東海林さだお
ショージ君のにっぽん拝見
目 次
ショージ君のにっぽん拝見
太平洋の大漁節だヨ
馬券買うバカ買わぬバカ
マンション・バス同乗記
別府航路の新婚さん
私のオオ、宝塚
岡潔センセイと議論する
やさしい女の激しい踊り
プレイガールとプレイババア
雪の肌、漆黒の髪
競輪学校一年生になるの記
東北のフラ娘たち
ジジババ結婚地帯をゆく
グラマー女優に体当りする
お色気チョップはいたかった
聞いて嬉しい宇和島音頭
チリ紙交換記
ストリップ観劇行
体当り路上ハント
ああデラックス床屋
七福神とバアサマたち
わが不信の思想
夫婦・このワイセツなるもの
プロ野球・八つ当り
わが不信の思想
助けてください
退 屈 な 日
こたつ談議
ラスト・チャンス
グループ'59のころ
お び え 酒
あ と が き
ショージ君のにっぽん拝見
太平洋の大漁節だヨ
ダレでも一度は釣りをしたことがあると思う。いやオレは一度もないという人でも、町中の釣り堀に、糸をたれたことぐらいはあると思う。いやそんなこともないという人でも、夜店の金魚ぐらいは、すくったことがあると思う。あれだって、釣りの一種といえないこともない。(やっぱりいえないかな)
昔は、ちょっと郊外に出れば、小川や池や沼があり、そのへんの雑貨屋(雑貨屋というものも少なくなったなァ)で竿《さお》と糸とハリを買い、ついでに、すくい網と麦わら帽子も買って、ドッコイショと小川のふちに腰をかける。それでもう、釣りをしているというカタチになったのであるが、最近の釣りは、そうはいかないようである。ちょっと釣りにでも、なんてわけにはいかないらしいのである。
日曜日。団地のベランダに陽がサンサンとさしこむ午前十一時、新聞も読み終えてムックリと起き上がり、釣りにでも行ってみるか、とあなたは思いつく。
浴衣《ゆかた》の前をかきあわせて、サンダルつっかけ、町の釣り道具屋に出かける。なんだったらこのまま釣りに出かけてしまうつもりである。これから釣りに出かけたいんだが、どうしたらよいか、と店員にひとことたずねてみるがいい。ちょっと釣りに、などと考えたおのれの不明、あさはかさを、深く深く恥じなければならなくなるであろう。
なにを釣りたいのか、とあなたはまず尋ねられる。
それに対してあなたは、「なにをって……お魚に決まってるじゃないか」と答えるだろう。
店員は、そのとき、これからあなたに対して説明しなければならない膨大な量の言語を思って、暗澹《あんたん》と沈みゆく心を引き立て引き立て、重い口調でまず、次のような質問をするだろう。
あなたは、海で釣りたいのか、川で釣りたいのか、海で釣るなら磯で釣るのか、船で釣るのか、どんな魚を釣ろうとしているのか、フナかヒラメかハゼかウナギか?
あなたはいささかウンザリし、いやまァ、そんなだいそれた……ただネお魚をネ、しかも小さいやつでいいんだヨ、そいつを釣ろうと思ってしまったんだよ、と罪の意識にうち震えながら、かぼそい声でいって、だからサ、なんか適当な竿と糸とハリを………と懇願するだろう。
だがそれでも釣り道具屋さんは、竿も糸もハリも売ってはくれぬ。
釣るものによって、竿が違い、ハリが違い、糸も違い、エサも違ってくるらしいのである。だから釣る本人が、なにを釣るか、はっきりと狙《ねら》いを定めなければ、釣り道具屋さんとしても、どうすることもできないらしいのである。ただお魚を、などと漠然とした甘い考え方では、世の中がこれを許さぬのである。
ここにおいて、あなたは、軽はずみなわが思いつきを深く恥じ、もう一度釣りについての認識を改めねばならぬことに思いを致し、その旨《むね》を店員に告げ、浴衣の前をかきあわせつつ、後じさりしながらその場を離れなければならなくなるであろう。
であるから、あなたは、あだやおろそかに、釣りでも、などと思いついてはならないのである。
そうしてついには、悲壮《ひそう》な覚悟と、深い認識と、ついでに、いささかのヤケクソをもって、釣りというものと取り組まねばならないハメに陥ってしまうのである。
実をいうと、ボクも釣り具店から、後じさりしながら退却した客の一人なのである。
釣り具店から後じさりしていって喫茶店に入り、コーヒー一杯飲んで、再び考えこんだ。
ボクはいったいなにを釣りたいのか。アジかヒラメかマグロかフナか。いくら考えてみても、結局なんでもいいのである。魚でさえあればなんでもいいのである。
記者のYさんと二人、とにかくこうなったら専門家にまかすより他はない、船宿というところへ行って、なにもかもぶちまけて内情を話し、ボクらはお魚釣りがしたいんです、ただそれだけなんです、なんにもいわずになんとかしてくださいと、主人の前で、二人、手をついてしまおう。そうすれば、窮鳥ふところに入ればなんとやらで、きっとなんとかしてくれるに違いない。ついでに北島さぶちゃんの歌のごとく、オレの目を見ろ、なんにもいうなァとばかり、ポンと胸をたたいてくれるかも知れない、そう思いつき、横須賀のはずれ佐島の船宿、深田屋さんの門をたたくことに相談がまとまった。ここに至るまでの道は遠かった。思ったよりも遠かった。
だが、いざ釣りに行く朝、ボクの心は重かった。船宿からの連絡では、どうやら船で釣るらしいのである。船で釣るということは、海上に出るということである。
自慢じゃないが、ボクは泳げないのである。いやぜんぜん泳げないわけではない。プールで十一メートルぐらいは泳げるのである。
しかし、この十一メートル泳げるということが、船で沖へ出た場合に、どのくらい役に立つものなのか、ボクにもおぼろげながら、だいたいの見当はつくのである。
釣り船というのは、せいぜい全長十メートルぐらいの、木製のやつだそうである。これが転覆しないと、ダレが保証できるか。
なにしろ船は、板子一枚下は地獄、といわれる状況にあるわけである。ああ、この板一枚下は、冷たい地獄である、という状況をボクはあまり好まない。むしろ、このスリップ一枚下は、肉である、という状況をより好む者なのである。
月曜日の朝刊などに、釣り船転覆、二人行方不明などという記事がよく出ているではないか。
万が一ということがあったら、女房と二人の子供はどうなる。
生命保険だって、ボクは百五十万円しか入っていないのである。
いよいよ、出発の朝、女房にいいつけて、コップに水道の水ジャーと入れさせ、二人おし黙って目と目を見合わせてグイと飲み干した。
これで水さかずきのつもりである。
それが済むと、まだ眠っている二人の幼な子の枕辺にヒザをつき、
「父なきあとは母に孝養をつくせ。あれは父がないからじゃと、人にうしろ指さされるような人にはなるな。百五十万円でなんとか生きのびるのだぞ」
と寝顔に語りかけたのである。
この日は朝から、空はドンヨリと曇り、この一家の暗い未来を暗示しているかのように思われた。
土曜日の夜、船宿に一泊し、翌朝早起きして沖へ出る、というのがいちおうの今回の計画である。
ボクは釣り具店で求めた千五百円の帽子と、三千五百円のジャンパー、それに借りものではあるがクーラー(アイスボックス)を肩からかけ、これはどこから見てもいっぱしの釣り師スタイル。土曜の午後、逗子《ずし》駅頭に降りたったわれわれを見て、釣り好きらしいオジサンたちが声をかけてくる。「きょうは、なにを狙うんです?」ボクは「なにって……」と絶句し、「お魚です」と答える。オジサンはなおも、「キスなんかどうです」と聞いてくるからますますあわて「そ、そう、キスね、それとヤマメね」と答え、オジサンは恐ろしいものでも見たような目で、後じさりして立ち去る。
こうして、水さかずきまでして家を出てきたものの、なにを釣るのかまだわからぬのである。ハゼかヒラメかオコゼかフナか。
船宿というのは、ちょうど民宿みたいなものである。この深田屋さんは、某スポーツ紙の指定宿となっており、信頼ある釣り情報を都内に送っているのである。
さて、この宿の主《あるじ》、吉蔵さんは、両手をついた二人を前に、しばらく腕組みしていたが、やはり、ポンと胸をたたくと、「あしたはヒラメをおやりなせェ」と力強い声でいってくれたのである。
迷いに迷った二人の釣り亡者《もうじや》の耳に、この声は天来の声のごとく、ありがたく響き渡ったのである。
目的は決まった。めざすはヒラメである。ヤローただではおかないぞ。
その声にすっかり安心したボクらは、その夜はガブガブとお酒を飲んだ。
いったいなにを釣ったらよいか。アジかヒラメかオコゼかフナか、という間断ない責め苦から解放されたせいであろう、ぐっすりと眠りこんでしまって、翌朝起きたのは十時過ぎであった。
お弁当と、罐《かん》ビールと日本酒の四合ビン、ツマミ少々を積みこむと、エンジンの音を響かせて船は岸を離れた。
ボクは船頭さんに、あんまり沖に出ないように再三頼み、なるべく岸に近いところに錨《いかり》を下ろしてもらった。たとえ十一メートルしか泳げなくとも、いくらかでも岸に近いほうが、助かる可能性は大きいからである。
この日も天気が悪く、いまにも降り出しそうな空模様のせいか、周囲には五、六隻しか釣り船はいない。
船のイケスの中にはエサのシコイワシが泳ぎまわっている。体長五センチぐらいの魚である。バケツ一杯千五百円のイワシである。バケツ一杯で二百五十匹ぐらい入るというから、一匹だいたい六円。もし、ヒラメが一匹も釣れなかったら、この船中のイワシを釣ればいいわけである。
船頭さんから竿を渡される。リールというものがついていて、これで糸の上げ下ろしをやるという。糸の先には二本のハリがついていて、一匹六円のイワシを二匹引っかけて、計十二円なりを海中にほうり込むわけである。
このイワシは生きていないと、ヒラメが食いつかないそうで、生きたままをハリに引っかける。これは実に残虐な行為だね。ボクは一匹ずつに、「許せ」「許せ」と呼びかけながらハリを突き剌した。今でもあのときのことを思うと胸が痛む。南無阿弥陀仏。
しかも、このイワシ、弱ってくると、ヒラメが食いつかないというので、ときどき取換えねばならない。ヒラメというのは横着な魚なのである。だから弱ったイワシは引き上げられて、全治三カ月ぐらいの重傷を負わされて、やっと海中に釈放される。こうしたヒラメの横着さのために、どんなに多くのシコイワシが難儀をしているか、ヒラメは一度でも考えたことがあるのだろうか。
さて、ポチャンと、二匹のイワシと錘《おも》りが海中に没して、いよいよ釣りの始まりである。釣り糸をたれたら、あとはどうするか。しばらくは緊張して竿を握りしめていたが、緊張というものは、そう長続きするものではない。
釣り人は、釣り糸をたれながら考えごとにふけるそうである。ぼくもふけらねばならぬ。サテなにを考えたらよいか。いろいろ考えたが、なにを考えたらよいのか、なかなか考えつかぬ。しかたなくあたりを眺《なが》めまわす。静かである。空はドンヨリ、カモメが二、三羽降りてきて水面に水しぶきをあげて、また舞いあがる。キキキキと鳴く。遠くから、気だるく、モーターボートのエンジンの音が聞えてくる。船に寄せる波が、チャプーン、チャプーンと音を立てる。遠くに釣り船が三隻、四隻、五隻……という具合にまわりを眺め終る。なにか考えごとをしなければならぬ。
と、そのとき、Yさんが「あれれ、ひゃァ」と声をあげた。釣れたのである。ギリギリとリールを巻く。船頭さんが網をかまえる。水面に現われたのは体長三十センチ(かけ値なし)ぐらいのヒラメである。案外簡単なものだなァと思う。ヨーシおれだってと、口惜しさ胸におさめてマナジリを決する。あのヒラメの親戚かなんかが、まだそのへんにウロウロしているかも知れぬ、とマナジリ決したけれど、さてその決意をどうあらわしたらよいか。
たとえば、百メートル競走なら、相手に抜かれたら、なにくそと頑張って、両足を互い違いにする速度を、さらに速くすればよいわけである。釣りの場合はどうすればよいのか。どうすることもできぬのである。船の中をかけまわるわけにもいかない。ただ、黙ってジッとすわっているより他はないのである。
それが非常にもどかしい。
釣り好きの人というのは、このもどかしさと戦うことに、異常な興味を覚えた人たちなのかも知れない。
船上からは、水面下のことは一切わからぬ。今、自分が釣り糸をたれているところには、ヒラメなんか一匹もいないのかも知れない。或いは、ウジャウジャいるのかも知れない。生きたまま投げこんだイワシは、もう、とうに死んだかも知れぬ。或いは死んでないかも知れぬ。或いはイワシだけ奪られて、バカみたいにハリだけが空しく海中に光っているのかも知れぬ。或いはそうではないかも知れぬ。などと考えているこの瞬間は、ヒラメが今、まさにエサに飛びつこうとしている瞬間なのかも知れぬ。或いはそうではないかも知れぬ。或いはこの水面下には、ヒラメなんか一匹もいないのかも知れぬ。
というふうに、一本の釣り糸の先に、さまざまの思いを寄せ、いらだち、なだめつつジッと耐え忍ぶ、ということが好きでたまらぬ人たちが、釣り好きといわれる人たちなのであろう。
そうこうしているうちに、ボクの竿が急にググッと引っぱられた。なんともあっけない感じで、釣れた! という感慨もなにもあったものではなく、あわててリールを巻く。現われたのは体長約三十一センチ(かけ値なし)のヒラメ。
ボクもこれでやっと面目をほどこしたと、ホッと安堵《あんど》の息をつく。釣りはじめてから約十五分後ぐらいである。なんだ、釣りなんてこんなものかと、いささか自信をつけ、また「許せ」「許せ」と叫びつつイワシにハリを引っかける。だけど世の中、そう甘いものではなく、ボクが釣りあげたのは、後にも先にも、その一匹だけだった。
釣ったヒラメは、エサのイワシが入れてあるイケスにほうり込んでしまう。ボクはびっくりして、そんなことをしたら、ヒラメがイワシをみんな食べてしまうではないかと船頭さんに聞いた。
ところがヒラメは、そうした気配はぜんぜん示さない。棒でつっついても動かない。どうやらヤケクソになっているらしく、刺身なり、バター焼きなり、なんなり勝手にしてくれと、ふてくされているようにも見える。
船頭さんの説明は「やっぱ、釣られたショックが大きいんでねェの」であった。
やがてお昼。湯のみ茶わんに冷や酒をそそぎ、いっぱいやりながらお弁当を開く。空はあいかわらずドンヨリ曇っている。静かである。周囲の船も、そう釣れているようには見えない。安心して冷や酒をグイグイ飲む。だんだん気持ちが大きくなる。船がひっくり返ってもなんとかなるだろうと思う。オレが死んでも女房子供はなんとかやってくだろうと思う。
午後になって、Yさんがたてつづけに四匹釣りあげる。二人、合計すると六匹である。
夕方四時ごろ、小雨が降りだしたので引きあげることにした。朝、十一時ごろから、四時ごろまでで合計六匹である。
宿に戻って吉蔵さんに聞くと、朝七時に出た二人づれは、八匹釣りあげて帰ったという。この二人はかなりのベテランであるという。彼らは朝七時からで八匹である。ボクらは十一時から釣って六匹である。野球でいう防御率とか、自責点とかでいくならば、やはりわれわれのほうに凱歌《がいか》があがるのではなかろうか。
ボクが釣りに行ってきたというと、たいていの人は、何匹釣ったかと聞く。これに対しボクは、まず、釣った時間が短時間であったことを告げ、それから二人で六匹釣ったということを述べ、つぎにさりげなく、同宿のベテラン釣り師は八匹釣ったが、われわれより長時間かかっていることをいい、防御率という言葉も添えて報告することにしている。
そうすると、たいていの人は、二人で六匹か、まァまァというところだナという。二人で六匹ではあるが、一人何匹ずつ釣ったかについては、決していわないのである。
馬券買うバカ買わぬバカ
「天高く、馬肥ゆる秋。ひとつ競馬をやってみませんか」と編集部のYさんがいう。
秋→馬→競馬と続くのは、やはり当節流行の水平思考というやつなのだろう。
「中山競馬でイッパツ当てて、船橋芸者とイッパツ、というのはどうでしょう」という。秋→馬→競馬→イッパツ→芸者と、Yさんの水平思考は、なおいっそうの冴えを見せるのである。
「秋」から一気に「船橋芸者」に到達してしまうのである。ボクは、水平思考の途中の「競馬」は、一回もやったことがないので、あまり興味はわかないが、最後の「船橋芸者」が気に入った。
船橋芸者に到達するためには、途中の「競馬」と取り組まねばならぬ。
ぼくは、どちらかというと、競馬と取り組むより、船橋芸者と取り組むほうが好きなのである。だがやむを得ない。まず競馬である。
競馬新聞というものを、生まれて初めて買った。まず設備投資である。
あすの競馬で、どうしてもイッパツ当てねばならぬ。駅の売店で、店先にある競馬新聞「全部おくれ」といって十紙全部買いこむ。
ボクは、よほど悲愴《ひそう》な顔をしていたのであろう、オバさんがシンミリと、「あしたはぜひ当ててくださいね」といってくれる。アリガタイ。人の情が身に沁《し》みる。
ボクは、新聞というからには、一紙せいぜい二十円ぐらいと思っていたら、一紙なんと八十円! 見開きペラペラの一枚が、なんと八十円! 十紙でなんと八百円!
もはや、あとには引けぬ。
これだけの膨大な設備投資をしてしまったからには、あすの中山競馬は、是が非でもイッパツ当てねばならぬ。イッパツ当てて船橋へ行かねばならぬ。待ってておくれ船橋芸者。
さて当日。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、というわけにはいかず、ドンヨリと曇り渡り、ボクの悲愴感を、いやがうえにもかきたてる。
午前十一時の地下鉄東西線は、乗りこむ人乗りこむ人、みんな競馬新聞を手にしている。そして赤エンピツでなにやらシルシをつけたりしている。ボクも真似して、大枚八百円を投じて購入した競馬新聞、うやうやしくカバンから取り出し、拡げて打ち眺めてみたけれど、マルやらサンカクやら、カタカナの表ばかりが並んでいて、なにがなにやらさっぱりわからぬ。
だいたいボクは、表とかグラフとかに弱く、駅の時刻表見てもさっぱりわからない人間なのである。これではとても「イッパツ当てて船橋芸者」というわけにはいきそうもない。
それでも車中、Yさんの手ほどきを受け、電車が西船橋に着くころには、「第九レースには、特券一枚つっこむか」ぐらいのセリフは口にすることができるようになったのである。
西船橋駅前広場。黒山の人だかりの中で、若い女の人が競馬帽をかぶり(競馬帽というのはないかナ)なにやら大声でわめいている。予想屋さんである。
参考までに、「一枚おくれ」というと千円だという。アッと驚いたがもはや手遅れ、衆人環視の中、それじゃいらないともいえず、千円札、惜し惜しと差し出し、紙きれ一枚押しいただく。拡げてみると、第一レースから第十レースまでの予想番号が書いてある。
千円も出して買ったこの予想表、他人にのぞかせてなるものかと、急いでパタンと閉じ、人ごみから離れて、試験の答案用紙のようにソッと隠し見る。われながらイジマシイ。
競馬場周辺。人々はすでに殺気立っている。地下タビのオジさんが駆けていく。ネンネコ背負ったオバさんが走り抜ける。
競馬場のスピーカーの声。
外人ストリップの貼紙。
イカのタレ焼きの匂い。
オマワリさん。ヤクザ風。皮ジャン。
予想屋の声。
ボクもなにやら浮き足だって、小走りになる。走ったからとて、どうなるものでもないのだが、小走りに走っているうちに、だんだん速度が早くなり、最後は全力疾走となって、競馬場の門に飛びこんだのであった。ハアハア。
競馬ファンを職業別に分類すると
事務技術職………四〇・二%
自営業……………一七・一%
管理職………………八・六%
自由業………………八・七%
(中央競馬会調べ)
となっている。
いわゆるサラリーマンが圧倒的多数のはずであるが、地下タビのオジさんや、皮ジャンや、ネンネコのオバさんなどの、うらぶれの人々ばかり目につくのはどうしたわけか。
どの人も、どの人も、競馬新聞食い入るように見つめている。見つめては、なにやら数字を書きこみ、線を引き、溜息をつき、折りたたみ、また拡げて見つめる。
世の中には、いろいろな新聞があるが、これほど熱心に、熟読|玩味《がんみ》される新聞は、他にないのではないか。
たいていの新聞は、せいぜい二十分ぐらいで読みすてられるが、競馬紙は、第一レースから最終レースまでの数時間、隅から隅まで、あますところなく読み続けられるのである。いや、レースの前日から読み続けられる場合だってある。競馬紙の記者ほど、編集|冥利《みようり》に尽きる人はいないのではないか。
さて当方は、いくら競馬紙を熟読玩味しても、さっぱりわからないから、さきほどの、大枚千円を投じて購入した予想表、うやうやしく取り出し、これから始まる第七レースのところをソッと隠し見る。のぞかれてはならぬ。
競馬紙の予想では、どの新聞も6が本命で4が穴となっている。
予想表を隠し見ると、1〜7となっている。大枚千円を投じて得た貴重な情報である。これを利用しなくては、千円投じた意味がない。1〜7、これ一本に命をかけて、二百円券五枚を買うことにする。特券一枚でも同じことなのだが、二百円券のほうが五枚もらえる。一枚より五枚のほうが得ではないか。
勝馬投票券発売所の前は、すでに長蛇の列。みんなは気安く馬券馬券というが、正式には勝馬投票券というのである。
最後の瞬間まで決めかねるのか、血走った目で競馬紙と取り組む人もいれば、もはや決まったのか、安らかな表情で並んでいる人もいる。だが大半の人は、窓口に到達する瞬間まで数字を書いたり消したりしている。
むろんボクは、千円もした予想表を信じきっているから、安らかな組のほうである。
この中山競馬場は、中央競馬会の謳《うた》い文句「一家そろって中央競馬」の趣旨にそって、まん中が遊園地になっている。
「一家」のうちの「母と子」は、まん中でブランコやすべり台で楽しそうに遊んでいる。が、「一家」のうちの「父」は、スタンドで目を血走らせているのである。
どんな時でも、男は稼がねばならぬようになっているのである。ツライナア。
ファンファーレが鳴り渡って、馬が一団となって前方へ駆けはじめる。
みんな「五いけ!」「七ソレッ」などと叫んでいるが、ボクの目には、ただ馬の集団としか映らない。どれが自分の買った馬やら、違うのやら、さっぱりわからない。
そこで「アレレー?!」といって口をあけてるうちにレースは終り、5〜7だという。
アッというまに二百円券五枚、合計千円が露と消えうせる。呆然自失。しばらくポカンとしたあと、勃然《ぼつぜん》と予想屋への怒りがわきあがる。当らないじゃないかッ。千円も出したのにどうしてくれるッ。船橋芸者はどうなるッ。
怒り狂っていると、Yさんが三十分後に第八レースが始まるから、その対策を立てなさいという。第八レースは、一本買いを止めて、幾通りも買うことにする。
こんどは予想表はあてにせず、地道に競馬紙と取り組むことにする。
3と7にマルがたくさんついている。よし3〜7を三枚、それから黒サンカクがたくさんついてる4と組みあわせて、3〜4を二枚。これでよしと立ち上がりかけ、待てよとすわりこみ、いちおう見てみるだけと、いいわけしつつ、「千円もした」予想表再びひろげてみる。4〜7である。結局、4〜7も一枚追加したのは、予想屋への信頼からというより、千円への未練からと解釈したほうが、より正確であろう。
一般的には、どういう狙い方で馬券を買うのだろうか。
本命を狙う 一七・九%
中穴を狙う 五六・六%
大穴を狙う 八・○%
決めていない 一七・五%
やはりみんなの狙いは、穴狙いにあるらしい。みんな、いちおう穴を狙うのであるが、大穴でなく、中穴を狙うというところがイジラシイではないか。
馬券を買いに行く前に、パドックで下見をしたほうがいいとYさんがいうので、いちおう見ることにする。本当のファンは、パドックで見てから決めるのだという。
パドックでは、次から次へと馬が現われてくる。だがボクの目には、どの馬もどの馬も同じに見える。みな親戚同士に見える。
従って、見ても見なくても同じことなのである。
馬券売場は、またまた長蛇の列。
二百円券売場と千円券売場は、別になっている。千円券売場に並んでいる人のほうが、二百円券売場に並んでいる人より偉いような気がするのは、ヒガミだろうか。
第八レースも、アッというまに終り、ボクの買った馬券、ことごとく外れ、千二百円が再び消え失せる。むろん、あのニックキ予想屋の予想も再び外れている。
次は九レース。
こんどこそきっと、必ず、と血走った眼で競馬紙を拡げる。
残すはあと二レースしかない。
みんなもかなりアツくなっているらしい。
ペタリと床にすわりこんでグッと紙面を睨《にら》みつけている人。なにやらブツブツつぶやきながら、意味もなく歩きまわる人。走る人。背中からシャツがはみだしてる人もいる。
人間、色と欲というが、ここには色はない。あるのは欲だけである。やはり、色と欲の両立は、かなりむずかしいものであるらしい。
第九レースは、やけくそになって、メチャメチャに買うことにする。
3〜4二枚、4〜5二枚、4〜7三枚、5〜7二枚、2の単、特券一枚、合計二千八百円、売場の窓口に突っこんだ手がふるえた。何十倍にもなって戻って来いよ、と思わず祈りたい気持ちである。
一般には、一度競馬場へ来ると、どのくらい金を使うものだろうか。
これはダービーの統計であるが、
一〇〇〇円以内 五・六%
二〇〇〇円〃 八・八%
三〇〇〇円〃 一〇・八%
四〇〇〇円〃 三・六%
五〇〇〇円〃 一七・一%
一 万 円〃 六・四%
一 万 円以上 四四・二%
となっている。
ふだんは、一〇〇〇〜三〇〇〇円というグループが最も多く、五〇〇〇〜一万のグループがそれに続くという。
意外に使うものではないか。
二千八百円ぐらいで、手をふるわせたりして、ああ恥ずかしい。
ファンファーレが鳴って、馬が駆けだしたが、あまりに幾通りもの馬券を買ったので、どれがどう入ればいいものやらさっぱりわからない。
それで再び「アレレーッ?!」といって口をあけているうちにレースは終り、馬券調べていたYさんが、「ヒャー当たったァ」という。ボクも思わず「ヒャー、そうかァ!」といって飛びあがる。
当った! ついに当った。これで船橋へ行ける。
すぐにも船橋へ行こうと腰をあげたが、当ったのは二枚だけで、百円につき四百円の配当で、合計千六百円であるという。
千六百円ではどうすることもできないではないか。船橋芸者はどうなるッ。
だが、とにかく当ったのである。しかもこの二枚は、例の予想屋の予想したやつではなく、ボク独自の考え方を煮つめて、そうして絞りだした組合わせなのである。
当てた! ついに競馬で当てた! 千六百エン!! と一人シミジミ涙ぐんでいると、隣のネジリハチマキのオジさんが「五枚で二万円か」とつまらなそうにつぶやいている。特券五枚で二万円当てたのである。
二万円当ててつまらなそうにつぶやいているのである。こちらは千六百円で涙ぐんでいるのである。
急にアホらしくなり、冷静になって考えてみると、ボクはこのレースに二千八百円注ぎこんでいるから、差し引き千二百円のマイナスということになる。
だが待てよ。あのとき、もしもこの券を十枚買っていれば、八千円になったはずである。
いやいや二十枚買っていれば、一万六千円もらえたはずである。いやいや百枚買っておけば……と未練は未練を生んでとどまるところを知らない。
でもまァ、せっかく当ったのだからと、3〜4の券汗ばむほど握りしめ、払戻所で払戻しを受ける。
一万円の札、ドサッと受けとった人の次に千六百円、チャリンと受けとり、一礼して引きさがる。
だけど、当った人というのは、もっとうれしそうな顔しているものと思っていたが、みな意外と無表情で、つまらなそうな顔をしている。コソコソとさえしている。
あれは、労せずして大金を得た、うしろめたさ故であろうか。それとも敗れ去った、多くの同朋への同情からであろうか。
第十レース、最終レースとも、鳴かず飛ばずで完敗。
みなそれぞれの思いを胸に秘め、ゾロゾロと帰途につく。
競馬場わきの、テントの飲食屋は、アッというまに満員になり、みんな、モツ煮込みや、マグロブツ切りなどをサカナに、競馬紙を拡げていっぱいやっている。ここにいる人は、すべて損をした人々である。儲けた人は、すでに船橋へ行ってるはずである。どの人も、どの人も競馬紙を見ながら反省しているのである。
集団で反省しているのである。ボクは今まで、これほど大勢の、反省する大集団というものを見たことがない。
そこでボクも、「イカのタレ焼き、ひとつおくれ」といって、その反省集団の中へ入り込み、反省集団の一員に加えてもらったのである。
やはり、船橋への道は遠かった。遥かだった。オケラ街道に吹く秋風がひときわ骨身にしみわたる。
マンション・バス同乗記
だれだって自分の家が欲しい。マイホーム主義といわれようがなんといわれようが、自分の家が欲しいのはあたりまえのことだ。
毎日一所懸命働いているのだ。せめて日曜日ぐらい、だれにも気がねなく、のびのびと手足を伸ばしてみたい。太陽にもあたってみたい。時には庭の緑も眺めてみたいし、時には、庭土に蟻《あり》が巣を作る様子など、じっと眺めてみたい。
そうして時には、家のないコのように、黙って海を見ていたい、とこうくるのが、人間の本当の姿なのである。
ところが現実は、時には、家のある人のように、満ちたりた顔で海を見てみたい、という具合になっているのである。
自分の家を持つということは、人間が生きていく上での、最低の必要条件である。
と、まあ今までは、こう考えられてきたのである。これが家に関する、ごく一般的な考え方であった。
ところが、家を建てるということは難事業である。現代では、家を建てることは、男子一生の仕事である。人生の最大目標である、というふうに考えなければ、とても家など建たないのである。柱一本といえども建たないのである。よく考えてみると、現代のサラリーマンは、家を建てるために生まれてくるようなものではないか。
家を建てるために生まれてきて、家を建てるために苦しみ、家を建てて死んでいくのである。ああ、あの男も、この家を建てて死んでいったか、この男は、この家を建てて死んでいったか、と残された人々は感慨にふけるのである。
つまり現代では、家はある男の一生のモニュメントということになっているのである。
さてここに解脱《げだつ》という言葉がある。
悟りを開くという意味である。
広辞苑によれば、煩悩《ぼんのう》、束縛から脱して、俗世間の憂《うれい》のない安らかな心境に到達すること。涅槃《ねはん》。とある。
オレは家なんか、一生建てない。公団住宅で十分。セガレはセガレでなんとかするだろう。知ったこっちゃない。したがって、住宅資金も借りない。そのための貯金もしない。その分のお金で、レジャーを楽しむのだ。旅行に行くのだ。酒を飲むのだ。パチンコをするのだ。というふうに、もし、自分の家を持つことをあきらめるとしたら、どうだろう。たちまち「煩悩、束縛から脱して、俗世間の憂いのない安らかな心境に到達する」ことができるのではないか。
住宅資金返済のために、あくせくと苦しまないで済むのではないか。
つまり現代の解脱とは、家をあきらめることなのである。家をあきらめれば、たちまち涅槃の世界にたゆとうことができるのである。
さあみんな、家を持つことなんかあきらめてしまおう! そうして安らかな顔つきになって人生の目標を別に捜そう。
とボクは呼びかけたわけであるが、客席の拍手はまばらであった。
その証拠に、毎日曜日の国電水道橋駅際には、十五台のバスがズラリと並ぶ。これは住発株式会社が繰り出すところの住発分譲バスというものなのである。家や土地が欲しい人を乗せて、都内近郊全沿線の土地家屋、マンションなどを見せてまわるのである。つまり動く不動産屋さんというわけなのです。
そしてこの十五台のバスには、どうしても解脱することのできなかった顔顔顔が、ギッシリとつめこまれているのである。定刻の十時に、遅刻する人一人もなしという熱心さである。
十五台中、十台は近郊沿線土地家屋めぐり、あとの四台が未完マンションめぐり、そして残りの一台が、完成マンションめぐりということになっている。
今回は、時間の関係で、都内完成マンションめぐりというのに乗ってみた。
未完マンションめぐりというのも興味があったが、なにも建ってないマンションを見てまわるというのもヘンな話なので、やはりちゃんと建ってるほうを見ることにしたのである。
このバスに要する費用は三百円。
ただしこれは全額昼食代にあてられる。では、この住発株式会社は一銭も儲《もう》からないではないかと思うだろうが、世の中には、ぜんぜん儲からない株式会社を経営するヒマな人はいないのである。つまりこの会社は、バスに乗って土地家屋を買った人からは、手数料を取らないが、売った側から手数料をいただくことによって成り立っている会社なのである。
この日は日曜日とあって、外は行楽の人々が色とりどりの服装で楽しそうにはしゃいでいる。が、一歩バスの中に立ち入れば、ここは欲の世界。住宅欲しやの一念に燃えた人々が、シンネリムッツリ、会社がくれたパンフレットを食い入るように見つめている。
ボクは、「マンションめぐりバス」などというからには、大社長、大重役などのハゲが、愛人膝にダッコして、葉巻くゆらせ、「どのマンション買って欲しい?」などとやにさがって乗りこんでいるのかと思っていたが、実際は大違い。二十五人の乗客は、あまりパッとしない中年夫婦がほとんど、それに父と娘の二人づれが一組と、サラリーマンふうの一人|づれ《ヽヽ》が二組、といった具合で、マンションめぐりといった華やかさはどこにも感じられない。
もっとも、この日見て回った四つのマンションは、いずれも五百万から八百万どまり、いわゆる中堅、堅実マンションというやつなのである。
大社長や、大重役などの、一千万以上もするマンションを買おうという人は、こういうバスには乗らないのかも知れない。ちゃんとハイヤー雇って、気ままにあちこち見て回るのであろう。
実をいうと、ボクの仕事場もマンションの一室なのである。いうなればマンション族の一人ということになるだろうか。しかし、なんでもそうだが、あらゆる物事にはピンからキリまでがあるのである。
せんだってこんなことがあった。
このマンションの真ん前で、デパートの配達員が「このへんにマンションはありませんか」と聞いているのである。
つまりこのマンションは、どう見てもマンションと呼ぶにはムリのあるマンションなのである。
ボクは、この建造物をマンションと見抜けなかったデパートの配達員を責めるより、この建造物にマンションと名づけた大家さんの勇気をこそ讃《たた》えるべきだと思う。
そればかりではない。
先日ボクは、昼食にウナ丼《どん》を食べたいと思い、電話帳で調べた近所のウナギ屋に出前を注文した。するとここのオヤジは「うちはマンションたらレジデンスたらいうとこには、一切配達せん」といってガチャンと電話を切ってしまったのである。このオヤジさんは、マンション族に反感を持っているのである。
あたら大家さんが、勇気をもってマンションと名づけたばかりに、店子《たなこ》は昼飯にウナ丼を食べることができないのである。
大家さんの勇気のために、店子はかかる迫害を受けているのである。
ことほどさように、ことマンションに関するかぎり、呼称と実体がかけ離れている例は他にないのではないか。不当表示食品などというものが騒がれているが、このマンション業界はそれどころではない。
よくある名前を書きつらねてみよう。
マンション、レジデンス、メゾン、コーポ、シャトー、パレス、ヴィラ、ヴィアンカ、パラッツォ、アヴィタシオン、ハビテーション、ハイネス、シャンボール、ロッカス、ハイム、ハイコーポ……。
英仏独伊、入り乱れての高級用語の氾濫《はんらん》。
こう並べてみると、マンション業界のオジサンたちが、和英、和独、和伊、和仏辞典を買いこみ、慣れぬ手つきでページを繰っている有様が目に浮かぶ。
日本人は昔から、謙虚とか、謙譲とかをもって美徳としてきた国民であるが、マンション(大邸宅)、パレス(宮殿)、パラッツォ(貴族の館)、シャトー(城)、ヴィラ(大別荘)、ヴィアンカ(別邸)、……このどこに、謙虚という言葉があてはまるのか。
たかだか、三LDKの棟割長屋に、つけもつけたりパレス(宮殿)、にシャトー(城)。
ボクの仕事場などは、六畳と三畳のマンション(大邸宅)である。ほんの数歩で駆け抜けられる大邸宅である。
まず最初に行ったのが、阿佐ヶ谷のSマンション。渡されたパンフレットには、施主中山よねとある。名前から察するに、どうやらバアサンらしい。バアさん小銭貯めたな、と思ってると、住発の人が「このお方は八十歳の老齢のご婦人で、三井銀行阿佐ヶ谷支店、預金高第一位の実績をもっておられる方でございます。十億、二十億の金なら、その日のうちに集められる、というお方でございます」と説明する。バスの中の一同、粛然として声なく、中には思わず襟《えり》を正す人もいる。
阿佐ヶ谷駅に着いて、一同ゾロゾロとバスを降りる。パンフレットにある「駅から四分」を、実際に歩いてみるわけである。だが「二十億をその日のうちに」で度肝《どぎも》を抜かれているせいか、一同の足どりに力がない。
正真正銘、駅から四分、周囲に緑もあり、まず絶好の環境といったところ。値段は五百三十万から九百九十万まで。管理費、月額二千五百円から四千円まで。
一同靴を脱いでドカドカと部屋になだれこむ。六・六・三・LK、十八坪の空間に二十五人が入りこむ。価格は七百八十万。
壁を叩いてみる人、天井に手を伸ばして高さを計る人、床を踏みならしてみる人、フスマを開けたてする人、みんなボソボソと小声で連れに相談し、パンフレットと照らしあわせ、うなずき、嘆息し、考えこむ。
このあと三つのマンションを回ったわけであるが、よく観察していると、壁を叩く人は、どのマンションでも壁を叩き、床を踏みならす人は、どのマンションに行っても床を踏みならしてみる。気になる部分というのは一定しているらしいのである。
この日見て回ったマンションの、大部分にいえることだが、このクラスのマンションは、例外なく天井が低く、畳が小さい。団地サイズというのがあるが、マンションサイズはそれ以下といわれている。そうして台所が狭い。冷蔵庫が置けるかどうか、というぐらい狭い。くどいようだが、天井あくまで低く、畳あくまで小さく、台所あくまで狭くとも、それでも大邸宅、宮殿、城なのである。
まず最初は、小あたりにあたってみた、という感じで一同ゾロゾロとバスに戻り、昼食の場所へ向かう。玉川通りのドライブインで、ランチ風の食事をして、次は代田橋のDロイヤルパレスである。またまた、くどくどしくいいたくないが、今度はパレスの上にロイヤルがつくのである。パレスだけではまだいい足りなかったとみえる。
ここの施主はK堂というお菓子屋さんである。このお菓子屋さんの社長さんが、うやうやしくまかり出て、このたびはご来場いただきありがとうございます、と挨拶《あいさつ》をし、次に演説に移る。お菓子で儲けて、パレスの上にロイヤルのつくマンションをおっ建てたからには、やはり一席ぶちたいらしいのである。だが解脱できなかった家屋亡者の群れは、社長さんの演説も上の空、ザワザワと、叩き、踏みならし、開けたてしてまわる。ここは六百四十万から七百五万まで。やはり天井は低い。
阿佐ヶ谷済んで代田橋、次はいずこへ行くのやら、とバスに戻ると、次は世田谷だという。
世田谷に向かうバスの中で、住発の人が、高層共同住宅に関する法律知識みたいなものを一席ぶつ。それによると、土地つき分譲の場合、土地は全居住者の共有となるのが多いそうである。共有ということは、ある人の所有部分は、どこからどこまでであるという区分がないのだという。
だから未完マンションを買った人は、広い敷地を眺め、ああ、この広い土地のどこかの部分はオレのものだ、どこからどこまでかはわからないが、とにかくオレのものなのだ。だけどオレの部分はいったいどのへんなのだろう。このへんかな、と大地を抱きしめ、いや違う、あのへんかも知れないと立ち上がり、なんとかしてオレが買った地べたに、この手を触れてみたい、とじれったく、もどかしく、敷地内をあちこち飛びまわるということになってしまうというのである。
また買主は、建物の一区画を買うわけであって、その区画の周辺は、むろん自分のものではない。極端にいうと壁も自分のものではないのだそうである。
部屋の中の空間は、確かに自分で買ったものであるが、壁は自分のものでないということは、なんとも気づまりな、居づらい感じなのではないだろうか。自分の部屋でありながら、なにか居候をしているような気がするのではないだろうか。壁に寄りかかるのも、だれかに気がねしなければならないのではないだろうか。部屋は確かに自分のものだが、この壁は自分のものではないという実感は、きっと寂しいものであるに違いない。
寂しい話だなァ。
この住発バスは、一日でせいぜい五カ所ぐらいしか回れない。自分の一生を賭《か》けた家を捜そうというのであるから、一、二回乗ったぐらいで、決められるものではない。
だから何回も何回も乗って、あれこれ比較検討する人も出てくるわけである。
だいたい研究熱心なのは、教師、医者といった職業の人が多く、最多乗車回数を記録した人も、やはり商業高校の先生だという。
この先生は「オレの住むとこどこだろう」とつぶやきながら、二十三回もご乗車くだすったのだそうである。
二十三回といえば毎週日曜に乗ったとしても六カ月、半年の間、阿修羅《あしゆら》のごとく分譲地ことごとく駆けまわったことになる。
バスの中で聞いた中年の夫婦者は、今は都営住宅に住んでいるが、まもなく入る退職金をあてに、マンションを買うのだという。子供の教育のこともあるし、わたしも疲れた、今さらこの歳で郊外から、二時間も三時間も電車に揺られて通うのはかなわないという。
ギリギリの線で七百万、この金で職場に近い住まいを買うことにしたら、それはマンションしかないのであるという。そうして実際に、一番売れるマンションは、七百万のクラスだという。
だから、評論家のセンセイは、マンションはセカンドハウスとして買うのが理想的、などというが、そんなのはほんとの絵空事なのである。ほんとに「理想的」なのである。
みんな、そんなことをいってはいられないのだ。天井あくまで低かろうが、台所あくまで狭かろうが、宮殿だろうがパレスだろうが、そんなことはどうでもいいのである。
とにかく住む家がない。ないから買わねばならないのである。三十〜四十年、働いた退職金でマンションを買うのである。
この人は、三つ目に見て回ったマンションを買うことに決めた。最初から、やたらに壁を叩いていた人である。価格七百二十万、十二階である。やがてその十二階に、一家四人が移り住むのである。そうしてこの人は、中空に浮いたまま、一生を終ることになるのである。
いつの日にか、ボクがこのマンションの下を通りかかることがあったら、この人が、高校生の息子に、こう意見している声が、中空から聞えてくるかも知れない。
「お前の考え方は、足が地についていない」
別府航路の新婚さん
交通公社の統計によると、最近の新婚旅行コースの中で、最も人気のあるのは次のようなコースであるという。
すなわち、式を終えたら、東京駅に駆けつける。東京駅から新幹線で大阪へ。大阪から船で瀬戸内海を渡って九州へ。九州をひとまわりして飛行機で東京へ帰ってくる、という大変盛りだくさんなコースである。
つまりこのコースには陸海空、すべてが網羅《もうら》されているのである。
新婚旅行は伊豆の宿、小雨に煙る下田港、なんてのは当節はやらないのである。
陸を突っ走り、波濤《はとう》を乗り越え、雲をかき分けて、新婚旅行は突き進むのである。
すさまじいというよりほかはないのである。
むろん、走り、乗り越え、かき分ける間にも、メオトとして、なすべきことは、なし続けなければならない。
つまり列車に乗り、船に乗り、飛行機に乗る間にも、別のもうひとつのものにも乗り続けなければならないのである。
いや、当節のムコさんは、たいへんなもんですね。同情するなァ。
今回は、この陸海空三本立てコースを、ボクも新婚の一人として、いっしょにまわってみようと、こういう趣向なのである。
となると、どうしても、ボクに配する花嫁が必要になってくるわけである。
ボクは、当然、編集部で、しかるべき女性を花嫁代理として差しまわしてくれるものとばかり思っていた。ま、当然の考え方をしたというべきだろう。
ところが、当日新幹線ホームに現われたのは、いつものYさん(男性)であった。しかしボクは、すこしも落胆の色を、Yさんに見せることなく、新婚の男女、群れなす車中に、おとなしく二人並んで腰かけたのであった。
編集部の考え方としては、シット深いボクが、この処置に逆上して、きっとなにかヘマをやらかすに違いないとニラんだのかも知れない。
断わっておくが、ボクがシットの炎を燃やす対象は、正常ならざる男女関係のみなのである。上役とOLの情事とか、肉欲だけで結ばれている若いもん同士とか、人妻と大学生とか、そういった邪悪な男女関係を憎むのである。
夫婦とか、あるいは将来を誓いあった正しい二人であるならば、いくらどんなことをやったって平気なのである。むしろどんどんやって欲しい、やりたいだけやったらいい、と思っているくらいなのである。
サテ、この日、土曜日の午後四時、東京駅新幹線ホームは、新婚新婚また新婚という新婚ラッシュ。
この日は「先負」とかで、あまりよい日ではないらしいのだが、それでも新婚新婚また新婚、ひかり三十三号の一等車は、新婚だらけとなってしまったのである。
新婚の熱気うずまくそのまっ只《ただ》中に、ボクら中年オニイサン二人は、ウツロな瞳を中空に据《す》えて、力なく肩を落として坐っていたのである。
ボクは、新婚の花嫁全員、つぶさに観察してみたけれど、当節の花嫁さんは、みんなだいぶ年食ってる感じだね。どれをみても二十五六、なかには七八とみえるのもいる。そして、どれもこれも、初々《ういうい》しいという感じのは、まったくない。みんな、すでにデキあがってる感じの者ばかりである。
なかに一人、二十八九とみえる花嫁がいて、逃げようとする男を、やっと取りおさえ取りおさえ、きょうのこの日に持ち込んだのであろう、いまだにシッカと花婿《はなむこ》の腕押え込んでいるのがいた。よくやった! エライぞ。ガンバレヨ。
新婚組は全部、ホーム側に席が取ってある。見送りに都合がよいからなのであろう。そして花嫁は、例外なく窓ぎわに坐る。なぜ花嫁は窓ぎわに坐るのかというと、その理由はハッキリしない。あとで花婿の一人に聞くと、みんながそうしているので、自分もそれに従ったのであると答えた。当事者にさえわからないナゾがひそんでいるとみてよいであろう。
そして、彼らの頭上には、白いスーツケースがズラリと並ぶ。花嫁の、白い帽子に、白いスーツが一様ならば、スーツケースもまた一様。そしてその中身もまた同じようなものが入っているのである。婦人雑誌で学んだガーゼ、桜紙、バスタオル、ビニールの風呂敷と共に、個人と個人を隔てるための薄いゴムでできた製品も、一様に入っているのであろう。
だから、あまりに似ているために、他人のスーツケースと取り違えても、さしたる問題は起こらないようになっているらしいのである。
発車まぎわの花婿は、どれもこれも大変に忙しい。ケースを網|棚《だな》に上げ、花嫁をパチリと撮り、抜く手も見せずに8ミリを取り上げてジーとやり、ふと目を上げて、見送りの人ごみの中に、遅れてきた部長の姿チラと見つけ、相手には聞えぬながらも、「や、わざわざすみません」と大声で叫び、頭を何回も下げ、汗を拭き、また8ミリジーとやり、フィルムを入れ替え、周遊券の束《たば》ポケットからとり出して確認し、またジーとやりつつ後退していって別の花婿に突きあたり、スミマセンと頭を下げる。八面|六臂《ろつぴ》、獅子《しし》奮迅、孤軍奮闘、とにかく忙しい。
この間花嫁は泰然|自若《じじやく》、ドッカと腰を据え、窓ガラス越しの人々に、ニコヤカにうなずき、胸に抱いた花束の香り、優しく嗅いだりなさっておる。
定刻の四時ちょうど、ひかり三十三号は、ホームを離れる。見送る人人人……。総勢三十人を越す見送りがあるかと思うと、ほんの二三人、淋しく手を振るワケありの見送りもある。
みんななにやら口々に叫び、手を振り、走るが、一切音は聞えない。こちら側も、相手に聞えぬと知りつつも、いちおう、行ってきます、さようならなどと声をはりあげる。
ヘンな別れだネ、これは。
二人きりになった二人は、まずどういうことをするかというと、みんな一様に、深々とずりさがって足をのばす。つまり背もたれから、いっせいに頭が消えるわけです。
そしてなにやらゴチョゴチョと会話を交しはじめる。まずは、式の感想などおとなしく述べあったりしているらしいのである。
ボクは先ほど、正しい男女関係にはシットしないと公言したばかりであるが、いざこうして、熱っぽい新婚のまっ只中にほうり込まれてみると、その公言もだんだんあやしくなってきてしまった。
正しかろうが、正しくなかろうが、アベックはアベックである。憎むべきはアベックである。今はこうして大人《おとな》しく、会話など交してはいるが、油断はならぬ。なにせヤツラは新婚なのだ。なにをしでかすかわかったものではない。
ついさっき読んだ「なんとか情報」という雑誌によれば、新婚は、人目もかまわず抱きあったり、イチャツいたり、ヒザにコートをかぶせてペッティングにふけったりすると、挿し絵入りで報告されてある。
奴らは、われわれがちっとでも監視の目をゆるめれば、ただちにそれらの行動に移るかも知れぬのである。ボクら二人は、ちょっとでもヘンなことしてみろ、ただじゃおかんゾと、ランランと四つの目を光らし続けたのである。
しかし向こうにとっちゃメイワクな話だったろうなァ。新婚のまっ只中に、ヘンな男の二人づれがまぎれこんで、シットに狂ったヘンな目つきで、油断なくあたりをねめまわしている。これでは新婚旅行の楽しさも、半減したことであろう。カンベンネ。
新婚船あいぼり丸は、大阪湾を夜の九時に出港する。東京駅を夕方五時に出ても、十分間にあうわけである。
そして、新婚第一夜を、この船上で迎えるということになる。
むろん、大阪から乗りこむ新婚も、たくさんいるわけで、さきほど東京駅で見られたような光景が、ここ大阪港のあちこちでも展開される。
だが、さきほどの新幹線の無言の別れと違って、船の別れというのはいいですねえ。
別れの舞台装置には、プラットホーム、空港、町角、などいろいろあるが、やはり港の別れが、いちばん別れに適しているのではないかナ。
飛行機や、汽車は、アッというまに相手が見えなくなってしまう。
別れには、少しずつ消えていく相手の姿が大切で、アッというまに相手が消えてしまっては、悲しみもなにもあったものではなく、見送りの人もアッケラカンとしてしまって、帰りにパチンコでもして帰るベエかということになってしまうのです。
そこへいくと船は違うネ。
お互いの手と手には、お互いを結ぶテープがある。そして声と声が通じあう。元気でネ、しっかりネ、からだァ気イつけてな。
そしていよいよドラが鳴る。静かに静かに船は岸壁を離れる。みんないっせいに船といっしょに波止場を走る。走る。突端まで走る。もうこれ以上進もうとしても進めない。サヨーナラ。サヨーナラ。テープが精いっぱいのびてプツリと切れる。お互いの姿が豆ツブほどになり、やがて波の向こうに消えていく。……寂寥《せきりよう》。
このあとは、どうあっても、パチンコでもして帰ろうかという気持ちにはならないはずである。ふと古本屋へ立ちより、人生に関するムツカシの本買いこみ、名曲喫茶へムツカシの顔して入りこみ、うす暗い灯りの下で苦いコーヒーをすする、ということになるのである。
結局のところ、パチンコか、コーヒーか、ということになるのであるが、ま、どっちだっていいけどネ。
このあいぼり丸は、二等、特二等、一等、特等、特別室と五段階に分かれている。特別室というのは一室しかなく、ツインベッドに応接セット、バス、トイレつきで二万二千五百九十円ナリ。高いぞう。
だけど考えてみれば、眠っている間に、目的地についてしまうわけだから、そう高いともいえないかも知れない。むろん眠るだけでなく他のことをしていてもかまわないわけではあるが……。
ボクらの泊まったのは、あろうことか特等室で、ベッドに応接セット、テレビつきで七千九百三十円。申しわけない。
そして、われわれの泊まった部屋は、幸運にも、というべきか、不運にも、というべきか、浴室のまん前だったのである。このあいぼり丸は、先述の二万いくらの特別室以外はフロなしなのである。従って他の新婚のすべてが、われわれの部屋の前の浴室を利用するということになるのである。
次から次へと、新婚の二人が、頬《ほお》を上気させて、浴室に消えていく。
そしてこの二人は確実に、浴室の中でハダカになるのである。
この事実は、もしかしたらとか、あるいはとかいった推定の問題ではなく、まぎれもない事実として、われわれの前に投げ出されているのである。
いま、このガラス戸一枚へだてた向こうには、二人の男女が、|まちがいなく《ヽヽヽヽヽヽ》ハダカで湯につかっているのである。あるいは肌を触れあわせているかも知れぬ。これはもう否定しようにも否定しきれない厳然たる事実なのである。
そしてその事実を、事実として認める勇気、これはもう大変な勇気が必要であった。そしてそれにジッと堪《た》える忍耐力、これまた、大変な忍耐力が必要であった。われながらよくぞ堪えた! と今つくづく思う。
夜十一時、次から次へとくりこむ新婚の酷使に耐えた浴室は、やっとわれわれに解放されたのである。
大きな安堵《あんど》のため息がわれわれの口から洩れ、つぎに疲労感が、ドッとわれわれを襲ったのであった。
最後の二人が消えると、ボクは躍る胸押えて浴室に飛びこんだ。
二人の痴態の、チリほどの痕跡《こんせき》も見のがすまいと、目を皿のように、いや、おナベのフタのように、いやタライのように見開いて隅から隅まで見わたしたけれど、ツユほどの痕跡も発見することはできなかった。
考えてみれば、浴室というところは、部屋という存在の中では、最も簡単に清掃されるようにできているものなのであった。
手桶《ておけ》いっぱいの水を、ジャーとぶちまければそれでいいのである。
手桶はキチンと伏せてあり、あたり一面キチンと清めてある。
「だがしかし、……」とぼくは浴室を眺めまわす。これはあくまで、あと片づけがなされたということであって、この浴室で、なにもなされなかったということではない、とアレコレ妄想《もうそう》をたくましくしたのである。
ああ、この浴槽で、このタイルの上で、ついさっき、あの二人が、ハダカの肌を触れあったのだ!!
あの二人が、ハダカの肌を触れあったのは、他でもない、この浴槽、このタイルの上においてである!! と思えば思うほど、無念の涙はとめどなく頬を流れ、ガランとした浴室に一人|呆然《ぼうぜん》と、いつまでもいつまでも立ちつくしたのであった。
翌朝の甲板には、一組、また一組と新婚が上がってくる。甲板には、むろん一般客だってたくさんいる。
そういう、まじめで善良な一般客の間を、新婚たちは、じつに白々しい、平気なカオをして歩きまわるのである。
どの組も、ゆうべはなんにもしなかったわよ、というカオをして歩きまわっているのである。じつにソラゾラしいんだなァ。ゆうべは、どの組も新婚第一夜だったはずである。
なにもしなかったはずはない。なにもしなかったとはいわせない。やったならやったと、なぜ素直に……と、再び燃えさかるシットの炎に身を焼かれながら、朝の、さわやかな空気の中に、またしてもいつまでもいつまでも立ちつくしたのであった。
しかしなんですね、船旅というものは、まったく退屈なものですね。
このあいぼり丸は、大阪湾を夜の九時に出発して、別府に着くのが翌日の十一時。船の中に十四時間いることになる。
いやァボクらは退屈しましたね。
この船には、娯楽設備というものがなにもない。まったくなにもないのです。バーにジュークボックスが置いてあるぐらいのものなのである。
ボクはまァ「浴室前の逆上の数時間」というものがあったので、いくらか間がもてたほうですが、記者のYさんはホトホト困っていました。
事務長の井口さんの話によると、退屈のあまり、ネジまわし一本持って、船中のネジをはずして歩く者もいるというぐらい、なにもすることがないのである。それで下船のとき、新婚の一組に、こう聞いてみました。
「さぞかしゆうべは退屈したことでしょう」
そしたら即座にこういう答が返ってきました。
「いや、ぜんぜん退屈しませんでした」
私のオオ、宝塚
宝塚歌劇を見に行こうということになった。どうせ見るなら本場で、ということになった。サンマは目黒にかぎるが、少女歌劇は、宝塚市にかぎるのである。
それで、少女歌劇見物に兵庫県まで出かけたのである。頃は折しも、スミレの花咲く頃。列車は菜の花畑の中を進む。
少女歌劇を見に、大の男が二人新幹線で、スミレの花咲く頃、兵庫県まで出かける。
これがほんとの平和な時代というものではないだろうか。
ぼくは、いままで一度も少女歌劇を見たことがない。うかつだったと思う。
女のコが大好きなボクが、女のコだらけの、女の本場であるタカラヅカに、一度も足を踏み入れたことがないというのは、ほんとうにうかつだった。
聞いてみると、ヅカファンは男の中にもかなりいるという。
中年男性のファンだっているという。中年のオバサンのヅカファンというのも、あまり気持ちのよいものではないが、中年オジサンのヅカファンというのは、どういうものなんだろ。
当節は、世の中、乱れに乱れているので、モノセックスやら、ホモやら、レズやら、どうなっているのか、よくわからないが、とにかく、男と女という判然としていたものが、判然としなくなり、ゴチャゴチャになってしまったことは確かである。
先述の中年オジサンのヅカファンは、少女の男装にウットリするのであろうが、中年オバサンのほうは、もっと貪欲《どんよく》である。
上月晃《こうづきのぼる》の男装にウットリとしたその帰り道、こんどは丸山(現、三輪)明宏の女装にキャーといってとびついていくのである。なんだっていいんだね女は。どうも女というのはワケがわからないね。
もともと、女装だの男装だのといったものは、チンドン屋さんの専売であったと思うのだが、いつのまにやら、世の中全体がチンドン屋さんになってしまったのかも知れないね、チンチンドンドン。
丸山明宏サンにしたって、どことなく、チンドン屋さんじみたところがあるんじゃありませんか。
そうはいっても、ボクは丸山さんの美しさを認める一人なのである。
何年か前、丸山さんが銀座の銀巴里で歌っていたころ、すぐ間近に、そのお姿拝見して、あまりの美しさにズーンと感動だかなんだかが背中を走り、ついでに自分も銀巴里を走り出た記憶がある。
だがしかし、漫画家は想像力が異常に発達してしまった人種であるから、丸山サンがいかに美しく女装し、嫣然《えんぜん》と微笑み、妖婉《ようえん》な流し目をくれても、そのスカートの下のまっ白なレースの下着の下に、黒々としたキンタマ、ダラリと下がった図を想像してしまうのである。せっかく作りあげた美しさに、ひたりきれないのである。不幸な人種なのです。
こうなってはもうダメである。
丸山サンが「あたくし、そうは思いませんのですのよ」などと明眸《めいぼう》パチリと音高く閉じても、ああキンタマ、キンタマという声が、どこからともなく聞えてきてそれでおしまい。
丸山サンたちの世界は、そんな中年オバサンたちが、分厚いモメンのズロースはいて、ゾーリつっかけて、キャーキャーいって駆け寄るような、そんな世界ではないのだよ。それなのに中年オバサンたちは、身分もわきまえずにキャーキャーいって腰巻乱して走りまわる。ああいやだいやだ。いやだねェ。
しかしなんですね、考えてみると、丸山サンと中年オバサンの取りあわせは、なんとなくピッタリ合っているような気もしますね。
「丸山サンには、中年オバサンがよく似合う」のかも知れませんですね。
おっと宝塚歌劇の話であった。
ボクたち中年オニイサンは、スミレの花咲く頃、少女歌劇を見に、宝塚へ出かけたのでしたね。菜の花畑の中を列車は突き進んでいったのでした。
宝塚市というのは、ヘンな表現ですが、たいへん健康そうな町でした。町の真ン中を、大きな川がサラサラと流れ(これもヘンな表現ですが、ほんとに、大きな川がサラサラと流れていたのです)その川のほとりに宝塚歌劇場は華やかに建っていました。
歌劇見物の前夜、町の中央にある旅館に宿をとり、川のせせらぎを聞きながら、ボクは湯煙りの中にカラダを沈めていました。
空には星がまたたき、わけもなく、ああタカラヅカだなアというつぶやきが、ボクの口から漏れるのでした。
天に星、地に花、人に愛という言葉が、これまたわけもなく、ボクの胸にシミジミとよみがえってくるような夜でした。
ボクと記者のYさんはお酒を飲み、いい気持ちになって夜の町にさまよい出たのですが、この健全な町には、バーなどというものは数えるほどしかなく、しかたなく宿に戻りアンマさんを頼みました。
このへんから話は、急に星菫《せいきん》調ではなくなってくるのです。
やってきたのは二十歳ちょうどという娘さんで、頬のふっくらとしたボク好みの、かわいいコなのです。申しわけないことに、このコはボクにホレてしまったのです。
このコは、ボクのカラダを熱心に、記者のYさんのほうは、ほんの申しわけ程度に揉んだあと、外でデートしないか、とこういうのです。ボクが断わるはずもなく、あわててネクタイをしめ、先に出たそのコを追って夜の町に駆け出しました。帳場には「今夜は帰ってこないかも知れないよ」と叫んだことはいうまでもありません。どういうわけか、記者のYさんも、ネクタイしめてボクのあとを追って飛びだしてきました。
そのコはボクらを洋酒喫茶みたいなところに案内すると、なんと、スクリュードライバーを注文したのです。ああ、このコは、今夜きっと乱れる心づもりなのでしょう。ボクは、あとあとのことも考え水割りのシングルを注文しました。するとそのコはグッと一息にスクリュードライバーを飲みほしてしまったのです。
そして、このあとなにが起こったかというと、申しわけないことに、なにも起こらなかったのです。そのコは、スクリュードライバーをグイと飲みほすと、じゃさようならといって店を出、ボクらもお勘定払って大急ぎで店を飛びだしたのですが、もう影も形も見えずそれっきり。
なにがどうなったのか、しばし呆然。空にはボンヤリおぼろ月。
ボクらは、「今夜は帰らないかも知れないよ」と、いったばかりの帳場の前を首うなだれて通り、ネクタイはずしてユカタに着がえ、オシッコをしておとなしく寝たのでした。
おっと宝塚の話でしたね。
その日は日曜日であったせいか、劇場は超満員、補助椅子をかり出すほどの盛況である。
全席、これほとんど女のコ。なんともいえない甘ずっぱい、花やいだザワメキが場内にあふれている。
ドアを開けて、場内に一歩足を踏み入れたボクは、頬の筋肉がほころんでくるのを、どうすることもできなかったのである。むろん男の観客もいる。中学生の女のコをつれたおとうさんもいれば、金歯光らした農協らしきオトッツァンもいる。
ボクらは最前列に席をとると、オペラグラスまで用意して開幕を待った。
この日の出しものは「ウェストサイド物語」で、今までの星よ、スミレよといったたぐいのものとはちょっと毛色の違うものだという。そして、この「ウェストサイド物語」は、芸術祭、文部大臣賞というものをいただいたのだそうだ。
だがボクにとってはそんなことはどうでもよかった。舞台に出てくるのは、すべて女のコである。どんなことがあっても絶対に男は出て来ないのである。どんな端《は》役のジイサンだって、若い女のコなのである。
女のコが歌い、女のコが踊り、女のコがラブシーンを演じる。上手であっても、下手であっても、なにをやっても、おお、そうかそうかとうなずき、よしよしとつぶやき、ニタニタと笑い、さながらヒヒ親爺の心境で観劇を続けたのであった。
しかし、絶対に女のコしか出て来ないという、あの安心感みたいなものは、いったいなんであろうか。
どんなラブシーンが演じられても(ほんもののキスシーンがたびたびあった。ベッドシーンもあった)女のコが、女のコとやっているのである。これがほんものの男とのラブシーンであると、シットやら羨望《せんぼう》やらが入りまじり、複雑な感情を抱きながら観劇するという複雑な事態になるのであるが、ここ宝塚歌劇場においてはそれがない。
そして、それによって得られる安心感というか、安堵《あんど》感というか、これはたいへんなもので、一種の安らぎさえ感じながら観劇を続けることができるのである。
十時半から開演して、一時半に一回めの公演が終る。この日は日曜日なので二回めを三時からやるという。
それまでを彼女たちは舞台衣装のまま待つわけである。その時間を利用して主役の古城都《こしろみやこ》、八汐路《やしおじ》まり、清《すが》はるみ、美山《みやま》しぐれの諸嬢と面会する栄誉を得た。
いやァもうドキドキしましたね。
四人のおねえさま方に囲まれて、ただもう、ほころんでくる顔の筋肉を締めつけるのに精いっぱいでした。古城都おねえさまはちょっとした八重歯があり、ファンはそこがまたたまらないのだという。むろんぼくだってたまらない。それにハスキーな声が、これまたたまらない。
以前は、男役志望の人が多かったが、今は女役志望の人のほうが多いという。
男役は、人気が出ても、宝塚以外のツブシがきかないが、女役で人気が出ればテレビや映画にも出られるからだという。最近のヅカ嬢は、ちゃんと、先々のことも考えているのである。
同性愛があるということは否定はしないが、巷間に伝えられるほどのものはないという。古城さんはつい最近、はじめて東映のヤクザ映画を見た。そして、高倉健の演技に、得ること多大なものがあったといっていた。健さんは少女歌劇にまで、多くの影響を与えているのである。
舞台衣装のままの彼女たちを見ていて、つくづく演劇人というのは、たいへんなものだと思った。
十時半から一時半までの三時間、歌い、踊り、セリフをしゃべり、泣き、笑い、走り、飛びあがりつづけるのである。そしてその三時間の一部始終を、数時間後には、また最初からくり返さねばならない。むろん、その中で演技する自分は、再び興奮したり、いきどおったり、嘆いたりしなければならないのである。
そしてこれを一カ月という間くり返すわけである。いやこれはたいへんなことだなァ、とつくづく思いました。ゴクローサン。
少女歌劇は、女のコの男装が一つの売りものであることはいうまでもないが、こう世の中乱れてくると、どういうことになるのだろうと心配になることがある。
男性の女性化ということがいわれ、男性も髪を長くしたり、女っぽい服装をするようになってきているが、やがてはこうした女っぽい男性のヒーローというものも出てくるかも知れない。たとえていえば、元タイガースのジュリーなどである。そうすると、そういうドラマを少女歌劇で演ずる場合、女っぽい男性のヒーローを、女が男装をして演ずるわけであるが、演ずるほうはもともと女であるから、女っぽい男を女が女っぽく演じなければならなくなるわけだから……いったい、これは、どうすればいいのか。
この日古城都おねえさまが演じたジェット団の団長トニーはよかったねェ。ボクはいっぺんにファンになってしまいました。リリしくて、清潔で、男らしくて、舞台のソデから姿を見せると、それだけで、なんともいえないある種の雰囲気が舞台に立ちこめるのです。なんといったらよいか、思わず舞台に駆けあがり、「ミヤコおねえさまッ」と一声叫んでその胸にとりすがり、ヨヨと泣きくずれたいような、いや笑いくずれたいような、そんな衝動にかられてしまうのです。
歌舞伎のオヤマは、女のもっとも女らしいしぐさを捉えて見せるが、少女歌劇もまた、男のもっとも男らしいしぐさを、ピタッと捉えて見せる部分がある。そのしぐさが、ピタリと決まったとき、観客の背中にズーンと、いいようのない感動だかなんだかが走るのである。
むろんボクの背中にも、そのズーンが走ったことはいうまでもない。
ボクは、そのズーンのとき、思わず「おねえさまステキよッ」と叫びそうになり、あわてて口を押さえたほどである。
そのときの自分を考えてみると、ボクは一瞬女になって、男としてのミヤコおねえさまにとりすがろうとしているのである。
だがボクはもともと男であって、男のカッコーはしているが、よく考えてみれば女であるミヤコおねえさまに、男としてのボクは、女ではあるが男であるミヤコおねえさまに、女として男として、アレ待てよ……と、とめどなく考えは乱れに乱れ、混乱してウツロになった目で、ふと傍《かたわ》らを見れば記者のYさんが、隣席の女のコと親しげに会話交しているのが目に入り、乱れに乱れた心の中に、さらにシットの心も加わり、ボクはもうなにがなにやらわからなくなって、落ちつけ落ちつけと自分にいいきかせ、ふと後をふり返れば、農協の金歯オジサンがウヒャウヒャと笑っているのが目に入り、あわてて舞台を見ると、女のコのスカートが舞い上がり、パンティがあらわに見え、これもまた悪くないぞと思い、この思いは、やはり男である証拠と、やっと安堵の胸なでおろしたのであった。
しかしなんですね。女のコが男のカッコーをして、男のしぐさをピタリと決めたときズーンと走るあれ、あれが倒錯の喜びというものなのでしょうか。
そしてこのズーンには一種の快感と同時に、一種の嫌悪感をも、すこし含んでいるような気がするのです。この快感と嫌悪感が、ほどよく入りまじったときにあのズーンが背中を走るらしいのです。してみるとなんですね、倒錯の快感というのは、最も高度な感情の遊びだといえるのかも知れませんですね。
このあと、いやがる宝塚歌劇団の課長さんにむりに頼みこんで、男子禁制の寄宿舎に入れてもらいました。
さすが女子ばかりの寮のことゆえ清潔このうえなく、ああこれが、全国の痴漢が一度は胸に描いた宝塚歌劇団の寄宿舎かと思うと、再びズーンと感動が背中を走り、しかしこのズーンは決して倒錯のズーンではなく、正しいズーンだ、雄々しいズーンだ、ズーンダッタ、などと思いながら、またまたほころびてくる頬の筋肉、ひきしめひきしめ、全館くまなく視察したのでした。
ちゃんと部屋の中も見せてもらいましたが、内部がどうなっているかということは、課長さんとの、男と男の約束で報告するわけにはいきません。ザンネン。
岡潔センセイと議論する
編集部の人が、「こんどは、オカキヨシさんに会ってみませんか」という。
オカキヨシ……ハテ聞いたことあるぞ、グループサウンズの一員だったかな、いや待てよ、日活のアクションスターかな、と日頃の思考範囲の狭さたちまち暴露して思いあぐねるうち、
「数学の岡さんですよ、文化勲章の……」
思わずボクはアッと驚いた。
今までに、ボクの会った人といえば、ハントバーのバーテンさんとか、田舎のお医者さん、ラーメンやのおねェちゃんなんかであったのだが、それがいきなり文化勲章!
驚くのも驚いたが、それよりオビエが先に走る。
ドサマワリ役者が、いきなり日生劇場に引き出されたようなものである。
そして岡先生は数学の先生である。
ボクは数学と聞いただけで、数々のいまわしい思い出が、頭をよぎるのである。
解析、解析、幾何、ああ思い出してもセンリツが背中を走る。
数学の授業が始まって終るまでの、あの重苦しい、長い長い灰色の時間よ。
試験の答案をもらうとき、女生徒に見られぬように、パッと引ったくり、すばやく折りたたみ、卑屈な笑い浮かべて、教壇から自分の机に戻る足どりの重さよ。
考えてみれば、ボクは、あのころから女のコにモテなかったなァ、と思い出は、よくない方へ、よくない方へと拡がるばかり。
岡先生は、こともあろうにその数学の先生なのである。
考えれば考えるほど身がすくむ。
編集部の人の話によると、今回は、数学の話ではないという。
岡先生の近況は、数学から離れ、荒廃する日本の行く末を案じて自宅に道場を建てられ、念仏|三昧《ざんまい》の毎日を送っておられるという。
今回は、岡先生が、どんなふうに日本の行く末を案じておられるのか、また、次代のにない手である若者をどうお考えになっておられるのか、そこのところを、ボクが、若者の代表としてうけたまわってくるという趣向だという。
それではということで、早速、編集の人と二人で岡先生の住む奈良へ電話をかける。
「もしもし、こちら文藝春秋の漫画讀本の者ですが、今回、『にっぽん拝見』という企画で、東海林という漫画家が、ぜひ先生にお目にかかって、お話うかがわせていただきたいわけなのですが」
「なに? 漫画家が? わたしに?……なぜ漫画家がわたしに会う必要があるのです。漫画家はふざけて書くから会いません。会いたくありません」
「そこを、ぜひなんとか……」
「日本はいま、どういう時だと思いますか?」
「……」日本は、どういう時かと聞かれ、一瞬ちんもく。エート待てよ、たとえば安保の……
「では、さようなら」
ガチャン。
いったい、なにがどうなったのか、ボクは呆然と受話器を見つめるばかり。
だが現代のマスコミというものは、こんなことぐらいで、ひるむものではないのである。とにかく奈良まで行きましょう、行けば行ったでなんとかなりますよ、ということになってしまうのである。
奈良に向かうべく新幹線に乗ることは乗ったが、心は重い。
なにしろ岡先生は、世界的な大数学者である。それにひきかえ当方は、年端《としは》もゆかぬ浅学非才の漫画家である。
考えれば考えるほど足すくみ、心|萎《な》え、手が震える。
出発前に岡先生の著作、片はしから買い求め、読みふけったが、とにかく難解である。
なにか共通の話題はないものだろうか。
数学は、インスピレーションによって新しい発見をすることが多いという。
岡先生の研究テーマ「多変数解析函数論」の発端は、床屋で散髪しているうちにパッとひらめいたのだという。
じつをいうと、恐る恐るいうのであるが、漫画のいわゆるアイデアといわれるものも、このインスピレーションの一種によってできあがるものなのである。であるから漫画家は、毎日が、インスピレーションの連続なのである。
ただ、岡先生は、ひとたび、インスピレーションわき起これば、たちまち文化勲章であるが、こちらは、ひとたびインスピレーションわき起こっても、せいぜいムニャムニャ円かの原稿料いただいて、焼鳥食うぐらいが関の山なのである。つまり安いインスピレーションなのである。この差は、大きいといえば大きい。
などと、いろいろ考えるうち、列車は、名古屋を過ぎて、恐怖の奈良は、どんどん近くなる。ボクのオビエも、だんだん激しくなる。動悸も激しくなってくる。
これでは心臓によくないからと、大阪で降り、いっぱい飲んで勇気をつけようということになった。
ミナミの繁華街に行き、飲みやのノレンくぐってお酒をもらい、一息に飲む。動悸もややおさまってきたので、タコ焼きを食べ、おでんも食べ、ついでにホルモン焼きも食べ、勇気をつけるつもりが精力をつけてしまう。
翌日は朝早く起きて斎戒沐浴《さいかいもくよく》、ふだんは磨いたことのない歯も磨き、靴も磨き、ネクタイもキチンとしめて岡先生のお宅に向かう。
だが先生は、はたして会ってくださるだろうか。電話で「では、さようなら」と断わられているのである。それなのに、厚顔にも、こうして奈良までノコノコやって来てしまったのである。もし断わられたらどうしよう。
奈良までの新幹線の切符代だって決して安くない。おまけに、ゆうべは大阪で、タコ焼きまで食ってしまった。もう引くに引けない気持ちである。あとは、岡先生の慈悲に、すがるばかりである。
だが、ボクの服装は、これでよかったろうか。ネクタイこそしめているが、背広は、かなり赤っぽいエンジである。まずかったのではないか。ズボンも、もっと太い、皇太子ぐらいのをはいてきたほうがよかったのではないか。許されざる者は、いよいよ卑屈になるばかりである。
一月の奈良は、氷るように寒い。
奈良の山を背負った田ンボの中に、岡先生の新居が見えてきた。
文化勲章受賞当時、「六畳二間の文化勲章」と騒がれた家を引きはらって、二年ほど前に建てられた白壁の大きな家である。敷地も二百坪はあると思われる。
このへん、坪いくらぐらいするだろうと、俗塵《ぞくじん》にまみれた漫画家は考える。
ともすれば、ひるむ心にムチ打ち、玄関のベルを押す。
たぶん、お嬢さんと思われる人が出て来て用件を聞き、「しばらくお待ちください」といって引っ込む。
家の中で協議が行なわれているのであろう。緊張の十分。
そして、「お会いするそうです。お上がりください」といわれたときは、うれしさと、緊張のあまり足がもつれ、よろめくように座敷にころげこんだ。
岡先生の対談相手といえば、小林秀雄とか、松下幸之助、林房雄といった各界の一流の名士ばかりである。
漫画家といっても、漫画界では一流の、人品いやしからぬ紳士が、ゆったり現われると思いきや、ヘンなアンチャンみたいのが、赤い背広着てドタドタところげこんできたのであるから、先生としても、さぞビックリされたことと思う。
だが先生は、優しい瞳をして、静かにすわっておられた。
蓬髪《ほうはつ》、痩躯《そうく》、鶴のように痩せた、という表現そのままに、先生はキチンと正座されている。ボクも座ぶとんの上にキチンと正座する。
「わたしとしては、漫画家には会いたくないが、東京からわざわざおいでになられたのであるから、わたしの最近の心境のようなものでしたらお話ししましょう」
といわれる。
早速、メモ帳出してキッとかまえたが、ボクはここ数年、正座というものをしたことがない。一分とたたないうちに、足がしびれてくる。足もしびれるが、ボクのズホンは安物なので、ヒザが抜けてしまわないか、それも心配である。シワだって寄る。
先生のお話は、まず日本の防衛論から始まった。
先生のお話は、急に飛躍したり、前後がつながらないことが多いが、これは、先生の頭脳が、通常人の約二万七千倍も速く回転するせいであると思われる。(この二万七千倍については後述する)
「エー日本は兵力の放棄をうたっておりますが、相手の国が(兵力を)放棄するかどうかを考えていません。(これでは)いったいどうなりますか」
「そして民族の団結心がない。国を愛していない。みんな自己主張ばかりしています。そしてみな、物質中心の考え方しかしない。こんな状態が続けば国は亡びます」
「あのォ安保条約に関して先生は……」
「今いうよ」
「ハハーッ」
「安保は存続させるべきです。日本のこんにちの繁栄は、安保があって(米軍に)守ってもらっているからこそ、こうなったのです。もしこれを破棄して、米国が日本から去れば、中共は必ず攻めてきます。これは自明です。今の日本人は、こんなことさえもわからないのです」
「ハハーッ」
「そして日本は、今や、亡国直前のユダヤと同じです。みんな、儲《もう》けることしか考えない。そして団結心がない。そして国を愛するという気持ちがない。日本は亡びます、十中八九亡びます」
「ハハーッ。亡びます……と」
ここからお話は情緒の問題に急転換する。
お話のあいだ中、ずっと体は左右に揺れ続け、ハイライトを口にくわえるが、火はつけない。つけないでまたテーブルに置く、またくわえるということをくり返す。
「情緒の元は、すべて頭頂葉にあります」
ボクの足のシビレは限界に来たが、先生は決して、「おたいらに」といってくださらない。やむなく、先生のスキをみて、ソロソロとヒザをくずしにかかる。
「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」
この頭頂葉という言葉は、先生のお好きな言葉であるらしく、じつにヒンパンにお話の中に出てくる。
そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである。
「日本人は、大型景気に浮かれ、借金をしてどんどん設備投資をしています。借金だから利子を払わなくてはいけません。ですからそのうち、大量倒産時代が必ずやってきます。そのとき日本人は団結心がないからたちまち亡びてしまいます。それもみな、情緒というものを忘れてしまったからです。それは、頭頂葉(バシッ、カチャカチャ)を使うことをしないからです」
そうして先生は「国が亡びるのを座視するに忍びず」その対策を、本に書いたり、人にいったりしてきたのであるが誰もわかってくれない。
「日本人は情操を解するただ一つの秀《すぐ》れた国民です。もともと頭頂葉(バシッ、カチャカチャ)の発達した国民です。それがいつのまにか、こんなことになってしまった。情けないことです。日本はもうすぐ亡びます」
話が佳境にはいり、熱してくると、体の揺れも激しくなり、「頭頂葉」の出てくる頻度も激しくなり、当然、頭をたたかれる回数も多くなる。バシッ、カチャカチャも多くなる。
しかし、あんなに頭をたたかれては、頭頂葉のために、よくないのではないだろうか。あるいは、ああして頭頂葉を鍛えておられるのだろうか。
お茶が出、コーヒーが出て、話はどんどん発展する。
「とにかく日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」
「ハイ。そうします」
お茶を飲みすぎて、ボクの膀胱《ぼうこう》は、ついに満タンになってしまった。
「あのォ、おトイレは」
「だいたい今の人間は自然科学を重視しすぎます。自然科学で、人間はなにを知りえたでしょうか。たとえば、今私は坐っている。立とうと思う。そうするとすぐ立てる。これもまた不思議なことです。全身四百いくつの筋肉が統一的に働いたから立てたのです。なぜこんなことができるのか。自然科学はなにひとつ教えてくれません」
膀胱をしっかり押さえつけ、シビレる足をなでつつお話を拝聴する。
「今、全学連が騒いでいますが、先生としては……」
「あんなことをしてもなんの役にも立ちません。すべて物質中心主義、自然科学過信がまねいた結果です」
「あのォ、宇宙開発が今盛んに……」
「いくら物質を科学しても、何も得られません。ムダなことです。宇宙を開発しても人間は幸福になりません。大切なのは心です」
「最近の女性は……」
「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。セックスは種の保存のために必要です。仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」
セックスについて語るのに「気高く」という表現が使われたのでボクは一瞬息をのむ。
「最近の若者の無知ぶりはひどい。わたしはせんだってある女子大生の知力をはかってみましたところ、わたしの二万七千分の一しかありませんでした。そして最近になって、もう一度はかってみましたら、さらに、そのときの三十分の一になっていました。これはじつに、合計百万分の一ということです」
「日本の最近の男女の乱れぶりは亡びる前のアテネに似ています」
先生はここで急に声をひそめ、
「日本の共産主義の若いものは、『歌って踊って恋をして』の方針でやっているらしい。わたしが最近、親しい僧侶から聞いた話では、男たちが、若い女性を輪姦して、それで女が喜びを知って共産主義に走るということをしているらしい。これは、私が相当の地位にある僧侶から聞いた話だから、ウソではないでしょう」
ボクは岡先生の口から輪姦という言葉がとび出してきたのでびっくりしてしまった。そして、老いたる高名な僧侶と先生が、ヒソヒソと輪姦の話をなさっている場面を、思わず想像してしまったのである。
「それにしても」と先生は続ける。「こんなことをして、ほんとうに日本はどうなるのでしょう。まちがいなく亡国寸前の姿です。日本はまもなく亡びます。十中八九亡びます」と、おいとまを告げて玄関に出たわれわれに、さらに先生はこう続けられたのである。
玄関で靴をはく間もボクの心は深い憂いに沈んでいた。どうやら日本はまもなく亡びるらしいのである。本当に日本はどうなるのだろうか。この非常のときに、漫画など書いてていいのだろうか。不安が次第につのり、胸がいっぱいになり、ぼくはヨロメくように玄関から退出したのである。
この日、奈良の空は、暗雲が低くたれこめていた。
やさしい女の激しい踊り
南の島四国で、阿波踊りをやっているという。三十万の人が踊り狂っているという。
かねがねボクは、熱狂とか、逆上とか、狂うとかいうことに、ひそかな関心を持っていたので、早速行ってみようということになった。
ボクはまったくの方向オンチ、地図オンチなので、早速地図を買いに本屋に走った。ぼくは昔から人文地理が不得意だった。
岩手県と、山形県と、どちらが、上だったか下だったか、未だに判然としないのである。ましてや東京以西のほうには、なんという県が、どういう組み合わせで並んでいるのか、などということは、皆目見当がつかないのである。
地図帳を恐る恐る拡げ、阿波県というのを捜す。阿波踊りというから阿波県でやるのかと思ったら徳島県というところでやっているという。四国というページを拡げてよく見ると、たしかに徳島県というのがある。
この南の島の一隅で、三十万の人がカネや太鼓に浮かれ、夫は妻も子もかえりみず路上に踊り狂い、犬なんぞも踊り狂っていると聞き及び、その光景頭に思い描くうち、ボクもなにやらコーフンしてきて、深夜のアパートで一人畳打ちならして踊り狂ったのである。
羽田から飛行機で一時間半、徳島空港から車で四、五十分、アッという間に徳島に入ったのは八月十四日の夜。踊りは十五日からであるが(十八日まで四日間)、その前夜の模様も知りたかったからである。
町には人があふれ、血走った目で走り廻り、カネや太鼓の音が響き、酔漢は倒れ、スリは稼ぎ、犬は噛み、警官は怒鳴り、母は子の名を呼びあって、その喧噪《けんそう》、耳をおおうばかりと思いきや、実に静かなものであった。
大通りにきずいたサジキを飾る数百のチョウチンに灯が入り、ガランとした板ごしらえの観覧席をアカアカと照らしている。
女の子だってあんまり見かけない。むしろサミシイのである。
祭りの前の静けさという言葉があったかなかったか知らないが、これには深いわけがあったのである。
宿の女中さんの話。
「みんな家の中におるんよ。家におって編笠のヒモ点検したり、足袋のコハゼ確かめたりして、あすに備えとるんヨ」つまり皆、満を持していたのである。眠れぬコーフンの一夜を過していたのである。
「これでもし、太鼓が一つでもドンと鳴りゃ、たちまち、息をつめてひそんでいた人たちが、踊り出してしまうもんネ」
だからこの夜は鳴り物一切鳴らさぬようにしているのだという。一触即発の状態だったのである。イヤこれはどうもただごとではない。
明けて十五日、その日の徳島市の新聞の見出しを拾ってみよう。
「さあ踊ろう舞台はできた」――本番待てず浮かれ出す人――(やっぱりいたのである)
「本番前夜正調≠競う」――文化センターで選抜大会――
社説「阿波踊りを楽しく」(社説ですゾ)
「濃い目のポイント化粧で」――美しい踊り子になるには――(婦人欄)
「咲き出た踊りの名花」――ミス阿波踊り選賞会――
「阿波踊り有名十連紹介」――復調天水連に期待――
「新説阿波踊り」――山伏から発生か――(学芸欄)
全紙阿波踊り一色に塗りつぶされている。
たしかにこれはただごとではない。
阿波踊りの付随行事としてさき程の見出しにあったようにミス阿波踊り選出というのがある。
新聞記事には、そろいのゆかたを着たカワイコちゃんたちが、アデヤカに踊っている写真が添えられている。
ことしは第五回目で応募総数六十二名。その中から器量自慢、踊り自慢の十名が選ばれた。主催は地元紙徳島新聞である。
この徳島新聞社で二、三話を聞くうち、ミス阿波踊りの一人をここに呼びましょうということになった。
ボクはあわてた。なにしろきょうはヒゲを剃ってない。歯もみがいてない。髪のセットも乱れている。
「このへんに銭湯はありませんか」と聞くと、ないという。
人間どこで不幸にめぐりあうかわかったものではない。美人に会うとわかっていれば、当方としてもいろいろなすべきことがあったのである。口惜《くや》し涙にかきくれるうち、万事休す、玄関のドア優しくあけて、ミス阿波踊りがあらわれた。
やむを得ず、なるべくうつむくようにしてインタビューを開始した。
「おうま、おうま、お生まれは?」(ドモル)
「徳島です。高校卒業までずっと」
「ミスに応募したドキドキ動機は」(またドモル)
「まあねえ……。なんとなくですね。アルバイトにもなりますし」
落ちついている。ボク一人あがりにあがって、
「オナ、オナお名前と年齢をひとつ」
「玉城佳代子、十九歳です。東京の駒沢大二年生です。夏休みで帰っているんで」といってボクのほうをエンゼンと見やる。(ああヒゲを剃ってくればなア……)
「容姿端麗が条件だそうですね」
「……」うれしそうにまたボクのカオを見つめる。(髪のセットがなア)
「各地をまわって踊りを披露するそうですが、デートの申し込みなんかありますか」
「ハイそれはもう……」
いちだんと声うわずり、
「あああの……たとえばですね、ボクなんかがですね、申し込んだとすればですね、どどどうなりますか」
「喜んでお受けいたしますワ」
横に坐っていた新聞社の人、ギロリとぼくをニラむ。
同行の記者氏の話によると、最後のクダリはこうではなかったそうである。
「あああのボク、今申し込んでもいいですか」
「……」
ミスがケイベツの目でボクを見下す。新聞社の人、満足気に大きくうなずく。
と、こうだったそうである。
報道は真実を伝えねばならぬ。
阿波踊りは原則として連を単位に踊る。はじめて阿波踊りを見た人は○○連、××連と書かれたチョウチンを見てとまどってしまう。これは他の盆踊りには見られないものだからである。この連が組織されたのは大正時代からだそうである。(阿波踊りはほぼ四百年くらい前に始まったと言われているが、起源については、なにやら数説あって、徳島のインテリ社会では、いろいろムズカシイ議論が行なわれている)
小は三十名くらいのものから、百名以上の大世帯まで五百連以上あるという。連の構成は町会単位、会社、官庁、なんとか同好会など種々雑多。
阿波踊り振興協会というのがある。同好の士の集まりで、踊りの技術は専門職化している。古くからあるいくつかの連がこれに所属している。
これらの連は、各自正統の阿波踊りを伝えると自負している。
のんき連(百三十三人)を筆頭に、娯茶平《ごちやへい》、殿様、えびす、天正、扇、阿呆、天水、蜂須賀、小玉など十七連だが、この名前、なんと現代ばなれがしていることか。横文字なんぞの入りこむ余地など全くないのである。そして、これらの名前には、連の人たちがシンから楽しんでいる雰囲気がうかがわれるのである。
たとえば娯茶平連は娯茶(徳島の方言でムチャ、デタラメという意味)に助平の平をつけたものだという。
連同士の対抗意識もすごい。
「どこそこの連は、女踊りで下駄を鳴らす。あれはもってのほかである」
「○○連は、踊りは派手だが基本ができてない。基本ができてないから腰がふらつく」
などとプロ野球の解説みたいなことをいいあう。
そして、どの連も「正調阿波踊りは当方である」というのが決まり文句であった。正調が錦の御旗なのである。
では正調とはなにか。阿波踊り振興協会副会長、郡国平さんはいう。
「ごく簡単にいえば男踊りは、中心の腰は少し落とすが落としすぎてはいけない。落としすぎると前かがみになる。背筋はまっすぐ。手は肩より下にさげず足も休ませず交互に動かす。阿波踊りは本来歓喜の表現だから、手を下げたり足の動きを抜いては喜びの表現にならない」
とまことにウルサイのである。
市で一、二を争う連の一つ、娯茶平連の連長、福田雅哉さん宅を訪れる。
六十歳近いオッサンで教材屋さんである。ガランとした店先から茶の間に通される。福田さんの名刺には、一番上に大きく賜天覧と書かれている。
「忘れもしない昭和二十五年三月二十五日……」と福田さんはよどみなくいう。陛下が徳島県を訪れたとき、娯茶平連ほか四連が阿波踊りをご覧に入れたのだという。「今じゃ連はたくさんあるが、天覧いただいたのは四連しかありませんからねェ、四連しか」と娯茶平が四連の一つであることを強調する。
ここで阿波踊りのかけ声を思いだしていただきたい。ダレでも知っていると思うが「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というやつである。踊るやつも阿呆なら見るやつも阿呆だという論理である。
この論理で天覧阿波踊りを考えるとどういうことになるか。陛下の前に踊りが進んでゆき、「踊る阿呆に見る阿……」と、ここで踊り子たちは絶句したそうである。
そのあとどうしたか「踊る阿呆、踊る阿呆」で通したそうである。危ないとこだったのである。
茶の間の壁に今年作ったというゆかたがかけてあった。白地にブルーのぼかしが入っており橋幸夫調である。娯茶平連という文字も入っている。特別注文である。値段を聞くと一万円だという。さらに聞くと、どんな連でも踊りの期間に一日最低二〜三万円は使うそうである。この娯茶平なぞは四日間で四十〜五十万円使うそうである。そんな大金をどうするか? ゆかた一枚だけでも一万円である。ボクのゆかたは九百円である。いくら阿波の人々は阿波踊りが生きがいだからといっても、こんな大金を使ってしまって惜しくないのか。
この素朴で貧しい疑問は、すこしずつ解かれていった。
連にはアルバイトがある。いろんなところで踊ってみせたり、阿波踊り教室で教えたり、テレビ出演などするのがそれである。だいたい一回六千〜一万円の謝礼が出るという。年間百回はお座敷がかかるというからヒマな人は計算してみるとよい。世の中うまくできているのである。
「しかし私たちは決してプロではありません。あくまで同好のものが集まっただけです。踊りの四日間のため、三六一日働いているような連中で、ただもう好きで好きで……」と連長さんは強調した。
さて夜、七時を過ぎたころ、ボクも意を決して踊りの列に加わることにした。
用意のサラシ、腹にグルグル巻きつけ、ユカタをはおり、ダテ帯キリリと締める。頭には豆絞りのハチ巻、腰には印ろう、ヒョータンのセット(町で二百五十円で買った)、十一文甲高の白タビ、ピシリとはくと大川橋蔵もかくやとばかりのいっぱしの踊り若衆ができあがった。
道を同じような格好の人がゾロゾロゆく。カネ、太鼓、三味線の、あの独得の二拍子が町にあふれる。この身仕度でこの音聞けば、あとはもう自然と手足が動き出すしかけになっている。
が、ボクはこのまま町に浮かれ出る愚を避けたのである。
そして阿波踊りの教科書、飯田義資『阿波踊り』の「第二章、形態と機能」というところを拡げて読んだ。準備の姿勢からはじまってなにやらゴタゴタと書かれてある。踊りの心がまえについては、
「身体のどの部分にも力を入れることなく、自然のままにゆったりと静止し、心を落ちつけ深呼吸をして邪念を去り無念無想の状態になる」
とある。とにかく物々しい。これもやはりただごとではない。あだやおろそかに浮いた浮いたと踊るわけにはいかないようなのである。
町中には合計八カ所のサジキがある。一カ所一千万円かかる(県観光課の話)立派なサジキである。踊り子連はこのサジキの間を踊り抜けるわけである。このサジキの中には入場料二百五十円を払った観客がギッシリ坐って踊りを見学するのである。つまり見る阿呆である。
この即席の大川橋蔵ばりの踊り子は、これを聞いて足がふるえた。なにしろ一千万円に二百五十円がギッシリである。さらに「一万円のゆかた」である。さらに「邪念を去り、無念無想の状態になれ」である。九百円のゆかたに二百五十円の印ろう下げたこの即席踊り子は、額に汗ビッシリ浮かべ、エライヤッチャ、エライヤッチャの掛け声の中を、ただひたすらうつむき、汗ポタポタたらしながら踊り進んでいったのであった。
プレイガールとプレイババア
女のコはよくいう。「結婚したら遊べないから、それまでウンと遊んどかなくちゃ」そういってジャンジャン遊ぶ。なにをどうやって遊ぶのか知らないが、とにかく遊ぶ。
これがまア十八、十九、二十、二十一までだそうである。そして二十二の春、サーテと周囲を見回す。「そろそろダレかに引き取ってもらおうか」
こうして二十二、二十三、二十四ぐらいまでの三年間に引きとられ作戦を展開し、世の中にはまた、ちゃんとこれを引きとるバカがいて引きとってしまう。
女はよくいう。「結婚したらもうなにもできないからネ」なにがどうできないのか知らないが、とにかく、なにもできなくなってしまうらしいのである。男は根が単純だから「だろうなア」などと、よくわかりもしないのに深くうなずき、自分がそのなにもさせなくする張本人のような気持ちさえしてきて、なにやら納得してしまう。
ところがである。
現代の女は結婚してからだって遊ぶのである。なにをして遊ぶか。お酒飲んで遊ぶのである。男とダンスなんかして遊ぶのである。若い男を席にはべらせてお酌なんかさせて遊ぶのである。
日本にも女用のキャバレーができたのである。女を家庭に引きこんで子供を生ませ、ヤレこれでひと安心などといっていられなくなったのである。深夜、酔って帰宅したカアちゃんのスーツのポケットから、キャバレーのホストの名刺見つけ、サメザメと泣くトウチャンもそのうちでてくるにちがいない。
そこは麻布のクラブ東京。ボクは一日ホストとしてそこにもぐりこんだ。
ここは米国のタイム誌にも紹介された店で、その紹介記事にはこう書いてある。「夕方になると、ミニスカートの未亡人や着物姿の主婦などが、若いホストめざして続々とつめかける」。実をいうと、今回のルポにここを選んだのは、これを読んだからなのである。これを読んでぜひ行かなくてはと固く心に誓ったのである。なんといっても「ミニスカートの未亡人」の一言が効いたなア。
クラブ東京の支配人中村さんは中肉中背、中年の紳士である。元ダンス教師だという。中村さんから接客についての注意を受ける。「ウチは上品なムードをモットーとしているので客席ではミダラな会話をしてはいけません。またチークダンスもいけません。女性客と歩くときは女性の前を歩いてはいけません。女性が坐るときは椅子を引いてやり、自分はそのあとから坐りましょう。それから食事は上品に、会話を正しく、大声を出さずに……」これは女用のキャバレーというイメージではない。どうもボクは思い違いをしていたらしい。
ホストの年齢は平均二十五、六歳。総勢六十名。妻帯者も数名いるが、店では全部独身ということになっている。一日に五、六人はホストになりたいというのが来るが、会ってみて使ってみようかというのはごくマレだそうである。むろん容姿端麗が条件で、あんまりチッコイのやデブやタレ目はいけない。が、むしろそういったことより教養とか常識度といったものを重視して採るという。そして一番大事なことは、ダンスができなくてはいけないということである。
ところがボクは、このどれにもあてはまらない。年齢だって二十五をとうに過ぎている。おまけにややデブである。ダンスもうまくない、と恐る恐る申し述べると、中村さんは無言で天井を見上げた。しかたないだろうという心情とみうけられた。ボクは大きくうなだれた。
中村さんはいう、「女なら若ければダレでもホステスになれます。きのう田舎から出てきた小娘だってなれます。しかし男はだれでもホストになれるというわけにはいきません」
ボクはまた大きくうなだれた。
七時ごろ、早くもテーブルの三割はふさがる。客はほとんど三十五歳から四十歳ぐらいまで。いわばオバさんたちである。ボクはわりとオバさんが好きなタチなので、思わず相好《そうごう》を崩し、早くどこかのテーブルにつき、オバさんにお酌などしてさしあげ、上品な会話なども楽しみたいと思い、そのむね申し述べたが、中村さんはそうはいかないとボクを制した。
ここのクラブの客はほとんどが常連で、ご新規さんは二、三割、そしてこの常連の指名するホストもほとんど決まっている。ホストは指名がなくてはどうすることもできないのである。店内の片すみのカウンターには、こうしたまだ指名されないホストがたまって、雑誌読んだり、雑談したりして店内の様子、虎視タンタンとうかがっている。
新規の客には、客の好みをよく聞いてそれに合ったホストをつける。
「デブ好みの客はいませんか」と尋ねると、中村さんはまた無言で天井を見上げた。ボクは再び大きくうなだれた。
なかなかボクにはお座敷がかからないので、この店ナンバーワンというホストにいろいろ質問を試みる。
この人、年齢二十六、七歳、くすんだブルーのサイドベンツのカルダンルックを着用に及び、明るい若者といった感じである。色浅黒く、笑うと歯が白く光る。エリート街道をいくサラリーマンといった感じすらある。こういうのがオバさんにウケるんだナ。
「客はどういった人が多いですか?」
「ごらんのとおり、三十五歳から四十歳ぐらいの方がいちばん多いんじゃないですか。たまには、七十歳ぐらいの方もおみえになります」
「七十歳とはひどいバアさんだなア」
「ハイご老人でいらっしゃいます」
「アノー未亡人もよく来るとか」
「みなさんダンスを楽しまれにいらっしゃるんです。それと若いボクらと話をすることによって若がえろうとなさるわけですね」
「アノー未亡人なんかは……」
「会話といってもまア週刊誌的な話題が多いですネ。ボク今ゴルフにコってるんで、なるべくそっちに話をもっていくようにしています」
「アノー、ミニスカートの未亡人なんかは……」
「さきほど三十五歳の方が多いと申し上げましたが、女性の方は三十五歳になると、ちょうどお子様の手が離れるんですネ」
「アノー、未亡人もよく来るという……」
「子供がちょうど小学校にあがったりして。それでヤレヤレということでここへ来たりなさるんじゃないですか」
「未亡人はどうなるんだろうなア……」
「みなさん年輩の方ですし、話題も豊富、私なんかお客様から学ぶことも非常に多いですネ」
「未亡人……」
「ですから店をはなれて若いコと遊んでもあまりおもしろくないですネ。なんだか歯ごたえがなくて」
「………」
「未亡人の方はほとんどいらっしゃいません」
「ホッ」
と汗をぬぐう。
とにかくまじめなのである。
ボックスといってもキャバレー式のソファスタイルではなく、レストラン風の一人ずつの椅子。だからスカートならぬホストのズボンに手を出すなんてこともできない。むろんホストのほうだって客のスカートに手をつっこむようなことはしない。なにせ相手はオバサンだし……。
客とホストの会話盗み聞いても、双方、「……ですわネ」「ハイ……です」といった、です調なのである。「わたしなんか金のためと割りきってやってますからネ」
それでなければ、なんともつまらない仕事でとてもつとまるもんじゃないとみた。
でいよいよ金の話。
ホストの指名料が三十分四百円。客はたいてい二、三時間いるから、これがだいたい二千円。これは全額ホストの収入。それにチップ。最低千円から平均三千円は置いていくという。(トウチャンが汗水たらして働いた金だゾ)それやこれやで、このナンバーワン氏の収入はいいときで四十万、平均二十万はいくという。ふつうのホストでも平均七万(チップは別)というから決して悪い商売ではない。
メニューを見るとビール三百五十円、カクテル三百円より、料理は中国料理で五百円、四百五十円といった数字が並んでいる。
客一人が一回に使う金はだいたい五千円。チップやなんかも含めればまア一回一万円ということとになる。(トウチャンが働いた金だゾ)
そうこうしているうち、このナンバーワン氏に指名がかかる。
「最後に、今までなんかおもしろかった話あったら聞かせてください」
「そうですねェ……客がフロアですべってころんだことぐらいですねェ」
どうもヘンだゾ。こんなはずはない。きっとなにかあるはずだ。中年女と若い男がこれだけ寄り集まっているのだから、必ずなにかあるに違いないと、下衆《げす》のカングリいよいよ激しく、疑いのマナコフロアに向ければ、踊ってる。踊ってる。どこで習ったか知らないが客はみな踊りがうまい。良家の若奥さまといった客は少なく、みんなヤリテのオバさんという感じの人が多い。だが中にただ一人、シットリと上品な若奥さまふうが、静かに目をふせて踊っていた。おとなしく踊りながら、ときどき目をあげてホストの顔、それこそジッと見あげる。ホスト黙って静かに視線をそらし天井を見上げる。こういうのはどういうんだろ。
よく見ると、さきほどのナンバーワン氏、六十歳を軽く越えたと思われる超肥満体、白っぽい着物姿で白タビはいたバアさんを抱いて踊っている。長身|痩躯《そうく》のホストにすがりつくように短身肥満躯の組みあわせ。これはとても正視するに耐えない光景である。おまけにこのバアさん、体がぜんぜん動かない。つまりぜんぜん踊れないのである。だがさすが、このナンバーワン氏は端正な顔だちまったく崩すことなく、顔色一つ変えることなく、このバアさんを引きずり廻していた。
さて話かわって、こんどは先述の十八から二十一までの女のコたちは、どこでどうして遊んでいるか。十八娘のなれの果て、三十五歳のオバさんたちが一万円の札ビラ切って遊んでいるとき、現代娘たちはマンモスバーにくりこんでいた。こちらはまたさっきとうってかわって、値段はきわめて安い。カクテル百五十円、オツマミ百五十円、殆ど百五十円である。
九月十七日の夜、新宿は歌舞伎町のHというマンモスバーに、再び一日バーテンとしてもぐりこんだ。かねて手配していたとおりに、マネジャーが蝶ネクタイとチョッキを貸してくれる。これは生涯にぜひ一度やってみたかった格好である。一生に一度でいいから、あのバーのカウンターの中に入り、蝶ネクタイ締め、客の前で、シェーカー振ってみたかった。それが今こそ叶うのである。蝶ネクタイ結びながら、ボクは便所のカガミの前でうれし泣きに泣いたのである。
このHは一階と地下があり、バーテン二、三人が入るカウンターが各階四つぐらいずつある。バーテンの数は約四十人。みな独身、十八から二十五、六まで。
こういうところは、七時ごろから混みはじめ八時〜九時がピーク。九時を過ぎると潮が引いたように客が少なくなる。そして夜十二時を過ぎると、こんどはお店終った水商売の女がどっと押しかける。
ボクが行った日はちょうど土曜日で、夜七時ごろには約七分の入り。
さてカウンターに入ったものの、なにをどうしていいかわからない。
ツクネンと突ったっているわけにもいかないし、さればといってカクテルの作り方もわからない。しばらく様子を見ているうちに、客のタバコに火をつけることと、汚れた灰皿を取りかえる仕事があることがわかった。ボクのやれることはそれだけである。それからはダレかタバコ吸わないかと目を光らし、これだけが頼りのマッチしっかり握りしめて、客の動静うかがったが、どういうわけか、いざ客がタバコ吸うときはたいてい間にあわぬ。本物のバーテンがいつのまにかちゃんとつけてやっている。
カウンターの中はタバコも酒も厳禁である。ただし客がおごってくれる酒は飲んでもいいという。だがボクにおごってくれるという客は一人もいない。「ネエおごって∃」というわけにもいかず、せめて媚態《びたい》でも示して客の注意を喚起しようと思ったが、あいにくとボクの目の前に坐っているのはヤローの四人づれ。まだ若いサラリーマン風で学校の同期生が集まったらしい。
ビール二本を四人で飲んで、いっこうにあとを注文しない。どうやらこれでおひらきらしい。そのうち、一段とパリッとしたのが遅れてやってきて、威勢よくビール四本を注文し、一同急に活気づく。これが出世|頭《がしら》らしい。ボクも思わず活気づいたが、別にこっちにはおこぼれがまわってくるわけではない。
アホラシ。
ここの主任に聞いた話では、客の男女の比率は六対四だという。だがどう見渡しても四割はいない。そしてその四割の女性の内わけはBGと女子大生が半々であるという。ボクはオバさんも好きだけど、女子大生もわりと好きなほうなので、女子大生早く来い来いと心に念じたが、見渡したところやはりBGのほうが多い感じである。
店としては極力女のコが来るように気をつかっているという。女が来れば自然と男もたくさん来るようになるという。どうもなんだかイジラシイ話ではないか。
このカウンターはちっとも女のコが来ないので他のカウンターに移る。折りよく女の二人づれが目の前に来る。さっそくタバコに火をつけてさしあげ、ご注文うかがい、サテとこの二人を見下ろす。どうもあまりサエない。年もくってる。「お仕事なんですか」と聞くと「サアなにかしら。なにに見える?」とうれしそうにこっちを見上げる。「サーなにかなァ……スチュワーデス……、いや大会社の秘書……それともファッションモデル?」と、とてもそうは見えない職業並べたてる。ヒョッとするとオゴってくれるかも知れぬ。二人づれキャーキャーいって喜んだけど、オゴってくれる気配はない。
ここのバーテンにははっきりした階級がある。即ち、見習→カウンター見習→バーテンダー→セコンド→チーフ→トップチーフ→主任→トップ→主任キャップ→店長という順である。
給料はボーイで二万五千、チーフで三万六千、主任で六万円程度だそうである。
トップチーフは各階をおさめ、主任は人事の掌握を行なう。バーテンは地方出身者が多く、どういうわけか九州出身者が多いという。そういえばさっきのホストクラブのナンバーワン氏も九州出身と聞いた。
チーフ「女の客とバーテンがデキるケースはかなり多いです」(ヤッパリ!)「この店でも全部客とデキたとはかぎりませんが半分は女がいます」(チキショー)
「だが客とデキて仕事をなまけるバーテンはきびしく監視してます」とチーフのMさんはいう。
「そうです、そんな奴はうんと叱ってやってください。なんならすぐクビにしてください」とボクは思わず大声で怒鳴ったが、人手不足でそうもいかないという。
「バーテンとデキて、開店の六時から閉店の二時までそのバーテンの前に坐っている女もいます。こういうのは商売にさしつかえますからねェ」
「そうですッ。そういうバーテンはすぐクビにしてくださいッ」とまた大声。
客が女のコに声をかけるときのセリフは、「ここ初めて?」「なに飲んでんの」「楽しいかい」「ここよく来るの」の四つだそうである。ハントするには、やはりバーテンと通じるのがいいといわれているが、これは事実だそうだ。バーテンにタバコか、二、三百円やってお目あてのコにカクテルをあげてもらう。そのときは知らないふりしていて、あとで、さり気なく声をかけるのがコツだという。オレがおごった、オレがおごったとギャーギャーサワぐのは得策ではない。
閉店も近くなってやっとボクの前に来た女の二人づれが「なにか飲まない」といってくれた。この二人づれ、やはりサエない感じだったが、そのセリフ聞いた瞬間、この二人が美しく見えた。この二人づれは男客からもあまり声がかからず、二人淋しく飲んでいたのである。声もかからず閉店もせまり、ふと目をあげると目の前に太ったヘンなバーテンがいる。しようがない、こんなのにでもオゴってやるかという気になったのかも知れない。お互いにツライよなア。
その二人の伝票見れば、ずらり百五十円の文字が並んだその中に、ボクにおごったビールの二百円が、一番最後に大きくサンゼンと輝いていた。
雪の肌、漆黒の髪
冒頭に秋田音頭をひとつ。
ヤートセー
ヨーイヤナー
キタカサッサ
ドン ドッコイナ
秋田の女
なんしてきれいだと聞くだけ愚《コケ》だえス
小野小町の生まれ在所
お前《メ》はん知らねァのぎゃァ
いや知らなかったなァ。
お前《メ》はん知らねァのぎゃァといわれて、はじめて知ったのぎゃァ。
遠くは小野小町から、近くは体操の小野清子選手に至るまで、秋田県は美人の産地だそうである。ここで賢明な読者は小野小町と小野清子が同姓の小野であることに気づき、思わずハッとするであろう。だがそれは無駄なことである。なんの関係もないのである。
晩秋の木枯らしが吹きすさぶある日、秋田美人を訪ねるべくボクは上野駅二十二時二十二分発、津軽二号の車中の人となったのである。
折りしも、発車まぎわのこの寝台車には、名も知らぬグループサウンズの一団が乗りこみ、それを追って娘たちが押しかけ、ワァワァキャアキャア、サインをねだる、さわる、追っかける、いやもうたいへんな騒ぎ。一人静かに身を横たえるボクの耳に「ヒロシ、カゼ引かないでネ」などの睦言《むつごと》も聞えてくる。ボクにはダレ一人として声もかけてくれぬ。さなきだに傷つきやすいボクの心は千々に乱れ、灯りを消した暗闇の中でジッと目をこらし「今にみていろ、オレだって。きっと……」と低く呟いたのである。なにが「きっと……」なのか、よくわからないが、とにかくその時の心境は「きっと……」だったのである。
日本の美人の産地は、京都(京美人)、新潟(新潟美人)、山形(庄内美人)、青森(津軽美人)、岩手(南部美人)、秋田(秋田美人)といった具合に、裏日本、それも東北が圧倒的に多い。秋田美人といっても、秋田県全土に美人が散在しているわけではない。
人口密集地帯という言葉があるように、美人密集地帯という言葉も存在するのである。
そしてそこは、美人地帯の中の、更に美人地帯なのであるから、あたり一面美人だらけ、美人がウヨウヨウジャウジャ棲息《せいそく》しているらしいのである。
秋田県のまん中に流れているのは雄物《おもの》川。秋田美人は雄物川流域に集結しているのである。そしてそれぞれに仁井田美人、仙北美人、湯沢美人と名づけられ、秋田美人の本家本元を名乗りあっている。
ちなみに美人なるものは川が好きであるらしく、美人地帯と川とは密接な関係があるといわれている。京美人には桂川、庄内美人には最上川、南部美人には北上川、そして秋田美人には雄物川である。
もっとも、人間が住みついている平野には、たいてい川が流れているけどネ。
湯沢美人の棲息する湯沢市には、産婦人科医を開業している杉本元祐博士がおられる。この杉本博士は知る人ぞ知る秋田美人の研究家なのである。
どういうことを研究しているかというと、秋田美人の身長、目のタテ、ヨコの長さ、頭の長さと幅、皮膚の色などを科学的に測定し、他国人との比較をしたりしているのである。
例えば肌の色。
秋田美人は、まず色白でなければならぬ。比色計というもので計ってみると、秋田県人の白色度は三十・五パーセント、日本人の平均が二十二パーセントだそうだから、かなり色白であることがわかる。ちなみに白人の白色度は四十・五パーセントである。しかし、顔の色は、ただ白ければいいというわけではなく、「ツヤ、なめらかさ、しっとりとしたハダざわり」も大切だという。
ボクは、これらの「色白、つや、なめらかさ」は実際に現地において、目で確かめたのであるが、最後の「ハダざわり」は、ついに確かめることができなかった。ザンネン。できることなら、これら全部、|目《ヽ》だけでなく、|ハダ《ヽヽ》で確かめたかったのであるが、やはりこれも叶わなかった。ザンネン。
つぎに大切なのは目。
だれもが大きいと感ずるミロのヴィナスの目は、横の長さが二・六センチだそうである。ではわが秋田美人はどうかというと、三センチから三・四センチもある。国産の勝利というわけである。
秋田美人は鼻筋もよく通っている。天井向いたり、アグラをかいたりもしない。キチンと正座しているのである。
秋田美人の鼻筋はなぜ、よく通っているか。まず次のようなことが考えられる。
鼻は匂いをかぎ分ける機能の他に、肺の保護をするという働きもしている。冷たい空気を直接肺に吸いこませるのはよくない。そこで空気を、一度鼻の中で暖めてから肺に送りこむという手続きが必要になってくる。冷たい空気が鼻腔を通過していくうちに、だんだん暖まっていくという寸法である。つまりガス湯沸器の原理ですナ。それには鼻が長いほうがいいということになる。
秋田という寒冷な地方の女人の鼻筋が、よく通っているのもムベなるかなというわけである。では、熱い地方にいる象の鼻が長いのはなぜか。そこまでは、ボクにもよくわからない。ただ、いえることは、象には象の事情があるということだけである。だいたいこの寒冷地帯、鼻筋よく通り説≠ヘ、青柳有美という人の「雪国美人論」から引用させていただいたものであるから、ボクにはそこまでは責任負いかねるのである。
秋田にはなぜ、色白、目もとパッチリ、顔ポッチャリの美人が多いのか。
これには、じつにさまざまの説があり、さまざまの推理があり、それらが錯綜《さくそう》し、迷走していて複雑を極めているが、それらをわかりやすく個条書にして述べると、
アイヌとの混血説
秋田地方は、昔、アイヌの棲息地であった。秋田市には、西馬音内(ニシモナイ)とか毛馬内(ケマナイ)といったナイのつく地名が多い。このナイというのはアイヌ語で谷とか沢を意味する言葉である。アイヌ人は色白でホリが深く髪も黒い。これは秋田美人の特質と合致する。
落人《おちうど》説
源義経の例のごとく、京都の貴族が多数、東北に逃げこんで住みついた。貴族というものは、だいたい美男美女が多く、これが秋田美人の源流となった。実際に田んぼのアゼ道を歩いていて、びっくりするような貴族顔のお百姓さんに出会うことがたびたびあった。
キリシタンバテレン説
これは杉本博士独自の見解で、秋田には相当数のキリシタンバテレンが逃避したのではないかと思われる。人跡まれな山間地にハッとするような西洋型の顔立ちの田夫を見ることがあるという。山間僻地《へきち》の、隠れ家を構えるに適当な場所に、西洋風な顔だちとともに、キリシタン信仰を伝える遺物が、門外不出として代々伝え残されていることが多い。
隠れキリシタンであること、バテレンとの混血であることは、代々決して洩らしてはならぬ秘事として家の歴史からも抹殺《まつさつ》されたに違いないから、確証をつかむことは困難であるが、数少ない資料を目下蒐集中である。
話は変わるが、ほんとのことをいうと、ボクは、美人はあんまり好きじゃないのである。さらにほんとのことをいえば、美人はボクを相手にしてくれないから好きじゃないのである。
美人というものは、ボクにとっては遠い、はるかな、無縁の存在なのである。
それはボクだって、若い頃は美人にあこがれ、ひそかにタメ息などをついてみたりしたこともあったのであるが、なにしろ先方がこちらには何の関心も示してくれない。数々の試行錯誤の後に、今やボクは、美人に関してはサトリのようなものさえ開いてしまっているのである。
世の中には、美人とみれば、すぐチョッカイを出す人もいるが、ボクは美人とみれば、すぐ諦めるようになったのである。
ひがんでいうわけではないが、美人はなんとなくズルイ感じがするではないか。
たとえば、どうみてもサエない顔面の人でも、お金持ちであれば、たいてい美人のカアチャンを持っているものである。このへんがボクにはどうも納得できない。美人はどうもズルイという感じがするのである。名のあるスモウトリ、プロ野球選手、浪曲調歌手なんぞもまた、美人のカアチャンを、ちゃんと娶《めと》っている。このへんもどうもウサンくさい。美人というものは、大部分、こういう方面に行ってしまって、ボクのほうまでは、とてもまわってこないのである。
人間、やはりカオではないらしいのである。
またまた話は急激に変わる。話がどんどん本題からそれていってしまうではないかという不安を持たれると思うが、おしまいのところでちゃんと本題に戻るようになっているので、安心して読んでいってください。
タレントなどの出世物語には一つの決まった図式のようなものがある。まず最初に苦闘時代がある。この時代にはカレを助ける内縁の妻がいる。これが後《のち》の彼のかくし妻になるわけであるが、なにしろ苦闘時代であるから、容貌のほうまでとやかくいってはいられない。したがって、大部分は十人並みか、十人並み以下である。強《し》いていえば、たいていブスである。
次がいよいよデビュー時代である。カレは華やかなスポットライトを浴びる。カレは一躍スターとなる。高額所得者名簿にも名を連ねる。たいてい外車を買う。そのつぎにエピソード時代というのがあって、苦闘時代のエピソードが次々に語られ、タネ違いの妹なんかが突如現われるのもこの時代である。次がキンキラ御殿時代。とにもかくにも御殿をぶっ建てる。シャンデリヤをつける。
そのつぎがゴルフ、ヨット時代で、まあいってみれば贅沢堪能時代である。
そしてそのつぎが、いよいよカアチャンとっ換え時代≠ネのである。このつぎに慈善時代≠烽オくはあゆみの箱時代≠ニいうのがくるのであるが、これは略す。
金もでき、名もあがり、御殿のシャンデリヤの下で、うまいもん食いながら、ふとカアチャンに視線を投げる。これがいけない。これがそもそも苦闘カアチャン受難のはじまりなのである。
なんせ苦闘時代に、うんと苦闘させたから、かなりクタビレている。ほうぼうのイタミもはげしい。これはやはり四畳半のアパートの裸電球の下では、まあなんとか見られたシロモノだが、シャンデリヤの光には似つかわしくない。「とり換えよう」とカレは思う。そしてほんとにとり換えてしまうのである。
そこへ登場してくるのが美人なのだ。家も金も地位も、なにもかもが、整えられ、できあがったところへ美人が乗りこんでくるのである。ノホホンとやってきて、ヘンな西洋の犬コロ抱いてアクビなんかしているのである。これでは苦労して、やっとここまで夫を出世させたブスカアチャンは、いったいどうなるのだッ。かわいそうじゃないかッ。
だから美人はズルイというのだ。
こういうふうに美人はズルク悪賢いのが多いので、ボクはなるべく美人のそばへ近寄らないようにしているのである。美人と見れば、すぐあきらめるようにしているのである。もっとも、向こうだって近寄ってこないけどね。
さて杉本医師宅で話を聞いたあと、美人探索ドライブに出かけた。特にこれという目的はなく、ただ途中、美人にめぐり会おうというドライブである。途中、美人にめぐり会ったらどうするかというと、「ウワァ! いたァ」と歓声をあげればいいのである。気楽なものである。
大曲から右に折れて、車は角館に向かう。角館も美人の棲息地である。
水の良い所には美人も生まれるが、良い酒もまた生まれる。たとえば湯沢は、東北の灘《なだ》といわれるほどたくさんの銘酒がある。爛漫、両関もここの産である。
水の良い所の酒はうまい。うまいのでトウチャンたちは、つい度を過して飲む。飲み過ぎれば家も傾く。なんとかせねばならぬ。
水の良い所は、また美人も多い。トウチャンの娘も美人である。トウチャンは娘を売ることを考える。娘は泣く泣く売られていくということになる。これすべて、良い水が原因で起こる不幸であるから、まことに禍福はあざなえる縄のごとしといわねばならぬ。
江戸時代、秋田も東北各県の例にもれず、貧農が多く、そこへ美酒、美女の因果が重なって、盛んに女の身売りが行なわれた。秋田女の美しさと、気立てのよさが喧伝《けんでん》されるようになった端緒は、吉原遊廓であるといわれるユエンである。秋田女が評判になるにつれ、秋田女だけを置く女郎屋もでき、これが江戸に出ている秋田男(今の出稼ぎですな)の通い場となって心中のメッカになったという話もある。実際、吉原の心中事件は、秋田女が圧倒的に多かったそうである。これが、秋田女の気立てのよさを示すなによりの証拠であると秋田男は主張する。
車は田舎道をガタゴト進む。
ボクは車の中から、キョロキョロ目を光らし「あっ、いたッ」「ヒャー、いたッ」「またいたァ」とさながらイナゴかバッタ追いかける按配《あんばい》。ほんとに美人がうようよいる。
そうこうしているうち角館に着き、秀よし≠ニいう造り酒屋にあがりこむ。美女探訪のついでに美酒探訪ということになった。
と、時刻はちょうどお昼で、座敷には山海の珍味が並べられている。お酒の用意もできていて、しぼりたての銘酒秀よし≠ごちそうになる。この酒は、この地に四百年も続いた地酒である。いや、そのうまかったこと! ボクはたてつづけに三本飲んで陶然《とうぜん》となり、もう美人もルポもどうでもいいという気分になった。
できることならジックリ腰をおちつけ、一升ほどは飲みたいと思ったが、同行の記者氏は、意地汚なくサカズキ差し出すボクを制し、引きたてて、またまたドライブを続行。
晩秋の東北は、山野を黄金《こがね》色に染めて、その中にリンゴの赤が点々とつらなる。空は夕焼け。腹中には美酒、外には美女、美景。もういつ死んでも悔いはないと、ボクは思った。
夕刻、美女狩りドライブの成果を一堂に集めて座談会を開いた。そしてここで改めて秋田乙女の気立てのよさを再確認したのである。都《みやこ》では、「家つきカーつきババーぬき」なる言葉がはやっておるが、これについていかに考えるやとの質問に対し、全員打ちそろってババーつきを切望したのである。
これら気立て優しき秋田乙女にヒシと取り囲まれながらボクは再び思った。
もういつ死んでも悔いはないと。
競輪学校一年生になるの記
最初ちょっと堅い話になるが、我慢してください。
三菱重工〜三千八十七億
トヨタ自販〜二千八百七十二億
八幡製鉄〜二千二百六十一億
これが昭和四十三年の日本のトップスリーの年間売上高である。
そして、わが競輪の年間売上高。
三千六百億!
なんと、実業とは、むなしいものではないか。
八幡製鉄に働いているオジサンたちが、一年間、黙々と、飛びちる火花と、走る湯玉の中で、汗にまみれて働いて、やっと稼ぎあげたお金より、競輪で、ワアワア騒ぎながら稼いだ金額のほうがずっと多いのである。
実業の敗北、虚業の勝利。
八幡製鉄のオジサンが会社の昼休み、汗をぬぐいながらこの数字を読み、世の中、急にハカナくなって、会社飛び出し、競輪場に駆けこむのではないか、ボクはそれがたいへん心配である。
では、競輪を一日開催すると、いったいどのくらいの売上げがあるものなのか。
なんと、一日五億だという。
むろん、この五億が、まるまる胴元の収入になるわけではない。
ちゃんと配分の比率がきまっている。
まず七十五パーセントが、適中配当金としてお客に還元される。五億の七十五パーセントだから三億七千五百万である。
すごいもんだね。こんなに戻ってくるとは思わなかった。
次に競輪場に三パーセント、つまりショバ代千五百万。それから選手の賞金に四パーセント、二千万円だね。それから競輪をとりしきっている大胴元、自転車振興会が三パーセント、つまり千五百万。そして、いよいよバクチの胴元、主催者の地方自治体の分け前が十五パーセント、七千五百万円である。
すごいなア。たった一日、バクチの胴元やると七千五百万。なにも汗水たらして働くことないじゃないか。
ここまで読んで、またまた、八幡のオジサン、世の中ハカナくなって会社を飛び出し、競輪場へ駆けこむのではないか、筆者は再び心配するのである。
バクチを一日やれば七千五百万円。十日やれば七億五千万。
これならなにも、二百六十円亭主から、地方税だなんだと、とり立てなくたっていいじゃないの。毎日毎日、浮いた浮いたとバクチをやって、それで財政まかなっていけばいいじゃないの。
美濃部都知事は、都財政の健全化のために、ギャンブルを廃止したいという。つまり、バクチなんかで稼いだ金をあてにしているのは、健全ではないというわけである。
一月二十七日の朝日新聞社説によると、
「これによって都財政が年に約九十億円の減収になるが、地方財政の安易な運営方針を改め、社会的公害≠へらすためにやめることに踏切ったという。公営とばくは社会問題であると同時に、地方財政にも大きなつながりがある。カネよりモラルといっても簡単にやめられない事情もあろうが、大事なことはまずやめる決意をし、政治の改革と社会問題に取り組む積極的姿勢を示すことである」
と、これまた大賛成なのである。
天下の大新聞がタイコ判をおすのだから、約九十億円がとこ減っても、競輪をやめる方が健全なんであろうと、ボクなんかは考えてしまう。
ところが、自転車振興会の発行のパンフレットをみると、やはり地方財政の健全化のために競輪収益は絶対に必要であると書かれている。これでは健全化という言葉が困ってしまうではないか。
ぼくは、ギャンブルが嫌いな人というのは、ケチな人であると見抜いている。
「オレ、賭けごとは一切嫌いだ。だいいち不健全じゃないの」
などと高潔そうなカオをしてみせる人は、例外なくケチな人であると見抜いている。
なぜ見抜いたかというと、自分がそうだからである。自分がケチだからである。ケチである当人がいうのだから間違いない。
ケチな人は、負けた場合に払う金が惜しくてならぬのである。
カラダがワナワナとふるえるほど惜しいのである。
地道に、エイエイと、稼いだ金が一瞬のうちに消えていく。こんなことがあっていいものだろうか。
あんとき三時間も残業して稼いだ金が、一瞬のうちに消えていく。オレはなんのためにあの時残業したのか。
そのときのイマイマしさを二度と味わいたくないために、ギャンブル嫌いとなっていくのである。
ダレだって労せずして、大金を得ることがイヤであるはずはない。ダレだって、いかに苦労せずに、ラクをしてお金を稼ぐか、ということに心をくだいているのである。
もし一千万円あれば、銀行利子が年六分として六十万円、利息だけで月五万入ってくる。二千万円あれば、月十万。食っていけるなア、という計算をしなかった人はいないのではないかと思う。
ギャンブルは、その「労せずして」お金を得ることのできる、特性を持っているのである。千円の元手で十万円を得ることだってできる。
ただ残念なことに、ギャンブルは、労せずして大金を失うものでもあるわけなのだ。ここのところが、実に惜しい特性であるといわねばならない。
実をいうとボクは競輪というものを見たことがない。したがって車券というものも買ったことがない。
実際に見ずして、こんなことをいうのはなんだけれども、競輪というのは、なんとなく、うらぶれた感じがするね。暗く、貧しいイメージがあるね。
電車の中で、競輪新聞拡げて読んでる人たちを眺めてみても、あまりいい格好はしていない。
競輪にコって一家離散、トウチャンさえ競輪やらねばと、ニコヨンしながらカアチャンがつぶやく、といった暗いイメージが浮かんでならない。
競技用自転車に背中折りまげ、うちまたがった選手を見ても、なんとなく、貧しげな、人生裏街道をゆく、といったイメージがつきまとう。
いっぽう、同じ裏街道仲間の競馬のほうは、なんとなく、王侯の遊び、などというイメージがあるのである。
人間が馬にまたがるか、自転車にまたがるか、たったそれだけの違いなのに、こんなに大きなイメージの違いができてしまう。
人間、またがるものには、よくよく注意しなければならない。
ところがである。
競輪選手は、すごく稼ぐのである。年間収入二千万という人だっているという。
最低の選手でも月七〜八万はいくという。と聞くと、競技用自転車に、背中折りまげ、貧しそうにうちまたがった選手が、途端にカッコよく見えてくるのである。
「なかなかいいスタイルじゃないの」ということになってくるのである。そして若い人は、もう一声、「カアッコイイー」と叫ぶのである。
であるからして、どんな職業でも、事前に収入を聞かずして、そのフォームの美醜をウンヌンすることは避けたほうがよいと思われる。
美醜は収入によって決まる時代なのである。
板前さんは、包丁一本サラシに巻いて旅へ出るが、競輪選手は、自転車一台、バッグにつめて旅へ出る。日本をあちこち、西東、夏の北海道、冬の九州と、旅をしながら年間二千万、しかも月に一週間走るだけである。悪くないなア。
と、ダレしも思う。
と、思った人はどうすればよいか。
物置きから、カアチャンのサビた婦人用自転車引きだし、競輪場へ走りこみ、「ぼくもまぜてね」といって、あのスリバチの中に加わるワケにはいかないのである。
競輪選手になるには、まず日本競輪学校へ入学しなければならぬ。
日本競輪学校は、伊豆の山中にある。山中と書いたが、ほんとに山中である。周囲にはなにもない。
なにもないと書いたが、ぜんぜんなにもないわけではない。森や林はある。
以前は都下調布市にあったのだが、昨年七月、この伊豆の山中に新校舎を建てて引っこして来たのである。
敷地十四万平方メートル、工費十七億、大講堂、大体育館、大宿舎、大教室、訓練用大走路と、なににでも大をつけたくなるような大デラックス設備である。
やっぱりお金あるんだなア。
テラ銭を、日に一千五百万円稼ぐ大胴元、お金ないはずないじゃないの。
だけど、この費用の大部分、銀行からの借り入れだという。だが、ある人の話だと、これは税金対策ではないかという。大胴元は、あくまで謙虚なのである。いや儲かって儲かってなどとは決していわない。つつましく、ひかえめに、ひっそりと、ニッコリと儲けていらっしゃるのである。
なにしろ、この学校の百名の生徒が、年間三千六百億の元の元なのであるから、生徒たちを大切にすること、たいへんなものがある。
宿舎は四人一室でベッド、布団完備、その隣に自習室があり、一人一人の机がある。さらに図書室があり、ソファつきテレビ観覧室があり、ステレオ鑑賞室、談話室もある。浴場にはお湯がコンコンとあふれ、その隣には散髪室、休養室というのもある。
これはもう宿舎という感じではなく、ホテルという感じだね。
むろん全寮制で食事つき、ユニフォーム貸与、教科書貸与。
では、ここに入学したら、いったいいくらかかるか。
一銭もかからないのである。じつは、食費及び雑費として一日六百三十円、ここは八カ月で卒業だから、計十五万一千円かかるのであるが、これは出世払いである。つまり、年間何千万か稼ぐようになったとき払えばよいのである。
カルイではないか。むろん、在学中に払いたい人は払ってもいっこうにさしつかえないが、ムロンそういうことをするヘンな人は一人もいない。
つまり、まったくの手ぶらで入学して八カ月経って卒業すれば、たちまち何千万! いいなア。
受験料はたったの千円。つまり元手千円でたちまち何千万! いいなア。
ボクはいま、千円札一枚握って伊豆の学校へ駆けつけたい衝動を押さえつけながら、この文章を書いているのである。
事実、試験日には、そば屋の出前持ちや、工員などが千円札一枚握って駆けつけてくるという。
試験は、学科が、国語、算数、社会で、中卒程度の学力があればよいという。これはまア、なんとか通ると思う。
だが、実地試験がたいへんである。
競技用自転車に乗って、千メートルと、三千メートルを走らされる。千メートルをだいたい一分二十秒で走らなければならないのである。
これでだいたい、六人に一人は落伍する。
ボクも競技用自転車に、うちまたがってみたけれど、あのサドルはすごいね。堅くて、細くて、しかも高い。ちょうど、物干し竿を持ちあげるサスマタで、股ぐらグイと持ちあげられたような按配なのである。
やはり収入のことを考えなければ、ミジメな格好だナと思わざるを得ない。
この格好でペダルを踏むと、尿道がグイグイと堅いサドルに圧迫される。その痛いこと、たいていの人は、これで最初の一週間は、ションベンするのにたいへんな苦しみを味わうという。やはり何千万稼ぐのは容易なことではない。
しかし、こう痛くては、尿道上の問題ばかりでなく、人道上の問題でもあるといえるのではないか。
授業は午前中が学科、午後が実技。
ボクらがいった日は、「選手の処遇」という教科書で、競輪選手の参加旅費規定≠ニいうところをやっていた。
生徒百人に対して講師一名、それに補助講師が二名、生徒の間を巡回して質問を受けたりしている。
マスプロ大学の生徒が見たらヨダレをたらしそうな授業風景である。
午前中の授業が終ると、大食堂で全員そろって食事。この日の献立は、ギセイ豆腐、肉と野菜と里芋の煮つけ、コッペパンに卵焼きみたいなものをはさんだもの、オシンコに味噌汁に牛乳一本、ゴハンはおひつに食べ放題。
この献立で、校長先生も職員も、みんないっしょに食事をする。
なにしろ、ここはまったくの山中で、ちょっと近所でザルソバを、というようなわけにはいかないのである。
食事が終ると全員そろって「ゴチソーサマッ」
食堂を出るときには、一人ずつ出口で目礼。しつけがゆきとどいている。
各人の部屋には、闘志、克己、努力などの貼紙がみえ、長髪族など一人もいない。したがってドライヤーなぞ一つもない。
生徒の年齢は十七歳から二十三歳まで。いちばん遊びたい盛りのはずである。
日曜日以外は一切外出禁止、酒タバコ一切ダメ。
ぼくは一人ニタニタして、
「酒タバコ禁止とはいっても、夜中にコッソリやるんでしょう?」
と聞くと、少年たちは、このバカなにをいうかというカオをしている。
「たとえば便所で一服やるとかサ」
とさらにしつこく尋ねると、やはり、このバカなにをいうか、というカオをしている。どうもほんとにやらないらしいのである。
もし禁令の酒タバコを、たしなんでいるところを発見されれば即刻退学であるという。
「でもやっぱり吸うんじゃないの? たとえば山の中にいったりしてサ」
と、なんとかしてタバコ吸うことにしてしまおうと、人の裏をヨムことの好きな漫画家は、なおもしつこく聞いたけれど、答えはやっぱり同じ。
今さらタバコなんぞ吸って、退学にでもなったら、今までの苦労が水の泡になってしまうからだとおっしゃる。
なにしろ現在の在学生は卒業目前、何千万円を目の前にして、なにも今さらタバコなんぞでという、至極現実的な物の考え方をしているのである。
ここにおいて、素直ならざる漫画家もやっとナットク。みんな、しっかりしてんね。
面会室というのがあるから、日曜日には、さぞやガールフレンドが押すな押すなと思いきや、これもまた皆無だという。
それもこれも、みんなゼニのためや。ゼニ稼ぐためなら、なんだってガマンするで。
卑小な質問ばかり繰り返すボクは、次第に姿勢を改め、キチンと背すじを伸ばし、ニタニタをやめ、厳粛なカオつきになって、現今の世界情勢などについて、要《い》りもしない質問を始めてしまったのである。
まじめで勤勉な若者たちなのである。刻苦、勉励、努力、明るい未来をめざして、素直に前進する健全な若者たちなのである。|まじめに《ヽヽヽヽ》、|健全に《ヽヽヽ》競輪というギャンブルに向かって突き進んでいるのである。
陽がサンサンとレースのカーテンの間からさしこむ校長室では、校長先生が、やはり|まじめに《ヽヽヽヽ》謹厳に競輪新聞に目を通しておられた。
この学校では、校長先生が競輪新聞をマジメに読むことが、マジメなことなのである。
東北のフラ娘たち
熱帯樹の林を抜けるとプールサイドであった。ドームの底が水になった。
あたりにはハワイアンのメロディーが鳴りひびき、右手の舞台を見ると、三十人ほどのフラダンサーが腰をくねらせている。舞台の後ろも熱帯樹の大繁茂。バナナが、たわわに実り、パパイヤも実をつけている。
フラミンゴが群れをなしペンギンが騒いでいる。
ここはどこだと尋ぬれば、ここは東北福島県。福島県は日本一のレジャー・センター、ハワイアン・センターである。
ここが、つい三年前は炭鉱だったとはどうしても思えないが、ここは炭鉱だったのである。
石炭掘ってたら、お湯が出た。お湯といえば温泉、温泉といえば酒、女。だが女は売春防止法にひっかかる。それなら腰を振らしたらよかろう、という発想で、ここハワイアン・センターは誕生したのだという。
だから、この南国風の大ドームの地下には、かつて石炭を掘った穴が無数に、はりめぐらされているのである。
かつて泥にまみれた男たちが、這《は》いまわった穴の上で、アロハ着たアンチャンやトウチャン(ちなみに、この人たちは実に原色のアロハがよく似合う。アロハはもともと土俗的な衣装だということがよくわかる)、ミニスカートからまるまっちいヒザ小僧をムキ出しにしたオネエチャン、温泉の手拭いで頬かむりしたオバサンなど、老若男女うちそろって、遊び狂っているのである。
ここの社長、中村豊氏は、なかなかのアイデアマンとして知られている。
石炭屋が温泉などやって、はたしてやっていけるのかという反対が相当あったのだが、当時、常磐炭礦副社長だった中村氏の独断で強引に踏みきったという。
この中村社長のアイデアマンぶりは、「女は売防法にひっかかるから腰を振らせたらよかろう」というところにも、よくうかがわれる。
お湯、女、腰、フラダンスとつづく連想は余人の許さぬところである。
こういうNHKの連想ゲームさながらの発想で、このハワイアン・センターが生まれたのが三年前。まったくの素人商法で出発して、今では大黒字、親会社をうるおすまでになっているという。
パンフレットにはこう書いてある。
≪常夏《とこなつ》の国、夢のハワイをそのままに、話題の楽園ハワイアン・センター≫
毎分百十トンという世界一豊富な(ホントに世界一である)温泉を利用してつくられた約七千平方メートルの大ドームのビーチサイドには、東南アジア各国から移植した高さ十五メートルのココ椰子《やし》をはじめ、六百余種の熱帯植物群が強烈な南国の色彩を放ち、五十メートルの温泉大プール、フラダンス、ハワイアンバンド、少女吹奏楽団の常時演奏など……あなたを夢の国ハワイにお誘いいたします。……
人間、その気になれば、雪深い東北に、ハワイをつくることだってできるのである。
そして「椰子の向こうの娯楽館の中には、大劇場、舞台付大広間、遊技場、大食堂、砂風呂、むし風呂、家族風呂、壮大なナイヤガラ風呂」などがあり「皆様に南国の夢と温泉をお楽しみいただく」仕かけになっている。
その他に千円で泊まれる七階建てのレストハウス、同じく七階建て、三千五百円で泊まれる観光ホテルがあり、ホテルの中にはナイトクラブがある。
ここのキャッチフレーズは「千円持ってハワイへ行こう」「東北の常夏」であり、これも社長の考えたものだという。
ついでに「一山一家」という言葉も発明した。これはヒトヤマイッカではなく、イチザンイッカと読む。
ヒトヤマイッカではヒトヤマイクラのキュウリみたいであり、テレビ番組のタイトルみたいで軽薄な感じがするが、イチザンイッカとなると様子は一変する。すなわち炭鉱の坑夫たちは、ふつうの勤め人とはまったくちがうのである。給金は一晩か二晩でパァーッと使いはたし、あとはツケとかカケで一と月を過す。世間のアラ波をまともにうけたらとてもやっていける人種ではない。この人たちを炭鉱にひきつけておくために、緊密な家族主義を社風にしなければならぬ。それを標語にしたのが一山一家である。
一炭鉱、すべて一家族、義理と人情のこの世界、ズシリと重いのである。
このハワイアン・センターを発足させるにあたっても、この一山一家の思想は貫かれ、巧妙に駆使された。
舞台ではハワイ娘の衣装つけた娘たちが踊っている。
「あの娘たちね、あれ、ほとんどうちで働いていた連中、もしくはここの坑夫の娘なんです」と案内係の安島さんはいう。経理でソロバンはじいていたのもいれば、タイプ打っていたのもいるし、お茶くみしていたのもいる。はたまたニキビなどつぶしながらマジメに学校へ通っていたのもいる。それが今では腰みのつけて、フラダンスを踊っているのである。
「それとあの後ろの楽団ね、あれも石炭掘ってた連中です」
「入口で客の整理やってたでしょ。あれも石炭掘っていたんです」
「ホテルのフロントね。あれも石炭掘ってたんです」
踊りが終ると、まっ赤なアロハシャツに純白のスラックスをはいた司会者がサッソウと登場。弁舌さわやか、玉置宏ばりにつぎの出しものの紹介をする。
「あれも石炭掘ってたんです」
つづいて銀ピカのタキシードを身につけた歌手、派手な身ぶりでマイクに突き進み、歌うはご存じ新宿育ち=B
「あれも石炭掘ってたんです」
とにかく、みんな掘ってた人たちなのである。
歌手も踊り子も、ライトの照明係も、ホテルのコックも、入口のモギリ嬢も、全部、元常磐炭礦従業員なのである。
舞台の照明は元炭鉱電気技師、ガードマンは元保安係、司会者は、弁舌が立つ組合委員、ナイトクラブのホステスは坑夫の未亡人(なかには驚くべし、現夫人もいる)、といったぐあいに全部自前なのである。
全部素人の寄合世帯が、会社を黒字にするほどにやれるようになったのである。
むろん最初から、うまくいったわけではない。だいいちに踊り子にと慫慂《しようよう》された娘の親たちが反対した。
「大勢の前で尻を振るとはなにごとだ」と怒ったそうである。
会社としては、これらの親たちを説きふせるのも容易ではなかった。
もともとこのレジャー・センター設立の動機は、単にお湯が出たからという理由だけではなく、その背景には、エネルギーの孤児となった石炭産業の斜陽化があったのである。
斜陽化の一途をたどる石炭産業を曲がりなりにも維持していくには、合理化と人員整理が、ぜひとも必要だった。親会社の不況で不要になっていく従業員を、一挙に救う起死回生のアイデアが、レジャー・センター設立だったのである。
だから娘が客の前で尻を振ることを拒否する親たちには、労務部長が一軒一軒まわり、
「これは、お前たちを救うためにやっているのだ。幸いにして石炭掘ってたらお湯が出た。社長が、このお湯を金にしようと考えた。このせっかくのアイデアに、お前たちが賛成しないという話があるか」
とトウチャンたちに迫ったのである。迫られたトウチャンたちはただちにカアチャンと相談し、泣く泣く娘に尻を振らせることを納得したという。
昔なら色町に売られるところを、腰を振るだけで済むんだから、いいじゃないかというのが会社の考えだったのかも知れない。
だが現在では両者、大黒字とあって大ニコニコなのである。
さて娘を確保したものの全部ズブの素人である。尻を振らせることは決まっているものの、お尻というものはただ振ればいいというものではない。
そこで、これらの娘たちを指導教育する学校をつくることになった。
その名を常磐音楽舞踊学院といい、設立されたのが三十九年。
出発当時は生徒数たったの三十九名であった。
現在では五十九名、うち男子二十名。年齢は女子が十六歳から二十二歳まで。男子の年齢は……、これはどうだっていいや。知りたくもない。結婚してやめたの以外には脱落者は一人もいないというのが学院長の自慢のタネ。
教授陣は、ハワイアンを、レファナニ佐竹という人に頼んだ。この人は現地で六年間勉強して「名取り」になった人だという。ハワイアンの名取りというのがあるのかどうか知らないが、とにかく名取りだそうである。
その他ポリネシアン舞踊研究家や、海上自衛隊指揮者、NHKの指揮者など一流どころを集めた。
楽団のほうもズブの素人で、野球の応援などにときたま駆り出されていたアマチュアのブラスバンドで、とうていゼニをかせげるという代物ではなかった。基本から叩き直しで、楽器にあてる唇の形から教えたという。
練習は、かなり厳しく、生徒の中には、生ヅメをはがして泣いた日もあるウラんだことも、思いだすだろ懐かしく……といった具合だったのである。
そして、その成果は、「常磐ハワイアン・センターの奇跡」として土地の人々にいいはやされるまでになったのである。
ボクはフラダンスの巧拙《こうせつ》は、よくわからないが、とにかく腰だけは激しく振られていたということを報告しておこう。
これだけ大勢の娘を集めているのだから、男女問題なども発生する余地十分ありとニラんで、その点をただすと、全員寄宿制、しかもそのスケジュールを聞いて驚いた。
8時 起床
8時30分 朝食
9時30分まで 掃除
9時30分〜11時 レッスン (基礎運動)
11時〜11時30分 昼食、バスでセンター行き
12時30分 舞台 (屋内)
1時30分〜2時30分 舞台 (プールサイド)
3時〜5時 センター内でレッスン
5時〜7時 夕食及び休けい
7時 楽屋入り
7時30分〜8時50分 ビーチで出演
9時10分 バスで帰寮
11時30分 就寝
これでは、踊り子誘いだしてデートなどという余地は、まったくない。
寮には寮監がいて、電話や訪問客に目を光らせている。
ボクは寄宿舎を、のぞかせて欲しいと懇願したが、これはテイよく断わられた。
なにしろ、この踊り子たちには、レジャー・センター従業員五百名の生活がかかっているのである。みんなで大事にしているのである。よそ者のボクなんぞに、あだやおろそかにのぞかれては、たまらないのである。
だから今年は踊り子の中のおもだった者にはハワイ見物もさせている。
給料だっていい。
最低三万、最高五万、これで寮費三千円では丸残りではないか。
踊り子の斎藤恵子さん(20歳)と、豊田美恵子さん(22歳)の二人を監視つきで誘い出し、同行の記者氏とあれこれ話を聞く。豊田嬢は元総務課のBG。
「ボーイフレンドはありますか?」
「ニヤニヤ」
「いったっていいじゃないスか?」
「ニヤニヤ」
「あるんですねッ」(ウラミをこめて)
「ま、いちおう」
「デートはどこで」
「地元は目立つので仙台か水戸で」
「どんなことするんですか? やはり映画とか?」
「いえ、映画なんか見ないワ。時間がもったいないから」
この「時間がもったいないから」の一言が胸にドシンとひびいた。
映画の時間がもったいないとすると他に何をするのか。
「それじゃ、なにをするんです?」と思わず出かかったが口元で飲みこんだ。紳士のたしなみというものである。
この二人は踊りコたちの中でも幹部クラス、他の寮生たちの模範とならなければならない存在なので、寮はキュークツで困るとコボす。
「夜はどんなことしてるんです?」
「そうネ、ダベってるか、食べてるかネ」
「お金あまってしようがないでしょ?」
「そんなことないワ、ちっとも残らないワ」
「みんなボーイフレンドに、つぎこんじゃうんでしょッ」(コノーッ)
読者には気の毒だが、このインタビュー、踊り子の生活に関する質問がちっとも出てこない。デートのことばっかり聞いている。でもボクは、それだけしか興味がなかったのだから仕方がない。
日曜日。
朝早くハワイアン・センターの入口に陣取り、いろいろ観察する。
朝七時ごろから観光バスが続々とつめかけてくる。農家の人が主であるから、遊ぶのだって朝早いのである。
この日は仲宗根美樹ショーがあったせいか意外と若い人が多い。
日曜以外は、やはり老人が主で、バアさんが多いという。
センター側としては、こういう農家の人たちがいちばん堅いお客で、大事にしているのである。
なにしろお百姓さんは日曜もウィークデーもないから、万べんなく来てくれる。
客は入口で四百円払うと、あとは、プールも温泉も、仲宗根美樹もタダである。
若い人はプールで泳ぎ、年寄りは温泉につかる。
アベックで来た人は、部屋をとることもできる。三時間五百円。
そして、くやしい話だがアベックで来て、部屋を借りる奴もいるのである。こういうのはきっと、プールで泳ごうかなんかで誘いだし、疲れたから休もうかなんかで部屋を借り、ひと眠りしようかなんかで横になり、娘の貞操奪おうとのコンタンあっての所業とボクはニラんだ。また二対二の四人づれが部屋借りるの見れば、乱交パーティーやろうとのコンタンとニラみ、とても取材どころではなかった。
このレジャー・センターを見下ろせる一番高いサロンに登り、ビールにピーナツとって眼下のざわめき見下ろす。
熱帯樹にかこまれた舞台では、日本人の娘がハワイ娘の格好でフラダンスを踊り、ステテコに腹巻のオッサンが嬌声《きようせい》をあげる。つぎに出て来た娘は、ジプシースタイルでフラメンコを踊り、ユカタ姿のオニイサンが口笛を吹く。つぎに出て来た背広の歌手は、ハワイアンバンドの伴奏で北海盆唄を歌い、ムウムウ着たオバチャンが手拍子合わせる。こりゃいったいなんだろネ。ハワイとタヒチとスペインとナイヤガラと東北のゴッタ煮である。
昔は桑田《そうでん》変じて滄海《そうかい》となったが、現代では炭鉱変じて、レジャー・センターとなるのである。
ジジババ結婚地帯をゆく
ローゴをどうするか。
このことについて考えない人はいないと思う。
老後は、ボクにとってはまだ、さし迫った問題ではないのだけれども、毎日毎日、そのことに思いを致しているのである。
三十一歳の若い身空で、不遜《ふそん》にも老後について思い悩んでいるのである。
そして、どう考えても、どう空想しても、明るく、バラ色の老後は頭に浮かんでこないのである。
頭に描くのは、暗く悲惨な老後なのである。
九月二十八日の読売新聞、よみうり寸評。
昨夜のNHKの、にっぽん診断「定年」は、一年以内に定年を迎えるサラリーマン百人の実態を見せた。
大正三、四年生まれで平均勤続三十二年、年収二百九万円、家族四人、退職金の平均額は五百二十七万円、銀行預金しても、夫婦二人暮らして八年間でゼロになる。
ゼロになったらどうするか。
五十五歳に八年足して六十三歳。六十三歳で一文なしである。
さあどうする!
昔なら子供がなんとかしてくれたが、今は子供だってなんともしてくれないのである。
さあどうする!
養老院にはいるより他ないのである。養老院は陰気だからいやだ、などといっていられないのである。
みんな養老院にはいるのである。養老院にはいるより他ないのである。養老院にはいって死んでいくんだァ。ニャロメー。
そういうわけで今回は養老院。
奈良県は吉野郡の「美吉野園」という養老院を訪ねたのである。
なぜこんな遠方の養老院を選んだかというと、この美吉野園は、園内での結婚が盛んに行なわれているからなのである。
むろん園側も、園内での結婚を認め、結婚した二人には、四畳半ではあるが、ちゃんとした新婚ホームを用意しているのである。
そんなわけで、奈良くんだりまで養老院を訪ねて行ったのである。
「秋の奈良へ古寺を訪ねて」といえば、女性週刊誌のカラーグラビアのタイトルにふさわしいが、「秋の奈良へ養老院を訪ねて」では、お寺組合の機関誌にふさわしくなってしまう。(お寺の組合なんてないかナ?)
汽車の時間に間に合わず、やむを得ずタクシーに乗る。
大阪駅からタクシーで一時間半。
タクシーに乗って養老院に行ってくれというと、運ちゃんは「キトクでっか?」と聞く。ボクはついつりこまれて、「いや、キトクではおまへんのやけれどもネ」とヘンな大阪弁で返事したけれども、なるほど養老院にはキトクがつきものであった。
美吉野園は陽当りのよい高台にあり、敷地六千坪、収容人員百九十五人。百九十五人の老人の大集団が、この丘の上に暮らしているのである。
ここは私設ではあるが、入園するとき一銭もいらないのである。権利金も敷金も礼金も頭金もいらないのである。なんにもなしの体一つで入園することができるのである。
六十三歳になって、一文なしになっても大丈夫、いよいよになったらここへ駆けこめば、なんとかしてくれる。ホッと安堵《あんど》の息をつく。よかった! ダイジャブ。
この美吉野園は、現園長、東清有氏のおじいさんが、昭和二十二年に、生活保護法による養老院として創設されたものなのである。正式には、社会福祉法人美吉野園という。
費用のは、国と県が負担するが、残りのは法人側が負担しなければならない。
ほんとうの、心の底からの善意がなければ、やっていけるものではないのである。
朝七時半、朝食の時間である。
二百人を収容する大食堂に、老人たちが続々と集まってくる。昭和二十二年に建てられた木造の廊下をギシギシ踏んで、老人たちが続々と集まってくる。みんな無表情、手に手に箸《はし》箱、福神漬のビン、アルマイトの急須《きゆうす》などを持っている。ほとんど無言。食堂の入口に並ぶツエ。あたりに漂う頭痛|膏《こう》、トクホンの匂い。食卓には、大型カマボコ三切れ、麩《ふ》の味噌汁、ナスの福神漬少々、ゴハン一ぜんが、いずれもアルミニュームの食器に盛られてズラッと並べられている。
一人の一日の食費百七十円前後とあってはこれで精いっぱいであろう。ちなみに、お昼は、他人丼(牛どんみたいなもの)、黄金煮(野菜煮)、つけもの。夜は、焼魚、サラダ、つけもの、といった具合である。
ゴハンは食べ放題ではあるが、老人のことゆえ、そうたくさんは食べられない。
以前は、おヒツを置いて各自で盛るようにしていたのであるが、老人たちは、自分で盛るのを非常にいやがったという。
園長さんの話によると、ゴハンをよそってもらう、つまり|他の人に手をかけてもらった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》感じが、すこしでも欲しいということなのではないかという。老人たちは、それほどに孤独なのである。
現在は、ゴハンの盛り方を大中小に分け、各自が大か中か小かを申告し、それぞれの人の座席に置くようにしているという。(だれがどこに坐るかは決めてある)
ボクはいずれこの養老院にはいることになると思われるので、そのときのボクのゴハンは「大」であることを園長さんに予約しておいた。これで老後のゴハンは確保された。ホッ。
朝食が終ると各自食器を片づけ、箸箱に箸をしまい、福神漬のビンのフタを締め、よっこらしょと起きあがる。食べ残しのカマボコ一切れを持ち帰る人もいる。
朝食が済むと、陽なたぼっこをする人、ブランコに乗る人、タバコをふかす人、散歩をする人などが庭に散らばる。なにしろ、なにもしなくてよいのだから、そういう点からみれば非常にうらやましい環境だと思う。
サンサンと降りそそぐ秋の陽ざし。
庭にはケイトウの花が赤い。コスモスが風に揺れている。空が青い。
この風景には、みんなが養老院に対して抱いている暗いイメージは少しもない。
部屋は八畳に四人、むろん男女は別である。廊下をはさんで八畳がズラッと並んでいる。
以前は棟別に男女を分けていたが、男どもは、なんせ男ヤモメが四人集まるわけだから、部屋の中は散らかし放題であったという。
そこで園長さんは一計を案じ、男性の部屋の前に(廊下をはさんで)女性の部屋を置くという組みあわせにしたところ、男ヤモメどもは、部屋をきれいにするようになったという。齢はとっても、女に対する男のミエというものは、なかなかなくならないのである。
部屋の中にはほとんどなにもない。小さなちゃぶだいがある程度である。なにしろ八畳に四人、一人二畳の広さというせいであろう。
内職をしている人もある。割箸を袋につめる仕事である。百本つめて十円。一日やってせいぜい七十円ぐらいだという。むろん全額その人の収入になる。七十歳以上の人には月額七百円の老人年金が出るし、園側からも五百円のおこづかいが出る。だから七十歳以上の人は、月に千円程度のおこづかいがあるということになる。
娯楽室にはテレビが一台、散髪室もある。浴場は、タイルばりで、ちょっとした旅館なみである。「老人はおフロが好きなので、他の養老院は週に二度か一日おきがほとんどだが、うちは毎日沸かしています」と園長さん。
医務室には専属のお医者さん、看護婦も二名いる。庭の片すみには、立派な納骨堂があり、死後はここに安置される。
そして納骨堂のすぐそばに、問題の新婚ハウスが並んでいるのである。
ここでは慶も弔もいっしょなのである。
新婚ハウスは、「めおと寮」と呼ばれ、二十四組の新婚さんが、老いたる新婚さんが、甘い新婚生活を送っているのである。
むろん、夫婦で入園してきて、そのままめおと寮に入る人もいるわけだが、その大部分は、園内で芽ばえたロマンスから結婚に至った人たちなのである。
園内で恋愛関係に入った二人は、まずその旨《むね》を寮母さんに告げる。そして園長さんの許可がおりればすぐにも結婚生活にはいれるわけだが、なにしろめおと寮は二十四組分しかない。だから二人は部屋があくまで婚約期間を余儀なくされる。
現在も八十二歳と七十九歳の婚約組が、部屋があくのを待機中なのである。
部屋があくとはどういうことか。めおと寮の人が死ぬことなのである。夫婦のいずれかが死ねば、もうめおとではなくなるわけだから、また元の四人部屋に戻る。
なにしろ年間三十人は死んでゆくというから、婚約期間もそう長くは必要としないのである。だが、むろん婚約中に死んでしまう場合もあるという。
女は男より長生きするから、この美吉野園でも、そのは女性だという。
だから男性側は、よりどりみどりということになる。一人のヤモメのおじいさんに、結婚したいと思いませんかと聞いたら、「どうにもいいのがいなくてねェ」といっていた。ぜいたくな話ではないか。
いままでの花嫁の最年長者は八十一歳。花|婿《むこ》八十八歳だという。
八十八歳になってもまだ人生再出発の意気に燃えるあたり、定年でガックリきてるおとうさんも、ぜひ見習わなくてはなるまい。
さて結婚を許された二人は、部屋があき次第すぐにも新婚生活に入る。結婚式は年一回何組かまとめて美吉野園創立記念の五月に、厳粛かつ荘厳に行なわれる。だから結婚式以前に新婚生活に入ってしまう人もいる。
いわゆる婚前交渉というやつである。
式は仏式、美吉野園の仏間が式場にあてられる。
式次第は、まず関係者入場にはじまって、関係者所定の位置につく、仏壇に点灯、献書、新郎新婦入場(オルガン演奏)、拍手、仲人に先導された新郎仏壇に向かって右に着席……と続き、三三九度の盃もちゃんとある。
新婚旅行に旅立つ人もあるという。
アルバムを見せてもらったが、八十八歳の新郎は黒の紋付きに威儀を正し、七十四歳の新婦は恥じらいを含んでうつむいている。
司婚者が読みあげる敬白文には、夫婦《めおと》の約束を結び、幾久しく共白髪の契りを誓う、と書いてあるが、白髪はすでに生えてしまっているし、先行き、そう幾久しくは生きられないではないか。このへん、文案にもう一工夫あってしかるべきだと思う。
普通ならば結婚生活にはいったならば、婚姻届というものを出すのであるが、ここではそれをしない。それほど厳密にしなくともいいではないかということらしい。
陽当りのよいめおと寮で、新婚の二人にいろいろと話を聞く。
部屋の入口に名札がさがっている。籍が入ってないから、二人の姓が違う。
このお二人は七十二歳と七十歳。ご主人はここから毎日近所の病院の下足番に通っている。いわばサラリーマンというわけである。おばあさんは、「夕方おじいさんが帰ってくるのだけが楽しみで」とノロケる。
七十二歳のご主人は、ここでパッと赤くなりうつむいてしまう。
二人とも身よりもたよりもなく、民生委員の世話でここに来たという。以前は木こりのようなことをやっていたらしい。
交際期間二年、この人ならと思いを定め、いっしょになったとおばあさんはいう。
交際期間は二年もあったが、「きれいな仲でここ(めおと寮)へはいりました」とおばあさんがいい、おじいさんはまたしても赤くなってうつむく。
こんな高齢で結婚して、いったい夜の生活はどうなっているのかという、素朴で健康的な疑問を読者の方々は抱くであろうと思う。
この疑問には、七十四歳、姉さん女房のおばあさんが答えてくれた。太った陽気なおばあさんである。年下のおじいさんは、ちょうど釣りに出かけて居ず、おばあさんは布団の綿を陽にあてていた。
そもなれそめは、「わたしがある人からチョコレートをいっぱいもろてネ。食堂でみんなにおすそ分けしていたらネ、うちの人(おじいさんのこと)、ニコッと笑って受けとってネ、その笑った目もとがなんともかわいらしくて胸がときめいてときめいて……」それからおばあさんは積極的な行動に出たのである。「食事ンとき、おじいさんの茶わんに、黙って塩コブ放《ほ》りこんでやったり」「石けん箱に、黙って新しい石けん入れといてやったり」涙ぐましい努力をしたのである。
なにしろこの美吉野園は、先述のように女が圧倒的に多いのである。男性は貴重な存在なのである。新しい男の入園者を女性陣はウの目タカの目でねらっているのである。
さておばあさんのプレゼント作戦が功を奏して、めでたく昨年の春いっしょになった。
おばあさんによると、おじいさんは園内随一の美男であるという。真偽のほどは、本人が釣りに行っているので確かめようがないが、周囲の声によれば、それは事実だという。多くの競争相手を退けて、おばあさんはやっと結婚にこぎつけたのである。
だから結婚した今でも、おじいさんの浮気が心配である。むろん浮気といっても、何号室のおばあさんと親密そうに話していたとか、そんなことでもおばあさんはシットするのである。いろいろ聞いてみたけれど、このおばあさんのシット心というのは、どうもすさまじいものであるらしい。
現に、このおばあさんも、「うちの人には、わざと赤いスリッパをはかせている」という。スリッパは廊下に脱いで部屋にはいることになっているので、こうしておけば、おじいさんがどこにいるか一目|瞭然《りようぜん》というわけなのだ。年上女房の監視の目に追われて、七十歳の年下おじいさんもラクじゃないなァ。
さて問題の夜の生活。
「やっぱし、月に一度あるかないかというとこだよねぇ」
やっぱしあるのである。
あることはあるのだが、「わたしホラこんなに太ってお腹出てるでしょ。だから入口でまごまごしてるうちにダメになっちまう」こともしばしばなのである。
一つ布団に寝て、前の奥さん愛してたんでしょ、なんていってツネリッコしたりすることもあるという。いや、あてられるなァ。
めおと寮の熱気にあてられて、早々に退散し、寮の玄関に戻ってくると、そこには、入園者全員の名札がさがっていた。ちょうど一人のおばあさんが外出するところで、自分の名札をとって懐《ふところ》に入れて出ていった。名札には、美吉野園という文字と自分の名前が書かれている。なにしろ全員六十五歳以上の高齢者である。いつどこで倒れるかわからない。そのときのための名札なのである。
この名札の中に、やがてボクの名札が加わる日も、そう遠くはないであろう。
グラマー女優に体当りする
いい古された言葉だが、戦後、女と靴下が強くなったといわれている。
「いやァ、まったく女は強くなりましたなァ」「女性上位時代ですなァ」などと、世の男どもは、ニタニタと余裕ある苦笑をみせながら、二十五年の歳月が流れた。
どのくらい強くなったかというと、次の発言を、まず読んでいただきたい。
すべて、花も恥じらう|弱冠《ヽヽ》二十五歳の娘さんの発言である。
「あたしのあだ名、知ってるかい? ボッキっていうんだよ。男がね。あたしの身体見るとすぐ勃起するからさ」
「あたしみたいな女は、手練手管を心得た四十男のほうが適してるかもしれないネ。でも朝晩|やれる《ヽヽヽ》男じゃないとダメ」(傍点筆者)
「そりゃア、あたしだって、中学一年ぐらいのときはオナニーやったよ。どうやって?……布団のヘリを|ゴシゴシ《ヽヽヽヽ》こすりつけるんだ」(傍点筆者)
「あたしは、セックスはおくてだったネ。だって大学一年の時まで、男に|タマ《ヽヽ》が二つあるの知らなかったしサ」(傍点筆者)
「処女を失ったのは、大学一年の夏、相手は同じ大学の四年生。この男に始まって、今までに寝た男は全部で六人さ。エ、少ない?」
「ああ、野合《やごう》をやってみたい。春先に河原でネ。太陽の輝く木立の下で、男に思いっきり抱かれてみたい。終ったあとは青草で始末してサ」
と、まあこのくらい強くなってしまったのである。
男どもは、ニタニタ笑いをやめ、衿を正し、こりゃアここらでなんとかしなければ、などと立ち上がってみても、もう遅いのである。
もはや、女共の強大化を押しとどめることはできないのである。
この発言の主はだれか?
姓は沖山、あだ名はボッキ、いや違った、名は秀子。松竹の女優さんである。
それにしても「あだ名はボッキ」だの「朝晩やる」だの「布団のへりにゴシゴシ」だの(そんな、ゴシゴシやってだいじょうぶなのかなァ)すさまじいばかりではないか。そして「野合」である。「太陽の輝く木立の下で」である。(猿が真似するんじゃないかなァ)
そして、この娘さんは、「停まれエ、てめエ!」といってタクシーの扉をハイヒールでけとばし、警察に連れていかれると、警官に向かって「今すぐ法務大臣をここに呼びやがれ、|てめえら《ヽヽヽヽ》!」(傍点筆者)とわめいたりするのである。
「女上位でございますなァ」などといってニタニタして放っておいたら、事態は、ついにここまで来てしまっていたのである。どうする?
ここにおいてぼくは、敢然《かんぜん》と立ちあがる決意をしたのである。
この、女上位のチャンピオンに、敢然と立ち向かう決意をしたのである。かかる女は、糾弾《きゆうだん》しなければならぬ。
大東亜戦争以前の日本の婦人は、父母に孝に、夫を天と仰ぎ、舅《しゆうと》・姑 《しゆうとめ》によく仕え、貞操を守り、二夫にまみえるときは、舌かみ切って自害して果てたのである。
それを「まだ六人よ。エ、少ない?」なんて、どうする?
乃木大将の奥さんは、いくら気持ちがよくても、決して声に出してはいけないと、世の女性どもを戒めていたのである。
決して、タマが二個あることを確認したりしなかったのである。
男が二十五年間、ちょっと油断していたばっかりに「朝晩やらなきゃイヤ」などと責めたてられるようになってしまったのである。
かかる女は糾弾されねばならぬ。
オレがやらなきゃだれがやるッ!
ぼくは、意気地のない人間を、意気地なく描いて、それでごはんをいただいている意気地のない人間である。
それなのに相手は、女性上位のチャンピオンである。
勝敗は目に見えているかも知れない。が、ぼくはやらねばならぬ。ぼくだって男のはしくれだ。朝晩二回はムリだが、タマだって、ちゃんと二個ある。
伝え聞くところによると、沖山嬢は、身長百六十三センチ、体重五十七キロ、バスト九十三、ウエスト六十三、ヒップ九十五であるという。恐ろしい。
沖山嬢のご指定で、場所は六本木のSというシャブシャブ料理店。
小さなマネジャーを従えた大きな沖山嬢が現われる。コートの腕を通さずにはおって、サッソーと登場。肌、浅黒く、二の腕あくまで太く、眼光が鋭い。ムムッ。できるナ!
しわがれた声で「沖山です」という。
全国意気地なし代表は、気弱く「東海林です」といって坐りなおす。
沖山嬢は、なにやら肉のいっぱい入った鍋物と、ナマコと、山盛りのサラダと煮魚を注文する。ムムッ。食うな!!
最近、とみに体力と食欲の衰えを感じ始めている当方は、白身のお刺身と野菜の煮〆を注文。食物だけで、すでに勝負あったという感じである。
食いもんの注文終って、双方、沈黙の数分。なにから問いただしてくれようか。
テキは眼光鋭く、こちらを睨《にら》みすえ、ハイライトの煙を大きく吐きだす。
よし!
「あなたは、どんなタイプの男が好きですか?」
「あなたみたいな人」
「……………グニャー」
うつむいて、こみあげてくる嬉しさを必死でこらえたけれど、どうしても口の端がほころびてくる。ヨダレも垂れてくる。
「エート……ときにあなたは……。(あなたみたいな人……か。オレこんなこといわれたの生まれて初めてだもんなー)グニャー」
次の質問をちゃんと用意してあったのだが、それどころではない。かくてはならじ、こんなはずではなかったと、ほころびてくる顔面の筋肉、引き締め引き締め、居ずまいを正し、テキをハッタと睨みつける。
コホン。よし!
「だいたいあなたは……」
「あなた、なんかスポーツやってたんじゃない? スポーツマンらしくていいワ」
「……グニャー」
おれ、こんなこといわれたのも初めてだものなァ。デブだっていわれたことはあるが、スポーツマンか。うん、そう見えないこともないな。沖山さんて、案外人を見る目があるんだなァ。
沖山さんは、だいたい正直すぎるんじゃないかナ。正直すぎるから、「あだなはボッキ」だの「六人とやった」だの「布団のヘリでゴシゴシ」だのといってしまうんだナ。
いいじゃないの正直で。
傲慢《ごうまん》な女だと、人はいうけれど、いいじゃないの、しあわせならば。
もはや糾弾もヘチマもあったものではなく、「まま、どう?」と相好《そうごう》を崩してビールをすすめると、「いや、あたしは……ちょっとォ、ジンライム!」と声をはりあげる。
これはどうも、ぼくごときのテキではないらしい。
そうハラを決めると、急に気が楽になり、ぼくは水割り注文してガブガブ飲む。
東海林 男、大好きでしょ?
沖山 そう。女はきらいだネ。男のほうが好きだネ。
東海林 いや、そういう意味じゃなくて、男が好きでたまらないという……。
沖山 あたしって神経過敏で、脆弱《ぜいじやく》なところがあるのよ。だから男が好きなのよ。
東海林 いや、そういう意味じゃなくて、ホラ、なんというのかなァ。男なしでは一日も過せないというような……。
沖山 そうね。そういうとこあるわネ。あたし男とつきあってて、ボロッと弱味を見せちゃうことがあるらしいの。なんていうのか父性愛をくすぐるらしいわネ。
東海林 いや、そういうんじゃなくて……。
もうお気づきと思うが、意外とまじめなのである。ひたむきな感じがするのである。ストイックな感じさえするのである。
同じようにセックス女優といわれた応蘭芳には、なにやらヌルヌルしたなまめかしい隠微《いんび》な匂いがあるが、この沖山嬢にはそれが全然ない。乾いている。
いったいこのコは、どんなセックスをするのだろうか。
大きな鋭い目、浅黒い肌、やや筋肉質の身体。沖山嬢には申しわけないが、ぼくは一瞬、汗と脂にまみれて咆哮《ほうこう》する、プロレスのシーンを思い浮かべてしまったのである。
きっとそうに違いない。恐ろしい。
東海林 羞恥心とかテレるとかいうことを、どういうふうに考える?
沖山 あたしはネ、人には弱さは見せないネ。弱さ見せるのは嫌いだネ。だれになにいわれたって平気。あたしはネ、本質的に強いのよ。どだい、自分がちゃんとしてりゃいいんだよ。他人がなんていったって。
東海林 すごく自信があるんだなァ。
沖山 今は自信あるよ。かつてはなかったけど、今は自信あるよ。
東海林 芸能界へはいった動機はなんなの?
沖山 関学(関西学院大学)のときスカウトされたのよ。見るからに南国の女らしいって。応募したんじゃないよ。スカウトされたんだよ。こっちから使ってくれっていったんじゃなくて、スカウトされたんだよ。(どうもここが大事なとこらしい)
東海林 どういう過程でスカウトされたの?
沖山 今平(今村昌平)にスカウトされたんだよ。小沢昭一がやってきてサ。……これ、だれでも知ってる話だよ。
東海林 知らないなァ。
沖山 有名な話だよ。
東海林 知らないなァ。
沖山 スカウトされてから、あたしゃ、十カ月も考えたよ。十カ月 ……。それまで女優なんて考えても見なかったからね。ほんとに悩んだなァ。十カ月だよ、十カ月。
東海林 だれでもそのくらいは悩むんじゃないの?
沖山 でも十カ月だよ。
東海林 うん、だれでもそのくらいは。
沖山 あたしはネ、小学校のときから目立つ存在だった。他の女の子と同じ服を着てても目立ったし、デコ(秀子)は、いずれなにかやるだろうっていわれてた。
東海林 それで今、なにかをやってるわけネ。
沖山 人にふり返ってもらいたいネ。目立ちたいネ。
どんどんジンライムをおかわりして、目が赤くすわってくる。
沖山 あたしのうちはすごくいいうちでネ。いいうちだったんだけど没落してネ。あたしは三人姉妹の末っ子でネ。みんなにとってもかわいがられたんだよ。人生を甘くみてるか知んないね。親もとってもいい人なんだよ。……三人姉妹……(なにかを思い出したように、ため息をつく)……あたしは悲しかったネ。あたしは大きな欠点はいくらでもある人間だよ。アッ、このナマコ、冷蔵庫くさいじゃないのッ。(と女中さんを大声で叱る)ごらんのように短気な人間なんだよ。
女中さん、うろたえて、ナマコのお皿を持って走り去る。緊張した空気が流れる。
東海林 きついネ。
沖山 ああ、あたしはビシビシいうよ。商売として、冷蔵庫くさいのを出すのはどうかと思うよ。いってやるのがその人のためじゃないか。
女中さん、再び緊張した顔で現われ、これは決して冷蔵庫の匂いではなく、ナマコそのものの匂いであると強調。
「ああ、そうだったの」とあっさり妥協。
沖山 あたしはネ、人生を真剣に生きてるんだよ。せっかく生まれたからには、濃密に生きるつもりだよ。やるときは正常位だよ。正常位以外は、やらないよ。濃密≠ニ本質≠ヘ、あたしの好きな言葉で、よく口にするよ。本質的に生きてれば、外見はどうだっていいんだよ。女優は商品だよ。商品なら一流の商品になりたいね。「ゲバゲバ90分」を三回すっぽかしたけど、それでも向こうはギャラ払ってくれたよ。一回五万円だよ。すごくいいギャラだよ。前にネ、ゲイバーのGってとこでネ、一晩で十五万円も飲んでやったんだよ。十五万円。それなのに芝居(自由劇場『鼠小僧次郎吉』沖山秀子主演)の切符、一枚も売ってくれないんだからね。
話はどんどん飛躍する。やたらに金額が出てくる。
東海林 野合をやりたいとか、あだ名はボッキとか、ああいうこというの平気なほう?
沖山 あれはネ、みんなコマーシャルベースで使ってもらったセリフよ。でも、どっちかといえば、あたしは健康的なセックスのほうが好きだネ。隠微には向かわないね。
東海林 それから、どこかの雑誌で「私を理解するには勇気がいる」というニーチェの言葉が好きだって、書いてあったけど。
沖山 ああ、あれも、いわせられたのよ。あたしの好きな言葉は、ボーボワールの「時間がすべてを流しさる。だが、気がかりだけは消えない」っていうの。(かなり気にいってるらしく、ゆっくりと詩を朗読するように調子をつけてしゃべる)
沖山 あたしを、そのへんの女といっしょにしてもらっては困るよ。あたしは大きいよ。だから大きな人間はすぐわかるよ。東海林さんも大きいよ。ものすごくシャープだよ。わたしもシャープだから東海林さんのシャープさ、ビンビンわかるよ。
グニャグニャグニャー。
お色気チョップはいたかった
ぼくは、闘争を好まない。
子供のころは、チャンバラごっことか、プロレスごっこなどをよくやったけれども、どうも、ほんこ≠ヘ好きじゃない。
チャンバラごっこのときでも、「ほんこ、なしでネ」と、相手にしつこく断わってから開始することにしていた。
ほんこ≠ヘ好きじゃないけれども、ごっこは好きだった。
高校生になっても、チャンバラごっこが好きで、剣道部にはいった。
ひととおりの基礎訓練を受けて、部員同士の試合をすることになった。
面と胴をつけて、相手と向かいあった。
立ち上がった瞬間、相手は(下級生であった)裂帛《れつぱく》の気合いとともに、全身に闘志をみなぎらせて、おどりかかってきた。
ぼくは思わず「レレレ?」と叫び、これはちょっと違うぞ、ぼくの考えていたやり方と違うぞ、と思い、「違う、違う。ぼくのやりたいのはチャンバラごっこなんだよー」と、息苦しい面の中で思わず叫んだ瞬間、脳天も砕けんばかりの面を食い、すぐさま剣道部を退部した。
ぼくの考えていたのは、なごやかな試合であった。つまり、ごっこだった。
ぼくは、「ほんこなしでネ」と叫んだのに相手はほんこ≠ナきたのである。実力|云々《うんぬん》というより、これでは、ぼくが負けるのは、あたり前ではないか。
ほんこというのは、味気ないなア。
ほんこは興ざめするばかりではないか。
ぼくは、できることなら人生も、ほんこなしで、やっていきたいと考えているのである。
どうも、ぼくは闘争を好まない。
ラグビーにしろ、サッカーにしろ、ボクシングにしろ、歯をむき出して、ほんこで争っている様は、ぼくにとっては、あさましいだけである。
そこへいくとプロレスはいい。あれは、どうも、ごっこのクチらしい。
プロレスは、ぼくの考えていた、なごやかな闘争というのにピッタリのような気がする。できることなら、ぼくもプロレスラーになり、脳天逆落としだァ、逆四の字固めだァ、ココナッツクライだァ、とわめきつつ、小さいころから慣れ親しんだプロレスごっこをしながら、おもしろおかしく人生を過したいと考えていたのである。
しかし、年齢も、はや三十路《みそじ》を越えぬれば、それもかなわず、せめて、ごっこの先輩に、あれこれおもしろおかしい話など、聞かせていただこうと思いたったのである。編集部のYさんが、それなら女子プロレスはどうですか? という。
むろん、ぼくが莞爾《かんじ》とうなずいたことはいうまでもない。
読者諸賢は、女子プロレスラーについて、どういうイメージを、持っておられるか。
数年前、キングコングとかいうプロレスラーが来日して、ニワトリ三羽、牛乳三ガロン、生肉四キロ、ビール二ダースとかいう、非常におおまかな単位で食事をするという記事が出ていたが、女子プロレスについても、そういった怪獣的イメージを、持っておられることと思う。
以前に、12チャンネルで、チャンピオンの小畑嬢が、金髪振り乱した外人レスラーに、「ヤンノカ、コノヤロー」と叫びつつ、飛びかかっていくお姿を拝見し、ああ、大和なでしこも、ついにここまで来たかと、タノもしく、うれしく、淋しくテレビのスイッチを切ったことがあったが、なんせ「ヤンノカ、コノヤロー」である。恐ろしいことである。
女子プロレスラーとの会見の場は、どんなところがよいだろうか。
「レストラン、お座敷、どちらにしましょうか」という質問に対し、ぼくは迷うことなく、「畳のあるところを」と指定したのである。
なぜか。
女子プロレスラーといえども、きっとお酒を鯨飲《げいいん》するに違いない。ニワトリだって、二羽ぐらいは食うかもしれない。そして乱れるかもしれない。ぼくは質問者として、相手のカンにさわるようなことを聞くかも知れない。そうして、とどのつまりは「ヤンノカ、コノヤロー」になるかも知れない。当然ぼくは、脳天逆落としを食う事態に立ち至るであろう。そのとき、床が堅いコンクリートであったら、ぼくの運命はどうなる?
そのとき、床が畳であれば、事態は、どう変わるか? 椎間板《ついかんばん》ヘルニアぐらいのところで済むかも知れないのである。
ぼくは、会見の相手は小畑嬢ただ一人であると思っていた。ところがYさんは「三人手配しました」という。おまけに、柔道四段のプロレスコーチが後見役としてついてくるという。恐ろしい。
まずいことに、会見の日、ぼくは定刻に二十分も遅れてしまった。きっと、三人の怪女は怒り狂っているに違いない。
場所は銀座のはち巻岡田。
あせれどあせれど、くるま進まず人語らず。十里風なまぐさし銀座通り。
怒り狂った三人の顔が目に浮かぶ。もはやビール四ダースぐらい飲んだかも知れない。ニワトリだって十羽ぐらい食ったかも知れない。もはや脳天逆落としは決定的となった。椎間板ヘルニアも、まぎれもない事実となった。「よかった! 畳にしといてよかった!」記者のYさんと二人、手をとり合って泣いたのである。
息せききって二階に駆けあがり、健康保険証しっかり握りしめ、まず準備体操をオイチニとやってから、ガラリとお座敷のふすまを開ける。
テーブルの正面に、見覚えのある小畑嬢、左側に柔道らしい男の人、そして右側には、妙齢のBG風の女性が二人、神妙に正座していた。ハテ……あたりに飛び散っているはずの羽毛もない。
小畑嬢については、あえて言及しないが、右側の二人の女性は、たいへんな美人である。背格好もスラリとした標準型である。
またしても「レレレ?」と、あっけにとられていると、小畑嬢が、こちらがプロレスラーの、有田嬢と小峰嬢であると紹介する。
「すると、こちらがプロレスラー?」といったきり、ぼくは口をあんぐり。
続いて渡されたパンフレットを見ても、そこに載っているプロレスラーは、小畑嬢については、あえて言及を避けるが、すべて美人、すべて標準型。ニワトリ三羽のイメージはどこにもない。読者諸賢も、女子プロレスラーについてのイメージを、大きく変えなければならないと思う。
東海林 いま何人ぐらいいるんですか、女子プロレスラーは?
小畑 いま日本には、二リーグあるんですが、両方合わせて五十人ぐらいじゃないの。
東海林 みなさん、どういう動機ではいってくるんですか。
小畑 やはりチャンピオンを夢みてネ。それとテレビに出られるということ。
東海林 ふつうテレビに出たいと思う人は、歌手とか女優に憧れるけど。
小畑 つまりネ、今の女のコは、歌手も女優も、プロレスラーも同時点なのよ。
いやはやびっくり仰天。今どきの女のコはそんなに簡単にプロレスラーになってしまうのか。
有田、小峰の両嬢は、どこをどう押しても、プロレスラーというイメージは出てこない。どう見たって平凡なBGである。こんな可憐な女性がなんでまたプロレスラーに?
有田嬢(十九歳、全日本中量級一位、元BG)。
動機は、やはり最初はテレビに出られるとか、有名になりたいとかあったけど、今は体ごとぶつかる仕事、何も考えないでぶつかっていくということが、たまらなく好き。もう今は、無我夢中でやめられないワ。練習も厳しいけど、自分の技を試してみたいの。
自分が人からいわれなくても、今日は、この技ができた、よかった、だけどそれに満足せず、また明日は新しいあの技をやろう、この技を覚えたら、あの技をやろうというふうに、前へ前へ前進していく。今は口ではいいにくいけれど、好きで好きで……。
目下、新婚と同じ心境であるらしい。
小峰嬢(十八歳、全日本中量級二位、元BG)。
動機は、一年間、BG生活をして、やはりなにか、人にできないことをやりたかったんです。テレビや雑誌で見ているうちに、わたしもやってみたいナと思ったんです。むろん、最初、親兄弟みんな反対しましたが、今は賛成してくれています。
今どきの娘さんは、テレビや雑誌を見ているうちに、「わたしもプロレスやってみたいナ」と思ってしまうのである。いや恐ろしいことではないか。
金塚(コーチ) 一度練習風景をお見せしたいですネ。訓練は厳しいですよ。レスラーは全員全寮制です。九時起床、ボクは礼儀をやかましくいいます。それからランニング、昼食。一時から五時までトレーニング。まず道場で三分間、正座、黙想、それから女子プロ体操。柔軟体操の一種ですけれども、われわれの作った体操をやらして、それから縄とび、ウサギ跳び、それから受身、組み打ち、乱取り、いやもう凄まじいものですよ。
東海林 有田さんや、小峰さんは、若いから恋愛もしたいでしょう?
有田 そんな、第一、時間がありません。毎日朝から晩までしごかれてクタクタ、男性になんか興味ありません。
東海林 じゃア、女性のほう? レズとか?
小峰 ぜんぜん興味ありません。
金塚 そういうものは、協会が許可しません。
小畑 小峰さんは、この間の福山の試合で、死ぬようなメに会ったのよ。
小峰 外人とやったとき、相手のとびひざ蹴りが、まともに腹部にはいっちゃったの。
有田 そう、それでまっ青になって倒れちゃったのネ。
小畑 一時間ぐらいのびてた。
金塚 つぎの日、黒人にもやられたろ?
小峰 そう、あのときは、頭突きくらって目の前がまっ暗になって、目からパーッと火花が出て。
金塚 救急車呼ぼうっていったら、いいっていって。
小峰 有田さんはひじにヒビがはいって一カ月寝てた。
東海林 いやアすごい青春だなア。
小畑 わたし、佐倉さん(やはりプロレスラー)と組んで、太平洋タッグマッチやったとき、彼女ジャンプしたのよネ。そしたら彼女、自分の重みで、手を体の下についちゃったの。そしたら骨が、まっ白い骨が、手のひらから突き出ちゃったの。
東海林 やめてやめて、そういうお話。
小畑 佐倉さんが、骨が出ちゃったといって見せたとき、わたしクラクラッと目まいがした。手のひらから血が吹き出てまっ赤。
東海林 やめてやめて、そういうお話。
小畑 そしたら佐倉さん、自分でパッと骨ひっぱって入れちゃったもの、中へ。わたし、タイトルマッチだったけど、もうやめようっていったら、彼女、ハンカチでグッといわえて、最後まで闘ったもの。
東海林 いやア、すごい青春だなア。
小畑 そりゃアね、わたしプロレスを始めて十七年(これでだいたいの年齢をご推察ください)、いろいろツライこともあったわよ。女子プロレスといえば、すぐイロと見られてネ。誤解されていたんですよ、女子プロレスは。だからわたしは、技もスピードも、男以上になければならないと思った。男以上に研究し、工夫してきたもの。それでやっと最近誤解がとけてきたように思うの。
金塚 女子プロレスはスポーツですからね。
小畑 みんな辛くて、キャバレーのショーや劇場に走った人もいたけど、わたしはプライドが許さなかった。プロレスだけで食べてきた人といったら、わたしともう一人ぐらいしかいないわよ。これまでになるには、大ケガをしたこともある。お母さんもいうわよ、そんなのバカじやないかって。早くやめなさいって。でもわたしはやめられない。わたしはプロレスが大好きで、プロレスを愛して、わたしからプロレスを取ったら、何にも残らないもの。
編集部のYさん、小畑嬢をじっと見つめたのち、大きくうなずく。
小畑 ほんというとネ、プロレスだけでは、食べていけないのよ。だからわたしは副業にバーをやってる。浅草でネ。さくら≠チていうの。お客さんは皮屋さんが多いわネ。あのへん多いのよ皮屋さんが。健全が売物のバーね。もっとも、わたしは色気を出せったって、ここから(と体をたたいて)色気なんか出ないけどさア。
編集部のYさん、小畑嬢をじっと見つめたのち、また大きくうなずく。
金塚 地方巡業へ行くと、お客さんで挑戦してくるのがいるんです。こちらも飛び入り歓迎といってるんです。でもみんな三分ともたないですね。失礼な話ですが、東海林さんなんか三秒ともたないでしょうね。この間も、サルマタ一ちょうでとび入りしてきたオジサンがいたんです。でも、リングのそばまできて、小畑さんを、まのあたりに見ると、急に引き返していきました。こわくなっちゃったんでしょうね。
編集部のYさん、小畑嬢をじっと見つめたのち、またまた大きく大きくうなずく。さもありなん。やめてよかった、サルマタおじさん。たちまち椎間板ヘルニアで翌日から、会社欠勤というところだった。
東海林 志願者というのは、どんどん来るんですか。
金塚 どんどん来ます。どんどん来ますが、どんどんやめていきます。十人来たら残るのは二人ですネ。みんな考え方が甘いんです。稽古《けいこ》が厳しいですからネ。この間も二十二歳の松坂屋の店員というのが来ました。小畑さんのテレビを見て、わたしもやってみたいというんですね。それで、翌日から稽古を始めたら、その翌日やめていきました。
東海林 いちおうテストみたいなものはするんですか。
金塚 まア、いちおう身体検査をやります。(オレ、やりたいなァ)それから親の承諾書ですね。
東海林 女子プロレスを、そういう闘争を見せるということだけではなしに、やはり、なんていうかこのォ、お色気というか、そういったふうな見方も含めて、楽しんではやはりいけないでしょうか?
小畑 実際にネ、お客さんの中にはいるわけですよ、女の子がモモを出してるから見るって人が。ちゃんと立派なものだと思って見てくれる人と、モモが出てるから見るって人もいるのよ。
金塚 色気で見るっていういい方をすれば、体操だって色目で見ますよ。
小畑 チャスラフスカだってすごいじゃないの。大股開いて。女子プロレスは、あんなに開かないもの。
金塚 見方の相違ということですネ。
オレ悪かった。
聞いて嬉しい宇和島音頭
読者の方々には申しわけないが、今回は、とりとめのない旅である。
これといったテーマがない。
今までは「美女を訪ねて東北へ」とか「別府航路へ新婚さんと」といった明白なテーマがあった。「人類の進歩と調和」とか、「社会開発」といった、壮大なテーマはうたい上げられないながらも、いちおう、つつましやかなテーマがあった。
テーマは大切である。
交通安全キャンペーンにしたって「おとせスピード、おとすな命。よし、今回はこれでいこう」と署長さんが机をたたけば、部下一同「よし、それでいこう」と勇み立つことができるのである。生きる希望みたいなものさえ湧いてくるのである。
今回の旅行には、それがない。当然、勇み立たないのである。
あくびをひとつ、大きくして「じゃあ出かけるかァ」とファーッと立ち上がり、目をショボつかせただけである。
四国へ行ってみようと思ったのである。
別に大きな理由などなく、陽気もいいし、四国あたりは、暖かかろう、花も咲いているだろう、小鳥も飛んでいるだろう、牛も鳴いているだろうぐらいの、きわめていいかげんな理由なのである。
「宇和島あたり、いいんじゃないですか」といわれ、
「宇和島あたり、いいだろうなァ」と答え、
「じゃあ、宇和島にしましょうか?」ということになり、
「じゃあ、宇和島にしよう」ということになったのである。
なぜ宇和島がとつぜん浮かび上がってきたのか。
これとて、特に理由がない。
しいていえば、なにかの週刊誌に秘境、宇和島≠ニ出ていたのを思い出したからなのである。
「そんないい加減な! そんな決め方は卑怯ではないか」
という声がかかれば、しめたものである。だから秘境、宇和島なのです。
もうひとつ、宇和島を選んだ理由をあげれば(これは、どうでもいいことなのだが、特にあげる理由になぞ、ならないのであるが)ここ宇和島は、夜這《よば》いの本場である、ということを聞いたからなのである。
だが、ここのところだけは、是が非でも明白にしておきたい。
それは、宇和島が、夜這いの本場であるから、宇和島に行こう、と思ったのではなく、宇和島に行こうと思ったあとで、宇和島が夜這いの本場であると聞かされた、ということである。
ここのところは、是が非でも、明白にしておきたい。
この、どちらが前後するかによって、ぼくの人格の評価が、大きく変化する微妙なところだからである。
よくよく聞くところによると、現在でも、その夜這いの風潮は、いくぶん残されているという。
それに、宇和島は四国の南端、南国の性に対するおおらかさ、ということも手伝って、まァ夜這いは無理にしても、いくぶん、そのおもかげぐらいは残されていよう、と、こういうことになると、善意に善意にと解釈するタチのぼくは、大いにふるい立ったのである。
宇和島へ行こう!
行って夜這いのおもかげを偲《しの》ぼう!
くどいようだが、最初宇和島を選んだときは、冒頭に書いたように、夜這いのことなぞ全然知らなかったのである。ただ、なんとなく、宇和島がいいなァ、と思っただけなのである。
そう思ったあとで、夜這いの話を聞いたのである。
このぐらいで、もういいかナ?
だれでも知っていることであるが、夜這いというのは娘の所に、夜、男が這っていくことである。この「這っていく」という感じが、ぼくはとても気に入っているのである。匍匐《ほふく》前進、エッチラオッチラお腹をこすりながら、泥にまみれて前進する姿を、好ましいと思うのである。だからぼくとしては、本当は東京から宇和島まで、エッチラオッチラ這っていきたかったのである。そうでなければ、本当の「夜這い」ということにはならないではないか。だが実際問題として、それは恐らく不可能なのではないか、という意見の方が強く、ぼくは泣く泣く引き下ったのである。
「飛行機に乗って夜這いに」では論理的におかしいではないか、とぼくは最後の最後まで食い下ったのであるが、強引に羽田空港十三時ジャスト発の高松行きに乗せられる。
この飛行機は、プロペラで飛ぶやつである。同行のY氏は「なんだプロペラかァ」と馬鹿にしたが、ぼくはプロペラのほうに好感を持っている。
プロペラ機は、プロペラを一生懸命に回して、なんとかして上のほうに飛びあがろうとする、実にマジメな態度がうかがえるのである。
その点、ジェットエンジンの飛行機は、なんか知らんが、ヘンなものを後ろに噴射して、スッと飛びあがってしまい、マジメな態度というものがうかがえないのである。卑怯である。
さて、わがマジメなプロペラ機は、ブルルルンとマジメに飛びあがり、遥か四国に機首を向けた。
青年は荒野をめざし、中年オニイサンは夜這いをめざす。
しかし飛行機というのは、何回乗っても気持ちの悪いものだなァ。
もともと、小心、細心なぼくは、ちょっとでもエンジンの音が変わると、すぐスチュワーデスの顔色を見、ニッコリ微笑んでいればホッと安心し、安心したあとで、いや待てよ、この微笑は、重大事態発生を乗客に知らせまいとする偽りの微笑ではあるまいか? いま、コックピットでは、機長と副操縦士、汗みどろになって機械と格闘しているのではあるまいか? などと疑惑の雲はモクモクと拡がり、額に汗浮かべ、息づかい荒く立ち上がりかければ、
「トイレは後方です」
とスチュワーデス、さらに優しくニッコリお笑いになる。
とにかく飛行機はいやだ。
だいたいあんな鉄のカタマリが、空中に浮かび上がる筈《はず》がないのである。
ではなぜ浮かび上がるか。それは世の中がまちがっているからなのである。
いまに、正しい世の中が来れば、飛行機は寸分たりとも空中に浮かび上がることはできなくなるであろう。
と、ここのところは某氏の受け売りである。
高松空港で四十五分の待合わせの後、松山空港に向かう。
松山まで約三十五分。
松山から列車に乗りかえて二時間。
松山から予讃本線に乗り、途中、森進一クンの「港町ブルース」で名高い八幡浜を通って宇和島へ。
海岸沿いに列車は走る。
青い海、レモンイエローの菜の花畑がエンエンと続く。
レンゲの中で、白と黒の、ブチ牛が草を食《は》んでいる。
川が流れている。
澄んだ、きれいな水が滔々《とうとう》と流れている。
話はとぶが、東京の川は、どうして年々、ああ水が少なくなっていくのだろうか。
川はやっぱり、滔々と流れてもらわなくては困る。それが川の務めというものではないか。
客の数がだんだんと減っていき、終点宇和島に着く。
とても秘境などといえた場所ではない。
ビルが立ち並び、タクシーが走り、ネオンが輝いている。
こんなところを秘境などと書く週刊誌は、やはり卑怯である。
街中をふらふらと、あてもなく歩くうち、Aという旅館がみつかり、そこに上がりこむ。
そこのオヤジさんに夜這いの話を聞く。
「昭和二十二、三年ごろだったかなァ、わたしも盛んにやりました。この辺の夜這いはナシ、夜、這っていくというやつではなくてナシ、村の娘んとこに青年がたくさん集まってナシ、酒飲みながら話をするでナシ。で、だんだん一人帰り、二人帰りして、最後に残った者が、その娘と寝るわけでナシ」
ぼくはひざを乗りだす。
「どうして、途中で一人帰り、二人帰りしちゃうんですか? みんな最後まで頑張ればいいのに」
「それはでナシ。やはりその場の雰囲気とか、周囲の情勢とかでナシ、こらァ見込みあるか、ないか、わかるから帰るんではないのかナシ」
わかる! よーっくわかる。途中で見込みなしと諦めて、悄然《しようぜん》と帰っていく青年の気持ち、よーっくわかる。
タバコやらマッチやら、自分の持物ポケットにしまいこみ、
「じゃ、ガンバレよ、イヒヒ」
などと、ひきつった顔にひきつった笑いを浮かべ、その場を立ち去る青年の胸中や如何《いかん》?
「で、オジサンも、その昔、チキショーなんてつぶやきながら、夜道に消えていったクチですか?」
「いや、わたしはやりました。かなりやりましたナシ。最近も人妻とやりました。あれはトウチャンが船員で……」
人がやったという話は、いつ聞いても不愉快だなァ。
思わず不機嫌になり、黙りこんでタバコをプカプカふかす。二人の間に険悪な空気が流れる。
「このへんはナシ、船員や、出かせぎのトウチャンが多く、人妻はヒマをもてあましてるでナシ」
「す、するとわれわれにも、そのチャンスが?!」
「あるでナシ(ある)」
ある! あるのだ!
「ままま、いっぱいどうですか?」
と、ぼくはたちまち相好をくずし、オヤジさんにお酒をすすめる。
たちまち二人の間に、なごやかな空気が復活する。
「せっかくきても、このへんはナシ、すっかり都市化してしもうて夜這いはもうダメだけんどナシ、ナングンいうたら、まだまだ盛んだという話でナシ」
この宇和島市の周辺には、北宇和郡、南宇和郡というのがある。ナングンとは、南宇和郡のことらしい。
「ナングン女に、マラ見せな(見せるな)、ナングン女は腰弁で追っかける、いうてナシ」
「ナングン女は、そんなに凄いんですか?」
「マラ見せたら、おしまいでナシ」
オヤジさんがいった、二つの教訓? から、ぼくはたちまち次のような空想をしたのである。
ぼくは、ただちにナングンに駆けつける。
そうして、農家の竹垣かなんかに、さり気なく、立ちションをするのである。
むろん、その竹垣の中では、名にし負うナングン女が、草とりかなんかをしているのである。
ナングン女は、チラリと、ぼくの|そのあたり《ヽヽヽヽヽ》に目をやる。
そして、ツト立ち上がり、家の中に入って、ゴハンを炊《た》き始めるのである。つまり、腰弁の準備を始めるわけである。
オンナは、これから始まる追跡戦は、長期にわたるであろうことを、最初から覚悟しているのである。いじらしいではないか。ナングン女は謙虚なのである。
むろん、ぼくに対しては、弁当を用意する必要はなく、すぐその場で、話はまとまるのであるから、ナングン女にとって、わざわざ東京からやってきたぼくは、この上ない上得意であるといわねばなるまい。
では時間もないことだし、これからすぐ、そのナングンへ行って立ちションを、と立ちあがりかけると、オヤジサンは、ナングンは遠いでナシ、という。
時間はすでに、夜の九時。
これからすぐに、ナングンへ行って立ちションをしたとしても、はたして暗闇の中では、ナングン女が、ぼくの|そのあたり《ヽヽヽヽヽ》を確認できるかどうか、という危惧《きぐ》もある。
「それに、このあたりはみんな都会へ出てしまって、若い女が少ないでナシ」
と、オヤジさんは悲観的なことばかりいう。
なんとかして、ぼくとナングン女とやらせまいとしているかのようである。
自分だけは、さんざんやっておきながら、と、再び険悪な空気が流れる。
オヤジさんは「芸者はどうですか?」と話を変える。
「このへんの芸者はナシ、なんせ、伊達十万石のお膝元でナシ、みんな気位が高く、寝てもお金はいっさいとらないでナシ。タダでナシ」
タダ!
この一言で、再び和気あいあいたる友好関係が復活する。ままま、どうぞとトックリをさし出す。
夜這いの望みは、はかなく消えた。
残るは、気位高いタダ芸者のみ。
「では、では」とあわただしく立ち上がり、オヤジさんに紹介されたYという割烹《かつぽう》に向かう。
伊達十万石のお膝元、気位あくまで高く、気品あふるるばかり、容貌あくまで美しく、肉体あくまで豊か、レンアイあくまでタダの宇和島芸者現われるかと思いきや、やってきたのはバアさんばかり。
トシのころなら三十五、六から、「来年で六十になるでナシ」という老女まで、総勢六人。
例によって例のごとく、早速小唄手帖渡され、ドドンコドンと太鼓が鳴り、それ、お賑やかに、と三味線が鳴り、
伊予の宇和島ヨイトコヨー、ソーレイ!
と黄色い掛け声がかかり、いずこも同じ秋の夕暮れ。
芸者というのは、たいてい若いのと、トシとったのと、とりまぜて現われ、若いのは若さだけで結構もて、トシとって芸のあるのは「お三味線の曲弾きを」などで座をもたせ、トシとって芸のないのは「ソレお賑やかに、ソレお賑やかに」ばっかり。
だいたい芸者遊びというのは、(この程度で、芸者遊びといえるかどうか知らないが)男女共学で育たなかったオジサンたちのためにあるような気がしてならない。
共学以前のオジサンたちは、どうしても、女性を、|おんな《ヽヽヽ》としてみるのではないか。
共学以後の男性にとっては、女性はあくまで友人である。少なくとも友人的な見方が含まれている。
だから、共学以前のオジサンたちは、おんなに芸をさせ、それを見物し、ソーレイなどと手拍子を打って結構楽しむことができるのである。
共学以後の小生としては、それができない。
「ソレお賑やかに」の大年増の立場を思いやり、目をつぶって民謡を朗々と歌う、昔美しかったであろう老妓の心境を思いやり、ただただ気が滅入るばかりである。
こういう席で、場ちがいな議論などおっぱじめる人の心境、よーくわかる。
浮かぬ顔をしてると見れば「ソレお賑やかに」が寄ってきて、
「こちらお静かなのネ。ダメよ、もっと酔わなくちゃ、コップにしなさい、コップに」
と盃を取りあげ、ガボガボと湯気の立つ日本酒をコップにそそぐ。
「ソレお賑やかに」は、ただもうひたすらお賑やかだけが生き甲斐で、座が白けず、お賑やかになってくれることだけを念じているのである。
そうして座がお賑やかになると、ホッとして、さらにもうひときわ、お賑やかにさせようと努力するのである。
そのツライ気持ち、よーっくわかるが、ぼくだってツライ。
別に気どっているわけではないが、ぼくは宴会はダメなのだ。どうしても宴会になじめないのだ。
ぼくだって、お酒を飲みはじめて十数年、エンカイになじもうと思って、ずいぶん努力はしてきたのだ。
だけど、やっぱりダメだったのだ。
シカタナイノダ。
では、なぜ、大金つかって料理屋に上がりこみ、芸者など呼んだのだ?
それはつまり、先述のように、タダの一言が、ぼくのこの行動を起こさせたのだ。
タダより高いものはない、というが、タダより強いものはないのである。
タダ○○のためなら、どんな苦難も黙って堪えるのである。
聞いてなー
聞いて嬉しい宇和島音頭
「ソーレイ」(ぼくの掛け声である)
踊るあの娘の手ぶりが冴えりゃ
「ソーレイ」
唄うオイラの気もはずむ
「ソーレイッ」
と、ぼくとしては精いっぱい励んだのであるが、それなのにそれなのに、結果はタダではなかったのである。
チリ紙交換記
だれにでも、魅惑的な職業というものがあると思う。あれを、ぜひ一度やってみたいなァと思う職業のことである。
現代の若者にとって、魅惑的な職業は、カタカナ業だという。デザイナー、イラストレーター、ディレクターといったたぐいである。
ぼくにとって魅惑的な職業は、チリ紙交換屋さんなのである。全部カタカナというわけにはいかないが、「|チリ《ヽヽ》紙」というカタカナだってちょっとだけ入っているのである。
日曜日の朝早く、「毎度おなじみチリ紙交換……」と叫びながら、ウンカのごとく押し寄せてくるチリ紙交換屋さんを、人はうるさいというが、ぼくは尊敬と憧憬《しようけい》のまなざしで、ずっと見守ってきたのである。
そうしてついに、その望みが叶《かな》えられる日がやってきた。
記者のHさんが、やっと段取りをつけてくれたのである。
チリ紙交換屋さんは、なぜ魅惑的か?
ほんとのところ、ぼくにもよくわからないのだ。ただ、世間をはばかるような、あのマイクの呼びかけが魅惑的であるのかもしれない。世間を騒がせて申しわけない、ほんとうに申しわけない、と裏路地をウロチョロする姿勢が好きなのかもしれない。
オレは、うるさがられているんだろうなア、いやきっとうるさがられている、うるさがられているに違いない、申しわけない、ほんとに申しわけないと恐れおののきながら、裏路地を廻っているとき、「チリ紙屋さん!」と、声をかけられたときの喜び、感激! それを想像すると、居ても立ってもいられないほどの憧れと、焦燥を感じるのである。ああ、早くやってみたい!
いったい、チリ紙交換という物々交換を思いついた人はだれなのだろう。
終戦直後は、着物とお米などの物々交換がはやったけれど、この貨幣経済の世の中に、たったひとつの物々交換が、戦後二十余年を経て突如|甦《よみがえ》ったのである。
経済大国ニッポンが、たかがチリ紙のために、日曜日の住宅地は大騒ぎになってしまったのである。
こうして騒いでいる住宅地を、さらに騒がせるべく、ぼくはとうとうチリ紙交換専用車に乗車してしまったのである。
いよいよ本日乗車、という日の朝、家で寝ていると、遠くから、「毎度おなじみ……」というおなじみの声が聞えてきた。
ヤロー来たな、と飛び起き、きのうの友は今日の敵、かつての憧れの対象であった人々も、今日ばかりは敵となったのである。闘志が全身にみなぎる。ヤッタルデ!
やはり自分一人で、というわけにはいかず、本職のSさんという人の車に乗せてもらうことにする。Sさんは、五十がらみのおじさんで、交換歴二年のベテランである。
車は中型のトラックで、天井にスピーカーがついている。
運転席には、さぞかし複雑な機械が備え付けられていると思いきや、小さな、薄汚れたマイクがころがしてあるだけである。
まず、中野近辺を廻ってみましょうということになり、わがチリ紙交換車は、シズシズと動きだす。感動が胸を走る。ああ、わが積年の望みが、今ここに達成されようとしているのだ。おごそかに、わがチリ紙交換車はヨタヨタと動き出す。
まずSさんがマイクを握り、例の文句を、例の世間をはばかる調子で放送しだす。
「毎度おなじみのチリ紙交換でございます。古新聞、古雑誌、ボロ切れ、ダンボール、こわれたテレビ、洗濯機、その他なんでもご不用のものがございましたら、多少にかかわらずチリ紙またはトイレット・ペーパーと交換しております。どうぞお気軽にお手を上げてお知らせください。こちらから、すぐに伺います」
意外と長いのである。
「では、どうぞ」とマイクを渡される。
いよいよ晴れの舞台である。
車の外を人が通る。家の中の人も聞いているであろう。
緊張で、顔がまっ赤になる。手が震える。脂汗《あぶらあせ》が、額《ひたい》に滲《にじ》んでくる。初めて、テレビに出たときよりもアガっている。
「ま、まいどおなじみチリ紙交換でございます。古新聞、古雑誌……エート、なんでしたっけ?」と隣のSさんに聞く。これがそのままスピーカーから放送されてしまう。
この「なんでしたっけ?」が効いたのか、はるか先方で、「お手を上げて」くださる姿が目にはいる。
「アッ、いました。いました」
これもまた、スピーカーから放送されてしまう。
早速飛んでいくと、こわれた冷蔵庫と、トタンが数枚、それにパイプみたいな鉄屑が数十個と新聞紙が少々。
やった! ついにやった! この戦果を見よ、と誇らしげにSさんを見上げると、Sさんはしかたねェな、という顔付きをしている。
新聞紙はともかく、最初からこんなにたくさんの鉄屑を獲得したのにと、不審に思ってあとで聞くと、「鉄屑は重すぎてイヤ」だという。新聞は、問屋へおろすと一キロ九円五十銭。鉄屑も、だいたい同じ値段だという。
どうもぼくらは、戦争中の鉄不足が身にこたえているせいか、鉄と見ればありがたがる習慣が身についてしまっているらしい。
さてただ今の収支決算は、次のようになるのである。
まず冷蔵庫は百円(ちなみに、テレビも洗濯機もみんな百円)。鉄屑の買い値は、キロあたり三〜四円だから、十キロで三十円。新聞紙二キロ(新聞も、買い値は三〜四円)で六円。合計百三十六円。丸巻きのトイレット・ペーパーを四個渡す。
トイレット・ペーパー一個、だいたい三十円の計算である。四個で百二十円ではあるが、このへんは、都合のよいようにおおざっぱに考えるのである。
これを問屋に持っていくと、冷蔵庫二百五十円。鉄屑、古新聞は、九円五十銭だから、計十二キロで百十円。合計三百六十円。支出のほうは百二十円だから、差引き二百四十円の儲けとなる。さらに、トイレット・ペーパーは、八掛けで仕入れるから、その分も儲けに入るわけである。
初仕事二百四十円の儲けに気をよくして再び乗車。こんどは、よどみなく「まいどおなじみ……」が、口をついて出る。放送しながらも、油断なく、各家の玄関、窓に目を光らす。見逃したら一大事、二百四十円がフイになる。ずっと先のアパートの玄関で、幼児が手を振っている。しめた! また二百四十円と馳《は》せ参じれば、その子は、ほんの数枚の新聞紙を手にしているだけである。これを交換して来いと、母親にいわれて出てきたらしい。しかたなく、いちばん安いトイレット・ペーパーを渡す。これとて原価二十円はするのである。
これはよくやられるテで、母親のほうも、それを承知で子供にそのへんに散らかっている新聞紙を数枚持たせて寄こすのだという。こちらは「多少にかかわらず」と明言しているので交換しないわけにはいかないのである。世の中せちがらいのである。
釣りに絶好の釣り場があるように、チリ紙交換にも、ここへ行けば、というところがあるという。
立派なお屋敷が続くようなところはダメで、新興住宅地、ボロ家、社宅、マンション、アパートといったところがよいという。
理由は簡単で、大きな家にはたいてい物置があり、そこへしまいこんでいるのである。
アパートや、マンションや、社宅はしまうところがないから、しょっちゅうチリ紙屋さんに出さなければならない、ということになる。
中野近辺は、収穫少なく、練馬に向かう。
マンションから、声がかかる。四階である。フーフーいって駆けあがると、どういうわけかふきげんな顔をした若奥さまが、子供を叱りつけながら、古新聞、古雑誌をどんどん持ってくる。先方は不機嫌だが、こちらは大ニコニコで、どんどん持ってくる古新聞、古雑誌を、どんどんナワで縛る。古い電話帳もある。「電話帳は、お安くなりますよ」とSさんがいう。どういうわけか、電話帳は安いのだという。電話帳も雑誌も、同じようなものなのに、なぜか電話帳は安いという。Sさんも「どういうわけか」わからないという。
ここは、全部で十キロほどあり、トイレット・ペーパー一個。
しばらく流していると、来た来た! 向こうから商売|仇《がたき》がやって来た。
放送の文句も、当方とはちょっと違う。
「毎度、|お騒がせして《ヽヽヽヽヽヽ》おります、チリ紙交換でございます」
ムムッ、できるナ!
すばやくテキの荷台に目をやると、戦果は当方とチョボチョボ。ムムッ、できないな!
ホッと安堵《あんど》の息をつき、すれちがうとき、余裕をもって軽く会釈。
お互いの猟場を荒さないように、右と左に別れる。
曲がるとすぐ声がかかり、今すれちがったばかりのテキに、せっかくの獲物|奪《と》られてはならじと、息せききって駆けつける。
生存競争は厳しいのだ。
玄関に出された古新聞、古雑誌の中に、電話帳を目ざとく見つけ、すかさず「電話帳は、お安くなりますがいいですか」と、いま仕入れたばかりの知識をひけらかす。
古新聞のすぐそばに、ヘルスメーターが置かれてあり、すでに全重量を計ってあるらしく、おばさんは、ゴマカシはできませんよ、という目つきで腰に手をあてこちらのハカリを睨《にら》んでいる。よく見ると、奥のほうでダンナもこちらを睨んでいる、非常に猜疑《さいぎ》心の強い夫婦であるらしい。
お昼から夕方の四時ごろまでやって、新聞、雑誌が二百キロほど、鉄がやはり二百キロぐらい。
車代、一日五百円。ガソリン代が、だいたい五百円。合計千円を引いても「まア、二千円ぐらいにはなったんじゃないの」と、Sさんは二ッコリ笑う。
道ばたに車を止めて、Sさんが仕分けをしている間も、ぼくはまだ未練げにマイクを握りしめて「毎度おなじみ、チリ紙交換……」と連呼する。この快感は、一度味わったらなかなかやめられるものではない。
「毎度おなじみ、チリ紙交換、古新聞、古雑誌、古女房……」とやるのは、マンガの古いアイデアだけれど、よく考えてみると、夫婦交換というのだってあるではないか。
スワッピングとかいって、当節かなりはやっていると聞くが、いっそのことチリ紙交換と、同じ方法でやったらどうだろうか。
日曜日、自家用車に古女房を乗せ、団地などを流して歩くのである。
文句は、チリ紙交換と同じで、だいたい次のようになるだろう。
「毎度おなじみ、夫婦交換でございます。おたくの、こわれた古女房と、当方の古女房の交換をいたしております。
お気軽に、お手をあげてお知らせください。こちらからすぐにお伺いします」
ストリップ観劇行
今回は、ストリップ。
ストリップというと、たいていの人は、社内旅行かなんかで、温泉地に行ったときに、宿のドテラを着て見た、というのが多い。
平常時、つまり背広着用時にストリップを見た、という人は非常に少ないのである。
やはり、ああいうものは、酔った勢いで繰り込む所であって、シラフで臆面もなく繰り込む所ではないのかもしれない。
ぼくは今までに、二回しかストリップを見たことがない。
一回は学生時代に、新宿のミュージックホールで、もう一回は二、三年前、埼玉県の豊岡というところで見たきりである。
いわばストリップ観劇に関してはズブの素人であるので、ここはひとつ斯道《しどう》の大家、田中小実昌氏をわずらわしてその指導を仰ぎ、その見どころ、ポイント、さわりといったところを教えていただこうと、こういう趣向にあいなったのである。
ボクシングの試合などでは、アナウンサーが解説者に、「この試合の見どころ、ポイント、さわりといったものは、どんなところでしょうか?」などとよく聞くが、ストリップに関しては、その点どうだろうか。
見どころも、ポイントも、ただ一点、ただ一個所であって、これほど明々白々な見どころ、ポイントというのは、他にはまったくないのではないだろうか。
ストリップ観劇に出かけるときは、どんな服装が適切であろうか。
背広にネクタイといういでたちでは、かえって、先方に失礼にあたるのではないだろうか。
ここはやはり、地下足袋に腹巻、腰に手拭いの一本も下げて行ったほうが、礼儀にかなうのではなかろうか、などと思いあぐねていると、我が師は、下駄ばき、開衿シャツにカーディガンといういでたちで現われる。
なるほど下駄であったか、と気がついたけれど、急遽《きゆうきよ》、下駄を調達する時間はなく、残念の思い激しく、トックリのセーターに、バックスキンの靴、といったところでお茶を濁すことにする。
場所は立川がよかろうということになり、立川へ向かう。その車中、小実昌氏に、予備知識をいろいろ与えてもらう。
「実地」の前の「学課」といったところである。
ぼくは初めて知ったのであるが、ストリップというのは戦後の所産であって、戦前にはまったくなかったということである。
ぼくは、ストリップは天の岩戸の昔から、ずっと連綿と続いてきたのだとばっかり思っていたのだが……。
ストリップの観覧料は七〜八百円が相場だという。これはかなりの金額である。
人はなぜ、八百円も投じてストリップ劇場へ駆けこむか。
わが師の言によれば、むろん女のハダカを見たいから、という理由も否定できないが、もうひとつ、「ストリップにはスジがないから」という理由も忘れてはならないのだそうである。
この世には、「スジのあるものを見るのは、めんどくさくていやだ」という人種が、たくさんいるのだという。
映画や芝居やテレビドラマには、筋(ストーリー)がある。
あれがめんどくさくてしようがないという人種が、大枚八百円を投じてストリップ劇場へ駆けこむのだという。なるほど、ストリップには筋がない。見どころ、ポイントも明白である。めんどくさくない。|おまけに《ヽヽヽヽ》、女のハダカだってある。彼らには、この上なく好適な娯楽といえるのであろう。
そしてわが師は、最後にこうつけ加えた。
「それが証拠に、女たちの例の個所にさえ、スジはない。ヒダはあるがスジはない」
ぼくには、なんのことだかよくわからぬ。
さて車が立川市内に入って、劇場の方向がわからなくなった。
交番があったので、そこで場所を聞こうということになる。だが、交番でストリップ劇場の所在を聞くのは、あまりにも不遜《ふそん》ではないか、お上《かみ》をおちょくった行為ではないか、という声があがり、なるほどそれも尤《もつと》も、ということになり、一軒先の電気屋さんで道を聞く。
このへんの、まことに行き届いた配慮、心づかい、奥ゆかしい一行といわねばなるまい。
入場料は、やはり七百円。
時間は、夕方の六時ごろで、場内、七、八十の椅子席があり、ほぼ八割の入り。
場所がら、GIが三人ばかりおり、背広を着たサラリーマン風が約半分、あとの半分は商店のオヤジ、オニイサン風といったところ。
やはり、平常時、平常服で、平常の感覚でストリップを見にくる人も、多勢いるのである。たのもしい。日本人は、まだまだ大丈夫だ。
意外にも、舞台では、女二人、男一人のドラマが展開されていた。
スジのあるやつをやっていたのである。
途中から入ったので、よくはわからぬが、二人の女性は母娘で、連れ子をしてこの男と結婚したらしいのである。
娘は、養父と母親のフシダラを責める。ところがこの母親は、オヤコレズなのである。
そしてレズ娘は、母親が銭場に行ったすきに、父親ともカンケイしてしまい、最後は母親が、娘と夫を殺し、母は夫の亡きがらを抱きかかえ、「もうこの人は、一生わたしだけのものになった!」と絶叫して、この深刻で、複雑で、荘重なドラマは幕を閉じるのである。かなりの熱演である。
むろん、レズシーン、ラブシーンは、たっぷりある。
見終ってぼくは、人間の性の奥深さ、血のつながりの恐ろしさ、人を愛する悲しさ、美しさ、などについて、ストリップ小屋の片隅で、深く深く思いをいたさずにはいられなかったのである。
ストリップを見物に来て、こんなにタメになる芝居を見られるとはついぞ思わなかった。よかった。感激! ガンゲギ。
だが、この深刻で、複雑で、荘重なドラマのわりに、小道具のほうは布団がたった一枚という簡略さだったのである。
この複雑なドラマは、たった一枚の布団の上でのみ展開されたのである。
このへんのところに、作者の、芸術と娯楽に対するジレンマ、苦しさが、ようくうかがわれるのである。
スジの嫌いな人々も、随所に挟まれた濃厚シーンを、十分|堪能《たんのう》していたようである。
それが証拠に、「もっとしっかりやれ!」などの声援も飛んだし、男役に対しては「いいなア!」などの嘆息も洩れたのである。
そして、「いいなア!」の嘆息に対しては、演技者のほうから、「これでラクじゃないんだヨ」などの応答があり、場内は、演技者と観客の間に、暖かい交流さえ見られたのである。
ぼくは、深い感銘に打たれて瞑目《めいもく》していると、急に場内が明るくなり、音楽も急に賑やかになって、いよいよ金髪ヌードの登場である。ストリップ劇場には、幕間《まくあい》というものがない。間髪を入れずつぎのダシモノが出てくる。これがまた、スジの嫌いな人々の感覚に、よくマッチしているのかもしれない。
金髪ヌードといっても、外人ではない。ただ髪の毛を、金色に染めているだけなのである。
小実昌氏の解説によると、金髪ヌードの始まりは外人ヌードにあり、外人ヌードが次第に外人まがいヌードになり、そして今では金髪ヌードというものが、日本のストリップ界に、しっかりと足を下ろし、定着したのだという。
そして、ストリッパーのダレでもが、金髪ヌードをやれるわけではなく、金髪であるということは、その一座の、真打ちであるという意味をも含んでいるのだという。タメになるなア。
問題の金髪嬢は、かなりの美人、あどけない顔をしている。
西部劇まがいの、キンキラキンの衣装をまとって登場、チンタラチンタラと投げやりに手足を動かす。この程度の動作は、やはり踊りとはいえないのではないか。単に、リズムに合わせて手足を動かしているだけなのである。幼稚園の学芸会のほうが、まだマシといえるかもしれない。
だが観客は、マンジリともせず、この単純で、いいかげんな動きをジッと見守っているのである。この単純で、いいかげんな動きのなかに、深遠なエロチシズムと、妖艶な官能の美を見出しているらしいのである。
いいかげんに振られた腰のひとつにも、感じ得る限りの演技者の演技を感じとり、演技以上の、無限のエロチシズムを感じとろうと努力しているらしいのである。
ストリップ劇場の観客ほど、演技者に対する深い理解と、暖かい同情をもった観客は、他にいないのではないだろうか。
それにしても「前」が長い。
だいたいにおいて、相撲もそうだが、ストリップはチンタラチンタラが長すぎる。
よくないことである。
相撲の仕切りと、ストリップのチンタラのこの二つをもっと短くする運動を、消費者連盟あたりでやってもらえないものだろうか。
ストリップのチンタラはなぜ長いか。
隠せば隠すほど見たがるという人間の習性、いや深層心理、いや学習、いや行動原理、そういった高等知識を、ストリッパー嬢たちが熟知していて、その高等技術を駆使しているからなのだろうか。
これに対する小実昌氏の解答は、じつに簡単であった。
結局、人件費の問題であるという。
このチンタラをなくすと、同一時間に、多数のストリッパーを投入しなければならず、それだけ人件費がかかるのである。
深層心理学の問題は、あっさり経済学の問題に置きかえられてしまったのである。
これでは消費者連盟も、動くわけにはいかないだろう。
現実とは、常に、かくもシラジラしいものなのである。ナットク。
さて話は急に変わるが、世の中には、一度は見ておきたい、というものが、たくさんあると思う。万博なんかもそうだし、月の石なんかもそうだと思う。
月の石というのは、いったいどんな色をしているのだろうか? どんな形状をしているのだろうか? 一度ぜひ、目のあたりに見てみたい、と思う。そしていつの日か、やっとそれを見ることができたとする。
なるほど月の石とは、こういうものであったか、こういう色をしていたのであったか、ナルホドと納得して帰ると、もはやもう一回見てみたいという気持ちには、なかなかならないと思う。
ところが、女性の例の物件ばかりは、一回見れば、それで気が済むというものではないらしいのである。
何回でも、いや何十回でも、いやいや何百回でも、とくと見てみたいものらしいのである。
この、何百回でも見たいという衝動の原動力になっているものは、いったい何であろうか。
構造学的な探究心であろうか。或いは、生物学的な学究心であろうか。
もし生物学的な学究心からであるとすれば、このストリップ劇場にひしめいている男たちは、陛下と同じ趣味をお持ちになっている人々といえるのである。やんごとなき方々といわねばならないのである。
こうして、大枚七百円を投じてまで、なお学究の姿勢を崩さぬ人々に、ぼくは深い深い尊敬の念を持たざるを得なかったのである。
舞台の上では、なおチンタラが続く。見渡すと、チンタラの間、ずっと新聞を読んでいる剛の者もいる。ピーナツを、口に放り込んでは、天井を見つめているシレ者もいる。
が、大多数の人は、このチンタラの最中、うまくもない踊りにやたらに拍手をしている。
これは、あとで特ダシのとき(これは、昆布ダシとか、カツオダシとかの、料理用語ではない。念のため)自分の前に来てもらって、タップリ拝ませてもらおうとの魂胆《こんたん》あっての所業なのである。
あとで、楽屋で聞いたストリッパー嬢の話によると、やはり熱心に手を叩いてくれた人には、見せてあげたい気持ちになるという。
チンタラのとき、新聞なんか拡げていた人には、絶対見せてやりたくないという。
つまりこの拍手は、あとあとのための、設備投資みたいなものなのである。お金は一銭もかからない設備投資なのである。
だからみんな、やたらに手を叩く。全員、ストリッパー嬢に忠誠を誓うのである。違背なきを誓うのである。忠誠のあかしの拍手をするのである。
全員、なんとかしてつまらない踊りのなかに、いいところを見つけようと血眼《ちまなこ》になり、ちょっとでもいいところを見つけると、ここぞとばかり拍手をするのである。学芸会における子供の親のような心境で、お上手お上手といって手を叩くのである。
こういうのを、親バカではなく、ストバカというのではないだろうか。
ぼくも、はたしてあとで、拝ませてくれるかどうかわからぬが、のちのちの幸福のためを思って、精一杯の設備投資に励んだことはいうまでもない。
しかし、このときのストリッパー嬢の気持ちというものは、一度味わったらやめられないほどの快感があるのではないだろうか。
女王の気持ちというのは、まさにあの心境なのではないだろうか。
自分の周囲の者すべてが、自分に忠誠を誓い、媚《こ》び、へつらい、裏切る者など、ただの一人もいないのである。とにかく見せてやってください、お願いします、と全員、哀訴、嘆願しているのである。
女王と、ストリッパーを一緒にして申しわけないが、全女性に告ぐ! 女王の気持ちを味わいたければストリッパーになれ。
こうした雰囲気の中にあって、思い上がらない者は、まずないのではないだろうか。
もし思い上がらぬストリッパー嬢がいたら、それはきっと、熱心な、PHPの愛読者であるに違いない。
だから、この時の、ストリッパー嬢の、傲然《ごうぜん》とした目つきを見よ。ひがんでいうわけではないが、あれ以上の傲然は、ないのではないか。
それにひきかえ、観客の男たちの、なんと哀しげで、頼りなげな目つきよ。
人生の荒波を乗りこえてきた屈強の男たちが、全員、羊のような、兎のような、幼児のような怯《おび》えた目つきをして、今か今かと、期待に胸うち震わせているのである。
たった一人でいい!
そんなに傲然とした目つきをするなら、そんなに軽蔑するなら、もう見てやらねェ! もういやだ! もうたくさんだ! と一声叫んで席を蹴る人が、たった一人でいい! いてはくれないものか、と場内を見渡したけれど、全員、ただただ兎の目をして、厳粛な拍手に精を出すばかりなのである。
むろんぼくも、できる限りの忠誠の色、まなこに漲《みなぎ》らせていたことはいうまでもない。
そうしていよいよ、待ちに待ったご開帳の時がおとずれる。
場内、セキとして声なく、音楽の音ハタと止み、新聞拡げていた剛の者も新聞かなぐり捨て、ピーナツ噛んでいたシレ者も、口中のピーナツ半砕きのまま顎《あご》の動きを止める。
片隅でコオロギの声。
スト嬢は、やはりさきほどから熱心に拍手を送っていた人のところに、つと歩み寄ってすわり込む。その人は、ただちに拍手をやめ、凝然《ぎようぜん》、ただ一点に目を凝《こ》らす。これ以上凝らしようがないほど凝らす。目との距離、わずか数センチ。あれは、あんなに間近に見つめてもよいものなのだろうか。
あの物件は、やはり遠くから望見するか、チラと瞥見《べつけん》するにとどめておいたほうが、当人の、のちのちの人生のためにもよいのではないだろうか。だが当人には、そうもしていられない事情があるらしく、マジマジ、シゲシゲ、ツクヅク、まばたきしたら損だ、といわんばかりに見つめている。彼は、マジマジと見つめながらも、のちのちのために、その物件を、まぶたの裏に焼きつける記憶作業をも、同時にやっているのである。彼は今、非常に忙しいのである。
ほんの数秒で、スト嬢は立ち上がる。
彼は急に緊張から解き放たれ、安堵《あんど》の吐息と共に、今はしばし安らぎの時。疲労感が、彼の顔に、ありありと浮かんでいる。
スト嬢が立ち上がると、各所からいっせいに拍手が湧き起こる。
当方へも来てやってくださいという哀願の拍手である。
来てくれるか、くれないかはわからぬが、ともかく手も破れんばかりの拍手をして、あとはスト嬢の大御心《おおみこころ》に縋《すが》るよりほかないのである。
舞台のソデのところで、顔をくっつけるようにしてじっくり拝ましていただいてる客に対して、後方から、「ションベンひっかけてやれ!」という、じつに適切で、当を得た助言が飛ぶ。
見せてもらえない口惜しいその気持ち、よくわかる。
ようく拝ませていただいた客は、去り行くスト嬢に、心の底からの感謝の拍手を送る。彼は今までに、これほどの心の底からの拍手をしたことはなかったのではないだろうか。
拍手、静寂、拍手、拍手、拍手……。
さざなみのような拍手が起こっては消え、消えては起こり、さながらカラヤンの演奏会のフィナーレと、なんら変わるところはなかったのである。
体当り路上ハント
ガールハントなるものを試みよう、ということになった。
園山俊二、福地泡介、ぼくの三人、いずれも早や、中年に足突っこんだ年齢ではあるが、なに、死に花という言葉だってある、青年期最後のお別れに、青年期最後の思い出に、ガールハントなるものを試み、いたいけな少女と、一夜を共にしてみよう、そうして、幸《さち》薄かった青年期に別れを告げよう、そうして、寂しく中年に足を踏み入れよう、そういうことで話はまとまったのである。
全員必死の覚悟で、壮烈な最期を遂げるつもりで、ガールハントに取り組めば、神もきっとご照覧。われらの一念、憐んでくだされ、救いの手を、きっと差しのべてくださるに違いない。どうせ全員、討死覚悟なのだから、場所はプレイボーイ、プレイガールひしめくプレイの本場、青山、六本木ということにしよう、というだいそれた考えをもってしまったのである。
どだい無理なのである。無理とわかっているのだけれど、でも、もし、万が一、ひょっとして、あるいは、もしかするとなどの言葉が、三人の中で交わされ、やがてそれらの言葉が一つの確信に変わり、タクシー拾ってハントの本場に乗りこんでしまったのである。
行きあたりばったりに、まず最初はスナックの階段を降りる。期待と不安に胸を躍らせながら、ドアを開ける。祈るような一瞬。
狭いスナックの中には、五、六人のヤローどもがギターをつまびきながら、フォークだかスプーンだか知らないが、なにやらソングを口ずさんでいるだけである。あほらし。
こんな薄暗いところで、ギターなんかつまびいてどこがおもしろい、とそいつらに冷たい視線を投げれば、そいつらもすでに、われわれの敵意をくみとって、薄暗いスナックの中に、敵意と敵意の火花が散る。これまたあほらし。
こんなところに長居は無用と、いま降りてきたばかりの階段、三人ドタドタと這い上がり、サテと街並み見渡したけれど、どこへどう行けば、女をハントできるものやら見当もつかぬ。
迷いに迷った目をふと見上げれば、ボウリング場のネオンが見える。
「ボウリング場なんかどうだろう」とボクがいえば「深夜のボウリング場は、アベックがほとんどだからまずダメだろう」と福地がわけ知り顔にいう。
だがここでも、もし、万が一、ひょっとして、もしかすると、などの言葉が交わされ、福地、今度は大きくうなずきボウリング場へと足を運ぶ。
やはり福地の予感は適中した。女は、いることはいたがみんなヤローつきなのだ。
しかたなく、三人やけくそになってボウルを抛《ほう》る。このやけくそが、かえってよかったらしく、三人とも上々のスコア。だが好成績を出したところで、ヤローばかり三人では、どうということもなく、ボソボソと好成績をホメ合い、まだキャアキャア騒ぎながらボウリングを続けるアベックどもを横目でにらみながら再び路上へ。
風が冷たい。心が寒い。
「ドースル?」「ドーシヨーカ?」「ドースルカナア」妻も子もある三人男、晩秋の木枯らし吹き抜ける路上で、女求めてしばしの思案。
この数時間、努力をしてきたけれど、女と会話すら交わせなかったではないかと園山が沈痛な面持ちでつぶやく。「モテないなア!」心の底からの真実の叫びが、口をついて出る。
もはやどんなことをしても、ハントなどは不可能なのではないか、とぼくが思い始めたその時、後方でなにやら男女のザワメキが聞えてきた。
最年長の園山が、必死の面持ちで路上の五人づれに声をかけたのである。ついにやったのである。
それっとばかりに、われわれ二人は、人の釣りあげた獲物に走り寄る。こういうときの動きは、二人ともす早いのである。
だが、この貴重な五匹の獲物には、すでにサラリーマン風の三人づれが、声をかけていたのである。つまり園山は、すでに三人づれと交渉をしていた獲物に、あえて分け入ったのである。
この五人づれの女性は、齢のころなら十六、七、八。化粧こそ濃いめだが、まだその顔立ちには、あどけなささえ残っている。
テキのサラリーマン風の三人づれが、それほどせっぱつまっていなかったせいか、あるいは園山の気迫が、あまりに凄かったせいか、テキは辞退の態度を示しはじめたのである。
すると、五人グループのリーダー格が、実に手際よく、グループを三対二に分け、二のほうをサラリーマン風三人づれに、そして三のほうをボクら三人づれにと、あざやかな処置をとってくれたのである。
これでやっと、なんとか体裁は整った。
こういうふうに、ピッタリと数が合っていれば、イザというときにも、モメごとがなくて済む。
このイザに対する解釈は、いろいろあるだろうが、われわれ三人の考えているイザは、ほんとのイザなのである。ほんとのイザとはどういうイザかというと、正真正銘、正一合、山盛りきっかりのイザなのである。このへんで、だいたいの察しはつけていただけたことと思う。
とりあえず、ということで近くのスナックに入る。またしてもスナックである。だが失意のどん底で出入りしたスナックと違い、今度は獲物づれで入るのである。三人のカオにこらえようとしてもこらえきれない喜びがあふれている。
リーダーがまず自分たちはナオコ、ジュンコ、ルミであるといい、口々にミルクセーキやらミックスジュースやらジンライムやらを注文する。
ルミというのがややボク好み、ナオコがデブだからこれは園山に廻し、ジュンコは顔がやや扁平だけれど、どうせ福地はどんなのでもいいのだから、これは福地に押しつけてと、瞬時に割りふりを頭の中に思い描く。
まず、ゴーゴーへ行って、それからホテルは、やはり新宿がいいだろうナなどと考え、他の二人を見ると、福地も園山も同じことを考えているらしく、しばし目を宙に据《す》えたあと、サテといった感じで、三人同時に身を乗りだす。
(サテどんなお話しようか?)
と、その瞬間、ルミちゃんが「ジュンコ。おまえまだハチオン、おかしいよ」という。
ジュンコはついさっきボンドを吸ったのだという。
なんのことはない。この三人は新宿のフーテンだったのである。
西大久保のアパートに、先述の二人も合わせて計五人で折り重なるようにして住んでいるのだという。
毎日夕方五時ごろ起きだして、新宿、青山、銀座をたかって歩く本格派フーテンなのである。
釣られるのを待っていた獲物を釣ったのである。あほらし。
ハントもクソもあったものではない。
一同急に興ざめ、乗り出した体、元に戻し、さきほど思い描いたバラ色の夢を急いで打消す。
もはや何もいう元気はない。
園山は、早くも眠りの態勢に入った。
福地は持っていた週刊誌拡げて読みはじめる。
これではいけない。たとえフーテンとはいえ、われわれのほうから声をかけ、こうしてご一緒していただきながら、早くも眠りの態勢に入るとはなにごとか、とボク一人あわて、なんとかその場をとりつくろおうとする。
がフーテン嬢たちは、たいへんお疲れになっているらしく、たいして話もせず、気まずい沈黙ばかりが続く。
ボク一人汗だくになって質問をくり返す。
「毎日おもしろい?」「どこ出身?」「齢いくつ?」「いままでに何人ぐらいと寝た?」
その間にもフーテン嬢たちは、間断なくトマトジュースやらなんとかジュースやら、サンドイッチやらをどんどん注文して飲む、食う。
よっぽどハラが減っていたらしい。その観点からみると、われわれは今夜の初鴨であるらしい。
ハントするつもりが、われわれは逆にハントされていたのである。あほらし。
園山は、ときどき居ねむりの目をあけて、こちらの様子をうかがい、情勢変わってないナという顔つきで再び眠りに入る。
その夜三人は、ラーメン食べて帰宅し、オシッコをしてからおとなしく寝たのであった。
ああデラックス床屋
ぼくは、ここ数年床屋に行っていない。
床屋は、絶対にぼくの思うとおりにやってくれないからである。
床屋へ行って、あの椅子に坐ると、あたり前の話だが、ま正面に自分の顔が映る。
あれがどうにも恥ずかしいのである。
自分の顔なのだから、遠慮なくだれにも気兼ねなく、とっくりと眺めてもかまわないと思うのだが、どうにも恥ずかしく、目をそらしてうつむいてしまう。親爺《おやじ》は、恥ずかしさで身をよじっている当方に、なんの労《いたわ》りもなく、ジッとわが眼を見すえて「どういうふうにします?」と聞く。するとぼくは、どういうわけか「ま、適当に」などと鷹揚《おうよう》にかまえてしまうのである。ほんとうは、「ま、適当に」どころではないのである。注文つけたいところは山ほどある。てっぺんのほうは短く刈らないで、耳のあたりは少し厚めにして、スソは刈り揃えないで、眉毛はきちんと剃《そ》らないで、などなど胸ふくるるほどの注文をかかえているのである。
それなのに、「ま、適当に」などとミエを張るのである。やっぱりあれは、ミエなのかなァ。
そうすると親爺は、待ってました、とばかりに、当方の注文とは逆に逆にと作業を進めていくのである。
てっぺんは短く、耳のあたりもバッサリと切り落とし、スソはカッチリと揃え、眉毛は侍のように剃りあげてしまう。
ぼくは、身もだえしながら、「ア、違う、そこは、そうじゃない。ア、ア、そこも違う」と心の中で叫ぶのだが口には出さない。
黙って怒り狂っているのである。
そうこうしているうちに、ぼくのイメージと完全に逆のスタイルが仕上がって、親爺は満足気にニッコリ笑い、ぼくは精一杯親爺を睨みつけて、怒り狂って床屋を出てくる。
そうして約一週間ぐらいは、床屋の親爺を恨《うら》み続けるのである。
そういうことが何回か続いたあと、ついにぼくは床屋との縁を切ったのである。
そうして、六、七年の歳月は流れた。
その間ずっと、ぼくは自分で鋏《はさみ》とカミソリをあやつり、なんとか形を整えてきた。
焼けぼっくいに火、というわけでもないが、最近になって、縁を切った床屋が懐かしくなってきたのである。
午後の陽ざしを浴びながら、ウツラウツラと、顔を剃ってもらいたくなってきたのである。
もし、この七年間、床屋に行ってたとしたら、その床屋代は膨大な金額になる。「膨大な」はちょっとオーバーかな。ま、いずれにしてもたいへんな金額になると思う。
ここはひとつ、超デラックスな床屋に繰り込んだとしてもバチは当るまい。
折りよく、「一万円床屋」というのが雑誌に出ていた。
赤坂のホテルの三階に、その「一万円床屋」のO理容室はあった。
このO理容室は、きのうきょうの開業ではなく、明治の昔からずっと続いてきた由緒《ゆいしよ》ある床屋なのである。
かつては、松方正義公爵、小村寿太郎外相、伊藤博文公なども、頭を刈りに来られたという由緒正しい床屋さんなのである。
現在の店主のおとうさんは、宮内|省《ヽ》侍従職嘱託御調髪係として陛下の御調髪をなさったという。むろん現在の店主も、かつては陛下の頭をいじったことがあるという。おそれおおい床屋さんなのである。
であるから、店主のOさんも「どうか、うちを床屋と呼んでくださるな。理容室、または理髪室と呼んでください」と念を押す。
そして「わたしはハイクラスのお客様しか考えられんのです」ともおっしゃる。
「ボボ、ボクは、ハイクラスのお客でしょうか?」と不安になって聞くと、Oさんはニッコリ笑って大きく頷《うなず》く。ごご、合格! ダイジャブ。
店の造りは、ごく普通の床屋と同じで、おっと違った理容室と同じで、椅子が五つばかり並んでいる。その奥に、特別室というのがあった。この特別室において、特別の理容がなされるわけである。
「特別室」の文字に威圧され、思わず威儀を正して恐る恐るドアを開けると、想像に反して、特別室は、ほんの二坪ばかりの部屋で、普通室と同じような椅子が一つあり、天井から恐ろしげなライトが幾つもぶらさがり、恐ろしげな器械類が所狭しと並んでいる。
病院の手術室のような感じである。
まず椅子に坐る。
正面に自分の顔が映る。
七年前の恥ずかしい記憶が甦《よみがえ》ってくる。
まず髪を洗う。
シャンプーらしい液体の詰まった小さなビンがたくさんあり、それを、取っては振りかけ、取っては振りかける。さながら、お料理の味つけのよう。
小ビンの一つ一つに解説がつき、これはドイツのなんとか、これはフランスのなんとかと説明しながら振りかける。ドイツやフランスが振りかかってくるのである。ありがたい。
洗い終ってお湯ですすぎ、またまた解説つきのいろんな液体を振りかけられる。やはり、ドイツやフランスやイギリスである。ありがたい。
つぎはヒゲ剃りである。普通の床屋と同じように、タオルで蒸してから剃るのである。
このタオルもやはり、フランス製ですか、と聞くと、これは日本製であるという。ありがたくない。
これらはみんな店主のO氏が自らやってくださるのである。
陛下の御《おん》髪をいじりあそばしたその手で、ハイクラスにやっと合格したぼくの頭をいじってくださるのである。かたじけなさに、身を震わしていると、高名な作家のM先生がお見えになりました、との報告がくる。
M先生は、むろん店主のO氏にやってもらいたいわけである。O氏はM先生にご挨拶して戻ってくる。M先生が来たばっかりに、ぼくのほうの顔剃りがなおざりになるのではないか、と、ぼくはひがむ。
顔剃りが済むと、今度はシャワーを浴びてください、という。
ぼくは、しかたなくシャワー室に入り、服を脱いで裸になる。床屋へ来て裸になるとは思いもよらなかった、となんだか情けなく、悲しい気持ちになって服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
壁一枚隔てた向こうでは、みんな、ちゃんと洋服を着て働いているというのに、ぼくだけ一人、裸にされて、キンタマぶらぶらさせていていいものなのか。不安になって、早々にシャワー室を出る。
備えつけのガウンを着て、シャワー室を出てくると、大勢の人が待ちかまえていて、ベッドの上に寝かされる。
白陶土という、うどん粉を練ったようなものを、体中に刷毛《はけ》で、ペタペタと塗りまくる。まるで天ぷらのコロモのようである。
そうしてから、今度は赤外線で焼くのだという。やはり、人間天ぷらである。
天ぷらにサングラスがかけられ、赤外線のランプがつけられる。
天ぷらは、じっとして赤外線を浴びる。
横のほうに置いてあった、W光線という器械からも光が発せられる。この器械は、ビビビ、バリバリバリ……と恐ろしい音をたてながら、赤や黄色や青い光線を絶えまなく発するのである。
上から、横から、ななめから、さまざまな怪光線が飛びかい、さながら鉄腕アトムの世界のようである。
天ぷらは、ただもう恐ろしくて、なんの因果で床屋に来て裸にされ、コロモをまぶされ、怪光線を浴びせられるのかと、泣きべそをかかんばかりでありました。
十五分後、怪光線は止められ、やれ嬉しやと起き上がろうとすると、むんずと押さえつけられ、今度は背中を焼きます、という。
うつ伏せになって、またしてもビビビ、バリバリの十五分。
ドアのすき間から、普通室のほうを眺める。こちらの大騒動にくらべ、普通室は静かである。シンとしている。
客も店員も、みんな押し黙っている。
昔の床屋は賑やかだった。
親爺が政談をやり、客同士が野球談義をやり、子供同士がケンカをして泣きわめき、犬が迷い込んできて吠《ほ》えたてたりした。
とにかく大騒ぎだった。
床屋と同じように、銭湯もやはり大騒ぎだった。浪曲が聞え、子供を叱咤《しつた》する母親の怒号が鳴り響き、威勢のいい挨拶が、湯桶《おけ》の音に混《ま》ざって、ワンワン聞えてきたものだった。
ところが最近は、床屋も銭湯も静かになってしまった。
かつての喧噪《けんそう》など、どこにもない。
床屋では、客も親爺も黙っている。
客は黙って、週刊誌かスポーツ紙を読んでいる。客同士の会話もない。子供同士もケンカをしない。
親爺は、なにかを考えているには違いないが、それを口には出さず、黙々とカミソリを動かす。
銭湯でも、やはりみんな押し黙って、黙々と片隅で、キンタマなんぞを洗っている。
男は黙ってキンタマ掃除。
とにかく床屋も銭湯も、静かになってしまったなァ、などと、とりとめもない感慨にふけっていると、ビビビ、バリバリが止み、パリパリに乾いた天ぷらのコロモを、今度ははがす作業にかかる。
このビビビ、バリバリは、なんのためにやるのかと聞くと、「体にとてもいい」という返事。なるほどこの答なら十分納得できる。
コロモを全部はがされて、またまたシャワー室に追いやられる。追いやられて、また一人寂しく、うら悲しくシャワーを浴びる。
再びガウンを身にまとい、ドアを開けて登場。またみんなが待ちかまえている。リングに登場するボクサーの心境である。
いよいよ、このお店自慢の美顔術が始まる。これはサクション美容法といい、コールドクリームをたっぷり塗り、パリ生まれの「吸引マッサージ機」でクリームと一緒に、お顔の汚れを吸いとってしまうのだという。いうなれば、電気掃除機をちょっと複雑にしたようなものなのである。
シュッパ、シュッパ、とお顔の汚れが吸いとられ、「こんなにお顔が汚れておりました」と、吸いとったコールドクリームを見せてくれた。なるほど白かったコールドクリームが、うす黒くなっている。オレの顔こんなに汚れていたのかと、恥ずかしさがいっそうつのる。
シュッパ、シュッパをやっている間に、一人の美女がつと寄りそい、わが手を握りしめる。ムムッ、これはつけ文かなんかを渡す気だナ、と思わずその手を握り返し、熱のこもった眼指《まなざ》しで彼女を見返すと、なんのことはない、彼女はマニキュアをするために、つと寄りそったのであった。アホクサ。
しかし、女の子を脇に侍《はべ》らせ、ひざまずかせ、爪を磨かせるというのは、いい気分のものですな。
シカゴ時代のギャング映画には、ギャングが床屋で爪を磨かせているシーンがよく出てくるが、連中は、やはりこの気分を味わいたかったのではなかろうか。
さて、シュッパ、シュッパが終ると、次は電気鎮静法による美顔術を行ないますという。
よくはわからぬが、弱い電気を体に通すのだという。
椅子に坐って左手を、電流の通った電気盤の上に置くと、さながら死刑囚のような心境になる。
そうしておいて、小さなローラーみたいなもので顔面の皮膚をこすると、たしかにピリピリと電流を感ずる。これは静電気によって、筋肉を甦らせ、神経を鎮め、皮膚表面の油脂分を完全に洗いとってしまうそうな。
さっきのシュッパといい、今回のピリピリといい、顔面の皮膚の汚れに対して、ここの美顔術は、徹底的に闘う姿勢を示しているのである。
顔面には、驚くなかれ、六十万個の毛穴があって、その毛穴の一つ一つは、目に見えない雑菌や、ホコリ、ゴミ、分泌脂肪などで埋まっている、とここのパンフレットには書かれている。
ここの親爺さんは、この六十万の毛穴の汚れ共に、果敢な戦いを挑んでいるのである。
あお向けになって、ウツラウツラといい気持ちで天井を見ている間に、わが顔面には、実にさまざまなことが施された。
液体が塗られ、乾かされ、ガラスの管が這《は》いずり廻り、霧が吹きつけられ、ローラーが廻り、電流が走り、光線が放射され、顔面という小さな面積に、よくもまアこんなにもさまざまのことがなされ得るものだと感心するばかりであった。
やっと解放されて起きあがったときは、ゴクローさん、と顔面の皮膚に労りの言葉をかけてやりたいぐらいだった。
起き上がって鏡を見ると、心なしか皮膚にツヤが出てきたような気がする。精気も増したように思える。小ジワも少なくなったような気がする。爪だってピカピカに光っている。六十万の毛穴も、みんな喜んでいるように思える。よかった、よかった。一万円かけただけのことはあったのだ。
一万円の内訳は
ヘアーカット 二千円
シャンプー 千円
顔剃り 千円
マニキュア 六百円
ドライヤー 六百円
ヘッドマッサージ 五百円
シャワーと全身理容 三千五百円
予約 五百円
考えてみれば、予約料だけで一回床屋へ行けるわけである。
いい気になって磨かせていた爪磨き代は、六百円である。
昼めし二回分である。
いつも女房に爪を切らせている人は、これからは、一回三百円ぐらいは請求されるかもしれない。
さてその夜、ぼくは一万円かけたツヤツヤの顔とピカピカの爪で、バーへ繰り込んだのである。
一万円もかけたのだから、モテない筈《はず》はない。一万円ぶんはモテる筈である。
そう思ったのだが、ホステス嬢は、テカテカのわが顔を気持ち悪そうに見、ピカピカの爪を見て驚愕《きようがく》の色を示し、後じさりしていって同僚とこちらを見ながらヒソヒソと内緒話をし、二度とぼくのそばには寄りつかなかったのである。
教訓――モテない奴は、どうやったってモテない。
七福神とバアサマたち
ぼくは、一度に、たくさんのことを考えられないのだ。たくさん、といっても、聖徳太子のようにたくさんではなく、一度に二つのことを考えられないのだ。
ぼくはいま、なにをいおうとしているのかというと、正月の過し方についていおうとしているのだ。正月をどう過すか、これは、ダレにとっても大きな問題だと思う。
ぼくにとっても大問題だった。
暮れは、ダレだって忙しい。
ぼくだって忙しい。
忙しいから、仕事のことしか考えられなかったのだ。ほんとうは、仕事のことを考えながら、楽しい正月の過し方について考えたかったのであるが、そこがホレ、生来二つのことを一度に考えられないタチの悲しさで、仕事が終ってからでないと、次なる段階のことを考えられなかったのだ。
仕事が終ったのが二十八日。
さて、ゆっくり、という気持ちになって、壮大な正月プランを一日がかりで作りあげたのであるが、時すでに遅し、どこもかしこも、超満員だったのだ。今ごろになって、切符だ、宿だと騒いでいるのは、アホちゃうか、という顔をされ、壮大な、一日がかりの正月プランはあえなく崩壊したのであります。
やはり、世の中には、仕事をしながら、正月のプランをも考えておられた方が、たくさんおられたのである。
一度に二つのことを考えられる人が、たくさんいたのである。
だが、ここでひるんではならない。
正月三日まではダメかもしれないが、四日ぐらいは、きっとなにかある、と足を棒にして、都内の旅行社駆けめぐれば、あったあった、三浦半島七福神めぐり。
七福神めぐり、とはいったいどういうことなのか、よくはわからぬが、とにかく貴重な存在である。これ! これ! これだ! というわけで早速申し込む。
七福神だろうが、八福神だろうが、なんだってかまわぬ。きっと福神漬の神様かも知れぬ。いやいや便秘の神様かも知れぬ。
四日の朝八時半、M新聞社前集合ということなので、ぼくの家は遠いので、家から出てくると、朝六時ごろ起きなければならないので三日に家を出て、都内の仕事場から出かけることにする。
三日は午後から雪がチラつき、夕方になると、街は白一色に染められる。
さて、仕事場に着いたものの、することとてなく、友人、二、三に電話を入れたけど、みんな留守。きっと、いいこと、オレに内緒でやっているのに違いない。くやしい。
冷蔵庫を開けると、イワシの丸干しが二匹あったので、そいつを焼いて、お酒、うんと熱カンにして飲む。ワビシイ。
翌朝、目覚し時計に起こされて、あたふたと集合場所に駆けつければ、群《む》れ集《つど》う人、これみなバアサンばかり。
春うららの三浦半島を、バスに揺られて七福神めぐり、というから、そりゃまァ大勢は無理だろうが、日本髪の下町娘の一人や二人、期待しないでもなかったのである。
下町娘が無理ならば、色街の姐《ねえ》さんたち、それも無理なら商店の若妻、たったの二、三人でいい、とつつましく、ひかえめな想像をしていたのである。
それなのに、入れ歯ガクガクさせたバアサンたちばかりとは、あまりにひどいじゃないか。
そのバアサンたちが、出発前のオシッコの問題で、トイレはどこだと大騒ぎをしているのである。「あたしゃ、特にオシッコが近いから、次のトイレまで何分ぐらいあるか」と、しつこく運転手に聞いているバアサンもいる。とにかくバスの周辺は、オシッコの問題で大騒ぎなのである。
人生に、諦《あきら》めることに慣れてるぼくは、事態の真相を素早く察知し、素早く諦め、バスの最後部にひっそりと席を占めたのであります。
総勢四十四名、バスの定員かっきりの盛況であります。バアさんばかりの盛況であります。四十四名の殆《ほとん》どがバアサンで、あとは、いくばくかの、そのバアサンのつれあい。
あと子供が一人。
バスは定刻九時、雪を踏んで出発する。
天井にスキー用具くくりつけた自家用が、何台も何台も、われわれのバスを追い抜いていく。たいてい女連れである。これからカノジョと、楽しい楽しい何日間かを過すのであろう。
それなのに、こちらは何の因果か、バアサンに囲まれて七福神めぐり。トクホンの匂いが、バスいっぱいに漂《ただよ》う。情けない。
こうなったら、ゆっくりと、ノンビリと三浦半島をめぐってこよう、といち早く、このバス旅行に対処すべき心構えを組立て、ポケットから、ウィスキーのポケット瓶《びん》取り出し、ウィスキーをグビリ。南京豆をポリリ。こういう気持ちになってしまえば、心穏やか、外はサンサンと陽の光。バスは、前へ前へとひた走り。軒《のき》に見えるはしめ飾り、遠くに見えるはやっこ凧《だこ》。バスは、なんの風情《ふぜい》もなく、やけくそみたいに走りに走る。
しかしバス旅行というのは、気楽でいいものですな。
ただ乗ってりゃいい。
時刻表の心配もなく、乗換えの気苦労もなく、ここで降りろ、といわれれば降り、乗れといわれれば乗り、右側にナントカが見えるから右を見ろ、といわれれば右を見、左を見ろ、といわれれば左を見、揺れるから気をつけろ、といわれれば気をつけ、十五分後に戻れ、といわれれば十五分後に戻り、ここでションベンしろといわれればションベンをし、気楽、という点からいったら、これ以上の気楽さは、他の旅行では味わえませんな。
ただ、バスガイドが、ただ今右手に見えた神社は、北条実時がどうかして、左手のは頼朝がなんとかで、氏家がなんとかで、尊氏がどうこうした、というたぐいの解説をするのが困るなァ。ぼくは、日本史の成績、著しく悪く、頼朝も実時も氏家も尊氏も、ただ単に、「昔の人」という観念しかなく、どんな解説をされても要するに、昔の人が建てたんだろ、という感慨しか湧かないのであります。
途中、通り過ぎた道ばたに、牧水の碑があったとかで、ガイド嬢は、「白鳥は、悲しからずや……」と歌う。ガイド嬢もヒマで困っているんだナ。
牧水は、なにを見ても「悲しい」といい、実篤は、なにを見ても「よきかな」といい、太宰は、なにを見ても「わびしい」という。これ、カンケイないかな。
都内を九時に出発して、十一時に、七福神めぐり最初の円福寺というところに着く。
バス通りでバスを降り、人家の間の細い路地を通り抜け、バアチャン連中ゾロゾロと、雪あがりのぬかるみを行く。ぼくも後に続く。ブロック塀に、ベニヤ板が貼りつけてあって、それにマジックで円福寺への方向が、矢印で描かれている。それを頼りに、右に左に曲がっていくと、あったあった。なんの変哲もない、そのへんにいくらでもあるお寺である。
円福寺は、高い階段の上にあり、この階段を登るについて、バアサン連中は、またひと騒ぎ。
ここはエビス様が祀《まつ》ってあるという。
エビス様というのは、小脇にタイを抱えており、その姿のとおり、漁業の神さまで、また農業のほうにもツヨイ神さまだという。
漁村と農村にツヨイというから、いってみれば自民党みたいな神さまなのだな。
祭壇には、お酒、大根、白菜などが並べられており、その中に、どういうわけか、カリフラワーなんぞも並んでいた。ま、野菜には違いないからいいのだろうけれど、エビス様も、西洋野菜の出現にはびっくりしたことと思う。
バアサマ連中は、息を切らし、大騒ぎをして階段を登ってくると、うやうやしく十円玉をポイと賽銭箱《さいせんばこ》に投げこみ、なにやらモゴモゴとお祈りをする。孫が高校に受かりますように、と祈っているのかもしれないし、嫁のグチをこぼしているのかもしれない。
ぼくもせっかく来たのだから、何か拝まなければと思い、とりあえず十円玉ポイと投げこみ、手を合わせたが、サテいったい何を頼みこんだらよいものか。
家内安全、無病息災、などという言葉が浮かんだが、ここの神さまは、漁業と農業と航海が受持ちである。家内安全、無病息災は、担当が違う。「うちは、そういう問題は、扱っていませんから、ほかへ廻ってください」などと、区役所みたいなことをいわれそうである。しかたなく、もう少し視野を拡げ、国家安全、五穀豊饒、物価安定などを、しかと頼みこんだのである。
しかしよく考えてみれば、国防、農政、物価などの大問題を、たったの十円で頼みこんでいいものだろうか。
すこし恥ずかしくなり「あの……できたら、でいいからネ、できたら、で……」といいそえて、急いで石段を駆け降りた。
旅行社の人はたいへんである。
バアさんというものは、何事によらず大騒ぎをするものなのである。若い娘たちの大騒ぎは、艶《つや》めいてよいものだが、バアサンたちの大騒ぎはどうにも度しがたいものである。
息が切れるの、喘息《ぜんそく》が起こったの、足袋《たび》が泥で汚れたの、そうかと思うと、オシッコだー、気持ち悪くなったー、乗物酔いだー、だれかが居なくなったー、などと、のべつまくなし、騒ぐのである。
方々に散らばったバアサンを、やっと掻き集めて、バスは再び出発。
次にめざすは毘沙門天《びしやもんてん》。
見渡す限り大根畑である。あの山も、あの丘も、この谷も全部大根である。
いちめんのだいこん
いちめんのだいこん
いちめんのだいこん
いくらなんでも、こんなにたくさんの大根、どうやったって食べきれないゾ。
大根のほうは、なんとか食べきれたとしても、葉っぱのほうは食べきれないゾ。どうする、どうする、と苦労性のぼくは、大根の行末を案じる。
案じているうちにバスが止まり、降りろというから降りる。毘沙門天である。
ここはバス通りからかなり離れていて、大根畑の中の畦道《あぜみち》を、五分ぐらい歩かなければならない。ちょっとしたハイキングである。
まだ昼前であるが、半島の太陽は暖かい。その太陽の下の、緑の大根畑の畦道を、バアサンたちがゾロゾロ行く。腰をからげてゾロゾロ行く。遠くに海が見える。
またしても石段。
たち騒ぐバアサマたち。
椿の花。あけび。春泥。
毘沙門天も、漁業の神さまである。
立札にも漁業以外の文字が見えないところをみると、漁業専門であるらしい。
それと、北方を守る武神、という文字も見える。北方しか守らないのである。
どうもこの神さまは、セクト主義の権化みたいな神さまであるらしい。
午前中に四カ所廻ってしまうということで、腰など叩いて大儀がってるバアサマをせき立て、次なる福禄寿に向かう。
車中、バアサマ連中は、ハラが減ってきたとみえて、ミカンを食べ、センベイをかじり、アメをしゃぶる。だが車中では意外におとなしく、あまりしゃべらない。
お寺に着くたびに、「ここは、なにに効くのかな?」といって立札をのぞきこむバアサンがいる。どうやら神さまを、薬や温泉なんかといっしょに考えているらしいのである。
そこでぼくも、「ここは、なにに効くのかな?」といって立札をのぞきこむと、幸福、長寿、財宝とある。バアサマは、この中の「長寿」が気に入ったらしく、大慌《おおあわ》てで賽銭箱に駆けより、十円玉をチャリンと放りこむ。幸福と長寿と財宝が、たった十円で買えるとは、これはどう考えても誇大広告ではないだろうか。公取委は、いったい何をしているのだ。
三カ所廻って早くも疲れたのか、次の光念寺(弁天)に着いても、バスを降りないバアサマもいる。「あたしゃ、もうあとは、効きめのツオーイとこを一カ所だけ拝むことにするよ」といって席を立たないのである。
効きめのツオーイ神さまと、ヨワーイ神さまとを、どうやって見分けるのか知らないが、バアサマにはバアサマなりの心づもりがすでにあるらしく、至極おちついて、降りていく人たちを眺めている。
この光念寺は、幼稚園も経営していて、社《やしろ》も立派。裏門も直したばかりで、どうやら経営は順調にいってるらしい。
社のすぐ横には、住職一家のらしい腰巻きやら、おしめやらの洗濯物が、ヘンポンと翻《ひるがえ》っている。ありがたい。
弁天さまは、なにに効くのかというと、大漁、財宝、容色、弁智、芸能、と、たいへん盛りだくさんなのである。
この前の毘沙門天を、漁業専門の専門医とすれば、弁天さまは、さしずめ総合病院ということになるのだろうか。
弁天さまは、女の神さまだということなので、担当は違うかもしれないが、ぼくは、女運を、うやうやしく頼みこんだのである。
「四カ所廻ったので、いよいよお昼です」の報告があり、車内にどよめくバアサンたちの嬌声《きようせい》。その中に立ちまじって、かすかではあるがジイサンたちの喊声《かんせい》。
車は老いたる嬌声と喊声に包まれて城ヶ島《じようがしま》に到着。
ドライブインに上がり込んで刺身定食に舌鼓《したつづみ》を打つ。ジイサンもバアサンも、ガイドさんも、運転手さんも、和《なご》やかな嬉しそうな顔。
海は静かに波を打っていて、遠くには、富士山が、くっきりと浮かんでいる。
いいお正月。
みんな、土産《みやげ》物店で、三々五々ハマグリや、アジの干物などをどっさり買いこむ。
のんびりしたものです。
食事をして、お腹がいっぱいになってしまうと、あと三つ残った大黒、布袋《ほてい》、寿老人には申しわけないが、あとはもうどうでもいいやという気持ちになる。
旅行社の人が、降りろというから、降りていって拝みはするが、どうも熱が入らない。
拝み疲れ、というのだろうか。
だいいち、こう大勢の人が、いっぺんに、拝んだのでは、神さまのほうだって、一人一人、○○区○町のダレソレさんと、エートそれから○○市○○町のダレソレさん、といったぐあいに、ちゃんと記憶にとどめてくれてるものなのだろうか。
しかも、○○区○○町のダレソレさんは、家内安全と、無病息災とエートもひとつなんか頼まれたはずだが……というぐあいに、陳情の内容だって曖昧《あいまい》になってしまうのではないだろうか。などという危惧《きぐ》も生まれてきて熱の入らぬことはなはだしい。
さっきのバアサマではないが、効き目のいちばーんツオーイやつに的をしぼって、それだけ拝もうか、などと考えたりする。
いちばん最後は大黒天。
このへんになると、もうほんとの拝み疲れで、手を合わせて頭を下げるだけ。
ひょいと神社の隣の農家を見ると、庭先に大根がうず高く積んである。
目はしの利くのが一人いて、譲ってもらう相談をもちかけると一本五十円でいいという。このころ、都《みやこ》では、大根一本二百円という高値であったから、みんな我れがちに買いこむ。またしてもあがるバアサンたちの嬌声。
一人で十本も買った人もいて、ヨロヨロと肩にかつぎ、バスへの道のりをみんな黙々と歩く。バスの運転手さんも五本買った。
七福神めぐりの最後は、こうして大根騒動となって幕を閉じたのでした。
物価問題、神さま頼むに足らず、というところなのでしょうか。
わが不信の思想
夫婦・このワイセツなるもの
先般、アメリカで、なんだかよくわからないが、女性のデモが行なわれた。
なんだかよくわからないが、男女平等が大きなテーマになっていたらしい。
男女平等、自由の女神、地球の上に朝が来るゥ、と、これまたわけがわからないが、男女平等という言葉は、終戦直後よく聞いたような気がする。
自由平等、博愛、民主主義、新日本建設などという習字を、よく書かされたような記憶がある。
それから二十年たって、日本では、男女平等を、男性側から訴えねばならないほど、男性の地位が下落しているというのに、御本家アメリカのほうは、いったいどういうことになっているのだろうか。
アメリカの、でっかいオバサンたちが、いかつい肩をいからせて、プラカードかかげて行進しているお姿を、お写真で拝見したけれど、ぼくなどは、恐ろしくて身がちぢむ思いがするばかりである。
さて、男女平等の輸入国である日本では、花札トバクをする自分の女房を、やめさせることもできず、おカミにお願いして捕えてもらったという男が出てくるほど、男性の地位は下落しているのである。
どうしてこんなことになってしまったかというと、これはもう何回もいわれていることであるが、赤線がなくなったせいなのである。
赤線がなくなったために、男性は女性に対して、常に、やらせていただく立場にあり、女性はやらせてやる立場になってしまったのである。
男性の、最も根元的な生殺与奪の権を、女性が握ってしまったのである。
もっとも、男性のあの部分は、握られやすいようにできているのでしかたのないことなのかもしれない。従って、勝敗は、目に見えているのである。
だから、女性週刊誌などに―秋季結婚特集―一夜で婚約をかちとったわたし、などという手記が、誇らしげに掲載されたりするのである。
たった一夜で婚約をかちとられてしまっては、男たるもの、たまったものではない。
「一夜の過《あやま》ち」というのは、かつては女性側が使う言葉であったのに、現在では、男性側が使う言葉になってしまったのである。
それにしても、婚約というものは「かちとる」ものなのかどうか、そのへんのところを女性側は、もう一度考えてみる必要があるのではないか。
またテレビには、亭主の精力が弱いという訴えをもった主婦が、朝早くから画面にまかり出てくる。
司会者の質問に「エエ、すごく小さいんです」などと平気で答えている。
「小さい、ということは、他の男性のも見たわけですネ?」と司会者が聞くと、「エエ六人ばかり」と、やはり平然と答える。六本見たわけである。
六本見た上での比較であるから、やはり小さいのであろう。
「そいで、すぐ出ちゃうんです」などと、なんの恥じらいもなく、さらに訴えるのである。
これでは、小さくてすぐ出ちゃう亭主は、ますます小さくなり、ますますすぐ出ちゃうようになるばかりではないか。
かつては、お互いの無知により、小さくてすぐ出ちゃうなら出ちゃうなりに、そういうものなのだと思って、それなりに幸福であったのだが、現在は、そうもいかなくなってきているのである。
なにしろ、テキは知識も豊富だし、資料だって揃えている。
すぐ比較されてしまうのである。
せんだって、婦人雑誌を読んでいたら、他の悩み特集の中で、行為の最中に、夫が無言であるのがつまらない、という記事が載っていた。ただ、モクモクと営《いとな》みを営むのではつまらないというのである。
そしてその主婦は、その旨《むね》を亭主に告げると、亭主は「では、なにをいえばいいのだ!」といったというのである。
この亭主は、きっと五十歳位で、戦争にも行き、ただもうやみくもに非常時を生きぬいてきて、セックスどころではなく、やっと落ちついた生活がやってきて、ホッと一息入れ、夫婦の営みをモクモクと楽しんでいたところ、突如、モクモクはいけないといわれ、びっくりして「では、なにをいえばいいのだ!」という質問になったのだと、ぼくは推察する。
だいたい夫婦というのは、ワイセツであるとぼくは常日頃思っているのである。
夫婦がワイセツであるというのは、あたりまえといえばあたりまえのことなのかもしれない。
世の中の、夫婦という夫婦は、夜、十一時も過ぎるころになると、急にナマグサイ顔つきになり、ナマグサイことを始めるのである。
そうして翌朝、急にソラゾラしい顔つきになり、なにもしなかったような、シサイあり気な顔つきになって平然としているのである。
あれがぼくには、未だに納得がいかないのである。
やったらやったなりの表情というものがあると思うのだ。
やはり、ある種の後ろめたさとか、恥じらいとか、あるいは楽しさの名残りとか、とにかくああいうことをやったあとの尻尾《しつぽ》があるはずだと思う。
それをシラジラしく、なにもしなかったような顔をして、平然と町へ出ていく。電車に乗る。みんなシラジラしい顔で、つり皮なんぞにつかまっているのである。
朝の満員電車の中を見渡してみるがいい。ゆうべはやってしまいましたという顔つきをしている人は、一人もいないのである。
やったならやったと、なぜ正直に顔に出さないのだ。ヤイ!
つまり夫婦は、夜になればみんなやるのである。やってはいるけれど、昼まは、みんなやってないような顔をしているのである。
しかし、これがひとたびひとつがいの夫婦となって人前に出ると、どんなにやってないような顔をしてもダメである。
ああこの人は、このカミさんとやっていたのか、と人々はすぐ、この二人の房事を想像してしまうのである。
たとえば、会社の海の家などで、上役のカミさんに初めて会ったとすると、部下は、部長のカミさんはこれだったのか、部長はこれとやっていたのか、ナーンダ、と思ってしまうのである。なぜ、ナーンダ、なのかはよくわからないが、とにかくナーンダになって、部長サンの威厳は色あせたものとなってしまうのである。
要するに、夫婦は、元来もともと、ワイセツなのである。ワイセツであるから、二人揃って人前になど、決してまかり出てはいけないのである。
いわんや夫婦のワイセツ行為によって出来た子供に至っては、もっともっとワイセツなのである。
だから男は、妻や子を、人目に触れぬように常に気を配り、隠蔽《いんぺい》しておく努力を続けなければいけないのである。
一家揃って撮った記念写真などは、これはもう、たいへんなワイセツ写真なのであるから、これらは、油紙に包み、ツボに入れ、土中深く埋めて保管しなければならない筈《はず》のものなのである。
そうして年に一度、土中より掘り出し、部屋を暗くして己が一族のワイセツの歴史を、深い恥じらいと反省をこめてうち眺める、とこういうふうでなければいけない筈のものなのである。
それなのに、客が来ると、いそいそとアルバムを取り出し、一家揃ったワイセツ写真を人に見せびらかすのは、いったいどういう神経なのであろうか。
やはりどんな人間にも、露出狂的な面があるからなのだろうか。
もひとつ、女性について、ぼくが不思議でならないのは、女性の肉体構造においては、人間誕生の花道(つまり産道)とセックスの器官が同じだということである。
ぼくとしては、産道とセックス器官(つまりヴァギナ)は、できることなら別々に造ってもらいたかったところなのである。
神様としては、この二つを合併して造ったことにより、少しは予算が浮いたかもしれないが、人間にとっては、これは非常に困ることなのである。
なぜ別にしてもらいたかったかというと、女性のあの器官は、まず最初、セックス器官として出発する。
むろん男女とも、そこをセックス器官として認識し、そのように取扱っていくわけである。
ところがある日、女性のお腹はふくれだし、十月十日が経つと、所もあろうに、そのセックス器官を通って人間が誕生してくるのである。
かつてのセックス器官が、神聖この上ない人間誕生の器官として使われるのである。汚れのない美しい魂が、そこを通過してくるのである。
かつての、ミダラなセックス器官は、もはや、崇高な、気高く神々《こうごう》しい場所へと変貌してしまうのである。
なにしろ美しい魂が、そこを通過してきたのだ。崇高な、人間誕生の花道として使用されたのである。
もはやそこは、二度と、あのミダラな、ワイセツなセックスの器官として使用することは、許されぬ筈なのである。
天皇が行幸《ぎようこう》あそばした旅館の部屋は、二度と使用されずに、そのままとっておくというではないか。
それなのに、多くの場合は、まだ使えるからという、ただそれだけの理由で、不浄のものをそこへ再突入させてしまうのである。こんなことが、はたして許されてよいものだろうか。これほど人間を冒涜《ぼうとく》する行為が、他にあるだろうか。
このことに気づいた人は、今夜からただちに、あのおそれ多い行為を、やめようではないか。
したがって、そこから美しい魂を通過させた母親は、以後、そうしたミダラな行為は、いっさい断ちきって、気高く美しく生きていかなければならないのである。
つまり女性は、出産まではセックスを楽しむことができるが、ひとたび出産を経験したら、もはやセックスをしてはいけない筈なのである。
だから、出産まぎわまでセックスを楽しむのは、やむをえないことなのかもしれない。
婦人雑誌が「九カ月めまでは、だいじょうぶです」などと奨励しているのは、そのためかもしれない。
女性は、出産以後は、そういったたぐいの欲望に、じっと堪《た》えて生きていかなければならないのである。
だから流行歌でも、いってるではないか。
愛するって堪えることなの、と。
プロ野球・八つ当り
ぼくは先日、生まれて初めて、野球の硬式ボールなるものにさわる機会を得た。想像していたよりずっと硬く、しかもたいへんな重さである。ずっしり、という感じである。
そのとき、どういうわけか、野球というのは、陰惨なスポーツだなァと思った。
こんな、硬くて重いものを、人間に向かって投げつけるなんて、ちゃんとヒゲを剃《そ》った紳士のやることじゃない。
もしこんなものが、ぼくの体に当ったら、ぼくはキリキリ舞いして悶絶《もんぜつ》するだろうと思う。
だが、彼らはそうでもないらしい。
ピッチャーというのは、たいてい胸板厚き大男である。その大男が、全力投球とやらで、歯をむき出して投げるのである。そいつが、うなりを生じて、人様に向かって飛んでくるのである。これが、たまにバッターにぶつかることがある。デッドボールという。文字通りデッドボールである。でも彼らは悶絶などしない。
ピッチャーも、ぶつけておいて案外平気な顔をしている。「ヤァ、すまん」なんていって、空を見上げたりしている。
ぶつけるほうも、ぶつけられるほうも、普通の人間と、体のデキが違うとしか考えられない。プロレスと同じで、体のデキが違う人がやるスポーツであって、素人がやってはならぬスポーツであると思う。
彼らといえども、それでもたまに「腓骨《ひこつ》陥没」などという重傷を負うことがある。当然のことである。
硬式ボールは、凶器といってもいいくらいのものなのだ。馬の皮で作ってあるというのも嫌な話だ。
そういえば、野球を考えた人は、馬や牛に恨《うら》みがある人に違いない。グローブもスパイクも牛馬の皮で作ってある。ピッチャーが、肩をこわした場合は、生の馬肉で冷やすといいという。
さて「腓骨陥没」に話は戻る。
だいたい「陥没」などという言葉は、大雨などで、道路に穴があいて、その部分が落ちこむ場合などに使う言葉である。
あんなすごいことが、人間の体にも起こってしまうのである。恐ろしいことではないか。間違いだからといって、許されるものではないと思う。
すぐさま試合は中止、観客は立ち上がって、一分間の黙祷《もくとう》をささげるべきなのである。
陥没させたピッチャーは、その場で頭を剃るべきなのだ。そのために、常時、床屋をベンチに待機させておくべき筈《はず》のものなのだ。
そのぐらい重大なことなのである。
それを、「ヤァ、すまん」なんていって空を見上げたりしている。野蛮《やばん》である。
サインというのも野蛮である。
だいいち股のところからサインを出す、というのが卑猥《ひわい》である。
ピッチャーもまた、そこのところをのぞきこんだりして、大の男が、大衆の面前で、コソコソと股座《またぐら》ののぞきっこなんかしているのである。見ているほうが赤面してしまう。
もっと他の方法が、考えられないものか。
キャッチャーの装備なんかもスゴイもんだ。あれはもう、防具などという道具ではなくて、装置といってもいいぐらいのものだと思う。
あんなものをかぶせられ、まきつけられ、ガニマタにされて、よくもまあ、怒りもせず、今日まで耐え忍んできたものだと思う。
非人間的、といってもいいと思う。あれを見ると、とても人間とは思えないのである。
鉄の棒のすき間から、ギョロリと目玉が光ってるのなんかは、まるで動物園の感じである。
盗塁というのがある。
ピッチャーや、キャッチャーの隙《すき》をうかがって、次の塁に到達することをいう。英語では、なんというのか知らないが、とにかく、「塁を盗む」というのであるから、よくないことは明白である。
相手の油断に乗じて行動するなどということは、サムライの国の人間のやることじゃない。どうせやるなら、もっと堂々とやればいいのだ。
すなわち、盗塁するときは、大音声《だいおんじよう》で宣言するのである。そののち、捕手の投球力と、自分の脚力との勝負をすべきなのである。
昔の仇討《あだう》ちだって、ちゃんと名乗ってからやった。西部劇だって、相手に気づかせてから撃つのである。それが男の勝負というものなのだ。
それを、隙をうかがって塁を盗んでおいて、天晴《あつぱ》れ盗塁成功だなんてひどいじゃないか。
ぼくは、だんだん逆上してきた。
まだあるゾ。
プロ野球の選手は、自分のことを「ワシ」などと自称する。
それも、野球選手の全部が、「ワシ」というわけではない。球界の、ある種のエリートにのみ許されている言葉らしいのである。
だいたい、「ワシ」などという言葉は、昔の漫画の「ダンゴ串助《くしすけ》漫遊記」かなんかの眉毛の太い豪傑がいう言葉なのである。
今じゃ、農協のオトッツァンだって、ワシなんていわないのである。
それを、まだニキビの跡も消えないオニイサンが、「ワシはねェ……」なんて、ひどいじゃないか。
それから、審判の権威の問題がある。
プロ野球の選手は、審判をバカにする。なぜか?
これは決して、給料の差の問題なんかではないのである。
服装がよくないのだ。あれではまるで、清掃作業員みたいではないか。
審判というのは、まがりなりにも、人を裁く職業である。人間が人間を裁くなんて、実際たいへんなことなのだ。それは人間が、いちばんよく知っている。
だから裁く人には、常に権威が必要なのである。権威は常に、一種の舞台装置を必要とする。裁判所や教会や、国会議事堂などを見ればよくわかる。
そうして権威の舞台装置は、常に、物理的な|高さ《ヽヽ》を必要とするのである。なぜかは、わからないが、偉い人というものは、たいてい高い所に位置しているものなのである。
だが、球場には舞台装置がない。
選手も審判も、同じ平面で動きまわっている。これがいけないのだ。
だから、トラブルが起こったら、審判は、常にトラブル台というのを用意していて、それに駆けあがってしまえばいいのである。そして選手を見下ろしてしまうのだ。
見下ろしてしまえばしめたものだ。見下ろされた人間は、なんとなく卑屈になり、命令に従うようになるものなのである。
もちろん、このトラブル台は、金銀のメッキで、ピカピカ光っているやつがよい。服装も、やたらとピカピカしていて、勲章や、ワッペンなどを、沢山《たくさん》つけておくとよい。
こうすれば、審判の権威問題など、たちどころに解消するのである。
プロ野球は、一種のショーである。
ショーであるから、選手は皆、ショーマンシップを持たなくてはいけない。つまりサービス精神ということである。つまり観客に対する愛情ということである。
これが、みな、一様に欠けているのである。それは、ホームランを打った選手にもいえる。
ホームランは、ドラマでいえば、クライマックスと、そして暫《しば》しの小休止でもある。
打った選手にとっては、舞台の花道でもあるのだ。ここはひとつ、観客に向かって、帽子をつかんで振りまわし、とび上がったり、小躍りしたりして、ダイヤモンド一周をしてもらいたいところである。
それなのに、みんな実に能がない。ひどい、といってもいいくらいだ。
どの選手も、ヘンに大人ぶって、シサイあり気な顔つきで黙々と一周するのである。
シサイなんか、ある筈ないではないか。
ノソノソと一周するくらいなら、いくらでも他の方法があると思う。
ホームベース上で、バンザイ三唱、というテだってある。観客も、これに唱和すれば、雰囲気《ふんいき》はいっそう盛りあがるのではないか。
野球の解説者は、だいたい次の六通りに大別される。唱歌型、予想型、嘆き型、事情通型、野球教室型、実績型などである。
唱歌型というのは、初期のころはやった例のやつである。
「いまのプレーは、さすがプロ野球! といってもいいんじゃないかと思うんですが、しかしプロだからこそ、こんなプレーはあたり前、ともいえるんじゃないかと思うんです。結局あたしゃ、なにもいってないと同じなんですが、いちがいにそうともいえないところがプロ野球なんじゃないかと……」
などと、幼児のつぶやきみたいなことをしゃべる。これは、内容はどうでもいいわけで、アナウンサーの伴奏みたいなものなのだから、なんだかわけはわからないが、かたわらでブツブツしゃべっていれば、いいんじゃないかと思われる。
予想型というのは、もと小モノだったのに多い。解説そっちのけで、やたらに予想をするのである。「ここで代打は、きっと○○ですよ。きっと○○です。そうら○○が出てきました。あたしはきっと○○だと思ってたんです。ここは○○でなくてはならんのです。なんかあたしは○○だという気がしてたんです」
などと、予想が当るとたいへんうるさい。ひとりで興奮している。試合後の感想にも、まだ未練げに連呼したりしている。
そのかわり、当らないとなにもいわない。別にしょんぼりしているわけではなく、もう次の予想を考えているのである。
嘆き型、というのは、ジイサンに多い。いわば隠居の小言《こごと》である。火鉢《ひばち》をかたわらに引きつけて、キセルでスパスパやりながらしゃべっている感じである。
「だいたい近頃の若いもんは、ちっとも走らん。わたしら若い頃は、ポン」
ポンというのは、キセルで火鉢をたたいた音である。
「なんですあれは。精神がなってない。根性がないんです。だから日本のプロ野球は、いつまでたっても進歩しないんです。だから日本は、戦争に負けたんです」
などと、ヘンなことになってくるのである。
野球教室型、というのは、
「ホップする球というのは、ボールに対する空気の抵抗が、ボールの上部を圧迫して……」
などと、子供の科学雑誌みたいなことをしゃべるやつである。
これをゲームと関係なく、ダラダラとやるのである。ゲームが忙しくなってくると、
「それじゃ次の機会に、落ちる球についてお話しましょう」
といってやっとやめる。この間中、ずっと不愉快そうな顔をして待機しているわけである。ゲームがヒマになると、嬉しそうに、
「では、さっきの続きの、落ちる球ですが」
と始める。
この場合、彼にとっては、ゲームはかえって邪魔なのだから、おかしな話である。
事情通型というのは、別名無能型ともいう。
「○○君は、いつもベンチで、牛乳を三本飲むのですが、今日はどういうわけか、ヨーグルトを食べてました。これにはきっと、深いわけがあると、わたしはにらんでるんです」
などというクダラナイ裏話を、真顔《まがお》でしゃべるのである。
実績型というのは、過去に実績があった人のことである。これがいちばんおもしろい。
「ホームランを一試合に2本も打つと、急に球場が小さく見えてくるもんです」
などといわれると、なにもわからぬわれわれは、ホー、そういうものか、と感心する。
「試合途中で、お客さんにゾロゾロ帰られるとイヤなもんですね」
などというつまらぬ話でも、ホー、やはり! などと、やはり感心するのである。ただ、このたぐいの人たちは、やたらにお説教めいたことをいうのが困る。「人間は……」などと途方もないことをいい出すので困る。
解説者に、総じていえることは、やたらに、これではいかん、あれではいかん、なっとらん、という言葉が多いことである。
もっと楽しい解説の仕方もあると思う。
解説者が、試合中に、大声で笑っているのを見たことがないのはどういうわけだろう。
わが不信の思想
ぼくは昔から、機械に関しては絶対の不信感を持っている。機械はこわれるもの、狂うもの、爆発するものであるという堅い信念があるからである。
では、先頃のアポロ十一号の成功に対しては、何と答えるかといわれるかも知れないが、答は簡単である。あれは、たまたまこわれず、たまたま狂わず、たまたま爆発しなかったというだけのことに過ぎないのである。
いずれ、そのうちこわれ、狂い、爆発するのはまちがいないのである。だからぼくは自動車に対しても、ぜんぜん信頼なんかしてはいない。
さきごろ、欠陥車などという問題が発生したが、ぼくはずっと以前から、このようなことがあることを察知していたということになる。
愛車≠ニいう言葉がある。いとしのわがクルマよ、という意味である。たいていの人は、クルマを買うと、それを愛車≠ニ呼び、なでたり、さすったり、羽毛でくすぐったりして目を細めている。
愛車などといっても、もとはといえば鉄と油で出来ている恐るべき機械なのだ。いずれまちがいなく狂い、爆発するのである。冬の寒いさなか、水びたしになりながらきれいに磨きあげた愛《いと》しのわがクルマに反逆されるのである。それを「かわいくってねェ」などといって目を細めているのだ。あさましい姿といわねばならない。
主従関係というものは、心服と慈愛で結ばれているのが常であるが、われわれに関しては、そんなものは露ほどもない。
むしろ、不信と疑惑と猜疑《さいぎ》の関係で結ばれているのである。いたわりの心などさらさら持ってはいない。
だからぼくはクルマに乗っていても、すこしの油断もなく、どんな時も不信のマナコを光らせて、運転台にすわっているのである。
むろん、信頼していないから無茶な運転はしない。自慢じゃないが、時速九十キロ以上は出したことがないのである。
高速道路などでも、平均速度八十キロをかならず堅持している。この点ではりっぱな模範ドライバーと言える。
従って走行中いつでも、他のクルマが、ぼくのクルマを遠慮会釈もなくビュンビュン追いこしていく。だが追いこされるとき、やはり胸中穏やかならざるものがあることは確かだ。
あんなにスピードを出せるのは、あれは機械という魔物を信頼しきっている馬鹿がすることである、と自らをなぐさめてみても、やはりテキがアベックであった場合などはなおさら、胸中の波風が大きく吹き荒れる。
バックミラーをのぞくと、憎むべきアベックの車が迫ってくるのが見える。やがて、ヤツのクルマは、ぼくをサッと追い抜くであろう。追い抜く瞬間、ヤツとオンナは、ぼくに一瞥《いちべつ》をくれるだろう。ノロノロ走ってやがってという侮蔑の一瞥をくれるであろう。
機械に関する、わが高邁《こうまい》な思想など、オンナは知るべくもないから、「きっと運転がヘタクソなのね、きっとあの人バカなのね」といって、同乗のヤローを頼もしげに見上げたりするであろう。そう思うとやはりわが胸中は穏やかならざるものがある。
機械に関する高邁な思想からでたのがこのノロノロ運転であることを、オンナはどうしても見破ることができないのである。あさはかというべきであろう。
こういう場合に、ぼくのとる態度は決まっている。テキのクルマが近づいてくる。そうするとぼくは、まずゆったりと半身《はんみ》に構え、さり気なく口笛を吹き始めるのである。そして次に、あたりをゆったりと眺めまわす。
つまりぼくは、この高速道路において、スピードを楽しんでいるのではない、景色を楽しんでいるのである、という態度をとるのである。景色を楽しんでいるがゆえに、スピードのほうはおろそかになっているが、これは決して運転技術|云々《うんぬん》の問題ではないのである、という態度をしめすのである。
だが実際には、時速一〇〇キロの相手は、そこまで周到なわが演技を観賞するヒマはなく「きっとバカなのね」の一言を残して、アッという間に遠ざかっていく。
であるから、これからは、機械に関するわが不信の思想を、ルル書きつらねたノボリを作り、これを車の屋根に押し立てて走ろうということを、目下真剣に考えているのである。
助けてください
なにをやって食べていくにしても、食べていくということは、たいへんなことである。
食べ物の話ではなく、生活の話である。
生きていくということを、食べていくという、根元的な表現に置きかえた人は、エライ人だと思う。しかも男は、自分だけ食べていけばいいというわけではなく、女房子供も食べさせていかなければならない。
さらには、女房子供が飼っている犬猫をも食べさせていかなければならない。時には金魚なんかも食べさせていかなければならないし、もひとつさらには、犬猫にたかっているノミなんかも食べさせていかなければならないわけである。昔は「女の細腕で」という表現があったが、最近は、男だって細腕である。
男の細腕ひとつで、これだけの大集団を、食べさせ、雨露しのがせていくということは、たいへんなことである。やりきれない。思わずタメ息が出る。よくもまァ、みんな平気なカオをしていられると思う。
さて話は急に漫画の話になる。漫画のアイデアといわれているものは、連想によってつくられるのである。
小さな発端(モチーフ)から連想を拡げていって、そのどこかで、発端と論理的に、あるいは飛躍的に結びつくものを探し出す作業が、いわゆるアイデアづくりといわれるものなのである。
漫画家は、この作業を三百六十五日くり返している。くり返せば連想能力も発達する。その結果、この作業行程は次第になめらかになり迅速《じんそく》になる。
つまり、どんな小さな発端からも、たちまち連想が雲のごとくわきあがり、拡がり、結論へと急ぐようになってくるのである。そして発端から結論への時間も、訓練によってどんどん短縮されていく。
さて話は、また急に食べていくお話に戻る。
ある朝、漫画家は鏡に向かってヒゲを剃っている。カミソリの刃が、ちょっと皮膚を傷つける。出血。一瞬、日頃鍛えた連想力が、ここにおいても発揮されてしまうのである。傷∞出血∞破傷風菌∞入院∞収入の杜絶《とぜつ》≠ニ連想は迅速かつ、なめらかに拡がっていく、その次に来るものは貧窮≠ナある。貧窮∞借金∞親子三人路頭に迷う∞一家離散∞行き倒れ≠ニ続く。借金≠ニ、親子三人路頭に迷う≠フ間に生活保護≠入れてもいいナなどと考えながら連想はさらに先へ進む。
まずいことに、漫画家は空想力もかなり発達している。だから、これらの段階の一つ一つについても、その豊かな空想力が遺憾《いかん》なく発揮される。たとえば親子三人路頭に迷う≠フところでは、アカにまみれたオヤコサンニンが、路頭にうろつく光景アリアリと目に浮かぶのである。折しも降りしきる師走《しわす》の雪。背中で泣き叫ぶ幼児……。
さて、夫に行き倒れられた女房は、ここで一念発起して子供を捨て、夜の蝶になり果てる。
凍《い》てついた冬の夜、棄てられた幼児は、空《から》の哺乳ビンしっかり握りしめて、破れ障子の中で息たえる。そのそばには歯形のついたカボチャが一つ……。
ここで漫画家の空想は終る。
つまり、カミソリ傷一筋の発端から破れ障子に歯形つきカボチャにまで、連想はとめどなく発展してしまうのである。
そして、この連想作業も、数を重ねるごとに鍛えられ、磨きがかけられ、鋭さを増していく。ちょっとした頭痛が起こると、これはたちまち、脳溢血∞ヨイヨイ∞貧窮∞一家離散≠ニ発展し、親子三人路頭に迷う∞女房夜の蝶∞歯形つきカボチャ≠ニいう結末に到達してしまうのである。
目がちょっと充血すると、これもたちまち盲目∞貧窮∞一家離散∞女房夜の蝶∞歯形つきカボチャ≠ニなってしまう。
発端は色々だが、結末はだいたい一定しているのである。
最近では、この発端から結末に至るまでの時間が恐ろしく短縮されてきた。
コホンと空咳《からせき》ひとつすると、すぐ歯形つきカボチャ≠ニいうぐあいに中間がなくなってきたのである。悲惨なものである。これではどうにも息がつまりそうだ。息がつまると、やはりすぐ心筋|梗塞《こうそく》∞カボチャ≠ニなってしまう。
これではどうにもたまらない。だれか助けてください。
退 屈 な 日
つい、五年ぐらい前までは、だれにでも、退屈な日というものがあったと思う。
なんにもすることがなくて、終日、ぼんやりと、ウロウロと過してしまう、そういう日があったと思う。
灰皿とタバコを持ち出して、縁側に出る。腹|這《ば》いになって煙草を一服吸う。なにかすることがあるような気もするが、さて、むっくりと起きあがってみると、なにもすることがない。
こういうとき、落語などでは、猫のヒゲを抜いたりするのであるが、その猫のヒゲは、おととい全部抜いてしまった。
では、自分のヒゲを抜けばよいではないか、と人はいうかもしれないが、それは、さきおととい抜いてしまった。
やむをえず、また煙草を一本。
ずるずると縁側をずり下がり、首を曲げて縁の下をのぞき込む。別に縁の下に用事があるわけではないが、とにかくいろいろとやってみるわけである。(そういえば、縁の下というものにも、最近とんとお目にかからなくなった)
縁の下にはクモの巣が張っている。梯子《はしご》なんかが突っ込んである。ずっと奥のほうには、ずっと前に、なくしたと思っていたゴムマリなんかがひっそりと埃《ほこり》をかぶっている。
そのまたずっと奥のほうには、野良猫の目が、キラッと光っていたりする。
子供の頃、上の歯が抜けると、ここへ放り投げたっけ、なんて考える。
というぐあいに縁の下を眺め終る。縁の下というものは、そう変化に富む場所ではないから、眺め終るのに、十分とはかからない。
また煙草を一服。
ノソノソと部屋に戻り、机の引出しをあける。爪切りがある。手と足の爪を、きれいに切り、ゴシゴシとヤスリできれいに研《と》ぎあげ、また一服。
もうひとつの引出しをあける。耳かきがある。目を細めて耳を掘る。耳あかをゆっくり眺め、また掘りにかかる。
耳の内部というものも、そう広々とした容積があるわけではないから、この作業も、五分ぐらいで終る。
もはや、なにもすることがない。
そんなときである。
遠くのほうから、屑《くず》屋さんの呼び声が聞えてくるのは。
およそ、それを職業とする人の、職務上の発声とは到底思えない、もの憂げな、投げやりな呼び声が、はるかかなたから聞えてくるのである。
最初はぼんやりとその声を聞き、ややあって「来た!」と心ときめくのである。たしか新聞紙が、押入れにたまっていたはずだ。雑誌もすこし整理して売ろう。
つまり、することが生まれた喜びなのである。
それにしても、昔から、張りきった、元気はつらつとした屑屋さんの呼び声を、聞いたことがないのはどういうわけだろう。
下駄をつっかけて、竹垣から外を見ると、
「ア、来た来た」
炎天の下を、麦わら帽子をかぶったおじさんが、リヤカーを引いて、自分の影を踏みしめ踏みしめ、ゆっくりゆっくりやってくる。おじさんは決して、急いだりはしないのである。
おじさんは、たいてい五十がらみで、たいてい陽にやけ、たいてい実直そうである。
いや、全国実直代表とでも呼びたいぐらい、実直そうなおじさんである。その後を、全国実直|奥羽《おうう》地区代表みたいなおばさんがついてくることもある。
おじさんは、実直そうではあるが、やや怠惰《たいだ》である。ここのところが、屑屋さんの屑屋さんたるゆえんであろう。
呼びとめられたおじさんは、まず水を一杯所望し、ポンプ井戸から水を汲《く》み、ゴクゴクと飲み干して、汚ない手拭いで汗を拭く。
そうして、すぐにはビジネスにとりかからずに、まず世間話ということになる。
世間話の内容は、ここから数軒先の田中さんちの娘は、出戻りで帰ってきたとか、どこそこの後家さんは、最近男ができたらしいとかいったたぐいの話である。世間話が終って、では、と腰をあげ、やっとビジネスにとりかかる。
このおじさんは、世間話をするのが職業であって、屑集めは、つけたりであるかのように、めんどくさそうに、新聞紙の束を棒ばかりにかけ、なにがしかの金を置いて去っていく。
そうしてまた、退屈な午後が始まるのである。
つい五年ぐらい前までは、だれにでもこういう一日があったと思う。しかし今や、退屈な日などというものは、どこのだれにもなくなってしまった。
世はモーレツ時代だそうで、みんなセカセカ、オロオロと浮き足だち、実直代表のおじさんは、一日三千円の新築工事に走り、新聞紙集めは「毎度おなじみチリガミ交換」となり、リヤカーは小型トラックに変わり、もの憂い呼び声は、スピーカーの大音響となり果ててしまったのである。
こたつ談義
木枯らしの季節がくると、ぼくはコタツが恋しくなる。
最近では、石油ストーブやら、セントラルヒーティングやらで、コタツに対する需要が減ってきているらしいが、冬になって恋しいのは、やはりコタツである。
そのコタツも、当節はやりの電気ゴタツではなく、昔ふうの、炭火を使うやぐらゴタツが恋しいのである。
やぐらゴタツといわれるように、がっちりした骨組みがあり、周囲にはクルクル回る横棒がはめこまれており、そして前面には、おごそかな扉がついているやつである。
こいつの上に布団をかぶせ、その上に猫をのせ、あまり暖かくもないやぐらにヒシと取りつき、アゴをうずめて庭の雀なんかをぼんやり眺めているというのが、ぼくの冬の理想の生活なのである。
もともと昔のやぐらゴタツは、まん中に炭火という危険なものを入れた防護箱でもあった。だからその周辺は厳重に棒などで囲われていたのである。
したがって、コタツにあたるということは、この箱に、とりすがるというカタチになっていた。とりすがって、横棒のすきまから手を突っこみ、足を突っこみして、なんとか火種に近づこうとするのである。
もし五人が、コタツに取りつくとすると、当然、安定した姿勢でいることは困難である。
やぐらに、ムリヤリ足を突っこむことに成功して、今は安らかにタバコを吸っている人。いまだ安定を得ず、右に左に膝を折り曲げ、他の人の足に突きあたり、これダレの足よッと叱られ、こんどはやぐらの上にのせ、上にのせてはいけないとギュッとつねられ、今はしばし、機、われに利あらずと、他日を期して臥薪嘗胆《がしんしようたん》を決めこむ人、などなど、五人が安定した姿勢を得るまでの大騒動も懐かしい思い出である。
昔の、炭火のやぐらゴタツには、どういうわけか凛《りん》とした威厳があり、またその中にも愛らしさがあり、親しみがあった。
そこへいくと、当節はやりの電気ゴタツは、あれはいったいなんだ!
どういうわけかここまで書いてきて突如怒りが、こみ上げてきたのである。
数ある生活用具のなかで、電気ゴタツほど、卑しい、ワイセツな形をした道具は見当らないのではないか。
電気ゴタツをジッと見つめてみたまえ。
なにやら、はいつくばっているような、いや、ふんばっているような、そして、その四本の足にはゴムの靴のようなものをはめ、お尻からは長いシッポをはやし、その先端をコンセントにはめこみ、サーモスタットのうなり、ブウンブウンとあげている有様を見ると、ぼくはその醜悪さに、思わず身ぶるいがするのである。電気ゴタツに、憎悪さえ感じるのである。
そしてどういうわけか、謝国権先生の著作が頭に浮かび、背向位などという文字が頭に浮かんできてしまうのである。
ぼくは、憎悪のあまり、電気ゴタツにいどみかかり、ひっくり返してやる。
するとそいつは、腹部に、なにやら赤いハラワタのようなものを抱きしめ、赤い熱を発しながら、四肢、拡げきって宙に泳がせるのである。醜い。
さながら性にもだえる中年女のごとくいやらしいではないか。
電気ゴタツが憎い。
メチャメチャに踏んづけて、足を四本とも、へし折ってやりたいほど、電気ゴタツが憎い。(オレ、すこしおかしいかナ)
この醜悪でワイセツで、背向位の電気ゴタツに、おふとんかぶせ、そのおふとんまくって、下半身ヒシと押しつけ、中太のやきいも頬《ほお》ばりつつ、テレビでヨロメキドラマを見ている主婦などというものは、これはもうたいへんミダラな光景なのである。
人々は、電気ゴタツのヒワイな意味を、意識下に認識しているゆえに、古来コタツの中では、モモ色の事件が展開されてきたのである。
事実、男女入れこみのスキー宿などでは、このワイセツな器具の中で、あらゆる奸計《かんけい》が渦を巻き、暗闘と武闘が繰り拡げられていると伝え聞く。
ああ、恐ろしい。
むろん、昔の炭火ゴタツの中でも、モモ色の暗闇はあったのであるが、炭火ゴタツは、その中央に炭火があり、それを囲む厳重なやぐらがあった。だから、モモ色の事件の規模も、そう大きくはなかった。
だが、電気ゴタツにおいては、火種が、やぐらの天井に移ったため、やぐらの中は広場と化してしまったのである。
したがって、当然、モモ色の事件の規模は拡大され、悪質化してきたのである。
ああ、いやだ、いやだ。
電気ゴタツはいやだ。
ラスト・チャンス
服装に関しては、長い間かたくなに、ひとつのタイプを堅持してきた。いわゆる無関心派、あるいは、無関心を装う派であった。
高校時代、ちょっと変わった教師がいた。三十一、二歳の先生で、この先生は、本物の無関心派であった。
当時からすでに、めずらしくなっていた、まん丸の眼鏡をかけ、ドタドタの靴をはき、そのドタドタの靴を、ドタドタと引きずって歩いていた。当時ぼくは、その先生を少なからず尊敬していたので、早速、友人からドタドタの靴を譲りうけ、ドタドタと引きずって歩いた。
夏になると、先生はまっ黒な手拭いを腰から下げ、さらにもう一本を、ズボンのポケットにつめこみ、これをズルズルと引きだしては汗を拭いておられた。ぼくも早速、手拭いを二本買い求め、一本を腰に、一本をポケットにつめこみ、やたらにポケットから引きずり出しては汗を拭いた。
当時、先生は妻帯しておられたらしいが、徹底した女嫌いで、ショーペンハウエルの「女について」を読めと、再三いわれた。むろんぼくは、早速これを買い求め、早速読み、早速女嫌いになった。
それから十年、いくらか身なりを整えるようにはなってきたものの、心の底に、ドタドタと、ドタ靴を引きずって歩いてきたつもりであった。
そうして三十歳になった。三十歳、これは青年としては、もはや残り少ない年齢である。
このまま、一度も若い女性の憧れの眼指《まなざ》しを受けることなく、一度もモテることなく淋しく死んでいくのだろうか。
ぼくは慄然《りつぜん》としてあわてた。
あわてて、極端に走ったのである。パンタロンスーツを買った。マキシコートも買った。ヘンな長いスカーフも買った。デパートのヤングメンコーナーをうろつき、ウエストのサイズ計られ、もはや、このサイズではヤングメンコーナーは無理といわれ、中年コーナーを勧められ、首うなだれ、うなだれはしたものの、これが最後のチャンス、と思いなおし、中年コーナーに向かえば、中年コーナーには、パンタロンスーツなどさらになく、途方にくれ、残る方法は、わが体の改造のみ。
腹筋運動、腕立て伏せ、ナワとびと、即席の改造に精を出し、涙をのんで減食もした。
マキシコートは、長髪でないと似合わないといわれ、髪ものばした。そうして、やっと悲願の、パンタロンとマキシで町へ出る日がやってきた。
鏡の前で数時間、髪なでつけ、スカーフ結び直し、まだまだきついズボンのチャックすこし下にずらし、立ったり、すわったり、大きくため息をつく。はたして、この格好で町に出ても、よいものなのだろうか。許される行為なのであろうか。許されない行為なのではないだろうか。その逡 逡巡《しゆんじゆん》を止めさせたものは、やはりあの「最後のチャンス」の意識であった。
ぼくは、よろめくように町へ出た。町中の遊弋《ゆうよく》数時間にして、もはや精も根も尽き果て、「最後のチャンス」もクソくらえ、この苦しみ味わうくらいなら、女にモテずともよく、いざとなれば、まだ「中年の魅力」のチャンスだって残っている、とにかくとにかくと、家にたどりつき、ヘタヘタとすわりこみ、マキシ、パンタロンかなぐり捨て、そうして初めて気がついた。ぼくは、ステテコをはいていたのである。そうして今は、元の木阿弥、あとに残された、渋い「中年の魅力」のチャンスを、寂《さび》しく待っているところなのである。
グループ'59のころ
小さいときから、漫画家になろうと思っていた。中学生ぐらいのときからである。
そのころは、漫画ブームなどというものは全然なく、漫画家になろうとする人も、あまりいなかった。
ただなんとなく漫画が好きで、学級新聞に漫画を載せ、友人たちが笑ってくれると、無性に嬉しく、ようし、またなんか描いて笑ってもらおうと、頼まれもしないのに徹夜をして描いたりする毎日だった。
どのクラスにも、おっちょこちょいの道化役が、一人ぐらいはいるものだが、それが当時のぼくだった。
漫画を描いて、おそるおそるみんなに見せ、ドッと笑っていただいたときの快感は、一度味わったら忘れられるものではなく、その快感を味わいたいばっかりに、漫画を描き続けているうち、それがとうとう商売になってしまったのである。
勉強は、もともと好きなほうではなく、物理、化学、数学などは、チンプンカンプンで、ただただ、恐怖と忍耐の時間だった。
先生に指名されて、答が出ず、ただもうひたすらうつむき、ああ、この時間、女の子たちは、どんなにかこのぼくを軽蔑しているだろうと思うと目がくらみ、倒れそうになるのをジッとこらえている毎日だった。どうして世の中に、物理や数学や化学などという、いまわしい学問が存在しているのだろうと今でも思う。
一年浪人して大学ヘ入ったら、漫画研究会というのがあった。
渡りに船と、早速入会してみると、園山俊二という先輩がおり、福地泡介という同輩がいた。
福地泡介に、一緒に漫画家にならないかともちかけると、「なってみてもいい」という返事だった。
じゃあ漫画家になろう、ということになった。このへんのやりとりは、非常にあっさりとしたもので、男子一生の仕事を決め、それに向かって船出するというような、気概も気迫もまるでなかった。
世の中を、簡単に考えていたのである。
漫画家になるには、まず、なにをすればよいか。コーヒーすすって目を中空に据え、ちょっと考えていたわが友は、「要するに、われわれは漫画家になりました、という挨拶状を出せば、それでいいのじゃないか」と、またしても簡単明瞭な答が返ってきた。
こんな簡単なことで、そんなにたやすく漫画家になれるとは、ツユ知らなかったぼくは、積年の望みが今こそ叶《かな》うのだ、と大いに張り切り、早速印刷屋に走り、挨拶状を百枚ばかり注文した。
「なってみてもいい」という、やはり世の中を簡単に考えている友人を、さらに二人ばかり見つけ出し、これらもグループに加えることにした。
グループの名は、その年がちょうど一九五九年だったのでグループ'59≠ニ名づけた。葉書の文案は、われわれは、漫画家になったのでよろしくお願いします。という、やはり簡単な内容だった。
電話帳から、各出版社の住所を捜し出し、宛名を書き、切手をペタペタと貼りつけて、百枚ドサッとポストに投げこんだ。
これでよし。われわれは、突然ではあるが、今から急に漫画家になったのだ。
この葉書が、全部先方に着くのが、まァだいたいあさってとして、しあさってあたりから注文の電話がどんどんかかってくるだろう。さア忙しくなるぞ、とにかくきょうは祝盃だ、ということになり、学校の裏の汚いバーに繰り込み、一杯二十五円のトリスのストレートで祝盃をあげた。
全員意気軒昂、しあさってから忙しくなるからその準備をしなくちゃ、ということになり、その夜は全員、早々に帰宅した。
そうして、待ちに待った問題のしあさって≠ェやってきた。
その日ぼくは、学校を休み、注文の電話を待ちかまえた。
夕方になっても、注文の電話は、一回もかかってこなかった。
他の友人に問い合わせてみても、やはりこないという。
「出版社の人が、ちょうどきょうあたり、われわれの漫画をつかうかどうかの会議を開いているところに違いない。それで夕方あたり結論が出て、あすの朝、各出版社から注文の電話がドッとかかってくる」というのが福地の解説であった。
ぼくは翌日も学校を休み、注文の電話を待ったが、やはりその日も、なんの音汰沙もなかった。
ぼくは、次の日も、その次の日も学校を休み続け、そうしてとうとう学校を中退してしまったのであった。
お び え 酒
某月某日
なんとなく福地泡介に電話を入れ、話をしてるうちに今夜飲まないか、ということになり、園山俊二さんも誘って新宿に出る。
新宿の「浜や」という小料理屋で落ち合う。とにかく、一杯飲んで、度胸をつけてということになり、なんのための度胸かわからぬまま、とにかく一杯飲み、サテ、と立ち上がる。サテ、と立ち上がったけれど、三人とも、なじみのバーなどなく、いつも行きあたりばったりの飛びこみ専門。
二、三軒まわって、いずこも同じ秋の夕暮れ。だれともなく、マンネリだなア、とつぶやく。こんどはどこへ行こうか、どこがいいかなアとあたりを見まわし、ふと目に入ったのがキャバレーH。
どお? 久しぶりにキャバレーなど、ということになり、あとの二人、ウもスもなく、黙って従い、ラッサエマセ、ラッサエマセの掛声に追いたてられて、いちばん隅のボックスにへたりこむ。
型どおりの、ご指名ありやなしや、ビールでよろしきや、の応答のあと、現われ出たのは、オバサン一人に、東北なまり、目ばりパッチリのグラチャンと、やせぎす美人の計三人。それぞれに会話が飛び交い、やや時間が経過すると、なんとなくそれぞれの相方《あいかた》も定まり、ぼくの相方は、やはりオバサンということになる。
オバサンは、お相手はぼくと定まると、急に黙りこみ、タバコばかりふかし、暗い目つきで場内を見まわす。
福地はと見れば、これはどうやら話がはずんでいるらしく、なにを話しているかはわからぬが、笑い声なども聞え、手なども、置かれるべきところにちゃんと置かれ、笑い声をあげるたびに揉みしだいたりしておられる。
園山さんは、己の趣向にピッタリ合ったデブをあてがわれて、いやの筈もなく、ただただ、相好を崩して、太ももを撫《な》でておられる。
ぼくも、高いお金を払うのだからと、オバサンにいどみかかろうと思うのだが、オバサンの暗い顔つきと、衿足のところで途絶えたおしろいを見ると、とてもそういう雰囲気ではなく、出しかけた手を、しばらく宙に迷わせたあげく、しかたなく頭など掻く。
こうして悠久の時は流れ、お勘定ははずみ、おつまみは代わり、おビールは追加され、もう帰ろうか、といいだすのは、いつもぼくの役目。福地、園山は、未練げに、もう一度相方の太ももをひとなでして、ノロノロと立ちあがる。
某月某日
夕刻、どうしても仕事はかどらず、ちょっとだけひっかけて、と町に出る。
中野の線路ぎわに屋台があり、可愛い娘さんの姿がチラと見えたので、迷わずそこへもぐりこみ、お酒を注文。
よく見ると、その娘さんは中学生ぐらいで、六十ぐらいのおじいさんのお手伝いをしているのである。
おじいさんと、時節の話などして、おでんで二合ばかり飲む。
ちょっと一杯のつもりが、結局三杯となり、こうなったら、あしたの仕事のことなどどうでもいいやと気が大きくなり、前にちょっと寄ったことのあるバーにもぐりこむ。
まだ宵の口で客はなく、ホステスもまだ来ず、老いたるマダム一人、薄暗いところで、いらっしゃいと陰気な声を出す。
ビールと水割りを数杯飲んで、なぜか急に楽しくなり、ひとりではしゃいでいたら、うちはお年寄りの客ばかりだから、若い人たちたくさん連れてきてね、などと興ざめのことをいわれ、急にうち沈んでそこを出、またさっきの屋台へ戻り、娘さんの顔チラチラ見ながら、また二合ばかり。
さっきの続きの時節の話をまた繰りかえし、お客さんだいぶ酔ってますね、といわれ、いやァ酔ってないぞ、と立ち上がったとたん、小銭をばらまく。
あさましく、あわてて拾い集めていたら、おじいさんと娘さんと二人で、マッチを頼りにお金を拾い集めてくれ、早くお帰りなさいネと中学生の娘さんにさとされ、うんうんとうなずいて三十男、足どり危なく数歩歩いて、残金心細く、エーイこうなったらみんな飲んじゃえと、いま出て来たばかりの屋台に逆戻り。おじさん、また来たよ、お酒お酒、と怒鳴り、おじさんは今度はあまりしゃべらず、しらけた空気、酔ってはいても察しられ、一合だけおとなしく飲んで、お勘定払ってそこを出ると、どういうわけか急に走り出し、足音荒く、吐く息荒くご帰還となる。
だいぶ酔ったとはいえ、翌朝みたら、背広はきちんとハンガーにかかり、布団にはちゃんとシーツが敷かれてあり、それほどでもなかったことを、実証的に示しておりました。
某月某日
漫画集団の集まりがあり、そのあと近藤日出造、杉浦幸雄、小島功、サトウサンペイといった諸先輩に連れられて、銀座のバーへ出かける。
銀座のバーの、ホステス諸嬢の暮らしぶりを、女性週刊誌などを通じて、くわしく知っているので、ぼくは彼女たちがそばへ来ただけで、ただもうひたすら恐れ入ってしまうのである。
なにしろ、マンションの部屋に敷いたジュータンが何十万、応接セットが何百万、サイドボードがイタリア製で何十万といったぐあいで、まちがっても千の単位は出てこないのである。
だからぼくなどは、気楽に彼女らとお話をすることができず、会話なども「ハ、そうですね」「いえ、ちがうんじゃないですか」などと、税務署の人と話をしているような感じになってしまうのである。
最初Mというところへ行き、ただひたすら緊張し、うつむき、高いであろうお酒を、ただひたすら口に運ぶ。口に運びながら、せんだって読んだ銀座ホステス嬢の紹介記事を思い出す。
例によって大理石のテーブルが何十万といったたぐいの記事のあと、記者が、
「あの水槽の中の金魚は……」
何という種類かと聞こうとすると、
「あれ? あれは一匹三十万なの。きのう三匹死んじゃったの」
と答え、一匹三十万の金魚が死んだのであるから、
「さぞかしご立派な葬式を?」
と記者が聞くと、彼女は物憂そうに、
「ゴミ箱に捨てたわ」
と答えたのである。
であるから、ぼくは、ウィスキーを飲みながらも、もしあやまって、このグラスを取り落として毀《こわ》したら、「ソレ二十万!」と詰問《きつもん》されるのではないかとおびえ、早々にそこを退散したのであった。
〈了〉
あ と が き
臆面もなく、といおうか、厚顔にも、というべきか、とうとうこういうものを出してしまったのである。
出しちゃいけない、出しちゃいけない、もう少し辛抱して、と思いつつも、少しずつ洩らし始め、とうとう遂に出してしまうところは、ぼく個人に限らず、男性一般の悲しい性《さが》というべきなのだろうか。
出してしまったあとは、ただひたすら空しく、恥ずかしく、あたりに散らばった紙(原稿用紙のこと)を掻き集め、クズカゴに入れ、ペン先のしずく静かにぬぐって居ずまいを正し、コホンと咳《せき》ばらいひとつして、出してしまったものは、まァ仕方ないや、また来ん春がないじゃなし、と外を見る。
早春。
春がすみ重くたれこめ、まさにこのときの、ぼくの心境のごとくでありました。
初出誌
漫画讀本
昭和四十三年十月号〜四十五年七月号連載
オール讀物
昭和四十五年十月号〜四十六年三月号連載
底 本 文春文庫 昭和五十一年十月二十五日刊