■ らぶげったー月姫 / makkei
──確かに、これまでの人生では、変わったこと
が人より遙かに多かった、とは思う。
吸血鬼を解体したり。
吸血鬼に身体をのっとられそうになったり。
妹と命がけの兄妹ゲンカをしたり。
殺したり。
殺されたり。
他の人間には、まずどれもこれも経験のないこと
だろう。
そのおかげ──と言っていいかどうかはさておき
──で多少の「おかしなこと」にはある程度の免疫
がついていた。
──ついていたと思っていた。
けれども、今回の状況はこれまでとは一味違った
ものだった。
何せ、目が覚めたら。
ぐるぐるに体中をロープで縛られて。
猿ぐつわを咬まされて。
何故か庭に置かれたソファーに座らされていたの
だから。
「ふごーっ、ふぐーっ」
とりあえず、力の限り叫びながら、できるだけ状
況を整理しようと試みる。
まず時刻。太陽はまだ東の空で控えめに輝いてい
る。つまりは朝だ。
次に場所。よく見慣れたこの景色は、十中八九間
違いなく遠野家の庭である。
そして状況。
目が覚めたら庭にいる俺。
ぎゅうぎゅうのぐるぐるに縛られている俺。
猿ぐつわを咬まされている俺。
それでも、柔らかなソファーに座らされており、
ごくわずかだが丁重に扱われている俺。
……と思ってよくよく見ると、身体だけが縛ら
れているのではなく、ソファーにもくくりつけられ
て全く身動きのとれない俺。
これが、とりあえず現状で把握できるTPOであ
る。さて、それでは俺なりにこの非日常的な朝の光
景を理解してみようと思う。
全然判らない。
「ふごーっ、ふごーっ」
こうして叫んでいれば、もしかして屋敷にいる誰
かが気づいてくれるかもしれない。
すぐ近くでスズメがちゅんちゅんと可愛らしく鳴
いている平和そのものの朝だ(例外:俺)。
そう、きっと屋敷の中は何事もないようないつも
の朝なのだ。
「ふぐーっ、ふぐーっ」
屋敷の人間よ。誰か気づいてくれ。
そんな一縷の望みをかけて、俺は力の限り叫んで
みた。
「あ、おはようございます、志貴さん」
声は、すぐ後ろから聞こえた。
イヤな予感、250パーセントアップ。
声の主は、てけてけと俺の前へと回り込み、
「今日も良い天気ですねー」
何事もないように、あっさりと笑顔を浮かべた。
もちろん、琥珀さんである。
この時点で、俺は覚悟した。
目の前で俺が縛られているというこの異常な事態
とは裏腹に、琥珀さんの笑顔はとってもサワヤカな
のである。
まるで、これが当然のことであるように。
そう、琥珀さんがこんな状態であるなら、屋敷の
人間の助けも、きっと当てにはできないはずである。
つまり、俺は──
今日の俺は、きっともう、自分とは無縁のところ
ですでに助からない位置にいるのだ──。
「みなさーん、志貴さんが起きましたよー」
うなだれる俺を全くその意に介さないまま、琥珀
さんはそう元気良く叫ぶと、ソファーごとぐるりと、
俺を勢い良く180度後ろに向けた。
「…………」
愕然とする俺。
そこには、俺の予想の範疇を遙かに越える事態が
待ちかまえていたからだ。
「おはよう、志貴」
アルクェイド。
「遠野君、おはようございます」
シエル先輩。
「兄さん、おはようございます」
秋葉。
「おはようございます、志貴さま」
翡翠。
「みなさん、志貴さんが起きるのを待ってらしたん
ですよー」
そして琥珀さん。
「あ、志貴さん。おはようございます」
さらには、アキラちゃんまで──。
つまり、俺の知る限りの人外オールキャストが揃
い踏みしているという、普段なら想像もできないよ
うな、とっても素敵な光景が広がっているのである。
イヤな予感、さらに250パーセントアップ。
「琥珀」
「はい、秋葉さま」
「兄さんの猿ぐつわが苦しそうだから、取ってあげ
て」
「あ、そうでした。すっかり忘れてましたー」
琥珀さんにすっかり忘れられていた、俺の自由。
多分、今日の俺に与えられた自由は、その程度の
ものでしかないはずだ。
朝から暗鬱なものである。
……と、そんなことをぼんやりと考えているうち
に、琥珀さんが俺の口に咬ませていた白い布を取り、
俺の口は今朝初めて、自由を取り戻していた。
思い切り空気を吸い込んでみる。少々肌寒いくら
いの朝露を帯びた空気が、じんわりと胸に染み込ん
でくる。
その心地よさは、俺にようやく「平穏」とか「自
由」とか「幸せ」という言葉を思い出させてくれる。
──あくまで、この現状と比較しての話なのだが。
「おい、秋葉」
今日初めて真っ当に発言できた言葉を、俺は秋葉
へと向ける。
当然のように、思い切り怒気を込めて。
「この状況は、どういうことだ?」
だが、
「兄さん、今日が何の日だか覚えてます?」
秋葉は楽しそうに、俺に質問を逆に投げ返してき
た。
あまりに楽しそうなその表情に、こちらも毒気を
抜かれてしまう。
「今日……?」
「もう。やはりニブイんですね、兄さんは」
秋葉はヤレヤレといった感じで頭を振り、
「ヒントは、今日が何月何日か、です」
「……あー」
そこまで言われて、ようやく気づく。
今日は、つまり──
「俺の誕生日、だな」
「はい、その通りですわ」
秋葉はうれしそうに目を細めた。
しかし、
「……で?」
それでも、決定的に腑に落ちない点がある。
「それで、俺の誕生日とこの状況には、一体どんな
関係があるんだ?」
確かに、誕生日という日は一つ特別な日かもしれ
ない。それにしても、この状況は特別過ぎである。
身動きの全くとれない俺、そんな俺の周りを女性
陣が囲んでいるこの状況は。
「……別に、簡単なことですわ」
何の気もなしに、秋葉がつんと言い放つ。
さも当然のように。
「ここにいるみなさん、兄さんにプレゼントをお渡
ししたいだけです」
「…………」
「…………」
沈黙。
「……いや、まあ、その気持ちは嬉しいんだけど」
だったらこの俺の扱いは一体何ですか?
思わずツッコミを入れそうになる。
「……とは言え、誰が一番に兄さんにプレゼントを
お渡しするかでもめまして」
「……はあ」
それはそうだろうな、とその点に関しては何の疑
問点もなく納得してしまう。もめる動機はどうあれ、
何せこれだけ個性的なメンバーばかりが集まってし
まっているのだから。
「ならば、ということで、兄さんの前で『誰が一番
にプレゼントを贈るか』を公正に決定しよう、とい
う運びに落ち着いたわけです」
公正に?
一番を?
一体何を勝手に決めてますかー。
またしても思わずツッコみそうになる。
「……私は別に、ジャンケンでも良かったのですが
……」
そこまで言うと、秋葉はぎらりとアキラちゃんを
にらみつける。
その瞬間、アキラちゃんの喉元から「ひっ」と息
を飲む音が聞こえてきた。
先輩後輩の関係をまったく抜きにしても、秋葉に
にらまれては怖がるのもしょうがない。
可哀想である。
「ジャンケンだと、どうしても『公正に』という部
分が欠けてしまう恐れがあるので、こうして別の決
定方法にしたわけです」
なるほど。
確かに『予測』に基づくとは言え、アキラちゃん
の『未来視』なら、有利になる可能性だってあるは
ずだ。
「……って、ちょっと待て」
「はい?」
「今、『別の決定方法』って言ったよな。一体、今
から何をするつもりなんだ?」
──そう、縛り付けられて身動き取れない俺。
オールキャスト揃い踏み。
何をどう考えても、一般的な方法ではないはずだ。
俺の心がそんなことを確信する。
「志貴さま」
「──なっ!?」
突然右から降ってきた声に、情けないほどの驚き
の声をあげてしまった。
声の主の方を見てみると、驚かせたことを申し訳
なく思っているのか、翡翠がばつの悪そうな表情で
こちらをじっと見つめていた。
「驚かせてしまって、申し訳ありません」
深々とお辞儀をする翡翠。
「そ、それはいいんだけど……どうかしたの?」
「いえ、先程の志貴さまの質問なのですが──」
そこまで言うと翡翠は、すぅっと息を一度深く吸
い、きりりとした表情を見せ、
「プレゼントをお渡しする順番、その決定方法に
ついては私から説明させていただきます」
「これから、志貴様にプレゼントをお渡しする予定
のある方々、つまりはここにいらっしゃる方々には、
トーナメント戦に参加していただきます」
「な──っ!?」
絶句する。
──ここにいる方々って、あらかた人間じゃない
じゃん。
俺の心の中にいるツッコミ係が、ツッコむどころ
か危険だと警鐘を鳴らす。
──死人が出るぞ、いや確実に。
「志貴さま」
こほんと一つ咳払いをして、翡翠が続ける。
「トーナメント戦とは言っても、相手を傷つけるよ
うな勝負ではありませんので、ご安心ください」
もしかして俺の不安はストレートに表情に伝わっ
ていたのだろうか。正直、ひとまず安心した。
しかし、
「じゃあ、翡翠」
「はい、何でしょうか?」
「その勝負の方法っていうのは、一体……?」
俺の言葉をそこまで聞くと、翡翠は足下に置いて
いた白い箱を、黙って俺の目線まで持ち上げた。
いつこんなものを用意したのだろうか?
多少の疑問点を抱きつつ、箱をまじまじと見つめ
てみる。
箱の大きさは、約30センチ四方。
上部には、直径10センチばかりの穴。
側面には、鮮血を連想させる鮮やかな赤い文字で
一言──『勝負箱』と書かれてある。
──勝負箱っ?
「よろしいですか、志貴さま」
「いや、まあ、よろしいかよろしくないかと聞かれ
たら、この現状自体すでに激しくよろしくないんだ
けど、多分そういう意見は極大で無駄だろうから、
とりあえずよろしいことにしておく」
「それでは、説明を続けさせていただきます」
「…………」
俺の意見、しっかりと無視。さすがは翡翠。
「あらかじめ、ここにいらっしゃる方々には『相手
を傷つけない』ということを大前提にして、それぞ
れ自分の思う『勝負方法』を紙に書いてもらってお
ります。つまりこの中には、これから行うトーナメ
ント戦の『勝負方法』が入っているわけです」
翡翠は、箱を左右にシェイクさせる。
がさがさ。かさかさ。
確かに、紙切れが動いているような音がする。
「そして、勝負の際には公正になるよう、志貴さま
にこの『勝負箱』の中から一枚紙を引いてもらいま
す。それが、その勝負の勝負方法になるというわけ
です。ちなみに、公正を期すために、一戦ごとに一
枚引いていただくことなります」
翡翠、さらに箱をシェイク。
がさがさ。かさかさ。
「いや、それはもうわかったから」
「決定方法はご理解していただけましたか?」
「ああ、ただ、確実に問題があるんだけど」
俺の言葉を聞いた翡翠が、眉を寄せ、不思議そう
な顔を見せる。『問題なんてないじゃないか』と言
いたげな表情だ。
そんな翡翠の表情を見ながら、できるだけ落ち着
いた声で、俺は話しかけた。
「あの、このままだと俺、勝負箱から勝負内容を選
べないんだけど」
そう言って、縛られた身体を少しだけ左右に揺ら
して、不自由さをアピールしてみせた。
その様子を見て、翡翠はようやく合点がいったと
言わんばかりに、固くなった表情を崩し、元の表情
へと戻した。
「その件に関しては、問題ありません」
元の無表情で、一言。
「引かれる際に限り、ロープを解きますので」
「そのときだけかいっ」
思わずツッコむ
翡翠の言葉は、裏を返せば『それ以外はロープで
縛られっぱなし』になるということである。
さすがにそれは避けたい。
「大体、これだけのメンバーが揃っていながら、俺
が逃げ出せると思うかい? もし逃げ出したときは、
命がけになるだろうし、俺もそんなことをしてまで
逃げだそうとは考えないから、とりあえずこのロー
プは解いてくれないかな」
「…………」
翡翠は困ったように視線を下に向けると、そのま
ま黙ってしまった。
あともう一押しだ。
俺は自由を勝ち取れそうなことを確信した。
どんな理由があって俺を縛っているのか知らない
が、もう一押しすれば翡翠はきっと『仕方ありませ
ん』と言ってロープをほどいてくれるはず。
心の中で、ぐっとほど近い勝利を噛みしめた。
その時だった。
「志貴さん、あんまり翡翠ちゃんをいじめちゃダメ
ですよー」
そう言ってソファーの後ろからひょっこりと現れ
た琥珀さんは、少しだけ怒っているようだった。
「いや、客観的に考えた場合、困っているのはむし
ろ一方的に俺なんだけど」
「もう、そんなことは知りませんっ、とにかく、女
の子を困らせちゃダメですっ」
琥珀さんは俺の言葉に気分を害したのか、先程よ
りもぷんすかと怒ってしまった。
もしかして俺の自由は、琥珀さんのいう「そんな
こと」程度の価値しかないのだろうか。
考えれば考えるだけ、泣きそうになる。
「琥珀さん……」
「はい、何ですか?」
まだ怒気のこもる琥珀さんの声。
だが、俺もここで引き下がるわけにもいかない。
「ところで、ロープは解いてくれないんですか?」
俺は作戦を変更し、琥珀さんを冷静に説得するこ
とにした。
きちんと話せば、きっと琥珀さんも判ってくれる
に違いない。
「琥珀さん、元は俺が原因ですから、こうなった以
上は黙って勝負を見届けます。だから、すみません
がロープを外してくれませんか?」
できるだけにこやかに、俺は琥珀さんにアプロー
チしてみる。
しかし、
「残念ですが、我慢して下さいねー」
琥珀さんから、逆ににこやかに返される。
「……ええと」
「はい?」
どうしても納得がいかない。
「どうして、解いてくれないんですか?」
そう、最大の疑問点はそこである。
俺が逃げられるはずがないのは、ここにいる全員
が十分承知しているはずだ。誰も逃がす気などさら
さらないに違いない。なのに、何故ロープを解いて
くれないのだろうか──?
そんなことを考えながら、俺は琥珀さんの顔をち
らりと盗み見てみた。
琥珀さんは、笑っていた。
それはもう、これまでにないほどにっこりとした
笑顔で。
やがて、その口が開かれ──
「ほら、今からトーナメント戦をやるんですから、
志貴さんには出来るだけ優勝賞品っぽくなってても
らわないと気分がでませんから」
「俺は賞品かっ!!」
さらりととんでもないことを言ってくれた琥珀さ
んの表情には、冗談など欠片も浮かんでいない。
「大丈夫、動けない志貴さんもそれはそれで素敵で
すよー」
「褒めてないっ、それ全然褒めてないっ!!」
くくりつけられたソファーの上で力の限り叫んで
みるが、誰一人として意に介してくれない。
「おい、アルクェイドっ」
「え、私?」
いきなり呼びつけられたアルクェイドが、目を丸
くして驚いている。
「お前なら分かってくれるよな、動けないのがどれ
だけつらいか」
「……うん、わかるわかる。私の場合は吸血衝動を
抑えるためにじっとしてるんだけど、あれって結構
辛いよね」
うんうん、とこちらの言ったことに肯定してくれ
るアルクェイドを見ると、少しだけ希望が湧いてく
る。
「だよな、だったら、このロープを解いてくれるよ
な?」
アルクェイドという希望、そしてそれに必至です
がってみる俺。
しかし、一方のアルクェイドは縛られた俺を頭か
らつま先までじっと見つめた後、大真面目な顔でこ
う言ってくれた。
「ううん、志貴とロープって、志貴が思ってるほど
ミスマッチじゃないよ、きっと」
「お前わかってないっ、絶対わかってないっ!!」
改めて周りを見渡してみる。やはり誰一人ロープ
を外してくれる気はなさそうだった。
「結局俺はもの扱いかっ、ええいっ鬼っ、悪魔っ」
「……私、鬼でも悪魔でもなくて吸血鬼よ。志貴も
そんなこと知ってるじゃない」
「…………」
アルクェイドの言葉は、俺が今いる場所がどんな
場所か、そしてそんな場所で一般常識が通じるわけ
がないということを再確認させてくれた。
先生。
先生は俺の目が「おかしなモノ」だから、「おか
しなモノ」を呼び寄せるって言ったよね。
でも──
さすがにコレは、呼び寄せすぎです──。
俺の目から、切ないモノがはらはらと落ちていた。
「……志貴さま」
「んー、もう好きにしてくれ……」
「はい、それでは次に、トーナメントについて説明
させていただきます」
もう十二分にやる気のない俺に対し、翡翠はきび
きびとして説明を続ける。
「試合は、一回戦が四戦、二回戦が準決勝、三回戦
が決勝ということで進めていきます」
「…………」
「ただし、トーナメント参加者が七名ですので、一
人はシード選手として登録されます」
ふと、何かが引っかかった。
──参加者は七名ですので──
何かがおかしい。そう思い、改めて周りを見渡し
て見る。
アルクェイド。
シエル先輩。
秋葉。
翡翠。
琥珀さん。
それにアキラちゃん。
「……翡翠、ちょっと質問があるんだけど」
「はい、何なりとどうぞ」
「単刀直入に聞くけど、参加者ってここにいる以外
にまだ誰かいるの?」
ここにいる人間が全員参加したとしても、やはり
六人である。だとしたら、七人目がいると考える方
が妥当だろう。
「…………」
「……って、翡翠?」
見ると、翡翠は言いにくそうに、ちらちらとアル
クェイドの顔色をうかがっていた。
「もしかして、七人目ってアルクェイドに関係ある
の?」
「……それは」
「んー、ちょっとね」
やはり言いにくそうにしていた翡翠の後ろから、
アルクェイド本人がひょっこりと顔を覗かせた。
「えへへ、ちょっと理由があって志貴にはギリギリ
まで秘密にしておきたかったんだ」
満面の笑顔を浮かべて俺の前まで来たアルクェイ
ドだったが、そのままするりとソファーの後ろへと
回り、俺の目を両手で優しくふさいだ。
「お、おい、アルクェイド、これじゃ何も……」
「いーからいーから、ちょっと待っててね」
何故かは分からないが楽しそうなアルクェイドの
姿を見て、俺は黙って従うことにした。
目を瞑り、さらにアルクェイドに視界を塞がれる
と、静かな時間がゆっくりと流れていくのを感覚で
感じる。
「…………」
後ろへと通り過ぎていく風が、頬を伝わっていく。
「…………」
かさ。かさ。
とても小さな音が、こうして目を隠されている分
だけ敏感に聞こえて、誰かが近づいてくるその足音
を、俺はしっかりと聞き取っていた。
「…………」
「……ね、志貴」
不意に聞こえたアルクェイドのその声は、今まで
聞いたことがなかったくらいに優しい囁きで。
「チョコは、こうしてみんなで順番を決めることに
なったけど、実は私から、一足早いプレゼントがあ
るんだ」
そう言うと、アルクェイドはゆっくりと俺の瞼か
ら手のひらを離していく。
俺もその動きに合わせて、閉じていた両目を開い
ていった。
「──なっ!?」
朝の涼やかな光の中、そこにあったのはあまりに
懐かしい、遠くにあるはずの笑顔。
「……えへへ」
恥ずかしそうな、照れくさそうなその表情を、俺
は、もう二度と見るはずがないと思っていた。
「────」
「ひさしぶり……に、なるのかな?」
「──ゆ、弓塚っ!?」
どうしてここに?
何で生きているんだ?
様々な疑問が頭の中に浮かんでいく。
弓塚は、あの時確かに──
ぞくりと背中を冷たいものが走っていく。
けれど、それと同時に、別のものもこみ上げてき
ていた。
弓塚が目の前で、笑っている。
二度と会えないと思っていたのに、その笑顔に。
「弓塚……」
もう一度、目の前の少女の名を呟いてみる。
「志貴、喜んでくれた?」
アルクェイドが、横から俺の顔をのぞき込むよう
にして訊いてきた。
──そうだ、そういえば──
「アルクェイド」
「ん、なに?」
──さっき、こいつは確か──
「『私からのプレゼント』って言ってたよな」
「うん」
「もしかして、それって……」
「あの子のことだけど? 決まってるじゃない」
答えるアルクェイドはけろりとして、全く動じる
様子がない。
「でも、弓塚は確かにあのとき──」
──あのとき、死んだんだぞ──
思い出すだけでも、胸に鈍い痛みが走る。
だが、そんな困惑する俺を余所に、
「まあ、志貴がビックリするのは無理ないよね。あ
の子、死んじゃってたんだもの」
「──だったら、どうして弓塚がここにっ」
「私が生き返らせたんだもの。当然じゃない」
「──ばっ!?」
どうしてこいつはいつも、とんでもないことをさ
らりと言ってくれるのだろうか。
「えへへ」
目の前の弓塚は、少しだけ困った顔をしながら、
笑っている。
そんな彼女の顔を見て、ようやく俺は心を落ち着
かせた。
「……で、どういうことだ、アルクェイド」
「何が?」
「どうやって、弓塚を生き返らせたんだ、というこ
とだ」
死者の復活──それは、確かに古来から伝わる魔
術やその類のものにはよく見られる話ではあるのだ
が、やはりこうして現実で見ると、どうしても腑に
落ちない。
「まあ、厳密に言うときちんと人間として生き返っ
たわけじゃないから、微妙なところなんだけどね」
そこまで言うと、アルクェイドはふーっと一息つ
いて弓塚の方を見やった。
「──で、あの子の躯だけど、まず人間のそれじゃ
ないことは理解してね」
アルクェイドは続ける。
「あの子の躯は、鴉や犬を元にして、人間の躯っぽ
く構成し直しただけのものなんだから」
「──は?」
「それで、出来上がった躯にあの子の魂を入れて完
成、というわけ。わかった?」
わからなかった。
「いや、分かったも何も……」
弓塚をもう一度、じっと見つめてみる。
その外見は、まるっきり人間と変わらないもので
ある。
「……って、死者の復活って、そんなに簡単に出来
るものなのか?」
そんな俺の言葉を聞いて、アルクェイドは表情を
むっとしたものへと変えた。
「『そんなに簡単に』ってあっさり言わないでくれ
る? 大体さっき説明したでしょ? これでも私、
結構苦労したんだから。
躯を作るのだって、人間の躯と同じ分量の使い魔
をまず作らないといけないし、それにその分だけ魔
眼を使って私の血を飲ませるのって、志貴が思って
るよりずっと大変なんだからね。
魂の転移にしたって、その子の魂は半分くらい消
滅しかかってたし、慣れない力を行使したおかげで
すっかり疲れちゃったし、本当に大変だったんだか
ら。それなのに『簡単に』って、志貴ってホントに
全然分かってない」
アルクェイドはそこまで一気にまくしたてると、
ぷいっと勢い良く俺から顔を背けた。
「ご、ごめん。アルクェイドがそんなに言うほど大
変だったとは知らなかった」
「…………」
解けない怒りを表す沈黙。
「……本当に、ありがとな」
心から、そう思った。
目の前で死んでいった弓塚さつき──
俺にはあのとき、彼女を救ってあげることができ
なかった。
けれど、アルクェイドは、何もできなかった俺と
は違い、彼女を『生き返らせる』という形で救って
あげたのである。
「ありがとな」
言葉を重ねる。何度言っても言い足りないくらい
だった。
「……えへへ」
アルクェイドの表情が、ようやく微笑みを取り戻
した。
「もういいよ、志貴に喜んでもらおうと思って、私
が勝手にやったんだもん。志貴が喜んでくれたら、
それでいいから」
「……アルクェイド」
言葉もない。
──と。
「はい、ちょっとよろしいですか?」
そう言って俺とアルクェイドの間に入ってきたシ
エル先輩は、そのまま俺達の間でぴたりと足を止め、
「アルクェイド、貴方にちょっと聞きたいことがあ
るんですが」
「ん、なに、シエル?」
「今貴方は、弓塚さんを生き返らせる際に『魂の転
移』と言いましたが、貴方にそんな能力があったの
ですか?」
──ああ、そういえば。
シエル先輩に指摘されて、初めて気が付いた。
「もしそのような能力が初めから貴方備わっていた
のであれば、これまでロアと戦ってきたときに使用
していれば良かったのではないですか?」
先輩の目が次第に細くなり、眼光が鋭いものへと
変化していく。
「使っていたら、もっと早くロアが倒せていた、と
でもいいたいの?」
「ええ、その通りです」
先輩の眼光に対応するように、不敵な笑みを浮か
べるアルクェイド。
今までの状況だけでも泣きたいものがあったが、
こんな風に目の前で直接火花を散らされると、胃が
きりきりと軋みはじめる。
誰か俺に平穏な日々を――
そんなことを考えていた時だった。
「……まあ、シエルの言いたいことも分かるんだけ
ど」
やれやれといった具合に、アルクェイドが首を横
に振り、
「それは無理な話。だって、ロアの力を取り込んだ
から得たんだもの、この力」
あっさりと言った。
「――――」
あっけらかんとしたアルクェイドに、俺も先輩も
あっけにとられてしまう。
「元々、私の能力をベースにしてロアが使えるよう
になった能力だから、力が私に戻っても使えるんで
しょうね。
まあいいじゃない。細かいことは。
こうして志貴が喜んでくれてるんだから」
先輩の向こう側のアルクェイドは、そう言って首
だけひょっこり出して「ね」と俺に同意を求めてき
た。
「……まあ、いいですけど」
先輩は、憮然とした表情のままだが、反論しない
ところを見ると、一応納得したのだろう。
「ね、志貴。私からのプレゼント、喜んでくれたよ
ね?」
「ああ」
正直、感謝している。
「…………」
今まで自分のことの話題だったためか、照れくさ
そうにしている弓塚を見ると、その気持ちも膨れて
いく。
――と。
「ねぇ、志貴?」
アルクェイドが突然訊ねてくる。
「ちなみに聞くけど、あの子と私の気持ちがこもっ
たプレゼント、どっちがうれしい?」
「そりゃもちろん」
あらん限りの笑顔で、俺は即答する。
「弓塚に決まってるじゃないかっ」
その瞬間──
ごすっ。
アルクェイドの拳が、とんでもない速度で俺のこ
めかみへと吸い込まれて、
俺の意識は、
どこか遠くに飛ばされていた。
最後に、
直前にあったアルクェイドの笑顔と、
「本当に殺るわよ」という明るい声を残して──
「はい、では次に、トーナメントの組み合わせにつ
いて発表したいと思いますー」
琥珀さんの声は、底抜けに明るい。
「実は、朝のうち、つまり志貴さんが目覚める前に
みなさんにくじを引いてもらっていまして、その結
果を表にまとめたものを、今作ってきましたー」
じゃん、と琥珀さんが丸めた広用紙を背中から前
へと取り出した。
今更どうでもいいことだが、この姉妹、どこから
こんなに道具を出しているのだろうか。
「それでは発表します──あ、翡翠ちゃん。そっち
の端持って」
「──これでいい?」
「あ、ありがとう。それでは、あらためてトーナメ
ントの組み合わせ発表です」
ダラララララララララララララララララ…………
(琥珀さんによるドラムロール擬音)
ダラララララララララララララララララ…………
(翡翠によるドラムロール擬音)
そこにいる全員の視線が一気に集約する。
そして──
ジャンッ!!(琥珀さんと翡翠のシンバル擬音)
白い紙に書かれた運命のトーナメント表がその姿
を現した。
「第一戦は、秋葉さま対……」
「琥珀姉さんです」
俺は、名を呼ばれた秋葉の方へと顔を向けた。
秋葉は、
「へぇ……琥珀が相手なの」
腕組みをしたまま、ふふん、と笑った。
──どんな勝負であれ、琥珀が相手なら──
あれはきっと、そういった余裕の笑みなのだろう。
「まあ、とりあえずはよろしく」
「はい、こちらこそ、やるからには秋葉さまがお相
手でも、全力でやらせていただきますので」
ピクリ。琥珀さんの言葉を聞いて秋葉のこめかみ
の辺りが脈を打つ。
「琥珀……いい度胸ね」
こめかみをぴくぴくさせたまま、秋葉は笑顔のま
ま琥珀さんの言葉に応える。
「いえい、たまにはこうして秋葉さまとゲームをし
てみるのも楽しいと思いますし」
こちらもにっこりとしたままの琥珀さん。だが目
は笑っていない。
「…………」
「…………」
二人の間で、見えない火花が散っているようにさ
え見える。
まさしく冷戦である。
まずい。このままでは非常にまずい。
「こ、琥珀さん。二回戦はどうなっているの?」
俺は二人の視線の交差をやめさせるべく、思いつ
いた言葉を発した。
「あっ、すみません。どんどん進めないといけない
ですよね」
琥珀さんは、えへ、と笑ってトーナメント表へと
視線を戻す。
「第二戦は、弓塚さま対翡翠ちゃんです」
「よろしくねー」
「……よろしくお願いします」
明るい弓塚と、その明るさに少しだけ引きずられ
ているのか表情を柔らかくしている翡翠が、軽く握
手を交わす。
先程の二人と較べると、格段に爽やかな挨拶であ
り、見ていて安心できるのだが。
「第三戦は、アルクェイドさま対瀬尾さまです」
「むっ」
「えと、あっ、はいっ」
「…………」
アキラちゃんは、どうもガチガチに緊張している
らしい。
とは言え無理もない話である。
相手が、この中でも最も強く異彩を放っているア
ルクェイドなのだから。
「よ、よろしくお願いします」
アキラちゃんは、ぺこりと頭を勢い良く下げた。
だが、
「…………」
アルクェイドは無言でつかつかとアキラちゃんの
方へと歩み寄っていく。
「お、おい、アルクェイドっ」
「…………」
俺の制止も聞かないまま、アルクェイドはまっす
ぐにアキラちゃんへと向かっていき──
そしてアキラちゃんの前に止まると、唐突に、
「こちらこそ、よろしくねー」
脳天気な笑顔でアキラちゃんに握手を求めた。
「こ、こちらこそよろしくお願いしますっ」
あたふたとしながらも、握手に応じるアキラちゃ
ん。
二人は、そのままぶんぶんと握手した手を振って
みたりする。
──もしかしたら、アルクェイドは自分に敵意を
持たない人間には、優しいのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
「そしてシードはシエルさまです。シエルさまは、
一回戦を戦わずに二回戦進出になりますので」
「はい、わかりました」
それだけ短く答えると、シエル先輩はすぐに口を
つぐんだ。
「先輩、もしかして元気がなかったりする?」
何となく気になったので、訊ねてみる。
「いえ、そういうわけではないのですが……」
「…………?」
「場の流れというか、勢いというか、とにかくそう
いうものに乗ってしまったものの、真祖や半分は人
でない者といっしょにゲームに興じていいものか、
少し考えてしまったんです」
「──先輩だって」
充分人外じゃん──。
思わず滑らせそうになった口を閉じ、言いかけた
言葉を飲み込む。
危ない危ない、もう少しで今度こそ命を落とすと
ころだった。
「ん、遠野くん、どうかしましたか?」
「いや、何でもないから」
よく考えてから行動する──先生の教えをきちん
と守れた自分を褒めてあげたいくらいである。
「…………?」
怪訝そうな顔のシエル先輩。
「とにかく、あまり気にすることじゃないんじゃな
い? アルクェイドだって、何もしていないわけだ
し」
「……しかしやはり、目の前にこうしてヒトでない
ものがいるというのに……」
「シエルだって、人間じゃないじゃん」
突然横から現れて、トンデモナイ一言を吐くアル
クェイド。
その言葉に、シエル先輩が反応する。
「わ、わたしはきちんと人間ですっ。大体、吸血鬼
である貴方に、そんなこといわれたくありません」
「えー、傷口からうじゅるうじゅるって触手が出て
きて怪我を治すような生物、どう考えても人間じゃ
ないよー」
「そんな回復の仕方しませんっ」
シエル先輩、すっかり怒り心頭。
「何よ、怒らなくてもいいじゃない。事実なんだか
ら」
一方のアルクェイドは、しれっとしたままである。
「そんな曲がった事実を述べないで下さい。遠野く
んが誤解するじゃないですかっ」
「大丈夫だって。志貴だってその辺は理解してるだ
ろうし。ね、志貴?」
……あー、神様。
お願いですから、これ以上厄介ごとを増やさない
でください。
もう十分にお腹いっぱいですから……
「それでは早速、第一戦を始めたいと思います」
翡翠が、頭をぺこりと下げる。
「第一戦は、秋葉さま対琥珀姉さんです」
言われてから、秋葉と琥珀さんがそれぞれすいっ
と前へと出てくる。
琥珀さんの顔をおもしろくなさそうに眺めている
秋葉、いつも通りの琥珀さん。
「では志貴さま。失礼します」
翡翠はそう言うと、俺の背後にまわり、するりと
ロープを解いた。
「──んんっ」
今日目覚めてから、ようやく手に入れた身体の自
由を味わうように、俺は手を空へとぐっと伸ばして
みた。
「──志貴さま、どうぞ」
翡翠は俺の前に白い箱を差し出した。
勝負箱である。
「えーと、とにかくこの箱から紙を一枚取ればいい
んだね?」
「はい」
「……つかぬことを聞くけど、取ったら、また縛ら
れるんだね?」
「はい」
「僕には、自由がないんだね」
「志貴さま、お二人がお待ちですので」
翡翠はぐいっと箱を突き出して俺を急かす。
今日の俺、賞品であることを再確認。
そして俺は、今日何度目かわからない心の涙を流
しつつ、箱の中へと手を入れた。
「…………」
がさがさ。
「…………」
がさがさ。
「……じゃ、これで」
取り出した一枚を翡翠へと手渡すと、
「はい、ありがとうございました」
翡翠は受け取った紙をひろげ、中を確認した。
「────っ」
一瞬、翡翠の表情がごく小さな変化を見せた。
日常的に翡翠を見ていないと分からないほどの変
化、それは驚きだった。
だが、翡翠はすぐさま表情を戻し、
「それでは、第一戦の勝負方法を発表させていただ
きます」
元の調子で言い放った。
「勝負方法は──早食いです」
「あら、早食いですかー」
当然のように、このくらいのことでは琥珀さんは
動じない。
だが、
「な────っ」
秋葉の目は、しっかりと見開かれていた。
「は、早食いなんて、そんなはしたない真似、遠野
家の主人たるこの私ができるわけないじゃない」
ふん、と秋葉は鼻を鳴らす。
そんな秋葉へと、琥珀さんは笑みを絶やすことな
く話しかける。
「あら、秋葉さまは勝負されないのですか。
つまり、私の不戦勝ということでしょうか?」
その言葉を琥珀さんが口にした瞬間──
ぎろりと、秋葉がまるで射抜くような眼光を琥珀
さんへと向けた。
「琥珀……本当に良い度胸をしてるわね」
「いえいえ、私はただ思った通りのことを口にした
だけですよ」
それが度胸あるって言うんですよー。
思っても口に出せない、弱い俺。
「……わかりました。その勝負、受けましょう」
秋葉は、悔しそうに言葉を吐くと、
「兄さん、兄さんに一番にプレゼントを渡すのは
私ですからね」
俺へとぎっと言い放った。
その気持ちはうれしいんだけどなぁ……
決定的に方向性を間違えているのがひどく残念で
ある。
「それでは、ルールの説明をしたいと思います」
手際よく用意されたテーブルの前で、翡翠がこほ
んと咳払いをして説明を続ける。
「これからお持ちするお皿は五皿。そのそれぞれの
お皿で食べる早さを競っていただきます。
そして最終的に、五皿中三皿を早く食べ終えた方
がこの勝負の勝者となります。よろしいですか?」
「わかったわ」
「はい」
テーブルについている秋葉と琥珀さんがそれぞれ
頷く。
「では早速、始めたいと思います」
それだけ言うと、翡翠はテーブルの二皿、ことり
と置いた。
「一皿目は『エスカルゴのバターソテー クリーム
ソース和え』です」
翡翠は、見慣れない食器をかちゃかちゃと並べて
いく。
エスカルゴ、話には聞いていたが、どうやって食
べるのか俺には見当もつかない。
二人は、じっと皿の上の料理を眺めている。
「…………」
「…………」
沈黙。
そして、そのまま数秒の時が流れ、
「用意……スタート」
翡翠が、運命のゴングを告げた。
だが。
「…………」
かちゃかちゃ。
「あれ、あれれ?」
がちゃ、がちゃっ。
「…………」
かちゃかちゃ。
「思ったより難しいですねー」
がちゃがちゃがちゃがちゃ。
──その差は、歴然としていた。
道具を使いこなし、料理を確実に口に運んでいる
秋葉に対し、琥珀さんはまるで皿の上の料理で遊ん
でいるようにすら見えた。
その結果は、当然のように、
「……ごちそうさま」
「はい、一皿目は秋葉さまの勝利です」
──ということに落ち着いた。
「ふふ、琥珀。もう少しテーブルマナーを知らない
といけないわね」
「あは、ちょっと勉強不足でしたね」
一皿目で勝利したせいか、秋葉の機嫌はすっかり
と良くなっていた。
「それでは、二皿目に移りたいと思います」
翡翠が次の勝負のための皿を運んでくる。
「二皿目は、『甘鯛のムニエル』です」
ことり。皿が置かれる。
「…………」
「…………」
「それでは、用意、スタート」
翡翠の合図と共に、二人が同時に食器に手を伸ば
した。
「…………」
「…………」
今度の皿は鯛のムニエルということで、食器はシ
ンプルにナイフとフォークが使われている。
よって、今回は食器によるハンデはない。
──と、思っていた。
「……少しだけ妹の方が早いわね」
いつの間に横に来たのだろうか、アルクェイドが
ぼそりと呟いた。
「うん、やっぱり。妹の方が少し早い。多分、ナイ
フとフォークに慣れているんじゃないかな」
「…………」
言われてみれば、確かに秋葉の方が少しだけ速度
が速い。まあ、琥珀さんが普段は使うのはどう考え
てもナイフやフォークよりはお箸だろう。
──と。
「ごちそうさま」
という秋葉の声が聞こえてきた。
……結局、二皿目も秋葉が勝ち、あれだけ反対し
ていた秋葉の方がリーチを迎えていた。
「ふふ、とりあえずリーチのようね」
秋葉が余裕の笑みを見せる。
「琥珀、これじゃあ勝負になってないわよ」
「まだまだ、これからですよー」
あは、と明るく笑う琥珀さん。
その言葉に反応して、秋葉のこめかみがぴくりと
動いた。
「まあ、次のお皿で勝負は決まると思うけど……」
ぴくぴくと脈打つこめかみを抑えつつ、秋葉は笑
顔を保とうとしている。
そこだめして余裕というのは見せるべきなのだろ
うか。
そんなことを考えていると、
「失礼します。三皿目をお持ちしました」
翡翠が、持ってきた皿、いや、今回は茶碗を二人
の前に差し出した。
その瞬間、
「な──っ」
テーブルに置かれた者を見た瞬間、秋葉が驚愕と
恐怖の入り交じった表情を浮かべた。
「な、な、何なの、これは?」
「何って秋葉さま、納豆じゃないですか」
白いご飯の上に乗った、茶色で糸引くニクイやつ。
そういえば遠野家では食べたことはない。
秋葉が「何ですか」と聞くのも分かる。
むしろ今の秋葉の目には「食べ物以外の何か」と
写っているに違いない。
「な、納豆……」
「ええ、おいしいですよ」
ごくり。秋葉ののどが鳴る。
そして、
「それではいきます。用意、スタート」
翡翠の声が、無情な試合開始を告げた。
「…………」
秋葉は動かない。
じーっと納豆を見つめている。
「ぱくぱく」
琥珀さんはそんな秋葉に構うことなく、納豆ご飯
をおいしそうに口に入れている。
「…………」
そんな琥珀さんを見て少しは安心したのか、秋葉
が意を決して箸をにぎった。
そしてそのまま、おそるおそる納豆を一粒掴み、
その口へと運んだ。
だが、
「──っ!!」
秋葉の目が見開かれ、みるみるうちに涙が溜まっ
ていった。
喉が鳴ることもない。飲み込むことも出来ずどう
したら良いか分からないのだろう。きょろきょろと
視線を泳がせている。
口から少しだけ引いた糸が、どことなくコミカル
でおもしろく見える。
俺がそんな失礼なことを考えていると、
「……秋葉さま、どうぞ」
翡翠が黙って秋葉にナプキンを手渡した。
「…………」
無言でナプキンを受け取り、秋葉は口元へと持っ
ていく。
そしてその後は、
「…………」
涙目で、じっと納豆を見つめ続けるだけだった。
「そこまでです。三皿目は琥珀姉さんの勝利です」
翡翠が琥珀さんの勝利を宣言する。
「あら、秋葉さま。どうされましたか?」
「…………」
「あっ、残されてますね。ダメですよー。好き嫌い
なさっちゃ」
「……琥珀」
「はい?」
「……次は負けないわ」
秋葉はふんっと琥珀さんから顔を背け、
「翡翠、次の料理は?」
翡翠に向かって声を飛ばした。
その声に応えて、
「はい、ただいま」
翡翠がどん、と勢い良く皿──ではなく、今回は
どんぶりをテーブルへと置いた。
「四皿目は『博多とんこつラーメン』です」
白い湯気が、ぷかぷかと上がっている。
「それでは参ります。用意、スタート」
それにしても、と思う。まさかラーメンとは。
バラエティに富んだメニューである。
これなら、誰が試合に臨んでもハンデはつかない
だろう。
そんなことを思っている時だった。
「ねぇ、志貴」
横からアルクェイドが、嫌そうな顔で俺へと話か
けてきた。
「私、あの臭い苦手なんだけど……あれ、何?」
「あれって……あの料理のことか?」
「うん」
「あれはラーメンっていうんだけど、お前、あれが
苦手なのか?」
「うーん、苦手というか嫌いなニオイ」
……まさか吸血鬼が嫌うものにラーメンがあった
とは……
まさに新説大発見である。
──などと考えていたのだが、
「なるほど、あのとんこつラーメン、本場らしくニ
ンニクがたっぷり入ってますね」
ふむ、と確認するようにシエル先輩が頷いた。
「あ、そうなんだ……」
せっかくの大発見だと思ったのだが、残念だ。
確かにニンニクは、古くから魔を退ける力がある
と言われている。
さらには、吸血鬼の苦手なモノの一つとしても列
挙してあるくらいだから、アルクェイドが苦手とい
うのも理解できる。
「そのおかげで、秋葉さんも随分苦労されてるよう
ですよ」
「え?」
シエル先輩に言われて、俺は秋葉の方へとあわて
て振り返る。
「…………」
ラーメンを前にして、秋葉はその動きをぴたりと
止めていた。
心なしか、顔も青い気がする。
「秋葉さんには『人でないもの』の血が混じってい
るようですから、ニンニクが苦手なのでしょう」
「なるほど……」
「それにしても、このメニューを考えた人は策略家
ですね。あのラーメンで、この中の数人を潰せるか
もしれないんですから」
「……偶然じゃないのかな」
「いえ、とんこつラーメンにニンニクを入れるなん
て、地元の人間か、よほどのラーメン好きしか知ら
ないことだと思います。
それを、わざわざ実行に移すのですから」
「よほどの、ラーメン好き……」
何かが、引っかかった。
確かに思い当たる節はある。しかし“彼女”には
料理は作れないはずだ。
「でも、もしかしたら本当に偶然なのかもしれませ
んね。料理を作った人間の」
……なるほど。
頭の中で、一本の線が繋がった。
ラーメン好きから話を聞ける人間。
且つ、この料理を作っただろう人間。
「──ごちそうさまでしたー」
一人に絞られた策士は、どんぶりに残っていた最
後のスープをすすっていた。
「はい、四皿目の勝者は琥珀姉さんです」
「……琥珀」
「秋葉さま、どうかされましたか?」
「……次はどんな料理でも私が勝つから。
覚えてらっしゃいっ」
目に涙をためて、強がる秋葉。
琥珀さんの表情は、そんな秋葉を見てもまったく
変わらない笑顔だった。
「それでは、次が最後の皿をになります」
今のところ、秋葉と琥珀さんは同じだけ勝利して
いるから、事実上あの最後の皿を制した方が最終的
な勝者となる。
「最後のメニューは、こちら──」
翡翠がかたり、と皿を並べ、
いつものトーンで言った。
「『にんにくのほくほくフライ』です」
「わ、おいしそうですねー」
鬼。
「…………」
案の定、秋葉の動きは止まっていた。
「おい、秋葉。無理はするなよ」
「…………」
俺が声をかけると、秋葉はこちらをちらりと見や
り、
「……そう、私は負けるわけにはいかないのよ」
ぎりっと唇をかんだ。
──まさか。
俺の予想通り、秋葉は目の前の皿をぎっと睨みつ
けて、フォークへと手を伸ばした。
「…………」
やがてその手は、料理を口に運び、
ぱくり。
秋葉は、それを口にしていた。
「…………」
「…………」
そして数秒間の沈黙の後、
「……(にっこり)」
秋葉は、一瞬だけ笑顔を見せ、
白目をむいてかくっと意識を失っていた。
「おい、秋葉、大丈夫か?
あからさまに大丈夫じゃないと思うけど、おい、
しっかりしろ!!」
…………
……
結局。
「秋葉さまのノックアウトにより、勝者は琥珀姉さ
んに決定しました」
──と、いうことになったのである。
料理を食べるだけの勝負で、まさか判定KOがあ
るとは……
あらためて、このトーナメントの異常さを思い知
らされる。
ちなみに、秋葉はと言うと、
「──うーん……」
先程まで俺が縛り付けられていたソファーに横た
り、未だに苦しんでいたりする。
そのおかげで、俺はソファーから解放されていた
りするのだが。
すまん、ありがとう、秋葉。
苦しんでいる妹に、俺は心の中で少しだけ感謝し
た。
「それでは、どんどん先に進みたいと思いますー」
翡翠に変わって司会進行を行っているのは、先程
の勝者、琥珀さん。
「第二試合は、弓塚さまと翡翠ちゃんとの対戦です」
「はーい」
「……はい」
呼ばれた二人が前に出る。
「それでは志貴さん、勝負方法をお選び下さい」
そう言うと琥珀さんは、俺の前へと白い箱を突き
出した。
やはり勝負箱である。
「……はい、じゃあこれで」
箱から取り出した紙を、琥珀さんへとぽんと渡す。
「はい、ありがとうございます」
琥珀さんは、受け取った紙を広げて中を確認した。
「うふふ」
……一体何が書かれているのだろうか?
「それでは、第二試合の勝負方法を発表します。
勝負方法は……マジ○ルバナナです」
──マジ○ルバナナ?
「……って、アレ?」
「はい、アレです」
──古っ。
「ルールを確認しますけど、弓塚さんと翡翠ちゃん
にはリズムに乗って連想ゲームをしてもらいます。
リズムに乗りきれなかったり、言葉に詰まったり
するとペナルティが一つ付きます。勝負に関しては、
ペナルティが先に三つ付いた方が負けになりますか
ら、いいですか?」
「はーい」
「了解しました」
「ちなみに今回の特別ルールとして、志貴さんから
ツッコミが入った場合にもペナルティが付きますか
ら気を付けてくださいね」
「ちょ、ちょっとまてーーーっ!!」
「はい、こんな感じにツッコミが入ったら、その時
点でペナルティですので」
「…………」
「さて、それでは早速始めますけど、志貴さんは今
の調子でどんどんツッコミ入れてやってくださいね。
じゃないと勝負がつきませんから」
俺に言うだけ言うと、琥珀さんはまた二人の方に
向き直り、
「最初の言葉だけは、毎回私が言いますので、後は
勝手に続けて下さい。それでは、最初は翡翠ちゃん
から行きますよ」
そして琥珀さんは、手拍子でリズムを取り始める。
合わせる二人。
それが、第二試合開始の合図だった。
タン タン タンタンタン
「マジカルウラン♪」
「しょっぱなそれかっ!!」
「……もう、志貴さん、私にツッコミ入れても仕方
がないじゃないですか。
ちゃんとこっちの二人に入れてあげて下さい」
「そういう問題じゃなくて、最初の言葉が問題あり
過ぎてダメでしょうが、いろいろと」
「そんなことないですよー」
ぷんすかと琥珀さんが怒る。
「とにかく、私に対してツッコミを入れるのはやめ
てくださいね」
俺にめっ、と注意した後、琥珀さんはまたしても
リズムを取り始めた。
タン タン タンタンタン
「マジカルウラン♪」
「ウランと言ったら原発」
「原発といったらバケ──」
「そのネタ禁止っ!!」
止められた弓塚が「えー」と抗議の声をあげる。
「何で? ある意味タイムリーな話題なんだけど」
「だからだ、だからっ」
一つ間違えば社会問題にまで発展しかねない内容
である。
「もう、志貴くんキビシイなあ」
「とりあえず、弓塚さまにペナルティ一つですね」
琥珀さんは、何故か嬉しそうだ。
「志貴さん、その調子でどんどんいっちゃってくだ
さいね。あ、次は『バケツ』で弓塚さまから始めま
すよー」
「……仕方ないね、今度は私、気を付けるからね」
明るく言ってから、弓塚はくるりと背を向けた。
そしてそのまま、また三人でリズムを取り出す。
タン タン タンタンタン
「マジカルバケツ♪」
「バケツと言ったら水♪」
「水と言ったら冷たい」
「冷たいと言ったら氷♪」
「氷と言ったらかき氷」
「かき氷と言ったらイチゴシロップ♪」
「イチゴシロップと言ったら赤い」
「赤いと言ったら鮮血♪」
「それでいいのか、おいっ!?」
──気が付けば。
俺はまたしても、弓塚へとツッコんでいた。
「うーん、何か問題あったかな?」
どう考えても、鮮血という言葉がすぐさま連想で
きるのは、普通じゃ──
──普通のわけ、ないじゃないか──
「……いや、何でもない。何でもないから」
そういえば、未だに信じがたいが、弓塚は元吸血
鬼。鮮血という言葉を使っても、あまりおかしくは
ないのかもしれない。
「……はあ」
あらためて、自分の周囲が尋常でないことに気づ
かされる。
「はいはい、弓塚さま。これでペナルティ二つです
ので、もうあとがありません。頑張って下さい」
「……はーい」
弓塚は渋々と頷いた。
「それでは、次の言葉は『鮮血』で翡翠ちゃんから
ですよ」
タン タン タンタンタン
「マジカル鮮血♪」
「鮮血と言ったら吸血鬼」
「吸血鬼と言ったら死徒♪」
「死徒と言ったらネロ」
「ネロと言ったら獣♪」
「獣と言ったら志貴さま」
「まてまてまてまてーーーっ!!」
さすがに俺は翡翠へと詰め寄った。
「どうして俺が獣とっ!?」
「…………」
翡翠は答えない。ただ返事に代えて顔を赤く染め
るだけだった。
「もう志貴さん、そんなに翡翠ちゃんを責めないで
下さい」
横合いから琥珀さんの声がかかる。
「翡翠ちゃんは、志貴さんのことをケモノっていう
よりはケダモノって思ってるだけなんですから」
「なお悪いわっ!!」
「えー、だって志貴さんしつこいじゃないですかー」
「なっ!?」
琥珀さんが笑いながら言ってくれる。
「後ろにも手を伸ばしますし」
シエル先輩の声も聞こえてくる。
「……無理矢理だし」
ソファーに沈んだまま、か細い声で秋葉も。
「そ、そうなんだ。志貴さんってケダモノなんだ」
ぽっとアキラちゃんが頬を赤くする。
「外見はそんなことないのにねー」
弓塚はうふふと軽く笑ってくれる。
──そうか、俺はそんな風に思われていたのか。
周りから突き刺さる剣のような台詞に、俺は自分
自身を見直してダメージを負ってしまう。
すると、
ぽん。
不意に、肩に誰かの手が乗せられた。
「大丈夫だって」
アルクェイドだった。
「アルクェイド……」
「みんなは志貴のことケダモノって言ってるけど、
私はケダモノな志貴で十分だから」
ちょっぴり恥ずかしそうにしながら、にっこりと
言ってくれる。
──結局、全員俺をケダモノ扱いなのか。
泣きそうだった。
「…………」
翡翠は、顔を赤くしたままだった。
「はい、何やら志貴さんが落ち込んでいるようです
けど、ゲームを再開したいと思います」
うなだれている俺を基本的に無視して、琥珀さん
がゲームを進めていく。
「ペナルティは、弓塚さまが二つ、翡翠ちゃんが一
つ。若干翡翠ちゃんが有利ですけど、弓塚さまにも
まだ勝利のチャンスはありますので」
「はい、頑張ります」
「…………」
「それでは、次は『志貴さん』で、弓塚さまからで
す。いきますよー」
タン タン タンタンタン
「マジカル志貴さん♪」
「志貴くんといったらメガネ♪」
「メガネと言ったらレンズ」
「レンズと言ったら望遠鏡♪」
「望遠鏡と言ったら月」
「月と言ったら夜♪」
「夜と言ったら睡眠」
「睡眠と言ったら棺桶♪」
「そうなのか、やっぱりそうなのかっ!?」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あ」
「志貴くんのばかぁっ、今のはツッコむところじゃ
ないじゃないっ!」
「いや、ツッコむところだと思うけど」
そこはあっさりと受け流す。
それにしても、やっぱり弓塚も棺桶で寝ていたの
かと思うと、不思議な気分である。
「弓塚さまにペナルティが三つ付きましたので、こ
の勝負、翡翠ちゃんの勝ちです」
琥珀さんが、そう高らかに宣言する。
「…………(ぺこり)」
「志貴くんのばかぁっ!!」
「はい、続けてさくさくと第三戦を行いますよー」
「第三戦は、瀬尾さま対アルクェイドさまです」
「はーい」
「は、はい」
「それでは志貴さま、お願いします」
翡翠がずいっと勝負箱を押しつけてくる。
「ああ……じゃあ、これ」
中の一枚を手に取り、翡翠へと渡す。
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと一礼すると、翡翠は早速、折り曲げられ
た紙を丁寧に広げ、
「では、第三戦の勝負方法を発表させていただきま
す」
こほんと咳払いして、言った。
「第三戦は、『あっち向いてホイ』です」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あっち向いてホイって、アレ?」
「アレです」
俺の質問に、翡翠は頷きながら淡泊に答えてくれ
た。
──またアナクロなものを。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
気が付けば、アルクェイドが控えめに手を挙げて
いた。
「どうかされましたか?」
「わたし、それやったことないんだけど」
「…………」
──まあ、吸血鬼はやらないだろうあ。普通。
「アルクェイドさま、ルールはご存じでしょうか?」
「一応。でも経験がないから」
ちょっと困り顔のアルクェイドは、むぅと唸って
みせる。
そんな時だった。
「あ、アルクェイドさん」
アキラちゃんが突然、アルクェイドの名を呼んだ。
「じゃ、慣れるまで二人で練習しませんか?」
「え、いいの?」
「はい、あたしは構いませんけど」
「……ありがと」
アルクェイドは固かった表情を崩して、嬉しそう
に笑った。
「……えへ」
アキラちゃんもつられて、笑顔になる。
「じゃあまず、ジャンケンですけど……」
そうして、アキラちゃんの『あっち向いてホイ』
講座が始まった。
…………
……
「じゃん、けん、ぽんっ」
「あっちむいて、ホイっ」
「じゃん、けん、ぽんっ」
「あいこでしょっ」
「あっちむいて、ほいっ」
しばらくして。
いつの間にか、二人は熱中していた。
「志貴っ」
唐突に、アルクェイドが驚きの声をあげる。
「どうした?」
「これ、おもしろいよっ」
「…………」
あっち向いてホイに目を輝かせる吸血鬼。
どうしようもなく変だとは思うが、これはこれで
もしかしたらいいのかもしれない。
何はどうあれ、幸せなら──
「アルクェイドさま、瀬尾さま」
熱中している二人へと、翡翠が声をかける。
「そろそろよろしいでしょうか?」
つまり、ここからは、本当の勝負ということだ。
「あ、はい。あたしはいいですけど……」
ちらりとアルクェイドをアキラちゃんがのぞき見
る。
「ええ、私ももういいわよ」
「それでは早速始めていただきたいと思います。
勝負は一回、よろしいですか?」
「OK」
「あ、はい。よろしくお願いしますっ」
そしてそのまま、場は勝負の緊張に包まれていく。
──はずだった。
「あ、あら──」
不意に、アキラちゃんの身体がぐらりと傾いた。
「──っ!!」
すぐに自分の足で倒れそうだった身体を立て直す
アキラちゃん。
だが、
「…………」
その表情だけは普通ではなく、驚きを隠せないま
まで凍り付いていた。
「アキラちゃん?」
「…………」
答えはない。
──未来視。
ふと、俺の脳裏にその言葉がよぎる。
何かの拍子に、未来を見てしまうという、アキラ
ちゃんの能力。
もしかしたら、今のも未来を見たのかもしれない。
「アキラちゃん……何か視えたの?」
「────」
「アキラちゃん……?」
「──し」
「し?」
「し、志貴さんがぴくぴく痙攣しながら床に倒れて
るーーーっ!!」
「ちょーーーっとまてーーーーーーっ!!」
全く思ってもみなかった答えに、間髪を入れずに
ツッコミを入れてしまう。
「この流れからすると、これからアルクェイドが出
す手とか、誰が勝利者なのかとか、そういうのじゃ
ないのか!?」
「だ、だって……」
「ぴくぴく痙攣しながら床に倒れてるって、それ絶
対尋常じゃないぞっ!」
過去も現在も尋常でないのは分かっているが、ま
さか未来もとは。
愕然となる。
「遠野くん」
俺の肩を、誰かが軽く後ろから叩いた。
「シエル先輩……?」
「安心して下さい。ちょっとやそっとの痙攣では、
私たちが死なせませんから」
シエル先輩は、とんと自分の胸を叩く。
「──例え、どんな手を使ってでも」
その言葉に、周りにいた全員がうんうんと頷いて
同意していた。
「……ああ」
俺の生殺与奪の権は、すでに彼女たちの手に堅く
握られていた。
「それではあらためて、アルクェイドさま対瀬尾さ
まの勝負を始めたいと思います」
翡翠の言葉とともに、
「じゃん、けん──」
「ぽんっ」
勝負は始まった。
「あっち向いてホイっ」
「じゃん、けん、ぽんっ」
「あいこでしょっ」
…………
……
「じゃんけんぽんっ!」
「あっち向いてホイっ!」
勝負は、どんどんと続いていく。
「じゃんけんぽんっ!」
「あっち向いてホイっ!」
回数を重ねる度に、二人の動きが速くなってきて
いるのが傍目にも分かる。
元々人間以上の神経を有しているアルクェイドは
ともかく、アキラちゃんも首を微妙に動かしたりと
フェイントをかけて応戦している。
きっとかなりの手練れなのだろう。
「──ふーっ」
急に、アルクェイドがその動きを止めた。
「やるわね、アキラ」
「はぁ、はぁ、あ、ありがとうございます」
見ると、アキラちゃんはすでに肩で息をしていた。
あれだけのスピードの中、極限まで集中力を高め
ているのだから当然なのかもしれない。
「『あっち向いてホイ』で私をここまで楽しませて
くれたのは、あなたが初めてよ」
「そりゃそうだ」
思わず声に出してしまうが、アルクェイドは気に
も留めない。
「──でも、次で終わり」
そう言って、アルクェイドが不適に笑った。
「次に私がじゃんけんで勝てば、あなたは負ける」
「…………」
事実上の勝利宣言に、アキラちゃんの表情も厳し
くなる。
「──アルクェイドさま、アキラさま、よろしいで
しょうか?」
翡翠の声がかかる。
「いつでもいいわ」
「……はい」
二人は同時に頷くと、再び向かい合った。
「いくわよ、アキラ」
「はいっ」
「…………」
「…………」
「じゃんけんぽんっ」
「あいこでしょっ」
「……あっ」
小さくアキラちゃんが声を上げた。
アルクェイドはチョキ、アキラちゃんはパー。
にやりとアルクェイドが、口元を歪ませる。
「あっち向いて──」
そこまで言って、
アルクェイドは、
ちらりと俺の方へと視線を移した。
「──え?」
俺とアキラちゃんが同時に驚く。
──勝負の最中のはずなのに?
アキラちゃんも同じように思ったのか、アルクェ
イドと同様に、俺の方へと顔を向けた。
顔を──
「──あっ」
そのことに俺が気づいた瞬間。
アルクェイドは、笑っていた。
「ほいっ」
俺のいる方向へと、指先をくんっと向ける。
──勝負は、その一瞬で終わった。
「この勝負、アルクェイドさまの勝利です」
翡翠が、勝者の名前を告げる。
「なるほど、考えましたね」
シエル先輩だった。
「何を?」
「アルクェイドが先程使った方法です。
よそ見という、人間の本能的な反射行動に訴える
古典的な手法ですけど、かなりの効果が期待できま
す」
「なるほど」
そう言えば、そんな話をボクシングでも聞いたこ
とがあるような気がする。最近では、青木とかいう
ボクサーがそういうことをしたという話だ。
「まあ『あっち向いてホイ』で実践したのは、彼女
が最初かもしれませんが」
「…………」
まさか『あっち向いてホイ』でも予想外の行動を
とってくれるとは……
「志貴ー、勝ったよー」
当のアルクェイドは、嬉しそうにVサインを掲げ
ていた。
「それでは、第二回戦のメンバーを発表したいと思
いまーす」
琥珀さんが、第一回戦の結果を書き加えたトーナ
メント表を指さしながら説明を続ける。
「第二回戦の第一試合は……あ、私と翡翠ちゃんで
すね」
「…………」
「翡翠ちゃん、よろしくお願いしますね。
で、第二試合は、アルクェイドさま対シエルさま
です」
「…………」
「…………」
「あら、すでにお二人で盛り上がっているみたいで
すねー」
「……姉さん。余計なことは言わない方が」
聞いているだけで頭が痛くなりそうな内容だった。
琥珀さんと翡翠はともかく、アルクェイドとシエ
ル先輩が直接対戦するとは……
「はぁ……」
俺はとりあえず、無事に今日という日を終えられ
ることを願うしかなかった。
「志貴さん、これどうぞ」
翡翠も琥珀さんも勝負に出るため、今回はアキラ
ちゃんが勝負箱を俺へと持ってきた。
「……じゃ、はい。これで」
「はい、ありがとうございます」
アキラちゃんはごそごそと手元で小さく紙を広げ、
のぞき見るように中を確認する。
「…………」
「…………」
「……アキラちゃん?」
「あっ、はいっ、今から言いますね」
こほんと咳払いをしてから、アキラちゃんが姿勢
を正す。
「では発表します。お二人の勝負方法は──お料理
対決です」
「あ、お料理ですか」
「…………」
翡翠が明らかに表情を引きつらせる。
苦手な料理で、しかも相手が琥珀さんなのだから
無理もない。
「具体的な勝負方法ですが、これからお二人にはお
料理を一品だけ作っていただきます。
それで、志貴さんがより気に入ったお料理を作っ
た方の勝ちとなります。よろしいですか?」
「はい、わかりました」
「……はい」
「それではお二人はキッチンの方へ移って下さい。
あ、他のみなさんもリビングに移動しましょう」
…………
……
チクタク、チクタク、
「…………」
時計の音がやたら気になるほどの静かな時間。
リビングに移動してから、そんな時間がすでに十
分近く経過している。
たまに台所から包丁の音や食器の割れる音が漏れ
る以外には、本当に静かなものだった。
「……ねえ、志貴」
不意に、アルクェイドが静寂を破った。
「琥珀と翡翠、どっちが勝つと思う?」
「……順当にいけば、やっぱり琥珀さんだと思う」
──翡翠の料理は、完成しない可能性もあるし。
「そっか」
「そういえば、お前が他人の勝負を気にするってい
うのは、めずらしいな」
「まあ、あの二人の勝った方が、次の私の対戦相手
なわけだし。そりゃちょっとは気にするわよ」
アルクェイドが何気なく言った瞬間だった。
「──っ!!」
ぞくり。背後から突然、恐怖と悪寒が身体を駆け
めぐっていった。
「…………」
こわごわと自分の肩越しに後ろをのぞき見る。
シエル先輩だった。
「あらシエル。そんな怖い顔してどうしたの?」
「いえ、今何か『私が負ける』といった内容の言葉
が聞こえた気がしたので」
「ええ、言ったけど」
さらりと肯定するアルクェイド。
ぎり。先輩からの視線の重圧が重くのしかかる。
「──本当に、次の勝負の前に一度滅ぼしておいた
方が良いのかもしれませんね」
「シエルこそ、ロアもいなくなったことだし、一度
永い眠りについて休んでみる?」
いつの間にか、視線の重圧は先輩からの一方的な
ものではなく、二人分のものになっていた。
「──っ」
交差する殺気を受けて、俺の神経が悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと待った……」
耐えきれず、ようやく声を絞り出す。
「今日はトーナメントなんだろ、白黒つけるなら、
その勝負の中でやってくれ」
「…………」
「…………」
ふっと殺気が消える。
二人はお互いに、「ふんっ」と同時に顔を背けた。
──勝負が始まる前からこれだからな。
二人の勝負がどういったものになるか、見当もつ
かない。
──と。
ぱたぱたぱた。
軽快なスリッパの音が、キッチンから近づいてき
た。
「あれ、琥珀さん。どうしたの?」
「ちょっと材料を取りに行ってきますね」
そういって部屋から出ていく琥珀さん。
「…………?」
一体、何を取りにいくのだろうか?
そんな疑問を浮かべていると、
ぱたぱたぱた。
またしても、キッチンから足音が近づいてきた。
「あれ、翡翠も何か材料を取りに行くの?」
「…………」
翡翠は答えない。
ただ顔を真っ赤にして、コップを握りしめどこか
に走り去っていった。
──コップ?
さっぱり訳が分からなかった。
そして、しばらくして。
「はい、お二人ともお料理が完成したようですので
これから早速志貴さんに食べ較べてもらおうと思い
ます」
あれから五分がさらに経過し、二人の料理は完成
をみせていた。
「まずは、琥珀さんのお料理からです」
「はあい」
ことり。琥珀さんが一枚の皿を俺の前へと差し出
した。
「『牛肉の香草焼き 琥珀特製ソース和え』です」
ほおっと素直に感嘆の声が漏れる。
「今日は勝負ということで、いつもよりちょっとだ
け凝ってみました」
なるほど、いつもに比べても盛りつけから違う。
俺はゆっくりと、琥珀さんの料理を口に運んだ。
「ん、うまい」
専門家ではないので、偉そうな評価は言えないが、
正直少しぴりっとした辛さがあっておいしい。
「えへへ、ありがとうございます」
嬉しそうに、手を合わせて琥珀さんが喜ぶ。
「今日のお料理は、『刺激』をテーマにして作って
みたんですけど……どうですか?」
「うん、ぴりっとした辛さがちょうど良いよ」
もう一口ぱくりと頬張ると、ぴりっとした舌への
刺激がまた一段と強くなった。
「……でも琥珀さん、これ、何の辛さなの?」
「うふふ、それは企業秘密です」
──何だか。
──とってもイヤな予感が。
「琥珀さん?」
「はい?」
「さっき、外に材料取りに行ってたよね」
「はい」
「この香草って、外にあるやつ?」
「企業秘密です」
──舌のぴりぴりが、ビリビリへと変わっていく。
「琥珀さん?」
「はい?」
「段々、辛いっていうか舌が痺れてきたんだけど」
「だから、刺激がテーマっていったじゃないですか。
もしかして、おいしくなかったですか?」
「いや、そういう問題じゃなくて──」
不意に。
目の前の光景が。
ぐらりと揺れた。
「──くっ」
傾いていく身体を支えるために、テーブルの端へ
と手を伸ばすが、それは間に合わない。
気が付けば、俺は床に倒れていたまま、
二つのことを考えていた。
一つは、アキラちゃんの未来視が、あっさりと当
たってしまったということ。
もう一つは、
──「からい」と「つらい」は同じ漢字なのだと
いうこと……
「──さまっ」
ぼんやりと声が聞こえる。
「──志貴さま、これを」
口元に、あたたかい感触が伝わってくる。
「……?」
閉じかけていた目で、じっと見つめてみる。
口元にあるのはスプーン。
目の前にあるのは、翡翠の顔。
「……あ」
こくりと喉を温かいものが通っていく。
おそらくは、翡翠が作ったスープか何かだろう。
体の中に、じんわりとやわらかく染み込んでいく。
そして、
「……少し、失礼します」
翡翠はそう言って、
ぱくり。
俺の口へと運んだスプーンを、今度は自分の口元
へと持っていった。
「ひ、翡翠?」
翡翠の行動が理解できなくて、それでいて気恥ず
かしくて、俺は翡翠へと詰め寄った。
「志貴さま、お加減はいかがでしょうか?」
「え?」
詰め寄ったはずの翡翠に逆に問われ、俺は一瞬返
事に窮する。
「……あれ、良くなってる……?」
「よかった……」
翡翠が胸をなで下ろす。
「……もしかして、翡翠のおかげ?」
「…………」
俺が問うと、翡翠は顔を真っ赤にして、そのまま
うつむいてしまった。
「……あ──」
突然、脳裏にぱっと先程の翡翠の奇怪な行動──
俺のスプーンを自分の口に運んだあの行動が思い浮
かんだ。
「共感者……」
「…………」
そう、確か以前、翡翠は体液を交換することで回
復がどうこうと言っていた。
その能力なら、俺が回復するのも──
──って、体液!?
「まさか……」
「…………」
翡翠は俺の唾液を口にしている。それは間違いな
い。
では、俺は?
考えるまでもない、あのスープだ。
──そうだ、料理を作っている最中、翡翠もどこ
かへ行っていた。コップを手にして。
「翡翠……」
「…………」
「……何を入れたの?」
「…………」
翡翠の顔が、火を付けたようにますます赤くなる。
「────」
そんな恥ずかしそうな翡翠の気持ちが伝染ったの
か、俺の顔もかあっと熱くなっていくのが分かる。
「……今日の志貴さま、朝から元気がなかったよう
でしたので……」
ぼそりと翡翠が呟いた。
「志貴さまが、元気をとりもどされるようにと……」
「…………」
「…………」
これ以上ないくらい、二人して真っ赤な顔で沈黙
してしまう。
「ふふ」
どこか嬉しそうな笑い声。
「どうやらこの勝負、志貴さんが気に入った方とい
うことで翡翠ちゃんの勝ちみたいですね」
「当たり前です殺人犯」
「それは言いがかりですよう。私もただ、おいしい
ものを作って志貴さんに喜んでもらおうと思っただ
けなんですから」
「そういう台詞は、命がけでもおいしいものを食べ
たいと思ってるヤツに言って下さい。
少なくとも俺は死にたくありませんから」
「はい、では今度からそうします。
さて、それでは翡翠ちゃんの勝ちということで、
瀬尾さま、宣言して頂けますか?」
優しい視線をアキラちゃんへと向けたまま、琥珀
さんはこくりと頷いてみせた。
「あ、はい。この勝負……翡翠さんの勝利です」
「……琥珀さん」
俺は、琥珀さんにだけ聞こえるように、ひっそり
呟いた。
「どうして秋葉にはあれだけ容赦なかったのに、翡
翠にはわざと負けたんですか?」
「…………」
琥珀さんは、一瞬だけ困ったような顔を見せたが、
「翡翠ちゃんですから」
「なるほど」
明るい、声だった。
「それでは、第二試合を行います」
舞台を庭へと戻し、大会は進められていく。
「アルクェイドさま、シエルさま、どうぞー」
「…………」
「…………」
琥珀さんが呼びかけてもこれである。
「志貴さん、あのお二人、もうすっかりやる気です
ので、早めに勝負を始めちゃいましょう」
勝負箱を差し出し、急かす琥珀さん。
「…………」
俺ももう慣れたもので、黙って一枚だけ紙を抜き
取り、流すように琥珀さんへと手渡した。
「はい、どうも。それでは発表します。
アルクェイドさまとシエルさまとの勝負方法は、
『障害物競走』に決定しました」
「……障害物競走?」
「この競技に関しては、私から説明させていただき
ます」
そう言って俺の後ろからふらりと現れたのは、疲
れてはいるものの、どうやら大丈夫そうな秋葉だっ
た。
「秋葉、もういいのか?」
「ええ、あれしきのことで参っていては遠野家の当
主は務まりませんから」
あっさりと言う。
「それで説明ですが、簡単に言うと、この屋敷の庭
をぐるりと一周して早くゴールした方が勝ちです。
よろしいですか?」
「オッケー」
「確かに簡単ですね」
「ちなみに、障害物競走の名にふさわしく、三ヶ所
に障害を用意しています」
そこまで言うと、秋葉は意味ありげな笑みを浮か
べ、
「──お二人なら、大丈夫だと思いますので」
あからさまにアヤシイ発言である。
しかし、
「アルクェイド、こういう形は少々不本意なのです
が、貴方との決着を付けさせていただきます」
「こっちこそ、のぞむところよ」
あの二人を見ていると、確かに何事も大丈夫そう
に思えてくる。
もしかすると、慣れって怖いかもしれない。
俺はふと、そんなことを考えた。
「それでは、位置について……」
玄関の前に引かれたスタートライン。
二人が並んでいるその線は、その後ゴールライン
となる。
「よーい……」
二人が同時に身構える。
そして。
「どんっ」
琥珀さんの合図と共に、
二人は、
左右バラバラに飛んでいた。
「──えっ!?」
何故横に?
瞬間、俺の頭の中に疑問符が浮かび上がる。
しかし、それも本当に一瞬のことで。
次の瞬間には、俺はその理由を理解していた。
二人のいたスタート地点。
そこには、始まって一秒も経たないうちに打ち込
まれたボウガンの矢が突き刺さっていた。
「……な」
あまりのことに驚いてしまうが、それは俺だけの
ようで、競技中の二人は全く気にせずに、すでに庭
の向こう側に消えようとしていた。
「あ、秋葉っ!」
「何です?」
「あれは何だ、あれは。
殺す気か、お前はっ!」
「あの程度のトラップ、あの方たちには足止めにも
なりませんわ。兄さんだってつい今し方見たばかり
でしょう?」
「そりゃ、確かに……」
「それより、こちらにあの方たちの様子をモニター
で写してますから、兄さんも見ません?」
「…………」
しぶしぶと秋葉の横に用意してあった席へと腰を
下ろす。
目の前のモニターには、アルクェイドと先輩が常
人とはかけ離れた速度で競い合っている姿が映し出
されている。
「今回のレースにおいて用意したポイントは三つ、
ラムネの早飲み、麻袋、それからロープ渡りです」
「それだけ聞くと普通の障害物競走だな」
──無論、そうでないことはイヤと言うほど理解
している。スタート地点から、トラップが仕掛けて
あったくらいなのだから。
「ほら、兄さん。お二人が第一ポイントにさしかか
りましたよ」
秋葉の言うとおり、モニターにはアルクェイドと
先輩が、二本のラムネの置かれたテーブルへと到着
している姿が映し出されていた。
二人は同時にラムネを手にし、
「「────けほっ!!」」
……そして二人同時にむせていた。
「おい、秋葉」
「お二人の勝負を見ないんですか?」
「お前、ラムネに何を入れた?」
「…………」
秋葉が言葉を紡ぐのを躊躇う。
だが、それも一瞬のことで。
「……一方には、琥珀特製のエキスを入れてます」
しれっと言った。
──琥珀さん特製……
「うふふふ」
一体、この人は何を入れたんだろうか?
「もう一方は、教会で祝福儀礼を施してもらってい
ます。それでも、あの吸血鬼にはむせる程度の効果
しかないみたいですけど」
「…………」
「それにしても、思った以上に効果はないみたい。
しぶといですね、やっぱり」
秋葉が、呆れたような声を出した。
──兄さんは、情け容赦ない秋葉に呆れてます。
「さて、次は麻袋ですね」
「麻袋ってアレだろ、足だけ麻袋に入れて、ぴょん
ぴょんジャンプするヤツ」
「ええ、そうですけど」
秋葉はあっさりと言ってくれるが、その言葉ほど
あっさりしたものだとは、到底思ってない。
やがて、二人が第二ポイントへとさしかかった。
ばさばさと袋を広げ、足を何かに入れ、
そしてそのまま、二人は前方へとジャンプし──
ずぼっ。
その姿を消した。
「…………」
「…………」
「……なあ、秋葉」
「兄さん、もう少し静かにできません?」
「いや、ほら……
麻袋でジャンプしていくコースに、姿がすっぽり
隠れるくらい深い落とし穴っていうのは、卑怯とい
うか非道じゃないか?」
「あの二人なら大丈夫でしょう」
そんな秋葉の言葉を証明するように、
「てぇぇぇいっ!」
「そりゃぁぁぁっ!」
かけ声と共に、麻袋に足を突っ込んだまま、二人
は落とし穴からぴょっこり飛び出してきた。
「ほら」
「…………」
あれはあれで怖いのだが。主に見ているこっちが。
そんな俺のことなど知らず、
ずぼり。
「そりゃぁぁぁっ!」
ずぼり。
「はぁぁぁっ!」
消えては出てを繰り返していた。
「さて、もうすぐ第三ポイントのロープ渡りですね。
お二人の姿も、もうすぐ見えてくると思います」
秋葉が言うように、第三ポイントはここから見え
る位置、具体的にはゴールより少し手前に設置して
あった。
「いい加減、俺も質問するのに飽きたんだけどさ」
「何です? 言いたいことははっきり言わないと、
ストレスが溜まりますよ?」
「じゃあ聞くけど……」
そう俺が聞こうとしたときだった。
ざざざざざざっ!!
二つの影が、風の速さでこちらへとぐんぐん迫っ
てきていた。
しかも、二人並んで。
「お二人とも早いですわね。さすが人外」
「秋葉、今言いかけたことなんだけどな」
二人をぼんやりと見ながら、俺は言った。
「あのロープ、赤く見えるのは俺の錯覚かな?」
「そういう仕様でしょう。あ、お二人がロープの前
まで」
「でさ、お前の髪も赤く見えるんだけど、気のせい
かな?」
「気のせいでしょう。あ、お二人がロープに」
「さらに言えばさ、二人がロープに乗った途端に、
苦しそうになったのはどうしてだろうな?」
「これまでの勝負の疲れが出たんでしょう。あ、お
二人がそろそろロープを渡り終えますね」
「最後に聞くけど、二人が段々弱っていくのに対し
て、お前の背中に段々オーラみたいなものが見える
ようになったのは、どうしてなんだろうな?」
「兄さん、うるさい」
「……はい」
気が付けば、二人はロープを渡り終わっていた。
肩で息をしているのが見て取れるほどに、二人は
苦しそうである。
二人の動きは、すでに「走る」ではなく「歩く」
に近い。
少しずつ、少しずつ二人はゴールに近づき、
──ほぼ同時に、ゴールした。
「はぁ、はぁ……」
「ふぅ、ふぅ……」
息を整える二人。
だが、やはり並の体力ではないのか、すぐに回復
しようとしていた。
「志貴、今のは私が勝ってたよね?」
「遠野くん、私の勝利を確認しましたか?」
「…………」
答えない俺に、二人は不思議そうな顔を見せる。
──実は、僅かではあるがゴールの際に、はっき
りとした差が生まれていた。
つまり、明確な勝者が判っているのだが、
俺には、
その差の原因を伝えるだけの勇気はなかった。
「勝ったのはアルクェイド。先輩は残念だけど僅か
に負けてた」
「そ、そんな──」
先輩が声を出して悔しがる。
だからこそ、俺は言えなかった。
言えるはずがなかった。
先輩とアルクェイド──
胸も足も、アルクェイドが勝っていたなんて──
「ま、当然よねー」
アルクェイドだけが、脳天気に笑っていた。
「それでは、トーナメント決勝戦を行いたいと思い
まーす」
琥珀さんが、さっと手を振った。
「メイドの鑑、いつも志貴さんのお世話をしている
のは伊達じゃない、一途な想いの翡翠ちゃんと……」
「姉さん……」
「自称志貴さんのパートナー、人間を越えた圧倒的
な力で志貴さんをモノに出来るか、アルクェイドさ
まの対戦です」
「ちょっと、自称って何よ、自称って」
「では志貴さん、最後の勝負にふさわしいものを選
ばれてください」
琥珀さんはそう言うと、おなじみの箱をはい、と
出してきた。
「じゃあ、これで」
一枚引っぱり出し、ぽんと琥珀さんの手の上に乗
せる。
「はい、それでは、決勝戦の勝負方法を発表します。
勝負方法は──」
「…………」
「…………」
「…………」
「……キスです」
「…………」
「…………」
「…………はっ!?」
キス。そんな単語が聞こえたような気がした。
「あ、キス勝負なら、私が説明するから」
アルクェイドが、えへんと胸を張る。
「キスで勝負っていうのはね、志貴にキスして志貴
が気持ちいいって思った方が勝ち。簡単でしょ?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ったっ」
「──志貴、もしかして私とキスしたくないの?」
「そ、そんなことは……」
そこまで答えて、俺は恐怖と後悔を同時に感じて
しまう。
「兄さん」
「遠野くん」
俺を灼きつくすような二つの視線が、痛い。
だが、そんな俺にはお構いなしに、
「ね、翡翠は何か文句ある?」
「…………」
ただただ赤くなって、翡翠はうつむいていた。
「よし、じゃあ反論もないようだし」
言うとアルクェイドは、俺と翡翠を脇に抱き、
「よっ」
軽く地面を蹴った。
ふわり。少しの浮遊感の後、
「とーちゃくっ、と」
俺たちは、二階にある俺の部屋へと来ていた。
「ここなら、ちょっとは邪魔が入らないから」
えへへ、と無邪気にアルクェイドが笑う。
見ると、窓の向こう側では先輩が何かしようとし
ていた。
「ちょっと細工したから、シエルでも三分はかかる
でしょうね。開けるのに」
同様に、ドアの方からもどんどんと叩く音が聞こ
えてくる。秋葉なのだろうが、あちらも空く気配は
なさそうだ。
「さて……」
アルクェイドが、指で唇をなぞった。
「翡翠、私からいいかな?」
「…………」
翡翠は答えない。
「じゃあ志貴、私からいくね」
アルクェイドが俺へとゆっくり近づいてくる。
「お、おい……」
声を出すのが精一杯で、身体はちっとも動いてく
れない。
「時間もないし、ね」
いたずらを無邪気に楽しむようなアルクェイドの
手が、俺の頬へと当てられ、
──ちゅ──
小さな音を立てて、唇が重ねられた。
「……ん」
やわらかくて、あたたかいキス。
唇の感覚が俺の思考に浸潤していく。
やがて。
すっと唇が離れ、
「次は翡翠の番ね」
けろりとアルクェイドが軽く言い放った。
「……なっ!?」
その言葉で、ぼーっと宙を彷徨っていた俺の意識
がはっきりと呼び戻される。
「…………」
「ひ、翡翠?」
「──っ」
不意に、翡翠がすっと俺を見据えた。
そのまま、つかつかと歩み寄り、
そして、
「──失礼します」
決意を込めた言葉といっしょに、
翡翠は、唇をふれ合わせた。
──本当に、唇をふれ合わせるだけの、そんなキ
スというより口づけは、どこかはがゆくて。
それでも俺は、だからこそ俺は、自分の理性とは
関係なく、全神経を唇に集中させていた。
「────」
「────」
そのうち、翡翠はそっと離れ、また顔を赤くして
うつむいてしまった。
「……それで、志貴?」
アルクェイドの声。
「どっちのキスが良かったの?」
「なっ、ばっ……」
「もう、いくらニブイ志貴でも、どっちが気持ち良
かったくらいは言えるでしょう?」
「そ、それは……」
「それは?」
目の前には、期待に満ちたアルクェイドの顔。
ちらりと翡翠の方を見ると、恥ずかしそうにしな
がらも、こちらをじっと見つめていた。
「で、どっち?」
「──ど、どっちも良かったっていうのは──」
「ダメに決まってるじゃない」
ぴしゃりと一括して、アルクェイドが俺の言葉を
遮った。
「もー、キスっていっても勝負なんだから、早いト
コ白黒つけてよね」
「…………」
アルクェイドと翡翠。
それぞれのキス。
「──俺は」
どちらが良かったのか?
もし、答えるなら……
「──俺は──」
ぱりん。
硝子が割れる乾いた音が、室内に響き渡った。
「──ちっ」
アルクェイドが、面白くなさそうに舌打ちする。
割れた窓際には、ふらりとした影があった。
「し、シエル先輩……」
先輩は、静かにこちらを睨んでいるだけだ。
「あら、シエル。遅かったわね」
「…………」
「まあ、あとは志貴の判定を聞くだけだから、もう
少し待ってて」
「…………」
何も言わず、先輩がナイフを構える。
まずい。
本能が、圧倒的な危機を告げる。
この部屋にいては危険だ、と。
思わず入り口のドアへと駆け寄る俺。
だが、
ドアノブに触れた瞬間、俺の身体に寒気が走って
いった。
がちゃり。俺が廻したわけでもないのに、ドアノ
ブはまわり、ドアをゆっくりと開けていった。
「あ、秋葉……」
「…………」
ドアの向こうで開くのを待っていた人物も無言だ。
それでも、あの赤い髪がどのような感情を持って
いるかはすぐに読みとれる。
あれは「怒り」だ──
「秋葉さま」
翡翠が、ドアの向こうの秋葉へと声をかける。
「もうすぐ志貴さまが判定を言われますので、もう
少々お待ち下さい」
「…………」
秋葉の視線が、焼けるように痛い。
「…………」
気が付けば、先輩も段々と近寄ってきている。
「あ、あははは」
俺は何もしていないのに。
「あは、あははあはは」
どうしてこう、危険が向こうから勝手に近寄って
くるんだろうか?
「あははははは、あはははははは」
先生の言葉。
『おかしなモノを引き寄せる』
「あははははははははははははははっ」
乾いた笑い声。
そして。
「た、たぁぁぁすけてぇぇぇぇぇぇっ!!」
一方そのころ。
「あ、いいこと思いつきました」
「どうしたんですか、琥珀さん?」
「あのですね、誰が一番、志貴さんを上手く看病で
きるか、勝負しませんかー?」
「あ、それおもしろそう」
「ですよねー」
/END