東海林さだお
ショージ君の青春記
目 次
初 恋 物 語
あ あ 疎 開
逆上の露文入学
青 春 謳 歌?
早大漫研の仲間たち
早稲田祭・コンパ・赤線
漫画家開業始末記
白昼堂々の家出
漫画行商人
初 恋 物 語
青春時代に、人はたいてい恋をする。
青春時代に限らず、人は恋をするのであるが、まあ、青春時代の恋が、いちばん恋らしい恋なのではなかろうか。
中年の恋、老いらくの恋などというものもあることはあるが、これらの恋はどこかわびしく、どこかむさくるしく、本人の気持ちはどうであれ、他人の目には、
「いいトシこいて」
というふうに映るのである。
いいトシをこくようになってしまってはもうダメである。
当人たちが、どんなに純粋な恋を主張しようが、どんなに本物の恋を叫ぼうが、周囲の反応は同じである。
冷たくひと言、
「いいトシこいて」
と突き放されてしまう。
恋は、いいトシをこかないうちに早目にすませておいたほうがよろしいようである。
そんなふうにせきたてられなくても、放っておいても、人は青春時代には恋をする。
青春と恋とは、ラーメンとシナチクのように、あるいはギョーザとニンニクのように、あるいはカレーライスと福神漬のようにセットになっているのである。
青春を語るには、恋を語らなければならぬ。
辛《つら》いことだが語らねばならぬ。
ぼくといえども、だれにせきたてられたというわけでもないのに、恋を体験している。
ぼくらの高校は男女共学だった。
共学ではあったが、どういうわけか男女の比率が、極端に異なっていたのである。
男生徒三百人に対して、女生徒百人という比率であった。
男三人に女一人である。
会社の社内旅行の宴会などでは、男三人に一人の芸者がつけば、まあ上々といえるかもしれないが、若く純粋な若者たちにとって、三対一はあまりにも過酷な仕打ちであった。
しかも、男子のみ、というクラスが半分つくられてしまうのである。
科目の選択|如何《いかん》によっては、三年間、一度も男女クラスに編入されずに卒業してしまう不幸な男生徒もいたのである。
キャバレーに大勢で入って、一度もホステスがそばへ来なかったようなものである。どうも比喩《ひゆ》が適切でないという人もいようが、また、実に適切であるとみる人もいよう。
そしてぼくは、その不幸な男生徒の一人であった。
むろん、自ら求めてそうなったのではない。
一度不幸への傾斜を転がり始めると、とめどもなく不幸の階段を落ちていくように、ぼくは高校生活三年の間、一度も幸福への階段へ足をかけることがなかったのである。
「かえってね、よくないんだよ、なまじ女がそばにいると」
「そう。女は勉学のさまたげになる」
同じ境遇の並木と、ぼくはいつもそういって慰め合った。
「共学組の奴らはさ、みんなニヤけてるもんな」
「そう。ズボンは毎日寝押ししてくる。それに髪の毛を伸ばしているのが多い。あれで国立《こくりつ》は無理だよな」
並木はいわゆる快男児であった。剛直ともいえる性格で、いつもウジウジしているぼくと違って行動的な男であった。
「そう、とにかく奴らはけしからん」
事実、ぼくは高校生のころ、きわめて真面目《まじめ》な生徒だった。
頭は坊主頭だった。ズボンに寝押しはしなかった。靴もめったに磨かなかった。歯もたまにしか磨かなかった。
三年間、信じてもらえないかもしれないが、喫茶店というところヘ一度も足を踏み入れたことがなかったのである。
喫茶店というところは、不良と与太者がたむろしているところである、と堅く信じていた。
そういうところへ出入りする高校生は、すべて不良である、という堅い信念を持っていたのである。
ぼくらの高校は、いわゆる受験校で、入学したてのころは、だれでもが「国立」を目指していた。国立も国立、東大、一橋といった、今考えてみれば、夢のような空恐ろしいような大学を目指していたのである。
むろん、二年、三年になって、自分の能力を世間一般の生徒の能力と比較して(偏差値というものはまだなかったが)、次第に「国立」を諦《あきら》めていくのであるが、入学したてのころは、国立を目指してだれもが希望に燃えていたのである。
生徒の半分は坊主頭がいるという、真面目ひと筋の高校だったのである。
むろん、なかには喫茶店に出入りする同級生もいないではなかった。
だがぼくは、そういう連中を、矯風会のおばさんのような目つきで睨《にら》み、さげすんでいたのである。
坊主頭がふたつ出会うと、
「喫茶店に出入りしちゃ、もう国立は無理だな」
「もう人生をしくじったと同じようなものさ」
とうなずき合っていたのである。
ぼくらは、そば屋へ出入りすることさえ、すでに不良化の一歩であると信じていたのである。
ごくまれに、学校の帰りにそば屋へ入って、キツネうどんを食べたりすると、一週間は罪悪感にさいなまれた。
「そば屋でキツネうどんを食べてしまってはもう国立はダメかもしれない」
「わが人生も、もはやこれまでかもしれない」
その一週間は、油揚げを見ただけで、胸を掻きむしられるような後悔の念にかられた。
男子ひとたび学校へ向かって家を出れば、わき目もふらずに学校に到着し、男子ひとたび校門を出れば、わき目もふらずわが家へ帰るのを信条としていた模範亭主のような高校生だったのである。
神のごとく清らかな高校生だったのである。
勉学一途、よく予習し、よく復習し、教師の講義にいちいち大きくうなずき、よくノートをとり、放課後は図書室に残って勉学に励んだ。
登下校の電車の中では、赤尾の豆タンに、びっしりとアンダーラインをひいた。
人間は忘れる動物である。忘れる以上に覚えることである、という格言もちゃんと暗記した。
だが人間の努力は、必ずしも努力した分だけ報いられるのではないことは、読者諸賢、すでにご承知のとおりである。
また、よくうなずく人、必ずしもよく理解しているとは限らないことも、読者諸賢ご承知のとおりである。
ぼくの成績表は、通称「アヒル」と呼ばれる「2」と、「艦砲射撃」と称せられている「1111」で埋まっていたのである。
ぼくの高校生活は、女生徒にはまったく恵まれなかったが、「アヒル」と「艦砲射撃」には充分恵まれていたのである。
油揚げを見ては罪悪感にさいなまれ、公園のアヒルを見ては暗然とし、軍艦の大砲の写真を見ては怯《おび》える薄幸の高校生だったのである。
だが、この薄幸の高校生にも、ただひとつの救いがあった。
それは美貌に恵まれていた、という点である。
笑ってはいけない。
毎夜、鏡を眺めては、
「相当なもんだ」
と、つぶやいていたのである。
「いけるクチだ」
と、堅く信じていたのである。
今でこそ、さまざまな経験と実績によって、自分の容貌について正しい評価ができるようにはなったが(美貌のほうの偏差値を出せるようになったが)、当時は、自分の美貌については、一点の疑いも持っていなかったのである。
その証拠に、当時の日記を引っぱり出してみると、
「○月○日晴
今日も電車の中で、トイメンのメッチェンにジッと見つめられた。ぼくはいつものようにそしらぬふりをしていた。女は勉学のさまたげになる」
といったような記述が豊富に散見されるのである。
「○月○日
今日は、女学生に追いかけられて、非常に困った。電車をいっしょに降りた女学生が、到頭学校までついてきてしまったのである」
というのもある。
もっとも、この女学生はぼくらの高校の生徒であったから、学校までついてくるのは当然であったのかもしれない。
「○月○日
今日は、ジッと見つめられた。ぼくは必死でうつむいていた。美しい人だったのでとても辛かった。だが女とつきあうと国立がダメになる」
ただ、この記述のいずれもが、客観的に見れば、なんの確証もなく、一方的な主観によってのみ成り立つ断定である、という点は注目されてよいであろう。
例えば、その結果、ラブレターを手渡された、とか、プレゼントを受けとった、とか、あるいはデートに誘われた、とか、そういった事実はつねにないのである。
それはさておき、当時のぼくは、美貌なるがゆえに、毎日のように女生徒からウインクされ、見つめられ、追いかけられていたのであった。
追いかけられてようやく逃げおおせ、校庭の楡《にれ》の木陰で、ひとり汗をぬぐっていたのである。
二枚目の辛さを、毎日のように味わっていたのであった。
そのころの日記に次のような記述がある。
これはかなり長いもので、きっとその日大いにモテたので、興奮して書きつづったものとみえる。
例によってかなり自分の都合によいような解釈が随所にみられるが、当時のぼくはこのように楽しく快適な「少女に追われる毎日」を送っていたのであった。
そのころは、たいていのバスには車掌という職業の人が乗っており、そのほとんどが、十五、六歳ぐらいの少女で、一般にバスガールと呼ばれていたのである。
そのころぼくは自宅から駅までバスを利用して通学していた。
カッコ内は、後年のぼくが書き加えたものである。
「お待たせしました。この車は八日町廻り中野循環でございます」
バスがガクンと揺れて動き出すと、和江はもう同僚とはなやかにたわむれていた表情をサッと消して、しごく厳粛な顔つきになって、いつもの決まり文句をしゃべり始めた。
「ウウン」
と軽く咳ばらいをして、サッと表情を変えるところが、ぼくにはなんだか頼もしく思えた。
いつごろからぼくはこの少女を意識しだしたのか、はっきりとは覚えていない。
ぼくが自転車で街を走っているとき、バスの中からニッコリ笑いかけたことは覚えている。(ソーラきた!)
バスから降りるとき、大きな瞳でぼくをジッと見上げたことも覚えている。(またきた!)
だけどそんな具体的な表現の仕方は少しも価値あるものではないのだ。
彼女とぼくの間にはもっともっと深遠で不思議な感情の交流があるように思えた。
この少女の名前が、谷和江であることは、もうずっと前から知っていた。
バスの運転台の上に、運転手の名前といっしょに車掌の名前があるのを見て知っていたのである。
この循環バスの受持ちの車掌は、だいたい十人ぐらいで日や時間で交代しているらしい。
だからぼくが、和江のバスに乗り合わせるのはごくまれであるはずなのに、じつにしょっちゅう乗り合わすのだ。
そして車掌の名前など、いつものぼくなら気にならないのに、いつとはなくぼくは谷和江という名前を覚えてしまっていた。
ぼくは和江の年齢がいくつであるのかまだ知っていない。
あるいはぼくよりずっと年上であるかもしれない。
髪の形は大人びたものではあったが、ぼくはなんとなくぼくよりずっと年下の少女であると思っている。
いつだったか、雨でバスが混《こ》んでいる日だった。
停留所で待っていた人が、
「このバスはどこそこへ行きますか」
と和江に聞いた。
和江は、
「いいえ、行きません」
と答えた。
その人は、
「じゃあどのバスが行くんですか」
と、また聞いた。
「わかんないんです」
と和江は答えた。
その人は聞こえなかったらしく、また同じことを聞いたらしい。
和江は当惑したような、怒ったような、泣きそうな表情になって、「わかんない……」といった。
その表情が、なんともおかしく、かわいらしく、また幼なさをぼくに感じさせるのだった。
当然、「わかりません」と答えるべきだと思った。
和江は丸顔で頬がふくらみすぎるくらいフックラしている。
そしてその容貌や笑顔や言葉づかいや態度が、いつもぼくに幼なさを感じさせた。
和江はぼくと視線を合わすと、ちょっと微笑む。にらむような目付きをするときもある。
だからそのまなざしは娼婦のそれではなく、まだ花の咲かない蕾《つぼみ》の感じがあった。
そしてそのなかにも、女としての男に対する感情がこもっていた。
そしてそれはいくぶんイタズラっぽさを含んでいた。
いつも瞳を合わせていながら、ぼくはあとになって考えると、それは偶然のことだったように思われてきて不安になってしまう。
暗い木立ちの中をバスが通るとき、バスの窓は鏡になり、和江はガラスの中のぼくをイタズラっぽくにらむ。(またまた……)
ガラスの中で視線が合って、急にパッと明るいところヘバスが出てしまうと、そこにはもう明るい外の景色しかなかった。
するとぼくは、なにかわけのわからぬ不安と悲しみにおそわれてしまう。
和江はいろんなふうにぼくを見る。
イタズラっぽく見るときもあれば、ぼくの気づかないときに、ジッと愁いを含んだ悲しそうな瞳で見つめているときもある。
同僚と話をしているときの彼女は、屈託のない明るいあどけない少女なのである。
恋心が彼女に愁いをもたらしているのだろうか。(自信満々……)
今日もぼくは、和江のバスに乗り合わせた。
駅を降りてバスに乗り込むと、まだ発車までかなり時間があった。
乗客も、ぼくとあと二人ぐらいしか乗っていなかった。
和江は車掌台にかけてあった自分の傘をとると、すぐ前にある会社の事務所に駆けていった。
傘を取るとき、ぼくを振り向いて大きくまばたきをしてみせると、ガタガタとバスを大きく揺らして降りて駆け出していった。
ウインクのつもりだったのだろうが、それは中学生のそれのように幼稚だった。(目にゴミが入ったのかもしれぬ)
ぼくはその眼指《まなざ》しをまぶたにためて、じっと目をつぶっていた。
なんだかとっても楽しかった。
しばらくして和江は、事務所の入口に姿を現わして、いつものようにあたりをひととおり見廻してからバスのほうに歩みよってきた。
それは穴ぐらから出てくるところのリスのようで面白かった。
和江は手に新聞を持っていて、しおらしくバスの中に入ってくると、ぼくに背を向けて新聞をガサガサひろげてなにかを読んでいる。
しばらく読んでからそれを座席におくと、ラジオのスイッチを入れ、流行歌のところにダイヤルを合わすと、ドシンと座席に腰をおろし、いかにも聞き入っているというポーズになった。
歌は三橋美智也の「リンゴ村から」だった。
やがて乗客がたてこんできてバスが発車した。
ぼくはポケットに手を突っこんでみたら、一円硬貨がたくさんあった。
ぼくはそれをわざと一枚余計にとって切符を切りにぼくの前に立った和江に渡した。
和江は揺れるバスの中でうまく体の重心をとりながら、しばらく数えていたが、もう一度ジャラッと音をさせて数え直すと、その中から一枚とってニッと笑ってぼくに返した。
ぼくもニッと笑った。
かなり長い日記であるが、一円硬貨のくだりからあとは当時の創作である。
このように、ぼくの毎日は少女たちの注目のまとであった。
毎日のように少女たちに「追いかけられ」ていたのである。
この「追いかける」少女群のなかに多賀子がいた。
多賀子は、丸ぽちゃの可愛い女のコであった。
目がやや釣りあがり気味で、口元の愛らしいコだった。
中村玉緒と瑳峨三智子を足して、三で割ったような女のコだった。
なぜ三で割ったかというと、到底二で割りきれるようなコではなかったからである。
それほど美しく可憐な少女だったのである。
なによりも、その豊かで赤い頬がぼくは好きだった。
その子の存在を意識しはじめたのは、二年生になってからである。
きっかけはなにもなかった。
ただなんとなく、いつのまにか次第にその子を意識するようになっていたのである。
学校の廊下ですれちがうとき、図書室で向かい合わせの席に坐《すわ》ったとき、校庭の手洗い場で手を洗っているとき、多賀子はぼくを「見つめ」「ウインクし」「追いかけ」たのである。
なにしろぼくは、男子組であったから、教室内で多賀子に出会うことはまったくなかった。
出会うのはいつも教室の外であった。
ぼくは、この求愛には応《こた》えなければならないと思った。
二年生になって、「国立は無理」のきざしが、はっきりしてきていた。
なにしろ、「アヒル」と「艦砲射撃」で、すっかりまいっていたから、入学当初の志はかなり崩れかけていたのである。
国立は無理になったが、まだ「私立のいいとこ」の願望が残っていたので、真面目高校生の姿勢は依然として堅持していた。
求愛に応えようと思ったが、なにしろ模範亭主のごとき高校生であったから、求愛に応える方法がまるでわからなかった。
だが、よく考えてみると、追いかけられている身分なのだから、ぼくはただ待っていればよいのだ、とも思った。
待っていれば、相手は次々と攻勢の手を打ってくるはずであった。
成績のほうの自信は、もろくも崩れ去ったが、まだ美貌のほうの自信は崩れていなかったのである。
ぼくはただひたすら待った。
待って悶々《もんもん》としていた。
だが待てども待てども、相手は、「ウインクし」「見つめ」「追いかける」ばかりで事態はいっこうに進展をみなかったのである。
悶々とするうち、ぼくの恋情は次第に激しくなっていった。
授業中も、教師の講義に、いちいち大きくうなずきながら、ノートには、ただ多賀子、多賀子という文字を書き連ねていた。
ノートはすぐいっぱいになったので、今度は机の上に多賀子、多賀子、と書いた。
放課後、ぼくは多賀子の教室へ出かけていった。
だれもいない教室で、あらかじめ聞き出しておいた多賀子の机に坐ってみた。
ついさっきまで、多賀子がこの机に坐っていたはずである。
多賀子の机には、ぼくの机と同じように、ぼくへの恋情をこめて書き連ねた、「さだお」という文字が残されているはずであった。
ぼくは目を皿のように、いやタライのように、いや貯水池のように見開いて机の上を探したが、「さだお」のさの字も書き残されてはいなかったのである。さだおが無理なら、Sの字一つでもいい、そう思って机の下まで探したが、Sの字一つも書き記されてなかったのである。
だがぼくは、そこに多賀子の女性としての慎み深さをみ、内に押しとどめた恋情の激しさを思い、恋しの情を一層つのらせていった。
多賀子の机の、小さなインクのシミさえいとおしく、へこんだキズにも胸が痛んだ。
ぼくは坊主頭仲間の並木に相談した。
「実はな、オレも今恋をしているところなんだ」
と、並木がいった。
「ヘエー、おまえも? おまえも恋を?」
「C組の清水洋子なんだ」
「エッ、あのC組のマドンナを?」
「まあな」
並木は自信ありげにうなずく。
「あれは止《や》めたほうがいい。諦めたほうがいい。身分というものを考えなくちゃな、諦めろ」
「ついこのあいだ、二人で話し合ったんだ」
「エッ? 二人で話し合いを?」
並木はニコニコと自信ありげである。
男女組の男女は、いつも和やかに会話を交わしているが、男子組の生徒にとっては、女生徒と口をきくだけでも大変な難事業だった。
なのに、「二人で話し合う」とは見上げた奴、とぼくは急に並木を尊敬の目で見上げた。
「で、どういうふうにきっかけを?」
「なあに、ちょっと話があるから校舎の屋上へ来てくれ、と、こういっただけだよ」
それはまずい、とぼくは思った。
話があるから屋上へ来てくれでは、恋の誘い、という雰囲気がまるでないではないか。
まるで、ヤクザがインネンをつけるときの文句ではないか。
「で、来たのか?」
「むろん来た」
「フーム」
そんなものなのかなあ、とぼくは思った。
そんなに簡単に事態が進展してもいいものなのだろうか。世間とは、そんなに甘いものなのだろうか。
「で、どういったんだ?」
「好きだから交際しよう、と、こういったんだ」
彼のやり方は理論的には確かに正しい。しかも明快である。
だがなにか欠けるところがあるような気がする。
「相手の返事は?」
「『わたしたち、まだそういうことはしないほうがいいと思うわ』といってね」
「それから」
「それでデートは終りさ」
「じゃ、ほんの数分のデートか」
「数秒といってもいいな」
なのに彼はなぜか、まだ自信ありげにニコニコしている。
だんだんわかってきたことであるが、彼はこれで、この恋が終ったとは思っていなかったのである。
「わたしたち、まだそういうことはしないほうがいいと思うわ」
という彼女の発言の中の、「わたしたち」の「たち」と「まだ」の部分に、充分脈ありという解釈の仕方をしたのである。
彼女はすでに、二人の関係を、「わたしたち」という言葉で認めている。
しかも、「まだ」ということは、「もう少し経《た》てば」というふうに解釈することができる。
まるで政治家の発言を解釈する政治部記者のように、彼は発言のウラを読みとるのであった。
彼は、この「屋上の会見」によって、自分たちの恋は一歩前進したと解釈しているのであった。
当然、彼には余裕ができていた。
その余裕が、ぼくの恋の面倒をみようという気持ちを起こさせたようであった。
「オレが話をつけてやるからな。いいか、まず彼女を屋上へ呼び出すんだ」
彼は自分のやり方が最上の方法であると、堅く信じて疑わないのである。
女のコを好きになったら、とにもかくにもまず屋上へ呼び出すことだ。最初のデートは屋上にかぎる、そう信じ切っているのである。
「長生きしたけりゃ」船橋ヘルスセンターにかぎるが、「恋を語る」には学校の屋上にかぎる、と信じていたらしいのである。
だがぼくは、彼よりもやや冷静な判断力があったので、その申し出を断わった。
そのうち、多賀子がぼくを好いている、という確信を得るに充分な事態が発生した。
秋になって恒例の運動会があった。
運動会には、クラス対抗のリレー競技がある。
ぼくはE組で多賀子はC組だった。
ぼくはクラスの連中にまざって、わがクラスの選手を応援していた。
すると多賀子が、友だち数人と共に、ぼくら応援団のうしろに来て、われわれのE組を応援し始めたのである。
ぼくは歓喜した。
多賀子は慎み深い女性であるから、ぼくへの恋心をそういう形でしか示すことができないのである。
ぼく個人への恋心を、ぼくのクラス全員への応援、という形で表現したのである。
だが多賀子の側も複数である。
むろんぼくの側もE組全員という複数である。
複数対複数の問題を、個人と個人の問題にすりかえてしまうのは多少の無理があるのではないか、という見方もできよう。
だが神のごとく純真な少年は、そういう疑問を露ほども持たなかった。
「オイ、来ているぞ」
ぼくと並んでいた並木がいった。
「………」
ぼくは当然、というように鷹揚《おうよう》にうなずいてみせた。
ぼくの背後で、聞き覚えのある多賀子の優しい声がしていた。
柔らかく、少しくぐもるような優しく暖かい声であった。
「おかあさん」の声のようだ、とぼくは思った。
ぼくは緊張に体をこわばらせながら、その声を聞いていた。
ぼくたちの恋は、ここにこうして、ようやく実ろうとしている。
「見つめ」「ウインクし」「追いかける」段階から、さらに一歩前進して「応援」という形にまで進展したのだ。
まだ、なんの会話も交わしてないけれど、なんの触れ合いもないけれど、ぼくたちの恋は着々と実りに向かって進んでいる。
ぼくは頬が上気するのをどうすることもできなかった。
ぼくの頭に、イチョウの葉が一枚舞いおりたのさえ気がつかなかった。
イチョウの葉を一枚、坊主頭の上にのせたニキビヅラの高校生は、緊張に肩を震わせながら、澄みきった秋空に浮かぶ白い雲を凝視していた。
二人の未来を暗示するかのように、雲はモクモクと妖《あや》しく大きく拡がっていったのである。
秋の運動会の少し前、この学校で初めての剣道部が結成された。
ぼくは迷うことなく剣道部に入部した。
この高校は、先述のように受験一本槍の高校であったから、運動部に入部することは、即、一流大学を諦めるというふうに受けとられていたのである。
だがぼくは迷うことなく剣道部に入部した。
ぼくはもともと、チャンバラごっこが好きだったのと、それともう一つ、多賀子にぼくの凛々《りり》しい剣士姿を見てもらいたかったからなのである。
ぼくは用もないのに、剣道具一式をシナイに通してかつぎ、学校中をヨタヨタと歩きまわった。
多賀子に出会うと、急に胸を反らして、赤胴鈴之助の歌を口笛で吹いたりしたが、緊張のためか口笛はかすれて、まったく音にならなかった。
剣道部は、さすがに三年生は一人もいず、われわれ二年生が最上級生だった。
一応の基礎訓練のあと、部内対抗試合が行なわれた。
いよいよ本物のチャンバラごっこができる、ぼくはうれしくてたまらず、手拭いをキリリとかぶり、面と胴と小手をつけ相手と向かいあった。
相手は一年生であった。
相手は裂帛《れつぱく》の気合いと共に猛然と突進してきた。
ぼくは、その気魄《きはく》の凄さにまず驚いた。
(ウム、これはぼくの考えていた、チャンバラごっことは少し趣きが違うようだ)
とぼくは思った。
ぼくの考えていたチャンバラごっこは、もっと和やかで、もっと穏やかで、もっと楽しそうで、もっといいかげんなものだった。
なのに相手は、いきなり裂帛の気合いである。
ぼくは三人きょうだいのいちばん下で、上二人は女だったから、こういう男同士の闘争にはまるで慣れていなかったのである。
「あのね、キミね、そんなに真剣に勝とうとしなくてもいいじゃないか。あのね、もっとね、和やかにだね……」
面の中からそう呼びかけようとした途端、脳天も割れよとばかりの「お面!」を一発くらった。「お面!」は、面の前面で受ければ、そう痛くはないのだが、ま上で受けると効く。
頭がクラクラするくらいに効くのである。
ぼくはすでに闘志を失っていた。
「なんだ、剣道って、こんなものだったのか。そんなに真剣に勝とうとしなくちゃいけないものなのか」
続いて、アッというまに「小手」をくらった。
「小手」もまた相当痛いものである。
「胴」は、いくら激しくうたれても全然痛くないのだが、「小手」は、腕がまっ赤に腫《は》れあがる。
アッという間に勝負はついた。
下級生にやられて面目を失った上級生は、半泣きで防具をはずすと、腫れあがった腕をさすりつつ、その場で剣道部に退部を申し入れた。
「男っていやだなあ」
それが剣道部生活で味わった感想であった。
「やっぱり多賀子のほうがいい」
爾来《じらい》、ぼくは闘争というものを好まない。
激しいものを好まない。
ラグビーとかボクシングとか、闘志にあふれた競技を、歯をむき出して戦っている連中をみると、
「ああ、みっともないなあ」
と思う。
「よしなよ、よしなよ」
と思う。
運動会があってから、ぼくの多賀子に対する恋心は、日増しにつのっていった。
毎晩のように多賀子の夢をみるようになった。
夢の内容はいつも同じである。
クラスの編成替えがあり、ぼくと多賀子が同じクラスになる、という単純なストーリーなのである。
ぼくたちは、毎日顔を合わせることができるようになり、
「よかった、よかった」
と、二人手を取りあって涙にむせぶというひじょうに単純で短いメロドラマであった。
ぼくが放課後、図書室に居残って勉強したのは、なにをかくそう多賀子が図書室で勉強してから帰るのを知ったからだった。
多賀子は、毎日のように図書室に通ったので、ぼくも毎日のように図書室に通った。
ぼくは、いつも多賀子と向かい合わせの机に席をとった。
そしてまず、自分の机の前にカバンを立てる。
こうして遮蔽《しやへい》物をつくっておいて、このカバン越しに、ときどき多賀子のほうを盗み見るのである。
いや、ときどきといういい方は正しくないかもしれない。
数秒おきに、といったほうがより正確であろう。
なにしろ数秒おきに視線を送るのであるから、当然多賀子と目が合うときがある。
多賀子は、ちょっとまぶしそうな目つきをして頬を染め、すぐうつむいた。
視線が合って、多賀子がまぶしそうに目をしばたたくほんの数秒の間に、燃えるような恋の歓喜があった。
確かに視線が合って、確かに多賀子がまぶしそうな目つきをして、確かに頬を染めたのを、ぼくは確かにこの目で見たのに、もう次の瞬間、果たして多賀子はぼくの目を見たのだろうか、と不安になってしまう。
あれはぼくの錯覚だったのかもしれない。
ぼくが勝手にそう思い込んだに過ぎないのかもしれない。
不安に駆られてぼくはまた多賀子のほうを見る。
多賀子は顔を伏せて、せっせとなにやらノートに文字を書き込んでいる。
窓越しに射し込む夕陽が、多賀子の白いうなじを赤く染めている。
だがもう一度確認してみなければ、と思いまた多賀子のほうを見る。
なにゆえに
なにゆえに汝《な》は我を見ぬぞ
可愛ゆき顔をただ伏せに伏せて
図書室にて
という迷歌が当時の日記に書き記されている。
また、
筆を折らん
燃ゆる夕陽をとりて食わん
恋のきわみに我は立ちたり
図書室にて
というのもある。
歌の出来不出来は別にして、当時の恋情の激しさだけはわかってもらえると思う。
なにしろ会話も交わさず、手も握らないうちに早くも、万年筆をへし折ろうというほどの「恋のきわみ」に立ってしまったのである。
むろん、目の前に拡げた参考書の文字など目に入るはずがない。
なにしろ数秒おきに首の上げ下げばかりしているのだから。
図書室で勉強をしていたのではなく、図書室で首の運動をしていたのである。
ぼくの成績は下がっていった。
それでなくても下がり気味だった成績が、さらに下がったのであるから事態は緊迫の度合いを深めていた。
成績表からは、アヒルさえも一匹、また一匹と姿を消した。
艦砲射撃は日増しに激しくなっていった。
「いったいお前は、なにをやっとるのか」
苦しい恋の報告を受けた並木は、まずこういった。もうすぐ冬が来ようとするころだった。
「なぜ屋上へ呼び出さないんだ。それですむことじゃないか」
「しかし……」
「なにがしかしだ」
「屋上は今、ちょっと寒いし……」
だが読者諸賢はこの男をあなどってはいけない。
それから十数年経ったこの男は、妻子ある身で新宿のハントバーヘ通い、見も知らぬ女性のそばへにじり寄り、
「おつとめどこ?」
「どお、一杯飲まない?」
「今夜は家へ帰らなくちゃいけないの?」
などと平気でいうようになるのである。
このように大きな成長を遂げるのである。
ぼくは今、これを書きつつ、その十数年の歳月の重さを思う。
こうして一年はまたたくまに過ぎた。
悶々のうちに最終学年を迎えた。
大学受験は、焦眉《しようび》の問題として目の前に迫っていた。
並木が見かねて一計を案じてくれた。
手紙を書け、というのである。
すでに、屋上は寒風が吹きすさんでいたので、さしもの屋上第一主義者も考えを改めたらしい。
毎日図書室で顔を合わせているのに、手紙を書くというのもおかしなものだとは思ったが、この際、ワラにもすがる気持ちで友人の忠告に従うことにした。
まず事務室へ行って、多賀子のクラスの名簿を見せてもらった。
多賀子の住所を知るためである。
多賀子の住所を初めて見たとき、ぼくは不思議な感動で胸が震えた。
「あの子はここに住んでいる。この町のこの番地に住んでいる」
ぼくは多賀子に一歩近づいた、と思った。
ぼくは確実に多賀子に近づきつつある。
今はただ、遠くから眺めているだけだが、いつの日か、きっと多賀子の体温を感じるほどの近さにまで近づくことができる。
これはそのための第一歩なのだ。
ぼくは多賀子の住所を胸にきざみこんだ。
十数年経った今でも、その住所をすぐ口にすることができるぐらい、ぼくは深く胸にきざみこんだ。
頼みもしないのに、並木は多賀子の家を見に行ってくれた。
早くも仲人を引き受けた叔父さんのごとき行為であった。
多賀子の家は食堂をやっているという。
これはまったく初耳だった。
多賀子の身辺に関する最初のニュースであった。
「オレな、ちゃーんと中へ入って天丼を食ってきたぞ」
並木はいった。
「なんということをしてくれたのだ」
と、ぼくは思った。
ぼくでさえまだ行ったことのない、神聖な恋人の家ヘノコノコ入っていったばかりか、あまつさえ天丼を食ってくるとは。
「天丼というと、あ、あの、エビが上にのっかってるやつか」
「そう、エビがのっかってるやつ」
「そ、それで、その下がゴハンのやつ?」
「そう、その下がゴハンのやつ」
「そ、それをみんな食っちまったのか」
「そう、みんな食っちまった」
ぼくはそれ以来、魚屋の店先のエビを見ただけで多賀子を思い出すようになった。
「おやじさんがいてな、それから太ったおふくろさんがいたぞ」
報告は次々と生々しかった。
ぼくは息が詰まるような気がした。
ぼくはこれまで、これほど人を好きになったことはなかった。
これまでに初恋めいたものはあったが、それはいずれも子どもの初恋のようなものばかりだった。
それが今度は全然様子が違うのだ。
まだ会っていないとはいえ、恋の周辺に父親と母親が登場してきたのである。
若年とはいえ、仲人も登場してきたのである。
天丼さえも登場してきたのである。
(これは、ただならぬことになるぞ)
ぼくは恐ろしい予感で胸が震えた。
いよいよ大人の領域に入っていかなければならないのだ。
本物の恋と取り組まなければならないのだ。
いずれ、彼女の両親とも会わなければならなくなるだろう。
両親の前に手をついて、
「娘さんをください」
といわなければならなくなるだろう。
その席でも、やはり天丼が出るだろうか。
その天丼は、やはり食べたほうがいいのだろうか。あるいは手をつけないほうがいいのだろうか。
十七歳の少年の胸は震えた。
肝心の当人とは、まだ会話さえ交わしていないのに、ぼくの周辺では、勝手にどんどん事態が進展していくのであった。
十七歳の少年はおびえた。
住所を知ったことで、わが恋はまたもや急進展をみた。
もはやこうなっては、あとに引けない。
ぼくは恋文の制作にとりかかった。
『恋愛作法』という本を購入した。
だが、この本には、恋文の書き方は出ていなかった。
心がまえのようなものばかりが書かれてあった。
心がまえなら、もう充分できている。
十七歳の少年の心ははやった。
書いては消し、消しては書き、一カ月ほどかかってやっと苦心の最初の一行ができあがった。
苦心惨憺《さんたん》の一行である。
その一行とは、
「前略」
というものであった。
「前略」に一カ月かかっては、恋文全部を書き終るころには、ヨイヨイになってしまう恐れがあった。
ヨイヨイになっては、手が震えて恋文を書くことができぬ。
ぼくは先を急いだ。
「突然の便り、さぞかしお驚きのことと思います」
この二行にやはり一カ月かかった。
いろいろ文案を練ってみても、結局のところ、わが友の敢行した屋上の会見の、
「好きだから交際したい」
の文句に尽きるのである。
だが恋文というのは、あまり短くてもいけないらしいのだ。
前略
突然の便り、さぞかしお驚きのことと思います。
好きだから交際したい。
ではさようなら。
これでは恋文にはならないらしいのだ。
そうこうしているうちに、早くもその年は暮れかかった。
年が明けてしまえば卒業式やら受験やらで、もう多賀子に会う機会もなくなってしまうだろう。
そうすると、ぼくは多賀子を永久に失うことになってしまうだろう。
ぼくは多賀子を失うことが何よりも恐ろしかった。
年の暮れになったことで、急にひとつの名案が浮かんだ。
年賀状を利用しようと思いついたのである。
年賀状ならば、それほど大仰ではないし、無邪気を装って、さり気なく恋文めいたものに仕立てることもできる。
クラスの友人同士で、年賀状を交換することだってあるのだ。
同じ学校の同学年同士なのだから、年賀状を送ったとしても、相手は素直に受け取ってくれるに違いない。
ある日、なんの前ぶれもなく、
「突然の便り、さぞかしお驚きのことと思います」
では、相手は間違いなくお驚きになるだろうが、年賀状ならば、たくさんの賀状の中から、ごく自然にぼくの年賀状を発見してくれるに違いない。
いよいよ大人の世界の、本物の恋だ、などと意気込んだわりには、やや消極的だとは思ったが、今の状況では、これが最上の策なのだ、とぼくは思った。
ぼくは年賀状の制作にとりかかった。
思いのたけを思いきり込めて、ぼくは次のように書いた。
謹賀新年
昭和三十一年元旦
文面はこれだけである。
何枚も何枚もハガキを無駄にしたあげく、やっとこう書き上げたのである。
今にして思えば、これが恋文だとはだれも思うまい、という冷静な判断ができるが、当時のぼくはこれで精一杯であった。
まるで月賦屋から来た年賀状みたいだが、ぼくにとっては、これは、まぎれもなくラブレターなのであった。
文面は確かに素っ気ないかもしれない。
だが、行間に込められた恋しの情を、多賀子ならちゃんと汲みとってくれるに違いない。
ぼくはそう思っていた。
ポストの前を行きつ戻りつしたあげく、ぼくはやっとこの賀状を投函した。
動悸《どうき》がなかなかおさまらなかった。
それから正月までの間、ぼくの足は宙に浮いたままだった。
あれを受け取った多賀子は、どういう返事をくれるだろうか。
「図書室で、いつもカバンの陰からわたしをのぞいていたあの美少年が、とうとうわたしに年賀状をくれたわ。うれしいわ」
そう思ってくれるだろうか。
あるいは、月賦屋からの年賀状だと勘違いして、すぐゴミカゴに捨ててしまうだろうか。
(あるいは……)
と、ぼくは急にあることに気がついて慄然《りつぜん》とした。
それは果たして多賀子は、ぼくの存在に気がついてくれているだろうか、ということである。
ぼくがただ一方的に自分の都合のよいように解釈しているだけなのではなかろうか。
「庄司さんて、だれかしら。知らないわ」
と、いうこともあり得るのである。
いやいやそんなことはあり得ない、とぼくはあわててその考えを打ち消した。
多賀子は、あんなにぼくを「見つめ」「ウインクし」「追いかけ」ていたのだ。
そんなはずはない。
大丈夫だ、大丈夫だ、ぼくはそう思い込むことにした。
お正月の朝、きっと次のような年賀状が届くに違いない。
「新年おめでとうございます。
年賀状どうもありがとうございました。
でも謹賀新年だけじゃ、少し物足りなかったわ!
もっとなにか書いてくださればいいのに!
でもいいの!
お葉書くださっただけでわたしとてもうれしいの!
では学校が始まってお会いできる日を楽しみに、かしこ」
!が、やたらに多い年賀状をくれるにちがいない。
正月の朝がやってきた。
玄関の戸があいて、ドサッと年賀状を投げ込む音が聞こえた。
ぼくはまっ先に飛び出していくと、年賀状を一枚残らず点検した。
多賀子からの年賀状はなかった。
ぼくはうなだれた。
首うなだれて押入れに入りこみ、声を殺して泣いた。
泣かん泣かん
今日一日を泣きぬかん
君の賀状の来ぬ元旦は
恋をしていると、やたらに歌が生まれるものなのである。
なかでも、この「泣きぬく」などという表現は、哀切胸をうつものがある。
慟哭《どうこく》の激しさを思わしめるものがあるではないか。
だが気がついてみると、ぼくの賀状が先方に着くのが一月一日で、それを見て多賀子が返事を書いたとしても、こちらに到着するのは、二日か三日である。
そうだ、そうだった。
ぼくは、押入れから這《は》い出ると、今度は便所に入り、
「若者よ、恋をしろ」という歌を大声で歌った。
だが次の日も返事は来なかった。
その次の日も来なかった。
多賀子は今、迷っているのだ。返事を出したものかどうか迷っているのだ。
純真な乙女ならば、一日や二日はだれだって迷うものなのだ。
三日になっても四日になっても返事は来なかった。
いやいや、純真であればあるほど長く迷うものなのだ。
返事が長びくということは、それだけぼくへの愛が深いということを意味するのだ。
ぼくはそう信じた。
だが信じていたわりには、便所で歌う「若者よ、恋をしろ」の歌声は、日ましに小さくなっていった。
五日、六日と日が経っても返事は来なかった。
だがぼくは諦めなかった。
そうだ、彼女は口頭でぼくに返事を伝えるつもりなのだ。
直接会って、思いのたけを、ぼくにぶちまけるつもりなのだ。
休みが終って学校が始まった。
三年生最後の高校生活は残り少なくあわただしかった。
ぼくは一度だけ、多賀子と廊下ですれちがった。
多賀子は、いつもと同じように、チラとぼくのほうを見て頬を染め、まぶしそうな顔をしてうつむくと足早やに去っていった。
あ あ 疎 開
ぼくは昭和十二年に生まれた。
この世代はまことにヘンな世代である。
むろん戦前派とはいえないし、戦後派ともいえない。
焼跡闇市派にも属さない。
昭和ヒトケタとフタケタに分ける考え方もあるが、これもうまく当てはまらない。
フタケタには違いないが、本物のフタケタは昭和十五年生まれ以後あたりをいっているようである。
昭和十年から十五年までの間に生まれた世代は、どの派にも入れてもらえないのである。
どの派にも入れてもらえず、ひがんでいる世代なのである。
いわば歴史の谷間に生まれた孤児のようなものなのである。
戦前派は、戦争体験にいくばくかの誇りのようなものを授かっており、ふた言目には、
「君ら戦後派は、戦争の苦労を知らないからなあ」
といい、イモの買い出しの苦労を語り、スイトンの話になり、B29の話になり、そして結局のところ、
さらばラバウルよ――
また来るまでは――
の合唱となる。
戦後派のほうは、「戦争を知らない子どもたち」などと叫んで、「さらばラバウルよ」をニヤニヤ笑い、揶揄《やゆ》し黙殺することに誇りのようなものを持っている。
それぞれに確乎《かつこ》とした主義主張があり、キャッチフレーズがあり、売り物がある。
だがぼくらには売り物がまるでない。
例えばヒトケタ派は、ちょうど思春期に終戦を迎え、戦時思想に染めあげられていたところへ、突如民主主義というものが持ち出されたショックを一様に訴える。
ちょうどいまや中年になっているヒトケタおじさまに、酒場などで、ふとこういう話を聞かされたOLなどは、
「まあ! そうだったの」
「そんな辛い思いをしてらしたのね」
「そんなこと、おくびにも出さずに……」
などと、急に母性本能を掻きたてられるのである。
「それ以来、世の中が信じられなくなってねェ……」
と、ヒトケタおじさまは中空を見つめ、大きくタバコの煙を吐き出す。
OLは、ますます母性本能を掻きたてられ、
「わたしの胸の中で、思いきり泣かせてあげたい!」
と突如思い込み、結局のところヒトケタおじさまと、怪しげなマークのついた旅館の門をくぐる、ということにもなり得るのである。
われわれ歴史の孤児派には、そういう売り物がない。
せいぜい疎開して、土地の子に殴られた、というような話ぐらいしかない。
「疎開して殴られてねェ……」
などと話してもOLは感動しない。
中空を見据えつつ、タバコの煙を大きく吐き出し、
「それで鼻血が出てねェ……。ワンワン泣いてねェ……」
と、つぶやいてもOLの母性本能は掻きたてられない。
ぼくらの世代には、民主主義ショックはまるでない。
なにしろ終戦のとき、ぼくらは思想もなにもない小学二年生だった。
だが純粋な戦後っ子と違って、戦争の雰囲気はわずかながら知っているのである。
白衣の傷痍《しようい》軍人の一団が都電に乗っていた光景を鮮明に覚えている。
第一、傷痍軍人という言葉を知っている。
肩を並べて兄さんと
今日も学校へ行けるのも
兵隊さんのおかげです
という歌を歌った記憶もある。
アッツ島玉砕の歌、というのも知っている。
刃《やいば》も氷る北海の
ミタテトタチテニセンヨシ
などと、意味もまったくわからずに歌わされていたのである。
ミタテトタチテニセンヨシが、御楯と立ちて二千余士であると知ったのは、それから十数年も経ってからである。
奉安殿というのも覚えている。
それがこわされて、コンクリートの土台だけになって放置されていた光景も覚えている。
むろん疎開も経験したし、まっさおな空に、キラキラ光って飛んでくるB29の思い出もある。
ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コーショーなどという呪文《じゆもん》もわずかながら覚えている。
だがぼくらは、社会通念上は、戦後派のほうに配属されているのである。
そしてヒトケタおじさんに、
「君ら、知らないだろうなあ、イモの買い出し……」
というような話を持ち出されると、
「ホウ! 日本にそんな時代があったんですか」
などと答える習慣が、いつのまにやら身についてしまっている。
このほうがあたりさわりがない、ということをいつのまにか覚えてしまっているのである。
「いや、ぼくらも少しは終戦当時のことを知っているのでして」
などと申し開きをすると話がややこしくなる。
第一、ヒトケタおじさんは、そこで急につまらなそうになってしまう。
話の腰を折るようなことになってしまう。
ぼくの世代は、いってみれば境目派である。
戦前派と戦後派が、それぞれに主要テーマを主張し合っているとき、ぼくら境目派にはなにも主張することがない。
わが家が疎開したのは、栃木県の草深い田舎であった。
ここは大変な山の中だった。
部屋のすぐそばに炭焼小屋があるというところである。
冬になると猪が出没して畑を荒らした。
疎開児童は疎開先で例外なくいじめられた。
いじめられる原因はいろいろある。
疎開者は、たいてい土地の人の家に間借りをする。
間借りなどはいいほうで、わが家などは、農家の物置きに住んでいた。
たいていの農家にある、クワとか脱穀機とか、そういった農機具をしまっておく小屋である。
むろん窓もなければ天井の板もない。
そこを改造させていただいて住むのである。
改造といっても、大幅な改造は申し訳ないから、あとで修復がきく程度に改造して住む。
とても人間の住むところではない。
人間の住むところではないところに人間が住むのである。
ひっそりと静かに、うらぶれて、ひがんだ目を光らせて住んでいるのである。
土地の子どもたちは、この一家を軽蔑《けいべつ》する。
「あんなところに住んでら」
と、思う。
そこへもってきて、疎開者の子どもは、食物がよくないから劣悪な体格をしている。
なのに疎開者の子は、土地の子より勉強ができる。
これは頭がいいとか悪いとかの問題ではなく、いわゆる教育格差というやつで、東京で中の下くらいの児童でも、田舎へ行くとたちまち優等生になってしまう。
今まで村で一番よくできた子が、たちまち二番、三番に落とされてしまう。
疎開者が、二家族も三家族も入って来ると、たちまち、三番、四番に落とされてしまう。
当然|怨《うら》みを買う。
さらに、疎開児童は、疎開同士ばかりでつきあって土地の子となじまない。
これがいちばんいけなかったらしい。
これは、なじまなかったというより、迫害された者同士が、傷をなめ合うという、そういう寄りそい方をしていたのである。
昨今、外国在住の日本人は、現地の人となじまず、日本人同士ばかりで行動するので嫌われているらしいが、あれとよく似ているのである。
こういうたくさんの悪材料が重なって、疎開児童は、現地の子にいじめられた。
全国各地でいじめられていた。
われわれ境目派は、このようにしていちばん大事な時期にいじめられつつ育ったのである。
いじめられ、いじけつつ育ったのである。
次の世を
背負うべき身ぞたくましく
正しく伸びよ里に移りて
これは当時、皇后陛下が、全国各地に散らばる疎開児童をお励ましになるためにお作りになられた歌である。
だが、疎開児童は、「たくましく」どころか「里に移りて」次第にいじけていったのであった。
せっかく、「次の世を背負うべき身」と期待して下さったのであるが、そういう次第なので、恐らく、ぼくら境目派からは大人物は出てこないと思う。
物心ついたときに傷ついた魂は、そう簡単には癒《いや》されないのである。
そのころは傷ついた魂を、ぼくはもっぱら動物によって癒していた。
動物は今でも好きだが、そのころはとくに動物が好きだった。
わが家は全員動物好きで、犬猫のたぐいを切らしたことがなかった。
米、味噌、しょう油のたぐいはよく切らしたようだったが、動物のたぐいだけは切らさなかったようである。
ぼくのいた田舎では、動物のたぐいを飼っていない家は一軒もないといってよかった。
まずどの家でもニワトリを飼っていた。
これはペットではなく、貴重な蛋白資源であるタマゴを得るためであり、タマゴを生まなくなったときには、親ドリをつぶして食べるためだった。
ぼくも最初飼ったのはニワトリだった。
これは飼った、というより飼わされたというべきだろう。
当時は、現在のような白色レグホンはそれほどいず、黄色いのや茶色いのや、シャモや名古屋コーチンなどの雑種が多かったようである。
名古屋コーチンというのは、色は茶系統が多く、たいてい太っていて、なんとなくオバさんのような感じのするニワトリである。
ぼくは最初いきなり六羽受け持たされ、この六羽の全責任を負わされた。
年若くしていきなり六人の部下を持たされた係長のようなものであった。
係長のなすべきことは、食糧を作って彼らに食べさせることと、ニワトリ小屋の清掃だった。
当時は配合飼料などというものはなかったから、エサはフスマと称する小麦粉のひきかすと、ヌカを水でこね合わせ、それに大根などの葉っぱのたぐいを包丁できざんでまぜ、それに貝がらをカナヅチで砕いてうんと細かくしたものをまぜるかなり手のこんだものだった。
どこの家でもこのやり方をしていたようである。
なんでもないことのようだが、これを朝晩義務づけられてやるのはなかなか大変なことである。
とくに冬の寒いときなどは、なぜか腹が立ってきて、六人の部下に辛くあたることがしばしばあった。
それからウサギも飼った。
ウサギはまったくの愛玩用で、食べるわけではない。
ウサギはオオバコとかハコベとかの野草をとってきて食べさせた。
こういう野草は春や夏はいくらでもあったが冬が困る。
ニワトリたちは、「飼わされた」せいもあってそれほど責任は感じなかったが、ウサギのほうは自分から申し出て飼うことになったのでかなりの責任を感じていた。
係長が生まれてはじめて囲った二号さんのようなものであった。
その地方は冬は雪と霜柱に畑がおおわれたので、野菜はほとんどとれないのである。
秋のあいだに、ニンジンの葉やウサギの好む野菜を干草《ほしくさ》にして保存しておいて食べさせるのだが、これがしばしば涸渇《こかつ》した。
ぼくはいまでも、
「ウサギのエサをなんとかしなくちゃ」
という夢をときどきみる。
犬を飼っている家はわりに少なかったが、猫はたいていの家で飼っていた。
飼っている、といっても、現在のように家の中にかくまっているわけではなく、猫はどこの家にでも自由に出入りしており、
「あのブチはタケちゃんちのブチだ」
という場合は、そのブチは、
(主としてタケちゃんちでメシをあてがわれ寝起きをしている)
ということを意味する程度だった。
狭い村のことゆえ、どこそこで猫が生まれたという情報はすぐに全部落に伝わり、猫が欲しいという情報もすぐ伝わって猫の縁組みはすぐに決まった。
むろん、どこそこの猫の腹が大きい、という段階で縁組みの予約が成立する場合も多かった。
相場はウドン一束と決まっていた。
都会では鰹節一本が相場だったが、ここではなぜかウドンだったのである。
この部落には、
「犬はかまってやれ、猫はかまうな」
といういい伝えがあった。
「かまってやれ」というのは「遊んでやれ」という意味で、犬は遊んでもらいたがるが猫は遊んでもらいたがらない、ということを子どもたちに教えるものであるらしかった。
だがぼくはこの教えにそむき、遊んでもらいたがらない猫に、盛んにかまいつけた。
縁側でノビノビと手足をのばして眠っている猫を見ると、どうしても、
(このままほうっておくわけにはいかぬ)
と思ってしまうのである。
まず眠りこけている猫の腹のあたりをくすぐる。
なにごとならん、と、猫はビクッと首を持ちあげる。
そしてぼくのせいだ、と気づくと、
「またか」
というように、また眠りの態勢にはいる。
そこをまたコチョコチョとくすぐると、猫は、
「眠いのに、もうッ……」
というふうに起きあがり、しばらくぼくをにらみつける。
こうなればもうしめたものであるから、ぼくは指をちょうど影絵あそびのときの狐の形にして、さも狐がつつくように、猫の体のあちこちをつついたりつまんだりするのである。
そのうち、いやいや応戦していた猫が、だんだん本気になってくる。
本気になってくると、ぼくのコブシを四本の足でかかえこんで、後足で強く蹴る。
この後足で蹴る動作が混ざってくると、猫が本気になってきた証拠なのである。
かくして陽のあたる縁側で、猫と少年との半分本気半分遊びの格闘がはじまるのであった。
そして少年の手は、猫のひっかき傷でミミズ腫れになるのであった。
ぼくが疎開した村に、もう一人の同級の疎開児童がいた。
ぼくらはたちまち仲良しになった。
彼は、ぼくより半年ぐらいあとに疎開してきた。
ぼくは、すでにその村に半年間住んでいたので、その部落の文明度にもなじみ、半原住民化していたのである。
そこへ彼が、都会の文明の香りと共にやってきたのである。
本屋とて一軒もない村であったが、彼は少年雑誌の定期購読者であった。
この部落に、初めて少年雑誌を持ち込んだのである。
「譚海」「冒険王」「野球少年」などであった。
樺島勝一の風景ペン画、伊藤彦造、伊藤幾久造の武者絵、山川惣治の少年王者、横井福次郎のふしぎな国のプッチャー、福島鉄次の絵物語……。
どれもこれも新鮮でおもしろく、ぼくは学校が終るとすぐ彼の家へ行ってむさぼるように読んだ。
手塚治虫は、まだ鉄腕アトムを描くずっと前で、単発的な漫画を描いていたが、やはりこの絵がいちばん新鮮だった。
彼は、ずっと以前から漫画少年で、自分でストーリーを作り、自分で絵を描いて一冊の本を作りあげたりしていた。
彼の影響で、ぼくも漫画を描き始めた。
二人で遅くまで学校に居残って、ガリ版を切り、学校新聞を発行したりした。
最初「あけぼの」というのを発行し、その次に「なでしこ」というのに変わった。これは週一回、ワラ半紙一枚ガリ版刷りのものだった。
中学生になってぼくは野球部に入った。
野球部といっても、一般に考えられる野球部ではなく、なにしろ一学年全員が、男女合わせて四十人という小人数であったから、ちょっとでもボールを投げられる者はだれでも入れたのである。
九人掻き集めるのがやっとだった。
ユニホームとてなく、むろんスパイクもなく全員トレパンに運動靴といういでたちだった。グローブは布製が半分以上を占めていた。
ぼくは、いろいろなポジションをあてがわれたあげく、最終的には、セカンドで打順七番というところに落ちついた。
セカンド、打順七番という資料で、人はぼくがどの程度の野球選手であったかを理解することができると思う。
だがそのころぼくは、将来は野球選手になろうと思い始めていたのである。
ぼくは母親にいった。
「オレ、将来野球選手になろうと思うんだけど」
当時は、赤バットの川上、青バットの大下、物干ざおの藤村、スタルヒン、鉄腕真田、塀ぎわの魔術師平山、別所、千葉、西沢、土井垣、などが大活躍をしていたころで、プロ野球全盛の時代であった。
子どもなら、だれでも一度はプロ野球選手を志望した時代であった。
村の駄菓子屋では、野球選手の天然色ブロマイド写真クジが大はやりであった。子どもたちは、これでスター選手のブロマイド写真を集めていたのである。
母親は、早速ぼくの持っていた「野球少年」を読んだらしかった。
それにはスタルヒン投手の伝記が載っていた。
「スタルヒン投手はね」
母親はいった。
「投手になるために、毎日川原に行って石ころを二百個ずつ投げたそうだよ。おまえもプロ野球の選手になるなら、川原へ行って毎日二百個の石を投げなさい」
(それはきついなァ)
と、ぼくは思った。
まずいことに、わが家のすぐ近くに大きな川原があった。那珂川という大きな川である。
石なら二百個でも三百個でも何万個でもあるという川原である。
夕方ぼくは川原に出かけていった。
うす暗くなった川原で、ぼくは一個また一個と石を投げ始めた。
――夕暮れの川原で、黙々と石を投げ続ける少年。
(ここのところだな)と、ぼくは思った。
(将来スター選手になって、伝記が映画化されるとき主要なシーンとなるのは)
三十個ばかり投げたところでぼくはヘトヘトになった。完全にバテてしまったのである。
(スタルヒン投手も、せめて、三十個にしておいてくれればよかったのに)
二百個は到底無理であった。
それも毎日となれば、これはもうどう考えても実行不可能であった。
汗まみれになって川原から帰ってくる途中、これではとてもプロ野球選手になるのは無理だ、と思った。
やはり諦めるより他はない。
(ここのところだな)
と、ぼくは思った。
(将来スター選手になる人と、なれない人の差は)
翌日ぼくは、母親に、プロ野球選手は諦めた旨を伝えた。
プロ野球選手を諦めたぼくは、次に漫画家になろうと思った。
ぼくはまた母親に、漫画家になることにした、と告げた。
幸いにして、漫画家の伝記は雑誌に載っていなかったので、母親は、今度はぼくになにも課さなかった。
そのせいか、ぼくはそのままずっと、
(漫画家になろう)
と思い続けることができたのである。
少年時代にぼくが多少なりとも習得し得たのは、結局野球と漫画だけであった。
その他のことは、他の少年たちがなんなくできるのに、ぼくにはどうしてもできない、ということがたくさんあった。
まず口笛が満足に吹けなかった。
口笛らしき音はでるのだが、口笛そのものの音より、口から洩れる息の音のほうが大きいのである。
ピーピーという音はほんのわずかで、シーシーという音のほうが圧倒的に大きい。
世の中に口笛というものがある、と気づいたのは小学校五年生のころだった。
そのころぼくは田舎で生活していたので、たとえば山菜とりとか、メジロ獲りとかで山を歩いているときなど、友人たちが口から奇妙な音を発してメロディをかなでるのを発見した。
――それはなんなのか?
とぼくは友だちにたずねた。
すると、友だちは、これが口笛というものである、と答えたのである。
そのときはなにごともなかったようにぼくはうなずき、家に帰ってから友人たちの口つきを真似して一生懸命息を吐き出してみた。
すると、かすかに、ピーという音が出た。
が、息の洩れる、シーという音も同時に出た。
しかしそのピーの音は非常にかぼそく、淡く、この音をつないでいってメロディにまで発展させるのは到底無理だと思われた。
そこでぼくは、いちばん親しい友だちに、口笛がうまく吹けない旨をうちあけ、
「貴君はどのようにして口笛を吹いておるのか。できたらその秘伝をこっそり教えてはくれまいか」
とうちあけてみた。
彼は、どうもこうもない。ただこうして口を突き出し、息を吹き出せば音が出るのである、というのである。
「そのときの舌の状態はどうなっているのか」
と問うてみると、彼ははじめてそのことに気づいたように、こうなっている、と、口をあけてみせた。
ぼくはその口の中をのぞきこみ、
「フーム」
とうなずき、うなずいたものの、舌に秘伝があるわけでもなさそうだった。
それから毎日口笛の練習をくり返したが、口笛は上達しなかった。
現在でも口笛の上達度は、そのころと変わっていない。
このためにぼくはいままでだいぶ損をしていると思う。
たとえばガールフレンドとハイキングに行く。
二人並んで夕暮れの野道を歩いてゆく。
夕日があかあかといままさに沈もうとしている。
二人は長い影をうしろに引きずりながら、黙々と歩いてゆく。
こんなときには是非とも口笛が欲しいところなのである。
青春映画などでは、こういう場面がよくあるではないか。
男はポケットに手などを突っこみ、夕焼の中を口笛を吹きながらゆっくりと歩いてゆく。
そのうしろを、少女が優しく微笑みながら、彼のうしろ姿を慈《いつく》しむような眼指しで追いつつ、口笛のリズムに合わせて歩いてゆく。
ぼくも是非そういうふうにいきたい、と思うのだが肝腎《かんじん》の口笛がうまく吹けない。
仕方なく黙々と歩く。
せっかくの明朗|闊達《かつたつ》なシーンが陰々滅々のシーンになってしまうのである。
吹けないながらも努力して吹いてみると、シーシーという音ばかり大きくなってしまう。
「シーシー」では、子どもにオシッコをさせているみたいではないか。
あるいは、歯にはさまったシナチクを取ろうと苦慮しているようにもみえる。
甘い雰囲気をかもし出そうとしているのに、貧しくいやしい雰囲気がかもし出されてしまう。
このためぼくは、叶《かな》うべき幾多の恋をどのくらい失ったかはかりしれないのである。
それにしても、最近口笛を吹いている少年をあまり見かけないのはどういうわけだろうか。
それからまた楽器がダメである。
「ぼくは楽器がダメでね」
という人でも、ギターぐらいは軽く弾く。
ぼくはそのギターでさえまるきりダメなのである。
いったいどのくらいダメなのかというと、まるきりぜんぜんダメなのである。
それでも努力はしてみたことはある。
まずギターを抱え、左手でギターの弦を押さえる。
ギターの弦は五本だか十本だか忘れたが、とにかくそれが横一列に並んでいる。
その五、六本の弦を把握《はあく》し管理するのさえひと苦労するのに、さらにそれに上下何段かの枡目《ますめ》がある。
これを考えただけでもう頭の中はクラクラするほど大混乱なのに、楽器というものは考えているだけではダメでこれを演奏しなければならないものなのである。
左手でギターの弦を押さえ、その左手の動きに従って右手で弦をはじかねばならぬ。
左手の動きを目で確認していると、右手がおろそかになる。
右手の動きにばかり注意していると、今度は左手がまるで動かない。
左右の手を別々の動きに従事させるなんてことは、どだい人間には無理なことなのだ。
さらにその上に、目は楽譜を追わなくてはならない。
ぼくは、あの五線譜の中に点在するオタマジャクシの位置を見て、ひと目で、
「あ、これはラだな」
とか、
「シだな」
とか、すぐにはいまだにわからないのである。
とりあえず、五線譜のいちばん下の線から二つ下にある「ド」の位置を指先で確認し、それから、
「ド、レ、ミ、ファ、ソ」
と指先で数えながら上へあがっていって、「ラ」に遭遇し、ここではじめて、
「ウム、このオタマジャクシは『ラ』に相当する」
とうなずくのである。
この間、どうしても二秒はかかる。
「ラ」が判明して、
「ヤレヤレ」
とホッとする間もなく、
次のオタマジャクシが、
「己れの解明を一刻も早く!」
と、願いつつ五線譜のすき間に身をひそめているのである。
演奏者は汗をぬぐいつつ再び大急ぎで「ド」の位置からその音符の解明にとりかからねばならぬ。
第一、弦をはじくべき指で、オタマジャクシの順番を、
「ド、レ、ミ、ファ……」
と数えていたのでは、はじくべき指がもう一本必要になってくる。
これでは演奏どころではない。
一個の音符の解明に二秒ずつを要していたのでは、リズムもなにもあったものではない。
楽譜を見、二秒のちに押さえるべき弦の位置をさがす。
このタテヨコの数十の組み合わせの中から、たった一カ所の押さえるべき位置をさがすのにも、やはり二秒を要する。
やっと押さえるべき弦の位置を発見し、指で押さえて、
「ヤレヤレ、やっとここまできたぞ」
と、ホッとしていると、今度は押さえた弦を右手ではじくという作業がまだ残っていたことに気付く。
右手ではじくべき糸はどれか。
「ウム、これだ、これだ」
と、やっとさがし出し、ここではじめて、
「ポロン」
という音が発せられるのである。
この作業もやはり二秒はかかる。
結局、一個の音符を目で確認してから六秒後に、はじめてポロンという音が発せられることになる。
この「ポロン」のあとに、次の「ポロン」が発せられるは、やはり六秒後、ということになる。
これでは一曲の演奏に、何週間かかるかわかったものではない。
また、将棋はなんとか理解できたが、碁のほうはいまだに何回聞いてもわからない。
小学生のころ父親に教えてもらい、わからなかったので高校生になってから、
(もうそろそろわかるのではないか)
と思い、もう一度教えてもらったがやはりわからなかった。
大学生になったころ、頭脳のほうもかなり高度化したであろうと思われたのでもう一度教えを乞《こ》うたが、やはり理解できなかった。
このまま、碁というものがわからずに死んでゆくことになるだろう。
まだある。
ぼくは水泳ができない。
みんながやっている動作を忠実に真似して手足を動かすのだが、どういうわけか、手足をみんなとまったく同じように動かしているにもかかわらず、次第次第に沈んでゆくのである。
これが自分でも不思議でならない。
心も体も、水に浮くことを必死で願っており、かつその努力もしているのに、体は次第次第に沈んでゆくのである。人間は、努力だけではどうにもならないことがたくさんある、ということはわかっているのだが、水泳の場合は、努力と結果の落差があまりにも大きすぎるような気がする。そしてついに、顔全体が水面下に沈み、身体全体が水中に沈んでゆくことになる。
こう全体が水面下に没してしまっては、もはや手足をいくら動かしてもムダであるから、この時点で泳ぐ努力をやめ、手近かな、岩などにつかまりにいく。
子どものころからこの方式が連綿と続いており、どんなことでも何十年も努力を重ねていれば、なんとか報いられるものであるが、この件に関してはどうやらムダであるらしい。
しかし泳げないということが人に知れるのはシャクだから、なんとか泳げるふりをすることになる。
とくに近くに女のコがいる場合は、手足を上手な人と同じように動かして前方に進んでゆき、全身が沈みきらないうちに、
「疲れた!」
という思い入れをしつつ泳ぐのをやめる。
むろん、この場合も、つねに岩からの距離を一定に保っていることはいうまでもない。
どんなことでも何十年も努力を重ねていれば、その道の大家になれるもので、いまやぼくは、泳げるふり、の大家になりおおせている。
海の場合は、まずジャブジャブと入ってゆき、胸のあたりの深さぐらいのところまでいくと、海底を足で確認しながら岸と平行に歩いてゆく。
まずわがコースの下調べをするわけである。
下調べの結果、そのコースの途中に深みがないことが確認できると、やっと泳ぎの姿勢になる。
バシャバシャと手足をバタつかせながら泳いでゆくと、いや沈んでゆくと、岸のほうから見ると、ちゃんと泳いでいるように見えるのである。
この場合大切なことは、調査ずみの「わがコース」からはずれないことと、岸からつねに平行であることをときどき確認することである。
まちがっても海岸線と垂直に泳いではならないのである。
口笛、楽器、水泳と、できないものが山積みしたまま、少年時代はどんどんと経過していった。
ぼくは結局中学二年までこの村にいて、その後再び東京に戻り、高校に入学し、多賀子にめぐりあうことになる。
逆上の露文入学
アヒルと艦砲射撃の成績表を引っさげて、ぼくは大学受験に臨んだ。
国立はとっくに諦めていた。
アヒルと艦砲射撃ばかりでは、国立は|当然《ヽヽ》諦めるべきなのだが、ぼくは一応、|未練がましく《ヽヽヽヽヽヽ》諦めた。
早稲田の政経学部、慶応の法学部の二つだけを受験した。
合格発表を見に行くと、なぜかぼくの受験番号は、出ていなかった。
(けしからぬ)
とぼくは思った。
まだまだ全国の受験生の中に、自分が占める位置を自覚できなかったのである。
ぼくは自動的に浪人になった。
恋にも破れ、大学受験にも破れ、暗い暗い青春が始まったのである。
春らんまんの桜吹雪の中を、暗い目つきをして予備校通いが始まった。
予備校生になって最初の苦痛は、勉強の苦しさでも、遊べない辛さでもなかった。
帽子がない、ということがいちばんの苦痛であった。
それまでの僕の人生は、外出のときは必ず帽子をかぶるという人生だったのである。
小学生のときから、中学、高校にいたるまで外出のときは必ず学帽を頭の上にのせていた。
それを浪人になったとたん突如として剥奪《はくだつ》されてしまうのである。
浪人になると、かぶるべき帽子がないのだ。
無帽はどうにも落ちつかなかった。
そのせいか、どうしても帽子に固執する人は、浪人帽と称するハイキング用みたいな帽子をかぶっていたようである。
現在はどうか知らないが、当時は浪人を恥じるという風潮があった。
「あそこの息子さんは浪人なさってるんですって」
「まあ! いやねェ」
などと、近所の奥さんがたはまるで不穏な人間のごとく噂《うわさ》するのである。
そのせいか、当人もいつのまにか身辺に不穏な空気を漂わせるようになってしまうようであった。
予備校でバッタリ同級生と顔を合わせると、お互いに顔をそむける、というようなところがあった。
この一年は、とにかく暗い一年だった。
恋にも破れ、大学受験にも破れ、まっ暗な一年だった。
長い長い一年だった。
多賀子の噂を、一度だけ風の便りに聞いた。
暑い夏の陽盛りに、日傘をさして歩いていた、というただそれだけのものだった。
それだけの報告でも、ぼくには生々しかった。
暑い陽ざしの中の、日傘の下の多賀子の汗ばんだ顔が鮮やかに浮かんでくるのだった。
二年目は、目標を早慶二校に絞った。
二校には絞ったが、学部はたくさん受けた。
早稲田の政経(新聞)、法、教育、商、文学部、慶応の経、法、商、文学部の合計九学部を受けた。
この九つの志望学部を見て、人は、いったいこの男は将来なにになろうとしているのか判断に苦しむと思う。
新聞記者になろうとしているようにも思えるし、普通のサラリーマンになろうとしているようにも見える。教師になろうとしているようにも思えるし作家とも考えられる。
この九つの志望学部から、「漫画家」という正解を引き出せる人はまずいまい。
だが、この男の志望は、すでに漫画家ということでちゃんと決まっていたのである。
要するに大学ならばどこでもよかったのである。
それが証拠に、早稲田の文学部は、最初、「美術史」を受けるつもりだった。
それが終局的には露文を受験することになってしまうのである。
漫画家志望の人間が、なぜ露文などに入ってしまったのか。
漫画とロシア語と、いったいどういう関係があるのか。
もともとなんの関係もないのである。
ただ入学願書受付の窓口が、「露文」と「美術史」と隣り合わせだった、ということがそもそもの発端なのである。
漫画家志望の人間が、「美術史」を学ぼうとする心情は、ある程度理解できると思う。
ぼくは受験票にも、ちゃんと「美術史」と書き、受験料二千五百円ナリを握りしめて、受付の行列に神妙に並んでいた。
あと自分の番まで、二、三人目というところでふと隣りの行列を見た。
これがいけなかった。
隣りは露文である。
ここで急に迷ってしまったのである。
もともと、大学ならどこでもいい、と思っている人間である。
(入学してから女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか)
そういう考えが、モクモクと胸中に湧《わ》きあがってきた。
女のコと話をする場合でも、
「たとえば写楽の浮世絵は……」
などとしゃべるより、
「たとえばドストエフスキーの『罪と罰』の中の……」
などとしゃべるほうが、ずっと格好がよいのではなかろうか。
大学受験は、いわばその人の人生を決定する大事な問題である。
なによりも、まず自分の将来、適性などを第一の基準にして決定しなければならないはずである。
それなのにぼくは、「女のコとつき合うときのモテ具合」を第一の基準にして考えてしまったのである。
ぼくの受付の番まであと二、三人である。
決断の時間はあと二、三分しかない。
人生の重大事を決定するための時間としては、二、三分という時間は決して充分な時間とはいえない。
また、人生の重大事を決定するときは、いつもより冷静な頭脳と、明晰《めいせき》な判断力が必要である。
なのにぼくは、こういう状況に陥《おちい》ると、いつも逆上するのをつねとしていた。
むろん、このときも、例にたがわず逆上したのである。
事柄の重大さに比例して、逆上の度合いもまた激しいものがあった。
逆上して、あと先も考えずに、パッと隣りの露文の列に移ってしまったのである。
受付をやっていた人も、きっと驚いたに違いない。
自分のところの行列に、それまで神妙に並んでいた男が、突如血相を変えて、隣りの列に移ってしまったのだから。
ぼくはこの「逆上による決断」によって、つねに決断を下しつつ、今日までを生きてきた。
その決断がよかろうはずがない。
よい結果を生むはずがないのである。
この、人生の重大事を決定するときには、いつも逆上する、という習性は、今もって直らない。
たとえば靴下一足買いに行っても、逆上なしでは靴下を購入することができないのである。
ぼくの欲しいのは、たった一足の靴下である。
なのにデパートでは、何百、何千という靴下が、ぼくを待ち受けているのである。
元来靴下などというものは、気楽に買うものである。
靴下一足の購入で、その人の人生が変わるわけでなし、あるいは一足の靴下のために生計に破綻《はたん》をきたすというものでもない。
むろんぼくも、気楽に靴下売場に赴《おもむ》くわけである。
気楽に赴いたにもかかわらず、ぼくの目前には、何千の靴下が展開されているのである。
最初茶色の無地の一足が目につく。
(ウム、これがよさそうだ)
と思う。
「これください」
といおうとした瞬間、その下段に、茶色にちょっとしたワンポイントの刺繍《ししゆう》のついたのが目につく。
(待てよ、こっちのほうがいいかな)
と思う。
値段はむろん、ワンポイントのついた方がやや高い。
センスの良さ、という点では、むろんワンポイントのほうに軍配があがるだろう。
チラと見える靴下に凝る人は、服装のセンスがいい、という記事を読んだことがあるような気がする。
ワンポイントの刺繍のために、ぼくの人格評価がツーポイントぐらいよくなるかもしれない。
(これにしよう)
と決断を下そうとした瞬間、今度はその横に、茶に黒の縦線二本が入った靴下があるのを発見する。
(縦線も悪くないな)
と思う。
ワンポイントか縦線か、縦線かワンポイントか。
思考は頭の中でグルグル転回する。
こういうのを思考と称していいのかどうかわからないが、とにかくグルグル転回するのである。
早くも逆上が始まりつつある。
人々はこういうとき、決断の根拠をどこにおいて決断を下すのであろうか。
ぼくはいまだにそれがわからないのである。
ワンポイントが悪かろうはずがない。
縦線でいけないという根拠もまたどこにもないのである。
額には汗が浮かんでくる。
思考の転回に伴って、眼球も回転を開始する。
呼吸さえ荒くなってくるのである。
足ぶみさえ始まってしまうのである。
そのとき、回転する眼球が、青無地の靴下を視野にとらえる。
(なにも、茶でなくてはいけないという根拠もないわけだ)
と思う。
今まで、茶を基調にした選択を行なっていたわけであるが、青であってどこがいけないというのだ!
(待てよ、赤い靴下もあるぞ)
赤い靴下だって悪くないぞ。
赤い靴下をはいたらなぜいけないというのだ!
頭の中を、赤と青と茶がゴチャゴチャに混ざってグルグル回転する。
ここにおいて女店員は、眼前の、額に汗を吹き出させ、眼球を回転させつつ呼吸をはずませ、足ぶみをしている男の存在に気がつく。
当然不審を抱く。
(これは百貨店にはよくある、代金を払わずに、品物だけ頂戴していくほうのお客ではなかろうか)
女店員はそう考える。
むろんぼくも、女店員の不審に気づく。
それゆえ、逆上の度合いは、さらに激しさを増すのである。
人格評価向上のために、よりよい靴下を購入しようとしているのに、これでは、まったく逆の評価がなされてしまっているのである。
なんとかしなければならぬ。
もはやこうなっては、一刻も早く一足の靴下を購入して、ぼくの人格の回復をはからねばならね。
もう、どんな靴下でもいい。
最初の茶の無地、これでいこう。これだ、これしかない、「初心忘るべからず」という、諺《ことわざ》だってある。これに命運をたくそう、と、大作戦に決断を下す将軍のような心境で、心の中で決断し、
「これをください」
と女店員に告げると、彼女は、
「これ、Sサイズしかないんですが」
自慢じゃないが、ぼくの足は十一文半(二十七センチ)、甲高、幅広、かかと出っ張りという特製の足なのである。
Sサイズが、はいるはずがない。
せっかくの将軍の大決断は無為に帰し、再び原点に戻って、赤青茶グルグルの思考が転回し始めるのである。
そうしてとにもかくにも、一足の靴下をちゃんと現金を支払って購入し、己《おの》が人格を回復させ、その現場を離れるときは、心身の疲労はその極に達し、目はかすみ、足は萎《な》え、ヘトヘト、ヨタヨタとデパートの階段を降りることになる。
靴下一足でこれであるから、いわんや、背広などという大物を購入するときは、その一週間前ぐらいから、ナワトビ、ボデービルなどをして体を鍛え、座禅などもして、心の落ちつきをはかり、しかるのちにデパートヘ赴く、というような、大がかりな準備が必要になるのである。
さて。
九学部の受験は九日間たて続けに行なわれた。
そういうふうにスケジュールができていたのである。
合格発表もまた、九日間たて続けに行なわれた。
ぼくは毎日毎日発表を見に行った。
毎日毎日ぼくは落ちていた。
大学受験は、一つだけ落ちてもかなりガックリくるものであるが、それが八日間毎日毎日落ちているのである。
九日間を耐え抜いたその強靭《きようじん》な精神力をぼくは今にして思う。
九日目にやっとぼくの受験番号が、掲示板の片隅に、ひっそりとひかえめに、つつましく出ていた。
その番号は、刀折れ、矢尽きてボロボロになった兵士のように、痛々しく感じられた。
「合格した」という喜びより、
「これで助かった」という感じのほうが強かった。
それからまた、
「なあんだ」というような感じもした。
「なあんだ、ちゃんと受かったじゃないか」
ぼくは、大学へ入りさえすれば、ただちにバラ色の青春が展開するのだ、と思い込んでいた。
そのことだけを思って浪人生活を耐え抜いたといってもよい。
「大学へ入りさえすれば」ただちに恋人ができ、ハイキングでランランということになり、スキーでランランということになり、ダンスパーティでランランということになり、とにかく、来る日も来る日もランララランランと口ずさまずにはいられない日々が到来するのだと堅く信じていた。
だが、実際はランランの毎日ではなかった。
それでも入学したてのころは結構うれしく、まず角帽を買い求め、それからペナントと称する三角形の旗のようなものも買い求め、これは自分の机の壁に貼りつけた。
それから稲穂のマーク入りの紙袋を買い、稲穂マーク入りのキーホルダーも買った。
通学は、八王子の家から高田馬場まで電車を乗りついでいった。
当時は「早稲田大学」ということに多少の誇りを持っていたから、電車通学の途中、前に女学生が立ったりすると、急いで稲穂マーク入りの茶封筒を立て、マークのところが女学生の目によくとまるようにした。
そのかわり、ぼくの隣りに東大生が来たりすると、急いでそれを倒して見えないようにするのであった。
それから、「心理学」とか「社会学」とか「哲学概論」などの本が妙にうれしく、これらの本は決して茶封筒には入れずに小わきにかかえ、つねにその本のタイトルが衆人の視線にとまるように工夫した。
とくに女学生にはよく見えるようにし、
「どうだ! まいったか」
とそり返るのであった。
女学生のほうは別にまいった様子もないので今度はロシア語の本をその上にさり気なく重ね直し、
「これならどうだ! まいったか」
と反応を見る。
テキはそれでもまいった様子がないので、ロシア語の教科書をパラパラとめくり、閉じ、さらに別のロシア語の教科書も取り出し、上と下を入れ替え、
「さあ、これならどうだ!」
と反応を見る。
電車の中で、さながら夜店の本のたたき売り的光景が展開されるのであった。
このロシア語の教科書で女学生がまいってくれないのでは、せっかく「美術史」を振って「露文」に入った意味がまるでないではないか、とぼくは悲嘆にくれた。
タバコは大学に入ってから正式に喫《す》い始めた。
正式に、ということは、大っぴらに、ということを意味し、ひそかには喫っていた、ということを意味する。
当時はハイライトはまだなく、学生の喫うタバコは、いこい、しんせい、ピースが多かったようである。
ぼくはもっぱらしんせいを愛用していた。
タバコは決しておいしいものではなかった。
おいしいものではなかったが、多分に対外的な効果をねらって喫っていたようである。
その証拠に、家ではあまり喫わなかった。
タバコの喫いはじめのころは、タバコを喫ってる自分を、父親に見られるのがなんとなく面映《おもはゆ》く、恥ずかしく、喫ってるところに父親が現われたりすると、あわてて消したりした。
父親のほうも、タバコを喫いはじめたわが息子を見るのは、なんとも気持ちのわるいものであるらしく、父親のほうもあわてて喫いかけのタバコを消したりした。
それから姉たちに見られるのもいやだった。
姉たちは、タバコを喫っている弟を見ると、
「ヘーエ」
というような顔をし、
「フーン」
と、あごを突き出すような仕草をした。
弟は恥じて、またしても急いでタバコを消すのであった。
そんなわけで、家で喫うタバコはあまりうまくなかった。
外で喫うタバコもあまりうまくはなかったが、対外的な効果がある、と信じていたのである。
たとえば、朝の駅のプラットホームなどで、女学生たちがぼくのまわりにいたりすると、急いでポケットからしんせいの箱を取り出し、一本を右手でつまみ出し、左手の親指のツメのところでポンポンとたたき、円筒内のまばらな葉くずの下部への集積をうながし、しかるのちに口にくわえてマッチで火をつけるのだった。
マッチは、喫茶店、もしくはバーのマッチでなければならなかった。
それらの動作を重々しく、なぜかヒロイックな感情さえ抱きながら終了させると、フーと大きく煙を吐き出し、ここで初めて女学生たちの反応を見るのである。
ここで初めて女学生たちのだれ一人、この大学生の孤独で重厚な演技に注目していなかったことに気付くのであった。
大学生は、あとはただもうやけくそにタバコをふかすのであった。
大学に入学したてのころは、どうも女学生対策にばかり心をくだいていたようである。
ロシア語の授業は、まるでおもしろくなかった。
もともと、女のコにモテるために入った露文であったから、勉強に身が入るはずがなかった。
第一、露文科に入るとロシア語を勉強させられるということをまるで知らなかったのである。
ロシア語だけが印刷された教科書を、ドッサリ買わされて呆然《ぼうぜん》となった。
表紙がロシア語であり、目次もまたロシア語であり、そのあとずーっとおしまいのページまで全部ロシア語であった。日本語は一字たりとも出てこなかった。
ロシア語は、それまで一度も見たことがない不思議な文字である。
「これを一体どうしろというのだ」
ぼくは怒りさえ感じた。
これが書物である、とは到底考えられなかった。
不思議な模様がビッシリ描き込まれた、紙で作られた玩具であるように思えた。
むろんこれは玩具ではなく、この不思議な模様も、辞書とか文法書などをあやつって調べていくと、ちゃんと解読できるということであった。
しかも一週間の授業のうちの半分以上が、この不思議な模様との対決に費されるのであった。
(こんなことをこれから四年間、毎日毎日やっていかなくてはならないのか)
ぼくは再び呆然となった。
ぼくは憤慨さえした。
露文は、どういうわけか左翼系の学生が多く、授業が始まる前には、いつもなにやらそういった内容の討論会みたいなものが開かれるのがつねだった。ぼくはいつも教室のうしろのほうでただ呆然としているより他はなかった。
そして授業が始まると、ロシア語だらけの本を眺めて、また呆然としていた。
入学してまもなくのメーデーに、露文専修一年も組単位で参加した。
これにもぼくはただ呆然とついていった。
露文科に入って、ぼくは、ただただ毎日呆然としていたのである。
赤いノボリやら横幕やらを押し立てて、構内を一周したあと、われわれは神宮外苑を目指して出ていった。
警官隊の一隊に遭遇すると、なぜか興奮し突っかかっていったりした。
そして、神宮外苑に到着すると、記念撮影をして、流れ解散となった。
今、その写真を取り出してみると、学生服に角帽が半分以上を占めているのである。
今にして思えば、ノンビリしたデモであった。
むろんゲバ棒もなかったし、ヘルメットもなかった。
なにしろデモに行って記念撮影をしてくるのであるから、多少過激な運動を伴うハイキングのようなものだったのかもしれない。
露文のクラスは総勢三十数名で女性が五人ばかりだったように思う。
ここでもぼくは女性に恵まれなかったのである。
級友たちは、いつも文学論やら、マルクスやらレーニンやら毛沢東やらを論じており、ぼくはただ呆然とそれを聞いているより他はなかった。
ぼくは完全な異端者であった。
当然、友人はできなかった。
青 春 謳 歌?
大学にはいって三カ月ぐらい経ったころ、学校の構内で、バッタリ並木に会った。
並木は教育学部に入学していた。
空《むな》しく味気ない露文の授業を終え、級友たちが、それぞれのグループにわかれて散って行き、ぼくだけ一人で淋《さび》しく帰途につこうとしているときだった。
地獄に仏の心境だった。
並木だけが頼りだ、と思った。
これからの何年間かの大学生活を、並木にすがって生きていこう、と思った。
ぼくは興奮気味に並木にいった。
「と、とにかくだな、どこかその辺の喫茶店でだな、つ、つもる話をだな……」
並木は、
「ああ……」
とあいまいにうなずき、一方を指さした。
そこには三人の学生が立っていた。
「あいつらと、これからちょっと麻雀《マージヤン》をしに行くんだ。そのあとダンスを習いに行かなきゃならんし」
並木はチラチラと三人のほうを振りかえる。その昔、不義理をした女に、まずいところで出会ってしまった、というような表情であった。
ぼくもなぜか、捨てられた女のような心境になって、すがりつくような目で並木を見た。
「じゃ、そのダンスのほうだけでも、いっしょに連れてってくれないか」
並木は仕方がない、という表情で、時間と教習所の名をつげ、「じゃ、あとで」と四人づれで立ち去っていった。
彼はすでに確乎とした学生生活を送っているらしかった。
大学に入ると、なにはともあれ、とにもかくにも、
「まず、ダンスパーティ」
という風潮が当時はあった。
ダンスパーティ。
なんと華やかな言葉であったことか。
ダンスという言葉を聞いただけで心が躍るのに、さらにそれにパーティがつくのである。
ああパーティ。
草深い田舎で、イモとスイトンとフスマ団子で育った少年にとって、これはおとぎの国の言葉のようにさえ思った。
当時は、ゴーゴーはおろかツイストよりもずっと前の時代であったから、ダンスといえば社交ダンスと決まっていた。
たいていの駅のそばには、社交ダンス教習所があった。
並木は今日で二回目だという。
入口で何回分かのつづり券を購入すると、中年のおばさんが出てきて今日のぶん≠ちょんぎり、
「では」
と、床に白墨でぼくが進むべき足跡を書きしるしてくれる。
そしてその足跡に番号さえしるしてくれるのである。
ぼくはその足跡どおりに歩いてゆけばよいのである。
青年が自分の進路を決定するには、多大な逡巡《しゆんじゆん》と、恐れと、勇気を必要とするものだが、ここ教習所ではその憂いはまったくなかった。教習所には自分の進むべき進路が白墨で明確にしるされてある。
ダンス教師は中年のおばさんだった。
「ダンスとは、なんと簡単なものだろう」
と思った。
最初はブルースである。
スロースロー、クイック、クイック。
ぼくはおばさんを抱いて、足跡をたどりつつ突き進んだ。
並木は、と見れば、彼もまた中年のおばさんを抱きかかえ、一歩一歩区切りつ、ウンタカ、ウンタカ、ドッコイショ、という感じで、いくぶん頬を紅潮させながら練習にはげんでいた。
ブルースはなんとか覚えることができた。
まず壁に向かって四十五度の角度で胸をそらせて立つ。
それからあとは、あの床に描かれた白墨の足跡を頭の中でたどりつつ突き進めばよい。
ワルツもなんとか覚えた。
問題はジルバとルンバとマンボであった。
これらには、ブルースにもワルツにもない「自ら回転する」という動作がある。
これがどうものみこめないのである。
両手を腰のあたりに構え、うろ覚えの足跡をたよりに、バッタ、バッタとうしろへ下がっていくと、
「そう、そこでクルッとまわって」
と、おばさんがいう。
そこでクルッとひとまわりすると、もう足の位置がわからない。
「クルッとまわると、左の足の位置がここのところへくるはずなんです」
と、おばさんはいうが、無理にそこのところへ持っていこうとすると、足がもつれて転んだりする。
ダンスで転ぶ人はめずらしいらしく、人々の目がぼくに注がれる。
こういう客には慣れているらしく、おばさんはあまり嫌な顔もせずやり直しを命じる。
ぼくはまた両手を腰のあたりに構え、尻を突き出し、目を中空にすえて、バッタ、バッタと下がっていく。
並木の表現によれば、
「田んぼでヘビに出逢《であ》って、あとじさりする老いたる農夫」
だという。
そのころは石原裕次郎の全盛時代で、日活のアクション映画にはなぜか必ずキャバレーの場面があり、そこでわが裕ちゃんは、純白の背広を身にまとってルンバだとかジルバだとかを踊るのである。
裕ちゃんは思いのままに女の子をクルクルとまわし、自らも流れるようにクルクルとまわるのであった。
われわれの、ウンタカ、ウンタカ、ドッコイショとは雲泥の差があった。
「田んぼであとじさりする農夫も、いつかはああいうふうになれるかもしれない」
並木と二人、いつも励ましあって社交ダンスの訓練は続けられた。
しかし、「まわる」ところがつねに難関であった。
自分一人でさえ、ひとまわりするのに難儀しているのに、本式のダンスでは、これにもう一人の人間がまといつくのである。
そうなったら二人でもつれあって転ぶより他ないではないか。
「だからだな……」
と並木がいう。
「パーティヘ行ったら、ジルバとルンバは捨てるんだ。ブルースとワルツ、この二つだけでなんとかなる」
「そうだな。ジルバかルンバになったら『疲れたから休もうか』とかなんとかいってごまかせばいい」
最初のパーティの日が近づいていた。
慶応大学のあるクラブが主催するダンスパーティである。
「慶応のパーティには女のコがウジャウジャ来るというからな」
「しかも良家の子女がウジャウジャだとか」
「ウジャウジャかあ!」
並木は早くもウットリした目つきになっている。
パーティの前日、念のためにもう一回教習所に行っておさらいをした。
その夜は、ブルースとワルツの足跡で頭は一杯だった。
ブルースとワルツの足跡が、グルグルと頭の中を旋回し、なかなか寝つかれなかった。
当日、ぼくはツィードの替上着にネクタイというスタイルだった。
並木はと見れば、白のトックリのセーターに替上着であった。
近郊の魚屋のおにいさんたちが、休暇の日に浅草に出てきた、という趣きがないでもなかった。
ビルの三階が広いホールになっており、「ダンスパーティ」の立看板が大きく目に映った。
良家の子女ふうが、手なれた感じでゾロゾロと会場に吸いこまれていく。
並木とぼくも、大きく深呼吸をしてから、意を決して中へ入っていった。
会場の入口に到達した時点から、二人は無言であった。
両人の鼻の頭には、アセが光っていた。
うす暗い会場の中は、人でごったがえしていた。
バンドの前面及び中央部は比較的すいているが、会場の壁に沿った部分に人が密集していた。
並木と二人、とりあえず会場の片隅に安住の地を求め、とりあえずタバコを一服喫う。
「混んでるな」
「ああ、混んでるな」
われわれの最初の難関は、踊る相手を探し出すことではなく、
「いま演奏されている曲はなにか?」
ということであった。
ブルースかワルツかジルバかルンバか。
うかつにもわれわれは、ダンスと音楽が密接に結びついているということを知らなかったのである。
教習所では、ワルツならワルツということが最初からわかっており、「おばさんの指示により」あとはただひたすらに足跡を頭に描きつつたどればよかったのである。
ダンスというものは、あの足跡をたどることであり、音楽は、ただその雰囲気を盛りあげるためにのみある、と思っていたのである。
曲が始まると、二人はまず音楽のみに耳を傾ける。
長い時間をかけて、やっと、
「オイ、これどうやらワルツらしいぞ」
ということになり、
「これならいける」
と相手を探してキョロキョロするころには、早くも曲は終りに近づいているのである。
だが、われわれのような人種はやはりたくさんいるとみえ、ブルースとワルツのときは、人がドッと立ちあがって踊り始めるが、ルンバやジルバのときは潮が引いたように踊る人が少なくなる。
「たいしたことないらしいな」
「ウン、みんな同じなんだよ」
二人は少し安心して、場内を見まわす。
会場内に入って早くも一時間以上たったのに、二人はまだ、一曲も踊っていないのである。
壁によりかかり、タバコばかり喫っては消し、消しては喫ってばかりいるのである。
少しずつ、自分がみじめになってくる。
「なんとかしようじゃないか」
「ウン、なんとかしよう」
並木は一度決断すると行動に移るのが早く、ツカツカと白いワンピースの女性のところに近寄っていって何事かささやくと、二人つれだって早くも人混みの中へ姿を消した。
一人取り残されたぼくはあせった。
やたらにキョロキョロするのははしたないように思え、しかしキョロキョロしなくては相手を探すことができず、ジレンマに苦しみつつも、首を右に左にまわして適当な相手を探した。
この適当な相手、というのがむずかしい。
あまりにも器量の良すぎるのを選ぶと断わられる恐れがあるし、その場合はますます自分がみじめになる。
また、安全性のみを狙《ねら》って、あまりにひどいのを選ぶと、踊っている自分がみじめになる。
もう大分前から、椅子に坐ったきりの女性がいた。
大柄で小太りの、一見おばさんのようではあるが若い女のコである。
(あれ、いくか)
と、心に思い、
(いや、でもあれは、最後のすべり止めに取っておいてだな)
などと考え、天井を睨み、腕組みし、タバコをふかし考え込む。
こう書くといかにも落ちついてみえるが、心は早鐘のように動悸をうっているのである。
すべり止めは、依然として椅子に坐ったままである。
しばらく迷ったのち、
と決断してぼくは壁から離れた。
そして最初から、「すべり止め」に直行したのである。
すべり止めというものは、いろいろ試行を重ねたのち、最後の手段として取りすがるものなのであるが、ぼくは最初からすべり止めに直行した。
「すべり止め」は、あっさりと椅子から立ち上がってくれた。
ぼくはおばさんのような大柄な少女の手を、獲物を手にした猛獣のような息づかいで引っぱっていって、とにかく空《す》いている場所に連行した。
連行してとりあえず安置した。
「やれやれ」
という感じであった。
――とりあえずひと仕事片づいた。
それから曲に耳を傾けた。
幸いにして曲はブルースであった。
「ブルースは壁に向かって四十五度」
と教習所で教わっている。
ぼくがその少女を安置した場所は壁から遠く離れている。
――壁が見えない!
壁が見えなくては四十五度の角度に立つことができぬ。
ぼくはまた少女の手を引っぱって、人混みをかきわけつつ壁の見えるところまで移動した。
――やれやれ。
ぼくは額の汗を拭った。
――踊るまでがひと苦労だな。
それから規定に従って少女の左手を握り、腕を四十五度の角度に曲げ、肩の位置まで差しあげ、右手を少女の腰にまわした。
――やれやれ。
これで準備万端、下ごしらえは全部整った。
それからいよいよ規定の足跡に従って動き始めようとしたのであるが、最初の第一歩のきっかけがつかめないのである。
教習所なら、おばさんが、
「イチ、ニッ、サン、ハイ」
といってくれ、それで動き始めればよかったのであるが、ここにはおばさんはいない。
「エーイ、ままよ」
と、動き出そうとすると、わが四十五度の前方は人が密集していて動き出せない。
ぼくは少女を抱いたまま、人混みが空くのを待った。
きっと少女は、人混みの中をあちこち引っぱりまわしたあげく、壁ぎわ近くで立ちつくしたまま微動だにしないこの青年を、不気味に思っているに違いないのである。
ぼくは意を決して行動に移った。
人混みに向かって規定どおりの足跡をたどって進んでいったのである。
それからは、教習所では教わらない予期せぬ出来事ばかりが起こった。
まず少女がよろけて倒れそうになったし、人がやたらにぶつかってきて、やたらに睨みつけたし、いろんな人の靴が、ぼくの靴の下になった。
だがぼくは、それらには委細かまわず、無念無想、教習所で教えてくれたとおりに壁に向かって突き進み、壁に突きあたると、コーナーターンをして、また四十五度の角度で壁から遠ざかっていった。
昨夜寝ながら考えていた予定では、踊りつつ、いろいろな甘い会話を交わすはずであった。
しかし現実は会話どころではなかった。
無念無想、頭にあったのは、ただ、教習所で教えてくれたあの足跡だけであった。
曲が終った。
少女は逃げるようにぼくから離れると、もうさっきの椅子には戻らずに、風のように人混みの中に消えていった。
先刻の場所に戻ると、並木が一人で立ってタバコを喫っていた。
なぜか悲痛な表情である。
「どうだった?」
と、彼は悲痛な目でたずねた。
「エ? うん、軽くちょっとね……踊ってきた。ハハハ」
と、ぼくもタバコを取り出す。
「そうか」
並木は悲痛にうなずく。
並木もなにか、無念な出来事が多数起こったに違いなかった。
「帰ろうか」
「帰るか」
どちらからともなくいうと、二人は外へ出た。
外の冷たい空気に触れると、並木は急に元気になった。
タバコをポイと投げ捨てると、急に大声でいった。
「なにしろブスばっかりだったからなあ」
「そう! あれじゃ踊る気がしねえや」
それからしばらくしてぼくは、大学に入って最初の夏休みをむかえた。
ぼくは並木に誘われて志賀高原にキャンプに行った。
キャンプは生まれて初めての経験だった。
総勢九名、その中には女性が四名含まれていた。
しかもその四名の女性は女子大生だった。
この四名の女子大生は、共立女子短大の学生で並木がどこからか調達してきたものであった。生まれてはじめてのキャンプ!!
しかも若い女性たちと!!
しかもその若い女性たちは女子大生!!
ぼくの頭の中は、!!のマークでいっぱいになった。
そのころ大学では、「合ハイ」と称する合同ハイキングが盛んだったが、われわれはそんな子どもじみたハイキングではなく、いきなり「キャンプ」なのだ。「合キャン」なのだ。
キャンプを前にして、九人の顔合わせが喫茶店で行なわれた。
生まれてはじめて、女子大生の集団を目の前にしたぼくは、やたらにタバコをふかした。
喫っては消し、消しては喫い、たちまち口の中はヤニだらけになった。
男性側の、ぼくを除く四名もやはり並木が調達してきた人員で、ぼくは客分というような身分になっていた。
並木の調達してきた四人の女子大生は、それぞれにかなりの美形で、並木の対女性攻略法はかつての「屋上の会見」よりかなりの進歩をみせたらしかった。
なかに一人ぼくの好みの女の子がいた。友子という名前をぼくはいち早く覚えた。
ぼくはキャンプの一カ月も前から、ああもあろう、こうもあろうと想像して眠れぬ夜を過していた。
ああもあろう、こうもあろう、の内容はA案B案C案などいくとおりもあったが、その中で最もぼくが気に入っていたのは、次のようなC案であった。
志賀高原に夕闇が訪れて、白樺《しらかば》の木だけが闇の中に白く浮かぶころ、われわれ若き男女はキャンプファイアーを囲むのであった。
それぞれの手には紙コップが握られ、いくばくかのアルコール飲料が注がれている。
みんなの顔は、アルコールとキャンプファイアーの火のせいでいくぶん紅潮している。
青春! これが青春でなくて、いったいなにが青春か!
女子大生たちは、なれぬお酒に酔ってポッと頬が染まっている。
突如女子大生たちが「埴生《はにゆう》の宿」を合唱しはじめる。
ぼくの正面には友子が坐っており、彼女は合唱しながらときどきチラチラと、ぼくのほうへ好意ある視線を送ってよこす。
ぼくもまた好意ある視線を彼女に送り返す。
周囲のだれも、このわれわれの視線の交換に気づく者はいない。
宴の途中で、ぼくはつと立ち上がり、
「オレ、ちょっとその辺を散歩してくる」
と、木立ちのほうへ向かう。
木立ちの中でふと振り返ったぼくは、うつむきがちについてくる友子の姿を発見するのである。
以心伝心、ぼくたちの間には暗黙の了解が成立していたのだ。
「みんなにさとられなかった?」
「ウン、だいじょうぶ」
友子がまぶしそうに目をしばたたいてぼくを見上げる。
白樺林の中の若者と乙女は、月あかりの中で燃えるような瞳と瞳を見交わすのであった。
「友子さん!」
「さだおさん!」
白樺林の中の若者と乙女は、月あかりの中で燃えるような口づけを交わすのであった。
と、ここまで考えて、
「このC案はおしまいのほうがすこし、性急に過ぎるな」
と考え直す。
「それならば」
とぼくは思う。
「D案でいこう」
白樺林の中の若者と乙女は、月あかりの中で燃えるような瞳と瞳を交わすのであった。
と、
「ここまではそのままでいいな」
ぼくらは目と目を見交わしたまま、しばらく林の中で立ちつくしていた。
高原をそよ風が吹き渡ってきて、友子の髪が風に流された。
ぼくは少し落ちつきを取り戻していう。
「そのへんに坐ろうか」
「ええ」
ぼくらは並んで草の上に腰をおろす。
友子は袖《そで》なしのブラウスを着て、ちょっと大柄なプリント模様のフレヤースカートをはき、白いサンダルをキチンとそろえて投げ出している。
心もち首をかしげ、手もとの草をむしったりしている。
むき出しの二の腕が白く月光の中に浮かび、ぼくの心臓の鼓動が激しくなる。
ぼくらは長い長い沈黙の中にあった。
なにかを予感するような重苦しい沈黙である。
不意に友子が、
「好き!」
と叫んでぼくの胸にとりすがる。
ぼくは不意をつかれて、
「だいじゃぶ」
とわけのわからぬことをかすれた声でいい、彼女を抱きかかえる。
白樺林の中の若者と乙女は、月あかりの中で燃えるような口づけを交わすのであった。
(ウム、これならそれほど性急ではないな)
と、ぼくは考えた。
(これなら妥当なセンといえる)
ぼくはD案を胸に、志賀高原に向かった。
夏休みにはいってすぐだったので、七月の二十日ごろだったと思う。
その年は梅雨が長びき、七月中旬を過ぎても毎日毎日雨が続いていた。
出発の日もむろん雨だった。
それからキャンプ終了の日まで雨が続いた。
われわれはバンガローの中で、毎日毎日激しい雨音を聞きながら過した。
はんごう炊さんもままならず、われわれは毎日を罐詰《かんづめ》とトリスで過した。
むろんキャンプファイアーはできなかったから、キャンプファイアーを立脚点としているぼくのD案実行は不可能であった。
夜はキャンプファイアーとトランプとフォークダンスで過すはずだったのだが、一行は連夜の雨で気持ちが荒《す》さんでいたせいか、唯一のトランプゲームもいっこうにはずまず、あまつさえアルコールの入った並木は毎夜のように人生論のごとき議論を一人でわめきたて、一同はしらけきった。
袖なしのブラウスを着てきて、ぼくを興奮させるはずだった友子ちゃんは、寒さのために厚手のセーターを着用に及んでおり、すべての夢ははかなく消えたのであった。
それでもキヤンプから帰ってくると、彼女たちとの交際は続けていた。
撮ってきた写真の交換があったし、「反省会」などの名目でわれわれはときどき喫茶店で会合を重ねた。
「反省会」では、並木は当然、連日の「雨中の人生論」について反省しなければならないはずなのに、彼はそれについて少しも反省することなく、あまつさえ喫茶店でも人生論を展開するのだった。
「屋上の会見」以後の並木は、人生論こそ女を惹《ひ》きつける最大の武器だ、と悟ったもののようであった。
そんな会合が何回か続いたあと、ぼくと友子は二人っきりの交際を持つようになっていった。
ぼくは生まれて初めてのデートをすることになった。
デートとはどういうふうにするものなのか、ぼくにはわからなかったが、友人たちの話によれば、「映画を観《み》る」というのがその最大の眼目になっているらしかったので、まずこれをプランの中に組み入れた。
待ち合わせは、駅のプラットホーム、ということに決まっていた。
駅のプラットホームで待ち合わせ、そのまま映画館に直行する、そして映画を観る、ここまではとどこおりなくプランは立てられた。
さてそのあとどうするか。
映画を観た感想などを述べ合うため、喫茶店にはいることになるだろう。
感想の述べ合いが終ったあとはどうなるのだろうか。
とりあえず喫茶店を出なければならぬ。
喫茶店を出るのはいいが、そのあとのプランがないと、二人はたちまち路頭に迷うことになる。
ぼくはデートを前にして毎日頭を痛めていた。
なにしろそれまでのぼくの人生は、人の上に立って人をリードする、という経験が一度もなかった。
家庭の中にあっては、きょうだいのいちばん下に位置していたぼくは、つねに上の者たちのリードに身をまかせていた。
学校にあっては、たとえば級長などの名誉職などを経験していれば、人をリードする立場も経験することができたのであるが、それも一度もなかった。
そのぼくが生まれて初めて、人の上に立って人をリードしなければならなくなったのである。
リードすべき人数は少ないが(たった一人ではあるが)その日はぼくが先頭に立って、その一日をとりしきらねばならないであろう。
ぼくは不安だった。
生まれて初めてのデートは、楽しいものであるはずなのに、ぼくはだんだん苦痛になっていった。
それでも観るべき映画を決めたことによって道はひらけてきた。
映画を日比谷のロードショー街で観ることにした。
そうすれば、映画を観たあと喫茶店へ行き、お互いの感想を述べあったあと、日比谷公園散歩というきわめてスムーズな段取りになるはずだった。
映画は午後一時に始まるものであった。
映画に二時間、感想交換及びコーヒー摂取に一時間、これでだいたい午後の四時、日比谷公園散歩に一時間半をさき、公園も薄暮に包まれるであろうからこれにてデートを終了させ、ただちに帰途につく、という、まるで天皇御訪欧のような、きわめて厳密なスケジュールが立てられたのである。
デート初体験のぼくには、
「薄暮に包まれた公園での熱い抱擁!」
を、そのプランの中に組み入れる余裕はなかった。
なかったが、もし万が一、そういう状況におちいったならば、
(そうすることに、いささかもやぶさかではない)
という心境は持ち合わせてはいた。
夏も終りのころ、ぼくらは新宿駅のプラットホームで待ち合わせた。
友子は、そのころはやっていたプリント模様の袖なしのワンピースを着ていた。
ぼくと友子は、並んでつり皮につかまっていた。
ぼくのすぐそばに友子が立っていた。
友子のむき出しの白い二の腕も、小さく盛りあがった胸のふくらみもぼくにはまぶしく、恥ずかしく、ぼくはしきりに鼻の頭の汗をハンカチで拭った。
友子の鼻の頭にも汗が浮かんでいた。
二人の若い男女は、少し上気して、かわるがわる鼻の頭の汗を拭うのだった。
ぼくは話題をたくさん用意していたはずなのに、いざとなると試験のときのようにあがってしまい、会話は途切《とぎ》れがちだった。
それでも途切れがちのわれわれの会話とは関係なく電車は走り、所定の駅に次々と停車し、やがてわれわれは有楽町に到着することができた。
映画もまた、ちゃんと時間どおりに開始され、時間どおりに終了し、われわれはだいたい予定どおりの時間に喫茶店に入ることができた。
(だいたいスケジュールどおりに進行しているな)
と、ぼくは満足だった。
(ひとつひとつ、順調にスケジュールをこなしている)
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、ぼくは口の中でつぶやいていた。
初めて校長になった先生が、初めての運動会を運営しているような心境だった。
(怪我《けが》もなく、うまく進行している)
だが、感想交換のところへきて、運営は蹉跌《さてつ》をきたした。
友子はもともと饒舌《じようぜつ》なほうではなく、映画を観たあとそれについてあれこれ述べるのは好きなタイプではなかったらしく、
「面白かった?」
「ええ、わりと面白かったわ」
という感想を交換しただけで、感想交換の全行程が終了してしまったのである。
観た映画が西部劇だったせいもあったかもしれない。
しかしぼくは、この感想交換に一時間を予定していたのである。
十五ラウンド分の時間を予定していたボクシング中継が、一回目、十五秒でノックダウンしてしまったようなものである。
電車の中でさえ話題がなかったのだから、こうして喫茶店で面と向かいあって、話題がはずむはずはない。
気まずい沈黙が続き、ぼくはやたらにタバコをふかし、口の中がヤニだらけとなり、とにもかくにもと、早々に喫茶店を出た。
陽はまだ高い。
日比谷公園の中を、ぼくらはあっちこっち無言のままめったやたらに歩きまわり、汗だくになり、疲れきり、五時半終了のはずだったデートを数時間残したまま、早々と帰途についたのだった。
新宿駅で、
「じゃあサヨナラ」
と手を振ったときは、目はかすみ、声はかすれ、ヒザがくずれおちそうになるほど疲労しきっていた。
傷心を抱いて家についたぼくは、早速たった一人の反省会をひらいた。
(なにがいけなかったのだろうか)
まず、あがったのがいけなかった。
それから話題が次々に出てこないのがいけなかった。
いろいろ考えてみたが、要約すると、すべてこの二点に集約されるような気がする。
うちひしがれはしたが、しばらくしてぼくはもう一度、友子にデートを申し込んだ。
一回目、十五秒でダウンを喫したのに、リターンマッチを要求したのである。
友子はわりに快くリターンマッチに応じてくれた。
ぼくはあがらないためにトリスのポケットビンを用意した。
デート直前にこれを摂取して、まず浩然《こうぜん》の気を養う。
それから話題を途切らせないために、いくつかの話題を箇条書きにしてメモし、これを掌中に忍ばせてデートに臨むことにした。
メモ用紙には、兄弟、日曜日、読書、映画、友人、旅行、高校、色(洋)などなどの単語が順不同に書き並べてあった。
兄弟、というのは、彼女の兄弟関係を質《ただ》さんとするものであり、日曜日というのは、日曜日はどんなふうに過しているや? という意味であり、読書、というのは、彼女の読書傾向を知ろうとするものであり、色(洋)というのは、洋服の色はどんなものを好むか、と聞くためのものであった。
この紙片を時計のバンドのところにはさんでおいて、話題につまったら彼女に気づかれぬようにこれを取り出して見るつもりだった。
しかしこれでは、デートをしに行くというより、試験を受けにいくようでもあり、またインタビューをしに行くようでもあり、はたしてこれでいいのかとは思ったが、これがないとまた前回のような悲惨な結果になるのは目に見えていた。
二回目のデートは、野猿峠にハイキングに行くことにした。
ハイキングとはいっても、野猿峠は京王新宿駅から三、四十分ぐらいのところにあり、散歩に毛の生えた程度のものであった。
いまこのあたりはすべて切り崩され、無数の住宅が建ち並んでいる。
当日、ぼくは待ち合わせる新宿駅に三十分ほど早く到着し、まず駅のトイレに向かった。
「大」のほうにはいるとカギをかけ、立ったままおもむろにポケットに手を突っこむとトリスのポケットビンを取り出した。
ポケットビンについている小さなコップにトリスを注ぎ、口に流し込むとゴクンと飲みほす。
ノドに衝撃的な刺激を残して液体は胃の中に落ちていく。
しばらくトイレの天井など眺めたあと、またゴックンと飲みほす。
当初おつまみ、などということを一応は考えたのだが、おつまみつきの酒宴を張るには、その環境があまりに適さない、ということを懸念して持ってこなかったのだったが、その懸念はたしかに正しかった。
その周辺に漂う臭気は、たしかにおつまみには向かない臭気だった。
ポケットビンを半分ほど飲みほすと、たしかに緊張感がとれてきた。
(これなら今日のデートは大丈夫だ)
と思えてきた。
(話題だって次から次へと出てくるぞ)
おまけに今日は、いよいよというときには例のカンニングペーパーだってある。
ぼくは半分残っているポケットビンをトイレの中に残して勇躍出ていった。
ぼくは今でもときどき、駅のトイレの中に、中身の残ったトリスのポケットビンを見つけることがある。
そのときぼくはいつも、
(これは心弱き青年が、デートの直前対策に飲んだものにちがいない)
と思う。
野猿峠のデートはわりに成功したように思えた。
とにもかくにも話題は途切れなかった。
デート中のふるまいにも、わりにぎこちないところは少なかったように思えた。
なのに友子は、デート中、つねにぼくと一定の距離をとることを怠らなかった。
どんなに接近しても、五十センチ以内の距離にぼくを立ち入らせなかった。
ぼくは酒を飲んでも顔に出ないタチであるし、酒を飲んでデートに臨んだことがわかるはずはない、とぼくは思っていた。
だが無事デートが終って別れるとき、彼女はぼくにこういったのである。
「今日の庄司さん、酒くさい」
その後、彼女はぼくからだんだん遠ざかっていった。
いまにして思えば、酒をしこたま飲んで酒くさい息を吐きながらハイキングに臨む男性は、「充分なコンタンあり」と、どんなに女性に警戒されてもいたしかたないのではないか、と思う。
早大漫研の仲間たち
大学生活二年目に入って、漫画研究会なるものが、この学校に存在することを伝え聞いた。
入学当時、いろいろな部が華々しく部員募集をやっていたのであるが、どういうわけか「漫研」を発見することができなかったのである。
ぼくは早速、漫研の部室を訪ねた。
部室は学校の裏の、いまにも倒れそうな下宿の一室であった。
この下宿の前に立つ人は、風雪を耐え抜いた日本木造建築の痛ましさに、思わず頭《こうべ》をたれずにはいられないという、そういう荘厳な建築物であった。
早稲田大学漫画研究会という表札のある部屋の障子を、ガタガタと開けると、中には二人の部員がなぜか傾いて坐っていた。
あとで気がついたのであるが、この部屋は床がかなり傾斜していて、ビールビンなどを倒すと、相当のスピードで部屋の隅まで転がっていくのである。
当然、坐った人間も傾斜の方向に傾く。むろん机も傾いていたし、この部屋に存在するあらゆる物が傾いていた。
ぼくは傾いたまま入会申込書に必要事項を書き入れ、傾きつつ差し出すと、部員は傾きつつこれを受けとり、傾いたままうなずき、今月末コンパがある旨を傾いたままぼくに告げた。
「これで、呆然と孤独の学生生活から抜け出すことができる」
ぼくは喜んだ。
ぼくはコンパの日を指折り数えて待った。
浪人時代、大学生活の華として、コンパと合ハイが浪人たちの夢であった。
ぼくの華々しい青春が、やっと今から始まるのだ。
コンパは、そば屋の二階で行なわれた。
お酒、酢のもの、天丼などが卓の上に並べられていた。
総勢三十三名がそば屋の二階に集結した。
総勢四十七名がそば屋の二階に集結したとなると、山鹿流の陣太鼓ということになり、不穏な事態が予想されるのであるが、三十三名はいたって穏やかに集結した。
ここにも女のコはいなかった。一人もいなかった。
このコンパの席に、鼻高く、小柄ではあるがハンサムな美青年がジャンパー姿で坐っていた。
この学生が、のちの福地介であった。
いや、「のちの」ではなく、当時からすでに福地介であった。
もう一人、病みあがり風の、やや老いた感じの美貌の青年が、学生服を着て坐っていた。彼はなぜか鬱々《うつうつ》とした表情でヒザをかかえていた。
これがのちの園山俊二その人であった。
むろん当時もすでに園山俊二その人であった。
彼は事実病みあがりで、一年間の療養生活ののち、学校に復帰してきたばかりであった。
もう一人、眉《まゆ》濃く、眼光鋭い秀麗の男が、やたらに大きな声でコンパをとりしきっていた。
これがのちの、|しとうきねお《ヽヽヽヽヽヽ》その人であった。
いうまでもなく、彼もまた当時から|しとうきねお《ヽヽヽヽヽヽ》で、今もって|しとうきねお《ヽヽヽヽヽヽ》その人であることをやめない。
ハンサムと美貌と秀麗に囲まれてぼくは酒を飲んだ。
露文の学生たちと違って、ここには柔和な雰囲気があった。
みんなニコニコとゆったりしているように思えた。
「ここだここだ。ぼくはここに安住しよう」ぼくはお酒を飲みながらそう思った。
事実ぼくはそれ以後ずっとここにばかり安住し、安住し過ぎて学校を中退することになってしまうのである。
最初自己紹介があって、それぞれが立って出身校、漫画歴、趣味などをいわされた。
「エー、趣味は酒と女でして」
などという者もあった。
大学一年生になったばかりで多少気負っていたようだった。
そのとき福地がなにをいったか全然覚えていない。
つねに口数少ない福地のことであったから、たいしたことはいわなかったと思う。
園山俊二は、「病癒えて、ただ今復学しました」と復員軍人のようなことをいった。
ぼくはたしかなにもいうことがなかったので、
「趣味はお酒でして」
というようなことをいったと思う。
それからお酒になった。
ぼくはどういうわけか、昔からお酒にだけは意地汚なかった。
今でもそうだが、とくに当時は、宴席に出たら「お酒は飲まねば損」という信念が強かったようである。
なぜ「お酒は飲まねば損」なのか、そのへんのところは自分でもよくわからないが、ただ、会費分だけは飲まねば損、というような損得勘定とも少し違っていたようである。
そしてまた、「お酒は酔わねば損」という信念も強かった。
だからコンパの席では、いつも他人の分までガブガブ飲み、おひらきが近づくころには必ずといってよいほど、前後不覚どころか、前後左右上下タテヨコ斜め全部不覚となって、宴席の片隅に放置されているのがつねであった。
部員が憐《あわ》れんで、座布団をかけてくれることもあったが、たいていの場合はそのまま放置されていたようである。
当時は「飲まねば損」と「酔わねば損」の二つの信念をつねに貫き通していたということがいえよう。
青年の特権は、あとさきのことを考えずに行動することができる、というところにあるように思う。
これが大人になると、まったく逆になってしまう。
あとさきのことばかり考えて行動するようになるのである。
ぼくは青年の特権を、十二分に駆使して、つねにあとさきのことを考えずに飲んだ。
酔ってつぶれてしまったら、そのあとどうなるのか、ということを考えずに飲んだ。
その結果がどうなったかというと、だれかが必ず、酔いつぶれたぼくを、だれかの下宿にかつぎ込んでくれたのである。
だからコンパの翌日は、ぼくはいつも見知らぬ部屋で、目を覚ますことになるのがつねだった。
お酒は、「飲まねば損」のほうはともかく、「酔わねば損」である。
お酒をいくら飲んでも、酔わない人がいるが、あれはどう考えても損である。
高い税金と、さして美味《おい》しいともいえぬ有毒な液体を胃袋に大量に流し込みつつ、「ぼくは、いくら飲んでも酔わなくてねェ」などと誇らしげにいう人がいるが、彼らはいったい何のために酒を飲んでいるのか。
どうせ酔わないなら、コブ茶でもガブガブ飲んだほうがいい。
そのほうがよっぽど体のためになる。
そうして、こう誇ったほうがよい。
「ゆうべはコブ茶を五合も飲みましてねェ」
そうすれば相手はいってくれるであろう。
「ホー! それはなんとお強い」
漫研に安住の地を見いだしてからの学生生活は、俄然《がぜん》バラ色になった。
「スキーでランラン」や「ダンスでランラン」にはならなかったが、「マンガでランラン」ということになった。
露文の「暗号解読」のほうは依然灰色であったが、そっちのほうはもうどうでもよかった。
夏休みに入ると、誰もがするようにアルバイトの口を探した。
目指すはデパートであった。
なにがなんでもデパートであった。
なんでもデパートでアルバイトをすると、閉店時間になると、女のコたちがデートの申し込みにワッと押し寄せてくるということであった。
露文でも漫研でも女のコには恵まれなかったが、今度こそは女のコに恵まれるはずであった。
場所は新宿の伊勢丹であった。
(ワッと押し寄せてくるわけか……)
ぼくはその光景を何度も何度も頭に描いてみた。
ひとり帰り仕度をしているぼくの周辺から、トキの声を挙げて女のコたちが押し寄せてくる。
なかには、もつれあって転ぶコもいよう。
悲鳴が聞こえてくるだろう。絶叫も飛び交うに違いない。
(どうしたって修羅《しゆら》場になるだろうな)
ぼくは、こらえてもこらえても湧きあがってくる微笑をどうすることもできなかった。
日給は四百八十円ということであった。
そんなことはどうでもよかった。
(押し寄せてくる女のコたちのトキの声が聞こえるならば)と、ぼくは思った。(こちらから四百八十円差しあげてもいいな)
最初の日、ぼくはこの日あるを期して新調した背広に身をかためて出社した。生まれて初めての背広姿である。空色にストライプの入った珍妙な背広であった。
これに、学校の生協で買った三百円の横ジマのネクタイをキリリと締めた。
どう見ても、
(青年実業家という感じだな)
ぼくは鏡の前で、タバコを持ってポーズをつくった。
(これだと、女のコたちの挙げる悲鳴と絶叫は、新宿の夜空にこだまするに違いない)
デパートでアルバイトといえば、それは売場に立つことだとぼくは信じて疑わなかった。
だがぼくの配属されたのは地下の配送係であった。
上から送られてくるお中元の包みを、宛《あ》て先別に区分けする作業である。
むろん女のコは一人もいなかった。
この暗くホコリ臭い地下室で、むさくるしい服装の、むさくるしい顔の男たちが忙しく動きまわっていた。
地上の華やかな売場から地下に降りてくると、そこはさながら奴隷船の舟こぎ場のようであった。
むろん背広にネクタイは、ぼく一人だった。
ときどき売場に用事があって地下から這い上がっていくと、売場に配属された学生が、女店員と楽しそうに語り合っているのである。
「アルバイト学生を、どういう基準で売場と配送に区分けしたのか、伊勢丹社長に問いただそうではないか」
と、ぼくはまわりの連中にいってみたが、だれも賛同するものはいなかった。
この奴隷船の舟こぎ場にも、ときどき女店員が来ることがあった。
ぼくらは一斉に手を休めて、女店員のほうをジロジロ見た。
その目つきは、工事現場の土方が、通りすがりの女性をジッと見る目つきであった。
それでも、ぼくは二十日間をなんとか勤めあげた。
残業代も入れて、九千いくらだったと思う。
当時としては大変な金額だった。
ぼくがそれまでの人生の中で手にした最高額の金額だったはずである。
主任と称する人が、一人一人に袋を手渡しながら、
「諸君の血と汗で得た金であるからして、大切に使うように」
などと訓戒をたれた。
ぼくは大金を手にして興奮した。
「今夜はこの金で、新宿中のバー、キャバレーをことごとく制覇《せいは》しよう」
「うむ異存はない」
意見の一致した仲間と、ぼくは夜の新宿にくり出した。
「とりあえずだな、まずビヤホールだ。ビヤホールで度胸をつけよう」
「うむ、なんといってもこういうときは度胸が物をいうからな」
ぼくらは近くの屋上ビヤガーデンヘ、鼻息荒く駆けあがった。
ぼくはチケット売場に立つと叫んだ。
「まず大ジョッキ二つと、それからエダマメとウインナとヤキトリと串カツとおでんとポテトチップとピーナッツとサラミと、ハムサラダとオシンコと、エートそれからエダマメと………」
「エダマメはさっきいいました」
「エダマメいったか。なにしろ大金を所持しているとね、気持ちが鷹揚になってね」
ぼくらはテーブルにつくと、次から次へと運ばれてくる料理を次々と平らげ、大ジョッキを追加して三杯飲んだところで二人とも急に気持ちが悪くなった。
あまりにいろんなものをいっぺんに食べたのと、新宿制覇の野望を達成せんと鼻息荒く急ピッチで飲んだせいであろう。
二人は青い顔をして地上に降りると、別れのあいさつもそこそこに家路についた。
やはり、大欲は無欲に似たり、であるらしかった。
漫研に入ってから麻雀も覚えた。
だが麻雀はそれほど好きになれなかった。
ぼくの頭脳には、少し複雑過ぎるのである。
「やっとあがれたぞ」
とパイを公開すると、
「あ、それは一、九牌があるからダメ」
などという。
「どうしてダメなんだ」
と訊《き》くと、「そういう規則になってる」という答えが返ってくる。
「あ、今度こそはあがったぞ」と牌を開くと、
「あ、それはポンしてるからダメ」
ということになる。
だいたいぼくの頭脳は複雑なものには向いてないのである。
まず配牌された牌を、全部上向きに並べ変えなければならない。
逆さになっている牌があると、思考が先へ進展しないのである。
上下を全部|揃《そろ》えたところで、三つ揃っている牌を切り離して安置させる。他の牌とくっついていると、やはり思考が進展しないのである。
「まるで団地だな」
とだれかがいう。
数棟の団地を建設し終ったところで、
「さ、いくか」
と声をかけると、すでに他の三人の目に怒りの色が現われている。
団地建設に、あまりに時間を費し過ぎた、というのである。
それでもゲームはなんとか開始されて、ぼくも牌を一個持ってくる。
待っていた牌である。
「きた!」とぼくは叫ぶ。
この一個で建てかけの団地が、もう一棟完成するのである。
これは充分祝福に値する出来事である。
「よかった! 本当によかった! 待てば海路の日和《ひより》ありだなあ」
と、シミジミと幸せをかみしめ、幸福にひたっていると、またしても三人の目に怒りの色が浮かんでいるのである。険悪な空気さえ漂っている。
幸せをかみしめる時間が長過ぎるというのである。
しかし麻雀をする人は、なぜああセカセカイライラとゲームをするのであろうか。
もっとゆっくり、いい牌がきたらシミジミと幸せにひたり、またゲーム仲間も、友の幸せを共に喜び、祝福し、たたえ合い、和やかにゲームを進行させるということが何故《なぜ》できないのであろう。
いまだかつて、こういうぼくの意見に賛同してくれた人は一人もいない。
こういうわけで、ぼくを麻雀に誘う人は少なくなっていった。
当時の漫研は、少数ではあったが活気があった。
毎週一回合評会があり、各自が作品を持ち寄ってお互いの作品を批評し合ったりした。
コンパには、いつも二十人近くが出てくるが、合評会に出てくるのは十人足らずだった。
この十人足らずのうちに、ハンサムと美貌と秀麗はいつも含まれていた。
むろんぼくも含まれていた。
美貌の園山俊二は島根県の松江出身で、大学の近くのパチンコ屋の横の材木屋の二階に下宿していた。
ぼくは一度だけその下宿部屋に行ったことがあるが、二度とふたたび訪れることはなかった。
なにしろ部屋の中の畳の上には布団と、レインコートと、本と靴下と、山盛りの灰皿と、ビールの空きビンと、手拭いとコップと、下着と座布団と、新聞紙とノートと、彼の生活に必要なあらゆるものが並べられていた。
彼にはものを「しまう」という考えがまるでないらしかった。
だいたい彼は、ものの考え方が大ざっぱな人間なのである。
大ざっぱというか大づかみというか、茫洋というか、ぼんやりというか、とにかく些事《さじ》にこだわらない性格である。
後年、彼と福地と三人で北海道の定山渓《じようざんけい》温泉に行ったときのことである。
夏も終りのころだったと思う。
旅館に到着したのは午後四時ごろだった。
あたりはうすぐらくなっていた。
旅館の番頭さんが、
「庭に露天風呂がありますからどうぞ」
われわれは早速浴衣に着換えると、手拭いをぶら下げて露天風呂をさがしつつ廊下を歩いていった。
園山が先頭を歩いていった。
これがいけなかったのである。
うすくらがりの庭の一角を指さした彼は、
「ウム、あそこだ」
というと、すぐさま浴衣を脱ぐと、廊下のガラス戸をガラリとあけ、手拭いで前を押さえつつ庭に出ていった。
われわれが彼の目ざす方向をよく見ると、たしかにキラキラ光る水面が見える。
その水面にツカツカと歩み寄った後は、片足を水の中につけ、はじめて、
「あれ?」
と叫んだ。
水が冷たいのである。
温泉なら暖かいはずだ。
彼の顔にはじめて不審の色が浮かんだ。
彼はもう一度足を水の中につけた。
水の中をよく見ると赤や黒の鯉《こい》がゆうゆうと泳いでいる。
もう一度、彼の顔に不審の色が浮かんだとき、旅館の番頭さんが飛んできて叫んだ。
「そこは池ですよ」
通常の人間であるならば、
(水が冷たい!)
という時点でそこが池であると気が付くはずである。
そこで気付かぬにしても、水中の鯉の姿を見た時点ですぐに気付くはずだ。
水たまり、即、温泉、と判断するあたりはなかなか常人の及ぶところではない。
のちにわれわれは、この話を次のように脚色して人に話すようになった。
つかつかと水面に近寄って行った彼は、そのままジャブジャブと池の中に入り、首までつかって、
「アー」
とくつろぎ、手拭いをつかいながらふと水面に目を注ぎ、群れ泳ぐ鯉に気が付くと彼はこう叫んだ。
「福地、庄司、早くこいよ。ここの温泉は鯉が泳いでるぞ」
福地介は面倒くさがり屋である。
一度、いっしょに外国旅行をしたことがあるが、観光バスで名所めぐりをしても、彼はバスから決して降りようとしないのである。
「なぜ降りて見にいかないのか」
「面倒くさいから」
と答える。
せっかく大枚の金を払って外国に観光旅行にやって来たのに、バスから降りないのではなんのためにやって来たのかわからぬ。
これでは観光旅行に来たのではなく、バスに乗りに来たようなものではないか。
というようなことをぼくがいって説得しても、
「面倒くさいから」
といってバスから降りようとしないのである。
そのかわりこの面倒くさがり屋はめったに物に動じない、という美点も持ち合わせている。
あるとき、福地の下宿部屋でデッサン会をやっていたときのことである。
福地の部屋は、学校から近いせいもあって、漫研の会員が部室がわりに使ったりしていたときがあった。
福地がいないときでも、勝手に部屋の中に入っていっても福地はなんにもいわないことをいいことに、ヌードデッサン会を開いたりしていたのである。
冬の寒い日だったので、石油ストーブをたいていた。
このストーブは、古道具屋で買いたたいて買ってきたおそろしく旧式の圧縮ポンプ式の石油ストーブだった。
なにしろ老朽度はその極みに達していたから、ときどき石油が漏れたり、ときどき突如として炎が吹きあがったりする恐ろしいしろものだった。
そのときも福地は留守で、会員数人がヌードデッサンに励んでいた。
会員の一人が、炎が小さくなったので圧縮ポンプを押したとたん、炎が吹きあがった。
急いでみんなで濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》などかぶせたが火は消えない。
ストーブからこぼれた石油が畳にも拡がり、炎は畳の上にまで這い出した。
ぼくは最初から、ただ、
「アレヨ、アレヨ」
といっていただけだったが、なかに一人豪胆な男がいて、燃えさかるストーブを布団で包むと、
そのまま抱えてオリンピックの聖火リレーさながら下宿の廊下を走り、道路に持ち出してことなきをえた。
ことなきをえたが、福地の下宿はメチャクチャになった。
畳が焼けこげ、天井にまで炎が上ったため、天井も壁もススでまっ黒になった。
なかんずく、福地の大切な布団は、焼けこげとススでまっ黒になった。
それでも一応の大火災はまぬがれ、全員ススで顔をまっ黒にしながら、興奮さめやらず無事を喜び合っているところへ福地が帰って来たのである。
福地は部屋の惨状にいちべつをくれ、われわれが、興奮しつつかわるがわるする報告にただひと言、
「フーン」
と答えると、黙って着換えを始めたのであった。
園山と福地とぼくの三人でキャバレーに行ったこともある。
そのころのキャバレーは、現在ほど高価ではなく、学生でもいける程度の店が多かったようである。
当時は不思議なキャバレーが多かった。
軍隊キャバレー、女学生キャバレー、看護婦キャバレーなどがあり、未亡人サロンという不思議なものまであった。
むろん由緒正しい正統のキャバレーもあった。
軍隊キャバレーというのは、やたらに軍歌をがなりたて、軍隊の格好をしたボーイや、従軍看護婦の衣裳《いしよう》を身にまとった女の人に囲まれてお酒を飲むという趣向の店だった。
女学生キャバレーというのは、なんのことはなく、女性たちがセーラー服を着ているだけのものであった。
未亡人サロンというのは、いまもってあれはいったいなんだったのかよくわからぬキャバレーで、普通のキャバレーと少しも変わらぬしろものなのである。
ただ、その店にいる女性たちが、「未亡人である」という一点が他の店と違っているだけなのである。
では、この店にいる女性のすべてが未亡人か、というと、どうもそうではなかったようで、むしろ未亡人は、ほとんどいないというわけのわからぬキャバレーなのである。
未亡人がいない「未亡人サロン」とは、いったいどういうことなのか、それだからこそ、いまもって、
「あれはいったいなんだったのか」
と疑念がとけないのである。
ただ、当時のわれわれといえども、「未亡人」という言葉の持つ響き、味わい、という点に関しては本能的な嗅覚《きゆうかく》を持っていたことだけはたしかである。
しかしまだ二十歳そこそこの青年たちは、未婚の女性たちのあしらい方さえまだよくわからなかったから、まして未亡人たちにどう対処したらよいのか、まるでわからなかった。
だから店の中でわれわれはひたすら緊張し、会話なども、
「そうですね」
という調子になり、はなはだおもしろくない印象しか残らなかったのであった。
それはさておき、われわれ三人はキャバレーに行った。
正統のキャバレーに行った。
福地の女性の好みは、これはもういつもながら決まっていて、細め、都会的、美人、の、この三点に尽きるのである。
不幸なことに、ぼくと園山の好みは期せずして決まっていて、太め、農村的もしくは牧歌的、の、この二点に尽きているのである。
ぼくと園山の好みが同じであると、なぜぼくが不幸になるのか、そのへんは後述するとして、われわれ三人は、
「ラッサエマセ。ラッサエマセ」
というボーイの掛け声を浴びながら、店の奥深く送り込まれた。
ボーイがやってきて、
「ご指名は?」
と聞く。
「ない」
と園山が答えて、
「だけどデブね」
と、いちおうの注文をつける。
福地はかくてはならじ、とあわてて、
「細目《ほそめ》ね、細目」
とつけ加える。
キャバレーというところは、たとえどんなに時代が変わろうと、人手不足という状況はつねに変わらないもので、当時でも、三人の客に三人のホステスがつく、ということはなかった。
われわれの好みが本部に通じたらしく、細目と太目の二人がつれだってやって来た。
われわれ三人は、お互いの好みを知っているから、園山とぼくはつねに一方のボックスに座を占め、福地はその反対側に一人で座を占める、という、応戦態勢がいつのまにかできあがっていた。
福地側は一対一、わが方は二対一、これだけですでにぼくのほうは分《ぶ》がわるい。
なのに、加えて、園山とぼくを並べれば、その美醜の優劣は悲しいまでに明らかである。
われわれ側に坐った女性がその主戦力を園山側に傾けることを、だれも非難することはできないであろう。
われわれのボックスにやって来たデブヤセコンビは、われわれ三人のそれぞれの目の輝き、及び視線の行方によって、自分の進むべき進路をすばやく判断し、ヤセは福地側に、デブはわが方に、と、あやまたずその定位置を占めるのであった。
デブ、という点で園山とぼくは完全な趣味の一致をみるのであるが、さらにもう一つ、趣味が一致する点がある。
デブという一個の人間のうちでも、とくに限りなく好む個所が同じなのである。
そこは上半身ではなく、どちらかといえば下半身に位置し、全体的には下肢《かし》と呼ばれる部分の一部を形成しているところである。
そこは下肢の上層部を形成しており、俗には太モモ、と呼ばれている部分である。
園山もぼくも、どういうわけかこの部分を限りなく愛好する。
どういうふうに愛好するかというと、別に変わったやり方ではなく、その部分を、なでさすり、揉《も》みしだき、目で愛《め》で賞し、慈しむのである。
そうすると、心がやすらぎ、落ちつき、なぜかホッとし、人間のふるさとにやっと戻ってきた、という心境になるのである。
普通こういう行為に及ぶと、心が昂《たか》ぶり、落ちつきがなくなるものなのであるが、ぼくと園山はこの点が大いに違うのである。
例によってわれわれのところへやってきたデブは、園山にその全情熱を傾け出した。
園山もまた、その全情熱を、そのデブに傾け出した。
全情熱を傾けて、その太モモを、彼独自の解釈の仕方で慈しみ出した。
そしてその作業の合い間に、ふと、隣りを見ると、彼はそこに苦境にあえいでいる後輩の姿を見るのであった。
心優しい先輩は、二本ある太モモのうち、一本を後輩のほうに差し向け、
「庄司、そっちのほうを使いなよ」
と、いってくれるのだった。
後輩は先輩の行為に感謝し、また人間の太モモが二本あることを神に感謝しつつ、ただちにその一本を慈しむ作業に取りかかるのだった。
このことがあってから、園山はキャバレーに行くと、いつもぼくにも太モモを一本分けてくれることを忘れないようになった。
この二人の独特の好みはいまもって変わることはなく、ぼくは園山と二人で、「太モモ愛好会」を作ろうとさえ話し合っているのである。
ぼくはいまでも街を歩いていて、立派な太モモをしている女の人を見ると、
「ああ、この太モモを園山にもひと目見せてあげたい」
と思う。
ただちに公衆電話にとりつき、園山に知らせてやったら彼はただちにタクシーで駆けつけてくるかもしれない、とさえ考える。
この気持ちは決して他の人にはわからぬと思う。
真に、太モモを愛する人以外には。
早稲田祭・コンパ・赤線
合評会に話を戻そう。
こうしたハンサムと美貌と秀麗に囲まれて、ぼくはいつも切ない思いをしながら合評会を続けていた。
福地とぼくが同級、園山と|しとう《ヽヽヽ》は二年先輩で、彼ら二人は既に雑誌のカットなどで、いくばくかの収入を得ていた。
彼らのカットが一点三百円だと聞くと、福地とぼくは彼らのそのカットが載っている雑誌を早速買い求め、カットの数をかぞえた。
雑誌のすみからすみまでページをめくり、残らず拾いあげると、
「ウム、全部で十一個だ」
「十一×三百円!! 三千三百円!」
「ウーム、ちくしょう!」
「けしからん」
と、うらやんだ。
彼らは合評会の途中で、
「オレ、あした締切りだからきょうはこれで」
などといって席を立ったりした。
「ゆうべは徹夜でねェ。眠くて眠くて」
などということもあった。
ぼくと福地はひがんだ。
「ぼくらも早く、締切りで徹夜、というのを味わいたいなあ」
「締切りで徹夜には、悲壮惑というか勇壮感というか、そういうものがあるなあ」
だがぼくらは、意外に早く、締切りで徹夜を味わうことができたのである。
その年の十月末に、恒列の早稲田祭があった。
わが漫研も、作品展示をすることになったのである。
各自ベニヤ板半分大の大きさの作品を四点以内、早稲田祭の前夜までに搬入することとなった。
むろんぼくと福地は、締切りの前夜、充分時間はあるにもかかわらず徹夜をした。
早稲田祭の前日早朝、ぼくらは作品を持って会場に駆けつけた。
「おい。ゆうべは……」
「うん、締切りで徹夜しちゃってねェ。きみは……」
「うん、ぼくも締切りで徹夜しちゃってねェ」
それから展示会場の設営で急に忙しくなった。
上層部からは次々に指令が出る。
「モゾー紙を五十枚買ってこい」
「セロテープ、画ビョー、を十個ずつ」
カナヅチ、クギ、ノコギリを買いに行く者、ベニヤ板をエッサエッサとかつぎ込む者、会場の教室の机と椅子を外へ運び出す者、景気づけのお酒とつまみを買いに行く者、総勢二十数名の部員は全員よく働いた。
ぼくはこういう雰囲気がたまらなく好きなので、大いに張り切った。
一升ビンのお酒を茶わんで飲んではまた働いた。
大勢で、ナントカごっこをするのがたまらなく好きなのだ。
適当に、気を抜いてやっている奴の気が知れないという感じだった。
「こんな楽しいことに、なぜもっと張り切らないのか」
と不思議な気さえした。
勉学に打ち込まなかった分の情熱を、全部ここに投入している感があった。
屈辱と忍耐の、あの露文の授業を考えれば、この作業はまるで天国である。
水を得た魚、エサを得たライオン、焼酎《しようちゆう》を得た土方、宿にたどりついた旅人であった。
ハラが減ると、ホームラン軒というラーメン屋へ行ってラーメンを食べ、日暮れになるとバーヘ行って一杯二十五円のウイスキーのストレートを飲んだ。
気の合った友人たちの笑い声、トンカチの音、上層部の「もう少しだ。ガンバロー」という激励、なにもかもがうれしく楽しかった。
「学生生活も、毎日毎日こんなだといいなあ。四年間ずうっと毎日、早稲田祭であればいいなあ」と思った。
早稲田祭が終ると、恒列の、「早稲田祭終了記念大コンパ」が開かれる。
ふつうの漫研のコンパは、たいていそば屋で行なわれた。
そば屋で酒を飲むのはいちばんの食通といわれているが、われわれのコンパはそういうたぐいのものでは決してなかった。
第一、そば屋でありながらそばを食べる者など一人もいない。
コンパのメニューは会費三百円でだいたい次のようなものだった。
お銚子二本、シメサバ、酢のもの、おしんこ、天丼(エビ二本入り)という取り合わせがいちばん多かったように思う。
そば屋でシメサバを食べるなんてことは、学生街でなければできるものではない。
天丼というものは、ゴハンの上に載ったエビと、ゴハンに沁《し》みこんだ甘じょっぱい汁と、その下のゴハンとが一体となって天丼が形成されており、これ全体がおかず付きの主食となっているわけだが、われわれにはその概念は通用しなかった。
なにしろ酒の肴《さかな》の類が少なかったから、われわれはまず天丼の上層部を形成している二匹のエビを分離して、別の皿に盛り、これを「甘汁かけエビ天」と称する一品に仕立て、メニューの中に追加することをつねに忘れなかった。
上層部を失った天丼は、急に単なる汁かけライスの身分に転落し、うらぶれた姿となるのであった。
身分は転落してもまだ、おしんこという強い味方がひかえており、これの助けを借りればまだまだ充分な一品となりえたのである。
ふだんのコンパはだいたいこういった程度のものであったが、早稲田祭終了後のコンパはつねに豪華|絢爛《けんらん》を極めた。
早稲田祭の期間中、われわれは「早稲田祭記念絵葉書」なるものを考案してこれを一枚十円で販売したのである。
この早稲田祭記念絵葉書なるものは、葉書大の紙に、われわれの下手な漫画が描かれているだけのものだった。
これを十円で販売しようというのである。
いまでこそ十円は価値はないが、なにしろ当時は三十円のラーメンがあったくらいだから、現在の金額にすれば七、八十円に相当するだろうか。
「はたして売れるだろうか」
当時漫研の幹事長だった|しとうきねお《ヽヽヽヽヽヽ》を中心に、われわれ一同は考え込んだ。
「売れる売れる! 絶対に売れる。大丈夫」
なにごとにも楽観的な副幹事長の園山俊二が、なんの根拠もなく絶対大丈夫の太鼓判を押した。
この頼りない太鼓判に賛同を示す者は少なかった。
「似顔を描いたらどうか」
と発案したのは福地介である。
客の前で即席似顔を描いたら売れるのではないだろうか、というのである。
「うん、それはいい。絶対売れる。大丈夫」
副幹事長の園山がまたしても太鼓判を押す。
この上役は気軽に気前よくやたらに判コを押すのである。
「だけどオレ、人前でなんか描くというのはどうも恥ずかしいし、第一あがっちゃうし」
と、疑念をさしはさんだのはヒラのぼくだった。
「だけど庄司……」
と園山。
「女学生や女子大生が、ドッと押しかけてきて、『描いて! 描いて!』と大騒ぎになるぞ」
「だったらオレやる!」
「描いても描いても、あとからあとから女学生と女子大生が……」
「やる! やる! 絶対やる! 今すぐやる!」
「なかには、描いてもらったついでに、『早稲田の中を案内してくださらない?』なんていってくるコもいるかもしれんぞ」
「オレ、漫画描くのすぐやめて案内するッ」
「だが」とぼくはすぐ冷静になって考えた。
即席絵葉書販売ということになれば、われわれは一列のカウンター形式の机の前に坐って、客の注文を待つ、という形式になるのであろう。
「そうなると」
とぼくはさらに不安になった。
美貌の園山と、ハンサムの福地と、秀麗の|しとう《ヽヽヽ》の机の前には、女学生と女子大生の長蛇《ちようだ》の列ができるだろう。
「だが」
ぼくの机の前には、待っても待ってもだれも来ないかもしれない。
園山や福地や|しとう《ヽヽヽ》の机の前に、女学生と女子大生が、「キャー、キャー」といいながら並び、だれ一人として並んでいないぼくは、嫉妬《しつと》と妬《ねた》みに狂った目で彼らをにらみつけている光景が、ありありと浮かんでくるのであった。
いろいろな思惑や危惧《きぐ》はあったが、とにかく早稲田祭の第一日目から絵葉書販売は開始された。
ぼくの危惧にもかかわらず、園山や福地や|しとう《ヽヽヽ》の前に客は並ばなかった。
そしてむろんぼくの前にも並ばなかった。
まるきり売れなかったのである。
ラーメンの三分の一の値段を出して、学生の下手くそな絵葉書を買うような酔狂な人はいなかったのである。
再び販売促進会議が開かれた。
太鼓判の上役は多少うなだれていた。
ここで妙案を出したのが|しとう《ヽヽヽ》であった。
絵葉書に、「早稲田祭記念」という丸いスタンプを押そう、というのである。そして、そのすき間に、われわれが絵を描こう、というのである。
「ウム、それなら売れる。まちがいなく売れる」
太鼓判の上役はまたしても太鼓判を押し、全員も今度はなんとなく売れるような気がした。
本人たちの実力不足を、権威によってカバーしようという魂胆だったが、これがまんまと成功したのである。
漫画絵葉書は急に売れ出した。
むろん、スタンプだけの効用ばかりではなく、同時に採用された顧客誘導作戦のせいもあったのである。
その誘導作戦というのは、われわれの展示の行なわれている校舎の五階の窓から首を突き出し、手製のメガホンを持って、
「漫画展に来いよ。漫画絵葉書を買いに来いよ」
と、大声で連呼するものであった。
むろんこの係は相当の勇気と才能が必要であったが、この両方を兼ねそなえた男がちゃんと会員の中にいて、この男は一週間のあいだ毎日、毎日窓から首を突き出して、
「漫画展に来いよ」
を、連呼したのであった。
この男は現在、そごうデパートに勤め、販売促進の仕事に従事している。
さてぼくの危惧は杞憂《きゆう》であった。むろん、園山、福地、|しとう《ヽヽヽ》の美貌トリオの前には長蛇の列ができたが、そちらの長蛇の列をあきらめたかなりの人数が、ぼくの机の前に行列をつくったのである。
おこぼれはおこぼれでも、行列は行列だ。
「ないよりはましだ」
とぼくは張り切って漫画を描いた。
気をよくして勢いにのったわれわれは、自分たちの展示作品の横に、それぞれに小さなポストを作った。
そして、そのポストの横には、
「作品に対する御批判、御批評をお寄せください。なおその場合、御氏名、御住所をお書きください」
との貼紙を出した。
御批判、御批評に、なぜ御住所が必要なのか。
わかる人にはわかるだろうが、われわれの魂胆は、女学生及び女子大生のファンレターを期待したのであった。
御批判、御批評と共に、御住所があれば、われわれはただちに、御返事を書くことができる。
われわれの御返事にさらに御返事がきて、そこから御交際が始まる、ということはありえないことではない。
ポストを作ってからは、ぼくは自分のポストより園山、福地、|しとう《ヽヽヽ》のポストが気になって仕方がなかった。
彼らのポストは、たちまち山盛りになり、投書がこぼれおちるはずだった。
ぼくは彼らのポストに、つねに監視の目を怠らなかった。
ところがこのポストは、われわれの魂胆が見え見えだったせいか、御批判、御批評の投書はまるでなかった。
ときどき、紙くずなどが丸めて入っていたりするだけだった。
だがぼくは一日が終ると、彼ら美貌トリオのところへ行き、投書があったかどうかを訊き、なかった、というとホッとし、ホッとしたあとに、本当は女学生から投書があったのに、隠しているのではないかと疑い、それは許せない、と思い、毎日毎日思いは千々に乱れるのだった。
早稲田祭一週間の売上げは、実に三万数千円になった。
われわれにとっては莫大《ばくだい》な金額であった。
会計係は毎日毎日増えていく金庫をかかえて緊張の毎日を送っていた。
この金で、打ちあげコンパをやろうということになった。
もはや、そば屋は眼中になかった。
シメサバも、天丼の分離も眼中になかった。
渉外係を担当していた園山とぼくが会場の選定をまかされた。
なにごとにも大ざっぱで楽天的な考え方をする園山の頭に浮かんだのは、高級レストランでも、寿司屋でもなく、それは神楽坂の料亭だった。
神楽坂というところは、政財界の巨魁《きよかい》たちが利用するところだというぐらいの知識は、当時のわれわれにもむろんあった。
ぼくはその旨を園山に告げ、身分という言葉も添え、予算などという言葉も混じえて彼の翻意をうながした。
彼はぼくの言葉をじっくりと聞いたうえでこういった。
「だからさ、そういうところで一度コンパをやってみたいじゃないか」
このひと言にはなぜかかなりの説得力があったのでぼくはそれに従うことにした。
詰えり服を着たぼくと園山は、徒歩で神楽坂に向かった。
早稲田と神楽坂は歩いても行ける距離にある。
神楽坂料亭街に到着した詰えり服の学生二人は、コンパを行なうべき料亭の選定に取りかかった。
「あんまり高そうなところは、いちおう予算があるからな」
と、園山はぼくにさとし、
「ま、中級ってところでいこうじゃないか」
とあたりを見廻した。
その付近はそれほど大料亭といった感じの建物は少なく、意外に小料理屋を大きくしたぐらいの門構えの店が多かった。
「このへんどうだろう」
と園山は一軒の料亭を指さした。
黒板塀の門構えで玄関まで石畳のある店である。
玄関までずっと植込みが続いている。
これという根拠はなかったが、ぼくも園山も、
「手ごろだ」
と考えた。
二人は門を入っていった。
玄関の前で、大声で、
「ごめんください」
と呼ぶと、
植込みの陰からヒョイと老人が顔を出した。
植木に水をやっていたのである。
園山はニコニコしていった。
「おじさん!」
おじさんは、けげんな顔をし、曲げていた腰をしゃんと伸ばして二人を見た。無言である。
「おじさん!」
園山はまたニコニコしていった。
「ぼくらここで、三十人ほどのコンパをやりたいんだけどね」
老人は黙って二人を見、それから植木に水をやる作業に戻りながらいった。
「ここはね、あんたたちの来るところじゃないよ」
険のあるいい方ではなかった。
「だからさ」
と園山はいった。
「だからぼくらはよけいこういうところでやりたいわけじゃないのさ」
園山は依然としてニコニコしている。
「予算はね……」
と、園山は具体的な話に移りたいらしかった。
老人はもうこちらを見ずに、作業を続けながら、
「ここはね、あんたたちの来るところじゃないんだよ」
と同じことをいった。
「ダメかなあ」
ぼくら二人はしばらく黙って老人が植木に水をやるのを見ていた。
それから急に園山が、
「帰るか」
とぼくにいい、ぼくがうなずくと、
「じゃ、おじさん、またきます」
といい、老人は別にうなずきもせずあいかわらず植木に水をやり、ぼくらはきびすを返すと門を出た。
ぼくらは別になんの悪感情も抱かず、老人もまた、ぼくらに悪感情を抱いた様子もなかった。
学生がからかいにきた、と受けとったふうもなかったようである。
これすべて、園山俊二のおおらかな人柄によるものである。
結局コンパは寿司屋で行なわれた。
このコンパは、とくに記憶に残るような出来事もなく、例のごとくぼくが前後左右、上下、タテ、ヨコ、斜め全部不覚になって腰が抜けた他はさしたる変わったこともなく終了した。
食べなれぬ寿司を腹一杯食べてしまったせいかもしれぬ。
それでもお金はたくさん余ったので、これは機関誌を出すためにとっておくことになった。
コンパの終了後には、二次会が行なわれるのがつねだった。
二次会は、たいていギョーザ屋に行った。
ギョーザを食べ、日本酒を飲み、パイカルなどを飲むと一同はますます意気|軒昂《けんこう》となった。全員が、
(なにごとかなさずにはおれぬ!)
という心境になる。
そして、
「行こう!」
ということになるのであった。
「行こう!」
といい出すのはいつも瀬川という先輩で、この先輩はかなりの年輩で、当時は五年生であったが、額の生えぎわがかなり上方部に移動しており、一見、四十歳ぐらいに見えた。
そしてその額は、いつも色つやよく輝いていた。
この人はコンパのときには必ずエロ歌を唱い、そういうたぐいの歌をほとんど知らなかったわれわれに懇切丁寧に歌詞を教えてくれるのだった。
その歌詞は学校では決して教えてくれることのない内容で、そういうときわれわれは、心の底から、
「大学に入ってよかった」
と思うのだった。
そのためだけではなく、なにかほかの理由もあったらしく、漫研の上層部は、彼のことを「エロ漢」と呼んでいた。
そのエロ漢が、ギョーザ屋で、
「行こう!」
というと、上層部各員は急になぜかニヤニヤし出し、うなずき、なぜか急にお酒のお代わりをし、すでに勢いがついているにもかかわらずさらに勢いをつけ、
「さて」
といって立ちあがる。
それからトロリーバスに乗り新宿に向かう。そして新宿二丁目の停留所にくると、
「ここだ、ここだ」
といって降り始めるのである。
人は信じてくれないかもしれないが、その「新宿二丁目」なるところが、どういうたぐいのところであるのか、そのころのぼくは知らなかったのである。
「新宿二丁目の灯」は、ぼくが大学二年生のときに消えたのであるが、それまでにぼくは、合計四回ほど漫研の上層部に連れられて訪問している。
三回目の訪問あたりから、そこがどういうところであるかおぼろげにわかってきて、四回目には判然とし、
「五回目には、オレも初体験を!」
と決心していたのだが、その機会に恵まれないうちに、法律によってわが初体験は阻止されてしまったのだった。
さて、新宿二丁目の停留所でギョーザの匂いを発しながらバスを降りた一行は、狭い路地を入っていく。
道の両側はけばけばしいネオンの店が建ち並び、洋装や和服の女性たちが、
「そこのおめがねさん! 寄ってらっしゃいよ」
「ちょいと坊や、おいでったら」
などといいつつ、われわれの袖をつかんで引っぱるのである。
そのうちにどういうわけか一行の人数が次第に減っていき、最後には、三人になり、二人になり、たいていぼくと岡村という真面目な会員の二人だけになって、二人ともなんとなくうそ寒い心境になり、
「帰ろうか」
ということになって、新宿駅目ざして歩き始めるのだった。
人は信じてくれぬであろうが、ぼくはオクテというかなんというか、袖を引っぱられて店の中に消えた先輩たちが、そこでどういうことをするのか知らなかったのである。
どういうことをするのか、という不審さえも起こらなかったように思う。
先輩たちに連れられて二丁目の路地を、女たちに声をかけられながら歩いていくのは、ちょうどお祭りの夜店をひやかしながら歩いていくのと同じようなものなのだ、と思っていたのである。
だから女の人に袖をつかんで引っぱられると、
「モテた!」
と思い、反対側の店の女に引っぱられると、
「またモテた!」
と思い、
「ここへ来ると、どうもやたらにモテて困るな」
と、こみあげてくる笑いを噛み殺すのに大忙しになるのだった。
だから他の連中がやたらに袖を引っぱられ、ぼくだけ引っぱられないと口惜しく、
「みんなばかりモテて!」
とひがむ。
そして、
「ぼくの腕も引っぱってもらいたい」
と、やたらに腕をくの字に曲げて突き出しながら歩くのだった。
そして、やっと引っぱってもらうと、
「やっとモテた。これでオレの面目も保てた」
と安心するのである。
「新宿二丁目」の名称が特別な意味を帯びているということも知らなかった。
だから会合のときなど、先輩たちの会話の中に、
「二丁目」
という言葉が混ざり、
「よかった!」
という言葉が発せられると、ぼくはいつも不思議でならなかった。
そのころのぼくの日常での「二丁目」というと、それは学校のそばの「戸塚二丁目」を意味し、
「戸塚二丁目」
が、なぜそんなに、
「よかった!」
のか、いつも不思議に思うのだった。
戸塚二丁目は、なんの変哲もないただの交差点であり、その交差点のどこで、
「よかった!」
というような行為が行なわれるのか、不思議でならなかった。
早稲田祭が終ったあとのコンパでは、ぼくは無性に淋しくて、またしても大酒を飲んだ。いつものように前後左右上下タテヨコ斜めの全部不覚になるまで飲んだ。
早稲田祭も終り、年も明け、二年目の学期末試験となった。
結果は惨憺たる有様だった。
優は体育の一個、あとは全部良と可であった。
不可が三つあった。不可のいずれもが露文関係である。
学生生活二年目にして、早くも将来の確乎とした見通しが立った。
それは、どうあっても露文科を卒業できないであろうという明確で確乎とした見通しであった。
「卒業ができない」という大前提のもとに自分の将来の設計をしなければならなくなったのである。
これは、かなり辛いことであった。
たいていの人は、卒業を前提として、長い人生の設計にとりかかるのであるが、ぼくの場合は、設計図なしで、ビルの建設にとりかかろうとしているようなものであった。
あるいは、パンツなしで、マラソン競技に参加しようとしているようなものでもあった。
転部を試みて、いろいろ画策し、ウイスキーを持って教授の家を訪問したりしたが、「不可」が一個でもあると、転部はできないということであった。
「不可」が一個でもあると、なぜ転部ができないのか、教授に訊こうと思ったが、不可とは、べからずであり、要するにダメ、ということであり、転部はダメということであり、そのダメのハンコが三個も押してあったのでは、ダメのダメ押し、ということになり、訊くまでもないのだということに、ぼくは気がついたのであった。
人生の半分もいかないうちに、ぼくは、ダメの烙印《らくいん》を三個も押されてしまったのである。
ぼくのそれまでの人生の通信簿は、いわゆる五段階というやつで、数字の、12345だった。
これだと、たとえ、1や2をもらっても、数字の持つ無機質性のせいか、それほど痛痒《つうよう》を感じないですんでいた。
1や2が普通よりよくない、ということは惑じられても、ダメという惑じはなかった。
そのぼくのおだやかな通信簿の歴史に、突如、「不可」が出現したのである。
ダメが一挙に三個も出現したのである。
なんとかしなければ、とぼくは思った。
なんとかしなければ、ぼくはパンツなしでマラソン競技に参加しなければならなくなる。
ぼくはなんとかする方法を毎日毎日考え始めた。
毎日毎日考えた結果、やっと結論を出すことができたのである。
その結論は、
(ま、なんとかなるだろう)
というものであった。
人によって、この問題に対する結論はいろいろ違うと思う。
とりあえず、「不可三個の解消に全力を尽くす」という方法も考えられる。
むろん、ぼくとてもそれは充分考えた。毎日毎日考えたのである。
そしてこの考え方に対する結論は、
(それはちょっとしんどいなあ)
というものであった。
不可三個の解消には、多大の努力と、少なくとも一年間の忍耐とを必要とする。
だが、「なんとかなるだろう」のほうは、努力も忍耐も要らない。
現状のままでよいわけであった。
ぼくは迷わず後者を選んだ。
これから二年間の学生生活を、「なんとかなるだろう」という基本方針でやっていこうと考えたのである。
人は、ぼくのこの怠惰な態度に怒りを覚えるかもしれない。
しかし青春には、このような、昏迷《こんめい》の空白ともいうべき期間がだれにでもあるような気がするのである。
人は、この昏迷の空白期にある青年を責めてはいけない。
といったような自己弁護を、唯一の心の支えとして、ぼくは長い昏迷の空白期に臨んだ。
授業の出席日数は、日毎《ひごと》に少なくなっていった。
朝、家を出ると、ぼくは必ず新宿に現われ、駅近くのローヤル劇場という映画館へ行った。
ここは入場料が五十円で、他の劇場に較べて圧倒的に安かったからである。
他は百八十円以上がふつうであった。
古い西部劇と古い戦争物ばかりやっている映画館だった。
薄暗い映画館で、殺ばつとした映画を観ていると、殺ばつとしたぼくの心はさらに殺ばつとなった。
「ま、なんとかなるだろう」という基本方針は変わらなかったが、ぼくの心は荒涼としていた。
数年後の中退は、厳然たる事実であった。
中退が決まっているならば、もういつ中退してもよいはずであった。
だが中退もしない、さりとて授業にも出ないという生活は、なかなか辛いものであった。
西部劇はランドルフ・スコット、戦争物はオーディー・マーフィがやたらに出てきた。
彼らは最後には必ず勝つのであった。
「そうだ。正義は最後に必ず勝つのだ。オレだって……」
ぼくは薄暗い座席に坐って、いつもそうつぶやいた。
中退を運命づけられた、まるで学業に励まないこの学生と、正義とが、どこでどう結びつくのか定かでないが、暗闇の学生はいつもそうつぶやくのであった。
早朝のまばらな客席に坐って映画を鑑賞し終ると、ちょうど正午ごろになる。
まぶしい陽ざしを手でさえぎりながら映画館を出ると、今度は山手線に乗って、高田馬場に向かう。
スクールバスには乗らずに、学校までの道のりを、古本屋に入ったり出たりしながら、ダラダラと歩く。
途中で喫茶店にもぐり込みコーヒーを飲むこともあれば、ラーメン屋にもぐり込むこともあった。
高画馬場駅から学校までの途中に名曲喫茶があり、ここへはよく足を運んだ。
このテの喫茶店には、一人で入ってもおかしくない雰囲気があり、長時間ねばってもイヤな顔をされない空気があったからである。
ただときどき、なにやら「ガガガーン!」という大音響が響いてきたり、向かいの席のトックリのセーターにザンバラ髪の男が、その音にあわせて、指揮者ふうに人さし指を動かしたりするのが見えるのが難点だった。
ぼくにとって名曲喫茶の難点は、名曲が聞こえてくる、という点にあった。
なにやら静かな曲が流れているから、
「大丈夫だ」
と、安心していると、突如、
「ドドドーン」
とくるから名曲喫茶は安心できない。
おまけに周囲にいる人間は、学生のくせにパイプなどをふかし、深い瞑想《めいそう》にふけっているのとか、腕組みなどしてあたりを睥睨《へいげい》したりする油断のならぬ者ばかりなのである。
だからぼくはいつもいちばん奥の壁ぎわに席をとり、やおらスケッチブックを取り出し、
「なめんなヨ」
というふうにときどきあたりに威圧の視線を送ったりしなければならなかった。
ときどきそれをしないと、どうも周辺になめられているような気がしてならなかったのである。
スケッチブックになにを書きつけていたかというと、いわゆる漫画のアイディアと称するもので、いわば子どもの落書きのようなものばかりなのである。
スケッチブックに、せめて裸婦のデッサンとか、難解な抽象的コンポジションでも書いてあれば、かのパイプの人さし指の指揮者にもなめられないですむのであるが、子どもの落書きを見られればいっそうなめられるのは必定である。
だからぼくは周辺の油断のならぬ者共にのぞきこまれぬよう壁ぎわにスケッチブックを押しつけ、ときどきコチョコチョと書きつけては、急いで、あたりを見廻し、
「なめんなヨ」
を続けなければならなかったのである。
名曲喫茶にコーヒーを飲みに行くのではなくて、「なめられないため」に行くようなものであった。
早稲田周辺には、ラーメン屋がたくさんあった。
なかでも「ホームラン軒」と称するのが三軒か四軒ぐらいあったような気がする。
この「ホームラン軒」は、どの店もいつも混んでいた。
当時ラーメンは三十五円が相場で、なかには三十円という店もあった。
三十円のラーメンには、麺とツユだけしか入っておらず、「ラーメンのカケ」ともいうべきしろものであった。
あちこち寄り道してからやっと学校周辺に現われるのである。
学校周辺には現われるが、滅多に授業には出なかった。
とにもかくにも、まず漫研の部室へ行く。
だれかがいることもあるが、だれもいないことのほうが多かった。
だれもいない、すべてが傾斜した部屋で、傾いたまま黙然とタバコを吸い、吸いおわると消し、ノロノロと立ち上がる。
立ち上がってどこへ行くかというと、早くも家へ得るのである。
再び駅まで歩き、電車に乗って家路につく。
一体何をしに学校まで来るのか、と人はいうかもしれないが、これがぼくの大切な日課であった。
学校へ到着し、Uターンして家に得るのが、ぼくの一日の仕事だったのである。
優雅な生活と、いうことができるかもしれない。
楽隠居のような生活といえるかもしれない。
しかし、二十歳《はたち》そこそこの青年が、楽隠居のような生活をするのは決して楽しいものではないのである。
やはり、楽隠居の生活は、楽隠居の年齢になってするべきものであるらしい。
漫画家開業始末記
三年生になった夏、僕は夏休みで帰省していた福地介に手紙を書いた。
二人で組んで漫画家になろうじゃないか、という内容の手紙だった。
当時、漫研の同級生で、真剣に漫画と取り組んでいるのは福地だけだった。
園山俊二は、すでに毎日小学生新聞に、「がんばれゴンベ」という漫画を連載していた。
|しとうきねお《ヽヽヽヽヽヽ》は、週刊サンケイにカットなどを連載していた。
福地もまた、スポーツ夕刊紙に一口漫画を連載していたのである。
連載はしていたが、このスポーツ新聞の原稿料は一枚百円だった。
百円というと、当時のラーメンが一杯三十五円だったから、三杯弱ということになる。
カレーがだいたい百円だった。
漫画一枚の原稿料が、カレーライス一皿分だったのである。
むろん福地は、
「安い!」
とこぼした。
原稿は一日一点だから、一カ月書いても三千円である。
ところがこのスポーツ新聞社は、ただの一回も原稿料を払ってくれたことがないのだという。
すでに一年数カ月掲載されていたのだが、それまで一回も払ったことがなく、これから先も払ってくれる見込みはまったくないという。
要するにタダだということなのである。
「それにしても」
と、福地がいう。
「一点百円はいくらなんでも安すぎる。せめて二百円にしてくれなければ」
「そうだ。そうなれば一カ月六千円になる」
「三百円にしてくれれば、月に九千円」
「四百円だと一万二千円」
「五百円だと一万五千円だ」
「六百円だと……」
原稿料がたとえいくらであっても、払ってくれなければ同じことであった。
それにしても当時、福地とぼくは、よく原稿料の話をした。
某漫画週刊誌は、駆け出しの新人で一ページ二千円だと聞くと、
「週刊誌は月に四回だから四×二=八で月に八千円になる」
「二ページやれば週に四千円」
「月にすると一万六千円」
「一万六千円あればなんとか食えるな」
当時、新入社員の月給がこのくらいだった。
「三ページやれば……」
「三×二=六の、それかける四で月に二万四千円……」
「年になれば、十二倍だから二十八万八千円!」
「年額二十八万円か。すごいもんだな」
「年額二十八万ということは月収にすると、十二で割って……二万四千円か」
「週にすれば、四で割って六千円!」
いつまでたってもこの計算は終らないのである。
当時われわれは一ページいくら、と聞くと、すぐさまそれを四倍にし、次に十二倍にし、今度はそれを十二で割り、さらに四で割る、という習慣が身についてしまった。
しかし、ぼくはといえば、ぼくは何も連載していなかったのである。
ただひたすら呆然とし、ひたすらローヤル劇場に通いつめ、ただひたすら楽隠居の生活を必死の思いで生活していたのみだったのである。
それはさておき、ぼくの手紙を読んだ福地は、あわてて上京してきた。
手紙のくわしい内容は覚えていないが、
「なにしろ封筒が、パンパンにふくれあがって丸くなっていた」
と、後になって福地が述懐しているところを見ると、量だけは豊富な手紙だったということができると思う。
物量に圧倒されて、滅多に物事に動じない福地があわてて上京してきてくれたのである。
二人は、早稲田の近くの喫茶店で会った。
「おれな、実をいうと漫画家になろうと思っているんだ」
「ウン、手紙読んだ」
「どうだい、これから二人で組んでやっていかないか」
「ウン、やってみてもいいな」
「二人で漫画家になろうよ」
「ウン、なってみてもいいな」
福地は、あわてて上京してきたわりには、泰然としてつまらなそうに、そうつぶやいた。
福地は、いつもこうなのである。
いつもつまらなそうに、面倒くさそうに物をいう人間なのである。
「じゃあ、漫画家になるのか」
「ウン、漫画家になろう」
このへんのやりとりは、かなりあっさりしたものであった。
男子一生の仕事を決めるにしては、あまりに簡単すぎるやりとりであった。
まるで、
「これからメシでも食おうか」
「じゃあ、そうしてみるか」
といったようなたぐいの会話と、さして変わりがなかった。
二人とも、世の中を簡単に考えていたのである。
真夏の学生街の喫茶店は、閑散としていた。通りは人影もまばらだった。
ぼくらの他には、客が一人いるだけだった。
窓ぎわの席に腰かけ、人通りのない通りをぼんやりと眺めつつ、ボソボソと会話を交わす二人の青年が、人生の重大事を話し合っているとはだれも思わなかったに違いない。
漫画家になるには、手始めにまず、なにをすればいいのか。
ラーメン屋を開業するには、まず保健所へ行って認可をとらねばなるまい。
麻雀屋を開業するには、まず税務署へ行って、遊技娯楽場の認可をとらねばなるまい。
漫画家を開業するには、まずどこへ行かなければならないのか。
コーヒーをすすって目を中空に据え、ちょっと考えていたわが友は、
「要するに、『われわれは漫画家になりました』という挨拶状を各方面に出せばそれでいいんじゃないか」
と、やはりつまらなそうにつぶやいたのである。
「すると、保健所の認可は?」
「要らないんじゃないの」
「税務署の認可も」
「要らないだろうなあ」
「そんな簡単なことで漫画家になれるのか」
「それでいいんじゃないの」
どうしたら漫画家になれるか、日夜そればかり考えていたぼくは、それを聞いて興奮した。
なんだ、そうだったのか。そんな簡単なことで漫画家になれるのか。
そうか、そんな簡単な方法があるとは露知らなかった。さすが福地! と、ぼくはわが友を頼もしく眺めた。
それじゃ早速挨拶状を! と興奮して立ち上がるぼくを福地は押しとどめ、
「どうせやるなら、もう少し人数を増やしてグループを作ったほうがいい」
と、重々しくいった。
「ウム、なるほど。そのほうが景気がいいし、押し出しも効くかもしれない」
「いや、人数を増やせば、それだけ挨拶状の一人あたまの印刷費が安くつく」
「なるほど。そこまで考えていたのか。さすが福地!」
それでは同志を募《つの》ろう、ということになって、その日の会談は終了した。
時に一九五九年、世の中はまだ就職難の時代であった。
ちゃんと大学を卒業した人でも、就職が困難な時代だったのである。
まして大学中退者など雇ってくれるとこなどどこにもなかったといっていい時代である。
福地もぼくも中退予定者であったから、なんとかしなければならぬという思いは共通であった。
そのころ、十大学ぐらいが加盟した大学漫画連盟というものがあり、そこで知り合った「漫画家になってみてもいい」といいそうな二人に声をかけてみると、やはり「なってみてもいい」という返事が返ってきたのでこの二人を加えることにした。
同志四人を糾合して、発会式を行なうことになった。
「発会式というのは華々しくやらなければいけないんだろうな」
「普通だと、ホテルのロビーなんかを借り切ってやるんじゃないの?」
「ロビーを借り切る?」
「ロビーじゃなくて、エーとなんだろう? クジャクの間とか平安の間とか、そういうところを借り切って」
「そう! マスコミ関係数千人を招待して、銀座のホステスも数千人呼ぶ」
「ぼくらは純白のタキシードを着て、カーネーションを胸にかざり、各界の名士の間を、にこやかに挨拶してまわる」
「一方、ホテルの庭では花火を打ちあげる」
「ホテルの玄関には、四人の名前を大書した横断幕が、風にヘンポンとひるがえる」
「会場の正面には大ダルマ」
「メインテーブルには、氷の大彫刻と、スモークサーモンと、エビのコキールと、ロースト・ビーフと、エーとそれから……」
「アジの開きと、イカゲソと、シオカラ、シメサバなんかもあったほうがいいかもしれないな」
「オレ、モツ煮込みが好きだから、それも並べといて欲しいな。鍋に入れて」
「うん、そしてパーティのクライマックスに、四人が高さ数メートル、天井に届きそうなケーキにナイフを入れる」
「銀座通りには、グループの発会式を祝う提灯行列のどよめき」
なんとかパーティと、結婚式と、選挙事務所と、両国の川開きと、日露戦争大勝利と、ナワノレンをミックスしたような大パーティを! とぼくらは願ったのであるが、結局、発会式は、早稲田のそば屋の二階で行なわれた。
それでも、色のはげたメインテーブルには、シメサバと天丼と、二級酒一本ずつが並んでいた。
会場正面の大ダルマの代わりには、お店のまねき猫があったし、エビのコキールの代わりには天丼のエビがある。
四人の名前を大書した横断幕の代わりには、そば屋の、かき氷の旗が、風にヘンポンとひるがえっていた。
「まず、グループの名前を考えないといけないな」
「ウム、そのとおり。ネーミングがなんといっても大切だからな」
「日本の漫画界に新風を吹き込む、そういった若々しい感じが欲しいな」
「グループ若駒!」
「ウーン。なんだか新しさがないなあ」
「グループ若葉!」
「ウーン」
「グループ若獅子!」
「あのね、なんでも若いという字をつけりゃいいってもんじゃないんだよ」
「ウーム」
「グループなでしこ」
「なんだか気持ち悪いなあ」
「スミレクラブ!」
「ウーム。『今晩お電話ちょうだいね。待ってるわ』というビラみたいだなあ」
シメサバを食べ、天丼を平らげ、二級酒一本を飲み干しても、まだ名前は決まらなかった。
「今年は何年だっけ?」
「エーと、一九五九年か」
「ウム。グループ'59、これどうだろ」
「オッ、新しさあるぞ」
だれがいい出したか今では覚えていないが、結局名前は、このグループ'59に落ちついた。
決定してみると、なかなかいい名前である。
早速葉書を刷ることになり、文案を練ることになった。
「まず、われわれは学生である、ということを強調したほうがいいかもしれないな」
「うむ、そこに目新しさがある」
「と、同時に、漫画家でもある、ということを強調しないといけないな」
「そうだ。学生アルバイトみたいな印象を与えてはいけない」
「われわれは学生であるが、漫画家である。正式の、本格的な漫画家である」
結局文案は、われわれは学生ではあるがこのたび漫画家になりましたのでよろしくお願い致します、という簡単なものになった。
「しかし、『このたび漫画家になりました』という部分がなんか変だなあ」
「そりゃそうだ。このたびとは一体どのたびだ?」
文案は最後まで揉めたが結局これでいくことになった。
葉書は百枚刷った。
百枚で八百円だったと思う。
福地のいうとおり、二人だけだったら一人四百円かかったところが、四人なので二百円ですんだ。
葉書が刷りあがると、また四人は集まり、電話帳から各出版社の住所を探し出し、手分けして宛名を書いた。
「あんまり小さなとこは出さなくていいぞ。志《こころざし》は大きく、大手出版社第一主義でいこう」
「そうだな、この出版社はどうだろ?」
「あ、そこはいい。出さなくていい」
四人とも、世の中を甘くみていたのである。
世の中を簡単に考えていたのである。
宛名を書き終ると、切手をペタペタと貼りつけて、百枚ドサッとポストに投げ込んだ。
これでよし。
われわれは突然ではあるが、今から急に漫画家になったのだ。
葉書ドサッの音を合図にこのたびたちまち漫画家になったのだ。
保健所も税務署も認めてくれたわけではないが、福地がこれで漫画家になれるといったのだから、これで漫画家になれたことは間違いのない事実なのだ。
四人、ポストの前で、紅潮した顔を見合わせたのであった。
さあ、祝盃だ、ということになり、またしても例のそば屋の二階に駆けあがると、旗揚げの祝盃をあげた。
「『新進気鋭のグループ'59の作品、一挙十二ページ掲載!!』という見出しが一流週刊誌に出るな」
「そう。『本誌独占! グループ'59の全作品を全公開!』」
「『本誌独占! |あの《ヽヽ》グループ'59に直撃インタビュー!』」
「『キミは読んだか! |あの《ヽヽ》グループ'59の漫画を!』」
全員意気軒昂。
あさってあたりから注文の電話がジャンジャンかかってきて忙しくなるから、きょうは早目に切りあげて早く寝たほうがいいぞ、と、したり顔にいう者もあり、徹夜の連続、ということになるかもしれないから、体調を整えておかないとな、と武者ぶるいする者もあり、その日は全員、早々に切りあげて帰宅したのであった。
早目に床についたものの、ぼくはその夜、興奮してなかなか寝つかれなかった。
「ついに漫画家になったのだ!」
最初のうちは、どんな小さな注文でも、断わらないほうがいいかもしれない。
どんなに忙しくても、一応全部ひきうけよう。
それから、各社の締切りをビッシリ書き込むスケジュール表を作らなくちゃいけないな。
ゆくゆくは、グループ'59の事務所を開設しなければならんだろうな。
そうすると、秘書を雇わなくちゃいけない。
秘書は美人がいいな。
まてよ、グループの中で、福地がいちばんハンサムだから、その美人秘書が福地にほれるということも考えられるな。
それは許せないな。
そうなったら秘書を早速クビにしないといけないな。
あたり前の話だが、注文はひとつも来なかった。
百枚出したのにただのひとつも来なかったのである。
それでも四人は、注文の電話を毎日毎日待った。
「オイ、注文来たか」
「いや」
「ぼくのところもまだ」
「注文じゃなくても、問い合わせの電話ぐらい来てもよさそうなものなのになあ」
「そう。どういうグループなのか? という問い合わせとか」
「へんだなあ」
「おかしいなあ」
おかしくもへんでもない。これが当然なのだ、ということが四人にはまだわからなかったのである。
一カ月経っても注文は来なかった。
二カ月経っても来なかった。
問い合わせの電話も来なかった。
「こちらから、問い合わせの電話をしてみようか」
「なんて、問い合わせるんだ」
「うん、まあ、……つまり、結果はどうなったでしょうか? とかなんとか」
「どうなったでしょうか、といったって、われわれはこのたび漫画家になりました、というただそれだけの葉書だぜ。結果って、なんの結果だ?」
「………」
「………」
「だからね、葉書の最後のところに丸をつける欄を設ければよかったんだ」
「丸をつける欄?」
「つまりね、
1、貴グループに注文したい
2、注文したくない
3、黙殺する
というふうに書いといて、いずれかに丸をつけてもらう」
「しかし、結果としては、全社が3に丸をつけたことになってるじゃないか」
「………」
「………」
世の中、そう甘くはないのだということが、やっと四人にもわかりかけてきたのである。
葉書百枚の印刷代八百円と、切手代五百円、計千三百円の設備投資は、まったくムダになったのである。
一人あたま三百二十五円の設備投資で、一人の人間の職業が確立するはずがないのである。
たったの三百二十五円を投資しただけで、事務所が開設され、秘書を雇い、その秘書が福地にほれる心配までしていたのである。
「持ち込みをやろう」
と、一人がいった。
注文が来ないのなら、こちらから押しかけていくより他はないのである。
四人は持ち込みの相談をすべく、またそば屋の二階に集まった。
日本では、謀議はそば屋の二階に限るのである。
二ページ分の合作漫画はどうだろう、ということになった。
「本誌独占! 一挙十二ページ掲載!」の意気込みはどこへやら、望みもつつましいものに変わっていたのである。
一ページに四点ずつ一コマ漫画を描き、計八点。タイトルも描き文字でちゃんと描いて、そのまますぐ使えるようにして持ち込もう、ということになった。
「そう! そうすれば、雑誌社はそれをただ印刷所にまわせばよいのだから使いやすいわけだ」
「いつでもすぐ使えるわけだ」
「そう! ちょうど二ページ分の原稿が足りないなんてときに、すぐ使える」
「そういうことってよくあるっていう話だぞ。なんたってすぐ使える、というところがミソだよなあ」
「うん、だから原稿を持っていったらすぐ、『よし! この原稿すぐ使えるからすぐ使おう!』ということになって、すぐ使ってもらえるかもしれん」
「持っていったらすぐ、『よし! この原稿すぐ印刷所にまわせ』ってことになるな、きっと」
一度こりたはずなのに、まだ世の中を甘く考えていたのである。
「では、締切りはあさっての午後一時ということにしよう」
「テーマは?」
「そうだな、今は秋だから、『秋』ということにしよう。秋にちなんだもの、ということでどうだろう」
「サイズは?」
「天地八センチ、左右五センチ」
「締切り厳守でいこうな」
簡単、迅速、いいかげんな編集会議は重々しく終了した。
翌々日の午後一時きっかり、四人はそば屋の二階に集結した。
各自二点ずつの原稿を、適当にレイアウトして雑誌大の台紙にペタペタ貼りつける。
編集技術も、割りつけ用紙も知らない四人であるから、とにかく「すぐ使える」ようにと台紙に原稿を貼りつけることを思いついたのである。
貼りつけてみると、ノリが多過ぎたのか、「すぐ使える」原稿は、デコボコ、ガバガバに反り返った。
かなり無残な姿であった。
なにか、内職仕事のような感がなきにしもあらずだった。
これが、やがてお金に換えられ、生活の糧となるしろものとは思えなかった。
無残な原稿を見て、四人はやや意気銷沈したが、一人が気を取り直すようにいった。
「さて、これをどこへ持ち込むかだ」
「うーむ、どこがいいだろうなあ」
「女性週刊誌を出してるK社なんかどうだろう」
と福地。
「うむ、なるほど。あそこならこの原稿にピッタリ合っている」
「いや、K社は、この早稲田から近いから交通費が安くつく」
「うむ、早くも必要経費のことを考えているなんて、さすが福地」
四人は原稿を捧げ持って、ぞろぞろと都電とバスを乗りついでK社に向かった。
世間の人は、この四人が、|あの《ヽヽ》栄光のグループ'59の連中だとはだれも気がつかない。
「行きは都電とバスを使用したが、帰りはタクシーだな」
「もちろん。それで歌舞伎町のキャバレーに乗りつける」
「で、キャバレーの前で、クラクションを何回も鳴らしてもらう」
「キャバレーのホステスが全員ころげるように飛び出してきて出迎えるなかを、われわれ四人は悠揚《ゆうよう》迫らず降りてくる」
「そんな金、だれが持ってるんだ」
「バカだなあ。原稿料だよ、原稿料」
「あ、なるほど、原稿料かあ」
まだ世の中を甘く考えていたのである。
電車の中ではしゃいでいた四人も、いよいよ出版社に着くと、急にシュンとなった。
なにしろ持ち込みは、四人とも生まれて初めての経験である。
一体、どんなふうな手続きをとればよいのだろうか。
面会用紙みたいなものに、何か書き込むのだろうか。
学生証の提示を求められるのだろうか。
第一われわれは、面会の予約もとっていない。
四人がぞろぞろと、いきなりなんの前ぶれもなくやって来たのである。
とりあえず受付の女の人に、編集部の部屋を訊く。
女の人は、事務的に、二階の突きあたりだと教えてくれる。
四人は無言のまま階段を昇る。
編集部のドアの前に一応立ったけれど、これからどう行動すればよいのだろうか。
ドアを開けて入った時点で、なにか演説をぶったほうがよいのだろうか。
あるいは、校歌斉唱のほうが、より効果的だろうか。
手順もなにも考えずに、早くもドアのところへ来てしまっているのである。
とりあえず中へ入らねばなるまい。
とりあえずドアを開ける。
中は広い部屋で、大勢の人が忙しそうに働いている。
電話があちこちで鳴っており、話し声が騒がしい。
われわれにとっては、「社会」というものとの最初の出会いであった。
まず、どの人と、どういう会話を交わすべきなのか。
とりあえずお天気の話とか、景気の話をして、それからだんだん用件に移行すべきなのかどうか。
四人は、しばし呆然としたまま入口に立ちつくしていた。
福地が、
「いけ、いけ」
と、ぼくの背中をつつく。
いけ、いけといったって、どこへどう行けばいいのか、まったくわからないのである。
とりあえず数歩前進する。
数歩前進して、また一団となって赤い顔をして立ちつくす。
また、
「いけ、いけ」
と、福地が背中をつつく。
また、数歩前進する。
無言で入ってきて、無言で赤面し、数歩ずつ、少しずつ前進するこの不思議な集団に、だれも注意を払わない。
数歩前進を数回くり返すと、一人の椅子のところに到達した。
ぼくは勇気をふるって、その人の背中に向かってこういった。
「あのォ……」
聞こえなかったとみえて、その人は振り返らない。
そのまましばらく時間が過ぎる。
ぼくは仕方なく、さらに勇気をふるって、その人の背中を、チョンチョンとつついてみた。
今度は反応があってその人は振り返った。
若い人である。
振り返って、けげんな顔で、われわれ無言赤面の集団を眺める。
「あのォ……」
「なんですか」
「あのォ……」
「だから、なんですか」
「つまり……」
そのあとの言葉が出てこないのである。
これまでの、われわれの長く苦しい忍耐の経過を報告しなければならない。
どの辺から話し始めるべきだろうか。
「なってみてもいい」という辺りだろうか。
あるいは、「葉書ドサッ」の辺りだろうか。
そば屋の二階の旗揚げ祝賀会も話したほうがいいだろうか。
「あのォ、葉書届きましたでしょうか」
「葉書ィ……」
その人は語尾をあげて、われわれ一同を険しい目つきで眺めまわす。
「葉書がどうかしたんですか」
「百枚出したんです」
「百枚ィ?」
「いえ一枚です。ここには一枚で全部で百枚なんです」
「一体なんの話ですか」
「………」
一同赤面したまま額の汗をぬぐう。
「つまりですね、グループ'59ができたんです」
「………」
「ぼくらは学生なんです」
「………」
「だけど漫画家なんです」
「あのねェ、ぼくはいま非常に忙しいんだけどなあ」
「電話を待ってたんですが全然こないんです」
「………」
「それで持ってきたんです」
「………」
ぼくは、ガバガバに反り返った原稿を恭《うやうや》しく差し出した。
若い編集者は、事情がよくのみこめないまま、この原稿をけげんな顔で眺める。
われわれの予想では、彼は原稿を眺めるとすぐ、
「編集長!」
と叫び、感動の色を目にたたえながら編集長のところへ駆けつけ、なにごとかささやくと、編集長は原稿に目を通す。
編集長の目にも、たちまち感動の色がたたえられ、
「これ、イタダキマショ!」
といい、
「ヤマちゃん! これ持って印刷屋へ飛んで!」
と叫ぶはずであった。
そしてぼくらはすぐ会計課へ案内され、原稿料を支給され、タクシーに乗って歌舞伎町へ駆けつける、そういう予定だった。
だが、若い編集者は、かなり長時間かかって原稿を眺めたあと、不審気な顔を挙げてこういったのである。
「これを一体、どうしろというんですか」
予期せぬ言葉に、赤面の集団は一層赤面し、うろたえ、浮き足立ち、
「つまり、……そういうものを……描いちゃったんです……すみません」
と、罪の意識さえ感じて一斉にうつむく。
「困ったことをしてくれたものだ」というふうに、彼はいよいよ渋面をつくり、さてどう叱《しか》ってくれようか、というように、しきりにアゴをなでる。
「ですけど、これすぐ使えるんです」
彼はなんにも答えない。
「そのまますぐ、印刷所へ廻せるようになっているんです」
彼はしきりにアゴをなでまわしたあと、急に決断したように、
「とにかく、こういうものは、ちょっと……」
といって、まるで不浄のものを始末するように、われわれの手に返すと、さっさと背中を向けて仕事にとりかかってしまった。
呆然と立ちつくす一同の耳には、電話のベルの音だけがむなしく聞こえてくる。
われわれは、なおしばらくの間、彼のうしろに無言で立っていた。
まるで職員室で叱られて立っている生徒のようであった。
壮途むなしく、赤面の集団はだれからともなく引き揚げ始めた。
うつむき、無言のまま階段を降りる。
歌舞伎町のキャバレーも今はむなしい。
タクシーもまた今はむなしく、再び都電とバスを乗りついで、一同はうなだれてそば屋の二階へ戻ってきた。
反省会が開かれた。
原稿がガバガバに反り返っていたのが印象を悪くしたのではないか、という意見があり、一同深くうなずき、また、作品が雑誌の性格とマッチしていなかったのではないか、という意見も出、これにも一同深くうなずいたのであった。
だが一同が、もっとも深くうなずいたのは、例の若い記者に、作品をみる目がまるでなかったのではないか、という意見が出たときであった。
その時点を境にして、反省会は急遽《きゆうきよ》その記者の罵倒《ばとう》会に変わった。
あいつはまるで漫画がわからないのだ!
あいつはバカなのだ!
「これを一体、どうしろというんですか」というあの言い草はなんだ!
低能だ!
無能だ!
と、全員なぜか急に元気が出て、
「オーイお酒!」
ということになり、例の記者の悪口をサカナに、みんな大酒を飲んだのであった。
こんなふうに、最初のうちは、断わられても元気がよかった。
あちこちで断わられるたびに反省会を開き、反省会はつねに罵倒会に切り換えられて、最後は「オーイお酒!」ということになった。
だが、三回四回、五回六回となってくると、一同の元気は急速に衰えていった。
こうして栄光のグループ'59は自然消滅への道をたどっていったのである。
結局、最後に残ったのは、福地とぼくだけであった。
衆をたのんでの持ち込みには、どうしても作品に甘さがあり、またお互いの作風の違いが、合作漫画のできあがりを悪くする、ということにも気付いてきていたのである。
グループ'59は、結成後数カ月にして、早くも解散式を迎えた。
やはりそば屋の二階であった。
他の二人は、ちゃんと卒業の見込みがあったから泰然としていたが、中退見込みのぼくと福地は、さすがに暗澹《あんたん》としていた。
「葉書ドサッ」の瞬間から、たしかに漫画家になったのだが、まだ一枚の漫画も売れない漫画家なのである。
当時は、いわゆる週刊誌の勃興《ぼつこう》期で、新しい週刊誌が次々と発刊され始めたところだった。
むろんこれらの週刊誌に、新人のつけ入るすきはなく、頼みとする漫画週刊誌は、たった二誌で、これすら一流の漫画家たちばかりが紙面を飾っていた。
嵐のような集団売り込み期間が終ってしまうと、ぼくはまた怠惰な生活に戻った。
苦しい楽隠居の暮らしに戻ったのである。
そのうち福地は、学校を中退して非常勤ではあるが刃物会社へ勤めるようになった。
ちゃんと月給をもらう身分になったのである。
ぼくはあわてた。
ぼく一人取り残されてしまったのである。
一人悶々としていたぼくは、翌年の春、意を決して家出を敢行することにした。
当時、わが家は酒屋を営んでいた。
父は元サラリーマンであったが、今でいう脱サラをはかり、辛苦して酒屋開業にまでこぎつけたのであった。
ぼくは三人きょうだいのいちばん下で、姉二人はすでに嫁《とつ》ぎ、長男であるぼくは両親の面倒をみなければならないという地位にあったのである。
のみならず、小さいとはいえ、酒屋という家業を継がねばならぬという悲しい宿命を背負っていたのであった。
家にいつまでもいるということは、そのまま酒屋のオヤジになるということを意味していた。
ぼくはどう考えても商売に向いているとは思えなかったし、それよりなにより、漫画家になるのが小さいころからの夢であった。
学業も中途半端、ということになれば、いやでも家業を継がねばならない。
家業を継がぬためにも、どうしても漫画家にならねばならなかった。
一刻も早く漫画で原稿料を稼ぎ、実績を作って両親に認めさせなければならなかった。
学校の問題と家業の問題という二つの大難題を抱えながら、ぼくは相変わらず楽隠居の生活を続けていたのである。
「なんとかしなければ」
の思いを、胸一杯に抱えながら、ぼくはランドルフ・スコットと、オーディー・マーフィを毎日観ていたのである。
(とにかく、一度家を出ることだ)
と、ぼくは思った。
そこからすべて新規|蒔《ま》き直しだ。
白昼堂々の家出
ぼくはついに家出を敢行することになった。
家出というものは、普通ボストンバッグ一つに下着などを詰め込み、夜陰に乗じて敢行されるものであるが、この家出には小型トラックが使用された。
しかも、白昼であった。
小型トラックには、机、本箱、布団、などの大物から、鍋釜、茶わん、ハシ、チリ紙、箒《ほうき》にチリトリ、まな板に包丁、コーモリ傘に下駄、砂糖にしょう油、味の素にお塩、に至るまで、生活に必要なもの一切が積み込まれた。
両親は、動き出した車に、手さえ振って別れを惜しんでくれたのである。
白昼堂々、両親認可、トラック仕立ての家出であった。
これが正しい家出といえるかどうかわからないが、ぼくの心境としてはまったく正しい、正統な家出であった。
「やむを得ない」というのが両親の心境であったし、ぼくの心境もまた「やむを得ない」であった。
生計のあてはまるでなかった。
まるでなかったけれども、当面の生活費だけはちゃんと持っていたのである。
漫画が一枚も売れないのに、なぜそのような大金を所持していたのか。
家業の酒屋を手伝いつつ、この日あるを期して、着々とヘソクリを貯め込んでいたのである。
ヘソクリというものは、たいていの場合、細々と長期にわたって行なわれるものであるが、ぼくの場合は、かなり激しく、かなり大胆に行なったので、短期間にかなりの成果を挙げることができた。
最初は、配達を手伝い、その際の伝票を破り捨てるという、初歩的かつ慎重な方法に頼っていたが、そのうち、大規模かつ兇悪な方法を発見したのである。
商店などに置いてある金銭登録機は、開けるときに、チーンというかなり大きな音をたてるものであるが、ぼくは音をたてさせないでひき出しを開ける方法を発見したのである。
この秘術を公開することは、ここでははばかる。
ぼくも早や、「青少年に及ぼす影響、及び害毒」などということも考慮しなければならない年齢にさしかかっているのである。
こうなると、かなり大規模なつかみ取りが可能になった。
ぼくは進んで店番を受け持ち、その秘術を激しく駆使して、かなり大胆なヘソクリに精を出した。
酒屋とはいっても、わが家は小さなささやかな酒屋であったから、この業務上横領は、この店にとっては大きな打撃であった。
S銀行における某女史のようなわけにはいかないのである。
ささやかな酒屋から横領したヘソクリの額も、大規模なつかみ取りとはいってもタカが知れていたのである。
下宿の部屋を借り、およそ三カ月ほどはなんとか食いつなげるという程度のものであった。
三カ月たてば、それから先は、自分でなんとか生計を立てていける、という目算はなかったが、一応の目算もないではなかった。
その目算とは、またしても、
「まあ、なんとかなるのではなかろうか」
というものであった。
家出人の落ちつく先は、普通、簡易旅館とか、よくても北向きの三畳というのが相場であるが、この家出人が探し出した物件は、六畳の間であった。
しかも南向きであった。
さらにいかめしい床の間さえ付いていたのである。
その上、わずかではあるが、前面には庭もついていたのである。
ただし、庭の前には、大きなトルコ風呂の建物があったので、陽はまったく当たらなかった。
ぼくはのちのち、このトルコ風呂と不思議なかかわり合いを持つことになるのであるが、それはあとで述べることにして先を急ぐ。
場所は新宿の、国電大久保駅近くであった。
しかも駅から二分という近さだった。
いや走れば一分という近さだった。
ぼくはのちのち、この駅から二分の道のりを、やたらに走り廻ることになるのであるが、これもあとで述べることにして先を急ぐ。
この国電大久保駅周辺は、知る人ぞ知る、知らない人ぞ知らない、いわゆる湯治を目的としない客のための温泉旅館が密集しているところなのである。
湯治を目的としない客は、この旅館でどういうことを行なうのか、ぼくはくわしいことは知らない。
駅から歩いて二分の道のりの両側すべてが、これらの温泉旅館であった。
不動産広告物件ふうに書くと、
「駅二分、南向六畳、床間付、庭有、眺望絶佳(なにしろ前面はトルコだから)、環秀(なにしろ周囲全部温泉マークだから)、惜譲、早勝、仲断」
ということになる。
三カ月から先の生計の目途もない家出人の住まいとしては、贅沢《ぜいたく》きわまる、といってもいい過ぎではない物件である。
山谷の簡易旅館に泊まるべき人間が、赤坂の迎賓館に宿をとったようなものであった。
なぜこのような、無謀ともいえる暴挙を行なったかというと、この迎賓館の家賃が、意外にも破格的に安かったからなのである。
四千五百円であった。
当時としては、四畳半の値段と同じだった。
なぜ、この駅二分、南向、床の間付、庭有の秀逸な物件が安かったのか。
これについてはあとで述べることにして先を急ぐ。
どうもこのへんは、「あとで述べる」が多いようである。
「あとで述べる」ことがだいぶ貯まってしまったようである。
よく考えてみると、それほど「先を急ぐ」必要もなさそうだし、本当に「あとで述べる」べき部分を覚えていて述べることができるかどうか不安にもなってきたので、この件に関してのみ、「ここで述べ」てしまうことにする。
なぜこの迎賓館の家賃が安かったか。
この下宿屋は、本職の下宿屋ではなく、女世帯で物騒だから、下宿人でも置こうか、という方針の下宿屋だったのである。
ただし、下宿人は学生に限ったのである。
学生は身許《みもと》がはっきりしているし、いろいろうるさいことをいわない、という点を買われて、下宿人は学生に限る、ということになっていた。
この学生に限る、というところが、この大家さんの泣きどころであった。
なにしろ環境が環境である。
前面トルコ、周辺全域温泉マークという環境は、勉学に励む学生には、必ずしも適しているとはいえない。
息子の下宿の環境に関心を持つ親ならば、まず躊躇《ちゆうちよ》する下宿である。
かくして破格の相場が案出された、というのが真相であるらしかった。
下宿先に向かうトラックの荷台の上で、ぼくは深い感慨にふけった。
独立!
いよいよぼくは自分一人で生計を立てていくのだ。
両親には、
「ちゃんとやっていける明るい見通しがついたから」
と宣言して家を出てきたのである。
だが前途は、長い長いトンネルのようにまっ暗であった。
ちゃんと学校にも行き、生計を立て、卒業もし、立派な漫画家となって故郷に錦を飾ります、と宣言して家出を許可してもらったのである。
「故郷に錦」といっても、自宅は八王子であったから、同じ東京都内である。
八王子と大久保は、同じ国電中央線であり、時間にして四十分の距離であった。
錦を飾りに行こうと思えば、いつでもすぐに飾りに行ける近さであった。
だが実際は、学校にも行かず、生計も立てられず、卒業の見通しに至っては、これはもうどうあっても卒業できないであろうという確乎とした見通しがついていた。
故郷に錦どころか、故郷に雑巾《ぞうきん》も飾れないであろうという悲惨な状況に取り囲まれていたのである。
揺れるトラックの荷台の上で、ぼくは両親のことも思った。
元サラリーマンであった父は、やっと酒屋開業にまでこぎつけ、これでやっと老後も安泰、伜《せがれ》の卒業も間近、あとは伜に嫁をもらって楽隠居、と思っていたに違いないのである。
なのに伜のほうが楽隠居の生活をしていて、あげくの果てに、漫画家になるために家を出るといい出したのである。
父母の胸中はいかばかりであったか。
悔恨の涙と鼻水は、顔面よりとめどもなく、あふれ出るのであった。
下宿に着き、運送屋を帰すと、ぼくはまず数少ない家具をそれぞれの位置に安置させた。
それから荷物をほどき、布団を押入れにいれ、シャツとパンツのたぐいも押入れにいれ、包丁やまな板も押入れにいれ、箒やチリトリも押入れにいれ、鍋釜や茶わんも押入れにいれ、靴やコーモリ傘も押入れにいれ、しょう油のビンやソースのビンも押入れにいれ、部屋を掃き清め、身に余る床の間もきれいに雑巾をかけ、かかっていた掛軸の位置を正し、一人部屋の中央に坐りこんだ。
これから先、一体どうなるのだろうか。
あるいはどうにもならないのであろうか。
一応の貯えはあるというものの、これも向こう三カ月分だけである。
人生というものは、その三カ月から先のほうがずっと長いらしいのだ。
漫画の原稿が、そう簡単にお金に換えられないものだということもよくわかっていた。
いざとなったら、土方でもなんでもやるつもりではいたが、はたして、ぼくは、土方の方々《かたがた》とうまくやっていくことができるだろうか。
つき合い方がまずい、ということで殴られたりするのではなかろうか。
土方の方々は力が強いから殴られると、相当痛いのではなかろうか。
その夜ぼくは、残してきた両親を思い、暗澹としたわが前途を思い、南向き眺望絶佳の六畳の部屋で、前面トルコ風呂のネオンに照らされながら一人涙にくれていたのであった。
だが若さは、一人の青年を、一つの感情の中にだけ押しとどめておくようなことはしない。
新しい生活は新しい刺激に満ち、新しい興味は青年を行動に駆り立てる。
この下宿の下宿人は、ぼくもいれて六人だった。
隣室の青年が、トリスのビンを持って挨拶に現われた。
迎賓館に、早くも賓客が入来したのである。
常識的に考えれば、新入りのぼくのほうが挨拶に出向くことになるのであろうが、若さは往々にして常識を無視する。
「石田といいます」
と彼はいった。
彼が持参してきたトリスのビンには、ウイスキーが半分ほど入っていた。
「いかがですか」
と彼はビンを突き出す。
ぼくは早速、例のなんでも入っている押入れからコップを取り出し、トリスをゴボゴボと注《つ》いでもらう。
普通ウイスキーを飲むときは、水を用意するものであるが、若さは水を必要としない。
ストレートが常識であった。
そしてまた、ウイスキーを飲むときは、なにがしかのおつまみを用意するのが普通であるが、若さはおつまみも必要としない。
歯みがき用のコップに、ダバダバとコハク色の液体を注いでグイグイと飲む。
無謀といえばいえなくもないが、そういう感覚はすでに大人の感覚である。
石田青年は、早稲田の学生であった。理工学部の秀才である。
「すると、ぼくと同じというわけか」
「学部はどこですか」と彼。
「文学部のほうにね、いるんですけどね」
「何科?」
「露文のほうにね、いるんですけどね」
「いるんですけどねって、なんか頼りないヘンないい方ですねェ」
「ええ、頼りなく、ヘンな具合にいるんですけどね」
「何年生ですか」
石田青年は、あぐらをかきグラスを唇にあてて、上目づかいにたずねる。
「まあ、三年生ぐらい、というような感じでいるんですけどね」
「はあ……。すると先輩ということになりますね」
「あなたは」
「ぼく、二年です。先輩、もうちょっとどうですか」
石田青年は残り少ないトリスのビンを突き出す。
先輩は後輩のウイスキーをグイグイ飲む。
ウイスキーはたちまち空《から》になった。
普通こういう場合、先輩はただちに、
「じゃ、外へ出ようか。今度はぼくがおごろう」
といって後輩を連れて飲みに出かけるものなのであるが、この先輩は、なかなかそういい出さないのである。
なにしろこの先輩は、向こう三カ月分の生計費しか所持していなかったし、その三カ月分も、あくまで「生計費」としてのお金であって、「遊興費」もしくは「交際費」の分までは、予算に組んでなかったからである。
空になったトリスのビンを前にして、二人は深いため息をついていた。
(なんと頼りがいのない先輩か)
と彼は思っているに違いないのである。
「ここ、学校に近くてなかなか便利ですよ」
と、彼が口を開いた。
「山手線の新大久保駅も、ここから歩いて五分ですからね。隣りが高田馬場駅」
「なるほど」
「やはり下宿は、学校に近いのがいちばんですね」
「そうだろうなあ」
いくら学校が近くても、ぼくには関係のないことなのだ。
「外へ出ませんか」
と彼のほうがいった。
こうなると外へ出ないわけにはいかない。
「いきますか」
ぼくは、自分は本日ここに到着した人間であるから、この付近の情勢を知らない。よって貴君の熟知せる適当な店はないか、と彼に尋ねると、彼はただちに、ナントカというバーの名前をあげ、ナントカちゃん、とってもかわいいんだ、などとつけ加えた。
かなり熟知しているもののようであった。
そのバーヘおもむく途中、ぼくは「合成酒三十五円」という縄ノレンの看板を目ざとく見付けた。
「石田君、ちょっとちょっと」
「は?」
「そこがちょっとおもしろそうじゃないですか、入ってみませんか」
「あ! そこですね。入りましょう」
ぼくは縄ノレンを掻き分けて彼を中へ連れ込んだ。
合成酒三十五円の縄ノレンが、おもしろいはずはない。
安くすませよう、という魂胆なのである。
酔っていたとはいえ、早くも生活者としての知恵を身につけたものとみえる。
合成酒三十五円、清酒五十円、モツ煮込み四十円、シオカラ三十円、イカゲソ三十円、冷やしトマト三十円、ライナービヤー八十円、45ウイスキー四十円などの値段表が見えた。
むろん、お刺身、冷ややっこ、茶わん蒸し、一級酒、ビールなどの高級品の文字も見えたが、これらは値段的に自分たちと無縁のものであったので、それらについて検討するということはぜんぜんしなかった。
ライナービヤーというのは、当時あった合成ビールのことである。
ビールの中ビンより少し小さめのビン一本が八十円で、飲めばちゃんとビールの味がした。
しかもアルコール度は、普通のビールの二倍だった。
だが、愛用する人は少なかったように思う。
その後もぼくは、この店のモツ煮込みと、冷やしトマト、シオカラと、合成酒と合成ビールをもっぱら愛用した。
思えば合成の多い店であった。
「オッ、ライナービヤーってのがあるぞ。これ飲んでみましょう」
ぼくは石田青年にいった。
ライナービヤーは、わが酒店にも置いてあって、いつも、うまくない、うまくないといっていたのである。
ライナービヤーを二本とった。
早くも百六十円の出費である。
合成ビールを飲み干して次に合成酒を二本たのんだ。
シオカラも二つたのんだ。
合計百三十円である。さっきの百六十円と合わせて早くも二百九十円を消費する。
三カ月の生計費マイナス二百九十円、と計算する。
生計費がどんどん減っていくのである。
気が気ではない。
さらに合成酒を二本追加した。合成ビールと合成酒でおなかは合成だらけになった。
下宿で飲んだトリス半分と、合成ビールと合成酒で二人共かなり酔ってきていた。
「そのナントカちゃんのいるバーね」
「あ、行きましょ、行きましょ、そこへ行きましょ」
「今回はもう遅いし、次回の楽しみということでとっておきましょうよ」
「それもそうですね」
石田青年が意外におとなしくうなずいたので、とめどなく出ていた出費が、ここでやっととまったのである。
酔眼もうろうとした二人は、駅より二分の例の道を歩き出した。
両側すべて温泉旅館の道である。
どの旅館の看板にも必ず「お気軽にどうぞ」という文字がある。
アベックが、悪びれず、次から次へと旅館の玄関に消えていくのである。
「オッ、オッ、あいつら手をつないで入っていく」
「ええ」
「オッオッ、あいつら上役とOLふうじゃないの」
「多いんですよ、ああいうの」
「ああッ、あいつ、女がいやがっているのにむりやりに。おまわりを呼べ。いや機動隊を呼べ」
「大丈夫なんですよ、あれはあれで」
彼はつねに落ちついている。
なにしろ彼は、この地に二年間住んでいるのだ。
もうすっかり慣れているらしいのである。
だがぼくにとっては生まれて初めての経験である。
「こんなことを許しておいていいのかッ」
酔いも手伝って憤激の度合いは増すばかりであった。
ぼくは、当然の帰結として憎むべきアベックヘの嫌がらせを考えるのだった。
どういう嫌がらせをするかというと、アベックの横を素早く駆け抜けると、十メートルぐらい先へ行ってから振り返り、ごく低い声で「コノヤローッ」とうなるのである。
この嫌がらせが、憎むべきアベック共に対して、どれほどの効果があったかは定かでない。なにしろアベックは、鼻息荒く自分たちの横を駆け抜けた酔漢に悪い予感を抱き、とうの昔に旅館の中へ消えていたからである。
青年は、自分の行なった嫌がらせが、相手に対してどれくらいの効力を発揮したか、酔ってはいてもおぼろげに察知すると、今度はアベックの消えた旅館の玄関に突進するのであった。
そして玄関の戸を激しくたたいて、一目散に逃げ戻ってくるのである。
この嫌がらせも、直接の敵であるアベックに、どれほどの効力を発揮したか、それは定かでない。
なにしろアベックは、玄関からいち早く部屋に向かうものだからである。
それはわかっていたのであるが、なにかをしないではいられない情熱と忿懣《ふんまん》が、青年の体中《からだじゆう》にたぎっていたのである。
毎晩のように「合成の多い料理店」に出かけていっては毎晩のように電柱に暴行を働き、その帰途毎晩のように低くうなり、毎晩のように旅館の戸をたたいてまわった。
思えば激しい労働であった。
青年の情熱とは、このように純粋で、無垢《むく》で美しく、報償を求めないものなのである。
青年は、やり場のない怒りに身を震わせつつ部屋へ戻ってくると、少し悲しくなって縁側に腰をかけ、タバコに火をつける。
すると目の前には、トルコのネオンが明滅しているのである。
窓からは、男女の嬌声《きようせい》さえ聞こえてくる。
思えば本当に悪い環境であった。
夏は暑いので、トルコの各部屋の窓は、少しずつ開け放たれている。
そこから湯けむりがもうもうと立ち昇っている。
青年はハシゴを持ち出してトルコの窓際に立てかけた。
内部の状況をのぞいてみようという魂胆である。
それまでの、青年らしい怒りの情熱と、このトルコの内部をのぞこうという魂胆とは、直接のつながりはないのであるが、それはさておき、とにかく青年はハシゴをかけた。
中をのぞくと、見える見える、客の足先が見える。
会話の内容から察するに、現在は頭のほうを揉んでいるらしい。
最終段階に至るまでには、まだ多くの紆余《うよ》曲折が予想された。
のぞきをする場合、いつの場合でものぞいてみたら途端に「いいとこ」だったということは滅多にない。
「いいとこ」までの、長い長い辛抱と忍耐を余儀なくされるのがつねである。
などと書くと、ぼくはのぞきの常習者であったかのような誤解をされると困るので、ひと言弁明しておきたいところであるが、実をいうと、このころはそうだったのである。
必死にのぞきを心がける、というより、純真な青年を、ついのぞきにかりたててしまうという状況が、つねに周辺に存在していたのである。
このハシゴ事件のときも、ぼくは細心の注意を払いつつ「いいとこ」が到来するのをひたすら待っていた。
すると突然、大量の水が頭上からふりかかってきたのである。
その夜は月さえ出ているよい天気であった。
あとでわかったことであるが、このトルコの経営者の奥さんが、二階の窓からバケツの水をぶっかけたのであった。
二階の下宿人が、この事件の一部始終を目撃していたのである。
しかも降りかかった水をよく見ると、ドロドロの雑巾水であった。
ぼくの大切なシャツもズボンも泥一色に染めあげられた。
ぼくは怒り心頭に発した。
怒りは心頭に発したけれど、だれに向かっても怒るというわけにはいかない。
自分の置かれている立場を、酔ってはいてものみこんでいたらしい。
ぼくは怒りをたぎらせつつ、ハシゴを降りるとビショ濡れの衣服を脱いだ。
髪の毛もドロドロである。一帳羅《いつちようら》の大切なズボンもドロドロである。
またしても激しい怒りがこみあげてきたが、だれに対しても怒りをぶちまけることはできない。
やり場のない忿懣は、さらにやり場がなくなったのである。
「なにもドロドロの水をぶっかけなくても、普通の水で充分警告の効果はあったろうに」と十数年たった今でも、そのことを思うとやり場のない怒りがこみあげてくる。
ぼくは、その後も、隣人たるトルコの奥さんとは、何回も何回も道ですれちがった。
双方とも、お互いに知らぬ顔ですれ違った。
二人は、すれ違うたびに、なんともいえない複雑な感情を味わわなければならなかったのである。
思えばこの三年間、ぼくは何度この温泉街を、忿懣やる方なく走ったことであろう。
何度、温泉マークの玄関の戸をたたいたことであろう。
何度、低く「コノヤローッ」とうなったことであろう。
これらの行為によって、ぼくの青春のエネルギーの大半が使い果たされたといっても過言ではないのである。
漫画行商人
この下宿は、なぜか医学生が二人、青山学院大生、明大生が各一、隣室者の石田青年が早大生、それに、頼りなくなんとなくいるぼくも一応早大生ということで早大生が二人という構成だった。
どういうわけか、いいとこのご子息たちが多かったようである。
ここは賄《まかない》付きではなかったから、下宿人のほとんどは外食だった。
だが下宿人専用の台所が一つあり、自炊も一応可能ではあった。
月末になり、仕送りが底をついた人が、たまにうら寂しく、うす暗い台所でゴソゴソやっているという程度だった。
大の男が、裸電球のうす暗い灯りの下で、トントンとタクアンなどをきざんでいる姿は、かなりわびしい光景だった。
この下宿では、この台所でゴソゴソやっているということは、その人の生活力が、現在|逼迫《ひつぱく》しているということを意味していた。
だがぼくは、この台所を最大限に活用した。
毎日毎日、朝も昼も夜も、台所でゴソゴソと動きまわっていた。
なにしろ定職とてなく、ローヤル劇場へ通ってヒマつぶしをする必要もなくなったので、他にすることがなくなったから、台所でゴソゴソやっているより他なかったのである。
たとえ定食食堂といえども、自炊よりははるかに高くついたのである。
米屋に行って、お米を一キロずつ買うことも覚えた。
八百屋や魚屋へ行き、おばさんや若奥さまの間に混ざり、おかずを買うことはあまり抵抗がなかったが、どういうわけかお米屋でお米を買うことには強い抵抗があった。
それでも最初のうちは多少の経済的余裕があるような気がしたので、この台所でぼくは長い間の念願であった夢を果たすことができた。
それは肉だらけのカレーライスを作ることであった。
家出を敢行したら、なにはともあれまず第一に、肉だらけのカレーライスを作ることが夢だった。
これまでのぼくの人生のカレーライスは、つねに肉が不足であった。
いったいカレー一皿分に、何個ぐらいの肉片があるのが、最も常識的なカレーといえるのだろうか。
三十数年の生涯を過してきた現在でも、未《いま》だに、
「ああ、きょうのカレーは、肉が豊富だった。充分だった。満足だった」
ということは一度もないのである。
カレーがおいしかった、ということは幾度もあるが、
「ああ、これでもう少し肉がたくさんあれば、もういうことないのになあ」
という不満がつねに残るのである。
ああ、肉だらけのカレー!
汁の中に肉があるのではなく
肉のすき間に汁があるカレー!
カレー汁の表面が、平らではなく
肉のために激しいデコボコのあるカレー!
掘れども掘れども肉また肉のカレー!
ゴハンひと口に、肉ひと切れを
必ずいっしょに食べられるカレー!
ラッキョウの助けも借りずに
福神漬の助けを借りずに
ときには、ゴハンひと口に
肉ふた切れを食べてもよいカレー!
掘れども掘れども肉また肉のカレー!
ああ、ああ、肉だらけのカレー!
肉だけでゴハンを食べきれるカレー!
肉だらけのカレーを讃える歌
これはぼくが当時作ったカレー讃歌である。
これほどまでに、肉だらけのカレーにあこがれていたのである。
ぼくはまず電気釜にゴハンをしかけると、スーパーマーケットに肉を買いに行った。
肉といってもぼくの買うのはカレー用角肉とかシチュー用ナントカというのではなくコマ切れである。このコマ切れで肉だらけとは具体的に何グラムが適当なのか。
当時は、ぼくはブタのコマ切れ以外の肉がこの世に存在することを知らなかったから、まっすぐコマ切れ肉の前に立った。
最初三百グラム買ってみた。百グラム四十五円である。
どうも足りないような気がする。
もう百グラム足してもらった。
まだ足りないような気がする。
なにしろ二十数年間、夢にまでみたカレーである。
讃歌まで作ったカレーである。
もし食べてみて、
「ああ、やはり肉がもうちょっとあったらなあ」
ということになったら、その無念、胸がはり裂けるばかりのものになると思う。
もう百グラム足してもらった。
合計五百グラムである。
まだ足りないような気もしたが、一応それを包んでもらって、カレールウを買った。
それから八百屋へ行ってジャガイモとタマネギとニンジンを買った。
ジャガイモの皮をむくのも初めてであったし、タマネギをきざむのも初めてであった。
ジャガイモもニンジンもタマネギも、どういう形に切ってもよいようなものであるが、いざ包丁の刃をあてるときはかなり迷うものである。
大型鍋にお湯を煮たて、全部を一ペんに投入した。
やがてカレーの匂いが、おいしそうにたちこめてきた。
カレー汁の表面は、肉のために激しいデコボコができていた。
いや、激しいデコボコというより、肉がなみうつ、というような状態であった。
なぜかぼくは、
「ザマミロ」
と叫んだ。
それから、
掘れども掘れども
肉また肉のカレー
と、例のカレー讃歌に、でたらめの節をつけて歌った。
世紀のカレーはできあがった。
堂々! ブタコマ五百グラム全投入! のカレーが完成したのである。
これを部屋へ持ち帰り、テーブルはなかったから、畳の上に新聞紙を広げて、その上にカレーの入った鍋をおき、ゴハンを皿によそおうとした。
そのとき、
隣室の石田青年がトントンと戸をたたいたのである。
ブタコマ五百グラム、堂々全投入のこのカレー、食われてなるものか、と、ぼくはカレーの鍋を、例の「なんでも入っている押入れ」に突っこんだ。
靴下とパンツの横であった。
「なんか、いい匂いがしますね」
石田青年は鼻をヒクヒクさせている。
「そうですかね。しますかね」
「おっ、食事ですか」
「いや、これから、タクアンを買ってきてね、それをおかずに食べようかなんて考えてたとこ、タクアンだけをおかずに」
「あ、そうか、じゃわるいや」
「うんまた今度ね」
「おっ、押入れからけむりが」
押入れからカレーライスの湯気がもれ出ていたのである。
「………」
「火《か》、火事では!」
ぼくは仕方なく押入れをあける。
「食べる?」
「いただきます」
ぼくはゴハンをよそい、カレー汁をかける。
「おっ、おっ!」
彼の目に感動の色が浮かんだ。
むろん肉のための感動である。
彼の皿には、肉を少なめによそったのであるが、それでも彼の目に感動の色が浮かんだのである。
「なにしろ五百グラム全投入! ですからね」
「エ? 五百グラム!」
彼の目に今度は尊敬の色がみなぎったのである。
一人あたまの肉の量は、二百五十グラムに半減したが、それでもこのカレーはおいしかった。
むろんゴハンひと口に、肉ふた切れをそえて食べることもできたし、福神漬の助けを借りずにゴハンを食べることもできたのである。
結局三年間、ぼくはこの下宿にいたのであるが、三年間を通じて、この「肉五百グラム全投入」のカレーが最大の贅沢となった。
下宿生活はたしかに自由だった。
何時に起きてもいいし、何時に寝てもよかった。
文句をいう人はだれもなかった。
ローヤル劇場への日参、という日課もなくなってしまったので、ヒマだけは充分にあった。
馬に食わせるほどどっさりあった。
朝、床の中で目を覚ますと、その日のプログラムを自分で組まねばならなかった。
それでも、一日二日は、きょうはなにをしようか、という楽しみがあったが、それが、一週間、二週間と続くともはや苦痛になった。
そして、きょう一日はなにをしようか、ということを考えないようになっていった。
毎日毎日を出たとこ勝負で過した。
朝、目が覚めると、まず、鼻の穴の掃除をする。
これも念入りにやれば結構時間をつぶすことができた。
枕にアゴをのせ、ゆっくり念入りに少量ずつ、指の爪《つめ》に確保し、それを保持しつつ、そろそろと排除する。
片っぽうの清掃事業が終了してしまっても、そう落胆することはなかった。
まだ、もう片っぽうの清掃事業が残っている。
ぼくは、人間の鼻の穴が二個あることを神に感謝した。
三個あればもっと感謝するのになあ、とも思った。
排除作業が終ると、今度は、その収穫物の凝固作業にとりかかる。
収穫物は多いこともあったが、少ないこともあった。
むろん、いくら収穫が多くても、それは収入にはつながらなかったので、収穫が多いからといって喜ぶ、ということはなかった。
この作業が終了すると、万年床を出て、「眺望絶佳」の縁側に出て、ヒザにアゴをのせて今度は爪のアカほじりにとりかかる。
このときも、人間の爪が総計二十個あることを神に感謝した。
(三十個あればもっといいなあ)
とも思った。
爪のアカをほじり終ると、今度は鼻毛を抜く作業に移ったりした。
毎日毎日、これらの作業に没頭していた。
むろんこれらのどの作業も、収入にはつながらなかったから、支出一方の財政は逼迫の度合いを深めていった。
午後になると、近所の銭湯に出かけていくのをつねとした。
下宿のそばに、三福会館という結婚式場があり、このビルの二階に銭湯があった。
三階から上が結婚式場で、一階と地下がデパートになっていた。
銭湯が二階にあるというのは、全国的にみてもめずらしい存在ではなかったろうか。
湯舟に体を沈めていても、自分の裸の尻の下では大勢の買物客がひしめいていると思うと、なんだか落ちつかない思いがするのであった。
この銭湯は、毎日三時に開業した。
銭湯でもまた、どっさり時間をかけて、体のすみずみまでよく洗った。
どうもこのころは、体の清浄作業にばかり励んでいたようである。
なにしろ時間はたっぷりあったから、いつも一時間はお風呂につかっていた。
湯桶《ゆおけ》を尻にしいて、三十分ぐらいボンヤリと外を見ていることもあった。
二十三歳の青年が、まるで定年退職者のような生活を送っていたのである。
楽隠居の生活を先にし、それから定年退職者の生活に移るなど、この青年の行動は、どうも順序が逆だったようである。
学校に籍はあるが学生ではなく、漫画家ではあるが、漫画家としての仕事はなく、定年退職者のようではあるが、定年ではなく、楽隠居の生活ではあるが、金はない、といった不思議な生活を送っていたのである。
帰りは、たいてい地下一階の食料品売場に寄った。
ここで晩のおかずを買うのである。
床を離れて風呂に入り、早くも晩めしの仕度にとりかかるのである。
モヤシと豚のコマ切れを買うことが多かった。鯨の南蛮漬というのもよく買った。サツマ揚げもしばしば購入した。
隣室の学生は、よくウインナソーセージをフライパンでいためて食べていたが、ぼくにとっては、ウインナソーセージさえ高嶺《たかね》の花だった。
三時に銭湯に行くから、帰りはたいてい四時ごろである。
町には、背広にネクタイ、皮靴のビジネスマンたちが忙しそうに行き交っている。
そのなかを、濡れタオルに石けん箱を持ち、モヤシの汁をしたたらせながら下駄ばきの青年は歩いてゆくのである。
彼らはこれから五時まで、まだたくさんの業務を抱えているのであろうが、ぼくには抱えるべき業務がない。
抱えているのは、汁のしたたる十円のモヤシの袋である。
百グラム四十五円の、ブタ肉のコマ切れである。
青年はなぜか世間の目を避けるようにして夕暮れの町を歩いてゆくのであった。
お米は一キロずつ買った。
「お米の一升買いをするようになっちゃ、人間おしまいだ」
という言葉を聞いたことがあるような気がするが、一升買いどころか一キロ買いであった。
一キロ買うと三日から四日でなくなる。
お米を一キロ紙袋に入れてもらい、大の男がそれを抱えて家路をたどるときは心底悲しかった。
貧に泣く、とはこのことに違いないと思った。
今のぼくには米びつさえない。
ぼくの米びつは、この一キロしか入っていない、すぐにも破れそうな紙袋である。
うす暗い台所で、お米をシャカシャカとといでいると、オレはこうしてだんだんダメになっていくに違いない、あと五年たっても、いや十年たっても、きっとこうして、うす暗い台所で、お米をシャカシャカといでいるに違いない、と暗い思いで胸が一杯になるのだった。
いやそのころは、きっと背中に赤ん坊も背負っているに違いない。
そして、そのかたわらに幼児も泣き叫んでいるに違いない。
「とうちゃん、ひもじいよォ」
「待ちなさい。お父さんがいま、ゴハンを炊いてあげるからね」
父親は、米びつならぬ一キロ入りの紙袋を濡れた手で取り上げると、紙袋は破れ、台所の床一面にお米が音をたてて散らばる。
父親はうす暗い台所に這いつくばって、散らばったお米を拾い集める。
背中におぶった赤ん坊は、父親のこの突然の不幸を察知してか、火のついたように泣き始める。
おれは、五年たっても十年たってもこうして台所に這いつくばって、お米を拾い集めているに違いない。
幼児も泣き始めるに違いない。
「泣くんじゃない、泣くんじゃない。お父さんは今、お米を拾い集めているのだからね」
暗い予感はさらに予感を呼び、ぼくはいたたまれなくなって台所を飛び出し、例の「合成の多い料理店」に駆けつけ、合成酒をあおる。
合成ビールさえも、今は早や手の届かない存在となっていた。
三カ月が、アッというまに過ぎていたのである。
早くも、三カ月から先の、長い長い人生に足を踏み入れていたのであった。
「ま、なんとかなるだろう」という人生方針が、もはや通用しなくなっていたのである。
今度はほんとうに、
「なんとかしなければならぬ」
と思った。
これより一カ月ほど前から、雑誌社の原稿取りのアルバイトを始めていたが、これは週二回だけだったので、たいした収入にはならなかった。
下宿生活にはいったら、毎日毎日キチンと漫画を描き、雑誌社に売り込みに行く予定だった。
だが漫画は、まだ一枚も描いてなかった。
ぼくはときどき、八王子の自宅に帰るようになっていた。
「お店忙しいだろうと思って手伝いにきた」
と称して、二、三日食いつなぐのである。
家へ帰ると、やせおとろえて、アゴのとがった息子を見て、母親は涙をこぼした。
体重は五十五キロになっていた。
現在の体重が七十キロであるから、十五キロも少なかったわけである。
当時にくらべ、十五キロの肉塊がぼくの現在の体に付着していることになる。
十五キロの肉塊とは、だいたいどのくらいのかたまりになるのだろうか。
母親の涙を見ると、息子も涙をこぼした。
泣きはしたが、涙を拭くとすぐ店番を申し出て、またしても秘術を激しく駆使して業務上横領にとりかかるのであった。
そのころ、人手不足の波が、この小さな酒屋にも波及してきていて、店員が一人やめ、二人やめ、年老いた両親が、重い酒の配達もしなければならなくなっていた。
その年老いた両親の、血と汗と涙の稼ぎを、息子は秘術を激しく駆使してかすめとっていくのである。
このころはほんとうによく酒を飲んだ。
飲まずに一日を過すことができなかった。
ぼくは今でもそうだが、このころから、お酒をおいしいと思って飲んだことは、一度もない。
酒はつねに酔うために飲むものであった。
ぼくはお酒を全然飲まない人も好きではないが、楽しんで飲む、という人もあまり好きではない。
「酒なくて、なにが人生かな」
などと、ヘンなことをつぶやきつつ、楽しそうに飲んでいる人はあまり好きではない。
あまりにあたりまえ過ぎるではないか。
当然の結果として、飲めば荒れた。
荒れる、といっても、警察の方々とかかわり合いを持つような、「勇気ある荒れ方」ではない。
お上《かみ》のご厄介にならない程度に、ささやかに荒れるのである。
しょっちゅう電柱によじ登った。
電柱によじ登って電線工事をするのではない。ただ絶叫するのである。
絶叫といっても、意味のある言語を叫ぶのではなく、ただ、「ウオーッ」とか、「デャーッ」とか咆哮《ほうこう》するのである。
電柱に立てかけてある看板を倒して踏んづける、ということもよくやった。
看板が立てかけてないときは、電柱を蹴っとばした。
電柱に体当たりしたこともあったし、むろん電柱におしっこも多量にひっかけた。
なぜか電柱に対する暴行が多かったようである。
別に東京電力に恨みがあったわけではないが、電柱にあたるよりほか、他にあたるものがなかったのだと思う。
若さ故の怒りと忿懣を、ただひたすら電柱にぶつけていたらしいのである。
それから、いろんなものを、やたらに下宿にかつぎ込む、ということもよくやった。
これは、必ず大きなものに限っていた。
商店の大きな看板をはずしてかつぎ込んだり、ハシゴをかつぎ込んだり、一度は大きな道路標識を引き抜いてかつぎ込んだこともあった。
この「かつぎ込み」の原因を、今になって分析してみると、次のようなことになると思う。
当時、ぼくは仕事らしいことをなにひとつしていなかった。
勤労ということからは、かけ離れた生活を送っていたのである。
来る日も来る日も無為の生活を送っていると、
「ああ、働きたい、額に汗したい」
という勤労意欲が湧き上がってくるものなのである。
まして、血気盛んな青年である。
毎日の、入浴や爪のアカほじりでは、どうしても欲求不満になってくる。
例えば道路標識などを、額に汗して引き抜き、今度はそれを肩にかついで、息をきらして下宿まで運搬する。
やっとこさ下宿の玄関までたどりつき、狭い下宿の廊下を、あちこちぶつかりながら運びあげ部屋に安置し、ふき出す汗をぬぐうと、
(なにごとかを、なし遂げた!)
という満足感が得られるのである。
勤労の喜びにひたることができる、ということになるのである。
翌朝、この道路標識を見た下宿のオバさんは青くなった。
これは間違いなく警察|沙汰《ざた》だ、というのである。
今度はぼくが青くなった。
オバさんは、これを元あったところへ戻してこいという。
ぼくはますます青くなった。
白昼、これを戻しに行けば、間違いなく警察沙汰であろう。
道路交通法、第何条かで、大変なことになるに違いない。
ぼくは深夜になったら元に戻してくるからということで、オバさんに納得してもらったが、さて、これをかついでみると、肩にずっしりくい込み、よろけるほど重い。
長さも二メートル以上あり、よくもまあ、こんなものを引き抜いてかついでこられたものだと思うほどだった。
ぼくは一計を案じた。
当時の道路標識は、木製の柱に鉄板を打ちつけたものだった。
ぼくは乏しい財政の中から、ノコギリを買ってくると、オバさんの目を盗んで、それを四十センチずつぐらいの大きさに寸断し、これを縁の下の奥深く投入することに成功したのであった。
またたくまに一年が過ぎた。このころには学校にはまったく行かなくなっていた。漫研の人たちとも疎遠になっていた。いったい当時は毎日なにをしていたのか、いま考えてみても思い出せないのである。
ぼくの下宿生活はさらに貧窮の度を加えていった。
次のわずかな定期収入が入るまでに半月近くあるのに、懐中にはたったの三千円ということもあった。
そういうとき、ぼくはただちに割算をするのがつねだった。
三千円を残りの日数十四で割るのである。
答えは約二百十円である。
これが一日に使える全額となる。
こんどはその二百十円を、また三で割る。
答えは七十一円である。
これが一回の食事に使える金額ということになる。
その七十一円も六十円になり五十円になっていった。
青春時代のぼくは、毎日毎日割算ばかりして過していたようである。
そうこうしているうちに、福地の漫画が漫画週刊誌に載るようになった。
とうとう彼は、売り込みに成功したのである。ぼくが爪のアカをほじってる間に、彼はせっせと漫画を描いていたのだ。
しばらく会わないでいるうちに、彼はすでに結婚さえしていたのである。
ぼくは福地に会いに行った。
小ぎれいなアパートに、ちゃんと表札がかかっており、戸口のところに牛乳のビンが並んでいた。
「ああ、彼はちゃんと生活≠オている」
ぼくはそう思った。
漫画などという、ふたしかであやふやなものを、ちゃんと牛乳という現実的なものに換えて生活している。
白い液体の詰まった牛乳ビンに、生活というもののすべてが象徴されているような気がした。ぼくは愕然《がくぜん》とした。
ぼくの部屋には表札さえないのだ。
むろん牛乳ビンも並んでいない。
そうだ、ぼくも漫画を描こう。漫画を描いて牛乳をとろう。牛乳をとって、ぼくも生活者の仲間入りをさせてもらおう。
ぼくの今までの生活はいったい何だったのだろう。
学生であるような、社会人でもあるような、定年退職者であるような、浪人でもあるような、わけのわからないいい加減な泥沼に、どっぷり首までつかって頭に手拭いなどのせて、鼻歌などいい気持ちで歌っていたのだ。
その夜ぼくは下宿に帰ってくると猛然と漫画を描き始めた。
と、書きたいところであるが、実は描けなかったのである。今までなまけ放題なまけていた者が、そんなに急に描けるようになるはずがないのだ。
だがそれでも、それまでよりは少しずつ一枚二枚と描きためるようにはなっていった。更生の道を歩み始めたのである。
ぼくは再び持ち込みを始めた。
描きためた原稿を持って、今度は一人であちこちの出版社を訪問するのである。
一人でやる持ち込みは辛い。
持ち込みというのは、いってみれば行商人のようなものなのである。
千葉県あたりから出てくる、いわゆるかつぎ屋のオバさんたちと何ら変わるところはないのである。心理的にかなりまいる。
彼女らは、海で獲った魚や、畑で作ったニンジンなどを風呂敷に包んで売り歩くのであるが、ぼくのほうは家の中で製造した漫画を風呂敷に包んで売り歩くのである。
今だって漫画製造販売業には変わりはないが、当時は、漫画製造業者としての実感を、肌《はだ》でジカに味わっていたのである。
かつぎ屋のオバさんたちは、売り歩く製品に自信がある。
「とれたてのワカメ」「生みたての卵」「産地直送の使命感」
自分の売り歩く製品に絶対に自信を持っているのである。
そういった自信が、オバさんたちの表情を生き生きしたものにしている。
だが漫画行商人のほうは、売り歩く製品にまるで自信がなかった。
描いたばかりの漫画を持って出版社に行くのだが、「描きたての漫画」には、「生みたての卵」ほどの価値を望むべくもない。
まあ産地直送の点だけは、たしかに産地直送には違いないが、これとても使命感を持つほどの意義を感じさせるものではない。したがって直送者の表情は、つねに暗く憂いに沈んでいたのである。
ぼくは目標を漫画週刊誌にしぼった。断わられても断わられても何回も通った。
これはかなり強靭な神経を要する。
描きたての漫画を持って、駅から出版社までの長い道のりをトボトボ歩く。
遠く長い道のりである。
それがどんなに短い距離であっても、果てしなく長い道のりに思われた。
出版社の前まで来ながら、きょうはこのまま帰ってしまおう、と思ったことが何度かあった。
勇気を出して出版社の玄関に入る。
受付の女の子が、
「アラ、また来ちゃったのね」
という表情で見守る前を、ぼくは首をすくめて、「また来ちゃったんです」と罪の意識にうち震えながら、うつむいて通りすぎる。階段をあがって編集部のドアの前に立つ。
今なら、まだこのまま帰れる。帰ってしまおうと弱気になるのを必死に押しとどめ、とにかくドアを開ける。
ドアを開けてしまえばあとは前進するしかない。前進すれば編集者に突き当たる。突き当たれば漫画の原稿を差し出さなければならない。
もう一人の自分に背中を押されながら、部屋の中へ入っていくのである。
かつぎ屋のオバさんのように、「コンチワー」と明るい声でドアを開け、「生みたての卵要らんかねー」と朗らかにいい、「要らん」といわれれば、「要らんの、あ、そう。じゃ、またねー」とさわやかに立ち去る、そういうふうにやれたらどんなにいいだろう。
「コンチワー。描きたての漫画要らんかねー。要らんの、あ、そう。じゃ、またねー」
ぼくとしてもこういうふうにやりたかった。
だがぼくにはオバさんたちのように製品に自信がない。自信がないから態度がどうしても卑屈になる。
オズオズと担当の人に歩みより、「あのォ……」といって風呂敷に包んだ原稿を取り出す。
担当の人は、「またか」という表情で黙って原稿に目を通し、「ウーン」とうなり、「もうちょっとだなあ」といって原稿を返す。
ぼくは黙って原稿を風呂敷に包むと、「じゃ、また」といって外へ出る。
黙念、暗澹、嘆息、絶望。
ぼくには、漫画の才能なんて全然ないのかもしれない。
とんでもない道を選んでしまったのかもしれない。今さら引き返そうにも大学は中退の身の上だ。
当時は、ごくたまにではあるが、町中にコジキがうろついていることがあった。
ぼくはこれを見るのがいちばんこわかった。
破れたオーバーに身を包み、アカにまみれてゴミ箱をあさっている姿が、自分の将来そのままのように思えた
「もうあとには引き返せない」
いやでいやでたまらなかったこの行商を、ついにやめなかったのは、その意識だけだった。
あとに引けないからには前へ進むより他はない。
持ち込みを続けなければならない。
持ち込みを続けて、原稿を採用していただかなければならない。
そしてその原稿料で、とにかく牛乳をとらなければならない。
そして玄関に表札をかかげなければならない。
沈痛な持ち込みが半年ほど続いたあと、やっと、「これあずからせてください」というような雲行きになってきた。
ホッとひと息ついてまた持って行くと、
「こないだのあれ載せましたから」
担当の人は実に淡々というのである。
それからまた一週間経つと、こないだのあれは本当に雑誌に載った。
あまり感慨はなかった。
ぼくの漫画は、たくさんの漫画のなかに、一ベージだけひっそりと、ひかえめに、うら淋しく載っていた。
さらに一週間経つと、「これ、こないだのあれの分」といって一枚の紙切れが手渡された。
「こないだのあれ」は千八百円の小切手に変貌していたのである。
小切手というものを手にするのは生まれて初めてだった。これをいったいどこへ持っていけば現金になるのだろうか。
当時は、人生の落伍《らくご》者としての実感をヒシヒシと感じていたときだったから、「民生委員」などという言葉がまっ先に頭に浮かんだ。
「この小切手を民生委員に渡せばいいのだろうか?」
途方にくれているぼくを見た編集者は、「これをね、おたくの口座のある銀行に持っていけばいいんですよ」と教えてくれた。
ところが当時のぼくは、銀行とはまったく無縁であった。口座などというものは、銀行はおろか郵便局にも質屋にも開かれてなかったのである。
ぼくは恐る恐るその旨を申し述べると、「では、この小切手の振り出し銀行へ行けばよい」ということであった。
ぼくは小切手を持ってその銀行へ行った。
小切手の裏に住所と名前を書き、判を押しソファに坐って待っていると、やがてぼくの名前が呼ばれた。
千八百円を銀行の女の子から受けとる。
そのときなぜかぼくは、民生委員から生活保護のお金を受けとっているような気がしてならなかったのである。
ぼくは根気よく持ち込みを続けた。
目標は漫画週刊誌だった。
十回持ち込んでやっと一回載る、というペースがだんだん二回になり三回になっていった。
三回が五回になり、二回に一回は載る、というようなペースになっていった。
そのうち雑誌社のほうから企画ものの注文がときどき来るようになった。
そんなことが一年ほど続いたあと、
「来年からはひとつ、連載でいこうじゃないの」
という声がかかったのである。
一瞬ぼくは、わが耳を疑った。
耳どころか頭も疑った。
それまでのぼくは、あるかないかわからぬ雑誌社からの注文をひたすら待つか、あるいは持ち込みをするかという生活だったから、連載という言葉がピンとこないのである。
「連載というと、あの……毎週毎週続けて載る連載ですか?」
「そうです。毎週毎週続けて載る連載です」
編集者は落ちついて答える。
「すると、あの……毎週毎週欠かさず切れ目なく載る連載ですか?」
「そうです。毎週毎週、欠かさず、切れ目なく、載る連載です」
「すると、あの……毎週毎週、載らないことはない連載ですか?」
「そうです。毎週毎週載らないことはない連載です」
「すると、あの……結局……連載ですね」
「そうです。結局連載ということです」
いつのまにか、ぼくは中腰になっていた。
あとでその編集者が述懐したところによると、そのときぼくは、なぜかしきりに泳ぐような手つきさえしたという。
足が宙に浮いていたせいかもしれない。
それまでの生活が生活だったから、「毎週毎週続けて欠かさず切れ目なく載らないことはなく必ず載る」ということがなかなか理解できなかったのである。
書下ろし
単行本 昭和五十一年十月文藝春秋刊
底 本 文春文庫 昭和五十五年八月二十五日刊