■ ふかしのゆめ。 / 二尋 司
夢――
無意識の象徴であるとも言われるが、ほとんどの場合は過去の記憶の接続不良。
そう。
経験していないことは夢の中でも起こらない。
では今、俺が見ているものは何だろう?
夢ではない。
夢ではないはずなんだ――
『お、俺がやったのか?!』
『そ、そんな! あなたが……?!』
ブラウン管の中では、ちょっとした事件が起こりつつあった。
状況だけをざっと説明すると今は土曜日で、ここは西館一階の琥珀さんの部屋。
そして時刻は、だいたい午後十時半前後――
少し前の遠野家なら眠りについているような時間帯ではあるが、今は大丈夫だ。
現当主の秋葉は夜に出すと騒ぎ出す“人外の血”をしっかりと押さえ込んでいるし、俺はといえば遠野の姓は、言ってみればただの飾りだから夜でもどうということはない。
それは翡翠も琥珀さんも同じことだ。
もっとも、仕事の方があるので二人はあまり遅くまでは起きてはいられないという別の事情があるけれど。それでなくても夜の見回りがあるのだ。
それでも幾分か自由になった夜のために、俺はテレビを中心にした娯楽の数々を遠野家に持ち込んだのだ。その中でも二人がお気に召したのは、各局が競い合って作っている――様に見える――二時間もののサスペンス劇場である。
そんなわけで今も、相変わらず小物の山にに埋もれているようなテレビを、三人で――つまり俺と、琥珀さんと翡翠で――のぞき込んでいた。
今放送中のドラマもいわゆるサスペンスものでタイトルは確か――
「高千穂に消えた絶叫〜危険な婚前旅行〜」
だったはずだ。
普通の――何が普通なのかは人によっても意見が分かれるとこだろうけど――観光案内も兼ねたような旅情サスペンスもの。
タイトルから察する通りに、この婚前旅行をしているカップルがにわか探偵に仕立てられている。 そして、そのありきたりの設定のそのままに、午後十時を過ぎる頃までは見え見えの展開のドラマだったのだが、そろそろ十時半を迎えるこの時間帯にさしかかった時、意外な展開が待っていた。
探偵役をつとめていた男に、にわかに疑惑の目が向けられる展開となったのだ。
もっともそれは、俺をのぞいての話だけど。
「言ったとおりだろう。この男が怪しいって」
俺が指さしたのは、婚前旅行をしていた男の方。役名は確か秀樹だったかの方だ。
「こういうのを倒錯とか叙述トリックって言うんだよ。でもこんなお気軽サスペンスにでてくる類のトリックじゃないと思うんだけどな」
言ってから、凄い偏見だなと心の中で苦笑する。
もっとも事実はこの偏見に近いのも間違いない。
「志貴さんて、推理小説読まれるんですね」
横にいる琥珀さんが尋ねてきた。
仕事中ではないということで、さすがにエプロンは外しているが和服姿は変わらない。
「うん。あれって人を一人殺すのに犯人は大変な時間と手間をかけるだろう。なんかそういうのって……ええと、不思議な感じがしない?」
死が視える。
その影響なのかどうかはわからないけど、俺は推理小説を読むたびにそんなことを感じてしまう。
そして、その感じは決して“イヤ”ではないのだ。
そんなわけで、マニアと呼ばれる人たちには敵わないものの、俺は結構な数のミステリーを読んできている。
もっとも、そんな感情が常識的にはあまり良くないことは理解していた。
「志貴さん。そういうのってちょっといけませんよ」
案の定というべきか琥珀さんが、少し怒ったそぶりで言ってくる。
「ハハ……それより、どうだい言ったとおりだろう?」
ごまかし半分、俺は琥珀さんに自分の推理の成果を自慢してみせた。
展開がこうなる前から、俺は“犯人はこいつだ”と二人に指摘していたのだ。
「そうですね、でもそうするとこちらの方も怪しいと思うんですけど」
琥珀さんはいつも通りの笑顔に戻って、ブラウン管の中の女優を指さした。
苦悩する秀樹役の男を必死に励ましている。
婚前旅行の相手で、確か役名が幸代。
その琥珀さんの意見を聞いて、俺は思わず眉音を寄せた。
「そうか、そういうパターンもありえるな」
推理ドラマをパターンで考えるというのはどう考えても邪道なのだが、この手の二時間ドラマでは、その制約上自ずから話の筋というのが決まってしまう。
「翡翠ちゃんは、誰だと思う?」
俺の苦悩を知ってか知らずか、琥珀さんは気楽に、俺達の後ろに控えるようにしてテレビを見ていた翡翠に話しかけた。
こちらは生真面目にいつものメイド服姿だ。
……と言うかそれ以外の服は見たことがないな。
その琥珀さんの申し出に応じて、翡翠はおもむろに指先をブラウン管へと向けた。
ちょうどそこには、初老の刑事役の役者が映っていた。
これもまたパターンなのだが、この手のドラマの刑事は徹底的に間抜けか、はたまた素人探偵を渋くサポートするかの二種類に分別される。
このドラマでは後者のタイプで、要所々々に登場してはドラマを引き締めていた。
翡翠はどうもこの刑事役を指さしているように見える。
――そんなばかな。
という言葉がこぼれそうになった瞬間、先に翡翠の声が響いた。
「犯人を――」
「犯人…………“を”?」
その不可思議な助詞の出現に、俺は一瞬平衡感覚を失った。
見るとブラウン管の中の刑事も同じような状況らしく、何だか目を回しているように見える。
翡翠の指先が、ぐるぐると回転しているように見えるのはきっときのせいだろう。
『じ、実は……』
何事かを告白しそうな初老の刑事。
そのあまりの展開に、俺は思わず声を上げて見入った。
「を、おおおおおおおおお〜!」
コンコン。
絶妙のタイミングでドアがノックされた。
無論、ドラマの中の出来事ではない。
琥珀さんの部屋の扉がノックされたのだ。
続いて扉が開き、そこには鬼の刑務官――ではなくて最愛の妹、秋葉……さんが仁王立ちに佇んでいた。
普段以上にまなじりを決して、キッとこちらを睨んでくる。
「いちいち注意しなければわからないんですか?」
「え?」
わけがわからないまま、疑問符付きの相づちを打つ。
「約束の時間は終わってますよ、兄さん」
「え!?」
今度はわけがわかった上で声を上げた。
「そんな馬鹿な、ドラマはまだやってるんだ。二時間経ったわけがない」
約束とはつまり、テレビは一日二時間という、遠野家の新たな“しきたり”のことである。
子供の遊びすぎに手を焼いた、時代錯誤の母親が言い出しそうな決まり事だったが、秋葉が前に通っていた学校では、堂々と校則になって生徒手帳に載っていたらしい。
もっとも秋葉は元々テレビは見なかったので、意味のない校則だったわけだが、俺がこの屋敷に帰ってきてこの校則を思い出したようだ。
なにか俺の行状が気に触ったらしい。
当主の権限でもって、この校則をしきたりに取り入れてしまった。
無論、おれはこの理不尽なしきたりに反抗はしたのだが、立て板に水の理屈の洪水と、秋葉の毅然とした眼差しに押し切られて現在に至っている。
だからといって、二時間の権利を削るつもりは毛頭ない。
当然の権利を主張するべく、俺は肺に空気を吸い込んだ。
「志貴さん知らなかったんですか? 今日は特番でこのドラマ二時間二十分あるんですよ。終わるのは二十分後です」
俺の機先を制するように、琥珀さんの言葉が投げかけられた。
な、なに……!?
地球がひっくり返るときには、きっとこんな感覚を味わうのだろう。
琥珀さんのその言葉を聞いて、俺は再び平衡感覚を失った。
脂汗がポタリと落ちる。
「さぁ、兄さん。約束です。部屋に戻ってください」
しかし、秋葉は容赦なく俺の腕をつかんで部屋の外へと連れ出そうとする。
ま、待て。
「なんで、二時間経ったことがわかったんだ?!」
一番の疑問が思わず口をついて出てしまう。
「もちろん見張っていましたから」
胸を張って秋葉は答える。
見張る――
俺が琥珀さんの部屋に入るのを二階から見届ける秋葉。
部屋に戻って時計盤とにらっめこしながら、短針が二回りするのを待ち続ける秋葉。
琥珀さんの部屋から俺が出てくるの見届けるために張り込みする秋葉。
一瞬にして襲いかかってきたそのビジュアルに、俺は思わず吹き出しそうになった。
「兄さん!」
秋葉の鋭い叱責の声。
「は、は、は、はい!」
と、思わず従順に返事をしてしまったが違うだろう。
ここは逆らうべきところじゃないか。
「兄さん、さあ、部屋に戻って下さい」
はい。秋葉さん。
思わず頷いてしまいそうになる自分の条件反射が恨めしい。
「ああ、ちょっと待ってくれ、いくら何でもこのままじゃ……」
条件反射に逆らいながら、何とか情に訴えてみようと試みる。
さらには懸命に踏ん張りながら、俺は部屋の中をかえりみて、二人に助けを求めようとした。
が――
翡翠は胸元で手を振って、俺との別れを肯定の構えだ。
琥珀さんはといえば、今まで見たこともないような怖い笑顔を浮かべて俺を見ている。
その凄絶な笑みに寒気を感じた俺は、何も言い出せなくなってしまった。
ふと秋葉を振り返ると、やはり同種の笑みを浮かべている。
「お、俺の人権は……」
「ええ、そういう言葉があることは知っています」
その台詞に、心の中の大事なものを打ち砕かれた気がした。
俺は叫ぶ。
「鬼〜!! 悪魔〜〜!!!」
叫ぶことだけは自由にさせてくれるらしく、そのままの状態で俺は自分の部屋まで引っ張って行かれた。
そしてそのまま――
むなしい思いを抱いたまま俺は眠りについた。
――翌日
言うまでもなく日曜日だ。
昨日の無念さを飲み込んだまま眠ってしまったので、目覚めが良くない。
ここのところ悪夢はなりを潜めているが、今の気分は見ていたときのそれと良く似ている気がする。
「志貴さま。お目覚めでしたか」
ノックをしてから、翡翠が部屋に入ってきた。
時計を見る。わかっていたことだが翡翠はいつもの時間に来てくれたらしい。
と、いうことは休みだというのに、いつもより早く起きてしまったようだ。
「うん、じゃあ着替えて応接間に行くよ。あんまり眠れなかったんだ」
「お身体の方が……?」
「大丈夫だよ。身体がどうのこうのいう前に昨日の……」
そこまで自分で口に出して気がついた。
そうか。
翡翠に昨日のドラマの結末――要するに犯人――を教えてもらえば、この陰鬱な気分の大半は無くなるはずだ。
「そうですか。では」
尋ねようとした俺の目の前で、翡翠は深々と頭を下げて部屋を出ていった。
俺が着替えるために翡翠はいったん部屋を出る。いつものことといえばいつものことなんだけど……
引きとめようとした俺の右手が、ワニワニと空しく動く。
「ハァ……」
俺はため息をついた。
そんなわけで、このもやもやを解消するために俺は急いで着替えると、わき目もふらずに廊下を駆け抜け、応接間を通過して食堂に飛び込んだ。
一応、翡翠の姿も探したのだが目の届く範囲にはいなかったのだ。
居場所が分かっている人のところに急いだ方が早い。
俺はそう判断した。
「琥珀さん!」
「あら、おはようございます志貴さん。早いんですね」
いつも通りのエプロン姿の琥珀さんが、振り向きながら笑顔で答えてくる。
その自然な立ち振る舞いに、俺は少しばかり毒気が抜かれる思いだった。
「あ、ええと、おはよう。その昨日のドラマ……犯人は誰だったの?」
それでも、聞くべき事は聞いておかなくては収まりがつかない。
琥珀さんも、いつも以上ににっこりと微笑んで答えてくれる。
「それがですね、翡翠ちゃんの言ったとおりだったんですよ」
内緒話をするように、口元をそっと俺の耳に寄せて琥珀さんがそう告げた。
「え? 本当にあの刑事が犯人だったの?」
その言葉に、俺は思わず身をのけぞらせてしまう。
「ええ、私もびっくりしてしまって」
「そうか〜、そんな斬新なパターンでくるとは」
自然と腕を組んで考え込んでしまう。
しかし、あの前半の展開にあの刑事が絡んでくる余地は……
「それはそうと志貴さん。朝食の準備に少しお時間をくださいな。応接間で待っていてくださいね」
「ああ、はい」
考え込み、腕を組んだまま俺は踵を返して応接間へと戻った。
「おはようございます、兄さん」
風が吹き抜けた。
絶対零度の一陣の風が。
「…………や、やあ秋葉。おはよう」
腕を組んだまま、できるだけ秋葉に背を向けるように身をよじって――決して視線を合わせないようにするのがコツだ――かろうじて声を絞り出した。
そしてそのまま、何もかもが凍りついた。
時間も空気も、何もかもが意味を失って身体にまとわりつく。
――致命的な失敗を犯したことを、俺は悟らないわけにはいかなかった。
俺は秋葉を無視して、琥珀さんのいる食堂へと駆け込んでしまったらしい。
恐らく秋葉は挨拶をしてくれようとはしたのだろう。
それを無視して食堂へと駆け込む俺。
秋葉が礼儀作法にうるさいことを差し引いても、最悪の愚行だ。
「兄さん」
凍った空気の中で、秋葉の声が響く。
「先ほどの不作法は許しますから、せめて“相手の目を見て話す”という基本的なところは守ってくださいませんか?」
「あ、そ、そう……ですね」
おそるおそる秋葉を見る。
恐るべきことに秋葉は笑っていた。
これ以上ないぐらいの笑みで。
ニッコリと。
こ、これは、とにかく謝るしか……
「あ、あのな。秋葉を無視しようとしたとか、そういう悪意があってのことではないんだ」
謝るにしても、その前の下地づくりが重要だ。
出し抜けに謝って、何に対して謝っているのか、などと言い返されると……
――とにかく困る。
「つ、つまりだな。今日はあまり目覚めが良くなくてだな。原因は昨日のドラマ――」
待て。
俺はこの後、なんというつもりだ?
続きが気になった?
続きが気になった原因は?
ドラマを見るのを途中でやめたからだ。
途中で見るのをやめたのは――
行為の善し悪しはともかく、俺がテレビを見られなかったのは、きっぱりと秋葉のせいだ。
それを秋葉に対する言い訳に使ってどうする。
ギリギリのところで、理性のディスクブレーキが俺の舌を止めた。
ただ慣性が働いた顎の動きまでは止められなかった。
ガチン!
と、えらく派手な音が、俺の頭の中に響く。
無論その音は、秋葉にも聞こえたのだろう。
笑顔から一転、いつもの不機嫌そうな表情に変わる。
「……兄さん」
そして、疲れ切った声で話しかけてくる。
い、いかん。
言い訳もまともにできないようでは、いくら何でも格好悪すぎる。
「お二人とも、お食事の用意ができましたよ」
救いの女神の声が響いた。
俺の学校に転校してきている秋葉とは、ここのところずっと同じ時間に朝食をとっている。
日曜日に一緒になるのは珍しいが、今回はとにかく助かった。
なにしろ、食事の間は会話は極力しないのが、遠野家の“しきたり”なのだから。
つまり、言い訳を考える時間が稼げる。
……我ながら情けないけれど。
実のところ、ここまで状況が煮詰まった状況で、被害を最小にくいとどめられる言い訳を考案できるのなら、俺は将来の選択肢に詐欺師という項目を設けることもできるだろう。
だが、現実は甘くない。
真正面に座る秋葉からのプレッシャーで、正直な話、目眩を起こしそうだったのだ。
せっかくの琥珀さんの料理も、ほとんど味がわからない有様だ。
わからないなりに、適当に箸を動かしていると、残ったのは茶碗の中のご飯ひとつまみだけ。一汁三菜を守った朝食の残りの方はすでにきれいに胃袋の中だ。
つまり、この茶碗のひとかけらの食料が俺の生命線。
何とかしなくては。
とりあえず延命策を試みる。
「翡翠。新聞をもってきてくれないか?」
「兄さん」
すかさず秋葉から声があがる。
食事中に新聞を読むなど不作法の極みというわけだろう。
無論のこと、それは承知の上だ。
「いや、秋葉。どうせ読むところなんかほとんどないんだ。そういう朝の些末なことはここで済ませておいて、応接室では秋葉とゆっくりくつろぎたいと思ってね」
この台詞で、頬でも赤らめてくれるのなしめたものなのだが。
延命策ついでに、小細工を弄してみた。
「あら。では、朝のお話の続きをじっくりと聞かせていただきましょうか」
所詮は小細工。さすがに、ウチの妹様は甘くない。
と、とにかく今は時間だ。
翡翠の方も、先ほどの秋葉の言葉を許可と受け取ったのだろう。
俺の前に今日の朝刊を差し出してきてくれた。
ああ言った手前、長々と見ているわけにはいかない。
一面を見る。
言い訳の上手い人たちが軒を並べているが、いかんせん写真を見ただけで技能を修得できるわけもない。
そのままひっくり返す。
テレビ欄だ。
ますます、どうしようもないが俺はそこに重要な文字を見つけた。
『刑事コロンボ・カリフォルニア殺人事件』
思わず新聞を目元に引き寄せて、文字をもう一度確認する。
「おお、これは……!」
思わず声に出してしまっていた。
映像化は不可能といわれていた、幻の名作ではないか!
俺も小説版で読んだだけだ。
正直、コロンボシリーズの他の作品と大きな差異はないように感じたが、とにかく幻なのだ。
それがテレビでやるのだ。
間違いなく映像だろう。
ナレーターが小説を読むだけなどという、シュールな番組をこんな午後九時からの健全な時間に……
そうだ時間だ。
昨日みたいなのは御免だ。
確認する。
午後九時二分から十時五十六分まで。
いつも通りのよくわからない時間構成だが、二時間以内であることに間違いない。
「琥珀さん! 今日もテレビを見せて欲しいんだけど」
興奮状態のまま、俺は琥珀さんに呼びかけた。
突然の呼びかけであったにもかかわらず、琥珀さんは相変わらずの笑顔のまま、ニッコリとうなずいてきた。
「ええ、構いませんけど。でも、何をご覧になりたいんですか?」
「コロンボだよ! 幻の作品と言われてエピソードを放送するみたいなんだ。いやぁ、凄いなぁ」
「ああ〜」
と曖昧な表情で、琥珀さんはうなずいた。
――が。
「……兄さん」
しまった。
手が遅れている。
絶体絶命。
様々な体内警報が、その秋葉の声がしたとたんに一斉に鳴り響いた。
だが、しかし!
今回ばかりは引くわけにはいかない。
何でもいいからとにかくしゃべり続けて、秋葉の口を封じてしまおう。
「そ、そうだ! 秋葉も一緒に見ないか? いつもってわけにはいかないだろうけど、たまにはこういう家族の団らんもいいだろう?」
「え?」
どうしたことか、明らかに秋葉はひるんでいた。
心なしか頬を染めて、言葉に詰まっている。
チャ〜〜ンス!
「それに、こういうミステリ−ものは色々と論争するのも楽しいものなんだ。俺としてはこういうドラマは親しい人たちで見るのが正しい姿だと思うね」
ここぞとばかりに、自分が思う限りの渋い声を出して――内容が渋いかどうかはともかく――畳みかける。
それがうまくいったみたいで、秋葉は気圧され始めていた。
長い髪をかき上げながら、ふいと俺から視線を逸らす。
「そうそう、翡翠なんか凄いんだぞ。ここのところ一緒に見るドラマは必ず翡翠が犯人を当てるんだ。俺も敵わなくて、まったくハッハッハ……」
わざとらしく笑い声を上げてみる。
見れば翡翠は、うつむき加減になって頬を真っ赤に染めている。
そして、秋葉に向き直った瞬間――
俺はまたもや失敗したことを悟らずにはいられなかった。
秋葉がじっと真っ直ぐにこちらを見つめてきているのだ。
怒っている風ではなかったが、こちらの方が何を考えているのかわからない分、恐ろしさは倍加する。
「……兄さん。私にも新聞を貸してください」
「は、はい」
今までの勢いはどこへやら。
俺は恭しく、差し出された妹の手の上に、丁寧に折り畳んだ新聞を置いた。
秋葉それを優雅な手つきで広げると、一面をこちら側に向けて、つまりテレビ欄をじっと見つめている。
「……午後九時二分」
ポツリと秋葉がつぶやいた。
「…………は?」
「いいでしょう。琥珀、後で部屋に来て。用意して欲しいものがあるの」
そう言い残すと、秋葉はスタスタと食堂を出ていってしまった。
隣の応接室にとどまる気配もない。
どうやら宣言通り、自分の部屋に引き上げてしまったらしい。
「ええと……」
なにが起こったんだ?
取り残された形になった俺は、それぞれの表情で俺を見つめる翡翠と琥珀さんに、曖昧な笑みを返すしかなかった。
――昼食。
秋葉は姿を見せない。
休日には行われることが多い、三時のお茶。
秋葉は姿を見せない。
そのまま応接間で考え込みながら、琥珀さんが淹れてくれた紅茶を飲んでいたら、窓から差し込んでくる光はすっかり茜色に染まっていた。
「……翡翠」
たまたま通りかかった翡翠に話しかける。
「はい」
掃除の途中だったようだが、その手を休めて近くに寄ってきてくれる。
「琥珀さんの部屋に忍び込む方法はないだろうか?」
言った途端。
翡翠は表情はそのままに、頬を真っ赤に染めた。
そして、俺はその翡翠の姿を見て自分の言葉の意味を理解した。
「い、いや違うぞ! 断じて違う! 俺はただテレビを……」
その言葉で翡翠はいったんは表情を元に戻したが、すぐに眉根を寄せる。
「ですけれど、姉さんは……」
確かに部屋に行くことを了承してくれた。
だが――
「秋葉は……どうだろう?」
「はい?」
俺の言葉の意味が分からなかったのか、珍しく翡翠は聞き返してきた。
「つまり、秋葉は琥珀さんの部屋の俺を入れないように画策してるんじゃないかと思うんだ」
翡翠の右肩がカクンと落ちる。
「志貴さま……」
今度は疲れたような表情だ。
「だっておかしいだろう。秋葉は全然姿を見せないし。それに朝のあの台詞……」
『午後九時二分……』
「あれは、いつから俺を見張ればいいのか、あるいは琥珀さんの部屋の前で待機すればいいのか、確認してとしか思えない」
もはや翡翠は何も言わず、黙って俺を見つめていた。
おかしいな。
この理論に欠点はないはずだけど……
しかし、今日のコロンボは特別なんだ。
どんな手段を使ってでも、九時二分にはテレビの前に座っておきたい。
「と、とにかく、急がなくちゃならないんだ。今日のコロンボはどうしても見たいし、この屋敷にテレビは琥珀さんの部屋の一台だけだし……」
再び翡翠の表情が変化した。
不可解なことに、今度は笑みを浮かべたのだ。
それもおかしくて笑っているというような笑みではない。
とても優しげな――
同世代の女の子相手には失礼だけど、母親のような笑みだった。
「翡翠……?」
「志貴さま。差し出がましい口をお許し願えますでしょうか?」
やはり笑みを浮かべたままで、翡翠はいつもの通り生真面目に聞いてきた。
「思いますに、秋葉さまときちんとお話し合いをされた方ががよろしいかと」
「いや、それは」
「とにかく秋葉さまの真意を、聞き出されてからでも遅くはないと思いますが」
そう言われると、確かにその通りだ。
説得するとかはともかく、秋葉の狙いを調べておくことに越したことはない。
俺はカップの底に残った冷めた紅茶を飲み干して、俺はうなずいた。
「そうだな。秋葉の部屋に行ってみる」
「お聞き入れ下さって、ありがとうございます」
翡翠は深々と頭を下げた。
「いや、俺の方こそ礼を言いたいぐらいだよ。ありがとう翡翠」
翡翠は再び頬を染めた。
秋葉の部屋の前に立つ。
ノックをする。
返事がない。
もう一度ノック。今度は数を増やしてみる。
やはり、返事がない。
ノブを手にとって回す。
鍵はかかっていないようだ。
着替え中……なんてことはないだろう
この時間に着替えをする必要性がない。
少しためらったものの、俺は中に踏み込んだ。
違和感がある。
何……だ?
そこは、何度か入ったことのある秋葉の部屋とは様子が違っていた。
机の上に積み上げられた本。
何か書き物をしていたらしく、万年筆のインクの香りが漂っている。
そして壁に貼られた、何かの標語らしきもの。
これは受験生の部屋……かな?
実際の自分の時はどうだったかなどという問題はさておき、その部屋の姿は人が思う受験生の部屋としての説得力を持っていた。
ただ――
「ノックスの十戒……か?」
壁に張られていた標語が、もはや形骸化したミステリーの書き方指南というのはどういうことだろう。夕闇が迫る部屋の中で、そこだけが黄昏時に出会う人外の魔物であるかのように、部屋の中で浮きまくっていた。
1,犯人は物語の最初から登場していなければならず、読者に疑われそうにない人物を犯人にしてはならない。
などという十個の項目が、縦書きで、毛筆で、したためられている。
ふむ、琥珀さんが書いたのかな……?
どうでもいいことを考えながら、改めて部屋の中を見回した。
今更確認するまでもなく、秋葉はいない。
部屋に鍵をかけておらず、こうも中途半端な有様のまま外出ということもないだろうから、そのうち戻って来るんだろうけど……
そう、中途半端だ。
机の上には栞が挟まった――要するに読みかけの――文庫本が置かれている。
「八墓村……?」
横溝正史の名作である。
しかし、秋葉はなんだってこんな本を。
こんな田舎の古い血族絡みの話なんか、遠野家の当主にしてみれば、気持ちのいいもんじゃないだろうに。
――まぁ、俺も遠野家ということになってはいるが。
興味をそそられて、机の上の他の文庫本も順番にタイトルを確認してみる。
そこには横溝正史だけではなかった。
エラリー・クイーンにアガサ・クリスティー。おお、セイヤーズまである。
日本で探せば、横溝正史、高木彬光、島田荘司、森博嗣。
つまり古今東西、様々な作家のミステリーが積み上げられている。
それに、ノックスの十戒。
どうやら俺は完全な思い違いをしていたみたいだ。
つまり、秋葉は俺がテレビを見るのを阻止しようとしていたんじゃなくて……
「兄さん!」
珍しく感情をあらわにした、秋葉の声が背後から聞こえた。
しかし、俺は慌てず騒がず振り向いた。
「人の部屋に勝手にはいるなんて……」
「うん、それは謝るよ。ごめんな秋葉」
俺が殊勝に頭を下げると、秋葉も勢いをそがれたのか、ふいとそっぽを向いて、
「ま、まぁ、それはいいです……けど」
そして、ハッとなって再び柳眉を逆立てて俺を睨み付けた。
「み、見ましたね、兄さん」
「ああ、見させていただいたとも」
大きく胸を張って、俺は答える。
秋葉は悔しそうに顔を背けてから、幾たびか躊躇いながら俺の横に歩み寄ってきて、うつむいたままで呟くように尋ねてきた。
「……私が何をしていたか、もうおわかりになったんでしょう?」
「うん、特訓をしていたんだな。ミステリーの。ものすごい一夜漬け――にもなってないけど」
「し、仕方ないじゃありませんか。時間は九時二分までなんですから」
そう、だから秋葉は始まる時間を確認していたんだ。
「俺が翡翠ばっかり誉めるから、やきもちを焼いたんだ。それで犯人を当てるために読んだこともないような本を琥珀さんに頼んで用意してもらったんだ」
ノックスの十戒はどういったノリなんだろうとは思うけど。
「ち、違います!」
キッとなって顔を上げた秋葉がきっぱりとそう言った。
俺が黙ってそれを見つめる。
途端、秋葉は頬を真っ赤に染めてさらに言葉を繋いだ。
「い、いえ、犯人を当てるために色々と準備していたことは兄さんの仰るとおりですけど、やきもちとかそういうことじゃありません!」
「へぇ、違うんだ?」
俺は笑いをかみ殺しながら、聞き返す。
「もちろんです。私が準備していたのは……そう、健全な団らんをするためです」
「健全な……団らん?」
そのおかしな言葉に、少し戸惑う。
「そうです。兄さんが翡翠ばっかり誉めるのは、家の中で不公平格差を生み出します」
「そんなの、俺に言ってくれれば……」
「駄目です。そんなの……公正じゃないです」
そこまでが辛抱の限界だった。
すねたような秋葉の仕草に、俺の理性は限界寸前。
秋葉の腕をとって、強引に身体を引き寄せて胸の中に抱きしめた。
「ちょ、ちょっと兄さん!」
「秋葉……俺は兄貴らしく、妹のお願いを聞いて一日二時間のテレビで我慢している」
「ですから……それは」
だんだん抵抗が弱まってゆく。
「それじゃあ、良くできた妹としては兄のわがままも聞いて貰えないだろうか」
「良くできた妹は、こんなこと許したりはしませんよ」
秋葉はため息をつくが、すでに抵抗はしていなかった。
「それなら愛しい恋人のわがまま」
「それならまぁ……仕方ないですけど……」
そう言いながら、秋葉も笑みを浮かべながら俺の胸に頬をすり寄せてきた。
「秋葉?」
胸の中の秋葉に語りかける。
「やっぱり、やきもちを焼いていただろう?」
「もう」
いっそう身を寄せながら、秋葉は困ったような声を出した。
「そういうことになさりたいのなら、愛しい人のためですもの。甘んじてその評価を受け入れることにします」
「まったく……」
素直ではない。
口づけを求める、その唇はこんなにも素直だというのに――
翌日。
月曜日の朝早くから、何故か俺は有彦に、昨日の顛末を説明することになってしまった。
どうやら、かなり憔悴仕切った顔で登校してしまったらしい。
そのための基本的な状況説明に、始業のチャイムが鳴る直前まで、時間を費やしてしまった。
俺が遠野の家に戻ってから、結構な時間が経っているので、さすがに琥珀さんのことも翡翠のことも有彦は知っている。そのおかげで、特に苦労せずに説明はできる。
――無論、秋葉とのことはまだまだ内緒ではあるが。
「わかんねぇな。それでなんでおまえがそんなに疲れてるんだ?」
「だから、“刑事コロンボ”っていうのはちょっと特殊なんだ。最初から犯人が分かっていて、それがどんなミスを犯したのか、コロンボがどうやって犯人を追いつめるかを考えて楽しむドラマなんだ」
まぁ楽しみ方は人それぞれだけど、今いったところがスタンダードだろう。
「なるほど。古畑任三郎みたいなもんだな」
「古畑……なに?」
有彦は顔を歪める。
「おまえは時々世事に疎いな。そんな感じのドラマがあったんだよ。結構流行ったんだけどなぁ」
「それって、世事かな」
「で、先を話せよ」
「つまり、秋葉の特訓もコロンボ前じゃ役に立たない。翡翠の名推理……もやっぱり使いどころがない。そういう状態で、二人で張り合うみたいな状態になって」
「はぁ」
「張り合いながら、時々俺にどっちが正しいかなんて聞いて来るんだよ。後半なんか、どうもそれをして俺が困る様子を見て楽しんでいるフシがあったな。あの二人、実はいいコンビなのかもしれない」
「琥珀さん……という人もそうなのか?」
「いや、あの人はコロンボがどんなドラマなのか知ってるみたい……」
そこまで口にして、ふと疑問が頭をよぎる。
知っていて、琥珀さんは秋葉に普通のミステリーを用意したのだろうか?
秋葉に無駄足を踏ませるために?
その時に、俺の脳裏に浮かんだ琥珀さんの表情は、いつもの笑顔ではなく、怖い方の笑顔を浮かべていた。
まさかな……
「それとだな」
目の前の有彦は、まだなにか言おうとしていた。
「何だよ。もう理由はわかったんだからいいだろう」
「ああ、そっちはわかったんだけどよ」
珍しく曖昧な表情を浮かべている。
「おまえ、やっぱり夜は外出できないわけ?」
「何だよ、今更そんなこと。そういうしきたりだって前にも話しただろう」
「それって、どうしても出られないのか?」
「そりゃ、出ていこうと思えば出れるに決まってる。檻に閉じこめられてるわけじゃないんだから」
翡翠の協力があれば、さらに完璧だ。
俺は頭の中で付け足した。
「なんで、そんなこと聞くんだ?」
「じゃあ、どうしても見たいテレビがあるときは外に出る方法もあるってことだよな」
その言葉に、俺は自分で自覚できるほどに目を大きく見開いていた。
そうだ。
どうしても見たければ、有彦の家に行っても良かったのだ。
そして思い出す――
翡翠のあの笑みを。
テレビが一つしかないと言い切った俺の言葉を聞いて、翡翠は思わず笑い出しそうになってしまったのだ。
それは多分、おかしかっただけではないのだろう――
机に突っ伏す。
視界が暗転する。
「よしよし、死んだか」
頭の上で、勝手なことをほざかれているが言い返す気力も尽きてしまった。
腕を振って有彦を追い払いにかかる。
「でも、まぁ“家族”らしくはなったんじゃないの」
似合わないことを言って、ガラガラと戸を開けて有彦は教室を出ていったらしい。
今日もさぼるつもりか。
頭の中では有彦の捨てぜりふが渦を巻いている。
“家族”か……
悔しいが、奴の言うとおりかもしれない。
あんなに馴染めなかった遠野の屋敷の中だけでモノを考えるなんて。
それはきっと翡翠や琥珀さん。
――それに秋葉のおかげだ。
俺はやっと、自分の居場所を手に入れることができたようだ。
……“これ”は、何なんだ?
遠野の屋敷に戻ってきてからの約二週間は、何もかもがあまりにも駆け足で過ぎ去っていった。
そして、何もかもが突然に止まってしまった。
何も――
そう家族ごっこすらキチンとできないままに、俺は再び居場所を失った。
では、今までの出来事は何だろう?
ああすることができたはずだ。
――後悔だろうか?
ああすることができるはずだ。
――希望だろうか?
わかるのは“あれ”は夢ですらあり得ない。見るはずのない、見ることのできないはずの幻であるということだけだった。
夢と幻。
夢幻。
夢幻は無限。
俺はこうして幾たびとなく、繰り返すこの幻をいつも外側から眺めていた。
ただただ、見たことがないはずの、この懐かしい光景を。
だが――
今回に限っては変化があった。
繰り返される幻は現れず、目の前には線が見える。
あの黒い線ではない。
白い、光に満ちた線が見える。
あれを切ると、どうなるんだろう。
切れば、切り開けばそこには……
しかし俺の右手には、あのナイフがない。
だがもしも、見えているあの線が、いつもの黒い線と同種のモノなら、ナイフがなくても切れるかもしれない。
右手を伸ばす。
だが届かない。届きそうもない。
今の俺にとっては、道具がなくてはとてもあの線までは届きそうもない。
線はとても近くにあるようで、それでいて足を延ばしてさえも届きそうもない。
そして、左手は……何かを握っていた。
暖かいなにか。
ぎゅっと握りしめる。
それだけで力が湧いてくる。
もう線に届かなくても構わない。
俺は自分の意志だけで、その線を切り開くことができる。
さぁ、力を込めて切り開こう――
そこには……
そこには……
幻の続きだろうか。
秋葉がいた。
見たことのない、少し大人びた秋葉がいた。
自分の部屋のベッドに横たわる俺の横に、俺の妹が……秋葉がいた。
茜色の夕日が射し込む窓を背負って、長い黒髪がいつものように輝いている。
その手はギュッと俺の左手を握りしめていた。
まるで俺が起きるのがわかっていたみたいに、こちらを見て透明な笑みを浮かべていた。
――起きる?
俺は、起きたのだろうか?
目を覚ましたのだろうか?
わからない。
何もわからない。
その時、秋葉の口元が動いた。
俺は期待していた。
秋葉なら、きっと言うに違いないあの言葉を。
そして言葉が紡ぎ出される。
「おはようございます。兄さん」
/END