■ 狂月夜 / 泉蓬寺悠
―――平和というのは、あるだけで素晴らしいことだということに、人はなかなか気付かない。
そして、危険というものは、常に身近に在るということもなかなか気付かない。
俺のように特殊な例もまた、なかなか見つからないけど、な。
終業のチャイムが鳴り、数学の教師が授業終了を告げると同時に、大きく伸びをして、新鮮な空気を肺に吸い込む。
「ようやく終わりましたね、遠野くん。一週間待ち望んだ土曜日の午後がやってまいりました」
教室の生徒が慌ただしく帰り支度をする中、有彦が真っ先に俺の席までくる。
「――――お前は年中半ドンみたいなものだから、普段と変わらないんじゃないのか?」
「おいおい遠野。俺が出ないのは午前中であって、基本的には午後の授業は出てるだろ。ボケたか?」
―――半日授業であることに変わりはないだろうが。
遊ぶことを生きる目的としている有彦の言動は、いつも通り意味不明だ。
見ると手にしたカバンも見事なまでに薄っぺらい。きっと教科書など万年ロッカーだろうから。一体コイツは何しに学校に来ているのだろう?
「あー、遠野くん何か僕のことを馬鹿にしていないかい君は」
「気のせいだ有彦。それは特別なことではなくて、普通なことだからな」
「うわー、いつも通りきついな」
何が嬉しいのか、こちらの皮肉にも万年春といった素敵過ぎる笑顔の有彦。
――――マゾなのか?
まあいい加減ここで時間を浪費するのもバカバカしい。さっさと用件を聞いてしまおう。
「んで、せっかく良い天気の土曜だ。このまま遊びに行かないのは神様にたいして失礼だと思わないかい、遠野くん」
こちらが口を開くより早く、有彦の方から用件を切り出してきた。
どうやら遊びに行きたいらしい。というかそれ以外に聞こえない。
―――全く、実に単純でいい。何がここまでこの男を遊びに駆りたてるのだろう。ナゾだ。
「お前と二人でか?」
「んなわけないだろう。先輩も誘うに決まってるだろうが」
「そりゃそうだ。俺もせっかくの土曜の午後をおまえのために使うのは、果てしなく遠慮したい」
「はっはっは、俺もだ。気があうな」
「全くだ」
――――嬉しくない。
けどまあ、有彦と先輩と三人で遊ぶという案は悪くない。
窓の外を眺めると、この季節にしては陽射しが染み込むように暖かく、風も涼しげで気持ちがいい。
こんな日に三人で遊べれば、きっと凄く楽しいだろう。
「―――よし。それじゃあシエル先輩を誘いに行くか」
カバンを持って立ち上がる。
しかし、有彦はまあ待てと、いかにも得意げな仕草で俺を制した。
「その必要はない。なぜなら――」
「遠野くん、乾くん、お待たせしました」
「シエル先輩」
「こういうことだからだ」
相変わらず何の違和感もなくこの教室に入ってきた先輩は、これまた相変わらずの柔かい笑顔で挨拶してきた。
なるほど。すでに声を掛けておいた訳だ。
目で尋ねると、有彦が不器用なウィンクで返事を返してくる。
「さあ、張りきっていきましょう!」
「ふふふ……今日は僕のお奨めコースをバッチリ網羅しますから。楽しみにしてくださいね」
「それは楽しみです。さ、遠野くんも行きますよ。差しあたってはお昼ご飯からです」
「はぁ。先輩元気いっぱいですね」
それしか言いようがない。
「当たり前です。せっかくのいい天気の土曜日です。このまま遊びに行かないなんてウソです。神様に失礼だと思わないんですか、遠野くんは」
むー、と今さっき聞いたようなセリフをおっしゃるシエル先輩。
ただし、この人が言うと妙に気合が入っているから不思議だ。教会は天気のいい土曜の放課後には力いっぱい遊ぶよう、教義にでも載っているのだろうか?
「今日は夕方から別の約束があるので、ちゃっちゃと遊びましょう」
「え、先輩約束って、誰と?」
「それは――――秘密、です」
はて―――先輩に俺と有彦以外に、それも夕方以降から会う約束をするような知り合いなど、聞いたことがないが。
――――いや、一人、いるな。
金色の髪と赤い瞳を持つ、白い吸血姫の姿を思い浮かべるが、すぐにそれも否定する。
アルクェイドとシエル先輩。
この二人、職業柄というか種族柄というか―――いや、おそらく性格の問題だろう―――とにかく仲が悪いからな。吸血鬼狩りという目的もないのに、わざわざあの二人が会ったりする筈がない。というか会ってたら、その時点でまたロクでもないことに巻き込まれそうで怖い。
シエル先輩は上機嫌で微笑んでいる。もしアルクェイドと会うのなら、絶対にこんな顔をするわけがないからな。
「―――というワケで、待ち合わせは三十分後に駅前です。各自着替えをすませ、遅れないように」
「ええっ! また?」
以前と同じ展開に思わず悲鳴を上げた。
学校から遠野の屋敷まで、歩いて二、三十分ほどだ。言うまでもなく、先輩は俺を狙い撃ちしているのだ。
「わはははは! ゆっくりしていっていいぞ、遠野。俺と先輩はお前を楽しく待っててやるからな」
――――くっ、爆笑の有彦が何か無性にムカつく。
「それじゃあ遠野くん。遅れないで来てくださいね」
笑顔でのたまう先輩のセリフを聞き終わるより早く、俺はカバン片手に教室から駆け出した。
遠野の屋敷の門につく頃には、息も絶え絶えに突っ伏しそうになっていた。
「―――は―――は―――は―――お、鬼だ―――」
無論誰が鬼かは言うまでもない。
まったく―――慢性貧血もちの人間に、笑顔でなんてこと強いるんだあの人は。
「――こ、こうしちゃいられない」
すでに先輩たちとの待ち合わせ時間まであと十五分を切っている。学校からここまで走って帰ってきたとは言え、ここで時間をロスすれば、また全力で走ることになる。
門をくぐり、小走りで屋敷に向かった。
「―――志貴さま、お帰りなさいませ」
ロビーに入るとすぐのところに控えていた翡翠が、お決まりの挨拶をしてくれる。
いつも思うのだが、翡翠は俺が帰る時間には必ず門の外かロビーにいる。予知能力者か?
「――はあ―――あ。ひ、翡翠――」
息を切らしてロビーに入る俺に対し、翡翠は心配げに眉をひそめる。
「志貴さま。あまりそのように激しく運動なさっては―――」
「いや――大丈夫だって。それよりすぐ出掛けるから、琥珀さんには昼メシいらないって――言っておいて」
「あ、志貴さま―――」
翡翠の声を振り切って、さっさと自室へと向かう。
一分で着替えをすませ、上着に財布だけをつっこんで、またロビーまで駆けもどる。
「あ、志貴さん。ちょっと待ってくださいね。はい―――まずこれをどうぞ」
ロビーを通りぬけようとした時、翡翠と一緒にロビーまで顔を覗かせた琥珀さんが呼び止めてきた。一緒にコップ一杯の水を勧めてくれた。
正直これはありがたい。
「―――あ、ありがとう琥珀さん」
一息に飲み干し、グラスを琥珀さんに返す。
「志貴さま。襟が折れています」
琥珀さんがそれを受け取ると、入れ替わりに翡翠が俺のやや乱れた服装を簡単に整えてくれる。
「志貴さまは遠野家の長男です。服装には気を使ってください」
翡翠が言った。
――――何か不機嫌に見えるんだけど―――
もしかして、さっきのが気に障ったかな。
「ははぁ――翡翠ちゃんがこういうのも、まあ仕方ないんですけどね」
よくわからないことを言う琥珀さん。だからなぜ?
「志貴さん。今日はお帰りは何時ごろになりますか?」
「え? うーん―――多分夕食までには帰れると思う」
「そうですか。今日は夕方から秋葉さまがお呼びしたお客さまがいらっしゃいますので、志貴さんにも居合わせてほしいそうです」
「秋葉が? 珍しいな。別に俺が居なくてもいいと思うけど――」
確かに遠野志貴は遠野家の長男で秋葉の兄だけど、遠野の当主は秋葉であることに変わりはない。居合わせてほしいと言うからには、遠野の関係者だろうけど、それだけに逆に志貴は居ない方が良いはず。
けれど、琥珀さんこちらの考えをお見通しなのか、クスクスと笑う。
「そんなコト言わずに。帰ってこないと大変ですよ、きっと。大事なお客さまですから」
多分に茶目っ気を含んだ琥珀さんとは対照的に、翡翠はムッとした顔でこちらを睨んでいる。一見するといつもと変わらないが、そこはかとなく視線が冷たい。
一体俺が何をした?
「―――とにかく、志貴さんには夕方までには帰ってくるわけですね」
「あ――うん」
どうも琥珀さんが何か隠しているようにしか見えない。この笑顔がひどくくせものであるし、隣の翡翠も相変わらず視線が冷たい。
――――厭な予感がする。それも下手すると、命に関わるような……
「―――あ、志貴さん。お時間の方は良いのですか?」
「あ、しまった!」
すでにタイムオーバーは確定だ。この時点で有彦の勝ち誇った顔が目に浮かぶ。くっ、なんか悔しさで貧血を起こしそうだ。
「それじゃあ出掛けてくる!」
「はい、いってらっしゃい」
「お気をつけて」
琥珀さんと翡翠の声を背中で聞きながら、遠野の屋敷を後にする。
しかし、門を出たところで、視界の隅に白い影がよぎった気がして、不意に立ち止まった。
「――――アルクェイド?」
呼びかけてみたが、そこには俺以外誰もいない。やたらと長く続く遠野家の塀の上には黒猫が一匹、暖かい陽射しを受けて、くあー、と気持ち良さそうにあくびをしていた。
「―――まさか、な」
独りごちるが、この時俺の中にさきほど琥珀さんと翡翠を前にした時の、戦慄にも似た予感が再びよぎった。
そう―――いつもいつも朝起きると部屋に忍び込んでくるアルクェイドが、今朝に限っては来なかった。そればかりか、今日はまだ一度も顔を見せていない。
この一事を思い出してみても、何か非常によくないことが起こる気がした。
「――――く」
何かやたらと理不尽な場面が待っている気がして、俺は逃げるようにその場を後にした。
結局遅刻を余儀なくされ、有彦とシエル先輩に苛められたのだった。
―――なんてこった。
「――――それじゃあ失礼しますね。二人とも、今日はありがとうございました。凄く楽しかったです」
夕方、用事があるという先輩が俺と有彦に向かって、本当に嬉しそうに礼を言い、ペコリと頭を下げた。
「そんな改まって礼を言われるほどのことじゃないですよ、先輩」
「そうそう。こんなんで良ければ、いつでも誘いますから」
俺と有彦が口をそろえてシエル先輩に言う。
先輩はやっぱり嬉しそうな顔で微笑んでいた。とても―――綺麗な笑みだ。
「それじゃあわたし、行きますね。遠野くん―――また後で」
「ええ、また後で――――はい?」
なんか今妙なコト言わなかったか?
しかし、それを聞き返すより早く、先輩は小走りにこの場を走り去ってしまった。
一瞬呆然とした俺と有彦だったが、ハッと我に返った有彦がジロリと睨んでくる。
「おい遠野。まさか―――先輩がこれから会う相手って、お前じゃないだろうな?」
「ばか言うなよ。だったらなんで俺が今ここにいるんだよ?」
「俺を出し抜いて再度先輩と逢い引きか? 親友の俺を差し置いて! オー、ジーザス!」
「―――だから、違うっつーの!」
「このまま先輩と夜景のきれいなホテルで夕食をとり、そのままワインの勢いで先輩を押し倒すつもりだな!」
「お、おい―――落ちつけって!」
「なんてこった! 先輩という美しい鳥が、遠野の毒牙にかかろうとしているなんて!」
人通りの多い繁華街で、大声で何を言い出すんだコイツは?
「シエル、綺麗だよ――――などと恥ずかし過ぎるセリフをぶっこく遠野。先輩は顔を赤らめつつ、遠野が服を脱がすのを手伝う。やがて、遠野の淫らな赤い舌が、先輩の肌を――――いやあああっ!」
―――――逃げよう。
あまりにぶっ壊れた有彦にこれ以上付き合うと、こっちまで汚染されそうだ。
いまだ一人身悶える有彦をおいて、俺はとっととその場を後にした。
陽はすでに街の向こうに沈み、夜の帳はとっくに下りている。
遠野の屋敷につく頃には、まばらな街灯が頼りなげに瞬いている。
有彦の狂態から逃げ出したはいいが、先ほどの様子を思い出し、ちょっと身震いする。
「どうしてああ短絡的なんだろう―――吸血鬼に血を吸われたのか?」
多分に違うような気がしないでもないが、あの様子を前にしてビビらない人間がいたらなお怖い。
次に有彦と顔を合わせた時、自分が平静でいられる自信がない。下手したら問答無用で手が出るかもしれない。いや殴らずにはおれない。
だって怖いから――――
「むぅ―――今日は朝からロクなコトが起きないな」
独りごちて、遠野の門を開けて中に入る。
いかにも「お屋敷でゴザル!」と思わず武士言葉になってしまいそうな巨大な門だ。いや、一応洋館なのだが―――
外見よりもはるかに軽く開く。きっと翡翠や琥珀さんが手入れをしているからだろう。
中庭を抜け、屋敷に入ろうとすると、中から話し声が聞こえる。
はて―――あ、そう言えば客が来るとかって言ってたな。
「―――弱った」
実はその来客がある前に帰ってきて、着替えを済まそうと思っていたのだ。
俺としてはあまり気乗りしないのだが、さすがに当主である秋葉にはメンツもあるだろう。いつも気苦労を掛けているのだから、それくらいはしてやりたい。
「ただいま―――」
「お帰りなさいませ、志貴さま」
ロビーに入ると、待ち構えていたとしか思えないタイミングで翡翠がお辞儀をする。
なぜこもうこちらの行動が筒抜けなんだろう。盗聴器でも仕掛けられてないだろうな?
「いかがなさいましたか、志貴さま」
「ん? あ、いや――なんでもないんだ」
いきなり服を脱ぎかけ、パタパタさせる俺の姿は果てしなく危ない。まるで変質者のようだ。
翡翠が怪訝な表情をするのも無理はない。というか、気のせいか昼よりさらにその視線が冷たいような―――
「あ―――ひ、翡翠」
「なんでしょう」
「例のお客さまってのは、もう来てるのかな?」
―――翡翠の目がいっそうキツくなった。なぜ?
「お客さまはすでにお待ちです」
ふかぶかとお辞儀をしてその場を辞する翡翠。丁寧な行動が無言の非難として浴びせられるが、氷河ばりの冷たい目になにも言えない俺。俺の直死の眼だって敵わないかもしれん。
「―――まあいいや」
考えても仕方ない。居間に向かう。
「遅かったですね、兄さん。今日は早く帰るよう言伝しておいたはずですが?」
開口一番辛辣な言葉を吐く秋葉。
だが俺にとってそこは問題じゃなかった―――
「やっほー志貴。お帰りー」
「――――うげ」
――――ショックで心臓が停止しかけた。
なんでアルクェイドがここにいるんだ?
まさか―――まさか客って――
「へへ、来ちゃった」
「来ちゃった、じゃないわ!」
思わず怒鳴る俺。
「な、な、な、なんでおまえがここに居るんだ!? おま――あれほど―――」
「うるさいですよ兄さん。アルクェイドさんはわたしがお呼びしたんです」
「はいぃ!? なぜ秋葉が! ホワイ!?」
なぜか英語。
そんな俺を秋葉はアマゾンジャングルで珍獣を見つけたような目つきで冷笑すると、座ったまま優雅に紅茶など口に運んでいる。
「そうなんだよ志貴。妹さんもわたしと志貴のコト認めてくれたみたいだし、これで家族公認だね」
「うわ―――抱きつくな!」
ピキ―――
擬音が聞こえる勢いで、片方の眉を釣り上げる秋葉。よく見ると顔に血管が浮いており、顔面神経痛患者のように時折顔の筋肉がヒクヒクと痙攣している。
――――認めてない。
――――――――――アレは絶対認めてない!
「――兄さん。大変仲がおよろしいようですが、仮にも兄さんは遠野家の長男。もう少しお慎みくださいませ」
「お、俺じゃ―――」
「だってさ。残念だね志貴」
「おまえが抱きついてきたんだろ!」
「でも―――後でいっぱい――――しよーね……」
「――――――」
と―――とんでもないことを言いやがった。
顔を赤らめて、わずかに視線を逸らせて呟くアルクェイドは、もうとんでもないくらいに可愛いのだが、目の前で見たこともない妖魔獣みたいな物体と化している秋葉を前にしては、とてもそれを楽しむ余裕などナッシング。
眼で殺す―――というより眼が殺すと言っている。気の弱い小動物なら即死決定の破壊力だ。
「アルクェイドさんもどうぞおかけください。兄さんもカカシのように突っ立ってないで座ったらどうですか」
――――もうなにも言うまい。
「今日わたしがアルクェイドさんをお呼びしたのは、兄がお世話になっているという方と直接お話してみたいと思ったからなんです。どうぞゆっくりしていってくださいね」
「ありがとー、秋葉」
皮肉も通じない天然アルクェイド。なんかいるだけで胃に穴が空きそうだ。
「琥珀。確かシャトー・ディケムがありましたね。持っていらっしゃい」
「シャトーって――ワインじゃないか。おまえまだ未成年だろうが」
ギロリ―――――
熊をも殺せそうな視線に睨まれ、沈黙を余儀なくされる俺。心なしか動悸が早まり、息が荒くなった気がする。分かりやすく言うと寿命が縮んだ。
うう……怖いよぉ……
「まあまあいいじゃないの。それにわたしもお酒なんて飲んだことないから。結構楽しみなんだよ」
相変わらずニコニコとしているアルクェイド。どうやら秋葉に呼ばれたことがかなり嬉しいらしい。
だがアルクェイドの機嫌が良かったのもここまでだ。
「―――秋葉さま。もう一人のお客さまがいらっしゃいました」
「ありがとう翡翠。お通しして」
「かしこまりました」
ロビーから顔を出した翡翠が、その場を後ろから現われた客にゆずる。
その姿を見て、俺とアルクェイドが同時に叫んだ。
「シエル!」
「シエル先輩!」
あんぐりと口を開ける俺。その顔がよほど面白かったのか、視界の隅で秋葉がいかにも悪人チックにニヤリと笑ったのが見えた。
「―――どうしてアナタがここに居るんですか、アルクェイド。しょうこりもなくまだ遠野くんに付きまとっているんですか?」
シエル先輩は俺たち―――いや、むしろアルクェイドの姿を見るや否や、喧嘩を吹っ掛けてるとしか思えない口調で言い放った。
奇しくも服装はいつぞやの黒い法衣姿である。それが正装なのだろうが、今すぐにだって殺し合えちゃうくらい素敵な格好だ。無論遠慮してもらいたい。
「――わたしは秋葉から招かれたのよ。シエルこそなんでここにいるのよ。これだから埋葬機関は――――」
「埋葬機関など今は関係ありません。わたしは遠野くんの妹さんにお招きいただいたのです。アナタのような吸血鬼がいつまでも遠野くんに付きまとっている必要など絶無です」
「シエルこそさっさと法王庁に帰ればいいじゃない。アンタこそお呼びじゃないわ」
「言ってくれるじゃないですか」
竜虎のように対峙する二人。ロアも倒したというのに、何がここまでこの二人を駆りたてるのだろう。
だが二人の対立も、秋葉の一言が問題自体を木っ端微塵に破壊する。
「お二人ともわたしがお呼びしたのです―――どちらも兄のお世話をしてくださっていると聞いていますので」
キッ―――
アルクェイドとシエルの視線が、なぜか俺に集中する。
「お――――俺はなにもしてないだろ!」
「――皆さん、ワインをお持ちしました」
トレイ―――と思いきや、どういうわけかワゴンに尋常じゃない量のワインとグラスを乗せて、琥珀さんが居間に帰ってきた。
そして―――悪夢のような時間が始まった。
カッチカッチカッチカッチ――――
時計の針が時を刻む音がいやによく聞こえる。確か親父が手に入れたネジ巻き式で、毎朝琥珀さんがネジを巻いていると言っていた。
「――――ヒク。大体ですね、遠野くんは優柔普段なんです。もう少しハッキリした方がいいです」
ゴロン。
シエル先輩の足が、床に転がった空の酒瓶にあたり、それがまた別の酒瓶にあたって止まる。
「その通りです。ヒク。いつもホケーとしていて、わたしがそばに居ても兄さんは少しもその気にならない。決断力がない証拠ね。ヒク―――」
琥珀さんと翡翠は、この不思議時空と化した居間に寄りつきもしないのか、あれから一度も姿を現わさない。
そりゃないよ二人とも―――せめて俺を連れて行ってほしかった―――
「そこが志貴の良いトコロなんじゃない。志貴の良さが分からないなんて、二人ともまだ子供ね」
なぜかこちらは全然酔った感じがしないアルクェイド。秋葉とシエル先輩が顔を真っ赤にしているのに対し、こっちは顔色も全然変わらず、カパカパと酒を空けている。
「アナタに言われたくありません! 吸血鬼がなにしたり顔で寝言ほざいてるんですか!」
「なによシエル。そんなコト今は関係ないでしょ――――ははぁ、さてはわたしには勝てないと思ってそういうコト言うんでしょ?」
「な、な、何を言ってるんですかアナタは!」
「そうだよねー。志貴だってシエルみたいな面倒くさい女より、わたしの方が全然いいよねー」
「こ―――このアーパー吸血鬼! 秋葉さんも何か言って下さい!」
「外野がいくら騒ごうと、わたしと兄さんの絆を上回れはしないでしょうけど」
数えるのいやになるくらい大量の酒瓶が散乱している居間で、三人の女性が見てるだけで気持ち悪くなるようなペースでカパカパと酒を空けていく。
例え眼鏡を外しても、この人外魔境な空間を『殺す』ことはできないだろう。だって意味なんてないんだから。
ああ―――なんでこうなったんですか神様。吸血鬼殺しはそんなに罪深いことだったんでしょうか?
目の前には―――見たこともない魔界村が広がっていた。
「あら――――兄さんはさきほどから少しも杯が進んでいないようですが?」
くい―――と優雅な仕草でワインをあおりつつ、秋葉が俺に流し目を送ってきた。ほんのり赤い目元がドギマギしてしまうほど色っぽいのだが、この部屋に居るというだけで全て台無しだ。
とても酒など飲めるような心理状態じゃないが―――それ以前に飲んだことがないが、断ると死が待っていそうで申し訳程度に口を付ける。
「―――秋葉、おまえちょっと飲み過ぎだぞ」
「なによ、誰のせいだと思ってるんですか?」
ジロリと俺を睨む秋葉。誰のせいだと言いたいんだよ。
むー、と顔をふくらませる秋葉は、いつもと違って年齢相応の幼さを見せる。
ワイン片手だが……
視線を転じると、シエル先輩がブツブツと独り言を呟きながら、あぐらをかいてワインをラッパ飲みしている。
あの清純な先輩のイメージがガラガラと音を立てて崩れていくのを、俺は妙に達観した気分で眺めていた。
「ねー志貴。志貴は私が一番好きだから、ネロやロアを倒すのを手伝ってくれたんでしょ?」
「わ――――は、離せってアルクェイド!」
「ダ〜メ。ちゃんと言ってくれないとわかんないよ」
な、なんて危険なコト聞くんだコイツは!?
秋葉やシエル先輩の視線がいきなり俺の心臓を直撃。どこのXファイルにだってこんな異常自体載ってない。助けてモルダー……
「ねーねーねーねー」
後ろから首に細い腕を回してきたアルクェイドを慌てて振りほどこうとあらがうが―――その、頭の後ろにあたる――ふくよかな膨らみの魅力にどうも力が入らない。
あ、シエル先輩がグラスを握り潰した。
ギンッ―――
なんて音がぴったりの勢いで俺を睨んでくる――――てなんで俺?
シエル先輩の目が直死の魔眼じゃなくて、本っ当によかった。ありがとう人類。ありがとう青春。ああ、いかん俺まで酒が回ってきたかも……
先輩が長いスカートの下から妙に物騒な物を取り出すのが見えちゃったりするが、きっと幻だろう―――
「こ――――の、不浄者ぉぉぉぉっ! 離れなさい!」
ジャキン、どかん、ドカカカカッ!
「ひいいぃぃぃーっ!」
「な、何するのよシエル! アンタ今本気でやったでしょ!」
「当たり前です! 今日という今日は間違いなく、ええ完膚なきまでこれ以上ないってくらい封印してあげます!」
いえ―――その前に、剣で服を壁にはりつけにされた俺を助けてくださると嬉しいんですが―――
というかベルトが剣で裂かれて、今にもズボンがずり落ちそうだという、情けなさ過ぎる危機に気付いてください……
「上等よ! 表に出なさいシエル!」
「いい加減にしろっての! その前に俺を助けろ!」
「ああ!? 遠野くんなぜこんなことに!?」
「アンタがやったんでしょうが!」
「アナタが避けるからです!」
再びギャーギャーと言い争うシエル先輩とアルクェイド。
俺のズボンはすでにご臨終一分前まで切羽詰っており、あまりの不幸に涙がチョチョ切れそうだ。
「ふふ―――兄さんいい格好ですね」
「あ、秋葉――いいから助けろって!」
「なぜですか? こういう兄さんを見ながら飲むワインは、また一段と美味しいですのに―――」
「あ、アホか!」
「ほら――――こうすれば―――」
「わ、や、止めろって!」
「――――」
クスクスと笑いながら、秋葉がはりつけにされて動けない俺のズボンに指を掛けた。
「あ――――」
――――――――!
「に、兄さん―――凄い―――」
顔を赤らめる秋葉。
見ると、アルクェイドとシエル先輩もいつの間にか喧嘩を止めて、爛々と光る―――野獣のような眼でこっちを見ている。
「し、志貴―――」
「遠野くん――――すご――――」
―――――俺は初めて。
―――――――――ちょっとだけ死にたくなった。
「―――まったく、秋葉も普段は規則のコトでうるさいのに。いい加減爆発したかな」
「うーん、それは半分当たりですね」
秋葉を背負う俺を先導していた琥珀さんが、振り返って答える。
「でもこうなった原因の一つは、志貴さんにあるんですよ?」
「そりゃあ俺は秋葉に迷惑掛けっぱなしだけど―――ここまで暴走するまでストレス溜まってるんだったら、一言言ってくれれば、ちゃんと直せるトコは直したよ」
「はぁ―――これじゃあ秋葉さまも壊れるわけですね」
さりげに酷いことを言う琥珀さん。
アルクェイドは早々に――――なぜか俺の部屋のベッドにもぐりこんで爆睡中。おかげで俺は今夜は客間で眠ることになりそうだ。
シエル先輩は今で酒瓶を抱えながら寝てしまったので、先ほど客間まで運んで眠らせた。
「ううん―――兄さん――――」
「ん? 呼んだか秋葉?」
背中の秋葉に呼ばれた気がして呼びかけてみたが、聞こえるのはスースーという規則ただしい、幸せそうな寝息のみ。
それを聞いていた琥珀さんが、クスッと笑った。
「志貴さんはもう少し女心を勉強した方がいいですよ」
「は――――なんで?」
「なんでもです」
琥珀さんは静かに微笑むのみ。
秋葉を部屋に寝かしつけると、琥珀さんがおもむろに口を開いた。
「―――志貴さん。よろしければ、これからわたしの部屋に来ませんか?」
「――――え?」
「今日は志貴さんとあまりお話できませんでしたから。秋葉さまも――――お休みですし」
珍しく―――琥珀さんが可憐に頬を染め、うつむきながら切り出した。
時刻はとうに午前一時過ぎ。加えて琥珀さんのこの雰囲気。えっと――――いや、もしかして、これって――――?
「い、いや―――でも、ほら、もう遅いし―――」
「ダメ―――ですか?」
下から覗き込むように琥珀さん。
か――――可愛すぎる。
「い、いえ。そんなことはないですよ」
思わず言ってしまった。いいのかこれで?
「でも―――その前に翡翠に――――」
「もう。志貴さんたら――無粋なコト言わないでください」
体を寄せ、こちらの胸のあたりに人差し指でくるくると「の」の字を描く。
この時点で撃沈された。バルチック艦隊だって勝てない攻撃力。
思考が定まらないまま、コクコクとバカみたいに頷き、琥珀さんに手を引かれて彼女の部屋に向かう。
「――――汚いところですけど」
そう言いつつ琥珀さんが部屋に招き入れてくれる。
ちょっとばかりいけない妄想を必死に押さえつつ部屋に入った――――
入った瞬間、俺はくるりと振り返って、一目散に逃げ出した。
「なにやってるんですか、志貴さん。遠慮せずに入ってください」
「え、遠慮させてください後生ですから!」
「ダメです」
笑顔のままで俺の襟首をふん掴み、熊のような力で俺を部屋の仲に放りこんだ。
そこは、なぜかやっぱり魔界村だった――――
「―――志貴さま。ようこそいらっしゃいました」
なぜか琥珀さんの部屋にいた翡翠が、三つ指をついてふかぶかと頭を下げて招き入れてくれた。
真っ赤な顔でトロンとした目の翡翠の周りには、居間の惨状に負けず劣らずの量の酒瓶が転がっており、アルコールの匂いでむせかえっている。
背後では、変わらぬ笑みを浮かべたままの琥珀さんが、パタンと部屋の扉を閉める。地獄門をくぐったかのような、二度と帰れない予感に気が遠くなりかけた。
「―――あの、翡翠」
「なんでしょう?」
「こ――――この酒は、翡翠一人で飲んだのかな?」
「そんなワケがありません。もちろん姉さんと二人で飲みました」
――――やっぱり。
「さあ志貴さん。今夜はわたし達にも付き合っていただきますよ」
激しく遠慮したいのだが、退路はすでに断たれている。
ブンブンと首を横に振る俺に、琥珀さんは笑顔で、翡翠は無表情でにじり寄ってくる。共に酒―――それもどこにあったのか、一升瓶など手にしており、まるで俺的生贄になった気分だ。
「―――どうぞ志貴さま。それともわたしのお酒は飲めないとでもおっしゃるのですか?」
「あははー、今夜は飲み明かしましょうね、志貴さん」
前略―――先生へ。
ピンチの時はよく見て、まず考えましたが、こういう時はどうすればいいのですか? 教えてください。
この日、俺は星になった。
/END