東郷 隆 著
ロッポンギから愛をこめて
定吉七番シリーズ
冒頭の言葉
この本に書き散らされた殺人劇はともかく、背景となった港区、そしてそこで遊興に耽《ふけ》る人々の描写の大部分はきわめて不正確ながら事実にのっとっている。
この小説に手をつけた一九八四年の夏、わたしは取材のため連日、青山・赤坂・麻布・六本木を夜な夜な徘徊《はいかい》し、出版社の取材費で無慮数百人の女子大生と飲んだくれたが、翌朝|枕《まくら》もとに散乱する領収書の金額を見て何度心臓が止まったかわからない。
女子大生こそ無敵の殺し屋なのだ、というわたしの確信は正にこの時生まれたのだった。
青山・六本木に生息する人々の人相その他に関するかぎりわたしの描写は実に正確だ。
現在若者文化の中心地は渋谷の近辺で円運動を続け、カフェ・バーから和食屋へと人々は動いているが、そのテーブルを囲んでいる女子大生たちも、この物語の場合と同じような目的で、今もちょくちょく出没するのである。
一九八五年五月 R・T
目 次
冒頭の言葉
1 プロローグ
2 駅弁王
3 陰謀の序曲
4 殺しの演出者
5 深川の女
6 エサと針
7 枚方《ひらかた》あたりほととぎす
8 安雄とカフェ・バー
9 六本木で猿が木から落ちること
10 裕子と媚薬《びやく》
11 謎《なぞ》の「銀河五一号」
12 死の食堂車
13 殺し屋「赤坂一号」の攻撃
14 浜名湖の死闘
15 スケベイスの効用
16 終り大阪八百八橋
登場人物
定吉《さだきち》七番《セブン》(安井友和)……船場の丁稚。大阪商工会議所秘密会所直属の殺し屋兼情報部員
千成《せんなり》屋宗右衛門(土佐堀の御隠居)……秘密会所の元締め
万田金子(ミス・マネー)……宗右衛門の秘書
小番頭・雁之助……情報主任。定吉の上司
中番頭・九作……兵器主任
お米《よね》……カウンター・インテリジェンス兼お手伝いのおばはん
増井屋お孝……茶店の娘。定吉の恋人
幕内弁助《まくのうちべんすけ》……食品会社会長。秘密結社「NATTO」上級評議員。殺人機関「KIOSK」の老首領
深川小梅……「KIOSK」参謀本部の殺人婆さん。元関東軍所属の馬賊芸者
大文字《だいもんじ》……青山TVのディレクター。「KIOSK」の作戦参謀
赤坂一号(木村修二)……ロック・シンガー。「KIOSK」総合殺人学校のエース
木滑《きなめり》久良……「KIOSK」総合殺人学校の教官
立穴《たちあな》裕子(赤坂五号)……芸名「桃千代」、ミス・駅弁。|戦う辰巳芸者《フアイテイング・ゲーシヤガール》
田中安雄……小説家。大阪商工会議所秘密会所の東京・港区残置諜者
番場康夫……六本木文化評論家。「NATTO」の殺し屋。安雄の天敵
1 プロローグ
常夜灯の光が小刻みに揺れ続けていた。
灯火を慕って風|避《よ》けの中に潜り込んだ巨大な蛾《が》が一匹、灯の上で羽を震《ふる》わせながらもがいているのだ。
その明滅に連動して、木枝に結ばれたおみくじのような路地の空間も、くねくねと身悶《みもだ》えを繰り返している。
煤《すす》けた板塀に挟まれた幅二間足らずの石畳小路。先刻このあたりを見舞った小雨のおかげで、敷石の表面はしっとりと濡《ぬ》れそぼっていた。
塀には落書はおろかポスター一枚張ってない。この路地裏で確かな自己主張をしているものと言えば、先ほどの常夜灯以外には、板塀の中に住む人々の備品である黒塗り角型のゴミ箱と山形に十二個積み重ねられた天水桶《てんすいおけ》、そして塀の途切《とぎ》れるあたりに植え込まれた一本の枝垂《しだ》れ柳、といった品々ばかり。まるで時代劇のセットのように古風で、ある種の心地良さとともに何やらウソっぽさも漂わせた通り抜けの道であった。
一瞬、路地全体がやんわりと輝き、その後唐突に暗黒があたりを襲った。常夜灯の虜となった哀れな蛾が、ついに身を焦がされ、蝋燭《ろうそく》の炎を道連れに絶命したのだ。
路地とそこに据えられた道具類は光を失い、再び静かな無機物に戻る。月はかろうじて中空にかかっていたが、板塀の内側では闇《やみ》がそのほとんどを支配した。
常夜灯が消え、二分ほども経た頃《ころ》、山形重ねの天水桶の脇《わき》で何かが動いた。猫だろうか。いや、もっと大きなものだ。そいつは、ほんの申し訳程度に月が照し出している石畳の上にもぞもぞと半身を現わした。
刈り上げの頭が淡い月光を浴びて、ネギ坊主のようにうっすらと輝いている。黒っぽい和服を裾《すそ》短かに着た大柄な男だ。
かなり長い時間、天水桶の影にうずくまっていたらしい。ひとしきり足や肩を両手で揉《も》む仕草をくり返している。
やがて体の血のめぐりが回復したらしく、男は二度、三度首を左右に振り、猫背になって路地の入口を注意深げに覗《のぞ》いた。
そこには枝垂れ柳が数条の枝を板塀の割り木に擦り寄せている以外、動くものの影は見えない。
男は着物の帯に手をのばし、尻《しり》に挟んでいた薄手の草履《ぞうり》を取って敷石の上に置くと、そっと両足を添えた。
懐に手を入れ、入口に向ってゆっくりと歩き出す。濡れた敷石の上で草履の裏が、ピシャピシャという気味の悪い音を響かせた。
六尺豊かな大男だ。着物の裾さばきがやけにぎごちないのは、厚手の前掛けを締めているせいだけでは無いらしい。
柳の木に手を付いた男は表通りを窺った。彼の目の前に幅五間ほどの通りがひろがっている。
両側に並ぶ町家はどれも軒先が異常に低い。瓦屋根《かわらやね》の大振りな張り出しの下に紅柄塗《べんがらぬり》のれんじ窓、脇には駒寄《こまよ》せの垣根《かきね》をつらねた大店《おおだな》の店構えがまず目に入る。向いはこれも間口《まぐち》三十間はあろうかという長い格子《こうし》造の表を持つ大家だ。その先には黒塗り土蔵作りのがっしりとした商家の群が続き、最後は木戸とその番をする小屋が通りを締めくくっている。
閉ざされた木戸の間から月の青い光に反射する掘割りと、屋号の描かれた土蔵の列が遠望できた。
この時間のこととて、こうした町家では軒先行灯《のきさきあんどん》もすでに火を落し、大雨戸を下げる家ではすべて戸を降していたが、不思議なことにほとんどの家々では、白く屋号を染め抜いた三河木綿の紺《こん》暖簾《のれん》や間口一ぱいの水引《みずひき》暖簾を出しっぱなしにしている。
しかし、その広い表通りは、まるで住民が全て神隠しに合ったかのように、きれいさっぱりと人の気配を消していた。
男はしばらくの間、塀の側で立ち尽した。
そのうち商家の屋根を黒いものが包み始めた。振り仰げば月が雲間にかかり、闇が再び登場の機会を得ようとしていた。
男はこの時を待っていたのだ。軽く襟元を正すと、右手を懐に入れたまま大股《おおまた》で通りに歩み出した。
雲に飲み込まれる寸前、月の光が男の左後頭部を照らし出す。十円玉ほどの大きさを持つハゲが闇にキラリと光った。
通りの右側の駒寄せを避けながらゆっくりと木戸に向って男は進んだ。風にはためく軒下の巨大な暖簾が幾度となく彼の行く手を阻んだが、そのたびごとに彼は身をひるがえし、横に飛びのけて歩んだ。まるで暖簾自体が彼を襲う刺客であるかのように……。
通りの中程、紺地に白々と剣梅鉢を染め抜いたひときわ大きな三河木綿の暖簾の脇を通り抜けようと身をかがめた時、男はある気配を感じて、立ち止った。
殺気か……!
腰を心持ち落し、懐から右手を出した。
その手の先には幅広の出刃包丁が握られている。男はそれを腰に沿って水平に構え、左手を前方に突き出す。
アメリカのストリート・ギャングがスイッチ・ナイフを扱う要領だ。
と、突然、暖簾の内側から黒いボール状の物体が飛び出して来た。
男は反射的に後退った。
ボールはキキッという鳴き声とともに通りへころがり、濡れた砂地の上を数回跳ね回った後、紐《ひも》のような尾を引いて向いの軒下に飛び込んで行った。大きなドブネズミだった。
恐らくエサを求めて、木戸向うの掘割りからやって来たのだろう。
ウェスト・サイドのチャキリスを演じそこねた男はかわいた笑い声をあげると懐に包丁を収めた。
この時だった。
三河木綿の暖簾に空けられた風通しの切り込みの間から太い一本の手が週刊誌大の包み紙を握って現われた。
手は素早く男の顔面に紙を被《かぶ》せ、首まで包み込んだ。男は声を立てようともがいたが、紙の内側でフガフガと幼稚な声を上げるだけだ。
続いてもう片方の手が細紐を持って現われる。ものすごいスピードで紐は紙に包まれた首を梱包《こんぽう》する。男は手足をバタつかせ、一歩でも暖簾の向うへ逃れようとするが、太い手はそうはさせじと首に巻いた紐に一層の力を込める。渡辺綱《わたなべのつな》の兜《かぶと》へ手をかけた羅生門《らしようもん》の茨木《いばらき》童子にも似た一連の殺戮《さつりく》行為は、この場合、ほんの二十秒ほどでカタがついたようだった。
闇の中に重量物の投げ出される鈍い音が聞こえた。
「よし、情況¥Iり」
拡声器の発する割れたダミ声が周囲に響く。
「ライトをつけろ!」
家々の屋根に大型の白色灯が突如出現し、あたりは真昼と見紛《みまご》うまでに明るく輝き始めた。
「記録係、データーを持って教官のもとに出頭せよ。急げ!」
商家の雨戸や格子戸が勢い良く開け放され、そこから黒いつなぎ姿の男たちが次々に吐き出されてくる。表通りは、先程とうって変って騒々しくなった。点呼の声や人々の足音が屋並みを震わせた。
複数のライトが路上の一点を照らし始めた。そこには唐桟《とうざん》のお仕着せの上に、黒地へ白く「丸定」の紋を染め抜いた前掛けを締め、頭部をスッポリと紙で包まれた、かつては人間であった物体が転がっている。
「出て来い、赤坂一号、良くやった」
拡声器がまたしても聞きづらい金属音をあげた。
死体の側にたれ下る暖簾がかき分けられ、背の高い痩《や》せた男がゆっくりと現われた。
髪はリーゼントに分け、眼光は鋭く、頬骨《ほおぼね》が高い。鼻筋は通り、口とあごに少量のヒゲを蓄えている。見るからに精悍《せいかん》そうなツラ構えだ。
赤坂一号と呼ばれた彼は、ナイター球場のマウンドに立つピッチャーのように周囲から放たれるライトを誇らし気に浴びて、路上の死骸《しがい》の脇に立つ。紺の戦闘服に包まれた右手を高々とライトに向って掲げた。
光の洪水の中から小柄な猪首《いくび》のシルエットが赤坂一号に歩み寄る。
「今回は……」
「わっ!」
赤坂一号はあまりの大声にあわてて耳を防いだ。
「いやんなっちゃうな、教官。こんな近くで拡声器使わないで下さいよ」
彼は耳の穴を人差し指でほじくりながら不平を漏した。目の前約一メートルほどのところで拡声器を向けられたらどんなニヒルな男でもそのダンディズムを瞬間的に放棄してしまうものなのだ。
「今回は……」
頭髪の薄くなった猪首の教官≠ヘ恥かしそうに拡声器を口から離し、もう片方の手に握っていたストップ・ウオッチをかざして見せた。
「前回のシミュレーションに比べ三分ほど早くカタが付いたようだな」
教官は赤坂一号の脇にしゃがみ込んで、殺したての死体に手を伸ばす。
首筋、あごの裏に手を当て完全に死んだことを確認し、顔面に被せられた魚の絵――それは瀬戸内の鯛《たい》めしを描いた駅売り弁当の包装紙だった――をビリビリと裂いていった。
包みの中からは褐色に顔色を変え、脹《は》れあがった舌を長々とたらした縊死《いし》者特有の表情が現われた。
飛び出した両眼や浮き上った静脈、そして首筋に深く食い込んだ梱包用の細紐などを子細に観察した教官は、満足気にうなった。
致命傷は紐の間に差し込まれた割箸《わりばし》のひとひねりだ。
「大阪方が誇る殺人|丁稚《でつち》、定吉《さだきち》七番《セブン》の最期といったところだね」
赤坂一号は黄味をおびた暗い目を教官に向け、おし黙っていた。
「……しかし、こいつは……」
教官は、死体の頭髪に手をかけサッと外す。それは坊主頭のかつらなのだ。その下から七・三に分けたリクルート・カットが現われた。続いてアゴのあたりに指をかけ、充分にノリ付《づ》けされたシリコン・ラバーの皮膚をベリベリと剥《は》いだ。中から先ほどの顔とは似ても似つかぬ第三者の表情が出てきた。
「……残念ながら定吉じゃあない」
教官は取り上げたかつらを立ち上りざまヒョイと殺人者に向けて放った。
「誰《だれ》なんですか?」
「裏切り者さ。関西の女スパイにうつつを抜かし、我が方の情報を再三に渡って大阪へ流した末にここを脱走しようとしていた」
「なるほど」
赤坂一号は内側にパッドが付いた丸いかつらをひねくり回した。
「そのまま拷問にかけて殺してしまうのも芸がない。で、シミュレーションの敵役に回したというわけだ」
いつの間にか死体の周りには紺や黒の乱闘服、つなぎ服を着た屈強な男たちが集っていた。
「定吉の扮装《ふんそう》で演習に参加し、相手を倒せば命だけは助けてやるという約束で、ね。しかし」
教官は垂れた頬をゆがめて残忍な笑いを浮べた。
「相手が君だということを事前に教えたなら彼もちゅうちょしたことだろうね。実質的な死刑と同じことなんだから」
彼はその言葉を周囲によく聞こえるように話したつもりだった。死体の周りに集った殺人演習の参加者たちに裏切りと脱走の報酬がどれほど高価につくか、あらためて悟らせるためだ。
殺人者赤坂一号は、その間も関西の新喜劇役者が被る丁稚かつらをもの珍らしそうに見ていたが、突然鼻でフンと笑った。
「おっと、シミュレーションの間違いを一つ発見しましたよ」
記録簿にペンを走らせていた教官は不審気な眼をあげる。
「私の記憶では、定吉七番の頭の円形脱毛は」
彼はかつらの一方を指差した。
「左ではなく、右の後頭部のハズだ」
「ほう……」
教官は感心したように口を開けた。
「なかなか良く研究しているな」
「定吉ネームを持つ西側の非合法活動者の中で本物のプロは彼一人です。私の今の望みはただ一つ」
彼の視線は足もとの死体に注がれた。
「実物の彼をこの手で骸《むくろ》に変え、大阪商工会議所秘密会所の殺人丁稚番号七番を永久に欠番とすることです。それ以外にはありません」
おお、という低い声が集った人々の間からもれた。ヒーローが敵を指名したのだ。
「わかった。次の対定吉七番|作戦《オペレーション》ではぜひとも君が出動できるよう推薦しようじゃないか」
教官は感動の面持ちで赤坂一号の肩をたたいた。
拍手が沸き起った。彼こそ関東のヒーロー、誇るべき同志、大阪商工会議所に痛烈な一撃を与える必殺兵器。
拍手の音は風に乗って、八王子山中にある時代劇オープン・セット改造の秘密訓練キャンプから流れ出し、中央高速の走る麓《ふもと》まで流れていった。
2 駅弁王
老人は開け放された縁先からすだれ越しに庭を眺めていた。
水を打たれた苔地《こけじ》の間に配置された引き臼《うす》利用の小振りな飛石が、軽いカーブを描いて向いの方丈《ほうじよう》に続いている。
京都大徳寺|真珠庵《しんじゆあん》の庭を写したという、通称「七五三の庭」である。客間から眺めて楽しむと同時に、茶道で言う露地としても役立つ名庭として粋人の間では昔から知られていた。本家大徳寺の庭と違っているところといえば、方丈右側に位置する見事なアジサイの茂みだ。円型の花々が今を盛りと咲き誇っている。上の方に開いている花は薄青色であるのに、下向きに咲く花の中に一輪、紫色をした大きな花が咲いていた。
「昨年までは全《すべ》てが上品な薄青色じゃったのにのう」
膝《ひざ》のそばに置かれた朱塗りの盆から江戸|切子《きりこ》のグラスを取り上げて老人はつぶやいた。
二間続きの部屋から襖《ふすま》を取り払った風通しの良い夏座敷。高塀の裏に枝を広げる広葉樹の間からは蝉《せみ》の声が絶え間なく聞こえてくる。梅雨《つゆ》明けは、つい先日宣告されたばかりだ。
「そろそろうら盆か、早いものだ」
老人は午後の日差しに光る鮮かな緑を愛《め》でつつ、ガラスに酒を満す。
グビリと喉《のど》に流し込んで眼を細めた。
手入れの行きとどいた広大な旧大名屋敷庭園。初めてここに足を踏み入れた市井《しせい》の民で、これが都心の、それもあの赤坂の一角であるということに驚きを感じないものはいない。都会という砂漠に置かれたオアシス。こんな陳腐な、頭の回転の弱まった都市評論家が二言めには口にする形容詞が現実に存在することに皆感動する。
赤坂、正確には千代田区|紀尾井町《きおいちよう》と呼ばれるここは、しかし、屋敷の門を出てものの五分も歩けば首都高速四号線や青山・外堀通りが交差する喧噪《けんそう》の巷《ちまた》赤坂見附に至る、恵まれた環境でもあるのだった。
蝉の声が低くなった。庭を歩くヒタヒタという柔らかい足音が聞こえてきた。
方丈を隔てる塀に切られた露地口の木戸が開き、薄萌黄《もえぎ》の夏物に浅縹《うすはなだ》の帯を締めた十七、八の娘が一人、飛石の上をスルスルと渡ってくる。禿頭《かむろ》に前髪を切り揃えた色白の美少女である。
「会長、皆さまがお揃《そろ》いでございます」
「円《まどか》か?」
縁先に立つと娘は優雅な仕草で一礼した。
大輪のアジサイに目を向けていた老人は、首を小さく傾けてうなずくと立ち上った。
彼が大儀そうに踏石へ置かれた庭履きを足にかけると、娘はすかさず老人の肩を支える。
そのまま手を引かれて歩み始めた。身体《からだ》の動きがどことなくぎごちない。
庭の端まで来た時、老人は足を止めた。
「やはり去年《こぞ》のうちに抜き捨ててしまうべきだった」ボソリ呟《つぶや》いた。
アジサイを、である。たとえ一輪だけであっても、この庭の色調を壊わす紫色の花を咲かせた木を許しておけないのだ。肥料によって土質を変え、もう一度薄青色の花を咲かせようなどという気持ちはすでに無かった。貞淑な妻がある日、他の男に一度だけほほ笑みかけたという理由だけでその男と妻を殺し、妻の一族郎党までも攻め滅ぼしたルネッサンス時代の王と同質の心を老人は持っていた。
娘はほんの一瞬、眼中に憐《あわれ》みの色を浮べたが、すぐに京人形のような表情にもどり、老人の手を取って飛石を歩み始めた。
「駅弁王」と人々は老人のことを呼び敬った。東日本の鉄道網に文字通り食い込んで駅売りの包装弁当を売りさばき、裸一貫から始めて戦後四十数年、北は北海道は野寒布《のしやつぷ》、西は愛知県豊橋市に至る国鉄、私鉄の各駅弁メーカーをすべて傘下に収め尽した一代の怪物である。
彼は駅弁だけではあきたりず、十数年前、すでに今日の若者の嗜好《しこう》変化――彼自身はそれを「紅毛《こうもう》の味覚オンチ」と呼んでバカにしていたが――を察知して欧米より各種テイクアウト食品の技術導入を行い、これを母体としてファミリー・レストラン、コンビニエンス・ストアーの開発に力を注いだ。そして今日、この業界も半ば彼の支配下にある。
株式会社「満食」といえば食品界の重鎮として、今や東日本の財界に押しもおされもしない確固たる地位を築きあげているのだ。
老人は今年、齢《よわい》七十八。数年前、主要な業務をほとんど息子にまかせ、会長の位を得ていた。
「小隠|陵藪《りようそう》にかくれ、大隠|朝市《ちようし》にかくる」という故事に倣《なら》い、都心に持つ幾つかの邸宅の中からこの赤坂を選んで隠居し、終日草木を愛でて暮している。
だが、社内の上層部、有能な財界誌の記者たちは、今だに彼が社の実権を握って離さないことを承知している。彼らは老人がまるで平安末期の謀略家、後白河院でもあるかのように日々|噂《うわさ》し合っていた。
しかし、そうした読みの深そうな連中も、これから見せる老人の素顔までは読み取ってはいない。もし彼らがそれを知れば仰天し、己れの知識不足を強く悔み、畳表を引きむしって泣くことだろう。
彼こそ、あの関西を心の底から憎む汎関東主義《パン・イースタニズム》秘密結社「NATTO」の上級評議員であり、その殺人機関「KIOSK」の元締めなのである。
幕内弁助《まくのうちべんすけ》。
それが老人の名前だった。
彼は明治三十九年(一九〇六年)丙午《ひのえうま》の年、荒川の上流、秩父《ちちぶ》郡下久保村大字幕内(現秩父市幕内町)の小作農家に生まれた。八人兄弟の末である。
弁助の名は祖父がつけた。その前年、村の素封家が、日露戦役の勝利と出征した息子の無事帰還を祝い、語呂合《ごろあ》わせで村内に幕内弁当を配ったことがあったが、彼の祖父は当時の小作人では一生のうちに一度味わえるかどうかというこの弁当の味に感激し、翌年生まれた孫に早速その弁の字を当てたのだった。塗りの箱に収った鯛やきんとん、蒲鉾《かまぼこ》などを飽きるほど食べられる身分になれ、との願いがそこには込められていた。
名は体を表わす、という。
しかしこの弁助の場合は、単純素朴な祖父に思いつきで付けられた名が生涯の職務を定めてしまった。
第一次大戦がドイツ第二帝国の惨憺《さんたん》たる敗北で終り、ロシア革命、シベリア出兵、各地に米騒動が相い次ぐ大正七年、弁助は義務教育を終えた。小作農家の末子には苛酷《かこく》な試練が待っている。口べらしとしての店奉公である。
当時の小作の常として彼の家もまた、僅《わず》かな田畑を地主から借り受け、代償として農業収益の五割までを納めていた。その上に貧乏人の子沢山。丁稚となるのは定めであった。
父は山を越え、遠縁に当る熊谷在の口入屋《くちいれや》に彼を放り込んだ。
普通、武州もこのあたりになると、奉公といえば呉服、太物か生糸、農器具、薪炭の商家へ上るのが通り相場である。親もそれを期待したのだが口入屋は何を考えたか(実は何も考えていなかったのだ)、彼を市中の仕出し弁当屋に紹介した。
口入屋は彼に言った。
「あそこ行けゃー、まず飯にはこまらん」
これは当時奉公に上ろうとする児童にまず言い聞かせる決まり言葉である。
「わっち(私)のようなもんでも腹一杯飯が食えるんかいねえ」
名前に反して十二の歳《とし》まで腹一杯米の飯を食った記憶の無い弁助は興奮した。
「そんだけじゃねえ。あそこで我慢さえしていりゃあ一人前の料理人に仕込んでもらえる。手に職さえ付けば一生たらふく食えるぞ。なにしろ食いモン扱うことが渡世になるんだからな」
少年はほとんど目がくらみそうになった。
「だからよ」
口入屋は実は、幕内弁助の名をおもしろ半分、駄洒落《だじやれ》で弁当屋に推薦したのだった。
「御奉公第一に考えろ。どんなに辛《つら》くっともおしん(辛抱)するだい。ホレ、浦塩(ウラジオストック)に出兵だ、ホラ、米問屋の焼き打ちだってえ騒ぎで、諸式も上っている御時世だ。東京の方じゃ、戦《いくさ》成金の買いしめで、逆に奉公先が潰《つぶ》れてお暇もらうお店《たな》モンも多いと聞くぞ。こんな時に弁当屋なんぞへ奉公行けるんは幸せもんだいね。おめえの名前が福を呼んだに違いねえ」
口入屋の、それでも恩着せがましい言葉に弁助はこっくりとうなずいた。
この瞬間、彼の運命はきまった。
翌日、口入屋に伴われて弁助は、高崎線熊谷駅前の旅館「花本」の勝手口をくぐった。
「花本」は、幕末の頃、熊谷宿で旅籠《はたご》を営んでいた初代長兵衛が、近くを流れる荒川の右岸土手裏で始めた小さな割烹《かつぽう》宿をその起源としていた。明治十七年七月、日本鉄道によって東京・熊谷間が開通した際、いち早く駅前に進出し、夏は鮎《あゆ》、冬は泥鰌《どじよう》の柳川を旅客相手に饗《きよう》して地盤を築いた。
明治二十七年、二代目長兵衛の時、おりから起る日清の役で、宇都宮、高崎の各陸軍師団関係の鉄道利用者が増大、駅売り弁当の大量販売が取り沙汰《ざた》されたとき、周囲の業者が二の足を踏む中、赤字覚悟で構内営業の許可を得た。二代目としては奉仕のつもりだったが、割烹で鍛えた「花本」製鮎鮨《あゆずし》の味は、利用客の間で評判となり、上弁十五銭、並十銭という当時としてはかなり高値なものであったにもかかわらず飛ぶように売れ、身代は逆に大きくなった。
弁助が訪ねたころは、この二代目が中風を患って現役を退き、長兵衛の妹に当る続原《つづきばら》とめ女が店を差配していた。
「お前かい。おもしろい名前の子っていうのは?」
帳場の結界越しにとめが尋ねた。二代目とは親子ほど年の離れた妹で、三十過ぎの小太りな年増。なにやらの理由で嫁ぎ先を出て実家に帰り、店に出ていた。近在でとかくの噂《うわさ》が絶えない女性である。
「へい、まくのうちべんすけ、と申しますそうで。ほら、お帳場さんに御挨拶《ごあいさつ》すっだよ」
口入屋は、板敷の隅で小さくなっている弁助を小突き、彼はあわてて頭を下げた。
「もう口入屋さんからは聞いていると思うけど、呉服太物のお店《たな》と違って、うちは料理屋、つまり人様のお口やお腹をお預りするのが商売だ。一人前になるにはまず早くて十年がとこかかるんだよ。それでも辛抱できるかい? もちろん、盆、暮には新しい仕着せも出すし、二年目からは藪入《やぶい》りに親御さんの顔を拝ませてもやろう。けど、いったんウチに入ったら、私と板前さんはもとより目上のもの全ての言うことをよく聞くことが肝心だよ」
弁助は昨日と同じようにこっくりと首を傾けた。
「会長、どうかなさいましたか?」
娘の声が耳もとで聞こえた。
庭から客殿へ上る榑縁《くれえん》の前でジッと瞑目《めいもく》していた弁助老人は、重々しく目蓋《まぶた》をあげた。
「いや、なんでもない。なにやら急に昔のことを思い出してな」
口元だけで軽く笑うと、彼は大儀そうに榑縁へ身体を傾ける。娘が注意深く彼の半身を支えた。右の上体を庇《かば》いながら、やっとのことで老人は縁側に登った。そのまま娘に手を託し、ゆっくりと板敷の間を通って伝廊に出る。廊下の右側は明るい廻遊式《かいゆうしき》の庭園に変っていた。高塀に沿って常緑樹がクッキリとした稜線《りようせん》を作り、根もとには浅く遣水《やりみず》が流れている。木々の向うには嘗《かつ》て紀伊大納言家の屋敷内であった森が望める。しかし、その借景の妙も、森の上に突き出した、ミラノ製台所用品のようなホテルの新館によって十数年も前から台無しになっていた。
老人は高層ビルに目をそむけるようにして廊下を歩む。
庭に面した座敷の戸障子はすべて閉ざされていた。
廊下の突き当り近くまで進んだ時、娘は板敷に膝を付き、障子の向うへ声をかけた。
「会長がお越しです」
障子の奥で人々の居住まいを正す物音が聞こえた。老人は障子戸の前に立つ。
娘は両の手を引き手にかけ、ゆるゆると開いた。
繧繝《うんげん》べりの畳の上に巨大な欅《けやき》の卓が広がり、その周りに六人の男たちが正座していた。
老人は娘に手を引かれ、床柱を背にして着座し、目礼する。
背後の釣棚は雲雀《ひばり》棚と称する二重の棚で、脇に一幅の掛軸が掛っている。墨痕《ぼつこん》も鮮やかな四つの文字が軸からはみ出さんばかりに踊っているのだが、その意味するところは、ただごとではない。
滅西興東=i西を滅ぼし、東を興す)
である。
掛軸の前に坐《すわ》った老人は、老人特有の耳ざわりなしわぶきを一つ立てると座|椅子《いす》の肘掛《ひじか》けに左腕を保たせる。
役目を終えた娘は人々に一礼し、障子を閉じて去った。
次の瞬間、室内の空気がピーンと張り詰める。
いよいよ「NATTO」専属殺人機関「KIOSK」の臨時会議が開始されるのだ。
六人の男たちは、卓上に置かれた薄いコピーの綴《つづ》りに手を伸した。
「KIOSK」とはこの場合、国鉄の駅にある売店の名称ではない。関東一円お弁当殺人協会≠フ略で、別名「贅六《ぜいろく》殺し」とも呼ばれる。関東人に対して害のある(と彼らが認定した)大阪人の抹殺や、そこに至る末端の工作を直接行なう組織である。
六人の男たちは、いずれも表向きは、二部上場企業の会社重役や大学教授、評論家、といった肩書きを持っているが、一歩裏へまわれば、この殺人機関の各セクションで指導的な地位を持つ連中であった。
「では、会議を開きたいと思います。まず、お手元のパンフレット二ページ目の表題一、『関西スパイによる茨城地区納豆工場連続爆破の被害とその影響』というところを御覧下さい」
テーブルの一番はし、老人の右側に坐った温厚そうなロマンスグレーの男がまず口を開いた。
「すでに皆さんも御存知のことと思いますが、先月の二十八日未明、我が結社の息がかかっておりました茨城県石岡市内の水戸小粒納豆精製工場と大豆集積所、納豆|室《むろ》等の計五ヵ所が爆破されました。これらの工場は、主に関西向けの秘密糸引納豆を製造し、結社の対関西味覚侵略計画の一環を担っておりました。この……」
表向きは、名門女子大学の主任教授であるこの男は、講義慣れのした、しかし起伏の乏しい口調で会議の口火を切った。
老人は肘掛けに上体を乗せて目を閉じた。
「どいつだ、今度新しく入ることになった小僧ってえのは?」
帳場にかかった菊五郎格子の暖簾をサッとかき別けて一人の壮漢が入って来た。
「ああ、この人がうちで板前をしている源さんだよ」
とめが腰を浮かせ、自分が今まで坐っていた座布団を彼の方に押しやった。
男はさも当然という顔でドッカリとその上に胡座《あぐら》を組む。
「源さんは、東京の『百山《ももやま》』や『八百菊《やおぎく》』にも居たことがある、腕っこきの板さんさ。お前は今日からこの人の言うことを、なんでもハイハイと聞かなきゃいけないよ」
板前を見る女将《おかみ》の眼が心なしか艶《つや》っぽいことを、弁助は子供ながらに感じ取った。元来、その手の勘が鋭いところがある少年だった。
「追い廻《まわ》し(料理場の雑用係)が一人在所に帰っちまって、人手が足りねえとこだったんだ。調場へ行って中のみんなに挨拶済ませたら、すぐに働いてもらうぜ」
板前は歯切れの良い江戸弁で言った。
「ヘェ」弁助は、源さんと呼ばれたその男に怖々返事をした。
結城《ゆうき》の紬《つむぎ》を粋《いき》に着こなし、右肩から三綱献上の襷《たすき》を降した六尺豊かな、当時としては珍らしいほどの体格を持った板前だった。
短く刈り上げた職人頭の下に切れ長の目が鋭く光る。左の高頬から口元にかけて深々と付けられた古い刃物傷が彼の顔をより凶々《まがまが》しいものに見せていた。
「それじゃあな、しっかりやるんだぞ」
板前の案内で調場へ向う少年に向って口入屋が声をかけた。
今でこそ、板前という職名は和風料理を供する店であればどこでも使われている。しかし、弁助が奉公に上った大正の頃は、この名称はハイクラスの料理屋で調場を仕切るものでなければ名乗れなかった。材料の選り分けから、皿の見立てまで一切が板前の権限にかかり、経営者はそれに口出しは無用だったのだ。客は板前の名に引かれて店に通う。このあたりの事情は、フランス料理の有名シェフや中華料理の庖丁人《ほうちようにん》と同じである。
ただ、彼ら諸外国のコックと決定的に違う点は、調場の中で直接料理にタッチすること無く、出来上った品々の味や盛り付けを監督するだけというところだ。料理は煮方《にかた》と称する煮物専門の職人や、年中焼き物ばかりしている焼方《やきかた》というものがやる。これは軍艦で言う砲術士官や機関部士官のような専門職で、板前自身は調場の奥に料理板を置き、ドッカリと坐っている。分担制で作られた料理を板に引き据え、目を光らせるだけ、艦長のような仕事しかしない。指揮官であればかならず副官が脇に控えているものだが、板前にもそれがいる。脇板と称し、料理板の隣に居て直接皆に指揮官の言葉を伝えるのだ。
弁助はその日の午後から、調場の二等水兵・追い廻しの役を命ぜられた。
彼の上には、年中洗い物ばかりさせられている洗い方、それを三年ほど務め上げ、やっと材料に触れることができた剥《む》き方、その上の焼方、さらにその上の煮方、脇板と続く、気の遠くなるような身分差別が存在している。
支給されたほおばの高下駄をはき、板前の源さんについて材料の買い出しから出前の岡持ち、洗い方の手伝い、駅に人出の多い時は駆り出されて弁当の駅売り――中売りと称した――にも立つ、目の回るような日々が始った。
朝は四時頃から、夜は十一時過ぎまで働き、休日は月に一度、しかも料理屋の常として職人の端々に至るまで、冬も素足。水を使う商売だけに寒さは幼い身体に応えた。
だが、弁助は不平一つこぼさずに堪え続けた。彼より先に入った追い廻しの少年や洗い方の中には意地の悪い連中も居ないではなかったが、ここにはそれを我慢して余りある食の魅力があった。曲りなりにも三度三度食べられ、しかもその内容は、同時代の商家の丁稚や手代に供せられるそれよりも当然ながら良いものであったのだ。
最初は恐ろし気に見えた向う傷の板前源次も、物静かな男で、思いの他、弁助に親切だった。幕内弁助といういかにも料理屋にピッタリの名を一種、神の啓示と見ているふしもあった。
「早く名前に負けねえ幕ノ内を作れる料理人になれよ」
これが源次の口グセだった。
幕ノ内とは何か。物の本によれば江戸の中期、芝居見物の幕間《まくあい》に桟敷で出された弁当を指し、その発生は日本橋|界隈《かいわい》とも浪速《なにわ》の道頓堀《どうとんぼり》とも言われる。いずれにしても芝居茶屋の発明らしい。白飯にゴマをふりかけて円筒にしたものを並べ、仕切った枠の一方に卵の厚焼き、かまぼこ、魚の焼き物、お煮しめ等が詰められているのが定めであった。その後、器や中味を変えた花見用や茶席の懐石用等各種の類似弁当が出現したのだという。
これが明治の終り頃、駅売り弁当に応用された。当時の鉄道局運輸課では、この通称を使わず「普通弁当」と称し、握り飯弁当も、二重折詰の上等弁当も一緒くたに表記している。
「花本」の調場では料理人に二派のシフトを組ませ、交代で駅弁の調製に当らせていた。ここの監督は源次の信頼する古手の脇板で、源次自身は時おりその現場へ行って味を見るだけである。弁助は駅弁作りのシフトに組み込まれた時だけ一足飛びに折り詰めの盛り付けを手伝わされた。彼は次第に自分の名と同じ名の調理品に興味を持つようになった。
「……というのがこれまでの被害状況です。御承知の通り現在、納豆の原料となる大豆は、北米大陸及び中南米の各国からの輸入が大部分で、その総量は全体の約八十パーセントに達するわけですが……」
大学教授にして「KIOSK」情報分析課長《チーフ・アナリスト》のダラダラとした状況説明が続いていた。この男の講義は教室内で催眠ガスをぶちまける以上の効果を発揮しているに違い無い。
「……この結果、我々の目論んでいた、納豆発酵前に習慣性の薬物を仕込み、関西人を納豆の中毒に落し込むというNP計画――ナットー・ポイズニング・プランは挫折《ざせつ》の止《や》む無きに至ったのであります」
「この失敗は工場警備担当の不手際が生んだものだ。そうじゃないかね」
向い側に坐っている肥満体の金縁眼鏡がにくにくしげに口を曲げて隣の男を見た。
「ばかな! あのような状況では、いくら厳重なセキュリティ・システムを稼動させても防ぎきれるものでは無い。内部に手引きするものがおり、システムが事前に破壊されていた」
初老の演劇評論家が痩《こ》けた頬を精一杯ふくらませて反論した。彼は組織の施設保安課長なのだ。
「問題とすべきは、複数の関西人破壊工作員が作戦地域まで長駆潜入することを許し、また、内部に潜り込んで定期的な内通者チェックを行なわなかった部内情報課《カウンター・インテリジエンス》の怠慢だ!」
保安課長はテーブルの中央でパンフレットをめくっている絽《ろ》の夏羽織を着た壮年の歌舞伎《かぶき》役者を指差す。
「な、なにを言ってるんですか。我々はそれなりの努力を払っています。現に工場が破壊された後、ただちに独自の非常線を張り、警察が動き出す前、事件発生から二時間以内に水戸市内で潜伏している定吉ネームを持つ関西工作員三名を捕えました。残りの幾松ネームを持つ工作員二名と内通者の女性も、常磐ミクロネシアン・センターでハワイアン・ダンスを踊っているところを捕捉《ほそく》しています」
部内情報課長は面長の写楽《しやらく》顔を隈取《くまど》りのように赤くして反論した。
「しかし、その全てを殺してしまったじゃないか」
肥満体の広告代理店社長が皮肉っぽく口を挟んだ。こいつは弁助翁の遠縁に当る男で、一応「KIOSK」企画室長の地位にあるが、人の揚げ足を取るだけが取り得。彼がたまに気のきいた企画案を口走る時、全てその内容は有能な企画室員が練りに練ったものなのだ。
他の男たちは罪をなすり合う同志を冷やかにながめていた。しかし、その目つきと裏腹に、心の中では自分の側に論争が飛び火して来ないようにとひたすら祈り続けているのだった。
この会議の出席者の中には確実に「NATTO」本部――最高幹部会の息がかかった秘密監査役が一人混っているということを彼らはみんな承知していた。
弁助は今だに一言も発しない。男たちが罵《ののし》り合い、疲れきってしまうのをジッと待っている。人々の神経が、使い古しのゴムヒモのようになった時、ビシリと歯切れの良い言葉を吐いた方が効果絶大であることを知っているのだ。
老人の頭の中には今のところ若き日の思い出しかなかった。
「花本」ほどの料理屋ともなると、板前は日頃からかなり優雅な生活を送っていた。身の回りの世話一切を行なう女性が一人つき、専用の座敷か、別宅を一つ店から与えられる。源次の場合は、その面倒を大部分女将のとめ女自身が見ていた。こうなると事実上の夫婦と変りない。板前とつるんで兄の料亭を乗っ取った性悪女、と口さがない熊谷|雀《すずめ》が噂するのを、弁助も知っていた。しかし世評と異なり、身近に接する女将は、多少気の強いところがあるものの、開けっぴろげで気のいい女性に見えた。
少年は、この職場でめきめき腕を上げていく。洗い方、剥き方を四年間で済ますと、次の年からは駅売りや仕出しの弁当調場で年かさの料理人に交じり、盛り付けを手伝うまでになった。もっとも源次のいる板場と違い、ここの調場で働く料理人のほとんどは口入屋から周旋されて来る渡りの職人で、追い廻しの頃からの人間といえば脇板と弁助の二人だけであったが……。
こうして彼は十八の誕生日を迎えた。
その日、弁助は初めて源次の住む離れ座敷へ呼ばれた。
「おめえもやっと洗い方を終えて、焼方の脇を手伝えるまでになったってえワケだ。これを……」
と、源次は、油紙の包みを彼の前に置いた。中味は見ずともわかる。刺身、薄刃、出刃の包丁セットだ。弁助は来るものが来た、と思った。当時の職人社会のしきたりとして、一定の年齢に達すると、旅に出て修業を積む。料理人の場合、この三本の包丁を懐に、あちこちの料理屋で働き、腕を磨く。俗に言う「板場の修業」である。
「二年ばかり他所様の飯を食って来い。おめえの行く先はもう決めてある。東京柳橋の『菊甚《きくじん》』だ。ここの板前は昔、俺《おれ》の朋輩だった、気のおけねえ奴《やつ》だ」
源次は長火鉢の引き出しから添状《そえじよう》を出し、これも紙包みの横に並べた。
「『花本』の名を恥かしめねえようにしっかりと勤めてくるんだぜ」
その後、源次は料理人独特の挨拶方法、いわゆる仁義の切り方、旅先での作法等をこと細かに、時には、手を取って弁助に教え込んだ。
日頃の無口さとは打って変り、さまざまなたとえを挙げ、噛《か》んでふくめるような師匠の言葉と立ち居ふるまいに、何か気になるものを彼は感じたが、言われるままに作法を暗誦《あんしよう》した。
翌朝、店の一同に見送られ弁助は上野に向った。
「菊甚」での生活が始った。彼は源次の弟子ということで早速、煮方の脇へまわされ、重宝された。弁助は、師匠の源次が東京でもかなり高名な板前であったことを、ここで初めて知ったのだった。
夏場の数ヵ月、隅田の河畔は涼を求める人々で賑《にぎ》わう。弁助は初日から調場に立たされた。川開き、土用、八朔《はつさく》と文月、葉月の間は目まぐるしく過ぎた。
そして運命の大正十二年|長月《ながつき》がやって来た。
その日、弁助は同じく修業中の少年と、浜町岸まで届けものをするため早目の昼食を取っていた。
調場では晩の仕込みがすでに始まり、剥き方の連中が包丁をせわしなく動かしている。
弁助が食事を終え、箱膳《はこぜん》を片付けようとした、その瞬間。
急に目の前の畳がグイと持ち上った。
棚の品物が勢い良く降って来た。棚そのものも、それを支える柱も崩れて来た。窓の外の両国橋も大きく震えている。弁助は急いで外に飛び出した。
飛び出したものの立ってはいられない。両手を波立つ地面に置いて、這《は》いながら前方に進んだ。
その後のことはあまりハッキリと覚えていない。気が付くと、両国橋の橋桁《はしげた》に首まで水に浸ってしがみついていた。
橋の両岸は物凄《ものすご》い火の手が上っている。首筋へは、しきりに火の粉が降りかかり、アッという間に巨大な水腫《みずば》れが出来上る。
隣の立ち杭《くい》には、地震の起きる直前までいっしょに食事をしていた朋輩が顔面からドス黒い血を流しながら抱き付いている。彼は落ちて来た瓦に額を割られたのだった。
そうこうするうちに上流から無数の焼死体が流れ寄り、弁助たちの周りは炭のような人間の残骸《ざんがい》で埋った。二人はその中でたがいに励まし合って浮び続けた。
火勢がようやく治《おさま》ったと思われる頃、二人は岸に這い上った。丸々二日間、彼らは水中に浸っていたのだった。
「菊甚」は、数本の焼けぼっくいを残して跡形も無くなっていた。二人は幽鬼のように焼け跡をさまよった。知り合いは皆どこかへ行ってしまったようだった。このような場合、辻々《つじつじ》の古い立ち木や焼け残った銅像などに迷子札を張るのが江戸で古くから行なわれる火災後の風習なのだが、その数量があまりにも多く、弁助たちは、札を読むことをすっかり諦《あきら》めてしまった。
後は、この焦土を脱出するしかない。いったん熊谷に身を落ちつけようと、二人は高熱でネジ曲った線路に沿ってトボトボと歩き出した。
まず空腹が彼らを襲った。滝野川の近くまで来た時、負傷した朋輩が動けなくなった。弁助は近くで行なわれている炊き出しの行列に並ぶため、友人を飛鳥《あすか》山《やま》公園の茂みに置いた。
数時間並んだ後、やっと手に入れたニギリ飯を持って公園に戻った時、彼が見たものは、竹槍《たけやり》を脇腹に受けてズタズタにされた友人の姿だった。目撃者の話では、犯人は在郷軍人の自警団らしかった。今にして思えば、朋輩は青森の出身である。恐らく、標準語が充分話せなかったため、朝鮮人狩りに引っかかったのだろう。弁助は、もらって来たニギリ飯を泣きながら半分食べ、残りを友人の死骸に供えると、荒川を越え、大宮に向った。
上尾《あげお》、鴻巣《こうのす》と歩き、道々、他人の畑へ入り込んで大根を盗んだり、農家で物乞いをして、熊谷に帰りついた時は、一週間ほど過ぎていた。
懐しい「花本」は元の姿を保っていたが、不思議なことに正面と調場はピタリと閉ざされている。弁助は別棟の調場――駅弁調理場の方向に炊煙が上っているのを見つけ、そちらに回った。だが、立ち働いている連中は一人として顔の知らない男たちばかりだった。弁助はそこで思いがけない話を聞いた。弁助が地震に遭遇する約一ヵ月前の大雨の日、板前の源次・とめ女の二人が荒川に身投げをしたというのだ。狭い町中での噂話のネタとなり続けることに堪えられなかったらしい、との話だった。弁助の先輩、朋輩たちは皆、二人の葬儀が終了すると同時に暇を与えられて散ってしまい、「花本」の遠戚《えんせき》に当る仕出し屋が、駅弁調場を借り受け、鉄道復旧作業に当る人々に細々と弁当を作っているのみである。
彼は今や完全に一人ぼっちとなってしまったのだった。
頼み込んで一ヵ月ほど駅弁調理場で働かせてもらった後、弁助は稼いだわずかの賃銀を懐に旅へ出た。
とりあえず、地震の被害が及んでいない土地に行こうと思った。
高崎から佐久、小諸、長野より高田に抜けて越中へ向い、金沢、福井に二ヵ月ほど滞在した後、思いきって大阪に出る決心をした。やはり料理は昔から上方と決っている。これを機会に上方で料理修業をしようという魂胆である。しかし、主家を失った彼には添状一つ無い。つての無い者が行く先は周旋屋しか考えられない。
弁助は七草の日の朝、北陸の雪深いホームから永平寺の参籠《さんろう》帰りの人々とともに列車へ乗り込んだ。頼みとするのは福井の仕出し屋で書いてもらった大阪天満宮裏西ノ辻にある口入屋の住所と呼び出し電話の番号のみであった。
3 陰謀の序曲
ミーン、という一声を残し、障子の向うで蝉の飛び立つ気配があった。
室内の男たちはたび重なる罵《ののし》りの応酬と、腹の探り合いでヘトヘトになっていた。
すでに西日が縁側を越え、障子の桟を焦がすまでになっているというのに部屋の戸という戸はピタリと閉ざされ、わずかな風さえ入ることを拒んでいる。
人々はしきりにハンカチを顔や首筋に当て、ゼイゼイと息を吐いていた。
もうなにも話したくない。一刻も早くこの席から抜けたい。六人の男たちの思いは同じだった。
弁助翁は片目をそっと開け、一座を盗み見る。沈黙と熱気だけが人々の頭上にあった。
頃は良し。
老人は肘掛けに乗せた手をそっと上げた。
「部屋の空気が少々|澱《よど》んできたようだ」
手が障子を指差す。
「開けたが良かろう」
それは老人がこの部屋に入って来て初めて発した言葉だった。
卓の一番外側に坐っていた肥満体の広告代理店社長が、その図体にも似合わぬ素早さで立ち上り、障子を開け放った。
一陣の涼風が室内に吹き込んで来る。
庭先の遣水《やりみず》やサツキの匂《にお》いを含んだ風は、人々の額や首筋に浮いた汗を瞬時にして冷却する。
安堵《あんど》の溜《た》め息が一座の間に流れた。
「タバコも許そう」
待ちかねたように人々は内ポケットや卓の下からタバコを取り出し、飢えた難民が椀《わん》にかじりつくようなせわし無さで口にくわえた。
老人は満足の笑みを浮べた。この瞬間、人々の思考は完全に停止する。脳は瀬戸内の備前クラゲのようにブヨブヨと軟化し、一言発すればその内容は、鳴門の干しワカメが水を吸うような勢いで彼らの記憶層に植え付けられるのだ。
「さて同志諸君……」
人々は一斉に老人を見た。その眼はどれも憑《つ》き物が落ちたようにトロンとしている。
老人はゆっくりと口を開いた。
「NP計画の挫折とその後始末については、今、教授が報告した通りだ。この失敗は、KIOSKの大きな汚点となった。今頃は、他のNATTO所属機関がほくそ笑んでいることじゃろう。中にはこれを機会にKIOSKに取って代り伸《の》し上がろうと企む組織も現われるやも知れん。いや、絶対に現われるハズじゃ。諸君らは今日の会議がNP計画失敗の責任追及のために開かれたと思っているようだが、それは間違っとる」
老人は、六人の男たちの顔をゆっくりと見わたした。この哀れな管理職たちは、我が身の保身のみのためにこの席に集ったのだ。恐らく大半の連中はNP計画が失敗したと知った瞬間、「NATTO」という奇妙キテレツな結社に加盟した自分を呪《のろ》ったことだろう。組織の掟《おきて》では、失敗は即、ジュ・ムーリール(死)である。
「失敗の責任を誰かへ擦《なす》りつければそれで終りというような単純なやり方ではNATTO最高評議会の面々は満足すまい。ここは一つ西側に対して積極的な報復攻撃をとらなくてはならん」
十二の濁った瞳《ひとみ》は老人のシワだらけの口元から発せられる言葉をジッと窺《うかが》っている。
「わしは、最高評議会に約束したのじゃよ。愛知県の向う側、つまり西側の勢力圏内で今から二ヵ月以内に、大阪人相手の効果的なテロ活動をやってみせる、とな」
老人は肘掛けから片身をゆっくりと起した。
「NATTOの対関西政策は、新しい段階に入りつつある。今までは、関西人すべてを敵視し、中傷し、時至れば襲いかかるという強硬なやり方じゃった。しかし、この戦略を続ければ、九州や名古屋出身の、我々関東方から見ればどちらともつかないような財界人が皆、関西に同情し、アチラ側につくという結果になってしまうのじゃ。今のところ、我々の戦いは表立っていないため、社会問題化はしていない。マスコミには双方の組織が口封じを目的にいろいろと工作しておるからな。政治家にしても同じこと。しかし、強硬策を続けるかぎり、いずれは我々NATTOの姿が表面に浮き出してしまうことは避けられん。そこで昨年から硬軟両用使い別け政策となったわけじゃ。その第一がホラ、諸君も良く知っておろう、上方漫才師を大量に東京のテレビ局が招聘《しようへい》した『漫才ブーム』じゃよ。師弟制度が厳しく、なかなかマスコミに出られない若手ばかりを金の力で引き抜き、東京に持って来る。奴らは金になるといえばホイホイとどこへでも行くからのう。芸風の固っていない連中を東京の笑いに慣れさせて、ある日、ピタリと彼らのブームを終らせる。仕方無しに関西へ帰るが、東京人の笑いに骨の髄まで毒された漫才師は二度と上方で受けない。テレビのスケジュールで芸も荒れている。結果として上方漫才界は十年は立ちなおれないダメージを受けた。我々は労せずして関西の大衆から笑いの文化を取りあげることに成功したわけだ」
六人の男たちは楽しげに笑った。そうだ我々の勝利なのだ。
「しかし、この勝利の栄冠は……」
老人は片手を卓上に置いて人々をねめまわした。
「我がKIOSKのものではなかった。NATTO文化工作部の仕事じゃ。彼らが花々しい上方文化破壊を行なっている間、我々は何をしていたか」
老人は背筋をキュッと伸す。
「天満橋《てんまばし》で創業安永七年とかほざくタコ焼き屋の亭主を殺し、夏の甲子園の評判を落すため、周辺の仕出し屋にボツリヌス菌入りのタマゴ焼を投げて回っていただけではないか」
その言葉は少しずつオクターブを上げていく。
「しかも、しかもじゃぞ。その仕出し弁当に当ったのは関西の高校生ではない。群馬代表の高校生だった。この関東の人間じゃ!」
老人はついに両手を卓の上にドシンと乗せた。
「愚かしい失策、それだけがここ一年KIOSKを支配している」
「その食中毒工作の件は、我々の課が行なったものですが、不可抗力であると評議会の結論も出ているのでは……。なにしろ相手チームの弁当を盗み出して食べた高校生に問題があるのですから」
対外工作のチーフである料理研究家が恐るおそる口を挟んだ。
「食べる相手がそのものを口に運ぶまで見とどけるのが優秀な工作員というものじゃ」
老人はジロリと彼をにらんだ。鋭い、針のような目だ。料理研究家がビクリと体を竦《すく》ませる。
「しかし、済んでしまったことをあれこれ言うのは虚《むな》しいものじゃ。止《よ》そう」
もの静かな口調にもどって、老人は眼を開いた。
「西側の文化人を殺害するとか、大阪人が心の拠りどころとしている名所旧跡、文化施設を吹き飛ばすといった矮小《わいしよう》な次元でのテロはもう終りにしたほうがええ。もっと粋でいなせな江戸前の工作が必要じゃ」
江戸前、と言われて出席者たちは全員うつむいた。この中の一人として東京生まれ、親の代から東京育ちといった人間が居ないのだった。良くて神奈川の厚木生まれ、遠いところでは秋田県仙北郡で父がマタギをしていたなどという経歴を持つものさえいる。江戸風の小粋さなど毛ほども持ち合わせていない。
「西の情報機関に的をしぼるのが一番じゃ、とわしは思っておる。奴らの暗躍は、先のNP計画破壊以外にも眼にあまるものがあるからのう。ここでひとつ、奴らの中枢にガツンと一発|鉄槌《てつつい》を下し、関東にKIOSK有り、と宣言すべきじゃ」
部屋の外ではセミの声が再び高くなった。
「昔、江戸の通人たちは、裏は花色ちりめんのすそ廻し、胴うら白|羽二重《はぶたえ》、袷《あわせ》はおりくろの無地八丈≠ネどと言って、着物の裏に凝ったもんじゃ。裏こそ大事、我々も一般大衆の目にはまるで触れることなく、相手側の機関だけがパニックに陥るといった、裏の痛手を奴らに与えようではないか。しかし、半面、裏の世界では向う十年くらいは話のタネに残るような醜聞《スキヤンダル》にせずばなるまい」
セミの声と張り合うように老人の声は大きくなっていく。
「巧妙にやらねばならん。巧妙にすればするほど、その陰謀の恐ろしさが強まり、西側の機関員や手下どもがおじけづく。やる気を失っている我が方の情報員の活動も活発になるじゃろう。さて、そこでじゃ」
人々は一斉に居ずまいを整《ただ》した。
欅《けやき》のテーブルの一番はしに坐ったチーフ・アナリストの教授だけがノンビリと煙草《たばこ》を吸いながら老人の声を聞いている。
幕内弁助。一代の怪物。戦後の混乱のさ中、細々と開かれていた関西人排斥をスローガンとする偏狭なだけが取り得の宗教団体、占領軍の宗教開放策によってやっと日の目を見た弱小教団「納豆団」にどこからともなく現われて入信するや、四畳半に机一つの教団本部をアッという間に巨大な秘密結社「NATTO」に仕立てあげ、時至ればかつての同志を次々に粛清、現在の地位を築いた男。結社の力を利用し食品会社を大コングロマリットにまで発展させた男。いずれはNATTOの上部結社員すべてがKIOSKの機関員で占められてしまうだろう。
煙草の紫煙を目で追い、ふとその先にある老人の目とかち合った。鋭い、|飾り串《アトレ》のような目だ。しまった。教授は、なに気ない風をよそおって煙草をふかす。
女子大の主任教授、危険な男だ。奴こそが最高幹部評議会の秘密監査役に違いない。老人はその横顔をグッとにらみつけ、言葉を続ける。
「今、この場で誰を目標とするのかをきめたい。教授、心当りは無いかな」
びっくりした教授は思わず煙草にむせ、二、三度強く咳込《せきこ》んだ。この化け物はどうやら私の正体を見抜いているらしい。冷静にならねば。彼はつとめてノンビリと話し始めた。
「関西にはおよそ二十近くの秘密機関がひしめいています。しかし、そのどれもが大阪商工会議所秘密会所の下請けといったところです。単独には優秀なものもいるのでしょうが、いずれも横のつながりが無く、我々にとって直接の脅威ではありません。大坂夏の陣で敗死した生駒生純の残党が集って作ったとされる阿倍野《あべの》の『上方芸能密室保存会』とか、西成《にしなり》萩之茶屋に生息する『三角公園朝市の会』――これは関西の売れない漫画家の変態愛欲グループが関東地方の売れている少女マンガ家にテロを行なうために組織されたものですな。そう、テロと言えば、下新庄の安アパートで極貧学生たちが醤油《しようゆ》やタバコの貸し借りをすることによって自然発生的に生まれた『東淀川安下宿共闘会議』という一発屋の過激派グループも知られています。しかし、彼らには元々恥というものがない。スキャンダルになろうものなら自分から吹聴《ふいちよう》して歩きかねない連中ばかりです」
教授は慎重に語り続けた。彼は、いかなる困難な情況下でも自分というものを押し隠すことに慣れている。なにしろ半年に一回は勇猛な女子大生の自治会役員と団交を義務づけられている身なのだ。訓練が出来ている。
「ですから、一応は恥を知っている大阪商工会議所秘密会所直属の誰かを狙《ねら》った方がいいでしょう」
「シークレット・ミーティング・プレス……か」
老人も、他の五人の男たちもうなずいた。
「しかし、あそこの組織はかなりのものです。情報員はすべてえり抜きの大阪人ばかり、驚くほど安い給料で死を賭《と》して働きます。私が思うに、これは、彼らが幼少の頃より『太平記』や『難波戦記』を暗誦させられて育ち、楠木正成や真田幸村を理想としているからではないかと思われます。本来大阪人というのは、戦前多くの人々に『また負けたか八連隊(大阪第八連隊、弱いことで有名だった)』と言われたように、金銭以外の争いごとはまるでダメなはずなのですが……」
教授は軽く頭を振った。
「ふむ、なるほど、な。で、教授、君個人の考えでこいつこそ、という人物を秘密会所のメンバーからリスト・アップできるかの?」
老人はあくまでもこの幹部評議会のスパイに意見を出させるつもりだ。
「我々の資料でSという名で登録されている人物がいます。あちらでは通称が『土佐堀の隠居』。秘密会所の元締めです。千成屋《せんなりや》宗右衛門《そうえもん》というのが商工会議所での名のりですが、これも本名かどうかわかりません。危険な人物ですが、表立って現われたことが無く、年齢もかなり高いため、殺しやスキャンダルの対象としては少々役不足という気がしないでもないですな」
「千成屋か」
老人は吐き捨てるように言った。
たしかに憎むべき敵だが、年を取りすぎている。こんな古狸《ふるだぬき》を堂島の道ばたで撃ち殺したところで何の得にもならない。
「誰《だれ》か、他に思い浮ぶ目標は無いかな。秘密会所の重要人物で、不名誉な死にざまを見せたら奴らが大騒ぎするような奴じゃ。心当りは……」
思わず右肘に力を入れた瞬間、老人の上体に激痛が走った。持病の神経痛だ。ヘナヘナと腰が落ちた。
ハッとなった人々が思わず立ち上ろうとした時、テーブルの一番左手でためらいがちな声が発せられた。
「定吉《さだきち》七番《セブン》……という男がいるのですが……」
人々の目がそちらに向いた。
発言したのは小柄で猪首《いくび》のダルマに似た男だった。
老人は右手をさすりながらしばらく放心の態だったが、やがてホウと息をついた。
「なるほど、定吉七番か。なるほどのう」
彼は何度もうなずいた。
「我々も年を取ったものじゃ。あれほど痛い目に合った男の名をド忘れするとは」
教授はダルマ男をにらみつけながら口を挟んだ。
「たしかに、定吉七番の名は私たちも良く覚えています。奴には何度煮え湯を飲まされたかわかりません。しかし、奴は下級の工作員です。身分もたしか丁稚……ではないかと記憶しています。そんなものを相手にしても」
「電話を……」
老人は右手の痛みに堪えながら声をあげた。
肥満体の企画室長が這いつくばって床の間に進み、そこにあった電話に手をかける。
「書庫を呼び出して、定吉七番のファイルを部屋に回してくれるよう、言ってくれんかな」
企画室長が小声で応答している間、老人は猪首の男に話しかけた。
「君は、たしかKIOSK総合殺人学校の教官だったね。名は……」
「木滑《きなめり》と申します」
男は汗をハンカチでぬぐいながら神妙な面持ちで答える。
「本日は、対外工作課長の伴でこの席に参上いたしました」
「うむ。定吉七番とは良くぞ思いついてくれた」
「我が校の生徒、私の教え子の何人もが奴の手にかかって非業の最期を遂げております。よもや忘れるようなことは」
「わしが覚えているだけでも、あの男によって挫折した大きな作戦が二つある。中国人の食品会社を使って関西の船舶製造業者にダメージを与える作戦や、大阪城天主閣の破壊作戦だ。どれも作戦発動直前に指導者を殺されて頓挫《とんざ》させられ、わしは評議会の席で大恥をかいた」
セミが急に鳴き止んだ。廊下に軽い足音が響く。塗りの盆に黄色い書類ファイルとルーペを乗せて先ほどの娘が現われた。
「定吉七番のファイルでございます」
娘は三つ指をついて一礼し、去る。
菱形《ひしがた》の中に「満食」の二文字が入ったマークが表紙に光っている。老人の右手がきかないことを知っている企画室長が袋状のファイルを開き、中から数枚の写真、タイプで打たれた報告書などを次々に取り出した。テーブル一面にそれを広げる。五人の男たちも一斉にその脇へ寄って覗《のぞ》き込んだ。
写真は四枚あった。カラーが一枚、モノクロが三枚。
老人は企画室長が太短い不器用そうな指で持ち上げたルーペ越しにカラー写真を見た。
「一九八三年阿波踊りの日、徳島市内にて撮影」の文字が下の余白にタイプで打ち込まれている。夜の徳島市内だ。広い通り一面に踊り狂う揃《そろ》いの浴衣姿の男女。女は笠《かさ》を被《かぶ》り、整然と手を動かしているが男の方は腰を下げ、手足を伸ばしていかにも野卑な姿で踊っている。中央で踊る男に矢印が付いていた。背は高い。身にまとった大阪繊維組合船場社中の文字入り浴衣がまるで衣紋掛《えもんか》けにでもつるされているように見える。腰には白地の煙草入れ。顔は半分ひょっとこ結びにした手拭《てぬぐ》いで隠されている。が、その眼は一点をグッとにらみ続けている。
ルーペが二枚目のモノクロ写真に移った。頭上に巨大なフグの大提灯が下っている。「珍味てっちり」の文字の向うには通天閣が立つ。ゴミゴミした街角だ。髪を短くカットした和服姿の男が『上天丼四百五十円・玉子二ツ入親子丼三百五十円』と書かれた看板の前で指をくわえて立っている。前掛けを付け、手には風呂敷《ふろしき》を下げ、頭にはハンチング。今どき、こんな姿の人間がまだ大阪にはいるのか! 老人は目を見はった。
「次を」
ルーペが三枚目の写真を拡大する。これもモノクロだ。川と高速道路が交差する公園のベンチ。芝生にはバラの花が咲いている。「一九八二年五月中之島公園にて撮影」の文字が打たれている。周囲がボンヤリとぼやけ、上の方には劇場の緞帳《どんちよう》のような幕がある奇妙な写真だ。中央のベンチに和服姿の男が坐っていた。こちらを向いて口を半開きにしている。まるで阿呆《あほう》の見本写真だ。目がなにかとてつもない拾いものをした時のように笑っている。おそらくこの写真の撮影者は女なのだろう。スカートの間に小型カメラを隠していたに違いない。シャッターを押す瞬間|太股《ふともも》が見えて、敵は大喜びしたのだ、と老人は推測した。
「誰かそのファイルを読んでくれんかのう」
一番近くに坐っていた部内情報課長が老眼鏡を取り出して読み始めた。ルーペはその間に四枚目の写真へ移動する。
「コード・ネーム定吉七番、本名、安井友和、身長百八十センチ。体重七十二キロ。骨細《ほねぼそ》。髪は通常短く刈り上げている。右脇腹及び左内股に刃物傷(いずれも関東方の女性工作員によってつけられたもの。くわしくは別項を参照)。右足の甲に銃創。他に学生時代同級生から移されたインキンの跡が陰嚢《いんのう》裏に有り。岩園流小具足組打ち術、並びに鎧通《よろいとお》しの術免許皆伝。スローイング・ナイフ(投げナイフ)の名手。運動神経常人より若干鈍し。運転免許原付のみ(日頃はベスパ50CCを愛用)。京三大|庖丁家《ほうちようけ》の一つ生間《いかま》流の免状を有する」
老人の肩がピクリとゆれた。
「どうかなさいましたか?」
部内情報課長がファイルから切れ長の目を上げた。
「良いから続けて」
老人は最後の写真に目を凝らした。
そうか、こ奴は上方の板前ということか。道理で丁稚のクセに包丁が上手なわけじゃな。
老人はブツブツとひとりごとをつぶやきつつ写真のキャプションを読む。
「一九八〇年十一月、船場において我が方の工作員が入手」となっている。敵の中枢で味方の潜入者が身上調査書に付いていた証明写真かなにかを盗写したのだろう。一重目蓋《ひとえまぶた》、ガッシリした顎《あご》。片えくぼ。眉《まゆ》の太さは普通だ。鼻筋は通っている。髪の毛はスポーツ刈りとは若干違うカットだ。上方風の良い男というわけだが、いかんせん、少々現代的センスに欠けている。
「……喫煙、飲酒癖無し。外国語はブータン語及びタミール語を少々。他に青森県小泊村近辺の津軽弁をこなす。変装能力まったく無し。きわめて好色。金銭感覚充分なるも買収可能の徴候無し」
さすが表の顔が歌舞伎役者だけあって、部内情報課長の読み上げる声は朗々と室内に響く。
「一昨年より、バーンズ・マーチンタイプのホルスターへ刃渡り二十八・五センチの柳刃包丁一丁を収め、左脇の下に装着、携行するようになった。それ以前は小型の出刃を使用。一九七九年までは旧日本陸軍制式の九四式自動拳銃を持ち歩いていたが暴発事故によって足の甲を射ち抜き、その後は携帯せず、刃物のみ愛用。闘争には関西風の粘りを発揮するが、苦痛にはまるで耐久力無し。持病として神経性胃炎及び神経性皮膚炎(現在治療中)」
ルーペを左手で払いのけ、老人はやっと写真から目を離して、大きく息を吐いた。
「まったくとんでもない男じゃな」
「別項も読み上げましょうか」
「うむ」
「一九七八年以来、大阪商工会議所秘密会所直属の情報部に定吉七番として登録され、現在に至るまで延べ二百人以上のNATTO及びその協力者を殺害している。定吉の名前を持つ工作員は活動中に殺人を行なう特権を有するものを指すが、名前に続く単数の番号はその中でも特に百人以上の敵を殺害したものにのみ与えられ、彼の他には六名しかいないと信じられている……。このうち三名は、今回のNP計画阻止に動いた連中ですな。我々カウンター・インテリジェンスが水戸市内で捕殺しています」
老人は部内情報課長の言葉にうなずきつつ、先を読め、と顎をしゃくった。
「この男は関西で最も危険な丁稚である。種々の作戦遂行中この男と遭遇の際は、極力戦闘を避け、お世辞の一つも使って各自上司へすみやかに報告すること。以上です。他には彼の学歴、戦闘記録等が若干残っていますが……」
「うむ、もういいじゃろう」
老人の右手の痛みは少し和らいで来たようだった。
彼は卓上に並べられた四枚の写真に左手を乗せ、室内の人々をゆっくりと眺め回す。
「さて、諸君。この男を目標とすることに異議はないじゃろう、のう」
「ありません」企画室長が真っ先に声をあげた。他の役員もそれぞれ同意の意思表示として手を上げたり、首を上下に振った。
「筆を……」
床ノ間の雲雀棚からす早く企画室長が文箱を降し、老人の目の前に置いた。蓋《ふた》を取ると数枚の短冊、硯《すずり》と筆、それに亀《かめ》の形をした水滴が現われる。
短冊を一枚取りあげると、少しの間思案していたが、やがてサラサラと筆を動かす。
「『紫陽花《あじさい》の枝を打たせて暑気払い』。まあまあの出来じゃな」
「いやあ、会長、おみごと、おみごと。季語もちゃんと生きておりますな。打つは討つにかけているんでしょう。アジサイの枝は定吉七番のこと。これはまた粋な死刑執行令状でげす」
クライアントを接待する時の口ぶりそのままに広告代理店根性丸出しの企画室長がはやし立てた。これで扇子でも持たせれば、桜川ピン助も目をむくような太鼓持ちぶりを見せることだろう。
老人はまんざらでもない、といった笑顔を人々に向けた。
「今日は暑い中、御苦労じゃった。これで我がKIOSKの運動方針が立った。具体的な作戦内容はまたおってお知らせする。ではこれでお開きにしよう。あ、木滑君だけは残ってくれたまえ。では……」
一同は立ちあがり、それぞれ仲の良いもの同士言葉を交しつつ部屋を出ていった。
入れかわりに老人の身の回りを世話する例の娘が入って来る。老人は彼女にメモを渡した。
「これを今すぐに評議会議長の自宅に届けてくれんか。それからな、青山TVの大文字《だいもんじ》と吉原の小梅婆さんの居所を至急つきとめるのじゃ」
「はい」
娘は人形のような無表情さで答える。
「上野駅地下の弘済会第十一番テナント……名前は何といったかな……」
「『十一《といち》』でございますか?」
「そう、そこに席を設けて二人を呼んでくれんか」
「承知いたしました」
娘はそこで初めて軽くほほえむと立ち上った。
室内には老人と殺人学校の教官だけが残った。
老人は小柄なダルマ形の男の方に向きなおり、ゆっくりと口を開いた。
「さて、木滑君。君の教え子の中で定吉七番と張り合える有能な人材を何人か推薦して欲しいのだが」
4 殺しの演出者
ぴかぴかに磨きぬかれた円形のステージで、マイクを握った少女歌手が高めのハイヒールの踵《かかと》を滑らせ、勢い良くひっくり返った。太目の足が白いマリン・ルックの裾《すそ》から高々と弾き出され、その奥のフリルが多目についた布キレまでもろに画面へ踊り出る。
「はい、NG」
中二階のサブ・スタジオでディレクターの大文字がなげやりな声を発した。
「まただよ」
「え、股《また》ですか?」
頭上のモニターで少女の転ぶ瞬間をアップで目撃したテクニカル・ディレクターが素っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。
大文字は、インターカムを耳から外すとパネルの上に広げた台本に顔を埋めて、情なさそうにイヤイヤをする。
「もうこれで愛実《まなみ》のやつ、五回目だもんなー」
「だいたいあの子にあんな高いハイヒール履かせるスタイリストが悪いんじゃねーの?」
ビデオ調整パネルの横で台本に書き込みをしながら構成のデブ男がつぶやいた。
「あそこのジャーマネ、カバだからねえ」
大文字はパネルの上にのび上ってガラス越しに向う側を窺う。ステージの上には十人以上の男女が群がり、尻《しり》もちをついた少女を引き起そうと大騒ぎの真っ最中だ。
インターカムを持ち上げた大文字はモニターを見上げた。
「一カメさん、愛実ちゃんを出して」
中央のモニターが目の大きな下ぶくれの少女を写し出した。
「クボ! おい、彼女大丈夫か?」
「はあ……、足は別に……、捻挫《ねんざ》もしていないようですし……、ツーケー(お尻)の方はどうだか……」
スタジオでは奴隷以下と称されるAD(アシスタント・ディレクター)、見るからに鈍そうで芋虫そっくりな青年がおずおずと答えた。
「お前じゃあわかんねえよ。愛実ちゃんを呼んでくれ」
ADが自分のインターカムを、ステージに足を投げ出したままの少女歌手に突きつける。
「アイミー、だいじょうぶ? どこも痛まない?」
大文字はネコなで声で愛称を言った。
「ダイジョウブじゃない!」
舌っ足らずな大声がイヤホーンから飛び出して来た。彼は思わず顔をしかめ、そいつを耳から遠ざける。
「んーもう、今日三度目ですよーッ。このステージきらい」
「んー、この撮りで終りなんだからさ。機嫌直して、ね」
少女は下ぶくれの顔を二倍近くもふくらませてシブシブ立ち上った。
「五度目だろ。自分の転んだ回数も勘定できねえのかよ。悪りいのはステージじゃなくて、テメエの運動神経だぜ。ああベンショー(小便)臭せえジョーショー(処女)新人は扱い辛《づ》らい」
インターカムのスイッチを切ると大文字は小声で悪態をつく。左隣の席に坐《すわ》っているタイム・キーパーの年増女性がシガレットケースを取り出しながら軽くほほ笑んだ。
「あの子の親衛隊は強力よ。いまの一言が聞こえたら大変」
「武装親衛隊《ワツフエン・エスエス》だっていうのか? チュートン騎士団の誓いが覚えられるほど頭のいいやつがいたら、ひき抜いて売り出してやるのにな」
大文字はモニターを見ながらもう一度スイッチを入れた。
「ステージを直す間、休憩」
大勢の人間が上ったおかげで靴跡だらけになったステージにセットやADが取りついて磨き始めた。
「大文字さん、外にお客さん。これわたしてくれって」
テクニカル・ディレクターが白い封筒を渡す。タイム・キーパーの女がふりむいた。
「ん、コレ?」
大文字は、受けとりながら小指を立てる。
「ちゃいますよ。トコスケ(男)」
女が眼の光を柔らげる。
封筒には署名が無い。封を切って中をのぞく。文庫本サイズの紙が一枚だけ入っていた。東京駅の洋風駅弁用に印刷された小さな栞《しおり》だった。
それが何を意味するものか彼にはわかっていた。KIOSKの指令だ。
「万難を排して急ぎ出頭すべし」
彼のドングリマナコが心もち吊《つ》り上った。日雇い労務者のような浅黒い顔の真ん中に広がったラテン風のヒゲをゴシゴシと片手でこすると、
「ちょっと」
と言ってスタジオのドアを開ける。
防音パネルに囲まれた控え室をぬけ、廊下に出た。
出口のドアを開けると、すぐそばのベンチに紺のサマー・スーツを着た男が坐っていた。彼の姿を見てあわてて立ちあがる。
「あ、車は正面につけてあります。会長がお待ちですので、急いで……」
「アクシデントあってね。オシ(時間延長)ちゃってさ。すぐ済む。あと十分」
大文字は両手を男の前に立てた。
「命令違反ですよ!」
髪を七三に分けた銀行員風の男は銀縁の眼鏡を小鼻にずり落して、驚いた表情を作ったが、その時には、もう大文字はアメリカン・フットボールで鍛えた広い肩を半分以上、サブ・スタジオのドアに押し込んでいた。
急いでパネルの前に坐り、ガラス窓からフロアーをのぞく。すでにステージの清掃は終り、アイドル歌手は中央でマイクを弄びながら、キューが出るのを待っている。
大文字は、まずかったかな? と思った。
出頭命令は絶対なのだ。KIOSKの掟では、機関員がこの命令を受け取ったなら、それが出産したての母であっても、赤ん坊を放り出し、電車の運転手であっても車輛《しやりよう》と乗客を放置して即刻指定の集合場所まで出向かなければならないのだ。
ええい、かまうものか。
彼は人差し指をテクニカル・ディレクターにサッと向けた。
フロアー内の全員が緊張する。
モニターの中で少女が歌い出す。
「三カメ、アップ! 早くしろ」
「一カメ、足から腰をナメる」
少女が身体をよじった。足があがる。さあ、これからだ。転ばないでくれ。大文字は祈った。彼女がここでまた尻《しり》モチをつけば、NG、また時間延長だ。これ以上出頭時間に遅れれば不服従の罪は確実だ。
大文字は、マーロン・ブランドのメキシコ革命劇を見て以来伸しているというサパタ髭をゴシゴシとこすった。
モニターの画面で少女がマイクを挑発的に突き出した。
「ハイ、OKです!」
サブ・スタジオの中に安堵のため息が漏れた。
「やったね」
大文字は勢い良く席を立った。
「急用があるから、俺ちょっと先に抜ける。横川さんにはよろしく言っといて」
フロアーに立っている頭髪の薄いプロデューサーを顎で差し示し、インカムを隣のタイム・キーパーに渡す。
「あー、今日はフランス料理オゴってくれるんじゃなかったのー」
彼女は口を尖《とが》らせた。
「悪りいね。スポンサーと代理店が来てんだ。埋め合せは来週絶対に……。じゃ、おつかれさまー」
背中で女がなにか言ったが、かまわずに廊下へ出る。先ほどの連絡員を伴なってテレビ局の正面出口へ向った。
あの女はそろそろ切り時だな。手近ですぐに言うことを聞いてくれるし、床あしらいも若いジャリタレと違って、それなりに良いのだが、のべつまくなしにベタベタされるのではたまらない。いずれ局中の噂《うわさ》になってしまう。大文字は自動ドアの前に立ってそんなことを考えていた。警備員が敬礼する。出口のあちこちにはハチマキをしめ、揃いのTシャツを着たやせっぽちの少年たちが三々五々たむろしていた。
「これが愛実の武装親衛隊か。末期のヒトラー・ユーゲント以下ってところが悲しいな」
連絡員が怪訝《けげん》そうな顔で迎えのベンツ600リムジンの後部ドアを開けた。
車は夕闇《ゆうやみ》の迫る南青山の通りに飛び出す。大文字は張りつめていたものが一気に背中のあたりから抜けて行くのを感じた。
彼は喫茶店の領収書や局のメモ用紙で脹《ふく》れあがったラヒューンのサファリ・ジャケットのポケットを探り、メンソールのロングサイズを取り出した。
「タバコ、吸ってもいいだろ?」
右隣の席に坐った連絡員は眼鏡の奥からチラリと彼の方を見て、細い眉を片方だけ吊りあげると、再び前方に視線を戻した。
大文字は肩をすくめ、皮張りのシートに付属しているカーライターを指で弾く。
車体が鼻先をグイッと持ち上げた。南青山から首都高速三号線の高樹町ランプに進入したのだ。左側を見ると先ほどまで働いていたテレビ局の屋上のアンテナが季節外れのクリスマスツリーのように輝いていた。
大文字はカーライターの火をシガレットに移し、一息吸って座席に深々と身を沈めた。
隣席の男は身じろぎもせずに坐っている。明らかにこの男は大文字の命令違反を非難していた。違反行為が遅刻という些細《ささい》なものであるからこそこうした無視という態度で済ませているのだろう。これが出頭拒否、逃亡となると話は別だ。KIOSKの一九七九年以降常時行動規約によれば、命令受理者がこのような行動に出た場合、命令の伝達者はただちにその者を処分せねばならない、と規定されている。
細面《ほそおもて》できゃしゃな身体《からだ》つきのこの男に俺を殺す能力があるのか?
大文字は主婦が大根の値踏みをするような眼で露骨に連絡員を見続けた。
銀行のカウンターで接客をするのが似合い、といった感じの男だ。どうひいき目に見ても、アメラグのクォーター・バックで鳴らした大文字の敵では無さそうに見える。
しかし……、KIOSKの緊急連絡員として動きまわるほどの奴、殺人者として充分な技能を身につけていることはまず間違いない。
大文字はKIOSKの中で、作戦参謀という重要な肩書きを与えられている男だった。組織の殺人技術の奥行きがいかに広いかを良く心得ていた。
さて、こいつが会長に俺の遅刻をどう告げ口するか、ゆっくり見てやるとするか。
大文字は車窓から見える日本橋の古いビル群に視線を移した。いつの間にか首都高速一号線に入っている。普段よりトラックが少ないせいか、流れが早い。
やがて車は、御徒町《おかちまち》の先、上野ランプで降りた。
少しばかり昭和通りを走り、ひらがなで「ぢ」と大きく看板を掲げた痔疾《じしつ》一筋ひさや大黒堂の近くで左に回り込み、上野駅のロータリーに乗り上げる。
夏休みにはまだ少し間があったが、駅の構内は試験を早々に終らせた学生たちの帰省客で早くもごった返している。
車を降りた大文字は、連絡員の先導で地下鉄の階段を下った。
薄汚れた壁、戦前の日本人の平均身長に合わせて作った低い天井。大文字はこの地下道へ来るたびに、海外取材の仕事でよく行ったロンドンの地下鉄《チユーブ》を思い出す。ここはあまり柄のよろしくないピカデリー(あの辺の地付きの連中はそこを「ピッカデリー・ソーコス」と発音する)やチャリング・クロス駅の通路にうりふたつだった。もっともこちらの方が浮浪者の数は若干多い。それに彼らはただ意味無くデパートのショッピング・バッグを下げてうろつくのみで、ロンドンの乞食《ベガア》のように大道芸でもやって稼《かせ》ごうなどという元気な奴は見当らない。むこうの乞食の方が上昇志向が強いのか? いや、乞食に、はたして上昇志向があるのか?
そんなことを考えながら迷路のような地下道路を進む。
これほど見離されたような場所でも、あちらこちらに成田エアポートの行く先を示す飛行機のマークが書かれている。いずれこのあたりも東北新幹線事業の余波でもって近代的な地下街に生まれ変ってしまうのだ。
やがて地下鉄銀座線改札口の脇《わき》に出た。焼鳥の焦げる匂いが鼻を突く。通路にビールのケースが積まれ、古びた暖簾が換気扇の風にそよいでいる。間口の狭い食堂が数軒、地下で奇跡的に営業を続けていた。
連絡員はホルモン焼きと書かれた紺暖簾の右側で小さく「串カツ・十一」と看板を出している店の中へ入った。
大文字もそれに続く。中は意外に広い。学生街の一膳飯屋《いちぜんめしや》といった雰囲気で、カウンターが十席、土間のテーブルが三つ、壁ぎわに畳の席が二つほどしつらえてあった。客は六分の入りといったところだ。
客の飲み残したビールを片付けていた中年の従業員が、二人の方を見て眼でうなずいた。
連絡員は店の奥まったところに下った便所を示す暖簾を分けて入って行く。大文字もそれに習う。暖簾の向うには便所、掃除用具入れ、そして「KIOSK以外の人は立ち入らないで下さい」の札がかかった三つのドアがあった。
「こちらへ……」
連絡員は、掃除用具入れの表示板の下にマグネット・キーを差し込んでドアを開けた。
中に長い通路が続いている。大文字はうなずくと頭を屈めて入った。
「ねえ、ちょっと聞いてもいいかな」
大文字は好奇心を押えきれない、といった声で先導者に質問した。
「……何です?」
渋々ながら口をきいてやっている、という風情だ。
「いつも気になっていたんだけどさ。隣のドアに『KIOSK以外の人は……』って書いてあるじゃん。あすこを開けるとどうなってんの?」
「ドアを開けると、五メートルほど通路が続いています。その先には四畳半の部屋があって……、床が抜けるようになっています」
「ワナというわけか」
「落し穴の下は池です。緑色のクロコダイルが一匹飼われています。鼻先から尾のところまで四メートルはあって背中にラコステと書いてある奴です」
「上野駅の中に鰐《わに》だって?」
「KIOSKの秘密を探りに来る連中向けに考え出したブービー・トラップです」
「店に来た客で、トイレと間違えて開けちまうやつもいるだろうに……」
「二ヵ月にいっぺんはそんなドジがいるらしいですよ」
連絡員は事も無げに言ってのけると、突き当りにあるもうひとつのスチールドアをノックした。
軽い音を立ててドアのノブが回転した。
「参謀をお連れしました」
「御苦労さま」
若い女の声である。
部屋の中はやはり薄暗かった。打ちっぱなしのコンクリートの壁を間接照明のライトが照している。まるで麻布《あざぶ》あたりのクラブ・ハウスだ。床にはタイルが敷きつめられていた。中央に鉛の匂いがする金属張りのテーブル、数脚のスチールチェアが回りに並べてある。三つの人影が見えた。
二人は女だ。和服の帯のシルエットでそれはわかる。
奥に小柄な人影。その影へ先ほどの連絡員が身をかがめて進んでいった。
会長か。連絡員め、俺《おれ》が意識して遅刻したことをネチネチと密告しやがるな。
大文字は平然とテーブルの前に歩み寄った。
「やあ、遅れて申しわけないです。ビデオ撮りが長びいちゃって……」
ことさら明るい声をあげて彼は一番手前の椅子《いす》に勢い良く腰を降した。
ボブ・ヘアーの娘が音も無く近付き、茶を前に置いた。
「やあ、円《まどか》ちゃん、元気だった?」
女は無言で離れていった。会長の世話焼いてる娘か。なんだか個性の無い女だな。まさかこの爺さんとデキてるわけじゃねえだろうな。こうやって見ているとなかなかいいマスクなんだけどなあ。かまやあしない。いずれ隙《すき》を見てコマしちまおうっと。
「遅れた理由を聞こう」
老人の声が響いた。
「申しわけありません。しかし会長も御存知の通り、テレビ局というところは多人数が出入りするところでして、敵の目が光っています。出頭に際しては私の身分が露見しないように多少の工作時間を必要とします。もっとも今日のように連絡員が堂々と来られてはあまり隠しようがなくてこまりましたがね」
「御徒町三号」
老人は連絡員のコードネームを呼んだ。
「明日屋敷の方に出頭すること。今日は下ってよい」
連絡員は大文字を横目でにらみつつ去って行った。
ザマあ見ろ、ただの連絡員のクセしやがって、作戦参謀の俺を密告しようとするからこんな目に合うんだ。会長はな、俺の言うことの方を信じるんだぜい。
「その写真と企画書を見るのじゃ」
大文字はテーブルの上に置かれたコピー用紙と写真を取った。
「さて、先ほどの話の続きじゃが……」
老人は彼の隣の椅子に坐っている人影に向きなおった。
大文字は壁の間接照明に首を傾けてまず写真を見た。
間抜けなツラをした野郎だな。髪の毛が短い。スポーツ選手かな? 何々、丁稚だって? ははあ、話に聞いた関西の殺人丁稚というやつか。
続いて企画書を読む。
今度はこいつを消すのか。しかもスキャンダルをでっちあげて。相手が丁稚だからといって……。こんなシャレ、当節の小学生だって笑わねえぜ。しかし、楽なもんじゃないか。酒は飲まないけど、女にはからっきし弱いって話だし、大阪人は、トコトン銭で追いつめれば最後にゃコロリと行くもんだ。楽勝、ラクショウ。
「今すぐに言えることは……」
大文字の耳もとへ、不意に、洗濯板をこすり合わせたようなゴリゴリした声が飛び込んで来た。
彼は隣の席を見た。
声の主は大柄でガリガリの老婆だった。薄くなった頭を古風な丸髷《まるまげ》に結い、和服の襟元を思いっきり開けている。洗濯板が鳴るたびに、平たい長円形の頭が左右に揺れる。
うへっ。またこのババアと一緒に仕事をするのか。色っぽくねえなあ。こいつと組むぐらいなら、伊豆七島名物「慣れるとおいしいクサヤの干物」とチーク・ダンスでも踊ってた方がよっぽどいいや。大文字はそっとため息をついた。
「三年ほど前に私がやった『猫神佐平スキャンダル工作』と情況が酷似してますね。ほら、御前《ごぜん》もおぼえておいででしょう。NATTOから西側に寝返った九州佐賀の田舎成金ざんすよ」
大文字は胸の中で舌打ちした。クソ婆アめ。その件なら俺も知ってらあ。計画は全部俺がたてたんじゃねえか。テメエはただ手を下しただけだぜ。
「あん時も、さんざっぱら猫神の評判を落してから冥土《めいど》に送りつけましたっけねえ。けど、あれは相手が普通以上におっちょこちょいだった……」
歯切れのいい下町言葉もこの老婆が話すと人里離れた秘境の方言に聞こえる。大文字は黙ってコピーを読むそぶりをした。
猫神佐平の件か。たしかにあれは手間いらずだった。好色で、そのクセ体力の衰えを人一倍気にする男だった。まず精力絶倫の美女を多数、彼のもとに送り、ヘトヘトになったあたりで高名なセックス評論家にガセネタを吹き込ませる。たしか……、一日一匹分の猫の生肉を食べればアチラの方は大丈夫というものだった。奴《やつ》がそれを始めると、頃合いを見て動物愛護協会に密告した。あの時はスゴかったなあ。ウチのテレビでキャンペーンを張ったおかげで世間は大騒ぎ。イギリスのマスコミは反日運動まで起しやがった。しかも、当の佐平は猫を生で食った報い、サナダ虫やらジストマを胃の中に育ててアッと言う間に衰弱死した。
それにしても、と大文字は思った。この干物のような殺人婆さんと俺はいつまで組まされるのだろう。
彼はマスコミ人らしく、自己の嫌悪感と好奇心をハッキリと区分けしていた。
彼の好奇心は、磁石が鉄片にすいよせられるようにこの老婆方へ向っていた。
深川小梅。もちろん芸名だ。骨格から判断すると、若い頃《ころ》はスラリとしたイイ女だったに違いない。下町の主のような顔をしているが、恐らく東京《ここ》の生まれであるまい。玉ノ井(現在の墨田区墨田三丁目)の真中で銘酒屋《めいしや》と呼ばれる私娼窟《ししようくつ》を何軒か経営し、売春防止法の施行以後もヤミで荒稼ぎして名を馳《は》せた女だ。その前は辰巳《たつみ》芸者だったとか。
部内資料によれば、一時期満州の奉天で満鉄御用の日本料理屋もやっていたとある。会長と知り合ったとすればそこだな。これだけなれなれしく口をきくところを見れば、どうやら爺さんの囲い者だった時期もあるようだ。殺人者としての技術を習得したのもその頃か。料理屋を経営する傍ら、関東軍の望月直実少佐が指揮する特務機関に属し満蒙の反日運動家を次々と血祭にあげてスコアを稼いだ。戦後、KIOSKが創設された際、いち早く参加しているが、それはなにも関西人が憎いからじゃない。若い頃覚えた殺しの味が忘れられなかったからだ。
「雀《すずめ》百まで、とは良く言ったもんだぜ」
大文字は口の中で呟《つぶや》き、老婆の筋ばったうなじを見た。
真白く塗りあげられた襟もとが薄暗い室内で、海中の生き物のように蠢《うごめ》いている。
私娼窟で儲《もう》けた金を元手に土地を買い、貸しビル業を営み、今では、十指にあまる料理屋、レストランのオーナーだ。この「十一《といち》」も彼女の持ちものである。
殺しの稼業というものは、本来孤独で、神経が脆《もろ》くなりやすいものだ。生真面目《きまじめ》に殺人ばかり続けていると、ちょうどアルマイトの弁当箱の中に入った梅干しが、そのピカピカ光る表面をジワジワと侵食し、ついには穴を開けるように、プレッシャーがたまり、自壊する。
そのため優秀で長続きする殺し屋は、たいてい常人とは異ったストレス発散法を持っている。ほとんどの奴は性的倒錯者だが、この小梅婆あもその例に漏れない。彼女の場合は同性愛だ。いや正確にいえば男の方にも興味は無くはないらしい。しかし、この年(部内資料によれば大正初年生まれ、年齢七十二)ともなれば近づく男とてなく、仕方無く自分に忠実な女弟子たちへ手をつけているのだ。
大文字はKIOSKの一員ではあるが、マスコミ人には珍らしく正常な神経を持っていた。自分をも第三者の眼で眺めることのできる冷静な男である。この見るからに薄気味悪い老女との仕事はできることなら放り出し、この場からとっとと帰ってしまいたかった。しかし、そのようなことをすれば死の影が及ぶのは彼なのだ。逃れる道は一つ、与えられた共同作業を早めに片付けることのみ。
「いや、小梅さん。あんたの状況判断は毎度のことながら適確じゃ。さて、次は大文字君、君が今聞いた話から立てられそうな計画を一つ言うてみてはくれんか。いや、思いつきでもかまわん」
会長幕内弁助のしゃがれ声が大文字の耳に入って来た。テーブルの端で老いた鳶《とび》にも似た眼が光を放っている。白髪が植えられた安物の鰹節《かつおぶし》みたいな頭と枯れ木のような手が和服の中からこちらを窺《うかが》っていた。
大文字は手にした企画書をヒラヒラと振りながら、まるで冗談を言うように明るい声を出した。
「この定吉七番を殺すのは、手間と時間さえかければそう難しいことではありません。折詰弁当の中に爆発物を仕込んで送りつけてもいいですし、通勤ラッシュの中で、――もし定吉が通勤電車を使うなら、の話ですが――痴女に化けて接近攻撃をかけるのも可能です。しかし、辱めて殺すのならチョッと難しい。それには舞台を選ばなければいけません。我々の力が充分に及んでいる土地、すなわちこの東京に誘《まね》き出すのが良策です」
彼は老指導者の方を見るふりをして、実はその横に立つ前髪を切り揃えた娘を見ていた。眼もとが心無しか笑っているようだ。どうやら受けているらしい。こりゃあ脈がある。大文字の心臓の鼓動は少年のように高まった。
「会長は鮎《あゆ》の友釣り、というやつを御存知でしょう。鮎という魚は川の中にそれぞれ縄張りを持っている。そこへ生きたのをもう一匹放り込むと、猛然と襲いかかってくる。この習性を利用して、生きた鮎に針をつけたのが友釣りです。生餌《いきえ》を定吉の大好きな食欲と性欲でまぶし、目の前でちらつかせ、しかもそれを手に入れる可能性の最も高い者が自分だと思わせれば、定吉は大阪という川瀬の岩から勢い良く飛び出してくるでしょう」
大文字はここで一息つく。
「それがたとえ我々の挑戦だ、と途中でバレても彼は攻撃を止めないと思います。鮎は、その近くに釣り人が居ることがわかっても、目前の鮎に食いついて行くものです」
彼は自信を持ってそう言い切ると、娘の方にそっとウインクした。
「なるほどのう。梅さん、どうかな? この大文字君の意見」
弁助翁は、皺《しわ》の中から、鳥の嘴《くちばし》のような鼻を老婆に突きつけた。
「良うござんすね。早速、生きが良くって見栄えのする餌を一匹、うちの生け簀《す》から見つくろって来ようじゃあありませんか」
老婆はケタケタと笑い出した。
大文字はこの老女の笑いを幼い頃にディズニー映画で見た記憶があった。
白雪姫に毒リンゴを与える魔法使いのお婆さんそっくりな笑い方だった。
5 深川の女
何が浅いといって、今日《こんにち》隆盛を誇っている我が国のモータリゼーションほど底の浅いものはない。
日本人の若年低所得者層がごく気軽な感じで、たとえば、アラバマの農夫がジーンズを身につける気安さで車を乗りまわすのと同等に、車を所持し、楽しみ出したのは、たかだか、ここ十七、八年程である。
それ以前、モータリゼーションの初期の頃には、いろいろと変った、今思えば赤面するような風習がはびこっていた。その大なるものが車内過剰インテリアと、オーナーの夜郎自大《やろうじだい》精神から来る独特な路上マナーである。
双方ともに日本人の民度の低さから出ていた。
前者は、家庭の経済を切りつめてやっと手に入れたうれしさと、自分の狭い住居にもう一つ車という部屋が増えたという勘違いから車の中をアクセサリー類でゴテゴテに飾りつけ、意味無く視界不良を起し、事故を多発させていた。
後者は、車を交通手段ではなく、ステータス、自分のランクを他人より引きあげる宗教的な法具と見てしまったために自己の精神を肥大させたもので、歩行者をまるで古代の王が奴隷を見るような目で見、その頃は珍らしかった女性ドライバーを発見すると寄って行って嫌がらせをした。自分が苦心|惨憺《さんたん》して手に入れたドライバーの地位に他人が同席することが堪えられず、また、女性自体の能力を必要以上に低く見積っていたため、たまにメカを扱う異性が現われると、闇夜《やみよ》に鎖鎌《くさりがま》をふりまわす宍戸梅軒《ししどばいけん》の妻を見たような恐怖を感じるのだろう。
こうした風習は今ではだいぶ廃れた。同じことを体験しようとするなら、インドかパキスタンの路上まで足を伸ばさねばならない。
もっとも国内でもかろうじてこの風習が生き残っている地域は存在する。前者の過剰インテリアは、大都市のドーナッツ地帯、関東でいえば川崎、立川、川口、市川、と川の名が付く場所になぜか時おり見かけられる。しかし、これとてもたまにその車が走れば沿道の年寄りが駆け寄って伏し拝むほどに珍らしく、現在では、文化人類学の研究対象にまで昇華されている。
女性ドライバーに対する嫌がらせの方は、地方に行けば行くほど失われているようだ。なぜなら、地方では女性ドライバーの比率が高くなり過ぎ、別に珍らしくはないからである。
この風習は逆に東京・横浜の下町に多い。
立穴《たちあな》裕子が声をかけられたのもそんな町中の路上だった。
「よう、ネーチャン。いい車乗ってんねー」
突然頭上からダミ声が降って来た。
斜め上を見上げると、腹話術の人形にそっくりの間抜けヅラが、十二トントラックの助手席からこちらを覗いている。「関東無宿」やら「涙の渡り鳥」といったお定まりのキンキラ看板も付けていない。ごくシンプルなアルミ・ボディの貨物トラックだ。ナンバーは足立。どうやら地元の車らしい。
裕子はしかとをきめこんだ。
「ねー、暑くないの」
たしかに暑かった。こんなことなら地下鉄東西線に乗って来ればよかったのだ。箱崎《はこざき》のインターを出て、清洲橋《きよすばし》を渡ったあたりで渋滞に引っかかった。ふと気がつくと回りは葛西《かさい》や北砂《きたすな》に向うトラック群でいっぱいだった。
「それはネーチャンの車なの? それともパパのかな? パパにいいことしてその車買ってもらったのかなあ?」
運転席に坐った中年の男がしきりに止めているが、助手席の間抜けヅラは呼びかけるのをやめない。
裕子は唇を噛《か》んだ。夏だからといって、車内丸見えのこんなオープンカーに乗ったのが間違っていた。赤と白、シヴォレー・コルベットのツートン・カラー。通は「ヴェット」と呼ぶ五八年型だ。たまに動かさないとイカレてしまう、といって自宅の車庫の奥から持ち出して来たのだった。
「何とか言えよ。スベタ」
無視されっぱなしで相手は頭に来始めたらしい。
まわりの車輛はこのやりとりの一部始終をちょうど良いヒマつぶしと思っているらしい。渋滞は依然として続いている。
周囲の運転手が皆自分のことをどう思っているか、下町育ちの裕子にはよくわかっていた。ウィークデイの真昼間、ハデな車を産業道路に乗り入れる。どうせろくな商売をしていないアバズレと見ているのだろう。そうした無言の同意の上に立ってトラックのバカは居丈高にわめいているのだ。暑い中、仕事で疲れきった神経を休めるちょうど手頃なカタルシスが自分なのだ。
「お高く留ってんじゃねえよ」
耳もとで何かが風を切った。リアウインドウの縁、銀色に光るラインの端にコーラの空きカンがアルミ特有の甲高い音を立てて当り、跳ね返った。
裕子は黒いプラスチック縁のサングラスをゆっくりと顔から外した。その下から、女にしておくには惜しいと親にまで言われた太い整った眉と大きな二重瞼《ふたえまぶた》の眼が現われる。ラテン系の血が混っているといっても通りそうな顔立ちだ。
首を一振り、漆黒の長髪を右手で優雅になでると、シートの背を鞍馬《あんば》の要領でポンと乗り越えてドアも開けずに車外へ飛び出した。一瞬、彼女の赤いサブリナ・パンツと黒のスカーフが路上の風と一体になった。
次の瞬間、後方のトラックのステップに片足をかけている。
そのまま一気にトラックの助手席側のドアのノブをまわした。
腹話術人形の顔が驚きのあまり目を一杯に開いている。
そいつの顔面と下腹にイタリアン・レッドの、|五〇年代《フイフテイーズ》風に作られたピカピカのパンプスが一気にめり込んだ。
痛みで体を折り曲げると、すかさず後頭部に手をかけ、勢い良くダッシュボードにその顔をたたきつける。
すべてはほんの数秒の出来事だった。
「ガキが聞いたふうな口たたくんじゃないよ。あたいを誰だと思ってるんだい。鳥越おかず横丁のお裕と言えば、ちっとは知られたお姉さんだ。なめんじゃないよ。だいたいてめえらみたいな昨日まで荒川の向う岸でイモ洗ってやがった肥《こ》え桶《おけ》かつぎと、代々続いた江戸っ子が同じ足立なんてナンバー付けさせられていること自体おかしいんだ。やい」
ダッシュボードに顔を当てたままうめいている男の襟首を持って引きもどした。
顔面は血と涙とよだれでグシャグシャだ。
「これで懲りたら、もう二度と道ばたでバカな声張り上げんじゃないよ」
助手席の男は痛みをこらえながら小さくうなずいた。彼女はもう一度靴の爪先《つまさき》を男の下腹にたたき込んだ。
中年の運転手があわてて同僚に手を伸した時、すでに彼女はステップから路上に滑り降り、ひらり、とスポーツカーに飛び乗っている。
と同時に、渋滞していた車輛が一斉に移動を開始した。
シヴォレーは、小気味良い音を残して走り出す。
トラックの運転手がグッタリとした血だらけの助手を歩道に降し、手当てを始める。後方ではそのトラックのために新たな渋滞が起き、非難のクラクションが大合唱を始めた。
向いの歩道から事の成り行きを見物していた畳屋《たたみや》のオヤジがヤカン片手に一人感じ入っていた。
「いやー、てえした女《あま》だ。今時《いまどき》の若けえ男でも、ああいうスカッとしたタンカが切れて、そのうえ手際のいいケンカができるヤツはめったにいねえ。足立ナンバーか、うめえこと言いやがる。長生きはするもんだなあ。久しぶりに死んだカカアの啖呵《たんか》を思い出したぜ」
オヤジは先ほどまで「真っ昼間っからチャラチャラした車でイキがっていやがる女なんかタップリとからかわれりゃいいんだ」とつぶやいていたのだった。目前で行なわれた鮮やかなケンカの手並にスッカリ心を奪われてしまったこの単純な畳屋は、最前までの自分の考えなどまるで忘れて、去って行くコルベットの特徴あるお尻をいつまでも見送っていた。
現在では東京湾もかなり沖合いまで埋め立てが進み、深川《ふかがわ》・木場《きば》あたりは海からずいぶんと離れた土地になり果てているが、寛永・正保頃の江戸古地図で見ると、ここら辺は、波の打ち寄せるデルタ地帯。絵図の中で目立つものといえば半農半漁の小さな漁師町がいくつかと、富岡八幡《とみおかはちまん》宮のみである。八幡宮そのものの開基はきわめて古い。この境内を中心とした地域、小名木川《おなぎがわ》から下流の部分は当初|永代島《えいたいじま》と呼ばれていたのだが、江戸が膨張、発展を続けるうちにいつしか門前町が付き、他の日本の各地にある門前町の多くがそうであったように歓楽街を内包することとなった。江戸市中で幕府公認の遊所といえば吉原のみであるから、ここは俗に言う岡場所《おかばしよ》である。しかし、隅田《すみだ》川をへだてて、かつては御府外であったことから特別に目こぼしされていたため、深川には岡場所特有の陰湿さが少なく、また、江戸近接の四つの宿場遊所、品川、新宿、板橋、千住のような田舎臭さも無かった。ために江戸の粋人は競って隅田を渡って遊興し、高名な料理屋、茶屋は彼らを目当てに次々と店を建て増していった。
彼らをバックアップする人々が地元にも多かった。木場の材木商、漁師の網元、隅田川両岸の倉持ち、本所・両国の武家屋敷に住む江戸勤番の上級武士といった懐の豊かな階級である。
深川の接客女性は、彼ら遊びなれしたパトロンたちに接するうちに、独特な気質を育てていった。宵越《よいご》しの銭は持たない江戸っ子気っぷ、男まさりの行動力「侠《きやん》」が彼女らの売りになったのである。姿も、男羽織に素足で座敷にあがる。これを羽織芸者、と呼んだ。俗に言う辰巳芸者だ。かつてその粋《いき》な姐《ねえ》さんたちを乗せた屋形船が行き来したという仙台堀川を渡った五八年型コルベットは、首都高速九号線の下あたりで左折して、深川不動、富岡八幡の裏手の路地を器用に走り抜けた。
地下鉄東西線と並行して流れる大島川から分岐した小さな掘割りの脇で、裕子は派手な塗り別けの車体をゆっくり停《と》める。
目の前に、枝ぶりの良い松が黒塀の上からのぞく古風な平屋の建物がある。
塀越しに木場小唄《こうた》が流れて来る。
初春や木場は紀文の昔より派手な気性の江戸育ち
裕子は車のキーを抜き取りながら、ふと自分の愛車「ヴェット」のボンネットをながめ、軽くほほえんだ。
助手席からパラシュート地のバッグを持ちあげると、ひょいと肩にからげ、黒塀の脇門から中に入る。
アサガオ、ホオズキ、オモトの鉢植え、ヤツデの植え込みが打ち水にぬれて光っている間口二間の玄関先。上がり框《かまち》に紫座布団を敷いた招き猫が置かれ、隣で本物の三毛猫が両足を広げてねむりこけていた。ブーンというクーラーの音に混って、どこからか風鈴の音《ね》も聞こえて来る。
「おじゃましまーす。裕子ですう」
一声かけると彼女は靴を脱ぎ、きれいに合わせて爪先を表の方に向けた。先程、足立ナンバーのバカにヤキを入れた時の名残り、ドス黒いシミが自慢のパンプスに少しばかりハネているのを見つけて顔をしかめる。
と、その時、玄関脇の小部屋から中年の女が首を出した。
「おや裕ちゃん、今日は早いね」
「あら姐《ねえ》さんこそ」
「冷たい麦茶があるよ。こっちへおいでよ」
「はい。先に着代えてから……」
彼女は奥の化粧部屋へ足早に入った。
鏡に掛けられた鹿子《かのこ》の被いを払い上げ、正座する。自分の顔をじっと見た。
高校時代つき合っていたBFは彼女のことを、デビューしたての名取裕子にそっくりだ、と言ったことがある。今は故人となった高名な日本画家は、彼が美学校の学生だった頃に浮き名を流した女流画家の名をあげ、彼女の横顔から眩《まぶ》しげに眼を逸《そ》らせた。
ひいでた額にかかる黒髪を右手の人差し指でちょいと上げてみる。
たしかに、その老芸術家が描いた有名な屏風絵、今では中学の美術教科書にも出ている美人画のモデルとなった閨秀《けいしゆう》画家に彼女は生き写しだった。
あの絵の題は、たしか「洗い髪」……だったわね。
裕子は肩までかかる豊かな髪を、両の手で耳より上に持ちあげてみる。絵と同じスタイルをとってみる。本当に、あのお爺ちゃんのお相手とそっくりね。いや、少し私の方が目が大きいかしら。鼻も作りがバタ臭いわ。
彼女は鏡に向って眼を細め、小鼻に皺《しわ》を作って、アッカンベーをした。舌をちょろりと出す。明治も末の頃に活躍した女性と今の自分を比べたバカバカしさに思わず頬を赤らめた。
汗取り粉のパフをポンポンとうなじに軽く当て、服を脱ぐ。その下から美事に引き締まった若い肢体が現われた。身長は一メートル六十七、八センチ。皮肉なことにこの現代的なスタイルだけが、辰巳芸者裕子の唯一にして最大の欠点だった。和服姿になると肩が大きく張って見える。着物というのは元々胴長ののっぺりしたスタイルにこそ映えるのだ。裕子のお座敷での人気をねたむ朋輩たちは、まるで「はとバスツアー」の白人観光客が日本土産のゆかたを羽織ったみたいだ、と陰口をたたいているという。
ふん、言いたいやつらには言わせとくさ、と彼女は思った。誰《だれ》が何と言おうと今の裕子は年間の玉の本数が、深川で一位。三業組合での受けも良く、ここ一、二年は川開きや消防庁、団扇、三味線のCMモデルに、引っ張りだこの超売れっ子なのである。
手早く浴衣に袖《そで》を通して帯を巻く。キュッという鋭い衣擦《きぬず》れの音が三畳の小部屋に響く。この音が彼女は大好きだった。
鏡に背を向けて帯の形を整えると、化粧道具を片付け、棚の上に掛けられている自分の三味線を取り上げた。
奥の部屋から、いかにも初心者といったまずい小唄の調べが聞こえてくる。木場|界隈《かいわい》の小唄会へ新規に入った若旦那《わかだんな》が稽古《けいこ》を付けてもらっているのだろう。木材商は宴席で小唄が歌えないと一人前の顔ができない。そのため川並《かわなみ》の社長連は、自分の後継《あとつぎ》が大学を出る頃になるとこうした小唄の師匠のもとに通わせるのだ。
奥の間で座敷犬が遠吠《とおぼ》えするような声を張りあげているのもそんな後継者の一人らしい。
幾度もカセット・テープをリターンしている。曲は「辰巳の左褄《ひだりづま》」、か。
廊下から声がかかった。
「裕ちゃん。『倉家』の鈴恵姐さんからお電話」
「はい、どうも」
倉家とは裕子が属している置屋の屋号である。彼女は住み込みの芸妓ではないため、看板料を収めているだけの関係だ。表向きは……そうなっている。
取りつぎの姉弟子に礼を言って受話器をとる。
「桃千代さん?」
「あら母さん、何の御用?」
言わずもがなのことではあるが、ここでいう母さんとは本物の母親のことではない。置屋の経営者を指す。この鈴恵姐さんは、名義だけの置屋を経営し、座敷にも出る典型的な深川芸者だった。彼女はお座敷以外では、裕子のことを皆と同じように「裕ちゃん」と呼ぶ。それが今日は正式な芸名で呼び出した。これはいったい、どういうことなのだろう?
裕子は襟元を正して受話器を持ち直す。
「コードナンバー三よ。すぐに千束《せんぞく》まで行ってちょうだい。三十分後に大門横の『十一茶屋』。桜鍋屋さんの並び。わかってるわね」
いつもの鈴恵とは打って変って冷たい声だった。葬儀屋の取り次ぎでもこんな暗い声は出さないだろう。
「……でも、母さんいったいどういう……」
「『KIOSK』の指名よ。それだけ」
電話は向うから切れた。
彼女はツーツーと断続音を発する受話器を見つめ、数秒間|茫然《ぼうぜん》と立ち尽していた。
来た、とうとう来てしまったのだ。
彼女はゆっくりと受話器をもどすと下唇をキュッと噛んだ。
コードナンバー三とはKIOSK下部組織員の出頭命令だ。それも並の命令ではない。あの深川小梅の特別指名だ。その名を聞くだに恐ろしい、あの殺人狂の老婆が自分を呼んでいる。これは懲罰措置なのだろうか?
何か、何か私がKIOSK組織の芸妓としてやってはいけないことを過去にしてしまったのではないか。それでコードナンバー三というわけなのか?
一週間前、お座敷でKIOSKの幹部の一人が酔って絡《から》んで来た際、ブレンバスターを懸けてしまったのがいけなかったのかしら?
それとも、十日前のお座敷でNATTO上級評議員が着物の胸元に手を入れて来た際ふりはらうつもりでウエスタン・ラリアートを懸けてしまったのがバレたのかしら。それとも一ヵ月前お座敷でフライングクロスアタックを……。
ああ、プロレスの技なんか覚えるのではなかったわ!
裕子の心は千々に乱れた。
帯の間に挟んだロレックスオイスター≠フ男物時計をながめる。そうだ、なにはともあれ一刻も早く指定の場所まで行かなければ。新たな恐れが彼女を襲った。
もう着代えているひまは無い。このままの姿で出よう。場所は知っている。浅草観音の裏手の辺だ。車では逆に時間がかかってしまうだろう。先程の清洲橋《きよすばし》のトラブルでそれはわかっている。地下鉄なら十五分とちょっと、というところか。
玄関のゲタ箱から赤い鼻緒の駒《こま》下駄を急いで取り出した。
「あら、裕ちゃん。どうしたの血相変えて?」
「姐さん、今日のお稽古休ませていただきます。すいませんけど、お師匠さんにもそう言っといて下さい」
「そりゃあいいけど、いったい……」
怪訝《けげん》な面持ちで姉弟子は裕子の後姿に問いかける。
「コード……、コードナンバー三があたしに出たんです」
「えっ!?」
驚いて口をポカンと開けた姐さんに頭を下げ、裕子は小走りに門を出た。
「小梅さんに呼ばれたのね。何てことでしょう」
小部屋で三味の音を合わせながら雑談をしていた姐さんたちもその声を聞きつけて玄関先に現われた。ついでに三毛猫もエサの時間と間違えて出て来た。
「ヘタするとあの子、もう二度と五体満足で帰ってはこれないかもねえ」
「切り火をするヒマもなく出てっちゃったじゃないの」
「深川の小梅さん……。おおいやだ。くわばらくわばら」
ゲタ箱の横へ一列に並んだ女性たちは裕子の背中に向って皆口々に神田の明神様やら湯島の天神様、お題目、お念仏、果ては浅草|田圃《たんぼ》の太郎稲荷、ゾロゾロのわらじ様の名前までとなえて裕子の不幸をあわれみ、その苦しみが少しでも少なからんことを祈った。
それは、あの古代クレタ島の半獣人ミノタウロスに毎年|捧《ささ》げられる少年少女たちの船を見送るアテナイ人たちを彷彿《ほうふつ》とさせる姿であった。
6 エサと針
「吉原」と呼ばれた巨大な遊興街がかつて東京には存在していた。今、そのような地名はこのテクノポリスのどこを探しても無い。一応、行政上はそうなっている。東京主要地名一覧にも、二十三区別電話帳にも、ノーボスチ通信社部内発行による極東派遣コミチュート・ゴスダールストベンノイ・ベス・オパースチノスチ(早い話がKGB)向けマニュアル「みんなの東京」地名編にも出ていない。しかし現に町は機能し、YOSIWARAの名は遠く、パリ・サンドニの横丁にまで聞こえている。実に不思議といえばフシギな話なのだが、タネを明かせばたあいも無い。戦後、東京都の行政官が自分達の仕事を割良くこなすため、由緒正しい「吉原」の町名を消してしまっただけなのである。
ともかく町は新風営法も何のそのといった勢いで隆盛をきわめていた。場所は地下鉄銀座線の終点浅草駅、または日比谷線|入谷《いりや》駅から女の足で十五分ほど。金竜山浅草寺《きんりゆうざんせんそうじ》の裏手にあたる。
深川で電話を受けてから正確に三十分後、裕子は吉原|大門《おおもん》そばの有名な「見返り柳」下に立った。
斜め向いには、かつて吉原遊郭全盛の頃、登楼する人々が精をつけ、またシモの病を蹴飛《けと》ばすとのゲン担《かつ》ぎでくり込んだ馬肉料理屋「中江」がある。
ちょうど下足番の老人が桜印を染めた黒い暖簾《のれん》を入口にひっかけている最中だった。
磨き抜かれた戸口の桟が午後の日差しを浴びてキラキラと輝いている。
「十一《といち》茶屋」はその一軒置いた先に、純白の目隠し壁と青瓦《がわら》の庇《ひさし》を張り出して、ひっそりと佇《たたず》んでいた。
このあたりではよく見かけられる、何の変哲も無い純和風トルコ、ソープランドだ。
御入浴料と書かれた電動の看板がクルクルと回転し、すでに営業中であることを示している。
裕子はその看板の前に立ち、とまどった。
こんな時、初めての女はどうふるまえばいいのだろう?
正面入口の鏡張り自動ドアに青ざめた自分の顔が映っている。
意を決して一歩踏みこむ。中には白砂を敷きつめた和風の庭があった。ひょうたん形の池が中央に穿《うが》たれ、赤い太鼓橋がかかっている。植え込みの木々はすべてビニール製で、その前に緋毛氈《ひもうせん》敷の腰掛けが置かれていた。どうやらそこが待合い室ということらしい。
裕子がおずおずと腰を下しかけた時、太鼓橋を渡って一人の男が現われた。
白の半袖シャツに黒の蝶《ちよう》ネクタイ、黒のトラウザースに黒いトカゲ皮のベルト。のっぺりとしたサラリーマン風の男。
「深川十六号さんですね」
先の尖《とが》ったアレン・エドモンズの靴の踵《かかと》をカチリと合わせ、プロシア風に会釈する。
「は、はい」
裕子はおどおどと返事をした。
「司令がお待ちです。あちらのエレベーターで三階へ。降りたら突きあたりの部屋です」
男は奥の部屋を指差した。
裕子はペコリとおじぎをすると小走りでそちらの方へ向う。
エレベーターのボタンを押して中に入ると、深く息をついてそっとつぶやいた。
「磔台《はりつけだい》に上った八百屋お七も、仙台侯の屋形船に乗り込んだ高尾太夫もこんな気分だったのかしら。鶴亀《つるかめ》、ツルカメ」
ガタン、とエレベーターは止まり、目の前に長い廊下が現われた。三階に着いたのだ。
むっとする香料の匂《にお》いが鼻を突いた。香水と消毒液、そしてこの町で一番消費が激しい工業製品――プロピレングリコール、ラウリル硫酸塩、パラベン、ラノリン、――浴場用発泡剤と乳液の匂いだ。
裕子はそっとドアをたたいた。
「お入り」
しゃがれ声が聞こえた。
「深川十六号、命令により出頭いたしました」
薄暗い部屋だ。ドアを後ろ手に閉めて頭を下げた。
「こっちにおいで」
部屋の中央にブルーの円形ベッド。壁面は真紅のイタリアンタイル。ところどころのくぼみに女神ダイアナやらビーナス、エロスといった安っぽい石膏像《せつこうぞう》がはめ込まれ、造花がその足もとを埋めている。典型的なラブ・ホテル風のインテリアだ。ベッドの向う側、部屋の一番奥、孔雀《くじやく》を描いた金の衝立《ついた》ての中から声は聞こえて来た。
裕子は一歩室内に踏み出し、ゾクッとしてその足を引っこめた。
あまりにもフカフカのカーペット。駒下駄を履いた彼女のくるぶしまで埋ってしまいそうな柔らかさ。
まるで地獄の底無し沼に足を踏み入れたかのようだ。
大柄な人影が衝立ての脇《わき》から現われた。身長は裕子と同じほどもある。最初は、男性ではないかと彼女は思った。人影はベッドの横に坐《すわ》り、サイドランプのスイッチを引いた。
幾分部屋の中が明るくなり、人影が、痩《や》せこけた和服姿の老婆なのだということを彼女はやっと悟った。
このお婆さんが深川小梅さん……?
「なかなかの別嬪《べつぴん》さんだね。深川十六号、いやさ桃千代さん」
気味の悪い、耳ざわりな声だ。ポリープでも患らったことがあるのかしら。
「ちょっとね、この部屋の端から端まで歩いてごらんよ」
小梅は顎《あご》をしゃくった。
裕子は言われたとおり歩き始めた。カーペットに駒下駄の歯が引っかかり、思わず前へのめりそうになる。
「下駄を脱いだ方がいいね。そう、素足で歩いてごらん。歩きながら小首をかしげて。『鳴神《なるかみ》』の絶間姫《たえまひめ》の振りだよ。玉三郎じゃなくって梅幸の方さね。やってごらん」
裕子は必死になって歌舞伎十八番の演目を思い出して演技をする。
「ふむ、いいね。あんたには品ってもんがある。よろしい、わかった。そこの椅子におかけ」
小梅は黄色い書類ファイルをゆっくりとめくりつつうなずいた。
裕子はホッとして椅子に腰を下す。どうやら懲罰措置で呼び出されたのではないらしい。
「桃千代ちゃん。あんたがなぜここへ呼ばれたのかわかるかい?」
小梅が上目使いにこっちを見た。南海の岩場に潜むウツボのようないやらしい眼差《まなざ》し。裕子は思わず目を逸らしそうになるのを必死でこらえた。
「わ、わかりませんわ」
「あんたは、昨年の暮に『ミス・駅弁』コンテストに出て、優勝したね」
「ええ」
それはほとんどコンテストというようなものではなかった。主催者の株式会社「満食」が写真選考の段階で、すでにミス、準ミスをきめてしまっていたのだ。彼女の一位入賞は、広告代理店と満食広報課の連中が裕子をお座敷でマークした際に確定していた。
六ケタの賞金と、ロタ島への旅行、そして広報課長との添い寝が無理やり彼女にあてがわれた。
「経歴もいい。腕も立つそうだねえ。今日のお昼に清洲橋で良いとこ見せたそうじゃないか」
裕子は気が遠くなりそうになった。ほんの数時間前に起きたあのケンカ騒ぎをこの老婆はすでに知っている。なんという恐るべき情報収集能力!
彼女はおどおどと口を開いた。
「まことに、お恥かしいしだいです。司令」
「いいんだよ。辰巳芸者はお侠《きやん》が売りだ。別に責めてるわけじゃないのさ。その男まさりの度胸をKIOSKが気に入ったんだ」
「すると……」
「そう、重要任務のためにあんたは選抜されたってえわけさ。こりゃあ名誉なことだよ」
「ありがとうございます」
小梅はベッドの下に埋め込まれたポータブル・フリーザーのドアを開けて小さなドリンク剤を二本取り出した。
「選抜された時点で、あんたはもうヒラのKIOSK隊員じゃなくなっている。これよりコードネーム深川十六号をあらため、参謀部付赤坂五号と名乗ることになる。わかるね?」
赤坂五号? その番号はいったい何を表わしているのかしら。彼女は漠然とした不安を感じた。それを察したかのように老婆は手にしたドリンク剤の一本をす早く裕子の手の中にすべり込ませる。
よく冷えた黒龍マムシドリンク・エクストラ・スペシャルの小瓶。
「まずは冷やで乾杯と行きたいところなんだけど、あいにくとこの部屋にはこんなものしか無くってね。でも、精がつくよ」
裕子が瓶のフタを開けるのを見すましてから小梅もドリンク剤を持ち上げた。
「それじゃあ、あんたの昇進と任務達成の前祝いに、乾杯しよう」
小梅はニヤリと笑う。
「贅六《ぜいろく》に死を!」
「KIOSK万歳!」
二人は型通りのKIOSK式乾杯を行なった。
老婆は一気にそのドリンク剤を胃の中に流し込んだが、裕子は半分ほど飲んだところでむせかえった。甘ったるい、それでいて鼻にツンと来る刺激的な臭いが彼女の喉元《のどもと》を襲った。
「さて、仕事の話をしようかねえ」
仕事。KIOSKの仕事といえば一つしかない。殺人。とうとう私も人殺しの仲間入りというわけね。裕子は中味が残ったガラス瓶を眺めながら老婆の声に恐るおそる聞き耳をたてた。
「桃千代ちゃん、あんた箱根の山を越えたことあるかい?」
「いいえ、死んだおっかさんが、三島の先には鬼が出るからって言って。中学の修学旅行にも行かせてくれませんでしたから」
「じゃあ、浜松の鰻《うなぎ》も名古屋の外郎《ういろう》も食べたことが無いのかい?」
「はい、司令、本場のものは……。ただ、東京駅八重洲口の名店街でためしに買ったことはありますけど」
「関西の料理を食べてみたいと思ったことは無いかい? バッテラ寿司や京風弁当、おかめうどんやフグ料理を口に入れたいと思ったことは無いのかい?」
「めっそうも無いことです。西側の食べ物など……」
これは本当だった。裕子は関西の料理が水臭いと思い込んでいた。
「そう。では、もしKIOSK幹部会があんたにそれを食べ続けることを要求したら?」
「それが、KIOSKの命令とあれば、喜んで」
つまり、西側に潜入しろ、と言いたいのだろうか? 彼女は小首をかしげた。
「よろしい、じゃあ次の質問」
小梅はベッドに坐りなおし、ファイルをめくり始めた。
「あんた、お座敷にあがる前、何人の男の子に抱かれた?」
「一人だけです。半玉《はんぎよく》になってしばらくしてから」
これも本当だった。高校を中退させられ、水揚げの旦那がきまったその日、彼女はもと同級生だった鳥越おかず横丁に住む煮豆屋の息子に処女を捧げたのだ。
「うん、あんたは本当に正直だ。鳥越のおそうざい屋『伊勢戸』のせがれで、今は芸能人になっている男女子川《おめこがわ》三平、芸名、川端幹三《かわばたかんぞう》がただ一人の相手だ、とこの資料にも出ている」
「ど、どうしてその名を……」
裕子は驚きと恥かしさのあまり消え入りそうな声を出した。
「KIOSK幹部会は何でもお見通しなのさ」
小梅はさも当然といった風に口をゆがめた。
「第三の質問。あんたは床あしらいが上手いという評判だけど、セックスの時、いつも、どんな人とでも感じている?」
「それは、ケースバイケースですわ。嫌いな殿御と寝ても、その……生理の前なら感じるし、好いたらしい人といっしょでも、巨人が負け続けていれば感じない、といったことがありましたけど……」
裕子は耳たぶまで赤くしてうつむきながら答えた。
なるほど性格は男っぽいが、純な娘らしい。小梅は、満足気にうなずくと、ファイルの中から一枚の写真を取り出し、親指と人差し指で器用にはじき飛ばした。
写真はスーッと空を飛び、裕子の膝《ひざ》に落ちた。
「その男が相手でも上手くやれると思うかい?」
和服姿のノッペリした男。関西の人情喜劇で色男の役をやりそうなタイプの顔が写っていた。
「その……、まあ、ハンサムな方だと思いますし、阪神ファンでなければ別に……」
裕子は写真をつまみ上げ、ベッドの端に置こうとした。
「いいや、持っていなさい。帯の間にでも入れ、時々取り出して顔を良く覚えることだね」
小梅は楽しそうにしゃがれ声をあげた。
「誰ですの? この人」
「名前は安井友和。そうね、通称の方ならあんたも知ってると思うよ」
小梅はわざとぶっきらぼうに言った。
「定吉七番さ」
「まあ! 南無……」
裕子は驚きと恐ろしさのあまり東照大権現の御神号を思わず口に出してしまった。
「そう、関西の殺人丁稚さ」
小梅は、自分の言葉が相手に予想以上のダメージを与えたことが楽しいらしく、ゲタゲタとひとしきり笑いこけた。
「その男がたぶんあんたの相手になるだろう。文字通りあんたはそいつの敵娼《あいかた》ってわけだ。これはKIOSK幹部会ですでに決定されていることだからね。反対は許されないよ」
「はい、司令」
裕子は居ずまいを整して坐り直した。この日のためにKIOSK組織員として生きて来たのだ。与えられた任務はそつ無くやりとげなければならない。
「ま、定吉七番をあんたが直接手を下して殺すわけじゃないんだ。そういうことをする人間は別に用意してある。気を楽に持ちなさい」
「あたしが殺しをやるんじゃないんですか?」
「そうだよ。しかし、状況に応じてはやってもらうかもしれない」
裕子は少しホッとした。
「明日から三日間、あんたはこの作戦のため八王子の訓練キャンプに入ることになる。そこで今まで身につけた花柳界の匂いを全《すべ》て捨て去るんだ。蓮《はす》っ葉《ぱ》な女になるための訓練、そうさね、カフェ・バーのカウンターで男漁《あさ》りをする方法とか、都心のホテルのロビーで腰をくねらしてタンザニア人を悩殺する方法、テレビに映ったら反射的にVサインを出す必殺技なんかを教わるって寸法さ」
小梅の語り口には有無を言わさぬものがあった。
「訓練が終了したら、同じ八王子にある女子大へ入ってもらうよ。最近都心の方から引っ越した大学でね。そこであんたは四回生に編入される」
「女子大生!」
裕子は思わず大きな声をあげた。
「い、いやです。ソープ嬢や非合法|覗《のぞ》き部屋の従業員ならともかく、ジョシダイセーなんて!!」
ボキャブラリーが異常に少なく、尻上《しりあが》りの口調で話し、中年男に目が無く、波乗り板の曲芸をこなす異民族。情報雑誌を最低六冊は腕に抱え、花柄のブルマーのように飾り立てた南洋の酒を飲み、テレビに出て調子はずれの歌を唄《うた》う縄文人のように色黒の女たち。そんな連中の仲間になるのはまっぴらだ、と裕子は思った。
「おだまり! 命令にそむくのかい?」
老婆の声は鋭かった。
「い、いえ……」
裕子はあわてた。命令違反がどのような結果を生むか思い出したのだ。
「あんたの家は鳥越でも有名なお茶屋さん、享保以来続いた格の高い家だったね」
小梅はシワだらけの筋ばった首を伸してゆっくりと話し始めた。
「あんたのおとっつぁんをわたしゃ良く知ってるよ。市村座のお役者衆に総桑《そうくわ》の鏡台を贈ったり、新派の俳優さんに紋入りのかんざし届けたり、そりゃあたいした羽振りだった。
戦時中は市ケ谷台の軍人さん、終戦後はGHQのアメリカさんを相手にしてがんばってたもんだよ。それが和歌山の材木相場に手を出して関西の山師に……」
「やめて下さい!」
裕子は思わず耳をふさいだ。
幼い頃の暗い記憶が彼女の脳裏に甦《よみがえ》る。
父親は東京オリンピック後の好景気に目をつけ、銘木相場に手を出して熊野の古代杉買い付け詐欺《さぎ》に引っかかったのだった。岸和田の山師|雑賀《さいが》の熊五郎に家財産一切がっさい持ち去られ、それと気付いた翌日、父は差し押えの札がついた家の中で首を吊《つ》った。母もその後を追って死に、彼女は、父がパトロンをしていた芸者置屋に引き取られて成長した。長じてKIOSKというおぞましい組織に加盟したのも父母の仇《かたき》である関西人に一矢《いつし》報いんがためであった。
「おとっつぁんやおっかさんの仇を討つチャンスなんだよ。鳥越の家をつぶし、あんたを苦界に落した贅六どもへ仕返しをするためには、奴らが好むエサに化けなくっちゃならない。それがじ・よ・し・だ・い・せーなんだよ」
老婆は金切り声を張りあげた。
裕子は口を大きく開けてなにか叫ぼうとしたが、頬《ほお》に力が入らず、やがて目をつぶった。
「わかりました……。女子大生に、させといて……」
彼女はがっくりと肩を落してうつむいた。
小梅は満足そうにベッドの端から立ちあがった。
「さあ、仕事の話はこれでオシマイさ。おや? どうしたんだい。女子大生になることがそんなに恐かったのかい?」
小梅はゆっくりと裕子の方に歩み寄った。
「何を震えてるんだい? ああ、あたしのことがそんなに恐いのかい? 恐いもんかね。ほらよく見てごらん。あたしゃただの哀れな老いぼれ婆さんだよ」
安香水とワセリンの匂いが裕子の鼻を突く。ガッシリとした男のような手が肩先に乗せられた。
冷水を背筋にかけられたようだ。彼女の全身に悪寒《おかん》が走った。
ガサガサした指先きが襟《えり》から耳元に向って動いて行く。日干しにされたミミズが這《は》いまわっているようだった。
「ああ、うらやましいもんだねえ。この水々しい肌。あたしの眼に狂いは無かった。いくら男に抱かれても衰えないあんたの肌は千人、いや万人に一人が持つか持たないかってえものだよ」
ミミズは浴衣に包まれた二の腕をゆっくりと降り、膝の上に重ねられた手の甲までたどりついた。
「あたしの持ち店がなぜ十一《といち》と名付けられているかわかるかい?」
「いいえ」
薄気味悪さを必死にこらえながら答える。
「十一《といち》は一《いち》と言ってね。昔のお女郎同士がつらい渡世をなぐさめ合うことをいうのさ」
ついに老婆は裕子のふっくらとした頬に紙《かみ》ヤスリのような肌を合わせた。
「あたしゃ、あんたのような子が大好きでね。さ、ベッドの脇においで。これから重要な任務を二人助け合って遂行するためにはどうしたらいいか、相談しようじゃないか」
裕子は同輩が昔していたこの老婆に関するイヤなウワサを思い出した。
彼女は目をギュッとつぶり、思い切って立ちあがるとドアに向って一気に走り出す。
ドアにカギはかかっていなかった。勢い良く外に飛び出すと長い廊下を走った。
背後からなにか奇妙な叫び声が聞こえたような気がしたが、もう、それどころではなかった。裕子は素足のままであることも忘れて非常階段を走り降りた。
ヘリコプターの轟音《ごうおん》が渓谷の木々を震《ふる》わせて近づいて来る。
一番最初、その音へ反応したのは警備のドーベルマン犬だった。
谷間に向って犬たちは低くうなり始めた。
次に、プールサイドの芝生で男にマッサージをくりかえしていた娘がドーベルマンの異変に気付いた。
マッサージ・オイルがたっぷりと付いた娘の指が男の肩胛骨《けんこうこつ》の上で停止する。
「どなたかいらっしゃったようです」
胸と腰へ、ほんの申し訳程度にピンクの布切れを付けた娘は犬たちと同じ方向に眼を向けた。
彼女の前に長々と横たわったままの男はなにも答えなかった。
ただ、娘の声が届いた証拠に、むき出しの稜骨《りようこつ》と強羅《ごうら》温泉郷の文字入りバスタオルに包まれた臀部《でんぶ》の上部をピクリと痙攣《けいれん》させて見せた。それは彼女に、そんな些細《ささい》な出来事ぐらいで大事なマッサージを中止するな、と叱責《しつせき》しているかのような動きだった。
筋肉が独自に意志を持って動いている。娘はあわてて作業を再開した。
両手にアロエのエキスがたっぷりと入ったオイルを塗り、男の肩胛骨、ハリのツボで言うところの天宗、膏肓《こうこう》の辺をゆっくりともみ始めた。指の動きにつれて稜骨の痙攣は少しずつ収まって行く。
娘はもうかれこれ一年近くも専属マッサージ師を務めているが、精悍《せいかん》な外観を持ち、売れないながらもロック・シンガーという甘美な肩書きを持つこの男があと一歩好きになれなかった。
別に横柄な態度をとったり、他の顧客の多くがそうしたように、マッサージの最中欲情して不埒《ふらち》な振舞いに及んだりするわけではない。どちらかと言うとおとなしい客で、時々は一回のマッサージ料に倍する心付けをくれたり、自分のコンサート・チケットを帰りがけにくれたりする気配りの行きとどいた人物だった。
彼女が嫌悪するのはただ一つ、この男の筋肉だ。着痩せするタイプで、Tシャツの一枚も身につけている時は凶悪なイメージがまるで感じられないのだが、いったん服を脱ぐと、そこには西表《いりおもて》島のガジュマルを思わせる不気味な筋肉《マスル》が出現するのだった。筋肉はジッと見ていると時おり勝手に動きまわる。最初にそれを確認した時、彼女は全身に総毛立つような恐怖を味わった。
この人の筋肉は、あの谷崎潤一郎が書いている「人面瘡《じんめんそう》」と同じ化け物じゃないのかしら、と思ってみたりすることもある。
よく注意して見ると、その筋肉の付き方も常人と少し違っていた。左肩の上部、肩井から肩外兪《けんがいゆ》、天宗と左腕の第二関節、曲池が異様にもり上り、その反面右肩の天宗は弱々しい。そこが五十肩の壮年男性のように固いのである。
どう訓練したらこんな風に筋肉がつくのだろう?
オイルを塗り込みながら娘は首をひねった。
ヘリコプターの音はますます高まり、ついにプールの水まで振動でさざ波を作り始めた。
プールの脱衣場に隣接する箱寿司の木枠そっくりに作られたヘルス・クラブの本館ファサードから揃《そろ》いのトレーナーを着た男たちが飛び出して来た。
彼らはプールサイドの芝生を横切り、七面あるテニスコートに走り寄って、ネットや支柱を外し始める。
数秒後、谷間の灌木《かんぼく》を押し分けるようにして小型のヘリが現われた。
機体の側面に「満食」の文字を描いた白いヒューズ・モデル500Dだ。民間型のOH6A風に巧妙な偽装を施しているが、胴体後部の排気口までは手がまわらなかったらしい。特徴ある排気口が消え、その代りにオカリナ型IRサプレッサー≠ェ小さく突き出している。30mmチェーン・ガンや2・75インチロケット等のオプション・システムさえ搭載すれば即時実戦に投入できる純軍用ヘリコプターである。KIOSK外商部が極秘裡にコロンビア陸軍から横流しを受けた十機のうちの一機であった。
コートを片付けた男の一人が、片膝を付いて着陸位置を示す。
ヘリはアリソンT63A5型エンジンが作り出す耳ざわりなローター音を撒《ま》きちらしてゆっくりと着地した。
コックピットのドアが開き、大柄な男とこれもまた大柄な和服姿の老婆が降りて来る。
小柄で猪首《いくび》の男が腰を屈め二人に走り寄った。
「ようこそ……」
来客の二人は思わずのけぞった。猪首の男は携帯拡声器で話しかけたのだ。
「いくらヘリの音が騒しいったって、そんなもん耳元に付けられたら鼓膜が破れちゃいますよ」
サパタ髭《ひげ》をゴシゴシとこすりながら大柄な男は下唇を突き出した。
「こ、これは申しわけありません。つ、ついクセになっておりまして。ささ、こちらへ。御案内いたします」
耳の穴を小指でほじくりつつ二人は、まだ回転を続けるローターの下から離れた。
「このような辺鄙《へんぴ》な場所までわざわざ御足労いただき、恐悦至極でございます」
「木滑さん、殺人学校の経営も順調に行っているらしいねえ」
老婆が着物の裾《すそ》を気にしながら尋ねた。
「はっ、おかげさまで今年は卒業生の成績も良く、すでにエル・サルバドルのCIA工作班やイラン特殊部隊にも就職の内定したものが出ておりまして、ま、なんと申しましょうか、世間で言う青田買い≠ェこの業界にも……」
「なるほど結構なことだ。で? 我々の捜している人物はどこに?」
口髭《くちひげ》の男、大文字があたりを見まわす。
「あちらの、プールサイドで待機させております」
木滑は先に立って芝生を歩いて行く。
三人は目的の人物をすぐに発見した。漂白剤の臭いがプンプンするプールの横手に一組の男女がいた。
男は浅黒い肌を見せてうつぶせに横たわり、女はその肩先にマッサージをくり返している。
「赤坂一号!」
木滑の声に男はサッと起立した。
「今から作戦参謀の方々が君を御覧になる」
返事の代りに男は顎を挑戦的に突き出し、中空を見た。
マッサージの娘はクリームのチューブやビーチ・マットを手早く片付けると足早にその場を離れる。
小梅婆さんはアロエ・オイルでテカテカに輝く褐色の肉体をためつすがめつしながら彼の周囲を回った。
赤坂一号は一点を凝視し、微動だにしない。
小梅は、築地魚市場の魚卵部|卸《おろし》で入札前の仲買人がタラコの等級を見分ける時のように、あちこち突っついたり、こすったりしながら後ろへまわった。
「歯を見よう。口をお開け」
老婆は後ろから声をかけた。
脇で見ていた大文字は、彼女が着物の袂《たもと》からなにか小さなものを取り出したのに気がついた。
小梅は前にまわると背を伸し、口の中を覗き込んだ。赤坂一号は老婆がもっとよく自分の口を見えるよう顎を下げた。
その時、小梅の腕が空を舞った。枯れ木のような手が彼の口の中へ弧を描いて突っこまれる。
グワッ!
口がひん曲るほど酸っぱく、生臭い固りが食道を通過した。あまりの強烈さに両眼から涙が溢《あふ》れ、鼻がつまって呼吸困難を起した。赤坂一号は口中に不法投棄されたその汚物が胃に降りるまで膝をふんばって耐え続ける。
やがて苦悶《くもん》は去り、赤坂一号は再び見事な姿勢で屹立《きつりつ》する。
小梅は片頬をゆるめた。
「こいつを食べたことが無かったようだね」
赤坂一号は老婆をものすごい眼でにらみ返した。
「これはね。本場近江、源五郎ブナで作った大津『阪木屋』特製のフナずし≠セ。なれない関東人にとっては地獄のような食べ物さ。もっとも京大阪の人間は小口から薄く切って賞味する。あんたのように丸ごと一匹飲み込んだりすることはない」
小梅は大文字に向って言った。
「丈夫な胃だ。これなら関西の丁稚《でつち》とも立派に戦える」
「彼の胃は鍛えてあります。ストリキニーネ、ジギタリン、ニコチン、少量ならシアン化水素でも浄化・排出するのです」
木滑は説明した。
「赤坂一号、仕事ができた。敵は定吉七番だ。かねてより君が狙《ねら》っていた獲物だぞ」
大文字は笑って赤坂一号にウインクした。
赤坂一号は腹をさすりつつ、この売れっ子ディレクターに頭を下げた。
「エサも、針も揃ったというわけだね。では作戦開始といこうかい」
小梅は袂をひょいとからげると、スタスタとヘリポートの方に歩き始める。
木滑と大文字もその後をあわてて追った。
これ助六が前渡り……
歌舞伎十八番、助六が舞台に登場する際に歌われる河東節《かとうぶし》が老婆の口からもれた。
風情なりける次第なり……
存外良く通る渋い喉だ。
7 枚方《ひらかた》あたりほととぎす
「ぼん、いつまで寝てまんのや。もうお昼でっせ」
窓の外、まるで連合艦隊の満艦飾のように隣家の洗濯物が盛大にひらめいているあたりから陽気な声が聞こえてきた。
定吉は花柄のタオルケットをゆっくりとはねのけ、脛《すね》をボリボリと掻《か》いた。
「なんや、たまの里下《さとくだ》りで帰ってきたんやないか。もっとゆっくりさせときよし」
口を尖《と》がらせ、渋々|枕《まくら》をはね除けると、仰向けのまま両手と両足をウンと踏ん張り、ブリッジの姿勢を取る。
腹の筋肉を力いっぱいくぼませ、上半身を勢い良く起して、そのまま敷布団の上に直立……しようとしたのだが、足がタオルケットに絡みついてそのままドシンと頭から倒れた。
「あ、あ痛たたた」
「なにをドシンバタンしてはりますのや。埃《ほこり》立っとるやおまへんか」
両手に買い物のビニール包みをいっぱい抱えた賄《まかな》いのお米《よね》が庭先からあきれ声をあげる。
「うーん、惜しい。着地さえきまっとったら九・九八は行ったんやけどなぁ」
定吉は床の上にドンと胡座《あぐら》を組むと、おでこをさすった。
「ぼんはほんにヒマの使い方がわからん人やなあ」
アジスアベバから逃げ出すエチオピア皇室の女官のように身体《からだ》いっぱい荷物を下げてお米は縁側の方からドスドスと上って来た。
「えらい買いモンやな。どこ行って来たん?」
「ぼんになんぞええモン食べてもらお思いましてな。朝早ように起きて安立町《あんりゆうまち》の公設市場まで行ってきましてん」
お米は、さすがにこの炎天下、汗だらけになった首筋を台所のタオルでゴシゴシとこすり、冷蔵庫の麦茶を取り出す。
「なんやて? 住吉はんの先やないか。なんとま、もの好きな」
安立町の市場は品物が良く、その特価日には堺《さかい》あたりからも買物客が引きも切らないというウワサだが、わざわざここから出かけて行くほどのところではない。定吉があきれるのも無理はなかった。
「安立町の公設ゆうたら阪和線の我孫子道《あびこみち》やろ。そんな遠く行ったらごつう疲れるし、第一、電車賃の方が高こついてまうやないか」
定吉の今いるところは枚方《ひらかた》市である。京阪電鉄で京橋まで出て、そこで大阪環状線に乗り代え天王寺、そこでまた阪和線かチンチン電車と呼ばれる阪堺電軌に乗らねばならない。
「へへへ、ほんまはな、買いモンはついでですねん。久しぶりに飛田新地《とびたしんち》の長屋行ってきましてん」
お米はエプロンをアッパッパの上に着けながら丸々とした顔をほころばせた。
このおばはんは、定吉たち殺人丁稚がその任務を終えて宿下りした時に、食事の世話や溜《たま》りにたまった洗濯物を片付けるため大阪商工会議所秘密会所が特別に派遣する賄《まかな》い婦である。もちろん、それらの任務は表向き。実は通常の市民生活の中で定吉たちがハメを外すことのないように監視するカウンター・インテリジェンスなのだ。
しかし、元々のんびりした性格なのか、ちょっと目を離すと、すぐに理由をつけて自分の好きなところに遊びに行ってしまう。
今日はどうやら定吉がまだ寝ているうちに、昔自分が住んでいた天王寺動物園近くの芸人長屋へ出かけたらしい。買い物はその口実のようだ。
「お米はんは、たしか若い頃《ころ》、天下茶屋《てんがぢやや》の寄席でお茶子《ちやこ》やってはったんやて?」
台所で昼食の用意を始めた彼女に向って定吉は尋ねた。
「へえ、めっちゃおぼこいもんでしたで。五代目の松鶴《しよかく》はんや花橘《かきつ》はんにもえらいかわいがられましてな」
お米はまんざらでもないという風に鼻をうごめかせた。芝居小屋で客にお茶を出し、芸人の世話を焼く「お茶子」という職業は、給金が一切出ない。芸人からの祝儀や客のポチ(心付け)が収入となる。彼女はまだ十代の頃、当時の上方落語名人からひいきにされ、たいした羽振りだったらしい。
その頃の暮しぶりが忘れられず、時おり老いた芸人たちに会いに行くのだ。
「けど、あしこも、えらい変り様で」
「そうやろな。近所に阪神高速出来てもうたさかい」
定吉は扇風機のスイッチを押し、庭を見上げる。境の生け垣を越えてはためく隣の洗濯物が目にまぶしい。
「それだけやおまへん。ほら、あしこは最近芥川賞や直木賞やいう小説の舞台にならはったでっしゃろ。なんや場違いな若い女の子が大勢、地図片手に歩きまわりましてな。
『てんのじ村≠ヌこですか』ゆうて路地の奥まで入り込んでくるさかい、わずらわしいてアカンて興行師のオッサンえらいぼやいとりましたわ」
「ふーん」
洗濯物の中に隣の十八になる娘の下着でも混ってはいないかと目をこらしていた定吉は気のない返事をする。
「先月、カミミツ≠フオッサンが東京で殺《や》られはった後ですさかいな。家の近所にそないな他所者がぎょうさん来るんは、なんや気色悪いてみんな言うとりますわ」
カミミツ≠ニは「上方芸能密室保存会」の通称である。そこの主宰者、生駒勝二郎は定吉の属する秘密会所の下請けとして働いていたが、つい先月テレビ出演のため上京し、NATTOの手にかかってあえない最期を遂げたのだった。
普段の定吉ならこんな時、す早く頭を回転させ、これが敵の攻撃の前ぶれなのか、それともただの社会現象なのかを判断したことだろう。だが、今の彼は角帯《かくおび》の締め方すら忘れるほどだらけきっていた。
「ほれ、でけましたで。ぼんの大好きな順慶《じゆんけい》町の特製ウドン」
「へえ、えらい手ぎわがええな」
「ゆうべから仕込んどきましたんや」
湯気の立つ器をチャブ台の上に乗せてお米は笑った。
順慶町のウドンとは、定吉が好んで食べる大阪南区の「けつねウドン」のウマイ店と同じ材料、製法で作られたウドンである。
小麦は播州《ばんしゆう》、讃岐丸亀《さぬきまるがめ》のブレンドもの。水は富士ミネラル石によって残留塩素を抜き、コンブは松前《まつまえ》の夏刈り。カツオ節は鹿児島の本燻製《くんせい》。醤油《しようゆ》は阿波《あわ》の天然醸造。味醂《みりん》は自家製の三ヵ月|醗酵《はつこう》、酢《す》は京都三条大橋東入ル村山造酢製。砂糖は阿波の和三盆《わさんぼん》を使用する。そしてその上に乗せられた油あげだけは京阪枚方市駅前の豆腐屋「マル豆」の揚げたてなのだ。ここの油あげにつられて定吉は枚方に居を構えているといってもいい。
お米はチャブ台に腰を据えて黙々とウドンに取り組む彼を満足そうに見ていた。物を口に運んでいる時だけ、以前と同じ生き生きとした定吉の姿にもどるのだ。
お米は、今の彼がどうしてこんなに無気力と怠惰に溺《おぼ》れ、漂っているのかその原因をすでにつきとめていた。
恋人の増井屋のお孝《たか》が暇を取り、お初天神の仕事場からどこかへ消えてしまったのだ。九州|阿蘇山《あそさん》の火口近くに作られたNATTOの秘密基地を破壊して命からがら帰還した後、長期休暇をもらった彼は、お孝の立ち廻《まわ》りそうなキタやミナミの甘いもん屋、お好み焼き、たこ焼き、関東だき屋を探しまわり、ついにあきらめてしまった。
クーラーも無く、むし暑い淀川べりの隠れ家で、彼はリース屋のウラビデオをぼんやりと眺め、お米が三度三度作ってくれる食事を平げるだけの生活にふけっていた。
世界中の秘密結社が今だに果せないでいる定吉の首に手をかけるという行為を、枚方の怠惰な都市生活というやつが安々とやってのけているのだった。
まさに「退屈こそ有能な殺人者」であった。
酸《す》いも甘いも噛《か》み別けたお米おばはんは、それとなく桜宮や新世界あたりに行くことを勧めてみたが、定吉は珍らしく首を横に振った。失恋の視野狭窄《しやきようさく》、思考の袋小路に入り込んでいるのは明らかだ。
このままで行くと殺人丁稚としての特質が完全に失われてしまう。彼に強く活を入れる必要があった。それには任務しかない。お米は彼女の報告書を読んだ本部が、今日あたり手を打ってくるのではないか、と密《ひそ》かに期待していた。
予感は適中した。
それはホンダのカブに打ち跨《またが》って唐突に現われたのである。
「安井さーん。電報だすー」
垣根の向う側にバイクのバタバタという音が停《とま》り、白ヘルメットに青シャツの郵便局員が裏木戸を開けて現われた。
「ハンコお願いしますう」
「へえへえ、お暑い中、御苦労はんやな」
勝手知ったる定吉の家、お米は奥から印鑑を取り出して受領印を押した。
「ぼん、きましたで」
「来たて何が?」
「会所のお呼び出しや」
お米はチャブ台の上に太い指で電報を広げてみせる。
「めんどいなあ。まだ休暇は残っとるんや。すまんけどお米はん、わて暑気当りで寝こんどるゆうとってくれへんか?」
定吉はウドンの汁を名残り惜しそうにすすって、つぶやいた。
「あきまへん!」
お米は大声で叱《しか》りつけた。
「この文面見てみなはれ。御隠居はん直々のお呼び出しだっせ。行かなんだら、あてにも覚悟がおます!」
定吉はその形相にびっくりしてチャブ台の上に顔を寄せた。
アダシノノ ケムリチカクニナリヌレバ ソバナルヒトニ ケムタガラレル
「なになに、化野《あだしの》の煙ちかくになりぬれば、側なる人にけむたがられる……。これは第一級出動命令やんか」
明治期の上方|歌舞伎《かぶき》名人|実川延宗《じつかわえんそう》の辞世《じせい》である。大阪商工会議所秘密会所のボス千成屋宗右衛門が好んで使う召集符丁だ。
「ほんに己れのことをようわかっとるオジンやな。けむたがられながらまだ死にさらさんで」
定吉は口の中でぶつぶつとつぶやいた。
「今のんは聞かんかったことにしときまひょ。さ、急いで着代えなはれ」
お米はパンパンと両手を打って彼をせかす。定吉はダボシャツを脱ぎ、押し入れから久留米|絣《がすり》の着物と帯を取り出す。
この巨大な肉布団のようなエージェントに勝つ見込みが今の彼にはまったく無い。
お米は、なにはともあれ定吉が出かけてくれることに満足した。
「外は暑いさかい、帽子忘れんようにな。向う着いたら本部の皆さんによう挨拶《あいさつ》するんでっせ」
「へえ」
定吉はイヤイヤ返事をして帯を締めた。
御堂筋の西本願寺津村別院、通称「北御堂」の脇にある古いビルのエレベーターを四階で降りて、茶色のパキスタン絨毯《じゆうたん》が敷かれた長い廊下を歩き、マホガニーの扉を定吉が開けた時、ちょうど壁の柱時計が七月二十六日午後二時の時報を告げていた。
「あら、定吉どん。早かったんやね」
秘書の万田金子が、テーブルの向う側から艶然《えんぜん》と笑いかけた。
やけに胸元の開いた青い夏服をひらひらさせてこちらの方にやって来る。
「せっかくの休みやいうのに、また呼ばれてしまいましたで。難儀なこっちゃ」
定吉は入口の近くから愛用のハンチングを部屋の帽子掛けにポンと飛ばしてひっかける。
「聞きましたで」
「何だす?」
「定吉どん、ふられたんやて?」
金子は彼の隣に近寄り、耳もとにささやく。ミス十日|戎《えびす》にも選ばれたというB86W58H90の匂うような肉体が定吉の背中に押しつけられた。
「誰《だれ》から聞かはったんだす?」
定吉は弱々しく聞き返した。
これは思ったより重症だわ。金子は驚いた。普段の定吉なら、彼女がチョッと挑発しただけでフィリピン産ポンポンダリアの十倍は鼻の下を伸ばし、涎《よだれ》をたれ流して迫ってくるのだ。
「誰ゆうことないけどな、皆もう知ってはる」
「さよか」
彼はやる気なさそうに秘書机の上へ腰を降した。
「あてなあ。夏期休暇中することないねん。それでな、定吉どんさえ良ければ一緒に六甲でも行って……」
金子は自分の長い髪をくねくねともて遊びつつ、甘ったるい声を出す。
「おおきに」
定吉は力無く言った。おずおずと金子は彼の手を握る。
「金子はん、そこに定吉七番来とるやろ?」
その時、無粋な声がインターホンの向うから響いて来た。
「は、はい、来ております」
彼女はあわてて机にもどった。
「すぐにこっちへよこしとくなはれ」
御隠居の部屋に通じるドアの上で入室OKの青ランプが点灯する。
「ほなら、また」
定吉はランプに急かされるようにして部屋に入った。
ドアが閉まると金子はテーブルに拳《こぶし》を叩《たた》きつけてふてくされた。
「いつもや、いつもええとこまで行くのに御隠居はんが邪魔しはる。んー、もう、好かんタコ」
大阪商工会議所一有能なこの秘書は、お福人形のように頬を大きくふくらませて手足をバタつかせた。
「定吉すまんかったな。休暇中やったのに」
千成屋宗右衛門は、隣の部屋で自分が罵《ののし》られているのを知ってか知らずか、穏やかな笑顔で彼を迎える。
そばには梅里先生側近の助さん、格さんよろしく二人の男が立っていた。定吉の直接の上司、小番頭の雁之助と武器係の中番頭「はも切り九作」の両人である。
これはまたやっかいな任務らしい。定吉はクーラーの程良くきいた室内にスタスタと進み出て一礼する。
「御隠居はん、中番頭はん、小番頭はん、お久しぶりでごわります」
「ん、ま、そこ坐《すわ》んなはれ」
宗右衛門は傍らの応接セットを指差す。
定吉はぶ厚いスペイン革張の長イスへ腰を降した。
「世の中良う出来とってな。捨てる神あれば拾う神あり、言うことがある」
「へえ?」
宗右衛門老人の言葉の意味が良く把握できず定吉はあいまいな返事をする。
「あんたがつき合うとったお初天神境内の娘がどっか行ってしもうたいう話は、今ではもうこの船場一帯で誰一人知らんもんはない」
「ひえー」
定吉は町内の人々の話題があまりにも乏しいことを知ってほとんど泣き出しそうになった。
老人は通天閣型の机上ライターを取りあげてナタ豆|煙管《ギセル》にゆっくり火をつける。
「わいもほんに気の毒や思うとる」
しかし老人の顔はちっとも気の毒そうではなかった。この可哀《かわい》そうな殺人丁稚の女運が淀の河原の水車、クルクルと変るのがおもしろくてしようがないらしい。
「落ち込んどる定吉どんに拾う神≠フ話をしたろ思うてな」
煙草の煙をうまそうに吐き出した。
「雁之助どん、話したってんか」
小番頭は肉付きの良い顔をいっぱいに広げて一歩前にズイと出た。
「田中安雄いう若手の小説家知ってるやろ」
「へえ、最近東京のテレビに良う出てまんな」
「本読んだことは?」
「天六の堀三書店で二、三冊買うたことおます」
堀三書店とは北区天六にあるオールナイトで有名な古本屋である。定吉は読物を全てここの店で間に合わせている。
「どう思う?」
「どう、て、クッサイ東京モンとちゃいまっか?」
雁之助は人差し指を立てて舌打ちした。
「あれはな。うっとこの残置|諜者《ちようじや》のキャプテンやねん」
「有能な男衆《おとこし》や。東京の港区、渋谷区のことは自分の手のひらのように知りつくしとる」
宗右衛門が脇から口を挟んだ。定吉は小番頭が発する次の言葉を辛抱強く待つ。
雁之助は、部下の前に置かれた椅子にドッカと腰を乗せて話を続ける。
「その小説家先生の仕事場に三日前、ファンレターが届いてな。東京八王子の女子大生やけど、至急相談したいことがあるさかい、その日の夕方六時半、竹芝桟橋を発《た》って東京湾を一周する納涼遊覧船に乗ってくれと書いてあるねん。小説家先生は、こら罠《わな》かも知れんと思うたんやがな。もとより女子大生に眼え無い性格やよって、のこのこ出かけて行ったんやて」
雁之助の異様に太い眉《まゆ》が上下する。
「船の上のビアガーデンで目的の娘《こ》に声かけられた。えらいベッピンやったそうや。二人はそれから向島長命寺《むこうじまちようめいじ》桜もちの葉っぱの話とか港区のスーパーはどこが一番充実しとるかいうとりとめもない話をしとったらしい。そのうち娘は話題をコロッと変えて、とんでも無いことを言い始めた」
「何言いはったんだす?」
「自分は、KIOSKが経営する女子大生ソープランドで働いとる下っぱの工作員や言うんや」
「ヘッ、キオスク? 何でっか、最近は鉄道弘済会がトルコも経営してはるんでっか?」
定吉は一瞬、鉄道の駅構内売店で肌も露わな女性たちが客を引く光景を思い浮べた。
「なに、しょもないこと考えとるんや。キオスク言うてもあのトルコ語で『売店』いう意味やないで、うちらの宿敵NATTOの殺人機関『贅六殺し』のことや」
なんや、やっぱりトルコとチッとは関係あるんやないか。定吉は口の中でつぶやく。
雁之助は続けた。
「で、その女子大生が言うにはな。実入りもええし、有名人と知り合いになれる思うて結社員になったのに、苦労ばっかり多くてエエことあんまりあらへんから、組織抜けたい……」
「きょう日のおなごは我慢すること知らんさかいな。ま、若いもんはみなそうや」
宗右衛門老人は煙管を煙草盆の縁にポンと打ちつけて憎々しげに言った。
「女子大生やって、ソープ嬢やって、殺人結社の構成員もやるいういわば三重生活でっしゃろ。誰かて疲れてまいますがな」
定吉は自分の今の生活を振り返り、そのまだ見たこともない娘に同情した。小番頭は人差し指を空に舞わせる。
「今までわてらにとっては謎《なぞ》の組織だったKIOSKや。その内部の人間がこちらに逃げ込んでくれば、結社の全貌《ぜんぼう》は白日のもとに晒《さら》される」
「もちろん小説家はんは抜ける手助けする約束しはったんでっしゃろ?」
「うむ」
雁之助はちょっと難しい顔を作ってみせた。
「何ぞ……?」
定吉は目を細めて耳をそば立てた。こんな時、雁之助は次の瞬間、ショックを与えるようなことを平気で口走るのだ。
「その女の話では、組織を抜けるにはタイミングと優秀なガードが必要や、今すぐ逃げ出したら多摩川も越えんうちに殺されてしまう、あとすこしは今の状態で我慢しとるから、関西から手練《てだ》れの救出者を派遣してほしい、と」
「はあ、それで、小番頭はんはその救出役をわてに」
「ちゃう、わいやない。その娘がおまえを指名してきたんや」
「わてを?」
「そや、定吉。おまえ有名やからな」
「有名すぎまっせ。おなご一人にふられただけで淀屋橋《よどやばし》から本町北浜《ほんまちきたはま》一帯までウワサのタネになる工作員がどこの世界におます? 秘密情報部員が聞いてあきれますわ」
定吉は情無さそうに下を向いた。
「それだけお前は地域のアイドル言うこっちゃ。けっこうなことやないか」
宗右衛門は自分の机に置かれた手文庫の蓋を開け、一通の手紙を取り出し、中番頭の九作に手渡した。
九作は香水入りの越前紙に包まれた古風な手紙を雁之助に、雁之助はそれを定吉の膝に投げた。
「お前あてにその女が手紙を書いて来た。可愛《かわい》いもんやないか。お前の好みに合わせようと毛筆で書いてきよった」
定吉は巻き紙を広げる。
「えーなになに、前略、突然このようなお手紙をお出しすることをおゆるし下さい……か。はは、昔わてもこないな書き出しの恋文書いたことおましたで。……ん、組織の生活まことにきびしく、ここに足抜けいたす決心を……、つきましては西国で名高き定吉七番様にお助け願いたく……、はあ、ほんまにわての名が出てますな」
「最後まで読みいな」
定吉は雁之助にせかされ最後の方を声をあげて読みあげた。
「いよいよ定吉様の御首尾、つつがなくおわしまし……、え、ちょっとここんとこあまり達筆で読めまへんけど」
「そこに書いてあるのは歌や。『君はいま、枚方《ひらかた》あたりほととぎす』」
もう何度も読み返したらしく雁之助は諳《そら》んじてみせた。
「ウヒャヒャヒャ、とんだ高尾太夫と仙台侯やな」
宗右衛門は笑いながら煙草を吸い、勢いあまってむせかえった。あわてて九作がその背中をさすった。
「この娘《こ》、名はなんと言いますねん?」
「立穴《たちあな》裕子。聞いたことあるか?」
「えらい卑猥《ひわい》な名ですな」
定吉は手紙をポンと指で弾いた。
「小番頭はん?」
「なんや?」
「他にもなんや取り引きしとりますのやろ」
雁之助はうなずいた。
「行きがけの駄賃にKIOSKが開発中の駅弁容器のサンプルを一個もってこい言うたんや」
「駅弁?」
「そや。何時間たってもホカホカ温《ぬく》いままでいられるウナギ弁当の容器やそうやで」
定吉は感心した。そのノウハウさえ手に入れば駅弁革命が起きてしまう。旅行者は常時あたたかい御飯が車内で食べられるのだ。冬場時期はずれの時間でも蒸しずしやおいしいかやくめし、まむし弁当が手に入る。それは関西人にとって戦力の充実を意味していた。
彼は少しずつ興奮して来た。女の話がたとえ罠だとわかっても行ってみる価値はある。
「わてに東京行け言わはるんでっか」
「もう行くつもりになっとるやろ。九作どん、例のもの渡したってんか」
宗右衛門の言葉に中番頭は無言で頭を下げ、足元から風呂敷《ふろしき》包みを取り出す。
「定吉どん、おまえはいつも支給した兵器をほかしたりするから、わいとしては、こないな貴重なもん渡したくは無いんやけどな」
応接セットの小さなテーブルに包みを乗せた。
「これ、なんだす?」
「『八雪軒の重箱』いうんや」
九作は風呂敷をほどいた。中からたしかに蒔絵《まきえ》の重箱が現われた。梨地《なしじ》に銀散らし、御所車が高蒔絵で描かれている。
「古いもんだすな」
「三代将軍家光の頃、寛永年間の作といわれとるな」
「へえー」
「ただの重箱やない。これを作らせたのは播州竜野《ばんしゆうたつの》五万一千石、脇坂安元、号を八雪軒という方や。当時江戸城表座敷を管理する茶坊主の中にエライ意地の悪い坊主がおってな。気に入らん外様大名が登城して来ると、上屋敷から届けられた弁当のお菜《かず》を食べてしもうて『あの殿さんの重箱には飯しか入っとらん。なんちゅう吝嗇《りんしよく》な大名や』いうて吹聴《ふいちよう》するんやそうや。恥かかされた大名は帰ってから家来を叱りつけ、ために切腹した武士も出た。やり込めようにも相手は将軍家近く仕える直参、容易なことでは歯が立たん。それを伝え聞いた名君の八雪軒、一計を案じて本領の宍粟《しそう》郡竜野の城下より一人の細工師を呼び寄せた。これがからくり久作≠「う人で、わての十五代前の御先祖や。この久作が三、七、二十一日精進の末に作りあげたのがこれや」
「へえー」
定吉はただ驚くしかない。
「底の部分が二重底になっとってな。中に播州名産のウドン粉と唐がらし粉がギッシリ詰まっとる。開けたい時は側面に描いてある御所車の金具を指でこう押してひねるんや。そうせんといてそのまま蓋を取ると粉が勢い良く吹き出して来る」
「はあ、まるで玉手箱でんな」
「うむ、口伝によるとな、寛永十九年江戸城中|御鏡開《おかがみびら》きのおり、八雪軒はその悪坊主の御用部屋にこれを置いて開かせ、見事そ奴《やつ》の顔を、真っ白けの鏡餅《かがみもち》にして外様大名の意地を見せたというこっちゃ」
「何や知らんたいそうなもんですな」
いったいそんなケッタイなものをどうしろというのだ。まさか、今度の任務に持ち歩けというのでは。定吉は頭が痛くなった。
「立穴という寝返り娘が持ち出した重要機密をこれに入れて持ち帰るんや」
九作はニコリともせず言った。
「へえ」
ごねてみても無駄だということはよくわかっている。定吉は渋々と返事をした。
「明日、午前中の新幹線で東京へ行きなはれ。向うに田中先生が待っとるはずや。二人で協力して高尾太夫≠救い出してきなはれ。行きは簡単やけど、帰りは恐いで。気いつけてな。わいも早《は》ようその娘を見たい」
宗右衛門は珍らしく笑い顔で話を締めくくった。
8 安雄とカフェ・バー
鉄道唱歌の情無いメロディが耳元で鳴り響き、定吉は目覚めた。車窓からスウェーデン製の輸入墓石そっくりな高輪のビル群が挨拶している。
ついに敵地東京に到着である。
見覚えある帝国ホテルのマークを眺め、彼はため息をつく。
またしても緊張と消耗、絶え間ない猜疑《さいぎ》の日々が始るのだ。
以前の彼ならこんな時、角帯の下あたりをポンと叩いて「よっしゃ、いてこましたるでえ」と自分に活を入れたものである。が、失恋の傷がまだ完全に癒《い》えぬのか、今回はまだあと一歩迫力が足りない定吉だった。
車体がホームに停まると彼はノロノロと立ち上り、重そうな風呂敷包みを下げて出口に向う。
この風呂敷に包まれた重箱も、彼の憂いを増す原因の一つだった。
何の因果でこんな重箱を持ち歩かされるのだろう。これが強力な銃器やスパイ衛星と連絡がとれる通信器材ならまだ我慢もしよう。しかし、この重い弁当箱ができることといったら、唐がらし入りの目つぶしをあたり一面|撒《ま》き散らすという、寄席芸人以下の能力しかないのである。
「もう、わややがな」
彼は包みの重さに、泣きそうになりながら、新幹線のホームを下り、八重洲口に出た。そのまま地下街に入る。
神田方面へ向って歩き、突き当たりを左に曲る。地下鉄東西線大手町駅だ。しばらく進んで右に曲ると、富士銀行本店の地下横通路に出る。正面は丸ノ内線大手町駅。定吉はためらわず左折する。大手町ビル地下の天井が低い商店街が続いている。風呂敷包みをぶら下げた彼は物珍らし気に左右の食堂や旅行代理店をのぞきながらブラブラ歩く。途中小さなカーブを曲った先が千代田線大手町駅だ。ここで定吉はあたりをゆっくり見回す。どうやら尾行者の影は無いようだ。千代田線の改札口を横目で見て直進し、都営三田線の大手町駅も素通りする。C8の表示、東京海上ビル別館の出口で地上に出た。そこは丸の内のビル街、大阪商工会議所の人間にとっては敵地のド真中である。彼はこんなところへ出ていったいどうしようというのだろうか。
東京銀行協会ビルや新丸ビル、日本工業倶楽部の前をノロノロ歩き、日本国有鉄道本社ビルの近くまで進んだ時、目の前に赤いレンガ作りの大きなビルが現われた。何とそれは先ほど彼が降り立ったばかりの東京駅。いや正確に言うと、降りた八重洲口の反対側に当る北口だ。
定吉は国鉄本社前の横断歩道を渡り、駅構内に入った。
そのままステーション・ホテルと書かれた古風なファサードからロビーに向う。
つまり、定吉は延々二キロ近くも東京駅の周囲を歩きまわり、自分のルーティン・ワークを忠実にこなしたのだった。
彼はこの本レンガ作りで天井の高いホテルに一度泊ってみたいと思っていた。
とにかくこのホテルを彼が気に入っている理由は二つあった。まず、東京駅に近いこと(これはきわめて当然のことだ。なにしろ駅の中にあるのだから)、第二に、ここは定吉が幼少の頃から愛読した怪人二十面相活躍の舞台。変装した怪盗と満州から帰京したばかりの名探偵明智小五郎が丁々発止と渡り合った所縁《ゆかり》の場所、なのだ。
「いらっしゃいませ」
黒いカウンターの前でベル・キャプテンは、定吉にほほ笑みかけた。
「大阪の桂定雀《かつらていじやく》だす。予約はしてある思いまっけど」
定雀とは定吉が好んで使う偽名の一つだった。彼のような人相風体では上方落語家を装うのが一番楽なのである。
ベル・キャプテンは予約名簿を開いてすぐに返事をした。
「はい、たしかに承っております」
「内田百〓先生が『東京日記』を書いた部屋を指定してましたんやけど」
「はい、それも承っております」
定吉は満足気にうなずくと宿泊カードにサインをする。
赤坂や新宿のマンモス・ホテルに無い、古き良き時代のムードが彼を上機嫌にさせた。
ボーイが先に立って彼を部屋に案内する。赤い絨毯が敷かれたツインの部屋、レースのフリルがついたベッドカバーの上にゴロリと寝ころがるとひとりでに二十面相ゴッコをしてしまう定吉であった。
「フッフッフ、もうこれまでのようだね明智君、きみはまだぼくの本当の姿を知ってはいないらしい。ここでひとつそれを見せてやろうじゃないか。なにをおっしゃるウサギさん、満州国皇帝の宝を守りぬいた名探偵明智小五郎、そうやすやすとはだまされないのだよ、ハハハハハ。ええい、残念無念情無い、別れたあの娘《こ》にいつ会える」
最後のセリフが口を突いて出ると、彼は急に虚しくなって、ベッドの上に坐りなおした。二重窓の外には、江戸川乱歩が昭和十一年にこの話を書いた時とあまり変らない光景が広がっている。プラットホームの屋根と、その下の雑踏だ。
赤やミドリの電車が動くのを茫然《ぼうぜん》とながめながら彼はベソをかきつつ着物の袖《そで》を噛《か》んだ。
と、その時サイドテーブルの電話が鳴り響いた。
ハッと我に返った定吉は受話器を取る。
「ヘイ、定雀でおま」
「あのー、もしもし、僕、田中といいます」
変に間延びした声が電話の向うから聞こえて来た。
「今、ロビーに来てるんですけどー」
現地協力者、東京支局のチーフ、表向きは文筆芸能人の顔を持つ田中安雄が早速現われたのだ。
「ヘッ、今すぐ下まで参じます」
別に着代えることもない。彼は重箱の包みを取りあげるとドアを閉め、ロビーに降りた。
ロビーには他に何人か客の姿があったが、目指す男はすぐにわかった。テレビでよく見かける巨大な頭が、マドラス・チェックのシャツを着て、ソファーの前にころがっていた。
「やあ、どうも」
和服姿ですぐに定吉とわかったらしく、勢い良く立ちあがり、手を振る。
定吉は近付いて頭を下げた。
「お初にお目もじいたします。わてが定《さだ》……いや、桂定雀《ていじやく》でおます」
「うわあ、話には聞いてたけど、大きい人なんだね」
安雄は大げさに驚いてみせた。クリスチャン・ディオールのジュールスのコロンが微《かす》かに匂う。
「じゃあ行きましょうか。車をそこの地下駐車場に入れてあるから」
「い、行くってどこへだす?」
「そろそろお昼だし、打ち合わせがてら行きつけの店へ、ね。どうも僕、丸の内近辺って肌に合わなくて」
安雄はオレンジ色のバッグを肩からタスキ掛けにすると先に立ってチョコマカ歩き始めた。
「ペンギンのヤッちゃん」。知り合いの女子大生は彼のことを皆そう呼ぶらしい。定吉は報告書に記載されている彼の愛称を思い出して一人感心した。
「どこへつれてっていただけるんだっか?」
助手席に坐った定吉は不安そうに聞いた。
「うん、定吉さんにぜひ見せておきたい店があるんだ」
安雄の運転する白いアウディ80は、元赤坂の御所を右に見て、真っ直ぐ渋谷方向に走っている。
いや正確に言えば真っ直ぐではない。なぜか交差点に接近すると左右のガードレールやグリーンベルトに寄って行ってしまうのだ。そのため、何度も隣の車にクラクションを鳴らされる。中には窓を開けて露骨に大声をあげる車さえあった。
「いいの、いいの。今どなった車は長野ナンバーでしょ。品川ナンバーの方がエライんだから気にしなくっていいの」
フラフラと蛇行運転を続けながら安雄は一向に気にする気配もない。
「これ、車がおかしいんとちゃいまっか」
「うん、ディーラーでも異常は無いって言われたんだけど、どういうわけかガードレールとか標識を見ると寄ってっちゃうんだよね。好きなのかなあー。でも気にしないでね。毎度のことだから」
安雄はことも無げに言う。車になにも問題がないのなら、問題とすべきは彼の運転技術ではないか。
定吉は、やっとそれに気付いた。
「定吉さんは、大阪では何に乗ってるの?」
安雄は小刻みにハンドルを切りながら助手席の方に顔を向ける。
「ヘ、ヘェ、以前は『軽』持っとりまして、配達にダイハツのミゼット使うとりました。けど、今は原付だけやからベスパの50を」
定吉は運転者の動作にハラハラしながら答えた。
「あっ、ベスパ。いい趣味ねえ。僕も本当はイタリアものが大好きなんだ。でも、四輪の場合一度ドイツ車乗っちゃうとねえ。おっと、この先だ」
車は地下鉄|外苑前《がいえんまえ》駅を過ぎたところでヨタヨタと左折した。
交差点で、西麻布方向からやって来たBMWへ接触しそうになる。相手は驚いてハンドルを切り、隣のゴルフに車体を擦った。
「どうもスイマセーン」
安雄は窓から一声かけるとそのまま直進する。
「ね。今のは品川ナンバーだから、ちゃんと挨拶しなければいけないの」
定吉が振り返ると、交差点ではBMWとVWゴルフの運転者が外に出てケンカを始めていた。
「田中先生のような東京のお方が、なぜにわてらのような西国の」
「手先になって働いてるか、ってこと?」
安雄は、いたずらっぽく、ドングリ眼をクルリとまわした。
「ホントのこと言うとね。僕は東京の人間じゃないの」
「ヘェ」
「定吉さんは千曲川《ちくまがわ》知ってる?」
「はあ、長野県を流れとる河だっしゃろ?」
「そう、平安時代の中頃、今の小諸と上田の中ほどにある千曲川ぞいの土地に『滋野』という一族がいたのね。新井白石の書いた『藩翰譜《はんかんぷ》』という本にはこう出ているわけ」
小説家は背筋を伸ばし、エヘン、とひとつ咳払《せきばら》いをした。
「……清和天皇の御子貞秀親王と申しまして、信濃国海野白取の庄に下り住ませ給ひ、薨《こう》じ給ふ後《のち》に、白取明神と崇《あが》め、また滋野天皇と申し奉る」
定吉は、またか、という顔をした。いつだってそうなのだ。彼の周囲にいる人間は、なぜ質問すると、長々とその由来から語り始めるのだろう。ブランド人間が多すぎる。
定吉は膝《ひざ》の上にデンと腰を据えている九作自慢の重箱に目を落し、下唇を突出した。この重箱の由来は江戸時代から始っていたからまだ良かった。今度は平安中期、話は長くなりそうだ。
「えへへへ、ちょっと難しかったかな」
「へえ、なんせ、わて無学な丁稚ですよって」
「じゃあ、もっと噛み砕いて説明しようか」
青山墓地の土手に沿って彼はハンドルを切る。
「源平の戦いの頃、この名家は、望月、禰津《ねづ》、海野の三つに分裂する。しかし、これらは皆、戦国時代に甲州武田家に滅ぼされ、残党は上州に逃げちゃった。後に海野氏の支族は旧領に帰り、武田信玄の部将となった。織田信長によって信玄の子、四郎勝頼が攻め滅ぼされると、千曲川沿いの旧海野領は独立しようと考えた。彼らはこの川を三途《さんず》の川と定め、死んで後もその渡し船に乗れるよう六文の渡し賃を染めた旗をかかげた」
定吉はハッとした。安雄は話し続ける。
「やがて駿河《するが》の徳川家康が攻め込んできたんだ。海野の一族は千曲川の川べりで、家康軍を打ち破った。それを知ったのが当時上方で人気バツグンの豊臣秀吉だ。彼はこの地方の人々が気に入って、後盾になり、千曲川の民も秀吉になついた、 ってわけ」
車は墓地の土手を左に見て五百メートルほど走り、今度は右折。
またしても急ブレーキの音と、衝突音が背後で響く。定吉は完全にあきらめてしまって、後をふり向く気もしない。
「秀吉公の死後、関ケ原の戦いで彼らは長男の組、父、そして次男の組の二派に別れてそれぞれ徳川家康、石田三成両軍についた」
「その後の話はわてかて知ってまっせ」
定吉がうなずいて後を引き継ぐ。
「父と次男は信州上田の城に拠って、徳川秀忠の軍をさんざんにいてこましたんやけど、三成が負けて徳川の世や。殺されるところを長男に助けられて紀州九度山に流されはった。大坂の陣が始まると次男の殿さんは十人の家来衆を引連れて獅子奮迅《ししふんじん》の大活躍。蜀《しよく》の諸葛孔明《しよかつこうめい》、河内の楠木正成と並び称される大軍師、その名も真田|左衛門佐《さえもんのすけ》信繁(幸村)はん」
「そう、その幸村の子、大助幸綱が大坂夏の陣から命からがら信濃北佐久郡に逃げ帰り、真田忍群を再編成して関東方と事あるごとに戦い続けた。僕んちはその忍群の家柄ってわけね」
「へえー、元和元年から数えてザッと四百年、大阪の恩顧を忘れず、ようやらはりますなあ。さすが信州の人は律義《りちぎ》や。けど、センセ、うまく化けたもんやな。まるでほんまに東京生まれらしう見えてますで」
「そ、そうかな。ぼ、僕って生まれつきセンスが良いらしいから、それほど苦労せずに東京に溶け込めたのかもしれないね」
しきりに感心する定吉に、複雑な表情で安雄は答えた。
やがて車は南青山六丁目の根津美術館正門前に出る。
「あそこが目的の場所」
安雄が、美術館の塀が途切《とぎ》れるあたりを指差す。三角形の屋根が立木の間から突出していた。ウエスト・コースト風というのか、それともコロニアル・ハウス風というのだろうか。右側に古い倉のある屋敷、左側に四階建てのマンションを従え、薄桃色のペンキ塗り洋風木造の二階家があたりを睥睨《へいげい》していた。建物の周囲をゆったりとしたラナイが取り巻き、中央入口前のパティオでは枝をいっぱいに広げた楡《にれ》の木が涼しげに身をゆすっている。シンプルなプールテーブルやガーデン・チェアーがところどころに置かれ、数組の男女がその間をひらひらと行き来していた。
「えらいまたあでやかなところでんなあ」
定吉がポカンと口を開けた瞬間、
ガツン!
というショックが足元から伝って来た。
「あー、またやっちゃった」
小説家は間伸びした声を上げる。
彼の愛車アウディ80の鼻先が見事にガードレールの端とドッキングしたのだった。
運の悪いことに五十メートルほど先の横丁からミニパトが一台、顔を出した。
運転席の婦人警官が、こちらを見る。彼女は即座にこの醜態を発見し、窓から白い手袋をはめた手を突き出した。
「もう、ごまかしようがおまへんな」
定吉は膝に乗せた重箱を抱きかかえ、ミニパトカーを見た。
よりによって、東京へ来た第一日目にこんな事故を起すなんて、今の自分は秘密活動中なのだ。東京の警官にチェックを受けたら、どれだけその後の行動に支障をきたすことか。定吉は下を向いてため息をついた。
ミニパトはゆっくりとアウディの隣に止まる。婦人警官が窓越しに声をかけて来た。
「あら、安雄ちゃん、久しぶり。またやったの?」
「うん、この車だめだね。早く買い代えとけばよかった」
知り合いなのだろうか。安雄はワザと舌っ足らずな声で答えている。
「車のせいじゃないわよ。運転の腕が問題なの」
ほう、このメンタは良うわかっとるやないけ。定吉は上目使いに婦人警官の方を盗み見た。
へえー年増やけど、なかなか悪うはないオナゴやで。初期のアルシュラ・アンドレスいうところやな。
「今度ゆっくりと僕チャンに運転のやり方教えてあげるわ」
「うん、オネエ様」
「この車早く歩道から降しなさい」
彼女は手にしたチョーク棒で、アウディの鼻先をコツコツと突いた。
安雄はあわててバックさせる。ガリガリとバンパーがいやな音を立てた。ガードレールは見るも無残に折れ曲り、地面から持ち上っていた。
「たまにはお電話ちょうだい。でも、この前みたいに署の方へ直接かけて来ちゃあダメよ」
「ウン。寮の方だね」
安雄は甘えたような声をあげた。
「バイバイ」
婦人警官は、隣に坐った若い同僚に合図し、走り去る。
「へえー、見のがしてくれたんでっか。マッポにしてはエエ根性や」
「あれは僕のコレ」
安雄はニヤリと笑って小指を立てた。
定吉は感心して首を振った。なるほどレイモンド・チャンドラー以来、官憲と仲良くして損をした奴はいないというのが世の定説である。
安雄は、今度は慎重にハンドルを切り、建物脇の駐車場に車を入れた。
「十一時十分か。ちょうど開いたばかりだねえ」
OPEN・11AM、UNTIL・4AMと書かれた白い看板を見上げる。彼は先程の事故などまるで忘れたかのような軽い足どりで車を降りた。そのままスタスタとピンクの建物に入って行く。
定吉もあわてて重箱を抱きながら彼の後に続く。
二人は通りに面したパティオの中央に置かれたテーブルに腰を降した。
「はぁぁ、こらカフェ・バー言うもんでっしゃろか?」
「うん、世間でよくいうところのそれさ。関西にも神戸の北野とか、京都の白川行くとあるでしょ? いやあっちの方が元祖かな」
物珍らし気にあたりを見まわす定吉へ小説家は大様に答える。
ステンレスのトレイを小脇に抱えた給仕が颯爽《さつそう》と出現し、テーブルの前にピタリと立った。
「いらっしゃいませ、田中様、お久しぶりで」
給仕は慇懃《いんぎん》に頭を下げる。
「や、モトさん。久しぶりに昼ゴハン食べに来たよ」
安雄は軽く応じる。
「あ、こちら大阪から来た上方落語の定雀さん」
「桂定雀でおます。どうぞよろしゅうに」
定吉は安雄の紹介を受けてペコリと頭を下げた。ここはせいぜい愛敬を振り撒《ま》いておくにかぎる。
「なるほど噺《はなし》家さんで。こちらにはテレビのお仕事ですか?」
「ま、そんなとこだす」
モトと呼ばれた給仕は、羨望《せんぼう》と憐憫《れんびん》の入り混った眼差《まなざ》しを定吉に向けた。
「今日のお勧めはなーに?」
安雄はメニューを受け取る。
「左様でございますねえ。九州池田湖のお化け鰻《うなぎ》が数匹入っておりますが、喜んでお食べになるのはフジテレビの方だけでございますよ。私といたしましては常陸《ひたち》霞ケ浦《かすみがうら》産の中型をお勧めいたしますね。田中様、麻布飯倉の『野田山』御存知でしょう?」
「ああ、天然鰻が売りで、肝の中から釣り針が出たら大当りという……」
「そう、その『野田山』の板前とうちのものが昨日、仕入れ先で大乱闘の末に手に入れた逸品で」ここでモトは声を落した。
「有名人の方にしかお出しいたしません」
「僕でも食べられるの?」
「もちろんでございますとも。田中様はいろいろな意味でメジャーでございますから」
モトは眉をピクピクと動かして答えた。
「じゃあそれになさいますね? 調理はどのように?」
「ネスト・オブ・ラカァド・バクセスで行こうかな」
安雄はスラスラと答えた。定吉はあわてて隣人の服をひっぱり、小声で聞いた。
「ネスト……なんとかいうんは何でっか?」
「ああ、世間でよくいう鰻重《うなじゆう》だよ」
「ははあ、さようで。なら、わては鰻丼《うなどん》いきまひょ」
主客と店に入った場合、一ランク下ったものを注文するのが丁稚の礼儀である。
「ボール・オブ・ライス・アンド・イールでございますね。お飲みものの方は?」
「わてはアルコールの方がとんと不調法で」
「まあまあ、軽くならいいでしょ。モトさん、この人に『ブラック・ヴェルベット』。僕にはギムレットね」
ミスター・モトはジョン・P・マーカンドが描いた日系スパイそっくりの慇懃な態度で深々と頭を下げ、奥に戻った。
「けど、おどろきましたなあ」
モトの後ろ姿を見ながら定吉はしきりに感心する。
「さだ……おっと、定雀さんはさっきからずっと驚きっぱなしだね」
「ここはカフェ・バーや無《の》うて鰻屋だったんだすかあ」
「港区だけでも、カフェ・バーの類がおよそ一千軒ほどあるけど、この青山周辺にはそのうちの約七十パーセントが集中しているわけ」
「そんなぎょうさん作ってどないするつもりなんでっしゃろ」
「大衆って奴はブームを骨の髄までしゃぶるのよ。当然過当競争になるでしょう。どの店も特色を出して生き残ろうとしている。ここは、食べ物の珍らしさが売りなのね。なにしろ、カフェ・バーってところは食べ物が場末のスナック並にマズイというのが一つのきまりみたいになっているからねえ」
口髭《くちひげ》だけがやけに堂々としている若い給仕が、注文の酒を二人の前に置いた。
「じゃあ、乾杯しよう。定雀さんが最も愛するものと、うちの御先祖様のつながりに」
「へえ」
定吉が最も愛するもの、それは太閤秀吉と高さ百三メートルの二代目通天閣、それに、今はどこぞかに姿を消したお初天神のお孝である。彼は幾分複雑な表情で杯をかわした。
思いもかけずやわらかな口当りに彼はホッとする。
「ね、飲みやすいでしょ」
「はあ、さいでんな。こら、うんまいわ」
「神戸のオリエンタル・ホテル、あそこのスカイ・ラウンジにはかなわないけど」
ギネス・スタウトとポメリのミックスが入った定吉のコーリン・グラスを指差し、安雄はほほ笑んだ。
「けど、ここは少々居ごこちが良うおまへんな」
丁稚はモゾモゾと腰を動かした。
「そのガーデン・チェア坐りにくいの?」
「そうやおまへん。なんや通りに面してるのんが……」
彼は目の前の通りに顎《あご》をしゃくる。たしかに、この白昼、汗を拭《ふ》きふき通る人々は皆、パティオの中でくつろぐ客たちに険悪な眼差しを送りつけて来る。対抗するかのように客たちも通行人にガンを飛ばしている。ここには五月革命当時のカルチェ・ラタンのカフェテラス程の穏やかさも無いのだ。
「これに負けたらだめなのよ。ここに坐るのは一種民間人に対する挑戦なんだから。昼間、人々が汗みずくになって働いている時、足を投げ出してアルコールをたしなむ。僕は自由業なんだよーだ、というエリート意識が明日の活力になるの」
なんや、真っ昼間に路端で酒を飲むのがエリートやったら、西成三角公園でワンカップ飲んどる鼻の赤いドカチンのオッチャンもエリート言うことになるやんか。
定吉は口の中でそっとつぶやいた。
「そういった意味もあって、こんな風に道に面したテーブルは、見てくれのいい客――たとえば、この近辺のスタジオに通うモデル連中とか、青学のサーファー、ファッションカメラマン、我々のような芸能人――にだけ開放されているわけよ」
「外の席に坐るゆうことはなかなか大変なことですなあ」
「そうさ、あれを見て」
駐車場に荒っぽく車――それは習志野ナンバーをつけた真っ白なカマロだった――を乗り入れたカップルが揃《そろ》いのボウリング・シャツ、同じ色のメッシュを入れたパーマ頭で現われたが、テラスに坐ろうとまさに腰を降しかけた刹那《せつな》、麻のスーツの裾《すそ》をひるがえして給仕が登場し、半ば強引に客を奥のテーブルへ連行した。
「産業道路沿いの大型パチンコ屋へ行く気分で来ちゃうんだよね。ああゆう人たちって」
「けど、仮にもお客さんに……」
「まあ、あんな風にイモを扱うのもしかたのないことなのよ。イモをある程度まで許すとイモだらけになるでしょ。イモ臭くなってグレードが落ちたら我々もその店行きたくなくなっちゃう。イモを表に坐らせないことは店の防衛手段でもあるわけ」
「あーゆーのをこっちゃの方ではイモ言うんでっか」
「お久しぶり」
突然二人の後ろから声がかかった。
「鰻を食べる前にギムレットなんて粋《いき》ね。わたしもいただこうかしら」
ベッコウ縁のサングラスをかけた大柄な女性が楡の木陰に佇《たたず》んでいる。水色のスーツに黒のパピヨンをキリリと締め、汗一つかいていない。
「明るいうちは飲まないってきめていたんじゃなかった?」
「朝起きたら、東京タワーの根元に太陽が引っかかっていたの。そんな日は何かいいことがありそうな気がして、前祝いしたくなるわ」
「じゃあ昨夜は三田のお坊ちゃんとお楽しみだったってわけ? 焼けるね」
「東京タワーが見えるところは、三田とはかぎらないわ。狸穴《まみあな》のアカ大(ソ連大使館) ってこともあるわよ。あら、こちら……」
彼女は定吉の方に顔を向けた。
「そうさ、この人が君の『紅はこべ』 ってわけ」
「そ、そうなの? あなたが……」
「定雀でおます」
彼は何のことやらわからなかったがペコリと頭をさげる。
「今夜ここでやる番組にゲストで呼ばれてるんだ」
安雄は彼女にウインクした。
「君も出るんだろ?」
「ええ、レギュラーですもの」
トレイの上に重箱と丼を乗せた給仕が奥から出てくる。彼女はそれを潮に話を切りあげた。
「じゃあ、今夜また会えたら会いましょうね」
長い髪をサッと一振りして背筋をピンと伸ばし、彼女は奥へ入って行く。
二人のテーブルには鰻重と鰻丼が並べられた。安雄の重箱は日本のものではなかった。シッキムの山漆塗り、蓋《ふた》にはインドの白象が描かれている。定吉の丼はもっと凄《すさ》まじい。安物だろうが一応マイセンの九谷写しヌードル・ボールである。さんしょの粉入れはセーブル焼の香味入れとこれも凝っていた。
しかし、中味は普通の蒲焼《かばやき》が御飯の上に乗っているだけ。
「関西の人には、関東の鰻は少しものたりないかも知れないけど、ま、食べてみてよ」
「ヘイ、いただきま」
上方の鰻は腹を裂き、江戸鰻は背を開く。商人の町では「腹を割って話す」ことが美徳だが、武士の町江戸では「腹を切るのは縁起が悪い」ということなのだ。焼き方はもっと異なる。関東では素焼の途中で火から降して蒸すのに対し、西国では蒸しをしない。関西人は東京の鰻を、歯ざわりが乏しく、途中蒸しによって風味が失せるとののしり、関東人は、飯と飯の間に挟んで上から甘ったるいタレをビシャビシャかけるマムシなんて下品だ、と嫌う。
定吉もその心もとない箸《はし》の手応《てごた》えに閉口しながら鰻を食べ始める。
「田中センセ」
「なあに?」
「今のオナゴも先生のレコでっか?」
「あれは違うよ」
きも吸いをすすりながら安雄は答えた。
「あれはね、八王子の女子大生。土地の旧家の娘らしいんだけどね。何が不足なんだか、吉原の超高級特殊浴場でアルバイトしてる。根っから好き者なんじゃないかな」
「名前は?」
「立穴裕子」
「ヘッ!?」
定吉は思わず飯を鵜呑《うの》みにした。立穴裕子と言えば、彼が救出すべきNATTOの女スパイではないか。
「あれが、そうだっか?」
「うん」
安雄はノンビリと鰻を口に運ぶ。
「なかなかいい女でしょ。ちょっと肉付きが良いけど、そういうとこ僕は好きだね」
「へえ、わても痩《や》せとんのよりポチャポチャっとしとる方が好きだす」
「もっと驚くこと教えてあげようか。あの子、お風呂屋サンがオフの日はここでも働いてるんだよ」
「働いてるて……、するとまさかここは」
「この『クリスタル・ド・ピッグ』は満食っていう大手食品会社が経営していてね。彼女はその会社のミス・駅弁なんだ。僕の睨《にら》んだところ、満食にはNATTOの実動部隊KIOSKが多数入り込んでいる。いや、KIOSKが満食を経営しているといった方がいいかな」
安雄は定吉の耳もとにそっとささやいた。
「何でっか!?」
驚きのあまりとうとう定吉は口の中の鰻と飯を吐き出した。目の前に安雄の大きな顔が出ていたからこれはたまらない。
「す、すると、ここは敵のド真ン中やないですか。これに毒でも盛られてたら一発や」
定吉は飯つぶを撒き散らし、大口を開けた。小説家はローマ・グレゴリーナ通り十二番地で買い求めたという自慢の絹ハンカチで顔の汚れを拭《ぬぐ》う。
「大丈夫、これだけ敵中に入り込めば逆に安全なんだから」
「かなわんなあ、もう」
気がつくと囲りの客や給仕たち、それに通行人が大勢こちらの方を注目している。どうやら騒ぎ過ぎたらしい。
「今夜もう一度ここに出ばってこなければならないので、一応舞台を下見してもらおうと思ったんだけど……」
安雄はカウンティング・ペーパーを取って立ちあがった。
「今のでちょっと一般大衆の注意を引きすぎちゃったみたいだね。出ようか」
定吉は周囲の人々に頭を下げて重箱を抱えた。
9 六本木で猿が木から落ちること
二人は、最近安雄が借りたという霞町の高級マンションへ向った。小説家の車はまたしてもあっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロとドリフトしたが、しかし、今度はほんの少しの我慢で済んだ。マンションは、カフェ・バー「クリスタル・ド・ピッグ」の目と鼻の先にあったからである。五階建ての二階と一階のフロアーが彼の住居と教えられたが、定吉がそのマンションの前に立った時、ちょうどインテリア職人が工具や壁紙のロールを一階の入口に運び込んでいた。
「部屋の改装でっか?」
「こういう商売してると、おなじみさんが多くなっていけないね」
安雄はアウディのキイを指先でクルクル廻《まわ》しながら口を尖《とが》らせた。
「一週間前かなあ。一階の仕事部屋にクレイモア爆弾置いてった奴がいるんだよ。文芸誌の編集者に化けてね。僕は、本当はその部屋で締切りに追われてるハズだったんだけど、某ファッション雑誌の女編集者が突然やって来て、『あーら田中先生、インタビュー答えて下さらない?』」
安雄はいきなり女の声色《こわいろ》を出した。
「『無礼な人だな。僕、アポイントメントの無い人には会えないよ』。『あら、そんなことおっしゃっちゃあイヤ』。見れば意外にいい女。元は表紙のモデルだったのが、年が行ったからスタイリストになって、その後に編集者というよくあるパターン。『カリフォルニア産だけど七九年物のカベルネ・ソーヴィニョンがありますわ。いっしょに開けてからインタビューを受けるかどうかを考えてもいいでしょ』。『僕、ワインに弱くってね。そばに女の人が居ると酔った勢いでなにするかわかんないから』。『あら、そんなこと気にいたしませんわ。オホホホ』」
安雄は路上でクネクネと身をくねらせる。
「『じゃあ仕事場じゃなくって二階の寝室でヘッヘッヘ』。『まあ、なんてストレートなお方』。そこで二階に上り、ワインの栓を抜いたとたんに一階が」
「ドカンと来ましたんで」
「うん、危いところだった」
安雄は文楽人形のような動きをやっと止めた。
二人はイタリアの中古家具で統一されたシンプルなインテリアの二階に上る。白い壁面のあちこちに走る大きな亀裂《きれつ》が爆発のショックを物語っていた。
その後、安雄は電話に張り付き、定吉は昼寝をする。
安雄が最後の電話を終り受話器を置いた時、時計の針はすでに午後四時を少し回っていた。
彼は、明日の夜に定吉とKIOSKの女スパイを東京から逃がすため、国鉄、長距離バス、飛行機、フェリーの座席をすべて二人分手配したのである。もちろん夏の帰省、行楽客でどこも満員だったが、安雄は、かつて関係した女子大生、今は卒業し、旅行代理店や航空会社に就職した連中のコネをフルに活用して強引にやりとげてしまった。
このお礼として彼女たちに約束させられた食事(もちろんその後のアフター・サービスも含めてだが)スケジュールを書き込んだ青山学院生協購入三百九十円の手帳を閉じ、ガックリと彼は肩を落す。
やがてノロノロと立ち上って、ロッカーからサンタンドレアのオーバーオールと月星のゴム長を二人分取り出した。
「定吉さん、さ、起きて。出かけるよ」
昨日まで女子大生が横たわっていたというトリプル・サイズのベッドでいぎたなく眠りこける丁稚を小説家は軽く小突いた。
「ふへえ、今度はなんでっか?」
「これからジュール・ヴェルヌの気分になるの。いいからこれ着て」
言われるままに定吉は渡されたオーバーオールを着物の上から着こみ、長グツを履いた。
エレベーターで地下に降り、ボイラー室のドアを開ける。片隅に積まれたダンボールをどけると、そこにはポッカリと暗い穴が口を開けていた。カビとサビの臭いが二人を包む。
安雄が用意の軍用懐中電灯をつける。湿ったコンクリートの階段がまず現われた。
「わて、こういうの弱いんだす。なんやお化け出そうで」
「大丈夫だよ。さ、降りて」
強引に安雄は定吉を歩かせる。
中は意外に広い。天井は四メートル以上、周囲はコンクリートで固められている。どこか近くから金属のきしむ音や、エンジンのゴウゴウという音が聞こえる。
「十五分くらい歩いてもらうよ」
「こらいったい何でっか」
「営団地下鉄が戦前、間違って掘っちゃった地下路線さ。戦時中は麻布連隊と陸軍幼年学校の決戦|壕《ごう》になったんだけど、戦後はすっかり忘れられたらしくってね」
足元は水がたまり、歩くたびにピシャピシャと音をたてる。巨大なドブネズミがその中を横切る。
「都内の地下鉄の総延長は約二百キロあるそうだけど、中にはこうした廃路も含まれている。ここのすぐ隣は千代田線が走っているんだ」
「あ、ヘンな音は電車の音だっか」
定吉はヘッピリ腰で、小柄な安雄の後について行く。やがて古びたレンガ作りのコーナーに出た。天井から一本のスチール・パイプが降りている。基部は防水シートで包まれ、あたりには木箱が三、四個ころがしてあった。
「この上」
安雄はソッと指を天井に向けた。
「この上に昼間行った『クリスタル・ド・ピッグ』が建ってるんだ。あの建物は、もと華族のお屋敷で、戦後米軍将校クラブになった時にこの地下室を塗り込めちゃったんだね。その後に買った満食の不動産部は、地下がこうなっていることなどぜんぜん知らないんだ」
「はあー、さようで」
「上の様子はこれでわかるの」
安雄は防水シートをはがした。把手《とつて》とメーターの付いたパイプの基部があらわになる。
「ガスのメーターでもないし、ボーリングの鉄棒とも違《ち》ゃいまんな。これ、もしかしたら」
「そう、潜水艦の潜望鏡」
彼は自慢そうに鼻を蠢かせた。
「正式には海軍甲一型金物というんだ。昔の日本軍はこーゆーのをみんなカナモノって呼ぶらしいね。まあ金属には違いないけどさ」
定吉はグリスのベットリと塗られた円柱をなでさすった。
「どこで手に入れはったんだす?」
「故郷の長野県に松代《まつしろ》ってところがあるのね。地震とマッシュルームで有名なとこ。昭和二十年に本土決戦時の仮大本営が作られて、戦時物資がいっぱい隠匿されたんだけど、終戦と同時に近所の人がソレッとばかりに略奪してね。そういうのが今頃農家の納屋から時々出てくるんだ。でも、昔の日本軍っておかしいよね。あんな山奥に潜水艦の備品持ち込んでどうするつもりだったんだろ」
安雄はハンドルを回して把手を胸の位置まで上げ、それによりかかってレンズを覗《のぞ》く。自分では『深く静かに潜航せよ』のクラーク・ゲーブルを気取っているつもりらしいのだが、どう見てもそれはユーカリにからみつく木登りコアラだった。
「こいつの先端は、店の奥にあるバーカウンター、そこに付属した真鍮製《しんちゆうせい》足置きへおさまっているんだ。時々カウンター席に坐《すわ》った女の子のスカートの中が丸見えになってこまるよ」
彼はまんざらでもない口ぶりで言った。
「へえ、そら旧帝国海軍工廠はんにお礼言わなあきまへんな」
「今日はそんなチャンスは無いみたいだよ。ほら、もうテレビ局の奴らが器材を搬入している」
安雄は定吉に接眼レンズを譲った。彼は自分の身長に合わせて少し把手を持ち上げ、覗きこむ。
「いっぱい人が集ってまんがな。テレビ局がこないなとこで何しはるんでっか?」
「あれ? 定吉さんはこの番組知らないの?」
「へえ。関西のローカルしか見まへんよって」
「今一番人気がある若向け番組でね。『オールナイト青山』って言うやつさ。金曜日の夜十時五十五分から土曜日の明け方まで女子大生が『クリスタル・ド・ピッグ』の中で一種の学芸会をやるんだ。深夜に悶々《もんもん》と一人マクラを抱いている地方出の学生とか受験生のためのオナニー・ブレイク用だね。視聴率は意外に高いという話だけど、しょせんネクラなマイナー向けさ」
安雄は自分が出演する番組をクソミソにけなした。
「ほならオナゴはんは、いっぱい出はるんでっしゃろなあ」
「ざっと百人ぐらいは来るかな」
「真夜中に年端《としは》もいかん女子大生が百人もでっか!?」
「最初は三十人ぐらいだったんだけどね。他局が類似番組作るから、対抗上どんどん頭数を増してってこんなになったらしいよ」
定吉は潜望鏡に映った部屋の広さを見て首をひねった。どう考えてもこの中に百人は無理だ。女の子だけならなんとか詰め込めないこともないが、テレビの撮影となれば器材やスタッフの場所も必要だろう。
「無理や、学校の体育館やおまへんで」
「そこをなんとかするからテレビは恐い」
「あ、誰ぞ偉いさんがお越しのようでっせ」
器材を床に並べていたスタッフが、一斉に入口の方へ頭を下げている。
「どれどれ」
安雄は定吉と代り、把手を下げる。
部屋の中央に置かれた古いスタンウエイのピアノと照明器具の間から金縁眼鏡をかけた顔の長い男が姿を現わした。丸めた台本をジーンズの尻《しり》に差した、現場の責任者らしい男が走り寄り、しきりに頭を下げている。
「あー、あのやろー。ディレクターの奴、出演依頼に来たとき、他のゲストのこと聞いたら何か口ごもってたけど、こういうことか」
接眼レンズから目を離し、安雄は歯ぎしりする。代って再び定吉が潜望鏡に取り付いた。
「あの馬ヅラはただのゲストでっか。わてはまたテレビ局の偉いさんかと思いましたで」
背丈は定吉と同じぐらいだろう。テレビ局のスタッフより頭一つ分ぐらい大きい。顔が長いのだ。彼はヒョロヒョロと白い木肌の棚に近付き、そこに置かれたタンカレー・ジンの青い丸瓶を勝手に取ると、潜望鏡の前にある丈の高いスツールに腰をおろした。その瞬間、画面は真っ暗になった。男の足が真鍮の足かけに乗ったのだろう。
「ありゃ、潜望鏡の上に足置かれてしもうた」
遊園地のスライドスコープが途中で終ってしまった子供のような顔をして定吉は眼を離した。
「そういう不愉快なことを無意識にやるやつだよ。あいつは」
「誰です?」
「『見え見え講義』という本を百万部も売ったとか言ってイイ気になっている番場というやつさ。ことあるごとに僕の悪口を言ってまわる六本木文化評論家だ」
安雄は吐き捨てるように言った。
「はあ、評論家さんだすか」
「本職は大手広告代理店のサラリーマン。主に満食関係の仕事をしているってさ」
「じゃあ、あれも……」
「うん、NATTO直属の殺し屋だ。僕のマンションに爆弾仕掛けたのも、どうやらあいつの差しがねらしい」
潜望鏡が使用不能になった以上はここに長居は無用だった。二人は懐中電灯をかざし、帰路につく。
「しかしバカな奴だ。放送は深夜だっていうのに、夕方から早々来てネバってる。六時間以上もあんなところでなにやるつもりなんだろう。テレビ出演がよっぽど嬉しいらしいな。あー田舎モンは、やだやだ」
安雄はトンネルの中で大声をあげた。
「田中先生、こらワナでっせ。テレビ出演やめた方がエエのんとちゃいまっか」
「うむ、でも、番組終了後のドサクサにまぎれて立穴裕子を連れ出す計画は、すでに彼女へ伝えてしまったんだよ。今さら変更はできない。それに、番場の奴の一人舞台になったら何を言われるかわかったもんじゃない。僕の方がメジャーだってことを女子大生の皆さんに教えてやらなくっちゃ」
「有名人やるのもシンドイことでんな」
定吉は心からこの小説家に同情した。
重箱の上に乗せたトラベル・アラームが九時の時報を告げ、点《つ》けっぱなしのテレビからNHKニュースのテーマ音楽が聞こえてきた。
定吉はホテルの風呂《ふろ》に入って、毛穴の中に染み込んだ地下道の腐臭を洗い落していた。湯上りの体を東京ステーション・ホテルのネーム入り浴衣で包み、ホームが良く見える窓ぎわに腰をおろして冷えたオロナミンCをちびちび飲みながら、これからのことを考えた。
「立穴裕子……か」
彼は昼間、楡の葉影でかいま見た女の名をそっと口に出してみる。
妙だった。大阪で教えられたことと少々違っている。宗右衛門の話では、たしかに彼女は定吉のことを慕っていたはずだ。その証拠の恋文も見せられた。なのに、それほどあこがれている男が目の前数メートルに坐っていても彼女は咄嗟《とつさ》に識別することができなかった。
KIOSKの写真やビデオでしか定吉を知らないのだったらそれも当然か……。
電話のベルが鳴った。
「異常なーい?」安雄だ。
「ヘイ、なにもおまへん」
「今から迎えに行くよ。いっしょに『クリスタル・ド・ピッグ』へ出撃だ」
「ひえっ」
「どうしたの敵地に乗り込むのが恐くなったの?」安雄はふくみ笑いをした。
まさか定吉七番ともあろう殺人丁稚が、その程度のことでビビリはしない。恐ろしいのは安雄の運転だった。あんな恐い車には二度と乗りたくはない。彼とて犬死は厭《いと》う。
「迎えにはおよびまへん。わて、タクシーで直接うかがいまっさ」
「じゃ、あそこのテラスで待ってるよ」
電話が切れると定吉は、絽《ろ》の夏羽織と福助印の白タビを取り出した。本格的に噺家へ変身しなければならない。
金曜日の夜、首都高速は少々混んでいた。足の下の六本木は真昼のような明るさだ。定吉を乗せたタクシーは、高樹町のランプを下り、十時ピッタリに南青山六丁目の住宅街に着いた。
カフェ・バーは夜に入ってまた一段とケバケバしく変身している。クリスマスと見まごうばかりに多数の豆ランプが木々の間で点滅し、四方八方からテレビ局の大型照明が建物を照らし出す。中央にはピンクの大きな豚の看板がキラキラと輝いていた。
「まるで十三《じゆうそう》のマンモスキャバレーみたいやなあ」
「やあ、こっちこっち」
パティオの脇《わき》、昼間と同じテーブルから安雄が手を振っていた。両側に数人の女の子を侍《はべ》らせ、至極御満悦の体でケーキをパクついている。そこにたどり着くまでがこれまた一苦労だ。テレビ出演の女子大生目当てでやって来たニキビ顔の予備校生、娘になにかあっては大変と竹刀《しない》片手にやって来たお父さんやボーイフレンド、取材を口実にしてナンパに来た週刊プレイボーイのライター、それに対抗するケンカ腰の平凡パンチの記者、芸能プロのスカウトマン、そいつにスカウトされたい一心で一心太助の格好をしたタレント志願など、メチャクチャな人混《ひとご》みをかきわけて行かなくてはならない。重い重箱を抱えた定吉はやっとの思いでテーブルにたどりついた。
「やあ、御苦労さん、ここの自家製キャロットケーキ食べない? 神戸のマザースキー・ハウスのやつよりおいしいよ」
「へえ、いただきま」
「あ、みんなに紹介するね。こちら大阪の落語家で桂定雀さん。今、関西の若手で一番注目されている人だよ。古典が上手なの」
どうせ関西の事情には暗いと踏んで、安雄は囲りの女子大生たちに口から出まかせの紹介をした。
「わあ、近くで噺家さん見るのはじめてよ。私はぁ、清里高原でぇちょっぴりウインド・サーフィンがうまくなった黒百合女子短期大学二年大橋久美子でーす」
「初めまして。彼にハワイでビキニを買ってもらったんだけど、もう少しヤセないと入らないんで月見草オイル飲んで減量中の東京神学館大学三年辻弓子でーす」
「こんばんは。きのう軽井沢の、叔父の別荘でえ、パーティを開いたら朝までワイン飲み続けてえ、帰りにボーイフレンドのベンツにゲロを吐いてしまった二日酔いの南青山女子大四年湯水ゆかりでーす」
あいさつの後に自分の近況報告をし、その後に学年と名前を言うのが彼女たちの礼儀であるらしい。また、自分が語り終ると隣の仲間をイベント・ガールの説明もどきに手のひらで示すのも独特なスタイルだ。こんな調子で定吉は次々に七人の女子大生を紹介された。どうやらすべて安雄の親衛隊員のようだ。しかし、この危険な敵中でこうした非力な女の子たちがどれだけ役にたつというのだろうか。
「情況はかなりおもしろくなっているよ」
安雄は派手なベルチェルリのサマーセーターの袖《そで》をパタパタと動かして風を送りながら小声で言った。
「何ぞ変ったことでも?」
パウンドケーキを不器用に皿へ移しつつ定吉は聞く。
「レギュラーの女子大生は、去年の放送開始から出ている古手の連中――ここにいる子たちもそうだけどね。――と、今年四月の番組改正でドッと入ってきた新手の連中の二派に分かれている。古手の方は……」
「いやあね、ヤッちゃん。あんまり古手古手っていわないでよ」
隣の丸ポチャ娘が安雄をつねった。
「イタタタ。と、とにかく、その、以前からいる子たちは、DJのバイトをしたり、学生レポーターだったりで少しはプロ意識も有って、できればいまの活動を就職に結びつけたいと思っている。マジメなんだね。ところが、新しい子は大部分が大学の広告研、マスコミ研のメンバーでただの出たがり。そこで新旧の摩擦が起きるわけだ。どうもこの争いは血を見なくては収まらないらしい。プロデューサーもディレクターも困っている。彼女たちの代表が番組放映中に決闘するというウワサも流れているんだ」
なるほど、混乱が大きければ大きいほど立穴裕子を連れ出すチャンスは増える。
「こっちゃの目標物はどないだす?」
「彼女はコマーシャルガールだからね。奥で打ち合せ中さ」
「先生の敵役は?」
「番場のバカか。あいつは七時間もカウンターで待ち続けてさ。ヒマつぶしに大酒かっくらってダウンだよ。スタッフがどっかで休ませてる。本当に見えっぱりの田舎者だね」
定吉はうなずく。これで一応殺し屋の方は大丈夫ということか。
「田中さん、十五分前です。台本をどうぞ」
ラテン風の口髭をなびかせて、ディレクターが現われた。安雄は再び定吉を友人として紹介した。
ディレクターは大きくうなずく。幅の広い手で定吉と握手し、「大文字《だいもんじ》」とゴチック体で印刷された名刺を渡す。定吉も懐から偽名の名刺を取り出して頭を下げた。この時、アシスタント・ディレクターが血相を変えて走り寄り、ディレクターになにか耳うちした。二人は急ぎ足で室内に入って行く。
「へえー、本番前に始まっちゃったらしいね」
安雄は楽しそうにケーキの残りを口に放りこんだ。
ガチャン、という瓶の割れる音がして人々の話し声が途切れた。静寂が南青山六丁目を支配し、二百人以上の耳は一点に集中する。
静けさは若い女性の怒声で破られた。
定吉は立ち上り、声のする方を見た。レイヤーカットの小柄な女性と、ショートカットの大柄な女性が人々の輪の中でがなり合っている。隣では老いたプロデューサーがおろおろと台本の端をかじり、ディレクターがおもしろがってカメラを回すように指示している。
春先の猫のようなしゃがれ声で、おまけに特殊な女子大生用語、しかもそれを関東弁の早口でまくし立てるものだから、定吉には何が何やらさっぱりわからない。
安雄が小声で翻訳してくれた。
「小柄な眼の大きな子、あれは『お手盛シスターズ』という古手の子で、ゆかりちゃんと同じ南青山女子大二年のマリちゃん。大柄で宝塚男役みたいな子は新手の『おまんたせシスターズ』のミオちゃん。こっちは高輪学習館学院女子短大生活防衛科の一年だ。どうやら二人は一人の東大生を取り合っているらしいね。手を引かなければブラウン管の前で大恥かかせてやる、とどちらも息まいてるよ」
「その東大生は男|冥利《みようり》につきますな」
「男? いや相手は女だよ。あの子たちはレズなんだ」
ヘッ? 定吉は一瞬混乱してしまった。何や? 女が女の取り合いしてるんか。
歩道の方では週刊プレイボーイと平凡パンチの記者が、どちらが勝ちか賭《か》けを始めた。テレビ局のスタッフや芸能プロのスカウトマンもそれに同調し、金の代りにタクシー券や領収書が宙を舞った。ドサクサにまぎれて名刺交換をする奴《やつ》らもいる。
定吉は人垣の中で対峙《たいじ》する現代の清姫たちを見つめた。
二人ともオーディションに受かっているだけあってどちらもなかなかの美少女だった。七月の熱帯夜、しかも冷房のきかない屋外、その上テレビ用の照明が煌々《こうこう》と輝く下のこととて、二人の着衣はすでに汗みずく。まるでバケツの水を頭から浴びせられたかのように濡《ぬ》れそぼち、下着の線もクッキリと現われている。
ええ眺めやなあ。定吉があんぐりと口を開けかけた時、大柄なミオが素晴しいスピードでマリにアッパーを食らわせた。たまらず小柄なマリはふっ飛んでテラスの手すりにたたきつけられる。
「キャー」という悲鳴が人垣の中から上った。数人の女の子が倒れたマリに駆け寄る。ヨロリ、と立ち上った彼女は唇の端についた血をプッと吐き出し、ファイティングポーズを取る。自分の拳《こぶし》が思うようにダメージを与えられなかったことに怒ったミオは両手を広げて襲いかかった。その瞬間、マリの蹴《け》りが入った。今度はミオがテラスに倒れる番だった。
「いけ、そこだ、止《とど》めを刺せ!」「幻の右を入れてやれ」「フランスパンを鼻の穴に詰めろ」
勝手な声援がまわりからいっせいに起った。人垣をかき分けて片目の労務者が杖《つえ》を突いて現われ、倒れたミオに向って呼びかけた。
「立て、立つんだ。お前には明日がある。クロス・カウンターがまだ残っているぞー」
定吉は頭が痛くなって来た。
ブロロロロ! パララパラパラパララララ。
突如として轟音《ごうおん》が路上に轟《とどろ》いた。表参道の方角からオートバイの大部隊が出現したのだ。
「キャー、暴走族よ」
テラスの裏手で火炎ビンの炎がドッと上った。人垣がくずれ、テレビ局のスタッフが中継車に走る。お株を奪われた二人の決闘者は服を乱したまま茫然《ぼうぜん》と立ち尽した。
「あちちち」
着物の袖に火の粉が飛んで、定吉はあわててその場を離れる。
「今度はいったい何だす?」
安雄は仁王立ちになってオートバイの集団を見ていた。
「気をつけて、定吉さん。どうやらこの混乱は我々と関係があるらしい」
敵の攻撃やろか? とっさに定吉は懐へ手を入れ、バーンズ・マーチン・ホルスターから富士見西行°辮。五分のやなぎ包丁を抜くと、腰の下に構えて闇《やみ》の中へ前進した。
中庭では局のスタッフや万一のため待機していたガードマンと、黒いつなぎにヘルメット姿の暴走族がもみ合っていた。
女子大生たちのあるものは泣き叫び、あるものは楽しそうに戦闘へ参加して木刀やヌンチャクを振りまわしている。時おり火炎ビンが炸裂《さくれつ》し、敵味方の識別をつけていた。
「ちくしょー、本番前だっていうのに、もうメチャクチャだよー。スポンサーに何て言ってわび入れりゃあいいんだよー」
テラスの真ん中で老いたプロデューサーが床にしゃがみ込んで泣いている。
彼はこの攻撃が高視聴率をねたんだ他局の妨害であると思っていた。民放局の収入アップの手段として放送時間の深夜延長を最初に提言したのは彼をもって嚆矢《こうし》とする。民放連の放送基準で、全放送時間の十八パーセント以下と定められたCM時間を増やすには未開発の深夜延長しかない、といういわばコロンブスの卵的な彼の発想のおかげで、青山テレビは一日三千万の増収と高視聴率を手にしていた。他局のプロデューサーは今や、みなこの番組つぶしに狂奔《きようほん》している。
頭を割られたADがよろよろと定吉の方に歩いて来た。日の丸を胸につけた暴走族が二人、それを追って迫る。
定吉は反射的に空中へ飛び上り、二人の後に降り立つと、包丁の柄で彼らの首筋を打った。暴走族は声も無く芝生の上に倒れた。
バン! という大きな音とともに背後から安雄の悲鳴が聞こえてきた。
「助けて!」
定吉は暴走族を踏み越えてテラスを走った。
「奴ら改造|拳銃《けんじゆう》を持ってるらしい。腕に一発食らっちゃった」
安雄は女の子たちに手当てを受けつつ叫んだ。近くを見回すと、茂みの間で不格好な手製銃に弾を込めようとあせっている大柄な男の姿があった。
「殺《や》るんだ定吉さん。そいつが番場だ!」
手製銃から二発目の弾丸が発射された。弾は安雄の横に立っていた女子大生に命中する。同時に番場も、悲鳴をあげた。発砲の衝撃に耐えきれず、銃が吹き飛んだのだ。
彼は右手を押えて、茂みの中へ身をひるがえした。
「ワレ、待たんかい!」
定吉は包丁を擬してその後を追った。
番場は路上に飛び出し、待機していたバイクのタンデムシートにまたがった。
「引けー!」
バイクの轟音が再び青山の路上に轟く。
間の抜けたパトカーのサイレンがやっと四方から聞こえて来た。
サイレンに負けまいと特殊警笛を鳴らし、アクセルをふかして暴走族は撤収した。
騒ぎはこれで収まるわけではなかった。出演中の恋人を暴行された男子学生、どさくさまぎれにいいことをしようとする週刊誌のレポーターが、血を見て猛《たけ》り狂った女子大生やスタッフと再び乱闘を開始した。
ディレクターとカメラマンはその戦いぶりを冷静に撮り続け、プロデューサーは焼けこげたテーブルの端で局とスポンサーに対する始末書を泣きながらしたため始めた。昭和四十八年の省エネショック以来営々と築きあげて来た彼のテレビ人生は今夜ですべて終ったのである。
定吉はあらためてまわりを見まわした。いったい全体これはどういうことなんだ。
「久美子ちゃん」
弾に当った女子大生を抱き起し安雄が声をかけている。
「先生、あたし入院するなら信濃町の慶応病院がいいわ。あそこには昔つきあった男がインターンやってるの。……そ、そこがだめだったら広尾の日赤ね。間違っても東京女子医大はいやよ……。あそこにはおつきあいした人がいないし、いまひとつアタシの好みが……」
「あー、死んじまったーい」
ガックリと首をたれた彼女を抱きしめ、安雄はワアワアと泣き始めた。
木口小平は死んでもラッパを離さなかったというが、この女子大生の、死に際まで病院のブランドを指定し続ける根性には負けるだろう。定吉はその執念に打たれて立ち尽した。
「よーし! この仇《かたき》はきっと討ってやる。行こう定吉さん」
「行くゆうても、どこへ?」
「番場の隠れ家は突き止めてある。報復しよう。『目には目、元帥の仇は増産で、江戸の仇は長崎で、いつもニコニコ守る締切り』、これが僕のモットーだ」
安雄は大きな眼をこれまた一段と押し開き、駐車場の方へ走り出した。
「何や大きな目えやなあ。まるで茶川一郎の芝居見てるみたいや」
定吉も仕方無しに駐車場へ身体《からだ》を向けた。
ボディがメチャクチャにくぼんだアウディ80は人気のない住宅地を走り抜ける。駐車場から引き出す時、警察の装甲車と同じ仕様のテレビ中継車へ後のバンパーをくれてやり、青山通りに出た時、右側のフェンダーを標識にぶつけた。歩道に乗り上げて青山名物屋台のフランス料理屋を壊し、ガードレールを再びハネ飛ばしたが、安雄はひるまなかった。彼の頭には復讐《ふくしゆう》の二文字しかなかったのだ。4気筒1.8リットル92PSエンジンはフル回転した。
車はそれでも検問に引っかかるようなドジを踏まないよう遠回りで六本木に向った。青山通りから渋谷、明治通りを通って恵比寿から広尾、天現寺《てんげんじ》の交差点を避け、有栖川《ありすがわ》公園の坂を上り麻布十番。曲りくねった道をジェットコースターのごとく走りまわり、三十分後六本木五丁目のエル・サルバドル大使館分室裏へ到着した。助手席の定吉はこの間重箱の包みを抱え、念仏を唱えて死んだふりをしていたのだった。
車は、まだこのあたりが大名赤井家の下屋敷だった頃《ころ》から茂っているという樹齢二百五十年余の巨大なイチョウの木立の陰にゆっくりと入った。
通りの向う側には、六本木ロアビルのロゴが他のビルの間から赤く光っている。
風ひとつ無い熱帯夜だ。寝れぬままに街へくり出した若い男女が、肩を組み合って赤ちょうちんの縄のれんを潜り行く姿も遠く見え隠れする。
「六本木も炉端焼・居酒屋の類がやたら増えたなあ」
安雄はダッシュボードをごそごそ引っかきまわし、錦《にしき》の袋に入った長さ三十センチほどの細長い棒を取り出した。
「定吉さんはここに残っていた方がいい。いざという時の土地カンが無いだろうから」
定吉は絽《ろ》の羽織を脱いで、懐から女物の腰ヒモを取り出す。手早くタスキをかけた。
「へえ、おおきに。けど、いっしょに行きまっさ。殺しはわての商《あきな》いやさかい」
「君にやられちゃこまる。これは僕個人の仕事だ」
「なら、仕損じた時の二番手ゆうことで。なんせセンセは怪我《けが》してはる」
「しかたないねえ」
安雄は顎《あご》をしゃくると、住宅地の植込みに向った。
甘い腐臭を発する生ゴミのポリ袋が積まれた横丁を越えるとき、怪し気な二つの人影を見つけ、定吉ははっと緊張する。
「あ、あの外人たちは何でっしゃろか?」
「あれは気にしなくてもいいの」安雄は言った。
「狸穴のソ連大使館にいるKGBのおじさんが近所付合いをしている防衛庁職員と情報の売買をしているだけさ。この辺じゃよくあることだよ。我々とは関係無い、無害な連中」
なるほど、国際間の諜報《ちようほう》活動か。平和で穏《おだ》やかな人々だ。定吉はホッと息をついた。
「この仕事は簡単さ。文芸誌のコラムを書くよりは、ね」
暗がりの中で抱き合う大柄な黒人と黒く湘南焼けした女子高生――これは、目をこらさないと本当に見別けがつかないのだった――の脇を通り過ぎる時、安雄はそっとささやいた。
「この奥まったところにイタリアン・レストランがある。三階の『ザ・キングコング・カフェ』というバー。あそこの支配人室が番場の隠れ家だ」
外車ばかりが停《とま》っている駐車場の先に、ガラス張りの小さなビルがネオンを瞬かせていた。三階の窓にKING KONGの文字、隣に巨大な縫《ぬ》いぐるみの猿がしがみついている。
「あれだよ。ビルには非常口が二つも付いてるのに、あのバカは普段でも窓から出入りしている。見栄を張ってるんだ。そういうことがカッコイイことだと思ってやがる」
駐車場に回り込んだ二人は、ゆっくりとビルに進んだ。一階のレストランは閉店していたが、三階のカフェ・バーは営業中らしく、マンハッタン・トランスファーのBGMが切れ切れに聞こえてくる。
窓が良く見える位置に停っているケーキ屋のマーク入りシトロエン・バンまで近寄り、隠れる。安雄はポケットからスコープを取り出した。
「スターライト・スコープだよ。本場西ドイツ・カールブリュッケン社製、あちらで買っても三万マルクはする。赤外線と違ってこちらの位置を悟らせない」
安雄は得意気に金属の棒を定吉に見せた。
「ははあ、こら便利なもんでんな。暗いところも丸見えや」
定吉は、カステラのCMに出る南蛮人のように夜間照準眼鏡を目に当てた。
客寄せの毛むくじゃらな大猿がスコープいっぱいに映っている。広がった鼻の穴、金つぼまなこは、ちょっと前までマスコミで大モテだった某コピーライターを連想させる。
「あ、それ返してくれる?」
安雄が手にした袋の口をくつろげる。定吉が想像した通り、それは長さ一尺八寸、竹のたて笛だった。
「あんさんにそんな御趣味がおありやなんて」
「こりゃあただの尺八じゃないよ。真田忍群が七方出(変装の探索)の際に使ったという武器だ。別名『真田のひとよ切り』といってね。吹き矢が射てるの」
彼がスターライト・スコープを尺八に平行して装着し終った時、駐車場に一台のMGが入って来た。
「だいじょうぶ。あれは僕の知り合い」
身を低くして包丁の柄に手をかけた定吉を止どめ、安雄は指を鳴らした。
MGからソバージュ・ヘアーの若い女性が二人降りてビルの階段を上って行く。
「あの子たちが番場をいぶり出してくれる」
定吉の肩に丸竹の筒先がスッと乗った。
「君は背が高いから、対空射撃架の代りになる。僕はさっき利き腕を奴にやられてるからね」
それからしばらくは、静寂が続いた。マンハッタン・トランスファーの歌声はいつの間にか止んでいる。表通りの嬌声《きようせい》に混って、どこか遠くで行なわれている盆踊りの音。東京音頭だ。
と、その時、ゴリラの人形がゆらりと動いた。
「出て来るぞ」
窓のアルミサッシが少し開き、ロープが一階までたれ下った。
大柄な人影が首を出し、駐車場を見回す。
プッ!
息を力いっぱい吐き出す音が定吉の肩先で響く。
人影はグラリと前のめりになる。縫いぐるみの猿に抱きついて姿勢を立て直そうとしたが、そのまま縫いぐるみをかかえて下に落ちた。
グシャリ、という肉のつぶれる音が響く。人影はコンクリートの上で交通事故に合ったカエルのようにペシャンコになった。
「アマゾンのメヒ族が狩りに使う壺《つぼ》クラーレをたっぷり塗った吹き矢だ。水牛だってイチコロさ」
プロの定吉が見ても、この小説家の手際は実に美事なものだった。
「さ、長居は無用。これで死んだ久美子ちゃんも心置き無く、三途《さんず》の川でウインド・サーフィンができるってもんだ」
安雄は足どりも軽やかに駐車場を出て行った。
定吉は、縫いぐるみのゴリラの下敷きになって平らたく変形したシティボーイの死骸《しがい》にそっと片手を合わせ、つぶやいた。
「猿も木から落ちる……や。ナンマイダブ」
10 裕子と媚薬《びやく》
例の愛車でホテルまで強引に送ろうとする安雄の手を振り切るようにして、定吉はタクシーを拾った。
小説家はかなりの上機嫌で、別れ際丁稚の肩を伸び上ってたたいた。
「今日は欣快《きんかい》に堪《た》えないね。僕はこれから親衛隊員のマンションに行くよ。連絡は明日の朝にする。心配だったら包丁を抱いて眠ったらいい。それじゃあ、バイビー」
定吉は、帰り道の途中でタクシーを止め、二十四時間営業のスーパー・マーケットへ立ち寄った。スチロールのカップに入ったインスタント・ウドン、それもなるべく関西系の食品会社が製造しているヤツを選んで購入する。ホテルで食べる夜食用だ。東京にも深夜営業の立ち食いソバ・ウドン屋があることを、彼は知ってはいたが、あのどんよりとしたメコンデルタの汚水みたいな関東風濁り汁だけは御勘弁願いたい、というのが今の定吉の心境だった。
ホテルに帰り、フロントに大阪から連絡が何も入ってないことを確めた後、ギシギシと鳴る桜材張りの廊下を歩いて部屋に上り、鍵穴《かぎあな》を覗く。出かける前に唾液《だえき》で張り付けておいた袂屑《たもとくず》は落ちていない。
「異常は無さそうやな」
中に入って鍵をかける。カーテン越しに東京駅のホームが見えた。疾《とう》の昔に終電は出ており、ホームの灯も半分ほどに減っている。古風なタイル張りの洗面室に入り、うがいをし、早速ウドンを食べようとしたが、さて、お湯はどうしたものか。洗面室の湯では味が悪すぎるし、ルーム・サービスの時間は終っている。
「そや、ベッドの脇に電熱ポットが付いとった」
インスタント・ウドンのビニール包装を剥《は》ぎ取り、いそいそとベッドに近寄った時、ギョッとして立ち止った。
ベッドが、もそりと動いたのだ。
思わず懐の包丁に手をかける。
「定吉さん、お疲れさま」
薄いブルーの地に花柄模様、縁にレースの飾りが付いたベッド・カバーが跳ね除けられ、シーツが優雅に盛り上る。
「誰《だれ》や!」
「昼間お会いした女よ。立穴裕子。こんな格好で失礼しますう」
黒髪がシーツの上で、波打っている。まるで狩野《かのう》派の描く流水図を見るようだ。肉付きの良い腰と二つの乳房が布地を突き上げていた。
「どうやってここに来はったんだす?」
「あそこから」
ベッドの女は窓の方を指差した。
「そこの一番線ホームに最終の中央線が発車するまで隠れていたの。それから線路に降りて、有楽町寄りに立っているステーション・ホテル・グリルの黒い煙突に登り、駅舎の屋根伝いにここへ来たのよ」
番場といい、この女といい、KIOSKの連中は皆、高い所へ登り降りするのが好きらしい。
「おなかがペコペコや。失礼して、あんさんの頭のところにあるオブ注がせてもらいまっさ。このウロン作りますよって」
「あら、そんなことぐらい私がやりましょう」
裕子はベッドから起き上った。ハラリと、シーツがベッドサイドへ落ちる。窓から漏れる明りに白い、透けるような肢体が浮き上った。案の定、下には何も着けてはいなかった。
「そ、それにはおよびまへん。気にせんと、そこに寝とっておくれやす」
定吉はあわてて壁のポットを降すと洗面室に飛び込み、ドアを閉めた。
「何ちゅう積極的なオナゴや」
スチロールの器に湯を注ぎながら彼は目を白黒させる。とにかく、胃袋を充《み》たそう。彼女に対処するのはそれからや。
口の中で「ちゅうちゅうタコかいな」と十八回唱え、時間を数えた定吉は、まだ充分に湯を吸っていない乾燥ウドンを大急ぎですすり込む。
食べ終ると洗面室のドアを細目に開けて、ベッドの方をそっと窺《うかが》った。
裕子はシーツの間に再び潜りこみ、タバコをふかしている。
「何ぞ着てくれまへんか。そのままやったらわて困りますわ」
「別に初対面ってわけでもないでしょ。思ったより初《うぶ》な人ね」
「顔合わせたゆうても、今日の昼に町の鰻屋《うなぎや》で一言口きいただけやおまへんか」
「あら、東京の港区じゃ、それだけ言葉を交せば充分なのよ。赤坂見附の路上では、アルファベットのAも読めない女子高生が毎晩オゲンコ人≠ノ抱かれているわよ」
裕子は鈴を鳴らすような声でコロコロと笑った。
「おげんこじんって何だす?」
「この辺のツッパリ女子高生の隠語で黒人のことよ。姿形が拳骨《げんこつ》に似てるからですって」
「はああ、関東のヤンキー(ツッパリ)はモノゴッツイこと言わはりますなあ」
「横浜の方じゃ爆弾コケシ≠チて言うんだけどね」
なんてバカな話をしているのかしら。
裕子は心の中で苦笑した。
敵のスパイと初めて対決する機会を得たというのに、げんこつだのコケシだの、アーパー娘たちが使う隠語ばかり披露している。
八王子の訓練所で受けたエスピオナージュの技術などまるで役に立っていない。この男と話していると、幼い頃両親に手を引かれ連れて行かれた新橋演舞場の松竹新喜劇、藤山寛美が演じる「丁稚三太郎」を思い起させる。殺人専門の丁稚だと聞いていたけれど、これならうまくたらしこめそうだ。少なくともNATTOの幹部連中、足腰も弱っているクセに助平心だけは旺盛《おうせい》な色《いろ》ボケじじいたちよりは接しやすい。
「あんさん、何で寝返り逃避行の護衛にわてを御指名下さったんでっかいな?」
定吉はなるべくベッドの端の方を選んで遠慮がちに腰を降した。
「うちのファイルを見たの。腕は人一倍立つし、失礼だけど、ブ男揃《おとこぞろ》いの大阪非合法活動員《イリーガルズ》の中では、あなたが一番ハンサムだったから」
「それはおおきに」
定吉は頭を下げた。
「これは、一応聞いとかなあかんてウチの御隠居に言われとりまして、そやから聞きますんやけどな」
「なーに?」
「大阪に行きはったら何しはるつもりだす? もちろん裏の仕事では秘密会所へ登録されることにきまってまっけど」
裕子は枕元《まくらもと》のシガレットケースを取りあげてタバコを一本抜き出した。さあ、ここからが演技のヤマ場だ。彼女はなるべく蓮《はす》っ葉《ぱ》な手つきでロング・サイズのメンソールをくわえ、ジッポー・ゴールド&ブラック500Z≠フフタを親指でハネ上げた。
「トルコの地震学者がトルコ≠チて言葉を禁止するようにマスコミへ訴えて以来、なんとなく吉原がいやになっちゃったのよ。KIOSKの結社員として二重生活するのも疲れたしね。そんな時、仲間の一人が、大学中退して職場を変えるって言ったわ。その子のヒモって純文学作家志望の能無し早稲田学生で、浪費家なの。そいつと切れるために東京から出て行くって。その時彼女から聞いたのよ。琵琶《びわ》湖の辺《ほとり》にここより大きなソープランドがあって、空気はきれいだし、専用のアスレチック・クラブとか厚生施設が揃っているところがある……」
「そら、堅田《かただ》のそばの、雄琴《おごと》温泉のことでっしゃろか?」
彼女はタバコに火を点けながらうなずいた。
「けど、あんさん、度胸がありまんな。KIOSK言うたら並の殺人組織や無い言うウワサや。抜けたりなんぞしたら大変なことになりまっしゃろ。恐ろしゅうはないんでっか?」
「それは恐いわ。だからあなたに頼むのよ」
裕子はシーツにくるまった体をベッドの端に坐った定吉に思いっきりすり寄せた。
黒髪が彼の首筋にかかり、二の腕に彼女の柔らかな乳房の感触が伝って来る。
おおっ、ええなあ。なんや下の方から三宅島のマグマみたいな、こちょばゆいもんが込みあげてくるやんか。
定吉は、ガールフレンドの増井屋お孝に去られて以来しばらく忘れていた感覚が身体に甦《よみがえ》って来るのをヒシヒシと感じた。
しかし、さすがに彼も定吉七番と呼ばれた男だった。桃源郷を彷徨《さまよ》うがごとき心持ちを振り払うようにして最後の質問をする。
「例の……、KIOSK特製保温駅弁容器のサンプル、持って来てくれはったんでっしゃろな?」
彼女は急に顔を歪《ゆが》め、泣き出しそうになった。現に、二、三秒後には眼の縁に薄っすらと涙を浮べ始める。
「そうなのね。私なんかより、あの駅弁のカラ箱が大事なのね」
「そ、そんなことおまへんて」
裕子はシーツを顔に当ててシクシクと泣き出した。これも八王子の秘密訓練キャンプで習得した特殊技術だった。彼女はたった三日の訓練で、自分の涙腺《るいせん》を自由に調節することができるようになっていた。
「これも命令でんのや。両方大事や思うてます。いや、生身のあんさんの方がなんぼか上や」
定吉は彼女の裸の肩に手を廻《まわ》し、おろおろと答えた。
「な、わかっとくなはれ」
「……ベッドの……下よ」
彼は足の下を覗いた。大型の国語辞典ほどの紙包みが押しこまれていた。手にとって、包みを広げる。固いスチロールの箱に同じスチロール製のロールペーパー。その下には薄紙に包まれた使い捨ての発熱体が入っている。定吉は箱をためつすがめつした。発熱体が収納される部分は二重底になっており、側面に小さな穴が無数に空いている。その手の保温弁当は、関西は神戸中央区の駅弁メーカー淡路屋の「アッチッチ弁当」を一応の元祖とするが、この新型容器はそれをさらに改良し、帯熱時間を延したものと思われた。
「おおきに。これさえあれば大阪の人たちはもう、ひやっこい駅弁を食べんと済みます」
定吉は裕子の顔を覗きこんだ。
「約束通り、あんさんを無事西側まで送り届けまひょ。その間、KIOSKのもっさい奴ばらに不細工なマネはさせまへん。大舟に乗った気分でわてにくっついていなはれ」
「私があの中継現場から逃亡したことはもうバレていると思うし、朝になれば駅弁サンプルが盗まれていることも悟《さと》られると思うわ。東京都二十三区内都下近県の組織員が一斉に脱走者狩りを開始するでしょう」
裕子は定吉の肩に頭を乗せた。彼の膝《ひざ》の上にも柔らかい手を置く。
「羽田や成田の国内線、調布・立川・埼玉県|桶川《おけがわ》の民間飛行場まで手が延びるわ。東名や旧東海道の自動車道路だと逃亡に時間がかかりすぎる。フェリーなら南紀勝浦まで行く便があるけれど、あいにく次の運航日はあさってよ」
「残るは鉄道ということになりまんな」
「鉄道こそ危険だわ。東の鉄道はKIOSKの手のひらを走っている筋のようなもの。東海道線が生命線、中央本線は感情線、信越本線が頭脳線なら御殿場線は結婚線と言ってもいいわ」
定吉は彼女の肩を抱きながら考えた。空港で発見されたら奴らは飛行機に爆発物を仕掛けるだろう。それでは一巻の終りだ。フェリーなら大丈夫か。いや、自分はカナヅチだ。東名ならどうだ。彼女が言うとおり時間が少しかかりすぎる。狙撃《そげき》を受ける危険個所も無数にある。ここはやはり危険承知で鉄道か。
「敵の勢力が強いというなら、逆手を取って堂々とその中に潜り込んだ方が発見されにくいかも知れまへん。灯台もと暗しや。国鉄使おうやないですか」
「ええ!?」
驚きの声を上げつつも心の中で裕子は喝采《かつさい》を叫んだ。全ては計画通りだ。このヘソ曲りの丁稚が鉄道を利用しようと言い出すことを彼女は期待していたのだった。
「キップは明日の――いやもう今日と言った方がええんでっけどな――便はいろいろ揃えてありまっせ。あんさんの好きなやつで良ろし。鈍行でも新幹線でも思いのままや」
「大丈夫かしら」
彼女は再び定吉にピッタリと抱き付き、さも恐さを忘れたいというふうに彼の上半身をまさぐった。
やがて耳もとにポッテリとした唇を寄せ、彼の性感帯である耳たぶを軽く噛《か》む。戦闘開始だ。
定吉は片手で彼女を引き寄せながらゆっくりと自分の帯を解いていった。
帯の締め込みの間に隠した小さな蜆貝《しじみがい》の容器を取り出し、中味を中指に付けると、気付かれぬようにそっと裕子の股間《こかん》に持って行った。
これぞ定吉の秘密兵器、山城国笠取山名産毒消し軟膏《なんこう》「大濫膏《だいらんこう》」だった。特殊なアレルギー体質の人間には炎症を止める働きをするこの薬も、正常な粘膜を持つ女性には強力な媚薬《びやく》となって機能する。
彼の軟膏を塗った指は、下腹部、脇の下、乳首と絶え間無く移動した。
徐々に彼女の息は荒れ乱れ始める。ことセックスに関しては充分訓練を積んでいるはずの裕子だったが、数百年の伝統を誇る薬の前にはなすすべも無かった。
この男は何か特殊な技を使っている! 彼女は本能的に危険を感じ、定吉の動きを止めようとした。シーツの縁を噛み、嗚咽《おえつ》を堪《こら》え、彼の薄い胸を向うに押しやろうと腕を伸した。しかし、彼女の意志とは反対に閉じようとする両足は、平行棒に昇ったハンガリー女子体操の選手よりもいっぱいに開かれ、腰は南フランス女子自転車競技のミシュランチームより豊かに律動し始めている。
男はどこといって取り得の無い、どちらかと言えば不器用とも言える動きをしていた。そんな男に、鳥越おかず横丁の裕子、「床上手の桃ちゃん」とまで呼ばれたこの私が負けるなんて。薄れ行く意識の中で裕子は歯噛みした。
そのままの態勢で正確に四十五分と三十秒後、彼女は口の端にくわえていたシーツの縁を離し、はしたなくもクライマックスの嬌声を発してしまった。
その声は、ちょうど深夜の十番線ホームに到着した貨物列車の発する警笛と混り合い、開け放たれたステーション・ホテルの窓から中央区八重洲二丁目方面の空へ消えて行った。
立穴裕子が定吉の媚薬によって我を忘れているちょうど同じ時刻。ロック・シンガーの木村修二は、マネージャーの車に送られて、港区赤坂六丁目ホテル・ニュー赤坂裏の自宅に帰り着いたところだった。
玄関のドアを開け、イグアナの革で作られた自慢のジャック・ブーツを脱ごうと腰をかがめた時、彼はハッとした。
玄関マットの横に新しい利休箸《りきゆうばし》が一本転っていたのだ。
玄関からリビング・ルームに至る廊下にも点々と割り箸やクシャクシャに丸められた箸袋が散らばっている。彼は妻の部屋の前に置かれたアール・ヌーボー工芸家ルネ・ラリック作の女神像を見た。案の定、女神の頭には赤いベレー帽が被せられている。この印がある時は、妻が自室で創作活動に入っている時なのだ。
彼は物音を立てないようにソッと壁伝いに歩いてリビング・ルームに入った。
妻の部屋を通り過ぎる時、アルフレッド・ハウゼ楽団演奏「ジプシーの歌声」のメロディが聞こえて来た。彼女のお気に入りのレコードである。
修二はダルマのような形をしたアメリカ製大型冷蔵庫からミルクを取り出し、音を立てずにそっとコップへ注《つ》ぐ。
彼の妻は女流俳人だった。河西変梧桐《かわにしへんごどう》の門下で才媛《さいえん》を謳《うた》われ、その美しさゆえに婦人雑誌のグラビアを飾ることもしばしばだった。彼は妻を愛し、それを誇りにしていた。しかし、その妻にもいくつかの欠点があった。彼女の仕事中に少しでも物音を立てると、台風直後の信濃川もかくやとばかり荒れ狂うのだ。しかも、創作中に修二が持っている割り箸のコレクションを持ち出し、その箸袋を原稿用紙代りに使ってしまうのである。彼女に言わせると、料亭の箸袋ほど創作意欲をかき立てるものは無いのだそうだ。「|失われた世代《ロスト・ゼネレーション》≠ノ属するあるアメリカ人はブック・マッチの裏に一編の小説を書いて平然としていたじゃない。マッチの裏に比べれば、箸袋の面積は三倍ぐらい広いはずだわ」とある日、彼の妻はのたまわったものだ。まず正論である。
「あーあ、またあんなに使っちゃって」
彼はキッチンのサイド・ボードを開き、長さ七十センチ、幅三十センチほどの赤い塗り箱を取り出した。フタを開けると、中に二つの桐箱《きりばこ》が納められている。箱書きには「御箸《おんはし》入れ」の文字。片方は木曾《きそ》原産の檜《ひのき》を使った利休箸、もう一方は福島の柳を能登《のと》で削《けず》り輪島で仕上げたという、宮内庁御用達の箸と同じ製法で作られた丸箸が納められている。
修二はためらわず丸箸の入った箱を取り上げた。一礼してフタを開き、上州和紙の袋に入った白木の箸を一本ずつ選り別けて行く。
やがて手もとには一膳《いちぜん》の箸が残った。
彼は三池典太《みいけてんた》の太刀を検分する本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》にも似た態度でその丸箸を子細に観察した。正確な、丸みを帯びた箸先から、握りの部分に向ってゆるやかなカーブが続き、指の当る位置を過ぎると急速に窄《せば》まって後端に至る。
「美しい……」思わずつぶやく。
木村修二、KIOSKコード・ネーム「赤坂一号」の武器はこうしてセレクトされた。
妻の部屋から別のメロディが聞こえ始めた。ポルトガルのファド。数年前彼女がリスボンで買い求めたというレコード、ロジャー・フォンソという歌手が歌う「ソルダーテ」(一期一会《いちごいちえ》の意味)である。
修二は、この箸の餌食《えじき》となる大阪人の運命に思いを馳《は》せて、そっと笑う。
「さて、次は紐だな」
のっそりと立ち上り、別のサイド・ボードからもう一つの塗り箱を取り出した。
「見失ってしまったって? そりゃあいったいどういうわけだい?」
擦り切れた洗濯板を擂《す》り合わせるようなザラついた声が地下通路に轟いた。
「番場の独断専行で初期の計画に若干の齟齬《そご》が生じたようですね。定吉はどこかに潜んでしまい、それを追った桃千代、いや赤坂五号も、ここ三時間ほどは連絡がありません」
小梅婆さんの隣を歩きながら大文字が説明した。
「今入った報告によると、番場の奴は返り討ちに合ったようです。やったのはもちろん定吉たちです」
古ぼけたレンガ造りの地下通路。床から一メートルぐらいの高さまでザックリと壁面が削り取られている。かつてここは小荷物運搬通路として使用され、何千何百という鉄道荷物が通過した。壁の傷跡はその時の名残りなのだ。
「明日の計画はそのまま決行しても良うござんしょうね」
老婆はいらついた声をあげた。
「大丈夫ですよ。あの赤坂五号は頭がいい。うまく定吉を罠《わな》の中に誘《まね》き寄せてくれるでしょう」
大文字はのんびりと答え、エレベーター・ボタンを押した。大正十年に設置されたドイツ製の荷物用エレベーターがゆっくりと降りて来る。普通、エレベーターはワイヤーで上下するものだが、フリッツ・ラングの映画に登場する大道具のようなこの鋼鉄の固りは、ネジを切った太い棒が回転して昇降する。いわゆるスクリュー式というタイプで、本来軍艦の砲弾運搬用等に使われるものだ。ここで働く国鉄職員の間でも、このドイツ製エレベーターの存在を知るものは少ない。
「あたしゃ、どうもあと一歩、あの裕子という娘が信用できないんだよ」
小梅は吐き捨てるように言った。
「杞憂《きゆう》というもんですよ。それに今さら変更はきかない」
大文字は小梅が乗り込んだことを確認して昇りのボタンを押す。
「それにしても、連絡ぐらいもっと密にしてもらいたいもんだねえ」
エレベーターを降りて、新しく設置された作戦室に入る間も老婆はくどくどと言い続けた。
「ま、朝までには報告があるでしょう」
大文字は「満食旅客食品部東京駅事業所」と書かれたドアを開けた。中にいた目付きの鋭い男女が一斉に頭を下げる。
「いったい、定吉や裕子はどこで何をやってるんだろうねえ」
小梅は室内に入ってもまだ老人特有の繰り言をやめない。
しかし、彼女がその部屋のぶ厚いレンガ壁の向うに誰がいるかを知れば、恐らく押し黙るに違いない。
東京駅丸の内南口ドームの中にある満食の関連施設は全て、ステーション・ホテルと同じ屋根の下にある。しかも定吉と裕子が睦《むつ》み合っている部屋こそ満食事業所、定吉を殺すために設置された臨時作戦司令室の隣に位置していたのだ。
11 謎《なぞ》の「銀河五一号」
毎年この季節が来ると東京駅の助役は皆、喉嗄《のどが》れに悩まされる。
いや、なにも夏風邪が流行《はや》るからというわけではない。
原因は、ホームの端に出没する鉄道マニアの少年たちにある。彼らは、年齢に不相応な高級カメラ、録音器材を抱え、ブルー・トレインを狙《ねら》う。ある時は、羊の群れを追うコヨーテのように、またある時は幌馬車隊《ワゴン・トレイル》を襲わんとするシャイアン族のように少年たちは列車を待ちかまえる。平日なら助役を入れても一つのホームで五人以上職員が立つことは無いのだが、都内近県の学校が夏休みに入ると、この数は倍に増やされる。特に九・十・十二番線ホームに重点が置かれる。ここには「富士」「出雲」「瀬戸」「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「みずほ」それに「銀河」といった、それぞれ個性的なヘッドマークを付けたブルー・トレインたちが出入りするのである。
マニアたちは少しでも目を離すと、ホームの白線から出てカメラを構え、信号機やホームの柱によじ登り、あげくの果てには線路に飛び降りて正面から列車を撮ろうとする。ブルー・トレインが停車した後も気がゆるせない。行先表示板を外そうと身構える奴、寝台車や食堂車に備えつけのコップ、タオル、スリッパから蛇口、ウエイトレスの生理用品まで持ち去ろうと車内に潜り込む奴、車体一面に白ペンキで自分の名前や学校名を書こうとする大変なガキまでいる。
これに対抗する国鉄マンたちの武器は「ブルー・トレインさつえいの心得」と題する注意書きと、構内放送しかない。
彼らマニアは駅にとって迷惑この上もない存在だが、しかし無下《むげ》に断るわけにもいかない。皆、一応国鉄のファンであり、高い記念乗車券も買ってくれる。赤字経営の身としてはほんとにありがたいお客さまなのだ。
「痛し痒《かゆ》しの瘡頭《かさあたま》」とはまさに彼らのことを言うのだろう。
その夜、出発直前の夏季臨時夜行列車「銀河五一号」を撮影するため十番線ホームに腰を降していた少年も、こうした熱狂的なマニアの一人だった。酔客がひしめく終電間近の東京駅で小学生がカメラを抱えてうろつき回る。実に異常としか言えない光景だ。が、マニアというものがだいたいどの世界でも外部から眺めれば異常なものであり、こんなのはまあ罪の無い方である。
彼は蛍光灯の下で青光りする、小田原かまぼこのような丸い頭の最後部車両を、モーター・ドライブの音も高らかに撮影した。ベース型の「銀河」と書かれたトレインマーク、クリーム色の三本帯が描かれたナハネフ22型は、彼が最も好む車輛《しやりよう》の一つだった。
最後尾の写真をプロ並に二ロールも写した少年は、次に寝台車を撮影すべく、ホームを有楽町方向に早足で歩いて行った。
彼は一車輛ごとに夢中でモーター・ドライブを動かし続けた。この頃になるともう車内の点検は終了し、食堂車ではボーイやウエイトレスが食品やおみやげ、ビール等を並べ終えていた。窓からそれを覗《のぞ》き込んだ少年は、まだ自分が夕食を済ませていないことを思い出し、生つばを飲みこんだ。そんな少年の姿に気付いたウエイトレスの一人が二重窓のブラインドをバサリと降ろす。マニアになにか失敬されるのを恐れているのだろうか。
「ばーか、おかちめんこ、ブス、今度会ったらお前んとこの車内冷蔵庫かっぱらってやるからな」
気分を害した少年は、思いっきり悪態をつくとまた前方に歩き始める。
駅の助役が彼にうさん臭い視線を送りながら通り過ぎた。
車掌が乗り込み、ホームの白線に沿って荷物を置いていた客たちも自分の座席を確保しようと、狭い通路へ移動を開始した。
白い服のアルバイト学生がベッドメーキングのため取り出したシーツと格闘している。
最終の新幹線より遅く発車して始発の新幹線より早く大阪に到着する、いわば動くホテルとしてこの急行列車は一部の人々から熱狂的とも言える支持を得ていた。少年はベッド側に面した窓に一つ一つ顔をペッタリと張り付けてその支持者たちを観察して行った。
荷物をなに一つ持たず、むっつりと押し黙って、ボロボロのスポーツ新聞を広げているのは、発作的に蒸発を決意したサラリーマンだろう。
通路で冷凍|蜜柑《みかん》を別け合っている若い男女は、親に内緒でセックス旅行に出かけようとしている高校生らしい。鼻の先で日傘を転がし、片手で逆立ちしているのは曲芸師に違いない。最前部の客車には、個室式A寝台車のマークが出ていた。寝台料金一万一千円の車輛だ。
「わあー、乗ってみたいなあ」
少年が顔を押しつけたガラス窓の向うでは和服姿の若い男が頭の十円ハゲを車内灯に光らせながらせわしなく懐中時計を見続けていた。覗《のぞ》いていた彼と目と目が合うと、仕方無しにお愛想笑いをして、揉み手をした。これは本物の関西人だ。
この時、ホームの柱時計が十時を指した。売店で買い物をしていた客たちが、鳴り始めたベルに急かされ、あわてて車内に飛び込んで行く。
少年は自分もそのドアの内側に入ってしまいたいという欲望をかろうじて押さえた。最後のフィルムを一ロール使用して牽引《けんいん》機関車のEF65を撮り終える。
すでにホームには客の姿は無い。ベルが鳴り終り、列車はゆっくりとホームを滑り出した。
夜の闇に消えて行く黄色い「銀河」の文字を眺めて、しばしうっとりとした後、ホームの職員にせき立てられ、彼は階段を降りた。
階段の途中まで来た時、少年はあることに気付き、息を飲んだ。
「あれ? いまの『銀河』はどうなってんだ」
ブルー・トレインで個室式A寝台車があるのは「はやぶさ」「つるぎ」などの24系25型だけである。そのうえ「銀河」の食堂車というやつはかなり以前に廃止されたはずなのだ。
「五一号は臨時だっていってたけど、それにしても……」
列車が動き出し、鉄道唱歌の前置きで始まる車内放送が停車駅と通過時間を読み上げ始めた頃、定吉の個室寝台のドアを小さくノックする音が聞こえた。
「私よ。裕子」
「よかった。乗り遅れたんやないかと思うてましたで」
定吉はあわててドアのロックを解いた。
夜だというのにサングラスをかけ、マドラスのジャケットを羽織った裕子が縞《しま》紋様のカーペットを踏んで室内に入って来た。
「用心して後の方の車輛から乗ったのよ」
彼女は変装のためにあの黒髪を半分近く落していた。JJ専属のプレッピー・ガール風に装っている。
「やはりKIOSKの連中は張っていたわ。構内の賑《にぎ》わいぶりを見たでしょう」
「そういわれて見ると、やけに駅弁売りの人数が多おましたな」
定吉もそれは気付いていた。
「普通は、駅の売店って九時から十時ごろまでに閉めるでしょう。それなのに東京駅の全ホームの売店がさっきまで営業し続けていたわ。働いているのは鉄道弘済会の人たちじゃない。中味がすり代っていたのよ。危いところだったわ」
裕子が話し終えた時、背後のドアが再びノックされた。定吉は懐に手を入れ、包丁の柄を握って身構えた。
「お寛《くつ》ろぎ中のところ失礼します。キップを拝見させていただきます」
定吉がうなずき、裕子が注意深くドアを開く。
白い服の専務車掌が、国鉄職員には似合わぬ満面の笑みを浮べて立っていた。
「ごくろうはんだすなあ」
定吉は懐の包丁を右手で握ったまま、左手で袂を探り、交通公社の紙袋ごとキップを差し出した。裕子もそれに習う。
「はい、けっこうです。どうも」
車掌はパンチを押して二人にキップを返した。そして言いにくそうに続けた。
「これは……おわかりと思いますが、お休みの場合は各自の席にお戻りになられてお休み下さい。その……国鉄の規則で」
「へっ、わかっております。その点はお気使い無用でおます」
定吉は愛想良く答えた。車掌はその言葉に安心したのか、小さく一礼して去る。すかさず裕子がドアにカギをかけた。
「寝台車ではセックスしてはいけないって言ってるのよ。あの人」
裕子は笑いながら言った。
「こないな狭いところでどないせい言うんや。アホらしもない」
たしかに定吉の言うとおりだった。ベッドの幅は一応七十センチ有るとされているのだが、この数字は背もたれの厚さも含まれている。実際は約五十センチ。それに、足を伸ばすカーペット敷きの部分で幅が約四十五センチ。身長があって寝相の悪い彼にとってこの個室式A寝台はほとんど拷問部屋に等しい。
「これやったら、二段式のA寝台にした方がよかった」
「なに言ってんの。ベッドは広いかもしれないけど、隣との境いは衣《ぬの》きれ一枚よ。すぐに寝首を掻《か》かれてしまう。私はこっちの方が落着くわ」
裕子は窓ぎわの肘掛《ひじか》けを上に持ち上げて、ベッドに腰を降した。
「それに」
彼女は隣に腰をおろした定吉の肩へ顔を乗せた。
「狭ければせまいでまた楽しみ方もあると思うわ。その……なんて言うか、セックスするときは一人が一人の上に乗るわけだから、単純に考えても、ベッドは一人分の面積があればいいわけでしょ」
ステーション・ホテルでこの娘を少し、手荒く扱いすぎたようや。わての媚薬の威力にすっかりまいってしまったらしい。またおねだりというわけか。しかし、この危険な道中、腰付きだけはしっかりさせておかなければならぬ。そうそう求めには応じられんわい。定吉はギュッと目を閉じた。
いくら目を閉じても鼻と耳はそのままだ。彼の鼻は彼女の発情した甘い汗の匂《にお》いを嗅《か》ぎ別け、耳は小さな吐息を聞き逃がすことが無かった。
「あ、あかん。またモヤモヤして来よった」
二人は窓の方を頭にしてゆっくりとベッドに倒れこむ。定吉は足の指で器用に床灯スイッチを切った。列車はやっと品川を通過したところだというのに、二人は異常なシチュエーションにすっかり興奮していた。
インド木綿のジャケットとベージュのパンティ・ストッキングが、カーペットの上へハラリと落下した瞬間、ルーム・ライトとステンレス製蓋付洗面台の間に位置する鏡の向う側で3|43―4の大型ビデオ撮影機が作動を開始した。
車掌室と個室A寝台の間に作られた幅四十四センチに満たない細長い空間の中、青山TVのKIOSK系カメラマンが二名、業務用電話器の置かれたテーブルと、車内放送用マイクの台にそれぞれ腰を降してカメラを操作していた。
「録音の方はどうだ?」
「全て順調」
声は出ない。唇の動きだけで二人は意志を通じ合わせている。
「贅六《ぜいろく》にはもったいねえ女だぜ」
「熱海で下車したら温泉芸者を総あげにしてやる。それまで鼻血たらすなよ」
冷房のきかない狭い室内で、男たちは半分脱水症状に陥りながらも忠実に命令を遂行していった。
オハネ25型に似せて作られた二段式B寝台車のワンボックスを一人で占領し、足を伸ばしていた安雄は、車内販売と食堂車営業の案内放送を耳にしてムックリと起き上った。
「ふーん、最近は国鉄の夜行もオリエント急行並みにサービスがいいなあ。これも赤字対策なんだろうな」
ベージュ色の壁に目をやってしきりに感心する。
「終夜営業の食堂車っていうのはいいアイデアだよね。なぜ今まで実行しなかったんだろ」
お座敷列車だの行く先不明のクイズ列車だのといった変な企画車輛は平気で走らせるくせに、都市型の夜行性人間向け、いつでも食事が楽しめる列車というのは無かった。国鉄も追いつめられて商売上手になったということなのだろうか。
「どれ、定吉さんのいる車輛へ表敬訪問しようかな」
身繕《みづくろ》いを整え、ベッドの上に身を屈めて通路に面した目隠しのカーテンを開く。
隣近所のカーテンの隙間《すきま》から男女の顔が幾つもはみ出していた。皆、先程の車内放送を聞いて急に空腹を覚えた連中である。物はためし、終夜営業の食堂車というやつに挑戦してみようか。いや、わざわざ行くのも面倒臭い。このまま寝ていようか、と迷っている気配が彼らの顔にありありと浮んでいる。
安雄が通路を歩み出すと、それに刺激された人々は一斉に寝床から飛び出し、食堂車のある方向へ流れ始めた。
ゾロゾロと進んで来る人々に突き飛ばされて彼は通路の補助イスにつまずいてしまった。
「なんて奴《やつ》らだ。日本人って、こんなふうに付和雷同するから嫌いだい」
しかし、食堂車に殺到する乗客たちの中で誰一人として、通路の脇《わき》でもがいている小柄な人物が、テレビの画面で連日お目にかかる高名な風俗作家であると見抜くものはなかった。
安雄は、我れと我が身に見事な変装をほどこしていたのである。
木賊《とくさ》色の小袖《こそで》に桑色白茶の細袴《ほそばかま》、檜皮色《ひわだいろ》の十徳《じつとく》を羽織り、足元は白足袋に皮草履。頭には茶のなげ頭巾《ずきん》を被《かぶ》って顔には白髭《しろひげ》、白毛のかつら。腰には御丁寧にも黒い印籠《いんろう》を下げている。人にその身分を尋ねられたら「越後高田の縮緬《ちりめん》問屋の隠居」と答えるつもりだった。
彼は朱房の杖《つえ》を付いてよろよろと立ち上り、袴の埃《ほこり》を払って歩き出した。その姿は本当に老人そのものだった。
列車は、青白いライトを浴びて暗夜に浮びあがる大船観音の胸元をゆっくりと通過した。
駅構内の時計は十時四十九分を差している。向いのホームでは酔って寝こんでしまった京浜東北線の乗客たちが、終点まで乗り越した自分の愚さを呪《のろ》いながら、ベンチに腰を降し、うらめしそうな目で臨時夜行列車をみつめていた。
裕子は、発車の汽笛と同時にゆっくりと定吉から身を離した。ドアの右横にあるコントローラーへ手を伸ばし、冷房のダイヤルを一杯に廻す。その後、満足そうな笑みをうかべて定吉の枕元に腰を降して、
「タバコ、吸《す》ってもいいかしら」
関西人は薄い胸をゼエゼエと波立たせ、うなずいた。
善良なクエーカー教徒として、ケンタッキーの山奥で暮していたアメリカの一青年が、塹壕戦《ざんごうせん》の最中に隣人を射たれたことで我を忘れ、一個中隊のプロシア兵を一人で捕虜にした「ヨーク軍曹」の例がある。パンク青年が守り役の諫死《かんし》を境にして、名将となった織田|上総《かずさの》介《すけ》の例だってある。人間は何か変った状況をきっかけに、まるで電気のスイッチが切り代るように変身することがあるのだ。立穴裕子と名乗るこの非合法活動員《イリーガルズ》も、定吉の肉体(というよりもその所持する媚薬と言った方がいいだろう)によって、美しいその肢体のどこかに埋め込まれた、目には見えないスイッチ、淫蕩《いんとう》という名のスイッチがOFFからONに切り代ってしまったに違いない。
第二ラウンドを終え、そのことをひしひしと感じる定吉ではあった。
吉田通れば二階から招く しかも鹿《か》の子の振袖で……
窓ぎわの鏡に向って髪を櫛《くし》けずりながら裕子は鼻歌を唄っている。
あかん、このままやったら、この列車は走る吉田御殿や。わては千姫に取り殺される磯野源之丞と同じになってまうで。
「え? 何か言った?」
裕子は可愛《かわい》らしく首を傾けて尋ねた。
「い、いや、何も言うとりまへん」
あわてて彼は寝返りをうち、背もたれの部分でいやというほど鼻を打つ。
好きものやて聞いとったけど、こら想像以上や。わても、ちいっとばかり火いつけすぎたなあ。鼻の頭を撫《な》で摩《さす》り、毛布の下でもぞもぞと下着を腰にずり上げた。今となっては、山城笠取毒消し軟膏の威力が逆にうらめしい。
トン・トン・トン、軽く三度、ドアがノックされた。
裕子はあわててその豊かなバストをマドラス・ジャケットで覆い、定吉はハンガー・フックに掛けられたホルスターから包丁を抜き取って構えた。
「誰や?」
「安雄ちゃんでーす。勝手に来ちゃいました」
「ちょっと待っとくれやっしゃ。身繕いしますよって」
定吉たちは、思わぬ客の出現に慌《あわ》てた。顔面に付いた裕子の口紅を備え付け記念乗車タオルの端でゴシゴシとこすり、裕子も、ガーターベルトを引きずり上げる。
「いいよ、あせらなくっても。僕、これから食堂車に行くよ。そこで会おうね」
安雄は全《すべ》てお見通しらしい。ドアの外でそうささやくと、再び通路を戻って行った。
二人は顔を赤らめ、服を身につけた。
「今のは田中のボケ野郎か」
マジックミラーの向うで隠し撮りを続けていた二人の男は、第三者の突然の登場に緊張した。
「ちくしょう。あいつも乗っていたのか」
「すぐに食堂車へ連絡しろ」
唇の動きと手話で言い交すと、一人が後部車輛に通じる非常用のモールス発信器に手をかけた。
東京駅構内の満食事業所では、東海道線沿線と各駅の所在を示すパネルを前にして、小梅と大文字がお茶を飲んでいた。
「『銀河』は今、茅《ち》ケ崎《さき》のあたりを走っているんだねえ」
小梅はコブ茶をすすりながら、ランプの表示に顎《あご》をしゃくった。
「便利な世の中になったもんだねえ。アタシがまだ満州の奉天にいた頃は、こんな機械はなかった。鉄道の工作は手旗信号と、蒙古馬に乗った小人数の緑林(馬賊)だけ。短波無線の一台もあればオンの字だったよ」
大文字は、黙って番茶の茶柱を見つめていた。
小梅は背中を丸めてズルズルと茶をすする。こうして過しているかぎり、彼女はただの下町の婆さんに見える。
東北が慢性的な飢饉《ききん》に苦しんでいた大正の中頃、彼女は墨東《ぼくとう》の地に買われて来た。持ち前の美貌《びぼう》と度胸の良さで、たちまち売れっ子|芸妓《げいこ》となったが、彼女につきまとう浅草十二階下のスケコマシ「ジゴロのタメ吉」を些細《ささい》なことから刺し殺し、満州に逃亡した。
彼の地で小梅は、昼は奉天駅構内で金四拾銭の西洋飯盒子(洋食駅弁)を売り、夜は軍人・大陸浪人の集う満鉄直営の料亭「曙《あけぼの》」で「鴨緑江節《おうりよつこうぶし》」を歌う馬賊芸者となった。彼女の前身を知り、関東軍特務機関にスカウトしたのが、当時、「曙」の板前だった幕内弁助。後のKIOSK機関創設者となったあの老人である。小梅はここで自分の殺人技が天性のものであることを知ったのだった。
戦後、ソ連軍が北満で押収し近年公開した関東軍の文書に、小梅が手を下したであろうと推定される暗殺記録が幾つか載っている。中でも名高いのは、満州国執政府の実力者で、蒋介石《しようかいせき》側に寝返った胡振玉《こしんぎよく》の殺害であろう。
胡の寝返りは、もとはと言えば彼が悪いのではない。日本の一軍人の粗忽《そこつ》さから発していた。
ある日、「曙」で胡振玉主催による月見の酒宴が開かれた際、招待された関東軍の一将校が彼に礼状を書いて手渡した。彼は自慢の矢立てで墨痕《ぼつこん》鮮やかに漢字を並べて見せた。「今晩|御馳走《ごちそう》有難御座」、つまり将校としては、今夜は宴を開いてくれてありがとう、という日本風の意味で書いたのだが、これがいけなかった。九つの文字は、漢訳すると「もう手おくれだ。馬で逃げなさい。災難が有る。謹《つつ》しんで」となる。礼状を見た胡は、関東軍が自分を疑っているものと早とちりして、執政府の重要書類を持ち出し、熱河に潜伏して中華民国側へ逃亡を計った。
小梅は乞食を装って彼を追い、三日後、アヘン窟《くつ》に潜んでいる胡を刺し殺し、書類を奪い返して帰還したという。
たいした婆あだぜ。大文字は茶柱ごと一気に番茶を飲み込んだ。
「で? どのあたりで定吉を殺《や》っちまうんだい?」
小梅は赤く点灯するランプから眼を逸《そ》らさずに尋ねた。
「十一時五十五分に列車は熱海・函南《かんなみ》間のトンネルに入ります。丹那《たんな》トンネルです。そこで停電を起して一気に襲います。これにはKIOSKダイニング工作班¢S員が当ることになっています」
大文字は淀《よど》み無く答える。
「おや、『赤坂一号』は使わないのかい?」
「彼は最後の切り札です。使わずに済めばそれに越したことはない」
テレビ・ディレクターの言葉に老婆が何か反論しようと口を開きかけるより早く、入口のドアが大きく開いた。
「た、たいへんです! 作戦参謀」
下部作戦室員の一人が息せき切って入ってくる。
「どうした」
「どうもこうもありません。あの臨時列車『銀河』五一号には、本物の乗客が大量に乗りこんでいます」
「ばかな!!」
大文字は声を荒げた。
「どうしてそんなことになったんだ!」
「国鉄のコンピューターがお得意の二重売りをまたやっちまったらしいんです。無関係な民間人で列車はいっぱいです。しかも、乗っている国鉄職員もKIOSK結社員ではないそうで」
「バカヤロー」
大文字は拳《こぶし》を握りしめた。
「それじゃあ、殺人見物列車になっちまうじゃねえか。定吉殺しの目撃者を大量招待したようなもんだ」
「目撃者は全部消せばいいのさ」
小梅は天目茶碗《てんもくぢやわん》に新しく注いだコブ茶をすすりつつ平然と言ってのけた。
「列車事故って手があるだろ」
それから、茶碗を膝に置き、遠い眼をしてうっとりとつぶやいた。
「思い出すねえ。昭和三年六月の張作霖《ちようさくりん》爆殺をさあ」
「何! 関東の裏切り者、田中安雄が列車に乗っているって?」
「たった今、個室寝台車に潜りこんだ同志から通信が。しかも、この食堂車に向ったそうです」
オシ24型食堂車の調理室では、コックやウエイトレス姿のダイニング工作班員たちが血相を変えて集って来た。
「どういうことだ?」
黒い蝶《ちよう》ネクタイのボーイが聞いた。
「六本木で同志番場を殺したのは恐らく奴だ。ほとぼりが醒《さ》めるまで関西方面へ隠れるつもりに違いない」
フライパン片手のコックが答えた。
「定吉より先にこっちを片付けよう」
「何を言うんだ。命令では定吉だけを……」
電気レンジの上でコーヒーケトルが跳ね、あわててウエイトレスがそれを降した。
「私、岩手県岩泉大字岩村字岩山から上京した時、同志番場が書いた『見え見え講義』を読んでいたおかげで、渋谷・原宿・六本木をころばずに歩くことができたの。彼は私の言わば東京の師匠だった。東京の人々の間で気後れすること無く生きて行くことを教えてくれた恩人よ。私は一人でも恩人の仇《かたき》を討つわ」
煮えたぎったコーヒー入りのケトルを持ち上げて彼女は叫んだ。
「おらもやるだ」
「俺《おれ》も、田中を先に殺《や》ることに賛成だ」
東北人らしい、他のボーイたちも片手を上げた。
「仕方がない」
隊長格のコックが渋々うなずいた。
「もうこの車輛に来ているはずだが、しかし、それらしい人間が見えんな」
調理場と食堂の境に張り出したレジの間からテーブルの客を観察していたコックが首をひねった。
食堂車のテーブルは全部で十卓、イスは一つにつき四脚ということになっている。今は、二卓空いているから八分の入り、客数は三十二人ということになる。しかし、どの客も皆、田中安雄とは似ても似つかない顔付きの人間ばかりだ。
「国鉄の二重売りで一般客も大勢乗っちまったからなあ」
「巧妙に変装しているらしい」
「定吉たちが食堂車に来れば、奴は合図を送ると思うが……」
「だめよ。定吉がここに来る前に殺るのよ。各個撃破でなければ我々は歯が立たないわ」
「いい考えがある」
ボーイ長がニヤリと笑った。
「信頼すべき筋の情報によれば、奴は東京人ではなく、長野県人だそうだ。俺は群馬の人間だが小さい時、茅野《ちの》で育った。長野県人が自分で正体を表わす方法を知っている」
彼はレジ横の御案内用マイクを手に取り、突然しゃべり始めた。
「皆様、こちらは港ホテル列車食堂でございます。あー、ただいまマイクのテスト中、信濃の国は十州に、栄え連ぬる国にして、そびゆる山はいや高く、流るる川はいや遠し、――」
彼は、マイクテストのふりをして長野県歌を歌う。
客は皆、怪訝《けげん》な顔をしつつも食事に取り組み、メニューに目を走らせていた。が、驚いたことに、その中の数人の男女は、背筋をピンと伸ばして一緒に歌い始めたのである。端の席に坐《すわ》った労務者風の男、揃いのTシャツを着た学生のカップル、それに、中央のテーブルに腰を降したばかりの水戸黄門そっくりな老人……。
「マイクに合わせて歌ったのが長野人だ。彼らはこの歌を幼い頃からたたき込まれているからな。無意識に口を突いて出てしまうんだ」
ボーイ長はマイクを置いた。恐るべきは長野の県民教育である。
「四人いた。でもどれが安雄かわからない」
テーブルを凝視していたボーイが途方に暮れた声をあげた。
「四人とも殺《や》っちまうんだ」
四人のボーイとウエイトレスが偽りの笑みをうかべ、調理場から客室へ出て行った。
安雄は杖の先に顎を乗せ、メニューに見入っている。こんな変装をすると心まで老人になったような気がする。彼はボンヤリと写真付のメニューを眺めていた。
席に腰を降したものの、彼はここへ来たことを内心|悔《くや》んでいた。元々列車食堂の料理というものが彼の口に合わないのだ。地上のレストランと異なり、ほとんどの食品材料は一度他で加工したものを車内でもう一度加工するシステム、味の方はどうしても落ちる。グルメと呼ばれることをなによりも喜びと考える彼としては、これがガマンできない。勢い、たのむものは、お手軽なシチュー、カレーの類になってしまうのだが、これがまたどの食堂の作品も値段と中味が釣り合わない代物ときている。
「お決りでございますか?」
近寄って来たウエイトレスに、メニューの端を指差した。
「わしは、この特製バングラデッシュ風チキンカリー・ラーメンを」
その瞬間、食堂車の電灯が全て消えた。
12 死の食堂車
個室のカギをしっかりと下して置くよう裕子に言い含めた定吉は、長い手足をあちこちの手すりや壁にぶつけながら狭い通路を進んだ。安雄の待つ食堂車に早く行きたい、と気ばかり焦るのだが、身体《からだ》がどうも言うことを聞かない。大柄の定吉にとって国鉄の車輛は、唐丸籠《とうまるかご》(江戸時代の罪人輸送カゴ)よりも何倍も動きづらい乗物に感じられた。
ベッドに星三つのイラストが描かれた二段式B寝台車の三輛目まで通り抜けた時、彼は思わず驚嘆の声をあげてしまった。
「ひやー、こら交接《まぐわい》列車やなあ」
カーテンの引かれた寝台の向うでも、こっちでも、男女の甘い吐息、派手な嬌声《きようせい》が洩《も》れ聞こえる。上段ベッドの間から真っ白な太股《ふともも》が鼻先にヌッと突き出された時は流石《さすが》の彼もドキリとして立ち止った。
「日本国民の種族保存本能は、まだまだ衰えとらんな。困ったもんやで」
自分のことは棚に上げて、嘆いた。
しばらく行くと、通路の補助イスに白服の専務車掌が腰を下していた。すっかり憔悴《しようすい》しきった顔付きで、服務手帳を広げている。
「すんまへん。食堂車は何輛目でっか?」
定吉は声をかけた。
「ああ、隣です。八号車」
中年の車掌は力なく連結扉を指差した。
「車掌はん」
「何です?」
定吉は思いきって聞いた。
「一つのベッドに一人が規則だったんと違いまっか? 今見たら、どのベッドでも……」
「いくら注意しても無駄なんです。いいかげんあきらめました」
彼は眼鏡を外し、赤い腕章でレンズを拭《ぬぐ》った。
「モラルも羞恥心《しゆうちしん》もあったもんじゃあない。注意しようとカーテンをめくるだけで『助平!』って怒鳴《どな》られる。もうたくさんです。組合の連中にはいじめられ、乗客には出歯亀《でばがめ》扱い、家に帰れば女房子供にののしられ、ヘマをすれば配置転換。まったくもう……」
定吉が同情の声をかけようとした時、連結扉が勢い良く開け放された。
「大変よ、たいへん。食堂車が変なのよ」
プードルを抱いた女が二人の前に飛び出して来た。派手なイヤリング、首にパールの巨大なネックレス、十本の指に模造ダイヤ、まるで歩く免税店《デユーテイフリー》のような中年女性だ。
「お客さん、困ります。ペットは動物運搬カゴに入れてもらわなければ」
車掌の文句に耳を貸さず、彼女は言葉を続けた。
「この子がおなか空いたって泣くもんだから、食堂車へ行ったんですよ。そしたら中は真っ暗で、うめき声みたいなのが聞こえるじゃありませんか。私もうビックリして」
全部を聞くまでもなく、定吉は走り出した。
「ええっ? 今度は食堂車の客がスワッピングを始めたのか」
車掌はヘナヘナとその場にしゃがみこむ。クルーガーランド金貨の首輪をつけたプードルが、一声高く定吉の背中に向って吠《ほ》えた。
食堂へ通じるドアの前には、数人の男女が群がり、中を覗き込んでいる。鼻をつままれてもわからぬほど暗い車内から切れぎれにうめき声が聞こえる。なまめかしい声などではない。苦しげな男の声だ。
「ママ、おなか空いちゃった。早くハンバーグたべたいよー」
戸口にいた幼女が母親らしい肥満ぎみの女性に訴えている。
「二十四時間営業だと放送しときながら、いったいどうなってるんでしょうねえ。こんな真っ暗な中で子供に食事させることなんかできませんよ。早く電気をつけるように誰《だれ》か言いに行って下さいよ。本当に常識知らずな……」
母親は誰れ彼れかまわず隣近所の人間に当り散らしていた。
こんな夜遅うなってからガキに飯食わせる方がよっぽど常識無しやないか。定吉はその河豚《ふぐ》のような横っ顔《つら》を草履の裏で思いっきりはたきつけたい欲求をかろうじて押えた。
「御免やっしゃ。わてが見て参じまひょ」
右手を懐に入れたまま、左手を壁につき出して、暗がりの中に進んで行く。
草履の先に、ぬるりとした感触が伝ってきた。思わず滑りそうになるのを、足を踏んばってこらえる。
「なんや、これ?」
血だろうか。眼を細め、周囲の情況を把握しようとする。食堂車にも窓は付いているはずだが外の光は一切見えない。どうもブラインドが降りているらしい。
床に指をついて、草履の先に触れてみる。指を鼻先に持って行くと、牛肉の匂いが微《かす》かに匂った。ちょっと舐《な》めてみる。
「ビーフストロガノフの汁やな」
関東風の辛い味付けだ。
その時、彼の左足がグニャリとした物体を踏んだ。これは足の感触だけで理解できた。
人間だ!
「中はどうなってます?」
入口から車掌が怒鳴った。
「早よう電気つけとくなはれ」
蛍光灯が再び灯ると同時に空襲警報のような悲鳴があがった。
肥満体の母親が約百二十ホンの声を出し、その子がおもしろがって約八十五ホンのソプラノを出したのだ。母親はものすごい勢いで仰向けにぶっ倒れた。
細長い食堂車の中は、ハリケーン通過直後のキー・ウエストもビックリするような惨状だった。
料理の皿や中味、机上の花、イス、ワゴン等がてんでんバラバラに転がり、傾いたテーブルの間におよそ四十人以上の男女が思いおもいの姿で倒れている。
定吉は急いでまわりを見まわした。同志を、安雄を捜さなければ。
まるで南米の新興宗教の集団自殺を見るようだ。老人、学生、サラリーマン、主婦、ヤクザ、白人のバイヤー、富山の薬売り、ありとあらゆる階層の客たちの上へウエイトレスやコック、ボーイたちが折り重っている。
奇妙なことに彼らは全員が力のかぎり戦った姿勢で倒れている。武器を所持しているものも多かった。
腹に短刀を突き立てた学生、頭を射ち抜かれたOL、肉切り包丁を握ったままイスで殴り殺されたコック、首にロープの巻きついたサラリーマン。
「どういうこっちゃ」
定吉はまだ息をしている人間を探して丹念に車内を見てまわった。
「これは、陰謀だ。私を陥れようとする組合の陰謀に違いない。中間管理職をワナにはめようとしているんだ」
死体の間に立った専務車掌が大声をあげた。
「私は、私は負けんぞ。民営化されるその日までがんばってやる。ワハハハハ」
彼は、口もとから白濁した涎《よだれ》を長く垂らし、よろけながら出ていった。
「ショックが大き過ぎたんやなあ」
自分の職場で大量殺人が起きれば誰であれそうなってしまうのが普通だろう。
うめき声をたよりにテーブルの間に落ちたテーブル・クロスをめくった定吉は、その中へ包まれるようにして和服姿の老人が倒れているのを発見した。
「や、やあ、定吉さん、面目無い。やられちゃったよ」
その水戸黄門そっくりな老人が安雄であることを定吉はやっと悟った。
「しっかりしとくんなはれ。あんたほどの手練《てだ》れが」
あわてて抱き起す。
「突然電気が消えたと思ったらこのザマだ。刺客たち、ほら、そのウエイトレスやコックがそうだがね。彼らの攻撃はかわしたんだが、第三者同士の争いの巻き添えで……」
安雄は脇腹に深々と刺さったハンティングナイフを指差した。柄にはハーケンクロイツのマークが彫られ、柄頭には銀の鷲《わし》が光っていた。
「僕の後ろに坐っていた外国人はユダヤ人のオデッサ(対ナチ援助機関)で、隣に相席したのが南ドイツ人のモサド(イスラエル秘密情報部)らしいよ。車内が暗くなったら突然争い始めた。他の連中も互いに連れ同士で闘い合って全滅だ」
彼は苦しい息の下で説明した。定吉は知るよしも無かったが、この夜、食堂車に現われた客たちは皆お互いに殺意を懐いていたのだった。端のテーブルで首にそれぞれ縄を巻いて倒れているのは妻子持ちのサラリーマンと、彼を無理心中の相手に選んだOL。通路の真ん中で切り合って死んでいる三人は女房《ばした》を寝取られたヤクザと、彼に追われている三下、ヤクザの内妻。ジャングル・ナイフと棍棒《こんぼう》で相い討ちになった富山の薬売り風の男と水商売風の女は、旧ビアフラ軍の日本人傭兵とナイジェリア・ハウサ族系の在日情報員だった。その他の客も同じようなもので、暗くなった瞬間、チャンスとばかり敵と目する人間へ襲いかかったのである。
暗闇《くらやみ》で争う互いに無関係な人々。パニックが全ての男女を死に追いやったのだ。定吉はその光景を思い浮べ、ゾッとした。
「全員が殺人者だなんて、アガサ・クリスティの頃ならまだしも、今はどこの低能作家も書かないね」
定吉の腕の中で安雄はニガ笑いをした。
「あまりしゃべると毒だす。いま刀抜きますさかい」
「無駄だよ。最後の最後で僕もハードボイルド作家になっちゃった。こ、これを」
苦しい息の下、安雄は懐から例の錦《にしき》の袋を取り出した。
「いざという時はこれを使ってね。じゃあ、バイビー」
三途《さんず》の川の渡し賃を家紋に持つ小説家の魂は、まるで神宮外苑のデートに出かけるような気軽さで、彼岸の彼方へと去っていった。
「ほな、さいなら」
定吉は形見の尺八を持つと急いでその場を離れた。
今は、何よりも裕子の身が案じられた。
「銀河」五一号は六分遅れの十一時三十五分、小田原駅のホームに滑りこんだ。
いつもは静かな深夜の小田原駅頭は、公安官や駅員で混雑していた。ここで下車した人々は全てホームの端に集められ、鉄道公安官控室に連行されて行く。食堂車から四十体を越える死体が車外に運び出され、八号車は検証のため封印されたが、車内へ残った人々には別にとがめ立ては無かった。どうやら国鉄当局は、明日の朝まで事件を伏せておきたいらしい。
救急隊員と国鉄職員によって次々と降されて行く白いシーツ包みの担架を、定吉は通路の窓から凝視していた。
「明日は我が身やな。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
担架の列に向って両手を殊勝気に合わせた彼は、個室のドアをノックする。
「わてや、裕子はん」
カタリと掛け金が外れ、彼女の脅えた顔が覗いた。
定吉は急いで室内に入り、後手でドアを閉める。その瞬間、列車はゆっくりと動き出した。
「恐いわ」
裕子は勢い良く定吉に抱きついて来た。彼女は、小田原で降された四十体以上の死骸《しがい》が全てKIOSKの毒牙《どくが》にかかった犠牲者《サクリフアイス》と思い込んでいるのだろうか。
定吉はおどおどと裕子を引き寄せ、髪を撫《な》でながら耳もとにやさしく囁《ささや》いた。
「だいじょうぶだす。イザとなればわて盾になりますさかい」
だが、彼女が恐いと言ったのは、実は、KIOSKという組織に属し、定吉を罠《わな》に導いている今の自分自身に対してなのだ。
裕子は迷い始めていた。自分の心がこの一見トロそうな関西人に少しずつ傾いて行くのを感じずにはいられなかった。
「田中センセが殺《や》られはったいうことは、小田原の残置|諜者《ちようじや》が既に大阪へ伝えてはる思いますねん。いずれ、わてをサポートする人間がこの列車に乗って来てくれまっしゃろ。それまで、ここから出んようにしようやないですか」
定吉は彼女の背中をさすりつつ言った。言い終ると同時に、通天閣本通り「釣鐘屋本舗」の「バナナまんじゅう」に似た、甘いぽってりとした裕子の唇が彼の口を塞《ふさ》いだ。
「あ、止《や》めときよし。一駅|停《とま》るごとにこれでは身が持たへん。これ以上なんかしたら歩くのにも事欠くようになってまう。や、やめといてんか」
必死に抵抗する定吉の上へ、裕子は積極的にのしかかる。
列車は左手に真鶴《まなづる》岬の淡い光を受けつつ、ゆっくりとカーブして、トンネルに入った。
深い深い接吻《せつぷん》を交わし、彼は堪えた。十分、いや八分我慢すればいい。
オテル・ムーリスのムース・オ・ショコラみたいにヒンヤリと冷たく、そして柔らかい彼女の指が、定吉の薄い胸から少しずつ下に下り、アメリカのカーティス社製キャンディ・バー、六十七グラムで二十五セントの「ベイビー・ルース」そっくりな物体に触れようとした時、列車はガタガタと揺れだした。ポイントの上を渡っているのだ。窓に赤や青のライトが忙《せわ》しなく反射し始めた。
「裕子はん、熱海の駅や。カーテン開いてまっせ。ホームから丸見えになります。いったん休憩しまひょ」
「覗きたい人には覗かせましょうよ」
彼女は抱きついて、なかなか離れない。
「だだこねんと言うこと聞いとくれやす」
定吉はようやく彼女の手を逃れ、襟を正した。裕子は口を尖がらせ、ベッドからおろした長い足をばたつかせる。
「んー、もう」
「大阪方の助人《すけつと》が来てるかも知れまへん。ホームに注意しておくなはれ」
他の駅に比べて数段明るいホームへ彼は目をこらした。時計は零時十分を差している。予定より十八分遅れだ。温泉町熱海は流石に不夜城と謳われるだけあって、海沿いのホテル街は光輝いて見えた。色とりどりのネオンが「銀河五一号」の丸っこい車体に照り映える。この時間だというのにホームにたむろする人々も多い。やはり、ここでも下車した客は鉄道公安室に直行らしく、改札口に公安官が数人立ち番をしていた。
駅前の温泉ホテル、その赤いネオンの光がホームに立つ一人の男の頭を照らし出す。平和で猥雑《わいざつ》なONSEN文化、日本が世界に誇るワンダーランドとおよそかけ離れたイメージの男だ。彼は片手を懐に入れてゆっくりと列車に近づいてくる。
定吉はこの男は大阪人か、それに近い人種であろうと思った。なぜそう考えたか、といえば彼のスタイルがそれを連想させるから、としか答えようがない。
夏だというのにコーデュロイのハンチングを目深に被り、着古して貫禄《かんろく》の出た藍染《あいぞめ》のお仕着せに薄茶の角帯。素足に安物のゲタを履いている。背は高い。恐らく定吉と同じぐらいはあるだろう。ホームの柱に掛けられた「あたみ」と書いてある表示板の横を男が通り抜ける時、とっさに定吉は彼の身長を目で計った。
男は定吉の立つ窓の下まで来て、ジッと彼を見上げた。人なつっこい笑声が小さな口髭《くちひげ》の近くから零《こぼ》れた。眼は隠れて見えなかった。
「すんまへん。これ『銀河』の臨時でっか?」
大阪弁だ。定吉はホッとした。御隠居は、わてらを見捨てなかった。いつもはゴリガンのボケのカスのと陰口をたたく定吉だが、今日ばかりは堂島の方向に向って手を合わせたい心境になった。
「そうだす、五一号や。早よ、お乗り」
ハンチングの男は軽くうなずき、乗車口にまわった。
定吉は通路の端に出て彼を待ちうけた。大阪商工会議所秘密会所の丁稚《でつち》同志が出合う時に発する合言葉は連日変わる。ある時は人形浄|瑠璃《じようるり》の一節かと思えば、次の日はミナミ九郎右衛門町の「大黒」名物かやくごはんの作り方を微に入り細に渡って述べることであったりする。実にわずらわしい習慣だが、これで敵を見抜けることも往々にしてある。二ヵ月前、大阪に潜入して地下鉄堺筋線に乗った丁稚姿のNATTO工作員が合言葉の中で「日本橋《につぽんばし》」をつい「ニホンバシ」と東京風に発音して捕えられたという。
連結器の上のドアが開き、男が通路に顔を出した。
「もうかりまっか」
「あきまへんわ」
定吉は近寄った。
「宝くじでも買うてみなはれ。地下鉄梅田駅南口か、地下街の阪神東口が良ろしで」
「地下街の中央東と天王寺駅がいい言われて通うたこともおましたけど、あじないですわ」
男はニヤリと笑って人差し指を一本立てた。
「穴場教えまひょ。日本土地淀屋橋ビルの地下売場が一番だす」
定吉はやっと笑い顔になった。
「新らしく伊豆地区担当になりました幾松二十番だす。良ろしゅうに」
「わてが会所直属の定吉七番や」
二人は膝《ひざ》に手を置いて頭を下げ合った。
「御高名はかねがね伺っとります。わて、まだ駆け出しでっけど、前任者がNATTOにいてこまされまして、繰り上げで幾松を拝命させてもらいましてん」
ははあ、先日の水戸小粒納豆集積所爆破作戦で大量にやられた工作員の補充だな。どこかおかしな大阪弁を話す。泉南《せんなん》か、へたをすると和歌山あたりの人間だろう。
幾松は歩きながらハンチングを脱いだ。髪はチックでベタベタに固めている。目つきは鋭い。定吉は彼の腰を見た。角帯を五郎八結びにしめている。明治の初年頃、ヘラヘラ踊りの名人|大馬鹿《おおばか》屋五郎八が流行らせたというキザな斜め結びで、下品な芸を売りものにする芸人がよくやる結び方だ。決して大店《おおだな》の丁稚がやらない帯結びである。しかし、定吉はそんな偏見を今は頭から追い払おうと務めた。
「小田原から熱海まで三十分とかからんのによう間に合ったもんやな」
「御隠居はんから列車の着く十五分ほど前に電話もらいましてん。それから支度もろくにせんと十分で駅まで駆けつけたんだす。大将」
定吉の問いに幾松は明るく答えた。
「そら大変やったなあ。で、あのシブチンはどない言うとった?」
「大将と関東のおなごを米原あたりまで送って行け。それだけだす」
定吉は個室のドアをノックする。チラッと幾松の目を見た時、彼の目が小さく光ったような気がした。一瞬、殺気が感じられた。しかし、それもほんの十分の一秒かそこらのことだった。
「裕子はん。味方が来ましたで」
恐るおそる彼女はドアを開けた。
「このお嬢さんが立穴裕子はんや。裕子はん、こっちゃは幾松言うて、わてと同じお店《たな》もんや。けど殺人ナンバーは持っとらん。無害な丁稚や」
定吉は二人を紹介し合った。彼女と幾松は握手をする。カギを閉め、三人は狭いベッドへ一列に坐った。
「状況はこうや。わてが食堂車へ行く直前にそこで殺し合いがあった。先に行っとった田中センセが殺されはったが、センセはKIOSKの工作員を全員道づれにしはった。たぶん、全員やないかと思うんやけど……。あんさんの役割は楽なもんや。わてらが仮眠をとる間だけ見張りに立ってくれたらよろしい。今日の朝八時、大阪駅に着くまでの間や。たのむで」
定吉は裕子の方を向き意味深に笑った。
「なんせ、わてらいろいろあってクタクタやさかい」
裕子は、「バカね」と小声で言って笑い返す。
「ヘッ、わかりました、大将。まかしといてんか」
幾松は外に出る。通路の壁に埋め込まれた補助イスの背を倒し、ドッカリと腰を降した。
「あの人どこかで見たことがあるわね。テレビの同業者じゃないかしら」
「まさか。あんなアホみたいな奴が?」
定吉はドアを閉め、錠を下した。
「トランペットの吹けるロック・シンガーに似てると思ったけど……。そうね、他人のそら似だわ」
裕子は一人勝手に納得すると再び彼の首筋に手を巻きつけようとする。
「あかん、今度こそあきまへん。もうわてらは二人きりやおまへんで」
彼はドアの方を顎で指した。
「寝ずの番してくれる幾松に悪い」
彼女は渋々離れ、ベッドへ横たわった。
「少し寝ときなはれ。昨日から全然横になってまへんやろ」
「横にはなっていたわ。睡眠をとってなかっただけよ」
裕子は鼻にシワを寄せて、アカンベエをすると、シーツを頭からすっぽり被った。
定吉はホッとした。やっと彼女の飽く無き肉の漣《さざなみ》からの解放だ。これも幾松という助人《すけつと》のおかげである。
汽笛が鳴り、列車は動き出す。山並の彼方、熱海の山裾《やますそ》が海に至るあたりにキラキラと輝く小さな宝石箱が見える。東宝製怪獣同士のショバ争いで破壊されたと信じられている熱海城だ。定吉は車窓にペタリと顔を押しつけ、その美しさに見とれた。だが、それもほんの一瞬で小山の間へ隠れ、月夜に光る海も同時に消えた。トンネルに入ったのだ。
「小田原名物曾我の梅干し、かまぼこ、熱海の駅弁『鯛《たい》めし』、七尾の沢庵《たくあん》はいかがですかあ」
カチャカチャというガラス質の容器や金属のぶつかり合う音がドアの向うで聞こえた。
「何や、うっさいなあ」
車内販売らしい女の子のすっとんきょうな声が通路いっぱいに響く。
食堂車が、スエーデン帰りのレーニンを乗せたレニングラード封印列車並みに立ち入り禁止となったため、急遽《きゆうきよ》移動販売が行なわれているのだろう。
定吉はドアの陰で身構える。食堂車の従業員は敵だったと安雄は死ぬ前に言った。だとするとこの車内販売も怪しい。
彼はベッドの裕子を見た。いつの間にか、すやすやと可愛らしい寝息を立てている。
「白河夜船《しらかわよふね》とはこのこっちゃな」
販売ワゴンが部屋の前で止った。
「あ、ねえさん。『鯛めし』くれへんか。それとお茶《ぶ》や」
「すいません。お茶が冷えちゃって」
「しゃあないな。なら、バヤリースもらおか。それと冷凍ミカン」
定吉は聞き耳を立てた。幾松と車内販売の娘が話しこんでいる。
あのアホが、危ないマネしおってからに。
だが、それ以上何事も起らず、ワゴンは騒々しい音を立てて隣の車輛《しやりよう》に去って行った。
「大将、夜食たべまひょ。東華軒の鯛めしや。関東の味やけど、こらなかなかいけまっせ」
幾松がドアをたたく。定吉がカギを開けると、両手に駅弁の包みとジュースの缶、それに冷凍ミカンの網包みを下げた彼が人なつっこい笑いを浮べて立っていた。
「大将、昼から何も食べてへんのと違いまっか? 顔色良うおまへんで」
幾松は車窓に寄って洗面台のフタを開け、冷凍ミカンをその中に放り込んだ。
「いとはん、良う寝てはる」
「ああ、よく遊び、よく眠り……や」
幾松は定吉の膝に「鯛めし」を一つ乗せ、ジュースのプルトップを外して手渡した。
甲斐甲斐《かいがい》しく働く幾松を見て定吉はイライラしていた自分が何となく恥かしくなった。このニューフェイスの丁稚は、それなりに先輩を立て、気を使っているのだ。
裕子の脇に坐った幾松は、駅弁の蓋《ふた》についた飯つぶを丹念にこ削《そ》ぎ落し始めた。
定吉も、経木の縁に付いた鯛のソボロをまず舐め取り、それから漸《ようや》く中味に箸《はし》をつける。
この「鯛めし」という駅弁は東海道線では鰻《うなぎ》、鯵《あじ》に次いでポピュラーな魚類弁当とされ、相模湾から伊豆半島にかけての駅で軒並み売られている。大磯で始まり、二宮、国府津、鴨宮、小田原、真鶴、湯河原、熱海、三島、沼津、そして発祥地静岡で終る。元々はその名の通り甘鯛が主原料なのだが、現在では品薄であるところから他の白身魚をソボロにして仕立てているところが多い。
幼少の頃からピンク色に染まった鯛デンブが好物だった定吉にとって、たとえメルルーサやタラが化けたものであったとしても、楽しい駅弁に違いなかった。定吉は黙々と箸を動かした。
「なあ、大将」
唐突に幾松が口を開いた。
「後生やからその『大将』いうのんをやめてんか。わては山下清画伯やないでえ」
「すんまへん、じゃあ……定吉はん」
「なんや?」
定吉は駅弁にかぶりついたまま生返事をする。
「わい、昔から定吉はんのこと尊敬してましてん。関東モンを何百人と殺《や》らはったんでっしゃろ?」
「そないにぎょうさんは殺っとらん。ただのウワサや」
「けど、包丁術の達人で……」
幾松は、しつこく尋ねた。
「人が言うとるだけや。飯食うとる時、そないなけったくそ悪い話すな」
定吉は取り合わず、ガツガツとソボロ飯をかき込む。まだ経験の乏しい駆け出しの丁稚によくあることだ。なんとか他に認められたいと功を焦り、先達《せんだつ》の持つ技能の一端にでも触れようとする。彼にとって、定吉という非合法活動の名人に出合うことは一つのチャンスなのだ。飯時に後先も考えず人殺しの話など、と声を荒げて叱《しか》りつけたい気持ちを彼はかろうじて押さえた。
「生間《いかま》家伝来の柳刃包丁をお持ちとか」
幾松は箸先を舐めながら、なおも聞いた。
「そや、『富士見西行』言うてな。西行法師が東《あずま》へ下る途中、富士山を見とる図柄そっくりな刃紋が付いとるやっちゃ」
定吉はうなずいた。
「けどな。わての考えでは、あれはホンマモンやないな」
「なんでだす?」
「三品家内人|有次《ありつぐ》六代目の作や言うけど、その時代にはまだやなぎ刃は無い言うのが定説や。けど切れる。ま、あれやな」
「あれ、て何だす?」
「『近藤勇の虎徹《こてつ》』の伝や。偽物であっても本人がそのつもりになって持てば名刀と同じ働きをする言うこっちゃ」
定吉は茶のかわりのオレンジジュースを一口飲んだ。幾松は箸を止めて彼の方に向き直った。
「お武家のしきたりでは、『お腰の物拝見』いうのんは失礼なことや言われとるそうでっけど……」
彼はモジモジと体をくねらせ、上目使いに定吉を見た。
「なんや、見たいんか?」
「へえ、目の正月に……」
「見てもええで。そこの壁に掛けてあるホルスターの中や」
定吉は再び駅弁の残りと取り組み始めた。
「お、おおきに」
幾松はコンセント・スイッチの隣にぶら下ったバーンズ・マーチン・三点式ホルスターへ喜んで飛びついた。
そういえば、自分にもそんな昔があった。先輩の古丁稚が持っている道中差しに触れたくて仕方の無い頃があった……。
定吉は弁当の隅に残ったグリンピースを口の中に放りこみ、遠い目をした。
と、その時である。
首筋に冷たいものが当った。
「おっと、動いちゃあいけねえぜ。食いかけの弁当は足もとに置きな」
首に触れているのは包丁の刃先だった。
「どんくさいシャレはやめときよし」
藤原|有次《ありつぐ》六代の真作ではないとは言え、触れればたちどころに何物をも両断する業物であることは定吉自身が良く心得ている。冗談めかしてはいても、その一語一句はうわずった。
「どういうわけか、こりゃあ洒落じゃあねえんだよな」
幾松の言葉からすっかり関西ナマリが抜けている。
「幾松、これはいったい……」
「俺あ幾松じゃあねえんだ、大将」
定吉の顔からスーッと血の気が引いた。自分でも血が顎のあたりに降りて行く音が聞こえるような気がした。
こめかみが不自然にピクピクと蠢き、体の他の部分が緊張のためカアッと熱くなる。
「本当は木村修二ってんだ。よろしくな」
先程とはうって変った荒々しい関東弁だ。
「サービスにコードネームも教えちまおう。『赤坂一号』だ。大将を殺すためだけに教育されたKIOSKのけちな野郎さ」
まだ罠は残っていたのだ。敵は安雄が全て片付けたのではなかった。初対面の幾松にはもっと注意しておくべきだった。定吉は好物の「鯛めし」に心を奪われた自分がなさけなくなった。
13 殺し屋「赤坂一号」の攻撃
「会えてうれしいよ。あんた、思っていたより親切な男だな。こんな大事な得物まで渡してくれてよう」
幾松、いや木村修二は楽し気にうそぶいた。
「そうゆっくりしているわけにもいかねえんだ、大将。立って壁に手え付けろや」
定吉は、寝入っている裕子に心配そうな眼差《まなざ》しを送り、ゆっくり立ち上った。
「ああ、その女は心配いらねえよ。さっき握手した時、ラパチーニを〇・〇三ミリグラムほど皮下注入してやった。こいつで、な」
彼は右手の中指につけた金のカマボコ指輪を見せびらかした。
「殺したんか?」
定吉は腕を壁に置き、横目でその手を睨《にら》む。
「少量だからな。一、二時間ほど寝込むだけさ」
ラパチーニというパスタ・メーカーのような名は定吉も知っていた。イタリアの黒シャツ党員が共産主義者を謀殺する際に好んで用いたといわれる毒薬だ。少量なら昏睡《こんすい》状態に陥る程度だが、大量に使用されると呼吸困難を起し、死に至る。
「食堂車の同志があんなドジさえ踏まなかったら、俺の出番も無いところだった。計画通り行きゃあ今頃は、奴《やつ》らがこのトンネルの中で一斉に車灯を消して、大将たちに襲いかかっている手はずだったんだぜ」
定吉は窓の外を見た。楕円形《だえんけい》に近い壁の一部が車窓いっぱいに広がり、オレンジ色のライトが等間隔に並んでいる。車内の騒音も一段と大きくなっていた。
丹那トンネル。本当ならここで騒ぎが起きるはずだったのだ。
「このトンネルと、次の函南・三島間のトンネルを越えるまでは、死んだ奴らの受け持ち分担だ。俺の受けた命令は、『三島・沼津間で定吉を襲え』。俺は仕事の分担をハッキリさせる方でね」
「富士見西行」の刃先きをブラつかせて修二はニヤニヤした。
「俺はポリシーのある死刑執行人なんだ。三島を過ぎるまでは生かしておいてやる」
「そら、おおけに」
定吉は吐き出すように言った。
「この列車は沼津まで止らない。ゆっくり行こう。しかし、大将も太平楽な男だな。その名も高い定吉七番と言うからには、どんなドスのきいた男かと思えば、まるで吉本興業の漫才師じゃねえか。正直言って俺は拍子抜けしたぜ」
車輛の騒音が、潮が引くように消えて行く。列車が丹那トンネルを抜け出したのだ。うーん、と低くうめいて裕子が寝返りをうった。定吉はハッとして、そちらの方へ身をよじろうとする。
「おっと、動くんじゃねえ。大将が妙なマネすれば、俺も自分の行動規範を捨てなけりゃならねえ」
修二は定吉の第五|肋骨《ろつこつ》のあたりに包丁をピタリと当てて制止した。
「この作戦は、金がかかってるわりには失敗も多い。せめて最後だけはきれいに締めくくりてえんだ」
「さよか。このおなごをただ追って来たわけやないんやな。主目標はこのわてか?」
定吉は壁に向いたまま聞いた。
「わてのようなケチな丁稚一人殺して何がおもろいんや?」
「大将、あんた自分の価値というものを意外に過小評価しているぜ」
修二は、ゆっくりと小物置きの上に腰を降した。しかし包丁の先は依然として定吉の脇腹《わきばら》へ擬したまま動かさない。
「この作戦には、うちのお偉方の面子《メンツ》がかかってんだ。なにしろここんとこ、大将たちのチームがガンガン点数を稼いでいるんで、うちの方も立ち場が無《ね》えんだとよ。そこで起死回生の一発ってわけだ。関西の誇る殺人丁稚定吉七番に大スキャンダルを起させた後にブッ殺す……」
定吉は黙って聞きいる。修二は饒舌《じようぜつ》だった。
「イギリスの『ドミニック・エリオット事件』っていうのを知ってるか?」
「知らん」
「エリオットというイギリスの年寄り貴族が、ドミニックって名のジャマイカ人の売春婦と手に手を取ってテムズ川にドボンだ。悪いことにその貴族は凄腕《すごうで》の情報室長で、ドミニックはソ連のスパイだった。老いらくの恋にしては、あまりにも始末が悪いってんで連日マスコミが大騒ぎでよ。ついには内閣も総辞職寸前、伝統を誇る英国情報部もやる気を無くして活動ストップさ、一九六四年頃の話だ」
「心中物ゆうたら、わては近松はんの浄瑠璃しか知らへんわい」
車内の騒音が再び高まった。三島トンネルに入ったのだ。ここを抜ければすぐに三島の町、次の停車駅沼津は指呼の間である。
「心中事件はKGBの仕組んだ茶番だった、エリオットはロシア人の罠にはまって殺された、とわかったのはつい最近の話さ。アイルランド人の作家が小説のネタにしてベストセラーになった。うちのお偉方もそれを読んで今度の作戦を考え出したってわけだ」
「なるほど、そのエゲレス人の伝で、わてをスキャンダルのネタにして殺そういうんやな」
そうか、これでようやく合点がいった。定吉は小さく首を振った。
「こっちの筋書きはこうだ。まず、大将を縊《くび》り殺し、そこのハンガーフックにぶら下げる。次に女を包丁で一突きにして列車から放り出す。その後俺はこの個室にカギをかけ、窓から列車の屋根に出て沼津駅で降りる。走る密室内の無理心中だ。しかも、女の死体から大将の手紙が出てくる」
「そんなもん、わては書いてない」
「KIOSKの偽造文書製作部が代りに書いてくれたよ。心配すんなって」
修二はこの話が心から気に入っているらしく、ますます饒舌になっていった。
「『わてはいとはんに心《しん》から惚《ほ》れました。大阪で生まれた男やさかい、東京ではよう生きて行かんと今まで思っておりましたが、あんさんのためなら秘密会所も裏切ります。添い臥《ぶし》はかなわずとも、おそばに居たいとしんぼうして……』」
「これまでいたのがお身の仇《あだ》。去年の夏の患《わずら》いに いっそ死んでしもうたらー」
「こら! 歌うんじゃねえよ。ちっとは自分の置かれている立場ってものを考えろ」
思わず浄瑠璃をうなり始めた定吉を、修二はあきれて制止した。
「そないなもっさい偽手紙、だれが信用するかいな」
定吉は思わず笑った。
修二はまるで気にしていない。
「週刊誌の芸能記事を知ってるかい、大将。芸能記者が流したウソだって誰もが知っている話でも、同じ媒体で同じ調子で何度も何度も流しているうちに、みんな信じ始める。日本人はキャンペーンってやつにエラク弱いからな。半年ぐらい、テレビの主婦向け番組で『女子大生ソープ嬢に狂った大阪の丁稚』、『無理心中、ブルー・トレイン片道旅行』ってやつを放送し続ければ、大将を鏡と仰いでいた商工会議所傘下の工作員たちも動揺する。大阪方の戦意は低下するって寸法だ」
笑っていた定吉の顔は、またしても強張《こわば》っていく。彼の下にいる奉公に来たばかりの見習い連中は、テレビ・週刊誌しか楽しみを知らず、勢い軽挙盲動する輩《やから》も多い。彼のこうした死は実に影響が大きいと言える。
「できるだけバラエティに富んだ話題にしたいと思ってよ。大将たちの熱々の濡《ぬ》れ場もビデオに撮らせてもらったぜ。さっきの熱海駅で業者に渡されたから、今頃はダビングが始っているはずだ。大将たちが死んだ後には大阪で大々的に売り出してやる。題名は『船場の定やん――濡れぬれ寝台急行』。本人が見られないのが残念だ」
「銀河五一号」はついに三島のトンネルを抜けた。車窓から、三島の工場地帯で輝く青白い水銀灯の光列が見えた。昼ならば右側の窓いっぱいに富士山を望むことができるのだが、今それは、漆黒の闇《やみ》に沈んでいる。
「さて、俺の分担区分に入った。そろそろ死んでもらおうか。おっと、その前にアレを返してもらおう」
包丁を持ち直し、自分の食べかけの駅弁へ巧みに偽装しておいた例の凶器――特別仕立てのハンギング・ストリング(首紐《くびひも》)と白木の丸箸を空いた手で取り外しながら修二は言った。
「アレて何や?」
唐突に言われて定吉はまごついた。
「この女が、大将を釣るエサとしてうちから持ち出した特製保温駅弁容器だ。知らないとは言わせねえぜ」
そうか、まだその手があった。なんてわては、ついている丁稚なんやろか。
定吉の心はパッと明るくなった。まるで淡路島の沖合いから通天閣の灯を発見したようなうれしさだった。
「ベッドの下の風呂敷《ふろしき》包みや」
彼はわざとふてくされた口のきき方をした。
「中味は重箱や。そこの一段目に入っとるわい」
修二は包丁の刃先を定吉の背中に着けたまま、ゆっくりとベッドの下を探った。
その動作に、ほんのわずかな隙《すき》も見せない彼を見て定吉は舌を巻いた。
こいつはプロや。ヘタするとあの仕掛けも見破られてしまうかもしれん。
「この包みか?」
定吉は壁の方を向いたまま首を縦に振った。
「そないなじゃんくさい(面倒くさい)もん返したるで」
修二は自分の膝の上で風呂敷包みを解く。
「へえ、柄にもなく上品なもの持ち歩いているじゃねえか」
高級そうな塗りの箱を発見して彼は驚いたようだった。
「名の通った美術品や。質屋なんかに入れたらすぐ足つくで」
「まさか」
修二は鼻でせせら笑いながら梨地《なしじ》の蓋を持ち上げた。
ブシュー!
別府竜巻温泉か、はたまたローマのニンフェウム噴水か、一瞬、修二の目の前が真っ白い霧で覆われた。オロネ25型変形A寝台個室の中に突然|灰《はい》神楽《かぐら》が立った。
「ぐわあ!」
修二は激痛の走る両眼を押さえ、のけぞった。ハモ切り九作の先祖が、その技術の粋を集めて作り上げた名物「八雪軒の重箱」は、三百年昔に江戸城中の悪坊主を懲らしめた時と同じように正確に作動した。ただ、その当時の事情と若干異っているのは、目つぶしの効果を高めるため、ウドン粉の中に馬銭《まちん》(ストリキニーネ)が混ぜられているという点だった。
飛び散る粉の下をかい潜《くぐ》り、定吉は動いた。修二の取り落した「富士見西行」九寸五分を拾いあげ、脇腹に峰の部分を当てると、悶《もだ》え苦しむ修二に向って体ごとぶつかって行った。
柄《つか》を握った彼の右手と脇に添えた左手の先に、水を充分吸った布団へ杭《くい》を打ち込むような手応えが返ってきた。
修二はその瞬間、声をあげなかった。いつの間にか手にした「鯛めし」の包装紙を定吉に押しつける。特製の紐《ひも》が修二の手から、まるで生き物のように延び、自分の腹へ刃物を突き立てている男の首へスルスルと巻きついた。
「……!」
定吉は包装紙と紐の二重攻撃に怯《ひる》んだ。修二は断末魔の苦しみの下から最後の力をふり絞り、宿敵の首をグイグイと締めつける。
「も、もう、わややー」
呼吸困難で彼は立っていることができなくなった。
このままやと共倒れになってまう。彼の左手は力無く空を泳ぐ。
と、その手が窓ぎわの洗面台に当った。固い棒状の物体が触れる。定吉は満身の力を込めて、それを修二の頭に打ちつけた。
ボコッ、という鈍い音が響き、首に巻きついた紐の力が弱まった。
定吉は、ここぞとばかり右手に握った包丁の柄を回した。
紐の先に痙攣《けいれん》が伝って来る。フッと、その力が抜け、定吉の肩に殺し屋の体重がかかってきた。
彼は自分の顔を覆っていた「鯛めし」の包み紙を引き剥《は》がし、修二の身体を押しやった。
殺し屋、いや先程まで殺し屋だった物体は、刑務所の独居房に備え付けられている机兼用の洗面台そっくりなステンレス・テーブルに当り、勢い良く倒れた。
やった。定吉はヒュウヒュウと鳴る喉《のど》を撫《な》でた。気がつくと左手には、冷凍ミカンの詰まった長い網袋を持っている。修二が先程、駅弁とともに買い求め、解凍するために洗面台の中へ放り込んでいたヤツだ。KIOSK随一の殺し屋、そいつの最期の息を止めたのは皮肉なことに彼自身が買ったこのミカンの一撃だった。
定吉は暫《しばら》くそのままの姿勢で立ち尽していた。
やがてのろのろと上体を折り曲げ、修二の死体に刺さった包丁を抜き取る。傷口の肉が収縮し、刃先にねっとりと絡みつく感触。これだけはいつまで経《た》っても慣れるものではない。
死体の袖で包丁の血を拭《ぬぐ》い、カーペットの上に転っている重箱を拾いあげる。それから懐を探り、小さな紙包みを取り出した。中味は、毒消しの内服薬「陀羅尼助《だらにすけ》」、大峰山の修験者が経を誦《しよう》ずる時に使用する丸薬である。
定吉は、依然として眠り続ける裕子の半開きになった赤い唇の中へ一粒、それを押し込んだ。せんぶりと黄はだを主成分とするこの妙薬が彼女を正気に戻してくれるはずであった。
定吉は裕子の手首を握ってみた。ふっくらとした頬《ほお》に触れ、胸を少しだけ指でなぞってみた。指先はそのまま豊かな胸元を下り、もっと豊かな腰のあたりで二、三度回転し、白い布きれに包まれた太股《ふともも》のあたりでもまたまた渋滞した。スカートの裾《すそ》から突き出た彼女の皮膚に触れた瞬間、ハッとして我に返った。
「あ、あかん。触ってるうちに、ついミナミのアルサロと勘違いしてもうた」
「んー、いやーん」
裕子が色っぽい声をあげ、乳房を揺った。
「おっ、気がついた。裕子はん、早よ起きなはれ」
定吉は彼女の頬をピタピタ叩《たた》く。
形の良い大きな眼をそっと開いた裕子は、始めの数秒間ぼんやりとしていたが、やがて部屋の隅に視線を止めるや悲鳴をあげた。
「キャーッ」
だがその声は、沼津駅構内に滑りこむ列車のブレーキ音でかき消されてしまった。
「もう大丈夫や。あいつは死んどる」
顔中が播州産のウドン粉で真っ白く塗りたくられ、まるで粉吹きイモか田舎役者のようになった修二の死体を見て震える彼女を、定吉はやさしく抱いた。
「あんさんはわてをはめようとしたらしいが、あんさんも組織にハメられてたんでっせ」
えっ? と振り返る裕子に彼は、これまでのいきさつを説明し始めた。
二人は閉ざされた個室のドアの向う側で、この会話を立ち聞きしているものがいることに気づかなかった。
白い布製の髪止め、ブルーのワンピースにピンクのエプロン、白のハイソックスに滑り止めの付いた赤いデッキシューズ。先程、「鯛めし」を運んで来た車内販売の女だ。
彼女は、港ホテル販売員に変装していたが、実はKIOSK工作員の生き残りだった。修二に武器を手渡す中継ぎ役として、また、戦果確認役として熱海から乗り込んでいたのだ。
定吉の会話を半分まで聞かず、彼女は通路を駆け出し、深夜の沼津駅へ飛び出した。
「何、赤坂一号がやられたって?」
大文字は思わず椅子から立ち上った。
一瞬、作戦室内を気まずい沈黙が支配した。
「聞きしに勝る凄腕だね」
さすがの小梅も声が小さく震えている。
「二段構えの布陣を破られたということか」
大文字は頭を抱え、再び坐《すわ》りこんだ。
「しかも、最初の失敗は工作班全員が田中安雄を勝手に襲って、勝手に自滅したんだからねえ」
小梅は震える手で茶碗《ちやわん》にコブ茶を注《つ》いだ。
「あれは、乗客も悪い。密室内に偶然乗り合わせた全員が殺人狂だったなんて、三流のテレビ台本屋も書かないストーリーだ」
大文字は吐きすてるように言った。
「しかし、この失敗を会長が知ったら……」
小梅がそこまで台詞《せりふ》を言った時、作戦室のドアがカタリと開いた。
「その心配なら無用じゃ」
「会長!」
誰かが叫んだ。作戦室に居合わせた誰もが皆、背中へ冷水を浴びせかけられたようにゾッとして立ちあがった。
前髪を切り揃《そろ》えた和服の娘に手を引かれ、KIOSKの元締にして、「NATTO」上級評議員、幕内弁助翁がゆっくりと室内に入って来た。
「椅子を」
作戦室員の一人があわててスチール椅子を老人の背後に置いた。
「失敗は償ってもらわねばならん。KIOSKの掟《おきて》じゃからな」
ガチャン、というハデな音が轟《とどろ》いた。小梅が茶碗を取り落したのだ。床一面にコブ茶が飛び散った。
「御前、あ、あたしは」
後は声にならなかった。枯れ木に乗ったコウノトリの巣が揺れるように、ガリガリの体に置かれた丸髷《まるまげ》がゆらゆらと動いた。小梅は机の端に手を付いて、やっとのことで自分の体を支えた。
「二人ともこちらへ来るのじゃ」
小梅は、よろけながら老人の前に出る。大文字は、ちょっと怯んだが思い直し、大股《おおまた》で老婆に続いた。
どちらにしろ彼は作戦参謀であり、この作戦の最高責任者ではない。若干の処罰は受けるだろうが、死を賜るほどのことはあるまい、と踏んだのだった。
「さて、このたびの責任をどちらか一方に取ってもらわねばならぬ。他の組織員に対する見せしめもあるからのう」
大文字は老人の傍に立つ娘にほほ笑みかけた。自分はこれほどの窮地に立たされてもまだ心の余裕があるんだ、というところを見せたつもりだった。
和服の娘も片頬《かたほお》で笑い返して来る。おかっぱの髪が一瞬フワリと揺れた。
大文字の脛《すね》に劇痛が走った。
彼はハッとして自分の足を見、そして娘の方を見た。
娘は着物の裾をサッと払い、彼に向って初めて口を開いた。
「さようなら、金太郎さん」
「ま、円《まどか》ちゃん……」
大文字は、彼女が自分のこの恥かしい名を知っていることに驚いて、一歩彼女の方に近付いた。しかし体が言うことをきかない。彼はゆっくりその場に崩れ落ちた。
そうか、これは処刑なのだ。彼は悟った。目の前に娘の白い足袋と女物の草履が見えた。その爪先《つまさき》には小さな毒針が光っている。
それが、彼の見たこの世の最後の光景だった。青山TVディレクター、KIOSK作戦参謀大文字金太郎は約三十秒で絶命した。
「小梅さんや」
弁助翁はやさしく言った。
「お前さんとは満州以来の長いつき合いだ。もう一度チャンスをやろう。今度は、わしの後詰めにまわるのじゃ」
小梅はペコペコと頭を下げた。
「わしがこの手で定吉七番を切り刻んでくれる」弁助は言う。
「お言葉ですが、まだ第三の手が残っています。列車ごと爆破すれば……」
小梅は恐る恐る意見具申をした。
「その程度のことではあの丁稚を倒すことは不可能じゃろう」
猛禽《もうきん》類のような眼を光らせた老人は、リチャード三世を演じる故リチャード・バートンそっくりな身振りで、拳を天に突き上げた。
「誰ぞヘリコプターを用意せよ。わしが自ら奴を葬ってくれる」
14 浜名湖の死闘
臨時夜行列車「銀河五一号」は、午前一時丁度に富士川鉄橋を通過した。予定より十五分遅れである。
鉄橋の中間点に客車の一輛目が差し掛った時、車窓から大きな物体が一つ放り出された。
それは小さく弧を描くと、鉄骨の間から河原に落下して、夏枯れで水量の少なくなった富士川の水面に派手な水|飛沫《しぶき》をあげた。
「あんじょう片付きましたな」
着物の裾を手でポンポンと叩き、定吉は満足そうにうなずいた。
殺し屋の死体を車外に投げ捨てたのだ。
この頃になると、やっと裕子も最初のショックから立ち直り、顔面にも血の気が蘇《よみがえ》っていた。
「赤坂一号と言えば、KIOSKの中でも最高の処刑人よ」
彼女は、両方の頬に手を当てた。マニキュアの美しく輝く指先が小刻みに震えている。
「はあー、そないな偉い奴やったんでっか」
定吉はのんびりとした声をあげた。
「元は駅弁屋の下働きで、毎日お弁当の包装作業をくり返すうちに異常に筋肉がついて、紐結びの達人になったという話だわ。ところが、最近どこの弁当屋サンも高速の自動包装機械を使うため、失業して殺し屋になったのだそうよ」
裕子は溶け始めた冷凍ミカンを震える手で剥《む》きだした。
「なるほど、それであないなけったいな技を使うとったんやな」
あれだけの梱包《こんぽう》技術があれば、引越センターの社員か、SM雑誌の編集者でも立派にやって行けただろうに、と定吉は思った。
「普段は売れないロック・シンガーを隠れミノにしていたらしいわ」
「どっちにしろ、終ったことや。これであんさんも心から大阪方へ寝返る決心がついたやろ」
裕子は目を閉じて深くうなずいた。
列車が静岡駅に着いたのは午前一時三十五分だった。東京駅から百八十・二キロメートル。この駅で「銀河」は機関士交替する。
駅弁以外の食品、その土地の名物を売り出した駅としては静岡駅が最も古いとされている。明治二十三年、日本最初の駅弁販売から約七年遅れで安倍川餅《あべかわもち》を、そして次の年に山葵《わさび》漬《づけ》を旅客に販売しているのだ。
そんな由緒を持つ駅だけに、定吉は充分に注意を払い、ホームを見張った。
彼とて、そう何度も同じ間違いをくり返すわけではない。今や、車内や駅周辺の食品販売員は全て、KIOSKの息がかかっている人間として対処する決意だった。
車窓から外を見渡していた定吉は、やがてニヤリと笑った。
「性懲りも無く、また来よったな」
六輛《りよう》目の客車に二人の女性販売員が、田丸屋山葵漬や田宮のプラモデルを満載したワゴン車を重そうに車内へ引き入れている。
彼女らは新たな刺客であろう。だが、正体がわかった以上、そう恐れることもない。
「旅のいい暇つぶしや」
定吉は個室に戻り、裕子に精一杯気取ったつもりでウインクした。しかし、彼女には残念ながらそれが、眼にゴミを入れたとしか見えなかった。
「また来やはったでえ。しっかりカギかけて、お手並拝見と行きまひょか」
「大丈夫?」
「一番の手練《てだ》れがあの程度なら、後の連中の腕は知れたもんや」
午前一時四十分、列車は静岡駅を出発した。
列車は再び暗闇の中へ入って行く。
焼津、島田を越えて大井川の長い鉄橋を渡り、金谷のトンネルを抜け、掛川の駅を過ぎた頃《ころ》、通路に例の妙なアクセントの声が聞こえて来た。
「えー、静岡名物『わさび漬』、『安倍川餅』、『さくらえび』に『プラモデル』、浜松名物『鰻《うなぎ》弁当』、夜のお菓子『鰻パイ』、名古屋名物『ういろう』、はいかがですかーぁ」
「来よった」
定吉はドアの裏側で息を殺して待った。
独特な節まわしで叫びながら彼女らは、ゆっくりと通路を歩いて来る。これでよく他の寝台車の客から、安眠妨害の苦情が出ないものだと定吉は感心した。
本来は車内販売の行なわれない深夜、このようにやって来るワゴン車に、一種異様なものを感じて、誰も文句を言い出せないでいるのだろう。
やがて、定吉たちの居る個室の前にワゴンがピタリと止った。
一人がプラモデルの包みの中から、大型の歯磨きチューブほどもある超強力瞬間接着剤の容器を取り出し、ドアの接点に注入し始める。
もう一人の方は、名古屋名物「ういろう」の箱を破り、抹茶、柚子《ゆず》、桜の三色ういろうだけを取り出して、ビニールのパックを剥がし、ネチョネチョとこねた。
定吉は、その間ジッとドアの裏にへばり付いて耳を澄ました。
外の様子がおかしいと気付いたのは袋井の駅を過ぎ、列車の右側に広がる磐田原台地が途切《とぎ》れようとするあたりだった。
しびれをきらした定吉が、ドアを開こうとして把手《とつて》に手をかけ、力を込めたのだ。が、ドアはピタリ閉ざされたまま動こうともしない。
「こりゃあ、おかしいで。まるで動かんわ。急に立てつけが悪うなってもうた」
定吉の鼻孔に微《かす》かな硫黄の臭いが感じられた。
「しもうた! 裕子はん、逃げるんや」
「逃げるっていっても、どこへ?」
裕子は立ちあがっておろおろした。たしかにこの狭い個室のどこにも逃げ場は無い。
「奴ら、ここに爆弾を仕掛けおったんや。窓、窓から飛び出しなはれ」
裕子は窓から顔を出した。すぐ前に鉄橋が迫っている。天龍川だ。
ちゅうちょする裕子を抱き、開いた片腕に風呂敷包みを抱えた定吉は、窓を蹴《け》り破って列車から宙へ飛んだ。
二人の体は天龍川の土手に転げ落ちる。
ズシーン!
爆発音が周囲に轟いた。
振り向くと、走行する列車の二輛目あたりから真紅の炎が吹き上っていた。爆発は四輛目、六輛目、八輛目と次々に連鎖して行く。鉄橋の上は、ハレー彗星《すいせい》とパーシングUが正面衝突したような明るさだった。
「ものごっついことやらはるもんや」
刺客たちは、車内販売をしつつ爆発物を仕掛けて歩いたに違いない。恐らく彼女らも自分の爆弾で吹き飛ばされただろう。イスラム聖戦機構も裸足《はだし》で逃げ出すほどの意志を持つ特攻隊員《バンザイ・アタツカー》だったのだ。
定吉と裕子は、鉄橋から落ちて行く炎の塊を身動《みじろ》ぎもせずジッと見つめていた。
「危いところだったわね」
「しかし、この先は歩きいうことになるなあ」
ガンジスを目の前にしたアレキサンダー大王のように川面を眺めて、定吉はため息をついた。
「足を濡らさずに天龍川を渡るには、新幹線の鉄橋か、四キロほど上流の豊田村まで行かなくては無理よ」
列車から落ちた時の衝撃で腰を痛めたらしい裕子が、肉付きのいいそこを撫で摩《さす》りながら言った。
「土地カンがあるんでっか?」
「無いけど……、高校時代に地理の成績は全校トップだったわ」
「なんとか東名高速まで出られんやろか?」
「浜松市とその近辺は満食の勢力下にあるといっても過言ではないわ。少しきついけど、三方原《みかたがはら》を抜けて浜名湖の北まで行きましょう」
定吉は、水蒸気に煙る橋桁《はしげた》を一瞥《いちべつ》すると、裕子を背負い、土手の下を歩きはじめた。
夏の朝は早い。二人が人目を避け、静岡茶の丸く刈り込まれた茶畑から茶畑へ歩き続けて二時間ほど経《た》った頃、東の空が薄っすらと白み始めた。
着物の裾を朝露で濡らし、道無き道を十キロ以上進んだ定吉たちは、やがて小さな丘の麓《ふもと》で一本の道標に行き当った。
「雄踏《ゆうとう》町二キロ、弁天島三・二キロやて」
定吉は畑の真ん中に立つ看板を読んだ。
「島と書いてあるとこ見れば、浜名湖は近いようでんな」
「やっぱり、さっき飛行場のそばを通る時、方角を間違えたみたい」
裕子は唇を噛《か》んだ。
「雄踏町といえば南ね。東名の通っている湖北から十キロは離れているわ」
彼らは、いったん離れた国鉄の線路に再び近付いていたのだった。
「こうなったら湖の岸まで出まひょ。船ちょろまかして湖水渡りや」
「そう簡単に行くかしら」
裕子は朝霧の中に見え隠れする小さな池を指差した。
「あれは浜名湖から水を取っている養殖場。同じものがこの辺に無数にあるのよ」
彼女の差し示す池には、規則正しく竹の棒が並べられ、小さな排水ポンプが動いている。
「満食は、この辺のヨウマン業者から駅弁の原料を買っているの」
「ようまん、って何だす?」
「養鰻《ようまん》。ウナギの養殖よ」
蜜蜂《みつばち》を養うことが養蜂《ようほう》、すっぽんを育てることが養鼈《ようべつ》、そして鰻を育てることが養鰻である。満食イコールKIOSKである以上、養鰻業者は即《すなわ》ち敵なのだ。
「なあに、敵ばかりなら、どこの池から船盗んでもチョットも良心が痛みまへん。やりほうだいや」
定吉はその言葉通り、一時間後にとある一軒の船小屋へ忍び入り、FRP製の和船を手に入れて水路に漕《こ》ぎ出していた。
「沖に出たらモーターで走らせますさかい、それまで辛抱しとくんなはれ」
竹の棹《さお》を器用に操りながら定吉は裕子に呼びかけた。
「定吉さんは屋形船の船頭さんになっても立派に食べて行けるわね」
元は深川芸者、桃千代を名乗っていた裕子は和船に乗り慣れていた。
彼女は膝の上に定吉の重箱を置き、板子の上に正座して楽しそうに笑う。
これが逃避行でなければどんなに楽しいことだろう。定吉は水面に棹を差し続けた。
やがて水路に繁茂する水草が途切れ、波が大きくなった。潮の香も微かに匂《にお》う。五百年前の大地震によって天然の堤が切れ、海水が流れ込んだ浜名湖は今も汽水湖なのだ。
二人を乗せた船はその広い湖面へ進み出る。
時計の針は五時二十八分を差していた。棹を差す定吉の背中を朝日が赤く染め始めた。
「そろそろ発動機かけまひょ。もう腕が痛うなってきた」
と、定吉は船底に置かれた小型船外機に手をかける。流石《さすが》に浜松だけあって、これだけは新型のヤマハだった。
「野崎参りのマネごとはここでオシマイや」
裕子に向けた定吉の笑顔が、その瞬間、強張った。
「どうしたの?」
「何や胸騒ぎしますねん」
怪訝《けげん》そうに裕子は彼を見上げた。定吉は背後を振り返った。やはりそうだ。微かに爆音が聞こえる。いくらヤマハの本拠とは言え、こんな朝早く、モーターボートを乗り回す観光客がいるわけはない。
音は岸辺の向う側に昇り始めた太陽の方角から聞こえて来る。
「聞こえるわ」
裕子も耳を澄ました。
今度は二人ともはっきりと爆音を聞き別けた。ヘリコプターの飛行音だ。
太陽を背にして近付いてくる。定吉は小手をかざして燃えるような朝日を見た。
巨大な太陽の中に黒点のような物体が現われ、見る見るうちに大きくなって行く。
「あれは、満食の社用ヘリよ!」
裕子が立ち上って叫んだ。
ローターの風圧で船の周囲に小さな波が無数に立った。
爆音は今や堪え難いまでになった。白い卵形の胴体が頭上に現われ、一瞬のうちに通過する。
定吉はその機体後部に漢字で二文字、「満食」と書かれているのを確認した。
「さあ、おおごとや。逃げまっせ」
彼は船外機をす早く取り付けると、あらかじめ直結してあったスターターをねじった。
「定吉発見! 赤坂五号も一緒です」
ヘリコプターの操縦士が足の下を指した。
「うむ、湖の連中にもすぐ知らせろ。船を出して退路を断て、とな」
後部シートに坐った満食会長幕内弁助は、コックピットのアクリル風防越しに湖面を覗《のぞ》きこみ、命令を下した。
「トンカツ弁当≠ゥら、助六寿司≠ヨ。目標を発見した。位置は『今切れ橋』北東二キロの地点。裏切り者の女も一緒だ。ただちに出動せよ」
操縦士が地上に通信を送った。
「ほっほっ、逃げよる、逃げよる。しかし、いつまで持つかのう」
弁助は不気味な笑い声をあげた。
定吉は裕子を船底に伏せさせると、エンジンのパワーを最大に上げて湖上をジグザグに走り始めた。
ヘリは右に、左に、ある時は船首の方に廻《まわ》りこみ、まるで猫がネズミをいたぶるようにその航行を妨害する。
定吉は両足を踏みしめ、風圧に堪えながら舵《かじ》を取り続けた。
「船! こちらに向って来る」
裕子が左側を指差す。湖西市の方角に広がる養殖池のあたりから、波を蹴立てて数隻の漁船が出現した。
「『たきや漁』の船よ。追手だわ」
彼女は遠目で船種を見分けた。たきや漁というのは浜名湖独特のもので、五月から十月の末までの間、闇夜の日を選んで手長エビ、渡りガニ、天然鰻などを網で抄《すく》うというなかなか風流な漁法である。
彼らは大きなエンジンを搭載しているらしく、グングンと迫って来る。
先頭の船が拡声器でがなり始めた。
「定吉七番、無駄なことだ。すぐにエンジンを切って降服せよ」
彼我の距離は約三百メートル。上空では先程のヘリがゆっくりと旋回を続けている。
「聞こえないのか、定吉七番。こちらにはグレネード・ランチャーがあるんだぞ」
先頭の船の舳先《へさき》で拡声器を握りしめているのは、KIOSK殺人学校の教官木滑久良だった。彼は優秀な教え子「赤坂一号」を殺され怒り狂っていた。今回は、その敵討ちの意味もあって、殺人学校の生徒全員を率いての戦闘参加である。
定吉の船が、スピードを緩める気配は無かった。
「よし、一号艇、二号艇。船首の前方に二、三発射ち込んでやれ」
紺の戦闘用オーバーオールを着た殺人学校生が、手にした七・六二ミリFAL自動小銃から次々に「エネルガ」(小銃|擲弾《てきだん》)を発射した。灰色に塗られたそれは、弧を描いて飛び、二人の船の周囲に落ちて爆発した。
「キャー」
裕子が耳を押さえて悲鳴を上げる。定吉は爆発の水柱を、舵を操って巧みに避けた。
「全艇、機銃を発射しろ」
拡声器が再度吠《ほ》える。
小さな水柱が定吉の船を包んだ。彼の耳もとを弾丸の衝撃波《ショツクウエーブ》が襲い、船首が吹き飛んだ。
が、依然として船は止まらない。
「ええい、腑甲斐無《ふがいな》い奴らじゃ」
ヘリの上から一部始終を眺めていた弁助老人は、思わずコックピットのドアを拳《こぶし》で打った。
「よし、わしがやる」
「いけません、会長」
操縦士は老人を押さえようとした。
「だまれ。おまえはわしの言う通りにヘリを動かしておればいい。わしゃ、偉いんじゃあ」
弁助は足もとの弾薬箱《アンモケース》の中からイギリス製|手榴弾《てりゆうだん》をつかみ出した。
一瞬、老人の脳裏に遠い日、関西で過したあの暗い思い出が蘇って来た。
関東大震災の後、頼るものも無く大阪に流れて行った下働きの頃、――
料亭の口入屋《くちいれや》は、関東者と見るとここぞとばかり過大な手数料を要求した。奉公先は飛田《とびた》の遊郭街にある料理屋だったが、ここの職人たちは皆、弁助少年をいじめ抜いた。大阪の職人はいったん目をつけると、それこそ本人が自殺するまでいじめ続ける。彼の秩父なまりが気にくわないと言っては殴り、やっと手に入れた好物の納豆を見て、腐った豆を食う奴は人間ではない、と言って殴った。弁助は我慢にガマンを重ねたが、ある日、千日前のマムシ屋(鰻屋)で鰻丼をたのんだ際、とうとう怒りが爆発した。店の人間が持って来た丼の中には、ただタレのかかった飯だけが入っていたのだ。関東人をバカにするにもほどがある、と彼は店中を打ち壊し、警察に逮捕された。関西の鰻丼は、ご飯の中に鰻が入っているのだということを知ったのは、その後のことである。出所後、弁助は満州に渡り、満鉄直営の料亭「曙」の傭い人になった。苦労の末やっと板前となり生活も安定したが、世界恐慌とそれに続く中国東北部の争乱は、一介の調理人に過ぎない彼の運命も大きく変えていった。料亭出入りの大陸浪人、特務機関員たちと顔を合わせるうち、極秘裡で彼らの下働きをするようになった弁助は、数々の修羅場《しゆらば》をかい潜り、満州帝国成立の年(一九三二年)、ついに関東軍参謀部直属の暗殺者となった。
その後つつが無くその任を果し続け、敗戦の年いち早く本土に逃げ帰った彼は活動資金の金塊を隠匿し、それを元手としてKIOSKを創設したのだった。
楽土建設・五族協和の情熱は、秘密結社NATTOに出合うことで「関西文化抹殺」の志へと昇華していった。
彼の青春を泥まみれにした関西人に対する復讐《ふくしゆう》が、戦後の彼の新しい生きがいとなったのだ。
老いてなお埋《うず》み火のように燃え続ける弁助の戦意は、今、定吉という同じ板前上りの丁稚を前にして一気に燃えあがった。
「爆撃してやる。奴らの頭上スレスレに飛べ」
弁助はコックピット・ドアを開いた。ドッと強い風が吹き込んで来る。
やれやれ、焼け棒杭《ぼつくい》に火がついちまったな。操縦士はいやいやながら命令に従った。
ヘリが真正面から低空で接近してくるのを見て定吉は、とっさに裕子の上へ覆い被さった。小さな黒い固りが二つ船の前方に落下し、爆発する。
船底から突き上げてくる水圧で二人の船は左右に揺れた。半端な揺れ方ではない。FRPの船底にひびく水音は大砲のようだ。
「手榴弾や。えぐいことするなあ」
触発信管付の小銃擲弾なら水面上で爆発するためそう怖くはない。しかし、遅発式の手榴弾は水面下で衝撃を与える。平底の和船ではもろに圧力を受けて転覆する危険があった。
「裕子はん、舵取り代っとくなはれ」
彼女は、船外機の把手を定吉に代って握る。
定吉は懐から布の袋を取り出した。それは、あの長野県出身の小説家が、六本木でライバルを殺害した際に使用した尺八仕立ての吹き矢管だった。
彼はヘリが頭上を通過する際、コックピットのドアが腕一本分開いているのを見ていた。
「あの目障りな奴をいてもうたる」
厚いアクリルの殻に包まれているうちは手出しができないが、操縦席が開いているなら話は別だ。
定吉は機銃弾の飛び交う中、尺八をくわえて立ち上った。
「あぶない。定吉さん、伏せて」
裕子が叫んだが、彼はかまわず、旋回するヘリに筒先を向けた。
コックピットの弁助は、手榴弾のピンを抜こうと焦っていた。こんな時になって神経痛で右手が痛み出したのだ。ドアから吹き込む冷たい風が原因である。口でピンを引こうとしたが、彼は入歯だった。
「ええい、我が身が情けない」
老人は思いあまって、キャビンのフックにピンを引っ掛け、力いっぱい引いた。
「抜けたぞ!」
その瞬間、定吉の尺八が軽く唸《うな》った。
クラーレの中でも特に即効性の高い壺《つぼ》クラーレを塗りつけた毒針が宙を飛び、コックピットの中から身を乗り出した弁助の細い首筋へ命中した。
老人の体は硬直し、その手から手榴弾が床にゴロリと転った。
「うわっ!」
足もとに転って来る安全レバーの外れたミルズ36型手榴弾を見て、操縦士は大声をあげた。
ヘリは轟音《ごうおん》とともに火球と化した。
再び定吉は裕子の上に両手を広げて被《かぶ》さる。
あたりにコックピットの部品が次々に落下した。
ヒューズM500Dヘリコプターのアリソン式エンジンは停止したが、メインローターと五枚のブレードはゆっくりと回転を続け、主を失った機体は縦列で突き進んで来る追手の船団の中央部に降下して行く。
「たきや」船の先頭に立つ木滑は息を飲む。思わず拡声器で顔を覆ったが、それが彼の出来るただ一つの現状逃避だった。
ヘリは木滑を下敷きにして船に突き刺さり、爆発した。船に搭載していた爆発物が誘爆し、炎が密集陣形で走る他の追跡船にも飛び火した。
流れ出す燃料と、彼らの所持していた高性能爆薬が、水面に巨大な火の柱を作りあげる。
中世末期に土佐派の絵師が描いたという八大地獄絵図の一つ「焦熱地獄」が、朝の平和な浜名湖に再現された。
炎に焼かれたKIOSKの養鰻業者や殺人学校の生徒たちが、悲鳴をあげて水中へ沈んで行く。
「旧盆の花火大会にはまだ少し早かったようやな」
定吉は、誘爆を続ける船団に背を向け、裕子にほほ笑みかけた。
太陽は、すでに中天へ駆け昇っていた。
15 スケベイスの効用
湖北に到達した二人は、浜名湖に連なる猪鼻湖へ船を漕ぎ入れ、|三ケ日《みつかび》へ上陸した。
そのまま東名高速三ケ日インターまで歩き、トラック休憩所で長距離トラックを物色する。なるべく名古屋ナンバーで助平そうな運転手を選び、裕子の色仕掛けでキーを奪った。
「すんまへんな。堪忍してや」
荷台へ荒縄でグルグル巻きにした運転手と助手を放り込み、彼らの十八輪トラックでそこを出発する。運転のうまい裕子は巨大な車を楽々と操作した。
追手が全滅したとはいえ油断できない。関ケ原を越えるまで二人は、周囲を走る他の車に気を配り緊張し続けた。
伊吹山を右に見て、山東、米原、彦根と下り、草津インターまで来た時、定吉と裕子は大声で笑い合った。
ついにKIOSKの包囲網を突破したのだ。二人は甲高い笑い声をあげて車内を転げまわった。緊張が一気に解かれ、猛烈な疲労感が襲って来る。それと裏腹に精神は異常に高まったままだった。
これを鎮《しず》める方法は一つしかない。
二人は目と目で合図し合うと、草津の町に車を乗り入れる。
姫路城の上で超大型のソフトクリームを持った水着姿の自由の女神が、おいでおいでをしている立体看板がトラックの前に立ちはだかった。
「あそこで休んでいきまひょか」
「まだサービスタイムは終っていないみたいね」
二人はまた大笑いをした。今の気分にこのホテルはいかにもピッタリだ。
専用駐車場へ十八輪トラックを横付けにすると、出て来た駐車場係のおばはんがビックリして口を開けた。
「やあ、お客さん、かなわんわあ。こないに大きいと、いくらナンバー隠しても無駄ですがな」
「かめへん。大っけな風呂《ふろ》がある部屋に案内してや、おばちゃん」
定吉は上機嫌だ。裕子もキャッキャと笑う。
「ここ草津でしょ。お風呂が名物なんでしょ」
「何、しょもないこと言うてますのや。草津言うてもあれは群馬県の温泉のことですえ」
おばはんは陽気な客に呆《あき》れ果てた。
部屋に案内された二人は、インテリアのバカバカしさにも大喜びした。
浴室は二十畳敷の広さで、一面にピンクのイタリア製タイルが敷きつめられていた。天井は高く、中二階付き、そこからハート形の湯槽まで滑り台が降りている。寝室のベッドはごく普通のトリプル・サイズだが、そのまわりには美容自転車やらウエスト・フリクション、吊《つ》り輪、バーベル等が並べてある。
「休みにくるとこか、疲れにくるとこか、ようわからんホテルやな」
ベッドにドデンとひっくり返った定吉は、天井から下ったブランコを眺めて首をひねった。
「なにわかりきったこと考えてんのよ。私、先にお風呂入るわね」
「どうぞ、ご随意に」
裕子が先に浴室へ入った後、彼は部屋の中央に大きな顔をして鎮座しているスチール・パイプとクッションの絡み合った妙な家具に見入っていた。
「このけったいなもんはいったい何や?」
ニューヨークあたりで作られている現代彫刻というものだろうか?
定吉は再び首をひねった。
俗にラブ・ホテルと呼ばれる特殊な宿泊施設は、近年急速に様変りしている。静かな革命といっても良いだろう。
どこが変りつつあるかといえば、持ち味。それこそが他の宿泊施設とラブ・ホテルを区別しているとされるその設計思想が変形し始めたのだ。
あのケバケバしさ、キッチュさが都市部を中心にして排除されているのである。
ギラギラのネオン、変幻自在に動く巨大ベッド、劣情を刺激する各種の遊技具や室内装飾が連日どこかに消え去り、代りにしごく大人しいインテリアが登場している。
こうなってしまうと、終《しま》いにはラブ・ホテルもビジネス・ホテルも区別がつかなくなってしまうだろう。
草津インター近くの道路際でもう十年以上も「シャトー・サルモネラ」を経営するホテル道一筋の女丈夫、小幡けい(五十二歳)もそれを危惧《きぐ》する業者の一人だった。
この日、彼女はカーテンを降した映画館の、切符売り場そっくりな形をしたフロントの向うでそのことを考えながらラメ入りの腹巻きを編んでいた。五百メートル先の同じ道筋でホテル「シャトー・クラミジア」を経営する亭主の誕生祝いである。
「何と言うても、派手目のインテリアと円形ウォーター・ベッド、それに家庭的な雰囲気のスワッピング・ルームやな」
朝からもう何度この言葉をつぶやいたか知れない。年末に迫ったホテルの改装工事で、彼女はあえて時代に逆行するゴテゴテ西洋建築で行くことにきめたのだ。施行業者が「ロコバロロマビザ風」と呼んでいる特殊建築である。ロコとはロココ、バロはバロック、ロマはロマネスク、ビザはビザンチウムの略だ。
その時、目隠しのヒマラヤ杉をかき分けて人影が現われた。
「ほ、お客さんや」
ここのチェックイン・システムは、写真入りのパネルを見てライトが点灯している部屋のボタンを押し、パネルの下から出るカギを受け取って部屋を自分で探す、という古典的なものである。
フロントが活動するのは、チェックアウトの際に料金を受け取ることと、おとなの玩具《おもちや》を販売する時のみ。それも小さな窓から手だけを出して客と交渉するのだ。
小幡けいは客数を記録するカウンターをポンと一つ押し、編物を続けた。
何気なく廊下の監視カメラが写すテレビの画面を見上げ、オヤッという顔をする。
廊下を歩いて行くその新しい客はちょっと変った人間らしかった。
頭に三角布を被り、もんぺ姿、素足に便所サンダルのようなものをつっかけている。変っているのはそれだけではない。腹のあたりで四角い木の盆を抱え、首に回した帯でそれを吊っている。
「まるで駅弁の立ち売りみたいやな」
彼女はあきれた。しかし、ここはラブ・ホテル、世間のコモンセンスを放棄する場所なのだ。
ゴビ砂漠を探険したヘディンがラクダの小水を飲んだ故事に習い、自分のそれを腹いっぱい飲んでひっくり返ったスカトロジストや、尻《しり》から鯖《さば》寿司を食べようとして腸閉塞《ちようへいそく》を起したソドミスト等を客として来たベテラン経営者の小幡けいは、また新手の変態が同好の士と逢引《あいび》きでもするのだろうと気をとりなおし、最初から何も見なかったかのように、静かに編み棒を動かした。
「すんまへんな、お客さん。大人のオモチャの訪問販売や。おひとついかがで?」
裕子が風呂から上るのを待つうちに、ついベッドの上でうつらうつらしていた定吉は、その声にビックリして起きあがった。
ドアを開けて猫背の老婆が突然室内に入って来たのだ。
ありゃ、カギかけ忘れとったのか。彼は戸を閉めることもコロッと忘れて寝入ろうとした自分に驚いてしまった。無理も無い。昨夜から今まで緊張の連続だった。
「お婆《ば》やん、なんぞ強精剤みたいなもんあるか?」
そのまま愛想無しで追い返すのも気の毒と、一応聞いてみた。
「オロナミンCと生玉子おまっせ。これでオロナミン・セーキはどや?」
老婆は首から吊った箱の中から茶色の小瓶と白い卵を取り出した。
「ええなあ、わてこれ好きやねん」
「全部で二百三十円だす」
「ちょっと待ってや。いま財布出すさかい」
サイドボードの上に置かれた風呂敷《ふろしき》包みに定吉が歩み寄るのを見ていた老婆は、背後に廻り、そっと中腰になった。
老婆の筋ばった足の指が履物の上で動いた。安物の便所サンダルの爪先から、小さなナイフが飛び出す。その先には毒が塗ってあるのだ。
「あれ、おかしいな。財布落すはず無いのやけど」
無防備に背中を見せて財布を探す定吉目がけ、生け簀《す》料理店の伊勢エビそっくりな姿で飛び上った。
ガラガラガチャン。
何かが部屋の真ん中で倒れ、大きな音を立てた。
定吉が振り返ると、老婆が例の現代彫刻≠フ下敷になってもがいている。
「お婆やん、どないしたん」
定吉が手を貸そうとしてその金属細工に手をかけた時、
「危い。離れて!」
浴室のガラス戸が開き、全裸の裕子が飛び出して来た。
「あ、赤坂五号!」
老婆は叫んだ。
裕子の手からプラスチックの桶《おけ》が飛んだ。
カポーン!
桶は威勢の良い音を立てて老婆の後頭部に命中した。
「と、年寄りに何すんねん!」
定吉は大声をあげ、老婆に駆け寄った。
風池と呼ばれる後頭部の急所を打たれた老婆はすでに息絶えていた。
「定吉さん、そいつがKIOSKの作戦室長『深川小梅』。あなたを殺す計画を立案した一人よ」
裕子は死体の脇《わき》に歩み寄り、老婆が履いていたナイフ仕込みの木製サンダルを指差した。
「はああ、このオバンが、あんさんから話に聞いていた『深川小梅』でっか。うーむ、実に恐ろしくない奴《やつ》」
定吉がそう言うのも無理なかった。彼女は部屋の中央に置かれた奇妙な家具が飛び越せず、サンダルの先をひっかけて転がってしまったらしかった。
「この現代彫刻と手桶のおかげやな」
定吉はスチールパイプを持ち上げて撫でた。
「あら、定吉さんはこれを知らないの?」
裕子は笑いながら説明した。
「これはね。セックス・チェアーっていうの。男女で腰かけて遊ぶ椅子《いす》。それから、あたしが投げたのも、手桶じゃないの。スケベイス≠チていってね。これはお風呂用の椅子」
真ん中が細長くくぼんだ円筒形のプラスチック製品を彼女は拾いあげた。
「使い方は後でゆっくり教えてあげるわ。その前にお風呂に入っていらっしゃい」
全裸の裕子は濡《ぬ》れた体のままベッドの中に潜りこんだ。
「やれやれ、一難去ってまた一難か」
今や、すっかりやる気の失せた定吉は、彼女がどうやってセックス・チェアーの使い方を自分に教えるか、を想像して暗澹《あんたん》たる気持ちになった。
16 終り大阪八百八橋
ポン!
ラインメタル製歩兵砲弾のようなポメリの瓶から勢い良く白い泡が吹きこぼれた。
「乾杯!」
白魚のような指が、シャンペン・グラスを優雅に持ち上げ、飯茶碗《めしぢやわん》を持つようにグラスを握りしめた男の指がオズオズとそれに続いた。
「本当にありがとう、定吉さん」
淀川水車を裾《すそ》に描いた粋な夏|小袖《こそで》姿の立穴裕子は、向いの席に坐った定吉に頭を下げた。
「へっ、まあ、お仕事きまって良《よ》おおましたな」
定吉はシャンペンに咽《む》せながら、京都名物「おたべ」人形のように慌てて頭を下げ返した。
川面を渡って来る風が彼の十円ハゲを撫でまわして去っていく。
定吉たちは土佐堀川の真ん中をゆっくり進む大型水上バス「アクアライナーよど」の船首に腰を降していた。
大阪は水の都、江戸が八百八町と呼ばれるのに対して浪速は八百八橋と称される。それほど橋の数が多いのだ。
彼らが乗り込んでいる水上バスは、全長二十七・五メートル、全幅五メートル、客室は全てガラス張り、しかも、船体の喫水が水位に合わせて調節できる高性能の観光船だ。
浪速っ子が「これならパリーのセーヌ川持って行っても、ドケチなフランス人相手に充分|銭儲《ぜにもう》けでけまっせ」とうそぶくだけあって、実に美しい船体である。
「今日、また新しい仕事が入ったの。よみすてテレビのカバーガール」
「一週間もたたんうちにエライ売れっ子にならはりましたなあ」
定吉は、まぶしそうにこの元深川芸者にして寝返りスパイだった女を見た。
「これも偏《ひとえ》に定吉さんのおかげです」
裕子は、なれた手つきで定吉のシャンペン・グラスにポメリを注ぎ足した。彼女は自分の関西での成功を命の恩人と二人きりで祝うため、この水上バスを今日一日借りきったのだった。
「わてやおまへん。あのビデオのおかげや」
定吉は言いにくそうにモジモジと腰を揺った。
あの「関東一円お弁当殺人協会」KIOSKが全滅した後、生き残りの連中が報復として二人の濡れ場、ブルー・トレイン内で行なわれた例の交情シーンをビデオで大々的にダビングし、西日本一帯にバラ撒《ま》いたのだ。
しかし定吉たちの評判を落すために仕組まれたイタチの最後っ屁《ぺ》のようなこの作戦は大失敗に終った。
「丁稚屋さだちゃん対おねだり女子大生」、「船場の定やん・濡れぬれ寝台急行」と名付けられた二本の裏ビデオは、関西人に拍手を持って迎えられ、立穴裕子は一躍マスコミの寵児《ちようじ》となったのだ。
「関東側は大阪人の価値観を読み違えていたみたいね」
裕子はシャンパンをゆっくりと口に運びながら言った。
「わても、身内があそこまでエゲツないとは思わなんだ」
丁稚は尻のあたりをポリポリと掻《か》いた。定吉のぼやくのも無理は無い。
大阪商工会議所秘密会所直販部は、このビデオが売れると見るや逆に大量生産を開始し、関東側の二割、三割引きで投げ売りして結果的には大儲《おおもうけ》したのだった。
「おかげで、お得意先まわりするたびに、具合はどないやったとか、女子大生紹介せいとか、町内の素人ビデオ撮影会に出ろとか、まるでわてはオモチャ扱いや」
定吉はついに涙ぐんだ。
裕子がやさしく彼の肩に手をまわした時、「定吉はーん」という声が頭上から降って来た。
船は大阪造幣局のたもとにかかる桜宮橋をちょうど潜るところだった。
驚いて二人が見上げた橋の欄干に、見覚えのある顔が突き出していた。
「ありゃ、あれはお孝《たか》ちゃんやないか」
行方不明になっていたお初天神の増井屋お孝だった。
彼女は怒りで頬《ほお》をプンプクリンに脹《ふく》らませてどなった。
「ウチがお墓参りで親戚《しんせき》の家に行っとる間、関東モンの女とエエことしてましたんやてな」
彼女は二本のVTRと、一箱の毎日香を頭上に振り上げて怒りを表わしていた。
定吉は情無さで思わず一筋涙をこぼした。
「浮世舞台の張り出しは、表もあれば裏もある……やなあ」
桜宮のあたりから上田正樹のメロディがゆっくりと流れて来た。
ロッポンギから愛をこめて  しまい
一九八四・九・一六
本書は一九八五年六月、角川書店から書きおろし文庫として刊行され、一九九四年三月講談社文庫に収録されました。