■ 遠野家多妻物語 / Hiro
――朝の光が溢れた部屋の中。
「おはようございます、志貴さま」
いつもの様に、控えめにかけられる翡翠の声で俺は目を覚ました。
「ああ。おはよう、翡翠。……って、いてて」
体を起こした俺に、いきなりズキズキと頭痛が襲ってきた。
「志貴さま? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。そんなに大したことないから」
強がりではなく、実際に痛みは大したことなかった。以前味わった、頭が割れるような感覚に陥る酷い苦痛に比べれば、この程度は本当に何と言うこともなかった。
ちなみに、俺がいま味わっている痛みの原因は解っている。ずばり、アルコールの大量摂取だ。
『アルコール性急性胃粘膜障害』
俗に言う、二日酔いである。
昨日の晩。“学生にとっての苦行である学期末試験を乗り切ったことを祝って”という名目でちょっとしたパーティーが開かれた。
遠野家のパーティーであるから、当然のように酒が出る。普段はあまり飲酒をしない俺も、この時ばかりはテストからの開放感に後押しされて、ついついグラスを進めてしまった。
その結果が、この頭痛である。
「さすがに、昨日はちょっと飲み過ぎちゃったみたいだな」
額を押さえて思わずぼやく。
「あの……お薬をご用意致しましょうか?」
「そうだね。お願いするよ」
「かしこまりました。
では、すぐにお持ち致します。少々お待ち下さい」
一礼して立ち去ろうとする翡翠。
そんな彼女を俺は呼び止めた。
「あ。ちょっと待って」
「はい。なんでしょうか?」
「薬はここに持ってくるんじゃなくて、居間の方に用意してもらえるかな。俺もすぐに着替えて下に降りるから」
「かしこまりました」
俺に向かって深々をお辞儀をすると、翡翠は部屋から出ていった。
翡翠が退出したあと、俺は手早く着替えを終わらせると、いまだに残る酒の所為で重くなった身体を引きずって居間までやってきた。
「おはよう、兄さん。二日酔いだそうだけど大丈夫なんですか?」
「おはよう、秋葉。大丈夫だよ。そんなに酷くないからね」
「志貴さん、おはようございます。もし具合が悪いようでしたら、無理をせずに横になっていて下さいね」
「おはよう、琥珀さん。ありがとう、心配してくれて。でも、本当に平気だよ」
「やっほー。志貴ー、おはよー」
「おはようございます、遠野くん」
「うん。おはよう、アルクェイドにシエル先輩」
…………。
…………。
…………。
…………って、あれ?
なんか、今、物凄く違和感があったような……。
顔を右側に向けてみる。
そこには、普段通り、秋葉と琥珀さんの姿があった。いつもと同じ光景だ。何も問題はない。
今度は左側に向けてみる。
そこには、琥珀さんに淹れてもらったと思われる紅茶を飲んでくつろいでいるアルクェイドとシエル先輩の姿が……って……ちょっと……なんで?
ど、どうして、こんな朝っぱらから、ここにアルクェイドとシエル先輩が!?
驚愕のあまり、“目が点”状態になってしまう。
「志貴さま。お薬、ご用意致しましたが、お飲みになられますか?」
「あ、ありがとう、翡翠。で、でももういいや。必要なくなったみたいだ」
今のショックで、しつこく残っていた酒も頭痛も完全にどこかに飛んでいってしまった。
「せっかく用意してくれたのに、ごめんな」
「いえ……そんな……」
謝罪の言葉に、翡翠が微かに照れたような表情を浮かべる。
そんな翡翠の可愛らしい姿を見たことで多少は冷静さを取り戻した俺は、違和感の元となった二人の方へと視線を向けた。
「えっと……どうして二人がここにいるんだ? しかもこんな朝っぱらから」
率直な疑問。
不思議に思ったことを素直に言っただけなのだがその質問を口にした瞬間、俺に四方八方から冷たい視線が浴びせられた。それも、アルクェイドとシエル先輩だけでなく、何故か秋葉や琥珀さん、翡翠からも。
――な、何故?
「兄さん。それって本気で言ってるんですか?」
「思いっ切り本気だけど?」
「はぁ。まったくこの人は……」
俺がきっぱりと言い切ると、秋葉は深ーいため息をついた。
――だから、何故に?
俺が困惑の表情を浮かべていると、見かねた様に琥珀さんが助け船を出してくれた。
「志貴さん志貴さん。アルクェイドさんとシエルさんは、志貴さんに呼ばれたんですよ。昨夜のパーティーの最中に電話で」
「へ? 俺が? そうなの?」
話の真偽を確かめようと、俺は二人の方に目を向けた。
「はい。琥珀さんの言うとおりです。確かに遠野くんに呼ばれました。“とにかく、すぐに来い”と言われまして。それで、何事かと思って急いで来てみれば、遠野くんは宴会の真っ最中。さすがのわたしも絶句しましたね、あのときは」
「え?」
「わたしもよ。“なんで?”って訊いても、“いいから黙って来い”とか言われて。相手が志貴じゃなかったら無視、もしくは抹殺してたところね」
「え? え?」
お、俺、そんな横柄な態度で呼び出したの?
二人のことを? マジですか?
俺って、もしかして、酒が入ると性格が豹変するタイプ?
ぜ、全然覚えてないんだけど。
まったく、これっぽっちも、見事なまでに。
「なーんか、綺麗さっぱりと忘れてるって感じですね、遠野くんてば」
「えっと……その……何と言いますか……」
冷や汗をダラダラと流して答えに窮する。
そんな俺に、翡翠が遠慮がちに声を掛けてきた。
「あの、志貴さま? 志貴さまはどの辺りのことまで覚えてらっしゃるのですか?」
「どの辺り? うーん、そうだなぁ。秋葉たちと酒を飲み始めて……それから……それから……それから……あれ? あれ? あれ?」
「もしかして、殆ど覚えてらっしゃらないのですか?」
「うっ。ど、どうやらそうみたいだね翡翠。あ、あはは、あはははは」
「“あはははは”じゃありません! それじゃ、兄さんは、私たちに言った言葉まで忘れてしまったわけなんですか!?」
「言葉? 俺、なんか言ったの?」
「…………はぁー。ほんっきで全部忘れてるんですね。まったくもう。兄さん、いくらなんでもそれは酷いですよ」
怒り半分呆れ半分の表情で秋葉が文句を言う。
「まったくですね。遠野くん、極悪人です」
「わたしも同感だわ。志貴のこと、ちょっとだけ見損なったかな」
「あの言葉を忘れちゃったんですかー。ガッカリです。ねっ、翡翠ちゃん」
「……はい」
秋葉に続いて、他のみんなも口々に俺を非難してきた。
「――う゛っ。ご、ごめん」
みんなから発せられるプレッシャーに屈し、俺は反射的に謝罪の言葉を口にした。
「と、ところで……。あのー、実際のところ、俺、みんなになんて言ったの? 忘れられてそんなに怒るんだから、よっぽどのことを言ったんだろうけど。……よかったら教えてくれないかな?」
なるべく刺激を与えないように、穏やかな口調で訊いてみた。
――その途端、みんなの脳裏に、昨夜俺が言ったという『言葉』とやらが蘇ったのだろうか。瞬時に全員の頬が朱に染まった。
な、なんなんだよ、その反応は?
「……もしかして、俺、かなり恥ずかしいことを口にしたとか?」
「そうですねー。かなーり恥ずかしいことを言ったのは確かです」
おそるおそる尋ねた俺に、琥珀さんがきっぱりと答えてくれた。
「ううっ。やっぱりですか。……ねえ、琥珀さん。俺、なんて言ったの? お願いだから教えてくれないかな」
「……そんなに知りたいんですか?」
イタズラっぽい表情を浮かべて琥珀さんが訊いてくる。
「正直、聞かない方がいいような気がしないでもないけど……。でも、知りたい。是非とも知りたい。
……って言うか、このままじゃ気になって夜も寝られないよ」
「そうですか。それじゃあ教えないわけにはいきませんねー。志貴さんが不眠症になっては困りますから」
「ありがとう、琥珀さん。……で? 俺はなんて言ったの?」
「それはですねー」
「うんうん。それは?」
「“俺の為にずっとご飯を作って欲しい”です」
「……へ?」
「わたしの手をギュッと握って、瞳をジッと見つめながら、そう言ってくれたんですよ」
「そ、そう」
なんだ。そんなことか。
思ったより大したことのない言葉だったので、俺は拍子抜けしてしまった。
だって、ご飯なんて既に毎日作ってもらってるじゃないか。それなのに、何を今更。
「まるで、プロポーズみたいですよねー」
…………はい? ぷ、ぷろぽーず?
“俺の為に、ずっとご飯を作って欲しい”
その言葉を頭の中で反復してみた。
…………。
…………。
…………。
い、言われてみれば……。
みたい、どころか、完璧にプロポーズのセリフそのものじゃないか。
そんなのを言ったの? 俺が? しかも琥珀さんの手をギュッと握って? 瞳をジッと見つめて?
うがーーーっ! マジっすかーーーっ!?
酔った勢いとはいえ、俺ってば何てことを……。
「それでですねー。翡翠ちゃんには……」
「え? 翡翠? 俺、翡翠にも何か言ったの?」
「はい。それはもう。ねーっ、翡翠ちゃん?」
琥珀さんに話を振られた翡翠は、耳まで真っ赤に染めて俯いてしまった。
「えと……そ、そうなの?」
「…………はい」
俺の問いかけに、翡翠は顔を伏せたまま、か細い声で答える。
「そ、その……その……い、いつまでも……俺のことを起こし続けてほしいって。あ、朝は……ずっと、ひ、翡翠の声で……目覚めたいって……あの……志貴さまが……」
う゛っ。我ながらなんて歯の浮くセリフを。
……酒の力って怖いな。
「それから秋葉さまには……」
な、なんですとっ!?
「俺、秋葉にも何か言ったんですか!?」
「そうですよ。ねっ、秋葉さまっ」
「え、ええ」
琥珀さんの言葉を受けて、秋葉が話し出す。
「兄さんは“兄妹だろうと何だろうと関係ない。俺は秋葉のことを一人の女性として愛している”とそう言ってくれました。私のことを……その……強く抱き締めながら」
「…………」
……おいおい。まさか秋葉にまでそんなことを言ってるなんて。
俺は、文字通り“開いた口がふさがらない”という状態に陥っていた。
この分じゃ、ひょっとしてアルクェイドとシエル先輩にも何か言ってるんじゃなかろうか。
そう思って、二人の方に顔を向けると、
「お察しの通りよ」
「御名答です」
待ってましたと言わんばかりの笑顔が。
ああっ、やっぱり。
「……それで? 二人にはなんて言ったんだ?」
半ばやけくそになって訊いてみた。
「えっと、わたしにはですねー。“死が二人を分かつまでずっと共に歩んで行きましょう”です」
「わたしには“俺は種族の壁なんて気にしない。おまえが吸血鬼だろうとなんだろうと、俺にはアルクェイドが絶対に必要なんだ”だよ」
「……なんと言うか……もはや、見事なまでにプロポーズの言葉だね」
「ですね。わたしもそう思います」
「いいじゃない別に。どうせ遅かれ早かれいつかは言うことになるんだから」
そ、そういうもんなんだろうか。
ああ、それにしても俺ってヤツは。
酒に酔った勢いとはいえ、ペラペラペラペラとよくもまあ、これだけのことを言ってくれたもんだ。
さすがにちょっと自己嫌悪に陥るぞ。
「志貴さん志貴さん。頭を抱えるのは早いですよ」
「え? どういうことです、琥珀さん?」
「これからが志貴さんの本領発揮なんですから。ねー。そうだよね翡翠ちゃん」
「……………………はい」
琥珀さんの言葉を、翡翠が顔を朱に染めながら肯定する。
「? 本領発揮?」
「はい。あのですねー。志貴さんは、わたしたちへのプロポーズを終えると……」
「……終えると?」
「わたしたち全員の服をはぎ取って押し倒し……」
「わーっ! わーっ! わーっ!」
俺は大声を張り上げて琥珀さんの言葉を遮った。
それ以上聞いてはいけない気がする。……っていうか聞きたくない。
「あらあら。往生際が悪いですよ志貴さん。事実なんですから観念して受け止めて下さいね」
「そ、そんなこと言われましても……」
「受け止めて下さい」
「ひ……翡翠まで」
「それにしても、昨夜の遠野くんは本当に凄かったですねー。さすがは絶倫超人です。そう思いませんか、秋葉さん?」
「そうですね。全く同感です。昨日の兄さんは確かにケダモノみたいでした。性欲の権化って感じで」
…………。
「志貴ってさー。アレの時って異様にワイルドになるよねー」
「そうそう。遠野くんってば野生全開になっちゃいます」
「……………………(こくん)」
「アレのときの兄さんにはブレーキが付いてないのね、きっと」
「あは。決まってるじゃないですか。Hするときの志貴さんはアクセルオンリーなんですよ」
…………。
なんか、酷い言われようなんですけど。
言いたい放題のアルクェイドたちを見て、俺は小さくため息をつく。というか、下手な口出しをすればやぶ蛇になるのが分かり切っているので、それ以上の反応が取れなかった。
しっかし、妙に息が合ってるよな。あいつら、あんなに仲が良かったっけ?
「“しっかし、妙に息が合ってるよな。あいつら、あんなに仲が良かったっけ?”なんて考えてるんですか?」
「うわーーーーーーっ!?」
背後から、不意に声がかけられ、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。急いで振り返ると、そこにはニコニコと邪気のない笑顔を浮かべた琥珀さんがいた。
「こ、琥珀さん。い、いったい何時の間に? それに、なんで俺の考えてることが分かったんです? しかも、一字一句正確に」
「あは。そんな細かいことはどうでもいいじゃないですか」
――細かくないと思う。
「まあ、そんなことより。先程の志貴さんの疑問は至極当然だと思います。確かに、今までのわたしたちの仲はあまり良好とは言えませんでしたからね。特に秋葉さまとアルクェイドさん、シエルさんのお三方は犬猿の仲とも言えましたし」
「うん。そうだね」
「ですが、これからは一つ屋根の下でずっと一緒に暮らしていくわけですから、いつまでも仲が悪いままでは困ります。そこで、昨夜、志貴さんがお眠りになった後でじっくりと『話し合い』を行ったのです。その結果、今までのことはお互いに水に流して仲良くしていこうと決まったのです」
「そ、そうなんだ」
妙に強調された『話し合い』とやらの内容が気になったが、何故かそれには触れてはいけないような気がしたので放っておくことにした。
「まあ、仲良くするのはいいことだし、俺も異存はないけど……って、ちょっと待って。“これからは一つ屋根の下でずっと一緒に暮らしていく”? なにそれ?」
「いやですね、志貴さん。夫婦が同じ家に住むのは当たり前のことじゃないですか」
さも当然のように琥珀さんがのたまった。
――誰がいつ夫婦になりました!? つーか俺ってもしかして5人全員をお嫁さんにしないといけないの? そんな無茶苦茶な。そもそも俺の意思は?
脳裏に尤もな疑問が浮かんだが、それは取り敢えず置いておく。そんなことを口にしようものなら、全員から“昨夜の言葉はウソだったと言うの!?”と糾弾されるに決まってるから。
「でも、アルクェイドやシエル先輩には自分のマンションやアパートがあるんですよ。なにも、わざわざここに住まなくたって……」
「残念ながら、そういうわけにはいかないんです」
俺の言葉を遮ってシエル先輩が言う。
「なんで?」
「わたしが住んでいたアパートですけど、あそこは既に解約しましたから」
「わたしもわたしもー」
「解約って……マジで?」
「はい」
「うん。大マジよ」
「…………」
きっぱりはっきりと答える二人に、俺は一瞬言葉を失った。
――が、すぐにある疑問が浮かんできた。
「ちょい待ち。解約っていつしたのさ? 一緒に住むだの何だのってのは、昨日の夜に初めて出てきた話だろ? それなのに、なんで既に解約が済んでるんだよ。なんか、えらく手際が良すぎないか? 普通に考えれば絶対に不可能だと思うんだけど。それに……」
「はいはーい。そこまでです、志貴さん」
俺が並べる疑問を琥珀さんが強引に遮った。
「そんな細かいことはどうでもいいじゃないですか」
「…………」
――細かくないでしょう、どう考えても。
……って言うか、琥珀さん。あなたはこれも“細かいこと”で済ませますか。
「それより、あれを見て下さい」
「? “あれ”って?」
俺は、琥珀さんの指差した方向に目を向けた。
「志貴さん。あれは何に見えますか?」
「何って……時計でしょ?」
「はい、御名答です。でしたら、今は何時になってるか分かります?」
「……9時23分」
…………。
「なにー!? くじにじゅうさんふんだって!?」
「はい。急がないと学校に遅刻しちゃいますよ」
「急いだって既に十二分に遅刻です!」
「ですねー」
のんきな声を返してくる琥珀さんを後目に、俺は大慌てで支度を始める。
「ほらほら。兄さん、早く準備をして下さい」
「そうです。遠野くん、急いで下さい。じゃないと先に行っちゃいますよ」
秋葉とシエル先輩が、そんな俺を煽って、さらに焦らせてくれたりした。
「ちょ、ちょっと待って! うわーっ。鞄……鞄はどこだ!?」
「はい。どうぞ、志貴さま」
「あ、ありがとう翡翠。……よし、準備OK。秋葉シエル先輩、お待たせ!」
「ええ。では行きましょう、兄さん」
「うん。それじゃあ……琥珀さん、翡翠、アルクェイド……行ってくるね」
「行ってきます」
「行ってきまーす」
俺はドタバタと支度を済ませると、秋葉とシエル先輩を伴って居間から出ていく。
「はーい。行ってらっしゃーい」
「行ってらっしゃいませ。志貴さま、秋葉さま、シエルさま」
「行ってらっしゃい。おみやげよろしくねー」
「あるか、んなもん!」
背後から届くアルクェイドのボケに律儀にツッコミを返してから、俺は屋敷から飛び出していった。
――おや?
なにか忘れてるような気がする。
……なんだっけ? 何やらアルクェイドとシエル先輩に対して質問をぶつけていたような気がするんだけど。
――あれ?
…………。
…………。
…………。
――ま、いっか。思い出せないのならきっと大したことじゃないんだろう。
そう自己完結して、俺は脳裏に浮かんだ疑問を打ち消した。
後に、俺がそのことを激しく後悔したのは言うまでもない。
「よぉ、不良」
「おはよう、遠野くん」
二時間目終了後の休み時間。俺が教室に入った途端、有彦と弓塚さんが近付いてきた。
「誰が不良だ? その言葉、有彦にだけは言われたくないぞ」
「何を言う。オレは遠野と違って真面目だぜ。何せちゃんと一時間目から授業に出ているからな」
「なにぃ!? あの有彦が朝から学校に来ているなんて。だ、大災害の前触れかもしれない」
「……おまえなぁ」
容赦のない俺の言葉に有彦が顔をしかめる。
「ところで、今日はどうしたの? 遠野くんが遅刻するなんて珍しいね」
「まったくだ。それに、妙に疲れたような顔してしてるけど何かあったのか?」
「ま、まあ、ちょっと一騒動あったんだ。……あ、あは、あはは」
弓塚さんと有彦の問いに、俺は曖昧に答えた。
とてもじゃないが、正直に言えることじゃない。
「何て言うか……俺、今日ほど学校のありがたみを知った日はないよ。あのまま屋敷にいたら、心労で倒れていたかもしれないしね」
「そ、そうか。よく分からないが、いろいろあったんだな」
「大変だったんだね」
二人の言葉に俺は深くうなずく。
「ああ。だから、今の俺にとっては、学校はオアシスにも匹敵する場所だよ」
しみじみと言いながら、俺は自分の机にダラーと突っ伏した。
屋敷に帰ったら、また騒々しさに襲われるのは確定事項だろう。だから俺は、学校にいる間だけでも静かな平穏を味わおうと心に決めた。
だが、俺の思惑は脆くも崩されることになる。
なぜなら、騒々しさは学校でも容赦なく襲ってきたのだから。
――昼休み。
そんな学校中に穏やかな空気が流れる時間帯に、それはやってきた。
さーて。メシでも喰いに行くとするか。
そう思って椅子から立ち上がろうとした瞬間、
「やっほー! 志貴ー!」
背後から、耳元に唐突に声をかけられた。
「うわーーーーーーーーーっ!!」
ガターーーン!
その声に驚いた俺は豪快に椅子から転げ落ちてしまった。
「い、いてて……」
「あれ? ひょっとしてビックリさせちゃった?」
強かに打ち付けて痛めた腰をさすりながら上を見上げると、アルクェイドがのんきな顔をして俺のことを見下ろしていた。
「お、驚くに決まってるだろうが! なんてことしやがるんだ、このアーパー娘! そもそも、なんでこんな所にいやがるんだ、おまえは!? ここは部外者立入禁止だぞ。さっさと出ていけ」
パンパンと汚れを払いながら立ち上がると、俺はアルクェイドに言い放った。
「なによー。そんな言い方しなくたっていいじゃない。志貴ってば、わたしにだけはホント意地悪なんだから。妹や翡翠にはすっごく甘いくせにさー」
「やかましい。気配を断っていきなりうしろから声をかけてくるような非常識なヤツに優しくしてやる義理はない」
「むー」
俺の言葉に、アルクェイドが拗ねたような声を上げる。――が、俺はそれを綺麗に無視した。
「……ったく。――で? おまえは何をしにこんなとこまで来たんだ? まさか“遊びに来ただけ”なんて戯けたことは言わないよな」
「言うわけないでしょ、そんなこと。……わたしたちは志貴にお昼ご飯を持ってきたの」
「は? 昼飯? なんだよ。弁当でも持ってきてくれたのか?」
「ええ、そうよ」
「“わたしたち”ってことは、もしかして琥珀さんと翡翠も?」
「もちろん。当たり前でしょ」
「――さいですか。それじゃあ、その二人は今はどこに?」
「中庭。そこでお弁当を広げて待ってるはずよ」
俺の頭の中に、中庭に大きなビニールシートを敷いて昼食の用意をしている琥珀さんと翡翠の姿が浮かんできた。
「……あのなあ。さっきも言ったけど、ここは部外者立入禁止なんだ。勝手にそんなピクニックみたいな真似をしていたら怒られるぞ」
俺は人差し指でこめかみを抑えながら、ため息混じりにアルクェイドに言う。
「大丈夫よ」
だが、アルクェイドは自信満々な態度であっさりと言い返してきた。
「なにが大丈夫なんだよ?」
「だって、学校側には許可を貰ったもの」
「……は? 許可を貰った?」
「そうよ」
「――どうやって?」
「どうって……別に正直に言っただけよ。“愛する夫にお弁当を届けに来ました”って」
――ざわっ!
アルクェイドの投下した爆弾に教室中がどよめいた。
そして、それまで俺たち――というか、特にアルクェイド――のことを興味津々に見ていた周りの男たちの視線が剣呑なものに変わった。俺を見る目には殺気すら帯びている。
さらには、女子までが数人こっちに――もっぱらアルクェイドに――鋭い視線を向けていた。
男子が俺を睨む気持ちは分からなくもない……気がしないでもない。けど、なんで女子にまで? 俺の頭の中を『?』マークが飛び交っていた。
……まあ、なんにしても、教室中の空気が途轍もなく重くなっていたのだけは確かだった。
「あ、あははは。な、なんだよアルクェイド。“また”いつもの“冗談”か? いくらなんでも、そんな理由で学校が許可をくれるわけないだろ。ひとのことをからかうのはいい加減にしろよな」
その重ーい空気を振り払おうと、俺は極力明るく言った。“また”とか“冗談”という単語を必要以上に強調して。
「冗談? 違うよー。わたし、本当に“愛する夫にお弁当を届けに来ました”って言ったんだよ」
だが、アルクェイドはそんな俺の思惑をあっさりとで打ち砕いてくれた。
「そうしたら、一発で許可をくれたよ。“まあ、遠野だしなぁ”って妙に納得しながら」
「ちょっと待て。なんだその納得って?」
ここの教師陣は、俺のことをいったいどういう目で見てるんだ?
「もしかして、俺って女たらしのプレイボーイに思われてるのか? それってもの凄く心外だぞ」
俺は力を込めて反論した。――が、その瞬間、至る所から深いため息が聞こえてきた。
……何故?
「……自覚がないのって罪だよねー」
アルクェイドまでもが俺のことを呆れたように見ていた。
だから……何故?
「ま。そんな朴念仁なとこも志貴の魅力の一つではあるんだけどね」
満面の笑みを浮かべてアルクェイドが言う。
俺は……周囲からの刺さるような視線も忘れて、不覚にもその笑顔に暫し見とれてしまった。
…………。
…………。
…………。
「ひゅーひゅー。見せ付けてくれるじゃないかよ遠野」
「ホントだね。見ているこっちの方が恥ずかしくなっちゃうよ」
「うわっ……! あ、有彦。弓塚さん」
呆けていた俺の意識を再起動させたのは、唐突に聞こえてきた友人たちの声だった。
「べ、別に見せ付けてるわけじゃないぞ」
「おまえにその気がなくても結果は同じことだろ」
「うんうん。まったくだね」
「……う゛」
返す言葉がない。
「しっかし、おまえにこんな綺麗な彼女がいるとはねー。まったく、オレにまで隠してるなんて水くさいぞ。オレと遠野の仲はそんなもんだったのか、こんちくしょーめ。お兄さんは悲しいぞ、うるうる」
「誰がお兄さんだ、誰が? ――それにしても、おまえ、異様にテンション高くないか? なにか良いことでもあったのか?」
「良いこと? おう、あったぞ。おまえに彼女がいるということで、シエル先輩と秋葉ちゃんがフリーだということが分かった。オレにとって、これ以上の良いことなどこの世には存在しない」
「……そ、そうか」
「ふっふっふっ。これからは遠野に遠慮しないで、ガンガン二人にアタックするぜ」
あまりのハイテンションさに多少引き気味になっている俺を無視して、有彦が熱く熱く宣言する。
「ふーん。あなたってシエルと妹のことが好きなんだ」
そんな有彦にアルクェイドが声を掛ける。
「ああ、その通りだ。オレが必ず二人のハートをゲットしてやるぜ!」
「無理ね」
拳をぐぐっと握りしめながら力強く叫ぶ有彦の言葉を、アルクェイドが一刀両断した。
「へ? 無理? なんで?」
「だって、シエルと妹は既に売約済みだもの」
尋ねる有彦にアルクェイドがサラッと答える。
「な、なにーーーーーーっ!? シエル先輩と秋葉ちゃんが売約済みっ!? い、いったい誰に!?」
「そんなの決まってるじゃない。志貴よ」
さも当然のように言うアルクェイド。
「――と、遠野だと?」
ギギギッという擬音を立てて、有彦が俺の方に顔を向けてくる。
「それってどういうことなの? 説明してもらいたいな。ねー、遠野くん」
さらには、どういうわけか弓塚さんまでもが俺に詰め寄ってきた。顔には笑みが浮かんでいるのだが、俺にはその笑顔が途轍もなく恐ろしいものに感じられた。
「それだけじゃないわよ。志貴はねー、使用人の琥珀とひす……んぐぐ」
そんな息が詰まるような状況の中で、さらに爆弾発言を続けようとするアルクェイド。俺はその口を必死に塞いだ。
「ほ、ほらアルクェイド。中庭で琥珀さんたちが待ってるんだろ? そろそろ行かないとまずいと思うぞ。無駄話でだいぶ時間をロスしちゃったしな。――というわけだから……さあ行こう。そら行こう。やれ行こう」
「んーっ! むぐぐぐ……むぐ……んぐーっ」
アルクェイドの口を押さえながら、俺は逃げるように教室を出ていく。
「遠野……おまえは敵だ。間違いなく敵だ。おまえは仇敵だ。おまえは怨敵だ。おまえは宿敵だ。おまえは女の敵だ。おまえは男の敵だ。おまえは人類の大敵だ。おまえは国賊だ」
「ふぅ。遠野くんって、たくさんの娘に手を出してるんだね。それなのに……それなのに、どうしてわたしには……。やっぱり、もっと積極的にならないといけないのかな」
後ろから、なにやら恨みがましい声が聞こえてきたりしたが、
「気の所為だな、うん。おまえもそう思うだろ、アルクェイド」
「むぐーーーっ! んーんー。んーーーっ!」
「そうだろそうだろ、はっはっはっ」
俺は無かったことにした。
俺たちが中庭に着くと、既に他のみんなは勢揃いしていた。
「遠野くん、遅いですよ」
「まったくです、兄さん。貴重なお昼休みが終わってしまうじゃないですか」
「ごめん。ちょっといろいろあってね」
アルクェイドの顔をチラッと見ながら謝った。
「……なるほど。そこのアーパー吸血鬼がまた何かやらかしたわけですか」
「はあー。これだから未確認生物は」
俺の視線の意味に気付いたシエル先輩と秋葉がアルクェイドを冷たい目で見る。
「なによー。わたし、別に何もしてないわよ」
「どうだか」
「信用できませんね」
「むっ」
「はいはい、喧嘩しちゃダメですよー」
異様な緊張感が走りかけた三人の間に、パンパンと手を打ちながら琥珀さんが割ってはいる。
「喧嘩するような悪い子にはご飯あげませんよ」
「うっ。ご、ごめんなさい琥珀さん」
「わ、私が悪かったわ」
「琥珀ー。喧嘩しないからご飯抜きは勘弁してー」
琥珀さんの言葉に、三人が即座に争いをやめる。
「あは。わかってくれて嬉しいです」
何と言うか、遠野家の真の支配者が誰かということが如実に分かる光景だったと思う。
「はーい。ではでは、お昼にしましょう」
五段重ねの大きな重箱を取り出して、琥珀さんが嬉しそうな笑顔で言う。
「今日は気合い入れちゃったんですよー」
琥珀さんが蓋を外すと、中には卵焼きや鳥の唐揚げといったお弁当の定番メニューが所狭しと並んでいた。
「うわ。うまそう」
それを見て、思わず率直に言葉が出た。
「あは。ありがとうございます。それでは、どうぞ召し上がって下さい」
「はい。それじゃ、遠慮なく……いただきます!」
……って、あれ? おや?
「あら? どうかしましたか?」
キョロキョロと何かを探すような素振りをする俺に琥珀さんが尋ねてくる。
「いえ、あの……俺の箸は? どこにも見あたらないんですけど」
「ありませんよ」
俺の問いに即答する琥珀さん。その答を聞いて、俺の目が点になる。
「……へ? ない?」
「はい、ありません」
「……なんで?」
「必要ないからです」
「必要ない? どうして? もしかして、俺は喰っちゃいけないとか?」
おそるおそるといった感じで尋ねる。
「まさか。そんなことあるわけないじゃないですか。このお弁当はみなさんに、その中でも特に志貴さんに食べてほしくて作ったんですよ」
この状況でおあずけはきつい。それだけはマジで勘弁してほしいと思う。
だから、琥珀さんの口から否定の言葉が出て、俺は心底ホッとした。
「だったらなんで?」
「それはですね。うーんと……口で説明するよりも実践してもらった方が早いですね。それでは……翡翠ちゃん、お願いできる?」
「……は、はい」
琥珀さんに指名された翡翠が顔を赤らめながらうなずく。
そして、
「あ、あの……志貴さま……」
自分の箸で卵焼きを一切れつまむと、俺の方に差し出してきた。
「……うっ」
こ、これってもしかして“アレ”ですか?
カップル定番のうれしはずかしの?
なるほど。これなら確かに俺の箸は必要ない。
ないけど……けどさ……けど……。
その代わりに、ものすっっっごく照れくさいんですけど。
「……ど、どうぞ……」
「あ……えと……」
「…………」
「そ、その……」
「…………」
「い、いただきます」
「……はい」
恥ずかしさに頬を染めながらも瞳に期待の色を宿す翡翠。そんな彼女を無下にできるはずもなく、俺は素直に口を開け、差し出された卵焼きを食べようとした。
――尤も、その前に軽く周りを見回して、知ってるヤツがいないかどうかを確認したが。
「あっ。ちょっと待って下さい」
しかし、今まさに口に入れようとした瞬間、琥珀さんに止められてしまった。
「翡翠ちゃん、それじゃダメですよ。志貴さんのお口に運ぶときにはちゃんと“アーン”って言わないといけません。これは古来からの大事なお約束なんですから」
「っ……!」
琥珀さんからのツッコミを受けて、翡翠は首筋まで真っ赤に染めてしまう。
「は、はい。……わ、わかり……ました。そ、そ、それ……では……改め、まして……そ……その……あ……ん……アー……ン……」
それでも、琥珀さんの言うとおりに“アーン”と言い直して、再度俺に卵焼きを差し出してきた。
「い、いただかせていただきます」
俺は、何故か両手を合わせてから、その卵焼きを口にした。
「どうですか? 美味しいですか?」
無邪気な笑顔で訊いてくる琥珀さんに、俺は何度もうなずいて肯定の意を表す。
「えへ。そうでしょうそうでしょう。何と言っても翡翠ちゃんの愛情がたっっっぷりとこもってますか
らねー。美味しくないはずがありません」
琥珀さんがニコニコと満足そうに笑みを零す。
「では、次は秋葉さまにお願いしましょう」
え? 次?
俺、ひょっとして、全員の手から食べないといけないのだろうか?
こんな死ぬほどこっぱずかしいことを、これから延々と繰り返さなければいけないのだろうか?
「う、うん。……あ、あの……兄さん。えっと……えっと……その……あ……アーン……です」
秋葉がこれ以上ないというくらいに頬を染めて唐揚げを差し出してくる。
その横では、期待に目を光らせているシエル先輩とアルクェイドが……。
どうやら、ひょっとするらしい。
俺は一つ小さなため息をつくと、再び周りを軽く見回してから口を開いた。
どうか知ってるヤツに見られていませんように。
俺は、そのことをただひたすら神に祈るのであった。
――その頃、物陰では、
「遠野……やっぱりおまえは敵だ。間違いなく敵だ。おまえは仇敵だ。おまえは怨敵だ。おまえは宿敵だ。おまえは女の敵だ。おまえは男の敵だ。おまえは人類の大敵だ。おまえは国賊だ」
「はあ。やっぱり遠野くんにはあれぐらい積極的に迫らないとダメなのかな? ダメなんだろうな。…………よし、決めた。わたし、いけない娘になっちゃう。いけない娘になって、積極的になって……そして……わたしも……わたしも……遠野くんと。――うふ、うふふ、うふふふふ」
有彦やさつきを始め、クラスの殆どの人間が志貴たちの様子を覗き見ていた。
祈りは届かなかったようである。
―――夜。
俺はベッドの中で、本日最初で最後の静かな時間を過ごしていた。
頭をよぎるのは、嵐のように激しく感じられた今日一日のこと。
衝撃を受けた朝。
恥ずかしい思いをした昼食。
クラスメイトたちに質問攻めにされた放課後。
琥珀さんと翡翠に、昼よりもさらに濃厚な愛情表現を受けた夕食。
シエル先輩とアルクェイドによって、背中のみならず全身磨かれてしまった入浴。
そして、俺の隣で安心しきった寝顔を浮かべている秋葉との逢瀬。
「はあ。まったく、とんでもない一日だったよな。明日からもこんな日々が続くのか。俺の身体、保つかな?」
思わず愚痴が口を突く。
端から見れば、『両手に花』どころか『体中に花束』状態に見えるだろう。
「まあ、間違ってはいないけどね。でも、うちの花は一輪一輪が超が付くほど個性的だからなぁ。はっきり言って一輪でも手に余るほどなのに、それが束になるんだから、正直勘弁してくれって気持ちにもなるよ」
深いため息と共に言葉を零す。
でも……
「退屈だけはしなかったよな。それに、なんのかんのと言っても……」
そこまで口にして、俺は気付いた。
――いや、再認識した。
「なんだ。俺、結局は楽しかったんだ。みんなとの生活、面白かったんだ。そっか。そうだよな。そうに決まってるよな。だって……」
口にしたのは酒の力だったんだろうけど、みんなに言った言葉に、気持ちにウソはなかったもんな。
俺は、アルクェイドのことが、シエル先輩のことが、秋葉のことが、琥珀さんのことが、翡翠のことが、みんなのことが間違いなく好きなんだから。
あまりにも当たり前すぎる結論。
しかし、俺はその結論に心底満足した。
そして……
気が付くと、俺は眠りへと落ちていた。
明日も、きっと楽しい一日になるんだろうな。
そんな確信に近い思いを抱きながら。
――朝の光が溢れた部屋の中。
「おはようございます、志貴さま」
いつもの様に、控えめにかけられる翡翠の声で俺は目を覚ました。
「ああ。おはよう、翡翠」
部屋の中には既に秋葉の姿はなかった。
俺より先に起きて、部屋から出ていったらしい。
まあ、俺が秋葉より先に起きることがあったら奇跡だけど。
「遠野家一同5人全員、既に居間に集まっております。志貴さまも着替えが済みましたら、すぐに居間まで降りてきて下さい」
「うん、分かった。……って、5人?」
「はい。5人です」
「え? それはおかしいよ。だって、翡翠がここにいるんだから、今現在、居間にいるのは4人じゃないの?」
「いいえ、5人です。今朝早く、弓塚さまがお見えになりましたから」
「……ほへ? ゆ、弓塚さん?」
翡翠の口から出た名前に、俺は間抜けな声で反応してしまう。
今、俺の頭の中では、鳩が豆機関銃で撃たれまくっていた。
「な、なんで弓塚さんが?」
「……それはご自分でお尋ね下さい」
わたしに訊かれても困ります。
そう言いたげに、翡翠が素っ気なく答える。
「そ、そうだね。そうするよ」
「それでは、わたしは先に降りております」
翡翠は深々とお辞儀をすると、部屋から出ていこうとした。
――が、ドアのところで立ち止まり、こちらに振り返ると、
「志貴さま」
「ん? なに?」
「これ以上……増えないでしょうね?」
不意に、そんなことを尋ねてきた。
“なにが?”とは訊かない。言わなくても分かっていることだから。
「だ、大丈夫だよ」
「絶対ですか?」
「……た、たぶん」
曖昧な俺の答えに、翡翠が不満そうな顔をする。
「そうですか。分かりました。……それでは失礼いたします」
再びお辞儀をすると、翡翠は今度こそ部屋から出ていった。
尤も、部屋から出る寸前に、俺のことを思いっ切り睨んでいったが。
――翡翠、怒ってたな。翡翠が怒ってるということは他のヤツも当然怒ってるんだろうな。
「やれやれ……今日も激しい一日になりそうだ」
俺は手早く着替えを済ませると、みんなが待ちかまえているであろう居間へと降りていった。
これから起こるはずの騒動への不安と憂鬱と……
そして、少しばかりの期待を胸に抱いて。
/END