■ バイト戦線異常あり / Hrrach
俺は一念発起した。
たとえ幾ら罵られようとも、否定されようとも構わない。俺は俺の選んだ道を行き、俺の選んだ方向へと歩むのだ。
その足取りを止めることは誰にもできない、否、してはいけない。
進む道を選んだということ、それは自分の行動への責務を果たすということ。
責任を持つとは安易な言い回しかもしれないが、自分の歩みに自信を持ち、歩むことの恐怖に自らで対処する。
誰にも束縛されることなく、ただ己のみ。
どこまでも、歩いていこう、この道を。
―――――。
……というわけで。
「俺にバイトをさせてくれっ」
「却下です」
「…………」
「認めません」
「……もう一度言うぞ、秋葉」
「何度言っても同じです」
「お、俺はアルバイトがしたいんだっ!」
「気の迷いです」
「…………」
「諦めてください」
「だ、だから俺――」
「聞く耳を持ちません」
極めて事務的に、しれっとした顔でこちらの言葉を撥ねつける秋葉。
……我が妹ながら、本当に容赦がないなとか思う。
三時のおやつ時の居間でのこと。
心の緊張も緩むだろうティータイムを狙って、猛る心の内を一心にぶつけたお兄さんは、敢え無くつれない妹の前に粉砕してしまったようです。
……我ながら、情けない。
だけどっ!
「今回だけはそうこっちだって簡単に引くわけにはいかないんだっ」
「あら、兄さんにしてはがんばりますね」
「秋葉、わかってくれ。俺は本当にバイトがしたいんだよ」
「ですから、それはダメと――」
「そこだっ、いつもいつも秋葉はバイトをしてはいけないって言うけど、どうしてダメなんだっ?」
「……遠野家の長男ともあろう者が、誰か見知らぬ他人の下で安月給で働かされるなんて、こんな体面の悪いことはないでしょう」
秋葉の冷たい瞳が刺すような視線を放つ。
くっ! まっ、負けないぞっ!
「そ、それはあるかもしれないけどさ。でも世間に揉まれて卓見を養うのもいいことじゃないのか?」
「そのような事を学びたいのでしたら、専属の講師を雇います」
「いや、それとこれとはまた別だよ、やっぱり聞くとするとじゃ中身が違うぞ」
「それでしたらボランティア活動でもやります?」
「うっ……、ま、まぁ、それとこれとはまた話が別で……」
……ダメだ、このままじゃ埒があかない。
秋葉の顔は明らかに「バイト、かっこわるい……」だし、こうなったら早速切り札を出すしかないか。
「だったらさ、一ヶ月、この夏休みの一ヶ月だけでいいから許してくれないか?」
「一ヶ月だろうと一日だろうと同じ事です。ようはバイトという行為自体がダメだとと言ってるんですから」
「そこをなんとかっ!」
「許しませんったら許しません」
「うう……」
いくらなんでも秋葉のヤツ、いやに頑な過ぎやしないか。一度くらい頷いてくれても誰も困りはしないだろうに。
まぁ一度頷いてもらばそこで終わる話だけど
「ねぇ兄さん、私、兄さんに聞きたいことがあるんですけど」
「……ああ、言ってみてくれ」
「兄さんはどうしてそんなにアルバイトをしたがるのですか?」
「えっ?」
「必要なお金はちゃんとその場に応じて工面しますと言ったはずです。それなのに兄さんはなにも言わないし、つまりそれってお金はいらないって事でしょう?」
「…………」
疑うような眼差しで見つめてくる秋葉。
別にそんな目で睨まなんでもとか思うんですけど。
バイトをしたいと思う理由は『自分の手でお金を稼ぎたい』、それだけだ、もちろん。
ほら、お金は自分で稼いでこそはじめて自分の物になるって実感があるじゃないか。
やっぱり貰ったお金で何かしようというのは、どうも性に合わない。
というか、金銭的な事以外にバイトをしたい理由なんてあるのか?
「とにかく、お金が欲しいということではアルバイトをする理由として認められません」
「け、結果はそこに行き着くかもしれないけど、その過程がさ、ほら、大事だったりするかも……」
「そんなことはありません」
……ダメだ、秋葉は頑として首を縦に振りそうもない。
せっかくの夏休み、ただだらだらと過ごしてどこかにちょっろっと遊びに行くより、少しは貯蓄に励もうかと思っていた計画は発令前にすでに頓挫しかけているご様子。
どうしようか、本当に……。
どうやって秋葉を説得しようか。
う〜ん。
「――秋葉さま、そろそろお時間でございます」
静かな声で事を告げ、翡翠がしずしずと居間の中へと入ってきた。
「あら、もうそんな時間なの」
「はい」
「わかったわ」
そう言うと秋葉はカップに残っていた紅茶を優雅に飲み干し、そのまますっと立ち上がった。
「それでは私は行きますけど、……兄さん」
「なんだ?」
「何度言おうが私は認める気はありません。これ以上無駄なことに時間を割くのはお止めください」
「……うっ」
「では、失礼します」
最後までろくに表情を見せないまま、秋葉は翡翠の奥向こう側へと消えていく。
なにもそこまで言わなくてもいいと思うんだけどさ、ホント……。
あんな妹を持ってしまった俺が不憫なのか、あんな妹になるまでほっといた俺がいけないのか。
どちらにせよ、溜息を隠すことはできない。
「はぁ……」
「……なにかお困りなのですか、志貴さま?」
「え、ああ、ちょっとね」
部屋に残っている翡翠がその嘆息を聞きつけて声をかけてくれる。
その彼女の顔を見上げると、弱々しいながらも明らかな心配げな表情。
「いや、そんな大事じゃないんだけどね」
「もしわたしにお手伝いできることがございましたら、いくらでもご協力いたしますが……」
「ご協力って言ってもなぁ。ただ秋葉を説得しきれなかっただけだし」
「説得……ですか」
それはどうしたものかという思案顔で、翡翠は俺を見つめてくる。
たぶん仕える者として、主人同士の話し合いに首を突っ込んでいいのかを考えているのだろう。
これが琥珀さんなら嬉々として割り入ってきそうだけど、そこはやっぱり翡翠、相変わらずだ。
「……申し訳ございません、わたしが口を挟むことではないようですね」
「そうでもないけどね。……って、そうだ、なぁ翡翠」
「はい、なんでしょうか?」
「翡翠からも秋葉に言ってくれないか?」
えっ……と、息を呑む音。
「わ、わたしが秋葉さまを説得するのですか……」
「そこまではいいよ。ただ何か一言くらい言ってくれればいいんだけど」
「一言、ですか……」
「……っと、でもさすがにそれは酷か。ごめん、今のは気にしなくていいから」
「あ、いえ、その……」
俯いて、なにやら難しそうに考える翡翠。
じっと見ているとだんだん眉間に皺が寄ってきて、じっくりゆっくりと八の字になっていく。
ちょっと、おもしろいかも。
そんな風に俺が見ている中で、何かを決意したように一度小さく頷いて、翡翠は再びこちらへと顔を向けた。
「……わかりました。志貴さまのお悩みが解決するのでしたら、わたしも秋葉さまの説得にご協力したいと思います」
「ああ、そうかい……ってええっ。いやいいってホント、さっきのはホンの冗談で……」
「先ほどのお言葉が冗談でも、志貴さまがお悩みを抱えているのは冗談ではないはずです」
凛とした声で、少しばかり怒っているような表情で、翡翠がはっきりと言う。
翡翠の言葉はいろいろな意味で、毎度の事ながら俺の息を止める。
今回はもちろん、いい意味でだけど。
「ですから、わたしにも協力させてください」
「……そうか、ありがとう」
「いえ、わたしの主人は志貴さまですから――」
頬を染めて僅かに微笑む。
…………。
その仕草は、心からかわいいと思えた。
「それで、です。志貴さまは秋葉さまといったい何について話し合われていたのですか?」
「ああ。実はね、バイトのことなんだ」
「……バイト、ですか?」
「そうなんだよ」
「――それは、志貴さまがアルバイトをする、ということでよろしいのですか……?」
「うん、そう」
「……バイト……アルバイト」
反芻するように呟きを繰り返す翡翠。その顔に浮かぶ笑みが、少しだけ固まった気がした。
俺は構わず、話を続ける。
「せっかくの夏休みだし、特にどこに行く予定もないから今のうちに少し懐を暖めておこうと思ってるんだけど……、それがどうしても秋葉が許しをくれなくて」
「…………」
「確かに俺は遠野家の長男であるけどさ、別にこの家を背負って立つわけでもないし、その程度はいいと思わないか?」
「…………」
「必要があればお金を出すとは言われてるけど、そういうのは……ちょっとな」
「…………」
「だから俺がバイトをできるように翡翠からも話を……って、翡翠?」
「――あっ、はいっ、も、申し訳ございません……」
「どうしたんだ、突然ぼぉ〜っとして?」
「いえ……」
歯切れの悪い答え。そしてちらりちらりと不信げにこちらへ視線と向ける翡翠。
……なんだ、どうかしたのか?
「あの、翡翠……。俺、何か変なこと言ったか、今?」
「い、いえ、そのようなことはないのですが……」
「でもなんだか急に翡翠の態度が変わったみたいだし」
「あ……」
「何かあるんだったら、はっきり言ってくれよ」
「……はい」
少しの間、翡翠は視線をひらひらと漂わせていた。
そして見つめる中、やがて決心したように俺の瞳に視線を合わせる。
なぜか、頬を紅く染めながら。
「志貴さま……、その、大変申し訳ございませんが、あの……秋葉さまを説得するという件についてですが、やっぱり、ご協力することはできません……」
「あ……ああ、そうか。別に構わないよ、秋葉に物を言うのは翡翠には大変かもしれないからね」
「……あ、いえ、そうではないのですが……」
「わかった。もうちょっと自分でがんばってみることにするよ」
「――あ」
仕方がない、翡翠の立場からしてやっぱり秋葉に一言を言うのは難しいだろう。
頼んだ俺が悪かったな、余計な気を使わせる事になって。
まぁ結局は自分のことだ、自分で何とかしよう。
「それじゃ翡翠、また後で。仕事がんばってな」
「…………」
翡翠に軽く手を振って、俺は居間を後にした。
背中になにか、視線のようなものを感じながら。
――――――
「さて、どうしたものかなぁ」
ふと気がつくと、壁も天井もない木と土と空の世界に俺は立っていた。
どうやら考えながら歩いていたら、知らず知らずのうちに屋敷の外へと足が向いていたようだ。
「う〜ん……」
いくら頭を捻ってみても、どうやってもあの秋葉を言い負かすことができるような決定打を俺の頭脳は打ち出せなかった。
このままじゃ完全試合をされた負けチームになってしまう。
しかし反面、バイトをしたいという気持ちは最初のころよりもずっと高まっていた。
奪われた自由は渇望してもやまないモノなのだ、きっと。
秋葉に付けられてしまった見えない鎖、どうにかして断ち切らねば。
「あらー? こんなところでどうしたんですか志貴さん?」
「……え。ってああ、琥珀さんか」
「難しい顔をしてうんうん唸っちゃって、もしかしてお通じが来ないんですか?」
「い、いや、そうじゃないんだ」
それと意識せずに歩いて来たテラスには、いつものように庭の掃除をして回る琥珀さんがいた。
変わらない笑顔を称えながら、俺の顔を覗きこむようにして見ている。
「琥珀さんも毎日大変だね、こんな広い庭を全部管理してるんだから」
「さすがに全部は掃除できませんよー。目に当る所だけはしっかりと、後は……ふふっ」
「あははっ、そっか、それでも、ご苦労様」
「ありがとうございます。でもちょっと今は休憩中なんですよー、秋葉さまにはサボっていたなんて言わないでくださいね」
困ったような表情をして、でも声は楽しそうに琥珀さんは言った。
なんだかそんな仕草をされると、話している俺まで楽しくなる。
「……とと、そうでしたそうでした。それで志貴さん、唸っていたのはどうしてですか?」
「ちょっとね、考え事だよ」
「あらら、何かあったんですか?」
「あった……というか、秋葉のヤツがさ、俺がバイトをするのを認めてくれなくてね」
「あ〜、なるほどー」
合点がいったとばかりに琥珀さんはにっこりと笑顔を見せる。
「それが志貴さんのお悩みの原因なんですねー」
「そういうことだよ。ホント、俺はただ自分の手でただお金が稼ぎたいだけなのに、それだけなのに、お金を稼ぐ以外の理由が無くちゃダメなんてさ」
「ははーん、でもそれは困りましたねぇ」
俺の代わりにか、今度は琥珀さんがうーんと唸っている。
まるで自分のことのように真剣に、腕を組みながら、これでもかというほどに悩みまくっていた。
「実はですね志貴さん、今回の問題とは関係がないかもしれませんけど、この間、秋葉さまに聞かれたんですよ」
「え?」
「志貴さんがバイトをしたがるのはなぜかって、そう聞かれたんです」
「……ふーん、おかしなことを聞くよな、あいつも」
普通はそんなものお金が欲しいに決まっている。
「仕方ありませんよ、秋葉さまはお金を稼ぐという概念をあまり理解されていないようでしたから」
「う〜ん……」
産まれた時から富豪であることの反動、なのか。
それはそれで問題がある気がする。
これはバイト論議が一段落したら、不肖ながら兄として秋葉とじっくりと話し合った方がいいのかもしれないな。
「ですから、わたしもできるだけわかりやすく説明はしたつもりなんですが……」
すまなそうに琥珀さんが微笑む。
「どうやら、完全にはわかってもらえなかったらしいですね」
「いや、秋葉の境遇を考えれば、しょうがないさ。それよりもありがとうな、琥珀さん。あいつにモノを教えてくれて」
「うふふ、そんなことないですよ」
琥珀さんはどこか照れたように柔らかく微笑んだ。
「……と、それじゃそろそろ休憩終わりです。またわたしは掃除しに行きますから、志貴さんも秋葉さまの説得、がんばってくださいな」
「ああ、がんばってみるよ」
よしっと気合を入れ、パタパタと手を振ってから琥珀さんは再び庭の掃除へと戻っていった。
…………。
――その後姿をぼんやりと眺めながら、俺はその場に立ち尽くしていた。
そうか、琥珀さんをもってしても秋葉のバイト嫌い(もうこう言ってもいいだろう)を矯正することはできなかったのか。
秋葉を説得するのが一筋縄じゃいかないことは覚悟していたつもりだけど、さすがにここまで希望がないと説得しようだなんて考え自体が間違っているんじゃないかとか思えてしまう。
関係者の中で一番秋葉に親しい琥珀さんでダメだったのに、問題の当事者である俺があいつを言い包めることなどできるのか?
「……はぁー」
我ながら悲しくなるような長い嘆息を洩らしながら、俺は当て所もなく無駄に広い庭を歩き始めた。
――――――
とにかく、気が重い。
俺はただバイトがしたいだけなのに、なんでこんなにも悩まなくてはならないのだろう。
――まぁ確かに、秋葉が言うことも理解はできる。
親父が死んだからとはいえ、今更ながらに半勘当状態だった遠野家へと戻って来た俺への周囲からの風当たりはたぶん、かなり強い。
こうして俺が普通に精神的な気負いもなく生活できるのも、秋葉がいろいろと配慮してくれているからだろう。
そんな状況下でバイトなんてしようものなら、俺のことを疎んじている人間との要らぬいざこざを起こすかもしれない。
わかってる、それはちゃんとわかっている。
でもさ、俺だってまだまだ若いんだ。
やっぱり、自分のやりたい事を一番に考えてしまうんだ……。
「……はぁ〜」
もう何度目になるかわからない嘆息。
いつのまにか辺りに木が生い茂る中で、俺は一人頭を悩ませ――
ひゅっ!
「っ!?」
何かと考える前には、すでに身体が動いていた。
ドスっ!
「うぉっ!」
ドスドスドスっ!
「うわわっ!?」
次々と飛来する細長い何か。
それはまるで狙い澄ましたかのように、俺が避けた後の地面に木の影を深々と縫い付けていった。
そして瞬く瞬間から細長い何かは火炎の柱となって燃え上がる。
「な、なんだぁぁぁっ!?」
身体は無意識にも驚くほど機敏に動く。がしかし大本である意識はといえば、先ほどからパニクリ状態を連続実行していた。
――こういう時、まったく主人公でよかったなぁと思う。
ドス、ドスドスッ!
「わっ、とっととっ!?」
って!
なんとか思ってるうちに、すでに背後には俺の退避行動を妨げるように意地悪な木が立ち塞がっている現状っ。
ガンと背中を突き抜けてくる衝撃、ドスドスぼかんっと殺しますよって感じの音を立てながら迫り来る細長い物。
あんなものに少しでも触れたら、痛いなんてモノじゃ済まされないっ!
うわっ、主人公の絶体絶命級大ピンチっ!?
「ちょ、ちょっと、いい加減やめてくれっ!」
――――――。
…………。
その俺の叫びが届いたのか、どこからともなく降って来た謎の細長い何かがピタリと降り止む。
いや、細長い何かは正確にはよく見知った物である。
そう、よく見知ってしまった物。
本当なら見知りたくなどなかったが、いろいろあって記憶の片隅に焼きついた殺傷武器のシルエット。
それはあの人が扱う、黒鍵と呼ばれる……。
「遠野君、こんにちはー」
黒鍵の代わりなのか、聞きなれた声が頭上から降り注ぐ。
見上げてみると案の定、縦横に伸びた木の幹の一つに乗っかって、能天気にぺらぺらと手を振るシエル先輩の姿があった。
まったくなんの憂いもなく、気にした風でもなく、にこにこと笑顔を見せている。
「……あの、先輩」
「うふふ、頭の上からこんにちはー、ですね」
聞いちゃいない。
これはこのまま今の襲撃を流せという意思表示なのかな、やっぱり。
すっごく、とっても俺としては腑に落ちないところが多すぎなんだけど。
「お元気ですか? うーん、ここから見る分には元気一杯って感じでしたけど」
「とにかく、まずは早く降りてきてください、その角度だと、その、スカートの中が見えますから」
「きゃっ、なんて恥ずかしいことを言うんですか、遠野君は」
「いいですから、早く」
「はいはい、それじゃ――」
と。
そこまで笑顔だった先輩の表情が一瞬にして引き締まる。
いったい、どうしたんだ――
ざくっ!
「え?」
ばき、ばきばきばきぃっ!
「のわぁぁぁぁぁっ!?」
ずどーん……
「はっ、はぁはぁはぁ……な、なぁっ!?」
つい数瞬前まで背後にあった木が、今は無残に横倒しになっている……。
見るとちょうど俺の背中があった辺りから何か鋭いもので切り折られたような傷痕が木に刻み込まれていた。
もしあのままの場所に俺が立っていたら、きっと今ごろ倒れた木の下敷きになってじたばたと苦しげにもがいていたことだろう。
ぞぉ……。
ふたたび主人公でよかったーと思う瞬間。
――まぁ、ちょっとビビって手が震えているのはこの際気にしないぞ。
「――まったく、油断も隙もないんだから」
命の刹那さ儚さ不安定さとか主人公であることの偉大さ、そんなことをもろもろに感じている俺の耳に、これまた聞きなれた声が飛び込んでくる。
「おっ、おいっ! アルクェイドっ!」
「あっ、やっほー、志貴」
「やっほー……じゃないだろっ!」
「あれー、どうしてそんなに怒ってるのー」
おまえもか、おまえもなかったことにするんだなっ、俺の味わった恐怖をっ。
不条理に嘆きまくる俺の目の前に、自分ひとりで何も言わずに逃げ出した先輩が降り立った。
「このアンポンタン吸血鬼、どうしてあなたはすぐにこういう常識外行為に出るんですかっ!」
「ふんっ、常識外はどっちよ。わたしが志貴の側に行こうとしたのをあんな凶悪武器で遮るなんて」
「あなたのような汚らわしい人……じゃなかった吸血鬼が遠野君に害を成さないうちに遠ざける極めて適切な判断だったと思いますが」
適切な、判断……。
そうですか、そうなんですか? あんな死に目を見た状況が適切な判断なんですか、先輩。
「まぁいいわ、シエルなんて放っとくに限るし。それよりも志貴、どっかに遊びに行こうよー、ねー?」
「ふん、残念でした。遠野君はこれからわたしとお買い物にいくんですよーだ」
「はぁ? 先輩……そんな約束をした覚えは……」
「そんなことないよねー、志貴はわたしと遊びに行くって約束してたもんね」
「してない、そっちもしてないっ」
ニコニコとそこはかとない迫力を漂わせながら迫り来る厄介者たち。
しかもこちらの発言権はすべて却下の憂き目。
ただでさえバイトの事で頭が痛いというのに、今日もまたこの二人に振り回されなくちゃならないのか、俺。
「さぁ、早くわたし(強調)とお買い物に行きましょうよ、遠野君」
「ねー、志貴はどこに行きたい? 映画館? 遊園地? 死徒退治?」
笑顔で、でもその水面下ではお互いの手を固く握り締め合い牽制し合いながらの殺伐とした雰囲気の中、二人は俺に詰め寄る。
まぁ、これはアレだ、どちらを選んでも急角度鋭角的に角が立つ、というやつ。
――悲しいけど、これが『お約束』という俗世のしがらみ。
だけどっ、今日の俺はそんな惰性的状況に流されているだけではいられないんだっ。
「二人とも待ってくれっ、俺はどうしても秋葉を説得しなくちゃならない事があるんだ。だから悪いけど、遊んでられないし、どこにもいけないよ」
「えーー」
「なんですか? 説得する必要のあることって?」
「……実は」
ここからしばらく、おれのトークタイムが続いた。
――二人に現在の経緯を話して納得してもらう。
これが俺が導き出した最善の回避策だ。
悪いとは思うけど、正直に言って今この二人に構っている余裕はない。
なんたって俺の進退問題がかかってるんだから。
秋葉の性格を考えると、だらだらと引き延ばすよりは勢いで攻め込んでいったほうが得策だろう。
思い立ったが吉日。一撃目を放ってしまったんだ、素早く二撃三撃と攻め込まなければ……。
もう、後には引き下がれない。
…………。
――なのに
「それって絶対、妹が悪いよねっ」
「こればっかりはあなたに同意しますよ。わたしも秋葉さんの態度はとてもじゃないですが好ましいとは思えません」
先輩の返し言葉にこくりと頷くアルクェイド。
ある意味俺以上に秋葉の態度に反感を覚え、間違いなく俺以上に秋葉に対して負の感情を燃え上がらせる二人。
――あれ?
予定とちょっと違うような……。
本来ならここで引いてくれると助かったんだけどなぁ〜。
確かにこの二人の息が合っているということは驚きだ。珍しくすらある。
だけど、なにもここまで盛り上がってくれなくてもいいんだけどさ、いや、ホント。
「……よし、こうなったらわたしが妹に一言がつんと言ってあげる」
「わたしもです。このまま彼女の暴挙を見過ごすことはできませんよ」
「えっ!?」
そ、それは……なんかまずい。
秋葉と、アルクェイドと、シエル先輩。
三人が一堂に会する場面を少し思い描いてみた。
―――――。
絶対に何かが破滅的にまずいっ!
「ば、バイトの件は気にしなくていいから、俺の事なんだから自分でどうにかするからさ。だから、な? 今日のところはいったんおうちに帰ると――」
「何言ってるの、志貴を悩ませた原因を放っておけるわけないでしょ」
怒ったような表情をして、腕を組みながらのアルクェイドの言葉が耳に届く。
はっきり言って、聞きたくないぞ、今その台詞。
その横で同じような表情のシエル先輩がこくりと強く頷いた。
「……ええと」
突然の展開に俺はついていくのがやっとだった。
二人の異様な剣幕に押されて、助けを求めるかのように視線をふらふらと漂わせてみる。
もちろん、そんな思いを拾ってくれる優しい存在がここにいるはずもないが……。
―――――。
――もう、一度考えてみようか。
どうしてだか仲が悪い秋葉と先輩、なんとなく頷ける仲の悪さの秋葉とアルクェイド、そして一時的に協調しているけどいつどこで崩壊しかねない危ない綱渡り的仲の悪さの先輩とアルクェイド。
ただでさえ微妙な問題なのに、どんな肝の据わったヤツがこの面子を集めようと思うのだろうか。
……いるわけ、ないよなぁ。
「相手はあの秋葉なんだぞ、二人ともあいつの性格わかってるだろ? あいつが自分の意見をなかなか……っていうかほとんど取り下げないって」
「だったら遠野君は秋葉さんの言葉に従ってバイトもできずに、一人枕を悔し涙で濡らすつもりですか?」
「うっ……」
それは……嫌だけど。
「大丈夫だよ、わたしたちに任せておいてよ。絶対何とかしてあげるから」
だからそれ一番不安なんだってっ!
「――それじゃ行きましょう、遠野君」
「えっ?」
がしっ!
「妹なんか簡単に捻じ伏せて見せるからねー」
「あれ?」
がしっ!
なんだかんだという間に両手を拘束されて、ずるずると引き摺られるように連れて行かれる俺。
ってっ!?
「ちょっと待ってくれ二人ともっ! 自分で説得するから、自分でがんばるから放っておいてくれていいってっ!」
「あはは、遠慮なんかしなくてもいいんですよ。困ったときは人間助け合いが大切ですから」
「そうすると別の意味で困りそうな要因が生まれるんですよっ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、妹とは一度決着つけなくちゃと思ってたんだから」
「おい決着ってなんだ決着ってっ!?」
二人の引っ張る力は強い。
返って俺の引き止める力は弱い。
…………。
――つまりは、抵抗するだけ無駄……。
まるで捕まった宇宙人のように目に見える抵抗はできず、俺はそのまま屋敷へと連行されていった。
――――――
『……バイトすれば、それだけあの厄介な妹の監視下から志貴が離れられる。あははっ、これであとはシエルさえどうにかすればおっけいだねー』(inアルクェイドブレイン)
『ここでバイトをしてもらわないと、いつまでたってもデートに行く時はわたしが遠野君におごらなくちゃなりませんし。この一戦、絶対に勝たせてもらいますよ秋葉さん』(inシエルブレイン)
――――――
「お帰りなさい、志貴さま。……と、アルクェイド様、シエル様……、いらっしゃいませ」
ちょうど屋敷の中の掃除をしていた翡翠と玄関でばったりと会った。
翡翠は俺の両脇を厳重確保している二人に軽く会釈をして、ちらりと一瞬だけ俺のほうへと視線を向けた。
その視線は……なんだかちょっと冷たかった……。
「お二人とも、なぜ志貴さまにそのような仕打ちをなさっているのですか……」
「ああ、気にしなくていいですから翡翠さん。ところで遠野君、秋葉さんはどこにいるんですか?」
「……ご用事ですか?」
「ええと。なぁ翡翠、秋葉の用事はもう終わったのかな」
「はい、すでに先方はお帰りになられました。いま秋葉さまは自室で休んでおられます」
それが何か?、と翡翠は視線で尋ねてくる。
「じゃあさっさと行ってちゃっちゃと話をつけてこようね」
にっこりと笑いながらアルクェイドは俺の手をぐいっと引っ張って進もうとする。
――そこへ。
「お待ちください」
その行く先に翡翠がすっと立ち塞がった。
「むー、ちょっと、そこどいてよ」
「先ほども言いましたが、秋葉さまは休んでおられます。最近の秋葉さまは様々な雑務に追われてお忙しい身、秋葉さま自身から出てこられない限り、休養の時はそっとして置いてくださいませんか」
「いえいえそんな込み入った話じゃないんですよ翡翠さん、ただ一言秋葉さんから了解が得られればいいんですから」
「了解、ですか……。――なるほど、それはもしかして……」
言って翡翠は俺に視線を投げかけてくる。今度のそれは、明らかに冷たさがわかる視線だった。
「…………」
頬をたらりと冷や汗が流れていく感触をちょっとばかり味わってみる。
そんな狼狽っぷりで十分だったのだろう、はぁと小さく溜息を洩らし、俺を見つめながら翡翠は言う。
「志貴さま、アルバイトの件はすでに話がついているのではなかったですか?」
「そう……なんだけどさ、その話をしたら、この二人が一言どうしても言いたいって」
「当たり前です。確かにここの家の当主は秋葉さんかもしれませんが、いくらなんでも遠野君のバイトにまで口を出すの横暴ですっ」
「……秋葉さまにも、いろいろとお考えがあるのです。お二人には申し訳ございませんが、遠野家の内情に関して口出しは無用でございます」
「あー、その言い方はひどいよっ」
ぷんぷんと音が聞こえてきそうな二人を前にして、翡翠は一歩も引く様子がない。
キッと口元を結んで、声の無い迫力で二人を牽制する。
「とにかく、そこを通してよ」
「お断りします」
「翡翠さん、わたしたちがこうして言葉で収めようとしている時が一番です。悪いことは言いません、わたしたちを秋葉さんの部屋に行かせてください」
「ですから、お断りします」
「そう……それじゃあ――」
「わーっ、待て待てアルクェイドっ!」
紅い瞳の色が変わっていくのを危ういところで止めた。
俺にぐいっと引かれたアルクェイドは「むー、どうして止めるのよ」って表情をしながらそのまま黙っていた。
お前と翡翠じゃ、間違いなく翡翠がトマトのマットに沈んじゃうだろうが。
「――とにかく三人とも落ち着いてくれ。いいか、これは俺と秋葉の問題なんだ、それなのに三人がいがみ合うのはおかしいってことに気が付いてくれ」
「でも志貴ー……」
「だって遠野君、わたしたちはあなたの力になりたくて……」
「それはわかってる、俺もそれはとても嬉しいと思ってるよ。だからこそ、好意でお互いに喧嘩をされちゃ困るんだ、いや、ダメなんだ」
そうだ。 これは……本来は俺が自分でケリをつけなければならない事。
それがうまく行かなくて、見かねたアルクェイドとシエル先輩が手助けしてくれようと、こうして来てくれた。(まぁ、引っ張ってこられたんだけど)
――でも間違っちゃいけない、それは二人が当事者になるということじゃない。
二人が俺のために腹を立ててくれるのは正直に嬉しいけど、そう、それは間違っている。
俺の代わりに怒りで代弁する二人、それはおかしい、間違っているんだ。
言いたいことを言わないで、他人に任せたままで 物事を成し遂げるなんて、それはただの甘えに過ぎない……。
「喧嘩だなんて、そんなことは以っての外だ。もし喧嘩なんてするなら、俺はもう二度とバイトをするなんて言わない」
『…………』
「いろいろと勝手な事を言ってるかもしれない、けど、ダメだ、ダメなんだ。これは戦いじゃないんだから。あくまで、話し合いの説得なんだ」
「……志貴」
「……遠野君」
「……志貴さま」
ようやく冷静さを取り戻してくれた三人が、一同にこちらを見やる。
いつのまにか拳を固く握り締めていた俺がその中心に入れたことは、やっぱり嬉しかった。
今の気持ちがそのまま伝わってくれればいいと思う。
……まぁ、ちょっとだけ恥ずかしい言い方だけど。
「……ごめんね、志貴。わたしちょっと落ち着いたほうがいいね」
「うん、ありがとう、アルクェイド」
「わたしとしたことが……ごめんなさい、遠野君」
「気にしないでくれ先輩、わかってくれればそれでいいから」
「…………」
翡翠は何も言わない。
ただ、透き通るような瞳の光が少し優しくなった気がした。
「……それじゃ、俺は秋葉と話をつけなくちゃ。翡翠、そこを通してくれないか?」
「あ……」
冷たさを感じた雰囲気はもう和らいでいたが、今度はそこに困惑のトッピングが加わる。
翡翠は困ったような表情を浮かべて、その視線を中に這わせた。
そう、それは何か言いたい事があって、でも言えないというジレンマを抱えたような……。
なんだろう? まだ、何かがあるのかな?
…………。
――ん?
そういえばさっきもこうだったな。バイトの話を持ちかけた途端、翡翠の態度がおかしくなって……。
「どうかしたのか翡翠。なんだかすごく困っているみたいだけど」
「あ、いえ、そういうわけでは……ないのですが」
「?」
俺の頭上にクエスチョンマーク。
隣にいる二人も同じようだ。彼女たちにとっては翡翠が狼狽するという様子すら不思議に思えるのかもしれない。
俺たちの謎発生源と化してしまった翡翠は今まさに謎製造の真っ最中。何度も口を開きかけては閉じ、手を動かして何かを伝えようとしては止め……。
しまいには口に手を当てて、頬を朱に染めてなにやらぶつぶつと呟き始めた。
すまないと思いながらも、今の翡翠の姿をちょっとだけ気味が悪いと感じてしまう自分がいたりして。
「――騒々しいわね、何事ですか?」
俺たちの頭上からそんな声が聞こえた。 見上げると、そこには少し不機嫌そうな顔をしたただいま件の渦中の人、秋葉がいた。
秋葉は不機嫌そうな視線を不機嫌そうに俺、翡翠へと移していき、そして次にアルクェイドとシエル先輩に運んだ。
「……うわ」
そんな声が聞こえてきそうな、そんな表情。いや、実際に声は聞こえてきたんだけど。
うっとうしいのと嫌なのとなんでここにいるのという感情を絶妙にマッチさせた表情だった。
お嬢様風のイメージを軽く捻ってくれるようなおもろかしい表情を見せたまま、秋葉の動きが止まる。
ただそれも一瞬のことで、すぐさまいつものすました顔に戻る。そしてそのまま静かに階段を下りてきた。
「また来たんですか、あなた方は」
のっけから随分な一言をぶっ放す秋葉。
アルクェイドと先輩を見据える威力あるジト目、すでに心の中では臨戦体勢に入っているのだろう。
先制打を打たれてむっとする二人、だが一歩前に出そうなところを俺が片手を上げて制した。
そして言った。
「秋葉、少し時間をくれ」
「なんですか兄さん」
「もう一度、しっかりと話し合いをしてくれないか」
「……またですか」
どうやら一言で言いたい事は伝わったようだ。
はぁ……と、呆れたようなため息を吐き出して見せる秋葉。
「私の答えはもう先ほど言ったはずです。絶対にアルバイトなんてさせませんよ」
「そこをなんとかっ、俺だって本気なんだっ!」
「でしたらその意気でもっと勉学に励んでください。前学期の成績、あまり芳しくなかったようですけど」
「……い、今その話を出さなくてもいいじゃないか」
「そんなことはありません。兄さんは夏休みだけのアルバイトと言いましたが、そんな無駄なことをしないで、この長期期間を利用すればいくらでも今までの遅れを取り戻すことができますよね」
「そ、それは……」
「お金のことを心配する必要はないんです。でしたら少しでも成績を上げることに注力すべきです」
「…………」
「なんでしたら、私が勉強を見てあげてもよろしいですよ」
そ、それは兄的にはとても痛い言葉なんですけど……。
いままで平々凡々な学生生活を送ってきた俺と違って秋葉は最高級の教育を受けてきた猛者だその学力たるや、普通教育受教者たる俺なんかを軽く超えていることだろう。
秋葉の自身に満ち溢れた表情が何よりの証拠だ。
「兄さん、あなたはアルバイトなんて言う前に、まずご自分の身の回りの事から片を付けていく必要があるんじゃないかしら?」
「……ううっ」
またもや、返す言葉が、ない。
二度目にして、また。
秋葉の言うことは繊細に織り上げられた正論だ。些細な綻びもなく、針の通る隙もないほど緻密な言葉のヴェール。
すべてが俺の心当たりを突くナイフ、ここまでメッタ刺しにされれば息の根も止まる。
アルクェイドが、シエル先輩が、翡翠さえもが心配そうな表情で見つめてくる中、俺は俯かずには立っていられなかった。
「とにかく、そういうことです。自分の事も制御できずに、ただお金が欲しいというだけのアルバイトは認められません」
無表情な、今の俺にはそう聞こえるのかもしれない無表情な秋葉の声がきっぱりと言う。
――何も、言い返せない。
しばしのぬるい沈黙が辺りを流れた。
「……それでは兄さん、みなさん。私は自分の部屋に戻りますので」
沈黙をそのまま楽々と背負い込んで、秋葉がくるりと階段へ身体を向けた。
そしてそのまま上へと上がっていこうとする。
その小さなはずの後姿が、何よりも頑強な鉄壁のように見えた。
――やっぱり、俺は……。
「待ちなさいよ」
――アルクェイドだった。
俯きうな垂れた俺の後ろから、救いの声を出してくれたのは。
少し怒気を孕んだ声色で、彼女の一言は紡れていた。
「……アルクェイドさん、何か?」
「何かじゃないわよ、いくらなんでも、今のは志貴がかわいそうじゃないの」
「これは私たちの問題です、あなたが口出しすることではありません」
「その言い方も、卑怯っ」
ぷんぷんと、まるで自分が貶されたかのように怒るアルクェイド。
紅く透き通る瞳がゆらゆらと燃えていた。
「わたしもそう思いますね。……確かに遠野君の成績がダメダメのズタボロなのは知っています。それにしたって、あなたの言い方は酷過ぎますよ」
シエル先輩も怒ってくれていた。
アルクェイドと対照的な蒼い双眸が涼しげに揺らめく。
途中のシエル先輩のあんまりな台詞が気にならないくらい(そう、気にならないんだ……)、前を塞がれた今の俺にとって、二人の言葉がとても大きかった。
「理詰めを弄するのは間違いじゃないですけど、それでは秋葉さんは遠野君と『話し合い』をしたことにはなりません。あまりにも一方的な攻撃ですよ、あれじゃ」
「…………」
「ねぇ妹、志貴の話を聞いてあげてよ。ちゃんと向かい合ってさ」
「……そんな、こと」
「いろいろと複雑な事情があるのはなんとなくわかります。でも遠野君は……必死なんですから」
「志貴が悩んでいるんだから、わたしが黙って見ていられるはず、ないよ」
「…………」
「秋葉さん」
「妹」
喧嘩腰にならず、静かに、戒めるような口調で。
二人はさっき俺がそう伝えたように、言葉や態度で秋葉を罵らず、俺のために『話し合い』の場を作ってくれようとしていた。
いつもは喧嘩ばかりしている二人が、俺のために力を合わせて……。
…………。
――今、かなり、感動している……。
「…………」
先ほどの冷徹な雰囲気はどこへやら、二人の意外な懇願に戸惑った秋葉は宙に浮いた視線を、この場で唯一沈黙を保っている翡翠へと向けた。
その視線を受けて一瞬視線にたじろぐように身を引いた翡翠、そしてあたふたと困ったようにこちらも視線を宙に漂わせる。
そんな浮動な二人を見つめるのは白と青の不動の二人。
再び沈黙が、しかし先ほどとは違ういやに嵌りの悪い沈黙が流れた。
「……はぁ」
沈黙の最後を掠め取っていったのは、先ほどと同じ、やはり秋葉だった。
どこか諦めの混じった表情で一息を吐き出す。
「確かに……さっきのは、私も少しきつく言いすぎかも……しれないですね」
そっぽを向きながらではあったがどこか居心地が悪そうにそう言う秋葉。
こいつなりの謝り方、それが俺にはよくわかる。
素直じゃないよな、ホント。
「……でしたら仕切り直しです。話し合いということで、まずは兄さん」
言って、俺に視線を向ける。
「はじめにも言いましたが兄さんがアルバイトをしたいという理由を聞かせてください。その理由如何によって……秋葉は、考えないこともないです」
…………。
その言葉でふと我に帰る俺。
理由……。
そうだ、秋葉はバイトをする事に理由を求めていたんだっけ。
「え……と、それはだから……、あの、理由はただ働きたいからって」
「それはダメです」
「おい」
「……ダメです。そんな曖昧な理由じゃダメ」
「曖昧って、そんなこと言われても」
「……あーもうっ、ちゃんとした理由がないならやっぱり認められません」
「そ、そんな……」
「理由がないならアルバイトはダメ、ダメです。アルバイトなんて、アルバイトに行くだなんて……」
「――ねぇ志貴、ここまで来たら口から出任せで『平和のために死徒をばったばったと倒しますっ』くらい言っちゃえばいいのに」
「そんな嘘、喉を震わせた途端却下されるって。しかもそれ理由にならないし」
「でしたらうちのところで働きますか? 結構お給料はいいですよ」
「命をかけてまでバイトしたくないです……」
「……あの、志貴さま」
影でひそひそと話し合う俺たち。そこで俺の名を呼んだ声は、それまで完全黙秘を保っていた翡翠のものだった。
四人の視点が一心に翡翠へと注がれる。 翡翠はおどおどと、何か言いたげでそれを言い切れないようなとても複雑な表情を浮べながら、それでも視線だけはしっかりと俺に向けて言った。
「志貴さま、あの、わたし……いままでずっと黙っていたんですが……」
「翡翠っ、ちょっとあなたもしかしてっ」
「申し訳ございません秋葉さま、わたしはこれ以上、志貴さまに隠し事をするのは耐えられません」
『えっ!』
俺とアルクェイドとシエル先輩三人の声が一つに重なった。
――翡翠は言った、隠し事……と。
隠し事って、なんだっ? 俺がバイトをすることに対して、なんの隠し事があるって言うんだ?
「待ちなさい翡翠、そんなことを言ってどうなるっていうの?」
「どうもならないと思います……。でもこんな後ろめたい気持ちを引き摺るのは、たぶん終わります」
「あなた……」
……雇い主と使用人、なにやら二人の舞台が成立しつつある今時分。
俺は……、俺だけでなくアルクェイドと先輩までも急転した事態にすっ飛ばされて、遠野家繋がりの二人の言い争いをただ眺めるだけだった。
…………。
って、ただ眺めていたらダメだっ。
「二人ともちょっと落ち着けって」
「落ち着けって、兄さん……。元はと言えば兄さんが悪いんじゃないのっ」
口を出した俺に突然矛先が向けられた。
「えっ!? なに、俺が何かしたのかっ!?」
「したんじゃなくて、するんでしょうっ?」
「秋葉、言ってる意味が全然わからないぞ」
「そんなこと、ご自分の胸に聞いてくださいっ」
自分の胸にって……。
思いつくことなど特にない。
いったい秋葉は何を言いたいんだ?
「兄さんが悪いから、兄さんにアルバイトはさせられないわっ」
「志貴さま……」
秋葉と翡翠の問い詰めるような視線、はずしたいけどはずせない、そんなものに捕らわれて俺は身動ぎもできなかった。
「……遠野君、これは一体どういうことなんですか?」
「わたしもどうなってるんだか教えて欲しいよ」
「悪い、俺もよくわからない」
こうして俺たちが混乱している間にも秋葉のやけに迫力のある視線が、翡翠の無言の圧迫感を閉じ込めた視線が俺を貫いていた。
なんなんだ、本当になんなんだ?
一体俺が何をしたっていうんだ?
「俺がそんな悪いことをしたのか、秋葉。だったらちゃんと謝るから、何をしたのか教えてくれ」
「そ、それは……」
怒りのためか、秋葉は頬を赤くして言い淀む。
「……だって、兄さん、兄さんがいけないんですもの……」
「だから何がいけないんだ?」
「だって、だって――」
「だって?」
「アルバイトって、恋愛の巣窟なんですから……」
…………。
はぁ……?
「おい、それって……なんだ?」
「な、何だって聞かれても、だから、その、そういうものだって……、ひ、翡翠パスっ」
「えっ、えっ!? あっ、あのですね、志貴さま、つ、つまりは……その、志貴さまが、お優し過ぎるのがいけないのかなって、姉さんが――」
「あらー、お呼びですか?」
『うわぁっ!』
突然の声にその場にいた全員が飛び退いた。
まるで戦隊モノの登場シーンのようにきれいに横一列に並んだ俺たち。その前、玄関の扉を背にして外の仕事を終えた琥珀さんがニコニコと笑顔を浮かべながら立っていた。
「び、びっくりさせないでよ琥珀っ」
「あははすいません、わたしもちょうど今外から戻ってきたところだったんで、早く話しに混じりたかったんですよ」
悪びれた風もなく(もちろんそんな必要はないのだが)琥珀さんはそのままの調子で続ける。
「それでみなさん、なんのお話し合いなんですか、これは? よかったらわたしもお話の輪の中に入れてくださいな」
「そ、そうね、ちょうどいいところに来たわ。琥珀、実はね、この間のことなんだけど」
「はい? えっと、どのことでしょうか?」
「私があなたに聞いたことよ。ほら、兄さんがアルバイトをしたがるのはどうしてかって」
「ああ、はいはいあの話ですね」
ぽんと手を叩き、納得とばかりに琥珀さんはこくりと頷いた。
――そういえば、さっきそんな話を聞いたような。
「その時いろいろと話してくれたけど……」
「あ、わかりましたー。今は志貴さんがアルバイトをするかしないかという話し合いなんですね?」
「そうなんだけど、とりあえずその話は置いておいて、あなたあの時言ったわよね」
「はい?」
「『アルバイトの中でカップルが生まれる割合って、結構高いんですよねー』って」
あまり似てはいなかったが、琥珀さんの口調を真似てそう言った秋葉。
言われた琥珀さんはうーっと思案するように唸り、そして――
「ああっ、はいはい言いました言いましたー」
と、満面の笑みを浮かべながら答えた。
「それで確かその後、『もしかしたら、志貴さんもそれを狙っているのかもしれませんね』って話になったんですよね、あははっ」
さも面白そうに琥珀さんが笑う。
とても素直で、心から楽しいと感じている笑みだ。
悪びれた風もなく、悪気もなく。
…………。
も、もしかして……。
もしかして、なのか……?
あまり、そうだとは思いたくないが。
そんな理由でここまで話が拗れたとは、本当に思いたくないのだけれど。
でも、どう考えても、どの角度から見ても、そうしか思えない。
つまり俺がここまでバイトを反対されていた理由。
アルクェイドたちまで巻き込んでの大騒ぎの原因。
それは――。
「もしかして秋葉も翡翠も……、琥珀さんの言葉を真に受けていたのか……?」
「…………」
「…………」
二人は無言、だがその瞳が声の無い言葉を雄弁に語る。
……そうか。
そうなんだ。
たぶん琥珀さんのその言葉は話ついでに出した冗談なのだろう。
でも、それを聞いた秋葉は、そして伝え聞いた翡翠は、それを信じた。
――そして俺は、バイトを反対されていた……。
そう、なんだ……。
「で、でも兄さん。私の学友にも聞いてみたら、そう言う話はよくあるって、実際にそうやって知り合ったという友達もいたし……」
「わたしも本を見たり姉さんの部屋でテレビを見させられたりとで調べてみましたら、あ、アルバイト恋愛を題材とした物もたくさんあって……」
「あと華美な制服を着た女性をとっかえひっかえ楽しむようなゲームもありますよねー。次のはいったいいつ出るんでしょうか?」
秋葉たちはしどろもどろになりながら悪戯を見つかった子供のような視線で俺を見つめてくる。(琥珀さんの一言は、よくわからなかったけど)
「はぁ……。なんだ、そんなことで反対されていたのか、俺は」
なんだか、一気に気が抜けた気がするんですけど。
「そんなことってっ! ……それは、確かに、そんなことかもしれませんけど……」
ふてくされたように秋葉はそっぽを向く。
「私、心配なんだから。兄さんは……優しいし、その、ちょっとだけ、顔もいいし」
「……わたしも、です……」
はぁ……、まったく……。
「無駄な心配だよそれは、そんなことは絶対ないって。ただ俺はお金を稼ぎたいだけだから」
『…………』
二人とも、納得はしようにもできない、そんな表情だった。
――でもきっと、今ならわかってくれると思う。
長かった、本当に、しかもそのほとんどが無駄な事で終わったし。
でも、今は頭ごなしに叩くようなことはまずしないだろう。
「もう、これで誤解は解けただろう?」
僅かに残るのはしこりだけ、今なら真に『話し合い』をすることができる。
だから俺はもう一度、改めて、しっかりと秋葉の目を見つめて――。
言った。
「この夏だけでいい。短い期間だけでも構わないから、秋葉、俺にバイトをさせてくれっ」
誠意を込めて、しっかりと。 ただ伝えたいことをそのままに。
お金のためにバイトがしたい、それは陳腐な言い方かもしれないけど、でも、それが本心だ。
人に与えられるものではなく、働いて手に入れた自分のお金。
それだけが、おれのバイトがしたい理由。
それ以外には、何も無いんだ。
その気持ちを短い言葉にできるだけ乗せて、俺は言った。
――バイトが、したい。
ただ、それだけなんだ。
「――志貴」
「なんだ、アルクェイド……?」
「ごめん。今更だけど、やっぱりわたしも志貴のバイトに反対したいよ」
「……えっ!?」
秋葉と俺の視線が行き交う中、突然アルクェイドがとんでもないことを言いだした。
「なっ、なんでだよアルクェイド。……って、まさかお前まで」
「――すいません、わたしも隣に同じです。いきなりですいませんが、遠野君の応援をするのを止めさせてもらいます」
「え、ええっ!?」
そ、そんな……。シエル先輩までもが、こんな土壇場に来て反旗を翻した。
せっかく、せっかく話がまとまりそうだった瞬間になんということをっ!
「ま、待ってくれ。だ、だから俺は本当に純粋に自分の金銭充実のためにバイトを……」
「そうかもしれないけど……、でもダメだよ。だって志貴はそのつもりでも、相手のほうがどう出るかわからないじゃないの」
いや、それは……、確かにそうだけど……。
「そうですよ。ただでさえ遠野君は押されると弱いところがあるんですから、もし知らない間に弱みを握られて迫られたら、きっと逃げられませんよ」
想像力がたくまし過ぎます、その話は。
「……お二人の言う通りです。兄さんは優しくて、そしてなによりとぉーっても優柔不断だし」
誉めているのか、それとも貶しているのか? どっちなんだ秋葉?
「……申し訳ございません志貴さま、こればかりはわたしは志貴さまを信用ができません」
ひ、翡翠までもっ!?
「ちょ、ちょっと、みんな……」
「志貴のアルバイトは認められないわ」
「遠野君のアルバイトは認められませんよ」
「兄さんのアルバイトは認められないわ」
「……志貴さまのアルバイトを認めることはできません」
「…………」
完全拒絶の大合唱。
まるで台本を読んだかのようなお決まりの台詞に、久々の眩暈が俺を襲う。
……そうですか、そうくるんですか。
……つまり、俺はやっぱりバイトをさせてもらえないと。
……そういうことなのか。
助けを求めようにも、すでに回りは敵だらけ。つまり、もうおれの望みをつなぐ要素はここにはない――。
万事、休す……か?
「あらー、なんだか大変ですね志貴さん」
「こ、琥珀さんっ!」
そうだっ、まだこの人がいたっ!
想像力で論理を凌駕した人々が蔓延する中、一人いつもと代わらずニコニコはなまる笑顔の琥珀さん。
俺の望みはまだ潰えてはいないっ!
「琥珀さんっ、琥珀さんからも言ってくれ、俺は本当にただバイトがしたいだけだって、さっきも庭でそう話しただろう?」
「ええ、確かにそれは私も聞きました」
「だろっ!」
「でもですねー、わたしもこの四人を説得するのはちょっと無理じゃないかと……」
「ああ〜っ、そんなぁ〜」
琥珀さんの言葉に、がっくりと膝を崩す俺。
確かに『バイト、絶対ダメっ』なこの四人の巨壁を崩すのは非常に難しい……。
でも、それでも俺は、あなたという希望に縋りたかった。
「志貴さん、そんながっくりとしないで。うーん、えーとえーと待ってください……。あっ、思いつきましたよー、みなさんが志貴さんのアルバイトを納得してもらえる方法」
『……えっ!?』
その言葉を呟いた瞬間の琥珀さんは、俺の目には神々しい女神のように見えました……。
誰もが驚きの表情を隠せないまま、琥珀さんの次の言葉を待つ。俺はそれ以上に、藁にも縋る思いで彼女の言葉に期待をかけたっ。
そんな緊張感あふれる素敵な雰囲気の中、数瞬の間をもった琥珀さんが静かに口を開く。
「簡単ですよ。みなさんで交代ばんこに志貴さんのアルバイト先に訪ねに行けばいいんですよ」
これは名案だといわんばかりにぽんっと手を叩く琥珀さん。
「……琥珀、それ、どういう意味?」
「だからですねー、みなさんが不安になるのはアルバイト先での志貴さんの状況がわからないからです。でしたら、毎回毎回ちゃんと志貴さんの様子を見に行ければそれでいいじゃないですか」
「えーと、あっ、でも、バイトをしたら志貴と遊ぶ時間が減っちゃうかも」
「大丈夫です、働きながらでも遊べるようなアルバイトはいくらでもあります」
「そんなアルバイトを遠野君が選ぶとは限らないじゃないですか」
「それはみんなでそういう勤務先を探しましょう。そのくらい妥協できますよね、志貴さん?」
「えっ? ああ、えっと……」
「でしたら、内職のほうが問題も無くていいのでは……?」
「甘いですよ翡翠ちゃん。内職ってとても煩わしい物が多いんですよー。そんなのをしたら志貴さんの時間なんてなくなっちゃいます」
それぞれの質問に完璧に回答する琥珀先生。
一言一言に誰もが納得して、口を紡ぐ。
「とにかくですね、志貴さんをしっかりと見張っていればそれでいいはずじゃないんですか? そして志貴さん、志貴さんは少しばかり妥協をしてくださいね。そうすればみんな丸く収まるんですから」
『…………』
「みなさんそれでいいですか? はいっ、それじゃあいいと思う人は手を上げてくださーい」
手を上げない者は、いなかった。
琥珀さんの提案はこれ以上の無いものだった。
かく言う俺も、脱帽の一言だった。
琥珀さん、お見事……。
「はい、みなさんの賛成が得られて嬉しいですよ。よかったですね志貴さん、これでアルバイトができますねー」
「あ、ああ。ありがとう、琥珀さん……」
「あはは、そんな感動したような顔をしないでくださいよー。わたし照れちゃいます」
いやですよーとか言いながら、琥珀さんはぺしんと軽く俺の肩を叩いたりする。
「――それじゃ、わたしはお夕食の支度がありますから、これで失礼しますね」
「ああ……」
呟いた俺に合わせて四人がこくんと頷く。
琥珀さんはにこにこ笑顔を残したまま、廊下の向こうへと歩いて消えていった。
――――――。
「――と、いうわけで、俺のバイト、認めてもらえるかな……?」
『…………』
一同、無言のまま再びこくん。
どうやらまだ琥珀さんの勢いに飲まれたままのようだ。
あまりにシンプルすぎて、近くにありすぎて、見えなくなっている答えってのも、やっぱりあるんだよな、ホント。
そしてそれを突かれると、人間こんな放心状態に陥る……と。
「……とりあえず、バイト先を決めるのはまた後にでも。みんな疲れただろうから、一度解散しよう」
またもや無言のこくん。
そしてまるで血を吸われた死者のようにぼぉーっとしながら、それぞれの居場所へと戻っていった。
だれもが、いまだ現実の光を思い出せない。
そして、一人玄関に残される俺。
…………。
俺も、一度部屋に戻ろう。
今日はいろいろと疲れたし。
とにかく、バイトができるようになったんだ、それだけで喜ぶべきだ。
そう、きっとそうなんだ。
「……戻ろう」
こうして、短いながらに熱い、混迷を極めながらもあまりにも呆気ない、そして重要なようでどこまでも無意味な俺のバイト戦線は終わりを告げた。
――――数日後。
バイト獲得の戦いが終わってみれば、次に待っているのはバイトそのもの。
勤労の始まりだ。
結局あれからまた話し合いを重ね、また琥珀さんの鶴の一言で俺のバイトは決定した。
遠野の屋敷から程近い、小さな喫茶店。
この店のマスターはなかなか話のわかる人……といえば聞こえがいいが、つまりは大雑把な人で、『お客さんとのコミュニケーション』という名目において、仕事中でも私語が禁じられていない。
というか、むしろ推奨されている感じだ。
こんなルーズな店でいいのかと、バイトの身分ながらに心配してみるが、これがなかなかに人の出入りが激しくて経営的には問題がなさそうだ。
住宅街に囲まれた地理的な条件もあるだろうが、やはりなによりマスターの人柄によるところが大きいのではないかと思う。
とにかく、俺がバイトをする事になったのはそんな店だ。
上記の無駄話を咎められないという好条件、そして遠野の屋敷から比較的近いところにある点などなど、まさに俺がバイトができるようにあつらえられたような場所だった。
――やっぱり、主人公でよかったなぁ。
からんころ〜んっ。
「あっ、いらっしゃいませ〜」
どうやらお客さんらしい。
この時間はいわゆる空白の時間というヤツで、お客さんがくる事は少ないんだけど。
そう、少ないんだけど。
―― 一人だけ、必ずこんな時間の隙間に来る人がいるんだな、これが。
「あははー、お仕事がんばってますか、志貴さん」
「ああ、もちろん」
「それはいいことですよー」
にっこりと明るい笑顔を浮かべるのは、琥珀さん。
毎回俺を探りに来る人たちは当番性で決まっている。(といっても、女の子のバイトなんて元からいなかったけど)
なのに琥珀さんはどこから時間を割いてくるのか、こうして誰かが来ない前にひょっこり現れるのだ。
「お客様、こちらへどうぞ」
「ははぁ〜、なかなか板についてきましたね」
「そ、そうかな?」
「今度は使用人のバイトなんてのもしてみます?」
「そ、それは……え、遠慮しておきます」
琥珀さんをいつもの窓際の席に連れて行く。座ったのを確認して、そして静かに待つ。
「じゃあ、いつもと同じのでお願いしますよ」
「了解」
伝票に書くまでも無い、琥珀さんが頼むのは決まっている。
「もちろん、またツケでお願いしますよ」
「え……」
しれっとそういう琥珀さん。
ちなみにいくらルーズであっても、この店はツケ払いなんて許していない。まぁ当たり前だ。
つまり琥珀さんがツケる時は、すべて俺持ちということになる。
その辺、わかっているのか不安だ……。
「……わかりました。じゃあちょっと待ってて、すぐに持ってくるから」
「はい。……と、あ、待ってください志貴さん」
「なに?」
呼び止められて振り返る。
そこには、いつものように優しく微笑んだ琥珀さんがいた。
「志貴さん、お仕事、楽しいですか?」
「ああ、うん、楽しいよ」
「そうですかー」
まるで自分のことのように、嬉しそうにそう言う。
「楽しいのって、いいですよね」
夢を見るようにどこか遠いところと、そして俺の姿を見つめながら、とても幸せそうに琥珀さんはそう言った。
「……そうだね、楽しい事は、いつまでも続けばいいよね」
「ええ、本当に」
琥珀さんの呟きに、俺は笑顔で答えた
「――それじゃあ、マスターに注文を伝えてくるからね」
「ええ、待ってますよー」
そんな声を聞きながら、俺は厨房へと入る。
――楽しいのって、いいですよね。
それは、琥珀さんの言った言葉。
でも、俺もそう思う。
ここのバイトをはじめて、アルクェイドが来て、シエル先輩が来て、秋葉が来て、翡翠が来て、琥珀さんが来て――。
屋敷にいるときとは違う雰囲気で、みんなでいろいろな事を話し合って、楽しくて……。
まるでお祭りのような今が、俺はとても楽しいと思う。
とても、幸せだと思う――。
こうしていられる時間が――。
みんなと一緒にいられる事が――。
やっぱり、一番なのだと思う――。
「きっと、ね……」
/END