■ サイケデリックメモリィ / 中野貴仁
不意に、目が覚めた。冷たい感触。
全身、水をかぶった様ように汗を掻いている。枕まで冷たい。
頭を振り、ゆっくりと身を起こし枕元のメガネをかける。気分が悪い。
意識が歪んで、はっきりと定まらない。心臓が炙られたように脈動している。
Yシャツが汗で張り付いていて、気持ちの悪さに拍車をかけていた。
―――イヤな夢を、見た気がした。
「あれ」
視線を落とす。気が付いてみれば制服姿だ。
学校から帰って、制服のまま眠ってしまったのだろうか。
時計をみる。午後四時半を少しまわっている。帰宅していても何もおかしくは無い。
窓に目を向けると、柔らかな夕暮れの陽射しが部屋に差し込んでいた。
ベッドからでて、窓を開ける。
やや冷たさを増した秋風が、火照った体には心地よかった。気持ちが少し落ち着く。
自分の今日一日を一つ一つ、ゆっくりと振り返ってみる。
今日は土曜日。学校があったから、制服姿なのは当然だ。
今日の朝も、翡翠に起こされて目を覚ました。
その後、秋葉とお茶を飲んでから学校に向かった。アルクェイドにも先輩にも会わなかったから、いつもより早く学校についた記憶がある。
朝のHRの時間、国藤先生が今日の帰りに進路指導を行う、と言っていたのも記憶している。
その後、つつがなく一限目を受けて―――
そうだ。今日、二限目の授業中に、久々に倒れたんだ。
意識が沈む、懐かしい感触。
実際にはまだほんの数ヶ月前までは割と慣れ親しんでいた感触なのだが、人間は安息に慣れる生き物らしい。有彦に助けられて保健室でしばらく休んでいたのを憶えている。
その後の事は、はっきりと思い出せない。
無意識のうちに、この家まで歩いてきたのだろうか?
わからない。
濁った頭で真剣に考えるが、どうにも思い出せない。
頭を落ち着けたくて、軽く秋風を吸い込む。
灼けついていた喉が、脳が、少し鎮まる。
沈み行く朱い夕日を眺めながら、沈思する。
――――もう、こんな事はないと思っていた。
俺の病気は普通の病気とは違っていた。俺が今まで倒れていたのは貧血が原因ではなく、ある男によって自分の命が勝手に使われていたからだ。
だが、その男は、もうこの世にいない。
――――俺のこの手で、葬ったのだから。
互いの全てを奪い、そして消えていった、ある意味俺の半身とも言える男―――
昼と夜の溶け合う、幻想的なグラデーション。その優美な橙色が、俺を感傷的にしているのかもしれない。少し、その男の事が悲しく思えた。
ロアに憑かれ、遠野の血に狂った男。唯一人愛した、実の妹の手に掛かって死んでいった男。
遠野シキ―――
って、あれ?
なにか、おかしい。
シキは俺がこの手で殺したはずだ。
実の妹の手に掛かって?
俺の頭のなかに、複数の事実がある。
今日の記憶が思い出せないなんて事より、余程深刻な異常さを感じる。人の生き死になんて、命のやり取りなんて事は、嫌でも正確に覚えているものだ。
俺がその手にかけた者の事を思い返してみる。
そもそも俺が殺した男の名は何だった?
……ロア。純粋故に、邪恋に呑まれた男――――
ロア? シキ?
ありえない。
俺が殺したのは、どちらか片方のはずだ。
もう一度、気持ちを落ち着けて考えてみよう。
俺が殺した人間は―――
ロア。二度、殺してる。
シキ。確実に殺した記憶がある。
シエル先輩。やっぱり二回くらい殺したような。
秋葉も殺してる。容赦なく。
弓塚も殺した。三回も。
―――何で増えてるんだよ。
俺の人生の転機となった、あの事件を最初から思い出してみる。
瞬間、様々な情景が脳裏に甦った。
夕焼けの学校での、アルクェイドとの切ない別れ。
月明かりの中、先輩の膝で眠りに落ちる自分。
離れでの、秋葉の悲しい願い。
広い屋敷に二人取り残された、俺と翡翠。
向日葵の様な、琥珀さんの笑顔―――
おかしい。記憶が多すぎる。
こんなに記憶がある筈が無い。本来、同じ時間の流れの中で起こった事の筈だ。全てを記憶しているのは矛盾している。
他にも様々な肖像が、奔流の様に脳裏に甦る。情報が多すぎて、整理しきれない。
複数のジグソーパズルを一つの枠に無理矢理に押し込めたような、狂った、記憶。
記憶が無いという状況には、ある意味慣れている。だが、記憶が多すぎるというのは始めてだった。
わからない。
考えれば考えるほど、泥沼にはまる様に様々な事実が浮かび上がる。
―――考え方を変えよう。
自分一人では状況が確認できない。誰かに相談した方がいいんじゃないだろうか?
とすると、やっぱりアルクェイドかシエル先輩だろう。
このおかしな状況を、上手く説明してくれそうな気がする。
そう結論付けて窓を閉めようとしたその時。
扉から、控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
振り向いて応える。
「失礼します」
扉を開けて、翡翠が部屋に入ってきた。
「お目覚めになられましたか。志貴さま」
「ああ。俺、また倒れちゃったみたいだな」
「はい。乾さまから御連絡がありました。お迎えにあがろうとしたのですが、志貴さま本人が構わなくていい、と仰ったそうなので控えましたが」
そうか。相変わらず有彦には迷惑をかける。
「それから俺……」
「はい。御自分で歩いて帰って来られまして、しばらく部屋で休むと」
なんだ。自分の足で帰ってきたのか。少し安心した。
「志貴さま。ご気分の方はいかがでしょうか」
心配そうに声をかけてくる。
翡翠に言われて、少し考え込む。
今の自分の混乱した記憶のことを、相談した方が良いのだろうか?
だが、翡翠に余計な心配をかけたくない。
それに、こんな事を相談されても翡翠も困るだろう。
「少し体が重い気はするけど、問題無いよ。ちょっと汗を掻いて、喉が渇いたくらいかな」
「そうですか。安心いたしました」
相変わらず表情に乏しいが、やや明るい声の響きが、安堵している事を悟らせた。
初めて会った頃は、何を考えているか分からない猫のような印象だったが、感情表現が下手なだけでとても心優しい少女なのだ。
少し、心が痛む。
「ごめん。また迷惑をかけちゃったかな」
「そんな事、ありません。志貴さまのお世話をするのは当然のことですから」
まるで呼吸をするように自然に、口を開く。
「それに……」
それに、なんだろう。
「志貴さまは、わたしにとって、大切な、方です、か、ら……」
俯いて、恥ずかしそうに呟く。
ドクン、と一つ心臓が音をたてた。
そうだ。ずっと昔から、自分の事を気にかけていてくれた少女。ずっと、主人を待つ子犬のように、俺を待ち続けていてくれた少女―――
翡翠をとても愛しく感じる。
夕焼けに染まる部屋の中、佇む翡翠の姿を、素直に、綺麗だと思った。
抱きしめたいという欲求に押されて歩を進める。
翡翠の肩に手を掛けようとした瞬間。
……クシャミがでた。
「志貴さま?」
気恥ずかしくて、手を引っ込める。
「はは。風にあたってたら、少し体が冷えちゃったみたいだ。悪いけど着替えを持ってきてくれるかな」
「わかりました。ほかに、何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか」
「あ、うん。じゃあ、水を」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
深々と頭を下げると、翡翠は部屋を出ていこうとする。
あ、一つ聞き忘れた。
「ごめん翡翠。ちょっといいかな」
「はい。なんでしょうか」
言って、翡翠が振り向く。
「秋葉と琥珀さんはどうしてる?」
眉をややひそめて、翡翠が答える。
「……秋葉さまはしばらく前に戻られまして、居間でお茶を飲んでおられます。七夜姉さんは、今は買い物に出ていておりませんが」
「そっか。ありがとう」
「いえ。それでは失礼します」
静かに扉を閉めて、翡翠が退室していった。
ベッドに腰を掛けて、軽く息を吐く。
秋葉は、ちゃんと生きている。それに、翡翠は琥珀さんの事を『七夜』と呼んでいた。
まるで、俺が『琥珀』と呼んだのを忌避するかのような、あの表情―――
今の会話から察すると、俺は翡翠との幸福を選んでいるようだ。となると、アルクェイドとは出会っていないのだろうか。
なら、この記憶はなんだ? 勘違いにしては生々しすぎる。鮮明に過ぎる。
また、答えの出ない考えに沈みかけた時。
玄関の呼び鈴の音がした。
来客だろうか。いつの間にか、五時を過ぎている。有彦だったら、もう少し早い時間に来るだろう。
―――遠野の親戚連中かもしれない。
正直、会いたくない。今の自分だと、あの連中が視界に入ったとたんに殺してしまいたくなる。
どのみち、俺への来客なら翡翠が後で伝えてくれるだろう。
そう思いなおしていると、またノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼します」
翡翠が着替えを持って、部屋に入ってきた。
「ありがとう。悪いね」
言って、立ち上がる。
「……いえ」
何故か、やや堅い表情に見える。
俺に着替えを手渡したが、そのまま俺の前から動こうとしない。
「えーっと、何かな? 着替えたいんだけど」
ややあって、翡翠が口を開く。
「今しがた、志貴さまにお客さまがおみえになりました」
「俺に客?」
さっきのは俺への客だったのか。
「いったい誰だろ。有彦かな」
「志貴さまと同じ学校の方です。メガネをかけた、女性の方ですが」
なっ! シ、シエル先輩?
「そ、それで、その……」
「はい。居間のほうにご案内して、お待ちになっていただいておりますが」
ちょっと待て。居間には秋葉もいる筈だ。
「あの、さ。秋葉は、その……」
「お客さまといっしょに居間に居られます」
瞬間、階下の殺伐とした光景が、ありありと脳裏をよぎった。
「そ、そう。わかった。先輩に、すぐに行くから、ロビーで待っていてくれって、伝えておいてもらえる、か、な」
とりあえず逃げて、秋葉には後で上手く言い訳しよう。
「かしこまりました」
言って、翡翠は退室して行こうとする。
―――ノブに手をかける瞬間、こちらを顧みて口を開いた。
「一つ、お伝えし忘れた事がありました」
「え?」
「……お客さまをご案内した時にですが、秋葉さまに志貴さまがお目覚めになられたとお伝えいたしました」
背筋が凍った。
「そ、それで、秋葉は何て……」
「志貴さまにお話しがあるそうです」
それだけ言うと翡翠は部屋から出ていった。
部屋に一人、取り残される。
悪夢だ。
俺の頭の中に詰まった記憶では、秋葉と先輩の相性は最高に悪かった。それこそノ○ラとナガ○マ並に。
のろのろと着替えながら、考える。
実際、シエル先輩に、今の自分の混乱した記憶の事を相談したいとは思っていた。
だが、この状況は相談どころの話しじゃない。
目の前の事態の方が余程深刻だ。
何か上手い打開策はないものだろうか?
そう思い悩んでいると、また玄関の呼び鈴の音が耳に入ってきた。
なんだかひどく嫌な予感がする。この家に帰って来てから、こんなに誰かが尋ねてくる事など無かった筈だ。
着替えが進まない。手が動かない。着替えが済めば、居間に行かなければならないのだから。
またも、ノックの音。
「志貴さま。お飲み物をお持ちしました」
「あ、ちょ、ちょっと待って」
急いでジッパーを上げる。
「どうぞ。入って良いよ」
水を乗せたお盆を持って、翡翠が入室して来た。
水の入ったコップを受け取り、一口づつ味を確かめるように飲む。
視界の隅で、翡翠が虚ろに微笑んだ気がした。
ゆっくり舌を湿らすように水を飲む俺を見ながら、翡翠が口を開く。
「……志貴さま」
「ん、何?」
「また、志貴さまにお客様がおみえになられました」
「あ、そ、そう? 誰かな?」
「……金髪の、綺麗な女性の方です」
瞬間、水を噴出しそうになり、むせ返る。口を手で押さえて必死に堪える。
堪えようとする理性と、噴出そうとする本能。その狭間で水が嵐となって、口と喉と鼻を翻弄した。
「そ、そんな」
莫迦な。
シエル先輩は、まだわかる。
アルクェイドが俺の家に来るなんて。
これは、翡翠グッドエンドのその後、じゃないのか? アルクェイドの出番は絶無の筈だ。
「……先程から、皆様居間の方でお待ちですが」
冷ややかな声で、翡翠が言う。
「あ、いや、でも。その」
「その、何でしょうか」
「ああっ! また気分が悪くなってきたっ!」
「じきに私も参りますから、そのご心配は無用です」
うう。感応力者の翡翠が傍にいれば、ちょっとくらい調子が悪くても問題ないんだった。
「いや、でも窓も閉めなくちゃならないし」
「私が閉めておきます」
取りつく島も無い。
「あの、翡翠? なんだか口調が冷たいよ?」
「いつもこの様なものです」
どうにも味方にはなってくれそうもない。
「どちらにせよ、シーツも替えなくてはなりませんので居間の方においでください」
冷たく言い放つ。まるで死刑宣告をされたような気分だ。
よろよろと夢遊病者のように部屋を出た俺の後ろで、扉の閉まる音が聞こえた。
ゆっくり、ゆっくりと廊下を歩く。
そうすれば、時の流れも遅くなるような気がした。いや、むしろそう願った。
だが、もう目の前にはロビーへと続く階段がある。現実は残酷だ。
階段を一歩づつ、確かめる様に降りる。
下りている筈なのに、十三階段を上っている様な気持ち。
ああ。もう居間の扉の前だ。
ドアのノブを掴もうとした瞬間。
―――体が、心が、凍りついた。
部屋からは誰の声も聞こえない。
ただ、常人なら気死しそうな殺気だけが、扉の隙間から漏れ出していた。
本能が、扉を開けるな、と全力で叫んでいる。
これは地獄の扉だ。開けたら、生きて帰れない。
震えが止まらない。足が勝手に逃げ出そうとする。
……だが、そうもいっていられない。
このままでは、自分を取り巻く状況が何もわからないままだ。
意を決して、ノブをひねる。
……ほんの少しだけ扉を開いて、中を覗きこむ。うう、弱気だ。
中では、三人の女性が優雅にお茶を飲んでいる。何でも無い光景の筈だ。
なのに、震えが止まらない。歯の根が噛み合わない。
三匹のしなやかな獣が、互いの隙を窺っているような印象。
万夫不当の、怪物じみた三人の放つ静かな殺気。殺意しかない、残忍な部屋の空気。
……逃げよう。それがいい。何もわからなくて構わない。死ぬよりはましだ。
一人だって俺の手に余るのに、それが三人も……
回れ右しようとした、その時。
「お入りにならないのですか? 志貴さま」
ひ、翡翠?
「わたしもお話しを伺いたいと思うのですが」
冷たい声と、瞳。
退路は断たれた。
部屋の中の三人と、目が、合う。
「はろー志貴。ご機嫌いかが」
口火を切るようにアルクェイドが話しかける。赤い瞳が、鬼灯のようにギラギラと輝いている。
「お邪魔してますね。志貴君」
言葉遣いは丁寧だが、その顔は無表情。
「兄さん? お入りにならないんですか?」
秋葉が俺を流し見る。目が笑ってない。黒髪なのが、まだ救いなのだろうか?
「い、いや、せっかく三人で仲良くお茶を飲んでるのに、俺なんかがお邪魔しちゃ悪いんじゃないかなーって」
「そんな事無いわよ。わたしは志貴を誘いに来たんであって、シエルや妹さんに会いに来たわけじゃないもの」
アルクェイドが挑発的に言い放つ。
「そうですよ。志貴君に会いに来たんです。デートの待ち合わせ時間を過ぎても、全然来る気配が無いんですから」
挑戦的な、先輩の声。
ビシリ、と空間の割れる音が聞こえた気がした。
「兄さん? こちらの方々を紹介してくださらないかしら」
魔物じみた声で、秋葉が言う。
だが、一言では説明できない。一月に三百時間拘束の社畜リーマンなら、シエル先輩との事だけでも一月かかる長い話だ。
しかも口ぶりからすると、それぞれが俺と結ばれているような印象を受ける。
「どうしました。説明できないんですか」
秋葉の硬い声が俺の返事を促す。
「説明、といわれても、その。俺も状況が上手く掴めてないんだ」
「じゃあ、自分で紹介しようか?」
と、アルクェイド。
「すまん。そうしてくれ」
アルクェイドは一口紅茶を飲んだ後、その形のいい胸を張って、口を開いた。
「わたしの名前はアルクェイド・ブリュンスタッド。『純白の吸血姫』と呼ばれる、『月姫』の正ヒロイン。志貴の元祖恋人ってところね」
続けて、シエル先輩が話す。
「わたしはシエル、といいます。世界でも一、二を争う最凶の化け物と殺し合ってでも、志貴君は私を選んでくれました。本家ヒロインって感じですね」
最後に、秋葉。
「私は兄さんの妹で、遠野秋葉と申します。妹とはいえ、血は繋がっておりません。お二人よりも遥かに昔から兄さんを見つめ続けてきた、兄さんにとって最愛の女性です」
こ、これは自己紹介じゃないっ! 宣戦布告だ!
慄いている俺の目の前で、ゆらり、と幽鬼じみた動きで三人同時に立ち上がった。
ぶわりと殺気が膨れ上がる。
怒りの矛先は―――
「兄さん」
「志貴」
「志貴君」
やっぱり―――
「どうなってるんですか!? これはっ!」
「何なのよっ! これはっ!?」
「どういう事ですかっ!? これはっ!!」
……俺か。
「ちょ、ちょと待ってくれよ三人とも。落ち着いて俺の話しを」
「これが落ち着いていられますかっ! 何なんですかっ! この無礼な方たちはっ!」
「なっ、無礼とは何よ! いくら志貴の妹さんでも承知しないわよ!?」
「そうですっ! アルクェイドと一緒にされるのは迷惑です! それに化け物に無礼者呼ばわりされる憶えはありません!」
「ばっ化け物ですって!?」
「だって、そうじゃないですか。わたしにはちゃんとわかるんですから。」
秋葉の顔が紅潮する。
「わたしはれっきとした普通の人間です。お二人のような化け物は志貴君には相応しくありません」
「何度殺しても死なないような人間が普通なわけないでしょうっ!? だいたい、闇討ちしか出来ない性根の腐った人間こそ志貴には相応しくないわよっ! いい人ぶってるけど、シエルルートの時には本性丸出しじゃない! おまけに負けっぱなし!」
「一番出番のない正ヒロインは黙っていてくださいっ!」
「それを言うなら、地味な上に人気投票下位の貴女も黙って引き下がるべきじゃないですかっ!?」
人気投票第二位の秋葉が言い放つ。
「……皆様、何か大事な事をお忘れになっておられませんか」
いままで黙っていた翡翠が口を開く。
ああっ! 三人を上手く説得してくれるのか!?
「誰と結ばれれば、志貴さまが一番幸福になれるのか、ということです」
収拾のつかなかった場が、瞬間静まる。
「現実的な問題として、血は繋がっていなくとも志貴さまと秋葉さまは結婚できません。それに、アルクェイドさまとシエルさまも戸籍がはっきりとしているのでしょうか」
三人の息が、グッと詰まる。
いいぞっ! 翡翠! そのまま上手く説得してくれ!
「何が言いたいの!? 翡翠!」
秋葉がぎり、と歯噛みする。
「……それを考えれば、志貴さまにとって誰が一番良い相手なのかはわかると思います。……この場にいない、姉さんを別にすれば、ですが」
「自分が一番相応しいと言いたいの!? 義務教育を受けているのかも怪しいくせに!」
「……それでも、幾分ましかと思います」
駄目だっ!輪に加わってしまったっ!
「何が戸籍よ。わたしは吸血鬼なのよ? 人間の社会道徳なんてどうでもいいわ。わたしは志貴さえ手に入れられれば良いし、志貴だっていつまでも若い恋人のほうが良いに決まってるじゃない」
言って、アルクェイドが鼻を鳴らす。
「八百歳のお婆さんは黙っていてください」
と、シエル先輩。
「なっ、あなただって本当は二十歳をだいぶ過ぎてるじゃないっ! 女子高生ぶらないでよ!」
「じ、実年齢だけですっ! 肉体年齢は若いままですっ!」
「それを言ったら、わたしなんか一桁よっ!」
「ま、待てよみんな。落ち着いて話し合おう。なんだか、ちょっとおかしいと思わないか?」
「そんなのわかってるわよっ! わたしの頭の中には、志貴にフラれた記憶だってあるんだからっ!」
な―――
「そうですっ! わたしなんか、志貴君に殺された記憶があるんですから!」
俺だけじゃ、なかったのか。
「じゃ、じゃあ、こんな不毛なケンカをするよりも、ほかに大事な事があるだろう!?」
「ないわ!」
「「ないです!」」
三人仲良く否定する。
「大事なのは、志貴が誰の物かってことよ!」
全然聞く耳なし。モノ扱い。
「……現状を打開する方法が、一つだけあります」
「何だ!? 翡翠! 教えてくれ!」
「志貴さまが、だれか一人をお選びになれば済む事です」
全員の目が俺一人に集まる。
恋人を視る目じゃない。獲物を狙うハンターの目だ。
我知らず、一歩下がる。
それを追うように、全員の足も一歩進む。死神の行進のように思えた。
じりじりと下がっていると―――
不意に、誰かとぶつかった。振り向いたその先にいたのは―――
「久しいな。少年」
「「ネ、ネロ!?」」
アルクェイドと先輩の声が重奏する。
見間違えるはずもない、黒いコートの男がその場に立っていた。
それに、その後ろに立っているのは……
「よう。遠野」
「こんばんは。遠野くん」
有彦に、弓塚?
「な、何で……」
「何でって……オマエの見舞いに来たに決まってんだろ」
有彦が呆れたように言い放つ。
「ふむ。混乱しているようだな」
「当たり前だ! 何でお前が生きてて、それも有彦達と一緒におれの家にいるんだよ!」
「そう驚くことでもなかろう。もう日も暮れている」
「そういう意味じゃない!」
「それに私はこの者達と一緒に来た訳ではないぞ」
「そーそー。なんかこのおっさんが玄関の前で律儀につっ立ててな。オレ達も呼び鈴押したんだが、だーれも出てくる気配が無い。だから勝手に入って来たってわけだ」
「わたしは、もうちょっと待ってようよって言ったんだけどね」
困ったような顔で、弓塚が言う。
「それよりも遠野。何の騒ぎだよこれは。外まで聞こえてたぜ? 先輩もいるし」
「わたし、あの外人の女の人見たことあるよ」
ち、痴情のもつれなんて言えない。
「いや、ちょっと、その」
「何でもないわ。志貴の所有権を争ってただけよ」
上手く誤魔化そうとしたとたんに、アルクェイドによって台無しにされた。
「おい。遠野」
有彦が、震える声で口を開く。
「な、何だよ」
「いつの間に先輩に手を出したんだよ! おまけにあんなキレーな外人まで! 見損なったぞオレは!」
「いや、だから」
「何でお前ばっかりもてるんだよ! いい男ならここにもいるってのに!」
「論点が違う! それに今はそれ所じゃないんだって! 大体、俺が全員と一度に要領良く付き合ってたわけじゃないっ!」
「なんだよ。そりゃ」
「たしかにみんな、俺の恋人だよ。でも俺は二股も三股もかけてない! 誰か一人しか選んでないはずなんだっ!」
わかってもらえないかもしれないが、そうとしか言えない。
「成る程。随分と興味深い事態のようだな。私が生きているという事実も、これで多少は合点がいった」
言ったネロの方に、目を向ける。
「ネロ! この状況を上手く説明できるのか?」
「ふむ。説明が必要かね?」
「頼む! このままじゃどうにも収拾がつかないんだ」
「長い話しはイヤよ」
「なに。姫君ほど長広舌ではないよ」
言われてアルクェイドがむーっ、とうなる。
それを無視して、ネロは芝居がかった仕草で全員を見廻した。
「さて、先程少年は、二股も三股もかけていないといっていた。それは事実かね?」
「ああ。一人しか選んでいない。でも、全員を選んでもいるんだ」
俺の頭の中にある、複数の記憶。交わる筈のない、記憶。
「……私の中にも三つの事実がある。少年に殺し尽くされた記憶と、シエル君に止めを刺された記憶。それに、少年と出会わなかった記憶」
アルクェイドも先輩も、似たような事を言っていた。
「ときに少年。シエル君の不死身の理由を知っているかね?」
えーっと、たしか……
「ロアの魂が生きてるのに、ロアの肉体であるシエル先輩が死ぬのはおかしいとか何とか」
「そう。世界が矛盾を修正しようとするのだ。それと同じ事が起こったのだよ」
……いまいち、よくわからないんだけど。
「わからないかね? 少年は同じ時間軸の中で均等に様々な選択をした。本来流れ行くだけの筈の時間を、何度も何度も繰り返した。これはシエル君よりも激しい矛盾だ」
「じゃあ、なにか。また世界が矛盾を修正しようと……」
「うむ。それに今回は、時間の修正力も加わっているようだな」
「じゃ、じゃあ一体どうすれば……」
「なに簡単な事だ。少年が誰か一人をあらためて選べば良いというだけの話しだ」
再び俺に視線が集まる。
昔の某週間少年漫画なら、背景に『!?』と写植が打たれそうな雰囲気。
「兄さん。誰を選ぶんですか」
「そうよ、志貴。はっきりしなさい」
「志貴君が決めなくちゃ、おさまりません」
だ、駄目だ。振りだしにもどってしまった。
どうしたら良いんだろう。
確かに俺が、はっきりすればいいんだろうけど……
「俺には、駄目だ。人が人を選ぶなんて傲慢なこと、俺にはできない」
瞬間。
ブーイングが起こった。
激しい怒号。悲鳴。全員立てた親指を下に向けている。グラウンドにメガホンが投げ込まれる。犬は喜び庭駆け回り猫は炬燵で丸くなる。
「そうか。選べないのか、少年」
「駄目だっ! どうにかしてくれ!」
思わずネロに泣きつく。敵と味方が本編と完全に逆転している。
「少年が選べないのなら、勝負をして決めれば良いのではないのかね?」
「勝負!?」
皆一斉に声を上げる。
「そう。この朴念仁にまかせるよりも手っ取り早いと思うのだが」
「面白いじゃない」
アルクェイドが口を開く。
「そうですね。兄さんが誰を選んでも、素直に引き下がるようにもおもえませんし」
「ここで雌雄を決するのもいいかもしれません」
「…………」
異論はないようだ。ひとまず収まった場の空気に、俺の安堵のため息が混じる。
と―――
「誰か大事な人物を忘れてるんじゃねえかぁ!」
聞き覚えのある声。と同時に居間の硝子が爆ぜ飛ぶ。
無意味に硝子をぶち破って登場したその姿は……
「「ロ、ロア!?」」
「シキ!?」
「そうっ!! 本来のこの家の所有者にして秋葉の実の兄! 遠野志貴の永遠のライバル、ロアこと遠野シキだっ!!」
い、生きていたのか!?
「遠野。誰だよこの笑えるビジュアル系は」
「……俺の兄弟、みたいなもの」
納得したくないが、事実だ。
「つれないじゃねえか、志貴。一緒に熱い夜を過ごした仲だってのに」
「誤解を招くような言い方はやめろ! 燃え上がったのは殺意だけだ!」
ただでさえややこしいのに、危険人物が増えてしまった。
「それより、何でお前が生きてるんだよ!?」
「少年。君がシキと出会った時、ロアである私とは出会っていない。逆もまた真なりだ」
どういう意味だ。
「つまり君の様々な選択により、我々の『死』という概念が希薄になったということだよ」
と、ロアが語る。
「じゃあ俺が今日、倒れたのは……」
「そう!! オレの仕業ってわけだっ!」
くっ! 一難去ってまた一難。
「というわけで、オレもこの勝負に混ぜてもらおうか!」
「何が、というわけでだ! 大体俺の所有権を選ぶ勝負に、お前が勝ったらどうするんだよ!」
「その時はオレが主人公としてやりなおさせてもらう! タイトルも変えよう。その名も『憑姫』!!」
「ば、馬鹿野郎! お客さんが引くだろうが! せっかくメジャーになったのに!」
「その点にぬかりはない。全キャラ攻略可能で新しい客層を取りこむ」
ロアが妙な事を言い出す。
待て。全キャラ攻略?
「やはり売れ筋はシキ×志貴だろうな」
ボーイズラブかっ!?
「そんな事、させるわけにいくか! みんなが納得するわけないだろう!」
「いいわよ」
「いいでしょう」
アルクェイドと秋葉がこともなげに言う。
「な、何を」
「だって、わたしが勝てばいいってだけじゃない。 結局は変わらないもの」
まわりの人間を見廻す。
「……なんで先輩はそんなに嬉しそうな顔してるんだよ」
「え? う、嬉しそうな顔してました?」
「ふむ。どうやら皆異論はないようだな」
ネロがここぞとばかりに口を挟む。
「じゃあ、なんで勝負する? やっぱり殺し合い?」
殺る気満々のアルクェイド。
「待ってくれ。翡翠はそういう事に慣れてないんだ。なるべく穏便にしたい」
「なら、料理勝負なんかどうかな」
弓塚の提案。
瞬間、数人の顔から血の気が引く。だが……無難な選択だ。
「名案だ。それで行こう」
「ですが、この人数では食材が足りるかわかりませんが」
翡翠の心配も、もっともだ。
「ふむ。食材か」
言って、ネロがコートをひろげる。
すると、ネロの中から海老や大根、レタスに鶏などが飛び出してきた。
……イヤな食材だ。
「では、決まったようだな。司会進行は私、ネロ・カオスが行う。判定役は公平を期して、同じ学校のズッコケ三人組」
……だれがズッコケ三人組だ。
場所は変わって台所。
エプロンを用意しようとすると、流しの下から物音がした気がした。
覗こうとすると―――
「どういたしました。志貴さま」
「いや、何か音がしたような……」
「何分広い屋敷ですし、鼠でもいるのではないでしょうか」
と翡翠が口を開く。
何故か、違和感を感じた。
「では諸君、良いかね? 出す料理は自由。料理終了は午後七時。以上だ。」
簡潔なネロの説明の後、用意されたエプロンを各々着けようとするのだが―――
アルクェイドが上着を脱ごうとしている。
「……何してるんだ。アルクェイド」
「えー? エプロンて裸になって着けるものじゃないの?」
……どこからそんな間違った知識を仕入れてきたんだ。
「本当に貴女は莫迦ですね。『白』は『白』でも白痴の『白』じゃないんですか」
「シエル。喧嘩なら買うわよ?」
アルクェイドが睨み付ける。
……なんだか頭が痛くなってきた。台所を出て食堂に向かおう。
食堂に用意された自分の席に座ると―――
「おい、女たらしの遠野君」
隣の席の有彦が声をかけてきた。
「……なんだよ。女日照りの乾君」
「ずいぶん上手い事やってたみたいだな。オマエ」
「……今の俺が幸せそうに見えるか?」
「オレから言わせりゃ十分幸せだよ、オマエは。愛されてる証拠じゃねーの。贅沢な悩み、ってヤツだな」
たしかに、そうかもしれない。五人もの女性に愛されているのだ。贅沢なんだろう。
―――琥珀さんの事が、頭に浮かんだ。買い物にしては遅すぎる。
これ以上ややこしいことになるのは勘弁だが、いない間に全てを決めてしまうのは胸が痛む。
―――琥珀さんへの想いも、俺の中にあるのだから。
そんな事を考えていると、有彦が口を開く。
「でも遠野。オマエ……秋葉ちゃんにも手ぇ出してたのか?」
一番聞かれたくない話題。
「……血は繋がってない」
我ながら言い訳がましい。
「いっしょだろ。ケダモノだね」
うう、反論できない。踏まれたり蹴られたりだ。
「しっかし……なんでオマエばっかもてんのかね。ホント」
「だって志貴くん勉強できるし、元気になってからスポーツ万能だし、顔も良いんだからもてるに決まってるじゃない」
弓塚のフォローが胸に染みる。
「ふうん。イヤなヤツになったな。オマエ」
「有彦……俺を苛めて楽しいか?」
「もてない男のささやかなひがみじゃねーの。笑って聞き流せよ」
などと話していると。
―――外から象のような『ぱおー』という鳴き声が聞こえてきた。
……一体どんな料理が出てくるんだ。
「おい遠野。今の鳴き声……」
「聞かないでくれ。俺も不安になってきた」
「やっぱり、あのオッサンから出てきたのか? 何者だよ。オイ」
「……中世の時代からやってきた、おなかの中からなんでも出せるキャラだ」
「へえ。ネコ型ロボットみたいだな」
俺の脳裏に、ポケット付き全身青タイツ姿のネロの姿がよぎる。その名もネロ○もん。思わず噴出しそうになったその時。
台所にいた面々が食堂に入ってきた。
「では試食を行う。始めは……翡翠嬢」
「失礼します」
翡翠が前に出る。手に持った三人分の料理をテーブルに置く。
「おお。あこがれのメイド料理」
有彦が、たわけた台詞をほざく。
……冥土料理でなければいいが。
蓋をあけると出てきたのは……
予想通り、ホットケーキ。見た目はきれいに焼けているが、味のほうは期待できるのだろうか?
用意されたナイフで切って、口にする。
……美味い。
たっぷりと空気を含んだ生地と甘味を抑えたメープルシロップが、舌の上で溶け合って絶妙な味わいを生み出している。
正直驚いた。翡翠も、隠れて相当特訓したに違いない。
出された判定は―――
有彦八点、弓塚八点、俺が九点。
味は申し分無かったのだが、何分簡単な料理というのが残念だった。
水を口に含んで、次の料理に備える。
次は、シエル先輩。
テーブルには、やけに茶色の濃いモンブラン。またお菓子だ。
そういえば、モンブランは『山』という意味のフランス語。フランス菓子だ。
先輩はパン屋の娘だった記憶がある。納得。
女性らしい繊細な造形。
フォークを入れるのを勿体無いと思いながらも、切り崩して口にする。
―――――か、辛いっ!
たっぷりとカレーを含んだマロンクリームと、甘味の強い生クリームが口の中で溶け合って、呪いじみた味わいを醸し出している。
慌てて水を飲み干す。
「せ、先輩っ! これは!」
「はい。カレー味のモンブランです。上に乗せるマロンの代りに、ジャガイモを乗せてみました」
なんて、嬉しそうに言う。
ま、不味いなんて、言えない。
出した判定は……七点、五点、八点。
不服そうな先輩を横目に有彦と囁き合う。
「良く七点も入れたな。有彦」
「……先輩の作ったもの、不味いなんて言えねーだろ。オマエだって八点入れてるし」
「……お互い、健気だな」
二人で囁き合っていると―――
「ねーねー志貴。何をこそこそ話してるのよ? 次はわたしの番だよ!」
アルクェイドがパーティー用の皿を並べながら、話しかける。どんな物体がでるのか。
蓋を開けると……
……中から、やたらとウスラでかい肉が出てきた。毛皮が周りにつきっぱなし。
「こ、これはっ! 原始肉っ!」
「し、知っているのか! 有彦っ!」
思わず『魁! ○塾』風に聞き返す。
「ああ。これは、彼の有名なマンモスの肉だ。死ぬ前に一度食ってみたかったんだよ。オレ」
さっきの『ぱおー』はこれだったのか。
「へへー。強そうな生物の方がおいしいと思ったんだー」
アルクェイドらしい理屈だ。
恐る恐る、かぶりつく。臭みはやや強いがたっぷりと肉汁を含んでいて、中々旨い。
……アルクェイドにしちゃ、ましな食べ物のような気がした。
点数は十点、七点、九点。意外な高得点。
「あーオレ、もういつ死んでも良いや」
有彦が満足そうに言う。
「さあ! 今度はオレの番だなっ!」
やたらテンションの高い莫迦が言い放つ。
出された料理は……ハンバーグ。
見た目はまともだ。だが、こいつの作るものがまともな筈がない。
食べようか食べまいか逡巡していると……
「なかなか旨いな、これ。何の肉使ってんだ?」
と、有彦がシキに聞いた。
「○肉だ!」
え?
「だから、人○」
あああっ! 有彦がさっきの台詞を速やかに履行している!
死にかけている有彦を助け起こす。
「吐け! 吐くんだ有彦!」
「う、うう。三途リバーが」
「先輩!」
「乾君! わたしの目をみてくださいっ!」
先輩が暗示をかける。ほどなくして……
「オ、オレは一体」
「気がついたか有彦! 良かった。本当に良かった!」
「な、なんだよ遠野。大袈裟じゃねえか」
大袈裟なんかじゃない。知らぬが仏だ。
……一応点数を上げる。零点、七点、零点。
って七点?
「なんで七点も入れてるんだ?弓塚」
「え? だって、味はわるくなかったよ?」
そういう問題じゃない。
……だが、やっぱりシキは放置できない。
メガネを外し、シキを凝視する。
「シキ」
「なんだ」
「おまえ、足切り」
いいざま、肉切り用のナイフでシキの『点』を突く。
―――これで、厄介事の一つが片付いた。
「最後は、私ですね」
秋葉の出した料理は―――
冷奴と、刺身。刺身は水っぽくて、どう見てもスーパーで買ってきたものに見える。
「これ、料理って言わないよ……」
弓塚の言うことも尤もだ。
「で、でも兄さんのために、私の足で買いに走ったんですよ? 変な人のおなかから出た食べ物なんて、非常識で食べさせられないじゃないですか」
アルクェイドがむっとしている。
―――たしかに料理とはいえない。でも、俺のためにわざわざ。気持ちが嬉しい。
出た得点は―――十点。五点。八点。
「俺が言うのも何だが、十点入れるか。有彦」
「うう。ワケはわかんねーけど、なんだか今なら何食っても美味く感じるよ。オレ」
それはそうだろう。アレにくらべれば確かにマシな食べ物だ。
現在の順位は……一位アルクェイド。二位、翡翠。三位、秋葉。四位シエル先輩。
意外な結果だ。
「さて、諸君。次の種目といこうか」
ぞろぞろと連れ立って食堂を出る。
ついた先は……遊戯室。
翡翠が鍵を取りだし、扉を開ける。
「翡翠。この部屋、使えるのか?」
「はい。夜中、こそこそと姉さんが入っていくのを見たことがあります」
ゆっくりと扉が開かれる。その先の、部屋の中は―――
ゲームセンターだった。
「す、凄いぞコレは! 遠野!」
そんなに凄いことなのか、有彦が感涙している。
「M○Xから最新ハード、アーケードの古ゲーから怪しいコピー基盤まである! ああっ! ぴゅ○太までっ!」
俺にはさっぱりわからない。
「なあ。ここはオレに仕切らせてくれよ」
「まあ。別に良いけど」
餅は餅屋だ。
有彦が棚を物色する。
……有彦のチョイスは、プレ○テゲーム、『北○の拳』とかいうゲーム。
「OPから笑えるんだよ。当時の歌といっしょに、ポリゴンキャラがアニメのOPそのままに動いてんだ。おまけに出来も良い」
なんでコイツがそんな昔の事知ってるんだ。
「これで勝負するのか?」
「ああ。対戦モードがあるんだよ」
キャラ選択画面に移る。
秋葉がレ○とかいうキャラ。
シエル先輩がジャ○。……ショットガンを持ってるからだろうか。
アルクェイドがト○。白いからか。
そして、翡翠が○ダを選んだ。理由はわからない。
第一試合、アルクェイド対翡翠。
反射神経ではアルクェイドの方が遥かに上だが、初めてゲームをするようだ。素人目にみても動きがメチャクチャに見える。
対して翡翠は―――
やたら上手い。何故かやり込んでるようにみえる。あっさりと勝負が付いた。
第二試合、先輩対秋葉。
下手だが、一進一退の攻防。だが、秋葉の○イの方が優勢のようだ。
「どうやら、必殺技を出すべきですね。火葬式典を応用したこの技を!」
先輩の右手に炎が宿る。
「ま、まさか、あの大技!」
有彦が大袈裟に驚く。
「食らえ! 炎の○マ〜!!」
先輩が燃え盛る右手をパッドに叩きつける!
……パッドが燃え尽きた。
考えたら当たり前の話しだ。
―――最下位決定戦は、アルクェイドが勝った。シエル先輩に勝ったのが嬉しいのか、狂喜している。ちょっと、可愛い。
最終戦、秋葉対翡翠。テクニックで勝る翡翠。強い技ばかり出す秋葉。勝敗は……
秋葉の勝ちだった。有彦に言わせるとキャラ勝ちとかいうらしい。
「では総合順位の発表を行う。一位、秋葉嬢。二位、翡翠嬢。三位アルクェイド嬢。四位、シエル君。……このままではシエル君の優勝はないな」
先輩の顔が絶望の色に染まる。
「お願いします! 逆転のチャンスをもらえませんか!?」
「埋葬機関の人間が死徒に泣きつくなんて、教会の人間には見せられないわねー」
先輩の惨めな姿が嬉しいのか、アルクェイドは満面の笑顔だ。
「……どうにかできないのか。ネロ」
たまりかねて俺は口を開いた。
完全に便利屋扱い。困った時のネロえ○ん。
「……少しくらい痛い思いをしても、我慢できるかね?」
「はいっ! 何でも我慢できます!」
「ふむ。では皆、少年の部屋に行っていたまえ。準備が済み次第、私も向かう」
俺の部屋に全員で移る。レミングのように。
「へえ。ここが志貴くんの部屋なんだ」
「殺風景な部屋だね。趣味ねえの? オマエ」
うるさい。巨大なお世話だ。
「いいのよ志貴は。わたしと一緒にすぐこの屋敷を出て行くんだから」
「そんな事、絶対させません!」
いいかげん耳を塞ごうとした時、廊下から樽を転がしてネロが入って来た。
何故、樽?
「ではシエル君。この中にはいりたまえ」
樽を指さして先輩を促す。
先輩が中に入り、蓋をする。首から上だけが樽から突き出している。
「では、第一回シエル髭危機一髪ゲームを行う」
抑揚のない声で素っ頓狂な事を言う。
何故か、また若い人が置き去りにされたような気がした。
「ルールは簡単だ。樽の中のシエル君を順番にこの剣で刺し、最初に絶命させた者が高得点。首から上への攻撃は禁止。最後まで死ななければ、シエル君の優勝とする」
「ふ、ふざけるな!」
思わず叫んだ。
先輩に、そんな事はさせられない。これ以上、苦しませたくない。
「いいんです。遠野君」
柔らかく微笑む。
「で、でも先輩!」
「これに勝てば遠野君の傍に居られるというならのなら、わたしは、いいんです」
夏の青空のような、澄んだ瞳。殉教者の眼差し――――
「なにを雰囲気作ってるんですか兄さん。相手は樽の中から首だけ出してるのに」
客観的に見ればシュールな光景だった。
「良いかね? ではアルクェイド嬢から」
「アルクェイド。なるべく穏便に」
先輩の頭から角が生えた。
「あれ、失敗しちゃった」
それ、反則っ!!
「何でだよ……どうしてだよアルクェイド。どうしてオマエは先輩にだけは酷いヤツになっちまうんだよ」
「やーねー志貴。お茶目なジョークじゃない。ユーモア。ウィット。エスプリ」
絶対、ワザとだ。
そのまま誰も彼もが先輩に剣を刺してゆく。
秋葉も、翡翠も、ただ淡々と。
樽の中に刃が埋まり、血が漏れ出す。
先輩の望んだことだ。口を出す資格は無い。
でも、聞こえるんだ。
―――遠野君、遠野君、て。バカみたいに。
俺の耳に、胸に、響く声。
心が体がその度に震える。
「どうしたの志貴? もしかしてトイレ?」
「どうして、そう、おまえは」
無駄に、トイレにばかり、拘るんだ。
だめだ、耐えられない。
もう―――
「やめてくれ!」
「うむ。丁度終わった処だ」
は?
「君が長いこと一人ごちている間に、全て終わった」
見ると、先輩はわりと元気に樽から這い出してくる。
「せ、先輩、体は!」
「はい。樽の中って案外広くて、結構上手く避けられました。……あのバカ女の初撃は、こたえましたが」
睨み付ける先輩。素知らぬ貌のアルクェイド。
俺の心配って、一体。
「ではこれで競技は終了だ。総合成績により、優勝者の発表を行う」
ネロが最後のまとめに入ろうとしている。
「優勝は、最後の競技において、的確な刺突で唯一人シエル君を絶命させた、遠野秋葉嬢だ」
秋葉の歓声があがる。
まばら、というより有彦しか拍手をしていない。虚しく重い、場の雰囲気。
なにかを堪えるように、みな俯いている。
……たぶん殺意だろう。
俺もどう言っていいか分からず、立ち尽くしていると―――
「兄さん」
背後から、秋葉がそっと寄り添ってくる。
そして、そのまま。
部屋の扉が弾け飛んで――――
弾け跳んで?
「いったい、何の騒ぎですかっ! これは!」
赤い髪をした、秋葉が入ってきた。
「あ、秋葉!? ど、どうして」
「どうしても何もっ! 琥珀の煎れたお茶を飲んだら急に意識が……って、兄さん!?」
秋葉の瞳に珠のような涙が浮かぶ。
「やっぱり……生きていて、くれたんですね……」
駆け寄ろうとするが、その後ろにいる人物を見て、瞳に新たな驚きの色がうかぶ。
「なっ!? わ、私!?」
そうだ。
黒い髪と、赤い髪の、秋葉。
考えてみれば、おかしな話しだ。
全ての記憶があるのなら、最初の秋葉はアルクェイドの事を知っているはずだ。それを、紹介しろといった。
「アンタ、誰だ」
「あら志貴。私がわからない?」
言って俺を抱きすくめ、後ろに跳んだ。
「超絶美形魔法使い、青崎青子! 満を持しての大! 登! 場!」
なっ!?
「せ、先生!?」
「ブルー!?」
「お久しぶり、ね。志貴」
言って、先生は俺に言う。後ろから抱きすくめられているため姿は見えないが、その声は憶えている。忘れられる筈がない。
「な、なんで」
先生が?
「なんでって、ご挨拶ね。志貴は私が先にツバつけてたのに、タチの悪い連中が廻りをうろついてるって聞いたの。それで、回収に」
「回収って、先生」
「そう。貴女がなにも考えずに人助けをするとは思わなかったけど……」
アルクェイドが語りかける。
「そう。初めて会ったときに思ったわ。将来この子はいい男になる、って!!」
そ、そうだったのか!?
「それで、美味しそうな歳になった事だし、頂戴しに来たってワケ」
「お、美味しそうって、そんな」
「何よ。私のことが、嫌い?」
そんな事、無い。
表ルートなら、あれは俺の初恋だったのかもしれないのだから。
先生が俺を強く抱き締める。
ああああ! せ、先生の胸が背中にっ!
「志貴は貰っていくわよ。アデュー!」
いいざま、俺を抱えて後方に跳ね跳ぶ。
視界が怒涛のように前方に流れていく。
先生が木の枝に着地する瞬間、先輩の剣が突き刺さり、それを激しく燃え上がらせた。
「志貴を返しなさい!!」
転げ落ちた俺を抱き上げて、アルクェイドが言い放つ。そのまま俺を掴んで走りだそうとしたその時、白い腕が蒸発する。
「兄さんは、誰にも渡しません!」
激しい闘いが起こった。
共闘など一切せず、それぞれがそれぞれを攻撃する。互いに合い入れない敵なのだから。
空間を鳥のように、大地を獣のように跳び、駆ける。電瞬の速度で切り結ぶ。
必殺の意思のみの、美しい修羅達の凄艶な闘い。
しばし、魅入る。
……呆けてる場合じゃないっ!
止めなくては!
思い、慌ててポケットに手を突っ込むがナイフが入っていない。
し、しまった。バカ話だと思って油断した!
「志貴さま!」
なっ! ひ、翡翠!?
まずい! この凄絶な闘いに巻き込まれかねない。
翡翠を慌てて抱え上げる。幸い、目の前の闘いで精一杯なのか、みな俺の動きは目に入っていない。
そのまま、光を避けるように森の闇を駆けぬける。
たどり着いた裏の勝手口の錠を、翡翠が開けた。
翡翠を安全な場所に隠れさせなければ。
台所に飛び込む。
「俺はナイフを取ってくる。翡翠は取り敢えずこの中に隠れて」
言って、流しの下を開けると―――
流しの下に、縛り上げられた、翡翠がいた。
翡翠が、二人、いる?
今日の翡翠の姿が、斬影のように脳裏をよぎる。
――――ホットケーキが、美味すぎた。
――――やたらゲームが上手かった。
――――シエル先輩を、ためらい無く突き刺した。
「あーあ。バレちゃったみたいですねー」
振り向いたその先には―――
カラーコンタクトを外そうとする、琥珀さんの姿が、あった。
微かに感じていた、違和感。
「――――先生を招き入れたのは、琥珀さんなのか」
「はい」
「シキを呼んだのも」
「はい」
「翡翠を縛り上げたのも!」
「はい」
「武内さんの『ワルキューレ』の新刊が出ないのもっ!」
「それはわたしのせいじゃありません」
「ぜんぶ思惑通り、てわけか! 琥珀さん!」
「そうですよ。全部、わたしがそうなったら良いなって、思ったことです」
能面じみた貌で、琥珀さんが言う。
「いったい、どう、して」
目眩がする。
「全ての記憶があるのなら、人形のわたしが強く出るのは当然じゃないですか。それに」
それに……?
「わたしには志貴さんしか、いませんから」
……その気持ちは、嬉しい。
琥珀さんのことも、大切に思う。
でも、こんな結末は駄目だ。許されない。
傷つけることもできず、走り逃げようとしたが―――
体が、うごかない。
水面を漂う木片のように、虚ろ。
「やっと薬が効いてきたみたいですね」
頭に、水を飲んだ時の琥珀さんの表情が、浮かぶ。毒婦のような、微笑み―――
「もしかして、水の、中、に」
「はい。ホットケーキの中にもです」
華やいだ顔で、言う。
「さあ、行きましょう志貴さん。もうじき車も来ます。一緒に幸せになりましょう」
笑顔の琥珀さんが俺に身を寄せた時、爆音が轟き、壁が吹き飛んだ。
外の闘いが波及しかけている。
目を向けると気を失っているだけで、琥珀さんは無事のようだ。翡翠も。
収拾のつかないこの事態を、止めることができるのは、俺しかいない。
だが、もう裏まで走るのはムリだ。
―――翡翠にかまされた猿ぐつわを外す。
ロープは、解かない。
解けば、きっと翡翠は俺の行為を止めるから。
「ごめん、翡翠。あとでみんなに謝っといてくれるかな」
きっと俺は、哀しい顔をしていたのだろう。
「志貴さま!? いけません!!」
泪を浮かべて、翡翠が言う。
その声を振り切って、よろよろと歩き出す。
重い体を手摺に投げ掛けるようにして、階段を上る。
―――――着いた。
琥珀さんの薬で倒れている有彦を跨いで、歩く。
引き出しから、ナイフを取り出す。
メガネを外して、胸の『点』を凝視する。
意識が、揺れる。頭蓋が砕けそう。
古びた、だがすでに俺の体そのものと言っても良い、ナイフ。
その、俺だけの牙を逆手に持ち、そのまま――――
「駄目ぇ! 志貴くん!」
部屋に飛び込んできた弓塚に突き飛ばされた。背中に激しい衝撃。壁まで吹き飛ばされる。
「ダメだよ志貴くん! 死んだりしちゃあ!」
うう、弓塚の攻撃で死にそうだ。
「何で? 誰かひとり選べば良いってだけじゃない」
それは、そうだ。
でも。
「駄目なんだ、弓塚。俺の中の記憶は、それぞれをこの世の誰よりも愛してた。大切に想ってた。今も、そうなんだ。だから、誰かを選んで傷つける事なんて、出来ない。……たしかに俺は優柔不断でダメなヤツかもしれない。でも、この気持ちは誰に対しても一緒なんだ。大切なんだっ! 仲良く、して欲しいんだよ」
そうだ。愛している。
アルクェイドを、シエルを、秋葉を、琥珀を、翡翠を。
―――みんな、つらい思いをしてきた。
誰の笑顔も、曇らせたくない。
哀しませたくは、ない。
俯き、崩折れた俺を、弓塚がそっと抱きしめた。
「なら、そう言えばいいじゃない」
え?
「それに志貴くんが死んだりしたら、みんな、もっと哀しむよ」
「弓、塚…?」
「ゼロから始めようって、言えば良いだけじゃない。みんな志貴くんの事大好きなんだから、きっと、わかってくれると思う」
……そうだ。
誰も、哀しませたくない。
死ぬなんて、逃げだ。
ゼロからだって良いじゃないか。
新しい想い出を、創っていけば―――
「……弓塚の言う通りだな。俺、言ってみるよ。ゼロからやり直そう、って」
弓塚が、いっそう強く抱きしめる。
少し痛い。
腕にこめられた強い力と、首筋に冷たい牙の感触。
――――牙の感触?
慌てて弓塚を突き飛ばす。
弓塚の赤い瞳が、爛々と輝いている。
「なんで逃げるの? ゼロから始めるんなら、わたしを選んでくれてもいいじゃない」
「弓塚。おまえ」
「うん。わたしもみんなと一緒。だから、吸血鬼」
「でも、学校には」
来ていた。
「うん。吸血鬼のわたしが五分の三だからかな。気持ち一つで普通のわたしにもなれるんだ。バカが、生まれて始めて書いたような話しのおかげで助かっちゃった」
「そ、そんな」
ご都合主義な。
「さあ、わたしのモノになってよ。志貴くん!」
俺の驚愕を無視して、弓塚が襲い掛かる。
ダメだ。体が、動かない。
思った、刹那。
流星のような光芒が眼前を疾った。
危うく避けた弓塚。取り残された前髪だけが床にハラリと落ちる。
「へえ、やる気なんだ。志貴くん」
ち、違う!
―せ。
え?
―――弓塚を、殺せ。
な、七夜の血か?
――ろせ。
弓塚の最期が、おれの心をよぎる。
―――殺せ。
ダメだ。弓塚を、もう二度と殺させない!
―――アルクェイドを、殺せ。
は?
――――私の焦がれた純白の姫君を。
ロ、ロアの意思まで!?
―――殺せ。七夜志貴。
な、なんだかさっぱりわからない。
――――真祖の下僕、遠野志貴を。
俺の腕が、勝手に俺を殺そうとする。
ああっ!! そうか! 全ての事実を内包しているのなら、俺の中にはアルクェイドの血も混じっている。ロアも居る筈だ。
それで、俺は俺を殺そうとするのかっ!
―――殺せ、弓塚を。
―――いや、アルクェイドだ。
俺の中の意思達が、せめぎあう。
またややこしい事にっ!
――――翡翠も健気で可愛いぞ。
―――――さっちんのシナリオも読んでみたいなぁ。
何の話しをしてんだぁっ!
「どうしたの志貴くん! 油断してると死ぬよ!」
弾幕のような弓塚の拳を、受け避け捌き流す。
――――琥珀ってスティー○ン・キングの書いた『お○ん』みたいだなぁ。
―――――シエル萌え〜
ああっ! うるさい!!
埒のない攻防に業を煮やした弓塚が、手近なものを投げつけてきた。
切り払おうとしたその『物体』と目が合う。
「とお、の」
有彦ぉ!
慌てて大きく後ろに跳び退る。
と――――
踵に、かたい感触。
勢いのままに体が反転し、落下する。
咄嗟に跳んだために、窓を飛び越えていた。
そして、窓枠に踵を。
体勢を整えようとするが、体が動かない。
――――表ルートの時のシキと琥珀の関係ってどんなだったんだろ。
何を盛り上がってんだ! こんな時にっ!
地球の引力に引かれるままに、俺の落下は続いていく。
「くそっ! ニュートンめっ!」
引力を発見したニュートンに毒づいてもどうにもならない。
もう、体がうごかない。
死ぬしか、ない。
仰向けのまま見上げた、夜空―――
眼前には、滑稽なほど大きな、満ちた月。
―――ああ。
月は、死者の行く国だと、聞いたことが、ある。
その、慈母のような、蒼い光に。
俺の、意識、は。
溶けて、キ、エ、タ―――――
不意に、目が覚めた。見なれた天井が見える。
頭が、いたい。
体が砂のように崩れそう。
―――なんだか酷く、厭な夢を見ていた気がする。
まるで、莫迦が四日で書き上げたような、陳腐でチープな夢を。
見下ろすと制服姿。汗みずくで気持ちが悪い。
だるい体を引きずって、ベッドから降りた。
窓を開け、斜陽の空を見上げる。
秋の赤い風が胸を満たす。
俺は、
妙な既視感をおぼえながら、
今日一日を、
振りかえろうと、
した―――
/END