の中を窺《のぞ》きこんだ。
「あーあ、とうとう泣かしてもうたがな」
「弁吉はんも隅《すみ》に置けまへんな」
二人は聞き耳を立てる。
「仕方なかったやんか。ウチはあの時、お父ちゃんの後継《つ》いで、京都商工会議所の秘密情報員になってたんや」
「同業者同士の色恋沙汰《いろこいざた》が御法度《ごはつと》や言うことは、わいかてようわかってる。けど……」
弁吉は両手を真王の前にかざした。
「わいは、あんさんのことを思い続けた。この十三年間、昼も夜も!」
両手の指だけでは足りず、彼は片足をカウンターの上にドンと乗せた。
「十三年間と一口に言うても、昼が四千七百四十五回」
「……夜が四千七百四十五回……」
真王は帯の間から懐紙《かいし》を取り出して眼頭《めがしら》を拭《ぬぐ》った。
「『|時の過ぎゆくままに《アズ・タイム・ゴーズ・バイ》』のノリでんな」
留吉が小声でささやく。
「いや、どっちか言うと裕《ゆう》ちゃん、ルリ子の『夜霧《よぎり》よ今夜もありがとう』の世界やで」
定吉は断言した。
「人間、誰しも美しく、悲しい過去を持ってまんのやな」
ポツンと留吉が言った。
「ほんに、なあ。あないな中年のオッサンが」
定吉はカウンターに向った弁吉の、背中にただよう哀愁《あいしゆう》をひしひしと感じ取っていた。カラオケが好きで、座イスアンマ機を通販《つうはん》で買い、嫁《よめ》はんの言いなりの服を着て、夕方になると必ず、クソ取り袋《ぶくろ》を恥《はず》かしそうに下げて犬の散歩へ出て行く大阪のオッサン。二人の間に昔《むかし》、なにがあったのか知らないが……。
「この悲しみに耐《た》えるんや、弁吉どん。南海の応援団かて耐えとるやんか」
定吉は知らず知らずのうちにホークスの応援歌を口ずさんでいるのだった。
ビーンズ・フィンガー  しまい
一九八六・五・五
あとがき
イギリス人の作る映画というのは、昔から細部の考証に手を抜かぬことで定評があるが、こと007に関するかぎりそれは必ずしも当てはまらない。
初期のボンド・シリーズは、大らかというか何とも大雑把《おおざつぱ》な作りのものが多い。銃器に関する描写など、もうぐちゃぐちゃである。たとえば『ドクター・ノオ』の中で、ボンドがノオの手先デント教授を室内で待ち伏せするシーン。
ドアの間からサイレンサー付の拳銃でベッドに六発射ち込む教授をボンドは捕える。次にわざと隙を見せて銃を拾わせ、反撃させる。そこまでは良いのだが、あとがいけない。手にした銃の薬室が空と知って焦《あせ》る教授に向って一言、
「そいつはスミス・アンド・ウエッソン。六連発だろう(リボルバーの意味らしい)」
もう弾切れだよ、とボンドは勝ち誇ったように二発(御丁寧にも背中に一発。結構やり口が汚ない)も相手に射ち込んでしまうのである。しかし、どう見ても教授の銃は七発|装填《そうてん》のコルト・ガバメント自動拳銃。さらにおかしいのは、ボンドの銃がアップになるとブローニングM一九一〇(これこそ・三八〇ACP弾の六発入り)である。あんたねえ、映画の初めに、上司のMから「ワルサーPPKを持て」と厳命されていたじゃないの。愛用のベレッタ二十五口径も「婦人用」と馬鹿にされて、ロンドンに置いていったはずでしょ。一体どこからそんなもの拾って来たの、と思わず突っ込みを入れたくなる場面が堂々と映し出されているのだ。
原作者イアン・フレミングは、この映画を評して、
「原作を読んだ人は多分失望するでしょうが、まだ読んでいない人には面白い映画だと思います。お客は皆笑うべきところで笑っているようです」(ヘンリー・ジーガー『イアン・フレミング伝』井上一夫訳)
とシニカルに語っている。が、そう言うフレミングの原作にも、とんでもない記述が満ちあふれている。実際、原作者自身、ワルサーPPKとベレッタ小型拳銃の違いなどどうでも良く、ストーリー展開の上で、「なにかもっともらしい感じ」があれば充分と考えていたらしい。フレミングは当時、スポーツ・イラストレイテッド誌に寄稿していた銃器評論家ジェフリー・ブースロイドに、
「ベレッタの二十五口径は女性向きだ。しかし、こういう物をハンドバッグに入れているような女性は、概して素性が悪いね」
と教えられ、それを鵜飲《うの》みにしてPPKをボンドの愛銃にきめた。そりゃあ公務以外に拳銃を持ち歩く女性は、まともな人間のはずが無かろう。ブースロイドは他にも「近距離用に、三十八口径ハンマーレスのスミス・アンド・ウエッソン・センチニアル・リボルバー」が最良と勧めたが、彼が注意深く教えたにもかかわらず、フレミングは銃身長わずか二インチのセンチニアル・リボルバーを遠距離狙撃用と書いてしまい、後にブースロイドは世界中の銃器マニアから膨大な量の抗議文を受ける羽目に陥った。
さらに悲惨な目に合わされたのは、ベレッタ社である。北イタリアのブレッシアにある世界最古といって良いこの銃器メーカーは、自社の製品を「素行の悪い婦人が持つ威力の乏しい銃」などと喧伝《けんでん》されて、拳銃販売部門が大打撃を受けた。
ジェイムズ・ボンドの生みの親は、まったく傍迷惑《はためいわく》な人物なのである。ところが、この人の妻がフレミングに輪をかけて迷惑な女性だった。ロザミア子爵夫人でありながらフレミングと不倫の関係を起し、一九五二年初め、告訴を受けて離婚、翌月彼と結婚した。その時、彼女にはずいぶん齢の行った子供が二人もいた。アンという名のこの中年女性は派手好きのパーティ人種で、彼の著作を、
「あの、ぞっとするボンド・シリーズ」
と平気で口走るような人間だった。彼女はフレミングが気に入っていたアメリカ製のサンダーバードを、「客を送るスペースも無い嫌《いや》らしい」車と呼び、ボンド・シリーズの校正刷りを自宅のパーティで、フレミングに無断で軽薄な詩人に朗読させ、悪ふざけしたりした。フレミングは、そんな夫人を英国の度外れた所得税から守るため、ブルックス・ブラザース・マッコーネル社へボンド・シリーズの権利の五十一パーセントまで売却し、また残った課税対象のために必死で働いた。そして一九六四年八月、ユナイトが映画『ゴールド・フィンガー』を公開する直前、心臓発作で倒れたのである。
実は、フレミングの実収入が爆発的に上昇したのはその後のこと、という。ボンド映画はこの作品によって長期シリーズ化の目処《めど》がついた。彼はその事実を知ることなく死亡する。無理解な彼の鵜匠は、鵜が斃死《へいし》した後、その利益の大部分を手中にしたのである。まさに悲劇的な喜劇と言ってよいだろう。
そういう記念すべき作品をパロディ化するにあたり、当時(一九八六年)私もずいぶんと苦労させられた記憶がある。
ジェイムズ・ボンドの研究家が指摘するように、この『ゴールド・フィンガー』の原作は実に筋道の通らぬ部分が多いのである。スパイの大元締めという触れ込みの割には、ゴールド・フィンガーという人物は英国情報部の内情に疎《うと》く、ボンドの隠れミノ、ユニバーサル貿易(まあ、これが定吉の船場《せんば》繊維卸問屋連合会みたいなものです)の存在に無知である。また、フォートノックスの金塊保管庫攻撃における彼の一連の動きは緩慢《かんまん》で子供じみており、ラストになぜボンドを拉致《らち》しなければならないのか、そこら辺が明確ではない。まあ、スピードで読ませることを身上にしていたフレミングとしては、ストーリーの発展性と感覚の刺激が第一で、「もっともらしい感じ」さえ出ていればよかったのだろう。この点、ガイ・ハミルトン監督の映画は出来がいい。私は迷わず映画の方を参考にさせてもらった。
金塊という生々しいテーマを「羊羹《ようかん》」に改造するまでは若干の時間がかかったが、これとても和菓子の勉強と思えば辛いこともない。それより書いている最中、大阪の南海ホークスが消滅してしまったのには驚かされた。難波《なんば》の球場は現在、マウンドの真ン中に住宅展示場が出来ていて異様な風景である。さらにビックリしたのは、文庫が出て後、名古屋の読者たちから大量の「ういろう」が贈られてきたことであった。かなり名古屋人をネイヴィッシュに描いたはずなのだが、この反応は不思議だった。懐《ふところ》の深い土地柄なのだろう。お礼に私はういろうを両手に握りしめ、
白黒|抹茶《まつちや》あずきコーヒー柚子《ゆず》桜〜〜梅
青柳ういろう食べちゃったあ
と平野レミの唄を一晩中うたいながら、マウマウ団のごとく仕事場で踊りまわったのである。
今も、デパートの食品売場を歩いていて、ショウ・ウィンドウの中に巨大な四角い羊羹を発見すると、それがナチスの金塊「ライヒス・カメラード」に見え、売り場のおばちゃんがゲルト・フレーベに見えて私はひとり北叟笑《ほくそえ》むのである。
一九九四、五、十七
著 者
本書は一九八六年一一月、角川書店から書きおろし文庫として刊行され、一九九四年六月講談社文庫に収録されました。