東海林さだお
ショージ君のぐうたら旅行
目 次
わが、果てしなき傷心の旅
花の都を空から見れば
ただいま上野散歩中
信濃路のタヌキ食味記
中年はヤングをめざす
即席ドック入院日記
ゴキブリ亭主厨房に入る
宗薫先生のモテ方教室
馬に引かれて中京まいり
ボクの「遠くへ行きたい」
下町バアチャン劇場
悶絶! ぼくの禁煙日記
ゴムが泣いたぜ小笠原
避暑地のデキゴト
金沢にて五木センパイと
踊ってみました無我の舞
ぼくの棲む町
あ と が き
わが、果てしなき傷心の旅
人は、どういうときに旅立ちの決意をするものなのであろうか。
近年、旅は、エックとかパックとかいうヘンな横文字に置きかえられた。エックとかパックとかいうことになれば、当然ノーキョーということになり、ノーキョーということになれば、当然ゾロゾロということになり、ゾロゾロということになれば、当然キョロキョロということになり、ウロウロということになり、アイラブユー、ユーラブミー、ホテルゴーということになり、なにがなんだか訳がわからなくなり、旅とは、騒がしい移動ということになってしまった。
旅という文字の持つ、孤独とロマンと、哀愁に満ちたあの懐かしいイメージは、刻々と失われつつあるのである。
ある日ぼくは、そうした風潮を、PHPふうに嘆きつつ、梅干しで渋茶をすすりながら、週刊誌をパラパラとめくっていると、実に感動的な記事が目にとまったのである。
いや、記事というよりも、そのタイトルに感動したのである。
週刊誌の見出しというものは、時として、その記事に反比例して、文学の香り高い、荘厳なまでに美しい文句であることが、往々にしてあるものなのである。
その見出しは、「女優H・Y子、果てしなき傷心の旅へ!!」というのであった。
果てしなき傷心の旅へ!! ああ、なんという感動的な見出しであろう。
この文句には、旅の持つ本質的なものが、全ていい尽されているのではないだろうか。
旅立ちの心は、傷心でなければならぬ。
旅の行先は、果てしなく、でなくてはならぬ。
そうだ! 冬の海を見に行こう。
極北の地に、重くたれこめる暗雲の下に、ゆらめく鉛色の水を見に行こう。
いかに商売上手の旅行社といえども、「果てしなき旅」をスケジュールすることはできぬであろう。
いかに旅行社といえども、「傷心」までもパックすることはできぬであろう。
なんの心傷む出来事なけれども、そを嘆きつつ旅に出でん。旅立ちてのち、心傷むことなきを嘆かん。と、どういうわけか急に文語調で思考は展開し、なにやら一人興奮して立ち上がり、渋茶けとばし、梅干しガリリと噛み砕いて編集部のHさんに電話をする。
「今回のテーマは、果てしなき傷心の旅へ、と決定いたしましたッ」
さきほどぼくは、なんの心傷む出来事なけれども、と書いたのであるが、よく考えてみると、心傷む出来事があったのである。
幸いなことに、というべきかどうかはわからぬが、この日の前日、ぼくは行きつけない床屋へ行き、ちょっと居眠りをしているすきに、せっかく伸ばした長髪を、バッサリと短く切られてしまったのである。
せっかく伸ばした緑の黒髪を、バッサリ切られた悲しみは、経験した人でなければわからぬと思うが、長髪を切られて家出をした中学生だっているくらいなのである。
まして、ぼくは中年である。長髪を切られた中年の悲しみが、中学生のそれを上まわったとしても、だれがそれを非難することができよう。
床屋のオヤジは、「やはり、このくらい短いほうが」と満足気にうなずき、ぼくも「いやァ、かえってサッパリしました」などと相づちをうち、家へ戻ってきてドアをしめた途端、怒髪天を突いた。怒り、嘆き、伏して床をたたき、天を仰ぎ、涙ボーダと流れ、その夜はまんじりともせず、傷心のあまり一夜にして頬はゲッソリとこけた。
その傷心の度合は、たった八十一日間で、夫と別れねばならなかった女優H・Y子のそれと、さして変わりはないほどだったのである。
かかる傷心を抱いたからには、果てしなき旅へ出かけねばならぬ。
かかる塗炭の苦しみを味わったからには、果てしなき旅へ出たとて、どうして人に後ろ指を指されることがあろう。
いざ行かん、行きてまだ見ぬ海を見ん。
こうしてぼくは、「果てしなき傷心の旅」への出立を、固く固く心に誓ったのであった。
さて、「果てしなき旅」であるからには、果てがあってはならぬ。
傷ついた心を抱いたからには、行先は極寒の地でなければならぬ。(この辺の論理は、ややインチキくさいかナ)
傷ついた心は、やはり隣の埼玉県では癒されぬのである。
遠く離れた、極北の地でなければならぬのである。
こうした、複雑にして理路整然、かつややインチキくさい論理によって、目的地は決まった。
行先は、北海の果ての果て、北海道は稚内《わつかない》、そのまた果ての果ての果て宗谷岬である。
札幌から稚内までは、列車で九時間近くかかるが、羽田から千歳空港までは一時間ちょっとである。
ベルトを締めて新聞を読んでいると、まもなく千歳空港です、というアナウンスがある。あまりにもあっけない。
ハールバル来たぜハーコダテー、という感慨がまるでないのだ。
隣の埼玉県へ来たような感慨しか湧かないのである。
こんなことで、果たして深く傷ついたぼくの心は癒されるのだろうか、と前途に不安を抱きつつ車で札幌に向かう。
快晴の東京を発ってきたのに、北海道は雪であった。
夕刻、札幌市内に着く。
寒いだろうなァ、とは思っていたが、やはり寒い。零下五度だという。
行き交う人の吐く息が白い。
この日札幌は、雪まつりとかで、人の往来が激しい。まるで新宿のようである。
群衆の中の孤独……。
傷心の旅人は、人混みを避けて、とある一軒の店に立ち寄る。
傷心の旅人は、ガラス戸越しに、行き交う人々を悲しい瞳をしてじっと見つめたあと、厚手のサルマタと、長そでのシャツと、モモヒキを購入したのである。
雪が細かく降っていて、人々の頭はまっ白である。頭に雪が降り積っても、札幌の人は平気であるらしい。
みんな平気な顔をして歩いている。
そこでぼくも、頭をまっ白にして、平気な顔をして歩く。
札幌発、稚内行きの列車は、二十一時十五分である。まだ四時間ばかり時間があった。
傷心の旅人は、またしても人混みを避けて、とある一軒の店に立ち寄る。
居酒屋である。
うす暗い店内では、ストーブがまっ赤に燃えている。
魚を焼く煙が目に滲みる。ホッケという魚と、ジャガイモのバター焼き、ホッキ貝、シシャモ、三平汁、ニシン漬け、ホタテ貝、オシンコを注文する。
心は傷ついていても、食欲は旺盛なのである。
ビールがうまい。
ホッケという魚は、大きさがアジの二倍ほどもあり、脂肪が多く、したたり落ちて燃える油の煙が、店内に充満している。
煙で、カウンターの向こう側の人が、はっきり見えない程である。
客が次から次へと入ってくる。
客がドアを開けると、雪がサァーッと舞いこんでくる。煙がいっせいに奥に流れる。
入ってきた人は、黙って肩の雪を落とす。
店主は黙って魚を焼いている。
客も黙って、煙の中でお酒を飲んでいる。
そこでぼくも、黙ってお酒を飲む。
九時十五分、満腹の体を寝台車に横たえる。これから九時間の長旅である。
仰向けになって、低い天井を見ていると、ああこれから、最果ての地に向かって行くのだなァ、という感慨が、ヒシヒシと胸に迫ってくる。
と同時に、どうしてそんな、最果ての地に行かねばならぬのか、という疑問も、ヒシヒシと胸に湧きあがってくる。
そこで、混乱する胸中を鎮めるべく、バッグからウィスキーを取り出して飲む。
イカの姿焼き、というのを取り出してかじる。
寝台車というのは、なんとなくミジメで、情けない感じがするものである。
まるで押入れに寝ているような気がするのである。
こうして腹這いになって、薄暗いところでウィスキーを飲んでいると、なんだか悪いことをしているような気持ちさえしてくるのである。叱られて、おしおきを受けている子供のような心境になってしまう。
目つきも、いつのまにか、あたりをうかがうような卑しい目つきになってくるのである。情けない。
そうこうするうち、市内で買った、サルマタとモモヒキのことを思い出し、着換えをすることにする。どうにも天井が低い。ゴソゴソやって、やっと素っ裸になると、罪の意識も、ますます大きくなる。こんなところで素っ裸になったりして果たしてよいものなのだろうか、と、ますます情けない気持ちになる。
ぼくは、ここ数年冬でもモモヒキをはいたことがない。
久しぶりにモモヒキをはいたので、オシッコをするときがたいへんである。
まず指が、目的の物件に到達するまでに、かなりの紆余《うよ》曲折を経なければならない。
パンツだけのときのように、スッといかないのである。
しこうしてのち、目的の物件を掴み、引き出す作業にかかるわけであるが、これがまた、なかなか出てこないのである。
やはり、かなりの紆余曲折を経て、文字通り曲折して出てくるのである。
こうした逆境にあるせいか、わが排水管は、排水する勢いに力がない。
排水管の所有者は、ますますうちひしがれた気持ちになって、首うなだれて、再びおしおきの場にもぐり込む。
ゴットン、ゴットーンと、背中の下で車輪が鳴る。
ゴットン、ゴットーン、ピーポー、ウツラ、ウツラ、ゴットン、ゴットーン、キキキーッ、シュー、ナントカエキー、ナントカエキー、と遠い世界からのように、かすかに駅の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
ゴットン、ゴットーン、ウツラ、ウツラ、ウツラ……果てしなき旅は、果てしなき地に向かって、果てしなく続けられてゆく。
朝、六時三十六分、列車は、悲鳴のようなブレーキの音を立てながら、最果ての稚内駅構内に滑り込んだ。
ああ、ついに来たのだ最果ての地に!
降りたつ人の吐く息白く、鉛色の空重くたれ込め、びょうびょうと雪まじりの風が吹き抜けて行く。
人の声が、風に乗って大きく聞こえてきては、また小さく消えてゆく。
白皚々《はくがいがい》。
町の軒並み低く、遠く港には、朽ち果てた廃船、低く群れ飛ぶカラス……。
ああ、最果て!
ぼくはコートの衿を立てて、悲しげな眉あげて凍てついたホームに降り立つ。
……といったような光景を、ぼくは、車中ずっと思い描いていたのである。
なのに、現実とはなんと人を裏切るものなのであろうか。
きのうの札幌雪まつりへ行って帰ってきた一行が、この列車に乗りあわせていて、ゾロゾロガヤガヤ、マキシコートの娘もいれば、パンタロンのおねえさんもいる。
カバンを持ったセールスマンふうもいれば、流行の幅広衿に、幅広ネクタイのお兄さんもいる。スキーかついだ東京ふうサングラスもいる。
ゾロゾロガヤガヤ、みな声高に話しあいながら町へ散ってゆく。
駅前にはタクシーがズラリと並び、遠くにキャバレーの看板も見える。
ボーリング場さえあるという。
せっかく九時間もかけて、極北の地に着いたというのに、これでは埼玉県へ来たのと、たいして変わりがないではないか。情けない。
ぼくは、コートの衿を立てて、悲しき眉あげてホームに降りたったのであるが、あまりのことにヒザの力が抜け、凍てついたホームにつんのめって転んだ。情けない。
なるほどなるほど、そうであったか、さもありなん、ま、こんなものだ、ナットク、ナットクと、つぶやきながら宿に向かう。
宿は小さいながらも全館暖房で、北国の、炭火の掘りごたつを想像していたのにどうも勝手が違う。
おなかがすいていたので、朝食を頼むと、ハムとノリと玉子焼きというありきたりの献立が出てくる。
テレビをつけたら、見馴れたアナウンサーが、見馴れた番組を司会していた。
なるほどなるほどそうであったか、と、やけくそになって、何杯も何杯もご飯をお代わりする。ヤケ酒ならぬヤケ飯である。
ヤケ飯食って気持ち悪くなったので、番頭さんにいって布団を敷いてもらい、寝てしまう。ヤケ寝である。
昼すぎ、ヤケ寝から覚め、宿のライトバンに乗せてもらって宗谷岬に向かう。
いよいよ、最果ての果ての果てに行くわけである。
だが、傷心の旅人は、癒されるべき現地に於て、あろうことか更に深く傷ついてしまっているので、もはや期待の気配はなく、不信のマナコを不信げにしばたたかせながら、ライトバンのシートにうずくまっていたのである。
ライトバンは、スノータイヤをきしませながら海岸沿いに北へ向かう。
次第に、人影がまばらになってゆく。
港につながれた漁船のヘサキには、ツララがビッシリと下がっている。
雪が、道路を横切って吹き抜けてゆく。
どういうわけかカラスが多い。
頬のまっ赤な子供が手を振る。
馬そりが、はるか前方の道路を横切ってゆく。
さびれた物置小屋が、雪に埋っている。
山里の雪景色は、ほのぼのとした暖かさが感じられるが、海辺の雪景色は、凄《すさ》まじいまでに荒涼としている。
海は波一つなく、水平線は、灰色の雲に隠されて見えない。
出発してから四十分程たって、「ハイ着きました」と番頭さんがいう。
北海道の地図を拡げてみればわかることだが、宗谷岬は、北の端にとんがって突き出ている。
ぼくは、このトンガリの端の端に立って、|地の果て《ヽヽヽヽ》の感慨を心ゆくまで味わうつもりであった。傷ついた心を、この端に立って癒すつもりであった。
ぼくが地図で見た感じでは、この端は、片足でやっと立てるかどうかというぐらいの狭さであると思われた。
北海道の地図を拡げて見よ。常識ある人間ならばだれしも、そう思うであろう。
ぼくはその端っこに、片足で立って、そうして涙ぐむつもりであったのだ。
なのに、宗谷岬の突端は、とんがっていなかったのである。
どういうわけか、いいかげんにのんべんだらりと、広々と拡がっていたのである。
人家さえ、たくさん立ち並んでいるのだ。
両足はおろか、大の字になって寝ても、まだあまりあり、はねまわってもまだあまりあり、だいいち、どこが突端であるかさえはっきりしないのである。
ただ「日本最北端の地」と書かれた碑が立っているので、なるほどここか、ここがそうなのか、と思う程度なのである。
しかたなく車からノソノソと降り、北端とかいう地点に立ってみた。
別にどうということもない。
なんの感慨も湧き上がってこない。
ただやたらに寒い。
ぼくは、いちばん厚手の、毛布のようなオーバーを着て行ったのであるが、それを通して風が肌を刺す。耳が、ちぎれるように痛い。恥も外聞もなく手拭で頬かむりをする。
碑のそばに立っている立札には、快晴のときは、肉眼で樺太《からふと》が見える、とあるが、もとよりきょうは曇天で、なにも見えない。
なんとかして「極北の地に立つ感慨」を湧きあがらせようと試みるのだが、なにも湧きあがってこず、ただやたらに、涙と鼻水が湧きあがってくる。
あたりはシンとしていて、時々、燈台の霧笛が寂しく鳴り響く。
どうにもこうにも寒くてたまらず、車に駆け戻ると、「四分だったナ」と番頭さんがいう。
冬季、客をここに案内すると、この番頭さんは、客の滞車外時間をいつも計ることにしているという。
「四分もてばいいほうだ」と番頭さんに説明され、大いに気をよくする。
車をUターンさせて、市内に戻ることにする。
バックミラーの中で、最北端の碑が、みるみる小さくなってゆく。
さらば、極北の地よ。
涙と鼻水の顔で振り返れ。
車は、いま見て来たばかりの風景を逆に見せながら、お役目ご免とばかりにひた走る。
ああ最果ての地より、いま帰る。
帰りなんいざ、
稚内のキャバレー、いままさに開かれんとす。
と心はすでに、あらぬ方向に向かい、最果ての地の感慨もなにもあったものではない。
市内に戻って「ウー、サブイ、サブイ」といいながら、小さな飲み屋に入る。
ここでまたしても三平汁とナントカ鍋と、オシンコ、お剌身で一杯やる。
一杯やって人心地ついて、ふと店内を見渡すと、なんとこの店は、かの有名な、わが愛する「養老乃瀧」なのであった。
さすが全国一〇〇〇店を目指すだけあって、この極北の地にも、その支店はあったのである。
宿へ戻ってひと休みして、またフラフラと町へ出、またフラフラと居酒屋へ入る。
なにしろ、最果ての果ての果てへ行ったにもかかわらず、わが傷心は癒されなかったので、どうしても、こうして居酒屋のノレンをくぐることになってしまうのである。
ここでは、寄せ鍋と、お刺身と、ホッキ貝と、磯辺焼きというのと、シシャモとオシンコを食べ、ドブロクを三合ばかり飲む。われながらよく食うなァ、とつくづく思う。癒された胃袋と、癒されぬ心を抱いてそこを出ると、こんどは市内ただ一軒というキャバレーへもぐり込む。
女のコが二人、ぼくのボックスに来たが、この二人は、席についておビールをつぎ、「まもなくショーが始まるわよ」といったきり、そのあとは一語も発しないのである。
ぼくが店を出るまで、あとにもさきにも、二人がかりで発した言葉は、これっきりだったのである。
最果ての地に来てまで、かくもモテないとは、ツユ思わなかった、と傷ついた心は更に傷つき、しかたなくショーの鑑賞に熱を入れることにする。
ショーはレスビアンショーで、女二人一糸まとわぬ全裸となって、アヘアヘハアハア熱演する。
かなり熱心に鑑賞したので、かなり興奮したけれど、おとなしく宿へ戻り、おとなしくお風呂に入って、ヒゲを剃っておとなしく寝る。
翌朝六時半起床。
やはり雪。
七時十分の列車に乗る。
汽笛も鳴らず、ベルも鳴らず、ゴットンと列車は動き出す。
さらば、最果ての稚内よ。
もはや振り返っても、涙も鼻水も出ない。
札幌着、一時四十七分。
市内をブラブラして千歳発夜七時四十分の全日空機に乗る。羽田着九時。
まるで埼玉県から帰ってきたような気持ちであった。
結論。
ワッカナイカテ、ニホンヤロ、
サイタマケンカテ、ニホンヤ、
ミナ、オンナシヤ、
ホナ、サイナラ。
花の都を空から見れば
春三月、啓蟄《けいちつ》の候ともなりぬれば、わが体にも春気|蠢《うごめ》き、モゾモゾと寝床から這い出し、空を見上げる。
わが陋屋《ろうおく》は、八王子にあり、晴れた日には富士山も見える。
常々、巷《ちまた》の赤チョーチン、路地裏、満員電車、スーパーマーケットなどを、ウロウロ、コソコソと這いまわる身の上としては、このへんでひとつ、塵埃を振り払い、大空へ舞い上がってみようと思ったのである。
浩然《こうぜん》の気を養おうと思ったのである。
貸し植木だって、一カ月、ゴミゴミした都会の喫茶店に置かれたならば、数カ月は、清い空気と、暖かい空気のある所へ、転地療養することを許されるのである。
人間、横に動きまわるばかりが能じゃない。たまにはタテにだって動きまわってみる必要もある。いや、ないかナ?
ヘリコプターに乗って、高い所から、人間生活見下ろしてみれば、小さく凝り固まったわが心も、少しはほぐれてくれるかも知れぬ。
老後の心配、物価、生命保険、人づきあい、などという俗にまみれた心から、たまには脱却してみたい。
鳥の心境になってみたい。
空飛ぶ鳥を見よ。播かず、刈らず、倉に収めず。
鳥のようにフラフラと、右に左に、上に下に、勝手気ままに飛びまわってみたい。
折りも折りとて春三月。
春霞たなびく東京上空を、空中散歩すべく、「乗せてください」と、ヘリコプター会社に駆けつけることにする。
どうせ飛ぶなら朝早いほうが、都会の人の動きも激しく、おもしろかろうということで、九時に飛びたとうということになる。
ヘリコプター会社は、埼玉県川越市にあり、東京から一時間以上かかるから、あろうことか朝七時半出発ということになる。
自慢じゃないが、ぼくにとっては、朝七時は、一般の方々の夜三時ぐらいに相当するのである。いってみれば、ウシミツどきである。朝七時半出発ということは、六時半に起きねばならぬということである。
ウシミツどきの朝六時半、やっとこさ起きあがって、髪なでつけながら、横目で新聞を拾い読みしていると、自衛隊のヘリが墜落して、なんとか三尉が重傷、という文字が目にはいる。
更にページを繰ってみると、ベトナムでヘリ四機墜落、とある。
どうもおだやかでない。
聞けば、われわれが今日搭乗するヘリコプターは、農薬散布が専門のヘリコプターだという。
農薬散布のヘリコプターが、電線にひっかかって墜落、などという記事もよくお目にかかる記事である。
一瞬、電線にひっかかって、手足垂らした己が姿を想像する。
カラスに突つかれたりして、あまり恰好のよい死にざまとはいえないだろう。
そう思うと、ぼくは即座に、髪なでつけ作業を中止してしまったのである。
どうせ、今日オレは電線にひっかかって死んじゃうんだ。
髪をなでつけたところで、それがいったいなんになろう。結局のところは、電線にダラリ、となってしまうのである。そのとき、髪がきちんとしていたとて、それがいったいなんになろう。
なんかちょっと食べていこうか、と思ったが、それも即座に中止してしまう。
なんか食ったとて、いったいそれがなんになろう。電線にダラリとなったときに、おなかがくちかったとてそれがいったいなんになろう。
と、無常感で胸がいっぱいになり、目には涙さえ浮かべ、靴ヒモを結ぶ手さえ震え、よろめくようにして車中の人となったのである。
早朝というのに、川越街道は早くも車の列。数メートル進んでは数分停車する。
舞いあがるためには、まず地上を這わねばならぬのである。物には順序というものがある。
ヘリコプター会社は、畑の真ん中にあり、プレハブ造りの大きな建物である。
日本農林ヘリコプター会社という。
農薬散布が仕事だから、やはり「農林」なのである。農作物が、主なお客さまなのである。
人間であるぼくは、あまり歓迎してもらえないのではないか、とひがむ。
受付に行くと、運航部へ行ってくれ、というので運航部というところへ行く。
運航部へ行くと、どういうわけかウンコをしたくなり、今度はトイレに行き、ウンコをする。
われわれの乗る「ヒューズ三〇〇」というヘリコプターは、全長わずか九メートル、トンボみたいに小さい。
おまけに、おそろしく機構が単純で、箱型の運転席に、棒のシッポをつけただけ、という感じなのである。
いっしょに行った車の運転手さんは、「これじゃ落ちもするなァ」と、身の毛もよだつような恐ろしいことを、こともなげにいう。
おまけに、ヘリの操縦士は、「農薬散布が殆どで、人間はあまり乗っけない」ということである。
ぼくは、人間なみでなくていいから、せめて農薬なみに慎重に扱ってください、と哀願する。
傷つきやすくなっているわが心は、事務所の中の、赤十字マークの救急箱におびえ、祭ってある神棚にもおびえる。
ヘリの整備が終って、いよいよ飛びたつから早く乗れという。
もはや猶予はならぬ。
ぼくは素早く、そのへんの石ころを拾ってポケットに詰めこむ。
石をいっぱい持っていって、地上の人々に、めったやたらにぶつけてやるつもりなのである。
自分の不幸を、自分だけにとどめたくないのだ。
人間、やけくそになると、なにをしでかすかわかったものではないのである。
公園の上空に行ったら、アベックには、いちだんと激しく石をぶつけてやろうと思う。
どうせ「電線にダラリ」で死んじゃうんだ。
文春の屋上では、編集長が旗を振ることになっているというから、それにも石をぶつけよう。どうせ死んじゃうんだ、かまうことないゾ。
操縦席は、三人がやっと腰をかけられる程度の広さ。五人乗り乗用車の、後部座席のみ、というぐらいの広さである。
ベルトを締め、世界中の、ありとあらゆる神々に祈る。ついでに七福神にも祈る。
まだ飛びたたないのに、音がすごい。振動が激しい。
ドアのとっ手の機構が、おそろしく簡単で、車のそれより粗末な感じで、針金でひっかけてある、という程度なのである。ドアがはずれたらどうしよう。
ベルトをきつく締め直す。
操縦席には、小型テレビくらいの箱があり、それにビッシリと、メーターのたぐいが埋めこんである。
操縦士は、ひとつひとつ指さし、ひとつひとつうなずく。出発前の確認を行なっているのである。
いくつめかのメーターを指さし、首を横にかしげたのがぼくの目にはいり、ぼくの心臓は、破れんばかりにドキーンと音を立てる。
が、すぐにうなずき直したのでホッとする。
全部確認し終って、最後に、ぐっと大きく首を横にかしげたので、ぼくの心臓も、ぐっと大きくドキーンとしたのであるが、これは出発前の首の体操をしたのであった。
エンジンの音がいちだんと大きくなり、振動もいちだんと激しくなって、ヘリは前のめりにソロソロと離陸。
たちまち高度二百メートル。
つぶっていた目をパッと開けると、地上の人影は、早くも豆粒大。
荒川のそばのゴルフ場に、まばらな人影が見える。
はるか都心を眺めれば、その上空には、早くもスモッグらしき灰色のモヤが、うすぼんやりとたなびき、灰色の都会が、灰色に拡がっている。
おそるべき数の人家、ビル。
要するに都会とは、ビルと人家の集まりである、という実に簡単なことが、簡単明瞭に実感される。
都心に至るまでには、まだまだ空地が多い。いざ、という事態になったら、あそこの空地に降りればいい。あそこの空地がダメなら、もうひとつ先にも空地がある。
ここがダメならあそこがあるサ、東京がダメなら名古屋があるサ、とやや落ちつきを取り戻し、ハナ歌なんぞを口ずさむ。
舞い上がってしまうと、意外に平気なものなのである。
飛行機なんかよりも、もっと気楽な感じで、まるで自分が蝶になったような按配なのである。
飛行機やジェット機は、飛ぶ、という感じよりも、すっ飛んでいく、という感じのほうが強く、飛翔する、という感じとは程遠い。
そこへいくと、ヘリコプターは、空を舞い駆ける、という感じで、思ったよりも楽しいのである。
そこで、さっき頼みこんだ、世界中の神々と七福神に、さっきの嘆願を解約してもらう。よけいな負担をかけては、彼らに申しわけがない。
キラキラと、朝の太陽がまぶしい。
遠くには、奥多摩の山塊も見える。
蝶々は、右に左に機首を変え気ままに飛んでゆく。行く先とてなき、勝手気ままな空中散歩である。
朝の地上は、交通大混乱であるが、ここ空中には、交通渋滞というものがない。
赤信号もなければ、Uターン禁止もない。
白バイも、ここまで飛び上がってくるのは少し無理のようである。
目的地とてないから、ただ漠然と、「あのへんに行ってみましょうか」というと、「あのへんに行ってみますか」と操縦士が答え、あのへんに向かってわがヘリは進んでいくのである。
ここでは、何丁目何番地のどこそこ、などというコセコセした概念とは、まるで無縁であるから、地理、方角に関しては、すべて「あのへん」というきわめておおざっぱな用語で事足りるのである。
したがって当然、ここ上空に於ては、物の見方、考え方もおおざっぱになり、おおらかになり、せせこましくなくなってくるのである。なにか壮大なプランを練りたくなり、世界の平和、などということにも考えが及び、大人物になったような気持ちさえしてくるのである。
地上で、右に左に動きまわる人々がよく見える。
「みんな、よく働いとるか」と、心はすでに為政者のごとき心境になってしまっているのである。
気分が壮大になってくると、物事を巨視的に見る、という態度も自然に備わってくる。ヘリに乗って、まだわずか十数分ではあるが、この男の心境には、大きな激変がみられたのである。
たった十数分で、大人物の心境を会得してしまったのである。
十一兆四千万円などという途方もない金額が、スラスラと口をついて出てくる人の気持ちもよくわかる。
都心に向かうにしたがって、人家が密集してくる。
マッチ箱のような家また家。
よくもまァこうすき間なくマッチ箱を並べたものだと思う。
どんな小さなマッチ箱も、周囲を塀で囲い、己が生活をヒシと守っている。
あの小さなマッチ箱の中では、あの中を更に小さく壁や障子で区切り、襖一枚を隔てて、嫁と姑が葛藤を演じているかも知れぬ。
あの温泉マークの一室では、朝の名残りの一発ということで、部長サンとOLが、愛欲の図絵を繰り拡げているかも知れぬ、などと、この大人物は、大人物らしからぬ俗にまみれた空想を重ねる。
道路という道路は、車、車、また車。
車とは、走るものではなく、行列をするものである、ということがよくわかる。
行列をしながら、そのあいまに、すこし前方へ移動する、というのが車の役目であるということがようくわかるのである。
よくもまァ、飽きもせずに、こんなにたくさんの車をこしらえたものだ、と、つくづく感心していると、前方右下に自動車の発生源を発見する。
自動車工場である。
広い敷地いっぱいに、無数といってもよい程の自動車がビッシリと並べられている。
こんなところで、自動車を培養し、孵化《ふか》し養殖し、どんどん道路に送りこんでいたのである。
けしからん。
と、かねて用意の石ころ握ってぶつけようと思ったけれど、ドアが開かぬ。
操縦士が、ぼくが石ころを拾うのを見て、やがてかかる行為に及ぶのを予測し、ドアを開かぬようにしたのかも知れぬ。
操縦士は、すました顔で前方を見ている。
ますますけしからん。
さきほど、「前方右下に」と書いたけれど、どこが前方か、どこが右か、ヘリに乗っていると、右も左も、前も後ろも、刻々と変わってしまうのである。
さっき右だった所が、今は早や左になり、さっき前方だった所が早くも後ろになってしまう。(あたりまえだ)
わがヘリは、時速百キロとかで、「ア! ここは新宿上空だナ」と思うまもなく銀座上空にさしかかる。
だから、視察者は非常にあわただしいのである。
首を上下左右にあわただしく振りたて、ねじ曲げしなければならない。
操縦士が、出発前に首の体操をしたのもそのためだったようである。
ま下に、小学校が見える。体操の時間らしく、白い運動着が群れている。
デパートには、アドバルーンがあがっている。
高速道路、車、墓地、お寺、アッ向こうに新幹線。団地、マンション、ガスタンク、魚河岸、高層ビル、皇居、二円五十銭らしき空地、人影のないプール、公園、池、アッ、アベックがボートに! 石ころ石ころ。東京タワー、本願寺、東京湾……。遠くには、富士の山も見ゆるぞ。今はシンに忙しいぞ。
とにかくここには、都市に存在するあらゆるものが存在しているのである。(あたりまえだ)
東京を上空から見て、初めてわかったのであるが、東京には色がない。ただ単なる灰色の拡がりがあるばかりなのである。
地上から見れば、ネオンやら看板やら、色とりどりの華やかな都会ではあるが、上空から見ると灰色一色である。
東京には空はないが、東京には色もない。
この灰色の拡がりの中で、この弱々しい春の光の下で、みんなモゾモゾと生活しているゾ。
右に歩き、左に走り、電話をかけ、帳簿を繰り、商談をし、コーヒーを飲み、ふとんを干し、お買物に出かけ、みんなエイエイと働いているゾ。
なんとか、日々の暮らしをたてているゾ。
京浜工業地帯の上空は、煤煙でまっ黒である。まっ黒な上空に、まっ赤な煙もまざりあって、なにやら恐ろしい光景である。
あの恐ろしい雲の下でも、みんなきっと、モゾモゾと生きているゾ。犬なんかだってけっこう生きているゾ。
東京上空を、いちおう巡回したので、機首を三多摩地方に向ける。
色とりどりのボートが並ぶ多摩川上空で、用意のオニギリを食べる。
もし、アベックがボートに乗っていたら、オニギリをぶつけてやろうと物色したが、幸いにしてアベックはいず、オニギリは無事、わが口中へ放りこまれる。
府中競馬場、ビール会社、中央高速、村山貯水池、ユネスコ村……。いずれも、東京都の地図に書いてあるとおりにちゃんと存在している。エライことだと思う。この世の中で、地図だけは真実を伝えているのである。
都心から、東京都のはずれの八王子まで、どのくらいの時間がかかりますか、と操縦士に聞くと、二十万分の一の地図を取り出し、人指しゆびと親ゆびを拡げ、この幅が二十分だから、ま、三十分というところでしょう、と答える。
この、三十分という予測には、すこしの狂いもないのである。
たとえば八王子でタクシーに乗り、銀座までどのくらいかかるか、と運ちゃんに聞けば、たいていの運ちゃんは答えられないと思う。一時間かもしれないし、二時間かもしれない。或は三時間かもしれない。
ところが、ヘリの場合は全く違う。距離さえ計れば、何分かかる、ということが、はっきりわかるのである。三十分で行きます、といえば、ちゃんと三十分で着く。
なにしろ、途中の渋滞ということがないからである。
こうしてぼくは、東京上空を約一時間、フラフラと飛びまわった。
とうとう石をぶつける機会には恵まれなかったが、それはそれでよい。
なにしろ搭乗十数分にして、急遽大人物になってしまったのであるから、さような石をぶつけるとか、ぶつけないとか、小人のごとき愚挙は、もはやどうでもよいことになってしまっていたのである。
地上の小さなことには、いっさいこだわらぬ、心の広いおおらかな大人物になっていたのである。
物事を、巨視的にしか見ることのできぬ、悠揚せまらざる大人《たいじん》になっていたのである。
わが身は天空にあって、「地を這う者共よ。御身らに祝福あれ」などとつぶやき、神のごとき心境になっていたのである。
だが、帰途、編集のHさんがふと洩らした言葉がいけなかった。
「このヘリの借り賃、一時間四万円です」
この一言で、大人物は急にセカセカ、ソワソワとなり、浮き足だって時計を見、「借りてから、まだ一時間と七分しかたってないぞ。今から急げば、二、三分で川越に帰れる。まァ十分ぐらいの超過なら、一時間分の料金だけで、あとのぶんはまけてくれるかもしれないぞ」と操縦士をせきたてせきたて、もはや、巨視的も微視的もあったものではなく、川越目ざしてふっ飛んでいったのでありました。
ただいま上野散歩中
ある人が、レストランで食事をしている。彼はヒザにナプキンをかけ、今しも肉片を口中に放り込まんとしている。
彼が食事中であることは、だれが見ても明らかな事実である。
もし彼が、明白に食事中であるにもかかわらず、右手にフォーク、左手に「食事中」と書いた紙切れを掲げ持っていたとしたら、これはまことに奇妙な光景といわねばならぬだろう。
彼が食事中であることは、明白な事実なのであるから、なにも世間に対して、食事中であると、断わる必要はないわけである。
また、ある人が、川っぷちに腰をかけ、釣糸を垂れているとする。彼が魚釣り中であることは明白である。彼は、魚釣り中、という旗を作って、これを掲げ持ち、魚釣り中であるということを、世間に対して断わるいわれは毛頭ない。
だがここにひとつだけ、自らの明白な行動を、更に明白に、世間に公表しなければならない場合がある。
それは、道路を横断するときである。
ある人が、道路を横断している。
しかも、横断歩道の上を、である。
彼は明らかに、道路を横断中である。これは、だれが見ても、明々白々な事実である。だれも彼は、魚釣り中であるとは思わないであろう。
それなのに彼は、どういうわけか「横断中」という旗を、高く掲げ持っているのである。自らの明白な行動に、更に明白な解説をつけているわけである。
彼が、道路を横断中であることは、明白な事実であるのに、なぜ更に「横断中」と断わらねばならぬのか。
もし歩行者が、道路を横断中に、「横断中」と断わらねばならぬのなら、運転者にも、「運転中」という旗を掲げさせねば、片手落ちというものである。
ある日ぼくは、「横断中」の旗をうやうやしく捧げ持ちながら、道路をうやうやしく横断しつつあった。そして中ほどまで渡ったとき、ふとこのことに気づき、なぜか急に腹が立ち、歩行者にばかりこんなもの持たせやがって、と憤怒がこみ上げ、旗をメチャメチャにへし折ってしまいたい衝動にかられたのである。
幸いにしてそのときは、運ちゃんが、「早く渡れ、コノヤロー」と、情けある言葉をかけてくださったので、旗を折る作業を中止し、危うく道路交通法違反に問われることなく済んだのであった。
もし、自己の行動を、更に旗印によって明白にしなければならないとしたら、世の中、たいへんなことになるのである。
喫茶店で雑談中の人は、「雑談中」という旗を掲げねばならなくなり、ホームで電車を待っている人は、「電車待機中」の旗を掲げ持たねばならず、電車が来て乗車したとたん、「乗車中」の旗に切り換えねばならなくなる。
パチンコ屋でパチンコに熱中している人は、「パチンコ熱中中」であり、温泉マークの門を、まさにくぐらんとしている部長サンとOLは、「浮気決行中」の旗を掲げねばならなくなる。
なぜこんなことをいいだしたかというと、ぼくは先日、自らの明白な行動を、更に明白に世間に公表せねばならない必要のある事件に遭遇したからなのである。
事件などといっても、ぼくなどの遭遇する事件の規模は、まことにささやかなもので、こうしてわざわざ世間に公表するほどのものではないのだが、前述のごとく、そうせねばならない事例もあることゆえ、こうして公表してしまうのである。事件というのは、ある朝、ぼくがさわやかに眠りから覚めたことに始まる。ぼくは、窓を開け、空を眺めた。空は、めずらしく青く澄み、暖かい春風が、心地よくぼくの頬をなでる。ぼくは髪もとかさずにサンダルをつっかけ、フラフラと外に寝ぼけマナコで出かけた。
つい春風に、つい誘われて、というやつである。
フラフラと外に出てはみたものの、行く先とてあるわけはない。
ままよ、前へ前へと歩いていけばなんとかなるだろう、事態はなんとか進展するであろうと心に決め、前へ前へと進んでいったのである。
ぼくの仕事場の周辺は、住宅地である。
わりに陽当たりのよい家が次から次へと立ち並んでいる。
豪壮な邸宅もあれば、貧相な邸宅もある。安普請もあれば、高普請もある。
生垣の上から、桃の花が見える。白い梅の花も、春風に吹かれている。
時刻はちょうど十時ごろだったので、どの家も、どの家も、奥さまふうが、ヨイショヨイショと、布団やら、洗濯物やらの、乾燥作業に従事していた。
人間の生活というものは、どうしても湿気を呼ぶものであるらしい。人間は、もともと湿っぽい存在なのである。だからこうして常に、乾燥を心がけねばならないのである。
ぼくは、花を眺め、女房族を眺め、家の造りを眺め、寝ぼけマナコでダラダラ心うきうき、鼻歌などを口ずさみつつ前へ前へと歩いていった。
そのうち、どうもぼくを見つめる奥さま族の視線が、ただごとでない光を帯びていることに気づいたのである。
誤解してはいけない。
奥さま族が、ぼくに媚《なま》めいた視線を投げた、というのではない。奥さま族の目の光の中に、明らかに警戒と疑惑の陰があったのである。
中には、ぼくをキッと睨みつけ、まるで犬猫を追い払うようなポーズをとる奥さまさえいたのである。
考えてみれば、世の大人たちは、すべて勤めに出ている昼日中、いい若いもんが、蓬髪《ほうはつ》、サンダルばきで、ウロウロとあたりをねめまわしつつ、住宅地を徘徊《はいかい》していたのである。留守宅をあずかる女房族としては、警戒の心を抱くのも無理はないのであった。
ここにおいてぼくは、かかる住宅地に於て、自分が置かれている状況を、漠然とではあるが察知し、この事態に対し、なんらかの対策を講じる必要を感じとったのである。
ぼくは明らかに怪しい者ではなく、留守宅を捜しまわる、その種の人間でもない。また春先に多いといわれる頭脳構造にずれをきたしたその種の人間でもない。
ただなんとなく、この住宅地を、目的もなく、前へ前へと前進している一介の散歩者に過ぎないのである。
人に危害を与えるつもりもないし、また、金品を強奪する意志もさらさらない。
ただいけない点といえば、この日の朝、さわやかに目ざめてしまい、さわやかな春風につい誘われてしまい、ついフラフラと蓬髪のまま前へ前へと歩きだしたことぐらいのものなのである。
しかたなくぼくは、努めて散歩者ふうを装い、努めて軽やかな表情をとりつくろい、吹けないながらも口笛なども吹き、足どりも努めて軽やかな感じに改め、奥さま方と目が合うと、努めてニッと頬笑み、害意のないことを示そうと努めたのである。
しかし、ぼくとしては、「ニッ」と上品に頬笑んだつもりなのに、先方は、これを、「ニタリ」と受けとり、自分が最初予想したとおりの、春先に多いといわれるその種の人間であることを確認し、いよいよもって激しく、当方を追い払おうという態度をとるのであった。
こうなってはもはや散歩どころではなく、ぼくは、前へ前へと歩くのをやめ、まわれ右をし、また前へ前へと、こんどは足早に引きかえしてきたのであった。
ぼくはこうして、せっかくの、楽しかるべき散歩を中断させられてしまったのである。
現代では、散歩すらも気軽に決行することができなくなってしまっているのである。
もしこのとき、ぼくが右手に「散歩中」という旗を捧げ持っていたならば、事態はどう変わったであろうか。
湿気追放中の奥さま族は、その旗を一目見て、なるほど、あの人はああしてうさん臭げにウロウロと歩いてはいるが散歩中であったのか、と納得がいき、警戒の心を抱くこともなくぼくのニッコリに対して、「いいお天気ですわネ」ぐらいの挨拶を交わしてくれたかも知れないのだ。
あるいは、そこから話がはずみ、「ま、上がってお茶でも飲んでらっしゃいよ」ということになり、ぼくがお茶をすすっていると、奥さまは、いつのまにかおネグリに着かえ、熱カンの一本もつけてすり寄ってくる、といったような事態になっていたかも知れないのである。
「散歩中」の旗を持っていなかったばかりに、ぼくは、かかるモモ色のロマンスを逸してしまったのである。
ま、ロマンスのほうはどうでもいいとして、だれだって、散歩ぐらいは、自由気ままにしてみたいではないか。
だがそれさえも、先述のような世間の誤解をうける世の中になってしまったのである。
散歩をしたいと思ったら、住宅地は避けねばならないのである。
ぼくは住宅街を、石をもて追われるごとく逃げ去りながら考えた。
いったい散歩はどんな場所でなら許されるのか。
公園ということも考えた。
しかし公園というところはアベックという、人間のワンセットが、ウロウロと我が物顔に歩きまわっている所なのである。
ぼくは、なにが嫌いといって、アベックぐらい嫌いなものはないのである。
世の中に 絶えてアベックの なかりせば
春の心は のどけからまし
というぐらいの心境なのである。
公園へ行って、アベック共を見るくらいなら、この住宅地に於て、奥さま族の非難の目を浴びていたほうが、よっぽどマシなのだ。
そうして、やっと思いついたのが動物園であった。
動物園ならば、たとえ、一人もんがウロウロしていたとしても、だれも疑惑のまなざしを投げないだろう。
いや、動物好きの好青年と受けとられ、女学生などからも、好意の視線を投げかけられるかも知れない。
こうして孤独な散歩者は、長い夢想から覚め、今度は動物園を目指して、前へ前へと歩いていったのであった。
孤独な散歩者は、動物とたわむれるほかはないのである。
東京の 上野の森の 檻前に
われ泣き濡れて カバとたわむる
新宿で山手線に乗り換えて上野に向かう。
新宿駅のホームで電車を待っていると、「モハ」とか「イハ」とか書かれた電車が、次から次へとやってくる。
ぼくは、できることなら「ウハ」という電車に、ウハウハ、ウハウハ喜びながら乗りこみたかったのであるが、ウハウハ電車はついに来ず、仕方なく「モハ」電車に、モハモハ、モハモハ乗りこんだのであった。
この日は日曜日で、朝から快晴。風ひとつなく絶好の行楽日和であった。
桃の花は、今を盛りと咲き、梅の花、つつましく咲き乱れ、桜はもうひと息、というころである。
山手線は、高田馬場、目白を通り、池袋を過ぎると、急に景色が変わる。
大塚、巣鴨、駒込、田端、日暮里、鶯谷はなんとなく薄暗い感じがする。
「まるで、山陰地方のようだ」と孤独な散歩者はつぶやく。
上野駅に着いて、階段をやみくもに上がったり下がったりしていると、幸運にも公園前に出る。
ぼくはいつも、大きな駅で降りると、決して掲示板など見ずに、目の前に現われた階段に素直に従うことにしている。
目の前に現われた階段が、降りる階段であれば素直に降り、次に現われた階段が、昇る階段であれば、素直に昇ることにしている。
これを繰り返していれば、必ずいつかは外に出られるものである。
駅の構内というところは、ヘタに掲示板を見、それに従って右に左に歩きまわっていると、なかなか外へ出られないものなのである。
なにしろぼくは、ある時、国電秋葉原駅に於て、階段を駆け昇り駆け降り、右に走り左に飛び、朝早く駅構内に入ったのに、ヘトヘトになって外へ出たときは、陽ははや、西の方に落ちかかっていた、という苦い経験の持主なのである。
ぼくは、駅の構内は、すべて魔窟であると考えているのである。この日は、ぼくにとってよいお日柄であったらしく、わりに早く外へ脱出することができ、公園の階段をゆっくりと昇る。なにしろ物凄い人ごみで、先日の住宅街の場合と違い、みんな、ボクをウロンの者と見る余裕などない。
春うらら、梅花ほころび、コート姿の人は少ない。とはいえ、半袖の人というのはまだいない。
なのに、上野の西郷さんは、早くも浴衣姿であった。ちと早過ぎるのではないか。
なんとなく口をあけて、西郷さんの銅像を見上げていると、「やァ藤山」とか、「おお松本さん」とかいう声が、うしろから聞こえる。なんとか戦友会という小旗を持った人を中心に、田舎のオトッツァンふうやら、重役ふうやら、ヒラふうやらの、五十がらみのオッサンたちが互いに声をかけあっている。
みんな朴訥《ぼくとつ》そうで、この人たちが、鉄砲持って戦争をしていたとは到底思えない。
これから、どこかの小料理屋に行って、戦友会を開くのである。そうすると、きっとお酒が出るに違いない。そしてこれは、あくまでぼくの予想であるが、彼らはきっと軍歌を歌うに違いないのである。
この年代のオトッツァンたちは、酔うと、たいてい軍歌を歌うものなのだが、きょうは、ひときわ激しく軍歌を絶叫するに違いない。ガンバレヨ。
さて、孤独な散歩者は、ウロウロと動物園の入口にたどりつき、大枚百円を投じて入場券を購う。
散歩するのにも金が要るのである。
掲示板には、大人百円、中学生五十円、老人、子供は無料、とある。
会社などでは、ドア付近にはヒラの社員が位置し、課長、部長などのエライさんは、奥の方に陣どっているものであるが、ここ動物園もやはり同じである。
小鳥とか、山羊とか、ロバなどのヒラは、入口付近におり、ライオン、トラ、象などのエライさんたちは、やはり奥のほうに陣どっているのである。
入場者も、入口付近のヒラには目もくれず、エライさん目指して突き進んでいく。
いろんな人間関係のグループが、楽しそうにはしゃいでいる。パパとママと子供、春休みの女学生たち、自衛隊とその両親、といったぐあいで、単独、というのはめったにいない。一人だけいたが、そいつは暗い目付きで、ベンチに坐り、トリスのポケットびんをあおっていた。
彼にとっては、きっと暗い青春なのだ。トリスを飲んでガンバレよ。
やはりいちばん多いのは、パパ、ママ、子供のグループである。
だがここには、突飛な服装もなければ、ホットパンツもいない。
だいたいに於て、子供とママの服装はきらびやかであり、パパの服装は貧しい。
ささやかなおとうさんと、ささやかな子供と、ささやかなおかあさんばかりである。
十一時半になると、そこここで食事が始まる。ベンチは、かかる、ささやかな大集団によって占拠されてしまう。
一人づれは、すわるべき場所さえない。
孤独な散歩者は、いよいよ孤独である。
しかたなくコーラなど飲みながら、ささやかな食事をジロジロ眺めまわす。
オニギリが圧倒的に多い。
ぼくは、かなり念入りに食事内容を調査して廻ったが、サンドイッチなどのパン食は、ほんの数える程しかなく、大多数は、オニギリ、おすし、おいなりさんなどの米食である。農協の皆さん、安心してください。
オニギリは、圧倒的にノリマキが多い。それから、銀紙に包んだゴモクオニギリなどもあるし、ミソをつけて焼いた懐かしいのもある。ユデタマゴ、ウインナソーセージが例外なく並ぶ。
行楽の昼食に関する想像力は、だいたい全員同じところに落ちつくものであるらしい。
ささやかなとうちゃんたちは、例外なく売店に走り、例外なくストローつきファンタと、ミカンと、オセンベを購入して戻ってくる。
暖かい陽の光がサンサンと降りそそぎ、みんなノンビリと幸せそうにオニギリを頬ばる。食事をしている一家のすぐそばで、別の一家のおかあさんが、赤ン坊に、哺乳ビンでお乳を飲ませる。そのすぐそばでは、別のおかあさんが、赤ン坊のおしめを取り換える。黄色いウンコがみんなの視線にはいる。が、まわりのおとうさんも、おかあさんも平気でそれを見ている。見ながらオニギリを頬ばっている。
赤ン坊にお乳をやっているおかあさんが、大股拡げてパンツが丸見えになっていても、みんな平気である。平気でオニギリを頬ばっている。
つまりここは、全国の茶の間が一斉に移動して集結したようなものなのである。
だいたい、女房族というのは、彼女がそこに坐りこめば、その周辺はたちまち、彼女の城という感じになるものなのである。
公園のベンチに坐りこめば、その周辺は、たちまち彼女の城となり、列車の座席に坐りこめば、その周辺は、たちまち彼女の城となる。彼女は、どこにいても常に城主である。
そこへいくと、とうちゃん族というのは、どこに坐りこんでもサマにならない。
一家揃って公園のベンチに坐っていても、とうちゃんだけは、どうしてもその風景にピッタリと収まらない。
常に彼らは、間借り人なのである。
昔は、女は三界に家なし、といったが、現在はその逆である。
男は三界に家なし。「いやオレは、団地の三階にちゃんと家があるけどネ」というとうちゃんもいることはいるだろうが。
子供のメシ粒を拾ってやるとうちゃんたちの指に、一様に結婚指輪が光っている。
食事が終ると、こんどは一斉にソフトクリームである。例外なくソフトクリームではあるが、中には水飲み場で水を飲んでいる訳ありの親子もいる。
母子の表情が明るく、うきうきしているのに反して、とうちゃんたちは一様にうかぬ顔をしている。
こんなところで、こんなことをしていていいものかどうか、と考えているに違いない。
あすの、会社の仕事の段取りを考えているのかもしれない。とうちゃんたちは、こうして動物園へやって来ても、どうしても家庭人ふうの表情にはならないのだ。
どうしても、ビジネスマンふうの表情を、変えることができないのである。
考えてみれば、ここに集結しているささやかなとうちゃんたちが、日本をGNP世界第二位に押し上げているのだ。ガンバレヨ。
孤独な散歩者は、ベンチを一人離れると、人波去った動物共の檻に向かう。
みんなが昼飯を食っているすきに、動物共をじっくり観察する所存とみえる。
ある人が、つれづれなるままに、ビアスふうに綴った動物連想ゲームを次に掲げる。
キリン =老後
ライオン=痛風
ゾウ  =親戚のオバサン
ワニ  =チャック
シマウマ=芸者
猿   =エゴイズム
オランウータン=親戚のオジサン
トラ  =総会屋
カバ  =バカ
ペンギン=中立
ラクダ =長屋
オットセイ=ノーキョー
ゴリラ =痔疾《じしつ》
ヘビ  =出前迅速
サイ  =愚妻
熊   =トルコ娘
鹿   =卑怯
しかし実際に動物園に来て、彼らを目のあたりに見ると、彼らは、実にもう態度悪いね。
全員、ダラケ切っているのである。
こうして、多数の方々が、お集まりくだすって、そのお姿拝見しようとのぞき込んでいるのに、奴らときたら満足に目をあけているのさえ数えるほどしかいないのである。
せめて目ぐらいあけろよ。ヤイ!
惰眠をむさぼっているのもいれば、寝そべってうす目を開けて、こっちのようすをうかがってるやつもいる。ひっくり返って四肢を宙に泳がせている奴さえいる。
いったい、これが、人間さまをお迎えする態度か。ヤイ!
みんな週休一日制か、せいぜい二日制で、一週間働いてきた人たちが、やっとこうしてヒマを見つけてご来場くだすっているのである。
それなのに、週休七日制の奴らは、アクビなどこいて惰眠をむさぼっているのである。
けしからん。
ロバとか山羊とかのヒラの小物は、マメに立ち働いて、人間になんとか尽そうという態度がうかがえるのであるが、ライオン、トラ、ゾウなどのエライさんほど態度が悪い。
横柄である。
かくして、動物園に於ける動物に関しては、連想ゲームは次のようになってしまうのである。
キリン =怠惰
ライオン=怠惰
トラ  =怠惰
ゾウ  =怠惰
カバ  =怠惰
ワニ  =怠惰
以下略
信濃路のタヌキ食味記
好奇心が強いせいか、意地が汚いせいか、そのどちらなのかはわからないが、ぼくは、食物には絶大な興味を示す。
食通といわれる人々は、「うまいもの食べ歩き」を趣味にしていらっしゃるが、「うまいもの食べ歩き」は、とかく「高くてうまいもの食べ歩き」になりがちである。
彼らは、どこそこにうまいものあり、と聞けば、どんな遠方も厭わずに飛んで行く。
九州だろうが、北海道だろうがかまわずに飛行機を駆って飛んで行く。
話は急に変わるが、最近この「飛んで行く人」とか「飛んでくる人」が非常に多くなっているような気がする。
テレビのワイドショーなどを見ていると、汗を拭きつつ、「たった今、九州から飛んで来たところです」とか、「ついさっき、札幌から飛んで来たばかりです」などという人を近頃数多く見聞する。
蚊やトンボじゃあるまいし、そうやたらに人間に空を飛びまわられたんじゃ、たまったものではないゾ。すこしは飛ばないで、ジッとしていろ。ヤイ。
最近、蚊やトンボが減ってきて、空を飛びまわらなくなったので、代わりに人間が飛びまわるようになったのかもしれない。
といった具合に、食通の方々は、あちこちに飛んで行くが、ぼくは、いくらどこそこにうまいものありと聞いてもおいそれとは飛んで行かない。「うまいだろうなァ」とため息つきつつ家にひっそりとじこもっている。
ぼくは、彼らと違って、「安くてヘンなもの食べ歩き」を趣味にしているからである。
安くてヘンなものを、遠方まで食べに行ったのでは、「高くてヘンなもの食べ歩き」になってしまうからである。
ぼくはヘンなものが好きではあるが、今までに食べたものは、ヘビ、蛙、ナマズ、イナゴ、バッタ、タニシ、蜂ぐらいのものである。世の中には、オットセイとか、象とか、イノシシとかの大物の「ヘンな食べ物」と取り組む人もいるのに、ぼくは小動物専門である。よく考えてみると、なんだか小動物ばかりをいじめて食べているようで、なんとも情けなく、弱い者いじめをしているガキ大将のような気がしてくる。
以前、蛙を食べに行ったときは、ザンキにたえない思いをした。
その店に行ったときは、時刻は既に夜の十時を過ぎていた。
この時刻は、蛙たちにとってもおやすみの時間であるらしく、水槽の中の彼らは、すでに眠りについていたのである。
全員、目をつぶってジッとしている。
コックリコックリと、首を振っている蛙さえいたのである。
ぼくが蛙を注文すると、店のオヤジさんは、水槽の中から一匹の蛙をつかみ出した。
眠っているところを突然起こされた蛙は寝ぼけマナコで、「ナンダ? ナンダ? どうしたんだ?」という顔つきでマナ板の上に乗り、事情がよくのみこめない様子でキョロキョロしている。そのキョロキョロしている頭を、オヤジさんは、金ヅチみたいなもので一撃したのである。
蛙はこの一撃によって、事態の真相をやっとのみこんだらしく、「ナットク」と一声叫んでマナ板の上に倒れ伏したのであった。
結局ぼくは、その蛙を食べてしまったのであるが、あと味は決してよくなかった。
なにしろ、せっかくいい気持ちで眠っているところを、わざわざ起こして食べてしまったのである。あと味のいい筈がないのである。
本人に、事情をよく説明して、本人も十分納得の上で食べられるのなら、いくぶん諦めもつくだろうが、なにしろ半眠りのところを一撃され、食べられてしまったのでは、浮かばれる魂も、浮かばれなくなってしまうというものである。
と、こんなふうに、ぼくは今まで、小動物ばかりを責めたてて食べてきたのであった。
これではいけないと思ったのである。
弱きを助け、強きをくじかなければいけないと思った。しかし、象やオットセイなどの大物は、ぼくには荷が勝ちすぎる。
やはり、大物よりちょっと下の中物あたりを狙ったほうが、分相応というものである。
中物というと……とあれこれ考えたあげく、狙われたのはタヌ公であった。
タヌキを食べさせるところが長野県にありますと教えてくれた人がいた。
「よーしタヌキに決めた。タヌ公め、おぼえてろ、食ってやるぞ」と、タヌキにはなんの恨みもないのに、ぼく一人勝手に敵意を燃やし、舌なめずりしつつ上野駅から信越線長野行きの列車に飛び乗ったのである。
ぼくは、自前で旅行するときは、いつも普通車に乗るのだが、雑誌社が費用を出してくれる旅行の場合は、いつもグリーン車に乗ることにしているのである。
殊勝な心がけといわねばならないだろう。
グリーン車には、どういうわけかサングラスをおかけになった方々が多い。
また、ゴルフ袋をかつぎこむ方々も多い。
しかし、ゴルフ袋をかつぎこむ方々というのは、どうしてああデカイツラをなさるのであろうか。
ぼくは、ゴルフ袋をかついでウロウロしている男共を見ると、どういうわけか、あの袋をけっとばしてやりたくなる。
ウロウロするな、バカ。
ゴルフ袋をかついできた人は、どうしてああゴルフの話ばかりするのであろうか。
もっと他の話もしろ。ヤイ。
さて久しぶりにグリーン車に乗るというので、ぼくは、他の上品な乗客に合わせて、華麗なる服装に身を包んでいたのである。
ダークブルーにストライプのスーツ、当節はやりの黄色いワイシャツ、赤青黄の色どりはなやかな幅広のネクタイ、といった按配で、見る人が見れば、キモを冷やすようないでたちだったのである。
この華麗なる青年紳士が、今宵タヌキ汁をすするとはだれも思うまい。ザマアミロ。
外は小雨に煙っていて薄暗く、タヌキ汁をすするには絶好のタヌキ汁日和である。
タヌキ汁は、やはり薄暗い日に、薄暗いところで、陰険な目つきをしてすすらなければいけないものなのである。
軽井沢あたりに、避暑に行くらしいサングラスのアベックは、「雨が降っていて、やあねエ」などと身をすり寄せ合っている。ザマアミロ。
嫉妬と羨望の目つきで、グリーン車の中の乗客を一人一人ねめまわしていたが、発車のベルが鳴っているのに、同行の予定の編集の人が来ない。
発車のベルが鳴り終っても、まだ来ない。
発車まぎわギリギリに飛び乗ってくるであろう、と腰を浮かし待っていたが、いっこうに飛び乗ってくる様子もない。
ドアが締まって、列車は動き出し、ぐんぐんスピードをあげているのに、まだ飛び乗ってこない。
ぼくはあわてた。あわてて逆上したのである。
ここで、編集の人の名誉のために書いておかなければならないのだが、一列車遅れる、という彼の伝言を、車掌が忘れてしまったのである。実にケシカラン。
そんなこととはツユ知らぬぼくは、とにかく逆上したのである。
逆上するとどうなるかというと、まず目の前がまっくらになるのである。それから汗が、滝のように、いや、水道の蛇口のように流れ出てくるのである。
とにかくエライことになった。だいいち、ぼくは切符を持っていない。山田温泉というところへ行くことはわかっているが、なんという駅で降りていいのかわからない。
ウロウロと立ち上がり、またすわりこむ。目がうわずっている。
もはや、ゴルフ族や、避暑族に冷たい視線を投げるどころの騒ぎではない。
今までぼくは、けっこういろんなところに行ってるのであるが、いつも同行者つきの旅行なのである。方向オンチのぼくは、一人旅をしたことがない。
こうなったらとにかく目的地まで一人で行こう、きっとなんとかなる、三十を過ぎた男が、付き添いがなくてはどこへも行けぬというのでは末代までの恥である。
とにかく行ってみよう、と心に決める。そのときのぼくの気持ちは、実に悲壮だった。
上野から、たかだか三時間ぐらいの温泉地へ行くのに、南極へ一人で旅立とうとしている人のように悲壮だった。或は、太平洋を一人で横断しようとしている人のように、悲壮な顔つきをしていたのである。
ぼくは、なにをするにしても、まず度胸をつけてからでないと、何事も行なえないというタチの人間なのである。
では、どのようにして度胸をつけるかというと、そのへんの仕かけは簡単なのである。
アルコールを摂取しさえすればいいのである。
ただ今回の場合は、事は火急を要するので、ゆっくり酒を味わいながら度胸をつけるというわけにはいかなかった。
幸い、罐ビールを買っておいたので、わななく手でプシュッとフタをあけ、わななくノドにガボガボと注ぎこむ。
二罐買ってあったので、二罐を一気に流しこんだのであるが、ぼくはよほど逆上していたらしく、逆上の度合がますますひどくなってきたのである。目の前はまっくら、背中は水道の蛇口である。
ドアを開けて、車掌がはいってきた。
一人ずつ検札しながら、だんだんこちらに近づいてくる。なにしろぼくは、無札乗車である。目の前は、もはや真の闇である。
闇の中から、「ハイそちらさん、切符を」という声が聞こえてくる。
「もしもし、切符を拝見……」
「アグアグアグアグ……」
「アグアグじゃわかりませんねェ。切符を……」
「で、でふからネ、アグアグアグアグ」
「とにかく切符を」
「で、でふからネ、アグアグアグアグ」
逆上のあまり、アゴもはずれてしまったらしく、自分では、一所懸命事情を説明しているつもりなのだが、出てくる言葉はアグアグばかりである。
この突然の不幸も、今宵食べる予定のタヌキのタタリなのかも知れない。
アゴがダメになったので、しかたなく、ポケットから手帳を取り出す。旅館名と住所が書いてある筈である。
「困りますねェ。いったいどこまで行くんですか?」
「アウアウアウアウ」(いま、それを捜しているところだ)
「早くしてくださいよ、ほんとに」
住所が書いてあったので、そこのところを指で示す。
「ここへ行くわけですか」
「アウアウアウアウ」
「じゃあ、長野駅で乗り換えですね」
「アウアウアウアウ」
まるでオットセイである。
これは、われら悪食仲間が食ったオットセイのタタリに違いない。
アウアウアウと叫んでいるうちに、アルコールが効いてきたのか、少し落ちついてくる。はずれたアゴも、うまく噛み合わさってきたらしいので、車掌にくわしく事情を説明する。
話をしてみると、車掌は実にいい人で、山田温泉へ行くのなら、長野駅で降り、長野電鉄というのに乗り換え、須坂というところで降りなさい、と教えてくれる。しかも、こういうことは、よくあることですよ、といってニッコリ笑ってさえくれたのである。
地獄に仏とは、まさにこのことである。
逆境にあったぼくは、人の情けが身にしみて、涙さえ浮かべ、去り行く車掌さんの後ろ姿を伏し拝んだ。
後でわかったのであるが、なんとこの車掌が、編集の人の伝言を忘れた張本人だったのである。いい人どころか、極悪非道の大悪人だったのである。
さて事態は順調に収拾されたので、落ちつきを取り戻し、ゆったりと背もたれにもたれかかり件《くだん》のゴルフ族と避暑族に、再び非難の目を浴びせかけることにする。
どうもこの男は、逆上しているか嫉妬しているか、そのいずれかの状態しかないらしいのである。
ゴルフ族は、依然としてゴルフの話をしているし、避暑族のほうは、依然として身を寄せ合っている。実にけしからん。
長野駅から長野電鉄に乗り換える。
長野電鉄は、通勤電車であるらしく、勤め帰りのサラリーマンや、中高生がたくさん乗っている。
もうそろそろ、「タヌキ汁的雰囲気」が出てきてもよさそうに思うのだが、いっこうにそうした感じがしてこない。
あまつさえ、さっきまで降っていた雨が止み、太陽が顔を出してきた。絶好のタヌキ汁日和が、これでは台なしではないか。
せっかく、そぼ降る雨の中、部屋を暗くして陰険な目つきでタヌキ汁すすってやろうと思っていたのに、これでは予定が狂ってしまう。
須坂というところで降り、タクシーを拾い山田温泉のF荘に向かう。
山田温泉は、旅館が全部で七軒というひなびた温泉場であるが、F荘は、瀟洒《しようしや》な近代旅館であった。
タヌキ汁を食わせる旅館というから、きっとわらぶき屋根が傾いて、薄暗くて汚い旅館を予想していたのに、どうも勝手が違う。
部屋に通される。
部屋のずっと下のほうには、谷川が音をたてて流れ、目の前には、もえるような緑の山が、迫るようにそそり立っている。
ぼくは大急ぎで外へ出る。
見わたすかぎり緑一色である。
これだけ緑が多ければ、酸素も豊富である筈だ。そこいら中、酸素だらけである筈だ。
ぼくは大急ぎで深呼吸をする。
何回も何回も深呼吸をする。
こんなきれいな空気は、めったに吸えるものではない。うんと吸いだめして帰らなくちゃ、と思う。あんまり吸いだめをしたので、呼吸が苦しくなり、ほうほうの態で部屋に戻ると、今度は地下の浴室に向かう。
浴室の入口に、神経痛、リューマチ、便秘などに効く、という効能書きが貼ってある。
ぼくはリューマチの気味があるので、何回も何回も湯につかる。
今度はつかりだめをする所存とみえる。
何回も湯につかり、フラフラになって浴槽から這い上がり、ひと休みすると、またドボンと湯につかる。
さっきの空気の吸いだめといい、温泉のつかりだめといい、こういうのを正真正銘の貧乏性というのであろう。われながらいじましいと思う。
温泉町に夕闇が迫って、タヌキ汁をすする時間が迫ってきた。
あちこちで宴会が始まったらしく、あちこちから軍歌が聞こえてくる。他の歌もすこしは歌ったらよかろうにと思うのだが、聞こえてくるのは軍歌ばかりである。
日本は、今までいろんな戦争をしてきたので、かなり大量の軍歌が取り揃えてあるからいいようなものの、もしこれが少ししかなかったら、日本の宴会は、かなりシンミリしたものになっていたかもしれないのである。
「夕食の用意ができました」といって、用意された別室に案内される。
わらぶき屋根の傾いたアバラヤの中で、いろりを囲み、陰惨な目つきでタヌキ汁をすする予定であったのだが、いまはそれも望むべくもない。きれいな、六畳ほどの個室である。
涼風が、川面から吹き上がってくる。
部屋の中央の座卓の上にガスコンロが置かれ、しゃれた形の鍋の中で油が煮えたぎっている。
タヌキ汁ではなく、ポンポン鍋と称し、串に刺さっている肉片を油の中にジュッと突っこみ、揚げて食べるのだという。
いってみれば、フォンデュの一種である。
串は、一人前十五本あり、その内訳は、小鳥、兎、タヌキ、イモ、ピーマン、エビ、チーズなどなどである。
問題のおタヌキさまは、十五本のうちの二本で、一本にうずらの卵ぐらいの肉片が一切れ刺してある。二本で二切れである。
タヌキフォンデュの主役がたった二切れとは情けない。
おタヌキさまは、シソの葉で巻かれ、変わり果てた姿で串に刺さっている。
ぼくは、タヌキを十匹ぐらいは食ってやろうと、勇んでやってきたのであるが、小さな肉片を油の中にジュッと突っこみ、タレをつけてアグアグアグと噛むと、それでもうタヌキはおしまい。逆上と嫉妬と、三時間の時間をかけてやってきたにしては、その報酬はあまり多いとはいえない。
アグアグアグでおしまいである。
どうもタヌキに化かされたような心境である。そのかわり、タヌキならざる料理は、食べきれないほど出た。
ワラビ、ゼンマイ、タケノコ、キノコ。
カボチャにキューリにシイタケ、山芋。
ソバ、高野豆腐、木の芽でんがく、山ウドの酢みそ、カニ、ナス、エビ、鯉、鯉こく。(ここのところは、是非講談口調で読んでいただきたい)
とにかくぼくは、死に物狂いで食べた。
一メートル近い、太い青竹でカンをした山窩《さんか》のササ酒というのも出た。
これも死に物狂いで飲んだ。
こんなごちそうには、めったにありつけるものではない。食いだめ、飲みだめの精神を発揮して死に物狂いで飲みかつ食べた。
そして気持ち悪くなった。
食べ過ぎて気持ち悪くなった。
タヌキの肉の味であるが、一般には、臭い臭いといわれているそうだが、ぜんぜん臭くはなかった。肉は赤味を帯び柔らかく、上等のヒレ肉のごとき味である。
たいへんおいしいのである。
ぜひぜひ、十匹ぐらいは食べたいと思ったのであるが、それではこの旅館の貯蔵が底をついてしまう。
もともとのタヌキの肉は、たいへん臭いという。この臭みを取るために、ここF荘の若主人は、いろいろ研究の結果、タヌ公を土中に埋めることによって臭みをとることに成功したのである。
せっかく土の中にひそんでいるところを、追い出されて捕まえられ、殺されて再び土中に埋められたんじゃ、タヌ公もさぞかし立つ瀬がないことであろう。
ここに慎んで、タヌ公の冥福を祈りたいと思う。
タヌキという動物は、どうも悲劇的な動物であるらしく、日本のおとぎ話などでも、常に悲劇的な悪役をふりあてられている。
その悪役も、うんと悪い悪役ではなく、どこか間の抜けた、愛嬌のある悪役なのである。実際のタヌキも、やはり間が抜けているところがあるという。
たとえば、この山田温泉近辺にもタヌキがたくさん出没し、夜、車で走っていると、タヌキに出くわすことがよくあるという。
するとタヌ公は、ちょっと横道へそれて逃げればいいのに、道なりにスタコラスタコラ逃げていくという。
そうして、もう逃げられないとなると、コロリと横になって死んだふりをするのである。このへんが、タヌキ寝入りの語源なのであろう。
タヌキという奴は、世の中の認識のしかたが、他の動物たちより少しずれているらしい。いってみれば、かわいそうな動物なのである。そのかわいそうな動物を、油で揚げて食べてしまうなんて、人間て、なんてひどい動物なのだろうとつくづく思うのである。
中年はヤングをめざす
ヤング、という言葉が、昨今大いにもてはやされている。
デパートでは、ヤングメンコーナーが幅をきかし、テレビではヤングメンナントカなる番組が花盛りであり、ラジオに至っては、これはもう朝から晩まで、ヤングヤング、ヤング一色である。まったくヤン(グ)なってしまう。
現代は、どうやらヤング専横の時代であるらしく、チューネン、もしくはローネンは、ただひたすら恐れ入り、隅の方で小さくなっているよりほかはないらしいのである。
ヤングにあらざれば、人にあらず。
ヤングにあらざれば、男にあらず。
したがって当然、中年も老年もヤングを目指す。老年の佐藤元首相さえも、カラーシャツに幅広ネクタイでヤングを目指しているのである。
ぼくのヤング志向も、最近はますますその激しさを増すばかり。
髪も長く伸ばしたし、お腹も苦心惨憺の結果、ひっこめることに成功した。
目尻の小ジワは、シワとりクリームなるものを密かに入手し、朝晩マッサージに励んだ結果、カラスの足あとを、スズメの足あとぐらいに縮小せしめることに成功したのである。
外観は、これで一応整ったのであるが、問題は精神面である。精神だけは、急造工事で、というわけにはいかないのである。
目下のところは、外面如《げめんによ》ヤング、内面如チューネンで、なんとかしのいでいるのである。これはまァ、急いでも仕方のないことなので、ヤングの立ちまわり先などを、週刊誌などで調べ、出かけていって、なるべくヤングの中に身を置くようにし、ヤングの考え方とか、フィーリングとかを、少しずつ身につけようと考えているのである。
その結果、最近は、「カッコイイジャン」などという言葉も、わりにスムーズに口をついて出てくるようになってきているのである。
ヤングの方々と、ボーリング場に行っても、決して「十文半の靴を」などとはいわない。ちゃんと「二十五センチの靴を」といえるようになってきたのである。
運勢の話をしても、「キミは、イノシシどしだったね」などとは決していわないのである。ちゃんと「キミは、乙女座だったね」とか「天秤座だったね」といえるようになったのである。
「ホンダのナナハン」なる言葉が、会話の中に混ざっていれば、すぐ、ヤマハ、スズキなどの言葉を混じえて応ずることができるようになったし、「スカG」なる発言あれば、すかさずギャランGTOなどと答えることができるようになってきたのである。
常にヤングの中に混じり、目尻の小ジワ押えつつ、常に聞き耳を立て、うなずき、メモを取り、復唱し、常に勉強させていただく態度を持ち続けているのである。
折りしも、日本で唯一の、お金を取る放送局から、ヤングのラジオ番組の司会をやってみませんか、という依頼があった。
渡りに船、地獄に仏、二級酒に板ワサ、ビールに枝豆とばかりに、その依頼を引きうけたことはいうまでもない。
二つ返事で引き受ける、という言葉があるが、そのときのぼくは、もっと早い、一つ半返事で引き受けたのである。
なにしろ、ヤングに応ずべき体型も、態勢も、衣装も、すべて準備万端整っているのである。すぐさま家を飛び出し、その会場に駆けつけたとしても大丈夫な態勢が、すでに整っているのである。
会場は、なんと船上であるという。
川崎から、カーフェリーなる船が、毎日一回、九州の日向《ひゆうが》目指して出航している。
この船上で、ヤングコンサートなるものを開催するので、その司会をやってくれないかという依頼なのである。
いざ出発の日の前の晩、ぼくはいつもよりタップリとシワとりクリームを目尻に塗りこみ、いつもより何十回も多くマッサージをして、いつもより早く床についたのである。
あすは、つややかな、瑞々《みずみず》しいお肌で、ヤングの方々と相まみえなければならない。
十分な睡眠が、なんといってもお肌には大切なのである。
カーフェリー、せんとぽーりあ丸は、朝十時半に川崎を出発する。
到着は翌日の午前十一時。
二十四時間半の長旅である。
バンドの人々、歌手、ディスクジョッキーをやる人々、放送関係者など、総勢三十三名の大部隊である。
放送局関係以外の人たちは、いずれも長髪|痩躯《そうく》の若者たちである。
ぼくは、痩躯とまではいかないながらも、とにかく長髪である。
伸ばしてよかった!
むろん、ハラの出ている人は、一人もいない。
ひっこめてよかった!
トンボメガネあり、カーテンふうラッパズボンあり、インディアンふうはち巻きあり、一人としてサラリーマンふうはいない。
この日の朝、ネクタイ締めてこようかどうしようかと迷ったのであるが、結局はずして出て来たのである。
はずしてよかった!
長髪痩躯、異装奇装のヤングの中に身を置くと、まるで宇宙人の中にいるような気がしてくる。だがここでおびえてはならない。あなどられてはならない。
つとめてさり気なく、つとめて落ちつき、つとめて自然に挨拶を交わし、チューネンである身分を隠しおおさねばならぬ。勉強させていただかねばならぬ。|まぜて《ヽヽヽ》もらわねばならぬ。
ヤングの方々と、つとめて自然に挨拶を交わし、会話を交わし、握手なども交わして一人船室に落ちついたときは、チューネンの疲れが一度にドッと出て、ベッドによろよろと倒れ伏してしまった。
船の底のほうから、エンジンの音が響いてくる。船は波をけ立てて一路九州に向かっている。
一人寂しく中年の疲れを癒していると、放送局の人が、ぼくの出番は夜十時半からです、と知らせに来る。
この人は、中年の人である。
中年の人を見ると、とにかくホッとする。こういうのを「チューネンのヤング疲れ」というのであろう。
一日の船旅で、三日間の帯番組を、いっぺんに収録してしまうスケジュールである。
ぼくの出番は、そのうちの一日分で、十時半から四十五分間、美人のパーソナリティと二人で、音楽をはさみながら、司会ごときことをするのである。
むろんぼくは、司会などという大それたことをしたことがない。
放送などという仕事もしたことがない。
あ、そうそう一度だけ、放送の仕事をしたことがあった。
チリ紙交換車に乗って、「毎度おなじみ、チリ紙交換……」という放送をしたことがあった。このチリ紙交換の放送範囲は、近所数十軒であるが、ラジオとなると全国的である。規模がまるで違う。
不安である。
不安ではあるが、夜の十時半までには、まだだいぶ時間がある。
もう少し間際になってから不安になっても、間に合うことは間に合う。
それまでは、せっかくの船旅を楽しむことにしよう、と思いたつ。
船旅の良さは、船上でノンビリと時を過ごすことにある。
とりあえず、ノンビリ、ビールを飲もうと思った。そこでノンビリと、足どりもゆるやかにレストランに出かけていって、ノンビリとした口調でビールを頼んだ。
ゆらゆら船が揺れる。ノンビリとビールを飲む。水平線が遠くにかすんでいる。ビールがうまい。
これぞ船旅のダイゴ味である。
しばらくは、ノンビリとビールを飲んで時を過ごそう、と心に決め、ノンビリと周囲を見渡してみると、あまり客がいない。
どういうわけかと思ってデッキのほうを見ると、こちらは人、人、人でいっぱいである。デッキチェアーに寝そべって、潮風に髪をなびかせながら、海上のおいしい空気を満喫しているらしいのである。
なるほどそうであったか。
ノンビリとデッキに寝そべって、潮風に髪をなびかせる、これこそ本当の船旅のダイゴ味であったか、と気付き、残りのビールを大急ぎで飲み干すと、大急ぎでデッキに出る。
大急ぎでデッキに出ると、大急ぎでデッキチェアーを見付け、大急ぎで寝そべる。
なるほど、頬をなでる潮風が心地よい。
これだこれだ、これこそ船旅のダイゴ味であった、としばらくは、この「デッキ上の潮風満喫」に時を過ごす覚悟を決め目を閉じる。
しばらくして閉じていた目を開け、隣の奴を見ると、奴はデッキチェアーに寝そべって読書にふけっているのである。
ムムッ、サースガァ! ヤルー! と使い慣れたヤングの言葉が口をついて出、なるほどそうか、デッキで潮風に髪をなびかせながら読書にふける。これこそ本当の船旅のダイゴ味であったか、と大急ぎで起きあがると、本を取りに大急ぎで船室に戻る。
本を取って大急ぎでデッキに戻ると大急ぎで寝そべり、大急ぎで本を開く。
数行読んで隣の奴に目をやると、奴は読書を中止してタバコをおいしそうにくゆらしているのである。
煙が潮風と共に、後ろに流れてゆく。
なるほどなるほど。デッキで潮風に髪をなびかせつつ読書をし、読書をときどき中止してタバコをくゆらす、これこそ本当の船旅のダイゴ味であったか、とまた悟り、また大急ぎで起きあがり、大急ぎでタバコを取りに船室に戻る。
ノンビリと船旅を楽しむつもりが、これでなかなか忙しいのである。ノンビリと落ちついていられないのである。
船室に駆け戻ると、同室のヤングが、船窓に頬づえついて、砕け散る波頭を見ながら、一人物思いにふけっていた。
ムムッ、サースガァ! ヤルー!
なるほどなるほど、船窓に頬づえついて、一人物思いにふける。これこそ本当の船旅のダイゴ味であったか、と思い直し、ぼくも早速物思いのダイゴ味を、と思ったのであるが、それでは「デッキで髪をなびかせ、タバコくゆらせ読書」のダイゴ味のほうを味わうことができなくなってしまう。
船室に未練を残しつつデッキにとって返し、大急ぎで寝そべり、大急ぎで本を開き、大急ぎでタバコの煙をなびかせる。
数行読んでふと目をあげると、女のコのミニスカートが、潮風に吹きまくられて、白いパンティがまる見えになっている。
それも一人や二人ではない。あっちにもこっちにも、白や黄色やピンクやらのパンティが、堂々と、悪びれず、その全貌を明らかにしているのである。
もはや読書どころではない。
これこそ正真正銘、きわめつきの船旅のダイゴ味でなくてなんであろう、とまたしても大急ぎで起きあがる。
丸尻チャンあり、タレ尻チャンあり、ムッチリ尻チャンあり、こんなにたくさんのお尻を、一挙に観賞できるチャンスは、めったにあるものではない。
このように、船旅というものはダイゴ味だらけなので、とてもノンビリなどしていられるものではなく、たいへん忙しいものなのである。大忙しの時を過ごしているうちに、陽は早や西に傾いてきた。
船のラウンジでは、すでに他の日の番組の録音が始まっている。
太ってデビューし、痩せてカムバックしたことで有名な女性歌手M・Hが、歌を歌っている。
ラウンジは、ヤングの方々で満員である。
この中で、司会などということを本当にやれるのだろうか、と急に不安が襲ってきて、酒を飲まねば、と思い付き、またしても大急ぎで船内の居酒屋に駆け込む。
大急ぎで酒を注文し、大急ぎで飲む。
とにかく船旅は、なにかと忙しいものなのである。
時刻はまだ六時半で、十時半までには四時間もある。
とにもかくにも、シラフではとても司会なるものをやりおおせる自信はない。
かといって、酔い過ぎてしまっては、むろん司会どころではないだろう。
これから四時間、酔いをさまさず、酔い過ぎず、生酔いの状態を維持し続けなければならない。
これは、かなり辛い難事業である。
ちょっと飲んでは酔いを確認し、酔い不足と思うとアルコールを体内に注ぎ込む。
化学の実験みたいなものである。
自分では酔っていないと思っても、実際はかなり酔っている、ということもあり得る。
「オレは、ちっとも酔ってなんかいないぞ」という人ほど大酔している人である。
日本酒を三本ほど飲んだところで、酔いを確認してみる。まだあまり酔っていないようである。
だが、そこがそれ、すでにかなり酔っている証拠ではないのか、などと考えると、ますます不安がつのってくる。
不安をうち消すために、また飲む。
ちっとも酒がうまくない。
ああ、こんな仕事、引き受けなければよかった、とウジウジ後悔し、後悔をうち消すためにまた飲む。
「時間ですよ」といって放送局の人が迎えに来たときは、酔いで頭がグラグラするほどだった。
会場をのぞいてみると、あれほど、たくさんいた観客が、今はほんのパラパラしかいない。ぼくの番組など、だれも興味ないのであろう。情けない。
マイクを渡され、ふらつく足で、ステアリングルームという運転室に向かう。
舵輪のあるところである。
ぼくの相手役K・B嬢は会場にいて、ぼくが船長やら、従業員やらをインタビューし、その後会場に戻っていっしょに司会をするという趣向である。
デッキを通って運転室に向かったので、せっかく大事に、四時間をかけて育ててきた生酔いが、潮風にあたっていっぺんに醒めてしまった。えらいことになった、とは思ったが、もはやどうにもならない。
インタビューというのは、むずかしい仕事である。
質問事項は、台本に書いてあったから、そのとおりに、次から次へと質問することにする。ひとつ質問すると、それに対し相手が答える。船長さんが、ぼくの放った質問に、忠実に答えてくれている。だがぼくは、すっかりあがっていて、相手がなにを答えているのかさっぱりわからない。次の質問事項も思い出さなくてはならない。
ときどき「ハア、ハア」とか「ナルホド」とか合の手を入れるが、相手の会話と、「ハア、ハア」「ナルホド」が、合っているかどうかも定かでない。とんでもないところで、「ナルホド」などと、相づちをうっているかもわからない。なにしろ逆上しているので、それを確認することができない。
闇の中から聞こえてくる相手の音声が途絶えると「ハア、ハア」といい、また途絶えると「ナルホド」といい、長く途絶えると、次の質問に移るのである。
会社の宴会などで、部長さんが民謡を歌い、一同それに合わせて、ア、ドーシタ、ドーシタ、とか、エンヤートット、エンヤートットとかの合の手を入れるが、いってみれば、あれと同じ按配なのである。
あとで、この放送を聞いてみたが、これで結構ちゃんと会話は成立していた。
考えてみれば、われわれの普段の会話でも、これと同じような場合が、たくさんあるではないか。
そう気に病むことはないのだ。これでいいのだ。これでだいじょうぶなのだ。しかたないのだ。
所定のコースを、エンヤートットと、ドーシタドーシタ、ソレカラドーシタの手口で無事終え、会場のラウンジへ向かう。
会場には、ヤングの方々が、パラパラとあちこちにすわっておられる。
ぼくがはいっていくと、パラパラの方々が、パラパラと拍手をしてくださる。
K・B嬢が、「こちらがショージサダオさんです」と紹介してくださる。
また、パラパラの方々が、パラパラと拍手をしてくださる。ありがたい。
「ショージさんて知ってます?」とK・B嬢が、観客の一人に質問する。女のコである。女のコは「知らない」と答える。
ぼくは寂しくうなだれる。座がしらける。
もう一人に同じ質問をする。
今度は「知っている」と答える。
ぼくは思わず駆け寄って、その人の手をとり、頬ずりしようと思ったのであるが、その人は男の人だったのでやめにする。
「ショージさんて、どんな人だと思っていた?」という質問には、もっと細い人だと思っていた、とか、もっとおじいさんだと思っていた、とか、目つきの暗い人だと思っていた、とかの答えがあり、意外とハンサムだワ、とか、意外にステキ、とか、意外にカッコイイワ、などの答えさえあったのである。
ぼくは、予想もしない意外な答えに興奮し、鼻の下を十センチほどの長さに伸ばし、口は半開きになり、その端からは、ヨダレが糸をひいて床の上にしたたり落ちたのであった。
だが、これらの答えには、すべて「意外に」という副詞がついており、つまり、あまりにひどい予想をしていたために、「そのわりには」ステキ、ということなのである。ということに、賢明なぼくはすぐ気付いたのである。ヤングの方々は、よっぽどひどい冷酷無惨な予想をしていたに違いないのである。クヤシイ。そう思うと、十センチだった鼻の下は、すぐ原状に復し、ヨダレの分泌もすぐに止まった。
かくして、とにもかくにも「大仕事」は終った。「オツカレサン」の声を聞くか聞かないうちに、ぼくはビールを所望し、今度は心おきなく、何杯も何杯も飲んだ。
酔いと、中年の疲れが、一度にどっと出る。あとはもう、なにがなにやら、ビールを浴びるほど飲んで、フラフラになって部屋に戻ると、長髪のヤングが二人、なにやら議論をしている。
チューネンはヘトヘトなのに、ヤングはタフなのである。
議論の内容は、「言葉を信じられるか」といったような高邁《こうまい》なテーマであるらしかった。
チューネンは、眠い目をこすりながら、活発な議論を聞いていたが、ヤングのフィーリングを勉強させていただくには絶好の機会だということに気付き、恐る恐るその議論に参加してみた。
知識は人間にとってはたして必要か、とか、愛なくして女性を抱くことができるか、とか、平和とか戦争とか純愛とかに議論は発展し、会社などで行なわれる会議の、どうしたら製品がもっと売れるかとか、どこどこ支社はちっとも利益が上がってないぞとかいったテーマとは、だいぶ趣を異にしているのである。
チューネンは、この議論にとてもついてゆくことができず、次第に口数が少なくなり、まぶたも重くなり、黙って身を引くと寝まきに着かえ、ベッドにノソノソと這い上がると、まだまだ続く議論を子守歌に、欲も得もなく眠りこんでしまったのである。
即席ドック入院日記
入院には、なぜか心ときめくものがある。
などと書くと、半死半生で入院生活を送っている人たちに叱られるかもしれないが、ぼくにとっては、入院は心ときめくものがあるのである。
中学生のころ、
晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。
という木の短歌を読んで以来、入院ということに憧れを抱き続けてきたのである。
頃は秋。白樺揺れる高原のサナトリウム。枕辺に、つつましく咲き乱れるコスモスの花。アルコールの匂いが、ほのかに漂う白い病室。
ぼくは、白ガスリの寝まきに身を包み、痩せ細った体を窓辺に運ぶ。熱にうるんだ悲しい瞳をして、煙草に火をつける。
紫の煙が、柔らかく頬を伝う。……咳。
向かいの病棟では、美しい少女が、カーテンの陰からぼくをジッと見つめ、熱い吐息を吐く。なんて美しいお方!
ぼくの病室のドアの陰では、検温にやってきた白衣の看護婦が、やはり熱い吐息を吐く。なんていとおしいお方!
一陣の秋風。揺れるレースのカーテン。舞い落ちる落葉。体温計。薬ビン。カレンダー。……静寂。
といったような空想を、長い間|培《つちか》ってきたのである。
ところが、ぼくの体は、頑健とまではいかないが、入院を要するような大病には、なかなかかかってくれないのである。
このままでいくと、美しい少女と、白衣の看護婦とお近づきになれるのは、きっと中気のヨイヨイになってからになりそうな気配が濃厚になってきたのである。
その場合のぼくの空想は、次のような次第になってしまうのである。
頃は秋。白樺揺れる養老院付属病院。枕辺には、ホコリをかぶって色褪せたビニール造花と、死んだつれあいの写真。頭痛膏の匂いがほのかに漂う壁の落ちた病室。
ぼくは、ツギのあたった下着とステテコに身を包み、痩せ細ったヨイヨイの体を窓辺に運ぼうとして、シビンに蹴つまずき、内容物を床にこぼす。あたりに漂う小便の匂い。
老いに呆けたうつろな瞳をして、キセルに火をつける。
紫の煙が、シミの浮いた頬を伝う。……咳。
向かいの病棟では、老女が、カーテンの陰から、入れ歯を洗いながらぼくをジッと見つめ、熱い吐息を吐く。にゃんて、ふつくひいおかた!(なんて、美しいお方!)
ぼくの病室のドアの陰では、検温にやってきた白衣の看護婦が、やはり熱い吐息を吐く。なんて世話のやけるジジイ! またこぼしたのネ。
これではいかぬ。
早いとこ入院を敢行し、美しい少女と、白衣の看護婦に相まみえねばならぬ。
ぼくは、あたふたと新橋のJ医大病院に駆けつけた。
「二日ぐらいでいいのですが、入院したいのですが」
「どういう理由で入院するんですか?」
「病室の窓にもたれて煙草を味わいたいのです」
「それは困りますなァ、病室内は禁煙です」
「…………」
「どこか悪いところは?」
「……ア、そうそう! 人間ドックということでは?」
「一泊二日でですか?」
「ダメですか?」
「まア、やってやれないことはないですが」
「では、来週の月曜に入院しますから」
ということになり、やっと入院の許可をもらう。
月曜日は、朝早く起きて、ボストンバッグに入院用具一式を詰めこみ、張り切って電車で病院に向かう。
入院する人は、たいてい弱り切って前途を悲観しつつタクシーかなんかで運びこまれるのであるが、この患者は、張り切って希望に胸を躍らせながら、電車で入院するのである。
朝の十時、J病院は、すでに人人人、大混雑を呈している。
日本は、どこへ行っても人間でいっぱいであるが、病院まで、こんなに人間が溢れているとは思わなかった。
健康なときは、観光地をいっぱいにし、病気になると病院をいっぱいにしてしまうのである。
C病棟五六二号室、これがぼくの病室である。一日三千円也の六人部屋である。
最高は、二万二千円也で、この部屋は、電話、トイレ、バス、冷蔵庫、クーラー、応接セット付きで、ちょっとしたホテル並みの豪華さである。ホテル並みではあるが、空中回転ベッドとか、ベッドサイドミラーとか、マムシドリンクとか、ピンクテープなどの設備はないことはいうまでもない。
二万二千円以下、一万四千円、八千円、七千五百円、六千五百円、五千五百円、三千五百円、三千円、千五百円まである。
わが病室は、下から二番目である。まず身分相応というところであろう。
六人部屋の、一つだけ空いているベッドを指定され、ボストンバッグかかえて坐りこむ。さて、これからどうしたものか。
やはり同室の人々に、いちおう新入りとしての挨拶をすべきだろうか。
しかし、眠っている人もいれば、テレビを見ている人もいる。どこかへ行っていていない人もいる。眠っている人を起こすのもどうかと思うし、全員揃ったときに、改めて挨拶をしたほうがいいかもしれない。
なにしろ生まれて初めての体験なので、どうやったらいいのか見当がつかない。
それに服装の問題もある。
寝まきを持参したけれど、すぐこれに着かえるべきかどうか。ほんとの病人ならいざしらず、健康人のぼくが、昼間っから寝まき姿でいるのはどうも抵抗がある。身分を偽るような気もする。
かといって、背広姿でベッドに寝ていたのでは、同室の人々に対して違和感がある。
こういう場合の身の処し方について、いろいろ悩み煩悶し、塩月弥栄子女史の著作が頭に浮かんだが、今は手元にその用意がない。結局のところ、同室者との融和、ということに重点を置くことにし、パジャマを引っぱり出して上だけ着かえることにする。
ついさっきまで、背広にネクタイしめて、満員電車に揉まれて張り切ってやってきたのに、病室にはいって寝まきに着かえると、途端に、本当の病人になったような気がしてくる。目から輝きが失せ、肩から力が抜け、背中を丸めると、コホンコホンと二つばかり空咳をする。
窓から下を見ると、ネクタイしめたサラリーマンの方々が、艶やかな顔色で、サッソウと忙しそうに歩いて行く。
ああ、オレにもあんな元気なときがあったなア、とシミジミとした感慨が胸に湧き上がってくる。すでに重病人の心境である。
廊下の突きあたりに、喫煙所というのがあったのを思い出し、早速そこへ行って煙草をすう。
向かいの病棟には、熱い吐息を吐くはずの美しい少女はいず、ユカタ姿のジイサンが、ションボリとこちらを見ている。
鳩が一羽、窓辺に来てとまる。
廊下の隅でボンヤリと、ペタペタというスリッパの音や、試験管の触れ合う音、看護婦の話し声などを聞きながら、だらしなく足を投げだして煙草をすっていると、もう十年ぐらい入院生活を続けているような心境になってくる。
入院してから、まだ十分ぐらいしか経っていないのである。これから一体どういうことになるのであろうか。
病院側からは、なんの指示もないのでべッドに横になる。
十一時半になると、昼食が配給される。
同室の全員に昼食が配られたのに、どういうわけか、ぼくにだけ配給してくれない。
看護婦が、ヤカンでお茶をついで廻ったが、にわか入院のぼくは、茶わんの用意がなかったので、これまたぼくにだけついでくれない。
みんなが食事をしているのに、自分だけ食べられないというのは、いやな気分である。お弁当を持ってこられない貧窮家庭の子供のような心境で、一人うつむいて爪のアカなどをほじる。情けない。涙が出てくる。
みんなは、食事をしながら、まだ挨拶もしない異端の者を、ときどきジロリとにらむ。どうにも居心地が悪い。
隣の人の食事をチラリと見ると、魚の煮つけ二切れ、ナスとピーマンの油みそ、タクアン二切れ、ゴハンという献立である。
いいなア、と、ときどき横目で見ては、また爪のアカをほじる。ほんとに情けない。
しかたなく、売店へ行ってサンドイッチを購入してきて、一人うつむいて食べる。
同室の人は、全員テレビを持っている。カラーテレビを持ちこんでいる人さえいる。ぼくだけテレビがない。またひがむ。
一時になると、検温の看護婦さんがやってきて、全員を検温して廻るが、ぼくだけ検温をしてくれない。ドアの陰で、ぼくを見つめて熱い吐息を吐くはずだったのに、ぼくに一瞥《いちべつ》さえくれないのだ。
検温が済むと、全員、アーアなどとタメ息をついて再び寝入ってしまう。
みんなの寝息を聞きながら、一人悲嘆の涙にくれていると、やっとお医者さんが現われ、採血をするという。
決してぼくを、忘れていたわけではなかったのだ、と大いに張り切り腕をさし出す。
ズブリと太い針を刺され、大きな注射器いっぱいに血を取られる。惜しい。せっかくぼくが造った血なのに。
それから紙コップを渡され、オシッコを採るようにいわれる。
病院というところはせっかくぼくの造ったものを、いろいろと取り上げるところらしい。
トイレに行って筒先にコップをあてがう。
ナワのれんの飲み屋などでは、コップにお酒をついでくれるが、ナミナミと、山盛りにこぼれるくらいについでくれると、とても嬉しいものである。
そこでぼくのお小水も、ナミナミと山盛りにしたほうが、お医者さんも喜ぶであろうと考え、ナミナミと山盛りいっぱいに排出する。お医者さんは、別に嬉しそうな顔もせず、所定の場所に置くようにいい、そのまま行ってしまう。
どうやらこれで、本日の全行程は終了したらしいので、またべッドに横になる。とにかくベッドしかないので、べッドに横になるよりほかはないのである。
そのうち、ウトウトと寝入ってしまう。
四時半、看護婦さんに起こされる。
夕食である。
今度はちゃんと、ぼくの分も配給してくれる。トリとジャガイモの煮つけ、枝豆、ネギと油揚げ入りのミソ汁、ゴハン。
枝豆があるので、これはきっとビールのおつまみであろうと考え、枝豆を残して待っていたのであるが、ついにビールの配給はこなかった。
食べ終ると、自分のお盆を持って所定の所へ返しに行く。
夕食が終ると新聞配達が来た。
みんなに配って、ぼくにだけはくれないので、ぼくにも一枚おくれ、というとダメだという返事である。なぜぼくにだけくれないのだというと、みんなお金を払って定期購読しているのだという返事が返ってきた。
しかたなく、隣の人の新聞を横目で盗み見る。情けない。
情けながっていると、反対隣の人が、急にウンウンうなり始めた。びっくりしてそちらを見ると、その人はウンコを始めたのであった。あわてて廊下に退散して煙草をすうことにする。
喫煙所では、人妻ふうの若い女性が、おくれ毛を掻き上げながら、物悩む風情《ふぜい》で煙草をすっている。
そこでぼくも、そばに坐り、垂れかかる前髪を掻き上げつつ、物悩むポーズで煙草をすう。人妻ふうは寝まき姿である。ぼくも寝まき姿である。寝乱れ姿の人妻と、若き青年がこうして夕暮れの窓辺に二人向かい合ってすわっているのである。
これが他の場所であったら、大変な濡れ場と人の目には映るかもしれないが、ここ病院においては、濡れ場ではなく、哀れ場としか映らないのである。
人妻ふうは、すいさしの煙草を灰皿にねじこむと、ズルベタズルベタとスリッパを引きずって行ってしまう。あとに残るは煙だけ、残る煙がシャクの種。どうも、いい雰囲気には、なかなかならないのである。
病室に戻ると、美しい看護婦さんが、ぼくのベッドに寄り添うように立っている。
ぼくを待っていたのである。
ぼくは緊張して髪型を整え、コホンと咳ばらいをして近づくと、看護婦さんは、「あの、これを」といって小さな品物を差し出した。ぼくは、鼻の下を伸ばせるだけ伸ばして、その品物を受けとると、それは、検便用の容器であった。
看護婦さんは「それから、これも」といって、もう一つの品物を差し出した。それは検尿用のコップであった。
明朝の、起きたばかりの濃い尿を採るように、とその若い看護婦さんはいい、便のほうは、これから出る便ならば、いつの便でもよいから、とつけ足した。
そうすると、夜の便でも、午前の便でもいいわけですね、とぼくが問うと、いつの便でもよろしいという答えであった。
ぼくとしては、その若くて美しい看護婦さんと、もう少し艶めいた話を、たとえば午後の便で北海道旅行に行こうよ、といったような話をしたかったのであるが、とてもそういう雰囲気ではなく、お互い厳粛な顔つきで、大小便に関する話をして別れたのであった。
就寝前に、もう一度検温があり、今度はちゃんとぼくの体温も計ってくれ、脈もとってくれ、異常ありませんね、とさえ聞いてくれたのである。だんだん一人前の扱いをしてくれるようになってきたらしい。
夜十時半、電気を消して就寝。すでに全員寝息をたてていた。なんせ男ばかりのことゆえ、屁はひり放題、イビキはかき放題、なかなかにぎやかなものである。
あけ方、ぼくは寝がえりをうったとたん、べッドから落ちた。
すごい物音に、全員起きだして、どうしたどうしたと聞いてくれる。幸い尻から落ちたので怪我はなく、それよりなにより、全員で心配してくれたのが嬉しく、ああ、みんなぼくを無視していたわけではなかったのだ、冷たい仕打ちをしていたわけではなかったのだ、と嬉しく、ちょうど全員揃ったところなので、ついでに新入りの挨拶もしてしまおうかと思ったが、ベッドから落ちたところでご挨拶、というのもおかしなものであると気付き、どうかご心配なく、というだけにとどめておいた。
朝六時、音楽が響き渡り、続いて検温の時間です、という声がスピーカーから流れる。
体温三十六・三度。身長も計るというので計ってもらうと、身長一七三・五センチ、体重六七・五キロ。二年前計ったときは、身長一七二センチだったのに、すこし育ったのであろうか。
中年になってから身長が伸びるとは、人間、いくつになっても希望を捨ててはいけないものなのだ、ということを痛感する。
育ち盛りの中年は、一人ほくそ笑んで大きくアクビをしたのである。
きょうは朝から胃のX線写真を撮るので、ぼくだけ朝食抜き。
ベッドから落ちた話から、話の糸口ができ、同室の方々と会話を交わす。
ぼくの隣の人は四十ぐらいのオジサンで肝硬変、右隣のウンコをしたオジサンは、原因不明の筋肉痛で、目下原因調査中。あとは、腎臓炎の青年が二人と糖尿のオジイサン。そんなことを話し合っていて、とうとう新入りの挨拶はせずじまい。
まアこのままウヤムヤに終らせてしまおうとの方針を抱く。
レントゲンを撮るというので下へ降りていくと、一階は、またしても外来患者でいっぱいである。
寝まき姿で、それらの人々の中に出ていくと、優越感というか、先輩感というか、なにやら誇らしげな気持ちが湧き上がってくるのである。
そこで、足取りも重く、沈痛な面持ちでうんと重病人ぶってそれらの人々を掻き分けつつX線室に向かう。なかなかいい気分である。
バリウムを飲まされ順番を待つ。
ぼくは、体の表面を写されるのもあまり好きではないが、体の内部を写されるのもあまり好きではない。
記念撮影のときなどは、いざ写すという段になると顔面の筋肉がひきつるのである。
レントゲンの機械の中に腹這いになって、では写しますよ、といわれたときも、やはり顔面の筋肉がピクピクとひきつった。
胃のあと腸のX線、胸部X線を撮り、それから心電図をとってちょうど十二時。
昼めしは食べてもよいということなので、売店でシイタケノリを買って病室に戻る。
昨日の夕食のとき、おかずが足りなくて苦労したのを思い出したからである。
ところが昼めしは、冷やし中華であった。
しかたなく、冷やし中華の中に、シイタケノリを混ぜて食べる。当然の話だがうまくない。
午後からは、PSPという腎臓の機能検査を行なう。赤い試験液を注射して、三十分後、四十五分後、一時間後と尿を採り、この試験液が、それぞれの時間にどのくらい出てくるか、という検査らしい。ひんぱんにトイレに通う。
これが終ったところで、昨日の血液検査の結果が出たという報告がある。検査の結果、肝臓の機能にやや障害があるという。
それを聞いた途端、急に体がだるくなる。熱も出てきたような気がする。
「あ、あの、それでかなり悪いのでしょうか」
「いや、そう悪いという訳ではありません」
「しゅ、手術は、いつごろしたらよいでしょうか」
「いやいや、そんな……」
「ペンとインクありませんか」
「なにするんです」
「い、いまのうちに、ゆ、遺言を……」
「ハハハ、ただ暴飲暴食は、なるべく避けたほうがいいでしょう」
「と、いった程度の悪さでしょうか」
「と、いった程度の悪さです」
途端にだるさがとれ、熱もひいていくのがよくわかる。
その他の検査の結果は、これを書いてる時点ではまだわからない。
あるいは物凄い病気が発見されているのかもしれない。
かくして、一泊二日の入院生活は終った。
費用、国民健康保険で、七一四〇円也。
夕方、ぼくは、ノロノロと、寝まきやら、スリッパやらを、ボストンバッグにしまいこむと、今度はちゃんと、同室の方々に退院の挨拶をし、夕暮れの町にノロノロと出ていった。
人々は、夕暮れの町を、あわただしく行き交っている。ぼくは、その人たちの流れの中にはいると、途端にサッソウとした足どりになり、健康人の速度になって駅への道を急いだのであった。
ゴキブリ亭主厨房に入る
昔は、男子は厨房《ちゆうぼう》にはいってはいけないことになっていた。
「男子、厨房に入るを許さず」といって、あれ? 待てよ、「葷酒山門《くんしゆさんもん》に入るを許さず」だったかナ? いずれにしても、とにかく「許さず」だったことは確かである。
われわれの小さいころは、「今晩のおかずなあに?」などといいながら台所にはいっていくと、「男の子は、こんな所にはいってきてはいけません」と叱られたものだった。
なぜ男子は、厨房にはいってはいけないのかというと、メシの仕度などということは、女子のする仕事であって、いやしくも、前途ある男子のなすべきことではない、ということだったのである。
では男子のなすべきことはなにかというと、それは天下国家に思いを馳せることであった。昔の男子は、男子でありさえすれば、すべて「前途ある」男子であった。
だが現在では、前途ある男子など殆どいなくなったし、思いを馳せるべき国家も、思いを馳せたところでどうなるものでもなく、要するに、男共は手持ちぶさたになったのである。
女共は、男共が手持ちぶさたになったのを、すでに知っているから、「今晩のおかずなあに?」などといいながら台所にはいっていっても、今度は、「こんな所にはいってきてはいけません」などとはいわない。
たちまち、「お豆腐買ってきてちょうだい」などといいつけられ、買物カゴと五十円ナリを持たされ、買物に行かされるのである。
前途も国家もなくなった男共は、夕暮れの町を、お豆腐のシルをしたたらせながら、トボトボと歩いていかなければならないのである。もはや前途も国家もなくなったのであるから、男が女の領分に立ち入ろうが、男の領分に立ち入られようがかまわなくなったはずである。
男がお料理を趣味にしたところで、いっこうにかまわないはずである。かまわないはずではあるけれども、旧弊の人間というものは、どんな時代にも常に残存しているもので、「男ともあろうものが、メシの仕度なんぞを」と冷ややかに軽蔑するのである。
これら旧弊の人間にとっては、料理、すなわちメシの仕度なのである。
いかに美しくケーキを作り、サラダを色鮮やかに盛りつけ、パイを焼いても、彼らにとっては、すべて「メシの仕度」としか映らないのだ。
最近は、テレビなどでも料理番組が盛んになり、有名な有名人が出演したりして、お料理の男性への開放が行なわれているのであるが、まだなかなかどうして、男が料理をすることへの風当たりは強いのである。
夕方の五時半ごろ、デパートのお総菜売場をうろついている男性に、ロクな奴はいない、という人もいるし、ゴキブリ亭主、などという言葉もある。
料理好きの男性には、まだまだ受難の歴史が続きそうな雲行きなのである。
確かに、夕暮れの八百屋の前で、おかみさんたちに立ちまじって、買物カゴをぶらさげて、「ニンジンちょうだい」などと叫んでいる男性は、あまり恰好のよいものではない。
ここでぼくは突然白状してしまうのであるが、実をいうとぼくもお料理に趣味をもつ男性の一人なのである。世の指弾を身に浴びつつ、八百屋の店先で、「おニンジンちょうだいナ」などと叫んでいるゴキブリなんとかの一種族なのである。
魚屋の店先で、おかみさんたちに立ちまじり、乳母車やら幼児やらをかき分けて順番を待ち、そのサバの切身二切れちょうだいナ、と叫び、切身を包んでもらって店先を立ち去るときは、われながらなんとも情けなく、しばらくはうちひしがれた気持ちをなかなか抜き去ることができないのである。
男は女より背が高いから、どこの店先でもおかみさんたちより頭ひとつ大きく、どうしたって目立ち、おかみさんたちさえ、「いい若いもんが、よくもまあ、サバの切身二切れちょうだいナ、などといえるもんだ」という顔つきでぼくを見る。男性ばかりでなく、女性側からも非難の目で見られているのである。だから店先での男性は、どうしたっていじけてしまう。いじけているから目つきだってどこかおびえたようなところがあり、挙措動作もコソコソした感じになり、そこのところが、おかみさんたちにとって、どうにも我慢のならない点であるらしく、いよいよ険しい目つきで、ぼくを睨みつけるのである。
ゴルフを趣味にしている人は、人前で声高に、ハンディとかスライスとかドライバーとかの話をすることもできるが、料理を趣味にしている男性は、人陰で声低《こわひく》に、おニンジンとかお大根とか、ブタのこま切れの話をするよりほかないのである。
一寸の虫にも五分の魂で、かかるぼくにも、これだけは越えられないという一線がある。それは買物カゴをさげて買物に行くことである。これだけは、どうあってもやるまいと心に決めている。そこのところを、かすかな誇りにしているのである。
だから、たまたま店先などで、買物カゴさげた男を見ると、急にホッとし、下には下がいるものだと急に居丈高になり、よくもまあ恥ずかしくもなく買物カゴをぶらさげていられるものだ、オレはまだそこまではおちぶれてはいないぞ、と軽蔑のマナコ激しくそいつを見下すのである。
なにしろお互いにいじけている同士だから、憎悪の念もいちだんと激しく、相手もこちらの敵意を悟って、夕暮れの八百屋の店先で敵意と敵意の火花が散る。
このようにぼくの日常は、世の男性と女性から、非難の目を浴びせられているのだけれど、好きな道はそう簡単に止められるものではない。
いや、非難されればされるほど、ますますその道への愛着は増し、この道一筋、と堅く心に誓うのである。
この道一筋、と決めたからには、その道に励まねばならぬ。
ぼくの料理歴は長いのだけれど、そのレパートリーは、実に狭い。
ぼくの自慢料理は、次の三つである。
朝鮮風タクアンの油いため七味唐がらしかけ=タクアンを細くきざんで油でいため、七味唐がらしをふりかけて食べる。
関西風生揚げガス火焼きショウガじょうゆかけ=生揚げをガス火で焼いて、ショウガじょうゆをつけて食べる。
白モツコンニャク豆腐ミソ煮、ネギ薬味添え=モツとコンニャクと豆腐をミソで煮こみ、ネギの薬味で食べる。
以上の三点だが、名前が長いわりに、料理が簡単なのが特徴である。
その道一筋と決めた人にしては、あまりに少ないレパートリーであり、あまりに簡単すぎる料理である。
ぼくとしても、レパートリーを拡げるべく、本を買いこんで勉強した時期もあった。
三分間クッキングなどという本を買い求め、三分間料理なるものと取り組んだこともあるのだが、どの料理も三分どころか三時間くらいかかってしまうのである。
一番簡単そうな料理を選び、ページを拡げて材料というところを見て、材料が三種類以上並んでいると、それだけでもうグッタリと疲労を覚え、諦めてしまうのである。
「料理が趣味です」と人にいい、「ではお得意料理は?」と聞かれ、「タクアンの油いためです」ではどうにも恰好がつかぬ。
聞けば「男性料理教室」なるものが、開設されているという。
さらに聞けば、二年前に開設して以来、参加者は引きも切らず、常に定員オーバーの盛況であるという。
わが同志は、当方になんの連絡もなく、こっそりとそんな所に集結していたのである。
場所は銀座の七丁目。Tリビングサークルといい、毎週金曜日が男子専科の料理教室ということになっているのである。
早速駆けつけてみると、授業は六時からだというのに、五時半には、すでに二、三人のオジサンたちが、待合室でひっそりと授業の始まるのを待っている。三人共、五十年輩のオジサンで、同好の人と語り合うでもなく、タバコをすうでもなく、ジッとうつむいてすわっているのである。就職試験を前にした受験生の態度に似ている。
すでに銀座のネオンが灯《とも》り出していたが、そういうたぐいのネオンには、まったく関心がなさそうなオジサンたちである。
講習内容は、日本、西洋、中華、総菜料理その他とあり、かなり本格的なものをやるらしい。
たとえば、本日これから行なわれる料理はピザ・パイと、ミスティ・メアなるイタリア風オードブルの二種である。
講師は、某有名イタリア料理店のコック長というから、どうやらタクアンの油いためなどとは、わけが違うらしい。
毎週金曜日の六時から八時までで、七回でいちおう一コースが終了する。
開設以来の生徒もいるというから、その人はもう二年間も通っていることになる。
会費は一コース三千円。これは材料費、テキスト代も含まれているから非常に安い。
お料理の実習後、製作品を夕食がわりに食べて帰れるわけだから、考えようによっては、七食三千円也の夕食代ということもできる。一食四百円程度で食事ができ、しかも料理が覚えられるわけだから、いつも定員オーバーというのも尤もな話である。
定刻六時、遅刻者一人もなしという熱心さで授業が開始される。
全員お揃いの白衣を着た四十名の男性が、一堂に会した光景は、さながら、どこかの会社の研究室を思わせるものがある。
これからなにか重大な研究が行なわれるような雰囲気である。この白衣の男たちが、これから包丁をあやつり、お砂糖少々のお料理をやるとは到底思えない。
見渡したところ、四十代、五十代が圧倒的に多く、続いて三十代、二十代の順になっているように見うけられる。
ハゲあり、白髪あり、金ぶち眼がねの医者ふうあり、課長風あり、ヒラ風あり、全員無言で講師の登場を待つ。
聞くところによると、この殆どがサラリーマンであるという。みんな、一日の勤めを終えた人たちばかりなのである。
講師が、二人の女性の助手を従えて登場。
余計な挨拶抜きで、いきなり本題にはいる。まずピザ・パイの、パイの部分の作り方を説明する。
小麦粉にイーストを入れ、サラダオイル、塩を入れて練り混ぜる。
堅さは耳タブの堅さに、と講師がいうと全員一斉にうつむいてメモをとる。きっと全員一斉に、耳たぶの堅さ、という文字を書いているに違いない。
教室はシンとして咳ひとつ聞こえず、講師の声とエアコンの音が聞こえてくるだけである。ぼくの隣の銀ぶち眼がねの老紳士は、シワのきざまれた額に老眼鏡を押し上げ、シミの浮き出た頬をたるませながら、しきりにメモをとっている。
本来ならば、重役会議などで、予算少々などとメモをとるべきところを、お塩少々にニンニク少々などというメモをとっているのである。とにかく全員、非常に熱心である。
講師の手元が見えず、立ち上がったきりの生徒もいる。
ぼくは、男性料理教室というから、全員和気あいあい、冗談まじりの教室風景を想像していたのであるが、熱気というか気魄《きはく》というか、そういったものが教室全体を支配しているのである。
大学の講義などでは、熱心な生徒は一番前の席にすわるが、この教室では、ハゲが二人最前列に席を取り、やはりこの二人は、一番熱心な生徒であるらしく、講師の話に、いちいち大きくうなずくのである。
それだものだから、講師は、いつのまにかこの二人のほうばかり向いて説明するようになってしまった。
そこでぼくも熱心な生徒であることを表明すべく、講師の話に、いちいち大きく激しく頭を振ってうなずいたのであるが、いっこうに効き目はなく、講師はあい変わらずハゲばかりかわいがっている。
講義が一段落すると、一斉に質問が飛ぶ。
イーストを入れるとき、雑菌がはいってもだいじょうぶなのか? 部屋の温度はどのくらいがよいのか? イーストは、罐を開けてからどのくらいもつのか? オーブンの段は、何段目が適当か? などと、にわか生徒のぼくにはわからぬ専門的な質問がどんどん飛び交うのである。
オーブンの代わりに、電子レンジを使ってもよいか、などという「あるふり」をする質問もドサクサにまぎれて飛ぶ。
ピザ・パイの講義が終り、次に、ミスティ・メアなる名称のオードブルに移る。
これは要するに、イカ、芝エビ、あさりのむきみをゆで、それにレタスとセロリを添えたサラダみたいなものである。
イカの皮をむくとき、手に塩をつけながらむくと、手がすべらなくてよい、と講師がいうと、全員ふたたび一斉にメモ。ハゲは、またしても大きくうなずき、ぼくもあわてて一段と激しく頭を振ってうなずいたが、講師の反応はない。
講義が終了し、ただちに実習に移る。
四、五人ずつの小グループに分かれ、それぞれの調理台に散る。ちょうど、小学校の工作の時間のような雰囲気である。全員の動作は実に素早く、テキパキしている。
イカに取り組む人、パイをこねる人、芝エビの皮をむく人、という具合に、だれいうとなく分担が決まり、ぼくもイカの皮をむくのをやりたかったのであるが、イカは一グループ一匹で、そいつはすでに他の人の手中にあった。
ぼくは、そいつを腕力で奪い返す、ということも、いちおう考えたのであるが、小学校の教室ならいざ知らず、ここは紳士の集まりである、ということを考慮してその考えを実行に移すのを取りやめ、仕方なく芝エビの皮むき作業に従事することにした。
この作業は、あまりおもしろくないのである。
四十人の男たちが作業をしているとは思えないほど、教室全体は静かである。
私語する人も殆どいない。笑い声も聞こえない。全員黙々とお料理と取り組んでいるのである。お料理好きの人は、きっと寡黙な人が多いのかもしれない。
ここは料理を覚えようという人の集まりであるから、あたりまえといえばあたりまえのことなのだが、サボろう、などという人は、まったく一人もいないのである。
みんな、できることなら全部の行程を、自分一人でやりたい人ばかりなのである。
だから、うかうかしていると、みんな他の人に仕事を取られてしまう。
そこでぼくは、芝エビの皮をむきつつ対策を練った。たしか青ジソの葉をミジン切りにする、という作業があったはずだ。幸いこの作業には、まだだれも手をつけていない。ぼくはまず、素早く包丁とまな板を確保した。これさえ握ってしまえばしめたものだ。さて青ジソはどこかいナ? と見渡すと、テキはすでにぼくの陰謀を見破ったらしく、素早く野菜カゴの中から青ジソをつかみ出してしまったのである。
しかし包丁とまな板がなければどうにもなるまい、と表情厳しくテキを睨み据えると、テキは、さり気なく棚から別の包丁とまな板を取り出し、いとも気楽にトントンと青ジソをきざみ始めたのである。
ここで引き下がっては、ぼくの男が立たない。またしても、腕力で、という考えが頭にひらめいたが、今度は相手も包丁、こちらも包丁である。これでは平和であるべき料理教室に血の雨が降ることは必定である。
そうなれば、翌日の新聞には、「シソの葉っぱの取り合いで、中年男がケンカ――銀座の男性料理教室で」という記事が出ることは必定である。
そこでぼくは、なに食わぬカオでテキのそばにつと寄り、いちばんハジにあった青ジソの切れはしを一枚、素早く取ると、またなに食わぬカオで自分のまな板の所に戻り、すでに切られて小さくなっている青ジソの切れはしを、トントンときざみ始めたのである。
これでぼくの男も立った。血の雨も降らずに済んだ。
静かで平和なこの料理教室にも、このような賭場にも似た殺気と、男の意地の張り合いがウズを巻いているのである。
ぼくは長年料理に馴れ親しんでいるので、包丁さばきは相当なものだ、とうぬぼれていたのであるが、どうしてどうして、全員の包丁さばきの鮮やかなこと驚くばかりである。
昔の川柳に「香の物、へし折つて食ふ一人者」というのがあるが、ここにはそんな人は一人もいない。
ニンニクをきざむにしろ、問題の青ジソをきざむにしろ、家庭の主婦も顔負けの人ばかりである。
ぼくは自信を喪失し、ふてくされ、ピザ・パイの焼き番をする役目にまわった。この役目はどういう役目かというと、オーブンの前にすわって、焼けぐあいをながめていればいいのである。
生存競争に敗れ、寂しい気持ちで焼き番をしながら教室内を見渡す。
全員、実に楽しそうに、少年のように目を輝かせながら料理と取り組んでいる。
ハゲも金ぶちも、銀行員風も経理風も、盛りつけを楽しみ、切り方に独自の工夫をこらし、味かげんをみ、芝エビの盛りつけの位置を変えてみ、同意を求め、うなずき、そこへパセリを少しのせたらどうでしょ、などと助言し、実に実に楽しそうなのである。
彼らはやっと、ここに自分の天地を見出したのに違いない。
前途も国家もなくなったけれど、いいじゃないの、まな板と包丁があれば。いいじゃないの、こんなに幸せならば。
いい匂いが教室いっぱいに漂い、ピザ・パイが焼きあがり、ミスティ・メアなるオードブルもできあがり、いよいよ楽しい試食である。
なにしろみんなは、会社終ってすぐ駆けつけ、八時近くまでなにも食べていないのだからおなかが減っている。
それぞれのグループごとにお茶を沸かし、お茶を飲みながらの試食である。
オードブルを作ったのであるから、ビールが出ても当然ではないか、と思ったのであるが、それについて不平をいう人もなく、全員|和《なご》やかに、うまい、うまいを連発しながらパイをつまみ、オードブルを頬張る。
考えてみれば、これでなまじビールが出て、すこし酔う人なども出、手拍子で歌のひとつも歌ったりすると、かえってわびしくなってしまうのかもしれない。渋茶すすってさっと切りあげたほうが、かえってすっきりしていていいのかもしれない。
このあとのあと片づけも、実に見事なものであった。
料理は好きだが、あと片づけがどうも、という男性は多いものだが、全員テキパキ、マメマメ、セカセカ、スポンジに洗剤を含ませ手つきも鮮やかに食器を洗い、ナベを洗い、ポリバケツにゴミを捨て、ついでにステンレスの流し台もピカピカにみがき上げ、手の甲で額の汗を拭き、ホッとひと息ついて水道の水を飲みながら、みがき上がったピカピカの流し台に目をやり、シミジミと幸せにひたっているらしく思われるのであった。
このあと、ごくろうさんの挨拶もそこそこに、あっというまに全員夜の銀座に消えていったのであった。むろん、どこかへ寄ってちょっと一杯、などという気配のある人は一人としていなかったことはいうまでもない。
宗薫先生のモテ方教室
よく考えてみると、ぼくぐらい、「モテる、モテない」で大騒ぎをしている男もいないのではないか、と最近つくづく思うようになってきた。
はしたない、と思うし、情けないとも思う。
もう三十の半ば近くまできたことだし、モテないならモテないで、はっきり覚悟を決め、それなりの人生設計に取りかからなければならない年齢になってきているのである。
そうウロウロと、いつまでも迷っていられるほど、人生は長くはないのだ。
そう思って腹を決め、モテない路線の人生設計に取り組もうとしていると、ひょっとモテたりすることがある。
ここで迷ってしまうのである。
こらぁひょっとすると、オレは本当はモテる人間なのではないのか。もともとモテるタイプなのに、なにかのちょっとした手続きがまずくて、それでモテなかったのではないのか。あわててせっかくとりかかったモテない路線の人生設計を取りやめ、モテモテ路線の人生設計にとりかかると、はたして今度は、またしてもモテないのである。
しかし、これですっかり諦めてしまったわけではない。例えば、どこもこわれてないはずのオモチャが、どうやっても動かなくて、カンシャクを起こして床にたたきつけた途端、動き出すということだって、世の中には、ままあることである。
諦めてはいけない。人生は結構長いのだ。
諦めつつも、一応の努力は続けてみよう、と最近はそういう心境になってきている。
ちょうどマージャンで、おりながらもあわよくば、とねらっているのによく似ている。
それに、最近の男性のモテるタイプは、たいへん多様化してきているのである。
昔は、モテる男のタイプは一定だった。二枚目で筋骨たくましく、といったタイプでなければ、とてもモテるものではなかった。
ところが最近は、男がどこでどうモテるかわかったものではないのだ。あるいはひょっとして、もしかするとモテるかもしれないのである。
たとえば川上宗薫という人がいる。
この人は、めったやたらにモテていると伝え聞く。この人は、人それぞれに感じ方は違うだろうが、まあ一応、二枚目とはいいにくいタイプだと思う。
二枚目ではないが、とにかくモテる。流行作家だからモテるのだ、と人はいうかもしれないが、流行作家でもモテない人も沢山いるのだ。あの人がモテるのは、それなりになんらかの理由があるに違いないのである。
世の中で、なにがシャクにさわるといって、モテる男を目のあたりに見ることぐらいシャクにさわることはない。
だが今日は、ジッと我慢して、ジッと耐えて、女にモテる方法をうかがわなくてはならない。口惜しい。
川上 東梅林さんは、モテないモテないといっているが、ほんとはモテているんじゃないの?
東海林 やっぱり! やっぱりそう思いますか?
川上 モテるタイプだと思うんですがね。
東海林 やっぱり!……。(うつむいて涙ぐむ)
――会ってよかった。
これがきっかけで、これが自信になって、急にモテるようになるかもしれない。
千人切りだって夢ではないかもしれない。いやいや万人切りだって不可能ではないぞ。
川上さんはいい人だ。大体、川上という姓の人には、いい人が多いのである。
女はやっぱり見抜く目があるらしい。その見抜く目をもって、ぼくのことも見抜いてもらいたい――。
東海林 ぼくは今までずっと、川上さんは男が大嫌いで、それで女の人に向かうのだ、というふうに考えていたんですが……。
川上 うちは教会だったからね。ミッションスクールの女の子なんかが沢山来たりしてね。そんな中にいると、なんかこう酔ったような感じになるわけよ。ふだんおとなしいのに急にはしゃぎまわったりして。男はやはり、あまり好きじゃないな。
東海林 女性に対する蔑視みたいなものはないですか?
川上 ある面ではあるけどね。
東海林 遊び道具であるというような……。
川上 遊び道具っていうのは多少あるかもしれないなあ。しかし誤解を招くから厳密に答えないと……。(笑)ただ女性の場合は、親友とかなんとかってのにはなりにくいな。おれはやっぱり女性の場合は寝る関係でまず見ますね。
東海林 男性には嫌われるということはないですか?
川上 それはあるかもしれないな。これはやっぱり天敵みたいな感じでね。あるんじゃないかと思うんだ。おれを見て、「この野郎」と思う奴がいるわけだ。これはやっぱり天敵だよ。
東海林 それはどういうタイプの男が多いわけですか。
川上 それはわからない。おれはあまり深く考えないんだ。「あっ、これはおれが嫌いだな」ってわかる。おれのダラッとしたところがいやなんだな、きっと……。
東海林 その、男に嫌われる部分が女に好かれるということはないですか?
川上 好かれるかどうか、これは問題だなあ。ただね、マメであるために成果をあげるということだってあるわけよ。
東海林 マメはマメに通ず……。(笑)
川上 例えば、「あとで電話をする」なんてよくいうでしょ。普通の男は、すぐ電話をしないもの。店を出たらすぐ電話をしないでしょう。二、三日たって電話をする。せいぜい翌日ぐらいだよ。
東海林 普通の男には、その電話番号を教えてくれないもの。
川上 店を出てすぐに、次の店に行ったときに電話をするとかさ。それから電話番号を聞いたら、忘れちゃいけないと思って便所に行って書きつけたり。
東海林 内情は意外にたいへんなんだなァ。便所が出てきたりして……。(笑)
川上 あるいは書きつけないまでも、一所懸命に覚えていて、翌日本当に電話をする。普通だと忘れちゃうものね。マメっていうのはかなり重要なことじゃないかな。
東海林 とにかくマメ……。(とメモする)
川上 なぜマメかというと、女好きだからだな。
東海林 やっぱり一応は電話してみたほうがいいわけですか。
川上 いいですね。みんなめんどくさがりで電話しないもの。
ぼくの経験の範囲によりますと、きわめて女性的な女っていうのは……好色な女といったほうがいいかな……というより繊細な女は、まず優しさに打たれますよ。
東海林 マメの次は優しさ……。(とメモする)
川上 それからむくつけき男、あれはダメです。嫌われます。ボディビルもダメです。
東海林 でも昔から、男らしい男とか、男っぽさとか、そういうのがモテることになってるでしょう。
川上 それは迷信でしょう。
東海林 男が勝手にそう思いこんでいたわけですか。
川上 男が自分に似せて女を考えたからね。それはドイツ哲学の影響もあるよ。ドイツ観念……、旧制高校とかのね。それから薩長とかの気風。ベートーベンなんてのもそうだなあ。すべて迷信だよね。
東海林 なるほど……。(ベートーベンはダメ、とメモする)そうすると、まず第一にマメ、それから優しい態度で迫ればいいわけですね。
川上 でも優しさを、あまり露骨に示すとダメな気がする。「どうだ、オレは優しいだろう」(笑)と鐘を鳴らしながらやるとダメですよ。
東海林 優しい屋でござい……。(笑)
川上 なんにつけても、鐘を鳴らすなんていうのはよくない……あれはモテないような気がするな。
東海林 なるほど。(鐘抜きで迫る、とメモする)
川上 女っていうのは微妙なところがわかるんだよ。例えば男が名刺を出すね、名刺を出すときの顔つきで、そのコンタンを女はたちどころに見抜くからこわいよ。男がひょいとうかつに自分で意識してないすき間を、女は見るというところがあるね。名刺を出して、「ぼく、こういうもんだよ。わかったかね、きみ」(笑)
東海林 じゃあ、名刺を出すときは、おずおずと……。(笑)
川上 いや、おずおずって工作しちゃいかんな。
東海林 じゃあ、「ぼく、こんなダメな仕事をしてるんだよ。わかったかね、きみ」(笑)
川上 しかし、「ダメだ、ダメだ」っていう態度もどうだろう。
東海林 うーん、なるほど。「この人本当にダメなのかもしれない。本人がそんなにいうんだから」(笑)
川上 まあ母性愛をくすぐるアレとしちゃ、いいんだろうけども。
東海林 いったいどうしたらいいんだろ。
川上 結局ね、ぼくは思うんだけれども、人間ていうのはいくら演技をしてもダメでね、地が出ちゃうと思うんだ。だから腹をくくる以外にないと思うんだ。地をみがくということだって、それを志すとなると、またヘンなものになっちゃうし。
東海林 となると、ダメな奴はどうやってもダメ、ということになっちゃう。(とうなだれる)
川上 いや、それがわからないんだよ。そういうものでもないんだ。
東海林 そうですか!?(目が輝く)
川上 ぼくは自分で思うんだけれども、これでかなり努力してるんだよ。修業の道を歩んでいるつもりなんだよ。昔のね、三十代くらいの自分を思い出すと虫ずが走るくらいいやですね。
東海林 ぼく、その三十代なんですけど。(とうなだれる)
川上 ぼくは、その点でかなり苦労したなァ。つまり構えがあったわけよ、常に。構えというのは、いつも失敗に結びついていたわけですよ。「ア、おれ今構えてたナ」と思うと、思わず舌うちしたくなるようなことがちょいちょいあるわけだ。それをだんだん少なくするということですね。
東海林 ということは、結局地をみがくという……。
川上 それを志したりするとダメだけどね。
東海林 つまり結局、ダメな奴は、どうやってもダメという……。(とうなだれる)
川上 それからね、これは人格とは関係ないことだけどね、不潔な感じがあったら絶対ダメですね。絶対にモテない。例えば爪にアカがたまっているというような。
東海林 爪は、常に清潔に……。(とメモする)それと川上さんの場合は、なにかこう安心できる、という感じがあって、それでモテる、ということはお感じにならないですか。
川上 それはあるかもしれないけれども、危険な男もモテますよ。安心できない、と思わせるのも一つのテだし。例えば身の上相談ばかり受ける男も困るよ。いざ口説こうというときに、今まで人生相談を受けていたのに急に、「ねェ、きみ今晩どうだ?」っていえないだろう。
東海林 切り換えができなくなる。(常に切り換えられる話題を、とメモする)
川上 文学青年が、女の子とサルトルの話ばっかりやっていて急に、「どうだい、今夜?」なんていうわけにいかないでしょう。それと同じだよ。
東海林 すると、急に「今晩どうだ?」といい出しても不自然じゃない話ってのは、どんな話でしょう。
川上 そうねェ……。ぼくはよくオ××コの話をするね。
東海林 それなら全然不自然じゃない。(笑)でも普通の女の子だと、ちょっとたじろぐんじゃないですか。
川上 最初だけね。最初だけたじろぐんだ。
東海林 そういう話題でいくと、成功率は高いですか。
川上 楽なんですね。これで女の子との手続きが、だいぶ省けるわけだよ。
東海林 いきなりオ××コの話ねェ……。(と、これはメモしない)
川上 あとは、スピードと押し。女はスピードと押しに弱いからね。
東海林 スピードと押し……。(と、今度は急いでメモする)
川上 例えば駅の改札口で待ちあわせるとしますね。それからいきなり旅館へ、なんて普通考えないでしょ。ところが意外とこれが成功するんだな、アナなんだな。
東海林 アナはアナに通ず。(笑)
川上 これは普通はやらないんだよ。ぼくは計画的にやったんじゃなくて、お金がないからやったんだよ。それから一種の無知もあったでしょうね。普通の常識持ってれば、とてもダメだと思うね。無知のために結果的にうまくいった。
東海林 そうすると、駅の改札口で、いきなり旅館へ行こうというわけですか?
川上 そう。それからもう一つは、それがあんまりだ、という場合は鮨屋の二階だな。
東海林 鮨屋の二階でやっちゃうわけですか。
川上 いくらなんでもそこではやらないよ。そこで段取りをつけるわけよ。そこから旅館に行く。そこをステーションにして。
東海林 いずれにしても終局的には旅館に行くわけなんだなァ。現在ではむろんそんなことはないわけでしょ。
川上 むろんないけど、そういう方針は今も持ってる。
東海林 川上さんがおモテになるってのは、今までの数々の実績と、現在の状態が、顔に、「女、間に合ってます」っていうふうに書かれているわけですよ。ところが、ぼくらの顔は、今までの数々の悲惨な実績と、現在の状態が、顔に、「女、欲しい」って出ているわけです。そうすると、女っていうのは、「女、間に合ってます」のほうにどうしても行っちゃうんですよ。
川上 大体間に合ってるほうが、女にモテるっていうのは確かだろうな。ぼくだって非常にありつかないときだってあるわけですよ。そういうときは、ますますありつかないわけだ。不思議だねェ。
東海林 わかります。よーっくわかります。(ひときわ声高くなる)
川上 だから、そういう歯車をどっかで一度停めなきゃいけない。
東海林 その一度が、なかなかなァ……。女が「間に合ってる」ほうに行っちゃうというのは、あんなにモテているのは、きっとなにかいいことがあるからに違いない、きっと素晴らしいことがあるのに違いない、と思って近づくんでしょうね。ところが「女、欲しい」のほうの男には、モテないのは、きっとなにかよくないことがあるからに違いない、近づくときっとなにか悲惨なことが起こるに違いない、と思ってますます近づかないわけですよ。
川上 とにかくね、マメに押してみることだよ。旅館の前まで行って断わられたっていいんだよ。「ああ、そうかい。じゃ、メシ食おう」これでいいんだよ。
東海林 しかし断わられると、こたえるからなァ。
川上 下駄ばきムードがいいんだ。応援団風は絶対ダメ、ノッシノッシはダメです。
東海林 銭湯帰りにちょっと寄ってみました、っていう感じがいいわけですね。確かに、この人は今、わたしに迫ってきている、という感じは、女の人にとっちゃいやでしょうね。
川上 しかし、それが案外そうでもないんだよ。女にとっちゃ、迫られるってのは案外いいものなんだよ。ただ、その迫り方が、ギラギラしてたんじゃまずいんですよ。「ギラギラとォ、輝くゥ」これはまずいわけだよ。欲求不満の感じはまずいんだ。
東海林 なるほど。(ギラ抜きで迫る、とメモする)じゃあ、気が向いたらやってみようかァ、なんて調子で迫ればいいわけですね。
川上 そういうときに必要なのは「間に合っている」ような顔で、「やりたい」って迫ったほうがいいんだよ。「間に合ってないからやりたい」これは十中八九ダメだナ。
東海林 それにはやはり、「間に合ってる」実績を一度作らなくちゃ。
川上 それはそう思う。それは、バーでさわるのなんかでもそうだよ。「間に合ってる」のがさわるのと、「間に合ってない」のがさわるのでは、ずいぶん違うからねェ。
東海林 ぼくら、一途にさわるからなァ。思いつめたようなカオして。
川上 ギラギラと。(笑)
東海林 気が向いたので、ちょっとさわってみましたっていう感じでさわればいいわけなんだなァ。それには、一度、間に合ってる状態を作らなくちゃなァ……。
川上 それには、改札口から旅館へ、という川上方式が一番いいんです。
東海林 しかしぼくら、いざ銀座の女とやるとなるとそうもいかないだろうし、第一緊張しちゃって……。
川上 ホテルへ行って、「今宵は、わたくしごとき者に……」(笑)
東海林 ご下賜くだされまして……。(笑)それでは始めさせていただきます。
川上 まず起立して、国歌斉唱から……。(笑)
東海林 そうやって狙ってですね、ホテルへ行って目的を達したあとはどうですか。
川上 やったあとはうれしいから、浮き浮きしてメシを食いますね。
かくして、とにもかくにも川上方式だけはのみこむことができた。
まず駅の改札口で待ちあわせをする。会ったらいきなりオ××コの話をする。それから旅館へ行く。やる。やったらメシを食う。
このあと川上さんに従って、銀座のバーへおもむく。
なんていったって、川上さんの顔には、「女、間に合ってます」と書いてあるから強い。下駄ばきムードである。「間に合ってる」風にさわり、「間に合ってる」風にしゃべり、「間に合ってる」風に口説く。当然モテる。
当方は、なんせ間に合ってないから、「女、欲しい」と書いてある顔をギラギラと輝かせながら、「女、欲しい」風にさわり、「女、欲しい」風に口説く。当然モテない。
まるで女が寄りつかない。
てやんでェ!!
なにが銀座の女だ! 値段が高いだけじゃねェか。値段が安かったら、オレこんなに緊張しねェや。もっと気楽にさわるゾ、という思いが顔に出るから、女がますます寄りつかない。
てやんでェ!!
馬に引かれて中京まいり
競馬ファンは、週に一度は馬の顔を見ないと、夜も眠れないという。
いってみれば、相思相愛の恋人同士のようなものなのだ。
その恋人が、カゼをひいたのである。
カゼをひいて寝こんでしまったのである。
普通ならば、恋人が病床に呻吟しているのであるから、花束の一つも持ってお見舞に行くのがスジというものである。
だが、花束を持って、馬のお見舞に行ったという競馬ファンの話を、ついぞ聞いたことがない。
恋い焦がれている割りには、非常に冷静な恋人といわねばなるまい。
お見舞に行かないばかりではない。恋人が病床に伏せったと聞くと、別の元気な恋人のほうに会いに行ったりするのである。
ぼくは、「馬がカゼをひいて、競馬は中止」という記事を読んで、日本全国の馬がカゼをひいたのかと思っていたら、カゼをひいたのは関東の馬だけで、関西の馬は元気で稼ぎまわっているというのである。
ここに、生き馬の目を抜くといわれる旅行業者が目をつけた。
「東京がダメなら名古屋があるさ」と呼びかけたのである。
東京―名古屋間は、東名高速を通っても、バスで五時間かかるのである。
往復で十時間、いくら馬中毒のオッサンでも、これには二の足を踏むのではないかと思いきや、募集人員八十名の定員が、ほぼ満員になったというから驚きである。禁断症状の激しさがうかがわれるではないか。
かくして、病床に呻吟する恋人を振り捨てて、冷たいダンナ方は、名古屋に向かうのである。
だが、いくら考えてみても、たかが馬の駆けっこを見るのに、十時間もかけるというのは、やはりタダゴトではない。
馬の病気をタネに一稼ぎ、ということを考えついた業者も業者だが、行くほうもまた行くほうである。
両者共にタダゴトでないのである。
ぼくは、競馬ファンではないが、タダゴトでないことを好むタチなので、タダゴトでない両者を見物に行くことにしたのである。
タダゴトでない両者の間に、更にタダゴトでない人物がもう一人加わったのであるから、もはやこれはタダゴトではすまされなくなったといわねばならない。
費用は往復のバス代、朝食、入場料こみで三千八百円。
出発は朝の六時半というから、やはりタダゴトでない。
集合場所は錦糸町駅前だから、ぼくなどは四時半に起きなければならない。
競馬をやるのに、四時半起床というのは、お天道《てんとう》さまに申し訳ない気がする。
それでも眠い目をこすりながら起きあがると、外は生憎雨である。
この時間に、八十名の馬キチ諸氏も、きっとモゾモゾと起き出しているに違いない。
「あんた、馬鹿じゃないの」と、カアチャンにどやされている馬キチ氏もいるに違いない。
雨のパラつく錦糸町駅前には、すでに、三々五々、馬キチ諸氏が集まっていた。
ネクタイ姿は一人もいず、タオルのはち巻き、ジャンパーに長靴という正装が圧倒的に多い。飲みかけのウィスキーのビンをぶらさげたオッサンもいる。
錦糸町を集合場所に選ぶとは、さすが生き馬の目を抜く旅行社、と感心する。この辺には、競馬ファンが多いに違いないのである。
あとで旅行社の人に聞いたら、錦糸町駅前を集合場所にしたのは、会社が錦糸町にあるので近いところを選んだということであった。一人合点という言葉があるが、こういうのを、一人感心というのである。
さて、正装者たちは、寒さにアゴをガクガクさせながら、バスの来るのを待った。
バスは、なかなか来ない。
「雨が降ってるので中止かな。ならいいや、千葉の競輪に行くから」などと正装者たちはしゃべっている。
わりと気楽な連中なのである。
六時ちょうどに、一台のバスが、朝モヤの中からシズシズと現われる。
「どうやら、あれらしい」ということになり、みんなそのバスに群がる。
バスの車体に、旅行社の名前が書いてあるが、なにしろ気楽な連中なので、自分の申し込んだ旅行社の名前を覚えている人は一人もいない。
運転手が降りてきて、このバスがそうである、と肯定したのでみんなホッと安堵の溜息をつく。
これで、やっと馬に会える!
するとまもなく、またしても朝モヤの中から、一人の男が徒歩でテクテクと現われ、自分は旅行社の人間であると名乗り、これより受付け業務を開始する、と宣言し、受付け業務を開始した。
群がっていた人たちは、ただちに一列の行列をつくる。割りに従順な連中なのである。
受付け業務というのは、予約者の名前を呼ばわって、現金を受けとり、首からぶらさげた車掌カバンにしまい込むだけの仕事である。
旅行社という企業は、どうやら組織とか機構が簡単な企業であるらしく、受付け場所は道ばただし、業務に要する器材は、車掌カバンが一個だけである。
白々明けの六時半、定刻きっかりにバスは発車した。
牛に引かれて善光寺まいり、ならぬ、馬に引かれて中京競馬まいりの出発である。
旅行団の出発は、普通、ウキウキソワソワ華やいだ雰囲気があるものだが、この旅行団は、服装もそうだが、華やいだ雰囲気など微塵もない。全員非常に冷静である。つまらなそうである。
普通、旅行バスの内部は、色々な話題に花が咲くものであるが、この旅行団は、全員寡黙である。時々、細々と競馬に関する話が聞こえてくるだけである。
まもなく、朝食と競馬新聞が全員に渡されると、車内はいっそう静かになった。
朝食のおにぎりを、モクモクと食べながら、モクモクと競馬新聞を読みふける。
東名高速にはいってしばらくして雨がやみ、陽がさし始める。
普通の旅行団ならば、ここで当然、天候の回復に関する話題が飛び交うところであるがそれもない。
右手に富士の霊峰が、朝日を浴びて鮮やかに姿を現わしても、車内にはなんの反応も起こらない。
競馬新聞に熱中しているから、というわけでもないらしく、要するに、そういうものには一切関心がないらしいのである。
これは競馬ファンに限らず、勝負ごとの好きな人に共通している特徴であると思われる。勝負ごとの好きな人というのは、人生にまつわる種々雑多な事柄に関心を示さない人が多いように思われる。
勝負ごとに熱中しているから、他の物事には関心がない、というわけでもなく、人生そのものに、もともと関心がないらしいのだ。
あらゆるものに関心がないのだけれども、勝負ごとにだけは、|やっとこさ《ヽヽヽヽヽ》関心を持つことができた、という人たちのような気がするのである。
浜名湖インターチェンジで、十分間のオシッコ休憩。オシッコをしたあと、ほとんど全員、うなぎ弁当を買い込む。
うなぎ弁当は四百円である。割りに景気のいい連中ばかりなのである。
東名高速を降りて岡崎あたりを走っているとき、突然最前列にいた人が、ここで降ろしてくれ、と申し出る。
中京競馬をやめて、京都競馬のほうへ行くことにした、というのである。
そして、この人は、本当にバスを降りて歩いていってしまったのである。
このあと、どのようにして京都へたどりつくのか知らないが、かなり勇敢な人であるらしい。
この人が降りたあと、静かだった車内が、ひとしきりにぎやかになった。
「天気がよくなったんで気が変わったんだ」とか、「儲かったら京都で遊んでくるつもりなんだ」とか、「いやきっと京都に親戚がいて、そこへついでに寄ってくるつもりなんだ」とか、色々な推理や臆測が乱れ飛んだ。「京都に行くなら、最初から新幹線に乗れば、もうとっくに着いてるのに。バカなやつだ」という声も聞かれた。
なにしろ五時間もの長旅である。
みんな退屈しきっているから、こういう事件は恰好の話題になるのである。
十一時十五分、中京競馬場に到着。
関東のダンナ衆が、はるばると名古屋まで競馬をやりにやってきたのである。
地元、中京人の歓迎陣やいかに? と窓外を見やれば、一人の歓迎人も見当たらない。
東京ナンバーのバスを見ても、関心を示す人もいない。
「いまなら第三レースに間に合うぞ」と一人が叫ぶと、全員ワッと駆け出す。
欧米の競馬場は、ファッションを競う場所であるというが、確かに日本の競馬場も、ファッションを競う場であるということができる。
ただし、日本の競馬場は、普段着を競う場なのだ。
最近は、猫も杓子も背広にネクタイなので、服装を見ただけでは、その人の職業はわからないが、競馬場では、一目でその人の職業が、たいていわかるのである。
職人は職人らしく、バーテンはバーテンらしく、商店主は商店主らしい服装をしている。その人の生活そのままが、服装に現われているのである。
華やかな騎手のユニホーム、肌のツヤのいい馬たち、きれいに刈りこんだ緑の植木、そこから目を転じて観客席に向ければ、なんとまあ貧しげな風景であることか。
ドブネズミ一色の服装、肌のツヤの悪い男たち、ボサボサの刈り込んでない頭。
こういう男たちから、わずかな金を巻きあげて、中央競馬会や、騎手や、厩舎の連中は、甘い生活をむさぼっていやがるのだ。
けしからん! と、いきどおりがこみあげ、連中から少しでもふんだくってやらねば、という義憤もこみあげ、ふんだくったその金で名古屋で豪遊してやろう、などという欲望も湧きあがってきたので、勝馬投票券発売所に駆けつけ、特券四枚、1―5一本にしぼって購入する。
なぜ1―5を選んだかというと、来る途中、車中で読みふけった競馬新聞に、1―5が穴であると書いてあったからである。非常に素直な読み方をする読者なのである。
一緒に来た連中は、どこにどう散らばったのか皆目《かいもく》わからない。
関西の馬は、関東の馬と少しは違う顔をしているかと思ったが、別に変わったところはないようである。
ファンファーレが鳴って、馬の集団が前方に駆け出す。
結果は1―2で、四千円があっというまに雲散霧消する。
胸の中を、木枯しが吹き抜ける。
オレのあの四千円で、中央競馬会と、騎手と厩舎の連中が、今夜豪遊するに違いないのである。くやしい。
この第三レースの一着賞金は百万円である。騎手には五パーセントはいるというから、一周二分足らずで、彼の懐《ふところ》に五万円の賞金がころがり込んだことになる。
こちらは、一周こそしなかったが、約二分間、「ァァァー!」と口を開けていただけで、四千円が露と消え去ったのである。
胸の中を木枯しが吹き抜ける。
競馬場は、ゴミでもなんでも、手あたり次第どんどんそのへんに捨ててよいところであるらしい。みんな、はずれ馬券をパッとその場に捨てる。
はずれ馬券を、わざわざくずかごまで持って行って捨てる人は、まずいない。
あれは、はずれた途端、パッとその場に捨てるのが正しいやり方であるらしい。
そういえば、競馬場には、ゴミを捨てないでください、という掲示は一枚も出ていない。当事者は、すっかり諦めているらしいのだ。
そこでぼくも、タバコを吸ったら、マッチをその場にパッと捨てる。ミカンの皮も食べ終ったらポイと捨てる。ハナをかんだら、チリ紙をパッと捨てる。
これは、やってみるとなかなか気持ちのよいもので、病みつきになりそうである。
スタンドには、ヒュウヒュウと風が吹き込んで、やたらに寒い。
やっと日だまりを見つけてすわり込むと、すぐその前に人が立って太陽をさえぎる。
だがここには日照権を云々する人はいない。日照権を侵された人は、すぐ別の陽だまりを見つけて、補償金ももらわずに立ち退いて行く。
第四レースも、新聞の予想通りに色々組み合わせて特券を六枚買ったが、いずれもはずれ。
競馬新聞は、ぼくのような素直で疑いを持たない読者のことを、一体どう考えているのだろうか。
おなかがすいたので昼食をとることにする。
食堂の混雑がまたすさまじい。
人混みに押され押されてはいりこんだところがスシ屋だったので、運命に逆らわずにスシを食うことにする。
スシとビールを注文しているうちにも、人混みはその数を増し、押され押されて調理場にはいりこんでしまう。
運命に逆らわずに、調理場でスシをつまむ。押し合いへし合い、板前さんやオバさんたちが行き交う中で、スシ皿を高くさし上げてビールを飲む。
いってみれば、満員電車の中でスシを食べているようなものである。
ふと窓外を見ると、スタンドの塀のところで、寒風に吹かれながら、無心に弁当を食べているオッサンがいる。
このオッサンは、どういうわけか、足をふんばり、体を大きく傾斜させた姿勢で弁当を頬張っている。全身に、力さえみなぎっているのである。
考えごとに夢中で、自分の体が傾斜しているのも気づかないらしいのだ。
きっと、午後の馬券プランを夢中になって考えているに違いないのである。
あわただしい食事を終えると、すぐ第五レースが始まるので、あわただしく新聞を拡げ、あわただしく検討を始める。
競馬場というところは、常にあわただしく、ゆっくり落ちつくヒマのないところなのである。
ぼく独自の買い方は、ことごとくはずれる傾向にあるので、ベテランらしいグループのところへ近寄っていって、彼らの買い目を盗んでやろうと思ったが、彼らは、仲間うちにも、自分の買う番号を教えないのである。
仲間のそれぞれが黙って立ちあがり、それぞれに券を買い、券を受けとり、それぞれ元のところへ戻ってくる。
レースが終ると、それぞれに「ダメかァ」とか「一枚だけ」とか小さな声でつぶやき、仲間もまた、何枚買って、何枚はずれたか、などということを詮索したりしないのである。たとえ当たっても、喜びを分ち合おうという態度も見られない。
一人で、喜びや、悲哀を、ジッと噛みしめている人が多いようである。
ぼくも、六枚買った馬券ことごとくはずれたので、同じように、ジッと一人で悲哀を噛みしめることにした。
各所に散った、わが関東勢は、どうしているだろうか。何の便りもないのである。
心変わりして京都へ行ったオジサンは、どうなっただろうか。
悲哀の感情は、仲間への郷愁を呼ぶようである。
第六レースの馬券を買いに、発売所に行くと、その隣の払戻所は長蛇の列である。
当たった連中の行列である。憎しみの目をもってそいつらをにらむ。
6―7一本買いで三枚購入。
スタンドに戻って馬の集団を見ると、6と7の馬が非常にいとおしく見える。
と同時に、6、7以外の馬が非常に憎らしく見えてくるのである。
だがせっかくの6―7が敗れ去ると、今度は、6、7の馬が非常に憎らしく見えてくるのである。
競馬場では、憎しみの感情か、いとおしいと思う感情か、そのいずれしか沸かないようである。
第九レースは、本日のメーン・レース、「穂高特別」というやつである。
どうしてここで、「穂高」という名前が出てくるのか、はたまたなぜ「特別」なのか、そのへんのことはわからないが、いずれにしても「特別」であるらしいことは理解できたので、特別念入りに対策を立てる。
念入りに対策を立てた結果、新聞の予想どおり、本命の1―3を三枚と、穴の1―4を二枚買う。
念入りに研究したわりには、新聞どおりという変わりばえのしない買い方になったのであるが、この穴の1―4が新聞どおりにきたのである。
配当金五百六十円。二枚で計一万一千二百円。さっき、憎しみをこめてにらんだ払戻所に、今度は親愛の情をこめて並ぶ。
陽も早や西に傾きかけた最終レースも、特券一枚当たって九千百円。
投資金額三万二千円に対し奪還金額二万三百円。
まあまあというべきか、大損というべきか、或は大儲けというべきか、競馬経験二度目のぼくには見当がつかない。
四時半、各所に散らばっていた関東勢が、三々五々バスに戻ってくる。
儲かった、という人は一人もいない。
大損した、と叫ぶ人もいない。
全員、まあまあだ、というような表情でバスのシートにすわる。
どの辺をもってまあまあというのか見当がつかないが、とにかく全員まあまあだ、という表情をしている。
まずまずめでたいというべきかもしれない。
四時四十分、全員揃ったのでバスは発車。
また五時間かけて、関東まで舞い戻るわけである。
五時間かけて名古屋に来て、十一時から四時までの五時間競馬をやり、また五時間かけて帰るわけだ。
しかし、よく考えてみると、第三レースから第十レースまで計八レース、その間馬の走ったのが一レース二分としても計十六分。
この、たったの十六分のために、往復十時間を費消したのである。
壮挙という人もいるであろうし、愚挙という人もいるであろう。
だが八十名の当人たちは、いとも気楽な顔付きで、五時間の道のりを、眠り呆けて帰ってゆくのであった。
ボクの「遠くへ行きたい」
いま仮りに、十人ぐらいのサラリーマン諸氏に、「いま一番したいことは何ですか?」という問いを発してみるとする。
すると十人のうち八人ぐらいは「旅に出たい」と答えると思う。
それもいわゆる「旅行」ではなく「旅」のほうである。
「旅行」のほうには、「規格化された」というイメージがあるが、「旅」のほうには、「気ままな」というイメージがあると思う。
気ままな旅とは、そんなに良いものだろうか。ぼくも一度、行先を決めず、気ままな旅に出たことがある。
とりあえず、三百円分ぐらいの切符を買って中央線に飛び乗った。
本当に飛び乗ったわけではないが、やはり気ままな旅ということになれば、どうしたって「飛び乗る」という感じが欲しいわけなのである。
しばらくは、移りゆく窓外の景色を楽しんでいたが、列車というものは、乗ったからには、いつかは降りねばならないということに気がついた。さて、どこで降りようか、と思案したが、考えてみれば、なにしろ気ままな旅であるから、どこで降りようが、あるいは降りまいが、自由なわけである。
列車が駅に止まるたびに、「ここで降りようか」と考え、「いや、なにもここで降りなくてはならないわけではない」と迷い、また次の駅に列車が止まると、また同じように迷い、列車が止まる度に、立ち上がり、すわりこみ、しまいにはすっかりヘトヘトになり、最後は、わけもわからぬ小さな駅に、逆上して飛び降りたのであった。
陽はすでに暮れていて、あたりに人影も少なく、旅館を捜せど見当たらず、腹は減り目はかすみ、ようやく捜しあてた旅館は、すでに満員とかで、番頭さんに冷たくあしらわれ、旅館の玄関先で、中から聞こえてくる嬌声を聞きつつ、いい歳をして目には涙さえ浮かんでくる始末であった。
旅館の前に縄ノレンがあったので、悄然とそこへおもむき、冷や酒を飲み、その飲み屋で、はるかかなたに商人宿が一軒あると聞き、すでにまっ暗になったあぜ道のようなところをトボトボ歩いて、廊下ギシギシときしむ宿屋にたどりつき、せんべいぶとんにくるまって、枕グッショリ濡らして眠ったことがあった。
この旅は、全行程四日ぐらいを予定していたのであったが、翌日、朝早く起きてさっさと帰途についたのであった。
確かに、気ままな旅ではあったが、また悲惨な旅でもあった。自由には、往々にして、多くの労苦が伴うものなのである。
ぼくはそれ以来、気ままな旅への憧憬を捨てた。
また、気ままな一人旅には、時刻に対する入念な配慮と、切符の管理に関する間断ない危惧と、所持金の配分に対する緻密な計算能力が必要なのである。
これがぼくの神経には、かなりこたえる。
どこそこへ行くためには、何時何分の列車に乗り、どこそこ駅の、何時何分の列車に乗り換えねばならない。そのためには、何時何分に起床し、何時何分までに朝食を済ませねばならない。こういう時間の配分を組み立てるだけで、ぼくは気が狂いそうになってしまうのである。
また切符の管理に関する問題もある。
どういうわけか知らないが、昨今の国鉄のシステムは、一つの列車に乗るために、乗車券、急行券、座席指定券など数枚の切符を必要とするのである。
ぼくは、たった一枚の切符でも、これを無事、目的の駅まで保有し続けられるかどうか不安で不安で、途中、何十回となく、ポケットに手を突っこみ、切符の所在を確かめなければいられないタチの人間なのである。
それが、三枚いっぺんに持たされるのであるから、三枚の切符を見ただけで、気も狂わんばかりに狼狽するのである。
これに更に、所持金を使い過ぎぬよう、しかし余さぬようにという配分問題がからんでくるのであるから、もはや旅の楽しさどころではない。
旅行期間中、時刻表と切符とお金の問題が、頭の中をグルグルと駆けめぐり、どこをどう見物したのか、なにをどう食べたのか、まったく記憶になく、ヘトヘトになって帰宅するという具合になってしまうのである。
ぼくにとって一人旅は、「旅行に行く」のではなく、「逆上しに行く」ようなものである。
何回かそういうことを重ねて、ぼくは気ままな一人旅への憧憬をきっぱりと捨てた。
そうして、ぼくの旅の理想のカタチは、結局のところ悪評高き農協スタイルということになったのである。人がなんといおうと、あれが旅の理想のカタチなのである。
「軍旗はためく下に」ではないが、「旅行社の旗はためく下に」右に動き左に走り、旅行社の人の命令をよく守り、胸に大きなリボンをつけろといわれれば、ちゃんとリボンをつけ、首に手ぬぐいを巻けといわれれば手ぬぐいを巻き、バカといわれようがなんといわれようが、ただひたすら旅行社の旗だけを目印に歩きまわる旅行を理想とするようになったのである。
自分から、どこかへ出かけてみようか、などとは露思わぬ人間となったのである。
だれかが、どこかへ行こうという誘いを、ただひたすら待つだけの人間となったのである。
そんなときに、テレビの旅番組に参加してみませんかという誘いを受けた。
待てば海路の日和あり、待てば旅行の誘いあり、この日を期して待っていたぼくは、二つ返事で引き受けた。
行先は岡山だという。
こういうふうに、断定的に行先を決められるのも、ぼくにとっては非常に嬉しいことなのである。
「岡山! いいですねェ。行きましょう」
これまで、ぼくの人生と岡山県とは、まったく無縁であった。
かつて、藤猛という、なぐり合いを基調とするスポーツの選手のオバアチャンが、岡山に居住されているということを聞いたことがあるが、岡山に関するぼくの知識はそれぐらいのものであった。
総勢七人、間もなく開通する岡山新幹線に試乗させていただくことになる。
話は飛ぶが、現在、通称「新幹線」と呼ばれている、あの東京―新大阪―岡山間の線路は、あと十年ぐらい経ったら、一体何と呼ぶつもりなのであろうか。いつまでも新幹線と呼ぶわけにもいくまい。国鉄当局は、いまからその対策を立てておかねばなるまい。
総勢七人の内訳は、プロデューサー、ディレクター、カメラマン、カメラマン助手、録音技師、女性タレント、それにぼくという構成である。
岡山周辺を、何となくブラブラ歩き、そのブラブラぶりをフィルムに収めるのだという。ぼくはただひたすら、一行について歩けばよいのだから、気楽なものである。
岡山新幹線新開通ということであるから、線路もピカピカ、列車もピカピカ、景色もピカピカ、というふうに想像していたのであるが、乗ってみると、特に目新しいものはなにもない。
列車は従来どおりの型の列車だし、線路も、枕木に鉄の棒が二本という従来どおりのものだし、景色だって従来どおりの景色である。新趣向というものがまるでないのだ。
せめて景色ぐらい新趣向で、我々を迎えてくれると思ったのであるが、一向にその気配もない。
最初、岡山から吉備線《きびせん》というのに乗って、備中高梁《びつちゆうたかはし》というところへ行った。
なぜ高梁というところへ行くのかわからないが、一行がとにかく高梁というところへ行くということなので、一行についてゆくことにする。
夕刻、高梁というところに着く。
古い城下町である。
この町で一番古く由緒正しいという旅館に泊まることになる。
この町で一番古い旅館といわれるだけあって、全体にかなりガタがきているようで、床などもかなり傾いているようであった。
由緒正しい旅館は、由緒正しく傾いていたのである。
一行七人、宿舎に落ちつき、傾いた畳の上で、盃を傾ける。一行の頭目、Oプロデューサーは、才気煥発、美貌の女性で、今後の段取りをテキパキとつける。
どういうふうにつけたかというと、食後ただちに、この地方名物のスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する、お神楽というのか民俗舞踊というのか知らないが、要するに劇なのであるが、それを観賞し、これをカメラに収める。
その後就寝、明朝早起きして近くにある備中松山城の城跡を訪れ、そのあと総社《そうじや》という町に行き、雪舟で名高い宝福寺を訪れるというものである。
いろいろな地名や、神社名が次々に出てくるが、これらはすべて、初めて知った名前である。あすをも知れぬわが日程は、とりあえず、あすの分までは判明したわけである。
そのあとどこへ行くのかはわからぬが、とにもかくにも、あすの分だけはわかったので安心してビールを飲む。
こういう旅こそ、わが理想の旅なのである。宿の心配もない。足の心配もない。切符の管理に関する問題もなければ、お金の心配もない。
いわんや、あすはどこへ行こう、などという基本的な問題さえないのだ。
なにしろ明後日はどこへ行くのか、それさえも知らない身の上なのである。
安心してビールを飲む。
出された料理を黙って食べる。
満腹して、酔うたぞ、酔うたぞ、と立ちあがると、宿の女中さんが、スサノオさん、ヤマタノオロチ退治劇劇団の到着を告げる。
階下の大広間に、総勢五人の民俗劇団員が、民俗衣裳をつけて待ちかまえている。
劇団といっても、これは町の有志が趣味でやっている劇団なのである。
ヤマタノオロチは、本来、首が八つある筈だが、予算の関係か、場所の関係か、ニマタノオロチとなっている。
ヤマタさんがお酒を飲んで酔ったところを、スサノオさんがその首をはねるという例のやつで、劇の進行を、おはやしの人がフシをつけて解説する。
この解説の歌が、なかなかおもしろい。
ヘビがお酒を飲んで酔うところは、酔うたぞ、酔うたぞ、お酒に酔うたぞ、と解説する。一匹目がスサノオさんに首を切られて退散するところは、一匹切られて奥へ引っこむ、と解説する。
スサノオさんが、ヘビに巻かれて姿が見えなくなるところは、(なにしろこのへびは、一匹十メートルぐらいある)ヘビに巻かれて姿が見えない、と解説するのである。
要するに、見たとおりなのだ。
そこでぼくも、酔うたぞ、酔うたぞ、ビールに酔うたぞ。とても眠いから奥へ引っこむ、と歌いながら部屋に引っこみ寝てしまう。
総勢七人のわがテレビ劇団は、翌朝早起きして城に登る。
備中松山城、旧松山藩五万石の城の一部で、平城《ひらじろ》に対する山城で、現存する唯一の山岳城である、という解説があるが、ぼくにはなんのことやらわからない。
城跡というものは、どんな城跡でもロマンチックなものである。そして城跡というものは、昔の面影が少なければ少ないほど、旅情をかき立てられるものなのである。
たとえば、草ぼうぼうの地に、城あとらしき大きな石が一つ、といった風景のほうが、より大きなロマンを想起させるものなのである。
ところが大部分の城跡には、たいていコンクリート造りのお城がピカピカに再建されていて、風情もなにもあったものではない。
コンクリート造りのお城に、一体どれほどの価値があるというのか。
要するにあれは、大きなプラモデルに過ぎぬのだ。
けしからん。
警視庁機動隊は、あさま山荘攻略に勇名を轟かせた、かのモンケンを駆使して、全国のコンクリート城を、すべて破壊せよ。
なぜぼくが、かくも激怒したかというと、ぼくは、この再建松山城の石垣を、禁を犯して這い登り、城の板塀に塗られていたペンキで、皮のコートをまっ黒に汚されたからなのである。
コートのクリーニング代を思えば思うほど、城への怒りは激しくこみあげてくるのである。
松山の
お城のあとの塀に寄り
クリーニング代に怒る
三十五の心
(もと歌、不来方《こずかた》のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 木)
さて怒り狂って松山城を降りたぼくは、次なる目的地、宝福寺に向かう。
宝福寺は、かの有名な雪舟画伯が、泣きの涙でネズミを描いたというお寺である。
この本堂は、なんの飾りも、てらいもない、長方形のだだっ広いお寺である。
大きなサンの白い障子が、ぐるっとまわりを囲み、そのまわりを高い縁側がとり囲む。
こういうお寺が、なんともたまらなくいいのだな。単純で素朴で、暖かくてなごやかでいいのだな。縁側の高いのが、またいいのだな。
縁側に腰をかけて、足をブラブラさせる。
早咲きの桃の花が庭先に一本。
広く白く続く玉砂利の庭。
この縁側で、猫でも抱いてウグイスの声を聞きながら昼寝をしたいと思ったが、一行には一行なりのスケジュールがあり、随伴者はこれに従わねばならない。
山中から一気に車で海岸に出る。
鷲羽山《わしうざん》というところである。
鷲羽山とはどういうところかというと、瀬戸内海に面した公園のようなところである。
展望台があり、金十円也の望遠鏡があり、売店があり、眺望説明盤があり、アベックがチラホラという例のやつである。
ぼくは瀬戸内海をマジマジと見るのは、これが初めてである。
天気のせいもあったかもしれないが、瀬戸内海は、なにやらうす汚れた感じであった。
小さな島が無数に散在し、小舟が盛んに行き交う。
ぼんやりと海を見ていると、ディレクター氏が近寄ってきて、「では少々演技をお願いします」という。
ぼくは演技というものは、小学生のとき、学芸会で一度やったきりである。
どういう演技かというと、その他大勢と一緒に、舞台の右はじから左はじへ走り抜ける、という演技である。これを演技というのかどうか知らないが、とにかく演技と名のつくものは、これ一回きりなのである。
演技と聞き、スタニスラフスキーなどという言葉が頭に浮かび、ここはひとつ、スタニス式でいかなくてはいけないのではないか、と緊張したが、ただぼんやりと海を見ていてくれればいいのだという。
そこでぼくは、ぼんやりと海を見る。
カメラが、ジーッと音を立ててまわる。
ただぼんやりと海を見ていればいいとはいっても、ひとたびカメラがジーッとまわれば、ただぼんやり、というわけにもいかない。
「ぼんやり」を演技力で表現しなければなるまい、と考える。
そこで目をトロンとさせ、口を半ば開いてみたが、これではどうも「ぼんやり」が過ぎるのではないか、などと必死になって演技の改善を試みているうちにカメラの音が止まる。
「もう結構です」とディレクター氏がいう。
この「もう結構です」は、「うまくいきましたから結構です」というふうにも解釈できるが、「どうしようもないから、もうやめて結構です」というふうに解釈することもできるのである。
その夜、旅館の食事に遅れて行くと、心なしか一行の表情が暗い。
「やはり、あのぼんやりの演技がまずかったのではないか」と演技者は深く反省し、一番すみに座を取り、うつむいて食事をする。
ビールが苦い。
演技者は、うつむいて食堂を出、部屋に戻り、ふとんをかぶって寝てしまう。
岡山市から車で一時間ぐらいのところに、西大寺というお寺がある。この西大寺は、はだか祭りで有明なお寺なのである。なのである、などと書いてはいるが、これらはみんな、その場で聞いた話の受け売りである。
なんでも、世界三大奇祭の一つとかで(いや、日本三大奇祭だったかな)、要するに、お寺の本堂に数千名のはだかの男たちが群がり、天井から投下される神木というものを奪い合うという趣旨のお祭りなのである。
神木が投下されるのは、夜中の十二時だというのに、夕刻六時ごろから、すでにはだかのおにいさんたちが、ワッショイワッショイのかけ声も勇ましく、徒党を組んで境内に駆けこんでくる。
テレビ局のライトが、煌々《こうこう》と境内を照らし出す。
はだかの殆どは、近郊の青年団だというが、イレズミの一隊もチラホラ見える。
全員寒さに対抗すべく、ワッショイワッショイとデモ隊の如く境内を駆けまわる。
十二時には、まだ充分間がある八時ごろには、すでにヨタヨタにへたばっている一隊もある。そこここでケンカが始まる。ケンカの方法は、蹴りが圧倒的に多い。キックボクシングが流行しているせいかもしれない。なぐられて鼻血を出し、スゴスゴと帰り仕度にとりかかるかわいそうなオッサンもいる。
はだかの集団の周囲には、警官隊と地元消防団が取り囲み、「消防団第二中隊前へッ」などという号令も聞こえてくる。
十二時近くになると、はだかの数はふくれあがり、ケンカ、怒号、階段から群れをなしてころげ落ちる者、マイクの叱声などが飛び交い、寒風吹きすさぶというのに、はだかの群れからは湯けむり≠ウえ立ち昇っている。
つまり、ここでは、現代の野蛮が行なわれているのだ。野蛮をめがけて、野蛮にあこがれて、男たちが、はだかになって馳せ参じてくるのである。
十二時きっかりに、二本の神木が投下され、ワッと群がる数千のはだか。
ルールもなにもあったものではなく、なにがなにやら、はだかが右に走り左に駆け抜け、神木は一体どうなったのか、わけがわからぬうちに祭りは次第に終焉《しゆうえん》を迎える。
「ああ、いやだいやだ、いやだねェ」という感想を、ぼくはマイクに向かって述べる。
祭りのあとは、ただひたすらうら寂しく、屋台のラーメンすすって一行は宿に戻る。
かくして、わが理想のカタチの旅も終焉を迎える。一行に、ただひたすらついて歩き、ついて歩いていると、いつのまにか日が暮れて、朝になり、眼前の景色が次々に変わり、様々な催し物が眼前に展開され、終りを告げ、また日が暮れる。
いま机に向かい、この旅の思い出を思い起こしつつ、これを書いているわけであるが、自分は一体、どこをどう歩きまわってきたのか、どこをどう見てまわったのか、はたして本当に旅をしてきたのか、記憶はうすぼんやりしてはっきりしない。
こういう旅が、ぼくの理想の旅なのである。
下町バアチャン劇場
芝居見物というものは、元来優雅なものなのである。
少々の小金も貯まった、というご夫人たちが、午後の陽の差し込むダイニング・ルームで、一人カナリヤの声を聞きながら、オーブンで焼きあげたアップルパイにナイフを入れつつ、「そう! 明日あたりは、お芝居にでも」と思いつく。
早速お仲間のご夫人に、「あすあたり、お芝居などいかがざァましょ?」と電話をかけ、「ケッコざァますわネ」ということになり、値段の高いお召物に値段の高い帯を巻きつけ、値段の高い指輪を指に差し込んで出かけて行くものなのである。
出かけて行く方面は、たいてい新橋とか銀座方面である。
決して北千住方面には、向かわないのが普通である。
ご婦人というものは、どういうわけか、芝居とお買物を好むものなのである。
昔は、「今日は帝劇、明日は三越」という言葉が、上流夫人たちの上流生活ぶりを伝えていたものである。
一方、小金も貯まらぬ漫画家も、ある日の午後、出前の残りのチャーハンを暖めかえして食べながら、「明日あたりは、お芝居にでも」と思いついてしまったのである。
そこで早速、お仲間の編集者に、「明日あたり、お芝居などいかがザしょ?」と電話をかけると、「ケッコざんすネ」ということになった。
翌日、値段の安いセーターに値段の安い靴をはいて出かけていくと、どういうわけか車は、北千住方面に向かって走り出したのである。
今日は上流夫人たちに立ち混じって、優雅な観劇の一日を、と、顔付きも上品に改めて出かけてきたのに、あろうことか車は北千住方面に向かうのである。
北千住にだって劇場はあるという。
ぼくには、北千住に於ける観劇のほうが似合っているという。
北千住に寿《ことぶき》劇場というのがあり、ここでは入場料たったの二百円で、生《なま》の芝居をたっぷり見せてくれるのである。
カレーライス一杯の値段で、堂々四時間、つい目と鼻の先で、水もしたたる役者衆が演ずる芝居を観賞することができるのだ。
「今日は帝劇、明日は三越」の上流夫人連には向かないかも知れないが、ここ北千住周辺の中流夫人連には、「今日は寿劇場、明日は西友ストア」といわれるくらいに愛用されている劇場なのである。
寿劇場は、ちょうど下町の銭湯といった感じの外観で、入口には、大人二百円、小人百四十円という表示が出ている。
その横に「数へ八十歳より敬老優待割引」(原文のママ)という文字が見える。
「敬老優待ねェ……。下町的でいいですなァ」と感心していると、
「まあ、一応八十歳以上と書いてはおりますがネ、パッと見てこりゃァだいぶトシだナ、と思ったら半額にまけちゃうんです」
と、ここの劇場主清田さんはいう。
「すると、年齢というより、ヨボヨボ具合で判断するわけですか?」
「ハハハハ、そういうわけです。六十でもヨボヨボならネ、まけちゃうんですヨ」
これぞ下町精神というものである。
お役所なら、「八十歳以上」と書いたからには、身分証明書、及び戸籍謄本二通、お米の通帳、住民票二通ぐらいの提示を求めるであろうが、ここ寿劇場ではそんなことはしない。
身分証明書も戸籍謄本も要らない。
一目見て、「ヨボヨボだナ」と思えば、二百円がたちまち百円になってしまうのである。
ヨボヨボで百円だから、ひとヨボ五十円ということになる。
客席は、めずらしや畳敷きで、約四十畳ほどの広さ。
両そでに、一段高い畳敷きの席があり、これはきっと貴賓席に違いないと睨んだが、貴賓とも思われない、しわくちゃバアチャンが、背中丸めて甘ナットウを口に運んでいる。
むろんここも二百円の普通席なのである。
むろん、どこにもA―2とか、への3とかの客席番号はない。
適当なところにへたりこめば、そこがその人の座席となる。寝ころがって二人分の席を占めても、二人分の席料を取られることもない。
ゾロゾロとジイチャン及びバアチャン、オッサン及びオバサンが入場してくる。
開演は毎夕六時半。
若い人は一人もいない。バアチャンは、孫を連れたのが多い。
むろん背広にネクタイの人は絶無である。
入口で靴を脱ぎ、さてこの靴どこへしまおうかとウロウロしていると、そのままでよいという。
背広にネクタイが絶無であるから、革靴もまた絶無なのだ。
ほとんど下駄、サンダル、長靴、ゴムゾウリのたぐいで、盗まれる心配もまた絶無であるらしい。
高級ホテルなどに見られる「ハラ巻き、ステテコ、サンダルばきお断わり」の貼り紙もないことはいうまでもない。
むしろ、「背広、ネクタイ、革靴ばきお断わり」の貼り紙を出したいくらいなのである。
入口に、ちょうど一升枡みたいなものが山と積まれていて、みんなそれを一箇ずつ取って持って行く。
なんだろうと思っていたら、それは灰皿なのであった。
下町のオバチャンたちは、タバコ愛用者が多いのである。
たいていのオバチャンたちは、スパスパやっている。
そこでぼくも、世界的にも類例の少ないであろう木製灰皿でスパスパやっていると、正面に、「禁煙」という大きな表示が目についた。
これはいかん、とあわててタバコを消そうとして横を見ると、「お願い」という貼り紙があって、「灰皿の中に、たん、つばき等の水物は、絶体に入れない様にして下ださい」(原文のママ)と書いてある。
禁煙ではあるが、灰皿が用意されている。
禁煙ではあるが、たん、つばき等の水物さえ入れないようにすれば、吸ってもいいらしいのだ。
むろんぼくは、この注意をよく守り、「たん、つばき等の|水物《ヽヽ》」は、すべて飲み込むように心がけたのである。
売店では、お茶などの水物も売っている。
キュウス一杯四十円である。
「お茶四十円。中身だけ十円」とある。
ぼくは両手をおわんのようにして突き出し、ここへ中身だけ注いでもらうわけにはいかぬだろうか、とたずねると、売店のオバサンは、それはかなわぬという。
やむを得ず、四十円のお茶を買い求め、ついでに、甘ナットウ、ミカン、サキイカ、酢コンブ、ナントカボーロなどを大量に買い求め、長時間の観劇に備えることにした。
すぐ横にあるトイレから漂ってくる樟脳の匂いがかなりきつい。
客は常連が殆どということで、この樟脳の匂いには慣らされているらしく、匂いに関する感想はまったく聞かれない。
わざわざトイレのそばに席を取る人もいるくらいなのである。
この匂いがないと、観劇の気分が出ないのかも知れない。
そこでぼくも観劇の気分を出すべく、トイレのそばに席を取る。
身のまわりに、備蓄用の食糧を並べ、お茶を並べ、灰皿も並ベダラリと横になる。
甘ナットウを口に放り込み渋茶をすする。
トイレの香りと、甘ナットウの味がほどよく調和して、なんともいえない味がする。
寿劇場の特別サービス
甘ナットウ・ウィズ・トイレの香り、
ああ、極楽、極楽
拍子木がチョンチョンとなり、
「お足運び、ご不自由ななかを(この日は雨が降っていた)多数ご来場くださいまして……」という口上があり、夜がァ冷たァァい、心ォがァ寒いィ、というレコードが鳴り渡り、観劇の気分が盛りあがる。
トイレの香りも一段と強くなる。
「今宵ィ最初のだしものはァ、昭和残侠伝、無情のブルースゥ、無情のブルースゥ、演じまするはァ、当座若手花形ァ、西条新吾ォ、二条あきらァ、……」と出演者の紹介があり、夜が冷たいのレコードが、場内われんばかりに、ひときわ大きくなって、いよいよ開幕である。
「ええゾ、ええゾ」「待ってましたァ」の掛け声がかかると思いきや、客はわりに冷静で、バアチャンはうつむいてミカンの皮をむき、オッサンは競馬新聞に目を落としている。
どうも観劇の態度がよろしくないようだ。
芝居のほうは、「東映風ヤクザもの」で、組同士の縄張り争いから出入りになり、主人公秀次郎は、多くの人を殺《あや》める。
この間に、緋牡丹のお竜さんがからむが、このお竜さんは、故堺駿二氏にそっくりなのである。ひどいお竜さんもあったものだ。
話はかなり複雑で、秀次郎の組の親分は、どうやら悪者らしい、という伏線があって第一幕は終る。
幕の内側では、トントコトントコと金づちの音がし、舞台変えが行なわれている。
この間、ぼくの隣のバアチャンは、甘栗の皮をむく作業に専念する。
やがて、「親分のためにワラジをはいた秀次郎は、いろいろ諸国を渡り歩き、五年の歳月が流れた」というナレーション。
「あれマ、早いねェ」とバアチャンは嘆息する。
「もう五年も!」
舞台は変わって、アッという間に五つもトシをとった秀次郎さんは、別段ふけた風もなく舞台に現われ、かつての舎弟分の家を訪れる。
ところが舎弟分は、秀次郎のかつての愛人を妻としていて、すでに子供までできていた。
哀れ、苦悶する秀次郎!
苦悶はしたものの、やがて突然、秀次郎は激怒する。
オヤコサンニンをぶった切るといきり立つ。苦悶する舎弟分。
ここは、どうやら「いいとこ」らしいのである。
「いいとこだヨ、いいとこだヨ」と、「あれマ、早いねェ」のバアチャンが、隣のバアチャンの肩をつつく。
どうやら「いいとこ」らしいので、ここのところを紙上に再録してみる。
舎弟「おいらァ兄貴の女をめとって子が出来たァ。兄貴ァおいらをぶった切るという。よろしゅうござんす。バッサリやっておくんなせェ。オヤコサンニン、兄貴に切られりゃ本望だァ。サ! バッサリやっておくんなせェ」
覚悟を決めた舎弟分は、パッと裾を払って大あぐらをかき目をつぶる。
女房のタマエ、ヒシと夫にとりすがり、人形の赤ん坊をかき抱いて涙にむせぶ。
秀次郎「覚悟はいいな!」
舎弟、黙ってうなずく。
タマエ「アンタァ! ウウウ……」
秀次郎、長ドスを振り上げ、振りおろさんとして、クククとうめく。
「おれにゃァできねェ、どうしてもできねェ」
刀を鞘におさめた秀次郎は、ややあってうめくように、
「門之助(舎弟の名前)、おめエがタマエを幸せにしてやっつくれェ。おれ以上にタマエを幸せにしてやっつくれェ。おれのいいてェなァそれだけよォ」
はるか遠くへ目をやりながら、秀次郎はつぶやく。
「そのかわりなァ門之助。おいらァ旅の空で、タマエが不幸だって聞いたらなァ、そときゃァおいらァおめエをぶった切るぜ。いいな!」
「兄貴ィ!」
「秀次郎さん!」
とりすがる門之助と女房のタマエ!
泣き叫ぶ赤子!
それを振り切るように秀次郎は、さっそうと去って行く。
唐獅子牡丹のレコードが、ひときわ高くなり幕が静かにおろされる。
バアチャンは、感に堪えたかのようにしばらく瞑目していたが、ややあって思い出したように、先刻より中止していた甘栗の皮むき作業を再開する。
緊張から解かれた場内には、急にいろいろな音が入り乱れる。不思議と人声は聞こえず、いろいろなノイズだけが、シンとした客席から聞こえてくるのである。
感想を述べ合うといったことは、ここ北千住ではやらないらしいのである。
このときの場内の音を再録してみる。
ビリビリ(センベイの袋を破る音)、ゴホゴホゴホ(バアチャンが咳をする音)、ピッチャピッチャ(バアチャンが入れ歯でイカの足をしゃぶる音)、バリバリバリ(オッサンがセンベイをかじる音)、チャラチャラ(なぜか銭勘定をしているオバチャン)、トントントン(舞台で釘を打つ音)、ジョボジョボジョボ(バアチャンがお茶をつぐ音)、ギイイイ、バタン(トイレのドアが締まる音)。
さて、この不思議な静寂が五分ばかり続いたあと、突然エレキギターとドラムの音が場内に響き渡り、
「お待ちかね、当劇団の呼びものォ、ゴールデン、歌謡ォショーォ! ソーレ!」
の掛け声と同時に幕が開き、いま見たばかりの同じ顔ぶれが、いま見たばかりの扮装のまま、楽器をかかえてズラリと舞台に並んでいる。
秀次郎兄ィはエレキギターを持ち、舎弟分はボンゴ、タマエはマラカスを持ち、緋牡丹のお竜さんは、三味線をかかえて立っている。
この、エレキギターと三味線の取り合わせについては、いろいろ異論もあると思う。だが弦楽器という点では同じであるし、実際に聞いてみると、なんともいえない美しいハーモニーをかもし出すのである。
甘ナットウとトイレの香りが調和するごとく、ここ寿劇場では、エレキギターと三味線もよく調和するのである。
観客層がかなり老いているせいか、歌のほうもかなり古いのが多い。
ご存知「浪曲子守歌」、「旅姿三人男」(清水港の名物は、お茶の香りと男伊達《おとこだて》)、都はるみの「好きになった人」、セリフ入り「無法松の一生」「旅笠道中」「おしゅん恋歌」「妻恋三味線」と懐かしのメロディーが続き、これらの歌を、先ほどの昭和残侠伝のキャスト一同が、残らず入れ替わり立ち替わり歌うのである。
役者専門もいなければ、歌手専門もいない。全員兼業なのである。
このころになると、観客数は八十人ほどに増えた。ほぼ満員の盛況である。
「旅姿三人男」の歌のところでは、客全員が手拍子を打ち、それぞれが低く唱和する。
バアチャンも、しわがれ声で、念仏のごとく唱和する。
みんな手拍子の打ち方がうまい。
パチッと合わせた手を、次の瞬間、スッとすり合わせるようにする。この感じが、なんともたまらなくいいのだ。
手の位置は、肩の高さである。
首は四十五度ぐらいに前へかたむける。ちょうど拝むような恰好になる。
そして、手を打ってすり合わせるとき、首をユラリと振ると、更にサマになるようである。どうやらぼくの観察では、下町の人ほど、手拍子の打ち方がうまいように思える。
東大の法科を出たような人で、手拍子の打ち方がうまいという人はまずいない。ザマアミロ。
歌謡ショーが終ると、舞台は一人一人の手踊りに変わる。
国定忠治とか、幡随院長兵衛とかの扮装で、歌に合わせて踊り、ときどきキッとミエを切る例のやつである。剣戟踊りというのだろうか。
この踊りが始まると、客席から舞台に向かうバアチャンたちの姿が目立つようになる。
それぞれのごひいき役者にプレゼントをするのである。
若い歌手の歌謡大会では、娘たちが嬌声をあげつつ舞台に駆け寄るが、バアチャンたちは、娘たちのように嬌声をあげたりはしない。
ノソッと立ちあがり、ノソノソと舞台に歩みより、タバコやら菓子折りなどを舞台に放り投げるのである。
どういうわけか、バアチャンたちは全員|憮然《ぶぜん》とした表情でこれをやる。ヤケクソみたいに舞台にプレゼントをぶち投げるのである。
大きな紙袋をかかえたバアチャンが、やはり憮然とした表情で舞台に歩み寄り、やおら紙袋に手を突っこみ、ホープの小箱やら、キャラメルの箱やらドロップやらを、つかんではぶちまけ、つかんではぶちまけ、まるでニワトリにエサをやるようにまき散らして、やはり憮然とした表情で戻ってくる。
どうもバアチャンたちは、お賽銭をあげるのも、プレゼントをあげるのも、同じように考えているらしいのだ。
踊りが終ったあと、役者は、「贈物、遠慮なく頂戴つかまつりまして退場いたします」といって、ぶちまけられた贈物を、ひとつひとつ拾い集めなければならないのである。
袋ごと舞台に置けば、そういう余計な手間がかからないと思うのだが。
それとも、自分がぶちまけた贈物を、ひとつひとつ拾い集める役者を見て、「いとしい!」と思いたいためであろうか。
ぼくの右隣に、一組の老夫婦がいて、ヒザの前にハイライトを山と積みあげている。
役者が出て来て踊りを踊る。旅人姿のヤクザ若衆が、長ドス抜いて首をヒクッと曲げてミエを切る。
すると、この老夫婦のジイサンのほうが、「いまの、いいな! な!」とバアチャンにささやく。するとバアチャンは、ハイライトを五つばかりつかんで黙って立ちあがり、うつむいたままツツツと舞台に駆け寄り、そのハイライトをぶち投げて、小走りにジイサンのところへ戻ってくる。
役者が代わる。またミエを切る。ジイサン「うん、いい!」という。
バアチャンまた黙って立ちあがり、ハイライトをぶち投げて戻ってくる。
また役者が代わる。「いまのはちょっとな、な!」とジイサンがいう。
バアチャンは、今度は立ちあがらない。
役者の巧拙は、ジイサンの鋭い批評眼によって見分けられ、ジイサンの批評は、たちまちハイライトになって舞台めがけて飛んでくるのである。
役者は、あだやおろそかに、手を抜いたりはできないのである。
このあともうひとつ時代劇をやり、「本日はこれにておしまい」の拍子木が鳴って、客はゾロゾロと帰途につく。
出口には出演者がズラリと並び、「またのお越しを」とお見送りするなかを、バアチャンたちは一人一人にうなずきながら満足そうに帰って行く。
家にいても、息子や嫁や孫たちにテレビを占領されて、自分の好きな番組も見られないバアチャンたちなのであろうか。
悶絶! ぼくの禁煙日記
夏の近さを思わせるような、爽やかな五月の夕暮れどき、ぼくはフラフラと散歩に出かけた。
ここ荻窪周辺の住宅街は、どの家の庭にも色とりどりのツツジの花が咲き乱れ、夕食前のややうす暗くなった庭先は、すでに夏の宵のような、いや夏の宵を前にした静けさのような、いや、夏の宵を前にした華やかさのような、まあ、だいたいそういったふうな感じに包まれていたのである。
どの家の母親も、この日ばかりは心優しい母親となって、心優しく夕げの仕度にいそしみ、どの家の父親も、この日ばかりは心静かな父親となって心静かに新聞などを眺め、どの家の子供も、この日ばかりは口数少ない子供になって口数少なく積木遊びにうち興じている、まあだいたい、そういったふうな宵であった。
ぼくは路地をめぐり、町角を曲がり、各家の灯りを眺め、ツツジを眺め、いつしか家庭を捨てた旅人のような心境になって、家々の間を、ウロウロと歩き廻っていた。
(その昔、オレにもこんな家庭があった)
旅人は次第に感傷的になり、いつしか罪深い人のような心境になり、ふと一軒の家の前に立ち止まり、窓越しに見える楽しそうな一家の団欒を眺め、涙を流したりしたのである。
とにかくまあ、そういったような、不思議な雰囲気の、宗教的ともいえるような、そんな夕暮れどきだったのである。
ふと目の前に、白い壁の大きな建物が現われた。
教会であった。
旅人は、そのとき運命を感じた。
罪深き自分は、この教会で救われねばならぬ。
旅人は、ノロノロと教会の庭に入って行くと静かにベンチに腰をおろした。
ツツジが、教会の白い壁を背にして、夕やみの中からひときわ美しく浮かびあがっている。
旅人は、ポケットからタバコを取り出して火をつける。夕やみの中に、紫の煙が静かに分け入って行く。
旅人は、ふと庭先の一枚の立札に目をとめた。
その立札には、次のような文字が書かれてあった。
「あなたはタバコがやめられる講習会――セブンスデー・アドベンチスト教会」
旅人は再び運命を感じた。
今まで、一日に三十本ぐらい吸っていたのである。なんとかしなくてはいけない、と思っていたのである。
この運命的な宵を契機にして、或はタバコをやめることができるかもしれぬ。
旅人は大急ぎでタバコをもみ消すと、矢印に従って会場に向かった。
教会と並んで病院があり、そこの一室が会場にあてられていた。
ぼくのこのときの心境は、運命的な夜の、運命的な出会いであったとはいえ、「これを機に断固禁煙を」というような確乎としたものではなく、「禁煙をするのにやぶさかではない、かようにご理解いただいてよろしいかと思う」という程度のものであった。
「前向きの姿勢で積極的に取り組む」というところまではいってなかったのである。
講演開始の六時半までには、まだ少し間があり、会場の受付に、女の人が一人ポツンとすわっていた。
「あの、入場料はおいくらで?」
「いえ、無料です」
無料! 現代では、この言葉ほど人を感動させる言葉は他にないであろう。
「五日でタバコがやめられる、とありますが、講習会は五日間やるわけですか?」
「ハイ、毎夕六時から八時まで、映画と講演を行ないます」
「映画と講演を五日もやって……あの、それで無料?」
「ハイ、無料です」
「あの……」
現代人の心の仕組みは、こういう無料の仕組みを理解することができない。
「では、この出席カードと、パンフレットを持って会場にお入りください」
「あの……このパンフレットは?……」
「無料です」
会場には、三十歳ぐらいの男が一人いるだけである。
正面に映画用のスクリーンがしつらえてある。
「これはきっと、あとで禁煙用の薬かなんかを売りつけるに違いない」
現代人はまだ疑心暗鬼である。
定刻の六時半になると、それでも十四、五人が集まる。
サラリーマンふう、商店主ふう、重役ふうありで、中に一組、中年の夫婦づれもまじる。
定刻きっかりに、温厚そうな紳士が現われ、自分でこの「五日でタバコがやめられる」運動の推進者であると名乗る。この病院の院長なのである。
おだやかで、にこやかな人で、タバコの害をジュンジュンと説き始める。
「タバコの害を人に説くとき、いつも一つの実験をしてみせることにしています。
タバコの煙を口一杯に吸って、まっ白いハンカチにハーッと吐いてみます。
するとハンカチが黄色くなりますね。おっと、この会場内は禁煙ですから、ここでは実験しないように。
ところが、もう一度吸って、今度は全部肺の中に吸いこんでからハンカチに吹きつけてみます。すると今度は、ハンカチが黄色くなりません。あの黄色い部分はどこへ行ってしまったのでしょう?」
どこへ行ってしまったのか?
ハンカチが黄色く染まったのは、タバコのタールのせいである。
タバコの煙に含まれているタールの微粒子は、肺に吸いこまれると、その七五パーセント以上が肺の中に拡がっている気管支の内面に吸着されてしまうのである。
このタールをうすめて、動物の皮膚にくり返して塗ると、一年以内に六〇パーセント以上の動物にガンができるのである。
ここまではだれでも知っていることである。
そして、こういう実験の話を聞くと、たいていの人は、「そりゃ、そういうふうにタールを塗りたくればガンもできるさ」と思うに違いない。
ところがである。
タバコの煙を肺に吸いこむと、微粒子状になったタールの七五パーセント以上は、気管の粘膜に吸着されるのである。
「皮膚にタールを塗りたくるのと同じように、気管の粘膜に、タールを吹きつけている」ことになるのである。
そして、タバコを吸っていた人で肺ガンになって死んだ人は、タバコを吸っていなかった人の実に六十四倍にもなるのである。
タバコを多量に吸っている人は、毎日毎日多量の発ガン物質であるタールを、肺の粘膜に吹きつけていることになるのである。
ここまで聞いたぼくは慄然とし、「禁煙をするのにやぶさかでない」心境から、「前向きの姿勢で積極的に取り組む」という態度に心境を変化せしめたのであった。
この講演のあと、映画が映し出された。
NASAの宇宙ロケット技師が主人公で、この技師はやたらにタバコを吸う。殆どひっきりなしに吸う。その妻君も、これまたひっきりなしに吸う。
ぼくはすでに、非喫煙者の心境になっていたから、「ああ、ああ吸っちゃいけないなァ。あれじゃいずれ肺ガンになるなァ」とハラハラしながら見守る。
案にたがわず、技師は肺ガンになる。
胸が無造作に切り裂かれ、手が無造作に突っこまれ、肺がつかみ出される。ガンの部分を切除する。
この部分、かなりの残酷ムードで、喫煙の恐ろしさがヒシヒシと身にしみてくるのである。
ここのところまで見たぼくは、「前向きの姿勢で積極的に取り組む」心境から更に一歩進め、「ただちに関係各方面に断固たる処置を指示する」という態度に心境を変化せしめたのである。
禁煙を決意することはやさしいが、それを実行することはむずかしい。
この「五日でタバコがやめられる講習会」も、結局のところ、「意志の力でやめる」ということに尽きるようである。
一日目の終了時に、参加者全員で、「私はタバコを吸わないことにしよう」という誓いの言葉を斉唱する。
だが、どうも全員の声に力がない。自信がないようである。
だがぼくは、「ただちに断固たる処置をとる」心境になっているから、一人大いに張りきり、大声で怒鳴り、出口でタバコを捨てていけとの指示にも、迷うことなく持っていたタバコを投げ捨て、決意を眉のあたりに漂わせながら夜の町に出た。
駅の周辺までくると、焼鳥の匂いがプンと鼻をつく。
ぼくはノレンをくぐって焼鳥とビールを注文し、おしぼりを受けとる。まわりを見まわすと、みんなタバコをふかしている。
「ああかわいそうに。ああしてタールを肺の粘膜に吹きつけているんだなァ。もうすぐ肺ガンだなァ」と憐れみの心さえ起こってくる。
おしぼりで顔を拭き、シオ焼きの焼鳥を頬ばり、冷たいビールをグーッと一息に飲み干す。
すると心境とはまったく裏腹に、当然というか、自然というか、神の摂理というか、実にもうなんのためらいもなく胸のポケットに手がいき、タバコの箱をさぐっているのである。
思わずハッとして、「私はタバコを吸わないことにしよう」と口の中でとなえ、大急ぎでさっきの映画の場面を思い浮かべる。
しかし、しかしである。まわりではみんなうまそうにタバコをふかしてやがるのだ。
吸ってない人は一人もいないのだ。
焼鳥屋のネエチャンまで吸ってやがるのだ。
仕方なくビールを飲む。ビールがうまい。ビールもうまいが、冷たいビールが通過したあとの煙の味も、これまた滅法うまいのだ。
少し寂しくなり、うら悲しくなって焼鳥を頬ばり、またビールを飲む。
店のテレビは、
「オレはー、ドブネズミィー
なんといわりょと、ドブネズミィー」
…………
「でもなァ……」
というコマーシャルをやっている。
「オレはー、禁煙だァー
なんといわりょと、禁煙だァー」
…………
「でもなァ……」
ビールを一息飲み干すと、またしても当然のように胸のポケットに手がいく。
「オレはー、禁煙だァー」
「でもなァ……」
「うん、そう! 一本だけ、一本だけならいいだろう。最後の一本ということで吸うなら、神もご照覧、決して文句をいうまい」
胸のポケットをさぐっていた手が、ズボンのポケットにいき、さぐってみると、不幸にしてというべきか、幸運にもというべきか、吸いかけのもう一箱がポケットの中にあったのである。
こうなれば、もはや神の摂理に従うよりほかはない。
「一本だけだからな、一本だけ」
心に念じてうやうやしく火をつける。
ああ、この光景をあの先生が見たら、どんなに悲しまれることであろうか。
先生は、今日は酒も飲むな、といわれたのである。酒を飲むと決心が鈍るからアルコールは口にするなといわれたのである。
それなのにこうしてビールを飲み、あまつさえタバコまで吸ってしまった。
それにしてもこのタバコ、うまいなァ!
「うん、そう! もう一本だけ、もう一本だけ吸ってそれでやめよう」
いや、むしろ今夜は吸ってもよいことにして、あすの朝からやめることにするか?
そう! むしろそのほうがよい。だからいっそのこと今夜は盛大に吸って、それで未練を断ったほうがいい。そのほうが、あすからかえってきっぱりやめることができる。
「おねェさん、ここタバコおいてある?」
ぼくはこれでも、それほど意志の弱い男ではないのである。
翌朝起きると、きのう講習会で教えられたとおり、まず「私はタバコを吸わないことにしよう」と大声で叫んだ。
それから教えられたとおりに深呼吸をし、コップ二杯の水を飲み、大量の果物を食べた。水は体内のニコチンを流し去るのに有効であり、果物は、ニコチンの分解に役立つという。
そして夕方まで、本当に一本のタバコも口にせずに過ごしたのである。
ときどき、吸いたい衝動にかられたが、そのときは、「私はタバコを吸わないことにしよう」と叫び、なんとか切り抜けることができた。
なんだ! やれば案外簡単じゃないか!
ぼくは、意気揚々として二日目の講習会に出かけて行った。
「この二十四時間、タバコを一本も吸わなかった人は手をあげて」という先生の問いに、驚くべきことに殆ど全員が手をあげた。
惜しいことに、ぼくは二十四時間ではなく、十二時間である。無念の涙をのんでうつむく。きのうの誓いの言葉には力がなかったが、全員の決意は意外に堅かったのである。
ゆうべの焼鳥とビールがいけなかったのだ。あれさえなければ、ぼくもみんなと一緒に、誇らしげに手をあげることができたのである。
二日目も映画と講演である。
きのうの映画は、手術をして助かったのであるが、今日のは手遅れで死んでしまうという話である。
ぼくの禁煙の決意はいよいよ堅くなる。
講演のほうは、ニコチンは、人体のノルアドレナリンというホルモンの分泌を盛んにするため、心臓、血管皮膚の交感神経を刺激する結果となり、血管を圧迫して、血液の流れを妨げ心筋梗塞の原因になるという話である。
わが決意の堅さを判断すべく、帰途きのうの焼鳥屋におもむく。きのうと同じように、焼鳥を食べビールを飲む。
不思議にタバコを吸おうという気にならない。せっかく朝から頑張ってきたのに、ここでくじけては丸損だ、という気持ちが働いているせいかもしれない。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。意外に平気だぞ。これならなんとかいけそうだ」
とタバコを吹かしている連中を見やる。
「ああ、あれじゃァ、ノルアドレナリンが増えるばかりだなァ。もうすぐ心筋梗塞だなァ」と思う。いずれ心筋梗塞の連中を憐れみながら、冷静沈着に焼鳥屋を出る。
この日、ついに一本も吸わないことに成功したのである。
禁断症状は翌朝にやってきた。
起きるとすぐ、体全体がタバコを要求するのである。
「地軸をゆるがすような」という表現があるが、「体軸をゆるがすような」感じで、体ごとタバコの箱に向かって突進して行きそうになるのである。
今まで、毎日間違いなく吸っていたという瞬間が特にひどい。
朝起きて新聞を読もうとするとき、食事を終ってお茶を飲んだとき、サテ仕事、と机に向かったとき、仕事がひと区切りついたとき、アイデアに詰まったとき、以前なら迷うことなくタバコに手が伸びていた瞬間は、体から衝《つ》きあげるように、タバコへの欲求が沸きあがってくるのである。
話に聞く、四十|後家《ごけ》のもだえというものも、ちょうどこのようなものなのだろうか。
三十男には、まだそれを押えるだけの理性が残っている。
「私はタバコを吸わないことにしよう」
と、大声で怒鳴る。
水をガブガブ飲む。
リンゴをかじる。レモンをかじる。
これで少し落ちつき、仕事に取りかかる。
喫煙の欲求は、殆ど突発的に起こるようである。だからその瞬間を、なんとかなだめすかし、ごまかせば、しばらくは持ちこたえることができるのである。
正午が過ぎた。
午後三時もなんとか切り抜けた。
心身共に、かなりへたばってきた。
四十後家もつらいだろうが、三十男だってつらいのだ。
「一本だけ、一本だけならいいんじゃないか」
タバコを買いに行こうと立ち上がる。
二、三歩歩いて、「私はタバコを吸わないことにしよう」と叫ぶ。
四十後家さんなら、ここのところでなんと叫ぶのだろうか。
「わたしは××××××××××××××」と叫ぶに違いない。
そしてこの日も、とうとうタバコを一本も吸わずに、なんとか就寝にまで持ちこむことができたのである。
この日は都合で、どうしても講習会に参加することができなかった。
禁断症状は、三日目が一番ひどいという。
たしかにそのとおりである。
目覚めの瞬間から、絶えまなくタバコへの欲求が体中をうずまく。
誓いの言葉も何十回となくとなえた。
水も飲んだ。リンゴもかじった。レモンもかじった。机もかじった。鉛筆もかじった。
とにかく、やるべきことは全部やった。
だけどもうダメだ。
「一本だけ、一本だけ。一本だけだもん。どうということないじゃないか。な! いいだろ、一本だけ……」
「私はタバコを吸わないことにしよう」
「一本だけ。な! それもほんの先っちょだけ、ちょこっと吸って終りにするから」
「私はタバコを吸わないことにしよう」
この問答を、何十回となくくり返す。
「ああ、もうダメだ。ここまで頑張ったけど、もうダメ」
処女が初めて体を許すときの心境も、きっとこんなものではないだろうか。
「ああ、もうダメ。もうダメだわ。でもここまで抵抗したんだもの、もう仕方がないんだわ。おかあさんだってきっと許してくださるわ。ああ、ダメ。もうダメよ。ああッおかあさん!」
もはや錯乱状態となって、言葉づかいまでどういうわけか女言葉になってしまっているのである。
「な! 一本だけ、一本だけだから。それも先っちょのほうだけ」
「でも……やっぱりいけないわ」
「な! 一本だけ。すぐ済むから……」
「ダメ。ダメよ。そんなこと」
「一本だけ。ほんの先っちょだけ。な! な!」
「……じゃ、先っちょのほうだけよ。そのかしすぐ抜いてよ」
急に静寂があたりをおおい、荒い息づかいもおさまり、紫の煙が目の前に静かに立ち昇ってゆく。
先っちょだけの約束が、根本のほうまで深々と灰になってゆく。
マーク・トウェーンは、禁煙について、次のようにいっている。
「禁煙ほど、たやすいものはない。私は今までに何百回となく禁煙してきたのだから」
ゴムが泣いたぜ小笠原
ある日、わが友園山俊二から電話がかかってきた。
「小笠原に行ってみないか?」
「小笠原?」
「島だよ、南のほうの」
「島へ? なにしに?」
「なにしにって……。まあ船旅だよ。船旅を楽しむわけだ」
「船旅? 船旅をどう楽しむんだ?」
「どうって……。まあ甲板で昼寝とかね、潮風に吹かれるとかね」
「潮風に吹かれてどうするんだ?」
「まあ、いろいろあるんだよ。ダンスパーティーとかね。船旅っていうと、女の子が多いんだぞ」
「行く!」
「それに、島へ渡れば釣りとかスキンダイビ……」
「行く!」
電話を途中で切ると、ぼくはただちに薬局へ駆けつけた。
そして、個人と個人を隔てるための、薄いゴムでできた製品を一箱購入したのである。
人はこれを短絡反応と呼ぶかもしれない。
だがぼくは、女の子と聞けば、すぐに最悪の事態を予想することにしているのである。
ぼくのいう最悪の事態というのは、このゴム製品を必要とする事態のことを指すのである。
「船の中のダンスパーティーということになれば」と園山も言葉を継いで、「当然そういう事態も予想されないこともないな」
と、ぼくの予想に肯定的な態度を示したのである。
「そういう事態が予想されるならば」と、たまたま一緒にいたA氏は言葉を継いで、「ぼくもそれに参加してみるにやぶさかでないな」と発言し、ここに衆議一決、中年三人男の小笠原行きが決定したのである。
時に昭和四十七年の風薫る初夏の宵のことであった。
船旅! 人はそこに美しいロマンの香りを嗅ぐであろう。だがわれら中年三人組は、そこに乱行パーティーの香りを嗅いでしまうのである。
げに、週刊誌の読みすぎというべきであろう。
総トン数一万二千トン、収容人員四百四十名のオリエンタルクイン号は、暮れなずむ晴海埠頭に、静かにその巨体を横たえていた。
出航は四時である。
「女、意外に少ないじゃないか」
と、ぼくは園山をなじる。
「うん、わりと少ないな」
「男は意外に多いじゃないか」
「うん、男がわりに多いな」
ぼくは若造りの上にも若造りを心がけ、ジーンズの上着にGパンといういでたちである。きついGパンで締めあげたため、下腹の部分の肉塊がせり上がっている。
そのせり上がった肉塊を、プルオーバーのシャツで隠蔽するという、文字どおり苦肉の策のいでたちである。
園山はと見ると、コットンスーツに、下はやはりプルオーバーのシャツである。
もう一人のA氏は、ダークスーツに、やはりプルオーバーのシャツ。
中年が苦心するところは、みな同じとみえる。
むろんぼくは、この船旅の目的を、「女の子との最悪の事態」のみにおいていたわけではない。
それが証拠にボストンバッグの中には、岩波文庫数冊、原稿用紙、スケッチブック、絵具などもちゃんと入れておいたのである。
「それにしても」と、ぼくがいう。
「女の子が少ないな」
「うん、ヤローがいやに多いな」
船は夜の闇の中を、波を蹴たてて突き進む。小笠原目指して突き進む。
三人は一室に寄り集まり、再び、女が少なく男が多いことをひとしきり嘆いたあと、トランプを取り出しドボンを始める。このドボンは深更にまで及んだ。
朝食は七時である。
四百四十名を二班に分け、二百二十名ずつ三十分交代で食事をする。
十五分以上遅れた方には、食事の責任は持ちません、ということであったので、眠い目をこすりつつ食堂に駆けつける。
この食堂に於て、ぼくらが最も知りたがっていた男女の比率がやっと鮮明になったのである。
男女ちょうど半々というところであった。
「半々だな」
「ああ半々だな」
「努力次第ではなんとかなるかもしれないな」
「なんとかなるかならないかも、ちょうど半々だな」
「そうだな」
やはり、ヤングが圧倒的に多いが、中年もかなりおり、ジイサンバアサンさえいる。
食事時間三十分というのは、少し短かすぎるのではないか、と人は思うかもしれないが、どうしてどうして、三十分でも長すぎるくらいなのである。
六日間の統計をとってみても、せいぜい十五分、どんなに遅い人でも二十分で席を立つ。
このたったの十五分の間に、スープを飲みメシを食い、タクアンをかじり肉を切りさき、魚を平らげ歯をほじり、水を飲み、サラダに塩をふりかけ、皿から葉っぱを取り落とし、これを拾いあげ口中に放り込む。
これだけの複雑かつ膨大な作業を、たったの十五分で片づけてしまうのである。
小笠原までは、まる二日かかる。
なにもそうあわただしくメシを食うことはないと思うのだが、各人には各人の都合というものがあるらしく、メシを食べ終ると早々にお茶を飲み、あわただしく席を立っていく。
われわれ三人組は、メシを食べ終ると、早速女性グループを探しに甲板へ出かけた。
デッキの手すりに寄りかかり、タバコをふかし、のんびりと船旅を楽しんでいる振りをしながら、目は忙しくあちこちの女性グループを探しているのである。
「あの三人組いいんじゃないの」
「え? あれか? おれもあれに目ェつけてたんだ」
「あのまん中のマリンルックの子、いいナ」
「うん、おれもあれに目ェつけてたんだ」
「いや、ぼくはむしろ左側のサングラス、ああいうの昔から好みなんだ」
では、ということになり、それぞれさり気ない表情をとりつくろい、下腹をひっこめつつノソノソとそのグループに近づくと、突然ヤローが現われ、「あれ? トシオは?」などとそのグループに声をかける。
「トシオとヒロシはマージャン室よ」とマリンルックが答え、中年三人組は途端にしらけ、「なんだい、ブスばっかりじゃないか」「オレ、左側のサングラス、昔から好みじゃなかった」などと、讃辞は一瞬にして誹謗《ひぼう》に変わる。
評価というものは、そのときどきの情勢によって激変するものなのである。
このあとも何回かこういうことがあり、女性のみのグループであることを十分確認したつもりで接近しても、どこからともなくヤローが現われ、男女グループであったことが判明することが多いのである。
何回かの試行錯誤ののち、われわれは不本意ではあるが、今後かかる努力は、いちおう放擲《ほうてき》しようということで衆議一決したのであった。
ダンスパーティーの日に備えて、全員華麗なスーツまでも用意してきたのではあるが、それも今となっては空しい。
PTAふうの婦人の一団は、盛んに嬌声をあげ、しきりに周囲の関心を惹こうとしているが、それに応ずるのも今は見合わせようということで衆議一決した。
衆議一決した三人は、部屋へ戻るとビールを飲み飲みまたしてもドボンにふけったのである。
翌朝目をさますと、船はすでに小笠原に到着していた。
空は、抜けるように青く、海もまた、今まで見たどこの海よりも青く澄んでいた。
ハワイや、グアム島の海よりも、青く澄んでいる。手ですくうと、清水のように澄んでいる。
小船に乗り換えて父島というところに上陸する。
一行の大半は、なんとかという海水浴場に直行したが、われわれ三人は、なるべくみんなの行かない海岸へ行こうということになり、地図で調べた宮の浜というところに向かって歩き出す。
前日のガールハントの失敗で、三人共多少いじけていたようなのである。
カンカンと太陽の照りつける林の中の小道を、三人は黙々と歩き続ける。
道の両側から、したたるような緑がおおいかぶさり、小鳥が騒がしくさえずっている。
突然視野がひらけ、海岸が現われた。
海岸のすぐそばに、米国ふうの小学校があり、ちょうど朝礼らしく、全児童五十名ばかりが校庭に並んでいる。
校庭には、緑の夏草が一面に生い繁り、白い校舎のすぐ向こうには、まっ青な海が拡がっている。
千鳥が校庭に降り立ち、カモメが空を舞う。
炎天下を三十分ばかり歩いたので、中年たちはヘトヘトになり、緑の校庭にはいりこむと、ドッと倒れ伏し、そのまま三人共眠りこんでしまったのである。
目をさますと、陽はすでに中空にあり、午後一時であった。
海中に冷やしておいたカンビールを飲み、船で作ってくれた弁当を食べ終ると、またしても疲労が三人を襲い、三人共草の中に倒れて眠ってしまったのである。
草の中に、あお向けに寝、青い空を眺め、波の音を聞いていると不思議と睡魔が襲ってき、そのまま眠りの世界にはいってしまうのである。
どうも中年の旅というものは覇気がない。昼寝ばかりしている。
せっかく二日もかけて南の島へやって来たのに、海にはいろうともせず、草の中で寝てばかりいるのである。
眠りから醒めると、すぐそばに一台の自転車が倒れているのを発見したので、そいつにうちまたがり、フラフラドタドタと校庭を五周し、ヘトヘトになって草の中に倒れこみ、またしても寝入ってしまう。他の二人の中年は、依然として眠ったままであった。
結局この日は一日中草の中で眠ってすごし、夕方になってやっと起きだした。三人共、ああよく寝たなァ、と同じことをつぶやき、体についた草を払い、寝ぼけまなこをこすりつつ船に戻った。
小笠原には、四百名からの人員を収容する宿泊設備がないので、島滞在中も船の中に泊まるのである。
南の島で、丸一日寝て過ごした中年は、すっかり元気を回復し、その夜は遅くまでドボンに励んだ。
女性とのご交際は、すっかり望みがなくなったし、さればといって岩波文庫を開くという雰囲気でもない。
結局のところドボンに励むよりほかないのであった。
ドボンは、敗北に敗北を重ねていた。
傷をなんとか埋めようと、もうやめようという二人を叱咤激励しつつ延長に延長を重ねていた。
ビールとウィスキーをすすりつつ、ぼくは頑張るのだが、傷は大きくなるばかりであった。
おつまみとして朝鮮漬の罐詰がおいてあった。
この朝鮮漬は、トンガラシが通常のより多量に含まれているらしく、一切れ口に含むと、口中はさながら火災が発生したようになった。二切れ口に合むと、口中はさながらナパーム弾が破裂したようになった。
これを全員でなんとか食べ終ると、カンの中にかなり多量の汁が残った。コップ半分ぐらいの量である。
他の二人は、敗残のぼくを憐れに思ったのであろう、「もしこの汁を一気に飲めば、百点分の負債を帳消しにしてもよい」という情けある提案をしてきたのである。
それまでの負債のあらかたが帳消しになるはずであった。
ぼくは、その赤黒いドロドロの汁を見つめた。赤いトンガラシの粉が、点々と入り混じっている。なにしろ、一切れで火災発生、二切れでナパーム弾破裂の、その濃縮汁ともいうべき恐るべき赤汁である。
それを一口で飲み干せというのである。
これをはたして、友の情けと受けとってよいものだろうか。
「まさかァ。いくら落ちぶれたといえど、こんなもの飲んでたまるか」といったものの、一瞬、飲もうか、と思ったのも事実である。
そしてもう一度その赤汁を眺め、飲もうか、と一瞬思った自分を深く恥じた。
この赤汁を飲めば、口中はもちろん、胃壁もメチャメチャにただれることは必定である。なのにぼくは、多額の負債のために、体を張ってこの恐怖の赤汁を飲もうと思ったのである。
ぼくは深く深く心に恥じた。
そしてぼくは、二人の債権者に、断固としてこういったのである。
「この赤汁ね、これ、水でうすめて飲むっていうのはダメ?」
二人の債権者は、何事かヒソヒソと相談していたが、やがて次のような回答をしてきた。
「水でうすめてもいいが、そのかわり、半分の五十点だゾ」
五十点でもいい、とぼくは思った。
ぼくは思わずカンに手を出そうとすると、二人はあわてて「待て」とぼくを制止し、再び何事かを相談していたが、やがて次のような回答をしてきたのである。
「水でうすめてもいいが、そのかわり大量の塩を混入する」
これをはたして暖かい友情ということができるだろうか。
恐怖の赤汁事件の翌日、ぼくらは小舟で小港海岸というところへ行った。
この日は、いじけていた心も少しほぐれてきていたので、一行全員と行動を共にしたのである。
海岸に着くと園山は、かねて用意のウエットスーツを着用におよび、ヤリを手に持ち、二十キロのナマリを腰に巻くと、悠然と胸を張った。本格的な重装備である。「じゃオレはひともぐりしてくるからナ」とわれわれ二人にいい残すと、ジャバジャバと沖へ出ていった。
ぼくら二人は、海岸で薪を集め、火をおこし、アジシオなども用意して、やがて彼が捕獲してくるであろう大量の獲物に備えた。
ビールを海中に投じて、酒の準備もした。
一方園山は「ひともぐりしてくるからナ」といい残して出かけたにもかかわらず、胸ぐらいのところまで歩き進んでいくと、そこにしゃがみこみ、首をまわして海中を観察している様子である。頭の上のほうだけ水面に浮かんでいる。
あっちへ行ってはしゃがみ、こっちへ移動してはしゃがみ、海中を観察し終ると、またジャバジャバと歩いて海岸に戻ってきてしまったのである。ぼくらは不審に思い、もう一度もぐりに行くのかと訊ねると、彼は、いや、小笠原に於るもぐりの全行程は、これにてすべて完了した、といい、早くもウエットスーツを脱ぎ始めるのである。
海中の様子を聞くと、大小の魚がウヨウヨ泳いでいて、体長一メートルほどのサヨリが自分を睨みつけるので非常に怖ろしかった、という冒険談を語った。
体長一メートルのサヨリが本当に存在するのかどうかは知らないが、われわれは彼の報告をそのまま信じるよりほかはなかった。
ただ一つ訂正を求めるとすれば、彼は出かけるとき、「ひともぐりしてくるからナ」というより、「ひとしゃがみしてくるからナ」というべきであったという点である。
ダイバーが手ぶらで帰ってきたので、ぼくら二人は自らの手で魚を捕獲しなければならなくなったことを痛感した。
獲物がなくては、せっかくおこした火がもったいない。
ぼくは泳げないから、海中にもぐることはできない。
かといって釣竿の準備もない。
やむなく、最も原始的な方法によることにした。その方法とは、海べりを遊泳する魚群を浅瀬に追いこみ、これを素手で捕獲するという勇壮かつ果敢な方法である。
ヘミングウェイもはだしで逃げるという、海の男らしい方法を採用したのである。
ぼくはGパンを膝までまくりあげ、ジャブジャブと海の中にはいっていくと、たちまち一匹の魚を浅瀬に追いあげた。友人は喚声をあげてぼくの捕物の応援をしてくれる。
背中に、夏の太陽が快い。汗が額からしたたり落ちる。獲物は必死にぼくの手をくぐり抜け最後のあがきをあがく。のたうちまわる。太陽を背にした海の男たちは、のたうつ獲物を目の前にして、勝利の喜びを味わう。黒く陽やけした顔に、まっ白な歯がほころびる。激闘数分ののち石と石との間の小さなすき間に獲物を追いこむと、ぼくはそいつを一気に手の平にすくいあげた。やった!
見守っていた友も、思わず歓喜の声をあげる。
海の男たちは、潮の香りを運んで砂浜に戻ると、ビールの空カンに獲物をポチャンと投げ入れた。体長二センチほどの小魚である。
獲物を収容した空カンをまん中におき、三人は弁当を開く。
ビールを飲みながら、激闘数分の思い出に話がはずむ。
午後の南国の太陽がサンサンと降りそそぎ、海辺に三人の海の男の影が長い。
このあと三人は、林の中に分け入り、またしても横になって寝てしまうのである。
砂浜は暑いが木陰はヒンヤリと冷たく、遠くからうち寄せる波の音が、子守歌のように響いてくる。漁労のあとの疲労が快い。
小鳥の声と波の音を聞いているうちに、またしても三人共深い眠りにおちてしまう。
中年は眠ってばかりいるのである。
島の滞在はこの日で終り、あとは長い長い帰路があるばかりだ。
もはや情事の予定はあとかたもなく消え失せた。
ボストンバッグの中のゴム製品は、その数を減らさず、原稿用紙は白々とそのマス目を見せ、岩波文庫は買ったときの姿のままでパンツの横におさまっている。ダンスパーティー用の華麗なスーツも今は空しい。
往路三十八時間、帰路四十時間、ビールと睡眠とドボンの船旅は、かくして終りに近づくのであった。
帰路、大きな海ガメが、悠々と波間にただよっているのを見た。
避暑地のデキゴト
もし、万が一、仮りにですよ、あなたが別荘を持っているとしたら、あなたはその別荘でどんなふうに過ごすだろうか。
そんなことを考えたことはありませんか。
たとえば一週間、いや五日でいいや、とにかくその程度のヒマができて、あなたは自分の別荘に出かけてゆく。
場所は、どうせ仮りの話なのだから、別荘の本場、軽井沢ということにしておく。
大きさは、仮りの話ではあるが、ひかえめに八十坪の敷地に十五坪ぐらいの別荘が建っていることにする。
最初の一日目。
到着が午後だとして、その日はハチ巻きなどして別荘のホコリを払って拭き清め、庭を駆けまわる子供たちの歓声を聞きながらベランダでビールなどを飲み、ついで水割りに切り換え、いい気持ちになって寝てしまう。
二日目。
小鳥の声と共に、朝六時起床、霧の流れる庭先で、家族そろってラジオ体操などをやり朝食。
朝食後、近所をなんとなく散歩して別荘に戻るとまだ九時。
空想は、ここで突然終ってしまうのである。
ここから先、いったいどういうことをして過ごしたらいいのだろうか。あなたはどうか知らないが、ぼくの空想はここまでで、ここから先へ進まないのである。到着してビールを飲んで寝て、朝起きたところで早くもぼくの空想は途絶えてしまうのである。
まだあと、丸々三日という日程を残しながら、ぼくはもはや、このあとなにをして過ごしたらいいのかわからない。
ぼくを含めて、ぼくの周辺の友人は、短期間のヒマを過ごす術には、非常に長けている。
ある友人は、海の家に着いたとたん、庭先に麻雀台を持ち出し、そのまま二日二晩、パイを掻きまわし続け、海水に足先さえつけることなく帰途についた。彼は麻雀にしか興味を持たない人間であるから、あと三日も休暇があったら、とても体力が続かなかったに違いない。
二日が彼にとってちょうどいい休暇だったのである。
またある友人は、山の家に着いたとたん表に飛び出し、自転車を借り、サイクリングを楽しみ、楽しみ終えるとすぐ自転車を自転車屋に返し、続いて湖に駆けつけてボートに乗り、これを済ますと急いで山の家にとってかえし、ビールを飲みつつ麻雀に励み、夕食を「さァて、食うか!」ともいわずに頬ばりつつ深更に及び、翌朝早々の列車で帰って行った。
せいぜい二日。
みなこのくらいの休暇を盛りだくさんに過ごすのなら得意である。
上流夫人たちは、しばしば次のような言葉を口走る。
「この夏、軽井沢で過ごしましたの」
二日どころではない、一週間とか一カ月とか、そういった微少な単位でもない。
夏、という非常に大ざっぱで広範囲にわたる期間を簡単に「過ごして」しまうのである。
彼女らは、いったいなにをして過ごしておるのかね。
われわれは、二日や三日で目をまわしているというのに、彼女らは、夏などという季語を、期間の言葉として使用して、悠々過ごしてしまうらしいのである。
やつらは、いったいどうやって一夏を過ごしてしまうのか。
この目でシカと見とどけなくてはならない。正義感と憤激は、炎のように燃えあがり、ぼくを軽井沢へと向かわせてしまうのである。
なぜここで急に、正義感と憤激が湧きあがったのか、そのへんの詮索は抜きにして、とにかくぼくは不穏な空気を身辺に漂わせつつ、軽井沢方面に向かったのであった。
同行は、特に名を秘す友人二名。
この二人も、どういうわけか軽井沢に対して正義感と憤激を抱き、やはり身辺に不穏な空気を漂わせていたのであった。
安穏とレジャーを楽しむ軽井沢人種の中に、三名の不穏分子が乗りこむのである。
この日の朝、軽井沢警察署署長は、「いやな胸騒ぎを覚えた」とあとで述懐したと伝え聞く。
軽井沢の町は、イモを洗うようにゴッタ返していた。
夕暮れの町には、色とりどりのファッションに身を包んだ老若男女が、ウロウロと歩きまわっていた。
老若男女のうち、とりわけ若い女が多いようである。ミニは少なく、パンタロン、マキシ、Gパンが多い。ちょうど、新宿と六本木を一緒にしたような風情である。
だれも彼も、ただ漫然と、目的もないのにウロウロと歩きまわっているのである。こういう人種は、経済大国としての日本という観点からみると、はなはだよろしくない。
だいたい道路というものは、目的を持った人が、目的の地に着くために歩行するものであらねばならない。
勤労大衆の税金で作った道であるからして、経済大国日本の道路としては、そういう風に使用されなければならないはずである。
それをダ、けしからぬことにダ、「アラ、あの置物いいわね」などとつぶやきつつ、店にはいってゆくから、当然それを購入する意志をもって道路上を歩いて商店にはいっていったのかと思って見ていると、さわったり眺めたりしただけで、涼しい顔をして出てきてしまう。
経済の流通というものがまるでないのだ。
道路は無駄に使われたのである。
しゃれた張り出しのある飲食店が軒をつらねている。
「そこの、張り出しのある喫茶店にはいってみようか」
「張り出しのある喫茶店ねェ……。あれはやはり、カフェテラスとかなんとか、そういう風にいうんじゃないの」
どうも居心地がよくない。
周辺は全部、良家の子弟子女ばかりのような気がしてならない。
新宿のマンモスバー風に、「おつとめどこ?」などと気軽に聞ける雰囲気ではないのである。
われわれ一同は、かしこまってアイスコーヒーをすする。
ゾロリと長いマキシを着たお嬢さまが、軽井沢風にダラリと足を投げだし、軽井沢風な倦怠をマナコに宿しつつ、軽井沢風にタバコをふかしておられる。
良家の子女に違いない。
良家の子女が、別荘からお出ましになり、夕暮れの倦怠を、張り出しのある喫茶店で、まぎらしておられるところに違いない。
その隣には、これまたゾロリと長いパンタロンのお嬢さまが、軽井沢風に頬づえついて、軽井沢風に虚空をにらんでおられる。
ご学友に違いない。
ややあって、パンタロンはマキシに向かって、
「夕食何時だっけ?」と、おたずねになる。
「七時までだって」
「じゃ、もうダメじゃない」
「うん、もうだめよ」と、やはり虚空をにらんでおられる。
さすが良家、夕食の時間まで厳格に決まっているに違いない。
「それよりね。課長が来てるのよ、知ってる?」
「ほーんと」
ムムッ、この令嬢の父親が経営する会社の課長が見えている、とこうおおせられておられるらしい。
「で奥さんは?」
「奥さんは来てないけど、中学ぐらいの男の子をつれて」
「ほーんと」
「だからヤーネー。会社の寮って」
どうもヘンだ。
「来年は別んとこ行こうよ」
「そうね。課長に来られたんじゃ、会社とおんなしだァ」
ムムッ、良家の子女とみたは、実は寮家の子女であった。
「あのね」と、それまでうなだれていた友人が、急にムックリ背を起こし、
「最近の軽井沢の町でウロウロしてるのはね、ほとんど会社の寮に来ている連中だって」
「ほーんと」
「本当の軽井沢人種は、なかなか町には出てこないんだって」
「ほーんと」
一同それまでうなだれていたのに、なぜか全員急に背を起こし、元気が出てきたようである。
そう思ってよく見ると、今まで良家の子女と見えたのが、急にOL風に見えてくる。
「これでなんだねえ、このゾロゾロ歩いている連中に、旅館のユカタ着せたら、まるで熱海だね」
「そう! 熱海!」
一同更に元気が出て、張り出しのある喫茶店を出てレストランにはいり、ビールを大いに飲み、意気軒昂となって宿に戻ると、安心して寝てしまう。
翌日は日曜日とあって、早朝から町中は、ウンカのごとき自転車、自転車、また自転車。
あっちからも自転車、こっちからも自転車。
二人乗りの自転車が圧倒的に多い。
ということはアベックが多い。だが中には、二人乗りの自転車に一人で乗っているわけありのヤローもいる。ザマミロ。
こんな早朝からワラワラと町中に繰り出してくるのは、確かに良家の子弟子女ではあるまい。
あわただしいレジャーを楽しむ寮家の子弟子女に違いあるまい。
あとで新聞を見ると、この日軽井沢の町では三千台の自転車が借り出され、五万人の人出があったという。
この日われわれはレンタカーを借りた。別にドライブをやろうというわけではない。
別荘めぐりをやろうという魂胆である。
本当の別荘族は、どんな風に避暑生活をおくっておられるのか。
その生態をつぶさに観察してみようという所存なのである。
生態をつぶさに観察してどうするかというと、先述の正義感と、憤激の炎を更に激しく燃えたたせようという不穏なハラづもりなのである。
軽井沢別荘管理防犯組合というところで発行している「軽井沢別荘案内」というものを購入する。
「この『組合』ねえ、『別荘管理組合』だけでいいんじゃないの。ことさら『防犯』をつけなくたって」
「そうなんだよなあ。なんかわれわれのために、わざわざ防犯をつけたような気がするもんなあ」
出てる出てる。有名人の別荘が、軽井沢の町いっぱいに散在している。
有名な有名人の別荘は、町の中心部に多くあり、ふつうの有名人の別荘は、やや町はずれに多いようである。
「ヘエー! あの人も別荘持ってやがるのか」
「ホオー! あいつもねェ。どの程度の別荘だろうねえ」
「行ってみなくちゃ」
好奇心旺盛の一行は、レンタカーに乗りこむと、朝モヤの中を勇躍出発する。
人がのんびり避暑を楽しんでいるのを、朝早くから、レンタカーまで借りてのぞいて見てまわるというのは、どう考えてもあまりいい図ではない。
それはわかっているのだが、一行には一行の情熱というものがある。
別荘族の暮らしぶりを、どうあってものぞいてみたいという暗い情熱である。
別荘のぞき歩きを、暗い情熱と書いたけれど、軽井沢の案内書などには、軽井沢での過ごし方の一つに、「著名人の別荘めぐり」というのがちゃんと載っているのである。
そしてその案内書には、
「それぞれの別荘は、思い思いに意匠をこらしていてなかなかおもしろい。日本風あり、あるいは西欧の山荘をそのまま持ってきたような凝ったものありで、まことに千差万別、見物してまわるだけで楽しくなる」とある。
われわれに限っては、決して「楽しく」はならないだろうが、とにかく、暗い情熱の人たちばかりではなく、楽しく見てまわる人たちがいることも確かなのである。
まず最初、某文豪の別荘をたずねる。
たずねると、といっても正々堂々と玄関から案内を乞うわけではなく、垣根のすき間から背をかがめてのぞき見るのである。
東京都内などで、かかる行為をする人種がいたら、ただちに一一〇番されるであろうが、ここ軽井沢においては、案内書にもちゃんと載っている「軽井沢での過ごし方」の一つとして容認されているのである。
そこで正々堂々と中をのぞく。
とにかく広い。
何十坪という単位の広さなら、だいたいの見当はつくが、こう広いと何百坪だか何千坪だか、何万坪だか皆目見当がつかない。
「広いな」と、だれかがいう。
意気揚々と出かけてきて、正々堂々とのぞいたわりには声が低い。
屋敷の中には建物が三つもある。
「フーン三つもねえ……」
「アッ、ガレージには車が三台もあるじゃないか」と、だれかが怒ったようにいう。
車が何台あろうと、怒るいわれはないと思うのだが、この人は怒りに声をふるわせている。
広大な庭には緑の芝生が敷きつめられ、赤や白のデッキチェアーが、そこここに置いてある。
窓に人影が見えかくれし、皿のふれあう音が聞こえてくる。
これから朝食らしい。
中ではこれからのんびり朝食をとろうというのに、こちらはそれを、息をころしてのぞいているのである。
はしたないというべきか、情けないというべきか、はたまたさすがというべきか。内部における変化が見られないのでその隣の別荘に移動する。
これは某財界人の別荘である。
これはまた更に広い。
丘のずーっと向こうまで敷地が続いていて境界が見えない。
日本には、もはや本当の金持ちはいないというが、どうしてどうして、これを金持ちといわずしていったいだれが金持ちか。
広大無辺の庭では、四人のオバサンが草取りに励んでいる。
「あのオバサンの草取りの日当、一日千円としても四人で四千円か」
「それも一日じゃ済まないだろ、こう広くちゃ」
「ま、十日かかるとして四万円か」
「かかるなァ」
「かかるなァ」
われわれが草取りの費用を心配してあげてもなんにもならないだろうが、やはりかかる費用は気になる。
しかもこの家の当主が来ている様子もない。全然使用してないにもかかわらず、一日四千円が確実に消えてゆくのである。
「もったいないなあ」
「もったいないなあ」
と一同は、消えゆく四千円をただひたすら惜しがる。
そのまた隣の別荘では、ビーチパラソルの下のデッキチェアーで、お嬢さまが顔にハンカチをかけて寝そべっておられる。
「いた! 良家の子女が!」
「そう! これなんだよ本当の別荘の過ごし方というのは! なにもしないで過ごす、これが真の避暑生活というものなんだ」
と一人が妙に興奮して力説する。
たかが一人のネエチャンが、顔にハンカチかけて寝ているだけなのに、この人はなぜか興奮してしまったのである。
別荘といっても、大きいのもあれば小さいのもある。朽ち果てて廃屋のようになった別荘もある。
「維持しきれなかったんだなあ」
「人件費なんかも上がっているからなあ」
「もうすぐ売りに出されるんだろうなあ」
こういうところでは、一同まじめに同情するのである。
いわゆる旧軽井沢のあたりは、古くて大きい別荘が多い。炎天下、広大な別荘の間の細い道を、地図を拡げて「あそこ大きかった」「うん立派だった」などといいながら歩いていると、だんだん心がいじけてくる。
歩いている人もまちがいなく良家の子弟子女、若奥さま風が多い。
白い大きな陽よけ帽をかぶり、のんびりゆっくり乳母車を押していたりする。
乳母車の中には、良家の赤ん坊風が良家風に眠っている。
「ああいうのを見るとさ、すれちがったときにさ、なにか卑猥な言葉を浴びせてやりたくなるな」
「うんそう! 工事現場なんかで、よく土方がやってるじゃないの」
「そうそう! 土方がよくやってる。土方の気持ち、よくわかるなあ」
ここ旧軽井沢の別荘地帯においては、われわれはすでに土方の心境になっていたのである。やはり軽井沢には防犯協会が必要のようである。
町の中心に、美智子妃のロマンスで有名なテニスコートがある。
中では、これはもうまちがいのない良家の子弟子女が静かにボールを打ち合っている。
不穏な目つきをして、われわれはその周辺をウロウロする。すると入口のところに「貴重品に注意」という貼り紙が出ているのが目についた。
われわれは、ただちにテニスコートを離れたのであった。
軽井沢の町の中心から離れるにしたがって別荘の規模はだんだん小さくなってゆく。
道も舗装してないところが多い。
そして新しいのが多くなってゆく。
プレハブ造り、トタン屋根というのもある。
バンガロー風のもある。
新興の軽井沢の別荘である。
こういうところに来ると、われわれはなぜか急に元気づくのである。
いじけていた心も少しなごんでくる。
「この別荘、小さいねえ!」
「こんな小さいんじゃ、持ってたってしようがないだろに」
「こんなのなら、オレいらない」
「アッ、あっちの別荘は、もっと小さいぞ」
「どれどれ、ヒャー小さい!」
「アッ、あっちのはもっと小さい!」
別荘が小さいほど、われわれの元気はいや増すのである。小さい、小さいと、口々にののしるのである。
もし中で住人がいて聞いたならば、どんなにか口惜しい思いをすることであろう。
小さい別荘群の中に忽然と豪壮な別荘が建っていたりすると、一同は急に黙りこくってしまう。
そして次の小さい別荘をさがしに車を走らすのである。
小さくて新しい別荘は、当主が来ていない場合が多い。雨戸が締まってヒッソリしている。
「来るお金ないんじゃないの」
「別荘建ててお金尽きたんだよきっと」
「ローンが大変だろなあ」
一同真剣に同情し、かつ満足し、更にレンタカーを駆って、
「アッ、あっちのほうに、もっと小さいのがかたまってるぞ」
「それ行け!」
レンタカーは、砂塵を巻きあげて「小さいほう」に向かって走り出す。
金沢にて五木センパイと
小松空港に降りて、最初目についたのはススキだった。
久しぶりに地平線というものを見た。
夕ぐれのモヤの中にかすんでいたけれど、平野の果てに地平線があった。
見渡すかぎり田んぼである。
田園風景というのはほんとうに久しぶりだなあ。
たそがれのモヤの中で、取り入れ後の稲を焼く火が、そこここに赤く見える。
煙が淡く静かに、地平線を切って立ち昇ってゆく。
近景には白いススキ。
まるでミレーの絵を見ているようだ。
都会に永く住んでいて、「夕ぐれ」の感じをすっかり忘れていたけれど、やっぱり夕ぐれはいいなあ。
あたりが、少しずつ少しずつ暗くなっていき、田んぼの中に点在する家々の窓が、ひとつ、またひとつと明るくなってゆく。
灯ともすころ、などという言葉、最近ではあまり使わなくなったなあ。
都会では、徐々に陽が暮れていくということはない。なしくずしに、いつのまにか昼から夜へ変わってしまうのである。
夕ぐれには、夕ぐれの匂いみたいなものがありますね。
夕ぐれの時はよい時
かぎりなくやさしいひと時
車は夕ぐれの国道を、金沢市に向かって走る。あたりはどんどん暗くなってゆく。
もはや地平線も、夕闇の中に消えた。
今回の旅行はですね、今までのとちょっと趣を異にしているのです。
女にモテるのモテないの、だれそれの別荘は大きかったとか小さかったとか、そういったいつもの次元の低いのとは違うのです。
上品かつ典雅、高尚かつ優美、こういうスタイルでいくことになっているのです。
なにしろ古都金沢を、憂愁の作家五木寛之先生に案内してもらうことになっているのですからね。古都金沢は、加賀百万石の城下町、由緒と伝統のある上品な町なのです。
武家屋敷と土塀の連なる町並みには、茶の湯の香りが漂い、三味と謡曲の音が聞こえてくるという典雅そのものの町だということである。
また金沢は、京都と共に若い女の子たちの憧れの町でもあるのだ。
若い女の子に、どこへ旅行に行きたい? と訊けば十中八、九は、「京都か金沢」と答える。
出発前に、ぼくは金沢へ行ったことのある知り合いの女の子に訊いてみた。
「金沢へ行ったんだって?」
「ええ、一人旅で行ったの。すっごくよかったわよォ」
「どんなふうによかった」
「とにかくね。もうすっごくいいのよ。町並みなんかすっごくよくてすっごく感激しちゃった」
「兼六園は?」
「うん、すっごく最高! とにかくすっごくすごくてすっごくすごいの」
金沢が「すっごい」ところだということはわかるが、なにがどう「すっごい」のか、さっぱりわからぬ。
これではすっごく困る。
車が旅館の前にとまる。
旅館らしくない、小さなしもたや風の造りではあるが、やはり伝統のある旅館であるという。
聞くところによると、一流の人しか泊めないという畏《おそ》れ多い旅館だという。
二流の人は、おびえて玄関にドタバタところげこむ。
この旅館で、五木さんがぼくを待ちうけてくださっているのだ。
五木さんは現在京都に住んでおられるのだが(この人は、女性の憧れの町にばかり住むなあ)、たまたま墓参りに帰郷なさっていたのである。
ぼくらが金沢を訪れると知って、自ら案内役を買って出てくださったのだ。
畏れ多いことである。
五木さんは、ちょうど風呂から上がったところで、白い浴衣でぼくらを迎えてくださった。
数冊の本を脇に、静かに端坐しておられる。この白い浴衣が、またすっごく似合うんだなあ。
床の間には、由緒ありそうな掛け軸が、由緒ありそうに掛かっている。
由緒ありそうな置物、由緒ありそうな壺には由緒ありそうな花が活けてあり、座卓も由緒ありそうな黒い漆塗りのものである。
どこもかしこも由緒だらけである。
そこでぼくは、
「ユイショ!」と掛け声をかけてテーブルの前にすわりこむ。
やはり由緒ありそうな脇息に、ゆったりともたれると、まるで殿さまの気分である。
この旅館の女将が挨拶にまかり出る。
年はとっているが美しい人である。
元芸妓だったという。
お酒が出て料理が出る。
徳利も盃も、やはり由緒ありそうな代物である。
「これはな、ナントカ先生のお作でな」
「ムムッ、やはり!」
感嘆して盃を眺めまわしたが、せっかくのお作の良さが皆目わからぬ。
わが家で使っているのは、西友ストアのお作である。
「その襖の絵な、それはカントカ先生に来て描いてもらいました」
「するとわざわざここへご来臨ねがって?」
「そうがや」
「金沢の人はね」と五木さんがいう。
「こういう器とか書画骨董なんかには、わりにうるさいんですよ」
「この刺身のお皿はな、ナントカ先生のお作でな」
「あの床の間の掛け軸なんかもさぞかし名のあるお方の」
「そうがや」
「あのお花が活けてある壺は?」
「カントカ先生のお作だがや」
「その隣に置いてあるテレビジョンなども、さぞかし名のあるお方の?」
「あれはナショナルだがや」
「ムムッ、ナショナルとはさすが!」
次から次へと山海の珍味が運ばれてくる。
刺身もおいしいしカニもまたうまい。
いずれも名のある魚やカニたちに違いない。
「さっきお風呂に入りましたが、やはり木のお風呂はいいですなあ」
「そうでっしゃろ。やはりお風呂は檜に限りますがな」
「ムムッ、やはりあれは檜であったか」
「あの湯桶な、あれは京都のたる源の桶でな」
「たる源! うん女性週刊誌で読んだことあるぞ、なんでも名のある桶作りの名人とか」
かように、ここ金沢では、身動き一つするたびに、名器名作とわたりあわねばならないのである。
なんでもかんでも一流品なのだ。
二流の人は赤面するばかりである。
そういえばここの座敷は紅殻《べんから》塗りとかいう赤い壁である。
これはきっと、ここを訪れて赤面する二流の人への配慮なのかもしれない。
壁の赤が、保護色の役割りを果たすのである。
一流の料理を一流の器で食べた二流の人は、五木さんの案内で夜の町へ出かける。
金沢には、東と西、それに数計《かぞえ》町という郭《くるわ》があり青線地帯も一カ所ある。
「三郭一線とぼくはいってるんですよ」
五木さんは、青線の中を、実に楽しそうに生き生きとした感じで、口笛を吹きながらあちこち引きまわしてくださる。
女たちが、「おにいさん、おにいさん」と呼びかける。
中には、若くてきれいな女もおるがや。
ついフラフラと立ち寄りたくなったが、五木さんは立ちどまらないので仕方なく従う。
「ねえねえ、なかなかおもしろそうじゃないですか」
「このへんは昔よく来てねえ」
「あがるとおもしろいでしょうね」
「あ、そこを左に曲がりましょう」
「あがるとおもしろいんでしょうね」
「変わっちゃったなあ、この辺は」
「おもしろそうなんだけどなあ」
「東の郭へ行きましょう。ぼくの知ってるところがあるから」
「えっ?! 郭へ?!」
なにしろぼくは、郭と名のつくところへは、一度もあがったことがない。
どういうことをするところかわからない。
五木さんの話では、芸妓を呼んで遊興の一時を過ごすのであるという。
この「遊興の一時」の解釈の仕方がむずかしい。
例えば、ファイトドリンクなどというものを飲んでおいたほうがいいほうの遊興なのか、或は単に芸妓たちと歌などを合唱する程度の遊興なのか。
後者のほうならば、浅田飴クールなどをなめておかなければならない。
ファイトドリンクか、浅田飴クールか、そのどちらなのかを事前に訊きたかったが、憂愁の人五木さんにはその点を訊きにくい雰囲気がある。
くねくねと折れ曲がった狭い道の両側に、ひっそりと暗い感じで、一見しもたや風の家が並んでいる。
これが郭であった。
人通りは殆どなく、果たしてこの中で、人々が遊興の一時を過ごしているのだろうかと、不安になるようなシンとした雰囲気である。
そのうちの一軒にあがりこみ、待つほどに、やぁってきました、あんあん、日本の夏があ、じゃなかった、やぁってきました、あんあん、金沢の芸者が!
最高年齢七十数歳一名、四十歳風二名、二十歳風一名がプロジェクトチームを作ってやってきました。
このプロジェクトチームを一目見て、ぼくは、「ウム、これは浅田飴クールのほうだナ」とすべてをいち早く了解したのであった。
あとで聞いたのであるが、金沢でいう郭とは、芸妓と遊ぶ貸座敷、とでもいうような、そういった場所であるということである。
ファイトドリンク飲んで、ファイトを燃やさなくてよかった。
七十数歳の老妓は、なんとか流の笛の達人で、隣室に引き下がると、|嫋々《じようじよう》と笛を吹き始めた。
座敷の灯りをすべて消して、窓からさしこむ月あかりの中で、一同粛然と衿を正して笛の音を聞く。
ファイトドリンク飲まないでよかった。
五本さんは目をつぶり、脇息にもたれて笛の音を聞く。その様《さま》が、いかにも芸妓遊びをしているというふうにぼくの目に映る。
実にサマになっているのである。
なるほど、これが金沢での芸妓遊びであったか。
そのあとは例によって例のごとく小唄手帳を渡されて、山中節やらチョンガリ節やら、加賀ばやしやらを仲良く合唱してお酒を飲みビールを飲み、トイレへ立ち、戻り、おしぼりもらって顔を拭き、また居ずまい正して合唱に励み、金沢の夜は静かに更《ふ》けてゆくのであった。
この上なく清潔な夜であった。
酔って芸者にしなだれかかるということもなく、手さえ握ることなく、合唱に次ぐ合唱で、ここのところ大声で歌を歌う機会のなかったぼくは、久しぶりに歌を歌う快感に酔ったのでした。
金沢なまりは、
いってらっし ごきみつぁんな
おゆるっしゅ おゆるっしゅ アリャ
そうけそうけでございみす
あんやとあんやとヤレコノヤレコノセー
合唱のあと、
「いってらっし、は、いってらっしゃいの意味ね。ごきみつぁんな、は、ご苦労さんよ」
「なるほどなるほど、おゆるっしゅは?」
「よろしくって意味だがや」
「フムフム、なるほど、あんやとは?」
「ありがとう、よ」
こうした言語学の講義が深更にまで及び、一同が、「あんやと、あんやと」と退出したときはすでに午前雰時をまわっていたのである。
再び一流だらけの旅館に戻ると、部屋には二組のふとんが敷かれてあり、新婚のような雰囲気である。
この部屋で、ぼくは五木さんと一緒に寝たのである。
東京に帰ったら、知っている限りの女の子に、「ぼく、五木さんと一緒に寝ちゃってねえ」といいふらしてやろう。
彼女たちはきっと、「まッ、すっごい! すっごくすごかったじゃないの!」と羨望の眼で叫ぶに違いない。
翌日は兼六園に行った。
日曜日であったせいか、これまたすっごい人の波。Gパンにペンカメラの女性グループが目につく。
入口のところで、ガイド嬢が農協風一団にマイクで説明している。
「ここはご存知日本三名園の一つで、文政二年、藩主前田|斉広《なりひろ》が築き、松平楽翁公が、宋の李格非の洛陽名園記に依って、宏大、幽邃《ゆうすい》、人力、蒼古、水泉、眺望の六つを兼備するというので兼六園と名づけたのでございます。池泉廻遊式の代表的な名園でございます」
この説明は、農協風一同には少し無理だったとみえて、一同は、「ホー!」と嘆声を洩らし、洩らしはしたが、嘆声のわりにはすぐケロリとなってただちに記念撮影を始める。
ぼくにだってなんのことかさっぱりわからぬが、この宏大な庭園が個人のお庭だったということはわかり、「もったいない!」ということだけは実感できた。
しかしなんですな、天下の名園もこう大群衆がいっぱいに詰まっちゃおしまいですな。
前田の斉広さんも、「あそこに木を一本、あの辺に築山《つきやま》を、この辺には池を」と、いろいろ工夫してこしらえたんだろうが、こういう大群衆は計算に入れなかったんだろうねえ。
これからの造園は、群衆という風景も考慮に入れて造らねばならぬでしょうな。
ゾロゾロと歩く群衆は、だれ一人として天下の五木寛之に気づく者はいない。
ぼくは残念でたまらぬ。
女子大生らしきグループに走り寄って、
「ぼく、いま五本寛之と一緒なんだけど、どう? お茶飲まない?」と誘いたい誘惑にかられる。
昼食は、その名もゴリやという料亭でゴリ料理をご馳走になる。
ゴリというのは小さな川魚の名前で、これが天ぷらとつくだ煮の姿で出てくる。
やはり名のある名器に盛られて出てくるのである。
ゴリの天ぷらもうまかったけれど、それより心に残るのは、さっきの女子大生のグループである。
「ねェ、ぼく五木寛之と一緒なんだけど、これからゴリ料理食べに行かない?」
さっき勇気を出してこう誘っておれば、今ごろは女の子たちに囲まれてキャアキャアいいながらこのゴリの天ぷらを食べることができたのに!
思い返せば思い返すほど残念でならない。
女子大生のGパンのヒップが目に浮かぶ。
昼めし食べて、武家屋敷を見学し、土塀を見物し、犀川《さいがわ》のほとりに立ったりしたけれど思い返すは女子大生のことばかりである。
金沢の町には文学碑が多い。
泉鏡花の碑、徳田秋声の碑、室生犀星の碑などがあり、燐寸《マツチ》の祖佐藤誠先生の碑などというヘンなものまである。
文学碑のところには、例外なく女子大生が群がっていて、写真の写しっこをしたり、碑文をメモしたりしている。
どうせ写真をとるなら、ここに五木寛之がいるのになあ、ぼくが紹介の労をとって一緒に写真をとり、それを縁にご一緒して喫茶店に行き、しばし文学論などをたたかわし、適当なところで五木さんには先に帰ってもらってぼくだけ彼女たちの旅館に行き、そこで乱交パーティーを、などとGパンのヒップ眺めつつ妄想をたくましくする。
あんずよ花着け
地ぞ早に輝け
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
美しい碑文も、妄想の漫画家の目には入らない。
ははこひし夕山桜峰の松
鏡花の碑文も目に入らない。
夕刻、またしても豪壮な大料亭で、脇息にもたれて夕食をとったのち夜の町に出かける。
キャバレーチャイナタウン、というところに入る。
野球帽かぶったニイチャンもいれば、腹巻きのハゲアタマもいる。
格式高き料亭につぐ料亭で、緊張に次ぐ緊張を強いられていた二流の人は、ここへ来てやっと落ちつきを取り戻した。
ここでなら、心おきなくネエチャンのドレスをまくることもできるし胸ぐらに手を突っこむこともできる。
俄然ぼくは生き生きとしてきたが、五木さんは消沈した。
五木さんには、こういうところは似つかわしくないのである。
席についてまもなく、やぁってきました、あんあん、金沢のホステスが。
またしても、若いの一人に年増《としま》数名というプロジェクトチームが押し寄せてきたのである。
どういうわけか、ぼくはこの若いのにモテたのである。
むろん五木さんはこういうところではあまりモテない。
あろうことか五木さんよりモテる!
この思いがぼくを有頂天にした。
有頂天になって、若い子のタバコに火をつけてやった。
これがいけなかった。
「アラ、小さくていいライターね」
「うんいいだろ。ホラこうやるとね、ちゃんとつく」
あたりまえである。
「へえ、ちゃんとつくのね」
「そう、ちゃんとつく」
買ったばかりの六千円のライターである。
三日考えて、やっと買ったライターである。
「これ欲しいな」
「…………」
「こういうの前から欲しかったのよ」
「…………」
「ね、いいでしょ」
「…………」
いやといえないのである。
せっかくモテていたのに、ライター一つで険悪な空気に一変してはならぬ。
その夜は宿へ戻っても、ライターを思ってなかなか寝つかれなかった。
ぼくももう少し年をとったら、金沢市に頼んで句碑を一つ建ててもらうことにしよう。
句はもうすでにできているのである。
ライターこひし
チャイナタウンや峰の松
踊ってみました無我の舞
ある日、オール讀物編集部の電話が鳴った。近くの女の子が受話器をとって叫んだ。
「Fさん! 電話です」
「だれから?」
「神様からだそうです」
このぐらいのことで驚いてはいけない。
このぐらいのことでいちいち驚いていては、現代を生きてゆくことはできないのである。
編集部員一同注目の中を、Fさんは受話器を取り上げ、至極おちついて、
「やあ、ご無沙汰しています。お元気ですか? ハアハアそうですか、では今度の日曜日にお伺いします」
といって電話を切ったのである。
最近の電電公社の技術陣の進歩はめざましく、ついに天上との直線回路開設に成功したらしいのである。
それにしても、神様に対して「お元気ですか?」はおかしい。
神様というのは、常に元気でいるのが普通で、病いに伏せっている神様など聞いたことがない。
さらにまた、「では今度の日曜日にお伺いします」も、よく考えてみると変だ。
どのような交通機関を使って神様のところに出かけて行くのだろうか。
「山陽線に乗って行くんです」と、Fさんは至極おちついてぼくに説明する。
「山陽線に、天国駅いうのはあったんかいナ」
「いえ、山口県の田布施《たぶせ》という駅で」
「田布施という駅に、神様おったんかいナ」
「おったんです」
「なんていう神様かいナ」
「踊る神様です」
「あ、その昔、北村サヨとかいうオバアサンがやっていた……」
「なんてことをいうんです。大神様というんです」
「でも、そのオバアサンはもう死んだのでは?」
「五年前にお亡くなりになりました」
「それで、なんでもそのあとを孫娘が継いでるとか」
「なんてことをいうんです。姫神様とおっしゃい」
「するとその姫神様から電話が?」
「いえ、若神様からです」
「なんか知らんが、続々といろんな神様が出てくるなァ」
「どうです、一緒に行ってみませんか。ぼくは若神様とは昵懇《じつこん》で、ときどき出かけて行っては踊って、魂を洗い清めてくるんです」
「踊ると魂が洗い清められますか」
「洗い清められます」
ぼくの魂も、最近はずいぶん汚れがひどくなってきたなァ、と思っていた矢先である。
台所の換気扇だって、一年に一回は洗わないとベタベタに汚れて使いものにならなくなる。三十数年間、オーバーホールなしで使い続けてきた魂である。きっと天ぷら油やなんかで、ベタベタに汚れ切っているに違いない。
換気扇のほうは、専用の洗剤が開発されているらしいが、魂専用の洗剤はまだ開発されていない。
それが一踊りすれば、うす汚れた魂がたちまちピカピカの新品同様になるというのである。
「つれてってください」
「つれてってあげます」
こういうことになって、ぼくは岡山駅から山陽線に乗りこんだのである。
岡山駅から汽車に乗って
田布施に着いたァ
ここのところは、五木ひろしくんの、長崎から船に乗って、の節《ふし》まわしで読んでいただきたい。
田布施駅からタクシーに乗って
踊る神様の大殿堂に着いたァ
多少字あまりになるが、ここのところも前と同様に読んでいただきたい。
いや驚きました。
山間の田んぼの中に、忽然と姿を現わしたコンクリートの大殿堂。
いやいや大殿堂ではいい足りない、超大殿堂。
敷地一千万平方メートルに、超大殿堂が建っているのである。
正しくは、「天照皇太神宮教《てんしようこうたいじんぐうきよう》、神の国建設精神修練道場本部」というのだそうだ。
大道場の入口に立ったぼくは、まずその壮大さに胸をうたれた。
天照皇太神様の御威光に、胸を射ぬかれたといってもいい。
次に、どこからどうやってこの金を? という疑念で胸が一杯になった。
聞くところによると、大神様の前身は、普通の農家の嫁であったという。
山陽線から二、三里も奥まった農村の、一農婦だったのである。
それがある日突然、自分の腹に神様がやどったとかで、寝ている亭主の枕もとにツツツと歩み寄り、枕を蹴とばして、
「わりゃア、おサヨをただの女房と思っとったかァ」と叫んだということである。
いい気持ちで寝ていた御亭主も、枕を蹴とばされて、きっとびっくり仰天したに違いあるまい。
そして周囲の人々を、すべて「蛆虫ども!」と、ののしり始めたのである。
この「枕蹴とばし」の年をもって(昭和二十一年)ここ天照皇太神宮教では紀元元年としているのである。
読者諸賢も、カーチャンに枕を蹴とばされても、ゆめゆめ怒ってはならぬ。
それがお宅の記念すべき紀元元年になるかも知れないからである。
そしてそれが、やがては四万坪の大殿堂につながるかも知れないからである。
むしろ、枕を蹴りやすい角度に配して眠ったほうがいいかも知れない。
建設費七億、丹下健三グループと大谷、沖氏の設計が、「大神様の大御心《おおみこころ》に叶《かな》い」めでたく竣工の運びとなったのである。
この大殿堂の中庭で、毎月第三日曜日、信者の人々(ここでは信者を同志と呼ぶ)が集まって無我の舞を舞うわけである。
無我の舞を舞う前に、大講堂で姫神様の御説法を聞いてもよし、むろん踊りだけ踊ってもよい。
そして同志は、日暮れとともに帰ってゆくのである。
ただそれだけの宗教団体なのである。
入場料も、踊り賃も一切要らない。
遠方から来る同志のために、宿舎も完備している。
この宿泊費も無料なのである。
「一体どうやってこの大殿堂の建設費を捻出したのでしょうか。維持費だって大変でしょうに」
「すべて浄財でまかなわれております」
と若神様が仰せられる。
若神様は大神様の御子息であらせられ、姫神様は若神様の御令嬢というわけである。
若神様といっても、すでに五十歳を過ぎておられる。
むしろ中年神様といったほうがよいのではないかと思われる。
「浄財?」
「海外からのが大分多うございますね。この本部の建設費にしましても、海外からのが約半分に達しています」
「維持費なんかはどんなふうに?」
「うちは倹約宗教でしてね。同志の勤労奉仕でやっておりますから維持費はそんなにかかりません。あとは出版とか、神協産業という会社をやっておりまして、ここでは海草から作った健康食品とか肥料の販売をやっております。そんなこんなでまあなんとか」
「宿泊費も無料とか」
「ええ、無料ですが廊下に維持箱というのを置いておりまして、これに同志のお気持ちを入れていただきます」
「すると百円ぐらいしか入れない人も……」
「いるでしょうな」
「十円ぐらいしか入れない人も……」
「いるでしょうな」
「ぜんぜん入れない人なんかも……」
「いるでしょうな」
「…………」
「うちはね、すべて真心と真心の触れ合いでやっております。本当の真心があれば、すべてが解決するんです。そうじゃないですか、東海林さん」
「……ハハーッ」
若神様は、にこやかに笑っておられる。
大体、神様に金の話をするなんてのがすでに間違っているのだ。
もっと魂の話をしなくてはいけない。
「概略を知っていただくために、まず映画をご覧になってください」
映画は、その名もずばり、「大神様」
「釈迦、キリスト以来、人々が求めていた大神様は、一九〇〇年元旦、昇る朝日とともにお生まれになりました」
荘重な音楽とともに、こういうナレーションで映画は始まる。
全巻四十五分、総天然色の大作である。
大神様のありがたい御説法が暗いホールにこだまする。
「ウジムシコジキよ目を覚ませー、夜明けだ夜明けだ、神の神国《みくに》の夜は明けてー、ホイトの乞食も目を覚ませー、国賊乞食も目を覚ませー、今じゃ天父《てんとう》があま下り、わざわざ百姓の女房の腹を借りー、百姓女房の口使いー、人間みちを教えて歩くヤクザのこの国が、なに目的にしゃべるのかー、威張るヤクザのこの口がー、釈迦にキリストこの三人《みたり》以外に神が天が下に使った覚えはないとー、何の叫びかわかるまでー、聞いてお帰り荷物にゃならん、天下のおおしき神のみ教えよー、早く心のお目目をさましゃんせー、心のお目目が覚めてみりゃー、尊いみ国じゃないかいなー、ウジの世界の乞食らがー、学校学校学校へ行ってー、ミイラの頭ひねり出しー、万年筆やノートを持ったうえ、覚えた覚えた思うてもー、ツルリンツルリン抜けるよなー、ミイラ頭でありながらー、一度証書や免状もらったらー、偉い偉いと思ってもー、我の天下を舞うとるウジ乞食らめー、聞いてお帰り荷物にゃならんー」
一言一句、ありがたいお言葉が、ぼくの魂に沁み入るのであった。
時には浪曲調になり、時には御詠歌風になり、祭文《さいもん》風になり、ぼくの胸に食いこむのであった。
特に、「ツルリンツルリン」のあたりは、ぼくの魂が根底からゆすられる感じがしたのであった。
この御説法を読めば読者諸賢も、この天照皇太神宮教の教義を、おぼろげながらつかむことができたことと思う。
「ただ、途中でヤクザという言葉が出てきますが、大神様はヤクザと関係あるのでしょうか」
「それは『生書《せいしよ》』を見てください。ちゃんと出ています」
いただいた「生書」なるものをひもといてみる。
ホテルのベッドのわきに置いてある聖書と同じ体裁である。
第一巻は、旧約聖書と同じく、生い立ちなどが主になっており、第二巻は新約聖書風に、御教《みおし》えが主になっている。
大神様が、自分とともに世界三大宗教家の一人として、キリストを認めただけのことはあるのだ。
役座《やくざ》というのは、(御国《みくに》建設の大聖業をされる神の役の座につかれた方という意味で、大神様のご自称)とあった。
映画を感動とともに観賞したあと、若神様の夕食に招かれる。
和風の座敷で、酒が出、刺身が出、鳥のモモ焼きも出る。
若神様|御《おん》みずからお酌してくださるのである。
ぼくは三十何年間か生きてきたが、神様にお酌してもらってお酒を飲んだのはこれが初めてである。
驚いたことに、姫神様、その妹神様までが、御みずからお料理を運んできてくださるのである。
神々の座とは、きっとこのことに違いない。
「うちは、女中さんというものをおいておりませんからね」と若神様がおっしゃる。
座敷は急に、俗の世界へ戻った。
夜九時から、小講堂において、姫神様の御説法があるというので出かけて行く。
廊下で同志同士がすれ違うと、手と手を合わせて合掌をする。
ここではお辞儀をしない。すべて合掌である。これはこれで宗教の殿堂らしい雰囲気があっていいのだが、手に物を持っているときは困る。
小講堂には、すでに二百人ほどの老若男女が集まっていた。
全員畳の上に正坐している。
女性六に男性四ぐらいの感じである。
子供もわりに多い。この子供たちもきちんと正坐し、合掌して「御祈の詞」なる歌を合唱するのである。
重々しく、荘厳かつ悠長に合唱は始まる。
天照皇太神宮、八百万の神ィー、
天下太平、天下太平ィー
国民揃うて天地の御気に召します上はァー
必ず住みよき神国《みくに》を与え給えー
|六魂清浄《ろつこんしようじよう》、六魂清浄《ヽヽヽヽ》
わが身は六魂清浄《ヽヽヽヽ》なりィー
六魂清浄《ヽヽヽヽ》なるがゆえにィー
この祈りかなわざることなしィ
ときて、
突如急テンポに、
名妙法連結経《なみようほうれんげきよう》、名妙法連結経《ヽヽヽヽヽヽ》、名妙法連結経《ヽヽヽヽヽヽ》……と、これが延々と続く。
全員合掌しつつ体を激しく揺する。
さしものコンクリート造りの座敷の床も揺れるほどである。
ケイレン風あり、選挙風連呼あり、つぶやき風あり、愚痴風あり、浪曲調ありで、各人独自の節まわしで絶叫する。
これが始まると、ホールにかすかな口臭が漂う。
ぼくも目をつぶってやってみたが、なかなかいいものである。
かなりの運動になる。
姫神様が動きをやめると全員ピタリとこのお祈りをやめる。
子供が、フーッとため息をつく。
このあと、大神様作詞作曲による「神歌」というのを再び全員で合唱する。
なにしろ神様のことだからなんでもお出来になるのである。
よしだたくろうくんなんぞは足元にも及ばないのである。
そして最後に、再び姫神様が壇上にお立ちになり精神訓話をおたれになる。
粗すじは、利己心をなくせ、反省と懺悔を欠かすことなかれ、自分自身を無にしましょう、といったようなことである。
五十を過ぎたであろうと思われるおとっつぁんが、ジッと頭をたれてこの訓話に聞き入っている。
二十二歳の娘さんに、五十過ぎのおとっつぁんが諭されているのである。
だが姫神様の御説法は、大神様の迫力には及ぶべくもない。
原稿棒読み、という感じさえある。
そこで御説法のあと、姫神様に訊いてみた。
「あれは全部暗記しているわけですか」
「それではいけません。自然に口をついて出るのでなければ、真心のこもったお話など出来るものではありません」
「……ハハーッ」
ぼくらは悄然と宿舎に戻る。
あすはいよいよ無我の舞の日である。
「起床は何時でしょうか?」
「六時にお掃除が始まりますから五時には起きないと」
「じゃ五時に起こしてください。ちゃんと起きますから」
「いいですよ、あなた方は」
「いや起きます。起こしてください」
「全員、便所掃除なんかもやるんですよ」
「やります、やります、便所掃除します」
翌日、ちゃんと係のおばさんが起こしてくれたそうだが、われわれが目を覚ましたのは七時であった。
「ウーム、やはり真心が足りないのだ」
「五時といわれたら、自然と五時に目が覚めるのでなければ、真心のこもった起床はできないのですよ」
朝食は七時なので急いで食堂に駆けつける。
各自食券を買ってカレーライスや、朝の定食を購入するのである。
ここだけは、「お気持ち」ではいけないのである。
踊りは九時から始まる。
朝モヤをついて、続々と同志が集まってくる。
その数約六百名。
これらの同志のために、国鉄はわざわざ切符発売所を食堂に開設している。
きっかり九時、六百名を前に、若神様、その奥様神様、姫神様、妹神様、弟神様が勢揃いする。
まず若神様が、踊りのエチケットについて注意を与える。
「踊りの最中は、タバコはやめていただきます。それから、オッパイを出すのもやめていただきます」
「ムムッ、興奮してオッパイを出す娘もいるらしいぞ」と、不謹慎な期待に胸をはずませていると、
「お母様で授乳をなさる方は、必ず踊りを離れてください」とのことであった。
まず姫神様がマイクの前に進み出る。
シンとした静けさが一瞬あたりに漂う。
踊りの前の静けさ、というやつであろうか。
広場の周囲を大きな松の木が取り囲んでいる。その松の緑の上に、くっきりと青い空。
地面は白い玉砂利。
踊りを前に、シンと静まりかえった群衆。
まじめ風青年あり、商店風おやじさんあり、セーラー服あり、矯正会風おばさんあり、ネクタイあり、ジャンパーあり、かっぽう着あり、ありとあらゆる種類の人々がここにいる。
と、突如姫神様が、朗々と前述の精神訓話に節をつけたようなものを歌い出す。
たちまち動きだす群衆。
ギクシャクあり、スムーズあり、ヨイヨイ風あり、ゴーゴー風あり、なにしろ決まった型はないのだから、各自の工夫でどう踊ってもよいのである。
ヤッコ凧みたいに、ガッタコガッタコ踊っているジイサンもいる。
ヨッタコヨッタコと、中気風に踊っているバアサンもいる。
目をつぶり、この踊りを踊ると無我の境地になれるという。
そこでぼくも目をつぶり、バアサン風にヨッタコヨッタコと踊ってみた。
だがなかなか無我の境地にはなれず、いろいろな雑念が頭の中を去来するのであった。
ぼくの棲む町
西荻に仕事場を持って、ちょうど二年になる。その前は中野で仕事をしていた。
中野には合計四年ほどいた。
ぼくの家は八王子にある。
自宅から仕事場へ通勤、というスタイルを続けて六年になる勘定である。
ぼくの仕事場は、いってみればぼくの勤め先である。
ただしこの勤め先には、上役はいないしむろん下役もいない。
資本金などの関係で、タイムレコーダーも設置していないし、受付嬢も雇っていない。
社員食堂はないが体育関係の厚生施設はある。ナワ飛び用のナワが、物干しに一本ぶらさがっているのである。
かなり充実した体育施設といわねばなるまい。
出勤時間は、一応十一時と決めてある。
出勤時間からいえば、重役出勤ということになるが、この重役は毎日七時まで残業をする。
従って一日八時間労働ということになって、労基法なんかの規定にもちゃんと合っているのである。
むろん、七時以降残業をすることもあるが、残業手当はだれも出してくれない。
やるだけ損ということになる。
だから残業は滅多にやらない。
出勤時間に遅刻することもあるが、そういう場合は、出勤時間を決めた人に、「まことに申しわけない」と弁明すると、いとも簡単に、「仕方ないだろう」とうなずいてくれる。
わが勤め先のよい点は、勤め先の所在地を自分で決めることができるという点である。
中央線沿線の地図を拡げて、「今度はこの辺に勤め先を変えようか」と思えば、そこがわが新しい勤め先となるのである。
家には一日おきに帰ることにしている。
仕事場で一泊しては、翌日わが家で一泊する。
「わが家で一泊」という言い方はおかしいかもしれないが、そういう感じなのである。
ぼくは妻帯者ではあるが、半分は独身者の生活をしているわけである。
半独身、半妻帯というわけで、この生活はなかなか快適である。
ぼくはどういうわけか、家庭生活というものがテレくさくてテレくさくてどうしようもない。
たとえば家にあって、電灯の下、家族全員で夕げの食卓を囲む、というのが、まずテレくさい。
ぼくには子供もいるから、一応父親ということになる。
子供はまだ小さいからゴハン粒をこぼしたりする。
父親は一応父親らしく、「ホラホラ、こぼしちゃいけないよ」などという。
「背すじをちゃんと伸ばして食べなさい」などともいう。
いったあとで非常にテレくさい思いをするのである。
例えば縁故かなにかの関係で、実力もないのに異例の抜擢を受けた課長が、部下の手前恰好をつけてる、といったようなところがあるように思うのである。
身にそぐわないのである。
「あいつは課長の器《うつわ》じゃない」という言い方があるが、ぼくは父親の器じゃないらしいのだ。
子供はまだ小さくて純真だから、父親のいったとおりに、急に背すじをしゃんと伸ばしたりする。
するとますますテレくさいのである。
だれか第三者が見ていて、
「ハハハ、あいつ、もっともらしくあんなこといってら」と笑っているような気がする。
父親は急にうなだれ赤面し、あわててミソ汁をすすったりする。
ミソ汁の椀の中には、お豆腐の小片と、ワカメなんかが頼りなげにフワフワと浮いていて、そいつをズスズスとすすり込んだりしていると、なぜか急にわびしくなってくる。
あのですね。
家族そろって電灯の下、夕げというのはなんともわびしいものですね。
それがたとえどんなに豪華な食事であってもわびしい光景ですね。
なぜだかよくわからないけれど、いたたまれないほどわびしいですね。
テレビのホームドラマなどでは、賑やかで活発で楽しげな夕げの光景が展開されているけれど、とてもあんなふうにはいかんのです。
おしんこ、などというものも、あれもわびしいものですね。
小皿にちんまりと、きゅうりのおしんこなんかが盛ってあって、味の素なんかがちょこっとかけてあって、そいつがキラッと光ったりして、そいつの一片をおはしでつまんで、ポリポリと噛んでいたりすると、なぜか悲しくなって涙が出てきてしまうのです。
ゴハン、というものもまた、わびしいものですね。
ゴハンの粒々を一度、ジックリ見つめてごらんなさい。
人間て、こんな小さな粒々を寄せ集めて、パクリと口に放り込んで、モゴモゴと噛んだりして、そしてそれを飲み込んだりして、そうやって生きてゆくのだなあ、とシミジミ情けなく、恥ずかしく、涙が湧いて出ることうけあいです。
「食事は楽しく愉快に、会話などを楽しみつつ賑やかに食べましょう」というのが世の家庭の方針らしいのですが、わが家のは、「食事はわびしく、陰々滅々、黙々と、涙にむせびつつ食べましょう」という具合になっているのである。
わびしい話はこれぐらいにしましょう。
そんなわけで、ぼくは、家族そろって楽しい夕げ、を、できることなら避けたく思い、一日おきにしか家に帰らないのです。
仕事場に泊まるときは、一人で晩めしを食べます。
外へ出て食べることもあるが、大抵は仕事場周辺の商店街から買い集めてきたおかずを、畳の上に新聞紙を拡げ、その上に並べ、腹這いになって、モシャモシャ食べるのです。
食べてすぐ横になると牛になるそうですが、ぼくの場合は食べる前から横になっているのですから、こういう場合はなにになるのでしょうか。カバになるのでしょうか。
それはさておきこういう食事は全然わびしくないのです。
これぞ男の夕げ、という感じで食欲大いに増進し、大量に食べ、ビールなんかも飲み、酔い、一人手拍子など打って歌の一つも歌い、大変よい気持ちになって、新聞紙製の食卓をズルズルと片すみに移動させ、そこに布団を敷いてもぐり込んで寝てしまうのです。
こうして半独身者は朝を迎えることになるわけです。
ロンドンの朝はコーヒーで始まるが、西荻の朝はコブ茶で始まる。
勤め先で目覚めた重役兼社長兼小使は、まず台所に立ってコブ茶を入れる。
これをズスズスと飲み終ると、ねむい目をこすりつつ西荻窪の駅まで新聞を買いに出かける。
駅の売店で大量の新聞を買い込むと、そのままあてのない散歩に移る。
足の向くまま気の向くまま、このあいだは北の方へ行ったから今日は西の方へと、その日の気分でダラダラと歩き始める。
この散歩は十分ぐらいで終ることもあるが、三時間ぐらいかかることもある。
西荻というところは、荻窪と吉祥寺という両繁華街の間にあって、実に閑散とした町である。
夏でも夜九時を過ぎると、駅周辺でも人通りがばったり途絶える。
そして主婦がやたらに目につく町である。
夕方になると、表通りは買物の主婦族で埋めつくされるのである。
駅周辺は、区画整理がうまくいってないらしく、やたらに細い路地ばかりがたくさんある。
細い路地をクネクネ曲がって行くと、突如人家の庭先に出たりする。
折りしも布団を干していたその家の奥さんとバッタリ顔が合ったりする。
このときの対応の仕方は非常にむずかしい。あわてて引き返したりすると、怪しの人物と誤解され、一一〇番に電話されたりする恐れがあるからである。
この場合有効なのが、偶然小わきに抱えている新聞の束である。
奥さんは、「うち新聞要らないわよ」と先手を打ったつもりで怒鳴る。
ぼくは「そこをなんとかひとつ」といいつつ引き返すことができる。
あるとき、気分がのって、右に左にどんどん折れ曲がりつつ歩いて行って、ふと町名標示板を見て驚いた。「吉祥寺」と書いてあるのだ。
都区内を出発したのに、いつのまにか三多摩地区に足を踏み入れていたのである。
このときは、深山幽谷に分け入ったような気がして狼狽した。狼狽して逆上した。
もともとぼくは方向オンチなのに、狼狽が加わったので更に方向がわからなくなった。
昼間の住宅街は深閑としている。
「遭難」という文字がチラと脳裏をかすめ、「救援のヘリコプター出動」などという新聞記事も脳裏をかすめた。
こういう場合は、やたらに歩きまわると、かえって疲労し凍死する場合もあるのだ。
雪洞を掘って救援隊を待とうと思ったが、吉祥寺の路上のこととて掘るべき雪もない。
この時は、幸いにして交番が目についたのでそこで西荻窪駅の方向を訊き、ほうほうの態《てい》で帰宅することができたのである。
たかが散歩とあなどってはいけないことを、そのときはつくづく痛感した。
昼めしは、大抵、仕事場のすぐそばにあるラーメン屋でタンメンを食べることにしている。
ここのタンメンは、すこぶるうまい。お肉だって一杯はいっている。
ここのタンメンはうまいのだが、一つだけ困ることがある。
このラーメン屋は、七十を過ぎたと思われるおばあさんと、四十ぐらいのおかみさんの二人だけでやっている。
五十ぐらいのおやじさんがいるのだが、去年の秋ごろから、体を悪くしたらしく店には出てこない。
おばあさんは、皿洗いと注文の電話を聞くことぐらいしかできない。
店の仕事のほとんどが、おかみさん一人の肩にかかっているのである。
それなのに、このお店は出前もやるのだ。
これで忙しくない筈はない。
近所を歩いていて、このおかみさんが、おかもちを抱え、背中を丸めて街中を突進していくのをぼくは何度も見ている。
おかみさんが出前に出かけているうちに、店の方にはお客さんが来る。
出前から帰ったおかみさんは、文字どおり息つく間もなく、店のお客さんの注文の品を作る。
ぼくは、なるべくヒマそうな二時ごろを選んで食べに行くのだが、それでもおかみさんの激務ぶりを見ていて、身のすくむような思いをしたことが何度もある。
おかみさんは疲れている。疲れているからどうしてもおばあさんにアタることがある。
なにしろおばあさんは、七十をとうに過ぎているから店内の仕事をテキパキと処理できない。どうしてもモタつく。
店内が多忙を極めているときは、ケンカどころではないから、お互いに黙々と働いているが、それが一段落したところでおかみさんの怒りが爆発するのである。
それがちょうど、ぼくが出かけていく二時ごろということになるらしいのである。
だからぼくが食べに行くときは、常に店内に不穏な空気が漂っているということになる。
額の汗をぬぐういとまもなく、ぼくが注文したタンメンの麺をゆでていたおかみさんが、突如、
「さっきみたいなときはねえ、ちゃんと下ごしらえしといてくれなくちゃ困るじゃないのッ、帳面は虫めがねで見れば、ちゃんと見えるでしょうッ」
「……しょうッ」のところで金切声になる。
ものすごい音をたててドンブリを重ねる。
タンメンが出来上がるのを神妙に待っていたぼくは、これでビクッとなる。
帳面というのは出前用の帳面のことらしく、出前の種類を虫めがねで読んで、その下準備をしておいてくれ、とこういっているらしいのである。
七十過ぎの老婆に、ずいぶん酷なことをいうと思うかもしれないが、おかみさんの激務ぶりからいえば、あながち無理な注文ともいえないのである。
おばあさんは小柄な上品な感じの人で、正面切って口答えはしないが、
「そんなこといったって、ナントカカントカ、モゴモゴモゴ」と口の中でつぶやく。
これがおかみさんの怒りをかえってあおるらしく、おかみさんはまた金切声をあげる。
まことに恐ろしい修羅場である。
とても「楽しくなごやかにお食事を」という雰囲気ではない。
どうもぼくは、どこへ行っても食事の雰囲気には恵まれないようである。
ぼくはひたすら恐れおののき、「ああ、ぼくがいけなかった。ぼくがタンメンさえ注文しなかったら、こんな抗争は起こらなかったかもしれない」と、身のすくむような思いをしながら、ただひたすらタンメンの出来あがるのを待ち、一刻も早く平らげ、一刻も早くこの抗争からのがれたいと乞い願う。
だが、この抗争のさ中で、身のすくむような思いをしながら食べるタンメンが、なぜかまた格別にうまいのである。
そして翌日もまた、抗争が起こっているであろうラーメン屋へと、足を向けてしまうのである。
このラーメン屋の隣に雑貨屋がある。
ここのおじさんは背の高い人で、髪を七三にきちんと分け、どういうわけかいつもきちんとネクタイを締めている。
年齢は五十歳ぐらいで鼻が高く、ホリが深く、きちんとネクタイを締めて店の奥にすわっているところは、どう見ても雑貨屋のおやじには見えない。
区役所の文書課長のような感じである。
このおじさんは、どういうわけかすぐ怒る。
いや怒りはしないのだが、このおじさんの前にいると、なぜか怒られているような気がしてくるのである。
おじさんは買物客が来ると、黙って立ちあがって客の前に来る。
背が高いから、どうしても立ちはだかる、という感じになる。
「なにしに来たのかね」という感じである。
ぼくはおびえて、
「あ、あの、コップ洗いが欲しいんですが」というと、おじさんは黙って二種類の柄《え》のついたコップ洗いを取り上げ、
「こっちは八十円。こっちが百二十円。だが八十円のはすぐダメになるよ。柄のところがすぐ折れる」という。
商品の説明をしているというより、なにかさとされているような気がしてくるから妙である。人生の教訓をうけたまわっているような気がしてくる。
おじさんの風貌のせいかもしれない。
八十円のほうを見てみると、とてもすぐ折れそうには思えないので、安い八十円のほうを買っていくと、果たしてこれは、ちゃんと柄のところが折れるのである。
「今日はお皿を洗うスポンジが欲しいのですが」
おじさんはまた黙って二種類のスポンジを取り上げ、
「こっちが三十五円、こっちが五十円。だが三十五円のほうはすぐダメになるよ」という。
この店は、なんでも、すぐダメになるやつと、大丈夫なほうと二種類ずつ置いとくのが経営方針らしいのである。
ぼくの考えでは、すぐダメになるような商品は置いとかなければいいのに、と思うのだが、わかっていて置いとくところが、このおじさんの偉いところなのかもしれない。
心の広い、懐《ふところ》の深いおじさんなのかもしれない。
このおじさんは一切無駄口はきかない。
客が来ると、なにが欲しいかをたずね、定価をいい、お金を受けとりおつりを返す。
なにか物を売っているというより申請を受けつけているという感じのほうが強い。
だからぼくは、この店に行くときは、物を買いに行くというより、なにか申請をしに行く、という気持ちになってしまう。
この雑貨屋の反対側に布団屋と日本そば屋が並んでいる。
この二軒とも犬を飼っている。
この二匹の犬は、いつ見ても昼寝をしている。
朝も、夕方も昼寝をしている。
むろん昼間も昼寝をしているのである。
布団屋の犬は、いつも鼻先に落ちている綿くずを吹きあげつつ寝ているし、そば屋の犬は、鼻先に干してあるカツブシの粉を吹きあげつつ眠っている。
駅のすぐそばには、わが愛する西友ストアがある。
晩めしのおかずは、ここで購入することが多い。
スーパーで買物をするのは大変楽しい。
なにを買おうかと迷っているときに、「なにになさいます」と店員が出てこないところが気に入っている。
そういうところは大変いいのだが、一つだけ困ることがある。
それは、こちらが一つ一つ吟味し選んで買いあさった品物が、レジのところで全部衆目にさらされるという点である。
あれにはほとほと困る。
レジのところはご存知のように長い行列が出来ている。
世間の目がたくさん集まるところなのである。
そこのところで、ぼくの買物のすべてが、拡げられあばかれてしまうのである。
買物の全貌が明らかになってしまうのである。
ある人の買物は、その人の生活のすべてを物語っている場合が多いのである。
自分の生活の秘密のすべてが、そこに集約されているといってもよい。
それを、大勢の目の前であばかれ、さらされてしまうのである。
大勢の奥さま方の注視の中で、パンツを脱がされたような恥ずかしさを覚える。
「アラあの人、あんな安いサツマ揚げなんか買って。あの人きっと下品なのね」
そういう声が聞こえてくるような気がする。
「マアあの人、セロリを二本も買ったりして。精力つけてなんかしようという魂胆なのね。あの人きっとスケベなのね」
そう思っているかもしれないのである。
ああ、早いとこ計算を済ませてくれないかなあ、と身をよじってもがき苦しんでいると、そういうときに限って、セロリの値段のシールがはがれていたりして、レジ嬢は遠くの支配人に、「このセロリいくらー?」と怒鳴ったりする。
ぼくがセロリを買ったことが、店内中の人に知れわたってしまうのである。
ぼくがスケベであることが、町内中の奥様方に知れわたってしまうのである。
恥辱にまみれ、冷汗にまみれてぼくはスーパーから出てくる。
だが、一歩スーパーから出てしまえば、ぼくの足取りは軽い。
今宵もまた、新聞紙製の食卓の上で、豪華で楽しい夕食をとることができる。
男の夕げのひとときを、持つことができるのである。
〈了〉
あ と が き
二度目は恥ずかしい。
ぼくの文集はこれで二冊目である。
だれでもそうだと思うが、二度目は辛いものである。
女の人だって、二度目にお嫁に行くときは辛いのである。
世間の目を気にしつつ、多少うなだれているものである。
一度でこりずにまたしても、というところが二度目の辛さである。
いくぶん居直り、いくぶんやけくそにならなければ、とても決行できるものではない。
だが一度やけくそになった人は強い。
こうなったらもう何度でも、そういう心境になるものである。
一九七三年春
東海林さだお
初出誌
オール讀物 昭和四十六年四月号〜四十八年二月号連載「ショージ君の日本拝見」を改題
底 本 文春文庫 昭和五十二年十月二十五日刊