■ あの子が死んだ?朝 / 関 隼
「―――おはようございます」
……ああ、もうそんな時間か……
もういいかげん聞き慣れた声が、意識を現実へと引きずり戻していく。そして、けだるい感覚を節々に感じながら目が覚めた。
翡翠はまるで計ったかのように、いつもと同じ所へ彫像のように立ち尽くしている。
「………………」
「おはようございます、志貴さま」
丁寧なお辞儀を受けて、とりあえず眼鏡をかけた。
「おはよう、翡翠」
頭は寝ぼけていたが、軽く手をあげて返事を返す。
「他のお客さまと、秋葉さまは食堂においでです。志貴さまもお早くお支度をなさってください」
翡翠は一礼をして部屋を立ち去る。それを見送ってからいつも通りきちんとたたまれた着替えに手を伸ばす。そこまでして、ようやく翡翠の言葉に違和感がある事に気づいた。
「他のお客さま……?」
まだ少しボケている頭に喝を入れて、記憶の中を引っ掻き回してみた。
「ああ、連休で遊びに来た一行か」
そう、何年かぶりの大型連休を利用して、我が遠野家では有志によるお泊まり会が開催されているのだった。元はシエル先輩を招待する為の企画だったのに、有彦にばれたのが運のツキだった。人数はいつの間にか膨れ上がり、おかげで秋葉を説得するのにどれだけの労力をかけたことか……。大体、アイツは俺にシエル先輩を取られて以来事ある毎に邪魔ばっかりしやがって! おまけにアルクエイドなんかとも手を組むからタチが悪いと言うか、中学の頃はもう少し可愛げがあったと言うか、やっぱり一度決着をつける必要があるだろうか? どこか夕焼けが美しい野原に呼び出して………………
ハッ!
何が悲しゅうて「遠野志貴涙々の苦労話・コトの裏側全暴露!」なんかしなきゃいけないんだろうか。説明台詞で話を進行させるのは五流のやり方と聞いたことがあるぞ?
「……以後、気をつけるように」
自戒の念を込めつつそうつぶやくと、俺は手早く着替えを済ませて部屋を出た。
食堂に入ると、秋葉が機嫌悪いオーラを全方位に撒き散らしながら紅茶を飲んでいた。う、朝からかなりきてるな。とりあえず、この場で俺は……
1、無難に「やあ、おはよう秋葉」と挨拶する
2、「今日もきれいだ、まいしすたーアキハ」と挨拶する
3、「腐ったミカンか!? キミ達は!」とう○た○介風に……
「……別に、普通の挨拶で構いませんよ? おはようございます、兄さん」
秋葉はちらりとこちらを一瞥しながら、さりげなくこちらの考えている事を読んできた。
「あ、ああ。そうか。やあ、おはよう秋葉」
動揺を悟られたらこちらが不利になる。波立つ心をできるだけ抑えて自然に挨拶してみた。
「だからといって、選択肢の言葉通りの挨拶は独創性に欠けると思いますが」
「うううう……」
さりげない嫌味がぐっさりと胸に突き刺さる。もう何回も味わったとはいえ、いまだに慣れない心の痛みだ。
「まあ、さわやかな朝に交わす麗しき兄妹の会話はこの位にしておきましょう。琥珀?」
「はい!」
秋葉の声に答えて、台所から琥珀さんが顔を出した。
「あ、志貴さん。おはようございますー」
「おはよう、琥珀さん。朝メシもうできるんだって?」
俺の言葉に琥珀さんがにっこりとうなずく。
「はい、もう少々お待ちくださいね?」
「お願いね」
秋葉に会釈をして琥珀さんは再び台所に姿を消す。宿泊客がいるのにもかかわらず食事の支度を一人でしているから、忙しいのだろう。
「あれ? そういえば……」
翡翠は客もみんな起きていると言っていたけど、どこにいるんだ?
そう思った瞬間だった。
「しーきー!」
「ぐはあっ!」
一瞬、目の前が真っ暗になる。みぞおちに決まった強い打撃、そのダメージが俺の体機能を一時的に麻痺させたのだ。
「あれ、どうしたの志貴? 何か目が虚ろだけど」
「……あのなあ……」
苦しい呼吸の中からその一言だけを搾り出すと、俺は必死に深呼吸で呼吸を整えた。ようやく元に戻った視界の真ん中には―
「大丈夫? 目にはヤツメウナギかレバニラが効くんだよ?」
人懐っこそうな笑顔を浮かべる吸血姫、アルクェイドが立っている。もちろん、悪気はないんだろう。しかし、ここで一言言っておかないと遠野志貴の威厳というものが―
「なあ、アルクェイド」
「なに?」
今、アルクェイドの笑顔を擬音であらわすとすれば、「にぱにぱ」だろうか。
「何で、お前は好きこのんで俺のみぞおちに向かって全力タックルしてくるんだ?」
「えっ? だって、これって今巷で大流行の最大級の親愛の情のあらわし方なんでしょ?」
…………また、目の前が真っ暗になったような気がした。確かに、可愛い女の子が体ごとぶつかってくるのが可愛い瞬間と言うものはある。だからって、誰がよりによって人外の力を持つアルクェイドにそんな事を吹き込むんだ!
「アルクェイド。それ、誰に教わった?」
「誰って、有彦だけど」
あ、あ、あの野郎! そこまでするか、普通!?
どうやらヤツは俺を真に敵と認めたようだ。なら、こっちにだって考えってもんがある。
「あ、ねえ志貴。どこ行くの?」
「有彦の部屋だ! ついでに、他の部屋にも顔を出す」
「あ〜! シエルの所に行く気でしょ。わたしも行く」
そう言って、アルクェイドは俺の首にしがみついてきた。
「わ、こら、やめろ! 俺は有彦と長年の決着をつけに行くだけだ、邪魔するな!」
「じゃあ、わたしが加勢してあげるよ」
「ええい、むしゃぶりつくな!」
「いいでしょ〜?」
がしゃん!
突然の破壊音に、俺とアルクェイドの視線が同時に動く。その先では、沈黙を守っていた我が妹がカップをテーブルに叩きつけて破壊し、怒りもあらわに立ち上がっていた。
「いい加減になさい! そこの未確認生物! 兄さんが迷惑しているでしょうに!」
「何よう、妹。あなたに口を出される筋合いなんかないと思うんだけど?」
「その呼び方もやめていただけませんか!? 貴方にそう呼ばれる筋合いこそ私にはありません!」
「志貴の妹なんだから、間違ってないでしょ?」
「そういう問題ではありません!」
ヒートアップした二人がにらみ合う。火花を散らす勢いでぶつかる二人の視線が、確実に部屋の空気を変えている事を肌で感じながら、俺は次の矛先になる事を防ぐべく早々に食堂から立ち去った。
「あれ? 志貴―! どこ?」
「兄さん? どこへ行かれたんですか?」
俺を探す二人の声が背中越しに聞こえるがもちろん無視だ。とにかく、この場は離れよう。有彦との決着をつけ、シエル先輩とラブでコメな休日を送る為に、今ここで倒れるわけにはいかないのだ。
というわけで、俺は今有彦が泊まっているであろう部屋の前に立っている。とりあえず、愛の障害を取り除いてからラブでコメに走るのが世の常識と言うものだろう。注意深く戦闘体制を整え―――有彦は普通の人間だから、さすがに眼鏡は外さないが―――ドアを軽くノックしてみる。
「んがあ〜」
…………返事の代わりに、いびきが聞こえてきやがった。ん?アイツ、いびきなんかかいたっけか? 中学時代からよく泊めてもらっていたが、そんな記憶はない……んだけどなぁ。
「ま、いいか」
寝ているのならば、かえって好都合。真珠湾もびっくりの奇襲作戦で、完全決着をつけてやろう。俺は意を決して、ヤツの部屋の中に飛び込んだ!
「くらええええええっ!」
裂帛の気合と共に、どこからか手に入れてきた金属バットで有彦が寝ているであろうベッドを滅多打ちにする。
『後で秋葉や翡翠に何言われるかな……』
なんて考えが頭をかすめもしたが、それを振り払うように俺は殴って殴って殴りまくった。
「往生せいやぁぁぁっ!」
息があがるまで殴って、殴って、殴って、殴りまくった。そして、静寂が部屋を満たす。俺はとりあえずの結果に満足し、友の冥福を祈って瞑目した。
「乾有彦…… 安らかに眠ってくれよ……」
「…………その言葉、そっくりお前に返してやろう」
「え?」
ベッドから、あるはずのない返事が返ってきた。しかも、有彦の声じゃない。
「あ、あの〜。どなたでしょうか? 不幸な誤解があったようなのですが……」
俺の言葉を聞いて、ベッドの中の人物はむっくりと起き上がった。
「この顔、忘れたか?」
なぜかベッドの中でも黒コートをはおり、髪は銀色。そしてコートの下も漆黒の闇色……そう、俺はヤツの名を知っている。ヤツの名は……
「ネロ・カオス!! 何でお前がこんな所にいるんだよおっ!」
ヤツは怒っているようだ。いつもなら無表情の顔がゆがんでいる。そして怒気を隠そうともせずに叫んだ。
「知らぬ! 滅多打ちにしてくれた礼に、666回殴ってやろう!」
「お前、それ名作劇場ネタじゃねえかぁっ!」
――――こうして、絶望的とも言える俺の『生』への逃走が始まった。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
数分後、自分でも不思議に思うくらいの逃げ足でどうにかネロを振り切った俺は、確かシエル先輩に割り当てられていたはずの部屋の前に立っていた。
「あ、愛の力って、ヤツかな……」
なんて軽口をたたきながら息を整え、ガラス窓に向かってきちんと襟元を正してから、まるでシエル先輩の体に触る時のように優しくドアをたたく。
コンコン、コンコン
「先輩?」
――――――返事がない
仕方ないのでもう一度。何か用事とか着替えの最中だったかもしれないし。
コンコン、コンコン
「先輩?」
――――――返事がない
「う〜ん……」
おかしい。
トイレにでも行っているのだろうか? なら、廊下で見かけると思うんだが……
「先輩、入るよ?」
失礼と分かってはいたが、胸にわだかまる悪い予感を拭う為に、思い切ってドアを開けてみた。
そこには………………
「せっ、先輩! シエル!」
俺はなだれ込むように部屋に飛び込んだ。何と、俺の目の前でシエルが血まみれで床に倒れているではないか!! しかも、体には十数本の剣が突き立てられている。かっと見開かれたシエルの眼は虚ろで、意識があるようには思えない。それでも俺は一縷の望みをかけて耳元に大きく声をかける。
「シエル、シエル! 聞こえるか!? しっかりしろ! おい!」
――――――へんじがない。ただのしかばねのようだ…………
「そうじゃなくて!!」
そうだ、シエルには確か特殊能力があったはず。たとえ今がこんなに死体置き場直行状態だとしても、きっと十分くらい待てばすっかり元通りになって、
『あれ? 遠野君、おはようございます。どうしたんですか?』
なんてきょとんとした顔でたずねてくるに違いない。そうに決まった。それ以外は認めない。そうであって欲しい。頼むからそうなってくれ……
――――――――――十数分後
俺はシエルの体の前で、古代ホンダラ教に伝わる死者蘇生の踊りを必死に思い出そうとしていた…… って、そんなの知らんわ!
「どういう事だ……」
シエルは一向に目覚める気配がない。もしかして、本当に死んでいるのだろうか? あの、アルクェイドに『蘇生力ならプラナリア以上』と陰口をたたかせ、ロアですらてこずったあの元気はどこへ行ったのだろうか?
「シエル…… ほんとに死んじまったのかよ……」
呆然としながら遺体をベッドの上にのせる。あまりのショックに、涙すら流れようとしない。俺は血の出るくらいぎゅっと、拳を握っていた。
「一体、誰がこんな事を…………」
その言葉を口に出した時、俺はひらめいた。
そう、復讐だ。
こうなったら、シエルをこんなにしたヤツを捕まえて、俺がこの手で裁く。必要なら、この眼鏡を外してやろう。俺とシエルが、犯人に復讐をするのだ。
眼には眼を、歯には歯を
この原則を、たっぷりと分からせてやる。その為には……
「――――まずは、犯人探しからだな」
俺は、屋敷内にいる人間すべてを呼び出す為に部屋を飛び出した。
「――と言うわけで、みんなに集まってもらった。ぜひ協力して欲しい」
シエルの死体が置かれた部屋に集めた一堂を見回して、俺はこれまでの経緯を説明した。
「事情もあるから警察は呼びたくない。とりあえず、今この場にいる人間を調べようと思う」
「でもよぉ、遠野」
有彦が口を開いた。
「ほんとに容疑者ってここにいるので全員か? 外から入ってきた可能性だってあるだろ?」
その意見に、俺は首を横にふった。
「部屋に一つしかない窓の鍵はきちんと閉まっていた。おまけにこの棟は塀からかなり遠い所にある、そして―」
俺の言葉を翡翠が引き継いだ。
「監視システムは何の異常も発見していませんし、システムにも異常ありません。外部からの侵入は可能性としてありえないでしょう」
「ふうん……」
とりあえず納得したようで、有彦が引き下がる。今度は琥珀さんが前に出て意見を述べた。
「ざっと見た所では、出血の新しさからして犯行は日が出たあと、そう遠くない時間に行われています。みなさん、今朝はどこにいらっしゃいましたか?」
すると、みんなを代表するように秋葉が前に出る。
「琥珀、その質問は無駄でしょう。みなさん『部屋で起きて、食堂に行く前に着替えをしていた』と答えるのが関の山でしょうから」
「秋葉お嬢様…… そうですね。申し訳ありません」
「すると、全員アリバイがないのか……」
「あ、志貴さん」
「はい?」
琥珀さんが指を立てて俺を注意した。
「『アリバイがない』は間違いです。アリバイはギリシャ語で『別の場所』という意味ですから、正しくは『アリバイにいない』ですよ」
「はあ、すみません。――アリバイにいないと言う事は、本当に全員が容疑者か……」
いきなり捜査がつまづいたように見えたその時!
「ふふふ………… 遠野くん、どうやらわたしの出番みたいだね」
人垣の後から自信満々の声が聞こえてきた。そして、その声の主がゆらりと姿をあらわす。その人物こそ―――
「お、お前は弓塚!」
そこに立っていたのは、遠野志貴のクラスメイトにしてどうやっても途中から出番のなくなる不遇のサブキャラ、弓塚さつきだった!
「来ていたのか……。ていうか、シナリオ的にはお前って……」
「気にしたほうが負けだと思うよ、遠野くん」
「そ、そうか。ならいいんだ」
にっこり笑った弓塚からなぜか感じる威圧感に負けて、それ以上の追求はできなかった。とにかく、弓塚は自信たっぷりに胸を張る。
「今まで何の必然性もなく黙っていたけど、わたしは実は近所で有名な女子高生探偵なんだよ」
「そうなのか?」
俺は有彦に尋ねる。
「いや、オレも初耳だけど……」
有彦が首をふっているのを無視して、弓塚は言葉を続けた。
「とにかく! この事件、あたしにまかして欲しいな。ばっちゃんの名にかけて!」
「……あ―、お前のバアちゃんが何で有名なのかとか、色々聞かない事にするが…… お前はこの事件をどう推理するんだ?」
弓塚はしばらく瞑目したまま手を後ろに回して部屋の中をぐるぐると歩き回り、何事かを考えているようだったが、突然何かを思いついたように目をかっと開いた。
「分かったわ! すべての謎は解けた!」
「おお! で、犯人は?」
「琥珀さんよ!」
弓塚が指差した先には、きょとんとした顔の琥珀さんが立っていた。
「わたし…… ですか?」
「そう! 琥珀さん、今日の朝食はメキシコ名産シシカバブでしょう! ささいな事で口論になった先輩を、琥珀さんはシシカバブ用のこの串でメッタ刺しにしたんだわ!」
「な、なんだとおっ!?」
予想外すぎる展開に、俺どころか部屋にいるほとんどの人間が驚愕した。たった一人の人間を除いては――――
「それ、違うよ」
「何ですって!?」
自信たっぷりの弓塚に異論を唱えたのは、何とアルクェイドだった。
「だって、これシエルがいつも使ってる剣だもん。シシカバブだか何だかの串じゃないよ?」
「え!?」
弓塚の額から、冷や汗が一筋流れた。さらに、秋葉が追い討ちをかける。
「それに、今日の朝食は私が頼んだイングリッシュ・ブレックファーストです。前提が間違っていては、推理が成立しませんよ?」
「ええ!?」
弓塚の額から、冷や汗が滝のように流れる。そして、その腕を琥珀さんががっしりと捕まえた。
「弓塚さん。少しお話があるんですが……?」
「あ、あの! わたし急用を思い出しましたんで、これで失礼します!」
「いえいえ、お手間は取らせませんから。さ、どうぞこちらへ……」
「きゃあああああああっ!」
弓塚さつき、琥珀さんに引っ張られて退場。
と言うか、迷わず成仏してくれ……
「さあ、気を取り直していこう」
とりあえず見なかったことにして、話を進める事にした。すると、また一人の人物が人垣から出てくる。
「なら、オレの出番だな!」
「どわああっ!」
妙にはっちゃけた声とともに登場したのは――― 本来ならここにいてはいけない、俺の兄弟だった。
「シ、シキ!! お前なんでここにいるんだ!」
「地下牢にずっといると運動不足になるからな。散歩の途中だったんだ。会えて嬉しいよ、志貴!」
「はい、終了! お疲れ様でした!」
奴の言う事に耳を貸さず、奴の体を部屋の外に押し出して、ドアに鍵をかけた。
「おいコラ! 開けろ! オレの名推理を聞け! おいってば! おい…………」
ドアの外が騒がしいが、とにかく無視だ。
「……実験劇場が混じっちゃってるような奴はほっておいて、物語をさくさく進めよう。うん、それがいい!」
そう自分を納得させて、俺は周りを見回した。
「他に、考えがある人はいないのか? アルクェイドは?」
俺に呼ばれたアルクェイドは、あからさまに興味のなさそうな顔をする。
「あたしとしては、シエルはいなくなってくれた方がいいもの。犯人探しに興味なんかないよ」
「あ―……、確かに、そうだろうな。じゃあ、他には? 秋葉はどうだ?」
「まあ外聞は悪いですけど、兄さんについていた虫が一匹減ったと考えれば収支のつりあいも取れます。私も興味ありません」
秋葉は秋葉でにべもない返答を返してきた。
「お前、今日はずいぶんブラックだな……」
「その原因を作ったのはどなたでしょう?」
「さ、さあ! 他に意見がある奴はいないか?」
矛先をかわすために、白々しいくらいに話題を変えてみる。すると、後のほうからほっそりとした手があがった。
「お、誰だ? こっちに来てくれよ」
とりあえず前に来るように呼んでみる。その呼びかけに答えて姿をあらわしたのは……
「……私です」
「翡翠!」
俺の目の前には、いつもと変わらず直立不動を崩さない翡翠がいた。
「翡翠、こういうの得意だったっけ?」
「志貴さまは、ご存知ではないんですか?」
「あ、ああ……」
正直、かなり意外だ。俺の中に勝手に作られていた翡翠像を、壊す必要があるだろう。人は見かけによらないと言うのは、本当の事なのだ。
「それで、どなたを犯人になさいますか?」
「え?」
翡翠の言葉の意味がわからず、俺はつい間抜けな声で尋ね返してしまった。
「ですから、どなたを犯人になさいますか? 志貴さまがお決めになってください」
「いや、あの、翡翠さん? おっしゃっている意味が、よく分からないのですが……」
「では、ご説明しましょう!」
「どわああっ!!」
突然、弓塚と共にどこかへと消えていた琥珀さんが登場する。
「こ、琥珀さん。ドアに鍵をかけてあったんですけど…… どうやって入ったんですか?」
「志貴さん、細かい事は気にしたら負けですよ?」
そう言われてしまうと、反論のしようというものがない。
「ご説明しますね。翡翠ちゃんは別名『洗脳探偵翡翠ちゃん』と言いまして、どんな人でもあなたが犯人ですと洗脳する事ができるんです!!」
翡翠と琥珀さん以外の人間が、全員ずっこけた。
「姉さん、説明ありがとう」
「ありがとう、じゃなーいっ! それじゃ冤罪を押しつけてるじゃないですか!」
「いいじゃないですか、最大幸福のためには犠牲も必要ですよ?」
俺は頭を抱えてしまった。
「あうう…… 何で今日は、みんなしてこれでもかってくらいブラックなんだ……」
もう少しで泣きそうになっている俺の肩を、誰かがつんつんとつつく。誰かと思って振り向くと、そこにはすっかり影の薄くなっていた有彦がいた。
「…………何だ? 何か用か? 有彦」
「いや、その、なんだ」
有彦は何か言いたい事があるようなのだが、ものすごく言いづらそうにしている。頭をかきながら視線を泳がせているのはそのせいだろう。
「どうしたんだよ。何か思いついたのか?」
「いや、そのな……」
まだ言うべきかどうか悩んでいるようだ。しかし、このままでは埒があかない。
「いいから言ってみろよ。俺らの間に遠慮なんかないだろ?」
この一言で、ヤツは腹を決めたようだった。じっと俺を真正面から見据える。
「遠野、落ち着いて聞けよ?」
「だからなんだよ」
「シエル先輩な、起きてる」
―――――――――――へ?
「い、今、何て言った?」
「後見てみろよ。シエル先輩、起きてるぜ」
有彦の言葉につられるように、俺の首が後に向かってぎりぎりと動く。果たして、その視線の先にいたのは――――
「せ、先輩!!」
「あ、遠野君。おはようございます」
愛しの先輩が、元気に、ちょこんと、ベッドの上に座っている!!
「先輩! 無事だったんだな! よかった!」
俺は嬉しさのあまりタックルをかける要領で先輩に抱きついた。
「きゃっ!? ど、どうしたんですか? 遠野君」
「どうしたもこうしたも、先輩が血まみれで倒れてて、ぜんぜん目を覚まさないから、俺はてっきり先輩が……」
その先は口に出すのもはばかられるような気がして、ごにょごにょとごまかしてしまった。目の前に元気先輩がいる奇跡が、消えてなくなりそうな気がしたからだ。
「ああ、これですか?」
先輩はひょいと自分に刺さっていた長剣を手に取る。確かに、それはアルクェイドや何かと闘う時に先輩が使っていた剣だった。
「そう、それだよ。先輩、一体誰にやられたんだ?」
「わたしですけど」
――――――――――――――え?
先輩のあっけらかんとした言葉に、俺のあごがかくんと下がった。そんな事は気にせず、シエル先輩は照れたように頭をかきながら説明を続けてくれる。
「実は今朝、珍しい事にすごく早起きしてしまったんですよ。それで、まだ皆さん起きてないので、暇を持て余しちゃいまして……」
俺の手が、静かに眼鏡を外す。
俺の視界は、頭痛と共に『死』を司る点と、線に満たされていく。
そして、俺の『眼』は静かに目標を捜し求めた。
「遠野君、黒ヒゲ危機一髪ってゲームをご存知ですか? ちょうど剣もあるしと思って、一人黒ヒゲ危機一髪ごっこをしていたんですよ…… 」
見えた。
黒々と大きな『死の点』が見えた。
俺はゆっくりと狙いを定める。
「失血で気絶してしまったようですね。つまり、私の負けのようです」
そこまで聞いた瞬間、俺の手は反射的に『点』に向かい、俺はある言葉を叫ばずにはいられなかった。
「なんでやねえぇぇぇん!!!!!」
眼鏡をはずした俺のツッコミは、正確にシエル先輩の『点』を貫いていた……
/END