■ Rhapsody / 火鳥
「兄さん、こっちです」
さわさわという木擦れの音に、秋葉の声が混じった。
「早く、早く」
俺の前を駆ける秋葉は、それはもう普段の彼女を知っている人にはギャップがありすぎるくらい無邪気で、穏やかだ。
親に遊園地に連れていってもらう子供みたいだ、と思った。
「ああ、もうっ。どうして兄さんはそんなに行動が鈍いんですか。まだ腰が弱るような歳でもないでしょう?」
長いこと歩き続ければ、腰もネをあげる。
そんな屁理屈という名の反論も、毒素を根こそぎ抜き取ったような言い方をされたのでは言えたもんじゃない。嫌味も嫌味として取れないくらい、なんていうか、可愛いのだ。
あと少しですから、と言って、秋葉はそっぽを向いてしまう。
靡いて返る美しい黒髪も、見えなくなった双瞳のそれほどの魅力にはおよばない。
お気に入りのおもちゃを取り上げられたときの、小さな子供みたいだ。
脱力感。
疲れがどっと出てきた。
足はくたびれ果てている。
体が重い。
「もう、ダメだ」
「ああ、また!何言ってるんですか。まだ兄さんは若いでしょう?」
秋葉が、年寄りとまではいかずとも中年じみたことを言ってくる。
この先左手の薬指に縁がなければ、きっと将来はお局様で通るに違いない。
「………」
睨まれる。人の心を読む力でもあるのだろうか。
「別になにも言ってないよ」
「別になにも聞いてませんけど」
秋葉は、はあ、とため息をついて、それからなにかを振り払うように首を振って、表情を変えた。
「兄さん、ほら」
秋葉が、駆けよってくる。さっきまでつんけんしていたのに、笑顔がまぶしい。
「がんばりましょう?」
腕を引かれて、バランスを崩しそうになった。秋葉は笑っている。恋人がそうするように、手を握って、走り出す。
道は一本道だった。通りすぎる木々の枝には、鮮やかな色彩がめいいっぱい詰め込まれている。あお。きいろ。しろ。みずいろ。麗らかに風がふくと、葉とそれが擦れて心地のよい音をさわがせる。森はさわさわと揺れる。ビジュアルとサウンドの共存――どこからか、自然のガーラムのような香りが漂ってきた。
こういうのも、いいかもしれない。こういう場所を、秋葉と二人で駆けていく――どこか、幼いころを思い出す。
何も言わず、秋葉の手を握りかえした。秋葉は少し驚いたようだが、そのあとの表情は前よりうれしそうに見えた。
駆けながら、視界のすみで、なにかが揺れるのが見えた。俺の目に映ったそれは、鮮やかなピンク色だった。風は向かう先から流れている。この先にあるものを思い浮かべて、俺はたぶん今、子供のような顔をしているのだろう。
Rhapsody
森を抜けて、視界が開けた。やわらかな風が吹き抜ける。秋葉の髪が舞いように靡いて、俺の鼻先をくすぐった。天を仰ぎ見ずにはいられなかった。鳥が2匹、弧を描くように並んで飛んでいる。
過去に訪れた北陸の白山という山の、ちょうど中枢の光景にとても似ていると思った。一緒に登った有馬の家の両親は、その光景を天国のようだと言った。草木は心地よくざわめき、川はせせらぎ、花は彩りと香りを魅せ、鳥は謳う。そこに訪れる人々も、皆自然に溶け込んでしまう。純粋な気持ちになれる。ここには高山植物も登山者もいるわけでもなければ、ライチョウがひょっこりと姿を見せることもない。ただ、俺はこの景色が好きだった。
「あ」
――いけない。感慨に耽っていて、秋葉を待たせていることをすっかり忘れていた。
「秋葉」
「どうですか、兄さん。素敵な場所でしょう?」
秋葉はにっこりと笑いかけてきてそう言った。俺の心配はどうやら取り越し苦労のようだ。
「私の、取っておきなんです」
「ああ。市内にこんな場所があったなんて、知らなかったよ。空気が、とても旨い」
「ええ」
言って、深呼吸をするように息を吸った。秋葉も真似をしてみせた。
俺たちは、しばらくの間そうしていた。景色を眺めて、空を仰いで、風の流れに乗るように身をゆだねて。眠いわけでもないのに、このまま眠ってしまいたくなる。いっそこの場に寝そべってしまえばどんなに気持ちいいだろう。
………。
……。
…。
「秋葉さま、志貴さん」
「うわぁ!」
「きゃっ!」
不意に声をかけられて、背中から肩が飛び上がりそうなほど驚いた。振り返ると、相変わらずにこにこした琥珀さんが当たり前のように立っていた。
上の空だったとはいえ、足音はおろか気配さえ感じなかった。この人、どうもミステリアスなところが多すぎる気がする。
「ようやくいらしたんですね。わたし、すっかり待ちくたびれちゃいました」
「そ、そう。それは悪かったわ。でも、今度から名前を呼ぶときは、真正面から呼ぶか、なんらかの気配を見せてからにしなさい。怖いから」
「あは〜」
わかっているのかいないのか。もしくは楽しんでやっているのか――たぶん、後者だろう――琥珀さんはなかなか満足そうに笑ってみせた。
たしかに今のでは、突然鳴り出した目覚まし時計のようで心臓に悪い。
「仲が良いんですねー」
「…はい?」
唐突に、琥珀さんはわけのわからないことを言ってくる。
「今日はこんなにあったかいのに」
琥珀さんの視線は、俺と秋葉に向けられている。
「………あ」
「あ」
遠まわしに言われて、気づいた。俺と秋葉は、驚いた拍子にすがりを求めてお互い抱き合っていた。俺の手は秋葉の腰に、秋葉のそれは俺の首にまわっていて、妙にエロティカルな姿勢をさらけだしている。
止まった思考を必死で働かせて、ゆっくりとじっくりと、お互いの姿を確認する。行きついた先で、真っ赤に染まった秋葉の顔が飛び込んできて、飛びのくように体を離したのはほぼ2人同時同形同姿勢だった。
「うふふー」
あえてタイトルをつけるなら、『キスシーンを親に見られたカップル』。
「そ、それより琥珀さん、翡翠はどうしたの?」
「翡翠ちゃんなら、先に準備をしてもらってます。といってもそう時間のかかることじゃありませんし、もうとっくに終わっちゃって、きっと待ちくたびれてると思いますよー。わたしはお二人がなかなか来られないものだからお迎えにあがったんです」
「あ、そうだったんだ。翡翠にはまた悪いことしちゃったかな。あ、琥珀さんにも」
「いえ、気にしないでください」
琥珀さんはあっけらかんと笑う。
「兄さん、そろそろ行きましょう。琥珀、案内してくれるかしら」
「はいー。それでは、お二人様ご案内〜」
妙な案内の仕方をしないでちょうだい、と秋葉が琥珀さんをごついている。俺たちは笑いながら、暖かな大地を踏みしめ歩き出した。
ピンクの花びらがひらひらと舞っていた。一枚、二枚、次第に増えつづけ、やがて細雪のように風に流れた。翡翠が待っていてくれている場所はもう近い。
桜の舞い散るところに、翡翠は凛として座っていた。着物か、そうでなくとも少しくらい洒落た格好をしていればいいのだが、相変わらずの普段着である仕事着を着こなしている彼女はどこか周囲に不釣合いで、同時にふと見てしまった横顔がとても綺麗だった。俺は翡翠のしなやかな肢体よりも、そのいじらしい性格よりもまず、その整った顔立ちとそれの中枢に埋め込まれた翡翠色の瞳に何よりも惹かれていた。
「遅いです。お二人とも」
翡翠は整った顔立ちをしかめてそう言った。なかなか第一声が容赦なくなってきたなと実感する。
「ええ、ごめんね翡翠。兄さんの行動があまりに鈍いものだから」
「おい」
「そうなんですよー」
琥珀さんが加わってくる。
「志貴さんたら、そのくせ頭を春の陽気に当てられて、2人っきりなのをいいことに途中で秋葉さまを襲おうとしてたんですよー」
「してないっ、しないっ、できるかっ!」
「でも、積極的に抱きついたりしてました」
「あれはあなたが驚かせるから…」
「うふふー。若いっていいですねー」
琥珀さんが口を開くたびに、ネジでもしめるようにキリキリと翡翠の眉間にしわが寄ってくる。秋葉はぎゃあぎゃあ怒っている。琥珀さん自身は絶対、楽しんでいるに違いない。そして一番疲れるのは立場的に俺になる。
琥珀さん、頼むから少し黙ってくれ。
「と、ところでっ」
顔を真っ赤にした秋葉が話を変える。
「準備は整っているの、翡翠?」
「はい」
「そう。それじゃあはじめましょうか」
そう言って秋葉は笑った。翡翠や琥珀さんも笑った。
皆の表情が穏やかなものになって、俺も顔をほころばせた。
「絶好のお花見日和、ですね」
みんなで、上を見上げた。見渡すかぎりの桜が視界を埋めつくして映った。
吸いこまれたような木々が天に堂々と背を伸ばし、そこから枝分かれが放射状に広がって、互いのそれが波紋のように交わっている。そしてそこに、油絵の具を塗りたくったような桜の花が陽光を鮮やかなピンク色に染め上げている。木漏れ日がゆらゆらと揺れて、木々のざわめきに耳を澄ましている。
いい天気だ。昨夜の天気予報では、新人のやたら不慣れ口調のしたニュースキャスターが雨の心配をしていたのを、俺たちは苦いものを食べたような顔をしてテレビで見ていたが、余計な心配だったようだ。この時期の雨は、一晩で木々の彩りを奪い取ってしまう。
俺は今朝秋葉が誰よりも早く起きて窓を開け、空を見て胸を撫で下ろしていたことを知っていた。偶然にも目が覚めてトイレに行き、部屋に戻ったついでにカーテンの隙間を覗いてみるとそれが見えたのだ。確か、5時ごろのことだったか。
「兄さん、どうしたんですか。座らないんですか?」
そんな、本当は子供のような秋葉が俺の前では『遠野の当主』としての威厳を必死で繋ぎとめているとわかると、どんな態度を見ても愛らしく思えてしまう。彼女自身、唯一の肉親に甘えたいという気持ちもあることだろうが(自惚れかもしれないが)、それと立場的なものが相対立して常に葛藤と戦っているのだろう。七年間で典型的なフランス人形のように育ってしまった秋葉でさえこんな風に思春期している一面を見ると、どこか年相応の人間性の瞬間を垣間見たようで安心してしまう。
「…兄さん?」
「ああ、うん、いま座るよ」
地面には木々の合間を縫うように御座が敷かれていた。翡翠が早くから準備していてくれたのだろう。他の花見客なぞ当然いないわけで、スペースを遠慮する必要などまったくない。
俺はある種の爽快感を得ながらどっさりと腰を下ろした。
「さて、それじゃあ琥珀、お酒を出してくれる?」
「まて」
秋葉が笑顔でとんでもないことを言う。琥珀さんは琥珀さんで、「はい〜」と当然のように答えてクーラーボックスの蓋を開けようとしている。
「いきなり酒を飲むやつがあるか。そもそも未成年だろ」
「あら、まずは食前酒ですよ兄さん。それに、せっかくの花見なんですからお酒くらい飲まないとしらけてしまうでしょう?」
「お前…もしかして事あるごとにそれ言ってるんじゃないか…?」
ともなれば相当タチが悪い。
「あ、そういえば兄さんは下戸なんでしたね。少なめにしておきましょうか?」
「…俺はいいよ。風情の欠片も感じなくなりそうだ」
「あら、桜を見ながら花見酒というのも趣がありますのに」
いったい、この秋葉のどこの口からそんな言葉が出ているのだろうと思う。
琥珀さんが鼻歌を歌いながらクーラーボックスを漁っている。横からそっと覗いてみると、そこにはビール、ワイン、カクテル、日本酒、ウィスキー、リキュール――気持ちが悪くなりそうだったので見るのをやめた。間違っても、翡翠だけには飲ませないようにしようと心に決める。翡翠はあくまで平常心を装っているが、顔の端がわずかに汗ばんでいるのが見て取れる。焦っているのか、呆れているのか。
「そうそう志貴さん、今日のお弁当はご馳走なんですよー」
琥珀さんは後ろから重箱を取り出して言った。クーラーボックスにはいつのまにか秋葉が貼りついていろいろと物色している。こだわりがあるのなら最初から自分がすればいいのに。秋葉の嬉しそうな横顔がなんだか恐い。
視線を戻すと、琥珀さんはまだ重箱を積み重ねていた。
「…何個あるの、それ?」
「さあ。数えてないからわかりません」
なんか、今日はこんなのばっかりな気がする。
「あ、全部わたしが作ったわけじゃないんですよ。半分は翡翠ちゃんが」
「翡翠が?」
「えっと、あの、はい…」
急に話を振られた翡翠は、コクンと小さく頷いたあとそのまま頬を赤らめてうなだれた。
「こっちとこっちがわたしで、これが果物。こっちが翡翠ちゃんの作った分です」
重箱が並べられていく。翡翠が作った料理は前に一度だけ見せてもらったのが印象に(そりゃもうすごく)残っていたが、前回とは見違えるほど上達しているのがひと目でわかった。
あれ以来翡翠が琥珀さんに料理を教わっていることは知っていた。仕事熱心なのか本来の性格なのか、そういう責務的なものを感じるとなんでもやってのけるよう努力するのが翡翠のいいところでもあった。
「ふーん。おいしそうだね」
「あ、ありがとうございます…」
「琥珀さんの料理」
「…え、え?………あ…」
翡翠の顔が重箱の中のトマトよりも赤く染まる。俺はクスッと笑ってから言った。
「冗談だよ。翡翠の料理もすごくおいしそう。早く食べたいよ」
「あの…その…はい」
「もうっ!志貴さん、翡翠ちゃんは純粋なんですからいじめちゃダメですよ。志貴さんのせいで翡翠ちゃんが人間不信になったりでもしたらわたし、許しませんからねー」
たいそうな言われようだ。
「あれ、そっちのは?」
「あ、これはですねー」
俺が重箱の横に置かれた白い箱に気づくと、琥珀さんはうふふー、と、なぜか楽しそうに笑いながらそれを目の前に持ってきた。
「翡翠ちゃんとわたしで作ったんですよ」
琥珀さんは壊れ物を扱うようにスッと箱蓋を持ちあげ、少し中身が覗いたあたりでそれを勢い良く引きあげた。
彩り鮮やかなケーキだった。
「マナの樹のケーキなんです。上に野イチゴとか野ブドウとか、たくさん乗せて」
「へぇ。野ブドウなんか、よく見つかったもんだね」
「あ、志貴さんは知らないんですね。こういうの、屋敷の中庭の隅にたくさんなってるんですよ。ちょうど雑木林と中庭の境目のあたり。たぶん先代様の奥様か誰かがこういうのをとても愛でていたんだと思います。今は翡翠ちゃんが毎日世話をしてあげてるから、毎年おいしいのが食べれるんですよー」
「へー、そうなんだ。翡翠、ご苦労様」
はい、と言って翡翠は嬉しそうに笑った。
「本当はわたしの管轄ではなかったのですが、わたしがはじめてその木を見たときは、もう枯れかけでした。それでそのときの庭師の方に頼んで、特別にそこだけお世話を代わっていただいたんです」
「翡翠ちゃん、マナの樹のケーキを作るだけならわたしなんかより断然上手なんですよ」
それはつまり、下宿生活の男が卵焼きや焼き飯の腕だけはプロ並というやつだろうか、と言わんとしてやめた。今の翡翠ならストロガノフやペペロンチーノでも作れてしまう気がする。
「すごいな二人とも。今日は二人のお陰で豪華な花見が楽しめそうだよ」
「あら、兄さん。わたしは入っていないのですか?」
琥珀さんたちと話していると、すっかり存在を忘れていた秋葉が口を挟んできた。手には年代ものと思わしきワインを持っていて、大事そうに胸に抱えている。
「それじゃ、秋葉もなにか手伝ったのか?」
「ええ、もちろん」
自身満々に秋葉が重箱のひとつを指す。
「ほら、このリンゴ」
「…リンゴ?」
「わたしが皮を剥いたんです」
「………」
「可愛いでしょう?ほら、ウサギ」
「………」
なんだか今日は、秋葉がとっても普通の女の子に見える。リンゴウサギの耳は大きさがちぐはぐで、一方が角のように太かった。
普通の女の子が、過度のウワバミで酒のコレクションが趣味であるかどうかは知らないが。
「それより、これにしましょう。銘柄なんですよ」
ラベルには、デザインされた横文字でロマネ=コンティと記されていた。素人の俺でも名前と、生半可な金額で買えるものではないことくらいは知っている。
なにより、秋葉の嬉しそうな笑顔が純粋無垢な子供のようで、毒っ気もなにもかも抜き取られてしまうようで――こういう素直なところが、『普通の女の子』に見えてしまうのだろうか。
俺は諦めたようにため息をついた。
「…わかった。今日くらいは肩の力を抜かないとな。俺も少しいただくよ。あ、ホントに少しだけだけど」
「さすが兄さん。そう来なくちゃ」
「あ、それおいしそうですね〜」
琥珀さんがひょっこりと入ってくる。
「あなたも飲むでしょう、琥珀?」
「はい。それではいただきます。翡翠ちゃんも飲むよねー?」
「いえ、わたしは麦茶をいただきますので結構です」
翡翠があまりにも真剣な表情で言うものだから、思わず俺は吹き出してしまった。
「…なにか?」
「いや、翡翠らしいなって」
「………」
「あ、また眉間にしわ寄せてる。いいじゃないか、麦茶でも」
「笑ったのは志貴さまです」
「そうだね。ごめん」
そうこうしている間に、琥珀さんはグラス――紙コップではなくちゃんとしたグラスを持参しているのは秋葉の趣向だろうか――になみなみとワインを注ぎ、俺たちに手渡してくれる。翡翠はこのままなにもせずにいると実の姉に強引にワインを勧められると判断したのか、先手を打って自分で麦茶を注いでいた。
「それでは兄さん」
全員がグラスを手にしているのを確認して、秋葉が俺を促してくる。
つまりは、決まりごとのようなもの。
「乾杯」
俺たちは、ピンクのヴェールをかぶった天にむかって杯を交わした。頭上から鮮やかな花びらがひらひら舞い降りてきて、グラスの中に浮かんだ。
2.
中庭のすみっこのほうの手入れをしている人はもう70さいになるおじいさんだったから、その目をぬすんでうら口から外にでるのはかんたんだった。まわりにだれもいないことをかくにんして、僕はいきおいよくとびらをあけてとびだした。
家のしき地から一歩外にとびだすと、びゅうと風がふいてうすぎの僕の体をなであげた。少し寒かったけど上にきるものはなにもなかったから走ることにした。今さら取りに帰ったら「オニ」やくのあきはに見つかってしまう。それどころかだれかお手つだいさんに見つかったらたいへんだ。みんなが「オニ」ってよんでるお手つだいさんの中で一番えらいおばあさんはとてもこわい。せっきょうがはじまると2時間は遊ぶ時間がなくなってしまう。そんなのはごめんだ。
走ると体はあったかくなってくる。風を切るかんかくが気持ちいい。どこまでも行けそうな気がする。電柱もかべも僕がするするとおいぬいてしまう。だれも僕に勝てないんだ。学校のかけっこでも僕にかなう友達はいない。
だいぶ走ったところで僕は足をとめた。体もぽかぽかしてる。もしやしきからだれか僕をおいかけていたとしてもとうのむかしに見うしなっているにちがいない。こういうのはついこの前学校で習った。「いっせきにちょう」っていうやつだ。
そこは知らない公園だった。まんぞくかんにひたっていた僕は、しばらくして自分のいる場所に気づいた。よく考えてみたら、走ってきた道もぜんぜん知らない。
「…あれ?」
やしきの庭でかくれんぼをしていた僕が、なぜこんなところにいるんだろうって考えてみた。よく思いだせない。学校の先生に聞いたらわかるのかもしれないけど、あたりまえだけどいない。
「まあいいや」
僕は考えるのをやめて、水道を見つけて走っていくと、頭から水をかぶった。ばしゃばしゃと水がはねて、かみの毛から首に、背中に入りこんで汗をながしていく。Tシャツがびしょびしょにぬれたけどぎゃくに気持ちよかった。さいごに頭をふって水しぶきをちらして、水をがぶっとひとのみしてからじゃ口をしめた。
排水こうのところに、うすい色をした花びらがたくさん落ちていた。
ああ、そうか。やしきの庭にもあるけど、ここにもたくさんあるんだな――僕は、その公園が「さくら」の木でかこまれていることにそのとき気づいた。風にのって、花びらはひらひらとまっている。チョウチョみたいだ。
広場のほうで同い年くらいの男の子たちがサッカーをしている。すぐ横の砂場では女の子たちが集まって砂山を作ったりおままごとみたいなことをしている。男の子のひとりがてきを一人ぬいてパスを出した。そのボールがグループのリーダーらしき一人の足もとにころがる。そのままダイレクトシュート、キーパーがはじいたボールは大きくはねて、ころがったボールが砂場の砂山に直げきした。
女の子の一人が泣きだした。その横で、もう一人が大声でもんくを言っている。ボールをけった男の子は気まずそうに「しかたねーだろ」とか「オレのせいじゃねーもん」とか言いわけをしている。
もんくにたえかねた男の子が「ほっとこーぜ。むしだむし」と言ってサッカーに戻ろうとすると、あれだけいせいのよかった女の子がべそをかいて泣きはじめた。さすがにむしできなくなった男の子はしどろもどろになる。けっきょく男の子がみんなで女の子たちにあやまって、そのあとみんないっしょになって砂山作りをはじめた。
そんなこうけいを見ていると、なんだかふしぎな気持ちになってくる。
それがなんなのは、わかっているようでわからない。
あきはに会いたい。
急にそう思った。
「――!?」
今いっしゅん、
あきはが見えた気がした。
風がびゅうと音をたててふいた。砂ぼこりがまって、さくらの花びらといりまじる。僕は目を手でおおいながらもあきはを見うしなわないようにけんめいに目をみひらいた。
「あきは!」
「…え?」
女の子は、僕のいるところから10メートルくらい横の、大きなさくらの木の下に立っていた。僕は声をあげたあとでこうかいした。風はやんでおだやかになっている。
――なんだ、あきはじゃないや。
女の子は僕の声にびっくりしてこっちを見ていた。よく見ると女の子はあきはと同じ身長くらいというところいがいはぜんぜんにてもいなかった。なんで見まちがえたりなんかしたんだろう。
「あ…」
目があってしまった。人ちがいだったけどこっちから声をかけたんだからむしするわけにはいかない。女の子はまっ白なワンピースを風になびかせてぽーっとこっちを見ている。
僕がなにか言おうとまよっているとき、砂場のほうからうれしそうな声がきこえた。どうやら砂山のトンネルがかいつうしたらしい。男の子と女の子みんなまじりあってよろこんでいる。
ワンピースの女の子はそんなみんなを、どこか生気のぬけたような顔をして見ていた。
「きみは行かないの?」
「え?」
あれだけまよっていたのに、なぜかしぜんにことばが出てきた。びっくりしたように女の子がふりかえる。
「みんなといっしょにあそびたいんじゃないの?」
「え?え?」
僕は砂場をゆびさす。
「…あ、ううん。違うの」
女の子がはじめてふつうにしゃべった。すんでいてとてもきれいな声だった。
「じゃあ、ひとりであそびにきてるの?」
「うん。でもちょっと違うよ。わたし、さくらを見にきてるの」
「さくらを?」
僕はそのまま聞きかえした。
「おはなみって言うのかな。あ、でもただ見るだけなんだけどね」
「そんなの、楽しいの?」
「うん、楽しいよ」
「ふーん」
僕は上を見あげた。さっきまで気づかなかったけど、女の子の立っているすぐそばの木はほかのどれよりも大きかった。
どっしりとしたみきがたいようにむかってのびて、そこからピンク色のかさをいっぱいに広げている。たいようの光はかさのすきまでゆらゆらとゆれている。
「きれいだよね」
女の子もいっしょになって見あげる。
「あー…」
僕は目をほそめた。
「きれい…だと思う」
「うん。それじゃもうひとつ聞くね」
女の子はあきはとはちがってあかるい。さいしょの遠くから見たときのいんしょうとは少しちがう。どこかしんせんなかんじがした。
「さくらって、なにがいちばんきれいだと思う?」
「なにがって、ピンク色の花びらじゃないの?」
「あ、うん。そうなんだけど、じゃあちょっとしつもんをかえるね。さくらって、どんなときがいちばんきれいだと思う?」
「どんなときって?」
まだよくわからない僕に、女の子はうーんと考えてから言った。
「たとえば、つぼみがさいてるときとか、花びらがまんかいのときとか」
「そりゃあ、花びらがまんかいのときじゃないの?」
「そう思う?」
女の子はくすっとわらって、
「わたしはちがうと思うな」
と言った。
「さくらは、ちっちゃうときがいちばんきれいなんだよ」
女の子は笑っている。
「でもね」
すいこまれるようなえがお。
「いちばんかなしいのは、そんないちばんきれいなさくらが、だれにも見られないでちっちゃうとき」
僕たちは木の下にすわって話をした。学校のこと、休みの日のこと、家のこと、あきはのこと、いろいろ。やしきのことを話すと、女の子も僕のやしきのことはよく知っていた。家の前にはいつも外国の車がとまってて、自分もいちどはあんなやしきにすんでみたいとうらやましがられた。それならあそびにくればいいのにって言おうと思ったけど、そんなの家の人がゆるしてくれるわけないからやめた。
話がとまったら、どちらが言うともなくさくらの木を見あげた。そのまましばらくぼーっとする。さくらはあいかわらず風にゆられてざわざわとさわいでいる。目をとじて耳をすますと、ざわざわという音の一回一回が少しずつちがっていることにきづいた。そんな小さなはっけんがとてもうれしく思えてしまう。
女の子にも教えると、ほんとだ、と言ってまねをはじめた。僕たちのあいだでそれのざわめきを聞きわけるのがひそかなりゅうこうになった。
そうしていて、どちらかが思いだしたように話をはじめる。とまるとさくらを見あげる。そのくりかえし。
どっちかというと、女の子のしつもんに僕が答えるということが多かった。たいようがあかくなってきて、そろそろ帰らないとと言ったときにも女の子はさいごに僕にしつもんをした。
「――って、知ってる?」
「え?」
僕は聞きかえした。僕の頭の中にはこれからどうしようとか、どうやって帰ろうとかいうことでいっぱいだったから女の子の言ったことはよく聞いていなかった。
「ねえ、知ってる?」
「えっと…だから、なんて?」
「ん…やっぱりいいや」
言うと、女の子はそのまま公園の入り口に歩きだそうとした。
僕とははんたいの入り口だから、ここでおわかれということになる。
「じゃあね、ばいばい」
僕は手をふった。女の子がなぜか立ちどまってふりかえる。
「………」
「どうしたの?」
「知りたくないの?」
「なにが?」
「わたしがさっき言ったこと」
僕はうーんと考えてから答えた。
「知りたいかも」
女の子がにぱっと笑った。うれしそうに話しだす。
「うんいいよ。あのね、さくらの花びらってね…」
しとしとと雨がふりだした。雨がやねをたたく音はだんだん大きくなってくる。
今日は外であそべそうにないなと、僕はためいきをついた。そうでなくても、ここのところまったくあそんでないのは、前にやしきの外にでてしまったのがばれてしまったからだ。
あのあと僕はなんとかもと来た道をたどってやしきに帰ることができた。のはよかったけど、そこで僕をまっていたのは泣いているあきはと、まゆげをアルファベットのブイのかたちにした「オニ」のおばあさんだった。
けっきょく僕はさんざんおこられたあげく、しばらくへやの外であそぶことをきんしされてしまった。ここのところ体がうずいてしょうがない。
雨はどんどん強くなっていく。まどに大つぶの水がたたきつけられる。
ザー…
ザー…
ザー…
いやなよかんがした。
「まさか…な」
僕は頭をふって考えをけそうとした。そんなはずはないと自分に言い聞かせる。けれどどうしても女の子の言葉が頭をはなれない。
――いちばんかなしいのは
――そんないちばんきれいなさくらが
――だれにも見られないでちっちゃうとき
僕はえんぴつをほっぽりだした。やっていたすべてのことをやめて、中庭のうら口にむかって走った。ろうかですれちがう人がふしぎそうな目で僕を見ていたが気にしなかった。
かさは大人用の大きいのしかなかったからとらなかった。レインコートを今さら取りにもどるひまなんてない。僕はなにも持たずにやしきをとびだした。
雨は僕のはだをようしゃなくうちつける。かみの毛や服はすぐにびしょびしょになった。水たまりをふむたびにくつとくつ下が重くなる。気持ちわるい。
かさを持って歩いている人がへんな目で見てくる。雨ぐもはどす黒い色をめいっぱい広げて僕を見くだしている。つめたい雨は僕に帰れ帰れと言って邪魔してくる。
それでも僕は走った。
走らなきゃいけない。どうしても公園に行かなきゃいけない気がした。
さくらの木の下に女の子は一人たたずんでいた。公園でピンク色のかさをさしているのは女の子だけだった。
さくらの木はどこも色をうしなっていて、花びらはみぞを流れていた。
女の子はびしょびしょの僕を見つけると、しずかに言った。
「この木、だいじょうぶだったよ」
いきがあがっている僕に女の子がくちょうはすごくやさしい。
「この木、かなしくなんてなかったよ。だって、わたしがずっと見てたもん」
「……ひどいなぁ」
僕は顔にはりついた前かみをすくって、そのまま女の子の目を見た。すごくきれいな色。さくらの木をうしろに、僕の目にはそこだけが色あざやかにうつった。
「僕も見たかったのにな」
「だいじょうぶだよ。来年もあるから」
「…そうだね」
僕たちはいっしょにさくらの木を見あげた。僕はなにもみにつけていないその木が、なにかひと仕事をおえたような、そんなとてもまんぞくそうなすがたに見えた。木はただ生えているだけなのに。
「来年はいっしょに見ようね」
「うん」
「名前、教えて」
「志貴」
僕は目の前の木にまけないくらいまんぞくげに答えた。
「じゃあ志貴くん、だね」
「うん」
「志貴くん」
「うん?」
「ぜったい、来年はいっしょに、だよ」
「うん」
さくらがちっていた。女の子のかさにはりついていた花びらが雨にはじかれて、木のねもとにはらりとおちた。
「あのね、わたしはね、わたしの名前はね――」
懐かしい夢を見た。
3.
鼻先にそよそよと春の風を感じて、俺はのっそりと体を起こした。
寝起きは悪くない方なのだが、こうも空気がぽかぽかして暖かいと意識がはっきりするのも遅くなる。視界にはいっぱいの色彩がつめこまれていて、自分の立場のようなものを思い出すまでの間俺の興味を意識ごと奪うには十分なほどだった。
舌先にかすかに野ブドウの後味が残っている。琥珀さんと翡翠の料理はやっぱりおいしくて、あきらかに人数分以上の重箱の大半をも問題なく食べ尽くせた気がする。翡翠自信のケーキも、さすが琥珀さんのお墨付きなだけあって絶品だった。
ただ、問題はその先だったか。
秋葉は杯が進んでほろ酔い気分になった。それはまだいい。秋葉は酒を飲んではいるが呑まれてはいない。だが、しきりに翡翠に杓をしようとする琥珀さんの手にあるものが、麦茶と同じ色をしたウイスキー(うんと濃いやつだ)だということに気づくのが遅かった。無論翡翠もバカではないのでその香り立つ濃厚な匂いを不審に思ったが――誰だ、自分の妹に「グラスに浮かんだ桜の花びらを、最後のひと飲みと一緒に飲みこんだら好きな人と両想いになれる」なんて嘘をつくやつは。
それを信じてしまった翡翠も翡翠だが、その純粋すぎるところがやっぱり翡翠らしくて俺は思わず笑ってしまった。
1杯で致酔量(とでもいうのだろうか)を軽く超えてしまった翡翠は今、自分の行為に責任を感じた(と思いたい)琥珀さんの看護のもとですやすやと眠っている。帰るときまでには起きてもらわないと、帰りの支度がままならない。
それにしても、翡翠に好きな人がいるとは意外だった。どんなやつなんだろう。
俺はそんな状況から一時非難を試みて、その途中でこの桜の木を見つけた。見渡すかぎりここいらで最も大きい。俺はその木の下まで行って、そこから桜を見上げた。
布に包まれたような心地良い感覚に、俺の意識はまどろんだ。
そして、夢を見た。懐かしい夢。子供のころの夢。
どうして今になって。
「兄さん」
うしろのほうで、草を踏み分ける音と秋葉の声が聞こえた。
「ここにいらしたんですね」
「ああ。秋葉は大丈夫なのか?歩いたりして」
「ふふ。私が少量のお酒に屈しないことは兄さんもご存知でしょう?」
あれだけ飲んで少量なのかどうかは疑問にかかる。
「それで、どうしたんだ?」
「いえ、特に。ただ風に当たりたいなと思って。…隣、よろしいですか?」
「ああ」
秋葉はすっと腰をおろすと、俺と同じように大木の幹に寄りかかってその身を委ねた。
「風が気持ちいいですね」
「ああ」
「今日は暖かいですね」
「ああ」
「兄さんは、今日は楽しかったですか?」
「ああ」
「また来年もみんなで来ましょうね」
「ああ」
「兄さん、さっきから同じことばっかり」
「ああ」
「兄さん、私のことお嫌いですか?」
「全然」
俺と秋葉は一緒になってクスクスと笑った。笑ったあとは、やっぱり風に身を委ねて空を仰いだ。そうするだけで十分だった。
ピィィィィヒョロロロロロロ……。
頭の上のどこかから笛鳴りの声が降ってくる。
とんびだ。行きしなに見たのと同じのかもしれない。翼をじっと広げたまま、この世の自由のすべてを手に入れたかのように旋回するようすは、まるでよくできた作りもののようだ。
花びらが風に乗って、飛行機雲をなぞっていった。
「ねぇ、兄さん」
目を閉じていたら、秋葉の声が聞こえた。俺はそのまま耳を傾けた。
「桜の花びらがほんのり桃色なのは、桜の木の下には人の死体が眠っていて、その血を桜の木が吸い上げるからなんですよ」
「――」
ああ、その話は聞いたことがある――そう思ったが、俺はあえて言わなかった。もしかしたら秋葉が言っていたのかもしれない。
「だから、桜の花びらが恐いほど綺麗なのは、桜の木の下に眠り続ける人の想いがあるからなんです」
「ふーん、そうなんだ…」
「あら」
俺の反応を見た秋葉が、どこか楽しそうに俺を見てくる。
「やっぱり兄さん、忘れてるんですね。このお話、昔兄さんが私に教えてくれたものなんですよ」
「!」
秋葉の口からは予期もしない言葉が返ってくる。
「…どういうことだ?」
「どういうこともなにも、兄さんが言ったんじゃないですか。そういう文学作品があるんだって」
俺が秋葉に教えた。それなら、俺は誰に教えてもらったというのだろう。小さいころそんな情緒的なことを教えてくれる人間が周りにいただろうか。
なにか、大切なことを忘れている気がする。首筋まで登りつめてきた記憶がつっかえていてやるせない。
「――あ」
夢を、思い出した。
「…秋葉、もう一度言ってくれ。桜が――」
「桜の花びらが恐いほど綺麗なのは――」
すべて、思い出した。
■ □ ■
挨拶のあと、教師が教壇を降りると、教室内は放課後の独特の喧騒に包まれる。
部活へ急ぐ者、友達と帰りにクレープを食べにいこうと相談するもの、今日提出の宿題を必死こいて仕上げようとする者。そんな雰囲気は嫌いではなかったが、俺は逃げるように教室の入り口へと足を運んだ。
「とっおのー!」
途中で、有彦につかまってしまう。このパターンは有彦の単純な思考回路から考えると簡単に予想できる範囲だった。
「行かない」
「ゲーセン行こうぜゲー…ってオイ」
それだけ言って教室を出ようとしたが、有彦にがっちりと腕を掴まれてしまう。
「待てって。親友にそんなあっさりとあしらわれたら、いくら俺でもさすがに傷つくから」
「ふーん」
「そうでなくても俺はデリケートなん」
黙殺して通り過ぎようとする。
「おぉぃ!冗談だって!」
いつもこんな調子で進歩もしないものだから、俺の方が一方的に対処に鋭いのは当たり前だ。会話をするという行為だけで有彦は俺の10倍くらいエネルギーを無駄にしてるんじゃないかと思う。
俺はいたずらっぽく笑ってから言った。
「悪い。今日はちょっと寄るところがあるんだ。また今度にしてくれないか?」
「お、おう。そりゃいいけど、お前がひとりで寄り道なんて珍しいな」
「うん、ちょっとね。そうだ有彦、たまには高田君なんか誘ってみたら?あいついつも一人で帰ってるみたいだしさ。それじゃ」
心底苦いものを食べたあとのような顔の有彦を見送って、俺は教室を出た。
ああ、やっぱりだ――
風が薫った。大きく息を吸いこんで、腹の中をいっぱいに満たす。
公園は彩りにあふれていた。というより、見渡すかぎりの桜の中にすっぽりと公園が入ってしまったようにも見える。空の境界は薄い桃色と果てしなく深い青にはさまれて、そこだけがぼんやりと白く霞んでいる。
コンクリートを避けてわざと畦道を歩いた。ところどころでタンポポが顔を覗かせている。そのうちの時期を少し早まったひとつがそよそよと綿毛を飛ばしていた。
卒業式でも通らないような立派な花道を抜けると、やがて大きな桜の木が見えた。
俺は遠くから耳を澄まして目を閉じた。
ザァァァァ…ザァァァァ……。
波のような規則正しい音が聞こえてくる。
あの木だ。俺はあのざわめき知っている。決して同じではない音はしかし「調べ」の余韻までは失っていない。
ゆっくりと瞼を開く。
視界の隅でなにかがさらりと揺れた。
木をはさんでちょうどむこう側から、誰かの影が薄く伸びていた。その先は広場になっていて、砂場では小学生くらいの男の子と女の子が砂山を作っているのが見える。
「きみは、行かないの?」
木の影に呼びかけてみた。
「うん」
「どうして?」
「わたし、お花見にきてるの」
懐かしい声が聞こえる。
「桜を見てるの」
「そういえば俺も、桜を見に来たんだった」
「7年間も遅刻しておいて?」
「ちょっと、遅れたかな」
「ちょっとじゃないよ。7年も、だよ」
女の子は笑った。
「おかえりなさい。志貴くん」
「ただいま。遅くなってごめん、弓塚、いや――――『さつきちゃん』」
俺は、女の子にはじめて出会い、そして最期を見送ったこの場所で、いつまでも桜を見上げた。
桜は穏やかな春風に吹かれてひらひらと舞い散っていた。
明日は休日だから、一日中ずっとここで「一番綺麗な桜」を見ていよう。
/END