東郷 隆 著
定吉|七《セブン》は丁稚《でつち》の番号
定吉七番シリーズ
ごあいさつ
東西東西、いささか座《ざ》も高こうはござりまするが、御免を蒙《こうむ》りましてこれより口上を以って申し上げ奉《たてまつ》ります。ここもと御覧に供しまするは、浪速《なにわ》の商人《あきんど》殺人|丁稚《でつち》「定吉七番」の再登場。柳葉包丁さらしに巻いて、西に悪の秘密結社あれば行ってやさしく寝首を掻《か》き、東にいじけた大阪人あればしっかりせんかと蹴りを入れ、北に売れない芸人あればひと肌脱いでボケかませ、南にきれいな姐《ねえ》ちゃんあればにっこり笑って抱き寄せる。三国一《さんごくいち》と名付けまして、天竺《てんじく》・唐《から》・本朝のいずれにもないアクションに笑いを取り仕組みましたる大仕懸け。
されどこの定吉どんの物語、前にも申しましたるとおり再出版でござります。都《みやこ》の御ひいき御得意様なら御存知でも御座りましょうが、初版は今を去ること十年前。エゲレス国はロンドンの、故サー・イアン・フレミング翁が御作、海軍中佐ジェイムス・ボンド殿御一代記を仁輪加《にわか》に仕立てた連作にござります。
時代は流れて幾星霜《いくせいそう》。大阪人は納豆を食べ、東京人は吉本に笑い、東西融合冷戦消滅。まことにおめでたいかぎりにござりまするが、定吉どんは出番を失い今日まで膝を抱え、素うどん啜《すす》る毎日でござりました。
さてこのたび埃を払って読み返してみまするに、サーファーに女子大生、オニャン子にグルメ、バブルに六本木と古色蒼然。御恥かしいかぎりでござりまする。
まあしかしこれも御愛敬。昭和の昔はかくあったかと御納得御辛抱あって御楽に御覧の程、ひとえに願い上げ奉ります。
ノスタル爺《じ》いの前口上、まずは左様《さよう》。
平成六年春 著者うやまって申す
目 次
ごあいさつ
掛け取りの一「ドクター・不好《プー・ハオ》」
1 感度も明度も良好だす
2 包丁の選択
3 おいでやす湘南ビーチ
4 毒のしがらみ浮世の別れ
5 江ノ島の罠《わな》
6 わてが丁稚の定吉だす
7 プー・ハオの釜茹《かまゆで》
掛け取りの二「オクトパシー・タコ焼娘」
1 依頼人はわが恋人
2 経費は節約せよ
3 タコ焼殺人
4 ぼんさんと爆弾狂
5 ニポリトの秘密
6 うわさのインド人
7 おなごにおいとま
定吉宣言
登場人物
定吉七番(安井友和)……船場の丁稚。大阪商工会議所秘密会所直属の殺し屋兼情報部員
千成《せんなり》屋宗右衛門(土佐堀の御隠居)……秘密会所の元締め
万田金子(ミス・マネー)……宗右衛門の秘書
小番頭・雁之助……情報主任。定吉の上司
中番頭・はも切り九作……秘密会所兵器主任
増井屋お孝《たか》……お初天神境内の茶店娘。定吉の恋人
谷町天六・平野めぐみ……秘密会所湘南地区情報部員
謙一……湘南の漁師。定吉の現地助手
プー・ハオ博士……ナゾの中国人
奈緒美《なおみ》……プー・ハオ博士の部下
西岡|西然《さいねん》……阿弥陀寺住職。インパール戦線の生き残り
ビリケンの平助……定吉の旧友。天才肌の爆発物研究家
明石屋由香理……南帝塚山女子短大生
アジミール・ナナーク・チャンドラ・ジャファル・モーティマール・ガッチャマン・シン……マハラジャ食品社長。「天満のトラやん」と呼ばれるインド人
僕にスパイ小説の楽しみを最初に教えてくれた、
故イアン・フレミング氏と訳者井上一夫氏に
掛け取りの一 「ドクター・不好《プー・ハオ》」
1 感度は何度も良好だす
五時二十八分、夕陽は逗子《ずし》マリーナの彼方《かなた》へ最後の夕映えを残していやいやながら沈んでいった。
鎌倉シネマの緞帳《どんちよう》にも似た紫色の影が静かに横須賀線沿線を覆い、逗子駅前の商店街では帰宅途中のOLや、早めに買物へ行きそびれた主婦たちを相手に鮮魚商が最後の売り声を張り上げはじめる。
京浜逗子駅の脇《わき》から田越川に沿って歩くと、買物帰りの主婦が噂話《うわさばなし》に熱中している隙《すき》にショッピング・カートから猫に干物《ひもの》を盗られたり、塾帰りのガキが集団で一人をリンチしているといったごく在《あ》り来《き》たりな夕方の風景が目につくばかりだ。
住宅地の勝手口からは茶碗《ちやわん》のカチャカチャと鳴る音や、テレビ・アニメのヒーローたちが発する怒声が聞こえてくる。
東京に家を持つサラリーマンに比べ幾分空気の良いこの辺に住む正真正銘の中産階級――千代田区の商社の課長代理や三流広告代理店経営者、二流出版社の営業部長――などはあと一時間もすると家庭に帰りつき、駅前のバス・ストップに長蛇の列をつくる情け無さをくやみ、奥さんに上役のグチをこぼし、TOTOホーロー浴槽に浸って小泉今日子の歌をがなり立てることだろう。
が、いまはまだ地域住民たちに海沿い≠ニ呼ばれる潮風の強いこの地域には、板前の出ていないカウンターのようなアンニュイと、夜風にのった焼き魚の強い匂いが鼻と胃袋を刺激するだけである。
この田越川の河口に架《か》かる渚《なぎさ》橋を渡ると右側に進む道が出現する。森戸《もりと》・一色《いつしき》・御用邸《ごようてい》≠ニ書かれた道路標識の屹立《きつりつ》するここが、北関東の岡サーファーたちの身悶《みもだ》えしてあこがれる「海岸通り」だ。ジャマイカでいえばリッチモンド通り、象牙海岸《コート・ジボアール》でいえばアビジャンの独立通りといったところである。道は桜山九丁目と呼ばれるこの辺から、森戸の海水浴場に沿って下り、海抜百四十八メートルの大峰山を左に見て真名瀬を越え、一色、大浜の海岸を通ってL字型に曲った長者ケ崎の磯《いそ》に至る。
沿道に建つ旧財閥系の邸宅群は、今や軒並、東京の銀行や商社の保養施設と化している。真夏の夜は、泊り込んだ多数のサラリーマンによって行なわれる中国式四人組室内遊戯のため、遠く対岸の小坪《こつぼ》あたりまで牌《パイ》を混ぜ返す音が響く。
だが、夏休みも過ぎて数ヵ月経た今頃《いまごろ》は、どの邸内も静まりかえり、定年後も会社の名を慕って寮の管理人となった老人たちが庭木や芝生に手を入れたり、パートタイムでサーファーにもなるという暴走族に破壊された塀を補修してひっそりと暮しているばかりだった。
しかし、正式にはこの海岸通りの終点は、桜山トンネルを抜けて佐島、三崎へ向う一三四号線が一色で合流する地点までなのだ。ここの三叉路こそ、畏《かしこ》きあたりがその御家族と夏場を過ごされ、御研究に没頭なさる場所、葉山御用邸であった。つまりこの道は世が世ならば不浄なサーファーなど通ることもできない御成《おな》り道なのであった。
その海岸通りが渚橋から曲り込み、小さな港に出るあたりを鐙摺《あぶずり》と称する。
昔、天女の乳房より零《こぼ》れる酒を下戸《げこ》のクセして一寸《ちよつと》くちをつけたばかりに百六つまで生きてしまったという三浦の大助の一党が鎌倉に向う途中、道狭きゆえに馬の鐙《あぶみ》を岩壁に擦《す》ったという場所だ。現在ではここに葉山ヨットハーバー、その先に葉山マリーナが建ち、海の軽井沢≠ニいううたい文句に引き寄せられる女性たちによって冬も賑《にぎわ》っている。
ハーバーの入口に建つ白亜の洋館「ラ・マーレ」は、やはりこうしたミーハー娘たちのあこがれだが、ここが近所の料亭「ひかげ茶屋」と同系列の店であることは意外に知られていない。鐙摺のバス停向いにどっしりと鎮座する古い木造の日本料理店は、創業以来三百年。ある高名な無政府主義者が男女関係のもつれで刃傷《にんじよう》ざたをくり広げたことにより近代史の一ページに店名が載っていることでまた有名な店だ。
しかし、大正時代の話はさて置き、現在ではこの料亭は葉山の社交の中心だ。
戦後三十数年、地域の権勢と活躍を誇りにして来た地元の実力者たちが週末になるとここの座敷に集い、情報交換とは表向きのヨイショ合戦を続けているのだ。
彼らはつい先年まで葉山町のごく一部しか水洗が普及せず、現在でもバキュームカーの常備をなさざるを得ないという事実などまるで眼中に無かった。
こうした葉山主義者の隠れ家が、マスコミによる文化破壊がいちじるしく進んだ現代の湘南でそうそう生きのびられるものではあるまい。いつの日にかこの歴史ある料亭の壁も千葉の暴走族にスプレーをかけられ、看板を薪《まき》に持って行かれる日が来るであろう。しかし、いまのところこの湘南文化の中ではきわめて粋《いき》な場所として認められている。三浦半島の豊富な魚介類や野菜を旬《しゆん》に徹した味わいで供する座敷は葉山人の誇りなのだった。
週末、その時刻になると、料亭の前の道路に面した広い駐車場へ、いつもきまって四台の車が並ぶのに気がつく。
土曜の夕方、きちんと四時に集って、真夜中、興が至れば翌日まで雀卓《ジヤンたく》を囲む四人の葉山紳士の車である。彼らの勝負に対する威勢は、その迫力を学ぶために近所の葉山幼稚園児がそっと見学ツアーを組織するくらいには過激であった。
いま門の脇に並んだ順に言えば、その車は、やり手で有名な葉山町長のセドリック、一色警察署長のセドリック、森戸マリーナの社長のセドリック、最後は関西からやって来たサーフボード作りの名人――ずばりと言えば大阪商工会議所秘密情報部湘南地区責任者|谷町天六《たにまちてんろく》の赤いホンダS600だった。
座敷の柱時計が六時十五分になろうというころ、鐙摺のバス停前にある喫茶店から「ラ・マーレ」に抜ける横道へ、その静けさを破る物体が出現した。
白い浦和ナンバーのファミリア・ターボが一台、漁船が並んだ砂浜を見おろす岸壁沿いに停車したのだ。
中から三人のサーファー・カットの青年がだらりと降り立った。三人とも同じような体型で、レインボー・カラーのサンダルをひきずるようにして歩き、時々暴走族のアンチャンが休息の際に行なう正統的な蹲《しやが》み方――通称ウンコ坐《すわ》り――をしてなにやら相談したりする。
やがて、車のキャリアーからボルトの稲妻マークが入った黄色いサーフボードを降すと、ビーチボーイズのレコード・ジャケットよろしく三人ひとかたまりになってそれを持ち、ひょこひょこと歩き始めた。丸いべっこう眼鏡をかけ、ほかの二人よりも社会性がありそうな先頭の男は袖《そで》の取れた東京ディズニーランドのTシャツを着ている。二人目の男は、なにか悪い薬でもやっているのかトローンとした眼つきで前方を凝視している。彼は薄くマザー牧場の柄が残る洗いざらしのTシャツを着ていた。三人目の男はロコ風のアロハ・シャツを着ていたが、首には鹿島神宮のお守りが揺れながら見え隠れしている。
三人ともに一言も口をきかず、ゆっくりとひかげ茶屋の方へ進み始める。周りに響くのはペタペタというだらしないビーチ・サンダルの音だけだ。
三人とも完璧《かんぺき》な千葉県人だった。湘南地方では、別にサーフィンをするわけでもないのにボードを持ち歩く千葉県人を見かけるのは決して少なくはない。しかし、この三人の場合はちょっと奇妙だった。埼玉ナンバーの車に乗った千葉県人などそう滅多やたらと多いものではない。
茶屋の座敷では、日焼けした八本の手がグリーンの羅紗《ラシヤ》の上に伸び、百三十六個の牌がかき回されていた。
東場二局目である。東家は葉山町長、南家が谷町天六、西家は警察署長、北家は森戸マリーナ社長、といった席順で対局が行なわれていたのだが、たった今、天六の「ローン、リーチイッパツ、純チャン、イーペー」という一声で勝負がついたのであった。
ここで彼は柱時計をチラリと見て座椅子《ざいす》から立ち上った。
「ほなら、三十分ばっかし失礼させてもらいまっさ。出とる間は、みなさん何ぞわての名でお好きなもん取っておくれやす」
葉山町長は、訓練の行きとどいた選挙用の笑い声をチラッと立て、卓上の牌から手を離した。
「早くしてくれよ。君は、私に調子がついて来そうだなーっと思っていると、いつもこうやって水をかけるんだからね」
天六はもう廊下に出ていた。襖《ふすま》の向うに残った三人はあきらめたように隣室へ移動し、仲居にそれぞれ日本酒を注文して寛《くつろ》ぎ始めた。三人|麻雀《マージヤン》ほど不毛なものはないことを彼らは心得ていた。
天六は、六時十五分に、つまり東二局目になるあたりでかならずこの不愉快な中休みを宣言するのだった。
彼はこの時間になると判で押したように、熱戦の最中でも自分の経営するサーフ・ショップへ電話を受けに帰るのだ。まったくバカげた習慣だが、天六は、この町の人気者で、多くの若向き雑誌に何度も顔が出るような有名人だったため、三人とも辛抱していた。どこでもできる電話をなぜこの時間に自宅へ帰ってとらなければならないのか彼は説明しなかったが、また誰《だれ》も敢《あ》えて訊《たず》ねようとはしないのだった。近頃の若者の文化というものが三人には理解することが難かしかったからである。彼の中座は三十分以上にわたったことは滅多になく、その間の酒類は彼の奢《おご》りだった。
日本酒が運ばれ、三人は昨今の風俗営業について話をはじめた。
この時刻は、谷町天六の湘南生活でもいちばん大切な時刻だった。
大阪の地下鉄|御堂筋《みどうすじ》線|淀屋橋《よどやばし》駅近くにある大阪商工会議所秘密会所の交換台と、日に一回の定期連絡をとるのである。
毎日、テレビで第二弾のニュース・ショーが始まる六時三十分に彼は日課となっている湘南地方の干物の相場変動と、当地にある関西系企業の動き、そして命令受領の交信を行うよう義務付けられていた。表の顔であるサーフ・ショップの仕事で、七里ケ浜方面へ講習会に出かけたり、あるいはサーファー・カットの色黒娘にひっかかって連絡を休む場合も、必ず前日の電話に暗号でその趣旨を述べなければならないのだ。
六時半に彼が電話を受けないと、七時のNHKニュースの時間にボチボチ通信≠ニ呼ばれる二度目の連絡が来る。
これでも彼が出ない場合は七時半にどないしはったん信号≠ェ入る。
これも応答がない場合、どんならん≠るいはペケ≠ニ称する緊急事態発生となり、八時以降には商工会議所の直接人事管理機関の中からレスキュー隊が即行動を開始する。
たとえ、ボチボチ≠フ時に通信を受けることができても、筋道立った延滞の理由が認められないと、その情報員にとっては給与削減の対象となるのだった。
大阪のこの長距離電話連絡の時間割りは、日本国中にバラ撒《ま》かれた同じような大阪人相手にガチガチに詰っているため、ほんの三十分ほどの時間でも余分に使うことは混乱を招くのである。しかもそのたびにNTTへ余計な電話料金が支払われる(!)のだ。
天六はこれまでボチボチ≠受けるような不始末をしたことはなかったし、今後も電話会社を儲《もう》けさせるつもりはなかった。
毎晩六時二十五分に彼は長柄《ながえ》トンネルから少し上った住宅地の中にあるサーフ・ショップ兼製造所の入口に立つ。
作りかけのボードやスチロールのクズで足の踏み場もない作業室の奥にあるドアを開け、中から鍵《かぎ》をかける。
バタ臭い顔立ちの平野めぐみが、すでに黄色い公衆電話から故障中の張り紙をはずして腰をおろしている。
彼女は表向きはサーフ・ショップ「サンタモニカ2」の店員ということになっていたが、実は元大阪化学繊維会館の受付嬢という経歴を持つ関西系情報部員だ。
めぐみはすでにサーフィンで鍛えたムッチリとした膝《ひざ》の上に、ミッキーマウスのメモ帳を乗せて天六の帰りを待っていることだろう。
これがゆるぎない日課なのだった。
しかし、こうした規則正しい行動は、それを阻止しようとする勢力にとって――もしそんなものがあるとすれば――実に扱いやすい対象であろう。
痩《や》せぎすで背が高く、先月も少女向けファッション誌に載った谷町|天六《てんろく》(彼はこの名前を恥じて普段はタニーと名のっていた)は、料亭の玄関を長いコンパスで駈《か》け出すと、駐車場へ向った。
彼のおかっぱ頭に包まれた頭脳の中にはさきほど作った手の快い後味しかなかった。
湘南地方に最近越して来た横浜中華街のお大尽がレジャーランドを作りつつあるといった軽い地域企業の新情報を電話で伝えた後は、もう一度がんばって稼いでやろう、そう考えながら左手でHの文字が入ったキイをチャラチャラとふり回し、タニー≠ヘ愛車ホンダS600に向った。
ふと、彼の視界の隅に、三人の薄汚いサーファーの姿が入って来た。
彼らは一つのサーフボードを三人で小脇に抱えていた。それは、まるで戦前、九段の坂に建っていたという肉弾三勇士の像を連想させた。
彼らが千葉のサーファーで、いつもは地元で遊んでいるらしいことは一目でわかった。抱えているボードの表面にTIKURA、KATUURAといった文字が書いてあるのだ。
彼は不吉なものを感じ、なるべく顔を合わせないように車のドアを開けた。
「あのぉ……タニーさんでしょう」
先頭になった男が声をかけてきた。
「僕ら、タニーさんのファンなんです。まことに申しわけありませんが、この本にサインしていただけませんか?」
三人目の男がバミューダの尻《しり》ポケットからおずおずとアメリカのサーファー誌「TUBE」を取り出して差し出し、人なつっこく笑いかけた。
その本には天六の店が紹介されているはずである。
おかしいぞ。三人とも英語が読めるのか! 敬語も正しく話せるなんて! この辺に来る千葉人とはまるで異っている!
強い疑惑を持ちながらもペンを取り出した天六は、表紙にサラサラとサインをした。
「ありがとうございます。ワァ、感激だなァ」
先頭の男が言った。
「お店の方にもかならず行きますゥ」
ともう一人の方が声をあげた。
天六はこれにも驚いた。こんな時千葉人たちは礼も言わずにサッサと行ってしまうのが常だったからだ。
車に半身を乗り込ませて彼は、漠然とした殺気を感じた。
しかしもう手遅れだった。
三人のサーファーはサッと左右に広がると、手にしたボードの陰から三節棍《さんせつこん》をつかみ出した。
棒の一辺が七十センチほどもある赤樫《あかがし》製三本組の武器を一人ならともかく、三人で扱うのは至難の技であろう。だが三人は一本の棒を一人が担当して楽々とふり回し、訓練のゆきとどいた正確さで、一瞬のうちに天六の急所を攻撃した。
一人は後頭部、一人は胸、一人は鳩尾《みずおち》だった。
骨を砕く鈍い音が駐車場に響き、サーファー・ガールあこがれの的、谷町天六は悲鳴ひとつ立てずにそのまま車の脇へくずれ落ちた。
六時十七分三十一秒、人気《ひとけ》の無い鐙摺のバス停先のカーブから、一台のバンが現われた。
車体側面にエアブラシで、「三国志」英雄の項羽と劉邦が波の上で戦っているという、きわめて毒々しい図柄を描き込んだホンダ・ライフ・ステップ・バンだった。
長方形の弁当箱にも似たその姿を左右に振りながら、歩道でボーッと立っている三人の前で停車するとルーフ・ドアを開けた。
中には食品会社のダンボールが口をあけている。
三人の男は谷町天六の死体をす早く投げ込むと、続いて乗り込んだ。
「早く行け!」
三人のサーファーの中で一番トロそうな男が初めて声をあげ、オレンジ色の文字盤を持つスポーツ・ウォッチをのぞく。
六時十九分二十秒。殺しは二分弱で終ったのだった。
カー・ステレオが「君といつまでも」を唄《うた》い始めた。車はハデにUターンすると渚橋の方向へ走り出した。
「アー・ユー・エンジョイン? みんな元気?」
古いアトミック・デザインのラジオが大崎山公園の私設FM放送を流している。
青いバンダナを髪に巻いた平野めぐみは、ちょっと小首をかしげる。
六時二十八分、いつもより三分も遅い。
赤いS600が店の前に急停車する姿を思って彼女はふくみ笑いをした。
「いやー、すまん、すまん。エンストや、もうあの車もかえ時やな」とか「埼玉ナンバーが道ふさいどってな。もう、わややがな」と言いつつ店長兼支部長が部屋に入ってくることだろう。
彼女は黄色い公衆電話の前に坐りなおした。
さあ時間だ! ベルが鳴った。
その時やっと作業室の向う側に足音が聞こえてきた。
あー、よかった。彼女はホッとして、受話器を取りあげると大阪弁を使いはじめた。
「感度も明度も良好だす。本日の……」
彼女の背後で力いっぱいドアが開いた。
ハッとしてふりかえると、そこには手入れのまるでなっていないムスタッシュを鼻の下にぶら下げ、マザー牧場のおみやげTシャツを着た大柄のサーファー風青年が立っていた。
手には宮崎の木村元五郎商店製高級|黒檀《こくたん》材使用の大型ヌンチャクがビュンビュンと音を立てて回っている。
めぐみは悲鳴を上げようとしたが口から声は出なかった。
男は高校生向け月刊誌のSEX特集写真に登場するモデルのようなニヤけた笑い顔をするとす早く腕を伸ばし、彼女の首筋に強力な一撃を打ち込んだ。
めぐみは勢い良くころがった。
受話器が机からぶらりとたれ下ったが、男が取り上げて電話の上に載せる。
殺人者はいったんドアから出ていったが、灯油のポリバケツと、浅草橋|玩具《がんぐ》花火商会のマークがついたダンボール箱を持ち、再び入って来た。
彼の後から二名の男が続き、めぐみの死体を持ち上げて、
「重てえなー、なに食ってたんだろう」
「うろんだよ。うろん――それにしてももったいねえ、まだ若いじゃねえか」
などと口々に言いながら運び出す。
最初に入って来た男が箱の中から天津《テンシン》輸入花火「熊猫牌《パンダ・マーク》」をつかみ出して家具やサーフボードの山に差し込み、灯油を撒《ま》いた。
この作業が終ると、彼は火芯《かしん》をいっぱいに出したジッポーに点火して、ポンと花火の山へ投げ込み、ドアを閉じる。
店の外ではうこぎの生垣《いけがき》に隠れるようにして先ほどのステップ・バンが停《とま》り、三人の男がダンボール箱に死体をつめなおしていた。
建物の窓が赤々と輝きはじめる。
「スチロールがいっぱいだから良く燃えるぜい」
火をつけた男がつぶやいた。
殺人者たちが全員乗り込むと、バンはヨタヨタと小径《こみち》を下り、逗子マリーナ方向へ走り出す。
最初の炎が桜山九丁目の山頂に上りはじめた頃には車はすでに湘南道路から小坪に入っている。
ダンボールの中身はテトラポットにくくりつけて七里ケ浜沖の漁場へそっと投げ入れられるのだ。こうしてわずか十と三分で大阪商工会議所秘密情報部湘南支部は、いっさいが完全に消滅してしまったのだった。
2 包丁の選択
三週間後の大阪。十一月は養殖|鰻《うなぎ》のようなぬめぬめした嫌な天気でやってきた。
霜月だというのに一日の夜明けから、生あたたかい雨が降り始め、気味の悪い南風は、葉が落ちて裸になった中之島公園の立ち木を叩《たた》き、京阪線の地下駅から勤め先に出ていく人々の顔を新世界裏のオカマのように撫《な》で回していくのだった。
実にいやな天気で、日頃は寒がりの連中まで愚痴をこぼしていた。こんなんやったら、いっそ鼻がちぎれるくらいの北風が吹いてくれた方がなんぼかましや、鍋物《なべもの》も旨《うも》うなる≠ニ、いった会話があちこちで飛び交っている。
天候は神サンのおぼしめしと言い続けている土佐堀《とさぼり》の御隠居こと千成屋宗右衛門《せんなりやそうえもん》までが今日ばかりはいやな天気だと認めていた。
ナンバー・プレートの横に住吉《すみよし》大社の交通安全ステッカーを付けた彼の黒いトヨタ・センチュリーが御堂筋の西本願寺津村別院横にある古いビルの前に停車する。
籐《とう》のステッキをついて歩道に降り立った宗右衛門の肩に生あたたかい雨が強く当った。
老人は茶の道中コートの前を合わせなおすと運転手に声をかける。
「長作どん、今晩は寄り合いでキタの新地呼ばれとるさかい迎えに来んでもええで。こないな天気では、車走らせてもつまらんさかいな。サイパン島が陥落した時よりいやな気分や」
かつて大阪八連隊に属していた運転手の長作は御隠居の心境を推し量り、丁寧に答えた。
「ではこのまま帰らしてもらいます。御隠居はん、お気をつけてお帰りやす」
彼は、ステッキをついた老人が、戦災で焼け残った古いビルへ吸い込まれて行くのを見とどけてから車をゆっくりと発進させた。
宗右衛門はマホガニー材の内装が施された古いエレベーターで四階に上ると、茶色のパキスタン絨毯《じゆうたん》を敷いた廊下を歩き、奥から二番目の部屋へ向った。
ドアには金のプレートで井原西鶴行跡保存会≠フ文字が小さく刻まれている。
部屋に入った宗右衛門老人は、濡《ぬ》れた道中コートを脱ぎ、西川の花柄タオルで白髪を拭《ふ》いた。
重厚な紫檀《したん》の机の前に立って古臭い巨大なインターホンにかがみ込み、スイッチを入れる。
「金子はん、わいや、出て来ましたで。ファイルが来とったら頼むわ。それからな、湊川《みなとがわ》の神戸大学病院電話して高山博士呼んで欲しいんや。ほてからな、小番頭はんに定吉七番とは三十分以内に会うと伝えてんか。ああ、そや、谷町天六の資料もここへ持ってきとくれやす」
インターホンの向うで返事が聞こえてくるのを待ってからスイッチを切ると、宗右衛門は机上の煙草《たばこ》盆《ぼん》から朱塗りのナタ豆|煙管《ギセル》を取り上げ、何ごとか考えながら刻み煙草をつめはじめる。
煙管に火を寄せて、分厚いスペイン皮の椅子に坐《すわ》った頃、秘書の万田金子女子がファイルの束をその豊満な胸に押しつけるように抱えて現われた。しかし、老人はボーッと坐ったまま窓の方をながめている。
こうして肩を丸めていると、まるで松竹新喜劇に登場する好々爺《こうこうや》のように見えるこの白髪の老人が、実は関西の資本家たちのため、阿修羅《あしゆら》のごとき戦いもあえて辞さない、恐るべき戦士の元締めであるなどとはとても想像できなかった。
万田金子――ミス・マネーがファイルを机に置き、お尻を振りながら隣室に引っ込むのとほとんど同時に机上の電話が鳴り響いた。
「ああ、高山先生だっか? わいだす。少々お時間いただけますやろか?」
くだけた物言いだ。宗右衛門は特別な時以外は船場《せんば》言葉を使わない主義なのだ。
「土佐堀の御隠居の頼みを断ったら木津川《きづがわ》からこっちで生きて行くことが難しいからね」
電話の向うで高名な皮膚科の医師がケラケラと笑った。
「お店の若い衆がヘンな病気でももらったとでもいうのかね?」
「今日の話はそんなんやおまへん」
宗右衛門は思わずムッとした声を出した。幼い頃より船場で商人《あきんど》の道徳律をたたき込まれたこの老人は女色に対してのみ実に厳格だった。
「先生の治療を受けとったうちの男衆《おとこし》だす。あれはもう仕事に出しても大丈夫でっしゃろか?」
電話の向うはしばらく黙っていたが、やがて考古学者が土器を解説するような分別くさい声を出した。
「そうだねえ。例の神経性皮膚炎は今のところ出て来ないし、他の肉体はピンピンしてる。薬の副作用も大丈夫だ。しかし……」
ここでちょっと言葉が途切《とぎ》れる。
「御隠居、あの男はひどい緊張状態を経験してアレルギーになったんだぞ。だいたい本部の人使いは荒すぎる。今は昔の丁稚《でつち》制度など通用しないんだ。最初は楽な仕事をあてがってやらなければいかん。労働基準監督署が乗り出して来たらどうするんだ」
宗右衛門はのんびりした口調で答えた。
「お給金を出しとるのはわいの組織だす。仕事の中身はこっちできめさせてもらいまひょ。あれぐらいの目に会わされたんは、なにも定吉どんが最初やおまへんのや。ところで、今の先生の話ぶりでは、体の方はもうええようでんな」
宗右衛門老は盆の縁に煙管の雁首《がんくび》をポンと打ちつけた。
「しかし、人間の苦痛というものは第三者にはまるでわからんものなのだよ、御隠居。外観に異常が無いからと言って……」
「いやええんだす。外ヅラさえしっかりしとったらそれで充分や」
定吉がヘマをやったから、その報いが現われただけなのだ。宗右衛門は丁稚の扱いを人からああだこうだと指図されるのが嫌いだった。それがたとえ国際皮膚学会で名声を博した名医師であったとしても。
「愛知孫太夫《えちまごだゆう》というお侍の話を先生は聞いたことありまっか?」
宗右衛門は唐突に言った。
「御隠居の御先祖かね?」
「いんや、違いま」
宗右衛門は煙草を一服吸い込んだ。
「大坂の陣で秀頼はんの下について戦いはった河内の鉄砲武者だすがな。『和泉《いずみ》軍功録』いう本に出てくる豪傑でな。人間の身体《からだ》の機能がほとんど無うなっても戦えるいう見本みたいなお人でおますのや。近江国|愛知郡《えちごおり》黒木村出身で、幼少の頃、疱瘡《ほうそう》の毒が眼に入ったとかで片方がつぶれ、初陣の江州横山城攻めで右腕、賤《しず》ケ岳《たけ》の柴田勝家攻めで左足を失い、紀州|根来《ねごろ》合戦で右足を無くしてから河内の八尾で浪人しはった後、豊臣家の呼びかけに応じて大坂城へ籠城《ろうじよう》しはったんだす。右腕と両の足につげの木で義手、義足をこさえて冬の陣で奮戦し、とうとう残った左手も切り落されましたんやけど、口で馬上筒を操って寄せ手の大将松山軍兵衛忠正を討ち取ったそうだすわ」
老人はここでひと息つき、煙草をまさぐった。
電話口の向うから半ばあきれた声が聞こえて来る。
「御隠居のところではダルマになるまで仕事をさせるのかね」
「わいが言いたいんは、うちの定吉どんの仕事は、孫太夫はんにくらべたら五体満足な分だけはるかに楽やいうことだすわ」
宗右衛門は、ちょっと口調をやわらげた。
「しかし、わいもそう世間で言われているほどごりがんやおまへん。実はわいが考えとったのは、定吉どんに休暇仕事をあげたろいうことだしてな」
宗右衛門は窓越しに見える、雨に濡れた御堂筋へ目を向けた。
「うちの人間が二人行方不明になりましてん。その調査を定吉どんにやらしたろ思いましてな。場所は海に近い所だす。いや、南紀白浜や小豆島なんぞというジジムサイところやおまへん。関東の湘南だす」
「グァムや沖縄ならわかるが、この季節にあちらの方では、さぞ寒いことだろうなあ」
「しかし、湘南いうたらきょうびの若いモンみな喜びまっせ。たとえ冬でも……。それはそうと、例のアラビアのおなごが定吉どんに塗り込んだんは何だかわかったんでっか?」
「昨日、阪大医学部の報告書が届いた」
高山博士は話題が変ってほっとしたようだった。
「調査は難航したよ。これをつきとめたのは京大人文研で中央アジア研究をやってた学生でね。内容物はラテン語でヴェネヌム・アテムペラトウム――緩効性の毒――と称するやつだった。簡単に言うと鶏冠白石と犬サフラン、ベラドンナと紫ネペンテスの混合物にワセリンを配合したものだ。アビニョンの法王クレメンス七世は一説によると、この毒を下着に滲《し》み込まされて死んだというんだな。サマルカンド地方では今世紀の初めまで、回教教主が政敵を殺す際に使用していたんだ。斑猫《カンタリス》と同じで塗られた当座は体中の粘膜を刺激し、持続性勃起《プリアピズム》や過度の淫楽《いんらく》を感じる一種の媚薬《びやく》効果が生じるが、それをすぎると視力が低下し、尿が止まらなくなって筋肉も麻痺《まひ》、最後に心臓が止まる。あたり一面たれ流しで死ぬなんて汚いもんだよ。皮膚炎だからといってこんな軟膏《なんこう》を塗り込まれたら、たまったもんじゃないね」
「よう助かったもんだすな」
「彼が日頃持ち歩いていた山城笠取名産の毒消し軟膏を急いで塗り重ねたおかげだよ。それはそうと、あのアラビア女はどうなったんだい?」
宗右衛門はそっけなく言った。
「伊丹《いたみ》で死んだようだす。いや、ありがとさんどした。定吉どんは楽させますさかい、心配せんといておくれやす」
老人は電話を切ると、元の茫漠《ぼうばく》とした表情にもどった。
ナタ豆煙管に再び刻み煙草をつめながら、表紙に湘南支部・谷町天六及び平野めぐみ調書≠ニ書かれたファイルへ指に唾《つば》をつけてめくり始める。
と、インターホンのランプが点滅した。
「なんだす?」
「定吉七番が参りました」
「はよ、こっち来るように言っとくなはれ。ほてから、九作どんもな」
「心得てま」
インターホンの向うから色っぽい返事が返ってきた。
宗右衛門は通天閣の形をした机上ライターで煙管に火をつけ、鈍く輝き出した両の目でドアの引き手に目を向けた。
ノックの音が響き、髪をほとんどアーミー・カットと同じくらいに短く刈り上げ、唐桟《とうざん》のお仕着せを裾《すそ》短かに着た大柄な丁稚が一人ドアを開けて入って来た。
「早よ、そこ閉めてここへ坐んなはれ」
「ヘッ」
ドアを閉めた拍子に彼の右後頭部に大きな十円ハゲが光った。
「御隠居はん。お早ようさんだす」
「ああ定吉どん、お早ようさん」
老人が火勢を強めるためにスパスパと力を込めて吸うナタ豆煙管の音と、窓に打ちつける雨だけが室内を支配していた。
大学病院から大学病院へ、非常に珍らしい皮膚炎患者としてタライ回しされている間、定吉が心に描き続けて来た御隠居はんの部屋だった。この部屋の光景こそ、長い間彼が望んでいた現場復帰のシンボルだったのだ。
定吉は御隠居の口から吐き出される紫色の煙をジッとながめた。
今度の仕事は何だろう? 大福帳すら持たず、華麗に戦う非合法《イリーガル》な仕事だろうか?
それともあっさりと船場センタービルの倉庫にでも遷《うつ》されて、商品の在庫整理と帳付けをやらされるのだろうか。
いや、御隠居はんは、わてのために何やらイングリモングリできる事件をあっためといてくれはったに違いない。
宗右衛門は懐に入れた西陣織りの懐紙入れから桜紙を一枚取り出し、チーンと鼻をかんだ。
「どや? 退院できて嬉《うれ》しいか?」
「へえ、ほんまええ気持ちだす」
「先《せん》だっての事件についてなんぞ反省すること無いか? 査問の時話した他につけ足すことがあるんなら今言うたらええ」
宗右衛門の声は冷やかだった。定吉は老人の声に不安なものを感じた。
「何も言うことはおまへん。おもしろ半分にアラビアのおなごを近づけたんは、わての黒星だす。今後は十三《じゆうそう》の外人キャバレーには行かんことにしま」
宗右衛門はゆっくりうなずいた。
「そや、おなご遊びは、のれんわけが済んでからでも遅うない。ところでな、定吉どん」
老人の声はあくまで静かだったが毒を含んでいる気配があった。
「たしか、そのおなごと争うた時、刃物が懐にひっかかって抜けんかったそうやな。定吉どん、失敗のもとはそこや。定吉名前の丁稚がそんな失敗するとは情けないで、ほんまに。情報員の仕事やめて帳場に立ちまっか?」
定吉は紺の前掛けをギュッと握りしめ、恨めしそうに老人を見返した。
秘密情報会所がくれた定吉ネームとそれに続く一桁《ひとけた》の番号は、関西系企業のためとあらば、人を殺しても良い許可証と同じもので、この業界ではほんにたいしたもんなのであった。
この鑑札のおかげで、定吉は大好きなスパイ・アクションをやれるのだ。
「そないなイケズ言わんといておくれやす。御隠居はん」
「ほなら、あんたが持っとる装備品を取り代えんとあかん。丁稚査問会でもそうきまったんやで」
定吉は口を尖《とが》らせた。
「わてはあの包丁を使いなれとるんだす。あれが一番や思とります。先だってのような場合は誰だってああなりまんがな」
「わいはそうは思わん。査問会も同じ意見や。そやな、問題は、かわりに何使うたらええか言うこっちゃ」
宗右衛門はインターホンのボタンを押した。
「九作どんは来てるか? なら、こっち入るよう言っとくなはれ」
宗右衛門はニヤッと笑った。
「定吉どん、あんたも知ってはる思うけど、中番頭の九作どんは、うち来る前は道修町《どしようまち》の『三富』で日に三百匹から『はもの骨切り』やっとった、いわば包丁の権威や。今、九作どんの話を聞かしたるさかい」
ドアが開き、坊主頭の小作りな男が入って来た。その鉢の開いた頭と、茶川一郎のような巨大な目に定吉は見覚えがあった。
「御隠居はん、お早ようさんだす」
と言った声は低くドスがきいている。宗右衛門は気軽に挨拶《あいさつ》を返した。
「御苦労さんやな、九作どん。ちょっと訊ねたいことがあるんやが……」
「なんだす?」
「刃渡り七寸五分の丸屋の出刃をあんたはどない思いなはるか?」
「婦人ものでんな」
宗右衛門は定吉に向って片頬《かたほお》をゆがめて笑いかけた。
定吉も情け無さそうに笑い返す。
「ほう、さよか。して、そのわけは?」
「殺傷能力が低うおまっせ。その分扱いは楽でっけどな。格好もいいし、セットで手に入りま。わかりまっしゃろ? 新婚家庭のプレゼント用でっせ」
「握りの形を変えたらどや? ドイツの双子印《ヘンケル》みたいなんはいいんと違うか?」
「使い手が危いだけでんがな。それにわては指の形に合わせた西洋型の握りいうもんは好かんのだす。日ノ本の包丁は、やはり真っ直ぐな丸握りが一番や。阿部定はんが情夫《いろ》のでち棒切るんとはわけが違います。少なくとも仕事師が使うんやったら反対しま」
宗右衛門は我が意を得たりとばかり笑いながら定吉の方を向いた。
「定吉どん、なんか言うことあるか?」
定吉は前掛けの裾をもて遊びながらうつむいてぶつぶつ呟《つぶや》いた。
「わては不服だす。この仕事をさせてもろてからもう五年になりまっけどな。まだあれでやり損じたことは一度もおまへん。匕首《あいくち》以外の得物《えもの》では一番いいと思とりますんや。一年前、仕方無うて無銘の道中差し使うたことありまっけど、それは、相手がグルカ人でククリー(グルカ・ナイフ)の達人だったからだす。けど、目立たないように近づいて一撃で腎臓《じんぞう》を抉《えぐ》るんやったらこれしかおまへん」
定吉はここでひと息ついて相手の出方を待った。
「定吉どん、問題は馴《な》れだけや。いずれ新しい包丁にも愛着を覚えるやろ。気の毒やが、わいのハラはもうきまっとるんや。ちょこっとそこへ立って九作どんに姿かたちを見せてみ」
定吉は立ちあがって秘密会所の兵器係と向い合った。
中番頭「はも切り九作」は無遠慮に定吉のお仕着せの裾丈や角帯のあたりを見回していたが、口をへの字に結ぶと小声で、
「得物を見せとくなはれ」と言った。
定吉の手が懐へ入り、晒《さらし》に巻かれた小ぶりの出刃を取り出す。九作は手渡された包丁を手のひらに乗せ、しばらく重さを計っていたが、やがて小馬鹿《こばか》にしたように宗右衛門の机へ置いた。
「もっとましなん持たすことできまっせ」
定吉は一瞬頬をふくらませ、何か言おうとしたが、宗右衛門の手前かろうじてガマンした。
「それで何を使わせるんかいな?」
九作は専門家らしく説明口調で答えた。
「刃物をひと通り当ってみたんだすが、一応スウェーデン・グスタフ・アドルフのハンティング・ナイフ、ドイツ・ヘッセンのMK製肉切り包丁、トルコ・カイセリのダマスカス・ナイフ、そして京都|有次《ありつぐ》のやなぎ刃。この四つが最高や思います」
九作の言葉には「格闘用《ドツグ・フアイト》に」という語彙《ごい》が抜けているのだった。
「定吉どんなら有次がええのんと違いまっか? きょうび、有次はデパートにも支店が出てます。自分で研ぐ時間が無いときでもここに持ち込めばよろしい」
宗右衛門は定吉の方へ向きなおった。
「どや? 何か言うことは?」
「いい包丁だんな」
定吉は答えた。
「けどなあ、御隠居はん。口答えするようで悪いんだすが、やなぎは長ごおてかさばりまっせ。懐に入れてもグツ悪い」
「それは昔ながらに晒《さらし》巻いて持つからや」
九作が頭を振って言った。
「包丁用に改造したバーンズ・マーチンのピストル・ホルスターを襦袢《じゆばん》の上に装着すんのが一番や。懐から抜くより〇・二秒早く袂《たもと》から出せる」
「話はきまった」
宗右衛門の一声で定吉の反論は封じられた。
「九作どん、このあかんたれの丁稚どんに至急一本届けとくなはれ。例によって格闘練習の世話もしてやってんか。三日もあればカンが掴《つか》めるやろ」
九作は深くうなずいた。
「わてがあっためといた一番出来のええのんを使うてもらいまひょ。三品家内人|藤原有次《ふじわらありつぐ》六代目の作で、京都三大|庖丁家《ほうちようけ》の一つ生間《いかま》家に長く秘蔵されとった九寸五分の業《わざ》モンだす。刃紋が切っ先からゆるやかに流れ、中央に至って盛り上っとるところから別名『富士見|西行《さいぎよう》』と呼ばれとった古式のやなぎ刃だす」
「おお、名物『富士見西行』。あれが日の目を見るんか……」
さすがの宗右衛門も言葉を失った。
「さいだす。業モンは手だれに使うてもらうんが一番だすさかい」
九作は定吉に向って片頬をゆがめた。やはり職人は職人の腕を見抜いていたのだった。
「九作どん、御苦労はん、もうさがってもええで」
「ほなら失礼させてもらいますぅ」
九作は深々と挨拶《あいさつ》をすると、回れ右をして足早やに部屋から出ていった。
しばらくは沈黙が部屋をつらぬいていた。
宗右衛門は窓ぎわに立って雨をながめている。
定吉は晒に巻かれたまま机の上に投げ出された丸屋の出刃を見つめつづけた。このブルーグレーの刃先が何度自分を救ってくれたことだろう。毎日起きると柏手《かしわで》を打ち、血で曇れば砥石《といし》をかけ、丁字油《ちようじあぶら》を塗って和紙でぬぐう。日本中のあちこちで、大根や白菜を購《あがな》っては深夜一人で切れ味を確認した思い出がある。ためし切りが終ると晒を刃先に巻いて外出し、生死の別れ目になる最後の掛け取りへ行くのが常だった。
定吉にはこの包丁が単なる武器以上のものに感じられるのだ。
宗右衛門はふり返る。再び前掛けの裾をいじり回しながら、大阪人らしく「未練たらしさ」を精いっぱい体で表現して、無言の反抗を続ける殺人丁稚に声をかけた。
「気の毒やな、定吉どん」
こうは言っても宗右衛門の同情は口先だけであることを定吉はよく理解していた。
「この出刃をあんたがどないに大事にしとったか、こっちかてようわかってる。そやけどな、わいは定吉|名前《ネーム》を持つ男衆《おとこし》へ手え抜いた装備品持たしたばっかりに殺《や》られたいう汚名だけは受けたくないんや。まともな得物持ってもらわなあかん。わかるか? あんたらの仕事は板前はんと同じや。両の足より一本の包丁持つ手が大事なんやで」
定吉はこれ以上演技しても無駄と悟り、笑顔を見せた。
「わかってます、御隠居はん。もう口答えしまへん。ただ……この出刃と別れるんがつらいだけだす」
「ならいいんや、もうこの話は終りにしとこ。ところでな、定吉どん。あんたに体ならしの仕事まわしたろ思てな。海の方や」
「須磨でっか? 明石《あかし》の方でっしゃろか?」
「関西やない。箱根から向うや」
宗右衛門は椅子に坐って煙草盆を引き寄せた。
「鬼なんぞの出る仕事とちゃうで。ただの調査や。ちょっとした藪入《やぶい》りと思うて行ってんか?」
定吉は考えた。この前の失敗で自分は御隠居に安く見られるようになったのだ。働きぐあいを見てやろうというところか。定吉七番と呼ばれるほどの殺人丁稚にただの調査仕事を与えるなんて、このごりがんが。
「わては丁稚だす。御隠居はんの御命令やったら……」
「そや、命令や」
宗右衛門はそっけなく言った。
窓の外はひどい横なぐりの雨になり、街灯兼用として付けられている北御堂先の料亭「福山」の灯りが暗くなった横丁にポッと点《とも》された。
机から三メートルほど向うのソファーへ坐っている定吉の顔がやっと見分けられるぐらい室内が暗くなっていることに気付いた宗右衛門は、渋々ながら机上の古いマツダ・ランプのスタンドに手を伸ばす。
紫檀の机を中心にして、オレンジ色の光の輪が形作られた。
この時になって定吉は、机の左隅に人事ファイルらしいものが置かれていることを知った。
ファイルの表に書かれた谷町天六・平野めぐみ≠ニはいったい誰なのだろう?
宗右衛門は定吉の視線がやっと愛用の包丁から、そちらに移ったのを感じて目だけで笑った。
「そや、調査いうんは、これや」
定吉が何か言おうとするのを宗右衛門は手で制してインターホンのスイッチを入れる。
「金子はん、雁之助どん呼んどくなはれ」
宗右衛門はナタ豆煙管の先でファイルをポンポンと小突いた。
「この話はな、雁之助どんが良う知ってるさかい、そっちから聞いたってんか。しょもない事件らしいけどな」
ノックの音とともに安手の大島を着た小番頭の雁之助が、小さなプロジェクターを抱えつつ入って来た。
小太りで眉《まゆ》だけが異様に太い男だ。定吉の直接の上司で、ジョン・ル・カレの描くスパイ小説で言えばベテランの情報主任といった地位にいる。
定吉は情報員見習いに入った頃、この男にさんざんシゴかれ、店裏のお稲荷さんの陰で連日泣きながらタコ焼をかじったおぼえがあった。
雁之助は、宗右衛門に軽く会釈をすると、部屋の片隅にあるコンセントを探し出し、ソケットを挿入した。
アッという間に壁面の一部が映写幕に早変りする。
宗右衛門は先ほど灯したばかりのスタンドを消し、煙草の煙を深々と吸い込んだ。
煙管の先が赤く光る。
「定吉、おまえ、葉山いう所行ったことあるか?」
雁之助がスライドの円形ドラムを操作しながら聞いた。
「へえ、昔ちょっと掛け取りに」
「さよか、ほなら土地カンは有るな」
カシャ! 金属の擦れる音が室内に響き、光の中に一人の男の顔が浮び上った。
健康的に日焼けし、細面でサーファー・カット。どこかで見たような顔の造りだ。
「谷町の天六や。みんなにタニーと言われとったがな。もちろん本名やない。湘南支部の残置|諜者《ちようしや》のキャプテンやっとった。面識は?」
雁之助の質問に定吉は首を振った。
「全然おまへん」
金属音が再度響き、今度は若い女の顔。
ヘアーは全体がレイヤードカットされ、バックを長めに残している。眼元はパッチリ、鼻も大造りで何となく宝塚の新入生といった風情だが、こちらもまたかなり小麦色に日焼けしている。
「こちらはどや? 平野めぐみ。天六の助手や」
「こんな別嬪《べつぴん》さんに知り合いおまへん」
「経歴はええで。繊維会館で受付やっとったんをウチが引き抜いたんやけどな。御影《みかげ》育ちのお嬢さんや」
宗右衛門が煙管をくわえたまま口を動かした。
「なかなか今風のおなごや。もしかしたら、これが原因かもしれん。天六は女道楽の方やったか?」
「近所のおなご衆《し》に受けるような商売持ってはったさかい、あるいは……」
雁之助は谷町天六のモテモテぶりを当りさわりなく表現した。
「しかし、この二人がなにやらはったんだすか?」
定吉が口を挿《はさ》んだ。
「それが知りたい。この二人はな、三週間前に消えたんや。支部は火事でマッ黒焦げになっとってな。女のアパートも全然帰った跡が無い。梅川・忠兵衛みたいに調査費猫ババしてかけおちしたいう線も考えられるん」
雁之助はスライドを次々と交換して、燃える前の支部全景やら二人の支部員の日常写真を壁に映し出した。
宗右衛門は画面を指差した。
「東京から近いとこやしな。ポンと通勤電車飛び乗ったらもうわけがわからんようなってしまうがな」
雁之助はスライド移動のスイッチを押しながら、しきりに首をひねり続けている。
「なんぞ存念があるんか? 雁之助どん」宗右衛門の声が金属音に被《かぶ》さった。
「へえ、しかし、かけおちや言うのもおかしいフシがあるんだすわ。日課の通信電話に出たんが天六やなしにめぐみの方らしかったし、これが中途で切れましたんや。ほてから、この日、天六は午後遅くにいつも行っとる麻雀クラブへ出とったそうだす。勝負の途中で席立って三十分したら帰る言うたそうで。けど、自分の車を駐車場に置きっぱなし、面子《メンツ》も待ちぼうけ食わせっぱなしだす。かけおちするんやったら、朝|発《だ》ちか夜逃げが一番、こんな中途半端な逃げ方は逆に損だすわ」
壁面にはサーフボードを抱えた天六とめぐみが仲良く浜辺を歩いているショットが映っている。宗右衛門はあごをしゃくった。
「人間|惚《ほ》れたはれたとなると見境い無《の》うなるもんや。それにやな、逆に不可解な失踪《しつそう》にしとった方が捜す方も混乱するやろ。だいたい湘南いうところはな、わいらの仕事にあまり関係無い、いわば無風地帯や。天六が赴任する前からの資料読んだが、大事件は一回も起きとらん。定吉どんはどない思う?」
黄色いウエットスーツに包まれた平野めぐみの豊満なバストを口を半開きにして観賞し続けていた定吉はあわてて答えた。
「そ、それは……いちがいにかけおちやきめつけるのもどうでっしゃろか。いくら若いいうても、二人は仮りにも大阪商工会議所秘密情報員としての教育を受けたエリートでっせ」
宗右衛門は口を曲げてうなずいた。
「そら、わいかて近松はんの人形|浄瑠璃《じようるり》みたいな話ばかり考えとるわけやない。これが大事件の前ぶれなのかもしれん」
ひと通りスライドを映し終えた雁之助は、机上のスタンドを灯しながら言った。
「御隠居はんが言いたいことは、定吉、わてらのような業界が一番恐れなければいかんのは、内情をあっちゃこっちゃでバラ撒く抜けエージェント≠竄「うこっちゃ」
宗右衛門は深くうなずき、ナタ豆煙管に何度目かの煙草をつめはじめた。正直言って宗右衛門は、この手の事件がにが手だった。若い連中の考えはさっぱりわからないし、また知りたくもない。そして本質的には信じてもいないのだった。
「どや? あんたの今回の仕事は、こういう調査や」
定吉は長年現場を踏み続けたカンで、こいつはただのかけおち、抜け忍《ニン》ではないと考えた。宗右衛門の方へ首を回し、
「この天六はん言うお人が最後にやってはった現地調査は何だったんだす?」と質問した。
「別にとり立てて変ったことは無い。なあ、雁之助どん、そうやろ?」
宗右衛門の問いに雁之助は天井を向いて一瞬考えるそぶりを見せたが、すぐに右の拳《こぶし》で左の手のひらをバチンと打った。
「そや、そういえばけったいな報告を一ヵ月ぐらい前に送ってよこしましたで」
「おう、そうや」
「何だす?」
宗右衛門は苦笑しつつ説明した。
「偕老同穴《かいろうどうけつ》いう言葉知ってるか?」
「へえ、たしか夫婦仲むつまじく長生きして死んだら同じ墓入るとかいうことわざで……」
「よう知ってはるな。定吉、けど、そういう名前が付いた動物がいるゆうことは知らんやろ」
「へえ」
「海綿動物の一種、言ってみれば、スポンジみたいなもんやが、これが何ともけったいな生きもんで、胃袋の中にオスメス一対の小さな海老《えび》を飼っとるんや。学名もあるんやで。ビ、ビーナ……何とか」
「ビーナシズ・フラワー・バスケットだす」
雁之助が言い添えた。
「そや、そのケットや。普段は海の底深く岩の隙間《すきま》に棲《す》んどって人間の眼にふれることもない。たまに海底地震やら海流異変が起きた時にだけ浮き上り、漁師の網に引っかかる。えらい珍らしいもんやいうて中国や日本では昔っから共白髪《ともしらが》の祝いに三方《さんぼう》へ載っけて出すぐらいや」
「そのお宝がなんで天六はんの報告書に?」
定吉の疑問を雁之助が受け、野太い声で話し始めた。
「海水浴シーズンが終った頃、三ヵ月前やな。この珍らしい生きもんが江ノ島の相模《さがみ》湾でいっぺんに三匹も上ったんや。地元では『ソラ、東海地震の前ぶれや、海底の地殻変動や』いうて大騒ぎして調べたんやけどその徴候はまるで無しや。騒ぎはそこでいったん収まったんやけど、先月また偕老同穴が二匹、江ノ島|稚児《ちご》ケ淵《ふち》先の洞窟《どうくつ》外で見つかった。なんせ三、四十年にいっぺんおがめるかどうかいうもんが二ヵ月の間に五匹や。今度は民間の海洋自然保護団体が調査に出てきよった」
「なんせ、相模湾は昭和天皇も御研究なさった場所やさかい、こういう団体も鼻息が荒い」
宗右衛門は鼻から煙を二本放出した。雁之助は再び続ける。
「で、この団体の一つが江ノ島の一番外海寄りにキャンプを張って調査することになったんや。ところがな、江ノ島の海食洞窟があるあたりは、時々落石で釣り師が大ケガするいうんで一般の人間は立入り禁止となっとってな。地元の篤志家が細々と波の浸食防止の工事を続けてるえらいところやそうで……」
「その篤志家いうんは何者だすか?」
「中国人や。熱烈な弁天様の信者やそうやけど名前が変ってるわ、不好《プー・ハオ》いうんやて。本名やないやろ」
「プー・ハオ!?」
「よろしゅうない≠「うこっちゃ。なんでこないな名前にしとるかようわからんが銭は持っとるらしい。で、その海洋研究団体の学生が三人、島の観光協会が止めるのも聞かず、工事中の洞窟の一つに泊ったそうや」
「あの辺は弘法大師や日蓮上人も修行しはった所やで。ほんまにバチ当りな……」
宗右衛門は盆に煙管の雁首を打ちつけて火種をすてると管に残った煙をプッと吹いた。
「三日後にその学生の一人が片瀬川河口の交番にころがり込んだ。体中が薬品で大|火傷《やけど》しとってな。すぐに病院へかつぎ込まれたが二日後に死なはった。死ぬ前にうわごと言いよって、それがマンガみたいなんや。海からおっきな北海|蟹《がに》が出て来て洞窟キャンプを襲ったいうんや。口から変な臭《にお》いの泡吐いて仲間を海に引きずり込んだいう話や。本人は岩場から飛び込んで対岸の海岸公園まで泳いだ言っとるが、どうも何かあって――たとえば酒でも飲んでおかしゅうなったんやないか思われとる。地元では、神聖な洞窟でキャンプ張ったバチ当った言っとるで。保護団体の方では全員日頃から真面目《まじめ》な学生で通っとるし、納得でけん言うてごねたがな。結局は突然なにかでパニック起して殺し合いやったいう警察発表でチョンや。工事に責任持っとった不好はんは警察といっしょになって遺体引き上げ作業やって、遺族に大きな花輪贈ったとかで近所では男上げたそうや」
雁之助はファイルの表紙を閉じ、片手でポンとたたいた。
「ま、こんなとこやな。天六としては、偕老同穴騒ぎで御当地の海産物値段が大幅に動いたらどないしょ言うて来たんやが」
「そないなことあるかいな、しようもない」
宗右衛門は吐きすてるように言った。定吉はじっと考え込んだ。
「まだ何か聞きたいことあるか? なければ早よ行って用事済ませてきなはれ。あんたには身体治してもろて、こっちゃの方でまた掛け取り仕事してもらわんならん」
「その報告書いただけまっか?」
定吉は立ち上り前掛けのシワを伸ばした。
「持ってってええ。こんなアホらしいもん、わいは見とない」
定吉は机上のファイルを取り、ついでに晒に巻いた出刃に手を触れた。
「だめや、置いてきなはれ」
宗右衛門は見逃がさなかった。
「ええか、有次を持つんや」
定吉は宗右衛門を上目使いに見つめたが、そこには憎しみの炎が宿っていた。この棺桶《かんおけ》に片足突っこんだごりがん爺いが! 前の事件でドジ踏んだことに対する折檻《せつかん》をこんな形でやりおってからに。調査仕事を殺人丁稚に押し付けることは、たしかに非常な恥さらしだった。
定吉は、アリスと対談するイモ虫のようにプカプカと煙を吐き続けながら悠然と坐っている老人へ一礼すると、部屋を出た。
3 おいでやす湘南ビーチ
全長二十五・四メートル、自重三十六・二四トン、座席数百六十を持つ東急車両一九八一年製の江ノ島電鉄最新鋭一〇〇〇型連節車は、薄い草色と濃緑に新しく塗りわけられた車体を震わせ、江ノ電竜ノ口の路上を推力約三十トンで轟然《ごうぜん》と夕暮れの海に向って進んでいた。
小動《こゆるぎ》の岬を大きくカーブすると国道一三四号線と平行して灰色の海が眼の前に現われる。
この先約四キロまでを七里ケ浜と呼ぶ。
ちょっとおかしな地名だが、まだ六町を一里と計算していた頃《ころ》、ここの浜が四十二町あったためこう称しているのだ。
江ノ電沿線では一番風景の美しい場所とされ、浜辺の駐車場は年中若者たちの車で埋っている。
付近には女の子が喜びそうなロッジ風のレストランや小物を扱う店が集まり、夏場は女子大生たちが私設のFM放送局を競って開設し、教室内のかしましさを相模湾に向って拡大しているのだが、今の季節、ここを稼ぎ場所にしているのは、夏に人々が落していった金品を金属探知機で探る近所のガキたちだけと言ってよい。
墓場とサナトリウムと高校のある駅を越えた二両連結の車体は、いったん海と分れ、七里ケ浜の無人駅にゆっくりと入って行った。幅の狭い簡素なホームに象の屁《へ》のような音が響き、ドアが開く。
八つ接《は》ぎ・ガンクラブ・チェックのハンチング、唐桟のお仕着せ、紺の足袋に桐《きり》のゲタ、手には唐草模様の風呂敷《ふろしき》包みといった一分の隙《すき》も無い藪入りスタイルで定吉はホームに降り立った。
驚いたことに観光案内では無人駅と書かれているはずのこのホームがなにやら騒々しい。
サーフボードや地図を手にした若い男女が一列に連なり、その一方の端に数人の江ノ電職員が机を出して坐っている。
定吉がホームに立つと同時に車両の乗務員室から二つの影がす早く降り立つ。
ハッとした定吉は袂《たもと》のホルスターに手をやったが、殺気は感じられない。
こうした無人駅では、江ノ電は改札を車両前後に乗る運転手と車掌が行なうきまりであったことを思い出し、定吉はホッとした。
藤沢からのキップを車掌の方に差し出す。
「あれはなんだす?」
定吉はホームの列を指差した。
若者たちは口々に職員をののしりながらサイフを出している。
「ああ、他県のダッセエ奴らが病原菌持ち込んでこの辺汚すのを防ぐために、防疫証明書《イエロー・カード》を調べてんだよ」
ぶっきらぼうに車掌は答えると、笛を吹き鳴らした。電車は再びゆっくりと動き始めた。
定吉は意味が理解できず首をひねっていると、ホームの端から、
「定吉さん!」という声があがった。
住宅地の小道に面したホームの外で背のバカ高い男が手を振っている。
「謙一どん!」
首にタオルを巻き、赤いウインドゥ・ブレーカーを着た異様に背の高い男が顔をクシャクシャにして笑いかけた。
「元気でしたか? 定吉さん」
「わざわざ迎えに来てくれたんか? ちっとも変らしまへんなア」
二人は駅の柵《さく》越しに握手をした。
謙一と呼ばれた男の手はかすかに鮮魚の臭いがする。錯覚でない証拠に手を離すと、いくつかの鱗片《りんぺん》が定吉の手に付いていた。
定吉はこの男を五年前の駆け出し時代、助手に使ったのだった。
「どや稼いでまっか?」
「ぼちぼちだね」
河井謙一は、定吉に昔教えてもらった関西式の挨拶をまだ覚えていた。
謙一は、無人駅でキセル狩りに引っかかった人々の間を抜け、駅裏の街灯の下に停っている赤いスポーツカーに定吉を案内した。
車の助手席側のドアを開けて遠来の客を招き入れた謙一が運転席に回り込もうとしたとき、突如舌ったらずな女の声が二人の背中から聞こえて来た。
驚いて定吉がふり向くと、席の後ろ側にある荷物入れにしか使えない狭いシートからロングヘアーをサイドでまとめた上品な一重瞼《ひとえまぶた》の娘が白いジーンズのスカートから足を大胆にはみ出させて坐っていた。
「ねえ、大阪の人……よね。これ、よろしくおねがいしまーす」
娘のさし出したものは何やらハデなヤシの木と虹の絵、それに水着女の写真がゴテゴテとコラージュされているパッケージの宣伝用ティッシュ・ペーパーだった。
「男の一人旅なんてカッコ良さそうだけどさ、不便なことも多いでしょ、そんときはウチ来てよ。この辺はいちおう風致地区だからさ。表向き、この手の商売は無いことになってるのよ」
定吉はこの娘にキナ臭いものを感じた。
「さよか。そやけどわては遊びやのうて商用やさかい」
「こまるよな、降りてよ。急いでるんだから……」
謙一も何やら危機を感じたらしく、女を降ろすと車を急発進させる。
車の排気音とともに「よろしくお願いしまーす」という取って付けたような挨拶が後ろの方から聞こえた。
車は亡命ロシア人の経営していたバレー教室の前を抜けて国道に飛び出し、材木座方面へ向う。
「あれはいったい何でっしゃろ?」
謙一も首をひねった。
「なんか鎌倉の方に最近できた秘密ファッション・マッサージらしいですね。あんなもの利用しなくたってこの辺にはタダでできるのがゴマンと居るってえのに……」
「ちょっと可愛《かわい》いおなごだしたな」
それにしては、先ほどの漠然とした危機感は何だったのだろう。
定吉は自分の良く訓練され、鍛えられた丁稚《でつち》のカンが働くのを感じた。
ふと、車が気になった。ハデな旧式の日本製スポーツカー。ボンネット・ケースのフタにTANNYとネーム・テープ。
何てことだ!
「謙一どん。これ、あんさんの車か?」
「葉山町役場の多田課長さんが使ってくれって。空いた車は他に無かったし、なにしろこれならここらの女子高生も大喜びしますよ」
「そやな、情報集める時は便利や」
定吉はあきらめてシートへ深々と体を沈めた。
これはみんな彼自身の言葉のたりなさから出たことなのだ。葉山町役場としてはほんの親切心からこの車を回してくれたのだろう。
しかし、こんなものに乗っていたら、我こそは谷町天六の仲間でございと宣伝して回るようなものだ。
定吉は、自分が太鼓を抱えた道頓堀《どうとんぼり》のくいだおれ人形になったような気がした。
万が一を考えて、新幹線を小田原で下車し、バスで西湘バイパスを国府津《こうづ》まで。そこから東海道本線を使って藤沢、そして江ノ電に乗り換えた後も用心のため目的の駅より四つも手前で降りたというのに……。
赤いホンダS600が排気音も高らかに極楽寺のカーブを曲ると、前方には由比《ゆい》ケ浜《はま》の町灯りが輝いていた。
定吉は自分の午前中からの努力が水泡に帰したことを感じ、深い溜息《ためいき》をついた。
しかし、実質的に彼がやってしまったことといったらただ一つしかなかった。
大阪商工会議所の協力者たる葉山町役場に電話をして、車を一台とコーディネーターを一人|斡旋《あつせん》してもらっただけなのである。
道は思ったより空《す》いていた。ちょうど夕食の時間に重なったからだろう。
車が長谷《はせ》から来る道と合流する地点へさしかかった。信号は赤。
車が横断歩道の前で停車すると、だしぬけに後ろからクラクションが鳴った。定吉がふり向くと大宮ナンバーの白いスカGからしきりになにやらわめき声があがった。
「あれは、何言いたいんだすか?」
定吉は湘南に着いてから疑問符ばかり出しつづけている。
「物を知らない田舎モンが、この車を外国の車だと思って、喧嘩《けんか》でも売ってるんでしょう。気にしないことです」
こんなことにすっかり慣れきっているらしい謙一が、それでも舌打ちを交えつつ答えた。
信号が変った。
と、その刹那《せつな》、右側の長谷方向からサーフボードをテルツォのキャリアーに載せた浦和ナンバーの白いファミリア・ターボが一台、定吉のホンダめがけて突っ込んで来た。
謙一があわててハンドルを切り、対向車線上に飛び出して難をさけると、後方のスカGがすかさず前方に発進して横に並んだ。謙一は目まぐるしくハンドルを切り、元の車線にもどろうとするが、同じスピードで平行するスカGのために対向車線上からもとへもどれない。
突然フロントグラスいっぱいに白い光がひろがった。
「ワアッ!」
謙一が左いっぱいにハンドルを切り、スカGの後方に出た。
車体の右側面わずか五センチの所を砂を満載した大型ダンプカーが罵声《ばせい》を浴びせながら擦れ違った。
オープンの車内にディゼルの黒煙が充満し、二人はむせた。
危いところだった。謙一の見切りがもう少し甘かったら、小さなホンダはダンプの車輪に正面から巻き込まれていた。
「チクショウ! あのド百姓ども!!」
汗びっしょりになった謙一がハンドルを握ったまま吠《ほ》えた。定吉もハンチングの間から流れる冷汗を手でぬぐった。
すでにファミリア・ターボもスカGもその姿は見えない。
「どうやらあの車のお人たちは、わてらをいたぶるつもりで待ち伏せしとったらしい」
「え?」
「さあ早よ行きまひょ。どうやら天六はんは何ぞ良からぬ連中に眼ぇつけられとったみたいや」
謙一はなんのことかわからずに、ぐいとアクセルを踏み込んだ。
江ノ電和田塚駅より奥へ入った屋敷町の中、目立たないようにして定吉の宿が用意されていた。
鎌倉に住む小説家や僧侶《そうりよ》を訪問する人々が主に利用する旅館で、一般にはあまり知られていないところだ。
葉山町役場から部屋の予約が来ていたため、定吉は一番良い離れの部屋へ迎えられた。
廊下側が京風の坪庭に面し、反対側は笹《ささ》と石組の美しい寺院風の庭である。
室内は十畳ほどの広さだが、定吉は部屋が気に入った。
なに、庭の美しさではない。庭に面した部分が多いと不意に異変が起きた際、即座に飛び出せるからだ。
座椅子に坐《すわ》り、先ほど浴びせられたディゼルの煤《すす》をおしぼりで拭《ぬぐ》い、渋茶を一杯喫して一息つく。
関西の病院をたらい回しにされ、落ち込んでいた一週間ほど前の生活から比べ、今はなんと充実していることか。
なにしろここには、あの夢にまで見た「敵」というやつが蠢《うごめ》いているらしい。
女中が風呂と食事の都合を聞きに現われたが定吉はことわった。三十分後に謙一が迎えに来る。二人で打ち合わせを兼ねて食事をする予定なのだ。
旅で汚れたお仕着せを脱ぎ、風呂敷から結城紬《ゆうきつむぎ》の一袖《ひとそで》を取り出して三筋|縞《じま》の角帯をサッと締める。
姿見の前に立ち、脇《わき》の下のやなぎ包丁が目立たないのをたしかめている頃になって、黒のチビタイを締めた謙一が現われた。
二人の車――例のホンダS600は金曜の夜の賑《にぎわ》いの中、若宮大路を鶴岡八幡宮に向って音もけたたましく走り抜けた。
三ノ鳥居を右に折れ、鎌倉彫やフランス料理の店々を過ぎると住宅地の中に入る。
「謙一どん、どこつれてってくれるんでっか?」
「大して面白くもない所ですけどね。女の子だけはいっぱいいます」
謙一はまんざらでもない口調で言った。
「雑誌にあまり載らないからいいんです。今どき貴重でしょ。昔、グループ・サウンズでボーカルやってた男が持ち主でね。ブラック・チョッパー≠チて名ですよ」
しばらくは小道がクネクネと曲っていたがやがて川っぷちの一角に蘇鉄《そてつ》の木を何本か植え込んだ駐車場が現われた。その向う側にはミント・カラーのネオンが煌々《こうこう》と輝いている。
車を乗り入れ、二人は店のドアを開けた。
中央に巨大な屋久杉の一枚テーブルが鎮座し、その周囲にはやはり自然木の小テーブルが散らしてある。ロサンゼルスのマリーナ・デル・レイなら三百メートルも歩けばすぐに見つけることができるタイプの店だ。BGMに長い髪の少女≠流している。
客は七分の入りだが、その大半は女性同士かカップルで、男の比率は極端に低い。
定吉はとっさに店の内装費とテーブル数、客の回転率、その他もろもろの経済効率を頭の中です早く見積り、ハッと我に返って一人顔を赤らめた。悲しい大阪丁稚の習性だ。
謙一は定吉が赤面しているのを見て取ったが、それを、女性ばかりの店に入って恥じている、この人はシャイなのだ、と受け取った。
「よう、魚半の謙ちゃん、おひさ」
ひょうきんな声とともに肌の浅黒い、アイビーカットの男が現われた。このクソ寒いのに黄色いアロハ・シャツ一枚だ。
「やっ、店長。儲《もうか》ってそうじゃん」
「こちら、お茶か日舞のお師匠さん?」
「ま、そんなとこだす」
定吉は、大店《おおだな》の者らしくいんぎんに頭をさげた。
「店長、バンドより女の子の席に近いところにしてよ」
謙一が耳うちすると、店長と呼ばれた男はウインクを一発、二人を女子大生らしい集団のド真中のテーブルへ案内した。
定吉は内心閉口したが、騒音の中でこそ秘密は保たれる≠ニ言って地下鉄の中でばかり密議をこらしたイギリス人スパイの故事を思い出し、結局すすめられるまま席についた。
「あの店長は俺《おれ》の親友ですよ」
謙一が黄色いアロハの後姿を指差した。
「この辺のことなら俺より良く知ってる。オカマっぽいけど本当は硬派でね。以前、汐入《しおいり》で黒人のアメリカ兵とナイフの喧嘩して、相手をズタズタにしちまった。自分も二十針ぐらい縫ったみたいだけど」
「えらい荒っぽい人だすなァ」
定吉は自分のことをタナにあげてアキれた。業者と民間人は別モノと考えているのだ。
「で、仇名《あだな》が米兵切り=Bそれじゃあ、あんまり不穏当だってんでブラック・チョッパー≠ナすよ。彼はもともと江ノ島に住んでたんです」
「江ノ島?」
定吉の眼が光った。
「実家が島内の大鳥居横で磯《いそ》料理とおみやげ屋をやってましてね。そこ飛び出して芸能界入り、引退後はここの店ってわけです」
定吉がなにか言おうと口を開きかけたところで、
「お飲みものは?」という声が聞こえた。
店の名前を染めぬいたトレーナー姿のウェイトレスが笑いかけた。
「ええっと、俺はジントニック、定吉さんは?」
「わては医者に禁酒を命じられとりまして、でも……食前酒代りのもんが一つだけあるんやけど……」
定吉好みの丸ポチャな少女が小首をかしげた。
「その……笑いまへんか?」
「この店では料理をできるかぎりお客の注文に合わせてくれますよ。それが自慢なんです。な、美加ちゃん」
美加と呼ばれた少女は思いっきり首をタテに振った。
「ほなら、まず花かつおのダシで取った淡味《うすあじ》の汁にあまり煮すぎない讃岐《さぬき》のうろん。そうやなー、固さは楊枝《ようじ》の先で刺して、ちょっと固いな思うくらいがよろしい。ネギは関東ネギとちゃいます。わけぎや、これを山盛り、あと両面を軽く焼いてタンザクに切ったお揚げさんを二、三枚、擂《す》った生姜《しようが》も入れておくれやす」
「ああ、定吉さんはそれが昔っから好物でしたねえ」
謙一は笑ったが、ウェイトレスは伝票の裏に定吉の注文を必死になって書き込むと、急いで調理場に飛び込んだ。
十五分後、定吉は湯気の立つ丼《どんぶり》を抱え、しきりに箸《はし》を動かしていた。
「うん、こ、これは淡味《うすあじ》や、うんまいわ。千日前の立ち食い程度には、な。しかし、こんなん出すとこ見れば、こ、ここの調理人は関西の人でっかいな?」
「食前酒の代りにうどん食べるとなると関西人しかいない。そう思って味を合わせてくれたんでしょう」
謙一は半分あきれた。
「と、ところでな謙一どん」
ズルズルと音を立てて太いうどんをすすりながら定吉は小声で尋ねた。
「なんです?」
「この辺に住んどるプー・ハオ言う中国人知ってはりまっか?」
謙一は定吉を鋭く見返した。
「ええ、なんかうさん臭いオッサンですよ。横浜の中華街から来たっていうふれ込みでね。近頃、この辺では評判です。七里ケ浜からむこう側では悪く言うやつがあまりいません」
「それはまたどういうわけで?」
定吉は丼を持ちあげて汁をすすった。
「まず、金があります。春巻の工場を片瀬に一つ、シュウマイと月餅《げつぺい》の加工センターを鵠沼《くげぬま》に一つ持っているんですが、ここでの利益の一部を地元に還元すると吹聴《ふいちよう》してます。具体的な行動としては、江ノ島の観光事業に協力するとか言って、稚児ケ淵より先の立入り禁止地区にある史跡の弁天洞を身銭切って補修してます」
「ふーん。ヘイ、ごちそうさん」
定吉は汁一滴、うどん一筋残さず食べ終った。
「近頃では葉山マリーナの横手に、江ノ島のマリンランドよりデカイ水族館まで建てちまって……」
定吉は話にうなずきつつ続いてオーダーしたコールマン・カレーに挑戦《ちようせん》する。
食べ方は異様の一語に尽きた。
ライスとカレーをまず充分に混ぜ返す。白いライスがすべてダーク・ブラウンに染まると台形に型を整え、中心部に窪《くぼ》みを作る。その作業が終了するとここへ、別にオーダーした生玉子を割って入れるのだ。
周囲の席に坐った女の子たちは定吉の行為を驚きと軽蔑《けいべつ》の目で眺めていたが、彼はかまわず千日前・自由軒風<Jレーを作りあげ、ゆっくりと堪能した。
「すごい食べ方するんですねぇ」
謙一は口をポカンと開けてあきれた。
「インディアン・カリーを食ふは、そがふる里のならひなり、や。で、その江ノ島のことなんでっけどな」
「はい」
「プー・ハオはんのやってはる工事現場いう所、一度わても見てみたいんやけど」
謙一は定吉が口元に運ぶスプーンをじっと見つめて答えた。
「むずかしいですね。魚の調査に行った学生が、あそこで死んだって話知ってますか?」
定吉は口いっぱいにカレーを詰め込みながらうなずく。
「それ以前からプー・ハオは、自分のやっている工事が観光客なんかにのぞかれるのをえらく嫌ってたんですけどね。その事件以後、赤外線のセンサー付けたり、ガードマン傭《やと》ったりして、そりゃもう厳重なもんですよ。藤沢の観光課はタダで史跡を直してくれるってんで大喜びでしょうけど、正直言って島の人たちは、もう半分プー・ハオを恐れ始めてんじゃないでしょうかね。口に出しては言わないけど……」
「なぜ、みんなはプー・ハオの好き勝手にやらしとくんだす?」
「あいつを追い出したら弁天様がたたるって話です」
「迷信や。弁天さまは愛と芸能の神さんやで」
「昔っからそう言われてますけどね。今はどうやら違うらしい。工事に反対する島民が、もう何人も行方不明になってます」
「弁天様が日中友好やらはるなんて、世の中も変ったもんだすなぁ」
謙一が何か言おうとしたその瞬間、定吉の目が不吉なものを捕えた。
観葉植物で区切られた隣のテーブルに、見覚えのあるサイドでまとめたロング・ヘアーが見え隠れしていた。
「あの女をつれて来とくなはれ」
定吉が小声です早くいった。
飲みかけのジントニックを置くと謙一は、椅子《いす》ごとクルリと隣の席に体を向けた。
「こんちは、おねえちゃん」
女はブラディ・メアリーの入った細長いグラスを目の高さにさし上げてにっこりした。
「あら、さっきの魚屋さんと丁稚さん」
謙一は女を椅子ごとヒョイと持ち上げるとそのまま軽々と運び、定吉の前のテーブルへドスンと置いた。
定吉と女は向い合った。
「一緒に飲みたいの? 三十分でヤリマン(一万円)よ。デート・クラブもやってんの」
「商売熱心なんだすなぁ」
女は形の良い胸を挑発《ちようはつ》的に突き出し、アーモンド形の眼を瞬かせた。
「俺たちを付け回してなにかおもしろいことでもあるのかよぅ」
謙一がズバリと言ったが、女はプイッと横を向き、定吉にのみ笑い顔を見せた。
「ま、ま、謙一どん、そう言ってしまっては身もフタもないがな」
定吉はまんざらでもない顔で女に笑い返す。
英女王陛下のスパイなら、ここで一発、美しい尾行者を痛めつけたりなどして、読者の嗜虐《しぎやく》趣味を満足させるところだが、人当りの良さが売りモノの大阪丁稚はそんなバーバリアン的行為に走るようなマネはしない。
「こっちが丁稚で、あちゃらが魚屋だとどうしてわかったんでっか?」
「この人の上着は魚臭かったし、ウロコもいっぱい付いてたわ。あんたの方も、大阪のテレビに出てくるマンザイ師がよくやる格好してたから即わかったわ。あたし花登筐《はなとこばこ》が愛読書よ」
女はあたりまえのことを聞くもんじゃない、といった顔でスラスラ答えた。
定吉は舌を巻いた。なんという推理力だ。服装だけで我々の正体を見破るなんて。
「あんさんに聞きたいんや。なんでわてらのようなしょーもないもん付け回しまんのや? 誰《だれ》かにたのまれましたんか?」
女は定吉の質問が聞こえない風を装って煙草をプカリとふかしていたが、急に顔を上げると、アーモンド形の瞳《ひとみ》を再び怪しく輝かせていった。
「そうだ、ここでこうなったのも何かの縁よ。普通は、うち来てやってもらうんだけど、お近付きのしるしに今日は特別にこの場でやってあげちゃう」
「な、なにをしてくれますのや」
定吉は思わず身構え、謙一も腰を浮かせた。
「ふふふ、二人いっぺんに行かしてあ・げ・る」
女の両手がテーブル・クロスの下に隠れた定吉と謙一の膝《ひざ》、そして腰へ進んだ。
「お、おい、こんな所でいったいなにしようってんだよ」
謙一が脅えたような声をあげたが、女はかまわず指先を二人の男の下腹部に這《は》わせていった。
やがてパール・カラーのマニキュアを塗った彼女の両の手は謙一のトラウザースの中と、定吉の着物の裾《すそ》の内側へ入り込んだ。
「だいじょうぶ、あたしね、一ヵ月前まで千葉の栄町でコレ専門だったの。五分持った男《ひと》はいなかったわ」
彼女はたのしそうに小声で告げたが、その眼は中空を彷徨《さまよ》いつつも真剣そのものだ。
「な、なにもこんな、と、ところでやらんでも、え、ええやないかぁ」
定吉はうわずった声をあげた。彼の男性自身を彼女はきわめて巧妙に刺激し続けている。
「しーっ。大声あげたら隣近所の席になにやってるかバレるでしょ。なんだったらあたしのをさわってもいいのよ」
定吉は言われるままに女のスカートの裾から左手を差し込んだ。
彼女の薄い下着の下はかなり潤っている。
定吉がその水分の源流を訪ねようとして指を進ませると、ブッシュの向う側でなにやら固いものにぶつかった。それは同じように湿地探険を行なっていた謙一の指であった。二人は思わず二、三センチほど手を引っ込め合うのだった。
女はトラクターの運転手のように両手で二つのギアを操り続けた。
テーブル・クロスの下でこのような甘美な修羅場がくりひろげられているとは露知らず周囲の席では、女子大生がワインの酔いにまかせて際《きわ》どい噂話《うわさばなし》に花を咲かせている。
ついに二人の男に臨界がやって来た。
あわや、という瞬間、女はす早く手を離し、テーブルの上のオシボリを取ると、テーブル・クロスの下に差し入れた。
「はい、フィニッシュよ。御苦労さま」
二人の男は、ぐったりと椅子にもたれかかった。たしかにこの女はベテランの「射ち出し娘」だった。これだけたて込んだレストランの中で他の人間に気付かれず特種な遊戯が行なえるなど並の腕ではない。
「どう? おもしろかったでしょ。西船《にしふな》のお店にいた頃は、いっぺんに八人行かせたこともあるのよ」
彼女はスカートのシワを直しながら立ちあがると、まだうつろな眼をしている謙一のポケットに手を突っ込み、パラシュート地のサイフを取り出した。
サイフを開け、中から一万円札を二枚抜き取ると顔の前でヒラヒラさせる。
「これ、今のサービス料ね。これで懲りなかったらお店の方に来てよね」
出口に向ってさっそうと歩き出したが、ふと思いついた様子で定吉の前に後もどりする。
「さっきの質問だけどさ、かわいそうだから一つだけ答えてあげる」
ここから先は小声になった。
「あたし、本当はス・パ・イなの」
どうやらサービスであるらしい一言を残して彼女はサッサと出て行った。
「ち、ちくしょう。追わなくっちゃ」
謙一がヨロヨロと立ちあがった。先ほどの刺激でまだ腰がふらつくらしい。
「だいじょうぶや、謙一どん。女はどこへも逃げたりはせん。待っとったら、いずれまた、わてらの前へやって来るやろ」
今日のところは負けたのだ。これ以上追ってもムダと定吉は悟った。
「さあ、わてらもボチボチ引きあげまひょ」
「そうですね。でも……、これどうしましょう」
テーブルの上に置かれた使用済≠フおしぼりを指差して、謙一は情け無さそうな声をあげた。
4 毒のしがらみ浮世の別れ
障子の向う側では鎌倉の雀《すずめ》たちが、朝の刺すような寒さにもめげず白兵戦を演じていた。
「この辺の雀はさえずり声が大きいわ。擦れとらんのやなぁ」
箱膳《はこぜん》の前に正座し、朝食の船場汁≠ノ箸をつけていた定吉は庭の方に耳を傾けた。
前夜あれほどのダメージを受けながらも彼は早朝五時半に起床し、自分でクルクルと寝床をたたむと調理場に行って特別朝食の注文を済ませていた。
目の前の船場汁≠ヘその結果だ。
千六本に切った大根と、塩サバを丸々一匹|鍋《なべ》に放り込み、淡口醤油で煮た単純な総菜汁だが、かつて定吉が船場で修業中おかわりを許されていた唯一の食事だった。
船場汁≠ニ早起きは、定吉の身に染みついた丁稚生活の証《あかし》なのだ。
「や、やっぱり、サバは若狭《わかさ》の一塩モンが一番やな」
手にした椀《わん》の中身を評価しながらも、彼の頭脳は大阪環状線の電車のようにグルグルと回転している。
「本当はス・パ・イなの……」
色っぽい声が彼の脳味噌《のうみそ》の別の部分を刺激し、下腹部に昨夜のしなやかな指の蠢《うごめ》きが甦《よみがえ》ってきた。
そうか、思ったとおり我々は何者かにチェックされている。
谷町天六と平野めぐみの湘南支部は煤払い≠ウれてしまった可能性が高そうだ、と定吉は考えていた。
由比ケ浜交差点での脅しは、かなり荒っぽかったが一種の警告なのかも知れない。
これ以上動けば定吉も謙一も命が無いということか。
おー、おもしろいやないけ、わいかて道修町《どしようまち》の定吉七番と呼ばれた男や。浪速《なにわ》丁稚のド根性見せたろやないかい。見事天六はんとめぐみちゃんの仇討《かたきう》って、四天王寺の境内で万歳三唱したる。と、定吉は朝っぱらから戦意を高揚させるのだった。
「なにを一人でモゴモゴ言ってんですか?」
廊下側の障子が開いて謙一が入って来た。
「おう、昨夜は大変だしたな」
「いやあ、定吉さんこそ……」
思いなしか謙一の瞼の下が幾分黒ずんで見えた。
「今日は土曜日やから、役所は半ドンでんな」
「そうです」
「なら、わいはこれからすぐに葉山町役場行って調査せんならん。謙一どんにはたのみがおます」
謙一は定吉の残した箱膳の向いに坐り、船場汁をもの珍らしそうに突つきながらうなずいた。
「あの赤いホンダをなんとかせんならん。わて、昨夜寝ながら考えましたんやけど、まず、その辺でわてらと同じ背格好の若いもん二人ほど見つけてな、あの車乗っけてどこぞ遠くへ行かせてしまういう手ぇはどうでっしゃろ?」
「いいですね。海浜公園あたりにゴロゴロしてる学生に金わたして、東京駅のパーキング場に車放り込ませるって方法が一番スマートだ。何日かは自由に使っていいってことにすればそいつらも喜びますよ。女ひっかけるには手頃な車ですからね」
「そうやな、なるべくゴチャゴチャと走り回った方が尾行者も混乱する、早速たのんますわ」
「へい、それじゃあ」
謙一は立ちあがる。
「湘南の人間以外の連中には気いつけてや。夜また連絡取り合いまひょ」
謙一はスティビー・ワンダーを口ずさみながら玄関に出ていった。
「さてと……」
膳をかたづけ、脇息《きようそく》に片肘《かたひじ》をついた定吉は食後の習いとして梅ぼし仁丹を何粒か口に含んだ。
敵の正体をまず明らかにせねばなるまい。さしあたって一番怪しいのは、湘南の怪人プー・ハオだ。失踪《しつそう》の直前まで谷町天六が探り続けていたのは彼のことだった。
江ノ島に私財を寄進することは、平安の初期以来いくらでもその例があり、別に珍らしいことではない。しかし、プー・ハオのやり口は少々度を越している。単に弁天様に対する信仰心が篤《あつ》いというだけでは説明がつかない。
海水に浸食された洞窟《どうくつ》がどれほどありがたい場所か知らないが、そこに、赤外線の警報装置や強力なガードマンまで備えるというのはまったく異常だ。
「なんや、ずいぶん銭があまってはるお人のようやな」
定吉は帳場に通じる電話に手を伸ばすと、タクシーを呼ぶよう命じた。
三十分後、定吉の姿は葉山の道路沿いに立つ古い町役場の待ち合い室にあった。
お茶を運んで来た女性の窓口係は、唐桟のお仕着せ姿で、八つ接《は》ぎのハンチングを所在無さそうに両の手で玩《もてあそ》んでいる定吉を見て首をひねった。うちの町長にこんな上方の若手落語家がなんの用なのだろう。人気取りのため老人ホームでのイベントでも企画しているのだろうか?
やがて実直そうで腰が低いが眼光だけはやけに鋭い男が、先に立って隣の町長執務室へ案内する。
入って左側の壁に葉山一帯の航空写真、右側に油絵や仏像の写真を飾った室内の一番奥に、紺のスーツで固めた小柄な男が立っていた。
グレーの髪、酒飲みらしい赤ら顔に一面笑みを浮べたこの男が大阪商工会議所と密《ひそ》かに情報を通じ合っている葉山町長その人であった。
定吉は新らしく履《は》き下《おろ》した雪駄をパタパタと鳴らしながら小走りに町長の前へ歩み寄る。
十円ハゲを見せながら、ペコンと一つ挨拶《あいさつ》をすると懐から一通の美濃紙の封筒を抜き、町長へ差し出した。
「お初にお目もじいたします。わてが定吉でおます。これはうちの上層部からの使い状で」
「ああ、お宅の営業部からの電話が三日ほど前に入っているよ。君がトラブル・シューターの定吉君だね」
町長は手紙の封を切りながら、定吉に手前のソファーをすすめた。
入口には先ほど案内してくれた男――町長の片腕である多田課長――が両手を組み、二人を見守っている。
町長が申し送りを読む間、定吉は葉山の実力者ナンバー1とナンバー2を交互に観察した。
小柄な町長はん、これはおのれの野心を隠そうとはしないタイプ、酒が入ればわしゃやり手音頭≠ナも踊る人やな。ここに立っとる大柄な課長はんの方は……。
「なるほど、失踪した谷町天六君の調査というわけか。私も彼とは入魂《じつこん》の間柄でね。良かろう、ここにこうして大阪金曜会からの依頼もある。なんでも協力しようじゃないか」
関西財界人の大物たちが月に一度、第二金曜日に北浜のうなぎ屋で集い、一つのうな重をまわして突っつくという金曜会の名前はこの名声好きな町長の脇の下をくすぐるだけの力があった。
「なんでもおっしゃって下さい。具体的にはどのようなことから手をつけますか?」
多田課長が定吉の目の前五センチのところまで顔を近付けてもみ手をした。
「そ、そうだすなぁ。ほなら、最近のこの辺のうわさ話……たとえば、埼玉ナンバーの車が悪さばかりするとか、江ノ島で妙な話があるとか……」
「中国人のプー・ハオ氏に関する情報とか」
町長はさもあらんかなという顔で言った。
「町長はんはなぜそれを?」
「谷町天六君もあの中国人にはえらく御執心だったんでね。君もそう言うと思ってた。どれから話そうかな。埼玉の人たちの話からしようかね」
「へえ、おねがいしま」
町長はラークを口にくわえた。すかさず課長がサッとライターの火をつける。
「御承知のとおり、当地はW・S・F、つまりウインドサーフィン発祥の地でね。今から十年前、日本全国合わせても十艇ぐらいしか無かったころ、森戸海岸で最初のクラブが組織され、以来関東各地の大学がここをホームスポットにするようになった。若い人向けの雑誌が書きたてるものだから、五、六年前ぐらいからかねえ、休日になると埼玉や千葉の車が国道一三四とか海岸通りを埋めつくすようになってね」
町長は航空写真のパネルに写った道路を指差した。
「こういう他所《よそ》から集ってくる人々を、古くからここに住んでいる人たちはいろいろ悪く言うがね。私はかならずしもこういった意見に賛成しているわけではないんだ。なにしろ彼らは葉山という場所に良いイメージを持ってくれているし、サイフのヒモも緩めてくれる。観光という面からみれば、実にありがたいお客さまというわけだ」
「けど、いっぱい来れば中には良からぬこと考えとるやつも混ざりまっしゃろ。現にわては昨日、埼玉ナンバーの車に悪さされましてん」
定吉は、きのう着いたばかりの由比ケ浜で受けた路上の嫌がらせをひかえめに説明した。町長はこんな話を聞きなれているらしかった。
「たまに楽しそうな場所へ出て来た若いモンが盛りあがってバカなマネをする例は多いね。でも、……おかしいな。私の乏しい知識では、普通、この辺に来る埼玉の人は、他の県の人たちよりおとなしい傾向にあるんだがねえ」
「はあ、そうでっか」
定吉は課長に勧められて皿の上の一色名物きな粉のそば団子を口に入れた。
「さて、プー・ハオ氏についてだが、うちの役場でも彼のことは一応調べている。去年、葉山マリーナの裏に水族館を建てる申請を出した頃にね」
「その資料は文化施設課に行っているはずです。持ってこさせましょう」
課長がドアを開けて首だけ出し、事務員を呼んだ。町長は話を続ける。
「我々がなぜプー・ハオ氏を調べたかと言うとだね。最近では文化施設と称して風致地区におかしな建物を作ってしまう連中が多いからなのだよ。女体秘宝館とかプイプイ教の総鏡張り拝火寺院とか。陛下の御研究の場から目と鼻の先にそんなもん作らせるわけにはいかんからね。幸い、プー・ハオ氏の場合は真面目《まじめ》なもので、大型魚類用の温水槽や、教育展示室などを備えた立派な水族館だった」
「プー・ハオ氏の人となりはわかりまへんか?」
「それが、横浜中華街の市場通り奥に十数年前ふらりとやってきて、漢方薬の卸《おろ》しと頼母子講《たのもしこう》で財産を築きあげたという以外まるでわからんのだ。江ノ島でのおかしなふるまいは私も聞いているがな。これとて、地元民の表立った苦情がまだ出ていないからなんとも言えん。それに、あそこは藤沢市の管轄だ。これ以上くわしい話は資料を見て欲しい」
女子事務員がもじもじと部屋に入って来た。
「あのー、町長、実はまことに言いにくいことなんですが……」
「ん、どうしたん?」
「その、ファイルはあったんですが、調査報告書の中身がスッポリと無くなってるんですぅ」
女子事務員はすでにしくしくと泣き始めている。
定吉は困ったなという顔つきで、タイトスカートに包まれた事務員の大きなお尻をながめ続けていたが、内心、やっぱりそうか、とつぶやいた。
昨日、定吉がここに到着することを知っていたのは、謙一以外にはこの役場だけなのだ。情報漏れはここしか考えられない。
なにしろ、町長の横で女子事務員をなじっている有能そうな多田課長にしても白いワイシャツの下に鹿島・香取のお守りを下げている――定吉は先ほど課長に接近された際、シャツの下に透けて見えるお守りの文字をす早く読み取っていた――やはり北関東人なのだから。
江ノ島近辺の地図を三種類、役場の厚意で譲り受けた定吉は、一色のそば屋で二八そば≠町長とともに食した後、葉山を辞した。
町長は、彼に一色の警察署へ立ち寄って、さらに情報を集めることをすすめたが、これは丁重に断った。
葉山町役場が情報漏れを起していると予想されたうえは、一刻も早くこの地を立ち去るのが上策であった。たとえ葉山警察署に出かけて行っても、中身の無くなったファイル・ケースがルイス・キャロルの描くバター付パンみたいに頭上で飛び回るのが落ちだろう。
町長差し回しの車も辞退し、一色海岸より京急バスに乗った定吉は、名越の切り通しを抜けて鎌倉駅東口に出ると、そのまま段葛《だんかずら》をブラブラと歩き、鶴岡八幡宮へ向った。
彼は、信仰心のあつい丁稚らしく、本宮、若宮、丸山稲荷社、白旗神社の順に参拝し、来たるべき戦闘の勝利を祈願した。その後、参道横でイカ焼を一つ購い、小町通りの店々をひやかしつつ宿のある方向へ歩く。
尾行者らしい影はまるで感じられない。薄気味悪いくらいだ。
さて、室で少し湘南の勉強でもしようかい。定吉は旅館の玄関をくぐりながら、懐に入れた地図の重みを手で計り続けていた。
謙一からメッセージでも届いていないか、と帳場をのぞいてみる。
「そのような方からは、なにも……。でも、葉山町役場のお使いの方が手桶《ておけ》をお客さんにと」
帳場のおかみが、この上方《かみがた》から来た上客にこれ以上は無理だと思われるほどの愛想笑いを浮べた。
「はあ、何時頃のことだすか?」
「お昼……ごろでしたかしら」
「お使いの方はどんな風体だっしゃろか?」
「若い人ね。学生さんのアルバイトみたいな」
「さよか、おおきに」
定吉はちょこっと小首をかしげたが、すぐに顔をこわばらせると廊下を小走りに自室へ急いだ。
部屋に面した庭の茂みや庭石の裏にあやしの影が無いことを確かめると、袖口《そでぐち》のやなぎ刃に右手を付ける。
障子の引き手を一気にサッと開けはなし、中に飛び込む。
床ノ間の前で一回転し、部屋の隅で室内の様子をうかがうが何事もない。定吉が朝出かけた時のままの状態と何ら変りはなかった。
いや、違う。
部屋の真ん中に置かれた座卓の上で一つの手桶がその存在を定吉に向って誇示していた。
木の香がプーンと匂《にお》う真新しい檜《ひのき》の桶。
定吉はズズッと洟水をしゃくり上げると、座卓に近寄った。
桶に耳を当ててみる。
時計の音は聞こえない。ゆっくりと蓋《ふた》をずらしてみたが、これでも何も起きない。
中身は見事なサザエが八つ、荒塩と海草の褥《しとね》に横たわっていた。まだ生きているらしい。
蓋に手紙が付けられていた。毛筆で、
「粗末ながら片瀬名物の栄螺《さざえ》をお届けいたします。御賞味願えれば幸いと存じます……云々」とあり、贈り主は葉山町長名になっている。
定吉は桶の前に正座し、しばらく考えた。
このサザエがここへ届いた頃、わては町長はんとソバ食うとった。自己主張の強い町長はんのことや、もし、自分が宿にこれを届けとったら、きっとわてに贈り物のことを先にしゃべって、ついでにこの辺の海の自慢でもひとくさり唱えるはずや。これは断じて町長はんがくれはった物やない。と、なると……。
定吉はニヤリ笑うと、部屋の違い棚の上から唐草の風呂敷包みを取り、中から丁稚の七つ道具の一つ、裁縫箱を出した。
未使用の京都中京区三条通河原町西、白井彦太郎商店製|御《おん》みすや針を一本手にすると、先の方をペロリとツバで濡《ぬ》らし、八つのサザエの中から一番大きそうなヤツを取りあげた。
「おいしそうなやっちゃなぁ」
しばらくは、ためつすがめつしていたが、やがてサザエの蓋の間から針をズブリと突き刺す。
刺激を受けたサザエは蓋からはみ出した肉をモゾモゾと動かした。
中国|鍼灸《しんきゆう》の達人にも似た手つきで針をゆっくりと抜き取った定吉は、その先端をジッと凝視する。
銀色に光っていたみすや針の先が、しだいに鈍く色付き始め、ついには焼き入れをしたかのごとく青黒い色に変化した。
「思ったとおりや」
定吉は自分の行動の結果に少しの間|慄然《りつぜん》とした。
調理したものならともかく、まだ生きているものに毒を仕込む。なかなかの手口だ。安直な運搬方法さえやらかさなければの話だが。
定吉は、非合法活動時における丁稚行動マニュアルの通り動いたことを天に感謝した。
一つ一つ針を取り代えて残り七つのサザエに対し、同じ検査を行なったが、いずれも針の先は酸化現象を起した。もしかしたらサザエ自身に強い毒性があるのかも知れない。
数年前、研修で行かされた曾根崎新地の割烹《かつぽう》「いず万」で、毒味役の板前貝投げ門ちゃん≠ェ講義した生物毒の話を定吉は思い出した。
気を静めるために梅仁丹を二粒ほど口に含む。
廊下をドタドタと歩く音が近づき、謙一が障子の陰から顔をのぞかせた。
「帳場へ行ったらもう帰ってるって聞いたもんで」
「ああ、御苦労はん。首尾は?」
「上々ですよ。一メートル七十八以上のやせた学生二人、材木座海岸で声かけてうまく車を渡しました。大喜びで藤沢の方へスッ飛んで行きましたよ」
「そら上出来や」
謙一は座卓の上に載ったサザエの桶に目をやった。
「おっ。こりゃあ豪勢だ。夜はこいつのツボ焼でイッパイ」
「あかん。食うんやったら、白装束で首に数珠かけてから箸つけなはれ」
謙一の顔色がサッと変った。
「またー、冗談ばっかし」
「わての眼え見てみ。本気やで」
謙一は定吉の眼をジッとのぞき込んだが、プッとふき出した。
「うーそだ、うそだ。眼が笑ってんだ」
定吉は、情け無くなった。わての眼はマジな時も笑ってるように見えるんやろか。
「ほんまやで。あんたも漁師の端くれなら、このサザエ見てなにかわかりまへんか?」
謙一はしげしげとサザエを見た。
「本当だあ。殻に変な縞が付いてるし、角もおかしな形してらあ。こりゃあ、この辺のサザエじゃないですね」
彼は荒塩をはらいのけながら桶のサザエを子細に観察する。
「敵はわてらを消すことに本腰入れ始めたらしいで」
「では、やっぱりプー・ハオが?」
「そうや。わての考えでは、これは日ノ本のサザエやないな。昔、大阪・安治川《あじがわ》岸の市場に、これと似たもんをアフリカ沖から帰った船が、少量、陸上げしたいう話、聞いたおぼえがあるわ。業者の一人が鮮度落ちるんをイヤさに食品検査所通さず、料亭に卸したそうや」
定吉は辛《つら》い見習い時代に聞いた話を思い出して言った。
「イカモノ食いの堺筋《さかいすじ》の旦那《だんな》はんが、御ひいきの浄瑠璃語《じようるりかた》りをぎょうさん引きつれ、そこの料亭行ってコレ食べはってん」
「で、食った人はどうなりました?」
「七転八倒した末に、全員紫色に変色してあの世行きや。おかげでその年の豊本座は興行が出来へんかった」
謙一は鼻のそばまで持っていったサザエをあわてて桶の中に投げ落した。
「世にも希《まれ》なるアフリカ産の毒サザエをなぜ生きたままここに届けることが出来たんか……」
「水族館なら、こんなゲテモノ飼っとくことも簡単ですよ」
謙一は眼を輝かせた。
「これで敵の正体はだいたい掴めたで。天六はんとめぐみちゃんは殺されはったんや。犯人は、江ノ島の怪人や!」
定吉はスックと立ち上って江ノ島の方角へ腕を伸した。しかし、そこは旅館の一室であった。定吉の指の先では床ノ間に置かれた赤銅の布袋《ほてい》様が花月劇場の客にも似た下卑た笑いを浮べている。定吉はガックリ来た。
「ま、ともかく合戦の陣太鼓が鳴ったんや。向うがぐちゃらぐちゃらとやって来る前に先制攻撃したろう思います。江ノ島の内情が知りたいわ。きのうの夜行ったお店の店長はんにここは一つ協力願いたいところなんやけども」
「幼なじみだ。俺がたのめば一発です」
謙一は京都岡崎の動物園ゴリラのように胸をドンとたたいた。
「善はいそげや。今夜、店長はんのお店が引けた頃、すぐにミーティングしまひょ。場所は……。ここはもうマークされとってマズイわ、な」
「じゃあ、うちの海の家でやりましょう。七里ケ浜に一軒しか出ていないからすぐに場所はわかります。周りは見通しのいい浜辺だから怪しいやつも近づけません」
謙一は右手で右膝をポンと打つと、漁師らしい荒っぽい身のこなしで勢い良く立ち上った。
「ほなら、夜の一時過ぎに、そこへ集合や。わても変装して出かけます」
謙一が武者震い――それとも恐怖心、はたまたトイレを我慢していたのか――で全身をマウマウ団の踊りのようにゆすりながら帰って行った。
まだ日は高かったが、定吉は夜に備えて仮眠を取ろうと考えた。
帳場に電話をして、例の関西風淡口うどんを二玉分作るよう頼み、床をのべると、『ドライブに、旅のお伴に、読んで楽しいリゾート・ガイド・横浜湘南編』と、『信仰とロマンの江ノ島、裸弁天の御利益』の二冊を持ち込んで読み始めた。
やがて、女中がうどんを運んで来る。定吉は布団から顔だけ出してこれをすすり込んだ。
満腹と緊張が重なった結果だろうか。やがて上の瞼《まぶた》と下の瞼がぴったりと合わさり、彼は浅い眠りについた。
定吉は、なつかしいキタの曾根崎センター街南口に立っていた。目の前にあるコンクリート製の社殿はお初天神だ。境内の小さな飲食街に定吉はフラフラと歩いていく。とある一軒の茶店の前で、かいがいしく水を撒《ま》いている紺絣《こんがすり》姿の娘。
「お、お孝《たか》ちゃんやおまへんか」
「あら、定吉はん。いつ東京から帰ったん?」
お孝と呼ばれた娘は丸っこい顔でニッコリと笑いかける。
定吉の恋人、増井屋のお孝ちゃんだ。
「今さっきの新幹線や。元気にしとったか?」
「うん。うち、定吉はんの掛け取りうまく行くように、毎朝お初天神さんお参りしとったんや。無事でよかったなぁ」
「お、おおきに、これおみやげや」
定吉はもじもじと東京|羊羹《ようかん》と名菓「ひよこ」をさし出した。
「まあ、うれしい。うちお上り。これでお茶にしまひょ」
お孝ちゃんは、愛らしい白い指で定吉のほっぺたをツンと突いた。
でへへへ、テレ笑いをした刹那《せつな》、彼は目を覚した。
布団の中だ。枕《まくら》もとのアラームは、二十時三十分を示している。室内は天井の小さな予備灯だけで薄ぼんやりとしていた。
まだ起き時やないな。
定吉は妙な気分になっていた。夢の中でお孝ちゃんに突つかれた指の感触が、まだ片頬《かたほお》に残っているのだ。
「なんや、あほらし。もうひと寝入りしよかいな」
寝返りをうった彼は、反対側の枕もとに恐るべき現実が這い回っていることを知って、口から心臓が飛び出すほど驚いた。
目の前に、東宝特撮時代の名脇役「南海の恐怖エビラ」が添い寝をしていたのだ。
そいつは、ジクジクと気味の悪い声を上げながら十本の足と長大な触角を蠢かせて定吉の顔面に這い上ろうとしている。
布団の内側でも何やら小猫ほどの大きさの物体がもぞもぞと蠢き、定吉の脚に接触している。どうやら同じタイプが二匹いるらしい。
大声をあげてそいつらを壁にたたきつけたい衝動を定吉はかろうじて押えた。
まさか、こいつは……。いや先ほどの毒サザエのやり口を考えれば、これが毒持ちの伊勢|海老《えび》でないと誰が断言できよう。動いてはまずい。
観察や。よく、観察するんや。
海老であることはまず間違いない。十本の足、甲殻類独特の外観。
次に色、伊勢海老ならその場の状況に合わせて若干の保護色変化を起す。
しかし、こいつは何や。白い布団の上に居ながら、毒々しい赤紫色やないか。おまけに甲の上には錦《にしき》ヘビみたいな斑点《はんてん》も付いとる。
定吉が脂汗《あぶらあせ》を四六のガマのように滴らせ、必死の生物観察を続けている間も、侵入者たちは定吉の頭と太股《ふともも》の上に乗りあげていった。
やはり間違いない。南太平洋ビチアス諸島近辺に分布する猛毒の蛇紋海老《スネーク・スパツト・ラブスター》! 攻撃性の強い海老で、ダイバーがよく襲われる。こいつも数年前、生造りを作ろうとした天下茶屋の名包丁師を返り討ちにして関西の調理人の間では名を知られるようになった海老や。
大変なお客が来てしまったもんやで。
不意に腰のところで蠢いていた一匹が寝巻の中から定吉の褌《ふんどし》――彼は芯《しん》から和服党なのだ――の方へ向った。い、いかん!
昨夜、マッサージ娘に弄ばれた時の感覚がまたしても下腹部に甦った。くすぐったさのあまり、定吉の男性自身もムクムクと動き始める。全身の動きを止めても、こればかりはどうにもならない。もし、やつが次第に大きくなって行く彼の一部を敵と誤認し、その毒の鋏《はさみ》でちょっかいを出したら一巻の終りだ。
もう一匹の方は定吉の頭髪の中に足をからませたらしく、ギリギリと唸《うな》っている。
定吉はなるべく平常心を持とうとした。助平なことを考えたら最後なのだ。まずは、なんとか下半身の刺激を忘れよう。
彼は目をしっかりと閉じ、あのゴリガン爺い宗右衛門の水着姿を思い出した。これはてきめんに効いた。皺《しわ》くちゃでお迎え染《じ》み≠フ浮き出た身体を連想するたびに下腹部の充血は引いて行く。
頭の方にいたやつは、やっと枕の向う側に去った。代って布団の下に隠れていた海老が定吉の腹を昇って現われる。先ほど枕の横で添い寝をしていたやつよりデカイ。
凶悪そうな面構えだ。蜘蛛《くも》に似た毒の牙《きば》を泡で濡らしながらさかんに触角を振り回す。
ついにこいつも定吉の顔を多くの足で踏み付けながら枕の下へ降りた。
パリパリと畳の縁を這う音を確かめてから定吉は勢いよく布団を蹴《け》った。
蛍光灯のスイッチを入れる。四、五十センチは有ろうかという海の怪物が、突然の光の中で右往左往している。
定吉は迷うことなく床ノ間へ進み、銅製の布袋《ほてい》様を持ち上げると力いっぱいそのうちの一匹にたたきつけた。
グシャッという音とともに甲羅が壊れ、足と白身の肉が飛び散った。
「このド外道《げどう》が! 死にさらせィ!」
もう一匹の方にも布袋様を投げつける。
重い赤銅の置き物を落されてなお、紫色の尾を盛んに振り続けるしぶとい海老に、我を忘れた定吉は二度、三度と攻撃を加えた。
気がつくとあたりは酔漢の乱闘に巻き込まれた寿司屋のような様相である。
海老の千切れた脚や臓物の散乱する中にヘナヘナと腰を降した彼は、しばしの間、口の中でもごもごとお念仏を唱えた。
不意に定吉の耳が何かを感じ取った。
どこかで、人のすすり泣きが聞こえて来る。それもごく身近なところで……。
物理的な攻撃が失敗した敵が、心理攻撃に切り替えたのか?
小さい頃に阪神パークの納涼お化け屋敷で恐さのあまりオシッコを漏して以来、この手の脅しにまるで弱い定吉だった。
敵は彼のお化け嫌いを知っていて、第二弾の手を打ってきたのだろうか?
一瞬ゾッとした定吉は耳をさらに澄ました。
泣き声から判断すると、どうやら女らしい。
しゃくりあげる泣き方、ときどき洟水をすする音も聞こえてくる。なんともしまらない泣き声だ。
気を取りなおした彼は乱れた枕の下から、先ほどは抜く暇の無かったやなぎ包丁を取り出す。
声は床ノ間横の違い棚近くから発せられている。そこには人が一人隠れることの可能な引き戸が付いている。
包丁を逆手に持った定吉は足音を忍ばせて引き戸に近付いた。
戸は腰より低い位置にある。片膝をつき、右手に鈍く輝くやなぎ刃を擬した彼は、左手を引き手にかけてひと呼吸の後、勢い良く開いた。
「あっ! あんさんは……」
そこには、涙で濡れたアーモンド形の瞳が二つ、定吉をにらみつけていた。
「あたしの大事な健二君とあつし君を殺したのね」
黒いトレーナーに黒いジーンズ、スニーカー姿。典型的な忍び込みスタイルの彼女は真っ赤に泣きはらした眼で彼の背後に散らばった小間切れの肉片をうらめしげに見つめた。
「そないな窮屈なところに入っとったら話もでけしまへんやろ。出て来なはれ」
女は意外に素直な態度で定吉の前に這い出して来た。
「ま、そのへんへ適当に坐《すわ》んなはれ」
相手が抵抗する意志を持っていないことにホッとした定吉は、それでも包丁を持つ手を背に回して隙《すき》を見せずに言った。
が、その用心もさして必要無さそうだった。女は、畳の上に落ちていた海老の足を拾いあげると、ショックを受けたらしく、またひとしきり泣き始めたのだ。
「ああ、この足は健二君のだわ。ほら、ここに仲間と争った時の傷がある。卵のうちから育てて、孵化《ふか》した後はエサと温度に死ぬほど気を使ってここまで大きくしたのよ。手から餌《えさ》を食べたり、火の輪|潜《くぐ》りも覚える利口な子だった。毎朝、うちの近所を散歩させるのがあたしの日課だったのよー」
作家プルーストは、自分の飼っていた大海老《オマール》にリボンを付けてシャンゼリゼを歩かせ、パリ市民から拍手|喝采《かつさい》を受けたそうだが、この女もどうやらその文豪程度には変っているらしかった。
「そら、すまんことしましたなあ。かんにんやで」
自分が殺されかかったこともコロッと忘れ、彼は頭を下げた。女が涙を見せると急に軟化するのが彼の欠点だった。
「二年物の蛇紋海老がどれほど貴重なものか、あんたなんかにはわからないのよー」
「はいな、そやからこうしてあやまっとるやないですか」
定吉は立ち上ると掛布団を持ちあげ、海老の死骸《しがい》の上へふわりと置いた。
「ほら、こないしたらもう、健二君もあつし君も見えしまへん? 無いないや」
その場かぎりの取りつくろいをするところが定吉のもう一つの欠点だった。
女はやっと泣くのをやめた。と同時に、自分が今置かれている立場がわかったらしい。ひどくおびえた表情になった。
「あんさんが毒伊勢海老使いとわかったからは、ただ帰すわけにはいきまへんな」
彼は、つごもりの掛け取りに現われた集金人にも似た、精一杯のハード・ボイスを出した。
「お願い、助けて。健二君とあつし君を失った今、あたしはなにもできないただの女よ」
「そないなことおますかいな。あんさんは、ゆうべレストランのテーブルの下で、わてと連れのもんを死ぬほどの目にあわせたテクニックの持ち主や。危険人物でっせ」
女は定吉の顔と右手の包丁を交互に見比べて言った。
「あ、あんな技術ではしばらく相手の戦闘能力を奪うだけの効果しか持ち得ないわ。近頃の女子大生には相手を悶死《もんし》させる技を使える人も多いけど、あたしはタダの風俗営業の娘よ。とてもそこまでうまくはないわ」
「けどなあ。敵とわかった人間をこのまま放免するいうことは、丁稚《でつち》規定第六項に違反しますのや」
「お願い、助けて」
「よわりましたなぁ」
女の哀願に弱ったそぶりを見せて、ポリポリと十円ハゲをかきつつも、定吉の目は物欲し気に彼女の胸や腰を這い回る。
魚心あれば水心と正面切って言えないところが彼の第三の欠点であった。
さすがに古都鎌倉で秘密マッサージ・パーラーを営業する豪胆な女のこと、すぐさま定吉の心を読み取ったようだ。先ほどの涙が残った瞳が怪しく輝き出した。
やったわ。初めて会った時からこの男は女に弱いと感じたけれど、ここまでひどいとは思わなかった。うまく行けば命が助かる。それだけじゃない。潰《つぶ》されて哀れな最期を遂げた可愛《かわい》い健二君とあつし君の仇が討てるかもしれない。よし、このゼイロクの寝首をかいてやる。
「あたし、強い男の人って好きよ」
「でへへへ、そ、そうだっか? わ、わて、他の面でもつおい言われまんのやで」
はだけた寝巻からのぞく裸の薄い胸へ崩れるように上半身を預ける女の肩を抱き寄せ、定吉は、役得、役得と心の中でつぶやき続けた。ロングヘアーから匂う発情した女の匂いが彼の鼻腔《びこう》を抜け、左大脳部をくすぐる。
二人は乱れた布団の上へもつれ合うようにゆっくりと倒れ込んで行った。
嗚呼《ああ》、定吉の運命やいかに。
通常、この手の小説では、主人公をメロメロにしようとして接近した敵の女スパイの、そのすべてが主人公の持つ独特の魅力――体力、テクニック、その心根――などにコロリと参ってしまうものなのである。ナポレオン・ソロしかり、プリンス・マルコしかり。筆者の乏しい読書体験の中で、これに当てはまらない女スパイを探せと言われたら、記憶にあるのはただ一人。あの斜陽帝国最後のすけこまし、ジェームス・ボンドにナイフ・シューズで果敢に立ち向ったソ連|殺人局《スメルシユ》の大佐ローザ・クレッブおばさんだけである。
もちろん定吉にはボンドほどの体力も無ければ、マルコほどのテクニックも無い。
だが、二十分ほど暗がりの中で揉《も》み合った末、最初のあえぎ声を発したのはなんとホテトル娘の方であった。
「わあ、な、なんなの。この感じ、へ、へんよ。変なのよ。下の方が自分のものじゃないみたい」
湿った声を発しながら彼女は闇《やみ》の中に白々とした左右の太股をうねらせ、熱い粘膜質で定吉を締めつけた。
「そ、そうやろ、イイやろ。お手合わせしたみなさんそう言ってくれはります」
定吉は肉の薄い、見るからに情け無さそうな尻《しり》を動かしつつ答えた。
すでに女の下に敷かれた布団は、失禁と見まごうばかりに濡れそぼっている。
これはいったい何としたことであろう。
定吉は性に関する超能力でも持っているのだろうか。
タネを明かせば簡単なことである。定吉は女の隙を見て帯の間に挟んだ容器から媚薬《びやく》を取り出し、女の陰核へ塗りつけたのだ。
それはただの薬ではない。アレルギー症の彼が日頃愛用している山城笠取山の毒消し「大濫膏《だいらんこう》」だ。
京都山城の古刹《こさつ》濫寿寺《らんじゆじ》の寺僧が室町末期から細々と作り続けているこの軟膏《なんこう》は、アレルギー症の人間にとってはただの塗り薬だが、普通の人の、それも粘膜に使用すると、スパニッシュ・フライやコカイン以上の催淫《さいいん》効果を発揮するのだ。これこそ定吉が包丁の次に得意とする武器であった。
女はセックス産業の尖兵《せんぺい》としての意地を見せて堪えつづけたが、数秒おきに襲って来るわけのわからぬ絶頂感には抗いがたく、ついに三十六回目のクライマックスとともに定吉の胸に顔を押しつけて気を失った。
それは、室町時代以来約五百年、京に息づいて来た伝統の力が現代の消費思想に勝利した瞬間でもあった。
嵐《あらし》は過ぎ去った。
女は定吉の細い腕枕の中で、満足そうな笑みを浮べて煙草を吸っていた。
アレルギー性鼻炎の定吉はその煙が気になったが、映画の中の色男が情事の後のシーンで演じるように、彼女の頭をやさしく撫《な》でながらなんでもない顔を続けた。
「人は見かけによらないって本当ね」
ウフフと含み笑いをした女は定吉の肋骨《ろつこつ》が浮き出た胸を細い指先でなぞる。
「あんなに乱れたの初めてよ」
それから、彼女は恥かしそうに定吉の顔に口を寄せると、彼の耳たぶを軽くかんだ。
「世の中には色ごとでピッタリと息が合ういうことはそうザラにはおまへん。もしかしたら、わてら前世は番《つが》いやったのかもしれまへんなぁ」
我ながらよく言うわ、と心底では思いつつも口ではそう話す定吉だった。
今や女の心は完全に定吉のものと思われた。
女のうなじへ舌を這わせて逆襲に出た彼は、形の良い耳の穴へイソップ童話の鶴《つる》が壷《つぼ》中へ石を投げ入れるように質問した。
「あんたはプー・ハオに雇われとるんやな」
女はプー・ハオの名に一瞬体を固くしたがすぐにまた軟体動物にもどった。
「そうよ。でも、暗殺者やセックス労働従事者として雇われているわけではないわ。あたしの本当の仕事は魚の飼育係よ。イヤーン、そ、そこちょっと弱いの……」
媚薬のききめがまだ残っているらしい。
「そやからあんなに海老を可愛《かわい》がってたんやな」
「うん。あたしはプー・ハオ博士の水族館にも勤めているの。暗殺と風俗営業はサイドビジネスよ。もっとも最近ではどっちが本職か自分でもわからなくなってるけど」
「プー・ハオは博士だったんか? 偉いんやな」
「そうよ、なかなかのインテリよ。でも悲しい過去のある人で……」
突然枕もとでアラームが癇癪《かんしやく》をおこし、二人の会話を中断した。
夜光塗料の針が二十三時を指している。
「いっけない。寮の門限に遅れちゃう」
耳ざわりな高周波の機械音を止めようと腕を伸ばした定吉にそう言うと、女は手さぐりでその辺に散らばった下着を身につけ始めた。
「なんや? あんたは門限があるところに住んでいながら、そないな商売やってはったんか?」
「そうよ。寮では意外と固い人で通ってんだから」
黒いトレーナーに首を通した彼女は薄明りの中でニッコリと笑った。
「それに、残ったまこと君にもエサをあげなくっちゃ……」
「なんやしらんがいそがしい人やなぁ」
定吉があきれている間に髪を梳《す》き終った女は、片手にスニーカーを持ったまま彼の前に坐りなおし、彼の頬に軽く口づけした。
「さよなら、テクニシャンの丁稚さん」
力ずくでも彼女からプー・ハオ博士の秘密を聞き出そうと身がまえた定吉だったが、この口づけ一つで、その決意はもろくも崩れていった。
立ちあがって出て行こうとする彼女に彼はごく基本的な質問をした。
「あ、あんたの名は?」
「奈緒美、ナ・オ・ミよ」
彼女は身をひるがえすと、庭に飛び降り、塀の向う側に消えた。
5 江ノ島の罠《わな》
潮騒が轟《とどろ》く浜辺に暖かな光が零《こぼ》れている。
その海の家は、どこといって変ったところのない、ごく一般的な造りだった。
荒削りの丸太を番線とかすがいで止め、壁は葭簾張《よしずば》り、床と便所、事務所はベニヤ板といったところだ。どこにも後ろ指を差されるような部分はない。シャワー室もあり、二階にはビニール製だが畳敷の部屋もある。
ただ一つおかしなところがあるとすれば、それは、冬のこの時期になっても営業し続けているという点だけだ。
浜に平行して走っている国道で時おり光る深夜タクシーのヘッドライトが、「魚半シーサイド・ハウス」の看板をほんの一瞬照し出す。
湘南にかぎらず、こうした海の家の多くは、一応県の認可によって営業が許される形を取っている。しかし、その実態は魚河岸や相撲茶屋の株と同じく旧弊な半世襲制だ。
経営者は大部分が近隣の漁師か茶屋の二男、三男坊。長男が皆都市のサラリーマン生活に憧《あこが》れて地元を出ていくため、必然的に彼らへその株がころがり込むのである。
漁撈《ぎよろう》及び鮮魚小売商である「魚半」の長男謙一は、そうした湘南の波打ちぎわの生活者の中ではきわめて珍らしい存在だった。
「毒海老ですか。そりゃあ大変な目にあったもんだねえ」
灯のついている二階から、その珍らしいタイプの「海の家」経営者が発する驚きの声が聞こえてきた。
室内には、合板の安っぽいテーブルを囲んで男が三人。
謙一の他に珍らしくウインドウ・ブレーカー姿の定吉、そして「ブラック・チョッパー」の店長こと上田正雄が、それぞれ壊れかけた椅子《いす》に腰を下していた。
「そやからもうあの宿は引き払いましたんや。江ノ島に乗り込むんやったら、どっちみち姿くらますために、あそこは出とらなあかんかったんやし……」
定吉に熱い玄米茶を注《つ》ぎながら謙一はうなった。
「それにしても、すごいやつですね。定吉さんの寝床にまでそんなおかしなものを持ちこむなんて」
「恐らくプー・ハオの手下やろな」
毒伊勢海老使い奈緒美と接触した一件は謙一に話すまいと定吉は思った。
直情径行な謙一がこのことを知れば、彼は湘南一帯を血まなこになって駆け回り、奈緒美を見つけ出して、縊《くび》り殺すくらいのことはやるだろう。奈緒美は仮にも定吉ときぬぎぬの別れを演じた女なのだ。
ズズズッと音を立ててうまそうに玄米茶を飲み終った彼は、懐から三枚の地図をテーブルに広げ、正雄に頭を下げた。
「店長はん、すんまへんなぁ。あんさんまでこんな危いことに付き合わせてしもて。けど江ノ島の鬼退治や思て、あんじょう手え貸しておくれやす」
あいかわらず寒そうなアロハ姿の正雄は、深くうなずいた。
「未練は無いと一度は飛び出した故郷ですが、まだあそこには親兄弟も住んでます。なんだかわけもわからないハンパ野郎がのさばっているというなら断固撃滅し、島の平和を勝ち取らなければならない、とかように考えます」
新国劇と全共闘がミックスした古風な口調で正雄は答えた。
「い、いや、乗り込むのんは、わてと謙一どんの二人や。あんさんは昔、島におっただけに逆に動きにくいこともありまっしゃろ。ここはひとつ地理その他のレクチャーをお願いします」
正雄はちょっと不満そうな顔をしたが、思いの他真剣な定吉と謙一の眼を見て、再びうなずいて言った。
「わかりました。では地図で……」
テーブル上の地図は昼間定吉が葉山町役場からもらって来たものだった。
一枚は国土地理院発行の江ノ島全図。二枚目は藤沢市観光課監修のガイド・マップ「イラスト江ノ島」。三枚目が昭和二十年三月に陸軍省測量部が印刷した「相模湾沿岸防衛区分図の三・江ノ島方面」のコピーである。
正雄は迷わず、「イラスト江ノ島」を取り上げた。なにやら絵ばかりがゴチャゴチャと並び、ところどころにはおみやげの名称まで書き込んだ、目がチカチカするような地図だ。
「いや、初めての人にはこちらの方がわかりやすいと思います」
頂点を西に向けて横になった二等辺三角の形を持つ島のイラストが定吉の目に飛び込んで来た。
「片瀬海岸の東浜というところ、そうこの片瀬川の河口から道路が二本、島まで延びてますね。自動車用の江ノ島大橋と人道用の弁天橋です。それと、河口から江ノ島稚児ケ淵まで運航している遊覧船。普通の人が江ノ島に入るにはこの三つのルートのいずれかを使わなければなりません。少ないでしょう。だから、夏の炎天下にはこの橋がメチャ混みの大渋滞で、橋を渡り切るまでに日射病で倒れるやつが毎年何十人と出ます。渡りきったところで道が大きく二つに分れ、右は上に昇る参道、左は島の低い場所に作られた県営駐車場に至ります」
定吉はうなずいた。たしかに白地図よりイラスト・マップの方がわかりやすい。
「石段の参道が入口の青銅大鳥居から中腹の大鳥居まで続き、その間、道の両側は大部分がおみやげ屋、飲食店です。僕の実家もそこにあります。訪ねて行って下さい。サザエの壺焼がうまいですよ」
定吉と謙一は何とも言いようのない顔をしたが、それに気付かぬ正雄は説明を続ける。
「江ノ島神社と一口に言いますが、本当は、辺津宮《へつのみや》、中津宮《なかつのみや》、奥津宮《おくつのみや》の三宮と弁天信仰発祥の地お岩屋を全部合わせた総称なんです。つまり全島が御神域というわけで、大鳥居の近くにあるお社だけが江ノ島神社なのではありません。ここにあるのは辺津宮だけです。参道が中央の小高くなった江ノ島植物園を囲むように迂回《うかい》してるでしょう。上が裏参道、下が中津宮を通る表参道です」
たしかに中央部が緑に塗り分けられ、道が二つに分れるがやがて再び端の方で一つに結ばれている。
「この先に奥津宮があります。道は海に向ってクネクネと曲りながら下りて行きます。この辺の石段までみやげ物屋がいっぱいですが、その後は釣りのできる岩場に出ます」
稚児ケ淵と書かれた文字と釣りをするオッサンのマンガを指差して正雄は笑った。
「ここに片瀬河口からの遊覧船も付きます。磯釣《いそづ》りのポイントでね。今の季節ならメバル、ムツかな。クロダイも上ります。子供の頃はよくこの謙ちゃんと釣りをしたもんですよ」
「そうそう、晴れた日は、遠くに富士山も見えて最高の釣り場だったね」
謙一も笑った。
「このあたりは断崖《だんがい》がいっぱいです。岩場に小さな道が東に向って付いていますが、これが問題のお岩屋≠ニ呼ばれる洞窟に続いています」
正雄の説明に、定吉はグッと身を乗り出して地図を凝視した。
「洞窟は二つありますが、そこに至る道へ立ち入り禁止の札が出て、かれこれ十四、五年以上になりますかねえ。落石で釣りに来た人が何人もケガをしたということは聞いてますが、他に釣り人が来ないということもあって、以前は、隠れて磯釣りをしたり、女つれ込んだりするやつもいましたよ。そういうのが完全にしめ出されたのはプー・ハオがやって来てからのことだと聞いています」
「洞窟の中はどうなっとるんでっしゃろか?」
定吉は、地図の上でにっこりほほ笑んでいる弁天様と洞窟のイラストを指差す。
「ここも子供の頃の遊び場でね。入口は高さ三メートルしか無いけれど、中に行くにしたがってだんだん天井が高くなって行きます。穴の中は広いですよ。弁天様を祀《まつ》った小さなお社があって、周りには参詣者《さんけいしや》があたりの石を積み上げています。ちょっとした賽《さい》の河原といった風景でね。石積みの先に道があり、奥にもう一つ広い場所があります。ここには海水も入って来ます。弘法大師や日蓮上人が修行をしたとされる場所で、天井はかなり脆《もろ》いようですが足もとは意外にしっかりした所です」
「プー・ハオがブッ壊していなければの話ですがね」
謙一が言い添えた。
「うーむ。江ノ島いう所は地形が複雑なうえに、おみやげ屋とか旅館とかで、思ったよりぎょうさん人が住んではるなあ」
定吉は腕を組んで考えこんだ。
「たとえプー・ハオに気脈を通じていない島の人とわかっていても、わてらの姿を見せることは極力慎まなければ……。これは、正面攻撃をあきらめた方がよろしいな」
定吉は地図の上にポンと両の手をついて言った。
石垣山に実る小田原みかんにも似た橙色《だいだいいろ》の朝日が相模《さがみ》灘《なだ》の水平線から頭をのぞかせる頃、三人のミーティングは終った。
店長$ウ雄は店の仕込みのため、その足で小坪の漁港へ出かけていった。
残った二人は交替で二時間ほど仮眠をとった後、海の家を一時出ることにした。
江ノ島の全景が見渡せるここは、逆にプー・ハオ側にとっても攻撃しやすい場所なのだ。げんに定吉たちが最初に襲われた交差点はここから三キロと離れていない。
しばらくの間休業します≠フ木札を入口に下げ、ドアにチェーンをまわして南京錠をかけた二人は、魚半商店の軽自動車でそっと海の家を立ち去った。
漁協の白いスチロール箱を荷台に満載した謙一のスズキ・マイティボーイは、十一月の、陶磁器のような太陽の下、生臭い風を撒き散らしながら長谷の町なかを走り抜ける。
彼らの落ち着く先は、長谷・川端康成記念館裏の谷間にある人目につかない小さな寺だ。
大仏切り通しへ進む道を、豆腐料理店の角を右に折れ、細い私道に車を乗り入れる。鎌倉市の教育委員会が、昭和五十二年に立てたアルミ製の史跡表示板がかろうじて寺への入口を示していた。
境内は広さ二百坪ほど。本堂と客殿の他には、庭の隅に小さな地蔵堂と井戸が残っているのみ、といった寂しい寺だ。物好きな歴史研究家が時おり訪ねてくる以外は、近所の子供が地蔵堂の床下でお医者さんゴッコの技術を磨いたり、拾って来たエロマンガを読み回すために、こっそりと侵入をくり返すだけ。観光から見捨てられた場所である。
「所浄寺という名の寺です。うちの実家が檀家総代をやってるシケた寺ですよ」
境内に魚臭い軽自動車の頭を突っ込ませた謙一が説明した。
定吉は寺の背後が長谷の山々に続き、境内に面した崖《がけ》には浅い穴がいくつも穿《うが》たれていることをす早く見て取った。
「いっぱい開いとる洞《ほら》はいったい何だす?」
「ああ、関西の人には珍らしいでしょう。『やぐら』 って言うんです。昔の墓地ですよ。鎌倉は土地が狭いからね」
謙一は荷物を降しながら説明した。
「あそこなら、もし爆発しても、あたりにあまり迷惑はかけんで済みまんなぁ」
「えっ、爆発?」
「あとで、ちょっとお使い行って来ておくれやす」
「はあ……」
定吉は謙一の返事を背に一人スタスタと庫裡《くり》の方へ歩いて行った。
テレビと小猫だけが生きがいの耳が遠い老住職に挨拶を済ませると、謙一に買い物をたのんだ定吉は、まず包丁の手入れから始めた。
いよいよ本格的な戦闘準備というわけだ。
彼はDディ――江ノ島上陸戦――に備えて、とっておきの砥石《といし》を一本、風呂敷《ふろしき》の中から取り出した。
「京都|鳴滝《なるたき》産正本山|合砥《あわせど》」。今では道具屋で手に入れることが難しい、梨地《なしじ》の仕上げ砥石では最高の品だ。
包丁がどれほど良くとも砥石が駄目ならお終《しま》いというのが定吉の持論だった。
井戸の水を汲《く》み上げ、左手の三本の指を水につけて、サッと砥石に落し、濡らす。それから藤原有次六代作「富士見西行」の刃先を梨地砥石の上にピタリと当て、指先に全神経を集中して上半身を動かす。すでに大阪出発の前日、中砥《なかと》は済ましていた。
「ええなあ、この石は。まるでお孝ちゃんの肌のようや。柔らかくって、刃に向うの方から吸い付いて来よる」
「はも切り九作」がこの包丁を定吉に与える時、「デパートでも研ぎに出せる」と言ったが、それはほんの言葉の遊びなのだ、と定吉は思っていた。
プロであればあるほどたとえどんなに忙しくとも得物は自らの手で研ぐべきものなのだ。
三時頃、謙一が紙袋を抱えて帰って来た。
老人ボケの進んだ住職とお茶を飲んでいた定吉の前に立つ彼の顔色は蒼白《そうはく》に変っている。
「どないしはった? なんぞ買い物でトラブルでも……」
「い、いや、言われた通りの品物はすべて揃《そろ》いました。全部違った場所で買いましたからまず足はつきません」
「ほなら……」
「問題はこれです」
謙一は紙袋からはみ出している丸めた新聞紙を取り出した。
「あの赤いホンダの回送を頼んだ学生二人、やられました」
三面の連載マンガの下に小さく、第三京浜での事故が報じられている。当て逃げされたうえに、後続のダンプカーが乗り上げ、車体はくの字形につぶれたらしい。もちろん乗っていた二人の学生も同じ運命というわけだ。
「なるほど。車乗り回しとったのがわてらやないいうことがヤツらにバレてしまいよったなあ。この記事読んですでに連中、湘南の町中をわてらの姿探して右往左往しとるはずや。いずれここにもやって来るわ。謙一どん」
「へっ?」
「わての最初の考えでは一週間ほどかけてゆっくり準備整えよう思っとったんやが、こうなってはグズグズしてはおられん。あんさんの顔きかせて、小さな舟一隻、急いで都合つけておくれやす」
「わかりました」
「決行はあすの夜や。さあいそがしくなって来よったでェ」
定吉は謙一が買って来た品々の入っている重い紙袋を持って立ち上る。
鎌倉駅西口紀ノ国屋マーケットの字が入った何の変哲も無い袋だが、その中身は恐るべき威力を持つ武器の原料で占められていた。そのすべてをここに書き出すと、まず、ケーキ用のパウダー・シュガー一キログラム、重曹一箱、小麦粉一袋、パイの型抜き容器三個、花壇の肥料一キロ袋一個、お料理用簡易タイマー一個、ビニール・テープ一巻、ハンダ一個、単二の乾電池二個、ガスレンジの点火用プラグ三個、アコーディオン・ドアのマグネット・ロック一個、そしてイギリス・ジョンソン&マリー社の輸入缶入りビスケット二千五百円見当のもの一個、といったぐあいである。
彼は住職から懐中電灯と茣蓙《ござ》を借り受け、寺の裏手にある古い宝篋印塔《ほうきよういんとう》が納められた大やぐらの中へ籠《こも》った。
「明日の朝までやぐらの中に誰《だれ》も立ち入らんよう、あんじょう見張っとっておくれやす」
そう言い置いてスタスタと歩いて行く定吉の後ろ姿を、庫裡《くり》の縁側から眺めていた老住職は抱いた小猫にそっと語りかけた。
「御先祖の御供養でもあろうか。しかし、この寒空に一晩中やぐらへお籠《こも》りとは、さてもさても信心深いお方じゃのう」
小猫は投げやりな声でニャアと答えると再び丸くなった。
時計の短針が二回半回転した。
稲村ケ崎海浜公園の下、岩場と砂浜が折衷した地点に定吉と謙一は、忽然《こつぜん》と姿を現わす。
二人の目の前に黒々とした台形の島影が鎮座している。
それは、まるで忘年会帰りの父親が、千鳥足で持ち帰ったクリスマス・ケーキのような形をしていた。
相模湾に面した側がクッキリと切り立っているくせに、片瀬の岸に近い部分は、上から圧力をかけられた形で海面方向に不規則なスロープを描いている。この先は等間隔に並んだ光の列。江ノ島大橋だ。
島の一番高い部分、元は神社の供御《くご》菜園だったという植物園のあたりでは、ケーキのロウソクにも似た塔が一つ、淡い光を周囲に振り撒いている。
ここから見ると、子供の息ででも吹き消せそうなほどあやうい光量である。
「あれを目標にして船を出します」
手なれたそぶりで船の点検を行ないながら謙一が光を指差した。
特別に黒く塗った岡村理研製の大型ゴムボートが波打ちぎわにゆれている。武骨な業務用だが、これだけはスマートなヤンマー船外機がスクリューを上に向けて取り付けられていた。近隣の海で鮑《あわび》やサザエを密漁する、たちの悪いダイバーの監視用に漁協が購入したパトロール・ボート。謙一が拝み倒すようにして借り出してきたものだ。
「エンジン一発かけりゃここから目標まで十五分とはかからないんですけどね。こいつの音は意外とデカくって」
謙一はパラディウムの頑丈な靴底で船外機のカバーをボンと蹴った。
頭にはバンダナを巻き、黒っぽいベトナム・パターンのカモフラージュ・スーツを着用した謙一は、ちょっとしたロバート・デ・ニーロ気取りである。もちろんそう思い込んでいるのは当人だけだ。
「そやな。島の東側にいったん出て、そこから櫂《かい》を使って進みまひょ」
立冬を越えたばかりの海は、風が絶えず白いトライアングルを作り続けているが、月は無く、|忍び込み《インフレートレイション》日和と言えなくもない。
「子《ね》の刻参上やな」
定吉は、すっかり灯を消した島の旅館街を眺めてニヤリと笑う。
幼い頃より東映キンキラキン時代劇を銀幕に見て育った彼は、この日のいでたちもそれなりに趣向をこらしていた。
黒地に白く丸定の紋が染め抜かれた腹掛と黒い股引《ももひき》の上に、例の唐桟のお仕着せを裏返した黒い袷《あわせ》を尻《しり》っぱしょり。足もとは黒の皮足袋で固め、帯に冷めし草履を挟んだこの姿こそ、故林長二郎演じる「御存知ネズミ小僧」そのものだった。
たしかに定吉自身、この戦闘に入れ込んでいた。なにが休暇仕事や。早よ用事済ませて帰って来なはれ、や。わては今、謎《なぞ》とロマンの冒険に旅立つんだっせ、御隠居。無辜《むこ》の民を苦しめ、同志を殺戮《さつりく》し、あげくの果てには、わてにも喧嘩売りよった憎むべきプー・ハオ博士。御対面させてもろてぜひとも、その生活信条やら未来展望やらをとっくりと聞かせてもらいまひょ。
そうつぶやくと定吉は、謙一の方を見た。謙一は右手の親指を立てて準備OKのサインを出す。
二人は波打ちぎわから船を押し出すとエンジンをかけた。いよいよ出発だ。
彼らを見送るものは、海浜公園の上に建つ「真白き富士の嶺《ね》」ボート遭難碑の中学生像だけだった。
轟音《ごうおん》とともに沖合いへ一気に飛び出したゴムボートは、小動《こゆるぎ》岬に舵《かじ》を向けた。七里ケ浜の灯が右舷《うげん》を流れて行く。
横合いから波が幾度も襲って来たが、舳先《へさき》に正座した定吉はじっと前方を見つめたままである。両目がやっと開けていられるほど強烈な飛沫《しぶき》が船体に当る。二人の上半身はアッという間にずぶ濡《ぬ》れとなった。
「これが本当の濡れネズミや」
船場の丁稚はどんな時でもジョークを忘れないのだった。
鎌倉高校の沖を通り、小動岬を越えると前方に片瀬海岸東浜が見えて来た。夜釣りの船が片瀬川の河口に何隻も浮んでいる。
船は船外機のスピードを少しずつ落しながら江ノ島大橋に沿って進んだ。
「ここが湘南港です。コンクリートの突堤が見えるでしょ。左端が江ノ島ヨットハーバーです。いったん、あそこに入るふりをしてから、島の北側に向います」
謙一が小声で説明した。
なるほど数多くのヨットが防波堤の中で揺《ゆ》れている。
「ここから先はエンジンを切ります。オールを出して下さい」
江ノ島の岸は目と鼻の先だった。白く泡立っているのは岩礁だろうか。
ボートのエンジンが止まると同時に、まるで平家を物語る琵琶《びわ》法師たちが何百と集まり、一斉にチューニングを行っているがごとき不気味な不調和音が定吉の耳を聾《ろう》した。
ヨットのセールにロープが当る音なのだ。
生臭い、磯の澱《よど》み特有の悪臭が鼻を衝《つ》く。
ゴムボートは海中に突き出した平らな岩を避けながらゆっくりとヨットハウス前を回る。さすが謙一の櫂さばきは見事なものだ。定吉は遅れまいとして必死にプラスチック製のオールを操った。
突然、闇の中に異様なうめき声が聞こえて来た。
二人は顔を見合わせ、オールを漕《こ》ぐ手を止めた。息をこらして声のする方向に神経を集中する。
定吉の目の前ほんの二メートルほどの位置に、ふじつぼの密生したコンクリートの壁面があった。何だ?
うめき声がまた聞こえた。細く、切れぎれに……。
謙一が船尾から定吉に近付き、そっとささやいた。
「だいじょうぶです。この壁の上は県営の駐車場だ。きっとアベックでしょう」
二人は再びオールを取りあげると水面に降した。どうやら頭上では太平楽な若者がカー・セックスの真最中らしい。
車の中から海の先まで聞こえるようなよがり声を出す女。定吉はオールをそっと操りながら、その女のパートナーの苦労を思った。もし家庭を持ってたとしても、文化アパートや団地程度の薄壁ではとても持つまい。住居費が……。
「この上が江ノ島中津宮です。小さな岩礁がいっぱいありますから気をつけて下さい」
謙一の声で我に返った定吉は、あわててあたりを見まわした。なるほどあちこちに暗礁が鋭い牙をむいている。ゴムボートは右へ左へ木の葉のように揺れながらも、前進し続けた。
「シッ! 待って!」
謙一がオールを漕ぐ手を止めた。定吉もそれに倣《なら》う。
「エンジン音です。やつらかもしれない」
謙一はす早く首をめぐらせると、右側に口を開けた磯だまりの近くにボートをすべり込ませた。
島の先端、稚児ケ淵のあたりから中型のクルーザーが一隻顔を出した。
三十二フィート級のごくありふれたやつだ。小さなレーダーが無線用マストの横でクルクルと回転し続けている。ただ、デッキの両側に取りつけられたサーチライトだけがやけに巨大で、そのクルーザーにそぐわない。
「見て下さい。あれがプー・ハオの飼ってるガードマンです」
ボートの縁から顔をわずかにのぞかせて謙一がささやいた。
定吉は、キャビンに置かれたキャンバスシートから突き出ている細長い物体を目ざとく見ぬいた。
ラッパ状の筒先、ギザギザの溝付きのパイプの下から垂れ下る二つの把手、それらを支える三本の鉄棒。旧日本軍の九二式重機関銃に違いなかった。島のパトロール程度にこんな大それた禁制品を持ち出すとは、なんというヤツらだ!
謙一が定吉の頭をグイと押さえつけた。
定吉の十円ハゲのほぼ二十センチほど上をサーチライトの輪が通過して行く。クルーザーの船体に書かれた江ノ島の海をきれいに・不好食品公司≠フ文字が夜目にも白々しく浮び上った。
クルーザーは、湘南港の入口近くに達すると、その沖合いで舳先をもどした。どうやらそこまでがパトロール範囲らしい。再び定吉たちの隠れている岩場にライトを向けながら通過し、稚児ケ淵を回って岬の反対側に消える。
クルーザーが残して行った波のあおりを受けてゴムボートの平たい底はドラムのような音をたてた。
「さあ、急いで行きましょう。やつらがいつまた戻ってくるかわからないですから」
謙一にせき立てられ、定吉はもう一度オールを手にした。
波が一段と高くなったように感じられる。
目標の弁天|洞窟《どうくつ》まであと三百メートル。
岩礁が以前にも増して多くなってきた。
切り立った断崖に波が絶えず白い拳《こぶし》を打ちつけている。が、よく目をこらすと、一ヵ所だけ波の立たない岩場がある。波がそのまま吸い込まれて行くのだ。
「あれだ。あれが洞窟の口です」
謙一が指で示した。
満潮のせいだろうか、洞窟の天井は水面からかなり低い位置にある。とは言っても、ゴムボートに坐った定吉たちには充分すぎる高さだ。周囲の岩はつい最近削られたらしく、掘削機械の爪痕《つめあと》がそのあたりに残っている。かなり投げやりな工事。どうひいき目に見ても史跡の保護・補修といったしろものではない。
「突入します」
謙一が思わずうわずった声をあげた。
潮は洞窟の入口に向って流れている。
ゴムボートはクリーナーに吸い込まれたゴキブリのごとく何の抵抗も無く、ひそやかに内部へと滑り込んだ。
急速に洞窟内へ流れ込む海水がエレベーターのようにボートを浮き上がらせる。
定吉の頭上一メートルほどの位置に石灰岩の天井が迫り、また急いで離れていった。
一瞬、彼はあやめ池遊園地の宝島ボートめぐりを思い出した。
そや、あん時は隣にお孝ちゃんが坐っとった。こう、ボートのロール・バーを両の手で握ってな。
ボートが水の底のレールに沿ってガタガタ走り、作りモノの洞窟の中へと滑り込むんや。
お孝ちゃん「キャー」とかなんとか声あげて、わても、暗いことをええことにして、お孝ちゃんの方に手え伸そうとしてな。
この時やった。パッと壁の一方が光って、ジョン・シルバーのロウ人形がゲラゲラ笑いながら現われたんや。歯ァむき出して、肩にオウムなんか乗せてな。こう唄《うた》うんや。ラム酒の樽《たる》と死人が五人……。
「ああっ!」
定吉の取り止め無いメモリーズは突然発せられたパートナーの声で瞬時にして打ち壊された。
「見て下さい。これ……」
モモンガアのように夜目がきく謙一と異り、都会人の定吉には、洞窟の奥までよく見えない。
眼を細く開いた彼は、船底の包みから手探りでペンライトを取り出すとスイッチを入れる。
洞窟の先に丸い光の輪がポンと投げ入れられた。
「な、なんや!?」
オレンジ色の輪が巨大な文字の浮き彫りを照し出した。ペンライトのか細い光を受けて輝くその文字は王羲之《おうぎし》風の書体で、
水簾洞《すいれんどう》
と読める。それはどうやら壁面にかけられた扁額《へんがく》らしい。
「どういうこっちゃ」
定吉が謙一に話しかけようと振り向いた刹那《せつな》、洞内がサッと明るくなった。謙一がサバイバル・トーチの点火索を引いたのだ。
軽率な! と言う間もあらばこそ、の早業だった。謙一を叱責《しつせき》しようと口を開いた定吉の顎《あご》はそのままの状態で凍ったように停止した。
シュウシュウと音を立てる二百ルックス型ファイアー・ワークスの炎が、とんでもない情景を浮び上らせたことに気付いたからだ。
定吉たちの目前には、丹青極彩、高級中華大飯店の外観にも似たディスプレイが傲然《ごうぜん》と姿を現わしていた。
それは、横浜中華街大通りの牌楼門《はいろうもん》と、ハリウッド映画「怪人フー・マンチュー」で使用した豪華なセットと、陥落直前のサイゴン・ショロン地区の越南料理店の店先をミックスし、台北の故宮博物院と東京ディズニー・ランドで割った、ほとんど支離滅裂な飾りつけだった。自然石の洞窟の天井を支えるべく三メートル置きに朱塗りの円柱が並び、その間を金糸の布が張りめぐらしてある。布にはそれぞれ気のきいた四言の理《ことわり》が縫い取られていた。曰《いわ》く「象箸《ぞうちよ》玉杯」「売花|姑娘《こじよう》」「買菜求益」「則天去私」。その文字の群を睨《にら》むように柱の上の欄間からは青龍や白龍が鎌首《かまくび》をもたげ、仙女の姿を描いた灯籠《とうろう》がその下で悩まし気にゆれている。洞窟の奥は始皇帝の阿房宮《あぼうきゆう》もかくやという、キッチュな回廊と水路が作られているのだった。いや、正確には完成直前と言った方がいいだろう。よく見ると、あちこちに工作機械が置かれ、柱の陰に、コンクリートの袋や床を張った残りと思われる大理石の破片が積重ねられている。
謙一が我を忘れて思わずトーチに火をつけたくなった気持ちが定吉にもよくわかった。
しかし、どんな異常な環境にも適応すべく日頃《ひごろ》から訓練を受けている非合法活動専門の大阪丁稚は、ショックからの立ち直りもまた早かった。
声は多少うわずっているものの、彼は震える手でトーチをかざしつづける相棒に適確な命令を発した。
「早ようその火を消しなはれ。ここはプー・ハオの本拠でっせ」
ハッと我に返った謙一はあわててトーチを海面に突き刺す。しかし、濡れても炎をあげ続けることが売り物のサバイバル信号灯はなかなか消えない。ボートを岸に寄せ、岩場に擦り付けるようにしてやっと火は消えた。
この光が敵に見つかったら……。しかし、今のところなんの警報も鳴らず、人が現われる気配も無かった。二人はそのままボートから洞窟の岸に這《は》い上った。どうやら中華式回廊の下は船着き場のようになっているらしい。コンクリートの上に大理石を敷いた突き出しと舫《もや》い綱を巻くアンカーらしき獅子《しし》の頭が作り付けてある。
「なんてバチ当りな野郎どもだ。これじゃあ、まるで香港《ホンコン》のチャイナ・タウンだ」
謙一は怒りと驚きのあまり頭が混乱しているようだった。そうでなければまだ香港に行ったことが無いに違いない。なにしろ香港はそのすべてが正真正銘のチャイナ・タウンなのだから。
定吉はゴムボートから風呂敷包みを持ち上げ腹に巻くと、今度はペンライトで注意深くあたりを照らし始めた。
洞窟の天井は入口が低く、内部に行くにしたがって徐々に高くなっている。最も高い天井は床からおよそ六メートル近くもあるだろうか。十二、三メートルほど奥に朱塗り金鋲付《きんびようつき》の門が閉ざされている。その上には巨大な扁額、「水簾洞」の文字。最初に定吉が見たのはこの額だ。
「ここが前に見た観光地図で示されている弁天第二洞窟なら、あの門のむこう側が第一洞窟いうわけやけど……」
定吉は、洞内のあちこちへペンライトを当てて調べるうちに一つの疑問を持った。
「海に面した洞窟の水路は高さが二メートルちょっと。そこから入ってくるとなると、わてらのゴムボート程度の平底船が限度や。それならこの立派な船着き場は何や? どう見ても二十フィート以上のヨットがつないどける。それくらい大きい船なら、頭がつかえてあそこから入りきらん。ほんにけったいな作りやで」
その時だった。
獅子頭のアンカーにボートの舫い綱を縛り付けようと悪戦苦闘していた謙一が定吉の袖《そで》を強く引いた。
「どないしたん?」
謙一の眼が一点にジッと止まって動かない。
つられて定吉もその方向へ首をまわす。ボートが浮ぶ水路の中ほどに幾つかの気泡が上っていた。ペンライトの光が水面を滑る。
光を受けて真珠色に輝く泡が少しずつ数を増して行く。小魚たちの群が右往左往している。水路の底で何かが蠢いているのだ。何だ? しかし、単三電池一本の弱々しいライトではそこまで光が届かない。泡は益々《ますます》多く、そして大きくなり、水面をかき乱す。
ゴボゴボという気泡の唸《うな》りが洞内に響く。
「気をつけて! こいつは……」
謙一がボートのオールを握って叫んだ。
何かが底の方からゆっくりと浮上してくるのだ。赤黒いシルエットが蠢いている。細長い棒状のものが海中の泡をかきわける。
定吉は袖口に手を差し込み、「富士見西行」の柄をグッと握った。
ついに水面が、出エジプトのモーゼの命もかくやとばかりの勢いで盛り上り、そして割れた。
水飛沫があたりに飛び散り、異様な唸り声が二人を圧倒する。
まず現われたのは太さ三十センチほどの朱色の棒だった。先にはとび口状の鋭い爪が輝き、クネクネと動く。足なのだ。続いてもう一本。長さはおよそ四、五メートルもあるだろうか。真ん中に環節が見え、やがてそれに続く丸い胴体も水面に現われた。
定吉は半ば夢見心地でその怪物を見守った。ハート形の平べったい頭についた、そこだけは華奢《きやしや》な二本のマッチ棒状の突起、眼だ。その左右に一対ずつ飛び出した肉片は、他の足より若干短く、しかも先が割れている。こいつは、はさみらしい。
「わ、こ、こ、こりゃあ、蟹の化けモンだ!」
謙一が悲鳴をあげて壁に張りついた。
定吉は船着き場の床に片膝《かたひざ》をつき、水上に浮き上った怪物をハッタと睨《にら》みつける。
無数の刺《とげ》を表面に持つ太い足を、ジャイアント馬場のリング・ファイトのようにギクシャクと二度、三度素振りした蟹は、ゆっくりとした動作で最初の攻撃を開始した。研ぎすまされた爪先《つまさき》が定吉の肩先を掠《かす》め、勢いあまって脇《わき》のボートに叩《たた》きつけられる。ゴム製のボートはひとたまりも無く裂け、船外機の重みで水中に没する。アッと言う間も無い。
「こいつだ。こいつが保護団体の学生を襲った化物蟹だ!」謙一が叫ぶ。
そうか、これが江ノ島の人々を恐れさせている弁天洞の守り神、プー・ハオの手先か。
長い触手はなおも空をまさぐり、二人の侵入者の身体へ鉤形《かぎがた》の爪を打ち込むべくスキをうかがう。定吉はジッと動かない。
「こっちに、早く、隠れるんです」
謙一は朱塗りの柱に身を隠しながら声をあげた。
足の先がまたしても定吉の体を掠め、勢いあまって船着き場の床を叩き、敷きつめた大理石のプレートを粉々に砕く。
定吉はそれでもまだ姿勢を崩さない。ショックのあまり腰が抜けたのだろうか。
いや、違う。彼の灰色の頭脳は、実はまったく別のことを考えていたのだ。
「ごっつい足や。これ一本有ったら何人分の蟹ナベが作れんのやろか。一つの環節で三貫目以上あるから……」
ああ、なんということだろう。この期におよんで定吉は蟹の値ぶみをしているのだ。
経済に裏打ちされた食欲。恐るべき浪速の食欲。
突然定吉の脳の奥で響くものがあった。道頓堀《どうとんぼり》の寄席の呼び声だ。人々の雑踏、食いモン屋のかけ声。鉦《かね》と太鼓の音。
「そうや、戎《えびす》橋や。どこぞで見た思たら……」
食いだおれの真髄を見せる大阪道頓堀と戎橋筋のぶつかる角で、定吉はその蟹と同じものを見た覚えがあるのだ。もちろん、それは人を襲うような狂暴なものではない。店先の壁面に取りつけられ、巨大な足やハサミを虚ろに動かすだけの存在だった。
ロボット蟹。一部の人々にはそう呼ばれている。
「大きさといい、形といい、こいつは『カニ道楽』の看板とそっくりやんかぁ」
定吉は水中から突き出している蟹の足の付け根を凝視した。太い鉄棒が波の間に見え隠れする。
「読めた!」
この蟹は巨大なマペット人形の一種なのだ。
「このやろー」
と、その時、柱の陰で満を持していた謙一がオールを振り回して蟹の前へ躍り出た。
「湘南の漁師をなめんじゃねえ! たたっ殺してやる!」
「やめなはれ、謙一どん。これは作りモンや!」
両の手に持ったオールを水車のように振り回す謙一の耳には、定吉の制止の声は届かなかった。水煙が再び大きく洞内に昇った。
謙一の得物と蟹の腕が打ち合う鈍い衝撃音が轟く。
その姿は、黒竜と戦うジーグフリート、三面六手の阿修羅《あしゆら》と戦う神将を思わせた。
「無駄や! 操っとるやつは別にいる!」
定吉は叫んだ。他に方法は無かった。丁々発止と渡り合う二者の間に割って入る隙《すき》が見出せない。
不意にそれまで伏せていた蟹の胴体が中空に体をもたげた。南蛮鉄の甲冑《かつちゆう》を思わせる蟹の白い腹部が水上に露出する。口とおぼしきあたりから盛んに泡を吹き出し始めた。
「やろー、弱まったな!」
謙一が勝ち誇った声をあげた。
違う!
何か企んでいるのだと定吉は思った。その瞬間、蟹の口もとから一条の白い液体が謙一目がけて放出された。
硫黄のような悪臭が彼の体を覆い、白煙が洞内に充満した。
「うわあっ!」
謙一の悲鳴があがった。液体をかけられた彼の皮膚や衣服から薄青い煙が立ち昇ったのだ。
薬品だ。助けに駆け出そうと定吉が上体を起した刹那、蟹の触手が勢い良く回転した。顔を両手で覆い、ショックに耐えている無抵抗な謙一の肩を強烈な力で打ち飛ばした。
謙一の体はたまらず十メートルほどジャンプし、漆黒の水路に落下する。体重七十キロ分の水柱が洞窟の出口近くに上った。
「けんいちどん!!」
定吉は逆手に抜いた包丁を八の字に振りながら天井近くまで飛び上った。ほとんど無意識のうち攻撃動作に移ったのだ。
彼の体を捕えようと伸びた数本の触手が切断されるのと、定吉が床に降り立つのは、ほとんど同時だった。
鋭い金属音を立てて蟹の第一環節がタイルの上に落ちた。切り口は空洞で、その中から幾本かのワイヤーがのぞいている。定吉は蟹の反撃を予感し、身構えた。
「お客人、はい、それまでよ」
突如、間伸びしたマイクの声が洞窟一杯に響き渡り、スポットライトが彼に当った。
「抵抗無駄ね。あなたにはソレおわかりのはず」
ハサミの部分を切り取られたロボット蟹も、ピタリと動きを止めた。まぶしさのあまり定吉は眼を細める。
「東華大帝君一号、浮上せよ」
見る見るうちに巨大蟹の本体が持ち上げられ、その下から黒っぽい筒が波を分けて現われる。ロボット蟹の身体《からだ》を下から操作していたのはこの筒だったのだ。
それに続いて酸素ボンベの化物も水底からゆっくりと姿を見せる。東華大帝君≠ニ称する物体は、司令塔に蟹の作りものを据えた小型の潜水艇なのだ。
格子状の排水孔から盛んに水を吐き出し、艇尾の圧力弁で、シュウシュウと高圧ガスを放出する。艇の側面に抱えるように付いているパイプは恐らく魚雷発射管だろう。
そうか、これなら洞窟の入口につかえることなく水路に入ってくることができる。ここは潜水艇の基地やったんかい。
定吉はだらんと手を降して東華大帝君一号と呼ばれた特殊潜航艇の接岸作業を見守っていた。
甲板のハッチに付いた開閉ハンドルがグルグルと回ったかと思う間に数人の小柄な男たちが銃を手に飛び出して来る。彼らの苦力《クーリー》服から発せられる汗と重油の臭いが定吉の鼻を刺激した。
薄汚れた男たちは、中国製四三式短機関銃の銃口を彼の胸元に突きつける。
「ホールドアップだ、贅六《ぜいろく》。ヘタなマネしやがると、さっきのバカと同じ目にあわせてやるぜ」
日活映画を気取ったマヌケづらがチューインガムをクチャクチャと噛《か》みながら定吉の脇へ回り、身体検査を行なった。「富士見西行」のやなぎ刃がもぎ取られ、腰に巻いた風呂敷包みも奪われる。
「あっ! ジョンソン・アンド・マリーのビスケットだ」
包みを開けた一人が嬉《うれ》しそうな声をあげた。
「創業一八一四年ロンドン・ハーレーストリートのJ&Mビスケットは甘さを押えた上品な味。日本ではマネのできないおいしさなんだ。値段は五十個入りで二千……」
カタログ雑誌丸暗記少年らしい苦力が缶のテープを開けようと手を伸ばす。
「まてまて、お茶の時間になったらゆっくり開けようぜ」
「手みやげ付で忍び込むとは意外に礼儀正しいヤローだ」
ブランド物外国製ビスケットの捕獲に彼らの意気は上った。
定吉は彼らの汚れた苦力服の胸に、鹿島神宮のお守りが例外なく下っていることを確認し、一人うなずく。
「なんだよ、てめえ! 文句あんのかよ」
突然一人の苦力が定吉の十円ハゲを平手ではたいた。ボコッという快音があたりに轟く。
「なにすんねん。痛いやないか」
「今の眼つきは何だよ。俺《おれ》たちをビスケットも知らない千葉の人間だと思ってバカにしてんな」
もう一度定吉の頭が鳴った。
「そないなこと何も言うてへんやないけ」
「いーや、その眼が言ってんだよ。俺はわかってんだ。その眼はな、その眼は俺が渋谷の公園通りでな、ナンパしようとして声をかけた東京の女が返す眼《ガン》とおんなじなんだよ。みんな俺を千葉の御宿《おんじゆく》出身だと思ってバカにしてるんだ、チクショー」
またしても平手が無抵抗な定吉の後頭部に飛んだ。
「不好《プー・ハオ》。やめなさい。御宿一八号。その丁稚さん大事な客人ある!」
マイクの声が響き、御宿一八号と呼ばれた眉《まゆ》の薄い男は憤懣《ふんまん》やるかたないといった表情で定吉から離れて行った。
その時ドラの音が鳴り響いた。
第二洞窟に続くと思われる朱塗りの大門のあたりが一段と明るくなる。
鼓弓《こきゆう》の音、鈴の響き、胡笛《こてき》、に合わせて絹を摩するような女性の歌声が聞こえてくる。
万寿山中に洞天在《ユートピア》り
道教の寺五荘観《イーソウカン》
その奥庭に珍木立つ
希有の果物「人参果《にんじんか》」
「金撃子《きんげきし》」を持ちて
いざ打ち落さん。
匂《にお》いをかげば三百余歳
一口食べれば四万七千歳
「草還丹《そうかんたん》(人参果の別名)」の歌である。もちろん定吉には何の曲かわかるはずも無かった。彼は両手で万歳をしたまま、静々と左右に押し開かれる門扉を見つめた。
6 わてが丁稚の定吉だす
光が洞窟いっぱいにあふれた。逆光の中に立つ一つの影が口をきいた。
「|※[#「にんべん」+「尓」]好《ニーハオ》、定吉七番。我是不好《ウオーシープーハオ》」
仕立ての良い灰色の国民服を着た男が光の中からゆっくりと歩み出て来た。
小柄な男。身長は百五十七、八センチといったところか。小太りで頭の毛が薄く、顔にはあまりシワが無い。眼尻《めじり》が釣り上っているところは、ハリウッド映画に登場する中国人に化けた白人といったイメージだ。口もとにはたえず微笑が浮んでいるが、それは残忍さを印象づけるまでには至っていない。なぜとなればその口の両端に涎《よだれ》が光っているからだ。
このオッサンいったい歳《とし》はなんぼやろか? 定吉は上目使いにその怪人を観察した。
「いつまでもソバ屋のおか持ちみたいにしてる。それ手が疲れる。降してイイです」
定吉の周囲で銃を突きつけていた連中がサッと二歩ほど下った。どうやらホールド・アップが解除されたらしい。
プー・ハオは、定吉から三歩の位置まで近づき立ち止った。
「お宅さんの船着き場でエライ不細工いたしましてスンマヘンなあ。ワテが丁稚の定吉だす」
定吉は両膝の上に手を当ててペコリと頭を下げた。大店の丁稚は初対面の人間には腰を低くするように教育されている。それがたとえ敵の首領であったとしても……。
「あなたのウワサいっぱい聞いてるネ。お友だち気の毒なことした。でもこの水路深い。残念だけど二度と浮び上ること無いね」
定吉は水路の水面を見返し、口の中で念仏をとなえた。
「さあ、こっちいらしゃい。あなたと腹わって話したい。さあ!」
手まねきするプー・ハオの後からノロノロと定吉は歩き始める。短機関銃を擬した苦力たちがその後に続いた。
「水簾洞」と書かれた扁額の下を通る際、プー・ハオは太短い指先を額に向けた。
「私、今のところ斉天大聖*シ乗ってる。しかし、みんな私のこと博士《ドクター》と呼ぶね」
定吉は初めてその文字の意味を思い出した。中国四大奇書の一つ「西遊記」に現われるユートピアの名、孫悟空が猿の群を率いて国を建てた洞窟だ。そして斉天大聖は悟空の尊称……。この男は気が狂っているのだろうか。
門扉の向う側はムッとする熱気だった。
定吉の足がピタリと止まった。
ボートで洞窟に入って以来四度目のショックを彼は感じていた。信じられない光景だ。
彼の眼の前には中国風の大広間が広がり、その中央に、四畳半いっぱい分はあろうかという大きな鉄釜《てつがま》が据え付けられているのだ。釜の側では多少は身ぎれいにした苦力服の男たちが底へコークスをくべ続けている。釜の中はグツグツと何やら煮立ち、天井は蒸気が吹き上ってなかば見えなくなっている。
「どう? 見事な光景ある」
ドクター<vー・ハオは口元の涎《よだれ》を袖口で拭《ふ》きながら満足気に一人うなずいた。
「一日として火を絶やさない。この釜は生きているのヨ。私の命の次に大事な宝」
プー・ハオ博士は、うっとりとした顔つきで鉄の大釜を眺めていた。その姿はまるで宝石店のショー・ケースに飾られたエンゲージリングを見つめる結婚願望のオールド・ミスそっくりだった。しかしそれもほんの数秒ほどのこと。
「ささ、こっちね。あなたそこ坐《すわ》る」
釜の横にアラバスター製の円卓がしつらえてあった。釜の熱気が定吉の坐った中国椅子のところまで伝わって来る。
ここは言うことを聞いておいた方が良さそうだった。
機関銃を持った博士の部下たちは部屋の片隅、柱の陰に整列し、微動だにしない。
「メイラン、メイラン」
プー・ハオ博士は手を打って誰かを呼ぶ。しかし聞こえてくるのは空気の抜けたゴムマリのような音だけだった。彼の両の手には黒い小羊《キツド》の手袋がはめられたままなのだ。
待つ間も無く、背後に立てられた六曲一双、仙境図を描いた屏風《びようぶ》の陰から白龍の刺繍《ししゆう》で飾ったチャイナ・ドレスの女が現われた。手には盆を捧《ささ》げ持ち、いかにもハリウッド映画の中国娘がやりそうなお辞儀をして二人の前に歩み寄った。
「あなた下戸だったね。茉莉花茶《まつりかちや》どぞ、それとも銀糸茶の方良かったか?」
メイランと呼ばれた女は腰までスリットの入ったチャイナ・ドレスを曲げてテーブルに青磁《せいじ》の器を幾つか並べると、定吉の顔をチラリと見て片目をつぶってみせた。
毒海老《どくえび》使いの奈緒美だった。
「定吉さんは彼女のこと知ってるね。彼女ここではメイラン言う名前よ」
定吉は一礼して下る奈緒美の、チャイナ・ドレスに包まれたヒップを眺めて呆然《ぼうぜん》とした。
「あなたがお酒飲めないの実に残念。私、失礼して一杯やらせてもらうね」
プー・ハオ博士はそう断ると卓上に置かれた青緑色の磁器を取り上げた。
薄手の杯に茶色の液体をトロトロと注ぐ。
「陳年(年代物)の花彫《はなぼり》よ。白楽天の生誕千二百年を記念して特別に醸造され、台湾の高官にだけ配られたものね。蒋総統没した後も依然、鬱蒼《うつそう》として深遠《しんえん》な味わい変えていない」
陶然として紹興酒《しようこうしゆ》の杯を口に運ぶプー・ハオ博士の顔を定吉は上目使いに見ていた。
「あなた私のこと気が狂ってる思ってるね。そう、私、偏執狂よ。自分でもそう思ってる」
博士は袖口で酒の滴ともよだれともつかないものを拭いた。
「力に対する偏執、料理に対する偏執、これ私のポリシー。部下の報告によると、あなたも己れの味覚と技に強く固執する人だそうね。言わばおあいこ。私があなたと話し合いたい思ったのもそこが気に入ったからね。充分理解し合える思って命助けた」
「はあ、左様でっか。それはおおきに」
定吉としては、取り敢えず頭を下げておくしか無かった。プー・ハオ博士の進めるお茶を飲みつつ、お愛想笑いを浮べる。
「どう、すばらしい洞窟でしょ。短期間でこれだけの施設作るの並大抵の苦労でなかった。部下も良く働いてくれた。千葉の人たち皆働きものね」
プー・ハオ博士は黒手袋をはめた右手で室内を指し、ほほ笑んだ。
「けど、これは……史跡破壊でんな」
定吉は燕《つばめ》の絵が白く描かれた青磁の茶碗《ちやわん》を眺めつつ控え目に言った。
「そういう意見もある。しかし、私としては充分弁天様に敬意を表したつもり。あそこ見る」
博士の指差す部屋の一方には祭礼用の壇が作られ、「東海龍王・敖広《ごうこう》」以下、四海の龍王の名を記した金糸の風帯付掛け軸が下っている。
「龍は弁天様の化身ね。だからあれ祭ってる。弁天様もこの施設見たら絶対喜んでくれる」
「弁財天いうのは、もともとインドの水神さんで日本では宇賀神いう巳《み》いさん(蛇)と同じや聞いてましたが……」
定吉は首をひねった。
「ハハハ、中国料理では蛇のこと龍《ロン》′セうね。だからだいたい同じよ。蛇の料理食べる女の人、眼がきれいになる言うね。これ広東の常識。私、だいたい合っていれば良ろしいという思想持ってる。『黒い猫でも白い猫でも食用猫はみな良い猫』言うでしょ」
プー・ハオ博士は支離滅裂な会話で定吉を煙に巻こうとする。
「すんまへん。話の本題に早よ入って欲しいんでっけど……」
定吉はモジモジと尻を動かした。
「対不起《トイプーチー》。ごめん、ごめん。しかし諺《ことわざ》に言うね、急《せ》いては事を仕損じる。まずはゆるゆると、食事など取りながら」
と言いつつ、またしても手袋のまま手を打つ。
巨大な大釜《おおがま》の陰から白いボーイ服の男が三人、滑るような中国歩行《チヤイニーズ・ウオーク》で現われた。
「お客人にお料理を」
「明白了《ミンパイラ》、博士」
三人のボーイは深々と頭を下げて後退する。
「あの三人も中国の人間で無い。千葉の人ね。でもカンフー強い。あなたの仲間殺したのも、あなたを国道で襲ったのもあの三人」
定吉は料理のワゴンを運んで来る男たちを睨んだ。この三人の殺し屋が谷町天六を、平野めぐみを殺害した犯人か。
「ドクターは房総半島の人間が特別好きなんでっか?」
定吉は彼の前に前菜の皿を並べたり、空になった器に茶を注ぎ入れるボーイたちを横目で見ながら質問した。
「千葉の人たち、自分のこと絶対に田舎者と思わない。これ、イングランドに住むウエールズ人と同じ性格ね。だからこの人たち、ロンドンでウエールズ人がアイルランド人差別するように埼玉の人を差別する。でも、湘南来ると神奈川の人に差別される。メイヨー、これ千葉人たち不当だと思ってる。なにしろ横須賀線、今では成田まで通ってるからね」
博士は三人の殺し屋兼ボーイたちにほほ笑みかけながら答える。
「私、湘南で帝王になったあかつきには千葉の人たち優遇する誓い立てた」
「なるほど、そうやってえぐい性格した千葉のやつばかり集めたんでんな」
「同じ郷土出身者で周り固め、結社作る。一つの意識で団結させ、外に向って攻撃する。これ戦前の日本帝国陸軍の思想。あなたの属する組織も同じでないのか?」
プー・ハオ博士は前菜の「天厨牛舌」をつまみ、陳酒の杯をかたむけながら笑った。
「ま、そらそうだっけど……」
「四冷盆双〓」をつつきながら定吉はうなずく。
「でも、この部下たち、欠点有る。マスコミに弱いこと。セックスのことしか頭にないこと。その目的のためには後先考えないことね。ついこの前もここから脱走者出た。こいつなんで逃げたか思ったら、東京の新宿で金曜の深夜に公開放送してるテレビ出て、カメラの前でVサイン出して女にモテたいいう目的のためだった。私、首領として情け無いよ」
プー・ハオ博士は頭を振ってうつむいた。
「それは、さぞ情け無いことだっしゃろな」
スープをすすりつつ定吉はうなずいた。
「ところでミスター・定吉。こんなこと話すのも、こちらが何も匿《かく》していないこと教えるため。これから私の秘密は全部話す。そのかわりね」
定吉はスープの皿から顔をあげた。一瞬、室内に静寂がおとずれる。聞こえて来るのは、例の大釜から発するゴウゴウという湯の煮え立つ音だけだ。
「私の打ち明け話が終ったら、そっちも話して欲しいのこと。そういうルールで行きたい」
プー・ハオ博士はナプキンで口を拭《ぬぐ》い、前菜の皿を取り片づけるように目で合図する。
「私、力ずくで拷問《ごうもん》するの、あまり好きくない。それは私がそんな経験有るから」
彼は黒い手袋の先を口でくわえ、ギリギリと音を立てて手から抜き取った。
灰色の国民服の袖口から覗《のぞ》いているもの、それは手ではなかった。銀色に輝く機械だ。一応、手の甲らしい金属片と五本の指に似た棒がつなぎ合って形は出来上っているものの、それは義手というより、自動車工場の溶接アームに近いものだった。
プー・ハオ博士は、その機械細工で卓上の青磁酒瓶を持ち上げると、にっこり笑った。一瞬のうちにその瓶は砕け散り、あっけにとられていた定吉の方まで紹興酒の滴が飛んだ。
ボーイの一人が急いでその砕片を片づけるためナプキンを取った。
「いやとは言わないはずね」
プー・ハオ博士は銀の義手に付いた茶色の滴をボーイに拭わせながら暗い笑い声をあげた。
「トイプチー。驚かせて済みませんのこと。でも私本当はうれしいのよ。今まで私の身上話聞いてくれそうな教養ある人、私のまわりにあまりいなかった。ここにいる部下、忠実だが物ごとの理解能力あまり無い」
「メイン・ディッシュでございます」
涼やかな女性の声がした。
メイランこと奈緒美が嘉靖《かせい》の五彩《ごさい》皿を載せたワゴンを押して現われた。
「ハハ、メイランは別ね。この子は水簾洞の中でただ一人私の話わかってくれる」
奈緒美はやさしく二人に笑いかけながら皿に料理を取り分けて行った。
髪の毛を中国風にアップし、時おり定吉の肩に手を置きながら三鮮海参や肉餅子を器用に運ぶ彼女には、あの毒海老攻撃の夜の奔放さは微塵《みじん》も無い。華僑《かきよう》の上流家庭に育った娘と言っても通りそうな風情だ。
「彼女はやはり千葉の出身だが、他の猴《こう》(猿の別称)どもとは違うね。私がやっている水族館の学芸員、インテリね。甲殻類の研究では一番よ」
定吉は、あの夜、彼女が告白した言葉を思い出した。
「私も十数年前は彼女と同じように甲殻類、特に蟹の研究やってた。北京《ペキン》の大学。生物学の博士号そこで取ったね。あの頃《ころ》が花だったのこと」
陳年紹興の酔いが早くも博士の顔に表われ始めた。
「私、四川《スーチョワン》盆地の成都《チョンツー》で生まれたね。家は『伊尹菜館《イーインツアイカン》』いう料理店だった。伊尹とは四千年前、殷《いん》代に料理人から宰相になった人の名」
どうやらプー・ハオ博士は自分の思い出に浸り始めたようだ。
「有名な菜館だったね。なにしろ二百年以上続いていたのだから。いやいや、だから言ってけっして高級な店でない。張三李四《チヤンサンリースー》だけを相手に昔からやってた店。直径二間二尺の鉄の大釜を土間に据えつけ、周囲には足場が作ってある。火は創業以来消したことが無い。客はいつも入りきらないぐらいだったね。成都の勤労者、朝四時から店の前並んだ。店、夜十二時まで開けていた。革命前からズッとこの生活。時間が来ると豚足、バラ、牛腸、肝臓、鶏を丸ごと、羔(仔羊《こひつじ》)、四季の野菜、それぞれの煮立ち頃を考えながら放り込む。ま、一種のシャブシャブね。味は四川風、ポウポウと煮え立つ汁は朱に染っていたね。嗚呼《ああ》、今でもあの時の情景目に浮ぶよ。足場に上って釜を覗く客、汁を碗《わん》にすくう客、順番が待ちきれなくなって空腹を訴える客の声、声、声。私、客の間駆け回って碗数勘定、料金請求しながら大きくなった」
定吉はだまって聞いていた。時おり部屋の中央で、大釜の下で燃えるコークスのはぜる音が強く響く。
「父はこうした旧家にありがちな頑固な男だったね。私を料理人にしようとした。私、反発した。家飛び出して北京出た。大学の試験受けて特待生なった。専攻は海洋生物学、山国育ちで海に憧《あこが》れてたためね。中でも蟹に心引かれた。北京出て初めて食べた上海蟹おいしかったから。でも……。この頃、最初の試練私を待ち構えてたね」
「それは何だす?」思わず定吉は聞いた。
「文化大革命よ。北大(北京大学)の井崗山《せいこうざん》、江青を『油鍋《なべ》に放りこめ』言ったためにまず三角帽子被せられた。右も左もわからない青洟《あおばな》たらした紅衛兵のガキ、学内|雪崩《なだ》れ込んで来た。研究室壊され、老師たち殴り殺された。乱離骨灰。インテリは、ひとまとめにして地方へ下放させられた。強制労働ね。私、陝西《シエンシー》省の麦畑飛ばされた。一年間そこにいて、ある日脱走したね。解放軍の兵士に化け、トラック、荷馬車乗りついで生まれ故郷目指した。他に行く場所もう無かった。成都の実家帰ってみて驚いた」
プー・ハオ博士はここで息をついた。
「家、焼けて跡形も無かった。焼け跡に大きな鉄の釜、ポツンと残ってただけ。私、近所の人になんで火事になったか聞いた。誰《だれ》も話してくれない。みんな紅衛兵恐れてた。やっと一人だけ話してくれる人みつけた。その人言った。『あなたの父さん反革命分子のレッテル張られて殺された。お母さんそれがもとで床につき、死んだ』と。ある日、紅衛兵のガキども、ドラや太鼓やチャルメラ鳴らして家に来たそうな。菜館の鉄釜に『乾隆《けんりゆう》二十一年(一七五六年)』の銘彫ってあること密告したやつがいたね。紅衛兵、父に言った。『乾隆とは清朝の皇帝の名だ。この人民の時代に王の名が付いた釜で人民に煮炊きする。それ反革命的行為、ただちに釜の火を消して銘を削り、自己批判せよ』。これ言いがかり。もちろん父は断った。銘を削れば釜に穴あいてしまう。紅衛兵怒って父を煮え立った釜の中に放り込んで、その後、家に火を放ったね」
プー・ハオ博士はナプキンをギュッと握りしめる。その布は指の間で細く散った。
「私、復讐《ふくしゆう》の鬼になる決心した。その頃、成都の市民皆中央から来た革命派に反感を持ち始めていた。古い良いもの皆壊して、その後にスローガンベタベタ。外から来た紅衛兵、悪い病気持ち込んだ。リンチ横行し、掠奪《りやくだつ》、暴行日常茶飯事。ついにある日、市民の一団紅衛兵宿舎襲った。復讐の時は来た」
博士は卓の前に立ち上った。定吉、奈緒美、そして三人の殺し屋兼ボーイたちは茫然《ぼうぜん》としてその姿を仰いだ。
「私、一人で解放軍襲った。まず駅に火をつけた。鉄道の線路破壊して軍用列車何本も脱線させた。兵舎襲って中の人間ごと丸焼きにした。車両《しやりよう》集積所行って戦車三十両に放火した。飛行場のミグ、ツポレフみんなオシャカにした。燃料全て川に流し、火を放った。八面六臂《はちめんろつぴ》の大活躍。でも北京から新手来て、すぐに負けた」
「そんなに戦いはったのに、なぜ?」
「全部味方のだったんだ!」
博士は悲し気な声をあげた。
「成都軍管区の解放軍、反乱側に寝返っていた。メイヨー、私、それ知らなかったよー。だから反乱軍の拠点一つ残らず破壊してしまったねー。早とちり、私の持って生まれた悪いクセ。北京から来た毛沢東派やすやすと全市再占領した」
博士はガックリと肩を落し、椅子《いす》に坐りなおした。
「成都の市民、私のこと裏切り者思った。反乱軍の残党、私の命|狙《ねら》った。私仕方無く重慶《チョンチン》まで逃げた。そこでしばらく潜んでたがある日、空腹で外出た時紅衛兵に捕った。汪東興の腹心が来て即決人民裁判やった。成都に送られて引き回し、拷問、そのうえで……」
感きわまって博士はしばし絶句した。
「青竜刀で両手首切り落された」
彼は銀の義手を顔の前に掲げて見せる。
「政治委員、私に言った。『命だけは助けてやる。父の形見の反革命的鉄釜とともにこの地より去れ。お前の命運は、悠久の流れ、母なる長江《チヤンチヤン》が決めてくれるであろう』と。私、あの大釜とともに、成都の東流れる揚子江の支流に放り込まれた。第二の試練始まったね」
ここで突然、プー・ハオ博士は体をゆらゆらと揺り、調子外れの歌を唄《うた》い始めた。
手首取られた一寸法師
小さな身体で望みも失くし
お釜の船に櫂《かい》も無く
長江をはるばる……
「ドクター、|〓怎了《ニーツエンモラ》?(どうしたのですか?)高歌放吟はドクターの最も嫌うところではなかったの?」
博士の後に立っていた奈緒美がやさしく彼の肩を掴《つか》んだ。
「おお、メイラン、トイプチー」
奈緒美はチャイナ・ドレスのどこから取り出したのか蘇州《そしゆう》の刺繍ハンカチを白い指に持ち、博士の顔を拭った。
彼の顔はよだれと、鼻水、そして恐らく悔し涙とおぼしき水分でグショグショだった。
いまや! 定吉は椅子から体を浮せ、飛びかかろうと身構えた。
が、何ということだろう。博士に隙が無い。いや、博士本人にではない。その義手だ。博士の上体はやさしく労わる奈緒美の胸に抱かれている。彼のその手だけが卓上でわずかだが蠢《うごめ》き、定吉を牽制《けんせい》し続けているのだ。
「酔いがこうじて取り乱してしまった。恥かしいね。私時々我を忘れるクセ有る」
鼻紙を取り出し、音を立てて鼻をかむ博士にはすでに隙は無い。機会は去ったのだ。
「どこまで話したか……。そう、揚子江の中に釜ごと投げ込まれたとこまでね。私……、そのまま下流に流された。手の無い腕に杓文字《しやもじ》括《くく》り付けて、洞庭《トンチン》湖、武漢《ウーハン》、黄石《ホワンシー》抜けて、|※[#「番」+「郎」の旁」]陽《ポーヤン》湖まで二ヵ月、物乞いしながら流されて行った。私、死んでも死にきれなかった。私の精神、肉体を凌駕《りようが》した。|※[#「番」+「郎」の旁」]陽《ポーヤン》で湖賊の一団に助けられてその仲間に入った。湖賊言うのは湖の盗賊ね。そこで簡単な義手を作ってもらった後、一年以上も人民公社の物資輸送船襲う手伝いした。湖賊の中で私、料理人にまでなったね。これ仲間の中ではエラク高い地位。料理人になること嫌って家飛び出したのに、結局台所に入った私、運命の皮肉感じた。そこで考えたね。料理の腕でこの世の中に復讐できないものか。桑畑の捨て子だった伊尹《イーイン》は料理の力で湯王を動かし、夏《か》の国を滅して宰相となった。私にもそれが可能なのではないだろうか、と」
博士は定吉の方に向きなおる。
「ミスター・定吉。中国の古諺《こげん》に『古来英雄|厨房《ちゆうぼう》より出づ』言うのあること知ってるかね?」
「いえ、存じまへん」
「中国では料理人が政治に参加する例、きわめて多いね。中国の歴史の中で最もアナーキーで、しかも権謀に巧みな階級、二つある。一つは料理人、もう一つは宦官《かんがん》ね。彼らはその才と業で、飽くこと無き権力者の欲望に油を注ぎ続けたのよ。中華歴代の王朝、何度も彼らのおかげで傾いた。斉の桓公は料理人易牙を重用したため宮中乱れた。南宋の咸淳帝、食道楽のあまりモンゴルに敗れた。国建てるも英雄、国亡ぼすも英雄ね。この論で行くなら料理人また大英雄、私、悪の英雄になる決意した時、名前変えた」
「それで不好《プー・ハオ》言わはるんでっか」
定吉は肉団子を一口かじりながらうなずく。
「そう。やがて湖賊やってお金|貯《たま》った私、大釜とともに船で上海《シヤンハイ》へ出た。その時|呉淞《ウースン》の先でドえらいもの見た」
「何だす?」
「長江口の河口一帯に流れる死骸《しがい》ね。何千もの粛清された人間がプカプカと浮いてた。その死骸にはイッパイ蟹がたかってたよ。有名な上海蟹。みんな死骸食べて丸々太ってた。私、その蟹、釜に集めながら東シナ海出たよ。北回帰線越えて香港にたどりつくと、すぐにアバディーンで水上レストラン開いた。これ当った。香港の上流階級争って私のレストラン予約したね。旬《しゆん》の上海蟹大人気。みんな人間食べた蟹を食べて、今年の蟹は一段とウマイ言ったね」
プー・ハオ博士は口元に泡をためながらヒステリックな笑い声を上げた。定吉は手にした象牙《ぞうげ》の箸《はし》を思わず取り落す。彼の摘まもうとした皿の中身がたっぷりと肉の付いた「酔っぱらい蟹のあんかけ」だったのだ。
「しかし香港の町には大陸の難民いっぱい。中には私のことを知ってる四川の難民もいる。成都反乱の裏切り者として私を付け狙う輩《やから》も多い。そこで外国へ出ることにしたね。いろいろ回って、最後に日本行った。新宿駅前でカメラ、時計大安売やってるの見て即座にこの国好きになった」
「はあ、意外とシンプルな神経してますのやな」
オッサンなに考えとんのや? と定吉は危うく口走りそうになった。それを見抜いたのか奈緒美が含み笑いをする。博士はボーイの一人を銀の指でさし招いた。
7 プー・ハオの釜茹《かまゆで》
「今日は特別な日だ。蛤蜥酒《ハーカイチユー》のカメを持って来るね」
「ドクター、もうそれ以上飲まれてはお体に毒です」
奈緒美が口を挟んだがプー・ハオ博士は、笑いながら彼女を止めた。
「ハーカイチューってなんだす?」
定吉は奈緒美の服の端を引いて小声で質問する。
「紅マダラのトカゲが入ったお酒よ」
こらまた悪趣味な酒やな。そんなえげつない酒の御相伴、もしさせられたらどないしよ。なんせ酔っぱらいいうのは下戸をいたぶるのが通例やさかい。定吉はうつむいた。博士は今や完全に自分の思い出話に酔いつぶれる寸前だった。
「この義手も日本で作った。IC組み込んだロボット・アームね。この国のバイオニック今や世界最高よ。ミスター・定吉、あなたエドガー・アラン・ポオの短篇《たんぺん》で『使いきった男』いうの読んだことある?」
プー・ハオ博士は唐突に質問した。
「わて……無学な丁稚《でつち》ですさかい、あちゃらの本などよう読めしまへん」
「その話の中にジョン・A・B・C・スミスいう将軍が出て来る。彼はその全身が義物で包まれた、いわばバイオニック人間の先駆者ね。私、もっとお金貯めたら、ジョン・A・B・Cみたいな体になるね。これ本当の自己改造」
「なんでこの江ノ島に目え付けはったんだすか?」
定吉は単刀直入に聞いた。この怪人博士の身の上話はたしかに波乱万丈、興味深いものであったが、定吉にはあまり時間の余裕が無い。グズグズしているとあのビスケットが……。
「ハハハ、また話題|逸《そ》れてしまったね」
手元の皿を空にした博士は軽いゲップを出した。ボーイがそつなくその五彩皿を片付ける。
「私、まず横浜の中華街に落ち付いたよ。貿易商になりすまし、頼母子講《たのもしこう》やりながら機会|窺《うかが》った。財力、組織もっと強大にして、その力背景に私の手首切った文革派へ一泡吹かせること考えていたの。ところが」
ボーイがデザートの愛玉《アイギョ》を持って現われた。台湾の山中でとれる木の実の汁を固めた可憐《かれん》な冷果。プー・ハオ博士はその皿に顔をおとした。
「……ある日、中国またまたひっくり返ったね。文革派負けて汪東興殺された。江青の鬼ババ、『狗糞《いぬくそ》』呼ばれて人民裁判。私、故国に帰って復讐する相手失った」
部屋の中央で、またしてもコークスが音を立てて弾《はじ》けた。
「私、隠遁《いんとん》することにした。そしてこの湘南に来た。この土地来た理由は一つ。ここが化学調味料発祥の地だったから」
定吉はうなずいた。日本人にはあまり知られていないことだが、本場中国ではあの半透明のアミノ酸結晶体、日本の化学調味料を崇拝する料理人が極めて多いのだ。
「私、家常菜の冷凍工場建てて暮した。工場の経営順調。しかし、|※[#「番」+「郎」の旁」]陽《ポーヤン》湖で湖賊やってる頃に決意した『厨房より出でて英雄となる』の企み、権謀術策の腕を天下に振うのこと、忘れたことはなかった。そんなある日、私の力を求めて日本の組織接近して来たね。彼ら、私に新たな敵と、悪の力使う場所与えてくれた」
プー・ハオ博士は、狙撃兵《そげきへい》のような動きでその腕を真っ直ぐに定吉へ向けた。
「新たな敵とは、ミスター・定吉、あなたの属する大阪商工会議所ね」
「ほなら……、力を求めて来た日本の組織とは……」
「お察しの通り、『NATTO』よ」
ナットー! 定吉は息を飲んだ。ついでにデザートの愛玉も飲み込んだ。冷い寒天状の物体が彼の喉元《のどもと》をゆっくりと降りて行く。
NATTO、それは東日本から関西系企業を全て放逐しようと策動する謎《なぞ》の結社だ。関西を否定し、天慶の乱を起した神田明神、平将門公を崇め、「全関西人の食卓に納豆を!」をスローガンに掲げて暗躍する凶悪な組織である。新潟出身の政治家が宰相となった七〇年代中頃から強大化し、今やパリ・オーキュスト社が毎年その筋に発行している権威ある書物『世界秘密結社年鑑』にも顔を出すほどだ。
彼らの組織の秘密保持能力は高く、その名称、N・A・T・T・Oが何の頭文字を取ったのか、ということも今のところはっきりとは解明されていない。
「ハハハ、顔色が変ったね。ミスター・定吉」
今度は定吉がデザートの皿を見つめ続ける番だった。
「彼らは私に実に楽しい内職くれたね」
「どないな手仕事だすか?」
内職と言われて咄嗟《とつさ》に造花作りや封筒張りを連想してしまうところが定吉の育ちの悪さだった。
「この辺の海にやって来るヨットやクルーザーのうち、関西系の会社で作られたものだけ狙って沈めて欲しいと言うのよ。事故に見せかけてね。まるで、その船自体になにか不都合が生じたかのように」
プー・ハオ博士は愛玉に舌つづみを打ちながら唄うように説明した。
「穏やかな海、夕凪《ゆうなぎ》の相模灘、空もようも悪くないのに次々と関西の船だけ沈没する。これ世間の人たちどう見るね?」
「そら、船が欠陥品や思いまっしゃろな」
「そう、誰も関西で作られた船買わなくなる。そこがNATTOの狙いね」
なるほど、そうだったのか。定吉は唇を噛《か》んだ。博士はほほ笑み、袖口で口を拭く。
「私、船を沈めるのに小型潜水艇使うこと思いついた」
「それがあのロボット蟹が付いた船でっか?」
「そう、あの東華大帝君一号£ね。他にもう一隻、西華大皇女二号≠「うのもある。良い潜水艇よ。旧ナチス・ドイツ海軍が末期に開発したヴァイス・ハウプト<^イプのコピーね。しかし、あの手の兵器、メインテナンス大変。置いとく場所食う」
「で、ここを作りはった?」
「ここは大戦末期、米軍の上陸に備えて日本帝国海軍、特攻基地作ろうとした場所。実に理想的。でも、この潜水艇にはちょっと小さい。外海から出入りするには海底に水路作らなければならなかった。工事はなるべくこっそりとやったのだが、思わぬ伏兵いたね」
プー・ハオ博士は頭を振った。
「それ、何だと思う。海洋保護団体よ! 海底から偕老《かいろう》同穴≠「うスポンジ上って来た言ってやつら大騒ぎした。私、頭プイプイね。だからそいつら東華大帝君℃gって殺した。でも恐れていたこと起きた。あなたの仲間、私のこと、とうとう嗅《か》ぎ付けた。江ノ島の秘密外に洩《も》れたら計画|挫折《ざせつ》。資金回収もできなくなる」
「そやから、うちの谷町はんや平野はんを殺しなはったんだすな」
謎は解けた。弁天|洞窟《どうくつ》という迷宮《ラビリントス》の中で絡まっていたアリアドネーの糸玉は今や完全にほぐれたのだった。
プー・ハオ博士は銀の指を一閃《いつせん》させた。三人のボーイは卓上の最後の皿を取り片付ける。奈緒美がまたしても手品のような早技でブック・サイズの木箱を取り出した。ラテンの混血娘がラベルの上で笑っている。ラ・ボニータ=B限定生産の手巻き。食後の一服というわけか。それとも「|処刑前の一服《フイニツシユ・パフ》」か。
「どうだね。たまには葉巻でもためしてみる?」
「そっちの方も不調法ですさかい……、やめときまっさ。おおきに」
定吉は軽く頭を下げながら、チラリと部屋の片隅を見た。監視の苦力たちの顔ぶれがいつの間にか入れ代っている。ハッとする彼の横顔を覗き込むようにして博士は立ち上った。
「さて、私の話、これでおしまい。御静聴ありがと」
博士は部屋の中央に歩み出し、大釜の前へ立つと少し頭を下げて火加減を見、再び定吉の坐っている円卓へもどって来た。
「洞窟の中にいると時間の感覚無くなっていけない。外はもう朝ね。夜勤の部下も交代を終えた」
彼は定吉の前に立つと両手を卓の上に置いて身を乗り出した。
「次はあなた話す番」
「何をでっか?」
「ここの秘密、大阪商工会議所秘密会所がどれくらいまで掴んでいるのか。あなたの仲間谷町天六、私のことどこまで知っていたか」
プー・ハオ博士は先ほどの食事中に見せた温和な表情を少しずつ変えて行った。
酔いはすっかり醒《さ》めたらしく、赤く染っていた顔は青白く変貌《へんぼう》している。
「その答え方次第であなたの運命きまる」
「わてに浪速《なにわ》の人たちを裏切れ言わはるんでんな」
定吉はのんびりと言った。しかし彼の心の中では早く、早く、と叫び続ける。何を……?
「わてにはそら出来しまへん。ここでわてがあんさんの言葉に従ってしもたら、大阪方の負けや。全体から見ればしよもないことやけど、こうした負けが積み重って大けな黒星になります。ええかっこしいや思いまっけど、ここのところは、かんにんでっせ」
「死んでもいいというの? 人間命は一つのことよ」
博士はまだ何か言おうと手をあげたが、気落ちしたかのように再び下した。
「残念ね、本当に残念。実は私、あなたの命できることなら助けたかった。私の手元で中華料理のコックにしたかったのこと。私の眼に狂いなかったら、あなた料理の名人になれる人。あなたと食事してそれわかった」
博士は義手を打った。ナイフとフォークを打ち合わすような金属音があたりに響く。
と、数人の苦力が奥の部屋より木製のタラップを運んで来た。脚の部分に四つの大きな車輪を付けたそれは、中世ヨーロッパで城攻めに使用した投石機《カタパルト》を連想させるシロモノだった。
苦力たちは博士に一礼すると鉄釜の横にタラップを押して行き、その上部を釜の縁にピタリと付ける。
定吉は自分の坐っている位置から見えるそのタラップの足掛けを数えてみた。
思った通り、そいつは十三段ある。
「なるほど、四条河原の五右衛門はんと同じ刑いうわけやな」
「この釜は先ほども話したように我が家に古くから伝わる名品。乾隆二十一年に時の江蘇巡撫高其倬《こうそじゆんぶこうきたく》の命によって鋳され、後年、成都の庖丁《ほうちよう》人|〓得《ほうとく》に譲られた由緒正しき料理釜ね。この釜に煮られて死ぬ。これ考えようによっては非常な名誉」
スペインの悪名高い宗教裁判長トルケマダを彷彿《ほうふつ》とさせる声で博士はおごそかに言った。
「ドクター、それは……」
脇に立っていた奈緒美が一歩前に踏み出す。
「メイラン、あなたにはこの刑、あまりにも刺激が強そう。下っていなさい」
博士は顎《あご》をしゃくった。奈緒美は悲しそうな表情で哀れな現代の石川五右衛門を数秒間見つめていたが、クルリと後を向くと隣の部屋に駆け出した。
「メイラン、あなたに心引かれている。いや、私には何もかも見通しよ、たった数時間の契りで彼女、あなたにメロメロね。彼女があなた殺すの失敗した時に私それ見抜いた。なるほど関西にその人有りと言われた定吉七番、女にかけてもスゴ腕思ったよ。そういった意味も含めて殺すの残念のこと」
プー・ハオ博士は三人のボーイを手招きする。彼らは定吉を椅子から立つようにうながし、両腕を取って釜の前に引き出した。
「人間を釜茹《かまゆ》でにするとどうなるか知ってるかね? 海老やタコのように真っ赤に変色するのよ。そして縮むね。これ清代の刑法書にも書いてある」
定吉はその釜をあらためてジックリと観察した。底の部分には三本の足が小さく突き出し、耳《じ》と呼ばれる巨大な運搬用の輪が二つ、左右の縁に下っている。昔はここに丸太でも通して大勢の人間が担いだのだろう。中央の脹《ふく》らんだ部分には達筆で乾隆二十一年の銘となにやら薄っすらと毛彫りで動物や人が描かれていた。二百数十年の年月を経たこの釜はそれ自体が食欲の権化、人間の業の生まれ変りといったふうに定吉には見えた。
「そろそろ太陽も昇る頃。私、あなたをこの中に放り込んだら夕方までゆっくり休む。その間コークスの量少な目、トロ火でトロトロとあなた煮る。夕方、私起きる頃、あなた立派な太牢《ターロー》≠ノ変ってるね。これを逗子にある私の水族館持って行って飼育実験中の上海蟹たちに食べさせる。私が上海で見たあの文革の頃の蟹と同じ丸々と太ったおいしい蟹が育つのことよ」
コークスの燃える音が一段と激しくなったように感じられた。定吉の待ちこがれるものはまだ来ない。
彼は身をよじったが、両側から三人のボーイ兼殺し屋に腕をガッチリと押えつけられて自由がきかない。
そのままの姿勢で彼はズルズルとタラップの上に引きずり上げられた。
タラップの中程に博士がにこやかに笑って立ち、銀の手で強力な|慈悲の一撃《クー・ド・グラース》≠与えようと構えている。万事休すか!
「請《チン》・|休息〓《シユウシパ》(おやすみ)定吉七番」
銀のロボット・アームが宙に舞った。
この時だった。
ドカンという巨大な音とともに隣の洞窟から火煙が広間に吹き込んで来た。床が音を立てて裂け、天井から岩が落ちる。タラップの上に居た四人の男たちは手すりにしがみ付き、かろうじて振り落されるのを防いだ。
豚の悲鳴のような警報があちこちで鳴り響いた。
「|〓怎了《ニーツエンモラ》?(なにごとだ)」
プー・ハオ博士はタラップの上で仁王立ちになって叫んだ。
血と煤《すす》でボロ布のようになった苦力がよろよろと煙の中から現われる。
「これいったいどういうこと? 敵の攻撃か?」
博士の問いにそのボロ切れは答えた。
「解りません。交代の時間が来たので控えの部屋に帰り、茶でも入れようとしてこの贅六《ぜいろく》からせしめたビスケットの缶を開けたら急に……」
再び爆発音が轟《とどろ》く。
「あなた! なにか小細工したね」
博士は血相を変えて定吉の方に向き直った。
「プー・ハオはん。外国製のビスケット程度で眼の色変えるような、もっさい(ダサい)部下持ったのが間違いのもとやったなあ」
定吉はペロリと舌を出した。
もう一人、小型消化器を手にした苦力がタラップの下に駆け寄って来た。
「博士! 東華大帝君一号の燃料に火が付きました。このままで行くと弾薬庫も危ない。逃げて下さい」
またしても小さな爆発音が響いた。
定吉が待っていたものはこれだったのだ。ビスケットの缶の底に強力な爆発物を仕込み、奪った相手がそれを開けるよう仕向ける。普通なら幼児以外に通用しない方法だが、物欲の固まりのような博士の部下にはうまく行った。敵の性格を読んだ定吉の計算が当ったのだ。
「殺《チー》!」
怒りを込めた博士の義手が定吉に向って振りおろされた。
定吉はハッと身を沈めた。定吉の右腕を押えていた一人のボーイがあわてて定吉を捕えようと前のめりになった。勢い余った博士の手は、その男の頸動脈《けいどうみやく》へ見事に当った。鈍い音とともに彼の首の骨は折れる。
いまや!
定吉は残る二人の殺し屋をタラップの上から振り落した。一人は尻《しり》から落下できたが、もう一人は十三階段の十二段目から頭を下にして落ち、マーブリング紋様の床に真っ赤な粥《かゆ》を撒《ま》き散らした。
プー・ハオ博士は形相も凄《すさ》まじく定吉に飛びかかる。タラップの中央で入り乱れての揉《も》み合いとなった。下に落ちて生き残った殺し屋が背中からヌンチャクを抜き、博士に加勢しようとタラップに手をかける。
その時、煙の中で銃火が煌《きら》めいた。
床に弾着の火が上り、鉄釜の表面に弾が跳《は》ねる。ヌンチャクを構えた殺し屋が釜の下で崩れるように倒れた。
「メイラン!」
室内に充満する煙の中で、銃の持ち主を最初に見きわめたのは博士だった。
小柄ながら、恐るべき力を発揮するバイオニック・アームで定吉の喉首《のどくび》を掴んでいた博士は、奈緒美の裏切りに動揺したのかフッと手の力をゆるめる。しかし定吉が自由を取り戻すまでには至っていない。
遠くで爆竹の爆《は》ぜるような音が聞こえて来た。小火器の弾薬に引火したらしい。
シュマイザーMP40を構えた奈緒美とそのパトロンは燃えるような視線を交した。
「あなたがそこまでこの男にホレているとは思わなかった」
博士は泣き笑いの顔を作りながら言った。
「ドクター、定吉さんを離して」
彼女は短機関銃の丸い照星を彼に向ける。
「射てるかね? この私を……。メイラン」
博士の身体がフッと軽くなった。
いかん。こいつはここから彼女に飛び掛かるつもりや。定吉はとっさに博士の体の下から声をかけた。
「いいことを教えまひょ。実はな。あんたが殺したうちの情報員。こんな秘密は全然知らんかったんだすわ。天六はんはな、この辺の海で取れる|赤※[#「魚へん」+「賁」]《あかえい》――あのひらべったい魚ですけども、それを捕って干物にして、チラと小細工しとる『半魚人の干物』いう江ノ島のゲテモノ土産に興味を持ってはりましてん」
博士の顔が定吉の方へ向いた。
「あの偕老同穴やら蟹の学生殺しやらで地元の漁師がびびりよって干物の値段つり上げたらどないしよ言うて報告してましたんや。あんたのことは単にオモロイ道楽モンの中国人や思てたんと違いまっか」
「なんだって! それでは……」
「あんさんお得意の早とちりや」
呆然とする博士の手から一瞬力が消えた。
満を持していた定吉はその長い脛《すね》を利用して博士を跳ね飛ばした。
「アイヤー!!」
博士は空中へ躍り上り、煮えたぎる釜の中へ落ちた。
定吉はあわててタラップを駆け上った。
博士は完全に湯の中へ落ちたのではなかった。片手が、あの強力なバイオニック・アームがかろうじて釜の縁に引っかかっていたのだった。
しかし彼の体は腰まで湯の中に浸っていた。彼が定吉に教えてくれた通り、たしかに彼の皮膚は赤く茹であがりつつあった。
定吉は悲鳴にもならぬ声をあげる哀れな男の義手を渾身《こんしん》の力を込めて釜の縁から引きはがした。
「冥土《めいど》に行って別れた自分の手首に早よ会いなはれ」
博士は残った体力をふり絞り釜の内側に両手を伸ばしたが、金属の義手は湾曲した鋳鉄の表面を空しく滑り続ける。
しかし、それもほんの数秒、力尽きた彼は熱湯地獄の中にズルズルと落ちて行った。
哀れな故郷喪失者《ハイマートロス》は先祖伝来の釜の中で、その父と同じ末路をたどったのだった。
定吉は片手を上げて念仏を唱えた。
短機関銃の掃射音が再び足もとで轟いた。奈緒美が室内へ新たに飛び込んで来た苦力たちを射殺したのだ。彼女の手の中でドイツ・エルマ社製の精密機械が躍った。
「早く! 逃げるのよ」
定吉は我に返った。急いでタラップから飛び降りる。
隣室から吹き出した黒煙と炎のミックスが釜を揺った。脆《もろ》くなった天井から巨大な岩が次々と降り注ぐ。
「こちらから行きましょう」
奈緒美は銃を投げ捨てると定吉の手を握って走り出した。倒れた朱塗りの円柱や飾り物の残骸《ざんがい》を避けながら二人は船着き場の方向に向う。
炎が何度も二人の皮膚を舐《な》めた。警報は依然として鳴り続けている。定吉たちの前後を半狂乱の男たちが慌てふためきながら駆け抜けた。もう誰も彼もが自分の命の保全だけを考えてるのだ。
定吉たちは船着き場へ出た。
炎熱地獄はここでも始まっていた。断末魔の悲鳴をあげた黒コゲの男たちが押し合い圧《へ》し合いしながら、重油の浮いた水路に飛び降りて行く。巨大な蟹の作りものを司令塔に飾った潜水艇が二隻、喫水線を見せて燃え上っていた。運良く水中に身を投じることができた連中は出口に向って泳いで行く。
絹のパンプスを脱ぎ、チャイナ・ドレスの裾《すそ》を思い切って裂いた奈緒美も水中に降りようとする。
「待ちなはれ! 波が高うおます。五分も泳がんうちに沈んでまいますで」
奈緒美を押し止めた定吉は周囲を見回し、朱塗り柱の下に落ちていたぶ厚い板きれを担ぎ出す。
それはあの水簾洞≠フ扁額《へんがく》だった。
水に投じられた額めがけて飛び込んだ二人は、縁にしがみ付いて前方に泳ぎ出した。
波は定吉たちを押し上げ、洞窟の出口から吐き出した。
朝の陽光が二人を染める。
百メートルほど外海に泳ぎ出したあたりで定吉は振り返った。
その瞬間、ひときわ高い爆発音があたりを圧した。
「魚雷の集積所に火が回ったのよ」
隣で泳ぐ奈緒美が他人ごとのように言った。
「奈緒美はん、なんでわてを助けてくれはりましたのや?」
「ドクターは義手だけではなく、ほぼ全身にバイオニック・アペレイションを受けつつあったのよ。義足、義眼、そして男性自身も……」
定吉は、博士が言ったジョン・A・B・C・スミス将軍≠フ寓意《ぐうい》を思い返した。
「私を喜ばせるために特殊な装置を内蔵していたわ。だけど……、あなたに出会って、そんなものまやかしだと知った……」
奈緒美は、アーモンド形の眼をキラキラと輝かせて定吉の脇《わき》に泳ぎ寄り、板の縁を握った彼の手に指を重ねた。
やれやれ、この代償はえらく高くつきそうやな。定吉は苦笑した。
二人の背後でかすかに銃声とパトカーのサイレンが聞こえてきた。ようやく江ノ島に県警が介入したらしい。
「ほら! あれを見て」
奈緒美が楽しそうな声をあげた。
定吉は、一目それを見るなり、目をむいた。
片瀬海岸の東岸から小動岬にかけての砂浜に数十隻の上陸用舟艇が並んでいた。ひときわ大きな揚陸艇の舳先《へさき》には定吉の上司、小番頭の雁之助、それに白い包帯を巻いた謙一が立っている。
「謙一どん、生きとったか……」
「さあ、行きましょう」
奈緒美と定吉は岸に向って泳ぎ出した。
岸辺では、十一番から一万一千六十番までの太助ナンバーを持つ唐桟のお仕着せ、前だれ姿の丁稚たちが浜いっぱいに広がり、二人の姿に大歓声を上げた。
ドクター・不好《プー・ハオ》 しまい
一九八四・四・一六
掛け取りの二 「オクトパシー・タコ焼娘」
1 依頼者はわが恋人
土佐堀《とさぼり》川の方向から吹いてくる風が、ビュウと一声|唸《うな》り、定吉の左|頬《ほお》を勢い良く打った。
「うー、さぶ、さぶ。かなわんなあ」
風に巻き上げられそうになった|八つ接ぎ《ハンチング》の庇《ひさし》をあわてて押さえ、彼は思わず声をあげた。
まるで小番頭はんの平手打ちみたいな風や。定吉は口を尖《とが》らせ、着物の襟を深く合わせてそそくさと高麗《こうらい》橋を渡り始める。
足の下では東横堀《ひがしよこぼり》川のドンヨリと濁った水が細かい泡を吹き上げていた。
先程、定吉のハンチングを奪いそこねた北風が、頭上に掛かる阪神高速の橋桁《はしげた》へ衝突して不気味な音をたてる。北欧の民なら雷鳴神《オーデイン》の|投げ鎚《ハンマー》≠、ロレーヌの民なら一九一六年ベルダンの砲声を、コンゴ・カタンガの民ならばシンバ族の反乱を告げるコンガの音を即座に思い起すに違いない。力強く、そして無慈悲な音だ。
「ラクダのモモヒキ穿《は》いてきて当りやったなぁ」
石の欄干の隙間《すきま》から吐き出される風が定吉の着衣の裾《すそ》を乱し、路上に落ちている初荷の札紙や枯れた松の小枝をクルクルとまわしている。
睦月《むつき》の始め、商家で行なわれる一連の細々《こまごま》した行事はとっくに終り、今日は大阪の正月最後を飾るいまみやのエベッさん=\―今宮|戎《えびす》神社恒例の十日戎、その本|戎《ほんえびす》の日。
「あと五日やな」思わず声が出る。
あと五日ほど、ひち面倒臭い帳場の手伝いを我慢してこなせば藪入《やぶい》り、定吉のような丁稚《でつち》にとって、天下晴れての正月休みがやってくる。
彼は懐手《ふところで》のまま指を一本ずつ折って数え、ニタッと笑った。
「こんなさぶい日は、早よう温《ぬく》いとこ入って温いモン食べるんが一番」
背を丸めた定吉は、風に嬲《なぶ》られつつ早足に橋灯籠《はしどうろう》の脇《わき》をすり抜けた。
渡れば対岸は島町、地下鉄谷町線|天満橋《てんまばし》駅前である。
「やぁ、おめでとはんだす」
大ダコの絵に天満橋≠フ文字を染めた朱の暖簾《のれん》を小手で掻《か》き分け、格子戸をガラリと開けた刹那《せつな》、定吉のハンチングに何かバサリとひっかかった。
「ああ、定やん。おめでとはん」
カウンターから割烹着《かつぽうぎ》姿の女主人が平べったい顔をニュッと突き出した。
「あ、なんかと思ったら福笹《ふくざさ》やったんか」
定吉は自分の頭に触れたものを見上げた。今宮戎、「商売|繁昌《はんじよう》でささもて来い」で有名な福笹である。
「定やんは、背え高いよって引っかかったんやな」
「こら縁起いいわ。ところでおばはん」
彼は店の中を見まわし、小指を立てた。
「これ、まだ来とらんなあ」
開店直後と見えて、客の姿はまだ無い。
「お孝《たか》ちゃんでっか?」
女主人は満面笑みをたたえて奥を指差した。
「もう三十分も前から座敷の方に居てはりまっせ」
「えっ、さよか」
定吉は、あわてて自分の腕時計を覗《のぞ》き見た。六時半、約束の時間ピッタリだ。別に彼が遅れたわけではない。
ホッとすると同時に、彼は、やはり何かあるな、と思った。いつも遅れてくる彼女が今日にかぎって小半時《こはんとき》も前に来ている。しかも、いつも好んで坐《すわ》るカウンターを避けて……。
「あがらしてもらいますぅ」
彼は草履を脱ぐと、二階の小座敷に通じる狭い階段へ足をかけた。
「なにかお付けしまひょか?」
「そやなあ、ラムネ二本ほど持って来とくなはれ」
酒がまるでダメな定吉は、女主人にそう注文すると急な階段を二段おきに上っていった。
昇りつめたところにある襖《ふすま》に声をかける。
「お孝ちゃん、お待っとおさん」
「やぁ定吉はん、寒かったやろ。早よ、こっち入り」
襖がガラリと開いて、定吉の恋人、お初天神前の増井屋お孝がおたべ人形≠フような愛敬ある下ぶくれの顔を突き出した。
定吉はそこでやっとハンチングを取り、立てていた襟を降して室内に入った。
中は狭い京間《きようま》の四畳半、小梅模様を散らした布団がけの炬燵《こたつ》で和服姿のお孝がおいでおいでをしている。
「ほんに今日は良う冷えるわ」
定吉は急いで炬燵の中に足を入れた。目の前の敷台には煮付けとタコ焼の鉄皿、お銚子《ちようし》が三本。見上げれば、お孝の顔はほんのり桜色に火照っている。
「わっ、ひゃっこいなあ。定吉はんの足」
そのお孝の脹《ふく》ら脛《はぎ》へ、もろに定吉の足先が触れ、彼女は大げさに驚いてみせた。
「かんにん」
階段をトントンと上ってくる音がして、女主人がラムネを運んで来た。
「なんや楽しそうでんなぁ」
「おばちゃん、定吉はんにタコ焼二皿ほど持って来たって。それからウチにお銚子もう一本」
「へえへえ」
定吉は、二人のやりとりを聞きながらボンヤリと部屋の中を見まわした。床の間に福笹が立てかけられている。
「お孝ちゃんもエベッさん行ったんか」
「うん。短大の同窓生たちとな」
手前のコップにラムネを注《つ》いで定吉に勧めながら彼女はうなずいた。
「どやった?」
「もう欲の皮の張ったんでイッパイや。定吉はんは行かへんの?」
「わては明日の残り福″sこ思ってまんねん」
両手も炬燵布団の中に突っ込んで背を丸めた定吉は、敷台の上に顎《あご》を乗せ、ラムネの泡が上るコップ越しにお孝の顔を眺めた。ちょうど、下ぶくれの可愛《かわい》い顔にお似合いの小さな唇へ、こんがりと焼けたタコ焼が一個吸い込まれていくところだった。
この店のタコ焼は他所《よそ》の店のそれに比べ半分ぐらいの大きさしかない。しかしその分、味の方は良いという巷《ちまた》の評判だ。この意見には定吉も賛成している。玉の中に大きなタコの足、それも正真正銘の明石ダコが入っている。カツオ節も土佐の本節だし、干エビも静岡の桜エビだ。
「定吉はんもお食べ」
「へぇ」
「ほれ、アーンして」
アーンと口を開けたところへ、お孝が楊枝《ようじ》に刺したタコ焼を一つ放り込む。
「どう、おいしい?」
「うん、うんまいわ」
定吉はしばらく口をモグモグと動かしていたが、急に妙な顔つきになる。
「うまいけど、以前食べたタコ焼と少し違うてるみたいやな」
味が少し変ったような気がした。どこが違うのだろう。
「さすがは定吉はんや」
お孝はほほ笑んだ。
「ソースが以前のもんと違うとんのやて」
「ああ、なるほどそれで」
少し辛いのか、と定吉は合点した。
「今、このお付けのソース、天満一帯で流行ってんねん」
「ふーん」
彼は目の前の鉄皿に乗っている小さなボールをあらためて眺めた。ここの作り方は上品で、ソースを表面にほんの一|刷毛《はけ》塗るか塗らない程度だから注意深く味わわなければソレとは感じない。が、ソースをベシャベシャに塗り重ねてしまうそこらの屋台で使用すればかなり辛いタコ焼が出来上ってしまうことだろう。
「たくさんつけると、ものごっつう辛うなるねん。けど、喉越《のどご》しがさわやかで、食べた後、なんやスーッとする不思議なソースや」
お孝は、皿の上のタコ焼を楊枝で再び突くと一口かじり、お猪口《ちよこ》の日本酒をクイと飲む。目元にポッと朱が入って、ますます色っぽい風情になった。
そんなお孝を可愛いと思いつつ定吉もラムネのコップを口に運ぶ。
再び階段をトントンと昇ってくる気配。女主人がエプロンの裾《すそ》をひるがえし現われた。
「はい、タコ焼にお銚子お待っとおさん」
「おおきに」
「ほなら、ごゆっくり」
空の皿を手早く盆に載せ、意味深な笑いを残して彼女は襖を閉じた。
定吉は女主人が階段を降りる気配を耳をすませて確かめた後、おもむろに口を開いた。
「なんぞ、わてに相談ごとでも有るんでっか?」
「いやー、良うわからはったなぁ」
二口目のお猪口を口に運ぼうとした彼女は、目をクリクリと回した。
「お孝ちゃんとは長いつき合いや。そないなことぐらいわからいでか」
二人は、もう十年来のつき合いである。まだ定吉が丁稚として船場に奉公にあがる以前からだ。これだけ長く一緒にいながら、不思議なことに二人の間で男女の交わりはまだ、無い。きわどいところまで行ったことは何度か有ったのだが、なんとなく気恥かしい気持ちが先に立って、ある一線以上は進展しないのだ。人間、あまり長くつき合っているとロクなことがないというダシュル・ハメットの台詞《せりふ》を定吉は時々奥歯の底で噛《か》みしめてみることがある。
「このタコ焼、熱いうちにおあがり」
お孝はチョッと話を逸《そら》して、新らしく運ばれて来た鉄皿を勧めた。
「うん」
定吉はすなおにうなずき、まだ少しジュウジュウと音をたてているタコ焼の、少し多目にソースのついたやつを一つ箸《はし》で取り上げ、一気に口へ入れる。
「アチチチ」
熱い。口の中が弾《はじ》けるようだ。タコのダシ汁とメリケン粉、天カスとかすかに匂《にお》う青ノリが混り合った独特な香り。そして一瞬後にドッとやって来る強烈なソースの辛味。彼は思わず声をあげた。
ハフハフと口を鳴らし、それを苦労して飲み込む。
舌がやけどしそうだ。彼はあわててラムネのコップを口に運んだ。
「そう急がんと、ゆっくりお食べ。そのタコは足が生えとらんよって」
お孝があわてて言った。
定吉は拳《こぶし》で自分の胸元をトントンと打つ。急いで飲み込んだため、今度はタコ焼がそのあたりの食道にへばり付いたのだ。
「うう――」彼はうめいた。
お孝は、自分の恋人の、こうした一連の動きを見て一抹の不安を感じ始めた。こんな頼りない人に大事な相談事を持ちかけてはたして大丈夫なのだろうか。若干の疑問が彼女の心の中をかすめる。
「あー、びっくりしたぁ」
ようやく喉のつかえが取れた定吉は目を白黒させた。
「ごっつい味のソースやなぁ」
彼はホッとタメ息をつく。
「食べた当座はなんともないけど、そのうち喉がカーッと熱うなって」
「出来たてのホカホカやと余計辛く感じるんや」
お孝はアキレ顔で答えた。
「で、相談いうのは何でっか?」
定吉は、もう一口ラムネを含むと居住まいを正して尋ねた。
元旦《がんたん》の一日、彼はお孝と一緒に過し、お初天神にも仲良く初詣《はつもうで》をした。その時、十六日の藪入りまでがんばろう、と語り合ったばかりだ。それが十日もたたないうちに彼女からの急な呼び出しである。お孝とて浪速の娘、定吉のようなお店《たな》モンが睦月の中旬までどれほど忙しく立ち働かねばならないか良く心得ているはず。それが今日の午後になって急な呼び出し、しかも改まった態度でこんな二階の四畳半だ。
結婚の相談だろうか? 彼はまず、それを恐れた。今すぐに、と言われたらどうしよう。
「諾《だく》」と言うのもやぶさかではない。しかし今はまだ早すぎる。彼は、会所では古参とは言え、身分は丁稚に過ぎないのだ。定吉の「吉」の字が取れて「定七」と名乗る手代か、「助」の字が付いて小番頭の地位に昇ったあたりでなければ所帯を持つこと適《かな》わぬ、というのが船場商人の掟《おきて》である。
だが、そこまで彼女を待たせて良いものだろうか。あと五、六年もそのままに置いておけば彼女にとうが立ってしまう。と、なれば次に来るのが別れ話……。
「実は、なあ」
お孝は、ゆっくりと顔をあげた。
「こないな話、定吉はんに頼むのも……」
定吉は何気ない風を装って彼女の前にある冷えた煮付けの小鉢を自分の方に引き寄せる。
「……何やと思うたんやけど」
定吉は覚悟した。さあ来るぞ。
「お孝ちゃんとわての仲や。遠慮はいりまへん。言うてみよし」
小振りの里イモを口に運びながら、彼はなるべく気軽な口調で誘い水をかけた。
「定吉はん、人捜しして欲しいんや」
何や? 一瞬、定吉は箸を止めた。里イモを頬張《ほおば》ったままの口をアングリと開ける。
人捜し? 別れ話やないんか。彼は肩先のあたりから急に力が抜けて行くのを感じた。
「わてに尋ね人せい、言わはるんでっか?」
お孝はコックリとうなずく。
「定吉はんなら、そういうこと得意やろ、と思うてな」
「ち、ちょっと待っとくなはれ。わては船場のお店《たな》もんでっせ。ただの丁稚や」
思いがけない彼女の言葉に定吉は驚いた。
「人捜し言うたら、ケーサツか探偵のとこ行くのが筋ちゃいまっか?」
「うん、ウチも最初はそう思うたんやけどな」
お孝は俯《うつむ》き、箸の先で皿の上のタコ焼をもてあそび始めた。
「知っての通りケーサツは企業恐喝の愉快犯一つ捕えられんボンクラばかりやし、探偵いうたら、昔ながらの興信所のオバハンか、ハードボイルドたらいう小説読みすぎて金具のぎょーさん付いた兵隊コートの襟立てることしか知らんチャラチャラしたアホばっかしや」
お孝は、どこで教えられたのか、この種の職業におどろくほどの偏見を持っていた。
「そんなんに頼むんやったら、定吉はんの方がはるかにましや思うて」
「わては、そういうのシロートやさかい」
「あんたはクロートや」
お孝は視線をタコ焼から外し、定吉を見すえた。
「定吉はんは、大阪商工会議所秘密会所の情報部員でっしゃろ」
「げっ!」
定吉は胃の腑《ふ》がでんぐり返るほどビックリした。その拍子に、食べかけの里イモが口の中から飛び出し、弧を描いて床ノ間に落ちる。
「お、お孝ちゃん、なぜそれを!」
「なに驚いてますのや。あんたが先月の『月刊・商人《あきんど》の友』うちのダンさん、丁稚ドン′セう特集でインタビューされはったん読みましたで」
彼女は今さらなにを、という顔をした。
『月刊・商人の友』は船場|界隈《かいわい》の特殊な購買者、もっと正確に言えば大阪商工会議所秘密会所のメンバーだけに配布される極秘の業界誌である。会所員の親睦《しんぼく》を深め、年々複雑化して行く裏の各組織間の連絡を密にするため企画された小冊子だ。定吉は先月、御隠居の命令で同誌のインタビューを受け、おだてられるまま過去に働いた非合法な活動の数々をしゃべり散らした。が、それがまさかお孝の目にまで触れているとは思わなかった。
「どこであの本読まはったんだす?」
「いやー、本当に何も知らへんの? 今、環状線内側の本屋やったらどこでも売ってはるわ。エライ人気で、この辺の人はみんな読んではる」
何ということだ。彼は呆然《ぼうぜん》とした。
そういえば思い当ることがある。正月明けからこっち、彼の周囲にいる人々の態度が妙になれなれしい。毎日通勤に利用している地下鉄御堂筋線本町駅で改札の駅員が突然サインを求めてきたり、船場センタービルのトイレで小便をたれていると、掃除のおばちゃんが寄って来て「今年は何人関東モンを殺《や》らはるつもりでっか?」と小突く。果ては北浜の料亭の女将《おかみ》たちが連れ立って会所に現われ、花束や折り詰めを置いていったりするのだ。
恐らく秘密会所の企画課が活動資金を独自に稼ぐため『月刊・商人の友』誌を一般書店へ流しているのだろう。地域で評判になるのはうれしいが、これでは秘密情報部員の肩書きがパーだ。定吉は、自分の所属する組織の無責任さに泣きたくなった。
「情け無いこっちゃなあ。身分が皆にバレてもうたんか」
「知らぬは己ればっかし、言うわけやな」
お孝は同情するような口ぶりで相槌《あいづち》を打つ。しかし、彼女の目は笑っているのだった。
「なあ、定吉はん、会所直属の腕っこきなら人捜しなんかお茶の子サイサイやろ? な、頼むわ」
ショックで気落ちしている彼へ、お孝は畳《たた》み掛《か》けるように言った。
「けど、わては船場の仕事でがんじがらめでっせ。時間がおまへん」
「ウチが御隠居はんに頼んだる」
「無理や、あのシブチンが聞くわけあらへん」
「ウチの死んだお婆ちゃんな、若いとき宗右衛門はんのいい人やったんや。その孫の頼みなら聞いてくれる思うわ」
定吉はエッと顔を上げた。あの干し柿みたいな御隠居が、こともあろうにお孝ちゃんの祖母と……。彼は自分の一番身近かにいる敵の秘密を知って、思わず吹き出しそうになる。これはイザと言うとき重要な切り札になるだろう。
「しゃあないなあ、それほどまで言うんやったら」
彼は首を振りつつ答えた。ここまで言われては仕方が無い。
「引き受けてくれる?」
「わてのできる範囲で済むことやったら」
「うれしい。やっぱり定吉はんや」
お孝は炬燵布団の中で彼の手をギュッと握った。
でへへへーっ。現金なもので、途端に定吉の鼻の下は数センチ長くなる。
「で、誰《だれ》捜せばいいんだす?」
「それがなあ、ウチの短大の後輩たちやねん」
「後輩たちって?」
「女の子ばかり三人」
なんや、それをもっと早く言わんかいな。定吉は内心そう悪い話でもないぞ、と思った。年頃《としごろ》の女の子が複数だ。
「くわしく話しとくなはれ」
「その子たちが居《お》らんようになったんは……」
お孝はタコ焼を突つきながら、ゆっくりと話し始めた。
2 経費は節約せよ
翌日の午後一番、定吉は御堂筋北御堂(津村別院)横の秘密会所差配・千成屋宗右衛門のオフィスへ出頭した。
この戦災で焼け残った古いビルに彼が自らの意志で足を運んだのは今年に入ってまだ三度しかない。一度目は新年二日の年賀、二度目は四日の会所初立会あとの挨拶《あいさつ》まわりである。
さて、どう切り出したものか。御隠居のオフィスがある四階に上り、茶色い絨毯《じゆうたん》が敷きつめられた長い廊下を歩きながら定吉は思案した。
今日でやっと松も取れ、秘密会所では一般の業務が開始される。
これから藪入りに至る約一週間、船場の非合法活動丁稚たちは猛烈に忙しくなる。上半期の殺人計画を立て、お得意先の旦那衆《だんなしゆう》が持ち込んでくる依頼に誰を派遣するか審査し、前年度の大福帳や戦闘控を読み返して、今年度特別出張手当の割り当て査定を行う。
しかし、定吉はこういった業務に直接手を下さなくとも良いことになっている。なにしろ彼は会所差配の直属で最古参の手練《てだれ》なのだ。もし、丁稚会議に参加することがあったとしても、上座で報告書の山に埋もれ、居眠りのひとつもしていればOKなのである。
問題は彼の持つ表の顔だ。
|007《ダブル・オー・セブン》が海軍中佐の肩書きを持ち、本物の英国情報部員の多くがロイズ保険会社の社員証を受け、ナポレオン・ソロが洗濯屋《せんたくや》の出入り業者を装うように、定吉にも殺人丁稚七番という役割を隠蔽《いんぺい》するため、会所から特に与えられている名刺があった。
丼池《どぶいけ》繊維振興会事務局連絡二課渉外係長補佐見習いという長ったらしい肩書きがそれである。このありがた迷惑な地位がまた、新年早々は異常に忙しい。
丼池筋と心斎橋筋の周辺に広がる東西五百メートル、南北八百メートルの縦長な地域に集中する繊維卸売業者の間をコマネズミのように駆けまわり、業界の新年会を開催し、問屋・小売業者の親睦ゴルフ・ツアーの企画をし、手が空《す》いた時は、阪神高速ガード下の船場センタービルで催される一般消費者向け新春バーゲンの会場でレジにも立たされる。
増井屋お孝の依頼を受けるということは、つまるところ、そういった諸々の仕事を全て放り出すということに他ならない。
「たとえ隠れミノにしろ船場の仕事や。おなご一人の頼み事のためにサボったりしたら、あのゴリガン隠居は、メッチャ怒るやろなぁ」
定吉は下唇を噛みしめ、秘書室と書かれたドアをノックもなしに開いた。
「まあ、定吉どん、ビックリするやないか」
秘書の万田金子が手にした大きな塗りの椀《わん》から顔をあげた。
「すんまへん」
定吉はドアの間からひょろ長い上半身をグイと挿入し、被《かぶ》っていたハンチングを手馴《てな》れた手つきで部屋の中に放った。
ハンチングは隅の帽子掛けにポンと引っかかる。
「ああ、今日は鏡開きでしたなぁ」
金子の食べているものを覗きこみ、彼は舌なめずりした。彼女の抱え込んだ椀の中には、大きな割り餅《もち》が汁粉の海でアップアップしている。
「なんや、定吉どん、まだ食べてなかったん?」
「へえ、仕事先からここへ直接来ましたさかい」
「ほなら、一杯|注《つ》ごか?」
有能かつ肉感的な女秘書は、魅惑的なお尻《しり》を振って立ち上った。スチームの上に置かれた小鍋《こなべ》へ手を伸ばす。
「あ、後でいただきますぅ」
定吉はあわてて止めた。
「遠慮せんでもええのんよ。いっぱいあるし」
「いや、けっこうだす。それより、御隠居はん居てまっか?」
「今、中で小番頭はんと一緒にお茶飲んではるわ。定吉どん、アポイント取りはったん?」
「うん、それが……」
小首を傾《かし》げてほほ笑む金子の前で彼は口ごもった。
「御隠居はんは別に忙しうないみたいや。今なら会うてくれはるやろ」
金子はインターホンのスイッチを押す。
「御隠居はん。定吉七番が急な用件でお会いしたいと参上しております」
インターホンの向う側から老人のしわぶきが小さく聞こえた。
「何やて、定吉! 新年早々なにを寝ボケたこと言ってんねん」
話を全部まで聞き終らないうちに小番頭の雁之助がダミ声を張り上げた。
「へえ、ですからその分は藪入りの時に特別出勤して埋め合わせさせてもらいますし、なんせ、わて……」
定吉は小さく縮こまって答える。
「……夏も秋もずっと掛け取り仕事でアッチャコッチャ行かされて公休がたまってますさかい、出勤日が不足や言わはるんでしたら、そちらの方も足して何とか……」
「あほぬかせ!」
雁之助は太い眉《まゆ》を逆立てて怒鳴《どな》る。
「公休いうのはな。普通一般の給料取りが言うセリフじゃい。おんどれのような下っぱのお店《たな》モンが口に出せる言葉やない。それに、去年取りそびれた休みは年が明けたら帳消しいうのんが常識や」
彼は労働基準監督署が聞いたらビックリするようなことを言った。定吉は黙って俯く。
「お前は本当に船場の人間としてやってく気ィあるんか?」
雁之助は応接間のテーブルを拳でドンと打った。
「雁之助どん、年の初めからそうやいのやいの言うもんやない」
窓ぎわの椅子《いす》に坐って愛用のナタ豆|煙管《ギセル》を磨いていた宗右衛門老人がのんびりと言った。
「去年一杯、定吉どんは良う働いてくれた。定吉どん」
老人は彼の方に向きなおった。
「へえ」
「去年は何人関東モンを殺《や》らはった?」
「千葉人三十人、埼玉人二十二人、東京在住の山形人十二人、それに寝返った南河内のドアホが三人……、あとは中国人、ニカラグア人、スワジランド人がそれぞれ一人」
定吉は指を折って勘定する。
「七十人か。うーむ。流石《さすが》やな」
宗右衛門は紙縒《こよ》りを煙管の雁首から差し込みながらうなった。
「どうやろ? 雁之助どん。こんなに働いたんや、今回は特別に休み取らしたろやないか」
今日の宗右衛門は、やけに物わかりが良い。
「あきまへん、御隠居はん。こないなアホ甘やかしたったら、いくらでも増長しまんがな」
雁之助は太い人差し指を定吉に向けた。
「おなごの頼みひとつで目尻下げて休みたがるような奴《やつ》は……」
そうか、これはセレモニーやな。定吉は悟った。昨日、タコ焼屋の二階でお孝が言っていた言葉を思い出す。彼女の願いをとうの昔御隠居は聞き入れているに違いない。
と、すれば小番頭の小言も一種の芝居だ。請われるままにホイホイ休暇を与えればありがた味が薄れるとでも思っているのだろう。「叩《たた》いてから撫《な》でよ」という浪速商人特有の丁稚教育を二人示し合わせてやっているだけなのだ。
「まあいい。定吉どん、わいが許したる。恵比須講《えびすこう》の日(一月二十日)まで休みい」
御隠居はヤニを取り去った煙管をプッと空吹きして、この場に締めの拍子木を打った。
「ありがとさんでおます。では」
上司の気が変らないうちに、と定吉は早々部屋を出た。
「金子はん、さい前のお汁粉まだ残ってまっか?」
先ほどと打って変って元気の良くなった彼は秘書室にもどると金子に声をかける。彼女は自分が食べかけた汁粉の椀をうれしそうに差し出した。
「ええんでっか。あんなに気前良う休み与えはって」
隣の部屋でキャッキャとはしゃぐ二人の声をドア越しに聞きながら雁之助はぼやく。
「定吉どんが言うとった三人娘行方不明≠フ話な」
宗右衛門は掃除が済んだばかりの煙管に新らしくバージニア種の刻みを詰めながら言った。
「あれは何や大けな事件の前ぶれかも知れんのや。実は、わいのとこにも別の調査部からこれについて妙な報告書がまわって来とる」
老人は机上ライターに煙管の先を近付けた。
「そやったんでっか。ほなら、定吉に正式の調査命令出せば良かった」
雁之助は気抜けした顔をする。
「雁之助どん。あんた何年小番頭やっとるんや」
宗右衛門は一服深々と吸い込むと、苦々し気に煙を吐き出した。
「定吉どんは自分で休み取って勝手に事件を扱う心積りや。と、いうことは、わてらは調査手当出さんでもええ言うことになるやないか」
そんな簡単なこともわからないのか、という老人の口調に雁之助はハッとした。
なるほど、これは大いに経費の節約になる。御隠居の深謀遠慮に小番頭は深く感じ入って頭を下げた。
3 タコ焼殺人
タコ焼|倶楽部《クラブ》「オーチャード・ハウス」は、大阪港のはずれ、尻無川河口のエキゾチックな街並みの中に、ひっそりと、しかし超モダーンな店構えで建っていた。入口のドアは厚いパイン材、把手《とつて》の部分は手垢《てあか》で変色していないピカピカのブラス細工、真ん中には同じように磨きぬかれた|丸い船窓《ブラス・ホール》。
足もとには、どこから持ってきたのか錆《さ》びたペンキ塗りの小さな表示板、白地に赤く「STERLING PROVISION・OFFICE UP STAIRS」の文字看板が無造作に置かれている。
店の右隣は、ギリシャ語のイルミネーションがジージーと音を立てる船員バー、左隣は港湾労務者向けの定食屋だ。清涼飲料のマークの上に「港のポン吉・うどん・カツ」といかにも投げやりな感じで書きなぐった看板が出ている。
倶楽部の中に一歩足を踏み入れると、そこは名の通りニューヨーク・メトロポリタン・エリアによくあるようなカフェ・スペースだ。アトミック・エイジ好みのインテリアで統一している。
壁にはニュー・ペインティングの草分け、メアリー・ブーンと彼女の仲間であるアーチストたちの小品がさりげなく掛けられ、ドアと同じ幅広のパイン材で作られたカウンターの端にヘンリー・リマの「スーパーマーケット」人形が一体ポツンと乗せてある。時々は壁面の飾りを全《すべ》て取り外し、「ムーン・クラウド」や「ロキシー」から空輸してきたライブ・フィルムも上映する。サッカーDMCとかチェンジ・ザ・ビートといった少し古いやつだ。そんな日は大阪中のニューヨーク・フリークスが人目を忍んでやって来て、フリの客をストップしたパーティが開かれる。
「そうなったらスゴイもんでっせ」
カウンターの中でショット・グラスを磨きながら、店の雇われマスター「弁天町のスミやん」は薄い口ヒゲをピクピクさせ、得意気に言った。
「二十六丁目ウエストの『ファン・ハウス』みたいにやりまんねん。国際軍団くずれのバンサー(用心棒)入口に立てといて完全ボディチェックしまんのや。そういう時に使おう思うて」
彼はカウンターの中から黒い、大型トランシーバーに似た機械を取り出した。
「デトロイト製の金属探知機《デテクター》買いましてん」
スミやんは、そいつをドンと定吉の前に置いた。
「どうしてこないなもんまで?」
梅干し茶をすすっていた彼は、ビックリして尋ねた。
「みんなギンギンにキメてますさかいな。心の中までサタディナイト・アウルや。誰も彼もガーターやヒップ・ポケットにナイフ入れて来はります。目え離しとったらホンマもんのプエルトリカン顔負けバイオレンスやりまっせ」
それがまた良いムードなのだ、とさも言わんばかりに彼はピンクのシルク・シャツに包まれたきゃしゃな腕をブンと振りまわした。
「ここで暴れるんだっか?」
「ニューヨークのダンステリアいうもんはそういうもんでっせ。僕自身は、まだN・Y行ったことあらしまへんけど……」
どうもスミやん以下この店の常連たちは少々誤解している部分があるようだった。
「けど……、そんなんは特別日だけや。普段は大人しい店ですわ。トワイライト・タイムに見える窓の外の風景、あそこの湾岸道路に架かっとる港大橋」
スミやんが目を細めて指差す方に定吉は首をまわした。部屋の突き当りにしつらえた大きな窓の向うに、大阪湾のドンヨリと煮浸《にびた》したような海面と、その上にまたがる巨大な鉄骨の固まりが見える。
「あれがだんだん青う染って行って、南港やら神戸やらの灯りが瞬き出すと、ああ、ここは最高のロケーションやなって思いますな。まるでブルックリン橋のたもとにあるリバーサイド・カフェみたいや、いう外人サンもおます」
スミやんはディップで固めた頭を軽く振って一人うなずいた。
「この娘《こ》たちも、そんな気分で、良くあそこの窓ぎわに坐ってましたで」
彼は定吉がカウンターの上に並べた三枚の顔写真を、ピアニストのような細い指でポンと弾いた。三枚とも増井屋お孝の写真帳から剥《はが》してきたものだ。
「大人しい娘たちやったなあ。この右側の写真の子」
「由香理はんか?」
「そう明石《あかし》屋《や》のユカちゃんや。彼女の運転する青いアルファ・ロメオGTAにいつも三人一緒に乗って来はって」
「最後に見かけたんはいつ頃でっか?」
「そやなー」
スミやんは腕を組んで考え込んだ。
「はい、ポップ・タコヤキ∴齔l前」
奥からクール・カットの少年がタコ・ボールの乗ったピンク色の舟型皿を持って現われた。みごとに丸い九個のタコ・ボールに黒々としたソース、青ノリ、その上に大きなカツオ節の削りかけが一面にふりかけてある。流石タコ焼倶楽部≠ニ称するだけあって、これは見るからに逸品だった。
「なあ、ユカちゃんたち来たんはいつ頃やったかいな?」
スミやんはクール・カット小僧に聞く。
「去年の暮ですぅ。たしか、十日の夕方やと記憶してます」
「へえ、お前にしてはなかなか覚えがええやんか」
スミやんは彼の刈り上げた後頭部をペタンとたたいた。
定吉は思わず身を乗り出す。そうだ、その日だ。十日の昼、帝塚山《てづかやま》の女子短大で最後の授業に出席した後、三人は消息を絶ったのだ。娘たちの実家ではその後十日間、必死の思いであちこち捜しまわり、年末の二十一日、思いあまって曾根崎署に失踪届《しつそうとどけ》を提出したのである。
「えーっと、間違い無いです。十日の日暮れ頃や」
少年は自信たっぷりだった。
「なぜ覚えてはるんだっか?」
定吉は尋ねた。どう見てもそう物覚えが良いようには見えない若い衆である。三白眼のクセに眼尻《めじり》がトローンと垂れている。俗に言うパープリンだ。こういうやつにかぎってミナミの鰻谷通りや新御堂のディスコで女を引っかけることだけは天才的なのだ。彼らの言うセリフはただ一つ「茶《ちや》でも、しばかんけ?」。これオンリーである。
「僕、あの日、ミナミのディスコの特別優待券ぎょうさん持ってたんですぅ。そやから、誰か女の人ぎょうさん誘おか思いましてん。チョイ年上やったけど、あの三人はエライ美人でしょ。そのくせ、いつも三人一緒で男の人連れてんの見たこと無いし、こら声かけてみよか思って。けど、一声かけただけで断られましてん」
「何て声かけた?」
スミやんは聞いた。少年はモジモジと答える。
「ミナミ行って……、茶しばかんけ? って」
ほら、見い。やはりそうや。定吉は心の中で舌打ちする。少年は続けた。
「何でダメなんやて聞いたら、『私たちはこれから中之島の中央公会堂行ってががく&キくねん』て言わはりました。僕、ががく言うの何やわからんから、それも聞いたんです。『モスラか何かの講演会でっか?』って。エライ笑われましたわ」
なるほど、彼は彼なりに「蛾学《ががく》」と考えたに違いない。
「ふーん、中之島で雅楽《ががく》ねえ」
定吉は左頬をポリポリと掻《か》いて首をひねる。
「おばん臭い趣味でんなぁ」
アルファ・ロメオを運転し、N・Y風のカフェを渡り歩く彼女たちのイメージにどうもそぐわない。
「そら大将、今時の若い子ぉの考え知らんな」
スミやんは笑った。
「今時分の娘《こ》は、同じ年頃のトコスケ(男の子)に比べると、バランス感覚がエエでっせ。新しいモンばっかり追っかけとるミーハーは、仲間内でもバカにされまんのや。食いモンひとつとって見ても」
「はあ、クロス・カルチャー言うやつでっか?」
「なんや、大将。えらい新らしい言葉知ってるやおまへんか」
スミやんは「サタディナイト・ライブ」に出演したJ・ベルーシのように大きい目をグルリと転がして感心した。
「へ、わても勉強させてもろてます」
定吉は恥しそうに頭を振る。
なんせ、あの娘らはウチの日本文化研究ゼミの中では出来のいい方で通ってた方やし……=B天満橋のタコ焼屋でお孝がつぶやいた言葉を不意に彼は思い出した。
お孝は、失踪した三人の娘とは単に学校の先輩後輩といった関係ではない。大阪でも名高い就職率百パーセントを誇るそのゼミのOGなのだ。娘たちの家族がゼミの教授に泣きつき、思いあまった教授が彼女に相談した。それが今度の定吉登場のきっかけというわけだった。
どんなに遊びまわっていても夜十一時にはピタリと帰宅する、品行方正、現代の奇跡のような箱入娘たちが雅楽の会に行くと言った直後、消えてしまった……。
「当日の中之島公会堂に何か失踪のカギが隠れてるような気ぃするなあ」
定吉はブツブツと口の中で一人言を言いながら、出されたタコ焼に楊枝を刺し、口に入れた。
「あっ、こ、これ辛いわ」
あの天満橋のタコ焼屋の二階でお孝と食べた恐しく辛いソースの味だった。
スミやんはマスターらしいそつの無さで、一杯のコール・ウォーター(冷水、関東で言う「お冷や」)をサッと定吉の前に差し出す。彼は口の中に残ったかじりかけの一片、舌の上で燃えあがるタコ焼を一気に飲み下した。
「こ、これ今|流行《はや》っとる極辛ソースでんな」
「そうだす。うちもニューウェイブ・タコ焼が売りですさかいな」
スミやんは、どうだスゴイだろうと薄い胸を張る。
悪いもんが流行ってるな、と定吉は天井を仰いで嘆息した。
丁度その時、タイミング良く十二時の時報が五〇年代ドゥ・ワップ・ソングとともに聞こえて来た。
潮刻《しおどき》やな。彼はカウンターを立ち上り、皿の残りをドギー・バッグに詰めてもらうと早々に店を出た。こんな味でも冷めればなんとか食べられる。
どんな食べ物でも絶対に出されたものを残さないのが丁稚の心得だった。
終電間際の地下鉄中央線に乗り込んだ彼は、堺筋本町駅で降り、淡路町の方向に歩いた。
「あーあ、人の肌が恋しいわい」
この時刻ともなれば吹く風は肌を刺すように冷たい。
「さ、早よ帰って、枕《まくら》抱いて寝てまお」
今日も船場で泊りだ。彼の仮泊用に指定されている丁稚寮は、北浜電話局の裏。薬問屋が密集する道修町《どしようまち》・平野町の境目にある。
懐手のまま彼は小走りに備後町の角を曲った。
ふと見ると、人気《ひとけ》の絶えたビルとビルの狭間《はざま》に赤々と灯が点《とも》っている。赤提灯に黒くタコの絵、裸電球の光を赤いノレンが囲う。いかにもホカホカと暖かそうな屋台だ。
「ここんとこズッと、クソ辛いタコ焼ばかり食わされとったな。もうアキアキや。ひとつ口なおしに古風なやつを食うたろか」
先程のドギー・バッグを懐に隠し、定吉はスタスタとその屋台に近付く。
「おっちゃん、もうかっとるかぁ」
「なに言うてまんねん。見たらわかるやおまへんか」
耳にタバコを挟み、阪神タイガース万歳のスポーツ新聞を読んでいたツルッパゲのオッサンが口を尖がらせた。
この辺ではあまり見かけない顔だ。
火の上にかけられたプレートはあまり汚れていない。なるほど、この調子ではここ数時間一人の客も付いていないに違いない。
「一舟《ひとふね》作ったってや」
「へ、おおきに」
オッサンは両の手にペッと唾《つば》を吐き(いくら何でも衛生上問題があり、これには流石の定吉も眉《まゆ》をしかめた)勢いをつけて鉄のくぼみに油を引き始めた。
「お客はんも船場の方でんな」
メリケン粉の生地を流し込みながらオッサンは言った。
「どうしてわかるんや」
「あたりまえでんがな。お仕着せ裾短かに着て前だれ附けとったら誰かて、お店《たな》の人や思いまっせ」
口の減らないオッサンだった。しかし、その間も彼の手はサラサラと動いて、天カス、干しエビ、カツオ節、紅ショウガ、そして細く刻んだタコが、生地の間へ放たれて行く。その量は多過ぎず、かと言って少な過ぎず、チェコ製のセスカ・ジョブロフスカ料理カップで計ったように正確きわまりないものだ。
定吉はその手並みに目を見張った。
「オッサン。あんたの手つき……」
「ヘッ解りまっか。この道二十年だす」
オッサンはピカリと後頭部を輝かせて得意そうに鼻をすする。
「前は阿倍野の方に店出してたんでっけどな。流行らんようなって、去年|潰《つぶ》れてもうたんだす。屋台引いて一から出なおしですわ」
「さよか、そら御苦労なこっちゃなぁ」
「お客はん、この大阪にタコ焼専門の店、何軒在るか知ってはりまっか?」
「さあ、二百軒いうとこかなぁ」
「ちゃいまんがな。三千軒や。片手間に出すとこも合わせたら七千軒は行きまっせ」
「へえーっ」
定吉が驚く間もオッサンの手は止まらない。竹串《たけぐし》がクルリクルリとプレートの上を舞い、次々にボールが出来上っていく。路上に香ばしい匂いが漂い始めた。
「今を去ること五十年前、長堀川でタコの足の煮付け商《あきな》っとった舟行商のお人が、足だけ売れて胴が残るのを残念に思い、艱難《かんなん》辛苦の末に考えついたのがタコ刻み入りのチョボ焼や。以来この食いモンは浪速モンの心の味言うても言い過ぎやない。ところが最近、それが妙なことになってもうて」
ハケでソースをサッと一塗り、青ノリを一つまみ落すとスチロールの皿に盛って定吉の眼の前にニュッと出す。
す早い!
定吉は、ハンチングの庇を親指で持ち上げて目をむいた。これはベテランの技だ。
ひとくち口に含む。あの懐しい昔ながらのタコ焼の味だった。甘辛いソースの味、ジンワリと来る天カス・干しエビの風味、ほのかに感じられる紅ショウガの薫り。
「わいかて浪速のタコ焼屋や。タコ以外に具を使わん正調タコ焼だけがエエとは思っておりまへん。うまいと感じたら天カスも入れたります。けど、最近の『にゅううえいぶ』たら言うおかしな若向けタコ焼にはついて行けんな。お客はんもそう思いまへんか?」
定吉はオッサンの愚痴に黙ってうなずく。
「中でもあの辛うてたまらんマハラジャ・ソース≠竅Bあんな非道《ひど》いタコ焼ソースが堂々とまかり通ってけっかる」
あのおかしなソースはマハラジャ・ソース≠ニいう名なのか。定吉は合点した。
「このまんまで行けば、橘屋寿永《たちばなやとしなが》の求肥《ぎゆうひ》みたいにきゃしゃな浪速モンの舌は、関東モンの雑巾舌《ぞうきんした》と同じになってまいまっせ」
道頓堀戎橋筋角の和菓子屋「橘屋寿永」名物、白あんをピンクの求肥で包んだ「へそ」は定吉の好物の一つだった。この言葉は彼の心と胃袋をチクリと刺激した。
「オッサン、うまかったわ。久しぶりにホンマモンのタコ焼食うた気分や」
「そう言うてもらうと、こっちゃも張りが出ます」
定吉は空になったスチロール皿を手近なゴミ箱に投げ、百円玉を数枚チャラリと台の上に置いた。
「きばりや、オッサン」
「あんさんもな」
後手に手を振ると、人の気配が絶えたビル街に向けて歩み出す。
今夜はタクシーの数も少ないようだ。政府の緊縮政策とやらの飛ばっちりで、新年会も盛り上らず、この辺のサラリーマンは早々と自宅に引きあげたのだろう。
あのオッサンも商売大変やな。定吉は何気なく先程のタコ焼屋台の方を振り返った。
その瞬間。
屋台の横あい、大きな銀行ビルの裏から青い中型車が一台、現われた。タイヤのきしむ音がビルの谷間に木霊《こだま》する。
車はタコ焼屋の前で少しスピードを落すと、窓から小さな丸いボール状の物体をパラパラと放つ。
定吉は数々の修羅場を体験して会得した独特のカンで、それが危険を意味するものであることを瞬時にして悟った。
「いかん」
ドン! という腹に応《こた》える鈍い音が数回|轟《とどろ》き、屋台は紅蓮《ぐれん》の炎に包まれた。
押し殺したようなオッサンの悲鳴、スピードを上げて走り去る車のエンジン音が同時に定吉の耳に入る。彼は草履を脱いで走った。
さっきまで定吉がタコ焼を突ついていた屋台は四方に吹き飛び、燃え上っていた。セルローズの強い臭いが彼の鼻を刺激する。
彼はあたりを見まわした。五メートルほど離れたイチョウの木の下で黒焦げになったタコ焼屋のオッサンが青ノリと天カスにまみれて転っている。
「オッサン。しっかりしいや!」
定吉は彼の上半身を抱き起した。
「な、なんや。わいはいったいどないしたんや?」
苦し気にオッサンはつぶやいた。
「今、救急車呼んだるさかいな」
「おおきに。け、けど、わいはもう……」
定吉の腕の中で焼きダコのようになったオッサンはスーッと力を抜いた。
「死にはったか」
口の中でお念仏をつぶやき、両手を死体に合わせると急いであたりに目をやった。パチパチと音を立ててはぜる屋台の残骸《ざんがい》のそばに小さなピンポン玉のようなものが転っている。
タコ焼だ。しかし、先程定吉が食べたこの店の製品より少し大きい。
「さっき車が投げた爆弾みたいなんはコイツやな」
不発弾、ということか。しかし、これほどタコ焼そっくりに爆弾を作って何の意味があるのだろう。
彼は懐から手ぬぐいを取り出し、そのタコ焼状の物体をソッと包み込んだ。大事な手がかりだ。
南本町の方角からサイレンが聞こえてくる。
定吉は立ち上り、犯人の車が去って行った御堂筋の辺を凝視した。
車のナンバーまでは見分けられなかった。が、車のエンジン音だけで世界中の車種を聞きわけられるよう訓練された耳を持つ彼には、それが何であるかわかっていた。クラッチのレリーズシリンダーからオイル洩《も》れを起しているアルファ・ロメオ、それも1300のGTAだ。
4 ぼんさんと爆弾狂
警察の事情聴取のおかげで、結局彼は一睡もせずに朝を迎えた。
担当官も、相手があの大阪商工会議所秘密会所《O・C・C・I》の名物男とあって大分困ったようである。部長刑事以下、近所に住む非番の署員全員が出勤し、定吉が機嫌良く取り調べを受けられるように、河内音頭を唄《うた》い、二人羽織で鼻からうどんを食べ、物マネ漫談を演じてみせた。まるで腫《は》れ物に触わるような取り扱いぶりだった。が、これがまた逆効果だったことは言うまでもない。
「あー、神経がクッタクタや。とんだ新年会やで」
取り調べ室からやっと解放された彼は、今まで自分が連れ込まれていた南本町の警察署を見上げてぼやく。
賢明な読者諸君なら、四畳半一間程度の狭い室内に三十名以上の警察署員が入れ代り立ち代り現われ、眼の前五十センチのところで朝までうめだ花月劇場ゴッコ≠演じるということがいかに恐ろしい情景であるか、即座に理解できるであろう。
「へへ、けどこれは最後まで見せへんかったな」
彼は懐に入れた手ぬぐい包みの重みを計るように身を揺った。
例のタコ焼の形をした不発弾だ。定吉は、最初《はな》から爆発物の知識を持つ知り合いの誰かに見せて鑑定を頼むつもりだった。府警の科研に依頼するなどということは考えたこともない。警察とトーエイ(ヤクザ)に頼み事をすると後が恐いということは関西人なら誰でも知っている。
「誰に分析してもらお」
警察署の建物、その向う側に阪神高速内本町の複雑怪奇な形をしたインター・チェンジが見える。
「そや、松屋町《まつちやまち》の平助に頼んだろ」
内本町インターを越えた向う側の松屋町筋、その内久宝寺町《うちきゆうほうじまち》に定吉の旧友、ビリケンの平助が住んでいる。
平助は定吉の知っている民間人の中では、この手の知識が一番豊富な人物と思われた。なにしろ学生時代に、京都下京区の下宿で手製爆弾を一日平均二百個も作るという、公表されれば(もちろん公表されたら大変なことになるが)ギネス・ブック掲載間違い無しの記録を作っている人物なのだ。天性のセルフ・プロテクション能力も合わせ持つ平助は、六〇年代後半と七〇年代の全てをノーマークで乗り切り、今は真面目《まじめ》な営業部長として父の経営する玩具《おもちや》問屋に勤めている。ここ一年程は行き来がないが、噂《うわさ》によると、彼は昔の栄光がいまだに忘れられず、自宅の庭で鉄道模型やネズミの死骸《しがい》に爆発物を仕掛けて無聊《ぶりよう》を慰めている毎日だという。
定吉は口をいっぱいに開けて大あくびをするとブラブラ歩き始めた。
まだ七時にもなっていない。人の家を訪ねるには少々早すぎる時刻だ。彼は朝の散歩と洒落《しやれ》こんだ。明け方に降った雨のおかげだろうか。路面は濡《ぬ》れていたが、気味悪いほどに暖かい朝である。
しかし、内久宝寺町に彼が到着した時、NHKのテレビは、時刻報代りとして高視聴率を稼ぐ連続ドラマのテーマ・ミュージック、そのプレリュードすら流していなかった。
「ゆるゆると来たのに、まだこないな時間かい」
見れば眼の前に一宇の寺。慶安年間に建立《こんりゆう》された浄土宗の古刹で、御本尊の阿弥陀如来《あみだによらい》のお姿が上品《じようぼん》とかで有名なところ。すでに門は開け放されている。
定吉はヒマつぶしのつもりで境内に入った。さして広くない庭の片隅で一人の僧が竹ぼうきを動かしている。その姿に彼は見覚えがあった。
「和尚《おしよう》はん、お早ようさん」
「おお、定やんか。一年ぶりやな。朝っぱらからどういう風の吹きまわしや?」
明け方の雨で吹き散らされた枯れ葉を掃き集めていた初老の僧は顔を上げた。
「町内の鼻つまみに会いに来ましてん」
「ビリケンの平助か。定やんは、まだ、あないなアホとつき合うとるんかい」
「ちょっと手え貸してもらお、思いましてな」
「ごもく(ゴミ)にリキ入れてつき合うてもろくなこと無いで。先日も」
和尚は門の前に立っている石柱を指差した。
「あのドアホは、そこの忠魂碑を吹き飛ばそうとしてな」
憎々しげにつぶやく彼のゴマ塩頭を眺めるうちに定吉はこの和尚が故実にエラク詳しい、町内の生き字引きであることを思い出した。
「なあ、和尚はん」
「なんや、葬式の予約かいな?」
「ちゃいまんがな。縁起でもない」
定吉は首を勢いよく横に振った。
「『雅楽』について少々知りたいと思いましてな」
「定やん、お前、風邪ひいて熱出たんと違うか?」
思いがけない定吉の言葉に和尚は目を丸くする。
「いや、ちょっと引っかかったことがありましてん」
「ふーん。ま、こっちおいで」
和尚は、竹ぼうきを脇《わき》に立てかけると玄関の式台に腰を降した。定吉もそれに習う。
「ああいう古い文化に興味を持ついうのんはエエこっちゃ。そもそも雅楽いうもんはな」
和尚は法事の説教口調でなめらかに話し始めた。
「天平の頃《ころ》、仏法の功徳《くどく》を強く信ずる聖武天皇の御世に、天竺《てんじく》人の菩提僊那《ぼだいせんな》なる婆羅門《バラモン》僧と林邑国《りんゆうこく》、これは今のベトナムあたりにあった国やな。そこの僧仏哲《ぶつてつ》が本朝に渡来して伝えた西方の楽。それ以前に三韓《さんかん》、漢土から別に伝わった楽を合わせたものを称する」
「へえ、もとはあちらの音楽だっか」
「そうや。中でも菩提僊那・仏哲が伝えたものは林邑楽《りんゆうがく》言うてな。八曲ある」
和尚は指を折って名をあげていった。
「陵王《りようおう》、迦陵頻《かりようびん》、菩薩《ぼさつ》、陪臚《ばいろ》、安摩《あま》、抜頭《ばとう》、胡飲酒《こんじゆ》、万秋楽《まんじゆうらく》。これを林邑|八楽《はちがく》とも言うな」
「なんや小難かしい名前ばかりでんな」
「中身はなかなかケッタイなもんやで。おもろいお面つけて踊るんや。ペルシャ人が酒飲んで酔っぱらったところとか半分鳥になった人間が歩きまわるとこなんかを描写しとるのもある」
定吉は何とも表現しがたい顔をした。雅楽の中でも林邑楽は、かなりシュールな内容を持っているらしい。
「昨年の暮に、中之島の公会堂で演奏会があってな。わしも久しぶりに見せてもろたが」
「えっ!」
定吉はハッとする。それはあの三人娘が行方不明になった例の会ではないのか。
「たしか会場で撮った写真が何枚か有ったで」
和尚は定吉が請う前にサッと立ちあがって奥に入り、すぐに両手いっぱいの写真を持って出て来た。
「これや。陵王の舞いが写っとるやろ」
「へえ、この鼻がたれ下ったお面つけとるやつは?」
「そっちは胡飲酒やな」
適当に質問を混えつつ定吉は写真をめくっていく。何かこの中に手がかりになるようなものが写ってはいないだろうか。彼は眼を皿のようにして観察を続ける。
あった!
プリントの束を三分の二ほどめくったあたりに、定吉の捜し求めていた情景が写っていた。
「和尚はん、これは?」
「ああ、幕間《まくあい》に撮ったやっちゃ」
客席に和尚の知り合いらしい老人が数人ほどVサイン――情けないことに最近の老人たちの多くもこの悪習に染っているのだ――を出して笑っていた。問題はその隣の席だ。例の三人の娘がクッキリ写っている。彼女らは誰かと熱心に語り合っていた。そいつは……、残念ながらこの写真では小さすぎてよくわからない。頭になにか布キレを巻いているようにも見えるのだが。
「誰ぞ知り合いでも写っとるか?」
「へえ、この女の子たち」
「どれどれ」
和尚は袂《たもと》から老眼鏡を取り出す。
「なんや、帝塚山の娘《こ》やないか。定吉も隅に置けんなぁ」
和尚は呵々《かか》大笑する。
「い、いや、その娘らが話しとる人ですわ」
あわてて定吉は手を振った。
「誰ですやろか?」
「うーむ、こういう会に来る人は限られとるから、みんな顔見知りなんやけど」
和尚は写真をためつすがめつする。
「まてよ。これ、わしの坐《すわ》っとった席と同じ並びやな。その端にいた人というと……。ああ、わかった。シンやんや」
「しんやん?」
「インドの人や。ほら、ターバン巻いとるやろ。間違いないわ」
「どういう人だす?」
「小さい時から神戸に住んどる人でな。齢《とし》は定やんより少し上ぐらいやろ。西天満《にしてんま》で香辛料の輸入会社やっとる。『天満のトラやん』いう二つ名や。聞いたことあるか?」
「あ、小耳に挟んだことおます」
船場にはインド系の商人――印僑《いんきよう》が数多く店を構えている。このことは大阪以外の人間には、意外と知られていない。彼らの大部分は主として関西製の繊維・弱電気製品をアジア・アフリカ諸国へ小口輸出する商いに手を染めている。こういった連中は当然ながら定吉の良いおとくいさんだ。以前、彼はそんな印僑の一人から「天満のトラやん」についてチョッとした悪口を聞かされたことがあった。
同国人とのつき合いがきわめて悪く、狂信的なシーク教徒で、誇大妄想狂の気がある箸《はし》にも棒にもかからぬ鼻つまみ。そんな陰口だ。
「いろいろ言う人もおるけどな。わてらにはいい人や。こうして日本の文化を研究するため熱心に講演会も来るし、若い子にいろいろ教えるしな」
和尚は彼にあまり悪いイメージを持っていないようだった。
「この人の父親は戦時中、反英独立運動やってはってな。チャンドラ・ボースのインド国民軍将校や。インパールでは日本軍と肩を並べて戦いはった。いわばわしとは戦友や」
そう言うと彼は和服の右袖《そで》をめくり、二の腕を定吉に示した。肘《ひじ》の上に古い貫通銃創が浮き上っている。
「定やん、これ見てみ。コヒマのテニスコート・ヒルで白兵戦やった時の疵《きず》や。相手はパンジャブ連隊のムスリム兵でな」
「和尚はんも兵隊であっちの方へ?」
「チンドウィン河を最後に渡ったクチや。仲間はみな栄養失調とマラリアでいてもうた。その菩提《ぼだい》を弔うために仏門に入ってな」
和尚はそこでひとしきり念仏をとなえ、しかし、と続けた。
「わしらは日本人やからそれでもええやろ。けど、負けた方に味方したインド国民軍は可哀相《かわいそう》なもんやで。勝ったイギリスから裏切りモン扱い、独立したら反対派のガンジーはんの天下や。シンやんのお父はんは国でやってられんようなって、一家をあげて神戸に移って来たいう話や」
「そら、えらい可哀相なことでんな」
「でもな。世の中いうんは悪いことばかりは続かんもんや」
ニッコリと和尚はほほ笑んだ。
「そのお父はんの苦労も、シンやんの代でやっと報われた。最初は小商《こあきな》いのカレー屋、次が天満の輸入会社と少しずつ身代をおおきゅうして行かはって、去年からは食品製造界に進出や。工場建てた途端に商品がヒットしてな。今はもう左うちわで……」
「はあ、商品て何だすか?」
「定やんも、どっかで聞いたことあるやろ。『マハラジャ』とかいうタコ焼ソース」
えっ!? 定吉は目を大きく見開いた。
そうか、あのソースはこのインド人が経営する会社の製品なのか。道理でメッチャ辛いはずやな。彼は大いに納得する。
「どや、定やん。朝ごはん一緒に食べへんか?」
庫裡《くり》の方から聞こえるやけに明るいNHK連ドラのテーマソングに耳を傾けて和尚は立ちあがった。
「へっ、おおきに。けど、わて……」
「遠慮するガラかいな。さ、行こ、行こ」
彼は定吉を急《せ》き立てて歩き出す。これは定吉の望むところだった。タダで空腹を満し、そのうえ三人娘が消えた当日の情報も労せずして手に入るのだ。
これも阿弥陀如来の御利益やな。定吉は本堂に向ってチョイと頭を下げた。
「なんや、定やんやないか」
薄汚い羽根布団の間から、これまた無精ヒゲだらけの薄汚い顔が覗《のぞ》いた。
「いったいどないしたんや、こんな朝早ように」
ショボショボした目ヤニだらけの眼を擦りながら彼は口を尖《とが》らせる。
「電話したんやけどな。どうも止まってるみたいで」
定吉は異様な臭気が鼻を突く室内に気圧《けお》され、ドアのあたりでモジモジとハンチングをひねくりまわした。
「ああ、そや。電話代二ヵ月もためとったから回線止められとんのやった」
まあ坐《すわ》り、と平助は湿ったうえに綿があちこちはみ出した座布団をゴミの山から引きずり出して彼に勧める。
「あ、おおきに」
と言いつつも定吉は一瞬、そいつに坐るのをためらった。座布団の表面は、ラーメンの汁や唾液《だえき》や油虫を潰した跡でバリバリのシミだらけなのだ。普段はこれが食卓になり、二つに折って枕になり、時にはゴキブリ叩きの代りにもなるのだろう。
定吉は傍らの古新聞を座布団の上に敷いてようやく腰を降した。
「あい変らずやな」
室内を見まわした。一面ゴミと汚れた衣料品の山である。お花見あとの天王寺公園ゴミ集積所だってこうは汚せないだろう。
「三十なかばでオモチャ問屋の営業部長やってる人間の生活やないで、これは」
まるで下宿生活をする学生だ。いや今日びの学生は、もっと小ぎれいに生活している。
「部長いうても、同族経営のゴマメみたいな会社や。好き勝手にやらしてもろとるわい」
平助は下腹部をボリボリと掻《か》きながら流しに立った。彼のアダ名ビリケン≠ニは戦前アメリカから伝って来た幸福の神、キューピー人形の元祖とも言われているものだ。今でも合格・良縁の神として通天閣の中に祭られている。平助の生家は、今でこそ問屋だが元々はビリケン人形を作っていた人形屋で、彼は幼少の頃よりその原料である硝酸セルローズに囲まれて育ち、長ずるにつれ、その爆発性物質の魅力に取りつかれたのだった。
「早よ嫁はんもらいはったら良ろしいで」
「わいのとこに来るような物好き何処《どこ》にもおらん」
平助は油汚れの白く目立つコップに水を注《つ》ぎ、ゴロゴロと口をすすいだ。彼の朝の身仕度はそれでお終《しま》い。
「それに、わいは今でも学究の徒やで」
「知っとる」
定吉は平助の顔を見上げてニヤリ笑った。
「その長年の研究、その成果と腕が所望や」
「わいの頭脳は少々高い」
平助は小狡《こずる》そうに口の端をゆがめると、定吉の前にドッカリ胡座《あぐら》を組んだ。ベビー・パウダーよりも細かい埃《ほこり》が舞い上り、彼の汚れきったトランクスの間からインキンの跡が覗いた。
「なんぼや?」
「そやな。調べモンやったら、昭和三十年代中期の『風俗|奇譚《きたん》』五冊にロリコン写真集四冊。爆裂弾の製造やったら……ま、ケースバイケースやけど、ソ連軍の手榴弾《てりゆうだん》程度のモンなら大まけにまけて……、『にっかつ・リバイバル・シリーズ』のビデオ三本。初期の『白川和子』『泉ジュン』の出とるやつならベータ、VHSは問わん。調査か製造かどっちゃや?」
「うーん、調べモンなんやけどな。『風俗奇譚』五冊にロリコンモノ四冊はチョイ高いで」
定吉は腕を組んだ。実際この取り引きは妥当なものに思えたが、ここで一応ゴネてみるのが浪速の商《あきな》いというものなのだ。
「なに言うてけつかる。こっちゃも、年の初めやさかい出血大サービスしとんのやで」
平助はプッとむくれる。いかん、これは掛け値無しの価格であるらしい。とっさに非を悟った定吉はビシリ、と膝《ひざ》を打った。
「うん、言われてみればそやった。年の初めから値切ろうとしたわてが悪い」
瞬時にして手のひらを返したような彼の態度に平助は、ポカンと口を開けた。
「本来なら御祝儀つけるとこやった。かんにんしてや」
「ま、ま、わかってくれたらそれで良ろし」
平助は殊勝気に頭を下げる定吉をあわてて手で制した。
「で? 調べモンいうのは」
「これなんや」
定吉は懐から手拭《てぬぐ》いに包んだ例のタコ焼≠取り出した。
「偽装爆弾の一種や思うんやけど」
「ほー、こらオモロイ形しとるな」
平助はズリッと膝をにじり寄せた。その拍子にトランクスの裾《すそ》から醜悪な形の陰嚢《いんのう》がポロリとはみ出す。
「見てくれはホンマモンのタコ焼と同じや。フワフワしとるし、信管が付いとる気配もない。表面にソースかて塗ってあるやんか」
定吉からそれを受け取った彼は、炉端の灰の中から干しイモを取り出した東北地方の老婆のように注意深くひねくりまわす。
「そいつの成分と、できればどこで作られたか、がわかればいいんやけどなあ」
「いつまでに?」
「早ければ早いほどええ」
御隠居から彼に与えられた休暇は、残り一週間を切っている。
「他ならぬ定やんの頼みや。精々気ばってみるわ」
「頼むで。早目にやってくれたら報酬の他に、日本語版『ペントハウス』の八四年十一月号と八五年二月号袋とじページ付けたるわ」
「ほんまかいな?」
平助は眼を輝かせた。
「なら、リキ入れて調べたるわい」
「あんじょう頼むで」
用件を伝え終ると急いで定吉は立ち上った。すでに腰や膝のあたりで微かな痒《かゆ》みが感じられる。ゴミの間に悪い虫が越冬しているのだろう。長居を続ければ、痒みは確実に全身へまわる。
そそくさと戸口に向う定吉の背に平助が絶妙なタイミングで語りかけた。
「スマンけどな。電話代置いてってくれへんけ?」
5 ニポリトの秘密
平助の家を早々に退散した定吉は、北浜電話局裏の寮へ戻り、備え付けの煎餅《せんべい》布団を広げて潜り込んだ。
彼の体は打ち直し前のお多福綿≠フようにクタクタに萎《ちぢ》み切っていた。
俗に、極度の疲労を感じた人間は夢を見ないという。心理学者の説によれば、見ることは見るのだが、疲れきった頭脳の記憶質が睡眠時に作動できないのだとされる。
しかし、定吉はよほど強靭《きようじん》な神経を保持しているのだろうか、夢寐《むび》の境へ誘いこまれたと見る間に夢の住人となっていた。
彼は大福帳を膝に載せ、テーブルに坐っている。場所は千日前の「自由軒」、あの織田作が愛したという大阪名物のカレー屋だ。
カレーがよくまぶされた大盛の飯の真ん中に窪《くぼ》みをつけ、まるで阿蘇《あそ》のカルデラみたいに作り上げたところへ生玉子を一つ。
脇に添えられたコップの水でスプーンを濡らし、山の端にサックリと突き刺す。
「やはりカレーはこないして食うもんやな」
スプーンの上にズシリと載った鬱金《うこん》色の米粒を口に放り込もうと顔を近づけた刹那《せつな》、ベルが鳴り響いた。
耳もとで電話が音を立てている。
腕に巻いたまま寝ていた香港製ローレックスを覗き込めばちょうど一時。
「なんや、まだ二時間も寝てへんやないか」
電話は彼のぼやきも無視して激しくわなないている。こめかみにビリビリと痛みが走る。
「へえ、へえ、わかったがな、わかったがな。今出たるさかい静かにせんかい」
布団を背に載せたまま、定吉は部屋の片隅まで匍匐《ほふく》前進し、受話器を取った。
「ヘイ、おまっとうさん。定吉だす」
「ああ、定やん。寝とったんか」
「ふにゃぁ、なんや平やんか」
三時間前に別れたばかりの爆裂弾研究家だった。
「寝とるとこ起して悪かったな。急いでるやろ思うてスグかけたんやけど、また後でかけよか?」
「い、いやぁ、もう調べ出来たんか。さすがやな」
定吉は、あわてて欠伸《あくび》を噛み殺し、目をこすった。流石《さすが》にその道では天才と呼ばれた男だけのことはある。府警の科研で調べるよりもはるかに早い。
「かまわんわ。早よ教えてえな」
平助に滞納分の電話代を貸し与えておいてよかった、と彼は思う。
「ドエライことわかった。あのまん丸いタコ焼みたいなヤツな。ニポリト≠竄チたで」
「何や? そのニコポンスリ言うのは」
「ニコポンやない。ニポリトや」
平助は声を荒げた。
「そらいったいどんなモンやねん?」
「一九四四年にWASAG――ほんとは、ウェストファリッシェ・アンハルティッシェ言う長ったらしい名の化学薬品メーカーなんやけどな。――そこのファンベルグ工場で開発された成形自在の爆発剤や。正確に言うとその変形やけどな」
「へえ」
平助は自分の発見にチョッピリ興奮しているらしかった。定吉としては、それだけでは何のことかわからず生返事をするしかない。
「持ちごたえがあまりフワフワしとるから、最初は、サイクロナイトを主原料にした可塑性爆薬(俗に言う「プラスチック爆弾」)かと思うたんや。けど、薬品分析したらシュケルトとペンスリットが含まれとった」
定吉には、平助の言葉がオロセット人の寝言のように感じられた。
「も、もっとわかりやすく言うてんか。自慢やないが、わては無学な丁稚やで」
「あ、スマン、スマン。わいもこんな良うでけた爆弾見たの初めてやさかい、つい興奮してもうた」平助は言葉を改めた。
「ニポリト言うのはな。第二次大戦末にドイツが代用火薬として発明したもんなんや。一種の再製爆薬でな。長期間貯蔵し過ぎて効力の無うなった海軍用の砲弾装薬を精製し直したもんにPETN(ペンスリット)とSK(シュケルト)、あるいはRDX、TNTなんぞの高性能薬を混ぜたもんや。これによってやな、ドイツ軍は四百三十トンの硝酸で約千トンのニポリト火薬を作ることができたんや。普通のTNTやったら、千トン生産するために約千百トンの硝酸が必要とされるから、こら大発明やな」
「へえー」
平助の話にまだチンプンカンプンでいる定吉もこれには驚いた。何にしても節約は美徳だ。
「これはニポリトT言うんや。ドイツの敗戦後、この発明に眼え付けた英軍がただちに工場を接収して、製造設備一切合財、インドのイシャプールに運び込んだ。ま、対日戦争向けやな。ところが日本が負けてもうて使い道無し。そこで独立仕立てのインド軍がこれを受け継いだ。インドは、ドイツで開発されたベークライト状の爆弾を苦心の末、スポンジ状に改良することに成功した。第一次インド・パキスタン戦争の頃や。これがニポリトの型」
「なぜスポンジ状にしようと思うたんやろか」
定吉は首をひねった。
「さいな、そこが軍事学上のナゾになっとる。わいにもサッパリわからん。なんせ悠久の大河ガンジスの国やさかい、わいらにはわからん何かがあったんとちゃうか」
平助もその辺は心もとない返事で濁す。
「けどな。一つ利点がある。このニポリトは特定の信管を使わずとも発火させることが可能なんや。高熱では無しに、一定の熱を一定の時間与え続ければ、ドンや」
「どれくらいの?」
「人間の体温よりチョイ高いぐらいかいな」
「えっ!? わて……それを」
定吉は思わず受話器を取り落しそうになる。彼は不発とはいえ懐に暖め、一晩持って歩いたのだ。彼の背筋に冷たいものが走る。
「まあインドみたいな高温地帯では、それなりに使い道があったんとちゃうかいな」
平助はノンビリとしたものだ。インド……。定吉は、またしても引っかかるものを感じた。
「な、定やん、これだけ急いで、ビシリと調べたんやから、調査費にもう一声|色《いろ》つけてくれるやろな」
「ああ、フィリピン製のオナニー・ビデオ一本おまけしたるわ」
「わー、さよか。おおきに」
天才爆発物研究家にして玩具問屋の営業部長は、電話の向うで足を踏み鳴らした。
「やはり船場のアイドル定やんや。豪気なもんやなあ」
ベラベラと彼を持ち上げる平助の言葉を聞き流しながら、定吉は別のことを考えていた。
印度。この符合は何を意味するのか。
「そうや、爆弾と直接関係無いけどな。サービスに、も一つ調べたったことがあるでえ」
平助が上機嫌で言う。
「爆弾の上に塗ってあったソースな。あれの名柄や」
「言わいでも知っとる。近頃流行りのマハラジャ・ソース≠竄」
「さいな、当りや。けど、その内容成分までは流石に知らんやろ」
「うん、唐がらしがゴッチャリ入っとるとしか……」
「ええか、今、読み上げたる」
受話器の向うから、ガサガサと紙をめくる音が聞こえてくる。
「まず野菜や、トマト、タマネギ、香菜、インドリンゴ、グレープ、次に醸造酢、食塩、砂糖、これにはぶどう糖果糖液糖も含まれとる。それからコーン・スターチ、セージ、ターメリック、ローズ・マリー、タイム、シナモン、カルダモン、カミンシード、メース、インデアン・ペッパー、最後に少量やけど」
ここで少し平助は言葉を区切った。
「タウリヌス・アトロッパが検出された」
「それも新種の香料かいな?」
「興奮剤の一種や」
「何!」
それまで鼻の先でフンフンと平助の話を聞きながしていた定吉は受話器を握り直した。
「おもろいで。タウリヌス・アトロッパはな。太平洋戦争中、ドイツから薬が手に入らんようになった日本で、茹《ゆ》でダコの煮汁から分離製造されとった薬や。心臓病や結核の治療にも使うとった。末期にはそれが特攻隊に流用されてな。出撃前にリキ入れる薬としても重宝されたんやて」
「ふーむ」
タコから抽出される興奮剤、それを混ぜたタコ焼専用ソース、タウリヌス・アトロッパが覚醒《かくせい》(スティミュラント)効果があるとすれば、当然、習慣性という危険も考えられる。そして……それを製造するナゾのインド人。定吉の灰色の脳は少しずつ回転を早めていった。
「平やん、わずか三時間でようそこまで」
「何言うてんねん。わいは市井《しせい》の爆発物研究家やで。自分で分析するには限度いうもんがある。聞いたんや」
「どこに?」
「西天満の府立食品衛生検査センター分室や。そこに大学時代のダチ居ってな」
西天満。定吉の胸の奥に沸き上った黒雲は、ますます脹《ふく》れあがる。
「分室ではもう知ってたみたいやで。マハラジャ・ソースにタウリヌス・アトロッパが入っとるのを」
定吉はハッとした。思わず声がうわずった。
「あ、あかん。平やん、今すぐそこを出るんや。なるべく人のいっぱい居るところに行き! 急いで!」
「何言うとんのや、わては分析で、ちっと疲れたさかい、これから昼寝でも……」
「ノンビリしとる場合やない。平やん、詳しい話は……」
電話がそこでプツリ、と切れた。
道幅の狭い内久宝寺町の裏道路は、真っ赤な化学消防車の平べったいフロント・ノーズによって塞《ふさ》がれていた。
シルバー・メタリックの耐熱服を着た煤《すす》だらけの男が罵声《ばせい》をあげて、横合いから定吉の薄い胸をド突いた。
「あほんだら。わりゃあ死にたいんか! こらあタダの火事やないんじゃ。トウシロは引っ込んどかんかい!」
「け、けど……、あそこには、わいの友だちが」
定吉は殺気立っている消防署員にオロオロと説明した。
「あそこの、ボンボン火が吹き上っとるマンションの二階や。そこに平助いうダチが住んでますのや」
「あかん! あそこにはもう誰《だれ》もおらん。あんなんやったら、居とってももう黒コゲや」
消防署員は、強い力でピケット・ラインの外側に彼を押し戻した。
白いタイル張りの三階建てゲタ履きマンションは、赤黒い油性の炎によって見事にパッキングされていた。
「ささ、大将。もっと下っとくなはれ。火の粉かかったら、えろう熱うおまっせ」
横顔を赤く染めた制服警官が、寄席の下足番みたいな物腰でヤジ馬を制している。
見物の衆は口々に好き勝手なことを喚《わめ》き散らしていた。
「ほれ見てみ。とうとう平助のドアホ、やりよったで」
「男所帯にウジ涌《わ》かせて、そのうえ扱うとるもんが燃えやすいオモチャ材料ばっかしや。今まで火の不始末せんかった方が不思議と言えば……」
「なに太平楽なことぬかしてんねん。あらあ、爆弾の暴発や。お前かてビリケン≠ェ悪い遊びしとるの知っとったやろ」
「そや、町内のモンやったら皆、平助の花火好きは承知しとった」
「じゃからな。わいは、ビリケン≠生野《いくの》銀山の宝探し(豊臣秀吉が中国地方の生野山中に隠したとされる財宝)に採用して、鉱山掘りやらしたれて、以前から町内会でも言うたったんやがな」
「そやなあ。あん時、町から追い払っとったらこんなことにはならんかったかも知れん」
町内のヤジ馬連は、自分の隣家が焼けているのも構わずノンビリと語り合っている。
違うで。こら、平やんはハメられたんや。そらあ、アノ男は変人かも知れん、変態かも知れん。けど希代の天才なんや。ノーベル、チュルパン、下瀬雅允と並び称される火薬男や。こんな、そんじょそこらの駆け出し過激派がするような暴発事故を起すはずがない。
定吉は、心の中で叫び続けた。
ボン! という小さな破裂音が炎の中で断続して起き、マンションの外壁が疥癬《かいせん》を患った皮膚のようにバラバラと剥《はが》れ落ちる。
見物していた人々はドッと後に退った。
もう、あかん。定吉は念仏を唱えると、群衆の輪をかきわけて外に出た。
「けど、これで」
火事現場に背を向けて歩きつつ、定吉は一人うなずいた。
これは一つのサークル・ゲームなのだ。消えた三人の娘、彼女らと仲の良いらしいインド人、そのインド人が作る特殊なソース、そのソースを塗ったインド製の偽装爆薬によって殺されたタコ焼屋、タコ焼屋を殺ったのは三人娘の一人が乗りまわしていたアルファ・ロメオだ。そして今、この秘密の一端に触れた爆発物研究家が殺された。これは……恐らく口封じなのだろう。
「『天満のトラやん』、もっと詳しく調べてみる必要がありそうや」
彼は一丁ほど早足で歩く。歩幅はどんどん大きくなり、しまいには小走りの体《てい》になった。行く先は町内の阿弥陀寺。一刻も早く、あのコヒマ帰りの住職に会い、謎《なぞ》のインド人の素性《すじよう》についてもっと問い糺《ただ》さねばならない。
6 うわさのインド人
十七世紀中期に、京都|知恩院《ちおんいん》外坊より移築されたという由緒を持つシンプルなその門は、定吉が朝訪れた時のまま、八文字に押し開かれていた。
「和尚はん、わてだす。定吉だす。またお邪魔しますぅ」
式台の前で彼は大声をあげた。
「おかしいな、檀家《だんか》まわりでもしとんのやろか?」
さして広くもない寺だ。玄関から見まわしたが、本堂にも、庫裡《くり》にも人影が見えない。
「そうか、わてと入れ違いに火事場見物行ったんやな」
勝手知ったる他人の寺、定吉は阿弥陀如来にペコリと頭を下げて草履を脱いだ。
「ま、帰るまで待たしてもらいまっさ」
板敷の本堂に上りこみ、チョコンと正座する。彼は薄暗い内陣を見るともなしに見まわした。
「あれ?」
本堂の中の雰囲気が妙な具合なのだ。
「朝来た時と何か違うとるな」
定吉は首をひねった。たしかに何かが異っている。
「ありゃ、これどうなっとんのや?」
彼は正面に向き直ると同時に、素っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。
御本尊の阿弥陀如来、その脇侍《わきじ》に観音様が三体並んでいた。右に二体、左に一体。狭い壇上に肩を寄せ合って置かれている。
「妙やなあ。この寺はたしか浄土宗なんやけど」
どれも肉感的な観世音菩薩だった。ふっくらした胸、くびれた腰、裳裾《もすそ》の流れから覗くスラリとした足。どうやら日本の仏師が作ったものではないらしい。
「えらい色っぽい観音さんやな」
右側の観音様の足元、壇の下に白い布きれがはみ出ている。
「ん?」
目敏《めざと》くそれを見つけた彼は立ち上ってそこへ歩いていった。
白い布は、和服の裾だった。その中に生身の体が包まれている。
「お、和尚はん!」
あわてて定吉は壇の裏に押し込められていた和尚を抱き起した。すでに死後硬直が始っている。
「なんちゅうこっちゃ」
定吉は枯れ木のように固くなった住職の首筋に指を置く。後頭部の中心線から下ったところに赤い点が浮き出している。
「針みたいなモンで一突きや。手練《てだれ》の仕業やな」
そこまでつぶやいた時、彼は勢い良く本堂の中央に走り出て片膝《かたひざ》を突く。
殺気だ! それも今まで出会ったことのないほどの……。
「誰や!?」
彼は懐に手を入れ、バーンズ・マーチン三点式ホルスターから「京都有次『名物・富士見西行』」を抜くべく身構えた。
幽《かす》かにインド香の匂《にお》いがする。膚《はだ》をチクチクと刺激するような嫌味ったらしいジャスミン香だ。
「はははは、なるほど流石は船場の殺人丁稚。我らの隠形《おんぎよう》を良くぞ見破った」
くぐもった声が本堂一面に響き渡った。
定吉は姿勢を崩さず、注意深く周囲を窺《うかが》った。動くものは何も見えない。
「どこや、どこに居る!?」
「ここさ、君の目の前だ」
定吉は顔を上げた。目の前といえば、金銅製の阿弥陀様だ。たしかに声はその方向から聞こえて来る。
「うっ!」彼は息を飲んだ。
阿弥陀如来が口を開いている。
「どうしたね。定吉君」
「あ、阿弥陀様……」
「どうした? 恐いのかね。三千世界のありとあらゆる衆生《しゆじよう》を救済しようとするこの私が恐いのかね」
阿弥陀如来はズイと立ち上った。
「わあ! 化け仏や」
京都|化野《あだしの》に、応仁の乱の頃より夜な夜な歩きまわって供物の塩を舐《な》め、通りがかりの旅人を押し潰す巨大な地蔵尊や石仏が出るという昔話がある。枚方《ひらかた》に長く住んだことのある定吉は思わずその話を思い出し、腰を浮かした。
彼は後を向いた。そこには、複数の手を持つ観世音菩薩たちがいつの間にかまわり込んでいた。三体の観音像は、定吉を押し包むように立ち尽す。
「うおお、かんのんさん、やめとくなはれ!」
金色に光る無数の手が、定吉の顔といわず、胸といわず絡み、まつわり付く。
瑞雲《ずいうん》・栴檀《せんだん》の紋様を彫った金属質の腕が一本、スーッと寄って来る。彼の顔に手のひらを被《かぶ》せた。定吉は首を捩《ねじ》って避けようとする。しかし他の腕が強い力でそうはさせじと押さえつけた。
鼻に強烈な刺激を感じる。クロロホルムか? いやもっと強力なものだ。鼻腔《びこう》吸収性の筋弛剤《きんしざい》「バイオ・ソーマー」。
彼の膝頭は力無く曲った。涙腺《るいせん》と鼻腔がゆるみ、下腹部も少し生暖かくなる。尿道もゆるんでしまったらしい。
「ふにゃあ、わひはもうらめらーぁ」
彼の眼に映った風景がグニャリと歪《ゆが》み、暗転する。
「よし、良くやった。和尚の死体と一緒に運び出せ」
定吉の耳の奥で微《かす》かに男の声が響いた。
「中枢神経刺激剤《デキストロ・アンフエタミン》が効いてきました。もうすぐ目覚めるでしょう」
落ちついた女の声だ。定吉は少しずつ目蓋《まぶた》を開いた。
薄暗い部屋だ。異常に低い天井。手足がフワフワした布製の何かに包まれている。
側頭部がガンガンと鳴り、後頭部が鉛を詰め込まれたように重い。
思いきって瞬きをしてみる。目前にある風景は、依然としてハッキリした輪郭を見せない。全《すべ》てはブルーの薄皮を被せたように朦朧《もうろう》としている。
もう一度瞬き、頭を軽く振ってみる。再び起きる強烈な偏頭痛。しかし、痛みは定吉の意識をどんどん現実の世界に引き戻してくれた。
昔、一度だけ体験した二日酔いというやつが丁度こんな感じやった。定吉はつぶやく。
彼がまだ船場で基礎教育期間中、意地の悪い中丁稚たちに連れられて旧|飛田遊郭《とびたゆうかく》の里内にある関東炊《かんとうだ》き屋に上り、酒を強要されてブッ倒れた。その翌朝がやはりこんな具合だった。
絃楽器《げんがつき》の調べが微《かす》かに聞こえてくる。六〇年代の終り頃、京都帝大の近所を歩くと必ず聞こえた音楽だ。インドのシタール……。
「ラビ・シャンカール……やな」
思わず定吉は声に力を込めた。そうすることによって自分の意識が戻ったことを確認したかったのだ。
「へえ、あんた、なかなか知ってるやないの」
先程の若い女の声だ。
手足を少しずつずらしてみる。別に手錠も縄もかけられてはいない。代りに高級そうな布団がかけられている。
と、いうことは捕虜の身とはいえ、それほど切迫した状況ではないということになる。しかも身近に若い女性。定吉は、かなり落ち着きを取りもどしていた。
薄皮|饅頭《まんじゆう》の皮みたいに見えたものは、ブルーの絹のベールだった。四方に彫刻を施した柱。昔、新世界の映画館で見たことのあるイタリア製西洋チャンバラにこんな大道具がよく登場していた。
こら、あちゃらの王侯貴族が使うカーテン付のベッドやんか。
それにしても、ここはいったいどこなんやろか? 半身を起して目をこらす。
ベールの向う側に人の気配があった。一人、二人、三人、そして彼のすぐ近くにもう一人。
「すんまへん。どうもお世話かけまして」
定吉は言ってしまってからシマッタと思い、ポリポリと頭を掻いた。思いもかけぬ豪奢《ごうしや》なベッドで目覚めたため錯覚したのだが、実は、自分は誘拐《アブダクション》されたのではないか。
「ははは、正気に戻ったかね」
ベールの向う側で人影が動いた。
「ここはどこだす?」
「私の家さ」
ブルーのベールが左右にサッと分かれる。
オーク材の壁面に囲まれた広い部屋だ。床は真紅のカーペット。定吉にはわからなかったが、それは、ラジャスタンのヒンドスタニー系ナクラ族の子女が一日一センチ、凡《およ》そ百五十年かけて織りあげた貴重な絨毯《じゆうたん》だった。その三十センチごとに縞《しま》模様(それは織られた年月の違いによって表面のフェルト化現象に差が生じたためなのだ)が作り出された厚い毛織物の上に、三人の奇妙な人物が立ち、奇妙なことをしている。
長さ五、六メートルはあるだろうか。エビ茶色の細長い布の端を一人の女が保持し、立っている。インド風のサリーをまとい、金色に輝く腕輪、ネックレス、イヤリング、足輪まで身につけてはいるが顔は日本人だ。長い髪をサラリと垂らしている二十歳前後の美女。
布のもう一方の端には肉付きの良い大男が引っかかっていた。
彼は濡れて光る漆黒の長髪を頭の中心で団子状に束ね、その部分にピンと張った布を結びつけている。西アジア系の端正で浅黒い顔立ち。その下半分は良く刈り揃《そろ》えられた髭《ひげ》に包まれていた。
外国人の背後にも一人の女が立ち、甲斐《かい》がいしく布を巻く手伝いをしていた。この女も日本人だ。布の一方を持つ女と同じような年頃で器量も良い。
「こんな格好で失礼するよ。全員|沐浴《もくよく》を済ませたばかりなんだ。なにしろ金粉ショーのマネごとをしたもんだから、毛穴の中までアルミの粉が入ってしまってね」
大男の外国人は流暢《りゆうちよう》な日本語、それも関西|訛《なま》りの東京弁で言った。
「あ、あんさんは?」
「おお、申し遅れて済まんね」
大男は右、左、と布の先を交差させて頭に巻きつけて行く。
「私の名はアジミール・ナナーク・シン。本当はナナークとシンの間にまだ四つほど父方の世襲の名が入るのだがね」
男はヨイショ、と日本語で掛け声をかけると、布の最後の端をクルリと頭の横に折り込んだ。彼の頭には南大東沖のかつお島みたいな楕円形《だえんけい》のターバンが美事に巻き付いた。
「在阪の人々は『天満のトラやん』と私を呼んでいる」
「あんさんが、西天満のシンさんでっか。こらお初にお目もじします」
定吉は、あわててベッドから飛び降り、彼に近付こうとした。
突然、彼の前に三人目の女が立ちはだかる。細みの、これもインド風に装った美女だ。しかし、この女は大男の脇に立つ他の二人と違い、眼が爛々《らんらん》と輝いていた。手や足から強力な殺気がオーラとなって迸《ほとば》しっている。
定吉はその顔に見覚えがあった。
「ライラ! 心配はいらん。定吉さんは何もせん」
アジミール・シンと名乗るインド人はニヤリと笑った。
「この御人は、恐らく、我々の秘密を調べつくすまではヘタな行動を取るまい」
女は肩先からスッと力を抜いた。サリーに包まれた肩甲骨の間から沸き上っていたオーラが見る見るうちに消えて行く。
「そうだね? 定吉君」
定吉は上目使いにアジミール・シンの方を見た。そうだ、こいつらだ。内久宝寺町の阿弥陀寺で、本堂の御本尊様と脇侍に化け、和尚を殺し、わてに薬を嗅《か》がせおった奴《やつ》らは!
彼は、あの上品を持ってなる阿弥陀如来に美事化けおおせていた外国人をしげしげと眺めた。
インド・シルクを裁断した、あまり高価で無さそうなシャツの襟首には、阿弥陀様に化けていた時の名残である金粉がまだキラキラと光っている。
「君は酒をたしなまないそうだね」
アジミール・シンは大股《おおまた》で部屋の隅に歩いて行った。オークの壁に、畳一枚ぐらいの大きさの飾り布が掛けてある。白象に乗り東京都のマークみたいな針金細工の槍《やり》を右手に持った男が描かれていた。
「さあ、ここへかけたまえ。ダージリン・ティでもどうだね?」
画像の前には、マトゥラー彫刻のコピーらしい蓮華《れんげ》や唐草文様をほどこした赤い石のテーブルが置かれていた。
定吉は大男の招きに応じて、そちらに歩いて行く。もちろん裸足《はだし》のままだ。後からは、ライラと呼ばれた例の女が注意深く距離を保って付き従った。
「君のウワサは何でも知っているよ。私も『月刊・商人の友』の愛読者なんだ」
「そ、そらおおきに」
またしてもあの雑誌か! それではすっかりこの謎のインド人に自分の手の内を読まれているということになる。まったくロクでもない本や。彼は心の中で舌打ちをした。そもそもこの煩わしい話のきっかけは、増井屋お孝が読んだあの本から始っているのだ。
「この画像は誰だと思うね?」
「さあ、わかりまへん。インドのエライさんでっか?」
インド人は壁の画像を指差した。
「インドラだよ。漢字では因陀羅と書く」
彼は空中に指で文字を書いてみせた。
「リグ・ベーダ(インド神話)に登場する神で、ブリトラ・ハーンとも言う。戦いと雷の神だ。手にしている妙な形の槍はイナズマを現わす金剛杵《こんごうしよ》でね。仏教徒は、この神を薬師十二神将の一つと見ている」
「はあ、それなら京都のお寺で見たことおます」
定吉は画像を見上げた。黄色い皮膚に黒い斑点《はんてん》が一面に浮いた、見るからに気味の悪い神だ。
「バラモン教が勃興《ぼつこう》するにつれて一時インドの人々は崇拝することを忘れた時期がある。本当は私もそんなに好きではないのだがね。なにしろこの神は、興奮性のソマ≠ニいう酒を好み、乱暴を働くことがあるそうだ」
「わても酒飲みはあまり好きまへん」
「その辺の意見は私と良く合いそうだ。なにしろ私はシーク教徒だから」
ヒンズー教にイスラムの教義を加えたシーク教は、十六世紀の初期、教祖ナーナクの教えによって複雑きわまりないカーストや迷信を排し、一時全パンジャブで栄えた。イスラムにより近い彼らは、唯一神に帰依し、飲酒の風習を持たない。
「その敬虔《けいけん》なるシーク教徒のあんさんが、どうしたわけで女の子たぶらかしたり、自社の製品に覚醒剤まがいのもんブチ込んだり、罪もないタコ焼屋や坊さんやオモチャ問屋の小伜《こせがれ》爆死させたりしまんのや?」
「ふーん、君はもうそこまで調べあげたのか」
定吉の言葉に、アジミール・シンは感心してみせる。
「あしこに立っとる二人の娘、それからここにいる殺気立っとるネーチャン。この三人を親元に帰してやっとくなはれ。たのんますわ」
定吉はテーブルに、頭の十円ハゲを擦り付けんばかりにして手をついた。
「あほやな。わてらは好きでここに居《お》るんやで。勝手に世話焼かんといてんか」
ライラ、と呼ばれた女が定吉の後頭部を思いっきり平手で打った。
「あ! いたぁ、そんなに弾《はじ》かんといて」
定吉は女の方を向いて口を尖らせた。
「あんたが、アルファ・ロメオ乗りまわしとる明石《あかし》屋の由香ちゃんやろ。どうやら、あんただけは自分の意志でここに居るらしいな。けど、あしこの二人は、わての見たところ、あんたとは違うて無理矢理ここに居させられとるようやで」
彼は、先刻ターバンを巻く手伝いをしていた二人の動作をじっくり観察して、すでに一つの結論を得ていた。茫然《ぼうぜん》自失の態でいる彼女らは、十中八、九、薬物か催眠術の類《たぐい》に冒されているのだ。
「御推察の通りだよ、定吉君。彼女らは私の術中にある。このライラは別だ」
アジミール・シンは、あっさりと言ってのける。
二人の娘がダージリン・ティのカップとポットを別々に運んで来た。その間もライラこと明石屋由香理は油断無く定吉の手の動きを見守り続ける。
「さあ飲みたまえ。このブラック・ティは、そんじょそこらのものとは訳が違う。ブータン国境沿いにある私の茶畑で、ジャンガ族の早乙女が丹精込めて摘み取った葉だけを使っているんだ。山羊の乳も入れるとウマイよ」
アジミール・シンは、これ以上考えられそうもないような気障《きざ》ったらしい物腰で定吉に紅茶を勧めた。
「へ、おおきに」
定吉は礼を言いつつも、目の前に置かれた薄手の茶器へ容易に手をつけようとはしない。
「なるほど、君はプロだな」
インド人は、女のように長く伸ばした爪《つめ》で首筋を掻きながら苦笑した。
「社長はん?」
定吉は手でティ・カップを遠ざけつつ聞いた。
「あんさんのような地位も名もあるお方が、なんでこないなテロリストまがいのことばっかりやりまんねん?」
「『良き敵は、悪《あ》しき味方より我が身を理解す』と言う。ハッサン・ヤヒム・カーン、イギリス人に獄中で殺害された十九世紀末のベンガル人の言だ」
「似たようなことを佐々木小次郎も言うてます」
「君には全てを話しても良いようだ」
アジミール・シンは自分のティ・カップにカシミール山羊のクリームを注いだ。
「私は幼少の頃、親族とともに神戸・北野に移り住んだ。父が本国での政争に敗れ、亡命したのだ。持ち物は取っ手無しのズンドウ(筒型ナベ)一個と若干の貴金属、文字通り難民だったよ」
彼はエビ茶色のターバンを振った。
「私の家系は、十八世紀末までラジャスタンのマハラジャ(藩王)として君臨していた。イギリスのインド支配に抗い、一八四五年の第一次シーク戦争時に、シーク教徒へ内通した咎《とが》でムガール帝国より放逐されて以後は熱烈なシーク教徒となった。いわば名門だ。それが難民……」
アジミール・シンは英国風の平べったいティ・ポットから茶をクリームの上に注ぐ。
「元来器用な父ジャファル・ナナークは、阿倍野の裏でカレー屋を始めた。小さな店だ。私はそこから近所の阿倍野墓地裏にある小学校へ通った。そこでは連日いじめられたよ。定吉君」
「何だす?」
「君は幼少の頃にカン蹴《け》り遊びや隠れん坊をした時、どうやって数を数えたね?」
「ダルマさんがころんだ、とか、ボンさんが屁《へ》をこいた、なんて言うてましたが」
「ふむ、なかなかに上品な言い廻《まわ》しだ」
アジミール・シンは感心した。何や、このオッサン? 突然なにを聞きよるんや。定吉は首をひねる。
「私が遊んだ松崎町や旭町、天王寺公園の中広場ではこう言うのだ。『インド人のフンドシ』。私は何度この言葉に泣かされたことか」
アジミール・シンの目尻《めじり》はいつの間にか濡《ぬ》れ始めていた。
「阪堺電軌沿線に住む、街頭テレビで力道山を見ることと、タコ焼屋に集うだけが趣味の青バナたらした下賤《げせん》なガキどもに、誇り高いマハラジャの家系、反英運動の志士の息子が完膚無きまで恥かしめを受けた。私はこのクソガキどもに絶対|復讐《ふくしゆう》することを誓ったのだ」
「そらエライ目に会うたもんや。けど、社長はん、静岡県で育たなくて良かったなあ」
定吉は言った。
「ほう、それはまたどういうわけで?」
「あしこらのガキは数勘定する時、『インデアンのチンポコ』言いまんねん」
「な、なに……」
アジミール・シンは絶句した。これはなかなか強烈な反撃パンチだったようだ。定吉は笑う。
「なるほど、それで在阪タコ焼文化の破壊を企ててるわけでんな」
「そうだ。あの日の午後のカン蹴り遊び以来二十数年、今やっと復讐の時は来た」
アジミール・シンは壁に下ったインドラの画像に手を突いた。
「タコ焼専用ソースの中に習慣性の興奮剤を微かずつ混入し、味覚の擦り込み運動をくり返す」
「その陰謀を成就させるために、古風な味を守る頑固なタコ焼屋を殺してまわった!?」
定吉は背後に立つ明石屋由香理の方へ振り返った。彼女は無表情に突っ立ったままだ。
「あの娘らは何のためにかどわかしたんだす?」
「テレビに出演させるためさ」
インド人は自分のティ・カップに茶を注ぎ足した。
「梅田の毎朝テレビに今年の夏から大々的にマハラジャ・ソース≠フCMを流す。それと同時にテレビ番組も作るんだ。公開番組でね。その番組名は……ええと」
「『新婚女子大生さん、おもろい夫婦でタコ焼ガバショ』です」
由香理がスラスラと答えた。
「そう、それそれ。今、上方《かみがた》落語界で大人気の笑福亭|鶴蔓《つるつる》と彼女らを組ませて売り出す。以後は、今宮戎の福娘や歌手として話題作りもして行くつもりなのだよ」
「ふーん、そら若い関西人が飛びつきまんな」
「そのあたりでソース中のタウリヌス・アトロッパの混入量をグッとアップする。もう若い関西人は後戻りできない。彼らは死ぬまであのソースの中毒になって私の言うことを聞くしかないのだ。あとは簡単、私はタコ焼シンジケートのボスとして、その流通を操作するだけで良い」
アジミール・シンは豪快に笑った。定吉は幾分怒りを含んだ声で、由香理の方へ語りかけた。
「あんたも浪速の娘やろ。こんなメッチャ臭い奴の手先をよく務めてまんなあ」
「わては大阪マハラジャ帝国の女王になるんや。明石焼の看板娘なんぞまっぴらや」
由香理は高らかに言い放つ。
「あんたの同級生は、どう思うてはるんでっしゃろ?」
「あれは軽い催眠術にかけてあるだけや。そやけど覚めた後で世の中が変っていれば必ずわてについてくる娘たちや」
「催眠術?」
「それについては私が教えてあげよう」
アジミール・シンは立ち上った。
「私が雅楽の会に出入りしていることは知っているね」
「へえ」
「私は父の友人、内久宝寺町の和尚《おしよう》に今から一年前、初めて連れて行かれたんだ。春日大社に古くから伝わる林邑楽《りんゆうがく》を聞いた時、私はショックを受けたね」
カーペットを踏んで彼は反対側の壁に歩いて行く。
「菩薩《ぼさつ》、迦陵頻《かりようびん》が中でも驚きだった。北インドのカターク・ダンスにそっくりなのだよ。カタークは婆羅門《バラモン》の秘儀、人をして夢寐《むび》の境に落し入れるリズムなのだ。和尚はそれについては何も気付かなかったようだ」
アジミール・シンはチーク材の壁を指でなぞり、中央の部分をポンと指で弾く。小さなトビラがスッと開いた。
「私は彼女ら二人にその音楽を聞かせ続け、ある日、催眠術をかけることに成功した」
インド人は文庫本が一冊入るくらいの小さなトビラに手を入れ、何かをいじくった。
と、見る間に壁が左右に別れ、明りが煌々《こうこう》と点《つ》くショー・ケースが現れる。
まるで博物館の展示場だ。
「君と一度手合わせしてみたいと思っていたんだ。その船場仕込みの小具足鎧通《こぐそくよろいどお》しの術は、神技だというウワサだからね」
ショー・ケースの中には西アジア地方のありとあらゆる武器が並べられていた。刺突用、斬突用《ざんとつよう》、殴打、擽《くすぐ》り、決闘用から集団戦、処刑・拷問用に至る凶々《まがまが》しい武器が赤いフェルトの飾り棚に置かれている。例のタコ焼爆弾製造用らしい鉄板も数枚ほど並べてあった。
「ひええ、こらまた良うけ揃えたもんでんな」
「良ければこちらに来て見物しないかね?」
「ええんでっか?」
「名人に得物を鑑賞してもらうことはヒジョーに名誉なことだ」
「ほなら遠慮無う」
定吉は揉み手をして椅子《いす》から立ち、ショー・ケースに歩いて行った。
「これは、ザグナル。鎧を突き貫くための戦闘用ピックだ。こちらはカタール、中央の握りを持ち、袖《そで》の中から前方に突き出すように使う。この長い剣はタルワール、パンジャブ地方の戦士が帯びるサーベルの一種だな」
「はあ、さよで……」
定吉は感心しつつ一つ一つを手で触れていった。別に、こういうものの美しさに驚いているわけではなかった。彼の関心はただ一つ。
「これ、なんぼしますのや」
「君は根っからの船場丁稚なんだね」
インド人は別に軽蔑《けいべつ》した風もなく言った。
「北西インド地方の武器はペルシャ・中央アジア地方の影響を強く受けている。ロンドン・ビクトリア・アルバート博物館に出入りする研究家ですら両者を混同して論文を書くぐらいだ。だから、サザビーのオークションはこの手の武器類にあまり高値をつけてはいないね。このタルワール一振りで邦貨にして、約五百万程度だ」
「へ、五百万円! それだけあったら順慶町のけつねうろんが毎日腹いっぱい食えまっせ」
定吉は驚きの声をあげた。
「これはラージプート族の名匠シングリが鍛えし業物《わざもの》だが、よろしい、これで君のやなぎ刃包丁と戦ってみよう」
アジミール・シンは銅製の柄を持つ反りの大きな剣を取りあげた。
「わてが負ければ死ぬだけだすが、もし勝ったらどないします?」
定吉は由香理が渡した自分の得物「富士見西行」の柄やしのぎを手早く点検しつつ、尋ねた。
「彼女ら二人は解放され、君もこの家から出て行くことができる」
「ま、ええでしょ。勝負、受けまひょか」
定吉は腰ヒモを角帯の間から抜き取り、端の方を咥《くわ》えてクルクルと襷《たすき》がけの姿になった。
アジミール・シンはインド・シルクのシャツを脱ぐ。上半身裸となって剣を構え、定吉に背を向けると一、二度素振りをした。
なるほど、まるで「タイガー・ジェット・シン」や。定吉は「天満のトラやん」なるアダ名のもとをやっと悟った。
「では一つ、行きますかな」
「お手やわらかに願いまっせ」
インド人がポンと軽く右足を踏み出すと同時に、最初の一撃が定吉の肩先を掠《かす》めた。
す、鋭い!
突きの強烈さに定吉は思わず後ずさった。
腰を低く落し、やなぎ刃を逆手に構えてインド人の動きを見守る。
奇妙なサーベルの構えだ。剣を肩に担《にな》うように構え、左手は拳《こぶし》を作って胸の前に当てている。
定吉は知らなかったが、それこそラホール流の正式な剣の構えだった。胸に当てた拳は、本来なら薄い銅細工の飾りを張った鹿皮製《しかがわせい》の丸い盾を保持しているはずなのだ。
手ごわい。
定吉はジリジリと後退した。アジミール・シンは少しずつ間合いを詰める。
由香理が両の手を合わせ低い声で口走り始めた。
「ドニヤ カ チャル クニオン セ ラーネ デナアウル ハム ログ ウンク カフィマルデング。クチビヒ ナヒン ハンコ アッソシ デンク」
それはシークの呪文ではなかった。インド・パキスタン国境地域の言葉に訳されたシェークスピアの一節だ。
「いざや戦士よ。かかって参れ。汝の肝を拉《ひし》ごうぞ。何処《いずこ》に我を倒す者有りや」
アジミール・シンは彼女のこの励ましに、右頬を弛めてほほ笑む。
彼の右足がまたしてもフワリと踏み出される。
次の瞬間、第二撃。定吉はやなぎ刃のしのぎ地で受け止める。鋼と鋼がぶつかり合い、マグネシウム花火のような火花が散る。
インド人のタルワール剣は再び彼の右肩に返る。
このままでは不利や。
定吉の刀術は本来、小具足組打ち術、つまり陣地内で軽い鎧を身につけたまま行う格闘技の変形だ。騎上の武者に付き従う徒士《かち》立ちの軽輩武士が、長柄《ながえ》の下をかい潜って相手の首を掻き落す技術である。頭上から振りまわされる片刃の大刀には勢力を発揮するが、このように突き出して、す早く手元に返る両刃の剣法には為《な》す術《すべ》も無い。
リーチの差が決定的やな。
彼のやなぎ刃は九寸五分、しかしインド人のタルワールは優《ゆう》に五尺を越える。姉川の真柄《まがら》十郎左衛門も顔負けの大外返《おおそとぞり》だ。
「血が!」
由香理が部屋の片隅で声をあげた。
アジミール・シンの肩先から鮮血がほとばしり始めた。定吉がつけたものではない。
「心配無い、ライラ。私自身でつけた傷だ」
彼は楽しそうに言った。たしかに彼が自分の肩に剣を置く際、出来たものらしい。剥《む》き出しの膚へ鋭利な刃を直接に乗せる構えでは、傷の出来ない方がおかしい。
「さあ、定吉君。どうしたね? もう一度私の方から行こうか」
血はますます盛大に流れ出す。彼の胸も腹もダルマのように赤い。
こいつはマゾなんやろか?
アジミール・シンの皮サンダルに包まれた爪先《つまさき》はジリジリと定吉に近付く。
そうか、薬の効果やな。さっき頻繁に飲んでいたダージリン・ティの中にタウリヌス・アトロッパが多量に混入されていたに違いない。
興奮剤によって度胸をつけるような刀術は所詮《しよせん》ろくなものではない。血が体外にもっと流出し、貧血状態が今以上に進めば、薬のききめも強くなる。切っ先の動きも鈍くなるはずだ。
よっしゃ、せいぜい派手に動きまわって薬をまわしたろか。
「では、行きまっせ」
言うより早く定吉は天井高く舞い上り、やなぎ刃包丁を上段から振り降した。
アジミール・シンのタルワールが横なぐりに弧を描いてそれを避ける。
再び火花が中空に散った。
定吉の着物の袖に血《ち》飛沫《しぶき》が飛ぶ。
定吉はカーペットの上にフワリと降り立つ。
インド人の右肩がパックリと赤く割れ、噴水のように血煙が吹き出した。
と、同時に定吉の腰に締めている紺の前垂れが斜めに切れて足元にパラリと落ちる。
「見事だ、よくぞかわした」
アジミール・シンは剣をカーペットの上に突き立ててニヤリと笑う。その眼はすでに焦点が定まっていない。
「わての包丁は、まだあんさんの身体《からだ》に一度も触れてまへん」
「君はなかなかの知恵者だよ、定吉君。どうやら私は自分の剣で自滅してしまったようだ」
インド人は巨木が倒れるようにズシリと前のめりに倒れた。
「シン!」
由香理が、サリーの裾《すそ》を翻して彼に走り寄る。
「しっかり。早くタルワールを取って! 丁稚の息の根を止めるのよ」
彼女は着衣を赤く染めながらアジミール・シンの頭を抱いた。
「無理だ。薬のおかげで血が止まらない」
アジミール・シンは弱々しく笑った。
「あんさん、父親の代から仲良うしてもろうた阿弥陀寺の和尚をなんで殺しなはった?」
定吉は注意深く距離を保ちながら聞いた。
「私の計画を止めたからさ。のみならず、ビリケンの平助≠ェ殺されたと知るや、私のことを密告しようとした。彼もやはり浪速の人間だったのだ」
「実際に手を下したのは、わてや」
由香理が涙に濡れた顔を定吉に向けた。
「タコ焼用の千枚通しで首筋のツボを一刺し」
彼女は自分の膝《ひざ》の上から、アジミール・シンの大きな頭をソッと降すと武器ケースに走り寄った。
「船場のゲテモン、ド腐れ外道《げどう》。わてがこの爆弾で粉々に吹き飛ばしたる」
「やめなはれ、そんな物言いは。帝塚山の名が泣きまっせ」
まるで鶴橋の極道のような口振りでわめく由香理を見て定吉は眉《まゆ》をひそめた。
「フン、今に吠《ほ》え面《づら》かかしたる」
彼女は定吉の言葉をものともせず、ケースの奥から電磁タコ焼器を取り出すとコードの先をケースの中のコンセントに差し込んだ。
「さあ、このタコ焼器でコンガリ焼いたニポリト≠たっぷり御馳走《ごちそう》したるでえ」
「そこにいる二人の御学友も道づれかいな?」
「しかたないやろな」
「可哀相《かわいそう》やと思わんのか?」
定吉はジリジリと彼女に近付いて行く。
「動きなや! これは今のまま投擲《とうてき》しても充分殺傷能力があるんやで」
「知っとる。しかし表面を焼き固めた方がより爆発力が大きくなる。そうやろ?」
由香理は、金属板の端に付属した木製の柄を握りしめた。それを、テニスラケットのように一振りするだけで定吉の五体はバラバラに吹き飛ぶのだ。
が、彼は最後のチャンスに賭《か》けた。
彼が先程施した小細工がうまく行けば、その効果はそろそろ現われる。
二人は無言のまま睨《にら》み合った。
一秒、二秒、その時だ。由香理の持つタコ焼器がジュッと音を立てた。
由香理の顔色がサッと変る。
定吉は壁際に肩をつけ、ボンヤリと二人のやりとりを見ていた娘たちを両脇《りようわき》に抱え、ロック・テーブルの下に飛び込んだ。
ドカン!
爆発が床を震わせた。材木や漆喰《しつくい》が大盤振舞で三人の頭上に降り注ぐ。
もうもうと埃《ほこり》が立ち籠め、焦げくさい煙で目も開けていられない。
定吉は二人の娘の肩を押さえたまま十分ほどそのままの姿勢で伏せ続ける。不発弾の遅発を恐れたのだ。
ようやくその危険が去ったと見た定吉が顔を上げた時、部屋の中央部は、歌舞伎《かぶき》の屋台崩しみたいにポッカリと開いていた。
細い埃がその穴から外へ吹き出している。
「あらぁ、ここは明石の山の上やないか」
穴の向う側に青々とした海が広がっていた。ポッカリ浮んでいるのは見覚えある淡路島。足の下に広がるのは明石の町と明石海峡だ。右手の丘の上には天文台の屋根も見える。
あたりを見まわせば、瓦礫《がれき》の中にタコ焼製造器の柄を握った由香理の手がのぞいていた。
「かんにんやで、ライラはん」
定吉は片手を上げて念仏を唱えた。
彼はアジミール・シンにショー・ケースを見せてもらった時、タコ焼の板と明石焼の板を巧みにすり替えたのだ。
関西人なら良く知っていることだが、明石焼とタコ焼は根本的に異っている。
タコ焼がメリケン粉を使っているのに対し、明石焼は玉子を多用し、しかも汁《つゆ》に浮べて食べるものを言う。この明石焼は普通タコ焼鉄板では作らない。玉黄分が多いためコゲついてしまうのだ。そのため明石焼製造板は鉄ではなく銅で出来ている。当然熱伝導率は良い。
由香理は、パトロンを殺されて逆上し、定吉がすり替えた電磁焼き板の材質に気付かず、ニポリト≠熱してしまった。つまり、熱加減を読み間違えたのだ。
定吉は、虚ろな眼差《まなざ》しで焼け焦げたチーク材の山を見つめる二人の娘を抱き寄せた。
「さ、お父はんやお母はんのとこ帰りまひょ。これから友だち作るときは充分注意して選びなはれ」
爆発音を聞きつけたのか、遠くで消防車のサイレンが鳴り始めた。
「蛸壺《たこつぼ》やはかなき夢を須磨明石……か」
海峡を渡って行くフェリーの白い船影を眺め定吉はポツリつぶやいた。俳聖松尾芭蕉が、数百年前この地で詠んだ一句である。
7 おなごにおいとま
「かような仕儀を持ちまして、今回の事件も定吉七番の尽力により無事解決。内久宝寺町の阿弥陀寺住職・西岡|西然《さいねん》、同町内の今池平助その他十数名のタコ焼屋を殺害いたしましたマハラジャ食品社長・アジミール・ナナーク・チャンドラ・ジャファル・モーティマール・ガッチャマン・シンは共犯の女子短大生明石屋由香理とともに死亡いたしましてごわります。さて……」
船場言葉でのろのろと進行する殺人丁稚たちの会議は、あと二時間程は、確実に続きそうだった。
定吉は目の前に積み上げられた未決裁の書類をパラパラと捲《めく》って会議時間を推量すると、ホッとため息をついた。
隣に坐っている部下の幾松と留吉に目で合図し、そっと席を立つ。二人はチョッと咎《とが》めるような目つきになったが、すぐに肩をすくめ、この大先輩に頭を下げた。
廊下へ出て会議室のドアを後手に閉めると、もう一度大きなため息をつく。
「どや、疲れたか」
ドスの利いたダミ声が彼のすぐ近くから発せられた。
「あ、小番頭はん」
小番頭の雁之助が、廊下のベンチにドッシリと腰を降していた。
「お前が連れ帰った帝塚山の女子大生な。二人とも無事、阪大病院の精神治療室送ったったで。メディティション・トリートメントやら言う治療して、数日後には親元へ帰れるそうや」
小番頭はインバネスの下から「雅《みやび》」の箱を取り出すと、一本|咥《くわ》え、桃印の徳用マッチで火をつけた。
「アジミール・シンに内通しとった西天満の食品検査センター員たちはどないしはりましたん?」
定吉は尋ねる。
「全員消したった。今頃は瀬戸内で魚のエサや」
雁之助は大きな鼻の穴からフッと煙を吐いた。
「小番頭はん、今日は特にハードボイルドできめてまんなぁ」
定吉は雁之助の二重まわし姿を見たのは久しぶりだった。
「明石屋お由香という娘はな。わいが昔好きで通いつめた明石焼の看板娘やねん」
雁之助はポツリ、と言った。
「それでは……」
「気にせんといてや定吉。わいも別に今は気にしてへん」
定吉が何か言おうとするのを押し止どめ、雁之助は首を振った。
「河内生まれのダンジリ引きなら、こないな時どう言うたらいいか良う知ってはる。あそこらのエエ格好しいは、大楠公が千早城で戦こうて以来、どんな時でもエグイ文句の一つや二ついつも用意して、ピタリと決める。けど……わいは芦屋《あしや》生まれよってなあ」
定吉が雁之助のこれほど気落ちした姿を見るのは始めてだった。
「小番頭はん、そういう時はこう言いまんのや。『おなごにおいとまするのは、ちょっとの間、しばき倒されることや』」
「なるほど」
雁之助はインバネスの袖をはね上げ、紬《つむぎ》の袂《たもと》からポチ(御祝儀袋)を取り出した。
「定吉、これで増井屋お孝とかいう娘となにかウマイもんでも食うて来い」
「なら小番頭はんも一緒に行きまひょ」
「わいはしばらく一人になりたい」
それに、と彼は太い腕に巻いた本物のロンジンを覗《のぞ》いた。
「まだうろんすするには早すぎる」
雁之助と別れた定吉は、ドンヨリと濁った東横堀川に架かる高麗橋をゆっくりと渡り、お孝の待つ島町のタコ焼屋へ向った。
結局この事件に関った人々は大部分が死に、残った人々も多かれ少なかれ心に傷を負った。定吉は、この件の関係者に再び会いたいとは思わなかった。ただしタコ焼屋を除いては……。大阪人がタコ焼に別れを告げる方法はまだ発明されていないのだ。
オクトパシー・タコ焼娘 しまい
一九八四・六・二〇
定吉宣言
私の007¢フ験は、中学二年の頃から始まっている。当時私はヨコハマのヨーハイ(アメリカン・スクール)に通うスザンヌ・ナオミ・ロックウェルちゃんとB≠ワで行く関係であった。
週末のドンヨリと曇った午後、私たちは元町ユニオンでゼネラルのポテト・チップスと小田原の笹《ささ》カマボコ(彼女はこれが大好物だった)を買い込み、口さがない級友の目を逃れてイセザキ町の映画街へよく通ったものである。そこでスザンヌちゃんは、東宝の怪獣とクレージー・キャッツだけが全《すべ》てと思い込んでいた私に洋モノアクションのオモシロさを教えてくれたのだ。最初に見たのは「007/危機一発」だった。それはコンニャク芋みたいな食人植物が歩きまわる「|人類SOS《ザ・デイ・オブ・トリフイツド》」と、シドニー・ポアチエがバイキングとチャンバラをする「|長い船団《ザ・ロングシツプス》」に挟まれて上映されていた。
いやあ、これにはえらく感動しましたねえ。
で、その瞬間から私は007フリークになった。「ボーイズ・ライフ」や「サンデー大図解」を切り抜き、PPKのモデルガンを購入し、近所のガキをひっぱたいてコギー社製アストンマーチンのミニカーを手に入れ、悦に入っていた。しかし、この熱情にもやがて終りがやってくる。映画の主役がコネリーからレーゼンビーに代り、スザンヌちゃんが上級生を追ってサイゴン派遣の野戦看護婦を志願したからである。不貞腐《ふてくさ》れた私はモデルガンやミニカーをヨコハマ港に放り込み、ベトナム反戦運動の出前持ちになった。
十数年後、私は初めてジェームス・ボンドのホームグラウンドであるロンドンを訪れた。この日パリでは日本の首相が、全身鉄の貞操帯みたいなオバさんやプチブル革命ヤカンオヤジの間を飛びまわって、ミソっかすになりながらも必死の揉《も》み手外交を行っていた。
情けねえなあ、あれじゃあアメリカの丁稚《でつち》じゃんか。
私は暮れなずむテームズを眺めながら悪態をついた。その時だった。私は突然、007は英国の丁稚なのだ、という真理《トルース》を発見したのだ(恐らくそれは対岸に見える英国議会の風景が、淀川から見る大阪造幣局そっくりだったことと無縁ではないはずだ)。
こうして、毎日香のCMに登場する丁稚の定吉と殺人許可証を持つ男は私の中でアウフヘーベンされた!
それからさらに数年、私はついに「日本人は世界の丁稚である。しかしそれは考える丁稚である」という巧緻《こうち》に満ちた論理を構築することに成功した。かつて大阪の町を流れる河の名を冠した飛行機を乗っ取り、右手に中田商店製P38、左手に備前長船《びぜんおさふね》を擬した青年は、「我々は明日《あした》のジョーである」と唱えたが、私は今、高らかにこう宣言する。「我々は明日の定吉であり、明後日《あさつて》の若旦那《わかだんな》である」と。
一九八五年三月 ミラノにて
筆 者
本書は一九八五年四月、角川書店から書きおろし文庫として刊行され、一九九四年一月講談社文庫として刊行されました。