東郷 隆 著
角《かど》のロワイヤル
定吉七番シリーズ
目 次
1 船場《せんば》の伝統芸
2 ピエール中佐の記憶
3 出 発
4 わがままな女
5 ロンダの老闘牛士
6 豆屋善兵衛の嘆き
7 ウメチカの串《くし》アゲ
8 東京の風
9 原宿長屋の夜
10 イリーガルズはバニーガールズではない
11 辛いウエファース
12 ケーキ屋のアンリ
13 御屋形様の命令
14 打根《うちね》を投げる少女
15 2式|狙撃《そげき》銃
16 五月の風
17 霧の中の出会い
18 通りがかりの丁稚《でつち》
19 銀座通りの銃座
20 角《かど》にあるロワイヤル
21 おみやげのエピローグ
登場人物
定吉《さだきち》七番《セブン》(安井友和)……船場《せんば》の丁稚《でつち》。大阪商工会議所秘密会所直属の殺し屋兼情報部員
千成屋宗右衛門《せんなりやそうえもん》(土佐堀の御隠居)……秘密会所の元締め
増井屋お孝《たか》……お初天神境内の茶店の娘。定吉の恋人
青山リカ……混血の女子大生。コンパニオン・クラブ「リカちゃん軍団」主宰者
ピエール中佐……元OASの老|狙撃者《そげきしや》
アンリ……目白の洋菓子屋「ラ・センティネル・デ・ラ・フランセ」オーナー。元フランス情報部員
フィリップ・モンフェラン……フランスの兵器会社「マルス・ミュトライエーズ」社長。元フランス情報部アクション・サービスのボス
六代目豆屋善兵衛……木村|重成《しげなり》の先祖伝説を持つ芦屋の富豪
叶《かのう》善彦……豆屋善兵衛の一人息子
村上|知松《ともまつ》……豆屋善兵衛方の私設非合法丁稚
飯岡助八郎……群馬県選出の代議士。「NATTO」幹部。リカのパトロン
野田・中町……内閣調査室|非合法員《イリーガルズ》
いずみ バービー タミー スカーレット……「リカちゃん軍団」所属の女子高生
住吉の平吉……コードネーム「ハンズ東キュー」。知松の手下
御屋形さま……「NATTO」最高評議会議長
1 船場《せんば》の伝統芸
「今日はトコトン遊んだるぞう。めっちゃホンキで、遊んだるねん」
「なんば花月」のズラリ並んだ漫才スター似顔看板を横目でにらみ、定吉はヘソのあたりにグッと力をこめた。
朝起きてから、もう何回このセリフを口にしたかわからない。
「休みくれへん言うのやったら、コッチャで勝手に作るまでじゃい」
劇場の入口、ギラギラ光る電飾の下に置かれた本日の番組£ゥの部スケジュール表をバシッと拳《こぶし》で打ち、彼は声を荒げた。団体入口に並んだアッパッパ・駒《こま》ゲタ姿のオバハンが数人、あまりの迫力に驚いて腰を抜かしかけたが、そんなことはおかまいなしに定吉はズカズカと中へ入って行く。
「ネーチャン、丁稚《でつち》一枚や!」
千円札を二枚、キップ売り場の窓口に叩《たた》きつけて、彼は思いっきり鼻の穴を広げた。
「で、でっち?」
紺色の事務服を着た窓口嬢は目を丸くした。
「あのー、お客サン。ウチ丁稚なんて割引ないんよ。一般と学生と小人……」
あとは団体二十人以上の割引だけ、と口の中で言いかけた彼女は、目の前に立っている和服姿の大男があまりにも広々と鼻の穴を広げているのを見て「ヒッ」と声をあげた。
このクソ暑いのにヘリンボーンの八ッ接《はぎ》ハンチングを被《かぶ》り、大型の衣紋《えもん》掛けみたいな肩に唐桟《とうざん》のお仕着せを引っかけた異様な風体の男。
なんや、なんやこのケッタイなヒト。お客サンやのうてウチの芸人サンやないんか。キップ売り場の姐《ねえ》ちゃんは、一瞬|呆然《ぼうぜん》とする。
「なんやて! 丁稚料金がない? ここの劇場はどういう料簡《りようけん》しとるんや」
和服の大男は形の良い一重目蓋《ひとえまぶた》の眼を吊《つ》り上げて怒りを表わす。
「ああそうか。あんたら差別しとるんやろ。丁稚をサベツしとるんや」
「い、いや、そないなことあらしまへん」
ははぁ、このヒト酔ってはるんやな。おおかた本社(吉本興業)の方でギャラ交渉に失敗した売れない噺家《はなしか》はんが一杯ひっかけた勢いでゴネに来たんやろ。世慣れた窓口係はす早く頭をめぐらせてそう合点《がつてん》する。
「お、お客サン」
丸に定の字を染め抜いた紺前だれの裾《すそ》を握りしめて両足を踏んばった客に彼女はやさしく語りかけた。
「一枚だけおましたで。丁稚割引券」
窓口係は手近の入場券にフェルトペンで「(丁稚割引)」と書き込み、定吉の前にソッと差し出す。
「ほら、あったやろ。初手からそう素直に出せばコッチャも声荒だてんといたモンを」
これからは気いつけい、と一声捨てゼリフを残して釣《つ》り銭と券をわし掴《づか》みにした定吉は、モギリに向う。窓口係はその後ろ姿にペロリと舌を出した。彼女は結局一般券を一般料金で彼に売りつけたのである。
モギリ場で半券を切られ、ピラピラのパンフレットを引ったくるようにして受け取った定吉は、ロビーの中央で仁王立ちになって売店のあたりをねめまわす。
「チョット。変なお客はんいてはりまっせ」
肩をいからせた奇怪な男を見て、モギリの女の子は、隣に立っている古参のモギリ嬢を突っついた。
「なんや、あんた。あの人知らへんの?」
なんば花月の名物モギリ、特別の許可がないかぎり新聞・週刊誌の芸能記者でもタダでは入れないと評判を取った松尾のオバちゃんは流石《さすが》に定吉の身分を知っていた。
「あれは大阪商工会議所で秘密情報員しとる船場の定吉≠竅v
「有名なヒトなんでっか?」
「大阪環状線の内側で名前知らんもんはないで。あんたホンマに知らんの?」
「へえ、ウチ先月奈良の郡山《こおりやま》から来ましたさかい。けど……」
新入社員のモギリ娘は首をひねった。
「ひみつじょーほーいん言うたら身分が秘密なんでっしゃろ? それがなんで皆知ってはるんでっか?」
「うーん、そう言えば妙やなぁ」
松尾のオバちゃんも首をひねる。
「まあ、ウチらみたいなもんに船場の人たちの考えはようわからん。秘密や言うて有名人|飼《こ》うとるのも、何かあそこに長いこと伝わっとる伝統芸≠フ一つとちゃうやろか」
彼女はつまらなそうにそうつぶやくとパンフレットの端をトントンと揃《そろ》えた。
そんな背後の声を知ってか知らずか定吉は、売店のケースに並んだ折詰やお菓子の見本を眺めて腕を組み、鼻の穴をますます脹《ふく》らませる。
「さあ、今日は腹いっぱい食うたるぞー」
彼の両肩から二の腕にかけて決意がオーラとなって立ち昇っている。
それを見た寿司売り場の売り子が一人「ヒッ」と声をあげ、あわてて奥に駆け込んだ。
いつもの温厚な丁稚然とした定吉とはまるで別人のような立ち振舞いだった。なにが彼をそうさせているのだろうか。
「まずは甘いモン買《こ》うたるでぇ」
赤地に黒くあんさん≠ニ書かれたつぶあん生《なま》八ツ橋の行灯《あんどん》看板に向って彼は突進した。
「ネーチャン、ねーちゃん。そこの一番おっけな箱のヤツおくれ。ほてから特製お手軽≠ニかいうオペラグラスもや」
「は、はい」
「ええ、ええ、もう包まんでもええ。早よ寄こしたって」
オドオドと菓子箱を差し出す女の子へ乱暴に札を握らせて定吉は歩き出す。
「あっ、お客サンお釣り、おつり」
「ええわい、めんどうじゃ。取っとき」
ロビーの真ん中で箱を荒っぽく引きちぎり、中の八ツ橋を二、三個いっぺんに掴み出して口に頬張《ほおば》る。
「わっ、なんやあの人、八ツ橋を包み紙ごと食べてまっせ」
「ひゃー、どぎついことしはるなぁ」
「おさむちゃん、目え合わしたらアカン、アカンで。下向いて早よ席の方行かな危いで」
ロビーにいた客たちは子供を抱え、手に手をとって一斉に客席へ走り込んだ。
「フン、どいつもこいつも人をゲテモン扱いしおってからに」
口から生八ツ橋の紙を撒《ま》きちらして彼は一人怒り狂った。
「ヘッ、どうせわては丁稚じゃ。頭の線が切れたアホな丁稚じゃい」
「あんさん、あんさん」
突然どこからか呼びかける声がした。
「あたりまえじゃ。わてが食うとるのはあんさん≠カゃ。なんぞ文句でもあるんか!」
「違います。あんさん≠フことやおまへん。あんたはんのことや」
声のする方を見返したが人影はない。あなたが選ぶ花月大賞≠ニ書かれたアンケート箱と巨大なゴリラのヌイグルミが売店の端に立てかけられているばかりである。
「どこじゃい?」
「ここだす。このゴリラの中に入ってま」
定吉は生八ツ橋を頬張ったまま、怪訝《けげん》そうな面持《おもも》ちでゴリラに近づいた。
「吉本にまかせなさい」と書かれた看板を首から下げたヌイグルミ。頭の部分だけ西川のりおの巨大なシリコン・フェースが付いた、身の丈《たけ》二メートルほどの奇怪な客寄せ人形である。
「誰《だれ》ぞ中に入っとるんか」
定吉はその人形の臑《すね》を思いっきり蹴《け》り上げる。
「いたたたた。なにしはりまんねん。乱暴な人やな」
ゴリラは蹴り上げられたところを押さえて二、三歩ピョンピョンと飛び跳ねた。
「わてを船場の定吉と知っておちょくっとんのか?」
定吉はドスを利かせた声で怒鳴《どな》りつける。しかしそれは口の中に詰まったつぶあんのおかげでモゴモゴとしか聞こえなかった。
「知っとるから声かけたんだす。わっ!」
定吉の顔に自分の顔を近づけたゴリラは、今度は鼻を押さえた。
「く、臭《く》っさー。あんさん酔ってまんな。酒くっさい息しはって」
「わては下戸《げこ》やど」
「ほならそのアルコールの臭いは何だす?」
「ここ来る前に、黒門市場の漬《つ》け物《もの》屋寄って、小樽《こだる》一杯の奈良漬食うたったんや」
「なんちゅうムチャしまんねん。腹こわしまっせ」
「ゴリラに同情されるいわれは無い!」
定吉は再び大声をあげた。その声は入口のモギリ場まで轟《とどろ》く。
「松尾サン。あの人今度は、人形相手に何か騒いでまっせ」
モギリ娘が怯《おび》えたように隣を突っついた。
「しょうもない。どうせあれかて船場の伝統芸≠フ一つやろ」
松尾のオバちゃんは目を伏せてパンフレットの枚数を数え、タメ息をついた。
「ゴリラやおまへん。あんさんと同じ秘密会所のモンだす」
ヌイグルミはペコペコと頭を下げた。
「極秘連絡専門の留吉への二十六番でおます。あんさんをここでお待ちしてましたんや」
「フン、会所の伝令屋か。言うとくがな、今日は非番や。誰が何と言おうと聞く耳持たん」
定吉は、またしても口の中に生八ツ橋を放りこむ。
「いつもの定吉はんらしゅうもない。何ぞ気にさわることでもおましたんか?」
西川のりおの顔を持つゴリラは恐《こ》わごわ尋ねた。
「おお、これが腹たたずにいられるかぁ」
定吉は怒りのあまり、またしてもロビー一面にシナモンの匂《にお》いがする八ツ橋の皮を撒きちらした。
「わてが表向きは、丼池《どぶいけ》繊維振興会事務局連絡二課渉外係長補佐見習いとして働いとることは、お前も知っとるやろ」
「へえ、あんさんが丼池繊維振興会事務局連絡二課渉外係長補佐見習いで堺筋のセンタービルに居はるいうことは聞いとります」
「それが、おとつい丼池繊維振興会事務きょく……れ……、イタタ舌|噛《か》んでもうたがな」
「お気の毒さんで」
「あー、なんちゅう長ったらしい肩書きや。ジュゲムやないで。で、な。その事務局の表仕事でおとくいさん集めて有馬《ありま》温泉行ったんや」
「そら、仕事とはいえ結構なこって」
「あほぬかせ」
定吉は片手に持った生八ツ橋のカタマリをもう一方の拳《こぶし》で打った。ベチャリという音とともにつぶあんがこしあんになった。
「むっさい中年のオッサンが集まって親睦会や。ツアー・コンダクターのマネごとさせられて毎年往生するんやで。特に今年はタチの良うない色ボケが混っとってな。『たまの温泉、ハメハズシや。どこぞで若いオナゴ、人数分見つくろって来い。セーラー服の女子高生売春つれて来い』て大あばれや。そのボケはな。瀬戸内のさるセーラー服メーカーの社長なんやけど、昨今の繊維不況と家庭不況で……」
「はあ、定吉はんに八ツ当りしてウッ憤《ぷん》晴らしはったんですな」
ゴリラ、いや留吉への二十六番はうなずいた。
「わては天下の定吉|七番《セブン》やで。何が悲しゅうて忘八《くつわ》モン(女郎屋の男衆)やポン引きのマネせなならんのや。年端《としは》も行かん女子高生捜せとは、どういう料簡や」
「ま、ま、気い鎮めはっておくれやす」
留吉への二十六番は、荒れ狂う定吉をオロオロと手で制した。
「それでもわてはガマンした。これも船場のお店《たな》モンの務めや。おとくいさんの顔は立てなアカン、と急いで三ノ宮まで行って、若作りのホテトル・マントル嬢見つくろい、有馬線で取って返した。適当なセーラー服も着せたって、な。それを、それをあのヒヒ爺《じじ》いは……」
「何て言わはりました?」
「『こんなモン、イモや、ババや、ホンマモンの女子高生やない。わしの抱きたいんは正真正銘|純生蔵出《じゆんなまくらだ》しのセーラー服や。大阪の盛り場行けば、ようけそんなモン転がってるやろ。それを手ェ抜きおって、近場《ちかば》でチャカモン拾うて誤魔化《ごまか》しさらしたな』と、わての顔に酒ひっかけた」
定吉はロビーの丸い照明を見上げてギリギリと歯噛《はが》みする。留吉への二十六番もウームとうたった。
「ヒドイ奴《やつ》でんなあ。だいたい、そのロリコン爺《じじ》は変なマスコミに踊らされとりま。そない簡単に色ボケした女子高生がそこらにゴロゴロしとるんやったら、わてらにもお裾分けがあってしかるべきや。けど……、そないエエ目に会《お》うたこと、わておまへんで」
「そやろ、そうなんや。わてかて味おうたことない。あまりの理不尽さに思いたまらず堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒を切って、ヒヒ爺ィの頭めがけてゲンコを一発……」
「忠臣蔵四段目、塩谷判官《えんやはんがん》と高師直《こうのもろなお》でんな」
留吉への二十六番は、ヌイグルミの胸をたたいて流石《さすが》定吉と感心の声をあげた。
「加古川本蔵《かこがわほんぞう》(松の廊下で塩谷判官の刃傷《にんじよう》を止める役)が周りにいないおかげでその後は思うぞんぶんポカリ、ポカリとやったった」
「そら御本懐《ごほんかい》をお遂げあそばして祝着至極《しゆうちやくしごく》に存じます」
十一段目の桃井若狭之助《もものいわかさのすけ》を真似《まね》た手振りで深々と頭を下げかけた留吉への二十六番を定吉は待った、と片手で止めた。
「問題はその後や。次の日、船場へ帰ったらな。小番頭はんが待っとって」
「へえ、雁之助《がんのすけ》はんが?」
「『腐ってもおとくいさん、頭はたくとは何事や。罰として下半期の休みは全《すべ》てチャラや』と吐《ぬ》かしおんねん!」
定吉は、怒りのあまり潰《つぶ》れた生八ツ橋をロビーの床に力いっぱい叩きつけた。
「くっそー、あのエゲツないドアホのドタマシバきたおしたぐらいで何ちゅうこっちゃ。えーい、ついでにデコ番頭のドタマもハタいたったらよかった!」
「お、押さえて、オサエテ」
肩を震わせ、ゼイゼイと息をつく彼の背中をヌイグルミのゴリラが軽く摩《さす》った。
「なるほど、それで出社拒否して奈良漬腹いっぱい食わはった……」
「さいな、これが酔わずにいられよか」
そこまで一気にしゃべった定吉は、急に全身から力を抜いた。
「悪いことは重なるもんや。ムシャクシャした頭の皿《さら》冷したろ思うて曽根崎《そねざき》行ったら」
「フム、フム」
留吉への二十六番は、定吉の言うソネザキが何を指しているのか良く心得ていた。キタの曽根崎センター街南口、有名な「お初天神」境内の茶店「増井屋」に彼の恋人が働いているのである。
「お孝《たか》ちゃん、町内の慰安旅行で留守やった。その行く先が、あろうことか……」
彼の両の眼からドッと涙が吹き出した。
「有馬温泉や――」
「ああ、弱ったなぁ。人は見かけによらん、このヒト泣き上戸《じようご》や」
「擦れ違いや、スレチガイ。情けないわー、ビェー」
大きな泣き声はロビーいっぱいに響き渡る。入口のモギリ姐ちゃんが、またか、といった顔で古参の脇腹《わきばら》を突っつく。
「松尾はん、あのケッタイな人、今度はヌイグルミ抱いて泣き出しましたで」
「あれも船場の芸の一つや。おおかた泣《な》き売《ばい》(泣くふりをして物を売る露店芸)の練習でもしてはるんやろ」
「そうでっか。船場のお店《たな》で泣き売なんかしまんのかぁ?」
松尾のオバちゃんのワケ知り言葉に、新参のモギリ嬢は首をひねった。
「これ定吉はん、泣かんでもええやないか。難儀やなぁ。ホレ、これで鼻水拭《ふ》かはって」
留吉への二十六番は合成毛皮の間の隠し(内ポケット)から薄汚れたハンカチを取り出して定吉の顔を拭《ぬぐ》った。
「こないグショグショ顔してはったら御隠居はんの前に出られまへんで」
エッ!? と定吉は顔をあげた。眼をいっぱいに見開いて振り返る。
「今、なに言うた?」
「い、いえ、宗《そう》右衛《え》門《もん》はんの前に出られまへん、て……」
「あのゴリガン爺ィがこの辺に居《お》るんか?」
彼の顔色がサッと変った。酔って赤味を帯びた頬のあたりが一瞬にして白っぽくなる。
「すぐ言わなアカン思ってましたんやけど、なんやアンサンのペースに巻き込まれてもうて」
ゴリラのヌイグルミは、両手を揉《も》み合わせた。
「実は……わて、御隠居はんからあんさんを呼び出すように申しつかりまして、こうして待っとったんですわ」
「なんや、そういう魂胆やったんかい」
先程《さきほど》までの元気はどこへやら、定吉は空気の抜けた蛸風船《たこふうせん》みたいに床の上へペッタリと腰を着けた。
「あの死にぞこない、またわてに小言《こごと》いうつもりやろ。イヤや、わてはそんなとこよう行かん」
「違《ち》ゃいまんがな。御隠居はんは、大事な人に会うからあんさんに至急|伴《とも》してもらいたい言うてましたで」
「そんなん、ウソや。タコ釣る(吊《つる》し上げる)つもりにきまってる」
定吉は恐怖に顔をゆがめて思いっきりイヤイヤをする。なるほど、天下無双の殺人丁稚の弱点が「土佐堀の御隠居」と「お初天神のお孝」いうウワサは本当やったんやなぁ。留吉への二十六番はタメ息をついた。これ以上この男に何を言っても無駄のようである。
彼は隠しポケットから小さなガス・ボンベをソッと取り出した。安全ピンを抜いてコロコロと床に転がす。
「わっ! それ何や!?」
足もとのボンベから無色の気体がシュウシュウと音を立てて吹き出すのを見た定吉はビックリ仰天《ぎようてん》。
「スンマヘン。こうでもせんとあんさんは言うこと聞いてくれまへんやろ」
「こんな場所に毒ガス撒《ま》いて、ど、どないするつもりや」
定吉はあわてて床に手を伸ばそうとする。が、身体が動かない。腕や足の関節から力がスーッと抜け出て行く。
「毒ガスやおまへん。オイロトキシンのB型だす」
途端《とたん》に定吉はゲラゲラと笑い出した。
「ア、アホ……ウハハハハ。オ、オイロトキシンB言うたら……ウフフ、笑気ガスやないか、ワッハッハ」
留吉への二十六番が投げたもの。それはイギリスのSAS(特殊部隊)が開発した暴徒鎮圧用ガスだった。吸いこめば三十分程笑いが止まらず、戦闘意欲が低下する。
「へえ、こういうこともあろうか、と対ガス服着てきましてん」
ゴリラのヌイグルミ、それは新型のガス防御服だったのである。
「ワハハハ、くそ、留吉、おまえ、ウホホホ、なかなかやるやんか、イッヒッヒ」
「さ、機嫌なおったとこで早よ行きまひょか」
ゴリラは定吉を肩に担ぎ上げ、入口に向った。客席のドア越しに爆発するような笑い声があがった。ガスがロビーから流れ込んだのだろう。
「ヘイ、ごめんやっしゃ」
留吉への二十六番は、片手を前に出してヒョコヒョコと花月の出口から出て行った。
「あはははは、ま、松尾サン。先前《さいぜん》のケッタイなお客はん、いひひひ、ヌイグルミに担《にな》われて出て行きましたでぇ、うははは」
ガスを貰《もら》い吸いしたモギリの姐ちゃんがゴリラの後ろ姿を指差して大声をあげた。
「うふふふ、ほら、み、見てみなはれ。やっぱり船場の伝統芸≠ヘ最高やなぁ。アッハッハ」
松尾のオバチャンもパンフレットを握りしめて腹をかかえる。ステージの方ではガスを吸った出演者たちが笑いこけ、涙無しでは見られないハズの人情劇が今や完全なスラプスティック・ストーリーに変わりつつあった。
2 ピエール中佐の記憶
漆喰《しつくい》の白い塗り壁が、抜けるように青い地中海の空から降り注ぐ強烈な陽《ひ》の光を浴びてキラキラと輝いていた。
坂道の両側に軒を接して建てられている家々の、窓から窓へ張り渡されたロープの先では、洗いたてのシーツやシャツがラインダンスを踊っている。
マリア・アルメンダリスは、肉づきのよい身体《からだ》を揺りながら、ハレーションの中をゆっくりと進んでいった。
彼女が坂道の石段を数歩登るごとに、頭上のバルコニーから「オラ! チューファ(やあ、チューファ)」とか、「コモ、エスタ、ウステ?(お元気?)チューファ」といった陽気な声が降ってくる。マリアは、そのたびにニコニコ笑いながら「オラ!」とか「アスタ、ルエゴ(また後でね)」と愛想良く答えていく。
チューファ≠ニいうのは彼女の本名ではない。この村では、赤んぼうからベッドで寝たっきりの婆さんまで合わせると、約四分の三の女性がマリアという状態なので、女性はみんな独特なアダ名で呼び合うのだ。
大蒜《にんにく》料理のうまい主婦は|にんにく《アホ》=A祭りの時に大騒ぎする娘は舞踏狂《フアンダンゴ》=A年中夫婦げんかばかりやっている女房は勇士《ラ・バタリア》=\―ちなみに彼女の御亭主は油虫《ラ・クカラチヤ》≠ニ井戸端会議で呼ばれている――などと名付けられている。
マリア・アルメンダリスのアダ名はオルチャータ・デ・チューファ≠ニいう植物の根を原料にした清涼飲料を扱う、村でただ一軒のカフェ兼下宿屋、そこのカミさんであることを表わしていた。
彼女は石段のてっぺんまで登ると、エプロンの裾《すそ》で、二重になった顎《あご》のあたりに薄《うつす》らと浮き出した汗を拭《ぬぐ》った。小脇《こわき》に抱えていた大きなバスケットを下に降ろしてホッと一息つく。
「まったく、肥《ふと》りたくって肥ったわけじゃないんだけどねぇ」
石段の道は狭い、岩だらけの岬へと続いている。そこには赤いテラコッタ瓦《かわら》で葺《ふ》かれた家が数軒、肩を寄せ合うようにして並んでいた。一番端っこの一軒、広いバルコニーの前に酒場《バル》≠ニ書かれた看板の出ている家が彼女の店である。
岬の突き当りは、ウルトラマリン・ブルーの海だ。
|太陽の海岸《コスタ・デル・ソル》≠ニ呼ばれるスペインでも指おりの観光地から、ほんの数マイルほど南に下ったあたりに在りながら、アルメリーア、アドラ間を走る国道N・340号線が岬の北側をグルリと迂回《うかい》しているおかげで、この地域はバカンス客の波に飲み込まれることを奇跡的に免れていた。
村の正式な名称は、アルメリーア県アルメリーア郡サンタ・マリア・デ・アロラ村という。しかし地中海を行き来する船乗りたちは昔からここを|ケーキの海岸《コスタ・デ・ラ・パステル》≠ニ呼び習わしていた。
遠く海上から眺めると、村全体が白い砂糖菓子を積み上げたような可憐《かれん》で危うい姿に見えるのだ。
マリアチューファ<Aルメンダリスは、沖合いを行く大型ヨットの白い帆を眺め、それから自分の店の前に張り出したテラスに視線を移した。そこに下宿人のフランス人が揺り椅子《いす》を持ち出しているのを認めて満足そうにうなずく。
「セニョールは今日も御機嫌らしいね」
彼女は、下宿人のためのお土産《みやげ》を入れたバスケットを抱え上げ、巨大な尻《しり》をゆさゆさと揺りつつ、自分の家に向って石段を降りていった。
「|お早よう《ブエノスデイアス》|、デュバさん《セニヨール・デユバ》」
テラスに張り出したサン・シェードの下で、揺り椅子を動かしてウトウトとしていたジャン・ピエール・デュボアは、陽気な声で眼をさました。
「|お早よう《ボンジユール》、|奥さん《マダム》」
チューファは、この優雅な下宿人の挨拶《あいさつ》がことのほかお気に入りだった。まるで自分が五つ星のオテルへお泊りになる貴婦人になったような気分になる。
彼女は顔をクシャクシャにして笑い、抱えていたバスケットの中から大きな紙包みを取り出した。
「セニョール、今月分の雑誌が届いてたよ。買い物ついでにもらって来ちまった」
「|ありがとう《メルシ・ボクー》」
老いた下宿人は、ニッコリ笑って包みを受け取り、手早く封を切って中身を見た。
今月号のパリ・マッチ≠ニル・ボノム∞スウィツア・ワッヘン・マガジン=Aそれに二か月分のニューズ・ウィーク≠ェ厚めのハトロン紙から姿を現わす。
「エンリケにまかせといたら、何時《いつ》こっちに届くかわかったもんじゃないからね」
チューファは、大酒飲みで有名な、村でただ一人の郵便配達人に対する不平をもらした。
「あっち行っちゃあ貰《もら》い酒、こっち行っちゃあサッカーの|賭け話《トトカルチヨ》、まったく何時働いているんだか」
「マダム、ありがとう。今月は特に早く読みたかったんだ。ツール・ド・フランス(フランス自転車レース)の選手紹介が出ているんでね」
J・ピエールは、本当にうれしくてたまらない、といった風《ふう》に雑誌を自分の膝《ひざ》の上へ載せてめくりはじめた。
「待ってて下さいよ。浜辺で大きなイカを買い占めてきたんだ。ちょっと早いけど昼食の仕度《したく》をしますからね」
チューファは、エプロンを締めなおすと足音も高らかに台所へ入っていった。
そこには八歳になる彼女の娘が一人、キッチン・テーブルの横でジャガイモの皮を剥《む》いている。
「あれ、おとうさんは?」
娘は首を横に振った。
「あの宿六《やどろく》、またトランプに出かけちまったんだね。もう店を開けなきゃいけない時刻だってのに。あーあ、いったい何考えて生きてんだろうね」
チューファは天を仰いでタメ息をつき、娘の皮剥きナイフを取り上げた。
「マリア、ここはもういいからセニョールに|ぶどう酒《ビーノ》を持って行っておやり」
娘は台所の窓からテラスにいる下宿人の姿を見、背のびをして赤ぶどう酒の壺《つぼ》をカウンターから持ち上げた。それから一番汚れてなさそうなグラスを一個取り出し、トレーの上に並べる。
娘が酒を運んで行くのを見とどけてから、チューファはイカの調理に取りかかった。
と、その時、ガチャン! という物の割れる音が聞こえて来た。
あの子ったら、また、酒壺を落しちまったね。
大声で叱《しか》りつけようと、その巨大な胸に息を吸い込んだ途端、チューファの耳へ娘の悲鳴が聞こえて来た。
「キャー! お母さん、セニョール・デュバが倒れてる!」
ハッと息を飲んだ彼女は、イカを放り出してテラスへ飛び出した。
サン・シェードの下で揺り椅子が横倒しになり、雑誌が散乱している。下宿人が胸を押さえ、床にうずくまっていた。
チューファは、一目見るなりその場の情況を的確に把握した。割れた壺の前で眼を大きく開いたままつっ立っている娘に向って叫ぶ。
「マリヤ。グズグズしていないで、ドクトルを呼んで来て! それから、ホセおじさんのところに行ってお父さんを連れてくるんだよ。急いで、さあ早く!」
娘は、フライパンの中で弾《はじ》け飛ぶポップ・コーンのように勢いよく駆け出していった。
「ドクトル、大丈夫でしょうか?」
チューファは、ライ麦パンみたいに丸く盛り上った両肩を丸め、エプロンの端を噛《かじ》りつつ尋ねた。
「うーむ」
ドクトル・ノゲスはベッドの横に坐《すわ》り込み、眉《まゆ》と眉を寄せ、しきりに首をひねる。
「ね、大丈夫なんでしょう?」
「うーむ」
ドクトルは、聴診器の先を患者の胸に当て、それから自分の胸に当て、ついでにそれを自分のおでこに押し当てて首を逆にひねった。
「うーむ」
「さっきから唸《うな》ってばっかりじゃないですか」
「うーむ」
千ペセタ紙幣に描かれたエチェガレイ(スペインのノーベル賞文学者)そっくりの白髭《しろひげ》を指で撫《な》で上げ、ドクトル・ノゲスは、もう一度首を左右にひねった。
チューファは眼を大きく見開き、それをエプロンで覆った。
セニョール・デュバの容体は最悪のところまで来ているに違いない。あと数分もするとセニョールは神に召され、とこしえの眠りにつくのだ。親族に看取《みと》られることもなく、こんなうら寂しい異国の片《かた》田舎《いなか》で、ヤブ医者と肥満ぎみだが美しい人妻――チューファは自分のことをそう思い込んでいた――だけを脇に置いて……。チューファのエプロンは、彼女の眼から流れ出す涙で、アッという間に大きなシミができた。
「うーむ」
ドクトルは、聴診器を付けたままもう一度首をひねる。と、その時、どこからともなくゴキッという鈍い音が聞こえて来た。
「おお、治った、なおった」
ドクトルはうれしそうな声をあげた。
「えっ、セニョールが治ったんですか?」
チューファは驚いてエプロンから顔をあげる。
「いやぁ、どうも寝違えたらしくて、朝から首の筋が痛《いと》うて、痛うて。ところが、今、首をこっちにチョイとひねったら、筋が元にもどってな、フハハハ」
老医師は、髭の隙間《すきま》から間の抜けた笑い声を吐き出した。
「ドクトル! あたしがこんなに心配しているっていうのに……」
チューファは怒りのあまりエプロンを投げ捨て、この人騒がせなヤブ医者に一発かませようと腕まくりをした。
「う、うーむ」
彼女が立ち上るのと、ほとんど同時にベッドの中から呻《うめ》き声があがった。
「お、おお、気がついたようだ」
危機一髪、チューファの拳骨《げんこつ》から脱したドクトルは、嬉《うれ》しそうに聴診器を取りなおした。
「マダム、おや? ドクトルも来ていたのか。私はいったい……」
ピエールは、ベッドの中からそっと周囲を見回した。
「ああ、聖母マリアさま。サン・アントニオさま。サン・セバスチャンさま。サン・ホアンさま。サン・ステファンさま……」
チューファは天井《てんじよう》を仰いで、思いつくかぎりの聖人様に感謝の祈りを捧《ささ》げ始めた。
「脈はくも正常にもどったようだ」
ドクトルは、大きな蓋付《ふたつき》の懐中時計を取り出し、そこは流石《さすが》に医師らしいそつのなさで患者の右手首、左手首、首筋の順で脈動を計っていく。
「うむ、これで後はしばらく寝かせておけばいいじゃろ」
ドクトルは黒いゴム管と真ちゅう細工のラッパを組み合わせた古臭い聴診器を、これもまた時代がかった厚皮のドクター・バッグにしまい込んだ。
日本と異なり、ヨーロッパ、特にラテンの国々では、医師は患者にやたら医薬品を使用せず、人間の自力再生能力を引き出す自然治療に頼る傾向がある。
ドクトル・ノゲスは、生死の境をさまようこの哀れな心臓病みのフランス人に対してとうとう聴診器と懐中時計だけで治療を済ませてしまったのだった。
「マ、マリア、セニョールの容体は!」
とその時寝室のドアが勢いよく開いて、女の子を小脇に抱えた大男が息急《いきせ》き切って飛び込んで来た。
「あんた、この大変な時にいったいどこをウロチョロしてたのさ!」
天井に向って聖人様の名を唱えていたチューファは、怒りに声を震わせた。
「そ、そんなこと言ったって、エンリケ爺さんが……、その……転職の相談に乗ってくれってんで、ホセと二人で……」
「なにが転職だい。どうせまた愚にもつかないビンゴかトトカルチョの悪巧みでも吹きこまれてんだろ!」
「いや、しかし……、村の付き合いってもんもあるし……、多少酒グセは悪いけどエンリケはいい人だし」
大男は少女を横抱きにしたまましきりに弁明する。
「マダム、ドクトル……」
ベッドの方から弱々しい声が聞こえて来た。
夫婦のやりとりを苦笑しつつ眺めていたドクトルは患者の方へ振り返った。
「何かね?」
「すまんがそこの御亭主と二人っきりにしてくれんだろうか」
「ステファンと?」
大男は、その図体に似合わぬ素早い動きで、抱えていた娘を女房に押しつけ、ベッドの脇に近寄った。
「ステファン、セニョール・デュボアはまだ完全じゃない。あまり興奮させちゃあいかんぞ。わかったな」
ドクトルは、カバンを持って立ち上った。
娘を脇の下に抱えたまま、心配そうに部屋の隅っこで立っているチューファの肩をやさしく叩《たた》く。
「さ、この偉大なる医師《エル・ドクトール》に一杯おごって下さらんか。できればあの赤い樽に入った一番上等のビーノがいいんだが」
ドクトルはチューファの巨大な背中を押して出て行った。
ピエールはドアが閉まるのを見とどけ、そっと目を閉じる。
ステファンは、つい今しがたまでドクトルが坐り続けていた丸椅子にそっと腰を降ろし、彼を見守った。そのままの姿勢でフランス人が口を開くのを待ち続ける。
やがてピエールは目を開き、ステファンに弱々しい笑いを投げかけた。
「君とはずいぶん長いつき合いになるなぁ。ステファン」
何を言い出すかと思えば……。ステファンは怪訝《けげん》そうに顔を上げ、彼の笑いに引き込まれて太い指を折り始めた。
「中佐殿《コロネール》と最初に出会ったのはインドシナですから……ざっと計算しても、三十年」
「その間、ずいぶん君には助けられた」
ピエールは遠くを眺める眼差《まなざ》しをした。
「いや、自分の方こそ中佐殿に危いところを何度も助けられました」
ステファンも大きな肩を落し、眼を細める。
「覚えていますか? 初めて出会った時のことを」
「ああ、君は|白い軍帽《ケピ・ブラン》を被《かぶ》りたての外人兵《エトランジエ》。私は|小僧っ子《フアン・フアン》の見習い士官だった」
「ええ」
ステファンはチョッと首を傾けながら笑った。
「中佐殿が塹壕《ざんごう》の中で自分にチョコラ・ボンボンを分けて下さったんです。食べようとしたら、バカでっかいアリサカ(日本の38式小銃)を持ったベトミンが壕の中に飛び込んで来て」
「流石《さすが》にあの時は驚いたな」
「自分が背中へ銃剣を突き立てられた時、中佐殿はベトミン兵に飛びかかって、手にしたボンボンを相手の眼に押しこんだんです。ブランデー入りのボンボンは眼に染みたでしょうね」
「お菓子は口で食べるものだからなぁ」
二人は声をあげて笑った。
「あれがインドシナで口にした最後のボンボンだった」
二人の属するインドシナ派遣軍は、それから三日後の一九五四年五月七日、ボー・グェン・ザップ麾下《きか》のベトナム第三一二師団に降伏したのである。
「非度《ひど》い収容所生活でしたね。来る日も来る日も|米の粥《ライス・グルエール》で……。ある日、粥《かゆ》の入った茶ワンに自分の頭を映したら」
ステファンは、テカテカに光る自分の頭を頂上からこめかみに向ってツルリと撫《な》でた。
「砲撃後のディエンビエンフー要塞《ようさい》みたいに一本残らず消えちまっていました」
「あれから三十年か……。いや、まったく我々は老兵だな」
ピエールも、ところどころ白くなった髪の毛をシワだらけの指で掻《か》き上げる。
ステファンは、ハッと我に返り、ベッドの中の元上官を見つめた。今日の中佐殿は何かおかしい。あまりにも気弱な物言いだ。
「なにが老兵なもんですか。自分は今年六十の大台にのりますが、中佐殿はまだ五十の半ばだ」
彼は、わざと大げさな身ぶりで肩をすくめてみせた。
「普通の人生を送る人々なら、たしかに五十代は初老の段階かも知れん。鼻タレ小僧だ、という奴《やつ》もいる。しかしステファン、君も知っているはずだ。職業軍人は、民間人より橋の下の水が早く流れるということを……」
ピエールは、皮肉っぽく口の端を曲げる。
「アルジェリア以後のことは覚えているかね」
ステファンはうなずいた。
忘れるはずがなかった。インドシナから帰還後、半年程して彼らの部隊は再編成され、アルジェリアに投入された。再び始まる苛烈《かれつ》な戦闘。特殊技能兵と外人兵によって特別に組織されたピエールの狙撃《そげき》小隊は、アルジェリアの都市部で民族解放戦線(FLN)の指導者を秘密裏に屠《ほふ》る作業に熱中した。
小隊は、ALN(解放戦線の軍事組織)を追いまわすフランス外人部隊とは切り離され、独自に行動した。ある時は民間人に化け、ある時はベルベル人の物売りに身をやつしてカスバに潜入し、編成後わずか三か月でフランス人のシンパも含め、十八人のFLN側要人を射殺するという戦果をあげたのだ。当時少尉だったピエールはアッという間に二階級特進し、部下のステファンも戦功マルス勲章を授与されて特務軍曹となった。小隊の名声は高まり、入植者《コロン》の娘たちはテロリスト狩りの英雄として彼らに花束を投げた。
が、フランス本国では事情が異なっていた。ジャン・ポール・サルトルと、その周辺にたむろする知識人たちは、ピエールたちを「サディスト」「犯罪者」と名付けて罵倒《ばとう》したのだった。獅子《しし》身中の虫とも言うべき彼らの活動の結果、アルジェリア派遣軍の士気は低下し、ピエールの小隊も窮地に立たされた。本国の人々は軍人を白眼視し、逆にFLNの行動は活発化する。
ピエールたちは救世主を必要としていた。この泥沼から兵士たちを救ってくれる救世主を……。それがドゴール将軍だった。
三年後の六月、「フランスのアルジェリア」をスローガンに彼が大統領として第五共和制を樹立した時、植民地の兵士や入植者は狂喜した。人々は思った。これでフランスの栄光は甦《よみが》える。土民たちの犯罪行為は一掃され、パリのインテリどもは電柱に吊《つる》されるだろう、と。
しかし、彼らの願いは聞きとどけられなかった。ドゴールは一年後、FLNと秘密交渉を開始し、アルジェリアは独立に向けて動き始めたのである。
ドゴールに裏切られた、と感じた兵士たちは一九六一年四月、ついにクーデターを決行した。結果は惨澹《さんたん》たるものだった。蜂起《ほうき》の翌日、反乱軍の兵舎はすっかりカラになっていた。ドゴール派の巧妙なプロパガンダが功を奏したのだ。あれほど結束を誇ったピエールの特殊狙撃小隊でも、残ったのは副官のステファンだけという状態で、あまりの情けなさに彼は自殺を図ったほどだった。
しばらくして気をとりなおした反乱者たちは、ドゴールの殺害を誓い、地下に潜る。
極右過激軍事組織「OAS」の始まりである。
「今、思い返してみても」
ステファンは言った。
「よく、あんな毎日が送れたもんだと思います」
ピエールは胸を押さえ、そっとベッドに半身を起こした。
「我々の青年期の残り全《すべ》ては……」
深いため息をつく。
「あの戦いによって費やされた。プチ・クラマールの襲撃を今でも時々夢に見る」
「プチ……、クラマールですか」
それは一九六二年八月に起きた史上名高いドゴール暗殺未遂事件だ。
フランス国内を震撼《しんかん》させたこの騒乱に二人は暗殺要員として参加したのである。
閣議を終えたドゴールが、エリゼ宮から帰宅する途中を襲うというこの計画は、ほぼ完璧《かんぺき》といっていいものだった。立案者の空軍中佐ジャン・マリー・バスチャン・チリーは、大統領専用車のコース、速度、護衛の規模、射撃角度から使用銃器の選定まで綿密に計算し、襲撃地点をパリ市内のリベラシオン通り他数か所に設定した。彼はポイントごとに腕ききのA級狙撃手をOASのアマチュア隊員に混ぜて配置し、それぞれが連携して戦うよう指示していた。皮肉なことにそれは、アルジェリア人ゲリラがフランス兵に対して行なっていたテロ戦法を応用したものだった。
「あの日、チリーの発砲命令がもう少し、もう一秒だけ早かったら」
ピエールは人差し指を自分の鼻の前に立てて口を尖《とが》らせた。
「中佐殿は良くやりましたよ。手筈《てはず》どおり、大統領専用車の後部タイヤをキレイに撃ち抜いたんですから」
ステファンは太い指でトリガーを引く真似《まね》をした。
通りの端に立った主謀者チリーの合図が出た時、ドゴールの乗る黒塗りシトロエンは、すでにピエールの受け持ち場所を過ぎようとしていた。とっさに彼は、車の中の人物ではなく、命令どおりに後部タイヤを撃ち抜いてしまった。時速七十マイル以上で走るシトロエンDS19、その特徴である深い後部フェンダー(それは当然装甲化されていた)から少しだけ突き出ているタイヤを、発射速度の遅いモーゼル・KAR・ボルトアクションで正確に狙撃することはよほどの名人でなければ出来ない芸当である。
七・九二ミリのライフル弾によって急速に空気圧が失われた専用車の後輪は、自動式のチューブ修正装置が働かず、スリップし始めた。ステファンは二脚付のシャテルロー軽機関銃で、ここぞとばかり車内を掃射した。リア・ウインドウは砕け散り、ドアやトランクに着弾の煙が上る。そのうちの一発はドゴールの座席のすぐ横を貫通し、あの有名な大鼻の先をかすめた。
しかし、車はそのまま走り続け、続く第二陣の攻撃も振り切って、ついにその姿はパリの黄昏《たそがれ》の中に消えてしまったのだった。
ピエールたちは弾倉の空になった銃器を握りしめ、夕闇《ゆうやみ》のプチ・クラマール交差点に茫然《ぼうぜん》と立ち尽した。
「あの時、たしかにドゴールは、リヤ・ウインドウ越しに私を見返していた。タイヤを射つべきではなかった」
ピエールは、地中海を行く老朽汽船の汽笛にも似た深いタメ息をついた。
「一発で奴の頭を吹き飛ばすことができたんだ。私はチリーの命令に忠実すぎた!」
老いたフランス人は、唇をブルブルと震わせ、両の拳《こぶし》を握りしめた。
いけない! とステファンは顔をゆがめた。
今日の中佐殿は、いつになく感情の制御がきかなくなっている。別れぎわに聞いたドクトルの注意を思い出し、彼はあわててベッドの端を押さえた。
「わかりました、中佐殿。わかりました」
ピエールの起き上った上半身をそっとベッドの中に押し込む。
「そのドゴールもずいぶん前に死にましたよ」
「自宅のベッドで、家族に看取られながら、な」
ピエールは、ベッドの上掛けをかいがいしく整えるステファンに向って首を曲げた。
「私も軍人だ。死人をいつまでも憎み続けるほど愚かではない」
「そうでしょう、そうでしょうとも」
テカテカの頭を何度も上下させて大男は合い槌《づち》を打った。
「ステファン」
「何です?」
「私がさっきまで読んでいた雑誌を……」
ステファンは、部屋の中を見まわした。隅のテーブルに数冊のグラフ雑誌が重ねてある。バルコニーに散らばっていたものを彼の妻が気をきかせて運んで来たのだろう。
「あれですか?」
「ル・ボノム≠取ってくれ。そう、その、自転車レースが表紙になっている奴だ」
ステファンは、ニューズ・ウィーク≠ニパリ・マッチ≠フ間に挟まれているペラペラのスポーツ・グラフ誌を取り出した。
「特集ページを開けて見てくれ」
ステファンは、いぶかしげな面持《おもも》ちで胸のポケットから老眼鏡を取り出した。
表紙をめくるとすぐに、一昨年のツール・ド・フランスの記事。コンコルド広場から凱旋門《エトワール》に向う自転車の先陣争いが見開きいっぱいに引き伸ばされている。何の変哲もないレース写真だ。
「そこじゃない。次のページを」
ピエールは煩《わずら》わしそうに言った。
指に唾《つば》をつけ、不器用な手つきでステファンは言われるままにそれをめくる。
次のページも、どこといって変ったところはない。ベルナール・イノーが黄色いジャージ、レース優勝者の印である「バイオ・ジャン」を着てシャンパンを浴びている。
「『彼は今年もゴール直前の大逆転を……』、これですか?」
「その隣だ」
連続写真になっていた。
トロフィーを受け取るベルナール選手、ブルターニュ生まれの少女からキスを受けるベルナール選手、同じ所属チームの選手たちから祝福されるベルナール選手……。
「上から三番目の写真をよく見るんだ」
スポンサーから賞品を受け取るベルナールが写っている。
首をかしげ、ステファンは写真に見入った。
「ベルナール選手の脇に立っている男の顔に見覚えはないか」
濃紺のサマー・ブレザーを着た男が賞品を受け取るベルナールへ、盛んに拍手を送っている。頭の毛の薄い、でっぷり太った大柄の男、レースの主催者側の一人らしい。
「いいえ、知りません」
「もっとよく見るんだ、その男は……」
ピエールは何かに耐えるようにギュッと眼を閉じて言った。
「……君もよく知っているはずだ。我々を裏切り、OASのメンバーを、シンパを、その家族、恋人たちを捕え、拷問《ごうもん》し、殺害し続けた男、秘密情報部《S・D・E・C・E》第五部の部長……」
「モンフェラン!」
ステファンは思わず大声をあげた。ずり下った眼鏡を手の甲で押し上げ、雑誌に顔を近付ける。
「そうだ、ポルト・デ・リラ(S・D・E・C・Eの本部があったパリ郊外の町)の狂犬=Aフィリップ・モンフェラン大佐だ」
ピエールは一語一語区切るようにゆっくりと言葉を続けた。
「そこに写っているのはたしかに奴だ。髪は薄れ、腹はせり出して、ミシュランの商標みたいな身体つきに変ってはいるが、間違いはない」
そうか、これだったのか。ステファンは、ピエールが心不全を起こした理由を今やっと悟った。
彼は何か言いた気な風情でジッとそれに見入っていたが、やがて雑誌を閉じ、老眼鏡を外した。表紙のル・ボノム≠フ文字が彼の目の中でスッとぼやけた。
まったく、|お人好し《ボノム》のお節介雑誌だ。彼は心の中で舌打ちした。
「デュボア中佐殿」
テーブルに雑誌を戻し、椅子から立ち上る。
遠くで昼時を告げる教会の鐘が鳴り始めた。
フランス人はベッドの中から窓の外を見ている。
「我々がプチ・クラマールの通りで穴だらけのシトロエンを見送ったあの日から二十年以上たちます」
ステファンも窓の外へ顔を向けた。そこにはいつもと同じ青い地中海の海と空が見えるばかりだった。
「忘れましょう」
彼はドアの方へ歩き出した。
「中佐殿がモンフェランを憎む気持ちはよくわかります。私だって同じだ。しかし、中佐殿、あなたも日頃《ひごろ》よくおっしゃっているじゃないですか。セーヌの橋の下を多くの水が流れたんです。あの水はもう二度と帰って来ません」
ステファンがドアを開けると同時に鐘が鳴り止んだ。
「少し眠って下さい。一時間ぐらいしたら女房に食事を運ばせましょう」
返事はなかった。
ドアを閉じる前にステファンは、そっとベッドの方を振り返った。
白髪頭は、身動《みじろ》ぎひとつせず窓の方を向いたままだった。
3 出 発
ジャン・ピエール・デュボアは、翌朝早くベッドから身を起こした。
思いが千々《ちぢ》に乱れ、その晩はとうとう一睡もできなかったのである。しかし、肉体の疲労とはうらはらにその薄い頭皮で覆われた彼の頭脳は活発に動いていた。
彼はベッドのシーツを整え、ドレス・ケースからここ数年来|袖《そで》を通していなかったサマー・スーツを取り出すと素早く身につけた。
鏡の前に立って襟を正し、久しぶりの伊達《だて》男《おとこ》を気取って見る。肩のパッドが妙に浮き上り、まるで借り物の服のようだ。老いて肉が落ちたのだろうか。彼は舌打ちをしてベッドの下を探り、ボール紙の箱を取り出して開いた。中身はコンビの靴である。まるでフレッド・アステアがMGMのミュージカルでタップを踏む時に履くようなトラッド・タイプのそれを、セーム革でサッと払い、履いてみる。
「足の幅だけは老いても変らんな」
そのままドレス・ケースに歩いて行って、小物入れの引き出しから粋《いき》な柄《がら》のスカーフやカフスを取り出す。
それらも全《すべ》て身に付け終ると、部屋《へや》を出て、台所へ向った。
「まぁ、セニョール。もう大丈夫なんですか?」
キッチンの前で粉だらけになり、朝の仕込みを始めていたチューファは驚いて目を丸くした。
「ボンジュール、マダム。昨日は心配をかけたね」
「急にめかしこんでどうしたんです?」
鼻の頭を真っ白にしてチューファは尋ねた。
「私にはちょっと気分転換が必要らしい。アルメリーアの町まで遊びに行ってくるよ」
「それがいいかも知れませんね。でも昨日の今日です。気をつけて下さいよ」
「大丈夫だよ。それより車を借りたいんだ。ステファンは起きているかね?」
「あの宿六《やどろく》」
チューファは鼻を鳴らした。
「セニョールがベッドに入ったらすぐに仲間を呼んで酒盛りさ。まだ高鼾《たかいびき》ですよ。車のキーでしたら店のパブミラーの下にぶらさがってますから御自由にどうぞ」
「メルシー」
彼はチョッと手を上げて彼女にあいさつすると、大股《おおまた》で店の方へ歩いて行った。
パブミラーの下を探り、車のキーを取り出して、崖《がけ》の上の駐車場に向う。
小麦粉を練る手を休め、窓越しに彼の出て行く姿を、心配そうに見送っていたチューファは、石段を上って行くピエールの案外元気そうな様子に満足したのかズズッと鼻をすすりあげ、太い腕を再び動かし始めた。
サンタ・マリア・デ・アロラ教会の白い尖塔《せんとう》から早朝の祈りを告げる鐘が短く数度鳴った。未明から出漁していた漁師たちは、この鐘の音で一斉に網を巻き、村に船を戻すのである。
崖の上に登ったピエールは、赤や黄色に塗り分けられた小船の群が、沖の方から白波を蹴立《けた》てて入江に戻る光景をしばらくの間眺めていたが、やがてゆっくりと駐車場に入って行く。
岩場に土を盛り上げて均《なら》しただけの粗末な村民専用駐車場、その外れでピエールは目的のものをすぐに見つけ出した。「家畜注意《GANADO》!」と書かれた看板の下に停《とま》っている一台の青いバン。
ステファンがいつも酒の仕入れに使っているシアト(イタリアのフィアットをノックダウンしたスペインの国民車)だ。
彼はドア・ロックの壊れたその車に乗り込み、ゆっくりと発進させる。狭い村道をノロノロと走り、「自動車道路《アウトピスタ》」と立て札の出ている村の出口まで来た時、彼はもう一度海の方を振り返った。
赤茶けた岩山の上に建つ白い家々の窓が全て開け放たれている。山の下の入江では今ごろ、漁師の女房たち、マリアの名を持つ肥《ふと》り肉《じし》の猛女たちが、魚網や氷塊を担い、夫や息子の釣《つ》り上げて来た魚を並べる準備に熱中していることだろう。
ピエールは、長年親しんできた愛すべきそれら友人たちに対して「アデュー」と一言つぶやくと、内陸部へ向う国道N―340号線の本線へ車を乗り入れた。
岩場の間を走る国道は、早朝にもかかわらず混み合っている。全て他国の国籍ステッカーを張ったキャンピング・カーばかりだ。北の国々から太陽を求めてやって来た紫外線不足の彼らが、右側の車線をノロノロと走るオンボロのシアトに派手な警笛を浴びせかけ、次々に追い抜いて行く。中には、窓から首を出してわざわざ罵《ののし》り声を上げるヤツもいたが、ピエールは素知らぬ顔で車を転がしていった。そんな調子で、二十分程走るとやがて頭上に、立体交差の表示と「右・アルメリーア中央広場《プラサ・マヨール》10Km、左・市外地5Km」の文字板が現われる。彼はためらうことなくハンドルを右に切った。本線を降りると、そこから先は山道の登り坂だ。市街地をはるかに望む高台で道は二本に分かれ、一本はそのままシェラネバダの山裾《やますそ》に向い、もう一本は山の反対側を抜けてリオ・タベルナス川を渡り、アリカンテの方に伸びている。分岐点のそばは二十四時間営業のレストランやモーテルが点在し、意外に賑《にぎわ》いを見せていた。
ピエールはY字に分かれた道の中心に建つ大きなレストランの駐車場へ車を向けた。バレアレス産の腸詰めが売りもので、長距離バスの休憩所も兼ねている店である。駐車場は普段ならガラ空きなのだが、今日は珍しく満杯になっている。アグファ・フィルムのステッカーを車体のあちこちにベタベタと張りつけたローマ・ナンバーの大型ロケバスが数台、レーンを占領していた。このあたり一帯は、昔からマカロニ・ウエスタンの撮影場所としてイタリア人たちに重宝がられているのである。
ピエールはロケバスの影へシアトの鼻先を突っ込み、店の裏口から中に入った。
「ブエノス・ディアス! セニョール」
不意の来客に調理人たちは愛想良く声をかけてくる。彼らは皆、ステファンのトトカルチョ仲間で、ピエールとも顔なじみなのだ。
「支配人は?」
一人のウエイターが、油じみたカーテンの向うを指差した。黒髪にペッタリとポマードを塗りつけた小男が、巻き舌でまくし立てる俄《にわか》カウボーイの間をいそがしそうに飛びまわっている。
ピエールは、カーテンの陰から彼を手招きし、なにがしかの札を握らせてステファンのところに乗って来た車を送り返してくれるよう頼み、ついでにバレンシア行きの長距離バス・チケットを買った。
「あんたがバス旅行なんて珍しいな。旅は長くなりそうかい?」
支配人はピンク色のチケットを渡しながら尋ねた。
「ああ……、ずいぶんと長くなりそうだ」
ピエールはウインクをする。
彼は支配人がおごってくれた手作りサルベッサ(ビール)を、調理室の片隅で味わいつつバスの到着を待った。
やがて、窓の外に豚のクシャミそっくりなエア・ブレーキの音が轟《とどろ》く。
ピエールは周囲の人々に短く礼を言い、調理室のドアを開けてノッソリと出て行った。
八時四十五分。
ドレスデン製の陶器時計がファイアプレイスの上で軽《かろ》やかな鈴の音を響かせた。長距離バスの固いシートにジャン・ピエールが腰を落ち着けたちょうど同じ時刻に、仇《かたき》であるフィリップ・モンフェランは、ヌヌイー・シュール・セーヌ(パリ・ブローニュの森近くにある高級住宅地)にある彼の別邸で目覚めた。
傍らには栗《くり》色の豊かな巻き毛が、大きなサテンの羽毛|枕《まくら》を覆い隠すように広がっている。波立つようなそれは、絹のシーツにクッキリとつけられた昨夜の行為の名残りであるシワの上を這《は》い、その先端をフィリップの剥《む》き出しになった胸元にまで伸ばしていた。
彼はカールのきいた毛先を人差し指で摘《つま》み上げ、そっと鼻先に持って行った。機械油とチリ・ソースが混り合ったような匂《にお》いがする。タンジール(モロッコの港町)の匂いだ。あそこで長期間過ごしたものは皆この体臭になって帰ってくる。フィリップは口を曲げた。恐らくこの女は、私が構ってやらなかったここ二か月の間に、ヒマを持て余したあげく、地中海へ早目のバカンスと洒落《しやれ》込んだに違いない。彼は寝起きの頭で推理した。
保養地で一人静かに過ごす殊勝な女ではないことはわかっている。このパリで若い男でも引っかけて出かけたのだろうか……。いやいや、そうじゃない。……この匂いから考えて、現地調達だ。察するところ腋《わき》の下から茴香《ういきよう》の匂いを発するベルベル人の男芸者《クスクス》でも買い歩いたのだろう。
うつぶせになって枕を抱いていた女が低いうめき声とともに寝返りをうった。丸みを帯びた裸の背中がシーツの間から覗《のぞ》く。彼の想像を裏付けるかのように、その部分はコンガリとトースト色に色づいていた。
水着の線もなく均一に焼かれた彼女の肩まわりを横目でにらみ、フィリップはベッドからヨタヨタと降り立った。
太った身体にローブを羽織り、隣室のドアを開ける。庭に面した広いベランダの窓と、色ガラスのはめ込まれた丸い天窓は両方とも大きく開け放され、朝の光が室内に溢《あふ》れていた。ベランダ越しに見える前庭では、早起きの庭師たちが、美しく生え揃ったシェルラン芝の上をいそがしそうに|芝刈り機《ローン・モア》を操って行き来している。玄関脇の車寄せに、エール・フランスのマークを付けた貨物用のバンが一台横付けされ、運転席の男が執事と何やら話しこんでいる。入口正面にしつらえられた円形泉水にはいつものとおり数羽のクイナが羽を休め、カタカタとクチバシを打ち合わせていた。この鳥たちは、毎年この時期になると近くのブローニュ公園から飛んで来て、グロッタ式彫刻の領有権を主張するのである。
フィリップは外の動きにザッと目を通し、居間へもどってメイドを呼ぶベルを押した。数秒もたたないうちに黒服白エプロンの女性が二人、朝食のトレイと新聞の束を持って部屋に入って来た。彼はそれらの品々をベランダのテーブルへ運ばせて、自分もそこに坐《すわ》った。新聞の中から「フィガロ」紙を選び出して手早くページを繰り始める。庭の方から吹いてくるさわやかな朝の風が、真新しいインクの臭いや、テーブルの上のクロワッサンと混り合い、一種独特な臭いを作り出した。フィリップは、この臭いがけっして嫌いなほうではなかった。いや、この臭いこそが今日の成功を表わしている、とまで思っていた。
「『欧州各国の対日貿易赤字解消は可能か……』か」
お目当てのページを発見した彼は、読みやすいように紙面を二つ折りにする。
太短い指でカフェオレの大きなカップを取り、ビゼーの「アルルの女」をハミングしながら彼は本文にゆっくりと目を通し始めた。
内容は今まで多くの識者がくり返し書き立てて来た日本批判とあまり変らない。
最初の章で、ここ数年間の対日貿易額の推移について述べ、中盤で、日本企業のヨーロッパ市場における暗躍ぶりを多少の誇張を交えて報告し、最後の章で、現在トゥルーズの保税倉庫に積み上げられている気の遠くなるような数量の日本製ビデオについて触れて、その流入を許したフランス当局の無為無策ぶりを攻撃している。全体が悲憤慷慨《ひふんこうがい》調の文体で飾り立てられ、フランス人の誰もが持っているあの過剰なまでの愛国心に訴えようとする、臭気フンプンたる論説だった。
寄稿者は、ソルボンヌを先年退職したある高名な老経済学者、フィリップもよく知っている人物である。
「なるほど、学者というのは便利なものだな」
彼はブルドッグのように垂れ下った肉付きの良い両頬を揺ってクックと忍び笑いをもらした。
実を言うと、この経済評論は彼の密《ひそ》かな依頼によって書き上げられたものなのである。もちろん彼は、こうした手垢《てあか》にまみれた対日批判を持論とするほど現状不認識な男ではない。主な票田をローヌ川沿いの工業地帯に求めている保守系野党の議員たちが、パーティ会場でわめくような稚拙きわまりない「黄禍論」は彼の最も軽蔑《けいべつ》するところだった。経済学者に手をまわしてこんなものを寄稿させた目的は別のところにある。
深めのカップに、そっと口を付けて少しだけ喉《のど》を湿らせた彼は、文中にさりげなくちりばめられている「兵器輸出」の文字を丹念に指で押さえていった。この作業が終了すると、すぐ脇の記事に目を移し、前の評論と合わせて読みあげてみる。
隣の章に掲載されているのは、フランス兵器産業界の大立て者マルス・ミュトライエーズ社の社長フィリップ・モンフェラン氏が今夕日本に出発するという簡単な記事である。二つの記事は一見するとまるで別のもののようだが続けて読むと、なんとなく日本の貿易不均衡を解消するキメ手がフランスの対日兵器輸出であり、ヨーロッパ経済の救い手がフィリップ・モンフェランであるかのような印象を受ける仕組みになっていた。
「完璧な出来だな」
彼は満足そうにうなずき、クロワッサンの端をむしり取って口に放りこむ。
これは彼独特の深謀遠慮、マスコミ操作なのだ。
彼自身は今回の訪日をさして重要なものと感じていない。最大の関心事は、バカンス明けに行なわれる内閣改造だった。フィリップはすでに先月の初め、エリゼ宮(大統領府)から発せられた内々の入閣依頼に承諾の返事を送っている。政界入りの布石、そのためのイメージ作りが日本訪問の主な目的なのである。冷徹な頭脳を持つ彼は、日本がフランス製兵器の市場としては適さないことを早くから見抜いていた。市場としての旨味《うまみ》は、むしろその隣国である韓国と中国にあった。前者はすでに警察兵器用としてイタリア製の車両を購入した実績を持ち、後者は軍の近代化を目指して欧米の諸国に多くの技術要員を派遣している。日本という国に価値を見い出すとすれば、それは、こうしたアジア諸国へ商いを拡大する際の情報プールになり得るという地理的価値のみである。
「なにしろあの国は、アメリカとあまりにも近すぎる」
フィリップは、デッキ・チェアーの上に新聞を置いて立ち上った。
庭の端で巨大な楡《にれ》の木が、朝の風に枝を揺っている。高さは優に三十メートルを越すだろう。このあたりが、まだブルボン家の猟場だった頃からそこに生えていたという曰《いわ》く付きの木だ。春先になると黄緑色の花をいっぱいに付け、夏には翡翠《ひすい》色の葉をきらめかせるその姿は、近所に住む人々にとって格好の風物詩となっていた。
フィリップは石造りの手すりにもたれて巨木の方を見やり、それから不機嫌そうにフンと小鼻を鳴らす。
楡の木が不愉快だったわけではない。葉陰に見え隠れする隣の屋敷が目ざわりだったのである。避雷針を中空にピンと突き出したロココ風の尖塔《せんとう》、その下に住む男こそ彼の天敵とも言うべき存在だった。名はジョルジュ・マティウス。国民議会でマッチ・ポンプと異名を取った保守系野党UDF(フランス民主連合)所属の政治家だ。
彼は、大統領と首相の側近以外には極秘にされているはずであった入閣の件をどこからか聞きこみ、フィリップの身辺をここ数か月の間嗅《か》ぎまわっている。彼の真意は明白だった。フランス情報部時代からフィリップが背負い続けてきたスキャンダルの十字架を国民の前に暴露して、彼の社会的地位ひいては現政権の権威を失墜させようというのである。
フィリップは、童話の魔女が被《かぶ》っている帽子そっくりな形をしたその銅葺《どうぶき》屋根を横目で睨《にら》みつけ、口の中でロレーヌ方言の悪口を二言三言つぶやくと、ベランダの椅子に坐りなおした。
「ムッシュ・デュバリエがお越しです」
突然、居間の方から執事の声がした。彼が振り返るのとほとんど同時に、一人の若い男が取り次ぎも待たずにズカズカと部屋の中へ入って来るのが見えた。
「おはようございます。社長」
ブルー・グレーの仕立て服を着た大柄の伊達《だて》男《おとこ》が、無表情な顔で軽く一礼する。
フィリップは心の中で舌打ちした。この男はいつもこんな調子なのだ。どんな場所でも野戦司令部《F・H・Q》のテントの中と同じように行動する。軍隊式の礼儀は心得ているが、民間人の間でのそれはまるでゼロに近い。
「今日お使いになる車をポーチの前にまわしておきました。点検も終了しております」
彼の言う点検≠ニは、爆発物や車内盗聴器、追跡用発信器の有無を調べることである。隣家のマティウスが嗅ぎまわっている今は、その種の検査を、特に念を入れて行なわなければならない。
フィリップは、苦々しい顔つきでうなずき、ポットに残っているカフェオレ用のコーヒーだけをカップに移して、薬でも飲むようにグイと喉にあけた。
「トキオ(東京)行きの荷物もすべてチェック済みです。先ほどエール・フランスの専用車が運んで行きました」
右肩を突き上げ気味にしたデュバリエは、抑揚の無い野太い声でそう言うと直立不動の姿勢をとった。ゆったりと作られたスーツの右脇が心持ち吊り上り、ホルスターのシルエットがクッキリと浮かび上る。
モーゼル・ミリタリーM712マシンピストル。フィリップは皮肉っぽく口をゆがめる。ボディガードの分際でこんな化物《ばけもの》みたいな拳銃を持ち歩くとは……。まるでサファリにでも行くみたいじゃないか。
「うむ、ありがとう」
フィリップは皮肉っぽい眼つきのまま大様《おおよう》に首を振り、空のカップを持った手で庭の方を指した。
「君の部下も良くやってくれているみたいだな」
芝生の手入れをしている連中は皆このデュバリエの部下なのだ。
何が良くやっているもんか。とフィリップは内心思っている。隣家の政敵からプライバシーを守るため、阻止要員を庭師に化けさせたアイデアは良い。しかし、充分に手入れが行きとどいた芝生の上を必要以上に大勢の人間がガーガーと芝刈り器の音を立てて行ったり来たりしては人目を引いてしまう。
「ハッ。万全をつくしております」
デュバリエは靴の踵《かかと》をカチンと合わせた。
フィリップは暗たんたる気持ちになる。こんながさつきわまりない男を今度の日本旅行に連れて行かねばならぬのか……。
が、文句を言うことはできない。なにしろ連中は皆、我らが大統領閣下の直接命令で派遣されて来ているのだ。
デュバリエの、衝立《ついたて》のような胸元や、軍隊式に短く刈り上げられた額のあたりを見上げて彼はタメ息をついた。なるほど情報機関員の質はここ数年、確実に低下しているようである。
セデック≠フ名でそのこわもてぶりを内外に恐れられたフランス情報部は、七〇年代に入って、保守系政治家の私兵化、犯罪組織との癒着《ゆちやく》が進み、八一年の現左翼政権誕生と同時に組織改編を余儀なくされた。これによってスパイ小説でおなじみのS・D・E・C・Eは、D・G・S・Eと名称が変り、現在その規模も英国情報部の約半分、CIA・KGBの百数十分の一にまで低下している。それまで働いて来たガラは悪いがスパイ活動は超一流といった職員は次々に退職――あるいは粛清を恐れて暗黒街に転職――し、新しく陸軍や警察からやって来たハシにも棒にもかからぬシロウトが情報収集・破壊活動、果てはこうした民間の、VIP警護まで請け負っているのである。
「今日の私の予定は心得ているね?」
フィリップは庭にいるガードマンの人数を目で数えながら尋ねた。
「十時に内務大臣と打ち合わせを済ませて、十二時にエリゼ宮へ。昼食を大統領閣下と御一緒に召された後、ニースに行かれる大統領をヘリポートまでお見送りします。それからパトリネー・ド・ラパン伯爵《はくしやく》夫人のアパートへ。夕刻七時にそこを出てシャルル・ドゴール空港です」
流石《さすが》にこの道で飯を食っているだけあってデュバリエはスラスラと答えた。
「内務省までのコースは、いつもと違う道を使います。フォーブル・サン・トレノをやめてミロメスニル通りからの迂回《うかい》です。エリゼ宮へは通常のコースになりますが、伯爵夫人のアパートへ向う道は、アルフォンソ二世通りをまわらずにサン・エルニ通りを使います」
「なぜだね?」
パリに住むフィリップの同業者――国営ルノーの重役やアエロ・スパシェルのミサイル研究家といったたえずテロの危険にさらされている民間VIPたち――は、常に車のコースを変えることを心がけていた。が、彼はそれを好んでいない。勝手のわからぬ道で襲われるより、知った道で戦ったほうがましだというのが持論だった。元S・D・E・C・Eの幹部だ、という誇りがそれを許さないのである。
「それが……」
デュバリエは、ちょっと口ごもった。
「……グリーン・ピースの反核デモが……あるのです」
フィリップは牛のような情報部員をもう一度見上げた。D・G・S・Eは現在苦境に立たされている。先年、フランスの核実験に反対するため南太平洋で活動していたグリーン・ピース船を爆破した例の「虹の戦士号」事件がいまだにくすぶっているのだ。デュバリエが神経質になるのも無理はない。
「デモ・コースと同じであれば仕方ない。良かろう、君は下で待機してくれ」
フィリップの言葉にボディガード隊長は不動の姿勢を取ると、入ってきた時と同じように足音も高く居間を出て行った。
再び一人になったフィリップは、皿の上にある最後のクロワッサンを齧《かじ》り、席を立つ。バスルームに歩きかけて、ふと寝室の方を振り返った。
マダム・ラパンの店で紹介されたあの女は、あまりにも奔放《ほんぽう》に振舞いすぎる。閣僚の座につく前になんとかしなければなるまい。旅行から帰ってきたら……。彼は唇を噛《か》んでチョッと考える。
「デュバリエに……、いや自分で仕末するか」
彼はそうつぶやくと「アルルの女」を唄《うた》いながら、ゆるゆるとした足どりで奥に入って行った。
4 わがままな女
ミラーボールの光が壁といわず床といわず飛び交い、這《は》いまわっていた。
南方産の蛍《ほたる》、たとえば、ラオスとかカンボジアあたりのそれは集団で高速飛行し、尻《しり》から発する輝きも日本の源氏蛍の比ではない……。
叶善彦《かのうよしひこ》は舞台の端で、光の輪舞を眺めながら、ふと、幼い頃《ころ》に聞いたその話を思い出した。
「シャムや仏領インドシナの蛍は、な。かたまって飛ぶんや。留《とま》る時も日本のもんみたいに河原へパラパラと散らばったりはせん。木の枝や茂みの中にドッと集まってまう。そらまるで、おっけな火の玉が出来たみたいでなぁ。壮観なもんやで」
お店《たな》の屋号を打ち抜いた京うちわで庭木の間を飛びかう蛍を指し示しながら、父はやわやわと説明してくれた。まだ幼かった善彦は父の膝《ひざ》の上でその話を聞き、最後まで聞かずにスヤスヤと眠りについてしまうのが常だった。
前奏曲が始まる。
彼はマイクを握り直した。
舞台の上に一歩ズイと踏み出す。
左右の袖《そで》から紫色のスポットライトが彼を捕え、足もとからはドライアイスの煙がモクモクと立ち昇った。
マイクを胸元まで上げた時、きれいに並んだ彼の前歯と、オニキスでできた彼のカフスがキラリ輝いた。
顔がブスなら 治せもするが
心のブスなら 治せはしない……
通りの良い透んだ声だが、どこかで聞いたような歌い方だった。
歳《とし》の過ぎ行くままにこの身は腐り
人とゴミとの区別もつかぬ
生きて行くのが難かしいよと
一人寂しく 出ベソを齧《かじ》った
あああ……。
悩まし気に左手で固めの長髪をかき分け、うら声をあげる。
ワァーッ。パチパチパチ
大向うから盛大な拍手と口笛が沸き起こった。
「サンキュー、おおきに、ほなら二番も行きます」
再び盛大な拍手。
壊れた秤《はかり》に 体を預《あず》け
下剤なめては またまた涙
歳の過ぎ行くままにこの身は太り
家の玄関出入りもできぬ
エアロビクスももうやめたよと
膝をかかえて 焼酎《しようちゆう》あおった……
エピローグに混ってまたまた盛大な拍手と口笛。善彦は、酔っぱらいがラジオ体操をするように首をだらしなくグルグル回し、胸で二本の手を、悩まし気に交差して唄い終った。
カラオケが鳴り終ると同時に、室内のライトが少し明度を増す。彼は高さ二十センチほどの低いステージをゆっくりと降り、カーペットが敷きつめられたフロアへと進み出た。
素足に履いたバス・ウィージャンの爪先《つまさき》に、先程の名残りであるドライアイスの煙がまつわり付いている。
と、その足先がゆらり、と揺れた。
「キャッ、大変!」
しなやかな二本の腕が闇《やみ》の中からサッと伸びて、善彦の両肩を支えた。
「あ、ご、ごめん」
恥かしそうに彼はその腕をペタペタと撫《な》でた。
手首の部分にだけカフスを付けた素肌むき出しの腕である。
「ちょっと酔ってもうたかな」
「力いっぱい声出したから、アルコールが一気にまわっちゃったのよ」
善彦の足へ、網タイツに包まれた長めの足がピッタリと張り付く。そのまま彼は両脇からスッと抱え上げられた。
「わぁー、おとこの人って重いわぁ」
善彦の耳もとできわどいセリフが聞こえ、鼻先に糊《のり》で固められた細長い髪飾りが交差する。バニーガールだ。それもうら若い、娘たちだった。
「よいしょ、よいしょ、よいしょ」
二人のバニーガールは、楽しそうに掛け声をかけ合い、善彦のガッシリした身体を持ち上げて、フロアの中央へと進んで行った。
「はーい、御到着」
舌ったらずな声とともに再び大きな拍手。善彦の身体は、フカフカのソファーに投げ込まれた。肘《ひじ》はキャット・レッグにアカンサスの飾り葉彫り、布地はあくまで薄いフランドル地、詰め物は馬毛に鴨《かも》の羽毛の折半……か。上モンやな。パリのクリニアンクールやロンドンのポートベローでもこれだけのモンは良う手に入らん。善彦は酔った頭の隅っこで、自分が今|坐《すわ》っているソファーの値踏みをした。
「こらまた趣味のええ家具やな」
彼の向い側で十人以上のバニーガールに囲まれて坐っている人影から優雅な笑い声があがった。
「おほほほ、そうおっしゃると思いましたわ」
上品に組んだ長い脚を解き、長身の人影はゆっくりと彼の脇に歩み寄る。
「善彦さんは、一流品に敏感な方ですものね」
スポットライトの中に、赤いハイヒール、金色のうぶ毛が光る細めの腕、続いてピンクのドレスに包まれた華奢《きやしや》な身体が現われた。
「リカ……」
善彦はソファーにひっくり返ったまま、片手を人影に向け差し出して言う。
「無駄使いしたら、あかんやないか。こんなん偉《えろ》う高かったやろ?」
なじっているのではなかった。子煩悩《こぼんのう》な父親が一人娘のわがままな振舞いに呆《あき》れかえっているといった口調だ。その証拠に彼の顔にはあきらめの笑いが浮かんでいる。
「先日、チョッと用事があって横浜まで行きましたのよ。そうしましたら、元町の骨董《こつとう》屋さんにこの三点セットが出ていましたの」
長い栗《くり》色の髪と黒い大きな眸《ひとみ》が、淡いオレンジ色に変ったライトの下であやかしのように輝いた。
「顔見知りのお店の方が大変な勧め上手《じようず》で、ワーリング・ギローの家具は今しか手に入らない、なんておっしゃるものですから、つい……」
マシュマロのような頬《ほお》に小さなエクボが出来た。
「いけなかったかしら?」
リカの口から、今はなき英国が誇る超高級家具店の名がこぼれ出た時、善彦はドキリとした。
「ワーリング・ギロー言うたら、戦争前の豪華客船秩父《ちちぶ》丸≠ナ使われとったという逸品中のイッピンやないか」
思わず腰を浮かせ、ソファーを見まわす。それがもし本当だとすると、この作り、この保存程度から見て、一脚だけでも軽く数百万は行くだろう。衝動買いにしては大きすぎるシロモノだ。
「そうそう、お店の方も、そんなことおっしゃってましたわ」
リカにはまるで反省の色がない。
「いかんなぁ、リカ……」
善彦は、彼女の細い手首をとって引き寄せた。
「僕はまだそれほど会社の金を動かせるほどの地位になってない。右から左へソッと動かせる金も今の額で限度や」
「わかりました。あなたがそうおっしゃるなら、私、お約束します。以後は衝動買いなんてはしたないこといたしません」
善彦の肩に艶々《つやつや》とした栗毛色の髪を預け、リカは殊勝らしく言った。
「ごめんなさい」
「わかったらええんや」
善彦は、彼の愛撫《あいぶ》にふるえるほっそりした肩をやさしく抱いた。
二人を取り巻いて立っていたバニーガールの一団は忽然《こつぜん》とどこかに消え失《う》せていた。物音一つ立てず、まるでくノ一のように彼女たちは部屋を出ていったのだ。
「待っててや、もう少しのシンボや。秋の株主総会で僕が社長に指名されるのはまず間違いのないところや。そうなったら、リカのやろうとしている事業にも今以上の投資がでけるはずや」
「うれしいですわ」
リカはしなやかな身のこなしで両腕を善彦の首にまわした。
善彦は隣室のベッドに彼女を誘《いざな》うべく、その身体を抱き上げる。
「善《よし》リン……」
リカは彼の耳に口を近付け鼻声をあげた。
「ん、まだなにか?」
「実は、ね」
「うん」
「怒らないで下さいね」
「うん」
「衝動買いしたのは、ワーリング・ギローだけではありませんの」
「えっ!?」
「軽井沢の別荘用に、ピアソン・ページのセットも買ってしまいましたの……」
ピアソン・ページは、ビクトリア王朝風家具を扱うロンドンの老舗《しにせ》である。そこの製品で上物となれば、中古のロールス・ロイスより値が張ると言われている。
善彦は腰のあたりから急速に力が抜けて行くのを感じ、思わずその場によろめく。腕の中のリカが、キャッとたのしそうな声をあげて彼の首にしがみついた。
5 ロンダの老闘牛士
「おう、バイラ! しっかり稼いでるか?」
長い揉《も》み上《あ》げを人差し指でなぞりながら、アルキメデスは戸口に突っ立っているくわえ煙草《たばこ》の人影に声をかけた。
「さっぱりさ。たまには上客を連れて来とくれよ」
サン・フィッシュ(まんぼう)みたいなブヨブヨのウエストを持った娼婦《しようふ》は、ぶっきらぼうに答える。
アルキメデスはポケットを探り、クシャクシャになったエジプト煙草を取り出すと戸口に近付いた。
娼婦の口から煙草を取り、自分の煙草に火を移して、再び彼女の唇にそれを荒々しく戻す。
「ありがとよ」
自分では粋《いき》な仕草《しぐさ》のつもりだった。
「集金は明後日《あさつて》だ。この前みたいに遅れるんじゃねえぞ」
彼は精一杯|凄《すご》みをきかせた声でそう言うと、娼婦の大きな胸をポンと手の甲で叩《たた》き、石畳の道を歩き出した。
「フン! ハゲタカ野郎。腐れ魚の夢でも見るがいいや」
娼婦は、露路の奥へ立ち去るアルキメデスの後ろ姿に小声で毒づいた。
ここはスペイン・カタルーニャ地方の中心都市バルセロナ、その旧市街チーノ地区である。町で一番の繁華街、デパートやオペラ劇場の並んだランブレス通りから一本奥に入ったこのあたりは小さなバル(飲み屋)や安ホテル、飾り窓の家が密集し、人口密度は香港《ホンコン》さえも凌《しの》ぐという。日中、観光客で賑《にぎ》わう細い露路は、夜ともなると酔っぱらいや女を求めて眼をぎらつかせた男たち、そしてその連中にたかるスリ、コソ泥のたぐいが横行する剣呑《けんのん》な場所に変身する。
アルキメデスは、そういった港の裏道を渡り歩くヤクザ者の一人だった。
彼の仕事は月二回の割りで客を引く女たちの間をまわり保険料≠取りたてることと、週に五日彼の親方の事務所で雑用を務めることである。歩合い制だが、実入《みい》りは良い方ではない。地中海の海運不況と、貨物のコンテナ化のおかげで、コロンブス以前から繁栄を誇ったこの港町にも昨今は不景気の風が吹きまくっている。かつてのように泡銭《あぶくぜに》でポケットを脹《ふく》らませた船乗りたちが露路いっぱいに溢《あふ》れかえるといった光景は今や記録映画の中でしかお目にかかれない。
アルキメデスは、その寂しい懐具合を補うため、もう一つ人には言えない仕事を持っていた。彼の資本は、ロードス島の漁師だった両親から受け継いだもの、つまりその腕っぷしである。
日暮れてこの通りへ迷いこんで来る恐《こわ》いもの見たさの地所《よそ》者《もの》に、マーメイドの彫りモノが入った丸太のような腕を突き出して金めの物をチョイスする。一見楽な商いのようだがこれも近ごろではカモの絶対数が不足して、思うように儲《もう》からない。
「ああ、こう不景気じゃやってられねえや。これじゃあ客船でボイラー・マンやってた頃《ころ》のほうがまだマシってもんだ」
彼は古ぼけた街灯を拳骨《げんこつ》で打ち、タメ息をついた。
なにげなく前を見れば、薄暗い横丁を一人の老人がやってくるのが見える。仕立ては古いが上等な生地のサマースーツを着たその老人は、手にした紙キレと錆《さび》の浮いた通りの表示板を交互に見比べ、しきりに首をひねっていた。
おっ、久々のカモだな。アルキメデスは、ハンナ・バーバラ・プロのアニメに出てくる狼《おおかみ》のように思いっきり舌なめずりした。
老人の入ってきた横丁は、バルセロナ装飾美術館の裏から続いている道である。団体コースからはぐれた観光客だろうか。
アルキメデスは、煙草を汚水の溜《たま》った溝《みぞ》へ放り込み、街灯に寄りかかった。
老人はキョロキョロとあたりを見回しながら彼のそばに歩いて来た。
「爺《じい》さん、どこへ行こうってんだい?」
アルキメデスは何気ない風を装って聞いた。
「中国人《チーノ》地区というのはここかね?」
「ああ、そうさ。バレアレス大通りの一本こっち方は全部そうだ」
老人は弱りきったように紙キレを顔の前でひらめかせた。
「ペレス通り十四の……バル・カラマーレス≠ノ行きたいんだ。知ってるかね?」
ペレス通りの十四? どこかで聞いた名だな。彼は首をひねった。何だ、そこは……。アルキメデスは、バカバカしくなった。自分の親方が経営する売春宿があるところじゃないか。
なるほど、この野郎はバルセロナの夜をエンジョイしようとホテルからフラリと彷徨《さまよ》い出た助平《すけべい》ジジイってとこか。
それならますます遠慮はいらねえや。彼はニヤリ笑った。
「この奥がペレス通りさ。言っておくがここは女を買う場所だ。爺さんが行っても笑われるのがオチだぜ」
「いや、いいんだ。私は別にそういう用事で行くわけじゃない」
老人はにこやかに答える。アルキメデスはゆっくりと街灯から離れ、彼にそっと寄り添った。
「どれどれ、住所を見せてみな」
アドレスが書いてあるらしい老人の紙キレを覗《のぞ》きこむふりをして肩に手をまわす。
そのまま太い両腕で相手の首ったまを絞めあげ、左の膝頭《ひざがしら》で相手の左脇腹を思いっきり打つのがこの無頼漢の常套《じようとう》手段だった。
アルキメデスは、老人にしては意外に逞《たく》ましいその肩へ後ろから手をかけ、腕に思いっきり力を入れた。
「ウグッ!」
次の瞬間、うめき声をあげたのはアルキメデスのほうだった。右|肘《ひじ》が彼の左脇腹に食いこんでいる。かん髪《はつ》を入れずに老人の左肘が素晴しいスピードで左|肋骨《ろつこつ》の下に当った。
アルキメデスはブルーと白の横|縞《しま》Tシャツに包まれた腹を押さえて、頭から露路に転がった。
「ダニめ」
目の前に上等なコンビの靴が近づいてくる。彼の長い揉み上げがつまみ上げられた。アルキメデスは引きずられるようにして顔をあげ、うめいた。
「お前の名は何という?」
老人は顔をのぞきこんだ。
「ア……アレキサンドル・ヒポポタマス・グレゴリオ・ユスティニアス・デメトリオ……」
ここで彼はちょっと息を継いだ。
「……ミハエル・アンピテアトルム・ティマイオス……アルキメデス・パパブロス」
「それで終りか?」
彼は苦しそうにうなずいた。
「ギリシア人だな。船員くずれか」
「爺い。こんなマネしてただで済むと思うなよ」
アルキメデスは身体《からだ》を捩《よじ》ろうと努力したが無駄だった。腰と肩甲骨の上にものすごい圧力がかかっている。
「なるほどな。バルセロナの町は『ヘラクレスによって築かれ、カルタゴによって拡大し、ローマによって飾りつけられ、西ゴートによって輝き』ギリシア人によって汚されるというわけか」
背中の急所を両足で押さえつけた老人は皮肉っぽく言った。
「聞いたふうな口をたたくんじゃねえ。テメエは知らねえだろうが、な。俺《おれ》はこの辺を取り仕切っているフェルジナンド親分の身内……イテテテ」
「ほう、お前さんはフェルジナンドの手下か。それは都合がいい。ちょうど奴《やつ》のところに行こうとしていたところだ」
老人は、アルキメデスの大きな身体を軽々と石畳から引きずり上げた。
「案内しろ」
「ち、ちょっと待ってくれよ」
急に気弱になったギリシア人は、オドオドと服の土埃《つちぼこり》を払う素振りを見せる。
「あんたガルシア・シビル(民警)の捜査官か?」
老人は首を振った。背を丸めてズボンの裾《すそ》を払っていたアルキメデスは、そのわずかな隙《すき》を見逃がさなかった。
「くたばれ!」
白刃|一閃《いつせん》、足首に巻いたベルトからナイフを抜いた彼は、老人の胸めがけて一気に突き出した。肉に鉄片の突き立つ鈍い感触……。しかしその期待は〇・二秒ほどでものの見事に裏切られた。
ビシリ、という音とともにナイフは石畳の上へカラカラと音を立てて転がった。
「痛え」
手首に手刀を食らったアルキメデスは衝撃で壁に吹っとばされた。
「くだらんマネはやめろ」
老人はノラ猫でも捕まえるような気軽さで彼の首筋をつかみ上げる。
「さっさと案内しなければ、次は肋骨をへし折るぞ」
手首を押さえてアルキメデスは渋々と歩き出した。
どうなることか、と戸口の陰から様子を窺《うかが》っていたペレス通りの娼婦たちは、打ちひしがれて歩くこの憎まれ役へ一斉に嘲笑《ちようしよう》を浴びせかける。
「いい格好だよ、ギリシア人」
「ちょいと旦那《だんな》、そいつをこのまま港に放りこんじゃっておくんなさいよ」
老人は歓声をあげる女たちに笑顔で会釈しながらアルキメデスを引き立てて行った。
「ここか?」
「そうだ」
ピンクのネオンが瞬《またた》くガラの悪そうなバーの前でギリシア人はフテくされる。
「事務所の入口は?」
十八世紀の中葉、カタロニアが繊維輸出で栄えた頃、盛んに建てられた倉庫兼用の商館群が時代が下るとともにスラム化し、ついには魔窟《まくつ》に成り下った。おおかたそんな来歴を持つ建物なのだろう。窓や張り出しの間には当時の海運業者たちが好んだ帆船や神話の海獣、水精《ニムフ》やポセイドンといったレリーフがビッシリと彫りつけられている。
アルキメデスは彫刻に飾られた中二階の窓を顎《あご》でしゃくった。
「あそこだ」
「じゃあ、先に入ってもらおう」
二人は階段の踊り場にたむろする女やチンピラをかき分け、事務所のドアに向った。
「何だてめえは?」
待ち合い室にたむろしていたガラの悪そうな男たちが椅子《いす》を蹴《け》って立ち上る。
老人はアルキメデスを仲間の方に突き飛ばし、スーツの襟元を整えた。
「ルイス・フェルジナンドに会いたい」
「何だと」
親分の名を呼び捨てにされた室内の連中は、一斉に拳銃を抜いた。
「うるせえぞ。なに騒いでやがる」
奥のドアが開き、肌の色が黒人と見紛《みまが》うほどに黒く日焼けした口髭《くちひげ》の男がのっそりと現われた。
「こいつがボスに会いたいとぬかしやがって」
一人が老人を指差す。いぶかし気に顔を向けた口髭の男は目をいっぱいに見開いた。
「こいつは驚いた。|デュボア中佐《コロネル・デユボア》じゃねえか」
「しばらくだな、ルイス」
老人は目を細めてほほ笑んだ。ルイス・フェルジナンドはダリ風にチックで固めた口髭を指でよじり、数秒間ポカーンと口を半開きにしていたが、やがて同じように目を細めた。
「天から月でも降ってくるんじゃねえのかな」
ルイスは老人の差し出す右手を強く握った。
「奥に来いよ」
「うむ」
ヤクザ者たちの間にホッとした気配が漂う。拳銃に安全装置《セーフテイ》がかかる音を背中で聞きながら、ジャン・ピエール・デュボアは奥の部屋に入った。
天井《てんじよう》の高いやけにダダッ広い室内である。正面には、大きな羽根を広げた鴨嘴獣《かものはし》や貝殻《かいがら》の下半身を持つ羊《ひつじ》といった奇怪なイメージのレリーフが跳ねまわる巨大な暖炉が見えた。レリーフは柱を取り巻く蔦《つた》や葡萄《ぶどう》の蔓《つる》に変ってうねうねと部屋の四隅を一順し、梁《はり》の部分を這《は》い上ってその末端を天井のコンセントへ絡みつかせていた。昔はそこに華麗なシャンデリアでも吊《つ》られていたのだろう。が、今は安っぽいサークル・ライトが下っている。壁面は見るも無惨なものだった。バナナ・イエローの向日葵《ひまわり》とパイナップルの描かれた薄汚れた壁紙が、レリーフの部分を残して乱暴に張りつけられている。露地の娼婦溜り同様粗雑きわまりない室内だ。
ピエールが入ると同時にドアがバタリと閉まった。振り返ると痩《や》せた目つきの悪い男が一人、ドアのノブを後ろ手に押して立っている。
「ああ、気にすることはねえ。そいつは俺の左手みたいなもんだ」
つまり秘書兼ボディガードということか。ピエールは、腹の中に寄生虫でも飼っていそうなその男へ軽く会釈すると、ルイスの方へ向きなおった。
「だいぶ老《ふ》けたな、中佐」
エムペシナード(地黒)<泣Cス・フェルジナンドは古ぼけた事務机の奥に坐り、手前の椅子を指差した。ピエールがそれに従うのを見澄ますと同時に、痩せたボディガードはゆっくりとドアから離れてルイスの脇に立った。
「おたがいさまさ」
「違えねえ。最後につるんで仕事をしたのは……」
「一九六七年の八月にコンゴのエリザベス・ビルで」
「ずいぶん経《た》つなぁ。おいロペス、この|マエストロ《せんせい》は、な」
ルイスはボディガードに向って陽気に話しかけた。
「たいした仕事師なんだぜ。コンゴで三度目のカタンガ反乱が起きた頃の話だ。スタンレー・ビルに武器を送ろうとした俺の輸送機へ、カタンガの|渡り傭兵《ワイルド・ギース》に化けて乗り込んで来やがってな。コンゴ河右岸にあった反乱側の仮設飛行場へ着陸しようと機体から脚まで出した時、センセイはやにわにハジキを操縦席の俺に突きつけて、『左岸の政府軍基地に着陸しろ』とぬかしやがった」
ルイスは大きな口を開けてゲラゲラと笑いこけた。
「俺をあそこまで追いつめたのは、後にも先にもこのマエストロだけさ」
「あの時は、お前だって飛行機を丸ごとモブツ(当時のコンゴ大統領)に転売して、大儲《おおもう》けしたはずだぞ」
ピエールはルイスの言葉に冷静な声で言い返した。
「転んでもタダで起きるな。手を伸ばして石コロを掴《つか》め、だ」
ルイスは机の上に載った木箱を開いてピエールに示した。ピエールは、そっと首を横に振る。
「知ってるか? 俺は武器の密輸をやめたんだ」
箱からラ・コロナ・コロナを一本取り出したルイスは、セロファンと薄紙を荒っぽい手つきで剥《は》がすと端の方を噛《か》み切り、口にくわえる。ロペス、と呼ばれたボディガードが心得た、とばかり火をつけた。
「今は、女と酒の商売だ。たまにはコルシカ経由でイタリア人にアメリカ煙草を売るが、それ以上ヤバイ橋はもう渡らねえ」
「そうか」
「俺はバルセロナが気に入っている。フランコが死んで、マリファナが解禁になっちまってからチョッピリ稼ぎは減ったが、今のまんまでも食うに困らねえ。だから」
バルセロナの裏町を仕切る元密輸商人は、そこで少し声をおとした。
「俺はもう、オメエさんの仕事を手伝いたくはねえんだ。この年でアフリカはもう無理だ」
「待てよ、ルイス」
ピエールは片頬に微苦笑を浮かべ、手を振った。
「私はそんなつもりでここに来たんじゃない」
「まさか」
ルイスは、ヤニで黄色く染った前歯で葉巻の吸い口を噛《か》みなおした。
「誰かの差し金で……」
「この俺を」という言葉を彼がつぶやくと同時にボディガードは机の脇をツッと離れ、上着のボタンを外した。
フム、なかなか良く教育されている。ピエールは眼の端でロペスの右腰に付けられた茶色い皮ケースをす早く確認した。銃口が細っそりとした自動拳銃用ホルスター、・三二口径のアストラか。伊達《だて》男《おとこ》が持つハジキだ。
「相変らずの早とちりだな、ルイス。私のような老いぼれを誰が傭うというんだ」
ピエールは敵意がないと見せるため両手をゆっくりと椅子の肘かけに載せた。
「じゃあいったい何の用だ? まさか俺に傷害保険を勧めに来たわけじゃないだろう」
ルイスは用心深く尋ねた。
「さっき話していたスタンレー・ビルの件さ」
部屋の内装を見まわしながらピエールはのんびりと答えた。
「コンゴ河の左岸に輸送機を降ろす際、お前が言った言葉を私はまだ忘れてはいない。ルイス、操縦席でお前はこう約束したはずだ。『モブツ大統領に命乞いと武器の転売を斡旋《あつせん》してくれるなら儲けは折半《ハヴイング》だ』」
「あれをまだ覚えているのか」
「つい最近まで忘れていたんだ。ところが、急にやらねばならぬことが持ちあがってなぁ」
ピエールはルイスの目にチラリと警戒の色が走ったのを見てとった。
「資金が必要になった。どうしたものか、といろいろ思案していたら、お前との約束を思い出した」
「困ったな」
ルイスは眉《まゆ》にシワを寄せた。
「いや、払わないというんじゃないんだ。ただ、大金だからな。ここには無い。明朝、銀行が開いたら」
ボディガードの右腕がスッと持ち上った。
「お前が銀行口座を持っているとは思えない」
袖口《そでぐち》のカフスボタンをいじりながらピエールは苦笑する。
ルイスが口にくわえていた葉巻を離した。それが合図だったのだろうか。ボディガードのロペスが上着を跳ね上げ、腰をひねった。
「ギャア」
シッポを踏まれた猫のような悲鳴が高い天井に響き渡った。声をあげたのはロペスである。彼は痛みで歯を食いしばりながら自分の利き腕を見つめた。細目のナイフが手の甲を突き通しホルスターの止め皮にまで達している。
ピエールは椅子から立ち、床に転がっている|撃鉄なし《ハンマーレス》の自動拳銃を、農夫が落ち穂でも拾いあげるようなごく自然な動作で取り上げ、重さを計るように手のひらでもて遊んだ。
ロペスは自分の手と腰を縫いつけているナイフを抜き取り、左手に持ち代えて構えた。
「ほう、若いのになかなか根性がある」
ピエールは手にした拳銃のスライドをパチンと引いた。薬室に込められていた七・六五ミリのカートリッジが排莢《はいきよう》口からピーンと弾《はじ》き出されて床に落ちた。
「ロペス、よせ」
ルイスが葉巻を顔の前で振りまわして立ち上った。紫煙が困り果てた彼の顔を包みこむ。
「ボディ・チェックをしなかったのは失敗だった」
袖口から抜く手も見せず|飛び出し《スプリング・ナイフ》を投げる手並みを目の前で見せつけられて、彼はそっと肩をすくめた。
「この野郎は気が早くってな。すぐ勝手に動きやがる」
相手に戦意がないと悟ったピエールは、拳銃のマガジンを抜いて、もう一度スライドを引き、薬室の弾を排莢して元の持ち主にそれを投げ返した。
「老いてますます盛ん、だな」
「それほどでもない」
「隣の部屋から経理を呼んでいいか? 当時のレートで計算しなけりゃならねえ」
「それならもうすませてある」
ピエールはポケットから紙キレを取り出して机の上に放った。
ルイスは無表情にその紙を広げ、しばらく見入っていたが、吸いかけの葉巻を灰皿に置くと暖炉の方に歩き出した。
彫刻が施された炉の縁に手をかけ、力をこめてグッと引く。蔦《つた》のレリーフが刻まれた壁の一部がポッカリと開き、古ぼけた金庫の把手《とつて》が顔を出した。
ルイスは慣れた手つきでダイヤルを回し、扉を開ける。中には各国の雑多な紙幣の束や証券、赤いワックスにスペインの国章をスタンプした土地権利書がギッシリと詰めこまれ、一番上に重石として一|挺《ちよう》の婦人用拳銃が置かれていた。
拳銃に手をかけた彼は一瞬ためらい、すぐにそれを横に押しのけて緑色の札束を五つ掴《つか》み出し、扉を閉めた。
「十万ドルだ。端数はサービスだぜ」
机の上にポンと投げ出し、バルセロナの顔役はタメ息をつく。
「ありがとう。受け取りを書こうか?」
「そんなものはいらねえ」
ピエールは、四つの札束を横にして眺め、厚さを計って内ポケットに収めると、残りの札タバ一つを片手でルイスの方に押しやった。
「何のマネだ?」
椅子に坐りなおしたルイスは怪訝《けげん》そうに札束を見た。
「これで情報を買いたい」
ルイスはピエールの真意がどこにあるのか推し量ろうと、ジッとその眼を見た。
「ある人物の情報だ」
ピエールは言った。
「同業者はゴメンだぜ。ウチの業界には仁義ってもんがある」
「この手の業界人じゃない」
「誰だ?」
「フィリップ・モンフェランを知っているか?」
「元セデック≠フ?」
「そうだ」
ルイスは灰皿から葉巻を取り上げて食わえなおした。
「知ってるも、なにも」
葉巻の火が途中で消えていることに気付いた彼はボディガードの姿を目でさがした。ロペスは部屋の隅でハンカチを傷口に当てて痛みに堪えている。彼は舌打ちするとポケットをさぐって、マッチを取り出した。
「俺は野郎とその部下に船を一隻沈められているんだ。ビアフラの戦争が始まる直前に」
シュッとマッチを擦り、消えた火口に炎を近付ける。
「オットー・スコルツェーニ(ムッソリーニ救出作戦で有名な元ナチス特殊部隊出身の武器商人。七五年にマドリッドで死亡)がビアフラのオジュク将軍へ送るためにかき集めてくれた小火器だった。ポルトガル領サントメ島の沖合いまで運びこんでアト一歩というところでドカンだ」
煙を盛大に吐き出してルイスはいまいましそうに言った。
「フランス情報部め。表面じゃビアフラを支援している振りを見せておきながら、裏へまわって足をひっぱりやがった。あいつに何か用があるのか?」
「殺す」
ピエールは、ボソッとつぶやいた。
「何?」
「ここのあたりにダムダム弾でも射ちこんでやろうと思うんだ」
老人は白い髪で覆われた自分の額を指で差し示す。ルイスは目を細め、葉巻の煙を口の端から細長く吐いた。
「そいつはいいや」
彼は口髭をしごいて含み笑いをしていたが、やがて堪えきれないといった風に歯を剥《む》き出してゲラゲラと笑い始めた。
「よく出来た冗談だ」
「私は本気だ」
ピエールはあくまで冷静だった。
「フランスに潜りこんで寝首を掻《か》いてやる」
ルイスは笑い声をピタリと止めた。ピエールは話し続ける。
「奴がどこか民間会社に天下《あまくだ》りして優雅に振舞っているということは私も知っている。が、それ以上の情報が今のところ手元にないんだ。長いこと辺ぴな土地に住んでたんでな。だから、この金で」
指で札束をパチンと弾く。
「奴に関する情報を買いたい」
ルイスは彼の顔をまじまじと見つめた。
「中佐。あんた今までいったいどこで暮してたんだ?」
ルイスは肩をすくめて手を広げた。
「フィリップの野郎は、たしかに情報部を辞めて民間に鞍替《くらが》えしている。半官半民のデカイところだ。政治の裏を全部知ってやがるからな。政府が口止めも兼ねていいポストをあてがったんだろうよ。今じゃあんたもよく知ってる会社の社長様さ」
「私がよく知っている……?」
「マルス・ミュトライエーズ」
指を拳銃の形に突き出し、ルイスは口先で「バン、バン」と子供のように擬音を作ってみせた。マルス・ミュトライエーズ。軍神マルスの商標を刻印したその機関銃《ミユトライエーズ》を抱えてアジア、アフリカを転戦した記憶を持つピエールは信じられない、といった表情で片方の眉をもち上げた。
「さっき、フランスで奴を狙《ねら》うといったな」
ルイスは、葉巻の灰をポンと弾く。
「あのクソ野郎はヨーロッパにいねえぜ。何でも、日本に出かけたとか……、今日の朝刊に出ていたな」
老人は椅子の肘かけをギュッと握って腰を浮かせた。
「日本!」
「あんたもタイミングの悪い男だ」
ルイスは椅子をクルリと回転させると、窓にかかった真っ赤なカーテンへ手を伸ばし、力いっぱい引いた。
露地で点滅するネオンの光が一斉に室内へ流れこむ。
「日本か」
ピエールは浮きかけた身体を再び椅子に落ちつけた。
「なあに、バカンスみたいなもんだろう。すぐに帰ってくるさ。それまでじっくり計画を立てて野郎の帰国を待ったらどうだ?」
唇を噛んで考えこむ老人にバルセロナのボスは気楽な調子で語りかけた。
「そう気を落すなよ」
「日本か。そうだ……あそこなら」
ピエールの端正な横顔がピンク色のネオンに照らされて輝いた。
「おいおい、|マエストロ《せんせい》。まさか奴を追って行こうってんじゃないだろうな」
ルイスは思わず葉巻を口から離した。
「兵器会社の社長なら、国内にいる時はテリーヌの中に詰ったパテみたいにガッシリと警備されているに違いない。しかし、旅先ならば」
ピエールは自分の思いつきを必死になってまとめようと視線を宙に漂わせている。
「やめとけよ。あれぐらいの大物を殺《や》るとなると、サポート役だって最低二人は必要だ。見も知らぬ国で、どうやってそれを見つける? 武器はどうする? 仕事を終えた後の脱出ルートは?」
口髭をしごきながらルイスはたたみかけた。
「日本か《ル・ジヤポネ》」
ピエールはもう彼の言っていることが耳に入らない様子である。何度も何度も同じフレーズを口の中でくり返している。ルイスは、やがて肩をそっとすぼめた。
こいつは救いようがねえ。彼は自分の周囲に少しずつ見えない殻を積み上げている男の横顔から顔を背け、短くなった葉巻の火を眺める。ルイスは、ふと昔読んだ絵本の粗筋《あらすじ》を思い出した。ロンダの名|闘牛士《ロメーロ》の話だ。危険な夏≠何度も経験し、五体満足で引退した老人が、昔の栄光忘れがたく、哀れな道化闘牛士となって闘牛場に戻ってくる。人々は彼を嘲笑するが、彼はそれに堪えてチャンスを窺《うかが》う。やがて死神のような黒い雄牛がロンダに登場する。若い闘牛士が次々にその角にかかって倒れた時、老人は最後の見せ場が自分に与えられたことを神に感謝して、さっそうと雄牛の前に飛び出す。彼は見事サーベルを雄牛の急所に突き通すが、しかし老人もまた角で脇腹を刺され、ロンダの人々の前に倒れるのだ。
どうかしているぞ、ルイス。彼は自分を罵《ののし》った。なんでこんな男に同情する? こいつは二十年近くも前の契約を盾に今日突然やって来て、ロペスを傷つけ、お前から十万ドルを吐き出させ、あげくの果てにはフランス財界の大物を殺すための情報をよこせとぬかすキ印だぞ。だが……。
「中佐、日本に一人協力してくれそうな奴がいる。あんたもよく知っている男だ」
「誰だ?」
ピエールは顔を上げた。
「あんたと同じ元OASさ。アンゴラで一時あんたの部隊にいたこともある。コルシカ人で……」
「アンリ、か」
ルイスは下唇を突き出してうなずいた。
「彼は日本にいるのか?」
「風の便りでは、今じゃすっかりカタギになっているという話だがなぁ」
「アンリ・ソンギネッティ」
ピエールは、いかにもコルシカらしいその名を数回|呪文《じゆもん》のように唱えた。
「よし、至急フィリップに関する情報と、アンリの居所を調べてくれ。できれば明日の昼までに」
「何とかしよう」
「アスタ・マニアーナ(時間にルーズなスペイン人のきまり言葉)じゃ困る」
「サンタ・エウラリア様(バルセロナの守護聖人)の名にかけて」
ピエールはにっこり笑うと椅子からサッと立ち上り、ドアの方に向った。手の甲にハンカチを巻いたロペスがいまいまし気な表情でドアのノブをひねった。ルイスはあわてて声をかける。
「お、おい。もう行っちまうのか? 連絡先は」
「連絡はこちらからするよ。|さよなら《オルボアール》」
ピエールは来た時よりも若々しい足どりで風のように部屋から出て行った。
6 豆屋善兵衛の嘆き
「けったいなモンやなあ」
定吉は、孟宗竹《もうそうちく》の藪《やぶ》を背にしてチンマリと踞《うずく》まっているその物体にソッと顔を近付けた。
それは、高さ一尺ほどの苔《こけ》むしたヒョロ長い石柱である。
表面には、なにか固いもので引っかいたような傷が無数に付き、角《かど》も丸く摩滅《まめつ》している。根元のあたりは、と見るとこれはもう完全にえぐれてしまって無惨なありさま。まるで末成《うらなり》のナスビを垂直に立てたような形をしている。
「こないなモンが何で人気集めたんやろか?」
定吉は下唇を突き出し、肩先をチョッとすぼめた。茶の麻ちぢみに包まれた彼の細い肩がコキリ、と鳴る。その音は意外に大きく竹林の中に響き渡り、思わず彼はあたりを見まわした。
定吉が最前より見つめていた「石」。それは大変な経歴を持っているのだった。
元和《げんな》元年というから、今から約三百七十余年程も昔のこと。すでに大坂城総堀が徳川家康の奸計《かんけい》にかかって埋まり、城方が東軍よりはるかに少ない人数で野外決戦を強いられるまでに追い詰められていた頃《ころ》の物語である。
同年の五月六日、冬の陣で活躍した侍大将木村|長門守重成《ながとのかみしげなり》は、大坂城|玉造口《たまつくりぐち》から兵四千五百で河内《かわち》方面に押し出した。出発は丑《うし》の刻というから今の午前二時頃だろうか。城内に籠《こも》る数万の女性たちは皆こぞって起き出し、彼の勇姿を見送るべく玉造の城門に群がった。記録によると重成は、新妻に命じて兜《かぶと》へ香を薫《た》き込ませ、しかもその兜の顎緒《あごひも》の端を切り捨てていたといわれる。二度と生きては帰らぬ覚悟を表わしたものであり、結果は彼の求めた通りになった。この日の午後、炒《い》りつけるような西日の中で、彼は東軍|井伊直孝《いいなおたか》の手に属する安藤長三郎なる一不良少年に、乱戦のさ中《なか》首を掻《か》かれたのである。
少年は、この勇将討ち取りの功により戦後五百石を加増されたが、これが安すぎるとして戦後井伊家を見かぎり、家康の重臣である一族の長老安藤|帯刀《たてわき》のもとに走った。帯刀は少年の行動に対して怒り、如何《いか》に慮外《りよがい》の振る舞いぞや、長三郎! と怒鳴《どな》ったと「武功雑紀」には記されている。「よく聴けよかし。大軍の総大将討たるるは、惣《そう》じて敗軍の中にあり士卒《しそつ》離れたるの時なり。これ(木村重成)を討ったとて、さのみ武辺人《ぶへんひと》より秀《すぐ》れたりとは申さぬぞ。おおかた手負いたるところを安々と討ったのであろう。その方のごときものに井伊家はよくも五百石を与えたものぞ」。まさにその言葉通りの状況で首をあげた少年は長老の言葉にベソをかいた。帯刀は彼をつれて井伊家に詫《わ》びを入れ、井伊家もこれを丸く収めるため、後にもう五百石与えなおしたという。長三郎の子孫はこの粗忽《そこつ》な先祖に討たれてくれた重成の墓を河内|八尾《やお》にたて、毎年祥月命日には供養を欠かさなかった。美談といえば美談である。
「石」の由来はこのあたりから始まる。
重成が死んで二百年後、イギリスで産業革命がその頂点に達し、フランスではスタンダールが「赤と黒」の書き出しで四苦八苦していた文政八年。大坂の町民が突如狂乱した。夜半丑の刻になると町々の民が路上へ飛び出し、口々に「無念じゃ、残念じゃ、ムネンじゃ、ザンネンじゃ」と唱えつつ郊外の八尾に向って走り出したのである。彼らは老人あり幼児あり職人あり商家の婦人ありと区別無く皆もみ合って河内の街道を進み、明け方になって木村重成の墓に至るとこれを伏し拝み、墓石を争うようにして欠き取った。例の安藤長三郎の子孫がたてた墓石を、である。町民はこれを「無念塚詣り」と称してくり返し、ついには大坂西町奉行が乗り出して取り締まる事態となった。が、なかなか収まらない。「無念詣りで欠き割った石は、粉末にして飲めば万病にききますのや」と人々はおめき走り、墓石は見る間に無惨な形となった。
これを伝え聞いて悲しんだのが江州|蒲生《がもう》郡|馬淵《ぐんまぶち》村の豆商人である。彼の地の記録によると、木村重成の妻青柳が身重《みおも》のまま大坂から落ちのびて来てこの村に住みつき、やがて重成の子を生んで死んだとされ、村のおもだった家は重成の子孫伝説を持っていた。
豆商人はある日|裃《かみしも》姿に威儀を正して八尾の西郡《にしごおり》にある墓を訪ねると、参詣《さんけい》の群衆をかき分けて墓前にぬかずき、
「やあ、わが御先祖様よ。こらいったい何という仕儀でござりまするか?」
と呼びかけた。
「あんた様が妙な御利益《ごりやく》を衆に及ぼしておりまするおかげで墓前がエライ見苦しいありさまでござりまするがな」
彼は墓のまわりを指差し、花菱《はなびし》アチャコみたいな声をあげた。
「見とくんなはれ、このキッチャない供物クズやら酒カスやら。あげくの果てには御身の石まで削られてもうて。もうムチャクチャでござりまする」
豆商人は両手を泳がせてヨヨと泣きくずれ、
「この上は、そないなアホな御利益の下さり方はやめとくなはれ。墓は井伊家の御家中(安藤家のこと)に申してたてかえてももらいましょう。わたくしめも参詣者用に、削っても良い石を墓前に寄進させてもらいます。何が悲しゅうて御討死の後もややこの寝小便止めやら婆《ばば》の腰痛止めのためにセッセと立ち働きせなならんのでっか?」
と祈ったものだから人々が皆同情し、やがて、さしもの「無念塚詣り」も下火となったという。
豆商人は安藤長三郎の子孫とともに墓を補修し、削りこぼれた墓の残石を貰《もら》って大坂の町に出、これが良き機会と商いを始めた。重成の導きだろうか、店は年とともに繁盛、ついに「立売《いたち》堀《ぼり》(現在の西区堀川)の豆屋」と言えば誰一人として知らぬもののない大店《おおだな》に成り上ったという。
「これが、その重成サンの石か」
定吉はセトモノの榻《とう》(庭園用の腰かけ)から腰を上げ、石の前にしゃがみ込んだ。
ザラついた表面を指でなぞる。何やら戒名らしいものが彫られているが、判読することができない。江戸末期の町民たちはいったい如何《いか》なる理由でこの削り粉が夜泣き、冷え症、カンの虫にきく、と思い込んだのであろうか。
定吉は、浪花《なにわ》人の現世利益を求める行動の不可解さに首をひねった。
どこかでヒグラシがカナカナカナ、と寂しげな声をあげている。竹藪をかき分けた涼風が石を覗《のぞ》き込む彼の頬《ほお》を撫《な》でて通り過ぎた。
「ほー、どうやら、やっとしのぎやすい時間になったらしいなぁ」
定吉は短く刈り上げた後頭部を押さえた。むさくるしい御隠居のお供で歩きまわるという苦痛もこれで少しは楽になるというものだ。
「そやけど、あのゴリガン隠居、いったいいつまで待たせるつもりなんやろか?」
彼は石の前から腰を浮かせ、孟宗竹の茂みを透して彼方《かなた》を仰いだ。
藪の向うは透垣《すいがき》(小竹を編んだ垣根)に囲まれた大きな庭園である。小豆島《しようどしま》産の岩石を組み合わせた勇壮な作りの廻遊《かいゆう》式の庭で、池にはかきつばたが青い葉をひらめかせていた。池の縁《ふち》、小さな石橋の掛かったあたりに二つの人影がある。
和服姿の老人だ。背格好は二人ともひどく似かよっている。
「同じような暮しぶりやと人間は姿かたちまで似るモンらしいなぁ」
定吉は小手をかざして二人の動きを観察した。一歩先をゆっくりと歩いている黒い小千谷駒《おぢやこま》上布の単《ひとえ》姿がこの庭の持ち主、豆屋の善兵衛である。髪の毛が薄く、人の良さそうなタレ目顔、目尻《めじり》の大きなシワがフラミンゴの足跡みたいに見える。両の手を腰のあたりで広げ、雑巾《ぞうきん》がけでもするようにたえず振りまわしている。軽い中風にでもかかっているのだろう。
彼のすぐ後ろを小難しい顔つきで歩いている老人が定吉の御隠居はんである。
白っぽい伊予絣《いよがすり》に芭蕉布《ばしようふ》の袖無し羽織、短く刈り上げた白髪頭をふり立て、愛用の朱塗りナタ豆|煙管《ぎせる》を口の端でねぶるこの老人こそ、関西財界人の利権を守るためあえて非合法活動も辞さない影の組織「大阪商工会議所秘密会所」の元締め、「土佐堀の御隠居」こと千成《せんなり》屋宗右衛門その人であった。
「ジジムサイもん同士よう気が合うとるらしいな。いったいナニ長々と話し込んどるんやろか」
せめて唇の動きで何かつかめるのでは、と定吉は垣根の方へ背のびをしたが、
「あかん、爺《じ》いやんの会話はモゴモゴしとって、なんや全然読みとりにくいわ」
と、早々あきらめて腰かけに坐《すわ》りなおした。
「なあ、千ちゃんや」
豆屋の御隠居、六代目|叶善兵衛《かのうぜんべえ》は、自分の後について歩く人物へ親し気に呼びかけた。
「おたがい年とったもんじゃのう」
「さいな」
空《から》のナタ豆煙管をくわえて千成屋宗右衛門はうなずいた。他人の庭のこととてタバコに火をつけることを遠慮した彼は、火口からたえずプープーと音を立てて息を吹き続けている。
「最後に二人して仕事したんは、いつのことやったかいなぁ」
「チョーセン戦争の頃《ころ》や。北鮮のタンクが三十八度線越えて、GHQがテンヤワンヤになった時やがな」
「ああ、そやった、そやった」
善兵衛はペコちゃん人形のように頭をブルブル振って笑った。
「ほれ、二人してアパッチ≠竄チたやないか。忘れたんか?」
アパッチ≠ニはクズ鉄盗人のことである。終戦直前、大空襲を受けて崩壊した東洋最大の兵器工場「大阪造兵|廠《しよう》」(今の大阪城公園)の近辺に出没して国有財産の鉄クズを運び出す連中を指す。終戦後の一時期二人はそのようなことをして口に糊《のり》したことがあるらしい。
「猫間川のルンペン指揮して、毎晩、大阪市警やら進駐軍のMPやらと、よう追っかけっこしたなぁ」
「しまいには市電の終電待って、レール外して売っ飛ばして……」
「ほんにエゲツないことしてたもんや」
善兵衛は石橋のふちに腰を降ろし、宗右衛門を手まねきした。
「皆食わんがため、店を再興させるためにやったことやないか。なりふりかまわず働いたおかげで先代が建てはったこない広いお屋敷も手放さんと済んだんやろ」
笑いながら宗右衛門は彼の隣に坐った。
しぼ皮のタバコ入れを腰から取り出し、煙管をその中にねじ込んで煙草を詰める。
火種を捜そうと袂《たもと》を探っていると、すかさず横の善兵衛がデュポンのライターを取り出した。
「お、スマンこっちゃの」
火をつけて見上げる宗右衛門の眼に青く輝く六甲の山並みが映った。
「今年はカラ梅雨《つゆ》やな」
「ほんに、なあ。今日は盆《ぼん》の市《いち》(盆供養の品を売る日)、梅雨明けのお広めもまだや言うのにあの空の色」
善兵衛もそれに和して空を見上げる。池の向うに広がる芝生の上でスプリンクラーがクルクルとまわり、緑の中に大きな虹《にじ》を作り上げていた。
芦屋《あしや》市|六麓荘《ろくろくそう》町、と聞けば阪神間の住民は皆一様に「ほーっ」という声をあげる。それは、もう羨望《せんぼう》も嫉妬《しつと》も通り越し、只《ただ》ただ茫然《ぼうぜん》自失、呆《あき》れるばかりといった風情で口を開けるのだ。
贅《ぜい》を尽した豪邸の塀が、万里の長城よろしく延々と続く芦屋山の手の中でもここは一際《ひときわ》その富裕さが目を引く地域だった。
香港《ホンコン》のイギリス植民地向け住宅地を模して昭和初期に開発されたここ六麓荘町は、驚くべきことに、半世紀前の日本にしてすでに電気・ガス・電話線を舗装路の下に埋設し、町専用の上下水、住民専用の路線バスも備えるという、まったく洋風の都市設計がなされていた。
六麓荘とは単に高級住宅地の名称ではない。それは関西が日本の富の大半を握っていた時代の巨大な記念碑なのである。
叶善兵衛の先代、五代目豆屋善兵衛は、この町へ最も早く移り住んだ大|分限《ぶげん》の一人だった。五代目はここに五千坪とも六千坪とも言われる敷地を購入し、晩年は数寄屋《すきや》作りの邸宅を次々に建てていく普請道楽《ふしんどうらく》≠ノ凝ったという。今、二人の老人が坐っている池の背後にひろがる広大な森の中に今もその建築群は当時のままの偉容を誇っている。
それは、全《すべ》て子である六代目善兵衛の努力の結果なのだった。
宗右衛門の隣で、ぽつねんと空を見上げる中風病みの隠居。彼は、その半生を大阪・立売《いたち》堀《ぼり》のお店《たな》と、親が道楽で残した邸宅の維持だけに費やしてきた。彼の物言いにどこか下卑《げび》た滑脱《かつだつ》さが感じられるのはその所為《せい》である。
老舗の定め、と言えばそれまでだろう。しかし、そのために大店の商人が非合法活動までして維持費を補填《ほてん》し続けるというのはやはりタダごとではたい。
「善ちゃん、おたがいあの頃は、よう身体《からだ》が動いたのう」
「さいな」
善兵衛は袂《たもと》から細く千切った麩《ふ》を取り出して池に撒《ま》き始めた。
アッと言う間に水面が沸き立つように盛り上り、金や赤の背びれが跳ねた。
「ほう、こらたいしたもんやな」
宗右衛門は石橋から身を乗り出した。
どの鯉《こい》も目の下三寸以上の大物ばかりである。
「可愛《かわい》いモンや。皆長生きしとるヤツばっかしで」
善兵衛の手から麩が放たれると、鯉たちは一斉に尾を接してその方向へ走り、大口を開けて食らいつく。
「日頃充分にエサあげとるというにこの足掻《あが》き様《よう》はどうや」
「すぐには食らいついてこんヤツもおるなぁ」
宗右衛門は顎《あご》をしゃくった。
橋の下が深く抉《えぐ》れ、水が淀《よど》んでいるあたりにひときわ大きな山吹色の鯉が悠然と胸びれをうごめかせている。仲間が水しぶきをあげて右往左往しているというのに、この鯉だけはそんなものどこ吹く風と、あらぬ方向を向いていた。
「あれはまた大きいな」
「善彦《よしひこ》が生まれた時に買《こ》うたヤッチャ。『菊水』言う種類でた。これもずいぶん長生きしとるで」
善兵衛は目を細めた。
「最近元気が無《の》うなったもんで生け簀《す》に入れて調べてもろたら……」
麩を一つポンと淀みの中に放り込んだ。
「ウロコの間へ寄生虫ビッシリ溜《た》めこんどった。動物病院持っていって虫を一つ一つピンセットでせせくる(掘り取る)大手術や」
山吹色の鯉は、のっそりと身をもたげ、眼前のエサを一口で嚥下《えんか》する。
「それが一か月程も前のことになるやろか。おかげさんで今はこないに食欲がもどってきてな」
「ホー、寄生虫なぁ」
「桃色の、ドギツい色したメメズみたいな奴《やつ》ちゃ。おっきな奴は一寸ほどもあったかいなぁ。あないな気色《きしよく》悪いモン見たのは後にも先にも……」
善兵衛は両手をプラプラと振っておおげさに怖気《おぞけ》立つゼスチャーをしてみせた。
「獣医は、ヨーロッパの池によくいる寄生虫や言うとった。去年の秋に隣の家の泉水が溢《あふ》れて、こっちゃの方にフナやらモロコやら流れて来たことがあったが、どうやらそのコマンジャコ(雑魚)にえげつないモンがくっついて来たらしい」
「他の鯉は大丈夫かいな」
「それがケッタイなことにな。この鯉にしか付いてへんのや」
「寄生虫に受けやすい体質なのかも知れんな」
宗右衛門は、欄干《らんかん》に両の手をついて淀みの大魚に眼を据《す》えた。
大魚も、五百円硬貨そっくりな目を剥《む》いて橋上の老人に眼《ガン》を飛ばし返す。
悠々たるもんやな。
宗右衛門は鼻から勢い良く煙草の煙を吐き出した。
善兵衛も欄干を伝って宗右衛門の脇《わき》に並んだ。
彼は袂を裏返して中に残っていた麩のクズを叩《たた》き落す。水面が再び騒がしくなった。大魚は、エサ目当てに押し寄せて来た他の群に押され、アッという間に二人の視界から消え去った。
「そうや。善彦君はどないしてる?」
橋桁《はしげた》の下を眼で追いながら宗右衛門はノンビリと尋ねた。
「それが……」
隣に立つ友人はフッと大きな息を吐き出した。一瞬、二人の間《あいだ》に妙な間《ま》が出来る。
宗右衛門は煙管をくわえたまま振り返った。
善兵衛は暗い顔つきのまま押し黙っている。
「どないしたんや。立ちくらみでも来たんか?」
故ローレンス・オリビエ扮《ふん》する瀕死《ひんし》のリア王そっくりの仕草《しぐさ》で善兵衛は首を振った。
「善彦君がどないかしたんか?」
「うむ」
打ち沈んだ声である。
「病気でもしとんのかいな?」
「そんなんやったらまだマシや」
宗右衛門は、善兵衛が孫ほども年が違うその跡取りの息子をいかに可愛がっているかを良く心得ていた。
「ほなら、何や」
「おなご……にチョッと入れこんどって……なぁ」
善兵衛は震えがきた右手首を押さえ、言いにくそうに口をゆがめた。
「なんや、そんなことかいな」
何を言い出すかと思えば……。宗右衛門は火の消えた煙管を腰の煙草入れに納めつつ苦笑した。
「善彦君のいつものオナゴ道楽やろ。ゆるしたれや」
「それが、善彦の奴、今は唐傘《からかさ》に天狗風《てんぐかぜ》や。舞い上ってもうてどうにもならん」
「息子さん幾つにならはった?」
「あの鯉と同じ年やから、今年の六月でちょうど三十路《みそじ》の坂の登りぞめや」
「……で、まだ独《ひと》りもん」
善兵衛はうなずいた。
「いい機会やないか。この辺で嫁もろうたったら、どや?」
宗右衛門は軽い口合《くちあい》でたたみかけた。
「善彦君がそのおなごに仁輪加《にわか》のくろんぼ(くびったけの意味)言うんやったら添わしたったらエエがな」
善兵衛は橋の擬宝珠《ぎぼし》に抱きついて、ゆっくりとこちらに向きなおった。
悲しげな微苦笑が彼の顔面いっぱいに広がっていた。池中の鯉と同じようにシワだらけの口を丸く開き、傘の台(首)を、浄瑠璃《じようるり》のさわりに触れた竹本義太夫みたいにゆらゆらと揺らしている。
数秒の沈黙。善兵衛は袖口で口の端のよだれを手荒く拭《ぬぐ》い、眼を閉じた。
「善彦がつき合うとるのは、……普通のおなごやない」
「性悪《しようわる》なんか?」
善兵衛は苦しそうな表情でうなずいた。
「もっとややこしい奴ちゃ」
宗右衛門は、いぶかし気な面持《おもも》ちで友人の顔を見上げた。
「あちゃらの航空会社でスチュワーデスやっとるいうふれ込みで善彦に近付いて来たらしいんやけど、これが富田林《とんだばやし》の女狐《めぎつね》でなあ」
「極道のヒモでも付いとったか?」
「そない可愛いいもんやない」
善兵衛はそこでノドをグビリと鳴らし、つばきをのみ込んだ。
「……『NATTO』のド女《めんた》や」
「何やて!?」
さすがの宗右衛門も思わず声をあげた。
関西文化を否定し、神田明神、東照大権現を崇《あが》め、「全関西人の食卓に納豆《なつとう》を」をスローガンに掲げて暗躍する謎《なぞ》の秘密結社。あの魔の手がとうとう自分の友人家族、いや大阪商工会議所秘密会所の後見役である老舗にまで及んだのである。これが驚かずにいられようか。
「そらほんまか、善ちゃん?」
「わしかて木村長門守の子孫、六代目豆屋善兵衛や。調べる方法ぐらい持ってるわいな」
善兵衛は吐きすてるように言った。
「大変なことになったもんやのう」
茶話にかこつけて久しぶりの呼び出し。何やらあるとは思ったが、まさかNATTOの陰謀とは。やはり定吉七番を供につれて来て正解だった。宗右衛門は定吉が控えている池の向う側をチラリと見た。
「千ちゃんも知っての通り善彦は、わしが四十もだいぶ過ぎてから、北の新地で店出しとった女に生ませた子ぉや。あの大阪大空襲でカカがいてもうてから、ずっとヤモメだったところに出来た一人っ子でな。可愛《かわい》くないはずがない。小さい時から欲しがるモンはなんでも与えたったが、……育てぶりが少々甘かったんかも知れん」
善兵衛は首を横に振った。
「いつそれがわかった?」
「一か月前に茶器倉の整理した時や」
彼は森の向うに見える古いナマコ塀の倉を指差した。
「先々代から我が家に伝わる『|犬月ヶ瀬《いぬつきがせ》』がどうしても見つかりよらん」
「犬月ヶ瀬」とは、織田信長が安土《あづち》城|竣工《しゆんこう》の前年、堺の数寄者《すきしや》から買い集めた名物の中に混っていたという平高麗茶碗《ひらこうらいぢやわん》である。明智光秀が信長を本能寺に殺し、信長のアホ息子|信雄《のぶかつ》が安土の城に火をかけた時、この茶器は他の名物とともに焼け失《う》せたと信じられていた。が、実は何者かによって持ち出され、人々の間を点々として、後年、古田|織部正《おりべのしよう》によって再び日の目を見た。織部正に発見された時は、京都で犬の飯碗になっていたという。「犬月ヶ瀬」の名は、その時織部正が名付けたとされる。大坂の陣の後、織部正が切腹を命ぜられると、この名器は堺に帰り、豪商今井家の縁者が所有するところとなった。豆屋の倉に入ったのは明治も末の頃である。先々代の善兵衛は、豊臣家のために家康を裏切った茶人大名織部正の気骨を愛し、一千円という大枚をはたいてこれを手に入れ、当時の新聞ダネになった。
「大騒ぎになりかけたところへ、京都古門前通の骨董《こつとう》屋がソレ持ってヒョッコリ現われてな。『こないな大名物、ウチのような小店ではよう動かすことが出来《でけ》まへん』と返して来よった。危いとこやったが、まずは安心と胸なでおろして、持ち込んだモンの人相風体を尋ねたら……」
「善彦君やったんか?」
善兵衛はテカテカと光るおでこを、コクンと前に倒した。
「……で、何事かと思うてウチの丁稚《でつち》たちにソッと調べさしたら、女に貢《みつ》いどったいうワケや」
彼は空をあおいだ。
「ホンにツルッパゲのケープ・ケネディや」
今のは「情け無い(NASAで毛がない)」のシャレかいな。善ちゃんホンマに疲れとんのやな。宗右衛門は視線を落した。
「近頃では女のところに居ずっぱりで、家にも寄りつかん。秋の株主総会では次期社長に指名されるかも知れんというのに……」
「ほなら、善彦君は」
「ああ、東京におる」
早い話それは、NATTOが彼を人質に取っているのと同じではないか。眉《まゆ》を中央に寄せて苦渋に満ちた表情を作る宗右衛門の肩を、善兵衛はガッキと掴《つか》んだ。
ふり向くと友人の赤く濁った両眼はカッと見開かれ、肩に載せられた手はブルブルと震えている。その震動は、さして広くもない宗右衛門の胸元にまで強く伝って来た。
「千ちゃん、頼まれたって」
「エッ?」
「頼む。善彦の眼え醒《さま》さしたってえな」
感きわまって善兵衛は大粒の涙をこぼし始めた。
「このままでは店の顔をつぶしてしまう。秘密会所後見役の息子がNATTOの身うちになったいう話が広まれば大事《おおごと》や。早《は》よなんとかしたい。そやけど、わて一人の力ではもう……」
そのままヘナヘナと腰を降ろし、石橋の床にペッタリと尻《しり》をついた。
「わかった、わかった。口元のよだれ拭きないな。六代目の名が泣く」
宗右衛門は袂から手ぬぐいを取り出して友人の口に当てた。
「おおきに」
「万事、羽織のヒボ(紐)や。胸にある(了解している)」
宗右衛門はニッコリ笑うと善兵衛の手を取って引き寄せ、石橋の欄干に坐らせた。
グショグショになった友人の顔をよく拭《ぬぐ》い、よだれだらけの手ぬぐいを胸元にしまうと、立ち上って二度、三度と手を打つ。
パン、パン、パンと大きな音が池の面、石組みの間に跳ねて対岸の竹林へ消えた。
「おーい、定吉どん。居てるかー」
「へーい、御隠居はん、ここに控えとりますぅ」
透垣に囲まれた藪の彼方から間の抜けた声が聞こえて来た。
「コッチャに来とくなはれ」
声のする方へ宗右衛門は呼ばわった。
「何や、わては池の鯉やないで。手ばかり打ちくさって」
定吉は口の中でブツブツつぶやきながら、藪の小道を走り抜けた。
池の縁を通り、老人たちの待つ石橋の前でチョッと立ち止って襟元を正し、一礼した。頭を下げた時、短く刈り上げた彼の右後頭部に大きな十円ハゲが光った。
「これは豆屋の会長はん、御無沙汰《ごぶさた》いたしております。会所の定吉でごわります」
「おお、おお、定やんか。久しぶりやの」
善兵衛は欄干からヨロリと腰を上げた。
「定吉どん、仕事や。また、東京の方行ってもらうで」
「ヘッ」
宗右衛門は事のなりゆきを手早く説明し、最後にボソリとこう言った。
「今回の掛け取り≠ヘ、会所の表仕事やない」
「と、申しますと?」
「わいの一存、会所の皆にも秘密や」
「では、中番頭はんにも、小番頭はんにも?」
宗右衛門は大きくうなずいた。そら、殺生《せつしよう》や、と思わず定吉は声を上げそうになる。直接の上司である小番頭に出張が認められなければ出張手当が支給されないし、中番頭に仕事内容が伝えられなければ、任務遂行に役立つ秘密兵器が与えてもらえないのである。
定吉は前掛けの裾をいじり回しながら口を尖《と》がらせた。それは彼が不満を唱える時、往々にして行なう仕ぐさだった。
「御隠居はん、ほならお手当……」
「ああ、そのことなら気いつかわんでええで。わしの依頼や、全部わしが出さしてもらう」
善兵衛が横から口を挟んだ。
「ほてからな、定やん。ウチのモンを一人あんたの手伝いに付けたる」
「あ、左様で。そら助かります」
しかし言葉とは裏腹に、定吉はソッと顔をしかめる。ワケのわからないトウシロを付けられても足手まといになるだけなのだ。
「けど、お店《たな》の方に御迷惑では?」
「ま、会うてみてくれへんか」
善兵衛はヨロヨロと池の端に歩いて行き、玉じゃりの一つを掴《つか》んでポーンと投げた。
石は、雪見灯籠《ゆきみどうろう》の陰に生えるカキツバタの茂みへ落ちて水音を立てた。ヒグラシの声がピタリと止まる。
と、見る間に一本の葦《あし》が垂直に立ったまま動き始めた。まるでミニチュアのUボートが池の中で潜望鏡を上げているように見える。
葦の茎は水面へVの字の波を作って善兵衛の足元までやって来た。
次の瞬間、池の表が、ガバリと盛り上る。とっさに定吉は宗石衛門を庇《かば》うべく一歩前に踏み出した。
水面に出て来たのは人間の頭だった。そいつは葦の茎を食わえたまま老人に一礼する。
「ごくろうはん。池の中にまた金魚藻がはびこり出したな」
善兵衛は人間の頭にへばり付いた水草をつまみ上げた。二人の方を振り向き微笑する。
「心配いらん。わしの手のモンや」
水遁《すいとん》の術か。定吉は眼をむいた。
水中の人影は、ザバザバと音を立てて池の端に昇り、片膝を付いた。
ずいぶん長いこと水中に潜んでいたのだろう。唇は紫色、顔にも血の気がない。眼の大きな男だ。着物は濡《ぬ》れて織りもさだかにわからぬが、帯はこげ茶系の綿織り、腰の斜め左側で貝の口結びにキメている。丁稚《でつち》だ!
「ささ、トモマツ。こっち来て皆サンに御あいさつ、ごあいさつ」
トモマツと呼ばれた男は、水滴をボタボタと滴らしたまま善兵衛に伴われ、二人の脇に立った。
「豆屋の私設非合法丁稚の内でも一番の手練《てだ》れや。チョッと大風に灰撒く(大まかな性格)ようなところがある奴やが、なにかの助けにはなるやろ」
善兵衛は恥かしそうにその丁稚を紹介した。
「豆屋善兵衛宅の調査、へっつい(かまど)の直しから広報まで担当いたしております。立売《いたち》堀《ぼり》の知松《ともまつ》でおます。良ろしゅうお引きまわしのほどを」
水を含んで重く垂れ下った前掛けの前をバシッと手の甲で一打ちして彼は定吉に深々と頭を下げた。
「大阪商工会議所秘密会所直属の定吉|七番《セブン》だす。お池の中からようこそ」
ド胆《ぎも》を抜かれた定吉は、間の抜けたセリフを口走りながらペコペコとお辞儀を返した。
「善彦や、善彦にまつわりついとる寄生虫の情報は全《すべ》てこのトモ松の頭ン中に収まっとる。定やん」
善兵衛は定吉の両手を握って腰を曲げた。
「どうぞ宜《よろ》しいに、な。あんじょうたのむで」
「あ、六代目はん。お、おつむ上げとくなはれ。もったいない。もったいのうおます」
定吉は大あわてで手を振り解《ほど》き、老人の上体を持ち上げた。
「この定吉にまかしとくなはれ。トモ松どんと力貸し合うて、若ダンさんを無事こちらにおつれいたします。六代目はんは、天神祭のお迎《むか》い船《ぶね》乗った気ィで大様《おおよう》にかまえといて下さりませ」
「頼んだで、定吉どん。ほなら、この場からすぐに東京飛んどくなはれ」
宗右衛門が凜《りん》として言い放つ。
ひょろ長い丁稚と、ズブ濡れの丁稚はその言葉にハッと頭を下げた。
池の周囲に生い茂る常緑の樹木で、再びヒグラシがカナカナと鳴き始めた
7 ウメチカの串《くし》アゲ
定吉たちが、大阪ターミナルビルの中央コンコースに到着した時、大理石モザイクの下にぶら下った駅の時計がちょうど十七時の時報を告げた。
「定吉はん、まだ少し時間がおます。どこぞでチョッと腹ごしらえしまひょ」
トモ松は「大阪の門」と名付けられたキンキラキンの金属パイプを見上げて言った。
「時間あるんか?」
石ケンやら代えのステテコが入った小さな風呂敷《ふろしき》を胸に抱え、定吉は不安そうに尋ねた。
「最終の『ひかり』が新大阪出るのは八時半ですわ。うーむ、大丈夫、ダイジョブ」
井げた絣《かすり》の着物の肩へ、ランセルの旅行バッグを斜めに背負い、右手にラ・バガジェリーのゴート(山羊《やぎ》革)製バッグ、左手にバレンシアガのドレス・ケース、両脇にレノマのクラッチ・バッグを抱えたトモ松は、うなるように答えた。身につけた荷物が重くて、どうしてもそんな声を出さざるを得ないのだ。
「なんや重そうやな。天王寺(動物園)のゴリラが雪隠詰《せつちんづめ》食ろうたような声上げとるやんか。どれか一つ持とか?」
定吉は同情して手を出した。
「い、いや、それにはおよびまへん。自分のモノは自分で持てェて小さい時オバーチャンに教えられましてん。ましてや日頃から尊敬いたしております定吉はんにお手数かけるなど、ブルブルブル……めっそもない」
トモ松は、豊かすぎるその両頬を小刻みに勢い良く振って、吉本新喜劇の泉ひろしみたいな声をあげた。
「ほなら、どこで食お?」
「ウメチカのはずれにエエ串カツ屋おます」
「カツ屋なぁ」
「ウマイとこでっせ。知り合いがやっとる店だす。そこ行きまひょ」
トモ松はウンウンうなりながら、通称ウメチカ――梅田地下センター街――に向って歩き出した。
定吉はあわててその後を追う。
二人は阪神梅田駅側の階段を降り、勤め帰りのサラリーマンに混って銘菓コーナーを左折した。
そこは小さな食い物屋ばかりが軒を連ねた「コマ通り」と呼ばれる一角である。他の多くの地下街がそうであるように、ここも真っ昼間から飲める店ばかりだ。すでにこの時間のこととて、充分すぎるほど充分に出来上った連中が、赤ら顔でウダグチ(冗談)をタレながら歩きまわっていた。トモ松は身に付けた大荷物を彼ら善良な勤め人の肩先や足に打ち当て、そのたびに、「あほんだら! しばきたおしたろか」とか「気いつけて歩かんかい、いてまうど!」と怒鳴《どな》りつけられる。
しかし、そんな声にはまるで無頓着《むとんちやく》な様子で彼はトコトコと阪急三番街方向へ歩き続けた。
「すんまへん。かんにんでっせ」
周囲の人々にペコペコと頭を下げるのは、後を付いて歩く定吉の方だった。
やがて、ナビオ阪急へ向う通路を幾つか越えたあたりでトモ松は顎《あご》をしゃくった。
「ここだす」
黄色と黒に染め分けたド派手な暖簾《のれん》が入口に下り、清酒「六甲おろし」と書かれたアクリルの看板に毎月十六日は『岡田』の日。毎月三十一日は『掛布』の日≠ニススケた張り紙が付いている。
彼は嬉《うれ》しそうにその看板を見降ろし、
「外人デー′セうのも作って欲しいもんや」
と笑った。
「トモやんは阪神ファンか」
「それほど、てワケやないですけど……。定吉はんはどこの御ひいきで?」
「わては野球のルール、今だにようわからん」
トモ松は一瞬、北極でキリンを見たエスキモーのような顔をしたが、すぐに気を取りなおし、
「さ、さよか。ま、まあ入っとくなはれ」
と先に立って暖簾の中に頭を突っ込んだ。
カウンターの上に柿葺《こけらぶき》の板屋根、その軒先に経木《きようぎ》製のメニューがぶら下っていた。反対側の壁には一面にタイガースの選手が書き散らしたサインと応援旗が張り付けてある。この辺では典型的な作りの「ファンのお店」だ。
「おー、トモやん、久しぶりやの。また東京で仕事か?」
酒ビンの陰からシマシマ模様の陣羽織を着た金ブチ眼鏡のデブ男が顔を覗《のぞ》かせた。
「そや」
「今年もガイジン勢はキバっとるな」
「外人は梅雨《つゆ》ドキ弱い言われとるのに今月は皆ようやらはる」
「死のロード≠烽アの調子で乗り切って欲しいもんやな」
二人の会話にチンプンカンプンの定吉は、ポカンと口を開けたまま入口の隅に腰を降ろした。
「けったいな暗号飛ばし合って、あの人も裏のショーバイか?」
隣に坐ったトモ松へ、彼はソッと尋ねた。
「ちゃいます、ちゃいます。タイガースのハナシですねん」
トモ松はゲイル、バース等タイガース助《すけ》っ人《と》外人選手の名をあげ、オールスター終了後、八月のアタマから二十日近くもクソ暑い中、各地に転戦するタイガース名物死のロード≠フ苦しさをるると説明した。
「はあ、なるほど。で、その間《かん》に甲子園では高校生が野球する、いうわけやな」
「さいだす」
金ブチ眼鏡のマスターが、カウンターの中から冷たいオシボリと麦茶を差し出した。
「あんさんのごひいき誰だったか?」
彼は定吉を上目《うわめ》使いに見上げた。笑ってはいるがその眼には狂気の炎がチロリと覗く。ヘタなこと言いやがったらタダではスマンぞ、といった雰囲気である。
「ユミちゃんだす」
「はー、真弓明信《まゆみあきのぶ》でっか」
「いや、花組の方のユミちゃんで」
「花組……?」
マスターは首をひねった。当然である。定吉の言うユミちゃんとは宝塚歌劇団花組の娘役|鈴美音《すずみね》を差していた。
ピンクのバラやかすみ草の花束を抱え、小番頭の眼を盗んで通った宝塚ファミリーランドの日々を思い出し、彼はポッと頬を赤らめた。
「ま、ま、ええやないか。それよりな」
トモ松は二人の中に割って入り、ホーロー皿の肉を指差した。
「マスター、熱々のとこ何本か見つくろってや。おっと、両方とも下戸《げこ》やから、そやな……ハイサワーのチュウ抜き二つ作ったって!」
「ヘッ」
花組言うたら新しいクリーンアップ・トリオのことかいな。それとも来年トレード間違いなしの女狂いグループの意味やろか、とマスターはブツブツつぶやきながらジョッキにソーダを注ぎ、二人の前にドンと置いた。
定吉とトモ松は、上戸《じようご》が知ったら気味悪がりそうなその飲み物(要するに甘味抜きのレモンスカッシュである)を目の高さに持ち上げ、
「まずは、掛け取り≠フ成功を祈って」
「仕事ウマクやりまひょな」
と、あらためて頭を下げ合った。
「で? 東京のどこにおちつくか、もう決ったんか」
定吉にとって今は一番それが気になる。
「原宿《はらじゆく》だす。わての知り合いのアパートで」
「アパート? アパートて、あの……ごく普通の」
「へえ。木造モルタル二階建て、入口が一つで便所が共用……」
そんな所に泊って大丈夫なのだろうか。和風のアパートは、一般的に言ってプライバシーが守りにくい。これから非合法活動をしようとする二人の隠れ家には不適当なのではないか。
「心配おまへん」
トモ松は明るく言った。
「一軒丸々関西人ばかり住んでまんのや。それも全部『豆屋』縁故《ゆかり》のモンで占められとります」
「さよか、ならエエな」
定吉はカウンターの上へ山盛りに載せられた生キャベツの厚切りを一切れ指でつまみ取り、パリリと齧《かじ》った。
「皆、気のいい連中だす。我々の到着前から情報収集に駆けまわってくれとるはずで」
「そら心強い」
「ヘッ、おまっとうさん」
各々の前に置かれた油切り付の金属皿に香ばしい匂《にお》いを立てたキツネ色のヤツが数本、ポンと載せられた。
「熱ッ、アツ」
二人は騒々しくはしゃぎながら、親指と人差し指でまだ焦げつきそうに熱い竹串《たけぐし》を摘み上げ、カウンターの真ん中にある小さなホーローの洗面器へ差し込んだ。
ジュッという音が耳に心良い。洗面器の中にはタップリとウスター・ソースが入っているのだ。このソースは原則として二度|浸《ひた》しが禁止されている。いや、別にそういう張り紙がしてあるわけではない。一度|齧《かじ》ったものを皆が使うソースにもう一度付けるのは汚ないからやめよう、という関西人独特の、暗黙の禁止事項なのである。
「このキツネ色に焼けた衣《ころも》んとこが、ソース吸ってプチプチ言いまっしゃろ。この音わてスッゴイ好きなんですわ」
トモ松はソースのタップリ付いた串を耳もとに近付け、陶然とした。
「へえ、さよか」
定吉は生返事しつつ、ハフハフと串にむしゃぶり付く。
向いの店で「六甲おろし」の合唱が始まり、カウンターの端っこでは吉田監督派らしいサラリーマンと、掛布ファンらしいクレープ・シャツ姿の労務者風オッサンが、相手の胸グラを掴《つか》んでガナリ合っている。
浪速《なにわ》の夜はまだこれから、といったところだった。
人皆ボロクチ(ぼろい儲《もう》け口)を求め、闊達《かつたつ》に、そしてチャランポランに生きる、猥雑《わいざつ》かつ精桿《せいかん》、伸縮を繰り返すスモウ取りの胃袋みたいなこの町へ自分は再び帰ることができるだろうか。
竹串の端にこびり付いたフライのカスを未練たらしくしゃぶりながら、定吉は油だらけの天井をソッと見上げた。
8 東京の風
夜空を払い除《の》けるようにして屹立《きつりつ》する原色のネオン塔を車窓から眺めながら、定吉は、先ほどからしきりに首をひねっている。
岡山発の上り最終ひかり98号は、新横浜のラブ・ホテル街を今まさに通過せん、とするところであった。終点の東京到着までまだ十五分以上あるというのに、隣の席では知松《ともまつ》が、網棚に載せた大荷物をウンウンとうなりながら引きずり降ろしている。
「うーむ、何買《こ》うたらええんやろか」
定吉は腕組みをしてうつむいた。
「何だす?」
荷物を自分の座席に積み上げていた知松がその手を休めて聞いた。
「東京で一番のオミヤゲ言うたら何やろ?」
「突然、どないしはりました?」
「いや、な。実は」
ハンチングのつばを親指でグイと押し上げ、定吉はフッと息を吐いた。
「わて、な。東京へ掛け取り行かされるたびに、お孝《たか》ちゃんへ土産《みやげ》買うて帰るんやけど」
「フムフム」
「それがいつも変り映えせんよって、今回は少し変ったモン買うたろと思ってな。いろいろ思いめぐらしとる。けど、まるで思い浮かばんのや」
「いつも何買うてはるんでっか?」
知松は降ろした荷物の上にドンと坐《すわ》った。
「東京ヨーカン」
「他には?」
「ズーッとそればっかりや。他に『東京』て名の付くモンよう思いつかん」
定吉はハンチングを取って頭をポリポリと掻《か》いた。
「東京いう名前付いたモンで、他に知っとるもんいうたら、まず……、東京大学やろ、東京タワー、東京ガス、東京駅、東京ボンバース――わ、ローラー・ゲームや、懐かしなぁ――、そや、懐かし言うたら昔、大映の映画に東京子《あずまきようこ》いう女優サン出てはったなぁ。あと、東京コミック・ショーに東京ラプソディ。これ、みんな持って帰ること出来《でけ》へんがな」
定吉は一つ一つ名前を挙げて首をひねった。
「なに言うてはりまんねん。定吉はん。そらアプローチの方法間違うてはりまっせ」
年の半分を東京で過ごすという通≠フ知松は顔の前で、そりゃイカン、という風に手を振った。
「あんさん、まず東京いうネーミング頭にくっついたもんだけが東京土産や、いう先入観捨てなあきまへん。東京の土産選ぶには、まず五つの心得いうもんがおま」
彼はバッと片手を広げた。
「ひとつ、東京以外では手に入りにくいモン。これは希少価値いうことでんな。ふたつ、東京都内で作られとるモン。最近では関西とか香港《ホンコン》で作って東京のラベル張っとるモンおますから、これも気い付けんとアキまへん。みっつ、作りのエエもん。食いモンやったらまあそこそこの味わいがあるモン選ばな貰《もろ》うた方が腹立てます。よっつ、持ち重りするもん。関西人はズッシリしたモン貰うと感激するいう傾向がおますさかいな。そしていつつめに」
知松はギョロリ、と眼を剥《む》いて、どうだ、という顔をする。
「安いモン。これが一番大事だす。安ければ数多く買えます。限られた予算で多くの方にお配りすることができます」
「うーむ、たかが土産買いや、と思うとったが、こう言われてみるとなかなか奥の深いモンなんやなぁ」
定吉は感嘆の声をあげる。知松はエヘン、と一つ咳払《せきばら》いしてなおも続けた。
「ついでに土産モン屋での身体の動かし方も教えまひょか。まず、こうして店のケースの前に立ちまんのや」
彼は列車の通路にヒョイと立った。
「肩の力を抜きます。スタンスは、ややオープン気味。ウエートは左右五分と五分にしましてな。荷物、――こういう場合はTOKYO≠ネんぞと書かれた紙バッグ――をアクセサリーに持ちます。それを右足の臑《すね》あたりに持って来て中腰。視線はナメるようにケース全体を見まわしまんのや。で、これや! 思う目標発見しましたら左ヒザをあらかじめ左寄りにして、そっちに体重をかけます。膝《ひざ》をゲーム中は動かしたらあきまへん。このアドレスができたら、左手をごく自然な感じで真っすぐに持ち上げ指先をトンとケースに当てて、『これ』と言います」
「ほー」
「トンと軽く当てまんのやで。強うやってガラス突きやぶった相撲取りもおますさかい、やわらかく。一番いけないのが、ヘッドアップだす。売り子はんが美人だった場合、ついそっちの方へ顔が行きかけてまうもんだすが、それではワヤや。声をかける瞬間まで目標から目え離したらアカンのだす」
知松はここでちょっと悲し気な顔をする。
「わてがまだ土産買いのビギナーだった頃はこのアプローチを何度もミスったもんだす。つい指を、こう横からスライスさせるクセが出ましてな。ケースの中に『東京名菓ひよこ』の見本見つけて、『ネーチャン、これ買《こ》うた!』と指差したはずが、隣に並んだ他の見本の方へ指がダフリまんねん。……で、家に持って帰って包み開いたら」
ああ情けない、と彼は目頭《めがしら》に手をやった。
「『浅草名物雷おこし』とか、『三味東京せんべい』などというもんが出て来てガックリしたもんだす」
「土産物屋の菓子は皆最初から包んであるさかいなぁ」
一見なんということのないミヤゲ選びにも技の習練が必要なのだ。複雑な現代社会の落し穴に、定吉は愕然《がくぜん》とする。
「ま、恐れることはおまへん。いずれ、わてが東京駅の名店街あたりでアプローチのレッスンつけてあげますさかい」
知松はニッコリと微笑《ほほえ》んだ。
「その時はよろしゅうに」
定吉がペコリと頭を下げたその刹那《せつな》、列車のスピードがスーッと落ち、終点到着を告げる放送が車内に流れ始めた。
「東京ー、トーキョー、か」
「これ、そないけったいな声をあげたらあかん。みんな見とるやないか」
定吉は恥かしそうにあたりを見まわし、ハンチングのつばを目深《まぶか》に引いた。知松のスットンキョウな声に、ホームを歩く人々がクスクスと笑っている。
「半年ぶりの東京だす。いつ聞いてもケッタイな節まわしのアナウンスやけど、なんやこう浮きうきして来まんなぁ」
ブランドものの旅行バッグにヒモを通して振り分け荷物にしたやつを肩に担って、ヨロヨロと歩きながら知松は陽気に鼻歌をうたい始めた。
「ホレ、見てみい。あしこの若いネーチャンたち、指差して笑ってはるでえ」
「ヘッ、放っときなはれ。わてらどうせ後ろ指モンの関西|丁稚《でつち》でっせ」
風呂敷《ふろしき》包みを胸に抱いて顔を赤らめる定吉を尻目《しりめ》に、豆屋の私設殺人丁稚は人々の間をかき分けてエスカレーターに、ドッコイショと乗った。
「知松のヤツ、東京着いたら急に元気になったなぁ」
定吉には、ほぼ一年ぶりの東京駅であった。去年の夏やったら、とてもこんなマネでけへん。彼は下って行くエスカレーターのベルトに掴《つか》まって一人物思いにふけった。
この駅を根城にするNATTOの一派「KIOSK(関東一円お弁当殺人協会の略)」、通称「贅六《ぜいろく》殺し」の殺し屋と死闘を演じたことが、つい昨日のことのように思い出される。あの時は、東京駅はおろか、都内近県の駅弁を売る国鉄の駅には全《すべ》て、定吉の手配写真を懐にした殺人者たちが潜んでいた。
「一年前はずいぶんとシンドイことやと思うとったけど……」
今になってみればあれだけ働いておいて良かったナ、と彼は思う。知松のような一目で関西丁稚とわかる人物がこの場を堂々と歩きまわっていられるのも、定吉がKIOSKを壊滅させたおかげなのである。
「今や、東京ではカンサイ人やいうことは一種のステータスでっせ」知松が言う。
なるほど、そのステータスを現わすためにレノマやランセルのブランド・グッズを使うているんやな。定吉は知松の肩に食いこむ舶来カバンを見降ろして、納得した。
「うーん、さよか。けど、そんなん一時のブームちゃうやろか。関東モンは醒《さ》めやすい。すぐにまた関西人バカにし始めるで」
その揺り返しが恐《こわ》い、と定吉は思うのである。関西ブームが去った後、関東人はバカなものに踊らされたと気付き、今まで以上に攻撃的な態度を取るのではないだろうか。
「心配おまへん、て。それより」
知松はエスカレーターを降りると八重洲口《やえすぐち》の改札を顎《あご》でしゃくった。
「あっちの口に迎えが来とるはずだす。早よ行きまひょ」
「そら手まわしがエエな」
終電間近で人通りの少なくなったコンコースを抜け、二人は大丸デパートの正面側から外に出た。
「迎えいうのんは、どこにおんねん」
「えーと、おお、あそこだす」
グリーン・ベルトを越えた斜向《はすむか》いの新八重洲ビル前に車高の高いライトバンが一台|停《とま》っている。銀色に輝くその車体には、丸味というものが全く無い。まるで不器用なサラリーマンが日曜大工でイヤイヤながら作った犬小屋のような形をしている。
二人は、駅前広場をフラフラと渡った。
ビルの前にある信号の前まで来ると知松は定吉にここで待て、と目で合図する。
「一応用心のために、わてが先に行きます」
「さよか」
味方とわかっていてもすぐには近付かない。いい心がけだ、と定吉はうなずいて懐に手を入れる。愛用の殺人包丁富士見西行°辮。五分の柳刃をバーンズ・マーチン改造のホルスターからチョッと抜き加減にして腰を落した。
知松は荷物によろけつつ車の前に立った。便所の換気窓そっくりな形をしたウインドウは全面にシェイディング・シートが張られ、外からでは運転席の様子がよくわからない。
ヨイショと荷物を路上に降ろした知松は、波形にギャップが打ち出された車のボディをコツコツと二度|拳《こぶし》で叩《たた》いた。
「合言葉は?」
中から、くぐもった声が聞こえる。知松はエヘン、と咳払いをして姿勢を正した。
「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」
「身にしみて ひたぶるに うら悲しくてワシャかなわんわ!」
車の中からポール・ヴェルレーヌの一節が発せられた。
「よし、第二の合言葉いくでえ」
知松は腕まくりした。
「女心と秋の空……」
「変りやすいやおまへんか!」
車の中から都々逸《どどいつ》の下の句が聞こえる。
「よし、第三の合言葉。今度はムズカしいでえ。『城の馬場《ばんば》で日が良うて、合羽《かつぱ》屋《や》が合羽|干《ほ》す、にわかに天狗風《てんぐかぜ》、合羽舞い上がる、合羽屋おやじがうろたえさがして』」
「『堀へはまった、冷たいわいな、上げておくれんか、おおきにはばかりさん』以上!」
「よろしい」
知松はニッコリ笑って定吉の方へ手を振り、頭の上で輪≠作った。OKのサインである。
「定吉はん、早よう早よう」
車の側面ドアが、田舎《いなか》の野掛け便所のようにガラリと開く。知松は荷物を抱えて車内にスッともぐりこんだ。定吉もあわててその後に従う。
「何や、子供の弁当箱みたいな車やな」
彼は車内を見渡した。まるで外人の幼児が持ち歩くランチ・ボックスの化《ばけ》モンみたいである。波形のアルミ板に四方を囲まれた彼は、自分がカツ・サンドになったような気がした。
「定吉はん、紹介しまひょ。ウチのメンバーの一人、住吉の平吉だす」
知松が運転席の若い男を指し示した。
「平吉だす。コード・ネームはハンズ東キュー′セいます。よろしゅう」
「わてが大阪商工会議所の……」
定吉はハンチングを取って頭を下げようとする。
「おっと、あいさつは隠れ家ついてからにしまひょ。尾行ついてるかもしれんさかい」
車を出せ、と知松が手で合図する。バンは駅前広場を猛スピードで日比谷方向に走り出した。
「ああ、思い出した。これシトロエンのH型やな」
定吉は置いてあったダンボール箱の上にチョコンと腰を下した。
「昔、レーサーの生沢徹《いくさわとおる》がサービスカーに使うとった。まだ平凡パンチが百円以下で買えた頃《ころ》の話や」
「よう御存知で。たしかにシトロエンだす。原宿のブティックで配達用に使うとったんを一年前、安くで買いたたきましてん。今では仲間うちの連絡用に重宝しとります」
知松は波形板をポンと指で弾《はじ》く。
「性能はメチャ悪いけど、一応はフランス製の外車でっしゃろ。まともに買《こ》うたら中古でも、その辺走ってはる国産大型車並みの銭《ぜに》とりまっせ」
「大将」
運転席の東キューが知松を呼んだ。
「なんや?」
「尾《つ》けられとるかどうか調べるために、高速乗ってみまひょか?」
「そやな。下の道もそろそろタクシー渋滞の時間で走り辛《づら》くなっとるさかいな」
東キューこと住吉の平吉は、国会議事堂の方へハンドルを切り、霞ケ関料金所に車を乗り入れた。
あー、なんちゅう勿体《もつたい》ないマネすんねん。ここから乗っても表参道なら高速のランプ一つ分やないか。荷台に坐っていた定吉は、料金所のオッサンへ無駄に支払われる硬貨のチャリチャリ触れ合う音が一つ一つ肌に突き刺さるように感じられた。この連中は……
「東京の風に染まって、少々金使いが荒くなっているみたいやな」
「へっ? 何か言いましたか」
「い、いや、何でもない。独《ひと》りごとや」
定吉は高速入口の右側に見える総理府の建物へ目を向けて話をゴマ化した。
その総理府ビルの四階、首相官邸に面した西側の廊下を、今しも二人の若い男が緊張の面持《おもも》ちで歩いていた。
一人は細おもての顔に度が強そうな太ブチボストン眼鏡をかけたサラリーマン風。「朱肉付印鑑がお尻の方に付いたボールペンで書類の決裁をする万年係長」とか「愛妻のために保温式大型炊飯器を勧める商品開発室員」といった役でテレビのCMに登場しそうな実直タイプである。
もう一人は髪を短く刈り上げた六尺豊かなスポーツマンだ。太り肉《じし》で、顔が大きくエラが突っ張っている。左の耳が少し変形し、ガニ股《また》、踵《かかと》が外側に摩《す》り減った靴を履いているのは柔道か空手といった格闘技を子供の頃から続けているせいだろう。こういったタイプにありがちな多汗症、手にしたハンカチをせわしなく額や首筋にペタペタと押し当て、フウフウと肩で息をついている。
二人は廊下の一番突き当りに来ると、そのあたりのドアに出ている表示板をひとつひとつ読み上げ始めた。
「えーと、資料保存課のコピー部は?」
「『施設資材保管部』……じゃない。『資材保全課』、うーん、まぎらわしい名前ついてるな。『統計資料作成課』。これでもない」
「ここ何だろ? ヤカンとか湯飲みが置いてあるよ」
ボストン眼鏡の男が中を覗《のぞ》きこむ。
「そりゃ事務の女の子がお茶入れる煮沸《しやふつ》室ですよ。そんなとこで遊んでないで、早く部屋見つけて下さいよ」
二人は廊下の奥をドタバタとあちこち探しまわった。すでに夜も十二時を過ぎたというのにどの部屋も依然として煌々《こうこう》と灯が輝いている。今夜もこのフロアに働く公務員たちは、残業手当の付かない仕事をこなすため、デスクという戦場で白書という敵を相手に苦戦を強いられているのである。
「おっと、ありましたよ。ほら」
スポーツマンが、スチール・ロッカーの陰に隠れている表示板を指した。
「なになに、『資料保存課コピー部及びテレックス・ロール保管庫及び職員名簿作成部及び予備事務用品保管室』だって?」
眼鏡の男は弱りきったような顔をする。
「こういう変な表示されたんじゃ、わかるわけないよ」
「まったくですねえ」
髪の短いスポーツマンは、ドアに張られたコピーを取る人は、コピー資材保全課の窓口係「えり子」の許可印をもらって来てね|※[#ハートマーク]《ルン》≠ニいう女性事務員のメッセージを睨《にら》みつけた。
「でも、本当にここでいいのかなぁ」
眼鏡の男は、一度手をかけたドアの把手《とつて》から手を離す。
「だって、課長が電話でそう言ってたじゃないですか」
「あの課長、真面目《まじめ》なんだけど、時々落ちこむとトンデモナイこと平気でやるんだよ。この前も、僕の食事時見計らって家に電話かけて来て、さ。何て言ったと思う?」
眼鏡の男はブツブツと不平を言った。
「『私の家の前庭を菜園に改造したのだが、そこで人間のウンチをかけ続けたら、大きな大根が十本も取れた』とか言っちゃってさぁ。自分の家族とペットのウンチがいかに役立つかという話を延々二時間もしゃべるんだぜえ。おかげで食欲なくしちゃったよ。僕」
「でも、夜中に大あわてで出頭命令出して、担ぐほどヒマ人じゃないと思いますよ」
スポーツマンが彼を押しのけてドアを開けた。モアッとした熱気が二人の身体を包みこむ。
「どなた?」
旧式なコピー機を修理していた職員が、とがめるような眼差《まなざ》しでこちらを向いた。
「あのー、荒井課長から緊急呼び出しをうけた野田《のだ》と中町《なかまち》ですが」
「ああ、保存課の課長に呼ばれた方ですね。夜分遅く御苦労さま。そこのロッカーの左に入って、書庫って書いてあるドア開けて下さい」
初老の職員は、手にしたプラスのドライバーで部屋の奥を指す。
二人が歩きかけると、その背後からあわてて彼が大声をあげた。
「積んである資料を崩さないで下さいね」
その言葉が終らないうちに眼鏡の男が肘《ひじ》でヒモ綴《と》じの書類束を引っかけ、床に撒《ま》きちらす。
「あ、やっちゃった」
彼はあわてて書類をかき集めようと腰を下げ、尻で反対側の資料の山を崩した。
「あ、こっちもやっちゃった」
スポーツマンが仲間のドジをカバーしようとして手を伸ばし、彼も盛大に資料の山を突き崩す。
「あっ! 俺《おれ》もやっちゃった」
「わっ、こっちも崩れて来た」
「ひゃー、そっちもだー」
「もう、いいです、いいです。後は私がやりますから早く課長のところに行って下さい!」
コピー修理の職員が半ベソをかきながら叫んだ。
ショックから立ちなおった二人は、ネクタイの結び目を整えて、書庫の扉をノックする。
「はい、どうぞ」
中から聞き覚えのある荒井課長の声。
「失礼しまーす」
ボストン眼鏡の男、野田が先に立って部屋に入った。中は思いの外ヒンヤリとしている。汗っかきのスポーツマン中町が、オヤッという顔をした。ここだけクーラーが通っているのだろうか? そんなはずはない。この総理府ビルの冷房用の電気は、照明とは別に配線されていて、午後九時をすぎるとエネルギー節約のため、全館自動的に切られてしまう。だから、残業で働く職員は茹《ゆ》でダコのように赤脹《あかぶく》れして、机にへばりついているのだが……。中町は首をひねった。
「あれ、暗いですね。課長、どこにいるんですか?」
書庫の中は蛍光灯のグローランプ一個分の明るさしかない。
「奥に入って来なさい」
二人は棚の書籍を今度こそ崩さないように、と注意深く進んだ。書庫の一番奥まで行くと、棚と棚の間に、ボロボロの襖《ふすま》が立てられているのが見えた。
「何だこりゃ」
あまりにも場違いな建具の出現に野田が声をあげた。
「襖を開けて」
「は、はい」
中は狭い和室の作りになっているらしい。プーンとカビの臭いが漂っている。
「靴を脱いで」
課長の声に、二人は、おっかなびっくり従った。靴下の先がバリバリと音を立てる。
かなり古そうな畳である。
「中町君、君の靴下臭いよ」
「しょうがないでしょ。アブラ症なんだもん」
二人は闇《やみ》の中で小突き合った。
「そこに坐りなさい」
課長の声がする。二人は手さぐりで腰を降ろした。
カチカチと何かを打ち合わせる音がして、あたりがパッと明るくなる。
オレンジ色に輝く室内を見て、二人は驚いた。
室内は書庫の中とはとても思えない作りになっている。すすけた梁《はり》と柱の間に神棚と仏壇、和綴《わとじ》の本が壁際いっぱいに積み重ねられ、奥に大きな桐《きり》の整理|箪笥《だんす》がドンと鎮座している。和本の山は部屋の隅だけでは置ききれず、手前の畳の上にまで張り出していて、崩れるのを防ぐため古めかしい長火ばちや、辞書と思われる厚目の洋書で押さえつけてあった。まるで江戸落語の長屋。寺子屋経営の浪人者が住むわび住いといった体《てい》である。
本と本の間に煤《すす》けた行灯《あんどん》が一つ、あやふやな光を発している。その脇《わき》に二つの人影があった。一人はダークグレーの背広に金ブチ眼鏡の管理職タイプ。見覚えのある荒井課長である。もう一人は……。
「こんな夜おそくにスマないね。二人とも寝ていたんじゃなかったのかね」
課長は、やさしく尋ねた。
「いえ、家のクーラーが壊れちゃいまして、寝苦しいもんですから、起きてテレビ見てました」
中町が大きな声をあげた。野田は、部屋の中をキョロキョロ見まわしている。
ここは一体何なんだ。書籍の収蔵庫ではないし、かと言って守衛サンの仮眠室でもなさそうだ。総理府に出向して二年近くになるけど、四階のフロアにこんな部屋があるなんて知らなかった。
「きたないところで、驚いたじゃろう」
課長の隣に坐っている影がしわがれた声を出した。
「はぁ」野田は間の抜けた返事をする。
「野田君、中町君、紹介しよう。こちらは」
課長は膝を正して坐りなおした。
「ああ、良い、良い。楽にしなさい。ここは茶室と同じじゃ。荒井君、行灯の火をこちらに」
課長が灯を移動する。
オレンジ色の光の中に一人の小柄な老人の姿が浮かび上った。頭の白髪はボサボサに逆立ち、頬はゲッソリこけ落ちて、頬骨だけがグッと前方に突き出した顔。眉《まゆ》だけが不相応に黒々と光り、牛乳ビンの底みたいな老眼鏡が肉の細った鼻の上に引っかかっている。身体に何やら得体の知れない灰色の単衣《ひとえ》じみた衣服をまとい、書籍の山に片肘をついたその姿は、夜店の掛け軸屋で売られている仙人の絵姿そっくりだった。
二人はギョッとして顔を見合わせた。
「こちらは」
課長は、さも畏《おそ》れ多いという口ぶりで背筋をピンと伸ばした。
「内閣調査室対外情報課執務部の最高顧問、十八世|服部《はつとり》半蔵大盛《はんぞうおおもり》様であらせられる」
「半蔵大盛じゃ、このようなむさい場所にようこそおじゃった。フォッフォッフォッ」
仙人は、バルタン星人のような声をあげて大様《おおよう》に笑った。
「えっ! こ、こちらが最高顧問」
中町が、膝を折ったままピョンと後ろに飛びすさり、畳の縁へ短髪の頭をこすりつけた。野田は何のことかわからずポカーンと口を開けて、同僚のあわてぶりを見つめている。
「このヘンな爺《じい》さんいったい何なんですかぁ?」
彼は老人を無遠慮に指差して上司に尋ねた。
「き、君、失礼だぞ。こちらは……」
「これこれ、荒井君。よい、良い」
半蔵と名乗った老人は、荒井課長を枯れ木のように節くれ立った手で制した。
「初めてならば不審に思うのも無理はない。野田君とか言ったね」
「はあ」
半蔵老人は野田に笑いかけた。
「君は、内調(内閣調査室)本部に来る前は、どこにいたのかな?」
「ええっと」
野田は課長の方をチラリと見、彼がうなずくのを確認してからゆっくりと話し始めた。
「最初は外務省の特別|出向《しゆつこう》だったんスよね。パリの日本大使館に派遣されて……、そこでヘマやって、ウイーン行って、そこでチョンボやってカイロ飛ばされて、次の移動でパキスタンのラワルピンディでしょ。その次がモーリタニアのヌアクショット、カメルーンのヤウンデ、最後はンジャメナです」
「ん、どこだって?」
「ンジャメナ。チャド共和国の首都です。ンで始まる都市名なんて世界中捜したってそうザラにはありません」
野田は、どうだすごいだろう、と胸を張った。
「うーむ、なるほどたいしたもんだ。キャリアを積むたび確実に出世コースから離れて行っておる」
「ほっといて下さい」
野田はプイッと横を向いた。
「内調の対外資料保存課に呼びもどされたのは一年半程前だな」
「はぁ」
「この野田という室員は、見たところは、こう、大したことなさそうですが」
横から課長が口を挟んだ。
「二年前に起きたチャド大統領の暗殺計画を未然に防ぎ、同国から感状まで贈られている傑物なのです」
何言いやがる。傑物だと? だったら何でもっといい部署にまわしてくれないんだ。
野田は腹の中で上司を罵《ののし》った。
たしかに人事部はチャド事件の後、その功績を讃《たた》えると称して、勿体《もつたい》ぶった態度で彼を本国に召喚《しようかん》してくれた。が、永田町に復職して与えられた役職というのが対外資料課目録作成班。西日の射す埃《ほこり》っぽい部屋の隅っこで、資料の貸し出しカード作り。同期の職員が次々に出世して行くのを横目で見ながら渋茶をすする毎日である。そのお茶も、局内の若い女の子に入れてもらったことなど一度もない。
「おー、そうか。思い出した。近頃まれに見る元気の良い室員というのは君だったか」
半蔵は長火ばちに寄りかかって手を打った。
「それは奇遇じゃ。実はな、二年前、目録作成班に君を入れるよう指示したのはこのわしじゃ」
「ヘッ!?」
「思い出した、思い出した。いゃあ、年を食ってわしもめっきり物覚えが悪くなった」
この爺《じじ》いが自分を窓際に追いやった張本人なのか! 野田は思わず立ち上りそうになった。
が、待てよ。と、辛うじて踏み留まる。人事に口出しできるとなれば部局の中でもかなりの地位にいる人物に違いない。課長や、自分より部内の事情に明るい中町がこの老人の前で平《ひら》蜘蛛《ぐも》のように這《は》いつくばっていることから見てもそれが察せられる。見ればこの部屋に住んでいるらしいが、それとてかなり異常なことだ。これは、何かある。
「野田君、君は、自分が今いる部署をどのようなところと心得ているのかね?」
半蔵は着物の前をはだけ、肋骨《あばら》の浮き出したシワだらけの胸をボリボリと掻《か》きつつ尋ねた。
「どのようなって……。えーと、内調が過去に手がけた外国関係の事件をファイルして、各局に貸し出すとこです。年に二度ぐらいは海外視察に出かける田舎《いなか》の山猿……いや違った、地方選出の代議士先生向けに御当地土産をリストアップしたパンフレットを作って……、あとは、隣の課にいるミイちゃん――あっ、この子は事務の子なんです。良く気がつくし、美人だし――が時々持って来てくれる猫屋の栗最中《くりもなか》を食べながら、定年ま近の係長に住宅ローンと子供のグチ聞かされて……」
脇に坐っている課長と中町が、いいかげんにしろ、と手を振るのにもかまわず野田はしゃべり続けた。
「フォッフォッフォッ」
半蔵は歯の無い口を大開きにして笑いこけた。
「わかった、わかった。君はあそこを完全な窓際と心得ているのだな」
「ええ、正真正銘、ウソ偽り無く、完全無欠、論より証拠、瓜《うり》のつるには茄子《なすび》は生《な》らぬ、桃尻三年ガキ十か月、ヘビは二十五で嫁に行く、月夜にスッポンが酒買いに……」
脇の二人が野田の口を手で押さえつけ、そこでやっと彼は一息ついた。
「……と、いうくらい間違いのない窓際です」
「フォッフォッフォッ。いやいや、可哀《かわい》そうにのう。今までそう信じておったのか。だがな、あそこは」
半蔵は首を振った。
「ただの窓際ではないのじゃ。この内調が、な。イザという時、現場に投入する非合法活動員を日頃プールしておくところなのじゃよ」
「は?」
「つまり、偽装部署《ダミー・ポスト》なんだよ。野田君」
課長が言い添えた。
「ひゃー」
これには、中町もびっくりする。
「そちらは、……中町君といったかな」
「へ、ヘヘーッ、中町でございます。このたびは御指名にあずかりまして恐縮しごく」
中町はメッカへ祈るイスラム教徒のように何度も頭を畳に擦り付けた。
「中町君は、警察庁の外事課から二か月前に出向して資料課の別室勤務となっております」
これも課長が紹介した。老人は大様にうなずく。
「君は本庁で、わしのことを少しは聞いて来ておるようだな」
「はい、チョビッとですが……。何でも、代々日本の国政に関する秘密保持と、情報工作に携わっていらっしゃる影の長老≠セとか」
「フォッフォッフォッ、そんな大げさなものではないがのう。ま、歴代の総理、官房長官あたりはそう呼んでおるようじゃな」
何かとんでもない人物みたいだな。
野田はチョコンと膝を揃《そろ》えなおした。
「諸君、わしは君たちに会えて大変うれしく思う」
半蔵は火の気の無い長火ばちの灰を火箸《ひばし》で引っかいた。
「わしゃここんところズーッとヒマだった。これほどヒマだったのは池田首相が所得倍増論をブチ上げた時以来のことじゃ。わしは、時たま守衛に化けて新橋まで食料を買い出しに行く他は、日中ズッとこの書庫に籠《こも》ってモヤシのように暮しておった。ところが、一昨日、官房長官が急にわしを呼び出しおったのじゃ。新顔の長官で、わしは見るのが初めてじゃった」
テレビでやっている昔話アニメのナレーションみたいな話し方しやがる。野田は、自分が総理府ビルの書庫ではなく、どこか雪深い山村の炉端にでも坐っているかのような気がした。
「久々の仕事で、わしゃ年甲斐《としがい》もなく張り切ってしもうての。後先も考えずに引き受けてしもうた。もっとも、代々国政に隷属するものの常として長官の命令は拒むことが出来んのだがのう。フォッフォッ」
なにをノッタリ話してんだよう。野田はだんだんイライラしてきた。
「野田君」
「ホヘッ?」
半蔵老人が急に彼の方へ向きなおった。
「君はNATTOと呼ばれる秘密結社の存在を知っているかね?」
「はあ。一度、資料をファイルしたことがあります。東日本を中心とする一種の狂信的な宗教団体で、東日本一帯から関西系企業を放逐し、関西人|全《すべ》てに納豆を食べさせることを最終目標に据《す》えているという……」
「ウム、よう覚えておるな」
どんなモンだい、と野田は中町の方を見た。彼は意外に単純な性格なのである。
「結社の行く手を阻むものならば、暴行、殺戮《さつりく》、強迫、その他ありとあらゆる手段に訴えてその目的を遂げる、とんでもない組織じゃ。ところが、な。猛きもの必ずしも強ならず、ハブにマングース、ありまきに七星テントウ虫の理《ことわり》があるごとく、この集団にもライバルというものがある。あー、荒井君」
「はっ」
「喉《のど》が渇いた。外の者に茶をたのんでくれんかな」
荒井課長が、いそいそと部屋の外に出て行くのを眺めつつ老人は続けた。
「天敵と言ってもええ。それは……」
「大阪商工会議所秘密会所、ですね!」
中町が野田を押しのけるようにして叫ぶ。
「よう勉強している。その通り」
半蔵は膝を打った。今度は中町が威張る番である。彼は夏《なつ》風邪《かぜ》で詰まりかけた鼻をズズッとすすり上げた。
「関西人は、ただ簡単に『会所』とか『O・C・C・I』などと呼んでおるらしい。もちろん表立って活動する団体ではない。こちらの方も関西人の権利を守るため、イザとなれば平気で非合法なテロ活動をやってのけるという困った組織じゃ」
半蔵は胸をポリポリと掻いた。
「だが、現在のところ我々はこれらの団体に手を出すことを固く禁じられておる。その理由を知っておるかな?」
二人とも首を横に振った。
「理由は二つある。一つは、戦後日本の経済を廃墟《はいきよ》の中から陽の当る場所に導いた功労者が、これら闇の力であるということ。もう一つは、この二つの組織がいつの間にか我々の手に負えないほど巨大化してしまったということなのじゃ」
半蔵老人は、ホーッとタメ息を洩《も》らす。
「戦後間もない頃、まだ弱体だった頃に組織の芽を摘んでおくべきであった。あの時代ならまだわし一人の力でもなんとかなった。今ではもう遅い……」
「えーっ、そんなことないでしょう。我々は国家機関ですよ。何だかんだ言ったってたかが民間の団体、思いきって弾圧しちゃえば……」
中町が警察官僚らしく異議を唱えた。
「無理じゃな」
半蔵はにべもなく言ってのけた。
「我が国の政財界人のうち、少なく見積っても四十パーセント以上の人間が東西どちらかの組織に加盟しておるのじゃ。ヘタに取り締まれば日本が大混乱に落ち入ってしまう」
「失礼します。お茶が入りました」
課長がうやうやしく茶を持って入って来た。
「おお、ありがとう」
半蔵はズズッと一口|啜《すす》って、おおそうじゃと手を打つ。
「課長、もう一つ頼みがあるんじゃがな」
「何なりと」
「茶菓子が所望じゃ。先程、野田君が言っておった猫屋の栗最中が良いな。隣の課の上田三居子という受付の子の机に入っておる。右側の引き出し上から二番目の奥、替えのパンスト二枚といっしょに並べてある白い紙箱じゃ」
「ええっ。女子職員の机を勝手にいじくるなどと、そんな」
「うーん、食べたい。猫屋の栗最中が食べたいようー」
半蔵は手足を子供みたいにジタバタさせた。
「食べたい、たべたいのじゃー」
「わかりました、わかりました。捜してまいります」
去って行く課長の後ろ姿を見て老人はペロリと舌を出す。
何だよ、この爺さん。ミイちゃんのパンストの置き場所まで何で知ってんだよ。こいつ本当はオフィス荒しの変態なんじゃねえの?
野田は、クレオソートを一瓶丸ごと飲みこんだ海豹《あざらし》みたいな顔をした。
「あの課長には、今度の仕事の件は聞かせられんでな。ああして席を外してもらっておる。なにしろ彼の女房と息子は」
老人は二人の若い衆に向って、イタズラっぽく目くばせした。
「NATTOのシンパじゃからの」
「えっ!?」
野田と中町は顔を見合わせ、金魚みたいに口をパクパクさせた。
「いや、これはけっして冗談ではない。確証あっての話じゃ」
ぶ厚い老眼鏡を外した老人は着物の袖《そで》で曇りを拭《ぬぐ》う。
「ことほど左様に組織は肥大化しておる。諸君ら二人を呼んだのは、こうした『NATTO』にも『会所』にもつながりがない無菌状態の人間と認めたからじゃよ」
半蔵老人はズビズビと音を立てて、渋茶をうまそうに啜る。
「さて、と。課長が戻って来る前に、官房長官の指令というのを手早く話しておこうかの」
彼は、名残惜しそうに茶ワンの底を眺めて、つぶやいた。
9 原宿長屋の夜
青山表参道交差点の信号が、ポンと青に変る。
スタイリスト壺坂由理恵《つぼさかゆりえ》は、左肩に食いこむバカでかい布製のトート・バッグをゆすり上げ、横断歩道を渡り始めた。
歩くたびに両足の爪先《テイツプ・トウ》がズキリと響く。今日|下《おろ》したばかりのトキオ・クマガイ≠フ靴が、まるで中世の責め具のように彼女のダン広《び》ろな足を締めつけている。
「やっぱりバーゲン品はダメねえ」
彼女は道路の真ん中で立ち止り、自分の足元をしげしげと眺めた。もちろんその靴は、本物のトキオ・クマガイ製ではない。渋谷一丁目宮下公園近くのサープライス・ショップで見つけた韓国製のコピー商品である。
「履き心地も同じだ、なんてウソついて、あのバカ」
由理恵は、横柄《おうへい》な態度で靴を売りつけた店員ののっぺりした顔を思い出し、キッと唇を噛《か》んだ。が、しかし、それは何も靴だけのせいではなかった。彼女の足が疲労のために充血しているのである。今日一日の由理恵の仕事ぶりをここに書き出せば、
まず、朝の六時に跳ね起きて、カメラマンの助手が運転して来るライトバンに飛び乗り、北は千住から南は大田区の大森・蒲田《かまた》まで撮影用のアクセサリーを借りまわる。昼はホカホカ弁当屋で車を停《と》め、ノリ弁を仕入れて、助手の坊やと、チクワやフライを取り代えっこしながらパクついた後、すぐに青山方面へ取って返してスタジオ入り。スタジオに最近入ったばかりの徒弟奉公、写真学校出たてで駐車場係しかやらせてもらえない十九のガキのクネクネとよく曲がる腰のあたりを眺めて、「あら、あの子なかなか美形じゃない」などとつぶやきながらスタジオの隅で、借りて来たブティック商品を広げて商札はがし。時計が三時をまわったあたりでカメラマンが登場し、助手とスタジオマンを大声で怒鳴《どな》り散らしてグラビア撮影開始となると、モデルの代用に立ってカメラの位置ぎめ。カメラマンが剥《む》き出す歯ぐきを見つめて「何よ、あんたなんか一年前まで仕事も無くて、あたしが良く出入りしている出版社の受付に作品抱えて来てたじゃない」と口まで出かかるのをグッとこらえてモデル嬢の到着を待てば、やがて「わー、みなさんゴメンなさーい。前の仕事がオシちゃってー」の声とともにマネージャー露払《つゆはら》いのもと、麻布《あざぶ》近辺遊びまわりで名を馳《は》せた公称十七、本当は二十一のニコちゃんモデルが御登場。あとは、この子を相手に延々七時間の着せ替えゴッコ。死ぬほど忙しいが、この時が一番彼女の充実した時間となる。そのうち時計が十一時をまわり、「おつかれさま」の声とともにカメラマン&モデル嬢出て行けば、いつの間にか来ている担当の編集者、下心ミエミエで笑いかけ、「疲れたでしょう。どう? その辺で一杯」の猫なで声。無下《むげ》に断われば次の仕事に響くと読んで、まあ軽くなら良かろうと、ニコリ微笑《ほほえ》み、ついでに返品の区分けと商札付けなおしをチャッカリ手伝わせる。「麻布・赤坂も良いけれどたまには目黒あたりなんか」の声に、白金自然教育園そばの、飾りっ気がないと言えば聞こえがいい、コンクリートの打ちっぱなし、工事現場みたいな臭いのする業界向けバアへたどりつけば、早くも編集者眼が血走り、本当に一杯軽く飲んだあたりで「今夜は帰さないからね」とカラオケ艶歌《えんか》の合いの手みたいなバカセリフを吐く。ここで「何寝ボケたこと言ってんだよう」と言うのが駆け出しの子で、由理恵ぐらいになると時間をかけてそれとなく奥さんの話や子供の自慢話をさせて、家庭人の心情引きずり出し、相手が里心ついたあたりで「じゃあ、ごちそうさま」。心の中では「バカが、疲れているってのにこんな時間まで付き合わせやがって」と唱えつつ、プイと飛び出しタクシーを拾えば深夜料金二割増し、そのメーターのカチャカチャと良く動くこと、動くこと。万札で払えば運ちゃんに怒鳴られる、と持っている小銭で行けるところまで行ってそこで降り、スタイリストの荷物詰めこんだ合切袋を小さな身体に担いでトボトボ歩く。やっとアパートまで三百メートル、ああ疲れた。
交差点を渡りきったあたりで彼女はついに大声を出した。
「あー、しんど、もうあかん!」
ドスンとバッグを歩道に落し、ハッとして我に帰る。
しまった、関西弁をしゃべってしまった。彼女はあわてて口を塞《ふさ》ぎ、まわりを見まわす。青山246号線の富士銀行前に酔って引っくり返った学生風の男が一人、地下鉄表参道の階段で真っ赤な顔をして引っくり返っている外人のアベックが一組、交差点の反対側にある交番前の空地で酔っぱらった若い女の子が十人ぐらい一列に並んで引っくり返っている他に人影は見えない。
良かった。誰《だれ》も今の言葉を聞いてなかったみたい。由理恵は、ホッと胸を撫《な》でおろす。
気をつけなければ。そうよ、スタイリストが大阪弁なんかしゃべったことがバレたら、物笑いのタネ。いや、笑われるだけならいい。明日からこの坂道を歩けなくなってしまう。道行く人々から罵倒《ばとう》され、妙なウワサをたてられ、いずれはマグダラのマリアのように石持て業界を追われてしまう。
軽い被害|妄想《もうそう》症(これこそスタイリストの職業病なのだ)にかかっている彼女は、自分が日曜日の原宿歩行者天国でローラーズやアンケートマンに追い立てられ、オリンピア・マンション前で火炙《ひあぶ》りにされる自分の姿まで思い描いて、一瞬|身体《からだ》中の生毛《うぶげ》を逆立てる。
「い、いやや。うちはキリシタンバテレンやない。ひ、火あぶりはいややー!」
し、しまった。またしても関西弁が口をついて出てしまった。彼女の顔は恐怖に引きつった。
もう終《おしま》いや。この声は交差点に酔って寝ているアホどもの注意を引いてしまったに違いない。由理恵はヘナヘナとしゃがみこんだ。
「おーい、どうした?」
青山ダイヤモンド・ホール横の車道から、声をかけてくる奴《やつ》がいる。
由理恵はギュッと眼をつぶった。わやや、火あぶりや。長堀橋のお父《と》んにお母《か》ん、先立つ不孝を許してや。ああ死ぬ前に梅田「いと家」のお好み焼きおなか一杯食うてみたかった。
「これ、渋谷パル子。なにウダウダ言うとんねん」
誰かが彼女の肩をポンとたたいた。
……大阪弁。それに自分の偽名を知っている。彼女はソッと顔をあげた。
「な……なんや、平吉はんやないか」
ハンズ東キューこと住吉の平吉が、彼女の横にヌボーッと突っ立っている。
「夜の夜中に表参道の真ん中で、火あぶりやとかキリシタンバテレンやとか、いったいどないしたん?」
彼は首をかしげた。
「疲れとるんや。今日の仕事、キツかったさかい」
彼女はフラリと立ち上ると、キャリア・ウーマン恋愛小説の主人公をまねてカッコ良く肩をすぼめ、フッと笑ってみせた。
だが、平吉はそれを、女に似合わぬ荒っぽい鼻息としか受け取らなかった。
「気いつけなアカン。わてらが大阪人やいうことがバレたら大変や」
「わかってるがな。平……いや、ハンズちゃん。あんたも今帰りなの?」彼女は言葉を改める。
平吉は、街路樹の陰に停めてある自慢のシトロエンを指差した。
「東京駅まで例の人を迎えに行ってたんだ。ボスも一緒だよ」
さあ乗れよ、と平吉は彼女の荷物を持ち上げた。
住所で言えば渋谷区神宮前。なかなか結構な場所である。電話だって頭二ケタがヨンゼロ。名刺をもらった業界人で、あまりモノを知らないタイプならビックリ仰天《ぎようてん》「便利なとこ住んでますねぇ」腹の中では「テメエ何やってそんなに稼いでんだよー」の声も出ようという町である。
定吉たちを乗せたシトロエン・H型トラックは、路上に停めてあるミニ・クーパーや、アルファロメオの間をそろそろと抜けて、その結構な住所の横丁奥まったあたりで止った。
「うーん、ええとこやないか」
彼は目の前の建物を見てうなった。
「木造モルタル便所共用やなんて、わてをまたオチョクってからにィ」
定吉は車を降りるなり知松を肘でチョンと小突く。
レンガ色の化粧タイルが全面に張られた三階建ての高級マンションである。一階は広い駐車場、二階、三階は住いだが、ベランダが左右交互に組み合わされ、それぞれのプライバシーを守る仕組みになっている。スペースの配分から見て、かなりゆったりした間取りらしい。
「ちゃいまんねん。ここやおまへん」
知松はあわてて首を振った。
「このマンションの裏でんねん」
「うら?」
「へえ、そうだす。車が入らんよって、このマンションに来た客のふりして毎日ここに停めとくんだす」
「そら違法駐車やないか」
「シッ、大声出したらあきまへん」
知松は人差し指を、ポッテリとした唇に当て、顎《あご》をしゃくった。
「こっちだす。駐車場を抜けると近道で」
マンションの一階はゆるいスロープになっている。スリ鉢状になった駐車場の底まで降り、上を見上げた定吉は思わず、おお、と声をあげた。
華麗なマンションの裏庭、美しい夏の草花が生い茂る花壇の向うに巨大なゴミの塊りが転がっている。
夜目に透《すか》して眺めれば、まごうかたなき人の住み処《か》。木造モルタル二階建て、玄関一つに便所は共用。知松が大阪で言った言葉はウソ偽りではなかった。
しかし、それにしても何という凄《すさ》まじいボロ家であろう。軒《のき》は一部傾き、窓ガラスは全てテープの継ぎが当り、雨樋《あまどい》は外れ、屋根には草花が茂っている。
「こりゃあ、大変なとこやな」
「ま、どこから入っても同じようなモンやけど、入口は一応こっちだす」
知松と平吉、それに由理恵は、定吉の先に立って建物の中へ入って行った。
「ほれ、皆の衆、出て来なはれ。知松はんがお客サンつれて半年ぶりに帰ったでー」
平吉は、玄関(と思われる靴の散乱している場所)で大声をあげた。
「ヘーイ」
廊下の左右の戸がガラリと開き、若い男女が一斉に顔を出す。二階でもドタバタと音がして、階段の踊り場まで人があふれ出た。
「お帰りなさいましー」
住人たちは声を揃えて知松にあいさつした。
「夜もだいぶふけたのに皆良う起きててくれはったなぁ」
知松は自分の背後に立つ定吉を住人たちに紹介した。
「このお方が、かの有名な大阪商工会議所秘密会所直属」
ここで彼はスーッと息を吸いこんだ。
「殺人許可証を持つ丁稚《でつち》、定吉七番さんであらしゃられる。どや、驚いたかーっ」
「ヘヘーッ」
住人たちは全員深々と平伏した。
「そないテイネイに挨拶《あいさつ》せんといて下さい。わても皆サンと同じタダの大阪モンや。気使いは無用だす」
弱ったなぁ、と彼はハンチングのツバを指で弾《はじ》いた。
「ま、定吉はんもこない言うとる。皆、楽にせえ。これから自己紹介も兼ねて朝まで宴会や。大阪のミヤゲもぎょうさんあるでえ。ひとつパーッと行こかー」
知松は肩にかけたレノマの旅行カバンをポンと叩《たた》いた。
ワーッという歓声がアパート中に巻き起こる。数人の男女が階段を踏み外して一階に転がり落ちた。
「ささ、奥の宴会専用部屋へ入っとくなはれ」
「懐かしい大阪の話タップリ聞かせてもらいまっせ」
「わー、ウチ、定吉ナンバー持つ男の人見たの初めてやわぁ」
「キャー、ウチもや。なんや興奮して、チビッテもうた」
アパートの人々は先を争って定吉の手や袖を引いた。
宴会部屋、といっても六畳一間。アパートの住民が入ればギッシリで膝《ひざ》を曲げる場所もない。入りきれない連中は仕方が無くゴミだらけの廊下に新聞紙を敷いて座を作った。
「さあさ、土産配るでえ」
知松は、ランセルと、ラ・バガジェリーのバッグを開いた。中から現われたのは、まず、茜屋《あかねや》「手焼きあられ」、千日前の大寅「焼カマボコ」、丸万特大いなりの「タヌキずし」、新世界釣鐘屋の「釣鐘まんじう」に「バナナまんじゅう」、九条¥鶴屋《つるや》鷹山の「水牡丹《みずぼたん》」と「青梅」(干菓子)、住吉名物「さつま焼き」、角座向いの二ツ井戸・津《つ》の清《せ》「粟《あわ》おこし」、大阪昆布の「恋さん昆布」等の口に入るもの。次に通天閣の置き物、大阪城博物館特製「大阪夏の陣瓦版復刻版」、うめだ花月のパンフレット、新世界名物「坂田三吉記念の王将」置き物。最後にカバンの底から彼が掴《つか》み出したのは、旭《あさひ》町「下八重商店」で買い入れた三度笠と、四天王寺西門前「天王寺漢方薬局」のラベルがついたブラジル特産生きたアルマジロだった。
「なるほど、重そうにしてたんはコレか」
定吉は南京手妻《ナンキンてづま》のように次々と現われるみやげの山を見て納得した。
「おおきに、おおきに。自分はこれが好物で」
肩へ盛大にパッドの入ったサマー・スーツを着た若い男が巨大な将棋の置き物をペロペロ舐《な》めて涙を流している。
「それ食いモンやないやんか」
定吉は、あきれた。
「ええんだす。自分は新世界の育ちで、小さい時から寝つけんときはこの王将|駒《ごま》ねぶらされて(舐めさせられて)育ちましたさかい」
気がつくと周りの連中は、肩を組み合い、泣きながら「なにわ恋しぐれ」をハミングしていた。
「皆、大阪が恋しいんだす」
知松も大きな眼の両端に薄《う》っすらと涙をためている。
「豆屋の草の者として東京に暮して十数年、今ではすっかり大阪弁を忘れてもうた奴も居てます」
「さよか、大変なこっちゃなぁ」
思わずもらい泣きしてしまう定吉であった。
「ここに暮すものたちの日常生活も楽やないんだす」
知松は部屋の中を見まわした。
「見とくなはれ。けったいな格好してまっしゃろ。デザイナーズ・ブランドの服着てまんのや。ヘア・メークかて、その月のファッション誌に出た一番人気の高いヘアサロンでカットさせてるんでっせ。皆仕事が仕事やさかい、こんなん着とらんとやって行けんのです」
「仕事て、みんな何やってんのや?」
尋ねる定吉に隣に坐った平吉が答えた。
「男は、ファッション・メーカーのデザイナーとか弱小出版プロダクションのライター、エスニック料理店のウエイター。女は全員スタイリストかハウス・マヌカンだす」
「ハウス・マヌカンて、洋服屋の店員サンやろか?」
「ま、そんなモンだす」
「ちゃいます!」
うなずく知松の横合いから派手なメークの刈り上げ少女が血相を変えて口を挟んだ。
「ハ、ハウス・マヌカン言うのは、そない単純なモンとチャイます。もちろん|売り子《クラーク》ではありますけど、ある時はスタイリストやアドバタイザー、ある時は商品のモデル、ある時は大量卸のバイヤー、ある時は片眼の運転手、ある時は背中のきわめて不自由≠ネ鐘つき男、ある時はキザな手品……」
「ヘッ? お店で手品もやって見せるんでっか?」
「これは口が滑ったんです。うん、とにかく、そういったいわばマルチ・アキュペイションなんですわ。八百屋や魚屋の店員とは違《ち》ゃいまんねん」
少女は憤然として粟おこしを齧《かじ》った。
「ま、ま、気ィ落ちつけて。何も定吉はんは、あんたバカにするつもりで言うたんやないやんか」
平吉は少女の肩を、良《よ》しよしと軽く叩いた。
「この子だけやなく、ここにいるみんなは、今の表職業を、裏の職業同様誇りにしてまんねん。……ところが、誇りは現実の生活を止揚してくれまへん。たとえば」
平吉は隣に坐っているこれもスタイリスト風の女性グループに、ソッと囁《ささや》きかけた。
「ねえ、自分ら(あんた方)、銭湯もう行った?」
彼女らの顔が凍りついた。
「せ……せんとう……」
「いやや、銭湯なんやイヤヤー」
一人が激しく首を振った。
「ほなら、共同便所?」
平吉はなおも問いかける。
「うわあ、いやや、共同便所はいややー!」
「聞きとうない。話しとうない!」
その場にいる人々は恐怖にゆがんだ顔で一斉に立ち上り、狭い室内を走り出した。
「わっ、どうしたんや、みんな?」
膝や手を踏まれた定吉はビックリして引っくり返った。
「こら、平吉。あまり同志をいちびったらあかん」
知松があわてて平吉をたしなめた。
「これ、みんな静まれ。あまり騒ぐと『Lei』や『Jill』の外人編集者紹介せんぞ。オン・サンデーズで買《こ》うたブルース・ウエーバーの写真見せへんぞ。環境ビデオの新作貸してあげへんぞ」
平吉はポンと手を打った。アパートの住民たちはハッと我に帰り、ゼイゼイと肩で息をついてその場にヘタリこむ。
「今の何や?」
驚いた定吉は平吉を突っついた。
「意識深層下の内傷《トラウマ》をチョッと刺激したんだす。この場合、コンプレックス噴出のキーワードは『銭湯と共同便所』で」
彼はメンズ・ビギのTシャツに汗だらけの手をゴシゴシとこすりつける。
「ここのアパートに住む連中は、見栄《みえ》でかためた表の職業と現実のギャップに挟まれて、多かれ少なかれ皆オカシクなっとるんですわ」
知松が説明を引きついだ。
「ファッション・メーカーのデザイナーとかハウス・マヌカンとかいう横文字商売人の全部がぜんぶ優雅な生活しとるわけやおまへん。三区(東京の港・渋谷・目黒区)内のワンルームで暮すなんて、ごく一部の業界人だけに許されている贅沢《ぜいたく》なんだす。大部分のモンがこうした――まぁ、このアパートは少し度を越してますけど――モルタル四畳半―六畳間に住んでまんのや」
「全てファッション雑誌が悪いんやー」
レノマ・レディスのシャツを着た少女が叫んだ。
「うちら、お給金はファースト・フードのアルバイトより安い。しかも服装には気い使わんならん。いくら社員割引してもろうても、デザイナーズ・ブランドは原価が高い。収入の七割近くが服代に消えてまう。切りつめるとなると住居費や。何もスキ好んでボロアパートの共同生活してるわけやない。ここしか住めへんのや。ビンボはイヤやー」
「雑誌は、うちらのこと、間接照明のライトが壁際で灯《とも》るモノトーンの部屋でシャム猫とアンニュイに暮すと書きたてるけど、現実はコレや」
コムデギャルソンのベストを着た女が、眉《まゆ》を吊《つ》り上げてベソをかく。
「月に一度の便所当番。人目を忍んでタオルで顔を隠し、夜な夜な通う神宮前五丁目の銭湯……。うち、もうこんな生活イヤや」
ヨヨと泣きくずれるところを、ニコルのジャケットを着た口髭《くちひげ》丸ポチャの男がシッカと抱きしめた。
「これ、小春、そんな弱気なことでどないするねん」
「さ、三吉はん」
「泣いたらアカン、泣いたら負けや。通天閣が……、いや、渋谷区神南二丁目NHK放送塔が笑うやないか」
「おつむ痛《いと》うなってきたな」
定吉は頭を抱えた。こんなおちゃめな非合法活動者たちがはたして物の役に立つのだろうか。
10 イリーガルズはバニーガールズではない
「その辺で少しお茶でも飲んでいかない?」
野田は通産省地下職員用売店で買ったばかりの、西陣織特価千五百円ネクタイをグイとゆるめた。
「その辺って……、ここらにあるのはみんなガキ向けのケバケバしい店ばっかりですよ」
中町はハンドルに寄りかかって周りを見回した。右側に帝人ボルボのショールーム、左側にプリンスホテルが青白い光を放っている。六本木通り。このまま行けば六本木の繁華街に出てしまう。
「一杯飲みたい気分でもあるんだけどさ」
野田は頭の後で腕を組んで大きくアクビをした。
「だめですよ。飲酒運転になっちゃいます。俺《おれ》これでも警察官僚機構の末端に位置してるんですからね」
「でもさぁ、何かこのまま官舎に帰っても、寝つけないんじゃないの?」
六本木交差点に向う市三坂のあたりで渋滞しているタクシーの赤いテールランプを睨《にら》みつけていた中町は、ハンドルをグルッと回し、車をアメリカ大使館宿舎の横丁へ突っこんだ。
「檜《ひのき》坂の方に静かなコーヒー・ハウスがあります」
野田は運転席の同僚を見て微笑した。彼だってこのまま帰って熟睡できると思ってはいないのだ。一度左折して真っすぐ進み、藤原歌劇団のところをもう一度左折して公園のそばに出る。防衛庁の裏あたりである。坂道の途中に、アメリカ風のハイテックなカフェテリアが一軒だけ看板を出している。車を止め中に入ると、
「アノー、二時マデデ終《しま》イナンデスケド」
とペーパー・ハットを被《かぶ》った黒人のアルバイトが流暢な日本語で声をかけてくる。
「コーヒー一杯ぐらいの時間はあるだろ」
中町は窓ぎわのテーブルに腰を降ろしながら脅すように言った。
黒人青年は気弱にほほ笑むと、キッチンの方に向って肩をすくめ、コーヒー・メーカーにカップを二つ載せた。
野田はカウンターへ肘《ひじ》をつき、顎《あご》の辺を指でこする。無精《ぶしよう》ヒゲがジャリジャリと音をたてた。
「ねえ、中町君」
大きなマグにタップリと注がれたアメリカンが運ばれてくると、彼は急にマジメな顔になった。
「さっき半蔵とかいう爺さんから聞かされた話」
「大変な任務ですねえ」
中町はテーブルに置かれた生クリームのパックを荒っぽく引き千切り、ドバドバとマグに注いだ。
「僕、まだ任務の主旨が良くわかんないんだ」
「えっ、あれだけ半蔵様が噛み砕いて説明してくれた内容、まだ理解できないんですか?」
かきまわしていたスプーンをコーヒー皿の上にポロリと落して中町は目を丸くする。
「文書化してくれないとさー、ダメなんだよね、僕」
あーあ、こういう奴って学校時代クラスに必ず一人はいたんだよなぁ。人に時間かけてしゃべらしといて、全員が理解した後で一人だけとんでもない初歩的質問する奴。中町は舌打ちした。
「ねえ、野田さん。あんたカップのアイス食べる時、指の力加減できなくて、木のサジ折っちゃったりして困ることありません?」
「うん、いつも苦労する」
「高校時代、現代国語の本を授業中読まされたとき、思わず感情込めて読んでクラスの女の子に嫌われたことありませんでしたか?」
「うん、そういえば……」
うわっ、やっぱりそうだ。物事に対して何でも不器用に対処してしまうタイプなんだ。こんな、とんでもない奴とこれから毎日活動しなければならないのか。
「どうしたの? 中町君、顔色悪いよ」
「いえ、何でも」
「あー、お腹《なか》痛くてウンコ行きたいんでしょ。そうだ、そうなんだ」
野田はうれしそうにはやし立てた。
「違います。そんな問題じゃない!」
カウンターの奥にいた黒人がビックリしてこちらを向いた。中町はあわてて首をすくめる。
「いいですか。俺がもう一度話してあげます。こういうことは文書化できるような間題じゃないんですから」
「うん。もう一度聞けばわかるかもね」
内閣調査室対外資料作成室のエリートは楽しそうにうなずいた。
「つまり、こういうことです」
中町はテーブルに顔を寄せろ、と手招きする。
「現在、NATTOは、関西側に軍事的な攻勢をかけるため、必死になって兵器をかき集めようとしています。それも、そこらのヤクザ組織みたいにハワイやフィリピンでハジキを買うなんてチャチなやり方じゃない。ミサイルとか戦車とかなんて大モノを仕入れようと考えているんです。もちろん、普通の方法ではそんなムチャなもの輸入することは不可能です。だから」
中町は窓の外に見える防衛庁ビルのアンテナを差した。
「あれを利用しようと考えているらしい」
「すごいねえ。アンテナをクズ鉄にして売り払うなんて」
野田は素直に感心した。
「違いますよ、もう。ぼーえーちょーですよ。防衛庁の兵器試験購入枠を利用しようとしているんだってば」
中町は声を荒げた。
「国内の兵器メーカーや、米国系の兵器会社から正式に買い入れたのでは後あと問題が残る。跡腐《あとくさ》れのない第三国の大手メーカーから実験購入という形をとれば、自衛隊の員数外兵器ということで輸入後、簡単に闇《やみ》へ消しちゃうことができるでしょ」
「あー、マーケットの食品売り場で試食品をもらって、おいしいから試食品の方をちょうだい、とか言って、そっちの方を食べちゃって……」
野田はうれしそうにうなずいた。
「うーん、ずいぶん違うみたいだけど、まあそういうことにしときましょう」
中町は話の先をいそいだ。
「NATTOは、防衛庁と国家防衛予算審議会に潜りこんでいる結社員を総動員して、明日、日本にやって来るフランスの民間兵器会社社長と接触《コンタクト》を持とうとしています」
「そういう話なら国家公安委員会に持ちこむのが筋だよねぇ」
「だからぁ」
またワケのわからんことを言う、と中町は、情けなさそうな顔をする。
「ヘタにそんなことすれば、政府の中枢にまでNATTOの結社員が入りこんでいることを世間に公表するようなもんだって言ってるでしょ」
中町は額の汗をハンカチでペタペタと拭《ぬぐ》いはじめた。興奮して体温が上昇したのである。
「特に、今回活動しているNATTOのボスは、群馬県選出の代議士で、首相の後援団体にも関係している奴だから……」
野田は、わかったようなわからないような顔で窓の外を見た。路ばたに停《と》めてある中町の公用車ニッサン・グロリアに赤いライトを輝かせたミニ・パトが近づいている。
「NATTOの動きは、いつもと違ってやけに派手すぎる。ヘタをすれば首相の評判にまで関わって来ます。官房長官はそれを恐れて半蔵様にNATTOの動きを封じるよう指令を出したんです」
「そこで、僕らに命令が降りて来たってわけね」
ミニ・パトがレッカー車を誘導している風景をボンヤリと見つめたがら野田はうなずいた。
「そうそう、やっとわかりましたか」
中町はホッとしてコーヒー・マグを取り上げる。
「具体的な行動は、まだ考えていませんが、最悪の場合は、NATTOのボスを秘密裏に抹殺することになるでしょうね」
「えっ! やだよ、そんなの」
野田は同僚の過激な言葉にビックリして目を剥《む》いた。
「何言ってんですか。俺たち今日から内閣調査室の正式な非合法員《イリーガルズ》ですよ」
「えっ、イリーガールズってバニーガールズとか、バトンガールズみたいなものじゃないの?」
野田の異常なセリフに中町は、またしても泣きそうな顔をした。
「どこの世界に、バニーガール・クラブへ出向する情報員がいるっていうんです」
「ねえ、中町君」
「『ねえ』じゃないですよ。俺もう、この仕事やって行く気力がなくなっちゃいましたよ」
「違うんだってば」
「『違うんだってば』じゃありませんよ。やっと最高顧問のおメガネに適《かな》って非合法員になれたっていうのにこんな人と……」
野田は窓の外を見ながら中町の、服の袖《そで》を引いた。
「駐車違反で車持ってかれちゃうよ」
「『駐車違反で車持って』……えっ!」
中町はハッとして窓の外を見た。
「ああっ。レッカー車が引いてっちゃう。コラ、ミニ・パト。そいつは公用車だぞ」
彼は真っ赤になって叫んだ。大急ぎで店の外へ飛び出して行く。
「まだ止めてから十分もたってないんだぞ。なんてことするんだ! ドジ、バカ、マヌケ」
しょうがないなぁ、という顔で野田は小銭をテーブルに置き、のんびりと同僚の跡を追った。
「今のは何だい?」
カウンターの奥からエプロン姿のスラブ人が顔を出した。
「話し振りからすると、どうやら日本の情報局員らしい」
黒人青年は、空のマグを流しに戻しながら、キューバなまりのロシア語で答えた。
「この国もなかなか大変みたいだな」
二人のKGB六本木地区派遣員は、これ以上妙な奴が入って来てはタマらん、と大あわてで店のシャッターを降ろし始めた。
11 辛いウエファース
原宿の町に朝が来た。いや、原宿だけではない。日本中に朝が来ていた。さわやかな朝である。
その朝の空気をかき乱すようにして表参道の坂を駆ける一人の異様な人物がいた。
和服の裾《すそ》を尻《しり》はしょり、履きものを茶色の帯の背に挟み、首へ白地の手ぬぐいを巻いた裸足の男。
定吉である。
「地球の上に朝が来る。その裏側は大|飢饉《ききん》」
大声でわめきつつ走る彼の姿に早朝出勤のNHK職員たちが驚いで立ち止った。
「何だ、あれ?」
「中小企業の社員研修じゃないんですか?」
「根性教育を今時まだやってるところがあるのねぇ」
勤め人たちは、短い髪の頭を振り立てながら飛ぶように走る男の後ろ姿を憐《あわ》れみと軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しで、見送った。
定吉にすればそれどころではない。昨夜のパーティでお付き合い上仕方なく口をつけたビールと、前の日の寝不足がたたって、猛レツな頭痛に悩まされていたのである。
彼はこんな時は、ただひたすらこうして走ることにしていた。身体をメチャクチャに動かして汗をかき、新陳代謝を良くすることによって体調を元にもどす。頭痛薬や二日酔いの胃薬などは一切使わない。金がかからず、基礎体力の向上にもつながる一石二鳥、いかにも丁稚《でつち》らしい方法である。
定吉は、参道と明治通りの交差点を駅の方に駆け昇り、明治神宮の前で一礼するとNHK方向にまわって競技場を一巡し、再び参道にもどってラフォーレ原宿方向に駆け降りた。交差点を渡ってビクターの前から同潤会アパートの方に昇り、古い公衆便所の中で口の中に指を突っこみ、ゲーゲーと二、三度吐くと、晴ればれした顔で出て来て思いっきり伸びをする。
「うー、スッキリした」
彼は、鬱蒼《うつそう》と茂るケヤキの大樹を見上げて大声をあげた。
「ええ朝やなぁ」
体力は完全に回復したようである。
「さて、アパート帰ったろかいな」
両腕をグルグルと振りまわし、彼は元気一杯坂を駆け降りた。
野生動物のような、とんでもない体力の持ち主である。
「ああ、おなか空《す》いたぁ」
数分後、彼は例のボロアパートの玄関にたどりつくなり情けない声を出す。
「胃の中のモン全部出してもうたら、途端に腹へってしもうた」
「おはようさん。定吉はん、もう起きてましたんか?」
知松《ともまつ》が廊下の奥からあいさつする。
「へえ、あんたも早起きやな」
「へへへ、チョボ丁稚の取り得は早起きと早グソだけだす」
彼は肉付きの良い両頬《りようほお》をゆすって笑いかけた。
「おかげでこないなとこに並ばんならん」
よく見ると暗い廊下にいるのは彼一人ではなかった。数人の男女がモジモジと内股《うちまた》を擦り合わせて立っている。共同便所の順番を待っているのだ。
なるほど昨夜言ってたコンプレックス・キーワードの一つがこれか。ハウス・マヌカンやスタイリストが毎朝便所の列作ってるなんてずいぶんと悲しいことやなぁ。定吉は同情して、鼻をグスンと鳴らした。
「女の子たちがもうすぐ起きて来て食事作ってくれます。食べ終ったらミーティングしまひょ」
「うむ」
知松の言葉にうなずきつつ、彼は玄関の水道で汚れた素足を洗った。
丸い、チャブ台のお化けみたいなテーブルが六畳間の中央に据《す》えられていた。ミソ汁とタクワンの香ばしい匂《にお》いがあたりにポヤーッと漂っている。飯びつを前にしてかいがいしく食事の用意をするのはスタイリストの由理恵である。
「ほう、うまそやな」
定吉はペタンとテーブルの前に坐《すわ》った。
「わてらのアパートに住んでる奴《やつ》はみんな、普段は、何も食べんと出かけるか、タマに食べてもフランスパン一切れに、コーヒー牛乳カップ半分でんね。こないな朝食見たんは二年ぶりだす」
先に来て坐っていた平吉がタクワンをつまみ食いしつつ説明した。
「うーん、そらあかんな。京都のケチな大店《おおだな》でも朝ガユぐらいは腹いっぱい食べさせるで。一日の始まりに気張ることができんやないか」
「へえ、そうだすなぁ」
平吉はポリポリと頭を掻《か》いた。そうこうするうち部屋の中に寝ぼけ顔の男女が十人ほどゾロゾロと入って来る。
「この連中が、うちらの中でも一番の手練《てだ》れだす」
知松が顎《あご》をしゃくった。
「これ、みんな定吉はんに朝のあいさつせい」
「ふぁーい。おはよーさん」
数人の女性がふぬけた挨拶《あいさつ》を終えるなり、テーブルに顔を載せて再び眠り始めた。
なんや、こいつら。定吉はビックリした。
「ヘヘ、スンマヘンなあ。みんな低血圧でんね」
知松は恥かしそうに笑った。
「うちら、食べんでもええわ。食欲ないし」
「うちもカロリー計算してるさかい、朝はハーブ・ティだけにしときます」
「だいたい昔の人は、一日二食しか食わんかったて聞いてまっせ」
目ヤニのついた目尻《めじり》を小指でこすりながら、女の子たちは口々に不平を言う。
「あほなこと言うたらあかん!」
定吉はドンとテーブルを叩《たた》いた。テーブルに顔を載せていた連中は衝撃にビックリして顔を持ち上げた。
「あんたら、仕事の名前は横文字でも、一日中お店の中で立ちん棒したり、大荷物運んだり、やってることは天王寺公園のドカチン(労務者)とゼンゼン変らん重労働いう話やないか。身体ムチャクチャ使う人間が朝メシ食べる手間まで省いてどないすんねん」
「その分、うちら毎日十時頃《ごろ》に間食して、お腹《なか》の帳尻合わせてますぅ」
蝶《ちよう》チョのクリップで三つ編みの端を止めた少女が、口を尖《と》がらせて言い訳する。
「ホレ、それがそもそも間違いや。朝食わんと変な時間に変なモン食うから、結局は余分な肉|身体《からだ》へ付けることになる」
「けどなあ、定吉はん」
「けどなあ、やない!」
三つ編みが脹《は》れぼったい眼でなおも弁解しようとするのを、定吉はピシャリと封じた。
「朝、食欲が出んのは食べる訓練が出来てないからや。どうせあんたら、間食はファースト・フード。ハンバーガーやらドーナツやらいうモン遊び食いしとんのやろ」
「そんなことあらしまへーん」
三つ編み少女の隣に坐っていたベア・トップ姿の娘が大きな胸をゆすって物憂《ものう》く答える。
「そういうカロリーの高いモン食べはんのは、表参道へ遊びに来るヒトだけだすわ。うちら、今食べてるのは」
そこに居合わせた女子が全員、ポケットから四角いものをサッと取り出した。
「これですぅ」
「なんや、それ?」
文庫本ほどの大きさの紙箱である。
「お菓子か?」
定吉は箱を受け取って、ヒネクリまわした。全体が淡いピンク色、蓋《ふた》のところに何かお人形サンらしい絵が印刷されている。
「何ナニ、『おまけつき・リカちゃんウエファース』。へーえ」
「間食にコレ食べるのが今イッチャン流行《はや》ってるんですわ」
「箱とかオマケのオモチャも色使いが洗練されてますやろ」
中見てみなはれの言葉に、定吉は中を覗《のぞ》いてみた。手のひらへ載るぐらいの小さなプラスチック製玩具が、ピンクのウエファースと一緒に入っている。
「あっ、ママゴト・セットやな」
「それ、スタイリスト仲間の間でコレクションするのが流行ってるんだす。食べた後で取っ代えたりして遊ぶんですぅ」
「あんたら意外にサビシイ人生おくっとるんやなぁ」
定吉はウエファースを一枚取り出して、パリッと齧《かじ》った。次の瞬間、
「ウワッ、なんやコレ」
口をゆがめて悲鳴をあげる。
「か、辛いやないか!」
その辺に吐いて捨てるわけにもいかず、喉《のど》に引っかかったソレを、彼は無理やりグッと飲み下す。
「へ、変な味やな。甘いクリームと西洋辛子がゴッチャになったような」
「ミスマッチというか異常なインパクトというか、そういう過激な菓子、シャレでつまむのが粋なんですう」
「他に塩辛入りのガムとか、松葉ガニの味がする粉菓子なんかもおまっせ。おもろい乗りでっしゃろ」
少女たちは笑った。
「よーそんな妙ちきりんなモン食べて腹壊さんと……」
定吉はピンクのパッケージを薄気味悪そうにテーブルの端に押しやった。
「はは、定吉はんもソレ食べなはったんか」
いつの間にか部屋の中に知松が立っていた。
「けったいな味でっしゃろ。駄菓子業界は今、目新しさだけで売ってますさかいな」
彼は、定吉の隣にドッコイショ、と重い腰を降ろし、菓子のパッケージを手に取った。
「この菓子を企画したとこが問題でんのや」
知松は箱の裏を指差す。
「製造工場は……神奈川県小田原市……、アーティステ……ッテッ……あ痛あ、舌|噛《か》んだがな」
「アーティスティック・デザイン(意匠開発)だす」
「……が、東京都港区|麻布風船《あざぶふうせん》坂一の二の二ドムス八畳敷『リカ・オフィス』。なんやケッタイなとこやな」
定吉は住所を見て首をひねった。
「青山リカという女子大生が作った企画会社だす。近頃、東京の雑誌やテレビにもよう紹介されてますわ。菓子のデザイン以外にも、学生のコンパニオン・クラブ組織してイベントに出たり、業界紙作ったり、手広く商いやって」
「ひと昔流行った学生企業いうやっちゃな」
「さいだす。その主宰者のリカ言うのんが」
知松はギョロリと大きな目を光らせた。
「若ダンさんにまつわりついとるピンクの寄生虫……」
「む!」
「いや、定吉はんが言いたいことは、ようわかります。そこまで調べがついとるのにどうして早よ若ダンさん助けに行かんのか、いうことでっしゃろ?」
「そや」
「それが、うかつに手出しできまへんのや」
豆屋の丁稚は、ウエファースを取り出してパリリと齧った。
「リカと若ダンさんのまわりを、ケッタイな団体が固めてましてな」
「NATTOの殺人部隊か?」
なにを今さらそんなもの恐れているのだ、と、定吉は不思議そうな顔をする。
「いやそれが……」
「何や?」
「女子高校生のクラブだす」
「へ? じょしこーこーせー、てあの、セーラー服着て、体育の時間になるとチョーチンブルマ穿《は》く、アレか?」
「ま、チョーチンブルマは今時穿きまへんけど」
知松はホーッと低く息を吐いた。チャブ台の上に散ったウエファースのクズが、風圧でパッと舞い上った。
「こいつらがまたとんでもない技の持ち主ばかりでしてなぁ」
「へぇー」
「一般常識いうモンがおまへんさかい逆に、エゲツないマネは何でもやりまんのや。こら恐《こわ》いでっせ。ヘタ動いたら若ダンはんも危い」
「なるほどな。で、そのクラブの名は?」
「リカちゃん軍団」
知松は吐きすてるように言った。
12 ケーキ屋のアンリ
山手線目白駅は、改札口が一つしかない。
ホームの階段をトントンと昇って一歩外に出ると、すぐ目につくのは駅前を横切る一本の大通りだ。
埼玉県と背中合わせの大泉町から発し、西武池袋線とほぼ平行に走って音羽《おとわ》町に至る目白通りである。
練馬区、中野区を抜け、豊島《としま》区の縁《ふち》を舐《な》めて新宿区へ入り、再び豊島区へ戻るこの通りは、山手線を越えたところでそれまでの風景をガラリと変える。
郊外の住宅地や商店街を縫うようにして下落合《しもおちあい》方向からやって来た人や車は、目白駅の駅前陸橋を潜《くぐ》ったあたりで皆一様にホッとする。
駅の向う、文京区に隣接する地域は緑濃い文教地区、豪奢《ごうしや》なお屋敷町になっているのだ。
しかしこの通りほど異名の多いところもまた珍しい。
弊衣破帽《へいいはぼう》腰手ぬぐいに憬《あこが》れる旧弊《きゆうへい》なニューミュージック早稲田《わせだ》人は、羨望《せんぼう》と軽蔑《けいべつ》の意を込めてここをお嬢さま道路≠ニ呼ぶ。彼らは、テニスラケットを抱えて闊歩《かつぽ》する日本女子大《ポンジヨ》や学習院《イン》の女子大生を、イソップ童話の狐《きつね》みたいな目で眺めて「フン、あんな女どもなんか酸っぱいにきまってるんだ」と毒づく。そして何のてらいもなく、その女子大生たちに合コンを申し込む自校の後輩や慶応大生へコンプレックスを持ち、大久保方面で安酒をかっ食らうのだ。
当の日本女子大・学習院の学生たちは、この道を単に通学路≠ニか、少し気取ってカテドラル(東京カテドラル聖マリア大聖堂)の方に行く道≠ネどと称している。
また、日本女子大と目白駅の中間に位置する目白警察署の署員たちは、ここを最重要人物特別警護地区内の通行路≠ニ呼ぶ。重要人物とは、署の真っ正面に正門のある大学へお通いになる、さるやんごとなきお方、それに言わずと知れた「目白の将軍」である。
かつてこの目白将軍邸の御威光めざましかった頃《ころ》は、御中元、御歳暮、予算編成、総選挙その他諸々の異変が起きるたびに、将軍の御出身地から「いざ目白台」の掛け声も目覚しく諸将の随身《ずいじん》、家の子郎党|馳《は》せ参じ、道は、村祭りのような賑《にぎ》わいを見せて、ために住民はここを陳情道路=A御参道≠ネどと名付けていた。しかし栄枯盛衰は世の習い。揉《も》み手とともにセッセと通う人々の姿も消えた今はその名を口にする人もない。
そんな目白通りの一角を、駅の方向から今しも一台のタクシーがやって来た。
白地にブルー・ラインの入った車体を夏の強い日差しにきらめかせながら、タクシーは川村学園と学習院の間を通って明治通りの高架橋を渡り、ひなびた商店街を走り抜ける。
まだ午前中のこととて通りの交通量は少なく、歩道の人影も疎《まば》ら、街路樹のプラタナスだけが我がもの顔にその大きな葉をゆすっていた。
やがてタクシーは、日本女子大のレンガ塀に沿って正門あたりまで進んだところでスピードを緩《ゆる》めた。
前方の対向車線上に、ジャーマン・グレー・カラーの大型バスが車体の周囲に無数の赤いパイロンを引きまわして停車している。しかも困ったことに、反対側の車線には数台のワン・ボックスカーがヘタクソな駐車をしているのである。片側二車線の目白通りは、そこだけ一車線ずつという状態だった。
「おっーと、このへんでいいんだっけかぁ」
タクシーの運転手は、ステッカーだらけの尻《しり》をこちらに向けて並んでいる小型車の列を見てつぶやいた。
「さて……と、なんていったらいいんだべか」
彼はバックミラーで後部座席を見ながら悩んだ。
ミラーには、サングラスをかけ、白い麻のスーツを粋《いき》に着こなした年寄りの外人さんが一人キョロキョロとあたりを見まわしている。
「あー、此処《ヒア》、此処《ヒア》。ここ、ここです」
運転手は、大げさな身振りで窓の外を指差した。
外国人は奇妙な動物を発見した探検家のように目を丸くして、首をひねり始める。
「ここ、ここだってば、ここ、ここ、ヒァ、ヒァ、ここ、此処」
運転手はだんだん自分がニワトリか、ムラサキオオクチバシツグミになったような気分になってきた。こんなことなら個人タクシー協会で定期的に行っている外国人接客心得教室≠サボるのではなかった。いや、昨日女房に言われたように転職しておけばよかっただ。田舎《いなか》さ帰って、おが(母)の手伝いさして、カッチャクのエエ田植え機一台買って……。
「|あっ《オー》、|わかった《アイノー》」
外国人は、タクシーが一時停車しているのではなく、目的地に着いたのだということをようやく悟ったらしく首をタテに振った。懐から札入れを取り出す。
「ハウ・マッチ」
「あー、そのー、なんだ、新宿から二千と……、二がツーだべ。そいでもって千がサウザンドだっけが」
運転手はまたまた泣きそうな顔になる。外国人は運転席の左側に付いたメーターの金額を覗き込み、千円札を三枚つかみ出した。
「|はい、三千円。《ヒアラースリーサウザントエン》|おつりはいいよ《キープザチエンジ》」
彼は腰を上げ、自動ドアだというのに把手《とつて》を押してそれを開けようとした。
「あ、い、いま開けるだで」
ドアがひとりでに開き、その不思議さに外国人はまたまた目を丸くした。
「あっ、おつりはいいんだべか?」
「メルシー」
外国人はニッコリ笑うと歩道に降り立つ。
彼はその場でしばらくあたりを見まわしていたが、やがて、道路に面した狭い駐車場の隣にある一軒の洋館へ足を向けた。
彼の後ろ姿を見送りながら青森県|百石《ももいし》出身のタクシー運転手は、不精《ぶしよう》ヒゲを撫《な》でて独りごちた。
「はぁー、あの外人さん、よっぽど眼え悪くしてるだな。おらのこどメラシ(女の子)と思ってんだもんなぁってかー」
白い日除《ひよ》けが歩道の間際まではみ出しているその洋館は、どうやら洋菓子屋を兼ねた喫茶店らしかった。蔦《つた》の絡まる窓際では楽しそうに語らう数組の男女の姿が見え隠れしている。駐車場の裏手にケーキの工場があるらしく、そちらの方から甘いクリームの匂《にお》いも漂って来る。
外国人は、ポケットからクシャクシャの紙キレを取り出して、入口のポーチに下っている看板の文字とそれを何度も見比べた。
蔦の葉で半分近く隠れた異国の文字が読み取りにくいのか、サングラスをずり降ろし、両足を踏ん張って飽かずにその動作を繰り返す。
頑丈そうな腕木からぶら下っている木製の板きれには、「フランスの歩哨《ほしよう》」というケーキ屋にはまるで似合わない武骨な店名が、洒落《しやれ》たレタリングのアジア文字で描かれていた。
十分近くも紙の文字と看板を交互ににらみ続けていた彼は、やっと確信が持てたのか軽くうなずき、サングラスをかけなおすとポーチの中にゆっくりと足を踏み入れる。
彼は入口の扉をそっと開けた。すぐに目につくのは大きなガラス・ケースと脇《わき》にしつらえられた錫《すず》張りのレジ・カウンターである。後ろの壁には、フランス竜騎兵や胸甲《きようこう》騎兵を精密に描いたエッチングが無造作に飾られている。セーヌの左岸で古本|漁《あさ》りの客向けに売っていそうな、通好みの十九世紀大陸軍《グラン・アルメ》#ナ画だ。
ガラス・ケースの中身は当然のことながらケーキである。カラフルな色合いの丸いトルテや切り分けられたタルト、果実を載せたパイや四角いパウンド・ケーキ等が銀の菓子皿の上で客待ち顔に並んでいる。
外国人は奥をのぞき込んだ。レジの斜め後ろ、店の窓際に面した部分と吹き抜けの中庭へ面した部分は、ゆったりとテーブルを配置したティ・ラウンジだった。程良くきいた冷房の中をブラームスのメロディが流れている。
「いらっしゃいませ」
ガラス・ケースの向う側から白いエプロンをつけた若い娘が彼に声をかけた。
「|突然お伺いして恐縮だが……《アイム・ソーリートウカムウイズアウトアポイントメント》」
外国人は、ニューヨークのオカマみたいな鼻音を強調した妙な英語を使った。
「この店のオーナーにお目にかかりたいのだが」
「あいにくオーナーは今不在です」
娘は、ちょっと首をかしげた。
「|戻るのは……《ヒールビーバツクバイ》」
彼女がそこまで言った時、レジの後ろにある半開きのドアが勢い良く開け放された。
「ピエール、ジャン・ピエールじゃないか!」
白服を着た小柄な男が飛び出してくる。
「アンリ、元気そうだな」
外国人はそこで初めて太ブチのサングラスを外し、微笑《ほほえ》んだ。
「あたり前だ。俺《おれ》がそう簡単にくたばるわけがない」
アンリと呼ばれた調理服姿の男は、早口のフランス語でまくし立てると、ラテン人特有の大げさな身振りで両手を広げ、同国人らしい長身の男に抱きついた。
「この人殺し野郎め、びっくりするじゃないか。いつ日本に来た?」
「昨日の昼さ」
二人は抱き合って笑い声をあげた。
「あの……」
娘がおずおずと口を挟む。
「ああ、いいんです。この人は私の古い友だち」
流暢《りゆうちよう》な日本語でアンリは答え、ピエールの肩を何度もたたいた。
「戦時中のオー・ド・ヴィがあるんだ。昼メシ前の一杯といこうじゃないか」
「いい提案だ」
彼の友人は頬《ほお》をゆるめた
「事務所にいます。誰《だれ》も入れないで下さい」
レジ係の娘にやさしくそう言うと、アンリはピエールの背中を押し、カウンターの奥にある狭い階段へ彼を誘《いざな》った。
二階の一番奥まったところにある樫《オーク》製のドアをアンリが開けた時、ピエールは思わず口笛を吹いた。
「パリ国立銀行の支店でも開くつもりかね?」
「ああ、これか」
アンリは恥かしそうにドアの飾りを撫でる。
「大したもんじゃない。ちょっと厚目に作ってあるだけだ」
ピエールは指をドアの小口に走らせ、その幅を測ってみた。確実に十センチ以上はあった。アンリが力を入れて開いた時の様子から見て、樫材の間へ鋼板でも挟み込んでいるに違いない、と彼は踏んだ。
「坐《すわ》れよ」
アンリは作りつけの戸棚の前に置かれた椅子《いす》を手で示し、自分はその横のテーブルにまわって、足の下から小さな素焼きの瓶《かめ》と古ぼけたブランデー・ボトルを取り出した。
「グランビルの四二年物とヴェアソンの四四年物だ」
「ヴェアソンをもらおうか」
ピエールは茶色い瓶を指差す。
ブランデー・グラスや角砂糖を、戸棚の中からいそいそと取り出すアンリを横目に見ながら、彼は窓の方へ歩み寄った。
窓枠が二重になっている。恐らく外側に防弾ガラスでも入っているのだろう。光が微妙に屈折して手前のブラインドへ反射していた。
ピエールはプラインドの隙間《すきま》から外を窺《うかが》った。
プラタナスの葉の間から表通りが見える。正面に灰色のバス、手前に数台の小型車が止っている。先ほど彼がタクシーを乗り捨てたあたりだ。店から出て来た数人の少女たちが、一台の車に乗り込もうとして大騒ぎをくり返している。
「どこの国でも女の子は同じだな」
少女たちのノートやラケットを抱えた剥《む》き出しの腕や、短いテニス・ウエアからはみ出したはち切れそうな太腿《ふともも》をまともに見て彼は眼を細めた。
「さあ、乾杯しよう」
アンリは瓶の口を布で拭《ぬぐ》い、小振りなブランデー・グラスへ琥珀《こはく》色の液体を注ぎ込んだ。トクトクという心地良い響きがピエールの耳を刺激する。
「再会を祝して」
二人はそれぞれのグラスを取って目の上に掲《かか》げ、一口ずつ口に含んだ。
ホーッというため息がピエールの口から漏れた。
「うまい」
「そうだろう。ヴェアソン修道院跡の地下室から昨年見つかったばかりの樽《たる》だ」
「それはすごいな。ノルマンディ戦の艦砲射撃にも生き残ったカルヴァドスってわけか」
「ボッシュ(ドイツ兵)の略奪にも、ね」
アンリは片眼をつぶってみせた。
「しかし……、カルヴァドス(りんご酒)とは、本来気どりのない庶民の飲み物だろう。だから作って即|壺《つぼ》に詰める生きの良さを愛《め》でてオー・ド・ヴィ(生命の水)≠ネどと言う。それを……ここまで端麗《たんれい》に仕上げてしまうというのはどんなものかな」
杯を中に浮かせてピエールは言った。
「うむ、年月というものは恐ろしい。このカルヴァドスは、まあ、言ってみれば、ウエスト・ファリアの王妃みたいなものだ」
アンリはうなずいた。マリー・アントワネットの吊《つる》し上げに参加したパリの貧しい洗濯女が、革命の進行、ナポレオンの出世とともに地位を高め、ついにはライン地方の王妃となる。フランス人なら皆よく知っている出世|譚《たん》である。
「酒は月日とともに価値を増す。しかし、人間というやつは老いれば駄馬にも劣る。馬ならヨボヨボになっても赤い看板(パリの馬肉屋の表示)の下に飾りつけてもらえるからなぁ」
ピエールは自嘲《じちよう》気味にそう言うと、ブランデー・グラスに残った液体を一気に飲み干した。
「ピエール」
空いたグラスにカルヴァドスを注ぎ足しながらアンリは上目《うわめ》使いに友人の顔を見た。
「まさか、ギャバン風の愚痴っぽいシャンソンを俺の前で歌いたくなって、ワザワザ東京《トキオ》くんだりまで来たわけじゃあるまい」
彼はテーブルの下からチーズの皿と小さなナイフを取り出した。
「フロマージュを食えよ」
ピエールは波刃のナイフで一片をこそぎ取り、口に入れた。
「俺は最近占いに凝っていてな」
アンリもさりげない手付きでチーズをつまみ上げる。
「コルシカの占いだ。フロマージュの切り口で人の望み、運命を知ることができる」
彼はチーズをくわえたまま、真顔で古い友人の方に向きなおった。
「あんたがここに来た理由を当ててみよう」
カルヴァドスのねっとりとした液体を眺めたままピエールは黙っている。
「切り口にはこう出ている」
アンリはチーズの塊りを彼に向けた。
「狂犬のモンフェラン=v
ピエールの眉《まゆ》がピクリと動いた。
「当ったな」
彼がなにか言おうと口を開きかけるのを手で制してアンリは続けた。
「おっと、俺は、今はただのケーキ職人だ。これはコルシカ人としての俺の勘なんだ。それをまず断わっておく」
アンリは立ちあがって部屋の中を歩き始める。
「フィリップ・モンフェラン」
彼は歌うようにその名を言った。
「ポルト・デ・リラの狂犬=B一日たりともその名を忘れたことがない。そもそも俺がこの極東の島で暮すようになったきっかけは奴だ」
ピエールはうなずいた。
「覚えている。君は秘密情報部《S・D・E・C・E》在籍中、奴《やつ》の部下を二名射殺して組織から逃亡したんだったな」
「あんたの属していたOSAの頼みでね」
アンリは壁にかかった額を指差した。そこには胸に幾つもの戦功章を下げた若き日の彼が微笑んでいる。セピア色に変った写真を指で差し、彼はピエールの方を振り返った。
「俺は運が悪かったよ。殺《や》っちまった二人は同郷の人間だったんだ。おかげで彼らの家族に地の果てまでも追われる宿命を背負った」
「ここがその地の果てというわけか」
時代は変った、とピエールは思った。彼の若い頃、地の果て≠ニ言えば北アフリカの乾ききった地を意味していた。それが今は、この物皆水を含むがごとき島国を指すらしい。
「復讐《ベンデツタ》=iコルシカ人の伝統的な仇討《かたきう》ち)さ。聞いたことがあるだろう。コルシカ人は一度仇を定めたら末代までも追い続ける。これはもう政治闘争じゃないんだ。俺の戦いは、ドゴールが死に、共産党員が大統領になった今も続いている」
なるほど、それで鋼板入りのドアと防弾ガラスなのか。
「しかし、あのモンフェランが、この国へ鳴りモノ入りでやって来るとは思わなかったぜ」
「日本が世界に誇る貿易摩擦のおかげさ」
アンリは壁に片手をついた。
「まさか……この国で奴を殺《や》るつもりじゃないだろうな」
ピエールは小柄な彼の肩先を燃えるような眼差《まなざ》しで見つめ、そのまま黙り込んだ。
「……そうか」
コルシカ人のケーキ職人はその眼を睨《にら》み返し、やがて小さく首を振った。
「あんたは、あの能無し考古学者のパルマンティエみたいに、この国の住民が皆、神秘主義に凝り固まってブッダ相手に祈り三昧《ざんまい》の生活を続けているとでも思っているんだろう。パリで襲えなくともこの地なら充分殺れると踏んでいるんだろう」
彼は窓際に歩いて行ってカーテンを跳ね除《の》けた。
「フランス人は東洋に対してあまりにも無知すぎる。ディエンビエンフーで手痛い目にあいながら、今だに東洋が理解できていないんだ。ここは恐ろしい国だよ」
窓の外に顎をしゃくった。
「あれが見えるか?」
「バスだろう。灰色に塗り分けられた……」
「普通のバスじゃない。|サラダのカゴ《パニエラ・デ・サラダ》≠ウ」
「えっ? あんな大きな……」
サラダのカゴ≠ニはパリジャンの俗語で警察の護送車を指す。四角いシトロエン・バンの車体に防石ネットを張った姿がサラダの水切りカゴに似ているところからそう称されるのだ。
リュクサンブール公園に立つ私娼《ししよう》やアラブ人街の浮浪者等、法律スレスレのところで背を丸めて生きる人々にとって憎むべき権力の象徴である。ピエールの見たところ窓の外に止っている灰色の車体は、パリ警視庁《ヤール》のそれに比べて確実に二倍以上の大きさを持っていた。
「日本ではあれをサラダのカゴ≠ネどと言わん。この国の学生たちはカマボコ≠ニ呼んでいる」
「カ・マ・ボ・コ?」
ピエールは口の中でその名称を反すうした。なんというおどろおどろしい名だろう。ハラキリ、バンザイ、ツジギリ、それらと同義語に違いない、と彼は思った。
「日本では一事が万事こんな調子だ。あれに乗っているのはキドータイ≠ニいうゴリラで、フランスのCRS(国家保安部隊)とBSP(施設保安警察)にRG(治安情報局)をセットしたような組織さ。たとえば、今、この瞬間に五月革命規模の暴動が東京で発生したとしても、数時間で鎮圧されるだろう。当時パリ治安当局が投入したCRSの三倍のキドータイが、三分の一の時間でこの町の重要地点に配備されるからだ。しかも彼らは全員『ムサシ』の本を読み、カラテとケンドーの達人ときている」
アンリは事もなげに言ってのけた。
「それでは」
アルゼンチン並みの超警察国家ではないか。
「俺がこの国にぬくぬくと住んでいられるのも、実はこの治安組織のおかげだ。斜め向い側の大きな門は……」
コルシカ人は木々が黒々と枝を広げている石造りの門を指した。
「ニイガタという地域から出て来たカクエーという僭主政治家の邸宅さ。ペタン元帥以上の政治スキャンダルを起こした人物でね。各方面から憎まれている。そのためあそこにキドータイが常駐しているんだ」
「君を狙《ねら》うコルシカの復讐《ふくしゆう》者もこの辺にはうかつには手出しが出来んというわけだな」
「念のために店を完全防弾式に作り、駐車場も小さく設計した。駐車場に客の車が溢《あふ》れれば、必然的に店の前の路上駐車ということになる。大通りを通る車はどうしてもスピードを落さざるを得ん。本当は交通妨害になるんだろうが向いのキドータイは何も言ってはこないな。警備に協力しているようなもんだから当然と言えば当然だが」
「車で店にやって来るあの女の子たちも君のガードに一役買っているというのか」
流石《さすが》に元情報部員だけあって、保身術はたいしたものだ。ピエールはアンリの深謀遠慮ぶりに感心した。
「だから、この国でVIP待遇を受けているモンフェランを狙うのは所詮《しよせん》無理な話だ、というんだ」
道の向うから機動隊がこちらを見上げている。アンリはそちらに向って小さく手を振るとカーテンを引いた。
「聞いているのか? ピエール」
「ああ、聞いている」
「あきらめろ。東京見物でもして国に帰るんだ」
「いや、そうはいかん」
ピエールは再びグラスを取り上げ、底に残ったカルヴァドスを一気に飲み干した。
「今の話で私はますます戦闘意欲をかき立てられたよ」
「しかし」
「まあ、聞いてくれ」
彼はグラスを膝《ひざ》の上にゆっくりと置いた。
「私にとってこれは最後のチャンスなんだ」
しばらくの沈黙。ピエールは白髪をかき分け、空になったブランデー・グラスの底を覗き込む。
「私は老いた。銃の持ち方さえ忘れかけるほど老いているんだ。このままヨーロッパに帰っても冷たい公園のベンチが待っているだけだ。私は、今までやっかいになっていたある家を飛び出してこの国にやって来た。もう帰る所はない。これは身寄りのないあわれな年寄りにとって最後のチャンスなんだ」
「あんたの家族は……」
「私の家族?」
「い、いや、なんでもない」
アンリはあわてて口をつぐんだ。ピエールは続ける。
「かなわぬまでも、一発、せめて一発のライフル弾を奴に浴びせたい。公園のベンチで眠り、救世軍の食事に並ぶぐらいなら、奴のガードマンに射ち殺されたほうがましってもんだ。そう思わんかね。アンリ・ソンギネッティ大尉」
コルシカ人は自分のフルネームと元の階級を聞いて顔をゆがめた。彼の大尉≠ニいう階級は、三色旗《トリコロール》の旗のもと正式に与えられたものではない。祖国を失った元OASの多くが第三世界の傭兵と化した例にならい、彼も一時期アフリカ各地に職を求めて転戦した。大尉の肩書きは、当時ある国で出会ったベテランの白人傭兵隊長が与えてくれたものだった。その隊長とは、目の前に坐っている男……である。
アンリは身じろぎもせず彼の横顔を凝視した。
クーラーの音だけが微《かす》かに壁を震わせている。
やがて、コルシカ人は、パリ・リヨン駅から出発する南仏行列車の警笛そっくりな深いタメ息を漏らした。
「わかったよ、中佐。俺はいったいなにを手伝えばいいんだ?」
あきらめきった表情で彼は尋ねた。
「直接的な協力ではない。君には迷惑をかけんつもりだ」
かつての傭兵隊長はグラスをテーブルに置き内ポケットを探った。
「情報が欲しい」
シワくちゃな紙を取り出して広げた。
「モンフェランの行動日程。盗品ではない|まっとうな《ジヤステイス》車。登録ナンバーを削り落したライフルと拳銃《けんじゆう》。うさん臭い外国人が長期滞在してもチェックされない宿泊施設……。それらの入手法を教えてくれるだけでいい」
アンリは突然腹を抱えて笑い出した。ピエールは表情を固くする。コルシカ人はなおも笑い続けた。
「なにがおかしい」
「い、いや」
「私は本気だ」
「わかっているよ。ただチョッとなぁ」
ムッとするピエールを彼は笑いながら手で制する。
「ここはヨーロッパじゃないんだぜ、ピエール。あんたが今言った情報を全部教えれば俺は立派な共犯者だ。まず」
彼は人差し指を立てた。
「ひとつ。この国の新聞にはヨーロッパのような社交欄がない。VIPの行動日程を知りたければ、ある種のコネを使わなければならん。ふたつ。この国ではライフリングを切った銃器を所持すること自体かなり難かしい。拳銃を民間人が持つことは不可能に近いな。これもある種のコネを使って手に入れねばならない。みっつ。日本ではフランスのようにホテルを警察が管理してはいないが、その代り外国人を好奇な目で見る人々の力により自然な相互監視制度が発達している。これもどこかコネを使って外人向けホテルを探すという手間がいる」
「コネだらけだな」
ピエールはあきれ果てた顔をした。
「で、車の方はどうなんだ?」
まさか車もコネがなければ借りられないということはあるまい。
「ああ、その点は大丈夫だ。日本はアメリカ並みのレンタカー・システムが発達しているよ。しかし、身元チェックのキビシサは変らんぞ」
アンリは首筋をポリポリと掻《か》いた。
「まあ、その辺も俺のコネで何とか出来なくもない」
「たのむ」
ピエールはシワだらけの紙片を内ポケットにもどし、空のグラスを置いて立ち上った。
「私はもう行かねばならん。すまんが昼メシはまた次の機会に願いたい」
「もう行くのか」
コルシカ人は驚いてドアの側に歩み寄った。
「近所に、日本人のシェフだがウマイ羊《ひつじ》を食わせる店があるんだ。ゆっくりしていけよ」
「残念だが、私には時間がない。狂犬を倒す前にもう一つやっておかねばならないことがあるんだ」
ピエールの悲しげに笑う横顔、その頬に深々と刻み込まれたしわを見てアンリは静かに尋ねた。
「オリエか? あんたが昔パリでつき合っていた日本女性の……」
老フランス人は首を縦に振った。
「あてはあるのか?」
「ない」
「東京は広いぞ。運良く捜し当てたとしても……その……今さら会ったからといって……」
「君の言いたいことはよくわかるさ。私だってこんな老いさらばえたところを彼女に見せたくない。ただ、彼女の息災な姿が遠くから見られればそれでいいんだ」
ピエールはやさしくそう言うとコルシカ人の低い肩に手を置いた。
もうこれ以上は何を言っても無駄、とアンリはドアの電子ロックを解いた。
「あんたの連絡先は?」
「ロワイヤル・シャトー(皇居)の近くにあるホテルだ。が、明日そこを引きはらって別のところに移る。連絡はこちらからするよ」
「あいかわらず用心深いな」
防弾ドアを重々しく開け、ピエールは半歩外に踏み出す。
「ピエール」
コルシカ人のケーキ職人はまだ何か言いたげに口をモグモグさせた。
「送ってくれんでもいい。日本のタクシーの乗り方ぐらい知っている」
「ピエール……」
まだ何か? と彼はふり返る。
「連絡を待っているぞ。オルヴォアール」
アンリはあきらめきった表情で言った。
彼のフランス時代の政治的同志、中央アフリカでの上官は人の良さそうな笑顔を返し、廊下を出て行った。
13 御屋形様の命令
ライティング・デスクに置かれたクリーム色の電話が短く二度鳴った。
デスクの前の鏡に向って栗《くり》色の髪を梳《くしけず》っていたリカは、ピンク色のブラシを放り出し、あわてて受話器を取り上げる。
「フロントでございます。青山リカ様に外からお電話が入っておりますが」
背後でモゾモゾと衣擦《きぬず》れの音がする。
ハッとして彼女はベッドの方を振り返った。
善彦《よしひこ》が、だだっ広いトリプルサイズのベッドに掛けられているオリーブ色の上掛けを蹴《け》って、派手に寝返りをうっていた。
リカは受話器を手で押さえ、ジッと善彦の顔を覗《のぞ》きこむ。
平和そうな寝顔である。鼻の穴を広げ、何やらムニャムニャと二言三言つぶやくと、彼はもう一度大きく寝返りをうって上掛けのシワに顔を埋《うず》めた。
「モシモシ、モシモシ」
ホッとしたリカは押さえていた手を離して形の良い唇を受話器に近付けた。
「あ、ごめんなさい。つないで下さいな」
「かしこまりました」
慇懃《いんぎん》な若い男の声が途切《とぎ》れ、プルルルルと小さな電子音が聞こえる。
自動車電話。それも盗聴防止付の……。
「おお、リカかね。ワシだ」
「先生」
耳ざわりな中年男のダミ声にリカは唇を噛《か》んだ。やはりこいつか。
「今、お前サンの泊っているホテルの前にいる」
彼女は小鼻にシワを寄せた。なぜここがわかったんだろう。イヤな奴《やつ》。
「裏門横の駐車場だ。お前サンの部屋から見えると思う」
「待って」
リカは受話器を置くと、ソッと立ち上った。
衿《えり》もとにピンクのフリルをあしらったスケスケのベビードールを跳ね上げ、ぬき足で窓の方に歩み寄る。薄いカーテンをソッと指先でかき分け、このホテルの特徴である大きな障子戸を細めに開けて外を窺《うかが》った。
彼女の泊っている最上階から見渡すと、この辺で一番豪華な造りとウワサされる外人受けを狙《ねら》った和風の庭園もひどく小さなものに感じられた。赤坂や溜池《ためいけ》方面のビルの灯りがキラキラと輝き、時おり、低くたれこめた梅雨《つゆ》の雲間に気象観測のサーチライトが一筋、弧を描く。小糠《こぬか》雨が降っているのだろう。玄関前の路面はヌラヌラと、まるで八ツ目|鰻《うなぎ》の皮膚そっくりに光っている。
リカはホテルの裏門横をす早く見回した。白くラインを引いてある駐車スペースの真ん中あたりにひときわ大きなリムジーンがうずくまっている。
六三年型のベンツ600。無気味なほどに長大なそのボディは上から見ると、まるで型から抜いたばかりの小豆《あずき》ヨーカンみたいだ。
彼女は障子戸を閉ざし、電話のそばに戻った。
「見えましたわ」
「降りて来なさい」
「今すぐに?」
「そうだ」
ダミ声はそう言うと、リカが何か問いかけようとするのもかまわず電話を切る。
ウムを言わさぬその態度に彼女はムッとして眼を大きく見開いた。
「仕方ないわね」
受話器を戻し、そっと立ち上ると善彦の寝ているベッドまで歩いて行く。
耳を近付け、完全に彼が熟睡していることをもう一度確認したリカは、カーペットの上に跳ね飛ばされている寝具を拾いあげた。
腹を空《す》かせた小犬のようにクークーと鼻を鳴らして寝込んでいる善彦の肩にソッとそれを掛け、軽く額のあたりにキスをすると、クローゼットの戸を開き、ベビードールを手早く脱ぎ捨てた。
「お出かけですか?」
控えの間でブリッジに熱中していた少女たちがカードを放り出して立ち上る。
「いいのよ、みんなはここに居て」
リカは彼女たちにほほ笑みかけた。
「早めに帰って来ます」
寝室のドアを返り見る。
「善彦さんをよく見張っていてね」
「ハイ」
少女たちの元気良い返事を背に、リカはサマーコートのベルトを締める手つきももどかしく足早に部屋を出て行った。
「何かしら? こんな時間に」
「さあね」
「あー、わかった。リカ様おなかがお空《す》きになったのよ!」
ミント・カラーのノースリーブシャツを着た少女が、ソバカスの薄っすらと浮き出した頬《ほお》にローションを擦り込みながら黄色い声を張り上げた。
「きっと飯倉のラ・ブラッセリー・ベタール≠ノミルフィユを買いに行ったんだわ。そうじゃなければ、広尾の雅亭《みやびてい》≠ナ牡丹餅《ぼたもち》か萩《はぎ》の餅よ。オミヤゲが楽しみ!」
「甘いわね。リカ様なら、六本木スクェアビル裏のタイ料理店アランヤ・プラテート≠ナセンミーパッド(ビーフン)か、トンヤクン(えびスープ)のテーク・アウトって線だわ」
アイホール全体にモスグリーンのシャドーをのばした大胆なアイメイクの少女が上向き加減の鼻先を可愛《かわい》らしくうごめかす。
「タミーも、スカーレットもガキねえ」
胸にバスタオルを巻きつけた細身の少女がバスルームの中から現われた。
「ベッドにお入りのリカ様が、ダーリンを放り出して大急ぎの外出。と、なればアレしかないでしょう」
「アレって何よ? バービー」
バービーと呼ばれた少女は、頭に巻いていた蒸しタオルを外し、ハラリと肩までたれ下る金髪を細っそりとした指先でかき上げた。
「環八《かんぱち》の瀬田に深夜営業のガス・スタンドあるでしょ」
「うん、ヨコハマ遊びに行く時いつもそこでカレが給油してる」
「最近ね。あそこの斜め向いに二十四時間営業の薬屋が出来たのよ。ファースイール≠チていう」
「夜おそくまでやってるクスリ屋サンなら何も世田谷まで行かなくったっていーじゃん」
「だからタミーは、ガキって言われるのよ」
バービーは、小馬鹿にしたようにフンと笑う。タミーと呼ばれた少女は茶色の大きた眼を天井《てんじよう》に向けて頬をプッとふくらました。
「あたし、どうせガキよ」
「いいこと、そこのストアーはねえ。普通のクスリ以外のモノも扱ってるの」
「えっ、それじゃ、ハッパ(マリファナ)とか、白いの(コカイン)とか」
メンソールのロングサイズをくわえた水玉プリントのフレアスカートが顔色を変えた。
「クェイルード(アメリカ製の催眠剤)や、PCP(鎮静剤フェンシクリデンの商品名、ともにアメリカのティーンエージャーが遊びに使用する)なんかも扱ってるの?」
他の少女たちも一斉に眼の色を輝やかせてバービーの方につめ寄る。
「あんた方も好きねえ、ハハハ」
パール・カラーのコームを髪に当てながらバービーは大笑いした。
「ここはLAやフリスコじゃないんだから。それに、リカ様は御自分でキノコ(マジック・マッシュルーム)をお作りになってる程の方よ。わざわざプレミア付の市販品買いに行くわけないじゃない」
「じゃあ、何?」
「催淫剤《ラスト・ホウルド》よ。それもスッゴク強力なヤツ」
少女たちは、なーんだという顔をする。
「店の名前のファースイール≠トおっとせい≠フことなの。あそこ、ね。横浜の山下町にある四ツ目屋≠フお妾《めかけ》さんが経営してて、とにかくソノ道の人たちには評判らしいわよ」
バービーはピンク色のローション瓶を耳もとで振り、手のひらに流した。
「でも、考えてみれば、善彦サンって可哀想。キノコとおっとせいホルモン≠フ二重ドラッグ漬《づ》けで、正気な自分に戻るのが寝ている時だけ……」
「ううん、違うわ」
悲しそうな眼で寝室のドアを見るバービーに、スカーレットが首を振った。
「こんなイヤな世の中、まともに見ないで生きて行ける善彦サンってスッゴク幸せな人よ」
「そうよ」
胸にペパー=Aカンナ≠ニ名札を付けた少女たちが同調した。
「そう……」
コットンのパフで眼の下を拭《ぬぐ》いつつバービーは寂し気に笑った。
「そうかも知れないわね」
透けるようにスモーキーなオリーブ・グリーンの摩りガラスで四方を囲ったエレベーター。この中に入ると、なんだかヨーロッパの古い会員制クラブにあるトイレに紛れ込んだかのような気分になる。
最初にそう言ったのは善彦だった。たしかにこのエレベーターは、どんなに身体のコンディションの良い時に乗っても、てきめんに憂鬱《ゆううつ》な気分を作り出してくれた。
「イヤなホテルだわ」
リカは早く降りろ、と念じながら階数ボタンを何度も強く押した。
起伏の大きな永田町、議員会館裏の斜面に建てられたこのホテルは、地下二階が裏の地上一階になっている。つまり表側のロピーは地上三階という仕組みだった。夜はパッタリと人気《ひとけ》の絶える官庁街の端に位置し、地下に連れを待たせたまま一人でロビーに上ってチェック・インできるという利点から、芸能人や文化人、永田町|界隈《かいわい》のさる業界人といった連中が大いに利用する場所である。客の秘密保持という点では都内で一番なのだが……。
エレベーターが止り、リカは駐車場を示す矢印の付いたカーペットを踏んだ。
裏口の近くには、イヤミのないバーテンダーが本格的なカクテルを作り、背伸び気味のOL・女子大生がたむろすることのないという、都内の大きなホテルにしてはきわめて珍しいタイプのバアが「open」の札を出している。が、閉店間際のこととて、そのあたりの人影は疎《まば》らだった。
外車ばかりが止っているパーキング・エリアに出た彼女は、コートの襟を立てて足早に歩き始めた。栗色の髪に小雨が当り、見る間に無数の水玉を作って行く。水滴は水銀灯の光に乱反射して七色に輝き、まるでラメ入りのパーティ・ハットのようにリカの髪を飾った。
駐車場の端からゆっくりと黒塗りのリムジーンが近付いて来る。
「乗りなさい」
ドアが開いた。
彼女は一瞬ためらったが、すぐに気をとりなおし、形の良いスラリとした臑《すね》を曲げて車内に潜りこむ。
「イヨッ!」
「御屋形《おやかた》さま」
顔を上げたリカは、ハッと息を飲んだ。
向かい合わせになった後部座席の一番奥に和服姿の人物が坐《すわ》っていた。夏だというのに白|羽二重《はぶたえ》の紋付に白っぽい小倉《こくら》の袴《はかま》。紋は丸にローマ字のN≠ェ黒々と打ち抜かれている。NATTOの最高幹部評議会議長だ!
「い、いつ東京にいらっしゃったのです?」
彼女の声は、心なしか震え、かすれる。
「ん、まあ、このー」
薄暗い車内、指向性のルーム・ランプは全《すべ》てリカともう一人の人物に向けられている。和服姿の議長、その顔は闇《やみ》の中に溶け込みよくわからない。
「久しぶりにね。飯岡《いいおか》クンがアンタに会うというもんじゃから、ちょっとリカの可愛いい顔でも見るべえと思いましてね」
ドスのきいた塩辛声が彼女の耳に突き刺さる。
「御屋形様は、今回の作戦にかなり期待をかけていらっしゃるのだよ」
ダミ声の持ち主、参議院議員一応無所属当選六回群馬県選出の飯岡助八郎が彼女の膝《ひざ》に手を伸ばした。
「どーかね。ロワイヤル≠フ出来具合は?」
「え、ええ。先日、下見をしてまいりましたわ」
リカは血海(膝の皿の上にある性感のツボ)をザラリとした指先でなでつけられ、軽い吐き気を感じた。いつもなら、ここで「触んないで! スケベフグ」と黄色い声を出すところだ。しかし、今は喉《のど》まで出かかった声が、唇の内側でお湯をかけられたマシュマロのように消えて行く。
「ロワイヤル・パレス≠ヘ……」
彼女はゴクンと苦い唾液《だえき》を飲み下した。
「完全に出来上りました。あとは私たちが入るばかりですわ」
「うむ、よろしい」
赤ら顔の代議士は満足そうにうなずいた。
「それじゃ、公人として命令を出させてもらいますかね」
塩辛声がエヘンと一つ咳払《せきばら》いをした。
「麻布《あざぶ》二号こと青山リカ」
「はい」
リカはゾクッとして背筋を伸ばす。飯岡代議士がやっと彼女の膝から手を離した。
「すみやかに軽井沢ロワイヤル・パレスへ出向し、部下とともにフランス兵器公社社長フィリップ、フィリップ……エート、何じゃったかな?」
「モンフェランです」
飯岡があわてて言い添えた。
「そう、そ、もんへら、ね。うん、そのー、もんへら君の御接待に当るように」
「はい!」
「命令書は花押《かおう》(サイン)を押して後でだれかに届けさせよう」
リカは黙って頭を下げた。
「リカちゃん」
議長の言葉が終ると同時に、飯岡が再び彼女へ擦り寄った。
「お前さん、まだゼーロクのドラ息子と一緒に暮しているそうだが」
「ええ、今もこのホテルに……」
「まさか、軽井沢に連れて行くつもりじゃないだろうね」
「その……」
リカは言葉をつまらせる。彼女は善彦を最初からその仕事先に伴って行くつもりでいたのである。
「どうなのかね?」
代議士は脂ぎった顔をリカの白い頬に近付けた。
「あの人は、アタシが開発したベラドンナ・アルカロイドの大事な実験台ですわ。フランス産のナカオレメメコシメジダケが成人男子に与える陶酔効果の研究にぜひとも必要な人なんです」
「お前サンのセックス奴隷としても必要だ。つまり、そういうことだろう」
「ち、違います!」
リカは両の頬を真っ赤に染めて叫んだ。
「たしかに善彦サンは関西人ですわ。だけど私の言うことは何でも聞いてくれます。自分から進んで幻覚毒のモルモットになってくれたし、ロワイヤル≠フ内装工事費が滞った時も実家から持ち出してくれました」
彼女は大きな両眼一杯に見開き、拳《こぶし》を握りしめた。
「あの人は……、贅六《ぜいろく》なんかじゃありませんわ。もうアタシたちリカちゃん軍団≠フ一員なんです。軽井沢ぐらい連れてったって」
「ま、このー、危険だねえ。コレは」
議長はいつの間にか膝の上に白い招き猫の置き物を乗せている。
「NATTOの兵器購入という重要な段階で関西人を混ぜっこするのは、危いんではないか。わしはそう思うんだ。そうでしょ?」
和服の袖《そで》で招き猫の像を磨きながら議長は押し被《かぶ》せるように言った。
「たしかに最初、あの兄《あん》ちゃを手なずけるよう命令したのはわたしだ、豆屋≠フコネを利用して関西に納豆の大量秘密通販ルートを開拓しようと考えた。だけどね。状況が変ったんですよ。ま、しょのー……」
「今朝、関西に放っておいた草の者から報告が入った」
飯岡が肘《ひじ》かけの蓋《ふた》をスライドさせて、中からタバコを一本|掴《つか》み出す。
「豆屋善兵衛の依頼を受けた大阪の情報部員が、お前サンの色男を奪い返すべく動き出したらしい」
懐から国会議事堂型の大きな金メッキライターを取り出して火をつけた。
「そのうちの一人は大変な大物だ」
「誰です?」
「定吉七番」
リカはふっくらとした頬を手で押さえ、ムンクの「叫び」みたいなポーズを取る。
「あ、あの殺人|丁稚《でつち》ですかぁ」
彼女は今にも泣き出しそうな顔つきになった。
「まあ、わしとしては、ヒジョーに困るわけだ。これがね、そうでしょ」
招き猫の前足を袖口でキュッキュと磨きつつ議長は塩辛声を一段と高く張り上げた。
「アンタの飼っている男は、この際、殺しちゃいなさい。キッパリと」
「……!」
リカは何か言おうとして首を振った。が、声が出ない。まさか、そんなこと。
「大事の前の小事と言います。これは、命令だね。ウン。」
「早目に仕末することだ」
塩辛声とダミ声が交互に浴びせかけられた。
彼女は酸素不足の金魚みたいに形の良いミカン色の唇を、パクパクと二、三度動かし、やがて力なく長い睫《まつげ》を伏せた。
「ん、まあ、しょのー、アンタには気の毒と思っとるが、これもNATTO戦略のためだ。そうでしょ? ガハハハ」
招き猫が抱えている小判のあたりを指でなぞり、議長は下卑《げび》た笑い声をあげた。
「わかったかね。わかったらもう行きなさい」
飯岡が話の最後を締めくくる。と、同時に後部のドアが開いた。夜だというのに真っ黒なサングラスをかけたダーク・スーツ姿の運転手がいつの間にか外にまわり込んでいる。
リカは黙って二人に頭を下げると、肩を落して駐車場に降り立った。
彼女の背後で、リムジーンのぶ厚いドアが無慈悲に閉ざされる。
「言うことを聞きますかねえ?」
小雨降る中を悄然《しようぜん》と去って行くリカの後ろ姿を目で追いながら飯岡がタバコの煙を吐き出す。
「うーむ、ようわからんが、念のため人の手配をしておいてだね。もしもリカちゃんが、裏切ったらソノ時は二人まとめてバッサリと。そういう方針で進めて行って欲しいね、飯岡クン。それが掟《おきて》というもんです。そうでしょ」
議長は招き猫の頭にハァッと息を吹きかけ、袖口で曇りを拭った。
エレベーターの脇でボソボソと語り合っていたアベックがリカの姿を見て、サッと柱の陰に隠れる。
「イヤよ、何もしないって約束じゃない。あなたキッタナイわよ」
「いいじゃん。一回、ね、先っぽだけ。あとでプロデューサー紹介してやっからさぁ」
エレベーターボタンを押したリカは、あの陰気なガラス張りの箱が降りて来る微《かす》かな音を聞きながら鋼鉄の合わせ目に眼を止め、呆然《ぼうぜん》として立ち尽していた。
「だめ、お母さんがうるさいんだモン」
「もう。ガキじゃあるまいし」
途切れとぎれに男女の会話が流れてくる。
彼女は、首に巻いた金のネックレスを指先で摘《つま》み出した。
「おかあさま。あたしはどうしたらいいのでしょう」
ネックレスの先には青いトルマリン石が一つ吊《つ》られている。母がかたみに残してくれたこの宝石に彼女はそっと語りかけた。
「あたし、ヨシヒコさんを殺すことなんて絶対にできませんわ。でも……」
エレベーターの階数表示が光り、眼の前の合わせ目がサッと左右に開いた。
14 打根《うちね》を投げる少女
黄昏《たそがれ》時《どき》は少女を大人《おとな》に変える、という。
ある科学者の説によれば、思春期にさしかかった女性のうち、実に八十パーセント以上がこの時間帯に、生理バランスを一時的に崩壊させるのだという。
この、夜とも昼ともつかないアンバランスなインタバルに少女は無意識のうちに自己の呼吸と脈搏を早め、体温を若干上昇させる。個体差はあるものの、その大部分が性器を充血させて微量の体液を体外に排出させるのだとか。
彼の説によれば、こうした体調変化は、少女の若々しい頭脳細胞の中に|擦り込ま《ラブ・イン》れた原始的な記憶が原因なのだという。
一日の終り。漠然とした不安が少女の心を支配する時、不安な夜の始まりを前にしてその恐怖から逃れるため生殖行為に没頭した先祖の遺伝子が、お湯をかけられたレトルト食品のごとく甦《よみがえ》るのだという。
「そやからね」
知松《ともまつ》は皿いっぱいに盛られた山科《やましな》キュウリの一夜漬《いちやづけ》を指で摘《つま》み上げ、ズズッと渋茶をすすった。
「ドタマ(頭)のええナンパ師は、これぞ、と思う娘引っかけよう思う時、皆この時間帯を狙《ねら》いまんのや」
「ほー、さよかー」
定吉は感心したように口を開け、ついでに肩をコキコキと鳴らした。
「入社したてのOLなんかチョロイもんだっせ。会社の引け時が最高だす。この時間に、渋谷の公園通りやら原宿の竹下口行って見なはれ。そーらもうハマチの養殖場に釣《つ》り竿《ざお》たれたようなもんや。入れ食いもエエとこ」
平吉が調子に乗って説明し始めたところに隣の部屋からスタイリストの由理恵が入って来た。
「お茶お取り代えしまひょ」
「お、すまんな」
由理恵は手にした盆から急須《きゆうす》と「えびすめ昆布」をチャブ台に並べながら平吉の顔を睨みつけた。
「竹下口の入れ食いなぁ。平吉はんホンマ良う知ってはりまんなぁ」
「い、いや。これは、その、先週号の『ホットドックプレス』で読んだん受け売りや」
平吉はオドオドと目を伏せる。
ははあ、この二人できとるな。定吉は顎《あご》の下に一本だけ剃《そ》り残した髭《ひげ》を指で抜き取りながら内心ニヤリ、とした。
「だからぁ」
知松は塩昆布をポイと口に放りこみ、チャブ台の上に散らばっている写真の中から一枚拾い上げた。
「女の子の本性見きわめるには、今の時間が一番なんだす」
人気《ひとけ》の絶えた夕暮の屋敷町。一直線に続く私道の中ほどでいずみは、フト足を止めた。
つけられている。
それも一人や二人ではない。彼女は抱えていたヴィオラのケースを地面に置くと、白いセーラー服の胸にむすんだ紺のリボンをスルスルと解いた。
「出ていらっしゃい」
彼女はアニメのヒロインそっくりな舌足らずの声をあげた。
道路の前後にバラバラと人の影が動く。
「良くわかったな」
灰色のベストにジャンパー・スカート、胸に赤いエンブレムを付けた大柄の少女たちである。
「フン、聖ユスティニアヌス女子学院のザコどもね。あたしに何か御用?」
いずみは秀でた額にハラリとかかるあま色の長い髪を手でかき分け、不敵に笑った。
「言うな! いずみ。先日、地下鉄銀座線外苑前のファーストフードショップリビングス%階で、我が校のロックンロール部に籍を置く二年生数人へ暴行を加えたこと。よもや忘れたとは言わさんぞ」
一メートル八十は優にある、バスケットでもやっていそうな中の一人がズイと前に進み出た。
「うち一人は左手の中指を骨折し、愛用のリッケンバッカー355MGが二度と持てないと知って今日の昼過ぎ、我が校の屋上から身を投げ、自害した」
「そりゃあ、お気の毒サマ。でもね」
いずみは身体を七三に構え、左手にリボンを巻きつけた。
「最初にケンカを売ったのはあなた方の仲間よ」
「だまれ!」
いずみの背後に立ったショートヘアの少女が彼女を指差した。
「あたいはあの場に居合わせたから知っている。お前は我が校の生徒が持っていたギターケースが自分の楽器ケースに触れたことを咎《とが》め立て、『よくそんな恥かしいモノを持ち歩けるものだ。コレだから下町のミッションスクールは救いがたい。偏差値30というのもうなずける』、と言って笑ったではないか」
「我が校の偏差値は36だ!」
灰色の制服を着た少女たちは一斉に声を合わせる。
「ロックンロール部員の仇《かたき》」
いずみは自分の置かれている状況をす早く確認した。敵は六人、いずれもタッパがあり、ケンカ慣れしていそうな物腰だ。前に三人、後ろに三人、両側は高い築地塀《ついじべい》。逃げ道はどこにもない。
「気の毒ながら一命もらい受ける」
長州力そっくりな顔をした少女が、中腰になってバタフライ・ジャック(柄《え》が二つに分かれたナイフ)を抜いた。
「念仏でも唱えろ!」
キリスト教系の学校に似合わぬ言葉を叫んで他の少女たちも次々にナイフの刃を上に向けた。
「ふーん、美少女やな」
定吉は写真をためつすがめつした。
「育ちの良さそうなイトはんや」
「見てくれに惑《まど》わされたらアキまへん」
知松はチッチッチッと舌打ちする。
「東京聖女女学館大附属高校の二年生、伊藤いずみ言いまんねん。青山リカが率いるリカちゃん軍団≠フ幹部だす。裏見てみなはれ」
定吉は写真を裏返し、そこに書かれているデータを読み始めた。
「なになに、身長161センチ、B80、W58、H84、ひゃー、最近の女子高生は発育エエなあ。血液型はB型……星座は」
「ああ、そんなところやおまへん。もっと先読まな」
「特技はピアノ、ヴィオラ、ケーキ作り、宝荘流|打根《うちね》(手で投げる羽付きの矢)の使い手にして、田宮流居合いをよくする……? 何や」
とんでもない女子高生である。定吉はヒュッと口笛を吹いた。
「リカ軍団≠フ実力を知る格好な素材だす」
知松は湯飲み茶ワンを持ち上げる。
「この娘がどれくらい使えるのか、見きわめさせてます」
六人の少女は、ジリジリと間合《まあい》を縮めた。
いずみは自分の足元に置かれたヴィオラのケースが邪魔にならぬよう、左足で道の端に押しやり、右手を上着の裾《すそ》に差し入れる。
いずみの側面にまわりこんだショートカットの少女がナイフを逆手に持ち替えるのを彼女は見のがさなかった。
こいつは第二波の攻撃手ね。すると先手で来るのは前か後の奴《やつ》。いずみは眼を半ば閉じ、呼吸を細く保った。
長州力そっくりな顔だちの少女が、油ぎった長い髪をかき分け、フーッと大きく息を吐く。
すさまじい殺気が道の両脇に見えない壁を作りあげる。
「死ねえ!」
六本の白刃が夕暮の屋敷町に舞った。いずみは、すばやくその機を察して地を蹴《け》り上げる。
ボコッ! ポリバケツの底を打つような鈍い音があたりに轟《とどろ》いた。
美しく磨き上げられたいずみの黒いコインローファーが、地に降り立つ。と、同時に灰色のスカートが道いっぱいに翻り、六人の少女は地響きを立てて転がった。
「なんだ。たあいもないヒトたちね」
「クソッ」
大柄な少女が割れた額をいずみの方に向け、立ち上ろうとアスファルトに両手を付いた。が、そこで力尽きたのか、ガックリと倒れこむ。
「しばらくそうして転がってればいいのよ」
いずみはフンと皮肉っぽく笑うと、ヴィオラ・ケースを拾い上げ、スカーフを首に巻いた。
「偏差値36のくせに、私に歯向おうなんて……」
そうつぶやきながらセーラー服の襟を正した彼女は、次の瞬間、その手を止めた。
別の気を感じる。新手の敵か?
「そこだ!」
いずみの手から何かが飛んだ。
築地塀《ついじべい》の上へ突き出した黒松の陰にたしかな手ごたえ。
「うぐっ」
くぐもった声が聞こえ、塀の内側に人の逃げる気配があった。
いずみは眼の光を柔らげ、スカートの裾をはらった。
「聖ユスティニアヌスの仲間じゃないみたい」
彼女はハッとしてピンク色の唇を開いた。
「噂《うわさ》に聞く……大阪丁稚の手の者か」
ガタン! 知松が三杯目の渋茶で四片の塩昆布と五片のきゅうり漬を口の中に投げこんだ時、天井《てんじよう》裏で急に大きな音がした。
ドッシン、バッタン!
「あ、鵜吉《うきち》が帰って来た」
平吉が笑いながら上を指差した。
「もう、どんくさいヤッちゃなあ」
知松は手にした湯飲み茶ワンを袖で被《おお》い、
「天井から入ってくるなて、いつも言うとるやないか。ホレ、こんなに埃《ほこり》たらかして。掃除《そうじ》が大変や」
と、口を尖《とが》らせる。定吉が眼を丸くしているところに、ハメ板を外した黒装束の若い男がボテリ、と降って来た。
「い、伊賀の鵜吉、ただいまもどりました」
「あっ、うきちはん! 手負いやないか」
由理恵が声をあげる。
「血が盛大に出とる。て、手当せな……」
黒装束――それはこの季節だというのに、イッセイ・ミヤケ・メンのナイロン・コートに黒のカラー・ジーンズだった――の肩先がバッサリ切り裂かれている。
「……リカちゃん軍団≠フサブ・リーダー、伊藤い、いずみ……なかなかの使い手でおます。……不覚を取りました」
由理恵と平吉の手当てを受けつつ鵜吉は自分が見た情況を手短かに報告した。
「……という具合で、一瞬にして六人の体育会系女子高生を」
「ふーむ」
定吉は腕を組んで首をひねった。
「十|間《けん》の間合を取って立ち合い、身をひねって跳躍した、か。して、得物(武器)は?」
「これだす」
鵜吉がポケットから木の柄が付いた血だらけの金属片を取り出した。
「これを投げつけられましてん」
手にしてみると柄の部分がズッシリと重い。金属部分はヘラのように平らで、中心部に筋の付いたハート型の穴が開いている。
「握りの部分で女の子たちの後頭部を殴り、ヘラのところをアンさんの肩に投げて当てたんか?」
「あっ、クトー・ア・ゼステ≠竅v
横から覗き込んでいた知松が叫んだ。
「これ、西洋料理の道具だす。間違いない」
「へー、わてはまたビールの栓《せん》抜きか思うた」
「レモン・ピール・ナイフとも言います。柑橘《かんきつ》類の皮を細く削る時使うモンだす」
古流の投げ《ダーツ》矢術と西洋ナイフの組み合わせ。定吉は腕を組みなおした。
「こんな奴らが若ダンさんのまわりに固まっとるんか。こら手ごわい」
「リカ様!」
しっとりと汗をかいた冷たいオレンジ・ペコのグラスをテーブルの端に押しやってリカは頬《ほお》に手をやった。
「あなたの争う姿を隠れて観察していたのは、ただのセーラー服鑑賞家ではありませんわね」
いずみは花柄模様のカーペットに視線を落し、手にした立原道造の詩集をギュッと握りしめた。
「では、やはり善彦さんを連れ戻しに来た豆屋の手先……」
「恐らく、我々の力量がどの程度か調べているのでしょう」
いずみはシクシクとベソをかきはじめた。
「あたしが愚かでした。目立つ行動を取ったばっかりに奴らの眼を引いてしまって」
「いいのよ。いずみちゃん」
リカはソファーから立ち上り、いずみの脇に立った。
「あなたばかりのせいじゃないわ」
いずみの華奢《きやしや》な肩を抱き寄せ、やさしく愛撫《あいぶ》する。リカの襟元から発せられるマダム・ロシャス≠フ香りにいずみはうっとりとして目を閉じた。ヨーロッパではローティーンが初めてのデートにつけるこの控え目な匂《にお》いの香水も、リカの肌を経て伝わるとどこか官能的な香りに感じられた。
「こうなったら一刻も早く軽井沢に向う手ね。攻めるにも守るにも、東京ではいろいろと不都合です。いずみちゃん?」
「はい」
いずみはリカの肩に顔を押しつける。手にした詩集が、ポトリと床に落ちた。
「あなた、たしか明日から夏休みね?」
「はい」
「一時間後に軍団のみんなを非常召集なさい」
ピンク色に染まったいずみの頬にオレンジ色の唇を這《は》わせながらリカは囁《ささや》いた。
「明日の晩、ロワイヤル・パレス≠ヨ出発します」
リカの細っそりとした指が、ゆっくりといずみの腰を撫でまわす。彼女は甘いタメ息をひとつもらすと、猫のような素振りでこの混血の女子大生に絡みついて行った。
15 2式|狙撃《そげき》銃
早朝から降り続いていた小雨がピタリ、と止んだ。
作り損いの生クリームみたいな雨雲が少しずつ内陸部へ移動を始め、その隙間《すきま》からフランス山岳兵の技能カラーに似たブルー・グレーの空が顔を現わした。
「うちにあったヘレンド(ハンガリーの絵付け皿)に、ちょうどあんな図柄があったっけなぁ」
アンリ・ソンギネッティは、運転席から身を乗り出し、小手をかざして水平線を眺めた。
沖合いを一隻の貨物船が進んで行く。
突堤の彼方《かなた》から回り込んでくる風は生温く、ポロシャツの袖から剥《む》き出しになったアンリの二の腕へ潮がベタベタとまつわりついてくる。
「来たか」
公園の入口に人影が見えた。
木立ちと芝生《しばふ》の間に作られたジョギングコースを越えて、ゆっくりとこちらにやって来る。
霜ふりのスウェット・パーカーに白のスニーカー。フードをま深に被《かぶ》っているため顔がよくわからない。
アンリは、ボンネットの蓋《ふた》を親指でポンと開き、手を差し入れた。
黒光りする金属の塊りを掴《つか》み出して尻《しり》と座席の間にソッと押し込む。
ジョギングスタイルの人影は、アンリの車が停《とま》っている位置から三十ヤードほど離れたあたりで足を止め、周囲を見まわした。フードの間からカサカサの白い髪がはみ出し、風になびいている。
アンリは、ホッとして座席の間に手を入れ、拳銃に安全装置をかけた。
「ボンジュール、ムッシュ」
早くこい、と彼は運転席から手を振った。
「やあ、こんなところまで来てくれて済まん」
フードを外すと人なつっこい笑い顔が現われる。
「注文どおりのフランス車だぜ」
アンリは斜めに開いたウインドウから手を出して薄べったいドアの鋼板をパンと叩《たた》いた。
「シトロエン|2CV《ドウ・シー・ボウ》のクラブだ。サンルーフ付の4速。少々雨もりはするが我慢してくれ」
彼はウインクした。
「俺《おれ》の愛車なんだ」
「目立つ色だな」
イタリアン・レッドの車体を見てピエールは肩をすくめた。
「たとえ黒く塗ったって、この国じゃシトロエンは目立つ。同じことさ。乗れよ」
ピエールは、パイプ細工・キャンパス張りの助手席に乗りこんだ。
「最初聞いた時はビックリしたぜ。よくこんな場所を見つけたな」
コルシカ人の言葉にフランス人はニヤリとする。
「士官学校で習った兵要地誌学のおかげだ。初めての土地でも身を隠すカンが働くんだ。それにしても」
彼は相模《さがみ》湾の海岸線を両手で示した。
「どうだい、この景色。まるでノルマンディにそっくりじゃないか」
「日本が気に入ったみたいだな」
アンリは後ろの座席に手を伸ばし、書類袋と小ぶりなアタッシェケースを取りあげた。
「まずは偽造のパスポートと国際免許」
書類袋から、黒皮のパスポートケースとスタンプを押したクリーム色の紙を出す。
「今持っているパスポートは廃棄しろ。君はギィ・シャルロア・ブラマンク=Aベルギーの指揮者《コンダクター》だ。クラシックは好きかね?」
「ラ・マルセイエーズとベートーベンの区別はつく」
「結構」
アンリはアタッシェケースをピエールの膝に乗せた。
「私が頼んだのは大型ライフルだぞ」
小さなアタッシェケースだ。どう考えてもその長さではモーゼル自動拳銃より大きなものが入っているとは思えない。
「まあ開けてみろよ」
訝《いぶか》し気に蓋を開いたピエールは、アッと叫ぶ。
銃床が二つに分かれた大振りのライフルとスコープがクッションの間に収まっている。
「何んだこれは?」
「アリサカのパラトルーパ(落下傘兵)・スペシャル」
「アリサカならインドシナでずいぶんと見て来たが、こんなタイプは知らんぞ」
かつて出合ったホー・チミンの信奉者たちは、みんなアリサカを使っていた。全《すべ》て、旧日本軍が敗戦後に残していったクズ鉄同様の兵器である。現役の頃《ころ》、捕獲品を何度か試射した経験があるが……。
「あれはみんな銃身の長い六・五ミリのトロア・ユイット(38式)だろう。こいつは、七・七ミリのヌッフ・ヌッフ(99式)改良型、二シキ(2式)だ」
アンリはケースの中に太短い指を押しこんで手早く組み立て始めた。と、言っても銃身を包んだ前床と、機関部が一体になった銃尾の部分をチェンバー側面の大きなネジで接合させるだけである。彼はワン・タッチでその作業をやってのけると、次に機関部左側の溝にラッパ状のアイ・ピースが付いたスコープをやはりこれもワンタッチで装着した。
「持ってみろよ」
組み上げてみるとフランス軍のMSA36小銃より少し長い。ピエールは狭いシトロエンの窓から銃身を突き出してみた。
銃のバランスはかなり後ろに来ている。スコープの重量がありすぎるせいだろう。スコープ・マウントも左側に片寄りすぎていて頬付けがやりにくい。初弾が命中しても、次弾からの命中精度はグンと落ちる。そんなタイプの銃だ。
ピエールは銃身を目の前の突堤に立つ無人灯台に向けた。レンズにTの字型のヘアと照準目盛りが浮かび上る。倍率は二・五倍といったところか。
「リア・サイトが変な形だな」
「そいつは対空照尺だ。日本人はこの銃で飛行機を落すつもりだったらしい。もっとも」
アンリは、ボンネットの中から紙ケースを二箱取り出した。
「ベトナムではモーゼルでファントムが落ちたというからな。……これが、弾丸。ロット・ナンバーは揃《そろ》えてある。ノルマ社のファクトリー・メイド(生産品)だ」
箱を開けてみると弾丸が五十発、発泡スチロールの中で輝いている。弾頭部分の鉛が露出したソフト・ポイントだ。
「試射する場所が欲しいな。日本はどこに行っても人がいっぱいだ」
「その点なら心配はいらん。あんたがこれから行くところには、掃いて捨てるほどあるさ」
アンリはトゥラウザースのポケットから小さな手帳を引っぱり出して友人に渡した。
「フィリップ・モンフェランの行動日程が書いてある。そいつを調べるのに苦労したぜ。おかげでヤミの銃砲屋に手をまわす時間が無くなってしまった」
彼はピエールの手から銃を取り、銃床の部分をいとおしそうに撫でさすって再び分解し始めた。
「これは俺に二十年間連れ添って来た奴だ。カルイザワまで大事に持って行ってくれよ」
「カルイザワ?」
手帳の中にはたしかにその地名が書いてある。ピエールは中に挟んである地図の切れっ端を広げた。
「ここから百五十キロほど離れたところにある山の中の保養地だ。モンフェランは東京での公式日程を全て終え、今日の朝、車でそこへ向った。イイオカという日本の政治家が招待したんだ」
地図の茶色く塗られた部分をアンリは指で示した。
「ここに新しくVIP用の秘密高級|娼館《しようかん》が建った。彼はその第一号の客というわけでね。一週間ほど滞在するらしい」
白髪の老人は鋭い眼差《まなざ》しで地図の上をねめまわした。
「気をつけろよ。ここは東京と違ってアノ機動隊こそいないが、一般の讐察組織が全て、イイオカの私兵になっている」
「わかった」
ピエールはうなずいた。
「あとは自分で調べよう」
「俺はここで降りる。車は一週間後に盗難届けを出すつもりだ」
アンリは車のドアを開いた。
「いろいろとありがとう。アンリ」
骨張った手がソッと差し出された。
「成功を祈っている」
その手をギュッと握り返し、アンリは泣きそうな顔になった。
「オルヴォアール」
シトロエン2CVクラブのペラペラなドアがバタリ、と閉まった。
パタパタと本を積み重ねるような音を残して車は公園の出口に走って行く。
「やはり……、言うべきではない、か。オリエが死に、その娘が生きてるなんて……」
赤いカタツムリのような屋根が木立の影に消えていくのを眼で追いながらフランス菓子の職人はつぶやいた。
「セ・ラ・ヴィ(これが人生だからな)」
16 五月の風
人が大勢集まる場所に、かならず出現するもの。
それはダフ屋と屋台と警備車なのだそうである。
何とかフェスティバル、何とか大会、何とか祭、といった垂れ幕がデレーッとぶら下った町なかの広場に、この三者が仲良く並んでそれぞれの業務に勤《いそ》しんでいる姿を読者諸兄も一度は御覧になったことがお有りだろう。
さて、ダフ屋さんと屋台の焼ソバ屋サンはちょっと置いといて、警備車の話である。
窓には、サンマが大量に焼けそうな金アミを張りめぐらせ、出入口は頑丈に鉄板焼の板が打ちつけられたこの車輛《しやりよう》。中は実にシンプルな作りになっている。運転席の背後と床の部分には薄いスチール・ボードが張られ、座席のクッションも極端に薄い。通勤用のバスじゃないから吊《つ》り皮もない(ごく一部では使われているそうだが)。
どうしてこんな作りになっているかと言えば、可燃性の物を放り込まれた時、被害を最少限度に食い止めるため、なのだという話。
だから乗りごこちはあまり良ろしくない。そのペッタンコな警備車の長|椅子《いす》を目いっぱい占領して、さっきからゴウゴウと高いびきをかいている奴《やつ》がいる。
内閣調査室非合法員の野田有介である。
ボストン眼鏡を口のあたりまでズリ降ろして寝そべった格好《かつこう》は、とても国家公務員には見えない。
「もう、やんなっちゃうよなぁ」
ペアを組まされている中町文雄は、額の汗を煮染《にし》めたようなハンカチで拭《ふ》き、タメ息をついた。
「中町さん」
反対側の座席に坐《すわ》っている外事課の刑事が同情したような顔を向けた。
「この人、アフリカでVIPの命を助けたスゴ腕なんですって?」
「と、言う話なんだけど」
もう一つタメ息をついて中町は、窓の外に視線を移す。
「どうもこの姿を見てるとねえ。もう一つ信じられない」
その時、道路の向う側に一台のタクシーが停《とま》った。一人の外国人がヨタヨタと降り立ち、蔦《つた》の絡まる洋菓子店の裏口へ入って行く。
「来た、野田さん。奴が帰って来ましたよ!」
中町は寝ている野田を力いっぱいゆすった。
「ムニャ、ムニャ私は立派なスパイですー、お国は悲しい日本国、KGBのオジサンと派手にドンパチやりたいなー」
揺り起こされた野田は立ち上り、大声で歌をうたい始めた。
「野田さん、なに寝呆《ねぼ》けてんですか。経営者が帰って来ましたよ。行きましょう」
「うー、上野うさぎやのドラ焼がたべたいよー」
手の甲でよだれを拭きながら彼は完全にレロレロになっている。
「ええい、めんどうだ」
ヨイショ、と中町は野田を担ぎ上げ、呆然《ぼうぜん》とする刑事たちをその場に残して警備車から飛び降りた。
一直線に道路を越え、白い日除《ひよ》けの下にあるドアを大きな音とともに開け放ち、中にドドドドッと走り込む。
「ヒイッ」
レジ・カウンターに立っていた白いエプロンのウエイトレスが悲鳴をあげた。
顔を真っ赤にして汗を滴らせた角刈りの大男が、寝乱れたスーツの男を担いで現われれば誰だって驚く。
「お嬢さん!」
「ハ、ハイ」
「経営者はどこだ!」
彼女は、アポイントメントを取っていない人物がオーナーの面会を求めた場合、全て断わるよう日頃《ひごろ》から教育されていた。
が、この場合、瞬時にしてその心構えは崩れる。中町の異常な迫力に平行感覚が押しつぶされたのだ。
彼女はオズオズとカウンターの奥にある階段を顎《あご》で示す。
「そこか!」
中町は靴音も高らかに駆け上った。ちょうど裏口から昇って来たアンリが事務室の重いドアを開いたところだった。
「ケスクセ(何だ)!?」
アンリは叫び、あわてて防弾ドアを閉じようとする。
「ケツ臭せえ、だと? 何ぬかしやがる。俺は昨日ちゃんと風呂《ふろ》に入ったぞ」
フランス語のわからぬ中町は扉の隙間《すきま》に担いでいた野田の上半身を押し込み、無理やりドアを開いた。
「イテテテテ」
自分の身体をテコ代りに使われた野田は悲鳴を上げて仰《の》け反《ぞ》る。
わけのわからぬ恐怖に襲われたアンリは、戸棚の引き出しを開け、その裏へガムテープで張り付けておいた自動拳銃を取り出そうともがいた。しかし、焦ればあせるほどテープが指に絡みつき取り出すことができない。
「よーし、そこまでだ。捨てろ!」
中町は石原プロの俳優がやるように、ドスのきいた口調で腰のプローニングM1910を抜き、両手保持《ウイーバー》した。テレビの見過ぎである。
「ヤマさん、起きて下さい。ホシは逮捕しました」
「ヤマさんじゃないよ。僕、野田さんだからね。それに、内調に逮捕権はないの」
痛みでやっと正気にもどった野田は、脇腹をさすりながら床から起き上った。
「でも、こいつ完全に銃刀法違反ですよ」
「あー、本当だ。ベレッタM84だぁ。いいな、いいな」
野田は床に落ちている拳銃を拾いあげ、銃口をアンリに向けた。
「よし、オッサン、面倒は御免だぜ。こちらの聞くことに正直に答えてくれ。フランスの警察から手配がまわっているあんたの友人について少々尋ねたいんだ」
彼はリノ・バンチュラそっくりなフランス語でタンカを切った。
「あんたは、いったい何者だ?」
アンリは壁際にペッタリと張りついた。
「内閣官房室資料保存課B組、野田有介、人呼んで……」
野田は寝乱れたサマースーツの肩先を下のYシャツごとバリッと引き千切った。
「チャド番デカ=I」
彼の情ない程に青白い素肌には、何と、桜と菊に囲まれた国会議事堂のイラストが大きく光っていた。
「むっ、永田チョーの代紋!」
フランス人は息を呑んだ。
「チャド共和国で番まで張った外務省出向六号給四等俸のこの野田有介が、何の因果か落ちぶれて、今じゃマッポの手先。笑いたけりゃ笑うがいいさ。だがな、手前《てめえ》みたいなテロリストの片割れ、おてんとうさまは見のがしても、この二の腕の、国会ギジドーが許しちゃおけねーんだ!」
「オー、ララ(フランス人特有の嘆声《たんせい》)」
観念してその場にへたりこむアンリの前で野田はミエを切った。
「出かける前に、トイレの鏡に向って何かゴソゴソやってると思ったら、身体にあんなもの書いてたのか」
中町は、相棒の背中に描かれている見慣れた建物のイラストと、その下の03・213・1100(総務庁の行政苦情サービスのテレホン・サービス)という数字を横眼で見て呆れ果てた。
「まったく、もう、野田さんったら、テレビの見過ぎなんだからぁ」
「青山リカか……。うーむエエおなごやな」
「ん、もう。定吉はん、そればっかりや」
敵の写真を一枚めくるごとに感心している定吉に呆《あき》れはてて、知松はゴロリと横に寝転がった。
「年齢二十二歳。血液型はO型。身長163センチ、B81、W58、H84。髪の色は栗毛《くりげ》色、瞳《ひとみ》は黒。みかん色のリップスティック、濃いアイシャドウを好む……か」
定吉はチャブ台の上に広げたリカに関する報告書を声高に読み始める。
「またそれ読んでるんでっか? もう十回目やおまへんか」
「何度でも、完全に頭へ入るまで反復する。これが大事なんや」
「ホンマは、報告書読んでるうちに情が移ったんと違《ち》ゃいまっか?」
脹《ふく》らんだ頬《ほ》っぺたをピタピタと手で打って知松は笑った。
「あ、あほぬかせ」
心底を見すかされて狼狽《うろた》えた定吉は報告書のページをめくった。
「えーと、出生地は東京都大崎長者丸。へんな地名やな」
「いや、そこはとんでもない高級住宅地でっせ。田園調布《でんえんちようふ》や成城《せいじよう》よりマイナーでっけど」
「ふーん、さよか。……母の名は織江、父の名前は不明。一説にはフランスの高名な音楽家と言われている……。服飾デザイナーである母の手一つで育てられ、白樺《しらかば》学園附属幼稚園、同小学校、同中学校、同高校、同大学と進む。この頃、最初の男、立花わたると別れ、松田まさと、と付き合い始める。大学二年の夏に母と死別。同時に、松田まさと、と別れ、叶善彦《かのうよしひこ》とつき合い出す。同年秋、学生コンパニオン・クラブを設立し社長となり、現在休学中……」
「リカのお母《か》やんいう人は、元々パリのお針子で。向うで何があったのか、リカを腹に宿したままこっちゃに帰って来たいうことですわ」
「ふーん、なんや苦労してはるんやな」
「コンパニオン・クラブに関する調査書は先刻届きました。これだす」
着物の前をはだけた知松は、スコッチハウスのマークが付いたタータン・チェックの褌《ふんどし》をチョッとずらして、中から一冊のノートを取り出した。
「ワッ、なんちゅうところに隠しとんのや!?」
「そやかて、大事なモンですから」
知松が差し出すノートを顔をゆがめて受け取った定吉は、ページをめくった。
「ほー、NATTOの接待用クラブ。なるほど奴ら、年端《としは》も行かん女の子らを政財界の工作に使《つこ》うてたんか」
「オナゴ使うた『根まわし』は古来より日の本で一番有効な工作手段と言われてますさかいな」
「メンバーは皆有名私立高校の生徒で、親にかまってもらえへん子ばかり……なあ。しかし、エエしのお嬢さんがようこんな売春窟《ばいしゆんくつ》まがいのところに集まったもんやな」
「リカのパトロンいうのんがNATTOの大幹部なんですけど、こ奴」
知松は人差し指で額のあたりをコン、と突っついた。
「ここがナカナカに切れまんのや」
「代議士の飯岡助八郎いう奴か?」
「さいだす」
むっくりと起き上った彼は、リカの女子高生勧誘法を身振り手振りもおもしろく説明した。
要するに、日曜祭日の渋谷、原宿、池袋、新宿、横浜元町に弁説巧みな見た目の良い勧誘員を送りこみ、芸能プロのスカウトと偽ってあちこち連れまわし、ついには身体の関係を作ってズルズルと組織に引きずりこむ。身持ちが固く、容易に陥落しない子は、学内のイジメに対抗できるような強い腕力をつけるという名目でリカの武術レッスンを受けさせる。そのプロセスの中でごく自然にリカとレスビアンの師弟関係を作り、組織に組み込むのだという。
「こうして、リカを女王様と崇《あが》め、鉄の団結を誇るリカ軍団≠ェ生まれたという、おそまつの一席だす」
語り終えた知松は、「島之内|寄席《よせ》」に初めて昇った六代目松鶴みたいに深々と頭を下げた。
定吉は口をへの字に結び、腕を組んだ。
「うむ、恐るべきは青山リカ。早《は》よ若ダンさん助け出さなんだら大変なことになる」
「伝え聞くところによると若ダンさん、リカの与える妙な薬でメロメロになっとるそうだす」
「人間やめますか。それともリカちゃんやめますか……か」
その刹那《せつな》、急に床下で物音が聞こえた。
ボコ、ドテ、ガタガタッ。
「わっ!」
定吉はビックリして部屋の隅に飛び退《の》く。
「ああ、心配おまへん。手のモノだす」
メキメキメキッと畳が盛り上り、三尺手ぬぐいで顔を覆った蜘蛛《くも》の巣だらけの男が床下から半身をのぞかせた。あたり一面|床埃《ゆかぼこり》である。
「甲賀のモグラ丸、リカのアジトよりただいま立ち戻りましてござります」
「もう、あんたら。ちゃんと靴脱いで玄関から入って来いて何度言うたらわかるんや」
知松は顔のまわりに散った埃をパタパタと払った。
「ハッ、火急の知らせにつき御無礼をば省《かえりみ》ず」
モグラ丸は、持ち上った畳の上で片膝をついた。
「で、何事や?」
「はっ。今朝《こんちよう》、麻布《あざぶ》風船坂のマンション『ドムス八畳敷』十階にありますリカ・オフィス≠ノ忍び入りましたるところ、人気《ひとけ》がなく、急ぎ若ダンさんが軟禁されていると見られる永田町某ホテル最上階のスウィート・ルームを調べましたが、すでにそこも引き払われておりました!」
「なんやて!?」
二人は思わず身を乗り出した。
「で、奴らの行く先は?」
「しかとは存じませぬが……」
モグラ丸はペイトン・プレイスのジャケットから一枚の紙キレを取り出した。
「ホテルの部屋を丹念に調べましたるところ、控え室に敷かれたカーペットの間よりこのようなものが」
「なんやろ? 本の栞《しおり》みたいやな」
受け取った定吉は首をひねった。
ちょっとわてに、と引ったくるように取りあげた知松がひねくりまわす。
「何か書いてありまっせ。五月の風をゼリーにして持って来て下さい=Aか。……うーむ、どっかで聞いた文句」
「裏に、マンガ文字(丸まった女の子文字)で今年は17種全部たべたい≠ニ書いてございます。これも何かの手がかりに」
モグラ丸が口を狭んだ。
「なんや余計わからんようになってもうたがな。五月の風……、ゼリー……、17種全部……」
定吉はポリポリと頭を掻《か》いた。
「17種……五月の……、ん、そうや。思い出した!」
急に知松が大声をあげて膝を打った。着物の裾《すそ》についた床の埃が舞い上る。
「モグラ丸、至急皆を集めえ。仕事先に行ってる連中も全部呼び戻せ。若ダンさんの連れてかれた先が見えたでえ」
「ほ、ほんまかいな?」
モグラ丸と定吉は顔を見合わせた。
17 霧の中の出会い
「シケた曲かけてんじゃねえぜ」
フロントグラスにペッタリと偏平な足を押しつけて、元太郎は怒鳴《どな》った。
「だってよう。交通情報聞かねえと困るだろうが」
運転席でカーラジオをいじくっていたアキラが大きく伸びをした。
「聞くんだったら、やっぱヤザワだぜ、ヤザワ」
「しょうがねえなぁ」
アキラは舌打ちして一四八五キロヘルツの軽井沢放送を切り、矢沢永吉のカセットを差し込んだ。
「アーア、今年は見事に誰も引っかかんねえな」
リクライニングに寝そべった元太郎は長く伸びた鼻毛をプチリと抜いた。
「梅雨《つゆ》時《どき》はスケの股《また》グラもジメジメしてるから引っかかりやすいって言ったのダレだよう」
「自分で言ったんだろ」
「そうだっけ」
元太郎はキャッツアイ・グラスを外し、眼の縁に出来た紫色のアザを指でなぞった。
昨夜《ゆうべ》女子大のテニス合宿所に忍び込んでフクロ叩《だた》きにされた傷跡である。
「やっぱ、今年のカラ梅雨が悪《わ》りいんじゃねえの?」
彼は手の甲でフロントグラスの水滴を拭《ぬぐ》った。外は一面、米の研《と》ぎ汁を流したような濃い霧である。
「違うと思うな」
アキラは素足にひっかけたサンローランのスリッパをバタつかせた。
「車がチョイ物足んないせいかもしれねえ」
「いい車じゃねえかよ」
元太郎はまわりを見まわす。コンポだってまだ音が割れてないし、床のカーペットはパープルカラーの新品に張り代えたばかり、シート・カバーもレノマのマーク入りだ。これで文句を言ってはバチが当る。
「しぶいグリーン・メタルのムスタング・マッハIで、どこが不足なんだよ」
霧の中でメロディホーンが短く鳴った。
「サトシじゃねえか」
アキラは窓から手を振った。
ミルクの中から黄色いグロリア・スーパーデラックスがホール&オーツの曲とともに現われる。
「ああいうのがシブイって言うの」
横に並んだ車の屋根をアキラは貧相な顎《あご》でしゃくった。ルーフ・キャリイの上に大きな板キレが乗っている。
「おーい、サトシ。オメエもソレ買ったのかよ」
「おお、こいつはキクぜ」
フィリピンカットの浅黒い顔がグロリアの窓から突き出された。
「サトシ。それ何だ?」
「おう、元太郎か。こりゃよう、ウインド・サーフィンってモンだ」
「お前、いつからサーファになったんだ」
「あんなカッタルイもん、やってられっかよ。これはスケ引っかけるための道具だ」
たしかにサーフ・ボードは、ルーフにしっかりと、御丁寧にもボルトと針金で止めてあった。
「俺《おれ》、カナヅチだからな」
「軽銀《かるぎん》(軽井沢銀座)行かねえか?」
アキラが身を乗り出した。
「飽きたぜ。それに今、俺らぁカラッケツだ」
「お前もかぁ」
なるほどナンパがうまく行かない理由のひとつは金欠だった。
「おい、アキラ、トッポイ車が通ったら教えろよな」
「なんで?」
「きまってんだろ。カツアゲだよ、カツアゲ。俺たち貧しいんだからよ」
元太郎は、キャッツアイ・グラスの表面に付いたフケをフッと吹き払った。
ピエールは霧の中をノロノロと車を走らせていた。高原の自然が作りあげたクリーム色のドレスは、夜明けが近付くにつれ、ますますその裳裾《もすそ》をぶ厚く押し広げていく。
彼は途中何度も路肩へ停車して、ロード・マップを開いた。
日本製の道路地図は、いったん読み方さえ覚えれば、ミシュランのマップより使いやすい。それを扱いづらくさせているのは路上の交通標示だった。日本語だけで書かれているため、外国人には何のことかさっぱりわからない。せめて公道のナンバーでも示してくれれば、と思うのだが、そんな親切心はこの国の道路行政官には無用のものらしい。
ベルギー人ギィ・S・ブラマンクになりすましたピエールは、アンリが彼の手帳に書きこんでくれた、東京から最も短距離で行き着く関越自動車道高崎インター・碓氷《うすい》バイパスコースを避けて山梨県側に入っていた。
調布から中央自動車道に乗り、小淵沢《こぶちざわ》インターで降りて八ケ岳公園の有料道路を抜け、清里《きよさと》というまるで悪夢に出てくる遊園地のような町を通って小諸《こもろ》、追分《おいわけ》の林道に分け入り、中軽井沢へ至るコースである。
彼は三つの理由からこのまわり道を選んでいた。バカンスによる交通渋滞を避けるため、途中の山林で銃の試射を行なうため、そして官憲の眼を逃れるため、である。
日本に着いてから今日で二週間目。そろそろバルセロナで接触したフェルジナンドの身内から情報が漏れている頃《ころ》である。国際警察《インター・ポール》の手は、遠からずアンリの身に及ぶことだろう。
彼が教えてくれた道は、逆に危険であった。
「霧が晴れるまで待つとするか」
ピエールは、中央高速の売店で買った地図を手荒く折り畳むと、タメ息をついた。
どうやら中軽井沢を出たあたりで道を間違えたらしい。このままではますます深みにはまってしまう。彼は山道の退避線に車を乗り入れた。
「おい、元ちゃんよう。カモが来たぜ」
「おっ、トッポイな」
元太郎は隣に並んだサトシに手で合図する。
三人は木刀やチェーンを手にして車を降りた。
「ひゃー、なんでえ? この車」
車高がやけに高い。かたつむりみたいな形をした真っ赤な外車である。
「おい、誰だか知らねーけどよう……」
サトシが木刀の先で車のドアを叩いた。
運転席から、白髪の外人が顔を出した。
「ボンジュール」
「ハ、ハ、ハ、ハローウ」
陸《おか》サーファーは、あわてて仲間のもとに駆け戻った。
「だめだ。ありゃあ外人のジジイだぜ」
「それくらいでビビッてどうすんだよ」
「じゃあ、おめえ行けよ。ボンジュール、と言ったぜ。あいつフランス人だぞ。俺、フランス語知らねえもん」
「俺だって知らねえよ」
「情けねえ奴らだな」
小突き合うアキラとサトシを押しのけて、元太郎が車の前に進み出た。
「おう、爺《じじ》い!」
「?」
「ど、どねもあ、オカネ、しるぶぷれ」
「?」
元太郎は悠々と仲間のもとに戻った。
「金よこせって言ってやったぜ」
「スゲエ。元ちゃん、フランス語しゃべれんのかよ」
「あったりめえよ。俺は昔、アテネ・フランセに通ってる女の従姉妹《いとこ》とマブダチだって女、スケにしてたんだ」
「おおインテリゲンちゃん」
困ったことになった。ピエールは車の外でうかれ騒ぐ日本人の青少年を見て困惑する。
手にした得物から見て、どうやら彼らはチンピラらしい。因縁をつけて金品をゆすろうという魂胆か。
「どこに行っても、私はチンピラと縁が切れんらしいな」
今ここで騒ぎを起こすのはまずい。彼はシートの下に置かれたアタッシェケースを見た。
「出てこいよ、毛唐《けとう》。俺たちのシマに無断で車止めてあいさつも無《ね》えのかよう」
髪の毛をチリチリに丸めた小男が木の棒でシトロエンのボディをガンガンと叩く。
「やはり、やらざるを得ん、か」
ピエールがドアのノブに手をかけた時、霧の中から女性の声が発せられた。
「あなたたち、いったい何してるの?」
元太郎たちのそばに一台の小型車がゆっくりと停車した。
ワイドなトレッド、それを覆う巨大なオーバーフェンダー。車体は全《すべ》てピンクに塗られている。
「おっ、2シーターのターボだぜ」
「プラモで作ったことがあるよ。こりゃあ、ルノー|5《サンク》のアルピーヌだ」
「乗ってるスケもハクイじゃん」
白いドレスを身にまとった若い女が運転席から降り立った。
「何だよ、ねーちゃん。あんたこの毛唐の連れか?」
三人はその女を取り囲んだ。
「またいいもんが転がって来た」
「こういうの、棚から鏡餅《かがみもち》って言うのかな」
「あ、あ、あ、安倍川餅《あべかわもち》だろ?」
元太郎が木刀を肩に担いで女に近付いた。
「ねえちゃん、俺たちはボランティアでよう。哀れな軽井沢難民のためにゼニとスケを集めて……」
その刹那《せつな》、彼の下腹部へ女のハイヒールがめり込んだ。彼がうめき声をあげて倒れる横をスルリと走り抜けた女は、アキラの首筋に手刀を叩き込み、サトシの腹へ肘《ひじ》を打ちこんだ。
「難民に一番良くきく薬ですわ」
女は栗毛《くりげ》色の髪を撫《な》で付けると、ピエールのシトロエンに歩み寄った、
「大丈夫ですか?」
「メルシー、マドモアゼル」
「フランスの方ですのね?」
ピエールはその女性の顔を見るなりハッとして息を飲んだ。
「オリエ……」
「は、何ですの?」
いや、そんなはずはない。彼女が生きているとすれば五十近いはずだ。他人のそら似か。それにしても良く似ている。
「いや、あなたがあまりにもお強くていらっしゃるので」
「お恥かしいところをお見せしました」
彼女は美しいフランス語を使った。
「この霧で道に迷ったのです。ここで晴れるのを待とうとしたら急に奴らが現われて」
ピエールは傷ついたシトロエンのドアを指差した。
「群馬県側の山岳地帯に住む『ゾク』と呼ばれる原住民ですわ。彼らは赤い色を見ると襲いかかってくる習性があるのです」
「それは迷惑なことだ」
「どちらまで行くおつもり?」
ピエールは地図を取り出して広げた。
「ここの……シオツボオンセンという場所に」
彼女はニッコリと笑った。
「あたしは中軽井沢まで買い物に出るところです。途中まで先導しましょう」
倒れている男たちを跨《また》いで彼女は自分の車に戻り、ミッドマウント・一・四リッターに点火した。
ピエールも急いで2CVのエンジンをかける。
斜面に山荘が点々と建つ谷間の道を十分ほど降りると道は五つに分かれていた。そこが塩壺《しおつぼ》・星野温泉郷と中軽井沢の分岐点である。
ピンクのお尻《しり》を振ってゆっくりと前を走っていたルノー5から彼女が顔を出した。
「右の道を進んで二つ目の角がシオツボです。また、さっきみたいな連中に出会ったら、こうお言いなさい。『軽井沢に海はない』って。皆恥かしがって逃げるはずです」
彼女は軽く手を振ると、低いターボの唸《うな》りとともに霧の中へ消えた。
「カルイザワニウミハナイ……?」
ピエールは奇妙な日本語の呪文《じゆもん》を口の中でくり返し、やがてシャツの間から、銀の鎖に吊《つ》るされた青いトルマリン石を取り出した。
「君と似た少女に助けられたよ、オリエ。」
コンデンス・ミルクのような霧は、ますますその白さを深めて行くばかりだった。
18 通りがかりの丁稚《でつち》
「ほ、ほれ、定吉はん。二つ買いましたでえ」
「そ、そうか。良かったな。早よ、もうベル鳴っとるで。乗らんなあかん。あかん」
丸くビニールに包まれた物体を、窓の外でかざして見せる知松《ともまつ》に定吉は声をあげた。
間一髪。知松が車内に飛び込むと同時にドアがピシャリと閉まり、特急「あさま」は、ゆっくりとホームを滑り出す。
バタバタと席に戻って来た知松は、ドッカリと腰を降ろして、ホッとひと息ついた。
「もう、毎度のことながら、この駅の弁当買いには往生しま」
窓の外では白手袋・ギミーキャップの売り子たちが、ホームに整列して一斉に頭を下げている。十年一日のごとく繰り返される横川駅の発車風景である。
信越線最大の難所、最急勾配六六・七パーミル(一キロごとに六六・七メートルの割合で登る)の碓氷《うすい》峠を控えた横川は、小さな駅でありながら五分以上も停車する。ここで山越えのため特別製の電気機関車をもう二両接続させるのだ。
乗客たちは、その間を利用し、ホームの端から端まで猛スピードでダッシュする。名物の「峠の釜《かま》めし」弁当を買いこむためである。親は子の名を、夫は妻の名を叫びつつ、額に汗して走りまわるその姿は、横川のもう一つの名物だ。
「さ、さ、たべまひょ」
知松はセカセカとヒモを解き、口でパリンと割り箸《ばし》を割った。
「ほう、こら具がいっぱい入っとるなあ」
蓋《ふた》を開けた定吉は、釜の中に盛られたオカズを箸の先で数える。
「トリ肉やろ、シイタケ、これはクリとアンズやな。おお、下の方にゴンボ(ごぼう)とタケノコが」
定吉は感動の声をあげた。
「具の味付けは少し濃い目で、わてら浪速《なにわ》モンには少々辛く感じますけどな。その分、ご飯が薄味でバランスとれてて……」
知松は、タート・ヴァン(ワイン・テスト用の銀杯)に注がれた名酒の香りを嗅ぐソムリエそっくりな動作で、素焼きの釜に鼻を近付け、うーんと深呼吸した後に箸をつけた。
「うん、こら、うんまいわ。上等の銘柄米が最低二種はブレンドされとる」
口いっぱいに頬張《ほおば》った定吉は、しきりにうなずく。
「わかりまっか? さすがでんなぁ」
栗《くり》とウズラの玉子を脇《わき》に除《の》ける作業に熱中していた知松は、ニッコリと笑った。
好物を除けておいて後に食べるこうしたやり方は、初期の給食教育を受けたもの特有のものだ。
「昔っからこの弁当だけは手抜きがおまへん。これも宮内庁御ひいきの賜物《たまもの》でっしゃろな」
「トモやん、軽井沢はよう知っとるんか?」
「ヘェ、豆屋のイトはん(お嬢さん)がまだ生きてた時分は毎年夏になると、お伴させてもろてました」
「へえ? 豆屋さんにそんな人おったんかいな」
「若ダンさんの腹違いの妹さんでおます」
知松は、せわしなく動かしていた箸をふっと止めた。
「小さな時から御病弱な方で、お屋敷からあまり外出なさらずにお暮しでございました。たまの遠出にはいつもわてをお伴に御指名で」
車窓に広がるうっそうとした木立に目を向けて彼はさびし気に笑う。
「肌の透き通るように白い、そらもう美しい、お人形さんのような方でしたが、眼だけはゾクッとくるような色気がおましたなぁ。あの辺に住むボンボンたちは皆メロメロで、いつかイトはんの歌まで作られました」
「へえー、歌をなぁ」
「こういうヤツだす。
芦屋六麓荘《あしやろくろくそう》 豆屋の娘
年は十六 月若桜
諸国渡世人 ハジキで殺す
豆屋の娘は 眼で殺すぅ」
「そら大したもんやな」
定吉は口の中に飯をいっぱいに詰めこみ、目を丸くした。喉《のど》につっかえたのだ。
「残念なことに、イトはんは、十八の春を待たずして……白血病にボーコーエンを併発しはって死なはりました」
大きな両目からボロボロと大粒の涙をこぼし始めた知松は、その悲しみを振りはらうように飯をガツガツと掻《か》っこんだ。
まるで少女マンガのヒロインみたいなヒトやな。
定吉も知らず知らずのうちに貰《もら》い泣き、箸先のトリ肉を取り落した。白血病と膀胱炎《ぼうこうえん》。どちらも古いタイプの少女マンガには欠かせないモチーフだ。前者は登場人物の悲劇性を高めるため、後者はそれを描く漫画家のトラジェスティとして存在しているのである。
「イトはん死ぬ前にわての手をギューッと握らはって、『くれぐれも兄《あに》さんのことを頼みます』言わはりました。わては、何としても、何としても」
「トモやん、あんた……」
「惚《ほ》れるなんて、めっそうもない。イトはんは、わての心の中に初めて一筋の光を投げかけてくれはった。大阪電力の大型サーチライトみたいな方でおます」
列車は、ちょうど碓氷峠のトンネルにさしかかる。車内にパッと照明が灯《とも》った。
「イトはんが、わてを初めて法善寺はんに連れてってくれはったのは、『豆屋』へ初めて奉公にあがった晩やった」
知松は、カラッポになった茶色の土釜を抱きしめる。
「早よう立派な殺人|丁稚《でつち》になりや、言うて長いこと水かけ不動さんにお願いしてくれはりましたなぁ」
「どっかで聞いた文句やなぁ」
「そのイトはんが」
彼は懐から一冊の単行本を取り出し、釜の蓋に乗せた。
「肌身離さず持ち歩き、カップヌードルを食べる時、いつもこうして重石《おもし》代りに使うていた立原道造の詩集」
知松はポッテリとした頬っぺたにその白い詩集を押しつけうっとりと目を閉じた。
「ここに載っている『五月の風をゼリーにして持って来て下さい』の文句」
新劇の研究生みたいに過剰な情感をこめて語る彼の仕草《しぐさ》の気味悪さに、向いの席で釜メシを食べていた若いカップルが飯つぶをブッと吐き出した。
「『これが軽井沢の春を慕う道造の心や』、と教えてくれたイトはんのやさしい声が、あの栞《しおり》を見た時わての頭にグァッと甦《よみがえ》って来たんだす」
「…………」
話を聞いていて定吉は暗たんたる気持ちになる。つまり、彼は自分のこうした茫洋《ぼうよう》たるインスピレーションだけで皆を軽井沢の地に導こうとしているのだ。
「まあ、トモやんのカンの鋭さは認めんわけではないが」
「だいじょうぶだす。先に行ってる平吉たちが、今頃《いまごろ》は……」
立原道造の詩集を大事そうに懐へ収めた知松は、袂《たもと》から「峠の玄米弁当」を取り出して包みを解いた。
「……リカのアジトを見つけ出して……」
「ねえ、スカーレット」
赤い蝶《ちよう》ネクタイの少女が、つまらなそうに言った。
「なによ? タミー」
青い蝶ネクタイの少女が不機嫌そうに答える。
「もう、いやんなっちゃった。なんでわたしたちだけ、こんなかったるいマネさせられるわけ?」
「しょうがないでしょ、週番なんだもん」
スカーレットは、青いウサギ耳の髪飾りを整えながら口を尖《とが》らせた。
「いくら週番だからってさ。朝からずっと駅の張り番っていうのはないんじゃない」
「そうねえ」
「だいたい、こういうバニーガールの格好で見張りさせるっていうところが無神経だと思わない?」
タミーは「おまけ付き・リカちゃんウエファース」の箱を友人に差し出した。
「それは言えるわね。改札口通ってくる人はジロジロ見るし、イベントのビラ配りだと思って寄ってくる奴《やつ》はいるし」
スカーレットは、ウエファースを一枚|摘《つま》み、網タイツに包まれた太腿《ふともも》のあたりをポリポリと掻いた。
「中には『ネーチャン幾ら? どこの店?』って聞く奴もいるし、ね」
「そういうバカは、さっきみたいにコインロッカーの裏連れこんで、キン潰《つぶ》ししちゃえばいいのよ。いいヒマつぶしになるしィ」
「そうね。キャハハハ」
二人の笑い声が軽井沢駅の待合室いっぱいに轟《とどろ》いた。その瞬間、小諸《こもろ》方面行ホームに列車が轟音《ごうおん》とともに入って来る。
「今度の列車には乗ってるかもよ」
タミーは、針金入りのパッドからはみ出しそうになっている自分の胸を手で押さえ、列車の方に背伸びをした。
荷物を抱えた人々が改札口から続々と吐き出される。
「なーんか人いっぱいで朝の山手線みたいね」
二人は辛いウエファースをパリパリと齧《かじ》りながら人の流れを凝視した。
「あっ、あれ」
スカーレットが、突然タミーの袖《そで》カラーを引っぱる。
「あ、ヤダ。信じられなーい」
彼女らのマークしていたものがホームの跨線橋《こせんきよう》を渡ってこちらにやってくる。
巨大なブランド物のバッグを身体《からだ》中にぶら下げた丸っこい男と、痩《や》せて背の高い男。どちらもブカブカのハンチングに厚手の着物、前掛けという、高原のリゾート地にはまるで不釣り合いな格好をしている。
「定吉七番とその仲間よ。手配通りの人相風体だわ。至急リカ様のところに連絡しなくっちゃ」
「待って」
待合室横の電話コーナーに走り出そうとするスカーレットをタミーが止めた。
「もっと良く確認してから。間違えて報告したら、罰当番の検便係でしょ」
「そうね。でも」
「私、ちょっと見てくる」
タミーはお尻《しり》を振り振り人ゴミの中に入って行った。
彼女はキョロキョロとあたりを見まわし、誰か捜している体を装って痩せた男の前をゆっくりと横切る。
男の目尻が急にデレッと下った。鼻の下が数センチ程伸び、だらしなく開かれた口元に、ヨダレのシミがジワリと広がる。
タミーは、咎《とが》めるような顔付きで振り返った。
「何よ、あんた。何か御用?」
男はポッと赤面して、モジモジと身をよじった。
「い、いえ、その、何も」
被《かぶ》っていたハンチングを取ってペコリ、と頭を下げる。
「無作法な目線《ガン》付けいたしまして申しわけおまへん。わてはタダの……、通りがかりの丁稚だす」
「そう。あたしはタダの通りがかりのバニーガールよ」
タミーは、フンと鼻を鳴らすと、失礼しちゃうわという態度で足早に友人のもとへ帰った。
「ね、ね、ね。本当に定吉だったわ。帽子取ったら、頭の右後ろに」
彼女は両手をいっぱいに広げて輪を作った。
「こんな大きなハゲがあったもん」
「やだー、本物じゃない」
網タイツを剥《む》き出しにした二人のバニーガールは駅の外にダッシュした。
「定吉はん、何ボケッとしてまんねん」
コインロッカーの方から知松が声をかける。
「どのロッカーも満杯や。空いてるとこ探しとくなはれ」
待合室へたむろする人々に荷物をあちこち打ちつけて、彼は定吉のそばに戻って来た。
「どないしはりました? ポケーッとした顔して?」
「ええなあ、じょしこーこーせーのバニーガール」
「えっ?」
「ほら、あしこでバイクに乗ろうとしている二人の娘《こ》」
定吉は、駅レンタカーの前で、トライアルバイクのエンジンをかけようと焦っている赤と青のバニーガールを指差した。
「写真で見たことのあるリカ軍団の娘や」
定吉は手にした風呂敷《ふろしき》包みを同志の口にくわえさせた。
「トモやん、わては、あ奴らを追っかける。あとでまた会おう」
彼は着物の裾《すそ》を尻っ端折《ぱしよ》りすると、草履を帯の間に挟み、トットット、と駆け出す。
「フガー、まっほふなはへー」
両手に荷物を抱え、そのうえ口にまで物を下げられた知松はモゴモゴともがいた。
駅舎の外へ出た殺人丁稚は、急いであたりを見まわした。彼とて二本の足でバイクを追うほどバカではない。
「おっ、エエもん見つけた」
グリーンベルトの奥に、黄色い幌《ほろ》が見える。前掛けを締めた中年の男がビールの箱を降ろしていた。酒屋の配達車らしい。彼はその車が一目で気に入った。今時珍しいダイハツ・ミゼットMP4!
甲高《かんだか》いエンジン音を響かせて、タミーとスカーレットのバイクが、脇を走りぬける。ぐずぐずしてはいられない。定吉はグリーンベルトをポンと飛び越えて、オート三輪のドアを開いた。
「あっ、何をする」
酒屋のオヤジがビックリして目を剥いた。
「ちょっと、乗せとくなはれ」
「こりゃレンタカーじゃないぞ」
見ればわかることだ。定吉は構わずドアを閉める。二人乗りの後期型ミゼット、丸ハンドルタイプ。案の定、キイは差しこまれたままだった。
「ほならバタコ(オート三輪)借りますぅ」
定吉はドアを拳で叩《たた》くオッサンに一礼すると猛スピードで走り出した。
「わあ、ど、どろぼー!」
「スンマヘン。かんにんやー」
駅前に定吉の声が轟いた。
「スカーレット!」
ヘルメットに取りつけられたヘッドホンからタミーの悲鳴があがった。
「ヘンな車が追ってくる。わ、定吉よ!」
スカーレットは後ろを振り返る。一八号線バイパス交差点の信号を無視して、カエルみたいな形の車が追って来る。
「タミー、あんたが悪いのよ。目立つことするから……」
「えーい、うるさいわね。それより早く本部に連絡してよ」
スカーレットは舌打ちすると、ヘルメットのスイッチを本部の周波数に切り替えた。
「ナカジマ≠ゥらマテル≠ヨ」
「はい、こちらマテル=v
ハスキーな声が返ってくる。
「アイデアル≠ェドジを踏みました。バンダイ≠ノ追尾されています」
「ドジだけ余計よ!」
タミーの声が割りこんだ。
「OK。しばらくその辺で時間を稼いで。すぐにタカラ≠ヨ団員を集めます」
本部の指示を受けた二人は、新道を左折してハウスナンバー・千五百番台の別荘地帯にハンドルを切った。
「……というわけで、こちら一足先に梅雨《つゆ》の明けた軽井沢。旧軽ロータリー前に中継車は来ております」
紀ノ国屋スーパー斜め向いの交番前は黒山の人だかりである。
鉄骨の足場が築かれ、バッテリーが低く唸《うな》り、軍手をはめた機材係がガムテープでまとめられたコードを忙《せわ》しなく手繰《たぐ》り寄せている。
人垣の中央に立つ、若い男の司会者は、下卑《げび》た作り笑顔をカメラに向けた。
「……さて、毎年この季節になると問題になるのが、海や山での青少年の非行ですね」
チックでペタペタに頭の毛を固めた司会者は、鼻の頭につけたドーランが汗で消えかかっているアシスタント・ガールへ合づちを求めた。
「ホントーにこまったことですね」
アシスタントは、太めのロッドでゆるくパーマをかけたソバージュヘアを揺って仔細《しさい》らしくうなずく。
「ケッ、自分が一番先頭に立ってスケベしてるくせによー言う奴らだぜ」
中継車から少し離れた軽井沢銀座入口のカフェ・テラスで、一人の男が皮肉っぽく口を曲げた。
「セイガクのイベントでインフォやってる頃は、カンケーシャにカオ刺してやるっていっただけで、コーマン振ってアレモンだったのによー。ツキイチ本にグラビアミヒラキ出たらもうコレモンだぜ」
テニスウェアにサングラス姿の男は、連れの方を振りかえり、顔の上に拳《こぶし》を載せた。
「ケッ。そう言やデーハーにケバイぜい」
連れの男は金のブレスレットをチャラチャラと鳴らして眼鏡をずり下げた。二人は典型的なギョーカイ人だった。
「アタリキゼントー。アイツ、セイガクん時は、エージェントのゲーハーと半チャンゲーマンでバカスカモンだぁー。俺もよー。ゴショーバン、ガッバガバのスッポン!」
「アー、キッタネー」
テーブルのアイスコーヒーを自分の頭にブッかけて、彼は驚きを的確に表現する。
隣に坐《すわ》っていたテニスウェアの若い女性たちがこの姿を見てキャッと笑いこけた。
夏の軽井沢銀座。そこで往々にして見かけられるマスコミ周辺人と若い女性の、打算に満ちた出会いのひとつが、今まさに起きようとしている。
夏の昼さがり、いっぱしのマスコミ屋を気どる駆け出しの学生仕出し屋(学生の業界周旋人)はこうして獲物をくわえこむのだ。
が、この場に親切な同時通訳の一人もいれば、女性たちは、こ奴らの下品さにあきれてすぐに席を立ったことだろう。
先刻彼らの話していたセリフは、民間人の言葉に直訳するとこうなる。
男A「(あの女性は)学生動員の広告イベントで、インフォメーション・ガールのアルバイトしていたころは、マスコミ関係者に会わせてあげると言っただけで下腹部を揺り、誰にでも抱きついてきたのである。しかるに、月刊誌にグラビアの二ページも出たらどうであろう。立ち居振舞いが大きくなって(小生には鼻もひっかけなくなって)しまった」
男B「なるほど、そう言われてみれば全体的にかなり派手な作りの人である」
男A「当然であろう。彼女は在学中(すでに)広告代理店の営業に勤務なさっている頭髪の不自由な方々と、短時間で金五万円の自由恋愛をなさっていたのである。(もっとも)小生もそのおつきあいで何度かお手合わせしたことがある(もちろんロハで)」
男B「何と! お手前も良い思いをなされたものだのう」……。
カフェテラスの前を、ペア・ルックに二人乗り自転車の気味悪い集団が、ベルの音も高らかに走り抜けた。
足場の上のテレビ・カメラが、彼らの方に向くと、全員が六〇年代の精神的遺産として名高いアノサイン≠パッと出した。
アッという間に数台が人ゴミの中に突ッこんで転倒する。ただでさえバランスの悪いこの種の自転車で両手離しすればこうなるのは当然のことだ。
醜態をさらした軽井沢の風物詩≠映し終えたテレビ・カメラは、再び司会者の方に向きなおった。
「……と、いうわけで。何が『と、いうわけで』か自分でもよくわかりませんが、ここで、実際に、家には内緒で軽井沢へやって来た高校生の男女にお話を伺いましょう」
オールバックの頭をテカテカに光らせて、司会者は愛想笑いを作った。
派手なメイクのアシスタント・ガールは、原宿ファッションで上から下まで固めた若い二人にマイクを向ける。
「話が話だけに、お名前は……言えませんわね? でも……一応私にだけ名前を教えて下さい。キミの名は?」
マイクを突きつけられたニキビだらけの男が彼女に耳うちした。
「……の、……で、……高校の……之です」
「はぁ、東京都足立区立中川高校三年西青井孝之君ね。では、あなたを仮にA君と言っておきましょう。次に彼女の名前」
ボブ・ヘアの子が同じように耳うちした。
「はぁ、あなたの方は葛飾《かつしか》区|金町《かなまち》の末広《すえひろ》高校二年亀有真由美さんね。では真由美さんを仮にBさんとしましょう」
アシスタントは、カメラに向って高らかに宣言する。
「お父さん、お母さん見てるー?」
二人の高校生は、泣きそうな顔でヤケクソのVサインを出した。
19 銀座通りの銃座
バニーガールたちは先を争って非常階段を駆け昇った。
屋上の手すりを掴《つか》んで、カール・ツァイスの双眼鏡を覗《のぞ》いていたバービーが叫ぶ。
「早く! こっちよ」
彼女は、ポニーテールに止めた金髪を揺って仲間を叱咤《しつた》した。
「何やってるの。タミーたちがそろそろ来る頃《ころ》よ」
少女たちは動きづらいハイヒールを一斉に脱ぎ捨てると、屋上の片隅に置いてあった木箱を開いた。
「早く組み立てて!」
箱の中から、細長いキャンバス包みが取り出される。油の染みついた布が解かれると、そこから現われたのは、青黒く光るパイプの塊りだった。
バービーは身長173センチ、B91、W46、H56の異常なまでにスラッとした身体を手すりにもたせかけて下の雑踏を見降ろした。
ここは軽井沢銀座のほぼ中央部。「テニスコート通り」、「すずらん通り」と呼ばれる二つの横道に挟まれた商店街の一角。
今年の春先、周囲がまだ雪で閉ざされている頃に突貫工事で建てられたツーバイフォー建築のビルだ。正面の入口が左隣のベルコモンズとそっくりなため間違えて入ってしまう客も多いというハタ迷惑な建物である。一階にはフランス菓子の店とその喫茶室、二階はブライダル・インフォメーションの看板が掲げられているが、この夏のかき入れ時にも休業中の張り紙が出っぱなしになっていた。実際にはリカ軍団のアジトなのである。
「台座の俯角《ふかく》を大きく取るのよ」
バービーは雌鹿《めじか》のように引きしまった両足をビルの張り出しに乗せてテキパキと指示した。
クッション付きのドイツ製|三脚《トライポツド》が、彼女の示す位置に脚を開く。
「次、機銃の替え銃身、この位置!」
一人のバニーガールが弾薬箱に蹴《け》つまずいて替えの銃身ケースを取り落した。
「ダメじゃない、パピーちゃん!」
「ごめんなさーい」
叱《しか》られた少女は、太く描かれた四本の上マツ毛の間からポロポロと涙を流してしゃがみこんだ。
「泣いてるヒマなんかないのよ。早く弾薬運んで!」
バービーは怒鳴《どな》った。
「何さ、あたしたちよりチョット足が長いだけで威張っちゃってさ」
機銃のレシーバーにバレル・ジャケットを組み込んでいた少女がペッとツバを吐いた。
「ねえ、ペパー」
横で五十発用のメタル・ベルトを並べていたブルネットの少女が肘《ひじ》で彼女を突っついた。
「なによ、カンナちゃん」
「これ終ったらクレープ食べに行かない?」
「やあよ、茜屋《あかねや》のブルーベリーとか、沢屋《さわや》ストアーのイチゴジャムが入ったヤツなんてもう食べあきちゃったもん」
銃口にリコイル・ブースターを取り付けながらペパーは首を振った。
「新しいクレープ屋さん見つけたの」
「うそー、どこよ」
「ほら、あすこ。チャーチ通りンとこの空き地に白いバンが停《とま》ってるでしょう」
「ああ、ヘンな音楽流して売りにくる車」
「原宿の竹下通りにあるプティ・ポアン≠フ支店だってー」
「えーっ、だったら食べに行くー」
カンナとペパーの背中に、バービーの怒声が飛ぶ。
「あなたたち、余計なこと話してないで射撃位置につきなさい。言うこときかないと、また検便当番させるわよ」
二人はビックリして機銃のフィード・カバーを閉めた。
「弾薬|装填《そうてん》完了!」
バービーは無線のマイクを手に取った。
「こちらマテル=Aナカジマ・アイデアル♂椏嘯ケよ」
「……アイデアル≠ナーす」
受信機からタミーの声が聞こえる。
「タカラ≠フ用意は整った」
「了解、そちらに向います」
バービーはピンクのメガホンを口に当てた。
「タミーたちは二手橋《にてばし》の方から真っ直ぐにこちらへやって来ます。ビルの手前まで来たら、すずらん通りとチャーチ通りの二手に分かれる手筈《てはず》になっています。頭の悪い定吉の車は、どちらを追ったらいいかわからなくなって一瞬停車するでしょう。そこを真上から射つのです。通行人を巻き添えにするかもしれませんが、気にしないように。日頃の訓練通り冷静に行動して下さい。以上」
「勝手にこんなことやっていいんでしょうか」
一番子供っぽい顔をした少女が恐るおそる尋ねた。
「リカ様も、いずみさんも留守《るす》の時に」
「くるみちゃん、あんたは黙ってライフル構えていればいいのよ!」
ポニーテールの端を髪飾りで止めながらバービーは声を荒げた。
旧軽ロータリーのテレビ中継現場では、司会者とアシスタントが、高校生のカップルへ矢継ぎ早やに質間を浴びせかけていた。
「ふーん。じゃあ二人はカメラが縁で知り合ったのねー」
「そー、彼があ、アイドルの生写真やっててえ、アタシが追っかけ≠竄チてたのねー。そしたら、彼があ、『追っかけはもう古くってえ、これからは待ち伏せとか、落し穴とか、辻斬《つじぎ》りなんていうのが流行《はや》る』って言ってえ、カメラの撮り方教えるからってウソついてえ、アタシをお、ホテル連れてったりしてえ……」
堂々と答える女の子の背後で、連れの男の子は恥かしそうにうずくまる。
「はい、はい、なるほどよくわかりました」
オールバックの頭をペタペタと叩いて司会者が再び登場した。
「いやぁ、今の若い人たちは進んでますねえ。さて! そこで問題です……じゃなかった、そこでこういった非行の実態を評論家の先生方はどのように考えていらっしゃるでしょうか。お聞きしたいと思います」
道端に白いクロスをかけたテーブルが置かれている。司会者は、その前に進み出た。
「軽井沢の飛行機評論家として有名な青木さんに、この問題を答えてもらいましょう。賭《か》け率は十倍です」
テーブルの横に坐《すわ》ったギョロ目の男が、ムッとした表情で人差し指を天空に向けた。
「はらたいらさんに五十点!」
その時、である。
六本辻に通じる旧道の彼方《かなた》で爆音が轟《とどろ》いた。
人々は音のする方へ一斉に眼を転じる。
テレビ局がまた何か新しい出し物を提供してくれるのだろうか? ヤジ馬たちは息をつめた。
甲高いエンジン音があたりを圧倒し、突如二台のバイクが四ツ角を曲って出現した。
「どいて、どいてー!」
肌も露《あら》わな原色のコスチュームを身にまとい、同色のフルフェイス・メットで顔を覆った二人のライダーは、黄色い声を張り上げて人ゴミの中に突っこんできた。
「うおーっ」
ヤジ馬たちは拍手かっさいである。青少年の非行に関する野外ゼミナール≠ニいうタイトルに花を添える粋《いき》な演出、と勘違いした彼らは、イサンドルワナでイギリス植民地軍を包囲したズール族のように口笛を吹き、サンダル履きの足を踏み鳴らした。
「何事だ?」
中継車のスタッフは血相を変えた。
「早く、整理の警官に連絡しろ!」
バイクは人ゴミの中を二度三度出口を求めて走りまわる。モニターでそれを見ていたディレクターがあわてて皆を止めた。
「いいぞ。ちょうど盛り上りに欠けてたところだ。あいつらを撮れ」
その瞬間、二台のモトクロス・バイクは、評論家の坐っている白いテーブルに飛び乗り、群集の頭上をポーンとジャンプして軽井沢銀座の中に走り込んだ。
「うーむ、離陸、着地ともに九十点!」
飛行評論家はポンと手を打った。
ヤジ馬の間からまたしても歓声が巻き起こる。今度は新道の方向から、アイスクリームやTシャツショップの立て看板を跳ね飛ばしながら黄色い小型車が突入して来たのだ。
「し、しぶいぜ」
サンダル族の一人が思わずうめいた。
車はフロントノーズが鳥のクチバシみたいに曲ったクラシックな三輪車だった。
空冷単気筒305CCのエンジンをバタバタと轟《とどろ》かせて、ロータリーの中央に入って来た車は、マイクを握ったまま呆然《ぼうぜん》として立っている司会者のそばに急停車した。
運転席からハンチングを被ったひょろ長い男が顔を突き出す。
「お仕事中スンマヘン。つかぬことを伺いますが、こちらに足元網タイツで、胸ボヨンボヨンのバイク姉ちゃん二人、来てまへんやろか?」
「は、はい。あちらの方へ」
彼は軽井沢銀座の方を指差した。
「さよか、おおきに」
彼はハンチングを取って一礼した。右後頭部の十円ハゲが高原の日差しに反射してキラリと光った。
「さー、どいたどいたぁ」
三輪車は歩行者天国の看板を跳ね上げ、銀座通りの坂道へ突っこんで行く。
ヤジ馬たちはこれもテレビの演出の一つと思いこみ、入り乱れてその後を追った。
「まったく何てことしてくれるのよぅ!」
ビルの屋上で一部始終を見ていたバービーは怒りのあまり双眼鏡をコンクリートの上にたたきつけた。
「タミーたち、反対側のロータリーから来るなって、あれほど言っといたのにぃ」
これでは計画通りの射撃ができないではないか。バービーは地団駄《じだんだ》を踏んで悔しがる。
「どうしましょう」
射撃手のペパーが振り返った。
タミーとスカーレットの乗った西ドイツ製マイコ250が、買い物客を跳ね飛ばしながら坂を登ってくる。その後方に黄色い幌《ほろ》をバタバタとなびかせたミゼットの三輪車。それを追って数百人のヤジ馬が走ってくる。
機銃サイト一杯に人々の顔が迫っていた。
「えーい。かまわないから射っちゃいなさい」
「タミーたちも一緒に?」
「当然よ!」
コッキング・ハンドルが音を立てて引かれた。
スカーレットのバイクが軽井沢教会の横丁へ、差し掛かろうとした刹那《せつな》、通り手前のブティックが突然、白煙を吹き上げた。ショウウインドウが木っ端|微塵《みじん》に砕け散り、ワゴン・セールのスカーフに群がっていた中年女性たちが糸の切れたマペットみたいにその場へ崩れる。
「何すんのよう!」
スカーレットとタミーはあわててハンドルを切った。路上を走る土煙りは紙一重でバイクの鼻先を掠《かす》め、ブティックの両隣にあるアイスクリーム・ショップに飛びこんだ。店内であれこれ物色していたペア・ルックのアベックたちが折り重なって倒れ、アイス・クーラーがショートし、土産《みやげ》物の破片が舞い上る。
後方にいた定吉も、そのまた後方を走るヤジ馬も、最初は何が起こったのかわからず茫然《ぼうぜん》として立ち止った。
土煙りは、スーベニール・ショップの壁を走って美術品店のショウウインドウをその枠組みごとへし折り、中に飾ってあった李朝《りちよう》白磁の大花瓶を店のオーナーごと粉々にした後、木工細工の工房に集まっていたテニスウェアの一団をなぎ倒した。
「ギャ――!!」
ガメラとギャオスをロードローラーで押し潰《つぶ》したような絶叫があちこちから沸き起こった。
その時になってやっと坂の途中から、工事現場のさく岩機そっくりな銃声が聞こえ始める。
「な、な、な、なんやぁ?」
自分の乗ったダイハツ・ミゼットMP4の特徴あるライトが二つともふっ飛び、ボンネットの先端が車輪とともに消え去るのを見た定吉は目を剥《む》いた。
チェーン・ソウの回転するような音とともにミゼットの車体が破れ、ドアのウインドウに赤い肉片がペッタリと張りついた。彼はそこで思わず失禁した。
「うぎゃー」
通りにいた人々は悲鳴をあげて、逃げはじめる。平和で賑《にぎや》かな軽銀《かるぎん》は、一瞬にして一九一六年西部戦線のベルダンと化した。
バリバリバリバリ。
機銃弾は坂を駆け降りる人々を情け容赦なく穴だらけにしていった。こういった時はともかく伏せる手にかぎるのだが、悲しいかな戦後数十年、そのようなことを教える人とてない時代に育った高原リゾート・ミーハーたちは恐怖に駆られ、本能の赴くままに走り、次々にひき肉と化して行った。
「ヘッタクソ! どこ射ってるの」
バービーはペパーの頬を平手《ひらて》で打った。
彼女は機銃の台座にもんどりうって転がる。
「さっきから定吉には全然当っていないじゃない」
あたしが代るわ、の声とともにバービーはペパーの大きなお尻を押しのけ、自分が射撃手位置につく。
機銃が再び火を吹き、坂道に硝煙と血煙《ちけむり》を巻き上げた。定吉は横倒しになったオート三輪の影で歯噛《はが》みする。
「あんだらめ(あほんだらめ)が!」
いつの間にか彼の近くにタミーとスカーレットが這《は》い寄っている。
「おう、あんたらは無事か?」
ガラスの破片でコスチュームを切り裂かれ、見るも無惨な姿になった二人のバニーガールは、ブルブルと震えていた。
「こっち来んかい。そこでは弾に当るで」
定吉はやさしく二人を手招きした。その横をパパパパッと弾着が走る。何事ならん、と愚かにも坂を駆け上って来たテレビチームが射ち倒され、カフェテラスの階段に隠れて白いハンカチを振っていたテレビ司会者と、その愛人であるアシスタント・ガールがボロ切れに変った。
「あんたらの仲間は、メッチャえぐいことするやんか」
「あんなのもう仲間じゃないわよ」
定吉の言葉にスカーレットが怒鳴った。
「あたしたちごと消そうなんて根性悪ーい」
破れた胸パッドから零《こぼ》れ出た乳房を、両手で押さえたタミーが、血の混ったツバをペッと吐いた。
急に銃声が止んだ。敵は弾薬を補給しているのだろうか。不気味な静寂があたりを支配する。そこら中、銃弾でズタズタにされた死骸《しがい》の山である。テニスラケットを握ったままの千切れた腕や、足首が入ったままのゴルフシューズが転がる中を、恐怖のあまり気の触れたマスコミ仕出し屋がフラフラと歩きまわっている。ロータリーの彼方《かなた》では被弾した中継車が炎を吹き上げ、坂道を暴走して来た人々に踏み潰《つぶ》された暴走族がうめき声をあげていた。
どこからか微《かす》かに怪し気な音楽が聞こえてくる。
「ん?」
定吉が音のする方に首を伸ばした時、再び銃弾が周囲に降り注いだ。
「頭も出してられへんがな」
「あれ見て」
スカーレットが通りの向うを指差した。
機銃座があるビルの手前横丁から一台のバンがスティービー・ワンダーの歌声を流しながらノロノロと現われた。
「おや? あれは……」
銃弾が車体の周りに当って火花を上げるが、バンは何ごともなく坂道を降りて来る。
「さだきちさーん」
聞き覚えのある声だ。
「おーい、こっちやぁ」
バンは横転したミゼットの隣にゆっくりと停車した。色こそ違え、まぎれもなく平吉のシトロエン・H型トラックだ。
「大丈夫だっか?」
運転席から平吉が首を出した。その頭上を跳弾がヒューンと気味悪い音をたてて飛んで行く。
「早よ乗んなはれ」
「よっしゃ」
二人の哀れな少女の手を引いて定吉はバンの荷台に潜りこんだ。
車内はガスレンジや鉄板、小麦粉の袋といった調理用具で足の踏み場もない。
「何や? この車」
「装甲車に改造しましてん。外見はクレープ屋の車に化けてますけどな」
平吉はクレープ・パン(クレープ用の浅いフライパン)をピンと指で弾《はじ》いた。
「わぁ、あたしこの車知ってるう。二日前からチャーチ通りの空き地でクレープ売ってた原宿名物クレープ」
タミーが声をあげた。
「何んでんねん。この色っぽいネーチャンたち?」
「ああ、リカ軍団の子ォや」
驚く平吉に定吉は手早く情況を説明した。
「タミーでーす」
「スカーレットでーす。今日から寝返らせてもらいまーす」
二人の女子高生は明るく挨拶《あいさつ》する。平吉は何と言っていいかわからずドギマギとして頭を下げた。
「ほなら脱出しまひょか」
バンはノロノロと動き出した。
「もっと早く行けへんのかいな」
「スンマヘン。装甲板張った分だけ車体が重うなってまんねん」
定吉は弾丸が車体に当って跳ね返るイヤな音に顔をしかめつつ床に伏せ、そこに転がっているジャムの瓶を手に取った。ラベルにNAKAYAMA≠フ文字が入っている。中山農園直売所の浅間ベリージャムである。全部で17種類。
「なるほど、あの栞《しおり》に書いてあった『17種』というのはこれかい」
彼は瓶の中に指を突っこみ、ペロリとなめる。
「渋味があってオモロイ味や」
屋上の機銃は銃身を真っ赤に焼いて、ついに沈黙した。
「七・九二ミリじゃだめね。全部|弾《はじ》いちゃうわ」
バービーは腹だたし気にグストロフ・ヴェルケ社製のMG34を拳で叩いた。
「あっ、車が三笠《みかさ》通りの方に曲っちゃう」
ペパーが大声をあげた。
平吉の白いクレープ販売車は、黒煙を上げるテレビ中継車の脇をすり抜け、右折して建物の陰に入って行く。
「後を追って仕止めるのよ。あいつらが装甲車を出すんならこっちだって」
バービーは仁王立ちになって叫んだ。
「おい、銃声が止んだぞ」
傾いた足場の裏から生き残ったテレビ局員たちが煤《すす》だらけの顔をあげた。
「警察は何をやってるんだ」
「交番の連中は射殺されたみたいです。残りはどこへ行ったことやら」
ロータリーのコーナーにあるポリス・ボックスは、屋根が完全に吹っとんでいた。
「スペアの機材を早く持ってこい。この現場を写すんだ」
血だらけになったAD(アシスタント・ディレクター)がディレクターの死骸を踏みしめて偉そうに両手を広げた。
「チャンスだ、チャンスだ。局の報道大賞が貰《もら》えるぞ。いや、そんなチャッチイもんじゃない。ピュリッツァー賞だ。マグサイサイ賞だ。植木等《ひとし》記念スーダラ大賞だって夢じゃない。ガハハハ」
苦労してエル・サルバドルやナミビアに行かなくとも、こんないい絵が撮れるなんて。
彼は坂道を滝のように流れ落ちる血潮に足を取られ、ズルリ滑って尻もちをつきながら笑い続けた。
「あ、あ、あれ!」
ビデオ・カメラを調整していたクルーの一人がADの肩を揺った。
「何だよ」彼の指す方を見たADは、ヒッと低くうめいた。
先ほどまで機銃が発射されていたビルの一階がガラガラと崩れ、瓦礫《がれき》の中から褐色の怪物が飛び出して来たのだ。
「わっ、今度は何だ」
怪物は、昆虫のような身体《からだ》を、道幅一杯に広げて坂道をゆっくりと降りてくる。
前面に取りつけたドーザー・プレートを左右に振り、大型トラックのタイヤより大きな車輪をギシギシときしませるその姿を見たADは腰を抜かした。
怪物は円錐《えんすい》型の砲塔から機銃を乱射しつつ前進し、生き残っていた人々を全《すべ》て射ち倒すと、炎を吹き上げる中継車をドーザーの先で押し除《の》け、ロータリー角の喫茶店を押し潰《つぶ》して三笠通りに前進した。
「ひゃあ、なんや変なモンが付いてくるでえ」
シトロエンの後部ドアから後ろを覗《のぞ》いていた定吉が、ジャムをゴクリと飲みこんだ。
「リカ軍団の装甲戦闘車よ。昨年スイスから買ったの」
タミーが彼の背中に抱きついて説明した。
「あんたら、とんでもないモン揃《そろ》えとるんやなぁ」
それはモワク社のロラント四輪装甲車だった。水上浮航能力を持ち、エンジンは190HPのガソリンタイプ。最高時速は百キロ前後。車体前面のドーザー・プレートはバリケード排除用だ。その特性から中南米の治安警察に広く愛用されている。バリーの靴、ロレックスの時計とともにスイスが世界に誇る工業製品である。
「トモやんがあれを見れば」
大変なブランド商品、と狂喜することだろう。だがその知松も今、どこでどうしていることやら。
「平吉、他のメンバーはどないしたん?」
「バラバラにこちらへ向ったんでっけどな。みんな軽井沢がどこにあるかわからずに」
中には横浜三ツ沢の軽井沢や、千葉県鎌ケ谷市の軽井沢へ行ってしまった方向オンチもいて、集合が大幅に遅れているのだという。
「大阪人が知っとる信州いうたら木曾《きそ》止まりやさかい」
金ダライをハンマーで乱打するようなけたたましい音が、その言葉を途中で打ち切った。
「うわっ。前より機銃の口径が大きいわい」
車体に握り拳ほどの穴が幾つも開く。
「ジグザグに走るんや」
平吉は忙《せわ》しなくハンドルを切った。
ロラント装甲戦闘車は、なおも執拗《しつよう》に追ってくる。旧軽会館前のバス停表示板を踏み潰し、レンタ・サイクル族を跳ね、白馬に曳《ひ》かれた結婚式の二輪馬車を掃射して、定吉たちのシトロエンにあと一歩と迫った。
「左の道へ入って!」
タミーが叫ぶ。
左に広がるカラ松林は、鹿島の森である。手前の精進場川に掛かったゴルフ橋は、シトロエンは走れても、車重だけで五トンもあるロラント装甲車には無理だろう。
白いバンは車体を傾けてカーブを曲った。
後方で雷が落ちるような鋭い破壊音が聞こえる。
「やった。橋が崩れたわ」
タミーとスカーレットは抱き合って喜んだ。
「いや、まだや」
サスペンションを剥《む》き出しにしたロラントは、ズブ濡《ぬ》れになりながら川の土手をゆっくりと這《は》い上ってくる。
「何ちゅう奴やねん」
定吉は一二・七ミリ機関砲の弾痕《だんこん》に顔を押しつけてうめいた。
「野田さん。俺たち、こんなことしてていいんですかねえ」
中町は、ティ・グラウンドの上にドッカリ胡座《あぐら》をかいてフテクサれた。
「黙ってて。気が散るから」
野田は、芝をブチリと抜き取り、相撲の力士が塩を撒《ま》くように空中高く放り出した。
「うーむ、風はオンショア。波は腰から胸。この分でいくと茅ケ崎《ちがさき》方面は絶好のサーフ日和《びより》」
「あーあ、さっきから芝ばっかり抜いてるから、ティ・グラウンドの土が露出しちゃったじゃないですか」
野田はムッとして顔をあげた。
「少し静かにできないの? そういう所に坐ったりするのはマナー違反だよ」
中町は渋々立ち上った。彼の坐っていたあたりには尻の形に大きた凹《くぼ》みが出来ていた。
「ゴルフは剣道、柔道と同じなんだ。礼に始まって礼に終る。僕なんか自慢じゃないけど、アフリカ外勤の頃はゴルフ・マナーが一流と言われたもんだ」
「ふーん」
「幼少の頃より父にレッスンを受け、特に小笠原《おがさわら》流と伊勢《いせ》流のマナーは免許皆伝。天然理心流のゴルフは目録まで進んだ」
彼は、ティ・グラウンドの上で膝《ひざ》を折り、クラブを左脇に置いて三つ指をついた。
「チャド大統領も、僕のゴルフ術に脱帽した一人だよ」
「暗殺計画を未然に防いだんでしたっけねえ」
「ああ、あれは単に、まぐれだったんだ」
野田は、ニッコリと微笑《ほほえ》んだ。
「僕が大統領と接待ゴルフをしている時、間違ってOB(アウト・オブ・バーンズ)打っちゃってね。林の中にボールが入ったんだ。あわてて探しに行ったら、ブッシュの中にライフルを持った男が頭にコブ作ってノビてた。あとで調べたらそいつがテロリストだったんだよねー」
なるほどね。そういうわけだったのか。今まで尊敬してて損しちゃったな。中町は悲しそうに首を振った。
「以来僕はテロに対する独特のカンが働くようになった」
野田はフェアウェイをグッと睨《にら》んだ。
「ゴルフ場のあるところテロリスト有り!」
そう言うのを、柳の下の泥鰌《どじよう》、というんだよー。中町は情けなくなってその場にしゃがみこんだ。
「フランス当局から手配中のテロリスト、ピエール・デュボアは絶対この辺に潜んでいる」
アフリカ帰りの内調非合法員は、大きくスウィングした。
バシッ!
白球はグングンと伸びて真っ直ぐにフェアウェイへ飛んで行く。
「おお、お、これは」
ホールの手前で二度バウンドしたボールはヨロヨロと転がり、最後の力をふりしぼってコトンと入った。
「ホ、ホール・イン・ワンですよ」
「うううーむ」
自らベテランと名乗った手前、喜びを表に現わすことのできない野田は、コホン、と一つ咳《せき》ばらいをした。
「そもそも、ホール・イン・ワンというのはだね。中町君」
ビックリしている同僚に、彼はウンチクを語り始めた。
「統計によると、年に八千五百人の人間が打っている。年齢で言うと四十代中ごろ、ハンディは17で上背《うわぜい》があり、百三十三メートルの距離を七番アイアンで打つときに……」
こういうことだけはよく覚えている男なのである。
得意満面、彼が七番アイアンを手にした、その時、グリーンの後方から白い車が飛び出して来た。
「わ、ここゴルフ場やないか」
窓の外を見た定吉は悲鳴をあげた。
「すんまへん。ブレーキ系統に弾食らったらしくて、止まりまへんのや」
平吉は泣きそうな声を出す。彼らを追って木立の中から褐色の装甲戦闘車が姿を現わした。
「何とかならんのかいな」
「棚の裏、捜《さぐ》っとくなはれ」
穴だらけの調理棚を探った定吉は、サイドボードの下が二重底になっているのに気付いた。
「変なモン入っとるがな」
「ルーマニア製のRPG・2だす。信管付けてますさかい、すぐ射てるようになってま」
「それ早よ教えんかいな」
定吉は巨大な土筆《つくし》んぼのような鉄パイプを掴《つか》んだ。
「あたしに貸して!」
スカーレットがそれを奪い取る。
「こら、対戦車|擲弾《てきだん》やど。オナゴがヘタに射ったら肩の骨外すかも知れん」
「大丈夫。何度も使ったことがあるわ」
屋根に開いた大穴から彼女はロケットを突き出して安全装置を外した。
「射つわよー」
オレンジ色の炎が後方に吹き出す。グリーンに塗られた擲弾が放物線を描いて、ロラント装甲車のドーザー部分に命中した。
グワーン!
「やった。ワンショットで命中」
スイス製の精密殺人機械は、前輪を吹き飛ばし、黒煙をモクモクと吐きながら、フラフラと暴走する。
「あっ、ぼくのホール・イン・ワンが」
四輪装甲車は、フェアウェイの真中で恐ろしい音を立てて横転した。脱出口から煤で真っ黒になったリカ軍団の女性兵士が次々に転がり出る。
「キャー」「あっちっち」
長い直毛が焦げてカーリーヘアになった少女たちは、ゴルフ場の池にドボン、ドボンとダイビングする。
「よっしゃ。こうなったら勢いや。このまま若ダンさんの居るところまで行きまっせ」
平吉はゴルフ場の柵を破って、ハウス・ナンバー二千四百番台の別荘地へ突進した。
ロラント四輪装甲車が後方で大音響とともに爆発、四散する。
「すごいですねえ。野田さんの言う通り、『ゴルフ場のあるところテロ有り』ですねえ」
中町は感動の面持《おもも》ちで炎を見上げた。
「あー、ホールが無くなっちゃった。僕のホール・イン・ワン……」
野田は大声で泣き叫び、芝生を引きむしった。
20 角《かど》にあるロワイヤル
「我が国で軍需産業に従事する者の数は、ザッと計算して……」
フィリップ・モンフェランは、少し小首をかしげ、微笑《ほほえ》んだ。
「……約百万人の多きに達しております。今やエグゾセ(ミサイル)、ミラージュ(ジェット機)、AMX(戦車)を中心とするフランス製兵器は、総輸出額の五パーセント以上なのです」
フィリップの隣に控えたリカが、その言葉をなめらかに通訳した。
「はっはっは、世界人権会議を提唱している国が、そんな商売を、ねえ」
飯岡助八郎は代議士バッジを張り付けた襟を揺って笑い声をあげた。
「フランス先端技術の進歩という観点から見ても、兵器産業の育成は避けられないのですよ」
兵器会社の社長は、リカの細っそりとした指先をいじりまわしながら、飯岡にウインクをした。
「あなた方NATTOの敵である大阪人を実は我々も憎んでいるのです。彼らが作る偽ブランド商品のおかげで、パリ・サントノレ近辺の店は軒並み大打撃を受けていますからね。彼らを叩きつぶすため、というのなら小口輸出の件は考えぬこともない」
リカは、「アルルの女」をハミングしながら自分のうなじに唇を這《は》わせてくるフランス人の好色さに内心あきれながらも、表面では微笑《ほほえ》みを絶やさず冷静に通訳を続ける。
シラカバの枝先で先程からチョチョと鳴き続けていたオオルリは、男たちの甲高《かんだか》い笑い声に驚いたのか、何時《いつ》の間にか姿を消していた。
よく手入れされた高麗芝《こうらいしば》の上に並んだパーティ用のテーブルを囲んで、人々は二人三人と思いのままに連れ立ち、午後の会話を楽しんでいる。
それらはいずれもこの軽井沢に別荘を持つNATTOの上級組織員ばかりなのだ。
「どうやら、この分では商談はうまくまとまりそうだな。いやぁ、良かった、よかった」
飯岡は、右手に持った群馬銘酒「当選」の大盃《たいはい》に口をつけた。
頃《ころ》は良し。リカはテーブルの端に立つ部下のいずみに目くばせする。
彼女の手がクルリと円を描くと、音楽が高鳴り、テラスの彼方から大きなワゴンが静々と現われた。
「おお」
フィリップの顔が輝いた。
銀色のワゴンに乗った山形の物体。それは巨大な「シャルロット・リュス(ロシア風シャルロット)」だった。
ルイ十八世の即位祝賀会に、パリの天才菓子職人アントナン・カレームが考え出したという華麗なデザートである。王侯貴族の祝宴用に作られたというその菓子がフィリップの大好物だ、ということをリカは事前に調べ上げていたのだ。
酒飲みの飯岡は、ワゴンの上に乗った白い物体が、ババロアの化け物と知らされて思わず戻しそうになる。
「皆様お集まり下さい」
フランス人の指先からやっと解放されたリカは、舞うような足どりで芝生の中央部に進み出た。
「これより、マルス・ミュトライエーズ社とNATTOの繁栄を祈って、ケーキカットを行ないたいと思います」
ファンファーレが高らかに響き渡った。
いずみが大きなクトー(ナイフ)を彼女にうやうやしく捧《ささ》げた。
「ゲッ、あれをワシも食べさせられるのか」
飯岡は思わず眼を外《そ》らせた。
「マルス・ミュトライエーズ万歳、NATTO万歳!」
ナイフが白いババロアの周りを囲むビスケットの上へ、まさに届かんとした時、天辺《てつぺん》に乗っていた生クリームが勢い良く跳ね上った。
「もうかりまっかー!」
「わっ」
人々は一斉に後ずさった。
ケーキの中から若い男が飛び出して来たのだ。
「な、なんだ、君は?」
飯岡はダミ声を張り上げた。
「善彦《よしひこ》さん……」
リカは茫然《ぼうぜん》として立ち尽した。よりによってこんな時に、こんな姿で現われるなんて……
「なに、リカ。お前、まだ奴を殺していなかったのか?」
「あれぇ、ここには女の子も一杯いるやんけ。なんや、スタッグ・パーティやないのんか」
スタッグ(牡鹿)・パーティとは独身者だけのパーティ、外国映画でよくケーキの中から裸の女が飛び出したりするアレである。
「調理場に大けなケーキがあるさかい、てっきりそうかと思うて、中くり抜いて入っとったのになあ」
マジック・マッシュルームと酒の酔いで、末期症状のディーン・マーチンみたいになった善彦は、セルッティ1881のジャケットを生クリームだらけにしてブツブツとつぶやいた。
「あれほど言っておいたのに、リカ。この仕末は取ってもらうぞ」
飯岡は、悲しいほどに彼の身体に似合わないチェスター・バリーのサマースーツから大型の陸式南部拳銃を取り出すと、ボルトをパチンと引いた。
「待って下さい!」
リカと善彦の前に、セーラ服姿のいずみが走り出た。
「二人を射つなんてあんまりです。この人たちは……」
「えーい、どけ、どかんとお前も一緒に」
飯岡は拳銃を構えた。
その時、である。
ブルーのスーツに七三分けの秘書兼ボディガードが芝生の上をスリ足でやって来た。
「…………」
彼に耳うちされた飯岡は目を剥《む》いた。
「定吉たちが、ここにやって来ると?」
森の彼方で銃声が沸き起こった。
軽井沢ロータリーから北西の方向へほぼ直線に伸びる道。中央分離帯に美しいカラ松並木が続くここは昔、カブト虫列車、と呼ばれた草軽電鉄の小さな電気機関車が走っていた跡である。
その土手道を平吉の運転する装甲シトロエンは時速八十キロ(そう早くもないのだが)で爆走《ばくそう》した。
車内ではスカーレットとタミーが、隠し棚から取り出したサブ・マシンガンの部品を要領良く組み立てていた。
「あんたら、教えられもせんのに、ようそんなもんを」
あきれる定吉の肩をタミーがポンとたたく。
「なに言ってんのよ、丁稚《でつち》の兄さん。あたしたち、まだセーラー服を着てる女子高生よ。セーラー服と言えば……」
「なるほど機関銃とは切っても切れない縁でんなぁ」
スカーレットが、出来上った九ミリ・スターリングSMGのボルトをパチンと引いた。
「いつでもOKよ。クレープ屋の兄さん」
「おお、やったるでえ」
平吉も、エプロンのポケットからブローニング・ハイパワー・オオサカバージョンを引き抜いた。グリップの部分に、阪神タイガースのマークが入った大型拳銃を見た定吉は、彼らの感性にはついて行けない、と首を振った。
善彦とリカに拳銃を突きつけたまま飯岡はワイヤーレス電話の受話器を取った。
「もしもし」
「OK。こちらGI・ジョーだ。今日は君たちにベトナムで戦ったころの話を……」
「馬鹿モノ。わけのわからんことを言ってる場合じゃない。全員出動だ。定吉がこちらに向ってくるぞ」
「了解《ラジヤー》!」
返事だけはやけに調子が良い。
「GI・ジョーの部隊が出動した。すぐにこの騒ぎも収まるだろう」
飯岡は拳銃を構えなおした。いずみが彼の前に立ちはだかり、セーラー服の下からヌンチャクを抜いた。
「そこをどけ」
突然、ビシッという皮を裂くような音が轟《とどろ》いた。
飯岡の油ぎった額にポッと赤い穴が開く。脳髄が青い芝生に撒《ま》き散らされた。彼はもんどりうって巨大なババロアの中に倒れる。白い生クリームに赤いクレーム・ド・カシスのようなシミがパッと広がった。
ズギューン。
銃声が後を追ってくる。遠距離からの射撃だ。
「うっ!」
モンフェランが右足を押さえてひっくり返った。再び銃声が聞こえる。
二発目は、かなりあせったのか命中精度が若干落ちた。
人々は一斉に地へ伏せる。続いて三発目。
「銃火《フラツシユ》が見えました。向いの丘です」
倒れているモンフェランに這《は》い寄ったD・G・S・Eのデュバリエがハンカチで彼の傷を押さえた。
「手当てはいい。狙撃者《スナイパー》を射《う》て!」
デュバリエはノッソリと立ち上るとモーゼルM712自動拳銃のリア・サイトを目標に合わせた。彼の足元に四発目の土煙が上る。
両手で銃を保持した彼は右の親指でスイッチをフルオートに切り替え、丘の頂上付近を三点射で冷静に掃射した。五発目の弾丸が倒れているモンフェランの近くで跳ねる。
「やったぞ」
丘の上の茂みで、何かがゆっくりと崩れ落ちるのが見えた。
旧三笠ホテルから六百メートルほど南に降りた脇道をシトロエンはひたすら走り続けた。
ブレーキがイカレているため止まるに止まれないのである。
「そこんとこ曲るとロワイヤル・パレス≠諱Bほら見えて来た」
別荘地の私道がL字型に大きくカーブしてカラ松林を押し包んだあたりにピンク色の屋根が覗《のぞ》いている。
「なるほど、あそこの角地にあるのがロワイヤルか」
車体に開いた弾の穴から外を見て定吉はうめいた。
「ケッタイやな。群馬県警のパトカーがぎょうさん停《とま》ってまっせ」
「皆、飯岡とかいう代議士の手下《てか》や。かまわん、いてこましたれ」
パトカーを見て急に、過激になった定吉の言葉に二人の少女は、心得たり、と窓の外へサブ・マシンガンの銃口を突き出した。
道路封鎖をしている小型警備車へ一斉に発砲する。
灰色と白に塗り分けられたランドクルーザーのボディに一列の穴が開き、ボンネットがめくれ上った。パトカーのフロントグラスが砕け、リボルバーをヘッピリ腰で構えていた制服警官が将棋倒しになる。
ガソリンに引火して燃えあがるパトカーをフロントノーズで押しのけ、シトロエンはロワイヤルパレスの門を破って中庭に飛びこんだ。
「ええ車がぎょうさんありまんがな」
「どうせNATTOの持ちモンや、こいつらもいてこませ」
ロータリーをグルグルまわりながら定吉たちは9ミリ焼夷徹甲弾を雨アラレと射ちこんだ。キャデラック・エルドラード、BMWコンバーチブル、ベンツ220SEカブリオレ。停車中のリゾート・カーが次々に火を吹く。
「やれ、もっとやったれい」
四人の中で一番興奮しているのは何と定吉だった。
「みんな、何かに掴《つか》まんなはれ。玄関から飛びこみまっせ」
大きなガラスの回転ドアをブチ抜いてシトロエンは建物のロビーに突っこみ、ようやく止った。平吉たちは喊声《かんせい》を上げて奥へ飛びこんで行く。
ボロボロになった波型のドアボードを足で蹴《け》り飛ばして定吉が降り立ったところを、物陰から銃剣が襲う。
彼はホルスターから抜いた柳刃富士見西行≠サッと振り、銃剣を自動小銃の銃身ごと切り落した。
「わっ」
カムフラージュ・スーツの兵士が驚いてのけぞった。
「何や、お前は?」
定吉は倒れた男の首に柳刃を当てた。
「GI・ジョー部隊の立花わたる。認識番号036041141です。昔はリカちゃんのBF(ボーイフレンド)でした。あそこに倒れているのは、僕がリカちゃんと別れた後に同棲《どうせい》していたマサト君でえす」
兵士は聞きもしないことまでベラベラとしゃべり、しまいには大声で泣き出した。
「もうええ、もうええ、それより若ダンさんどこや?」
「リカちゃんたちは庭園の方でえす」
「おおきに」
廊下の向うを指差す兵士の後頭部へ柳刃の柄《つか》を叩きこんだ定吉は一目散に庭へ走った。
「どうしたんだ。GI・ジョー部隊の増援はまだか!」
NATTOの幹部が叫んだ。
彼らは芝生のまわりで円陣を組み、タミーたちに抵抗を続けた。が、拳銃とサブ・マシンガンでは所詮《しよせん》勝ち目はない。次々に射ち殺されて残るは十人前後となった。
「そこの大阪人と裏切り者を殺せ」
誰かが叫んだ。
芝生の上に伏せていたリカたちに拳銃が向けられる。
「アーアアー」
あわや、という時、庭の木立で奇妙な裏声があがった。
ロープにぶら下った人影が、ドスンと芝生の上に降り立つ。
「若ダンさん、わてや。助けに来ましたで」
「おお、トモマツ!」
それは身体中にブランド商品をくくりつけた知松《ともまつ》だった。
「アッ、偽ブランド!」
デュバリエが、彼の身につけている鞄を見て叫んだ。
「くそっ、フランスに仇なすニセモノ作りめ」
デュバリエは、モーゼル拳銃を構え、知松に向って発砲する。弾は彼の身につけたセリーヌやエルメスのバッグに吸いこまれた。
しかし、彼はケロリとして立っている。七・六三ミリのモーゼル高速弾が通じないのだ。
「化け物め」
全弾を射ちつくし、呆然《ぼうぜん》とするデュバリエに突進した知松は、鞄の底でグリグリと彼の顔を圧迫した。
「く、苦しい」
「どや、大阪のパチモン(ニセモノ)の味を思い知ったか」
知松は鞄を持つ手に力を込めた。
「このカバンはな。タダのパチモンやない。ミナミのヤーさん必需品や。防弾効果を持っとるんやで」
デュバリエの手がむなしく虚空を掻《か》きむしり、やがて、ガックリと垂れ下った。
今はこれまで。自分のボディガードが殺されるところを見たモンフェランは、戦場と化したロワイヤル・パレスから脱出した。
負傷し右足を引きずりながら、穴だらけになったロビーを抜け、炎上するパトカーや、ガードマンの死骸に隠れつつ、彼は私道の曲り角まで降り、そこでホッと一息つく。
「大変な目にあった」
気を落ちつかせようと、タバコを取り出して口にくわえかけた彼の眼が凍りついたように丸く、小さくなった。
硝煙が微《かす》かに漂う道の端で動くものがある。彼は眼をこらした。
ハンチングを被《かぶ》り、キモノ・コスチュームに身を包んだひょろ長い男がポツンと立っている。
「この道は誰も通さしまへん」
男はオーベルニュ人のような奇妙なイントネーションの日本語をしゃべっている。もちろんモンフェランには、彼が何を言っているのかまったくわからなかった。
「外人サン。あんさんもNATTOの仲間でっしゃろ。逃さしまへんでえ」
モンフェランは、背中に冷水を浴びせかけられたような恐怖を感じた。何だ、この男は?
そのまま二、三歩あとずさりすると、上着の裾《すそ》を跳ね上げ、ショルダー・ホルスターに手をかける。
男は黒い旋風《つむじかぜ》となって坂道を駆け登って来た。
そうか、こいつもオーサカジンなのだ。モンフェランは唸《うな》り声をあげて、ホルスターからマニューリン・リボルバーを引き抜いた。
黒いかたまりは、勢い良く彼の脇を走りぬけ、数歩先でピタリ、と足を止めた。
「ペイザン(水飲み百姓。フランス語の罵《ののし》り言葉)!」
モンフェランは振り返った。ピッという短い音とともに彼のスーツが音を立てて裂けた。スーツだけではない。抜いたばかりでまだ撃鉄も上っていないリボルバーの銃身と、そのグリップを握ったままの右手も音を立てた。
「!」
フランス最大の兵器会社社長は、驚きで眼をいっぱいに見開いたまま軽井沢の路上に血煙を立てて転がった。
「これで一件落着だな」
角《かど》のロワイヤル≠ェ見降ろせる丘の上から双眼鏡を覗《のぞ》いていた野田がつぶやいた。
「たしかに手配中のピエール・デュボアです」
死体の顔と写真を見比べていた中町がうなずいた。
「この爺《じい》さん、とうとうリカが実の娘だってこと知らないまま死んじゃいましたね」
「そりゃ、どうかなぁ」
野田は死体のそばに落ちていた二式テラ銃狙撃タイプを物珍し気に触れた。
「生涯最大の敵モンフェランを狙っていながら、最後の最後になってリカに銃を向けている奴を先に射った。おかげで自分は返り討ち」
彼は銃のボルトを引いて薬室を開いた。弾は全弾射ちつくされている。
「彼女が娘だって気付いたのかも知れない」
「俺たち、結局、手を汚さずに済みましたね」
ロワイヤルから立ち昇る炎を眺めて中町は、ため息をついた。
「あとはフランス政府に、次期国防大臣の死をどう伝えるか、ですね。ヘタをすると俺たちコレもんですよ」
彼は手刀を自分の首筋にトンと当てた。
「おお、トモやん来てたんか? ようここわかったな」
「スタイリスト長屋の連中もいっしょだす。途中でいっしょになりましてん」
彼は憔悴《しようすい》し切った顔で顎《あご》をしゃくった。
見覚えある知松の同志たちが銃を片手に、焼けこげた建物のあちこちからGI・ジョー部隊の捕虜を駆り集めている。
「我が方の被害はどうや?」
「わてらは大丈夫でっけどな」
知松は庭園の方を指差した。
善彦や、セーラー服姿のいずみ、それにタミーやスカーレットまでが芝生の上で泣いている。
「若ダンさんの盾《たて》になってリカが死にはってん」
若|旦那《だんな》の膝《ひざ》に乗せられたリカの死に顔は笑っているように見えた。
定吉はゆっくりと善彦に近付いて行った。
「豆屋の若ダンさんでんな?」
善彦は涙でベショベショになった顔を上げてうなずいた。
「会所の定吉と申します。あんさんのお父上に頼まれて迎えに参じました」
「そうか……」
若旦那は、リカの冷たくなった身体を抱きしめた。
「迎え寄こさんでもええのに、いらち(気ぜわしい)な親父《おやじ》や。いずれこの娘と一緒に帰るっもりやったのに」
「そやかて、この娘は……」
「知っとる。NATTOの手先やいうんやろ。わかったる。けど、『袖《そで》に止まるはホタルなるらん』言うクチアイもある。惚《ほ》れたモンはしょうがない」
隣にいたいずみがワッと泣き伏した。
「定吉どん」
善彦は殺人丁稚の方を振り返る。
「昔、親父に聞いたことがある。ホタルの発光パターンは関西と関東で微妙に違《ちが》うとんのやそうや。たしか、長野県のこの辺を境にして、西が二秒間隔、東が四秒間隔とか言うてたわ」
「はぁ」
「この違いを知らずに虫箱の中で一緒に飼うと、ノイローゼ起こして、どちらか片方が死んでまうそうや」
彼は鼻水をズズッとすすり上げた。
「僕の方が死んでもうたらよかった」
定吉はハンチングのツバを指先でグッと押し上げ、無言のまま立ち上った。
「どや、若ダンさんの具合は?」
知松が小声で彼の袖を引いた。
「まだ少し頭の中ヤヤコシクなってるみたいやな」
定吉はデュバリエの死体にドッカと腰を降ろし、泣いている人々をジッと見つめた。
「若ダンさんがリカちゃんやめる前に、リカちゃんが人間やめはった、なぁ」
21 おみやげのエピローグ
サンタ・マリア・デ・アロラ教会の尖塔《せんとう》から夕べの祈りを告げる鐘が鳴り響いた。
三日遅れのル・モンド紙を読み終えたステファンは、じっと窓の外を見つめ、鐘の音を数えた。
「おや、あんた。エンリケと、カードをやらないのかい?」
バスケットに一杯の魚を抱えて彼の女房がテラスに入ってくる。
「ああ、今日はそんな気分じゃない」
ステファンは、もう一度新聞の見出しを眺めた。
フランス政界に再び兵器汚職・危機に立つ内閣≠フ文字が一面に踊っている。隣には、国民議会で政府を攻撃する保守系野党UDF総裁の写真。その下に小さくフランス兵器工業の雄フィリップ・モンフェラン氏訪間先の日本で病死≠フタイトルがへばりついていた。
「マリア」
「なにさ」
太った女房は、エプロンの裾《すそ》で手を拭きながら顔を出した。
「こっちに来て俺《おれ》のやることをよく見ていてくれ」
ステファンは窓から長い手を差し入れて、部屋のカウンターに載っているズブロヴカを一瓶、小さなショットグラスを三つ手にした。
テラスにもどった彼はグラスを並べ、縁のところまで一杯に注いだ。
「これは俺たちが昔アフリカでやっていた弔《とむら》いのやり方だ。こうして」
グラスの縁にマッチで火をつける。テーブルに三つの灯火が灯《とも》った。
「これはフィリップ・モンフェランという奴、真ん中はセニョール・デュバ、最後のグラスは俺だ」
ステファンは端から一つずつ火を消し、中味をグッと飲み干した。
「マリア。俺はトトカルチョをやめる。明日からは店のカウンターに立つ。酒の量も減らそうと思う」
何時《いつ》になく真面目《まじめ》な亭主の姿に、女房は何事かを感じ、首を振った。
「いいんだよ、あんた。無理しなくたってさ」
「いや……」
ステファンは夕なぎの海を見つめた。
「……そうしたいんだ。俺たちの時代は、どうやら終ったらしい」
「定吉はん。なあ、定吉はんと言うとるのに」
ダラダラと梅田地下街を歩いていた定吉は、ビックリして立ち止った。
「誰や?」
「お忘れでっか。連絡員留吉への二十六番でおます」
「どこにおんねん?」
「あんさんの足元にあるゴミ箱の中だす」
「ひゃー、ちっさいとこに入れるんやなぁ」
大きなショッピング・バッグが二個も入ればいっぱいになってしまいそうなスチール製のゴミ箱である。
「手足の関節外してまんのや」
「まるでハンガリー・マジック日本公演みたいな奴ちゃな。で、何の用や?」
「いや、このたびは豆屋の若ダンさんを無事お助けしたとか」
「む、まあな」
「お仕事がうまくいったお祝いなどひとつ申しあげようと思いましてお待ちしとりました」
「そら、御丁寧なことで」
定吉は地下街のゴミ箱にペコペコと頭を下げた。
「おーい、定吉はん」
よう人と出くわす日やな。今度は誰や、と後ろを振り向くと、そこに豆屋の私設非合法|丁稚《でつち》が立っていた。
相変らず井げた絣《がすり》の単衣《ひとえ》にランセル、ルイ・ヴィトンのバッグを背負い、右手にラ・バガジェリーの手さげ、左手にバレンシアガのドレスケース、両脇にレノマのクラッチバッグである。
「おおトモやんか」
「ゴミ箱の方向いて何しゃべくってまんねん」
「紹介するわ。こん中に入ってるのが留吉や」
「大阪商工会議所秘密会所連絡員留吉への二十六番でおます」
「わっ。ゴミ箱がしゃべった」
梅田の地下街を行く人々は、ゴミ箱に向ってペコペコと頭を下げる和服姿の男たちを気味悪そうに見つめ、足早にそばを駆け抜けた。
「こちらは豆屋の知松……」
「あ、いや違いまんねん」
豆屋の丁稚はプルプルと頬《ほお》を揺った。
「この前の軽井沢の一件、ようガンバッた言われまして、このたび手代に昇格いたしました。トモマツやなしに、これからは知七《ともひち》だす」
「ほう、そらよかったな。トモヒチか」
「それがあまり良うおまへん。若ダンさんの専属ボディガードになりましてん」
「雑用がのうなってええやないか」
「テンゴ言うたらあきまへん。わてこれから伊丹《いたみ》や」
「ほう、福知山線の?」
豆屋の手代は再びプルプルと首を振った。
「伊丹空港からエール・フランスでパリだす」
「パリ?」
「若ダンさん、またフランス女狂いや。今度はハーフやなしに純生のパリ娘だす。何でも強姦《ごうかん》願望があるオナゴやそうで」
「あー、そのシャレ知っとるでえ」
定吉とゴミ箱がほとんど同時に声をあげた。
「犯《おか》す(お菓子)の好きなパリ娘……」
知七は情けない笑いを返した。
「そや、リカの子分やっとった女子高生たちはどないしたん?」
定吉は尋ねた。
「へえ。スタイリスト長屋の連中がコネつけて、東京のテレビ局にまとめて引き取ってもらいましてん。あしこの連中、仕事がらマスコミには強いですさかいな。ヘヘッ、ネンショー(少女更生施設)入るよりマシでっしゃろ。テレビ局の監視付で朝八時から三時まで学校行って、三時半から四時半まで歌のレッスンして、五時から六時まで生番組出演。三日に一度は地方の営業(公演)だす。ハメ外そうにもまわりはファンの男の子がいっぱいで、それもようできよらん。あの子らにはエエ薬でんな」
知七は楽しそうにケケケと笑った。
「そらかわいそうや」
極寒のシベリアで強制労働するとか、新生大川興業で応援団の下働きするほうがナンボかまし、と心やさしい殺人丁稚は彼女らの身のうえに同情した。
「定吉さーん」
またしても彼の名を呼ぶ声。
「二度あることは三度やな」
声のする方を見ると何と彼の恋人、お孝《たか》ちゃんではないか。
紺のかすりに赤い帯をしめた、いつもの姿で人ゴミをかきわけながらこちらに走ってくる。
「ほれ、定吉はん。わてが教えたオナゴに受ける軽井沢土産《みやげ》、渡すチャンスでっせ」
知七はニタリ笑って彼の脇腹《わきばら》を小突いた。
「定吉さん。ウチなぁ、あんたにあげたいもんあるねん」
お孝は下《しも》ぶくれの可愛《かわい》い顔を突き出した。
「わ、わてもあげたいもんがおます。先日、軽井沢行った時のお土産で……お店の方に持ってこ思うとったん……」
定吉はオドオドと懐を捜った。
「いやー、ウチも有馬《ありま》行った時おもしろいオミヤゲ見つけたさかい定吉さんとこに持ってこ思うてたんや」
「そらちょうどええ。ほなら、二人してイチニノサンで出したらよろし」
知七の言葉に二人はうなずいた。
「じゃ、いきまっせ。一、二の」
「三」
定吉が懐から出した土産と、お孝が袂《たもと》から出した土産。それは全く同じものと言ってよかった。
原宿スタイリスト長屋の連中にバカ受けしていた、あの「おまけ付き・リカちゃんウエファース」だったのである。
角のロワイヤル しまい
一九八五・一一・二九