■ 月食 / 蟻巻ヨータ
黒板の上にある壁掛け時計が、4時間目の終了を告げたのは5分前。
どうせ売り切れることが無いのは分かっているからと、俺はのんびりと購買まで足を運び、案の定、豊富な在庫をさらしているいつものメニューを一つ手に取ると、売店のおばちゃんに代金を払い、それからとぼとぼと自分の教室に戻る。
そして自席に座ると、ありふれた戦利品の袋を開けた。
「なんだ寂しいヤツだな。今日もアンパン一個だけか?」
昼食時、教室で中庭を眺めつつ慎ましい食事をしている俺に、ネズミを見つけた猫よろしく我が悪友、乾有彦がチョッカイを掛けてきた。
こっちが購買で最安値のアンパンだというのに、ヤツときたらブルジュア感溢れるカツサンド、及び庶民の敵ミックスサンドイッチをこれみよがしに片手でもてあそんでいる。
ああ…、フツフツと沸き起こる殺意を抑えきれない。
人は食欲で悪事を働けるイキモノなんだとしみじみと思う。
想像するに俺の表情はかなり険悪になっていることだろう。
と、有彦は二カッと笑みを見せた。
「そんな顔するなって。遠野があまりに哀れだから、このサンドイッチを半分やるよ」
え? 良いの?
いや〜、持つべきモノは親友だなぁ。
見えない尻尾をフリフリ、極上の笑顔と親愛の情に溢れた眼差しを有彦に向けると、ヤツはどこか疲れを感じさせる口調でため息をついた。
「…この程度でそこまで喜ぶか? シャレ抜きで可哀想なヤツめ」
うるさい。
真顔でそういうセリフは止めてくれ。
ついでに哀れみに満ちたその視線もカンベンして欲しい。
と、有彦は周りに軽く視線を走らせ、俺をおもんばかるように声をひそめつつ顔を寄せてきた。
「ちなみに今の手持ちはいくらだ?」
「178円。プラス今の昼食代で浮いた金額が、220円だから…」
「どちらにしても、その辺を歩いている小学生以下な財布だな」
「ほっとけ」
遠野志貴、生まれてこの方17年。
他人と比べて今の生活が、特に不幸だとは思わない。
いや、『思っていなかった』だな。
というのも最近その思いが揺らぎつつあるからなのだ。
小さな幸せというモノは、失って初めてその尊さに気付かされるということを知ってしまったのだ。
勘当同然だった遠野家に呼び戻され早数カ月。
不慣れな『お金持ち』の生活にも何とか折り合いを付け、当初の戸惑いに満ちた日々は、日常と呼べるほどに馴染めるようになってきた。
しかし逆のコトも当然ながらある。
大したことはないだろうと思っていた小遣い無しという環境が、ボディーブローの様にジワジワと効いてきたのだ。
確かに必要なモノがあるときは、その都度翡翠に伝えれば手に入れることが出来るので、実質困ることはまず無いと思っていた。
だが言い換えれば、必要ないと判断されたらそこでアウトなのだ。
誰にかと言えば、当然ながら我が妹にして遠野家当主たる秋葉にである。
生粋のお嬢様として育ってしまった彼女の辞書には、『買い食い』や『寄り道』とか言う単語が無いらしく、それが一般ピープルの学生にとって日々の生活に潤いをもたらすモノだということを理解してくれないのだ。
これが1週間やそこらならガマンも出来ようが、さすがに月単位になってくるとそうも言っていられなくなる。
なんというかホンキでファーストフードやゲームセンターに魂の飢えを感じるにいたって、俺はつくづく庶民の生活が性に合っていたのだと気付いたものだ。
で、だ。
秋葉に禁じられているためバイトもままならない身として、俺なりに現金収入を模索してみた。
が、結果たどり着いたのが、何のことはない昼食代を浮かすという、ヒネリもないことくらいしかなかったのが、我が身上ながらちょっと惨めだったり。
それでも、弁当持参とかになったらこの計画も破綻してしまうので、琥珀さんに事情を説明して、協力してもらったりとそれなりに努力もしているのだ。
「…そういえばアレはどうしたんだ? 履歴書のいらないバイトだとか喜んでいたじゃないか」
「ああ、アレか。辞めたよ。どうも買い物途中の琥珀さんに目撃されていたらしくてな。一日で秋葉にバレた。おかげで遠野家の長男にあるまじき行為だとか何とかで、3日間食事抜きにされてな。さすがに命に関わるから、俺ももう二度とやろうと思わないよ」
「そうか…。真剣な顔で自販機や公衆電話の釣り銭をあさっている遠野の姿、オレ結構すきだったぜ」
「ありがとう、有彦。分かってくれるのはお前だけだよ」
ガッシと腕と腕をクロスした俺と有彦。
いまここに、一層の友情を育めたなような気がする。
「…あの〜。聞くとは無しに聞いていたけど、それって全然バイトでも何でもないよーな。てゆーか、わたし遠野くんの妹さんにちょっと同情しちゃったよ」
パックの牛乳のストローを加えたまま、なにやら弓塚が頬に冷や汗を一筋たらしつつ、話に加わってきた。
「遠野くんもさ、少しくらいお小遣い欲しいって妹さんに言っても、罰は当たらないと思うけどな」
と、有彦が首を左右に重々しく左右に振り、弓塚にとうとうと言い含める。
「あまいな、弓塚。遠野の今の境遇を知ればそんなこと言えないぜ」
「そうなの? 乾くん」
「ああ、なんてったって近年類を見ない、妹に扶養されている兄貴だからな。マスオさんなんか目じゃないくらい立場が弱いんだ」
「…いや、たしかにそうとも言えるけど、もう少し違う言い方ってモンがあるだろう」
それじゃなんかメチャクチャ情けなさ溢れる感じがするだろうに。
ここは一つハッキリさせておかねば。
「弓塚さん、誤解がないように言っておくけど、秋葉はウチの当主なワケで、親戚連中の手前、俺が兄貴という立場だけであんまり秋葉をないがしろにするような態度は出来ないんだよ。そんなことしたら秋葉が周りからなめられるからね」
「え!? そうだったのか!? オレはてっきり飼われている身分を弁えているのだとばかり…」
絵画にしたら”ビックリ”という題を付けるしかないような表情で、有彦が後ずさる。
こ、コイツときたら…。
「有彦! テメェ俺をなんだと思っている!?」
「ん〜〜〜………」
おい、そんなに悩むことか?
眉根を寄せ首が90度近く傾いてやがる。
と、ポンッと手を一つ打ち朗らかに答えてきた。
「ヒモ?」
「なんでだぁぁぁっ!?」
「いや、ほら、だって衣食住すべて妹持ちで、遠野って寄生しているに等しいし。これで小遣い一つままならないとなると…」
「…あー」
「って、弓塚さん、何か納得してるしぃぃっ!?」
なぜだっ!?
日々まじめに生きている俺が、いったい何をしたと言うんだっ!?
けど二人とも、言わなくても分かってるとでも言わんばかりの表情だ。
……………そーか、そーか。
そっちがそういう気なら、俺にだって考えがあるぞ!
天よ! 地よ! 遠野志貴がスレイブソウルなダメメンじゃないところ見せてやる!
「そーゆー不思議な和製英語を使ってる時点で、ゲームオーバーな気がするぞ」
「やかましぃぃっ! 見てろ! 小遣いくらいきっちり秋葉からせしめてやるからな!」
「えっ!?」
「ちょ…遠野くん!?」
俺の剣幕に二人とも息をのんだ。
弓塚はオロオロと狼狽え、有彦は決まり悪げに俺から視線を外す。
フンッ、いまさら俺の『本気』にたじろいでも、遅いってもんだ。
「いや…その…遠野? べ、別にオレお前をそこまで追い込むつもりは…」
「あの…ゴメンね。わたしだって遠野くんを苦しめる気は…」
「だぁぁっ! なんでそうなるっ!? よってたかってバカにしやがって! こうなったら意地だ! 絶っっ対に秋葉を説き伏せてやる!」
「つーかさ」
急に有彦が素に戻ってポツリと言葉を漏らす。
「それが初めから出来ないから、いまだにアンパン一個の昼飯なんだろうに」
…う、痛いところを。
遠野家の食卓。
それは時折、目隠しの綱渡りを思わせる。
不確かな記憶を唯一の頼りとし、手探りで慎重に歩を進めるのだ。
夕食時、右手のナイフが力余ってギャリッと皿を引っかく度に、秋葉の眉がどんどん危険な角度に跳ね上がっていく様は、はなはだ心臓に悪かったりする。
しかもその眉が、一定角度を越えると食事を没収されてしまうという、たちの悪いゲームみたいだったりするからたまったものではない。
栄養補給の食事で逆に疲れてどうすると言う意見もあるが、確かにテーブルマナーを忘れてしまっている(秋葉に言わせれば堕落だそうだが)俺が悪いのだから仕方がない。
そういえば生まれて初めてキャビアを食べられると思った瞬間、全てを取り上げられたときは、枕を涙で濡らしたっけ。
…ごほん、話がそれた。
昼間の有彦達との会話、俺は別に諦めるつもりはなかった。
いい加減、抜本的解決を図らねばと常々思っていたところなので、ちょうど良い踏ん切りになった。
そんなワケでこの後、秋葉との交渉を控えている俺としては、空気を重くしないように一計を案じる必要があった。
で、俺が色々と柵を巡らせいるウチに、いつのまにかディナーの時間になったので、食堂に移動する。
それから俺に遅れること数分、琥珀さんに呼ばれ後から食堂に入ってきた秋葉は、俺の目の前に置かれている器を目にすると、楽しそうにクスリと笑った。
「お蕎麦ですか。と、いうことは兄さんのリクエストですね?」
「…正解だ。よく分かったな」
「分かりますよ。兄さんがこの屋敷に戻ってくるまで、大晦日くらいしかお蕎麦は食卓に登りませんでしたから。それが今では週一ですもの。よっぽど好物なんですね」
「まあな。琥珀さんの作る蕎麦が美味しいっていうのもあるんだけどね」
それは嘘ではない。
実際の所、その辺の店よりよっぽど美味しかったりする。
以前は特に好きと言うわけではないけど、嫌いと言うわけでもないという、言ってみれば普通でしかなかったのだが、今まで体験したことのない味わいに出会ってしまい、ちょっとハマってしまったと言ったところだ。
ただし、好物になったのはそれだけの理由ではない。
もう一つ大きな理由があるのだ。
どちらかと言えばこちらの方が比重が重かったりする。
それは−−
−−なんてったってナイフとフォークを使わなくていいからなぁ。
おまけに音を立てて食べても問題ナッシング。
なんて素敵なんだろう。
結果的に秋葉のマナーチェックが発動することもないので、場の空気も和んだものとなる。
自然と会話も弾み秋葉の機嫌も目に見えて良いものとなり、幸先の良さをうかがわせた。
そしておれは、頃合を見測り秋葉に話しかける。
「秋葉、後で話が有るんだけどいいか?」
「ええ、別に構いませんよ」
楽しげに答える彼女に、俺は心の中でガッツポーズをきめた。
よし! 何となく上手いこといきそうだな。
食事を終え、場所をリビングに移す。
場に満ちている落ち着いた空気と静けさが心地よい。
琥珀さんの煎れてくれた紅茶の湯気をアゴに当てつつ、俺は向かいに座る秋葉に話しかける。
「あのさ、秋葉にお願いなんだけど、いいかげん昼食代を切りつめるのもきついんで、正式に俺の小遣いを…」
「却下です」
「早っ」
とりつく島も無しかい。
しかも息をするようにあっさりと答えやがった。
あまりの身も蓋もなさに、二の句が継げずにいる俺へ秋葉が、聞き分けのない子供を説き伏せるように言葉を重ねてきた。
「何度も言いますが、必要なものが有ればちゃんと買って差し上げるのですから、兄さんにお小遣いなんて不要でしょう?」
その秋葉の言う『必要なもの』が、問題なんじゃないか。
秋葉が不要とあっさり切り捨てる、形の残らない無駄遣いという行為が楽しいのだよ兄は。
けど、いくらそう説明しても納得してくれないのは、今までの経験で十分わかっているので、別の方面からアプローチすることにした。
俺は手にしたカップをテーブルの上の受け皿に戻し、少し身を乗り出して秋葉に力説する。
「そうは言うけど、たとえば参考書とか学校帰りにでも買えばすむモノを、わざわざ琥珀さん達に買ってきてもらうのは、気が引けるんだよ」
「それが使用人の仕事なのですから、兄さんが気に病むことはありません。それとも何か琥珀たちがきちんと役目を果たしていないとでも?」
「いや、別にそういうワケじゃない」
「ならば問題ないじゃないですか」
「…実は問題があったりするんだ」
「………………」
俺の言葉に秋葉は、壁際にたたずんでいる琥珀さんと翡翠にチラリと咎めるような視線を流す。
「待てというに。別に彼女たちの責任じゃない。コレばかりは、どうにもならないことなんだよ。琥珀さん達に頼むことはできない。俺自身じゃなきゃだめなコトなんだよ」
「…よく分かりませんが。ハッキリと説明してください」
「それはな−−」
俺はここで一つ小さく深呼吸した。
まだ躊躇があるのだ。
正論では秋葉を説き伏せられないとはいえ、やはり自分に痛みの伴う手段を用いるのはさけて通りたい。
だが、それらしい理由をでっち上げでもしなければ、秋葉を納得させることはできない。
嘘も方便と言うし、明るい堕落した学生生活のためだ。
グッパイ兄の尊厳!
俺はついと秋葉の目を見据え、真剣な面もちで口を開く。
「−−えっち本だ」
「………………………………………………………………………………………………………………………
……………………………………………………は?」
秋葉の目が点になる。
どうやら話の展開についてこれなかったらしい。
察しのいい琥珀さんは、『あー』と小声とともにポンと手を一つ打ち、翡翠も理解したらしく頬を染めてうつむいた。
「だから、えっち本だってば」
「な、な、な、それはいったい…」
「なんだ知らんのか? 男性の劣情を催させるため霰もない女性たちが紙面いっぱいに…」
「そ、そ、そうじゃなくて! 何で兄さんがそんなモノを必要だと…」
「おかずだ!」 <4倍角で断言してやった。
「お、おか!? おかっ、おかっ、おかずってその、えっとだから………えっ!? えっ!? えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
おー。
顔中を赤らめ、見事にパニクっているな妹よ。
ふっふっふ。
冷静さを失ったら、戦は終わりだぞ。
よし、後はさらなる追撃で、うやむやのウチに問答無用で小遣いを認めさせるだけだ。
俺はここぞとばかりに立ち上がり、背の低いテーブルに片足を乗せ、ずばっと秋葉の額に指を突きつけつつ、気合いを込めて吼える。
「しかも兄は、フェチっている萌え萌えな雑誌が、いたくお気に入りなのだ!」
「ひぃぃぃぃっ!?」
秋葉は俺の勢いに押されるが、後ずさろうにもソファーの背がジャマをして、その場にワタワタと手足をばたつかせるだけだ。
「分かるか、秋葉よ! そーゆー本を取り扱っている濃ゆい本屋に、女性をお使いに出していいと思うのか!? いや、よくない!(反語)」
「あうあうあうぅぅっ!? そ、それはそうですけど…」
「ならばどうする!? 答えはこうだ! 『自分のことは自分で』! 俺自身が俺のための買い物をすればいいワケで、そのための必要経費は認められるべきであり、ひいては突発的なそーゆー衝動に備えてあらかじめ常備金を携帯するのは、男としてのマナーであるからして、つまりは俺に小遣いを与えるのは、当主として為さねばならぬロイヤルデューティーなのだ!」
「−−−って、兄さんはアホですかぁぁぁっ!!」
ちゃぶ台返しよろしく、俺が片足を乗せたままのテーブルは、秋葉によって彼女の怒声とともに勢いよくひっくり返された。
ガシャーンとティーカップ達が床の上で悲鳴を上げる。
しまった逆切れ!?
プレッシャーを掛けすぎたか!?
「そそそ、そんなモノを買うためのお金なんて、あるワケ無いでしょうが! だいたいダメです! 兄さんはそーゆー衝動を禁止します!!」
「…おひ。コレでも俺は健康的で文化的な最低限度以上の男性だぞ。禁止するって言われてもさ」
秋葉の剣幕に腰が引けてしまっている俺であるが、思わずツッコんだ。
「ダメっていったらダメです!! ……大体、そんな本に頼らなくても、一言いってくれれば私がいくらでも(ぶつぶつ)」
「え? 何?」
「……………っっっ!? と、とにかく! 遠野家には、兄さんにお渡しするようなお小遣いはありませんので、いい加減あきらめてください」
「そうだよ、そんなのわたしが幾らでも上げるから志貴は妹に頼むことなんてないよ」
「−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−」
「−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−」
「アルクェイド!?」
「あなたどこから湧いて出てきました!?」
煙のように突然現れたアルクェイドへ俺と秋葉が問いかけると、彼女はニコニコとしたまま、ついと台所を指さした。
と、琥珀さんがやれやれといったカンジで、ため息を一つついた。
「もうダメじゃないですか。秋葉さまには内緒だと言っておいたのに」
瞬間、秋葉はキッと琥珀さんを睨みつける。
「琥珀! 勝手に屋敷へ野良猫を連れ込むなんて、どういう了見?」
「なによ、わたし野良猫じゃないわよ」
腰に手をやり、むーっと頬をふくらませるアルクェイドに、悪びれた様子もない琥珀さんの言葉が重なる。
「えーと、以前の話なんですが、少しお夕飯を作りすぎてしまったことが有りまして。そのときたまたま中庭をうろついているアルクェイドさんを見かけたもので、余り物を食べていただいたことがあるのです。そうしましたらそれ以来、なぜか夕飯時になると、どこからともなくアルクェイドさんが、お屋敷に現れるようになりまして。クセになっちゃったんですかねー」
あははーっと、笑う琥珀さんの言葉に、うんうんと腕を組みつつ頷くアルクェイド。
…頭イタ。
俺はがっくりと肩を落としたまま、アルクェイドにぼそりと言い放つ。
「お前それじゃ秋葉の言うとおり、まんま野良猫だろうが」
「あ、志貴までそういうコト言うかな。恩人に対してあんまりよ」
心外だとばかりに彼女は口を尖らせた。
だけど、ちょっと待て。
「いつのまにアルクェイドが、俺の恩人になったんだよ」
「お小遣いの少ない志貴のために、ランチを2回おごって上げたじゃない」
…お前、そーゆーこと言うか?
「その少ない小遣いとやらで、俺はお前に13回おごらされたぞ?」
「……ま、まあその話は置いといて」
アルクェイドは口の端を微妙に引きつらせつつ、パタパタと手を振り、ムリヤリ話題を変えてきた。
「は、話は戻るけど志貴がお金に困っているなら、わたしが志貴にお小遣い上げてもいいんだよ?」
「お断りします、アルクェイドさん。他人のあなたに、遠野家のしきたりへ口出しされるいわれはありませんので」
俺が何か言う前に、秋葉のヤツが、切り捨てるようにアルクェイドの提案を退ける。
歯に衣着せぬ−−というか着せる気すらさらさらないという態度にアルクエイドの視線も、心持ち鋭いものとなる。
「別にわたしのやることへ、妹が口出しするいわれもないんだけどね〜」
「どうぞ施しをなさりたいので有れば、兄さんにかまわずもっと不幸な方々にしてやって下さい。兄さんは十分に幸福ですから、あなたからの援助は不要です」
「えー? 志貴はしょっちゅう遊ぶための軍資金が欲しいっていってるよ。ね、そうでしょ?」
「え? あ、ああ。いい加減、有彦とかにおごってもらうのも、気が引けるしな」
「兄さんっ! どっちの味方なんですかっ!」
いや、どっちて…俺は最初から小遣いが欲しいって言い続けているんだけど。
だけど、秋葉の背後にギラリというトゲトゲな擬音が見えたような気がして、そうは言えなかった。
けど俺の内心などお構いなしに、アルクェイドは火に油を注ぐようなことを、平気な顔でしゃべり続ける。
「ほら、志貴もああ言っていることだし、わたしが志貴にお小遣い上げても全然問題ないじゃない。妹もだだをこねないで、志貴のことはこのお姉さんに任せなさいって」
「誰が姉ですか! 私はそのようなことは認めないと、何度も言っているでしょうが!」
「んー、別にわたしの方が年上なんだから、お姉さんで問題ないと思うけど? なに? それとも妹はわたしと志貴の将来をそういう風に見ていてくれたのかな〜」
「……くっ」
…アルクェイドのヤツ、知っていてからかっているな。
大人げないヤツだな。
と、アルクェイドに言い負かされて肩をふるわせていた秋葉が、急に髪をかき上げつつ鼻の先で笑った。
「…確かに仰るとおり、アルクェイドさんは、年上でしたね」
「そうそう。だから少しはうやまってもバチは当たらないよ」
「はい、そうですね。おばさん」
ピキッ。
アルクェイドが硬直するとともに、よろめいた。
うっわ、秋葉め最後の”おばさん”に力を込めて言いやがった。
予想外の言葉に、アルクェイドは見えない金槌で殴られたごとく一瞬頭を揺らしたが、速攻で復活すると秋葉にくってかかった。
「おばっ!? ま、待ちなさいよ、人のことをおばさんだなんて、いったいどういうつもりよ!」
「どうもこうも、私より遙かに年上の方ですから、そうお呼びするのはごく自然なことかと?」
「自然じゃない! だいたいどこをどう見たら、わたしがおばさんに見えるっていうのよ!」
「……え? ああ、確かにそうですね。失礼しました」
「むー、分かればいいのよ、分かれば」
「それでは、お婆さん」
「分かってない! ってゆーか、よけい悪い!」
「だってアルクェイドさん、数百歳は年上なワケだし、コレはもうお婆さんとお呼びするしかない、動かしがたい事実です。非常に残念なことですが…フフフフ」
「……ふーん、それなら年寄りとして若い者がとるべき態度ってものを、手取り足取り教えてあげようじゃないの。フッフッフッ…今更もう、前言撤回なんて認めないわよ」
「フフフフフフフフフ…」
「フッフッフッフッ…」
…あの〜。
なんか雲行きが怪しくないか?
二人とも互いを見据えつつ、不気味な笑みを浮かべ続けている。
と、ゆらりと秋葉が一歩踏みだし、それにつられるように、彼女の髪も軽く波打ち、それにともない濡れたような黒がジワジワと火の朱に変化していく。
対するアルクェイドは下界を見下ろす傲慢な神の如く、金色の視線で静かに佇んでいる。
っていうか、二人とも攻撃色バリバリ!?
「ストップ! ストーップ! 二人とも落ち着け! 暴力はいけない、暴力は!」
慌てて二人の間に割り込み、何とか彼女たちを止めようとする。
けど互いにぶつかり合う視線は、衰えるどころか激しくなる一方だ。
と、それまで危険な笑みを浮かべ続けていた二人は、不意に真顔になり、同時に一気に殺気を膨れあがらせた!
だぁぁぁぁぁっ!?
まさに一触即発!!!
「おやめ下さい、お二人とも。志貴さまのおっしゃる通りです」
そんな中、凛とした声で翡翠が助け船を出してくれた。
助かる、一緒に二人を止めてくれるのか。
「………………」
「………………」
だけど翡翠の声も聞こえないのか、もしくは聞く気もないのか、二人は勢いを衰えさせずに、互いに攻撃態勢に入る。
そこに翡翠がボソッと呟いた。
「…もし、これ以上志貴さまのお心を煩わせるようならば、姉さんがお二人の食事に、『保健所の人が聞いたら卒倒しちゃうようなモノ』を混ぜますよ?」
「「うっ!?」」
さすがにそういう攻撃はイヤだったのか、アルクェイドも秋葉も、瞬く間に大人しくなった。
なにやら琥珀さんが、しゃがみ込み『翡翠ちゃんいぢわる…』と呟きつつ、床にのの字を書いているが、それはこの際どうでも良い。
なにより、二人とも互いに対する矛先を下げたわけではないので、リビングは未だギスギスとした空気に満ちあふれているのだから。
と、落ち込んでいたと思われた琥珀さんがいきなり復活し、しょうがないですねーと、いった風に割り込んできた。
「そうですね、お二人ともどうしても白黒つけたいのであれば、ケンカをするのではなくもっと平和的な勝負にするべきです」
おお、まともな意見だ。
やはり、先程の落ち込みはただのポーズだったのか?
相変わらず侮れない琥珀さんではあるが、言っていることは正しい。
俺は二人に向かって口を開いた。
「それなら俺も賛成だ。つーか、周りの被害を少しは考えろよ二人とも」
少しきつめに俺が言うと、アルクェイドはしゅんと肩を落とし、秋葉は拗ねたように向こうを向いてしまう。
そこに琥珀さんが、ニコニコと提案してくる。
「はい、それではこういうのはどうでしょう? 女性らしく家庭料理コンテストというのは? それで志貴さんに審査員をしていただくというわけです」
「え? 待って下さいよ。それって下手すると周り…というか俺に被害が…」
「面白いわね。わたしは構わないわよ」
俺が抗議の声を上げるまもなく、アルクェイドが勝負を受けてしまう。
「いや…だから、俺の−−」
「で、妹はどうするの? イヤならイヤで構わないけど、それならわたしの不戦勝だよ?」
「……っ! 誰もイヤとは言っていないでしょう。いいです。その勝負受けて立ちましょう」
う!?
あっという間に勝負が成立してしまったじゃないか。
置いてけぼりを食らう俺を後目に、琥珀さんはさらに名案を思いついたとばかりに、手をパンッと打ち合わせた。
「そうだ! ついでに翡翠ちゃんも参加しましょうよ!」
「ええっ!? そんな、だってわたしは…」
いきなりのことに翡翠は狼狽するが、琥珀さんはどんどん押し切ってしまう。
「だからこの際だから、少しでも料理を覚えるつもりで」
「む、無理です。姉さんがなんと言おうと無理なモノは…」
「それなら優勝者には『志貴さんを一日自由にしていい権』を進呈しましょう」
「やります」 <キッパリ。
って、翡翠!?
っつーか、ナニその景品は、琥珀さん!?
「と、言うわけでお二方もよろしいですね?」
「ま、翡翠だったら別に敵じゃないし…」
「そなの? だったらわたしもOKよ。逆に素敵な景品がついてラッキーってカンジね」
あーうー。
かくて、俺が口を挟むまもなく、女性陣たちの勝手な盛り上がりにより、あれよあれよという間に家庭料理コンテストが開催されることが決まってしまった。
日程は一週間後。
参加者はアルクェイド、秋葉、翡翠の3人で、審査員は俺。
ついでになぜか景品でもあるらしい。
ウキウキと仕切りまくる琥珀さんは、絶対楽しんでるぞ、あれは。
そして今の時点で分かっていることがある。
残念なことに俺の小遣い話は、知らないウチにうやむやになってしまった、ということだ。
…ぐすん。
時の流れは止められない。
何人たりとも過ぎ去った日を取り戻すことは出来ないし、現在に留まり続けることも不可能だ。
そして向来る未来を押し戻すことも。
それは神ならぬ人の身である遠野志貴も例外ではない。
今日は例の家庭料理コンテストの日だ。
今朝の俺は翡翠に起こされる前に自然と目覚め、しかもすぐにでもフルマラソンが出来そうなほど、やたら爽やかだった。
そう、これはきっと俺の本能が、逃げるチャンスはこれが最後だと告げているかのように。
あの時、琥珀さんの勢いに飲まれ、気付いたらコンテストの審査員&景品という立場に任じられてしまっていたが、後々落ち着いて考えてみたら、かなり危険な状況だと気が付いた。
まず、各々それほど料理が得意とは思えない参加者達の料理を食べなければいけないということだ。
だいたいこの手のパターンだと、料理というよりエサといった方が言い得ている代物が出てくるのが常だ。
そして『俺を一日自由に出来る権』とやらもくせ者だ。(ちなみに俺は一言も了承していないのだが、何せ反対意見が俺一人とあっては、流れを覆すことは事実上不可能だと素直に諦めていたりする)
優勝者はきっと、ここぞとばかりに無茶な要求をしてくるだろう。
危険な食事で、中毒一歩手前のフラフラな体調になり、その上魂を削り取られるような仕打ちを受けるハメになる可能性が大なのだ。
街の占い師に占って貰うと、皆口をそろえたように、女難の星の元に生まれてきたといわれるこの俺だ。
絶対ひどい目に遭うのは、目に見えている。
と、なればこんな所に長居は無用だ。
翡翠が起こしに来る前に、とっとと屋敷を抜け出し、学校に行ってしまおう。
そして2、3日ほど有彦の所にでも泊めて貰い、ほとぼりが冷めるのを待つとしよう。
よし、善は急げだ。
俺は昨日脱いだままにしてあった学生服に袖を通し手早く身支度を終えると、音を立てぬように静かにドアのノブを回した。
と、カチャッと音を立てて、ノブはほとんど回転せずにその動きを止めた。
…あれ?
もう一度、さっきより若干力を込めてノブを回してみる。
ガチャッ。
−−回らない!? そんな馬鹿な!!
ガチャガチャガチャッ。
両手を使って力の限り回してみるが、やはりビクともしない。
と、焦る俺の心とは対照的に、のほほんとした声がドア越しに聞こえてきた。
「志貴さん、お起きになったのですか?」
琥珀さん!?
予想外の声に少し驚いたが、まさか、こっそり逃げ出そうとしていたとは言えず、無難な返事をすることにした。
「え、あ、ああ、そうです。今起きたところです。それで部屋を出ようとしたら、なぜかドアが開かなくて」
「ああ、それなら開かなくて当然ですよ。だって外から鍵を掛けましたから」
…なんですと?
いま、さらりと非常識なことを言わなかったか?
「…すみません、どうも寝ぼけているみたいです。なんか外から鍵を掛けたとか聞こえたんですが」
「はい、それであっています。きちんとそう言いましたから。うふふ、実はこのトビラは中から開けられないような鍵がついている特注品なんですよ」
「って、そーゆー無茶なことを、可愛く言わんといて下さい! いったいどういう了見なんです!?」
「ほら、だって今日は大事なコンテストの日じゃないですか」
それは百も承知だ。
だからこそ、俺はこっそりと抜け出そうとしていたワケだからな。
「もし審査員の志貴さんが、外出中に何か万一のことがあったら、コンテストが開催できなくなるじゃありませんか」
「万一ってそんな大げさな…」
「そうですか? 例えば行方不明とか」
ドキッ。
「例えば音信不通とか」
ドキドキッ。
「例えば籠城潜伏とか」
ドキドキドキッッ!
…ひょっとして、見透かされている?
「は、はは、ははは…そ、それは確かに開催が危ぶまれますね」
だ、だめだ。
内心の動揺が声に出てしまう。
これじゃ自分から白状しているようなモノじゃないか。
「ですから志貴さんには、コンテストの始まる夕方までお部屋で大人しくしていて下さい。きちんと学校にはお休みの連絡を入れておきますから、ご安心下さい」
「はぁ…そうですか」
「それと、コンテストが始まるまで断食をしていただきますが、これはお腹が減っていた方がご飯が美味しいという理由だけで、決してナニかに対する罰だとかお仕置きだとかいう意味合いは、ぜーんぜんこれっぽっちも有りませんので、お気になさらないようお願いします」
「ハイ、ワカリマシタ、シンダヨウニ、オトナシクシテイマス」
俺はロボとなって素直に答えるしかなかった。
だってドア向こうの琥珀さんの目は、朗らかな声とは裏腹にちっとも笑っていないのが、ありありと想像できたからだ。
それから数刻後。
窓の外の景色が落日色に塗りつぶされるころ、俺の部屋のドアがノックされ、ドア越しに翡翠の声が聞こえてきた。
「志貴さま」
ぐー。
「志貴さま?」
ぐー、ぐー。
「志貴さまお休み中ですか?」
「…腹の虫がなってるだけだ。ところで、俺を呼びに来たってことは、準備が整っ
たということか?」
「はい、食堂までお越し下さい。それでは」
ついに来てしまったか。
魔のディナータイムが。
パタパタと廊下を小走りで遠ざかっていく翡翠の足音を耳に、俺はベットからのっそりと起きあがった。
くら…。
う、まずい。
あまりの空腹に一瞬立ちくらみを起こしてしまった。
今の今まで、ホントに水すら飲ませてくれないんだもんなぁ。
とりあえず、今の状態は口に入れば何だっていいという気分だ。
これならどんな失敗作がきても、食べ残したりはしないだろう。
ま、みんな俺のためにがんばってくれているのは間違いないんだから、食べ残して悲しませるという事態だけは回避できそうだな。
それだけが、死地に向かう気分の俺に対する、唯一の慰めだった。
…ムリヤリ自分を納得させているだけという意見もあるけどね。
階段を下り、食堂に入り、軽く室内を見渡す。
てっきり手作りの垂れ幕で、どこぞのテレビ番組よろしく無意味に
『第5121回 チキチキ高機動家庭料理幻想合戦』
とでも飾り付けされているかと思ったのだが、そんなことはなく、ぽつねんとただ一人、琥珀さんの姿があるだけだ。
彼女は俺の姿に気がつくと、俺がイスに腰掛けたのを確認してから、台所に姿を消した。
どうやら琥珀さんが参加者を呼びにいく係みたいだな。
程なく、琥珀さんに続いて翡翠が姿を現した。
琥珀さんはそのまま壁際に控えてしまったが、翡翠は緊張した面もちで、トレイを両手で持ったまま俺のところまで歩み寄る。
そして俺の前に、小皿が一つ置かれる。
そこには色鮮やかな黄色の卵焼きが、三切れ乗っていた。
「ん、翡翠は玉子焼きを作ったのか」
「は、はい! た、玉子焼きは家庭料理の基本ですので」
「うん、あれだけ料理が苦手な翡翠が、こんなに美味しそうな玉子焼きを作れるなんて、ずいぶん頑張ったみたいだね」
「あ、ありがとうございますっ。あの、それでは、お味見のほうを…」
言われるまでもない。
俺はさっそく箸で一切れ玉子焼きをつかむと、一口で頬張った。
はむはむと咀嚼し、ゴクリと飲み込む。
ふむ……−−−って、めちゃくちゃ美味いぞ!?
玉子自体の味を殺さないぎりぎりの甘さに、クリームのように舌の上で崩れる柔らかい絶妙な焼き加減。
見た目のみならず、味もここまで完璧な卵焼きなんて、ついぞお目にかかったことがない。
どうしちゃったんだよ翡翠!?
「ど、どうでしょうか…?」
「どうもこうもスゴイじゃないか!」
「きゃっ!?」
「いや、急に大声だしてすまない。いや、正直驚いたよ。翡翠がここまでスゴイなんてちっとも気がつかなかった」
俺の手放しの賛辞に、翡翠は少し赤くなってうつむいてしまう。
「あの、ありがとうございます…」
「なにも照れることないだろう。こんなに美味しい玉子焼きは、十分誇れることだぞ」
「でも、わたし一人の力じゃなくて、優秀な先生がすぐ側にいましたから…」
そしてチラリと壁際に佇む琥珀さんを見やった。
俺と翡翠の視線を受け、琥珀さんは柔らかい笑みを浮かべている。
なるほど、この一週間、二人で特訓でもしたのだろう。
まさに麗しの姉妹愛と言ったところだな。
それに引き替え俺ってヤツはなんてダメなんだ。
頑張っている二人のことを災難の元みたいに考えていたなんて。
ちょっと自己嫌悪…。
いや、まてまて、俺が暗くなってどうする。
そんなヒマがあったら、がんばった翡翠に、少しでも多くねぎらいの言葉を掛けてやらねば。
「でも、優秀な先生がいたとしても、その技を覚えて実際に料理を作ったのは翡翠本人に違いないんだから、やっぱり翡翠はスゴイよっ」
「そ、そんなことありません。わたしはただ姉の教えど……………っ!」
翡翠は慌ててパッと自分の口をふさいだ。
………………………………………。
………………………………………。
………………………………………。
じーーーっと、俺は目の前の少女を見据える。
すると、ついと視線を逸らされた。
ならばと今度は、壁際の少女に視線を移動させる。
あいかわらず柔らかい笑みを浮かべたままだ。
じーー。
それでも柔らかい笑みを浮かべたままだ。
じーーーーーー。
微動だにせず柔らかい笑みを浮かべたままだ。
じーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
一筋、こめかみに汗が伝った。
「って、ズルしちゃダメだろーが、二人ともっ! アルクェイドと秋葉には黙っていてやるから、とっとと着替えてこい!」
「「は、はい〜っ」」
俺の言葉に一目散に駆けだす二人だった。
「だから姉さん、やめましょうって…」
「あはははー、最後でつまずいちゃいましたねー」
バタバタバタ……。
足音とともに二人の声も遠ざかっていった。
油断も隙もないとはこのことだな。
まったく琥珀さんには困ったもんだ。
ま、美味い玉子焼きを食えたのだけは、収穫だったが。
つづいて、エントリーナンバー2番は遠野志貴の妹たる秋葉だった。
「さて、兄さんには持てなしの心というものを、味わっていただきましょうか」
いきなりである。
俺の目の前に置かれた銀の丸いトレイは、未だカバーを被せられたままで、秋葉が何を作ってきたのか分からなかった。
俺は、彼女がいったい何を作ってきたのかが、すごく気になった。
が、すぐには教えてくれそうな気配ではないので、仕方なく秋葉の話につき合うことにした。
「で? 持てなしの心ってなんだよ」
「そのままですよ。相手に喜んでもらうために、欠かせない料理の心構えです。つまり、その…私がいかに兄さんに喜んでもらおうとしているのかを、見ていただきたいのです」
「と、いうことはかなり自信があるわけだ」
「もちろんです」
秋葉がニコリと笑った。
「この日のために、私は有間のおばさまのところに何度も足を運びました」
「啓子さんのところに?」
「はい、おそらく兄さんの好みを一番理解しているのは、おばさまでしょうから」
「わざわざ、そのためにか? 秋葉だって習い事やなんやで、決して暇じゃないだろうに」
俺は呆れるとともに、嬉しくもあった。
「おっしゃるとおり、時間的にきつかったのは確かですが、でも、それを補ってあまりあるものを得ました。さて、頃合いもいいようですから、さっそく兄さんには味わっていただきましょうか。これが私の出した答えです!」
言うなり秋葉は、トレイを覆っていたカバーを取り外した。
と、同時に懐かしい香りが俺の鼻腔をくすぐる。
それは数ヶ月ぶりの対面だった。
「お、おお…」
思わず声が漏れた。
遠野の屋敷をまたいだからには、二度とお目にかかれない物と思っていた。
現に、今までまるっきり疎遠になっていたという事実がある。
それが秋葉の手によって破られた。
俺は感動のあまり震える手で、中身をこぼさないように、しっかりとその器をつかんだ。
白地に赤いラインを基本に、昔から変わらぬデザイン。
紛れもない−−−
「カップラーメンだぁぁぁ〜」
ううっ、感涙のあまり麺がぼやけて見えやがる。
ありがとう、秋葉。
まさか再び味わえるとは、夢にも思っていなかったぞ。
俺は瞬く間に、カップラーメンを平らげた。
「……よ、喜んでもらえたのは嬉しいですが、なんか泣きながら一心不乱に麺をすする姿は、ちょっとヤかも」
「う、うむ。あまりに久々だったから、つい取り乱したりしてしまった。だけど秋葉、覚えておけ。カップラーメンとかコーラとか、昔から有る定番食品という物は、ある日突然無性に食べたくなったりする、不可思議な魅力が有る物だというコトを」
「は、はあ…。別に知りたいとは思いませんが…」
「それともう一つ。こちらは重要なことなのだが、その…言いにくいんだが、カップラーメンは料理とは言わないぞ」
「…………………………………………………………………………………………………………………………
…………………………………………………は?」
秋葉のあごがカクンと落ちた。
「だから、カップラーメンは料理とは言わないんだってば」
「え? え? ということは…」
「家庭料理コンテスト的には失格だな」
「そんなー!? あんなに兄さん喜んでたじゃないですか!?」
「それはそれ、これはこれだ。仕方ないだろう」
「ああ! 私としたことが、勝負に勝って試合に負けるなんてー!!」
合掌。
さて残るはアルクェイドだけとなったか。
彼女が運んできたのは焼きたてのハンバーグだった。
ぱっと見た目は、特にこれといった特徴は見受けられなかった。
程々に焦げて、程々に形が不揃いで、言うなればまさに手作りハンバーグといったカンジか。
「おまたせー。一応わたしなりに頑張ってきたんだよ」
見ると彼女の手は小さな擦り傷や、絆創膏でいっぱいだった。
たしかに悪戦苦闘していたみたいだな。
その姿が、少し微笑ましく感じてしまった。
もともと、必要最小限の料理の腕前は持っていたアルクェイドだから、とりあえず食べられるものが出てくるのは分かっていた。
だから、俺としては、味付けの腕前が以前と比べてどれだけ上がっているのか興味があった。
「さて、それではいただき…」
ふと、何かが俺の意識に引っかかった。
なんだろう?
なにか重要なことを見落としているような…。
何とはなしにアルクェイドを見やる。
彼女はニコニコと俺の感想を心待ちにしている。
−−別に何もないよな。
そうだよ、俺は何を気に病んでいるんだ?
くだらないことは後回しにして、彼女があんなに手を傷だらけにして、作ってくれたハンバーグを味わおうじゃないか。
……ちょっと待て、手を傷だらけにして?
「…いいか? アルクェイド?」
「ん、なに?」
「いや、その手なんだけど」
「あ、あんまり見ないでよ。えへへ、恥ずかしいことに練習の時に傷つけちゃったりしたんだ」
そうして頬を赤く染め、俺から隠すように両手とも後ろにまわしてしまう。
ふーん…。
練習の時にね。
それが未だに残ってるんだ。
−−不死を誇る真祖の肉体にか?
って、それはかなりシャレにならない事実だぞ。
いったいコイツはどんなハンバーグを作ったんだろう?
ゴクリ…。
思わず喉が鳴る。
どうする?
いきなり味見するのは、どう考えても愚者の行動だぞ。
仕方がない。
俺は懐から、5センチほどの細いガンメタリックな金属製のストローのような物を取り出し、口にくわえて思い切り吹いた。
と、いってもスーッと息が漏れるだけで、べつだん音が鳴るワケではない。
アルクェイドは不思議そうに俺を見つめる。
「なに、それ?」
「先輩笛」
「は? いったい…」
ガシャーンッ!!!
アルクェイドが何かを言い終える前に、食堂のガラス窓が砕け散り、カソックに身を包んだシエル先輩が飛び込んできた。
「遠野くん、どうしました! いったい何が−−」
そこでシエル先輩の目が、突然の展開にぼーぜんと佇むアルクェイドの姿を捕らえた。
「なるほど! あなたが元凶ですね!」
「シエル…あなたって人間がちょっと分からなくなってきたんだけど」
「問答無用です。遠野くんがいてあなたがいる。そして緊急SOSの笛が鳴り響く! どうやらついに吸血種の本性を現したようですねっ!!」
「あのー、先輩ちょっといいかな?」
「なんですか! 今こちらは取り込み中…」
それでもシエル先輩は、律儀にこちらを向いてくれた。
俺は一口サイズに切り分けたハンバーグを、先輩の口元に箸で差し出した。
「はい、あ〜ん」
「え? あ、あ〜ん」
つられて口を開いた先輩の口の中に、ハンバーグをひょいと放り込んだ。
先輩も思わずそのままゴクリと飲み込む。
と、急にガクッといびつな形に体を仰け反らしたかと思うと、先輩はその場に卒倒した。
そしてガクガクと体がケイレンしだしたかと思うと、こんどは鼻と口からデロデロとなにやら白いモコモコが溢れ出してきた。
あれがウワサに聞くエクトプラズムというやつなのだろうか?
…じょ、冗談じゃない。
自分の顔が引きつっているのが分かった。
と、俺の内心などお構いなしに、ぷんぷんとアルクェイドが文句を言ってきた。
「ちょっと、折角のハンバーグをコイツに食べさせるなんて勿体ないでしょ!」
「アホか! 埋葬機関のメンバーを一撃なハンバーグを俺に食わす気か!」
「それは大丈夫よ。それは志貴専用ハンバーグなんだから」
「…どーゆー意味だ?」
「だから、せっかく志貴のために作っても他の人につまみ食いでもされたら、ダメじゃない。そこで志貴以外の人には食べられないように色々な呪いとか式典をハイブリッドで施しているのよ」
「…マジ?」
「わたし嘘はつかないもの」
確かにその理屈なら、俺は無傷で済みそうだが…
だからといって、チャレンジだけはごめんだ。
ぜったい副作用があるに違いないからな。
俺は殺したら死んじゃう、ひ弱な普通の人間なんだ。
「ところでさ、早く味見してよ」
だというのに、アルクェイドのヤツそんなコトを言ってくる。
えーい却下だ、却下。
「…翡翠や妹のは食べてくれたのに、わたしのは食べてくれないの?」
う、そういう落ち込んだ顔はやめて欲しいな。
お前には似合わないんだから。
「…………………………」
ああ、もう、黙り込むなよ。
分かった、分かったからさ。
「だれも食べないとは言っていないだろ。すぐに感想を聞かせてやるよ」
と、俺の言葉に、にぱっと嬉しそうな笑みを浮かべた。
ほんと単純なヤツだな。
…ま、単純なのは俺も一緒か。
「ほんと? じゃ、早く早くっ」
「せかすなよ」
俺は再びイスに腰掛け、ハンバーグに向かい合った。
「…………………」
…アルクェイドの言葉を疑うワケじゃないが、さすがにいきなり本体からいくのは気が引けた。
俺はまず小手調べに、ソースだけをちょいと舐めてみた。
ふむ、それほど味付けは悪くはない…と、思った瞬間−−
いきなりぐにゃりと視界がゆがんだ。
あれ?
しかも小人さんと妖精さんがハンバーグの周りで輪になり、フォークダンスをしているぞ?
まいったな、俺は金魚じゃないってのに。
「……………………ぃ」
「…………………き?」
「………志貴ってば!」
はっ!?
アルクェイドの声に我に返った。
俺はいったいどうしてたんだ?
「もう、志貴ってば何ぼーっとしてるのよ。味付けはどう?」
「え? あ、ああ、天にも昇るような旨さだな」
「やったね。それじゃお肉の方も早く食べてみて」
うーむ危ない危ない、どうやら一瞬、テンパっていたようだな。
俺は脇の下に冷たい汗がつたうのを感じた。
実際これはシャレにならんぞ。
アルクェイドのヤツ、思いっきり失敗しているじゃないか。
ソースだけであの威力だ、ハンバーグ本体を食べた日にゃ、人間やめるハメに陥るだろう。
でも困った。
すぐ横でこれだけ期待に満ちた視線を向けられたら、断るに断れない。
「ねー早くー」
「あ、ああ…」
ど、どうしよう。
いきなり、なりふり構わず逃げ出すか?
…だめだ。
秋葉達からならともかく、アルクェイドから俺が逃げ仰せるワケがない。
前提となる運動能力が、まさに天地だもんな。
食堂の入り口に着くまでに、あっさり捕まってしまうだろう。
と、俺が心の中で頭を抱えていると、いきなりシエル先輩が糸を引かれた操り人形のように、不自然なモーションで一瞬の間に立ち上がり、ビシッと指さした。
「いけません遠野くん! こちらの世界に踏み留まりたいのであれば、そんな物を食べちゃダメです」
「せ、先輩?」
「ソレは既に食べ物の範疇を外れた存在です。お腹を壊すのはもちろんのこと、精神にも拭いがたい傷を覆うことになりますよ?」
「いや、だからシエル先輩?」
「まだ分からないのですか? 強引に施された術式によって、別の界層ともいえる不確かなチャンネルが、恐るべきへたっぴな偶然と結びついて−−」
「あの…俺はコッチなんだけど…?」
そう、シエル先輩はさっきから何もない空間へ一生懸命に説教しているのだ。
…なにが見えているんだろうなぁ。
ちょっとコワ。
黙って聞いていると、多層側からのアクセスによるカレーパン内の人参で、移送がずれる赤色がどーのーこーのとか、語っている。
「ああ、シエルがなんか愉快に壊れていく…」
アルクェイドが人ごとのように呟いた。
お前の作ったハンバーグが元凶だろうが。
そりゃ、先輩に食べさせたのは俺だけどさ。
丈夫な先輩なら、いずれ復活できるだろうからまだ良いけど、俺が食べたりしたら十中八九、戻れない一方通行の旅立ちになるのは目に見えている。
当然のコトながら、そんなのはイヤだ。
俺には自殺願望も、破滅欲求もないのだから。
だから俺は勝負を掛けた。
シエル先輩にアルクェイドが気を取られている今がチャンスだ!
俺は彼女に気付かれぬよう、眼鏡を心持ちずり下げる。
そして眼鏡のフレーム外から、直接ハンバーグを見やり、凝視する。
とたん、ズキズキと不快な頭痛が襲ってくる。
だが、まだだ。
まだ見えているのは線でしかない。
それではダメだ。
点だ。
点を見つけるんだ。
そして止める。
意味を−−完全に。
アルクェイドのハンバーグを特別たらしめている彼女が付与した”意味”を。
さらに意識を細く尖らせる。
頭痛はさらにひどくなり、頭の中で蛇がのたうち回っているようだ。
喉元にこみ上げてくる嘔吐感を無理矢理ぐっと飲み込む。
ギリギリギリ。
絶え間ない痛みに、ふと、俺の生存本能が楽になろうとして意識をフェードアウトさせようとするが、ムリヤリ気力でねじ伏せる。
−−そしてついに見つけた。
真ん中から心持ち左下にある小さな…とても小さな点を。
そろそろ気力体力ともに限界だ。
俺は力のこもらぬ右手で箸を握りしめた。
わし掴みしたまま拳を持ち上げると、後は重力に任せ二本の切っ先を点に突き立てる!
ガシッ!
が、横から急に伸びてきたスラリとした手に、俺の手首をつかまれてしまい、俺の目論見は阻止されてしまう。
「志貴、どういうつもり?」
アルクェイドだった。
その目は鋭く俺を見据えている。
くっ、感ずかれたか?
「そんな箸の持ち方は、お行儀が悪いわよ?」
違った。
ただの躾だったみたいだ。
俺は愛想笑いを浮かべ、とりあえず正しく箸を持ち直した。
だが今の一件で集中が途切れてしまい、点を見失ってしまう。
やむなく俺は再びハンバーグを凝視する。
だが集中力の限界を超えてしまっている今の俺には、途切れ途切れにしか点を見ることが出来ない。
見えたと思った瞬間狙いを定めるのだが、次の瞬間にはスイッと点が見えなくなってしまう。
まるで点のモグラ叩きだ。
「どうしたのよ、さっきから様子がヘンだよ?」
当たり前だ。
コッチは生死がかかってんだからな。
まったく誰のせいで苦労していると思ってんだ?
恨みがましくチラリとアルクェイドを見やる。
が、何を勘違いしたのか、彼女の頬が少し赤く染まったかと思うと、嬉しそうにポンと手を打った。
「なんだ、それならそうと言ってくれなきゃ」
「?」
「食べさせて欲しいんでしょ? わたしが志貴のお願いを断るわけ無いじゃない。遠慮なんてしないでよ」
「え? いや、俺は別に…」
「もうっ、照れないのっ」
「だからホントに…」
「今さら誤魔化さないでよっ、女の子に恥をかかせる気?」
瞬間、アルクェイドの目がきらりと輝くと、俺の体は麻痺したように動かなくなった。
な、何事だ!?
「もうっ、手間かけさせないでよ。素直じゃないんだから」
あっ!? アルクェイドのヤツ俺に魔眼を使いやがったな!?
ま、まずい! このままでは…。
「それじゃ、一口サイズに…」
彼女は器用に箸を使い、いそいそとハンバーグを切り分け始めた。
ふーん、アルクェイドって外人のくせに、箸の使い方が上手なのな。
って、感心している場合じゃない!
アルクェイドは切り分けたハンバーグを箸でつまみ、左手を添えながら嬉しそうに話しかけてくる。
「はい、志貴。あ〜ん…」
う、うあっ。
俺の意志とは裏腹に、体が勝手に口を開いてしまう。
何とか抵抗しようとするが、完全に焼け石に水。
行動に微々たるブレーキをかける程度にしかならない。
うああああああっ。
も、もう直ぐそこまでにハンバーグがっ!
まずい、まずい、まずいぞっ!
恐怖に見開かれた俺の目が、今まさに俺の口に含まされようとしている、ハンバーグを凝視する。
と、その瞬間−−見えたっ!
『点』だ!
思考するより先に、体が反応する。
一気にその点を俺は噛みつぶした!
そして、そのままの状態で数秒、俺は動けなかった。
結果が怖くて。
だが、しばらくしても何も起こらない。
おそるおそる目を開き、自分の体を見下ろす。
…とくに、異常は見受けられない。
次に、口の中にあるハンバーグを咀嚼してみる。
驚いたことにそれは、挽肉の感触があるだけで完全に無味無臭になっていた。
どうやら、味から何から、アルクェイドが付与したプロテクトもろとも、完全に
無かったコトにできたらしい。
ふぅぅぅぅぅ……。
俺は大きく息をついた。
どうやら上手いコトいったようだ。
ああ…、生きてるってなんてすばらしいんだ…!
「どう志貴? ご感想は?」
「うむっ! 俺は今、生の喜びに満ちあふれているところだ」
「え!? そんなにわたしのハンバーグを喜んでくれるの!? 志貴ったら嬉しいこと言ってくれるじゃないの!」
「…え? ちょ…」
「ほらもう、まだまだお代わりは有るんだから、どんどん食べてよ! ほら、あ〜ん…」
「のぉぉぉぉぉぉっ!?」
結局、俺はアルクェイドが食べさせてくれるたびに、今と同じ攻防を繰り返すハメになり、食事が終わったときには、まさに精も根も尽き果て、あっさりと気絶してしまった。
その後はあまり覚えていないのだが、どうやら三日三晩寝込んでうなされ続けたらしい。
そしてやっと目覚められたと思ったら、その後でも一波乱。
今回の家庭料理コンテストの結果が不本意だと、秋葉がコンテストの再開催を提案してきたのだ。
すると例によって例の如く、琥珀さんがその話に乗ってきて、ついでに翡翠も巻き込む。
さらにアルクェイドのみならず、こんどはシエル先輩まで参加すると言い出す始末だ。
ただ、先輩の場合、俺の方を見ながら、今回のお礼も兼ねて…、とか言っていたのが少し怖かったりしたが。
あの目はヘンなモノを食べさせられたことを、ぜったい根に持っている目だったもんなぁ…。
ううっ…。
俺の明日はどっちなんだろう…。
/END