スパイラル カノン その扉を開く者
朝香祥
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)冬湖《トオコ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)室町時代|頃《ごろ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]END
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――オマエノ欲シイモノハ ナンダ?――
[#ここから1字下げ]
禁断の扉が開かれるとき
孤島に封じられた〈もの〉が
いけにえを求め動き出す……
[#ここで字下げ終わり]
戦慄のネオサイキック・アクション!
スパイラル カノン その扉を開く者
[#地から1字上げ]著/|朝香 祥《Syo Asaka》
[#地から1字上げ]イラスト/|成瀬かおり《Kaori Naruse》
[#改ページ]
1
「冬湖《トオコ》、起きてきたんならちょうどよかったわ。お前、祠《ほこら》まで行ってマモリさまに榊《さかき》と神饌《しんせん》をさしあげてきてちょうだい」
冬湖が階段を降りてゆくと、まるで見ているみたいに、母親が台所から声をかけてきた。
「なんで」
冬湖は顔を引きつらせ、残りの階段を駆《か》け下りて台所に入る。
「ハルの役じゃない、それ」
「春紀《ハルキ》は今日から合宿」
しまった、そう言えばそうだった。
昨夜、楽しそうに着替《きが》えを準備していた弟のにこにこ顔を、思いだす。
「じゃあお姉ちゃんは? ハルがだめなときは、お姉ちゃんがいつも行ってるよ」
「夏実《ナツミ》は本家に行きましたよ。憲司《ケンジ》さんが京都に戻《もど》られるので、お手伝いにね」
「何それ。お姉ちゃんはお兄ちゃんの許嫁《いいなずけ》なのに、なんで憲兄ちゃんの手伝いに行くの」
眉《まゆ》をひそめて、冬湖はテーブルにおいてあるバターロールを口に運んだ。行儀《ぎょうぎ》が悪いと、千景《チカゲ》は眉をひそめて冬湖の手を叩《たた》く。
「その明仁《アキヒト》さんから頼《たの》まれたんだから、断れないでしょう」
「どうしてお兄ちゃんが? お母さんが、お兄ちゃんから頼まれたの? 『ナツを貸してください』って」
「夏実から聞いたのよ。明仁さんに頼まれて行くって」
「なんだ。そんなんじゃ、ホントかどうかなんてわかんないわよ」
「なにを言ってるの。どうして夏実が嘘《うそ》をつく必要があるのよ」
「だあって、お姉ちゃんって憲兄ちゃんが大学の休みで戻ってくるたびに、ちょこちょこちょこちょこ会いにいってるじゃない。お兄ちゃんとはろくにデートもしないくせに」
「ばかなことを」
「でも、お隣《となり》のおばさんたちが言ってるよ。あれじゃあ誰と誰が許嫁同士なのか、わからないって」
「冬湖」
千景は榊立てを、話を断ちきるかのように音を立ててテーブルにおいた。
「下らないことばかり言ってないで、さっさと着替えて、祠まで行ってきてちょうだい」
「だって……」
唇《くちびる》をとがらせて言い訳をしかけ、母親の本気で怒《おこ》っているらしい顔を目にして、それを呑《の》み込む。
「はーい、行ってきます」
冬湖は首をすくめるように頷《うなず》いて、着替えに立った・
* *
鈴野《スズノ》≠フ姓《せい》は、全人口が千人にも満たない島の中では、特別な存在として認識《にんしき》されている。冬湖はその、鈴野姓の家に生まれた者の一人であった。
人がいつからこんな、本州から遠く離《ばな》れた小島に住み始めたのかはわからないが、鈴野の大本となる本家は、家系図がねつ造されたものでなければ、室町時代|頃《ごろ》から今日までずっと、この島を治める位置にあった。今でも、村長は当たり前のように本家の統領が務める。役場の主立った役職も鈴野家と近しい姻戚《いんせき》関係にある者がつくことが多く、分家の鈴野である冬湖の父親も、去年まで助役の位置にいた。
島の中央に、標高七百メートル余の秋津山《あきつやま》がそびえている。冬湖の家はその麓《ふもと》にある、鈴野家が島の守護のために秋津山に招き降ろした神〈マモリさま〉を祭る祠に、日々仕える家筋であった。毎年秋になると、マモリさまを本家の祭壇《さいだん》にお招きして祈念《きねん》する祭りが催《もよお》され、ご神体を祠から本家まで、島の男たちの手で運ぶのであった。
家の裏手から細い山道に入り、ずっと登っていった先に洞穴がある。祠はしめ縄《なわ》と扉《とびら》で閉ざされた、その洞穴の奥《おく》にあった。
祭壇は洞穴の中と扉の手前に整えてあり、冬湖の家が行う神事は主に扉の前で執《と》り行われるが、初めてそこまで連れて行かれたときから、冬湖はその場所が嫌《きら》いだった。
洞穴の向うに何かが閉じこめられているように、しめ縄と閂《かんぬき》を破って今にもその何かが飛び出してくるように見えたのだ。
怖《こわ》くて泣き叫《さけ》び、一週間、熱を出して寝込《ねこ》んだ。以来十五年間、たとえ真夏の真昼でも自分からは洞穴に近づこうと思わない。
「あーいやだなあ」
薄暗《うすぐら》い道を、冬湖は榊と折敷《おしき》をのせた盆《ぼん》を手に、ぶつぶつと独り言を呟《つぶや》きながら登ってゆく。亜熱帯に近い植生の、うっそうと茂《しげ》る木々の枝から、昨日までの豪雨《ごうう》の名残《なごり》がしたたり落ちてきた。セミの声がうるさく、風のせいで折れた枝が、あちこちで行く手を阻《はば》むようにぶら下がっている。押《お》しつぶしたような声で鳴く鳥、木の枝から木の枝へと移動する動物の音、その風の動きに揺《ゆ》らぐ枝葉の一つ一つが、彼女の心臓を跳《は》ねさせた。島にはもっと深い森も道に迷いやすい山道もあるが、それを怖いとか不安だとか感じたことは一度もないのに、この場所だけはどうしても足がすくみそうになる。
「ほんっとにもう、ハルのばかたれ。なにが部の合宿よ、弱小サッカーのくせに」
二歳下の弟に向かって、ぼやいた。いっそここに投げ捨てていこうかと、立ち止まり手にした盆を睨《にら》む。そして。
長く、ため息をついた。
ちがう。確かに祠へ行くのはいやだが、自分のいらいらは、これのせいではない。原因は、ちゃんとわかっていた。
五歳年上の姉と、本家の兄弟のせいだ。
鈴野の者は元々同族同士のつながりが深く、本家と冬湖の家も頻繁《ひんぱん》に行き来している。そのせいもあって、本家の明仁と憲司と夏実は幼い頃から一緒《いっしょ》に遊び回り、冬湖や春紀が物心つく頃には当然彼らの仲間になっていた。
冬湖はごく自然に七歳上の明仁を『お兄ちゃん』、四つ上の憲司を『憲兄ちゃん』と呼ぶようになり、彼らは夏実と冬湖と春紀をそれぞれ呼び捨てにした。家同士ではあれこれ思惑《おもわく》があることを又《また》聞きで耳にすることもあったが、冬湖は明仁も憲司も、自分たちを同じ目で見てくれていると感じていたし、信じていた。
けれど―――
そうではなかったことを、三年前に思い知らされた。冬湖は今も彼らの妹にすぎないが、夏実は違っていたのだ。
先に生まれただけで何でも当たり前のように一番に手にする姉を、一度も羨《うらや》まなかった、嫉妬《しっと》しなかったと言えば嘘になるが。
苦い気持ちが、ただひたすら澱《おり》のように心にたまってゆくのを見るのは初めてだった。
本家から、明仁から伴侶《はんりょ》として望まれた夏実。憲司が家の反対を無視して京都の大学へ進学したのは、同じ年のことだった。
冬湖が心との折り合いをつけられそうになった去年の夏から、その夏実は帰省する憲司とやたら一緒にいるようになった。来月の結納《ゆいのう》を前に、今では村中が、二人の噂《うわさ》で持ちきりだ。
「ずるい、お姉ちゃんは」
知らず、こぼれ落ちる心。盆を持つ手を、強く冬湖は握《にぎ》りしめる。それから、何かを振り捨てるようにずんずんと歩きだした。やがてトンネルのようになっていた木々の並びが開け、道が左右に分かれる。山の堅《かた》い斜面《しゃめん》が目の前に姿を現し、その右手奥に、巨木《きょぼく》の根に囲まれるように洞穴の入り口が見えた。
「さーてとっ」
ことさら声を出して、冬湖は右へ向きを変える。雨のせいで足元がぬるぬるして、滑《すべ》りそうになった。
「もう、ここ嫌い……っ」
足元から目を祭壇に転じた冬湖は、ぎょっとして立ち止まる。
「え……」
扉の上。木の根に巻くように張られたしめ縄が外れて、祭壇の上に落ちていた。
白い四手《しで》は泥《どろ》まみれになり、破れているものもある。
「あ……」
わけもなく、背中を寒気が襲《おそ》った。暴風雨のせいだと、頭のどこかで一生|懸命訴《けんめいうった》えるものがあるけれど。泥まみれのしめ縄がまるで、何者かに破られたように見えて、足元から震えが登ってくる。扉には閂がかかっていて、内側から開くわけもないのに。洞穴の中は祠で、そこにはマモリさまが祭られているだけだとわかっているのに。怖い。
「や……やだ……」
じりじりと、足を後ろへとずらした。離れたい、ここにいたくない。そんな気持ちが体中を支配する。回れ右を、しようとして。
ギャア、とつんざくような声が耳を裂《さ》き、冬湖はびくんと跳ね上がった。刹那《せつな》。
足がずるっと滑って、身体《からだ》が浮遊《ふゆう》する。
「きゃあっ!」
いけない、と思ったときには完全にしりもちをついて、盆を取り落とし榊と神饌を転がしてしまっていた。折敷がひっくり返り、榊立てが横になる。
「あっ」
慌《あわ》てて取ろうとして、手をのばし。
祠の扉が、ずる……と動くのを見た。
冷永を浴びたかのように、体中から冷たい汗《あせ》が噴《ふ》きだし全身が凍《こお》り付く。
細い隙間《すきま》から、黒ずんでぬらぬらとしたものが、蠢《うごめ》きながら這《は》い出てくる。先端《せんたん》が、ぴくりと持ち上がり、こちらを向いた。見つかったと思った瞬間《しゅんかん》に、つう……っと先から上下に裂けて、ニタリと、真《ま》っ赤《か》なものが覗《のぞ》く。
――……エ……ハ――
冬湖の声にならない悲鳴が山の中に吸い込まれた。
* *
すさまじいクラクションとタイヤの滑る音が、冬湖を我に返らせる。思わず立ち止まった目の中に、青い車が映った。凄《すさ》まじい音を立てて車は方向を変え、動きを止める。直後にドアが開いて、人が飛び出してきた。
「大丈夫《だいじょうぶ》かっ……って、トーコ?」
間近に互《たが》いの顔を見て、呆然《ぼうぜん》となる。冬湖は憲司を、まばたきもせずに見入った。
「憲兄……ちゃん」
長身の、がっしりとした体格にラフな格好。笑顔《えがお》を思わせる明るい憲司のまなざしが、怒ったような色を含《ふく》んで冬湖を見つめた。
「どうしたんだ一体? 泥だらけじゃないか。こんなに息せき切って、何が……誰かに何かされたのか?」
両肩《りょうかた》を強く掴《つか》まれ、冬湖は顔をしかめる。声が形にならず、違《ちが》うという代わりにかぶりを振った。ぜいぜいと、喉《のど》の奥で音が鳴る。間近に、耳慣れた柔《やわ》らかな声が聞こえた。
「わかった。冬湖、祠に榊を上げるよう言われて、怖くて逃げてきちゃったんじゃない?」
運転席から出てきた夏実は、長い栗色《くりいろ》の髪《かみ》を細い指でかき上げて冬湖を覗き込んだ。
色白で少しふっくらとした顔立ちの姉は、小柄《こがら》で痩《や》せぎすであまり女の子女の子していない冬湖とは、ぱっと見姉妹とは思えないほど対照的だ。
「昔から、あそこ嫌いだったものねえ、冬湖は」
夏実はそう言いながら、ハンカチを取りだして、冬湖の腰《こし》から足元にこびりついた泥を、払いにかかった。
「ち、ちがう……っ。そんなんじゃ、ない。あたし、見たの」
喉がひりひりと痛み、冬湖は思わず咳《せ》き込む。まだ、後ろから追われているような感覚があった。真っ二つに裂けた奥に覗いた赤が、脳裏《のうり》に焼き付いて離れない。ぶるぶると、彼女は頭を振った。
「見たって、なにを?」
夏実と憲司の声が、重なる。冬湖は顔を上げ、涸《か》れた声を押し出すようにして説明する。
「ほこ……祠から、大きな蛇《へび》みたいなのが、出てきたの。しめ縄が落ちていて、扉……閂がかかっているのに勝手に開いて……」
二人は互いに目を見合わせ、それから冬湖を見直した。その瞳《ひとみ》が、唇が、笑みを押《おさ》えようとしているのがわかる。
「ほっ……本当なんだからっ。あたしちゃんと、この目で見たの!」
「だから、蛇でしょう? どこにでもいるわよ。それが這ってるのを見て、元々怖いこわいって思ってるものだから、扉が開いたなんて勘《かん》違いしたのよ」
「ちがうっ」
「ねえ、冬湖。わかってると思うけど、祠には〈マモリさま〉が祀《まつ》られているのよ? それがどうして、そんなに怖いものなの?」
夏実の宥《なだ》めるような口調は、かえって冬湖を頑《かたく》なにさせた。
「でも、見たんだもの! 蛇みたいって言ったけど、あれは蛇なんかじゃなかったわ。それに、あれは守り神でもなかった。もっといやな……何かとても怖いものなんだから」
「冬湖……」
「あーよし、わかった。じゃあ、俺が今から行って見てこよう」
「憲司!?」
夏実は一瞬あっけにとられ、驚《おどろ》きと怒《いか》りとが半々といった顔になる。
「何を言いだすの? あなた今日これから、京都に戻るんでしょう。その前に挨拶《あいさつ》したいって言うから、うちに……」
「そうだけどさ。まだ時間はあるし、叔父《おじ》さんにも叔母《おば》さんにも挨拶に行く話はしてないんだから、不義理だけど黙《だま》って行っちゃえばいい。トーコも不安を抱《かか》えたままじゃいやだろうし、しめ縄が外れているなら直しておいたほうがいいし。ついでだから、マモりさまにも挨拶してくるよ」
憲司はけろっとした顔で、一人うんうんと納得したように頷いた。
「だから、ナツはもう車を兄貴に返しにいってくれていいや。俺《おれ》は勝手に帰るから。ここからなら、港までもそうかからない」
「そうかからないって、四十分は歩かなきゃあ」
「ちょうどいい運動だよ。何しろ今は、高校時代までと違ってえらい良い待遇《たいぐう》されてるからね、俺」
夏実は呆《あき》れたように大きくため息をついて、わかったわと言った。
「憲司ってば昔っから、人が良いって言うかばかっていうか、好きこのんで意味のないことに首を突《つ》っ込んでたわね」
「そう。だからナツのわがままなんかも、俺はきいてやってるだろ?」
笑ってそう言うのに、彼女はむっとしたように顔をしかめそっぽを向く。
「じゃあわたしは、憲司に追い返されたって明仁さんに伝えるから。後は好きにして」
悪いな、とやけにさまになるウィンクをして、憲司は車のトランクからボストンバッグを引っ張り出した。
「元気でな。それから、今日、サンキュ」
「どういたしまして。憲司も身体|壊《こわ》したりしないでね。それと、冬湖にいいかっこしてて、出航時刻を忘れたりしないように。予約してないんだから、おいてかれるわよ」
夏実は小首を傾《かし》げてそう言い、ちらっと冬湖に目を向けた。
「ほんとにもう、冬湖のせいで予定がみんな狂っちゃったわ」
「……あたしは別にっ……」
上目|遣《づか》いに見上げ、冬湖は唇をとがらせる。夏実は軽く眉を持ちあげ、そのまま車に乗って来た道をUターンさせた。青のセダンが砂と砂利《じゃり》を飛び散らせながら遠ざかるのを、ちょっとのあいだ見送ってから、憲司は一つ息をつく。
「さーてと。じゃあ、祠まで行ってくるか。トーコはここで待ってる? それとも一緒に来るか?」
冬湖は十秒ほどためらった後に、一緒に行くことを選択《せんたく》した。
* *
同じ道を歩いているのに、先とは全然違う道を歩いているような感じになる。憲司は冬湖の半歩前を、彼女の歩調に合わせてゆっくり目に歩いてくれた。胸の鼓動《こどう》が、高鳴るのを冬湖は感じる。何だかやけに、暑くなってきたような気がした。
「トーコは、本当に昔っから祠に行くのを嫌ってたよなあ」
明るい声、力強い背中に、冬湖はまぶしそうに目を細めてうつむく。
「だって、本当にイヤな感じがするんだもん、あの場所。別に、マモリさまがどうこうって思ってるわけじゃないけど」
「それなんだけどな、トーコ」
不意に、憲司は声を低くして冬湖にささやきかけた。
「当たってるかも知れない、そいつ」
「え?」
「日本には古くから、恨《うら》みを残して死んだ者を神と祀ることで、地の平安と鎮魂《ちんこん》を図《はか》ろうとする風習があるだろ。実を言うとマモリさまも、同じらしいんだ」
ざわ、と、木々がさざめくのが冬湖の耳に入る。背中の芯《しん》のあたりが、冷たくなるのを感じた。
「なに……それ」
「この間、倉の整理にかり出されてさ、中で古い記録書を見つけたんだ俺。そいつを読んだら、あの祠に祀られているのは神さまなんかじゃなくて、元々人間や動物を喰《く》らっていた異形のものだってでてるんだぜ。それをご先祖と術師とが、封《ふう》じ鎮《しず》めて島のマモリと為《な》したんだってさ。年に一度本家に運んで祈念するのも、年ごとに術を重ねて封印を解かれないようにするためなんだと」
その場で立ちすくみ、動けなくなった冬湖に、憲司は尚《なお》も声を低めて続ける。
「で、百年に一度は術師を招いて、術のバージョンアップを頼まなくてはならないってことも書いてあったんだ。ちょっと計算してみたら、今年がその……」
そこで。我慢《がまん》しきれないといった風に、憲司は吹き出した。はっと、冬湖は我に返る。
「なっなに、憲兄ちゃん。あたしのことからかったのねっ!」
「いやー悪い悪い。あんまりにもトーコが真剣《しんけん》に怖がってるもんだから、つい」
「ひどい!」
力いっぱい叫んで、冬湖は大股《おおまた》で歩きだした。顔中が赤くなっている。「ごめん」と「待てよ」とをくり返して追いかけてくる憲司を、途中《とちゅう》で立ち止まって睨みつけた。
「だから、悪かったって」
「知らない、嘘つき!」
「いやあれは嘘じゃあ……」
言いさして、吐息《といき》に変えて、憲司はする、と冬湖の髪を撫《な》でる。
「ごめんって。俺が悪かった」
冬湖は返事をせず、けれどその手を払いのけることもせず、並んで歩いた。
――ハ? オマエ――
不意に、耳の奥で音がする。心臓を何かに掴まれたように、冬湖は足を止めた。
――ホシイモノハ ナンダ?――
「トーコ? どうした?」
気づいて、憲司が冬湖をふり返る。
「憲兄ちゃんは、お姉ちゃんが好きなの?」
抑揚《よくよう》のない声で、冬湖は尋《たず》ねた。
「ああ? 何だいきなり?」
「憲兄ちゃんは、お姉ちゃんが欲しいの?」
たたみかけるように問いを重ねられ、憲司はあっけにとられる。まばたきを忘れた冬湖の瞳が、憲司をまっすぐに見上げもう一度尋ねた。
「お兄ちゃんと結婚する人なのに、お姉ちゃんが好きなの? お兄ちゃんのものなのに、憲兄ちゃんはお姉ちゃんが欲しいの?」
憲司は軽く息を呑んで、唇を結ぶ。どう言おうか思いあぐねるように目を空に浮かせ、それから一つため息をついた。
「なんでそんなことを訊《き》く?」
「だって、おかしいもの。携帯《けいたい》電話で連絡《れんらく》とりあって、二人で海に行ったり荷物の整理を一緒にしたり。みんなが変だって言ってる」
意気込んで、冬湖は強い口調で心にあるものをはき出す。
「みんな? 誰だよそれは」
「村のおばさんたちとか、他の鈴野の分家とか。本家の近所でも聞いたし、あたしの友だちだって二人が岬《みさき》で一緒にいるのを見たって言ってた。『冬湖のお姉さんって、本家の憲司さんと結婚するんだったっけ』って」
「お前ね、まだ子供のくせに、そんなおばはん連中の話に顔突っ込んで、耳年増みたいなこと言ってるんじゃないって」
憲司は呆れたように笑って、冬湖の頭をぽんぽんと叩《たた》いた。いかにも子供相手といった仕草に、冬湖はかっとなって手を払いのける。
「あたし、もう十七歳よ。子供なんかじゃない! いつまでもハルと一緒にしないでっ」
一瞬、ひどく驚いたような顔になり、それから憲司はついっと目をそらした。
「子供じゃない、ね」
くしゃくしゃっと髪を引っ掻《か》き、緩《ゆる》く唇に笑みを描《えが》く。
「じゃあ、大人《おとな》だっていうトーコには、大人の対応をしないといけないかな」
冬湖を真正面に見る明るい瞳の中に、そう告げた唇の中に、どこか嘲《あざけ》るような色を感じて、胸を、錐《きり》で突かれたような痛みが走った。
「憲兄……」
「どうしてそれを、お前に答えなきゃならないんだ?」
らしくない、醒《さ》めた声が尋ねた。否、尋ねるのではなく、斬《き》り捨てる言菓だ、これは。
「俺がナツをどう思ってるかなんてのは、俺とナツの問題だ。兄貴にでも言われるならともかく、お前には何の関係もない。俺たちのことに口出しする権利なんて、ないよトーコには」
かあっと、頬《ほお》が熱くなった。同時に、心が冷たく凍《こご》える。違うと反論したくて、関係はあると言いたくて、けれど何も言えずに冬湖は唇を噛《か》む。
「大人なら、それっくらいのことはわかっていてほしいな。了解《りょうかい》?」
返事は聞かずに、憲司は先に立って歩きだした。冬湖は固く唇を結び、洞穴まで無言でついていった。
「ああ、本当にしめ縄がおっこちてるなあ。四手《しで》がちぎれてる」
洞穴の前まできた憲司は。納得したみたいに頷いた。
「トーコ、お前よっぽど怖かったんだな。ものの見事に放り出してある」
冬湖は彼の示した場所を見て、のろのろと歩を進める。足が滑って転んだ部分の草がつぶれ、少しへこんだ跡《あと》が残っているのが目に入った。榊は白い榊立てから飛びだし、折敷に乗せていた平瓮《ひらか》も水玉もひっくり返って中身か零《こぼ》れていた。
不思議なことに、さっきはあんなにも大きかった不安と恐怖が、きれいに消えている。しめ縄のない扉を見ても、怖いとはまったく感じなかった。
「昨日までの雨で、外れちまったか」
水と榊とを整え直した祭壇において柏手《かしわで》を打ち、憲司はしめ縄を確認した。それから、扉の蝶番《ちょうつがい》と閂とを調べて回る。
「別に扉は壊れちゃいないし、閂もちゃんとはまっていて開きそうにもないんだけど。トーコは本当に開くのを見たのか? 蛇ってどこからでてきた?」
冬湖は自信なさそうに視線を外した。
「開いた、そのすき間からぬうって這ってきたんだけど。気のせいだったのかも」
組んだ両手が、小さく震える。
「ごめん、憲兄ちゃん。こんなとこまで来させて。お姉ちゃんと一緒に行ってもらえばよかった」
「俺が好きで来たんで、トーコが謝ることじゃないだろ」
憲司は少しの間冬湖を見つめ、ボストンバッグの中からキーホルダーを取りだした。四本の鍵《かぎ》の中に、古びて錆《さび》の入った一本を見つけて、冬湖は目を見張る。
「それ」
「ここの鍵。一応俺も本家の直系なんでね、兄貴と一緒にもらってるんだ」
憲司はその赤茶けた一本を手に取ると、洞穴の扉にかけられた閂を左手で持ちあげた。
「あ、開けるの?」
「中に蛇がいないか、確かめるだけだよ」
「黙ってやっちゃ、だめだよ。大伯父《おおおじ》さんに、言わないと」
「それなら、こんな風に鍵を持たせてくれたりはしないさ。大丈夫《だいじょうぶ》だいじょうぶ、中の様子をちょっと見るだけだから」
憲司の手元で、かちりと金属のはまる音がした。閂が、外れる。
「これで祠がひっくり返ってたりご神体を納めた筐《はこ》が壊れてたりしたら、怖いだろうなー。トーコの見た蛇みたいなのが、大量にとぐろ巻いてたりして」
おもしろがっているように目を細めて笑った。冬湖は自分の心臓が早打ちをし、体中がざわめくのを知る。
「来るか?」
ふり向いた憲司に、ふるふると首を左右に振った。脈を打つ音が、どんどん強くなってゆく。
「そうか。じゃあちょっと、見てくるな」
「憲兄……っ」
――ホシイモノハ ナンダ?――
脳裏に響《ひび》く音が、冬湖の唇を凍らせた。
「うん? どうした」
「な、なんでもない。気を、つけてね」
憲司は軽く頷いて、少し腰をかがめ洞穴の中に入ってゆく。冬湖は息を詰《つ》めて、彼の背中を見つめた。扉が閉じて、しんとあたりが静まりかえる。
コクリと、冬湖は喉を鳴らした。
2
「おはよう、お姉ちゃん」
洗面所からパジャマのままで台所に入ってゆくと、とうに洋服に清替えた夏実が朝食を摂《と》っていた。
「おはよう」
視線をちらりと持ちあげて、夏実は挨拶を返す。普段《ふだん》はおっとりとしているのに、今朝の姉はなんとなく落ち着かず、いらいらしているように見える。台所に立っているはずの母の姿はなく、冬湖はコーヒーを温めに向かいながら尋ねた。
「お母さんは?」
「榊の枝をとりに、裏庭に出てるわ」
ふと見れば、テーブルに神饌が準備され、榊立てがおいてある。
「お姉ちゃんが行くんでしょ?」
「出かける前に行ってきてって、言われたわ」
コーヒーを一口すすって、夏実は冬湖を上目に見た。冬湖は黙ってガスを点火する。
「ねえ、冬湖。あなた、このあいだ憲司に何か話した?」
背中からぽつ、と、問いかけられた。冬湖は顔だけを姉に向ける。
「話って、何を?」
「私のことで、何か言ったんじゃないって訊いてるの」
「お姉ちゃんのこと? どうして」
ぴりっと、電気が触《ふ》れたみたいに夏実は身を震わせた。苛立《いらだ》ちを抑《おさ》えるように、ぎゅっと髪をかき上げる。
「連絡が、とれないのよ。下宿に戻ったら電話を入れるって言ってたのに。何度こっちからかけても留守電にいくばかりで、メールもこないし」
そこまで言って、口をつぐんだ。冬湖はコーヒーが沸騰《ふっとう》しているのに気づいて、慌ててガスを消す。
「少しだけ話したよ。村のみんなが二人のこと気にしてて、噂になってるって」
屹《きつ》と、夏実は顔を上げた。
「憲兄ちゃん、それは自分とお姉ちゃんの問題だから、あたしには関係ないって」
抑揚のない声で、冬湖は言った。夏実の表情から怒りの色が消える。
「お姉ちゃんは、お兄ちゃんと結婚するんじゃないの」
コーヒーを注いだカップを手に、冬湖は夏実の向かい側に腰を下ろした。断罪するようなまなざしを、夏実はまっすぐに見る。
「元々は、十五年も前に家同士が勝手に交《か》わした約束だわ」
「三年前に正式に申し込みがあったじゃない。今年の九月に結納、来年の三月には結婚って、決まってる」
「そうみたいね、本家とうちは」
「お兄ちゃんも、でしょう」
「さあ? わたしは何も聞いていないわね。冬湖は知らないかもしれないけど、明仁は総領だから、家の言うことならなんでもはいはいってきくのよ」
自嘲《じちょう》めいた笑みが、淡《あわ》いピンクを差した唇に浮かぶのを、冬湖は見る。
「今日、京都へ行くわ。憲司に会ってくる」
「お姉ちゃんっ!?」
仰天《ぎょうてん》して、冬湖は叫んだ。
「お供えの後そのまま港に向かうから。説明は、後で電話でするわ。もし訊かれたら、友だちのうちにいって夕飯いらないってだけ言っておいて。父さんも母さんも明日からの旅行でばたばたしてるから、わたしが電話入れるまで気づかないって思うけど」
あっさりと言う夏実に、冬湖は感情のたがが、外れる音を聞く。
「なんで?」
自分の声が、まるでどこか違うところから響くような気がした。
「なんで? お姉ちゃん。何しにいくの」
思いもかけない剣幕に、夏実は瞬間呆然とし、次の瞬間にはきっと冬湖を睨みつける。
「冬湖には関係ないわ」
「だって、お姉ちゃんにはお兄ちゃんがいるのにっ。結婚の約束までしてるのに、なんで憲兄ちゃんに会うのっ。なんのために? どうして」
「さっきから言ってるでしょう、明仁とわたしは親同士が決めただけだって」
「だったら、やめてからにすれば! 憲兄ちゃんがいいなら、お兄ちゃんはいなくたっていいじゃない。そうしちゃってよ! お姉ちゃんずるいっ、お兄ちゃんがいるのに、お兄ちゃんを捕《つか》まえたまま憲兄ちゃんも欲しがって!」
「うるさいわね! 子供に何がわかるのよっ」
ばんと、夏実はテーブルを叩いた。すさまじい音に、ぴんと空気が張りつめる。
「わかんない、わよ。二人とも欲しがるお姉ちゃんの気持ちなんて、わかるわけないじゃない。あたしだったらおに…っ」
叫びかけ、我に返って冬湖は口をつぐんだ。何を言った、今。
夏実の唇に、緩やかに笑みが浮かぶ。
「そう、か。冬湖は、明仁が欲しいのね」
血の気が失せる音が聞こえた。夏実はにっこりと笑って手をのばし、冬湖の青ざめた頬《ほお》を撫でる。
「明仁の手を離せって、そうすれば結納はご破算になるから、冬湖のものにって……」
言いさして、はっと夏実は息を詰めた。冬湖の大きな瞳から流れるものが指を濡《ぬ》らし、傷ついたように目をそらす。
「……バカなこと言ったわ。ごめん」
手を離し彼女は拳《こぶし》を握りしめた。
「夏実、榊持ってきたわよ。食事は終わったの?」
勝手口が開いて、手に榊の小枝を持った千景が入ってくる。
「今終わったところ」
夏実は冬湖の横を通り過ぎて、勝手口へと足を運ぶ。
「じゃあ、早速《さっそく》行ってきてくれるかしら」
「その前に、髪だけ整えさせて。あんまりくしゃくしゃだと、失礼だろうから」
彼女は軽く指で髪をすいて、台所を出ていった。冬湖はゆっくりと息を吐く。
「お姉ちゃんなんて、嫌い」
ぱた、と。涙《なみだ》がテーブルに落ちた。
* *
がらがらっと勢いよく引き戸の開いた音に、冬湖は眠《ねむ》りから呼び覚まされる。いつのまに寝入っていたのか、机の上で突《つ》っ伏《ぷ》していたようだ。もうすぐ、夜になる。
「おー帰ったぞー。誰もおらんのかー」
父の低いだみ声に、まだ半分もうろうとしたままエアコンを切り、玄関《げんかん》まで迎えにでた。
父|政一《セイイチ》は、泥に汚《よご》れた作業|靴《くつ》を脱《ぬ》いで、うちに上がる。助役を務めていたときは、シルバーグレーの髪をぴたりと整えたスーツの似合う父親だったが、畑仕事と囲碁《いご》にいそしむだけになってからは、よれたシャツとだぶだぶの作業ズボンにあっというまに馴染《なじ》んでしまい、今ではすっかり田舎《いなか》のおっさんに成り下がっていた。
「おかえり、お父さん」
「おう、冬湖か。なんだお前、額を赤くして。昼間も寝てたくせに、また眠ってたのか?」
「ん……そうみたい。なんだか今日やたら眠くて、気がつくと寝ちやってる」
あきれ顔の政一に、冬湖は目を擦《こす》りながら頷く。いい若いもんがと一言いいおいて、彼は洗面所に入っていった。
「母さんは、どうした? 夏実も。買い物か?」
「お姉ちゃんは、友だちのとこでごはん食べてくるって」
そう言えば、電話はきたのかな。
姉に言われた言い訳を口にしながら、冬湖はぼんやりと思う。そうかと言う声がしてすぐに水を出す音が聞こえ、ばしゃばしゃと顔を洗う音がした。台所に入ると、炊飯器《すいはんき》が仕事をしている以外は何の用意もしていないのが目に入る。
「あれ……お母さんいない」
「なんだ。冬湖も母さんがどこに行ったか知らんのか」
冬湖の後ろから、首にタオルを巻いた政一が入ってきた。
「え……っと」
「旅行用品の買い忘れでもあったか?」
「それはないって思う。お昼のうちに全部|揃《そろ》ったって言ってたから。あ、祭壇にあげたものを下げてくるって、出かけたのは覚えてる」
思い出して、冬湖の声は少し高くなる。
「祠か。何時頃だ?」
「えと……四時すぎくらい」
政一は白いものの混じった太い眉を、困惑《こんわく》げにひそめた。言ってから、冬湖も気づいて眉を寄せる。往復で三十分程度だというのに、もう一時間半以上すぎていた。
「ちょっと見てくるか。途中で具合を悪くしたのかもしれん」
首のタオルを外して握りしめ、政一はきびすを返す。
「あた……あたしも行く、お父さん」
冬湖は強い口調で、叫んだ。
「冬湖が? いや、お前は……」
「だ、だって。お母さんが動けなかったら、二人で運ぶか、一人は看ていて一人が助けを呼びに行く方がいいもの」
「ああ、確かにそうだな。うむ」
政一はなるほどと言うように頷いて、冬湖の頭を撫でた。
「じゃあ、一緒に行くか」
奥の寝室《しんしつ》から鍵の束と懐中《かいちゅう》電灯を手にして、彼は玄関へと戻る。冬湖はその後についていき、祠への山道を歩いた。
夜がすぐそこまできている空気は、日中とはうってかわって涼《すず》しい。その冷めた空気の下を、二人は歩いた。
黄昏《たそがれ》のすべてが曖昧《あいまい》で現実味を失う空気の中を歩いているうちに、冬湖は自分が、誰かの夢の中にいるような感覚に陥《おちい》る。
どこへ向い、何を目的にしているのか。ともすれば見失いそうになる。
ここを歩くのは昨日から何度目だろうと、思った。
榊と水を持っていって、一度。憲司と二人で、二度目。それから―――
「夢で、二回も行ったなあ」
思い出して、冬湖は苦笑いした。父が帰ってきて起こされる前も、そう言えばこの道を歩いて祠に向かっている夢を見ていた。
一度目は姉の後ろを追いかけていって、二度目は母の隣を。だんだん、この道を歩くのが怖くなくなって、それどころか何となく心が沸《わ》き立っていた。葉陰《はかげ》から射《さ》す日の光が強くて、セミの鳴き声がうるさくて、「無理しないで帰っていいのよ、怖いんでしょ」と笑顔で言われた。
やけにリアルな夢。そのくせ妙《みょう》に足元がおぼつかない、ふわふわとした夢だった。
夢の中では、憲司が直していってくれたしめ縄が地面に放ったらかしにされ、扉の閂が外れたままだった。それを見た自分は足がすくんで動けなくなり、姉は、母は、中を見に行って……
必死に足を動かそうとしているところで、目が覚めた。一度目は昼食ができたことを知らせる声で、二度目は畑から帰ってきた父の声で。
もしあそこで目が覚めなかったら、自分はどうしていたんだろう。洞穴に入って、そこで何を見ることになっただろう。
「おらんなあ……」
ぼやくように呟く政一の声に、冬湖は我に返る。気がつけば、遅《おく》れ気味になっていた。
「冬湖、大丈夫か? はぐれるなよ」
「わかってる」
後ろをふり返って呼ぶ父に大きな声で応《こた》えて、冬湖は小走りに彼の方へと駆《か》ける。もうすぐ追いつくと思ったときに、政一は電気でも走ったかのようにびくんとして、その場で硬直《こうちょく》した。
「お父さん、どうしたの?」
「なっ……なぜっ……」
その声音《こわね》に、冬湖の心臓がどくんと高鳴る。ざわざわと背筋が寒くなり、身体中の毛穴が開くような感覚に襲われた。
「だれが……こんな」
「お父、さん?」
尋ねる声が震えるのを、止められない。政一は驚愕《きょうがく》に目を見開いたまま、まばたきを忘れて洞穴を凝視《ぎょうし》していた。
「ばかな、あり得んっ」
黒い、闇《やみ》が。開ききった扉の向こうに在る。まっ暗な空間が、外界に晒《さら》されていた。
夢と同じ光景が、目の前に現実としてある。
全身に震えが走り、冬湖はその場に凍り付いた。わけのわからない感情が、どこか遠い場所から湧《わ》き上がって身体を押し包む。
息ができなくなるような圧迫《あっぱく》感に、めまいがした。扉が、ぎいと……音を立てて動く。
ざわっ―――
「母さん!」
「お父さんっ!?」
政一は弾《はじ》かれたように駆けだし、洞穴の中へと向かった。冬湖の身体も、呪縛《じゅばく》から解かれて前へと突き動かされる。
「う、あ、わああああ!」
くぐもった悲鳴が耳を打った。動けと念じた足が、冬湖を扉の奥へと導く。
「お父さ……っ!」
闇に浮かぶ無数の赤い、口が。
冬湖ににたりと笑いかける―――
3
「いやああああっ!」
のばした手が、空を掴んだ。汗だくになった自分が、上体を起こしているのに気づく。明るい日射し、見慣れた部屋、自分のベッド。
「あれ? 夢?」
激しく肩を上下させ心臓をばくばく言わせて、冬湖は己の手を見る。
「夢、だったんだ」
ほう、と、息をついた。寝汗をかいて、身体がべたべたしている。頭がくらくらして、身体がやけに重く感じられる。
冬湖は首筋をもみながら起きあがり、シャワーを浴びた。まったく、なんて夢を見るのだろうと思う。それも二度も三度もくり返すなんて、とんでもない安眠《あんみん》妨害だ。
おかげで、どこまでが夢でどこからが現実なのか、自分でもいまいちわかっていないような気がしてきた。
「ハルは合宿で来週金曜日まで青少年センター、父さんと母さんは結婚三十周年記念旅行で七|泊《はく》八日の北海道、姉さんは多分……憲兄ちゃんの下宿先ね。いつ帰ってくるつもりなんだろ。電話って、きたんだっけ」
確認をするように、一つ一つ指を折って唱え、彼女は服を着替えた。トーストに目玉焼きとサラダを添《そ》えて朝食にし、自転車で買い物に出る。かなり寝坊《ねぼう》をしたらしく、日はすっかり高くなっていた。
むっと押し包むような空気を裂いて、坂道をまっすぐにおりる。その先に定期船の発着場があり、半分観光客目当てのショッピングセンターがあった。
買い物をすませて店をでると、ちょうど船が到着《とうちゃく》したらしい。人がざわざわと出入りしていた。夏休み中は、ちょこちょことダイビングやイルカウォッチングの客がやってくる。家族連れが数組といかにもマリンスポーツ好きそうなカップルやグループが、旗を手にした民宿の出迎えを受けていた。
そんな光景を横目にして、冬湖は来た道を戻る。緩やかな上り坂が家まで続くこの道は、けっこうな運動だった。
力強くペダルを踏む動きが緩んだのは、まだ五分も経《た》たないうちだった。前方に、きょろきょろとあたりを見回している少年に気づき、冬湖は首を傾げる。この暑い最中に黒の学生服を着て、一人で。観光客にしては妙な感じがする。誰だろう、どこかの親戚の子かなと思った刹那。
ぞくりと、背筋を悪寒《おかん》が走った。全身が総毛立ち、ハンドルを切って逃げ出したい衝動《しょうどう》に駆られた。
どくんどくんと脈が早打ちをする。身体の芯から震えが上がり、ハンドルを握ることさえおぼつかない。
キケン!
すさまじい音が、耳を塞《ふさ》ぐ。
アレハ キケン チカヅクナ――!
何かに命じられたように、震えていた両手が自転車にブレーキをかけ。
少年が、向きを変えて冬湖を見た。黒い、闇の色そのものを映したような瞳が、一瞬驚いたように見開かれる。
キケン!
目があった瞬間にびりっと、痺《しび》れたように身体が動かなくなった。自転車を止めて左足を地面についたまま、彼女は息を詰めて少年が自分の方へ近づいてくるのを見つめる。
「……ぁ……」、
「うわーあなた、すげえな」
手をのばして、少年は冬湖の、ハンドルを握る手首を掴む。
「やっぱそうだ。むちゃくちゃ深いところでつながっちゃってる」
もう一方の手が、こめかみのそば、右の目尻《めじり》近くを指でなぞった。電気が走ったような痛みが、触れられた場所から頭の奥へと突き抜ける。
「な……なに……」
「うーんどっぷりだなこりゃ。その上自覚ないかー、しゃーねーなー」
少年は顔に触れていた手を離して、髪をくしゃくしゃっとかき回した。
「あなたね、一度島の外に十日間くらい行ってこないとだめだよ。あなたって感受性強すぎて、モロあれの影響《えいきょう》受けてる。これじゃあおれが断ちきっても、ここに居っぱなしだと壊れちゃう可能性が高い」
「え? え……」
「今でぎりぎりって感じだよな。できたらそっこーで島を離れるべきなんだけど……もう自分じゃ切り離せないとこまできちゃってるよなあ」
仕方なさそうに、ため息をつく。
「ね、これ以上はだめだよ。あなた帰ってこれなくなる。そうなりたい?」
手首を引かれ、冬湖は少年の顔を間近に見た。恐怖が、彼女を支配する。
「いっいやっ! 放して!!」
手を払いのけ、冬湖は叫んだ。そのまま、力いっぱいペダルを踏んで、上《のぼ》り坂を上がる。
「いい? やめるんだ。自分の意志で、こらえて。そうしないと、保証できない」
少年の言葉を背中で払い落して、冬湖は自転車をこいだ。
怖い!
目を閉じても、払いのけようとしても、あの瞳が追いかけてくるような気がした。祠の前で見た蛇の幻よりも、ずっと怖い。いけないものだ、あれは。あれこそが悪いものだ。
そう、本能が告げる。
家につくと、自転車を玄関の前においたまま、冬湖は中に駆け込んだ。
「お母さん! お母さ……っ」
叫ぶ声がしんとした廊下《ろうか》に響き、家には誰もいないことを思いだす。
「そっか。みんな出かけてるんだ」
涙が込み上げそうになって、袖口《そでぐち》でぬぐった。一度外に戻り、生鮮《せいせん》食料品を冷蔵庫に納めてから、居間に入る。不安が背中から覆《おお》い被《かぶ》さってきて、冬湖はぎゅっと両手で自身を抱《だ》きしめた。
耳に残る声、射抜くような強い瞳、意味のわからない言葉。触れてきた指は、氷のように冷たく感じた。
「あの子、なに。なんであたしに……っ」
ふっと、開けた瞳に電話機の留守電が点滅《てんめつ》しているのが映った。お姉ちゃん?
再生スイッチを押した耳は、だが、思いもかけなかった用件を聞く。
――咋日おいでとのご予約を伺《うかが》い、お待ち申し上げておりましたのですが――
「え……」
――早急《さっきゅう》にご連絡をいただきたく――
北海道の旅館に、両親が着いていないという電話だった。昨日の夜から二度、電話が入っている。
「どうして」
連絡先を見ようと隣の寝室へのふすまを開いた冬湖は、唖然《あぜん》となった。部屋のすみに、旅行に持っていったはずのバッグがきちんと置いたままになっている。その横に、旅程表と連絡先一覧とが、おかれてあった。
「なに、これ。お父さんもお母さんも、どこ行っちゃったのよっ」
寝室を飛びだして、電話の受話器をとった。姉の携帯電話の番号を打ちだし、待つが。
応えたのは、合成音だった。
「やだ……なに。なんでこんな……っ」
受話器を抱《かか》えたまま、うずくまる。そうして、どれだけの時間が過ぎたか。
「旅館に連絡して、キャンセルしなきゃ」
髪をかき上げて、冬湖は受話器を見下ろした。留守電をもう一度聞き、電話番号を書き留めて外線スイッチを押そうとする。が。
高い呼び出し音が鳴り響き、電話がかかってきたことを器機は教えた。
一瞬ためらい、冬湖は受話器を取る。
「は、い。鈴野ですが」
「トーコちゃん?」
鈴野明仁の、テノールに近い声が耳元に甘《あま》く響いた。
* *
本家の玄関を一歩入ったとたんに、冬湖の全身が総毛立った。身体が固く、動かない。
いけない、と、悲鳴に似た声が、ガンガンと頭の中に響く。
「トーコちゃん? どうした?」
後ろから明仁に肩を叩かれて、身体が動くようになった。上品な顔立ちに、暖かな瞳。何でもできて優《やさ》しくて、冬湖をいつも待っていてくれたお兄ちゃんが、心配そうに覗き込んでくる。
「車に酔《よ》った? 顔色がよくない」
「な……なんでも、ないわ」
ことさら明るく笑って、冬湖は玄関に入った。きちんと並べられた靴の中に、見慣れないスニーカーと靴を見つける。
「お客さんがきてるの?」
「ああ。冬湖に来てもらったのは、彼の案内を頼みたいからなんだ。狩人《かりうど》って名の術師。マモリさまの神事のために、来てもらった人でね」
手のひらと背中を、冷たい汗が流れた。警告が、どんどん強くなる。
「なんて言うと、大概《たいがい》すごい神主さんとかを想像するんだけど。その人は冬湖と同じくらいの年で、会うと正直|拍子《ひょうし》抜けするよ」
そう言って微笑《ほほえ》みながら、明仁はどこか心ここにあらずといった風情《ふぜい》だった。冬湖はそれを見ないふりをして、玄関を上がる。
案内を受けて座敷《ざしき》に入ると、中では統領である鈴野毅彦が端《はし》に座り、左手に次代となる明仁たちの父、そして向かい側に客人が座って彼女を待っていた。
「おう、よう来たな冬湖。ここに座り」
冬湖の目は、鈴野の統領ではなく客人である狩人の少年に釘《くぎ》付けになった。
ばさっとした感じの短い髪、ひどく印象的な強い瞳、薄い唇。好奇心旺盛《こうきしんおうせい》そうな、そのくせどことなく投げやりな感じのある、奇妙にアンバランスな雰囲気《ふんいき》の持ち主は。
上り坂で、冬湖が出会ったその人だった。
「明仁から話は聞いたか? こちらが祠での神事を司《つかさど》ってくださる術師で、|香ノ倉悠惟《カノクラユウイ》さんとおっしゃる」
「こんちは、鈴野……冬湖さん?」
香ノ倉悠惟と名乗った少年は、少し首を傾げて冬湖にほほえみかけた。先に話しかけてきたのとは、雰囲気が違う。
「本来なら政一の任なのだが前もって話せなかったら、旅行に出てしまった。聞けば数日はお前一人とか。すまんが明日、冬湖に祠までの案内を頼みたい」
統領は重々しい声で、冬湖に告げた。
「あ、あの。あたしは……」
「案内してくれるだけでいいんだ。後はおれがやることなんで、帰ってもらってオッケー」
返事を逡巡《しゅんじゅん》する冬湖に、横から少年が口を出してくる。
「……わかりました」
冬湖は観念して、頷いた。警報は、先よりいっそう強く頭の中で鳴り響く。
「うむ。では今日は、ここに泊《と》まっていくようにな。明日の朝、明仁に車を出させよう」
「ありがと、お願いします」
少年は嬉《うれ》しそうに頭を下げた。
* *
居待ちの月が、高い位置で輝《かがや》く。広い離れの縁側に座って、冬湖は空を眺めていた。不安と心配と恐怖が、彼女を眠らせてくれない。
あの少年に会ってからずっと、心臓が苦しいくらいに脈が速くなっていた。気が高ぶって、思考がまとまらない。ただ一つわかるのは、彼がひどく危険な存在だということだけだった。何とかしなくては。そう言い続ける声が、自分の中にある。他にも何か大事なことがあったような気がするが、それは思い出せなかった。
何だったろう。とても重要だった気がする。
「ともかく横になっておこう。眠れば思い出すかもしれないし、考えても仕方ない」
自分に言い聞かせて、彼女は立ち上がった。障子戸を開けて、中に入る。が。
「トーコ……」
閉じたふすまの向こうから、ごく小さく声をかける者がいた。
「お兄ちゃん?」
ふすまを開くと、予想通り明仁がいた。柔らかに笑う瞳が、今は気後《きおく》れしたように怯《おび》えを見せている。少し痩せた?
「聞きたいことがあるんだ。少しいいかい?」
冬湖は頷き、明仁を中に招き入れる。明仁はありがとうと言って、中に入ってきた。
「ナツ……のことなんだけど」
座るよう勧《すす》めた冬湖に、首を横に振って明仁は切りだす。
「外に行ってるって……憲司のところか?」
「どうして?」
「……ナツにも、憲司にも連絡が取れない。携帯は留守電になるし、返信もないし、下宿先に連絡したら留守だって言われた。二人で……どこかへ行ったんじゃないか? 鈴野の家と俺から離れたくて、行ってしまったんじゃないか? トーコは、聞いてないか?」
静かに淡々《たんたん》と言葉を重ね、彼は冬湖に目を向けた。それがいっそう、内にある感情の強さを感じさせる。
冬湖は左右に、首をふった。
「あたし、何も聞いてない」
「そうか」
自嘲とも苦笑ともつかない笑みを唇に刻み、明仁は目をそらす。
「俺にもうちにも言えなくても、トーコには話してるような気がしたんだ。もしそうだったら……そんなことする必要はないと、俺がじいさんたちに話をつけるから一度戻れって、伝えてもらうつもりだったんだが」
冬湖は二度、まばたきをした。
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんと結婚するんじゃないの?」
「俺はそうしたかったんだけどね」
「なのに、やめちゃうの? 憲兄ちゃんがいるから?」
「ナツの心が俺にないから。ナツは俺が申し込みしたのを、ずっと白紙にしたがってた」
「お姉ちゃんが?」
「そう。俺は返事しなかったけど」
明仁は小さく、ため息をつく。
「さっさと諦《あきら》めてオッケーすればよかった。こんな風に、追いつめるよりずっと……」
ありがとうと言って、彼は冬湖から離れた。突き上げる思いに、冬湖は胸を掴む。
「お兄ちゃんっ。あたしはっ」
閉じかけたふすまの動きが止まり、明仁は冬湖をふり返った。
「あたしは、お兄ちゃんが好き」
少しだけ目を見開き、それが穏《おだ》やかな笑顔へと移ってゆく。
「俺も好きだよ」
閉じたふすまが、揺らいで見えた。喉の奥から嗚咽《おえつ》が込み上げて、彼女は畳《たたみ》につっぷす。
――ホシイモノハ ナンダ?――
「お兄ちゃん」
脳裏にくり返される問いに、喘《あえ》ぐように冬湖は答えた。
4
本家から車で四十分余、神具を用意するために、三人は一度冬湖の家に入った。悠惟を座敷に案内した冬湖は、神具の準備の前に茶を淹れて勧める。彼への恐怖を抑えるのに、ひどく苦労した。全部をおいて逃げ出したいと、衝動が湧くのだ。
「若い人むけじゃなくて、悪い……けど。よかったら飲んでください」
「ありがと。おれ、緑茶好きだよ」
少年は軽く頭を下げて、玉露《ぎょくろ》を淹れた有田焼に手をのばした。
「今日って、時間かかるんですか?」
「どうかなー。中の様子|次第《しだい》だね。早ければ三十分くらいで終わると思うよ」
茶碗《ちゃわん》を両手に包むようにもって、悠惟は口許《くちもと》へと運ぶ。
「扉、開けるんですね」
「そうしないと、祠に触れないでしょ?」
玉露をすすり、こくりと呑み込んだ。
「神具を準備してきます」
もう一度喉が鳴るのを見て取ってから、冬湖は席を立つ。
「ねえ、冬湖さん」
身体半分を部屋の外にだしたところで、悠惟は彼女に声をかけた。
「おれの言うこときいてよ。これ以上は、だめ。今なら戻れるからね」
冬湖は返事はせずに頭を下げて、外に向かう。彼が何を言ってるのか、なぜあんな強いまなざしで見られるのかわからなかった。
倉庫を開けて中に入り、息をつく。薄暗くほこりっぽい空気に、ようやくほっとして心が落ち着いた。
「ともかく、早くやっちゃってさっさと終わろう」
冬湖は左手の棚《たな》に納められた三つの桐《きり》の箱を抱え、外へ出た。ガレージに車を止めてきた明仁が、こちらにやってくる。
「神具は見つかった?」
「大丈夫、全部揃ってる」
神具の箱を持とうと、彼は手を差しだしてきた。冬湖は両手に抱えた箱を渡さずに、明仁を見上げる。
これ以上は、だめ―――
さっきの少年の声が、脳裏をかすめた。
「トーコ? どうした?」
訝《いぶか》しげに覗き込む明仁と目があって、現実に引き戻される。
―――タラ オマエノホシイモノヲヤロウ―――
冬湖はこくりと、唾《つば》を飲み込んだ。
「あのね、お兄ちゃん―――」
彼女は姉と両親がいなくなったことを伝えた。三人とも、祠に向かったのを最後に、姿を見ていないのだと。
「さっきまで、思い出せなかったんだけど。多分、そうだと思う。あたし―――」
明仁は無言できびすを返す。
「お兄ちゃんっ!?」
冬湖の声を聞かず、彼は外へと飛びだしていった。裏門から一直線に、祠へ続く道へと入ってゆくのがわかる。
「どうしよう……」
後を追うべきかと一歩外へ向かいかけ、狩人の少年が待っていることを思い起こした。
「話して、一緒に行った方がいい、かな」
冬湖は手の中の箱を抱え直し、急ぎ足で座敷に戻った。相変わらず不安と恐怖が胸を襲ったが、それをこらえて声をかける。返事はなく、ふすまを開くと卓《たく》に突っ伏すようにして悠惟が倒《たお》れていた。そばに、空になった茶碗が転がっている。
「あなたっ……?」
ざわめく心を抑《おさ》えて、冬湖は少年のそばに膝《ひざ》をついた。逃げだしたいという思いが先に立つが、強《し》いてそれを抑えこんで少年を抱き留め仰向《あおむ》かせる。
「香ノ倉さん……香ノ倉悠惟さん?」
青い肌《はだ》、細い息、閉じたまぶた。身体は無防備に冬湖の腕の中にあり、どこに触れても何をしても反応はない。
「どう……」
冬湖はそっと彼を畳に横に寝かせ、立ち上がった。医者を呼ぶか、本家に連絡するか迷って、どちらもせずにつっかけをはいて祠へと向かう。明仁が行った場所へ。
濃《こ》い緑の中を、冬湖は小走りに駆けた。奇妙に沸き立つ心、シャワーのように降り注ぐセミの声が遠い。息を弾ませて、突き当たりを右に折れた。左側に洞穴が、しめ縄を落したままの姿を見せる。
息をつき、冬湖は開きっぱなしになっている扉に、薄く微笑みを向けた。
「ふーん、ここか。いるねー確かに」
真後ろで、明るい声がした。びくんとして、冬湖はふり返る。
「あ、なた……っ」
「やめとけって、言ったのに。おかげで保証できないよ?」
悠惟は少し首を傾げ気味にして、言った。
「どうして」
「あれっくらいの毒は、効かないからおれ。惜《お》しかったね」
「毒?」
「ああ、そっか。まだ自覚ないんだ、あなたが全部仕組んで、餌《えさ》を次々に妖《あやし》の元に運んでやってたことも、おれを殺そうとして毒をお茶に入れたことも」
「な、に……何を言ってるのあなた」
「えー? 思い出してみなよ。自分の行動を。いつ何をやったか。最初にこの場所で妖と会ってからさ」
軽く、自身を抱くように腕を組む。
キケン コロセ!―――
冬湖は声に打たれたように跳ねて、少年に飛びかかるが。
「来い。獲物《えもの》だ」
「きゃあああ!」
冬湖の腕が少年を捕《と》らえる前に、光が彼女の視界を奪い、両腕に凄まじい衝撃が走った。続けて、背中に。
息が詰まり、冬湖は地面につっぷした。身体中が熱い、額が、燃えるように痛い。
「おれのじゃまをしないで」
かろうじて開いた目に、なんの感情も見せずに彼女を見下ろす少年の姿が映った。前髪の一房だけが、黄金《きん》に色を変えている。真っ黒な服を着た右腕全体を、薄い羽根のように見える膜が覆っていた。その手には、真っ白な、光を束ねたような鞭《むち》がある。
「あ……たし、は……」
「自分がなにをしたか、まだわからない?
生気喰いを放し飼いにしかけて、島一つ滅亡に追い込む手伝いをしたんだよ。呼ばれて、応えて。鈴野が代々封じ続けていた妖を、解放しようとしてる」
「ちがうっ……」
「違わない。あれは動物の生気を喰うもので、あなたはそいつのためにせっせと餌を運んでやってた。それも妖にとっては最高の力となる、鈴野の血を。もう少しで、あいつは自力で封印を断ちきるまでになる」
「ちが……あたし……は」
――ホシイモノハ ナンダ?――
尋ねる声が、耳を覆う。いつ、訊かれた? 何と答えた?
『おにいちゃんが、ほしい』
赤い舌に魅入《みい》られて答えたのは―――
――ナラバ ひとヲ ココニツレテコイ ソウスレバ ノゾミヲカナエテヤロウ――
「あ、あ……」
映像が、切れ切れに脳裏をよぎる。祠の前で、倒れている憲司。その彼に巻き付いた黒い蛇。舌が、ちろちろと眠る彼ののど元を舐《な》める。地面に落ちたキーホルダーを手にした、自分自身の姿。
「あた……し、が」
扉の前にそれを落したのは、誰。見つけた姉に、父を呼ぶよう言われながら、扉が開かれるのも夏実がその中に入ってゆくのも、黙って見ていたのは。悲鳴を聞いて、鍵を取りに行ったのは。
「そう。あなたがやったんだ」
閂の外れた扉の向こうに、父も母も消えた。見ていた、あたしは。見ていて、中に入って、みんなが蛇に取り込まれている姿に、笑っていた。そう、まちがいなく笑っていた。夢じゃない、あれは。夢なんかじゃない。
「お兄ちゃんを……くれる、って。あれが」
「それで。そのお兄ちゃんまで、あいつにくれてやったんだ?」
「え?」
水を浴びせられたように、身体が冷たくなった。
「お兄ちゃんを……あたしが?」
「そう。総領の、鈴野の最高の血を、あなたはあいつに捧《ささ》げたんだよ。覚えてるだろ、ついさっきのことだ」
「あ、あ、あ……」
そうだ。あたしがやったんだ。憲兄ちゃんもお姉ちゃんも、お母さんもお父さんも。
全部を犠牲《ぎせい》にした、約束されたお兄ちゃんまで。
「や、あっ……!」
何かが音を立てて切れ、これまでの記憶《きおく》が一時に冬湖の心を襲った。
「あた……し、が。みんな、を」
「さあ。それはこの後次第だね」
少年はすっと身構え、息を吸った。
「断つよ、あなたとあいつをつないでるもの。それであなたがどうなるかは、保証しないけど。他の人は、助けられる。あなたさえ、あいつを断ち切れれば。まだ、あいつは封印の中にいるから」
少年の両腕が、高く掲《かか》げられる。光の鞭が、いっそう白く輝きを増す。
真っ赤な閃光《せんこう》が、冬湖の目をよぎった。全身を貫《つらぬ》くものに、悲鳴さえ上がらない痛みが突き抜ける。息ができない。
死ぬんだと、思った。当たり前だとも。
濡れて、視界が揺らぐ。その中で、少年が小さく何かを唱えるのが見えた。ふ、と、柔らかに包まれるような感触《かんしょく》がある。
なに……?
答えはなく、少年はそのままきびすを返して洞穴へと向かった。
もう、彼を見て恐怖することはない。彼を怖れたのは自分ではなく、自分とつながっていたマモリさまだったのだと、わかった。
謝りたかった。みんなに。謝ってすむようなことじゃないけれど。
温かい何かが、身体を押し包む。
「ごめん……なさ……」
誰に向けての言葉か、語尾は風に溶けて音にはならなかった。
5
「そう何回も謝られても、俺は全然覚えてないからなー」
個室のベッドに背中を枕《まくら》に預けて座り、憲司は困った顔で髪をかき回す。椅子《いす》に座った冬湖はいっそう縮こまって、うつむいた。
狩人の少年が祠に術を施《ほどこ》していってから六日、洞穴に倒れていた者たちはそれぞれ助けだされ、治療を受けていた。明仁はその日のうちに、冬湖の家族は三日間で日常生活に戻り、最も衰弱《すいじゃく》が激しかった憲司は丸四日間意識不明の上、二週間の入院を申しつけられた。当然、今もベッドに縛《しば》り付けられている。
冬湖は、少年の連絡で駆けつけた本家の大伯父に抱き起こされ、あの場では一番に意識を取り戻した。保証しないと言った少年の言葉とは裏腹に、術による傷も痛みの痕《あと》もなく、彼女は本家の人々と共に洞穴に留め置かれた者の救出にあたった。
そうして今。
憲司への面会を許された彼女は、ひたすら彼に謝り続けている。
「だって……あたし、憲兄ちゃんのこと、死なせるとこ、だった。ほんとに、危なかったって……聞いて」
「そう言われてもさ。マモリさまがやったことをトーコに謝られても、こっちも困るんだよな。元を正せば俺もナツも、トーコの言うことを真剣に聞かなかったのにも、責任はあるわけだろ。最初にじいさまに相談すれば、こんなことにはならなかったんだしな」
憲司はうなだれた彼女の頭に、そっと手をおいた。
「まあ誰も死んでないし、マモリさまも無事封印できたって話だから。もういいだろ。これ以上自分のこと責めるな」
「でも……あたしさえ……」
「いいからやめろって。これ以上うだうだ謝るなら、追いだすぞ」
冬湖は口をつぐみ、少しだけ顔を上げる。憲司はしょうがないなあというように、苦笑いを浮かべた。
「俺より、トーコはどうなんだ? けがとかないのか?」
「あたしは、何とも。大伯父さんの話だと、術師の男の子が癒《いや》しの術を使ったんだろうって。普通《ふつう》は、強い妖に取り込まれて操《あやつ》られてたら、シンクロしてあれが封じられたときに一緒に心が壊れるものだからって」
「ヘー、なんかかっこいいな。まだガキだって話だっけ、そいつ」
「うん。あたしより、まだ一つか二つ下くらい」
冬湖が気がついたときにはもう、大伯父への挨拶をすませ港へ向かったという少年を、思い起こす。手にした光の鞭は、なんだったのか。冷ややかに見つめ、平然と鞭を振《ふる》い、なのに、柔らかに包まれる夢を見せてくれた。
不思議な、そして印象的な少年。
封じたと毅彦《タケヒコ》大伯父は言ったが、彼はマモリさまを、封じたのではなく狩《か》っていった。なぜなら、これまで冬湖がずっとあの祠の洞穴に対して感じていた嫌悪《けんお》感を、今はほんの少しも感じなくなっている。マモリさまの気配そのものが、消えていた。あそこには、もう何もいない。
「で、兄貴とナツはどう?」
憲司の問いかけに、冬湖の思考が断ち切られる。
「なんでも実に劇的で感動的なシーンを展開してくれたって話だけど」
「あ、うん。今頃は結納の打ち合わせを、してるはず」
答えながら、彼女は思わずあの日の二人を思い起こし、顔を赤くした。
あのとき、外に運び出されて先に意識を取り戻した明仁は、真っ先に夏実のことを尋ねた。そして―――
「兄貴がナツのこと抱きしめてわめき散らしたってのは、本当か? 死ぬな、愛してるって、必死こいて呼んだって」
「本当。お姉ちゃんを揺さぶって何度も名前呼んで、目を覚ましてくれって。気がついたお姉ちゃん、泣いて、お兄ちゃんに抱きついてた。好きよって、何回も繰り返して」
「ほー、そりゃまた、あのぐずで口べたの兄貴にしちゃあ上出来だ。それだけやってもらえりゃ、ナツも満足しただろう」
楽しそうににこにこと、憲司は頷いた。
「ぜひとも生で見るべきだったなあ。さぞかし見物だっただろうに」
そのやけにけろりとした反応に、冬湖は戸惑《とまど》いを隠せない。
「あの、憲兄ちゃん。憲兄ちゃんは、よかったの? あの、お姉ちゃんと、お兄ちゃんのこと」
「兄貴とナツ? よかったんじゃない? 元々、意志|疎通《そつう》ができてなくてすれ違ってただけなんだから、あいつらは」
訊いた方はかなりの勇気がいったのに、返事はやはりあっけにとられるほどあっさりしていた。冬湖はびっくりして、憲司を見直す。
「でもっ、憲兄ちゃんはおねえちゃんとっ」
「ありゃナツのわがままに俺がつきあってただけだよ。ナツは兄貴の気持ちが見えないって、俺に泣きついてきたんだ。そういうのは一人で何とかしろよと思わないでもなかったんだが、まー確かに兄貴は総領さまとして大事だいじに育てられたせいもあって、自己表現が下手っていうか口が重すぎるっていうか、好きだの一言も面と向かっていえないよーな奴《やつ》だから、女の側が苛立つのもわかるんで片棒担いでやったんだ」
面白《おもしろ》がっているように、彼は音を立てて笑った。
「憲兄ちゃん、あたしが訊いたときはすごく冷たい顔で、お前には関係ないって言ったじゃない。だからあたしは、二人は真剣なんだって……」
「おもしろがって噂してる連中や部外者に、わざわざ話すようなことか?」
そう言われて、冬湖は返事ができずに口をつぐむ。憲司は恨みがましく見上げる彼女に、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「まあ、俺はともかく」
それまでのからかうような顔が、ふっと、まじめなものに変わる。
「冬湖には、かわいそうだったな」
手が伸びてきて、冬湖の頬を優しく撫でた。
どきんと、心臓が音を立てる。知られていたという、羞恥《しゅうち》と。それから?
「そ……そんなこと、ない」
冬湖はふる、とかぶりを振り、憲司の手からそっと逃《のが》れた。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんがお互いを抱きしめてるのを、見たら。どうしてかわかんないけど、いいやって気がしたから」
不思議なことに、それは正直な思いだった。
少年の術が、マモリさまとのつながりと一緒に、冬湖の明仁への執着をも断ちきっていったわけではないのだろうけど。
あのとき、自分のほしかったものが明仁その人ではなかったことを、解った。なぜ感情が爆発したのが、三年前ではなく今だったのかも。
いつまでも同じで。それが望みだった。
「ホントに、もういいんだ。お兄ちゃんはお姉ちゃんと結婚しても、お兄ちゃんに違いはないし」
「ふうん」
憲司は冬湖の頬にかかった髪を、指先で除ける。
「ま。兄貴よかまし程度な男なら、そこら中に転がってるから。もっと目ぇ磨《みが》いていい男を捕まえろ」
「そうだね、がんばる」
触れる指の暖かさに、冬湖は笑顔で応えた。
「ただ、今はそれよりも、勉強と受験をどうするんだ、だけどね。何しろあたし、来週のあたまから、三週間くらい島を離れなきゃいけなくて」
「島を離れる? なんだそれ?」
冬湖は狩人の少年が憲司の祖父に告げていった内容を、伝えた。術が断ちきったとはいえ、冬湖の精神《こころ》の中にはまだマモリさまの傷痕が残されていて、それを消すにはマモリさまの残映のある島を、一定期間離れる必要があるということを。
「そうしないと、何年後か何十年後かにあたしの心、壊れるんだって。少しずつ傷痕から蝕《むしば》まれていって」
自業自得なんだけど、新学期にかかっちゃうのが難点なんだよねと、冬湖は舌をぺろりとだした。
「今、どこに行くか検討中なんだ。お父さんもお母さんも頭抱えてる。ほらあたし、かなりライン際だから遊んでばかりは困るけど、そういう面も含めて頼《たよ》りになる人って、なかなかいないから。知り合いには」
「ふーん。じゃあ、俺んとこでもくるか?」
ちょっとのあいだ思いあぐね、憲司は尋ねる。意味がわからず、冬湖はきょとんとした。
「え?」
「一ヶ月くらいなら、俺の部屋明け渡してやるよ。セキュリティのしっかりしているところだから、叔父さんたちも安心だろ。俺は適当に友だちのとこに転がり込むから、問題ないし。勉強も、俺で良ければ教えてやる」
憲司はにっと笑って、どうする、と尋ねる。
「ホントそれっ、すっごい嬉しい」
冬湖は目を輝かせ、身を乗りだした。
「あ、でも。そんな、憲兄ちゃんが余所《よそ》に泊まるなんて、しなくていい。あたし憲兄ちゃんが一緒の方が楽しいし、お父さんたちもその方が安心するよ」
虚《きょ》を突かれたように憲司は目をぱちくりさせる。一瞬表情がなくなり、困惑げに眉を寄せて。
「いや……それだけは絶対にない。そんなことをしたら、俺、政一叔父さんに死ぬほどぶん殴《なぐ》られる」
深くため息をつく。
「なんで?」
訝《いぶか》しげに、冬湖は尋ねた。
「……自分で考えろ」
憲司は疲《つか》れた様子で枕に身を預け、視線をそらす。
「子供じゃないっていうから大人|扱《あつか》いしたら、これかよ。ったく……ガキが」
マモリさまの声は、島のどこにも、もう聞こえない。
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底本
The Sneaker 12月号増刊
The Beans [ザ・ビーンズ] VOL.1 2002.12
発 行 二〇〇二年一二月一日 発行
発行者 井上伸一郎
発行所 株式会社角川書店
[#地付き]校正M 2007.11.11