この愛蔵版は、文字通り「空の境界」という作品の最後を飾る柩なのだ。
どうか、五千もの手向けの花が黒い柩を埋めますように。
--奈須きのこ
/はじめに。
講談社ノベルス「空の境界」の愛蔵版へようこそ。
愛蔵版がどのようなお化け仕様なのかは、手に取っている貴方が身を持って理解しているであろう
から説明は省くとする。
とりあえずハコの出来にビックリし、棚を開けて中まで真っ黒いコトを確認し、銀一色の「空の境
界」を見てニンマリする―――そんな方を対象にして、この別冊は作られている。
用語集が蛇足なら、このあとがきなぞ更に蛇足、もはや蛇から乖離した第二の蛇っていうかイモリ
の尻尾に違いない。まあ、つまる所断末魔だ。
以下は愛蔵版を手にしてくれた方へのお返しとして、最初で最後の「小説のあとがき」の真似事を
してみた著者の言葉と呪詛だったりする。
1/望遠憧憬
星を見た。
それがどこの星かも知らなかった、子供の頃の昔話。
本書は講談社ノベルス「空の境界」愛蔵版に収納される別冊である。
「空の境界」という物語には決して組み込まれない情景。結論を言えば有ってはならない余分でしか
ない。
全ての物語は、完成し発表された時点で作者など不要になる。出来上がった物語は物語のモノだ。
それを、ただ書き上げただけの存在にすぎない作者風情が解説するなど、自らの脳にナイフを入れる
が愚行。けだし、己の崩壊を早めるだけである。
物語には意味がない。否、人間には共通する意味がない。自らの認識にあるなんだかわからないモ
ノを無理やり組み立てて、客観的になんだか分かるモノにする行為。それが自分にとって物語を綴る、
という行為と思っている。
作者の愚行などどうでもいい。物語は物語として有ればいい。その製作過程など、物語にとって余
計なウエイトにこそなれ、何の付加価値も生み出さない。
だから見るべき側、楽しむ側も、決して作品の舞台裏を覗いてはならない。舞台裏とは想像として楽
しむもの。無防備に踏み込んでいい領域ではない。それは、物語の作者ですら立ち入ってはいけない
世界なのだ。
作者は、物語がまだ完成していないうちは神である。だが完成した世界に口を出す事は許されない。
0か1かだ。神さまは存在るだけでいい。手は出すな。
―――さて。
そんな持論を持っていながら、このような解説文を書く自分は何者なのか。
物語、特に一個人で完成させた小説というものにあとがきは付かない。
(例外として、あとがきをもって物語を終わらせる、という離れ技はあるが)
語りたい事をなんとかしてカタチにして、自分以外の誰かに提供したのだからこれ以上何を言えと
いうのか。少なくとも、その『本』の中では分かったつもりでいた事は全て吐き出した筈なのだ。
が。
どうにも、作者には完成した物語に介入する権利はないが、生み出した親としての責任があるらし
い。
なんだかんだと屁理屈をこねたところで舞台裏を最も記憶しているのは作者であって、キャスター
として最適であるのは間違いない。この本自体がありえない矛盾であると公言して開き直り、物語に
即した舞台裏を思い描いてみようと思う。
この余分は、つまりそういう事だ。
六年前の鏡を見て、かつての自分が何を思っていたのかを思い出そうとする試み。
それが少しでも、何か意味を作り上げるものであればいいのだが。
…………しかしなあ。正直なところ成長してしまった息子をあれこれ分析したところで、それは親
の分析であって息子本人の認識ではないというか。終わってしまった物語は彼岸にいってしまったよ
うなもので、故人をいくら懐かしんだところで生き返りはしないのである。まる。
2/清算絞殺(前)
一九九八年の七月。
一年前から目標を失い、労働に勤しんでいた自分に相棒の武内が話しかけた。
「おまえ、最近小説書いてないな」
夏を目前にした夕暮れを望む、二階のベランダでの事である。なんかウソくさいぐらいに絵になる
のだが、これが本当なもんだから始末が悪い。曇りと快晴の中間。茜と紫の入り混じった黄昏時にそ
んな事を言われたら、塀で眠っていた猫だって筆を取らざるを得ないのではあるまいか。
結果として、友人がHPを運営するから、おまえは短編小説でも書け、という話に落ち着き、その
月からせっせと筆を走らせる事になった。
それが「空の境界」の原因、大本の一であったりする。
前後するが、別に小説が嫌いになっていた訳ではない。
愛情は以前より増していたし、創作意欲は抑えきれないほどあった。
ただ、小説を書く、という事への対峙方法が変わっていただけだ。
一つめの長編を書いた時、自分の中にあったのは結果だけだった。
書いて、その成果を糧に生きていきたいという願望がエネルギーだった。
二つめの長編を書いた時、その比重が大きく変わった。
書いて、その後に来る成果より、書き上げた事自体に意味を見出した。
三つめの長編は、それが嘘なのか本当なのかを問う為に書いた。
過程と結果、そのどちらが欲しいのかと天秤にかけ、比重は過程の方に大きく傾いてしまった。
そうして目標を見失った。
自分のために書くものなら、自分が書きたいときに書けばいい。
何かのために、結果のために筆を取らなくでもいいのだと悟り。
―――けど、それは見栄だろう、と。
一年経って、ようやく自分の弱さにつっこみを入れられた。
そんなこんなで、分かりきった顔で引き篭もっていた自分の首をきゅっと絞めるため、「空の境界」
は武内崇のHP「竹箒」で、「空の境界式」としてスタートした。
3/痛覚共有
以降、一月に一話のペースで「空の境界」は続いていく。
全七話構成と決め、今の自分が面白いと感じる伝奇物の要素を惜しみなくつぎ込もうと躍起になっ
た。
目指すは伝奇と新本格の融合な訳だが、つまるところ好きな食べ物を一緒に食べたかっただけであ
る。
本編を書いている時の思い出はないのだが、始まる前の話なら、幾つか覚えている事がある。
例えば、「空の境界」の主人公となる両儀式は、もともと異なる作品の主人公だった。
死の線が視えてしまう殺人快楽症の殺人鬼。この男がたまたま殺した相手が実は吸血鬼で、殺した
翌日に街ですれ違う――――という、伝奇活劇の主人公が両儀式のプロトタイプである。
(ご存知の通り、このプロットは「月姫」のプロトタイプでもある)
当時、殺人鬼が主人公である事に矛盾を感じていた自分は、この物語を停止させた。自分を騙せな
い嘘で誰が騙せるというのかっ。
が、数年して笠井潔氏の「哲学者の密室」に出会い、死という概念に何らかの突破口を見出した。
笠井流に言うのならこれも革命だろうか。新しい価値観を得た自分は、今ならあの主人公を描くこと
が出来る、と死の線を視る殺人鬼に再度挑むことになったのだ。(結果、「空の境界」はプロトタイプ
であった物語とはまったくの別物になったのだが)
「空の境界」を書き出す際の原動力の一つだった「哲学者の密室」の作者、笠井潔氏に上巻の解説
をして戴いたのは、光栄であると同時に、多少の恩返しが出来たようで嬉しくもある。
「空の境界」は月一掲載予定だったので、毎回一人怪人を出し、小テーマをこなしながら大テーマ
を解決する、という構成にした。
各話のテーマは章タイトルが示す通りなので割愛するが、「空の境界」の大テーマは言うまでもな
く両儀式と黒桐幹也の関係にある。
美しい死ではなく汚らしい生、否定する事による肯定を書き上げようとした。
いやもう、ぶっちゃけ言えば式という異常を、幹也という日常で癒してあげたかっただけなのであ
るが。
あ、もちろん萌えだって忘れてませんよ?
当時は萌えなんて便利な言葉はなかったものの、直感的な記号として情欲を刺激するモノは多々
あったのです。
両儀式や黒桐幹也が物語の選んだ登場人物だとしたら、黒桐鮮花は作者が望んだ登場人物なのです。
フ、動物化と笑えば笑え、俺が見たい妄想はコレなのだー! と臆面も無く物語に組み込んだりもし
たものです。
えー……とまあ、色々と回想してみたものの、あれはもう思い出せない過去の話。
当時の自分が何を信じ、何を見ていたのかは、もう「空の境界」の中にしか残されていない事である。
そう思うと、少し嬉しい。
輝かしい事だけで書き上げたつもりでも、無意識に感情は投影される。
当時、まだ今より若かった頃の何者かが感じた痛みも憤りも、あの中にはまだ生きているのかもし
れないからだ。
そう、大切なものは保存しておかないと。
なくしたり忘れたりする事が、人間あまりにも多いのだし。
4/清算絞殺(後)
一九九九年の初夏に、「空の境界」は完結した。
厳密に言うと六月に終わって、八月に同人誌として販売した。矛盾螺旋まではHP上で公開してい
たので、残る二編を含めた完結版をコピー誌で五冊ほど配布し、「空の境界」は終わった。
(これが二年後に復活し、さらに二年後にこのような形で印刷されるとは、当時の自分にはもう正
気の外の話である)
自らの首を絞める気持ちで始めた執筆だが、結局、絞殺には至らなかった。
最終章を書き上げた時の絶頂は終末的で、書きあがった時、もう小説を書くことは無いとさえ思った。
それほどの達成感だった。にも拘わらず、未熟な自分は生き延びている。
「空の境界」を書き上げる際、解決すべきだった問題を解決できなかったからだ。
何が生き延び、何が殺しきれなかったのか。
過程を楽しもうとした自分。
結果を求めようとした自分。
両者は相克する螺旋のように拮抗し、どちらが勝つ事もなく「空の境界」は終わってしまった。
もしどちらか一方が勝ち残っていたのであれば、自分はまた違った方向性を得ていただろう。そう
思うと、どっちつかずもそう悪くはない。結果オーライが我々の座右の銘だ。
「空の境界」は同人誌である。
それが商業ラインに乗ったところで変わりはしない。
これは自分の力だけを信じた、未熟な作者の作品だ。
同時に、今の自分には到達できな熱を持った作品でもある
となると。
若さ故の力が「空の境界」を作り上げたと思うのなら、六年越しに、ようやく絞殺は成ったという
事だろうか?
5/忘却再生
「空の境界」以降、世界観を共有するゲームシナリオを書く事になった。
もう小説を書く事はない、という「空の境界」の呪縛もあったし、元々ゲーム世代の人間、小説と
ゲームの中間であるヴィジュアルノベルに食いつかない筈もなかったのである。
やはり武内崇と協力し、同人ゲームサークルTYPE−MOONを立ち上げ、「空の境界」で得
た教訓と力を叩きつける形で「月姫」を書き上げた。
二〇〇〇年の冬に発表した「月姫」が評価を受け、その結果、二〇〇一年の冬に「空の境界」は
同人誌として製本された。
(自分がもっとも読みやすい講談社ノベル形式で作られた同人版「空の境界」は、悪ノリしてカバー
裏でちょっとしたお遊びをしてしまった。そのお遊びが講談社編集者、太田氏の目に付く事になり、
この愛蔵版があったりする)
ゲームと小説というジャンルは違えど、自分がやってきた事は変わらない。
奈須きのこという物書きが自分のために書いた伝奇小説、「空の境界」。
奈須きのこというライターがゲームのために書いた伝奇ノベル、「月姫」。
そして過去の自分と手を取りあうために書いた伝奇活劇ノベル、「Fate/staynight」。
顧みると、二〇〇〇年から後の自分は「空の境界」をスタート地点にして進み、こうして今に至っ
ている。
自分のために書いた物語は、確かに血と肉になったようだ。だがその原形は、奈須きのこという物
書きの中にはない。
かつての自分は死に、今はその記録を再生するのみである。
様々な幸運が働いて「空の境界」は商業ラインで製本される事になったが、それによって死者が蘇
る事はない。
この愛蔵版は、文字通り「空の境界」という作品の最後を飾る柩なのだ。
どうか、五千もの手向けの花が黒い柩を埋めますように。
6/空の箱庭
二〇〇四年、六月。「空の境界」、講談社ノベルスとして発刊。
ようするに現在である。つらつらとあとがきを綴ってきたこの解説もおしまいだ。
今、手元には最終稿がある。六年前の鏡を見せつけられているようで、ええい殺すなら殺せという
心境だ。
今回の発刊にあたり、文章は可能な限り手直ししようと思ったのだが、ある方から「これはこのま
まで出すべきだ」とのお言葉を貰い、素直に受け入れる事にした。
なにしろ、手直しするなら元の文章など一行も残らない。それでは元の意味合いが薄れるし、何よ
りこれは六年前の自分の物だ。今の自分が手を出していいものではない。己が未熟を恥じるのであれ
ば、いつか、時の流れに動じないものを書けるようになればいい。
六年かけて、ようやく自分はその考えを得た。
黒い柩を送り出して、生きている自分を実感したのだ。
それを、このあとがきの答えにして回想を終えようと思う。
自分が目指す場所も、歩き出した道理が分からない。
初めから崇高な目的があった訳ではないので当然だ。
歩みが止まった時、そこが未熟な自分が望んだ目的地だったと知るだろう。
その時まで、いつか見た星を頼りに歩いていく。
それでは、最後にあとがきらしく感謝の言葉を。
同人版の時、一行だけ作者の言葉を載せていました。
あの気持ちを、今は更に多くの方に向けて述べなくてはいけないのです。
『空の境界』という本のデザインを一括して引き受けて下さった斎藤昭氏、そのアシスタントであ
る山口美幸氏(愛蔵版)、兼田弥生氏(通常版)、解説をして下さった笠井潔先生、今回もお世話にな
りましたイラストの武内君&彩色のこやま氏、こんな無茶な作品を本気で信じてくれた担当の太田さ
ん、そして値段にもめげずに愛蔵版を手にとってくれた方。
―――この時代と、貴方に感謝を。
奈須きのこ