「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ
『「夢十夜」黎明』
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暗い夜道
静かな公園
白銀の月の光が静かに舞い降りる
空には白色の月
ホウと感嘆の息が漏れた
―――
ひどく重く―
ひどく速い―
何カ、が迫ってくる。
眼前には――周囲にわだかまる闇を切り裂き、夜闇よりなお濃い黒の塊。
理解する時間はない。
ただ風が吹き付けた――そう感じただけだ。
視界が急に反転する。空にかかる月が見えた。
思わず掠れた――悲鳴が漏れた。
――――アカイツキ
――――ナンテ
――――ツメタク
――――コワイツキ
まるでのし掛かってくるように、大きな月が見える。
――――コワイ
――――ノミコマレソウ
水音が聞こえる。
湖面が広がるような静かな音。
シズム―――
――――ミズノナカニシズンデイク
クロイ――――コメンニシズンデイク―――
――――ツメタイ
アア、ツキガマッカダ――――
クロイセカイ
ニ
マッカナツキ――――
夢を見る―――
一人醒めない夢の中―――
――――ボクは夢を見る
□志貴の部屋
ボクはふと目を覚ました。
枕元にはこちこちとリズミカルに自分の存在音を立てている時計が一つ。
見ると十二時を数分過ぎているところだった。
何故目を覚ましたのだろうか。
自慢ではないが、ボクは一度寝ると、朝まで夢すら見ずに眠り続けるタイプの人間だ。
それなのにこんな夜更けに目が醒めるというのは、ボクにしては異常と考えてもおかしくない状態だ。
それとも、ボクの感覚に触れる――何か――があったのだろうか。
ボクは半身を起こす。
窓から入り込む、白色の月明かりが室内を照らし出している。
見慣れた室内だ。
何も変わったところは――――無い。
トオノシキの部屋は何時もと変わっていない。
だが―――
この沸き立つような焦りは何だろう―――
まるで数日間水を一滴も口にしてないように、のどがヒリヒリと渇く。
目の奥がガンガンと痛む。
心臓が激しく鼓動をうつ。
全身の体温が急激に上昇しているようだ。
ボクは立ち上がると、机に向かって歩く。
一段目の引き出しを開けると――
そこには短剣が置いてある。
七ツ夜。
そう柄に刻まれただけの無骨な、そして強固な飛び出しナイフだ。
半年前の一連の騒ぎの際、ボクノイノチを守ってくれ――――た?
――――タンケ――ん、だ。
ボクは埃を払いのけると、それを握りしめた。
しっくりと来る。
まるで自分の手の延長であるかのように、まるで重さを感じさせない。ナイフから伝わる感覚はボクを冷静にさせる。
こんな夜は何かが起こっている。それがボクの実体験から来る考えだ。
だが、別に一般人であるボクが気にすることでもないだろう。
しかし、何故か。ボクが目を覚ましたこと、それには大切な理由があるように思えてたまらない。
ボクは数度ナイフを手の中で動かすと、握りしめ、テラスを目指し歩く。
窓に掛かった厚手のカーテンを開けると――――
チクチクトメニササル―――
シンクノツキ―――
コメンノヨウナ――――クロイセカイ――――
――――白色の月がその真円の姿を見せていた。
ボクが窓を開けると、夏にしては涼しい外気が流れ込んできた。
室内の淀んだ空気が逆に押し出される。
ボクは大きく深呼吸。
吸って――吐く。
ボクは何気なく空を見上げた。
白色の月。
ひどく不快な感覚。
まるで何かが欠けたように。
夜空に浮かぶ月の如く、ポッカリとした空虚感がボクの心にある。
ボクはわけもなく生まれた不安感に対し、舌打ちをする。
そしてテラスに出ると、跳躍。
後ろに轟々と風が流れていく。
残念ながら、ボクの脚力をもってしても、一度の跳躍で遠野家の敷地外に出ることは難しい。
正面玄関から出るのが最も楽だが、確実に―――ヒスイ、コハク―――のどちらかを通し――――アキハに知られることになる。
そうなると朝食時に何か言われることとなるだろう。それは出来れば避けたい。
―――――イモウトヲアマリシンパイサセルモノデハナイカラ
だからボクは周囲に植えられた木々の枝を上手く踏み台として利用し、塀を目指す。監視カメラの位置は把握している。
それらに映らないように塀に向かうと、かなり大回りになるが仕方がない。
ほんとうに広い敷地を持つ屋敷というのも時には面倒だ。
やがて塀が見えてくる。
□屋敷の門
まるで周囲の世界と決別する為に立てられたような高さを持つこの塀を、ボクは好きではない。ひどく重い感じがするためだ。
ボクは城壁のような塀を飛び越える。
息はこれっぽっちも切れてはいない。
その時―――
「――え?」
心臓が一つ大きな鼓動を上げたような感じがした。
そして一、二、三、四、十、鼓動の数が増えていく。
二十、五十、百――――。
まるでボクの体内に幾つもの心臓があるかのように、鼓動を始める。――イヤ、これはもしかしたら耳鳴りだろうか。鼓動が複数も、合唱のように体内から響き出す訳がないのだから。
ボクは荒い息で崩れ落ちた。
□屋敷の前の道
焦り、不安、恐怖、そういった諸々が全身を支配しようと、血管の中を流れるかのように全身に広がっていく。
誰か見知らぬ人間に肉体の支配権を奪われたような感じだ。
だが、その割には意識そのものは冷静そのものだ。
崩れかけた体を支えるために塀に手を突いた際、意外に大きな音が響いたなぁ、とか、痛いかも知れないなぁ、そんなことを考えてしまう。
シカイが反転し――――
真っ赤だった。
深紅の世界。
赤のペンキを子供が戯れで巻き散らかしたように。
真っ赤だった。
――――――フクモクロクソメル、
コメンノセカイ――――
それが眼前に広がっていた。
□行き止まり
ボクが周囲を見渡すと世界は一変していた。
先程まで遠野の屋敷の横手に立っていたと思っていたのだが、周囲の様子からして繁華街の路地裏だろうか。
赤く染め上げられた路地裏というのは知らないが……。
その時、ソレが視界に入った
ソレが何かボクには一瞬、理解できなかった。
視界が暗いこともある。
想像できる形をしていないこともある。
一番はボクがソレを何であるか認めたくないのだろう。
これがナニカ理解しては精神衛生上まずいから、ボクの思考回路が認識力を弱めているのだろう。
だが、直ぐに分かってしまった。
ボクの認識力はすぐに回復したのだ。
戦闘時や非常時において認識力は優れれば優れるほど、生き残れる可能性が高い。そのため、幾つもの死線を越えてきたことによって、ボクの認識力と、回復力は常人より遥かに優れている。
だが、今回ばかりはそれが恨めしい。
周囲に立ちこめる強烈にして、新鮮な血の匂い。
ソレは―
―――ニクノカタマリ。
挽き潰し、押し潰し、切り裂き、砕き、溶解し――――完全に破壊した―
――――人間だ。
所々白いものが露出している。
ピンク色の内臓器官も周囲に広く飛散している。
元は頭だったように見える球体状のものからは、灰色のナニカが飛び出ていた。
糸のようなモノを引きながら、ピンポン球程の大きさの球体が転がっている。
ソレは一人分の量ではない。
どんな人間でも直視に耐えられそうもない、無惨な大量の肉の塊が転がっていた。
「うぐ……」
ボクの喉に苦いものが走る。
これを我慢しろと言うのは酷なものがある。常人の思考回路では耐えられないような、死体だ。
口を押さえようとしてボクの目に入る――まっかなて。
ポタリ、ポタリとまだ温かい血が滴り落ちる。
鼻にツーンとした血特有の匂いが、染み込んでくる。
ボクがあれをシタのか?
あの奇妙なオブジェと化すように人を殺したのか?
遠野の屋敷からここまでの間の記憶はない。まるで壊れた映写機のように記憶が飛んでいる。
ではその間にやったというのか?
あり得ないはずだ。こんな仕業は人間にできることではない。
あんな――風に人間をばらすことは普通のニンゲンには出来ない。
だが、何故ボクの手は血に濡れている?
賭けても良い。この手に濡れている血はあの死体の血だと。
……カツン、カツン。
靴の音。
それがボクの思考をクリアにする。
□行き止まり
――こんな場所を人に見られて良いのか?
自分がしたかどうか分からないが、こんな場所を人に見られるのはマズイ。
ボクは周囲を見渡す。
だが、袋小路。
隠れる場所も、逃げる道もない。
だから何も考えつかなくて、ボクはその人が姿を見せるまでぼうっと見ていた。
□行き止まり
やがて靴の音が大きくなり、その人物が月明かりの下、姿を見せた。
【シエル】
黒い法衣に身を包んだ、女性だ。年の頃は大体ボクぐらいか。
ボクを見ると、なんだか懐かしげな表情を見せた。
この女性は人の死体にまだ気づいてないのだろうか?
それも、そうだろう。もし常識的な人間なら、このような――人の死体のある場所でそんな表情は浮かべないはずだ。
それも手を血で濡らした人間を前に――。
「お久しぶりですね、遠野君」
その女性は親しげな声をかけてきた。
「え?」
自分でも間が抜けたと思えるような声が漏れる。
「あれ、遠野君、もしかして私のことを忘れちゃいましたか? 実は結構冷たいんですね、遠野君は。たったの六ヶ月で私のこと忘れちゃうなんて」
――――トオノ?
――――ソウダ、ソレガボクノナマエダ
――――ホントウニソウ?
……そうだ。遠野志貴ならば彼女を知っている。
「…………シエル先輩?」
女性は、そうですよ。遠野君、と笑った。
「先輩……バチカンの方に帰ったんじゃないの?」
「はい。昨日までバチカンにいましたよ。上からあの――」
そこで彼女は言いづらそうに言い淀んだ。
【シエル】
「――あの、遠野君まだ彼女と付き合ってるんですか?」
「彼女?」
「はい。アルクェイド・ブリュンスタッド。真祖の姫君です」
――――ダレダ?
「……ああ」
「やっぱりそうでしたか。いえ、彼女が千年城の方にも戻ってないようですし、他の死徒とやり合っているようでもないと言うことで、上の方が彼女が何をしているのか不安がりまして、私が埋葬機関を代表して、彼女の様子を見に来たんですよ」
【シエル】
「しかし……」
シエル先輩は周囲を見渡し、頭を振った。
「また厄介事に巻き込まれたんですか? 遠野君」
「え?」
「これは凄いですね。圧倒的な破壊力です。これをやったのはもしかして、彼女ですか?」
「え?!」
「人間ではこんな真似は出来ませんよ。見て下さい。そこにある人の腕。完全に捻り切っています。人間の力では、こんな真似は出来ません。もし出来る存在がいるとしたらそれは人間外の存在です」
シエル先輩はボクを見た。その瞳には優しげなものはない。視線だけでも殺せそうなほど強力な力を持った冷たい瞳でボクを射抜く。
突き刺されるような視線を受け、ボクの喉が意識なく鳴った。
「遠野君。これをやったのは彼女……アルクェイドですか? それとも別の死徒ですか? 知っていることがあったら教えて下さい」
「いや、ボクも来たばかりだからよく分からないんです」
「……そうですか。ま、遠野君の言葉だから信じます」
シエル先輩は考え込むような素振りをすると、ボクの前を通り、肉の塊に近づく。
そして何かに気づいたように、しゃがみ込み、棒のようなものを拾い上げた。
【シエル】
「落ちてましたよ、遠野君」
シエル先輩の手にはナイフがあった。
「大切なナイフじゃないんですか?」
「ええ」
ボクはナイフを受け取る。刀身にはまるで血は付いてなかった。だが、ボクが持ったことによって柄に血がベットリと付く。
【シエル】
「しかし、遠野君。そのコート、暑くありませんか?」
シエル先輩は呆れたようにボクのコートを指さした。
確かに夏のこの時期に黒色のロングコートはないだろう。服のセンスがあるとか無いとかの前の問題だ。それに前はしっかりと合わせ、見るからに暑いだろう。
だがシエル先輩が思うほど、ボクは暑くないのだが。
「確かに遠野君にアロハシャツというのは似合いませんが、それでも夏のこの時期にコートはないんじゃないですか?」
「……ええ」
ボクの返事を受け、シエル先輩ははぁっと溜め息を付いた。
「遠野君。彼女は真祖ですから真冬の寒い中でも、シャツ一枚でいれるんですよ。ですが遠野君は人間です。彼女に無理に合わせる必要はまるでありませんよ」
「ええ」
【シエル】
「しかし、この一件に関しては、ちょっと彼女とも相談しなくてはなりませんね。
遠野君、彼女の居場所を知っていますよね」
「いや、知らないんだ……」
「……別に会って早々喧嘩をしたりはしませんよ。今の私はもう充分大人ですから」
「いや、本当に知らないんだ」
「……そう、なんですか?」
「ええ」
【シエル】
「…………あ、っと分かりました。自分で探してみます。遠野君も直ぐにこの場を離れた方が良いですよ。結界を解きますから」
「ええ」
「では遠野君。この一件が片づいたらまたお会いしましょう」
そういうとシエル先輩は踵を返し、歩きだした。
ボクも歩き出す。
まずこの手を洗って、その後、屋敷に帰る。
そうだ。
遠野志貴としての生活が待っているのだから。
――――トオノシキ?
ソレガボクノナマエ?――――
□行き止まり
ふと……視界が揺れた。
全身の力が抜けていく。
体の支配権が奪われるようだ。
まるでボクではない、もう一人の誰かが動き出すように。
今、声を出せば彼女に届くだろうか。
「あ……………」
こんな所で倒れたら、血がコートに付着してしまう。
そんなことを思いながら―――
シカイガハンテンシタ――――
――――ボクハイマデモ
ユメヲミテイル―――――
□公園の噴水前
ふと目を覚ました。
公園のベンチ。
それが目覚めて最初に思ったことだ。
ボクはベンチに横になっていたようだ。
取り敢えず半身を起こす。
周囲に人気はない。
闇に覆われた公園は、所々に立てられている街灯の周辺だけが明るい。それ以外の光源は空から降り注ぐ、チクチクと目を射抜く―――
――――マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナ、マッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカナマッカ―――――
―――月光のみだ。
不快な感じだが、周囲が見渡せることは嬉しい。
□公園の噴水前
ボクは立ち上がり周辺を見渡すが、虫の鳴き声しか聞こえては来ない。夜の公園ならこんなものだろうか。
ボクは自分の手をふと見た。
血の跡は無い。コートにもだ。
死体を見たのがまるで、夢であったように、ボクの体に血の痕跡は見られない。
そうだ。あれは夢だ。ボクが死体を見るなんて完全な夢だ。
その時、コートのポケットに何か棒のようなものが入っていることにボクは気づいた。
それを出してみる。
それは柄に赤黒いものを付着させたナイフ。
夢ではない事実。
それがあった。
……だが、あれが事実だとして、ボクに何を怯える理由があるというのか。
先程のシエル先輩という人物も言っていたではないか。あれは人間の力で出来るものではないと。そしてボクの持つ唯一の凶器――ナイフの刀身にも血の跡はなかった。
そうだ。
ボクは何もしていないのだ。
安堵の息が漏れる。
亡くなっていた方々には失礼な話だが、ボクという人物にとっては、まず、人殺しをしたのがボクでは無いという事実の方が、大きな割合を占める。
取り敢えずは殺人犯ではない。
ボクはベンチに深く腰をかけた。
これからどうしようか。
取り敢えずは家に帰るのが第一だろうが、それからどうするか。
あの人達の無念を果たす?
論外だ。
人間をあんな風に殺す存在と敵対して生き残れる自信はない。
屋敷でおとなしく嵐が過ぎるのを待つのが一番良いだろう。
ボクという人物はそんな英雄にはなれない。自分が一番可愛いちっぽけな存在だ。
「よいしょ」
ボクは年寄り臭い気合い声を入れると、ベンチから立ち上がる。
夜空の方も明るくなりはじめている。
もう四時ぐらいだろうか。
これから直ぐに家に帰れば、誰にも会うことなくベッドに潜り込めるだろう。
「志〜貴」
そんな声がした。
□公園の噴水前
ボクが声をした方を見てみると、何時の間にきたのか。
一人の女性が立っていた。
【アルクェイド】
白い服を着た、肩口までの金髪の女性。そして深紅の目。
にこにこと眩しい笑顔を見せている。
美人だ。これ程の美人はそう会えない。先程のシエル先輩も美人だったが、彼女には勝てない。輝かしいような美しさだ。同性でも憧れてしまう。
「どうしたの、志貴」
「ああ」
――――キケンダ
――――コレハキケンダ
「アルクェイド?」
「ん?」
なに? と彼女は笑った。
引き込まれそうなあたたかな笑顔。自らの生を楽しんでいるものにしか浮かべられそうもない輝き。
ひどく羨ましい。
その時――
【アルクェイド】
―――アルクェイドの笑顔が凍りついた。
「志貴じゃない――?」
全身に瘧が走ったように、震える。
その瞬間、体が跳ねた。
□公園の噴水前
後ろに跳躍。
一回の跳躍でアルクェイドとの距離は約三十メートル程に開く。それでもまだ体全身のふるえが止まらない。まだ充分に彼女の攻撃範囲内だと体が知覚しているのだ。
【アルクェイド】
「あなた、一体誰?」
深紅の瞳。それが異様な力を持って、ボクを睨み付けてくる。
まるで脊髄に氷柱を突き刺されたような感じ。
危険だ。
命の危険。
死が間近にあるのが感じられる。
「あなたは一体何?」
アルクェイドの周囲の空気が変わったように感じられた。まるで陽炎でも起こるように、ゆらゆらと違う種類の空気が立ち昇る。
体が固まった。
殺気。アルクェイドから叩き付けられるそれは、強烈な殺気。
致死量の殺気。
こんなものをあと数秒でも浴びていたら気が変になる。
だが、ボクにはどうしようもない。逃げる方法も、戦う方法も頭に浮かばない。グルグルと思考が空回りするだけだ。
アルクェイドは凄まじい殺意のこもった視線でボクを睨みながら、歩を進める。
一歩。
また一歩。
三十メートル程度の差なぞ、彼女にとっては一息だろうに、わざとらしく歩いてくる。
「あああああああああああああ」
絶叫が漏れる。
絶対にこれと敵対して生き残ることは出来ない。
この肉体が粉砕される。
圧倒的な力の差。象と蟻の如く、決して勝てない力の差が今、目の前に存在する。
――――コワイコワイコワイ
――――アレハキカクガイダ
――――マタシヌノハイヤダ!
コートが大きく揺れた。
「え?」
アルクェイドの間の抜けた声が聞こえた。
ボクのコートの中から――――
【黒犬】
――――三匹の
――――黒い獣が
――――飛び出した。
□公園の噴水前
クロイケモノ――――――
その三匹の黒い犬はアルクェイドの繊手の一振りで、吹き飛ばされた先で黒い泥のような塊になる。
アルクェイドからの追撃はない。
ただ、その深紅の瞳でボクを油断無く睨んでいるだけだ。
だが、それはボクにとっても好都合だ。
だが、いったい何なんだ。
あの黒い獣は。
しかもボクの体から飛び出した感じがした。
まるであの化け物で―
――ボクの体が構成されているような感じ。
しかも理解できないことはまだある。
アルクェイドという化け物が警戒するほどのものだろうか。たったの一撃で粉砕したくせに。
【アルクェイド】
「……ネロ・カオス。まだ、存在していたんだ」
ネロ・カオス?
誰だ?
それに存在していたという言い方は変じゃないだろうか?
ボクの疑問は無視し、呟くようにアルクェイドは続けた。
「さすがは混沌の名を持つ死徒か。志貴の直死の魔眼でも殺しきれなかったなんて……、それとも予備の体なの? わたし達と戦う前に既に予備の肉体を用意していたとか?」
――――ネロ・カオス?
――――クロイケモノ?
脳に不快なものが走る。
幾つもの記憶。いやそれの断片的な映像。
失われた切り張りのコマ。
いやだ。
コレハ危険だ。
ボクはトオノシキそれで良いじゃないか。
――――オモイダスナ
――――オモイダセバ、ソノトキハ
―――――シヌ
――――ダガ、イイノ?
□公園の噴水前
【アルクェイド】
「あの時のわたしは弱っていたけど、今のわたしは違うわ」
アルクェイドの周囲が揺らめいた。
ボクの周辺の大気が冷却していくような感じ。
いや、これは本当に冷気を持ちだしているのだ。
まるでアルクェイドのイメージが直接力になったような予感。
「確かに、わたしではあなたを殺しきることは出来ない。でも志貴を連れてくる間、ネロ。あなたの動きを封じることは出来るわ」
周囲の空気が一気に凍りついた。
いや、そんな気がしただけだった。
「え?」
アルクェイドがまた間の抜けた声を漏らした。渾身の一撃が破られたような声。
【アルクェイド】
「……まさか、本当に混沌に近づいているの?」
周囲にわだかまる殺意が薄れた。
コートがゴウッと音を立て、さらに何匹もの黒い獣が飛び出す。
それに合わせ、ボクは後ろに走りだした。
後ろでアルクェイドの怒鳴り声が聞こえたが、相手にする余裕も必要も無い。
ボクはとにかく必死で逃げ出した。
□坂
太陽が眩しい。
ボクは歩いていた。
どこが目的というわけではない。
ただ足の向くまま歩いていた。
アルクェイドの前から逃げ出し、ボクは彷徨っていた。
どこに行ってよいのだろうか。
どこに行ったらよいのだろうか。
ボクは遠野志貴ではない。
ではネロ・カオスという存在だろうか。
あそこで死んでいた人達はやはりボクが殺したのだろう。
あの獣――黒い獣ならあんな風に人を殺すこともできそうだ。
――――クロイケモノ
黒い獣。
何か忘れていることがある。
とっても大事なこと。
必死に思い出そうとするが、こぼれた水が盆に返らないように、戻ってこない。まるで記憶という湖面に浮かび上がると同時に静かに沈んでいくようだ。
ボクはコートの前を開ける。
輪郭があるだけの闇で構築したような体だ。
触ると、奇妙な弾力を持って押し返してくる。だが人の肌とは感じがまるで違う。柔らかなゴムとでも言うべき感じ。
人の体ではない。
ボクは人間ではないのか。
こんな体で人間はないだろう。
そんな余裕はないのだが、なんだか笑ってしまう。
□交差点
部活動があるのだろうか、学生服を着た生徒達とすれ違い、会社に向かう人々とすれ違う。
すれ違いざまに冷たい一瞥をくれるだけだ。
この世界に誰か味方はいるのだろうか。
記憶すらない、
人を襲う、
化け物に――。
太陽が眩しい。
まるで太陽光線がボクの体力を奪っていくようだ。
だが、どこなら安全だろうか。
ホテル?
廃屋?
公園?
どこも安全では―――ふと、思い出した。
この世界で最も安全な場所を。
□一軒家
『山瀬』
「やませ」という表札が出ている家だ。
普通の一軒家。建売住宅の一軒だ。
ボクは門をくぐった。
ノブを回すが、当然、鍵が掛かっている。
ボクは玄関の脇に置いてある鉢植えを持ち上げる。
そしてその下にあった鍵を取り出した。
しかし、こんな所に鍵を隠すのは、絶対に不用心だ。
もう少しひねったところに置いた方が良いだろうに。
たとえ、金目のものが無くとも、それぐらいの用心はすべきではないだろうか。殺人犯が忍び込むかも知れないのだから。
それを鍵穴に突き刺し、回す。
ガチリ。
鍵の開く音がする。
そしてノブを回す。
ボクはその中に体を滑り込ませた。
家の中は静まり返っている。誰かがいるような雰囲気はない。
ボクは堂々と上がり込んだ。
「ただいまぁ」
やはり返事はない。それも当然だ。この家の住人は既に出かけている。そうでなければ鍵が置いてある理由が思いつかない。
母子家庭なら当然この時間は母親は働きに行っている。
―――――タダイマァ
自分の馬鹿げた行為に苦笑を漏らしつつ、周りを見渡す。
さて、これからどうするか。
ボクが考えだしたとき―――
――――ハラがスいた。
――――エイヨウホキュウをしないと。
――――ニクタイのコウセイリョクがヨワまる。
「――え?」
心臓が一つ大きな鼓動を上げたような感じがした
そして一、二、三、四、十、鼓動の数が増えていく。
二十、五十、百――――。
この鼓動が何かようやく分かった。
これはボクの体。
それを形成する黒い獣達の鼓動だ。
ボクがコートの前を開いてみると、黒いゴムのような体上に、幾つもの深紅の目が浮かび上がっていた。
無数の飢えた瞳。それが今か今かと飛び出すチャンスをうかがっている。
ひどくきょうれつなうえがあたまをかけめぐる。
シカイがハンテンしそうになる。
だめだ。
イシキがキえそうになる。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。だ目だ。駄めだ。だめだだめだだめだだめだダめだだメダダメだダメダダメダダメダ。
ここでだしたら、このイエの『住人』がカエってきたとき、クロいケモノタチとソウグウするカノウセイがある。
フクのしたでからだがビクビクとうごき出す。
それをヒッシにオさえコみながら、ボクは台所に向かう。
□一軒家のキッチン
消え去りそうになるシカイの中、レイゾウコが見える。
そして山瀬家ご自慢の――いっしゅうかんに一度、たいりょうに食料品を買い込むために電気屋でとくべつに取り寄せて貰った――きょだいれいぞうこを開く。
生肉を取り出すと、それを体に押し当てた。
ずぶっと飲み込まれる。
咀嚼音が聞こえる。
再び、別の肉を体に押しつけた。
また、飲み込まれる。
やがて、大量に買い込んであった食料品が無くなる頃には、飢えも止んでいた。
なぜだか、ひどく悲しかった。
ボクはコートの前を合わせると、二階へ向かう階段に脚をかける。
――――イクナ
――――シラナケレバイイ
踏み出す。
体がひしゃげそうにもなる脱力感に襲われながら、
一歩、一歩。
また一歩。
階段を上りきった先は二つの部屋のドアがあり、『まいこの部屋』。それと『あけみの部屋』。
ひらがなで書かれた二つの可愛らしいドア掛けがかけられていた。
ボクは『舞子』と書かれた部屋の前に立つ。
ひどくのどが渇く。何故か開けてはいけない気がした。多分このまま後ろを向いて歩き出すのが一番良いだろう。
だが、開けなくてはならないそんな気もする。
ボクは黙って眺め、そして―――――開けた。
□一軒家の部屋
室内は綺麗に整頓された部屋だった。
ピンク色のカーペットが敷かれ、ベッドには可愛らしい人形。雰囲気的に女性の部屋だろう。
ボクは部屋の中に入る。視界がクラクラ揺れる。一刻も早く出たい。
だが、何かしなくてはならない。
ボクのために――。
室内の様子。それはひどく気になるものだ。
整頓され過ぎているのだ。まるでこの部屋を使う人間がいないのに掃除だけはしているように。いつでも戻ってきて良いように。
ボクはゴミ箱を見た。予想通り、ゴミは一つも入っていない。
ただ、埃が溜まっている。
ゴミ箱に埃が溜まる。その理由は一つだけだ。
この部屋は使われてはいないのだ。
ボクは机に向かう。
一冊のノートを手にとってみる。可愛らしいというのだろうか、丸っこい字で綺麗に授業の内容を写している。このノート一冊でこの部屋の人間の性格がかいま見えるようだ。
ふとボクは無造作に置かれた写真立てに気づいた。
手に取ろうとして、体が凍りつく。
この感情は……恐怖だろうか。
この写真立てを見ることがしにでも繋がるような極めて巨大な恐怖感。それがボクを動けなくする。しかし、ボクのとる行動は一つだけだ。
息を一つ大きく飲み込み、勇気を出すと写真立てに手を伸ばす。手に取った写真立てに入っている写真は家族のものだろうか。
母親らしき女性と、二人の少女の写真が入っていた。
二人の少女。
一人は長い髪の子。
そしてもう一人は長い髪の子によく似た短い髪の子。
楽しそうに微笑んでいる。
それを見て母親も優しそうに笑っていた。
アア、ソウダ―――
パラパラ、くずれていく。
夢が崩れていく。
ボクは写真立てを机の上に戻すと、本棚からアルバムを取り出した。
二人の少女の成長の証。
お互い嬉しそうに。
まるで二人で一つのセットのように。
一枚の写真に収まっている。
これはなんだろうか。ぼくのこころをはしるかんじょうは。
あたまがゆれる。
しかいがあかくそまる。
そしてせかいが――こわれてい―――く。
「逃げろォーーーーーッ!」
□公園前の街路
そんな絶叫が何処かから聞こえた。
一体、何の話だろうか?
ボクは周囲を見るが何か起こっているようには見えない。
だが、誰かが危険な目にあっているのだろうか? 先程の声は緊迫したものだ。冗談で言っているようには聞こえない。
もしそうなら助けないといけないだろう。やはり、人は助け合うべきなのだから。それにこれでも空手で黒帯だ。ナイフ程度ならあしらえる自信はある。今日は特別だし。
ボクは白銀の光が降り注ぐ公園の中、その声があった方に足早に向かう。
□公園の噴水前
「体が裂かれたばかりだ。養分がまるで足りていない」
静かな声がした。
先程の声とは違う人のようだ。
「よい頃合で、栄養分が現れてくれたようだ」
「やめ――――――!」
ダンダンと軽快な、それでいて重い足音を立て、黒く巨大な塊がボクめがけ走ってきた。それは黒い獣のようにも見えた。
「ひぃ!」
悲鳴が漏れた時には、風がボクの顔を薙いだ。
視界が一気に反転する。
赤黒い湖面が広がっていった。服が冷たく濡れていく。
ここから離れなくてはならないのに、体はピクリとも動かない。
このままでは服が真っ赤に染まってしまう。
誕生日に妹がくれたボクの一番のお気に入りが、だ。
洗濯すれば落ちるかなぁ。落ちなかったらどうしよう。やっぱり最初にクリーニング屋に持っていってみようかな。
ズリズリと引きずられるような感触。
服が破けたらやだなぁ。
あの子は別に気にしないだろうけど、ボクが気にする。
空に真っ赤な月。
眼球に鮮血が染み込むように、真っ赤な月。
白色の月は好きだけど、真っ赤な月は嫌いだ。
―――ゴリ。ガキ。グシャリ。
―――ギギ。ゾブリ。ゴクリ。
アア、なんだか、ネムクナッタ。
デモ家に帰らないと、今日はイモウトノ誕生日。あのこが、スキダッタ、プレゼントの用意もアルンダカラ。
アア、ソウダ――――アレハボクノカオダ
アノシャシンハボクダ――――
ボクハアソコデ――シンダンダ―――
……アア、ユメガコワレタ。
「ただいまぁ。お母さんいるの?」
□一軒家の部屋
そして軽快に階段を上ってくる足音。
ボクはどうすればいいのか分からなかった。
逃げるべきだろうか? それなら窓を開けて飛び降りればいい。この肉体の能力ならそれぐらいの行為は簡単だろう。
だが、出来ない。ボク、山瀬舞子は彼女に会いたいんだ。
やがて後ろで、ドサリと重い物が落ちる音がした。
ボクは振り返った。そこには妹――山瀬明美が驚いた表情で立ちつくしていた。
【山瀬舞子】
「……姉さん?」
「…………久しぶり。………元気みたいで……ボクは嬉しいよ」
「姉さん!」
涙を流しながら、明美が抱き付こうとしてくる。だが、ボクはそれを避けた。先程の食事が頭をよぎったためだ。
「姉さん?」
「……ゴメンね。ちょっと理由があって抱き付かれたくないの」
「そんなこといいよ。やっぱり姉さん生きてたんだね。心配してしてたんだから」
痛い。心が痛い。涙を流す妹。ひどく痛い。
「………ねぇ、明美。……ボクは………死んでるんだ」
【山瀬舞子】
「え?」
「神様にお願いしてね。今日だけこちらの世界に返して貰ったの」
「う、嘘でしょ、姉さん」
「本当だよ」
ボクは一瞬迷い。それから勢い良くコートの前を開けた。
「ひっ!」
明美が口を両手で押さえながら、一歩後ろに下がった。ボクの体は女性の輪郭を持っているだけの黒い塊だ。怯えるのも当然の。だが、予想通りとはいえ、最愛の妹にそんな態度をされれば、結構辛いものがある。
「……ね。ボクの体はもうこの世のものではないんだ」
「………姉さん」
「あのね。多分だけど、ボクがこの世界に蘇ったのは明美。あなたに誕生日おめでとうという為じゃないのかなぁ、と今は思ってるんだ」
「……ね、ねえさん……」
□一軒家の部屋
「元気でね。体に気を付けて。ボクはいつでも見守っているから。それと、夜の公園には行かないこと」
「……ねえさん。待って、せめてお母さんに――」
「ゴメンね。もう時間がないんだ」
「……そ、そんなのイヤだよぉ。おねえちゃんがせっか、せっかくかえってきてくれたのにぃ」
明美の可愛らしい顔がぐしゃぐしゃに歪み、涙が溢れ出してくる。
……おねえちゃん?
ああ、そうだ……。
懐かしい言葉だ……。
明美は昔はボクをそう呼んでいた。
でも、何時の頃から明美にお姉ちゃんと呼ばれず、姉さんと呼ばれるようになったのか。
確かあれは明美が高校生になった時、子供っぽいからとボクが怒ったときだったか。
母さんが働きに行っている間の明美の面倒はボクが見ていた。
だから明美は何時も何時もボクの後ろを付いてきていた。何時もグスグス泣きながら、ボクの後ろにいた。
ボクはそんな妹を守るために、いじめっ子の男の子達に負けない空手を学んだ。
そしてその空手の結果を披露したとき、それから、ホント明美はボクにベッタリとくっついてくるようなった。
ボクなんかより遥かに頭が良いくせに、同じ高校に通いたい為に、受験をしてくるようなシスコンの妹。
だからボクは独り立ちさせるために、軽く突き放したんだ。
それから明美はボクを姉さんと呼ぶようになったんだ。
「おねえちゃん。かぁさんもわたしも、おねえちゃんが帰ってきてくれるって、絶対帰ってきてくれるって、しんじて、ずぅっと、信じてまっていたんだからぁ!」
まるで昔の明美を見ているようだ。
グスグスと鼻をならす妹―――。
ああ、何故、ボクは涙が流せないんだろうか。
□一軒家の部屋
「わたしはおねぇちゃんに、いろいろ言いたいことあるんだからぁ はんとし、まったんだからぁ」
辛い。
「せめて、せめて、一日ぐらいいいじゃなぁい!」
辛すぎる。
ボクはただ、黙って明美の横を通り過ぎる。
「――ま、まってよ、おねえちゃん!」
明美がボクの腕を掴んだ。そのまま、ズブズブと明美の手が飲み込まれだす。
ボクは大きく手を払った。
【山瀬舞子】
「お、おねえちゃん…………」
自分の手を見、そして怯えた表情をする最愛の妹。
「……………元気でね」
ボクは一方的な別れを告げると、家を出た。
後ろから明美が追いかけてくる気配があるので、一気に跳躍し、振り払った。これ以上ボクに何をしろというのか。
□公園の噴水前
やがて夜が来る。
ボクは一人で公園にいた。
ボクが死んだ……公園だ。
何とか飢えもやり過ごし、取り敢えずは肉体の支配権はボクが握っている。だが、それも限界に近い。
もしボクが支配権を失えば、体内の獣たちが飢えを満たすために、一斉に周囲の人々を喰らいだすだろう。
それはイヤだ。
ボクみたいな人間はこれ以上増えるべきではない。
ただボクは黙って、夜空を、そして沈み始めた月を見ていた。
アア、マッカナツキ。
グレンノゴトクシンクニソマッテル。
ひどく焦る一方で、ひどく心が落ち着いている。アンビバレンス。
死刑執行を待つ気持ちというのはこういうものなのだろうか。
自分がどうして姿を手に入れたのか分からない。ボクの考えでは本当に奇蹟なのだろう。出来ればもう少し家族で暮らしたかった。だが、駄目だ。これ以上、人を食わないで形状が保てるほどの自信がない。
どれだけの時間が過ぎたか。
ふと人の気配。
そして―
「こんな所にいたんだ。余裕ね」
「姿を変えたようですね」
二人の女性の声。
アルクェイドさんとシエルせん……いや、シエルさんのものだ。
ボクはベンチから立ち上がった。
□公園の噴水前
【アルクェイド】
【シエル】
予想していた二人。そしてアルクェイドさんの背中に背負われるようにして、一人の男性がいた。眼鏡をした真面目そうな男性だ。
彼が遠野志貴だろう。彼は力無くよろめいた。
顔色もひどく悪い。どう見ても健康な人間のものではない。大丈夫なんだろうか。
これから殺させるというのに、人の心配なんかしてしまう。
シエルさんが無造作に手を振った。
ドンドン、と、ボクの体を釘のような剣が三本貫いた。
入り込んだ尖端は背中から飛び出している。
だが、痛みは無い。
体が貫かれたという感触すらなかった。
ボクはそれを引き抜くと、そこら辺に投げ捨てる。
結構、大きな音がした。
□公園の噴水前
「言ってるじゃない、シエル。あれにはわたし達の攻撃は通用しないって」
「そうみたいですね、アルクェイド。黒鍵を受けてもビクともしないなんて、並の吸血種に出来る業ではありませんし」
聞き捨てならない言葉だ。
「何? ボクのことをあなた達は殺すこと出来ないんだ……」
【アルクェイド】
「ええ。わたし達にはね。
あなたの肉体はより混沌に近づいている。
混沌は即ち天も地も融合した一つの世界。あなたという混沌を、完全に破壊するには世界一つを破壊するだけの力が必要になる。地球が存在して以来、そんな力を持ち得た存在はいない。
――でも志貴は違うわ」
【シエル】
「そうです。遠野君の直死の魔眼なら、あなたという存在のみを殺すことが出来ます。遠野君なら混沌という概念ではなく、あなたという概念を殺すことが出来るのです」
「……だからって、病人を連れてきたんだ」
【アルクェイド】
「それはあなたが志貴の体から分離したからでしょ!」
アルクェイドさんが怒ったように怒鳴った。いや、実際怒っているのだろう。
「本当だったら志貴の体として存在するはずの、ネロの残骸がどうしたわけか独自の意識を持った。だから志貴はあなたと自分、二つ体を同時に動かしているのよ! あの娘達二人の血がなかったら、ここまで連れてくることすら危険な状態なんだから!」
……なるほど分かった。
この体を蝕む飢えは、正確には飢えではないんだ。
本来この体を維持していたモノは何らかの手段を講じ、肉体構造を維持していたのだろう。
だが、ボクみたいなただの人に、そんな高等な技が出来るわけがない。
結果、志貴君の体から離れた事による形状の維持を補うため、外部からの何らかの新しい情報の入力を試みる必要がある。
つまりこれは飢えなんて言う生易しいものではない。
存在の崩壊。
完全なる混沌への回帰。
そして、それを阻止する為の手段。
この体を維持する――混沌にならないよう人間の形態を維持するには、それに近い存在概念の補給が必要。
―――それは人食いだ。
ああ………。
ボクはやっぱり人間を殺すことでしか生きていけない、化け物になったんだ―――。
□公園の噴水前
「……ですが、元を糺せば、遠野君にあなたの貧弱な知識の中にある、半端な魔術なんかを教えたのが原因ではないのですか?」
シエルさんの視線を受け、アルクェイドさんが怯えたように身構えた。
「そ! シエル! わたしは志貴のことを思って!」
「……その結果がこれですか? 秋葉さんにあなたがどのような説明をするのかが本当に楽しみです」
ニヤリという音が正しいような笑みを浮かべるシエルさん。
「そ、そんなぁ〜。志貴も何か言ってよ」
「まぁ、アルクェイドも俺の寿命のことを思って教えてくれたわけですし…………」
「…………あぁ」
……羨ましい。
お互いに嫌いあってない者同士の、上辺の口喧嘩。
ボクも明美とこんな口喧嘩をしたことがある。
何故、目の前の三人はこうも残酷な光景をボクに見せるのだろう。
何でもないような日常のヒトコマ。
朝起きて、家族で食事をし、学校へ行き、授業を受け、友達と喋って、家に帰り、家族で食事をし、寝る。
つまらない、代わり映えのない日常にある風景。
母さんがいて、明美がいる。そんなつまらなく休まる景色。
今のボクが心の底から望みながら、到底叶わない望み。失ってみなくては気づかない、くだらなく、とても大きな望み。
それを何故、彼女らは……ボクに見せるのだろう…………。
□公園の噴水前
ボクはポケットからナイフを取り出すと、志貴君に投げた。それはやはり予想していたとおり、アルクェイドさんが空中で掴む。
そしてそのナイフを志貴君に渡した。
そしてアルクェイドさんとシエルさんの二人は、ただ黙って後ろに下がった。
本当に病人のように顔色の悪い志貴君がボクの相手をするらしい。
【志貴】
「人間が相手をするの?」
彼は溜め息をつくと、ゆっくり、眼鏡を外した。
【志貴】
「――青い……目?」
ひどく冷たく、禍々しい目。まるで自ら光を放っているようにも見える、引き込まれそうな瞳。アルクェイドさんの紅の瞳を直視したときと同じような感触が心に残る。
突然、ボクの体の獣たちが暴れ出した。
まるで、青の瞳の魔力に誘発されたように、もしくはそれが危険なものであると理解したかのように。
生存本能。
それが動き出した。
だが、ボクはそれを押さえ込む。獣達はしばらく暴れ、それから不承不承とおとなしくなる。
なんだか数時間で体の支配が上手くなったようだ。
志貴君はその冷たい目で、ただ黙ってボクを見ていた。
「そんなちゃちなナイフで、ボクが殺せると思っているの」
ボクがわざとらしく戯けてみせると―
やはり彼は何も言わず、ただ、黙ってボクを見ている。
何となく、獲物を狙う獣のような感じがするのは気のせいだろうか。
「……何とか言ったらどうなんだ!」
ボクは一気に駆けだした。
凄く体が軽い。一気に周囲の景色が後ろに流れていく。
半端じゃない、単純肉体能力だ。
ボクは右手を握りしめる。
堅い、岩のような拳だ。
この体の一撃を受ければ、人間を殺すことなんか余裕だろう。それだけの力があるのが分かる。だからこそ力はセーブする。もう人は殺したくないのだから。
志貴君がボクの拳を潜り、ナイフを突き出してくるのは感じていた。
……だが、そんなちゃちなナイフではボクを殺すことは出来ない。
だからかわす必要はない。
せめて本気できて欲しいものだ。
ナイフがボクの胸に突き立てられた。
そして―――
――――心の奥底まで染み込むような冷たい感覚。
「あっ……」
突き刺さったと感じた瞬間、ボクが消えていくのが分かった。これは多分、絶対に致命傷だ。生き返ることは決して出来ないほどの。
意識が広く拡散していく。闇に溶け込んでいく。
痛くないのが救いか。もう痛い思いは―――
突然――
ボクの体が跳ね、暴れ出した。
ボクという司令塔を失ったことで、押さえ込んでいた体を構成する獣たちが暴れ始めたのだ。
限界まで引っ張った糸が弾ければ、その勢いは強いものになる。
ボクの体から飢えた黒い獣―――熊や虎やライオンや狼や鮫、そのほかよく分からない生き物なんかが、公園の噴水のように吹き上がった。
だが、何匹もの獣たちが体から飛び出し、三人に襲いかかろうとするが、そのたびに釘のような剣で貫かれ、アルクェイドさんの一撃で簡単に殺されていく。
これなら安心だ。あの人達なら完全にボクを殺しきれる。
もう安心―――――
「おねえちゃ〜ん」
□公園の噴水前
――――聞き慣れた、血を分けた女性の声。
消え去りそうな視界の端で、飢えた何匹かの獣達が声のあった方に走り出す。
闇に溶け込みかけた、ボクの意識が急速に戻ってくる。
「アァアアアアアアア!!」
崩れる。壊れる。消えていく。
ニクタイガ―
タマシイガ―
ココロガ――
だが、奇蹟が起きて蘇ったなら、もう一度奇蹟が起こっても良いはずだ。
ボクは走り出した。
どんどんボクを構成する肉体――いや、魂は崩れ、粘液状の闇の塊になっていく。
だが、もう少し――
ひどく懐かしい少女の前に、一匹の獣。巨大な黒い虎。
ボクは――――
「アアアアアアア!!」
絶叫を上げ、獣に組み付いた。明美は驚いた顔を見せた。
半歩、遅れて到着した志貴君が、持っていたナイフを一閃させた。
獣は崩れていく。
それと同じように
ボクも
崩れていく――――。
□公園の噴水前
「……………じゃあね…………」
明美が涙を流し始めた。
その後ろで、ばつが悪そうな顔をしているアルクェイドさんとシエルさん。
そして話が見えてないのか困惑したような志貴君。
「お、おねえちゃん。イヤだよぉ。イヤだよぉ。しなないでよぉ。な、なんでもいうこと聞くから、お願いだよぉ!」
ボクは残る全ての力を振り絞って、微笑む。
明美が最後に見るボクの表情が、最高のものであるために………。
「お! おねえちゃん! おねえちゃん! おねえちゃん、おねえちゃん、おねえちゃん!」
やはり……明美は泣き虫だ。
でも、もうボクは守れない。
「あ、あけみ……わらって……」
「え? ……む、むりだよぉ。おねえちゃんが戻ってきてくれるなら幾らでも笑えるけど、無理だよぉ!」
……遠くなる。意識が消えていく。魂が消えていく。
「……あけみ、わらって。ボクのぶんもわらって。…………さいごにえがおをみせて……」
「……ああ………おねえちゃん…………。うん……。笑うよ。わ、わたし、笑って……笑ってるよ……」
「……つよく、つよく…………ボクはいつでもあけみをみまもってるよ……」
世界が暗い。
全てが……遠くなる……。
「……あ、あぁ……おねえちゃあん!!」
ああ………。
キラキラと、ボクの顔に涙が降り注ぐ。
ボクが涙を流したように見…えるか……な…………。
あ――あ―――つ――――き
なん―――て―――
――――――きれ―――――いな
しろ――――い―――つ――き―――――
空には白い月
深紅の色は涙によって拭われた
それは夢の終わり
短く長い夢の終わり――――