TITLE : 出発は遂に訪れず
出発は遂に訪れず 島尾敏雄
目 次
島の果て
単独旅行者
夢の中での日常
兆
帰巣者の憂鬱《ゆううつ》
廃址
帰魂譚《きこんたん》
マヤと一緒に
出発は遂に訪れず
出発は遂に訪れず
島の果て
むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが――
トエは薔薇《ば ら》の中に住んでいたと言ってもよかったのです。と言うのは薔薇垣《ばらがき》の葉だらけの、朽葉しきつめたお庭の中に、母屋《おもや》と離れてぽつんとトエの部屋がありました。ここカゲロウ島では薔薇の花が年がら年中咲きました。その部屋の廻りは木の廊下がめぐっていて、ひとところだけが母屋に通ずる取りはずしのできる橋廊下になっていました。夜になると三方に紙の障子をたてめぐらして蝋燭《ろうそく》をともしました。そして木の戸をひきしめて戸締りを厳重にすることもなくてすんでいたのでした。
トエの一日の仕事というのは部落の子供達と遊ぶことでした。部落の子供という子供がみんなはだしでトエの庭に集まってくるのです。トエは子供達に歌を教えました。
浜千鳥、千鳥よ
何故お前は泣きますか《ぬが・うらや・なきゆる》――
トエがいくつになるのか誰も知らなかったのです。たいへん若く見えました。小鳥のように円い頭をしてほかの娘たちよりいくらか大きなからだつきをしていました。娘らしく太っていました。それでも体重はむやみに軽かったのです。顔だちはと言えば、ほかの島娘たちとそう違っているようにも思われなかったのですが、ただ口もとに特徴がありました。ほほえむと、口もとは横に細長くきりりとしまりました。部落の人たちは大人でも子供でもトエは自分たちと人間が違うのだと考えている人が多かったのです。それは昔からトエの家の人たちはそういうふうに、思われてきたので、ほかには別に理由はなかったのですが、不思議なこととも思われずにトエは部落全体のおかげで毎日遊んでいてくらして行くことができましたが、二、三の年寄りたちは、トエがこの部落の生れの者でないことを知って居りました。
その頃、隣部落のショハーテに軍隊が駐屯《ちゆうとん》してきました。そのためにトエのいる部落にも何となくあわただしい空気が流れ、世界の戦争がこのカゲロウ島近くまで覆《おお》いかぶさってくる不吉な予感に人々はおびえました。一体何人ぐらいの軍人がやってきてどんなことをするのだろう。部落にとってめいわくなことが起りはしないだろうか。頭目という人はどんなひとだろう。あれこれと部落びとは心配をしました。
だが、やがていろいろなことが分りました。ショハーテの軍人は百八十一人で、その頭目の若い中尉は、まるでひるあんどんみたいな人であること。むしろ副頭目の隼人《ハヤヒト》という少尉さんの方が、男ざかりではあるし経験もつみ万事てきぱきとして人との応待も威厳があって軍人らしい。百八十人の部下は――いや、隼人少尉を除いて百七十九人の部下は、若い頭目に同情はしているけれども、副頭目のきびきびした命令にすっかり服従しているらしい、などということどもでありました。だから頭目の一日の仕事というのは、自分の領分内の、チタン、サガシバマ、タガンマ、スンギバラ、それから対岸のウジレハマなどを廻り歩いて十二の洞窟《どうくつ》と八つの合掌造りの兵舎の様子を見てさえいればそれでこと足りるのさ、という評判でありました。
朔《サク》中尉――と、そう頭目は呼ばれていたのですが、背は高いがやせていると部落では噂《うわさ》をされました。それに引きかえ隼人少尉はずんぐりしていて真赤な丈夫そうな顔付をしていると言われました。
副頭目は心の中で朔中尉をそんなに好きではなかったのですが、表向き二人は仲良くやっているように見えました。で、お酒を飲んだりしたときは、袋の中の錐《きり》のように隼人少尉の言葉はちくりちくりと朔中尉をつつきました。時とするとぐでんぐでんに酔っぱらったふりをして朔中尉にあてつけの、乱暴をすることもありましたが、朔中尉は何も言おうとしませんでした。だから隼人少尉は頭目は何を考えているのだろうと思いました。実際の所、朔中尉が何を考えているのかちょっと誰にも分らなかったのです。
戦雲は拡がってきました。敵の飛行機がカゲロウ島の上空にもぼつぼつ現われるようになりました。
或《あ》る日非常に悪い情報がはいりました。――カゲロウ島に大空襲がある。戦局は急転直下の変貌《へんぼう》を示した。敵は新しい作戦を計画したようだ。大空襲のあとに、敵は島に上ってくるだろう――
この情報は朔中尉の軍隊にもてき面にひびいてきました。空襲にそなえて洞窟の前に爆弾の被害をさける柵《さく》を構築せよという命令がきたのです。
その命令を朔中尉が受取ったのは夕方の食事もすんで、たそがれ行くはまべには、もう寝るばかりの一日の中で一番長くてのんびりした休憩の、時の移り行くのを惜しむ姿がちらほらしていた時でした。ハモニカを吹いている若者もいました。どうして情報の急変などということが考えられましょう。
だが、小高い本部の木小屋でそのような夕ぐれに身をまかせていた頭目は隼人少尉を呼んでこう言いました。
「隼人少尉、この作業は徹夜をすることになっても止《や》むを得ん。今からかかりましょう」
それをきいて隼人少尉はぼつぼつと闘志のみなぎり来るのを感じました。やがて隼人少尉のきびきびした作業の区処により十二の洞窟の前にはランタンのゆらめくあかりが見え、丸太のぶつかり合う威勢のよいひびきがきかれました。この洞窟の中には実はたいへんなものがかくされてありました。それはいよいよ敵がカゲロウ島に上ってくるときにだけ使われるもので、その色々のことについては頭目と百七十九人の中から選ばれた五十一人の者だけしか知らないことでした。
朔中尉は胸さわぎがしました。運命の日があまりにあっけなく眼の前にやってきたことに甚《はなは》だ不満のようでありました。しかし、一方これから起るかもしれない未知の冒険にふるい立つ心も湧《わ》いてきました。ただどうしても心にかかることが一つだけあったのです。それはその日がすっかり暮れてしまったら、ショハーテの部落の督督基《トク・トクキ》さんの家を訪《たず》ねる約束をしていたことでした。それは――
督基さんのところのヨチという女の子に、若い頭目は心ひかれたのでした。というのは、中尉さんがヨチを背負ってやったときに、やわらかい二本の足と中尉さんの肩をそっと掴《つか》んでいるヨチの可愛《かわい》い掌《て》と、そしてそっと中尉の頬《ほお》をくすぐったヨチの息遣《いきづか》いが忘れられなかったのです。ヨチは中尉さんの胸までも背丈《せたけ》はありませんでした。前の日中尉さんがショハーテの部落うちを通ったときに、赤ん坊の督四《トクヨン》をねんねこで負ぶってふくらんだヨチがいきをはずませて、
「中尉さん中尉さんショハーテの中尉さん」と呼びました。
中尉は立止って督ヨチの赤いくちもとをじっと見ました。まつげが頬にかげを作る位長いのです。おむすびのように大きな黒い頭のヨチが思いきって言いました。背中の督四をあやすので始終からだをゆすりながら。
「ガジマルの木の下にケンムンが出てこわいのです」
ねんねこが短く二本の細いすねと素足のくるぶしがいたいたしく見えました。
「こわいから遊びにいらっしゃいね、ね」
「あした又《あちや・また》」
朔中尉はぽつんと歩きながら島ことばで答えて、しばらく行きすぎてからふり向いてつけ足しました。
「すっかり夜になってから」(それまでにヨチのために棒飴《ぼうあめ》をつくらせて――)
――その約束を思い出したのです。ひょっとしたら予感にたがわず明日あたりからカゲロウ島は激烈な戦闘の様相を帯びてくるかも知れない。カゲロウ島そのものがこの地球の上から無くなってしまうようなそんなことはおそらくないだろうし、又此処《こ こ》の島びとたちはいのちのふかしぎから島の草木と共に生きのびるかもしれない。ああ、島に駐屯している軍人たちでさえもその幾人かは颱風《たいふう》一過のあとでこおろぎの音色《ねいろ》に泣くものもあるだろう。しかし朔中尉と五十一人にはそのことは或る命令のために考えてみることさえせつない、望まれないことでした。
中尉さんは心の中で泣きました。ヨチとの約束を守らなければいけない。一途《いちず》にそう思ったのです。
隼人少尉と百七十九人はそれぞれの仕事をして居りました。いつのまにか夜空が険悪になって雲の流れる気配が地上にまで伝わりました。風さえ出てきたようです。
中尉さんは木小屋の本部の頭目の部屋にはいると従卒を呼びました。
「小城《オグスク》よ棒飴を持って俺《おれ》に続いてきておくれ」
小城は急いで棒飴を風呂敷《ふろしき》に包むと、はまべに下りて行って小舟を用意しました。中尉は黙って黒々と小舟に乗り移ると、小城は櫂《かい》で急がしく漕《こ》ぎはじめました。櫂の音は仕事を監督していた隼人少尉の耳にはいりました。少尉は闇《やみ》をすかして入江の中を見ると、ショハーテ部落の方にへさきを向けた小舟に頭目らしい人影と従卒のそれを見たのでした。風が出てへさきはぐるぐる廻りました。でもほどなく小舟が目的の岸につくと中尉さんは岩の上にとび上り、小城従卒から棒飴の包みを受取ると闇の中に部落の方へと消え去りました。小城は杙《くい》に小舟をつなぎ腰をおろし頬杖《ほおづえ》をついて自分の仲間が仕事をしている対岸の方をぼんやり眺《なが》めました。ランタンの灯がみぎわで伸びたり縮んだりしているのを見ていると、子供のとき泣き笑いしてみた街の灯が十字架のように伸び縮みしたこととごっちゃになっていました。黒い雲が一ぱい出て来たようでありました。
中尉さんのおとのうた家は、居間と台所の二間しかない極く貧しい掘建《ほつたて》小屋のような家でした。それなのに家の中には沢山の子供が居りました。あるじの督基さんはここ一箇月ばかり前にウ島のクニャに行って未《ま》だ帰ってこないということでした。おかみさんのウイノさんはこんなことを言いました。
「中尉さんこんなに沢山の子供をちょっと見て下さい。むかしちいさこべのすがるはきっとこんなふうでしたでしょうね」
中尉さんは笑いました。ほんとに、督熊《トクグマ》、ヨチ、督二郎《トクジロウ》、リエ、督三《トクゾウ》それにややこの督四、こんなに沢山いる――小さなヨチはその中でお姉さんのように振舞っていました。もう寝ていた弟の督二郎や督三も妹リエもにこにこ笑いながら起きてきました。ヨチはお姉さん顔をしてお行儀をたしなめたりしました。牛乳のような匂《にお》いにみちてこんなに沢山の子供がいるのに朔中尉には何故《な ぜ》かとても寂しく感じられてなりませんでした。それは胸がしめつけられるような寂しさでありました。もし、その日が来たときにはこのやわらかな子供たちはどんなことになってしまうのだろう。この考えは居ても立ってもいられないものでした。
「この島に敵が上ってきたらこの子供たちをどうしましょう。中尉さん敵は上ってくるのですか」
ウイノさんはこうききました。
「こんな小さな島に来るものですか」
中尉さんはごまかしました。そしてそんなふうにしらばくれていることにがまんができなくなりおいとま乞いをしました。敵が上陸して来そうだからこそお別れにきたのではありませんか。子供たちはおみやげの棒飴をおいしそうに食べながら膝小僧《ひざこぞう》をそろえてあがり口に並びました。
「中尉さん、さようなら、ショハーテの中尉さん」
中尉さんは子供たちの手をにぎりました。おお、やわらかな手、世の中にこんなにやわらかいものがあったのだろうか。ヨチはおませな口調で、
「ね、中尉さん。トエが、トエがお魚をたくさんたくさん買いましたから、ショハーテの中尉さんに、いっしょに食べにおいでって」いきをはずませて言いました。
朔中尉の前にもうこの世のことは何もありませんでした。追っつけ命令が下り、あの洞窟の中のものを海に浮べて打乗り、敵の船に体当りにぶつかって行くこの世とも思われぬ非情な自分と五十一人それぞれのふう変りな運命の姿ばかりが先立つのです。小舟のある所まで行くのに足がふるえました。がっくりと小舟に乗ると、小城は岸からこぎ放しました。折しもせききれなかったもののようにさあーっと水の面をたたくものがありました。それはあたりがしぐれてきたのでした。水面にはぽつぽつぽつぽつ一ぱいあばたができました。黙って二人とも濡《ぬ》れました。ウイノさんがくれたピーナツを小城のポケットにいれてやると小城は黙って頭を下げました。仕事はもう終ってしまったらしく、チタン、サガシバマ、タガンマ、スンギバラ、ウジレハマはみんな物音もなく雨足のみ蚕しぐれのようにふりそそいでいました。
次の日は、一日中雨でした。
そしてこの島への危険は通りすぎたようでありました。敵はずっと東の方の小島に新しい作戦をはじめ出しました。
雨勢はだんだんつのってきて、車軸を流すようになったので、午後はみんな休みました。中尉さんはつかれたので自分の部屋で寝ました。板敷の床下でヒメアマガエルのなくのをきいているうちにすっかり眠ってしまいました。
……夢の中で隣の部屋の人声がやかましくて仕方がない。そんな傍若無人な奴《やつ》はとても許して置けないと自分でひどくいらいらしてるなと思っていると眼が覚めました。部屋はまっくらでした。またいつのまにか夜のとばりに覆《おお》われて、雨は相変らず降っていました。そして隣室では実際に人声がしていたのです。きくともなくきいていると次のような言葉が耳にはいりました。
いつどんな命令が来るかも分らないのに……それにみんなが大切な仕事……そんなふうだから……四号の洞窟《どうくつ》……眠ってはいられない……
朔中尉にはその意味がすぐぴんと来たのです。隼人少尉の蛇《へび》のように冷たく沈んだ眼の色を思い出してびくりととび起きたのです。
中尉はわざと足音高く隣の部屋にはいって行きました。隣の部屋ではランプを三つもともして隼人少尉が部下の主だった者の二、三人をあつめてお酒を飲んでいました。まっ赤な顔をランプの灯にてかてかと光らせて、
「これはこれは朔中尉どの」
酔った調子で、でもいくらかてれくさそうにこう言いました。
「おやかましくて、おやすみになってはいられますまい」
二、三人の主だった部下は一寸《ちよつと》困って酔いがさめたような様子をしましたが、朔中尉は立ったままにこりともしないで言いました。
「隼人少尉、洞窟四号の話は本当なの?」
「さあ、本当にもなにも、御覧になれば分ることでさあ……なあ伊集院《イジユイン》」
と一人の部下の方に赤い顔を持って行ったのです。
「そう」
中尉さんはそう言うと静かにその部屋を出て、自分の部屋に戻り、紺のレインコートを釘《くぎ》からはずし、それを着ながら雨の中に出て行きました。
しばらくして、雨の中を当番が、洞窟四号の作業受持の者集合の命令を伝えて歩きました。それをきいた隼人少尉はふと、どきりとした顔付をしましたが、にが笑いをしながら右の手でぶるんと顔をなでると、
「やれ乃公《お れ》はおやすみ遊ばすか。伊集院お前たちも寝たらどうだ。それとも洞窟四号の受持かな」
というと、もう寝台の上にからだを横たえていました。
洞窟四号の前には十五人ばかりがしぶしぶ集まって来ました。折角積みあげた土嚢《どのう》は無残にも崩《くず》れてしまっていました。そこは地面がやわらかなのと山の地下水の道筋になっていたらしく小さな川のように水が湧《わ》き流れ出て、すっかり土を洗い流してしまっているのでした。崩れた土嚢を見ると中尉はそれが醜い自分の姿のように思えました。集まった者は口の中でぶつぶつ言うことをやめませんでした。雨水は襟《えり》といわず袖《そで》といわず、ひやひや気持悪く肌《はだ》の中に流れこんできました。
「先任の者は集まった者の数をあたれ」
そう中尉が言うと、誰かが小さな声で、ちぇっ仕事にならねえと言いました。中尉はそれをきくとぐっと胸につかえました。突然に何とも知れぬ大きな悲しみの底につき落されました。やがてそれはからだじゅう真赤になるような恥ずかしさに変りました。と勃然《ぼつぜん》と憤怒《ふんぬ》が湧き上ってきました。
「待てっ!」
自分でもびっくりする程すき透《とお》った大きな声が出ました。
「お前たちは……お前たちは只今《ただいま》即刻兵舎に帰ってやすんでよろしい。ぬくぬくとやすんでいてよろしい」
部落の方にまできこえるように大きな声でした。とっさのことに十五名ばかりの者はそこを動きませんでした。じっとして動かずに雨に打たれて中尉さんの次の言葉を待ちました。すると、中尉さんの顔にはさっと殺気が走ったようでありました。が次の瞬間にはそれはくしゃくしゃに崩れて泣顔になり持っていた竹鞭《たけむち》を振り上げて叫びました。
「わかったらやすんでよろしい。よろしいと言ったらよろしいのだ」
いつにない頭目の剣幕に十五人ばかりの者は白けきった気持で各々の兵舎に帰って行きました。そのあとに残った中尉さんはたったひとりでその仕事をやり始めたのです。始めに水の流れる一帯を掘り起しました。それはぐんぐん破壊して行く仕事でした。そのみぞにはバラスをつめました。そうして一人で持てばたいへん重い土嚢を一つずつ積んで行きました。その仕事がすっかり終る頃には、夜は深更に及びいつか雨はやんで居りました。雲の割れ目から月が出て居りました。その夜は十六夜《いざよい》の月でありました。この哀れな中尉さんの頭は熱病のような交響楽で一ぱいでありました。腰をさすって見上げた雲の中のお月様はとても険し気《げ》でありました。彼は自分の運命のようなものを感じないわけにはいかなかったのです。その夜も生きていたのでした。そうして敵がいよいよウ島やカゲロウ島めがけてやって来るのはきっとお月夜の晩にちがいない、と彼は突然の啓示のようなものに打たれました。彼は寝ようと思い、本部の木小屋の方にやって来る途中で峠へのぼる道の分れている所に出ました。(トエが、お魚沢山沢山買いましたから……)その峠は小さな峠でそれを越すとトエの部落は眼の下に見えるはずでした。つと誘われるように中尉さんは峠への道を選んでおりました。彼がショハーテに駐屯《ちゆうとん》するようになるや否や誰からともなく隣部落のトエのことは耳にはいってきて、その部落にトエが居るということは既にさだめごとのような気持になっていたのでした。しかし中尉さんは未だ一ぺんもトエを見たことはなかったのです。峠に出る途中には人間のような声で鳴く蛙《かえる》が一匹居りました。
峠には小さな箱小屋が立っていて中尉さんの部下が寝ずの番をして居りました。
「頭目、峠の上もまたここから見渡すことのできる眼路《めじ》のかぎりあやしげなるもの無し、又けたいな物音もきこえぬようであります。雨は○○三○《まるまるさんまる》に停止しました」
自分の頭目の姿を認めた寝ずの番はこう言いました。中尉さんは黙って頷《うなず》きました。眼の下には海の色が月光で青冷《あおざ》めて輝いていました。部落はもう少し山の鼻を廻らないと見えないのです。中尉さんが峠の向う側に降りて行く様子を察すると寝ずの番は尋ねました。
「頭目どちらに」
「山の端《は》の向うの青白い月夜の部落には真珠を飲んだつめたい魚がまな板の上に死んだふりをして横たわっているのだ。私は是非ともその様子を見届けて来なければならない」
頭目は気どってこんなふうな答を与えました。
山の端を廻った所には、大きなガジマルの樹が不気味な沢山の手をひろげて道に覆いかぶさって居りました。この樹は悪魔の樹なのです。ヨチのおそろしがった細いしつこい声がきこえるような気がしました。その下を走るように通り過ぎると、トエの部落が摺鉢《すりばち》の底のように肩をよせ合って寝ていたのです。その部落のたたずまいは朔中尉の心を深くとらえました。朔中尉は生れて二十八年の間にこんな印象深い夜の部落を見たことはないような気になりました。そしてこの後とてもこの部落の真昼の有様を知ることはなかったのでしたが――まるですっかり夜の部落でありました。人家はかなり沢山あるのに、部落の道を通う人影はひとつもありませんでした。人家の中でひとの気配がしているにもかかわらず、あかりは少しももれてきませんでした。部落の中はすべて、朔中尉のひとり歩きのためにつくられているようでありました。月かげで、ものなべては青白く、もののかたちは黒々と区切りがついていました。それに中尉さんが部落の路地にふみこむと何とも言いようのない芳香に包まれてしまいました。たとえてみるなら、全体の調子は甘いのですが、それは橘《たちばな》の実のすっぱさで程よくぼかされていました。さき程の雨で部落はすっかりしめりわたりその匂《にお》いはむせるようでありました。部落うちには到る処古びた大木があって、ひげのように、長い沢山の根や茎を垂《た》らしているのでした。この大木たちはお互いに肩を奇妙なふうに組み合わせて部落を包みこんでいました。名知れぬ花が夜だけそっとその蕾《つぼみ》を開くとさえ言われていました。
中尉さんは何故《な ぜ》かこっそり足音をしのばせて、ひとひとり居ない月夜の部落を歩いているのでした。そして自分の足音をきくことに心ときめかせて、とある中庭にまぎれこんだのです。中尉さんを導いたのは障子越しにゆらゆらゆらめいている蝋燭《ろうそく》のあかりでありました。あそこだけにどうしてあかりがついているのだろう。こんな夜更《よふ》けに――そう思いながら中尉さんは薔薇垣《ばらがき》をぐるりと廻って庭の奥に足をふみ入れると、庭一ぱいの腐った朽葉が雨水にしめって眼のように光っていました。朽葉の眼は幾枚も重なっていて中尉さんが歩くとしめっぽい音をたてました。三方に紙の障子をたてめぐらしたその部屋をすきまから覗《のぞ》いてみたら、豪華な机の上にお魚の御馳走《ごちそう》が一皿だけのっかっていて、銀製の燭台《しよくだい》の蝋燭が大きくゆらめいているのが見えるばかり、人かげはありませんでした。もっとよく見るために廊下に手をつこうとしてびっくりしました。そこに何か寝そべっています。そして百合《ゆ り》の蕋《しべ》の匂いがしたような気がしました。ワンピースの簡単衣を着た娘がひとり宿無し犬ころのように寝ていたのでした。中尉さんは、そうだトエだと思いました。中尉さんは手のひらの中にはいってしまうような小さな懐中電燈を出してトエの顔を照らしました。大きな丸い顔にびっくりしました。頬《ほお》の辺にうっすらと雀斑《そばかす》のあるのがはっきり写し出されました。トエはまぶしそうに眼をぱちぱちさせると右手で中尉さんをぶつようなしぐさをしてにっこり笑いました。それは口もとが横に細長くきりりとしまる特徴のある微笑でした。そして上半身を起し裾《すそ》のあたりをおさえて、
「お月様かと思ったの」
と言いました。
「ごめんなさい。でも眠っていたのではありませんわ」
そうして、つと立ち上るとばねのような歩き方をして障子を開け放ち、中尉さんを招じ入れました。蝋燭がトエの姿の向うになるとトエのからだが衣通《そとお》って見えました。燃え尽きようとする蝋燭を新しいそれに替えるために、美濃紙《みのがみ》で囲った銀の燭台を一寸《ちよつと》覗いたときにトエの顔は紅色のネガになって輝きました。燭台をまんなかにして中尉さんとトエは少しななめになって坐り、冷たくなったお魚の御馳走を黙って眺《なが》めていました。中尉さんはお魚はあんまり好きではありませんでした。
「トエ」
ぽつんと中尉さんが呼びますと、
「え」
それまで眼を落していたトエは中尉さんの眼を見ました。そして彼女の運命をよみとったのです。
「私は誰ですか」
「ショハーテの中尉さんです」
「あなたは誰なの」
「トエなのです」
「お魚はトエが食べてしまいなさい」
トエは笑いました。トエは娘らしく太っていました。いたずら盛りの小娘のように頑丈《がんじよう》そうでした。ただ瞳《ひとみ》がいくらかななめを見ていてたよりな気《げ》でありました。その瞳を見たときに中尉さんは自分が囚《とら》われの身になってしまったことを知りました。
やがて、にぎやかな羽子板星が東の空に見え初めると、あけがたの金星が対岸ウ島のキャンマ山の頂に輝き出すのに間もないことが分るのでした。
副頭目の隼人少尉をはじめ部下が寝静まった頃おいになると朔中尉は峠への道を歩いていました。そしてその途中では必ずあの人間のような声を出す一匹の蛙におびやかされました。峠に立った寝ずの番の前を通るときはたいへんつらい思いをしました。だがウ島のキャンマ山に金星が輝き出す頃には頭目の部屋は中尉さんの気配で満たされました。しかし、ひるあんどんの頭目・中尉さんの深夜の行動は寝ずの当番たちの口から隊全体に広がってしまいました。
敵の東の小島での作戦は終りに近付きました。カゲロウ島では夜中にも敵の飛行機がとんでくるようになりました。
或《あ》る晩、中尉さんはすが目のトエを見ていました。トエはうたいました。飛行機からあかりが見えないように廊下には木の戸をしめ燭台にはトエの着物をかぶせてくらくしました。
遊《あし》ぶ夜《ゆ》のあささよ
宵《よね》ち思《う》めば夜中
鶏《とり》歌とち思めば、よ
既《にや》夜ぬ明ける
トエがうたっていると、にぶいけったいな音が耳にまつわりついてきました。それは南の方から、はじめはきこえるかきこえぬか分らぬ位の音がだんだんカゲロウ島の方に近付いてくるのです。
トエはうたをやめると中尉さんにしっかりつかまりました。
「敵が来る」
そう言ってふるえました。
「トエ、何がこわいものか」
中尉さんは笑ってみせてもトエはふるえていました。
「敵、敵が来る、みんな知ってる」
そして中尉さんの顔を穴のあくほど見つめて言いました。
「行っちゃいや。みんな知ってる。洞窟の中に何がはいっているか知っているの。こわい。トエこわい。五十一人のことも知っている。トエこわい。行っちゃいやなの」
中尉さんがトエをなだめての帰り道、峠の例のガジマルの樹の下に来るときまって峠の下の部落からあやしい音色が耳にまつわりついてきて歩みをさまたげるのです。そしてこんな気持に誘いこんでしまうのです。それは――部落全体が青い沼の底に沈んで、部落の人びとの悲しみが凝り固まり呪《のろ》いの叫びを挙《あ》げているのです。やがて嫋々《じようじよう》とした一人の狂女の声音《こわね》になって沼の底からメタンガスのようにぶつぶつふき出し、峠を越えて部落をのがれ行く青年をとらえて放さないのです。その歌声は長く長く緒をひいて今までのどんな音楽にもきいたことのないようなメロディなのでありました。中尉さんは両手の指で固く耳にふたをして急ぎますが、その音色をきかないわけには行かなかったのです。それはトエがはだしのまま浜辺にとび出してきて歌っているのにちがいないのです。加那《かな》やもう見えらぬ……と。
隼人少尉も眼がくぼんできはじめました。隼人少尉は夜もおちおち眠れなくなりました。頭目が本当に頭目の部屋で寝ているかどうかが気がかりなのでした。頭目の部屋でことりと音がする度《たび》に隣の部屋では隼人少尉の眼が異様に光っていたのでした。
しかし、やがてそんな心配はいらなくなりました。戦争の情況は全く行き着く所に来てしまったのです。
頭目は昼も夜も、隊の外には一歩も出なくなりました。運命の日のそのときのために、頭目の朔中尉は部屋にこもりました。そして五十一人をひとところに集めては、最期のときのことについてこまかい打ち合わせをしました。
それは此《こ》の間のように骰子《さいころ》の出た目ではなかったのです。日にちの問題でした。
昼間は敵の飛行機があぶなくて仕事などすることはとてもできなくなりました。それで、昼は洞窟の中に寝ていて、夜になると起き出してきては仕事をしました。しかしそれとても大っぴらにはやれなかったのです。夜は夜で夜の眼を持った飛行機がとんで来ました。
トエはどんなにか待っていたでしょう。トエにとっては夜だけがこの世でありました。昼間は自分でも何をしているのか分らなくなりました。突拍子もなく笑ってみたり、むやみにおしゃべりをしたり、お芋を掘ったり、ピーナツの根を植えたり、髪をお下げにしてみたり、リボンを着けてみたり、お砂糖をこっそりなめてみたり、気取った恰好《かつこう》で部落うちを歩いたりしていました。そうすると夕方になりました。
夕方になるとトエは思うのでした。今夜はきっとおいでになる。そうしてじっと庭の方に耳をかたむけるのでした。部落びとの足おとにさえどきりとしました。やがて何べんも驚かされているうちに深々と更《ふ》けわたる夜に耐えられなくなり、廊下に出て星空を眺《なが》めました。そして越し方のもの思いにふけりました。
自分がどうなるのか分らなくなるのです。ぼろぼろ涙があふれました。
今朝お逢《あ》いしてさえ夕べとなれば
またお逢いしとうございます
どうして十日二十日
別れて居《う》らりゅめ
トエはそんなうたをうたってみました。するとまたしても胸がこみ上げてきました。トエは自分がどうしてこんなになってしまったのか分らないのです。朔中尉の世にも不思議な仕事を知ったときにトエは気が違いそうになりました。そして自分のからだを眺めてみて、自分が人間であることをどんなに悲しんだでしょう。トエはただ祈りました。トエの信じている神様に向って。トエは本当は貰《もら》われ子だったのです。それは年とった二、三の部落びとだけが知っていた秘密でした。トエの母親は厳格な戒律の家に生れたひとでしたがトエを生み落すとすぐ死んでしまったのでした。そのことはトエが大きくなるにつれて何時《い つ》とはなくトエの耳にもはいっていました。いつどんなふうにして今の家に来たのかは分りませんでしたが、物覚えのついたときにトエは一冊の革表紙のブックを持っていたのでした。そのブックはお母さんのものであったのに違いないと思いました。そして自分が知らず知らず信じていた神様はきっとお母さんの信じていた戒律の教えの神様に違いないと思いました。その神様にお祈りするときにトエはそっとブックに頬付《ほおづ》けをしました。するとブックの表紙に縫いこまれた二本の長短の細い銀の短冊形の交叉《こうさ》している紋章がひんやりと頬のぬくもりを奪うのでした。このことをトエは誰にも話しませんでした。
きっとこれは邪宗の教えだと言われるに違いないと思ったからでした。
中尉さんはだんだん怒りっぽくなって来ました。トエはひしと感じました。トエは中尉さんがひるあんどんだと、うとんじられているらしいことも知りました。可哀《かわい》そうな中尉さん、トエにばかり威張ってみせて我儘《わがまま》をするのだわ、トエには中尉さんのぴりぴりした神経がその胸から伝わってくるのを知っていました。トエは突然呪《のろ》わしい気持になりました。何故何故何故。いつか金星がすっかりキャンマ山の上に上ってしまってあわてて峠を駈《か》けあしして帰って行った中尉さんの後姿。そのときトエは部落の広場に佇《たたず》んで朝もやに包まれた峠への赤土道を人影を求めていつまでもいつまでも見つめていたのに。
トエのいる浦の朝ぎり
軍服のお袖《そで》に
別れ涙の
別れ涙の紅のあと
すると、新しく涙がぽろぽろ頬を伝わりました。敵が近付いていることは、トエにもうすうす感じられました。中尉さんが何故《な ぜ》この頃トエの所に来られないかも分っていました。そしていよいよ敵がやってくれば中尉さんがどうするかは、それは分りすぎるほどはっきり分っていました。でもトエは毎晩毎晩羽子板星が中空にあがりきってキャンマ山の頂に金星が不気味に明るくまたたき初めるまで、お縁のところにじっと坐っていました。その年の金星は二人にとって、いみじくも偶々《たまたま》きぬぎぬの星であったことさえただごとと思い捨てていたほどに。
或る日、敵の飛行機の合間を縫って中尉さんのお使いの小城《オグスク》従卒があわただしくやって来てトエに白い細長い包みを渡すと又あわただしく帰って行きました。
トエはいきをとめて白い包みをほどくと一ふりの短剣が出てきました。トエはどきりとしました。短剣は銀の飾りのついた鞘《さや》にはいっていました。そして文が結びつけてありました。それには、岬《みさき》ノ西ノシホヤキ小屋ノハマベノ一番汐《しお》ノ退《ひ》クトキハ今夜十二時、と折れ釘《くぎ》のような字が読まれました。
まだショハーテに朔隊の人たちが駐屯して来ない前には、トエの部落の人たちは潮のひいたころ合を見はからって磯《いそ》伝いに岬の鼻を廻ってショハーテに行くこともありました。そしてショハーテ寄りのところに塩を焼く小屋が建っていたのです。そこは駐屯地の一番北東の端にあたるチタンの浜からすぐの所なのでした。しかし、この岬廻りはたいへん危険でした。潮の一番ひく時のわずかな間だけ浜辺を伝うことができましたがすぐ波が押寄せてきて、とがった岩にぶつかり岬は硬《かた》い表情の立神《タチカミ》になってしまい、後にも先にも行けなくなるのです。その上、岩の間には時々怖《おそ》ろしい毒へびがとぐろを巻いていて、人に噛《か》みつこうと待っているのです。
トエは部落がすっかり寝静まってから頃合を見て浜辺に出ました。だが中尉さんは潮汐《ちようせき》の図表の見方をあやまっていました。部落に近い浜辺では何ほどのこともなかったのですが岬の鼻近くなるとだんだん行手は険しくそそり立って潮はみなぎって居りました。トエは山際《やまぎわ》の崖《がけ》を難儀して歩かなければなりませんでした。そしてそれはあの毒へびに対しては一層危険でした。そのうち山際がそそり立っていてどうしても歩けない場所がありました。そんなときにトエはすべる岩をつかまえて海の中をこしました。白月に向った月はもう沈んで居りました。海の底はとがった岩やそそけ立った貝がかくれていて、あしを傷つけました。夜光虫がトエの着物に一ぱいまとわりついて光ったり消えたりしました。なまぐさい潮の香が鼻をつきトエは泣きました。誰をうらむでもなく、ただ自分の生れ合わせを泣きました。ガジマルの生えた下を通るときはトエもヨチと同じようにケンムンが怖《こわ》かったのです。夢中で通り過ぎました。沖の方から時々櫂《かい》の音がきこえてきました。こんな夜更《よふ》けに誰が通るというのでしょう。それはきっと亡霊《もうれ》に違いないと、トエは思いました。風がヒュウヒュウと吹いているところもありました。トエは眼をつぶり岩のかげにうずくまって祈りました。もうれが通り過ぎると、いためてびっこになった足をひきずって又山際の岩の間や海の中を歩きました。
一方朔中尉は、眼がさめました。枕もとの夜光時計を見ると針は十二時の十五分前を示して居りました。もやもやした布切《ぬのきれ》のようなものが朔中尉の頭の中にはいってきて起したのでした。それで寝ずの番に、私は塩焼小屋の所で夜の海を見ているから用事ができたら躊躇《ちゆうちよ》なく大声で呼ぶように、そうすると塩焼小屋に居る私はその声をきいてすぐとんでくるからと言い置いて、塩焼小屋の浜辺にやって来ました。トエの来る方向の闇《やみ》をすかして見ますと潮がひたひたと山際まで来ているのを発見しました。しまった! と中尉さんは思いました。でもトエは来る! きっと来る。しかしひどい難渋をしてくるだろう。つと胸がつきあげられ、トエがいとしくてたまらなくなりました。じっとしておれないのです。しかしじっとつっ立っていました。やがてためらい勝ちに浜辺の砂をふむ足おとが近付いてきました。思わず岩のかげにかくれました。その足おとが岩のところに来て、ぎくりと立ち止ると、中尉さんは静かに岩かげから出て、その人かげをしっかり胸に抱きました。トエは黙って抱かれました。汗でうむれて髪の毛のにおいがしました。中尉さんはトエの顔を胸から離して闇の中でながめようとしました。ほの白くほつれ毛が汗で額にくっついていました。中尉さんが両手でトエの目もとをさぐると指がぬれました。そしてにわかにあついしたたりを指先に感じました。何だかズボンのあたりがつめたいので、トエのからだをさぐると腰から下がびっしょり濡《ぬ》れているのを知りました。びっくりしてよく見ると、腰のあたりに海草がくっついていました。トエがどんなにしてここまで来たかがよく分りました。胸がしめつけられるように痛みました。足もとを見るとトエははだしになっていました。そしてあちらこちらに血がにじんでいました。中尉さんは自分のからだでトエをあたためてやろうとしましたが、トエのからだはなかなかあたたまりませんでした。トエは着物の手首と紋平《もんぺい》の足首の所にゴムひもをつけてからだをきつくしめていました。それでそこがゴムひものせいでくびれました。中尉さんは何も言いませんでした。トエも黙って自分の胸の鼓動を数えていました。対岸のウ島のキャンマ山の頂がうっすら明るくなりました。それはあかつきの金星が出て来る前ぶれでありました。
トエは言いました。
「あそこなの」顔は中尉さんの方に向けたまま指だけあらぬ闇の岬の方をさしました。
「へびがいたの」
その晩もトエは冒険をしたのです。
中尉さんはこのはだしのむすめの小さな心臓が嘘《うそ》のようにどきどき大きな鼓動を打ち続けているのがたいへん不思議になってきました。彼女はもう全く何も考えていないだろうということが素晴らしく奇妙なことに思われたのでした。自分はこんなにも、別のことを考えておどおど闇の中をうかがっているのに。
すると又、あの鈍いけったいな物音が南の方から耳にまつわりはじめました。それは又してもカゲロウ島の方に刻々と近付いてくるのです。生けどった小鳥のように暖く小さく動いているトエを胸にしながら中尉さんは、眼と耳を物音の方に集中しました。それは、近付いて来ました。いつもの音より二倍も三倍も大きいものでありました。耳にがんがんひびいて頭が痛くなるような近さまでやって来ました。と眼の前がぱっと紫に明るくなり、ウ島とカゲロウ島の間の海に真赤な火柱が竜のように立ち昇りました。それは瞬間の出来事でした。その火柱はすぐ消え失せてしまい、けったいな物音はだんだん北の方に遠ざかって行きました。
中尉さんは新しい事態を予知しました。トエを、つき放しました。トエはびっくりして中尉さんの顔を見ました。
「敵が来るの?」
「大丈夫、トエ。ぼく急に仕事を思い出した。大事な仕事だから。大丈夫。敵なんか来ないよ。だけど今晩はいけない。今からお帰り。心配しないで。あした小城を使いにやるから」
「ハイ」
トエは素直に返事をしておろおろしました。
「トエ、心配しないで、あしたすぐもようを知らせるから」
「ハイ」
中尉さんは本部の方にかけ出しました。トエのあまりに素直な返事が気になりました。だがさっき見た変な爆発はただ事でないと思いました。浜辺の寝ずの番のそばを通るとき中尉さんは叫びました。
「本部に異状はないか」
「ございません」
寝ずの番は元気よく答えました。中尉さんはやがて別に何事もない本部の様子を確かめました。みんな静かに寝て居りました。隼人少尉も寝ているようでありました。少しあわてたかな、そう中尉さんは思いました。トエが岬を行きなずんでいることを自分が受ける罰のように悔みました。
あんなにも昼となく夜となくやって来た敵の飛行機がぱったり来なくなりました。それはぶきみな沈黙でありました。そんな日が三日ばかり続きました。その頃は毎日毎日がぷつんと絶ち切れていて、昔の日とも将来の日ともつながりがないように感じられてきました。それは怖ろしいことでした。どんなことにも感動しなくなってきたのです。そして思い出したように血が狂うのです。血の狂う日は心の中に雨ぐもが低く低くたれこめていました。
その夕方、頭目の朔中尉はチタンの浜で真紅《しんく》の夕焼雲の一片を見送りました。怪鳥の羽根のように西から東へと飛び去って、やがてあたりが夕もやにぬりこめられた頃、当番がいきせき切って新しい情報のはいったことを知らせて来ました。何故《な ぜ》かこの時朔中尉は愈々《いよいよ》来るべき時が来たのだと思いました。本部の自分の部屋にはいって情報を前にしてその対策につきあれこれ考えをめぐらしていると、当番部屋でけたたましく電話のベルがなりました。中尉はどきりとし、つきあげられたようにからだが軽くなりました。当番がかけ上って来ました。
「頭目、頭目」
と叫びながら、朔中尉の部屋の前に来て、
「只今《ただいま》命令を受取りました」
と言いました。命令の写された紙片が朔中尉に差出されました。紙片にはこう書かれてありました。
先刻ノ敵情ニ対シ戦闘出発用意
「よし、総員集合」
当番にそう言ったあとで朔中尉は木小屋の自分の部屋を見渡しました。なにといって飾り気のない部屋がうそのように白く見え、今まで大事にしていた鏡もまるで縁がないものに思われました。その鏡は今までとはまるで違ったものを写すのだと思いました。するとトエの姿が浮びました。それは考えるだに悲劇的な場面でありました。しかしどれもこれも総《すべ》ては深い断絶にさえぎられ、潮がひくようにどんどん遠のいて行ってしまうのです。真空になった気持の中で朔中尉は、これから自分と一緒に出発する五十一人の部下にもっともっと手を差しのべたいたわりの言葉で包んでやらなかったことを唇《くちびる》を噛《か》むほど悔みました。トエについて言えば彼女はもう朔中尉のからだのすみずみにまで住んでいたのでした。
「隼人少尉、行きますよ。あとをたのみます」
隣の部屋の隼人少尉に声をかけました。隼人少尉はじっとこの若い頭目の顔を見つめました。どうしてか虫が合わずに好きになれなかった頭目ではありましたが、そのこととは別に、別れはやはり無量の感慨を誘うのです。そして同時に頭目と五十一人が居なくなったあとの部隊をまとめて行かなければならない新しい事態に興奮しました。
だが、どうしたことでしょう。洞窟の前の柵《さく》もすっかり取除いてすぐにも中のものを海に浮べる用意ができてからも、多くの時が流れました。もう真夜中になろうとしているのです。それでも出発の命令はかかってきません。朔中尉はひとまず五十一人を寝かせることにしました。死の出発の服装を着けさせたままで――。そして打てば響くように跳《と》びおきて洞窟の中のものに乗れる用意の注意を与えることを忘れませんでした。今となっては一寸刻みに、異常でないふだんの状態に置かれていることは苦痛でさえありました。心は先に急ぎました。しかし何事もなく夜は更けわたりました。朔中尉は電話器の前に頑張《がんば》って夕方からのどうしてもあわてていたに違いない自分の姿を思いました。頭の中は氷のように冷たくなっていました。
うしみつどきのころ、従卒の小城が物《もの》の怪《け》につかれたような眼つきで朔中尉の前に現われました。
「頭目、お顔をお貸し下さい」
そんなへんな言い方をしました。
「なんだ」
朔中尉は外のくらやみで小城の前に立ちました。
「トエ様が塩焼小屋の所に来て居られます」
「何!」
朔中尉は複雑な感じにおとしこまれて小城従卒の顔を打ち見たのです。
「お前あれに何か言いに行ったのか」
小城は黙ったままおびえたような眼つきをしました。そして小さな封筒のようなものを頭目に渡しました。
「よしもうそんな心配はするな。後は俺《おれ》が処置する。お前も無理をしてはいけない。早く寝ろ」
小城は闇の中に消え去りました。朔中尉は星を仰ぎました。夕方からはじめて星を見るような気持になったのでした。小さな封筒の中の紙片には、走り書きで、シホヤキコヤまで来ています。お目にかかりたいの。お目にかからせて下さい。なんとかしてお目にかからせて下さい。決して取乱しません。トエ――とありました。
中尉さんは隊内を歩きました。そして北東の端のチタンの番小屋の所まで来ました。そこでその外がわに出ました。浜辺を少し歩くとすぐ塩焼小屋につきました。トエが砂浜にぺったりうつけたように坐っていました。中尉さんがトエの前に立ってもしばらくは気がつかない位でした。そのくせチタンの番小屋の所に中尉さんの姿が見えたときからトエは気付いていたのです。トエは紬《つむぎ》の黒っぽい着物を着ていました。夜目にもくっきりと白い襟《えり》が胸もとをしっかりかき合わせていました。トエは何か言おうとしましたが唇がふるえて言えませんでした。そして、つっ立っている出発のいでたちの中尉さんを頭から靴さきまで眺《なが》めました。そっと手をさしのべて靴にさわってみました。中尉さんは言いました。
「トエ、演習をしているのだよ。小城があわてて何を言ったか知らないけど、演習をしているのだよ」
トエは黙って頭を横にふりました。中尉さんはもうそこを離れなければなりません。そしてトエに言いました。
「トエ、あしたのあさのぼくのたよりを待っておいで。心配しないで」
中尉さんはこう言えたのがぎりぎりでした。それ以外のことは中尉さん自身にも分らないのをどうすることができましょう。
トエは中尉さんの足おとの遠ざかって行くのを砂地に耳をつけてきいていました。チタンの番小屋のところで寝ずの番に何か言ったようにきこえました。その声は子供の声のようでした。いつかの晩も中尉さんは子供のような声を出したことがありました。トエは中尉さんに気付かれないようにあの小さな飾りのついた短剣を白い布に包んでしっかり持ってきていたのです。それを今、十字架のように胸に押しいただいているのでした。すっかり夜があけてしまうまでトエはそこに居ようと思いました。もし、何かが海に浮んでそれが四十八の数だけトエの眼の前の入江を外海の方に出て行ってしまったときには、そのときもうトエもたくさんの石ころをたもとに入れて短剣をしっかり胸に抱いたまま海の中にはいって行こうと思いました。トエはじっと砂の上に坐っていました。からだは熱を持ったようにあつく、まわりの一切のものに少しも気がつかないのでした。そのうちにトエは、あら羽子板の星が出ていると思いました。しばらくしてトエは、あらあの星はまあなんて大きなお星様でしょうと思いました。すると、あたりは一枚一枚ベールがはがされるように明るくなって、岬の緑、海の青がさわやかな空気の中ではっきりとその姿を現わしてきました。小鳥も鳴き初めました。心なしかそよ風さえ吹いて木々の群葉をさやがせているようでありました。やがて東の方キャンマ山あたり一帯が金色の箭《や》を放ち、星はひとつも見えなくなって、嘘《うそ》のように大きな真赤な太陽が上って来ました。潮がひたひたとさしてきてトエはあやうく濡《ぬ》れてしまうところでした。波は湖のようにおだやかに小波《さざなみ》立ち、ふな虫が石ころの間をぶざまなからだつきで動き廻っていました。
トエはもう一度短剣を抱きかかえました。そしてひとまずは危機が通り過ぎたことを知ったのでした。
(昭和二十一年一月)
単独旅行者
第一章
市内のにぎやかな場所も歩き疲れた。
そうかと言って電車に乗るのはたまらなく嫌悪《けんお》を覚えた。それはその為に停留所を選ばなければならない――その選択の気分が耐えられない気がした。あれか、これか――何と我慢のならないことだ。
それは僕がそういう持病を持っていたからかも分らなかった。総《すべ》ての予定とか計画とか約束とかに何か胸がむかむかして来て、頭も重く腰も鬱血《うつけつ》して視力さえかすんで視界が浮上って見え、いわば気が遠くなって来たのだ。そういう瞬間が度々《たびたび》やって来た。あの、群衆に酔って「いわゆるあがっている」状態で、何もむずかしい意味合いからではなしに、何処《ど こ》か肉体的な欠陥から、莨《たばこ》を飲み過ぎたとか、二、三の飲食店でえたいの知れないものを食べたとか、そんなことがきっかけとなってその状態が導き出されて来るのに違いない。すると、そんな風な僕と違う状態の人々が一直線にわき目もふらずに往来を歩いていることが、うらやましく又ひどく軽蔑《けいべつ》したくなった。
と同時に何処か気楽な所に腰を下したいという気持がずっと緒をひいて来ていた。顔の中に飯蛸《いいだこ》の飯粒のような活字が一杯つまって、言葉も、音も、においも之《これ》以上何一つとしてつめ込む余地がない手放しに我慢のなくなった状態であった。ただ柔かなソファにすっぽり身体を埋めたいだけの希《ねが》いで、疲れたら何処にでも坐り込めばよいのにそれはしないで、僕はずるずる南山手《みなみやまて》の方に足が向いていた。
その道も、昔この都市の学校に通っていた時に何回となく往復していたのだからどんな路地でも覚えていそうなものだが、事実はそんなでもないのだ。却《かえ》って往復の度数を重ねる度《たび》に物の貌《かたち》の見境いがつかなくなってしまい相《そう》なそんなたよりない思いを、頭の中でお題目のようにもて遊んでいるうちに弁天橋を通り過ぎていた。
馴染《なじ》みの土地では印象がまるで灰色の一色で、ただ自分を待設けて呉《く》れているあなぐらのようなものがしきりに欲しい気持であった。
弁天橋は、すぐ港口のどぶ川に架った橋で、そのどぶのにおいを嗅《か》ぎさえすれば、行手には港に臨んだ丘の斜面に、見晴し好く設計された円環状の遊歩道路に沿って布置された南山手町が公園への誘いよろしくのたたずまいで展開されていた。
昔住んでいた時は、早朝の駈歩《かけあし》の為《ため》にこの円環道路は大へんロマネスクに働いてくれて、二条の海沿いの石だたみの道路が、一方は高台の緑樹を縫い、一方はずっと低く海岸の倉庫などの立並んだ埃《ほこり》っぽい旧街道近い位置を見通しよく、うねっていた。
先《ま》ず高見の上の道路を四、五丁も走って行くと、南山手の広々とした木造洋館建の住宅の姿は消えて、それと殆《ほと》んど対蹠《たいしよ》的だと思われる屋根の低い日本家屋がごみごみと重なり合っている隣の町の、丁度手前の所でコリントゲーム板のつき当りのように半円形にくるりと廻って、低い方の道に移って来るのだった。
低い方の道路には、海の方にずっと鉄柵《てつさく》がついていて、そこを港の海をながめ乍《なが》ら歩いて来ると、弁天橋の手前の所で同じようにくるりと半円形に上の道路に続く。それでこの港の斜面の遊歩道路は円環状にぐるぐる廻っているという訳だ。
所で僕はその低い方の道路を歩いていた。右手は港の風景で、対岸には巨大な造船所の建造物が望み見られた。港のどよめきが鼓動のように肉体にはいり込んで一種の律動となっていた。明るい、港の外の方に開けて行く岬《みさき》や島の重複は何か鶴のような大鳥が朝焼を浴びてぱあっと飛んで行く、又は羽根を広げて覆《おお》いかぶさっている感じなのだ。
昔この町で学生であった時分、この鉄柵で港の海を眺《なが》めながら青春の界内での情緒を整理することが出来ずに、疲れた足をひきずっていたのだ。
この町には玉葱頭《たまねぎあたま》の教会があって、その構内に七面鳥が飼われ、ロシヤの女の子が日曜毎《ごと》になけなしのおめかしをしてかよっていた。あの人絹の艶《つや》のどぎつい光ったドレス。あの子供達がいなければ此《こ》の町の味わいもまるで駄目《だめ》だ。すっかり死んでしまうようだ。戦争の間に、奥深い庭園の木蔭《こかげ》は取払われ、石垣《いしがき》は修理され、風通しよく殺風景に、邸宅は工員の寮となっていた。海や対岸の造船所の見える所にはめくら塀《べい》が打ちつけられ、ロシヤ人たちは、追払われ、邪魔な家は、こぼたれた。そうなっていたのだ。
今はもう昔の艶のある古めかしさは失われていた。何だか空気が白けきっている。
僕にはこの遊歩道路を縦横に遊んでいたロシヤの小娘たちが忘れられなかった。戦争が済んだ今日何処《ど こ》に行ってしまったのだろう、とそれが気になった。
細長い、楕円《だえん》の形の円環道路の中程に丁度帯をするように急な石だたみの坂道で上の道と下の道がつながれていた。その坂道をつま先上りに登りながら、僕は廃屋の前の空地で菜園の手入れをしている小柄な中年の女に思いきって声をかけてみた。
「あの、ねえ」
女は振向いた。
「この辺にロシヤ人がいたでしょう。ほら、彼処《あそこ》の家に住んでいた……」
右の手をあげて指差したが、その家は今は取払われて見ることが出来なかった。下の道の鉄柵の向うに一軒だけぽつんと離れ小島のように青いペンキを塗った家が建っていたのだったが。
「あの道端に木造の西洋建の家があったでしょう。ロシヤ人が住んでいた。……今何処にいるか知りませんか」
「へえ」
女は平べったい血色の悪い顔付で腰をのばし乍《なが》らこちらを見た。
そこには、つまり甃石《しきいし》の坂道に、女は、対岸の造船所のガントリクレンを遠く背景にして、港の海に浮び上るように左肩をさげて突立っているリュックサックをぶら下げた背広姿の青年を見たのだ。
「へえ、そのロシャジンな、未《ま》あだ居《お》っとですよ」
「そうですか。何処に」
「二十六番に居っとですよ」
「二十六番?」
つい鸚鵡《おうむ》返しにいぶかってみたものの二十六番館、と云うのは坂道を上りきって上の道を右に廻ったあたりの家だとほぼ見当はついてはいたが、改めてその場所を教えてもらって僕は歩き出した。急な勾配《こうばい》だから前屈《まえかが》みになった。
甃石の坂道を上りつめた正面に樹蔭《こかげ》の庭を控えて精神病院があった。そこを右に折れてそのロシヤ人のトルガノフの家を探そうというのだが、百米《メートル》ばかりの坂道で僕は大へん呼吸が苦しくなっていた。そして異国人のトルガノフの家に行く事が頗《すこぶ》る間のびのした必然性のない余計ごとのように思えて来た。三角の眼をして、何しに来たのと侮蔑《ぶべつ》されたらどんなにいやな思いをするだろう。あんたたちは何だか臭いよと、言われそうな妙な潜在した恐怖があった。
然《しか》し僕はもうどんどん進んで行った。(昔精神病院のわくら葉の繁《しげ》みの中に頭脳を病んだ少女がいたのだが)そして絵に見る泰西の城のような頑丈《がんじよう》で活字のゴシックを思わせる沈んだ石のにおいのするカトリックの女学校の煉瓦塀《れんがべい》に沿って歩いて行った。
後ろから、まちまちの服装をした女学生たちが笑いさざめいて追越して行く。妙に手の届かない感じのする固い梅の実。その梅の実共がすっぱい香料を残して僕を通り越して行く。それ丈《だけ》でも僕はどきりとしていた。背中で彼女達の中の昔のなじみを待ち受けていた。それは誰だということなしに。それは何となく昔の音楽をきくような気持にさせられた。教会の構内の広い庭園の中から姿は見えず声丈がかん高く、グルルルと海端の南山手の空にはじけ返っていたかつて聞いたことのある七面鳥の鳴声が耳の底で甦《よ》み返って来た思いがしていた。
誰れ彼れとなく僕という愛敬《あいきよう》の顔をふり撒《ま》いていた過去の電子は、まだ世界の空間のどこかに止っているのではないのだろうか。
女学校の塀が尽きると、まるで溝《みぞ》のように細い甃石道が、急な勾配で下の遊歩道路迄《まで》続いていた。その突き当った所に、その道丈の広さに両側の家を枠《わく》にした一幅の自然の絵が作られていた。その絵の前景には鉄柵が望み見られ、後ろの明るい海迄に人家のいらかが黒くくすんで見えた。
二十六番館はその坂道の中頃の見当であった。
第二章
石の門柱に細くアラビヤ数字が少しおどけた書体で26と彫りつけてある。
それで僕は躊躇《ちゆうちよ》の身体つきではいって行った。
僕は僕自身にもうすっかりトルガノフの親爺《おやじ》さんのニコライやおかみさんのアレキサンドラを見下した仕掛けを施していた。だから何も僕が日本人が背広の着用に及んだ青年でなくてもいい。組やぐらの土台にのっかった撮影カメラがレールを敷いたセットの廃園にそろりそろりとはいって行く調子だ。
庭は大へん荒れていた。そして又家もそれにおとらず荒廃している。例の木の円柱の並んだ張出し廊下などは、敷板が外《はず》れて、部屋の中には、ガラス窓も開き扉も破損しているので素通しに見えたのだが、埃《ほこり》だらけの家財道具が一ぱいつめ込まれていて、到底人が住んでいそうにも思えなかった。
水が涸《か》れた泉水には、泥土に交って枯葉が一ぱい落ち込んでいた。植込みの木には、蔦《つた》がからまり、それでも蘇鉄《そてつ》と棕梠《しゆろ》の木が、いくらか生々として、全体が秋の雑木林の中にふみ込んだ静かな気持を闖入者《ちんにゆうしや》に与えた。
「こんにちは」
僕は二階の方に向って声をかけた。二階には人の気配がしていたからだ。
「ごめん下さい」
二度目にはそういう風に声をかけて見る。
然《しか》し応《こた》えがないので裏側の方に廻って行った。
裏の空地には干物《ほしもの》が架っていた。矢張り人が住んでいるに違いない。
家屋の中程に、庭から直接に二階に一直線に通ずる木の階段がついていた。その階段で丁度家屋が二つの部分に区別されていた。
僕は階段の真下に立ち、上を見上げながら両足を少し左右に開いて、スプリングコートの代りに着ていたレインコートを左腕にさげていた。(リュックサックが邪魔だったが)
旅路の果ての素性の知れぬ青年という小意気な風態《ふうてい》を意識して作り出そうとしていたのだ。
「ごめん下さい」
すると、左手の部屋のドアが開いて、一人の少女が姿を現わした。赤いセーターに紺サージのズボンをはいていた。僕はそれを階段の下で見上げていたのだ。
そして僕はその少女がすぐ〓レンチナであることを認めたが、僕の咄嗟《とつさ》に出した言葉ははじめての人に物をたずねる調子になっていた。
「こちらにトルガノフさん住んでいますか」
すると少女は答えた。
「いいえ」
そして大変すましてつっ立ったまま見下している。僕は勿論《もちろん》彼女がトルガノフの〓レンチナでない事は知っていた。それは矢張り界隈《かいわい》に住んでいた亡命ロシヤ人のセイフリンの娘なのだ。そして今偶然に彼女を先に見て、僕はトルガノフの〓レンチナよりセイフリンの〓レンチナの方が好きであった昔を忘れていたのをはっと思い出した気持になっていた。
セイフリンの〓レンチナは広い額と男の子のように短くした黒い髪、小さな薄い唇《くちびる》をしていて、イギリス人かと思わせる重厚な感じを与えていた娘だ。それが、今はおさげにあんで、もうまるでおとなになっている。
そこで今度は僕は以前彼女を知っていた気易《きやす》さで、微笑し乍《なが》ら、彼女の身体を五米ばかり下から見上げて、
「ワーリャやリュウバやジナは居ないのですか」
「ええ居ります」
そうして一寸《ちよつと》首をかしげて、
「でもわたしはセイフリナ」
僕はとんとん木の階段を上りはじめた。
「僕を忘れたの?」
「ええ」
と言い乍らも曖昧《あいまい》な顔付のいたずらっぽい眼付をしている。
すると右手の部屋の中が騒々しくなって、
「クトー」
としわがれた声でどなり乍ら、右手をドアのノッブにかけたまま半身をのり出した男がいた。トルガノフの親爺のニコライだ。
僕は階段の中途で立止った。
「こんにちは」
「おお、お上んなさい」
ニコライは言った。「どうぞ」
僕はニコライの眼の下で続けて階段を上って行った。
「僕を覚えていますか」
「覚えています、覚えています」
僕は、覚えていますかと言った瞬間、セイフリンの〓レンチナには、「忘れたの」と言った事をへんにはっきり思い返していた。それなのにニコライの方には「覚えていますか」(僕を覚えていますか)と僕は頭の中で繰り返し乍ら階段を上った。
そして招じられて部屋の中にはいる迄《まで》の間に、ニコライが今の所では多少の好意と好奇心を以て、しばらくの時間を僕に割《さ》いてもいいと心に決めている様子を見て取った。それで僕は変な言い廻しだが永遠の瞬間を救われていた。何《ど》ういう訳か、その時そんな大げさな表現がぴったりするような気持になっていた。もしニコライが赤ら顔を鷲《わし》のように無関心にこわばらせて、「何御用?」とつっけんどんに言ったのだとしたら、僕のはりつめて来た仕掛花火は醜くしぼんで了《しま》ったに違いないのだから。
所が僕は均衡のとれた気持で部屋の中にはいることが出来た。(ドアの外に靴拭《くつぬぐ》いのマットが置いてあったが、ひどくよごれていた。それで僕はそれにじっと眼を注ぐことにひるんで、いい加減に靴を拭ってはいって来たが、居部屋の装飾された明るい中にはいった瞬間に、自分の靴の裏に、べったりと庭のじめついた泥がついているような感じが緒を引いた)
「ああ」と小柄のアレキサンドラが両手を広げるようにして僕にほほえみかけて言った。「いらっしゃい」眼の色が青くて、僕には何処《ど こ》を見て呉《く》れているのか分らないような頼りなさを感じさせる。
(僕の靴の裏に泥はついていなかった)部屋は日本畳にして十畳もあるだろうか。港の方に向いた二方には広い硝子《ガラス》窓《まど》がついていて、部屋はその為に大へん明るい感じがした。部屋の片隅《かたすみ》に大型のベッド。羽根枕が奇妙な恰好《かつこう》のピラミッドにつみ重ねてあるのが何かユーモラスな感じを与えた。
棚《たな》のような所にはどこにでも人形が飾ってあり、壁には所きらわず、ロマノフ一族や自分達家族の写真が貼《は》りつけてあった。あくどくべたべたした感じを真昼の光線にも平気でさらけ出していて、戸口のドアの横手に据えられた大鏡に、容赦なく、自分の無精髭《ぶしようひげ》を生やした青い顔が写し出されるのと共に、まざまざした異種の生活のエネルギーに、ともすれば押しやられそうであった。
僕はもっと図々《ずうずう》しい顔付でのこのこ、部屋の中を土足のままで(と云ってもそれがトルガノフの家ではあたり前の習慣であったが)はいってやるつもりが、ニコライの愛想《あいそ》と、アレキサンドラの好意で、かたかたと対等の所まで捩子《ねじ》が戻ってしまった感じだった。生地はすぐ出てしまうものだ。このまま、へいさようならと逃げ出し度《た》い弱気に一寸《ちよつと》苦しんでいた。
「どうぞどうぞ」
アレキサンドラは招じて呉《く》れる。然し部屋の丁度真中に四角いテーブルが据えてあって、白い敷布がかけられ、上にはコーヒ沸《わか》しとコーヒ茶碗《ぢやわん》に食パンがのっていた。椅子が四つある。どちらが上座かどうか、又トルガノフの家ではどんな風にしているかも分りはしないで、絨毯《じゆうたん》の上に突立って、丁度公案を出された顔付だった。
「御食事中でしたか」僕が言った。
「いいえ。もうみんなすみました。あなたは?」アレキサンドラが言った。
「ああもうすませて来ました」僕はそう返事をしたが、それはつくろいだった。ただ別に食慾は起って来なかった。途中で食べたてんぷらが胃にもたれ気味であった。
僕が躊躇《ちゆうちよ》しているのを見て、ニコライは、大股《おおまた》でテーブルに近づき、一つの椅子を坐り易《やす》い様に引っぱって呉れた。
「おかけなさい」
僕は言われるままに腰を下した。椅子はぎしぎしよろめいた。もう大分くたびれている。ニコライが左手に、アレキサンドラが右手にテーブルについた。
「みんなお元気ですか。ワーリャちゃんや、リュウバちゃん、ジナちゃん」
「みんな、元気です」ニコライが返事した。
「そうですか。よかったですね。みんな御元気なのが何よりです」そしてアレキサンドラに向って僕は言った。「僕を覚えていますか」
「覚えていますとも」彼女は確信に満ちた返事をした。
「今あなたは?」ニコライがきいた。
「神戸にいます。商用でこちらに来たので」
「おおコベですか。わたしコベに明日行きます。コベはいい所です」
ニコライはそう言った。そして僕はその彼の唐突な言い方、つまり、今日の明日神戸に行くという言い方、言う迄もなく明日この初老の亡命ロシヤ人は何かの用事で神戸に行くのには違いないのだろうが、その同じ神戸から、選《よ》りによって買いにくい切符を手に入れ乗り難《にく》い汽車に兎《と》に角《かく》乗り継ぎして此《こ》の西の涯《はて》の市街に一人の日本種の青年がやって来て、気まぐれが作った機会でこういう会話をとり交《かわ》している事実に、何とも妙な不安な感じがつきまとっている気分を消す事が出来なかった。
ニコライは日本流の数え方をして恐らく五十代も半ばを越そうとしている年配ではないだろうか。それが青年の様に無造作に背広をひっかけて、太い腰骨でバンドを支《ささ》え、青いシャツ、赤のネクタイ、頭髪は綺麗《きれい》に油でくしけずって流線の型で三角にとがらせ、地肌《じはだ》にべったりとくっつけている。全体がぶこつな頑丈《がんじよう》な身体《からだ》つき乍ら、何処《ど こ》かしなやかで、ハードル跳躍でもやりそうな身ごなし。そのニコライが椅子に幾分だらしなく腰をかけて身体をそらし右腕を椅子のもたせから後ろにだらりとぶら下げて、左手をテーブルの上にのせて、指でこつこつ叩《たた》いて調子をとり乍ら僕と話すのであった。
そしてこのニコライが僕には矢張り一番邪魔であった。ニコライの留守中であればよかったと思った。
「神戸は度々《たびたび》?」
「え、あっちこっち、忙しい、商売商売」ニコライは大きな肩をすぼめてみせた。
「神戸も段々復興します。もうゴンチャロフさんなんかもチョコレートを作り出しました」
「そう、ゴンチャロフ、始めました。あなた、ゴンチャロフ知っている?」
「いいえ。ショコラットの広告をみただけですがね」
「そう。わたしコベに行けばゴンチャロフの所にもよります」然しそれ丈でニコライが今何をしているかは見当がつかなかった。
僕はアレキサンドラの方に顔をむけた。さっきからじっと僕の顔を眺《なが》めている眼を感じていたからだ。
「ワーニャさんは?」
彼女の長男のイワンの消息をきいてみた。彼がハルビンに行って居たことを思い出したのだ。
「ハルビンでしょう。帰って来ましたか?」
「ニエト、今何処《ど こ》か、分らない。これ困るのね」
下手《へ た》な日本語で彼女は暗い顔付になった。
「ほう、それはいけませんね」
ニコライががたっと不躾《ぶしつけ》に立ち上って窓際《まどぎわ》の方に行った。
「ちっとも様子が分らないのですか」僕はもっともらしい顔付で彼女にきいた。
「それね。お友達の人、帰って来ました。その人のね。ワーニャのお嫁さんの言葉教えて呉れたの。(ニコライがロシヤ文字の入った莨《たばこ》を持って来て「莨吸いなさい」「僕持っています」「いいよ、お吸いなさい、上等莨です」)ワーニャ連れて行かれました。わたし心配です。とても心配です。(僕は首を振って見せた。そして細身の日本莨より長い感じの巻莨を手を伸ばして取って口にくわえた。マッチを持っていないので、ポケットの辺《あた》りに手をやる恰好《かつこう》をした。ニコライは胸のポケットからライターを取り出して、ぱちっと点火して大きな手屏風《てびようぶ》のまま僕の鼻先に持って来た。僕の莨に火がつくと、ぱちっとそれを閉じ又胸のポケットに収めた)困ったことの、その後便り何にもありません」
アレキサンドラはやたらに「の」の多い日本語を使った。
「でも大丈夫ですよ。同じロシヤ人だもの」
「ワーニャはファシストにはいっていました」
「それはまずい」僕は一寸暗い顔をして見せた。そうだ僕の知っているイワンは鉤十字《かぎじゆうじ》のバッジを胸につけたりしてドイツ人のような恰好をしていた。
「でも、処罰されているのは上の方の人だけですよ。もうセミョノフも殺されたじゃありませんか」
それには、ニコライが引取ってこう答えた。「そう、セミョノフもラザイェフスキイもこれになった」そして右の掌を水平にして首をすっと横に斬《き》る恰好をした。
「そうですよ、だからもうそれでいいわけです」
口から出まかせにそんな事を言い乍ら、然し僕にはプーシキンが原稿の余白にいたずら書きした吊《つ》るされている被絞者の図が浮んで仕方がなかった。
そして、会話がこんな風になって来た事に僕は満足し始めていた。すすめられてパンも食べ、紅茶も、二杯も三杯も飲んでいた。砂糖も思い切って沢山いれてかきまぜ、うまいものだからすぐ飲みほすと、アレキサンドラがすぐ次ぎの紅茶を作ってコップに満たして呉れた。「サマワルが壊《こわ》れてしまって」と彼女は大やかんにたぎらせた湯を運んで来てはコーヒ沸しにつぎ足した。
その時僕の背後に当る部屋で、がやがや子供達の帰って来た気配がした。
「ワーリャ」ニコライがどなった。
「ダア」聞き覚えのある少し癇《かん》の強い少女の声が聞えた。
「イジ・スダ、(何とかかんとか)」ニコライは続けて隣室に声をかけた。此の部屋に一人ロシヤ語の分らない人間がいる、それを意識して殊更《ことさら》にスラングを使って口早にしゃべるような気持さえ起させる調子であった。僕は覚えのある単語を二つ三つ捉《とら》えることも出来たが、結局何を言っているのか分らないので、曖昧《あいまい》な顔付で耳をすませている恰好をしていた。どの位成長しているだろう。僕を見て何らかの感情を現わすだろうか。
〓レンチナ・トルガノワの存在は僕の心象風景の一箇の触媒であった。僕はふとした時に彼女を想い出して物語を細工してみる楽しみを持つ事が出来た。彼女の名前は兵隊にとられて戦場にいた時も一種のカンフルの役目さえ果して呉れた。彼女は僕のたよりない夢の中にまでしのび込んで来て奇妙になまのままの実感を僕に与え続けた。そうして僕はもう別個の〓レンチナを作りあげていて、実在の〓レンチナ・トルガノワとは全然別個の少女になっていたけれども、然し色々な連想のより所として実在の彼女を忘れることが出来なかった。
無国籍の亡命者達が戦争中逼迫《ひつぱく》した生活を続けたであろうことは大凡《おおよそ》察しがついた。恐らく大へん卑屈な日常であったろう。物質的な貧窮は容赦なく襲って来ただろう。そういう風な日々に、年頃の娘はどんな運命の日を生活出来ただろう。僕は〓レンチナの淪落《りんらく》した姿を何遍となく幻に画いていたことを白状する。そういう幻想は僕を甘い気分にした。童女を育ててその日常生活を共にしながら彼女の思春の目覚めを観察する……という一つの観念が僕の心の故郷に巣喰《すく》っているのだ。そういう生活、僕が〓レンチナの淪落の日常を観察出来る状態の生活を夢みてはうなされていた。そんな陰影さえもし有るものならば、恐らくはすまし込んでいるであろう彼女の面貌《めんぼう》から観察しなければならない。
〓レンチナがはいって来た。
僕はその方をはっきり見た。そして僕は大へんあての外《はず》れた思いをした。
「こんにちは」
僕は先に声をかけると、彼女は不意をうたれた恰好で、ぎこちなく一寸立止ったが、身体をななめにしたまま「こんにちは」と返事をした。それはまるでそっけなく、口もとにうすい笑いを漂わせはしたが、すぐにつと消え去ってしまった。
ニコライが何かロシヤ語でしゃべった。
するとアレキサンドラもそれに応じて早口でロシヤ語をしゃべった。
〓レンチナは僕の向う側の椅子に腰を下して、僕に関係のなさそうなロシヤ語をしゃべった。
まるで小娘であった。ただ背丈《せたけ》ばかり棒のようにのびて、昔のままの小娘の顔付をしていた。顔全体に険が出て、意地悪に見える。彼女が何を考えているか、僕には全然見当もつかない気持がした。彼女にとって僕はただ路傍の小石に過ぎない。僕は蹴《け》りころがされた石で、ひっかかりがない。総《すべ》てが理窟《りくつ》っぽく割切れていて、彼女の無関心な顔付を変貌《へんぼう》させるてだてが一つもない状態の流れの底に沈んでいた。
座が少し白けた。
するとニコライが立ち上った。
「今から配給の薪《まき》取りに行きます。あなたゆっくりしなさい」
ドアを開けて木の階段を降りて行った。
僕はほっとした。肩が崩《くず》れて、何だか素晴らしい未知の世界をものぞけそうな期待に満ちた気分にさえなって来た。
僕は〓レンチナをまともに見てきいた。
「女学校に行っているの?」
〓レンチナはママの方を盗み見て、とまどったように、「いいえ」と返事した。
「ああ、ママさんのお手伝いね」僕は彼女が仲々器用にアプリケを作る腕前があることを思い起した。まだ年端《としは》もいかぬ癖に、そういう手芸の技にひとかどの誇りを持って、打ち込んでいる一面をうらやましく思えていた。
「リュウバは女学校に行っています」
アレキサンドラが妹娘のことを言うことで〓レンチナの当惑をかばう様な調子で言った。
〓レンチナの顔は灰色をしていた。左の眉《まゆ》の上に疵《きず》をこしらえて、ぐるぐる繃帯《ほうたい》をしていたことがあったが、それがはっきり残って、いたましい感じを与えた。僕は彼女に陰影を見ることに失敗した。彼女はかたい青梅のようなものだ。ただ背丈だけが、のっと育って、均合《つりあい》のとれた身体つきに、色々な部分の布きれをまとっているといった恰好であった。
「戦争中何処にいたの」
彼女はまた母親の方を見た。
「添田」
「H山のあるところの?」
「ええ」
「疎開で?」
「いいえ、外国人はみんなそこに連れて行かれたの」
すると、アレキサンドラが口を入れて来た。
「警察の人来てね、すぐ用意しなさい。それ無理の、何にも持って行くことの、これ駄目の、わたし達困った困った」
「それは随分困ったでしょう」
「刑事はうち好かあん」〓レンチナが眉をしかめて言った。
「憲兵ね、これ悪いの、困るの」アレキサンドラが言った。
「憲兵にいじめられましたか」
「何にも分らないのに、すぐうたぐる、わたし悪いことしない」
「無茶苦茶だったのですよ。下品なやつばかりいたのですからね」僕は、こんな風な言い方をしている自分を、はっきりきな臭い感じで感じていた。
「中にいいひと、います。親切のひと、わたし知っています。わたしの知っている刑事さんね、親切の人、憲兵、これ悪いの」アレキサンドラはうまく話をぼかしてしまった。
「警察ではね、日本の負けたことをうちたちに教えんやったとよ、けどうちは知っていた。うちたちの知っている刑事さんが、そっと教えて呉れた。安心しなさい。日本は負けたとって」
「そう。日本は負けちゃったよ」
「あなた。やっぱり兵隊さんだった?」
「僕ですか。ええ……まあ……そうです。軍艦に乗っていたのです。けどすっかり負けてしまって帰って来ました。日本は駄目だったのですね。日本は野蛮国だったのですね」僕は自分の唇《くちびる》がいくらかゆがんで言っていたのに気づいた。アレキサンドラは見当のつかない顔付でうすら笑いをした。〓レンチナはむっと口を結んで、視線を外《はず》していた。頤《あご》がきつく割れているのが、小娘ながら、頑固《がんこ》で確乎《かつこ》としたエゴチズムの所在を思わせた。
僕には季節の感じがなかった。適宜に暖く適宜に寒いそんな日々だった。その季節のない日の或《あ》る日に僕が南の都市にやって来ていたのだった。或《あるい》は十一月頃だと言っても差支《さしつか》えはなかった。僕は頗《すこぶ》る粘着力のない性分で、それは丁度自分の頭髪の性質に似ていた。うまく頭髪の分った日は何日あるだろう。髪のさばきの悪い生涯……僕の頭髪はその日その日に分れ目が違っているのだ。それだから僕の頭髪の型に呼び名はなかった。そして僕にも呼び名が無い。僕がそれだから、どんな前後の時代に住んでいたのか、知る由《よし》がない。こんな時代だよ、とひとに言われた所で、どれ一つそれを掴《つか》まえて自分で見ることが出来よう。僕はただ推移して、見、聴き、触《さわ》り、嗅《か》ぎして、そしてどれにも僕流のアクセントがついていた。
僕は〓レンチナに(それがトルガノフの〓レンチナであったにしろ又はセイフリンの〓レンチナであったにしろ)「少女」を鋳込《いこ》もうとしていたのだった。その時分が一番美しいのだと強《し》いて思ってみたいような、十六歳の処女のタイプを、自分で育てて手中にしてみたかったのだ。
僕は、僕にとっては短かかった戦争の中絶の後に、南山手にやって来たのだった。
そして僕は、このようにして〓レンチナを眼前に見ていたのだ。
それに僕はすぐさめてしまうたちなのだ。「どこそこ」に行こう。こう決心して電車道だの橋だのを渡って、その場所に近づく。そしてその場所の一部の何かが、例えば看板だとか又は塀《へい》だとかが見えると「どこそこ」のその場所に行こうとしている自分が、頗る影の薄い、余計なことをし出かそうとしているような興褪《きようざ》めた気分に陥ってしまうのだった。僕は胸のポケットにウイスキイの小瓶《こびん》をいつもしのばせていたいと思った。その興ざめのエアポケットに引ずり込まれた時に瓶の口をあける。(それが可能の経済能力?)
とにかくトルガノフの家に来る迄に、その興ざめのエアポケットを泳いでいた。その揚句かくのようにしてトルガノフの家の部屋に招じ入れられていたのだった。
〓レンチナはつと立って隣の部屋に去った。丁度一寸《ちよつと》用事があって座を外す者のような恰好《かつこう》をしてこの部屋を出て行った。だが、それ切り彼女はこの部屋に戻っては来なかった。
もうどんな話題もなくなってしまったような部屋の中の空気になった。而《しか》も何故《な ぜ》か僕は腰が上らなかった。自分の性格の界内で、世界はこれ丈しか動かぬという気持の底でも、まだ何か全然突飛な展開が突然やって来ないものでもないような気がしていた。
僕はさい前からアレキサンドラの指の先をみていたのだ。彼女はテーブル掛けの上にこぼれ落ちた紅茶の粉をなぶっていた。それは別にひと所に集めようとするのでもないようであった。放心したような状態でよごれた粉を指先で集めたり散らしたりしていた。僕はまた僕でそれをじっと見ていた。丁度ガラス戸にへばりついたものうい蠅《はえ》の動きを見ているような気分になっていた。それにテーブル掛けの上はさっき彼女がそそうをしてこぼした紅茶がしみついていた。
彼女はものうそうに呼吸をした。僕はすっかり世帯じみたみじめな断面にぶつかっていたのだ。一方僕にしたところで、まるで平板な顔付さながらの面白味のない存在になっていた。時計を見た。すると俄《にわ》かにそのセコンドを刻む音が耳につき出した。もう僕は腰を上げて辞去しようかと思った。この辺でぷつりと切断されてしまうきまぐれな人間関係を、橋の上から投げ棄てられておちて行く莨の吸がらを見送るような気持でいた。すぎなのつなぎめのような。
「困ったことの」
ため息のように小ぶとりのアレキサンドラが思い出したように言った。それはハルビンで不利な境遇になっている息子のことを言ったものか、又何気なく前に言った自分の言葉を繰り返したものか、もっと別の意味で言ったものかは知らない。そこで僕もそれに合槌《あいづち》をうってみせる。
「ほんとにねえ」
今度は部屋の隅《すみ》のベッドに眼が行く。そのベッドは此《こ》の部屋にはいった時から僕の頭の隅《すみ》の一部を占領していた。夜寝る場所が昼間みんなの眼の前にさらされていることは何としても僕には物珍らしいことなのだ。それ丈で僕は違った性格の生活が想像された。このベッドの見える部屋で生活して、外を歩いて来たままの靴で此の部屋の中にはいり、洋服から着物に着換えることもなく、毎日生活したらどんなものだろう。そのベッドの毛布は割にたん念にたたんで、大きな幅の広い枕をピラミッドの型にまるで積木のように重ねてある。僕は微笑すら浮べていた。(さあニコライが帰らないうちに帰ろう)
だがニコライは帰って来た。
「やあ暑い暑い、汗かきました」
太い頸《くび》の辺が赤く上気して汗ばみ、体臭をむんとさせて部屋にはいって来た。
僕はそれをしおに立ち上った。
「お邪魔しました。失礼します」
「そうですか」
それはニコライとアレキサンドラが殆《ほと》んど同時に言った。まるで待ち構えていてほっとした様な口吻《こうふん》であった。僕はうら悲しい気持を味わった。トルガノフの一家にとって遂《つい》に僕は何者でもなかった。愈々《いよいよ》もって僕は纜《ともづな》を切ってしまったような気分に落込んだ。まて夜の世界があるではないか、そう思っても然し昼間の世界では淡い力でしかなかった。僕は窓越しに港の方を見やると、外国船が入港して来るのが見えた。それがマストが林立して、色とりどりの信号旗が掲げられている上部の構造がまるで舞台の上でのようにガラス窓一ぱいに音もなく左から右へ移動している所であった。それを僕は不自然な位じっと見つめた。非常に珍らしいものを見たような気持がした。すると僕はフレガート「パルラダ」に乗っていた人の眼を、そのにぎやかな色彩の信号旗の下に、あの入港時の船内のざわつきと共に、窓の内界の遮断《しやだん》された部屋の中で音もなくききとったような気分になっていた。
その気配はニコライも察したものか、窓の方を眺《なが》めた。そして彼は叫んだものだ。
「おや、また罐詰《かんづめ》がはいって来た」
ニコライの口調はひどくなげやりであった。それ丈に僕はまた勘定高く皮肉な気持になった。(此の間まで馬鈴薯《ばれいしよ》一つにさえ困っていた癖に)
さっき、ニコライがしばらく外出してアレキサンドラと二人切りでいた時に、心にせきたてられるものがあって眼元に柔和な皺《しわ》をよせた彼女にこんなことを言った。
「おばさん、お米食べますか」
「え?」
「食事はパンだけですか。お米も食べますか」
「ああお米。食べます食べます」
「そうですか。僕旅行中のため少し持っているのですが、あげましょうか」
僕の気のせいで、彼女は少し顔を赤らめたような風であったが、すぐおだやかな調子で、
「いいです。旅行中のため持たないと、これ不自由のね。わたくしの所沢山あります」
と言った。そして小さな声で、
「むかしは無くて困っていたのだけれどもね」
とつけ加えて。
だから僕はニコライが外国船と罐詰とすぐ結びついてしまっている、あけすけな考え方に油っこい感じを抱《いだ》いたのだ。
丁度その時隣の部屋に幼い靴音がして、ぱっとドアをあけた者がいた。
「ママ。おねぎの配給をとって来たとよ」
そう言って葱《ねぎ》の束をこっちの部屋の方につき出してみせた。それは〓レンチナの妹のリュウバであった。さっき、アレキサンドラがリュウバは女学校に行っていますと言ったそのリュウバが女学生らしいセーラーとひだの多いスカート姿で細い少しエッキスなりの足で立っていた。そして僕の姿を見ると、きっと〓レンチナからきいていたのに違いないのだが改めて、ぱっと顔をあからめてお辞儀をした。まるで日本人の小娘のようであった。もともとトルガノフの娘たちはロシヤ語より日本語の方が話し易いのであったが、殊《こと》に二番娘のリュウバはロシヤ語が下手《へ た》で、大ていは日本語で間に合わせていた。そのせいか気質まで日本の子供に似ていて、すっと皮膚の反撥《はんぱつ》なしに近づいて来る子供だったのだ。ひどくはにかみ屋で姉妹同志話をする時は大へんおしゃまな口のきき方をするのに僕が一寸でも話しかけると、すぐ身体をくねらせて、しゃべらなくなってしまうような子供だった。然し決して傍《そば》から逃げて行こうとはしない。そのリュウバも、すっかり大きく成長して眼の前にいた。
「おや、リュウバちゃん。大きくなったね」
そう僕が言うと、リュウバは顔中笑顔にして、子供の時からのはにかみをやってみせた。
「女学生だって? 僕を忘れたかな。覚えている?」
すると彼女はこっくりしてみせた。子供の時は、むちむち太った丸顔が、固いながらもきりっとした顔立に変りかかっている。僕はリュウバの親し気なはにかみで、彼女が成長したらきっと世話女房型の女になるだろうなどと考え乍《なが》ら、もっとこの家に留っていたい気分になっていた。然し既に僕は立ち上って辞去する姿勢をとっていたのだ。
ニコライとアレキサンドラは僕の子供好き――何と名づけたものだろうか。然し親達にはそこの所の正確な判別は分らないらしかったのだが――僕の如何《い か》にも子供好きの様子に、ふと親和の情が増したのであろうか、何かロシヤ語で話し合っていたが、アレキサンドラは呑込《のみこ》んだような顔付で小部屋にはいって行ったかと思うと、コッペのパンを三つ持って来て、
「これ少ないのけれどもね」
と僕のリュックサックに入れようとした。
僕は一寸当惑した顔付をしてみせたが、それは頂戴《ちようだい》して置こうという気持になった。イースト菌のにおいの好きな僕は、そのにおい丈で胃の中がすっきりするような気がした。それでこの別れ際《ぎわ》の人情劇で僕はてもなく参ってしまって、リュックサックの中に手を突っ込んで、新しい靴下を一足とり出した。
「之《これ》はまだ新しいものです。こんなものは失礼ですけどね(少しアレキサンドラの口調が移ったようだ)旅先で急に思い立ってこちらに来たので子供さんにお土産《みやげ》もなくて……」
そう言いかけると、アレキサンドラは手を振って、
「よろしいの、よろしいの」
「いえ、何だか変ですけどね……衣料品の配給は沢山あるのですか、おうちには」
「それは無いのけれどもね」
「それじゃ一足だけだけど、一度も使っていませんから、御主人がお使いになって下さい……此処《こ こ》に置きます」
そう言って僕は靴下をテーブルの上にのせた。すると彼女はニコライと、試合中の打合わせのようなことをして、ニコライがせきたてるようにすると彼女は再び小部屋にはいり、今度は平べたい楕円形をした罐詰を一個持って来て、
「之《これ》パンにつけて食べるとおいしい」
そう言い乍ら、罐を切る為の大きな鍵《かぎ》までくっつけて、母親のような手つきで、僕に渡した。
「これ、一寸大きいけれどもね、今小さいの、これ見つからないからね」
罐切の鍵のことをそう説明した。僕は笑って受取ることにした。
そして部屋の中のみんなに尻を向けて、リュックサックの紐《ひも》をしめていると、何だか自分をも含めてみんなで喜劇を演じたあとのような苦笑が湧《わ》いて来た。
僕はリュックサックを成るたけ小意気に右の肩にだけひっかけて、木の階段をとんとんと下りた。庭の植込みの辺に〓レンチナやリュウバが待伏せしていて、僕に笑いかけて来はしないかと思っていたのだ。然し彼女等は何処にもいない。ひょっとしたら僕が夕方迄《まで》居るものと思い込んでよそでゆっくり遊んでいるのだろうか。もう僕の事など何とも思っていないのだろうか。少なく共リュウバはあんな風に笑っていたのに、彼女たちの年頃の思考はもう僕の手の届かない所にあるようだ。門を出ると、そこには勾配《こうばい》の急な細い石だたみの道が、上手と下手の遊歩道路をつないでいた。
僕は、わざとな位に石だたみの上に靴音をさせて颯爽《さつそう》と下の道に下りて行った。滑稽《こつけい》なことには、僕が今の先までいた部屋の中のロシヤ人たちの顔かたちの投影を受けて、僕自身が、少し混血児がかったイワン何とかノフみたいな気になっていたことだ。それは丁度、西洋人と歩いている日本人の、衛星のようなあの顔付にどこか似通った……そして、僕は小娘のリュウバの笑顔だけでおかしい程充分鼓舞されている事に気がついていた。〓レンチナはまだ堅《かた》い。今度来る時には、もっと何とかなっているだろう。悪い評判でも立てられるようになっていたら面白いのに、と気儘《きまま》な妄想《もうそう》をしながら、僕は上機嫌《じようきげん》になって港湾側の崖《がけ》に臨んだ鉄柵《てつさく》のある遊歩道を、天主堂のある坂道の方に歩いて行った。
第三章
港に臨んだ丘の斜面をすっかり下り切ると、再び河口に近く架けられた弁天橋に出て来た。
すると弾《はず》んでいた気分がすーっと退《ひ》いてしまった。逆に下腹部のあたりが急に鈍痛を訴え始めた。
その腹具合の悪さは丁度その中に不消化の石ころをごろごろ入れたみたいであった。だが胃袋の中の物は不消化のまま腐敗して醗酵《はつこう》するらしく、においの悪いガス体が充満していた。トルガノフの家に行く前に、南京《ナンキン》町の支那《しな》料理で食べたてんぷらがあたったのだろう。その支那料理屋の主婦が相当の年配にも拘《かかわ》らず皮膚に艶《つや》があって小柄乍《なが》ら姿勢のいい豊満な感じが何処《ど こ》となく、目もとの小皺《こじわ》の辺《あた》りは一層トルガノフのアレキサンドラに似ていて、この街に来る度《たび》に一遍は寄ってみる場所の一つであったのだ。
此の頃流行の悪い油であったのに違いなかろう。それはやがて疼痛《とうつう》を伴《とも》ない歩きにくくなったので橋桁《はしげた》につかまり、しばらく痛みのとれるのを待つ事にした。
さて今からどこに行こう。実の所は、トルガノフの家で何か商売の事ででも意気が投合して、ニコライが僕に一晩泊って行けとでも言い出しはしないか期待して待っていたのに、其処《そ こ》を辞去して出て来た今となっては、何をさて置き今夜の宿りの事を考えなければならない。何処にしようか。腹痛がいくらか緩慢になって来たのをしおに、僕は先ず歩き出して見た。
やがて、僕はこの街に住んでいた頃の自分の姿を、ひどくやる瀬ない気持で、ある街筋に軒並みの、飾窓にうつる影像に求めていた。あの頃は、沈潜し切って腹の中が自嘲《じちよう》でいっぱいになると、ネオンの灯影に韃靼人《だつたんじん》のように自分を作りあげてよろめき歩いていたのではなかったのか。
だが今の僕はもう少し爬虫類《はちゆうるい》のようにうろこが生えて、冷えた感情でリュックサックとレインコートを振り分けにして今日此《この》頃の四つの島々をたったひとりで目的も無く歩き廻っている。
そのうち僕は「日輪」というカフェのあった場所の傍を通りかかっていた。するとまばゆい夏の晴れた日に、そこの女給や二、三の友人と一緒に峠を越して外海に面した漁村に遊びに行った事を思い出した。
(其処《そ こ》に行こう。そして、其処から連絡船に乗って天草《あまくさ》の島に渡ろう)
僕の気まぐれな羅針盤《らしんばん》の磁針が方向を差し示したのだ。僕は夢の中で、或る小島に渡ろうとして色々に思案を廻《めぐ》らし、電車やバスに乗ってその船着場にたどりついてみた所がその日の連絡船は出航してしまっていて船待ちの為に翌日までそのひなびた漁村に泊る破目《はめ》になる事がよくあった。そしてその小島に渡りさえすれば、都塵《とじん》に離れた秘めやかな歓楽の里のある期待に気もうつろにそわそわして来るのであった。僕は今現実にもこの市街を離れて、その郊外の船着場から天草の島に渡ろうという気持に浮立って来たのだった。
その船着場のM浦は大きな峠を一つ越した外海に面した漁村だが道程《みちのり》にして二里ばかりもあったろうか。峠を越せば山の斜面は南向きで、季節になれば枝もたわわの枇杷畠《びわばたけ》が一面に区劃《くかく》されているような所であった。そして其処には鍛冶屋《かじや》町のガレージから定期のバスが通っていた筈《はず》であった。
僕は鍛冶屋町に辿《たど》りついた。全く辿りついたのだった。腹痛はどうにか納ったようなものの、腐敗した物はやがて少しずつ溶解しはじめて頗《すこぶ》る不安定な状態を呈して来た。来て見れば、何処《ど こ》もただの街であるという法則の通りに、僕はもう無性にこの市街を離れてしまい度《た》くなって、心はしきりに船着場の部落の静寂さを思い描いていた訳だ。
だが何とした事だ。確かにこの町筋と当りをつけてやって来た所には一向にガレージらしいものがないではないか。今日此頃の事だからどんな事が起きようと致し方のない事なのだが、もしその連絡バスが廃止になっていたとしての、このまま二里の峠越えは真平《まつぴら》御免だ。そうなると、弊履《へいり》のように捨てようとしているこの市街の腸の何処かにまた今日もひっかかっていなければならぬ事になる。それはいとわしい事だ。僕は追手のかかった逃亡者のように全く痕跡《こんせき》なく今日のうちに此の市街を逃《のが》れたかった。
所で解決は何でもない事だ。内に向いて独《ひと》り歩きすると、一寸した事を「ひとに」きく事すら大変な決断の要《い》る大げさな行為になってしまうというやつだ。それで僕は、空間に僕の発声の音波を出してやる事を極度に嫌《きら》っていた丈《だけ》のことだ。そこで右腕をふり廻しでもして(奇妙な熱の為に声が梅毒患者のようにしわがれてしまっているに決っているから)声帯にしめりを与えて、その辺の人に二言三言尋ねさえすればよかったのだ。
そして僕は簡単に教えられたのだ。そこに行くバスは築港《ちくこう》の近くの電車の停留所の傍《そば》から出発している筈であること。
僕はやっと始めて電車に乗った。鍛冶屋町のすぐそばに市電の終点があった。僕はくたくたと電車に乗り込んで座席に腰を下したのだった。喫茶店でさえ落着けないのに、この比較してお話にならぬ程安い運賃で、僕は休息しながら、行き度い所に運ばれて行ったのだった。
第四章
ガレージの横のバスの待合室には沢山の待合客がいた。そしてそれらの人達はみんな田舎《いなか》染《じ》みた人達ばかりであった。猿芝居《さるしばい》に出て来るような人達。喰《く》いちらかした蜜柑《みかん》の皮、それはありふれた待合室の風景だ。そこでは思いきって鄙猥《ひわい》になり下って見せる事も出来そうな妙に猥褻《わいせつ》な空気が淀《よど》んでいるものだ。生き残っていた蠅《はえ》が、執拗《しつよう》に食い散らしたものの上に、よごれた新聞紙の上に、へばりついている。
僕はM浦行の切符を買おうとするのだが、必ず面倒な手続と浪費とがあるのに違いない。さし当ってあてにならない時間表、賃銀表、それぞれの行先を示した立札などを一遍通り見た所で、初客の散漫な頭の僕にのみ込める筈《はず》のものでもない。
すると急にやもたてもたまらぬ程の便の催しに襲われた。腹の中で行われていた自壊作用がもう完全に飽和点に達したのであろう。僕はレインコートをぞろっぺいに着用に及んだ上にリュックサックをひっかけたままで横手の小ぐらい通路にはいって行った。便所はそれ丈《だけ》の格式で、一目で見当がつくように作られてある。
然《しか》し何というきたない便所だ。奥の方は木炭俵が一ぱいつめ込んであって、境のガラス戸は破けたまま、ガラスではない他の物質のようにすすけている。お粗末な木造の構えで、ふみ場所もない位汚物が散らかり、人間が排泄《はいせつ》した物質の堆積《たいせき》に他の生き物の幼虫が密生して嫌《いや》なにおいに充満していた。おまけにあの蒜《にんにく》のにおいが身体に捺染《なつせん》するような調子で、何処に当てつけようもなく襲いかかって来た。
ただそのような汚物の堆積のなかから、つんと頭をつき抜けて行くようなアンモニヤのにおいが辛《かろ》うじて僕の浅墓《あさはか》な体面を保っていてくれはしたのだが。
兎《と》に角《かく》僕は不行儀をする一歩手前に立っていたのだ。半ば無我夢中でズボンをたくしあげ、リュックサックをどうにかガラス戸の桟の間に押し込むと、レインコートをぬぎ、そして次の瞬間に僕は新生していたのだ。腐臭とアンモニヤをいやという程かがされながら。
やがて僕は甚《はなは》だ軽くなって、あたりを見廻していた。奥の物置のうす暗い辺《あた》りの方にまで眼を皿のようにしてみた。何か秘密くさいものをかぎつけようとする。周りの壁に落書きした猥画を眺めてみた。壺《つぼ》の中をのぞいて見た。そうしてゆっくり身支度《みじたく》を整えると、レインコートを着て、リュックサックを肩にひっかけ、何食わぬ顔をして、もとの待合室の方に出て行った。
相変らず人々があちこちにうずくまっている。さき程より幾分人が殖《ふ》えたようであった。そしてみんな、係員が何かしゃべるのをきき落して先着の特権を人から横取りされはしないだろうかという猜疑《さいぎ》の光の眼を持っている。
「僕にもM浦迄《まで》切符を下さいね」
窓口の向うの仏頂面にそう言った。すると幸にも未だ余分はあったと見えて切符を渡して呉《く》れた。僕はあわてて何枚かの銀行券ばかりを支払って、
「今度の自動車は何時ですか」
だが返事はやって来ない。僕も黙ってその人の低い鼻を意地悪く眺めている。
「五時半ですよ」
横にいた中年の男が教えて呉れた。
「そうですか。どうも有難う」
僕は待合室の中をぶらぶら歩く。坐る場所を持っている人達は、それだけの事で、うろうろ立っている人を白い眼で見ている。
僕は時計は持っていない。
だが、どちらにしてもM浦迄のバスが少なく共もう一台は通って、そのバスに乗る事の出来る乗車券も買う事が出来たのだ。
旅の先々で、起り得る事実の程は、大ていの所はたかが知れているものだが、どうしてこう不安なのであろう。やはり僕は不安で、何となく落着く事が出来なかったのだ。つまり今夜の宿りが確定していないという事で、僕の前途の一寸先は闇《やみ》のような気分にさえなり勝ちであった。自分の住居であると決ってさえ居れば、それがどんな所であろうと、いつものように黙ったままでも、牀《とこ》にもぐり込むことが出来るのに。だが今の僕は、何としても、じだらくに睡眠《すいみん》をむさぼろうとする前には、いくらかの他人に向っての振舞と修辞とが必要であった。そしてそれが僕を不安にしているらしかったのだ。自分の修辞と振舞を予《あらかじ》め準備し待機させて置くという事は、僕には苦痛なのであった。
僕はリュックサックを土間にじかに置いてその上に腰を下した。
その姿勢で周囲を見廻した。そして娘達が目に入る事は僕をほっとさせた。突然の天変地異でこの場所が裂けても、その中に少女が交って居れば我慢が出来そうであった。未知の人の中で呼吸しているのは気が楽であった。そして自分が素性の知れない若者であるということをあたりに誇示したかった。
何も考えることがないくせに僕は最も考える人の姿勢で、沈潜していた。
紋平《もんぺい》に似たズボンにはちきれそうな太い腰を包んだずんぐりした平べたい顔の少女の車掌がM浦行の立札の所へ来て案内をした。ガレージの奥の方から木炭バスが一台動いて来て止った。ぞろぞろ、だが何か気ぜわし気に人々が立ち上った。実は切符の裏に乗車順の番号が記入されていたのだが、少女が番号を読み上げるとそれに従ってバスに乗った。
前後の人の顔貌《がんぼう》、それはその場では他の人と区別が出来る程度に知っていても、実はお互いに少しも知らないのだ。皆が無関心であった。おそらく僕が一番無関心なのかもしれなかった。それなのにこんな無関心の真只中《まつただなか》にいても、或《ある》人間がその時にその場所に居たという烙印《らくいん》は、人々の間から消し去る事が絶対に出来ないようにも思えた。人々が乗る。そして僕も乗った。
辛うじて後部の一番奥に座席が一つ空いている。僕は其処《そ こ》に坐る。後からも段々つまって来る。バスは一ぱいになった。僕の膝《ひざ》の辺《あた》りをぐんぐん押して来る。僕は顔を真直《まつすぐ》にしたまま僕のすぐ眼の前につっ立っている人間の服装を見ている。白っぽい作業服を着ている。上下共くっついて一枚になっていて油仕事をするときなどに着ているものだ。だが身体《からだ》つきは女のように思えた。風呂敷包《ふろしきづつみ》を一つ重そうに持っている。僕は持って上げましょうとも言わないで、そのままじっと山椒魚《さんしよううお》のようにしていた。
バスは動き出した。適度な振動や或《あるい》は不作法な激動も共に、肉体には快感であった。肉体の或部分は麻痺《まひ》状態になった。これだけの運命共同体。僕はトルガノフの家から、街々を通って(よくも歩いて来たものだ)、電車にも乗り、排泄《はいせつ》し、切符を買い、待機し、乗車し、座席も取り、次の事実へ傾斜していた。どれもこれも重大な要件ばかり、よくも為果《しおお》せて来たものだ。不安が転移して行く。それで不安は少しずつでも減少されて行くのだろうか。僕のリュックサックの中には米が二升はいっていた。厳格に言えば、そういうものを持って他県を移動して歩いている事は一種の犯罪となるような時代であった。それは僕の肉体のどこかに、小さなぶつぶつのような不安になって潜んでいた。
バスの外の街はたそがれていた。そして人々がぞろぞろ歩いていた。自分もさっき迄《まで》は其処を歩いていたのであった。バスの車体が街を截《き》って行く。そしてどの街筋にも見覚えがあった。狭くて家並の軒とふれ合うばかりの場所を通り抜けると、バスは川底の低い谷川に沿ったアスファルトで舗装した坂道にかかった。
市街の背山の峠を一つ越えると、その向うが南向きの斜面に枇杷畠《びわばたけ》の多いM浦の領域になっていた。峠から更に右手の山の頂に登ると、其処は萱原《かやはら》の丸い起伏があって、見晴しがよく、市街の人々の風致区になっていた。その為に峠への道は舗装され広く作られていた。峠迄は羊腸のようにうねって上る。一うねり毎《ごと》に市街のたたずまいは小さく広く眼の下に沈み、港や岬《みさき》、島々、対岸の巨大なガントリクレンは背景にせり上って来て、それはバスの窓の右になり左になりした。
はや市街は夕もやに包まれ、生き物の鼓動のような街の雑音をたたき消すようにバスのエンジンが重い騒音の層でうずめて行った。ぐるぐる廻りくねってバスの車体がにぶい速度で市街をのがれて行く。
人家は執拗《しつよう》に道端に続いてくる。一軒の家からとび出して来てあわてて立止った子供の顔。谷川の対岸に城跡のように小ぢんまりと孤立した丸い小山の頂点があって、その頂がろくろのようにぐるぐるゆっくりした回転で下界の方に移し置き去られる。
僕の膝《ひざ》の辺は他人の体温を感じていた。それは作業服を着た女の体温であった。だが僕はその女の背後の青年らしい恰好《かつこう》の男が、その女とあの慰戯にかかっていることを見てとっていた。それは二人の気分に同意さえあれば、半ば公然と群衆のただ中で遂行し得るものだ。二人共二人の身体を軽く然し充分に接触し合っていた。それは僕に一種の嫉妬《しつと》を感じさせたが、同時に僕の気分からはそういう過剰なものは何故《な ぜ》か急速に冷却して行った。
女は荷物を重そうにしていた。そこでやっと僕は手を伸ばしてその女の荷物を取ってやった。それは自分でもびっくりする程強圧的な気分に覆《おお》われていた。
女は何か言ったようであったが、素直にその荷物を僕にまかせた。僕は少し残酷な闖入者《ちんにゆうしや》の快感を感じた。
バスは依然としてエンジンを怒濤《どとう》のように層を濃くして峠を上って行った。
峠は小さな宿場のように、二、三の茶屋が並んでいて、そこでバスは停車した。あらためてもうすっかり日が暮れてしまったことを、同乗者達は知り、ひやひやした夜の気配と山の気配が、身体を寒くした。乗客達に奇妙な親和が起り、身体をよせ合う瞬間があった。二、三人の乗客が降りて行ったが、それは少し淋《さび》しい気がした。
再びバスが動き出すと、もう全くの山道で、エンジンは軽くかけたまま多少の制動に役立たせるだけで、それも下り坂ばかりで速度が加わると、エンジンも止め、車輪はがらがらとただ空虚な回転で、山の斜面を下って行った。
思いの外に長い道程《みちのり》であった。
やがて山も浅くなり道の勾配《こうばい》もゆるくなると、次の鼻を廻ればM浦の部落が見えるだろう、今度こそそうだろうという期待が持ち始められた。
僕は女が、青年に何か物を言いかけようとしている気配を感じた。二人共もう万更他人ではないような錯覚に落ち込んでいるのに違いなかった。
「あのう、Mにホテルは御座いますでしょうか」
それは、すがりつくような女の声であった。
「ホテル? 宿屋ですか。宿屋は有《あ》っとですよ」
一寸《ちよつと》当惑した若い男の実直そうな声が返事した。
「あたし、天草に行き度《た》いのですけど、もう今夜は船は出ませんでしょうねえ」
それはどうにでもとられる言葉ではないか。僕はこの女は少し低脳ではないだろうかと思った。都会に働きに出た女が郷里の家に帰るだけの話なのだろう。この辺の事情はすっかり知っている癖に。それ共満洲《まんしゆう》あたりの引揚者が、未《ま》だ見たことのない夫の故郷に今始めて渡って行こうとでもしているのだろうか。
「今日はもう船は出らんとですよ。宿屋なら沢山あります」
それなりに会話はとぎれた。然し言葉はとぎれても女の能動的な意志が独《ひと》り立ちして雰囲気《ふんいき》の空間を歩いて行くようであった。青年にとっては妙に息づまる時の停滞であったに違いない。僕はその女が決して素人娘《しろうとむすめ》ではないような確信を持った。ただ言葉遣《づか》いを上品ぶっていることが却《かえ》ってその女の品を下げて感じさせるようだ。だが僕はまだその女の顔をはっきり見ていた訳ではなかった。
道は全く平らになり、バスは急にエンジンをかけた。だだっ広い川の向うに小学校の校舎と運動場が、ひっそりと眺められる場所を過ぎると、バスは軒の低いごみごみした漁師町の家並にはいって行った。家々には、にぶく電燈が点《とも》り、魚のにおいがふきぬけた。潮臭い風。バスはすぐ止った。もうそこは町のつき当りで、夕凪《ゆうなぎ》の静かな入江のただ中に簡単な石垣《いしがき》とコンクリートの突堤が、黒々とぬうっと港口の方に伸びていた。心なしか秋風さえ吹き、バスの待合室に貼《は》られた時期を過ぎた興行物の広告ビラが風にあおられてはがれかかっているのが眼についた。
人々は皆降りてしまった。そして少しも躊躇《ちゆうちよ》することなく町のそれぞれの部分に散ってしまった。僕は夕飯のあてさえなく、心なしか、又腹具合が変になって来た。先ず何を置いても今宵《こよい》一夜の宿りを決定しなければならなかった。
第五章
意味なく広過ぎると思われる様な道端に大きな網が干してある。川口に架けられた石の橋をバスの中の女が渡って行く。彼女は、例の青年と一緒に歩いて行くのだ。だぶだぶの白い作業服を着た若い女の後姿など凡《およ》そ滑稽《こつけい》で道化染《どうけじ》みて見えた。彼女はその青年とまるで恋人同志のようにぴったりより添って何か話し乍《なが》ら急ぎ足で行く。ふと僕はその女の後をつけて見ようと思った。
あたりがすっかりくらいという事でかなり大胆になっていた。僕はいくらか気持にアクセントをつける為に歩き乍らレインコートの襟《えり》を立てた。そして彼等との距離をどんどんつめて行った。
ふいに僕は思い出したことがあった。こんな寒漁村に、不似合なホテルがあったということを。それは今度の戦争よりずっと以前の景気のよかった時代に、上海《シヤンハイ》あたりの西洋人が避暑にやって来た為に作られたものであるらしかった。外人客が来なくなった一頃は都市の学校の学生達に間貸をしていたようなことも思い出した。戦争中のことは知らない。こんな漁師町に泰西風のホテルという組合わせは大へん似付かわぬ気持がするが、然《しか》し現実に布置されてみれば、如何《い か》にもしっくりした風景にも見えた。M浦の部落外《はず》れの山道に思いもかけぬバンガロ風の西洋建の住居にぶつかるのも、この都市の地方の歴史的な理由もあったのだ。僕がその都市に住んでいた頃の郊外散歩で、すっかり黄色人種の中年女に還元してしまったような渡海帰りの日本女と生活している隠者然とした白髯《はくぜん》のヨーロッパの老人をよく見かけたものだ。
この辺の漁師たちはその気味の悪い混血児にも驚かなくなっている。それは既に部落の点景でもあり、又案外血族の近くで、そのような混血児の家庭と関係を持たされてもいたからだ。
だからそのホテルも、反撥《はんぱつ》と調和とを奇妙に対照させて、結構この漁師町に似つかわしかった。
石の橋を渡ると、もうホテルの構えが見えた。植込みの樹木が多く、門口から玄関迄に砂利が敷きつめてあって、お粗末ながら車寄せも設けてある。だが総《すべ》てが木造で、日本の文明開化風な建て方の名残《な ご》りであろうと思えた。
窓々から燈火がもれて、旅情をそぞろにさせる誘惑の招きの気分が漂っていた。
青年はホテルの前の所で、その女と別れて左の方にそれて行ってしまった。僕は今から初舞台に出ようとする俳優のような胸のときめきを覚えた。
歩きにくい砂利道を通って、取っつきのホールの傍の玄関口に辿《たど》りついた時は、その女は、ホテルの留守番らしいおかみさんと宿泊交渉をしている所であった。
「あんたおひとりですか」
おかみさんは抱きかかえた赤子をあやしながら、その女を見下すような調子で言っていた。女の一人客では具合が悪いような響きがあった。流行のアップヘヤ。
丁度その時僕がその、三和土《た た き》に、その女のななめ後ろの辺にぬっと立ったのだ。
「お二人ですか」
おかみさんは、僕の方をななめにながし視《み》て口をついだ。
すると女は、ぎくっと後ろを見た。それで僕は始めてその女の顔を見た。やわらかそうな髪の毛を三つにも四つにもぐるぐる巻きにして、顔の大きさに比べて髪の毛の方がまるでボンネットのように大き過ぎて見える。丸い豊かな顔。右頬下に大きなほくろがあった。だぶだぶの道化じみた作業服から意外に若い女らしい顔が振向いて、僕の肉体の組織は弛緩《しかん》し始めた。細く引いた眉《まゆ》の下の丸い、だがきつい感じの目が哀願しているように見えた。
「部屋は開《あ》いていますか」
僕はおっかぶせるようにきいた。
「部屋はありますけどね」
おかみさんは腕の中でむずかり始めた赤ん坊をあやし乍ら、
「姉さん姉さん」
料理場の方に声をかけた。
「別館の方におつれしたら」
料理場の方から声がして来た。
「じゃ、よございます。御食事はどうしましょう」
「僕はいらない」
すると女は、
「あたしお米を持っていますの」
そして僕の方をちらと見た。「あしたの朝とお弁当を作って下さいね」
「それじゃお米をお預りしましょう」
女は三和土にしゃがんで、ホールの板の間に風呂敷包をほどいて、米の包みを出した。スリッパが四、五足並んでいるその横で。
僕はしゃがんだ女の姿を見下した。女工の里帰りかとも思ってみる。うなじの辺が白い。
おかみさんが米を受取って料理場の方に消えて行った。おかみさんが板の間のホールを歩くと、畳数にして五十畳程もあるその広間が、がたがたとゆさぶるようにゆれた。片隅《かたすみ》の書棚《しよだな》に百科全書のような金の背文字の書物が見える。スタンドもあって、からの洋酒瓶《ようしゆびん》が並んでいる。総て、懐《なつか》しの何々と言った調子だ。
それに僕は、赤子を抱いたおかみさんの客扱いが、さらさらした感じに受取れた事に感心していた。明らかにお客様との境界線を心得たやり方だ。此《こ》の家族の間では、泰西ぶりの応待に馴《な》れっこになっているのだろう。心なしか、あのおかみさんの皮膚は赤ら顔に見えた。眼の色にむき出しの好奇心は現われていなかった。然し之《これ》は僕の判断違いかも知れないが、とにかく、鍵付の部屋で一夜が明かされそうだという事態の動きは、僕を又もやイワン何とかノフの変形へ誘うものであった。
「天草へ行くのですか」
僕は風呂敷包を結んでいる女に声をかけた。
「ええ下田まで行きます」そして「あなたも」
「ええ」
「まあよかった。女が一人だと泊めて貰《もら》えないらしいのですわ」
僕は女が馴れ馴れしい口のきき方をするのを吟味するようにきいていた。それに下田と言えば天草島でたった一カ所しかないという所の温泉場なのだ。
バスの中での開けっ広げの会話の仕方がそのままだ。
おかみさんが、がたがたとホールの板の間をゆさぶって歩いて来た。右手に鍵束をがちゃつかせて、
「どうぞ」
三人は植込みの中に出て行く。室内の電燈のあかりが庭の闇《やみ》の樹葉にかぶさっている。柊《ひいらぎ》か何かの花のにおいがしたようでもあった。僕は僕自身二本の棒が歩いているような感じであった。
別館は二階建の木造で、細長い矩形《くけい》の建物だ。縦にぶっ通しに廊下がついていて、その両側に向い合わせの部屋が並んでいた。
おかみさんが先に立って、中央のドアを開け、廊下のスイッチをひねった。そして木の階段を上って行く。館の中はひんやりしていて、三人の足音がうつろに反響した。
三人共無言であった。別館には宿泊人は一人もいないらしい。おかみさんは二階の一番すみの部屋、それは本館の母屋の方に一番近かったがその向い合った部屋の扉を二つ開放した。
「節電ですから一時間程したら電気が消えます」
そう言い残すとそのまま足音をさせて降りて行った。おかみさんの足音が消えるとがらんとした空虚がしばらく残った。
二人はそれぞれ部屋に引きとった。二人共ドアを開け放したまま。
部屋は二つのベッドで一杯になっていた。大鏡のついた洋服箪笥《ようふくだんす》。そして鏡の前には白い瀬戸引きの、柄つきの壺《つぼ》が一個置いてあった。うつぼかずらの花のような恰好《かつこう》、その白い瀬戸引きが、此の部屋のただ一つの装飾であった。二つのベッドの白いシーツ。
僕はリュックサックをベッドの上にほうり投げると、がたがたと階段を降りて行った。腹具合が又頗《すこぶ》る不安定の状態になって来たのであった。廊下のつき当りの所から外に出て見た。そこですぐ便所は分った。低燭光《ていしよつこう》の電球がぼんやりその場所を照らしていた。
そして僕は洋式の楕円《だえん》の木の輪の上に腰を下していた。わざと不馴れな洋式装置を利用していた。冷たく清潔で、妙にじかな感じがした。
僕は身も軽々と階段をはね上って部屋に戻って行った。僕は彼女が彼女の部屋のドアを開け放したままにしているだろうと思った。
そしてそれはその通りであった。向い合わせの二つのドアが開いたままになっている。
僕は彼女の部屋の中をのぞき見した。するとぷーんと烈《はげ》しく僕の鼻をついた甘ずっぱい匂《にお》いの中に、大きな青いセキセイインコが一羽ベッドの上に横坐りしていた。それが彼女の変形であった。
僕は眼を見張る思いをした。それはその前の彼女とすっかり変って見えた。
「こちらに来ませんか。僕は夕飯の為に、パンを持っているのですよ」
「ええ」
女は答えて、立ち上って来た。僕は河を渡ってしまったことを、予感した。
それにしても僕の部屋に一歩ふみ入れた彼女の眼の前には、まっ白なシーツのベッドがむき出しのまま二つも、部屋の殆《ほと》んど半分以上を占領して顕現していたのだ。
僕は靴をぬいで奥のベッドの上にあぐらをかき(その時迄僕は靴をはき放しであった。僕はこの一晩は寝床の所までも靴ばきのままで、ふみ込むことの出来る仕組みの中にいた。そしてそれは昼間トルガノフの家で、ふと侵してみたくなっていた所の作法であった)リュックサックの中から、トルガノフの家で貰って来たコッペのパンとサージンの罐詰《かんづめ》を取り出した。
彼女は瞬間一寸《ちよつと》ためらった。
「あのう、雑誌お読みになります?」
「雑誌ですか、読みますよ」
「あたし読もうと思って買ったのですけど、もう読んでしまいましたから……もって来ますわ」
そんなつじつまの合わない事を言い乍ら、たもとをひるがえして大きな青とんぼのような恰好で自分の部屋に引返して行った。甘ずっぱい匂いが僕の部屋に広がった。
「これお読みになりまして?」
「ああ、それですか、読みましたよ」
「そんなら、これはどうですかしら」
そう言い残して又自分の部屋にあたふたと帰って行った。又香水が匂った。
僕は何故《な ぜ》か寒気がしていた。それは夜も次第に更《ふ》けて来て、板の間にじかの此の殺風景な部屋がしんから冷えて来始めている事には間違いないが、それにしても殆んど歯の根が合わぬ程の悪寒《おかん》に襲われ始めたのは、部屋の冷たさばかりではなかった。それはみっともない程がたがたふるえ始めたのだった。
「冷えて来ましたね、寒くありませんか」
「いいえ。あたし暑がりやですわ」
そう言えば、彼女はスリップの上に青模様の紅梅の浴衣《ゆかた》を一枚羽織って、細紐《ほそひも》で結んでいるだけの恰好だ。
「あたし家を出る時お風呂にはいって来ましたの。お風呂にはいるとあたしは六時間位身体があったかいのよ。ほら顔が真赤でしょう。汗ばんでいますの」
彼女は両頬を押えてみせた。
「ほう、そうですか。変ですねえ、僕はもうこんなにがたがたふるえていますよ」
仕方がないから僕は先手を打ってそう言った。
「おあがんなさい。パンもこの罐詰も、町でロシヤ人に貰って来たのです。向うのものだから、うまいですよ」
僕は何とかしてふるえを止めようとした。それで、わざとらしく女を観察してみようとした。
あのだぶだぶの作業服を着た時のサーカスの女染《じ》みたうす汚《ぎた》なさはもう少しも痕跡《こんせき》を止《とど》めていなかった。あんな服を着ていたのは、美しい娘の道中姿の偽装だとしか思えない。今、青色の浴衣を着流した所は、客なれのした宿屋の女中ではないだろうかと思わせるようなつやがあった。そしてそれはアップヘヤも似合い、全体が匂うように娘々して来ていた。どちらかというと下ぶくれの豊かな頬。きめが細かく、柔軟な肉体を思わせた。右頬の大きなほくろが、甘ったれて見える。
この広い二階建の木造の二階の一番隅《すみ》に、僕は見知らぬ女と二人きり、どこまでが未知でどこからが知り合いだか分らないような会話をしていることは、何か素晴らしき人生! とでも言うべき調子のよさが濃厚であった。そして扮装《ふんそう》と化粧の齎《もたら》した効果に、僕は兜《かぶと》を脱がされていた。それらにごま化される世間というものに抗議したい青春の血は、逆に加速度で自分も化粧の術を使って見たい欲望に囚《とら》われていた。
女の身についたコケットリイは多分に芸人くさい所があったから、四畳半と三味線に赤い鏡台の小道具が似合いそうなのに、それがそうでなく、むきつけのベッド二つと白い瀬戸引きの壺、縁飾りのついた大鏡、何となく船室のようなにおいのバタ臭い調度が却《かえ》って奇妙な調和を見せて、一層僕自身を芝居気たっぷりの気分にさせた。
小さなコッペのパン一個がのどにつかえる。それは女の方でもそうであった。食べるでもなくパンを掌の中でもて遊んでいた。
それで僕は無理に押し込むようにして、サージンをつけてむしゃむしゃ食べ続ける。
「下田ですって?」
「ええ、下田のキクヤ旅館に行きますの」
僕は予想に違《たが》わぬ微笑を押えて、
「ほう、お仕事ですか」
すると女は、きっぱりした言い方で(だが却ってちぐはぐな感じを僕に与えながら)
「いいえ。叔母《お ば》が居りますの」
「ああ、その旅館は叔母さんのお家ですか」
「ええ」
「保養にでも?」
「ええ、まあ……」
「失礼ですが、どちらから来られたのですか」
「Nからです」
(Nというのは、僕が今日一日そこをうろつき廻って、「都市」だとか「市街」だとか書いて来て名前を明かさなかった所の、その名前なのだ)
「ずっとNにお住《すま》いですか」
「ええ、女学校もNの市立を出ました」
女学校、僕は、そらおいでなすった! という野鄙《やひ》な気分になった。さり気なく定石を打って来る。そしてそれが効《き》くのだから妙なものだ。僕みたいな者には女学校などを出ていて呉《く》れた方が、共通の話題面も大きくなるし、何よりも僕がインテリ臭く見せる手に対しての効果が現われ易いというものだ。種《しゆ》がもう変化しかかったような新時代の小娘を対手《あいて》にするよりはどんなにかこころ易いというものだ。
「ほーう(一つ覚えみたいに同じ感嘆詞ばかり出して!)いつ頃ですか。僕もNの高商にいたのですよ」
「あら、そうですの、あたし何年頃だったか知ら、もう卒業してから大分たちますのよ」
「市立の女学校の生徒と、高商生が心中した事件があったでしょう。ほら五島《ごとう》まで出かけて行って」
「ええ、そんな事もありました。でも二、三年上級の人じゃなかったか知ら」
この女が女学校を出たなどというのは嘘《うそ》ではないのか、僕はふと、そういう感じに襲われた。
僕は女の顔を不遠慮に観察していた。柔らかそうな皮膚はこの人の身体全体をまで柔軟そうな雰囲気《ふんいき》で包んでいた。そして見ているうちに眼もとの辺がいくらか立体的な感じのする事にきがつく。言ってみれば異人臭いのであった。そして眼が丸く大きいのに切れが長いのであった。何気なく見ていた時は、ただ、おや少しきつい眼付だと感じさせた原因は、こうして意地悪く眺《なが》めると、あの蒙古襞《もうこへき》が殆んど痕跡を止めていなかった。眼の発端の所で厚ぼたそうに頑固《がんこ》に突っ張っているあの水かきのような襞《ひだ》が無い。之《これ》は面白い発見だった。だからどうかするとひどくあいの子染みた笑顔を見せた。之はもしかすると彼女の遠い血の源で行われた交配の隔世遺伝かも分らない。
彼女の真白な皮膚、そのしどけない青の浴衣の下着を、和服を着る時の作法のように今幾重にも重ねていた訳ではない。あたしは暑がりやだといった言葉のままに、まるで湯上りの恰好で、白いベッドのシーツの上に横坐りしていたのだ。
僕のふるえは少し静まって来た。身体《からだ》のどこかでアルコール分を無性に欲していた。
「異人さんたちは殺風景ですね」
僕は部屋を見廻し乍ら言った。
「ほんと」
けど、それは肯定でも否定でも、別に意味はない。
「此のホテルには、つい先日迄《まで》占領軍の兵隊さんが止っていたのですって。お客さんを泊めるのはあたし達が始めだそうですわ」
「ほう」
それは彼女がバスの中の青年とホテルのおかみさんからきいていた事の他に、この近傍の事情は、すっかり何でも知っていそうな余韻を感じさせるものだ。それにしても僕はその言葉で、僕は彼らの鴃舌《げきぜつ》の言葉と、強烈な体臭、長い臑《すね》と食慾をそそる肉の調理のにおいなどを身の廻りに感じていた。
やがて、僕は女をあやす持合わせの気取ったエチケットをすっかり使い果してしまった感じに陥込《おちこ》んでいた。あとにはぶこつで品のない男の肉体だけが呼吸しているような、そして女を退屈させはしないだろうかという事に気をもみ出していた。
一通り話題も切れてしまったのだ。Nの町でのお互いの学生の頃の挿話《そうわ》、そんなものは、交叉《こうさ》した世界を見つけるよりも却ってお互いのぼろをさらけ出してしまう結果になりそうだ。強がってみた所で、又逆に弱さを押しつけてみた所で、空虚なことに変りはないのだ。二人共今日の生活にはいる前に、悲壮な一線をとび越えていそうな事を、なぐさめ合いたい。そしてその悲壮な経験にはお互いにさわらないで欲しい、いやえぐって欲しい、其処《そ こ》の所が、もやもやして、露骨に物欲しそうな顔付になって来るのだった。
他人の二人が、とんでもない危険な状態に居る事が嘘のようであった。どちらかが手袋を投げつければ、事態は俗っぽさの限りない醜態を呈し始めるその一歩手前であった。
僕は女がやはり憮然《ぶぜん》とした気持になりかかっていると思った。然《しか》し女の気持のグラフ上の曲線は、ずっと僕の理解を通り越しているものだから、それは又、別の定石が打たれているのかも分らなかった。
何という事だ。僕はトイレットへの通路を何回となく往復しなければならない胃腸内の状態になっていた。そうなるともう瞬時の猶予も許されない。
「僕は、どうも悪い天ぷらにあたったらしいですよ。失礼ですが、ちりがみをお持ちでしたら……」
女が懐紙を差出して呉れる仕草。僕は人気のない別館内をとんまな幽霊のようにうつろに反響させ乍ら階段を下り廊下をつき抜けて、楕円形の木環の上に坐り込むのだ。便所の電燈は消されてしまっていた。手さぐり足さぐりで、つまずき乍ら、排泄《はいせつ》の無限な直前の瞬間を、極大の先へ延ばす間の緊張。それは又それで僕にとって今宵《こよい》の違った世界での呼吸であった。
然し、女は僕の部屋を去ろうとしない。僕は験《ため》されているようなおどおどした気持になっていた。
それで僕は女の手を見た。
肉づきのいい白い小さな手。その甲にむざんにも細長い掻《か》き傷が無数についていた。それを少ししつこく見つめる。すると女は気がついた。
「あら、これパペがひっかいたのですわ」
そして手をもみ合わせた。
「うちの三毛猫ですの」
そうだ、僕はさい前から、彼女を何か動物のように思えてならなかったのだが、そのことばで彼女は猫と重なって見えた。
「うちで叱《しか》られますのよ、猫にばっかりかまうって。でもあたし猫が大好き。時々いじめてやるものだから、ひっかかれますの。ほらこんなに」
彼女は誠にあざやかに彼女の襟筋《えりすじ》と胸元を広げて見せた。すうっと、二筋三筋の細い血管のにじみ出た痕跡が認められた。
僕は軽い目まいがした。猫が女の身体にまとわりついて、二個の生き物がどちらにも共通した招き手で、無言劇をしている有様は不気味にさえ感じられる。
女は、部屋の中を改めて見廻す。
「あたしのお部屋とそっくりですのね」
もう幾時頃なのだろう。気のせいか浜辺《はまべ》の潮騒《しおざい》が聞えるようだが、それは何かの錯覚だろう。
「でも、あたしのお部屋、変ですのよ」
僕は黙っていた。
「何だか怖《こわ》いわ」
それでも僕は黙っていた。
「いらして下さいません?」
僕は黙って立ち上った。靴のままで向い合わせの彼女の部屋に行ける仕組み。それは僕にとって相変らず未知の領分だった。
大鏡のついた衣裳箪笥、白い瀬戸引きの壺一個、二つのベッド、すべて僕の部屋と瓜《うり》二つだ。ただ相対の関係で、その位置が逆になっているだけだ。
僕はその部屋に何の異変も認め得ない。だが女は言う、
「ほらね。変でしょう」
僕は了解した。それは二つのベッドが隙間《すきま》なくくっついて並んでいた。僕の方の部屋ではずっと引離されてあった。
「あたし、独《ひと》りでは、とても怖くて泊れませんでしたわ。あたし泣き出していましたわ。とても怖がりですの」
僕は承諾したようにうなずいていた。
「そんなに恐ろしいのなら僕の方にいらっしゃい。僕の方は構いません」
「こちらにいらして下さいません? お願いしますわ」
僕はまた館内をうつろに反響させて、木環に坐って来た。そして女の方の部屋にはいる自分の姿勢がふと省みられた。すると女の部屋は一際《ひときわ》強烈な芳香でかきたてられていた。これは僕が下に行っている間に、女が香水をふりまいたに違いなかった。つんと頭がしびれるようであった。僕の部屋の方では、リュックサックだけが取残されて存在していた。
馴れ合いの気持で僕は言った。
「いい匂いだね」
すると女は一言ぽつりと答えた。
「あたしは何でもルーブよ」
僕の頭にはこの言葉が奇妙に、はっきり残った。先《ま》ずさり気なく自分が女学校を出ていることの宣言の次に、女の使用している化粧品の名前をずばりと、言ってのけたやり方に結局はひきつけられていた。
その時、草履《ぞうり》をはいて別館の中にはいって来る足音をはっきりきいた。それは僕たちの所へ何かの用事でやって来るホテルの帳場の人に違いない。
やって来る、やって来る。今のうちに自分の部屋の方に移った方がよいのではないか。そういう声が、何処《ど こ》から出て来るのか分らないが、一瞬僕自身をみじめにした。
だが僕はのっそり入口近くにつっ立っていた。そしてドアをぐっと開け放った。
「構いませんのよ」
女が言った。その言葉は、女一人が勝手に先廻った言い方であったのに、此の場合の二人にはぴったりした響きを伝えた。
足音はもう、二階の廊下に現われた。僕は上調子で大声で何かをしゃべる事を試みた。
「おかみさんは一時間後に電気が消えると言ったのに、なかなか消えませんね。まだ一時間もたっていないのかな」
足音はずっと手前の方でぱたりと止った。そして恐ろしく低い消え入るような声で、
「ごめん下さい」
と言った。僕はあてが外れた。土足でがたがたふみ込んで来るものと観念していたのに。
「どうぞ、こっちにはいって来て下さい」
僕は勝ち誇ったように大声を出して、廊下の方を見た。
其処には宿帳と覚しき部厚の帳面と硯箱《すずりばこ》をうやうやしく捧《ささ》げ持った貌《かたち》で、さきのおかみさんとは別の若い女が立っていた。そしてその女の顔の何と美しいことだろう。それは無条件に美しいというたちの美しさだ。せとものの人形を見た時に感ずる感嘆の仕方で、僕は思わず心の中で、おや之は御殿上臈《ごてんじようろう》の御入来だ、と叫んだ程だ。全く手燭《てしよく》でも持って現われたなら一層効果的で、僕はその実在を危ぶんだことだろう。その姿を見た時、何としたものか、明らかに僕の部屋に居る女は、如何《い か》にも「可愛《かわい》い女」で、廊下に立っている紺の香のきつい、そんな感じの手織の頑丈《がんじよう》そうな木綿の袷《あわせ》をきりりと着付けた際立《きわだ》ち様に向っては、如何にも鈍角で位負けがしたように思えた。そして偸安《とうあん》の小部屋を烈風に吹きぬけられたような戸惑いを感じた。
この女には一番似付合《につか》わしくないものが、極く似合って見えるらしいのだ。田舎《いなか》模様が素晴らしく上品に見える。日本の武家時代の恰好《かつこう》が、此の泰西の建物調度の中では、一種の中世の夢を見せて呉れた。
僕は眼移りがしていた。だが僕はもう、同宿の女と一緒の部屋に居たのだった。
「恐れ入りますが宿帳をお願い致します」
にこりともしないで、同じ調子の低い消え入る様な声で言った。そして最初に停《とま》った位置にぴたりと立止ったまま、はいって来ようとしない。この女の年齢の見当はつかない。若く見えても、ずっと老《ふ》けているのではないか。或《あるい》は精神病にとりつかれているのではないか。兎《と》に角《かく》常人でない極北の雰囲気《ふんいき》が流れて来る。この女の前ではどんな事が行われても、その意味を理解する事が出来ないのではないか。僕はひょくひょく歩いて行って、宿帳を受取った。
そう言う場合誰でもがやる仕ぐさを僕もやっていた。前葉をぱらぱらひろい読みして、何か秘密らしいものをかぎつけることが出来るかのように。
福岡市南薬院一〇四二大槻《おおつき》弓彦方、其処迄は本当であった。僕は後でこの女と連絡が出来るようにと言う下心があったのだ。だが本名を書込む気分にはなれない。今迄はどんな時でも平気で本名がしるせたのに、此の度《たび》は妙にそれが出来ない。然し僕は、たとえ仮名であっても、此処《こ こ》に記入される人物を或る次元の世界の実在者としたいのだ、とそんな風に考えていた。
勿論《もちろん》、僕はゆっくり書き綴《つづ》って来て、一度も筆を止めたのではない。大槻弓彦という友人の名前の下に、
白旗八郎
と言う名前を創造した。そして帳面と筆とを女の方に廻す。僕は女の気持の動き、躊躇《ちゆうちよ》やら、大胆、虚構、無知、そんなものを何一つ見逃《みのが》すまいとして、その手もとを見つめていた。
(それにしても、たった四字の白旗八郎という創作に於《おい》てすら、僕の才能の限界は現われてしまっているのだ。シラハタハチロ、いやシロハタと読ませようかな。どうも下手《へ た》くそな創作だ)
女はすらすらと書き綴った。N市の櫓糟《ロカス》町の何番地(お諏訪《すわ》神社の麓《ふもと》の町だ。僕はそのオランダ名前のルカスがなまったと言い伝えのある櫓糟町の名前を珍らしがって、下宿を探して歩いたことがあった)鵜倉《うぐら》イナ
「お客様」
前のままの位置で廊下の女が、
「誠に恐れ入りますが、しばらくしたら消燈をお願い致します」
「ああ、こちらで消すのですか。分りました。所でもう何時位ですか」
「さっき十時を打って居ったようでございます」
定めし古風な大時計ででもあったろう。まだ思った程に夜は更けていなかったのだ。そして女性《によしよう》の幽霊が退散するように、か細い草履の音が、この木造館の外へ消え去ってしまった。
二人はそれぞれのベッドにもぐり込んでいた。消燈すると闇《やみ》の濃度は次第に瞼《まぶた》から払い落されるようで、部屋の中の調度のたたずまいが、ぼんやり見定められて来た。闇夜であるらしい。時々思い出したように香水の匂いが襲って来る。それは鵜倉イナが身動きをする為であったろう。
「八月九日の日ね。あの時はどうしていたの?」
闇と、横臥《おうが》した姿勢が僕に大胆な物言いをさせた。
「怖かったわ」
しばらく間を置いてから、
「あの瞬間、大きな爆発の音がしたのか、物すごく光ったのか、どうしても思い出せないの。兎に角気がついた時は、私はひっくり返っていて家の中がほこりだらけで、Uの方の天が真っ黒になっていたわ」
「それからどうしたの」
「西山の水源地の方に逃げました。道々三倍にも五倍にも大きく水ぶくれになった顔の人が、自分で自分の顔の物すごく変ってしまった事に気がつかないのね、あたしに水をくれ水をくれって言うの」
僕は出来る丈《だけ》悲劇的な気分を作ってやろうと思った。それで、黙って、聞いていた。
だが、もうそれ丈で話は終ってしまったのだ。僕はひどく散文的に督促した。
「それから」
「それから今日迄私の生活はちっとも張合いがありませんわ」
「どうして」
「あたし、ひとりぼっちですのよ」
「と言うと」
「父も母もきょうだいもありませんの」
「叔母さんが居るのでしょう」
「本当の叔母ではありませんの。後見人みたいなんですの」
「いやな人なのですか」
「まあ……どう言っていいのかしら。いい人なんですが、私がわがままなのですわ。……本当の父は東京で空襲で死んでしまったし、養父は八月九日の日に死んでしまいました」
僕は、あなたはその時何処に、何《ど》んな風にしていて助かったのですか、ときこうと思ったが、そうしない方が話が続きそうなので、きく事をやめにした。
しばらく沈黙が続いた。
「あたしを生んで呉れた人は芸者さんだったのですわ」
ぽつりと鵜倉イナはそういうと又沈黙が続いた。
「あたしの養父が山を残して呉れましたのよ。それであたしは遊んで食べて行けるのですけど……何か女が一人だち出来るお仕事はありませんか知ら」
「そうですね、何か技術を持っていればいいだろうが……」
「三味線ならあたし名取りですわ」
「ほう。そんならわけはない。お師匠さんでも始めればいいでしょう」
「それがね……本当はね……あたし、言ってしまいましょうね。あたし、あしたお嫁さんになりに行くとよ」
最後の言葉がひとごとのように、そして此の地方の方言を出していた。
「それじゃ、僕は悪漢になりそうだ」
僕はなるべく薄っぺらな声を出して言った。
「うちはその人が好かん」
「それはいけない」
「大嫌《だいきら》い。虫ずが走る程好かんと」
「それでも、あしたわざわざ海を越えて、その人のところに行くのでしょう」
「一年以上も色々考えて、とうとう決心したのよ。もうどうなったって構わない」
僕は窓が気味悪く光っているのを見つけた。それは丁度仰のけに寝ていると、その眼の先のずっと上の方の窓であった。それが何時《い つ》頃から光り出したか分らない。然し、ふとそのあるかなしかの青い光を見つけると、それはだんだん光沢を増して来るような気がした。月が出たのかと思った。然し、それは月の光ではなかった。その光源は水晶体のような感じで、不気味なにごった光であった。
僕はその光を見つめていた。
「あの青い光が見える?」
「どれ」
女は上半身を僕の方によせるようにした。
「ほら、あれ」
「何でもないのよ。外の電燈が反射しているのよ」
「君は怖《おそ》ろしくない?」
僕は始めて鵜倉イナへの呼びかけの言葉に君、という言葉を意識して使った。あなた、では今の所甘ったるい。あんた、でもよかったのだが。
「何、あの光?」
「いや、素性の知れない人間と、こんな風に落合って一つの部屋で泊っていること」
「ああ、そのこと。あたしは一眼でその人が善い人か悪い人か分ります」
「僕は善い人に見えたの?」
「眼を見れば分るとよ。眼の澄んどる人に悪い人は無かと」
「へえ。僕は何をしている人に見える? 最初何に見えた?」
「お役人」
「お役人?」
「税関のお役人かと思った」
「税関のお役人か。それで今でもそう見えるの」
「どうもお役人ではないらしい。闇屋さんではないし、先生でもなさそうだ。……分らん」
今度は、僕は妙な音をききつけていた。連続したエンジンの爆発音だ。それも又いつから聞え出したのか分らない。戦争中に色々おびやかされていた類似音。そして、やがてそれは自動車のエンジンの音である事に思い当る。何だ自動車か。然し今度は新しい恐怖に襲われ始めるのだ。あれはホテルの玄関の前で、停車したままかけ放されている音だ。するとそれは警官たちが臨検にやって来たのではないか。現在もそんな制度が行われているのだろうか。又急に占領軍の兵隊たちが移動して来たのではないだろうか。誰かが、この部屋にやって来はしないか。
「ああ素晴らしき哉《かな》痴愚の人生、というドイツの活動写真を見たことがある? ディー、ガンツ、グローセン、トールハイテン」
そのドイツ語にふしをつけて、気取って、Rの所は殊更《ことさら》に巻舌にして発音した。
「いいえ、ありませんわ」
「それはね、こんな筋なんですよ。オーストリアの田舎娘がウインの華《はな》やかな劇壇の生活にあこがれてね。演劇学校に入学する為《ため》にひとりでウインにやって来たのですよ。所がウインの停車場で一寸した往き違いで出迎いの人とはぐれて勝手に駅前のホテルに泊るのですがね。そしてその晩ふと気まぐれで行った酒場で一人の未知の中年の男と知り合って一晩を過ごしてしまうのです。そして後で寄宿舎に入ってからその男の人が、実は有名な演出家で、その学校の主任教授でもあったというお話……」
そして僕は、もう一遍思入れたっぷりに、おお素晴らしき哉! 痴愚の人生、とつぶやいた。僕は話の途中から風邪《か ぜ》気味に鼻声になって来たのをどうにも出来なかった。
「あたしも見ましたわ、フランス映画」
「それはどんなの?」
「うたかたの恋、って言うのよ。夕べみたの。一生に一度でもいいわ、あたしもあんな熱情的な気持になって見たいわ」
「そんなによかった?」
「よかったとよ、ひどう。(女学生みたいな叫び方をした。どうも手を胸の所で組む仕草までやったらしい)ダニエル・ダリューが、皇太子様のお城にしのんで行くのよ。そして世間がうるさいので後でピストルで自殺すると。自分の恋人のピストルで射たれる前に眼をつぶって待っているとよ」
僕と鵜倉イナとは運命に招待された二人の若者のように、眼に見えぬ程の速度で距離をせばめていた。だが、何という事なく偽《にせ》ものの運命の感じを消すことが出来なかったのも事実だ。
僕はためいきをついた。すると女も深いためいきをついた。
「明日という日が楽しいでしょう」
「いいえ、ちっとも。もうこのまま帰ってしまおうかしら」
だが、どんな話をしても、もう言葉だけの空転だ。僕の身体からは無数のきのこのような手が延びて行って、鵜倉イナの柔軟な肉体を包み始めていた。
そして現実にそれが出来ないという事は、頭の半分に鉛をつめ込まれたような、生理的な不快と苦痛で気が狂いそうでさえあった。
僕の変身は何遍となくもうとうの昔に、地続きのままベッドの上を転《ころが》って行って向う側の人になっていた。
そして抑制は一種の刑罰のように考えられ始めた。何故《な ぜ》罰をだまって受けていなければならないのだろう。そして又、どうして運命はもっと素直に向う側から転がって来ないのか。僕は段々正常な思考力を失いかけていた。
そして僕は遂に決断した。こちら側から働きかけなければならないのだ。こちらから。いつでもそうなのだ。或は僕の計算はお人好しに自分に甘くて、手ひどい崩壊に直面する事があってもそれは致し方のない事なのだ。
「ねえ」
「え」
びくっとした様に鵜倉イナが答えた。
「あんたを抱き度《た》い」
すると僕自身は身体から鬱血《うつけつ》したものが急速に霧散して行くような軽い気持になり始めた。鵜倉イナはすぐには返事をしなかった。僕はその返事はもうどうでもよかったのだ。
「あたしを抱いて頂戴《ちようだい》」
鵜倉イナのまるで別人のような、しめり気を帯びた声がきこえて来た。
すると二人の関係は、その瞬間すっかり組織の違ったものになっていたのだ。今迄の話された言葉の何と空《むな》しく響き残っている事だろう。たった一言のために支払われた夥《おびただ》しい無駄の集積。その集積の残骸《ざんがい》の為にも、僕は恥じ入っていた。
僕は手を鵜倉イナの方にさし伸べた。
「こっちにおいで」
だが彼女は身じろぎもしない。その安定感はどこから出てくるのかしら。
「こちらにいらして」
僕は幾多の不義者たちがしたであろうような滑稽《こつけい》な恰好で彼女の傍《そば》に移って行った。
第六章
鶏が啼《な》き出すと、もう次の日がはっきりやって来ていた。
僕は早くベッドを抜け出て、僕のマリイ・ベッセラの為に、白い瀬戸引きの壺《つぼ》に水を汲《く》んで来てやる事にした。
まだあけやらず、庭の樹木は露をしとどに帯びて居り、朝もやが、うすく棚引《たなび》いていた。
僕は井戸端を探していた。料理場で人の気配がする。そこをのぞいた。そこには、夕べからこのホテルで見た人の誰でもない、別の中年の下働きの女が炊事仕事をしていた。土間の真中で煙っている七輪、その榾火《ほたび》のけぶたいにおいに僕は北の国への郷愁をわき起されていた。
「お早よう、おばさん。水はどこで汲みますか」
「お早よございました。風呂場んとは出っとじゃなかでしょうか」
「風呂場ってどこですか」
「そこに見えとっとですよ」
ひどく愛憎《あいそ》のない返事で、仕事をし乍《なが》ら向うを向いたままだ。僕は足もとに来た鶏をけちらす真似《まね》をして、風呂場に行ってみた。
タイル張りの水槽《すいそう》に水が張ってある。栓《せん》をひねったが水は出て来ない。それで僕は壺を水槽の中につっ込んだ。そして何喰《なにく》わぬ顔をして、別館の二階の鵜倉イナの部屋にはいって行った。
「お早よう」
壺を鏡の前に置いて、
「之《これ》をお使いなさい」
そして僕は又外に出た。僕は再び料理場に行って、榾火をもらって莨《たばこ》を一本吸いつけた。いつもは大してうまくない莨がひどく今朝は恰好《かつこう》の小道具に見える。くわえ莨をして僕は例の木環の上に腰かけていたのだ。
何と言う一夜であったことか。僕の便通はすっかり固定していた。
――鵜倉イナの額に子供の時に怪我《けが》をした傷痕《きずあと》が薄く残ってて、僕は右手の薬指で何回もまさぐっていたこと。丁度トルガノフの〓レンチナと同じような場所の同じような傷痕がその瞬間に僕をどれ程《ほど》鼓舞したことか。
(あたし本当は結婚しているのです。八月十日の日に。爆弾が落ちた次の日ですわ。でも私は夫がいやでいやで仕方がない。それで別れていたのです)
僕はもう一度鵜倉イナの言葉を反芻《はんすう》していた。
(あなたはおひとりですの――僕は嘘《うそ》をついた。いいや結婚しているんだ――)
(あなたにお逢《あ》いするのが遅かったのだわ)
女の臀《しり》はどうしてあんなにつめたいのだろう。
そして僕は何と巧妙な思想を語ったことだろう。だが、果してそれが巧妙だったのだろうか。――
僕は何処《ど こ》からかきこえて来る溝《みぞ》の水の流れを、爽《さわ》やかな思いできき入っていた。
白旗八郎即《すなわ》ち僕と、鵜倉イナとはホテルの帳場で蜜柑《みかん》を一杯買い込んで、天草行の連絡船に乗込んでいた。
連絡船のエンジンの音や操舵《そうだ》のにぶい回転の音をきくと、又しても、僕の中世とも言うべき直前の時代の幾場面かが甦《よみがえ》って来て、妙にずれてしまったいらだたしさを覚えた。畜生! 俺は今は滅茶苦茶《めちやくちや》だ。何故《な ぜ》何に追いたてられて、独《ひと》りぼっちで歩いているのか。
だがすぐ冷静になる事が出来た。僕は昔から意味がなかったのだ。昔からでたらめだったのだ。そして毒素は内攻して行くのかも知れなかった。
僕と鵜倉イナは(またもとのようにだぶだぶのうす汚れた白い作業服を着て、女工か、サーカスの女みたいに色あせた小柄の女になってしまった)機関部のぬくい熱のある空気の来る近くに仲良く並んで、蜜柑をむいて、移り行く岬《みさき》の緑を眺《なが》めていた。
天候は何時のまにか崩《くず》れ始めて鬱陶《うつとう》しい曇天に濁って来た。
そして、やがて一群の雨雲が覆《おお》いかぶさったかと思うと、港口を出るか出ないかにぱらぱら雨が降りかかって来た。
二人はあわてて三等船室のむっとする空気の中にはいって行った。
「こっちにおいで」
ふらふらする彼女の手をとって奥の空いた所に、ごろごろ寝転んでいる人の腕や頭をよけさせて、引き入れてやった。
鵜倉イナは青い顔をしている。
「少し酔ったね。じっとして船の調子に身体を合わせていればいいんだ。僕によっかかりなさい」
彼女の小さな運動靴。尖《さき》の方に赤い刺繍《ししゆう》がしてある。
「お別れし度《た》くないの」
「馬鹿だね。どうにもならない事さ」
「おたよりしてもいいでしょう」
「それはいい」
「本当の住所を書いて下さい」
「夕べ書いた通りでいいんだ。どれ書いてやろう」
僕は手帳をやぶって、友人の住所を気付にして二度あの創作の四字を認めた。
「シラハタ?」
「シロハタさ。先祖が源氏の落武者だと言うけど、そんな事はでたらめさ。北の方の寒い国だ」
彼女が熱っぽい顔をしているので、僕は額に手を当ててみた。然《しか》し熱はなかった。
「あのねえ」
僕は彼女をのぞき込む様にして言った。鵜倉イナはどんなことでも受けとめて見せるような、見栄《みえ》のない顔付をしていた。その顔に僕は言葉を投げつけた。
「僕は特攻隊にいたのさ。飛行機のね」
彼女は瞬間美しい顔付になった。それを見ると、僕は一体何を言い出そうとしているのか、罪深いおそれに襲われた。だが僕は少し自分の言葉に酔っていた。
「それでねえ」
ね、に力を入れた。そしてはき出すように、
「何もかもうまく行かないんだ」
少し口をゆがめて見せた。そんな僕の横顔はさぞ、効果的な顔付になっていたことだろう。
「分って呉《く》れるね」
彼女は黙ってうなずいた。
「身体《からだ》もめちゃめちゃだし、此処《こ こ》も時々変になるのさ」そう言って僕はこめかみの辺を右手の指先でくるくる廻して見せた。
エンジンの騒音でこれは他の乗客の誰にもきかれずに話し終ることが出来た。
「だから僕は船なんか、糞食《くそく》らえだ。大船に乗った気持で、よっかかっていなさい。沈没したら、あなた(僕は三回だけ彼女を呼んだのだが、三回共違った風に呼んだ。君、あんた、あなた。でもそれがしっくりしていたのだ)一人ぐらい背負って泳ぐ。必ず二人共助かるよ。死ぬのは御免だよ」
すると、鵜倉イナは笑った。それはひどく寂し気な笑いだった。
「手帳を貸して下さらない?」
僕は彼女に手帳を貸してやった。すると、長い間、何か書込んでいたが、書き終ると、それを僕に黙って差出した。
家に残して来たパペを想いながら
私は曇り日の海を見る
パペよ
あしの短い私のパペよ
どうしたのか今日は元気のない私
海は私に楽しいのだろうか
それとも私にはつらいのか
私はてすりによって
もの見のようにぼんやりしている
広い古いそして新しい海よ
人はお前に身を投げる
私はお前を眺《なが》め
そして追憶の中にばかり住んでいるのか
私の掌《て》にとまるとんぼの
つかの間の眠りの中でのように
短いはかない私の夢
船はすべって行く
あたかも私の死を
運ぶかのように
第七章
船は島の港に近づいた。船足は落ち、汽笛が合図された。
甲板《かんぱん》に出ると驚く程近くに白砂青松が展開されていた。魚を釣る小舟。
そして港のある富岡の町は、まるで芝居の書割《かきわり》のように眺め見られた。曇天のせいで、にぶく、一層つくりもののように見えた。と言うのは、富岡の町は、島の北端が、焼いた餅《もち》がふくれ上る調子で、くびれて飛び出た岬の首の所に当っていて、広い所でせいぜい百米《メートル》位の砂丘に細長く出来た一筋町だから、町の屋根屋根のスカイラインがくっきりと浮び上って見られたのだ。
外海から大きな波が押し寄せれば、一たまりもなく町にかぶさって内海の方になだれ込みはしないかと旅人に危ぶみの気持を起させるような、二つの海にはさまれた砂丘と潮風と波の音に明けても暮れても囲まれているような町だ。
僕はNの都市に居た時に、何度この連絡船で此《こ》の町にやって来たことだろう。
此の海の中の砂丘の町は、僕の精神の中に根深く喰込《くいこ》んでしまって、時々変形の砂丘市街となって僕の夢の中に訪れて来る。
僕は夢の中の富岡の町で、どんな可能性をも持っていて、その狭い一本筋の道や、昔の代官が居た城壁の石垣《いしがき》や軒の低い平家、道路に面してじかにたてられる横倒しに積重ねる雨戸や、唐《から》ゆきさんの建築した洋風の木造家屋に親しんだことだろう。
そして、僕は現実に、今未知の作業服の女と、この町の波止場に降り立ったのだ。
波止場の石垣の上で、ザボンを売っている男がいた。僕はそれを二つ買う。
船は次の港に向い、降りた船客も大方は、それぞれの方向に散ってしまった。
僕は鵜倉イナを連絡船待合所の椅子に坐らせた。そして、二人は早い昼弁当を開いた。
曇ってこそいたけれども、やはり昼間の思想は健康で、二人共、何の謀《はかりごと》も湧《わ》いて来ないのだ。
僕は下田温泉行と、H町行のバスの切符を一枚ずつ買って、彼女にその一枚を渡した。
それぞれ違った時刻に違った方向に行くバスに乗って、恐らくは永久に散って了《しま》おうというのであった。
僕の乗るべきバスの方が早くやって来た。それはトラックを改造したものだ。ただ木の柵《さく》のようなものをつけて、立ってそれに掴《つか》まるようにしてある。
僕は鵜倉イナの眼を見つめて(いや矢張りこの女は蒙古《もうこ》人種だ)
「君のことは生涯忘れない」
と言った。彼女は泣き笑いのように醜く顔の筋肉を硬《こわ》ばらせた。
そして僕はバスに乗込んだ。一番後から、後尾に立てかけた梯子《はしご》をよじのぼって、まるでメロドラマだ。
バスは動き出すと、すぐ角を曲ってしまった。それで僕は激しく彼女を失ったことを後悔した。ただ黙ってじっとこっちを見ていた。胸の緑のブローチだけが、淡くなまめかしく。僕は兵隊のようにトラックに乗せられて、此の島の次はどこへ行くというのか。
せまい町筋の低い軒並みもやがて通り抜け、バスは村から村を結ぶ、どこ迄《まで》行ってもどん詰りのない白い街道を、ひどい動揺で乗客をなやませ乍《なが》ら、曲りくねっていた。
僕は鵜倉イナの一種の情緒でとりこになっていた。やりきれない程手足のすみずみに、しっとりした感触で残っていた。
(あたしはみんなルーブよ)
そんな変てこな名前迄、今の僕には生き物のように思えた。そうだ僕はその名の香水さえ買えば、又彼女に逢ってみる事も出来るのだ。
少し微熱を帯びていた僕は、頬《ほお》をよぎる風が頗《すこぶ》る快かった。
そしてトラックの上から眺める風物、百姓家だとか、柿の木、岩にくだける白い波、山の峰、杉木立、そんなものを見ているうちに次第に又自分が旅行をしているので、今夜の宿りを改めて考えなければならないのだという、差当っての当惑に、再び直面している事を理解した。すると、今迄全く興味の外にあった同乗者の客種にも、改まった興味が湧き上って来るのを感じた。
今の所、僕は頗る機嫌《きげん》のいい状態で、次の地点に移動しつつある。
それは相も変らず着た切りの一着の背広の上に、スプリング兼用のレインコートを引っかけて、一個のリュックサックを、肩にかけたり、ぶら下げたり、尻に敷いたり、腰掛の下に押し込んだり、棚《たな》の上にあげたりして、しばらくは此の島を歩いて見る単独の旅行だ。
そして今日の行先は、このバスの終点のHの町で、そこから放射状に出ているバスの時間表と相談して、つらい思いをしないで行けそうな所に足を向けて見ようと考えている。
(昭和二十二年十月)
夢の中での日常
私はスラム街にある慈善事業団の建物の中にはいって行った。その建物の屋上で不良少年達が集団生活をしていると言う聞き込みをしたので、私もその仲間に入団しようと考えたからだ。それは何も、私より一廻りも年若い新時代の連中と同じ気分になって生活が出来ると考えた訳ではない。ただ私は最近自分を限定したので、いわばその他の望みがなくなってしまったように錯覚したのだ。つまり自分はノヴェリストであると思い込むことに成功した。所が世間で私がノヴェリストであるとして通用する事は出来なかった。私はまだ一つとして作品を完成した事も発表した事もなかったから。ただ長い間私は作品を仕上げようとしていたのだ、と言う事は出来た。私は中学に通う年頃から変節し通しで、はた目には、はがゆい限りであったと見える。というのも私が、はっきり自分がノヴェリストになるのだということを表現することを恥ずかしがっていたからだ。自分がまだどうにでもなる余地が残っているとたかをくくっていたからだ。所が三十を過ぎても何一つ技術を身につけていないことを知った時に私は慄然《りつぜん》とした気分になった。こんなに色々なものが進歩してしまった世の中で、技術を一つも持っていないということは寧《むし》ろ罪悪であるようにさえ思われた。苦しまぎれに自分にも、とに角三十年近い現世の生活をして来たのだからその内には何か一つ技術らしいものを習得しているだろうという考えに辿《たど》りついた。そしてそれがノヴェルを書こうとしていた事に落着いた訳だ。そこで一つの作品を完成することに着手した。すると表現という事が重くのしかかって来て、私は自分の技術を殆《ほと》んど見限った。然《しか》しそのことについて絶望ということを時には口にしながらも食事をとり睡眠し排泄《はいせつ》して、その間にペン字で埋めた原稿紙を重ねて行った。そういうことに一年間がまんした。そして出来上ったものはたった百二十枚しかなかった。自分で読み返してみるとそれはひどく不明瞭《ふめいりよう》なものであった。文字を重ねて行っただけで、神の寵愛《ちようあい》も悪魔の加担も認められない。文字の集積という点にしても貧弱なものだ。所がその百二十枚が買上げられることになった。そんなことがあるものだろうか。私はそれは一種の茶番ではないかと疑った位だ。大したことじゃないのだ。それは君、一杯のカルピスだよと教えて呉《く》れるような人がいた。そして又それを私に取ついで呉れる人もいた。そしてそれを私も段々信じて行った。そのこととどう結びつくのか分らないが、それと同時に私は自分をノヴェリストとして夢想し始めた。原稿料はどの位貰《もら》い、又私の書いたものは華々《はなばな》しく批評されて、私は技術を持ったひとかどの人物として、先ず手近の肉親から信用し始められて追々に世間に及ぼされて行くのだろう。所で私は私の表現の源泉を百二十枚にすっかり安売りしてしまったあとは、書く事が何もないのに気がついた。それでどうしてもその書くことを育てなければならない立場に立至った。然し私は方々の出版社や雑誌社から、有名な人のように注文が押寄せて来た訳ではない。何やら自分で、そんな風にせかせかし始めていたに過ぎない。あたかもそんな気分の時に私は、へんに私にとっては暗示的な一つの映画を見た。それは第一作が発表されただけのノヴェリストなのだが、その次に書く事がなくなってしまったのだ。そして表現を錬金する白々しさに堪《た》えられず酒精の盃《さかずき》の中にすべり込んでしまうという物語であった。そんなことはあるまいと私は思ったが、怠惰の美味がしのびよって来て、どうしてもそれの誘惑に打勝つことが出来ないような時に酒精は私を誘拐《ゆうかい》しようと近寄って来た。
そこで私はそれに抗《さから》うようにして機嫌《きげん》のよい日にスラム街にやって来たのだった。
私のつもりでは、私も不良少年団の一員となって、すりや強盗なども実際にやってみ、戦争後に一番思い切って悪くなってしまったと言われるはたち前後の少女とも仲よくして、彼女の酢っぱい思春期を無理矢理もぎとってしまおうなどという悪どい趣味も抜目なく用意して行った。私自身はノヴェリストという仕掛を施したのだから、どんなになっても傷つきようがないという安心感を持っていると思い込んだ。そうやってむき出しの両刃《りようば》にして置けば、逆にヒューマニズムの実践者にされそうな陥穽《かんせい》も用意してあったのだ。そしてその生活の記録とフィクションは私の第二作となるであろう。私はその生活にはいらないうちに色々な期待やら計画やら素晴らしい思いつきやら、なまなましい細部などで作品の出来上らない前から、既に出来上っているような気分が少しずつ湧《わ》いていた。ただそれを表現するという沙漠《さばく》のような砂をかむ思いに間歇《かんけつ》的に打ちのめされはしたけれども。
屋上では、と言っても実はその建物の三階で、戦争中の爆撃の為に、鉄筋コンクリートの外部丈《だけ》が辛《かろ》うじて残り、内部は部屋の区劃《くかく》などもすっとんでしまって、大講堂のようながらんどうになっている。むき出した鉄骨が天井《てんじよう》からぶら下っていたり、コンクリートの破片が、そこら一面ちらかり、ガラスも何もなくなった、大きな破れ穴のような窓からは港の海が眺《なが》められた。そんな場所に、団長が二十人ばかりの団員を集めて集会していた。それは今後の仕事の打合わせや、度胸のない仲間の批判や、追跡に対する作戦などが問題になるのであろうと思われた。
私は、くずれた階段を、しめっぽく上って行って、そっと一番うしろに佇《たたず》んだ。団長には新しく入団する了解は得てあった。私は一種の客分で、又彼等の生活のどんな事をノヴェルというものに仕組んでも差支《さしつか》えないという保証も得ていた。ただ私は彼等に対する説教者ではなく、寧《むし》ろ彼等の側に近い精神状態にあり、彼等と違う点は、かなりの年配であることとかつて正当な学問の教育を受けたことがあるということに過ぎないのだという巧妙な位置を当然に要求する事が出来ていた。それは彼等を包容している慈善事業団の性質とも関係した事であった。私はその慈善事業団の性格をはっきり把握する事に困難を感ずる。見当はつくような気もしていたが、どうもはっきりしなかった。私の知っているその経営者たちのうちの二、三人は、私とは極く親しい間柄であったが、腹の底を打ちあけて言えば、お互いにしんから憎みあっていたようなものだ。それで私もその施設を利用しているだけなのだ。
団長は二十歳を出たばかりと思われる美少年であった。彼の態度は出来るだけ不作法に振舞って人をよせつけない所を見せ、口をひらいて自分を批判する時には、ことごとに自分が、ひ弱く消極的で礼儀作法や習慣をどうしても破ることが出来ない古い形の人間であるということを、はにかんで語った。
その少年団長が丁度何かしゃべろうとした時であった。私は階下から受付の者が上って来て、今あなたを尋ねて来た人がいるから、すぐ階下迄《まで》来て下さいという知らせを受けた。私はふと不吉なものを感じた。折角新しい生活に切り出そうとしている矢先に、私が受付から呼び戻されたのだ。私は階下に下りて行った。
受付の所には私の小学校時代の友達がいた。然しその友達とはそれ程仲が良かったという訳でもない。それなのに私はすっかり動揺してしまった。何故《な ぜ》小学校時代の友達というものは、この様に落着かない気持にさせるものか。おまけに彼は今悪い病気にかかっているという噂《うわさ》をきいていた。彼がその病気にかかっているらしい事をきいた後でも私は彼と二、三回町の中ですれ違った事を覚えている。その時私はいかにも昔のままの友情を今も変りなく持っているという顔付や態度を殊更《ことさら》に、彼に示して見せていた。その手前、今も彼にそっ気なく応待する事が出来そうもなかった。悪い病気というのはレプラであった。
「近頃素晴らしい事業に関係してるそうじゃないか」
私の姿を認めると彼は、おどおどした調子で話しかけて来た。「それに、小説が一流雑誌に出るんだってね」
私はすっかり自分を失っていた。その精神生活については何も知る事のない第三者から自分の仕事に関して何か話題にされるという事は我慢のならないことだった。それに彼が小説という発音をした時に何故か、とてもげすな感じがした。まして小学校の時の級友であったという事は、私をすっかりどぎまぎさせてしまった訳だ。
「君、いつかこれが欲しいと言っていただろう」
彼はポケットから袋をとり出して見せた。然し彼の右手は如何《い か》にも不自然に、だぶだぶの上衣《うわぎ》の袖口《そでぐち》にかくして、袋だけをぶらぶらさせて見せた。私はそれが何であるかを知った。それはゴム製の器具だ。私はいつ彼にそんなものをたのんだのだろう。然しはっきりたのまなかったと断言することも出来なかった。
「ああそう、わざわざありがとう。それでいくら渡せばいいの」
私は早く彼に帰って貰《もら》いたかった。所が彼はひどくじめじめしたねばっこい様子をしてみせた。つまり彼はもじもじしながら、その袋をあけて、中の器具をつまみ出した。私ははっきりしない混濁した憤りがじわっと胃のふにはびこり出したのを感じた。彼のような病気を持った者がどうして隔離されないのだろうか。而《しか》も何故彼は、じかにそのゴム製品のようなものを彼の病患の手で触《さわ》ってみるようなことをするのだろうか。然しそれにも増して私が参ったのは、そういう事態を眼の前にして、私は彼の行為を非難する勇気のなかったことだ。その勇気がないことに私はつまずいて彼を拒否することも出来なかった。
彼はそのゴムをさすったり引伸したりしながらこう言った。
「この頃すっかり品物が悪くなってね。昔のように丈夫なものじゃないんだ。すぐ破れてしまうかも知れんよ」
そして、一枚一枚たんねんに検査し始めたのだ。その時の私の状態はどう言ったらよいのだろう。ひどい侮辱の中に浸って、時の経過を待っていた。
やがて彼はしっかり袋の中に納め終って、その袋を私に渡して呉《く》れた。私は彼の指にふれない為に、その紙の袋の端をつまむようにして受取った。そして私は百円紙幣を一枚、矢張り端をつまむようにして彼の指の傍に持って行った。
「それじゃ、これを取っといて呉れ。又そのうちに上等品があったら持って来て呉れないか」私は口をゆがめてそんなお世辞まで言った。
彼は無造作に指を押しかぶせるように紙幣を受取ろうとした。私はすっかり彼に悪意のあることを感じとったので、今度は少し露骨に手をひっこめた。
「じゃ、いずれ。今日は一寸《ちよつと》会合があるものだから失敬するよ」
私は素早く彼の前を脱《のが》れた。彼の全身からにじみ出ている湿気のようなものは一体何だろう。私は事務室にはいって、昇汞水《しようこうすい》を金だらいにたらしてそれを水で割った。そして私は袋と一緒に両手をその消毒水の中につっ込んだ。それは殆《ほと》んど本能的にそういう動作をした。その時ぎいっと扉があいた。私は手を金だらいにつけたまま、ぎょっとして扉の方を振り返った。其処《そ こ》にはレプラ患者の彼が、嫉妬《しつと》に燃え狂った眼付をしてつっ立っていた。何というのだろう。さっき迄彼の顔面にはまだ病状は現われていなかったのに、今の彼の眼の廻りには既にどす黒い肉のただれがくまどっているではないか。彼は消毒液の中の私の両手に、いやな凝視をそそいでいたが、やがて甲高《かんだか》い泣出すような声を出して叫んだ。
「あんたも、あんたも、やっぱりそうだったのか」
彼はやにわに近づいて来た。
「畜生、みんな贋物《にせもの》だ。俺《おれ》はうつしてやる。あんたに俺の業病《ごうびよう》をうつしてやるのだ」
私はテーブルを楯《たて》にして逃げた。彼は真っ黒になって追っかけて来た。するとそのさわぎをききつけて、受付の少女が部屋にはいって来た。彼はきっとなってそっちを振向いた。そこには少女がけげんな顔付で立っていた。
「くそっ、誰だって容赦はしないんだ。誰だってかまわないんだ」
彼はそう言うと、その少女の方に近づいて行って、少女をがっしり掴《つか》んでしまった。
私は床を蹴《け》って脱《のが》れた。私は少女を見殺しにして置いて脱れて来た。
その後で彼等《ら》はどうなったのだろうか。慈善事業団の建物はどうなったのだろうか。又屋上の不良少年団はどうなったろうか。それ等を私は知らない。私はそれっきりもうあそこには近寄らなかった。そこに近寄らないという事で、私はずっとうずき通しであった。
それでも私は町なかを歩いていた。どこかをいつも歩いていた。それ以来、空にはいつも飛行機が飛んだ。無数に飛行機が飛び、私は不安におののいた。私は金属が空を飛ぶという事も恐ろしかったが、それよりも、その飛ぶものから、何かが落ちて来はしないかという事に余計恐れた。だから私は飛行機が飛ぶと空を見上げて、何か落ちて来た場合の処置を考えた。飛行機からは時々アルミニューム製のガソリン槽《そう》が落ちて来た。地表にぶつかると、がんと奇妙な音響を発して、そのまま動かなくなった。それには安心出来た。然しやがて何が落ちて来るか分ったものではない。そのうちにも飛行機の数は次第に殖《ふ》えて来た。そして高度も段々低くなって、蝗《いなご》の襲来のように堅い胴腹を陽《ひ》にきらきらさせ乍《なが》ら町の上空を旋回した。私は最後の日のようなものが近づきつつあるのではないかと思うようになって来た。
或《あ》る日、私は焦燥にかられて仕方がなかった。へんに辺《あた》りがたよりなくて往生した。それで私は或る高名のノヴェリストを訪問しようと考えた。私の最初の作品の掲載された雑誌は未《ま》だ刷り上っていなかった。私は何者かにせかされていた。それに日が経《た》って来ると、レプラ患者に逢《あ》った日の細部がはっきりしなくなっていた。あの日、私は彼の肉体のどこかに触ったのだったろうか。それとも決して触りはしなかったのか。あの時私は完全に消毒したのだったろうか。それとも消毒しようとして、彼に追いかけられたまま、脱《のが》れて来てそのままになっていたのではないか。その時の前後の事情から、順々にその時の事を思い浮べて見るのだが、触られたのか、そうでなかったのか、消毒したのかしなかったのか、どうしてもはっきり思い出す事が出来なくなってしまった。それで私の肉体も私は信用が出来なくなっていた。一方飛行機が無数に飛ぶようになっていた。私の作品は未だ発表されていない。私は私の作品に対して何の反響もきくことが出来なかった。そして第二作の計画は挫折《ざせつ》したままになっていた。このまま、ぐらりと一切が転換して、私の作品が多数の複製となって世の中に頒布されるということは、幻影だったという事になってしまうのではないか。それでなくても雑誌の編輯者《へんしゆうしや》から、都合によって次輯廻しになったと言って来るかも分らなかった。又は印刷所の手落ちで、原稿を紛失してしまったと言って来るかも分らなかった。その時私は激怒することが出来るだろうか。私はレプラ患者から脱れたように、その場をただのがれようとするのではないか。私はぐらりと私の重い身体を動かす。すると周囲のものの一切がぐらりとゆれて傾く。
私はその高名のノヴェリストを訪《たず》ねようと思った動機をはっきり示し出すことが出来ない。私はまだ一つも作品を書いていないことと同じだという気分をなくす事が出来なかった。それでその高名のノヴェリストに自分を紹介する時に、私はずい分間の抜けた顔付をするだろうと思った。彼は私を知らず、気持も落着かず不愉快な感じを持つだろう。その私が彼の小説のことなどを言い出したら、彼はどんなにか堪《た》えられない思いをするだろう。そして私はうまく機会を作って言うだろう。「私も私のノヴェルが売れました」「ほう、何に」「あなたもお書きになった事のあるあの雑誌です。でもまだ出ていないのです」
私はそのノヴェリストを何処迄《どこまで》おそろしく考えていたのか自分にも分らない。幾分軽蔑《けいべつ》していたのかも分らなかった。それで色々そんな事を考えていると、もうその人の所にのこのこ出掛けて行くことが面倒臭くなった。
愈々《いよいよ》終末の日が近づこうとしている時に、私は一体何をしたいと考えているのだろう。私は何を望んでいるのだ。私はあのゴム製品を使いたいとは思わない。そしてあれは何処に見失ってしまったものか。あのいやな出来事のあった日以来、この町での唯一の私の世間への交際場であったあの慈善事業団の建物にもぷっつりと近づかなかったから、私はこの町で友人という者が一人もいなくなった。私の父や、母は何処に居るのだろう。私は父を見失い、母をも見失っていた。それは少し誇張した言い方であったかも知れない。私は、父の居所を知る事は出来なかったが、母の居所は大凡《おおよそ》分っていた。母は戦争中に壊滅してしまったと伝えられる南方の町に住んでいた筈《はず》であった。そして新聞紙などでは全滅してしまったように伝えられたけれ共、実際に行って見なければ分ったものではない。それだから私は母の居所の見当はついていたけれ共生きているのか死んでいるのか分らなかったのだ。そして父は、恐らくは私と母とを探しているのではないかと思われた。
私は突如その南方の町へ行って見ようと思った。それは母に会いたいと言うのでもなかった。母の生死を確かめたいと言うのでもないようだ。私はぐらりとそちらの方へ身体を移した。
其処《そ こ》はまぎれもなく、その南方の町のようだ。それは前に見馴《みな》れていた馴染《なじ》みの町の様子とは少し違うようだが、明らかに私はその町にふみ込んでいた。すると町は全滅した訳ではなかったのだ。私は町なかを歩き廻った。母の実家はずっと以前に断絶してしまってはいたが、私の母はこの町で生れたのだ。それで以前私はしばらく此《こ》の町に住んでいた事があった。然し今となっては私が身体を休めるような場所は一つとして残っていそうもない。いくらか知っていた家も代がわりをしてしまっていた。それでも私はごく当り前に母の家に行きつく事を信じていた。
私は町の中をうろついた揚句に、ひょっこり町のさい果てであり、電車の終点でもあるターミナルに出て来た。夕暮れなのか、既に夜にはいったのか、辺《あた》りは馬鹿に暗い。私は立止まった。すると一度に色々の事が甦《よみがえ》って来た。私はまるで雲をつかむように構想もなく、デパートや理髪屋の明るい人だかりの中を通って来ていたのだが、その暗いターミナルの背後を囲んだ立体的な丘陵住宅の風景を感じとってある事を思い出したのだった。私は行く場所の見当がついた。私は郊外電車に乗って或る場所に行けばよかったのだ。そしてその場所こそは新聞などで壊滅したと言われていた場所に違いなかった。
そのターミナルから北の方の闇《やみ》に向って、鉄道が敷設されているようであった。その軌道が、どこをどう通ってどういう町々を連ねているものかは一向に分らなかったがただそちらの方に行けば、丘陵も建物も灰になってとろけるように崩《くず》れ落ちた平面の感じがする或る区域に、その場所があるようであった。そして私はしきりに心配事の種が心臓の辺でうずき出しているのを感じた。私は早く其処《そ こ》に行かなければならない。
風が吹き始めた。ターミナルの路傍で私は切符売りの婆《ばあ》さんから切符を買った。高い電柱のてっぺんの方で裸電球がつけ根がゆるんでぶらぶらしながら切符売りの婆さんとその箱のような居場所を明るく区切っていた。私が最後の切符の求め手であったかのように婆さんはそそくさとその箱の店をたたみかけたので、私もあわてて電車に乗込んだ。
電車は混んでいた。だが私は押分けてはいって行った。真ん中あたりの釣り革にぶら下って魚のように呼吸していると、必ず座席がとれるだろうという気がしたのだ。するとその通りになった。私のすぐ眼の前には、如何《い か》にも娘ざかりの肉付のいい若い女が銘仙《めいせん》の着物を着て坐っていた。鼻が平たくて気になったが小ぶとりの身体つきに妙に惹《ひ》かれるものを感じた。近郊の在から出て来てそう日もたっていないような風だ。私は眼でその娘の身体に小料理屋の女のあくどい柄のはでな着物を着せてみた。すると私はがまんのしきれない子供のような慾望を感じ出した。そこで私はその娘の横の座席にしつこい執着を示したので娘は仕方なさそうに横につめた。その大儀そうな仕種《しぐさ》は醜いものだったが私にはひどく挑発して来た。もう手中の小鳥を料理する気分になっていた。
私は自分とは別の人間の柔軟な体温のぬくもりを感じていた。その別の人間である女が少しでも身体《からだ》を動かせると、私は自分の肉体の曲線がまざまざと伝わり、その女の肉体との境界の線をあからさまに知らされた。そうすると私は少し煙草をのみ過ぎた時のように眼がかすんで来た。そして私の肉体がもうあの時から崩《くず》れ始めて駄目になっているような感じにとらわれた。と同時に私はその娘も充分意識して饗宴《きようえん》に与《あずか》っていることを確信していた。それで先のことは考える余裕もなく、刻々が重なって未知の時間に移って行く刹那《せつな》がそこにあった。私は自分の膝《ひざ》でその娘の膝の辺の括約筋《かつやくきん》の色々な方向を数え始めた。すると娘はついと膝を外した。何ということだろう。私は突然平手打ちを喰《く》わされたように狼狽《ろうばい》した。私は自分の肉体の不随意な神経をひどく残念に思った。その娘は私の性根を白々《しらじら》した気持で計算して、つとそのぬくもりを外したに違いないのだ。私は猛然と闘争の心が起った。先《ま》ず手はじめに、非常に侮蔑《ぶべつ》された気味合を充分に現わしてぷいと顔をそむけてみせた。すると、半ばそういう期待もあったのだが、娘がおろおろし出したのだ。私はいささか拍子抜けがして娘の方をながし目に見た。私が身体をそらし加減にしてぐいと膝を押しつけていたものだから娘の膝が乱れて不ざまになったのであった。娘はその膝をつくろおうとしたのだった。娘は身体をよせて来て、
「御免なさい。そんなに怒ってはいやです。仕方がなかったの」
と言った。それはまるで他人でないような調子だ。私はこの変な葛藤《かつとう》には負けたような気がした。と同時にその娘の肉声をきいただけでいやな気持になって、正気づいてしまった。そこで私は思いきりぷつりとこの遊戯の糸を切ってしまうことにした。そして甘ったるいだらけきった余韻の中で、私はいつの間にか、或る家の中に居たのだ。
そこは絶滅したかもしれないと思っていた場所の一劃《いつかく》であった。何かのいたずらでその家は残っていた。そこは私の母の家であった。そして私はどこからか、父を無理矢理にこの母の家に引張って来ていることに気がついた。そうだ、私は此処《こ こ》に来る途中何処《ど こ》か身体に束縛を感じていた。それは私一人でない何者かが私の影となり身体につきまとっていたのだった。それは私の父であったのだ。此《こ》の家にはいって、はっきり私の父であることが決定したようであった。
私はもう其処《そ こ》に住み込むつもりで、畳の上を歩き廻って部屋部屋をのぞいてみたり、裏の縁側に立って板塀《いたべい》越しに隣の家の方をのぞいてみたりした。猫の額のように狭い不潔な庭には枇杷《びわ》の木が一本植わっていた。その黒っぽい色素の枇杷の葉が一枚一枚ゴム細工のようなぽってりした重量でいやにはっきりと眼に写った。畳はぶよぶよふくれ上りほこりっぽく、ねだがゆるんで歩くとみしみししわった。天井板は全部取外してあるので屋根裏の骨組みが蜘蛛《く も》の巣だらけで、電燈のコードが張り渡されて眼ざわりであった。壊滅からは免がれたとはいうものの、やはりあの一瞬の閃光《せんこう》の時にこの家全体に癒《いや》すことの出来ないひびがはいってしまったことが見てとれた。部屋は、ひどく陰気なのだ。母がよくこんな所に住んでいられたものだと思った。
「畳はずい分きたないね。僕はこんなのは大嫌《だいきら》いさ。僕が来た以上は、うんときれいにする」
私は大きな声で少しあてつけに、うんとと言う所に力を入れてそう言い、言ったあとの自分の言葉でふいと私は母が何か不潔なような思いを抱《いだ》いた。私が大声でそんな事を言ったのには一寸《ちよつと》したからくりがあった。そんなに言うことによって、母の今までのこの家でのふしだらな生活をわざときめつけることになると思った。そうすれば私は父の御機嫌《ごきげん》を伺い、併《あわ》せて母としても父に対していくらか肩の張りがとれて気易《きやす》くなることが出来るだろうと思った。その結果は父に対しては上乗であったようだ。然し母に対してはすこし効《き》き過ぎたような悲しさに襲われた。
私は母はもっと年をとっていると思っていた。然し今見るとまだ仲々瑞々《みずみず》しさが残っているようだ。だらしなく猫じゃらしに結んだ伊達巻《だてまき》の小粋《こいき》にななめになった腰のあたりがどうかするとなまめいてさえ見えた。母は不義の混血児を負ぶっていた。その白っ子のような男の子は、私は前々から母の生れた町でちょいちょい見かけていたことを思い出した。年の割にのろっと大きな感じの子で、そんな大きな子を母が負ぶっている気持が分らなかった。思うに父の黒い眼の前ではどう隠しようもなくて、いっそ身体につけてしまったのかも知れない。私は町の路上で遊んでいたその混血児が、実は自分の母の不しまつの結果であることは、今度此の家にやって来て始めて知った。でも私はその事に少しもおどろかなかった。一さいがそうだったろうと前から分っていたような気持になっていた。いや寧《むし》ろこんな誠に小説的な環境が、この自分のものであったということに、訳の分らぬ張合いが起って来た。自分の根性を素手で掴《つか》んだ気持でいた。そうだ。私はノヴェリストとして自分を限定してしまったのではなかったか。
母は父がやって来た手前いくらかやぶれかぶれでふてくされているみたいに見えた。父が何か言えばそれに答えて伝法《でんぽう》にぽんと言い返しをやりかねない風情《ふぜい》に見えた。然し私には、そんなのろっとした白っぽい異人の子を負ぶって父に応待しているということで、女が運命に逆らうことの出来ない自然さで、母がもうおろおろしきっているように映った。私はそういう自分の甘さにのって、うっかり、
「お母さん大丈夫ですよ。この子は立派に、私の弟です」
と言ってしまった。その瞬間私は自分で自分の言ったことにセンチメンタルになって、胸がつまり、ヒロイックですらあった。母とその混血児は、涙ぐむだろう。その時の腹の底では、もし父が反対しても、私は自分に自信があるような気がしていた。私は瞬間瞬間の私の感情的な反応を信じない決心をしていたのだ。それはあの日以来そうなっていたのだ。
父はすべてを黙って見ていた。私のそのへんてこな自信をも含めて、見ていて、甚《はなは》だ不愉快そうであった。私には父の肉体は感じられない。私が父をこの母の家に連れて来たのだが、父には殆んど位置というものがない。而《しか》も私は明らかに母に対して父をこの場所に位置させていた。厳として、父らしい気配がそこに存在した。そしてその気配が不愉快そうな様子をした。
父は言った。
「その他に、女の子も又別に二人の子供もいるのだ」
そうぽつりと言った。それ丈《だけ》言ったのであるが、私にはその出された言葉より、余音となって消えた「お前は知るまい」という出されない言葉が、ぴしりと胸に来た。父が口に出して言わない後の方の言葉が現に出された言葉よりもなまなましく私の胸に焼きついた。私はその父の姿に醜くたじろいだ。然しうちの者は怪我《けが》ひとつしないと言うのが戦争前までの私の現実だったのだ。それが今日此《この》頃はどうだろう。こんなにぎっしり不幸が矢つぎ早にやって来た。私はもう自分が何であるか分らない。うわあっ、何と素晴らしいことだ。之がみんな俺《おれ》の現実なのだ。そういう気持が瘡《かさ》のようにはびこり出していた私に、父の今の一言はぴしりと来た。私には父がゆるぎのない世間の鉄の壁に見えた。
「その位のことは前から知っていました」私はか弱い追従《ついしよう》の笑いを浮べて、とにかく父に言い返した。拭《ぬぐ》うことの出来ない罪悪のように仮借なくきめつけられた私の甘さを、どんなにしてでも繕いたかった。お父さん、本当は私はレプラにかかっているのですよ。私はどんな現実にも驚かない私だという虚栄を満足させたかった。然しその結果は、父と母との人間的な不和に対して私風情が到底どうすることも出来ないことを思い知らされたに過ぎなかった。
「…………」
父は又何か言った。
それは怖《おそ》ろしい言葉だった。私はその言葉をきいた時は、私の皮膚は母の皮膚の一部ではなかったろうかと思った。その皮膚にはっきり地獄をのぞき見させた言葉だった。
母はそれに何ごとか言おうとした。母が何ごとか言わなければ世界の平衡がとれないで甚《はなは》だ宙ぶらりんになる。早く母は何か言わなければならない。父の口から吐かれた瓦斯体《ガスたい》のものを母の口からの別の瓦斯体によって、中和させるか何かしなければ、此の廃墟《はいきよ》のただ中に奇妙に取残された或る地点を中心にしてこの国全体が崩壊しそうであった。所が母はお盆のようなものを畳の上に置いた。母が父に向って何か言う時には、その言葉に嘘《うそ》が少しもないことを示すために、一種の踏絵の儀式を行う約束になっていたと見える。そのお盆には肖像画が画かれてあったのだろう。丁度裏返しになっていたので見ることは出来なかったが、その肖像は誰のものだったろうか。私はその肖像の主を異常な執心で見たいと思った。母はつと裾《すそ》をからげてその盆の上を踏んだ。私はそれが私の母であることを疑った程、なまめかしい姿態であった。私はこの極端に尖鋭《せんえい》化してしまった、今の瞬間が、和解の絶好の機会だと直感した。私は殆んど祈りたいような気持になっていた。
然し、何と言うことだ。母が口走ったのは、母の情人、その西洋の男に対する真実の信頼の言葉であった。
父は激怒した。父の感情の波は、私にそくそくと伝わった。私も又父と共に激怒した。然し又同時に私は父の精神の破局を甚だ小気味よいものに思った。父は鞭《むち》をとりあげて母を打とうとした。すると私には又甘いヒロイックな気持が起った。私は父に母の代りに父のせっかんを受けることを申し出た。父は始めなかなかがえんじなかった。その父の表情は青ざめた真面目《ま じ め》なものであった。私はその父の顔を見ると更に執拗《しつよう》に母の身代りを繰り返した。私のその真剣なやり方は我ながら真に迫ったものがあった。父は遂に承知した。だが父は口もとに冷たい微笑をうっすら浮べていた。
私は父の鞭を受けた。
それは物凄《ものすご》いものであった。私は殆んど失神せんばかりであった。父は石の如《ごと》く憎悪《ぞうお》の極に立っていた。私は何かを甘く見過ぎていたことを手ひどく思い知ったが、死んでもそのせっかんに悲鳴をあげることはないであろうと思った。鞭が終ると、棍棒《こんぼう》のようなもので私は顔面をしたたかなぐられていた。
やがて私はその家の外にいた。口の中は歯がぼろぼろにかけてしまった。手でいくらつまみ出しても、口の中には歯の粉砕された粉がセメントの様に残った。私は自分の口をまるでばったかきりぎりすの口のように感じた。
私は何処《ど こ》を歩いているのだろう。私には一切が分らなくなった。其処は崩壊してしまった場所の筈《はず》であった。然し今私が歩いている所は、すっかり家が立ち並んで人々が往来していた。
硫黄《いおう》のにおいがする。そしてその家並は傾斜している。家並に沿って谷川が流れているようだ。だが私に川は見えない。ただそんな気持がしている。道には並木が植わっている。之は何の木だろう。桜かも知れない。季節になると眠たげな雲のように桃色の花々が棚《たな》びくのであろう。然し今は花はついていないようだ。この家並は湯気のようなもので覆《おお》われている。そして硫黄のにおいがする。私はどうしてこんな道を歩いているのだろう。又一夜の宿りの旅館をあれでもない之でもないと探しているのだろうか。道はだんだん下り坂になっている。石ころが多くなった。人々が往来する。だがみんな影が薄い。あたりがくらい。決して夕方ではないのに。太陽があんなに中天高くかかっている。それに暗い。人々はぞろぞろ歩いている。
(かっとまばゆい嘗《かつ》ての日の真夏の昼の、海浜での部厚い重量感を呉《く》れえ)
私はそんな事を思って歩いていた。私は、あの家に行ってやろうと思っているのだろうか。あてがないふりをして歩いていながら、あてがあるのに違いないのだ。
人家の家並は間遠になって、やがて細長い三階建の木造家屋の下を通った。それで私の気分は陽がかげったように暗さを増した。私は首をうしろにもたげて家屋の上の方を眺《なが》めた。すると窓という窓には一ぱい人の顔が見えた。それは学校の生徒の顔のようだ。私は屈辱で全身がほてった。然し全部の生徒が私を見ている筈もないのだ。私はもう一度よく見ようとした。というより、そちらの方に顔を向けていたのだ。よく見極《みきわ》めるというような冷静さはなかった。熱を持った眼にうつったのは、たった二、三人の生徒だけが私を見て笑っていたに過ぎないことを了解した。私はそのまま歩いて行った。
(インチキインチキインチキ)
私の気分がささやいた。
(君はね)
又気分がささやいた。
(当って砕けろではなくて、砕けてから当っているんだ)
(それはどういう意味だ)私は抗議した。(何を言うつもりなんだ)
すると気分が律動に乗って答えて来た。(お前は此の間、いやにしつこく主張していたぞ。あ、た、っ、て、く、だ、け、ろ)
(そんなくだらない事を主張する訳がない)私はかぶりを振った。私は道を歩いていた。硫黄のにおいがして来る。
(気分を信用するな)
それは又誰のささやきだろう。
(お前の行く所は分っているよ)
私はどうやら目的の家の玄関に立っていた。
「一晩とめてくれえ」
私は女の部屋に通った。
(それ、お前のさわりだ。しっかりやれ、同《お》んなじ調子)
格子窓《こうしまど》につかまって外を見ている子供がいた。
「駄目なのよ、その子」
女が私の背中の方で、気配を見せながら言った。
「駄目って、どう?」
「もう見放されたの、お医者さんに」
私はその子供の傍に近寄ってみた。然し何処《ど こ》が悪いのだろう。ちっとも病気らしく見えない。私は声をかけた。
「坊や、何を見てるの」
「向う」
子供は透き徹《とお》る声で答えた。私は格子窓の向うの景色を感じていた。それは一面の田圃《たんぼ》で、今は何も植えてなかった。土は一度掘起されたまま固く凍りついていた。それが眼の届く限り続いていて、一里も先の方に、ちょろちょろと地平線に浮き上って踊っているようなまばらな松林が見えた。そして海鳴りが聞えていた。じっとその方を眺めていると、松林越しに白い波の穂のくだけるのが見えるようであった。
「坊や、海が見えるねえ。おじちゃんがだっこしてやろう」
私はその子供を抱いた。殆《ほと》んど重みというものがない。私は勇気を失った。すると子供は私に抱かれるのを待ち構えていたようにけいれんを起し始めた。私は子供をそっと下におろした。
「駄目らしいね」
私は女に言った。私は頭がかゆくて仕方がなかった。それで指を髪の中に突っ込んで、ぼりぼりかいた。そして部屋の隅《すみ》に置いてある鏡台の前に坐った。すると其処《そ こ》に新刊の雑誌がのっかっていた。女はすすり泣きをしていた。その雑誌は私の最初の作品が載る筈の雑誌ではないか。私は急いでその雑誌をとりあげて、目次を開いて見た。
おお、確かに載っている。私の名前が活字になっている。然し何故《な ぜ》私には送って来なかったのだろう。何を措《お》いても先《ま》ず私がそれを見る権利があるのではないか。頭がかゆい。そして首筋の辺《あた》りがひどくかゆくなった。それで、かゆい所をひっかいてむしった。
「此の雑誌どうしたの?」
「あら、それ」
女が後ろに来た。
「それに、俺《おれ》、こんな題名をつけたかしら」
「一寸《ちよつと》」
女がびっくりしてつまったような声を出した。「あなた頭どうかしたの。へんなもの、一ぱい」
私は頭に手をやって見た。すると私の頭にはうすいカルシウム煎餅《せんべい》のような大きな瘡《かさ》が一面にはびこっていた。私はぞっとして、頭の血が一ぺんに何処か中心の方に冷却して引込んで行くようないやな感触に襲われた。私はその瘡をはがしてみた。すると簡単にはがれた。然しその後で急激に矢もたてもたまらないかゆさに落込んだ。私は我慢がならずにもうでたらめにかきむしった。始めのうちは陶酔したい程《ほど》気持がよかった。然しすぐ猛烈なかゆさがやって来た。そしてそれは頭だけでなく、全身にぶーっと吹き上って来るようなかゆさであった。それは止めようがなかった。身体は氷の中につかっていて首から上を、理髪の後のあの生ぬるい髪洗いのように、なめくじに首筋を逼《は》い廻られるいやな感触であった。手を休めると、きのこのようにかさが生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に猛烈な腹痛が起った。それは腹の中に石ころを一ぱいつめ込まれた狼《おおかみ》のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい腹の中のものをえぐり出そうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強《がんきよう》に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋《た び》を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った。その流れは底の浅い小川で、場所はどうも野っ原のようである。私はさらさらした流れに身体をつけたまま、外部を通し見た所に、何の木か知らないが一本の古木があって、葉は一枚もなく朽ちかけた太い枝々の先に、鴉《からす》がくちばしを一ぱい広げて喰《く》いついているのが見えた。それをもっとよく見ようとして目をみはると、それも一羽だけでなしに、どの枝の先にも、そのようにくちばしを一ぱい広げてがっぷり枝先に喰いついた鴉がうようよしていた。それは丁度貝殻虫《かいがらむし》のように執拗《しつよう》な感じを与えた。鴉はそのままの姿勢でいつ迄《まで》もそうやっているような気がした。ただ生きている証拠に、てっぺんに向けた尻を時々動かしては、翼をやんわり広げる恰好《かつこう》をした。然しくちばしで葉のない太い枯枝にがっきり喰いついたままであることに変りはなかった。それで流れの中につかっている私は、その鴉どもを、貝殻虫をむしり取るように、ひっぺがしてやりたいと考えていた。
(昭和二十三年二月)
兆
道路は乾燥し切り、砂ぼこりが厚い層になって道の上に浮き、靴に吸いついた。
空の高い所では、風がうなり声をたて、あわれな金切声のように長く緒《お》をひくのだが、たけり狂うそのエネルギーの正体をつかむことはむずかしいし、そのひょうひょうという吼《ほ》え声をきくと妙に意気が沮喪《そそう》した。
地上にも風は吹きまくっていた。然《しか》し地上を吹く風は大空の風のうなりのように吹きっ放しではなかった。でたらめの方向から、でたらめの間を置いて吹いて来た。そして風が吹くと厚い層の砂ぼこりはもうもうと吹き上った。耳も目も口も襟《えり》も胃もざらざらになった。そのざらざらの砂ぼこりの道を人の流れがひきもきらずに続いていた。
巳一《ミイチ》はその中に毛内《モウナイ》と沢《サワ》と一緒に肩を並べてまざっていた。
三人はともかくかつての学生仲間の関係にあったが、そういう間柄にみられるいかにも親しそうな擬態は巳一をたまらなくした。然し毛内も沢もその擬態を重荷に思わずに十二分に利用し人にもおっかぶせることが度々《たびたび》であったので、巳一はその二人を心の底で軽蔑《けいべつ》していたかも知れないのだ。と言っても三人顔を合わせれば巳一は彼等とぞんざいな会話をした。二人とも世間ではうまくやっていたのでその中に具合よくとけ込んでおり、巳一の鳥肌《とりはだ》立ったような世間恐怖症に比べると、どうしても腰の辺《あた》りがしっかりしている。巳一にしても毛内や沢なみに調子よく世間となれあいたいと思うが、二人とじかに顔を合わせると、とたんにうまくやり度《た》くなくなり、二人の顔付が馬鹿げて見え、ついでに自分の脂肪の少ないかさかさした容貌《ようぼう》がうとましくなって来る。毛内と沢の二人で会話が仲良くはずみ出すと、巳一にはそれが隠語めいて聞え反射的に無口になって行く。
ざらざらの砂ぼこりをかぶり白い道を歩いていると、隠語に似たそれらの言葉は二人の共謀の兇器《きようき》となって巳一の横顔にじっと押しつけて来るような妄想《もうそう》が起り、冴《さ》えない蒙古《もうこ》型の薄い眼が四つ巳一の意識にはりつく。その眼は無意識な眼だ。単にそこに向いて動かないというだけだが、巳一はそれにたじたじとなった。その眼には羞《はじ》らいがなくただ四つ並んでいるというだけで、巳一がその中に毛内も沢も自分を軽蔑していると読みとったのは思い過ごしだ。然しそれだから一層冷酷な感じはあった。
毛内と沢が世間を背にしてがっちり立っている固さに向っては、こっちはふにゃふにゃだと二人に印象付けているのではないかと巳一は思うのだが、これは二人に対する巳一の負い目だ。
そうはいうものの、三人こうして一緒に集まってみると、毛内と沢の結びつきが必ずしもうまくがっちり損益収支相償えているとも思えない。巳一がその気にさえなれば、二人のどちらかととっ組み二人の結合に水をさすことも出来そうだ。然し二人のそばによってみると、ちんちくりんのくせに精力的な浅黒い顔の毛内や、沢の小太りで髭《ひげ》のそりあとの青い女好きのするたのもし気な顔ばかりがむんむんしていて彼と二人のそれぞれの間に深いさけ目が立つのを感ずる。
人々は相変らず歩いている。
そのうちに、その道を歩いている者は、一様に方向が同じであるらしいことが分って来た。向って行くその方にきっと何かきまりきった動きのとれないことが待ち構えているかも分らないという不安も含んでいた。流れのしもの方に危険な瀑布《ばくふ》がかかっていそうな気配に気がまいるのと同じだ。然し瀑布がしかとあるか無いかは分っていない。ただ流れ行くままに滝の瀬音でも聞えやしまいかと、きき耳をたてているようなものに似ていた。
相も変らぬ天空の吼《ほ》える声と地上の突風のまき立てる砂塵《さじん》が、人々にぐちっぽい調子をくっつけた。それなのに太陽はおだやかに照りつけていた。風が強いのに光がおだやかだというのは少しちぐはぐな感じだが、事実太陽は音と風と埃《ほこり》を通して地上をじりじりとおだやかに照りつけていたのだ。身体は汗ばみ、汗ばんだ身体に砂ぼこりがまといついた。
すると風が人々の声を運んで来た。
〈我々は外国人に訓練して貰《もら》うために集合しつつあるのだ〉
又もや砂ぼこりが舞い上った。
緒をひいた風のすすり泣きが天空にあった。
たった今決心しなければならないのだと巳一は思った。然し彼の心には躊躇《ちゆうちよ》があり微妙にゆれたのだ。これはどういうことだ。
巳一は毛内と沢の顔付が気になった。どうせおんなじだろうと思っても、ひとりひとりの心をのぞいて手でしかとつかむことは出来ない。
動員! という誘惑的なざわめきが地上を覆《おお》い始め、風はそれを吹き払ってはいるのだが、人々の心の中に植えつけられたさまざまの偏見をこそぎ落すことはむずかしい。それは人々の心の中にさまざまに屈折して行く。三人共に軍隊生活と戦場での体験があったことは、陣頭で風に吹きなびく自分の絵姿が幻影となって立ちがちであり、とどのつまりそこに陥《お》ち込んでも絵姿の自分が再び立ち上って来るのだという錯覚があった。肉体の爽快《そうかい》さが、向うにあると無理にも思い込むことは気やすめになった。然し現実は断ちきられはしないから、絵姿は生ぐさい体臭のからみ合うあのむっとした軍隊生活の残飯《ざんぱん》捨場にとって代られ、そこにはこのちんちくりんの顔とかかっぷくのいい顔のようなものしか並びはしないし別のものがそこにあるのではない。
巳一は毛内にも沢にもその表情の中にどんな反応も認めることが出来なかった。彼はそれで少し安心した。こずるい笑いの皺《しわ》が口辺にただよった。同じ穴の貉《むじな》の臭さが感じられた。三人共にむかしから鋭さはなく、三人集まってみると生ぬるさがはっきり露呈した。貉どうし首をよせ合っていることを感ずるのは気分がまいる。それで巳一は二人を一層軽蔑した。それならどうすればいいことなのか。
然し既に散開の号令がかかっていた。どこからともなく、その号令を風が砂塵を吹き上げ吹き上げ運んで来た。人々はその場に散って土の上に腹這《はらば》いになった。
毛内も沢もにわかに敏捷《びんしよう》になった。巳一も腹這う姿勢をとった。もう訓練は始まっているかも知れないと思った。
何が起るか分らないが、みんながやる通りにしていれば、やがて分って来るんだというあの体験からの智慧《ちえ》があった。身を伏せてみんなと一緒になっていると少なくとも安心感がもてたし、みんなのやり方に逆らおうとするとひどく疲れた。
一人ではなく三人一緒に行動しているのだと思うことは楽だ。然し二人が現状の中で努力して抜《ぬ》け駈《が》けて先ず先頭切って将校になって行くのに違いのないことは今迄《いままで》のつき合いから押しはかることが出来る。学生の時の試験にも二人はそうであった。試験勉強なんぞおよそくだらん制度だねなどと、小つぶで精悍《せいかん》な毛内が先《ま》ずそう言うと、体格のいい沢がびくりとして、そうも言えるけどそんなことを言っていてこっそり人の倍も勉強するんだからなあ君は、などと言ったものだ。そこで二人は声を合わせてアハアハと笑ったものだ。試験の当日には、すっかり準備の出来た二人が、直前になってあわてている仲間を三角の眼で見ているかと思うと又開始時刻ぎりぎりまで執拗《しつよう》に情報蒐集《しゆうしゆう》に廻って歩くかしていたものだ。二人は当面の問題に喰い下るだろう。二人がやがて将校の座につくことは明白である。今のつらさは二人にとっては将来の栄光の保証のようなものだ。
巳一はあいまいな顔付になっている自分を意識した。彼は非難をこめた二人の眼付を知っている。非難というと当を得ないかも知れない。はっきり非難であればむしろよかったのだが、それはからかいの色あいだ。お前いつでも俺はかかわりがないというような顔付をしてるじゃないかね……。いつも俺だけは別だという……。しかしひとのことじゃないんだぜ。お前自身がそうなって行くんだぜ。まんざらいやでもなさそうじゃないか。それとも将校はお嫌《きら》いかな。一兵卒であごをつき出す方がご趣味かな。二人は顔をならべて眼をすえて止り木の二羽の鳥のようにぷうっとけば立って巳一を見る。
いつのまにか、人々も彼等も三八《サンパチ》銃を握っていた。銃口がほこりまみれにならないよう気遣《きづか》ったり又そんな気遣いはいらないんだもう民主主義の世の中になったんだからと思ったりした。
風はいつのまにか止《や》んでいた。
あの大空でのたけり声もいつ止むともなく聞えなくなっていた。
ただ三八銃を持たされた人々の不安なざわめきを巳一は感じた。
どんな訓練が待ち構えているかは分らない。まだ何としてもそんなことはまさかなかろうと半信半疑であった、外国人による訓練ということが、或《ある》いは事実なのかも知れないぞという気持に傾いて来た。
然しどうなるのかは知ることが出来ない。未知の領域がいつも立ちはだかり、不安のざわめきが瀰漫《びまん》している。
俺はもうこんなことは一度経験ずみの筈《はず》だ。或る程度までは肉体が堪《た》えられる頃合も分っている筈だ。苦痛を享楽に変えて行くずるさにも免疫のわけだ。巳一はそう思い、然し又そういう考えの種が身体の底に沈澱《ちんでん》しているのを外からうかがわれないように固く隠そうと思った。
毛内も沢も不安に相違ないのだ。だが二人は抜け駈けて行くことに必ず熱中する。やがて一歩先んじたら、二人は巳一に気合をかけることをも躊躇したりはしない。巳一はそこのけじめをはっきり腹にすえて置かなければいけないと思った。
エスカレーターで運ばれるように人々はそこに近付いて行った。そことはどこであるかはっきりはしない。ただ学生の時の軍事教練の時間のように、眼をつぶって銃を握り埋立地や松林の間に身体を伏せたり這い廻ったりしていると(埋立地の草むらに落ちていたあやしげなもの)二時間の単位時間が経過して解散が出来たのだし、そのまま下宿に帰って畳の上にひっくり返り眠りこけようとどうしようと気儘《きまま》であったように、今度のこともそうなるのだろうとぼんやり考えていた。そのうち解散の号令がかかって解放されるだろう。
その間も人々の散開匍匐《ほふく》している背景は徐々に移動していたわけだ。道が二股《ふたまた》に分れて、その一つは坂を下って下の方に伸びているのが見えた。銃を持たされた人々は崖《がけ》の上の方を進んで行った。空には飛行機が飛んでいるようであった。おさえつけるような爆音がしていた。太陽のかがやいた午後のおだやかな暑気があたりに満ちていて、博覧会の花火でも上げられているような、だれたのどかな錯覚の気分がただよっていた。崖下の道の方には、道路に沿って昔風のどっしり黒ずんだ木造の藁屋根《わらやね》の家が二三軒かたまっていて、その家の前では年寄りや女子供が崖の上の道の異様な集団のおかしな行進を見ていた。それは声援を送っているようにも思えたり、又全然無関心に眼の前の見世物を見物しているのだとも見えた。然しそこにははっきりと、行進している人々とは別の、それに参加しなくてもいい状態があったわけなのに、巳一が列を離れてそこに逃《の》がれて行くことを思いつかなかったのは不思議という外はない。
彼は崖下の別の人々をみて、ちらっとおやあそこにああしても居られるんだなと思っただけで、その状態と自分の状態を結びつけてすぐさま自分の行動をきめる具体的なきっかけに考えをとどかせることは出来なかった。それはまるで思ってもみなかったことだ。そして殆《ほと》んど同時に自分の行く先に奔湍《ほんたん》が近付いて来たことをはっきり本能的な知り方で気がつき、急に自分の所持品に気がかりが起って来た。そこに行けばきっと検査がある。そして出て来た色々の品物について訊問《じんもん》されるにきまっている。訊問は凡《およ》そ答えのしにくいものばかりなのだ。
「君は何だ」「…………」
「之《これ》は何だ」「……のようなものです」
「なぜここに来たのだ」「…………」
「どうしてそこへ行くのだ」「…………」
「君は誰だ」「神呪《カンノウ》巳一です」「なにい、カンノウミイチ?」
それは巳一にとっては恐怖だ。
と言ってもその場に立たされてしまえば何でもないことのようには思える。何でもないことではないかも知れず、何かがはっきりして来るようにも思えたが、然しそこに近付いて行く時の恐怖と厭悪《えんお》と煩瑣《はんさ》におびやかされる気分は消されない。
巳一はポケットをさぐった。仕種《しぐさ》が大きくなり、こっそりやってのけようと思っているのにうまく行かない。彼はポケットからゴムサックを取り出し、同じポケットに有り合わせた新聞紙片にくるんで片手の掌《てのひら》の中でもみまるめた。がさごそと大きな音がした。巳一は周囲に気がねをした。密告されるかも分らないという不安があった。巳一は毛内と沢の他の者の素性をまるっきり知らないのだ。毛内も沢もその品物を持っている筈であった。いや毛内は早く処分しているかも知れない。然し少なくとも沢は持っている筈であった。巳一はその処置を沢と相談すればよかった。然し相談すれば周囲にことがあらわになるので、それが巳一にはいやであった。と言って自分だけ勝手に処分すれば、沢はひとり取り残されるような結果になるかも知れない。自分ひとりだけで有利な状態を作って置くことが、沢に対しての裏切行為のように思えて少し拘《こだわ》った。こういうことはお互いが細心な注意で処分することにならされていなければいけないのだ。彼は沢が愚鈍に見えて来た。沢は毛内や巳一の真似《まね》ばかりして来たように思えた。ふだんは毛内の追随者だが、毛内の暗示がない時には沢は巳一のやり方にも何の抵抗も感じないで従うに違いない。巳一はそのような意識にしばられて、少し指先がもつれたが、とにかく新聞紙片をまるめたものを崖下の方に何気ない素振りで投げてやった。それはうまく行った。恐らく誰にもそのことが異様なことのようにはうつらなかったろう。彼が鼻をかんでその紙を捨てた位にしか思わなかったろう。(実は巳一の気持はもう一屈折したうしろめたさを感じていた。というのは、恐らくたとえ対手《あいて》はそんなものを見つけても一顧も与えないだろう。その対手が一顧もしないようなことに先廻りして気を病み証拠を消すようなことをしているのが、鼠《ねずみ》のようにこそこそして感じられ、それが彼をすっきりさせなかった。だがどうしてもその証拠は湮滅《いんめつ》して置かなければならないと思えることも動かせなかったのだ)
まるめた紙を巳一は崖下に落ちるように投げてやったのに、うまく下に落ちて行かずにあやうい所に引っかかってしまった。
しまったと反射的に思いはしたが、すぐその後でその方がよかったのだと思い返した。
そのままほって置くことだ。むしろその方が作意なく見えていい。却《かえ》って下に落ちていれば崖下の傍観者たちがその品物をあやしむに違いない。巳一がそう思ったその時、今度は沢が彼と同じような動作をし始めた。ポケットの中からゴムサックをとり出して紙きれにまるめこみ崖下に投げてやったのだ。そしてそれはうまく一度で下に落ちて行った。
沢が又真似をしやがったと巳一は思った。と沢はそれだけでなしに崖はしにひっかかっている巳一の分まで落そうとし始めたのだ。沢は短かい棒切れをす早《ばや》く見つけて、その先で紙をつついて下に落そうとかかった。然しなかなかうまく落ちて行かないのだ。巳一は舌打ちをした。何ておせっかいなことまでしやがるんだ。そんなことをすれば目立つんだ。目立ってはまずいのだ。彼は沢に憤りの眼を向けた。だが沢に何か話しかければその上に目立つことをなぞるようなものなので、忿懣《ふんまん》に身内があつくなったが、じっと押えて沢の動作をいらいら見守った。
ところが沢はその仕事にひどく熱心だ。全体の見通しとか均衡などは考えもせず、一種の善意と親切心でとうとう目的を達してしまった。しかし何と言っても周囲に気付かれぬようにしなければならないことであったので、沢の気持にもあせりがあり、そのためにくるみ込んだ中のものが包み紙からはみ出してしまい、別々になって崖下に落ちて行った。
「ちぇっ、ぶざまなことだ」と巳一は思った。「こいつらと事を謀《はか》ることは出来やしない」
沢は汗ばんだほっとした顔を巳一に向けた。片えくぼが無邪気げに見えた。然し巳一はにこりともしないで沢の顔をじっと見返していた。(俺はほほえみ返すことが出来ないのだ。これは俺の……かも知れない)
幸いにこのことは摘発されずにすんだ。
然し巳一はそのサックを崖下の傍観者が拾ってわざわざ追いかけて持って来るような気がしてならなかった。これ、おじちゃんのでしょう? 子供がふうせんゴムのようにぶら下げて持って来るかもわからないではないか。ほれ見ろ、巳一は沢にそう言うだろうと予想して見るわけだが、又その言葉は自分の体内から発散し切れずに、うつろに反響しながら止まってしまうようであった。
巳一は一層孤立した自分を感じた。群衆の塊《かたま》りというものが、厚みを以《も》って彼をとらえなかった。晩夏の海水浴場でのうそ寒ささえ感じた。もっともっと緻密《ちみつ》なものでなければならんのではないか。
相変らず行列は前方へ流れていた。そしていよいよ近付いて来たのだという気配が濃くなって来た。
「駈け出して突っ込むんだ」
それは明らかな号令となって聞えて来たのではなかったが、何かそういうことでなければおさまりがつきかねるようであった。
すると人々の前に号令者が姿を現わした。
遂《つい》に現われたという感じであった。それは巨大なむくつけきものだ。人々がそれとなく観念して考えていた調練者としての外国人は言ってみればスマートな甘さを含み過ぎていた。そしてそこに現われた外国人というものは凡そ予想したものと違っていた。醜怪なるものであった。回教徒が想像する大入道の魔神に似ていたといえるかも知れなかった。ぶよぶよと身体《からだ》はふくれ、顔なども凸凹《でこぼこ》していた。
その号令者は五六人の女を連れていた。女たちの方は外国人ではない。それを人々の反対側に場所取らせて対峙《たいじ》させた。女たちは皆ちんちくりんな背丈《せたけ》で恰好《かつこう》悪く太っている。顔の色つやもすぐれず、固いが弾力のある感じだ。身体つきから受けるのは中性的なものである。額の生《は》え際《ぎわ》がせま苦しくやわらか味がないのと足が短かくふくらはぎが太いので、肉の塊りの感じが強かったのだ。然し女たちは明らかに同胞であった。
「それっ、女たちにかかって行け」
調練者として現われた巨大な男は叫んだ。その言葉は人々に通じた。然し人々は瞬間ぼんやりしていた。言葉は通じたがそれとはっきり意味がのみ込めなかった。
すると男が又どなった。
「かかれ、かかれ」
女たちの表情に感動は認められなかった。脂肪の塊りが色のさえないブラウスとスカートをまとっているという事態がそこにあった。外国人の眼の中からはどんな感情も読みとれない。ただその命令に従わなければ報復として厄介なことが課せられそうな予感がしただけだ。然し人々は躊躇《ちゆうちよ》した。白日の下でそのようなことが起りうるとは考えられないというひるみがあった。人々はざわめいて動揺した。それを見てとると、外国人は巨大な身体をゆすって、女たちの中から一人をつかまえた。
「よろしい。それじゃ私が見本をみせてやる。いやお前たちが肯《がえ》んじないのなら、私がやるまでのことだ」
女は抱きすくめられた。もがいて逃げようとした。然し男の大きな身体の下では効《き》き目がなかった。男の長いものが露出した。巳一の好奇心はそんな時でさえ正常に働いた。巳一は外国人のそれを見るのは始めてだ。ただ長いだけで、しなやかではあるが力は弱そうに見えた。あれが何の役割をするというのか。犬のつくばいがあるばかりでむしろ悲哀の感じがあった。
いけにえの女は夢中になって逃げようとした。スカートがまくれて太ももがあらわになった。その女は女たちの中でも一段と醜いのではないかと思われた。
男も醜怪な形をして居り、そして又一番醜い女をつかまえたことで巳一の気持は軟化させられ、心のすみにひるみがあった。若《も》し男が美しく女がみにくかったらどんな感情に襲われたろう。又その逆であったらどうだったろう。そして事態が許せたり許せなかったりするはずみを与えるエネルギーが今まさに発生しようとしていた。
しかし仮に女が男の動作にまかせたとしてみたところで、どうだというのだろう。女の男から逃げようとする気持はきっと折れ曲るだろうし、だから今女が夢中で男から逃げようとしていることが滑稽だと思い始めると、むしろそこに起ることをしてすっかり展開させてもみたかった。
然し女は顔色を紫に充血させて逃げようとし、男は始末のつかなくなった厄介な一物を持ちあぐねていた。その男が人々の上に号令者として出て来ていることに人々のこだわりがあったのだろうか。
「女を逃がしてやれ」
誰かがうしろの方から小さい声で言った。人々ははっとした。「女を逃がしてやれ」人々はそれに応ずるように身体を左右に動かした。外国人はそれを聞くと、ふとひるんだかと思えたが、反射的に一層ふてぶてしい構えになった。哀れな感じはふっとかき消え、露骨に挑発的になった誇張した動作をはっきり示した。
「やめろ、やめろ」
人々はぶつぶつ言った。巳一は人々の塊りがすけていて隙間《すきま》だらけなのを感じた。巳一にとっては毛内や沢との結びつきが塊りを理解する差当っての手がかりとなり、それはたよりなく不信に押し流されて行く感じだ。だが毛内と沢は眼を輝かせた。二人は人々の前に出て行って、「やめろやめろ」とにぎりこぶしを作った右手を上下に振って叫んだ。人々はそれに合わせてぶつぶつつぶやいた。
巳一は人々の動向をうかがって過敏になっている自分をそこに見た。そんなことであいつがやめるものか。俺の現実の認識はそうなんだ。毛内や沢に何が出来るものか。そのくせ巳一はどきどきして胃が浮き、やめろやめろと調子を合わせ、その場も逃げ出せず、事態がどうなって行くかをつかむ能力も失っていた。
外国人側に誰も応援者がやって来ないのが不気味であった。ひょっとすると、気のつかぬ所でこの現場は何かにキャッチされていて、そのうち一斉掃射をされるかも分らぬような気がした。
とかくするうちに人々は身体を左右にゆすりながら外国人を取り巻いてしまった。それを外国人ははっきり知った。するとふいにその行為をやめて女を放したのだ。女は脱兎《だつと》のように人々の間に逃げ込んだ。
「そうか、そんなにやめてくれというのなら、やめてやろう。そらこれでいいだろう」
外国人はそう言ってうそぶいた。
人々は囲みを解いた。ほっとした感情が流れた。あっけなくばらばらになってしまって、次の何かの号令がどこからか来るのを待った。そして前方にぞろぞろ歩き出した。
ところで巳一はほっとすると殆んど同時に、また新たな恐怖につき落されている自分を感じた。やみくもに彼は人々の行く逆の方にかけ出した。人々はみんな落着いた顔付でどんどん歩いて来た。彼は人々とぶつかった。ぶつかりながら彼は人々の数が思ったより多いのに気がついた。こんなに後から後からつめかけて来ていたのか。それなのにあの時何故《な ぜ》あんなに寒々と隙間だらけな感じを持ったのだろう。これは早く何とかしなければならない。一体みんな何をぐずぐずしているのだ。巳一は急にせきたてられた気持になって、尚《なお》も反対の方に走りながら右手をふり上げ、
「団結せよ、団結せよ」と叫んだ。
人々は彼を無視して通り過ぎた。
彼は又叫んだ。「団結せよ、団結せよ、今が大事なのだ、今この瞬間なのだ」
然し人々は薄笑いを浮べたまま、彼にかかわらないで前のままの方向に歩いて行った。
巳一は自分の叫びがうつろなのを知った。然しそう叫びながら、どうしてこううしろめたい感じがつきまとうのかと厄介なことに思った。
……………………
……………………
天の覆《おお》いが雨雲のように低くたれ下って来て、世界は狭く暗く灰色に圧縮されて来た。その灰色に暗くなったたそがれ時を、巳一は浜辺《はまべ》の方に走って行った。
一体どうなっているのか分らなかったが、むしょうにせきたてられ、止まることが出来ないように思った。彼を含めての一切が、予《あらかじ》め予定されていて、その軌道の上を行かなければならないことは、誰もが疑いをはさんでいないように思えた。
而《しか》も、も早事態は最悪の場に臨み、彼が動員されたのは、態勢挽回《ばんかい》の機縁をつくるためにそうなったのだと理解された。
一度はあのようなことをしようとしていたのだから、巧妙に説得されると、抵抗出来ないでずるずる追いつめられた。然しそうなるまでの経路はも早何の意味もなくなってしまい、彼はあわてふためいて、その時刻に間に合うために浜辺にかけつけていった。
ジャーナリズムの先端が彼のその行動に眼を向けているということが巳一をはげました。新聞の第一面にでかでかと書きつけられる。輪郭がぼやけて黒くぼかされた場景写真が新聞に掲載されると、歴史という文字が跳《おど》り出た感じで、あの胸をしめつける悲愴《ひそう》な衝動が読者を襲うのだ。公の善悪や正邪や嫌悪《けんお》の判断を裏切って、身内にぞくぞくうごめく異様な興奮が、人々にどんな悪い状態の中ででも我慢し忘却し又逆にそれを逆手に利用することをささやき教えるのではないかと思えた。開き直ったようなそんな場所で人々に支持されていると思うことは、彼にぞくぞくする手答えを感じさせた。第一面にでかでかと書いてくれることなら、それだけで生命を投げ出してもいい。
沖の方には何も見えなかった。と言って今し方走って来た陸の方にも何も認めることは出来ない。一面にもやのようなガスがかかり、風のために絶えず移動していた。
かけつけた巳一の姿のみが浜辺の砂の上にあった。P基地、P基地と彼はつぶやいた。人々から隠匿された軍機地帯であったが、人々が想像しがちのどんな異様な設備もありはしなかった。
あの時のままだ。
「甲標的〓兵器」が浜辺に一基打ちあげられていた。これに搭乗《とうじよう》して出かけて行くことが予定されていた。
時刻はずれていた。もう他の兵器は発進してしまった。自分がその時刻に遅れたことは悔やまれながら、皆と一緒に出かけなかったことで予定された運命の中から脱《のが》れることが出来たのではないかという弛緩《しかん》があった。まずまず望み薄のことながら、ひょっとすると或《ある》いは生き延びられるかも知れないという期待がひょっと頭をもたげたのだ。するとすぐそういう期待を持てたということだけで、も早また自分は予定された運命のあとを追いかけて行こうという気持に引きずり込まれてしまう。彼は〓兵器に搭乗して、先発した仲間のあとをたった一人で追いかけようと思った。これはくだらないことだと彼は思った。然しそれを中止して後ろを振り向く気持も起きて来なかった。
ふと背後に人の気配を感じた。そこにはQ司令が肥満した体躯《たいく》を持ちあつかい兼ねた様子で立っていた。
「やあ神呪中尉、御苦労御苦労。御成功を祈りますよ」
然し二度目の今ではQ司令の姿や言葉は、滑稽《こつけい》な役割さえも果していないように思えた。巳一は司令に軽く人差指を上げて合図しただけで、自分で出かけて行かなくてもいい安堵《あんど》のために水ぶくれて見える司令の顔を無感動に見過ごした。
彼は〓兵器の小さな司令塔の天辺《てつぺん》につけられた丸い上蓋《うわぶた》を開けて中にはいろうとして、既に操縦席についていた山田兵曹《へいそう》の仰のけてにっこり笑った顔にぶつかった。
「おやお前来ていたのか」
神呪巳一はうれしそうに叫んだ。
「お待ちしていましたよ。早くお乗り下さい、艇長」
山田は落着いた声でそう言った。
巳一はとっさにそのまま山田と二人で乗って行こうかと思ったのにいつか何かに、(その時は、ぼくは同乗者をほうり出して自分ひとりで行くことに決心していたのだ)と書いたことを忘れなかった。
「山田、お前降りろ。お前が居たら邪魔になるし、第一ひとりで事が足りるのにわざわざ二人もくっついて行くのはナンセンスだよ」
巳一はそう言った。すると山田兵曹はにやりと笑った。
「艇長、いや神呪さん、いいですよ。そんな気兼ねはいいじゃないか。この七年間というもの季節季節にあなたに見舞状を出していたことをお忘れかな」
山田は少しにくにくしげな言い方をした。巳一は黙った。何か言おうとしたが言葉にならなかった。然し同乗者がいることは我慢がならんような気がした。
巳一は黙ったまま蓋をしめた。
外界からは完全に遮断《しやだん》された。
そして蓋を外部からボルトで締めつける音がうつろにひびいて来た。彼と山田は狭い〓兵器の操縦室に封じ込められたのだ。お互いの声さえ妙に遠い感じで、もうどうにも外界に連絡しようのない、何ともへんちくりんな抽象的な世界がそこにあった。どんな悪いことをしても又考えてもいいような気がした。もう外には出られないのだ。ただ出所不明の至上命令が二人の頭上にかぶさり、その為にその遂行に殊勝にも気持がはやって来るのがあわれであった。死に急ぎを始めているのだ。もうどこでもいい、早くそこに行ってぶつかってやり度《た》いと思った。
巳一は山田を手で押しのけて操縦席に坐った。操縦だけは自分でやろうと思ったからだ。手で押しのけた時、掌《てのひら》に山田のぬくい体温を感じ、山田にもっとはずみのついたうそでもいきのいい言葉をかけてやればよかったと思った。
巳一は機関を発動させようと思った。早く早くとせきたてる声があった。何が早くか分らなかったし、一体何処《ど こ》に行くのかも分らなかった。ただ早く早く……。
然し彼は全く操縦操作を忘れてしまっていることに気がついた。どれがどうでどこをどうするのだったかこんぐらかった。電路の接や断がどんなであったか、何かややこしい手順のあったことだけが記憶に残っていた。
巳一はその時始めてのように絶望感に襲われた。
自殺行為へ発動しようという矢先になってその使用法が分らなくなったということで始めて絶望に襲われたのだ。もっと前にいくらも絶望しなければならなかったろうに。
然しもう蓋はしめつけられ、新聞の眼がこの行為を見送っているらしいことは、どうにもならないことのように巳一の気持にかぶさっていた。
彼は勝手やたらにスイッチやボタンやクラッチを引っぱったり押し上げたりしてみた。
と一寸《ちよつと》した拍子に軽くエンジンがかかった。
とたんにはっきり昔覚えていた操作手順がよみがえって来た。
そこでクラッチを入れれば〓兵器は動き出すのだ。彼はクラッチをふんだ。然し何かがくっと引っかかっていて兵器は発進しない。再び混乱が頭の中に来た。泥酔者が、片側にどこまでも傾いて行く酔った頭を支《ささ》えるために、うつろな眼を空漠に開いて均衡をとろうとするように、彼はくらい足許《あしもと》に眼をかっと見開いて気をこらして頭を下げてみた。血が下って来た。別に方算があったわけではないが、そうしてしばらく瞳孔《どうこう》を開けたままでいた。こうなることなら、あそこに寄って別れのなごりを惜しんでくればよかったなどと別の考えが頭をよぎった。思いきってあそこに別れを告げに行けばよかったのだと思った時に、クラッチの装置の根元に蹄鉄《ていてつ》が一つひっかかっているのが目にはいった。なぜこんなものがそこにあったのだろうかとちらと思いながら、彼は身をこごめて手をのばし、それを取りのぞこうとした。狭い場所のため無理な姿勢になり腕の筋肉がこぶら返りしそうになったが、やっとそれを取りのけることが出来た。
がくっと艇体は発進した。
しかし何ということだ。普通なら、しばらく砂浜の上を滑走して、やがておもむろに海中にもぐり込む筈であった。それがつんのめるように異様な振動を二、三回せわしなく繰り返すと、そのまま砂浜の地面の中に頭を突込んでもぐり始めたのだ。
〓兵器が異様な熱心さで地中にもぐり始めた。又海中に出て行けるものやら分りはしない。今になって海図を持って来てはいないし敵状についての情報も全くきいて来なかったことに思い至った。
(もうウルシーには行けなくなった)
なぜ突然ウルシーという言葉が浮んだのかは分らないが、その言葉が彼の頭の中に渦巻《うずま》いた。
何とも言えぬ終末感のようなものに襲われた。
この兵器は人が考えている程《ほど》効果的なものではない。ちゃちながたがたの子供だましの玩具《おもちや》なのだ。それを知っているのは搭乗者ばかりだ。然しもう万事は流れた。巳一が気持の底でこっそり、ウルシーに行き度くないと思っていたことがそのままそっくりこういうふうな形になって現われて出たのであろうと、彼は既にのんきな気持になって考えた。悪くふてくされた態度もあった。山田に対しては彼の臆病《おくびよう》を露呈させてしまったことで、ひけめを感じたが、とにかく身体の組織がゆるんでしまうほどの解放感にてもなく参ってしまった。(これはもう致し方のない事故というものだ。機関が故障した以上は艇長の私に責任はない)こんな報告書類の上でつじつまを合わせる為のあらかじめの弁解の言葉が思わず口をついて出そうになった。事件にくっつきすぎて、考えがどうどう巡りをするのだ。
なるべく人里まれな場所にむくむく持ち上って地上に出てやろうと思った。
外に出る時外部からしめつけた蓋のボルトをどうして外《はず》そうかとそれが気になった。
そして又外の陽《ひ》の光に逢《あ》った時、同乗者の山田の顔をまともに見られないのではないかという嫌悪《けんお》感も少しあった。いやそうじゃあるまい、山田と仲良く娑婆《しやば》の仕事が出来そうだとも思った。
……………………
……………………
身体の内部の臓物《ぞうもつ》が、よく下にさがって来ないものだと考え始めると、それは少しずつ下って来るのだ。
胃にしろ大腸や小腸にしろ、特別に動かぬようにズボン吊《つ》りのような装置でとめてあるわけではないから、長い間立っていればじわじわ下って来るのは当然のように思えた。
すると胃がしこり腸がごつごつもつれて来て鈍痛を感じ始める。
だからと言っていつも寝ているわけには行かない。外出すると身体を立てていなければならず、そうすると胃が垂れ下り腸がずるずる落ちて来る蠕動《ぜんどう》が感じられ、不快な痛みに頭が占領された。
その日も、巳一は立ったまま四時間もしゃべり続けるような内職をすませた後で、街なかのにぎやかな通りを歩いていた。
胃や腸を捧《ささ》げ持って歩いているといった調子だ。姿勢が前かがみになり、ぺこりと腹部をうしろにへこませて、色つやのない顔にあごを前に出して歩いた。
(何ということだ。俺ひとりが胃というおばけを背負い込んでしまった。誰も彼も胃など持っていないような顔付で歩いている)
どこかで休み度いと思った。
然し考えてみれば、大都会の街なかで気易《きやす》く休めるような場所など一つもないように思えて来るのだ。
さし当って喫茶店のような所が恰好《かつこう》の場所のわけだが、そこでは先《ま》ず何か注文しなければならない。
そこでは誰でも何かを飲んだり、何かを食べたりしているわけだ。然し彼には今何かを胃の中に落し込んでやると考えることは、うとましい限りだ。
それに一杯のソーダ水にしたところでお金がかかる。そのお金でコロッケを買えば八つも十二も買えるのだ。コロッケは子供たちがどういうわけかオジャギという呼び名でほしがる大好物のおかずなのに。
オジャギを買ってすぐ家に帰ればいいのだ。家に帰って子供たちの喜ぶ顔をみて、ふとんを敷き足の方を高くして寝ころがればいいことであった。そうすればたれ下った胃や腸が次第にもとの位置に戻って来るからだ。
だがどうしてかすっとそのまま家に帰る気持になれなかった。人々のざわめき通る街なかを歩いてみて、どうということはないが、うきうきしたたのしさはあった。しかし制動をかけるように胃や腸が下って来て、頭がぼやけ眼がかすんで来た。
街なかをほっつき歩く時の巳一の顔付には、認められたいというあこがれ心で微熱状態になっていた。
井伊がやって来るのを巳一は認めた。井伊の他に二人程見知らぬ顔の青年がついているようであった。
彼はつと人ごみにかくれて井伊に見つけられることを避けようかと思ったが、同時に、ちょうどいい機会が出現したのだという気にもなった。(井伊のやつに俺を認めさせることは必要だ)
近付くとやはり三人連れであり、三人共ハンチングを恰好よくかぶっていた。同志! と言った組合わせ、と巳一は口の中でつぶやいた。それは巳一の方のことで、するとこちらを見る向うの眼付があった。
「するどさと固さを欠いていてヒヨリミだ」井伊らの眼付はそう言っていた。
「やあ」
「やあ」
「あした行くの? 僕は一寸《ちよつと》約束があって行けないんだ」巳一の方が先にこう言い始め、その調子に弁解じみたものが強いことに気がついていながら、それを言った。彼は口を開くと弁解と説明の調子が出て来ることが不思議でさえあった。
約束というのは万更うそではなかったが、それはどうでもいい性質のもので、巳一に積極的な気持さえあれば、会合の方に出ることは出来たのだが、何となく心が重たくて出たくなかった。そこには井伊はきっと出て来て、そうすると彼は井伊の為に追いつめられそうな予感がした。然したとえ追いつめられても何のことはないのだから、どうしようか、あのハンチングがどうかならないか、しかしこっちもソフトをかぶっていることもあるのだからといつか思っていたのが、井伊の顔を見てそのことを思い起して、やあやあと挨拶《あいさつ》をしたとたんに、約束があって行けないんだ、と言ってしまった。
井伊はきっと、それはまずいね、君はどうしたって行くべきだな、と言うに違いないと巳一は思った。
「あしたはお昼からだろう。お昼の会合には一切僕は出ないことにしてるんだ」
井伊はぼきりとそう言った。
巳一は意外な思いをした。そうして井伊と別れた。
別れたあとで巳一は何となく軽くいなされた感じを味わった。井伊が、出ないことにしていると言った言葉に、巳一がいつも井伊の顔付から、すべきだ、すべきだという固さばかりを感じとっていたことが多少あやまっていたことを知った。井伊の言葉は真向から断定した強さを持っていたが、巳一にはそれがむしろ井伊の弱さ、そこから崩《くず》れて来るような欠陥だと感じとったことは、巳一の気持を軽くする効果があった。それにいつも伴廻りを連れているじゃないか、と井伊を安く値ぶみしてみたが、軽くいなされた感じは消えなかった。
巳一は決心したように、井伊たちが向った方にくるりと向きを変えて彼らのあとを追いかけた。
「イイ君、イイ君」
巳一はそう呼びかけたが、へんに力をそがれる名前で強くきりこめない感じがした。それに巳一の声が疲れの為にのどがかわいてかすれていた。
巳一の呼びかけは井伊にとどいている筈だ。然し井伊はふり向きもせず、一軒の喫茶店のドアを排してはいってしまった。
中腰で呼びかけの姿勢の巳一が、肩すかしを食った形で外の人通りの中に残った。
喫茶店の中に消えた井伊の残像のようなものが巳一の頭の中に残りその井伊は、緊急の重大事、ねばならぬことがあって巳一になどかまっていられない、二人の同志と今から徹底的に討論するのだと言っているようであった。
みんな喫茶店にはいって行くのだ。
巳一は重いドアを押して中にはいった。
井伊がまんなかにくつろいだ姿勢で深々と椅子に坐り出口の方を向いていたので真っ先に巳一と視線を合わせた。井伊は疲れている、と巳一は思った。他の二人はその両側にいたが、別に額を寄せて重大事を話し合っているという様子もなく、煙草を口にくわえて、ちょっと放心の様子があった。
少し気負い過ぎたかな、と巳一は思った。そしてずかずかと井伊のそばに寄り、「もう少しききたいことがあったものだから」と、近くのあいた椅子を引きよせながら言った。その言葉にも弁解の調子があるのを感じながら。
もしかすると、井伊から拒否されるかも知れないと思っていたのだが、井伊はやわらかい調子で巳一を迎える気配を示した。二人の随伴者はそっとわきの方に椅子をずらせた。そのことも巳一にとっては予想外であった。この二人も井伊にとって何でもなかったのか。すると一層気負い込んで来て井伊にぶつけてやろうと思った言葉が、急に色あせて無意味になって来たのを感じた。
「この間の座談会に出たの?」と巳一がきいた。
「出るには出たがね、てんでだらしがねえのさ。オレが帰ったあとでみんな逃げてしまったらしい。みんな逃げ腰なんだからな。然しだな。あれだけ集まって来たことはだな。いいことだと思うんだ……」
メニューを見るとココア八十円と書いてあった。オジャギが十六個くる値段だと思った。巳一はすぐココアを注文したつもりなのに、注文したココアはなかなかやって来なかった。
巳一は井伊の話を半ばは空耳でききながら、「おねえちゃん、おねえちゃん」と呼んだ。この呼びかけはいやな呼びかけだと思いながら井伊の前でわざと、ねばっこく、おねえちゃんと発音している自分を他人のように感じた。
「ココアはもういいよ。おでんがあるの?」
胃のしこりをもっとひどくしてやろうなどという気分も多少はあったが、ただそういう言葉を言ってみたいばかりに、彼はごてごてしたおでんを胃の中に入れてやらねばならないことになるだろうと思った。
そう思うだけで、胃や腸が、ずるり、ずるり、と少しずつ又下の方にさがって行くような重い気分になった。
そのことがあってから、巳一は面白い夢を見始めた。
美しい渓流の川石の上にこごまりながら、胃腸を腹の中からつかみ出して流れの中につけて洗っているのだ。胃や腸のひだにこびりついていた石塊状の不快な物体をこそぎ落すと、胸元がすっとして来て、何故早くこのことに気がつかなかったのかと思った。
……………………
……………………
井戸川輝正と澄子がいた。井戸川はこの辺に来たから一寸寄ったのだと言った。しかし一寸寄ったというのもおかしい。何故《な ぜ》俺の家になどやって来たのだろうと巳一は思ったのだ。井戸川のふだんの評論をみれば、巳一の姿勢は軟体動物のようなものだ。言わば背骨がはいっていないと思っているに違いないのに、と巳一は先廻りして考えていた。だから井戸川が訪《たず》ねて来たからと言って手放しの歓待は出来ないような気もした。何かをさぐりに来たのではないか。なまくらな日常生活で女房や子供に骨抜きにされて居坐りあぐらをかいているなまぬるさ加減をちょいと量りに来たのではなかろうか。それならそれでもよかったのだが、井戸川の評論の調子がやはり拘《こだわ》りになった。
軽蔑《けいべつ》しているのなら、寄ってみるなどということはしなければいい。然しそうも行かないことも分る。巳一の他の交友関係にしてみたところで、軽蔑しているからこそ余計つき合っているのだとも言えそうだ。ただ悪いことに丁度澄子が来合わせていたことだ。
澄子のことを井戸川は知らない。巳一と澄子の間は未だ甚《はなは》だ不安定なものだ。澄子も巳一を探りに来るのだし、やって来た澄子に対して巳一ははっきりした態度を保留していた。ただほんのきっかけがあればどうにかなる性質のものであったかも知れない。巳一の妻が澄子をおそれて嫌《きら》ったのは、本能的に二人のにごったまなざしを感じとっていたことにでもなるのか。然し巳一と澄子は二人とも、距離を置いて、きちんと座布団の上に坐り、丁寧な言葉でお天気の挨拶《あいさつ》などの外にどんな話もしてはいない。そこに井戸川輝正が加わり、彼が巳一をこうも思っているだろうと巳一がかんぐっていることに、澄子がそこに来ていたことは、しんにゅうをかけたようなものだ。女に向って物を言う時に男のゆるんだあごの線や笑いたくもないのに微笑しようとする輪郭のくずれは醜い。その横顔を井戸川に見られることは落着けなかった。そんなことで落着けないということが巳一にわざと軽はずみな調子を与え、そして興奮させた。
井戸川輝正は身体をななめに構えて、三人の間に置いたちゃぶ台の上に右ひじをつき、掌であごを下から支えて、きつい大きな眼玉で巳一を見ていた。
巳一はしきりに井戸川に文学論をしゃべった。
小説、のようなもの、を書いているのは、全く不用意にであり、自然発生的であること、それはこうこうであり、しかじかなのだが、実は不用意で且《か》つ自然発生的であることは半ば意識的にやっていることで、それが私の方法なのだが、それを敵にさとられてしまっては私の方法は崩《くず》れてしまうのです。それはもう全く到る処に爆弾をしかけて置くのですが、その仕掛けてあるという外見はいうまでもなく、しかけた爆弾自身早く発見されてしまうことがあれば、私の文学は崩壊してしまうのです。気がつかれてさえいけないのですよ。しかし之《これ》は大へんなことなんだ。そういう方法をとっている自分自身、爆弾をどこに仕掛けたか分らなくなってしまうことがしょっちゅうなのですからね。然し屈服はしません。恐らく成功はしないでしょう。その成功はしないということが、即《すなわ》ち私の小説の存在を主張してくれるのです。その時始めて私の小説は一個の存在となり、価値が転換して、私は認められるのです。成功不成功というようなことじゃないのです。そこでは一切のものが否定されそして肯定されるのですからね。庶民、じゃなかった国民いや人民、つまり人々ですね。人々の人民がですね、要するにですよ、小説などはつまらないことなんです。それは文字というものの暴力ですよ。現実は文字を必要としません。従って小説など不要です。そのことを私は自分の小説で実証するのです。そのためには凡《およ》そくだらないものを書かねばならんのです。人々が小説など全く読まなくなるようにね。現実は現在というものを百パーセント、エネルギッシュに生き、その時文字は悲愴《ひそう》な顔付をして引っこんでいて、現実がすっかり忘却と亡佚《ぼういつ》の波にさらわれてしまった後で、唯一の、そうです殆んど唯一の証拠品として後の世の人民の前に残されるなどということは全く文字の屈折した暴力ですよ。復讐《ふくしゆう》? じゃないかって? 一寸待って下さい。要するにですね、私の小説、いや歴史、つまり記述としての歴史はですね、実はそんなことじゃないのです。みんな頼《たよ》ってはいけないのです。そこに私はやっと気がついたのです。いやもうずっと前から予感はしていたのです。そこの所を私は小説に書くのですよ。恐らく失敗します。然しその失敗こそが実は成功でもありいや成功というようなことでなく、何と言っていいか、栄光、つまり……澄子は横坐りをしていたのだが、太い、が形のいい二本の毛深い足を重ねて畳の上に横にしていたのに、急に正座したかと思うと、そのままの姿勢でがたんがたんと跳《と》び上るような動作を始めた。
巳一は澄子のその二本の足の重なりに気を奪われて居り、さり気なくそれを見守っていたので、彼女のその徴候にすぐ気がついた。彼女にてんかんの持病のあることはうわさできいていた。
巳一はそれを見とどけることが出来る期待で、急に自分の動作が活溌《かつぱつ》になったことを知った。すっとす早く彼女を両手で横だきにして、応接室のソファに連れて行った。このことに井戸川はどう反応するだろう。と巳一の背中は眼をこらして井戸川の様子をうかがった。
巳一は必要以上に澄子をぎゅっと強く抱いた。二本の足が太く太く巳一の網膜に焼きついた。妻のたよりなげな細い二本の足からは感ずることの出来ない荒々しいものが巳一の身体に伝わって来た。
ソファの上に横たえられた澄子はうすく眼をあけて、巳一に命令した。
「お茶を持って来て」
そのようなぞんざいな言葉遣《づか》いは始めてであったが、巳一の耳には快くひびいた。
巳一が茶の間に茶をとりに行くのとすれ違って井戸川が応接室にはいって行った。巳一はうすく笑った。
茶の間で茶器をがさごそ探し出し用意していると、巳一の妻がしのぶようにはいって来て、巳一の手から茶器を乱暴な手つきで横どりして、くそていねいにお盆にならべ始めた。
横どりされた瞬間巳一はとんまな恰好で妻のする手付を見ていたがやっと気を取り直したように、
「早く持って行け」と言った。
妻は余計のろのろと用意した。巳一はそのそばでぼんやりつっ立っていた。
やがて用意がすむと、彼女は応接室にはいって行った。ドアの開閉も日本風にひざをついた馬鹿丁寧な仕方でやり、中にはいると、持って来た盆を一たん横に置いて、井戸川へとも澄子へともなく、四角張った挨拶をして、お茶事の作法通りの手つきでお茶を出そうとするのだ。
巳一は憤怒ではちきれそうな思いをじっと噛《か》んだ。
澄子はその辺一帯飯粒などふき出していて、汚物《おぶつ》は井戸川の顔にも少しひっかかっていた。澄子に手を貸そうとしたかも知れない。しかしその汚物を拭《ぬぐ》おうとせずに、くっつけたままでいた。それは巳一の心をかなりおびやかした。それが井戸川輝正の批評のやり方だと思った。
澄子はけろりとして、
「バケツを貸して」と言った。
それは巳一の妻を無視したような調子を含んでいた。
巳一は妻に言った。
「バケツを持って来い」
妻は聞えないふりをした。
「バケツを持って来いよ」
巳一はわざとゆっくり二度そう言った。
すると妻はきっとなって言った。
「あなたが持っておいでになったらいいじゃありませんか」
いつもの妻の調子が全くないことで、巳一は急激に身体が冷えて行くのを感じた。
巳一は井戸川輝正の顔を見た。
汚物をつけたままで彼はぎろりと眼を光らせて巳一をみつめた。
(お前の態度は眼をつぶってオンニャマーク、腰を浮かせて、右足のあなうらに、せとものでなくブリキを突っかい棒にしている)
井戸川輝正の眼はそう語っているように見えた。
然し巳一は井戸川の眼のかがやきに気をとられるということなどは馬鹿げたことだと思った。そして、蛙《かえる》の眼玉に灸《きゆう》をすえてやらねばならんなどとくだらないことも考えた。
(昭和二十七年五月)
帰巣者の憂鬱《ゆううつ》
「よし分った。おまえ(と言ってから、ちょっとためらって)君の言うことは正しいよ。結局ぼくが意気地なしで甲斐性《かいしよう》のないことだけが悪いんだよ。よく分りました。それはぼくも予感していたことだ。あなたの居ない生活なんて考えられない、などと君は言ったことがあったね。うそっぱちだよ。いや本当でしょう。しかしどこかで満足していなかったんだ、君は。それはぼくも気付いていたことだ。君は今それを正直に言っただけだ。やっぱり君の方が、ちゃんとひとり立ちしています。立派に生きていますよ。ぼくはさっきまで買言葉で馬鹿なことを言ったのは、かんべんして下さい。君は遠慮なしに大手を振って思う存分生きたらいいんだ。ぼくのような者にいつまでもくっついていることはないんだ。ぼくが駄目な人間だということは自分でもうすうす分っていたことだ。とにかく、はっきり言って貰《もら》ってありがとう。ぼくはぼくに適当な場所をさがしましょう」
そう言って巳一は立ち上った。
立ち上ると、次の行動をとらなければならない気がした。
妻のナスは横坐りに坐ったまま、うっとうしい顔付を伏せていた。夫が何か決定的なことを言ったように思ったが、しかとその意味がとらえられなかった。何かへんなふうにこじれてしまった。あとからあとから意地の悪い不平の言葉が出て来て、とどめようがなかった。それはふだん考えてみたこともなかったような夫への不信の言葉であった。それが自分の口から次々に出て来ることが不思議であり、自分でもへんな気持になって行った。しかし一方言うだけのことは言って置かなければならない気がして、巳一が次第にいらだって来るのが分ると、もう少しとっちめてやれ、というむごい気持がせり上って来るのを押しとどめることも出来ない。
しゃべっている間、ナスは自然にうすら笑いが皮膚に浮んで来るのを、いけない、と思いながら消さなかった。
でもあのへんでやめて置けばよかったと思えたあたりから、気持がなえ始めてはいた。適当なところで、ごめんなさい、と折れてしまえばよいと思いながら、いきおい、言葉をからませているうちに、巳一が立ち上った。
立ち上って、巳一はちょっと手持無沙汰《てもちぶさた》に六畳の間を見渡した。
長男の子之吉《ネノキチ》はうす眼を半開きにしたまま、そして長女のタマはうつ伏せになって、二人共頬《ほお》を真赤にさせて、よく寝入っていた。
子はかすがい、という言葉が前後の脈絡もなく頭の中にわきながら、巳一は洋服箪笥《ようふくだんす》を、ナスに念を押すように荒っぽく開けて、雨着兼用の外套《がいとう》を乱暴に引っぱり出すと、袖《そで》に手をつっ込みながら玄関口の方に出た。
ナスは額に皺《しわ》をよせた顔で、夫の様子を見送っていたが、暗い玄関のたたきで、巳一が手にふれるものに、やつ当りしながら、下駄箱代りにつみ重ねたりんご箱の中をかき廻し出すと、急に正気に返って立ち上った。
「あなた、どこに行くの」
「どこだっていいじゃないですか」
口の中でつぶやくように夫は言ったのだ。
「ねえ、どこにいらっしゃるの、言って下さい」
ナスはたたきに下りて、巳一の靴をすぐとり出し、かがんで夫の前に並べ置いた。その妻の小さい姿を立って見つめながら、
「どこに行こうと、あなたには関係がないですよ。甲斐性なしのぼくがどこに行こうと、問題ないじゃないですか」
巳一は、ゆっくり靴をはいて、ひもを結びにかかった。
「ねえ、そんなこと言わないで。こんなにくらくなってから……それに風邪《か ぜ》でもひいたらどうしますの。ねえ行かないで下さい」巳一はだまったまま紐《ひも》を結び終った。
「ねえ、どうぞ行かないで下さい。あたくしが悪かったら、あやまります。ごめんなさい、あやまります。どうか行かないで下さい」
ナスは玄関のガラス戸を背に立ちふさがるようにして、巳一の方に向いて哀願した。
妙に寒々と平板な表情のない顔付になっていた。
巳一は苦笑するように言葉をやわらげて、
「何もあんたが悪いことはないよ。ぼくは自分がいやになっただけだ。ちょっと頭をひやして来ます」
と言った。
こんなふうに芝居がかったことは、しっくりしない。人々はもっとおとなに振舞っているのだから自分もおとなに振舞わなくてはいけない。自分がいつまでたっても黄色い嘴《くちばし》に見える。しかし自分にもいつの間にか妻や子供が出来てしまっていることが落着かない。
巳一はこの時、ただ駅前の通りの飲み屋に行って、酒でも飲んでこようと思っていた程度だ。このまま自分が家出をして、妻や子供のそばを離れることが出来たら素晴らしいとは思えたが、その決心は巳一にはつかない。
ナスの方は、夫がふいっと家を出たまま、もう帰っては来ないような気がした。それは巳一と知り合った当初に、強く印象されたことが、まだ消えやらずに残っていたのかも知れない。
脱け遊びの兵隊であった巳一は、いつどこに行ってしまうか知れたものではなかった。
巳一の方はこうも思っている。このままふっと、どこか遠くの方に行ってしまうことが、おれには本当に出来ないのか。ひょっとしたらそれは出来るのではないか。
そしてからだをつかまえて行かさないように哀願し始めたナスを本当に邪魔っけの物に感じた。
「わたしが悪かった。行かないで下さい。あやまります。行かないで下さい」
「分ったよ分ったよ、なにもお前(と又いつもの呼び方に返って)だけが悪いわけじゃないよ。しかしそこを離してくれ、そうされると何だかへんに疲れる」
巳一は肩を下げて両腕をだらんとさせたまま静かな口調で言った。
ナスは巳一の足許《あしもと》にかがみ込んで、ポケットからハンカチを出して巳一の靴をふきはじめた。
巳一は崩《くず》れた笑い方をして、
「何をするんだい、やめてくれ。おれはひとりになりたいんだ」
強い語気でそう言うと、ナスを押しのけ、ちょいと蹴《け》るような仕草をした。そしてとにかく外に出てしまおうとしたのだ。
ナスはぴょこんと立ち上った。
黙って巳一の顔を見つめた。
それは瞬間のことであった。
急にくるりと背を向けると、うわーっ、と奇声をあげ、ガラス戸をあけて外にとび出そうとした。
巳一の気持はさっと冷えた。反射的にナスのからだをうしろから抱きかかえた。
だきとめられると、ナスは両手でガラス戸を無茶に叩《たた》き、「アンマー」と叫んだ。妙に幼い声であった。ナスの故郷の島では母親のことをそう呼んだ。ナスは巳一の腕をふりもぎろうとした。
それには馬鹿力があった。巳一は真剣になって押えようと抱きしめた。
「アンマイ、ワンダカ、テレティタボレ」
とナスは言い、巳一の顔を見ると、へんなもののけにでも出会ったような醜いゆがめた表情をして、腕の中から逃げようとした。
「ナス、ナス、おれだ、おれだ。分るか、おれだよ」
巳一は気持がすっと立って、ナスの顔をのぞくようにゆさぶり、前向きに抱き直して一層強くかかえた。それでいてナスの焦点の合わないうつろな瞳《ひとみ》を認めても、狂言ではあるまいなと考えている自分を感じた。
巳一の腕の中であばれられないナスはじっと動かなくなり、やがて手放しに大声で泣き出した。
ナスの髪の毛のうむれた匂《にお》いが、巳一の鼻をうったが、それは巳一のからだにしみ込んだ。「わたくしが悪かったのです。あやまります。行かないで下さい」さっきまで祈るように繰り返していたナスの声がよみがえって巳一の頭の中に拡がった。あの時自分はお芝居じみた動作を打切るべきであった。しかし今はもう事態が変ってしまった。或《ある》いはこのまま正気に戻らないとすればどうすればいいのか。しまった、と思う取り返しのつかぬ気持が巳一を鷲掴《わしづか》みにした。
じっと時のたつのを待つより外はない。小刀をもて遊んでいて、ついうっかりざっくりと指の肉を切りとってしまった時の腹立たしさのようなものもあった。しかしその底から、とくとくと血潮《ちしお》が高まって来る気配を聞かないわけにはいかない。
巻かれたゼンマイの解きほぐされた安らぎが、不安と陶酔とを伴って、そこにあった。
巳一はしばらくそうして居たが、やがて、ナスも泣くのをやめ、静かになったので、両腕に抱き上げ、たたきから上ろうとすると、上りばなの二畳に子之吉とタマが起きて来て居て、二人共寝巻のやつくちに両手をさし込み、黙って並んで突っ立ったまま、親たちのおかしな様子をじっと見ていた。
一たん畳の上におろしてから、寝床をしき、その上にそっと寝かせて、その顔を見ていると、やがてナスはきょとんとした表情になり、
「ハゲ、ヌーガカヤ、何かしたのかしら、どうかしたの? わたしはどこに居るの? ここはどこ?」
と言った。「頭ががんがん痛い。どうしたんだろう」
「どうもしやしないよ」巳一は、ほっとして、しかし用心しながら言った。「水でひやしてやろうね」
そして立ち上り、子供たちにも言った。
「ネノ君、タマちゃん、お前たちは寝なさい。そんな恰好《かつこう》で起きていると風邪をひくよ。何でもないんだよ。おかあさんがちょっと頭が痛いんだって」
金だらいに水を入れて来て、手拭《てぬぐい》をつけてしぼってナスの額の上にのせてやった。
「わたし、何にも思い出せないよ、何か大へんなことをしたような気がする。わたし何かして?」
ナスはうたうように言った。
「何にもしやしないよ。心配しないで、ゆっくりそのまま眠りなさい。ぼくが誰だか分るだろう」
巳一はそう言ってから、自分のはいたその言葉が、がらんどうなうつろな響きを持っているのにぎくりとしたが、ナスはこくりとうなずいたのだ。
ことが起らずにすんだ。(おれはナスのことをちっとも考えてやっていないのではないか)或いはついそこまで、違った面貌《めんぼう》の生活が、顔をのぞかせにやって来ていたのかも知れなかったのが、そいつは、向きを変えてあちらに行ってしまった。
どっとばかり、顔なじみの生活が古いむっとしたにおいと共に、そのうつろな気持の中に甦《よみがえ》り拡《ひろ》がった。
勉強部屋の四畳半に敷き放しのふとんの上に横になって寝返りを打った時に、六畳と縁廊下と塀《へい》とを越して、路地の向うの、筋向いの家の庭の植木のてっぺんが、少しばかり見える時のあの気持だ。路地を通る時に、枝がすけた貧弱な檜葉《ひば》の木が、視野の中にあっても、いつもは気がつかないし、気持の中にははいっては来ないが、疲れてふとんに横になって寝返りを打つと、丁度眼の先に、それがほんのわずかばかり三角なりに、こしらえもののクリスマス・ツリーのようにすけて、天空に縁どられ、今にも消えそうな具合に眼に写ると、四肢《しし》の力が脱けて行ってしまうだるさを感ずることがあるが、丁度それだ。ことが起らずにすんだ、という気持の区切りに、あの木の先っぽはまだそこにあったんだ。そしてそれはおれがいなくなってもそこにあるんだ、という外界の頑固《がんこ》さが、脆《もろ》い心をねじ伏せに来る。
つい先程の当惑とはうらはらに、巳一は、ことが起らずにすんでしまったことに不満を持った。
又前からの続きにつじつまを合わせなくてはならない。そうではなく、もっと苛酷《かこく》な現実に襲われるべきではなかったか。
わたし、何かして? ナスは甘ったるい声で、もとの続きに従おうとしている。
巳一はナスの顔をじっとみつめていた。
眼をつぶれば、それはたよりなく消えてしまい、眼をひらけば、そこにしかめ面《つら》の顔があって、二人は別々のことを考えている。
「わたくし(又いつもは使わない言い方になり)どうかなるんじゃない? 心配《シ ワ》だよ。頭《カマチ》ががんがんする」
のぞき込んでいる巳一の方にナスがそう言った。
「何でもないよ。余計なことを考えないで。眠るに越したことはない。眠んなさい、眠んなさい」
巳一は他人の口のような口でそう言い、それからびっくりして眼を見開いたままふとんからのり出して、巣の中の小鳥たちみたいに親たちをうかがっている子供たちの方に向いて、「ネノもタマも、もう寝なさい」というと、子供たちはあわてて首をひっ込めて、寝たふりをしようとした。
女の眼を見つめていると、みな斜視に見える、と思い、あのさっきのへんてこなエネルギーが不燃焼のまま消え場がなくなって、胸許にわだかまっているのを、巳一は量っていた。
時の刻みがやり切れなくもたもたしていると感じられたのだ。
やがて子供たちは再び寝てしまい、ナスもどうやら寝入ったらしい頃に、巳一はそっとナスの顔にのしかかるようにして気配をたしかめてみた。
ナスは本当に眠ったようだ。
つい此《こ》の間までのナスの寝顔は、起きている時よりもむしろ若々しく、頬は赤太りさせていたが、今は褪《あ》せた血の気のない顔色の、頬骨《ほおぼね》の高さが目立ち、急に年の寄りに襲われて見えた。
落着けなく、巳一は立ち上った。立ち際《ぎわ》に自分が今まで何をしていたのか分らない気分になり、又耳の底にしんしんとひびきながら冷えて行くものがあって深い淵《ふち》のこちら側に来てしまって、向う側のことは忘れてしまって思い出せない。記憶をすべて吸収してしまう空隙《くうげき》に取り巻かれ、ひょいと腰を浮かせて、別の場所に移りたい願いに、せかれた。
そこに腰を落着けて、ナスの容態を見守り、子供たちの寝息をうかがう姿勢を取ることが出来ない。そこに居ればナスが眼覚めた時に、見守っている巳一の眼をとらえて信頼のまなざしを浮べる妻を眺《なが》め、又子供が小用に立つ時に、その蒸《む》れ藁《わら》のような匂いと、その弾《はず》みのある体温の高い腕やももの肉を、ずっしりと感じてだきしめながら便所に連れて行くことが出来るものを、その安らぎを、待つことが出来ないで、ひょいと軽くつきあげられて腰を浮かせてしまった。
そして自分の部屋にはいり、机のひき出しからいくらかの金をつかみ出し、さき程から着たままの外套《がいとう》のポケットに足し入れた。自分がどこに足を向けるか算用していないこともない。
さっきあのナスとのいさかいのあとで、駅前の飲み屋に行って酒でも飲んで、と思ったことが、心のしこりになっている。
このしこりをちょっと解きほぐすために、その辺をぶらついて来るのだと自分に言いわけしながら、巳一は家の外に出ようとした。
ふとんの中に作ってあるやぐらこたつの中の行火《あんか》が、ちょっと気になったが、いやすぐ帰って来るんだと思い直し、それでもふとんをまくって、中の様子をたしかめてみた。
行火は拾って来た屋根瓦《やねがわら》の上にのせてあるのだし、上にはふたがついていて、どう間違ってみても火事になることは考えられない。しかし失火の原因の多くが、おこたの不始末、というのはどういうことだ。過熱と乾燥ということに気が及ばないで巳一は、そのままふとんをかぶせ、それでもちょっと振返るような様子をしながら、六畳の妻子を眼覚めさせないように、しのび足で玄関口から外に出た。
路地の屋根屋根の間から、夜の闇《やみ》に底深く拡がる大空が横たわり、青白くまたたく星々が巳一の心を冷やした。
家の中の人の温気《うんき》からのがれて、(そこに頭のしびれたナスや子供たちが寝ているのだが)夜気にあたると、ふと夜空にはばたくほととぎすという思いもある。
冷たい空気に当って、あてどなしにでも歩いていると、あせりも、絵に書かれたもののように体温を失い、ナスが魔法で宙空に浮んで横たわったまま長い眠りに就かされているという気持になったりする。
こたつの火のことを又も思い出し、余程引返そうとするが、引返してナスや子供が眼を覚まして、出られなくなってしまいそうで、割り切れぬまま歩いて行くと、想像の中でぱっと発火するものがあってみるみる自分の家が紅蓮《ぐれん》の炎に包まれ、ナスは無言のまま焼けてしまい、子供たちは煙にまかれて泣き叫んでいる場面が眼に浮ぶ。
類焼した近所の人々のうらみの眼差《まなざ》しを受けとめることは自分には出来そうにない。
巳一は、いつもではないが時に行きつけている飲み屋ののれんの前に来ていた。
そこは安い割にうまい酒を飲ませ、味噌《みそ》で煮込んだ牛の臓物《ぞうもつ》が巳一の胃袋の気に入っていた。しかし巳一はそこを通り過ぎた。もっと外の所に行ってみようと思い、別な店のある方に歩いた。どこか素晴らしい場所がきっとあるに違いないのにそこが分らないという気持になる。そして別な店の前に立ってもそこが素晴らしい場所だとは思えないのだ。下水代りのどぶ川の上に板を張って建て並べられた掘立小屋が赤い提燈《ちようちん》や、のれんをぶら下げて、客のひっかかって来るのを待っている。どぶ川から湧《わ》いてくるメタン瓦斯《ガ ス》の不潔なむかつくにおいが小屋の中にこもって、濃い白粉《おしろい》の、ずんぐりした女たちが、そのにおいに黄色くまみれて、べたっと腰を腰掛の上にひろげて眼ばかり戸口の気配に吸いついている。
そこで行われる割高な消費には、なぐさまないのだから、さっきの煮込み屋に戻って、そこでコップ酒を一杯ひっかけ、一皿の煮込みを食べてそのまま家に帰れば、おだやかな安らぎがやって来そうにも思えた。
再び煮込み屋の前に戻れば、いややはりどぶのにおいの白首の女の所の方に秘鑰《ひやく》があるのではないかと思い、気持が定まらない。もう卑賤《ひせん》視されている階層に於《お》いてでなければ真実をつかむことが出来ない、正当附けられてしまったところには停滞しかありはしない、というふうな観念。
今家に帰れば帰れるのだ。帰ればどうなるのだと思いながら、とどのつまり巳一は梯子酒《はしござけ》をして次第に酔って行った。
酔いの中で、向うから真実をささやきかけてくれるような場所など、どこにもありはしない。
巳一は一本飲んでは場所を変え、気持がにたにたとなって来て、駅前の放射状の町筋を、膝頭《ひざがしら》をひょくつかせて歩きながら、空の星をながめ、おれはこの町筋の電柱に取りつけられた街頭広告放送の音響に一日中なやまされ通しているのだ。しかしそれをとりはずさせる方法が分らない。原稿料の貰《もら》える仕事を見つけることが出来た時に、それを仕上げるためにチベットあたりに行ってみることなどさえ絶対に(と言ってもいいわけだ)出来ることではない。おれは四畳半の畳の上で、街頭放送と近所の小止《こや》みなしのラジオの響きに、さいなまれて青虫のようにごろごろしているしか方法がない。星がまばたいている(と頭のすみで感じ)ナスのやつが、さっき物のけを見るようにしておれを見た眼付は何だ。初めての時もナスは妙なことを口走ったではないか。無責任な兵隊だったおれが脱柵《だつさく》してナスの所に通った時に何を考えていたかおぞましい限りだ。行く先々の島々で子供を生みつけて歩いてやろうなどと考えかねなかったのだから。あなたは死ぬ人ですと、ナスは言った。あたしはどうすればいいの? その時も長い沈黙のあとで、ここはどこでしょう、わたしは何かしましたか、と言った。眼付がうつろになっておれを何か違ったもののように首をかしげて見始めたのだった、(通りの印判屋の店の中から時計の時を刻む音がきこえ出し、巳一はひょいとのぞいてみて、何だまだ九時かと思い、又どこからか消防自動車のサイレンがきこえているような気になり)こう胸がさわぐのはどういうことか。いやそれは神経だ。何の根拠もありはしない。そうじゃない。妻が気分が悪くなって頭痛病みをしているのを承知で、酒を飲んで出歩いているということはどうなんだ。火災保険にはいらなくてはいけない。もう不定期収入の自由職業ではやって行けない。安い所でも月々きまった俸給が貰えるような勤めを持たなければいけない。年功と共に金額が上り、老年になって恩給などつくような、しかしおれのこの虫ばんだからだではつとまるまい。今からやり直すには歳《とし》をとり過ぎた、などとりとめなく考えながら、それでも家の方に向わずに、町外《まちはず》れの方によろよろ歩いて行った。
のどがからからにかわき、ナスは眼が覚めた。
ふと白けた感じが襲って来た。そして自分はどこにいるのか分らない。
何か重い力仕事をした後のような疲労と、圧迫があった。
やがて、洋服箪笥《ようふくだんす》や鏡台などが眼にはいると、自分の位置と方角が甦《よみがえ》って来た。
横に二人の子供が寝ている。島のなぎさをはだしで駈《か》け廻っていた頃の自分ではない。あの人と結婚して二人もの子供の母親なのだ。東京の場末に住んでいるのだ。
それだけを思い出すと、均衡をとり戻して、台所に行き、コップに水を一杯入れて、一息に飲みおろした。冷たい感覚が胸元をさがっていってはっきりと眼が覚めた。
そうだ、巳一といさかいをしたのだった。夫は家を飛び出そうとした。自分は島で経験したいやな不安な孤独な感じ、遊びに来た巳一が帰って行く時のこのまま別れてしまえばもう駄目なのに手の施しようがないという絶望の気持がむくっと甦って来て、頭がふにゃっとふくれ上り、どんどんかさを増して来るので、夢中になり、何かを大声で叫んだようだった。気がつくと寝床に寝かせられていて巳一の眼がのぞき込んでいた。頭はがんがん割れるように痛かった。そして又そのまま眠ってしまったのに違いない。夢うつつに薄い板の上に乗っていて、それがぱたんと引っくり返りそうになる。引っくり返ると大へんだから一生懸命からだの重みで板を押えつけなければならない。それも自分のからだの重みは頼りなく軽く、呼吸の具合など余程気をつけなければ、たちまちにえたいの知れぬエネルギーに負けて板ごと引っくり返されてしまいそうだ。ナスはその持場を守ろうとひとりぼっちで板の上で釣合いを保つことに気を配った。あ、もう駄目だ、誰か助けに来て呉《く》れないかと思った時に眼が覚めた。
(巳一は勉強しているかな)何だかのどが渇《かわ》き、もう一杯水を飲んでから、四畳半の襖《ふすま》をあけてみると、電燈はついたまま、もぬけの殻になっている。
どこに行ったのか気になり、机の上の時計を見ると、九時を過ぎたばかりだ。仕事をしていた様子でもなさそうだが、書物でも読んでいて疲れて、ぶらりと外に出て行ったのか。いつものように一杯ひっかけに行ったのか。いや、さっき夫は家を出て行こうとした。そのあとは何かへんになったまま、夫とは話し合っていない。ナスの感覚の名残《な ご》りとしては巳一のじっとのぞき込んでいた眼差《まなざ》しがあるばかりだ。そのあとの夫の言葉を聞いてはいない。思えばあの眼差しは何となく冷たいもののようでもあった。するとそのあとで出て行ってしまったのか。不安な割《さ》け目がちらっと過《よぎ》ったが、そんなことがあるものか、そのうち帰って来ると自分に言いきかせて、尿を催していたので便所にはいった。
用をすませたその場所に立って身づくろいしていると、表の路地を下駄の音が近付いて来て、門の前あたりでとまり、「かあちゃん、只今《ただいま》」とうれしそうに言うのが聞えたので、格子窓から外の方を見ると、外套《がいとう》の襟《えり》を立てた巳一が闇《やみ》に浮び上るように居た。
「あ、とうちゃん、帰って来たわね。今鍵《かぎ》をあけるよ」
いつもの習慣で、その時も鍵をかけていたと思っていたから、そう言って、ぱっと明るく灯がともったようにはしゃぎたい気持になり、もう一度外を見ると、巳一は声を出さずに白い歯を出して笑っている。(すっかり機嫌《きげん》も直っている)早く鍵をあけようと思い気がせいたので、ゆるく足先につっかけていた草履《ぞうり》を壺《つぼ》の中に落し込み、ちょっとしまったなと思ったが、そのまま便所を出て玄関の方に行った。
前こごまりの姿勢で玄関を出て、門の鍵をあけようとすると、鍵はしまってはいない。
おや、へんだなとためらい、門の木戸をあけると巳一の姿が見えない。
下駄の音が思案するふうに塀《へい》に沿ってゆっくり遠去かって行くようにも聞えたが、戸のあくのがもどかしくて、どこかその辺を歩いているのか。いや門の鍵はかかっていなかったのに。
思わずうそ寒い身震いにおそわれたので、何か買物を思い出して又通りの方に出て行ったのだろうと強《し》いて思い、再び家の中にはいった。何だろう、へんだな、という思いはとれないが、すぐにも用を足して帰って来るんだと気を取り直し、今更床の中にはいる気にもなれず、台所におりて、未だあと片附けのしていなかった夕食の時のよごれた食器を洗い出してみた。
洗い終らないうちに帰って来るように、わざとゆっくり丁寧に洗ったのだが、すっかり片附け終っても、巳一は帰って来ない。
ナスは不安が急に高まって来た。
子供の寝顔など見てもどうにも落着けず、(もう明らかに、ちょっと通りの方に用足しに行ったなどというものではない)縁廊下のすみに置いてあるミシンを六畳の間の電燈の真下に引張りあげた。巳一がふとんの襟首のところのカバーが汚《よご》れたから代えてくれと言っていたことを思い出し、それを今やって置こうと思ったのだ。
門の前に佇《たたず》んで笑っていたのは、確かに巳一だったのに、あれは幻影なのだろうか。そんなことはない。確かににっこり笑っているのを見た。喧嘩《けんか》なんかやめようね、という笑いであった。わたしはそう思って玄関にとんで出たんだったのに……ナスはミシンをふみながら、考えは同じ所をぐるぐる廻り、一向に落着けない。
子供たちの寝顔を見ても、気がうつろなので、ラジオのスイッチをひねってみた。
……の統計によりますと、昨年一カ年間に交通事故で死んだ人の数は……ナスはあわててスイッチをきった。
まてよ、あの竹塀をはさんで便所の格子窓から人の姿が見えるかしら、といぶかしくなったので、オーバーを羽織って外に出て、巳一が立っていたあたりから便所の方を眺《なが》めてみたが、ナスの背丈《せたけ》では、さっきのようにあんなにはっきりとは顔や姿が見えそうにも思えない。とするとあれは夫の亡霊だったのかしら。酔っぱらって電車か自動車にまき込まれて死んだので、それを知らせに帰って来たのではないか。
ナスはそのまま駅前の通りの方の、巳一が行きそうな飲み屋を歩いてみたが徒労であった。
がっくりして帰るともう十二時近くなっていた。ふとんに今縫った新しいカバーをつけ代え、ついでに枕《まくら》カバーも真っ白なものと代えたら涙が出そうになった。血にまみれて帰って来たら、この白いカバーの上に寝かせてあげようと思うと、巳一の血みどろの無残な姿ばかりが、水中花のように眼の底にぱっと拡がる。
とにかく床の中にはいった。
国電の終電車の時刻も過ぎた。
夕方からの出来事をくり返しくり返しおさらいした。どこでどう間違ってしまったのかを考える力もなく、いくら考えても同じことだ。
ナスは巳一の部屋に行き、ウイスキーの瓶《びん》にまだいくらか残っていた焼酎《しようちゆう》を探し出して、思いきって飲んだ。
やがて酔いが廻って来て、すみっこに追いつめられたような気分がうすれると、もう明日の朝になってみなければどう考えたってどうなるものでもない、先ず眠ることだと自分に言いきかせ、思いつめると、へんになりそうだ、ぐっすり眠らなければ、など頭のすみで考えていると、そのうち眠りに落ちた。
からだが地の底にぐいぐいめり込みそうになるのを、ふみこたえて巳一は放尿し終った。
何か知らぬが、しまったことをしてしまったという感じが圧倒的に残っていた。放尿したその部分に神経が残っている。
タイル張りのばかに明るい便所だが、却《かえ》ってしわよせのごみがなぎさに残された汚物の縞《しま》模様のようになっていた。
ドアを押して廊下に出ると、色《いろ》硝子《ガラス》の窓などのついた広い玄関があって、そのわきの小部屋で、三四人の女が着物の裾《すそ》のへんをだらしなく乱れさせ足を投げ出して話をしていた。
巳一がうつけたようにその辺でうろうろしているのを認めた女の一人が、
「あんたの人は、二階のこちらから四つ目の部屋よ」
と言った。
のみ込んだふうに合点《がてん》して、(記憶はないがこんな場合を予想しなかったわけではない。しかし、酔って何も分らないままで、こういう所に来たとすると、失敗《し ま》ったことをしたことになるぞ。おそらくあのことは充分手当をしないままに違いない)傾斜のゆるい広い階段を二階に上って行くと、長い廊下が奥の方に通っていて、かなり大きな部屋が同じ様な仕切られ方で並んでいる。
造作の木や板がくすんでいて古い建築のように思えた。
重ねて又厄介な瑣事《さじ》の中に陥没しなければならないかも分らぬ、と覚悟して、四つ目の部屋にはいって行くと(全く覚えがない)八畳位だと思えるが廊下側の襖近く屏風《びようぶ》をたて廻した向うにふとんが敷いてあって女が寝ていた。
「おや、あんただったか」
巳一はそう言った。やはりその時初めてその女を認めたのだが、その女は前から知っている女だ。とうとうこういう場所に来ていたのかと思った。しかしまさか自分がこの女の所にあがろうとは。
大柄な赤ら顔の女だ。近所で見かけていたし、戦争中隣組の常会の時に話したこともあった。婚期がおくれていて、もう大きな子供もあるという年配の男の所に後妻に行くとかどうとかいう噂《うわさ》をきいたことがあった。
その頃は巳一も応召前で年も若かったが、女がその年頃で嫁にも行かないで、小さな個人会社のタイピストなどしているというのを気味の悪い思いで見ていたと言える。
色白で耳たぶが鮮《あざ》やかな紅色をしているのが何だか露骨で、気の毒に思えた。どこにでも早くお嫁に行けばいいのに。
その女なのだ。昨夜あれからどういう経路で上り込んだのか巳一には思い出せない。
ちょっと位何かを覚えていそうなものだが、全く記憶がない。
巳一は昔この女に感じた、気味悪さをよみがえらせながら、どうしてか女の誤解に調子を合わせようと思い、女の横にはいり、
「やったの」
ときいた。
「夢中になっていたわ」
女はいたわるように言った。
もともと大柄な顔は一層四角くかど張って不節制な生活のせいか、眼のふちが黒くくまどり、皮膚がかさかさ荒れて見えた。
巳一はこの女と早く離れたいと思うが、きっかけが見つからずに、ぐずついていると、女は寝巻の袖《そで》で顔をかくしたりしながらやたらにはずかしがり、男の方にしても、自分と同じように、むかし顔見知りの女との邂逅《かいこう》を珍らしく思って、すっかり好意を寄せていることにきめ込んでいるふうに見えた。
ちぐはぐなのだが巳一は女の期待を裏切ることは出来ない。どうしてももう一度すまさなければならないだろうと思い込みそれにかかると、自分のが子供みたいに矮小《わいしよう》なのでたまらなく意気が沮喪《そそう》した。
みんな間に合わせのこと(いくら仕事は間に合わせでも病気は確実に移って来る)だが、この女の予期に添おうとする努力と不快が、一番確からしいなどと思い、このしばらくの間の運動のために、後に長い執拗《しつよう》なバクテリヤとの忍耐くらべをやらなければならないかも知れない。
心と合致した行為ではなく、スキンを二枚かぶせてみる。ぐすぐすなのだ。昨夜からの無意識の行為のあとで、今更二枚もかぶせてみても後の祭と思いながら、それをはずして、どう思ったか裏返しにしてかぶせた。すると分泌物《ぶんぴぶつ》がくっついているのを発見するが、それがどんなふうにくっついたのかはっきりしない。
無意識に一度使ったものをまたかぶせたのではないか。それではだめだし、却《かえ》って細菌をあっちこっちになすりつけてしまったに違いない。
その辺のところは分らなくなってしまい、そうこうしているうちにスキンの中がどうにか膨脹して来て、やがてひどく大きくなって(そんなことは初めてなのに)女は喜び、巳一は益々《ますます》女の気持に添おうと思い、嫌悪《けんお》が、気持の裏側にべったりはりついているのに、一生懸命になっている。
ふと病気が心配になり、ガーゼを女の方にあてがって、なるべく間接に接触しようとする。それは全く無意味なことだが、そうすると少し気が安まる。女は夢中になるが巳一は却って軽い疼痛《とうつう》を感じ、病気がうつらなければいいがということばかり考えている。
運動がすむと、巳一は女に消毒液を持って来て貰った。それは女に腹のうちを見すかされるようで屈辱を伴うが、もうそれどころではなく、早目に処置をして置こうと、我慢がなくなり、その液で何度もていねいにふき、湿気をとるためにシッカロールをつけた。
おや、かさのようなものがあるぞ。黒い影が頭の中を通ったようなぞっとした感じでよく見ると、一番やわらかい部分にツキヨタケのようなものがいくつか生えている。
「ちょっと、これ何だろう、見てよ」
巳一がそう言うと、女がちょいとのぞいて、
「さっきもあったわよ、あたしもおかしいなと思ったのよ」
と言ったが、大して気にかけているふうではない。
女の粗《あら》い神経に巳一は自分を羞《は》じ、しかし気になって、改めて消毒液でしつこくふいていると、そのうちにそれは消えてしまった。
「何だったろ」
そのことに気持がとらわれて暗い醜い顔をしている巳一を、女は遠い感じのない眼付で眺《なが》めていた。
もうすっかり太陽が上ってしまい、外の部屋の客たちは大方帰ってしまった。
廊下に近い部屋のあたりで、襖にばたばたはたきをかける音が聞えて来た。
すると巳一はそわそわし出した。
昨夜からの自分の行為が思い返され、どういうふうに家の玄関をくぐろうかと考え始める。
門のくぐり戸と、玄関の重いガラス戸をあけてナスの顔の前に自分の二重の顔付を押しつけるその瞬間の重い意識が、精神を腐らせる。それはナスをだましているという事柄だけではない。血の中にどす黒くわだかまっている古い古い記憶がはけ口を失い毒素となってこめかみの方にあふれて来る。
がんじがらめに心を縛ったまま、巳一はそこに帰って行くだろう。その上巳一は色々な病に気がつき、固縛は益々かたくなって行くだろう。
はたきをかける物音が隣室までやって来たので、境の襖をこちらからあけると(これをしおに帰ろうとして)着物の上に白い割烹着《かつぽうぎ》を着けた女が、手拭《てぬぐい》で姉さんかぶりをして立っていた。巳一を見ると、のみ込み顔にうなずき、明るい笑顔で、
「おや、せんせい、お帰りですか」
と言った。
女は二、三度手伝いに来て貰ったことのある家政婦会の女なのだ。
色々なことを知られているのだろうと思い、このことも又噂話になって拡がることに間違いはない。
別れ際《ぎわ》に昨夜からの女に、何か言って置こうと思っていたが、この家政婦が現われると、気持が乱れてしまい、物を書いているような者を世間が呼ぶそのせんせいという世事にうとい寡黙の顔付に、こわばって来るまま、不自然に足音を軽くして階段の方に歩いた。
その日、夜が明けると、風が出て来て、戸障子が落着きなくがたついた。
前の日の調子でナスは厚着をして起きたが、いつものように七輪に火を起して、朝食の用意をしながら、へんに汗ばんで、頭が痛い。
巳一は遂《つい》に帰って来なかった。ゆうべの小さなさわぎと、焼酎《しようちゆう》を飲んだことと、そんなことが入り交って、きっと頭痛がするのに違いない。
気持がくしゃくしゃして、きっとYさんの所に行ったまま泊り込んで来るのだろうと考えないわけにはいかない。それは今迄《まで》にも度々《たびたび》あったことだ。
そう思っても、昨日今日のことは、何だか心配でもあった。
いつもそんな時、夫の素振りにそういうものが感じられた。ああ今夜は泊って来るつもりかも分らないな、という予感がある。昨夜はそうではなかった。ちょっとしたことで小さないさかいをしたあげく、自分が眠っている間にどこかに行ってしまった。そして夜中に眼を覚まして便所に立った時に、たしかに只今といういかにもうれしそうな声と、街燈のあかりの下ににこにこ笑った顔を見たのに、それっきり又どこかに行ってしまった。いやどこかに行ってしまったのではなく、あれは夫の生き霊《マブリ》ででもあったのだろうか。確かに声もきいたのだから間違いはないのだ。姿を見ただけで声を出さなかったのなら、頭がへんになっていて幻影ということもあるかも分らないが、ゆうべはそうではなかった。どうにも晴れやらぬ頭で、ナスは前こごみになって野菜を切った。
道々本を読みながら歩く癖があるから、うっかり横合いから出て来た自動車にはねとばされないものでもない。まさか夜の夜中に歩きながら本も読まないだろうが、いさかいの事や何かで、肝の小さい人だから、呆《ぼ》っとしていて電車のプラットフォームから落ちてはさまれたのではないか、などよくないことばかり考えていると、際限なく悪い方へ悪い方へと想像はすべって行って、夫が死んでからどうして生活すればよいかなどと思いが広がる。
裏の屋根びさしの下の狭い場所にこしらえてある鶏小屋のとりたちのために、朝のえさをこしらえて持って行くと、いつもの通り、せわし気に手許《てもと》にとびついて来て、たまった糞《ふん》などのけもの臭いにおいが鼻について来た。卵は未《ま》だ生んでいない。二羽の鶏が一緒に二つ生むということは少く、大ていどちらかが一つだけ生むのをいつも巳一にだけ食べさせる。夫はそのことなどどんなふうに考えているものか。いやどうでも早く帰って呉れればいい、ナスは段々に言い知れぬ焦躁《しようそう》に攻められ始めて来た。警察に届けて置こうか。少し早まり過ぎかも知れない。
いやに空気がぬるんでいる。そしてこの落着きのない風は気持悪い。ほこりっぽく、顔や首筋がざらざらするようだ。昨日まで厳《きび》しい寒さがあったのに、急に天候が変ってしまった。まだ二月の半ばにもなっていないがすっかり季節が狂ってしまったようだ。昔は季節がしっかりしていたのに。いやそれもどうか忘れてしまった。島ではどうだったのかも忘れた。そうだ風向が変ったから、頭が痛むのだ。
都会の路地や家々の間に、むっとした南風が、まぎれ込んで来て、建てつけの悪い戸や障子や窓を、いらだたせるように小きざみにゆさぶった。
「かあちゃん」
子之吉が眼を覚まして床の中から大きな声を出した。
少し耳の遠いナスが聞えないでいると、
「かあちゃーん」
と子之吉がまた呼んだ。
やっと聞えて、
「え、起きたの」
と六畳の方を台所からのぞくと、
「タマちゃんがおしっこって言ってるよ」
と子之吉が言った。
「それはたいへん。まだですよ、まだですよ、まだ出たらいけませんよ」
そう言いながら、タマをふとんの中から引き抜いて便所に連れて行くと、タマも一緒に、
「まら出たらけましぇん」
と泣声になって言う。
風邪《か ぜ》をひかせないように、寝巻をぬいで、枕許《まくらもと》の肌着やズボン下やセーターやロンパスを着せにかかると、からだをくねらせたり、しゃがもうとしたりして、じっとしていない。
「タマ。ちゃんと立って。着せにくいじゃないか。おかあさん、クヘイ(疲れる)よ」
その時はちょっと立つようにするが、すぐまた倒れかかろうとする。
「いやだねえ、タマ。もうほおって置きますよ」
子之吉が寝巻のまま起き出して、廊下の方に出て行った。
「子之吉、風邪《か ぜ》をひくから、ふとんの中にはいっていなさい。今おかあさんが着せてあげるから」
ナスはそっちの方にも声をかけると、
「おしっこ、するんだい」
子之吉は足ぶみしながら、廊下のガラス戸の鍵《かぎ》を外してあけて、そのまま外にとばしてやった。
「いやだねえネノは。そこが臭くなって仕様がないのよ」
「だってむぐっちゃうんだもの」
「今日は何だかむしむしするから一枚とろうかね、どうしようかね」とタマの方に言うと、
「タマ、みんな着るんだい」とタマは言うのだ。
子之吉は巳一の部屋の四畳半の襖を開けてみて、
「ああ、かあちゃん、とうちゃんいないよ」
と言った。
「ああ、とうちゃん、どっかに行っちゃったのさ」
「どこに行ったの、がっこ行ったの」
とタマもきいた。
「とうちゃん馬鹿だね、帰って来ないで」
ナスはそう言った。
子之吉はそれに合わせて、「とうちゃん馬鹿だね、帰って来ないで」と言うと、タマもまた言った。「馬鹿だねえ、とうちゃんは」
「ほんとだよ、早く帰って来ればいいのに、みんな心配《シ ワ》しているのにねえ」
そう言ってしまうと、いくらかふだんの気分に帰ったようにも思えた。いつものような外泊で、今にも、気弱そうな笑い顔で、ナス、今帰ったよ、と玄関の戸を開ける音がしそうに思えた。
「ネノ、もうすぐごはんですよ、家にいなさい」台所からナスがそう言うと、
「やだい、遊ぶんだい」と子之吉はきかぬ口つきで返答した。
「もう行ったらいけませんよ」
「やだい、遊ぶんだい」
「おかあさんの言うことを、きけませんか、もう相手にしませんよ」
しかし子之吉は言うことをきかずに出て行こうとする。
「タマも行くう」
タマが鼻声を出して追いかけようとする。
ナスは台所でちょっと手が放せず、子之吉をつかまえてはいられない。
やがて外の方でタマの泣声がした。
「バーボがぶった」
ガラス戸に砂のぶつかる音がした。ナスが廊下に出てみると、竹塀《たけべい》のかげに子之吉がかくれていて、右手に石を持っている。
「タマ泣くんじゃない。ネノ、もうごはんだからいらっしゃい」
子之吉は返事をしないで、そのままじっとしている。
「喧嘩《けんか》はやめなさい」
路地の向うに二三人かたまって子之吉と同じ年頃の近所の子供が、すきをうかがって石を投げてよこした。
子之吉もそれに応じて投げようとした。
「やめなさい、やめなさい。石を投げるんじゃありません。ごはんだから帰って来なさい」
子之吉はぐずぐずして、ナスの言うことをきこうとしない。
でも一人ぼっちで孤立している方がいいんだ、(いつか夫が言ったようなことを考え)組になってこそこそする仲間でない方がいいんだ、と半分悲しい気持になりながら、
「ネノ、来なさいったら」
子之吉はやっとナスの方にやって来ると、急にめそめそした調子になって、
「まあ坊たちが意地悪するんだい」
「だから遊ばなければいいじゃないの」
「やだい、遊ぶんだい」
「それじゃ喧嘩をしなさんな」
「やだい、やだい」
子之吉はぐずった。
「まあ坊たちと遊ぶとすぐ喧嘩になるんだから、遊びなさんな。ほかのよっちゃんたちと遊べばいいじゃないの」
「やだい、遊ぶんだい」
「ああ、そんなら勝手にすればいい。とにかくごはんなんですからね。おうちに上って手を洗いなさい」
ナスはそう言って、タマを抱きあげて台所のわきのちゃぶ台のある二畳の方に戻って来ると、又竹塀に石ころや砂の当る音がした。
「ネノ、こっちに来ていなさいったら」
子之吉が未練そうに玄関から上って来た。
こんな子供にでも口惜《く や》しいことがあるのに違いないと思うと、自分までむしゃくしゃして来て、こんなことも巳一が居ないからだなど思っていると、その時竹塀の朽ちた所に顔をよせた子供たちが、
「子之吉君とタマちゃんのバ、カ、ヤ、ロ」
と言った。
「あんたたちもうるさいのね、向うに行ってちょうだい」
ナスは思わず甲高《かんだか》い声を出した。
ばたばたと逃げて行く小さないくつもの足音がして、遠くから、
「子之吉君のおかあちゃん、こわい、こわい」
というのが聞えた。
むっつり親子三人でごはんを食べていると、巳一が帰って来た。
ナスは思わず立ち上って、憔悴《しようすい》した顔付の巳一にとりすがった。
「とうちゃん、帰った、帰った。よかった、よかった」
そう言って、へんへんへんと半分冗談のように泣きはじめ、巳一は用心してナスのからだを扱いながら(子供たちはきょとんと親たちを見つめ)かすれた声で、
「分った、分った、何でもないよ」
思いつめた顔で涙を出しているナスを見ると、巳一は又抱き直して、しばらくそうしてじっと背中をさすっていた。
やがてナスも落着き、泣き笑いの顔をしたまま言った。
「とうちゃん、ゆうべ一度帰って来たのだろう」
巳一はどきりとして、
「え、何時頃」
「九時頃」
「帰って来ないよ」なるべく声の調子を低くゆっくり巳一は答えた。
「あたしが眠っている時出たまま?」
「うん」
「じゃ、あれはとうちゃんの幽霊だ」
「なに?」
「ゆうべ、あなたの生き霊《マブリ》が帰って来たよ」
「どうして」
「うそじゃないんだ。あたしは声もきいて顔も見たんだから。うれしそうな声で、かあちゃんただ今って言ったんだから。便所の格子《こうし》からのぞいて見たらにこにこ笑っていたんだ。うれしくなって急いで玄関に廻って門の戸をあけたら、もう居ないんだ。それでも又煮込みでも食べに行ったんだろうと思って待っていたのになかなか来ないから、探しにまで行ったんだ。そしたら、どこにも居ないんだ……」
巳一は黙って饒舌《じようぜつ》になっているナスの言葉をきいていたが、何か言ってやらなければ、ナスの眼付がへんなふうに傾いて行くし、自分の眼付も据わって来ると思い、
「そうか、そうか。そいつはへんな話だ。ぼくは八時頃出たっきり帰って来ないよ。どうにもむしゃくしゃしたから浅草に(とあらぬ場所を言い)飲みに出たんだ。そのまま今朝まで悪酔いしちゃったのさ。(一息にそう言って)そうか。それでぼくの幽霊が帰って来たというのか」
少し笑い顔になると、
「あら、とうちゃん笑いごとじゃないよ。本当に帰って来たんだから」ナスも青ざめた顔に笑いを浮べて言った。「まさかとうちゃんに何か起るのじゃないだろうね」
「そんなことがあるものか」
巳一はそう何気ないふうに返事をして、あとは親子四人でいつものように食事をすませ、疲れているから起さないでくれと言い置いて、自分の四畳半に移り、敷きっ放しのふとんにもぐり込んで、眠った。
眼が覚め、お昼頃かと思って窓の外を見ると、意外に時が移っていて、あたりはうす暗いたそがれになっていた。
風はやんでいたが、盗汗《ねあせ》をびっしょりかいていた。
小用に立ち便所にはいると、ナスの言ったことを思い出した。(誰か草履《ぞうり》をおとしているな)
むずむずと湿った痛みとでもいうような不快な感じが残っているのを意識しながら、格子から外をのぞいて見た。
人通りはとだえ、向いの屋根が、しんとした感じを与えた。ふと満月の夜のような錯覚を起した。
竹塀越しに門の方を眺めた。
あそこにもう一人の巳一が立って、こちらのナスに笑いかけ、塀沿いに、歩いて行ってしまったのだなと思った。
その奴《やつ》は今どこを歩いているのだろうか、という気持になり、何ということなく、月の光に濡《ぬ》れた屋根屋根の瓦《かわら》、というようなことを連想した。
「とうちゃん、もう起きたの、ずい分ぐっすり眠ったね」
台所からナスが声をかけて来た。
子供たちは遊びに出ていて姿が見えない。ナスの声で便所から出ようとして、巳一はひょいと、「あの帰って来るやつがじゃまっけなのだ」と思った。
(昭和二十九年四月)
廃址
K…島のSの部落から赤土の坂をのぼりつめると、道はその島の脊梁《せきりよう》の尾根筋をしばらく歩く。
片側は外海に眼界がひらけ、うずくまる岬《みさき》、岸の岩にくだける白波、胸の中の何かがふくらみ、見当もつかない距離を落下して行って、はるか下方のその海水の量や波や砂浜にぶつかると、又胸のところまではね返ってくる。それを何回もくりかえすと、空間に震えをともなった音域ができた。波濤《はとう》のひびきか、風のつぶやきか、とらえることのできない音響が、においのようにからだを包んできて、視界にありながら手のとどかぬ距離感が頭をしびれさせる。
U…島は、視界にふたをするように、海に立ちふさがって見える。それはもっと手前の方に、もっと小さい形で浮んでいるように思っていた。記憶の中に据え置かれた形が眼の前のそれと重なって、大きすぎたり小さすぎたりゆれ動いて定まらない。その島影の肩にかくれるように遠くの方に淡く見えるのがT…島だ。
その尾根筋の赤土道を、ひとりの島の男が気ちがい女をつれて歩いていたことを思い出した。男はシャツにズボンをはき、女はネル地の着物を羽織なしで着て、赤いだて巻きの帯をしめていた。
ひとりで山越えをするときにいつもそうしていたように軍刀を肩にかついで近づいて行った私を認めると、もつれ合ってきこえていた不機嫌《ふきげん》な男の声と女の哀訴の調子が、はたととぎれた。そして細い山道のわきの方によけて私の通りすぎるのを待った。
その頃、私は隊の外の生活には強い体臭を感じたから、その男の貧しげな血色の悪いよごれた容貌《ようぼう》からも、自分を包みこんでくる体臭を受けた。男はうすら笑いを浮べていた。
島の者どうしでしゃべるときの方言のつきさすような強いアクセントは、よそ者に向ってつかう言葉の中には見つけることができない。それと同じことに、私を認めた二人は、二人の間の緊張をなまぬるくゆるめてしまって、からだの線をくずし、私の通りすぎるのを促すように、道のわきに位置をずらした。それは南方の光と風にさらされた彫りの深い怜悧《れいり》そうな顔付と共に私をどきりとさせた。私は渇《かわ》いた目で彼らを見た。二人ともはだしだ。そのあなうらの皮膚は厚く、女の足でさえばかに大きく見えた。
私は学校を卒業するとそのまま軍隊にはいって、戦争の中にまきこまれて行き、K…島のN浦の基地にまわされた。そこに海軍の小舟艇の小さな基地があった。
私の頭の中では、どうしたら四十八隻のボートを敵の船のどてっぱらにぶつけて轟沈《ごうちん》させることができるかという考えだけがわだかまっていて、それが与えられた仕事であった。多くのことが分っていなかったが、未熟な青春はいっぱいあった。
私は彼らをじろじろ見ないで通りすぎた方がよいのだと思った。しかしほんとうのところは、彼らにくっついて行って、その気ちがいの女をよく見たかった。そのとき私に女の精神病が理解できていたのではないから、その男に羨望《せんぼう》さえ感じた。彼らの方には生活がこぼれるほどつまっている。私には生活がひとかけらもない。そう私は思った。
生活を経験しないまま、誰かと死の契約をしてしまった。するとそのときから、私は自分の若さに輝きを増してきたことを覚えた。しかもその契約を破棄することは絶対にできないのだと思いこんだまま。
昼間は敵の飛行機をさけて洞窟《どうくつ》の中で眠り、陽《ひ》が沈んでからはじめて入江や海峡のあたりを動きまわる。月の満ち欠け、潮の干満と呼吸をあわせるような日々の中で、地球がまるいということは虚妄《きよもう》であって実はおそろしい土と海の果てを持ったひとつの平たい盤のようなものではないか。
私の目には一切の生長が空《むな》しく写った。しかも私の青春はぐんぐんふくれあがった。
女がくすっと笑ったので、私はその女の顔を見た。おしろいの濃い化粧が、いくらかは異様な気配をただよわせ、袖口《そでぐち》を口にあてて、彼女は笑いを消さずにいた。しかし彼女も又私が早く通りすぎるのを待っているように見えた。
私は女の物狂いをもっとけばけばしく自分でこしらえあげながら、そうでないその狂女を物足りなく感じた。
女の肩越しにU…島が見えたと記憶の中には残った。いやそれはずっと谷あいを弓なりに下の方に越えて行ったEの部落の浜辺の白砂にくだける白波の風景だったようでもある。
十年の歳月が流れた。私は精神病院から出てきたばかりの妻のケサナと一緒に、再びこの峠道の展望を見た。
そして十年前にこの道で会った気ちがいの女とその連れの男のことを思い出した。
道はすぐ山ひだと樹木の中にかくれ、展望は急に閉ざされる。
すると前とはかわって反対側の谷あいの眺《なが》めがひらけてきて、その底にN浦の入江奥が、奥深い山の中の湖面と見まちがえる静けさで横たわっているのが見えた。横たわるというよりも或《ある》いははめこまれていると言った方がふさわしく、私は思わず足をとめてそこを見据え、そしてまぎれなく認めた。湖面のような入江につき出ている山鼻にほりつけられ、ぽかっと黒い空虚をかかえてふまえた洞窟の入口を。
思わず私の胸のあたりの血がざわめき、どきりと何かがつき上ってきた。
私は都会に住んで、戦争のあいだ一年近くもその朝夕を送った基地の様子を思い描いてみることができなかった。どんなに緻密《ちみつ》に順序だてて考えても、現実のかたちをととのえてはくれない。人外の境などあるはずはないが、N浦はあやしげな廃墟《はいきよ》の場所になっているとしか思えなかった。
いつかはきっとそのK…島に渡って、基地のあとに自分のからだを抛《ほう》りだしてみたいと思った。
そこを遠く離れて、本土のどこかに住むと、頭の中で島はいつのまにか遊仙窟《ゆうせんくつ》になってしまった。
戦争のあいだじゅう、そこで営まれた死の準備はわがままな虚構であったと言える。そこでは古代ばかりがかりそめに展開した。だが敗戦の後、都会の雑踏の中でK…島は現実から益々《ますます》遠のいた。K…島での日々のことはすべておとぎ話になり、記憶の中の島のひとびとは標本棚《だな》に陳列した化石と変らない。私は彼らを遠い歴史の中のひとびとのことか又は残りの生涯の間ではおそらく会うことのない未知の国のひとびとについての、概括《がいかつ》記事を説明する口つきで語っていた。
しかし今こうして現にN浦に来たことはなかなかに信じられない。それは信じられない、というのともほんとうのところはちがう。大きなてのひらを持った「あせり」に、ぎゅっと心臓をつかまれたようだ。
私はあの戦争の時期を、殊《こと》に南の島のN浦での一時期を、岩乗《がんじよう》な鉄の箱の中にとじこめてしまえたと思っていた。必要とあれば、どのような手つきででもそれを取り出して見せることができる。
半円の空虚を抱《いだ》いた洞窟の入口の弧が私の網膜に焼きついたときに、十年の歳月がふっとかき消え、私は今もなおあのときのいつものように、Sの防備隊からの帰り道だという気分がせつなく湧《わ》きあがった。ほとんど気まぐれに近づいてくる死を待って、一日一日を送っていた場所が、そこに消滅しないで位置を占めている。それは疑えない。確かすぎて不満なほどだ。むしろそこでは私と違ったもう一人の私が、今も相変らず死の特攻出撃の命令を待って、朝夕を送っているのではないか。
ホイッスルのひびきが入江の両岸にこだましてひびきわたり、伝令のどなる号令、兵隊のかけまわる気配が、物々しく入江奥を伝わり谷あいをはいのぼって峠の方にきこえてくるように思えた。
「塩見少尉のところに寄ってみよう」ふと私は思ったが、すぐ頭をふってその錯覚を打ち消した。Eの部落に下りて行く途中に彼の砲台があって、防備隊への往復によくそこに立ちよった。彼も私と同じような予備学生の出身であった。大ていの場合私は彼の所から遠廻りをしてOの部落のケサナの家に行った。塩見の砲台とN浦とそのOの部落は三つの鼎《かなえ》のような位置にあったから、私はN浦の基地に帰らないで塩見の所からOに行けた。
しかし今その人々はどこにもいない。いやケサナは私の妻になった。そしてこうして私のそばに居る。それは一つの成就のはずだ。ケサナの発病が都会の生活を不可能にし、K…島に近いA…島の町に移り住んだ。だから誰にはばかることなく、島山の景色を両手に抱きかかえても差支《さしつか》えないのに、もう取りかえしがつかない過失の中に居るような気がする。
「あなた、なつかしいでしょ」
ケサナにそう言われて私は思わず自分をかえり見た。小さな自分の影がそこでよろけたと思えた。軍服を着た私と若い娘のケサナが、私たちに見向きもしないで、尾根道をどんどんOの方に歩いて行く幻影に私はなやまされた。それはあせりとでも言うより言いようのない感情のふき出しであった。
こんなふうにではない。もっとしっかり確かめて、N浦に下って行かなければ。
そう思いながら、私とケサナは、またあしたもその次の日もここを通るようにしかこの道が通れない寂寥《せきりよう》を持った。
満潮になると入江奥はひたひたと海水で満たされ、干潮時には広い干潟《ひがた》ができあがり、その干潟沿いに十軒ばかりのかや屋根の民家が点在しているのが、N浦の部落だ。
潮に洗われていた岩の上の細い道が、広い立派な道に変り、一部に堤防が築かれても、海峡から深く折れ曲ってはいりこんでいるために湾口の方は見通すことができずに丁度山の中の湖としか見えない入江のこんもりした静けさは少しも変ってはいない。
部隊は細長いその入江の中程から入江口の方一帯の両岸にまたがり、十二の洞窟艇庫と十の兵舎が、隠れ場所を選んで建っていた。
人家のある入江奥から、もとの部隊の方を見渡すと、忘れていたこまごました記憶が、ひとつひとつ墓石を倒し、墓土をはねのけて起き上ってくる。それはどうしても深く私の生の調子を作るのに作用した場所であることを思わないわけにはいかない。
私とケサナが最初に訪《たず》ねたギンチヨばあさんは、とつぜんその庭先に立った私を見て、顔色を青冷《あおざ》めさせたかと思うと、みるみる涙をあふれさせた。すると孫を背中におぶったその老婦人の顔を私もまたはっきりと甦《よみがえ》らせ、心に刻みこむことができた。
私の容貌が彼女の息子の一人に似ているといって、まるで子供同様に可愛《かわい》がってくれていたことが、快いたしかめとなって思い出された。彼女の息づまったとっさの物腰に、彼女の記憶の中で私がどれほど大きな位置を占めていたかがうかがわれ、私の胸にひびいた。私の名前を、家の中のもうろくした夫に知らせてもうまく通じないので、思わず大声で、N浦の隊長、と彼女がどなったとき、私の眼は赤くなった。
風雨にさらされて朽ちた廊下や家の横板が、十年前と少しも変ってはいない。十年前にそれらの平凡なたたずまいを見て、人為的に生をたちきらなければならない自分のおかしな立場を扱いかねながら地の底に引きいれられる暗い気分の中でむりに明るい若さを示して見せようとしていた自分の姿を思い出した。
音響はすべて土の中に吸いとられてしまうような静寂の気配はそのときも今も変らずに、私とケサナの足音をしめっぽく吸収した。
老人夫婦が語ってくれたいくつかの昔の日の自分の姿をいっこう思い出せなかったが、それは別のことを思い出すきっかけとなった。
もし生きのびることができたら、と戦争のさなかで考えたのだ。N浦のどこかに家を建てて住んでいたい。或いは、生きのびることができたらなどと考える力をそのときの私は持てなかったようだから、ただ、ここに家を持って住みたい、と考えただけかも分らない。とにかく、私にもしいのちが与えられたら、この僻陬《へきすう》で充分すぎると思ったその気分が、同じ景色と光と空気のもとに記憶がむくむく甦った。
私はN浦のようなほどのよい入江を見たことがない。入江でありながら海洋の気配をあらわには感じさせず、或るときは川のように、又別のときには沼か湖のようであった。潮の満ち干がいわば静かなざわめきをわきたて、それが精神に適度に快い刺戟《しげき》を与えた。
日常のあくせくした生活がばかでかく立ちはだかって阻《はば》んでいたせいもあるが、敗戦後のこの十年のあいだ、私はN浦をあのときのあのように感じとろうともせず、又そのかたちを愛したことを思い出そうともしなかったことを、おそろしいと思った。今私は外から強制されては死の前に立ってはいないぞ。たとえば今N浦での生活を選びとることもできるのだ、と思うと、私は背筋のあたりがすっくと伸びたと感じた。
「そのことについてお話ししましょう」
撃墜されたアメリカ人の死体を埋葬した場所をさがしていると、干潟を横切りながらこちらへの眼を離さず、いったんは私たちを見送った男が再び近づいてきてそう言った。
「私がヤストミさんのあと、部落長になってからのことですが……」そう前置きして、この島にも進駐してきたアメリカ人たちが、粗末な埋葬に言いがかりをつけたあと、埋葬場所の土をたんねんにふるいにかけて、骨片をあまさず収容して持ち去ったことを話した。
でも私は警戒の心持をほどくことができない。戦争中の部隊の行動が部落の人たちにどんな陰影を与えていたかを正確につかみとることはできない。もしかしたら、この精悍《せいかん》なやせた無精髭《ぶしようひげ》の男が、かつての部隊の責任者に物言いをつけようとしているのではないか。それを私は受けきれるか。戦争中から敗戦にかけての部落の憎悪《ぞうお》のすべてをぶちまけられても、避けるわけにはいかない。あんたたちがいいかげんにやり放して逃げて行ったから、あとで部落の責任者の私は大へん迷惑をした、と彼は言おうとしているのではないか。つっかかってくるような気負った調子が、さきの老人夫婦から与えられたやわらかな回想のふくらみを、急激に冷やさなければならない気持にさせた。
「そのアメリカ人の名前は覚えられておりましたですか」
私はきいた。すると彼は、名前の書いた墓標が立ててあったから分ったと答えた。
「そうですか。アメリカさんがきて、すっかり持って行ってしまったのですね。それですんだわけですね」
私は彼の前に深くお辞儀をしながら、そのアメリカ人が墜落する飛行機からパラシュートで脱出しようとして失敗した瞬間のN浦の上空の異様な見物を思い出した。
彼は私をあからさまに審《さば》くつもりはないらしい。だがこの新しい部落長を私はいっこうに思い出せない。それは少し落着かぬ気持だ。十年の歳月は部落の住人に多くの変化を与えているはずだ。その容貌に見覚えがないとすると、彼は戦後の帰郷者かもしれない。
私は戦争のときの部落長を訪《たず》ねようと思って、そちらの方に歩いた。
すると彼はなおあとを追ってきてこう言った。
「隊長さん、どうか私の家に寄って、お茶でもあがって下さい」
又十年前の呼びかけを私はきいた。
すると又もや防備隊からN浦基地への帰隊の途中のできごとのような気持になった。それは何ともきたいな気持だ。
「日のあかるいうちに部隊を見て行きたいものですから」
私の返事もそんな調子になる。
しかし彼はどういうわけかあきらめ切れぬふうに、
「ケサナカナ」とケサナの方に呼びかけ、
「あなたはウィンジュの最期のときのことなどおききになっていますか」
と言った。
「なんにも分っていないんです」
ケサナは遠い眼付で消えいるように返事をした。しかしそれで私たちは足をとめられた。ウィンジュとは妻の父の呼び名だ。名前ではなく、むりに当て字をすれば上の主とでも言えようか。そのあたりでは誰もがケサナの父をそう呼んだ。ケサナが本土の都会の私のもとに出てきたあと、島はアメリカの軍政にくりいれられ本土との往来がたえた。そのあいだにケサナのたったひとりの身よりの父は病死した。ケサナは昔のできごとについて物忘れがひどくなっている。それが電気衝撃や冬眠治療などの結果かどうかは分らない。でもこの部落長のことは記憶に浮び出たようだ。私たちは彼の家に寄った。そしてケサナの父の末期の様子と、そのあとの財産の処分についての不愉快な取沙汰《とりざた》をきいた。今から、N浦の隣部落のOに行かなければならないのに、実のところ大手をふって行ける家はもうなくなっている。いくつかのこみいったいきさつがあって、今はむかし父の家で下働きをしていた男が、一切を管理して誰もよせつけないふうであった。
ケサナにとってこのO部落入りは、ずい分具合の悪い状態になっていることを理解しないわけには行かない。そしてそれらのことがケサナの神経の負荷に余って、発作《ほつさ》を誘発しはしないか。私はこの旅行がかなり軽はずみであったことをくやんだ。目の前がくらくなるようであった。
ケサナは部落長の妻と、ケサナが島を出てからの色々なうつり変りについて、島の言葉で話し合った。それはどうしてもウィンジュとウィンマが生きていたらという方向に話は向いたようだ。ウィンマはケサナの母の呼び名だ。私は二人の女が涙をあふれさせ、嗚咽《おえつ》しながら、それでもしゃべりやめずに語り合うのを頭の片隅《かたすみ》にとらえ、部落長と無意味な話をした。彼の妻の方には私は見覚えがあった。豚の飼料を受取りに来ていた部落の主婦たちの中に見ていた顔だ。
「シナノさんも亡《な》くなったそうですね」
やがて彼はそう言った。とうとう口を切ったなと私はぎくっとした。でもとっさには気がつかないそぶりをつい装おった。
「シナノさんのこどもがもう大きくなっていますよ」
と続けられて、はじめて分ったように、
「ああ、信濃兵曹《しなのへいそう》のことですか。あの谷あいの奥の方に疎開小屋を建てていた人の娘さんとのことでしょう」
「信濃さんも内地で死んだとか言いますがね。あの娘はそのままずっとひとりで信濃さんのこどもを育てています」
「その娘さんのおやじさんはどうしました」
私は話をはずそうとして、そんなことを言ってしまう。
「ずっと前に死にました。ちょっと悪い病気を持っていましてね」
私はN浦の部落で信濃兵曹のことを言われはしないかとおそれていた。しかしそれはやはり待ちかまえていたように切り出された。おそらく私の顔はみにくいかげりを持ったにちがいない。そのことはそのとき部隊に起った小さな事件として葬むられた。しかし今それを小さな事件だと片付けてしまうことはできない。信濃という掌機雷の一等兵曹が、度々《たびたび》部隊を脱柵《だつさく》した末に部落の娘と結婚の約束をしたことが発覚した事件があった。その娘の父親は癩病《らいびよう》をやみ、人眼をさけて部落の外れにとじこもって居り、そして又信濃兵曹の方は悪疾のジフィリスで治療を受けていた。それは言いようのない暗い事件のようにも思われた。信濃は先任将校に本部下の広場で動けなくなるまで打ち据えられた。私は見ぬふりをした。
私はさりげなく話題を変えた。もしその話をおしすすめて行けば、部落長が何を言い出すか分らない不安があった。それは自分のからだの腫瘍《しゆよう》にさわられでもしたような不快を伴なった。
入江のほとりに落日の気配がせまったと思うと、急にしぐれてきて、うす日のさす中でその水面は雨足にたたかれた。
戦争のときの部落長は山に出かけていて、家には居なかった。
私たちが部隊跡を通ってOに行くために歩き出すと、ケサナの教え子だという顔の丸い太った娘が追いかけてきて、なつかしさをむきだしに挨拶《あいさつ》した。Oには学校や役場があり、ケサナは学校につとめていたからだ。N浦の部落の子どもらもOの学校に通った。あちらこちらに同じ年頃の娘や青年が家の中から出てきて立ちどまり、ケサナと私を見て動かない。
道は入江に沿いぐるぐるうねり曲った。
干潮のときは干潟を一直線につき切って近道をすることができても、潮が満ちると、高潮線のみぎわを眼まぐるしく迂回《うかい》して、つい手のとどく向う岸にも、すぐにはなかなか取りつけない。しかも入江奥の部分は桑の葉のふちのように海岸線が入り組んでいた。岸の岩を利用した発動船の船着場から見ていると、岸辺《きしべ》の道を歩いて行く人のかげが、その姿を何辺もかくしたり現わしたりしながら、入江の中ほどのあたりまで行き、そこからもとの部隊あとになるのだが、そこでやっと谷あいに切れこんで見えなくなる。
岸につながれた発動船のデッキにケサナの教え子の娘たちが二、三人乗って、こちらにさよならの合図をしていたが、しばらく歩いてふり向く度に、娘たちはいっそう強く手を振った。
又しばらくは足もとの岩をとび石伝いにひろい歩き、二人申し合わせたように振り返ると、手前の岩鼻のところをこちらに向って追いかけてくる人影を認めた。
それが昔の部落長のヤストミであることは私にすぐ分った。彼は私が気がついたことを知ると、つとのび上るような姿勢をした。そして左手に持っていた帽子のようなものを、なぜか岩の上にたたきつけて、私の方に駈《か》け出した。大声で私を呼び戻そうとはしないで、無言のまま追っかけてくるしぐさが、如何《い か》にも気弱な彼の性格を彷彿《ほうふつ》とさせた。それは何かひとなつかしい気持のたかぶりであった。効果的な黙劇を眺める気持で私も思わずあとがえりして彼の方に近づいた。
はなれて見た黙劇者は軽快な身ごなしとその小柄な背丈《せたけ》で少年のような若さが感じられたのに、近よってきた元部落長の頭髪や無精髭《ぶしようひげ》にはすでに白髪がまざり、私は眼の前のほんの一瞬に十年の歳月が一足とびに歩み去って行った思いに打たれた。
しかし彼のはにかみの身ごなしと微笑は昔と少しも変っていない。右手に小さな手斧《ちような》を持ったままであった。私たちはしばらく向き合って、お互いに呼吸をととのえるのに、ひまどった。
私とケサナが、奥に切れこんだみぎわを廻って鼻の方に出てくる度に、発動船の上の娘たちは二人に合図を送ってよこし、いっこうにその船から立ち去ろうとしない。
次第に距離が設けられると、娘たちの姿は目の中でかすんでしまい、N浦の部落のたたずまいは昔と少しも変りのない人なつこい顔付で追いすがってくるのに、かえって寂しい思いだけがただよいはじめる。それは私にもケサナにも作用して、二人の頭の中には昔のことが湧くように思い起されては通りすぎた。
畠《はたけ》のある谷あいで、ケサナはそこにずっと以前一軒の人家のあったことを思い出して、
「ここにヤマトッチュといっしょになった島の女が住んでいたのによ」
と言った。
みぎわにはユナが密生し、その中にそんなに大きくないガジマルの木が一本あった。
「そのアッチュバッケはこのガジマルの木にくびれて死んでいたのよ」
私は黙っていた。
「癩病《ム レ》になって、ここにかくれて住んでいたのに、突然《アタダン》、子供を紐《ひも》でしめ殺したのよ」
ユナの根元の土に、蟹《かに》が穴の巣をいくつもあけていて、人の足音が近づくと、かさかさとかわいた音をたててその穴の中に逃げこんだ。と、畠の中に、蘇鉄《そてつ》の実をかきあつめむしろ一枚かぶせてあるのが眼についた。蘇鉄の実は雨水をたっぷり吸って、少しどぎつくなった朱色をむしろからはみ出させ、何か見てはいけないものがそこに置かれているように見えた。
N浦の入江沿いの道をぐるぐる歩いていると、いつのまにかこの入江の持つ気分に引きいれられてしまう。
それは一日に二度の交替のある潮の満ち干がその基調になっているのだ。干潮には入江の浦底があらわにされ、茶褐色《ちやかつしよく》の泥板岩の砕片でしきつめられた新領土が浦のまわりにでき上る。入江奥の彎曲《わんきよく》して凹《へこ》んだ部分などは、ほとんどまるまる干潟となってとりのこされ、浦の交通は極端に短縮された。
入江の海は半分ほどにも縮まってしまい、対岸にもひとまたぎで行けるような気軽な気分に支配される。海水の覆《おお》いを失ったイボやグドマやクルビやタチョがつぶやき出す。
しかし最高潮の時刻が過ぎると、海水は再びN浦を蚕食《さんしよく》しはじめ、波打ちぎわにたえまのない静かな打ち返しをつづけながら、海は刻々と容赦なくふくれ上ってくる。
日没前のあわただしい薄明が、ふくれあがる満潮に重なって私とケサナを包みこもうとしはじめる頃に、本部のあった台地に立つことができた。
十二の洞窟《どうくつ》艇庫の入口はそのほとんどが形をはっきり残して、入江に向って跪坐《きざ》していた。雑草や土砂《どしや》の崩壊で、埋もれかくれているのもあった。
しかし各所に分散して置かれた兵舎のあたりは、それと知る者の外はおそらくそこに兵舎のあったことに気づく者は居まい。子供を殺して自らもくびれて死んだアッチュバッケが住んでいた場所とて同じことだ。この本部の高台の位置で、このN浦の入江を自分の領分のように眺めおろしていたなどのことも、あとかたのないこととなった。
でもあたりを見廻すうちに、やがて私の部屋の横にあった枇杷《びわ》の木をみとめ、又分隊士がなぐさみにつくったひょうたん池のコンクリートが崩《くず》されて積まれてあるのを見つけると、まだ完全に腐敗し分解されきらぬ過去が、かまくびを持ちあげてきて、やりきれない気分になった。
満潮の気配は入江全体を圧迫してくるので、そこに立つ人間もたかぶった気持につきあげられる。
ひたひたと胸の中でふくれあがる潮の高鳴りは、この場所での一箇年の生活が、全く自然のふところの中でそのさまざまの変化とひたと呼吸を合わせた生活であったことが、想起された。
月や星が数少ない伴侶《はんりよ》と思えた日々が、ここで展開されていた。
おかしなことに、敗戦直後には思ってもみたくなかった、部隊の人間関係の臭気が、横すべりして逃げて行こうとしていた。
ケサナはOには岬《みさき》をまわって行きたいと言った。まっくらになってからでなければ、Oの部落にははいりたくないようだ。
しかし満ち潮のときに岬をまわることは大へん困難だ。紋平《もんぺい》すがたでツハ崎の鼻を着物の襟《えり》を合わせて胸元まで海水につかりながら、真夜中に部隊に近い入江口の浜辺《はまべ》にあいに来た娘は今私に伴なわれて居るのだけれど、その岬廻りをくりかえすことは、はたとためらわれた。
私には一刻も取払うことができない、ケサナの発作の誘因へのおびえがあった。ケサナの願望にはさからえないが、たかぶりをとどめ得なくなる限度を越えることがおそろしい。
私はケサナと一緒に考えることに馴《な》れ、彼女の精神を形づくることに影響したと思える環境を、飢え渇《かわ》いた者のように追体験しようとする。彼女の幼い姿を写した島山や入江や浜辺を自分の中にとりこんでしまおうとする。かつてはそこで普通ではない集団生活が営まれ、しかし今はその生活の臭気をすっかり追い出してしまったそのあとに、ただ無機物のコンクリートの形骸《けいがい》だけが、無言で風雨にさらされているN浦の状況は、ケサナの、従って私と二人の、傷《いた》められた神経を治癒《ちゆ》するための遊歩には最適の場所だ。
私はケサナと一緒にいつまでも浜辺に立っていたい。やがて浦一ぱいに海水はたたえられるであろう。
そう思いながらなぎさに目をおとしていると、洞窟艇庫の前の部分が、いくらか不自然なふくらみで巨大な水鳥のくちばしのように長く入江なかにつき出ていることに気がついた。それはこの洞窟を掘るときに出た堆土《たいど》が、海の方につき出されてそうなった。
部隊がはじめてN浦にやってきたときは、ここはちょうど今のこの様子のようにひっそり静まっていた。
十年の歳月のあとで、N浦はもとの静寂をとりもどしたが、十二の洞窟艇庫の入口の、ぽっかり空いた目玉と、その前方につき出された嘴《くちばし》のような堆土が、もとの様子に立ちもどれずにとり残された。赤土のその堆土の上に五瓲《トン》の艇をのせたリヤカーのタイヤがめりこまないためにたたきこんだ花崗岩《かこうがん》が、すっかりは洗い流されずに、うっすらと二筋のあとを残しているのを見て、私は言いようのない寂寥《せきりよう》にのみこまれた。
もはや薄明は夜の闇《やみ》と交替しようとしていた。私たちはあともどりして、峠道を通ってOの部落に出ることに心をきめた。私とケサナはOに着いても、暗闇のために部落の人の目にかからずに墓場に行けることをのぞんだ。
(昭和三十四年十月)
帰魂譚《きこんたん》
ふと考えがとぎれたとき、リマーカブルという単語が頭をかすめた。リマーカブル、とはどういうことだろう、と思ったが、その意味はよくわからない。
私は珍らしくポレミクになっていて、じぶんの声が黄色く血色を失いながら、その男の方に首がのびて行くのがわかった。なぜ、こうかぜをひきそうなのか。かぜが皮膚にしみこんでくるのを、りきんで防ぐことはできないのか。もう沈黙して、もとの位置に引きかえした方がいいのではないか。
「そういうことをあなたはおっしゃるが、それはあなたが考えすぎているからじゃないのですか。あたしはそのようには考えられないし、失礼な言い方になったら、ごかんべんください、あたしたちのまわりでは、そんなことを言っていたら生活ができなくなりますよ」
と彼は言った。彼はしきりにプラクネチックと向陽性ということを口にしたあとでそう言った。
で私はみすみす不利だと思いつつ、対手《あいて》のおしゃべりにくっついた。頭のどこかで、例のリマーカブル、リマーカブルときしるもの音がきこえる。
「もちろん、おっしゃる通りです。私はいつもそんなことを気にしてくらしているわけじゃありませんよ、極端に言えばですよ、私たちの生活の中に、そのようなことは、全く見受けられないのじゃないですか。ごらんなさい、この小さな鉄筋コンクリートの建築物にしても、それを私はいつも気にしているわけではありません。でもこんなふうにですね、だれかからもしおまえの意見はと尋ねられたときにですね、黙って居るのならそれでいいかとも思いますがね。仮に口をひらいて、ことばにして何かを言わなければならないのなら、ここにこうして建てられていることに、恐怖を感じますと言います。あの中で勤務している人は、本当にどんな気持でいるのだろうかと不思議に思います。本当は一刻もじっとしていられないと思うのです。だれがどこでうかがっているか、わからないじゃありませんか。どんなひとことでも、ひとを傷つけないですむことばなどというものがありますか? あると言いきる自信が、私にはありません。よくあんなにどこからでもねらわれるような場所に居て、それはまた何かをいつもしゃべっていることと同じですからね、それでいてよく、おそろしくないものだ」
黙ったまま笑っているなと私は対手のことを思った。で、こわばった首筋をぎこちなくまわして、彼の方に顔を向けた。めがねのガラス面が光っただけだ。おとがいのあたりのよく発達した左右に張った意志的なかたちが、私の目をたのしませた。このあごの線と背中の様子はなかなかいい。彼にくっついてどこまでも行きたい、とふと思った。しかし肩とおとがいの線が誘っているようには彼の目に誘いはなく、むしろめがねと共に拒絶的だ。
広い舗装道路が、三方の坂下の方からカーブしながら盛上ってきて、その頂点のところにコンクリートの小さな建造物が置かれていた。ちょうどそれはゆがんだ丁の字の三叉路《さんさろ》の支点にあたり、建造物の方からいえば、道は三つともゆるやかな勾配《こうばい》ながら坂になって高台を遠去かり、その坂下の先は目のとどかない場所に曲りこんでいた。丁字のつきあたりの部分には広大なグラウンドが横たわっていて、それを縁どるように町なかの電車の軌道がしかれていた。そしてその電車道から垂直のかたちに分れた道の坂下の方には、ゆるやかな弧状を画いて布置された陸橋の向うに、新開のさかり場のこみいった高層建築が、積乱雲のように殷賑《いんしん》と繁栄でわきたって見える。でもこのあたりの昔のすがたは、小さな丘陵と谷あいが、でたらめに交錯したような原野であったにちがいない。今では首都のまんなかへんになってしまったが、でもどうかすると、舗装されたコンクリートははがされ、建てられた近代建築物が霧のように散って、人間の居ない昔ながらの土くさいすがたを幻想しがちなのはどうしてだろう。気もちの弱まりにつけこんで、今の繁栄した装いが、たやすく崩《くず》れ去ろうとし、無理に力を張っていないと、自分までが地上から消されてしまいそうだ。
小さな鉄筋コンクリートの建物は、その長方形の箱のようなすがたを、そのあたりでは、一ばん高台の所の、三叉路の中心に位置を占めていたから、視野のとどく限りのところは、居ながらにしてのぞみ見ることができそうであった。
そのときも私は家に帰る道をさがしていて、早く帰路を見つけなければならないと、うつろな気持でいるところを、そっと背中をたたく者がいた。ふり向くと、眼鏡をかけた男が笑っていた。とっさにだれだか思い出せなかった。過去に出会った似たようなタイプの二、三人の顔がしばらく重なったあとで、ようやく陽《ヤマナミ》という変った姓をもった男の記憶が濃くなってきたときに、その男が口をひらいた。
「どうしました、私を忘れましたか」
生徒に教えこむようなその口調で、いっそういつかつきあったことのある輪郭をあざやかにしたが、名前の方はぼやけたままだ。八分通り陽にちがいないと思うが自信がなかった。でも一応の私の了解の表情を見てとった彼は、つけ加えて言った。
「どちらへ」
それを言う必要はない、と思いながら、でも私は答えた。
「家へ帰ろうとしているんです」
彼はまた声を出さずに笑った。そして私と肩をならべた。
中にはそのときは誰もいなかったけれど、その長方形の建築物の方が気になって仕方がなかった。自分以外の者といっしょに居るところをそこから見られていると意識することは、快くはない。気持の底の方には軽い不安もある。外に出たときの私は、いつでもたった一人で居たいと思う。だれかといっしょになるのは、自分の意志をいくらかは曲げることを意味した。それをあとでもとにもどすことは容易ではない。それで彼に背中をたたかれたときも、私はしまった、と思った。彼に出会わなければ適切な時刻に家に帰りつくことができるのに。彼と会ってしまい、さりげなく別れられずに、つい時を過ごし、あとで途方にくれるようなことにならないか。とにかくあの建物に人が帰ってこないうちに、通りすぎようと思いつつ、私は彼のプラクネチックと向陽性についての意見をきかされることになった。そのとき頭蓋《ずがい》の表皮にはねかえって、いっこう脳の中にはいってこなかったのは、その意見とひとつになれる用意が、こちらになかっただけでなく、私の視野に、あの長方形の建物と電車の軌道をはさんだ反対側のところに、グラウンドを背負いこむように、でもひどく孤独なすがたで立っている公衆電話のボックスの恰好《かつこう》が焼付いていたからだ。あんなものをだれが利用するのだろう。そこでどんなにつつましいことをしゃべっても、すっかり盗みぎきされてしまい、動きのとれない証拠をのこしてしまうのではないか。そう思うと、そのボックスが、たくらみの多い危険な存在となってふくれあがってくる。太陽が空にかかっているあいだは、グラウンドの広さや、周囲の樹木が青春を連想させるさわやかな明るさを、あたりにふりまいてくれても、太陽を失い、闇《やみ》につつまれたときの底の見えぬくらさは、真昼の安堵《あんど》で包むことはできないだろう。グラウンドを縁どる街燈も、間隔を置いて車内のあたたかさを見せびらかせて通り過ぎる電車の燈火も、いっそう闇をきわだたせるだけにちがいない。そのきわだった暗やみの中で、公衆電話のボックスとあの長方形の建物だけが、壁を透き通すほどの明るさに満ちていることを考えると、へんな気持になってくる。しかも電話ボックスの中は、たいていがらんどうだ。そして夜の明けきるまで、高燭光《こうしよつこう》の電燈はともされたままだ。
さかり場の方にではなく、私は彼について坂下の方におりて行ったが、グラウンドの気配は既になくなり道路には商いの店がふえてきた。
どこからはいりこんだかわからぬのがへんだが、いつのまにか表通りの坂下の裏がわのあたりを歩いていた。ほかのことを考えうつろになっている瞬間をつかまえて、彼は私を、その裏通りに誘いこんだようだ。自分ひとりでもう一度表通りからはいりこもうとすれば成功しないだろうという気持がした。でも了解があれば、ぼやけたピントが合ってくるように、間口の狭い様々の商店のあいだに、はっきりしたすきまが見えてくるのかもしれない。それははいってくるときの状態だが、もどるときは、そのつもりで今来た方向に歩いて行けば、気のついたときには表通りを歩いている自分を発見することになるにちがいない。
それは裏通りのはずなのに、見受けたところは表通りの装いをまとっている。ただ通り全体に親密な気配が満ちていた。精神の武装をといて歩けるかも知れないと、とっさに思う。その気配はどこから出てくるのだろう。でも私はとどのつまりはここでは審《さば》かれそうだと思っている。多分そうなりそうだ。だから今ここで親密な通りの気配に了解の顔付を装うことはなにとなく、気がとがめる。いくらかは、前に歩いて行く、陽だと思える男のななめうしろのところで、彼の肩を楯《たて》にするかたちで、私を包みこもうとする親密な気配を防ぐ恰好になった。彼にはそのへんのことはわかっているはずだと思い、様子をうかがってみるが、彼が何を考えているのか、見当はつかない。もしかしたら彼は何かはたらきかけようとしているのか。たぶん私のにがさも知っていてそんなことには気付かぬもののように振舞っているのだろうかとも思ってみた。なぜこう疑い深くなるのかわれながら解《げ》せないが、私の方で彼をはっきりその人と認めることができないでいるのに、彼は私を少しも警戒するふうでないことが、どことなくあやしい。彼のことばにうっすら東北なまりのあることで、私もそこの出身であるせいか、つい気をゆるしてしまいそうになるが、郷里が同じだから危険がないという保証はどこにもない。
私はなぜ彼の行く方向にくっついて行ったのか。いつでもことわりを言って別れることができたはずだ。
「私の家に御案内しましょう。家内や娘を一度あなたに見ていただきたいと思っていました」
と、アパートか病院のように見える大きな建物の入口に立ちどまって、彼がかえりみたときに、私は深入りしたことを察した。
建物の中の廊下は、ゆるい勾配を帯びていて、外の道路の延長のぐあいに公的な開放性をもち、人々が通行人のように行き交《か》い、小さな爆発の連続したにぎやかさがあった。道路上にただよっていた親密な気配はいっそう度を増して、一度ここに足をふみ入れた者が、もしそのあとで背中を向けたときは、たぶんそのことが裏切りになっていそうだ。入口のあたりに売店があったが通りがかりの視線でとらえた売子の少女を、どこかで見たと思った。少女は私がそこにはいってくるのをずっと見ていたのだと思う。でも私が彼女を認めた瞬間、彼女は自分の知っている人にいきなり出会ったときのおどろきを軽く表情に現わしてみせた。でも私は彼女を思い出せない。思い出せぬまま気持をうしろにのこしながら五、六歩あるくと、或る考えが頭をよぎったので私は言った。
「お嬢さんですか」
「そうです」
と彼が答えた。眼鏡のガラスが光った。彼の目がそれに消されるので、落着けぬ気持だ。
それぞれの部屋が廊下の両側に並び、学生の合宿のような気配がドアの外にまではみ出ていた。突然乱暴にドアがあき中からボールをかかえた青年が突きあたって来そうなおびえに、私の皮膚が襲われる。どことなくおしつけがましい学生たちの無遠慮な体臭がこもっている。でも実際にこの建物の住人は学生ばかりかどうか見当はつかない。
「高性能率的な建築方式をとって建てたからです」
と彼は、私をふり向いて言った。私は何もきいたわけではないのに。
まばゆいほど日の光があふれた明るい二部屋を開け放して使っている彼の住居に、やがて私は自分を見出《みいだ》した。所かまわず書物や謄写用具が積み重ねてあり、主人の仕事が家庭の中に居坐って妻もこどももそれを疑ってみることに気づかずに居る生活のかたちが、私の目の前に展《の》べひろげられていた。なりふりをかまわぬ彼の妻が、ふすまや障子をとりはずした部屋の中ではかくれることもならず、かえってはじめての私にかくしだてのない生活の切り口をわざと出して見せるふうに、台所での仕事の手を休めずにふり向いて笑顔を見せ、しかしからだ全体で夫の思惑を感得しようとする。
まだ一人歩きの出来ない赤子も居て、部屋の中をはいまわっていた。
気のおけないにんげんなんだと自分にも納得させるふうに、私は場所をえらばずにあぐらをかいて坐った。そして、
「すぐおいとましますから、おくさん、どうぞ、おかまいくださいませんよう」
とくったくない声音《こわね》をつくって台所の方に言った。それは彼の行為の機先を制する気持もいくらかあった。なんだか私の背中をたたいて話しかけたときの議論好きなかたさが消えて感じられた。私は彼が生つばをのみこむときの低い音を、はっきり耳にした。
「連中にも紹介しなくちゃならんのですがね。ええ、みんなはもうあなたのことはよく知っているんです。いいえ、わかっています。こう言っちゃなんですが、あなたが書いたものについてもすでに何回となく会合をもって充分検討してありますから……だいじょうぶですよ。実はですね……」
私はてのひらを押し出して彼のことばをさえぎった。
「ちょっと待ってください。あたしはきいておりませんでしたよ。その先はもうおっしゃらないでください。私はどんな約束もできません。もう帰らなくちゃならんのですから」
と言って腰をうかせた。
陽は(陽にちがいないと今は思うが)目を光らせ、もとの意志的な姿勢をとりもどした。光ったのは目ではなく、眼鏡だ。なぜか台所の彼の妻の方をちらとながし見て、きこえにくい早口で押しだすように、短いことばを言った。
私の耳はそれをきかない。立ち上って出口の方に歩いた。刺されるかもしれないと、私の背中の筋肉は緊張しはじめる。おかしなことに下肢《かし》の方には軽い酔いのようなよろこびがわいているのに、頭はのぼせと冷えが交流して瘡《かさ》を生ずる端緒の状態のようだ。
この部屋だけでなく、この建物の廊下とそしてこの町筋から脱け出て表通りに出てしまわない限りは危険だ。でも脱けでられるかどうかわからない、と思うと、彼の提供のことばを受けいれたあとの連帯的なたのしさのことが頭をよぎった。たぶん、そうだろう、と考えられる。でも私は帰らなければならぬ。帰る姿勢で襲われても仕方ないが、誘われて中途でよりみちしているすがたを私は認めるわけにはいかない。自分でこしらえたむごい空気をからだにまといつかせ、目をつぶる思いでドアのノッブに手をかけた。
陽が立ちあがった。でもすでに空気はゆるんでいた。
「迷うといけないからお送りしましょう」
と彼は言った。帰してくれる、と私は感じた。もうよりみちせずに、明るいうちに大急ぎで帰らなければならぬ。
廊下ですれちがった女子学生(にちがいない)の一人が、私を見て、
「あら」
と言い、つれの仲間に何か耳うちするふうだ。
来たときには気づかなかったが、曲りかどの部屋のガラス戸が廊下に不自然な三角形に張り出されていて、うっかりすると、通りすがりにぶつかりそうだ。
「注意してください。それを割るとたいへんですよ」
と陽が私に言った。まだこれから先いくつもへんなことが起りそうな口ぶりにきこえた。
「学生さんが借りているんですがね。ガラスは安いんだが、泊りがけで職人をつれてくると、莫大《ばくだい》な費用になるのです。その学生は、ガラス屋ならどのガラス屋でもいいというわけにはいかないと頑張《がんば》るものですからね」
売店に陽の娘のすがたは見えなかった。
「もうけっこうですから。ひとりで帰れますから」
と私は見送りを辞退するが、彼は建物を出てもなおくっついてくる。彼だけではない様子だ。私は足を早めて道をいそいだ。やはりそうだったのだという行きづまりの考えの調子におおわれてしまった。
つと、あの高台の三叉路に出たが、来たときの半分道も歩いていないので、げせない気持だが、今はそれを詮索《せんさく》しているひまはない。例の長方形の小さな建築物が見え、勤務の人が一人つめているようなので、思わずかけよりそうになったが思いとどまった。公衆電話のボックスが、そのときもからのままになっているのが見える。私は、さかり場の方に行く広いアスファルトの坂道をえらんで、かけ出した。陽たちははっきり追跡の姿勢をとった。走りながら私はなぜ逃げるのか自分ながらわからない。でも恐怖が汗のようにふき出してきて、止めることができぬ。陸橋の手前のたもとの脇《わき》石段が目につくと、ついそっちに足が向いた。その下の方に究竟《くつきよう》なかくれ場所がありそうに思えたのだが、四、五段とびおりて行手を確認したとき、思わずまぶたに黒い幕でふたをされたようなショックを受けた。そこはなぜだか袋小路《ふくろこうじ》になっている! しかし追跡者はすぐうしろに迫っていた。そこが袋小路だと知っているのか、ふだんの歩みになって、投げかけた網をたぐりよせるふうにお互いの間隔をつめてくるのが見えた。もう引返して血路を見つけることはできない。といって、前方は死端だ。ちょうど石段の下の、上り口のところに買物籠《かいものかご》を手にした下駄ばきの主婦が二人、立ちすくんでいるのを認めた。彼女たちがちょうど石段を上ろうとしたところに、上から取乱した風体《ふうてい》の私が立ちはだかったかたちになった。
「助けてください。今追われているのです。ごめいわくはかけません。ちょっとのあいだお宅にかくれさせてください。おねがいします。助けてください」
私は声をおしころして、ききとどけられることは先《ま》ずあるまいと絶望の目つきをかくさずに、その二人にたのんだ。二人はあきらかにおびえ、お互いを意味なく見合い、黙ったまま、できるだけ遠くに離れようと後ずさりをした。
もし立場が逆になれば、自分でもこのようなたのみをそのままきくわけにはいかないだろうと思うと、私は石段をおりることをやめ下り口を囲うように遠巻きにしている彼らの方にゆっくり歩いて行った。陽の眼鏡が光ったが、彼は何を考えているのだろう。いくらか、ばつの悪そうな恰好《かつこう》に見えたのは、私の思い過ごしかもしれない。
と、速力をすっかりおとした一台の乗用自動車が、陸橋の向う側(そこが殷賑《いんしん》なさかり場の区域だが)からこっちにやってくるのが見えた。
私は、追跡者たちにつかまるために近づく風を装いながら、いきなり走り出し、当面の一人をつき倒してその自動車の向うの側のドアに廻り、す早く助手台にのりこむと、
「早く、早く。動かして」
とせきたてた。
運転手は返事をせず、でも制動をはずしたのか、自動車は動き出したが、人の歩みほどの速力を変えようとしない。
すぐ陽たちが近寄ってきて、取巻かれた。陽は笑っていた。鼻の横に深いしわができて、すごみが加わって見えた。ゆっくりドアをあけ、私をうしろの座席に移すと、肉の壁をたてまわすぐあいに、追跡者たちがひしと乗りこんできた。
自動車は急にスピードをあげて走りだした。
偶然であったのだろうが、これらのことが行われるあいだ、陸橋のたもとのあたり一帯に、誰も人影の現われなかったのが、どういうわけか理解ができない。
すぐあの長方形の鉄筋コンクリートの建築物と公衆電話のボックスのある広い三叉路に出てきた。
私は恥も忘れて、「助けてくれえ!」と大声でその建築物の方に向って叫んだ。
建物から当直勤務者が腰に右手をあげながら外にとび出してくるのが見えた。そして目の前をすごいスピードで曲って行くあやしげな自動車を認め、左ひざでひざまずき右ひざを立てた恰好で拳銃《けんじゆう》を私たちの自動車のタイヤに照準するのが見えた。
でもぐんぐん引きはなされた距離が横たわり、とても命中は覚束《おぼつか》ないと考えるひまもない咄嗟《とつさ》のあいだに、自動車の中から投げ出された栓をぬいた罐詰《かんづめ》のようなものから、濃密な白煙があたり一面に拡がり出て、勤務者のすがたも建物も、たちまちのうちに見えなくなった。
私はふたたび、陽の部屋にもどった。でもはじめて来たときの日常性は凍りついていた。日が傾いたせいか、部屋いっぱいあふれていた光線もかげをひそめ、彼の妻は赤子を背中にくくりつけ、部屋のすみの机に向って何か書きものをしていた。売店につとめている娘は帰宅していて台所にいたが、背中を見せたまま右に行き左に移りするだけで、私の方を振り向こうとはしない。陽以外の追跡者は、部屋の中までははいってこなかった。
「で、さっきの、あのはなしですがね……」
と、はじめのころのおだやかなポレミクの態度をとりもどした彼が主題を貫こうとするので、もしかすると妻のところに帰れないかもしれぬと思いはじめ、私も気負いたってきて、
「私はそのことをきくわけにはいきませんから、あなたもおっしゃらない方がいいと思いますよ。私はききませんよ。なぜそんなに無駄なエネルギーを使おうとなさるんです」
と言った。もし拷問《ごうもん》などされたら、みにくいざまになることはわかっているから、今こんなことばを使えることが面映《おもは》ゆい。
しかし彼はなお私にきかせるためのことばを言い通す気構えを見せたので、私はまた立ち上ってドアに近よった。彼は今度はすぐ追いすがり、ひきとめにかかった。彼の妻と娘も、待ちかまえていたようにかけよってきて、彼に手伝った。彼は私に足ばらいをかけ、胴のところをだきかかえておさえつけようとするが、女たちはその手の指に私の髪の毛をまきつけて、引きすえようとする。そのいきづかいと甘い体臭が、いつか私が妻ともみ合ったときの記憶につながり、思わず力が抜けてしまう。それで、いったん組みしかれてしまったが、三人の力が統一できず、ふとゆるんだすきに、いきなり立ち上って、ドアに体当りした。ひきあけるひまに三人は私に殺到したが、なぜか力がぬけていて、私はそれほど力を出さずとも造作なく、ドアをあけて廊下に出られた。あとは無我夢中に走ったが、誰も追いかけてくるふうではない。どこかおかしいと思ったが、脱出できたことに間違いはないから、しゃにむに、あとも見ずに逃げてくると、最初この町筋にやってきたときにはいりこんだあたりの表の電車通りに出た。
と、ちょうど目のまえにとまっていた電車が動き出すのにぶつかった。私は祈りたい気持で、うしろの乗車口にとびのった。車掌に仏頂面《ぶつちようづら》を向けられたが、電車は加速度を出しみるみる、その地点を遠去かった。それはからだにも心にもこころよい振動を伝え、私は大声をあげて笑いだしたくなったほどだ。
道の両側の家並が引きもどされるように後方に残され、電車はすべての風景を捨てて先の方に進んだ。またたくまに車外の景色が変った。今日のそれまでの自分がひどくつまらなく思えた。でももう今は家に帰る自由をとりもどせて、それを妨げる者は居ない。運河を越えるために、軌道は勾配《こうばい》をのぼり、頂点のところで夕陽《ゆうひ》ににぶく光る水の淀《よど》んだ人工河川を下にながめながら宙に浮いた車輛《しやりよう》の音を反響させたあと、またふたたびかたい大地をとりもどしてしめった音響にかえり、反対側の傾斜をすべるようにおりた。空転しているのではないかと思えるほど、抵抗の軽い車の回転音をきいていると、ふとこのまま止まらないのではないかと不安になった。いや、それだけではない。電車の軌道は、ひとまわりして、やがてあの鉄筋コンクリートの建築物と公衆電話のボックスのある高台の三叉路のところにもどるのではないか。それよりも、私は家に帰るために、いったいどこで下車したらいいのだろう。陽に背中をたたかれるまでは、帰路の道筋を歩いていたはずだ。それがどのへんからか、わからなくなってしまった。のどのあたりまで出てきた夢の舌が、つと引っこんで、どうしても思い出せないように、私は帰って行く道を取りおとした。ただ、もしかしたら記憶を回収する手がかりになるかもしれない匂《にお》いに似たへんなものが、みけんのあたりに残っていて、あやしげなエネルギーがかたまってくる。車輛の音響のため考えが散り、いっこう思いを集中させることができず、これではいけない、だめだだめだという自省が重なると、急カーブのときにブレーキがきかなくなって車体は軌道からとび出し、猛烈に何かの物体に突っこみ、すごい衝撃を受け、そのあやしげなエネルギーを破裂させてしまわないことには、どうしても正確な考えが出てこないほど悲惨なことばかりが想像された。
(昭和三十六年七月)
マヤと一緒に
廊下のすみや長椅子の上で医師の出勤をまつ受診者たちは、深海の魚とかわらない。太陽の光線のとどく明るい海面に近づけばからだがくずれ、浅い海のほかの魚との顔付のちがいのひどいことになやまなければならぬことがわかっている表情だ。私はその表情になじみ、そこでは自分をそのままにあらわして居ることができると気づく。
足もとからからだ中にはいあがってくる冷気をさけるために、私は椅子の上に坐って雨衣《あまぎ》で足を包んだ。
白いうわっぱりをつけた医師や看護婦が、廊下を通りすぎ部屋を出入りしても、自分たちの診察とどんな関係に立つひとなのかはわからない。
手ざわりの重いひまを、すっかり自分のものにするために、私はポケットに入れてきた書物をとり出してよむ。かつて生存した一人の小説家の切取ったふしぎな人生の断面を、もう一度頭脳の中を通過させ、そしてこだわりを残さないように忘れ捨てる。
マヤは長い廊下を野原の中で風にゆられるように歩いていた。K市に来てから買ったスラックスをはき、その上に、旅に出るため急ごしらえの妻の古いコートを仕立直した外套《がいとう》を、大きすぎた上衣《うわぎ》のように着て、力のぬけた投げやりな足どりで、片方のはしから反対側の方に、あてもなく歩いて行き、そして引返しながら、同じ場所にとどまっている人や行きちがう人の顔を、あごを少しつき出し口があいたままのぞきこむように見つめた。そばにくると私は彼女の髪の毛をなで、座席をつめてすわらせるが、すぐ立って行って廊下の散歩をつづけ、飽くようではない。小さな色ガラスの玉をたくさんかざりにつけた手さげ袋のひもを長くして、ふりまわすように持ちながら。全体に長身のからだつきだが肉づきがうすくひよわな印象が、古ぼけたコートのため、いっそう強調されて見える。廊下の手近なところのつきあたりはガラス戸だけで仕切られていたが、そこから、道をへだてて向い合った白いビルディングの四角く区切られた窓の並びが、外の雨を通してゆがんで見えた。向うの建物全体はこちらの大きなガラス窓でもとらえることができず、ただごくわずかの部分と向い合っているに過ぎない。マヤがその大きなガラス戸の片すみに鼻や頬《ほお》をおしつぶすようにくっつけていつまでも動かないので、私は長椅子から離れてそのそばに行った。
「何が見える?」
肩に手をかけてのぞきこむと、だまって見返すが、瞳《ひとみ》を固定させ表情を示そうとはしない。でもそれは信頼の表情であることが、私には理解できる。
ずっと下方の雨にぬれたアスファルトの広い舗道の上を、ひらたくひしゃげた自動車や人間が模様のように移動しているのが見えた。
「おもしろい?」
気持にはずみをつけてやるつもりで、にぎやかな調子を装って言っても、「イヤ」と言うだけだ。それは島の町のこどもたちのあいだだけで使う否定の意味をあらわす特別のことばだ。
「寒いか」
「イヤ」
「どこか痛い?」
「イヤ」
それで少し方法をかえ、下腹のあたりをさわりながら、
「おなかはだいじょうぶ?」
ときくと、やっとくすぐったそうに笑った。
「なあんだ。びっくりしたよ、おとうさんは。マヤがあおーい顔をしてふらふら歩いていたかと思うと、こんなところでいつまでも外をながめているんだもの。どこか痛くなったら、すぐそう言いなさいね。がまんしていてはだめだよ」
こどもがそのことを了解したかどうか、私に確かな手応《てごた》えはない。いつかは空腹を訴えるときに、おなかが痛いと言った。
私の診察はかんたんにすみ、胃液をとるために別の部屋に行くように言われた。
マヤの肩をひきよせ抱くようにし、調子をつけて廊下を歩くと気持が軽くなり、口笛でも吹きたくなった。
「おとうさんの胃液をとってもらってから、それからこんどはマヤの番だ。いそがしい、いそがしい。おかあさんとおにいさんは今ごろどうしているかな。きっとマヤのことを心配しているだろう。マヤはおかあさんのことが心配か。心配じゃないね。こうしておとうさんといっしょに居るんだから。もう島に帰りたい? 帰りたくない?」
「イヤ」とマヤはあいかわらず同じ返事をするが、でも少し考えてから「チョットダケ」と言いなおした。
「ちょっとだけ帰りたいか。そうだな、おとうさんも帰りたいな。おとうさんはやっぱりおかあさんやおにいさんといっしょに居るのが一番いいようだな」
「マヤも?」とマヤはきく。
「もちろんマヤも。おかあさんもおにいさんもそしてマヤもそしておとうさんもみーんないっしょ。……マヤはこのKの町は好きか?」
「ウン」
「どうして」
「ナンデモイッパイアル」
マヤはおさえつけた低い声で言う。なれないと全部をはっきりとはききとれない。
指示された部屋は小さなところにベッドや机や医療器具がつめこまれ、何かわからぬ薬のにおいが、スチームであたためられた部屋の空気の中に感じられた。
入れちがいに、娘らしい若い女のひとにからだを支《ささ》えられた衰弱した老人が出て行き、その部屋の看護婦のことばに従って私はそのひとのぬくもりがまだ少し残っているようなベッドの上に横たわった。
ほかにもう一人白衣をつけた医師がいたので会釈《えしやく》をしたが、だまって物を見るときの目で私をながめただけで、表情も変えず、看護婦に、「……」と何か言ったが、私の頭の中では意味をなさない。
「……ど忘れなさったんでしょう、先生」
看護婦の返事のあとの方だけは、ことばの意味がわかったが、前の方はなれなれしい感じを受取っただけだ。そして意味のわかったことばといっしょに私のからだを通りすぎて行く。
医師はなお二言三言しゃべったあと部屋を出て行った。ここではただ胃液を採取されるだけだから、その医師とはたぶん関係がなくてすみそうだ。看護婦は白い帽子をはずしていた。自分のことしか考えなさそうな女子事務員のように見えた。胃液の聯想《れんそう》のせいか、その始末をこの若い女にしてもらわなければならぬことに、こだわりを覚えた。スチームの通った部屋の中のほてりと化粧のせいで彼女の肉付きのいい頬《ほお》は上気したように赤らみ、不自然に見えた。ベッドの私のそばに試験管を何本もならべた台とゴムくだを運んできたが、気のせいかこの仕事を好んでいそうではなく見える。
「こっちを向いてください」
と言って私の姿勢を、反対側に寝返らせてから、持ってきたゴムくだを示し、事務的な口調で言う。
「これをこの白い糸のしるしのところまでのんでください」
横たえていたからだを起してマヤの方を見ると、部屋のすみの丸椅子に腰かけ、手さげ袋の中に入れていた小さな人形をとり出し、投げ首のうつむいた姿勢で、着せかえの着物をつけたりぬがしたり、口をとがらせ、余念がない。
「そこでそうしているんだよ、マヤ。そのへんの機械にさわっちゃいけませんからね」
と声をかけたあと、私はゴムくだをのんだ。
ゴムのにおいは、地の底のあなぐらから吹き上ってくる内臓のにおいみたいだと思う。くだの先のつめたい金具がのどの壁にふれると、思わずはき気を催しこみあげてくる。
「はいらないのですか」
と看護婦が非難の口調で言う。
この看護婦は自分でこのゴムくだを飲みこんでみたことがないのだろうと思いながら、咀嚼《そしやく》するように口を動かすと、時々もどしそうになりながらもくだの先が胃の方におりた。でもそれは落着かぬ中途の心地だ。手術の最中にもし大地震が起ったら、と考えたときのようだ。涙があふれ目尻が濡《ぬ》れてくるのが気持を落着かせない。ポケットからハンカチを出してぬぐっていると、
「苦しいんですか」
と看護婦がまた言った。それへの返事のために何か一言言おうとするが、はきそうになるので黙った。何度もこのことには立合って知っていそうなものなのに。でも私への話しかけに返事がなくはぐらかされたとき彼女が少しひるんだような空気が伝わってきた。すると私の方にほんのわずかだがむごい気持が起り、他人に対してひとり立ちしたたしかめが心をよぎってすぎた。さっきの医師の無関心な顔付や看護婦の当初の事務的な応対のかたさを思いだし、すこし理解できる気がした。
胸のむかつきのおさまったところで、からだを横たえ、横むきのまま、動かずに居る。口から出ているゴムひもの先の部分ははさみがねでとめられ、枕もとにたらした。胃の中につっこまれている異物のつながりを、あきらかに目のまえに見ながら私はじっとしていた。
マヤは人形あそびにむちゅうなのか物音をさせない。着物の着せかえが終れば、髪の毛をとかし、結んではほどくことを繰り返すだろう。
また一人の医師がはいってきたが、先の医師とちがい、よく意味のききとれぬ方言を遠慮のない大きな声で言った。同僚の何かの祝賀会のことを問わず語りに看護婦にしゃべると、あわただしく部屋を出て行く。どちらの医師もマヤに注意を向けたふうでなかった。胃液をとられている父親のそばで人形いじりにむちゅうになっている女の子が目の中にはいらないわけはなさそうなのに。
次々に仕事があるらしく、看護婦はせまい部屋の中を動きまわりながら何かしている。そして同じほどの時間の間隔で、私の口から出ているゴムくだのはしのはさみがねをはずしてその先を試験管に導き、くだを通って出てくる胃液をじっと見ている。
粘着度の強い液体が、からだの奥の方から食道の壁に感触を与えつつ、そのなまあたたかい分量を外界に現わしてくると、自分のものなのに、きたないと思う。でも看護婦はそれをきたながらない。ゴムくだの取扱いのあいだで胃液がついても、彼女の指先に反応の起らないのがふしぎでたまらない。私なら自分のそれでも指先の筋肉は微妙に収縮する。しかし彼女の指先は平気で胃液につきあう。当初からの事務的な彼女の応対と指先のよりそいが私の頭の中ではうまく結びつかない。私は看護婦の顔は見ないで指先の動きだけを見る。すると彼女の操作にしたがって、なまぬるい胃の中の空気と冷たい外気が交替して胸もとのところを行き来することが繰り返された。
「たいくつでしたら御本を読んでいてください」
と看護婦が言ったとき、私は自分の耳をうたがった。言われたままに枕《まくら》の下に敷いていた書物を手にとってまえのつづきを読みはじめる。足もとから冷えこんできた廊下での読書とちがい、ベッドに横たわったままスチームの温気《うんき》でなごんだ部屋の中だと、読み急ぎの気持が起らず、行間で気ままな聯想を起しながら気持をゆるめて読むことができる。まえに一度読んだ短篇でも別な気持で読め、ところどころ覚えている箇所に行き会うと、行の間で自分の過去がたしかめられる思いがする。
マヤがしのぶようにベッドのすそを廻り、見えるところに来て、私のひじのところをひっぱり注意を自分の方に向けさせた。
目を書物からはなしてマヤを見ると、手のひらにキャンデーをにぎりしめて私に見せながら、
「モラッタ」
と言い、顔を看護婦の居る方に向けた。
自分たちの状況をその看護婦にみとめられ、私は満足した。発音がもつれ、ひとにはききとりにくいことばしか言えなくなってから、マヤの発言はひかえめになり、からだ全体で何かを伝えたがっている気配が濃くあらわれた。ただそばに寄るだけでそれは彼女が望んでいる何かの表現を意味した。でも相手に通じないと、黙ってそばをはなれてしまう。マヤが離れたあと、その不在の真空の場所で彼女の願望が消え去らずに立ちまようふうだ。すこしずつ私はそのことに気づかされ、心のかたい部分を、切り捨てて行く。しかしマヤはそれを主張して領域を広めるふうではない。
さまざまの濃淡の色あいの胃液を試験管に納めたあと、私とマヤはその部屋を出た。
時は容赦なく刻まれ、すでに正午に近づいていた。それだけ生存が削られたのに私は何か片付けものを処分した気持だ。さあ、これで午前はけりがついた、午後も手取早く処分しなくちゃ。
マヤのために神経科に行った。今までに何回もくりかえした、あとさきのいきさつをそこでまた私はかたくなって申し立てた。かんじんのことを言い落しそうなおそれと、同じことを反復する疲れがにじみ出てしまう。医師の応対や私のがわの状態で、すっかり言いつくせたときとそうでないときがあり、端初の出会いは一度きりと思いながら緊張のできないことがある。精神や肉体の機能はひとたび故障をおこしてしまえば、その部分のひずみはもとにもどらないのではないかという疑いがなくせない。幾人かの医師の診察によってマヤの言語障碍《しようがい》の原因がつかみ出せなかったことが、いっそうその疑いを黒くなぞってしまう。でも医師が、私の訴えをききとり、マヤの症状にかかずらって何かを試みようと努力する姿勢をとるのをみたときのなぐさめは大きい。マヤに一言二言をしゃべらせようとするが、マヤは応援を求めるふうに私の顔をななめに見上げるだけで、医師の要求に応じようとしない。それはいつものことで、どの医師も診察のときに声を出させることと舌を動かすことに成功したためしはない。ゴムのハンマーでひざをたたき、片足を立たせ、つき動かしてみたり、歩かせたりすると、マヤは口もとで甘えた恰好《かつこう》をこしらえ、手足をわざとぎこちなく動かす。医師のまえでしてみせなければならない擬態の動作をマヤの考えの中でこしらえあげているふうだ。
そのあと指示された通りに、ぬくもりを奪われた無人の部屋で待っていると、白い診察衣をつけた若い女子医局員がきた。
「おねえさんといっしょにおはなしをしましょうね」
と彼女はマヤに言い、部屋のすみに仕切られた机につれて行って腰をかけさせた。
「智能テストをなさったことがありますか」
と私の方にきく。
「たぶん学校でしてもらったでしょう、と思います。でも私はうっかりしていてはっきりしたことはわからないのです」
と私は返事をする。
「マヤちゃん? とおっしゃいましたね」
ともう一度きく。
「そうです。マヤです」
と私はこたえる。
「じゃ、マヤちゃん」とマヤの方を向き、「こわくないですよ。お注射も何もしませんよ。おねえさんとお勉強しましょうね。おねえさんのきくことにこたえてちょうだいね。わからないときは、わからないって言っていいんですよ」
何やら机の上に出してマヤに見せ、
「これはなんでしょう。すぐわかるでしょう? おねえさんにおしえてちょうだい。何でしょうね」
マヤはまたうしろをふり向き、はにかんだ笑いを私に示す。私は口を横にのばして、うなずいてみせる。
「やさしいでしょう。おしえてちょうだい。言いたくないの? じゃ鉛筆でこの紙の上に書いてちょうだいね。それならできるでしょ。なんでしょうね。そう、ねずみさんですね。よくわかるじゃないの。えらいわね。それじゃあねえ、こんどはこれ」
面会室のような粗雑な机と長椅子が部屋の大部分を占めていたが、私がそのすみの方に坐ると、二人のすがたは、対角のあたりのついたてで仕切られた区劃《くかく》の中に見えた。窓際《まどぎわ》に据えた机に向っている二人のななめうしろのすがたは、逆光線の中で光彩を生じ、私は或《あ》る感動でそれを見ないわけには行かない。女子医局員がマヤの方にからだをのりだして話しかけると、マヤも回答を放棄せず、頭をかしげ、からだをくねって答えようと苦しむようだ。やがてマヤはためらいがちの低い声で、少しずつものを言い出す。あ、マヤが警戒をといたと思い、ホドケテクレ、ホドケテクレ、と私は口の中で応援をはじめる。目をあらぬところに据え、あごをつき出しかげんに、口をあけてうつろになっているときのマヤは、もう十歳にもなっているとは思えない。機敏で岩乗《がんじよう》な、そしてひとかどの女の世間智をあらわしはじめた同じ年ごろの少女たちを見ると、その深いちがいに目まいがしそうだ。マヤはこわれやすい機械のように、すべてのつくりが華奢《きやしや》にでき、どんな些細《ささい》な感情の取引きにも堪《た》えられそうでない。
でも私の心に真直ぐ伝わってくる、そのかけひきのない思いやりとやさしさを感じないですますことはできない。彼女のからだの、或いは精神の機能のどこのところが具合が悪くなったのか。数学的な算用がまるでできなくても、日常生活の中では彼女の記憶が家中で一番強く、親たちの、忘れた約束やしまいこんだ財布《さいふ》をまちがいなく覚えているのがふしぎだ。そんなときマヤはその結果だけを口数少なく他人《ひ と》ごとのように言い、だまってその場所に親たちを引っぱって行く。
窓からの光線を受け、二人の顔は私の目には影のようになりながら横顔の輪郭の部分が明るく輝き、私は静かな調和の興奮を感じた。ことばがうまくしゃべれず、口数の少ないマヤが、私の頭の中では豊かなおしゃべりでいっぱいになる。そして診察を受けるときの表情がふだんになく輝きを増すことに私は気づく。マヤは不安と怖《おそ》れと当惑で緊張し、予測できない刻々の新しい状態に適応しようと全力を集中する。しかしいつでもその努力を投げ捨てるあきらめのため愁《うれ》いがつきまとうが、マヤは充足して余分の要求をしない。
雨はふりやまず病院の玄関先でほんのわずかのあいだ白い空虚に襲われた。旅先の行動は節度を失いがちで、訪問しなければならぬところがいくつも数えあげられるかと思うと、どこにも行きたくなくなる。歩くには長過ぎ乗物を利用するには短いような道のりの場所がいくつか頭の中に起っては消える。宿泊所がきまっていることが気持を絶望の方に深追いさせることを辛うじてとどめた。雨滴のはねかえりが頭や胃の中でもあばたを作り、うそ寒さとともに私とマヤをみじめに包んだ。
K市に出て来た当面の用件は、勤務先にかかわることだから、その主なものは先にすませ、あとはマヤの受診のことが目的になった。私の胃はついでにしらべてもらった。マヤはこの一、二年のあいだに、ことばの障碍がはっきりあらわれ、はじめはふざけかと思ったほどなのに、次第にかくせないものになった。本土からはなれた小さな島の町の病院では結果として病因がつかめない。島の町にくらべて十何倍も大きな都会のK市にある設備のととのった綜合《そうごう》病院で一度診察してもらうことはまえまえからの念願であったが、なかなか機会にめぐり合わなかった。今その願いが果されつつあるが、出張のための滞在期間中にはっきりした診断は期待できそうにない。医師はまとまった期間の観察といろいろなテストのあとでなければはっきりしたことは言えないと言った。しかしこのままK市に長逗留《ながとうりゆう》することは事情もゆるさず決心がつかない。島の病院でもそこで可能なものはすべて施してもらった。K市の病院ではその上新しいテストも受けたが、結果として示されたところは今までの診断を出たものではない。治療法はいままでのんできた錠剤をこれから先ものみ続けることしかない。
にぶい倦怠《けんたい》をおしやるつもりで、折から通りかかったタクシーを、手をあげてとめた。
そのときまでどこに行くかきまらなかったのに、車の中のクッションにからだを沈めたとき、
「……にやってほしい」
と行先の名前が口から出た。
そこは果さなければならぬ出張の目的と結びついた場所だ。用件はすんでいたが、そこに行けば関聯《かんれん》した用件は次々に起り、いつ行っても無駄に終ることはない。マヤは興味のないおとなたちのはなしのあいだ、私の横に与えられた椅子でじっと待った。私は自分の幼いとき、たまたま伴なわれて行った父の商用先で、いつ尽きるともはかりしれぬおとなたちのおしゃべりに絶望した。そしてがまんができず、その上衣《うわぎ》のすそを引っぱっては父親の光ったひとみに刺された。でもマヤは死ぬほどの退屈に噛《か》まれて椅子の上でからだをくねらせても、装ったかたさの中に居る私の袖《そで》を引こうとはしない。
勤めのひけどきの五時を過ぎ、私とマヤはふたたび外に出た。雨は霧雨《きりさめ》に変り、濡《ぬ》れかかる重さが感じられない。すでに日は傾き、都会は夜の営みの準備をしていた。
旅先の私は、いつのときも今こうしていてよいのかという不安からのがれることができない。夕方用務の仕事から解放されたあと、それは急に強くなる。四囲を海でとざされ克服しようのない距離をあいだにはさんだ島に留守居の妻や子どもと遠くはなれたどこかに居ることじたい、どうしてもつぐなえぬあやまちででもあるかのように私に無理強《むりじ》いする。もし今突然島の中で何かおそろしいことが勃発《ぼつぱつ》しても、私はその現場にかけつけることはできない。そのしらせが私をつかまえるまでに、むだなたくさんの時間が流れてしまう。旅先の宿泊所では朝出かけると夕方もどるまでは私の行先がどこだかはわからないのだから。たとえそのしらせを私が早く知ることができても、K市と島のあいだに横たわる海洋の存在が私をおびやかす。幸運が具合よく出港間ぎわの連絡船に乗せたとしても島の港に着くまでに十四、五時間の堪《た》えがたい時間の中になげこまれなければならない。そのことを想像してみるだけで私の気持は現実から剥《は》げてしまいそうだ。
今度の旅行はマヤと一緒だから、いくらかはその不安が弱められた。マヤが私の行動の一部始終を見た結果、彼女の外界に気持の散らぬ閉ざされた濃密な世界のフィルムに、私の日課のすべては焼付けられているはずだという安堵《あんど》がある。私はどこに行くときでもマヤを伴なうだろう。マヤの観察の圏外に自分を置くと、とたんにみにくい黒い影につきまとわれた自分のすがたが浮んでくる。
そんなとき唐突に妻と長男は気がふれ、島の町の人々が誰も彼も斜めにからだをたおして小走りに歩いている映像が目の底に浮ぶ。みんな口をつぐみ、どこに行くかわからぬが、つんのめるように右からも左からも交叉《こうさ》して歩き、とどまろうとしない。それはマヤがそばに居てもまぬがれられない。出張用件も受診のことも捨てて、このまますぐ船に乗って帰りたい衝動につきあげられる。どんなことにしろ、どうしてもしなければならぬことなど有ろうとも思えない。もし仮にあるとしたら、それはただ一つ、家じゅう四人がはなれないで、島の中にいつもいっしょに居ることだ。
病院の長い廊下で名前を呼ばれるのを待っていると、その時間が充実したものであることが次第にわかってくる。
いつ呼び出されるか、医師がどんな計画をもっているかは、わからないが、呼び出されるまでは、短くても長くても彼らにまかせたかぎりそこをはなれるわけには行かない。でもそこで私は単純で充実した行為を遂行することができる。私にとっては読書がそれにあたり、マヤの場合は廊下を歩くことだ。まえに一度読んだことのある小説を、書物の中に見つけたときの方がむしろ効果的だ。ほかにはすることがないために、気持を散らさずに、繰り返し読むことができ、その小説は私の胸中でおさえつけられ強い弾力をたくわえることになる。
やがて目の前の部屋のドアがひらいて、医師が私を呼ぶだろう。
廊下の片側にはガラス戸がはめこまれ、のぞくと四角に区切られた内庭が見おろせた。どんな用途にも使用されないかげったその空地のすみには、窓から投げすてられた紙くずが月日にさらされ、きたなくしみついている。
マヤはすっかり元気を失ってしまった。宿泊所でゆっくりやすませたいが、彼女をひとり残して置くことに私は堪えられず、いつも行動を共にしなければならない。役所まわりも知人宅の訪問もそして宴会にも伴なって出たせいか、マヤは夢遊病者のように目の据わりがおかしく、うつらうつらして口をあけているときが多くなった。
「マヤ、どこか痛いの?」
ときいても、
「イヤ」
と返事をすることはまえと変らない。
「痛いときは、言いなさいよ、おとうさんに」
「ウン」
「どうしてそんなにふらふらしているのだろ」
「ワカラナイ」
「疲れちゃったね。困ったね。これがすんだら早く宿屋に帰ろうね。どら、おとうさんに笑ってみせてごらん」
マヤはちょっと口をムの字にした笑い顔をつくってみせるが、すぐ疲れた表情にもどって、ためいきのように言う。
「ネムイ」
「眠い? そうか、そうか。ゆうべもおそかったからな。あんな宴会に行かなければよかったね。おとうさんも宴会はきらいだ。でもあれは仕方がなかったんだ。そのかわりマヤはみんなにかわいがられただろ。よかったね。ここに来て、眠りなさい。おとうさんのひざを枕にして眠りなさい」
私はマヤの頭をひざの上にのせ、からだは長椅子の上に横にさせてさすってやった。
力なさそうに口をあけたまま、でも目をつぶりそうではないので、指でまぶたをなでてとじてやりながら小さな声でくりかえした。
「ねんね、ねんね」
妻がよくそうして、小さかったこどもらをねかせていた。メメヲ、ツブレバ、ネンネサレル。
だがマヤはじっとしてはいない。すぐ、頭をもちあげるから私は、
「ねんね、ねんね」
と頭をおさえ、赤茶けたやわらかなマヤの髪の毛をさわる。もみあげとまつ毛が長く、顔だけ見ると、もうひとかどの女らしさがあらわれていて、小さいままに成女の相が出ている。小学校にあがるまえは東京にいたが、きかん気で歯ぎれのいい東京弁をしゃべり、ひとりでどこにでもでかけ、喧嘩《けんか》にまけた兄の仕返しもしようとした。そのときの敏捷《びんしよう》な身のこなしを今のマヤからさがすことはできない。
少しでも眠らせるため私がゆるくおさえつけているのでマヤはその気になってかまぶたの筋肉をこきざみに動かしながらも目をつぶっていたが、かえって眠れぬらしく、からだを起そうとするので、
「どうしたのマヤ。どこか痛い?」
ときくと、
「オシッコ」
と言う。
「おしっこ? さあ困ったぞ。がまんができないか。クネレ、クネレ(と島のことばがでてがまんをしろと言い)でもむりだよね。おとうさんはここがはなれられないし。そうだ。マヤひとりで行ってみるか」
「ウン」
「だいじょうぶだろうね」
「ウン、ダイジョブ」
「おとうさんは便所がどこかしらないぞ。マヤひとりでさがせるか」
「サガセル」
「じゃ、行っておいで。すぐもどってくるんだよ。注意するんだよ」
マヤは少し行ってからもどってきてきく。
「チンガムナンカ、カッテイイ?」
「いいとも。チンガムでもなんでも好きなものを買っていい。でも売店がどこにあるか知ってるかい?」
「ウン。シッテル」
とマヤは事もなげに言う。
通ってきた道すじや会ったひとの顔そして物をしまった場所など、マヤはふしぎにもの覚えがいい。放心して何も見ていないようなのに、自分にかかわる状況については正確に記録する特別な役割が与えられているみたいだ。ついうっかりひとりで行かせたが、姿が見えなくなったとたんに私はたいへんな失敗をおかしたあとのように、不安のためじっとしてはいられない。
目の前のドアは閉ざされたままだが、いつ開かれて名前をよばれるかわからず、行きちがったときのことがへんに気になって動くわけにも行かず、書物の中の文字に目を移すが、視線が文字をなでるだけでいっこうに意味がとれない。
ついうとうと眠りにおちこむぐあいに、書物の中の活字をうつつに追っかけているのに気づき、思わず顔をあげてあたりを見廻したが、マヤを見つけることができない。おやまだ帰らなかったかとふたたび不安が層を濃くしてきた。マヤが行ってからかなり長い時間がたったように思うが、時計がないからはっきりしたところはわからない。そのあいだ次々と文字を追ったのに全体の意味はつかめず、ひとつひとつの熟語の意味などがはっきりしている。どこも同じような綜合病院の広い構造がマヤを迷わせたのかもしれない。父親のそばにもどることができないで絶望の淵《ふち》におとしこまれているマヤの表情が、想像の中で急速にふくれた。マヤは自分の置かれた状況をことばでひとに説明することはできそうにないが、たとえそのつもりになってことばにして訴えても、それが理解されるかどうかおぼつかない。恐怖のあまり気がふれたりはしないか。
目のまえの小さな事のつじつまを合わそうとして、もっと大事なところで緊張を欠き、なんべんも繰り返してしくじりを犯してしまう。すると家族の誰かが気がふれるというイメージを消すことができない。
私は思わず椅子を立ちあがり、書物をポケットにつっこんだとき、手に何かがさわった。つかみ出すとマヤに買ってやったチョコレートの包み紙だということに気づく。しかしいつのまに入れたのか。いきなりマヤの生霊《いきりよう》に出会ったほどに私はショックを受けた。そして急に動悸《どうき》が高なり、落着いておられず廊下の曲りかどまで行ってみても、病院の職員と利用者の何人かが、見なれた姿勢でそれぞれの場所に布置されているだけだ。私の目が好むものをとらえることはできない。
とりかえしのつかぬ思いがわき、あわてて引返して反対側に歩いたが、そちらの方でマヤを見つける可能性はいっそう少ない。
なぜか目のうらに白い陶製の便器のそばに血を流してたおれているマヤの恰好《かつこう》が見え、それに重なるように妻のとりみだしたすがたが感応する。自分をけしかけてはいけないと思い、いきおいにまかせて歩きだした方向を変え、もう一度マヤが行ったあとをたしかめるつもりで引返し、廊下を曲ると、行き交う人にまざってこっちにやってくるマヤが見え、私は衝撃を受けた。
マヤがあんなにやつれている!
人なかで見ると散漫な感じが異様に目立ち、私の目の先がくらくなった。構えて観察する意地悪さは、マヤのどこからも引き出せない。いつの場合も見られてばかりいることに、仕方なく自分をまかせているようだ。
毎日同じ上衣とスラックスを着せたまま、たたみ方も寝押しもよくできず、のりも落ち、ゴムひももたるんで下にさがってしまった。私を見てもそれと反応を示さず、見知らぬ人を見たときと同じだ。浮浪が身につき、私の小さな庇護《ひご》など必要とせず、遠く手のとどかぬところにひとりでさっさと行ってしまう。
「おそかったね、マヤ。どこに行ったの。もどれなくなったんじゃないか。お便所は見つかった? おしっこはすんだの?」
マヤはうなずいた。
「ずいぶん長くかかったね。おとうさんはとても心配したよ。何かあったのか」
「ナンニモナイ。パンツスコシキタナクナッタ。イイ? オコル?」
「おこらんよ。心配しなくていいよ。誰かきたんじゃないだろ? お便所でひっくりかえらなかったかい?」
「チガウ。ダレモコナイ。ヒックリカエラナイ」
「そんならいい。むぐらしてひっかけたんだろ。だれもおこらないよ。おとうさんはマヤがお便所でひっくりかえって起きられなくなったのかと思って、びーっくりした。でもびしょびしょじゃないだろ。びしょびしょならぬがなくちゃいけない」
「ビショビショジャナイ」
「宿屋に帰るまでがまんできるか? できるね。宿屋に帰ったらすぐ替えてあげるからね」
何かが気になり私はマヤをしげしげと見た。私の力ではどうにもならぬところに行ってしまうのではないかというおそれ。売店にも行ったらしく口のまわりにとけたチョコレートがひげのようにくっついている。
「どら、こっちを向いてごらん。チョコレートがくっついている。ふいてやるからじっとしててごらん。マヤ。そんなにいつも口をあけて、よそのひとの顔ばかり見てはいけません。気持をしゃんと持っていなさいよ。そうじゃないと、バカのように見える」
マヤは自分の行動と気持のくわしい説明はできないから、私はききとれる断片的なことばを手がかりに大凡《おおよそ》のことを類推してみるより方法がない。K市に来てから日を追ってマヤに疲労が重なっていることはたしかだ。私は注意深く見守らなければならないが、旅先ではつい自分を譲って中腰のまま無理を重ねてしまう。それは自分だけでなしにマヤにも相伴を強《し》いることだ。と言ってマヤを宿泊所にひとり残して置くことはとても考えられない。
名前を呼ばれ、暗幕でおおわれた部屋にはいったのはお昼近くなってからだ。その日の大半を病院の廊下ですごしたことになった。暗い部屋の中では、バリュームを飲み、医師のしなやかな手で、胃部がもまれ、なでられ、おしあげられたが、経過した時間はそれほど長くない。レントゲン透視台に立つと、おかしなことに胃のあたりの鈍痛は消えてしまった。こんな状態で受診すると医師をだましている気持になるが、医師の手のひらは患部に関心のあることを伝え、それは快いリズムをよびおこした。
眠たがるマヤをタクシーに乗せ、宿泊所にもどるとすぐ寝かせた。その日は夕飯も食べずに眠り、次の朝も目ざめぬままに眠らせておいた。マヤのやわらかな髪の毛が海の底の海草のように見えた。
正午に近いころ目をさまし、オナカガスイタと言うので、りんごを食べさせた。元気をとりもどしたように思えたから、
「デパートの食堂にごはんを食べに行こう」
とさそうと、マヤは笑顔を見せた。
私も元気が出て、明るい声を出す。
「何が食べたい。何でも食べたいものを言ってごらん」
「オスシ」
「よし、おすしにきめた。それから何が食べたい?」
「アーシクリモ」
「おとうさんもアーシクリモ」
「オミヤゲモカイタイ」
「そうだ。おみやげも買わなくちゃ。あした船があればそれに乗って帰ろうか。おかあさんやおにいさんに会いたくなっちゃった」
「センセイニモ」
「何にしようか、先生には」
「エンピツガイイ。アタシ、イロイロミタイノヨ」
「それじゃ今日はおみやげを買う日にしよう。いいだろ?」
「ウレシイ!」
とマヤは顔をほころばせた。昨日のあれは、たぶん疲れのせいだ。ぐっすり眠ってそれがほどけた。船会社に電話をかけて明日の船便をたしかめたあと、軽々した気持でデパートに行き、食堂ですしとアイスクリームを食べたあとみやげの品々をえらぶことにした。自分の意見を出さずにマヤの気持のままにさせてついて歩くと、私は妻といっしょの買物のような錯覚をおぼえた。
デパートを出ると、日暮れには少し間があり、つい気がゆるんで映画館にはいった。マヤも疲れていなかったし、アタシモミタイ、と言ったから、抑《おさ》えることができずにはいった。
映写幕にはアメリカの家庭のにぎやかな姉妹のやりとりの場面が写っており、おかしいところにくるとマヤも声をあげて笑った。
私は安心し、小きざみに波立っていた不安もようやくおさまったころ、マヤがからだをもたせかけてくるのを感じた。はじめ、おかしさがこらえられずにそうしていると思った。でも画面は、見知らぬ男をあいだにした姉妹のもつれに移っていたから、少しちぐはぐな気持もしたが、注意もしないでいると、写っている場面とは無関係にマヤが笑ったので、おどろいて見ると、うつむいてハンカチをしきりに口におしこんでいるのがわかった。
「マヤ、マヤ」
とからだをゆすったが、口にくわえたハンカチをはなそうとしない。笑ったのではなく泣いていることに気づいたが、なぜそうなったかわからぬまま、私はあわてて座席を立ち、マヤをかかえて映画館の外につれだした。
ハンカチはよだれにまみれ、マヤの顔や髪の毛まで涙と上気のために水をあびたように濡《ぬ》れ、まぶたははれてふくれあがっていた。調子づいているときいきなり、胸もとをこづかれたみたいに、悔いがうずまき、手近なところでタクシーに乗った。
マヤはクッションの上に身を沈めても泣きじゃくりがとまらず、憂いをかかえた小さな夫人のように見えた。
「マヤ、どうして泣いたのか? はじめあんなに笑っていたのにね。何が悲しかった?」
ときくが、マヤの答えはきまっている。
「ワカラナイ」
「かわいそうだったから?」
「ワカラナイ」
「かなしかったから?」
「ワカラナイ」
「こわいものが出てきた? それとも何かこわいことを思い出したか?」
「ワカラナイ」
私はあきらめて質問をやめ、自分のハンカチでマヤの顔や髪をふきながら、彼女の背後に拡がり横たわっている見当もつかぬ運命にうたれた。
タクシーをおりたとき、マヤは私のひじを引っぱって、クセ、と言った。何の意味かわからず、二、三度ききかえし、癖と言ったことが理解できた。
「エイガミテナクノハクセ」
そのことをずっと考え、どう説明しようか思いわずらったあと、やっと見つけた重いことばだということを、からだごと伝えるような調子でマヤはそう言った。
疲労が重なっていたのでマヤの気がすすまぬまま、K市にきてからは一度も入浴をさせていない。映画館での興奮もおさまってしまえば不安は消え、私はマヤをふだんの気持で取扱ってしまう。その日、島に帰るまでに一度はふろに入れたいと思い、ふろ場につれて行った。
背丈《せたけ》ばかりのびて、いっこうにふとらないマヤのやせたからだつきを気にしながら洗い終ったあと私は自分のからだにかかり、しばらくして何気なく振返ると、マヤが湯船の中に頭をさかさにつっこんでしきりに髪を洗うしぐさをしている。
或る感情が電光のように私のからだを通りぬけ、思わずきつい声で私は呼んだ。
「マヤ!」
するとマヤはゆっくり頭をもちあげ、斜めから見上げるようにして、ぼんやりした笑顔をつくった。
「どうしたの、マヤ。ふざけているの?」
シゲキシテハイケナイと思い、ことばをやわらげ、反応を待った。どういうことになったのか、あわてずに判断しなければならない。
「マヤ、バカミタイ。ボーットナッテ」
ゆっくりそうマヤは言った。
「そこで洗うとらくだから?」
「ワカラナイ」
「マヤ、おとうさんの顔を見てごらん。ふらふらする? どうしてそんなところで洗ったの?」
「ワカラナイ。ボーットナッテ」
「マヤ、ここはどこか?」
「オフロ」
「おとうさんがわかるか?」
「ワカル」
「もうでようね」
私は自分を洗うのをやめ、すぐマヤを部屋につれもどった。まえからほしがっていたのでK市に来て買ったネグリジェを着せるとき、妻の指図の通りに幾枚も重ねてはかせていたパンツがよごれているのに気づいた。病院でマヤが、パンツ、スコシキタナクナッタ、イイ? と言った声がもう一度きこえた気がした。旅行中のマヤについてはすべてを自分が見とどけ、目をはずすことがないようにしようと思ったが、事のおこるたびに目のとどかぬ部分があらわれてくる。どうしても目をそらしていた場所をはっきり直視しなければならない。否定したい気持が強くはたらくなかで、よごれの中に凝血のまざっていることを認めた。
「マヤ、病院でひとりでお便所に行っただろう。そのときおしっこだけだった? ほかに何か出てこなかった?」
「ワカラナイ」
「パンツきたなくしたって言っただろ。どうしてよごれたの?」
「オシッコダケトオモッタラ、オナカガイタクナッテオンコモデタ」
「よごれたまままたはいたの?」
「マヤ、フイタ」
病院の廊下を虚脱したように歩いていたマヤの恰好が私の脳裏にまたあざやかによみがえった。そのとき便所で粗相したものを自分で処分したあとの嫌悪《けんお》の中にマヤが居たことを、理解できなかった。でもあとの始末をしているマヤのすがたをどうしても想像することはできない。むしろマヤは本当は何もかも知っていて、他人ばかりの中にひとりきりで居るときは、ことばもはぎれよく話しはたらき者の世話女房のようにきびきびした動作をしているのではないかというへんな疑いさえ起してしまいそうだ。
ネグリジェを着たマヤは上半身を左右に大きくゆするので、いそいでふとんをしき、寝かせた。
「どこか痛くないか」
「ドコモイタクナイ」
「おなかが痛くないか」
「イタクナイ」
でもことばのままを受取る気持になれず、その上にも念をおす。
「頭は痛くないか」
「スコシイタイ」
「どこのところ」
「ココガイタイ」
「どんなふうに痛いか」
「スコシイタイ」
「いつも痛いか」
「ウン」
「いつから」
「タクサンアツマッタデショ。オトウサンノオトモダチ。マヤカワイガッテクレタヒトイタデショ。マヤオベンジョニイコウトシテオチタ。ソシテアタマウッタ」
知人たちとの話に熱中していたので、おおむね私のそばに居たマヤが、二階の会場から階段をおりて便所に立って行ったことは覚えていない。私の目のとどかなかったことがまた一つふえた。マヤがそのとき絶望の中でどんなふうに自分をとりもどしたか、その恰好を想像することもできない。私の知らないところで、マヤはひっくりかえったり、下着をよごしたりするが、私の頭の中に拡がるのはマヤがへんに抽象的になったすがただけだ。しかし私の認めたものはどうしても血のかたまりとしか思えないが、小学校の五年にもならないマヤの年ごろに、そんなことがありうるかどうか、或《あるい》はそのまえじらせのようなものなのか、私にはわからない。早く島に帰り、妻に話していっしょに考えたいと、しきりに思いながら、マヤを見ていた。
「マヤ、ねんねしなさい。心配しないでぐっすり眠るんだよ」
(昭和三十六年十二月)
出発は遂に訪れず
もし出発しないなら、その日も同じふだんの日と変るはずがない。一年半のあいだ死支度《しにじたく》をしたあげく、八月十三日の夕方防備隊の司令官から特攻戦発動の信令を受けとり、遂《つい》に最期の日が来たことを知らされて、こころにもからだにも死装束をまとったが、発進の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみをしていたから、近づいて来た死は、はたとその歩みを止めた。
経験がないためにそのどんなかたちも想像できない戦いが、遠まきにして私を試みはじめる。どれほど小さな出来事も、起らなければそれは自分のものとならず、いつまでも未知の領分に残っている。今度こそたしかと思われた死が、つい目の近くに来たらしいのに、現にその無慈悲な肉と血の散乱の中にまきこまれないことは不思議な寂しさもともなったが、その機会を自分のところに運んでくる重大なきっかけが、敵の指揮者の気まぐれな操舵《そうだ》や味方の司令官のあわただしい判断とにかかっているかもしれないことは底知れぬ空《むな》しさの方に誘われる。それがもっとさからいがたいところからのものでないことが不安だ。まだ見ぬ死に向っていたつめたい緊張に代って、はぐらかされた不満と不眠のあとの倦怠《けんたい》が私をとらえた。
防空壕《ぼうくうごう》の入口に設けられた当直室では当直の隊員が勤務をしていたが、勤務のあいだ彼らはその身に迫ってくる死についてどれだけ考えることができようか。それを感じ過ぎているのは自分だけ、という思いを私はふり払えない。せめて五十二名の特攻兵を次の日に移った夜のしらしら明けに、眠りに就かせたことが自分の気持をなだめる。私自身はからだを動かさず号令のことばを選び死の状況を妄想《もうそう》することができたが、特攻兵たちはただからだを動かして出動ができるように一人乗りの艇を整備するだけだ。私の艇の舵《かじ》をあやつる者など二人の乗組む艇と彼自身の死装束をととのえた上に、私の身のまわりのことまで心遣《つか》わなければならない。死の方に向う出撃行に、子どもの遠足のように、搭乗《とうじよう》のユニフォームをつけ、ボタンやバンドをそれぞれの位置に据え、もし事故で戦列をはなれるか或《ある》いは死を遂行できなかった場合だけに使う手榴弾《しゆりゆうだん》を腰にさげ、いつ食べるつもりか携帯食糧と水筒をまとって、出発を待った一夜の時刻の移り行きが、理解できないおかしさを伴なって遠去かって行った。
特攻兵の出発のあと基地にのこって陸戦隊になる者たちだけが、当直に立ったから、私は彼らに取り巻かれたと思ってしまった。彼らの上にも私は指揮権を与えられているのに、特攻兵の方に部下の気持がいっそう強いことがおかしい。あとで陸戦隊となる者だけの中に居ると、いきなり神通力を奪われた環境の中に一人置き忘れられたようだ。特攻兵が示すきびきびした動作がなく、留守番をたのまれた不なれな隣人に見えてくる。同じ隊員ながら、或る瞬間に別々のカプセルに引きさかれてしまうそのつなぎ目の接着点がそこにうっすらかくされている。出発しそびれた特攻兵は今全く眠りにはいったはずだから、その眠りをさまたげぬよう、狭い入江の両岸にかけて設営された隊の中すべてが、足音をひそめて隊務を進め、そして太陽は確実に高い所にのぼって行き、この新しい日が私は理解できない。
重なり過ぎた日は、一つの目的のために準備され、生きてもどることの考えられない突入が、その最後の目的として与えられていた。それがまぬかれぬ運命と思い、その状態に合わせて行くための試みが日々を支《ささ》えていたにはちがいないが、でも心の奥では、その遂行の日が、割《さ》けた海の壁のように目の前に黒々と立ちふさがり、近い日にその海の底に必ずのみこまれ、おそろしい虚無の中にまきこまれてしまうのだと思わぬ日とてなかった。でも今私を取りまくすべてのものの運行は、はたとその動きを止めてしまったように見える。目に見えぬものからの仕返しの顔付でそれは私を奇妙な停滞に投げいれた。巻きこまれたゼンマイがほどかれることなく、目的を失って放り出されると、鬱血《うつけつ》した倦怠が広がり、やりばのない不満が、からだの中をかけめぐる。矛盾したいらだちにちがいないが、からだは死に行きつく路線からしばらく外《そ》れたことを喜んでいるのに、気持は満たされぬ思いにとりまかれる。目的の完結が先にのばされ、発進と即時待機のあいだには無限の距離が横たわり、二つの顔付は少しも似ていない。
太陽が容赦なくのぼり出すと、もう引きもどすことはできず、遂行できずに夜を明かした悔いの思いが、からだにみなぎり、強暴な気持に傾いてとどめられない。でも爆発させることがためらわれ、内側におさえこむと、無性に眠くなった。私たちは発進しなければほかに使いみちのない未熟な兵員にすぎない。日常は些細《ささい》な行動の束になってひしひしとおしよせ、なおざりにすることは許されないが、そのどの一つをとりあげても、昨夜の今朝《け さ》では、余分なつけ足しとしか思えない。無意味なつみ重ねのため、区切り目が醜くふくれて来て、私の死の完結が美しさを失う。しかしこちら側の生にとり残されている事実を矯《た》め直すことはできず、よごれた日常を繰り返さなければならぬ。はっきりつかまえようのない腹立たしさがわだかまっているが、すべて自分にはね返ってくる。
私ができることは、司令官の居るSの防備隊警備班に敵状を確かめてみることだが、その度《たび》に受取る返答は、展開を見せない膠着《こうちやく》の状態だ。死の方につきやるために準備させた前夜の命令のするどさは色あせ、私のきまじめな要求は貸し金の催促のようなひびきをもちはじめ、きおいたつ自分がはぐらかされてしまう。何か質の変った空気が流れ、身構えた心の武装のうろこがはがれはじめる。眠くなった私は防空壕の奥にはいった。かんなのかかっていない丸太と板切れを組み合わせ、蚕棚《かいこだな》のように乱雑に重ねた寝床は、湿気がひどくて利用する者はいなかった。壕内は素掘のままわく木をあてがってあるだけだから、天井《てんじよう》や両側から水がにじみ出てかすかな音をたてていた。水気を含んだ重い毛布をまとい、搭乗の服装のまま靴も脱がず、かたい寝床に横たわると、骨にしみ通るしめりが感じられる。それは冷寒でなく、関節のところで不調な痼疾《こしつ》を起し尿が通じなくなりそうな気持だ。でも地の底に沈み行く深々とした静けさがあり、どこからとなくきこえる水滴と土くれのくずれ落ちる音を耳にしながら横たわっていると、当面の安楽がからだを包みこみ、日常とその中のすべての約束事を先にのばして、眠りの中にはいって行く楽しみを感じた。
寝不足な覚めぎわの、審《さば》かれたのかも知れぬと疑う惑いのあとで、自分のからだが身動きならぬほど、こわばっていることが分るが、どうにも動かせない。寝床のかたさと壕の中の湿気でギブスをかぶせられたようだ。しばらくは固縛に抗《さから》わぬようにしながら、凍りついた時をやり過ごすと、次第にほどけてきてからだが動かせた。悪い酔いがもどってくるふうに、眠りにおちる前の昨夜からの自分のすがたがよみがえってきて、嫌悪《けんお》が胸の中に広がるがそれをそこで育てることはできない。そのとき身につけていた習慣に従って立たされている自分の位置を確かめるために、その気分をふりすて気持を集中させようとする。防空壕の入口の方から目にまぶしい外の光が、中の暗やみにやさしくさしこんでいて、事態は、眠りに落ちるまでのときと変っていないことが理解できた。前の日につづく変りのない一日が、まだ許されていた。当直勤務者の私語が、壕の中の湿気におおわれた私の寝床のところまで、おだやかなつぶやきの反響をとどけてくる。
私は上半身を起し、自分の投げこまれている状況のあとさきがまだはっきりとつながらず、足をのばしたまま、ぼんやり外の光の方に目をやっているとかぶりものを剥《は》ぐようにあらましがはっきりした。私は特攻出撃をしようとしていた。骨はくだかれ肉片はとび血が流れ去ってしまうはずだった。でも無残なその現場には出かけて行かずにしめっぽい壕の中で固い眠りにひきこまれた。だから私は光栄を自分のものにまだしてはいない。克服できない距離が意地悪くそこに横たわってしまったみたいだ。私は気持がしおれ、倦怠におちた。すべてがまやかしのくだらないことのようだ。なぜ敵は近づかなかったか。刻々が私をこころみ、結果として出撃は完了せずに繰越された。それは滑稽《こつけい》なことだ。私はあいまいな顔付で、眠りのあいだわきたたせていた自分の体臭のただようしめった場所をはなれ、明るい太陽の光の直接に届く方に出た。
異常な完結的な予定の行動が延期されると、日常のすべてのいとなみが気息を吹きかえす。私の嫌悪している死が、くびすを返して遠去かり、皮膚の下でうごめく生のむずがゆさがはたらきはじめて、あとさきの約束ごとの中に戻って行かなければならないことを知る。巨大な死に直面したすぐそのあとでも、眠りは私を襲い、空腹が充たされたい欠乏の顔付をかくさないで、訪《たず》ねてくる。もうすぐ死ぬのだからという理由で睡眠と食慾を猶予してもらうことができないことは、私を虚無の方におしやる。でもからだの底の方にうっすら広がりだしたにぶいもやのような光の幕は何だろう。生をつめたく取りかこみ、かたくとざしていた氷結のおもてに、どこからともなくゆるみがしのびこんでくる。そのゆるみにさからいながら、やがては受取らなければならぬ発進の号令を待つことは、いらだたしい気持をあおった。いらだたしさの中では、危うげな崖《がけ》のふちを歩きながら道をそれた草やぶの陽《ひ》だまりに腰をおろし、そこで感覚を喜ばせたいという思いにかたむきがちの自分が統御できない。この行為に従事することを納得させているものは何かが、よく分らない。
当直者はふだんのときのそれにもどっていて、その中にまざって特攻兵の顔も認められた。ほんのしばらくまどろんだと思ったが、日は正午を廻っていた。特攻兵は眠りから覚め、すでに日常の勤務にもどった。近づく私に彼らはどんな感情も示さず、昨夜の出撃準備の緊張の気配を脱け落した顔付をしていた。やりかけた仕事のあてがはずれ、さてその次にどんな仕事をえらび取ってよいか分らないので気持がすすまず空虚におちこんだように、細長い入江に沿って設けられた隊の中をうつむきながら歩いた。足もとを見つめても筋道立った何かの考えが起きてくるわけではない。南島の真夏の太陽が、被服の上からからだをこがし、汗ばませる。昨日までの自分とすっかり質の変ってしまった厚みのないほかのにんげんが歩いているようだ。それは防空壕のしめった暗やみの、もっとずっと底の方で、長いあいだじっと横たわっていたいような所につながって行く。死の方に近よるために用意していた出発が延期になったまま何事も起らなければ、肉体の新陳代謝のはたらきを拒むわけには行かない。その上になお食物をとらなければならないことは、私を羞恥《しゆうち》に追いやり、頬《ほお》がほてってきて暗い怒りが、たまってくるようだ。もう一度命令が届けば、艇の頭部の炸薬《さくやく》といっしょに敵の船にぶつかることが要求され、ほかのどんな行動をえらぶこともできずに、その予定の、しかし想像することもできぬそぎ立った暗い淵《ふち》のにおいのする未知のコースに出かけて行かなければならない。恐怖は小きざみに引きのばされ、下手《へ た》なブレーキのような不快な断続するショックを与えながら結局は目的の方に向って行くことを強《し》いる。即時待機の下の見せかけの休息と平安を、どうして信ずることができよう。でも今それが明らかに私たちを取り巻いていることを疑うこともできない。今日はまだ夜の明けきらぬうちに一、二の敵機のにぶい爆音をきいただけで、それまでの日々のように無数のそれが島の周辺の空にしみをつけることをせず、またこの島を通り過ぎて本土の方に爆撃に行く編隊機の複合爆音をにぶくとよもさせてよこすこともしない。隊員は戦闘準備をとうの昔にすませてしまってもうすることがなくなった。このところ敵の飛行機のほかには見かけることができなくなった空の下の陸地や海面では、特攻兵器の艇をあらわに浮べて訓練を行うことなどできるものではない。もし敵機の搭乗員が海上や入江岸にうごめく小さな緑色の短艇にふと平和のときのボートレースを思い起し、同時に気持がそそられ蟻《あり》の群れをにじりつぶすつもりになったら、たとえそれが気まぐれな一撃であっても、私たちの艇の先につめこまれた二百三十キログラムの炸薬は決定的な爆発を起すだろうし、もし何隻かが誘爆しあい、そのとき陸揚げされていたら、入江ぎわの山のかたちは変ってしまうだろう。本土からの補給路はとだえて久しいし、兵器も用具も補充される望みはなく、日毎の腐朽と損傷を少しでも少なくとどめようと工夫するだけでそのほかのことは手をこまねいているより仕方がなかったから、その上に日々の課業をこしらえなければならないとすれば、畑仕事にでも充《あ》てるほかはない。暗い先の方で予想される隊員同士の陰惨な食糧の奪い合いをいくらかでも和《やわ》らげるためにも、甘薯《かんしよ》の植付けにはげまなければならない。先の不定の日に特攻兵がすべて出撃し出払ってしまったあと、残った基地隊や整備隊の隊員は実のはいった薯《いも》を掘起して食べるだろう。今日敵機があらわれないからといって、兵器に信管をさしこんである艇を海に浮べて突込む練習をすることなどできないから隊員はやはり薯畑の土をいじり入江岸にちらばってたてられた兵舎を偽装するための松の木の切り出し作業が与えられるだろう。太陽は高々とかがやき、つかのまの休息かも知れないが、畑の中にしゃがみこんで仲間と談笑しながらはたらいている隊員は、昨夜から今日にかけて、死の手のひらの上にのぼったのに理不尽にも猶予を与えられているすがたとは思えない。
私のからだからは塩分がきれてしまったのか、南島の真夏の直射を受けても、日はかげってしまったかとふとあたりを見廻すほどだ。強い太陽の光線はその中に影を含み視野の四隅《よすみ》からフィルムが焼けてきてその中央に暗いすすを流しこむ。地が揺れたときの恐怖のように、その時が過ぎ去ってから反応は皮膚の下の筋肉のところの力を抜きそれは全身に広がって、生活への興味を失わせてしまう。出撃のその日を、恐れおののきながら早く来てしまった方がいいと待ち望み、それが望み通り確かにやって来たのだったのに、不発のまま待たされているのだから。すべての生のいとなみが今の私には億劫《おつくう》となり、両の腕から力が抜け去って、体温は低く下ったみたいだ。
午後も太陽は輝き、敵の飛行機はやってこない。ずっと一日も欠かさずやってきていたものが来ないことは不審だ。昨夜特攻艇を出撃させようとしたほどのさし迫った状況はどこに行ったのか。今日こんなに静かな時を刻んでいることが、うまく理解できない。耳なれた音がとらえられないと、耳はそれを作りあげ耳の中は音にならぬ耳なりに似た爆音で、あやしい交響楽をかなでているようだ。でも視野の中にとらえられる限りでは機影を見ず、また幻覚でなければ何の爆音も認めることはできない。戦いの運行がぴたりと停められ、そのところから今までとはちがった世界の端《はし》が展《の》べ広げられているのか。からだにまといなれてきたもとのままの皮膚では感受しきれぬ空気のきめがあって私は調節に苦しんでいるようだ。とにかく、どこがどうと言えないけれども何かがちがってしまった。すべての責任のあやもつれの中からのがれたいと思うが、新しい世界の秩序を認める方法もなく決心もつかない。私のあせりの外側のところで、前のままの世界は重たい顔付で一向にたじろごうとせず動いているのだから。折々に課業の折り目をしらせる信号兵のラッパと当直者の号令が石膏《せつこう》のように空気の中に流れ入り、すぐ固まってしまう。
群れ小鳥になって飛び散ってしまいそうな自分の心を、そうならないようにつかまえながら日の傾いてくるのを待った。夜が近づくのは、むしろ危険の方に吸いよせられて行くことのはずだ。あたりが暗くなれば、敵の船がしのび寄り、それにぶつかるために出発しなければならぬ機会が増大する。昨日の今日という状況が、きおいたたせ、すでに引幕が開けられた舞台の裏で落着きなく出番を待つ気持にさせている。しかし失敗することなく役目をうまく果たそうとする気合いを失ってしまった。一度拍子木がはいったまま待たされ、そのあと音沙汰《おとさた》のないことが、なぜかしらぬが約束を破ったのは向うの方だという不満をわだかまらせた。合図があれば、ただそこに出て行ってやるだけだ。侮蔑《ぶべつ》を受け根こそぎにされてしまったと思い、だからどんな恐怖にも耐え、荒れすさんだ果てで、戦法を無視した特攻戦が戦えそうだ。死は恐ろしいがそれが自分のものとならぬ限りは、そちらの方にすいよせられることをとどめることはできない。死を含んだ夜が、この真夏の太陽の直射の下の、かげりと寒冷を、私から取り除き、私がそこで主役を演ずることのできる劇がくり広げられる。夜の闇《やみ》が私のおののきをかくし、戦法の未熟や欠落を覆《おお》ってくれそうに思え、早く夜の闇に包まれたいとねがった。
ようやく日が傾きかけ、でも何どきか定かでない時刻に、入江奥の部落の人々が来て、隊の外の小さな谷あいのところに集まっていると知らせて来た。士官室の者だけ五、六人が行くと、部落の人々はみんな笑顔をつくっていたが、それは筋肉だけで、目もとは緊張している。特攻艇が昨夜出撃しかけたまま今も即時待機の中にいるのを知っている目の色だ。こちらの視線を追いかけて離すまいとする執念が見え、今夜にもまた死ぬために出かけて行かなければならない宿命の私たちに涙を流しているようだ。それはすでに死者を見るときの眼付だと思い、過当だと思いながらも肉にひびいてくる感じを受けた。白い歯と口のあたりのしわだけで笑っているその顔は、まだ明日があることに寄りかかっている肉体を持っているにひきかえ、時の刻みも気象の変化もそのままでは受取れない私には、誇張してこしらえられた人形の頭とそのからだのように人々が見えた。環境が私を大胆にし、そのとき私を規制し得たのは感覚だけだから頽廃《たいはい》の淵はいつもすぐかたわらに口を開けていた。どんな要求も彼らの中で所を得るだろうという期待は、でも私をかえって不機嫌《ふきげん》にした。海峡をはさんだ向い島の飛行隊から預けられた十個ほどの大型爆弾が、かくして置く場所がないまま、その谷あいの木の下の茂みに放り出してあっても別に異常なこととも思わない乾《かわ》いた空気があった。部落の人々の大方は見知っていたつもりだがそれは錯覚だったのか、顔見知りはわざとやって来ないで家の中に残っているのではないかとあやしまれるほど、見かけぬ顔が多いと思えた。でも十数軒ほどの小さな部落にこんなにたくさんいたのだろうか。その誰もが、一番親しかった者がその記憶をよみがえらせることを強いるように、微笑を含ませたひとみを集中させ固定しようとひしめいている。営養の補給が不充分なために、みな色つやの悪い顔をそろえ、いくつかのかたまりになって重なると、すさまじさがあらわれた。慰問されなければならないのはむしろどんな特権も持たずに素手で死の恐怖にさらされている彼らの方なのに、残り少ない米で餅《もち》をつき、箱を重ねて持って来て私たちの目の前に積んだ。急の作業のために、せっかくの慰問を、隊員全体がいっしょになって受けることができなくなったから代表の者だけが好意を受けに来た意味をのべると、年寄りたちの中に目をうるませて涙をにじませる者のいるのがわかった。隊の中の動静はどんな秘密の事がらも部落の方に何となく通じているようで、昨夜のことも明らかに知っているにちがいない。やせて目ばかりいっそう黒々と大きく見える子供たちがあとさきの理解がなくあこがれにひとみをかがやかせて、おとなたちのあいだにはさまりながらにこにこ笑っているすがたが私を打ち、女たちはよそ行きの着物を着けていても、いなかの風習のまま、帯をあらく伊達巻《だてまき》風にしめ、下駄をはかない素足のままの恰好《かつこう》が、抵抗なく胸の中にしみこんでくるのを覚えた。目がなれるとその中に見知った顔がふえてくる。そのように不安定なのは自分の今投げこまれている状況が重症なのかもわからない。おおよそのものがなじみもなく見たこともない遠いよそごととしか思えない。いきなり見知らぬ顔と見えたものは、やがてよく見知った顔であったから、みんな親しげに笑っていたのは当然だったと思いかえした。やがて土着のうたとおどりが披露《ひろう》され、伴奏には三線《サンシン》をもってきていた者がそれを竹の爪《つめ》でかきならすと、墓場の方に導く雑草の生えた海ばたの細い道が目の底に浮んでくる。のどをしぼって出す声は、経験によってでなければ習いなれることのできない感じやすいふしまわしをもっていて、一つの世界のありさまが現わされ、そこに人を誘おうとする力を持っていた。おどりの方は抑制がなく、やたらに手足とからだを動かすだけのようなところがあって酔わさせないが、ふと目を見はり、女たちが南の島で日焼けしてかたまった肌《はだ》の上に白粉《おしろい》をつけているのに気づいた。それは肌にのらず、まだらなあやをこしらえていたが、それがかえって奉仕の気持をむきだしていて、私をとらえた。身ぶりの幼い誇張が、私を世間のはじめの方につれて行き、束縛のない野外の集《つど》いの中に居るような錯覚を受けた。意識から解かれた自在な動きを、私はふしぎな気持で見たが、そこには苦渋がなく、感情が割れて停滞することもない。見物者に誘いかけてくるくすぐりがあるから笑いを以て答えなければならない。私は彼らに隊内の生活にはどんなときも異常な興奮がないことを、示したいと強く思った。その見栄《みえ》が笑いの振幅を大きくし、それはまた次の笑いを誘ってあとさきがわからなくなる瞬間があった。そのとき自分もしばられない流露感を経験している確かめがあった。まだらの化粧や素足は、或る直接の親密を生み、すべての土俗ぶりに馴《な》れてくると、彼らの目の構造が顔の造作の中で取り分け大きな比重を持ち、そこだけが独立して顔の真中で愁《うれ》いを含ませながらふくれあがってくる。
ふと、皮膚に冷気を感じ私は覚めた。太陽がかげったのではなかったが、夜への階段を下りはじめたかすかな動揺があった。もうこのへんで切りをつけなければならないと思うと、部落の人たちとのあいだに架ったと感じた橋が、す早くすがたを消しているのを知った。もとの断絶が横たわり、それは死とのそれほどもへだたっている。私のたてこもっている城砦《じようさい》は底のない泥沼に囲まれ、すべてのはね橋をすぐ巻きあげようとする。城砦にとじこもると、敵機の爆音をまだ耳にしなかったことに気づき、防備隊からはその後にどんな連絡もなかったことが関心の前面にせりあがってくる。それは今日このごろでは望んでもない安らぎであるのに、私は孤独な寂しさを感じてしまう。その寂しさをかくさずに、野外の演芸会を閉じてもらわなければならぬことを言うと、彼らの涙に濡《ぬ》れたあきらめの目がすがりつき、それは私を満足な気持にさせた。待ちかまえていたように太陽は急速にかたむきはじめ、子どもたちは、部落にもどるためになぎさ沿いの小道を歩き出したが、私たちは老人を疲れさせないために伝馬船《てんません》を用意すると、乗れるだけの者が立ったままでつめこまれ、夕凪《ゆうなぎ》の静かな入江面を部落の方に直線に漕《こ》いで行った。舟の中の部落の人々は一様に、離れて行く岸に残っている私たちの方を目《ま》ばたきもせずに眺《なが》めた。吃水《きつすい》が浅いために、辛《かろ》うじて浮くことができた板切れのように見え、黄みを増した落日直前の太陽が彼らの行手にまともにふりそそいだ。個別の表情をあらわしていたそれぞれの顔は、やがて見分けがつかなくなり、金いろの光にまぶされたからだがお互いに溶け合って一つになり一瞬のあいだ輪郭だけが強く浮上ったかと思うと、彼らのすがたは、薄墨色のおだやかな夕暮時の大気の中で、貧しく望みのうすい生活が待つ部落のたたずまいの方に溶けこみ、それをいつまでも見ていた私はこちらの岸にとり残された。
その夜発進の命令を受取れば、私はきっと勇敢な特攻戦が戦えたろう。昨夜は、一年半ものあいだその日のことを予想し心構えていたのになお動揺したので失望が心を食いあらした。不眠のあとの頭痛を残したまま寝ぼけまなこで搭乗服《とうじようふく》を着け、ボタンやベルトを定まった位置に定めながら中腰で兵器の艇に乗って出かけるようなくやしさがあった。生の世界の方にまだ何かいっぱい為残《しのこ》したままのうしろ向きの気持のずれを、戦場に着くまでのあやしげな時間の中で持ち直さなければならないたよりなさがあった。しかし今夜はちがっている。奇妙な一昼夜のあいだに、ないがしろにされた感情につかっていた。そして生き残ったとしてもこの先に生活しなければならぬ日々の、断絶に囲まれた世の中で耐えて行けそうもない気持の底も見たと思った。そこで、防空壕の入口の当直室に防備隊から電話がかかりけたたましく呼鈴がなっている状況を自分に課してみる。そら、今鳴ったぞ。伝令が傾斜を本部の木小屋の方にかけ上って来て、きっと叫ぶぞ。タダイマシンレイヲウケマシタ。カクトッコウタイハ、タダチニハッシンセヨ。伝令は今にも泣き出しそうな顔付をするが、私は自分に問いかけてみる。で、S中尉、きみはいったいどうなんだ? 私は答えるだろう。今夜なら大丈夫だ。なぜならあのはしかのような発熱の状態は昨夜すべてその過程を予習してしまったから。むしろ発進がはぐらかされたあとの日常の重さこそ、受けきれない。死の中にぶつかって行けば過去のすべてから解き放たれるのに、日常にとどまっている限りは過去から縁を切ることはできない。手ひどい肉体のいためつけが私はほしい。闇と光線と、轟音《ごうおん》や鉄、そして肉と血が交錯してこしらえあげた偉大な未知の領域に、ふみこみつつある此《こ》の上ない陶酔のただ中で、死はこの世で受けていたすべてのはたらきを終らせてくれるだろう。私たちの艇に与えられた速力が私の肉を麻痺《まひ》させ、意識を失いながら武者顫《むしやぶる》い立たせて行かせるだろう。でも敵機が私たち五十二隻の特攻艇が夜光虫の発光する長い艇尾波を残して航行を起している現場を果たして見のがすか。敵機が私たちの艇の群れに急降下の爆撃を試みないことがどうして保障されよう。敵機が当然なすべきことを行えば艇のへさきにつめこんだ二百三十キログラムの炸薬《さくやく》を持った特攻兵器は必ず反応し、目標の巨大な艦船が目の前に直角にのしかかってくる恐怖を経験することなしに、自分だけで爆発して海上にちりぢりに飛び散ってしまうのはあきらかだ。それはいわば事故のようなものだ。事故は死の直前の恐怖を取りのぞいてくれるから、私は易々《やすやす》と威厳に満ちた死を自分のものにすることができる。ふたたび生への執着が起きない気持のささくれだっている今のうちに、出発したい。きっとそれはうまく行きそうだ。私は声音を変えずに伝令に総員集合をかけるように伝えるだろう。今はこの上にどんな心残りもないと言える。トエには手紙を書いてOの部落に出る公用使にたのんだから、いつものようにまちがいなく届くはずだ。その中に書いたふだんと変らない挨拶《あいさつ》のことばが、彼女の心を休めるだろう。たとえかえって彼女の心をさわがせたとしても私に此の上何ができよう。トエには昨夜のことをひそかに知らせる者がいて隊の外浜のところに来て会うことができた。私は胸のポケットに彼女からもらったたよりをたばねておさめていたから、その上にてのひらをあて所在をたしかめる度《たび》に効果を得て満足していた。でも彼女がすぐそばまで来ていることを知らされると経験した記憶がよみがえろうとしてひしめき、からだが浮上るのを覚えた。出発の準備をすっかり終え発進のかからぬまま特攻兵を眠らせたあとで外浜に出てみると、死装束を着けモンペをはき懐剣をかくしもったトエが闇の中にうずくまっていたので、かけよって行ってつかまえた。私は演習だ演習だと重ねて言ってきかせ、でも発進の下令が気になってすぐ彼女を離して当直室にもどったが、なぜか勇みたって、からだの細胞の一つ一つが雀躍《こおど》りしている充実を感じた。悲哀は精神をすっぽり包んでいたが、百八十人の集団の中でつきあげられると、肉体の緊張が先立ち、あとにかまわず歩いて行ってしまう。それに彼女の真直ぐ私に向けた凝視を、疑いなく確かめ得られたことが私を有頂天にさせた。しかし出発しないまま一日がむなしく過ぎて次の最初の夜がまわってきたのだ。生涯の設計の骨組みが具合よくすべて支え合い、そのどの部分も繊細すぎるので全体が微妙な均合《つりあ》いを保っていたが、今夜ちょうど最後の仕上げの時に来たと思えた。今夜出発すれば私の生涯は終りを全うすることができる。彼女の涙や入江奥の部落の女たちのおどりの中の或るしぐさが、おかしな細密画の一こまになって全体の構成を助けていた。すべてが大きな布切れをかぶせたような悲しみの中でにこにこ笑って遠くの果てに遠去かって行くが、壮烈な死に讃歌《さんか》をささげていた。でももし今夜も昨夜のくりかえしに終って私たちの出発が無視されたら、すべてはむしろ悪化し腐りはじめるだろう。やりかけて中途になっているはたらきは、未遂で終ったその断面がなまあたたかくふやけ、いったん氷結させられたためいっそうはね返って手のほどこしようのない症状を示してくるにちがいない。そして私は低潮のときをえらんで真夜中に目を覚まし、今までそうしてきたように北門から外浜に出てトエと会うだろう。それを私は拒むことができないだけでなく、潮の満ち干のうねりは私のからだに感応し、さからうこともできない。渇きが彼女と一緒になることを求めそのことに心をくだいたあと隊の外に出る工夫《くふう》をこらしてそれを果たし、彼女を認めることに成功しても認めたすぐそのあとから、私の居場所はそこではないと思うことをくり返すだろう。私の意識は二つに割《さ》かれ、どちらにも専心できないことが隊の内部を弛《ゆる》めてしまう。それはやがて飽和のところにとどくかも分らない。不自然な環境が無理を重ねてきたが、決算をしなければならぬ時は必ずやってくるだろう。身の毛のよだつ最期の場面の、事前の確かめのきかぬ恐怖を、どうすることもできるわけではないが、その突撃行為は過去の未済の行為を帳消しにしてくれると思った。償いをその日の前に割引するつもりで突入の瞬間に賭《か》けたみたいだ。
防空壕の中の寝床は湿気がひどいだけでなく、そこは空襲の不快な音響からはさえぎられ、また一応の安全地帯にちがいなかったから、そこにもぐりこむことは少なくとも外見の気おくれを表した。でも私はたったひとりがらんどうのほら穴のなかで眠ると心が安まった。
十四日の夜も防備隊からの連絡はなかなかやって来ず、すべてふだんの日課にかえしてすませた。前の晩に起ったことは実際の出来事とも思えない。疲れきった昼のうたた寝に見た悪夢ではなかったか。どんな現象も気持から剥《は》がれていて、よほど頑張《がんば》っていないと自分の立っている所さえ見失ってしまいそうだ。はじめほんの少し芽を出した予感が時と共にふくらみ、それは一つの確信の顔付を示しはじめた。もしかしたら、此の待機の状態は切換えられることなくいつまでも続くのではないか。敵はこの島などは歯牙《しが》にもかけず、直接本土に向う作戦をはじめだし、ここはこの戦争のいきさつから見捨てられようとしているのではないのか。司令官が特攻戦の発動を決意したのは余程のことにちがいないから、そのときたしかに上陸してくるかもしれぬ敵の船団が近づいたはずだ。しかし目的はこの島にはなく、船団は通り過ぎてしまったにちがいない。それでなければ、どうしてこのような停滞の中に落ちこむだろう。司令官を支える防備隊の参謀たちはどんな全体の作戦構想を持っていたろう。少し冷静に考えれば、この島は作戦の谷間におちこみ、どんな戦略価値も持っていないことが分るではないか。しかし恐怖が、一途にこの島に吸いよせられてくる敵の船団をこしらえがちだ。島は磁気を含んだ孤島となって敵の戦闘力をすべて吸いよせてしまうと錯覚させていた。でも参謀たちはこの島の無価値なことにはっと気がついたのではないか。だからその後の敵状の提供にそっけなくなってしまったにちがいない。
真夜中近くなってやっと連絡があったが、それは特攻戦とは少しも関係のない内容のものだ。カクハケンブタイノシキカンハ、一五ヒショウゴ、ボウビタイニシュウゴウセヨ。ヒツヨウナラ、ナイカテイヲムカエニダシテモヨイガ、ドウカ。たとえ今日一日敵機をみとめなかったと言っても、特攻戦が発動されている最中に、昼日なか防備隊はなぜ内火艇まで出そうと言うのだろう。なぜかそれは私の緊張をあざ笑っているひびきを残した。まじめな態度を求めながら応ずるとまじめ過ぎたおかしさを嘲笑《ちようしよう》する世間のやり口で、防備隊は、そら、死にに行け、とけしかけたあと、なんだそんなに受難者の顔付をするなと言っているようだ。私の方には内火艇を廻してもらう必要はなさそうだ。さしせまったこんな日に、どんな用件があるのか見当がつかないが、私は山道を歩いて行くつもりだ。自分の足で土をふみつけながら、しぼるほどの汗をかいてみたい。
私は強い眠気に襲われたので、壕の中の寝床に行って横になるとすぐ眠りに落ちた。それは鎧戸《よろいど》がおとされたような眠りだったが、昧爽《まいそう》のころに目があいた。すぐ寝床を降り、北門の外に出ると、トエが白昼をあいだに置いて前の日からそうしていたと思われる恰好で砂浜に吸いつくように坐っていた。私は何度も重ねてきた同じ姿勢で彼女をなだめ、演習は無事に終ったと言いきかせ、早く部落にもどってぐっすり眠ることをすすめ、自分もふたたび壕の寝床にもどり、湿気にからだを刺されながらむさぼるような眠りをつぎ足した。
目が覚めると、八月十五日の太陽は高く上り、隊員たちの日中の畑仕事も中だるみに来ていた。おくれて起きた気おくれもあり、眠り呆《ほう》けている間に大事な瞬間を取り逃したのではないかという不安がしばらくただよったが、すぐに眠る前の状況とどんな変化も示していないことが分る。今日も敵の飛行機は現われぬようだ。二日も続けてその爆音をきかぬと、どうしても信じられそうにないと思いたがる。何か決定的な変化が戦局の上に現われて来たのではないか。その考えは好奇と失望とを同時に与えた。作戦の谷間にはまりこんでこの島は見離され、何年かたって、戦争も終りあとさきの混乱がおさまったころにどこかの国が行政権を確かめるためにやってくるかも知れないなどと妄想《もうそう》すると、不思議な興奮が湧《わ》いてきた。
私はおそい朝食をそこそこにして防備隊に出かける準備をした。艇に乗るときのそれではなく、三種軍装にゲートルを巻きつけ肩帯のついた剣帯をしめるだけで、日本刀はそれに吊《つ》りさげないで手に持った。
入江奥に向って、部落寄りの番兵が勤務している南門監視所を出て部落の方に歩いて行くと、こころもからだも軽くなった自分を感ずる。入江の岸の岩端や小さな谷あい、そして山かげの畑が、ガジマルやアダンの生《は》えた潮くさい小道の蛇行《だこう》に従って目の先に展《の》べひろがって行く。隊をはなれ一人だけになると自分が生活の根の浅い一人の青年に過ぎないことが分ってくる。そして防備隊に着くまでの一時間のあいだ私は全く解放されて、その状態を享受することができる。たとえ不在の隊に発進の命令が届いても私がそれを知るてだてはなく、もし伝令が追いかけてきたところで追いつくころには防備隊に着いているはずだ。しかも防備隊からの命令でそこに行くのだから隊を離れていたことに責任を問われることはあり得ない。恥知らずな考えでも、その解放感を受けとらないですますことはできない。トエに会うために隊を出るときは、加速度のついたのめり行く喜びのうら側におののきと渇《かわ》きが深まり、扱いきれない負荷がこころにもからだにもまつわりついたが、防備隊に行くときは、身軽な一羽の小鳥の気分になれた。途中の道筋と時間とをゆっくり味わいながら、山の中の湖水と見まごう入江のほとりのうねりの多い道を刀をかんぬきのように背首にあて、或いは肩にかついで歩いた。防備隊の内火艇を廻してもらえばすぐ向うに着いてしまうから、この気楽な自由を自分のものにすることはできないと思ったとき、昨夜内火艇を念押しされたときにちらと頭をよぎった疑いがもう一度起った。敵機の襲来がはげしくなったこのごろでは日中の航行はほとんど避けられた。小さな櫂漕《かいこ》ぎの島舟でさえ危険を感じて漕ぎ出なくなっているときに、しかも翌日の出航の約束をしようというのはどういうことなのか。敵の言質でも得て今日一日は決してやって来ないことを承知の上でなければ、そんな放胆な行動がとれるわけがないなどとおかしなことまで思った。そのとき私はいきなり狭い暗がりの場所から広く明るいところに出たときの気持になって、或る考えが浮んだ。味方の特別に秘められていた作戦が成功して、敵の勢力を日本の周辺の島々からすっかり消してしまったのではないか。今日そのことで防備隊では新しい戦況にもとづいた作戦を検討し直す相談が行われるのではないか。防備隊からの召集の度毎《たびごと》にいつも、何かそれまでの計画を変更しなければならない希望的な展開を期待して出かけても、大抵はわざわざ召集することもないような小さな事項に終ることが多かったが、こりずにその次の呼出しのときはまた期待を胸にひそめて山道を歩いて行くことになった。それにしても今度の防備隊の態度にはへんな自信が含まれていた。
部落の人家は、干潮のとき海水のすっかり干上ってしまう長靴の先の折れ曲りに似た入江奥の袋《ふくろ》の部分のぐるりに十数軒ちらばっていたが、家の外には人影が認められず、どこで何をしているのか見当もつかない。空襲におびえて刈入れがおくれている稲田の一期作が、雑草のように伸びたまま横倒しになっていて、藁《わら》になるまえの青くさい、イナゴとまざり合ったにおいを発散している。家ごとに飼っていた豚も漏れ伝わる隊内の動静にあわててある日どの家でも殺して食べてしまった。もし敵が上陸してくれば部落のかたちや人々の運命がどのようになるか私には見当もつかない。それは特攻戦を実際に戦ってみるまでは、のぞき見ることのできぬ鉄壁のために絶望的な未知の向う側に残されているようなものだ。防備隊の陸戦計画ではそのときの配備の計画などもたてられていて、特攻が出払ってしまったあとの私たちの隊の基地隊や整備隊の隊員もその計画の中に吸収され、部落の人々はそれぞれに用意された防空壕に収容された上、爆薬を使って自決するのだと取沙汰《とりざた》されていた。いぶかしいことだが、それらのこととても切羽《せつぱ》つまった今になってさえ確かな手答えが得られるわけではない。もし何かが近づいて居るのなら、阿鼻《あび》叫喚の様相に襲われていなければ筋道が立たないように思える。しかし現実は新規の手法で抜き打ちにやって来、いつもだしぬかれて心の準備を欠いたまま死に持ち去られるのかもしれない。私の過去ではきいたことのない鳴き方の蝉《せみ》の声がきこえていて、稲田のにおいと真夏の熱を含んだ風の肌ざわりが、小学生のころの夏休みを思い起させ、自然は充実し、がっしり統一されて見えた世界に囲まれていた幼いころの自分の感覚が、今取りかえしのつかぬ悔いのようによみがえってくるのを覚えた。たしかな覚えなしにどこかを歩いているときに、いきなりうしろ襟首《えりくび》をつかまれて引き戻されるような思いがけなさで、私は小学生のころの古い日本にぐいと引きもどされる衝動を感じ、クモの巣をまきつけた急ごしらえの網でミンミンゼミやツクツクボウシをつかまえて歩き、アリジゴクとジグモを紙の箱に入れて、しまっていた幼い自分のすがたがあらわれて私をおびやかした。思わずあたりを見廻したが、折れ曲ったのでそこだけしか見えぬ入江はじと、まばらな民家などの過ぎて来た方角を背景にした道端の稲田しか目にはいらない。狭い田袋《たぶくろ》はすぐ山道になり、両側の山際《やまぎわ》がきつく迫る手前の、川床の深い小さな谷の、落合いの横手を切りひらいた畑で、年老いた夫婦が黙々とはたらいていた。私は立止って二人に声をかけた。
「なかなかごせいがでますね。きっとすばらしい収穫がありますよ」
背筋をのばしながら私の方を向いた老夫婦は、打消すように手を振って笑ったが、ことばにならず、自分らの子供を見るような目を私に向けた。それはやはり昨日の午後私を見た部落の人の目だ。昨日も実のところはこの老婦人の目だったかもしれない。彼女の目が部落の人たちの目を集約し私に注がれていた。老夫婦の数多い子供たちは成長してみな親のもとをはなれ、男の子の中には軍隊に出た者もいた。私はその中の一人に似ていて彼らは私に気持を開いて示した。戦況がまださし迫っていないときにできた交歓は、すでにかなり前からとだえていた。それはトエと会うことに私が腐心するようになったあとさきの時期とも重なったはずだ。「あの人は私たちに声をかけて通って行った」と、もし出撃するかまた別の何かの事故で私の身上に変化が起ったあとで二人は言うだろう。「刀をかついで、学生が遠足にでも出かけるときのようににこにこ笑っていた。私たちは胸がつかえて何も言えんかった。うちの二番目の息子にあんまり似ていてどうしても他人のような気がしなかったのに、みすみす何にもしてやることができなかった」それは私が勝手にこしらえあげたまでだ。申し分なく年齢を重ねた二人の容貌《ようぼう》は自分に似た長型の顔かたちなので、感覚の或る部分がやさしくおさえられ、安息があると思った。山は浅くても山の明暗の要素の大凡《おおよそ》はそなわっているから、ひなたとかげりにあざなわれながら、私は汗をびっしょりかいて傾斜の道を上った。名も分らず見きわめることもできぬ小鳥の鳴声は、その自由な境遇を誇るようにきこえ、私の耳には珍らしいその音色を快いと思わないわけには行かない。しかし背負《しよい》籠《かご》の緒をひたいにかけ伏し目になりながら山越えをしてくるはだしの娘たちとはすれちがわない。山の中をただひとりで歩くと、外界の自然の音響と意識のうちがわでのラッセル音とがその接触点できしり声をあげ、その耳鳴りのような閉鎖の気持の中ではこのままどこかに逃げて行く錯覚が起きた。さっきの老夫婦の老いた腰をのばしてこちらを見ていたすがたが、最後の目撃者の目となって残るようだが、しかしそれに難詰の色はなく、永久に口をつぐんだまま不憫《ふびん》の色を浮べてどこまでも追いかけてくる。七島藺《しちとうい》の植わった畑のそばを通ったとき、逃げてしまった夢の尾を、ひょいとつかまえた思い出し方で、内火艇の謎《なぞ》がほどけそうになった。つかえてとれなかった栓《せん》が外《は》ずれとび、分らなかった向うがわの水が伝わってきたように、センソウハ、オワッタノカモシレナイ、という考えが頭に来た。どう終ったかは想像もできないが、とにかく、それは、終ったのではないか。だから空襲の必要もなくなり、防備隊の内火艇を向い島に通う定期発動船のように昼日なかに海峡に出してよこすこともできるわけだ。オワッタ、オワッタとむくむくした煙のようなものが胸もとにつきあげてきて、私は思わずにっこり笑ってしまい、口もとをしめようと思ってもしめられない。からだの中の毒素を出してしまわなければそれは止まらないと思い、しばらく声を立てずに独笑しながら歩いた。私は生き残れるかも知れないと思うと、筋肉のどの部分もてんでにおどりはじめたようで、からだが熱く、中心に太い心棒が立ち、トエが傍《そば》に来たか誰かに見られたか、そんな感じがして思わず前後を見廻したが、誰も居るようではない。どうしてか自分がみにくいものに思えたが、次々につきあげてくる衝動をどうすることもできないまま、鞘《さや》のまま日本刀を振り廻すようにし笑いを消さず上の方にかけのぼってみた。叫び出そうとする喚声をようやくとどめ、重ねて汗をかき呼吸が苦しくなると、やっと笑いがとまった。からだ全体を包みこんでくる女性的なものがまといつき、トエがずっとあとを追ってきているようだ。しかし一陣のなまぐさい風が過ぎ去ったあとは、その考えがどこから湧いてきたか見当もつかない。私の与えられた任務は特攻艇の使用にあるのだから、戦況が良い方に打開されたとしても、ただ基地が移動してもっと前線に出て行くだけのことだ。それの使用が全く必要でないほどの決定的な好転は、どう考えてもやってきそうでない。するとふたたび鉛のようなものがからだに沈み、何かの前兆ではないかと思い不安になって足を早めた。行ってみるとそこは青海原《あおうなばら》、というおそれが気持の底に沈んでいて、心が波立つと表面に浮び上ってくる。
赤土の急な坂がSの部落に下ったとっつきのところの疎開小屋が視野にはいり、見てはならぬ場所をのぞき見した気持になった。たしかな遮蔽《しやへい》がなく、炊事のあとの汚水と糞尿《ふんによう》に侵されたあからさまなでも親密な露出が、そばを通る者に刺激を与えるようだ。傾斜をすっかり離れ、Sの部落の田圃《たんぼ》全体が見通せるところに出た私は、あきらかにふだんとちがった様子を見た。というよりむしろふだんにもどったと言うべきだろう。今までふだんと見ていたのは、空襲をおそれて耕作者が出ないために荒れるにまかせた異様な田園の風景であった。また部落のはずれの海岸に岸壁をきずき、兵舎と練兵場と桟橋をもった海軍の防備隊があるために、何度も爆撃のとばっちりを受け、あちこちに爆弾で掘り返された月面を思わせるあばたができていたが、それも整地されるでもなく、そのままのすがたをいつまでもさらしていた。その田圃に今、人々が何人もはいって折目《おりめ》の祭のようなにぎわいをわきたたせながら、おくれた刈入れをしていた。そのあたりまえのことが、そこに予想した無人の風景と重ならず、人々の点在が、取りちらかされた余計な塵芥《じんかい》と見え、かえってどきりとした異様な情景がそこにくり広げられていると感じたのがおかしい。弾痕《だんこん》のある凹《くぼ》みにも頓着《とんじやく》せずにふみこみどんな危険も感じない様子も異状を強めるに役立った。いくらかは不平をなげやりな態度にふき出させているふしがあって、空襲におびえ軍人たちに弱々しく腰を曲げて譲っていたすがたと重なり合わない部分があらわれていた。南の日に焼けた彫りの深い容貌と毛深な手足の骨格のたくましさが、ことばの通じない場所の人の距離を、あらためてそこにたてまわしているように見えた。でも何が起ったのだろう。今まで受けたことがなかった彼らのその無関心な表情が私をおびやかした。不発弾が田圃の中にあるかも知れぬおそれもそれに荷担した。それはあの滄桑《そうそう》の変化にでくわすことを避けたい気持にもつながったものだ。意識の底で何を理解したのか分らぬが、自分の軍装のすがたがおかしなぐあいに浮上り、おそれにつながる感情の端緒のところで軽い寒気を感じた。少し足早に田圃をつききり、部落にはいらずに、防備隊の正門に通じた広い道路に出るかどのところで私は重ねて異様なにぎやかさにぶつかった。それはそのそばの高射砲台で、偽装のためにかぶせていた生木を取り払い投げ捨てたままで、四、五人の作業員が台座のあたりを掘り返していた。それが整った仕事ぶりではなく、なげやりな乱れが露骨にあらわれていた。それをきたないと思ったとき、どういうわけか、ニホンハコウフクシタ、という考えが私を打った。あらためて峠への坂道で襲われた生臭い体感を思い出し、二つが重なって、その場をのがれようとする弱い頭脳に、真実を無理強いするようなふしぎな精神状態を起した。でも事態は経験をはみ出ていて、うまく理解のうつわの中におさまってくれない。日本の降伏があり得るとは思えないがそうとでも考えなければこの言いようのない異臭に満ちた光景の理由が分らない。別に何一つ降伏の事実を言い表わしていたわけではないが、過去がそこで骨折して食いちがいきたない肉塊をはみ出させた様相は、想像もできない、或る事の挫折《ざせつ》の光景を語っていた。負ケタ負ケタ負ケタと頭の中を出口が分らず狂いまわる考えと一緒に、おかしなことには、生き残った実感がその居場所をかためはじめ、頬《ほお》に笑いを押し出してよこした。坂道でのつきあげてきたエネルギーがふたたびわき起ってきて頬ににじみ出る笑いをおさえるのにおかしな苦労をしながら防備隊の正門をはいったが、隊内の様子は別にそれほど変ったふうでもない。やはり自分は何か先廻りした幻想にとりつかれたのかとあやしげな気持になった目に、兵舎の裏の一隅《いちぐう》から長くとぎれずに立ちのぼっている一すじのすすけた太い煙が見えた。するとまたあのへんな確信がわき、見通しのきく練兵場に出ると、そこにつっ立っている航海長を見つけた。私は彼のそばに走りよって、とうとうお手あげでしたね、と言ってみたい気持が起った。応召する前は或る外国航路の商船の船長をしていた予備士官の彼には、いつもは軽口を言ってみることもできた。もしかしたら彼の方から冗談事のようにキサマいのちびろいしたな、などと話しかけてくるような気もした。でも私を見つけた彼の表情にはけわしいまじめさが認められ、思わず私も表情をひきつらせ、軽率にかけよることがためらわれ、歩調を変えずに大股《おおまた》で近づいて行くと、彼はにらみつけるようにして私の接近を許した。彼が何を考えているか分らないが、今ここで冗談を言って笑い合う二人がほかの者から眺《なが》められることを考えたら、なお少し残っていた笑いの種がひっこんだ。でもいつものように理解されている年長者に向う気持で敬礼をし、何も言わずに彼の傍に立った。
「御苦労御苦労。歩いてきたのか」と彼は言った。
私がうべなう返事をすると彼は視線をはずして兵舎の背後の崖《がけ》の方に目をやった。私は練兵場からはいっそうよく見える煙の方に目が行きがちだ。しばらく無言のまま別々の方向をみながら二人は立っていた。
「えらいことになってしもうた」
と彼はぽつりとつけ足して言った。
私は予感と妄想《もうそう》かも知れぬはたらきだけで思いめぐらしていたので、正確にはまだ何も知ってはいない。しかし直接そのことをきくのはどうしてか躊躇《ちゆうちよ》され、ことばを変えて言った。
「今日の召集は何でしょうか」
すると彼は私の目をのぞきこむようにして、
「正午に陛下の御放送があるはずだ」
と言い、そしてとどめを刺すぐあいにつけ加えた。
「無条件降伏だよ」
ムジョウケンコウフク、と私は頭の中で反芻《はんすう》した。それは子どもの戦争ごっこか大学の講義のときにでもきいた実体のないことばに過ぎないではないか。それが今現実の重さで目の前に立ちはだかった。といっても本当は私の耳はそれを予期していた。ただ肉声ではっきりそのことばが発音されると、取りかえしのつかぬ重さを装い出す。あらためてそれが具体的にはどんな意味をもつものか見当のつかない戸惑いにぶつかった。それは少しずつ、馴染《なじ》みの、未知のものへの怖気《おじけ》の顔付に変貌《へんぼう》した。それはよく分らぬながら、今の戦闘態勢の中で完全にそのしくみから脱れ出るまでにどれほどこみ入った煩瑣《はんさ》をくぐりぬけなければならぬかということへのおそれだ。おそらくそこを無疵《むきず》で通りぬけることは不可能ではないか。その中でただの一つにつまずくことでもたぶんそれは死を意味するだろう。つい先刻までは恐怖にさいなまれながらも死の方にだけ向けていた考えが、ぴりりと引き裂かれて、生きのびられるかも分らぬという光線がさし込んできた。そしてその光線を浴び無性にいのちが惜しくなっているのに、もう一度、死の方に頬を向け直さなければならないとはどういうことだろう。そう考えると、もともと色つやの悪い顔が反応して急に青くなったように思え私はなんべんも顔を両手で拭《ぬぐ》うようなしぐさをした。さっきおさえ殺してしまった笑いを、むしろもう一度呼びもどしたいと思ったほどだ。段をつけるようにやってきた変調が自分ながら分らない。
正午の放送は雑音が多くてよくききとれずに終った。雑音を縫って高く低く耳なれぬやわらかな声音がいっそう架空な気持に誘った。そのあと司令官があらためて日本が無条件降伏を受け入れたことを伝えた。各出先隊の指揮官はそのことを各自の隊員に伝え、軽挙妄動《もうどう》することのないよう注意を受けた。集合はすぐ解かれたが、私は特攻参謀に呼ばれたので、彼の部屋に行った。彼はふだんの顔付を私に示したが、以前より少しだけ人なつこくなっているようであった。以前の固さからは全く想像できないくだけた態度があらわれていた。これまで彼の前では兵術に未熟な予備士官の私の素性が殊更《ことさら》にあらわになった。それに反し海軍兵学校の訓練が身についたきりりとした彼の態度が、肩に巻きつけた参謀肩章と共に、軍隊の威厳を装わせ、それは抑制された或る美しさがあってさからうことができなかったのに。ほんのわずか、にじみ出た今までに見せなかった彼の過剰な応対が、私をけげんな気持にさせ、彼の参謀室をふと商事会社の応接室と思わせ、おそらく私の態度の中にはかすかな横着が顔を出したにちがいないが、それは隊に帰り降伏のことを伝えこれから先の対処を決めるときに、今度は私が隊員から受けるかも分らないものだ。
「司令官の達しで分ったと思うが、今のところ単に戦闘を中止した状態ということだな。だからもし敵が不法に近接したときは突撃しなければならない場合の起ってくることも充分考えて置かなくちゃいけない。君のところの特攻艇だが、御苦労だけれど即時待機の態勢を解いてもらっては困るんだ。こちらから指示するまで、今のままで待機していてほしい。ただし信管は抜いて置いてほしいな」
と言う彼を、私はじっと観察することができた。前にはできなかったことだが、それができる今の自分を以前のこういうときに移したいと思いながら、私は或る示唆を受け、血の気の失せて行くのを心遣《こころづか》った自分の頬に生色のよみがえった思いをした。彼のことばで、はかられていることを知りながら緊張し、暴走しようとするもう一人の自分をなだめて骨抜きにして行く過程を味わった。これは私も将来自分の方法として採用しなくてはならない、と片方で皮肉な気持になりながら、反面私は彼を好ましく思い、彼と一緒に、つい先刻までは崩壊しなかった秩序の中で、禁欲的な特攻作戦に没頭したいと思った。
「ところでね、これはどうしても私を信じてもらいたいんだが、君たちの気持を私は充分理解できるつもりだ。だから無理解な一方的な処置は絶対とらないつもりだ。どうかどんなことでも事前に私に相談してくれないか。くれぐれも断って置くが、これは私だけの気持なんだ。きっと悪いようにはしないよ。決して思いつめて単独でやらないようにな。どんなことでも私を信じて相談してほしい」
その彼のことばははじめのうち何のことか分らなかったがやがて私はその意味に気付くと、晴々としたおかしさが訪れてきたが、黙ってそのまま意味がよく分らぬ顔付を消さずにきいていた。五十二隻の特攻艇を持っている私の隊がこの際どのように見られているかが分り、もしその気になれば私は彼を脅すこともできる立場に立たされていることが、或る満足を私に与えた。私は特攻艇を率い、休戦を無視して敵陣に突込むことなど少しも考え及ばなかったが、その気になればそれが可能であることが分り、妙な気持になった。でも私は本心を彼には告げずに黙っていた。
特攻参謀と別れたあと私はそのまますぐ帰隊することはためらわれた。どういう順序で隊員たちにこの急激な変革を伝えてよいか思案がつかない。もし誰か一人でも武器を手にして突撃の決行を迫る者が居たら、それをどう扱ったものか。もし私の拒絶に激昂《げつこう》して日本刀で切りつけるか拳銃や小銃を発砲するようなことがあれば、私はそのために斃《たお》れなければならないだろうか。或いは対抗して私闘をひろげることができるか。そこのところの心決めができなければ私は隊にもどることはできない。私の足は知らずに予備士官の個室の方に向いた。予備学生の同期生は、訓練を受けた一緒の期間も少なく、また入隊以前の一般の学校でのそれぞれの学生生活を持っているから、そこにだけ青春を見据えるほどの親密な感情はないが、何と言っても、さなぎの期間を互いに内部から見られたひるみを持ち合っていることに変りはない。クラスの中でかりそめに居場所としたそれぞれの位置は、実施部隊に移ったあともすっかり変えてしまうわけには行かない。それは成人してから小学校の級友に会ってうっかり虚をつき合う感じと似たようなものだから、孤立した隊の中でなじんでいるこのごろの私の姿勢は、さかのぼった過去のそれに合わそうとすると疲れを覚えた。でも今は彼らの中にはいって子どものときのように気ままなおしゃべりをしたいと思った。しかし彼らの多くは私を避けるように思えたのは気のせいだったろうか。高射砲台を受持っていた一人は拳銃《けんじゆう》をみがいていた。彼は防備隊に突込んできた敵の急降下爆撃機にも姿勢をかがめずその何機かをうち落したその勇気が私の耳にもきこえていただけでなく、予備学生のときにも環境にたじろがないいさぎよさがあって私は目をみはって見ていた。彼は転勤のときのように散らした個室の中で椅子に腰かけ、分解した拳銃をみがきながら、予備学生のときに習慣付けられた二人称を使って言った。
「キサマは特攻艇をもっているからうらやましい」
返事ができないでいると、
「何かたくらんでいるといううわさだぞ。やるのか」
と、重ねて言ったので私は返事をした。
「何もたくらんでなぞいないよ。オレのところは拳銃もないんだ。二百三十キログラムの炸薬だけだ。でも何にもしないよ」
「まあ、そう言うことにしとくよ。とにかくよキサマはうらやましいよ」
そして早く帰ることをうながす具合に手もとを乱暴に動かす様子が見えたから、彼に別れてそこを出たがその拳銃を使って彼が何をしようとしていたのか、分ったわけではない。機帆船隊に乗組んでいた一人は、中途で放棄してきた大学にはいり直して書物をたくさん読んでくらしたいと言っていた。島々のあいだの連絡のためについ最近まで出航を強《し》いられていた彼の配置こそ、持続的な危険に最も多くさらされていたといえるかもしれない。しかし防備隊付の彼らは身軽で既に軍隊の組織の外にほうり出されたと等しいように思えた。しかし私は、まだそこから抜け出てはいない。今から無条件降伏の事実を伝えるために帰らなければならない。参謀や同僚が私に向けている眼付を私は自分の隊員の方に向けなければならない。
内火艇が防備隊の岸壁をはなれてしばらくのあいだはすすけた黒い煙が長くたなびくのが見えた。それは病死した捕虜を焼く煙だと言っていた。やがて自分の隊の入江にはいるころは、すでにあたりはたそがれどきのやわらかな光線に包まれていた。
先任将校のK特務少尉が、外出から約束の時刻を無視して帰宅した夫を迎える妻の顔付で桟橋に立っていた。防備隊での様子をいち早く知りたがっている彼の目に私は総員集合をかけることを要求してすぐ本部の自分の部屋にはいった。
入江の夕暮れどきの静けさは、集合の騒ぎでにわかにかき乱されたがやがて規則的な号令のあとで、またもとの静寂に返った。三角地帯のかなめのあたりに設けられた本部から渚《なぎさ》に近い広場までの傾斜地には甘薯《かんしよ》が作られそのあいだを縫うようにこしらえたソテツ並木の坂道が、総員の集合した場所に出て行く私の前に横たわっていた。珊瑚虫《さんごちゆう》石灰骨片の小石をしきつめた広場は百八十人の隊員が集まるとあといくらも余裕がなく、渚とのあいだに生垣《いけがき》を設けたぐあいに生えたユナギとアダンの叢生《そうせい》を背景にして、整列した隊員たちが長方形の隊形の中で顔を重ねていた。彼らの一人一人が予感や情報の中でどんな思索の中になげこまれているか私が分るわけはない。用意された台の高さだけの展望から眺《なが》めおろすと、加速度を増して暗さを重ねてくる夕やみの中でも、まだその表情をはっきりとらえることができた。そのどの顔も私が今伝えようとしていることばに渇《かわ》いている熱っぽい集中があった。
「達する」とこころみの中に身をまかせる気持で私は言った。
「天皇陛下におかせられてはポツダム宣言を受諾することを御決意になり、本日、詔書を渙発《かんぱつ》なされた。つまり我国は敵国に対し無条件降伏をした。各隊はただちに戦闘行為を停止しなければならない」
隊伍《たいご》の中にかすかな揺れがあった。何かを待ち受けるように私はいったんそこでことばを止めた。静寂がつづく中で、何人かの隊員の顔が個性を思い起させながら、私の意識にはいった。それは年若の者と年配の者が交錯していたが、その瞬間後者の面上に安堵《あんど》の色が浮んだのを見のがすことはできなかった。それはすぐ消えたがその気配は隊伍《たいご》を縫って結び合い、もやのように全体を包んだと感じた。私はそれを予想してはいなかった。幾つかの個性が、鋭角な抵抗感を湧《わ》きたたせていることも感受できたが、それはひどく孤独なすがたをしていた。
「われわれは宣戦の詔勅によって戦争に参加した。従って終戦の詔勅が下った以上、それに従わなければいけない。決して個人的な感情で軽々しい行動に出てはいけない」
言いながらそれはごまかしだとささやく自分が居た。もしここで、こうではなく詔勅に反して特攻出撃の決意を発表したらどうだろうと考える自分も居た。しかし年配の隊員の表情にはほっとなり、自分の論理に従えずに落ちて行く感じの中で、無理におし出すように先を続けた。「正式な講和の交渉がいつはじまるかは分らないが相当長期間われわれはこのままの生活をしなければならないと考えられるから、当分のあいだ従来のままの日課を行う。なお一言注意しておくと、特攻戦に対する即時待機の態勢はまだ解かれてはいないから間違わないように。信管も挿入《そうにゆう》したままにせよ。戦闘停止ということはあくまで暫定のものだから、もし敵艦が正式な交渉を待たずに勝手に海峡内に侵入してくればわが隊は直ちに出撃する。そのつもりで気持をゆるめないように」
ひどい疲れが私を襲い、部屋のベッドに仰のけになった。危惧《きぐ》した事態のどんな徴候もなかったからその限りに於《お》いてもう案ずることは何もなかったのに、言いようのない寂寥《せきりよう》が広がっていた。時点が移ってしまえば、想像することさえ禁じていた、死の方に進まなくてもいい生きのびられる世界は、色あせて有りふれたものにしぼんでしまい、そこで手ばなしで享受できると考えた生の充実は手のひらの指のすきまからこぼれてしまったのか。装われた詭弁《きべん》があとくち悪く口腔《こうこう》を刺激し、生きのびようと腐心する私を支える強い論理を見つけ出すことができない。戦争と軍隊に適応することを努めその中で一つの役割を占めたことによって出来かけていた筋道を、生きのこることによって否定したことになれば、それでそれ以前のもとの場所に帰ったことになるとでも言うのか。しかしその考えは私を少しもなぐさめない。生きのびるためにそのとき適宜にえらぶ考えは、環境の大きな曲り目の度毎《たびごと》にまたえらび直さなければならなくなり、とどまるところなくくり返されるにちがいない。刻々の嫌悪《けんお》感の中でだけ反応してきた過去が、空襲と突き当るときの想像と抗命をおそれ、それらの可能性が自分の意志の結果としてではなく、自然現象のように去ってしまうと、そのあとに空虚が居残り、新たな局面に出かけて行って対処するエネルギーが生れてこない。
おそい夕食が用意されて酒も配られた。食卓についた准士官以上は、まださぐり合う猜疑心《さいぎしん》でお互いを伏し目がちな姿勢にさせた。何と言っても覆《おお》うことのできない虚脱がそこにあった。ちょうど電信員が傍受した情報がもたらされ、それが披露《ひろう》されたとき、先任将校が口をほどき、おさえていた気持をぶちまけてしまった。情報は大分に居た特攻司令長官が詔勅の放送をきいたあと自分自身一番機に乗りほかに八機を従えて沖縄《おきなわ》島の中城《ナカグスク》湾に最期の特攻突入をかけたことを伝えていた。それは私に強い衝撃を与えた。先任将校の声が無条件降伏のだらしのないこととヤマトダマシイの喪失をなげき、特攻機で多くの部下を殺した特攻長官の最期の態度を武人の手本だとたたえた。酔いが同じことを彼にくりかえさせたとき私は口を入れないですますことができない。「もし何ごとかを本気で決意している者なら、きっと何も言わずに黙っていてやるだろうな」彼は目を光らせて黙り、食堂兼用の士官室に気まずい空気が流れ、私は自分の部屋にもどってベッドに横たわっていた。
それぞれの兵舎の方角や広場のあたりからも、ざわめきが伝わり、時おり誰かが大声で叫ぶのがきこえた。効果のないことと知りつつ最期の特攻突入をかける姿勢は、私にも栄光につつまれて見えた。でもそれを口にすれば、危機をすりぬけたみじめさをいっそうかきたてることになるから、そうするわけには行かない。それを彼がくり返して言っていると嫌悪がわき、それは私の今までのやり方への非難を含んでいるように思えた。いつわりが少なく意志的な彼のよごれのない態度に魅《ひ》かれながら、一番強い反撥《はんぱつ》を感じてしまう。しかし彼がもっと強く私につっかかってこなかったことに安心しながら彼を値ぶみしてみている自分が解《げ》せない。もしかしたら、武人の本分を楯《たて》にし与えられた特攻の目的を変更せずに貫くために突入を私に強《し》いるかも知れぬと考えていたのに。しかし彼はそれをせずに酔いにまぎらせて鬱憤《うつぷん》を散らしただけだ。えたいの知れぬ一つの悲痛が、隊を襲っていることに、やがて私は気がつかなければならない。
うつらうつらしたと思ったとき先任下士官が腰をこごめてはいってきた。
「おやすみのところよろしゅうございますか」
と彼は言った。いつものおとなしい彼と少しちがっているところが見えた。酒気をおびたからだをふらつかせながらベッドのそばに来てうずくまり、隠していた思想を打ちあけるふうにしゃべりはじめた。
「少し酔っていますがかんべんして下さい。でも隊長にはどうしても一度お話ししたいと思っていました。お話ししてもよろしゅうございますか」
と念をおすので、私はかまわないといった。
「わたしたちがどんなに苦労をしてきたかあなたには分りませんですよ。今こうしてわたしが上等兵曹《へいそう》にまでこぎつけたのに何年かかったと思いますか? 十年ですよ。十年もわたしは軍隊というところで青春をすりへらしてしまったんです。それでようやく上等兵曹です。もっともあなたにとって上等兵曹など別に何ということもないでしょう。あなたはご自分では気がつかないでしょうが、わたしから見れば、こう言っちゃ何ですが幸福な境遇ですよ。何不自由なく最高の学府を出してもらって。そうでしょ。わたしは知っておりますよ。申し上げてみましょうか。御尊父は絹織物輸出貿易商をなさっておられるでしょう? わたしは隊長のことは何でも知っていますよ。おどろきましたか」
「絹織物輸出貿易商じゃない。輸出絹織物商だよ」
「おや、まちがいましたか。とにかくお金持のお坊ちゃんにはちがいないですよ」
「私の家はそんなものじゃない」
「でもわたしの家とはくらべものになりませんですよ。わたしの家は小学高等科に出してくれる余裕もなかったですよ。あなたは海軍においでになってからまだ二年もたっておらんのにやがて大尉に昇進なさる時期に来ていなさるのですからねえ。おこらないで下さいね。おこって下さると困ります。お気にさわりますか。しかしこんなことはつまらんことです。日本は負けてしまったんです。テイコクカイグンなんかふっとんじまったんです。海軍上等兵曹も何の役にもたたなくなりました」
彼がはいってきて話しはじめたとき、私はトエとのことを言われるのではないかと思った。言外にそのことをほのめかしているのかもしれないが、あからさまには現われてこない。
「あなただから言いますがね、実はこうなることをわたしは予想していました。最近の海軍は昔のテイコクカイグンとすっかり様子がちがってしまいました。これでは戦争に勝てっこはないですよ」
「私は昔の海軍は知らない」
「いえ、それはわたしだって隊長のあとにつづいて立派に突撃するつもりでした。でも何だかこんなふうになるのじゃないかと思っていました。わたしは本当は軍人などに向きません。これからわたしは家に帰ったら百姓をやりながら好きな発明の研究に没頭したいと思っています」
「ハツメイ?」
と私はききかえした。
「……の発明です」
彼は目を輝かせて言ったが、何の発明か私にはききとれなかった。
「今でも課業のひまにその研究をやっておりましたんですよ。わたしはそれさえしていればほかに何のたのしみもいりません。隊長は御存じなかったのですか。すっかり分っておられると思っておりましたのに。もっとよく部下の身の上を知っておいていただきたいですな。わたしはその研究で特許を一つ持っております。ちゃんと登録された特許権です。今度くにに帰ったらそれを実用化する方法を考えます。女房に手伝わせて、それに没頭するんです」
「それはいいな。私は何をしていいか分らない」
と私は言った。
「隊長、あなたは帰れるつもりでいるんですか」
と彼は急に声を殺して言った。
「…………」
「今度の戦争の責任は、士官がとらなければなりませんよ。下士官兵には責任はありません。士官とはそういうものです。今までそれだけの特権が士官には与えられてきたのですから。あなたはいくら期間が短く、また予備士官であっても、お気の毒ですが士官としての責任をとってもらわなければなりません。それにアメリカ側が必ずそれを要求してきます。私は長いあいだ軍隊でくらしてきましたからそのところがよく分るのです。覚悟しておかれないといけませんよ。士官は全部処分されるかも分りません。そうでなければこれほどの大きな戦争のあとのおさまりのつくはずがありません」
彼のそのささやきのことばは妙に真実性があった。
「これは思わず長話をしました。せっかくおやすみのところをおじゃましました」
と普通の声にもどった彼が立ち上った。
「へんなことを申し上げましたがお気になさらんで下さい。どらわたしはこれからヘイタイたちがばかなまねをしないかどうか見廻って参ります。そっちの方は御心配なさらんでこのわたしにおまかせください。どうもどうもおじゃましました」
と彼は二、三度腰を折って辞儀をした。そしてふらつく足で入口のところまですざり、そこでもう一度深い辞儀をした。
「ではごゆっくりおやすみください」
彼はそう言って出て行った。
残された私は気持がふさいだ。唐突に「毒を仰ぐ」という熟語が浮んだりした。それは私にできそうなばかりでなく、自分にふさわしい語感があった。このようにして隊の中の今までの秩序が崩《くず》れて行くのだと思うと、その過程が見えるような気がした。すると抜刀してお互いの肉をそぎ合いながら血を流す光景がまざまざと目の裏に浮んだ。私は起き上って日本刀を取り、それをベッドの中に入れた。考えられもしない変化の中でせっかく生きられる状態が出現したのに、それを完全に自分の手の中に収めるまでにはなお多くの難関が横たわっていることにがっかりした。もし刀を抜かなければならぬときは抜こうと心に言いきかせた。拳銃は持っていないが拳銃でない方がその場合むしろ心に適《かな》うと思った。トエのことをちらと思ったが、夜毎に血が狂ったように求めていた気持がうそのようにおさまっているのに気付いた。むしろ或る安らぎの中に吸収されているのではないかと思った。日本刀を抱くようにしてその鞘《さや》をさわっていると殺伐な気持が湧いてきた。この気持を以前に欲しかったと思った。だがいずれにしろ明日になったら何よりも先ず特攻艇の兵器から信管を外《は》ずさせよう、と思いながら私は眠りに就《つ》いた。
(昭和三十七年七月)
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部)
この作品は昭和四十八年九月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
出発は遂に訪れず
発行 2002年2月1日
著者 島尾 敏雄
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861162-4 C0893
(C)Miho Shimao 1973, Coded in Japan