■ こみっく月姫 / 阿羅本
風ががたがたと窓枠を揺する。
吹き付ける風によってビィィ、と震えるように硝子が鳴ったかと思うと、風の向きが変わって嵐の音はほんの少し静かになる。
でも、それもつかの間。
風向きはすぐに気まぐれに変わり、また激しく窓を叩き出す。
庭の木立の立てる嵐の音は、騒がしく恐ろしい。
雨の混じった風がざぁぁぁ、と木立を荒々しく撫で、それにたわんだ枝がザザザザザ、と大きな音を立てて葉々を盛大に鳴らす。
ビィィ、ガタガタガタガタ
ひゅぅおおー、ざざざざ、ざざざざざざッ
こうやって音だけを聞いていると、まるで嵐の中の舟に閉じこめられたような感じもする。ただ、波が船体を洗う音や、揺れる舟の中で調度品が立てる騒音もない。どちらかというと、揺れることのない海原の中に独り取り残されたような―――
……やめた。こんな事考えてもどうにでもなるものではない。
俺はベッドの上で転がって、窓の外を眺めるのを止める。
書斎から持ち出した小説を取り上げると、しおりを抜いてページに目を向ける。
親父――だった先代の遠野槙久の書斎に入るのはあまり心地の良い行為ではない。
あの部屋の中には遠野という家の闇が文字の形を取って残っている事があり、時折その名残を手にすると何とも言えない嫌な気分になる。
それでも、この屋敷の中で暇を潰そうと思うと、あの書斎の中の本に頼ることが多い。
秋葉の部屋にもかなりの数の蔵書があるが、秋葉の目をかいくぐって本を持ち出すのはあまり楽なことじゃない。
テレビがあるのは琥珀さんの部屋だけど、夜遅くに琥珀さんの部屋にいるわけにも行かないから、こうやって書斎から持ち出して来た本で、眠気が出てくるまで活字を目で追うことにしている。
有間の家にいた頃は、眠れないときには深夜にテレビに見入っていたな。
都古ちゃんが一緒に見ようとしていたけど、啓子さんがいつも都古ちゃんを早く寝かしつけようとしていたっけ。
ざざざざざ、ざざざざぁぁぁ、ずざざざざざ
びゅうぉぉぉーびゅうぉー
野分の風は止まない。
この風と雨を運んでくる台風は、日本をかすって南の太平洋に向かって突っ込んでいく――という話だった。
大きな災害にはならないかも知れないが、それでもこうやって激しい雨と風を叩きつけられると、自分の中の古い動物の記憶が蘇り、知らず恐怖に震えるような気がする。
……気が散るな。
俺は小説の途中から物語に入り込んでいこうとしていたけども、この狂おしい風音に邪魔される。
仕方ない。
俺はしおりをまた小説に挟むと、ぽん、と皮装幀の厚い本をサイドテーブルに置く。こいつは、明日以降に役になって貰うことにしよう。
とりあえず――下に行って何か飲んでこよう。
もしかしたら、琥珀さんがキッチンにいるかも知れない。そうすれば、この嵐の中でも少しは気晴らしにもなるかも。
俺はベッドから立ち上がり、室内履きに足を入れる。ちょっと足下の感じを確かめてから、部屋を横切って無造作に扉を開けると――
「―――っ!兄さん!」
……秋葉がそこにはいた。びっくりした顔でこっちを見ている。
俺も、そこに秋葉がいるとは思わなかった――夜も遅くに、琥珀さんや翡翠の前触れ無しに秋葉が俺の部屋にやってくることなんか、絶えてなかったことだ。
珍しいことがあるもんだな。
「秋葉、こんな夜に……どうした?」
俺がどんな顔をして秋葉に話しかけているのかは自信は無かったが、そんな俺に向けられている秋葉の顔は、すこし赤面して足下に視線が漂う。
こんな夜中に俺の所を尋ねて来るんだから、いつも朝のように機嫌が悪かったり取り付きようのない態度でないのは当然だろう。こんな嵐の中で、がみがみ怒られるというのは堪った物ではない。
秋葉はもじもじしながら俺に話しかけてくる。
「その……兄さん、もうお休みでした?」
「いや、まだ起きているけど。そう言うお前こそ一体?」
秋葉は相変わらず、顎を引いて恥ずかしそうに俯いている。
……ははぁ?
いつもは強がって見せる秋葉でも、やっぱりしおらしいところがあるんだな。きっと、こんなに風が強く窓を揺する夜に、独りで寝るのが怖くなって来たのか。やはり、年頃の娘はこーじゃなきゃ駄目だよな、うん。
それで「兄さんと一緒にいたいんです……駄目ですか?」とか男心をそそる科白を口にして、一緒に枕を抱きながらぬくもりを分け合ってベッドで同衾すると――
悪くない、うん、悪くないぞ秋葉!
いや、むしろお兄ちゃんは嬉しい!
……俺は、何か悪い物の読み過ぎか?
「その、兄さん……」
勝手に妄想で燃え上がる俺の前で、秋葉はほんの少し唇を噛んだように見える。
そうだよな、うん、俺と同衾して一緒に朝まで、なんて言い出すには勇気がいるだろうからね、やはり秋葉も女の子だったのか――くぅー、感動!
そして、両手をぎゅっと握りしめると、秋葉は意を決したように――
「兄さん……」
「うんうん、なんだい秋葉?」
「……漫画の神様が、降りてこないんです」
……へ?
秋葉?何を言っている?
漫画の神様が降りてこない?漫画の神様というのは、手塚治虫の事か?
でも、漫画の神様にしても手塚治虫にしても、それは風逆巻く嵐の真夜中に『降りてくる』ものじゃないと思うぞ。
なんで秋葉がそんなことを言い出す?
わからない――
「――あ、秋葉?一体何を?」
「ですから、漫画の神様が降りてこないんです。インスピレーションが湧かないんです、兄さん……明日までにコピー誌の二十八頁の原稿を仕上げなきゃいけないのに、半分もできてないんです!」
目の前では秋葉がぶるぶる震えながらそんな、訳の分からない事を呟いている。
よく見ると、秋葉には焦燥の色が濃い。頬が僅かにそそけて見えるし、目も充血している。それに、袖には細切れの紙みたいなもののクズがくっついている。
それに、何よりも秋葉の姿に――鬼気迫るものがある。
秋葉が檻髪を開放したときの、空気が凍るようなあの戦慄ではなく、緊張のあまり自壊しかねない危うさにも似たもの。今の秋葉には、気軽に触れることすらも拒まれる何かが、ある。
いや、そんなことはさておき。
……一体何が秋葉に起こっているんだ?
「秋葉、えーっと、その……何?」
思わず言い淀む俺の前で、秋葉はむーっと俺の顔を見る。
うん、こういうときの秋葉は可愛いが――
「だから、コピー誌の原稿が出来上がっていないんです。それぐらい分かりませんか、兄さん……同人誌の原稿が出来上がらないんですよ!」
にわかに感情を宿した秋葉の声の語尾が震える。
――って、秋葉が?同人誌?
……同人誌というのは、あれか、漫研が学園祭の時に売っている奴だよな、うん。あれは同人誌だという話はアキラちゃんからも聞いた。
この手のことに詳しいアキラちゃんによると、どうも今「同人誌」と言えばもの凄くて、あの電気と電脳の町アキハバラをも占領しているとか。
「兄さん?もしかして、兄さんは同人誌もご存じではないのですか?」
「いや、あれだろ?アマチュアが書く漫画とかのことだろ……え?秋葉、おまえ漫画なんか書いていたのか!?」
秋葉は俺のことを、ぎょっとしたような目でしばらく見たかと思うと、すぐに――いつもの澄ました秋葉の顔に戻る。
一方俺は、この話の流れを全く掴めていないので狼狽するばかりだった。多分、間抜けな顔で突っ立っているんだろうな――
そんな俺を前に澄ました秋葉が尋ねてくる。
「兄さん……もしかして、私が同人作家だととご存じなかったのですか?」
ぶんぶん。俺は頭を横に振る。
「……前に兄さんが部屋にいらっしゃった時に、私が片づけていたのはトレス台と原稿だったんですけども……まさか、あれでも気がついてらっしゃらないと?」
「いいや、全然」
「ADF付きコピー機があったり、書斎に印刷会社のダンボールが積んであっても?」
「……いや」
「琥珀の扱っている郵便が、通販の封筒だともご存じ無かったので?」
「だって、俺そこまでチェックしていないから」
秋葉は、俺を呆れたような瞳で見つめる。
……視線が痛い。というか、俺が何か悪いことをしたのか、秋葉?
「ふぅ、兄さんは全く世間のことをご存じ無い様子ね。わかりました、じゃぁ最後に質問させていただきます――明日は、何の日かご存じですか?」
俺は、部屋の中のカレンダーに急いで目をやる。
――わからない。
八月の中旬。夏休みの真ん中で何かの記念日ではない。敢えて言えば――
「お盆?」
秋葉は、俺の前ではぁぁぁぁぁぁーっ、とこれ見よがしに溜息をついてみせる。それも、腰に手を当て頭をふり、眉間をしかめて。
世間ではこれは人を馬鹿にするポーズと言うだろう――だが、なんで馬鹿にされなければ行けないのか分からない。
すぅ、と秋葉は息を吸い込むと――
「兄さん!明日はコミックマーケットです!
年に二度、有明の国際展示場での同人最大の晴舞台なんですっ!
こっちの世界の言い方で言えば『コミケ』なんですよ!それくらい遠野家では基本常識じゃないですか……兄さんもしっかりしてください……」
怒鳴られ、罵られ、おまけに哀れまれる俺。
……可哀想な俺。
今まで秋葉には色々怒鳴られたり馬鹿にされたりもしたが、こういう不条理な怒りを叩き付けられるのは初めてだった。
とりあえず、俺は俺なりに混乱しながらも状況をまとめようとする。
「えー、アレだ。明日はコミケとやらで、秋葉は……参加するのか?」
「もちろんサークル『とおのや』として参加いたします。ですが、今回は不調で残念ながらオフセット誌を落としてしまったのです……」
秋葉はそう言うとがっくり肩を落とす。しかし、すぐにそんなしょんぼりした素振りを止めて、話を続ける。
「でも、遠野の誇りとして必ずイベントには新刊を出さねばなりません。その為のコピー誌なのです、兄さん……でも、漫画の神様が降りてきてくれないんです」
……どうも、秋葉にとってはこの漫画の神様というのが重要らしい。
想像するに、秋葉はそういう創作意欲に駆り立てられないと漫画が書けないので、いわばスランプになって俺の所にやってきた、と言うことか。
ここは、秋葉を慰めてなんとかやる気にさせないと、頼れる兄としての名折れというもの。
「なぁ、秋葉……そんなに落ち込むな。俺で手伝えればなんでも」
「――本当ですか?兄さん」
秋葉の表情がすっと明るくなる。
俺が助けてやると言うと、秋葉はとたんに元気を取り戻す――だが、様子が変だ。
秋葉は、うっすらと笑っている。喜んで笑っているのではなく、優越感を感じているような冷たい笑い。一言で言うと――怪しい。
俺の中で、どくん、と心臓が脈打つ。
汗がじわっと脇の下に滲むと、俺は一つのことに思い当たる。
――俺は、秋葉の漫画を見たこと無いぞ。
「ふふふ、兄さん、今『俺に手伝えれば何でも』と仰いましたね……」
秋葉は笑いながら俺の方に近寄ってくる。
外は嵐。びゅうびゅうと唸る風が館を包む。
目の前の秋葉が凍る笑いを浮かべる。怖い、秋葉が何を考えているかということがさっぱり見当がつかない。
バサリ、と紅い髪が舞う――
ちょっと待て。
――秋葉、おまえ今、髪が紅いぞ!
「あ、き、は……おまえ……」
「ふふふ、兄さんは本当に世間知らずでいらっしゃいますね……でも、そんな兄さんだからいいんですよ……きっと、漫画の神様への良い捧げ物になられますわ……」
な、何?なにを不穏なことを口走る、秋葉!
秋葉の手がす、と伸びて俺の襟に指を絡める。
俺は、枯れた喉を絞って唇と動かす――
「秋葉、一つだけ聞かせてくれ――」
「え、兄さん。何なりと」
「お前、どういう漫画を書いているんだ?」
秋葉の目は、笑いながらも細くなっていく。
……怖い、洒落にならないぐらい怖い。
「……ご存じになりたいのですか?」
こくこく。俺は首を縦にして頷く。
「ふふふ、良いです。教えて差し上げます。
世間ではやおいなどとも言われますが……ボーイズラブです」
「――それは、つまり――」
「ええ、兄さん。有り体に言えば男同士の恋愛物ですわ」
ズザザザザザザッ!
俺はそのまま後ろに身を引いて逃げようかと思ったが、それは叶わなかった。秋葉は俺が身を翻すよりも早く俺の懐に掛け寄り、そのまま襟と袖を掴んで身を寄せ、股の間から足を払う
――見事な小内刈り
どすっ、とベッドに仰向けに叩き付けられる。
下が床じゃなくて助かった――と思うのもつかの間、俺の上に秋葉が馬乗りになっている。
ああっ、これは格闘用語で言うところのマウントポジション!じゃなくって!
「ふふふふ、兄さん、分かりますか?今、まさに神様がやって来ましたよ!
兄さんという捧げ物を、漫画の神様は喜んでらっしゃるんです……今の兄さんのその脅えた顔が、私の中のヲトメ心をくすぐるんです……」
秋葉は俺の上に被さると、そんな訳の分からないことをしゃべり続ける。
俺は必死に身を捩らせて逃げようとすると、秋葉は俺のヘソの上に体重を下ろして動きを封じる。
秋葉の目をちら、と下から見上げると――紅い狂気が宿っていた。
――わからない。じゃなくって!
ああっ、お、俺はこのまま漫画の神様とやらに生け贄にされてしまうのかっ、そんなのはイヤすぎるぞ!おまけに他人の漫画のためにひどい目に遭うなんてっ!
「秋葉っ!待てっ!お前何考えているっ!」
「兄さん……兄さんは『受けキャラ』なんです。
こうやっていつも押し倒されるんです、兄さんは……さんざん嫌がるんですけども、結局は肉欲に負けて為すがままにされてしまうんですよ……」
妄言を口にしながら、紅い顔に熱い瞳の秋葉の指が俺のシャツからボタンを外していく。唾液に濡れた秋葉の唇が艶めかしい。
女の子に迫られてこうやって押し倒される、それも相手は美少女の秋葉。
普段だったら望んだり適ったりのシュチュエーションだが、あまりにも怪しすぎる言動の秋葉にやられたって嬉しくとも何ともない、というか――
秋葉の指は俺の胸板をなで回し、そのまま腹筋を伝って下に――
かっ、勘弁してくれっ、犯されるぅッ!
「はぁぁ、兄さんの胸板、素敵……ああ、来てますわ、漫画の神様がぁぁ!!」
「は、は、は、はうあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ごすっ!
目の前から秋葉の顔が消える。
というか、秋葉の顔に黒いバックがぶち当たり、秋葉と一緒に視界の片隅に吹っ飛んでいった。
「妹……あんた一体、誰の許しを得て志貴を押し倒しているのよ」
頭の上の方で声がする。今ベッドに俺が倒れているから、頭の上というと……窓から誰か入って来たのか?
そのまま首をのけぞらして、後ろを仰向けのまま見ると一八〇度ひっくり返った光景の中に――
開け放たれた窓の中で、カーテンがぶわさぶわさと舞っている。
それを背に、金髪も美しい白いアルクェイドが俺の視界の中でひっくり返っていた。
そのポーズたるや秋葉に向かってものを投げ付けたフォロースルーの姿勢だったが、すぐに背を伸ばしてベッドの上の俺を眺めている。
「あははは、志貴、ひどい目にあったねぇ」
いつも窓から入ってくるこの闖入者のアルクェイド。だが、今日だけは「よくぞ窓から来た!」と泣きながらすがりついて褒めてやりたい心地になっていた。
急いで身を起こそうとすると、俺の上から吹っ飛んでいった秋葉の惨状が目に入る。
秋葉は髪の色も黒に戻ったが、その代償として床の上に大の字になって転がっていた。それも顔から胸の当たりに掛けて雨に濡れたボストンバックの直撃を喰らい、下敷きになっている。
いつもならアルクェイドの無茶を叱りつけるところであるが、こう、今だけは思う――
秋葉。自業自得だ。
「た、助かったよ、アルクェイド……」
「ふぅん、妹に押し倒されてたの……もしかして、志貴が誘った?」
入ってきた窓をアルクェイドは閉めながら、そんな剣呑なことをこいつは口にする。部屋の中には吹き込んだ雨や木の葉などが散らばっている
――ああ、明日翡翠に迷惑を掛けるな。
こんな嵐の中をやって来たのに、アルクェイドは雨に濡れた素振りもない。まぁ、こいつは超越した存在なんだ、きっと嵐の中を突き進んでも平気の平左なんだろうな。
俺は、アルクェイドに目をやった。表面上はにこにこしていているが、こいつがその実どんな風に考えているかを外見から知ることは難しい。その上に結構、嫉妬深かったりもする――シエル先輩や秋葉が絡むと特に。
とりあえず、今夜の俺は後ろ暗いことのない潔白の身だ。
「いや、秋葉に襲われた」
「……へぇ、妹がねぇ……何で?」
「俺を漫画の神様の生け贄にするとかなんとか」
はぁ?とアルクェイドは首を傾げる。
無理もない、何しろ俺もその漫画の神様と言う物が分からないんだからな。
アルクェイドはうーん、とく唸った後――
「妹って何かの古代信仰に目覚めたの?ドルイド教とかキュベレイの儀式とか?」
「馬鹿言え。俺だってわからない……どっちかというと、ストレスが掛かりすぎて錯乱したと言う方が正しい……と思う」
そうだろう。普段の秋葉ならあんな事するはずがない。きっと、漫画のことで色々心理的に追いつめられてあんな行動に走ったのだろう。そう思うと哀れな気もしないでもない。
で、問題は――
「アルクェイド。お前、今日はなんの用だ?」
それも窓から。まぁ、こいつが玄関から入ってきたことの方が少ないからな――オレの部屋の窓は、事実上こいつの通用口だ。
アルクェイドはむ、と腹を立てて俺を睨む。
「志貴、また約束忘れてるー!」
「え?約束――」
「今日の夜、私のマンションに来るって約束。
嵐だから志貴は来られなかったかもしれなかったけど、それでも連絡の一本も入れて欲しいって思うの、うん」
……そんな約束をしていたか?
俺は一瞬不安になる。
まぁ、でも目の前のアルクェイドは思ったほどには機嫌を損ねてはない。その代わり、こいつの約束をすっぽかすと――
「だから、来ちゃった。そうしたら志貴が妹に押し倒されてるんだもんね。
感謝の一つもされても良いと思うの、うん、そう思わない?志貴?」
――こうなる。
だが、今日だけはそんな直情径行なアルクェイドに感謝だ。
「すまない、アルクェイド……忘れてた。謝るよ」
「ん?いいのいいの、怒ってないから」
アルクェイドはすたすたと秋葉の元に近寄ると、中身の詰まったバッグをひょいと持ち上げる。
バッグは革のボストンバッグで、二泊三日の旅行の荷物ぐらいは入りそうなもの。
どこかのブランドもののバックかと思ったが、よく見るとデパートで安売りトレイに並んでいる五〇%オフとかで売っている、安っぽい合皮のバックだった。どうも、こいつはこういうところには異常にこだわりがない。
いや、こだわりだしたらこいつ、すごい美人だからきっと俺は気後れを感じるに違いないんだけど。
「もしかして、志貴……前に話してたこと、覚えてる?」
そうアルクェイドの言われて、俺はしばらく唸って記憶の中から手がかりを見つけだそうとする。ここ数日は夏休みで、アルクェイドやシエル先輩とはちょくちょく会っていたな。
……そうだ、一週間ぐらい前だったな。
「えーっと、ダンスパーティーとかがあるとかなんとか」
「おお、今度はちゃんと覚えていたわね。えらいえらい……で、その前に衣装合わせをしたいなー、と思っていたの」
アルクェイドはすこし頬を赤らめる。
「志貴にエスコートして貰おうと思ったけど、その手の事は志貴はよく知らないみたいだし……ま、私も知識だけなんだけどね。
それに……誰よりも先に、私のドレス姿を見て欲しかったから」
おおお――男心をくすぐるを言ってくれるじゃないか、こいつはまた。
バッグをぽんぽん、と叩いてはにかむアルクェイドの姿を見ると、この心遣いに心の琴線が震えてそのまま抱きしめてしまいたくなる。
俺はアルクェイドの腰に手を伸ばそうと思ったが――気になることがある。
「アルクェイド。聞いて良いか?」
「え?なになに?」
「そのパーティーって……何日だ?」
俺の問いに、すこし小首を傾げて答えるアルクェイド。
「え?明日だよ。
場所は有明の国際展示場……とか。志貴、もしかして知ってる?」
……待て。
その日程と場所はどこかで聞いたことがある。というか、それはまるっきり秋葉の言っていたイベントと同じじゃないか。
「おまえ……その、もしかしてそれは……」
「えーっと、コミックマーケットとかなんとか。
あんまりパーティーらしくない名前よねー。なにしろたくさんの人が集まって、仮面舞踏会みたいなことをするって聞いてたんだけど……志貴、どうしたの?顔色が悪いけど」
そう、コミックマーケット。秋葉の言うところの『年に二度の晴舞台』。
俺の中で、ある知識が蘇る――この手の事に詳しいアキラちゃんから何気なく聞いて、そのまま忘れていた知識が。
同人には付き物だという、あの習慣のことをアルクェイドは誤解しているんだ。というか、こいつにそのことを『解れ』というのは酷だ。
だって、俺だって知らなかったんだから。
……そうだ、そういうことか。
俺は背筋を伸ばし、言葉を選んで話し出す。
「アルクェイド、それは……舞踏会やパーティとかじゃない。
そのイベントはアマチュアの漫画を売り買いする即売会だ……で、お前の言っているのは、多分『コスプレ』の事だ」
アルクェイドの首か、くくくく、と横に傾く。
この用語に思い当たるものを彼女の記憶の中でさぐっているようだったが、眉間の皺からすると――やっぱり解っていないんだろう。
こすぷれ?とアルクェイドの唇が動くのを見て、俺は頷く。
「そう、アニメや漫画やゲームのキャラクターの仮装をしてポーズをつけたり写真を撮ったりする行事だ……と聞いている」
「んー、それって、カーニヴァルとかハロウィンみたいなものなの?」
……正解ではないが、間違いでも無いような気がする。というか、コスプレというのもアキラちゃんの話だけでしか知らないし、かといってアルクェイドが言う行事も見たことがないから――
「まぁ、そんなものだろうな」
「ふーん……だったらフォーマルなドレスは似合わないのかなぁ?」
どうだろうか?自信はないけども、喩えなんであれ一回ドレス姿のアルクェイドというのも見てみたい気がする――そう思うと、俺は軽く頭を振ってアルクェイドに答える。
「わからない。でも、アルクェイドなら何でも似合うと思う」
「……へへへへ、ありがとね、志貴」
アルクェイドは頬を崩すと、俺の方にすすすと歩み寄ってきて俺の胸にぽん、と頭を預ける。
ふわり、と甘い香りがする。そのまま、俺は手を肩に回して顔を近づけようと――
――コンコン
ちぇ、こんないい雰囲気なのに。
「夜分遅く申し訳有りません、志貴さま。よろしいですか?」
琥珀さんの声だ。ああ、いいよ――と答えかけたが、すぐにその声を喉で押し殺す。
そうだ、今ここにはアルクェイドと秋葉が居る。アルクェイドは俺と抱き合う寸前の格好だし、秋葉に至っては床で昏倒中だ。
まずい、これはどう言い訳しても――
「あの、志貴さま?こちらに秋葉さまはいらっしゃってませんか?」
……う、見通されているのか、琥珀さん?
「ね、志貴……ちょっと外に出てよっか?」
小声で囁くようにアルクェイドが言う。
それがいい、その間にも取りあえず転がっている秋葉をなんとかしないと。
俺が琥珀さんに答えようとしたその時、ドアの向こうからの声で俺の言葉を出鼻をくじかれた。
「はぁー、志貴さま。そちらにアルクェイドさんもいらっしゃるんですね?」
……な、なんでわかる?
俺の胸に頭を預けていたアルクェイドも、琥珀さんの言葉を聞いて小さく舌打ちする。そして、俺から離れて窓辺に向かうが――
「いえいえ、私のことはお気になさらなくても構いませんよー。何しろ今は修羅場ですから」
「あ、その、琥珀さん……」
琥珀さんはそんなことを言いながら、ガチャリ、と扉を開いて俺の部屋の中に入ってくる。いつもの和服に割烹着の姿で、俺とアルクェイドの姿を見ると軽く一礼する。
そして、視線はすぐに俺達二人から離れ、床の上の秋葉に――
「あっ、やっぱりこんなところで仮眠している!もう、ダメですよ秋葉さま!」
……琥珀さんは、窓からアルクェイドが来たことを何とも思っていないようだ。
ほっと胸をなで下ろしたかったが、今の秋葉の状態を「仮眠している」と言い切る琥珀さんにも尋常ならざるものがある。
俺とアルクェイドは、琥珀さんの挙動を図らずも無言で見守る。
琥珀さんは床の上に転がっている秋葉の背を起こすと、ぺちぺちと頬を叩いて目を覚まさせる。
「起きてください、秋葉さま。まだ原稿終わってませんよー」
「……琥珀?ん……私、眠ってたの?」
「ええ、お手洗いに行くとおっしゃって、まさか志貴さまのお部屋で仮眠されているとは知りませんでした」
そう言われて秋葉は、にわかに人数が多くなった俺の部屋の中を見回す。
琥珀さん、俺、アルクェイドという順に視線を移す。そんな怪訝そうな顔の秋葉にアルクェイドは、不敵に笑って手を振ってみせる。
秋葉の眉がぴくりと動くが、そのまま黙り込んでしまった。まぁ、あの現場を見られたからな――
「そう、まだ作業が残っていたわね……琥珀、行きましょう」
立ち上がって扉に向かって歩いていく秋葉の足取りはよろよろと頼りない。
よほど無茶してるんだな。あの調子で徹夜で漫画を描いていたら、体に悪いぞ――と思ったけども、言うだけ秋葉にはお節介か。
琥珀さんは秋葉の背中を押して俺の部屋から出すと、くるりと振り返る。
「志貴さま、アルクェイドさん。こちらのお部屋にいらっしゃいませんか?」
「え?こちらって……下の応接間か?」
「いえいえ、秋葉さまのお部屋です。
今は少しでも人手が欲しいところでして……それに、お客様もいらっしゃっていますし」
琥珀さんはそう言って、俺たちににっこり笑いかける。
……今の琥珀さんは何を考えているか分からないけども、こんな夜中に誰かが来ているのだということだし、まぁ、お呼ばれすることにしよう。
アルクェイドに目を向けると――
「んー……志貴が行きたいんならいいよ。でも、後で付き合ってね」
柔らかく微笑むアルクェイド。
俺はアルクェイドの柔らかい金髪の頭をくしゃくしゃと撫でると、琥珀さんの後を追った。
……………………
………………
…………
……
秋葉の扉をノックし、中から何人かの応える声を聞いて、俺は扉を開ける。
「よ、秋葉……夜中に失礼するぞ」
「あら、兄さん……?」
奥のテーブルに積まれた画材の山の中の秋葉がそう答える。
横に翡翠がメイド服のままテーブルに着いて、何かを描いている。翡翠は俺の方を見て、立ち上がってお辞儀をする。
琥珀さんはいない。キッチンだろうか?
で、その代わりに――
「……遠野くん、なんでそこにその不浄者がいるんですか!?」
「アンタこそ、ここでなにしてんてるのよ」
……うわ、最悪の組み合わせ。
俺の前にいるのは、何故か制服姿のシエル先輩。手にはコンビニの袋をぶら下げている。あの、突き刺さるような鋭い視線で俺を――というか、俺の後ろのアルクェイドを睨んでいる。
ちら、と肩越しに見るとアルクェイドも俺越しにシエル先輩をにらみ返している。おまけに、殺気すら帯びかねない様子。
「どうも、私が甘すぎたみたいですね。この泥棒猫は遠野くんのお情けを理解できてないばかりか、つけあがってつきまとって……」
「ふぅん、貴女……妬いているのね。ま、身体でしか志貴を繋ぎ止められない、凡俗の悲しさってやつね。でも、それももう保たないわよ」
ああああっ!二人とも勝手に売り言葉に買い言葉でエスカレーションするなっ!
というか、俺を挟んで喧嘩をするな……この位置だと、真っ先に俺が半死半生の大怪我をするっ!
それに、今の科白は秋葉が聞けば、俺の死傷率は一気に倍――
でも、秋葉は原稿に夢中らしくこっちを向いていない。ほっ……
「……なんですって?もう一回おっしゃいな、この出来損ないの化妖!」
「あははは、怒ってるわね、シエル。そういう余裕がない女は、志貴はきっと好きにならないはずよ。ね、志貴?」
まずい。この二人が本気で喧嘩をすると、産廃処分トラックが必要になるほど物を壊すし、地図を改訂しなければいけないほどの被害も出る。
というか、まず、俺の命がピンチなんだ!
「や、止めろ、二人ともここでは……」
「安心して下さい、遠野くん。外でこの不浄者をこてんぱんに叩きのめして見せますから」
「アンタこそべそ掻いて逃げ出さないことね」
……うわぁぁ、分かっちゃいないし!
「はーい、アルクェイドさんもシエルさんも、そこまでですよー」
救いの女神は後ろから現れた。アルクェイドの後ろから割って入るようにして、琥珀さんがトレイを抱えてやってくる。
琥珀さんの言葉に割ってこられた二人の緊張が不意に和らぐのを感じて、俺は胸を撫で下ろす。
「お二方ともこんな夜分にいらっしゃったんですものー、喧嘩されても困ります。せっかくだから、仲良くなさって下さいね」
琥珀さんの妙な気迫に押されて、二人はしゅん、と大人しくなる。ユダヤ人とパレスチナ人に愛と融和を説くよりも難しいことを二人に言いつけ、それに従わせてしまう琥珀さん――さすがに、常日頃秋葉の側にいるだけのことはある。
「……ま、泥棒猫はともかく、遠野くんと琥珀さんの顔を立てて、そこの超自然の存在は今日だけは大目に見ることにします」
「む、腹たつなぁ……」
不承不承といった風情のシエル先輩と、調子が出ない様子のアルクェイド。
まぁ、絶好調で仲の険悪な二人よりは、今の方がどれだけ心安らかなことか。
しかし――なんで先輩がこんな夜中?
そんな俺の疑問を察したのか、先輩が俺に近寄るとコンビニの袋を手渡してくる。
「はい、これは秋葉さんの陣中見舞いです」
「ああ、ご丁寧にどうも……」
俺は受け取った袋の中を覗くと――
カレーパン、カレーまん、ドライカレー、インスタントのカレーうどん、レトルトカレーとパックご飯、カレースナック、とにかくカレーetc.
中を覗いているだけで汗が出てくるようなカレーづくしだった。いかにも先輩らしいけど――
「先輩、これは?」
「もちろん差し入れです。漫画家の陣中見舞いは、スナックやジャンクフードとペットボトルの清涼飲料水と相場が決まっていますから」
そう言って先輩は、もう一つの袋を俺に渡す。
こっちは重量があり、中には数本のリッターサイズのペットボトルが入っている。
先輩は、漫画家の陣中見舞いとか言ったよな。
じゃ、先輩は秋葉のことを――
「先輩、もしかして……秋葉の事を知ってた?」
「ええ、かなり前に。だって、私はイベントの会場スタッフもやってますから」
さらり、と口にする先輩にああ、そう――と何気なく答えそうになって、俺は急いで注意を戻す。俺の驚き様を面白がっているかのように両手の指を絡めて、先輩は話を続ける。
――くそ、今日は驚かされてばかりだ。
「先輩、なんでまた――」
「知りませんか?MANGA、ANIME、OTAKU、HENTAI、DOJINは世界の標準語ですよ。
私が向こうにいる頃から、即売会とかのこの世界のことを知っていましたから」
先輩の衝撃の告白。
でも、俺の受ける衝撃の内容はもっぱら、シエル先輩の動機よりも国辱ものの用語の国際輸出――
「驚きましたよ、だって『とおのや』の主宰があの秋葉さんだったなんて。だって、あの大手創作ハードコア……」
「そこっ!よけいな事言わないっ!」
ぱこん、とシエル先輩の頭に紙屑が命中する。
ナイスコントロール、秋葉。
だが、相手の攻撃力をよく考えた上でやった方が良いと思うぞ、それは。
シエル先輩はそんなちょっかいも気にせず、にっこり笑って秋葉を振り返る。
「ま、すぐに遠野くんもわかりますから。
で、遠野くん、この不浄者は一体?」
「……明日、コミケに来るとか。コスプレしに」
シエル先輩は俺の後ろでぶーたれているアルクェイドの方に来ると、上から下までじろじろ見回す。そして、頬を緩ませて皮肉そうに笑うと――
「ははぁ、わかりました。負け犬のコスプレをするんですね」
「にゃにおう!あたしは犬じゃないやい!」
「じゃ、負け猫ですね。
うふふふ、お似合いですよアルクェイドさん、どうせなら首から『私は戦友を見捨てた敗北主義者です』とかプラカードを下げるのはどうですか?」
……どうも、この二人はいがみ合わないと満足てきない体質なのか。
俺はコンビニの袋を床に降ろすと、アルクェイドとシエル先輩の間に入って引き離しにつとめる。
「まぁ、明日は年に二度の晴舞台ですからね、不浄者が一人二人紛れ込んでも大目に見て上げましょう……もっとも、明日の相手は飛び入りの貴女じゃありませんし」
「シエル先輩……また、なにかと戦っているんですか?」
俺は戸口に立ったままのアルクェイドを部屋の中に押し込みながら、そう尋ねた。先輩はそうです、と表情を曇らせて頷く。
「ええ、敵は強大です。
たとえば666人の参加者で同人シンジゲートを結成して、非常出口前で堂々と仕分とトレードを行う『ネロ・カオス』や、つぶしてもつぶしてもダミーサークルで会場に紛れ込む『アカシャの蛇』、それに悪質カメラ小僧の『シキ』とか」
……なんか、どっかで聞いたことがある奴らばっかりだな。
「そんな異端者から世界とイベントを守るために、我が埋葬機関は準備会に協力しているんです。
あ、それにこの制服は当日のカモフラージュなんですよ、流石にあの修道衣で徘徊する訳には行きませんから」
そう、最後に先輩は付け加える。
俺はあの、恐るべき敵達がそのコミケとやらに参加している光景を想像しようとしたが――あいにく出来なかった。
いや、そんな想像は戯れにもするべきじゃない。それに、もし現実にその光景に遭遇したときが怖すぎる。
ふと気がつくと、シエル先輩は、俺のことをじっと見つめている。
やおら先輩は、俺の手を握ると胸元に引き寄せ、熱のこもった瞳で――
「遠野くん!明日は私と一緒に準備会に協力してください!」
「へ?」
「遠野くんの力なら、きっとあの異端者どもにも対抗できます。だから、こんなあーぱーはうっちゃっておいて……ぐっ!」
バコン!
藪から棒になにを――と言いかけたところで、またシエル先輩の頭に飛んできた物体が命中する。今度は、中身が入った烏龍茶のペットボトル。
アルクェイド、お前は咄嗟に滅茶苦茶なものを投げるな……
「こーのー小娘が抜け駆けしてっ!志貴は明日、わたしをエスコートする約束なんだからっ」
「なんですってー、この、負け猫風情が思い上がった……」
……やれやれ。
俺は軽く溜息をつくと、この二人から離れて奥の作業テーブルに向かう。この二人は放って置くに限る、今日の調子なら大事にはならないだろう。
奥のテーブルには、奥に秋葉、手前に琥珀さんと翡翠が座って画業にいそしんでいる。テーブルには鉛筆や曲線定規、消しゴム、カッターナイフ、ペンとインク、それにスクリーントーン――というものだろうなあれは――が所狭しと並んでいる。
秋葉が漫画を書くのは分かったが、なんで琥珀さんと翡翠まで?
「秋葉、大丈夫か?」
俺に尋ねられた秋葉が顔を起こす。先ほどと同じく疲労の色が濃い。
秋葉は俺の顔を認めると、軽く伸びをしてから机の上の山から赤黒い液体入りのパックを取り出し、ストローを突き刺して口に含む。
俺の目の前で、秋葉はちゅうちゅうと――輸血用血液を飲んでいる。
本人にとってはスポーツドリンクや栄養剤のつもりなんだろうが、この光景は正直言って恐い。本人が無自覚なだけ余計に。
「ええ、兄さんのご協力でなんとか……いいネタが取れましたから
ふふ、漫画の神様はまだ私に降りてますから」
そういう秋葉には怪しい笑みが浮かんでいる。
こう、徹夜などが重なると起こる、ナチュラルハイの状態なんだろう――やけに機嫌がよく、得体の知れない陽気な気配が漂っている。こう、一歩踏み込むと狂気に陥るような危うさのある高揚。
パックを飲み干しゴミ箱に捨てる秋葉を後目に、必死に作業に耽る琥珀さんと秋葉に目を移す。二人とも少し前屈みになって、ペンや定規を片手に原稿用紙に向かっている。
……秋葉のことも知らなかったけども、この二人のことも知らなかったな。
そんな俺の訝しげな視線に気がついたのか、琥珀さんが顔を上げる。
「志貴さま、どうなさったのですか?」
「いや……二人とも漫画描くんだなって、知らなかったから」
「ええ、私も翡翠ちゃんも、秋葉さまとほとんど一緒に始めましたから。今では立派なアシスタントなんですよー」
肩をぽんぽん、と叩きながら琥珀さんがそう言った。秋葉ほどではないが、琥珀さんや翡翠にも疲労の色は隠しきれない。
……まぁ、ご苦労様、である。
「私がモブや効果担当で、翡翠ちゃんが背景担当ですね。
翡翠ちゃんったら、人の顔描くのが苦手で、キャラ描くとこう、眉が八の字になって悲しそうな顔でずーっと描いているんですから」
そうおかしそうに言ってくすくす笑うと、その声を聞きつけたのか、テーブルの向かい側の翡翠が顔を上げた。
少し機嫌を損ねたような翡翠の眉が見える。
「そう言う姉さんだって、パース通した絵が描けないじゃないですか」
「あらら、翡翠ちゃんに言われちゃいましたね。でも、私たちはお似合いの二人一組のアシスタントなんですよー」
そう言いながらも作業に戻る琥珀さんと翡翠を見ていると、微笑ましいというのかなんというのか。
……しかし、この三人が漫画を描いていたのに、気がつかなかった俺もずいぶん間が抜けていたというか。
俺は仕事中の秋葉と翡翠、琥珀さんを邪魔しちゃいけないな、と思って距離を置こうとすると――
「ねぇ、志貴……ちょっと」
俺の背中がためらっているのか、ちょいちょいとアルクェイドにつつかれる。
こいつの顔は妙に神妙だった――先輩にやり込められてしゅんとしている、と言う訳じゃなさそうな顔。どっちかというとショックを受けているみたいな感じだ。
そんな複雑な表情のアルクェイドが、俺に何かを差し出してくる。
B5ぐらいの本――これが同人誌か?
「シエルに秋葉の本を見せて貰ったんだけど。もしかして、志貴……これ、実話?」
俺は、その本の表紙に目を向けた途端
――のけぞった。
いや、この衝撃は殺したはずのアルクェイドに追いかけられたり、先輩に第七聖典を突きつけられた時に匹敵するだろう。もしかすると、それよりも俺の驚き方は甚大だったかもれない。だって、その、これは――
「……志貴、だよね。で、こっちがあの有彦で」
そう、そこにあったのは、俺の姿だった。
それも、俺の格好は上半身裸で首輪をされていて、その引き綱を握っているのは――うん、これも間違いない。この髪型とファッションは有彦だ。
……って、ええええええええっ!
俺はアルクェイドから本をひったくると、貪るように頁をめくってコマに目を通す。
そこには、やっぱり俺としか思えない登場人物がこれまた有彦としか思えない人物に、その、何というのかこれは――
「志貴……もしかして、ホントは男が好き?」
アルクェイドがもの凄く真剣な顔で尋ねてくる。こいつは時々人間の想像の所為と現実が区別が付かなくなることがあるが、いくらなんだってこれはないだろ、お前。
だって、俺はこんな趣味無いぞ!
そうだ、この漫画のせいだったんだ、秋葉があんな所行に及んだのは――俺を押し倒してあんな妙な事を口走っていたのは、この漫画を書くためだったのか。
俺の頭の中で、ぐるぐると悪い想像が渦巻く。何かを喋ろうにも喉が動かない。
浜に打ち上げられた魚のようにぱくぱく口を動かす俺を見かねたのか、シエル先輩もやってくる。
俺がこの、信じられない代物を抱えているのを見て、きゃ、と頬を赤らめた。
「ああ、これは『とおのや』冬の既刊ですね。やっぱりこれ、モデルは遠野くんですよねー。
あんまりにも迫真の描写だったから思わずまとめ買いしちゃいましたー」
げふっ!なんだ、その、あれか?
これが、世間にもはや出回っていて、俺と有彦が痴態に耽る漫画が、即売会を通して全国津々浦々の婦女子の皆さんに――
くらり、と俺の頭は血の気を失ってよろめく。
ああ、いっそここで気絶してしまった方がどれだけ幸福か……
「志貴?もしかして、私に内緒で学校で有彦とあんなことやこんなことを……」
「するかっ!馬鹿女っ!」
俺は気絶の瀬戸際で踏みとどまり、疑念の中に浮かぶアルクェイドに怒鳴る。もしこのまま卒倒すると、俺が有彦との関係を暴露されたことにショックを受けたかのように誤解されかねない。
そうしてアルクェイドに誤解されれば――俺の身の安全はともかく、有彦の身の上に悲劇が訪れる。なにしろ、アイツは普通の人間。アルクェイドに襲撃されたらひとたまりもない。それはまさにとばっちりという物だ。
俺に怒鳴られたアルクェイドは、俺に詰め寄ってくる。
「本当?信じて良いの?志貴?」
「信じるも何も……なぜ俺と有彦がこんな事しないといけないんだよ」
俺の開いた秋葉の同人誌のページには、俺と有彦のキスシーンが。
それも、熱烈なヤツの。
……をぇぇぇぇ。何故、こう、こんなに直視するのが厳しいモノを拝まされるっ!
後で秋葉をお仕置きして、この作風だけは止めさせないと――
そんな俺の懸念を察したのか、アルクェイドは表情を緩めて尋ねてくる。
「そう、じゃ……好きなのは?」
「それはもちろん……」
俺はついアルクェイドの言葉につられて言い出しそうになったが、すぐに我が身の異変に気が付く。
いつの間にか、アルクェイドが俺の右腕を抱きしめている。
それに対抗するかのように、左からはシエル先輩が左腕を。
これを世間では両手に花というのかもしれない。
でも、それは誤りだ。今の状況を正しくいうと、これは「大岡裁き」と言わないか?
「遠野くん、好きなのはどっちなんですか?」
「ね、志貴。決まってるよね」
……回答次第では、腕は胴体と泣き別れか。
図らずもこの、超絶的な恋のライバルに挟まれた俺の頭の中に、走馬燈のように過去の光景が蘇る。ああ、昨日のように思い出す、あの幼い日々の八月の昼下がりは油照りして暑かったなぁ――
「もちろん秋葉さん、というのは駄目ですよ」
「あのメイドさん二人もね」
俺が思わず遠い目をしている間に、この二人は包囲網を狭めてくる。
部屋の天井の一点を眺める俺。二人の剣呑な声が聞こえる。
「「で、どっちなの?」」
そんなものは、決まってるじゃないか――
「……両方」
グキガキッ!
ぐぇっ!
二人に取られた俺の腕が、両方からすさまじい力が逆向きに掛けられて、両肩の関節と靱帯が悲鳴を上げる。
い、今の回答がベストだったはずなのに……回答ミス?
もしかして好感度が足りなかったのか?フラグがチェックできていなかったのか?――じゃはなくって、ピンチだ、俺!
「ふーん、志貴、二股かけるんだ」
「遠野くんには、やっぱり一回身体で思い知って貰わないといけませんね」
俺は、まるで拉致される宇宙人のように、両脇を抱えられてずるずると引っぱられる。どうも、俺には自由選択の権利はないらしい。ああ、俺は明日まで生きていられるだろうか――
「あら、どちらに行かれるのですか?」
強制連行中の俺の背中に、のんびりとした琥珀さんの声が掛かる。
「ちょっと、明日の打ち合わせに」
「んー、つかぬ事情で遠野くんにお説教しなきゃいけませんので」
俺の回答を未然に封じて、アルクェイドと先輩が口早に答える。俺は、二人に脇を絡められたままあうあう、と呻き後ろを振り向く。
そこには、こっちを不思議そうな目で眺めている琥珀さんと、持ち前の律儀さで原稿に向かって離れない翡翠と、作業に没頭する秋葉の姿が――つまり誰も助けてくれそうにない、ということか。
せめて琥珀さんに、と俺は何とか目で救いを訴えかける。
琥珀さんは俺の目線に頷くと、部屋の置き時計に目をやって得心したようににっこり微笑むと――
「それでは、夜中の三時までには戻ってきて下さいねー。
その頃にはコピー本の製本をしなきゃいけないので、人手が要りますから」
「わかりました、琥珀さん。必ず戻ってきます」
「うん、五体満足か保証は出来ないけどね」
「あ、両手が動けば作業は出来ますよー」
……琥珀さーん、あんまりだぁー
俺の命は旦夕に迫っている。こうなったら、なりふり構っている場合じゃない!
「秋葉っ!お願いだっ!助けてくれぇぇぇ!」
「……だから言ったでしょう、兄さん。
兄さんは『受けキャラ』なんだって……今の脅えた姿もとっても似合ってますわ、うふふふ……」
妖艶な笑みの秋葉がそう断じる。
秋葉、また髪の毛紅くなっているぞ、お前!
「翡翠っ!ご主人様のピンチなのに、のんびりしていないで助けてくれっ!」
俺の声に翡翠はペンを置くと、すくりと背筋を伸ばして答える。
翡翠の表情は硬い。こんな顔の翡翠を見ると、凄く悪い予感がする。翡翠は開口一番――
「お断りします」
なっ、なにっ!
「志貴さま、先ほどからお話は伺わさせていただきましたが、この事態は考えるに志貴さまのご責任だと存じます。
私としてもお助けしたいところですが、志貴さまは今後のためには、一度身体で学ばれるのがよろしいのではないのかと」
「おお、分かってるわね、翡翠ちゃん」
「そうですねー、翡翠さんの言うとおりですね」
――デットエンドとは、この事か。
俺はなんとか抵抗しようと踏ん張るが、アルクェイドと先輩の前には無力も甚だしい。ずるずると俺の足が絨毯の毛足を逆立てて、白い航跡をドアまでひっぱっていく。
外は嵐。両脇には怒れるアルクェイドとシエル先輩。部屋には俺を見殺しにする秋葉と翡翠と琥珀さん。そして、絶体絶命の俺。
明日はコミケ。でも、朝陽は拝めいないかも知れない――
俺の背中に、翡翠の声が掛かる。
「それでは志貴さま。私は志貴さまのご無事をお祈りしております」
う、う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
……………………
………………
…………
……
声が聞こえる――
「あれ?志貴さまが動いていませんけど?」
「大丈夫、ちゃんと生きてるよー」
「ちょっとやり過ぎちゃったかも知れませんね。でも、これで遠野くんもこんな泥棒猫に色目を使うことは無くなるでしょうね」
「……ふん、勝手に言ってなさい。おごれるヘーシはなんとやら、ってね」
紙をめくる音、ホッチキスを挟むぱちんぱちんと言う音。
――まだ生きているんだ、俺。
俺の頬は壁に押しつけられている――いや、ちがう。この壁に見えるのは床で、俺はその上に倒れているんだ。よっぽど手ひどくやられたらしく、身体の感覚が混乱している。
そんな俺の脇の下にぐっ、と手が差し込まれたかと思うと――
「兄さん、しっかりして下さい」
秋葉、か――駄目だよ、俺はもう駄目だよ、指先一つ動かないんだ。
お迎えが……来るかも知れないな……
「何を寝ぼけているんですか?兄さん、これを」
秋葉は俺を引きずり起こすと、俺の手にホッチキスを握らせる。
秋葉は、俺の顔を覗き込む。心配の色が無く、静かに怒っているような秋葉の顔。
「こっちにある仕分け済みのコピーに、中綴じでホッチキスを打って下さい。それを翡翠に渡して落丁のチェックをお願いします、兄さん」
何か、秋葉?
俺は、気絶することもできないのか――
俺は、言われるままによろよろと中折りになっているコピーの束を掴むと、その表紙を見る。そこには――また、俺の顔と姿が書いてあった。今度は上半身裸で、ズボンも半脱げだ。
あ、あ、秋葉ぁぁぁ……お前ってヤツは……兄を何だと……
俺の視界がまた、ぐらりと揺らめく。
そのまま身体を倒して楽になろうとすると――
「兄さん!居眠りしない!」
「遠野くん、夜明けはすぐそこです!精一杯頑張りましょう!」
「なんで、あたしがこんなコトしないといけないのよぉう」
「……まだ間に合いますー、十二時間あれば飛行機だって直るんです、あと六時間あってコピー本ができないって法はないんですよー」
「…………はい、姉さん、次」
――みんな、鬼だよ。
そうか、『修羅』場だから『鬼』なんだな――
嵐は止んでいた。
窓の外は白々と夜が明けようとしている。狂瀾の夜が過ぎ去り、蕩々たる朝がやってくる。それは、疾風怒濤の日の幕開けにふさわしい――
「兄さん!」
うう、分かりましたよ、秋葉ぁ。
やりゃぁいいんでしょ、やりゃぁっ!それにしたって何が悲しくて自分のヤられている同人誌を自分で製本しなきゃいけないんだよぉ。
……間違ってる。絶対に何か間違ってるぅ!
/END