「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ
『本編シナリオ』
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「初日の朝」-->*s1
「始まりの朝〜今日はどうする?」-->*s2
「朝・変わらぬ食卓」-->*s3
「学校・登校〜アルクェイドの部屋」-->*s4
「学校・登校〜シエル先輩の部屋へ」-->*s5
「学校・登校〜アルクェイドの部屋。ラーメン職人どくきのこ」-->*s8
「学校・登校〜シエル先輩の部屋。食らえ志貴!これが噂のカレーコンボ!?」-->*s9
「学校ルート・登校〜秋葉と二人」-->*s10
「学校・登校準備」-->*s11
「学校・登校〜乾家の人々」-->*s12
「学校・登校〜乾家の人々そのに」-->*s13
「学校・朝」-->*s15
「学校・朝〜茶道室」-->*s16
「学校・朝〜教室。秘密指令・カンバンを作れ」-->*s17
「学校・朝〜中庭。黒猫と志貴」-->*s19
「学校・朝〜中庭。無人」-->*s20
「学校・昼休み〜行動選択」-->*s22
「学校・昼休み〜茶道室。アルクェイドよりの場合」-->*s24
「学校・昼休み〜茶道室。シエル先輩よりの場合」-->*s25
「学校・昼休み〜炎のクロカカウンター! 激突、にゃんぷしー対フリッカーシエル!」-->*s26
「学校・昼休み〜食堂。ニュースの時間」-->*s27
「学校・昼休み〜中庭へ」-->*s29
「学校・昼休み〜中庭。黒猫ルンバ」-->*s32
「学校・昼休み〜中庭。無人」-->*s34
「学校・五時限目前〜幕間1」-->*s36
「学校・五時限目前〜幕間2」-->*s37
「学校・五時限目前〜幕間3」-->*s38
「学校・五時限目前の行動」-->*s39
「学校・五時限目〜世界の果てへ」-->*s40
「学校・放課後」-->*s42
「学校・放課後」-->*s43
「学校・放課後〜茶道室」-->*s44
「学校・放課後〜教室に残る。そして有彦と遭遇」-->*s47
「学校・放課後〜教室に残る。そして知得留先生と遭遇」-->*s48
「学校・放課後〜教室に残る。そして文化祭の準備」-->*s49
「学校・放課後〜帰宅、秋葉と」-->*s50
「学校・放課後〜帰宅」-->*s51
「学校・放課後〜帰宅。そして有彦と遭遇」-->*s52
「夕方の坂、誰かの望郷」-->*s53
「下校あとの屋敷〜自室。朱鷺恵さん」-->*s54
「下校あとの屋敷〜翡翠の手伝い」-->*s55
「下校あとの屋敷〜琥珀さんの部屋。……返事がないぞ?」-->*s56
「下校あとの屋敷〜琥珀さんと犯罪ゲーム」-->*s57
「下校あとの屋敷〜部屋に戻る志貴」-->*s58
「下校あとの屋敷〜秋葉の部屋。お化けと文化祭とブンプクチャガマ」-->*s60
「下校あとの屋敷〜秋葉の部屋。あさじょの話」-->*s61
「下校あとの屋敷〜夕食」-->*s62
「下校あとの屋敷・夕食後のお茶会〜幕間1」-->*s64
「下校あとの屋敷・夕食後のお茶会〜幕間2。トオノ大戦」-->*s65
「下校あとの屋敷・夕食後のお茶会〜幕間3」-->*s66
「夜〜選択肢」-->*s68
「夜〜選択肢」-->*s69
「夜〜選択肢」-->*s70
「夜〜選択肢」-->*s71
「夜〜殺人鬼1」-->*s75
「夜〜殺人鬼2」-->*s76
「夜〜殺人鬼3」-->*s77
「夜〜世界の果ての幻視の事1」-->*s78
「夜〜世界の果ての幻視の事2」-->*s79
「夜〜世界の果ての幻視の事3」-->*s80
「夜〜忘れている何か1」-->*s81
「夜〜忘れている何か2」-->*s82
「夜〜忘れている何か3」-->*s83
「夜〜化け猫退治!夢冒険きぐるみダンジョン」-->*s84
「夜〜月の猫」-->*s85
「朝〜今日は屋敷で過ごすと決めた志貴くん」-->*s86
「屋敷・朝食その1」-->*s88
「屋敷・朝食その2〜ワインの好き好き」-->*s89
「屋敷・午前中前〜行動選択」-->*s91
「屋敷・午前中〜自室。無人」-->*s93
「屋敷・午前中〜自室。黒猫酔夢」-->*s94
「死の渦へ」-->*s96
「屋敷・午前中〜七夜の森。琥珀さんドラネコ説」-->*s97
「屋敷・午前中〜秋葉の部屋へ!」-->*s98
「屋敷・午前中〜秋葉の部屋。……君子危いに近寄らず」-->*s99
「屋敷・午前中〜侵入!秋葉の部屋!」-->*s100
「屋敷・午前中〜翡翠の手伝い。セクハラ怪人志貴登場の巻!」-->*s101
「屋敷・午前中〜琥珀の部屋。猫と歌舞伎と琥珀さん」-->*s102
「屋敷・午前中〜中庭。黒猫日和」-->*s105
「屋敷・午前中〜離れの屋敷へ」-->*s106
「離れの屋敷〜おねむ」-->*s107
「離れの屋敷〜鍵ゲットだぜ!(その1)」-->*s108
「屋敷・正午〜幕間1」-->*s110
「屋敷・正午〜幕間2」-->*s111
「屋敷・正午〜幕間3」-->*s112
「屋敷・昼食」-->*s113
「屋敷・午後〜自室でおねむ」-->*s115
「屋敷・午後〜妹切草予告編」-->*s116
「屋敷・午後〜秋葉の部屋へ。縦よこクミン!」-->*s118
「屋敷・午後〜秋葉の部屋、戦略的撤退」-->*s119
「屋敷・午後〜秋葉の部屋。最強の敵出現!? ほうき少女まじかるアンバー登場の巻!」-->*s120
「屋敷・午後〜翡翠探索」-->*s123
「屋敷・午後〜翡翠発見」-->*s124
「屋敷・午後〜琥珀さんの手伝い。本編最難関!?開かずの金庫!」-->*s126
「屋敷・午後〜金庫、開かず」-->*s127
「屋敷・午後〜金庫、あと一本」-->*s128
「屋敷・午後〜金庫開封」-->*s129
「屋敷・午後〜強襲!メイドアルクとアルク翡翠。遠野家大決戦の日」-->*s130
「屋敷・午後〜離れの屋敷。白昼の翡翠〜過ぎ去りし少年のあの頃〜」-->*s132
「屋敷・午後〜離れの屋敷。妹切草予告編」-->*s133
「屋敷・午後〜槙久の部屋。地獄開幕」-->*s135
「地獄終結!鍵ゲットだぜ(その2)」-->*s136
「地獄決定、敗者の洞へ。正解は知得留先生の授業であの人が教えてくれるぞ!」-->*s137
「屋敷夕食〜世界の果て」-->*s139
「屋敷・日没〜どっちの料理?」-->*s140
「屋敷・夕食後1」-->*s142
「屋敷・夕食後2〜トオノ大戦」-->*s143
「屋敷・夕食3〜エクソシスターシエル」-->*s144
「屋敷・日没〜行き先決定」-->*s145
「外食・メシアン〜通常」-->*s147
「外食・メシアン〜戦場跡」-->*s148
「外食・中華飯店〜有彦とひまわりラーメン」-->*s149
「外食・焼肉〜七夜志貴」-->*s151
「外食・焼肉〜赤い鬼神」-->*s152
「屋敷・中庭〜無人の庭」-->*s153
「屋敷〜街へ・行動選択」-->*s155
「屋敷・街へ〜行動選択」-->*s156
「街・午前中〜アルクェイドの部屋へ」-->*s157
「街・午前中〜アルクェイドの部屋」-->*s158
「街・午前中〜アルクェイドの部屋〜朱い悪夢」-->*s159
「街・午前中〜アーネンエルベへ_」-->*s160
「街・午前中〜アーネンエルベ。アキラとお茶会」-->*s161
「街・午前中〜アキラと別れる。ぐっばいアキラ!」-->*s162
「街・午前中〜アキラと昼食。でぶでぶ禁止令」-->*s163
「街・午後〜アキラと公園と正体不明の男の子」-->*s164
「街・午後〜アキラと黒い女の子」-->*s165
「街・午前中〜公園で散歩。黒いコートのおんなのこ」-->*s167
「街・午前中〜ネコマミレン」-->*s168
「街・午前中〜公園、無人」-->*s169
「街・午前中〜乾家の人々そのさん」-->*s171
「街・午前中〜時南医院」-->*s172
「街・午前中〜シエル先輩の部屋へ」-->*s173
「街・午前中〜シエル先輩の部屋」-->*s174
「街・午前中〜シエル先輩とお勉強」-->*s175
「街・午前中〜シエル先輩の部屋〜激震!シエル覚醒!」-->*s176
「街・午前中〜カレー店にて。一人街に出る志貴くん」-->*s177
「街・午後〜シエル先輩と巡回。黒い悪夢」-->*s178
「街・午前中移動中〜雑踏の少女」-->*s179
「街・正午〜今後の行動」-->*s180
「街・正午〜屋敷へ戻る」-->*s181
「街・正午の公園〜幕間1」-->*s183
「街・正午の公園〜幕間2」-->*s184
「街・正午の公園〜幕間3」-->*s185
「街・午後〜大通り。七夜の影」-->*s187
「街・午後〜大通り。冬を走る少女」-->*s188
「街・午後〜大通り。無人」-->*s189
「街・午後〜交差点。七夜の影」-->*s191
「街・午後〜交差点。それが、話の発端」-->*s192
「街から帰宅〜夕食前」-->*s193
「夕方・街〜行動選択」-->*s194
「夕方・街〜アルクェイドの部屋〜アルクの使い魔講座」-->*s196
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。探索編」-->*s197
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。大人しく帰る志貴くん」-->*s198
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。ベッドを探索する志貴くん」-->*s199
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。たんすを探索する志貴くん」-->*s200
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。会話編」-->*s202
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。黒猫の話」-->*s203
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。昨日の話」-->*s204
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。殺人鬼の話」-->*s205
「夕方・街〜アルクェイドの部屋。会話編」-->*s206
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。シエルっちの使い魔講座」-->*s208
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。探索編」-->*s209
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。大人しく帰る志貴くん」-->*s210
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。お邪魔して色々雑用をこなす志貴くん」-->*s211
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。たんすをあさる志貴くん。滅殺シエル登場の巻」-->*s212
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。会話編」-->*s214
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。殺人鬼の話」-->*s215
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。学校の話」-->*s216
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。昨日の話」-->*s217
「夕方・街〜シエル先輩の部屋。会話編」-->*s218
「夕方・街〜路地裏。鎮魂の花」-->*s220
「夕方・街〜路地裏。その定義」-->*s221
「学校・朝〜文化祭決定。クラスの出し物なんにするのん?」-->*s223
「文化祭・朝〜喫茶店に決定」-->*s224
「文化祭・朝〜貸衣装屋に決定」-->*s225
「文化祭・朝〜映画館に決定」-->*s226
「文化祭開始〜どこに行く?」-->*s227
「文化祭・午前〜一年の廊下〜猫秋葉とお化け侍」-->*s228
「文化祭・午前〜二年の廊下。ゴートゥーヘル!アキラVSアキハ!」-->*s229
「文化祭・午前〜三年の廊下〜カレーメンを読みやがれ!」-->*s230
「文化祭・正午〜行動選択」-->*s231
「文化祭・午後〜喫茶店、萌え萌えケーキレンちゃん」-->*s234
「文化祭・午後〜食い逃げ喫茶の死闘」-->*s235
「文化祭・午後〜貸衣装屋。チャイナ万歳!琥珀さんとペキンダックを食べたいです」-->*s236
「文化祭・午後〜映画館。映画はすべてデタラメなので鵜呑みにしちゃダメ」-->*s237
「文化祭・午後〜校内徘徊。翡翠ラブラブ梅サンド」-->*s242
「文化祭・午後〜校内徘徊。蘇る悪魔・走れ志貴、いまこそジョグレス進化の時!」-->*s243
「文化祭・ファイナル」-->*s244
「夜〜選択肢」-->*s245
「夜〜選択肢」-->*s246
「夜〜選択肢」-->*s247
「夜〜選択肢」-->*s248
「深夜の来訪者」-->*s250
「その五人は月姫本編で!」-->*s251
「屋敷・午後〜金庫開封〜秋葉の写真」-->*s253
「屋敷・午後〜金庫開封〜翡翠の写真」-->*s254
「屋敷・午後〜金庫開封〜……なんでアルクェイドなのさ」-->*s255
「夢の主」-->*s256
「タナトス=エロス」-->*s258
「夜〜世界の果ての幻視4」-->*s259
「学校・昼休み〜行動選択」-->*s260
「学校・昼休み〜中庭。秋葉と食事。怪猫の話・アレコレ」-->*s300
「学校・登校中〜雑踏の中の少女」-->*s301
「学校・登校中〜雑踏」-->*s302
「屋敷・夕食」-->*s303
「夜〜対決、悪夢」-->*s305
「夜〜バイバイ、エンジェル」-->*s306
「光の庭園、夢の終わり」-->*s307
「光の庭園、夢の終わり」-->*s308
「学校・ホームルーム〜今日の授業は?」-->*s400
「学校・ホームルーム〜今日の授業は?」-->*s401
「学校・ホームルーム〜今日の授業は?」-->*s402
「魔術師の夢T」-->*s403
「魔術師の夢U」-->*s404
「その真相」-->*s405
「体育祭。獅子大蛇相打つ!」-->*s501
「死闘1」-->*s505
「圧壊の腕」-->*s506
「死闘2」-->*s507
「烈壊の腕」-->*s508
「死克乱舞」-->*s509
「魔壊の腕」-->*s510
「光の庭園、月の抱擁_」-->*s511
「光の庭園、夢の終わり」-->*s512
「学校・登校〜アルクェイドの部屋、志貴くん学校へ」-->*s515
「学校・登校〜シエル先輩の部屋、志貴くん学校へ」-->*s516
「街・午前中〜アルクェイドの部屋、志貴くん街に出る_」-->*s517
「学校・五時限目前、授業に出る」-->*s518
「ネコネコネコネコ!」-->*s519
「オープニング」-->*s520
「オープニング虚構」-->*s521
「オープニングその真相」-->*s522
「エンディング」-->*s523
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*s1
――――眠っていた意識が目蓋を開ける。
いつのまにか、朝がやってきたらしい。
□志貴の部屋
柔らかな陽射しで目が覚めた。
昨夜はよっぽど早く眠ったのか、体に眠気は残っていない。
目覚めはこれ以上ないというぐらい爽やかだった。
「ん―――――――――」
体を起こして背筋を伸ばす。
陽射しはすっかり秋のもので、暑くもなく寒くもない気温は過ごしやすい事この上ない。
ただ、風が入ってこない所を見ると翡翠はまだやってきていないようだった。
翡翠はこっちが目覚めるより前にやってきて、窓を開けて退室する。そうして、一呼吸おいてから起こしにくるのが彼女の日課だからだ。
「……って事は、まだ七時になってないのか」
時計を見ると時刻は六時半を過ぎたばかり。定時通りなら、そろそろ翡翠がやってくる頃だった。
「……翡翠が来るより早く起きるなんて珍しいな。昨日は別に何をしたってワケでもないんだけど」
昨日、昨日、昨日のこと。
はて、昨夜は何時ベッドに入ったんだっけ、と思い返そうとして、思考はピタリと止まってしまった。
「――――――――あれ?」
昨日。昨日って、何があったんだっけ?
昨日自分が何をしたのか、どうもうまく追想できない。……たんにいつも通りの一日だったから印象が薄いだけかもしれないけど、何時に眠ったのかも思い出せないなんて気持ちが悪い。
「まてまて、それじゃあ二日前は何をしたんだ」
額に指をあてて真剣に考える。
「……」
二日前、二日前。えっと、今日が水曜なんだから月曜だよな、きっと。
「…………」
月曜って事は学校があったって事だ。なら学校に行ったんだろう。
「……………………」
で。学校にいって何をしたんだっけ。
「………………………………」
いや、まあ多分、昨日とそう変わらない一日だったんだろうけど。
「…………………………………………おい」
……実はまだ寝ぼけてるんだろうか。
どうも、昔の事を思い出そうとすると頭の中が真っ白になる。
なんていうか、今の自分を象る綿密な履歴は覚えていて、その他の事が思い出せない、といった感じ。
―――いや、それとも。
何か、一つ。
自分は大きな忘れ物というか、誰かにトンデモナイ事をされてしまって、それでナニカを忘れてしまったような感じ。
「―――痛っ」
うっ、なんか考え込んでたら後頭部が痛み出した。
やけにズキズキするので触ってみると、なぜかタンコブができていたりする。
「………?」
寝ている時に頭をぶつけたんだろうか、と首をかしげた時。
コンコン、といつものノック音が聞こえてきた。
【翡翠】
「失礼します、志貴さま」
囁くようにそう言って扉を開ける翡翠。
「やっ。おはよう翡翠」
しゅた、と手をあげて挨拶をする。
「――――――――――」
翡翠はかすかに驚きで眉を揺らした後、
【翡翠】
「おはようございます、志貴さま」
と深々とお辞儀をした。
【翡翠】
「今朝はお目覚めでいらしたのですね。それではすぐに着替えを持ってきますので、どうぞそのままでお待ちになっていてください」
翡翠はいつもの調子で部屋を去ろうとする。
……いや。昨日や一昨日の翡翠の仕草を思い出せないクセに、それが“いつも通り”と感じるのはどこか妙な気分だった。
「あ、ちょっと待って。一つ訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
【翡翠】
「はい。なんでしょう、志貴さま」
「いや、つまらないコトなんだけど、昨日俺が何をしてたか教えてくれないか」
【翡翠】
あ。なんか、すごく困ってる。
「いや、別に細かい事じゃなくていいんだ。何時に帰ってきたかとか、夕食はなんだったかとか、秋葉のヤツになんて怒られたかとか、そういうコトを訊きたいんだけど―――」
【翡翠】
「………………」
翡翠は申し訳なさそうに俯いてしまった。単に知らないのか、それとも俺の昨日の行動はよっぽど恥知らずだったのか、ともかく翡翠は言いにくそうに肩をすくめている。
……なにか、いじめているようで自己嫌悪に陥りそうだ。
「―――悪い、おかしな事を訊いちゃったな。なんとなく聞いただけだから気にしないでくれ」
【翡翠】
翡翠は申し訳なさそうな瞳のまま顔をあげる。
「ほらほら、気にしないでいいから着替えを持ってきてくれ。寝巻きのままで食堂に行くわけにはいかないだろ?」
【翡翠】
「――――――――」
翡翠は何か言いたげな顔をしてから、一礼して退室していった。
return
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*s2
トンデモナイ夢を見た。
もう、ともかく支離滅裂で、
トンデモナク楽しい夢だったのか
トンデモナク恐ろしい夢だったのか、
それさえも確かじゃないぐらい
ゴチャゴチャした夢を見た―――――
「志貴さま? お起きになられていますか、志貴さま?」
遠慮がちな翡翠の声。
「あの、もうお目覚めになられる時間です。今朝はそろそろお起きになっていただけますか、志貴さま……?」
枕もとでそんな言葉を囁かれちゃ起きないわけにはいかない。
「―――――――」
まだ半端に睡眠を欲しがる体に鞭を打って目蓋を開けた。
□志貴の部屋
【翡翠】
「おはようございます、志貴さま」
「……ん、おはよう翡翠。ねぼすけの相手、いつもいつもすまないね」
【翡翠】
「いえ、そのような事はありません。志貴さまに朝をお報せするのは楽しいです」
「そ、そう? まあ楽しいんならいいんだけど……」
俺だったらこんなねぼすけの世話はイヤだけどなあ。
【翡翠】
……っと。翡翠は真剣な目でこちらの顔を観察していた。
「志貴さま。お顔の色が優れないようですか、お体のほうに異状はありませんか?」
「いや、別に普通だけど。体だって汗をかいてるワケでもないし」
言って額に手を触れてみる。
……かすかな発汗。そういえば昨日の夜、何かおかしな夢を見た気がする。
「ま、気にするほどの事じゃないって。それより俺も少しは自分で起きれるように努力しないといけないよな。……よし、今日あたり無駄を承知で目覚まし時計でも買ってみようか!」
ぽん、と両手を合わせて提案する。
【翡翠】
……と。翡翠は、なぜか嫌そうな顔をして黙り込んでしまった。
「翡翠……?」
【翡翠】
「―――志貴さま。志貴さまは、わたしが朝をお報せする事がご不満なのですか……?」
「え―――いや、そんなコトは、もうぜんっぜんないんだけ、ど―――」
【翡翠】
「それでは、どうかそのような事はおっしゃられないでください。志貴さまに不自由をさせたとあっては、わたしはお仕えする事ができなくなってしまいます」
じっ、と見つめてくる翡翠。
言葉の上では謝ってきているのに、なんか脅迫されているような気がするのは気のせいか。
「あ―――はい。たしかに目覚まし時計なんかより、翡翠の方がずっと頼りになる、よね」
【翡翠】
「そう言っていただけると助かります。
ところで志貴さま、今朝はどうなされますか?」
「はい? 今朝って、そんなの―――」
決まってるじゃないか、と言いかけて思考が停止した。
今朝の予定がスムーズに浮かんでくれない。
そういえば昨日の夜、明日はどうしようと思って眠りについたのか。
……昨日は何をしていたのかと思い出そうとして、まあ、きっと思い出せないだろうな、と納得する。
だいたい、昨日なにをしたのかなんて、思い出した所で今日が変わるわけでもないのだし。
「志貴さま、今日のご予定をお教えください」
「ああそうだね。今日は―――」
そう、今日は――
return
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*s3
□遠野家居間
着替えを済ませて居間に行くと、例によって例の如く秋葉が紅茶を飲んでいた。
【秋葉】
中庭を眺めていた秋葉が視線を向けてくる。
【秋葉】
「おはようございます兄さん。今朝は調子がよさそうで良かったですね」
満足げなその笑みは、ようするに今朝は珍しく早いんですね、という言葉の裏返しなんだろう。
「ん、ハオ」
よっ、とばかりに挨拶をして食堂に向かう。
【秋葉】
「―――訂正します。今朝もいつも通りですね兄さんは。なんですか、その失礼な挨拶は」
じろり、と非難の目を向けてくる秋葉。
……残念。たった二文字に込められた深い深い親愛の情は理解されなかったようだ。
「失礼じゃないぞ。いつもいつもおはよう、なんて挨拶じゃつまらないだろ。だからこう、今日は趣向をこらしてネイティブな感じで攻めてみたんだよ」
【秋葉】
「へえ。私には手抜きにしか聞こえなかったけど、兄さんがそう言うのでしたらそうなんでしょうね。
そういう事でしたら私も明日から同じ挨拶をさせていただきますけど、よろしいですか?」
「おう、そんなの望むところ―――――」
と言いかけて、秋葉が陽気に挨拶をする姿を想像してみる。
「――――――――」
なんか、それこそ精神衛生上よろしくない気がする。朝っぱらからそんなミスマッチなものを見せ付けられたら、それこそ貧血で倒れかねない。
「………いや、やっぱりやめよう。挨拶っていうのは礼節の表れなんだなって実感しました。そういうわけなので、今後は自分も気をつけます」
【秋葉】
「解ってくだされば結構です。兄さん、何度も言っているコトですが、朝からあまりつまらない事を言わせないでくださいね」
秋葉は優雅に紅茶を飲む。
結局早起きしようが何をしようが、遠野家の朝の風景は変わらない。俺も秋葉もこんなやり取りには慣れてしまっている。
だからこれも、いつも通りの朝といえばいつも通りの朝だった。
□遠野家1階ロビー
支度を済ませてロビーに出る。
時刻は七時になったばかり。いつもより余裕がある分、何処かに寄って行く事もできそうだ。
さて、それじゃあ――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s4
□遠野家1階ロビー
時間もあるし、ちょっと顔を出しておくのもいいかもしんない。
ここのところ学園祭の準備で忙しくてかまってやれなかったし、純粋にアルクェイドの顔が見たい。
□屋敷の門
秋葉より一足先に屋敷を出る。
【翡翠】
「志貴さま、忘れ物はありませんか?」
見送りに来てくれた翡翠が、珍しくそんな事を尋ねてきた。
「忘れ物……? いや、準備は万全だと思うけど」
一応鞄を開けて中を確認する。
筆記用具と学生証、今日の授業分のノートと、ちゃっかりナイフを忍ばせているあたり自分らしい。
「忘れ物はないみたいだ。それじゃ行ってくるよ。もしかしたら帰りは遅くなるかもしれないから、その時は心配しないでくれ」
【翡翠】
「はい、文化祭の準備ですね。お泊まりになられるようでしたらお電話をいただければ助かります」
「オッケー。それじゃ行ってくる……!」
【翡翠】
丁寧に送り出してくれる翡翠に背を向けて、いつもの坂道へと駆け出した。
□マンション入り口
「――――――ふう」
走りづめだった体を休ませて深呼吸を一度した。
交差点から南に行けば学校、東に行けばこのマンション、という立地条件ゆえか、テコテコと移動していては間違いなく学校に遅刻する。遅刻したくなければ朝早くに起きてここまで全力疾走するしかない。
朝、アルクェイドの部屋に行くという事はそういう事だった。
□マンション廊下
ピンポーン、という呼び鈴。
返事は当然のようにない。
「―――――――」
合い鍵でドアを開けて中に入る。
□マンションキッチン
「アルクェイド、起きてるかー?」
【アルクェイド】
「……んー、いま起きたトコ」
眠そうに目をこすって、アルクェイドは手招きした。
□アルクェイドの部屋
アルクェイドの部屋は相変わらずシンプルだ。
【アルクェイド】
昨夜出歩いていたのか、アルクェイドは普段以上に眠たそうにベッドに腰かけている。
「なんだよ、辛そうだけど何かあったのか?」
「ん……ちょっとね。昨日つまんない夢を見て、自分自身に呑まれそうになっただけ」
はあ、とため息をつくアルクェイド。その様は眠い、というよりは落ちこんでいるようにもとれる。
「つまんない夢……って、たしかあんまり夢ってものは見ないんじゃなかったっけ、アルクェイドは」
「あんまりじゃなくて滅多に見ないわ。睡眠中は機能を停止しているんだから思考も停止してるもの。
……まあ、それでもたまには昔の事を思い返すんだけど、それはあくまで“過去にあった出来事”にすぎないわ。そんなもの、志貴の言う夢とは違うモノでしょ?」
「……ん、そうだろうな。夢っていうのは現実半分希望半分で出来てるものだから、思い出とは違うものだし」
「でしょう? ……まあ、その希望半分っていうのがよく解らないけど、ともかく自分が体験した事のない体験が夢なわけでしょ? それならわたし、今まで夢を見る事なんてなかったよ」
眠そうな顔で、淋しい事を彼女は言った。
「―――そうか。じゃあつまらない夢ってのは昔の思い出だったわけか?」
【アルクェイド】
「……どうだろう。わたし、あんな体験をした事ないし、あんなヤツ知らない。自分の知らない事柄が出てきた以上、アレは志貴の言う“夢”だったのかもしれない」
思いつめたような呟きのあと、ばふっ、とアルクェイドはベッドに倒れこんだ。
「皮肉な話だなー。せっかく夢を見れたかと思ったのに、一番見たくない未来を見せられちゃった。志貴も出てきてくれないし、なんかすっごく損した気分」
はあ、とため息をつくアルクェイド。
……なんか、こっちもこっちで今朝は調子が悪いようだ。
【アルクェイド】
「ね、それより志貴! 今ここにいるって事は学校休みってコト?」
がばちょ、と跳ね起きるアルクェイド。その瞳は今すぐ遊びに連れていけー、と輝いていたりする。
「あー、いや……ちょっと顔を見に来ただけなんだ。訊きたい事を聞いたらすぐに学校に行く」
【アルクェイド】
「あ、やっぱりそうなんだ。志貴ってそうゆうトコ薄情だよね。昨日だってわたしが困ってたのに出てきてくれなかったし」
じー、と文句ありげな視線。
そんな夢の中のコトを言われても困るのだが、頼りにされるのはやっぱり嬉しかったりする。
「はいはい、それじゃ今度からピンチの時は呼びつけてくれ。もっとも、生憎こっちは人の夢に出向くなんてコトはできないんだから、そのあたりはそっちで都合をつけること」
「え? わたしの方で都合をつけろって、わたしそんなコトできないよ」
しれっと、かつてのイタズラを忘れて首を傾げるアルクェイド。
「……アルクェイド。一つ訊くけど、以前俺の夢をトンデモナイ内容に変えてくれたのは誰だったんだっけ?」
【アルクェイド】
「――――あ。えへへ、それわたしだー」
……まったく。どうしてこう都合の悪い事をキレイさっぱり忘れられるんだろう、こいつは。
「そういうこと。夢魔だかなんだか知らないけど、人の夢にちょっかいだせるなら悪夢なんて恐くないだろ。……あ、だからってあんなコトはもう止めろよな。そのレンっていう使い魔を悪用するのは良くないぞ」
うん、と素直に頷くアルクェイド。物分かりがよろしくて結構結構。
「そうだよねー、わたしにはレンがいたんだった。滅多に使役しないから忘れてたけど、そっかー、レンにお願いすればなんでもありだよねー!」
「…………………あのな」
……いや、だから。悪用って言うのは、つまりそういうコトなんだってば。
□アルクェイドの部屋
―――と、そろそろ学校に向かわないと遅刻する。
つい会話に花が咲いてしまったけど、当初の目的を果たして学校に行かないと。
「アルクェイド、一つ訊くんだけど」
「ん? なに、改まっちゃって」
「あのさ。おまえ、俺に何かした?」
【アルクェイド】
「―――――――――はい?」
ん?と。アルクェイドは小鳥のように首をかしげた。
「何かって、何?」
「いや、その……それがよく分からないから訊いてるんだ。自分でも何がおかしいのか分からないんだけど、何かおかしい気がする。
で、そういったコトをしでかすのはアルクェイドか先輩ぐらいしか思いつかないんで訊きに来たんだよ」
【アルクェイド】
「今のセリフは聞き捨てならないけど、結論から言うとノーよ。わたしはここ最近で志貴に何かをした覚えはないもの」
「―――――だよな。俺もアルクェイドに何かされた記憶は――――――」
ないんだけど、そもそも昨日の事さえ思い出せない自分の記憶なんてアテにならない。
なんていうか、考えてみればこんな質問を昨日も誰かにしたような気がするし。
「……いや、悪かった。ただの勘違いだ。それじゃそろそろ学校に行くよ」
【アルクェイド】
「え……志貴、ほんとに行っちゃうの? せっかく来たんだから、もうちょっと居てくれないのかな」
―――――う。
その、ねだるような顔をされると、こっちも健康な男子なだけあって意志が揺らいでしまう。
……どうしよう。
ここは、思いきって――――
return
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*s5
□遠野家1階ロビー
……そうだな。ちょっと周り道になるけど、寄っていって一緒に登校するのも悪くない。
まあ、そんなシーンが秋葉や有彦に見つかったらゴングが鳴ってしまいそうだけど、その時はその時なのだ。
□屋敷の門
秋葉より一足先に屋敷を出る。
【翡翠】
「志貴さま、忘れ物はありませんか?」
見送りに来てくれた翡翠が、珍しくそんな事を尋ねてきた。
「忘れ物……? いや、準備は万全だと思うけど」
一応鞄を開けて中を確認する。
筆記用具と学生証、今日の授業分のノートと、ちゃっかりナイフを忍ばせているあたり自分らしい。
「忘れ物はないみたいだ。それじゃ行ってくるよ。もしかしたら帰りは遅くなるかもしれないから、その時は心配しないでくれ」
【翡翠】
「はい、文化祭の準備ですね。お泊まりになられるようでしたらお電話をいただければ助かります」
「オッケー。それじゃ行ってくる……!」
【翡翠】
丁寧に送り出してくれる翡翠に背を向けて、いつもの坂道へと駆け出した。
□アパート
余裕を持って先輩のアパートに到着した。
「シエル先輩、ちょうど朝ごはんってところかな」
コンコン、とドアをノックする。
「はい、どちらさまですかー?」
すぐさま丁寧で元気のいい声が返ってくる。
「遠野です。ちょっとお邪魔しますけど、いいですか?」
「いいですよー。いま手が離せないんで勝手に入ってきてくださーい」
調理中なのか、先輩の声は台所から聞こえてくる。
「それでは、ちょっくらお邪魔しまーす」
□シエルの部屋
先輩はキッチンで朝食の支度をしている。
なんでも昨夜は遅くまで起きていたらしく、今朝は寝坊してしまったとのコトだ。
がらり、と戸を開けて先輩がやってきた。
「おはよう遠野くん。今日は一緒に遅刻すると思ってたのに、遠野くんったら早いんですね」
「え? あ、はい、なんか早くに目が覚めちゃったもんで、今日はいつもより余裕があるんです」
「そうなんですか。すごいなあ、わたしなんてもう眠くて眠くて、今日は学校休んでもいいかなー、とか思ってたところです」
小さな手で口元を押さえて、ふわぁ……、と可愛いあくびをするシエル先輩。
……先輩は今でも夜のパトロールを続けている。
一度吸血鬼に汚染された街を完全に浄化するまでは三ヶ月から一年を必要とするそうで、先輩は一人でこの街を任されているのだそうだ。
「先輩、そんなに眠いなら少し休んで行けば? 俺と違って先輩は大切なコトをしてくれてるんだし、少しぐらい学校を休んでもバチは当たらないと思うけど」
「そのつもりだったんですけど、もちょっと頑張ることにしました。文化祭の準備もありますし、遠野くんの顔を見たら元気が出ちゃいましたし。……そうですね、一粒で五キロメートルぐらい走れちゃうぐらい元気が出ました」
にこっ、と朝日にも負けないぐらいの笑みを浮かべる先輩。
……う、ちょっと、朝からそれは反則だって。
□シエルの部屋
「……まあ、こんな顔で元気がでるんだったらどうぞ。言ってくれればいくらでもやってきます、はい」
照れ隠しに頬を掻く。照れくさいので目線も先輩ではなく天井に向けていた。
「あ、けど先輩って生徒会の手伝いしてるんだっけ。運営委員長任されたっていうけど、ほんと?」
【シエル】
「はい。ほんとは役員にはなるべきではないんですけど、生徒会の出し物に参加するには役員でないとダメなんです。だから無理やり役員に登録されちゃたんです」
……生徒会の役員でないと出し物には参加できない……?
「―――あ、そっか。たしかに正体不明、疾風のようにやってきて疾風のように去っていく人を生徒会の出し物に参加させられない。有志っていう曖昧な立場じゃ生徒会の一員とは思われないってコトか。
たしか生徒会長の槙先輩だっけ? シエル先輩のことすごく頼りにしてるんだってね」
【シエル】
あれ? 先輩、急に塞ぎこんじゃった。
「先輩、槙先輩となんかあったのか?」
【シエル】
「え……? いえ、別に槙会長とは何もありませんよ。ただ、会長の方からお付き合いしたい、と再三にわたってお誘いを受けただけです」
――――――――んにゃ?
「―――お付き合い、したい、って、誰が、誰に」
「はあ。槙会長が、わたしとお付き合いしたいそうなんです」
「な――――なんだってぇぇぇぇぇえ!?」
がばちょ、と勢いよく立ちあがる。
「せ、せせ先輩っ……! それっ、それで槙先輩にはなんて答えたんだ……!?」
【シエル】
「そんなの決まってるじゃないですか。わたしには普通のお付き合いをする時間はありませんから、きっぱりと断っています」
「―――――――――」
はあ、と胸を撫で下ろす。
そっか、断ってます、か。
それなら安心だ……って、なんで過去形じゃなくて現在進行形なんだ?
「あの、先輩」
「はい。申し込まれるたびにきっぱりと断るんですけど、会長は気にしていないようですね。今では挨拶代わりにデートしよう、と言われる毎日です」
「い、言われる毎日って、先輩はなんとも思ってないんだろう!? なら槙先輩、ちょっとしつこいんじゃないのかソレ……!」
「そうなんですけどねー。そのうち、会長の前向きな所って凄いなあって感心しちゃったりします。そうなるとわたしも人の子ですから、“はっきりとしてくれないわたしが好きな人”より“はっきりとしているわたしを好きな人”を憎からず思ってしまうのも人情かな、と」
「―――――――――!」
しれっと、先輩はとんでもないセリフを口にする。
「…………先輩。えっと、その」
「はい? なんですか、遠野くん」
「…………今度、どこかに遊びに行きましょう。出来る範囲で、先輩の好きなところへ連れてきますから」
あー、すっごく顔が熱い。
先輩はそんな俺をニマニマしながら見上げている。
【シエル】
「はい、よろこんで。けどなんか悪いですねー、催促しちゃったみたいで」
「……………………………いじわる」
ぼそりと呟く。先輩は聞こえないフリで笑みを浮かべたままだ。
……あーあ。こうなったらまた、秋葉の目を盗んで日雇いのバイトをしなくちゃいけないな……。
□シエルの部屋
――――っと、そんな話をしているうちに時間が押し迫ってきた。
「先輩、そろそろ出ないと学校に間に合わない」
鞄を持って先輩に呼びかける。
【シエル】
「うーん、それは困りましたね。わたし、まだ朝ごはん食べてないです」
「――――――――」
言われてみればそうだった。
……って、俺がやってきたから朝食どころではなかったのか。
「ごめん先輩、やっぱり邪魔しちまった。……けどどうする? 朝ごはん、抜いていく?」
【シエル】
「それは駄目です。わたし、朝ごはん食べないと倒れますから」
……いや。真顔でそう言われても。
【シエル】
「あ、そうだ。せっかくだから遠野くんも食べていきませんか? 朝ごはん、ちょっと作りすぎちゃったんです」
「……先輩。それはつまり、俺にも遅刻しろっていうコトですか?」
【シエル】
「はい、二人一緒に遅刻していきましょう」
……う、その流し目も反則だってば。
くそ、このまま先輩の誘惑に押しきられていいものなのか……!?
return
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*s8
□アルクェイドの部屋
【アルクェイド】
「ねえ志貴、もっとここにいようよ。学校って毎日行かなくてもいいトコロだって言うし、人を起こしておいて出て行っちゃうのはひどいよ」
「――――う」
確かにアルクェイドを起こしておいて、それじゃあ、とすぐに学校に行くのは人としてどうかと思う。
……ま、しょうがないか。今朝はアルクェイドも調子が悪そうだし、一時間ぐらい遅刻してもなんとか誤魔化せるだろう。
「そうだな。それじゃもうちょっとだけお邪魔するコトにするか」
【アルクェイド】
「そうこなくっちゃ! うん、俄然目が覚めてきた感じ!」
えへへ、と子供のような笑みを浮かべてガッツポーズをとるアルクェイド。
「……まあ、目が覚めてきたのはいいけど。さっきさ、何か気になるコト言ってなかったかアルクェイド」
【アルクェイド】
「え? 気になるコトって、なに?」
「学校は毎日行かなくてもいい、とかなんとか。俺、そんなコト言った覚えはないんだけど」
【アルクェイド】
「そりゃあ志貴にはないでしょうね。学校ってのは一年間で三分の二だけ出ればいいんだ、って言ってたのは志貴じゃないから」
「そう。ならいいんだけど……問題はな、そんな話を誰から聞いたんだってコトだ」
先輩がそんなコト言う筈ないし、秋葉に至っては欠席を一日だって許しはしないだろう。
そうなると、もしかしてとは思うんだけど―――
【アルクェイド】
「そんな事してないから安心して。わたし、無闇に志貴の学校には入らないし、志貴の友人に話しかけたりしてないから」
こっちの考えを先読みしてアルクェイドは先手を打つ。
ともあれ、最悪の事態――学校一悪質な性格で、アルクェイドのコトを知ったら一時間足らずで学校中に言いふらすようなお祭り男とアルクェイドが知り合いになる、という事――は避けられているようだ。
「……良かった。有彦と話していたらどうなるかと思った。けどヘンだな。それじゃ誰にそんなコトを聞いたんだよ、アルクェイド」
【アルクェイド】
「簡単だよ。日中街を歩いてたらね、志貴の学校の制服を着ていてる男の子がいたんだ。でも昼間っていったら学校の時間でしょう? ちょっと不思議に思って、どうして学校に行かないのって訊いてみたんだ」
「―――――――――」
一瞬、とてもよくないシーンを、頭の中で再現してしまった。
「その子、ちょうど志貴と同い年ぐらいだし話しかけてもいいかなって。そうしたら学校の三割は有休なんだって教えてくれたんだ。……えーっと、他にも“お姉さんほどの美人をほっといて授業受けてるヤツなんざ男のカミカゼにも置けない”とか言ってたかな」
うわあ。そんなたわけたコトを初対面の相手に言えて、かつ、昼間っから堂々と制服で街を歩いているなんて人物像が特定できすぎる。
「――そうか。で、そいつ他になにか言ってた?」
【アルクェイド】
「んー、志貴によろしくって。そのまま別れたんだけど、裏切り者めー、とか叫びながら走って行っちゃった」
「―――――――――」
……ああ、また頭痛のタネが一つ増えた……。
□アルクェイドの部屋
カチン、と時計の針が九時に指し変わった。
ホームルームは終わり、一時限目がとっくに始まっている時間。こうなったら午前中の授業は半分ほど諦めたほうがサッパリする。
「あ、そうだ!」
唐突に後ろからアルクェイドが首ったまに抱きついてきた。
「うわ、あぶなっ! あのなアルクェイド、人が飲み物を飲んでる時はそうゆうコトはしないの!」
【アルクェイド】
「ふんだ、わたしを放っていて一人でくつろいでる志貴が悪いんでしょ」
「一人でくつろいでるって、たんにお茶してただけじゃないか。そんなコトでわざわざタックルかましてくるのかおまえは」
「志貴が構ってくれないから実力行使に出たんじゃないっ。わたしがお腹空かしてるっていうのに、一人で美味しそうにお茶を飲んでるなんてずるい!」
むー、とすぐ真横から拗ね拗ね視線を向けてくるアルクェイド。
……まあ、こういうのも、すごく悪くない。
「ああもう、何してもご不満なんだなおまえは。いいよ、分かった。なんでもしてやるから何してほしいか言ってみろ」
【アルクェイド】
「ほんと? なら朝ごはん作って、朝ごはん!」
首に絡ませていた手を離して、ぴょん、と飛び跳ねるアルクェイド。
「……朝ごはんって、朝ごはん?」
「うん、前に志貴が作ってくれたやつ! アレ、もう一度食べたいなって」
今にも爆発しそうな喜びようからしてアルクェイドは本気だ。
……それはいいんだけど、あんなモノで本当にいいんだろうか?
確かに以前アルクェイドが食べたい、というので作った事があるけど、アレがそんなに喜ばれるものだなんて思えない。
「―――――――――――」
返答が浮かばず、とにかく立ちあがった。
「―――――分かった。それじゃ台所、借りる」
かろうじてそれだけ口にして、キッチンへと足を向けた。
「はい、おまたせー」
ごとん、とテーブルにどんぶりを置く。
「わーい、いただきまーす!」
行儀良く両手を合わせて、アルクェイドは箸を手にとった。
「うん、おいしー!」
ご機嫌で箸を進めるアルクェイド。
そういう風に喜ばれるとこっちも嬉しくなってくる。
「そっか、気に入ってもらえて良かった。今日のはちょっと手を加えたんだ。この前のは出来合いだったけど、今日は時間があったし、材料も揃ってたからね」
「やっぱり? なんかこの前のより美味しいって気がしてたんだー♪」
つるつると麺を口に運ぶアルクェイド。
「基本は同じなんだけど、この前のより味を濃厚にしてみました。なんか物足りなさそうにしてたからさ、この前は」
「違うよ、この前はもっと食べたかったなって思ってただけ。なんかね、これって志貴が作ってくれたんだなあ、と思ってるうちに半分ぐらい食べ終わっちゃってて、ちゃんと味わえたのはあとの半分だけだったの。だから失敗したなあって後悔してたんだよ」
つるつるつる。
そんなコトを話しながらもアルクェイドは箸を休めない。
……ほんと、よっぽど気に入ってくれたみたいだ。
「――――――まいったな、俺って元気のいい食べっぷりに弱いのかもしれない。そういう風にされると毎日朝食を作りにきたくなって、困る」
「困ってないで作りにくればいいのに。わたしね、志貴がごはんを作ってくれるなら朝だってちゃんと起きてるよー」
麺を食べ終わったのか、アルクェイドはどんぶりを両手で持ってスープを飲む。
……なんていうか、すごい絵だ。
「ん? なに、どうしたの志貴? なんかびっくりしてるみたいだけど」
「そりゃあびっくりするよ。仮にもお姫さまともあろう者がさ、なんだって中華どんぶりをこう、ぐびっと口に運んでるんだろうなーって」
「……………」
あ。アルクェイドが、ガラにもなく頬を赤くして恥ずかしがってる。
「……だって、志貴はこういうふうにしてたじゃない。だからわたしもこういうふうに飲みたかったの!」
どん、とどんぶりがテーブルに置かれる。
開き直っているんだか、それとも照れ隠しなのか、アルクェイドはそっぽを向いてしまった。
「う………これはこれで、かわいいかも」
聞こえないように呟く。
思い返してみれば、アルクェイドには前からイメージが合わない組み合わせが多かった。
ファーストフードでハンバーガーを食べたり、公園で自販機の缶ジュースを飲んだり、と。
「――――――あ、れ?」
と。唐突にアルクェイドの様子が変わった。
とても辛そうというか……えっと、泣いてるんですけど……?
「し、志、貴……ちょっと、訊く、けど」
うう、と悲しそうに声をあげる。
「な、どうしたんだアルクェイド!? やっぱり朝から起きてるのは辛いのか……!?」
「そうじゃなくて、これはどんな材料を使ったの?」
小鳥のように首をかしげる。……なんか、泣き顔とマッチして妙に味がある。
「どんな材料って、当たり前の物しか使ってないけど」
とりあえず使った材料をかたっぱしから説明する。
アルクェイドは青い顔で俯いていたが、最後に俺が口にした食材を聞いて、がくん、と床につっぷしてしまった。
「アルクェイド……!? おい、どうしたんだよアルクェイド!」
「………………きゅ〜」
ぐったりと横になってしまうアルクェイド。
目も開けず、悪夢にうなされたように何かブツブツと呟いているようだ。
「……?」
なんだろう、と耳を寄せる。
――――と。
「……やめてー。にんにくはやめてー。お願いだからやめてー。アレはおいしくないのー……」
そんな、どこまで本気なんだか判らないうわごとを、ずっと繰り返しているだけだった。
□アルクェイドの部屋
「……それじゃ俺、そろそろ行くけど……」
ベッドで横になったアルクェイドに声をかける。
「……………………」
アルクェイドは答えずに、ただじーっ、と猫みたいな目でこちらを睨んでいるだけだった。
猫みたい、というのはアレだ。
こっちに関心があるんだかないんだか、敵意があるんだか何も見てないんだか、感情があるんだかないんだか判らない、そんな目だ。
「……ごめん。次からは気をつけます」
「………………………」
アルクェイドは猫化したままだ。
うう、背中に何十という剣を刺されるような重圧を受けながら、いそいそとアルクェイドの部屋を後にした。
……というか、残っていたらアルクェイドに何されるか分からないので、早々に退散するしかなかった。
□マンション入り口
……さて、気を取り直して学校に向かおう。
時刻は十時になったばかり。
今からならギリギリ三時限目に間に合うだろう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s9
□シエルの部屋
―――いや、何を躊躇う必要があるっていうんだ。
先輩が朝食に誘ってくれているのに断るなんて、そんなもったいないコトをしたら男がすたる。
唯一の不安といえば、屋敷で琥珀さんの朝ごはんを食べてきた以上、先輩の用意してくれる朝食を食べきれるかどうかという事だけだ。
【シエル】
「遠野くん? いきなり考え込んじゃってますけど、迷惑でした?」
「あ――――まさか、そんなコトないですっ! ええ、もう覚悟は決めました。よろこんでご馳走させていただきます」
【シエル】
「良かった、二人分作った甲斐がありました。それじゃ急いで準備しますから、遠野くんは大人しく座って待っていてくださいね」
先輩はエプロンを片手に台所へ向かって行った。
「……………」
さて、どうしよう。
言われた通り大人しく待つのもいいけど、なんとなく手持ち無沙汰だ。
満腹とまでいかないまでも、胃はさらなる食事を必要としていない。朝食を摂ったばかりの胃は食物をまったく脳に要求しておらず、この状態で先輩のごっついメニューと対峙するのは自殺行為だろう。
「――――――よし」
一念発起、腕立て伏せを始めてみる。
とにかく運動して、体内に蓄積したエネルギーを少しでも消費するしかない。
「遠野くん、ちょっと台所に来てほしいんですけどー!」
と、台所から先輩の声。
「はいはい、今行きますー」
腕立て伏せ、中止。
汗を拭って台所へ移動した。
「なんですか、先輩?」
「いえ、遠野くんは朝ごはんどのくらい食べるのかなって。遠野くんは好き嫌いはないですけど、あんまりたくさん食べないでしょう?」
「あ、いやあんまり食べないってワケでもないんだけど……」
今はその気配りが渡りに船だった。
せっかく出されたものを残すのは絶対に避けたいし、それなら始めから少しだけごはんを盛ってもらえばいい。
「今朝はあんまり食べられそうにないです。半人前ぐらいでお願いします」
「はい。それでは遠野くんは少なめというコトで」
笑顔で頷いて鍋をかき混ぜるシエル先輩。
「う――――――」
エプロン姿で朝食の支度をする先輩を前にして、つい口元が緩んでしまった。
……こういうのって、きっとすごく幸せなコトなんだと思う。
笑顔で朝食の支度をしてくれる誰か。
朝ごはんの匂いのする食卓。
自分が空腹じゃないのは残念だけど、この香辛料の塊みたいな薫りは食欲を刺激してくれて―――
――――はい? 香辛料の塊ってなんだ?
「―――――って、ちょっと待て」
そこで、自分がとんでもない見落としに気が付いた。
「あの、先輩」
ぺろり、と小皿に盛ったスープの味見をしている先輩に話しかける。
「ん? なんですか遠野くん?」
「あの、ですね。言い忘れていたんですけど、朝は体調が安定しないんです、俺」
「知ってますよ。今朝は調子がいいみたいですけどね」
にこり、と笑うシエル先輩。
……う。そういう顔をされるとますます言いにくくなる。
「それで、ですね。普通の朝食なら人並みには食べられるんですけど、朝はあんまり刺激の強いモノは食べられないというか、その、和食以外は受け付けないというか」
「?」
ん、と不思議そうに首を傾げる。
「いや、和食だけってワケでもないんですけど、出来れば和食がいいかなって。特にその、辛いものとか油っこいものとは絶望的に相性が悪いかなー、と」
「はあ? 何が言いたいんですか、遠野くんは」
「……そのぉ、ぶっちゃけて言うとですね。朝からカレーはイヤだなあ、と……」
「―――――――――――――」
ぴしり、と。
台所の空気がひび割れたような沈黙。
「……遠野くん。つまり、それは」
「いや、先輩のカレーが嫌いワケじゃないですっ! くわえてカレーを軽んじているワケでもなくてですね、今のお腹の状態でカレーなんて食べたら間違いなく戻してしまうというか―――」
「―――――――――――――」
ひぃいいいい! やっぱり怒ったよこの人!
「……遠野くん」
「は、はい、食べます!カレー、実は大好きです!
何を隠そうすでにうちでカレー食べてきました!」
「……あんまりおかしなコト言わないでください。朝食をカレーにするなんて、それじゃまるでインドの人みたいじゃないですか。遠野くん、わたしのことそんな風に見ていたんですか?」
拗ねた風に、先輩はそう言った。
「――――――え?」
「今朝はパン食ですよ。コンソメスープとサラダをつけた当たり前の朝食です。見れば判ると思いますけど」
「え―――――え!?」
そんなのヘンだ。
だって、先輩は先輩じゃないか。
シエル先輩といえばカレー、カレーといえばシエル先輩だ。
いや、カレーじゃない先輩なんてシエル先輩じゃないっていうのに、その先輩がパン食だって……!?
「よ、読めたぞ先輩。そういって安心させておいて、実は全部カレーパンだっていうんだろう!」
「残念ですがカレーパンでもありません。だいたいですね、朝からカレーを食べるなんて失礼でしょう」
はい、とお皿にコンソメスープを注ぐシエル先輩。
「遠野くん、冷蔵庫からマーガリンとマーマレイドを出してください。準備が出来ましたから朝食にしましょう」
先輩はテキパキとテーブルに二人分の朝食を並べていく。
……先輩の言うとおり、朝食はサッパリとした、俺でも食べられるような理想的な内容だった。
「―――うわ。ほんとにカレーじゃない」
「当たり前ですっ。だいたいですね、ごちそうというのは夕食にいただくのが一番おいしいでしょう? ですからカレーライスを夕食以外にいただくなんて冒涜ですよ、もう」
ぷんぷんと怒るシエル先輩。
「――――――あ、そういうワケですか」
なんか、納得。
「先輩、好きなものを好きなものでいられるように我慢するタイプなんだね」
冷蔵庫からマーガリンとマーマレイドを取り出す。
そんな俺とは正反対の方、スープの鍋の横にある鍋におたまを入れる先輩。
「うーん、そうなんでしょうか? 自分じゃそんなつもりはないんですけどねー」
とろり、と鍋からお皿に移されるカレー。
「……先輩。今、何をお皿に加えました?」
「あ、これは遠野くん用ではなく自分用ですから気にしないでください。一晩寝かしたルーでパンを食べるとですね、一日頑張るぞーって元気になれちゃうんです、わたし」
……そうか、それが台所に満ちたカレーの匂いの正体か。
「……なあ先輩。カレーは夕食にとっておくんじゃないのかよ」
どんな答えが返ってくるか分かっていながらも質問する。
「はい? これ、カレーをかけたパンであって、カレーライスじゃないですよ」
「やっぱりな。ああ、きっとそう言うと思ったよ、先輩」
□シエルの部屋
朝食を終えて、少し休んでから学校に行く事になった。
【シエル】
「今からじゃ三時限目に間に合うか、という所ですか。なんだかのんびりしすぎちゃいましたね」
「だね。けどまあ、たまにはこういうのもいいんじゃない?」
【シエル】
「ふふ、そうですね。なんだか家族になったみたいでくつろげました」
……う。分かっているのかいないのか、先輩は思わせぶりなコトを言う。
「それじゃ行こうか。学校の近くになったら別れなくちゃいけないけど、それまで一緒に行ける」
【シエル】
「はい。それでは行きましょうか、志貴くん」
遠野くん、とではなく志貴くん、と言って先輩は先に部屋を後にした。
「―――――――――」
それに気の利いた言葉を返す事もできず、慌てて先輩の後についていった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s10
□遠野家1階ロビー
「待ちくたびれたー! 待ちくたびれたんでもう行くー! そういうわけで先に行くからな、秋葉―!」
二階に向けて声をかける。
ええ!?と驚く声がした後。
「ちょっ、ちょっと待ってください兄さん……! すぐ、今すぐに行きますから……!」
バタバタと二階から騒々しい足音が聞こえてきた。
朝食を終えて数分。
ゆったりと居間でお茶している秋葉を尻目にさっさと登校の支度を済ませると、秋葉は慌てた様子で自分の部屋へと移動した。
時間があるからといつまでも着替えていないバチがあたったのだ、と一人暗い笑いを浮かべてみたりする。
そうして実に三分ほどの短時間で秋葉はロビーへと下りてきた。
流石だ。急いでいても屋敷の中では走らないあたり、俺とは筋金の入り方が違っている。
【秋葉】
「ごめんなさい、お待たせしてしまいました。時間のほうは大丈夫ですか……?」
「いや、時間でいったらあと二十分はゆっくりしていられるから、心配はいらない」
はあはあと乱れていた秋葉の呼吸がピタリと止まる。
【秋葉】
「………兄さん。それでしたら先に行く、なんて言う必要はなかったんじゃないですか?」
「無かったけど、秋葉が人を待たせるなんて珍しいだろ。だから、つい」
……って、待った。だからつい悪戯心が働いてしまったのだ、という後半の発言は控えておく。
【秋葉】
「――――兄さん。だから、なんですか?」
「いや、早く登校するに越した事はないだろ。さ、そういったわけで今日も仲良く登校しよう!」
むー、と拗ねる秋葉から逃げるようにササッと外へ歩き出した。
□坂
坂道を下りていく。
そういえば、こうして秋葉と学校に向かうようになってからもう随分経つ。
秋葉が転校してきてからこっち、こっちが早起きできた時だけこうして二人で登校する。その割合は一週間に二回ほどなワケだけど――――
「――――――――」
かつん、と。
道端の石につまずいて、足が止まった。
【秋葉】
「兄さん? どうしました、幽霊でもみたような顔をして」
横から覗きこんでくる秋葉。
その、肩口に流れる黒髪の匂いにわずかに心が揺れた。
「あ、いや。そういえば昨日も秋葉と一緒だったなって思って」
そんな気がして呟くと、秋葉はええ、と嬉しそうに笑った。
【秋葉】
「ここのところ兄さんは早起きしてくれますからね。私も兄さんと学校に向かえて楽しいです」
「う―――――」
正面からそうストレートに言われると、なんて返答していいか困る。
「そ、そうか? 楽しいっていえば、そりゃあ毎日楽しいけど」
気のせいだろうけど。なにか、今日にかぎっては落とし穴があるような気がする。
「あ、確かに兄さんの言いたい事も分かります。学校でも屋敷でも問題はないし、最近は楽しい事ばかりで怖いぐらいですものね」
「――――――」
ああ、それはその通りだ。
楽しい事が続くと不安になる。それはしっぺ返しが恐いのではなく、この楽しい時間が終わってしまって、ありきたりの日常に戻ってしまう事が恐いのだ。
祭りが終わりに近づいた時の喪失感。
人生で最良の時は最良であるが故に、それが一時の煌きなのだと無意識に恐れている―――――
【秋葉】
「けど大丈夫よ。もう少ししたら文化祭なんだし、楽しい事はまだまだ続いてくれるわ。文化祭が終われば冬休みなんだし、その時はみんなで旅行に行って、帰ってくる頃にはお正月でしょう?
ほら兄さん。居て欲しい人が傍に居てくれるのなら、楽しい事なんてずっと続いてくれるんですよ」
秋葉は軽い足取りで少しだけ先を歩き出した。
「―――まいった。たしかにその通りだ、秋葉」
自分の心配性も秋葉には敵わない。
秋葉がいて、翡翠と琥珀さんがいて、帰るべき家があるのなら、もう何も不安に思う事なんてないんだから。
□校舎前
【秋葉】
「それではここで。またお昼にお会いしましょう」
秋葉は上機嫌で一年の下駄箱へ向かって行った。
return
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*s11
□遠野家1階ロビー
……さて、学校に行くにしても選択肢は二つある。
このまま秋葉と一緒に登校するか、新しい出会いを期待して一人で登校してみるか。
「……秋葉のヤツと一緒だったら、まず間違いなく新しい出会いなんてないしなあ」
さて、どうしたもんだろう?
return
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*s12
□遠野家1階ロビー
「有彦ん家か――――――って、なぜに?」
さしたる理由もなく有彦の家に行くなんてどんな風の吹き回しだろう。
これが放課後だったら暇つぶしに行くのもアリなんだけど、なぜに朝から乾家に?
「……ま、たまにはいっか」
こういう突発的な発想があるから人生は面白い。
□乾家
というわけでやってきました、嬉し恥ずかし乾有彦くんのお家です。
呼び鈴を押す。
ぴんぽーん、とおなじみの音が鳴り響いてから数分経って、ギギギギギ、とお化け屋敷のように玄関の扉が開いた。
「だれ」
ドアから半分だけ顔を出して、その女の人は不機嫌そうにそう言った。
「おはようございますイチゴさん。イチゴさんが出るってコトは、有彦のヤツはもう出ちゃいました?」
「あ―――? あのバカは昨日から帰ってきてないけど―――」
女の人はむ?と首をかしげると、ようやくドアから出てきてくれた。
【一子】
「……なんだ、誰かと思えば有間じゃない。カンベンしてくれないか、こっちは三日ぶりにやっと眠れるってトコなんだよ」
「睡眠中起こしてしまってすみません。お久しぶりです、イチゴさん」
「ん。そっちも相変わらず半端な好青年ぶりでけっこう」
ふう、と紫煙を吹いて、見た目では判らないぐらいの微かなレベルでイチゴさんは笑った。
―――この人は乾一子さん。
乾、という苗字が示す通り、有彦のお姉さんである。
職業は不明。有彦曰く、
□有彦の部屋
【有彦】
「おい遠野。高田くんとモノポリーしてるところ悪いんだが、ちょっと話を聞いてくれ」
「あいよ、なに」
「実はオレさ、小学生の頃は姉貴のこと刑事だって思ってたんだ」
「へえ。イチゴさん刑事さんじゃなかったんだ。それは、ちょっと意外だな」
「ああ。んで中学生の頃までは小説家だって思ってんだけどよも、それも違った」
「へえ、イチゴさん小説家でもなかったんだ。第二候補も潰れたワケか。……となると、ホントのトコロはどうなんだよ」
「んー、俺が高校にいるまではプロ雀士だと睨んでるんだが、おまえはどう思う?」
「さあ。それよりさ、さりげなく俺の株がめるの止めない? モノポリーってそういうゲームじゃないよ、たぶん」
□乾家
……なんて話があったっけ。
結局なにが言いたいかというと、イチゴさんが何をしている人かというのは永遠の謎というコトである。
【一子】
「んで、今日はどったの。うちのバカ、またなんかしでかしたワケ?」
「いえ、何処かで何かしでかしているのは確実だと思うんですけど、とりあえずこっちに実害はないです。……ま、たまには連れ立って学校に行くのもいいかな、と来てみただけなんですが」
「そ。悪いね、アイツに付き合わせちまって。アイツが我が侭言うのは有間だけだからさ、飽きずに付き合ってやってくれないか」
「あはは、飽きるってコトはまず無いですね。
―――で、有彦はどのあたりにいるんですか?」
「さあ? 昨日からダチのところに泊まりこんでるって話。学校には行くように言いつけてあっから、もしサボッてたら教えてちょうだい」
了解、と頷く。
「――――――――――――」
イチゴさんはじーっ、とこちらを眺めた後。
「――――――有間、お手」
と、簡潔なセリフを言った。
「なんですか?」
つい条件反射で手を差し出す。
差し出した手の平に、トン、と指を置くイチゴさん。
「やる。あたしが暇になったら遊びに来な。メシおごったげるから」
じゃあね、と残してイチゴさんはドアの向こうへ消えて行った。
「………………」
一人残されて、じっと手の平を見る。
手の平には半分ほど使われて折れ曲がった、山吹色の絵の具が置かれていた。
return
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*s13
□遠野家1階ロビー
「有彦ん家か――――――って、なぜに?」
さしたる理由もなく有彦の家に行くなんてどんな風の吹き回しだろう。
これが放課後だったら暇つぶしに行くのもアリなんだけど、なぜに朝から乾家に?
「……ま、たまにはいっか」
こういう突発的な発想があるから人生は面白い。
□乾家
というわけでやってきました、嬉し恥ずかし乾有彦くんのお家です。
ぴんぽーん、と呼び鈴を押す。
待つこと数分。誰かが出てくる気配はない。
「……留守かな。有彦のヤツ、今日もどっかで泊まり込みか―――」
まあ半分以上そんな気はしていたし、大人しく学校に行こう―――
「な、なんだ―――――!?」
今、たしかに二階から激しい物音がした。
箪笥の上の荷物を落っことしたような、家捜ししている空き巣がドジをこいたような、そんな怪しい物音だった。
「……おいおい、大丈夫かよこの家」
試しにドアノブに手をかける。
「……うわあ、開いてるよぅ……」
あっちゃあ、と頭を抱えてドアを開ける。
まことにイカンではありますが、こうなった以上見なかったフリはできません。
もし有彦が留守中にドロボウが入っていて、一子さんが大切にしているフェンダーのギターがパチられた日には有彦の命がないし。
ここは有彦に代わって様子を探らないといけないだろう。そう、なんていうか親友として!
「……って、ガラにもないコトはおいておいて、と………」
おじゃましまーす、とドアを開ける。
留守中にこの家にあがりこむのは何度もやったので抵抗はない。
さて、それじゃあ物音がした二階の様子を見に行くか――――
ぎしぎし、と階段を軋ませて二階に上がる。
……二階には有彦の部屋と物置だけだ。
がさごそ、がさごそ。
で、有彦の部屋からは何やら怪しい物音が。
「……うわぁ、やっぱなんかいるぞコレ……」
いやだなあ。この音の大きさからして、全長2メートルぐらいのゴキブリかもしんない。なにしろ有彦の部屋だ、それぐらいの人外魔境ぶりは発揮してしかるべきだろう。
がさがさ。がさがさ。ごそごそ。ごそごそ。がしゃん! ……がさ。がさがさ。ごそごそ。ぽりぽり。ぽりぽり。むしゃむしゃ。ごっくん。あわわ、お水お水。がさがさ。ぽりぽり。ごっくん。
「―――おい、なんかいま人語が混ざってなかったか!?」
ま、まさか喋るゴキブリ!? ネ、ネロでもそんなすげえの持ってないぞ、おい!
「……あー、やだなあ、開けた瞬間にとって食われないだろうな……」
勇気を出して襖に手をかける。
さて、それじゃあ、いっせーの、はいっ!
……………………しばし、絶句。
「あわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ!!!!」
「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
□乾家
「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
マッハで人外魔境を脱出する。
【一子】
「何してるん、有間」
「わあああ、こっちにも妖怪がっ――――! ……って、イチゴさん……?」
「そだよ。少なくとも妖怪じゃないね」
「あ……はは、は……それは、そうです」
ふう、と一息ついて冷静になった。
「で、なにしてたのよ。うちのバカ、またなんかやったワケ?」
……仕事帰りなのか、イチゴさんは今帰ってきたという感じだ。
「あ、いや―――その、なんていうか、白昼夢を見たというか。有彦、最近事故とかおこしてませんか? バイクとかトラクターとか無免許運転して馬とか牛とか轢いちゃったとか」
「ああ、それならあたしも訊いたけど潔白だそうだ。
【一子】
……そっか、有間も見たとなると本物だな。まったく困ったもんだ」
そんな事を言いつつ、堂々と家へと入ろうとするイチゴさん。
「イチゴさん!? な、中に入るんですか!?」
【一子】
「自分の家だからね、入らないことには眠れないじゃない。ああ、アレなら害はないから気にしないでいいよ。おもに有彦だけに危害を加えてるようだから」
「――――はあ。有彦だけにですか」
……ふうん。事情は分からないし解りたくもないけど、あいつも、なんていうか――
【一子】
「趣味が変わっただろ? ああゆう趣味まであるとなるとね、身内としては将来が心配かな」
じゃあね、とイチゴさんは乾家の中へ消えていった。
「………………………………」
さて。
厄介な出来事は都合よく忘れるコトにして、学校に急ぐとしよう。
return
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*s15
□校舎前
さて、ホームルームまでわりと時間があまっている。
それなら――――
return
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*s16
□校舎前
茶道室に行ってみようか。
もしかしたら先輩が一足先に登校していて、のんびりとお茶を飲んでいるかもしれないし。
□廊下
「せんぱーい、こんちわー!」
………と、チワワなだけにいぬか。
「あ、思い出した。そういえば文化祭の準備を手伝うから、朝と放課後は茶道室を留守にしてるんだっけ」
たしか数日前、先輩はそんな事を言っていたはずだ。
「……うーん、そんな事までド忘れしてるなんてたるんでるなー」
自分の間抜けさ加減に呆れつつ、茶道室を後にした。
return
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*s17
□教室
「おはよーっす」
元気があるんだかないんだか分からない挨拶をして教室に入る。
教室には女子の姿はなく、何人かの男子が真ん中で集まって何やら作業をしていた。
「おっ、増援が出現したぞみんな!」
うずくまっていた一人が顔をあげる。……一際ガタイのいいそいつは柔道部のエースである吉良義信くんだった。
「あ、なにダレよ?」
吉良につられて次々と顔をあげる謎の集団。
「なんだ遠野じゃん。こんな時間にくるなんてチミもヒマだネ」
「おーっす、早いな遠野」
「なによぅ、それじゃあたしもヒマだっていうの!?」
「だからさー、こういうのは絵心のあるヤツに任せないとダメなんだってば」
「いや、何を隠そう小学校の頃銅賞をとったコトあるぜオレ」
「ヒマっつーか物好きなんだってば。あと女どもが薄情なだけ」
「おい、手が空いているヤツは乾を黙らせておけって言っただろ」
「違うって、体育会系は戦力外だからこういう端っこの仕事を押し付けられてるだけだってば」
「その理屈でいうと、どっちつかずの遠野はなんでも屋ってコトになるのか?」
「……いや、そんな都合のいいものになった覚えはないけど……」
最後の声に答えて、ほう、とため息をついた。教室に集まった彼らは見事なほど統制が取れていない。
吉良を含めて六人のゴッツイ男どもは、ペンキやらマーカーやらで武装していた。
「……なんだ、大の男が五、六人集まって何をしているかと思えば怪しげな看板を作ってるだけか」
【有彦】
「だーかーらー、色使いはオレに任せろってば! いまこそ不遇の天才乾有彦のすげえ所見せてやっから。いやもう、マジで夢見んぞオマエら!」
そして、ピンク色のペンキ缶を片手に騒いでいるこいつは何者だろう。
「あー、じゃー乾くんは死なないとダメだねー。生きてるうちは認められないんだよ、天才って」
もぐもぐ、という擬音。
見れば教室の隅には鏡餅のようなシルエットの男子がいた。……暇人なのか、高田くんは菓子パンを食べながらむさ苦しい男の集団を眺めている。
【有彦】
「―――よし絶筆! あとはここでこう、辞世の句とか入れちゃうワケよ。……やれ買うな、ぱんだ笹食う手毬飲む……ありひこ、と」
「うわあ、乾がまたワケ分からねえラクガキしてるぅー!」
「ひいい、止めろー! イヌイを止めろー!」
「あー、それはたしかに夢見そうだねー」
【有彦】
「よし、ザッツパーフェクト! 北斎レベルだ、よもや誰もこれが文化祭の看板とは思うまい!」
「いやあ、文化祭以前に看板ですらないね、これは」
「ああもう、いいからおまえが夢見てろーっ!」
【有彦】
がつん、といい音がして、有彦が宙を舞った。
スローモーションで倒れていく悪友を見て、ああクリティカルだな、と冷静に判断する。
「消せ消せ、そんなの白ペンキで消しちまえ! おら遠野、ヒマならおまえも手伝えっての! 看板の締め切り今日のホームルームまでなんだとよー!」
ガタイがいいだけあって吉良の声はよく響く。隣の教室はおろか、二つ先の教室にまで聞こえてそうな大声だ。
まあ、もとより何やら楽しそうではあるから手伝おうとは思っていたのだ。
よし、と腕まくりして集団に加わっていく。
「言われなくても茶々いれるって。あ、けど昨日もこんなコトしてなかったっけ、うちら」
「おうよ、昨日のは速攻リテイク食らったぜ」
「そうなのか? 昨日のってけっこういい出来だったんじゃないか。実行委員の連中も手放しで誉めてたしさ」
「それがなー、最後に朱をいれて画面を引き締める、なんて言い出したバカがいてよ。ったく、選挙のダルマじゃねえっての」
ぶつぶつと文句を言う吉良義信。
……なるほど、どうして朝一番から有彦がいるのか合点がいった。ようするにバツ当番だったわけだ。
「んー、吉良坊、結局コレどーするのよう。客寄せがメインなら、こうズバーッと一点趣味でいったほうがいいと思うワ、あたし」
このメンバーの中で唯一絵心のありそうな常磐くんがしなを作る。
……こんなんでも吉良と同じく柔道部だっていうから世界は広い。
「あー、そういうのは俺には分からねえって。
っと、ちょうどいい。遠野はどうすればいいと思う?」
「んー、志貴くんなら任せて安心ねー。ね、どんな感じに仕上げたらいいと思う? メイドさん? それとも割烹着かしラ?」
「―――あのさ。どうしてそうピンポイントな質問するわけ、おまえ」
なぜかしらんー、としなを作る常磐くん。
「…………まあ、いいけど。そうだな、どっちかっていうと割烹着のがいいんじゃないか。落ちつける感じがするし」
「ははあ、志貴くん和風びいきっていうのはホントだったわけネー」
嬉しげに言って、常磐くんはシャッシャッとハケを振るっていく。メインは彼に任せて、俺たちは文字のレタリングを仕上げる事にした。
……いや、メイド服も好きなんだけどね。
return
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*s19
□校舎前
中庭に寄っていこう。
時間もまだあるわけだし、たまには中庭で朝の空気を堪能するのも悪くない。
□中庭
予想通り中庭の空気は素晴らしかった。
清涼な朝の匂い、とでも言うのだろうか。
登校してくる生徒の大部分は正門から校舎に直通なので、校舎を挟んで正反対にある中庭には人気というものがない。
静かな空間。
それでいて学校の朝の喧騒が伝わってきて、なんとなく子供を見守るお父さんお母さんの気持ちが分かったり分からなかったり。
……と、そんな気の抜けたコトを考えていると、近くの茂みから何か出てきた
「―――――ん?」
【レン】
「……猫だ。おーい、おまえもご同行か? なら一緒にまったりしよう、まったり」
ひょいひょいと手招きをする。
【レン】
黒猫は興味なさそうに顔を背けて座りこんでしまった。
「……む。なかなか気難しいですな」
まあ、猫っていうのはそういうものだ。
こっちが求愛行為をすればするほど逃げていくような生き物だから、それを嘆いても始まらない。
「んじゃあまあ、我慢比べということで」
ベンチに座ってぼんやりと時計を眺める。
何事も無理強いはよくない。朝の中庭、毛並みのいいお嬢様みたいな黒猫が側にいてくれるだけで幸運なんだ。これ以上贅沢を言ってはバチがあたろう。
黒猫は興味がないかわりに不快でもないのか、ちょこんと道に座ったままでこちらを見つめている。
……なんか。
その趣きは、見ているだけで心が和んでくる。
「……毛並みいいなあ、おまえ。なんかふわふわしてるのにしっとりしてるっていうか」
うう、触りたいっっっ!
触りたいけど、ここはやっぱり我慢我慢。
せっかくお互いのんびりしているんだから、その時間を壊しちゃいけない。
こっちは道に座った黒猫を眺めて、
あっちはベンチに座った人間を眺めている。
それだけで十分といえば十分すぎるってものじゃないか。
「―――お、もう時間か」
黒猫は予鈴に驚いたのか、最後にチラッとこっちを見てから茂みにもぐってしまった。
「んじゃあまあ、こっちもこっちで自分の巣に戻りますか」
いそいそとベンチから立ちあがる。
自分の巣とは、言うまでもなくクラスメイトたちがいる二年三組の教室だ。
return
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*s20
□校舎前
……中庭に寄っていこう。
もしかしたら、いつものようにあの子に出会えるかもしれない。
□中庭
予想通り中庭の空気は素晴らしかった。
清涼な朝の匂い、とでも言うのだろうか。
登校してくる生徒の大部分は正門から校舎に直通なので、校舎を挟んで正反対にある中庭には人気というものがない。
静かな空間。
いつも通りの静かな中庭。
「――――――――」
なのに、あの子の姿だけが欠落している。
「―――なにをやってるんだ、俺は」
自分の不甲斐なさに歯軋りがこぼれる。
こんな所に来たところであの子を助けられる筈がない。
あの場所だ。
あの暗い森で、今度こそアイツと決着をつけなくてはならない筈だ――――
return
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*s22
□教室
ホームルームが始まった。
教壇には担任の国藤教諭がいる。出席をとった後、今日一日の連絡事項が流れていく。
とりわけ大きな変化はない。
平穏な一日は、こうして普段通りに始まった。
□教室
昼休みになった。
とたんに教室は慌ただしくなり、生徒の大半は食堂へと移動していく。
【有彦】
「遠野、今日のメシはどうするん?」
いつから居たのか、目前にはお腹を空かせた有彦が。
「どうしよっか。そういうおまえはどうするつもりだよ」
「オレ? オレはパン食。遠野が食堂で食べるってんならここでお別れだな」
「そうか。なぜか無性に食堂で食べたくなってきたところだけど……」
残念ながら食堂のメシは高いのだ。昼飯代にもらっている五百円を有効利用するならパン食にして中庭で食べるか、茶道室で先輩にお弁当を恵んでもらうかなんだけど――――
【有彦】
「ははあん、せこいコト考えてるだろ遠野。さすが小学生で十万円まで貯金した男、節約が板についてるねえ」
「…………む」
なんか頭にきた。先輩も中庭もいいけど、今日ぐらいは食堂でカツ丼を食べたい気分。
くそ、こうなったら――
return
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*s24
□教室
……こうなったら、茶道室に行って先輩にお弁当を分けてもらおう。
行く前に購買で菓子パンを二つ買うだけでお腹いっぱいになるという、まさに法の網をかいくぐる税金対策。
「……決めた。茶道室いって、お茶飲んでくる」
【有彦】
「そっすか。んじゃまあ、オレは一人淋しくパン食ってるかな!」
「……?」
有彦は今こそ好機!とばかりに走り去っていった。
「……なんだアイツ。てっきり一緒に行くかと思ってたのに」
まあ、おすそわけを狙うライバルは少ないほうが好ましいし、アイツの気が変わる前に茶道室に行ってしまおう。
□廊下
「あれ―――鍵、かかってる」
鍵がかかっている、という事はシエル先輩はまだ来ていない、という事だ。
茶道部はシエル先輩が学校側を騙くらかして作り上げた架空の部活なので、部員はシエル先輩以外いない。故に、茶道室の鍵を持っているのも先輩だけという事になる。
「……おかしいな、いつも茶道室で昼食をとってるはずなんだけど」
何か予定が変わったのだろうか。
――――ゴトゴト。
「ん……? なんだろ、今なんか物音がしたような」
――――んー、んー!
「……? 昼休みだからみんな騒いでるのかな」
昼食時の校舎は様々な雑音に溢れている。物音が聞こえた気がしたのも、そういった騒音の一つがたまたま耳に入っただけだろう。
「先輩はいないみたいだし、食堂にでもいくか」
購買で買った二つのパンを抱えて茶道室前を後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s25
□教室
……こうなったら、茶道室に行って先輩にお弁当を分けてもらおう。
行く前に購買で菓子パンを二つ買うだけでお腹いっぱいになるという、まさに法の網をかいくぐる税金対策。
「……決めた。茶道室いって、お茶飲んでくる」
【有彦】
「そっすか。んじゃまあ、オレは一人淋しくパン食ってるかな!」
「……?」
有彦は今こそ好機!とばかりに走り去っていった。
「……なんだアイツ。てっきり一緒に行くかと思ってたのに」
まあ、おすそわけを狙うライバルは少ないほうが好ましいし、アイツの気が変わる前に茶道室に行ってしまおう。
□廊下
「お、先輩もう来てるな」
茶道室の鍵は開いている。先輩以外に茶道部の部員はいないので、開いているという事は先輩が中に居るというコトだ。
□茶道室
「ちゃーす」
声をかけて茶道室へと入る。
【シエル】
「あ、遠野くん……!? な、なんですか今日はいきなり!」
「いや、いきなりってお昼ご飯を一緒にいいかなって来たんですが」
【シエル】
「え―――あ、そうですよね、そういえばお昼だったんです」
ほう、と疲れたように肩を落とす先輩。
「……先輩。もしかして、何か事件でもあった?」
【シエル】
「な、ないです! 事件なんてこれっぽっちもないですから、このままお昼ご飯を食べちゃいましょう!」
……なんなんだろう、このあからさまな怪しさは。
たいていのコトはさらっと冷静に流すシエル先輩がこれだけ取り乱すなんてよほどの大事だと思うんだけど……。
【シエル】
「ほら遠野くん、のんびりしてたらお昼休みなんてすぐ終わっちゃいますよ。おかずを差し上げますから、楽しく仲良くごはんにしましょう!」
まるで誰かに聞かすような大声。
それに反応したように、
―――――ゴトゴトゴト!
なんて、押し入れの中から物音がした。
「……ちょっと、先輩」
【シエル】
「ネズミです。あ、それともおっきなネコでしょうか。ま、どちらにしてもわたしたちには関係のないコトですから、決して襖を開けたりしないようにお願いします」
そうして強引に座らされた。
ゴトゴトゴト。
押し入れの物音はさらに強くなっていく。
よく見れば先輩の腕には引っかき傷が無数にあって、畳には綺麗な金髪が落ちていたり。
「先輩。もしかして、アルクェイドが来て―――」
【シエル】
……うっ……なんか、それ以上口にするとひどい事をされそうな予感が、する。
「―――いえ、なんでもないです。お昼ごはんにしましょうか」
【シエル】
「はい。今日はですね、唐揚げがうまく出来たんですよー。それと押し入れの中には何もありませんから、今後一切気にしないでくださいね。もし開けたりしたら代わりに遠野くんに入っていてもらいますから」
はいどうぞ、とお弁当のフタを開けながら先輩は言う。
「……はあ。もし代わりに入ってしまったらどのくらい閉じ込められるんでしょうか」
「当然、わたしの気が済むまでです」
にっこりと笑う先輩。
……はあ。どうしてアルクェイドが押し入れに閉じ込められているか知らないけど、アイツ一生出て来れないんじゃないだろうか……。
return
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*s26
□教室
……こうなったら、茶道室に行って先輩にお弁当を分けてもらおう。
行く前に購買で菓子パンを二つ買うだけでお腹いっぱいになるという、まさに法の網をかいくぐる税金対策。
「……決めた。茶道室いって、お茶飲んでくる」
【有彦】
「そっすか。んじゃまあ、オレは一人淋しくパン食ってるかな!」
「……?」
有彦は今こそ好機!とばかりに走り去っていった。
「……なんだアイツ。てっきり一緒に行くかと思ってたのに」
まあ、おすそわけを狙うライバルは少ないほうが好ましいし、アイツの気が変わる前に茶道室に行ってしまおう。
□廊下
「お、先輩もう来てるな」
茶道室の鍵は開いている。先輩以外に茶道部の部員はいないので、開いているという事は先輩が中に居るというコトだ。
□茶道室
「ちゃーす」
声をかけて茶道室へと入る。
【シエル】
「いらっしゃい遠野くん。今日はここでお昼ですか?」
「うい。お茶をいただきつつ、先輩のお弁当のおかずをいただきに参上しました」
ひょい、と購買部で買ってきた菓子パンを差し出す。
ソーセージパンとカレーパン。ソーセージパンは自分用で、カレーパンは物々交換をするための物である。
【シエル】
「あ、今日は事務所前のカレーパンですね?」
「うい。食堂前のカレーパンは食べ飽きた頃かなって思って」
【シエル】
「ははあ、遠野くんは気が利きますねー。けどカレーパンに飽きるなんてコトはないですから、そんな心配はしなくてけっこうですよー」
「うい。まあ、薄々そんな気はしてたけど」
【シエル】
「はい。それじゃあお茶を淹れてきますから、座っていてください」
先輩はきびきびした動作でお茶を淹れに行く。
こっちはこっちで座布団を出し、風が入るように窓を開けて正座した。
□茶道室
そんなこんなでいつもの昼食が始まった。
先輩のお弁当は今日もビッグサイズで、こっちにハンバーグやら唐揚げやらを分けてくれてもようやく一人前、といった量だ。
それでいてカレーパンまでぺろりと平らげるんだから、先輩の胃はどうかしている。
【シエル】
「食欲の秋ですねえ……」
はあ、とため息をつきながらごはんを食べるシエル先輩。
……けど、そんなのはこの人の食欲には関係ないと思うんだけど、それは言わぬが華だろう。
【アルクェイド】
「そんなの関係ないと思うにゃー、でぶシエル」
「―――――ぶっ!」
思わず、湯呑みを落としそうになった。
【シエル】
「……何か言いましたか、遠野くん。小さくてよく聞き取れなかったんですけど」
「い、いや、俺は何も言ってないっ……!」
「あ、そうですよね。よかった、もし今のが空耳じゃなかったらどうしたものかって思ったところです」
先輩はいつもの笑みをうかべてはいるが、心なしか声が恐い気がする。
【シエル】
「それより遠野くん、お弁当のほうはもういいんですか? おなかが空いているのでしたら、どうぞ遠慮なく食べてください」
「あー、いや、そんなに先輩のお弁当を横取りしちゃまずいだろ。俺はハンバーグと唐揚げを分けてもらえればそれでいいって。先輩の方こそ、俺が食べちゃった分足りないんじゃないか?」
「そんなコトないですよ。遠野くんに貰ったカレーパンがありますから、食べきれなくなる事はあっても足りなくなるなんて事はありません」
……ふうん。そのわりに箸が休むような事はないけど、それこそ言わぬが華だろう。
【アルクェイド】
「そんな見栄はっちゃっても仕方ないのにねー。大食いシエルが二人前ぐらいで満足するわけないじゃーん」
――――――――ビキ!
先輩の湯呑みに亀裂が走った。
【シエル】
「あはは。遠野くん、今度はなんて言いました? やっぱり小さくて全然聞き取れなかったんですけど」
「いいい、言ってないっ! 俺は何も言ってないってば!」
【アルクェイド】
「栄養が全部お尻にいっちゃうのにバクバクバクバクとよく食べるコト。こんなんじゃ冬には六十の大台に突入するにゃー」
ビキビキビキ。
先輩は笑顔を崩さないまま、木っ端微塵になりそうな湯呑みを置いた。
「………………………」
無言で立ちあがるシエル先輩。
「あ―――あの、先輩?」
「………………………」
返事はない。
先輩はツカツカとまっすぐに俺の前に立つと、
【シエル】
「もしもーし。そうゆう悪いコト言う口はこの口ですかー?」
そのまま真顔で、俺のほっぺたをぐいぐいと広げてきた。
「ひ、ひひゃい! せんぱい、いひゃいって……!」
「はーい、どうして遠野くんがわたしの体重を知ってるんですかー? ちゃんと答えないとタイヘンですよー」
「ひらないっ! そんなのひらないってば!」
必死に抗議するも、先輩には聞こえていないようだ。
「あんまりあてずっぽうで女の子の体重を口にしちゃいけませんよー。もし、万が一にも当たってたりしたら女の子が可哀相でしょうー?」
ぎゅるり。ぐいぐいと引っ張る指にひねりが加わった。
「いっ………! せんぱい、さける、口がさけるってば……!」
「はい。うそつきさんの口は裂けていたほうがちょうどいいですから。人の体重が六十に近いだなんて、そんなデタラメ言う遠野くんはこうです」
ぎりりり。
ますます力が籠っていく先輩の指。
そこへ。
「あはは、シエルの体重なんて一目で判るに決まってるじゃんー。デタラメ言ってるのはどっちだっていうのよー。まったく、うそつきはどこかにゃー?」
なんて、明らかに第三者の声が響き渡った。
【シエル】
「…………遠野くん」
ぴたり、と止まる先輩の指。
「…………はい。聞こえましたね、確かに」
「…………なるほど。茶道室に化け猫が出る、という噂話は本当だったんですね」
先輩は目を伏せて呼吸を整える。
そうして、はあ、と一際大きく息を吸った後。
「出てきなさい、この天然化け猫吸血鬼………!!」
鼓膜を塞ぎたくなるぐらいの大声が茶道室を蹂躙した。
「うにゃー」
ぽてん、と音をたてて落下してくる謎の物体。
【アルクェイド】
「……っ、油断したわ……まさかそんな古典的な方法でくるなんて予想外よ」
……何が苦しいのか、アルクェイドはつらそうに立ちあがる。
【シエル】
「貴方、何のつもりなんですか一体。ここは人間の学舎です。貴方のような規格外の、およそヒトとの共存なんて冗談としか思えないほど馬鹿馬鹿しい生き物がいていい場所ではありません」
【アルクェイド】
「む。ふーんだ、シエルに言われるまでもないですよーだ。わたしだってこんな、シエルのテリトリーみたいな部屋に来るのは願い下げってもんなんだから」
【シエル】
「……そうですか。なら無理をせずにさっさと出ていってください。もちろん茶道室だけでなく、学校の敷地はおろかこの街からも離れて故郷に戻れと言っているんですよ、わたしは」
【アルクェイド】
「へえ。不死ではなくなった身で言うじゃない、代行者」
「―――不死身の体など。そのようなもの、わたしたちにはもとより不要です」
バチバチ、と火花を散らしてにらみ合う二人。
――――やばい。
なんだって茶道室にアルクェイドが現れたかは知らないけど、こんな所で二人に本気でケンカをされるとタイヘンまずい。
「ちょっと待った。二人とも、ここが学校だって分かってるか?」
一応、やんわりとドクターストップをかけてみる。
【シエル】
「わたしは分かっています。まあ、この吸血鬼にそんな常識は期待していませんが」
【アルクェイド】
「あ、大丈夫大丈夫。わたしはシエルと殺し合いにきたわけじゃないもの」
殺気立つ先輩とは対照的にアルクェイドはのんびりしている。
「……?」
首をかしげる俺と先輩。
アルクェイドはきょろきょろと部屋を見渡した後、
目にもとまらぬ早さで先輩のお弁当箱を横取りしてしまった。
□茶道室
【シエル】
「な、なにするんですか貴方はっ!」
【アルクェイド】
「いただきまーす」
呆然とする先輩をよそに、アルクェイドはごっくんと先輩のお弁当を一口で食べてしまった。
……無論、お弁当箱まで食べたわけではない。
「あ、あ、あ、あ……!」
ふるふると震えるシエル先輩。
アルクェイドはもぐもぐと咀嚼した後、やはり一息で呑み込んだ。
【シエル】
「た、食べちゃった……わたしの、わたしのお昼ごはんを食べましたね……!」
ごおお、と先輩の背中に気炎が昇る。うわあ、今までにない程の怒りっぷりだ。
一方アルクェイドはと言うと……
【アルクェイド】
「うわ、まず」
などと火に油をそそぐような感想を言ってお腹を押さえていたりする。
「ま、まずいですって……!? 人のお弁当を盗み食いしておいて、言うに事欠いて不味いだなんて、なんなんですか貴方は!」
ぐわー、と叫ぶシエル先輩。
「…………………」
……こうなっては俺に出来る事なんて一つぐらいだ。
いそいそと部屋の隅に移動して、事の顛末を眺めることにする。
【アルクェイド】
「ふう、落ちついた。やっぱりシエルの作った物なんてロクなものじゃないわね。無駄に量が多くて無駄にカロリーが高いんだもの。いい志貴? そういうワケだから二度とシエルの作った物なんて食べないでよね。あんなもの食べさせられたらシエルみたいにふとっちょになっちゃうんだから」
【シエル】
「あ―――はは。あはははははははははは!」
あ。先輩が切れた。
【シエル】
「この、誰が太ってるっていうんですか、誰が!」
豪腕一閃、先輩の右ストレートがアルクェイドの顔面へと炸裂―――
□茶道室
「ちょっ、ちょっと本気!?」」
びっくりして後ろに跳ぶアルクェイド。
先輩のストレートは避けられたが、先輩は依然としてやる気満々だった。
【アルクェイド】
「む? 学校で地を出すなんて大人げないぞシエル?」
【シエル】
「聞く耳もちません。今日という今日こそ決着をつけてあげます、アルクェイド・ブリュンスタッド」
「うわ、シエルったら本気だー。ホントのコト言われちゃって怒るなんて大人げないなー」
「――こ、この化け猫ぉ……!」
□茶道室
先輩の左ジャブが繰り出される。
【ネコアルク】
「うにゃ」
【ネコアルク】
「シエルあまーい」
【ネコアルク】
「シエルはっずれー」
【ネコアルク】
「シエルへたくそー」
ひょいひょいと軽いステップで先輩を翻弄するアルクェイド。
「―――――フッ、そこです!」
だがそれも長くは続かなかった。
ぱん、という軽い音。
先輩のジャブが確実にアルクェイドの腕にヒットした音だ。
【アルクェイド】
「……むっ。やるにゃ、知得留」
【シエル】
【シエル】
【シエル】
【シエル】
「いつまでも貴方に遊ばれるわたしではありません。そのネコっ面、今度こそ潰れたまんじゅうに変えてさしあげます」
おお、あれはヒットマンスタイル! 先輩、確実に殺る気だなあ。
「……むー。それはちょっと不利かも。専用の立ち絵を用意してもらうなんて卑怯にゃー!」
【シエル】
【シエル】
【シエル】
【シエル】
「……ふん、減らず口を。貴方の動きは捉えました。次に踏みこんできた時が最後です」
ヒュンヒュンと左手を振り子のように揺らすシエル先輩。
あそこから左手がムチのようにしなってアルクェイドを襲うのだ。―――ああ、あんないかにも悪役な構えが似合うなんて、シエル先輩も芸達者だなあ。
「んー、しょうがないにゃー。それじゃこっちも奥の手を出して対抗するかにゃ」
アルクェイドがシエル先輩へと踏みこむ。
【シエル】
「………殺りました!」
勝利を確信してパンチを繰り出す先輩。
ムチのようにしなる左拳が無慈悲にアルクェイドの顔面を貫く――――!
□茶道室
【ネコアルク】
【ネコアルク】
「にゃ」
が。それは、あっけなくアルクェイドにかわされた。
「!?」
驚きつつ、すばやく第二撃を放つ先輩。
パンチをかわして隙だらけのアルクェイドの顔面を、今度こそ死神のカマが襲う!
【ネコアルク】
【ネコアルク】
「にゃにゃ」
「――――っ!」
さらに三撃、矢のように繰り出される先輩の拳。
【ネコアルク】
【ネコアルク】
「にゃにゃにゃ」
さらにかわすアルクェイドの怪しい動き。
「こ、このぉ…………!」
ヒュンヒュンヒュン。
マシンガンのように繰り出される先輩のパンチパンチパンチ。
【ネコアルク】
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ………!」
それをどこがで見たような円運動で回避するアルクェイド!
「くっ――!」
【シエル】
ザッ、と咄嗟に間合いを離すシエル先輩。
アルクェイドは深追いせず、スウェーやらウェービングやらパリーの練習やらを繰り返して様子を見ている。
「……………………」
忌々しげにアルクェイドを睨む先輩。
アルクェイドはじりじりと先輩へと近寄っている。
【ネコアルク】
「ふふふ、そのフリッカーは見きったのだ。んにゃあゃそろそろ決着をつけて志貴と遊びにいかせてもらうかにゃー」
「……………………」
先輩には言葉がない。
アルクェイドの変幻自在な動きを捉えられず、自身の敗北を悟ったのだろうか。
「トドメにゃ! 死ねでかしりシエルー!」
【ネコアルク】
突進するアルクェイド。
「――――――――シッ………!」
走る先輩のジャブ。
が、アルクェイドは回ったり回ったり回ったり止まったりする動作でそれをかわした。
が。
瞬間、先輩の口がにやりと釣りあがり――
【シエル】
「知ってます、止まるんでしょう……!」
――――振り上げた右拳が、無防備なアルクェイドの顔面へと炸裂する……!
ごぎゃ、という激しい打撃音が響く。
それもモノラルではなくステレオで。
まったく同じタイミングで、両者の拳は相手の顔面へ炸裂していた。
「…………壮絶だな」
俺の呟きなんて聞こえていないだろう。
見事に腕が伸びきった、教科書に載せてもいいぐらいのクロスカウンターだ。とくに先輩のパンチが素晴らしい。アルクェイドのデタラメな腕力に対抗するべく、ひねりを加えて打撃力を増している。
まさに力のアルク、技のシエル。
ここまでタイミングが一緒だと、実はこの二人、とてつもなく気が合うんじゃないかと勘ぐりたくなるほどだ。
「……く、さすがにやりますね、アルクェイド――」
「オマエモニャ―――」
ふふふ、とにらみ合う二人。
そのまま、ずめりとマット……じゃなくて、畳の上に倒れこむ。
□茶道室
「あ、そろそろ時間か」
気が付けば昼休みも終わろうとしている。
二人はお互いの頬をつねったまま気絶している。
「さ、帰ろ帰ろ」
後の処理も面倒だし、ここは何も見なかった事にして教室に帰るのだ。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s27
□教室
―――たまにはリッチなところを見せ付けてやる。
「決めた。今日は食堂で豪遊してやる」
【有彦】
「え、まじ? 信じられねえ、まさかきつねうどんにタマゴつけんのか!?」
……きつねうどん二百五十円。タマゴ五十円。
「有彦。そ、ゆうのは豪遊とはイワナイ」
「な!?って事は大盛りにするっていうのかよ!? やめとけって、見栄張ってもあんましいいコトないんだぞ!」
……大盛りは、プラス百円。
「カツ丼。おしんこにお吸い物付き、食べる」
カツ丼セット、金六百五十円也。
【有彦】
「しょ、正気ですか遠野くん!? そんなお金があるならきつねうどんにしてオレに奢ったりしてくれないのか!?」
「……………うるさい。おまえ、付いてくるな」
ふい、と顔を背け、ロボットのような行進をして教室を後にした。
□食堂
―――次のニュースです。
落雷事故が続く○県サカエ市ですが、昨夜未明七度目の落雷事故が発生した模様です。
幸い今回も被害は少なく、付近一帯が一時間ほどの停電にみまわれた後、すみやかに復旧作業が開始され――――
テレビモニターが今朝のニュースを流している。
うちの学校の食堂では情操教育の一環として、校長が録画した朝のニュースを流している。
ずる、ずる。
それを一人、カレーうどんタマゴ付きを食べながら聞いている生徒が一人。
「………この、根性無し」
言うまでもなく、そんな淋しい昼食をとっているのは遠野志貴なのであった。
「くそ、なんだこのすっげえ敗北感は」
吸血鬼を相手にした時でもここまで自分が情けなく思ったコトはない。
ずるずるずる。
「……カ、までは出かかったんだけどなあ……ここ一番で冷静になる性格ってのも考えものだぜ、ふふふ」
ふん、いいんだいいんだ。
一時の感情になんか流されないで、こうして少しずつお金をためておけばイザという時に役立つってもんなんだから。
ずるずるずる。
ああ、それにしてもここのカレーうどんは辛い。先輩は丁度いいっていうけど、あの人カレーばっか食べてっから舌が麻痺しちゃってんだろうな、きっと。
―――次のニュースです。
×日前から続いている通り魔殺人ですが、またも新しい被害者が発見されました。
御咲町の工場地帯に人間のものと思われる大量の血痕が――――
「―――――」
厭なニュースが続く。
とっくに吸血鬼はいなくなったっていうのにこの街ではまだ通り魔殺人が続いていた。
ずるずるずるずる、と。
カレーうどんを食べ終えたので席を立つ。
厭なニュースのせいで胸がむかついて汁は飲みきれなかった。
先輩に見られたらワンぱんちものかな、と思いながら食堂を後にした。
return
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*s29
□教室
中庭で食事といこう!
今求められるのは有彦の挑発行為になんか乗らない強い心。
「―――――――」
ああ、けどその前に、と……
return
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*s32
□教室
たまには中庭でゆっくり食事にするのもいいかもしれない。
「決めた。今日は日向ぼっこをしながら昼飯を食う」
【有彦】
「おおっ健康的じゃん! ならオレも付き合うぜ!……などと言いたいトコなんだが、徹夜あけに日の光は辛いのだ。残念だがここでお別れだな、遠野」
「願ったり叶ったりだな。今日は静かに飯にしたかったんだ」
「そですか。ま、中庭に出るっていう猫に昼飯獲られないよう注意しろよ」
他に何か用事があるのか、有彦はあっさりと引き下がって行った。
□中庭
中庭に出る。
陽射しは適度に暖かく、風も肌に心地よい。
なんていうか、今日は最高のピクニック日和だった。
これだけ気持ちいいんだから中庭はさぞかし賑わっているだろう、って――
「……なのになんで誰もいないかな」
なんか、逆に頭にきた。
そりゃあこの気持ち良さを独り占めできるのは嬉しいが、これだけいい天気に教室に閉じこもっているのも勿体ないだろうに。
「……いいですよーだ、こうなったら芝生にねっころがってやる」
独りごちて柵を乗り越える。
芝生からもたっぷりと太陽の匂いがして、このまま眠ってしまったら最高に気持ちがいいだろう。
「――――ん?」
と。茂みからごそごそと現れた黒い影が一つ。
【レン】
「あ、ほんとに出た」
有彦の言葉通りというか、中庭に黒猫が住み着いたという噂が本当だったというか。
黒猫はふんふんと芝生の匂いをかぎながら、少しずつ、そっちになんてこれっぽっちも興味がありませんよー、といった素振りで近づいてくる。
「あれ? おまえ、前にも会わなかったっけ?」
……昨日のコトを思い出せない病はこんな所にも影響している。
けど確かに、こういうふうに天気のいい場所で黒猫とぼんやり過ごしたコトがあったような気がするのだ。
「ま、いいや。ほら、パン食べるかおまえ」
サンドウィッチを千切って黒猫へ投げる。
【レン】
……うわ、見向きもしないよあの子!
「む。なかなかハイソサエティな家庭で育った猫さまとお見受けした」
んじゃ、次は具であるハムを投げてみる。
【レン】
【レン】
お、今度はかすかに反応。だがまだ食べようとしないあたり、敵もなかなかプライド高し。
「よーし、次は確実だぞ。くらえ、ツナ付きハム爆弾―!」
ぽいぽいぽい。
次々に黒猫のまわりに投下されていくシーチキンをからめたハムの群れ。
【レン】
【レン】
黒猫はハムから目を背けようと後ろを向く。
その方角にもさらにハム。
【レン】
【レン】
今度はちょっと反転。そっちにもハム。
【レン】
【レン】
ハム、ハム、ハム、ハム、ハムハムハム!
「あ、倒れた」
くるくると回ったあげく、黒猫は芝生につっぷした。
「……もしかして、そこまで食べないってコトはホントに嫌いなんでしょうか?」
ぼそぼそと話しかけてみる。
黒猫はぴくん、と耳を動かした瞬間――
□中庭
シュン、という音が似合うような素早さで茂みへと駆けこんでしまった。
「……あっちゃあ、嫌われちゃったか」
ぼやきつつ、はむ、とサンドウィッチをかじる。
「うげ、ただのパンになってる―――!?」
……って、間抜けか俺は。
サンドウィッチをサンドウィッチたらしめていた具を芝生に撒き散らせば、そりゃあ中身だってなくなるに決まってる。
「……試合に勝って勝負に負けたか」
うむ。次はネコ缶を持ってやってくる事にしよう。
まあ。
それは明日も、自分が黒猫の事を覚えていたらの話だけど。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s34
□教室
……いや、確かめなくてはならない事がある。
「わるい。ちょっと中庭に用がある。一人で食うからおまえも一人で済ませてくれ」
【有彦】
「……ああ。かまわねえけど、どうした。顔つきが暗いぞおまえ」
「そうか? ……悪いな有彦、今日はおまえの気のせいってコトにしといてくれ」
「ふうん。ま、遠野がそう言うんなら、いいけど」
……こちらの気持ちを察してくれたのか、有彦はスタスタと廊下へ去っていった
□中庭
中庭に出る。
陽射しは適度に暖かく、風も肌に心地よい。
最高のピクニック日和。
ここでそのまま寝そべってしまえば、あとはいつものようにあの子が茂みから―――
「―――出てくるわけないか」
当たり前だ。
彼女はアイツと決着をつけにいってしまった。
……決して敵わない。自らの死に向かっていくなんて、なんて、愚か。
「――――っ!」
そこまで解っていながらこんな所にいる自分に腹が立つ。
もうすぐ夢は終わる。
その前に、せめてあの子を助けにいかなくちゃいけないのに――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s36
□廊下
生徒たちで賑わう廊下を歩く。
昼休みもじき終わろうとするこの時間こそ、廊下が一番賑やかな時間なのかもしれない。
聞こえてくる会話にはたえず笑い声がまざっていて、ここには不安なイメージというものが一点たりとも存在しない。
昨日のコト。今日のコト。明日のコト。
交わされる様々な会話は、その全てが微笑ましいものばかりだった。
「文化祭が近いせいもあるけどねー」
自分も気が緩んでるな、と実感しつつ窓を見た。
ガラスに映っている自分の顔は想像通り穏やかだ。
何の不安もない一日。
最近は頭痛も貧血もなくて、このメガネを取るような事件も起こらない。
ガラスに映った自分は、廊下の喧騒を見守るような穏やかさで自分を見ていた。
透明な自画像。
ガラスに浮かぶ遠野志貴は、実際にそうであるのだが、こちらの世界に干渉できない虚像のようだ。
―――――――不意に。
一人、取り残された。
喧騒は止んでいる。
廊下には誰もいない。
賑やかだった廊下は廃墟の静けさに変貌する。
それは、まるで一人列車に乗り遅れたような虚しさだった。
独り取り残されて、大切なモノが先に行ってしまう感じ。
そんな哀しい出来事を、ガラスに映った自分は穏やかな目で眺めていた。
return
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*s37
□廊下
賑やかな廊下を歩く。
昼休みもじき終わり。
廊下に点在する生徒たちはクラスが違うのか、五時限目が始まるギリギリまで会話に花を咲かせているのだろう。
笑い声はずっと続いていて、廊下を歩いているだけでこっちまで気が緩んでしまいそうだ。
明るい陽射しと穏やかな風景。
ちょっと捜せば顔見知りの友人はすぐ近くにいて、簡単に笑いあえるこの空間。
日常はおおよそ変化なく回っている。
楽しい事が半分、哀しい事はほんのちょっと、あとの残りは定番といえる退屈。
ぐるんぐるんと回るサイクルは完璧なのか、止まるという事を知らない。
けど、少しだけおかしいと思う事だってある。
それは。
毎夜見ては忘れてしまう。
忘れられないほど凄惨な夢だった。
□廊下
「――――はっ。何をつまらないコトを気にしてるんだろう、俺は」
思い出せないぐらい瑣末な夢を不安に思って、こんなにも楽しい毎日を台無しにしようだなんてどうかしてる。
昨日もそうだったけど、今日も間違いなく楽しい一日なんだ。それを無理やり哀しい一日にする必要なんてない。
―――まあ。その
昨日のコトさえ、よく思
い出せないのではあるが。
□廊下
「――――――っ」
眩暈がして壁によりかかる。
こつん、と顔が窓にあたって、外の景色が見渡せた。
学校の外はいつも通り。
硝子に映った自分もいつも通り。
何の変化もなく、結局は景色を眺めるだけで、その中に融けこめないでいる―――
がらん、がらん。
耳鳴りだろうか。
遠くで鐘が鳴っている。
――――ああ、知っている。これは葬送の鐘の音だ。
がらん、がらん。
崩れるような鐘の音。
その鐘が響き渡るたびに、がらん、と世界の何処かが崩れていく。
がらん、がらん。
ここではない、ここからでは見えない些細な所から崩れていく。
物事に終わりがあるように、世界にだって終りはある。
永遠に続く一日などありえない。
気が付いた時には全て一瞬で崩れ去る。
そうして後戻りのできない列車にのって、ついに最果ての終着駅に着いてしまって嘆くのだ。
なんという滑稽さかな。
本当の終着駅というのは一つ前の駅なので、そうなってしまってはもう手の施しようがないんだってば。
だからこうしているかぎり、列車は着々と終着駅へと暴走している。
一日ごとに次の駅へ。
さてさてご照覧あれ皆様方。
はたして自分は、終着駅の一つ前までに下りるコトができるのでしょうか……?
return
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*s38
□廊下
賑やかな廊下を歩く。
昼休みもじき終わり。
廊下に点在する生徒たちはクラスが違うのか、五時限目が始まるギリギリまで会話に花を咲かせているのだろう。
笑い声はずっと続いていて、廊下を歩いているだけでこっちまで気が緩んでしまいそうだ。
明るい陽射しと穏やかな風景。
ちょっと捜せば顔見知りの友人はすぐ近くにいて、簡単に笑いあえるこの空間。
日常はおおよそ変化なく回っている。
楽しい事が半分、哀しい事はほんのちょっと、あとの残りは定番といえる退屈。
ぐるんぐるんと回るサイクルは完璧なのか、止まるという事を知らない。
けど、少しだけおかしいと思う事だってある。
「――――なんか、最近」
こう、日常のバランスがおかしいというか。
哀しい事はわりと大人しめで、楽しい事ばかりが目に付いている。
まるで人生最良の日というカタチがあって、そればかりを選んでいるような感じ。
「自虐的だな、いいコトばっかりだから揺り返しを恐れてる。素直に一日を楽しめばいいのに」
そう。
良い事ばかりが起きて次に来る不幸が恐ろしいというのなら、良い事が起きている今日を楽しむべきだろう。
それが誰かの見る幸福な、完璧に近い憧憬の夢だとしても。
□廊下
――――ふと。
「……ゆ、め……?」
―――何か、重大な事を思い出しかけた気がする。
昨日のコトは思い出せない。
はじめはそう思っていたが、それは間違いなのだと気が付いたのは昨日だったか。
だが昨日の事は思い出せない。
だが思い出せない記憶などない。
その矛盾に気が付くのはいつも終わる時だ。
自分はとっくに気が付いている筈なのだ。
頭を悩まして、眠りから目を覚まして、そうして忘れてしまっている出来事なんて、本当は――――
□廊下
「―――――――」
軽い眩暈がした。
何時間もテレビを見ていて目が疲れた時におこる、軽い眩暈だ。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s39
□廊下
「遠野くん。授業が始まっているのですが」
――――と。
近くの教室から顔を出した国藤教諭に声をかけられた。
「――――あ、すみません。ぼーっとしてました」
「そうですか。では急いで教室に戻りなさい」
国藤教諭は顔をひっこめて扉を閉めた。
……なんだ、なんてコトはない。
たんにチャイムに気が付かなくて、みんなが教室に戻っていただけの話だった。
「――――」
授業は始まってしまっている。
すぐに自分の教室に行かないといけないんだけど、なんとなく――
return
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*s40
□廊下
―――授業を受ける気にはなれなかった。
「よし、裏庭からブッチするか!」
そうと決まれば話は早い。
有彦ご用達、校舎裏の秘密ルートを使って学校から脱出しよう。
□校舎裏
人目につかないようにコソコソと移動して校舎裏に辿りついた。
さて、あとは茂みに隠れている柵から外に出るだけだ。
知る人ぞ知る、誰がやったか知らないが鉄柵が一本曲がっている脱出路へと足を進ませる。
「――――――――っ」
茂みに入った途端、強い陽射しに視界を焼かれた。
「なんだ、眩し―――――」
それでも前に進もうと足を踏み出す。
――――――ぐちゃり、と。
なにか、巨大な生き物のハラワタに、足を着けたような感触が、した。
メガネが外れた。
「――――――え?」
それは錯覚か。
踏み出した場所は、見たコトのない世界だった。
鐘の音が鳴り響く。
かーん、かーん。
これはなんの鐘だろうか。
随分と遠くから聞こえてくる。
はるかな眼下。
崖の下、狭い谷間に横たわる村から届いてくる、埋葬の儀礼の報せ。
「―――――――――」
まずい。
ここにいてはまずい、と脳髄ではなく眼球が理解する。
何故ならここは見慣れた世界だ。
静かに腐りだし、誰にも気付かれないように崩壊している世界の端。
この先に場所はない。
いうなれば、ここは世界の果てだった。
―――――ずるり。
後ろに下がろうとした足が滑る。
「やっ―――――――」
ばい、と思った時には遅かった。
背中からハラワタの中に沈みこむ。
「うそ―――ちょっと、おい―――――!」
突き出した腕も沈んでいく。
とっかかりなんてない。
なにしろ足場である世界そのものが沈んでいるんだから、俺にどうこうできる筈がない。
「なん――――――――で?」
あまりに唐突だ。
だが―――どこか。これと似たようなコトを、昨日体験した気がする。
まあもっとも昨日のコトを思い出せない以上、ここから逃れる方法も思い出せない。
沈む。
体は底無し沼にはまったように、なす術もなく世界の果てに呑まれていった。
□校舎裏
鳴り響くチャイムの音で目が覚めた。
「あ……五時限目、終わったんだ」
ぼんやりと呟いて、自分が地面に倒れている事に気が付いた。
「……? なんで倒れてるんだ、俺」
きょろきょろとあたりを見渡すと、足元にはバナナの皮があった。
「い―――――――た」
おまけに後頭部には痛みがある。
「この状況。まさか転んで頭を打って気絶してた、なんて言いたいんじゃないだろうな」
……返事はない。ま、当たり前か。
「それじゃあさっきのは夢だったのか」
世界の果ての幻視。
いやにリアルだったハラワタの感覚。
「―――――――」
確かめる方法は簡単だ。
さっきと同じように茂みに入って抜け道を通ればいい。
□学校の外
「――――――――」
思案した後、茂みに入って外に出た。
異状なんてある筈がなく、やはりさっきのは夢だった。
「…………なんか、白けた」
外に遊びに行く、という気分でもない。
大人しく教室に戻って、六時限目の授業を受ける事にしよう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s42
□教室
ホームルームが終わった。
まだ日が長いのか、太陽は一向に沈む様子がない。
こう明るいとまだ昼間のような気がして、なんとなく寄り道をしたい気分になるが―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s43
□教室
ホームルームが終わった。
まだ日が長いのか、太陽は一向に沈む様子がない。
こう明るいとまだ昼間のような気がして、なんとなく寄り道をしたい気分になるが―――
return
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*s44
□教室
茶道室に行ってみるか。
放課後なんだし、先輩が一人でのんびりとお茶を飲んでいる頃だろう。
□廊下
□茶道室
「お邪魔しまーす」
ガラリ、と扉を開けて茶道室に入る。
「あれ……先輩いないぞ」
鍵が開いてるのにいない、とはどういう事だろう。一度やってきたが用事があって留守にしている、という事だろうか。
「……そういえば文化祭の準備で朝と放課後は忙しいとか言ってたな」
たしか数日前、先輩はそんな事を言っていたはずだ。
「はあ。そんな事まで忘れてるなんて、思い出せない病もわりと深刻なのかもな」
自分の間抜けさ加減に呆れつつ、茶道室を後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s47
□教室
……そうだな、何かを急ぐ必要もないし、まったりと日向ぼっこをするのも悪くない。
命名、帰宅部ならぬ日向ぼっこ倶楽部。
□教室
日向ぼっこ、終了。
遠くの街並みを燃やすように、赤い夕日が地平へと落ちていく。
「――――さて、帰るか」
鞄を持って教室を後にする。
……しかし、考えてみると。こんなのんびりとした生活をしていれば、そりゃあ昨日のコトなんて思い出せなくなるってものだ。
□校門前
□分岐路
街の中間地点である交差点を過ぎた頃、ばったりと有彦に遭遇した。
【有彦】
「お? なんでここにいるんだおまえ」
「顔を合わせていきなりそれか、有彦」
むっ、と有彦を睨む。
が、向こうも思う所があるのか訝しむようにこっちを睨んでいた。
「……なんだよ。何か言いたい事がありそうじゃないか有彦」
「…………………」
じー、と有彦はこちらを観察した後、おもむろに。
「うりゃ」
と、人のほっぺたを掴み、それだけでは飽き足らず掴んだまま全力疾走をはじめた。
「―――――――!!!!!!!!」
い、いたいいたいいたいいたいいたいいたい!
□分岐路
「ひゃ、ひゃにするんなきになり………っ!」
【有彦】
【有彦】
「――――む、本物と確認。そうだよな、こんな街中で狐狸のたぐいが出るワケねーか!」
疑いが晴れたのか、有彦は嬉しそうにブンブンと手を上下させる。もちろん、人のほっぺたを掴んだままで。
「ほ、ほみゃえは――――!」
【有彦】
閃光の右ストレート。
ぐわあ、と断末魔の声を上げてたわけた男は倒れ去った。
経験値もお金も持っていないあたり、そこいらのモンスターより始末が悪い。
□分岐路
「で。一体なんのつもりなんだ、おまえ」
【有彦】
「いやなに、街中で狸にでもバカされたかな、と思ったわけですよこれが」
「だから、どうしてそこで狸が出てくるんだ。人のほっぺたを伸ばしまくってくれただけの理由を言え」
【有彦】
「いやなに。どうしても何も、ついさっき大通りの方で遠野を見かけてさ。人目につかない物陰に立っていたおまえさんに声をかけたら、人を捜してるから気にするなって答えてきたもんだ」
「街中でって……俺、学校から帰ってきたばっかりだけど」
「そんなのは見れば判る。だいたい最短距離でここまでやってきた俺を追い越せるワケねーだろ。
だからこう、さっきの遠野とここにいる遠野、どっちかが狐狸妖怪のたぐいに違いないって思ったワケ」
「……有彦。その時点で街にいたのは俺に良く似た誰かだって思わなかったのか」
「あー、実を言うとオレもそう思ったんだがね。これが最近ちょっとな、オカルトっての? そういうの信じざるえない状況になっちまって困ってる」
ガリガリと頭を掻く有彦。こいつもこいつで何やら大変な生活を送っているみたいだ。
「ま、他人の空似ってヤツか。ああ、そういえば前に遠野っぽい雰囲気のヤツが夜の街をうろついてたって話、したっけ?」
「――――いや。おまえからその話を聞いた事はないよ」
「そっか。もう随分と前の話だから忘れてたぜ。ありゃー単にヤバイって雰囲気が似通ってただけなんだが、さっきのヤツは外見がおまえにクリソツだったな。……いや、どっちかっていうとガキの頃のおまえに似てたか」
ぶつぶつと呟く有彦。
……と、よく見ればコイツ、ビニール袋にあふれんばかりの人参をつめこんでいる。
「有彦。おまえ、キャロットケーキでも作るのか?」
「バカ言うな、こりゃあ生で食うんだ」
「―――――――――――――」
まあ、人様の趣味嗜好に口を出すほど野暮ではないので反論はよしておこう。
【有彦】
「じゃあな、たまには家に遊びにこいよ。姉貴が会いたがってたぜ」
夕焼けに溶けるように去っていく悪友の背中を見送って、こちらも自分の家に帰る事にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s48
□教室
教室はいまだ賑やかだ。
放課後だというのに教室には何人かのクラスメイトが残って作業している。
残っているのは小物作りを担当している女子のグループだ。もうすぐそこまで迫った文化祭の準備に追われているんだろう。
「遠野くーん、暇なら手伝ってよー」
写真撮影時に使う背景を作っている一団に声をかけられる。……基本的に背景は真っ白な物を使用するのだが、ファンキーなお客さん用に南国バージョンやらギアナ高地バージョンやらを作っているんだろう。
……ところでそんなものが必要なうちのクラスの出し物ってなんなんだろう。
「オッケー、手伝うよー」
気の抜けた返事をして、ペンキ缶を手にとって一団の輪へ仲間入りさせてもらった。
□教室
「やったー、なんとかノルマ達成しましたー!」
パチパチパチ、という拍手が沸きあがる。
「それじゃみんな、ご苦労様でした! B班、貸衣装屋の作業はこれにて終了です。あとは投票でA班とC班に負けないよう各自お祈りしていてください」
はーい、と仲良くハモる一同。……その中にまざっている男が一人。言うまでもなく自分こと遠野志貴である。
「ありがと遠野くん。わたしたちはこのまま帰るけど、遠野くんは? カラオケ、付き合ってくれる?」
「んー……そうだな、後片付けしていくよ。あんまり役に立てなかったし、道具の片付けぐらいなら一人でもできるだろ」
えー、みんなでやるよー、という全員の声を抑えて、女子たちを先に帰らせた。
□教室
そうして背景作りに使用した道具を美術部に返してきて、
「――――――――あ」
唐突に思い出した。
「なにしてるんだ、俺は次のテストで全科目八十以上とらないと冬休み補習コースになるんじゃないか!」
うわあ、文化祭にかまけてる場合じゃなかった!
「まずいぞ、全然勉強してないじゃないか俺!」
まずいどころの話ではない。
長期にわたって病欠していた夏の遅れもまだ取り戻せてないっていうのに、平均点八十以上なんて夢のまた夢だ。
「うう、誰か教え方がうまい人とかいればなあ……」
無理な注文だ。遠野志貴の知り合いで、家庭教師じみた真似ができる人はいやしない。
「いえ、いますよ」
「ほんと? けど心当たりないよ、俺」
「だからいるじゃないですか。放課後はまるまる時間があって、勉強のできる上級生のお姉さんが」
んー? いたっけなあそんな人。
「いや、悪いけど思い当たらないな。それより、さっきから話しかけてくるあなたは誰ですか」
くるり、と振り返る。
【知得留】
「はい。こんにちは、遠野くん」
「――――――――――」
あれ。なんか俺、ヘンな夢見てる?
「うちの学校の教師さん……ですか?」
「はい。今日入ったばかりの新任です。今後ともよろしくお願いします」
ぺこりとおじぎをする謎の教師。
【知得留】
「それではこのへんでお別れです。個人授業の件ですが、遠野くんさえよろしければいつでもお待ちしておりますね」
去っていく人影。
それを呆然と見送って、自分で自分の頬をつねってみた。
「―――――む」
つねった頬は、あまり痛いとは感じなかった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s49
□教室
教室はいまだ賑やかだ。
放課後になれば教室に残っているのはたいてい自分だけになるのだが、今日は何人かのクラスメイトが居残って作業している。
文化祭が近いせいで、ギリギリまで出し物の準備をしているのだろう。
「遠野くーん、残ってるなら手伝ってー!」
花輪らしきものを作っている一団から声をかけられる。男連中はグラウンドで日曜大工でもしているのか、教室に残っているのはほとんどが女子だった。
「あいよー、おっけー」
気の抜けた返事をして、とりあえず花輪作りを手伝うコトにした。
□校門前
結局下校時間まで作業を手伝った。
こった肩をほぐしながら正門をくぐる。
「あ、そういえばうちのクラスの出し物って……」
なんだったっけ、と首をかしげながら学校を後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s50
□教室
秋葉もいる事だし、まっすぐ屋敷に帰るとしよう。「あいつ、まだ教室に残ってるかな……」
鞄を片手に一年の教室へ足を運ぶ。
□廊下
一年の廊下も生徒でごったがえしていた。
文化祭も間近、高校生になってから初めてのイベントに一年生たちは躍起になっているのだろう。
「あ、ちょっといいかな」
教室の前で秋葉のクラスメイトと思われる子に話しかける。
秋葉の教室は閉めきっていて、他のクラスの生徒立ち入り禁止、と札が張られていたからだ。
「悪いんだけど、遠野―――」
「あ、遠野さんのお兄さんッスね。ちょっと待ってください、妹さん呼んできますから!」
丸刈りの男子生徒はシュタ、と敬礼をするように手をあげて教室の中へ入っていく。
「秋葉さま、お兄さんが来てますぞー!」
元気な声は廊下にまで聞こえてくる。
「………………」
なんなんだろう、今のセリフは。秋葉の文化祭の役回りが特殊なものだからなのか、さっきの男子生徒は普段からそう呼んでいるのか。
「………………」
……そのどちらかでありそうで、どちらでもありそうなのが恐ろしい。
【秋葉】
「お待たせしました兄さん。あの、帰りのお誘いですか?」
「そうだけど、文化祭の準備が忙しいなら先に帰ってるぞ。カーテンも閉めきっちまって、なにやら企んでいそうじゃないか、秋葉のクラス」
【秋葉】
「あ―――うん、企んでいるというよりは、当日まで秘密なコトが多いだけなんですけど」
言いつつ、さっと教室の中を隠すために扉を閉める秋葉。
【秋葉】
「あの、それでですね兄さん。お誘いしていただけるのは嬉しいんですけど、その、文化祭の準備が押していて今日はもう少し時間がかかりそうだから……」
言いにくそうに言葉をつまらせる秋葉。
……良かった、秋葉も秋葉で文化祭を楽しんでいるようだ。文化祭の肝は当日だけど、やっぱり連日お祭りの準備をする放課後が学生にとっての本当のお祭りだと思う。
秋葉はなんだかんだとお嬢さまだから、うちの学校には心から馴染めないのではないかと心配していたのも今日までだ。
「……申し訳ありません。せっかく迎えにきていただいたのですけど、今日は私―――」
「ばか、そんなの気にするな。秋葉がクラスを大事にするのは当たり前だろ。……んじゃまあ、こっちもクラスの準備を手伝って帰るとするかな。お互い頑張ろうぜ、秋葉」
【秋葉】
「――――はい。文化祭当日は是非一年の教室に寄ってくださいね」
心からの笑顔で言う秋葉に頷いて、一年の教室を後にした。
□校門前
俺も秋葉を見習って自分のクラスの文化祭準備を手伝うことにした
そうして時間いっぱい作業を手伝って下校する事になった。
トンカチとノコギリの持ちすぎだ。カチカチにこった肩をほぐしながら正門をくぐる。
「あ、そういえば文化祭って……」
明日だったっけ? なんて、ど忘れにもほどがある呟きをもらしながら学校を後にした。
return
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*s51
□教室
と、その前に。
帰るのはいいけど、どうやって帰ろうか?
return
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*s52
□教室
うむ、唐突に理由もなく翡翠や琥珀さんの顔が見たくなってきた。
そういうわけで一刻も早く屋敷に帰ろう。
□校門前
□分岐路
街の中間地点である交差点を過ぎた頃、ばったりと有彦に遭遇した。
【有彦】
「お? 今日は寄り道せずに帰るのか遠野」
「まあな。そういうおまえは今から駅前か」
「ん、ちょっと買い物。まとめ買いするんで安いところ行こうと思ってな」
有彦のところはお姉さんと二人きりなので、食材の買い物は有彦が担当しているという。
お姉さんから渡された一ヶ月の生活費をやりくりした分だけ有彦が潤うという、主婦育成のための優れたシステムだ。
「そっか。ま、頑張ってデパート回りをしてくれ」
【有彦】
「あいよ。……って、そういえばさ遠野。ちょっと前にオマエに似たヤツが街をうろついてたって話あっただろ」
「―――――――――――」
それは一年前の出来事だ。
シキという依り代を持った、ロアという吸血鬼がいた頃の話――――
「――――さあ。有彦からそういう話を聞くのは初めてだけど」
「……そうか。ま、どうってコトないんだけどな。姉貴がよ、ついこの間夜の街で有間のそっくりさんを見た、とか言ってたんだ。姉貴曰く、昔の遠野みたいだった、とかなんとか」
「ふうん。イチゴさん、あいかわらず生活スタイルは夜行性なんだ」
【有彦】
「その通り! ふふふ、夜じゃねえと本調子にならないのは乾家の遺伝なのだー」
陽気に言って、それじゃあな、と有彦は大通りへと消えていった。
return
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*s53
□坂
坂道を上る。
周囲に人がいないせいか、急に熱が逃げていったような気がした。
今日一日、学校で過ごした事が他人事のように思い出される。
なんでもないありきたりの一日は、本当は手が届かないぐらい遠い物ではないのか、と冷めた自分が傍観している。
昔、隣町にサーカスが来た時があった。
子供の頃の話だ。
行きたいとせがんでも両親は許してはくれなかった。
夕方になってサーカスが始まった頃、部屋の中で膝を抱えて時計を眺めた。
そうして辺りが暗くなってから、それこそ世界の果てに旅立つぐらいの勇気を振り絞って一人で家を飛び出した。
夜道。
子供の足で隣町を目指して歩き続けた。
遠くて遠くて、もう帰る事もできなくなって、泣きながらサーカスを目指した。
そうして何時間も経ったあと、ついにサーカスに辿りついた。
もう夜も遅く。
誰もいなくなった広い空き地で、大きなサーカスのテントを見上げた。
締め切られた入り口。
遠すぎる夜空。
ライトに照らされて浮かび上がる大きなテント。
まるでUFOが降りてきたみたいに明るいのに、そこには誰もいなかった。
――――ああ。祭りは、もう終わったのだ。
だっていうのにサーカスのテントは大きくて、見上げているだけでワクワクした。
なんて楽しそうなんだろう、と。
それが自分に何をしてくれるワケでもないと分かっているのに、いつまでも見上げていた。
□坂
その後の記憶はない。
もう帰る体力は無かったはずだから、きっと捜しに来た両親に連れて帰ってもらったのだろう。
「―――――――――」
古い話だ。
隣町に行けば大きな壁があると信じて、その先にある世界なんて想像もできなかったぐらい昔の話。
――――熱が冷めている。
周りに人がいないせいか、訳もなく独りなのだと錯覚した。
□屋敷の門
坂道をあがりきって屋敷の玄関に辿りつく。
と、門には翡翠が待っていた。
【翡翠】
「お帰りなさいませ志貴さま。お体の方は大事ないでしょうか?」
「え―――っと、ただいま翡翠。体の調子はいいけど、なんでまたここにいるんだ?」
【翡翠】
「いえ、ちょうど志貴さまの姿が見えたものですから、ここでお出迎えをさせていただこうかと思いまして」
淡い微笑みをうかべて翡翠は言う。
「あ―――それは、ありがとう」
ついさっき淋しい気持ちに囚われていただけに、翡翠の笑顔は不意討ちそのものだった。
赤面しそうな気持ちをなんとか堪えながら、ちらりと翡翠の顔を見る。
「それじゃ屋敷に入ろうか。琥珀さんと秋葉はいるの?」
「秋葉さまもお帰りになられています。姉さんでしたら中庭の方で何かしていたようですが」
「そっか、いつも通りってコトだねそりゃ」
はい、ともう一度微笑みを浮かべる翡翠と連れ立って屋敷の門をくぐった。
□志貴の部屋
鞄を置いて一息つく。
さて、夕食まで何をしていようか。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s54
□志貴の部屋
「…………ん」
ぽてん、とベッドに腰を下ろす。
自分の部屋に戻ってきたからだろうか、どっと疲れが出てきたような感じだ。
「おかしいな、体調はめずらしいぐらいいいんだけど」
体の節々が疲れているというか、なんとなく反応が遅い気がする。
「ま、貧血じゃないだけマシか」
それでも疲れている事には変わりはない。
夕食までの数時間、部屋で休む事にしよう。
コンコン。
コンコン。
コンコン。
………落ちついたノックの音。
「志貴君、寝てるの?」
その後に続く、少しだけ聞きなれた女性の声。
「残念ね、久しぶりに顔を見れると思ったのに」
……その声を、忘れられるわけがなかった。
いつも挨拶をかわすぐらいだけの間柄だったあの人。子供らしくない子供だった自分が憧れた、数少ない年上の女性。
なにより、自分はそのトキエという響きが好きだった。
その人が特別な人になった経緯を思い出そうとして、やっぱり忘れている事に気が付いた―――
□志貴の部屋
「―――――朱鷺恵さん!?」
がばっ、とベッドから跳ね起きる。
「ちょっ、ちょっと待ってください。いま開けますから!」
急いで鍵を開ける。
コンコン、と軽くノックがして扉が開いた。
【朱鷺恵】
「こんにちは志貴君。ちょっとお邪魔するわね」
「どうぞ。何もないところですけどがっかりしないでくださいね」
「うん? そうかな、立派な部屋だと思うよ。少なくともうちの医院よりキレイじゃない」
朱鷺恵さんはぐるりと部屋を見渡した後、適当にベッドに腰を下ろした。
「それで、今日はどうしたんですか? 朱鷺恵さんが来ているって事は時南先生も来てるとか」
「ううん、お父さんは来てないの。今日はわたしが代理でね、秋葉さんの定期検診に来ただけだから」
「……そっか。時南先生もそろそろいい歳だし、すっかりご隠居ってわけですか」
「ふふ、そうねだといいんだけどね。お父さんったら相変わらず頑丈そうで困っちゃうわ」
……はあ。やっぱり相変わらずなのか、あのお医者さまは。歳相応に大人しくしていてほしいけど、そううまくはいかないんだろうなあ。
「はあ。朱鷺恵さんもタイヘンですね、時南先生みたいに元気な人を父親に持つと」
「うん、もうタイヘンすぎて誰かに替わってほしいぐらい。琥珀ちゃんは適任だと思うんだけど、女の子だからお婿に来てもらえないし」
はあ、と深刻そうにため息をつく朱鷺恵さん。
なんでも付き合う男の人はことごとく時南先生にぶちのめされてしまって、朱鷺恵さんはいつまでたってもフリーなんだそうだ。
「志貴君みたいに辛抱強い人っていないのよねー。それとも志貴君が異常なのかな。お父さんと話が合うし、お父さんも気に入ってるみたいだし」
「……ははあ。あうたびに骨接ぎやら鍼やら打たれるんですけど、あれって親愛表現だったんですね」
「うわ、お父さんったらそんなコトまでしてるんだ。いいなあ、いっそのこと志貴君がわたしのお婿さんになってくれる?」
「ごっ――――――!」
ごほごほと咳き込みつつ、朱鷺恵さんから目を逸らす。
「と、朱鷺恵さん、そうゆう冗談はあんまり言わないでください。その、ただでさえ誰が聞いているか判らない状態なんですから」
「そう? ここなら誰の邪魔も入らなさそうだし、も一回ぐらいしちゃってもいいかなって思ってたんだけどな」
「――――――――――」
かあ、とますます顔が赤くなっていくのが分かる。
朱鷺恵さんはクスクスと笑いながらベッドから腰を上げた。
【朱鷺恵】
「うん、いまさらわたしはお邪魔みたいね。今日はちょっと会いに来ただけだからもう帰るわ」
「あ―――外まで送ります」
「いいよ、ロビーで琥珀ちゃんが待ってるし。あ、そうそう、お父さんが近いうちに来なさいだって。調子がいいからって油断してると倒れるハメになるんだから」
じゃあね、と手をひらひらさせて朱鷺恵さんは去っていった。
あー、しっかしびっくりした。
朱鷺恵さん、たしか都心のほうの大学に行ってたと思ったけど帰ってきてたのか。
あの人が大学に行ってから、実に二年ぶりに再会した事になる。
あいかわらずマイペースで、仕草の端々が妙に雅っぽいところはかわっていない。
しっかりもののくせに自堕落なところもあって、雰囲気にまかせてゴロゴロと落ちていってしまう危なっかしさも健在だった。
「―――――――」
時南先生も検診に来いと言っているそうだし、近いうちに時南医院に行っておこう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s55
□志貴の部屋
そうだな、どうせ暇を持て余しているのなら翡翠の手伝いをする事にしよう。
さて、この時間だと翡翠は屋敷の掃除をしていると思うけど―――
□遠野家1階ロビー
□屋敷の廊下
□遠野家のキッチン
――――――いた。
おそらく屋敷の中でもっとも不釣り合いな場所で、翡翠は黙々と何かをやっていた。
「お邪魔するよー」
コンコン、と壁を叩いて呼びかける。
「ひゃ――――――!?」
と。びくん、と背中を震わせた後、恐る恐る翡翠は振りかえる。
【翡翠】
「志、志貴さま……!? あ、あの、何かご用なのでしょうか……?」
「いや、暇だから翡翠の手伝いでもしようかなって。で、翡翠はここで何してるんだ?」
【翡翠】
「……志貴さまにお話しするほどの事ではありません。
志貴さま。お気遣いは嬉しいのですが、どうかお部屋にお戻りください。志貴さまは遠野家のご長男なのですから、無闇にこのような場所に来られてはこまります」
スッ、とさりげなく背後の何かを隠す翡翠。
……気になる。すごく、気になる。
「そうか、分かった。翡翠がそう言うんなら大人しく部屋に戻るけど、その前に―――」
【翡翠】
「お断りします。どうかこのまま、余所見などせずにまっすぐにお戻りください」
ススッとさらに巧みにこちらの視線を阻む翡翠。
「…………けち。何してるのか見せてくれてもいいじゃんか」
「――――――――」
翡翠は無言でこちらを牽制している。こうなるとどうやっても言い含める事はできないだろう。
「わかった、それじゃ部屋に戻るよ。夕食になったら呼んでくれ」
【翡翠】
「かしこまりました。それでは、夕食までごゆっくりお休みください」
ぺこり、とお辞儀をする翡翠。ちゃんすだ。
「ひょい」
いえーい、とばかりに体をズラして翡翠の背後を覗き見る。
【翡翠】
「あ―――――――!」
時すでに遅い。
きっかりばっちり、まな板の上に乗ったお魚さんを発見した。
【翡翠】
「ど、どうしてそう大人しくなさってくださらないのですか志貴さまは……! 嘘をつかれるなんてひどいです……!」
よっぽどショックだったのか、翡翠はむーっと眉をひそめて見つめてくる。
「う―――――――」
ちょっと反省。まさかここまで嫌がられるとは思わなかった。
「いや、つい。隠されると見たくなるのが人情というものなのです」
ごめんなさい、と両手をあげて降伏宣言をする。
「けど別に隠すほどのコトじゃないじゃないか。ここは台所なんだし、料理するのは当然だと思うけど」
【翡翠】
「はあ……それは、そうなのですが」
「だろ。俺だってたまに夜食作りに来るし、今この屋敷で使える台所ってここだけだし……って、あれ? なに、もしかして今日の夕食は翡翠が作ってくれるとか!?」
不安半分喜び半分で声をあげる。
【翡翠】
……と。まずい、翡翠が本気で困ってる。
「あ、いや―――そんなことないよな。食事当番は琥珀さんだし、翡翠は屋敷の管理が仕事だもんな! 適材適所っていうの? 翡翠は他に得意なコトがあるんだから料理なんて別にどうでもいいか!」
あはは、と笑って誤魔化す。
【翡翠】
「……はい。魚一つ満足に調理できないようでは、使用人として調理場に立つわけにはまいりません」
ずーん、と翡翠の背中に見えない重しが積まれていく。
「あー……いや、魚をサバくのって結構難しいし、別にそこまで悲観するコトはないんじゃないかな、とか」
「――――――――」
う、なんか根が深そうだ。もしかして今日一日、ずっと翡翠はお魚と格闘していたのかもしれない。
「あのさ、どうしても出来ないんなら琥珀さんに教えてもらえばいいんじゃないか? 琥珀さんなら喜んで教えてくれるだろ」
【翡翠】
「いえ、その……もう十分に教えてもらっていますので、これ以上教える事はないらしい、です」
「―――――――――」
……そうか、翡翠も大変そうだけど、琥珀さんも苦労してるというワケか。
「―――魚なんてコツを掴めばなんとかなるけどなあ。よし、その包丁ちょっとかしてもらえる?」
腕まくりをして、硬直した翡翠の横に立つ。
さて。それじゃあまあ、翡翠が見て解る程度にゆっくりとサバいてみますか。
□遠野家のキッチン
「――――――」
はあ、と感心するように息を呑む翡翠。
まな板の上には骨と身に分かれた秋刀魚が数匹分。……バラすたびに翡翠が感動するものだから、つい調子にのってあるだけサバいてしまった。
【翡翠】
「―――志貴さま、すごく上手、です」
ほう、と嘆息しながらもパチパチと拍手をする翡翠。
まあ俺が得意なことって言ったら刃物の扱いぐらいだから、これぐらいならなんとかなるのだ。
「はい、拍手ありがと。あ、でも俺だって料理はできないぜ。刃物の扱いとか解体するのは得意なんだけど、それ以外の事なんて知らないからさ」
「そうなのですか? わたしは逆に包丁をうまく扱えませんから、志貴さまが羨ましいです」
……うーん。もしかして翡翠、刃物とかそういうものがダメな人なのかもしれない。まあ、こればっかりは習うより慣れるしかないからなあ……。
「とりあえずこの包丁は止めたほうがいいんじゃないかな。俺には丁度いい大きさだけど翡翠には重いと思う。ほら、まずは果物ナイフでリンゴの皮剥きを練習してみるといいかもしれない」
「……はい。それでは、明日からは果物ナイフで練習いたします」
「あんまり無茶しない程度にな。そうだ、どうせ練習するなら秋葉も誘ってやってくれ。あいつにもリンゴの皮剥きぐらいやらせないと将来が不安で不安で仕方がない」
はい、と使っていた包丁を翡翠に手渡す。
もちろん刃の部分を自分に向けて、握りの部分を翡翠に向けて。
「それじゃ部屋に戻るよ。また後でな、翡翠」
騒がせてすまなかった、と台所を後にする。
【翡翠】
「あ……お待ちください、志貴さま」
ん?と足を止めて振り返る。
【翡翠】
「あの、つかぬ事をお訊きしますが、志貴さまはどのような料理がお好みなのですか……? ……その、初心者でも出来る程度の基準で答えていただけると助かるのですけど―――」
「――――――――――」
もじもじとそんな質問をされて、参らない男はいないと思う。
“ははは、ぼかあ翡翠が作ってくれたものが好物なのさー!”
なんて返答をしたい衝動を抑えつつ、真面目に考えてみた。
「そうだな、雑炊とか好きだよ。梅そのものは嫌いなんだけど、梅の風味があると特に食べやすい」
【翡翠】
「――――はい、かしこまりました志貴さま。どれほど先になるかは判りませんが、精一杯努力させていただきます」
ぺこり、とお辞儀をする翡翠。
「あ………うん、待ってる」
そんな返答しかできず、台所を後にした。
□遠野家1階ロビー
「うふふふふふふ」
【琥珀】
―――――と。
いつのまにか、人の後ろでそんな含み笑いをこぼす家政婦さんが一人。
「な、なんですか琥珀さん。後ろに忍び寄ってくるなんて趣味が悪いですよ」
「ふふ、うふふ、うふふふふふふふ!」
琥珀さんは笑いながら、ぱんぱんと人の肩を殴打する。
あ。なんか、イヤな予感。
「……あの。もしかして、見てました?」
【琥珀】
「はい、一部始終しっかりと見届けさせていただきました」
最後にハートマークがつきそうなぐらい嬉しそうな声だ。
……不覚。そういえば台所ってドアがないから、そりゃあ覗き見なんて簡単だった。
「琥珀さん。秋葉には、ないしょです」
「あははー、それは約束しかねますねー」
今度は最後に音符がつきそうなぐらい、琥珀さんの声は弾んでいる。
「……あの。もしかして、怒ってません?」
「いえいえ。それではわたしは夕食の支度がありますから。志貴さんがサバいてくださったお魚を有効利用させていただきます」
「―――琥珀さん。もしかしてそれを夕食の時のネタにするつもりじゃないでしょうね」
「やだもう、志貴さんったらサトリみたい。ふふ、今日の夕食は秋葉さまに喜んでいただけそうです」
「ちょっ、ちょっと琥珀さん……!」
止める声さえ間に合わない。
ローラーブレードでも標準装備なのか、ザザーと高速で台所へと消えていく琥珀さん。
―――後に残ったのは、呆然と立ち尽くす自分と影法師だけだった。
「……そうか。段々あの人のこと解ってきたぞ……」
はあ、と重苦しいため息をこぼして、トボトボと自室へと戻っていった。
return
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*s56
□志貴の部屋
琥珀さん、部屋にいるみたいだしちょっと遊びにいってみようか。
□屋敷の廊下
「琥珀さん、居ますか?」
コンコン、とノックをする。
「……あれ、返事がない」
コンコン、ともう一度ノック。
返事はないけど、部屋の中からはきゃー!だのとりゃー!だのあいやー!だの、なんかとても楽しげな声が聞こえてくる。
「……?」
テレビを大音量で聞いているんだろうか?
「――――う」
……気になる。
気になるけど、このまま中に入っていいものだろうか……?
return
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*s57
□屋敷の廊下
―――男は度胸、ここは勢いに任せて入ってしまえ!
あ。琥珀さん、ゲームしてる。
□琥珀の部屋
【琥珀】
「あれ、志貴さん!?」
ようやく来客に気が付いたのか、琥珀さんはコントローラーを置いていそいそとドアまでやってきた。
「も、申し訳ありませんっ。もしかして何度もノックをしてくださいました?」
「あ、琥珀さんが謝る必要はないって。俺の方こそ勝手に入っちゃってごめん」
ぺこり、と頭をさげてちらりと部屋の奥に視線を送る。
「ねえ琥珀さん。アレ、なに」
【琥珀】
「―――あ、あはは、なんでしょうね、一体」
露骨に目を逸らして誤魔化す琥珀さん。
……いつも笑顔でさらりとかわす琥珀さんらしくない。もしかして……
「別にゲームをするのは普通だと思うよ。最近は女の子でもゲーム好きな子多いし」
「な、なにをおっしゃられるんですか志貴さん! わたしは遠野家の使用人、そのような俗な娯楽に興じるワケがないじゃないですか!」
「ありゃ。それはいい心がけだね。さすが琥珀さんだ。ようするに、アレだ。ゲーム機がみつかったから試しに遊んでいただけってコト?」
「はい、実に志貴さんの推測通りです。槙久さまのお部屋にあったものですから、どんな物なのかなー、と試しに遊んでみただけなんです。その、あくまで試しなんですよ?」
うんうんと頷く。
「そっか。それじゃあアレ、貰っていい?」
【琥珀】
「お断りします」
神速で断言する琥珀さん。
「へー」
じーっと見つめてみる。
【琥珀】
またも視線を逸らす琥珀さん。……もうバレバレなのに必死に誤魔化そうとする仕草が可愛い。
「琥珀さん、ゲームなら俺も好きだよ。よく有彦のところで対戦するし、夏休みなんて三日ぐらい徹夜でゲームするし」
【琥珀】
「え、ホントですか!? 志貴さん、無趣味のように見えて大のゲーム好きだったんですね!」
「――――ん、まあ好きな部類に入ると思うよ」
……まあ、有彦も俺も重度のジャンキーというわけではないんだけど、ここはそういうコトにしておこう。
【琥珀】
「なんだ、そういうコトなら早く言ってくだされば良かったのに! やりました、やっとお屋敷でゲームをしてくれる人をゲットです!」
ぱん、と両手を合わせて喜んでいる所を見ると、よっぽど同好の士に飢えていたみたいだ。
【琥珀】
「ね、志貴さん時間はありますか? もしお暇でしたら是非お付き合いください!」
がしっ、とこっちの手を掴む琥珀さん。
暇も何も、対戦するまでは放しませんよー、と目が言っている。
「あい、望む所です。あ、けどこれって―――」
「はい、秋葉さまには内緒です。見つかってしまったらまたゲーム機ごと捨てられちゃいますから」
さあさあ、とテレビの前まで引っ張られていく。
……ふうむ。秋葉と翡翠はやっぱりゲーム否定派だったわけか……
……うまい。
そんな予感はしていたんだけど、シャレにならないぐらい琥珀さんは巧かった。
画面には二人の学生が向かい合っている。
琥珀さんはオールバックの髪型をした男子生徒、こっちは棒を持った拳法使いの男子生徒。
二人の学生はテヤテヤとパンチだのキックだのを繰り出しているのだが、時折ピストルだのショットガンだのを乱射する。
ゲーム名はブラッディロワイヤル3、略してBR3だ! ……ぶっちゃけて言うと、変身獣化格闘ゲームの三作目である。
「はい、開幕の一撃いただきました!」
ラウンド開始直後、琥珀さんの操る学生が怪しい投げ技を使う。
ひょーい、と浮かされるこちらの学生。
その後、琥珀さんの情け容赦ないコンボが炸裂した。
「うわっ、ちょっと待て、なんだそのエゲツない連続技はー!」
「うふふ、一度浮かしたら生きて地上には返しません。わたし、残酷でしてよ!」
カチャカチャカチャカチャ。
まるでギターの六弦連続早弾きだ。
琥珀さん指は独立した生き物のようにコントローラーを滑っていく。
……こっちはハンデという事でレバーを使わせてもらっているのにまるで勝負にならない。
結局、その勝負は一撃も攻撃を繰り出すコトなく敗北した。
「……汚い。琥珀さん、このゲームやりこんでるだろ!」
これが有彦なら“答える必要はない”とか言ってくるんだろうけど、琥珀さんはそんなベタな切り返しはしてこない。
「そんなコトないですよー。これ、発売日が今日ですから。夕食の買い出しの時に買ってきて、かれこれ一時間ほどしかやってません」
話しつつもカチャカチャと音速でコントローラーを操る琥珀さん。
……またも俺の学生は一度も地に足をつけるコトなく秒殺された。っていうか受け身ぐらいないのかこのゲームっ。
「あ、このゲームの場合受け身はあまり意味はありませんね。浮かされたら半分は覚悟してください。どうしてもイヤでしたら変身すれば一度だけ回避できますよ」
「へえ。変身ってこれ?」
ボタン一発でビカカァ、と画面が光って変身する学生。
……てっきり学ランを着たモグラになるかと思えば、学生服から体操服に変わるだけだった。
「うわ、地味」
「そんな事ないですよー、キャラが女生徒ならスピードが二倍になるんです。ほら、こんな感じ」
いつのまにかキャラチェンジしていたのか、陸上部所属の女生徒でぶいぶい言わしている琥珀さん。
「あ、この娘のモーション綺麗ですね。しゃがみ動作なんて翡翠ちゃんみたいでかわいー!」
体操服姿になった女生徒が縦横無尽に駆けまわっている。
……なんていうか、琥珀さんが動かすと同じゲームなのにストリートファイターとミュータントほどの違いがあるように見えるのは気のせいか。
「……確かにすごい……って、なんかこう見ると対戦格闘っていうより運動会みたいだ」
「はい、今回の売り文句は体育祭ですからね。もう孤島でのサバイバルは飽きたので、学校に戻って体育祭で世界一を決めるってストーリィです」
……体育祭で決められる世界一ってなんだろう。
「ええい、とにかく対戦物は止めましょう。もうちょっとこっちに勝ち目があるゲームにしてください」
「そうですか? それじゃあレースゲームなんてどうでしょう」
はい、と琥珀さんが取り出したゲームはアルファベットで三文字のゲームだった。
「ぶっ……! こ、これはレースゲームじゃありません! そりゃあ車だのバイクだの色々乗りますけど、基本はボスの命令に従ってムチャクチャやる犯罪ゲーです!」
「はあ。志貴さんはグランドセ○トオートはお嫌いですか?」
「同じ宅配ものならペーパー○ーイあたりで満足してください!」
ちぇっ、と大人しく引き下がる琥珀さん。
……そんなこんなで、琥珀さんとの(琥珀さんが一方的に)楽しいゲームタイムが展開していった。
終わってみれば一度も勝利らしきものはなかったけど、まあ、これはこれで楽しかったと思う。
なにより子供のようにはしゃぐ琥珀さんと時間を共有できただけで、とてもとても意義があったと思うのだ――――
return
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*s58
□屋敷の廊下
……うむ、君子危うきに近寄らず。
昨日からすっごく無茶な展開がびっくり箱のように起きている現状だ。
つまり、この屋敷は不思議時空と化している。
琥珀さんの部屋なんてその最たるものなんだから、ここは大人しく自分の部屋で休んでいよう。
return
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*s60
□志貴の部屋
そういえば秋葉はもう帰ってきているんだっけ。
部屋でぼんやりしているのもなんだし、秋葉をからかって遊ぶとしよう。
□秋葉の部屋
「だから大通りよりの喫茶店は止めといたほうがいいんだって。場所代ばっか高くて味も制服もイマイチだから」
【秋葉】
「……はあ。場所代というのは解るのですけど、そこでどうして制服まで審査の対象になるんですか兄さん?」
「あ―――いや、まあ、ちゃんと洗濯されてるかなとか、そういうレヴェルの話です」
強引にお茶を濁しつつ、喫茶店の話を切り上げる。
秋葉のやつ、ここ一年ですっかり俗世間慣れしやがって、些細なミスをつっこんでくるようになってしまった。
―――秋葉の部屋にやってきてから、もう一時間。
なんでもない会話はなんでもなく続き、実のない会話のせいかお互い気が緩みきっていた。
「………………」
うむ。秋葉をからかうとしたらそろそろ頃合か。
「あー、ところで秋葉」
【秋葉】
「なんですか兄さん?」
「いやなに。文化祭さ、秋葉のクラスの出し物ってアレだろ?」
【秋葉】
「はい、お化け屋敷を予定しています。一年生ではお化け屋敷をしていいのは一クラスだけで、運良くくじ引きで権利を手に入れたとか」
安心しきっているのか、秋葉は簡単に誘導尋問にひっかかってくれた。
「――――ぷ」
自分で狙った事といえ、ここまではまってくれると嬉しくなる。
「そっかー、1−Aはお化け屋敷かー。そりゃあ貴重な情報を手に入れたな」
【秋葉】
「な―――騙しましたね、兄さん!」
「人聞きが悪いな、秋葉がかってに喋っただけだろ。……ま、こんなに簡単にひっかかるとは思ってなかったのは確かだけど」
【秋葉】
「………ふんだ、別に悔しくなんかありませんよーだ。どうせ明日になれば判ってしまう事なんですから、私は痛くも痒くもありません」
頬を膨らませて拗ねる秋葉。
素直じゃない所がまた嗜虐心をそそるっていうか、まだまだお兄ちゃんの攻撃は終わらないのだ。
「だろうな。きっと秋葉のクラスの子たちは誰が何をやるか隠してるんだろ? 学祭のお化け屋敷は驚かすより変装を楽しむもんだから」
【秋葉】
「む。知ったような事をおっしゃいますけど、そういう兄さんは体験があるんですか」
「あるよ。俺も一年の頃はお化け屋敷だったから。いやもう、あの時は有彦がはりきってな。午前中で営業停止くらったぐらいだ」
のちにイヌイダケお子様誘拐事件と呼ばれ、生徒会の始末書録の中でも燦然と輝く一件だが今はまあ別の物語とかなんとか。
「ま、そんなのはどうでもいいか。それで、秋葉も当然お化けを演るんだろ。一体どんなお化けを選んだんだ?」
……個人的な趣味でいうんなら、子供の頃の秋葉なら座敷わらしとか似合うんだろなあ、とか連想する。
【秋葉】
「あのですね、そこまで答えるワケがないでしょう。兄さんの手口にはもうひっかかりたくないですから、ここからは黙秘権を行使します」
ふん、とそっぽを向く秋葉。
……あー、前言撤回。こうなっちゃった秋葉に愛らしい座敷わらしが似合う筈もない。
と、すると―――
「わかった、ズバリ蛇女」
【秋葉】
「失礼ですね、猫又ですっ!」
きっぱりと返答する秋葉。
【秋葉】
「あ」
ぴたりと凍りつく秋葉。
あー、楽しい。日ごろチクチクと攻撃されているお返しができてお兄ちゃん大満足だ。
【秋葉】
「い、いえ、違うんですよ? 私は猫又なんて厭なんです。ですから当日は違う役を回してもらおうかな、と……」
猫又役が嫌なのか、それとも当日まで秘密にしておきたいのか。
秋葉は見てて可哀相になってくるほど落ちこんでいる。
……ちょっと、やりすぎてしまったかもしんない。
「……いやまあ、その―――あんまり気にするなって。ネタが割れててもさ、お化けの格好しているだけでみんな喜んでくれるから。実際俺の時もそうだったしさ」
……まあ、俺の場合は喜んだというより笑われた、という所だけど。
「え……兄さんもお化け役だったんですか?」
「うい」こくん、と頷く。
【秋葉】
「そ、それでどんな役をしたんですか……!?」
ぐっ、と身を乗り出してくる秋葉。
……が、こっちも一年の頃のあの事件は忘れたい記憶になっているのでそんなに興味津々になられても困る。
「いいじゃんか、そんなのはもう終わった話だよ。聞いても、きっとつまらない」
【秋葉】
「つまるかつまらないかは私が判断する事です。私から秘密を聞き出したくせに自分の事だけ黙っているなんて卑怯だと思いませんか?」
ぐぐ、とさらに身を乗り出す秋葉。
「……しつこいなあ。なんだってそんな話を聞きたがるんだよ。女の子ならともかく、男が変装したお化けなんて醜いものだって相場が決まってるだろ。それとも何か、秋葉は俺を笑い者にしたいのか」
む、と秋葉を睨む。
【秋葉】
「え―――いえ、そんなコトは、決して。ただその、兄さんがどんな格好をしたのか興味があるだけで……」
ぼそぼそと呟く秋葉。
……ったく、そんな顔をされたら黙っているわけにはいかないじゃないか。
「夜寒鶴」
【秋葉】
「はい? 兄さん、今なんて?」
「だから、夜寒鶴」
「ヤカン、ヅル……?」
【秋葉】
ああ、やっぱり解らないか。
「あの、兄さん。失礼ですが、それはいったいどんなお化けなんですか?」
「読んで字の如しだよ。二メートルぐらいのおっきなヤカンがな、森の奥の木にぶら下がってるだけの妖怪。水木先生の妖怪百科に載ってるから調べてみろ」
「や、やかんって……やかんが、木にぶらさがっているん、ですか?」
おお、ますます秋葉は混乱している。
「そうだよ。場所によっては木という木に巨大なヤカンがぶらさがっていてな、それはそれは気味が悪いんだそうだ。……まあ現代ならともかく、昔はおっきなヤカンを作るなんて酔狂はいなかったからな、一つだけでも恐かっただろうね」
【秋葉】
「……………兄さん、それは変装だったんですか?」
「わけないだろ。おっきなヤカンのぬいぐるみを着て、滑車を取りつけたぶら下がり健康器にぶら下がってこう、廊下をシャーッと滑走したんだ。有彦と協力すると夜寒鶴は文福茶釜にジョグレス進化するんだが、それはまた別の話」
【秋葉】
「ヤカンの次はチャガマですか。兄さん、貴方私をからかっていませんか?」
「ほんとだって。嘘だと思うなら生徒会発行の文化祭注意事項を見てみろ。お化け屋敷を企画するクラスはヤカンヅルおよびオバケキノコ、それらを利用したブンプクチャガマの使用を禁ずるってあるから」
【秋葉】
「…………………………」
お、どうやらあの注意書きに覚えがあるらしい。
秋葉は納得しつつも納得できないような、なんともいえない顔をする。
それきり沈黙。
俺たちはぽやーっとした不思議な空気を維持したまま、ぽやーっと夕食の時間を迎えるのだった。
return
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*s61
□志貴の部屋
そういえば秋葉はもう帰ってきているんだっけ。
部屋でぼんやりしているのもなんだし、秋葉をからかって遊ぶとしよう。
□秋葉の部屋
「なんだ、わりと寮内で無茶やってるわけじゃないんだな。秋葉のコトだから寮長も兼ねてるとばかり思ってた」
【秋葉】
「そんな訳ないでしょう。生徒会の役員は寮長にはなれない規則なんです。ですから学校と寄宿舎では派閥が別れています。生徒会の役員は他より厳しく取り締まれますから、瀬尾は生徒会を辞めたい、なんて愉快な弱音を吐きますけど」
「……はあ。浅上女学院も内実はドロドロしてるんだな」
【秋葉】
「兄さんが通っているような学校に比べれば閉鎖的ですからね。私も生徒同士で組織を作って社会の真似事をするのは損をしていると思うのですが、もう何十年と続けられた事だからなかなか変える事ができなくて。
【秋葉】
……まったく、七不思議の事といい生徒会の事といい、なまじ歴史があると良くない沈澱物があって呆れるわ」
ほう、とため息をつく秋葉。
浅上女学院で生徒会副会長を務める秋葉は、学校でもなにかと気苦労が多いのだろう。
「……あれ?」
【秋葉】
「はい、なんですか兄さん?」
「あ、いや―――秋葉は浅上の生徒だよな」
【秋葉】
「当たり前じゃないですか。今は寄宿舎を出てここから通っていますけど、兄さんが帰ってくるまではずっとあちらで暮らしていたんです」
「―――――うん、知ってる」
……知ってはいるんだけど、なにか妙な感じがする。
辻褄が合わないというか、いや、今日の辻褄は合ってはいるんだけど、昨日のコトとうまく噛み合っていない感じ。
「……秋葉、なにかおかしくないか?」
【秋葉】
「そんな事はありません。おかしいといったら兄さんの顔ぐらいです」
きっぱりとひどい結論を下す秋葉。
「………………………」
【秋葉】
「兄さん? あの、何か反論してくださらないと、私も立場がないんですけど……」
「―――――――――」
秋葉の言うとおりかもしれない。
昨日の記憶があやふやだからおかしな勘違いをしているだけだろう。
きっとおかしいのは自分だけで、明日になればこんな違和感も消えてくれるに決まってる――――
return
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*s62
そうして夕食。
広い食堂で席についているのは自分と秋葉だけで、翡翠と琥珀さんは席の後ろに無言で控えている。
夜の雰囲気と豪勢な食事、という事もあいまって、夕食はともかくマナーを守らされる。
俺も秋葉もお互いを意識しないで黙々と食事を進め、結局終始無言のまま、いつも通りに夕食は終わりを告げた。
return
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*s64
□遠野家居間
夕食が終わって夜。
定番となった食後のお茶会は居間で開かれ、メンバーは秋葉と翡翠と琥珀さんと自分の四人だった。
これが場合によっては五人になったり六人になったり七人になったりするあたり、この屋敷も人の出入りが多くなったというものだ。
【翡翠】
「志貴さま、二杯目はいかがですか?」
「ありがとう。砂糖は一杯、レモンはいいから」
はい、と翡翠がティーカップに紅茶を注いでくれる。
こっちのソファーには俺と翡翠、あっちのソファーには秋葉と琥珀さんがいる。
こっちは何をするのでもなく窓から中庭を眺めているだけだけど、あっちは何やら物騒な話をしているようだった。
【琥珀】
「それでは秋葉さま、久我峰家のご長男さまはご婚約を諦めたのですか?」
【秋葉】
「ええ、向こうの方から頭を下げて断らせてやりました。父親ともども何か勘違いをしていた愚図どもだから、今回の件はいい薬になったでしょう」
【琥珀】
「それは久我峰さまも災難でしたね。秋葉さまのいじめはそれはもう蛇のように徹底していますから、あちらも今ごろはどうお詫びすればよいか悩んでいる事でしょう」
【秋葉】
「―――あのね琥珀。あんまり人聞きの悪いコト言わないでくれない? 兄さんには冗談が通じないんですから、信じられたら困ります」
こちらを気にしているのか、秋葉は琥珀さんをたしなめる。
「あー、それなら気にしなくていいよ。秋葉が陰湿で冷酷で女王さまなコトなんてとっくに知ってるって。さ、そういうわけなんで気にせず悪だくみを続けてくれー。俺は何を聞いても関わらないように聞き流してるから」
ソファーに座ったままで片手をあげる。
【翡翠】
「……志貴さま。あの、そのような事は秋葉さまの前では―――」
【秋葉】
「兄さん。私としては今の言葉こそ聞き流せないのですけど」
【琥珀】
「そうですよー志貴さん。悪巧みをしているのは秋葉さまお一人なんですから、わたしは関係ないんです」
【秋葉】
「……そっか。兄さんの前にまずこっちの敵をどうにかしないといけなかった」
はあ、とため息をつく秋葉。
あっちはあっちでやっぱり楽しんでいるようである。
【琥珀】
「あ、そういえば志貴さん、今日は隣街の方に出向いていませんでした?」
「隣街? ……いや、そんな暇はなかったけど。学校だって真面目に出てましたから」
「あ、やっぱり。それじゃあアレはわたしの見間違いですね。間違えて声をかけなくて正解でした」
【秋葉】
「なに、また兄さんに似た人でもいたの? なんでも前の偽者はシエル先輩と一緒にこらしめたそうですけど?」
「……う、その話はもう止めようって言っただろ。まったく、のけ者にされたからっていつまでも拗ねるなんて秋葉らしくないぞ」
【秋葉】
「―――違いますっ! 私が気に食わないのはですね、あれからまだ兄さんが瀬尾と電話のやりとりをしているというコトです! 浅上女学院は規律に厳しい所なんですから、異性と電話しているなんてバレたら停学ものなんですよ!?」
「異性って、別にそういう電話じゃないって。あ、そういえばアキラちゃん、学園祭は遊びに来るってさ」
【秋葉】
「なっ……! だから、いつのまにそういう話をですね……!」
……うーん、どうしてアキラちゃんの話になると秋葉はここまでご機嫌斜めになるんだろう。
【翡翠】
「あの、志貴さま。アキラさまというと、以前の殺人事件の際に襲われた方でしょうか?」
「そうだよ。ちょっとしたきっかけから知り合う事になって、今はたまに話すぐらいだけど。それがどうかした?」
「あ、いえ――殺人事件といえば、また隣街で通り魔が現れたという話を聞いたので、つい」
「――――――」
隣街で、また、通り魔殺人事件。
「……ああ、そういえばそんな話を聞いたっけ。たしかに物騒だよね、最近」
そう、確かに聞いた覚えがある。
だが何処で聞いただろう。
朝か。昼か。夜か。
学校か。街中でか。屋敷でか。
それは。
昨日か。今日か。明日だったか。
□遠野家居間
【秋葉】
「兄さん? その話でしたら昨日もしたじゃないですか。昨日のお茶会、覚えてらっしゃらないんですか?」
「え? あ、いや。ちょっとど忘れしてるだけ」
【秋葉】
「もうっ。ただでさえのんびりしてるんですから、昨日のコトぐらいはきちんと把握していてくださいね」
呆れて唇をとがらす秋葉。
「むっ。いいんだよ、忘れるってコトは大事なコトじゃないんだから。その代わり、大事なコトとか好きなコトは絶対に忘れないよ。秋葉の事だって翡翠の事だって琥珀さんの事だって、何一つ忘れられない。そっちが嫌がったってぜーんぶ覚えていてやるんだからな」
ふん、と拗ねる。
【翡翠】
【琥珀】
【秋葉】
と、何か反論がくると思っていたのに、みんなは申し合わせたように視線を逸らして無言になってしまっていた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s65
□遠野家居間
そんなこんなでいつものお茶会。
今日は琥珀さんが持ち出してきたトランプで七並べをやっていたりする。
七並べ、というのは数字の七を各種類ごと四枚並べて、順番に七から高い数字低い数字どちらかでもいいから並びで数字を出していくというゲームだ。
開幕はハートの七を持っていた秋葉からで、ゲームは実にまったりと進んでいる。
【秋葉】
「そういえば、兄さん昨日なにしてましたっけ」
スペードのクイーンを出しつつ、唐突に秋葉は言った。
「昨日? あ―――いや、それは」
トン、とクラブのクイーンを配置する。
【琥珀】
「志貴さんですか? 昨日は―――ええと、わたしとお部屋でゲームをしましたよね?」
ぺし、とどうでもいい場所であるクラブの三を置く琥珀さん。
【翡翠】
「そうなのですか? では台所で魚を捌いた後に姉さんの部屋に向かったのですね」
対して、逆方向であるクラブのキングを置く翡翠。
【秋葉】
「ちょっと待ってよ。兄さんは私とお話をしていたんですから、その後に琥珀の所にいったっていうの?」
今度はスペードの四。秋葉は意固地にスペードに固執している。
「―――――ああ、その―――――」
だからよく覚えていないんだって言えるワケもなく、パスを宣言。ちなみに一回目。
【琥珀】
「あら、それは時間的に無理じゃないでしょうか? 秋葉さま、なにか記憶違いをなさっているのではないですか?」
さりげなく琥珀さんもパス。これも一回目。
【翡翠】
「……いえ、秋葉さまの言葉は確かだと思います。わたしも志貴さまはわたしと話した後に秋葉さまの部屋に向かったものだと思っていました」
翡翠はクラブのエース。おお、これでもうじきクラブは出揃ってしまうな。
【秋葉】
「……そう。どちらにしたって兄さんはお忙しい日程だったようですね」
いらだたしげにパスを宣言する秋葉。ちなみに、三回目。
「……そんな事ないんだけどな。だって午前中はのんびり眠ってたじゃないか、俺」
……く、俺もパスだ。二回目。
【琥珀】
「そういえばそうですねー。志貴さん、中庭で黒猫と戯れてましたもの」
琥珀さんもパス。……俺と同じく二回目だけど、この人のパスは回避の為のパスではなく獲物を追い詰めるためのパスだ。
【翡翠】
「……そうでしたか。お姿が見られませんでしたのでてっきり外出なされたのかと思っていました」
さらにクラブの二を置く翡翠。……琥珀さんと息があっているのか、クラブはほとんど翡翠と琥珀さんの手による物だ。
【秋葉】
「――――待ちなさい翡翠。クラブばかり置いていないで出すべき数があるでしょう。例えばまったく出ていないダイヤとか」
【翡翠】
「……申し訳ございません秋葉さま。姉さんからダイヤは止めろ、と指示を受けていますので」
【秋葉】
「琥珀っ! 今日はマキでやりますよー、なんて言っておきながらなに翡翠にサイン送っているのよあなたは! たかが食後のゲームで悪知恵が回り過ぎるんじゃなくて!?」
お。怒り心頭しているのか、秋葉の口調がお嬢になってる。
【琥珀】
「いやですね秋葉さま、わたしは別にサインを送ったわけじゃありません。翡翠ちゃんが手札を見てがっかりしてたから、ちょっと勝つためのアドバイスをしてあげただけです」
「無言で指と視線だけで指示を送るのはアドバイスとは言いませんっ!」
「うん、そりゃあ通しサインだ。もっとも俺はすぐ気が付いたけど」
【秋葉】
「―――え?」
「秋葉は自分のカードしか見てないから気が付かなかっただけだろ。二人が結託して俺と秋葉を追い込もうとしてたからさ、あからさますぎてつい乗っちまった」
【秋葉】
「……へえ。それで直前で自分だけ助かろうというつもりなんでしょうねえ、兄さんはっ!」
「うい。だってダイヤの八止めてるの俺だもの」
「ッ―――――――!」
【琥珀】
「ああ――――――! 秋葉さま、なんてコトするんですか! テーブルをひっくり返すなんて危ないじゃないですか!」
【翡翠】
「はい。せっかくあと少しで完成したクラブがバラバラになってしまいました」
「……とんでもないな。おまえさ、金持ちだからって豪華客船にだけは乗るなよ。中にあるカジノで大負けしたら船を爆破しかねないからな」
じーっ、とみんなで秋葉を非難する。
これで少しは反省してくれれば可愛いのだが、秋葉はフン、と不愉快そうに鼻を鳴らして、
【秋葉】
「―――今のは事故よ。立ちあがろうとしたらスカートが絡まったの」
なんてのたまいやがった。
「あははははは! ふざけんな、おまえのスカートは鋼鉄ででもできてんのかっ!」
【秋葉】
「ええ、当然でしょう! 遠野家の当主たる者、つねに最強の装備で身を固めているんですから!」
開き直ったのか、秋葉はとんでもない返答をする。
ちなみに、
正しくは“最上級の品で身を固めている”です。
「――――わかった。わかりました。じゃあ今夜の勝負はこれでチャラだな。ったく、麻雀だったら怪我人が出てたところだ」
【秋葉】
「ふーんだ。麻雀だったら琥珀の姦計になんかひっかからないんだからっ。その時は私一人の大トップで、兄さんを含めてみんなまる裸にしてさしあげます!」
ぷい、と顔を背けて腰を下ろす秋葉。
琥珀さんと翡翠は慣れたものなのか、テキパキと散らかったトランプを片付けていた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s66
□遠野家居間
夕食後のお茶会。
今日は珍しくみな疲れていて、あまりゲームや話をしようという状況ではなくなっていた。
【翡翠】
「……あの。志貴さま、どうかなさいましたか?」
「え……? いや、別にどうもしてないよ。ただぼんやりしているだけだけど」
「……それならばいいのですが。どこか昨日と比べて気分が優れないようでしたので」
翡翠は紅茶を淹れながら気を遣ってくれる。
……まあ、こっちから言わせてもらうと俺よりみんなの方が元気がなさそうなのだが。
「そういう翡翠はどうなんだ? 夜になったら急に元気がなくなったようだけど」
【翡翠】
「――――――――」
核心をつかれたのか、翡翠は目をみはって黙り込む。
【秋葉】
「……へえ、翡翠もそうなの? 琥珀も元気がないって言ってたけど、姉妹そろって風邪でも引いた?」
「いえ、体調に問題はありません。ただ少し、昨日から夢見が悪くて寝つけないだけです」
「……夢見が悪い? ちょっと翡翠、それってどういうコト?」
「? いえ、言葉通りの意味ですが。悪い夢を見てしまって、少し気分が優れないだけなんです」
【秋葉】
「……へえ。琥珀だけじゃなくて翡翠もそうなんだ。まあ、かくいう私も似たようなものなんですけど」
はあ、と重苦しいため息をこぼす秋葉。
「秋葉。それって、つまり悪夢を見ているってコトなのか」
その、悪い夢という単語が気になって声をかけた。
【秋葉】
「はい? ……ええ、ちょっと昔のコトを夢に見たんです。私が一番見たくない風景が夢に出てきて、目覚めた時はすごく嫌だった……あれ、おかしいですね。そんなイヤなコトをどうして忘れていたのかしら」
はて、と首をかしげる秋葉。
【翡翠】
「……………………」
翡翠も秋葉とまったく同じ心境なのか、どこか納得のいかない顔をしている。
「……ふうん。一番見たくない悪夢を見たのか」
それはつまり、一番怖れているイメージという事だ。
「……………………」
悪夢。
その人間にとって最も出会いたくない相手。
無意識に封じてあるくせに、なによりも強く投影される罪の咎め。
【秋葉】
「……兄さん? どうしたんですか、急に恐い顔をしてしまって」
秋葉が心配そうに顔を覗き込んでくる。
それになんでもないと答えて、ソファーから立ちあがった。
「――――そうか。俺だけじゃなかったんだ」
無意識にそんな言葉をこぼして居間を後にする。
――――さて、言うまでもないが。
核心をつくそのセリフは無意識にこぼした言葉にすぎないので、やはり今の俺にはその意味も意図も分かるはずがないワケである。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s68
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s69
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
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*s70
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
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*s71
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
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*s75
□志貴の部屋
今も街で続いているという通り魔殺人。
再三にわたって繰り返される殺人の業。
「……やっぱり他人事じゃないよな、それは」
かつて猟奇殺人の元凶であった吸血鬼がいた。
その元凶と因縁のあった自分にとって、街で起きている通り魔殺人は無視できる事ではない。
□志貴の部屋
ベッドから出て私服に着替える。
「……吸血鬼の生き残り、かな」
あの事件以来、街に潜伏している死者はシエル先輩の手で軒並み始末された。
それでも完全というわけではないらしく、シエル先輩は後処理のためにまだこの街に残っている。
なら――――街をさまよっている殺人鬼も、吸血鬼の残党かもしれなかった。
□公園前の街路
死街だった。
屋敷から一歩外に出た時から、街には人の気配というものが無かった。
「――――――――――」
あまりにも静かだから何事か呟くも、その呟きさえ音にならない。
吐く息さえ嘘のようで、肺に取りこむ空気が無いと思うほどの静かな夜。
□街路
どこまでも不動だった。
それは、まるで流行らない映画の中にいるような錯覚。
誰も知らないタイトルの映画。
誰も観ていない映画館の銀幕。
無人で回る、廃墟の街を刻んだフィルム。
カタカタと意味もなく流れるフィルム。
スクリーンに映し出されるさびれた町。
灰色の雨のなか、その町でただ一人歩いている影法師が自分だった。
□裏通り
この洞窟でも無音の法則は覆らない。
幾度となく死の穢れを運んできたこの道でさえも、今夜の静寂を打破できない。
――――だが、それを嘆くことはあるまい。
今夜の法則が絶対であるように、この場が培ってきた法則も、また絶対なのだから。
□行き止まり
「―――――――――」
ぎり、と歯を噛んでその光景に耐えた。
路地裏には死体が散乱している。
ざっと見て三人分の人間のパーツ。
バラバラの手足と胴体の切断面は、ほれぼれするぐらい鋭利だった。
「―――――――――」
ナイフを構える。
手足の散乱した地面から顔をあげれば、目の前には。
【殺人鬼】
蘇った殺人鬼が立っていた。
「――――――――――――」
「――――――――――――」
合わせ鏡のように、ほぼ同時に俺たちは跳びかかった。
キィン、とナイフとナイフがぶつかり合い、そのままお互いを掴んで地面を転がっていく。
ごろごろ。ごろごろ。
回る回る、自分と似たこいつを掴んだまま回る。
ごろごろ。ごろごろ。ごろごろ。
吐き気がしてきた。あんまりにも回りすぎて上下の感覚がなくなってくる。
ごろごろ。ごろごろ。ごろごろ。ご。
判らなくなってくる。今自分は下にいるのか。それとも上になっているのか。掴んでいる相手は誰なのか。掴んでいる自分は誰なのか。どちらが自分なのか。自分はどちらなのか。どちらも自分なのか。なら自分は誰なのか。
ごろごろ、ごろごろ、ごろごろ、ざくっ。
□行き止まり
組み合って転がって、それが止まった時に上にいた方が勝った。
地面に組み伏せた相手の心臓にナイフを落とす。
□行き止まり
それで終わり。
月明かりの下、泥だらけの顔を拭って立ちあがる。
壁に伸びる影は、間違いなく自分のものだった。
そうして殺人鬼を路地裏に封じて、俺は眠りにつく事にした。
生き残った方と路地裏で死んでいる方。
―――――まあ。
それらが一体どちらの遠野志貴なのかなんて、そんなコトは瑣末な問題だろうから。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s76
□志貴の部屋
街で起きているという通り魔殺人。
蘇った殺人鬼は、今夜も犠牲者を求めて夜の街を彷徨しているのだろう。
【殺人鬼】
□志貴の部屋
「―――――あいつ」
アレが何者で何のかは知らない。
ただ確実なのはヤツが殺人鬼だという事だけだ。
ヤツは遠野志貴を誘っている。
これみよがしに俺の前に現れた以上、ヤツは自分から俺との殺し合いを望んでいる。
「―――いいぜ。決着をつけたいっていうんならつけてやるさ」
ベッドから出て私服に着替える。
冷たいナイフの感触を確かめて、自らの眼を御するメガネをかけなおした。
「――――――」
だが、どこか居心地の悪い部分がある。
俺はたしかに自分と似たヤツと出会った。
だがそれは何処の、はたして何時だったのかが、どうしても思い出せない――――
□屋敷の前の道
□公園前の街路
□街路
街はいつもと変わらない。
ここ何回もの夜、外に出るたびに世界は無音だった。
人の気配もなければ風の感触もない。
影絵の街並みのなか、ギニョール風の影法師を引きずって道の真ん中を歩いていく。
――――――――――そして。
墓標のような高い建物に囲まれた道。
乾いた、人工的な谷のただ中にヤツはいた。
頭上には罅割れたガラスの月。
凍えた月光は、長々と死者の魂を照らし上げる。
「――――来たか」
その、自分と酷似した影は冷徹にそう言った。
「時間がない。夜が終わる前に、今度こそ命を絶つ」
影の左手が煌く。
パチン、という音とともにナイフの刃が現れ、月光を反射する。
「今度こそ、だって――――?」
その言葉は矛盾だ。俺はこいつと殺り合うのは初めての筈で、以前戦った記憶なんて――
―――――記憶なんて、ない。
出会った記憶も、出会わなかった記憶も、覚えている事なんて何も無い。
ならば、そんな記憶は、一体なんの道標になるというのか。
「おまえ、何者だ」
「そのような事など知らん。いらぬ煩悶を抱いては黄泉路に迷う。ならばこそ死に際は無知であるべきだろう。
おまえも――――無論、この俺もな」
影が沈む。
重心を低く構えたのだ、と理解する前に体はナイフを構えていた。
こちらがナイフを構えたその瞬間。
影は、一足で俺の目の前へ文字通り“跳んで”きた。
それは、水面を弾けていく飛礫のような、低く速い獣じみた跳躍だった。
「―――――――っ!」
確実に首元に迫るナイフ。
避けるのは間に合うまい、と跳ね上がってくるナイフを自分のナイフで打ち落とす。
避けるのではなく迎え撃ったのは、少なからず命のやりとりを経験してきた修羅ゆえか。
ざしゅ、という浅く肉を裂く感触。
ヤツのナイフがこちらの首元を掠っていくように、俺のナイフもヤツの首元を掠っていった。
「――――――――」
跳びこんできた分、ヤツの立て直しはこちらより圧倒的に不利だ。
伸びきった自分の腕、突き出したナイフをくるん、と逆手に構えなおし、一息で引き戻す。
狙いはヤツの無防備なその背中。
肋骨と肋骨の隙間を通して心の臓を刺し貫く――!
「―――――!」
が、その標的は瞬時にして消失した。
引き戻す腕を止める。
ヤツは―――奇怪なまでの素早さで俺の真横へと跳んでいた。
地面に両手がつくほどの低い重心。
人間の運動能力を無視した真横への瞬間移動はまるで蜘蛛。いや、その素早さは獣のそれか。
「――――チ」
咄嗟に体を反転させ、横一線にナイフを薙ぐ。
だがそれも無駄。
俺の腰ほどまでかがんだヤツの首へと振るったナイフは、さらに低く構えたヤツの頭上を通り過ぎていった。
「――――――――」
ぎらり、と。
今では俺の膝より重心を低くしたヤツの眼光がこちらの首を捉えた。
「――――――――!」
背筋が凍りつく。一秒先の未来、首を断たれた自分の姿を想像して思考が停止した。
下から矢のように突き出されるナイフの先端。
―――――それは、かわせない。
この体勢では首を反らす事もできない。
「こ―――――――の………!」
だから、伸びきった腕を首にあてて盾にした。
チ、という舌打ち。
利き腕の上腕部分を貫いたナイフが引き抜かれる。力が入らなくなった利き腕から、ナイフを左手へと持ちかえた。
「―――――」
走る月光。
瞬きの間に繰り出されたナイフは三撃。
その悉くを、俺はナイフで弾き返した。
至近距離での切り合いを続けては巧くないと判断したのか、ヤツは奇怪な足捌きで距離をとった。
ザザザ、と足を動かしてなどいないのに瞬時に後退していく様は本当に蜘蛛めいている。
……まるでこっちのほうが地面ごと後ろに下がってしまったと思えるほど、ヤツの移動は特殊だった。
……あの動き。
体が覚えているから良かったものの、知らない相手ならばまず確実に首を取られていただろう。
「―――酷いものだ」
ゆらり、と体の重心をあげてヤツは言った。
「鍛錬で得た技術など瓦礫の塔にすぎぬ、か。たえず塗り固めていなければ呆気なく瓦解するとは教えられたが―――まさか、ここまで無残とはな」
くるん、と影の持つナイフが回転する。
ヤツはナイフの柄を上にすると、指の間にナイフの刃を挟んだ。
「やはり消えるべきはおまえのほうだ。自分の他に自分がいるのでは存在できぬ」
ヤツは言う。
その意見にはまったく同意だ。いや、ヤツは俺の影なんだから、自分と同じ考えなのは当然といえば当然なのか。
「……そうかよ。つまり、俺たちはお互いがこの上なく邪魔ってわけか」
「ああ。俺以外に俺が居ては矛盾が生じる」
それも当然。
故に―――
「故に―――おまえは、ここで死ね」
―――――そうお互いが思考した瞬間。
―――――事は、すべて終わっていた。
ヤツが腕を振り上げる。
やはり投擲、と先読みしていた体が投げられるであろうナイフに備える。
お互いの武器は一つだけ。
ヤツが投げつけてくるナイフを弾けば、こちらの勝利は決まったも同然だった。
――――――――――極死
影が告げる。
振りかぶった腕が真横に動く。
必殺の威力を込めたのか、ヤツは振るった腕の勢いを殺しきれず、無様にもそのまま背中を向けていた。
くるり、と独楽のように反転する影。
シュン、と風を切って飛んでくるナイフの光。
「――――――――」
その軌跡を視認し、飛翔してくる凶器は十二分に弾けると判断した時。
ナイフを投擲すると同時に、大きく跳躍したヤツの姿を視認した。
「―――――――な」
それはいかなる曲芸か。
ヤツは月夜に舞うように、背中を見せたまま宙に跳んだ。
頭を下に。文字通り、天地を逆さにして宙に返り。
悪夢めいたスピードで、投げられたナイフと同時にこの俺へと肉薄する。
「――――――」
気が付いた時には、手詰まりだった。
当たれば心臓どころか内臓をまるごと持っていきそうなほど高速のナイフ。
弾かない、という事は死ぬ、という事だ。
「――――――」
だから、この行為は仕方のないこと。
無意識にナイフを弾く。弾いた衝撃で体が揺れる。
その、衝撃に体が揺れる瞬間、宙返りしたヤツの腕が俺の頭を鷲掴みにしていた。
「―――――――――あ」
ぐぎり、と。首の骨が、捻じ曲がる、おと。
―――――――――――七夜
影が唄う。
……もともと化け物じみていたヤツの動きは、ここにきて奇跡のように美しかった。
片手で鷲掴みにした俺の頭を捻り、そのまま胴体からずるりと引き抜く。
俺は、脊髄を尾のようにだらしなく伸ばしたまま、ヤツの手の中から自らの体を見た。
影は音もなく着地する。
路上には首を無くした人間の体が、未だ自らの死に気が付かぬまま立ち尽くして。
首だけになった俺は、胴体より先に自らの死に気が付いた。
―――――――ここに、殺人鬼は蘇った。
意識が薄れゆく少し前。
月下に舞うような今の奇跡は、昔、父親と呼んでいた人のモノだったと思い出した。
return
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*s77
□志貴の部屋
――――殺人鬼を捜す?
そんな必要はもう何処にもない。
ヤツは死んだ。
遠野志貴の悪夢の具現、俺が怖れていた夢のカタチは消滅した。
ここが夢のような世界だというのならば、夢でさえ死に絶えるコトもあるのだろう。
□志貴の部屋
惜しむらくは、遠野志貴自身の手でヤツに引導を渡せなかった事だ。
自身の悪夢には勝てないという事なのか、それともアイツはヤツ以上の悪夢の具現なのか。
そう。
七夜志貴という、自身が殺人鬼に成り果てるのではないかという悪夢は、
俺自身が覚えてさえいない、明確な死の具現によって圧壊された。
殺人鬼という悪夢は消え、次に現れたのは逃れがたい死の連想させるあの男。
……次から次へと現れる不吉な影。
「――――――は」
これこそ悪夢だ、と呟きかけて、ある疑問に思い至った。
殺人鬼は遠野志貴が見ていた悪夢だ。
ならばあの男は、本当に遠野志貴が怖れていた悪い夢のカタチだろうか、と―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s78
□志貴の部屋
―――ふと、坂道から見た夕焼けが脳裏によぎった。
……遠いようでいて、そこが終わりなのだと感じさせた夕焼け。
ここからでは遠いけれど、あの場所まで行けば世界はそこで唐突に終わっているのだという気にさせた赤い空。
あれはひどく懐かしい、遠い日の思い出を連想させる夕焼けだった。
それを見たのはいつだっただろう。
今日だったか、それとも昨日だったか。
眠りに至ろうとするこの時間、記憶はさらに曖昧になっていく。
それも当然と言えば当然か。
今日一日かけて、昨日の事はついに思い出せなかった。
そうして眠ってしまえば、今日の事は昨日の事になりさがる。
ほら、思い出せる道理がない。
どうせ俺は、明日になれば今日までの事をキレイさっぱり忘れてしまうんだろうから――――
すみやかに眠りに沈めるように羊を数えた。
一匹、
二匹、
三匹、
四匹。
だが白い羊は一向に現れず。
【レン】
どこかで見た覚えがある黒猫だけが、いつまでも独りきりで椅子の上に座っていた。
return
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*s79
□志貴の部屋
「―――――――世界の果て、か」
呟いてみてあまりの馬鹿らしさにため息がこぼれた。
世界の果て、なんて非現実にも程がある。
子供の頃は世界の広がりなど知らず、少年になって知恵をつけた頃には世界には果てなどないと知らされた。
道はどこまでいっても道で、道の終わりとはすなわち旅を始めたスタート地点である。
メビウスの輪だ。
進んでも進んでも道がなくなる事はなく、思う存分歩き続ける事ができる。
世界に果てなどない。
地球は丸くて、終わりまで進めば始まりに戻るだけ。
ちょうど今のこの世界のように、端まで行けば端に出るのと似ている。
―――――――それは、つまり。
規模こそ違えど、自分たちは一つの輪の中で暮らしているという事ではないのか。
……ではアレはなんなのか。
時折、世界の隙をつく形で何処かに出ようとすると出現する腐食。
あの先には進めない。
先がないのだから進みようがない。
そして、あの腐食はこの街を覆い尽くそうとしているように思える。
そこまで行けば世界が終わっていそうな日没。
所々穴の空いている世界。
零れないようにと密閉されている自分。
既知感に支配されたあやふやな一日。
過去のない世界は、それこそ自由に描き変えられる。
「――――――まるで箱庭だ」
それも幸福な結晶だけで形成された人工楽園。
おそらくは朝になればこんな感傷も忘れて、またいつも通りの目覚めをする。
「――――――――――」
なら眠らなければいいのだろうけど、こう思っている時点ですでに眠っているのだから仕方がない。
こうして眠った時だけが、世界の形に迫れる真世界。
【レン】
だが、いつからこうだったんだろう。
必死に思い出してみるが記憶は曖昧だ。
ずっと昔からだったのか、それとも今日からだったのか。
ともかく証明できない以上すべてが不確かで、この一日は“ある”が“ない”になりさがる。
何故なら昨日を思い出せない以上、今日と同じ明日もまた、新しい一日として始まるのだから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s80
□志貴の部屋
「……また繰り返しか」
眠りと現実の狭間で呟く。
明日になればこうやってカラクリに気が付いた事さえ忘れて朝を迎える。
変わりない一日。
出られない箱庭。
終わりない―――
「……終わりの、ない……?」
いや、それは違う。
―――――なんて事だろう。
俺は、この時間だけはカラクリに気が付いていたと自惚れていた。
「……終わりはある。終りは確かにあるじゃないか」
□志貴の部屋
なんて馬鹿だ。
世界の果て、なんて物を認めていたくせに、この連環が無限に続くと思っていたなんて。
「……アレがなんであれ、行き止まりであるのなら終わりはあるって事だ。例えば、それが」
この世界の、崩壊であろうとも。
「………………」
思えば、あれはガン細胞のようなものなのかもしれない。
少しずつ増殖していく黒い染み。
世界を侵食する果てなんてものは知らないが、アレがあるかぎりこの土台は段々と崩れていってやがて死に至るだろう。
そうすれば―――この繰り返しのような一日もそこで終わる。
きっとその先は、当たり前の、けれど繰り返しのないいつもの日常が待っている筈だ。
「――――――――――――――――」
だが、それは正しくない気がする。
「――――なんか、違う」
何かを俺は見落としている。
思えばそれが昨日のコトを思い出せない理由かもしれない。
「……行ってみるか」
ベッドから抜け出して外に出る。
□遠野家屋敷
□坂
□公園前の街路
「……驚いたな。てっきりあの子が邪魔しにくると思ったんだけど」
意外な事に外にはあっさりと出れた。
あの子……あの子って誰だろう?
□公園前の街路
「  」は、このカラクリの解明をする俺を咎める気はないようだ。
□街路
大通りに出る。
街はいつか体験した夜のように静かだ。
影絵のような世界を歩く。
□街路
かつん。
□街路
かつん。
□街路
かつん。
□街路
かつん。
□街路
かつ、ん――――――
「―――――――――っ」
一歩進むたびに知らない筈の明日が浮かぶ。
過去に逆行しているのか、“ない”が“あった”出来事を思い出しているだけなのか。
どのみち足跡だらけの未来に向かっている事に変わりはない。
怯む事なく先へ先へと進むべきだ。
月が出ている。
無人の駅に着いて、その構内へと侵入する。
まだ確かなプラットホームを歩いて、線路へと飛び降りようとした途端。
メガネを外す。
水をぶちまけたように、ここ一帯の世界が死んだ。
「―――――――――!」
どろり、と足元が腐食に沈む。
気が付いた時には手遅れだった。
すでに体は腰まではまり込み、あとはこの一帯の死に巻きこまれるカタチで終わるだけだろう。
「くっ――――――!」
その死に抗う為に、今まで何度もそうしたようにメガネを外した。
―――――そう、メガネを外すのだ。
なぜそんな、遠野志貴にとって切り離しようのない事柄を忘れていたのか。
死を視るという特異な眼。
それこそが遠野志貴を象る最大のファクターではなかったか。
それを忘れて、否、無意識下に追い込まれてた事こそがこの世界での最大の違和感だった。
あの娘は、遠野志貴が死を視ないようにと気を配ってきたのだろう。
何故なら、死を視覚できる俺だけがこの世界の舞台裏を覗けてしまうからだ。
……腐敗が進む。
この腐食が何らかの崩壊の予兆であるのなら、それは一つの死だ。
なら見れるかもしれない。
こいつの正体。
この曖昧な一日に果てを作っているモノの姿。
【コウマ】
すなわち。
世界を殺してまわっている、死の影の実像たる貴様の姿を。
「――――やはり、貴様か」
「―――――――――――」
その男は答えない。
当然だろう。もともと岩のように頑なな男だ。あと数秒で消え去る俺に、たむけの言葉を送るような男ではあるまい。
「くそ、ここまでか――――」
胴から首、そして顔が腐食に沈む。
……これが死であるのなら逃れる術はない。
最後の瞬間。
そういえば、どうして自分はあいつが“死の影”だと納得したのか、その理由が解らなかった―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s81
□志貴の部屋
――――それは、忘れている何かを思い出す事だ。
「だーかーらー、それが思い出せれば苦労しないんだって」
というか、思い出そうとして苦労したコトなんかあったっけ?
「……まあ大事なコトを忘れてるって訳じゃないんだし、そう悩むことでもないよな」
横になったまま呟いてみる。
忘れているコトは昨日のコト。
今まで何千日と過ごしてきたんだから、たった一日ぐらい何も思い出せない日があってもおかしくないだろうし。
【レン】
「――――猫だ」
いま、窓の外を黒猫が通って行った。
「……あれ?」
ここは二階。窓の外には、猫が通れるようなベランダなんかあっただろうか?
「…………まあ、いいか」
急に眠くなってきた。
つまらない事をいつまでも考えてないで、明日にそなえて眠るとしよう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s82
□志貴の部屋
――――――幾つかの齟齬が脳裏をよぎる。
忘れている昨日。
覚えのない行動。
それでも日常は折り合いをつけて回り、自分以外の誰も疑問を抱かない。
街に現れている殺人鬼。
ヤツはただ噂だけで存在し、現実味というものがまったくない。
それは遠野志貴の悪夢だ。
ヤツは俺が無意識下で怖れ、見ないように見ないようにと言い聞かせてきた悪い夢だ。
なら―――ここはなんだ?
悪い夢がカタチになって現れるのなら、ここは現実ではあるまい。
夢がカタチになれる場所は、やはり夢の中だけだろう。
わるいユメ。
ワルイゆめだ。
この完璧な夢に落ちた、染みのような悪い夢。
――――ヤツが言っていたじゃないか。
主催者であれ客であれ、この場に引き寄せられたからには悪い夢を見るのだと。
「―――――――思い、出した」
そう、思い出した!
何故忘れていたのか。どうしていつも忘れてしまうのか。
これは夢だ。
俺が見ている夢なのだ。
それはこの繰り返しが始まった時、おそらくはすぐに気が付いた筈の事実。
「―――でも、どうして」
どうしてそんな夢を見続けているのかが解らない。
どうして朝になると手に入れた筈の真実を忘れてしまうのかが解らない。
―――――鈴の音が聞こえる。
それはあの子が、必死になって世界を回しているからだ。
□志貴の部屋
「――――――っ」
眠気が襲ってきた。
強烈な眠気、なんていうレヴェルじゃない。ぱちん、と指先で遠野志貴の電源をオフにするような、簡単で抗いようのない眠気だ。
「――――――」
それでも不安を感じないのは、この眠気には一切の邪気がないからだろう。
……あの子がなんたのためにこんな事をしているかは知らない。
けど、それは決して悪い事ではない気がする。
……だが終わりは近い。
たとえ明日になれば忘れてしまうにしても、遠野志貴はこのカラクリをはっきりと自覚してしまった。
それはもう体験してしまった事で、いくら思い出せなくなっても消しようのない事実だ。
……だから、終わりは近い。
このカラクリは穴だらけだ。
あとはちょっとしたボタンを押すだけで、夢から醒めてしまうんだから――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s83
□志貴の部屋
―――――つまり。
本当に忘れている事は一つだけ。
□交差点
□志貴の部屋
「――――事故だったんだ」
そう、事故だった。
あれは学校に向かう途中だったか。
走ってきたダンプカーに轢かれそうになって、何らかの怪我を負った。
そうして意識を失って、そのまま―――
□病室
□志貴の部屋
病院に、運ばれたんだ。
「つまり、俺は」
この世界が、夢だというのならば。
「病院のベッドで眠ったままっていうワケだ」
目の前が真っ暗になった。
そりゃあ、実は車に轢かれて今は病院で昏睡状態なんですよー、なんて知らされたら誰だって気が遠くなる。
「……そうか。それじゃああの子は――――」
この夢をなんとか続けさせる為に、一生懸命になって走りまわってくれていたんだ。
フタを開けて見ればなんという事はない。
俺はこの繰り返しの夢から醒めないのではなく、目を醒ます事ができる体じゃなかっただけの話だったのだ。
だから事故に遭ったという都合の悪い出来事を忘れて、曖昧な記憶のまま夢を見続けていたという訳だ。
「……はあ。やんなるなあ、それってつまりずっと目が醒めないって事じゃないか」
現実の遠野志貴の体がどんな状態なのかは知る術がない。
ただこうして何十回と一日を繰り返している以上、最悪の場合すでに植物人間みたいになっていたりするわけかあ。
「……んー……それもなーんか違うんだよなあ」
どうもしっくりこない。
遠野志貴は事故に遭った。
それだけは絶対に確かな事なんだけど、その後のことを自分は知らない。
知らない以上、まだなんとも言えないのは当然だろう。
□志貴の部屋
「――――――――っ」
またいつもの眠気だ。
今日のシンキングタイムはここまでで、また白紙に戻る朝へと連結する。
「――――けど、アレってそんなに――――」
答えなど期待しないで彼女に話しかけた。
もちろん答えなどない。
ちりん、という鈴の音だけが聞こえて、意識は急速に闇へと落ちる。
その隙間。
眠りと忘却の狭間で、質問の続きを呟いた。
それでさ黒猫。
あの事故って、そんなに大それたものだったっけ?
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s84
□志貴の部屋
「――――――そういえば」
なんでも離れには猫のお化けがでるとかなんとか。
秋葉や琥珀さんの話だと、最近深夜になると出没して色々と悪さをしているらしい。
「……悪さって、あそこでどんな悪さができるんだろ」
なんだか異様なまでに怪しいが、妖怪の類に大事な離れを荒らされるのは我慢できない。
あそこには幼年期の思い出がつまっているんだ。そんな、離れに住みついて好き放題やっている化け猫には、きっつーいお灸が必要と見た。
□離れの入り口
離れに到着。
森の中にあるという事もあって、離れは暗く静まり返っている。
「……うーん、確かに何か出そうな雰囲気ではあるよな、ここ」
日中でも恐い時があるんだから、夜なんてほとんどお化け屋敷といってもいい。
「……う。なに恐がってるんだ俺は。こんなんじゃ妖怪退治なんてできないぞ」
ぱん、と軽く両頬を叩く。
気合をいれて離れへと足を踏み入れた。
□離れの部屋
「――――――――――」
慣れ親しんだ座敷も、目的がお化け退治となると途端に雰囲気が一変する。
「……なんか嫌な予感がしてきたぞ……くそ、なんだって離れの屋敷に来る気になったんだろ、俺」
ひとり文句を言ってみる。
意気込み勇んできたものの、なんだか段々と帰りたくなってきた。
「……そういえば親父って山ほど猫を殺してたって話だよな……」
正確な話は知らないが、遠野槙久は小動物を買ってきては惨い方法で殺して捨てていたという。
特に好んだのは猫という話で、それこそ首塚を作らなければ処理に困るほど猫たちを殺していたとか。
「……そりゃあ祟られても文句は言えないよな」
かといって今から帰るのも恐ろしい。
あの襖を開けた途端、視界いっぱいに猫の生首が敷き詰められていて、それがそろってこっちを見て鳴き出した日には失神しそうだ。
……やば。
なんか、すっごく恐くなってきた。
「――――ばか、何恐い想像してんだよ俺……!」
だが考えてしまったものは仕方がない。
どうして人間ってのは、こういう時にかぎって恐い想像が次から次へと出てくるんだろう?
「―――――寝よう。こういう時はもう寝ちまうに限る」
たしか押し入れに布団が入っていたな、と立ちあがるのだが、押し入れの中には布団ではなく猫の死骸が詰まっているかもしれない、なんて想像が働いてしまって止めた。
「……………………」
……扉という扉を開けると猫が飛び込んでくる気がする。
ああ、トイレにも行けない状態。
「――――――――!」
いま、なにか。
確かに、物音が。
「……水の、音……?」
……確かに水の音が聞こえる。
どこがて水漏れがしているのか、とも思ったのだが、これは――
「……舐める音だ、これ」
ぴちゃり、ぴちゃり。
すぐ外。
障子一枚隔てた向こうで、何かが、水らしきモノを舐めている―――――
「―――――――うそ、だろ」
知らず両足が震えていた。
耳をすませば、遠く、軋むような猫の鳴き声。
――――ゆらり。
障子の向こうで、なにか巨大なモノが蠢く。
それは庭からこの和室へと近づいてきて―――障子に、ハッキリと猫の影絵を映し出した。
【アルクェイド】
「ば、化け猫――――――――――!」
恐怖に潰される前に、勢いで障子を開ける!
視界に広がる闇の森。
遠く響く猫たちの合唱。
そして―――
□林の中の空き地
□林の中の空き地
【アルクェイド】
ばけねこ、一匹。
「うにゃ!?」
驚いてこちらを向くばけねこ。
「―――――――――」
ちなみに、今の俺の心理状態はというと、
【ロア】
こんな感じだ。
□林の中の空き地
【アルクェイド】
「―――――おい」
「にゃっ!?」
「なにしてんだよ、おまえ」
「む? ……なにしてんだろうにゃー?」
「なんだ、自分でも解らないんだ」
「……うーん、初めはなにかしら理由があった気がするんだけど、なんかこうしているとどうでもよくなってきたにゃー」
「―――――――」
……はあ。さっきまであんなに恐がってた自分が馬鹿みたいだ。
「むむむ? 志貴は恐くないのかにゃ? 妹とか双子は恐がってたぞ? 猫の呪いは恐ろしいにょよ?」
「―――――――――」
えーっと、ああ、あったあった。
都合のいいコトに、親父が愛用していた猟銃が部屋の畳の下に隠してあった。
素早く弾丸を装填して、片手で無造作に狙いをつけて
□林の中の空き地
□林の中の空き地
バンバン、と発砲した。
「うにゃー!!!!!」
悲鳴をあげて崩れ去るばけねこ。
――――いや、これは――――
【アルクェイド】
「あ、あぶなかったにゃ!」
「チィ、変わり身か――――!」
いえ、正確には着ぐるみです。
バンバンバン、と連続する炸裂音。
―――流石親父、SPAS12とはいい銃をつかってやがるぜ。
「うわ、たんまたんま! 軽い冗談じゃないのさー! ノーモア暴力ー!」
「にゃー! てったいてったい、一時てったーい!」
しゃしゃしゃー、と蛇のような動きで木々の間を抜けていくアルクェイド。
「いいがあー、もう二度と悪ささするでねえどー!」
バンバン、と威嚇射撃をして、ばけねこを完璧に追っ払った。
□志貴の部屋
「……まったく、ここんところやりたい放題だなアイツは」
回収してきたばけねこの皮をベッドに放る。
ぼてん、とだらしなく転がる猫の皮。
正確には猫の着ぐるみ。さっきまでアルクェイドが着ていたアレだ。
「………………」
……着ぐるみというのは、一種魔力を持っている。
昔、何かの懸賞で“豪華! 布団にもなる着ぐるみプレゼント! ネコとドジョウのどちらかをお選びください!”というのがあった。
有間の家にいたころ、テレビでその万能着ぐるみを見てちょっといいな、と思ったのは誰にも言えない秘密である。
「……やっぱり。これ、布団になるヤツだ」
布団になる着ぐるみというのは、ようするに寝袋を着ぐるみにしたような物で、イメージ的にはウツボカズラに近い。……いや遠いか。
「ふーん。やっぱりな、思ったとおり寝にくいじゃないか。それでもまあ、寝袋よりはマシってところか」
中に入りながら寝心地を確かめる。
「……………………………」
うん。まあ、これはこれで。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s85
□志貴の部屋
―――夜の街を散歩したらどうだろう、という事だ。
「その通り! 最近なにかと鬱入っちまってるので、ここいらで気晴らしをしないとタイヘンだ!」
ベッドから跳ね起きる。
散歩は昼間と決めているけれど、今夜ぐらいは出歩いてもいいだろう。
たまの気晴らし。
ときおりこういう風に反対のことをしないと行き詰まってしょうがない。
「そうと決まれば、今夜はオマエはいらないな」
ナイフを机に置いて軽く上着を羽織る。
武器というのは持ち主の心構えをも武装させるのだろう。
久しぶりに―――本当に久しぶりにナイフを手放すと、体はそれだけで身軽になってくれた。
「―――さて。ガラじゃないけど夜歩くとしましょうか」
呟いた言葉も軽く、足取りも浮くように、羽のようなステップで夜の街へと飛び出した。
□坂
夜は深く、アスファルトを叩く足音は闇に呑まれるように消えていく。
周囲には人影はなく、建物という建物の明かりは途絶えて久しい。
「―――――」
闇が濃いせいだろうか。
吐く息はかすかに白く、気温は冬のそれに近かった。
「――――――さむ」
肌寒い夜の温度。
けれどそれは不快なものではなく、むしろ綺麗な気がして心を弾ませた。
頭上には真円の月。
擬冬の大気は青い月を硝子のように磨き上げる。
「――――――――」
もう一度白い息を吐く。
この夜、この完璧な眠りにおいて、余分なモノなど何もない。
つまらない忘却も、噂にすぎない殺人鬼も、メガネを外させようとする死のカタチも、一切合切月の裏側。
□坂
「――――――――は」
愉快になって鼻歌を口ずさんだ。
シンプルなのはいいコトだ。
なにしろとても解りやすい。
この夜、あらゆる矛盾を無視して素直に素敵に散歩をしよう。
□街路
「―――――っと、到着」
鼻歌をやめて足を止めた。
大通りの端には路地裏へ通じる道がある。
これは、いうなれば舞台裏へ続く穴だ。気分がいいので少しだけ顔を出すことにした。
□裏通り
□行き止まり
この路地裏は時折崩れる。
死のイメージが強すぎるせいなのか、直しても直しても壊れてしまうのだろう。
死亡事故が相次ぐ自殺の名所と同じかもしれない。
その、死を引き寄せる磁力というものがあると仮定した場合の話だが。
「―――――――?」
と、路地裏には先客がいた。
真っ黒い影は、壁にむかってテコテコとちっちゃな体で頑張っている。
「や、また会ったね」
【レン】
「―――――――――――!」
ものすごく驚いたのか、女の子は跳びあがって振り向いた。
「…………………………!?」
「こんばんは。こんな所で会えるなんて奇遇だね。で、さっきからなにやってるの?」
「――――――――――」
女の子はあたふたと慌てている。
……う。これ以上追及するのは可哀相になるというか、こっちが一方的に大悪人のような気にさせられるというか、それぐらいの慌てよう。
「あ、無理に話さなくていいよ。どうせ明日になれば忘れるんだから、話してくれても意味がない。ごめんね、君は一生懸命やってるのにつまらない質問をしてしまった」
【レン】
女の子はすまなそうに顔を曇らせる。
……うん。この子は無口だけど、そのかわりに感情がとても分かりやすい。きっと性格が素直なんだろう。自分なんかとは大違いだ。
「そうだ、そんなコトより一緒に歩こうか。いくら静かだっていっても夜なんだから、女の子が一人でいるのは危ないだろ?」
【レン】
「………………………………」
「うーんと、つまり……そうそう、公園に行かないか? あそこなら、きっと月がキレイに見える」
公園という言葉が気に入ったのか、しばし考え込んだあと、
【レン】
【レン】
【レン】
こくん、と女の子は頷いた。
□公園前の街路
――――――そうして、二人して夜歩いた。
女の子は相変わらず無口なので何を話したわけでもない。
ただ気ままに街を歩いて、女の子はこっちの背中に付いてくるだけ。
「そういえば公園のアイスクリーム屋だけどさ、あそこのミントってきつくないか? 抹茶と合わせると丁度いいんだけどね、単体だとどうもいただけない」
なんて、たまに思いついたコトを口にしてみる。
【レン】
「………………………………」
女の子は分かっているのかいないのか、呆れもせずにトコトコと付いてくる。
□公園の噴水前
噴水に月が映っていた。
ゆらゆらと霞む水面に、自分とあの子の影法師が融けている。
てこてこ。てこてこ。
空を見たり街を見たり。女の子は移り気なくせに行儀良くこっちの足跡を辿ってくる。
「―――――ぷ」
その姿がとても微笑ましくて、なんだか子供の頃に戻ったような気がした。
幼いころ、遊びといえば秋葉と連れ立って歩いて、何をするでもなく屋敷に戻るだけだった。けれどそれはなんて退屈で、この上なく幸せな日々だったのか。
……この子と歩いているとそんな何でもない事を思い出して、つい口元が緩んでしまう。
「今夜も迷子なんだね、君」
【レン】
「………………………………」
「だからってこんな時間まで出歩いているのは感心しないな。その、まだ帰る場所は見つかってないの?」
【レン】
【レン】
……? えっと、つまり帰る場所は知っている、という事だろうか。
「なんだ、なら話は簡単だ。君が知ってるなら送っていこう。どうせあてのない散歩なんだ、何処へだって付いて行くよ」
【レン】
【レン】
「……ん? 自分の家を知られたくないってコト?」
【レン】
「………………………………」
……よく分からない顔をする。
そうしてこっちを見つめた後、女の子は唐突に膝をついた。
「――――!」
地面に倒れようとする女の子へ駆け寄る。
「………………………………!」
が、触れられるのがイヤなのか、女の子は苦しげな呼吸のまま離れてしまった。
【レン】
かすかに上下している肩。
今にも消えそうな弱々しい呼吸をして、女の子はふるふると首をふった。
「ごめん、何を言いたいのか、よく――――」
わからない、と口にした時。
「………………………………」
微かに唇を動かして、本当に、女の子は消えてしまった。
「―――――――」
急速に眠気が襲ってくる。
見れば、自分の体もあの子のように消えていこうとしている。
「―――――なんで」
薄れていく意識。
いつものように、さっきまで見ていたコトがどうでもいいコトのように忘れさられていくその間。
「―――――なんでごめんなさい、なんて」
言うのか、と。
水面に揺れる月を見ながら、呟いていた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s86
□志貴の部屋
学校も休みだし、気ままに屋敷で羽を伸ばす事にしよう。
「とりあえず朝食をとって、朝のお茶会に顔を出すよ。その後のことは現場の判断という事で」
【翡翠】
「かしこまりました。それでは食堂でお待ちしております」
一礼して退室する翡翠。
彼女を見送ってから、よしっ、と勢いよくベッドから跳ね起きた。
窓からは淡い陽射しが差しこんできている。
秋の始めの晴天は、文句のつけようがない程心地よい風を運んできていた。
return
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*s88
□遠野家居間
食後のお茶会。
朝食が終わった八時から九時の間、ここでこうして四人でのんびりするのが休日の日課である。
「……とまあそういうわけだから、あんまり南のほうは行きたくないんだ。沖縄にはろくな思い出がない」
【琥珀】
「はあ。志貴さん、中学校の修学旅行は沖縄だったんですか?」
「まさか、そんな金持ち学校じゃなかったです。中学の修学旅行はお決まりの京都でした。あ、けど次の年からは奥飛騨になってたそうだけど」
【琥珀】
「京都から奥飛騨に変更ですか。なにか作為的なものを感じますね」
ふふふ、といたずらっ子のような笑みをこぼす琥珀さん。
【秋葉】
「その話なら乾さんから聞きました。なんでも夜中にホテルから抜け出した男子生徒AとBが文化財を破損してしまって、以後その中学は京都出入り禁止になったとか」
「―――――ぶ!」
危ない危ない。思わず口に含んでいた梅昆布茶を吐き出すところだった。
「へ、へえ。そんな話は初耳だったな」
【秋葉】
「あら、ならこんな話も初耳ですか? 男子生徒Bが不注意で折ってしまった仏像の腕を見て、男子生徒Aはバラそう、と即決して解体してしまったのですって。その後、証拠隠滅だったのかふざけていたのかは判りませんがバラバラにした仏像を木刀の籠に放りこんでしまったとか」
「……そっか。きっと何か嫌な事でもあったんじゃないのかな、そいつ」
一応、さりげなく弁解してみたりする。
余談ではあるが、その翌日木刀を買うフリをしてちゃっかり五百十三円で仏像の腕をゲットしたのは有彦にだって秘密である。
【琥珀】
「うわ、ひどいですねー。その子、将来はよっぽど大物になるか女の子泣かせになるかどちらかだと思います」
【秋葉】
「同感ね。男子生徒Aさんは普段は大人しいのに、どうしてか男子生徒Bさんと一緒になると悪巧みに長けるみたい。
―――それとも、まさかとは思うんだけどそっちがその男の子の地なんでしょうか、兄さん?」
だから、なんでそんな針のむしろみたいに遠まわしないじめ方をしてくるんだおまえは。
「あ、いや―――別にそんな事はないんじゃないかと、俺は思うけど」
肩身を狭くしてさりげなく返答する。
【秋葉】
「そう? 同じ男性である兄さんがそう思うなら、まあそういう事にしておきましょう」
優雅にティーカップを口に運ぶ秋葉。
なんていうか、満足そうな顔が「今朝は私の勝ちですね」と言っているようで面白くない。
return
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*s89
□遠野家居間
【琥珀】
「ですから、ホタテのバターソテーにはブルゴーニュ産がよろしいのではないでしょうか」
【秋葉】
「そんな事はありません。同じフランスでもボルドーの方が向いているんじゃなくて? ピュリニーは少し舌に辛いわ」
【翡翠】
「……そうでしょうか。わたしは白ワインよりは赤ワインが適していると思うのですが」
【琥珀】
【秋葉】
「……………………」
「―――――――まあ、翡翠の味覚は特別だから」
それきり無言で見詰め合う三人。
まったく、朝のお茶会だっていうのになんともいえない緊張感が漂っている。
「ああもう、いいじゃないかそんな話! 味の好みなんて人それぞれだろ。ようはおいしければそれで幸せだっていうのに」
【琥珀】
【翡翠】
【秋葉】
……う。こと料理の味つけに関しては三人とも譲れないものがあるらしい。こっちからしてみれば三人が言っている事なんて呪文みたいなものだからてんで興味が湧かないのだが。
「ったく。まともに調理ができないくせに注文だけはうるさいんだからな、秋葉は」
【秋葉】
「なっ――――! 失礼ですね、近頃は私だって少しは―――」
【琥珀】
「なにをおっしゃるんですか志貴さん! 秋葉さまは厨房になんてたたれなくていいんです。秋葉さまは遠野家のご当主なのですから、そのような事をなされては他に示しがつきません」
【秋葉】
「…………そうね。まあ、琥珀の言うとおりだわ」
何か複雑なしかめっ面をして黙り込む秋葉。
きっと少しは料理が出来るようになった、と言いかけたのだが、今は琥珀さんの言葉に合わせたほうが有利だと判断したんだろう。
……まったく、ホントにプライドが高いというかなんというか。秋葉が琥珀さんをうならせるぐらいの腕前になるまで、秋葉の手料理というものにはお目にかかれないに違いない。
「……まあいいけど。ところでどうしてワインの話になんかなったんだ? まさか、また宴会をしようっていうんじゃないだろうな。秋葉みたいなザルにお酒を飲ませるぐらいなら、琥珀さんたちの給料をアップさせたほうがマシだぞ」
【翡翠】
【琥珀】
「…………………………」
「…………………………」
二人は無言でよく分からない合図を交わしている。……最近、琥珀さんと翡翠の意思疎通はテレパスじみていて困る。いくら何を言いたいか解るからって、周りに人がいる時ぐらいは会話をしてほしい。
【秋葉】
「ご自分の不甲斐なさを棚にあげないでください。それにですね、ざるではなく酒豪と言ってくださいません? 少なくとも私はお酒を楽しんで飲みますから」
「いえいえ、未成年の飲酒は法律で禁止されています」
【秋葉】
「……。ひとつ訊きますけど、兄さんは私を馬鹿にしているんでしょうか?」
「まさか。君たちが自分の年齢を解っていないようだから、老婆心ながらも忠告しただけだって。
で、どうしてワインなんだってば。今夜は宴会だー、なんて言うんなら有彦んところに逃げ込むからな」
【琥珀】
「あら、それでしたら乾さんをお呼びして一席設けるだけですね」
にっこりととんでもないコトを言う琥珀さん。
「……やめれ。そんなコトをしたらいつのまにかアルクェイドやシエル先輩が混ざっていて、翌朝とんでもない事になっちゃうぞ」
っていうか、そんな夢を見たような見ないような。
個人的に気に入っていたので是非パノラマで見たかったけどこればかりは仕方がないのです。
【翡翠】
「志貴さま、そのような事はありません。アルコールの話になったのは、中庭に住み着いた猫がお酒を飲むようだからです」
「……へ? なにそれ、初耳。中庭に猫なんて住み着いたのか?」
「はい、先日から住み着いているようです。以前お屋敷で飼われていた猫はみなアルコールを好んでいましたので、小皿で与えたところいたくお気に召したようです」
【琥珀】
「そうなんですよー。なんか翡翠ちゃんは気に入られてるようなんです。わたしや秋葉さまが近寄ると逃げてしまうんですけどね」
「……ふうん。さすが野生動物、直感的に恐い人が分かるってコトだね」
なるほど、と心底頷く。
【秋葉】
「へえ。兄さん、今のはどういう意味合いで口に出た言葉なんでしょうか?」
【琥珀】
「同感です。今のは少し、聞き流せる言葉ではありません」
二人は結託して睨みつけてきた。
「ぁ―――いや、つまり」
……まいった。
つい口を滑らせたってコトもあるけど、どうして朝のお茶会だとこう秋葉たちに負かされる風になってしまうんだろう―――?
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s91
□遠野家居間
と、丁度区切りのいい所で時計の鐘が鳴り響いた。
午前九時を告げる鐘は、お茶会終了の合図でもある。
【秋葉】
「時間ね。琥珀、例の物は届いているの?」
【琥珀】
「はい、お預かりしてます。ご試着なさるのでしたらお部屋のほうにお運びしましょうか?」
「ええ、お願い。どうせ使わないだろうけど、一度ぐらいは試してみたいから」
席を立つ秋葉。どうやら午前中は自室で休んでいるつもりらしい。
【秋葉】
「私は一度部屋に戻りますけど、兄さんはどうなされるのですか?」
「俺? そうだな、まだ決まってないけど、きっと屋敷にいると思う」
【秋葉】
「解りました。それでは昼食の席でお会いしましょう」
【翡翠】
「それではわたしも失礼します。午前中は客間の整理を任されておりますので」
居間に残ったのは俺と琥珀さんだけになる。
その琥珀さんもみんなが使っていたティーカップとポットを片付け始めていた。
「あ、それぐらいなら俺がやるからいいよ。琥珀さん、朝から動きっぱなしなんだから少しは休まないと」
【琥珀】
「あ、ありがとうございます。けど今日は午前中ずっとお休みですから、これが最後の仕事なんです。どうぞお気遣いなさらず、ゆっくりしていてください」
琥珀さんは慣れた手つきで食器をまとめあげると、そのまま台所へと消えていった。
さて。
午前中、何をしようか。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s93
□遠野家居間
みんなそれぞれやる事があるみたいだし、一旦部屋に戻って一息つく事にしよう。
□志貴の部屋
がちゃり、とドアを開けて中に入る。
もう随分と住みなれた部屋はいつも通りで、何一つ変わった所なんてない。
「………違う」
間違えた。
いつもならここに来れば彼女に会える。
けれどもう、彼女は遠野志貴の世界から消えてしまった。
「……………」
遠野志貴の世界とは違う所。
ただ一つ、この街から行ける筈もないあの場所に行かなければ。
return
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*s94
□遠野家居間
みんなそれぞれやる事があるみたいだし、一旦部屋に戻って一息つく事にしよう。
□志貴の部屋
がちゃり、とドアを開けて中に入る。
もう随分と住みなれた部屋はいつも通りで、何一つ変わった所なんてな――
「……って、猫が寝てる」
ごしごし。
まだ寝ぼけているのかと目蓋をこすってみたが猫は消えない。
どこから入ってきたのか、猫らしき物体はベッドの真ん中で巨大なおまんじゅうと化している。
……正しくは、おまんじゅうと間違えてしまうぐらい丸まっている。
「あれ、もしかして……」
起こさないように足を忍ばせて猫を覗き込む。
「やっぱり。いつもの黒猫だ」
屋敷にいたり学校にいたり忙しいな。猫の縄張りにしてはけっこう破格的な広さじゃなかろうか?
「……まあ、それはいいとして」
さてどうしよう。
ベッドが占領されてしまった以上、遠野志貴にはうつ手がない。
「―――――――」
しばし考えてから、どうこう考えるのも馬鹿らしくなってきた。
窓から入ってくる陽射しが気持ち良かったせいもあるんだろう。
「ふぁーあ……」
のびをしてから床に腰を下ろしてベッドに背中を預ける。
「……うん、寝よ寝よ……」
ゆっくりと目蓋を閉じる。
こういう展開になるのは当然といえば当然だ。
部屋には爽やかな秋の風と暖かい陽射しがあって、ベッドの上には幸せそうに眠っている見知らぬ猫。
これだけの状況がそろっていているんだから、こっちも眠っておかないとそりゃあ失礼ってものだろう……?
夢を見た。
車が走っている夢。
そんだけ。
□交差点
ああ、あとはブレーキ音が印象的。
そんなもの?
□病室
そうしてまだ眠っている。
肌にふれる微風が心地よい。
目蓋を閉じていても晴天だと判る午睡。
そこで、一時だけ夢を見ている夢を見る。
――――と。
頬を何かが触れていった。
ざらついた感触と小さな気配。
ああ、さっきの黒猫が頬を舐めていったんだな、とか胡乱なあたまで考えてみた―――
□志貴の部屋
「―――――?」
目が覚めた。
頬に指をやると、舐められたような跡なんてない。
「おーい、ねこー」
ベッドへ視線を向ける。……と、黒猫はすでにいなくなっていた。
【レン】
黒猫は窓際まで移動していて、にゃあと鳴き声一つもあげずに外へ飛び出して行った。
「……なんだい、可愛げのない」
たまには鳴き声の一つでも聞いてみたいけど、その前にあの子の名前を知る方が先だろうか。
「なんだ、もう昼じゃないか」
かれこれ三時間ほど眠っていたわけか。
さて、それじゃあ部屋を出るとしようかな―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s96
□中庭のベンチ
走る。
ナイフを握り締めて、狂いそうになる呼吸を必死に押し留めて、ヤツが待つ森へと走る。
□林の中の空き地
風景が変わって、もう戻れないのだと直感した。
この先では死が揺らいでいる。
かつて誰一人として敵うことのなかった怪物、
かつて何一つとして傷つくことがなかった魔物。
一度たりとも。
打倒できるなどと想像さえ許さなかった、
朱い鬼神。
「―――――――っ」
心臓は通常より一回り大きく稼動する。
理性を司るのは脳であり、心臓はただ脳の指令を守る器官にすぎない。
「―――――――は」
そんなのデタラメを広めたのはどこの教科書だろう。
理性は脳に。だが原始的な感情を司るのはやはり心臓に違いない。
何故なら、こんなにも理性を総動員して震えを抑えているというのに、肉体は身勝手にも痙攣している。
「は――――――ぁ、あ」
心臓は理性を駆逐し、ありったけの怖れと迷いを撒き散らす。
ジェット噴射の勢いで血管に流れていく闇。
全身、それこそ指の先まで張り巡らされたチューブを伝って、遠野志貴の肉体は痙攣している。
それを理性で押さえつけて、力の限り疾駆した。
肉体には知性がない。原始的な怖れに対する理論武装ができないのは当然だ。
自らの死を予感して逃亡を促すのは生命の本能であり、最も優れた性能である。
それを理性で押さえつけて走るのだ。
心臓が、呼吸が乱れるのは当然だ。
だから、狂いそうな呼吸とはそういうコト。
自らの心象世界、自らが“死”と認めたモノに挑むコトなど間違えている。
間違えているから、肉体は発狂することでその過ちに対抗する。
崩壊寸前の矛盾を抱えて、遠野志貴の肉体は疾駆する。
――――――直前で、最後の決定をした。
打倒できる算段も勝利への過程も、結局は想定できなかった。
それでも用意できる物が一つだけある。
――――――三回。
肉体の維持を考慮せず、手足が壊れることを前提にして神経を研ぎ澄ました動き。
例えば、動くたびにアキレス腱が断切していくような運動。
自らの肉体の崩壊と引き換えにした馬鹿げた動きをするのなら、アレの攻撃をしのげるだろう。
――――――それが、三回。
イメージの限界という事もあるだろうが、もともと遠野志貴の体では三回が限度だろう。
チャンスは三度。
ヤツの魔手を紙一重で回避し、死の点を突く機会が何処で現れるかは判らない。
ただ、その三度にわたる一瞬がこちらの限界だ。
四度目はない。
ヤツを倒すのならば、その三合の中の一瞬に賭けるのみだ――――
□七夜の森
そうして、暗い結界に足を踏み入れた。
――――――黒い森。
かつてここで暮らし、ここで絶えた血族の庭。
【コウマ】
そこには独眼の鬼と
小さな、黒い猫の死骸があった。
「―――――ああ」
俺は、最低だ。
そんなこと思ってもいないのに、その有様があんまりにも似ていたから。
まるで捨てられたゴミのようだと、思ってしまった。
□七夜の森
「――――――――――」
呼吸が止まった。
あれだけ狂っていた体も止まって、指先さえ反応しない。
おそらくは麻痺。
体も心も麻痺して、真っ白な状態になってくれたのだろう。
【コウマ】
「――――――――――」
死骸はヤツの足元に転がっていた。
容赦などなかっただろう。
それでも冷静でいられたのは理解していたからだ。
俺が。
遠野志貴がこの夢の終わりを望めば、それはあの子の最後なのだということぐらい、とっくに―――
「――――――――殺す」
それは、理性に反して心臓からせりあがってきた、目前の敵へ対する、ありったけの呪詛だった。
視界からヤツの姿が消える。
こっちは真っ白。ヤツに対する因縁だとか敵討ちだとか、そんな余分なものは燃え尽きた。
何の合図も幕もない。
それこそ、この殺し合いに相応しい始まりだ。
風きり音をともなって、ソレは発生した。
「――――――――」
視認など間に合わない、気が付けば目前にソレがある―――――!
凄まじい風圧が五感に突き刺さる。
ヤツは何の工夫もなく、当然と言わんばかりに、俺の顔めがけて必殺の魔手を打ち出して―――
「つぁああああ………!!!」
全身の力という力を左足に集中させて、脚だけの力で体を横に流した。
ばつん、ばつん、と筋肉が断線していく。
その引き換えに、コンマの差で目の前を通り過ぎて行く死の突風。
ただ突き出されるだけのやつの腕は、暴走する列車そのものの圧力だった。
「は、ぁ――――――!」
だがかわした。
いくら暴走機関車みたいなデタラメな腕を持っていようと、当たらなければ意味がない。
ヤツはまだ右腕を突き出したまま。
こちらは左足をぶっ壊してたたらを踏んでいる。
一度目―――――!
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s97
□七夜の森
日中でさえ暗い結界に足を踏み入れる。
――――――黒い森。
かつてここで暮らし、ここで絶えた血族の庭。
「……こんな所に用はない」
そう、ここに用などある筈がない。
だいたいなんだって屋敷とこの森が繋がっているんだろう。ここに行こうと考えた自分も困り者だが、来れてしまうのも困りものだ。
……たしか中庭から琥珀さんの庭園に出て、ぼけーっと歩いていたらここに出たんだっけ。
「……むむむ。琥珀さん、実は未来からきた万能ロボットなんじゃないだろうな……」
あ、それにしたってドアをくぐり抜けた記憶はないか。
「よし、帰ろう」
ぽん、と手を打って来た道へ引き返す。
その昔。月明かりだけを頼りに歩いた山奥を、意気揚揚と後にした。
return
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*s98
□遠野家居間
「そういえば秋葉のやつ、さっき妙なコトを言ってたな……」
例の物が届いているかとか、どうせ使わないけど一度ぐらいは試してみる、とか。
「…………………」
みょ〜に気になる。
よし、秋葉の部屋に行ってみるか――――
□屋敷の廊下
秋葉の部屋の前に来た。
コンコン、と扉をノックしてノブに手をかける。
「秋葉ー、入るぞー」
いつもの調子で声をかけてドアを開けた。
□秋葉の部屋
「あれ?」
部屋に入ってみてびっくり。秋葉の姿が見当たらない。
「おかしいな、廊下ですれ違わなかったんだから部屋にいる筈なんだけど……」
つかつかと部屋の中心へ歩いていく。
「……む?」
しゅ、という音が聞こえた。
音は隣の部屋から聞こえる。……そうして気を配ってみると、確かに隣りの部屋から人の気配がしていた。
秋葉の部屋の隣といえば、それは秋葉の寝室に他ならない。
「なんだ、秋葉のヤツ朝食のあとにすぐ昼寝なんてたるんでるぞ」
この場合昼寝という表現は正しくないと思うが、まあそんなコトは瑣末な問題だ。
「あいつめ、俺が昼寝すると文句を言うクセに自分は呑気に二度寝ってワケですか」
そうはいかないぞ秋葉。お兄ちゃんに見つかったからにはスヤスヤとおねむできると思うなよ……!
return
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*s99
□秋葉の部屋
で。秋葉の二度寝を邪魔した場合、こっちに返ってくるメリットってなんなのさ。
「……………」
うわあ、(自分にとって)黒いイメージしか湧いてこないぞー。
「……てゆーか、メリットというよりデメリットしかないだろ、これ」
冷静に結論を下して、自分がどれほど恐ろしいコトをしようとしていたかに気が付いた。
「……はあ。なに大人げないイタズラ心をおこしてるんだ、俺」
物忘れが激しい、という精神状態がよろしくないのだろう。なら、午前中は大人しく休んでいるのが吉だ。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s100
□秋葉の部屋
居間で別れてからそう時間は経っていない。
どれだけ寝つきがいいにしたって、まだ寝入ったばかりの頃だろう。
「――――――――ふ」
そ、ゆうワケで秋葉のねぼけ顔を拝見するチャンスだ。
「こらー秋葉―! 朝っぱらから二度寝なんかするんじゃなーい!」
いえーい、とばかりに勢いよく寝室のドアを開けた。
「―――――――――え?」
ドアを開けた途端、二人同時にそんな声をあげたと思う。
「―――――――――――」
「―――――――――――」
そのまま数秒。お互い、石化したようにぴくりとも動かない。
……自分が何かトンデモナイ事をしてしまった、というのは解っている。
秋葉も秋葉で、自分が何かトンデモナイ事になっていると解っている筈だ。
ただ咄嗟に声をあげそこなった為にタイミングを逸してしまっただけだと思う。
例えるなら、下手に声をあげた瞬間に酷いコトが始まってしまう。酷いコトは誰だってヤなので、とりあえず現状維持をしたい、といった感じだろうか。
……いやまあ、冷静に状況を把握しても詮無きコトなんだけど。
「――――――――に」
にいさん、と唇を震わす秋葉。
耳まで真っ赤にしちゃって、初々しいったらありゃしない。
「―――――――――」
ん、あの服はうちの学校の制服じゃないか。
ああ、読めた読めた。うちの制服が届いて、それを着ていく気はないけど一度ぐらいはどんなものかと試したくなった、という所だろう。
……ちぇ、惜しいコトをしたな。もう少し遅く来れば秋葉ブレザーバージョンを見れたっていうのに。
「―――――にいさ、ん、なにを―――」
しているんですか、と言いたいらしい。
秋葉はまだ思考が停止してしまっているのか、自分が下着姿で立っている、という事にも気がいっていないらしい。
「―――――――――」
かくいう自分も、秋葉の白い肌とか柔らかそうな曲線とか華奢な肩とか、そういった女性的な部分があまり目に入っていなかった。
そう、さっきから頭の中で繰り返されている言葉はただ一つ。
「秋葉。おまえ、あいかわらずぺったんこだな」
いやもう、それが素直な第一印象だったりする。
「さ、最っっっっ低!」
ブチ、と。何か、細い線が切れたような音がした。
バタン、と音がして地面がなくなった。
ひゅー、と落下していく俺の体。
「な、いつのまにこんな仕掛けをぉぉぉぉを!?」
奈落の底までまっ逆さま。
覗きの罰にしてはいきすぎじゃないか、これ。
「ばか、死んじゃえーーーー!」
遥か頭上になった秋葉の部屋から声が聞こえる。
うわぁ、裁判を通り越して死刑説濃厚になってまいりましたー。
―――そんなこんなで、気が付くと地下牢にいた。
「あ、あ痛たたたたた…………」
落ちてくる時に腰を強打したのか、立ちあがると体中が軋んだ。
「くそ、ほんとに地下牢じゃんかココ……」
じゃらり、と音がして、手で額の汗を拭った。
ん、じゃらり……?
「って、うわああああ! て、手足が鎖で繋がれてるー!」
テッテイしている。
ここまでテッテイするというコトは、つまり琥珀さんはホンキだという事なのでしょうか?
「うっ、さむっ……」
ぶるっ、と震える体を抱く。
じゃらり、とまたも鬱になりそうなヘヴィサウンド。
「冗談じゃないぞ、こんなトコに一日でもいたら精神に異常をきたす」
適当な石を持って、ガンガンと牢を叩く。……超合金で出来ているのか、石の方がたやすく砕ける。
「うーん、こりゃまいった」
ああ、でもどっかの人が地下室は安心できるとか歌ってたっけ。……うむ、どっちかっていうとあの歌はシキのテーマソングではあるまいか。
「―――って、他人事じゃないって。日が落ちる前に外に出ないとえらいことだぞ」
きょろきょろと周囲を見渡して、ナイフ代わりになりそうな石を探す。
石は簡単に見つかった。
「――――あれ?」
って、そんな物を見つけてどうしようというのか。
石では牢は切れない。なんだって俺は、そんな物があればたやすく牢を切れるだなんて思ったんだろう?
「ふふふ、ダメですよ志貴さん。そんな危ないコト思い出しちゃいけません」
かんかんかん、と階段を下りてくる足音。
「こ、琥珀さん!?」
「はい、お待たせしました。ちょっと待ってくださいね、すぐに開けてさしあげますから」
ぎいー、と錆びた音をたてて牢が開く。
……良かった。質の悪い冗談だったけど、さすがに冗談のままで終わってくれたらしい……って、ちょっと待った!
「な、なに持ってるんですか琥珀さん!」
「なにってお注射の時間です。本当はこのような事は心が痛むのですけど仕方ありません。志貴さんは中々反省してくださらないので、聞き分けがよくなるお薬を注射しますね」
「うわ、嘘っ! ぜったい嘘! 琥珀さんすっげえ楽しそうじゃんかー!」
「やだなあ、そんなコトないですってば。ほら、わたし痛いの嫌いですし」
「ばか、そんなのフツー誰だって嫌いだって!」
ニコニコと近寄ってくる割烹着の悪魔。……もとい、割烹着を脱いだ悪魔。
「うわあ、分かった、分かりました! もう夕食は残しません! それに外食も控えます! ついでに早起きもしますからー!」
「うふふ、そんな事言ったって逃げられませんよ志貴さん。さ、大人しくしてれば痛くありませんからちゃっちゃっと射っちゃいましょー!」
「はわわわ、オッケー、こうしよう! 琥珀さんの言い分ももっともだ。もっともだから、せめてどっちか一本だけにしてくれー!」
「あ、そうゆう事ならご心配なく。二本持っているのは射ち損じた時のための予備ですから」
にっこりと笑って、琥珀さんは俺の腕に注射器を突きたてた。
「志貴さん、聞こえてます? いいですか、これからはここが志貴さんのお部屋です。ですからくれぐれも外に出ようだなんて思わないでくださいね。
……ええ、そうしてくださればわたしも手荒な事はいたしません。もう何も考えられなくなるぐらい、優しく飼ってさしあげますね―――」
クスリ、と琥珀さんが笑った。
……うう、今までいろんなバッドエンドを迎えてきたけど、これに勝るおしまいは無かったよぅ……
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s101
□遠野家居間
「翡翠、一人で客間の整理をするんだっけ……」
屋敷の掃除は翡翠の管轄だ。
琥珀さんに館内の清掃を任せると壺が割れたり絵に傷がついたり絨毯が燃えたりするので、任せられるのは翡翠だけになっている。
言うなれば琥珀さんは遠野家のポルターガイスト、翡翠はそれの後始末に奔走する掃除屋さんだ。
とまあ、そんなコトを抜きにしても翡翠は片付けのプロなんだそうだ。とくに散らかった物置なんかを片付けさせると物凄い才能を発揮するらしいけど……
「翡翠、力ないからな……重い物があったらタイヘンだろうし」
うん、そういった理由で何か手伝いができるかもしれない。
翡翠が向かった客間は遊戯室の隣だっけ―――
□屋敷の物置
ドアを軽くノックして中に入る。
……何か物が引っかかっているのか、ドアは半分しか開かなかった。
「うわあ、こりゃまた……」
ひどい、という言葉を呑み込んで部屋を見渡す。
どのくらい放置されていたのか、客間は荒れ放題散らかり放題だった。
床は足の踏み場もないぐらい物が溢れているし、壁やテーブルも随分と手入れがされていないように見える。
ここまで酷いと客間というのもおこがましい。
「……翡翠、いる?」
部屋の奥に声をかける。
「志貴さまですか? 申し訳ありません、すぐに参ります……!」
隣の部屋から翡翠の声。
がたん、がつん、とテーブルやら本棚にぶつかる音をたてながら翡翠が隣部屋からやってきた。
【翡翠】
「―――お待たせいたしました。何かご用でしょうか志貴さま」
はあ、と静かに息を整える翡翠。その額にはうっすらと汗がうかんでいて、力仕事をしていたのは明白だ。だっていうのに疲れた素振りもなく、いつも通りにおじぎをしてくれるのは有り難いというか申し訳ないというか。
「志貴さま?」
「あ、うん。……その、ちょっと時間が空いたから手伝いをしにきた。翡翠は嫌がるかもしれないけど、俺に出来るのは力仕事ぐらいなもんだろ? ってコトで、ここでしか役に立てそうにないんだ」
【翡翠】
「いいえ、そのような事は決して。志貴さまはどのような場所でも優れた結果をお出しになられる方です。
【翡翠】
……その、わたしの方こそこのような事しか取柄がないのですから、どうかこの場はお任せ願えないでしょうか」
……う、やっぱり断られたか。
翡翠は責任感が強い上に潔癖症という、実はこの上ないほどの完璧主義者だ。
そんなわけで仕事を任された以上一人でこなすのは当たり前、くわえて俺が手伝うなんてのはルール違反なんだろう。
「――――はあ。やっぱりハッキリ言わないと翡翠には分からないか」
【翡翠】
「? 志貴さま、それはどういう―――」
「だから時間が空いてたっていうのは口実で、単に翡翠と一緒にいたいから手伝いに来ただけなんだってコト。翡翠と片付けするのは楽しいし、翡翠が楽できるなら嬉しいんだ。……それが手伝いたい理由っていうのじゃダメかな」
【翡翠】
「――――――――――」
ぼっ、と音がでるぐらい頬を真っ赤にする翡翠。
……恥ずかしいのはこっちも同じで、きっと負けないぐらい赤面していると思う。
「と、いうワケなんだけど……手伝っていいかな、翡翠」
「………………………」
翡翠は答えない。
いつもと同じ、止まっているかのような静かな動作と沈黙のあと。
【翡翠】
「…………はい。それでは指示を出させていただきますので、志貴さまのお手をお借りします」
消え入りそうなほど小さな声で、翡翠は嬉しそうにそう言った。
□屋敷の物置
――――そういう訳で片付けである。
どうやらこの部屋は臨時の物置として使われていて、新しい物置が出来たとたんにそのままにして封印されていた物らしい。
「……親父もけっこういい加減な人だったんだな」
何に使うのか見当もつかない器具をダンボールに仕舞う。……他には分厚い本だのファイルのように重ねられた絵画だの、一見ゴミのようでとんでもない値打ち物が転がっていて、体力より神経をつかいそうだ。
【翡翠】
「槙久さまは蒐集家ではあったのですが、一度手に入れてしまった物に対する執着はありませんでした。
槙久さまには槙久さまの理論があったのでしょうが、奥さまは志貴さまと同じ意見だったようです」
隣で本を分別していた翡翠が答える。
「ははあ。その様子じゃ翡翠も同じ意見ってワケだ」
こっちは翡翠を視界の隅に収めつつ、手探りでテーブル上の骨董品を掴んで仕舞った。
【翡翠】
「ぁ―――いえ、使用人が主を評するコトなどありません。今のはあくまで奥さまの意見です」
「はいはい、そういうことにしておくよ。俺も気をつけなくちゃな、翡翠の前ぐらいは整理整頓しないと嫌われちまう」
さらに次の骨董品。……今度はわりかし重い。
【翡翠】
「志貴さま。そのような事はないと何度申し上げればいいのですか」
「何度申し上げてもダメだよ。そもそもこっちが翡翠に助けてもらってるんだから、翡翠はもっと俺に言いたい放題していいんだぞ。もっと早く起きろー、とかちゃんと予定通り帰って来ーい、とか」
んでさらに次。……あれ、次のは、と……
「……そのような事は申し上げられません。わたしの主人は志貴さまなのですから、使用人が主の予定に従うのは当然の義務です」
「―――う、またそれを言う。その決め台詞を言われると、こっちは完全に手詰まりにな―――」
お、手応えあり。
……って、なんか違う。骨董品にしては柔らかいというか、平たいという、か――――
「―――――――――――――」
途端、時間が止まった。
「あ――――――――」
声がうまく出ない。何か、何か言わなくちゃいけないんだけど、なんていうか――
「あの、これ、は――――――――」
ちっくたっくちっくたっく。
時計の秒針がやけにうるさくて、自分の声がかき消されるような錯覚。
どくんどくんどっくんどっくん。
秒針に対抗心を燃やしたのか、鼓動までやかましくなっちまってますます声が出なくなる。
つい、と。
緊張して混乱している俺とは正反対に、あくまで冷静に翡翠は視線を落とした。
無言で自分の胸を見る翡翠。
そこにはどうやっても言い訳がきかないコトをしている俺の手の平がある。
「―――――――――――――――」
手。そうだ、手を引かないと。
「あ―――――――――――れ」
うわあ、動きゃしねえ……!
ここで手を引いて謝れば誤解だって分かってもらえるっていうのに、なんで体がこんなにガチガチになってるんだ、俺は……!
「翡翠、これは――――」
誤解だ、なんて言っても説得力はまるでない。なんたって俺の手はまだ翡翠の胸に触れているんだから。
「―――――――――――――」
翡翠は無言で俺の手を見詰めている。
……と。混乱してパニクッてる俺とは違って翡翠はいつものままだ。
……そっか、賢明な翡翠のことだから、これが事故だってちゃんと分かってくれているんだ……!
「そ、そうなんだ翡翠、これはただの偶然であって、決してワザとやったわけじゃないっ……!」
必死になって言い訳する。
「―――――――――――」
あ。
これは、まずい。
翡翠は冷静になっていてくれたんじゃない。
翡翠は俺以上に、それこそ言い訳を考える余裕がないぐらい、頭を真っ白にして混乱していたのだ。
「―――――――――――」
けど、それは分かるし悪いとは思うけど、その顔は反則だ。
そんな顔をされると本当に俺が全面的に悪かったような、そんな気がしてどうしようもない気持ちになる―――
「――――――――――――」
「――――――――――――」
……お互い動けないまま時間が過ぎる。
少しでも動けば翡翠が泣き出してしまいそうで、とてもじゃないけど動けない。
ああ、だれかこの地獄から俺たちを助けてくれぇ……!
「あーーーーーーーー! 志貴さん、翡翠ちゃんにイタズラしてるーーーーーーーー!」
□屋敷の物置
と。
望んでいた助っ人は、さらに事態を悪化させるような叫びを屋敷中に響かせやがった。
……もとい、響かせてしまいました。
「琥珀、今のはいったいどういう意味よ―――!」
ドタタタタ、という土煙をあげて客間に突入してくる秋葉。
……俺の前には凍りついた翡翠と、ひどいひどいとハンカチを噛んでいる琥珀さんと、般若もあわやという迫力でやってきた秋葉がいる。
「…………………死んだな」
ああ、死んだとも。
ぼんやりと呟いて、人間が死ぬのなんていつも唐突なんだろうなあ、と見逃しやすい真実を実感した。
□屋敷の物置
「……兄さん。その電灯は気に入りませんから替えてください。替えの物はどこにあるの翡翠」
「――――――――」
俯いたまま秋葉の傍らで答える翡翠。
「代えは東館の屋根裏部屋にあるそうです。ん? あ、そうなの? いま兄さんが片付けたのはゴミだから焼却炉に持っていけって?」
「――――――――」
ぼそぼそと呟く翡翠。
「だそうです。まずはそのゴミを片付けてくださいね。あ、それからそこの黒い本と白い本はお父様の書斎に持っていってください。窓際の本棚の三段目に空きスペースがあって、本来はそこに入っていた本なんですって」
「――――――――」
「絨毯も替えたい? そうね、たしかにこれは見苦しいもの。そうなるといったん家具を外に運ばないといけませんね、兄さん」
「…………………ちょっと、待て」
容赦なく続く指示に待ったをかける。
「おまえは、鬼か。このままじゃ、過労死しても、おかしくないぞ」
ていうか殺す気だろう、おまえ。
【秋葉】
「……ふうん。まだ減らず口を利ける余裕があったんだ、兄さん。翡翠にあんなコトしといて随分と態度が大きいんですね」
「うっ……だから、反省してるって言ってるのに……」
秋葉も琥珀さんも許してくれないのは、酷いと思う。
【秋葉】
「そんなのは当然よ。けどそれじゃあ気が済まないから、せめて翡翠の仕事を肩代わりすると言い出したのは兄さんでしょう? ならつべこべ言わずにさっさと仕事を済ましてください」
……ちぇ。さっきはそうでも言わないと殺されかねない状況だったんだってば。
だいたい翡翠は事故だって分かってくれたのに、部外者の秋葉と琥珀さんが裁判官になるのは間違っていると思う。
【秋葉】
「ほらそこ、さぼらない! サッサとゴミを捨ててくる!」
「――――――ああもう、分かりましたよ!」
よいしょ、とダンボール一杯のガラクタを持つ。
……うー、今日の午前中は今までにないぐらいハードな半日になりそうだ……
return
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*s102
□遠野家居間
「そっか、琥珀さんは午前中お休みなのか」
それなら少しお邪魔しても迷惑はかからないだろう。
「―――――――よし」
たまにはこっちの方でお茶とお菓子を準備して、琥珀さんを誘ってみよう。
□屋敷の廊下
お湯の入ったヤカンと急須、甘味処の羊羹をお盆に載せて琥珀さんの部屋までやってきた。
ちなみに和菓子は台所にある買い置きの物ではなく、私財を投じて調達しておいた、有間家時代からお気に入りの店の逸品だったりする。
「琥珀さーん、お茶しませーん?」
コンコン、とドアをノックする。
「あれ、志貴さんですか?」
意外そうな声が聞こえてきて、ガチャリとドアが開かれる。
【琥珀】
「わ。志貴さん、豪勢なお盆を持ってますけどどうなされたんですか?」
「はい。やる事がなくて暇なので、午前中がお休みなら話し相手になってもらえないかなー、と参上しました。お茶と羊羹を差し上げますので、中に入れてくれると嬉しいです」
どうぞ、とお盆を琥珀さんに献上する。
【琥珀】
「―――――――」
よほど意外だったのか、琥珀さんは固まってしまった。
「いや、忙しいのならいいんです。どうもお邪魔しました」
【琥珀】
「あ、いえ、そんな事ありません……! あの、志貴さんにお誘いいただけるのは嬉しいんですがこういう不意討ちには慣れてなくて、つい……!」
と、一変して火がついたように声を上げる琥珀さん。
「……えっと、それはつまりオッケーという事ですか?」
「はい、もちろんです。……と、その前にちょっといいですか?」
琥珀さんはしー、と口に指をあててから、きょろきょろと廊下を見渡す。
「? 琥珀さん、なにしてるんですか?」
【琥珀】
「いえいえ、なんでもないんです。
そんなことよりどうぞ中に入ってください。退屈していたのはわたしも同じだったんです」
言って、琥珀さんはさあさあと俺の背中を押して部屋へと招き入れてくれた。
□琥珀の部屋
……そんなこんなで、琥珀さんの部屋でまったりと過ごす事になった。
この屋敷で唯一テレビがあるこの部屋にいる以上、なんとなくテレビはつけっぱなしになってしまう。
【琥珀】
「あ、ちょっといいですか?」
時計の針が十一時を指した頃、琥珀さんはテレビのチャンネルを変えた。
そうしてブラウン管に映し出されたのは歌舞伎の舞台。
……和服を仕事着にしているあたり和風なんだなー、と思っていたけど、琥珀さんはその趣味も和風らしい。
テレビからは歌舞伎特有の、なんだか呪文みたいな口上が流れてくる。
「……あれ。これ、怪談話?」
何言っているか判らないまでも、舞台の雰囲気で怪談話と読み取れた。
【琥珀】
「そうですね、これは鍋島の猫騒動みたいです。殺されて壁に塗りこまれた主人の血を舐めた猫が、お化けになって復讐するお話なんですよ」
「……はあ。壁に塗りこまれたって、随分と生々しい殺されかたですね、それ」
「あ、厳密にいうと違うんです。これはですね、松平丹後守という人が又七郎という人を斬り殺してしまい、それを隠すために死体を壁に塗りこんでしまったんです。
ですが殺された又七郎は怨念から幽霊となってしまい、自分が塗りこまれた壁から血みどろのまま化けてでてくる。その又七郎の血を舐めた又七郎の飼い猫が変化しまして、松平丹後守の妻に化けてお屋敷の中を少しずつ狂わせていくんですね」
淡々と内容を説明する琥珀さん。
……前から思ってたけど、琥珀さんってお化けとか幽霊に強いんだろうなあ、きっと。
「……ふうん。しかし化け猫ですか。それは猫又とは違うものなんでしょうかね」
ふと思いついた疑問を口にする。
「違うモノだと思いますよ。猫又というのは年を経てお化けになったモノで、こちらは主人の血でお化けになったモノでしょう? ですから百猫伝の猫は中国でいう所のビョウキに近いと思います」
「ビョウキ? それって病気のビョウキですか?」
「いえいえ、猫の鬼と書いて猫鬼です。大陸の方では猫は呪詛に用いるモノで、猫そのものに力はなく術者が人為的に猫を呪いの手先にするんですね。
そういった所で又七郎の猫と猫鬼は分類が似ていると思います。あくまで外的要因で人を呪う、というコトが」
……ふむ、さすが琥珀さん。その正体不明の博識ぶり、屋敷で一番謎の多い人というあだ名は伊達じゃない。
「ですが、猫又とこの歌舞伎に出てくる猫は行動原理が似ていますね。
猫又というのは人を食らう恐ろしいお化けですが、基本的に主人の仇討ちでなければ人を襲う事はしないそうです。ですから、猫又は自分から人を襲ったりはしないんですよ」
「ははあ。たしかにこの百猫伝の化け猫は主人の仇討ちをしていますね」
呪うという言葉は物騒だが、そのあたり一途といえば一途といえるかもしれない。
【琥珀】
「あ、そうだ志貴さん。怪談といえば、このお屋敷にまつわる噂を知っていますか?」
と。いきなり意地の悪い微笑みをうかべる琥珀さん。
「……知らないです。というか、あまり知りたくありません」
「もう、男の子なんですからそんなコト言わないでくださいな。ちょっと信憑性があるだけの噂話なんですから、サラッと聞いてみたいとか思いません?」
「そんな、ちょっとでも信憑性のある怪談なんて聞きたくありません」
きっぱりと断る。
「あ、志貴さんつれないです。ほんのちょっと、できるだけソフトに説明しますから聞いてくださいませんか?」
ニジニジとにじり寄ってくる琥珀さん。
対して、こちらはジリジリと引きさがる。
「ね、志貴さん。面白い話なんですから聞いてくださいません?」
「結構です。そういう話は秋葉か翡翠にでもしてください」
「それがですね、翡翠ちゃんと秋葉さまには一度お話して以来、二度とわたしの噂話は聞かないと絶縁状を渡されてしまいまして」
はあ、と残念そうにため息をつく琥珀さん。
……なんか、嫌がる翡翠に無理やり怪談を聞かせている琥珀さんの姿がリアルに想像できてしまった。これがまた、翡翠も翡翠で無理して無表情でいようとするもんだからえもしれぬ緊迫感があるというかなんというか。
「―――あ。琥珀さん、もう十一時半だぜ。そろそろ昼食の支度をしないとまずいんじゃないか?」
びし、と時計を指差すと、琥珀さんはピタリと止まった。
【琥珀】
「……………ちぇ」
なんて、心底不満そうな顔をしながら立ち上がる。
□屋敷の廊下
【琥珀】
「まことに残念ですが、昼食の支度を始めますね。時間になったらお呼びしますから、それまでどうぞ寛いでいてください」
パタパタと足音をたてて厨房へ向かう琥珀さん。
「あ、ところで琥珀さん。この話の化け猫、最後はどうなっちゃうんだ?」
【琥珀】
「それがですね、人間に化けた猫はうまいこと復讐を続けるんですけど、最後には化け猫とバレて退治されてしまうんです。つまり昔から完全犯罪は難しいものとして捉えられていた、という事でしょう」
…………いや。その結論は、違うと思う。
「……最後には正体がバレた、か。けどどうして化け猫だとバレたんですか? やっぱり偉いお坊さんとかが出てきて退治したとか?」
【琥珀】
「いいえ。その猫さん、夜になると行灯の油を舐めているんですけど、その時障子に映っていた影が猫に見えて、化け猫の正体見たり、と騒ぎになっただけですよ」
それでは、と琥珀さんは厨房へと去っていった。
「……………はあ。障子に映った影ですか」
というか、行灯の油を舐めているトコロで人間じゃないと気が付かないあたり、昔の人というのは寛大だったのだなあ。
return
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*s105
□遠野家居間
「そうだな、外はいい天気なんだし……」
こんな日は陽射しを浴びないともったいない。普段不健康なんだから、今日ぐらいは体をいたわる事にしよう。
□中庭のベンチ
「―――――っ」
陽射しが直接眼に映る。
天気は完璧。まともに見上げると眩暈をおこしそうなぐらい、晴れやかな青い空が続いている。
「んー、こういう時に椅子があるっていうのは嬉しいねえ」
中庭に備え付けられた椅子に腰を下ろす。
きちんと陽射しを考慮されて配置されているのか、椅子に座るとちょうど胸から下に陽射しが当たる。
―――おお、ますます完璧。
気を抜けばこのまま眠っちゃってもおかしくない居心地の良さだ。
「……って、あれ。おまえも日向ぼっこか?」
つい、と椅子の横、テーブルの下に視線を落とす。
そこには
【レン】
優雅に体を休めていた黒猫らしき姿があった。
「あ、いいよいいよ。別に何もしないからそこにいろって。ここでこうしてるの、気持ちいいだろ?」
人の話を聞いているのかいないのか、黒猫は堂々と日向ぼっこを再開した。
「――――――――」
その姿が妙に愛らしくて、つい忍び笑いをこぼす。
黒猫はぴくん、と耳を動かしたけれどそれでもここに残ってくれるようだ。
「まったく。何してるんだろうね、俺たち」
ひどく優しい気持ちになって、そんな呟きを洩らす。
「――――――ああ、でも」
こういうのは、とてもいい。
お互いを意識していない訳でもないけど、とりあえず不干渉。
けど隣に誰かがいるという安心感と好奇心が妙にくすぐったくて、退屈な筈の時間が退屈じゃなくなっている。
のんびりと時間を過ごせて、それでいて退屈に感じない時間帯。
きっと心を許せる人が側にいる時というのもこういう感覚なんだろう。
その連帯感がこんなにも簡単に得られてしまうのは、動物には人間のような込み入った考えがないためだと思う。
……ああ、あともう一つ。
なんとなくだけど、この子にはすごく信頼されているような気もしていたり。
「おかしいな。おまえ、俺に触れさせてもくれないっていうのに」
黒猫に反応なし。
「――――ま、いいけど」
そんなこんなで、黒猫と一緒になってのんびりと日向ぼっこを続けてみた―――
return
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*s106
□遠野家居間
……離れの屋敷、か。
そうだな、天気もいい事だし縁側で日向ぼっこをするのも悪くはないだろう。
□離れの入り口
離れに到着。
老朽化が進んでいる建物だが、秋葉は少しずつ手を加えて残す事にしたらしい。
もし秋葉が結婚なんかして家族ができれば使用人の数も増えるだろうし、その時はこの離れも昔のようににぎやかになるだろう。
□離れの入り口
□離れの入り口
「――――――あれ?」
不意に、何かおかしな映像が頭をよぎった。
地面から離れの玄関を見上げていたような感じ。
自分が小さくなったような、世界が大きくなったような、そんな錯覚。
「んん〜〜〜?」
はて、と首をかしげる。
そういえば――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s107
□離れの入り口
―――――ま、何かの思い違いだろう。
子供の頃はここで暮らしていたんだし、玄関を見上げるような視界、というのは子供の視界に違いない。
だいたい昨日のコトさえ満足に思い出せないんだから、こんなコトでいちいち悩んでいたら日が暮れる。
「さ、日向ぼっこ日向ぼっこ」
口笛を吹きつつ、子供みたいに軽い足取りで縁側へと移動した。
return
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*s108
□離れの入り口
――――そういえば、おかしな夢を見た気がする。
自分がネコの呪いにかかって屋敷を探検する夢だ。
「…………う」
思い返すと散々な目にあったワケだけど、最後にはこの離れで何かを見つけたんだったっけ。
「……たしかこのあたりの壁に……」
隠し棚のようなものが――――
□離れの入り口
「あ、ホントにあった」
地面スレスレ、ネコの視点でなければ気が付かないような位置。
板ばりの壁は引き出しのようにスライドして、中には鍵が一つ納まっていた。
「……鍵だ。これって何処の鍵だろう……」
ま、とりあえず持っていて損はない。
古びた鍵をポケットにしまって、当初の予定通り縁側へ日向ぼっこをしに移動した。
return
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*s110
正午になった。
広大な敷地の中にいるせいだろう、一日を屋敷で過ごしているとここが街の中だという事を忘れてしまう。
雑多な人の賑わい。海鳴りのような自動車の音。忙しい時計の針。
そういった日常的な出来事が、この屋敷では遠い世界の出来事に思えてしまう。
「こういうのも世間から隔離されてるっていうのかな」
ふと、身勝手なコトを呟いた。
それは錯覚。
贅沢な、両手にありあまるほどの可能性を持っている者が見る錯覚だ。
……あれは誰の言葉だっただろう。
本当の孤独というのは、観測者から見て孤独であると断定できる対象自身が、孤独の存在も意味も知り得ない事なのだという話。
言葉も知らず、
感情も学ばず、
手を伸ばせばすぐ届くところに何かがあるというのに、
手を伸ばすという行為さえ思いつかない、
無色な生命。
世界の真ん中で独りきり。
喜怒哀楽を持っているのに、喜怒哀楽というものが解らない。
迷子の迷子の――――なんだっけ?
「――――なんだろう」
こんなにも空は深いのに、急にそれが残酷なコトに思えた。
世界が美しければ美しいほど、その美しさを理解できないモノは色を無くしていく。
そんな、自分とはまったく関係のない誰かのことを、青い空を見上げながら考えていた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s111
正午になって、屋敷はますます街の喧騒から隔離されていく。
丘の上にたつ洋館。
街のただ中にあって別世界のような敷地。
街の人々からは見上げられるだけ。ここは彼らからは遠すぎる世界であるが故に、そこに誰が住んでいようが何の関心も持たれない。
そうして逆に。
ここにいるかぎり、こちらから外の世界なんて覗けない。
「……ああ。この塀の向こうはとっくに崩れちまってるのかも」
ガラガラと人知れず崩れていく世界の端。
あの子は今も一生懸命になって走りまわって、矛盾を起こして崩れていく世界にツギハギをかけているのだろうか。
「―――はあ? 何だそれ」
壊れていく世界を修理して回る女の子?
昨日、そんな童話でも見たのかもしれない。
明確に昨日を思い出せない以上、真偽を定めるコトはできないのだが。
「………………」
ただ、そのイメージは後ろ髪を引かれる。
無駄な事だと解りきっているのに、最後の瞬間まで夢を作ろうとする少女。
そんな事をしたって、あの子には何一つ得るものなんてないだろうに。
あの子はなんのために、誰のために、あんなにも必死になってこの幸せな一日を守ろうとしているのだろう―――?
return
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*s112
正午になって、屋敷はますます街の喧騒から隔離されていく。
丘の上にたつ洋館。
街のただ中にあって別世界のような敷地。
街の人々からは見上げられるだけ。ここは彼らからは遠すぎる世界であるが故に、そこに誰が住んでいようが何の関心も持たれない。
そんな世界で、あの子は何を待ち続けていたんだろう。
いや、待ち続ける、なんて考えさえ思いつかなかったんだ。
いつか小さな、ほんの小さな変化が起きて、ただ眺めるだけの日々に終わりが来るのだろうと夢見る事さえなかった。
叶わなくたっていい。
夢とは幻想だ。人は幻想を糧にしなければ生きていけない。
だっていうのに、あの子にはその糧さえなかった。
何故なら、
夢を見る事は楽しいのだという事を、彼女は教えられなかったからだ。
……黒猫はただ風景を眺めている。
一番愛してくれた人、
一番愛してあげた人。
いつも側にいてくれた人、
いつも側にいてあげた人。
なのに、それは誰よりも遠かった知らない人。
……鐘の音が鳴り響く。
丘の下、小さな村で葬列が続いている。
とごまでもブラウンの草原。
草を揺らす風濤。
――――ある日。
何の前触れもなく、それがとりわけ意味のある事ではないというふうに、静かに息をひきとった彼女の主。
return
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*s113
□志貴の部屋
――――と、いうわけで昼食が終わった。
朝食と夕食では同席しない翡翠と琥珀さんだが、昼食だけは四人で一緒にとるのが最近のルールになっている。
お昼、という時間帯の明るさもあいまって、昼食はほのぼのとしていて心が落ちついた。
「さて、午後はどうしようか」
満腹になったお腹に手を当てて考え込む。
せっかくの休日だし、ここは――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s115
□志貴の部屋
「……ん……ちょっと体がだるいかな」
午前中動いていたせいか、体にちょっとした疲れが残っているような感じがする。
どうせこれといった予定があるわけでもないし、今日みたいに天気のいい日はむしろ昼寝をするべきだろう。
……む。一度そう考えると無性に昼寝がしたくなってきた。
「いえーい、決まり決まりー」
寝巻きに着替える、なんて無粋な真似はしないでベッドに倒れこむ。
午前中にシーツは干されていたのか、温かい日向の匂いがしていた。
「……あ……まじでいい感じ……」
わずかに焦げたような匂いがするシーツと、ふかふかしたクッションの相乗効果か。
ベッドに体を沈めたとたん、あっけなく意識は眠りへと落ちていった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s116
□志貴の部屋
「……ん〜、なんかまだ体がだるいなあ……」
午前中あれだけ眠ったっていうのに眠気は一向に収まらない。
「……あー、けどこれってアレだよな、寝すぎで眠いっていうヤツ」
普段より三時間ぐらい余分に眠ると、眠気がないのにまだ寝てしまう、という現象が起こる。きっと心身ともにたるみきった体が“動くのめんどくさーい”とさらにたるもうとするのが原因だろう。
「……うーん、寝すぎると頭痛がするんだけどなあ……」
そればかりか、一日中寝ていたりしたら悪夢の類を見そうな気がする。
「ま、いっか。寝たい時は寝るが吉だし」
後のことを考えるのはやめて、潔くベッドにねっころがるコトにした。
夏の終わり。
家族全員で旅行に出かけた帰り、突然の暴雨に襲われた彼らは人気のない山奥に取り残される事になった。
強風と豪雨に悩まされながら一夜の宿を求め、山道をさまよい歩く一行。
不気味な森、徘徊する野犬の群れに怯えながらも彼らはついにある洋館に辿りついた。
□屋敷の門
嵐はやまず。
一行は九死に一生を得た思いで館の扉に手をかける。
それが、さらなる恐怖の幕開けになるとも知らぬまま――――
□遠野家屋敷
□遠野家1階ロビー
手入れの行き届いた内装。
つい昨日まで人が住んでいたような部屋。
一行は自らの幸運に感謝する。
だが。
訪れた館は、呪いによって支配された死の空間だったのだ!
□遠野家居間
【久我峰】
「ようこそ、私が館の主人です」
【琥珀】
「……うわあ、とんでもない所にきちゃいましたねえ……」
【久我峰】
「なんだと、乳もませろ小娘ぇぇぇええええ!」
【琥珀】
「―――――――――――――――」
唐突にふりかかる冗談のような悪夢!
□秋葉の部屋
【秋葉】
「そ、そんな、兄さんが二人……!?」
「は? なにいきなりワケわかんないコト言い出すんだよ秋――――」
【偽志貴】
「ふふ、アキラちゃんは可愛いなあ」
「なっ、誰だオマエ! ……って、たしかにアキラちゃんは理想の妹だけどさー」
【秋葉】
「そんな、言動までうりふたつ!? これじゃどちらが本物か判らないわ!」
【翡翠】
「秋葉さま。面倒ですから二人とも始末してしまいましょう」
【琥珀】
「きゃー、翡翠ちゃんったら超クール!」
スリル!
□中庭のベンチ
「よし、ここから外に出られるぞ!」
「やりましたね志貴さん!」
「秋葉さまには申し訳ありませんが、一刻も早くここから脱出いたしましょう」
「オッケー、こうなったのも秋葉の責任だから自業自得だろう。って、二人ともここまで無事か?」
【翡翠】
【琥珀】
「はい。かすり傷一つありません」
「うわあああああ、血、二人とも血が出てるって!」
ブラッド!
□屋敷の前の道
「はぁ、はぁ――――くそ、結局出られたのは俺だけか―――!」
【黒犬】
「いぬ」
【虎】
「とら」
【鹿】
「しか」
【黒豹】
「じゃがー」
「ひいい、いつのまにか動物に大人気!?」
ズー! ズー! ズー!
□遠野家屋敷
次々と降りかかる身も凍る天変地異!
呪われた館に迷いこんだ一行は生きて朝日を拝めるのか!?
一人、また一人といい感じで壊れていく仲間たちの運命は!?
そして館に隠された戦慄の過去、地下に封じられたという悪魔の正体とは何なのか……!
シナリオ枚数まあそれなり、
イベント枚数ちょっとだけ、
構想に至ってはシャレですませておけば良かったと大後悔!
ドージンの限界、ノーアンダー(注:これ以下はないの意)に挑戦する意欲作!
新ジャンル、痛寒伝奇アドベンチャーこの秋登場!
――――ああ。
今夜は本当に、掴みが、キレイだ―――
□志貴の部屋
「………………………はい?」
きょろきょろと部屋を見渡す。……うん。とりあえず、部屋はいつも通りでいてくれてる。
「夢、か―――――」
……今までいろんな悪夢を見てきたけど、今日のは群を抜いてズバ抜けていた。
願わくば、あんなトンデモな夢が正夢になりませんように――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s118
□志貴の部屋
秋葉の様子を見に行ってみようか。
あいつが暇してるんならこの間のゲームの続きをやるのもいいし、そろそろ真剣にバイト禁止令について抗議しなければならない時期でもある。
「けど秋葉の部屋ってなんかプレッシャーあるんだよなあ……」
ゲームにしろ話し合いにしろ、秋葉の部屋でするとこっちが勝った例しがない。
「……そういえば秋葉の部屋で話し合いをすると、たいてい酷い目にあったような―――」
気がするんだけど、今はうまく思い出せない。
昨日までのコトが思い出せない、という状態はまだ続いているという事か。
□屋敷の廊下
「秋葉」
コンコン、とドアをノックする。
「秋葉? 俺だけど、いないのか?」
さらにノック。
だが一向に返事はなく、扉一枚隔てた向こう側には人の気配というものが感じられなかった。
「ありゃ。習い事にでもいったのかな、あいつ」
それとも屋敷のどこかで読書でもしているのか。
ま、どちらにしても秋葉の部屋には誰もいないという事だけは確かだ。
「――――――――――」
そっか、中には誰もいないのか。
「………ちゃ〜〜んす」
キラリ、と脳裏によこしまな天啓が走る。
秋葉なき今、勝利は我に有り。
屋敷に帰ってきてからこっち、謎の一つだった秋葉の部屋の全容。
それが、それがついに解明される時が来たというのか!?
return
*s119
□屋敷の廊下
………いや、冷静になってよく見ろってば。
さっきから天啓をくれている神さまは、なんか黒い羽とか生えてないか?
「………うっ」
ぶるっ、と寒気がした。
君子危うきに近寄らず、無断で秋葉の部屋に入ったらものすごいカウンターが待っていそうだ。
「やめやめ、部屋で寝てよ」
うむ、と頷いて秋葉の部屋を後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s120
□屋敷の廊下
――――――来たのだ! 立てよ国民!
だって今度ばかりは勝利の確信があるもん。
いつものようにいいところで秋葉が帰ってきて怒られる、なんて事は絶対にないと神さまだっていってるし。
「――――――――ふ」
つい口元が緩む。
さあ、このまま中に入って、秋葉の日記とか秋葉の趣味とか秋葉の弱みとか握るのだ。……お兄ちゃんとしてなんか色々問題はある気がするが、遠野志貴の待遇を改善させるためには已む無しである。
「よーし、謎はすべて解けた!」
自分でもイッちゃってるなと解っていたが、ノブを回す手は止まらなかった。
□秋葉の部屋
「おはようございまーす……」
音もなくノブを回し、ドアを開け、やはり音もなく閉める。
部屋の中はやはり無人。
くわえて、中に入るところを見られた形跡はまったくない。
「……良好だスネーク、引き続き探索を続けてくれ」
と、壁際に背中を押し当てた瞬間。
□秋葉の部屋
唐突に、部屋の電源が落ちた。
「――――――!?」
ま、まさか赤外線センサー!?
「そんなワケないですよー。そもそもお昼なんですから電気はついてなかったでしょう?」
あ、言われてみればその通りだ。
「はい。これはですね、ただの設置型トラップなんです。遠野グループが開発した対人捕獲シュートで、正式名称は志貴さんホイホイです」
……はあ。なんか、ひどく使用対象が限定された兵器ですね、それは。
「……なるほど。ところで、そんな所で何してるんですか琥珀さん」
【琥珀】
「いいえ、わたしはそのような者ではありません! この身は屋敷の治安を陰から支える秩序の具現!
ええもう、割烹着の悪魔とでも偽善者とでもホウキ少女まじかるアンバーとでも、お好きなように呼んでくださってけっこうです!」
ぐぐ、と握りこぶしを作って力説する。
「…………………」
言いたい事は三つほどあるんだけど、とりあえず最後の呼び名だけは使うまいと頷いてみる。
「それでは勝負です志貴さん。留守なのを良い事に妹の部屋に忍び込むなんて、そんなの志貴さんじゃありません。ニセ志貴さんです。フェイクです。ですからわたし、心を鬼にしてお仕置きさせていただきます!」
ザ、とホウキを構える謎の影。
……なんのつもりで待ち構えていたかは知らないが、やる気だけは満々という所か。
「……ふうん。そっか、琥珀さんが琥珀さんじゃないなら話は簡単だ」
す、と腰を落として戦闘体勢をとる。
【琥珀】
「え……? 志貴さん、あの……本気、ですか?」
言いよどむ謎の影。
あー、確かにいつもの俺だったら反省して素直に自分の行いを悔いるだろう。
が。
一度壊れたブレーキは、衝突するまで直らないのだー!
「や、やだなあ志貴さん。あの、冗談ですってば」
じりじりと後退する謎の影。
「言っておくけど、今日の俺はネジが外れてるぜ」
にやりと笑って一歩踏みこむ。
「わわ、志貴さんったらエッチの時と同じ目をしています……!」
貞操の危険を感じたのか壁際まで逃げる謎の影。
「オフコース。こうなったらいきつく所まで行くだけだね!」
あはははは、と高らかに笑って襲いかかった。
と。
ガタン、と音がして、床がパックリと二つに割れた。
「え?お?」
バタバタと足を動かすも、足場がないんだからどうしようもない。
「はーい、一名様ご案内でーす!」
妙に嬉しそうな声が響く。
「うわ、ちょっとこの高さシャレにならないんですけどー!」
どー、どー、どー、どー……。
断末魔の叫びが深い穴にエコーしていく。
「まだまだですねー志貴さん。真剣勝負というものは勝利条件を満たしてから舞台にあがるものなんですよー」
奈落の底に落ちていく俺を見送りながら、彼女はそんなアドバイスをしてくれた。
―――そんなこんなで、気が付くと地下牢にいた。
「あ、あ痛たたたたた…………」
落ちてくる時に腰を強打したのか、立ちあがると体中が軋んだ。
「くそ、ほんとに地下牢じゃんかココ……」
じゃらり、と音がして、手で額の汗を拭った。
ん、じゃらり……?
「って、うわああああ! て、手足が鎖で繋がれてるー!」
テッテイしている。
ここまでテッテイするというコトは、つまり琥珀さんはホンキだという事なのでしょうか?
「うっ、さむっ……」
ぶるっ、と震える体を抱く。
じゃらり、とまたも鬱になりそうなヘヴィサウンド。
「冗談じゃないぞ、こんなトコに一日でもいたら精神に異常をきたす」
適当な石を持って、ガンガンと牢を叩く。……超合金で出来ているのか、石の方がたやすく砕ける。
「うーん、こりゃまいった」
ああ、でもどっかの人が地下室は安心できるとか歌ってたっけ。……うむ、どっちかっていうとあの歌はシキのテーマソングではあるまいか。
「―――って、他人事じゃないって。日が落ちる前に外に出ないとえらいことだぞ」
きょろきょろと周囲を見渡して、ナイフ代わりになりそうな石を探す。
石は簡単に見つかった。
「――――あれ?」
って、そんな物を見つけてどうしようというのか。
石では牢は切れない。なんだって俺は、そんな物があればたやすく牢を切れるだなんて思ったんだろう?
「ふふふ、ダメですよ志貴さん。そんな危ないコト思い出しちゃいけません」
かんかんかん、と階段を下りてくる足音。
「こ、琥珀さん!?」
「はい、お待たせしました。ちょっと待ってくださいね、すぐに開けてさしあげますから」
ぎいー、と錆びた音をたてて牢が開く。
……良かった。質の悪い冗談だったけど、さすがに冗談のままで終わってくれたらしい……って、ちょっと待った!
「な、なに持ってるんですか琥珀さん!」
「なにってお注射の時間です。本当はこのような事は心が痛むのですけど仕方ありません。志貴さんは中々反省してくださらないので、聞き分けがよくなるお薬を注射しますね」
「うわ、嘘っ! ぜったい嘘! 琥珀さんすっげえ楽しそうじゃんかー!」
「やだなあ、そんなコトないですってば。ほら、わたし痛いの嫌いですし」
「ばか、そんなのフツー誰だって嫌いだって!」
ニコニコと近寄ってくる割烹着の悪魔。……もとい、割烹着を脱いだ悪魔。
「うわあ、分かった、分かりました! もう夕食は残しません! それに外食も控えます! ついでに早起きもしますからー!」
「うふふ、そんな事言ったって逃げられませんよ志貴さん。さ、大人しくしてれば痛くありませんからちゃっちゃっと射っちゃいましょー!」
「はわわわ、オッケー、こうしよう! 琥珀さんの言い分ももっともだ。もっともだから、せめてどっちか一本だけにしてくれー!」
「あ、そうゆう事ならご心配なく。二本持っているのは射ち損じた時のための予備ですから」
にっこりと笑って、琥珀さんは俺の腕に注射器を突きたてた。
「志貴さん、聞こえてます? いいですか、これからはここが志貴さんのお部屋です。ですからくれぐれも外に出ようだなんて思わないでくださいね。
……ええ、そうしてくださればわたしも手荒な事はいたしません。もう何も考えられなくなるぐらい、優しく飼ってさしあげますね―――」
クスリ、と琥珀さんが笑った。
……うう、今までいろんなバッドエンドを迎えてきたけど、これに勝るおしまいは無かったよぅ……
return
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*s123
□遠野家1階ロビー
翡翠を探して屋敷を歩き回るが、翡翠の姿は何処にも見当たらなかった。
「……おかしいな。翡翠がいそうな場所は全部回ったんだけど」
客間にも物置にも書斎にも廊下にも屋根裏にも翡翠の姿はない。
となると、琥珀さんの代わりに外へ出る仕事を任されたんだろうか。
「しょうがないか。部屋でゆっくりしてよ」
残念、と肩を落としつつ、自分の部屋に戻る事にした。
return
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*s124
□遠野家1階ロビー
翡翠を探して屋敷を歩き回るが、翡翠の姿は何処にも見当たらなかった。
「……おかしいな。翡翠がいそうな場所は全部回ったんだけど」
客間にも物置にも書斎にも廊下にも屋根裏にも翡翠の姿はない。
こうなるともう何処にいるのか手がかりはないんだけど……
「―――――――――あ」
ピンと来た。
もしかすると、この屋敷で一番翡翠とは縁がないあそこにいるのかもしれない――――
□遠野家のキッチン
台所にやってくる。
この時間は無人の筈の台所には、難しい顔で調理台に立っている翡翠がいた。
「やっぱりここにいたのか翡翠」
【翡翠】
「あ――――」
見られた事が恥ずかしいのか、翡翠はおどおどとまな板の上のモノを隠したりする。
「志貴さま、何かご用でしょうか」
「いや、別にこれといって用事はないんだけどね。翡翠が何してるのかなって来ただけ」
【翡翠】
「わたしでしたら休憩をいただいている所です。私的な理由で調理実習をしているだけですから、ご用がないのでしたらお部屋にお戻りください」
……ああ、やっぱりこの前の続きをやってたのか。それにしても休み時間中も特訓するなんて熱心だな。
「んー、部屋に戻ってもやる事がないんだ。そういう訳でお邪魔したんだけど、翡翠は何を作ってるんだ? もしかして今日の夕食の一つとか?」
「いえ、今練習しているのは食卓に並べるものではありません。……文化祭というものが近いという話を聞きましたので、その――――」
【翡翠】
「至らぬ身ですが、そのような特別な日ぐらい志貴さまのご昼食をお作りしてさしあげたいのです」
頬を赤く染めて、翡翠はそんな、不意討ちみたいな事を言った。
「―――翡翠、ちょっと横いいかな」
は? と当惑する翡翠の答えを待たず、エプロンをつけてキッチンに立つ。
【翡翠】
「志貴さま、何をするのですか?」
「料理だよ。翡翠も頑張ってるし、俺も何か新しいメニューでも覚えようと思って」
【翡翠】
「……おやめください。志貴さまは遠野家のご長男なのですから、そのような事をなされる必要はありません」
「いいからいいから。今時はね、男でも料理の三つや四つはできないと生きていけないんだ。俺もいつまでも琥珀さんや翡翠の世話になってる訳じゃないんだし、少しずつ出来る事を増やしておかないといけない。それにさ、翡翠と一緒に上達するのって悪くないだろ? ……翡翠のお弁当、一日でも早く食べたいし」
【翡翠】
「――――――――――」
翡翠は黙ったまま答えない。
「ま、そういうコトだから特訓に付き合うよ。翡翠、ナイフうまく使えるようになったか?」
「…………………………」
こくん、と頷く翡翠。が、そのナイフ捌きは前とあまり変わっていない。
「あんまり無理しないようにね。怪我をしないように、ゆっくり上手くなればいいんだから」
放っておけば無茶しかねない翡翠に釘をさして、こっちも包丁を手に取った。
……そうだな。いい機会だし、野菜とか果物を上手く使うような料理にチャレンジしてみるか。
□遠野家のキッチン
トントントントントン。
まな板を叩く包丁の音がリズミカルに響く。
……さっきのお弁当発言が効いているのか、頬がにやけてしまって翡翠に話しかける事ができない。
翡翠も翡翠で心ここにあらずという風にトマトをサクッ。サクッ。と恐る恐る切っている。
【翡翠】
「……………あの、志貴さま」
「ん? なにか解らない事でもあった、翡翠?」
「………はい。失礼を承知でお訊きするのですが、志貴さまは学校を卒業なされたらお屋敷を出ていってしまわれるのですか……?」
不意に。
漠然と考えていた将来の事を、はっきりと質問された。
「―――うん、一人暮らしはすると思うよ。けど前みたいに遠くなるってわけじゃなくて、部屋もこの近くに借りると思う。あ、けど別にこの屋敷が嫌だってワケじゃないぞ。……なんていうのかな、一度ぐらいは外に出ておかないといけない気がするっていうか―――」
うーん、そんな背伸びするような考え自体が子供じみているとは思うんだけど、こればっかりはやっぱり必要だと思うのだ。
「ごめん、うまく言えない。けど気が済んだら戻ってくると思うから、その時も翡翠が屋敷にいてくれると嬉しい」
【翡翠】
「――――――――」
かすかに息を吸って、ナイフをまな板に置く翡翠。
【翡翠】
「志貴さま。その時は、どうぞわたしをお連れになってください。至らない身ですが、志貴さまのお役に立てるよう努力いたします。
……申し訳ありません。お一人で生活しよう、という志貴さまのお言葉は解るのですが、志貴さまがなんとおっしゃられようと翡翠には志貴さまが必要なのです」
「――――――――――――」
手にしていた包丁が落ちる。
……どうかしている。
さっきのお弁当発言といい今の言葉といい、今日の翡翠は卑怯なぐらい―――
「――――――翡翠」
翡翠の手を取って、言葉もなく見詰め合う。
……だから、どうかしている。
頬を朱に染めてうつむく翡翠は卑怯なぐらい、愛しすぎる。
「志貴、さま――――」
息が重なる。
俺たちは互いに指を絡ませたまま、ゆっくりと―――
「きゃー! 翡翠ちゃんったらダイターン!」
【琥珀】
と。
ズシャアー、と音をたてて琥珀さんが滑りこんできた。
【翡翠】
「ぁ――――――」
びくり、と指を離す翡翠。
こっちも慌てて繋いでいた手を隠す。
「こ、こここ、琥珀さん、なななななんのようですか?」
【琥珀】
「あら、志貴さんラップですか? 翡翠ちゃんと仲良くできてごきげんなんですねー、このー!」
つんつん、と肘で横腹をつついてくる琥珀さん。
「……あの、いつから見てたんですか、琥珀さんは」
【琥珀】
「え、いやだなあ志貴さん、わたしはいま来たばかりですよー。別に志貴さんがロビーでぼんやりしてた所から後を付けてたりなんかしてませんってば」
うわ、こっちの予想以上に質が悪いよこの人!
【翡翠】
「……姉さん、あまり志貴さまをからかわれるのはどうかと思います」
「やだ翡翠ちゃん。わたしが志貴さんをからかったらこの程度で済むわけがないでしょう?」
くすくすと笑う割烹着の悪魔。
【琥珀】
「さ、それではどうぞ続きをなさってくださいな。翡翠ちゃんも志貴さんもお料理の勉強をしていたのでしょう? お邪魔はしませんから続けて続けて」
……そうは言いつつ、琥珀さんは一歩もここから動こうとしない。
「……あの。琥珀さん、何してるんですか」
「はい、お二人の調理の腕前を見守ろうかと。翡翠ちゃんはまだビギナーですし、志貴さんにいたっては料理以外の事もしてしまいそうですから」
「………」
笑顔でそう言われてはいまさら部屋に戻る事もできない。
そんなこんなで、翡翠と琥珀さんと俺という組み合わせてでガヤガヤと騒がしく調理実習をする事になったのだった。
return
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*s126
□志貴の部屋
よし、琥珀さんの手伝いをしよう。
昼食の片付けが終わったら一階の客間に行く、とか言ってたっけ。
□屋敷の物置
「琥珀さん、お邪魔するよー」
声をかけて中に入る。
「………………………」
琥珀さんは部屋の隅で何やら考え込んでいるようだった。
「琥珀さん、何してんの?」
琥珀さんの後ろに立って声をかける。
【琥珀】
「!?」
びくん、と背筋を伸ばして振りかえる琥珀さん。
【琥珀】
「―――志貴さん、でしたか。いきなりなのでびっくりしてしまいました」
はあ、と胸を押さえて深呼吸する。……どうやらよほど驚かせてしまったようだ。
「すみません、いきなり声をかけちゃって。何か手伝えるような事があるかな、と思って来たんですけど、これじゃ邪魔をしにきただけですよね」
【琥珀】
「邪魔だなんて、そんな事ないですよ。今のはわたしの不注意ですからお気になさらないでください」
照れくさそうに言うと、琥珀さんはさっきまで見ていたモノに視線を移した。
部屋の隅。
そこには、なにやら曰くありげな金庫があった。
「その金庫を見てたんだね。……俺は初めて見るけど、それって何が入ってるの?」
【琥珀】
「中身に関してはわたしも知りません。これは槙久さまがご使用になられていた物で、槙久さまがお亡くなりになられてからまだ一度も開けられていない開かずの金庫ですから」
「へえ、開かずの金庫か。でも、鍵はあるんだろう? 秋葉なら中に何が入っているか知ってるんじゃないのか?」
【琥珀】
「いえ、それが秋葉さまもご存知でないそうです。
ほら、ここに鍵穴が二つあるでしょう? この二つの鍵は八年前に紛失してしまって、それ以来この金庫は開けられていないんです」
「――――――」
八年前から開けられていない金庫、か。
「ん……? 二つの鍵って、確か―――」
なんか、頭にひっかかる。
そういえば、それらしい鍵なら確か……
return
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*s127
□屋敷の物置
「…………………ない」
って、あったりまえだ。琥珀さんでさえ知らないような鍵の行方を、どうして俺が知ってるっていうんだよ。
「どうしました? なにか浮かないお顔をしてますけど」
「あ、いや……なんかその鍵の行方、知ってるような気がしたんだ。でもまあ、思い出せないから意味ないんだけどね」
ぽりぽりと頬を掻く。
そんな俺の世迷い事を琥珀さんは嬉しそうに聞いてくれた。
【琥珀】
「いえいえ、きっと志貴さんは鍵の場所を知っているんですよ。あ、それじゃあ開ける時はわたしもご一緒させてくださいね。この中に入ってる物は、きっとわたしにとって大切なものですから」
「あ……はい。それじゃあ期待しないで待っててください」
「はい、約束ですからね志貴さん!」
ぽん、と手を合わせて喜ぶ琥珀さん。
……まいったな、琥珀さんの期待は裏切れない。アテはないけど、機会を見つけて二つの鍵とやらを探さないと―――
return
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*s128
□屋敷の物置
「………あれ?」
ごそごそ、とポケットに手をいれると、それらしい鍵が一つ出てきた。
【琥珀】
「鍵、ですね」
「うん、鍵だ」
まじまじと取り出した鍵を見つめる俺と琥珀さん。
どうしてこんな物を自分が持っているかは思い出せないけど、とにかくこれはこの金庫の鍵だった。
「けど一本しかないから、今開けるのは出来そうにないな」
残念、と肩を落とす。
そんな俺とは対照的に琥珀さんは嬉しそうに笑っていた。
【琥珀】
「でも一本あるじゃないですか。志貴さんならもう一本の鍵を見つけちゃって、この中を見ることができますよ」
「――――――」
琥珀さんに乗せられてるワケじゃないけど、なんとなくそんな気がする自分がいたりする。
「そうですね。それじゃあその時は琥珀さんと一緒に開けましょうか」
「はい! それじゃ絶対ですよ? その中の物はきっと、わたしが長年探してきたものなんです。
ですから、開ける時はわたしもお傍にいさせてくださいね」
ぽん、と手を合わせて喜ぶ琥珀さん。
琥珀さんの期待は裏切れない。あと一本、紛失した鍵を何処かで見つけてこないといけないな―――
return
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*s129
□屋敷の物置
「………あれ?」
ごそごそ、とポケットに手をいれると、それらしい鍵が出てきた。
【琥珀】
「鍵、ですね」
「うん、鍵だ」
しかも二つ。いつのまに手に入れていたのか、明らかにこの金庫の鍵と思われる物が二つとも揃っている。
「……どうしよう。なんか開いちゃうんだけど、琥珀さん」
いざ開けられる、となると中に何が入っているのか不安になる小市民の自分。
【琥珀】
「すごいっ、志貴さんったらグレートです! パーフェクトですっ! ささ、その勢いでズバッと開けちゃいましょう!」
一方、そんなネガティブなコトを考えないマイペースな琥珀さん。
「……………」
【琥珀】
「志貴さん? どうなされたんですか、急に押し黙ってしまわれて」
「え――? あ、いや……なんていうのか、本当に開けていいのかなって。だって八年間も鍵がかかっていたんだろう? なら、それはもしかしたら開けちゃいけないものかもしれないじゃないか」
【琥珀】
「いいえ、そんなコトはありません。実はですね、この中に入っている物がなんであるか見当がついているんです、わたし」
「そうなの? じゃあ八年前、この中に何が仕舞われたか見てたんだ?」
「いえ、直接見たわけではないんです。……志貴さん、わたしずっと探している物があるんです。けれどそれはこのお屋敷の何処にもなかった。あるとしたらもうこの金庫の中なんです」
「それは……その、捨てられちゃってるとかそういうのはないんだね?」
「はい。槙久さまは見られないようにしておらましたが、あの方は優しい方でしたから。それをお捨てになる筈がないのです」
「――――そうか。それじゃあ開けるけど、中に何もなくてもがっかりしちゃダメだぜ。ここに無くってもきっと他に隠し金庫ぐらいあるよ。この屋敷、ともかく広くて怪しいんだから」
【琥珀】
「はい、全て承知の上ですよ。ふふ、けどお優しいのですね、志貴さんは」
「うっ―――い、いいから開けますよっ。えーと、こっちと、こっちと……」
二つの鍵穴に鍵を挿しこむ。
がちゃり、かちゃり。き、きしっ。
古びた、いかにも機械仕掛けといった音をたてて、金庫の鍵は呆気なく外れた。
「…………………」
「…………………」
「…………………」
「…………………」
しばし、二人して黙り込む。
「……琥珀さん、どうぞ」
【琥珀】
「いえいえ、鍵を見つけられたのは志貴さんなんですから、志貴さんがお開けください」
琥珀さんの顔がちょっとひきつっているのは、きっと緊張しているからだろう。
さっきはああ言ってみたけど、琥珀さんがここにしかない、と言ったからにはここにしかない筈だ。
だっていうのにこの中にも無かったら、琥珀さんがずっと探していた物というものはもうこの屋敷には無いという事になる。
「―――わかった。それじゃ失礼して」
【琥珀】
「…………………」
琥珀さんは無言で頷く。
飾り気のない鉄の扉を開ける。
……一見して、金庫の中には何もなかった。
中はがらんとしていて、まるで新品のように空間が見渡せる。
ただ、よく見ると一つだけ仕舞われているものがあった。
「――――――写真が一枚だけ?」
金庫の中に写真が一枚だけ、というのが興味をそそったのか、つい手にとってまじまじと見つめてしまった。
return
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*s130
□志貴の部屋
「よし、午後の行動けってーい」
そうと決まればさっそく移動する事にしよう。
□遠野家1階ロビー
てくてくてくてく。
目的地に向かって一目散、陽気にロビーを横切る遠野志貴。文法が間違っている気がするけどあまり気にしてはいけません。
“翡翠ちゃん、いま西館の方を走っていきましたよー!”
と。屋敷の外から琥珀さんの声が聞こえてきた。
“あ、窓から飛び降りて一階に下りちゃった。翡翠ちゃん、負けずに飛びおりなくちゃ!”
外から聞こえてくる琥珀さんの声は常軌を逸している。
「……なにごと?」
ロビーから外に顔を出そうとしたその時。
「あー、あぶなーいっ! 退いて志貴さまー!」
なんて叫びながら、何者かが東館の廊下を爆走してきた。
【アルクェイド】
「ぶっ………!」
さっき食べたお昼ごはんが喉元まで戻ってくるようなこのショック!
「お、お、おまえ―――」
何してるの、なんてとてもじゃないけど訊けない。訊いたが最後、とうぶんは魘されそうな呪詛をかけられそうな気がする。
「こんにちは志貴さま。ご機嫌はいかかですか?」
ネコなで声でいって、つい、とスカートの裾を指でつまむアルクェイド。
「――――――――――」
「あら。志貴さま、この格好はお気に召さないのですか? 翡翠にはさせて喜んでくるくせに、このー」
「……おまえ。部屋で、寝てるんじゃ、なかったのか」
「んー、目が覚めちゃったから遊びに来た。そしたら翡翠が着替えててね、ちょうどいいから服借りちゃったのよ。うん、前から着てみたいなーって思ってたんだ」
アルクェイドはご機嫌な様子でメイド服を見下ろしている。
――――と。
アルクェイドが爆走してきた廊下から、今度は控え目な足音が近づいてくる。
「志貴さま、その方を捕まえてください……!」
「あ、もう追いつくんだ。それでは志貴さま、ご用がおありでしたらお呼びくださいね」
ぺこりとおじぎをして階段を駆け上っていくアルクェイド。
……スカートの裾は派手に舞いあがって、ああ、翡翠だと絶対にこんな光景は拝めないなあ、とか思ってしまう。
【翡翠】
「志貴さまっ……! あの方は何処に行かれましたか!?」
息を切らしてロビーに駆け込んでくる翡翠。
「―――――――――」
翡翠が着ているのはアルクェイドの服だ。
翡翠には大きすぎるのか、白いハイネックはぶかぶか。が、それが逆にこの上なく可愛かったりする。
「あ、あの、翡翠、それ……」
思わず声をかける。
と。
“翡翠ちゃーん! 姿が見えなくなったけど何処にいったんですかー”
スピーカーを使った、琥珀さんの大声が聞こえてきた。
そこへ。
“ああもう、見ていられないっ! 指示は私が出すから琥珀も中に入りなさいっ! 二人であの泥棒猫を追い詰めるんですっ……!”
なんて、殺る気満万の秋葉の声が加わった。
「志貴さま、お答えくださいっ。アルクェイドさんは何処に行かれたのですかっ……!」
「え……あいつなら上に行ったけど。それより翡翠、これから―――」
「っ! 志貴さま、申し訳ありません。あの方を捕まえるまでわたしと姉さんはお役に立てません!」
キッ!と鋭い視線を二階に向けて、翡翠は階段を駆けあがっていった。
“なにやってるの翡翠、琥珀! 屋根裏にお父様が使われていた散弾銃があるでしょう!? かまわないから発砲なさい! この機会を逃したら承知しないわよ!”
……いつのまにか外では秋葉が完全に場を仕切っている。
屋敷の中は一転して遊園地じみた騒々しさに包まれた。
「で―――なにごと?」
一人ロビーに残されて、呆然と呟いた。
return
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*s132
□志貴の部屋
「離れに行ってみるかな……」
さしたる目的はないけど、その選択にはひどく心が躍った。
今日はこれ以上ないっていうぐらいの晴天だし、たまにはあの部屋で昼寝としゃれこむのも悪くはないだろう―――
□離れの部屋
和室にあがって畳の上に腰を下ろす。
……古い匂い、といでも言うのだろうか。
草に近い畳の匂い。
障子戸の柔らかさ。
天井に走る木目は、この部屋が森中の一室のように思わせる。
「……ほんと、ここだけは昔とちっとも変わらないな」
ぼんやりと呟いて横になった。
「………………」
心地よい静けさ。
外からは風や草の音が届いて、まったくの無音というわけではない。
「……………ん」
この静けさを知っている。
うっすらと目蓋を開けて思いを馳せれば、それだけで子供の頃に戻れるような懐かしさ。
―――ああ、そんな感傷も当たり前だ。
何故ならもう何年も前に、遠野志貴はここでこうして幾度となく午睡を迎えたのだから――――
……元気な足音が聞こえてくる。
眠った自分を起こしに来る少女は、いつもまっすぐな笑顔でおはようと挨拶をした。
日々は眩しくて、この幸福な時間がいつまでも続くのだと信じて疑わなかった頃の話だ。
それは何度も何度も繰り返したくせに、もう一度だって再現されるコトのない昔話。
人生は無くなってしまったモノ、戻らなくなってしまったモノばかりで構成される。
けれど失ったもの、なんていうモノはない。
確かにあの頃と色々なモノが変わってしまった。
だがそんなものは装飾だけだ。
モノの中身、本質というやつは本人が望んだってそう変えられるものではない。
例えば彼女。
思い出とは大きく変わってしまったけれど、それでも彼女はまだ昔のままの心を持っていて―――
「―――――――――――」
……眠りが終わる。
眠気はまだ残っているというのに意識が目覚めようとしている。
「―――――――――――」
……おかしな違和感。
こんなにも静かだっていうのに、体は眠れる状態ではないと感知してしまった。
―――――誰か。
狭い和室には、自分以外の余分な熱。
いまだ覚醒しえない意識が耳を澄ますと、たしかに誰かの呼吸が聞こえた。
―――――いるのか。
そうして、自分以外の人の気配で目が覚めた。
目を開けてまっさきに映ったものは、視界いっぱいに広がる翡翠の顔だった。
「――――――――――――――」
不思議な事に、別段驚きはしなかった。
一目で翡翠はただ眠っていた俺の顔を覗きこんでいただけだと解ったし。
起きたばかりで寝ぼけた意識は、翡翠の顔がこんなに間近にあるという状況をあまり理解してくれなかったせいだろう。
「――――――――――――――」
とにもかくにも、驚いて声が出ないという状態ではない。
こっちはあくまでいつも通りの目覚めで、翡翠も当然のように俺を見詰めている。
翡翠もきっと同じような心境なんだろう。
まるで合わせ鏡。いや、水に映った像を一心に見ているような気分。
「――――――――――――――」
じっと見詰めてくる青い瞳。
―――ああ。
そういえば以前にも似たような事があったっけ。あの時はこんな、のんびりと眠りの余韻に浸っている場合じゃなかったけど、なんだか経緯はとても似ているような気がする。
「――――――――や、おはよう」
さんざん考えた末、そんな言葉を口にした。
「!―――――――――――――」
途端。
顔を真っ赤にして、翡翠は退いてしまった。
□離れの部屋
「……ああ、もう夕方か。起こしに来てくれたんだ、翡翠」
【翡翠】
「ぁ……はい。志貴さまの姿が見当たらないようなのでお捜しするように、と秋葉さまが」
「秋葉が……? って事は、もしかしてもう夕食の時間……?」
「……はい。食堂では秋葉さまが志貴さまをお待ちになっておられます」
「…………ありゃ」
それは、まずい。夕食の時間までこんな所で寝ていたなんて知られたら、またカミナリが落ちかねない。
「それじゃ急がないと。……っと、ありがとう翡翠。それとごめんな、こんな所までわざわざ起こしに来てくれて」
翡翠にお礼を言って立ちあがる。
【翡翠】
「……いいえ、そのようなお言葉はいただけません。志貴さまに謝らなければならないのはわたしの方です」
顔を赤くしたまま俯く翡翠。
「え? なんで?」
ワケが解らず首をかしげる。
「…………………」
そんな俺を見て、翡翠はますます落ちこんでしまった。
「解らないな。謝るって、どうして?」
「……申し訳ありません。その、秋葉さまから志貴さまを捜すようにとお言葉をいただいてから一時間ほど過ぎてしまっているのです」
恥じ入るように翡翠は言う。
けどそんなのは別に、謝るほどの事じゃない。
「俺が離れで眠ってたのは翡翠のせいじゃないだろ。一時間かかったっていうけど、そんなの当然じゃないか。謝るのはこんな判りづらい所にいた俺の方だって」
【翡翠】
「……わたしがここを訪れたのは三十分ほど前です。志貴さまが離れにいらっしゃる事は判っていましたから」
「え、三十分も前……?」
【翡翠】
「……はい。起こさなければ、と分かってはいたのですが、その……」
【翡翠】
と、そこで言葉を切って一層うつむいてしまう翡翠。
……そっか。ようするに俺はまたやってしまったわけだ。
「ごめん翡翠。例によって呼ばれても起きなかったんだろ、俺。三十分も待たせて悪かった」
【翡翠】
「……違います。……その、志貴さまがあまりにも安らかにお眠りになられているものでしたから、つい志貴さまの寝顔を拝見しているうちに時間が経ってしまって……」
「え―――――寝顔って、寝顔?」
【翡翠】
こくん、と頷く翡翠。
「―――――――――――」
カア、と赤面する自分。
「な」
なんで? と訊きだしたい気持ちが声にならない。
【翡翠】
「……申し訳ありません。志貴さまの寝顔は昔と変わっていなくて、この和室で眠っておられると益々可愛らしく見えたのです。……それでつい、昔に戻ったような気がして、できるかぎり志貴さまを眠らせておきたいと、勝手に―――」
翡翠の口調はたどたどしくて、普段の冷静さがまるでなかった。
……翡翠の言葉を借りると、そんな翡翠こそ昔に戻ったようで可愛いと思う。
「……そっか。じゃあもうしばらくここにいようか、翡翠」
【翡翠】
「し、志貴さま……?」
「どうせ今から行っても夕食には間に合わないよ。それならもうちょっとここで昔話をしたほうがいい」
「ですが、夕食をおとりにならないのはお体によくありません」
「いいよそんなの。ああ、それだったら二人で練習がてらに夕食を作ろう。二人がかりならなんとか夕食らしきものは作れるんじゃないかな」
【翡翠】
「……………………」
不安そうに黙り込む翡翠。
翡翠の立場としては頷く事ができないんだろうけど、黙っているという事は賛成してくれているという事だと思う。というか、もうそう決めた。
「よし決まり! そうなるとお茶の一つでも欲しいけど、この離れってそういうのあったっけ?」
【翡翠】
「……ご心配にはおよびません。それでしたら姉さんが少しずつ揃えてくれて、今はもう人が住めるほどになっていますから」
「そうなんだ。琥珀さんに感謝だね」
【翡翠】
はい、と笑みをうかべる翡翠。
「――――――――」
あ。なんか、すごくいい雰囲気かも、と思ったその時。
ガラッ、バン、ドタタタタタタ、と騒々しい足音が聞こえてきた。
……いや、凄い勢いで近づいてきた。
【秋葉】
「いつまで人を待たせるんですか兄さん! ちょっと目を離せばこれなんだから、本当に首輪でも付けてさしあげないと解らないようですね!」
バン、と障子戸をフッ飛ばしかねない勢いで開けて、お約束とばかりに秋葉が現れた。
「……………………」
色々言いたいコトがあるんだけど、色々ありすぎてもう何を口にしたものやら。
【翡翠】
ほら、あんまりにも理不尽な登場にさすがの翡翠も不満そうな顔してるじゃないか。
【秋葉】
「いいですか、屋敷に住む以上は最低限の規則は守ってください。子供じゃあるまいし、食事の時間に帰ってこれないなんて何を考えてるんですか」
ささっ、とさりげなく翡翠と俺を隔てるような位置取りをする秋葉。
「ほら、行きますよ兄さん。せっかくの夕食が冷めてしまいます。それとも兄さんは琥珀の作った食事がお気に召さないんですか?」
……う。それを言われると、もう従わざるをえない。
「分かった、すぐに行くよ。……と、その前に一つだけ訊くけど。
この屋敷、ホントは監視カメラがついてるんだろ」
【秋葉】
「そのような話は琥珀に訊いてください。私には関係のない事です」
「……ちょっと。少しは否定しろよ、おまえは」
【秋葉】
「だって本当に関係がないもの。お忘れのようですけど、私と兄さんは双子のようなものなんですよ? 兄さんには解らないでしょうけど、屋敷の中にいるのなら兄さんが何をしているかぐらいは判ります。
【秋葉】
ですから監視カメラなんて、そんな無粋なものは私には必要ありません。ね、そうでしょう翡翠?」
【翡翠】
……う、秋葉のヤツ翡翠までいじめだした。
「ああもう、解ったから食堂に戻る! それじゃ翡翠、起こしに来てくれてありがとう……!」
だっ、と和室から走り出す。
「ちょっ、待ってください兄さん、まだ話は終わってません!」
ついで、秋葉が逃がすまいと追いかけてくる。
……うむ、計算通り。
翡翠をいじめようとする秋葉を誘導する事に大成功だ。翡翠を一人残すことになってしまったけど、それはまた後でお礼を言って許してもらおう―――
そうして夕食。
広い食堂で席についているのは自分と秋葉だけで、琥珀さんは席の後ろに無言で控えている。
さっきの一件がまだ尾を引いているのか、秋葉はいつにも増してお冠で、チクチクと文句を言い続けてきた。
まあ、それもいつも通りといえばいつも通り。
怒った後で謝ってくる、なんて繰り返しをする秋葉は楽しいといえば楽しい。
そんなこんなで騒がしく夕食は終わってくれた。
return
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*s133
□志貴の部屋
「――――離れ、か」
たしかに悪くはない。
こんないい天気なんだから、縁側でぼんやりしているだけで気持ちよくて眠ってしまいそうだし。
「でも俺、午前中も眠ってたんだけどなあ……」
あんまり寝すぎると起きた時に頭痛に悩まされそうだけど、とりあえず行ってみるか。
□離れの入り口
「ん〜〜〜〜〜っ!」
青空の下、思いっきり背筋を伸ばす。
いやあ、いい気持ちです。
一日ずっと寝っぱなしだろうとおかしな悪夢を見ようともうへっちゃら。こんな絶好の昼寝日和に寝ない方がどうかしている。
はい、そんなわけでお休みなさい―――――
夏の終わり。
家族全員で旅行に出かけた帰り、突然の暴雨に襲われた彼らは人気のない山奥に取り残される事になった。
強風と豪雨に悩まされながら一夜の宿を求め、山道をさまよい歩く一行。
不気味な森、徘徊する野犬の群れに怯えながらも彼らはついにある洋館に辿りついた。
□屋敷の門
嵐はやまず。
一行は九死に一生を得た思いで館の扉に手をかける。
それが、さらなる恐怖の幕開けになるとも知らぬまま――――
□遠野家屋敷
□遠野家1階ロビー
手入れの行き届いた内装。
つい昨日まで人が住んでいたような部屋。
一行は自らの幸運に感謝する。
だが。
訪れた館は、呪いによって支配された死の空間だったのだ!
□遠野家居間
【久我峰】
「ようこそ、私が館の主人です」
【琥珀】
「……うわあ、とんでもない所にきちゃいましたねえ……」
【久我峰】
「なんだと、乳もませろ小娘ぇぇぇええええ!」
【琥珀】
「―――――――――――――――」
唐突にふりかかる冗談のような悪夢!
□秋葉の部屋
【秋葉】
「そ、そんな、兄さんが二人……!?」
「は? なにいきなりワケわかんないコト言い出すんだよ秋――――」
【偽志貴】
「ふふ、アキラちゃんは可愛いなあ」
「なっ、誰だオマエ! ……って、たしかにアキラちゃんは理想の妹だけどさー」
【秋葉】
「そんな、言動までうりふたつ!? これじゃどちらが本物か判らないわ!」
【翡翠】
「秋葉さま。面倒ですから二人とも始末してしまいましょう」
【琥珀】
「きゃー、翡翠ちゃんったら超クール!」
スリル!
□中庭のベンチ
「よし、ここから外に出られるぞ!」
「やりましたね志貴さん!」
「秋葉さまには申し訳ありませんが、一刻も早くここから脱出いたしましょう」
「オッケー、こうなったのも秋葉の責任だから自業自得だろう。って、二人ともここまで無事か?」
【翡翠】
【琥珀】
「はい。かすり傷一つありません」
「うわあああああ、血、二人とも血が出てるって!」
ブラッド!
□屋敷の前の道
「はぁ、はぁ――――くそ、結局出られたのは俺だけか―――!」
【黒犬】
「いぬ」
【虎】
「とら」
【鹿】
「しか」
【黒豹】
「じゃがー」
「ひいい、いつのまにか動物に大人気!?」
ズー! ズー! ズー!
□遠野家屋敷
次々と降りかかる身も凍る天変地異!
呪われた館に迷いこんだ一行は生きて朝日を拝めるのか!?
一人、また一人といい感じで壊れていく仲間たちの運命は!?
そして館に隠された戦慄の過去、地下に封じられたという悪魔の正体とは何なのか……!
シナリオ枚数まあそれなり、
イベント枚数ちょっとだけ、
構想に至ってはシャレですませておけば良かったと大後悔!
ドージンの限界、ノーアンダー(注:これ以下はないの意)に挑戦する意欲作!
新ジャンル、痛寒伝奇アドベンチャーこの秋登場!
――――ああ。
今夜は本当に、掴みが、キレイだ―――
□離れの部屋
「…………………」
目が覚めた。
空はいつのまにか燃えるような夕焼けだ。
どうやらさっきまでの悪夢は真実悪夢であってくれたらしい。
「あ、あいたたたたた…………」
寝すぎでキリキリと頭が傷む。
「……まいった。これからは一日中寝るなんて暴挙はやめよう……」
すっかり冷えきった体をさすりながら屋敷への帰路についた。
return
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*s135
□志貴の部屋
……親父の部屋、か。
確かにそれは正しい選択のように思える。何故なら、今日の遠野志貴はどこかおかしい。
昨日のコトを明確に思い出せなかったり、なんだか前もこんな事をしたような既知感に襲われたりしている。
こういった場合、たいてい原因はあのクソ親父だ。
「……うん、また手記に“志貴の突発的な記憶障害について”とかなんとかレポートしてるに違いない」
おお、なんかそのセリフナイスなカンジ!
この流れからいって、間違いなく親父の部屋に謎を解く鍵があると見た!
□屋敷の廊下
マッハで親父の部屋に到着した。
鍵はかかっていない。ますますツいてる。鍵を持っていない以上、かかっていたらアウトだった。
「……あれ?」
なんでアウトなんだろう。
こういう場合の非常手段を自分は持ってると思ったんだけど。
「ま、いっか。開いてるなら入るだけだ」
ドアノブを回して、滅多に入らない親父の部屋へと足を踏み入れた。
□槙久の部屋
ふぃーおん ふぃーおん ふぃーおん。
間の抜けたサイレンが鳴り響いて、親父の部屋はアヤシゲな異空間へと変貌した。
「な、なんだぁ――――!?」
すぐさま脱出しようとドアに手を伸ばすが、そもそもドアなんてものは存在しなくなっていた。
【琥珀】
「おまたせ!」
……あ。
【琥珀】
【琥珀】
「月姫!?なぜなにクエスチョンー!」
……すっごく、死の予感。
【琥珀】
「どんどんぱふぱふー! ようこそいらっしゃいました志貴さん! 当番組放映から苦節半年、あなたが初めてのお客さんです!」
突然飛来した琥珀さん(似)の人物は、楽しげにはしゃいでいる。
……いやまあ、はしゃいでいるんだから楽しげなのは当然なんだけど、思わず重複した表現をしたくなるほどハッピーげなワケである。
「ですがいけませんいけませんっ! 断りもなく槙久さまのお部屋を探索されるなんてもっての外、通りたければこのわたしを倒してからにしてください!」
わーい、とばかりにマイクを取り出す琥珀さん(似)。
「はい、志貴さんはこの帽子とスイッチを持ってくださいねー。スイッチを押すと帽子がピロン、と手を上げますから」
こっちが呆然としているのをいいことに、琥珀さん(似)は帽子をかぶせて強引にスイッチを握らせてきた。
【琥珀】
「それでは第一回、“おまたせ!月姫!?なぜなにクエスチョンー!”の始まりですよー。クイズに全問正解したなら志貴さんには素敵なプレゼントが! 一問間違えても志貴さんには素敵なプレゼントが!」
「………………………」
まず、クイズなのになぜなにクエスチョン、というタイトルは間違えていると思う。
【琥珀】
「志貴さん、準備はいいですか?」
準備はおろか驚きのポイントさえ定まっていないけど、何をどう答えても始まってしまうに違いない。
「楽しそうだね、琥珀さん(似)」
はあ、と重くるしくため息をついて、一言だけ口にした。
【琥珀】
「はい! わたし、今回はこんな役どころばかりですから、もうやけっぱちなワケです!」
えっへん、と胸を張る琥珀さん。
……なるほど、たしかに歓喜というより狂喜が入ってそうな笑顔ではある。
「けど悲しまないでくださいね。もともとわたしは影の女、本編で一度でもヒロインとして扱ってもらえただけで十分です! ですから今回は基本に立ち返って、影のフィクサーとして志貴さんを思う存分ひっかきまわしてさしあげようかなー、と! 人気投票でもトップスリーに入れませんし!」
「―――――――――」
……うう、涙なくして聞けない話だなあ。
【琥珀】
「それでは勝負を始めますよー。
ジャンルは三つ、一般教養、月姫本編、月姫夏祭り、から一方的にランダムで決定されます」
「……………まあ、退路はないわけやね」
「はい! ですがご安心を。このクイズは本編とはまったき関係のない、ただのお遊びですから。解けなくてもなんら影響はありませんよー」
……そうは言うけど、一問でも間違えたら冗談ではすまない展開が待っている筈だ。
失敗は許されない。
さて、今回のジャンルは――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s136
「どう、だぁーーーー!!」
炸裂する最後の回答。
琥珀さん(似)はお目目をグルグルさせて回っている。
「ううー、やられましたー」
【琥珀】
くるくるくる、ぽん、と音をたてて飛行形態に変形する琥珀さん(似)。
「今回は志貴さんの勝利です。それではまた次週、ターイムショーック!」
□槙久の部屋
「あ、もとに戻った」
よし、それじゃさっきまでの事はキレイさっぱり忘れて探索を開始しよう。
□槙久の部屋
……夕食時まで探索したものの、これといって目を惹く手記はなかった。
かわりにあった物といえば、
「やけにちっちゃい宝石箱だな」
天井裏から見つけた、手の平に乗るほどの箱だけだ。
「しかも鍵がかかってない」
遠慮なく箱を開ける。
中には古ぼけた鍵が一つ。
「……………………」
こんな物を探していたワケではないけど、半日の労働が無駄になるのも癪に障る。
「……ま、何かの役にたつかもしれないし」
古ぼけた鍵をポケットに仕舞って、探索を打ちきる事にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s137
「どう、だぁーーーー!?」
炸裂する最後の回答。
だが琥珀さん(似)はビクともせず、ふふふ、なんてイヤな含み笑いをうかべている。
【琥珀】
【琥珀】
【琥珀】
「うふふ、間違えましたね志貴さん」
うわ、まじ!?
「わたしとしても残念ですけど、ルールはルールですから。志貴さんには素敵なプレゼントを差し上げちゃいます」
笑顔でにじり寄ってくる琥珀さん(似)。
「―――ちょっ」
待ってくれ、と後退するんだけど、なぜか体が動かない。
「待て。待て待て待て待て待て! 卑怯だぞ琥珀さん(似)、せめて何を間違えたか教えてくれ!」
「それもお教えできません。教えちゃうとサクッと全問正解しちゃうでしょう? せっかくのおもちゃを簡単に手放すのもどうかなあ、と」
「くそ、しいていうなら親父の部屋を選んだ事が間違いかあ!」
【琥珀】
「あら、志貴さんったらわかってらっしゃるじゃないですか♪」
言って、琥珀さん(似)はぽん、と両手を合わせた。
□槙久の部屋
バタン、と音がして床が開く。
体が落ちるより先に「落とし穴かー」と理解する方が先だったのは、まあなんとなく予想がついていたからだろう。
「志貴さん、怪我しないでくださいねー」
頭上からはおもいっきり無茶な言い分。
遠野志貴はどこまで続いているか判らない奈落の穴を、グングンと落っこちていく……。
―――そんなこんなで、気が付くと地下牢にいた。
「あ、あ痛たたたたた…………」
落ちてくる時に腰を強打したのか、立ちあがると体中が軋んだ。
「くそ、ほんとに地下牢じゃんかココ……」
じゃらり、と音がして、手で額の汗を拭った。
ん、じゃらり……?
「って、うわああああ! て、手足が鎖で繋がれてるー!」
テッテイしている。
ここまでテッテイするというコトは、つまり琥珀さんはホンキだという事なのでしょうか?
「うっ、さむっ……」
ぶるっ、と震える体を抱く。
じゃらり、とまたも鬱になりそうなヘヴィサウンド。
「冗談じゃないぞ、こんなトコに一日でもいたら精神に異常をきたす」
適当な石を持って、ガンガンと牢を叩く。……超合金で出来ているのか、石の方がたやすく砕ける。
「うーん、こりゃまいった」
ああ、でもどっかの人が地下室は安心できるとか歌ってたっけ。……うむ、どっちかっていうとあの歌はシキのテーマソングではあるまいか。
「―――って、他人事じゃないって。日が落ちる前に外に出ないとえらいことだぞ」
きょろきょろと周囲を見渡して、ナイフ代わりになりそうな石を探す。
石は簡単に見つかった。
「――――あれ?」
って、そんな物を見つけてどうしようというのか。
石では牢は切れない。なんだって俺は、そんな物があればたやすく牢を切れるだなんて思ったんだろう?
「ふふふ、ダメですよ志貴さん。そんな危ないコト思い出しちゃいけません」
かんかんかん、と階段を下りてくる足音。
「こ、琥珀さん!?」
「はい、お待たせしました。ちょっと待ってくださいね、すぐに開けてさしあげますから」
ぎいー、と錆びた音をたてて牢が開く。
……良かった。質の悪い冗談だったけど、さすがに冗談のままで終わってくれたらしい……って、ちょっと待った!
「な、なに持ってるんですか琥珀さん!」
「なにってお注射の時間です。本当はこのような事は心が痛むのですけど仕方ありません。志貴さんは中々反省してくださらないので、聞き分けがよくなるお薬を注射しますね」
「うわ、嘘っ! ぜったい嘘! 琥珀さんすっげえ楽しそうじゃんかー!」
「やだなあ、そんなコトないですってば。ほら、わたし痛いの嫌いですし」
「ばか、そんなのフツー誰だって嫌いだって!」
ニコニコと近寄ってくる割烹着の悪魔。……もとい、割烹着を脱いだ悪魔。
「うわあ、分かった、分かりました! もう夕食は残しません! それに外食も控えます! ついでに早起きもしますからー!」
「うふふ、そんな事言ったって逃げられませんよ志貴さん。さ、大人しくしてれば痛くありませんからちゃっちゃっと射っちゃいましょー!」
「はわわわ、オッケー、こうしよう! 琥珀さんの言い分ももっともだ。もっともだから、せめてどっちか一本だけにしてくれー!」
「あ、そうゆう事ならご心配なく。二本持っているのは射ち損じた時のための予備ですから」
にっこりと笑って、琥珀さんは俺の腕に注射器を突きたてた。
「志貴さん、聞こえてます? いいですか、これからはここが志貴さんのお部屋です。ですからくれぐれも外に出ようだなんて思わないでくださいね。
……ええ、そうしてくださればわたしも手荒な事はいたしません。もう何も考えられなくなるぐらい、優しく飼ってさしあげますね―――」
クスリ、と琥珀さんが笑った。
……うう、今までいろんなバッドエンドを迎えてきたけど、これに勝るおしまいは無かったよぅ……
return
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*s139
休日をあてもなく好き勝手過ごしているうちに日没が近づいていた。
「いやー、たまにはこういうのもいいなー」
などと気の抜けまくった独白をしたりする。
……さて、あとしばらくしたら夕食になるんだけど、せっかくの休日だ。今日ぐらいは少し趣向を変えてもいいかもしれない。
「よし、外に食べに行こう!」
琥珀さんが作ってくれる夕食に飽きるなんて事はないけど、たまに男の子は外でガツガツした物が食べたくなるのだ。
「……さて、それじゃあ何処に行こうかな」
どうせ行くのなら琥珀さんが作らないような料理を出す店だろう。
となると―――
「……そういえば大帝都で千円の食い放題をやってるって話だったな……」
大帝都は隣街でも有名な焼肉屋さんだ。
ほぼ原価じゃないのかこれ、と思わせる低価格と一級品の肉の質が売りのパラダイス。
電車に乗って隣街まで行かなければならない、というのはマイナスだがそれを補ってあまりある味と値段を提供します。
「―――決めた、今夜はごちそうだー!」
財布を持って走り出す。
許してくれ琥珀さん、年頃の男の子は上品な料理より、こうガツガツしたワイルドな味が恋しくなる時があるんですー!
□町
□町
電車に乗って隣街に出た瞬間。
「―――――――――あれ?」
目が疲れていたのか、街には色というものがなかった。
「ちょっ、ちょっと待った――――」
ごしごしと目蓋をこする。
□町
□町
「あ、戻った」
何度か瞬きをしているうちに街はいつも通りの景色になった。
「……ほ」
思わず安堵の息を洩らす。
だって、いくらなんでもさっきのはない。
なんていうか、控え目にいってもこの街がハリボテで出来た映画のセットにしか見えなかったぐらいなんだから。
□町
「さーて、食うぞー!」
ふふふ、とぎゅるぎゅる鳴るお腹を抱えて一路焼肉・大帝都を目指す。
……そういえば大帝都は月に一度の割合で食べ放題をやるのだが、その度に記録をうちたてた人の名前を店内に飾っている。
そこでいまだ燦然と輝くあおざきあおこ・とうこ、という名前があるのは、きっと他人の空似だろう。
そうして、隣街のさらに奥へと足を踏み入れた瞬間。
□町
【殺人鬼】
人込みの中に、ヤツの姿を認めてしまった。
「―――――――!」
舞いあがっていた心が落下する。
件の殺人鬼。
噂でしか聞いていなかったヤツは、確かに目の前にいて笑っている。
「ま、待て―――!」
ヤツはさらに奥へ。
……大急ぎで先を作っているあの子の苦労を台無しにするように、先へ先へと進んでしまった。
歩いていては間に合わない。
先に急いでは―――ゆっくり行かなければいけない、と分かっていても止められない。
ただ夢中で走り出す。
そうしてその結果、
街は凍りついたように停止し、そして―――
音もなく崩れ出した。
メガネが落ちた。
どろどろと崩れていく。
足元はすでに融解しており、流れ爛れていく建物は果てしなく有機的。
血管こそないものの、まるで生き物の体内のよう。
「っ……まず、い―――!」
もう足首まで沈んでいる。
……そうだ、ここに来てはいけなかった。
ここは世界の果て。
もともと箱庭のように狭いこの世界において、まともに存在できるのは自分の街だけだったのに。
「くそ、またコレなのかよ……っ!」
すでに沈下は腰にまでおよんでいる。
こうなってしまっては手遅れだ。
俺は世界の綻びに巻きこまれて終了する。
だが、その前に――
「……また……またって、なんだ」
無意識のうちにこぼした罵倒。
自分は―――遠野志貴は、以前にもこんな終わりを迎えていたという事だろうか。
【殺人鬼】
「―――そうだ。もっとも、目覚めれば忘れてしまうがな」
ヤツが笑う。
「だがこれでは意味をなさん。これでは決定権は貴様にあるまま戻るだけだ」
なに、を――
「俺を殺したいのなら、相応しい場所で呼べ」
殺人鬼は崩壊に巻き込まれて消滅した。
「――――――あ」
そうして自分も呑まれていく。
だが世界の崩壊は一時のものだ。世界にとってこの傷は致命傷ではありえない。
故に、救急箱を持ってあの子がやってくるかぎり、この綻びは正しく繕われる。
こっちはえらく気楽なもんだ。
こうして意識が落ちて眠りについてしまえば、目覚めた時にはすべて元通りになっているっていうんだから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s140
休日をあてもなく好き勝手過ごしているうちに日没が近づいていた。
「いやー、たまにはこういうのもいいなー」
などと気の抜けまくった独白をしたりする。
……さて、あとしばらくしたら夕食になるんだけど、せっかくの休日だ。今日ぐらいは少し趣向を変えてもいいかもしれない。
それなら――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s142
□遠野家1階ロビー
夕食の後。
風呂からあがって居間に顔を出すと、まだ秋葉たちが残っていた。
「―――――あれ、まだいる」
ガチャリ、と扉を開けて居間に入る。
□遠野家居間
【秋葉】
「え―――――――え……!?」
【翡翠】
「し、志貴さま――――――!」
【琥珀】
「―――――――――――――」
……? 女三人で内緒話でもしていたのか、秋葉たちはピタリと動きを止めてしまった。
「なんだ、まだお茶会が終わってなかったのか。仲がいいのはいいけど、あと少しで十時だぞ。そろそろ部屋に戻らないと就寝時間に間に合わないんじゃないか?」
髪をタオルで拭きながら忠告する。
十時を過ぎたら部屋から外に出てはいけない、という規則を守るならいい加減部屋に戻らないといけない頃だ。
【秋葉】
「な――――――な、なな、な」
わなわなと肩を震わす秋葉。
「なななな? どうした秋葉、激辛カレーパンでも食べて舌が麻痺したのか?」
ちらり、と翡翠たちに視線で問い詰めてみる。
――――と。
【翡翠】
「……………………」
【琥珀】
「――――――――」
二人は申し合わせたように、なんだか遠い目をしていた。
「むむ、なんか俺に聞かれちゃまずい話でもしてたみたいだな。……そういえば朝から何か隠しているような素振りだったけど、まさか三人で一緒になってよからぬ事を企んでるんじゃないだろうな」
じとり、と主犯であろう秋葉に視線を戻す。
【秋葉】
「い、いえ、今はそんな事よりですね、兄、さん」
途切れ途切れに言う秋葉。
……っていうか、三人で何か企んでいたのか、というこちらの質問を否定しない所が恐ろしい。
「あのな。そんな事よりって、本当に悪巧みしてたのかおまえっ!」
【秋葉】
「違いますっ……! あのですね、その、兄さんは上着を忘れているのにお気付きなんですかっ……!?」
それは三人の気持ちを代表するような、熱のこもった一言だった。
「――――――え?」
はた、と気が付く。
……そういえばシャツは部屋で着替えようと思って、とりあえずズボンだけ穿いて脱衣場を出たんだっけ。
「――――――――――」
ちょっと、照れる。
前に寝巻きで歩いていた時はだらしがないとストレートに怒られたが、こう、気恥ずかしそうに言われるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
「なんだよ、そういうコトはもっと早く言ってくれないとダメだろ、秋葉」
【秋葉】
「あ―――はい、お報せするのが遅れてしまい、申し訳ありませんでした兄さん」
まだ面食らったままなのか、秋葉はおずおずと返事をする。
「分かれば良し。それじゃ三人とも早く部屋に戻ること」
できるだけ平静に言って、パタンと扉を閉めた。
そのまま、ペタペタと足音をたててロビーへと移動する。
□遠野家1階ロビー
「――――――うわ、失敗失敗」
ロビーまで出て、慌てて階段にかけておいたシャツを回収する。
……いや、ホントに助かった。
なんで秋葉がボケッとしていたかは分からないけど、いつもだったらお説教一時間コースの失態だ。
「――――ちょっと待って。なんで私が謝ってたのよ、今!?」
居間から秋葉の声が聞こえてくる。
「あ、やば」
髪から水をしたたらせながら階段へと駆け出す。
そこへ現れる秋葉の姿。
「兄さん、お話があります! 戻ってきてください!」
ドタドタ、という足音とともに秋葉の叱声がロビーに響く。
だがこっちはもう階段を上りきっている。あとは部屋までダッシュしてしまえば秋葉とて追いかけてくる事はできまいて。
「断る。もう夜だし、明日まで覚えてたら聞くコトにするよ」
二階から捨て台詞をはいて走る。
「っ……! ぜったい覚えてますからね、覚悟しておいてください!」
ロビーから響いてくる秋葉の声にため息をつきながら、ともかく自室へ戻る事にした。
return
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*s143
□遠野家居間
そんなこんなでいつものお茶会。
今日は琥珀さんが持ち出してきたトランプで七並べをやっていたりする。
七並べ、というのは数字の七を各種類ごと四枚並べて、順番に七から高い数字低い数字どちらかでもいいから並びで数字を出していくというゲームだ。
開幕はハートの七を持っていた秋葉からで、ゲームは実にまったりと進んでいる。
【秋葉】
「そういえば、兄さん昨日なにしてましたっけ」
スペードのクイーンを出しつつ、唐突に秋葉は言った。
「昨日? あ―――いや、それは」
トン、とクラブのクイーンを配置する。
【琥珀】
「志貴さんですか? 昨日は―――ええと、わたしとお部屋でゲームをしましたよね?」
ぺし、とどうでもいい場所であるクラブの三を置く琥珀さん。
【翡翠】
「そうなのですか? では台所で魚を捌いた後に姉さんの部屋に向かったのですね」
対して、逆方向であるクラブのキングを置く翡翠。
【秋葉】
「ちょっと待ってよ。兄さんは私とお話をしていたんですから、その後に琥珀の所にいったっていうの?」
今度はスペードの四。秋葉は意固地にスペードに固執している。
「―――――ああ、その―――――」
だからよく覚えていないんだって言えるワケもなく、パスを宣言。ちなみに一回目。
【琥珀】
「あら、それは時間的に無理じゃないでしょうか? 秋葉さま、なにか記憶違いをなさっているのではないですか?」
さりげなく琥珀さんもパス。これも一回目。
【翡翠】
「……いえ、秋葉さまの言葉は確かだ思います。わたしも志貴さまはわたしと話した後に秋葉さまの部屋に向かったものだと思っていました」
翡翠はクラブのエース。おお、これでもうじきクラブは出揃ってしまうな。
【秋葉】
「……そう。どちらにしたって兄さんはお忙しい日程だったようですね」
いらだたしげにパスを宣言する秋葉。ちなみに、三回目。
「……そんな事ないんだけどな。だって午前中はのんびり眠ってたじゃないか、俺」
……く、俺もパスだ。二回目。
【琥珀】
「そういえばそうですねー。志貴さん、中庭で黒猫と戯れてましたもの」
琥珀さんもパス。……俺と同じく二回目だけど、この人のパスは回避の為のパスではなく獲物を追い詰めるためのパスだ。
【翡翠】
「……そうでしたか。お姿が見られませんでしたのでてっきり外出なされたのかと思っていました」
さらにクラブの二を置く翡翠。……琥珀さんと息があっているのか、クラブはほとんど翡翠と琥珀さんの手による物だ。
【秋葉】
「――――待ちなさい翡翠。クラブばかり置いていないで出すべき数があるでしょう。例えばまったく出ていないダイヤとか」
【翡翠】
「……申し訳ございません秋葉さま。姉さんからダイヤは止めろ、と指示を受けていますので」
【秋葉】
「琥珀っ! 今日はマキでやりますよー、なんて言っておきながらなに翡翠にサイン送っているのよあなたは! たかが食後のゲームで悪知恵が回り過ぎるんじゃなくて!?」
お。怒り心頭しているのか、秋葉の口調がお嬢になってる。
【琥珀】
「いやですね秋葉さま、わたしは別にサインを送ったわけじゃありません。翡翠ちゃんが手札を見てがっかりしてたから、ちょっと勝つためのアドバイスをしてあげただけです」
「無言で指と視線だけで指示を送るのはアドバイスとは言いませんっ!」
「うん、そりゃあ通しサインだ。もっとも俺はすぐ気が付いたけど」
【秋葉】
「―――え?」
「秋葉は自分のカードしか見てないから気が付かなかっただけだろ。二人が結託して俺と秋葉を追い込もうとしてたからさ、あからさますぎてつい乗っちまった」
【秋葉】
「……へえ。それで直前で自分だけ助かろうというつもりなんでしょうねえ、兄さんはっ!」
「うい。だってダイヤの8止めてるの俺だもの」
「ッ―――――――!」
【琥珀】
「ああ――――――! 秋葉さま、なんてコトするんですか! テーブルをひっくり返すなんて危ないじゃないですか!」
【翡翠】
「はい。せっかくあと少しで完成したクラブがバラバラになってしまいました」
「……とんでもないな。おまえさ、金持ちだからって豪華客船にだけは乗るなよ。中にあるカジノで大負けしたら船を爆破しかねないからな」
じーっ、とみんなで秋葉を非難する。
これで少しは反省してくれれば可愛いのだが、秋葉はフン、と不愉快そうに鼻を鳴らして、
【秋葉】
「―――今のは事故よ。立ちあがろうとしたらスカートが絡まったの」
なんてのたまいやがった。
「あははははは! ふざけんな、おまえのスカートは鋼鉄ででもできてんのかっ!」
【秋葉】
「ええ、当然でしょう! 遠野家の当主たる者、つねに最強の装備で身を固めているんですから!」
開き直ったのか、秋葉はとんでもない返答をする。
ちなみに、
正しくは“最上級の品で身を固めている”です。
「――――わかった。わかりました。じゃあ今夜の勝負はこれでチャラだな。ったく、麻雀だったら怪我人が出てたところだ」
【秋葉】
「ふーんだ。麻雀だったら琥珀の姦計になんかひっかからないんだからっ。その時は私一人の大トップで、兄さんを含めてみんなまる裸にしてさしあげます!」
ぷい、と顔を背けて腰を下ろす秋葉。
琥珀さんと翡翠は慣れたものなのか、テキパキと散らかったトランプを片付けていた。
return
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*s144
□公園の噴水前
――――走っていた。
息を切らして、切り裂かれた服を隠しもせず、ズレかけた眼鏡を直そうともせず、ただひたすらに走っていた。
「もうやだ―――――どうして、こんな……!」
追いかけてくる獣の息遣いに圧されるように、心が何の意味もない弱音を吐いた。
無論、その言葉に現状を打破する奇跡などない。
あるのはただ自らを追い詰める苦しさだけだ。
呼吸さえままならない心臓は、声をあげた事により一層少女の足どりを減速させる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ―――――――!」
息を切って走る。
どこか人気のある場所―――例えばこの公園まで逃げられたのなら助かるのだと少女は信じていた。
だが人気などとうに皆無だ。
ちょっとした気まぐれで深夜の買い物に出た少女は、ここ数日連続していた殺人事件の影響力を甘く見ていた。
いや、正確には殺人事件の“犯人”というものを思い浮かべる想像力があまりに貧困だったのだ。
「はぁ――――あ、あ…………!」
公園を走る。
街外れの工場地帯からここまで2キロはあっただろうか。
その間を走り続けてきた少女の体力は限界に近づきつつある。
「どう、して―――この、あたしが―――!」
悔しさで視界が滲む。
彼女とて殺人事件の犯人というものを軽視していたわけではない。こんな夜更けに出歩けば危険な事ぐらい解っていたし、実際もしもの時の準備だってしていたのだ。
いや、逆に殺人犯とやらが現れたら返り討ちにして捕まえてやる、とまで思っていたほどである。
――――なぜなら。
一見して何の変哲もない、明らかに本編とは一切関わりの無いようなこの少女は一子相伝の洗脳空手、暗黒翡翠拳の伝承者であったからだ!
「ああもう、なんだってこんなコトに……!」
背後に迫りくる気配に脅えながら洩らす。
少女の誤算は二つあった。
一つは、そう――
「ちくしょう、犯人が人間じゃないなんて誰も言ってなかったじゃないっ……!」
そう、殺人犯は人間ではなかった。
四足で地面を駆ける、野犬じみた黒いケモノ。
それが夜の街を徘徊し、人を仕留めている殺人鬼の正体だった。
だが問題はそんな事ではない。
野犬の一匹や二匹、彼女にとって言葉を教え込む前のインコに等しい。
彼女がこうして走り続けるしかない二つ目の誤算。
それは。
「この――いい加減しつこいわよ、あんた……!」
走りながら振り返る。
そこには
【鹿】
「がるる、食ぁべちゃうぞ〜〜〜」
妙に陽気な野鹿の姿があった。
「ひぃいい! シカ、シカが喋ってるぅ……!」
それが、少女を叩きのめした二つ目の誤算だった。
彼女には人語を解しながら夜の街を徘徊して人間を襲う、なんていう鹿がたまにはいるんだなー、と思い浮かべる想像力があまりに欠如していたのである。
「シカ、よりにもよってシカ、しかもシシガミ似!」
混乱しているのか、少女の叫びはどこにも説得力がない。
だがそれも仕方あるまい。
蘇るトラウマ。
幼い頃、ちょっとした茶目っけで鹿島神宮の鹿園に忍びこみ、総勢二十二匹もの鹿にサッカーボール扱いされた過去はそう簡単に拭い去れない。
【鹿】
「こらこら待ちなさいお嬢さん。ほら、ハンカチを落としましたよ」
カカランカカランと地面を蹴って肉薄する野鹿。
すでにその角は彼女の背中をちょんちょんと突ついている。
「うわああ、ふざけんなっ! そりゃどっかの熊の話だあぁあ! って、いた、いたたたたたた! 痛いってこのエロシカ、どこ突ついてやがるのよぅ!」
「ふははははは! ごもっとも、ワタクシ鹿だけにケダモノでございます!」
ヒュッヒュッと巧みな首の動きで角を操る野鹿。
八の字を描くウェービングで少女の洋服を次々と切り裂いていく。
「で、でんぷしー!?」
【鹿】
「ノー! わたしは喋る鹿エト! ジャックなどという名前ではないっ!」
激昂してクルリとUターンする野鹿。
「ここまでだ! 受けよ立体忍者活劇!」
怪しげな技名を咆えて、野鹿は後ろ足で少女の背中を強打した。
「天誅!?」
苦悶の声をあげて吹き飛ぶ少女。
ああもう、ワケが解らない。
「あ――――――」
地面に弾き飛ばされつつも、少女はなんとか顔をあげる。
彼女の目の前には、爛々と目を輝かせた野鹿が聳え立っていた。
「まったく一山いくらの脇役がてこずらせおって。邪魔が入る前にサササッと片付けるでおじゃる」
ヒュンヒュン、とまたも角を八の字に動かす野鹿。
やる気満々なのは目に見えて明らかだった。
「や――――」
「へへへ、内定でも差遣でも佐助はこねえよ!」
野鹿の角が少女の喉元へと狙いをつける。
そこへ
「――――そこまでです!」
冷たい月明かりを震わせるような、凛とした声が響き渡った。
「――――なにい、おまえは……!?」
野鹿が畏れをこめて振り返る。
街灯の上。月を頭上に翻る聖なる黒衣。
「月に代わっておしおきとか言う人!」
「違うカレー! 激しく違うカレー!」
□遠野家居間
「!?」
驚いて顔をあげる。
【秋葉】
と、そこにはいかにも文句のありそうな秋葉の顔があった。
「……秋葉。人が楽しくマンガを読んでる時にハリセンで頭をはたく、ってのは行儀が悪いんじゃないだろうか」
「いいえ、何度呼んでも気が付いてくれない人にはこれぐらいで丁度いいんです。……まったく、さっきから一人でクスクスと気味が悪いったらない。周りに気がいかないほど面白いんですか、それ」
「え? いや、まあ普通だと思うけど。なに、秋葉読みたいの?」
読む? と秋葉にマンガを差し出す。
秋葉は汚らしいものを見るような目をした後、これみよがしにため息をついた。
【秋葉】
「結構です。そのような物に興味はありませんから、私」
「そうなのか。残念だな、せっかくアキラちゃんが貸してくれたっていうのに」
「――――――――」
と。ぴくり、と秋葉の体が痙攣した。
【秋葉】
「兄さん。今、なんとおっしゃいました?」
「なんてって、だからアキラちゃんが貸してくれたのに残念だなって」
「―――ですから。どうして兄さんが瀬尾に物を借りるような関係になっているのかと尋ねているんです、私は」
ゴゴゴゴゴ。
「………?」
地響きみたいな音が聞こえてくるが、きっと地下のボイラーの異常だろう。
「兄さん。質問の答えがまだですが、それは黙秘権ですか?」
秋葉の声は妙に迫力がある。
「いや、そんなつもりはないけど。でもなんか、黙秘権って言われると何か悪い事してるみたいに聞こえるな」
ははは、と笑う。
が、秋葉はそうですね、と冷静に返答するだけだった。
「それで。兄さんは今日、瀬尾と会っていたわけですね」
「ああ。街で偶然会って、アーネンエルベで話をして別れたんだ。アキラちゃん、最近よく遊びにくるみたいだな。うちに寄ってくかって訊いたけど、今日は帰るんだって。遠野先輩によろしくって言ってたよ」
「―――――そうですか。私は地元であの娘と会った事はないですけど、そう。瀬尾ったら最近よく遊びに来てたのねえ」
ゴゴゴゴゴゴ、と再び地鳴り。
やばいな。こんな調子じゃ火を吹くんじゃないか、地下のボイラー。
「で? 次はいつ瀬尾と会うんですか、兄さん?」
「えーっと、文化祭の案内をするって約束したからその時かな。けど驚いたよ、アキラちゃんがうちの文化祭の日を知っててさ」
「――――――」
「秋葉が教えたんだろ? 後輩を文化祭に誘うなんて意外と面倒見がいいんだな。アキラちゃんも楽しみにしてるってさ」
「―――ええ。私も楽しみになってきたわ、とても」
秋葉の声は静かな、それでいて凄みのある物だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
と、また地鳴りがする。
なんかホントに地震がしてるっぽいけど、ボイラー室は大丈夫なんだろうか?
「けどアキラちゃんも大変だろうな。浅上女学院からここまで来るのに電車だと二時間近くかかるんだし、いっそのこと車で迎えにいってあげたらいいんじゃないか――――」
秋葉、と言いかけた喉が止まる。
【秋葉】
「はい? なんですか、兄さん」
―――って、なんで反転してるんだおまえは……!?
「あ、あき、秋葉、おまえ髪、髪……!」
「髪? ああ、これでしたらお気になさらずに。別に兄さんに対して反応している訳ではありませんから」
ニコリ、と笑う秋葉。
「そっか、なら安心だ……って、そうゆう問題じゃないだろ! なにゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、なんて効果音を背負ってんだよおまえは……!」
「いやだわ、そんなの兄さんの幻聴に決まってるじゃないですか。―――それではそろそろ失礼します。私、これから文化祭の対策を練らないといけませんから」
ほほほ、なんて高笑いが似合いそうな雰囲気のまま、秋葉はロビーへと消えていった。
「…………………」
もしかすると、秋葉はアキラちゃんが嫌いなんだろうか? そうなると徒に秋葉とアキラちゃんの関係を悪化させてしまった事になる。
「……ごめんアキラちゃん。おわびに文化祭の時は責任もって秋葉のヤツを押さえるから」
ここにはいないアキラちゃんに対して呟く。
……まあ、しかし。そんな大層なコト言ったって、せいぜい秋葉の魔の手からアキラちゃんを連れて逃げる事ぐらいしかできないだろうけど。
return
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*s145
「よし、外に食べに行こう!」
琥珀さんが作ってくれる夕食に飽きるなんて事はないけど、たまに男の子は外でガツガツした物が食べたくなるのだ。
「……さて、それじゃあ何処に行こうかな」
どうせ行くのなら琥珀さんが作らないような料理を出す店だろう。
となると――
return
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*s147
「メシアンでカレーっていうのもいいかな」
屋敷ではカレーは絶対に出ない。
何故かというと、琥珀さんはカレーを料理と認めていないからである。
……ああ、ここにもまた一人シエル先輩と仲が悪いヒロイン発見。
「財布の中身は、と……よし、これなら安心」
財布の中にはお札が二枚。両方とも色が違うので誰かに奢ってもまだ大丈夫だろう。
さあ、それじゃあ秋葉たちに見つかる前に屋敷を出るとしよう――――
□繁華街
メシアンは事務所やら本屋やら様々な業種が混ざり合った複合ビルの二階にある、本格的なインド料理の店だ。
本場インドで修業してきたという店主さんは大の日本びいきの人で、本場の味を生かしつつ日本人の舌に合わせた味付けをしてくれる。
料金も良心的で、ディナーセットは千円札と五百円玉一つずつでおつりがもらえてしまうほどだ。
□カレー店メシアンの店内
「うわ、流石にこの時間はカップルが多いな」
えーえー、こっちは一人淋しく夕食ですよーだ。
くそ、今度アルクェイド……はやめておいて、シエル先輩でも誘ってきてやろうかしらん。
□カレー店メシアンの店内
「…………あれ?」
なんだかブルッと来たぞ。
間違っても先輩をメシアンに連れてきてはいけない、と神様から啓示がきた感じがする。
「……なんだろ。ま、そんなことよりチキンチキン」
そういったワケで、チキンカレーでディナーセットを頼んだ。
全て世は事も無し。
さしたるトラブルもなく、久しぶりに平和な夕食を迎えられそうだ。
return
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*s148
メシアンは昼間も行ったけど、あの時はシエル先輩が壊れてしまったので食事どころじゃなかったっけ。
「オッケー、昼間のリベンジと行きますか」
それじゃあ部屋からヘソクリを出して街に出るとしますか。
□繁華街
メシアンは事務所やら本屋やら様々な業種が混ざり合った複合ビルの二階にある、本格的なインド料理の店だ。
どのあたりが本格的かというと、店内でかかっているBGMはすべてインド音楽。くわえて店主はインド人っぽいカナダ人という追い討ち確定っぷりである。
もちろん味だって本格的だ。
日本人テイストにアレンジされたディナーセットも大人気。二千円でおつりがくるので、めでたい事があったり臨時収入(決まって有彦と一緒なのだが)があったりすると愛用している店だったりする。
「って、閉まってるんですけど」
看板には品切れのため臨時休業と書かれている。
□繁華街
「………………………………」
そうか、食いつぶしたか。なんにせよ臨時休業程度で済んで良かった。もっと作れと店主を脅迫、果てに警察沙汰になるよりましだろう。
「……ちぇ、下の蕎麦屋で我慢するか」
メシアンの下、一階には日本蕎麦屋がある。
ちなみに店名は飯庵だ。
return
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*s149
……ラーメンがいい。
琥珀さんは中華も作ってくれるけど、あの人の中華料理は上品でいけない。
育ちざかりの学生には脂が浮いた豚骨スープとか、これでもかっていうぐらいニンニクをいれた醤油ラーメンが必要なのだ。
□公園前の街路
ラーメンを食べる時はラーメンしかない店を選ぶ。
餃子や炒飯があると心が揺れるので、ここはビシッと男らしく屋台を選んだ。
「そういうワケで、今日は趣向を変えてこんなトッピングをしてみたわけだが」
「うわ、趣味わる! なんだそのひまわりみたいなラーメンは!」
「お、うまいコト言うね遠野。……うーむ、チャーシューのかわりにタマゴを八つほどのっけてみたんだが、これがなんともタマゴの味しかしねえなあ」
有彦のどんぶりは、黄色い大輪の花が咲いたようなラーメンだった。
麺を覆い尽くすほどのタマゴタマゴタマゴタマゴ。シャレでやったのかと思いきや、本人は美味そうに食べていた。……時折、この男の趣味が本当に解らなくなる。
「んでどうしたんよ今日は。マークUでメシ食おうだなんて、おまえが有間んところにいた以来じゃんか」
「別に他意はないよ。久しぶりにここのラーメンが食いたくなっただけだ」
ぼちゃん、と音をたててどんぶりにチャーシューが落ちてきた。
「あれ? 俺焼き豚頼んでないですよ」
「……………」
店主であり違法改造バイク夢五萬のライダーである高田くんのお兄さんは、菜ばしを“サービス”という形に動かした。
「あ、きったねー! 遠野だけ贔屓だ贔屓―!」
「……………………」
“君はまた今度”、と菜ばしを動かす店主。
―――ここは機動屋台、中華反転マークU。
ムリムリにチューンナップした軽のバイクで北へ南へラーメンを運ぶ神出鬼没のラーメン屋さんだ。
その正体はクラスメイトである高田陽一くんのお兄さんが趣味でやっている道楽である。もちろん道楽なので、お兄さんは調理免許など持っていない。
「ちぇっ、サービスは一日一度だけだもんなあ。いいよ、今日は遠野に譲ってやらあ」
何個目かのタマゴを口に放る有彦。あんなにタマゴを食べて腹を壊さないんだろうか、こいつは。
「んで話を戻すけどよ、なんだって今日は外食なんよ。うちにいられなくなるドジでも踏んだか?」
「うーん、うちの場合そういうドジを踏んだら命に関わるね。……まあ、本当に他意はないんだよ。なんとなく有彦とメシ食いたくなっただけ。
で、そういうおまえはどうなんだよ。イチゴさん帰ってきてるんだろ。夕飯時に出てきていいのか」
「あー、まあちょっとな。いま乾家は何かと込み入ってるんだわ。一人でいるとキレちまいそうだから、遠野からの電話は渡りに船だった」
有彦の言い分は歯切れが悪い。
「……ふーん。なんだ、また女関係でもめてるのか?」
「ばか、そんなんじゃねえ―――って、あー、そういえなくもないか。アレゃあ女っていうより雌って感じなんだが、いっちょまえに反論だけは的確で困ってる」
むむ、と眉を寄せてタマゴを食べる有彦。
「へえ、おまえが女の子相手に困ってるなんてすごいな。女は何やっても可愛いっていうの、持論じゃなかったっけ?」
「ばか、そりゃあ自分が惚れた女は、ってコト。でもまあ、たいていの女の人は好きですよ、オレは」
さらにタマゴを食べる有彦。
……食べても食べても麺が見えないあたり、本当に入っているタマゴは八個だけなのだろうか?
「ふーん。それじゃいま有彦くんを悩ませている女の子は好きな部類じゃないってコトですか」
「……それがなあ。なんとも複雑怪奇でね、あんまり相手にしたくない。遠野は幽霊とかお化けとか、そういった話を信じる方か?」
……む。その手の質問は難しい。
そっちの世界にどっぷり浸かっている遠野志貴の場合、真面目に答えると嘘だと思われるし、嘘を言うと真面目だと思われるからだ。
「………そうだな、ミステリーは悪くないと思う。ほら、神秘と浪漫は同意語だろ?」
「浪漫! すげえな遠野、あのばか馬を浪漫ときたか!」
ツボにはまったのか、有彦はゲラゲラと笑う。
「馬……? なに、今度の子ってポニーテールなのか? 最近ポニーの子って見ないけど、俺はわりと好きだなぁ、あの髪型」
「んー、俺はストレートのが好きだね。……っと、髪は短いぞアイツ。けど確かに尻尾はついてたな。こう、ひょこひょこ動くんだ」
「へえ。ネコみたいで可愛いじゃないか、それ」
「そりゃあ、動物ってのは見てる分には可愛いさ」
さらにタマゴを食べる有彦。
……顔をしかめているあたり、そろそろ黄身の味に飽きてきたようだ。
「けどまあ贅沢な悩みかね。オレんところは遠野ほど百鬼夜行じゃないから気楽なもんだ」
「……む。百鬼夜行とはまた言い得て妙な表現を。なかなかの落語ですな、乾亭」
「ひひひ、そうだろそうだろ。んじゃざぶとんはいいからチャーシュー一枚くれ、チャーシャー」
しゅっ、と疾風の速度で人のどんぶりに侵入してくる有彦の箸。
それを迅雷の速度で弾き返して、有彦のどんぶりからタマゴを一つ頂戴した。
「―――なあ有彦。一つ、おかしな事を言うんだけど」
こっちが二つ目、有彦が三つ目の替え玉を注文した頃、なんとなくいつもの質問をする気になった。
「昨日見た夢がさ、なんだか今日の出来事みたいな気がするって言ったら信じるか?」
「―――――」
む、と目を細める有彦。こいつの凄い所は一秒前まで馬鹿話をしていても本気と冗談を読み取れるという所だ。
「信じるも何も、オレは遠野じゃないから答えられない。……まあ、デジャヴュとかそういった物ならたまに見るけど」
「……うーん、俺も始めはそう思ったんだけど、どうもデジャヴュとは違うんだ。アレは夢で見た出来事を現実に迎えた瞬間に、ああこれって夢で見たな、と思うコトだろ?」
「そうだな。既に知っている感覚、つまり既知感だ」
「それが俺の場合は違うというか。昨日見た夢が今日起こる、んじゃなくて、今日の出来事が昨日の夢になるっていうか……」
「―――? なんだそりゃ、矛盾してねえかその言い方」
「してる。だからよく解らないんだ。それもさ、こう思うのは決まって夜なんだ。朝になるとどうでもよくなるっていうか、昨日の夢を忘れているっていうか」
「……へえ。またおかしな夢を見てるなおまえも。オレはアレだね、最近は昔のコトばっかり夢に見るぜ」
ずずー、とどんぶりをあおる有彦。
「昔のこと……?」
「おう。オレはあんまり思い出したくなんだけどな、夢に見るもんはしょうがねえ。ガキん頃はしょっちゅうおまえと殴り合ってたコトとか、ひとんちの屋根に登ってつまんねー話をしたコトとか。
まあ、次から次へとあるわあるわトラウマってヤツは」
「トラウマ? それって悪い夢なのか?」
……悪い夢。考えた事もなかったけど、今の自分が見ている昨日の夢、というのも悪い夢と言えるのかもしれない。
「んー、トラウマっていうか死んじまう事への恐怖っていうかなー。オレは同い年のヤツラよりその覚悟だけは別格だと思ってたんだ。だからまあ、人より何かを理解してるつもりだったわけ。
そんな時に自分以上に壊れてるヤツとクラスが一緒になっちまってさー、まあ色々衝突したワケですよ。それでまあ、オレは人間ってのは簡単に死しんじまうんだ、と覚悟していたなんていうのは嘘っぱちで、本当は一生懸命になって否定していただけだったんだな、と気が付いたわけだ。
……まあ、そういった一から十まで青臭い出来事を夢で見る。不出来な思い出だから見たくねえんだが、まあ、アレはアレでいいものかもしれない」
「……そうか。こっちも関係ない話になるけどさ、有彦と同じクラスになったヤツ? そいつもさ、おまえと同じような事考えてるよ、きっと」
「へへー、そいつは良かった。将来有望なヤツだからな、恩を売っとけば役に立つ」
ひひひ、といつもの笑みをこぼす有彦。
――――ああ、確かに恩にきている。
このクラスメイトがいなかったら、遠野志貴はかけがえのない幼年期を無駄にしていた筈だ。
一人で悟ったつもりになって、外界と断絶するコトで必死に自己を守ろうとして。
人生で一番輝いている、おそらくは無条件で笑顔を許される唯一の時間を、子供の浅知恵で棒に振ろうとしていたんだから。
「じゃ、オレからも一つ訊くけどな。遠野。おまえ、以前オレが聞いた質問の答えは今でも変わらないか?」
「―――――――」
有彦の目はいつも通りで、ただその口調だけがひどく優しかった。
……そんな声で問われたのはいつの頃だったろう。
お互いがまだ小学生で、互いを目障りだと感じていた最後の日か。
「うーん、どうも変わってないみたいだ。そういう有彦はどうなんだ?」
「あー、実はオレも変わってない」
「なんだ。お互い進歩がないな」
「はっ、腐れ縁もここまでくるとドロドロだな。ここまできちまうと、手を切るには殺すしかなくなってそうだ」
「なに言ってるんだ。殺しちまったらそれこそ一生手が切れないぞ」
「―――――――――」
有彦はぽかん、と口を開けたあと。
「違いない。おまえのそういうトコ、おっそろしいよなあ」
心底おかしそうに笑い声をあげた。
「……ひぃ、はあ、いやー笑った。こんなに笑ったのは今日の昼以来だ」
「……すごいセリフだな。安っぽいにもほどがある」
「だろ? あんまり重苦しいのもなんだからな」
ひひひ、という笑い声。
それがこの男なりの照れ隠しだと分かっているけど、まあ、それは一生黙っていよう。
「ま、難しいこと考えんなよ。人生なるようにしかならねえんだから」
「なんだ。最後にはたいそうシャレた言い回しをするだろうなって期待したのに、オチは十人並みなんだ」
「お、それじゃ言いなおそうか。そうだな、人間なんて所詮このラーメンと同じなのさ」
「へえ、その心は?」
「熱いと美味い。冷めるとゴミだ」
「……おい。どこもオチてないぞ、それ」
「オチないてねえよ、こりゃあ当たり前のコトだからな。どうあがいても最後には冷たくなるんだから、熱いうちに平らげちまわねえといけないワケ。
ほら、生き物なんてみんなそんなモンだろう?」
□志貴の部屋
「……ふわあ、食った食った」
結局有彦に付き合って四杯も食べてしまった。
時間もじき零時。
四時間近くバカ話をしていたもんだから、今夜は夢を見る体力さえ残っていないだろう。
ばふっ、とベッドに倒れこむ。
「―――――――ん」
意識がしぼんでいくような感覚。
急速に闇へと転がり落ちていく直前。
……その、俺たちの話がうけたらしく、高田くんのお兄さんが半分以上ツケにしてくれてラッキー、なんて安っぽいコトを思っていた。
return
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*s151
「……そういえば大帝都で千円の食い放題をやってるって話だったな……」
大帝都は隣街でも有名な焼肉屋さんだ。
ほぼ原価じゃないのかこれ、と思わせる低価格と一級品の肉の質が売りのパラダイス。
電車に乗って隣街まで行かなければならない、というのはマイナスだがそれを補ってあまりある味と値段を提供します。
「―――決めた、今夜はごちそうだー!」
財布を持って走り出す。
許してくれ琥珀さん、年頃の男の子は上品な料理より、こうガツガツしたワイルドな味が恋しくなる時があるんですー!
□町
□町
電車に乗って隣街に出た瞬間。
「―――――――――あれ?」
目が疲れていたのか、街には色というものがなかった。
「ちょっ、ちょっと待った――――」
ごしごしと目蓋をこする。
□町
□町
「あ、戻った」
何度か瞬きをしているうちに街はいつも通りの景色になった。
「……ほ」
思わず安堵の息を洩らす。
だって、いくらなんでもさっきのはない。
なんていうか、控え目にいってもこの街がハリボテで出来た映画のセットにしか見えなかったぐらいなんだから。
□町
「さーて、食うぞー!」
ふふふ、とぎゅるぎゅる鳴るお腹を抱えて一路焼肉・大帝都を目指す。
……そういえば大帝都は月に一度の割合で食べ放題をやるのだが、その度に記録をうちたてた人の名前を店内に飾っている。
そこでいまだ燦然と輝くあおざきあおこ・とうこ、という名前があるのは、きっと他人の空似だろう。
そうして、隣街のさらに奥へと足を踏み入れた瞬間。
□町
【殺人鬼】
人込みの中に、ヤツの姿を認めてしまった。
「―――――――!」
舞いあがっていた心が落下する。
件の殺人鬼。
噂でしか聞いていなかったヤツは、確かに目の前にいて笑っている。
「ま、待て―――!」
ヤツはさらに奥へ。
……大急ぎで先を作っているあの子の苦労を台無しにするように、先へ先へと進んでしまった。
歩いていては間に合わない。
先に急いでは―――ゆっくり行かなければいけない、と分かっていても止められない。
ただ夢中で走り出す。
そうしてその結果、
街は凍りついたように停止し、そして―――
音もなく崩れ出した。
メガネが落ちた。
どろどろと崩れていく。
足元はすでに融解しており、流れ爛れていく建物は果てしなく有機的。
血管こそないものの、まるで生き物の体内のよう。
「っ……まず、い―――!」
もう足首まで沈んでいる。
……そうだ、ここに来てはいけなかった。
ここは世界の果て。
もともと箱庭のように狭いこの世界において、まともに存在できるのは自分の街だけだったのに。
「くそ、またコレなのかよ……っ!」
すでに沈下は腰にまでおよんでいる。
こうなってしまっては手遅れだ。
俺は世界の綻びに巻きこまれて終了する。
だが、その前に――
「……また……またって、なんだ」
無意識のうちにこぼした罵倒。
自分は―――遠野志貴は、以前にもこんな終わりを迎えていたという事だろうか。
【殺人鬼】
「―――そうだ。もっとも、目覚めれば忘れてしまうがな」
ヤツが笑う。
「だがこれでは意味をなさん。これでは決定権は貴様にあるまま戻るだけだ」
なに、を――
「俺を殺したいのなら、相応しい場所で呼べ」
殺人鬼は崩壊に巻き込まれて消滅した。
「――――――あ」
そうして自分も呑まれていく。
だが世界の崩壊は一時のものだ。世界にとってこの傷は致命傷ではありえない。
故に、救急箱を持ってあの子がやってくるかぎり、この綻びは正しく繕われる。
こっちはえらく気楽なもんだ。
こうして意識が落ちて眠りについてしまえば、目覚めた時にはすべて元通りになっているっていうんだから―――
return
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*s152
「うん。たまには大帝都で上カルビを食べよう」
急にそんな気になった。というか、肉ならなんでもいいという野生衝動がどっかんどっかん。
自分の健康に気を遣って薄味なものばかり食べていると、たまにこういった反動がくる。
「―――決めた。今夜はごちそうだ」
血のしたたるようなレアステーキ。いいね。
□町
□町
「―――――――――」
隣街には色がなかった。
……失敗した。ここはまだ彩色がすんでいなかったらしい。
「……っ」
忘れていた頭痛が蘇る。
「……ああ、思い出した」
まったくいつもこうだ。
その時までは忘れているくせに、最期を迎える事になると頭はとたんにクリアになりやがる。
いいかげん、自分の愚鈍さと縁を切りたくなってくる。
「――――いるな」
いや、あるな、と言うべきか。
「どうせもう逃げられないし」
観念して呟くと、お約束のようにメガネを外した。
□町
【コウマ】
「――――――――――」
現れる死の具現。
いや、現れるというのもまた間違い。
アイツは初めからここに存在していただろうから。
「くっ―――――」
途端、鼓動が激しくなる。
……慣れている。もう何度か慣れている筈なのに、心臓は狂ったように活動する。
―――逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ。
なんとか踏みとどまろうとする遠野志貴のプライドと、
―――逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ……!
生命維持を最優先する肉体とが火花を散らす。
【コウマ】
「――――――――――」
「はっ……はは、はぁ……ぁ」
胸を押さえて睨み返した。
発狂した心臓がぱちんぱちんと破裂していく。
心臓をミキサーに入れられた後。
砂糖とレモンを混ぜて、スウィッチを入れられたような感じ。
心臓は綺麗に溶かされて血液の塊となり、全身の血管へと逆流する。
「は――――はぁ、あ…………!」
その負荷で、毛穴という毛穴から血が噴出しそうなこの息苦しさ。
【コウマ】
「――――――――――――」
無言で片腕を上げる。
……知っている。あの腕は死神の鎌だ。何の技術もない、ただ相手へと突き出すだけの動作。技の鍛錬も戦いの駆け引きも知らない最も原始的な行為。
―――だが、果たして誰が知ろう。
その腕こそが、およそ理想的な必殺を具現化したものだとは。
「――――――――貴様」
……自分の頭が粉々に砕かれるイメージを払拭して、なんとかそう声を上げた。
「――――――――――」
男に答えはない。当然だろう。元より岩のように頑なな男だった。アイツが言葉を発したら、それこそショック死しかねない。
「―――――――消えろ、軋間……!」
自身に言い聞かせて走った。
敵はただ一人。
紅赤朱と呼ばれた、遠野志貴が持つ最強の死のイメージ。
そうして終わった。
もとよりこの場所でアイツに敵う筈もない。
ここは世界の果て。
この世界が死にかけている病根とも言える場所で、死に抗う事などできない。
――――――だから、もし。
もしあの死を打倒する術があるのだとしたら、それはあの場所でだけだろう。
遠い昔。
ただ一度だけこの眼がアイツを認めた、あの暗い森の奥でだけ――――
return
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*s153
□遠野家居間
「そうだな、外はいい天気なんだし……」
こんな日は陽射しを浴びないともったいない。普段不健康なんだから、今日ぐらいは体をいたわる事にしよう。
□中庭のベンチ
「―――――っ」
陽射しが直接眼に映る。
椅子に座ってテーブルの下を覗いたが、あの子の姿はありはしなかった。
「――――――ここにもいない」
この中庭は彼女の居場所だ。
ここにいないというコトは、彼女はこの街の何処にもいないというコトになる。
「―――――――何をしているんだ、俺は」
そこまで解っているのなら急ぐべきではないのか。
あの場所。
七夜志貴という子供だった自分にとって、もっとも懐かしくてもっとも忌むべきあの場所へ―――――
return
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*s155
□遠野家居間
せっかくの休みなんだし、たまには街に出るのもいいだろう。
天気もいいし、ぼんやりと歩いているだけでも楽しそうだ。
□遠野家屋敷
「ちょっと出かけてくるー!」
と、ロビーで大声をあげて外に出た。
さて、とりあえず何処に向かおうか――
return
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*s156
□遠野家居間
せっかくの休みなんだし、たまには街に出るのもいいだろう。
天気もいいし、ぼんやりと歩いているだけでも楽しそうだ。
□遠野家屋敷
「ちょっと出かけてくるー!」
と、ロビーで大声をあげて外に出た。
さて、とりあえず何処に向かおうか――
return
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*s157
□遠野家屋敷
「アルクェイド何してるかな……」
というか、こんないい天気にアルクェイドに会いに行く、というのもおかしな話だ。
これだけ陽が強いとよっぽど楽しそうなエサを用意しないとあいつは外に出ようとしない。なにしろアルクェイドにとってのいい天気というのは月の出ている晩であって、今日のような天気は土砂降りの雨みたいなモノなんだから。
return
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*s158
□マンション入り口
でも来る。
土砂降りだろうが大雪だろうが、今日の午前中はアルクェイドに会うと決めたからには実行あるのみ!
□マンション廊下
ぴんぽーん、とチャイムを鳴らす。
……この時間、アルクェイドが出てこないのはいつもの事なので、合い鍵を使って中に入る。
□マンションキッチン
「おーい、生きてるか〜?」
ドアを閉めつつ、奥の部屋へ声をかける。
「……んー、起きてるよ〜」
いかにも今まで眠っていたような声が返ってきた。
「よし、じゃあお邪魔するぞー」
勝手知ったる人の家、とためらう事なく奥の部屋へ移動した。
□アルクェイドの部屋
「んー、おはよ〜」
「っ!?」
びくっ!と思わず体が止まった。
【アルクェイド】
「志貴がこんな早くから来るなんて珍しいね。休みの日はいつも夕方に来てくれるのに」
んー、と背中を伸ばして眠気を払拭しようとするアルクェイド。
「―――――――――」
う……今更といえば今更のくせに、なんか妙にドキドキする。
【アルクェイド】
「よし、ちゃんと目が覚めたかな」
ふう、と一度だけ深呼吸をして目をパチクリさせる。
「おはよう志貴。なんか顔が赤いけど、ここまで走ってきた?」
走ってきた、というのをどう解釈したのか、アルクェイドは嬉しそうだ。
……まあ実際早く会いたくて走ってきたわけだけど、その―――
「―――――――――」
こっちはアルクェイドと違って、すぐさま思考を切り替えられない。
「あ、また走りっぱなしで無茶したんでしょ?志貴は持久力がないんだから、長距離走は止めておいたほうがいいんだって」
「―――――――――な」
それは自分でもよく解っている、と返答しようとして、あやうく別の言葉が出そうになった。
「? 志貴、なんかヘンだね」
だから、それはおまえのせいなんだってば。
「―――――――――なまあし」
「なまあし? 聞いた事ないけど、なにそれ?」
だから、なまあし。
なまあし。
なまあし。
なまあしなまあしなまあしなまあしなまあし!
「志貴?」
「ちょっとタイム。一分ほど話しかけないでくれ」
誘惑を断ち切るように目蓋を閉じる。
……くそ、あんなの何度も見てるっていうのに妙に意識してしまって、頭には同じ言葉しか浮かばない。
寝崩れたシャツ一枚、というのは、反則だ。
なまじ隠されてるからヘンに妄想が膨らむというか、いつも以上に曲線がキレイに見えるというか。
こう、思わずこのまま押し倒してなだれこみたい衝動に駆られるぐらいに扇情的だ。
恐るべしワイシャツ効果。くわえて朝の光にシャツが透けているという効果も見逃せまい。
「ねえ志貴、一分経ったけど?」
「ええい、あと一分延長!」
ハア!と両手を合わせて精神統一する。
禁止禁止、なまあし禁止!
だいたい、いくらなんでも朝からそうゆうコトをするのはどうかと思う。
自分は健全な学生なんだ。若さゆえの勢いにまかせてしまっては、いずれ肉欲の日々に落ちてしまうのは明白だって。
うん、なにしろ若いんだから。
「―――――――」
……まずい。なんか、自分を冷静にするはずの理屈が破綻しかけてる気がする。
気を取りなおして、雑念を払うために深呼吸をする。
――――と。
ばふ、という柔らかい音がした。
「……アルクェイド……?」
□アルクェイドの部屋
恐る恐る目蓋を開けると、予想通りというか、最悪の事態というか、アルクェイドはベッドに横になっていた。
「……んー、やっぱり無理みたい。なんか凄く眠いから、今日はこのまま寝ちゃうねー……」
むにゃむにゃと寝言一歩手前の声を出すアルクェイド。
「寝ちゃうって、おまえ―――」
「ね、一緒に寝ない? 今日も悪い夢を見るだろうから、志貴もわたしに付き合ってよ」
「い、一緒にって、別にいいけど―――」
っていうか、いいのかそれ。
このままなし崩し的にベッドに入ったら、それこそ―――
「待った。悪い夢を見るって言うけど、それってどんな夢なんだ?」
「んー、志貴がわたしに殺される夢ー」
あっさりとアルクェイドは言いきった。
「………おまえ、最近質が悪いぞ。夢ってのは無意識下の願望なんだって知ってるか」
「それは貴方たちの理屈でしょう。元々夢を見ないわたしが見る夢はそういうものじゃないもの」
「そういうものじゃないって、じゃあどういうものだよ」
「そんなの知らない。……ああもう、眠いんだから早く決めて! 志貴はわたしと寝てくれるの、寝てくれないの!?」
ぐわー、と火を吐く怪獣みたいな癇癪を起こすアルクェイド。
……そりゃあ一緒に寝るのはむしろ望むところなんだけど、今の状況でベッドに入るのはまずいと思う。
ああもう、どっちにするんだ志貴――――!
return
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*s159
□アルクェイドの部屋
「よし、寝る。一緒に寝る!」
目に見えない何かに言い訳するように決意表明をした。
……まあ、今更アルクェイドと一緒に寝ることに抵抗を感じる仲でもないし、別に迷うことなんてない。なんてゆーか、そういうコトになったらなったでこっちとしては嬉しいワケだし。
「それじゃもうちょっとそっちに行ってくれ。そんな真ん中に陣取られると俺のスペースが―――」
ベッドに横になりながらアルクェイドの体を押す。
――――と。
「……うわ、もう寝てるよコイツ」
よっぽど眠かったのか、アルクェイドはすぅすぅと幸せそうな寝息をたてて眠ってしまっていた。
「……おーい、アルクェイド〜。寝ちゃったのかー」
耳元で囁いてみるが、一向に起きる気配はない。
「……なんだ。ホントにただ一緒に寝てほしいってコトだったんだ」
唐突に、さっきまで不純なコトを期待していた自分が恥ずかしくなる。
「……まあ、悪い夢を見るから側にいてほしいっていうのは、うん」
アルクェイドらしくないけど可愛いと思う。
……そういうコトなら、予定は違ってしまったけどこうしているのも悪くはないだろう。
子守唄を歌う事はできないけど、自分がいるだけでアルクェイドが安心できるというのならそれで十分だと思う。
「――――――――」
安らかに眠るアルクェイドの顔を眺めながら、こっちもベッドに背中を預けた。
……カーテンをすり抜けてくる朝の光が心地よい。
なんとなく付き合いで目を瞑ったあと。
あれだけたっぷりと眠ったくせに、遠野志貴の意識はするすると夢の中へと落ちていった。
―――――走っていた。
何の為に走っているのかは解らない。
ただ必死になって走っていた。
片手にはナイフを握って、見たこともない、迷路のように広大な城の中を走っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ―――――――!」
息があがる。
心臓はこれ以上の運動は不可能だと告げている。
それでも走った。
走らなければ、さっきから付いてきている何かに追いつかれてしまうからだ。
「はぁ、はぁ、はぁ―――――――あ?」
追いつかれる?
という事は、つまり自分は誰かに追われているという事だろうか。
けれど追われる理由なんて解らない。
なにか決定的なまでに悪いことをした記憶もない。
ただ手にはナイフがあって、俺は理由もなく走っているだけだ。
「ナイフ―――――?」
……ああ、そういえばナイフを握っている。
それを持って、決定的なまでに悪いコトをした事がなかったか。
例えば、見知らぬ女を尾行して、そのまま完膚なきまでに殺害してしまった事とか。
「――――は―――はぁ、はぁ、はぁ―――――」
息があがる。
心臓はもう走れないと悲鳴をあげる。
……そう、そういえばこういうのも覚えがあったっけ。
あの時はナイフは持っていなかったしこんな嘘みたいな城の中じゃなかったけど、確かにずっと走っていた。
あれは、なんの為に走っていたのだったか。
逃げなければ殺されると思った。
殺してしまったから殺し返されるのだと確信していた。
けれど、それが誰にだったかだけ、
うまく、思い出せそうになかった。
□城
「はぁ―――――――は」
広い空間に出た。
走りまわっている間に深い所まで来てしまったのか、城の空気は一層暗いものになっている。
―――この城は、おかしい。
一つの建物のくせに、まるで生き物のように感情が伝わってくる。
優れた建造物には創造主の理想が宿るというが、この城もその類なのだろうか。
足を踏み入れた時は、ただ静かな城だと感じた。
それが深部に移動するたびに感情の色を増していく。
深い絶望、だろうか。
進めば進むほど、訪れる者を拒絶する暗い感情で壁が塗りたくられているようだった。
そしてこの聖堂。
甲高く響く足音さえ悲鳴のように聞こえて、まるで廃墟の城のようだ。
「はあ―――はあ―――あ?」
足を止めて呼吸を整えた時、ふと窓らしきものを見つけた。
この聖堂は高い位置にあるのか、窓から地上が覗けるらしい。
「―――――しかし」
記憶が正しければ、その窓がある方向は城の最深部の筈だ。
つまり。
「……あの窓は、玉座を監視できる覗き穴」
興味が湧いた。追われている事など忘れた。
玉座というのは城の主の聖域だ。
それを監視する窓とはいかなる物か。
ただでさえおかしいこの城の謎が、その窓に収束されているのだと確信する。
「――――――――」
足音を響かせて窓へと近づく。
手すりによりかかり、遥か下方の玉座を覗きこんだ。
それは。
「それを見るな、人間」
「――――――!」
□城
背後からの声に振り向いてナイフを構え――
【ブリュンスタッド】
「――――ア、アルクェイド……!?」
ナイフを慌てて下げる。
なぜか長髪、くわえてドレスなんかを着ているアルクェイドはほう、と感心したように口元を緩めた。
【ブリュンスタッド】
「いかにも、この身はブリュンスタッドである。……ふむ、つまらぬ輩と思うたがアレに縁のある人間であったのだな」
静かな、落ちついた瞳でアルクェイドは見つめてくる。
「――――――おまえ」
それで、鈍い自分にも理解できた。
目の前にいるアルクェイドは俺の知っているアルクェイドじゃない。
遠野志貴が知っているアルクェイドは、さっきの――
「おまえ、誰だ」
「ブリュンスタッドと答えた筈だが。もっともおぬしから見ればアレの悪夢という位置づけなのかもしれぬ。アレは過去も未来も怖れてはおらぬ故、二重に存在するというカタチになってしまってはおるが」
「―――――は?」
アルクェイド……じゃないけど、やっぱりアルクェイドのような気がするのでアルクェイド……は、なにやらよく解らない事を言った。
「悪夢って、これが――――?」
【ブリュンスタッド】
「解りやすく言えばな。もっともこの身にはそのような具現化はありえぬ。悪夢に呑まれるのはおぬしたちだけであろう。夢魔の力なぞ受けずともこの身はこうして存在する。故に、おぬしはアレの悪夢を見ているのではなく、我らの内に介在しておるだけであろう」
感情のない声で言いながらも、どこか困ったようにアルクェイドは視線を揺らす。
「……よく、解らないんだが。ようするにおまえは俺が知っているアルクェイドじゃないんだな?」
【ブリュンスタッド】
「そうだ。この身に名があるとすれば、それは朱い月であろう。アレはいまだに自らを解放せぬが故、このように留まっているのだろうな」
ドレスを翻してアルクェイドは立ち去っていく。
かつん、かつん、と聖堂に響く足音。
「あ―――ちょっ、ちょっと待てよ、俺はこの後どうすればいいんだっての!」
ぴたり、とアルクェイドは足を止める。
【ブリュンスタッド】
「解りきった事を。ここはアレの世界故におぬしの悪夢は存在せぬ。ここがおぬしの悪夢でない以上、目覚める手段は一つだけであろう」
「いや、だからその方法が解らないんだけど」
背中を向けてアルクェイドの肩が上下する。
……長髪のアルクェイドはため息をついたあと、
「――――死ぬがよい」
【ブリュンスタッド】
金の瞳で遠野志貴を凝視した。
網の目のように走る光線。
遠野志貴の肉体は、たまご切りにきられたたまごのように解体された。
数にして、実に十八個。
……一個多いあたり、アルクェイドの悪戯心を感じないまでもない。
「うわああああああああああああああ!」
たまらずベッドから跳ね起きた。
「はぁー、はぁー、はぁー、……あー」
ちゃんと手足がくっついている事を確認して、ようやくまともな知性が戻ってきた。
「……うわあ、たもったもんじゃなかったな、今のは」
こういうのも興奮冷めやらぬ、というのだろうか。
額に浮かぶ脂汗を拭ってアルクェイドに視線を移す。
「――――――――――――」
「……この。人の気も知らずに平和そうに眠りやがって」
それは、さっきまでの夢が馬鹿らしく思えるぐらい安らかな寝顔だった。
――――あの夢の中。
真剣に考えなければならない幾つかの事柄があったというのに、そんな物がどうでもよくなってしまうほど、アルクェイドは幸せそうだ。
「………………ちぇっ」
起こして話を訊くなんてとんでもない。
アルクェイドは眠っている。
他の誰でもない、自分の傍らで幸せそうに眠っている。
それ以外に、今は何が必要だっていうんだろうか?
「―――そうだな。暗い話は、またその時に」
ばふっ、ともう一度ベッドに体を預ける。
……目蓋を閉じれば、またあのアルクェイドに会えるだろうか。
もしそんな幸運が働いたとしたら、次こそはもうちょっとぐらい、あのすかしたお姫さまを笑わせてやりたいな、なんて命知らずな事を思ってみた。
そうして眠る。
目覚めればまたいつもの朝に戻っている。
けれど、その狭間。
有り得なかった未来を過ごすように、もう一度だけ彼女と彼女の夢を見る―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s160
□遠野家屋敷
とりあえず適当な喫茶店にでもいって、腰を落ちつけて予定を組み立てよう。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s161
□喫茶店
【アキラ】
「はい、でもこの時期はちょうど時間が空いているんです。冬が近くなると何かと忙しくなるんですけど、今は戦士の休息って感じですから」
そう言って、アキラちゃんはストロベリーパイにナイフを入れた。
今日は趣向をかえてクォーターでもハーフでもなく、パイをまるごと一つ注文している。
テーブルの大部分を占める巨大な円形のストロベリーパイは、東南アジアの奥地に咲く花に似ているかもしれない。
たしか肩書きは世界最大の花とかなんとか。……我ながら食欲を削ぐ例えをしてしまった。
【アキラ】
「けど来年からは好きなコトは出来そうにないんです。寮が高等部に移ると三人制になっちゃって、持ち物検査も頻繁に行われて、同好の人とも別部屋になっちゃうだろうし。
……えっと、遠野先輩みたいに成績のいい生徒はノーチェックなんですけど、わたしはとくべつ成績悪いですから」
パクパクと美味しそうにパイを食べながらアキラちゃんは話を続ける。
「………………」
この娘は瀬尾アキラちゃんと言って、秋葉の後輩にあたる女の子だ。
昨年の冬、ちょっとした事件に巻き込まれた時に知り合ったんだけど、それ以来親しくさせてもらっている。
アキラちゃんは遠慮がちで行動的ではないんだけど、根はすごく元気で前向きだ。
そのギャップがなんとも可愛らしい。
なんていうか妹がいたらこんな感じなんだろうな、と思わせてくれる雰囲気が好きで、最近はよく顔を合わせている。
―――ふうん。妹がいたら、ですか。兄さんにはれっきとした妹が一人いるはずなんですけど?
□喫茶店
「……………う」
なんか、およそ妹らしくない声が聞こえた気がしたけど忘れよう。
【アキラ】
「あの、志貴さん……? さっきから黙っていますけど、おなかの調子が悪いんですか……?」
おどおどと上目遣いでこっちの顔を覗き込んでくるアキラちゃん。
「え―――あ、いや、そういう訳じゃないんだ。少しね、考え事してただけ」
【アキラ】
「あ、当てて見せましょうか。ずばり、遠野先輩のコトを考えてたんですね?」
……鋭い。どうして女の子っていうのは、こう勘が鋭いんだろうか。
「―――――うん。まあ、半分あたり。よく判ったね、アキラちゃん」
【アキラ】
「はい。だって志貴さん、遠野先輩の事になると困ったような嬉しいような、なんともいえない顔になりますから」
そういうアキラちゃんも嬉しそうに笑みをうかべている。
【アキラ】
「あ、けど当たったのは半分だけなんですよね。……なら、あとの半分が、その」
ごにょごにょと呟いて、アキラちゃんはフォークをぱくりと口に含んで俯く。
「なに。あとの半分がどうしたって?」
【アキラ】
「え……えっと、わたしのことだったらいいなあ、なんて、思っちゃいました」
「ああ、それも当たり。もう半分はアキラちゃんのコト考えてた」
「あ、やっぱりそうですか、そうですよね、そんなコトあるわけ……って、ええーーーーーーーぇ!?」
【アキラ】
ガタン、と席を立つアキラちゃん。
同時にアーネンエルベ中のお客さんの目がこのテーブルに集まったりする。
「――――――――――――――」
注目の的になって恥ずかしいのか、アキラちゃんは耳まで真っ赤になっている。
「あ――――あ、あの―――あう――――!」
「大丈夫、誰も笑ってないよ。ほら、みんなもう見てないから席に座って落ちつこう」
「は、はい、座ります、わたし!」
……と。
アキラちゃんは派手にテーブルに膝を打ちつけてしまった。
がしゃん、と倒れたグラスの中身がスカートの裾を濡らす。
【アキラ】
「あぁ―――――――――!」
声をあげるアキラちゃん。
二度集まるお客さんの視線の束。
……不幸中の幸いだったのは、倒れたグラスの中身が水だった事だろう。
「ご、ごめんなさい志貴さん、ちょっと席を外します……!」
涙声でそう言って、アキラちゃんはトイレへと駆け込んだ。
□喫茶店
しばらくしてアキラちゃんは戻ってきた。
照れくさそうに笑って、さっきの事は忘れようと頑張って話をするあたり実にアキラちゃんらしい。
そもそもこの場に自分がいるのだって、アキラちゃんの前向きさに引きずられて強引に連れこまれたようなものだったし。
【アキラ】
「それでですね、その人蒼香さんっていうんですけど、これが遠野先輩とは正反対な人なんです。あ、学内ではどっちかっていうと遠野先輩に似ているんですけど、寮に戻ると一変しちゃって、なんていうんでしょう? ほら、鎖とか光り物とか、色々体につけたがる人」
「光り物って、ネックレスとか宝石とか? 秋葉のヤツ、また変わった友人がいるんだな」
「んー、そうじゃなくてですね、えーっと……」
的確な表現が見つからないのか、悩みながらナイフを動かす。
慣れた手つきで切り取ったパイをお皿に載っけるアキラちゃん。
テーブルに残ったストロベリーパイは、残り一切れとなっていた。
「あ、おかわり頼もうか。ラズベリーのトルテ、そろそろ出来あがるって話だし」
「え、ほんとですか!? やった、やっぱりアーネンエルベに来たんならラズベリー関係を食べないとうそですよね!」
ぱあ、と顔を輝かすアキラちゃん。
こっちとしても、そう喜んでもらえるとすごく嬉しい。
【アキラ】
「――――――あ」
と。一転して、アキラちゃんはしょんぼりと肩をすくめてしまった。
「……あの、やっぱりいいです。おかわり、いりません」
しぶしぶとフォークをテーブルに置いてしまう。お皿に盛られたパイも手を付けていない。
「ん? アキラちゃん、もうお腹一杯?」
「あ――いえ、そうじゃなくて。……あの、わたしばっかり食べちゃってるから、その……」
――――ああ、なるほど。
確かに食事が始まってからこっち、こっちは一切れしかパイを食べていなかったっけ。
「こっちの事は気にしないでいいよ。元々小食だから一切れ食べればそれで十分なんだ。それにもう少ししたらお昼ごはんだろ、なら腹八分目にしておかないと」
「う―――たった二切れでおなかいっぱいになるんですか、志貴さんは」
「うん。甘いものは好きなんだけどね、あんまり糖分はとれないんだ。そんな訳で自粛してる」
加えて言うなら洋菓子より和菓子のほうが好きなんだけど、それは黙っておこう。
「………………………」
と。
なんか、アキラちゃんはますます落ちこんでしまった。
「わたしも、もういいです。いまおなかいっぱいになっちゃったらお昼ごはん入りませんから」
「そっか。アキラちゃんの食べっぷりってなんか元気いっぱいって感じで好きなんだけど、それじゃ仕方ないか」
【アキラ】
「あ―――うわ、そんなふうに言われると恥ずかしくて、嬉しいです」
と、またも一転して嬉しそうに頬を赤くするアキラちゃん。
……しかし、恥ずかしいのに嬉しいというのは矛盾してると思うんだけど……。
それからもう少し話しこんでアーネンエルベを後にした。
結局残された二切れのパイを名残惜しそうに見つめていたアキラちゃん用にラズベリーのトルテを買った。
寮のお友達のお土産に、と手渡すとアキラちゃんは素直に受け取ってくれた。
□公園前の街路
そうしていつもの公園。
時刻はそろそろお昼で、公園は休日の正午に相応しい賑わいを見せている。
【アキラ】
「そういえばもうすぐ文化祭なんですよね、志貴さんのところ」
秋葉に聞いたのだろう、アキラちゃんはそんな事を言ってきた。
「そうだよ。うちの学校、進学校だから体育祭より文化祭のが盛りあがるんだ。……そうだな、アキラちゃんも暇があったらおいで。来てくれたら時間の許すかぎり案内するよ」
【アキラ】
「あ……はい、絶対いきますっ!遠野先輩が恐くてもぜっっったい行きますから!」
なんか、妙に気迫のこもった言葉が返ってきた。
「それじゃチケットは送っておくよ。あ、でも案内ができるのは午前中だけになっちゃうかもしれない。そうだな、せっかく来てくれるんだから午後は秋葉に案内してもらうっていうのはどう?」
【アキラ】
「だ、だだ、ダメです、そんな恐ろしいことしないでください〜! 志貴さん、お願いですから遠野先輩には極力内緒でお願いします!」
「……?」
アキラちゃんがそう言うなら、まあ秋葉には訊かれないかぎり黙っていよう。
「っと、そろそろお昼だな」
「……はい、もうお昼なんですね」
さて、この後はどうしたものか。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s162
□公園前の街路
とりあえず、アキラちゃんも用があるようだし、このあたりで別れたほうがいいだろう―――
【蒼香】
「アキラ」
と。見知らぬ少年がアキラちゃんに声をかけた。
【アキラ】
「あ――先輩、待っててくれたんですか!?」
「当然だろう。あたしはおまえの保護者だ、おいそれと目を離すような真似はしない」
じろり、と少年はこっちを一瞥した。
「行くぞ。開演一時間前は最低限のマナーだ」
【アキラ】
「あ、はい。それじゃ志貴さん、またお電話しますから。遠野先輩によろしく言っておいてください」
アキラちゃんはぺこりとおじぎをして見知らぬ少年に付いていく。
【蒼香】
「……………………」
その前。
なにか意味ありげな視線をよこして、少年はこちらに背中を向けた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s163
□公園前の街路
アキラちゃんはお昼過ぎから予定があるとか言ってたけど、昼食を一緒にする時間はあるかもしれない。
「アキラちゃん、まだ時間ある?」
【アキラ】
「はい、三時ごろまで予定はありません」
「それじゃお昼ごはんとか一緒にどうかな。こっちも予定が空いててさ、しばらく付き合ってくれると嬉しいんだけ―――」
【アキラ】
「はい、よろこんでご一緒させていただきます!」
アキラちゃんは即座に笑顔で答える。
「―――っと、ありがと。そ、それじゃもうちょっと歩こうか」
【アキラ】
「志貴さん? なにか慌ててますけどどうかしましたか?」
「ああ、ちょっとね。アキラちゃんの反応が早かったからさ、まるでこっちの言い分が判っていたみたいだなって」
【アキラ】
「あ……えっとですね、実はいうとちょっとだけ視えちゃいました」
「ああ―――なるほど、そういえばそうだったね」
アキラちゃんにはちょっとした特技というか、特別な力がある。
未来視、とでも言えばいいのだろうか。
聞いた話だけだからよくは解らないのだけど、なんでも少しだけ先の出来事を映像として“先見”してしまうとかなんとか。
もっともアキラちゃん自身それを自由に扱えるわけではなく、時折、それこそランダムに未来らしきものを視てしまうだけだという。
□公園
手作りが売りのハンバーガー店からセットメニューを二人分テイクアウトして、公園で昼食をとった。
天気がいいという事もあったし、アキラちゃんが街に遊びに行くより話がしたいというのでそのまま公園で休む事になった。
陽射しは眩しく暖かく、日向ぼっこには最良の天気である。
「へえ、アキラちゃんって北国の生まれなんだ。それじゃ寒さには強いほう?」
【アキラ】
「えへ、それがあんまり強くないんです。寒いと朝起きるのも辛くて、そんな事で職人さんに申し訳ないと思わないのかー、ってお父さんからよく叱られてました」
「? 職人さんって、アキラちゃんの家って何をやってるところだっけ?」
【アキラ】
「えっと、お酒造ってるんですよー。いいお酒を造れる職人さんは宝物ですから、うちではお父さんより偉いんだそうです」
嬉しそうに言うあたり、アキラちゃんにとって家の仕事は誇れるものなんだろう。
そういうまっすぐさが初々しいというか、このままずっとそのままで成長してほしいなあ、とか。
【アキラ】
「えっと、そういうわけで寒さには弱いんですけどお酒には強いです。ほんとはいけない事なんですけど、うちにいた頃は新しいお酒が出来たら一番に飲ませてもらったんですよ」
「お。という事は日本酒好きなんだ、アキラちゃんは」
【アキラ】
「あ……えーっと、外国のお酒も好きとか言ったらダメですか?」
誰に遠慮しているのか、照れくさそうに指をもじもじさせている。
「いや、別にどっちも好きならいいんじゃない? どっちもお酒である事にはかわらないんだから」
【アキラ】
「そ、そうですよね! おいしくないお酒なんてないんだから、こだわる必要なんてないと思います!」
……ははあ。ようするに実家のお父さんに日本酒以外のお酒を否定されてるってワケか。
まあ、後継ぎをしっかり教育したいお父さんの気持ちは解らないでもないけど、ここはアキラちゃんの味方をしておこう。
「あ、けどビールはやめなさい。アレは、よくない」
【アキラ】
「え……。ビールって、その、麦酒ですよね。あの、わたしはよく知らないんですけど、志貴さんはお嫌いなんですか?」
「いや。味はともかく、太る」
【アキラ】
「―――ふ、太るんですか」
「うん。もうでぶでぶ」
「―――で、でぶでぶなんですか……!」
あわわ、と目に涙を浮かべるアキラちゃん。
……そうか。もう手遅れだったワケか……。
return
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*s164
□公園
「そういえば三時にここで待ち合わせだっけ。……なんだ、あと十分ないじゃないか」
【アキラ】
「はい。約束をきっかり守る人ですからもうすぐやってくると思います。ホントはお昼にここで待ち合わせだったんですけど、ちょっと我が侭をいって遅らせてもらったんです」
「え―――それは、もしかして俺が誘っちゃったから?」
【アキラ】
「はい。志貴さんがお昼ごはんを買いに行ってくれた時に合流したんですけど、ちょうど先輩も用ができたらしいんです。
だからお互い用件を済ませてまた待ち合わせようって」
「……そうか、なら良かった。けど先輩って、もしかして秋葉とかそういうオチ……?」
恐る恐る訊いてみる。
アキラちゃんは浅上女学院の中等部三年生。
一方、秋葉は浅上女学院高等部二年生。
となるとアキラちゃんにとって先輩というのは高等部の誰かという事になって、それが秋葉だという可能性はとても高かったりするのだ。
なにしろアキラちゃんも秋葉も生徒会の役員で、浅上女学院の生徒会は中高合同で会議をしたりするらしい。
―――――って、あれ?
秋葉は、まだ浅上女学院の生徒だったっけ……?
それになんだか歳がおかしいというか、いや、正確にいうんなら今のはあってるんだけど、それだと遠野志貴は何年生になるんだろう……?
【アキラ】
「いえ、遠野先輩じゃないですよ。……あ、けど遠野先輩関連っていえば遠野先輩関連なんですけど―――」
【蒼香】
「アキラ」
と。割ってはいる形で、見知らぬ少年がアキラちゃんに声をかけた。
【アキラ】
「先輩。用はもう済んだんですか?」
「ああ、突発的な思いつきだったからな。別に長引くものでもない」
簡潔に言って、少年はこちらを一瞥する。
【蒼香】
……うわ。なんか、露骨に信用されてないな、俺。
「あんたが遠野志貴か。中学生を連れまわすのは関心しないな」
【アキラ】
「わ、わわわ、先輩ったら何言い出すんですか! 志貴さんをお誘いしたのはわたしの方なんですよぅ!」
【蒼香】
「―――ほう。なんだ、つまりアキラは遠野に宣戦布告をしているワケか」
「わ、わわわわわ……! 先輩、冗談でもそんな物騒なコト言わないでくださーい! 遠野先輩が本気にしたらどうするんですかっ……!」
「そりゃあ命はあるまい。なにしろ屋上から突き落とされてもピンピンしていて、そのまま突き落とした相手の延髄にハイキックをかますようなヤツだからな。加えて、食らわせた相手のタッパがあたし並みだったらその後カカト落としまでセットだっただろう。
お、そういえばアキラとあたしは目線が同じだな」
【アキラ】
「うわあ、どうしてそう容赦無い言い方するんですか先輩はー!」
「これでも忠告してやってるんだがね」
淡々と言って、少年はまたもこちらに流し目を投げかけてきた。
【蒼香】
「あんたもだぞ」
「え――あんたもって、俺?」
「そうだ。アキラを可愛がる気持ちも分かるが程々にしておけ。ただでさえアキラはあいつのお気に入りだからな、糸が二重に絡まる事になる」
そう言うと少年はアキラちゃんの手を掴んだ。
「ほら、急ぐぞ。今からだと到着が五時だ。せっかくの立ち見なんだからステージ側にいなければつまらない」
「―――あ、ちょっと待ってください」
少年の腕から離れてアキラちゃんは寄ってくる。
【アキラ】
「志貴さん、これさっき言ってた本です。お貸ししますから、文化祭の時に持ってきてくださいね」
アキラちゃんは鞄から一冊の本を差し出してくる。
……この三時間様々な話をしたけど、その時にマンガの話題になったんだっけ。
「ありがと。それじゃ文化祭の時に」
【アキラ】
「はい! 遠野先輩によろしく言っておいてください」
アキラちゃんはぺこりとおじぎをして、見知らぬ少年に付いていった。
「――――――――――さて」
時刻は午後三時。
もう少しゆっくりしてから屋敷に戻るとしようか。
return
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*s165
□公園
ゆっくりと時間が流れる。
いつものベンチに座って、けど隣にアキラちゃんがいる、というのはなんだか新鮮だ。
二人して他愛の無い話――好きな食べ物とかマンガとか、旅行に行くのならどこがいいのかとか秋葉の恐い所とか、笑いが絶えない話を続ける。
と、そんな時だった。
「―――――――あれ」
行き交う人波の中で、彼女の姿を見つけたのは。
「志貴さん?」
アキラちゃんの声もよく聞こえない。
……黒一色の服装をした、幼い少女。
迷子のような目をして、いつも独りでいる彼女。
「……あの子」
どうして今まで忘れてたんだろう。
あの娘に会ったら、今度こそ訊かなくちゃいけない事があったのに。
「ごめんアキラちゃん。ちょっとここで待ってて」
「はい?」
戸惑うアキラちゃんをベンチに残して、噴水へ近づく。
□公園の噴水前
【レン】
「―――――――――――」
間違いない、あの子だ。
「君、また迷子なのか?」
「―――――――――――」
話しかけても答えはない。
少女は相変わらず無口だった。
「俺の事、分かる? 何度か会ってると思うんだけど……」
「―――――――――――」
少女は答えない。
……ただ、心なしかいつもより哀しげというか、何か怒っているような、そんな気配が伝わってくる。
「……?」
なんで怒っているのか、その理由が解らない。
じっと俺を見詰めてきている以上、その原因は俺にあるみたいなんだけど―――
【アキラ】
「志貴さん、どうしたんですか?」
「あ、アキラちゃん。それが、その―――」
なんて説明したらいいんだろう?
この子とはもう何度も会っているんだけど、俺はまだこの子の名前さえ知らなかったりする。
そんな俺が迷子っぽいこの子のコトをどう説明すればいいんだろう……?
「えっと―――ああ、とにかくアレだ。あの、この子は瀬尾アキラちゃん。俺の知り合いだから恐がらなくていいよ」
黒い女の子にアキラちゃんを紹介する。
【レン】
―――と。
女の子は、今まで見たこともない目でアキラちゃんを見詰めていた。
【アキラ】
「あ、あの……志貴さん、わたし睨まれちゃってます……?」
助けを求めるように寄ってくるアキラちゃん。
「え?」
「―――――――――――」
と。そのアキラちゃんを、女の子は必死にぐいぐいと押し出そうとしていた。
【アキラ】
「あ、あの……もしもし? わたし、何かしちゃってますか……?」
体を押してくる女の子に話しかけるアキラちゃん。
「―――――――――――」
女の子は無言で、ともかく必死にアキラちゃんを押している。
けれど体格差のせいか、アキラちゃんはビクともしない。
「……あの……もしかして、志貴さんに近づいちゃダメなのかな?」
「―――――――――――」
女の子は何も言わず、アキラちゃんから手を離してこちらに振り向く。
【レン】
……また、その顔。
哀しげというか、拗ねているというか、ともかく放っておけなくなりそうな、表情。
「あ―――ちょっと待って!」
「――――――――――――」
女の子は何も言わず、人波に紛れるように走り去って行ってしまった。
【アキラ】
「志貴さん……? 今の女の子、志貴さんのお知り合いなんですか?」
「あ―――いや。知り合いといえば知り合いなんだけど、まだお互いの名前も知らない。……けど、見知らぬ他人ってわけじゃないんだ」
「名前も知らないのにですか?」
アキラちゃんは不思議そうに首をかしげる。
……ああ、まったくその通りだ。
遠野志貴はもう何度も彼女と出会っていて、彼女が何者なのか気が付いている。
なのにどうして、こうも毎回すれ違ってしまうんだろう――――
―――そうして、三時になってアキラちゃんと別れた。
アキラちゃんと別れた後女の子を捜したが見当たらず、夕方になって屋敷に戻る事となった。
return
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*s167
□公園前の街路
散歩といったら公園だろう。
時間も十時過ぎ。街が本格的に活性化しだしたように、公園も人々で賑わいだしている。
幸せそうな子供連れの夫婦から始まって、もう秋だっていうのにまだ頑張っている出店のアイスクリーム屋、冬はまだ先だっていうのにアツアツに寄り添って歩くカップル、トドメににゃーにゃーと列を作って通りすぎて行くトラじま猫の大集団。
「……いや、最後のはちょっとヘンだ」
ヘンだけど、猫たちだってそれぐらいはしそうなほど絶好の散歩日和というわけだ。
こういう日はお気に入りのベンチでのんびり日向ぼっこをするにかぎる。
「文庫本でも持ってくれば良かったかな」
我ながら気の抜けた感想を洩らしつつ、いつものベンチへ足を向けた。
□公園
噴水のある表通りとは違い、ここはまだ人通りが少ないようだ。
「ま、昼時になれば賑やかになるだろ」
それまで自販機でジュースでも買って、特等席のベンチでゆっくりしていよう。
―――――あ。
なんてコト、ベンチには意外な先客がいた。
「―――――――――――」
「―――――――――――」
ばったりと目が合ってしまい、しばし、なんと口にしていいものか判らなくなった。
「――――――――――や」
やあ、と挨拶をしようとして口を動かす。
「……………………………」
けれど女の子はじっとこちらを見上げてくるだけで、声をかける事さえ躊躇われた。
「あー……その、こんにちは」
「……………………………?」
女の子はかすかに首をかしげるだけで、とりわけ何の返答もなし。
「ほら、前にも会っただろ? ……その、恥ずかしながらいつだったかは覚えてないんだけどさ」
「……………………………」
………やっぱり無言。
じっと見つめてくる視線は肯定しているのか否定しているのか、とにかく意味ありげで判別できない。
――――しかし。
前にも会っただろう、なんてよく口にしたもんだ。
昨日のコトを思い出せないんだから、もしこの子に会っているとしても覚えている筈がないっていうのに。
「……うん、休んでるところを邪魔して悪かった。それじゃ、また機会があったら」
じゃあね、と手をあげて立ち去ろうとする。
「……………………………」
と、またその目。
一人でいたいようにもとれるし、話がしたいようにもとれる。
「…………まいったな」
本当に、そんな目をされるとまいる。
まだ名前も知らない女の子だっていうのに、放っておくコトができなくなるから。
「―――あのさ。迷惑じゃなかったら、しばらくここにいていいかな」
「…………………」
女の子の顔が微かに上がる。それは了承の合図だと考える事にした。
「よし、それじゃ失礼」
女の子が座っているベンチとは別の、すぐ隣のベンチに腰をかけた。
「それじゃ少し話をしようか。ああ、つまらない話だから無理に付き合う必要はないよ。気が向いたら何かつっこんでくれるだけでいい」
「……………………………」
女の子はじっとこちらを見つめてくる。
……やりづらい。
やりづらいけど、まあ、なんとなくこの子の相手をするのは悪くない気がして、本当に些細でつまらない話を始めた。
□公園
「――――あれ、もうお昼か」
どのくらい話をしていたのか、気が付けば時計の針は二つとも真上を指そうとしていた。
「……………………………」
結局、女の子は終始無言だった。
それでも時折こっちの話に反応してうんうんと頷く事があったりして、その時は妙に嬉しくなってさらに話に拍車をかけてしまった気がする。
【レン】
「……………………………」
女の子が立ちあがる。
時計を気にしている風でもなし、何かの気まぐれで立ちあがったような感じだった。
「……………………………」
そうしてまっすぐに見つめてくる。
こっちはこっちで女の子に慣れてしまった所があって、ん?と出来るだけ優しい視線を返してみる。
「なに、お出かけ?」
【レン】
【レン】
違ったみたいだ。
【レン】
「それじゃトイ―――じゃないよな」
あんまり失礼なコトを言ってはいけない。
……この子は何処かに行こうとしているけれど、その行くところが解らないような感じだ。
「あ―――君、もしかして迷子なのか?」
【レン】
「いや、迷子っていうのは、なんて言うか……そう、お母さんとはぐれたとか」
「……………………………」
女の子は不思議そうに首をかしげたままだ。
……うーん、こっちの言っている事が解っていないってワケでもないと思うんだけど……。
「えぇっと、つまり―――帰る場所が解らないってこと」
「――――――――」
あ、当たりみたいだ。
「ほんと? ……そうか、それじゃあいつまでもここにはいられないよな。よし、それなら―――」
一緒に家を捜そうか、と言いかけた時。
【レン】
女の子は、嬉しそうに笑みをうかべた。
「――――――っ」
今まで無表情だった分、女の子の笑顔は衝撃だった。ほとんど不意討ちだと言っていい。それも即死。……こんなトコ秋葉に見られでもしたらなんて言われるか解らないほど、心臓がバクバクいってる。
「あ――――いや、その」
なんて続けていいか解らなくなって言葉を泳がす。
―――と。
女の子は笑顔のまま歩いて行ってしまった。
小さくなっていく後ろ姿。
「一人で大丈夫かな、あの子」
ベンチに座ったままぼんやりと呟く。
消えていく黒いコートを眺めるだけで、追いかけようという気持ちは湧いてこなかった。
return
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*s168
□公園前の街路
公園に足を運ぶ。
まだ午前中とはいえ公園は様々な人で賑わっている。
その中でも特に目を惹くのは、にゃーにゃーと列を作って奥へ奥へと進んで行く猫の群れだ。
「―――――あ」
ピンと来た。
あの猫たちが向かって行った先は、きっと――――
□公園
「やっぱり」
猫たちは目的地に辿りつくと、それぞれ思い思いの場所に散開していく。
そこは木の下だったり時計台の裏だったりと様々だが、彼らには一つだけ共通する事項がある。
まあ、ようするに……
……みんながみんな、このベンチを眺められる所にいるというコトだ。
「や。また会ったね」
「…………………………」
女の子はこくん、とうなずく。
……こっちはやっぱりよく覚えていないんだけど、女の子はこっちのコトを覚えてくれているようだ。
「今日はまた賑やかだね。ああ、ところでここに座っていいかな」
彼女の座っている隣のベンチを指差す。
「…………………………」
女の子は無言。その手に抱いた猫が抗議の声をあげない所を見ると、座ってもいいらしい。
「それじゃ失礼。……けどまあ随分と集まったもんだ。この公園、こんなに猫がいるとは思わなかった」
「…………………………」
女の子は照れたように俯いて、手の中の猫を撫でている。
「あっ、黒猫」
「……………?」
「あ、いや、別にどうってコトないんだ。最近ちょっと縁がある猫も黒いから、つい」
「…………………………」
じー、と見つめてくる瞳。
……何をいいたいのか分からないけど、そう真剣に見つめられるとちょっと照れる。
「そっちは白猫だね。色がきれいでお姫様みたいだ」
「―――――――――」
「……? いや、別に黒猫を悪く言ってるわけじゃないんだけど」
「…………………………」
女の子の視線がちょっとだけ意固地になる。
……うーん、白猫だけ持ち上げるようなコトを言ったから怒ったんだろうか?
「そっちの茶トラもいいんじゃないかな。やっぱり猫は親しみが第一だし」
茶色のトラじま猫も誉めてみる。
「…………………………」
……あ。なんか、ますます不機嫌そうな感じ。
「あ、いや、そういうんじゃなくて! みんな均等に可愛いと思うよ、うん!」
「…………………………」
じー、とまだ疑わしい眼差しを向けてくる。
……これは、ようするにアレだ。不公平な扱いが許せないほど、全ての猫が気に入っている、というコトなんだ。
「そっか。猫、好きなの?」
「…………………………」
ん、と首をかしげる。
好きなのか嫌いなのか、これまたはっきりとしない。
「うん、俺も好きだよ。……まあ下手の横好きっていうか、猫たちには嫌われてるみたいなんだけど」
とくにあの黒猫なんて何回会っても触らせてもくれやしないし。
「…………………………」
「え? そんなコトないって?」
「…………………………」
ん、と首をかしげる。
……嫌われてるのかそうでないのか、またも判別がつかない曖昧な答えだった。
□公園
時計の針が十二時にさしかかって、女の子は席を立った。
【レン】
「……………………………」
この時間になると何処かへ行ってしまうのも、言葉もなく見つめてくるのもいつも通りだ。
「ああ、もうお出かけの時間? なんだかあっというまだったな」
だからさして驚くことなく、自然にそんな言葉が口に出た。
「そうか、それじゃまた。……ああ、それとも一緒についていこうか? 一人きりだと危ないだろ」
【レン】
【レン】
どこか悲しそうに首をふる。
そんな顔をされると無理強いはできないし、昼間ならさして危ないというコトもないだろう。
そうして彼女は猫たちと一緒に去っていった。
「――――――さて」
もう昼だ。
ベンチを立って、あてもなく歩く事にした。
return
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*s169
□公園
散歩がてらに公園にきた。
賑やかな風景。
かつてあの子が懸命になって守っていた木漏れ日は、その守護者が消え去っても健在だった。
「――――――――」
ここに来ても、もう彼女は待っていない。
あれほど彼女を慕っていた猫たちも今では影も形も見えなかった。
return
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*s171
□乾家
呼び鈴を押して待つこと数分。
【有彦】
「あーい、どちらさまぁ」
なんて、かったるそうな声で有彦は現れた。
接客態度マイナス百点。
【有彦】
「……って、なーんだおまえか。くそ、ミミミちゃんかと思ってき期待しちまったじゃねえか」
「それは失敬。けど期待している相手に今の態度はどうかと思うよ」
【有彦】
「あー、いいのいいの。ミミミちゃんは優しいからな、だらしない男を演じて朝ご飯を作ってもらうのだー」
……嬉しそうに言うのはいいけど、すでに朝ごはんという時間ではあるまい。加えて言うと、演じなくともこの男は素でいいと思う。
【有彦】
「で、今朝はなによ。なんか必要なモンでもあんのか? ガスコンロとか鍋とか人参とか」
……遠く離れた友人の家にガスコンロを借りに来るヤツなんていない、と反論しようとして止めた。
長い人生、そういうコトも一度ぐらいはあるかもしれないからだ。例えば、今回入っていないさっちんシナリオとかで。
「いや、暇なんで遊びに来ただけ。久しぶりに一局打とうと思って。で、有彦は何か予定があるのか?」
【有彦】
「ねーよ。……ったく、休日だっていうのに男同士で二人打ちなんて暗いねおまえも」
「ばか、女の子と二人打ちってのも相当暗いぞ」
【有彦】
「ごもっとも。……ま、しゃあねえか。いいだろう、今度こそ二度と牌を持てなくなるほど叩きのめしてやるとしますか!」
がはは、と高笑いをするあたり、本人はかなり乗り気のようだった。
「んじゃ上がれよ。飲み物はリポDでいいな?」
「いや、リポDは負けが込んできたら。コーヒーぐらい自分で淹れるよ。
で、イチゴさんは寝てるのか?」
「一子は仕事だと。そんなわけで不本意な三人打ちはやらなくていい」
「そっか。なら今日のショバは有彦の部屋だな」
【有彦】
「おっけー。んじゃあ先に俺の部屋に卓運んでおいて――――」
と、そこまで言いかけて有彦はパン、と頭を叩いた。
【有彦】
「――――わりい。ちょっと待ってろ」
バタン、と玄関が閉まる。
ドタタタタタ、と階段を駆け上がっていく足音。
「おい馬。おまえちょっと出てろ」
「はいー、おはようございますー」
「おはようございます、じゃねえ。この部屋から出ていけ、と言ったんだよオレは」
「ひ、ひはい、ひはいです〜! ひどいです有彦さん、みみ引っ張られると伸びちゃいますぅ……!」
「もとから伸びてんだろこの耳は! おら、目が覚めたらさっさと出てけ」
「え、いやだなあ。わたし、まだおやすみしたいですよ?」
「おやすみしたいですよ? じゃねえだろボケ! てめえ何様のつもりだあ!」
あ。今、蹴る音が聞こえた。
「ひーん、有彦さん横暴ですー……! 基本的人権を尊重してくださーい……!」
「ふざけんな、てめえみたいなのに人権なんざ許したらピラミッド制度が大回転しちまうわ!」
ああ。今度は殴る蹴るの横暴が!?
「ひどいー、ひどすぎますー……! だいたいですね、わたしここ以外いくトコないじゃないですかー」
「誰も外とは言ってねえだろ。今日一日だけでいいから一子んトコにいろよ、一子んトコに!」
「うーん、それはだめですねー。一子さんの所は煙草の匂いがきつくて健康を害します、こほこほ。ほら、思い出しただけで熱が出てきました」
「こ、の……あからさまな仮病つかうな駄馬が! てめえなあ、うすうす気付いてたんだがオレのコト舐めてるだろう!」
「はい。実は有彦さんが寝ている時、こっそりと味見は済ませました」
ひひひ、とどこか不気味な笑い声。
「お、お、おお、おまえなぁ、気色悪いコト言うなよな! シャレにならねえだろおまえの場合!」
「でも事実ですから。あ、けど安心してください。有彦さんは怒りやすいので肉が固くて二流なんです。……あの、そういった訳で大変申し訳ないんですけど、わたしはグルメですから有彦さんはキャンセルさせていただきますー」
「あ、はは、あははははははははは! 殺す、おまえを今日こそ殺してやるー!」
どんがらがっしゃーん、と何かがぶっ飛ぶ音がした。
……人間、怒りがレッドゾーンを振りきると爆笑するっていうのは本当だったんだなー。
□有彦の部屋
【有彦】
「入っていいぜ。それと、くれぐれも押し入れは開けんなよ。何が出てきても責任持てない」
そう言って麻雀卓を置く有彦。
「いや開けるも何も、押し入れの前に箪笥があるので開けられません」
「ああそうだった。ちょっとな、部屋の模様替えしたんだよ、さっき」
「……そっか。でもさ、あれじゃ押し入れが開けられないだろ? なにかと不便じゃないか、それって」
「いいんだよ。どうせ中にはロクなもんが入ってねえんだから」
「―――――!」
ガタガタ、と押し入れの襖が揺れた。
「……あのさあ、有彦」
【有彦】
「なんだよ」
「友人として一つ訊いておくけど、まさか警察のお世話になるようなコトはしてないよな?」
その、警察に通報したら乾くんの家から女の子が保護された、とかいうお世話とか。
【有彦】
「してねえ。ていうか、むしろオレが警察に保護してもらいたいぐらい」
こっちの言いたい事が解ったのか、有彦は本気でそんな返答をした。
□有彦の部屋
二人打ちの麻雀は麻雀ではない。
麻雀がゲームとして優れている部分は四人が四人、リアルタイムに勝負を競える所にある。
団体で戦うゲームではなく個人で戦うゲームでありながら敵は複数あり、かつそれぞれが協力しあわないという稀な対戦形式を持つのが麻雀である。
……まあ、たまに協力しあうものもいるが、それはそれで一つの戦略なので措いておこう。
とにもかくにも、麻雀というのは四人でやるのが華なのだ。
こうして二人で向かい合ってうつ麻雀は真剣勝負ではなく調整の意味合いが濃い。
無論、今日の卓もその例外ではなかった。
【有彦】
「ち、相変わらず絞りがきついな遠野は。レートなしのお遊びなんだからもちって軽くできないもんかねえ。こっちがリーチするまで三元牌切らないヤツなんておまえぐらいなもんだぞ」
「――――失礼な、それじゃまるで腰抜けだ。俺だって時と場合は選ぶよ。例えば対面があきらかに鳴き気配でキョロキョロしてる時だけ手を絞るワケだ」
「……む。それは、つまり中を握ったままボクと心中する、というハラですか」
「それも時と場合による。……まあ、自分が大物手なら差し合いに参加するのも楽しそうだ。賭け事に求める物の大部分がリスクなら、それに見合ったリターンがなければ意味がないから」
【有彦】
「お、地がでやがったな遠野。勝負がここ一番になるととたんに人が変わるよなー、おまえって。いやほんと、麻雀って人格でるねえ」
「……麻雀に限らず賭け事は人格を露呈させるだろ。まあ、一勝負のスパンが長くて平等不平等が人為で覆せるレベルなあたり、麻雀っていうのは罪深いと思うけど。ある意味卜占だからな、これは」
【有彦】
「おっ、当たるも八卦当たらぬも八卦ってヤツか? んじゃあまあ、自分の運勢を信じてリーチ!」
「運勢を信じるのは卜占じゃないだろ。卜占ってのは運命を整えるものなんだぜ」
【有彦】
「……うっ、筋を苦もなくスパッと打ちましたね遠野くん。だがしかし、その努力もオレのツモで水泡に帰すのでしたー! ……って、なんで今ごろ字牌ツモるかなオレは!」
「はい、それで終了。チートイツのみ二千点、と」
パタン、と手牌を倒す。
……まったく、有彦と打つと場がトイツ場になっていけない。半荘を二回やって、上がりがチートイかトイトイのみなんてとんでもない麻雀だ。
【有彦】
「うわ、ど汚ねえ! おまえさー、そこまで揃ってたら染め手にいけよ! なんだよその、リャンペーくずれのチートイツは! そんなにまでして中絞りやがってコノヤロー!」
「フツー止めるよ。くわえて小三テンパッたならリーチなんかすんな。……さて、それじゃ片付けようか。不毛な打ち合いだったけど、まあ調整としては悪くなかった」
「はいはい、そりゃあ良かったな……って、調整ってどっかで大勝負やんの、おまえ?」
「やらないよ。だいたい大きな賭け事は中学ん時で止めようって申し合わせたじゃないか。俺はあれ以来ギャンブルはしてないって」
【有彦】
「だよな。ならなんで調整なんてすんだよ、おまえ」
「―――――――お?」
「お、じゃねえだろ。近々大勝負があるから勘を取り戻しにきたって風だったけどな、今日の遠野は」
「――――――――」
……そうだ。そういえば最近、何かを賭けて勝負した事なんてないような。
「……待てよ。なんかちらつくぞ」
曖昧な昨日の記憶を手繰り寄せる。
そういえば屋敷で―――秋葉たちを相手に卓を囲んでいた、ような……?
「まさか。よりにもよって秋葉が俺と麻雀するわけないじゃないか。麻雀どころかトランプを知ってるかどうかも怪しいのに」
ふう、と胸を撫で下ろして結論する。
それを、
【有彦】
「ん? 秋葉ちゃん、麻雀強いって言ってたけど?」
コイツは一言のもとに否定してくれた。
「う、うそだぁ! 秋葉だぞ? 秋葉なんだぞ!? なんだってそんな、麻雀なんて不健康な遊び知ってんだよアイツが!」
【有彦】
「いや、なんでも寮で流行ってたんだと。昔からの伝統儀式で寮生は麻雀かバカラのどっちかの派閥につくんだとさ」
「なんだよそれ!? 浅上女学院っていうのは名門じゃなかったのか!? くそ、秋葉にそんなモノ教え込みやがって、これ以上俺の清純な妹像を壊さないでくれー!」
くれー、くれー、くれー。
虚しくエコーしていく絶叫。
そんな俺を見て有彦は、
「……そっか。遠野もけっこう苦労してんだな」
心底同情するようにそう言って、俺の肩を叩いていた。
□乾家
……有彦の家を出る。
なにか大切なものを失いつつも、秋葉や翡翠、琥珀さんと卓を囲むのもいいかなー、なんて思う現金な自分を再確認するのだった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s172
□遠野家屋敷
時南医院って、時南宗玄の病院?
別にここんところ調子はいいんだから無理して行く必要はないんだけど。
「―――あ、そういえば近いうちに来いって言われてたっけ」
そう言っていたのは朱鷺恵さんだったっけ。
「……そうだな。どうせやる事がないんならちょっと相談しに行ってみるか」
□時南医院
バスに揺られること三十分、およそ病院には見えない時南医院に到着した。
いや、もともとここは一般の外来を受け入れない特別な病院で、その在り方はほとんど闇医だ。表向きは薬剤師として看板を立てているが、それだって訪れる人は少ない。
それじゃあ病院とは呼べないという意見はごもっとも。ま、時南医院は遠野家お抱えの専属医だという話だから、外来の患者さんを診る事はないのだろう。
「遠野ですけど、宗玄のじいさんは暇してますかー?」
インターホンに呼びかける。
印象の薄い家政婦さんが玄関を開けて、道場の方へ案内してくれた。
□時南医院の診察室
【時南】
「おう、ようやく来おったか小僧」
診察室で待つこと数分。
医者にあるまじき格好で時南宗玄が現れた。
「ええ、朱鷺恵さんから伝言を受けたんなら来ないわけにはいかないでしょう。出来れば時南先生と顔を合わすのは月に一度にしたいんですけどね」
「ふん、そりゃあワシの言い分だ。おまえさんのような厄介な患者とははよう縁を切りたいのだが、なにぶんおまえさんの父親とは知らぬ仲ではないのでな。そちらの縁は切るわけにはいかぬだろう」
と、対面に腰を下ろす時南宗玄。
もう何年もこの人の世話になっている習性というか、特別指示をされなくても何をすべきかは解っている。
シャツを脱いで上半身を裸にする。
「ふん、このところ調子は悪くなかろう」
「はい。おかげさまで健康そのものです」
「たわけ、おまえさんが健康などといったら病院で過労死が続出するわ。足りない物だらけで動いておる身で大口を叩くな」
言いつつ、両脇や背中をベタベタと触ってくる。
「…………ふむっ!」
「ぎゃ――! いた、今の痛かったぞヤブ!」
「当然じゃろう、日ごろの不養生を一発で帳消しにしてやっとるんだ。痛みがなければ有り難みがないではないか」
「……うう、なんだって医者にきて整体じみたコトをされなくちゃいけないんだろう」
「バカモノ、泣き言を言いたいのはワシの方だ。男の体なぞ触っても嬉しくもなんともないわ」
ばきばき、と骨の鳴る音が続く。
□時南医院の診察室
「……ふむ。おまえさん、また何かやったか」
いつもより時間をかけて体の様子を診た後、難しい顔で時南宗玄はそう言った。
「はい? 何かって、別に何もしちゃあいませんが」
「そのわりには体の方が悲鳴をあげとるぞ。おまえさんの体は大抵の無茶には応えられるがな、いかんせん回復力というものがない。人並み外れた運動が続けばな、決壊するように呆気なくおっ死ぬことになる」
「はあ。あまり運動はするなって意味ですか」
「人並みの運動はかかすな。ワシがいっとるのは飛んだり跳ねたりの事だ。……が、そればかりはおまえさんの責任ではないな。かかる火の粉を払うためならばいたしかたない」
パン、と背中を叩いて終わりを告げられた。
「これで終わり? いつもならこの後レントゲンだの採血だのするくせに」
【時南】
「は、中身の方は今のところ大事はないわい。嬢ちゃんに感謝せいよ、あの娘はおまえさんの体をよく理解しておる。医食同源というがな、遠野志貴の身体は有間にいた頃とは段違いに調子が良い」
「ふんだ、言われなくても琥珀さんには感謝してますよ。どこぞのヤブ医者よりよっぽど頼りになりますしね。いっそのコト琥珀さんが専属医になってくれないかって感じです」
「ふん、このエロガッパが。もっとも小僧ではあの嬢ちゃんは手に負えんだろうがな。どこぞの馬鹿者のように飼っているつもりで飼われるコトになりかねん」
ふふん、と意地の悪い笑みをこぼすところを見ると、この人はうちの親父と仲が悪かったのかもしれない。
「体の方は問題ない。暇があるのならば朱鷺恵に鍼でも打ってもらえばよかろう」
ヤブ医者は診察終了とばかりに席を立つ。
「あ―――ちょっとタンマ。一つ相談したい事があるんですが、時南先生」
「うむ? なんじゃ、言ってみい」
「それがですね、実にバカバカしい話なんですけど」
そうして、ここ数日の出来事を話し始めた。
昨日のコトをよく思い出せないというコト。
同じような事を昨日も行っていたような錯覚。
……同じ一日を繰り返しているような違和感を。
□時南医院の診察室
【時南】
「―――――ふむ」
最後まで話を聞いて、時南宗玄はことのほか真剣に考え込んでくれた。
「だいたいの話は解った。……そうか、年々悪くなると思っとったが、ついに痴呆にまでかかりおったか小僧」
「……前言撤回。ヤブ医者に相談した俺がバカだった」
椅子から立ちあがって退室しようとする。
「いやいや待て待て。ワシは頭のなかのコトは専門外じゃからな、明確な答えなど返せんだけじゃ。が、それとは別にな、おまえさんの話にはちとひっかかりを覚えたぞ」
去ろうとしていた足を止める。
「――――――ひっかかり?」
【時南】
「そうじゃよ。とりあえずおまえさんが感じている違和感とやらを片付けるとしようか。
まあ、先も言ったとおりワシは頭蓋の中は専門外でな。骨に守られている個所なぞ見えん」
「そうですか。普通、皮膚の下も見えないと思うけど」
「茶化すな。とにかく意見するのならばな、昨日と今日が同じ一日だ、と考えるのは間違っているのではないかな?」
「……間違ってる、ですか?」
「うむ。何故ならおまえさんは昨日のコトを思い出せない。ならばどうやって昨日と今日が“同じ”だったと認識できるのだ?」
「――――――――」
「ほうれみよ、言葉もなかろう。だいたいおぬしの論でいくのならばな、明日でさえ今日と同じ一日という事になってしまうじゃろうが。
……よいか、おまえさんは前提からしてすでに間違えておるのだ。目覚めれば全て忘れてしまう故、知りもしない昨日を今日と同じ一日だったと錯覚しておるだけの話よ」
「いや、それは―――でも」
そう簡単に割りきれる事じゃない。実際忘れているけど、同じ事を以前にもしたという記憶は確かにあるんだから―――
「ま、よしんばおまえさんの錯覚が錯覚でなかった場合の答えは一つだろう。つまりな、おまえさんの頭の中では昨日も今日も明日もすべて一つだという事よ。それならば説明はできるじゃろうて」
「……それは、どういう意味ですか」
「鈍いわ小僧。ようするにこの一日がおまえさんの全てだという事よ。目を覚ます事で誕生し、眠りによって死するカゲロウじゃわい。
……まあ無限の転生のようなものかの。それならば過去も現在も未来もなかろうて。言うならばおぬしの全てがこの一日に内包されておるのだからな」
「……それじゃ俺以外の人はどういう理屈で遠野志貴に付き合っているんですか。時南先生も夜になったら死ぬんですか」
「バカモノ、どういう理屈も何もおまえさんの頭の中だといったろう。他に連中にはキチンと明日がある。繰り返しておるのはおまえさんだけで、ワシも朱鷺恵も嬢ちゃんもとっくに明日に去っておるよ。取り残されておるのは遠野志貴だけで、ここにいるワシらはおまえさんが用意した本人に極めて類似……いや、おまえさんにとってはやはり本人そのものの登場人物にすぎないというワケじゃな」
「―――――――――――」
……何の信憑性もない話。
だがそれは、思い当たる所がありすぎて、逃れえない真実のように思え――
「なんちゃってー! わはは、信じたか未熟者!」
――――あぁ?
【時南】
「そんなワケがなかろうよ! その証拠にな、ワシも朱鷺恵もおまえさんと同じようなものじゃわい! 何を隠そう、ワシも昨日のコトをよく思い出せぬ!」
わはは、と楽しげに胸を張る時南宗玄。
妖怪ハッスルじじいここに現る。
「なんかのう、昨日もおまえさんが来た気がするのだが朱鷺恵のヤツはおまえさんは来ていないと言い張るのだ。そのくせ昨日はお互い逆の意見を言い合っていた気がするのだから、おまえさんだけが異常というわけではないわ」
「……おいヤブ医者。本気で殺意を覚えたぞ、俺は」
「ふん、いっぱしの眼をするようになったな。だがまあ、先の意見はあながち間違いではないかも知れぬぞ? なにしろな、その疑問を疑問として思いついたのはおまえさんの話を聞いてからじゃ。ワシら、少なくともワシは解っていながら分かっていなかったようなもの。……そうなるとおまえさんは確かに何か特別なのかもしれぬ」
「―――なにそれ。疑問を疑問に思わないって、ほんと?」
「うむ。おまえさんのように不安に思う事がないのだよ。どうやらおぬし、親父の血を強く引いたな。我らには視えぬものが視えるのかもしれぬ」
人には視えないモノが視える。
……そのフレーズは、確かに聞き覚えがある気がするのだが――――
「時南先生。それって秋葉も俺と同じだったってコトですか。つまり、遠野の」
【時南】
「うん? いや、ワシが言っておる父親というのは槙久ではない。ワシが言っておるのは七夜黄理というバカモノの事よ」
「――――――――――――」
キリ……? なんだろう、その名前。
聞いた覚えはない筈なのに、生まれた時から深い所に刻まれていたような、そんな感じ。
「アレも視えてはならぬモノが視えていた類でな。もっともヤツのは浄眼とは呼べなんだ。人の思念が靄のように視えるだのと言っておったが、その程度ではあまり役には立たなかっただろうて。
まあ、それでも七夜の当主である以上は当代一の使い手ではあったのだろうが―――」
「死んだんですか、その人」
「うむ。転じたモノどもからは蛇蝎の如く厭われた男じゃったが、もとより黄理は人間専門でな。混ざりモノならば敵なしであったが、芯から人間でない化物とは相性が合わぬ。
―――化生を縛するは退魔が役目。
故に、七夜が呼ばるるは陰陽の理が通じぬ時のみよ」
「まあ、だからこそ人の恨みを買っていたのだろうがな。今時は化生に呪われるより人に憎まれる方が質が悪い。
かかる火の粉を嫌って自ら隠居はしたが、その時には洗い落とせないほど血を浴びていたのだろうよ。結局、人の手によって自らも血に染まりおった」
□七夜の屋敷
□時南医院の診察室
「……………………………」
おかしい。
そんな聞いた事もない他人の話で、どうしてここまで、吐き気を催すのか。
「話はそれだけですか? それじゃそろそろおいとまします」
【時南】
「そうか。……しかし解せんな。なぜ今になって黄理の話などしたのか。一生墓まで持っていくつもりであったのだが」
むう、と不愉快そうに顔をしかめる。
「なんだ、そんなのもうろくが始まっただけじゃないの? 時南先生、もういい歳だから」
「ほざけ、ワシゃあ少なくともおまえさんよりは長生きするわい」
「あー、そりゃあ否定できないかも」
というか、このじいさんなら孫より長生きしそうだ。
□時南医院
「お邪魔しました。また来ますんで、その時もよろしく」
「ああ、次来る時はもう少し気の利いた話をもってこい」
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s173
□遠野家屋敷
ふむ、せっかくの休日だしシエル先輩のアパートへ遊びに行くのも悪くない。
まだ一日は始まったばかりだし、うまくいけば丸一日先輩と二人っきりになれるかもしれないし!
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s174
□アパート
そういうわけで先輩のアパートだ。
空は気持ちのいい晴天だし、うまく先輩を言いくるめてデートに誘えるといいんだけど。
□シエルの部屋
【シエル】
「おはようございます遠野くん。昨日は帰ってからよく眠れましたか?」
開口一番、俺を迎え入れるなり先輩はそう言った。
「はあ。いつも通り、ぐっすり眠れましたけど」
それがなにか?と首をかしげて尋ねてみる。
【シエル】
「あ、別に意味なんてないんです。ただ疲れているようでしたから、帰り道は大丈夫だったかなあと思って」
はにかむような仕草をして、先輩は所在なさげに部屋を片付けたり座卓を出したりし始めた。
「……………む」
昨日って何かあったっけ?なんて訊いたらせっかくの上機嫌がフイになるな、と判断して口を閉ざす事にした。
先輩が何故に上機嫌なのかは知らないけど、ここは余計なコトは喋らないが吉だ。
【シエル】
「それで遠野くん、今日は朝からどうしたんですか?」
「えーとですね、それが――――」
デートのお誘いに来ました、と即答しようとした瞬間、何かが頭の隅にひっかかった。
……先輩が出した机の上には参考書やらノートが置かれている。
む? むむむむむ…………
return
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*s175
□シエルの部屋
むむむむむ。
そういえば今度の期末で平均七十点以上取らないと冬休みがすべて補習になるという通知を出されたんだっけ。
「――――先輩、実は」
【シエル】
「はい、昨日と同じくテスト勉強に来たんですね?」
「うっ……まあ、そういう訳です。知り合いの中で頼りになるのは先輩だけなもんで、どうかこの哀れな後輩に休日をくれてやってくださいませ」
ははあー、と頭を下げる。
【シエル】
「もう、そんなこと気にしないでください。わたしも勉強になりますから、一日じっくり勉強するのもいいものですよ」
低頭する俺を笑顔でフォローしてくれるシエル先輩。うう、やっぱりどこぞの反社会的吸血姫とか何習ってるか知れない名門学園のお嬢様より頼りになるなあ。
【シエル】
「それじゃさっそく始めますか? まだ十時になったばかりですし、お昼まで第一ラウンドというコトで」
「お、いいですねその言い方。勝負形式なら身が入るってものだし」
【シエル】
「ふふ、そうだろうと思って去年の二学期期末のテスト用紙を貰ってきておきました。教科書片手に挑戦してみましょうか」
鞄からテスト用紙を取り出す先輩。
……さすが影の生徒会長、いろんな所からいろんな物を引っ張ってくる。
「それでは全十科目、二時間でどれだけこなせるか勝負です。もちろん採点して合計点が低かったほうがお昼ごはんを作る、という事で」
先輩はいそいそとセッティングを始める。
……なんかおかしな流れになってしまったけど、先輩と試験勉強ができるなら文句なんてないってものだろう。
□シエルの部屋
【シエル】
「ふむふむ。ボクシングでいうのなら三ラウンド目でKOっていった所ですね」
「う……判定負けとまではいかなくとも、せめてスリーダウンという事にしておいてください」
【シエル】
「はあ。別にかまいませんけど、遠野くんがお昼ごはんを作る事に変わりはありませんよー」
「……………………………」
――――――――汚い。
考えてみれば、この勝負はこっちが圧倒的に不利なような気がするのだがどうか。
「……いいよーだ。こうなったらすっげえ昼ごはんを作ってああわたしが負けとけば良かったあ〜ん、なんて後悔させてやるからな!」
【シエル】
「んー、そうですねー。ちょっと後悔してます。この点差だと昼ごはんだけじゃなくて夕ごはんまで作ってもらわないとフェアじゃないでしょ。遠野くんって麺類しか作れないから、二食続けて麺というのは力出ませんねー」
「くっ……! 鬼か、鬼だな先輩!」
【シエル】
「いえいえ、これも勝負の結果ですから。後悔してますけど、遠野くんの手料理が食べられるのなら一日ぐらいカレーライスを我慢しますね」
……うう、はめられた。先輩め、始めから夕食まで作らせるつもりで勝負形式にしたに違いない。
「……分かった、分かりました! 夕食はおろか夜食まで俺がなんとかしますから、今日は一日勉強を見てもらうかんね!」
「お、やる気まんまんですね遠野くん! その意気なら冬休みはまるまる安泰ですから、一日ぐらい旅行にでかけましょう!」
……先輩は妙に元気だ。
冷静に考えてみるとまる一日勉強っていうのは気が重いけど、先輩も付き合ってくれるんだし弱音は吐けないか。
「いいですねー。じゃあ先輩、もし補習がなくなったら秋葉を説得してください。俺、その日は有彦ん家に避難してますから」
【シエル】
「うっ……そうでした、テスト勉強なんかよりもっと厄介な問題があったんでしたっけ」
はあ、とため息をつく先輩を部屋に残して台所へ移動する。
……おかしな休日になりそうだけど、これはこれで楽しいのかもしれない。
朝帰りになりそうだけど勉強なら秋葉も文句はないだろう。
―――さて。
とりあえず昼食はラーメンにして、夕食はパスタ、夜食はうどんで決まりだろう……なんて思った途端、ちょっとした考えが頭をよぎった。
「あーあ。俺も甘いっていうか、惚れてるっていうか」
……うん、大甘だ。
なんだかんだと、夜食ぐらいは感謝の意をこめてカレーうどんにしてあげてもいいかな、なんて思ってるんだから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s176
□シエルの部屋
「―――――――――――」
見なかった。
机の上の勉強道具なんて見なかったし、こんないい天気の日に部屋にこもって勉強なんてもっての外だ。
いつだって出来る勉強なんてぽいしちゃって、休日は休日しかできないコトをするべきなのだ!
「決定。そういうワケなんで外にいこうぜ、先輩」
【シエル】
「……はあ。今日はまた一段と唐突ですね遠野くん」
「唐突なんかじゃないってば。今日はシエル先輩と遊ぶためにやってきたんだから、これはしごく当然の流れなんだって」
「うっ。遠野くんと遊ぶ、というのは確かに魅力的ですけど、その前に遠野くんにはやらなくてはいけない事が―――」
「んー、遊ぶっていうのも正しくないかな。せっかくの休日なんだから遊びっていうよりはデートっていう響きのが正しい気がする」
【シエル】
「え、で、デートって、デートですか……!?」
「うい。先輩と買い物したり、お気に入りのレストランを教えてあげたり、夜になったら一緒に街を歩いたりしたいです」
【シエル】
「くっ……それは、その……魅力的、というか」
ごにょごにょと言葉を呑み込んで、机の上に用意した勉強道具とにらめっこをするシエル先輩。
「――――――――ふ」
勝ったな。
実は先輩、こう見えても形式に弱い。
遊ぶ、という言葉では責任感のが上にくるんだろうけど、デートという言葉が持つ甘いイメージには責任感がぽーいされちゃう筈だ。
【シエル】
「えっと、遠野くん。それは今日を逃しちゃうと次はないとか、そういうモノなんでしょうか」
「断定はできませんが、次の機会はきっとすごく先になる気がします」
「っっっっっっっっ」
うー、と猫のようにうなるシエル先輩。
そうしてうなだれた後、はあ、と大きくため息をついて顔をあげた。
もちろんその後に先輩がなんて言うかなんて予想はついている。
先輩は顔を赤らめながら、今日一日だけですよと降参するに決まってるんだから。
先輩と昼の街を歩く。
いつもなら見向きもせずに通りすぎるような店によって、二人してああでもないこうでもないと意見を合わせるだけの午前中。
結局なに一つとして買った物はなかったけど、そんなやりとりが時間を忘れるほど楽しかった。
そうして気が付けばもうお昼時。
「どこか適当なところで済ませちゃいましょうか?」
なんて、ファーストフード店を眺めながら言う先輩の腕を握る。
「今日はだめ。朝も言っただろ、今日はちょっとした隠れ名店を紹介してあげるって」
「……はあ。いいですけど、遠野くんお金の方は大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。そこ、ファミレスとあんまり値段変わらないから」
先輩の腕をとって歩き出す。
目的地はインド料理の店、メシアンだ。
□繁華街
インド料理店・メシアン。
有彦が見つけ出した知る人ぞ知るというマニアックな店なのだが、どういうわけか利用客はカップルが多いらしい。
店の大きさはコンビニエンスストアよりやや小さい程度。
事務所やら本屋やら様々な業種が混ざり合った複合ビルの二階にあって、エレベーターから出るとすぐにレジがあるという忙しないお店だが雰囲気と味はこの街でも五指に入ると思う。
「はい到着。そこのカタコンベに通じてそうな入り口あるだろ? その奥にエレベーターがあるんで、そこからしか入れないんだ。階段からは行けないよ」
一見さんであるシエル先輩につらつらと説明をする。
――――、と。
【シエル】
「ここがメシアンですか」
「……先輩?」
なんか、先輩がすごく真面目な顔をしている。
「救世主を名乗るなんて増長しているとは思いましたが――――なるほど、この危機感は只者ではありませんね」
「いや、あの……只者じゃないって、ただの料理店なんすけど……」
先輩は答えず、じっとビルの二階を見上げている。
視線の先にあるのは換気扇か。なんか、そこからカレーのいい匂いがしているようなしていないような。
……まずい。なんか、先輩とこの店に入ったら取り返しのつかない事になりそうな予感がちらほら。
「ごめん、やっぱここは止めよう! 近くにおいしい中華料理があるから、そこに―――」
「行きましょう。俄然対抗心が湧いてきました」
「うわあ、やだ、やだったら! 先輩、手ぇ放してくれ手!」
こっちの言い分なんてもう耳に入っていないのか、先輩は人の腕を掴んだまま強引にビルの中へ入ってしまった。
□カレー店メシアンの店内
エレベーターが開いて、すぐにテーブルに通された。
「イラシャイマセー」
独特のイントネーションでメニューを持ってくる店員さん。
「俺はチキンカレーと特製パンをバスケットで。先輩は?」
【シエル】
「野菜カレーをライスセットで」
「せせせ先輩、そんなケンカ売るような注文しなくても……!」
「カシコマリシマシター」
尋常ならざる先輩の口調が気にならなかったのか、店員さんはいつもの調子でカウンターの向こうへ去っていった。
「はあ………」
思わずため息。
先輩は相変わらずピリピリして話しかけられないんで、つい水を飲む手ばかりが進む。
「―――遠野くん。そういえば、さっきおかしな物を注文していましたね」
「え……あ、特製パンのコト?」
「はい。ごはんを頼まなかったという事はナンなんですか?」
先輩は何なんですか、と訊いたのではない。
エスニック料理には付き物といえる。ごはん代わりのパンであるナンの事を言ったのだ。
「違いますよ。ナンはカレーを頼めば自動的についてきます。俺が注文したのはこの店が最近はじめたメニューで―――」
「オマタセシター」
おっ、丁度いい。
とん、とテーブルの真ん中にバスケットが置かれた。中に入っているのはリンゴ等のフルーツではなく、揚げたてのカレーパンがごろごろと三つほど。
「……こ、こ、こ………」
「これのコトです。単品でもオッケーなんですけど、バスケットで注文するとナンをキャンセルするかわりに半額になるんでお得なんです」
「―――これは、なんでしょうか遠野くん」
「おいしそうでしょ。メロンパンにだって圧勝したカレーパンですから凄いっすよ。あ、三つは食べきれないんで先輩もお一つどうぞ」
「―――い、いいんですか……?」
「かまわないよー。単品一個二百五十円、バスケットなら一個百五十円のお買い得商品ですから」
「――――それではいただきます」
恐い顔のまま、揚げたてのカレーパンをかじるシエル先輩。
「むはぁああああああーーーーー!?」
がたんと振動するテーブル、がたたんと舞いあがるカレーパン残り二つ。
「こ、これわぁーーーーーー!?」
だん、と感動のあまりテーブルに拳を打ちつけるシエル先輩。……びしり、と樫の木で出来たテーブルに亀裂が入っていたが、見てない見てないと自己暗示をして忘れる事にした。
「ととと遠野くん、このカレーパン……!」
美味いのか不味いのかどっちなのか。
まあ、どちらにしたってこうなっては大差はないと思うけど。
「――どうぞ、気に入ったのなら全部あげます」
あげますからどうか落ちついてください、とは続けられない。……だって先輩、目がイッてるんだもん。
□カレー店メシアンの店内
【シエル】
「うっ―――いえ、それは遠野くんが頼んだ品物です。わたしがこれ以上いただくわけにはいきません」
「え……あ、そうだね。それに三つも食べたら先輩も自分のカレーが食べられなくなっちゃうし」
……なんだ、良かった。思ったより冷静じゃないか先輩。
「いえ、わたし今まで満腹になった事はありませんから、その心配は無用です」
「―――っ」
やばいやばい。飲んでた水を吐き出す所だった。
【シエル】
「それより遠野くん、お願いがあります」
「えっと、なんでしょう」
「お金を貸してください。わたし、今日は持ち合わせが少ないんです」
……悪い予感的中。でもまあ、それで先輩が満足するなら安いものかもしれない。
「あい、いいですよ。それでどのくらいですか?」
「有り金全部です」
「ごぶっ……!」
あ、鼻に水、鼻に水が入ってきちった。
「あの、先輩、ちょっとそれは―――」
【シエル】
「―――――――――」
ひいい、この人目が本気だよ……!
「……わかりました。あとで返してくださいね」
自分のメニュー分のお金を引いて財布ごと差し出す。
「――――――――」
ぎらん、と光る先輩の目。
そのまま人の財布をにぎりしめて、先輩はカウンターへと突進していった。
□カレー店メシアンの店内
「―――――――!!」
「―――――――!?」
……厨房から喧々囂々とシエル先輩とシェフの話し声が響いてくる。
「……あー、失敗したなあ……」
さてどうしよう。
このまま先輩に付き合っていたら、最悪一日中ここで過ごす事になってしまいそうだ。
うーん、先輩には悪いけど、ここは――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s177
□カレー店メシアンの店内
いや、そもそも悪いのは先輩の方だ。
むしろこっちは被害者だと言っても大多数の賛同は得られる筈!
「すみませーん、ちょっといいですか?」
厨房で繰り広げられる争いに困惑している店員さんを呼ぶ。
「ハイ、ナデスカ」
「チキンカレーとバスケットの会計お願いします。あと連れの人が席に戻ってきたら、急に貧血に襲われたので先に帰ると伝えておいてください」
「カシコマリシマシタ」
よし、任務完了。
それじゃあ先輩が席に戻ってくる前に逃げ出さないと。
□繁華街
ごめんなさい、メシアンのスタッフの皆様、と手を合わせてメシアンを後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s178
□カレー店メシアンの店内
……そうだな。デートに行こうって誘ったのはこっちの方だし、こうなったら覚悟を決めて事の顛末を見届けるとしよう。
「―――――――!」
「―――――――!?」
「―――――――!!!!」
「―――――――!!!???!」
……厨房から聞こえてくる話し合いは段々と熱気を帯びてきて、そろそろ打撃音が混ざってきそうな白熱ぶりだ。
「オマタセシター」
と、店員さんが何食わぬ顔でチキンカレーと野菜カレーライスセットを運んできた。
「どうも」
軽く店員さんにおじぎをして、もぐもぐとチキンカレーを食べ始める。
ま、時間はあることだし、せめて自分ぐらいはまともな客らしく料理を楽しもう。
□大通り
メシアンを出た頃にはもう夕方になろうとしている頃だった。
メシアンの店長との交渉が決裂したのか、ぶつぶつと文句を繰り返すシエル先輩を引っ張ってデートを再開した。
で、レシピぐらい教えてくれてもいいじゃないですか、とお冠な先輩が元に戻るまで街を歩いた結果、時刻はすでに午後十時過ぎ。
先輩は時計を見るなり、
「うわ、もう巡回の時間ですか!?」
なんて、憑き物が落ちたように気を取り直してくれた。
「なに、先輩今夜も見回りをするの?」
このまま別れるのは残念なので、ついそんな事を言ってしまった。
【シエル】
「はい、これも仕事ですから。けどいつもの巡回ルートを回って、異状がなければ二時間ほどで終わるんです。……その、遠野くんが今夜泊まってくれるんでしたら、先に部屋に戻って待っていてください」
と、先輩も同じ気持ちなのか、わずかにうつむきながらそう言ってくれた。……その頬は赤くなっていて、こっちも釣られて照れてしまう。
「なんだ、そういう事なら俺も付いて行くよ。今日一日は付き合うっていっただろ? 足手まといにならない程度に頑張るから、たまにはシエルの手伝いをしたい」
意識してシエル、と口にした。
先輩は嬉しいのか困ってしまったのか、複雑な顔をした後によろしくおねがいします、と手を繋いできた。
□街路
―――夜の街を先輩と歩く。
去年の通り魔殺人の影響か、深夜になって出歩く人は少なくなった。
「……ああ、そういえば」
最近は別の殺人鬼が現れたとかなんとか。
だからだろうか、まだ零時にもなっていないというのに街が死んだように静かなのは。
【シエル】
「遠野くん? 何か言いましたか?」
「え――――いや、なんでもない。独り言っていうか、ちょっとボケッとしてた」
【シエル】
「はあ。あまり気を張るのもいけませんけど、もうちょっと周囲に気を配ってくださいね。わたしがいる、という事で死者も警戒しているんです。
主を失った彼らにとって、この法衣から醸される微弱な香りでさえ苦痛になります。ですから、もし擬態している者がいれば耐えきれずに襲いかかってくるでしょう」
「その、匂いの元を断つために?」
【シエル】
「そうです。ですから夜の街で、この姿のわたしの側にいるという事だけで注意すべき事なんです。……その、こうしている分には眼鏡を外すほどではありませんけど、危ないと感じたら眼鏡を外さないとダメですよ。遠野くんの危険を察知する感覚はお化けですからね、それに関してはたいへん頼りにしています」
夜の大通りを歩きながら、先輩は色々とレクチャーをしてくれる。
けれど、今の会話にはどこかひっかかるモノがあった。
「―――――メガネを外すって、なんで?」
一人呟く。
そんな事になんの意味があるんだろうか。
別にメガネを外した所で何が起こるわけでもないし、自分は今までだってなんの力も借りずに――
□街路
「…………っ」
頭痛がした。
シエル先輩の言葉、メガネを外すとかなんとかいう言葉の意味を考えようとすると眩暈がして倒れそうになる。
「―――――――――」
はあ、と先輩から目を逸らして深呼吸をする。
……少し、休もう。
今は何も考えず、とにかく先輩の側にいればそれでいい。
「…………ん?」
先輩から視線を逸らして建物の影を見た時、なにやら人影らしきものがあった。
「……………」
なにげなく視線を向ける。
それは
【ダークシエル】
赤い眼をした、先輩だった。
□街路
「せ、先輩――――!?」
【シエル】
「はい? どうかしましたか遠野くん?」
前を歩いていた先輩が振りかえる。
「あれ―――? あ、そうだよな、先輩はここにいるんだから―――」
????
それじゃあさっきのは誰だろう?
こっちを見て笑っていたように見えたけど、アレは確かに――
「あの、先輩」
「はい。だからなんですか遠野くん」
「先輩って良く似た姉妹がいる?」
【シエル】
「―――――――――――」
途端、先輩の顔が凍りついた。
「遠野くん。それを、何処で見ましたか」
緊迫した視線。
……話してはいけない。
シエル先輩に、たった今見た“誰か”のコトを話してはいけない、と咄嗟に思った。
「――――そう、あそこですね」
だっていうのに、先輩はこっちの視線から方角を看破してしまった。
「遠野くんはここにいてください」
感情のない声で先輩は言う。
「ま―――ダメだ、行くべきじゃない先輩っ……!」
厭な予感に心臓を掴まれて、全力で先輩の後を追う。
□裏通り
先輩は躊躇う事なく路地裏へと消えていく。
その後を追ってトンネルをくぐるなり、強烈な吐き気に襲われた。
「な――――――」
恐ろしいまでの血の匂い。
この奥、いつもの路地裏から夥しいまでの血の匂いが流れてきていた。
「く―――――――」
思わず頬を拭う。
香りだけで肌に血が付着してしまいそうなほど、濃厚な血の匂い。
まるでこの先には、たった今抜き出したばかりの血液で満たされたプールがあるような錯覚。
「――――ダメだ。そいつに会っちゃいけないんだ、先輩……!」
知らず、そんな呟きを洩らす。
……自分はこの感覚を知っている。
もう何度も味わっている、対面してはいけない自分の鏡像の気配。
けれど朝になれば忘れてしまう、今も覚えていない悪夢。
「くっ―――!」
ポケットからナイフを取り出して、間に合うようにと路地裏へと駆けこんだ。
□行き止まり
路地裏についた。
そこには
【シエル】
憎しみの籠った瞳で虚空を睨む先輩と、
【ダークシエル】
それを幽然と受け止めている“誰か”の姿があった。
「あら。残っていなさいって言われたのに付いてきたんだ。……ふふ、愛されているというのは愉快なことね、シエル」
【シエル】
「―――黙りなさい。貴方にシエルなどと呼ばれる筋合いはありません。死者風情がなんのつもりかは知りませんが―――」
【ダークシエル】
「この姿をするのは止めろ、といいたいの? けどそれこそ筋が合わない。わたしはもとからこの姿だもの。それは貴方のほうがよく解っているんじゃなくて?」
“誰か”は愉快そうに笑っている。
そのたびにシエル先輩の憎しみは増していくようだった。
見れば。
黒剣を握る先輩の指は、あまりに強く握っているために血が零れ出している。
【シエル】
「いいでしょう。止めないというのなら――」
【ダークシエル】
「殺す? 無理ね、貴方にはわたしは殺せない。だってわたしは―――」
「黙りなさい―――――!」
炸裂する先輩。
―――そう表現するしかないほど、シエル先輩の動きは高速だった。
先輩は弾ける火花のように、
予備動作もみせずに“誰か”に切りこんだ。
鉄を切る音。
肩口から一刀両断、大木さえ絶命させる一撃は、しかし、“誰か”の人差し指だけで容易く受け流されてしまった。
□行き止まり
「―――――――!」
咄嗟に間合いを離す先輩。
“誰か”は一歩も動かず、ただ黒いケープを揺らしている。
【ダークシエル】
「ほら出来ない。たしかにシエルには教会で鍛え上げた体がある分、わたしより戦いには長けているでしょう。けれどその分、貴方が失ったものをわたしはまだ持っている。
戦う術がない故にソレを鍛え上げたシエルと、初めからソレを持っていたわたしとでは力が違うわ。
所詮貴方の牙は作り物。必死にオリジナルに似せたイミテーションだもの」
「―――――――」
先輩は無言で“誰か”を凝視する。
……ぎちり、という音。
憎しみが極まったのか、先輩は砕けそうなほど歯をかみ締めている。
「震えているのね、シエル」
否。
それは、恐怖で。
シエル先輩は震えて、ガチガチと鳴る歯を押し殺すために、必死に力を込めているだけだった。
「理解してくれた? 今まで何度も言ったでしょう、貴方ではわたしを殺せないって。
だってわたしは貴方だもの。今の貴方が恐れる悪夢、思い出したくもない貴方の過去。だから、貴方には決してわたしは殺せない」
笑う“誰か”。
「―――――――やだ」
先輩は、置いていかれた子供のように、声をもらした。
「―――思い出しなさい、シエル。わたしは貴方よ。貴方が生み出した貴方の影。永遠に貴方には拭い去れない忌まわしい記憶。
――――そう。この姿は決して許される事のない、貴方の罪の具現でしょう?」
「―――――――――!」
先輩が崩れ落ちる。
頭を抱えて、狂ってしまったかのように首を振る。
「先輩っ……!」
たまらず駆け寄った。
もがいて、ガチガチと震えているシエルの体を強く抱きしめる。
「先輩、先輩……! くそ、なにしてるんだよシエル……! しっかりしないとダメじゃないか……!」
暴れる体を必死に押さえる。
「だって―――だって、だって―――!」
先輩には何も見えていない。
いまにも舌を噛んでしまいそうなほどの狂乱ぶりで先輩は震えている。
「こ、の――――いい加減にしろ、いつもの冷静なシエルはどこにいったんだよ……! アレがなんだか知らないけど、敵の前で怯えてるなんて先輩らしくないっ! あんなヤツ、先輩が出来ないってんなら俺がやっつけてやるから!」
「――――――ぁ」
顔をあげる。涙に滲んだ瞳で俺を見て、先輩は、悲しそうに首を振った。
「できません。遠野くんには、できない」
「……!? だから、どうして!」
「だって、アレは―――わたしの、罪だから」
懺悔のような呟き。
その瞬間。焼けた飴のように、先輩と俺の意識は融け合った。
□行き止まり
――――――そこは、一面の赤だった。
どれほどの屍山を築けばこれほどの血河を作れるのか。
その、片田舎の町にはいささか立派すぎると誰もが誇りに思っていた教会は、その全てが赤色に染められていた。
その河の中で蠢くいくつかの虫がいる。
ずるり、ぴちゃり、と這いずりまわる生き物がいる。
それを、彼女は蛆のようだと笑った。
手足をもがれて棒のようになった生き物は出口を求めて這いずりまわる。
彼女は別段、それらの行動を咎める事はしなかった。
ぴちゃぴちゃと音をたてて、背中と腰だけでそれらは這いまわる。
出口はそれらのすぐ側にあった。
ただ、出口は少しだけ高く作られていて、立ちあがらないかぎり届く事がない。
呪いの言葉を吐きながらそれらは這いまわる。
それでも一昼夜を過ぎて次の夜を迎える頃には、それらの呪いは嘆願に変わっていた。
―――モウイヤダ。
ぴちゃぴちゃ。
―――ナニモミエナイ。
ずるずる。
―――テアシ、テアシ、テアシ!
ごろんごろん。
―――クルシイデス。
ぐちゃ。
―――イタイ、イタイ。
ぴくぴく。
―――オネガイシマス
ずるずる。
―――モウ
ぴちゃぴちゃ。
―――――――コロシテクダサイ
無論、彼女はそれらの嘆願など無視した。
はじめから聞いていなかった。
血の貯水庫で虫を飼うのは予想に反して退屈だった。
彼女が待っているモノの到着までまだまだ時間はある。
それまでの時間をいかに過ごすかは彼女の自由だ。
彼女は貯水庫に蓋をして物思いに耽る。
蓋である鉄の塊を落とした時、なにやら潰れる音がしたけれど、そんなものはもちろん彼女の耳には入らなかった。
それが日常の断片だった。
それ以上の日常など見たくもない。吐き気と震えと恐怖で、強引に夢から覚めた。
□行き止まり
「ハッ―――ハァ、ハァ――――!」
先輩から体を離す。
それで視界は元に戻ってくれた。
けれど先輩は逃げ場がない。
依然として地面に崩れ落ちたまま、あの光景を見せ付けられている。
「―――――立って! ここにいちゃダメだ、シエル……!」
泣き崩れている先輩の腕を掴んで、強引に走り出す。
□裏通り
「ハッ―――ハッ、ハッ――――!」
息を切らせて走る。
先輩は力なく、ただ引っ張られるままに付いてきている。
□街路
「よし、ここまで来れば―――――」
大丈夫、と振りかえって愕然とした。
「せ、先輩――――」
そこにシエル先輩の姿はなかった。
さっきまで確かに掴んでいた腕も、まるで幻のように消え去っている。
【ダークシエル】
「無駄よ。自身の悪夢に出会ったからには逃れられない。シエルは目覚めるまでずっとあの中で苦しむだけだもの」
「おまえ―――――!」
いつのまに現れたのか、“誰か”は嫌な笑みをうかべて言った。
「そしてそれは貴方も同じ。貴方には貴方の悪夢があるのだから、わたしたちの邪魔はしないで。
貴方が側にいるとわたしまでいらないカタチを持ってしまうわ。
だから、貴方は消えてちょうだい」
「な―――――」
ざくん、と膝が地面に落ちる。
巨大なフォークで首を串刺しにされたような、感じ。
「―――おやすみなさい。明日もよろしくね、遠野くん」
それが、この夜に聞いた最後の声だった。
……なんというか。
“誰か”かの声は最後まで愉快そうで、まるで先輩が嬉しそうに笑う時のように、聞き覚えのある響きだった――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s179
□繁華街
――――その視線に気が付いたのは人通りの激しい一角でだった。
休日の朝だというのに人波は激しく、みな脇目もふらずに各々の目的地へと急いでいる。
溢れかえる人、人、人。
過ぎていく人波。
こんな光景はとっくに見なれていて、とりわけ足を止めるほどのものでもない。
なのに、そこに
街の騒音をかき消してしまうほど鮮烈な視線があった。
「―――こっちを、見てる?」
人込みの中、誰もが通りすぎて行く雑踏の中で、見知らぬ少女がこちらを見つめている。
見知らぬ少女だって……?
馬鹿を言うな、遠野志貴はあの子のコトを知っている筈だ。
ただそれを忘れているから、見知らぬ少女と錯覚している。
……見知らぬ少女は見つめている。
それがこんなにも目を奪うのは何故だろう。
この人波の中で立ち止まっているからか。
それとも黒一色なんていう服装が目立つからか。
――――分からない。
ただあの子に見られているだけで、ひどく――
心臓が、違和感を叩きつけてくる。
「―――――君」
呼びかける。だがここからでは遠すぎる。
近寄って声をかけなくてはいけないのに足が動かない。
□繁華街
「――――――」
少女の姿はない。
人込みに融けてしまったのか、もうあの視線も感じられない。
――――また、逃した。
何の脈絡もなく、悔しくて胸を掻きむしる自分がいる―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s180
時刻はじき正午になろうとしている。
この後は、
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s181
「……とりあえず一旦帰るか」
屋敷では琥珀さんが昼食を作ってくれているだろうし、休日ぐらいは四人で昼を過ごすべきだ。
「ま、気分転換にはなったかな」
よし、と大きく深呼吸をして屋敷への帰路についた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s183
□公園の噴水前
―――ベンチに座って適当に昼食をとった。
休日の昼、公園は様々な人で賑わっていた。
幸せそうな子供づれの親子。
笑いあいながら通りすぎていく中学生ぐらいの女の子たち。
競うように噴水へと駆けていく少年たちの足音。
これ以上はないというぐらい平穏で満ち足りた風景。
周りから見れば、自分ものんびりと日向ぼっこをしている学生に見えるのだろう。
「って、実際日向ぼっこしてるんだけど」
そう、俺だって周りに違和感なく溶けこんでいる。
だっていうのに、不意に、どうしようもなく淋しくなった。
例えば病室。
不治の病か何かにかかって、見下ろした窓の外の風景がこの公園だというのなら、この淋しさにも納得がいく。
だが自分は観察者ではなく当事者だ。
こんな、泣きたくても淋しいという意味が解らないから泣けない、なんて空っぽな苦しみに囚われる道理がない。
「……なんだかなあ。なんか不意にブルー入るよな、最近」
首を傾げつつベンチから立ちあがる。
さて、場所を変えるにしても何処に行こうか――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s184
□公園の噴水前
―――ベンチに背中をあずけて日向に残る。
休日の昼、公園は人々で賑わっていた。
親子、恋人同士、はしゃぎあう子供たち。
これ以上はないというぐらい平穏で満ち足りた風景。
青空は作られた映像のように美しく、降り注ぐ陽射しは用意されたもののように申し分ない。
「―――――――」
そこに文句など浮かぶ筈がなかった。
そもそもこれは、文句なぞ浮かばせないように広がる風景だ。
「? 何考えてんだ、俺」
突発的な感傷に首をかしげる。
……だが、言葉にした分違和感は強く唇に残った。
「………………」
違和感。そう、違和感だ。
昨日の事を思い出せない自分。
こんな満ち足りた風景を夢で見たようなデジャヴュ。
いつからこんな事をして、いつまでこんな事をすればいいのか。
まあ苦しいコトはないのだし、楽しいコトばかり続くからどうというコトはないのだけど。
こうよく出来た楽園にいると、出口に差しかかった時に訪れる淋しさは計り知れないものになるのではないだろうか。
「あー、情緒不安定になってんな、俺」
記憶があやふやなせいだろう。こうしてベンチに座って物思いにふけっているとろくな事にならない。
さて、それじゃ何処に行こうか。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s185
□公園の噴水前
―――ベンチに座って昼食をとった。
休日の昼、公園は様々な人で賑わっている。
子供づれの親子、通りすぎていく恋人同士、芝生へと駆けていく少年たちの笑い声。
それは、これ以上はないというぐらい平穏で満ち足りた風景だった。
青空はどこまでも果てしなく、降り注ぐ陽射しはあまりにも清々しい。
だっていうのに、俺はそれらを自然に受け入れる事ができなかった。
「―――――――くそ」
こうして一人になると、胸に何か棘が生える。
理由のない淋しさ。
ずっとその日を待ち続けていて、今年こそお祭りに行けると知らされた朝。
何かが変わるかもしれないという予感を隠すのに精一杯だった昼。
そして、連れて行ってくれる筈の父親は死んでいて、今までどおり遠くから祭りの火を眺めるだけだった夜。
「く――――――」
胸が痛い。
そんな、誰のものとも解らない郷愁がひどく親身に感じられるくせに、それは結局他人事だ。理解はできても癒してあげる事などできない。
―――だから。
それが、淋しいといえば淋しいのか。
「……で。結局、淋しがってるのは誰だっていうんだ、一体」
独りごちて立ちあがった。
さて、日向ぼっこも飽きてきたし、場所を変えることにしよう――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s187
□繁華街
大通りまでやってきた。
時刻はまだ昼を過ぎたばかり、街が賑わうのはこれからが本番といった所だろう。
「さーて、これからどうしようかな」
遊ぶにしても選択肢がありすぎて迷ってしまう。
やはりここは定番として、久しぶりにゲームセンターにでも―――
□繁華街
「――――――」
待て。今、人込みの中に、いてはならないモノがいなかったか。
「ヤツ、は――――」
心臓がミキサーに放りこまれたような感じ。
ドクドクと脈打つ赤い器官が、プラスティックの容器の中で狭苦しいと喘いでいる。
「―――――そんな、馬鹿な」
だが今のは目の錯覚なんかじゃない。
この俺が、あのヤツの姿を、見間違える事などできない。
「―――――待て」
足が動く。
ヤツはこちらに気が付いている。
気付いていて、これみよがしに俺の前に現れて誘っている。
「―――――は」
口の端が、歪なカタチに攣りあがった。
いいだろう。あっちがこちらを誘うのなら、ためらう事なく乗ってやる――――
□裏通り
ヤツはニヤニヤと笑いながら路地裏へ滑りこんで行く。
……ああ、つまりはそういうこと。
ヤツが現れる理由なんてただ一つなのだし、だとしたら出会うに相応しい場所はここ以外ない。
さあ――――
□行き止まり
――――あの続きを始めようじゃないか、殺人鬼。
【殺人鬼】
「――――――――」
ヤツはこちらを睨んでいる。
「――――――――」
なんてイヤな姿。こんな、血に飢えたような姿になんか、俺はならない。
「―――――――フン。それはどうかな」
ヤツは笑う。こちらの心を読んでいる。
「その怖れはつねに孵る事を望んでいる。―――ここに、この俺がいるという時点でな」
「貴様―――――――」
ナイフ。ナイフはポケットの中か。
構える。
ヤツも逆手にナイフを構える。
「それで、その先はどうする遠野志貴」
「その先、だと――――?」
この後……?
何を言っているんだコイツは。ナイフを構えたら、あとは敵を仕留めるだけだ。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんて―――――――
□志貴の部屋
□行き止まり
「――――――――」
待て。
今の、奇怪な線はなんだ。
俺は、何を忘れている―――――?
【殺人鬼】
「―――やはりな。お互い、真世界でなければ自らを行使できぬようだ」
「な―――にを」
吐き気がする。頭痛がする。眩暈がする。
蘇る貧血。――――ああ、どうして忘れていたのか。
この、不安定な体と、忌まわしい死のカタチを。
「……ここも時間切れか。世界が完全に崩壊する前に貴様を仕留めなければならない。おまえも、俺を殺人鬼と呼ぶのなら相応しい場所を選べ」
―――――今宵、影絵ノ世界デ君ヲ待ツ。
……ヤツは唐突に消え去った。
同時に。
メガネを外し。
絵の具が溶けるように、路地裏は溶解した。
「――――――――っ!」
しまった、ここも行き止まりだ。
この先はない。ああ、そりゃあ場所的に行き止まりではあるが、もっと深刻な問題としてここは行き止まりなのだ。
何故なら、ここにはこれ以上時間がない。
つまりここも世界の果て。
これ以上踏みとどまっていれば“一日の終わり”に巻きこまれる―――――
□繁華街
―――そうして、時刻は夕方になろうとしていた。
「いやー、遊んだ遊んだ」
向こう一年間分は遊んだかもしれない。
たまには一人っきりで気ままに街を出歩くっていうのもいいもんだ。
何をしたかというとゲームセンターに行って、お気に入りの本屋を巡って、冬物の下調べに洋服店をはしごして、公園で日向ぼっこをして、最後に喫茶店で買った文庫本に目を通して。
「……あれ?」
文庫本なんていつ買ったんだっけ?
「……むむむ?」
そういえばゲームセンターに行く前に、何か見逃せない事があったような無かったような。
「―――ま、いっか。思い出せないってコトは些細なことだろ」
そんな事より、実際問題としてじき夕食である。
そろそろ屋敷に戻らないと行けないだろう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s188
□繁華街
大通りまでやってきた。
時刻はまだ昼を過ぎたばかり、街が賑わうのはこれからが本番といった所だろう。
「さて、これからどうしようか」
遊ぶにしても選択肢がありすぎて迷ってしまう。
やはりここは定番として、久しぶりにゲームセンターにでも―――
□繁華街
□雪降る町
「―――――え?」
目の錯覚か。
今は秋なのに、どうしていきなり。
「……雪だ」
雪なんかが、こんなにもはっきりと降ってきているんだろう。
「――――さむっ」
ぶるっと体が震える。
唐突に降り出した雪に合わせるように気温は下がっていて、吐く息は真っ白になっていた。
「ちょっ、ちょっとおかしいぞこれ……!」
周囲を見渡す。
街にいる人たちもこの異状に気が付いている筈だ、と目を配る。
……と。
さっきまであんなに沢山いた人影は残らず消え去ってしまっていた。
「―――――――」
きっと、みんな申し合わせたようにデパートやら喫茶店に入ってしまったに違いない。
これだけ寒くなってしまったのだ。そりゃあ秋服のままなら建物に逃げ込むのも道理ってものだろうし。
「――――なるほど。そりゃあ、冴えてる」
……自分でもかなり素っ頓狂な考えだと思うのだが、今はそれで心から納得してしまった。
「……よし、こっちも適当な店で寒さをしのがないとな」
いい考えだ。すぐ近くの喫茶店には入って温かいレモンティーを頼めば、ものすごく美味しくいただけるコトだろう。
「決まり」
よし、と喫茶店に向かって足を進める。
「……あれ?」
その直後、視界の隅に見知った顔が通りすぎて行った。
雪の街に黒いコートが舞っている。
なにが忙しいのか、長い髪をなびかせて女の子が走っていた。
……いや、髪をなびかせてというのは間違っている。
彼女は一生懸命で、まるで何かに追われるように必死に雪の街を走っている。
だから、髪をなびかせてというよりは、髪をかき乱して、という表現のほうがぴったりくるかもしれない。
――――彼女だ。
スミレ色の髪、真っ黒いコート。
見間違える筈もないその姿を見て、なるほど、と頷いた。
この突然の冬にこそ彼女は相応しい。
あの黒いコートは、ようするに今日みたく寒い日のためのものだった。
誰もいない雪の街。
ここよりもっと雪が降りしきる所を目指して彼女は必死に走っている。
その姿はあまりにも真摯で、見ているこっちの心を停止させた。
はぁはぁと息を切らしながら、何かを守るためにあんなに健気に走っている。
それで、何の確証もなく思った。
彼女は誰かに追われている訳でもなく、慌てて間違いを直しに向かっているのだと。
―――急がなくちゃ、急がなくちゃ。
今は秋なんだから、雪なんか降ってはいけない。
こんな風に間違いをおこしてしまうとあの人に気付かれてしまうから、急いで間違いの元を修復しないといけないのだ――
なんて、そんな独り言が聞こえてきそう。
「――――――――」
……それで、なんとなくカラクリが掴めた気がした。
彼女は必死でこの矛盾だらけの舞台を整えてくれている。
無理がないように。
無理にならないように。
楽しくありますように。
幸せでありますように。
それを守るために走る。
黒いコートは、ありえない秋の雪を駆けぬけて行く。
額に汗をうかべて、誰も誉めてくれないのにああしていつも走っている。
□繁華街
そうして、いつしか雪は止んでいた。
建物から出てきたのか、街には溢れるほどの人影が帰ってきた。
「――――――――」
そうして一人で佇む。
あの黒コートの女の子を誉めてあげたくて、いつまでも、彼女が駆けていった彼方を見つめていた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s189
□繁華街
「―――いない」
ここに来れば会えると思った。
だがここにあの子の姿はない。
いや、恐らくはもう――――この世界の何処にも、あの黒いコート姿を見つける事はできないのではないか。
「――――――――」
こんな事をしている場合じゃない。
一刻も早く、あの場所に行ってアイツと決着をつけないと――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s191
□繁華街
「―――――――あれ?」
気が付くと大通りへ足を運んでいた。
「交差点に行くつもりだったのに、なんで……?」
はて、と首をかしげてみる。
……自分でもよく分からない。
なんとなく体の方があの場所に行くのを拒否した感じだ。
そりゃあ交差点になんて行っても仕方がないけど、それにしたって――――
□繁華街
「――――――」
待て。今、人込みの中に、いてはならないモノがいなかったか。
「ヤツ、は――――」
心臓がミキサーに放りこまれたような感じ。
ドクドクと脈打つ赤い器官が、プラスティックの容器の中で狭苦しいと喘いでいる。
「―――――そんな、馬鹿な」
だが今のは目の錯覚なんかじゃない。
この俺が、あのヤツの姿を、見間違える事などできない。
「―――――待て」
足が動く。
ヤツはこちらに気が付いている。
気付いていて、これみよがしに俺の前に現れて誘っている。
「―――――は」
口の端が、歪なカタチに攣りあがった。
いいだろう。あっちがこちらを誘うのなら、ためらう事なく乗ってやる――――
□裏通り
ヤツはニヤニヤと笑いながら路地裏へ滑りこんで行く。
……ああ、つまりはそういうこと。
ヤツが現れる理由なんてただ一つなのだし、だとしたら出会うに相応しい場所はここ以外ない。
さあ――――
□行き止まり
―――あの続きを始めようじゃないか、殺人鬼。
【殺人鬼】
「――――――――」
ヤツはこちらを睨んでいる。
「――――――――」
なんてイヤな姿。こんな、血に飢えたような姿になんか、俺はならない。
「―――――――フン。それはどうかな」
ヤツは笑う。こちらの心を読んでいる。
「その怖れはつねに孵る事を望んでいる。―――ここに、この俺がいるという時点でな」
「貴様―――――――」
ナイフ。ナイフはポケットの中か。
構える。
ヤツも逆手にナイフを構える。
「それで、その先はどうする遠野志貴」
「その先、だと――――?」
この後……?
何を言っているんだコイツは。ナイフを構えたら、あとは敵を仕留めるだけだ。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんてない。
他にしておく準備なんて―――――――
□志貴の部屋
□行き止まり
「――――――――」
待て。
今の、奇怪な線はなんだ。
俺は、何を忘れている―――――?
【殺人鬼】
「―――やはりな。お互い、真世界でなければ自らを行使できぬようだ」
「な―――にを」
吐き気がする。頭痛がする。眩暈がする。
蘇る貧血。――――ああ、どうして忘れていたのか。
この、不安定な体と、忌まわしい死のカタチを。
「……ここも時間切れか。世界が完全に崩壊する前に貴様を仕留めなければならない。おまえも、俺を殺人鬼と呼ぶのなら相応しい場所を選べ」
――――――今宵、影絵ノ世界デ君ヲ待ツ。
……ヤツは唐突に消え去った。
同時に。
メガネを外し。
絵の具が溶けるように、路地裏は溶解した。
「――――――――っ!」
しまった、ここも行き止まりだ。
この先はない。ああ、そりゃあ場所的に行き止まりではあるが、もっと深刻な問題としてここは行き止まりなのだ。
何故なら、ここにはこれ以上時間がない。
つまりここも世界の果て。
これ以上踏みとどまっていれば“一日の終わり”に巻きこまれる―――――
□繁華街
―――そうして、時刻は夕方になろうとしていた。
「いやー、遊んだ遊んだ」
向こう一年間分は遊んだかもしれない。
たまには一人っきりで気ままに街を出歩くっていうのもいいもんだ。
何をしたかというとゲームセンターに行って、お気に入りの本屋を巡って、冬物の下調べに洋服店をはしごして、公園で日向ぼっこをして、最後に喫茶店で買った文庫本に目を通して。
「……あれ?」
文庫本なんていつ買ったんだっけ?
「……むむむ?」
そういえばゲームセンターに行く前に、何か見逃せない事があったような無かったような。
「―――ま、いっか。思い出せないってコトは些細なことだろ」
そんな事より、実際問題としてじき夕食である。
そろそろ屋敷に戻らないと行けないだろう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s192
□交差点
交差点にまで足を運ぶ。
昼過ぎにしては車通りは少なく、あたりには人影も見られない。
「さて、これからどうしたもんかなあ……」
行くアテもなく、一人ぼんやりと立ち尽くす。
そうしてなんとなく道を眺めていると、どこかで見たようなダンプカーがやってくるのが見て取れた。
「あ、なんか急ブレーキしそうな雰囲気」
無責任にもそんな呟きを洩らした瞬間。
□交差点
□交差点
ちょうど目の前を通りすぎたあたりで、ダンプカーはブレーキ音をあげて道を滑っていっていた。
□交差点
□交差点
「―――――――あれ?」
なにか、今の。
□交差点
□交差点
「―――――――ちょっと、待った」
確かに、以前。
――――なんだろう、と思うより先に。
――――危ない、と体が反応したのだ、たしか。
――――そうだ。
――――それが。
――――ただ一つ、俺がこの世界で忘れているコト。
□交差点
交差点にまで足を運ぶ。
夕方にしては車通りは少なく、あたりには人影も見られない。
「さて、これからどうしたもんかなあ……」
行くアテもなく、一人ぼんやりと立ち尽くす。
そうしてなんとなく道を眺めていると、どこかで見たようなダンプカーがやってくるのが見て取れた。
「―――ま、そろそろ夕食だし屋敷に戻るか」
よし、と結論を出した時、ダンプカーは排気音をあげて通りすぎていった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s193
□屋敷の門
坂道を上って屋敷に戻ってきた。
夕食までにはまだ時間があるし、部屋に戻って一息つく事にしよう。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s194
□校門前
学校を後にする。
さて、これから寄っていく所があるとしたら――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s196
□マンション入り口
――――アルクェイドのマンションに着いた。
夕焼けに染められたマンションは何か、特別なモニュメントのように見える。
「……そういえばこんな夕方も今までなかったな」
日が落ちるのは決まって坂道だった。
高いところから遠い落陽を眺めるイメージ。
……あれは自分ではなく、あの子の心象投影だったのかもしれない。
□マンション入り口
……終わりが近づいているのだろう。
あの子の力に穴が開き始めたというか、こうして思い出せる区間が増えてきている。
「――――よし」
今を逃したら次の機会はないかもしれない。
この頭が彼女のコトをはっきりと考えられるうちに、彼女をよく知っているヤツに話を訊かなくてはいけない。
□アルクェイドの部屋
「アルクェイド、使い魔について教えてくれないか」
【アルクェイド】
「使い魔について? ええ、別にかまわないけどどういう風の吹き回し? 前はそんな事に興味ないってつっぱねてたのに」
「たんに事情が変わっただけだよ。で、難しい所はばっさりとカットして解りやすく簡潔に説明してくれ……って、それもまずいか。ばっさりカットするのはやめて、できるかぎり解りやすく説明してくれ」
【アルクェイド】
「んー、解りやすくも何も、わたしもあんまり詳しくないのよね。レンだってただ引き取っただけだから、使い魔に関する知識は舐める程度しか知らないんだけど」
「ああ、それぐらいが丁度いい。いいから話してくれ」
【アルクェイド】
「そう? なら何から話そうかな」
アルクェイドは嬉しそうだ。……内容はどうあれ、話し好きなのは相変わらず。
「そもそも使い魔って何?って所からやってくれるとありがたい」
【アルクェイド】
「そうね、それじゃ使い魔の種類から話そうか。
使い魔っていうのは魔術師が好んで用いる協力者の事よ。召使とか従者とか、そういった物とは根本からして違う。使い魔は魔術師の分身であり、その魔術師そのものを象徴する紋章みたいなものなの」
「……分身って、そりゃあたしかにネロの使い魔はあいつ自身だったけど、他の魔術師もそういうものなのか? 自分の体の中に住ませているとか」
【アルクェイド】
「ネロは特別よ。使い魔は確かに術者と肉体的、精神的な繋がりを持つけど、ネロみたいにほぼ全てが等価、なんていう事はありえない。
……んー、ようするに魔術師っていうのは外に出ない連中なのよ。彼らにとって最優先事項は自身の魔術を魔法まで昇華させる事で、それ以外の出来事なんかに関わっている時間はない。
けどどうしても自身で行わなければならない出来事が発生した時、自身の代わりに派遣するのが使い魔なの。偵察用とか暗殺用とか、そんな単一の目的に使用されるものではなく、状況の変化に応じて魔術師の考えを忠実に再現し、かつ自分の意志で行動する魔術師から独立した魔術師の一部。……とまあ、それが一番上等な使い魔でしょうね」
「………悪いがさっそく解らない。そういう説明はいいから、もっと単純な話を聞かせてくれないか。例えばさ、おまえの使い魔は黒猫だろ。あれは元から黒猫なのか?」
「レン? レンは人間霊と猫の死骸の掛け合わせよ。……そっか、志貴にはそこから説明しないといけないんだ」
「いい? 使い魔というのはまず正しい系統樹に含まれる生命じゃないわ。
魔術師は自らの分身を必要とする。けれど自分とまったく同じ理性・思考経路を辿る分身なんて必要はないの。彼らが求めるのはね、自分と同じレベルの知性を持ちながら思考の矛先が異なる、教師でありながら反面教師にもなりえる愚かな自分、なわけ。
そのほうが新しい発見があるし、自分の間違いにも気が付きやすいでしょう?」
「けどね、自分と同じ知性というのはいいにしても、人間そのものをもう一人作るのはタイヘンな作業だし、維持するのもやっぱり無駄な労力になるわ。
だから魔術師は自分の分身として小動物を好んで選ぶ。知性の在り処は別に用意して、その端末として猫や犬を用いるの」
「その過程として、まず死亡している小動物の亡骸と人間の残留思念を用意する。
他人の残留思念……まだ世界が記録している死人の人格を利用すれば人格形成は容易くなる。もともと肉体が消滅してさまよっているような魂だから、新しい容器を用意してやれば新しい生命になるわ。
このおり、魔術師が行うことは小動物の死骸を修理して動けるようにして、自分の分身になるように肉体的な繋がりを付加するの」
「……えっと、一般的な所で血、髪、目、といった魔術回路を強く宿す部分を切り取って、使い魔になる小動物に組み入れる。
そうする事で使い魔は魔術師と繋がりを持ち、かつ使い魔も以前は持ち得なかった魔術回路を持つに至る。
そうして蘇生した小動物はすでに小動物ではなく、完全に独立した生命、一代限りの使い魔となるわけね」
「あ、でも注意すべきなのは、これは死者を蘇らせた、という訳ではないということ。あくまで死者のパーツを使った生命の配合だから、魔法の域には達していないわ。
えっと、そうやって作られた使い魔は忙しい魔術師の手となり足となり外界で活動を始め、成長し、いずれはその魔術師そのものを象徴する影となる」
「……まあ、そういうのを嫌う魔術師というのも確かにいて、その場合はすでに存在している生き物を束縛して使い魔にしてしまう場合もあるわ。生きた人間を無理やり使い魔にする、という時点で魔術師というよりわたしたちに近い魔物になっちゃってるんだけどね、そういう連中は」
「…………………」
……つまり、あの子は黒猫でもあり、あの女の子でもあるという事なんだろうか。どちらが先でどちらが本性、という問題ではないんだ。
「……死者のパーツを利用した、か。けど、それでも死者を蘇らせた事にはならないのか。だって一度死んだ物に命を吹きこんだわけなんだから」
「命を吹き込んだ、というより与えている、という関係だからそれはノー。
使い魔は普通の栄養補給でも少しは活動できるけど、それだけじゃもう存命できなくなっているのよ。体内に魔力回路を植えつけられた使い魔は、たしかに魔術師と同じ魔術を行使できる。けれど彼らにはその大元である魔力を練る機能がないの。
そうね、ちょうど懐中電灯みたいなものかな。電池がないと光が出ない。その電池は魔術師から流れてくる電気で、使い魔自身は主から電気を流してもらわないと魔術を使用できないし、長生きできない」
「―――つまり、主を失った使い魔っていうのは」
「すぐに死亡するでしょうね。もともと魔術師が生かしていた擬似生命だもの。それが正しい自然の摂理よ」
ぱわーおぶねいちゃーよ、などとよく分からない翻訳をするアルクェイド。
「だから野良猫ならぬ野良使い魔というものは存在しない。主を失った使い魔はそのまま息絶えるだけ。……ああ、でもうちのレンぐらいになるともう悪魔としての側面も持っているから、自分から再契約して生き延びるってコトもできるわね。
レンは活動時間こそ短いけど、作られた年代はとても古いの。だから使い魔として成長もしてるし、動物霊としても成長している。なによりレンを作った魔術師は普通じゃなかったから、レンは元々ポテンシャルが優れているのよ」
「―――――――」
その話を聞いて安堵の息が漏れた。
あの子の状況はよく分からないけど、アルクェイドの使い魔っていう事は新しい主を見つけたってコトなんだから。
「志貴? なんか、いますごく優しい顔してたけど、なに?」
「……いや、なんでもない。ただ安心しただけだ。アルクェイドが主になったんなら、その使い魔も長生きできるなって」
「なんで? わたし、レンの主じゃないよ?」
「―――――は?」
「わたしはレンを引きうけただけだもの。使い魔なんか必要ないし、そもそも受肉した精霊類であるわたしとレンは同種なんだから、契約なんかできるわけないじゃない」
「―――――ちょっ、と、待て。それは、どういう」
「レンは今でも宿無しよ。レンぐらいの使い魔になると悪用しようってヤツが出てくるから、わたしはとりあえずレンが再契約するまでのお守りを任されただけだってば」
――――なんだ、それは。
たどしたら、何かひどく矛盾するコトにならないか。
「おかしいぞ、それ。それじゃどうしておまえの使い魔は生きてるんだ。主からの魔力の供給とやらがなかったら死んじまうんだろ、使い魔ってヤツは!」
「そうだけど、レンは夢魔だもの。あの子は自分で主以外から魔力を補充するコトができるから、実は契約する必要なんてないのよ。
……あ、けどどうしてかなあ、あの子自分からは決して行動しないんだ。いいかげん誰かから血なり精なりを採ってこないと消えてしまう頃なのに、まだ誰からも夢魔として精を奪ってないみたい。今じゃ弱りきって自分から動けないぐらいだもの」
「な―――消えるって、なんだよそれはっ! 冷たいぞアルクェイド、あの子が自分から行動しないんならおまえが命令してやればいいじゃないか!」
「あのね。使い魔を悪用するなって言ったのはあなたでしょう、志貴。それともなに、レンを生かすために無闇やたらと無関係の人間の夢を操作していいっていうの?」
「――――――――く」
それは確かに俺が怒鳴りつけた事だった。
以前、アルクェイドにお礼として夢魔を遣わされて、とんでもない夢を見た。
その件があって、いつだったか二度とあんな真似をするんじゃないって釘をさしたのは他ならぬ自分自身だったのだ。
「わたしがレンを使役したのはあれだけよ。もし次があるとしたら、それは志貴になにかあった時だけ。例えば志貴が大怪我をした場合、わたしには何もできない。けどレンなら手段があるかもしれないでしょう? 肉体より先に精神が消えてしまうような状況なら、夢を操るレンは優れたセイバーになれるもの。ま、魔力の提供がないからそうなった場合は志貴より先にレンが消えてしまうでしょうけど」
「―――――俺が怪我をするって、何を」
【アルクェイド】
「さあ? わたしからはこれ以上なにも言えないわ」
ふい、と視線を逸らすアルクェイド。
……それきり、アルクェイドは何を訊いても答える事がなかった。
□志貴の部屋
……ベッドに倒れこむ。
屋敷の電灯が全て消えた夜。
いつもならここから自分の時間が始まるのだが、今日ばかりはそんな気力さえ作れない。
アルクェイドは言った。
あの黒猫はまだずっと一人で、
自分からは決して行動を起こさなくて、
とどめに、いまにも消えてしまいそうなほど弱っていると。
「――――――」
なにを憤るべきかが定まらず、ただシーツを握り締めた。
……この世界は崩壊しだしている。
理由は簡単。ここが遠野志貴の夢であるのなら、現実の遠野志貴が死にかけているからだ。
それを繋ぎとめるために、あの子はずっと走っていた。
俺をこの繰り返しに閉じ込めていたのではなくて、次の日にいってしまったら死んでしまうから、必死になって同じ一日を繰り返させていたのだろう。
「――――――――」
けれどそれももう限界。
魔力の提供とやらがない彼女には、確実な死が待っている。
何も気付かずに楽しんでいただけの俺を少しでも長引かせるために、あの子は自分の命を削っている。
……鈴の音が聞こえた。
「――――――――――」
そうして睡魔がやってくる。
……頑張ってくれているのは分かるけど、いいかげんその完璧さが頭にくる。
もう手品のタネは明かされたんだ。
だから、こんなふうにずっと見守っていて、俺が疑問に思ったら眠らせる、なんて事はもうしなくていいのに。
「―――分かった、好きにしろ。けど俺は出来ることをやるからな」
暗闇に語りかけた途端、意識が落ちた。
今の自分に出来ること。
そんなのは一つしかない。
この世界が死にかけていて、それを直すために君が必死になっているのなら。
俺は、この世界を殺して回っているアイツを、この手で打倒するだけだ――――
return
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*s197
□校門前
そういえば朝も寄らなかったし、帰りぐらいは顔を出しておいてもいいだろう。
「もう夕方だし、あいつもそろそろ起きてる頃かな」
よし、それじゃあアルクェイドのマンションに急ぐとしますか。
□マンション廊下
呼び鈴を鳴らしても玄関は閉められたままだった。
「……あれ、まだ寝てるのかあいつ」
□マンションキッチン
合い鍵でドアを開けて中に入った。
「おーい、起きてるかー」
奥の部屋に声をかける。……返事はない。寝ている気配もないし、これって――――
「どう見ても留守……だよな」
部屋には俺しかいない。
ここでぼんやりとアルクェイドの帰りを待つのもなんだし、ここは―――
return
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*s198
□マンションキッチン
一瞬、アルクェイドがいない隙に屋捜しをするのはどうか、なんていう邪な考えが浮かんだ。
あれから一年、何もなかったこの部屋にも少しずつではあるが調度品が増えている。今のアルクェイドがどんな趣味に目覚めたのか知りたい、というのは純然とした知的好奇心の働きだろう。
「―――バカか俺は。そんなのアルクェイドがいる時でも出来るじゃないか」
だいたい主人の留守中に部屋を調べるなんてのは失礼だし、なによりここはアルクェイドの部屋だ。それこそ死に直結するようなワナがしかけられていてもおかしくはない。
「帰ろ帰ろ。帰って琥珀さんにたいやきを作ってもらうのだ」
甘い物を連想して甘い誘惑をバッサリと切り捨てる。
あ、なんか本気でたいやきが食べたくなってきた……。
return
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*s199
□マンションキッチン
……そういえば、アルクェイドのベッドってわりと謎だ。
ここ最近はあいつの方から屋敷にやってくるから、ここのベッドはアルクェイド専用になっている。
アルクェイドも色々と飾り物に凝るようになってきたし、何か新しい変化があるかもしれない。
「……まあベッドを見るぐらいならおかしくないよな……」
頼りない弁明を呟きつつ、足音を忍ばせて奥の部屋へと移動した。
□アルクェイドの部屋
ベッドはきちんとメイクされていた。
白いシーツには皺一つなく、さながら風のない砂漠のようだ。
「……う。なんか妙にドキドキするな……」
罪悪感のなせる業か。ふ、この心地よい緊張感、がたまらねえYO!
「っと、バカなモノローグはそこまでにしておいて、と」
いそいそと床に膝をついてベッドの下をチェックする。
……ベッドの下には何もない。埃一つなくてキレイなものだった。
ホッとしている反面、なんかガッカリしたようなこの満たされなさはどうしたものか。
「――――シーツを剥がしてベッドに転がる……ってのはさすがになあ」
シーツを剥がした後、またここまでキレイにベッドメイクする自信が自分にはないし、なにより。
そんな行動をしてしまうとここまで築いた遠野志貴というイメージを壊しかねない。
「……あとは枕の下ぐらいか」
そうそう、前から怪しいと思ってたんだ、この必要以上にばら撒かれた大量の枕が!
「―――――では失礼」
ひょい、と左端の枕を取る。
「……む」
と、そこには数冊の本が隠されていた。
「あ、これ前に俺が貸した文庫本だ。それと国語辞典と、流行語辞典……?」
文庫本のタイトルは『翡翠ちゃん反転衝動』。
それとは別に国語辞典があるって事は、意味を調べながら読んでいるってコトらしい。
「……ヘンだな。あいつってその気になればすぐに必要な知識を覚えられるんじゃなかったっけ……?」
だっていうのにどうして、わざわざこんな時間のかかるコトをしているんだろう。
「……そういえば先輩が言ってたっけ。真祖は環境から情報を汲み上げるられるけど、そうするたびに自我が均等になるとかなんとか」
周りから知識を受け入れれば受け入れるほど、受け入れた知識に流されてしまう、という事だろうか。
アルクェイドが今のままの自己を保つためには、人間のようにコツコツと知識を得るしかない訳だ。
「――――――」
不覚にもグッときてしまった。
無言で枕を戻して、真ん中の枕を持ち上げてみる。
―――――と。
そこにはゲームセンターでゲットできるような安上がりな人形があった。
黒髪のぬいぐるみは、遠野志貴の普段着とよく似た服装をしている。
くわえて見覚えのありすぎるメガネまでつけていた。
「っ――――――――!」
ばふ、と枕をベッドに戻す。
なんか、ものすっごく顔が熱い。
それは例えば、あんなぬいぐるみがどうしてあるのかとか、アルクェイドが自分で作ったんだろうかとか、それとも偶々似ているぬいぐるみを見かけて一生懸命になってゲットしたのかとか、誰かに頼んで作ってもらったんだろうかとか、枕の下に忍ばせているって事は抱いて寝ているのかとか、一人きりのときはなんとなくぬいぐるみに話しかけていたりするのかとか―――――――
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
顔から火が出ているような熱さに囚われながら、一目散に外に飛び出した。
自業自得とはこういうコト。
……ほんと、明日からどんな顔してあいつと会えばいいんだろう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s200
□マンションキッチン
箪笥の中身ですか。
それはもちろん台所の箪笥、なんていう当たり障りのないオチではなく、衣類が収納されている箪笥の中身なのですね。
□アルクェイドの部屋
そういうわけで部屋にやってきた。
箪笥は目の前にある。
アルクェイドが帰ってくる気配もないし、とりあえずこの一年間でどれだけ彼女のセンスがあがったのか調べさせていただきたく思います、まる。
「……やっぱり本命は一番下かな」
最下段の引き出しに手をかける。
ご馳走は最後にとっておくべきだろうが、いつアルクェイドが帰ってくるか判らない状況なので悠長なコトは言ってられない。
がたん、ごそごそ。
引き出しを引いて中身をあさる。
「―――――フ」
狙い的中。自分でも恐くなるぐらい完璧だ。
「なんだ、あんまり普段と変わらないじゃないか……って、きらーん!」
がさごそ。
丸まっている下着の中、一際目立つのを手にとってびょいーんと伸ばしてみたり引っ張ってみたり。
「うーん、ゴールドの下着はどうかと思うなあ、個人的に」
そうは言いつつ、口元は緩んでいる。
そりゃあ普通の子には似合わないだろうけど、コレはコレでゴージャスでいいかもしんな――
「オマエ、ソレ楽シイカ」
「ああ、実にドキドキするね」
サラッと答えて、さあーっと血の気が引いていった。
□アルクェイドの部屋
「――――――誰だ!?」
咄嗟に振り返る。
……って、いつのまにか部屋は暗くなっていて、フローリングの床の上には
【黒豹】
こんなヒトが構えてました。
「殺るジャンキー」
かぷ。
問答無用で噛み付いてくる黒豹。
「く――――――こんな、門番を」
用意しているなんて、アルクェイドはおっかないなあ。
「あの、ところでなんか本気で死にそうなんですけど、俺」
「オレ、抹タナ死」
かぷかぷ。
黒豹の牙は首の肉ばかりか骨まで砕いた。
うわあ、こりゃ冗談じゃすまないじゃん……!
「―――――――まじ?」
呟いた時には遅かった。
俺は金のぱんつを握ったまま、怪しい言葉遣いをする黒豹にかぷかぷされてしまった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s202
□校門前
そうだな。
もう夕方だし、この時間に行けばアルクェイドも起きてるだろう―――
□アルクェイドの部屋
【アルクェイド】
「いらっしゃい志貴。今ね、そろそろ来る頃かなって話してたとこなんだ」
アルクェイドは黒猫を抱きかかえている。
「――――――――」
瞬間、目の焦点が黒猫へと絞られていった。
「アルクェイド。その、黒猫」
ぽかん、と口をあけて黒猫を指差す。
と、黒猫は鳴き声もあげずアルクェイドの手から離れ、窓から外へ出ていってしまった。
【アルクェイド】
「もう、志貴が指をさしたりするから逃げ出しちゃったじゃない。猫はね、慣れてない相手と目が合ったり指を向けられたりするのを嫌がるのよ」
「……そっか。悪い事したな、そりゃ」
【アルクェイド】
「んー、そこまで落ちこまなくてもいいけど。あの子、わたしにもあんまり懐いてないから」
言って、アルクェイドはあっさり黒猫の話を止めてしまった。
【アルクェイド】
「それで? 何か話があったんでしょ、志貴?」
「あ――――――いや」
別段目的があってやってきた訳ではない。
訳ではないけど、言われてみると――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s203
□アルクェイドの部屋
今の黒猫がどうしても気にかかる。
そもそもアルクェイドが猫を飼っているなんて初耳だし。
「なあアルクェイド。今の黒猫、おまえが飼ってるのか?」
【アルクェイド】
「黒猫ってレンのこと? そりゃあ確かにレンはわたしの飼い猫だけど……」
【アルクェイド】
「おかしいなあ。その話、前にもしたよ。志貴だってレンの事は知ってるじゃない。ほら、ネロを倒してくれたお礼に送った夢魔がレンなんだってば」
「――――――――夢魔?」
【アルクェイド】
「ええ。使い魔として引きとってはいるんだけど、わたしには必要ないから放し飼い状態かな。
あの子は元々魔術師が作り上げた使い魔だから個人の意志がないの。放っておいても害はないから安心だって言ったの、忘れた?」
「いや覚えてない。そんな話したっけ?」
【アルクェイド】
「したわよ。アインナッシュっていう最古参の死徒がいて、そいつを倒すのに手を借りた魔術師がいて、アインナッシュの固有結界を破る交換条件としてレンを引き取ったって言ったじゃない。
……まあ、わたしと一緒に眠ってたからあの子も使い魔として活動したのはここ一年間だけなんだけど」
「……ふうん。それじゃアルクェイドとレンって子、あんまり親しくないんだ」
【アルクェイド】
「使い魔は使い魔よ。そこにあるのは主従関係だけでしょう?」
【アルクェイド】
「とは言ってもねー、わたしはレンと契約しているわけじゃないから主従関係っていうのもないかな。交換条件であの子を預かっただけだし、わたしは使い魔を必要とするほど弱くはないし」
それきり黒猫―――レンの話はなくなった。
そうしてアルクェイドと過ごして、屋敷に帰る時間になる。
その何時間ものあいだ。
アルクェイドと話をしながらも、ずっと、黒猫の遠くを見つめているような視線が気になっていた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s204
□アルクェイドの部屋
訊きたい事。誰かに教えてもらいたい事なんて決まっている。
「―――アルクェイド。一つ、つまんない事を訊くんだけどさ」
【アルクェイド】
「うん、なに?」
「その、昨日俺が何をしていたか教えてくれないかな」
【アルクェイド】
「――――――えぇ!?」
楽しそうな笑顔が急変する。
……なんか、この質問をするたび、された相手はこんなふうに驚いている気がする。
「ちょっと志貴、昨日のコト覚えてないの!?」
「恥ずかしながら覚えてない。そういうワケで、昨日の俺を知ってそうなアルクェイドにご教授願いたいワケですよ」
【アルクェイド】
「……ふうん。どうも本気で言ってるみたいね、志貴」
「な、なんだよその態度。いかにも文句あるぞって顔じゃないか」
【アルクェイド】
「当然よ。志貴は昨日わたしと一緒に夜の街を歩いて、やってきたシエルを押し退けて、別れ際にした約束も覚えてないって言ってるんでしょう?」
「―――――――う」
アルクェイドは本気で怒っている。
……だっていうのに、俺にはその約束どころか昨日アルクェイドといた事さえあやふやだった。
「いや、アルクェイドを軽視している訳じゃないんだ。昨日のコトばかりかその前の日のことも記憶になくて、困ってるのはこっちのほうなんだぞ」
【アルクェイド】
「二日前の事も覚えてない、ですって……?」
「あ―――――」
……やぶへびだ。なんか、火に油を注いだ感じ。
【アルクェイド】
と。さっきまでの鋭さは何処にいったのか、アルクェイドは急に笑顔になったりする。
「……良かった。アルクェイド、こっちの事情が解ってくれたんだな」
【アルクェイド】
「……はあ。ちょっと意外かな、わたしも随分と我慢強くなったのね」
あ、人の話聞いちゃいねえ。
【アルクェイド】
「けどこればっかりは譲れないわ。志貴、少し外で頭を冷やしてきて」
うわ、いたっ。
まさか出て行け、なんていうセリフをアルクェイドに言われるとは思わなかった。
□マンションキッチン
ほらほら、と眼光の迫力だけで台所まで押されてしまう。
……っていうか、あいつ空想具現化でこっちの体を鷲掴みにしてやがる。
【アルクェイド】
「それじゃまたね。いい? 昨日の事を思い出すまではわたしの前に現れないこと。この約束まで守れなかったら本当に怒るからね、志貴」
□マンション廊下
バタン! と扉が閉められる。
「……あいつめ。俺一人で思い出せてたら訊いてないっていうのに」
はあ、とため息をついて歩き出す。
こうしてアルクェイドの部屋の前にいたらそれこそ何されるか判らないし、一旦屋敷に戻る事にしよう―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s205
□アルクェイドの部屋
……アルクェイドに訊きたい事、なんて言ったら大部分は不可思議な現象について、という事になる。
おりしも今、街では通り魔殺人が再発しているというし質問には事欠かない。
「アルクェイド、街で通り魔事件が起きてるって知ってるだろ。おまえ、あれってどう思う」
【アルクェイド】
「どうって、わたしそんなの知らないよ。ニュースも新聞も最近は見てないし」
「な――――」
そういえばそうだった。
ロアもネロもいなくなった今、アルクェイドは以前ほど熱心に情報収集に励んでいるわけではなかったのだ。
……いや。それ以上に、そんな話を俺は何処で聞いたんだっけ……?
□アルクェイドの部屋
「あ、あのなあ! 仮にもおまえは吸血鬼狩りの真祖だろ!? ならもちっとシャンとしろよ、今回の事件だってロアの残党かもしれないんだからさ」
【アルクェイド】
「志貴の方こそ猟奇事件が起きるたびにわたしたちのせいにするの止めてよね。だいたい死徒の残党なら、地上に現れた瞬間にシエルが処理して終わってるわよ」
「――――――う。それは、そうかも」
反省。たしかになんでもかんでも吸血鬼の仕業にするのは良くない。
「ごめん、たしかに考えなしだった。……悪いな、どうもここんところ頭がヘンになってるみたいだ。記憶があやふやっていうか、まともな考えが浮かばないっていうか」
はあ、と重苦しいため息をつく。
【アルクェイド】
「……ん、解ってくれたならいいけど……志貴、そんなに頭が痛いの?」
「あ―――いや、痛くはないんだ。頭痛も貧血も起きないし、体は健康そのものだよ。むしろずっとこのままでいてほしいって思うぐらいだ」
【アルクェイド】
「そう? なら問題なんてないよね、志貴が元気なんだから!」
嬉しそうに言うアルクェイド。
その笑顔を見ていると確かに問題はないように思えて、心のつかえがとれてくれた。
そうしてアルクェイドと過ごして、屋敷に帰る時間になる。
また明日、と声をかけてアルクェイドのマンションを後にした。
return
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*s206
□校門前
そうだな。
もう夕方だし、この時間に行けばアルクェイドも起きてるだろう―――
□アルクェイドの部屋
【アルクェイド】
「いらっしゃい志貴。今ね、そろそろ来る頃かなって話してたとこなんだ」
アルクェイドは黒猫を抱きかかえている。
「――――――――」
瞬間、目の焦点が黒猫へと絞られていった。
「アルクェイド。その、黒猫」
ぽかん、と口をあけて黒猫を指差す。
と、黒猫は鳴き声もあげずアルクェイドの手から離れ、窓から外へ出ていってしまった。
【アルクェイド】
「もう、志貴が指をさしたりするから逃げ出しちゃったじゃない。猫はね、慣れてない相手と目が合ったり指を向けられたりするのを嫌がるのよ」
「……そっか。悪い事したな、そりゃ」
【アルクェイド】
「んー、そこまで落ちこまなくてもいいけど。あの子、わたしにもあんまり懐いてないから」
言って、アルクェイドはあっさり黒猫の話を止めてしまった。
【アルクェイド】
「それで? 何か話があったんでしょ、志貴?」
「あ――――――いや」
別段目的があってやってきた訳ではない。
訳ではないけど、言われてみると――
return
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*s208
シエル先輩のアパートに着いた。
空は茜。
日は地平に半ば没し、街は紅に染め上げられている。
「……そういえばこんな夕方も今まではなかったな」
日が落ちるのは決まって坂道だった。
高いところから遠い落陽を眺めるイメージ。
……あれは自分ではなく、あの子の心象投影だったのかもしれない。
だがそれもじき終わろうとしている。
こうして昨日の出来事を少しずつ思い出せている時点で、この繰り返しの夢は破綻しかけているからだ。
「―――――――さて」
今を逃したら次の機会はないかもしれない。
この頭が彼女のコトをはっきりと考えられるうちに、彼女をよく知っている人に話を訊かなくてはいけない。
□シエルの部屋
「シエル先輩、使い魔について教えてくれないか」
顔を合わせるなり用件を告げる。
【シエル】
「はあ、また珍しいコトを言い出すんですね遠野くん」
先輩はあっさりと頷いて、どーぞどーぞと座布団を勧めてくれた。
「使い魔の事を知りたいのでしたら、長話になりますから座ってください。わたしも知識でしか知りませんから参考にはならないかもしれませんけど」
「―――――――」
大人しく座布団に腰を下ろす。
「それで、遠野くんは使い魔の何を訊きたいんですか?」
「……いや、何って言われても。使い魔って単語しか知らないから、一通り教えてくれるとありがたいです。あ、ほら、アルクェイドだって使い魔を持っているでしょ。あの子を例にして説明してください」
【シエル】
「……あの黒猫ですか。アレはもう魔の類ですが、元が使い魔ですから参考例にはなりますね」
むっ、と少しご機嫌を悪くするシエル先輩。アルクェイドの話だけでも鬼門なのに、その使い魔まで加わったんだから当然か。
「で、先輩。結局使い魔っていうのはなんなんですか」
【シエル】
「うーん、それが使い魔という言葉はあまり普遍的ではないというか。まあ、大体は魔術師が自身の手足として生み出したモノを使い魔と言うんです。
魔術師という連中はともかく自分の部屋から外に出ない人たちで、外界の情報収集だの材料集めだのを、自分とほぼ同じ価値観をもった分身に行わせるんです。
一般的に、それが使い魔と言われるモノです」
「お使い専門……ってコトですか?」
【シエル】
「まあ、基本的には。ですが使い魔というものは魔術師のシンボルでもありますから、そこいらの使い捨ての小者とは格が違います。魔術師の中には、自身が殺された時は使い魔に転移できるように保険をかける人もいますから。……まあ、ぶっちゃけて言えば少し能力が劣る自分の予備、という事ですね」
「……あの。それじゃアルクェイドの使い魔って、アルクェイドと同じぐらいデタラメってコト?」
「うーん、アルクェイドとあの夢魔の関係は違うんです。もともとあの夢魔はある魔術師が作り上げたもので、アルクェイドは魔術師から預かっているだけなんですよ。
……その、あの夢魔はとても強い魔力回路を持っていて、力ない魔術師が使い魔として契約してしまうと逆に食べられてしまうぐらい強力なんです。ですから、相応しい契約者が現れるまでアルクェイドが擁護している、という事ですね」
「……それじゃああの使い魔は昔だれかの飼い猫で、今は一人きりって事ですか」
「はい、前の主だった魔術師はすでに他界していますから。
で、ですね。魔術師というのは自らの魔力回路……魔眼やら髪やら血肉ですね、そういったものを使い魔に与える事で、本来魔力を持たない小動物に魔力回路を与えて自己の分身とします。
生前持ち得なかった魔力回路を与えられた小動物……アルクェイドの夢魔は猫ですね。その猫は魔術師と同じように魔術を行使できるようになりますが、使い魔には魔術を発動させるエネルギーがないんです」
「使い魔というものはたいてい死体を寄せ集めて作り上げた擬似生命で、それが活動するだけで一つの魔術なんです。ですから使い魔はつねに主から生命力の供給を受けて活動し、魔術を行使する。使い魔単体では命を作り出す機能がありませんから、魔術師が死亡すれば使い魔もいずれその後を追う事になるでしょう」
「―――――――――」
……話を解りやすくまとめよう。
ようするに使い魔というものは、魔術師に生命力というエネルギーを分け与えられて活動する生き物だ。……足りない命を他の命で補う、というのは俺と秋葉の関係みたいなものだろう。
で、使い魔は主である魔術師の能力を受け継ぐとか、そういうのはとりあえず無視するとする。
先輩の話でなにより問題だと思うのは、アルクェイドと使い魔の関係だ。
アルクェイドは使い魔の主ではないという。
なら、あの使い魔は誰からも命の供給を受けていないという事になる――――
「おかしいよ先輩。その話だと、アルクェイドの使い魔は生きていられないじゃないか」
【シエル】
「それがですね、あの猫は夢魔です。主人からの命の供給がなくとも自分で人間の精を補充できますから、主を失ったはぐれ使い魔でも単体で生存する事ができます」
「――――――――」
夢魔。そうか、そういえば俺だって以前、その犠牲になったというか、おいしい目に遭わせていただいたというか。
「……なんだ。それじゃああの子が死ぬなんて、そんな事はないわけだ」
「いいえ。アルクェイドの夢魔は、このままでは存在ではなくなるでしょう。
なぜならアルクェイドは使い魔を必要としません。アルクェイドが使い魔に命令しないかぎり夢魔は人の精を奪いにいかない。そうして仮の主であるアルクェイドは魔の領域にまで達した、受肉した精霊である夢魔とは肉体的な繋がりが持てない。
結果として、あの夢魔は生命力の補充ができずにもうじき消え去る定めです」
「な―――――だってそれでも、あの子は自分から、その、精を集められるんだろう!?」
「……それが不思議な話なのですが、あの夢魔は自ら能力を行使しないのです。きっと先代の主は立派な魔術師で、使い魔は自ら行動してはならない、という教えを守らせていたのでしょうね。
……逆にいえば、だからこそ今までカタチを保っていられたのでしょう。ですがそれも終わりです。人間と再契約して血なり精なりを得ない事には、彼女はじき消え去ります。……そうですね、アルクェイドが夢魔に命を下して力を行使させれば、それきり夢魔は消えてしまうでしょう」
「―――――――けど、それじゃあ」
それじゃあ、あの子は何をしているんだろう。
自分からは行動しないというけれど、あの子は今もこうして夢を作り続けている。
動けば消えていってしまうぐらい弱っているのに、どうしていつも、あんなにまでして必死に街中を走りまわっているのか――――
【シエル】
「遠野くん、あの夢魔と面識があるんですか?」
「え―――いや。そういうワケじゃ、ないけど」
【シエル】
「ははあ。そういえばそうでしたねー、遠野くんは一度夢魔さんのお世話になっていたんでしたっけ」
意地の悪い笑みを浮かべるシエル先輩。
だが、今はそんな話に反応する事もできない。
「教えてくれ。このままだとあの子はどうなっちまうんだ、先輩」
【シエル】
「そうですね、遅かれ早かれ消滅するでしょう。けれどそれはもっと先の話ですよ。アルクェイドが夢魔を使おう、などと思わなければ夢魔も一年は存命できるでしょう。
……もっとも、遠野くんに何かあったのならアルクェイドは夢魔を使役するかもしれません。人の命を救う、という点に関してはアルクェイドよりあの使い魔の方が各段に優れていますから」
「―――だから。そう、あの子が力を使ってしまった場合の話」
「それは先ほども言った通り、魔術を行使し終わった後に消えてしまうだけです」
きっぱりと先輩は断言した。
「――――――――――」
喉が動かない。
それきり何も話す気になれず、シエル先輩の部屋を後にした。
□志貴の部屋
……ベッドに倒れこむ。
屋敷の電灯が全て消えた夜。
いつもならここから自分の時間が始まるのだが、今日ばかりはそんな気力さえ作れない。
先輩は言った。
使い魔はまだ一人きりのままで、
自分からは決して行動を起こさなくて、
とどめに、いまにも消えてしまいそうなほど弱っていると。
「――――――」
なにを憤るべきかが定まらず、ただシーツを握り締めた。
……この世界は崩壊しだしている。
理由は簡単。ここが遠野志貴の夢であるのなら、現実の遠野志貴が死にかけているからだ。
それを繋ぎとめるために、あの子はずっと走っていた。
俺をこの繰り返しに閉じ込めていたのではなくて、次の日にいってしまったら死んでしまうから、必死になって同じ一日を繰り返させていたのだろう。
「――――――――」
けれどそれももう限界。
魔力の提供とやらがない彼女には、確実な死が待っている。
何も気付かずに楽しんでいただけの俺を少しでも長引かせるために、あの子は自分の命を削っている。
……鈴の音が聞こえた。
「――――――――――」
そうして睡魔がやってくる。
……頑張ってくれているのは分かるけど、いいかげんその完璧さが頭にくる。
もう手品のタネは明かされたんだ。
だから、こんなふうにずっと見守っていて、俺が疑問に思ったら眠らせる、なんて事はもうしなくていいのに。
「―――分かった、好きにしろ。けど俺は出来ることをやるからな」
暗闇に語りかけた途端、意識が落ちた。
今の自分に出来ること。
そんなのは一つしかない。
この世界が死にかけていて、それを直すために君が必死になっているのなら。
俺は、この世界を殺して回っているアイツを、この手で打倒するだけだ――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s209
□校門前
よし。
このまま屋敷に帰るのも芸がないし、先輩のアパートにちらっと顔を出す事にしますか!
□アパート
住宅街にある先輩のアパートに到着した。
この時間だと先輩は学校に残っている確率のが高いが、まあ当たって砕けろというコトでチャレンジしてみよう。
コンコン、とドアをノックする。
返事はないし先輩がいる気配もない。
「やっぱハズレか」
あはは、と笑いながらドアノブを握ってみる。
ガチャ。
ノブは、まるで鍵がかかっていないかのように回った。
「……って、まるでじゃなくてズバリ鍵かかってないやん……」
あの人も正体が思いっきり怪しい戦う神父さんだっていうのに、大胆なまでに無用心だな。
「もし空き巣に入られたらどうするんだ、先輩」
ぷんぷん、とシエル先輩のほがらかぶりに腹をたててみたりする。
で。
そうは言いつつ、遠野志貴はこれからどうするつもりなのでしょう?
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s210
「留守中に部屋に入るのもなんだし……確か合い鍵はポストの天井にあるんだっけ」
階段を下りてポストに向かう。
□アパート
このあたりのアパートは同じ造りものが並んでいて、ある意味団地の形態に近い。
シエル先輩のアパートは二号館のC室だ。
「えーっと、2Cのポストはこれか」
ポストを探り、テープで貼りつけられた合い鍵を発見した。
「……まったく、今度会った時に注意してやんないとな」
ドアをロックして合い鍵を元の場所に戻す。
「よし、帰るか。時間も早いし、琥珀さんにたこ焼きを焼いてもらおう!」
おいしい物を連想して、このまま大人しく屋敷に戻るのだ、という意志を強める。
さ、ヘンなイタズラ心は起こさないで屋敷に帰る事にしよう。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s211
「……鍵がかかってないのは危ないし、かわりに留守番するぐらいならいいかな……」
どのみち学校の門限になれば先輩は帰ってくるんだし、二時間ぐらい中で待っていても怒られないだろう。
「よし、探索するコトにけってーい!」
□アパートキッチン
……と、いうわけで内部に足を踏み入れた。
キッチンには生活の匂いが満ち満ちている。
忙しいながらも先輩はきちんと家事をこなしているのだ。台所を使うのは俺だけ、というアルクェイドの部屋とは根本からして違っている。
「……洗い物が残っているのはご愛嬌、と……」
流しには洗いきれていない食器が積まれている。
昼は学校、夜は街をパトロール、と忙しい人だからこうなってしまうのは仕方ないだろう。
「――――――」
よし、仕方ないので代わりに洗っておくことにしよう。
じゃぶじゃぶ。
□アパートキッチン
「うー、予想以上ーに疲れた気がするー」
まくった袖を戻して、とりあえず一息ついた。
「……ったく、たまった洗い物を風呂場の洗面器に積んでおくなんて、どこでそんな小技を覚えたんだ。そうゆうコトしてるとそのうち風呂場にも溜め込みはじめるんだからな」
まあ一人暮らしならそこまで食器は溜まらないか。
□シエルの部屋
色々あるけど先輩だって女の子、さすがに部屋はキレイに片付いている。
「ふー」
クッションに腰をおろして一息つく。
先輩が帰ってくるまでテレビでも見ていようか、とリモコンのスイッチを探した時。
「…………む」
押し入れの隙間からはみ出している、シャツの裾が気になった。
「……………むむ」
四つんばいになってテコテコと部屋を横切って、押し入れを開けた。
どしゃり。
途端に滑り落ちてくる、タオルとかシャツとかシーツとか下着とか法衣とか。
無論、そのどれもが洗濯待ちであることは明白だった。
「……………むむむむ」
洗濯物の波に呑み込まれて眉をひそめる。
……ああ、そりゃあ全体の三分の一は下着で、ブラジャーとかパンティとかが散乱していて、健全な男子学生なら動揺してしかるべき状況だと思う。
だが、しかし。
「……………むむむむむむむむむ!」
そんなコトより、たまった洗濯物を前にした使命感の方があまりにも強かった。
……まあ、日夜吸血鬼の残党を狩り出している先輩だから、中には汚れだけではすまないモノだってある。なんでもない普通のシャツが破けていて、そこに血の染みがあれば性欲なんて消えてしまったという事もあるんだけど。
「……………………………」
無言で立ちあがって、紙袋に洗濯物を詰め込んでいく。
先輩の部屋には洗濯機はない。
が、幸いここはアパートが多いおかげでちょっと歩けばすぐにコインランドリーがある。
「……………………………」
四袋もの紙袋を持って先輩の部屋を後にした。
□シエルの部屋
帰ってくると、外はすっかり赤く染まっていた。
「あー、予想異常に疲れた気がするー」
なんか似たようなセリフをさっきも言ったな、と思いながら腰を下ろした。
ちなみに誤字ではない。
「うわ、もう六時になる。……先輩、遅いな」
いつまでもここにいる訳にはいかないけど、あと一時間ぐらいは平気だろう。
「……いつもご馳走になってるんだし、今日ぐらいはなんか作っておいてもいいかな」
先輩が疲れて帰ってきた時、掃除も終わっていてごはんも出来ていたら驚くだろう。
そんなわけで冷蔵庫を開けて食材を物色する。
牛肉やらじゃがいもやら玉ねぎには事欠かない冷蔵庫なのだが、魚と青物が致命的に廃絶されているあたり性格がよく出ている。
「―――シチューだ。シチューができる」
じゃがいもと玉ねぎと人参と牛肉を引っ張り出して、無理やりそう結論づけた。
「……シチューの素、なんてあるわけないよな、この部屋に」
あるわけないので、ひとっ走り買ってくるコトにした。
□アパートキッチン
コトコトコト。
火に かけられて鍋が揺れている中、文庫本を読んで時間を潰す。
「―――――――――」
本のタイトルは『遠野家のコン・ゲーム』。ベッドの枕もとにあった文庫本を拝借してきたのだが、コレが中々面白い。
「―――ん? ありゃ、七時過ぎちまった」
……流石にこれ以上はまずい。
屋敷では秋葉たちが夕食を遅らせて待っている頃だし、先輩が帰ってくる気配もない。
「……ちぇっ、書置きして帰るか」
先輩の驚く顔が見れなかったのは残念だけど、まあこの事が何かのきっかけになって後々いいコトがあるかもしんないし。
「ええっと、鍋にシチューが出来ています。カレーばっかり食べると怒りやすくなってしまうので、たまには、魚を食べてください、と」
トドメ、とばかりに遠野というハンコを押した。
□アパート
「んじゃあまあ、ひとっ走りいきますか!」
気合をいれて走り始める。
時刻は七時過ぎ。急げは、まあなんとか許してくれるぐらいの時間には着けるだろう―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s212
ほう、箪笥の中身ですか。
それはもちろん箪笥に隠された先輩のヘソクリが目当て、なんていう当たり障りのないオチではなく、もっと箪笥の本質に迫る中身が目当てなのですね。
□シエルの部屋
「―――――フン、蛇に憑かれたか」
箪笥を前にして、口が独りでに動いた。
それは邪な気配を察知し、脳漿の隙間を縫って正常なる人格を変貌させる毒に他ならない。
古では啓示。
理では衝動。
所によっては電波とも呼ばれる擬似人格。
ソレに汚染された人間は、わずかの間ながら別人として活動する。
「……というわけなので、失礼します」
パンパン、と手を叩いてから引き出しを引いた。
「おおーーーー!?」
□シエルの部屋
ピカー、とか光らないのが不思議なぐらい、引き出しの中は素晴らしかった。
さすが先輩、このコレクションはちょっと普通じゃないぜ。
オーソドックスな白からはじまって微妙な色彩変化とモデルチェンジを加えて、実に一段百を超える幅広さ!
ちゃんと仕切りで区切られているのも高ポイントです。ぱっと見、一口チョコがつまった高級セットを連想させます。
「―――――――やば」
くらり、と眩暈をおこしそうな意識を支える。
ヘヴンだ。引き出しの中には天国があるってマンガは本当だったんだ! ありがとう、ありがとう未来の科学!
□シエルの部屋
「うわ、これなんか紐だぞ紐! ……そっか、法衣の時はぱんつ履かないでこーゆーのつけてたんだー。なんとなく布なのかなー、と思ってたんだけど、なかなかどうして先輩も女の子ですなー」
ふむふむ、とさらに下の引き出しを開けてみる。
下はブラジャーが基本で、さっきの段ほど一目でくらっと来るものはない。
「……意外。わりとスポーツタイプ少ないんだ」
「はあ。なんで意外なんですか、遠野くん」
「いや、だってさ。先輩いつも動きまわってるから、てっきり動きやすさ重視かと思ってた」
「はあ。なんで動きやすさ重視なんですか、遠野くん」
「だーかーらー、先輩胸おっきいじゃん。戦う時に邪魔んならないよう、しっかり固定しとかないとやられちゃうぜ」
「あはは、そんなの巨大なお世話です」
「そっか、巨大なお世話かー」
あはは、と一緒になって笑う。
―――――さて。
そろそろ、この絶体絶命のピンチを切り抜けるきっかけを作らないと命に関わる。
「…………………」
ギチギチギチ、と音をたてて首だけを後ろに向ける。
【シエル】
「―――それで。そろそろいいですか、遠野くん」
先輩。それはそろそろ死にますか、という意味ですか。
「まあ、待った。何も悪気があったわけでは、ない」
そろそろと引き出しの中に両手を入れる。
「彼が悪ではなく、彼は悪魔ではなく、彼は罪人ではない。だが、許される事はなかった、ですか。墓碑銘に刻むには悪くないですね」
「うわー、先輩ったら本気だー。シエル短気、シエルおとなげなーい!」
【シエル】
「っ! あ、あの馬鹿女ですかあなたは!」
ぐわっ、と火を吐くシエル先輩。
ちゃんす!
「てや!」
引き出しに突っ込んでいた両手を目一杯広げて万歳をする。
ぶわさ、と撒き散らされる下着の束。
「――――――!」
「隙ありーーー♪」
しゃっ、と素早く先輩の横をすり抜け、そのまま台所を突破、階段を転がるように下りて外へと脱出する。
□アパート
「待ちなさい遠野くんっ――――――!」
ものすごい剣幕で部屋から出てくるシエル先輩。
が、このアドバンテージを渡す訳にはいかないのだ。
「あはは、待ちません。ほとぼりが冷めた頃に会いましょう!」
「こ、このぉ………! 明日五体満足で学校から出られると思わないでくださいねっっっっ!」
背中にかけられる罵詈雑言を振り払ってアパートを後にする。
……で、先輩が追いかけてこない事を確認して立ち止まった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒くなった呼吸を正す。
「やばいなあ……ちょっとしたイタズラ心だったのにどうしてこうなったんだろう……?」
タイミングが良かったというか魔が差したというか、逢魔が時の魔力というか。
ま、済んでしまったコトをくよくよ考えても仕方がないか。
「しばらく先輩には会えないな、こりゃ」
明日は先輩の挙動に注意しよう、と心に留めて屋敷への帰路についた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s214
□校門前
そうだな。
まだ夕方だけど、先輩も学校から帰ってきている頃だろう―――
□シエルの部屋
「文化祭の準備、ですか――――?」
【シエル】
「はい。いよいよ大詰めですからね、そのせいでここ数日は帰りが遅いんです」
「納得。そっか、どうりで最近は茶道室に行ってもいないと思った。で、先輩はどっちがメインなんだ? 自分のクラス、それとも生徒会の出し物のほう?」
【シエル】
「それは当日のお楽しみという事で。余裕があったら是非観に来てくださいね」
……観に来て、という事は劇関係か。
そういえば今年の生徒会は午後の体育館を独占するっていう噂だったな。
【シエル】
「あ、けど遠野くんの方こそどうなんですか? 遠野くんのクラス、何をするのかまだ届け出をしていないでしょう。
会長の槙さん、2−Cの提出が三枚あって混乱してましたけど」
「あ、それなら心配ご無用です。うちのクラス、その三つのどれかですから。一応全部出来る段階まで仕上げていって、一日前に投票で決定しようって約束なんです」
【シエル】
「はあ。なんか色々と複雑そうですね、遠野くんのクラスも」
「はい。男どもと女子の仲が悪いんで、意見が真っ二つ、いや三つに割れてしまったんです。で、公平を期して一日前に投票で決めよう、と。
あー、たぶん今ごろ会議の真っ最中だと思います」
【シエル】
「ええ!? と、遠野くん、いいんですかこんなところでのんびりしてて!」
「いいんです。自分は完全に中立なんで、出し物が何に決まろうと全力を尽くすだけですから」
はあ、と胸を撫で下ろして納得する先輩。
□シエルの部屋
そうして二人きりのお茶会が終わりに近づいた頃。
【シエル】
「それで遠野くん、今日は何を訊きにきたんですか?」
なんて、真顔で先輩は言ってきた。
「え? いや、別に訊きたい事なんてないですよ、俺」
「嘘です。大事な投票を放棄してまで来たんですから、今すぐ訊かなくてはいけない事がある筈です。
それがたとえ、遠野くん本人が気付いていない事だとしても」
「―――――――――」
先輩のまっすぐな視線が胸に刺さる。
そう言われると、確かに―――自分には訊かなければならない事が溢れていた。
あまりにも不明なトコロが多すぎて見逃していた何か。
自分一人では解決できない問題だから見逃そうとしていた何か。
そう、それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s215
□シエルの部屋
街に現れるという殺人鬼。
吸血鬼による通り魔殺人は終わったというのに、夜毎殺されてしまう犠牲者はどういう事なのか。
「……まあ、いまさらシエル先輩に訊く事じゃないんだけど、最近の夜はどうなのかな。また新しい通り魔事件が起きてるっていうけど、アレも吸血鬼の残党の仕業なの?」
【シエル】
「―――あの。遠野くん、なに言ってるんですか?」
「いや、だから街で通り魔が出てるだろ。もう何人か犠牲者が出てるって話じゃないか。先輩は夜のパトロールをしてるんだから詳しい話を知らないかなって」
先輩は答えず、しばらく真顔で俺の顔を見詰めていた。
【シエル】
「……わたし、遠野くんが言うような事件は知りません。たしかに街にはまだ死者が潜んでいますけど、彼らによる殺人行為が行われた形跡はありません。
その、失礼ですけど、それはただの通り魔事件なんじゃないでしょうか……?」
申し訳なさそうに先輩は言う。
「――――――――」
先輩にそう返答されると、こっちも返す言葉なんてない。
毎夜街を巡回している先輩がそういうのなら、街で起きている通り魔事件は純粋に人間の手による物だというコトだ。
「そっか。……いけないな、物騒な事件が起きるとすぐに吸血鬼に結び付けて考えるクセがついてる」
【シエル】
「しょうがないですよ、ちょっと前まで遠野くんもその被害者だったんですから。遠野くんは普通の学生さんなんですから、少しずつ心のリハビリしていきましょう」
……心のリハビリか。たしかに先輩の言うとおりだ。いつまでも陰惨な記憶に引きずられてたら気が滅入るだけだろうし。
「……そうだね。殺人事件って単語に敏感になりすぎてるのは気をつけないといけないな」
【シエル】
「え、その通り魔事件って殺人事件なんですか?」
「そうだよ。ニュースでやってたし、誰かがそんな話もしていたから間違いないし、それに―――」
それに―――?
【シエル】
「はあ。おかしいですね、そこまでの事件でしたら話ぐらいは聞くと思うんですけど。……遠野くん、その話を知ったのは今日ですか?」
「え―――いや、そうだったかな。昨日だったかもしれない」
そう答えて、またも記憶の曖昧さを実感した。
知っている知識が何処で手にいれた物なのかさえ、明確に思い出せない。
□シエルの部屋
【シエル】
「なんにせよ物騒な話ですね。遠野くん、くれぐれも夜一人で出歩かないでください。どうしてだか知りませんけど、遠野くんってそういう人とか事件に縁があるようですから」
「はいはい、それは身に染みて分かってますよ」
冗談半分に答えて湯呑みを口に運ぶ。
長話が過ぎたのか、お茶はすっかり冷めてしまっていた。
□アパート
そうしてシエル先輩とのゆったりとした夕方は過ぎていった。
屋敷に帰る時間になって、また明日、とおきまりの挨拶をして先輩のアパートを後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s216
□シエルの部屋
……訊きたいコトっていえば学校のコトになるかなあ。
もうじき文化祭だし、忘れていたことだけどもう一つ大きな問題があるし。……まあ、良い事ではないので出来れば忘れていたかったけど。
「……思い出しました。学校のコトなんですけど、先輩?」
【シエル】
「はい? なんですか、急に改まっちゃって」
「あのですね。職員室で、遠野は期末テストを受けなかったので補習だ、とかいう話は聞かなかったでしょうか。あと生活指導のほうでも最近は成績も落ちてるし遅刻も多いし、とか」
……う、心なしか声が小さくなってるかも。
【シエル】
先輩は思うところがあるのか、にまーと意地の悪い笑みを浮かべてるし!
「う……やっぱり補習受けさせられるんですか、俺」
【シエル】
「えーっと、確かにそういう話は聞いてます。遠野くん、文化祭あけの小テストで平均点九十を上回らないとマズイとかなんとか」
「あ、あいたたたたた…………」
うわあ、進学校通ってて補習ってのも酷い話だ。
勉強は嫌いな方ではないんだけど、ここにきて初めて嫌いになりそうな雰囲気。
「……はあ。平均点九十なんてハードル高すぎる。こりゃ補習は決定かあ」
ああ、嫌すぎる。
なんだって休日にマンツーマンで授業を受けなくちゃいけないんだろう?
「あーあ。いっそのこと先輩が担任だったら良かったのに。そしたら真面目に勉強するんだけどな、俺」
【シエル】
「そうですか? 遠野くん、わたしが先生でも怒りません?」
先輩の声はなぜか妙にウキウキしている。
「怒らないよー。むしろ嬉しいです。うん、シエル先輩が先生だったらもう言うコトないんだけど」
べたー、とテーブルにつっぷして泣き言を口にした。
□アパート
そうしてシエル先輩とのゆったりとした夕方は過ぎていった。
屋敷に帰る時間になって、また明日、とおきまりの挨拶をして先輩のアパートを後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s217
□シエルの部屋
――――訊きたいコト、なんて決まってる。
目覚めた時からのしかかっていた違和感、あやふやで輪郭のない昨日の出来事。
そう、昨日のコトが思い出せないのなら、昨日の自分を知っている先輩に教えてもらうだけだ。
「―――先輩。一つ、つまらない事を訊くんだけど」
【シエル】
「はい、なんですか遠野くん」
「その、昨日の俺って何してましたっけ?」
【シエル】
「――――――はい?」
ぴたり、と凍りつく先輩の表情。
……なんかこの質問をする度、された相手は驚いている気がする。
「いや、別に深い意味じゃなくてですね、ちょっとした確認っていうか、その―――」
【シエル】
「え―――か、確認ってそんな、なに言うんですか遠野くんっ。そんな、改まって言われると照れちゃうじゃないですか……!」
――――と。
先輩は顔を赤くしてきゃーきゃーと暴れ出した。
「……あの、先輩? だから昨日のコトなんだけど……」
【シエル】
「はい、楽しい一日でしたね。あんなふうに一日ずっと一緒にいられるのは中々ありませんから、すごく嬉しかったです。……えっと、ここに泊まってくれた後も優しかったし」
「――――――――――」
そ―――そんなバカな、と言いかけた言葉を呑み込む。
……落ちつけ志貴。覚えてないんだから、ようするに昨日はそういう日だったんだ。
だっていうのにここで“そんなの覚えてません”なんて言ったら、先輩はすぐさま法衣に着替えて剣を投げつけてきかねない。
【シエル】
「けど遠野くん、そんなコト訊いてくるなんてどうしたんですか? 何か言い忘れてる事があるとか?」
こっちの事情を知らず、先輩は無邪気に顔を覗き込んでくる。
「い、いえ、忘れてるコトなんて何一つありません。ありませんから、昨日の話はここまでにしましょう」
強引に話を逸らして湯呑みを手に取る。
ずずーっ、と熱いお茶を一気に飲み干して、おかわりください、と先輩に湯呑みを差し出した。
□アパート
そうしてシエル先輩とのゆったりとした夕方は過ぎていった。
屋敷に帰る時間になって、また明日、とおきまりの挨拶をして先輩のアパートを後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s218
□校門前
そうだな。
まだ夕方だけど、先輩も学校から帰ってきている頃だろう―――
□シエルの部屋
「文化祭の準備、ですか――――?」
【シエル】
「はい。いよいよ大詰めですからね、そのせいでここ数日は帰りが遅いんです」
「納得。そっか、どうりで最近は茶道室に行ってもいないと思った。で、先輩はどっちがメインなんだ? 自分のクラス、それとも生徒会の出し物のほう?」
【シエル】
「それは当日のお楽しみという事で。余裕があったら是非観に来てくださいね」
……観に来て、という事は劇関係か。
そういえば今年の生徒会は午後の体育館を独占するっていう噂だったな。
【シエル】
「あ、けど遠野くんの方こそどうなんですか? 遠野くんのクラス、何をするのかまだ届け出をしていないでしょう。
会長の槙さん、2−Cの提出が三枚あって混乱してましたけど」
「あ、それなら心配ご無用です。うちのクラス、その三つのどれかですから。一応全部出来る段階まで仕上げていって、一日前に投票で決定しようって約束なんです」
【シエル】
「はあ。なんか色々と複雑そうですね、遠野くんのクラスも」
「はい。男どもと女子の仲が悪いんで、意見が真っ二つ、いや三つに割れてしまったんです。で、公平を期して一日前に投票で決めよう、と。
あー、たぶん今ごろ会議の真っ最中だと思います」
【シエル】
「ええ!? と、遠野くん、いいんですかこんなところでのんびりしてて!」
「いいんです。自分は完全に中立なんで、出し物が何に決まろうと全力を尽くすだけですから」
はあ、と胸を撫で下ろして納得する先輩。
□シエルの部屋
そうして二人きりのお茶会が終わりに近づいた頃。
【シエル】
「それで遠野くん、今日は何を訊きにきたんですか?」
なんて、真顔で先輩は言ってきた。
「え? いや、別に訊きたい事なんてないですよ、俺」
「嘘です。大事な投票を放棄してまで来たんですから、今すぐ訊かなくてはいけない事がある筈です。
それがたとえ、遠野くん本人が気付いていない事だとしても」
「―――――――――」
先輩のまっすぐな視線が胸に刺さる。
そう言われると、確かに―――自分には訊かなければならない事が溢れていた。
あまりにも不明なトコロが多すぎて見逃していた何か。
自分一人では解決できない問題だから見逃そうとしていた何か。
そう、それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s220
□校門前
……路地裏に行ってみよう。
□行き止まり
――――路地裏に着いた。
……ここに来るのも久しぶりだ。
あの事件以来、遠野志貴はこの場所を避けていた。
ここには残留しているものが多すぎる。
血と闇、死と痛み。
数えきれないほど喪われた命と、思いをはせることさえできないほど失われた思い出。
――――それともう一つ。
この手で守らなければならなかった、いつかの約束が眠っている。
「――――――――」
今、自分は花束を持っている。
手向けの花の色は椿。
どうしてそんな物を持ってきたのか、誰にその花を捧げるのか。
意味が解らず、自分の気持ちも判らないまま、静かに花を供えた。
路地裏を去る。
……夕焼け時に訪れたせいだろうか。
閉じた目蓋の裏。
赤い赤い坂道と、
おぼろな横顔と、
果たせなかった、あるクラスメイトとの約束が思い出された。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s221
□行き止まり
――――路地裏に着いた。
「――――――――」
今、自分は花束を持っている。
ここで死んでしまった人たちへの手向けの花なのだろうか。
顔も知らず、彼らに対する思い出がない自分が花などを贈っても何の意味があるだろう。
どうしてそんな物を持ってきたのか、誰にその花を捧げるのか。
意味が解らず、自分の気持ちも判らないまま、静かに花を供えた。
背後では、かつん、という足音。
「くだらない」
心底軽蔑するように、ヤツは吐き捨てた。
「……おまえ」
振り返る。
【殺人鬼】
「我ながら女々しいな、おまえは」
初めからここにいたのか、殺人鬼は蜃気楼のように揺らいでいた。
「そのような花を手向けて何になる。自己に残留した影を祓うならば“外”で行うがいい」
「外で行え、か。それは―――」
「ほう、今は目が醒めているようだな。
ならばここでは死者の弔いは無意味だと解っていよう。ここは生者の夢場。おまえの見る夢、おまえが知る者の夢がカタチ作る世界だ。
主観はおまえではあるが、おまえが知る他人の器には“外”から他人本人の夢が混濁する。そしておまえ自身も他者が知り得た夢にすぎない。
故に、この夢場はかぎりなく現実に寄りそっている。……いや、ここまでの共通識ならば外と区別する必要もあるまい」
……殺気というものがまるでない。
ここではヤツは存在できないのか、ゆらゆらと揺らいでいる。
ここにいるのは、ただ―――俺が気付いていながら忘れている事実を語る、自己の投影に他ならない。
「……あの白い吸血鬼。おまえがアレを自らの世界に登場させるように、アレもおまえを自らの夢に登場させる。
互いを知り得る者たちの境界条件が混濁している場合、夢というものは双方に干渉し矛盾を修正する。
おまえのように外を狭く使っている者は、稀にこのような場を形成する。……ある意味黄金比だ。一個人の認識が許容できる識は広すぎても狭すぎてもいけない。この程度の広がりが、第二現実を作るには適しているという事だ」
「………………」
そうか。その説が確かなら、確かに―――
「そう、この世界には死者は存在しない。
夢というものは生者が見る共通無意識だ。故に、すでに死亡したものはこの場に参加する事ができない。
たとえおまえ自身が強く記録し、その復活を望んだ人間がいたとしてもだ。
些細な役回り……そうだな、通行人Aという役割を用意したとしても、死者はこの劇場に入れない。役割があっても役者がいないという事だ」
だから―――この花を、せめてもの手向けにしたのか。
ここでは思い出せない。
もう喪われてしまった、一つの約束と一人のクラスメイトの為に。
「そうか。けど、それだと一つだけ矛盾がある」
「ほう」
「ここで。さっきからえらく饒舌な、とうに死んでいる筈のおまえは何だ」
「俺は外からきたモノではないのでな。ここではある条件下にあるモノだけは、死者であろうとカタチを得る」
外からきたモノではない影。
内より生じ、外に現実を持たないモノ。
それはつまり――――
「悪い夢、か」
「場に訪れる全ての役者がそれを抱く。俺も、あの白い吸血鬼が見る朱い月も、神父が見るかつての自分も、全ては自らの投影だ。だが影であるが故に本人に寄り添って存在するしかない」
「―――だが俺は違う。おまえが特別なのかは知れぬが、おまえが屈すれば入れ替わる事になろう。
元より俺はおまえの怖れが作り上げた擬似人格だが、機会があるというのならば逃す気はない。完膚なきまでにおまえを殺して俺が――――」
□行き止まり
路地裏についた。
夜は陰気なこの場所も、昼間はどことなく清々しい雰囲気がある。
「―――――――って、なんかヘン」
さっきまで誰かと話してなかったか、自分?
「おい、ちょっと――――」
誰かいないか、と振り向いてびっくりした。
【レン】
「……………………………」
「あれ、君は―――」
ずきり、とこめかみに頭痛が走る。
□行き止まり
【レン】
「この前の子だよね。……ごめん、顔を合わせればちゃんと思い出せるんだけど、なんか最近忘れっぽくて」
「……………………………」
女の子は相変わらず無口だ。
ただ、その大きな目でじっとこちらを見つめてくるだけ。
「あ、そうだ。あのさ、さっきまでここに誰かいなかった? ……えっと、たぶん俺と同い年ぐらいのヤツだと思うんだけど」
【レン】
【レン】
女の子は首を振って否定する。
「そっか、知らないか。……そうだよな、多分俺の気のせいだろう。ごめんね、ヘンなコト訊いちゃって」
【レン】
……ありゃ。
何か悪いコトでも言ってしまったのか、女の子は急に落ちこんでしまった。
「……………………………」
女の子はじっとうつむいている。
……理由は解らないけど、この子に悲しげな顔をされるとこっちが辛い。
「ん? 元気がないけど、なにかあった?」
【レン】
「……………………………」
女の子は顔をあげると、つい、と俺の服をひっぱった。
「ちょっ、ちょっと、服が伸びるってば」
【レン】
「……なに、ここに居ちゃダメってコト?」
【レン】
「分かった、分かったから服を引っ張るのはそこまで!」
女の子はゆっくりと服から手を離す。
「それじゃあ外に出るけど、君はどうするんだ? もしかして、また迷子?」
【レン】
「――――――――――」
「あ――ちょっと!」
制止の声も届かず、女の子は大通りへと走っていってしまった。
「……いっちゃった。ほんと、猫みたいな子だな」
一人でぼやきつつ、こっちも大通りへ向かう。
「あ」
と。そういえば、あの子に会うたびにやらなくちゃいけない事があったのだ。
「―――くそ、また名前聞き逃した」
……まったく。こんなんじゃあの子と話をするなんて夢のまた夢ってものだ。
return
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*s223
□教室
「って、文化祭当日じゃんかー!」
ビカカカァ! と校庭に落雷が炸裂するほどのショック!
【有彦】
「お、朝からやる気まんまんだな遠野!」
そこへ寄ってくる乾有彦。
朝っぱらからコイツがいるというコトは、今日は紛れもなく年に一度のお祭り騒ぎ、学校あげての一大無礼講・文化祭!
「いやー、驚いた。すっかり忘れてたよ、俺」
【有彦】
「まじ? いやまあ、実はオレも朝になって思い出したんだけどなー!」
あはは、と笑い合うおかしな二人。
じーっと、それを見詰める残り三十八人のクラスメイトたち。
「……やめよう有彦。おんまりバカなコト言ってると、みんなから村八分にされかねない」
【有彦】
「だな。オレたち、あんまり手伝いしなかったし」
「よせやい、おまえと一緒にするな。こういってはなんだけど、俺は色々と手伝いましたよ、ええ。喫茶店のメニューも作ったし、市場まで食材の買い出しもしたし、貸衣装用の古着もいろいろ貰ってきたし、映画用のスクリーンだって組み立てたんだからな!」
「ほうほう。それだけ聞くとうちのクラスって何やるんだかもうワケがわかりませんな」
「―――――――――む」
それは、まったくの同感だ。
「おーい、ちょっとー! 結局うちのクラスなにやるか決まったのかー!?」
クラスのみんなに声をかける。
「……………………………」
あ。またも、みんなの冷たい視線が集中する。
「あのなー、遠野。その最後の決定を先延ばしにしてんのは誰だと思ってんだよ、おまえは」
「そうだよー。遠野くんが投票してくれないからまだ何にするか決まらないんだからねー」
「そうだそうだ、乾とじゃれあってねーでさっさと投票しろ」
「あー、ちなみに今んところケーキ喫茶店十三票、貸衣装屋十三票、飛び出す不思議映画館十三票だからな。
おまえが何処にいれるかで俺たちの運命が決まるわけだぞ」
「え、ほんと……!?」
いやびっくり。知らないうちにタイヘンなコトになっていたらしい。
「…………むむむ、む」
うう、どうしたものか。
どれも楽しそうなんだけど、しいていうのなら俺は―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s224
□教室
……やっぱり喫茶店、かな。
定番だし、せっかくいろんなツテを回ってケーキの材料をかき集めてきたんだし。
男子はケーキ専門店なんて嫌だー、と声をあげて叫んでいたけど、それ以外の出し物は色々と不安が残るのだ。
「決めた。俺は喫茶店に投票するよ」
やったぁーーーーー! と歓声をあげる女子たち、
うしゃー!むしゃー! とブーイングをあげる男子たち。
「そうだよねー! さっすが遠野くん、女の子の味方―!」
「………………」
いや、そう言われると不純な動機で投票したようで後ろめたい。
「いや、俺は純粋に喫茶店に投票しただけだって」
一応抗議をいれておく。と、そこへ現れる乾有彦。
【有彦】
「そうだよなねー! さっすが遠野くん、男の子の怨敵ぃー!」
「…………。――――フッ!」
【有彦】
どげし。
「おお、すっげえ! いま下からこう、腹を打ち上げるようなショートアッパーが炸裂しなかった!?」
「見た見た! こう、すれ違うフリをして超接近でのボディブロー!」
「うんうん! 乾くん、5センチぐらい浮いてたよー!」
「ええ、間違いなく今のはプロの殺り方だったわ」
「そうですねえ。あ、保健委員は乾を保健室に連れていくように」
パチパチパチ、とクラス中から拍手がおこる。
「いやいや、単なるクリティカルヒットなので」
あんまりにも盛りあがっているものだから両手をあげて応えつつ謙遜をする。
ところでみんなと一緒になって拍手を送っているうちの担任教師は何者なんだろう。
「おーし、これでうちの出し物は決定したな。遠野も戦力になりそうだし、これなら今回の喫茶店は成功するぞー!」
号令一下、イエーイ!と勝ち鬨をあげる二年三組御一行さま。
女子はエプロン姿に、男子はウェイターらしき格好をしつつも脛当てをつけたり拳にバンテージを巻きはじめたり、とあからさまな武装を始める。
「あ。やっぱりやんの、アレ?」
「おうよ、うちは食い逃げ喫茶だからな。俺たちを突破できる自信のあるヤツはいつでも食い逃げ大歓迎サ! 無銭飲食も過剰防衛も生徒会公認だぜ!」
いや、無銭飲食はともかく過剰防衛は公認されてはいないと思う。
「……そっか。色々つっこみ所がありすぎて今更どうでもいいんだけどさ、コレのいいだしっぺって一体誰なんだろうな」
「さあ? 喫茶店名を募集した時、ローキックってアイデアが出て決まったんじゃなかったっけ?」
「だからさ。いったいどこのどいつがローキックなんて名前を喫茶店につけたんだろうなって。そいつ、ハイセンスすぎて軽く百年ぐらいズレてるだろ」
「んー? えーっと、とりあえずアレが最有力候補?」
つい、と床を指差すクラスメイト。
そこにはずるずると引きずられていくケガ人の姿があった。
return
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*s225
□教室
……貸衣装屋、だろうか。
一番準備に手間取った出し物だし、全学年中貸衣装屋を企んでいるのはうちだけだし。
……ただちょっと、このイベントには思わぬ盲点があったというか、始めの女子の思惑とはズレてしまったというか―――
「あ。まさか遠野くんも貸衣装屋をするっていうの!?」
「はんたいはんたーい! 貸衣装屋はんたーい!」
「そうだ、ヘンタイ男子をぶっつぶせー!」
「………………む」
まずい、とてもじゃないけど貸衣装屋にする、なんて言える状況じゃなくなってきた。
言える状況じゃなくなってきたんで、とりあえず投票用紙に書いて箱に入れた。
「はい、最後の投票は貸衣装屋に一票。したがって当クラスの出し物は貸衣装屋に決定しました」
素早く投票結果を読み上げる国藤担任。
「えぇえええええええ! 遠野さいてー!」
うわあ、女子の大部分からブーイングが嵐になって! ……って、これぐらいは覚悟の上だったけどさ。
【有彦】
「ふ。本性見たぜこの女の敵めー」
「……ちっ、死人が生き返ったか」
【有彦】
「ああ生き返りますとも。普段は女になんて興味ありませんよー、などとスカしている遠野がついに本性を現したんだからな。うむ、よきかなよきかな。この一件はこのオレに有利に働いてくれるだろう!」
ふははは、と楽しそうに笑う有彦。
一方、俺の前にはかわるがわる“同志よ!”とばかりに握手を求めてくるクラスの男子ご一行さまがいたりする。
「はい、それでは女子は指定された制服に着替えてください。混雑が予想されますので、スタッフの交代時間の確認はしっかりしておくこと。
それと男子、なんらかの不慮の事故で着替え中を覗いてしまった場合、この出し物は中止となります。いいですか、くれぐれもそのような事故で出店停止などおこさないように」
テキパキと指示を出す国藤担任。
担任に仕切られては女子も従わざるをえないのだろう。ぶー、という抗議の声をあげつつも支度を始めている。
「……うわあ、あんなにイキイキとした国藤見んの初めてだよオレ」
「だなー。貸衣装屋の案が出た時、男子はみんな反対だったけどなー。いつのまにか店員は女子のみ、制服はメイド服か袴って規則が出来て、逆に女子が反対しだしたんだっけ」
「集めてきた貸衣装もさー、野郎のはそれこそ千差万別だけど女子のだけアレだろ? 時代がかったドレスしかなくて、他にあるといったら……」
うん。ドレスはドレスでもチャイナドレスだけだ。
「付き合ってるヤツは絶対彼女つれてやってくるって豪語してたもんなー。国藤のヤツ、うちが貸衣装屋になったら指導教員としてクラスに残るらしいぜ」
「わかりやすい人だね、うちの担任も」
「いやいや、オレは国藤の名前がたきふじに似ている時点でそういうヤロウだってわかってたけどなー」
「……………………」
そ、そうだったのか。企画当初、女子が期待していた可愛い服集めて撮影かーい!という思惑からズレてきた、という話は聞いてたけど、まさかそこまでズレでいたとは。
「あー、もうむかつくー! 遠野のヤツ、あとで縛り首にしてやるからねっ……!」
……うわ。ゾッとする捨て台詞を残して、時代錯誤な制服着用を余儀なくされた女子たちはぞろぞろと着替え用の更衣室へと消えていった。
return
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*s226
□教室
……映画館が一番無難かもしれない。
喫茶店は男子が、貸衣装屋は女子が反対意見を出しているというし、ここは間をとって映画館にするべきだろう。
「決めた。映画館にします」
手をあげて意思を述べる。
「あー、やっぱりそうきたかー」
「そうだね、映画館なら文句はないかなー」
男女両グループからそんな声が聞こえてきた。
「ま、スタッフ人数は最低限だしな、学祭を楽しむには映画館が一番いっか」
「あ、それじゃあさ、喫茶店用に作ったケーキとかジュースとか配布しない? ムービーとプラネタリウム交互にやるんならその方がウケるよー」
「おおー、太っ腹だなうちのクラス!」
なんだかんだと盛りあがるクラスメイト。
ちなみに、今回放映する映画は有志さんが提供してくれたムービーである。
「はい、出し物が決まったのなら実行委員は急いで本部に提出に行くこと。開幕まであと一時間、急いで準備をしないと間に合わないぞ」
様子を見守っていた国藤担任がパンパンと手を鳴らす。
それでスイッチが入ったのか、のんびりと構えていた俺たちは迅速にクラスの模様替えを行うことになった。
return
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*s227
せーの、じゃーんけーん―――
ぽんっ。
□教室
一斉に突き出されるパーの群れ。
その中で自分だけがチョキを差し出している。
「お?」
自分で出しておきながら、勝利の証となった二本指をまじまじと見詰めた。
「げえ、なんだよ遠野の一人勝ちかよー!」
「あっけねえ。なに、わずか五秒で決着がついたわけ、うちの班?」
「なによ、じゃんけんなんかで抜け番を決めようって時点で間違ってるんじゃない。あたしは始めっから男子は強制、女子は自由に労働時間を決めるべきだって言ったんだからっ!」
「うわ、紅一点のくせにさりげにすげえコト言ってるよこの人!」
「まったくまったく。どうしてうちのクラスの女子はみんな乱暴者なんでしょうねぇ」
「なによケチ、男だったらオレが一日中店番してやるぜ、ニカッ!……ぐらいのカッコボイス吐いたらどう!?」
「…………」
おお、揉めてる揉めてる。
今日は文化祭の一般公開日だから、基本的に生徒は自分のクラスの出し物で手一杯になる。
なるのだが、せまいクラスに四十人もの生徒がいたらお客さんは入って来れないわけで、半分は裏方にまわり、そのまた半分は休み時間を与えられるワケである。
一クラスは実行委員を除いて一班六人の六グループで構成される。
で、一班につき自由に休み時間を決められる生徒は一人だけであり、その一人が今あっさりと決定したというワケだ。
「はいはい、もう決まっちまったもんはしょうがねえだろ。それで遠野、おまえどうするんだ?」
「そうだな、とりあえず午前中は外に出てるよ。忙しくなるのは午後からだろ? そうなったら手伝いにくるから、それまでよろしく」
「お、欲がないねえ。どっかのばか女に聞かせてやりたいぐらいだ」
「なによ、あたしだってそのつもりだったもん! こら、マネすんな遠野っ!」
がぁー!とこちらを威嚇してくる出席番号九番舞士間祥子。見たとおりの乱暴っぷりが認められてうちの班のリーダーにされた女の子だ。
「んじゃちょっと他のクラスの様子を見てくる。気が向いたらすぐ戻ってくるから」
「おう、行け行け。いつまでも残ってるとそこのばか女が先に飛び出しちまうからな」
同感、と頷いて廊下へ向かう。
「あー、待て遠野―っ! そんな、ちょっと他の様子を見てくるよ? なんて軽い気持ちならあたしと替われーっ! あたしは今日に懸けてんだってのー!」
背中にかけられる声に手をヒラヒラさせて答えて、残念でしたと教室を後にした。
□廊下
―――――さて。
そんなこんなで午前中の自由時間を勝ち取ったけど、結局どこに行くことにしようか……?
return
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*s228
□廊下
四階にやってきた。
廊下はお祭りの雰囲気に浮き足だった一年生たちや子供連れのお父さん、友人さんご一行できている他校の生徒やらの来客でごったがえしている。
「うわあ、一年生も頑張ってるなあ……」
各教室の前には凝に凝った看板やら人形やらが散乱していて、いかにも隣りのクラスには負けないっ!という気合がムンムンだ。
それがまた隣のクラスにも伝染しているわけだから、もう尾っぽを呑む蛇のような無限循環を作っている。
「―――んー、哀しいかな、やっぱり慣れてないんだろうな」
うむ、熱気はきっと全学年中一番なんだろうけど、いかんせんスキルが足りない。のびのびと自分たちのやりたいコトを追求する二年、卒業間近という事でどこか突き抜けた発想の三年と比べると出し物はどれも無難だ。
はじっこである1−G、一年七組から二組までは喫茶店やゲームコーナーといった定番が並び、最前列である一年一組はというと―――
「あ、お兄さん! どうです、寄っていきません!?」
なんて、どこかで見覚えがある男子生徒に呼びかけられた。
「………………」
一年一組の出し物はお化け屋敷。呼びこみの男子生徒はせむし男っぽい格好をしていた。片手にカンテラを持っているあたり、まあそれなりに本格的。
「……それはいいんだけと。あのさ、お兄さんって言い方、止めない?」
「え? お兄さんはお兄さんじゃないっスか。遠野さまのお兄さんっしょ?」
遠野さまって……秋葉のヤツ、クラスでどんな振る舞いをしてるんだろう? あ、いや、それともこの子が特殊なだけなのかもしれないな。
「で、どうッスか! うちのお化け屋敷、その手の筋に大人気なんすけど!?」
その手の筋、とはどの手の筋だろう。もしかしたら手首の動脈のコトかもしれない。
「いいよ、入ろう。学生一枚」
「いえーい! お兄さんごあんなーい!」
ガランガランと持っていたカンテラを鳴らす男子生徒。……なるほど、カンテラに見せかけた鐘だったらしい。
「あ、ところでさ、君」
「ういっす。なんすか、お兄さん」
「忠告しておくけど、その格好は場違いだ。せむし男ってね、お化けじゃないんだ」
「ええーーーーー!?
そんな話聞いてナイッスーーーーー!」
ガランガランと鳴り響くカンテラ。
……恐ろしいな。こんな調子だと中は常軌を逸しているどころの話じゃないだろう。
だってあの子を呼びこみに起用するあたり、一年一組の生徒はネジがとんでいるってコトだからだ。
□お化け屋敷
「―――――――ぶっ!」
入った途端、あまりのリアルさに腰が引けた。
「な、なに考えてんだこのクラス……?」
さあ、何を考えているんだろう?
床のタイルをわざわざ置き換えて、墓石やら落ち武者やらを配置している時点で大きく狙いが脱線している。
……シャレではじめた事が後に引けなくなり、あれよあれよと混沌の極みまで転がり落ちたいい例か。
□お化け屋敷
「出口まであと四部屋……」
妖怪ポストにさげられた表札を頼りに歩く。
このお化け屋敷、隣の開き教室とベランダを通じて連結している為、お化け屋敷というよりはちょっとした迷路に近い。
廊下の端、隣に開き教室と大教室があるという立地条件を生かした離れ技だ。
……こういった大掛かりな出し物には許可は下りない。そもそも一クラスにそれだけの予算が下りない。……下りないのだが、このクラスには無茶を権謀術中で通す転校生がいたのでなんとかなってしまったんだろうなあ……。
お化け屋敷の探索は続く。
暗がりのなか、トラップは絶妙のタイミングで繰り出される。
糸でぶら下げられたコンニャク、
本気で殺すつもりとしか思えない銀紙製のギロチン、
道の両脇、ミイラの首吊り死体(無論生徒が実演)がズラリと二十体ほど並んだ通路、
ドアを開けた途端ベランダに出ていてあやうく地上に落下しかける迷路、
なにかのジョークなのか一家団欒から凄惨な殺し合いに発展する食事風景のコント、
とどめ、道端に倒れている血まみれの死体にはホンキで虫がたかっていたりする。
「……う。これ、たしかに心臓には悪いんだけどさあ……」
恐いというより痛い、というのはコンセプトが間違っていると思う。
とくに左右に首吊り死体がブラブラしていた通路は秀逸と言わざるをえないだろう。
アレは、ヤバイ。
演技だとわかっていても生理的にダメなものはダメ、という事を製作者はよく解っている。
「……あ、やっと出口か」
ポストには次で出口、と案内が出ている。
ここに入ってからなんと三十分。ようやく解放されると気が緩んだまま扉を開けた。
□お化け屋敷
「――――なんだ、入り口に戻ってきたのか」
そういえばお化け屋敷ってそういう作りだったっけ。
あとはあの暗幕の奥に行けば廊下に出られるのだが――――
…………………………ズ。
横手の闇から、わずかに物音がした。
……なるほど、安心させて最後に大一番を用意しているというワケか。ますます本格的といわざるをえない。
「―――――――――」
ごくり、と喉が動く。
なにしろここまで徹底した出し物だ。トリを飾る仕掛けは“解っていても厭”、という物に違いない。
…………………………ズ、ズ。
物音はさらに踏みこんで止まった。そこから一気に飛び出してこっちを驚かせようというハラか。
「―――――――――」
……ここまできたら最後まで仕掛けに乗ってやる。
さあ、ここ一番の出し物を見せてみやがれ……!
□お化け屋敷
【秋葉】
「ふ、よくここまで辿りつけたわね兄さんっ……!」「――――」
あ。一気に冷めた。
「けどそれもここまでにゃ! さあ、摂り殺されたくなかったら畏れおののいてこれからはキチンとした生活を送ると誓うがいいにゃ!」
にゃー、しゅっしゅっ、と両手をネコのようにしてパンチを繰り出す秋葉。
……どのパーツを部分的に拡大しても恐さらしきものは皆無なのだが、どうにも猫又のつもりらしい。
しかもノリノリ。本人はいたくこの姿がお気に入りと見える。
「…………………」
「うふふ、あまりのショックに声もでないというところかしらにゃ!」
ますます嬉しそうにはしゃぐ秋葉。……ショック所は沢山あるのだが、とりあえずそのおかしな口調を教え込んだヤツには後でおしおきをしなくてはなるまい。
「―――ごめん、秋葉。一つだけ言っていいか?」
「うにゃ? いまさら命乞いなんて聞いてあげませんけど、とりあえず何ですかにゃ?」
「その、さ。もしかして、その格好気に入ってるのか?」
「――――――――――」
言われて目をパチクリさせる秋葉。
……そうして、ようやく俺が驚いているのではなく呆れているのだという事に気が付いたらしい。
【秋葉】
「し、失礼ですね……! 私だって好きでこんな格好をしているワケじゃありませんっ! こ、これはあくまでクラスの出し物の一環として協力しているだけなんだから……!」
「そう? そのわりには中々迫真の演技だったけどな、今の」
「そ、それは当然ですっ……! 私は最後の締めを任されたんですから、キチンと驚かせないと意味がないじゃないですかっ」
「―――うん。まあ、驚くと言えば、驚いた」
けど、それって遠野志貴限定だろう。
他の人間が今の秋葉を見て驚くかというとはなはな疑問だ。
「な、なんですかその言い方はっ!あのですね、ちゃんと今までの人は恐怖に打ち震えて逃げ出すように外に出ていったんですっ! 兄さんだって、私と面識がなかったら悲鳴を上げて逃げだしていたに決まってますっ!」
「へえ。参考までに訊くけど、今までの人ってどんな反応してたんだよ」
「ええ、皆さん絶句した後で居辛そうに目を伏せて出て行かれたました。ああ、けれど何故かどの人も咳払いを一度していましたね。……不自然ね、アレは一体どうゆう意味だったのかしら」
ぶつぶつと考え込む秋葉。
……そうか。誰もが無言で立ち去ったからまだ突っ込みヤツがいなかったというコトか。
「と、とにかく私におかしい所なんてありませんっ! この完璧な猫又姿に茶々をいれるのは兄さんだけです!」
「だな。俺じゃなかったら確かに恐い。―――はい、そういうワケでもう一回さっきのポーズ!」
【秋葉】
「しゃあー、食べちゃうにゃー!」
よっぽど練習したのか、即座に反応する猫又秋葉。
「―――――――――」
【秋葉】
「な、なんですか兄さん、その目は」
「―――――――――」
いや、この場に翡翠と琥珀さんを連れてこれなかったのが本当に残念だ。
「いや、いいもの見せてもらった。そういうわけで今日一日頑張れよ、秋葉」
「な―――! 待ちなさい兄さん、言いたい事があるのならハッキリとですね―――」
「はい、もう一度決めポーズ!」
【秋葉】
「男らしくハッキリ言うといいにゃー!」
しゃあー、と恐ろしいというより可愛らしい威圧をする謎の猫又。
その縄張りからあっさりと抜け出して、お化け屋敷を後にした。
return
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*s229
□廊下
さて、待ち合わせの時間まであと少しだ。
アキラちゃんが文化祭に遊びに来るこの日、なんとか時間が空けられて助かった。
お昼までのわずかな時間だけど、校内を案内するぐらいはできるだろう。
□校門前
校門は外来のお客さんで溢れかえっていた。
パンフレットを配っている実行委員たちの声も勇ましく、まさにお祭りの始まりといった感じだ。
絶え間なくやってくるお客さんはそのほとんどが私服姿で、まるでデパートのエントランスのように思える。
そんな中、見慣れないセーラー服の女の子がぽつんと一人で立っていた。
「おはようアキラちゃん。もしかして待たせちゃった?」
【アキラ】
「あ、おはようございます志貴さん! いいえ、わたしも来たばかりです!」
弾けるような笑みをうかべるアキラちゃん。文化祭の雰囲気にあてられたのか、元気さもいつもの二倍といった感じだ。
「良かった。あ、でもここまで苦労しなかった? うちの学校はバスが出てないから、地元の人じゃないアキラちゃんには判りづらかったんじゃないか?」
【アキラ】
「そうですけど、場所は解ってましたから迷いませんでしたよー。ほら、だってわたし」
ちらりと上目遣いで見つめてくる。
「……ああ、そういえばそうだったね。うちの学校は二度目だから道に迷うなんて事もなかったわけだ」
【アキラ】
「はい! あの時は驚いてばかりでしたけど、今日はゆっくり志貴さんの学校を見れるんだなって楽しみにしてきました!」
にぱっ、としたまっすぐな笑顔。
そんな顔をされると、こっちもますますホスト役に熱が入るってものだ。
「よし、それじゃさっそく行こうか。と、その前にアキラちゃんは朝ごはん食べた?」
【アキラ】
「えっと、食べたんですけど、こういい匂いがしてると浮気しちゃいそうです」
「だね。んじゃ、ちょっと中に入る前に食べていこうか。校庭で出してる出店はたいていが三年生だから味も保証付きだし、せっかく無料券があるんだから使わないともったいない」
ヒラヒラと飲食店共通の無料券を取り出す。
「たいていの屋台に使えるから、今日は全部おごりだよ。とりあえず一番人気のクレープ屋さんに行ってみようか」
【アキラ】
「あ、はい! ごちそうになりますね、志貴さん!」
わーい、とばかりに喜ぶアキラちゃん。
まだ午前中という事で店も込み合ってないし、比較的スムーズに食べ歩きができるだろう。
……まあ。唯一つ不安があるとすれば、アキラちゃんを相手に十枚程度の無料券で足りるかという事だけだった。
□廊下
【アキラ】
「ふはぁ、もう満腹ですー!」
満足そうに伸びをするアキラちゃん。露店を全て制覇してしあわせいっぱいむねいっぱい。
「うん、いい食べっぷりだった。先輩たちも気に入ってくれてサービスしてくれたしね。おかげで券を使わなかった」
……まあ、自分と中学生のアキラちゃんという組み合わせも良かったんだろう。
アキラちゃんはみんなに好かれるタイプなのか、男女とわずに先輩方に気に入られてたし。
「また帰り際においでってさ。ほら、アキラちゃんが絶賛してた噴水前のやきそば屋さん」
【アキラ】
【アキラ】
「え、ホントですか!? ……あ、けどあそこのお兄さんちょっと苦手でした。だって、しきりにわたしのこと志貴さんの妹かって訊いてたじゃないですか」
「うん? ああ、それは仕方ないと思うよ。遠野志貴に妹がいるっていう話は有名だから、先輩方もそう勘違いしたんだろう」
「……? えっと、それは遠野先輩のことですか?けど遠野先輩は高校生なんですから間違えようがないと思うんですけど」
……ああ、そうか。そういえばアキラちゃんは遠野志貴がつい最近まで有間さんの家に住んでいた、という事を知らないんだっけ。
「いや、秋葉のコトじゃない。ちょっとね、遠野志貴にはもう一人形式上だけの妹がいるんだ。まあ、そのあたりは色々と込み入ってるんで機会があったら話をしよう」
「…………はい。それじゃあ、今は訊きません」
持ち前の元気さはどこにいったのか、沈みがちな声でアキラちゃんは頷いた。
□廊下
三年生の教室を経て、三階にある二年の一角を一通り案内した。
はぐれないようになのかアキラちゃんはぴったりと付いてきて、こっちが話しかけている時以外はピリピリと緊張しているように見えた。
「アキラちゃん、もしかして人込みは苦手?」
【アキラ】
「え、そんなコトはないんですけど……ごめんなさい、やっぱり苦手です。うちは女子高だから、こんなに男の人がいっぱいいるとちょっと恐くて」
「へえ。俺はずっと共学だからそういう風には感じないけど、やっぱりこういうのは新鮮?」
【アキラ】
「そうですね、新鮮と言われればそんな気もします。けどやっぱり不安かな。今は志貴さんがいてくれますから恐くはないんですけどね」
「そっか、保護者としてそれなりに役にたてていて良かった」
【アキラ】
「う……ん、そういうのとはちょっと違うんだけどなあ……」
アキラちゃんは煮え切らない素振りで言葉を切る。
……いつのまにか、教室は二年七組。
あとは階段を上って一年の区画に行くだけになった。
「お、正午前の予鈴だ」
きんこんかんこーん、とおなじみの音が流れる。
じきお昼ですよ、という報せは飲食店に多くのお客さんを呼びこむ事になるだろう。
「まいったな、もうお昼か」
午後になったら教室に戻って手伝いをしないといけない。
その前に、せめてアキラちゃんには一年の教室まで案内してあげたかったのだが。
「どうしようか。まだお腹が減ってないならお昼ごはんは止めて、一年の教室に案内するけど」
【アキラ】
「い、一年生の教室ですか………!?」
? アキラちゃんの声は悲鳴に近い。
「アキラちゃん? 一年の教室になにかあるの?」
「え―――いえ、特別な理由なんてないですよ? ただほら、一年の教室というと一年生がいるわけで、そんな中を志貴さんと二人で歩いていたら見つかってしまう可能性があっちゃって、そんなコトになったら遠野先輩がどんなお話をしてくるか判らないワケで……」
取り乱しているのか、アキラちゃんのセリフはおかしい。
「遠野先輩って秋葉のコト? なに、アキラちゃん秋葉に今日の事言ってないのか?」
【アキラ】
「あ……はい。遠野先輩には内緒で来てるんです、わたし。だからその、志貴さんにもわたしが来た事を黙っていてもらわないと困ります」
……? アキラちゃんは秋葉に見つかりたくないらしい。二人は仲の良い先輩後輩だという話だけど、このあたりの事情は依然として謎だった。
「それはいいけど、アキラちゃんは秋葉に招待されて文化祭に来たんだろ? なのにどうて秋葉に知られたくないんだ?」
【アキラ】
「いえ、遠野先輩は何も言っていませんよ」
「そうなのか? それじゃ一体誰が文化祭の事を教えたんだろう」
【アキラ】
「えへへ、実は自分で調べたんです。そろそろ文化祭の季節だから、志貴さんの学校はいつなのかなあって」
……なるほど。フタを開けてみればどうという事はない、当たり前の結論だ。
「それで秋葉は知らないわけか。……しかしそうなると困ったな。午後からは自分の持ち場に戻らないといけないから、この後は秋葉にアキラちゃんを任せようと思ってたのに」
【アキラ】
「わ、わわ、よりにもよって遠野先輩にですかぁ!?」
ありゃ。またも悲鳴のような反応が。
「アキラちゃん? どうしたんだ、秋葉とは仲がいいんだろ? あいつもアキラちゃんに会いたがってたし、一緒に文化祭を楽しめばいいじゃないか」
「そ、そんな恐いこと言わないでくださいっ! わ、わたしなんかが志貴さんの学校に来ているってバレちゃったら遠野先輩容赦してくれませんっ……!」
「よ、容赦しないってアキラちゃん」
「ホントなんですよぅ……! 遠野先輩はやるといったらやる人なんですっ。一度敵とみなしたら情けなんかかけてくれなくて、遠野先輩の中からその人がどうでもいい存在になるまで叩いて叩いて叩き潰す性格なんだって誰だって知ってます!」
「……ああ。まあ、それなら俺も知ってる」
うん、それもイヤっていうほど。
「けどそれとこれとは関係ないだろ。アキラちゃんは遊びにきただけなんだし、なんだってそんなコトで秋葉が怒るんだ? むしろアキラちゃんが来てれば喜ぶと思うんだけど」
そういうわけで、やっぱりアキラちゃんは秋葉に任せたほうがいいと思う。
この人込みのなか、アキラちゃんを一人にさせるワケにはいかないし。
「どのみち秋葉に任せるなら今のうちに行ったほうがいいかな。昼食は三人でとればいいし」
「ひいい、止めてくださいぃぃい! お願いですから遠野先輩のトコに行くのだけは止めてくださいっ!」
よっぽど秋葉が恐いのか、アキラちゃんはふるふると震えている。
【秋葉】
……うわ。アキラちゃんがあんまりにも恐がるから、こっちまで秋葉の生霊が見えてきた。
「……アキラちゃん。そんなに秋葉の所に行くのはイヤなのか?」
【アキラ】
「あ……いえ、遠野先輩がイヤなワケじゃないんです。ホントなら挨拶をするべきだし、先輩自身に先輩の新しい学校を案内してほしいです。けど、それに志貴さんが関わってしまうと話が違ってしまうというか……」
「……よく分からないけど、アキラちゃんは秋葉が嫌いというわけじゃない。いや、むしろ先輩として慕っている。だけどとにかく、今日だけは秋葉に会うわけにはいかないんだね?」
【アキラ】
「は、はいっ! そうなんです、今日だけは遠野先輩に会えませんっ。ですから、もし志貴さんがわたしを遠野先輩のところに連れていっちゃったら、いくら志貴さんでも恨みますから!」
「………………そうか。そこまで言うんなら、仕方がない」
うん。本当に、仕方がない。
「ごめんアキラちゃん。その、言いにくいんだけど」
【秋葉】
「あら。誰かと思えば意外な顔合わせねえ、瀬尾」
「さっきから、秋葉のヤツがそこにいるんだ」
【アキラ】
「―――――え?」
ぴたり、と。アキラちゃんの震えは、凍りついたように収まった。
【アキラ】
「と、とと、遠野、先輩?」
恐る恐る振り返るアキラちゃん。
【秋葉】
「ごきげんよう。まさか今日という日にあなたに会えるなんて夢にも思わなかった。ええ、ホントウに嬉しいわ」
セリフに相応しく、秋葉はさらりとした笑みを浮かべる。
……それはいいんだけど、なにかふつふつと湧いてくるこの冷や汗はなんだろう……?
「―――秋葉」
「なに兄さん? 今はまず瀬尾と話をしなくちゃいけない所ですから、兄さんとの話は後にしたいのですけど」
【秋葉】
【秋葉】
「―――――!」
ぞくん、と背筋に悪寒が走る。
……間違いない。秋葉のやつ、表情と感情が正反対だ。慣れている俺でさえ悪寒が走ってるんだから、アキラちゃんなんて蛇に睨まれた蛙みたいなものだろう。
……石になってなければいいんだけど。
「あの、さ。どうして二年の廊下にいるのかな、と。おまえ、自分の教室の出し物に参加してるんじゃなかったのか」
【秋葉】
「ああ、その事ですか? それはですね、いつまでたっても来てくれるべき筈の人が来てくださらなかったから、こうして二年生の廊下まで様子を見に来た、というわけです」
「――――そ、それは、その――――」
しまった。まず秋葉の教室に行って、その後にアキラちゃんと待ち合わせをするべきだったか―――!
【秋葉】
「そういうわけですから瀬尾を借りていきますね。兄さんはお一人で食事でも自分のクラスの手伝いでも、どうぞご自由に」
がしり、とアキラちゃんの首根っこを掴まえて歩き出す秋葉。
【アキラ】
「あ、あわわわ……! ご、ごめんなさい遠野先輩、ほんの出来心なんですぅ……!」
「あら。あなたの出来心というのは随分と用意周到なのねぇ、瀬尾」
ずるずるとアキラちゃんを引きずっていく秋葉。
「な、内緒にしていたわけじゃないんです、ただちょっと、いろんな偶然が重なってたまたま遠野先輩のお耳に入らなかっただけで……!」
「ですから、そういった事も含めて話を聞いてさしあげます。正直あなたがここまでの策士ぶりを発揮できるなんて思わなかったから、なかなか面白そうな話になりそうでしょう? なら立ち話ではなく、誰にも邪魔が入らない場所で話し合いをするべきじゃない?」
ずるずるずる。
秋葉は笑顔のままアキラちゃんを連行していく。
【アキラ】
「ひーん、遠野先輩のおにー! あくまー! ひとでなしー!」
あまりの恐怖に錯乱したのか、アキラちゃんはバタバタと暴れている。
「そう? 重ねて意外ね、私の側に二年もいたあなたがいまさらそんな事に気が付くなんて」
ずるずるずるずる。
本心からの秋葉の呟きが応えたのか、アキラちゃんはぐったりとして抵抗しなくなった。
「………………あ」
二人はそのままいずこかに消えてしまった。
……秋葉の事だから、自由に使用できる空き教室の一つや二つは押さえているんだろう。
流石、次期生徒会会長と目される我が妹。
「―――――――南無」
両手を合わせてアキラちゃんの無事を祈り、教室に戻る事にした。
return
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*s230
□廊下
「……うわ、すごいなこりゃ」
階段を下りた途端、喧騒と熱気がカタチになって肌にぶつかってきた。
廊下は埋め尽くさんばかりの人、人、人で、各教室の出し物も凝りに凝っていて大盛況だ。
外来のお客さんもいまの所この階が一番多いのか、制服姿の生徒たちより私服姿の人影のほうが圧倒的に多い。
「―――って、先輩のクラスは――――」
何度か足を運んだ教室へ急ぐ。
先輩のクラスの出し物はカジノだった。
様々なゲームを用意し、お客さんの相手をする生徒はいかにもカジノっぽい制服を着て応対している。
もちろんお金を賭けているワケではなく、学祭のチケットと引き換えに幾ばくかのチップを提供、それを増やして賞品をゲットするというシステムである。
もともとギャンブラーが多いというこのクラス、ディーラーに選抜された生徒はみな百戦錬磨のイカ○マ遣いだ。
「……あれ、けど一番のイカサ○遣いがいないな」
ブラックジャックでは負け知らず、昼休みになるとチップがわりに食券を奪ってはカレーに還元してしまうというメガネの女生徒の姿がない。
「すみませーん、シエル先輩は何処ですか?」
ジュースを運んでいるうさぎさんに声をかける。
うざきさんは、
「ああ、彼女なら生徒会。午後から生徒会が劇をやるでしょう? その打ち合わせだよ」
ルージュをひいた色っぽい唇に指をあててそう言った。
「……そっか、生徒会に協力するって言ってたもんな、先輩」
そうときまれば午前中と午後の予定を変更しなければなるまい。
午前中にクラスの手伝いをして、午後は自由行動にすれば生徒会の劇を観ることができるだろう―――
「――――いいえ。残念ながらそうはいかないんです、遠野くん」
「へ、先輩……?」
□廊下
【シエル】
「はい。せっかく午後の劇を楽しみにしてくれた遠野くんには申し訳ないのですが、どう頑張っても色々あがいても四方八方手を尽くしても遠野くんが生徒会の劇を観るコトはできません。なぜなら―――――」
ぐっ、と溜めを利かせて言葉を呑み込むシエル先輩。
けれど、いくら待ってもその続きが囁かれるコトはなかった。
「……あの。先輩、続きが気になるんですけど」
【シエル】
「ふふふ。気になりますか、遠野くん」
先輩はどこか自虐的な含み笑いをうかべている。
「―――はあ。そこまで言われると気になります。で、どうして俺は生徒会の劇を観れないんですか?」
【シエル】
「没だからです」
きっぱりと、どこか嬉しそうに
いや、だから自虐的という意味で
シエル先輩はワケノワカラナイ事を言った。
「……は? あの、ボツってどういう……」
【シエル】
「それをわたしに言わせようっていうんですか遠野くんは!」
「ひゃ、ご、ごめんなさいっ……!」
【シエル】
「なーんて、冗談ですよじょーだん。わたし、自分の出番がまるごと没にされたぐらいで遠野くんに当たるようなコトはしませんよ」
ねっ、とはにかむシエル先輩。
……けど、あの。どうしてこう、さっきから音楽が恐ろしいまでにな不吉なんでしょーか?
「そ、そっか―――生徒会の劇は没になったんだ。……あの、ここまでみっともない内輪ネタってコトは、ドタキャン?」
【シエル】
「はい、ドタキャンもドタキャン、完成一週間前の土壇場キャンセルです。言うなればアルティミットKOでゲームオーバーになったぐらいのショックでしょうか」
……うわあ、そりゃあ根が深い。
さんざん生徒会の劇に出るんですよー、と言い散らしておいてこの仕打ちか。ますますシエル先輩のシンパに怒られそうな展開だなこりゃ。
【シエル】
「けどまあ、仕方ないんじゃないでしょうかね。わたしはどうせ五位ですし、二回目でも上位三位に入れない女ですから。翡翠さんとか秋葉さんにイベントが割り振られるのも当然だと思います」
「……先輩、そんなに悲観的にならなくても、他できっと活躍の場があるんじゃないかな」
【シエル】
「それはクロスカウンターをしたり俺ーショップで叫んだりとかですか?」
□廊下
「―――――――」
閉口。言われてみれば、琥珀さんと先輩って今回はなんていうか――――
「あ、あのさ先輩! その、没になっちまったのは残念だけど話だけでも聞かせてくれないかな。生徒会の劇ってどんなものをやる予定だったの?」
【シエル】
「それがですね、お姫さま物だったんですよ! わたしがロングの鬘をかぶってですね、戦乱の世に翻弄される小国のお姫さま役を演る予定だったんです!」
思い出し笑いなのか、きゃー、と嬉し恥ずかしシエル先輩。
「へえ、先輩のお姫様姿かあ。それはたしかに見たかったかも―――」
アルクェイドが白なら、先輩は青の姫君といった所だっただろう。
法衣や暗殺服ではない、ドレス姿の先輩の姿はさぞ―――
「いいじゃないか! 実に文化祭のトリに相応しいイベントだ。どうしてそれが没になったんだよ、一体」
【シエル】
「そうですねえ。一日が25時間なかったせいと言いましょうか、初めはイベント画で、けれどそれも苦しいのでせめて立ち絵を一枚、いやいやそれももう無理だから今回は諦めてもらうしかないな、どうせシエルだし!―――といった大人の事情でしょう」
「―――――――――」
……だめだ、悲惨すぎてどんなフォローも浮かばない。
「……そうか。それで先輩、その劇のタイトルはなんだったのかな」
【シエル】
「え……タ、タイトルですか?」
「うん、タイトル。せめて内容を想像したいと思って」
「…………SB・カレーの王女さま、です」
先輩は視線を逸らして、恥ずかしげにそう言った。
「――――――――」
「――――――――」
ああ。なんか、没になった理由がわかった気がする。
「……あのさ。先輩、それって」
【シエル】
「あ、降り出してきましたね。それではわたしは失礼します」
「ちょっ……先輩、雨なんか降ってないんだけど!」
「……ふふふ、いいでしょう遠野くん。全キャラ中道具を持ってる立ち絵はわたしと琥珀さんだけなんですよ」
「っていうか室内! ここ室内だってば先輩!」
先輩は傘をさしたまま、高速で去っていった。
「行っちゃった。……けど先輩、実は……」
今回は、いろんなヤツがいろんなモノを持っていたりするんだ。
「……しかし、SBカレーの王女さま、か」
そのタイトルから封印された劇の内容を想像する。
とりあえず、今の自分に断言できる事は唯一つだけ。
SBとは、つまりスパイシービーフの略だと思うのだがどうか。
return
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*s231
□教室
――――そうして、午前中が終わりを告げた。
文化祭ものこり半分。
この昼食の間隙をすぎれば、泣いても笑っても後半戦に突入してしまう。
さて、悔いが残らないように楽しむ為に、俺は何をするべきだろうか。
return
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*s234
□教室
……そんなワケで食い逃げ喫茶ローキックのウェイターをする事になった。
二十種類ものケーキを用意した喫茶店だけにお客さんの出入りは激しく、出し物としては間違いなく成功している。
「うーん、盛況だなあ」
カウンターの裏側、食い逃げ客をひっ捕まえる役専用の休憩所でぼんやりと呟いた。
「だな。ケーキ喫茶のくせに野郎客の多いこと多いこと」
同じくウェイター役のクラスメイトが答える。
休憩所にいるのは自分と他二名の計三人。
これでいつ現れるか知れない、プロレスラーのような食い逃げ客に対応しなくてはいけないんだから生きた心地はあんまりしない。
もぐもぐ。
「でさ、今年のトップはなんだと思う? オレゃあ三年のボクシングジムだと思うんだけど」
「ああ、聞いた聞いた! なんでも教室まるごとジムにしたててやりたい放題できるんだってね。いいなあ、僕も叩きたいなあ、先輩」
「―――そこ。さりげなく恐いコトを言わないように」
「うわあ、遠野くんは先輩思いのいい子ですねー。部活やってないから三年に恨みないんでしょ」
「ばぁーか、遠野はオメエみたいな偽善者と違って人間が出来てるだけだっての」
もぐもぐ。
女子が落としてしまった、崩れたシュークリームを食べる。
「……まあ、そういうコトなら今年は各学年ごとにキラータイトルがあるんじゃないか。一年はお化け屋敷が凄いっていうし、二年は七組がすっごい無茶してるって話だぜ。もちろんうちらだって優勝候補に入ってるって、さっき小耳に挟んだけど」
「あははははは! 食い逃げ喫茶が一位になったら校長先生のコメントが楽しそうだね! 2−C、ナイスローキック、とか!」
もぐもぐもぐ。
イチゴが欠けたショートケーキはいまいち味がしまらない。
「小耳に挟んだって、そうか。遠野、さっきまで外に出てたんだっけ?」
「ああ。一応、一通りザッと回ってきたけど、それがどしたん?」
「……ああ。それでか、と思ってさ。いや、さっきから気になって仕方がなかったんだ。な、オメエもそうだろ?」
「うんうん、吉良に同じ。けど遠野くんが何も言ってくれないから、もしかしたら目の錯覚かなあって思ってたよ」
「……ちょっと待った。二人とも、何言ってるんだ?」
「………………」
「………………」
二人は視線を合わせたあと、妙に息のあった動作で
「―――でさ。その子、なんなの?」
と、俺の背後を指差した。
【レン】
「―――――――――ぶっ!」
思わず食べていたショートケーキを吐き出しそうになった。
「……………………………」
黒いコートの女の子は、俺の後ろにちょこんと座っている。
……気が付かなかったけど、二人の言い分からするとずっとここにいたようだ。
「き、君、どうしてここに――――」
「……………………………」
女の子は何も言わず、ただじっと見つめてくる。
「なに、遠野の妹さんじゃねえの? ちょうど年の離れた妹さんがいるって話じゃんか」
「だよね。てっきり遠野くん、妹さんを連れてきたのかなって思ってたけど」
「ば、ばか、そんなコトあるわけ――――」
ないだろ、なんて言うのは巧くない。
……なんでこんな状況になっているかは分からないけど、二人がこの子を都古ちゃん……有間の家にお世話になってた頃の娘さん……だと勘違いしてくれるなら、それはそれで好都合だ。
「ああ、いや、実はそうなんだけど、うん。で、どうしたんだよ今日は」
二人の視線を気にしながら女の子に声をかける。
【レン】
「……………………………」
……はあ、やっぱり無言か。
それはそれで都合がいいんだけど、いつまでもこうしている訳にもいかない。
今は二人だけだけど、そのうち女子が集まりだしたりしたら収拾がつかなくなる。
「なんだよ遠野、ずいぶんと大人しい子なんだな」
「そ、そうなんだ。昔っから大人しい子でさ、俺もどうしていいか分からない」
というか、何をしに、何の為にここに現れたのかが分からない。
「……まいったな。二人とも、悪いけどちょっと席を外していいかな」
「おう、かまわねえぜ。肉親は大事にしてやれ」
「ええー、それじゃあ僕ってば吉良と二人っきりぃ? やだなあ、犯されちゃうかもー」
ぱかん、という打撃音。
……この二人はこの二人でいいコンビなので、俺がいなくなっても上手くフォローしてくれるだろう。
「それじゃ、ちょっと外に出よう。用件はそこで聞くから」
女の子に話かける。
「……………………………」
が、彼女は椅子から立ちあがろうとしない。
「なんだよ、妹さん動きたくないって言ってるぜ」
「うんうん。ここに居たいって言ってるよ」
と。きゅるる、なんてかわいいお腹の音が聞こえた。
【レン】
「……………………………」
女の子は泣きそうな顔で見つめてくる。
泣きそうなほどお腹が減っているのか、それとも泣きそうなほど恥ずかしかったのか。
……まあ、そんなのどっちだってそう大差はないことなんだろうけど。
そういうワケなので、どばっとケーキなんかをご馳走させていただきました。
「―――――――――」
あ、いかんいかん、つい呆然と目の前の光景に陶酔してしまった。
「おいしい? まだいっぱいあるからゆっくり食べていいよ」
「………………」
女の子はうんうん、とこっちの言葉に答えているのか、夢中になってケーキを食べているのかこれまた分かりづらい。
ただ今まで何度もこの子とは会ってきたけど、今日ほど嬉しそうな日はなかっただろう。
「あ、ほら口にクリームがついてる。そうそう、女の子なんだからお行儀よくしなくちゃね。それと紅茶を飲むと二倍においしくなるから、お薦め」
はい、とティーカップを差し出す。
もちろん紅茶はよく冷やして、猫舌であろう女の子に合わせている。
「―――――――――」
女の子はこちらが目に入っていない勢いだ。
……始めこそ差し出されたケーキに触れもしなかった彼女だけど、試しに一口食べた途端にこうなってしまった。
まるで初めてケーキを食べるような驚きと喜びよう。
もぐもぐとフォークを片手に口を動かす仕草は年相応の女の子で、なんだか妙に安心してしまう。
「うん? チーズケーキが好き? そっか、それじゃおかわりはチーズケーキ関係にする?」
「―――――――――――」
こくこく、と夢中で頷く女の子。
……う。前もって言っておくけど、自分に父性なんてまだ早いと思う。思うんだけど、この子の食べっぷりを見ているとなんとも言えない気持ちになってきてしまう。
……その、ずっとこうしていたいとか、
もっと喜ばせてあげたいとか、
すっごくかわいいなあ、と微笑ましく思えてしまったりとか、そういう気分。
「――――いや、そんなの普通だって!」
こんなに可愛い子が一生懸命ケーキを食べてるんだから、自分の反応は普通のはずだ。
うん、極めて普通の、健全な青年の反応だと断言したいっ……!
「―――――――――?」
女の子は不思議そうに首をかしげる。
……うわ、今見つめられると自分がどうかしそうでやばいっ。
「あ、ごめん、なんでもないっ! おかわりだろ、ちょっと待ってて、すぐにもってくるから……!」
慌てて席を立って厨房へと駆けこむ。
で、女子たちに散々文句を言われつつも出来のいいケーキを大量に奪って、おかわりのケーキを待つあの子へと届けるのだった。
□廊下
そうして、食事を終えた女の子を見送ることになった。
女の子はまるで何十年ぶりに食べ物を口にしたような勢いでケーキを食べて、とにかく大満足のようである。
「―――それじゃここでお別れだ。ケーキが気に入ったのならまたおいで、いくらでもご馳走してあげるから」
【レン】
【レン】
【レン】
女の子は無言で頷く。
……本当は、ここでまた別れてしまうのは残念だ。けどこの子はそういう子で、いつまでも一緒にいるコトができないのだ。
そんなコトいつのまに知ったのかは思い出せないけど、とにかくこの子は気紛れで囚われない存在で、俺の我が侭で引き留めるなんてコトはしちゃいけないと思う。
「さよなら。また、夜にでも会えるといいね」
【レン】
「……………………………」
こっちの言葉に応えるように微笑んで、黒いコートは人込みに紛れていった。
「――――――――――」
消えていく黒い姿。
もう見慣れてしまったそんな光景を眺めつつ、
「―――しっかし、ホントに可愛かったなあ……」
なんて、アルクェイドに聞かれでもしたら冗談じゃすまないコトを呟いてしまっていた。
return
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*s235
□教室
……そんなワケで食い逃げ喫茶・ローキックのウェイターをする事になった。
二十種類ものケーキを用意した喫茶店だけにお客さんの出入りは激しく、出し物としては間違いなく成功している。
ただ謳い文句である、
腕に覚えのある方・食い逃げ了承 階段まで突破できれば不問に処す
というのが大問題で、午前中だけでも八人の挑戦者が現れたとのことだ。
たいていが校内の生徒……面白がってやってきた三年生なのだが、これがもう食うわ食うわ逃げるわ逃げるわ。
たった一人で階段まで猪突猛進する柔道部の元部長とか、三人同時に逃げ出すというチームワークを見せた謎の一年生とか、敵ながらなかなかに手ごわかったらしい。
基本的にこちらはタックルしか使用しないのだが、本気で逃走する食い逃げ犯にタックルするのだから危ないことこの上ない。一人挑戦者が出るたびにこちらも一人保健室行き、というまことに不毛な引き算が行われていた。
で、そのドタバタが尾ひれを呼んだのか、お客さんも長居して次の食い逃げ犯の出現を待つ始末だ。
実行委員からも怪我人だすべからず!と厳重注意が下されたのだが、出し物の内容はすでに許可が下りているのでまだ中止勧告は受けていない。
……まあ、実行委員会も本気でこんなコトやるとは思っていなかっただろうし、本気で食い逃げをする猛者が現れるとも思っていなかったのだろう。
「いやー、これで来年から間違いなく食い逃げ喫茶禁止の条項が出るだろうねー」
のんびりと呟く。
今ではたった三人に減ったウェイター。いかにも挑戦にきた、という人物がまだテーブルについていないおかげで、自分たちは奥でのんびり腰を下ろしている。
「だねえ。今年はなにかと物騒かもなー。なんでも一年でも厳重注意が出たらしいぞう」
「あー、知ってる。1−Aだろ? なんでもあやうく四階のベランダから人が落ちそうになったとか、赤ん坊がひきつけ起こしたとかなんとか」
「……1−Aって、一年一組か」
「お、暗いね遠野。そっか、妹さんのクラスだっけ」
「でもまあウチよりはマシじゃねえのかなー。なんでもさあ、一人目の挑戦者って大学生でアメフトを趣味でたしなんでる怪物だったらしいぜー」
「うわあ! そんなヤツがケーキ喫茶になんか来るなっての!」
「考えが甘かったな。ケーキ専門にすれば男性客はやってこなくて、挑戦者がいるとすれば女性客になるだろ。ならなりゆきで女性客にタックルかませられると思ってたんだけどよう」
「だな。乾が発案した時はすげえ!コイツ本物だ!とか喜んだんだけどなあ……」
「なにいってんだ、アレの元ネタって遠野だろ。ネタの出し合いの時、乾にアイデア提供してうまく操ってたじゃないかー」
「えー、そんな記憶ありませーん」
「………………」
「………………」
二人は黙り込む。
仕方ないので、こっちも黙る。
……。
…………。
…………………。
……………………………。
………………………………………。
「――――ところでさあ」
「ん、なんだよ」
「なんだってうち、食べ物ケーキだけにしたん? 女ウケ狙うにしたって、さすがにケーキだけじゃ昼時は他に客とられちゃうだろ。せめてランチタイムサービスとかいって、昼と三時だけはメシもの用意して良かったんじゃない?」
「あ、それ同感! ラーメンとかカツ丼とか、そういった定番メニューは欲しかったよなあ。あ、でもことごとく遠野が反対してたんだっけ。なんでだよ?」
「…………なんでだよって、そりゃあ」
……まったく。みんな知っているクセに無意識に忘れているから始末に負えない。
「いいか、下手にメニューにカレーとかいれてみろ。あの人がやってきてメニューを食い尽し、デザートとばかりにこれまたケーキ類も全滅させて食い逃げするに決まってるだろ。
そうなったらさ、俺たち全員病院送りじゃないか」
「「―――――――あ」」
二人とも気付いてくれたのか、それきりがっくりと肩を落として黙りこんでしまった。
「……平和だねえ」
「ああ、平和だな」
二人の呟きに答えつつ教室に視線をやる。
……うわ、いかにも闇プロレスでタッグを組んでそうな二人組がやってきた。
「男子ー、出番だよー」
カウンターの女子が小声で呼びかけてくる。
「……うわあ、俺たち生きて後夜祭に参加できっかなあ」
はあと重い深呼吸をして俺たちは立ちあがる。
さて、準備運動にスクワットぐらいやっておかないと本当にシャレにならない状態になりそうだ―――
return
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*s236
□廊下
……そんなワケで貸衣装屋まーぶるふぁんたずむの手伝いをする事になった。
とりあえず、自分は店番をやっていたりする。
この出し物、人手はいらなさそうに見えるのだが内実は逆らしい。
女子は店内の案内だけではなく、裏舞台で貸衣装の直しやら返ってきたものの修復やらで忙しく、男子はこれまた別室の撮影所でなかなかに大忙しいだとか。
「―――はい、外来のお客様ですね、それではチケットをお出しください」
出されたチケットの裏側、2−Cのブロックにハンコを押す。
こうして回った分だけのクラスにチェックされたチケットは帰り際に回収され、後夜祭でどのクラスが一番人気だったかを調べるというシステムだ。
「貸衣装は校内であるのならば着たままでいられてもかまいません。その場合は一時間以内にお戻りください。また、気に入った衣装があったのなら隣の教室で撮影を行っていますので、どうぞご利用ください」
ぺこり、とおじぎをしてお客さんを教室に送り出す。
この出し物、地味なだけあって午前中はいま一つだったのだが、噂が噂を呼んで正午あたりから賑わい出した。
企画段階で国藤おうぼーう!だの、男子へんたーい!だの言われていたが、始めてみれば外来のお客さん、おもに女性に大人気だったわけだ。
「……まあ、それはいいんだけどさあ」
いいんだけど、店番をしていると中の様子が見れなくてつまらないコトこの上ないっ。
中はそりゃあ百花繚乱な趣きだろうに、なんだって廊下でもぎりみたいなマネしなくちゃならないのか、自分はいつから秘密部隊の隊長みたいな扱いを受けなくてはならなくなったのか、あの人もあの人で苦労人なんだなあ、とか色々ツマラナイ煩悶を抱いてしまうワケである。
「――――志貴さんっ」
ああ、これなら撮影所の手伝いのほうが遥かにマシだ。レフ板をもったり光源を調整したりと力仕事ばっかりだけど、それでもここよりはマシだろう。
「志貴さん、あの、ここに名前を書けばいいんですか?」
それとも国藤担任に一服もって退場してもらうのはどうか。で、手の空いてる自分がその後釜に座ったりできればタイヘン美しいカタチに収まると思うのだが。
「うーん、苗字まで書かなくてはいけないんですね。こういう場合はどうしましょうか志貴さん。わたしの場合、遠野琥珀でいいんでしょうかね」
……って、ああもう、さっきからうるさいな。人がいかに残された文化祭を楽しむかどうか悩んでる時に名前だの琥珀だのって――
「ええ、琥珀さんっ――――!?」
【琥珀】
「遠野琥珀でいいですよね志貴さん。はい、これチケットです」
とん、とテーブルにチケットを置く琥珀さん。
……裏側のチェックシートはびっしりとハンコが押されていて、一年の区画はすべて埋まっていたりする。
「こ、琥珀さん来てたんだ―――なんだ、言ってくれたら暇を作って案内したのに!」
くそう、と椅子から立ちあがる。
「いや、今からだって遅くはないか。待ってて琥珀さん、すぐに話をつけて店番を代わってもらうから!」
いそいそと店番の衣装を脱ぐ。
と―――
「いけませんっ!」
なんて、怒った琥珀さんの声がした。
【琥珀】
「お仕事を途中で放棄するなんていけませんっ! 志貴さんは任されてその席に座っているんですから、簡単に席を離れるのは間違ってます!」
「う――――」
す、すごい説得力。
ほぼ同い年でありながらキチンと遠野家の家事をこなしている琥珀さんに言われると、おいそれと仕事を代わってもらおうとした自分が恥ずかしくなってくる。
「……は、はい。確かにそれはそうなんですが、それでも琥珀さんを案内したいなあ、という気持ちのほうが強くてですね……」
小さくなりながらも精一杯の抵抗をする。
「もし手が空いてるクラスメイトがいるんなら、後日にどんな埋め合わせもするというコトで仕事を代わってもらってもいいんです。……ほら、琥珀さんとこういうふうに遊べるコトなんて滅多にないだろ。だから、俺にとっては学校も大事だけどそれより琥珀さんの方が―――」
大事なんだ、と精一杯の本心を口にする。
【琥珀】
「……ありがとうございます。志貴さんにそう言っていただいただけで、十分来た甲斐がありました。
【琥珀】
ですが、やはりこれとそれは別問題ですっ! 志貴さんはまだ二年生なんですから、今年までは学校のお友達を第一にするべきです」
「――――む。今年まではって、それじゃあ三年になればいいってコト?」
【琥珀】
「はい。最上級生になれば、もう巣立ちの時が近いのですから学業に縛られる事はありません。けれど二年生までは下級生のお手本でもあるわけですし、精一杯文化祭に参加するべきだと思います」
「――――む、むむむ。重ね重ね説得力のある言葉、ありがとうございます」
う。琥珀さんがあんまりにも真摯だから、ついお礼を言ってしまった。
「……解りました。けど、そこまで言ったからには来年は一緒に回ってもらいますよ」
【琥珀】
「はい。その時は秋葉さまの教室に立ち寄って、二人で秋葉さまを応援いたしましょう!」
え、笑顔でとんでもない事を言う琥珀さん。
【琥珀】
「それでは志貴さんのクラスにお邪魔しますね。翡翠ちゃんみたいな服があったらいいんですけど」
着物の衣擦れの音も爽やかに、琥珀さんは教室へ入っていった。
「……………………」
うう。琥珀さんの言葉はもっともだけど、それでもやっぱりここでこうしているのはつまらないっ!
中では琥珀さんが貸衣装を見て回っているかと思うと、つい中の様子を眺めたくなる。
それも翡翠と同じような服がいい、なんて思わせぶりなコトも言っていたし――――
「――――って、それって翡翠そっくりになるって事じゃないのか?」
あ、それなら何回か見ているじゃないか。
メイド服を着た琥珀さんと聞いてウキウキしたけど、別段新鮮なものじゃないってコトか。
――――おおおおおおおおおおお!
……教室の中から歓声があがる。
耳を澄ますと、
“すげえ、まさかアレを着る女の子がいるなんて!”
とか、
“うっわあ、似合いすぎー! もしかして本職さんー!?”
とか、
“おい、カメラカメラ! じゃなくて、是非隣の撮影所で一枚お願いしますっ!”
とか、
“わりい、俺トイレ”
とか、
まあ聞こえてくること聞こえてくること。
□廊下
「……間違いなく琥珀さんだな。そりゃあ本職なんだから、メイド服着ても違和感なんてないだろうし」
かくいう自分だって屋敷に戻った頃は翡翠の格好にソワソワしていたんだ。
健全な男子生徒および女子生徒が完璧なメイドさん姿を見たらそりゃあパニックに陥るだろう。
「……ふーんだ、いつも見てるからうらやましくなんかありませんよーだ」
ぶつぶつとテーブルを突つきながら負け惜しむ。
「志貴さん!」
と、扉が開いて琥珀さん、が―――
【琥珀】
「ほら志貴さん、チャイナドレスですよチャイナドレス!」
「―――――――――」
いや、琥珀さんらしき人が、それはそれは嬉しそうにパタパタと騒いでいた。
「こ、ここ、琥珀さん、その格好はっ………!」
ちょ、ちょっと青少年には刺激が強すぎるというか、その、
「可愛いですよねー! わたし、一目で気に入っちゃいました!」
その、むしろ持ちかえりたい。
「か、可愛いというか、そういう次元じゃないです。琥珀さん、その格好で出てきたってコトは、まさか」
「はい、気に入ったのでお借りしちゃいました。こういうの憧れてたんです。ほら、いかにも香港まる秘ルートに精通した中国人の秘書さんっぽいじゃないですか!」
あいやー、とカンフーじみた動きをする琥珀さん。
……まあ、たしかに今の琥珀さんの横にチャイナ帽をかぶった久我峰あたりがいたら絵になりすぎているというか、なんというか。
「それじゃあ一時間したら返しに来ますから。そうだ、翡翠ちゃんに見せびらかしちゃおう!」
「―――な!? ちょ、ちょっと待った琥珀さん! 翡翠に見せるって、翡翠もここに来てるのか!?」
「うふふ、ダメあるねー。そんな情報はタダじゃ教えられないコトよ。翡翠ちゃんに会いたければわたしを倒すよろしー!」
「……………………」
いや、そこまでキャラを立たせる必要はないのですが、琥珀さんはもうノリノリだ。
「うわあ。よっぽど怪しい中○人に憧れてたんですね、琥珀さん」
「琥珀違う、わたし謎の情報屋ミスター陳ある!」
「じょ、女性なのにミスターとはこれいかに!?」
「あはは、志貴サンノリいいあるねー! それじゃあちょっとヒントあげるアル。平日に翡翠ちゃんとお弁当のお話をしてから学園祭でぶらぶら散歩するといいコトあるコトよ?」
おおー、とまわりから拍手があがる。
さすがミスター陳、ルール違反スレスレの情報を持ってるなんて凄すぎるぜー! とかなんとか。
「ふふふ、そんなのどうってコトないある。ちゃんとお金払うならもっとすごいヒントあげるけど、どするね?」
またも集まりだした観衆が歓声をあげる。
……やばい。なんか、琥珀さんの暗黒ぱわーで世界法則がズレはじめてきている気がする。
「いいです。そんななにもかもぶち壊してしまうようなヒントはいりませんから、どうか正気に戻ってください」
冷静につっこむと、琥珀さんは残念そうにちぇっと舌打ちした。
【琥珀】
「もう、志貴さんったら真面目なんですから。それではわたしも次のクラスに行きますね。そうだ、この格好でもう一度秋葉さまのクラスに行きましょう!」
琥珀さんはいつもの調子で去っていく。
その背後、それこそ列のように連なる男子生徒を引き連れて。
return
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*s237
……そんなワケで映画館プラネタリウムの手伝いをする事になった。
映画館の手伝いとは、イコールでとても暇という事だ。
フィルムの交換と席整理のアナウンスがおもな仕事。
映画後のプラネタリウムのナレーションは女子が行うので、自分はぼけーっとスクリーンを眺めているだけだった。
――――貴様、我らを裏切るというのか……!
お。本編が終わった後の予告編が始まった。
スクリーンにはいかにもお貴族さまといったおしゃれな男性が体中を撃ち抜かれて悶絶している。
――――世迷い事を。
元より、我らに信頼などあるまい。
ガウンガウン。
炸裂するショットガン。吹き飛ぶお貴族さまの顔。瞬間、バァーと飛び散っていく鳥、鳥、鳥。
……うーん、こういうのって普通コウモリとかが飛び散るんじゃなかったっけ?
―――それで。何のために復讐をする、吸血鬼。
場面一変。
場末の宿屋の一室で、根性がひん曲がったような青年が声をかける。
声をかけられた男は少しだけ間をおいて、さあ、と答えた。
―――知らない。それは、考えてはいけない事だ。
バタン、と扉が閉められる。
根性がねじ曲がったような青年はつまらなそうな目をした後、手にしたナイフを画面に向かって投げつける。
シュッ、ズドン。
画面に暗幕が下りて、2Day、なんてタイトルが入ったり。
―――複製機と同じだよ。一番初めの物以外は精度が落ちるんだ。それはヤツらとて例外ではない。
最も若い祖、南京錠のようなモノが口を利いている。
対峙している者はいない。
南京錠が話をしている時点でおかしいのだから、まあ、話を聞く相手なんかいるワケがないってコトか。
―――つまり他の真祖はみんな出来損ないなんだ。真の祖なら唯一でなければいけないだろ? なにしろさ、ヤツは自ら究極の一を名乗ったんだから。
―――これは、まんまと嵌められたようですね。
神父服の男性が呟く。
その前には同じくカソックの女性が一人。
―――私を含めて祖は六人。条件付けも素晴らしい。   これならば―――六王権が発動する。
ゴオー、とか黒い風が吹き荒れて画面はまた一変。
なにやらごにょごにょと細かい文字が浮かんだ後、バーン!と派手に映画のタイトルが浮かび上がる。
あのスチャラカ伝奇がデタラメ度を増して帰ってくる!
覚悟はいいか! 今度のプレイ時間は一ヒロインあたり二十時間、総プレイ時間は推定百時間!
さあ、君も小さなメダルを集めまくれ!
月姫2/The Dark Six
製作予定、まったくなし!
じゃじゃじゃじゃーん、と決めの音楽が流れて映像は止まった。
午後の第一公演が終わってお客さんが入れ替えられる。
「…………はあ」
放映はあと二回。退屈なのはいなめないけど、こうしてのんびりと後夜祭を待つのもそう悪くはなさそうだ。
……けど知らないからな、またこんなかってな真似やっちゃって……。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s242
□廊下
まだクラスに戻る気になれないし、もうちょっと見て回ってみようか。
さすがにすぐ戻れるように二年の区画が中心になるけど、まあ、今年の出し物は二年が一番凝ってるって話だし。
「……ん?」
なんか向こうが騒がしいな。
ただでさえ祭りで浮き足立った雰囲気が一層ざわついているような感じ。
騒がしさはこちらに向かってきている。まるで芸能人がカメラを率いて移動しているような、そんな喧騒だ。
「誰か有名人でも来てるとか」
ひょい、と人込みをかきわけて喧騒の元を覗く。
「―――――――――え?」
そこにいたのは、俺が毎日見ている顔だった。
【翡翠】
「ひ、翡翠……!?」
間違いない。
翡翠は人込みと喧騒でざわつく廊下をいつもの調子で歩いている。
「――――――――」
翡翠は無言で、教室を一つ一つ確かめるように進んでいる。
そんな翡翠に合わせてまわりのざわめきも進んでくる。
……理由は言うまでもない。いくら学祭といっても翡翠の服装は珍しすぎるし、くわえて翡翠ほどの美人が着ていれば話題にならないほうがおかしい。
「――――」
翡翠は周囲の喧騒をまったく意に介していないように見える。
何人かの男子が声をかけても無言で歩いてるし、足取りもいたって冷静。
見知らぬ学校の中において物怖じする所がない――――なんていうのは、翡翠を知らない人間の意見だろう。
「―――――――翡翠!」
たまらず声をかける。
こんなコトをしたら後で周りからどんなに言われるかなんて、そんな問題もうどうだっていい。
【翡翠】
「志貴さま……!」
無表情だった顔が一変する。
咄嗟にそんな顔をしてしまうほど、彼女は不安だったに違いない。
「こっちだ。悪いな、迎えに行けなくて」
さも当然のように翡翠の手を取って、とりあえず喧騒から離れる事にした。
んで、小走りで去る俺たちの背後。
「あー、いっちゃったー!」
「なにあれ、2−Cの呼びこみ要員だったわけ?」
「まっさかあ、三組にあんな可愛い子いるわけないじゃん!」
「っていうかさあ、アイツ誰よ」
「アイツって遠野だよ。金持ちなんだか貧乏なんだかわかんないヤツでさー、たまにオレたちと食堂でかけそば食ってるんだぜ」
「ほう。そりゃあいいヤツだな」
「あー、おまえら論点違うだろ! いいか、今の子志貴さま、だなんて言ってたんだぞ!? さま付けだぞさま付け! 遠野のヤロウ、あんな可愛い妹だけじゃあきたらずあんな子にさまづけさせてんだぞ、あのエロ学派がぁ!」
……ああ、やっぱりそうなったか。
ちなみに学派とはガッパと読む。うちの学校で頻繁に使われるスラングで、そう呼ばれた男子は翌日みんなから殴る蹴るの暴行を受けるという、まこと嬉しくない称号である。
□階段
これだけの人込みから翡翠を隠す事なんてできないわけで、とりあえず教室を離れて階段までやってきた。
依然として周囲からの視線を感じるけど、さっきよりは遥かに静かだ。
「それで翡翠、今日はまた一体どうして」
あたりの目……とくにクラスメイトや有彦に見つからないかと神経を研ぎ澄ましながら声をかける。
【翡翠】
「―――――――――」
翡翠は難しい顔をしたまま、ただじっとこちらを見つめてくる。
「?」
考えてみれば、屋敷から外に出たがらない翡翠がうちの学校にやってくるなんてタイヘンな事だ。
なにか屋敷の方で事件がおきて、それで俺と秋葉を呼びにきた――
「あれ? それ、お弁当?」
【翡翠】
――――という訳ではなさそうだ。
「………………」
えっと。つまり、もしかして――
「……はい。その、以前お約束した事なのですが」
【翡翠】
「不出来な物なのですが、お弁当をお作りいたしましたのでお届けにあがりました。今日は学園祭というものをしているから、届けるには丁度良いと姉さんに言われたのです」
言いにくそうに肩をすぼめる翡翠。
「……ですが出過ぎた行為でした。食事をする所がこれほどあるのですから、わたしなどが作った物よりこちらでお食事をなされた方がよろしいかと思います。
それでは失礼します。志貴さまの身の回りをお騒がせして申し訳ありませんでした」
ぺこり、と一礼をして踵を返す翡翠。
「待った。それ、俺のお弁当なんだろ? ならありがたく頂くよ」
がしっ、と翡翠の腕を掴む。
【翡翠】
「……ですが、味は保証できません。未熟なわたしが作ったものより、皆さんが用意なされている食事の方がおいしいのではないでしょうか」
「―――もう。いいんだ、味なんて多少問題があっても。そんな事より翡翠と一緒に食べられるほうが何倍も嬉しい。こんな機会めったにないんだし、二人でお昼ごはんにしよう」
「……それでは、志貴さまはわたしの料理でよろしいのですか?」
「ああ、今はなによりのご馳走だよ。ほら、せっかくお弁当を作ってきたんだろう? なら外で食べよう。人目につかないとっておきの場所があるから」
翡翠の手をとったまま強引に階段を下りる。
まだ躊躇っている翡翠を引っ張って、まわりから向けられる好奇の視線もうっちゃって、一目散に中庭へと足を向けた。
□中庭
「よし、ここなら問題ないな」
シートを広げて座れる場所を作る。……自分一人だけならシートなんて必要ないんだけど、翡翠の服は芝生の上で座る、なんていう物じゃない。
「それじゃ座ろうか。飲み物はある?」
【翡翠】
「……はい、紅茶ですがよろしいでしょうか?」
「おっけーおっけー! ほら、いつまでもシュンとしてないで元気ださないとダメだぞ。せっかくのお祭りなんだから、楽しまないと損だろ?」
どうぞ、と翡翠をシートの上にエスコートする。
「………………はい。志貴さまが、そう仰られるのでしたら」
翡翠はやっぱりためらいがちに、シートの上に腰を下ろした。
―――さて。
それじゃあお弁当を作ってきてくれたお礼をしなくちゃ。
こんな機会はめったにない。せっかくのピクニックっぽくなったんだから、なんとかして翡翠に笑ってもらうとしよう―――
「それでさ、全学年で一番人気があったクラスは後夜祭で表彰されるんだ。キャンプファイヤーを前にして、こう校長先生さまからメダルをかけてもらう。それで何がどうなるとかってワケじゃないんだけどね、なんか嬉しいというかなんていうか。
なんていうのかな、一ヶ月もお祭りの準備をして、それが二日だけで終わっちゃうだろ?その最後の締めとして、一番優れていたクラスの代表がメダルを貰う。貰ったクラスも、それを悔しげに眺めているクラスも同じぐらい嬉しいんだ。夜になって、ごうごうと燃えている火に照らされて、ああもう終ったんだなあってみんな一緒に肩を休める疲労感っていうか……」
うう、やっぱりあの感覚はうまく言えない。
「っと、ごめん。意味不明だよな、いまの話」
後夜祭とはなんですか?という翡翠の問いに、つい長話で答えてしまった。
去年の後夜祭を思い出しながら、ただ感想だけを語っていたのだから話が通じる筈がない。
「……うー、面目ない。つまらない話をしちまった」
ぽりぽりと頬をかく。
そんな俺を翡翠は優しげな目で見つめていた。
「そんな事はありません。志貴さまの伝えたい事はよく伝わりましたから」
ニコリ、と柔らかく笑う翡翠。
「―――――」
……うう。翡翠を笑わせようとしたくせに、いざこういう風に笑いかけられると顔が真っ赤になってしまう。
「そ、それじゃそろそろごはんにしようか! 天気がいいんでつい日向ぼっこに興じちゃったな」
「はい。どうぞ、お召しあがりください」
ぱかり、とお弁当のフタが開けられる。
「サンドウイッチだね。重箱だからてっきりごはん物だと思った」
「………………………」
「あ、違う違う! 別にごはんが良かったわけじゃないぞ! うん、好きだなサンドウィッチ! 食べやすいし、ピクニックっていったらやっぱりこれだろ!」
「……はい。わたしもそう思いまして、今日はサンドウィッチにしてみました」
少し恥ずかしそうにお弁当を見つめる翡翠。
―――ふう、危ない危ない。翡翠にとって最もコンプレックスになっているのが料理なんだから、言動には細心の注意を払わなければっ。
「へえ、なんかキレイだね。色鮮やかっていうか、美味しそうっていうか。とくに左側なんて職人さんが作ったみたいだ」
「…………………」
おべっかでもなんでもなくて、サンドウィッチは美味しそうだった。
ごはん物に例えるなら右側のがメインで左側はおかずっていうコトなんだろうか?……サンドウィッチでそういう区分けをするのはどうかと思うけど、とくにかく左側のサンドウィッチは多種多様で素晴らしい。
外見からしてあれだけ美味しそうなサンドウィッチなんて、お店でも食べられそうにない。
「すごいな翡翠、これだけできればもう料理オンチなんて言われないぞ。とくに左側の、その鶏肉とレタスが挟まってるヤツなんて―――」
「…………………志貴さま。申し上げにくいのですが、志貴さまから見て左側のランチは姉さんが作ったものです」
「―――――ヤツなんて、まあよく見ればコンビニで売ってるのとあんまりかわらないか。は、大したコトないな琥珀さんも!」
「………………………………」
うう、視線が痛い………。
「……えっと、それじゃ右側のが翡翠が作ったヤツ?」
「はい。志貴さまが以前好物だと仰られていたもので調理してみたのです。……その、お口にあうかどうかは分かりませんが」
ちらっ、と期待に満ちた眼差しを向けてくる翡翠さん。
「っ………………」
その期待には応えたいんだけど、その……なんでそのサンドウィッチ、ことごとく血のように赤いんだろう……?
「……志貴さま? あの、お食べになられないのですか……?」
「――――――ああ。それじゃあ、いただきます」
つい左側に伸びそうな指を全精神力を動員して右側にズラす。
ぴちゃ。
普通、乾いているはずのサンドウィッチのパンは、血のしたたる肉のように湿っていた。
「……………………………」
じーっ、と見つめてくる翡翠。
「―――――――――ぱくっ」
耐えきれずに食べた。ああ食べましたとも!
「―――――――――」
すっぱい。いや、そんな言葉で済ませられるすっぱさじゃない。
泣きたくなるような苦さ酸っぱさ歯ざわり食感。
こう、じわーと口内に広がって脳に直接あがってくるような酸っぱさは、もう間違いなく―――
「翡翠。これ、梅?」
「そうですが、いけませんでしたか? 以前志貴さまが梅の雑炊が好きだと教えてくださいましたので、今日は贅沢に使ってみたのですが」
「―――――――」
ぜ、贅沢ってあなた、俺を殺す気なんですか。
そもそも梅は風味が好きなんであって、実際はあんまり好きじゃないんだよう……。
「志貴さま、あの……お気に召したでしょうか?」
「え、あ? あ、味ですか? 味は、うん、独創的」
もにゅもにゅと梅サンド、否ウメジゴクをなんとか食べきる。
「―――はい、ありがとうございます!」
声を弾ませて喜ぶ翡翠。
普段クールな彼女がここまで喜ぶなんてよっぽど嬉しいんだろう。……これは、いよいよもって完食しなくてはならなくなってきた模様です。
「―――えっと、翡翠も食べていいよ。俺一人じゃ食べきれないからさ」
「よろしいのですか? それでは姉さんが作ってくれた方をいただきますね」
「―――いや、バランスよく食べよう。せっかく琥珀さんが作ってくれたんだから、二人できちんと分けないとね」
ていうか、ありがとう琥珀さん。これを見越して救急処置として作っておいてくれたんだね。
「……そうでした。姉さんが二人で食べなさいと言ってくれたのを失念してしまいました。……申し訳ありません志貴さま、なんだか嬉しくて気が回らなくなっているみたいです」
言って、ニコー、と華のような笑みを浮かべる翡翠。
……うう、なんて皮肉なんだ。翡翠がこんなに地を見せてくれる事なんて一年に一度あるかないかなのに、なんだってこんな責め苦を味わわなければいけないんだろう。
ああ、ごっとせーぶみー。
で、翡翠の白い指が赤いサンドウィッチをつまむ。
なんとなくエロスだなあ、と眺めていると、翡翠は本当に美味しそうに梅サンドを食べてしまった。
「―――ひ、翡翠!?」
「はい? なんでしょうか志貴さま」
「いや、なんでしょうかって、今――――!」
今、梅サンドを食べたんだよな?
「?」
不思議そうに首をかしげる翡翠。
「えっと―――――おいしい?」
「……はい。外見は不出来ですが、味は悪くないと思います」
頬を赤らめて言う翡翠。
「――――――そうか、忘れてた」
そうだった。
包丁が使えないとか知識がないとか、そんな事は本当に些細な問題だったのだ。
翡翠は料理ベタなんじゃない。
もう、こればっかりは治しようがないってぐらいものすごい味オンチなんだ。
生まれつき味覚が俺たちとはちょっと違うんだから、翡翠が美味しいと感じるものは、つまり―――
「志貴さま? どうぞ、遠慮なさらずにお食べになってください」
はい、とばかりに重箱を差し出してくる翡翠。
「は―――――――はは」
ああもう、逃げ場なんて何処にもないし! いいよ、やってやるよコンチクショー!
「――――むっ。むぐ、もぐ、もぐもぐもぐ」
「志貴さま、そんな一度に二つもお口にいれるのは無作法ではないでしょうか……?」
「―――うぐ。んぐぐ、んぐ」
翡翠の言葉に頷きつつ、一気に梅サンドと決着をつけるべくさらに三つ目を喉に流しこんだ。
―――うう。なんか、気が遠くなってきたぁ……
□中庭
―――そんなこんなでなんとか終わった。
食後、翡翠と二人きりで日向ぼっこをしていたのだが、どこからかメイドさんがいるぞ!と聞きつけてきた先輩たちによって冷やかされ、翡翠と別れる事になってしまった。
……まあ、こっちもそろそろクラスに戻って手伝いをしなくちゃいけないし、翡翠も琥珀さんと待ち合わせをしているそうだから頃合と言えば頃合だ。
「屋敷に帰ったら、また」
と軽い別れを告げて、教室へと走り出した。
return
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*s243
□廊下
まだクラスに戻る気になれないし、もうちょっと見て回ってみようか。
さすがにすぐ戻れるように二年の区画が中心になるけど、まあ今年の出し物は二年が一番凝ってるって話だし。
「―――そういえば五組がお化け屋敷やってるって話だっけ」
お化け屋敷は一学年に一クラスだけ、という規則がある。
お化け屋敷をやると予算が一番多く下り、かつある程度の無茶な企画も通るのでどのクラスにも人気の出し物だ。
うちの学校では公平を期してクラスの委員長が集まって何らかの対決をし、その末にお化け屋敷の権利を勝ち取る。
「うちのクラスは負けたんだけど、まあ……」
自分は去年お化け屋敷をやってとんでもない目にあったので、今年は遠慮したかった所だ。
だから、うちのクラスが落選したのは都合がいいといえば都合がよかった。
「お化けをやるのはもう一生いいかなって感じだしな」
うんうん、あとは他のクラスが魂を燃やして作ったお化け屋敷を楽しむぐらいが丁度いい―――
「このマヌケ、なに甘ったるいコトいってるんでちゅかぁああああ!」
「ぼぇ……!?」
い、いってえ………!
突如腹部に突き刺さる謎の衝撃……!?
「な、なにしやがるこのヤロウ!」
背後にいる有彦へ振り返る。
今の声は間違いなくアイツなん、だけ、ど……
【有彦】
「お、おまえ、その格好は―――」
「ふふふ、思い出したかこのオレを! そして忘れられないオマエの罪を! 去年あれだけ好き勝手やっておいて今更いい子ちゃんぶるなんて神が許してもこのオレが許さないでちゅ!」
びゅんびゅんと手にしたミラクルハンマーをしならせる着ぐるみ怪人。
「許さないって有彦。おまえなんでそんな格好してんだよ。そもそもその着ぐるみは去年の後夜祭で燃やされた筈だろ。俺の夜寒鶴と一緒に、こうキャンプファイヤーにくべられて」
「そうでちゅよ。アレは悲しい出来事だったでちゅ。勇者はああやって火にくべられて星になっていくんでちょねえ……」
うんうん、と感慨深く頷くオバケキノコ。
「だろ? ならなんでそれが傷一つなく生き残ってんだよ。っていうか、いますぐ脱げバカ」
「ふふふ、そうはいかないでちゅ。これは事情を聞いた秋葉ちゃんがオレのために作り直してくれた、いわば愛の真・オバケキノコ! これを着ているかぎり、オレは秋葉ちゃんの下僕なのだぁー!」
声高らかに咆える有彦。
……いいなあ、コイツはいつも嬉しそうで。
「そういうワケで遠野! 秋葉ちゃんは1−Aお化け屋敷の一員としておまえをご所望でちゅ! ひひひ、今度のおまえの着ぐるみはやかんに羽とエンジンをつけたジェット夜寒鶴。さあ、鶴なら鶴で文字通り空飛んでもらおうでちゅかねぇ〜?」
「……うわ、それはそれで新しい都市伝説になりそうだな有彦」
「うむ。レアといえばターボばあちゃんと同じぐらいレア」
……まあ、にんじんだってジェットで空を飛ぶぐらいだから、ヤカンの一つや二つが霊子力で動いてもおかしくはないワケか。
「さあ、そういうワケなんで大人しくお縄につけぇい! 逆らおうってんならこの三十六房で鍛えた棒術がうなりまくるぜ!」
ひゅんひゅんひゅんひゅん。
せわしなく躍動するミラクルハンマー。
……しかしけっこうシャレになんないぞ。なんとかに刃物というし、これとマトモに対峙したら本当に空を飛ばされかねない。
「ふふふ、どうしたでちゅか遠野、ずいぶんと大人しいでちゅが何か企んでいるようでちゅね?」
「いや、企むも何もないんだけどな」
せーの、
「おーーーーーーーい! ここにオバケキノコがいるぞーーーーーーーーーーーー!」
と、廊下中に声を響かせた。
間髪いれずに大群でやってくる足音。
「オバケキノコだー! 妖怪オバケキノコが出たぞー!」
「またかー! ええい、今こそ去年の雪辱を果たしてくれるわ!」
「他の階の委員も呼べ! 全員で捕まえてそのままキャンプファイヤーにつっこんでやるっ!」
ドタタタタタタタタタ、と津波のように迫ってくる実行委員の群れ。
【有彦】
「―――――――――あ」
流石に危険を察知したのか、真・オバケキノコはいそいそと廊下の窓を開けた。
「よし、挟みこんだぞ! もう逃げ場はない、大人しくお縄につけい!」
「お、さっきのおまえと同じセリフ言ってるぞ、有彦」
「うるさい、親友を売るなんてとんでもないヤツだおまえは!」
言いつつ、窓に足をかける有彦。
「ま、まさか飛び降りる気か!?」
「うわあ、やめろー! また問題起こす気かおまえはー!」
「止めろー! キノコを止めろー!」
……どっかで聞いたネタを。
【有彦】
「ふははは、事なかれ主義の実行委員に捕まるほど落ちぶれちゃいないでちゅ! ……それではさようなら。やれ買うな、ぱんだ笹食う手毬飲む」
タン、と窓枠にひっかかる着ぐるみを無理無理通して飛び降りる有彦。
……そうか、あの時の辞世の句はこの時のためのものだったのか。
□廊下
「ほ、ほんかとに落ちるヤツがあるかー!」
「ひぃいいいいい、アイツなに考えてるかわからないアルー!」
あまりのショックに実行委員の方々も錯乱している。
……有彦はというと、そのまま地面に落下してしまった。
擬音で表現すると、ひゅ〜、べちゃ、っぽん、ぽんぽんぽん。
「あ、跳ねた」
「バ、バウンドしてる!?」
「ああ、そのまま藤屋先輩のクレープ屋さんにつっこんだ!」
「うわあ、体中にチョコまぶしたままどんどん転がっていくぞー!?」
ここから見ても地上の被害は甚大である。
しかも質の悪いことに、現在進行形でさらに拡大しているからとんでもない。
「なにをしている! 急いでグラウンドに出てあのバカを捕獲しろ!」
「ありゃー、屋台を壊された先輩方が包丁もってキノコを追いかけてるぞ」
「……っていうか、もうありゃあオバケキノコじゃなくて土ころびだな」
「お、土ころびとはまたマニアックだね!」
小走りで去っていく実行委員の方々。
……そんなワケで、わずか十秒たらずで廊下はもとの静けさを取り戻した。
「土ころびってなんとなく美味そうだよなあ」
素直な感想を口にして踵を返す。
なんかとんでもないコトになっちゃったし、後夜祭まで大人しく自分のクラスで手伝いでもしていよう―――。
あ。
ちなみに土ころびというのは、山道で出会う妖怪だ。
山を上っていると坂の上に出現し、ごろんごろんと転がってくる迷惑極まりない妖怪で、この外見がまた巨大なお萩みたいだったりするわけで。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s244
□教室
――――後夜祭が始まった。
校庭では炎がごうごうと燃えている。
聞こえてくる曲はポルカ。燃え盛る焚き火を中心にして、生徒たちは輪になって踊っているのだろう。
「ん……ふぁーあ……」
机に腰を下ろしたまま、のんびりと伸びをした。
後夜祭は自由参加で、キャンプファイヤーに参加するのも自由なら、こうして教室でぼんやりと校庭を眺めるのも自由。
今ごろ屋上は仲のいいカップルたちでいいムードだろうし、お祭りの余熱を残した生徒たちはわーわーと校庭で走りまわっている。
「………………」
まあ、その中でもこうして教室でぼんやりしている自分は特別暇な人間だろう。
まだ体に残っているお祭りの余熱を発散させることもなく、遠くから燃え盛る炎を眺めている。
「終わっちゃったな、今年も」
名残おしくない、といえば嘘になる。
文化祭の準備からこっち、日々は毎日がお祭りだった。
それが輝いていればいるほどこの終わりは淋しすぎる。
けれど、この終わりを覚悟していたからこそ、日々はあんなにも楽しかったのだ。
いずれ訪れる夢の終わり。
それを恐がって、楽しみにして、ずっとこの日を目指してきた。
最後の余熱。
校庭で燃やされる焚き火が美しくも儚いのはそういう事だ。
物事には終わりがあって。
日々の輝き、楽しかった時間は、その終わりの儚さを美しいと思える為に存在するのかもしれない。
「……燃えてるなあ」
ごうごうと燃える炎。
周囲の闇をオレンジ色に染めて、空へと上っていく蜃気楼。
終わってしまった様々な思いはこうして火葬されて、地上に残ることなく空に失せる。
――――闇に踊る。
祭りの終わり火は、永遠のように綺麗だ。
「―――今年はこれでいいかな」
あの輪の中に入れば、まだ祭りは続くのだろう。
けけど今はここで十分だ。
お祭りの最後、いずれ消え去る炎を遠くから眺めるだけでいい。
それはそれで、今までの時間をかみ締める行為になると思う。
「――――――ん」
揺らめいている炎にやられたのか、唐突に眠気に襲われた。
目蓋がゆっくりと落ちていく。
高い高い炎。
遠い遠い葬列。
谷間に連なる、花を添える清らかな人の連なり。
「――――――」
そんな風景を幻視した。
目蓋が落ちる。
閉じた闇にオレンジの影。
ゆらめく炎はいつまでも、この意識が眠りに落ちた後も、果てることなく天へと昇り続けていく―――
草原をかける風濤。
波立つブラウンの絨毯は、何年経っても変わることなく広がっている。
椅子が揺れている。
そこには老人が座っていて、
椅子の下には黒猫が一人きり。
風はポルカを響かせていた。
―――草原には人影さえない。
この丘の下、谷間の村では冬至の祭りが始まっていた。
毎年、丘の上にそれは届く。
秋の終わりが近いことを、彼女はそれで知るのだった。
椅子はただ揺れているだけ。
老人は遠い夕暮れを見つめて、
黒猫も草原を見つめていた。
眼下には華やかな秋の祭り。
何十回とそれを聴いたか彼女は覚えていないし、見つめる事さえしなかった。
今年も何も変わらない。
彼女はじっと遠くを見つめる。
そうして祭りが終わった頃、その日課も終わりを告げた。
揺れる事も、誰かが座る事もなくなった椅子の上で彼女は冬を待つ。
そうして一度も。
本当は焦がれていた祭りを見る事もなく、彼女は初めの風景に別れを告げた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s245
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s246
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s247
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s248
□志貴の部屋
―――――そうして、長い一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していった。
「―――――その、前に」
そう、その前に何かやるべき事があった筈だ。
胸に空いた間隙。
言い忘れた言葉。
自分がしなくてはならない事。
それは―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s250
□志貴の部屋
「…………む?」
唐突に何を考えているんだ俺は。
こんな夜更けに誰かがやってくる事なんてある筈はないんだけど、まあ有り得るとしたら、それは――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s251
□志貴の部屋
「あー、そういえば昔、そんな夢見せられたっけ」
……忌まわしい記憶が蘇る。
あ、いや、決して忌まわしいワケじゃなくてむしろ有り難かったワケだけど、ああいった艶夢は体に悪い。
「……だいたいさあ、あんな夢見ちまった後でどう顔を合わせろってんだよ」
がりがりと頭を掻いて、ばすんとベッドに背を預けた。
目蓋を閉じる。
そういう質の悪い夢は今回は勘弁してもらおう。
「……んー、けど以前になかったレパートリーならオッケーかも……」
うわあ、すごい不遜なことを呟いてるなあ、と自分自身に呆れながら眠りの淵へと落ちていった。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s253
□屋敷の物置
「――――――――――あ」
思わず声があがる。
古ぼけた写真に映っているのは、間違いなく幼い自分と秋葉の姿だった。
……これは、どのくらい前のものなのだろう。
木漏れ日に包まれた中庭。
毎日走りまわっていた少年と少女。
まだお互いが特別な存在でなかった頃に交わした、おまじないのような行為。
「―――――――――――」
にしても、ちょっち恥ずい。
いくら子供だったとはいえ、こんな風に秋葉にキスをしたコトがあって、かつそれを写真に撮られていたなんて思わなかった。
「―――――――――でも、まあ」
これはこれでとても大切な物のような気がする。
……間違っても秋葉には見せられないけど、とにかく大切なものなんだ。
□屋敷の物置
「琥珀さん。中に入っていたのはこれだけだけど、その―――」
やっぱり探し物はなかったな、とは言えなかった。
そりゃあこっちは思わぬ発見をして嬉しいけど、琥珀さんが探しているというものは――
【琥珀】
「いいえ、やっぱりここが正解でした。わたしが探していたのはその写真ですから」
「―――――え?」
「思っていたものとは違いましたけど、やっぱりあの時の写真は残っていたんですね。それが知れただけでわたしは十分です」
いつもの笑みをうかべて、琥珀さんはそう言った。
【琥珀】
「それでは、そのお写真は志貴さんの物ですね! わたしが持つのも問題がありますし、秋葉さまにお見せするのもお恥ずかしいでしょう? ですからどうぞ、それは志貴さんがお持ちになっていてください」
「あ……うん。貰えるなら欲しいけど……いいの、琥珀さん? これ、ずっと探してたんだろ?」
【琥珀】
「はい。わたしが探していたのは、そのお写真があるかどうかという事なんです。ずっと夢見ていた風景を探していたようなもので、そのお写真を持つ資格はないと思います。
それは、志貴さんがお持ちになられるべき品物です」
「―――そうか。なら遠慮なく貰っておくよ」
「はい。それではわたしはこれで。そろそろ夕食の支度をしなければなりませんから」
「オッケー。今日もおいしいご飯、お願いします」
【琥珀】
「そうですね、喜ばしい事がありましたから今夜はご馳走にいたしましょう」
琥珀さんは早足で退室していった。
残された自分には、幼い頃の写真が一枚だけ。
「でもどうして、琥珀さんはこれを探してたんだろう……?」
そればかりはもう解らない疑問だろう。
幼い頃の思い出をポケットに仕舞って、金庫の部屋を後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s254
□屋敷の物置
――――――――あ」
思わず声があがる。
古ぼけた写真に映っているのは、間違いなく幼い自分とあの子の姿だった。
……それは木漏れ日に包まれた中庭。
今のような関係ではなく、ただ仲の良い友人としてを毎日を過ごしていた少年と少女。
それでも、自分には彼女に対する特別な気持ちがあった筈だ。
幼い遠野志貴に手を差し伸べてくれて、
いつも笑顔で、強引に外へと連れ出してくれた赤い髪をした少女の姿。
「―――――――――――」
……何もかも懐かしい。
たった一枚の古ぼけた写真。
けれどこれは、あの頃の思い出をカタチにした唯一つの写真だった。
「―――――――――あ」
けどこれが琥珀さんが探していた物なんだろうか? どっちかっていうと、これは俺が欲しかったりする物だと思うし……
「――――琥珀さん、これ」
貰っていいかな、と言いかけて言葉を呑みこんだ。
□屋敷の物置
【琥珀】
琥珀さんは、確かに、瞳に涙を湛えていた。
「―――――――!」
琥珀さんは咄嗟に顔を逸らして、何事もなかったかのように笑みを浮かべる。
「――――琥珀さん、あの」
【琥珀】
「あ、申し訳ありません。少しボウとしてしまいした」
「―――――――――」
そんな、琥珀さんらしくない誤魔化し方をされて、鈍感な自分でもようやく悟った。
この色あせた写真が、琥珀さんがずっと探していたものなんだって。
「……琥珀さん。この写真、預かっていてくれないかな。俺じゃなくしちまいそうだし、アルバム持ってないから」
【琥珀】
「え……いえ、それは、出来ません。これは志貴さんと翡翠ちゃんの写真なんですから、お二人のどちらかが持っているべきものです。わたしが、その、受け取るわけには参りません」
「だから、俺がアルバムを買うまで預かってくれないかってコト。あ、それと恥ずかしいから秋葉と翡翠にも内緒にしてくれ。……うん。できればずっと、二人だけの秘密にしておこう」
【琥珀】
「――――――――」
琥珀さんは何も言わない。
……こんな方便を重ねたって、琥珀さんは受け取らないかもしれない。
琥珀さんにとって、これは翡翠の大切な思い出だ。だから受け取るべきは翡翠なんだって分かっている。
けれど、それと同じぐらいに、これは彼女の見ていた夢だった。
子供の頃。
叶わないと悟りながら、ずっと翡翠を見つめていた彼女の、ずっとなりたかった姿なんだから。
「琥珀さん。これ、預かってくれないか」
もう一度言って、古ぼけた写真を差し出した。
「―――――――――」
琥珀さんはまた、少しだけ泣きそうな顔をしたあと、
【琥珀】
「―――――はい。それでは大切にお預かりしておきますね」
おずおずと両手で写真を受け取る。
そうして、抱きしめるように彼女は写真を胸に添えた。
「それじゃ俺はここで。夕食になったら居間に行くから」
「……はい。ありがとうございます、志貴さん」
琥珀さんの声に手を振って部屋を後にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s255
□屋敷の物置
「――――――――――あ」
思わず声があがる。
古ぼけた写真に映っているのは、間違いなく幼い自分だ。
くわえて場所は屋敷の中庭。
写真の色あせようからして間違いなく八年前のものなんだろうけど―――
「なぜにアルクェイド?」
なんで?と首をかしげる俺と、
「――――――――――」
無言で写真を眺めている琥珀さん。
「……に、しても……」
いろんな矛盾点を抜きにして考えれば、幼いアルクェイドは頬擦りしたくなるほど可愛かった。
子供の頃は金の髪も長かったのか、風に揺れる金髪はさらさらととても気持ち良さそうだし。
柔らかそうなほっぺたとか、何よりすっごく嬉しそうにキスを待っている顔つきなんて反則ものだ。
「……うん。いいかも」
後ろに琥珀さんが居るってコトさえ忘れて、つい素直な感想を口にしてしまった。
□屋敷の物置
【琥珀】
「……………………」
「あ――いや、違うんだ琥珀さんっ! これはなんていうか、質の悪いイタズラっていうか、あいつのデタラメな空想が巻き起こした事故っていうか―――」
「……残念です。志貴さんは子供の頃からそういう方だったんですね。まだ子供なのに誰彼かまわずキスをして回って、あげくにお屋敷にアルクェイドさんまで連れ込んでいたなんてショックです。……ああ、もう秋葉さまになんとご報告すればいいものやら……」
トンデモナク恐ろしいコトを言って、重苦しいため息をつく琥珀さん。
「ちょっ、ちょっと待った……! 誤解だってば、これはホントにあったコトじゃないんだっ! こんなのアルクェイドのヤツの悪戯に決まってるだろ!」
……まあ、悪戯にしてはかなり手が込んでいるので、アルクェイドの手管というより目の前にいる人の手管っぽいが。
【琥珀】
「もうっ、ダメですよ志貴さん! ご自分の責任を他の方になすりつけようとするなんて! そんな風に見苦しい志貴さんや、誰彼かまわずくちづけして回っているキス魔な志貴さんには――――」
ぐい、と。
どこから落ちてきたのか、引っ張ると足元がバクンと開きそうな紐を握る琥珀さん。
「―――うわ、やな展開っ! ああもう、一応言っておきますけど、誰彼かまわずキスをしてるわけじゃないんですってば! そりゃあ子供の頃は秋葉や翡翠のおでこにキスしたかもしれないけど、こればっかりは冤罪ですっ。冤罪ですから、その紐は引っ張らないでください」
引っ張られると、そのままバッドエンドに直行しそうなので。
【琥珀】
「申し訳ありませんが却下です。朝のうちにアルクェイドさんの所に行っておいて、そのままお屋敷に戻ってくるような志貴さんにはお仕置きが必要ですから」
ぐい、と紐を引っ張る琥珀さん。
「―――――――――!」
ばたん、と。
綺麗に俺の足元だけ開かれる落とし穴。
「うわあぁぁああ、やっぱりこういう展開かぁあ!」
ひゅるるるー、と底無しの穴へ落ちていく。
「だいじょうぶですよー、下にはマットが敷いてありますからー」
呑気な琥珀さんの声が聞こえてくる。
……そっか。マットが敷いてあるなら落ちても怪我はしないかも――
「蚊取りマットですけどねー」
「うわあ、寒すぎー!」
バタバタと暴れるが落下速度はちっとも落ちない。
………ああ、今度こそ死んだかもしれないなあ、俺……
―――そんなこんなで、気が付くと地下牢にいた。
「あ、あ痛たたたたた…………」
落ちてくる時に腰を強打したのか、立ちあがると体中が軋んだ。
「くそ、ほんとに地下牢じゃんかココ……」
じゃらり、と音がして、手で額の汗を拭った。
ん、じゃらり……?
「って、うわああああ! て、手足が鎖で繋がれてるー!」
テッテイしている。
ここまでテッテイするというコトは、つまり琥珀さんはホンキだという事なのでしょうか?
「うっ、さむっ……」
ぶるっ、と震える体を抱く。
じゃらり、とまたも鬱になりそうなヘヴィサウンド。
「冗談じゃないぞ、こんなトコに一日でもいたら精神に異常をきたす」
適当な石を持って、ガンガンと牢を叩く。……超合金で出来ているのか、石の方がたやすく砕ける。
「うーん、こりゃまいった」
ああ、でもどっかの人が地下室は安心できるとか歌ってたっけ。……うむ、どっちかっていうとあの歌はシキのテーマソングではあるまいか。
「―――って、他人事じゃないって。日が落ちる前に外に出ないとえらいことだぞ」
きょろきょろと周囲を見渡して、ナイフ代わりになりそうな石を探す。
石は簡単に見つかった。
「――――あれ?」
って、そんな物を見つけてどうしようというのか。
石では牢は切れない。なんだって俺は、そんな物があればたやすく牢を切れるだなんて思ったんだろう?
「ふふふ、ダメですよ志貴さん。そんな危ないコト思い出しちゃいけません」
かんかんかん、と階段を下りてくる足音。
「こ、琥珀さん!?」
「はい、お待たせしました。ちょっと待ってくださいね、すぐに開けてさしあげますから」
ぎいー、と錆びた音をたてて牢が開く。
……良かった。質の悪い冗談だったけど、さすがに冗談のままで終わってくれたらしい……って、ちょっと待った!
「な、なに持ってるんですか琥珀さん!」
「なにってお注射の時間です。本当はこのような事は心が痛むのですけど仕方ありません。志貴さんは中々反省してくださらないので、聞き分けがよくなるお薬を注射しますね」
「うわ、嘘っ! ぜったい嘘! 琥珀さんすっげえ楽しそうじゃんかー!」
「やだなあ、そんなコトないですってば。ほら、わたし痛いの嫌いですし」
「ばか、そんなのフツー誰だって嫌いだって!」
ニコニコと近寄ってくる割烹着の悪魔。……もとい、割烹着を脱いだ悪魔。
「うわあ、分かった、分かりました! もう夕食は残しません! それに外食も控えます! ついでに早起きもしますからー!」
「うふふ、そんな事言ったって逃げられませんよ志貴さん。さ、大人しくしてれば痛くありませんからちゃっちゃっと射っちゃいましょー!」
「はわわわ、オッケー、こうしよう! 琥珀さんの言い分ももっともだ。もっともだから、せめてどっちか一本だけにしてくれー!」
「あ、そうゆう事ならご心配なく。二本持っているのは射ち損じた時のための予備ですから」
にっこりと笑って、琥珀さんは俺の腕に注射器を突きたてた。
「志貴さん、聞こえてます? いいですか、これからはここが志貴さんのお部屋です。ですからくれぐれも外に出ようだなんて思わないでくださいね。
……ええ、そうしてくださればわたしも手荒な事はいたしません。もう何も考えられなくなるぐらい、優しく飼ってさしあげますね―――」
クスリ、と琥珀さんが笑った。
……うう、今までいろんなバッドエンドを迎えてきたけど、これに勝るおしまいは無かったよぅ……
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s256
□志貴の部屋
「あの子かもしれない……って、なにバカな事考えてんだ、俺」
いくら夜だからってあの子が部屋にやってくる筈がない。だいたい名前も知らない女の子に対して何を考えているんだか。
「…………欲求不満なのかな、最近」
ここ数日、記憶があやふやだという事で不安とか苛立ちとか、そういった物が胸に溜まっているんだろうか。まだ数回しか会っていない、声さえ聞いた事のない彼女を思い描くなんてどうかしている。
「…………寝よ」
こういう時は眠るに限る。
眠って頭がスッキリすればこんな考えも消えてくれる事だろう――――
それは、どんな眠りだったのか。
意味もなく暑くて、
自分が何をしているのか、
何をしたいのかさえ解らず、
ただ水を求めて歩いていた。
砂漠にいるのかもしれない、と微睡みの中で想像した。
けれど喉は渇いていない。
暑いのは体だけで、熱いのは頭の中だけだった。
はあ、と。
一際高く、あえぐように呼吸をした。
熱い。
何か、得体の知れない泥を食べてしまったかのよう。
溶岩のような泥は胃に溜まって、けれど溶岩なので消化などできず、グツグツと中から体を焼いている。
そのけだるい熱さが耐えきれないのか、ともかく歩いていた。
ジッとしていられない。
熱い。
呼吸は荒くなる一方で、苛立ちだけが増していく。
熱い。
……熱い。
熱い。
……熱い。
誰か。
……何か。
頼むから、
……熱い。
この熱を、
……熱い。
どうか。
……熱い。
消して、ほしい。
□志貴の部屋
「―――――――――」
その、責めるような高揚感から逃げられず、息を吐いた。
……微かな発汗。
眠っているというのに神経は研ぎ澄まされて、生殖器は自慰をしていたかのように充血している。
「―――――――――」
ギチギチと張り詰めた自身のイチモツは、けだるい意識とは裏腹に覚醒していた。
眠っているのに、
どうにもうまく夢を見れないので、
夜の散歩に出る事にした。
「……眠い……」
重い目蓋を開けてベッドから体を起こそうとする。
【レン】
そうして、彼女が見つめている事に気が付いた。
□志貴の部屋
「え―――――」
瞬間、眠気が覚めた。
寝苦しさでうっすらと汗を掻いていた体が、ここにきて本当に汗を掻く。
「君、どうして」
問いかける声は荒々しかった。
……呼吸が乱れている。
はあはあと喘ぐ喉は、まるで―――本当にさっきまで自慰行為をしていたようだ。
【レン】
「……………………」
彼女はそれを無言で見つめている。
渇いている俺。
熱している体。
ズボンの中で苦しげに張り詰めている俺自身を。
「―――――――――!」
羞恥で顔が赤くなる。
別にそういった行為をしていた訳じゃないけど、昂ぶっている自分と自身を見られて、ひどく汚らわしい気がしてしまった。
「ちが、えーとこれは、その――――」
バタバタと手を振って弁解する。
が、それもなんだか滑稽だ。
別にこんなの生理現象にすぎないんだから、恥ずかしがって隠すほうが恥ずかしいのかもれしない。
「……………………」
彼女は無言でそんな俺を眺めて、
【レン】
うそつき
と。責めるような目で言った。
「な――――」
鼓動が激しくなる。
女の子はまるで散歩をするような足取りで近づいて、軽く、充血した俺のモノに指を当てた。
「ば、ばか、何処触ってるんだ君はっ!」
思わず怒鳴る。
彼女は僅かにため息をついて、
【レン】
つまらなげに、俺を見下ろした。
どくん。
「あ―――え?」
目の前が、ぐにゃりと歪む。
「ちょっ―――ちょっと、これ」
おかしい。吐き気がする。体が異様に熱くて熱くて、今にも――
「はっ―――あ、―――」
呼吸ができなくなって、懸命に空気を吸う。
酸欠になった体は、力もなく、再びベッドへ沈みこんだ。
「はぁ……あ、え……?」
まるで両手両足が切断されたよう。
手足をもがれたまま必死に息を吸う。
【レン】
そんな俺を彼女は見つめている。
……赤い瞳。
……意識が薄れる。
……うまく理性が働かない。
部屋の空気はおかしくて、吸いこめば吸いこむほど渇いていく。
渇きはそのまま熱になって、弾けたいという衝動をいきり勃った生殖器へと流しこんでくる。
「……ぁ……あ――――」
唯一自由になる顔をあげて、ただ息を吸った。
【レン】
……無邪気な笑み。
彼女はだらしなく喘ぐ俺を見て、ゆっくりと。
皮を剥ぐように、俺の服を消失させた。
「ばか、なにを―――」
起きあがろうとして、手足が切断されている事を思い出した。
今の自分には何もできない。
出来る事といえば、首をあげてただ必死に呼吸をする事だけだ。
「――――っ」
そこへ。
ぺろりと、剥き出しになった胸に、彼女の舌が触れてきた。
「っ…………」
舌の感触は、正直よく解らなかった。
体は渇いていて、頭は熱くなっていて、正常な理性が消えかかっているせいか。
ただ、あの子が。
甘えるように胸に頬を擦り寄せて、猫のように舐めてきているという事実だけで、あたまがどうにかしてしまう。
そうして、何か硬い音がした。
ジッ……という音。
狭苦しい所に閉じ込められていた触覚が自由になる感覚。
「バッ……やめ」
声にならない声で言った。
彼女は聞こえないといった風に笑う。
さらり、と床に落ちるコート。
それが何を意味するかおぼろげに受け入れた時、その衝撃はやってきた。
「っ……!?」
ぐりゅ、という衝撃だったと思う。
乱暴で単純なモノが、いきり勃った竿を襲い、包み込んだ衝撃だ。
「っ―――やめ、やめろって、レ―――!」
「……………………」
さらに一度。
……ルールを破って名前を思い出しかけた俺へのお仕置きとばかりに、彼女は強く両足に力をいれた。
「は―――」
息が漏れる。
……彼女の両足は、乱暴のようで実に繊細だった。
大きな指のようなものだろうか。
まだ幼い少女の、柔らかな足の裏の感触。
巧みに、時に乱暴に、男根を根元から搾り取ろうとする二つの捻り。
「あ、つ……いた、痛い、痛いってば……!」
こっちの声なんて聞いてもくれない。
少女はただ、無様に生えている男のソレで遊んでいる。
興味本位で俺の肉棒を試している。
ほら、と黒い繊維に包まれた足で責め立てる。
……こうすればどう?
……こんなのは気持ちいい?
無口な彼女を代弁するような、容赦のない足の動き。
「くっ―――っ、は―――」
息が漏れる。
圧迫され、こすられる生殖器はさらに大きく充血し、彼女はそんな玩具に夢中になった。
「……………………」
薄い笑い。
少女は衣服が乱れているのも気付かず、ただ自らの足の間でもがくソレを愛した。
お気に入りの玩具で遊ぶような目で、
従順なペットをしつけるような笑みで。
「く――――――――」
それに耐えれば耐えるほど、彼女の遊びは白熱していく。やがてソレも両足という鈍重な感覚に慣れてきたのか、痛みより快楽が勝ってくる。
「っ……あ……くっ」
びくん、と一際高く脈動する器官。
先触れの液を泄らして、赤黒いモノが果てようとする。
が。
――――まだ、だめ。
彼女はそう告げて、俺は、それに逆らう術を持たなかった。
「ハッ――――ぐっ……!」
無理やり射精を押さえつけられる痛み。
濡れ始めた生殖器を、彼女は足の指でしごき始める。
じゅっ、ずゅっ。
足の親指で竿を挟み、根元から亀頭へと絞り上げられる感覚。
……その小さな指では俺のモノを挟みこむコトが難しいのか、挟みこんでくる乱暴さとは裏腹に、彼女は一生懸命な風に力をいれていた。
「っ―――、うっ……!」
小さな五つの指が陰嚢を弾く。むにむにと、黒い繊維に包まれた指が強張った袋を踏んでいく。
「――――――――っ」
……必死に、喉元から沸きあがる声を殺した。
だがそれもいつまで耐えられるのか。
腺液で濡れたシャフトをしごいていく足の指。
踏みしだかれ、根元からこねくり回され、抑えられた射精感がもう一度沸き上がる。
「っっっっ…………!」
噴き出しそうになる感覚を、理性を総動員して押さえ込む。
「…………」
微かな笑みを浮かべる少女。
彼女は、明らかに愉しんでいた。
自らの足の狭間で充血するソレを、繊維ごしに触れる肉の熱さを、どくどくと濡れそぼる肉の塊をいじるコトを。
その、白い頬を染める赤み。
動けず、生殖器だけの存在となった俺で遊ぶコトが彼女の体も火照っているのか。
少女の吐息も、今では完全に快楽のそれであった。
「ぐっ――――!」
二つの土踏まずに挟まれ、根元から一気にしごかれる。
“思いきり派手に出して”
そう、少女は皮膚ごしに伝えてくる。
――――でも、そんなの許さない。
……ひどい我が侭さ。
少女は淫蕩な笑いがこぼし、また、射精は禁じられた。
「は――――――っ……!」
鈍い、痛み。
呼吸は苦しくなる一方で、その苦しみを体現するペニスは、さらに少女に責められている。
「―――――――――あ」
……気が遠くなる。
これは夢。夢だと、ようやく解った。
こんなコト、ありえる筈がない。
……自由のきかない体。
それを弄ぶあの女の子。
渇いて、すぐに楽になりたいというのにペニスは充血する一方で、俺の言い分なんか聞きやしない。
達したくても達せずに、無様に酸素を求めている。
そんな俺を微笑み、愛撫し、嬲る少女の目と足。
際限のない責め苦と、段々と呼吸を同じくしていく少女と自分――――
……そうして、意識が融けかけるほどの時間のあと。
乱暴だった愛撫は途切れ、何か、濡れたモノが当てられていた。
達する事ができず、いまだぎちぎちと屹立した男根に触れる、柔らかくも重みのある何か。
「――――――――」
温かく、湿った感覚。
いまだ射精も出来ず、もう自分の体ではないと思えるほど独立したソレの上に当たる柔肌。
……いや、当たっているわけじゃない。
ずっ、ずっ、と。
柔らかな何かが、いきり勃った竿の上面を滑っている。
繰り返し繰り返し。
何度も何度も、こすりつけるように、甘い感触が包み込んでくる。
それは今にも破裂しそうな生殖器を癒すような優しさだった。
「レ――――」
……悪夢の中だからだろうか。
簡単に彼女の名前を思い出せるかわりに、決して口にする事はできない。
それでも少女の名前を呼んで、途切れかけた意識を起こした。
「……、……、……っ」
それは、一心に愛撫を繰り返す少女の吐息だった。
ずっ、ずっ。
下着に包まれた少女の秘裂は濡れている。
それは俺のモノか、それとも少女自身のモノか。
ぬちゃぬちゃと淫らな音をたてながら、少女は倒れるように腰をオレ自身に預けて、ただ一心に動かしている。
「……、……、……っ」
荒い息遣いには苦しみと悦びが混じっている。
……女性というにはあまりにも小さな体。
華奢な背中と、幼さ故に白く良く伸びた足。
長い髪は乱れて、彼女は甘えるように、ただ俺に自らを当ててせがんでいた。
ぬちゃり、ぬちゃり。
淫らな音が響いているように、少女の下着は蜜で溢れ、こすりつけられる俺のモノもぐちゃぐちゃに濡れていた。
少女が腰をあげるたびにそれらの液が混ざり、撥ねる。
「―――――――――」
股間をくすぐられるようなじれったい快感。
ここまで濡れてしまうと下着なんて意味はない。押し当てられた陰部の感触も形も、その熱さも直に俺自身へと伝わってくる。
「っ……レ……、ん……」
甘い感触に、つい声が上がった。
「―――――」
少女は答えない。
下着ごしに少女の幼い秘裂を感じる。
……彼女にはそれだけで精一杯なのか、すでに呼吸は力尽きようとしていた。
はあはあと切なげな息が漏れる。
どうしてもいけないのは俺も少女も同じなのか。
俺は反り返った自身を持て余し、少女は火照った体をどうしていいか解らず持て余している。
「……、……、っ……!」
それでも少女の腰を休めない。
少女の体とはあまりに違う、グロテスクな肉棒。
それを受けいれようと少女は永遠にその行為を繰り返す。
――――それで。
この夢がどんな夢なのか、解ってしまった。
「んっ……もう、いい、から……レ―――」
「……、……、……っ!!」
叫ぶように首をふって、少女は俺の言葉をさえぎった。
……上下する体。
それは扇情的というより情熱的なものだ。
熱っぽい吐息も、ふるふると震える体も、後ろから抱きしめてしまいたくなるほど愛おしい―――
「……、……、―――――――!」
一際強く、少女は俺のモノにその柔肉を密着させる。
受け入れる事はできなくとも、そうすることで一つになれるよう願うように。
「……、……、……っ!」
彼女は声にならない声で俺の名前を呼ぶ。
……これはそういう夢。
この狂おしいほど愛しい密室は、俺の淫夢ではなく少女の淫夢。
「……っ、……っ、…………!」
苦しみながら、それでも一心に求めてくる彼女の体。
それはなんて淫らで、
求愛的で、
未成熟な少女の自慰。
「―――――」
……俺はそれを見ている事しかできない。
だからこれも生殺しに近い悪夢と言えるだろう。
……こんなにも一途に求めてくる彼女に応えてやる事ができない。
俺の手足は動かないし、もし動いたとしても―――彼女に触れれば、この夢は覚めてしまう。
だから、目が覚めるまでずっとこのまま。
彼女は永遠に俺を受け入れる事はできず、俺は彼女に触れる事もできない。
……だから、これは悪夢に違いない。
朝になれば全てを忘れてしまう、閉ざされたの夜の悪いユメ―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s258
□志貴の部屋
――――翡翠と琥珀?
「……病んでるな、それ」
我ながら行きづまった妄想に頭が痛くなった。
翡翠は自分から来るような性格じゃないし、琥珀さんだって翡翠と一緒に来るような人じゃない。
……あの二人はとても近いようで遠い関係なんだ。
双子という関係。俺には翡翠と琥珀さんが、双方の半身とも言えるお互いをどう思っているかなんて解る筈がない。
「……けど、もしかしたら」
そういうコトだって起こり得るのかもしれない。
例えば世界に俺と彼女たちしかいなくなってしまえば、彼女たちを踏みとどまらせていた何かが壊れてしまう可能性だってある。
「……ま、そんなのは」
そんな、世界に自分たちしかいなくなるなんて、それこそ都合のいい夢だろう。
目蓋を閉じる。
……眠りはいつにもまして深い。
遠野志貴はこのまま、ありえない夢を見る―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s259
□志貴の部屋
世界の果ての幻視。
その正体は、この世界を殺そうとしている死のイメージだった。
なぜそんなモノが存在しているのか。
なぜこの世界は殺されようとしているのか。
……その答えはもうとっくに判っている。
この一日は遠野志貴が見ている夢だ。
あの子……夢を操る黒猫が維持してくれていた遠野志貴の眠りの世界。
その世界に果てが出来ている理由なんて一つしかない。
ようするに。
この夢を見ている者が現実に死にかけているから、世界そのものが崩れ去っている。
あの男―――俺がかってに思い描いていた男は、最も明確な死のイメージとして世界を殺してまわっていた。
あの男が殺していたのではなく、世界に広がる死の具現を遠野志貴がかってにカタチとして捉えていただけの話だろう。
「―――だっていうのに、どうして」
そう。死の具現とはきっちりとカタをつけた。
遠野志貴はヤツを打ち破ったのだから、世界の崩壊は止まる筈だ。
だというのに死のイメージは払拭できない。
世界は死にかけている。
遠野志貴は死にかけていない。
悪夢の具現は言っていた。
主役である遠野志貴とて誰かのイメージ。
所詮、招かれた役者にすぎないのだと。
なら。
この幸せな夢は、一体誰のモノなのだろう……?
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s260
□教室
昼休みになった。
とたんに教室は慌ただしくなり、生徒の大半は食堂へと移動していく。
【有彦】
「遠野、今日のメシはどうするん?」
いつから居たのか、目前にはお腹を空かせた有彦が。
「どうしよっか。そういうおまえはどうするつもりだよ」
「オレ? オレはパン食。遠野が食堂で食べるってんならここでお別れだな」
「そうか。なぜか無性に食堂で食べたくなってきたところだけど……」
残念ながら食堂のメシは高いのだ。昼飯代にもらっている五百円を有効利用するならパン食にして中庭で食べるか、茶道室で先輩にお弁当を恵んでもらうかなんだけど――――
【有彦】
「ははあん、せこいコト考えてるだろ遠野。さすが小学生で十万円まで貯金した男、節約が板についてるねえ」
「…………む」
なんか頭にきた。先輩も中庭もいいけど、今日ぐらいは食堂でカツ丼を食べたい気分。
くそ、こうなったら――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s300
□教室
……いや、一時の気まぐれに流されるのはよくない。
ここは大人しくパン食にして、中庭で昼食をとる事にしよう。
「決めた、今日は俺もパンにするよ」
【有彦】
「お、気が合うねえ。んじゃあまあさっさとモノ選んでメシにするとしますか!」
善は急げ、とばかりに廊下へ向かう有彦。
「なに張りきってるんだ、あいつ……?」
む、と首をかしげつつ、こっちも教室を後にした。
□中庭
「秋葉ちゃん、お待たせー!」
中庭に到着するなり、傍らにいた男が突然奇声をあげた。
ブンブンと手を振って柵の中にある芝生へと走っていく。有彦の走っていく先には一人の女生徒の姿があった。
【秋葉】
「あら。今日は乾さんと一緒なんですね、兄さん」
やってきた俺と有彦に向かってお辞儀をする秋葉。
……その姿を見て、意味もなく胸をひっかかれた気分になった。
【有彦】
「そうそう、毎日どこ行くか風まかせの兄貴を連れてきてやったってワケ! こいつは放っとくとどこ行くか分からねえからな!」
【秋葉】
「ええ、至らぬ兄を連れてきていただいて助かりました。今後もお昼時はよろしくお願いしますね、乾さん」
【有彦】
「おう、おやすいご用だぜ―――って、聞いたか遠野!? よろしくお願いしますだって、よろしくお願いします!」
「……………………」
何が嬉しいのか、有彦は芝生の上を駆けまわっている。
【秋葉】
「兄さん? どうかなさいましたか、先ほどからずっと口を閉ざしていますけど」
「……いや、別に。なんとなく秋葉がいるのが意外だった気がしただけだよ」
【秋葉】
「―――それは私がここにいるのはおかしい、という事ですか?」
「ばっ、そんなワケないだろ。朝だって別れ際にまた昼に会おうって言ったじゃないか。秋葉がうちの学校にきてもう一年経つんだから、こんなのは日常みたいなものだよ」
自分で言って、ようやく胸の痒みが消えてくれた。
そう、こんなのは当たり前になった光景だ。
俺と秋葉と、頻繁にやってくる有彦とシエル先輩を交えて昼休みを過ごすのは、最近では当然の出来事だった。
【秋葉】
「あら、朝の約束を守ってくれるなんてそれこそ意外ですね。あれは挨拶のようなものですから、兄さんが無理に守ってくれるとは思っていませんでした」
「そりゃあ他に用事があればそっちを優先するよ。ただ、今日はここにくるのが一番大事だったってコトだけだ」
【秋葉】
「そう言っていただけると嬉しいですね。私も兄さんや乾さんと過ごすお昼は大切ですから」
柔らかな笑顔で秋葉は言う。
……陽射しが明るいせいだろうか。こうして三人で昼食を過ごす時の秋葉は、屋敷にいる時の秋葉よりずっと年相応の少女に見えた。
【有彦】
「おーし、メシにしようぜメシー!」
と。走りまわっていた男が戻ってきた。
【有彦】
「ん? どったの、二人して黙り込んじまって。テンション低いぞ?」
「ばか、俺はともかく秋葉がおまえのテンションについていけるか。乾家の姉弟と違ってね、これが普通なんだよ俺たちは」
【有彦】
「まじ? 家でも遠野はネコかぶってるんの、秋葉ちゃん?」
【秋葉】
「ええ、理性で自分をお隠しになっていますね。けど学校にいる時より気が緩んでいるのか、時折驚かされる事もあります。例えば自分の部屋の前の木に登ったり、夜中に外に出かけたり。それに比べると学校での兄さんは本当に優等生です」
【有彦】
「なんだおまえ、まだそんなワルイコトやってんだ!贅沢なヤツだねー、家には秋葉ちゃんも美人の使用人もいるっていうのになー!」
何がおかしいのか、げらげらと笑う有彦。
「……まあな。で、そういうおいたをした後はたいてい秋葉に注意されるんだが、これが恐ろしいのなんのって。いっとくけどな有彦、ネコかぶってんのは俺のほうじゃないんだぞ」
【秋葉】
「あら、あの程度の事でそのように言われるのは心外です。私、一度たりとも兄さんの前で理性を無くした事はありませんから」
「――――――――まじ?」
「はい、大真面目です」
にっこりと笑う秋葉。
……アレでネコかぶってるってコトは、つまり秋葉を本気で怒らせてはいけないっていうコトですか。
【有彦】
「あははは! なんだ、遠野んトコもうちと大差ないじゃんか! なんか兄弟みたいだな、オレたち!」
バンバン、と愉快げに背中を叩く有彦。
その意見には同感だったりするけど、俺と有彦とでは決定的に違う部分がある。
「……はあ。言っとくけどな、おまえのトコのほうが幾分マシだよ」
「えー、そうかぁ?」
「そうだよ。だってさ、有彦んトコは姉貴で俺んトコは妹じゃないか」
【有彦】
「あ――――――」
有彦はぴたりと笑いを止めて顔をしかめると、
「……そうか。そりゃあ、難儀だ」
と、心底同情したように呟いた。
□中庭
「ああ、その話は信憑性高いぜ。他にも茶道室で猫の鳴き声を聞いたヤツはいるしな」
「そうなんですか……? 厭ですわ、茶道室に化け猫が出る、というのは一年生だけの噂話だと思ってたのに」
いかにも心細そうに身を縮める秋葉。まったく、恐くもないくせに恐いフリしやがって。なにが厭ですわ、だ。
まったく、化け猫だったらここにもいますよーって感じだっての。
【秋葉】
「兄さん? なにをブツブツと独り言をこぼしてらっしゃるんです。言いたい事があるのならはっきり発言したらどうですか?」
「ああ。化け猫の類なら俺も色々知ってるな、と思ってな」
【秋葉】
「ふうん……それって、もしかして離れの怪猫のコトですか?」
「? なんだよ、その離れの怪猫って」
【有彦】
「お、なんだなんだ、怪談話か!?」
楽しげに割ってはいってくるこの男は、大の怪談好きでもある。
【秋葉】
「ぁ……いえ、知らないのでしたらいいんです。つまらない話ですし、乾さんの前で遠野家の怪談話するのも気が引けますから。ほら、怪談というのは身内の恥のようなものでしょう?」
【有彦】
「なんだよ、そんなの気にするなってば。いまさらオレと秋葉ちゃんの間には他人の壁なんてないじゃんか」
「いえ、ですが……私もこの話をするのは恐くて、あまりお話したくはないんです」
またもふるふると恐がる秋葉。
……確実に演技だ。まあ、こんな演技に騙されるようなバカはいないとは思うんだけど……
【有彦】
「んんー! 恐がる秋葉ちゃんも可愛いなあ! もうちゅーしたいぐらいだ、ちゅー!」
「バカかテメエはぁーーーーーーーーーー!」
【有彦】
【秋葉】
「に、兄さん――――あの、今のはちょっと、まずいのではないでしょうか」
あやうく有彦に押し倒されそうになった秋葉は、自分の事より倒れたバカの事を心配している。
……あれ。今のハイキック、そんなにマズイ所に入ったのかな……?
「……おい。有彦、ふざけんのもそこまでにしとけって。死んだフリなんかしても俺は同情しないし秋葉も看病してくれないぞ」
「―――――――――――――――――」
有彦は答えない。
ただピクピクと指先が震えているあたり、かなりリアルなオチっぷりと言わざるをえないだろう。
【秋葉】
「あの、兄さん。乾さん、本気で気絶しているんじゃないでしょうか?」
「………うん。俺も、今そう思ったところ」
「…………………………」
「…………………………」
二人して無言で見詰め合う。
……そうして出た結論は、言葉にこそしないもののともに同じだった。
【秋葉】
「そ、それでは私はそろそろ戻りますね。兄さんたちも早く教室に戻ったほうがいいですよ」
そそくさと立ち去る……もとい、逃げていく秋葉。
「……あいつめ、さりげなく俺に責任押し付けやがったな……」
となると、こっちもやる事は一つだけだ。
「お、昼寝か有彦! よしよし、後で保健室に連絡いれとくから、気の済むまで眠っていてくれ!」
そこいらに歩いている生徒に聞こえるようにそう言って、秋葉のようにそそくさとこの場を後にする。
許せ有彦。
ちゃんと保健医に乾くんが中庭で気絶しています、とだけは伝えておくから。
return
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*s301
□遠野家1階ロビー
――――よし、一人で学校に行ってしまおう。
「……っていうか、秋葉の学校は浅女なんだから一緒に登校なんてできるもんか」
秋葉は車で隣の県の女学院。
自分は徒歩三十分の共学である。
□屋敷の門
秋葉より一足先に屋敷を出る。
【翡翠】
「志貴さま、忘れ物はありませんか?」
見送りに来てくれた翡翠が、珍しくそんな事を尋ねてきた。
「忘れ物……? いや、準備は万全だと思うけど」
一応鞄を開けて中を確認する。
筆記用具と学生証、今日の授業分のノートと、ちゃっかりナイフを忍ばせているあたり自分らしい。
「忘れ物はないみたいだ。それじゃ行ってくるよ。もしかしたら帰りは遅くなるかもしれないから、その時は心配しないでくれ」
【翡翠】
「はい、文化祭の準備ですね。お泊まりになられるようでしたらお電話をいただければ助かります」
「オッケー。それじゃ行ってくる……!」
【翡翠】
丁寧に送り出してくれる翡翠に背を向けて、いつもの坂道へと駆け出した。
□繁華街
坂を下りて住宅街を越えて大通りへ。
この時間帯、駅に続く大通りの混雑は半端じゃない。通勤ラッシュはどの街でも共通なのだ。
みな忙しそうに小走りで道を行く。
人の流れは不規則のようでいて規則があり、みな魚のようにそれぞれのルートを確保している。
その中で違和感があるのが一人。
学生服でぼんやりと大通りを眺めている、場違いな自分である。
「道を間違えた」
……まったく、何をやってるんだろう。
学校への近道は住宅街から交差点に出るルートだ。
わざわざ大通りに出るなんて大回りもいいところで、このルートのメリットといったら――
「交差点を迂回していけるコトぐらいか……有彦と顔を合わす可能性は激減するな」
む。わりと、このメリットは巨大かも。
「にしても、こっちの人込みは凄いな」
溢れかえる人、人、人。
そのどれもが見知らぬ顔なんだから、この街の事なんてまだ百分の一も知っていないんだろうなあ、とか思ってしまう。
過ぎていく人波。
それがどうという事もないけど、その中に一人ぐらい見知った顔があると、ここにきた甲斐があるっていうものなのだが―――
□繁華街
「―――――――――え?」
目の錯覚か。今、誰か。
……いた。
「―――こっちを、見てる?」
人込みの中、誰もが通りすぎて行く雑踏の中で、見知らぬ少女がこちらを見つめている。
見知らぬ少女だって……?
馬鹿を言うな、遠野志貴はあの子のコトを知っている筈だ。
ただそれを忘れているから、見知らぬ少女と錯覚している。
……見知らぬ少女は見つめている。
それがこんなにも目を奪うのは何故だろう。
この人波の中で立ち止まっているからか。
それとも黒一色なんていう服装が目立つからか。
――――分からない。
ただあの子に見られているだけで、ひどく――
心臓が、違和感を叩きつけてくる。
「―――――君」
呼びかける。だがここからでは遠すぎる。
近寄って声をかけなくてはいけないのに足が動かない。
□繁華街
「――――――」
少女の姿はない。
人込みに融けてしまったのか、もうあの視線も感じられない。
――――また、逃した。
何の脈絡もなく、悔しくて胸を掻きむしる自分がいる―――
と、そんな事をしているうちに時間が差し迫ってきていた。
「ありゃ、そろそろいかないとまずい」
大通りから学校までは十五分弱。
残念、せっかく早起きしたというアドバンテージも台無しになってしまった。
return
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*s302
□遠野家1階ロビー
―――よし、一人で学校に行ってしまおう。
「……っていうか、秋葉の学校は浅女なんだから一緒に登校なんてできるもんか」
秋葉は車で隣の県の女学院。
自分は徒歩三十分の共学である。
□繁華街
坂を下りて住宅街を越えて大通りへ。
この時間帯、駅に続く大通りの混雑は半端じゃない。通勤ラッシュはどの街でも共通なのだ。
みな忙しそうに小走りで道を行く。
その中で違和感があるのが一人。
学生服でぼんやりと大通りを眺めている、場違いな自分である。
「――――いない」
ここに来れば会えると思った。
だがここにあの子の姿はない。
いや、恐らくはもう――――この世界の何処にも、あの黒いコート姿を見つける事はできないのではないか。
「――――――――」
こんな事をしている場合じゃない。
一刻も早く、あの場所に行ってアイツと決着をつけないと――――
return
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*s303
そうして夕食。
広い食堂で席についているのは自分と秋葉だけで、翡翠と琥珀さんは席の後ろに無言で控えている。
夜の雰囲気と豪勢な食事、という事もあいまって、夕食はともかくマナーを守らされる。
俺も秋葉もお互いを意識しないで黙々と食事を進め、結局終始無言のまま、いつも通りに夕食は終わりを告げた。
return
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*s305
□志貴の部屋
そうして部屋に戻ってきた。
夕食は済ませたしお茶会で秋葉たちと顔を合わせたし風呂に入って汗も流した。
これといって大事もなかったし、今日も平穏一日だったと思う。
「さて、寝よっか」
ベッドにもぐりこんでメガネを外す。
あとは瞳を閉じればおしまいだ。
今日という一日はキレイになくなって、また新しい一日がまったくのゼロから始まる―――
夢ですら悪夢を見るのか、
夢だからこそ悪夢を視るのか。
その人間が最も恐れる罪の具現が悪夢なのだと悪夢は語った。
それではまるで悪魔博士だ。
自らが呼び出した悪魔に殺されているようでは、手の込んだ自殺をしたのとなんら変わりはないじゃないか。
―――――そうして、夜な夜なエモノを探す。
手にはナイフ。
携帯でき無音。
慣れれば比較的容易く人体を解体できるという点で、このエモノは俺に最も適していた。
尤もコレ以外に扱えるエモノなど俺は知らない。
殺生ならば他にもっと簡単なエモノがあるのだろうが、俺はそんな物を扱おうとは思えない。
もともと俺はそういう風に生み出された。
俺は殺人鬼として想像された。
ならばそれ以外の存在方法など知らない。
だというのに、なんという矛盾だろう。
この殺人鬼は、遠野志貴以外の人間をエモノにはできないのだから。
俺は、俺しか殺せない。
ヤツの悪夢とはそれだ。
自分は殺人鬼に成り下がっていたかもしれない、という不安と安堵。
もう峠は越えたと自覚しているくせにその不安を忘れきれない暗部。
かつて殺人鬼になりかけた自分なら、なにかの弾みで今の自分を無くしてしまうのではないかという怖れ。
それが俺だ。
だからこそ、この殺人鬼は自分しか殺せない。
遠野志貴にとって忌むべきなのは人を殺して回る異常者の存在ではない。
ヤツが怖れるのは自己を殺してしまう殺人鬼という俺なのだ。
だから殺した。
何度も何度も殺した。
時には自分自身さえ殺されてやった。
ヤツが望む悪夢が自決ならば、それをカタチにすればヤツ本人は消え去るだろうと信じて。
「―――――――だというのに」
だというのにヤツは消えない。
殺人鬼という悪夢に食われても食われても蘇生してくる。
「―――――――その理由は一つだけだ」
おそらく、ヤツには協力者がいる。
この俺がこうして存在していられるように、殺人鬼に殺されたヤツを蘇らせている何者かが存在するのだ。
□公園前の街路
「――――――――――」
だから、まずそいつを先に殺さなければ。
殺人鬼は自分しか殺さない、という規則を破ることになるが構うものか。
もともと俺が俺に成ろうとしている時点で原則が狂っている。
この世界も限界だ。
あの“黒い気配”に埋め尽くされる前に目覚めなければ俺は俺と共倒れする。
【レン】
「――――――――見つけた」
見つけた。
アレが俺の協力者だ。
遠野志貴を蘇らせている力。
七夜志貴を蘇らせている力。
――――アレが、俺たちの協力者。
それさえ消してしまえば、あとはまっとうな消去法が適用できる。
―――――夢を殺し、俺を殺す。
目覚めるのがどちらかは知らない。
だがさしたる問題などあるまい。
どちらが生き残るにせよ、目を醒ますのは志貴という人間に違いないのだから。
【レン】
エモノは逃げなかった。
逃げるコトさえ考えつかなかったようだ。
それは殺されたあと、
不思議そうに首をかしげて地面に倒れた。
味気ないといえば、実に味気ない殺しだった。
――――刹那。
あの子の、世界を引き裂く悲鳴が聞こえた。
□志貴の部屋
「―――――!」
眠っていた意識が一瞬で覚醒した。
ベッドから跳ね起き、机の上のメガネとナイフをかき集めて部屋を飛び出す。
□屋敷の前の道
走る。
ナイフをすでに抜き身にして片手に握っている。
この静止した夜、いつヤツと出くわして殺し合いになってもいいようにだ。
□坂
意識はとっくに覚醒している。
そう、完全に覚醒している。
例えば今まで思い出せなかった昨日のコトも思い出せるし、今まで体験していながら経験に出来なかった幾つかの真実も思い出せる。
太陽に魔力があるのか、それとも月光に魔力があるのか。
この時間、夢の中で夢を見ようとするこの時間だけは頭の中から靄が消えてくれる。
裏の裏は表というコトか。
いや、今はそんな皮肉なんてどうでもいい。
世界のカラクリなんて後回しだ。
そんなコトより、今は―――――
□公園前の街路
見覚えのある影絵の街を駆ける。
だが今日だけは目的地が異なっている。
俺はヤツ――――殺人鬼と対峙するために駆けているんじゃない。
そんな理由で、俺の足はこんなにも速く動かない。
□公園の噴水前
駆ける。
地面には血の斑。
引き裂かれた黒いコート。
視界の先には、今にも現実に成ろうとしている悪夢の具現が――――
【レン】
□公園
見慣れた公園。
無人の筈のそこに、ヤツと、ヤツに組み伏されて倒れているあの子の姿があった。
あの子はいつもの調子でヤツを見上げていて、抵抗というものをまるでしていないようだ。
ヤツはいささか物足りない顔つきでナイフを構え、あの子の首元をかっ捌こうとしている。
―――その先のことは知っている。
だから、ためらうことなくヤツに襲いかかった。
「止めろ――――――――!」
踏み込み、威嚇なしでナイフを振るった。
「――――――――――――」
ヤツは咄嗟にナイフをかわす。
結果として、ヤツはあの子の命より自身の命をとった。
俺が踏みこんだ瞬間、あの子の首へと落としていたナイフを止めて後方に跳び退いたからだ。
――――――惚れ惚れするぐらいの冷静さ。
だが、今はそれが何よりも頭にきた。
「てめえ、は――――――――!」
ぶちっ、と脚の筋が切れる音。
それを承知で、思いっきり無理な体勢のまま、ヤツのどてっ腹に蹴りを叩きこんでやった。
もう、技の美しさも効力も無視した問答無用のやくざキック―――!
「なっ……………!」
これまた信じられないことにヤツはそれをまともに食らった。
……まあ、その気持ちは解らないでもない。
こんな蹴りを食らわした所でこっちには何の利点だってありえないんだ。
こんな攻撃をしてもダメージを受けるのは無理な蹴りをしたこっちの体で、この後に続く殺し合いを考えると明らかに今の行動は不利である。
脚の筋をおかしくした遠野志貴は、卓越した殺人鬼である七夜志貴にますます敵わない。
それでも、ヤツに一撃食らわせてやらなくちゃ気がすまなかった。
そんな感情論がヤツの思惑を凌駕したのか、結果として、ヤツは目を瞑ってもかわせる棒蹴りをまともに食らってよろけていた。
□公園
「立って――――!」
夢中になって女の子の手を取る。
ヤツは―――まだ、俺に蹴られた腹を押さえている。
女の子は倒れたままだ。
さっきまで殺されかかっていたというのに、まだいつもの調子で俺を見上げている。
……というか、やってきた俺と腹を押さえているアイツを不思議そうに見比べている。
「ああもう、なにやってるんだ! 逃げるの! アイツは俺じゃないんだってば!」
「………………………………?」
「―――くそ、文句は後で言ってくれ……!」
女の子の手を引いて、強引に抱き寄せる。
そのまま彼女の足を掬い上げて、目の前で抱きかかえた。
「………………………………!?」
「いいから大人しくしてろ! 今はアイツから離れる方が先決だ!」
□公園の噴水前
そうして走り出した。
……正直、この子を抱えたままでアイツから逃げられるとは思っていない。
それでもなんとか距離をとってアイツとこの子を引き離したかった。
そうすればこの子は一人で逃げられる。
遠野志貴はアイツに殺されるかもしれないけど、その隙に安全な所まで逃げてくれるだろうから―――
□行き止まり
で。
公園の噴水を目指して走ったら、わずか十歩でこんな場所に出ていたりする。
「―――――――――え?」
あまりの出来事に、あたまのなかが豆腐になった感じ。
女の子を抱えていたことも忘れて、ぽかんと周囲を見渡した。
【レン】
こっちがつい手の力を抜いたのか、それとも自分から降りたのか、女の子は地面に足をつくと少しだけ離れてこちらを見つめてくる。
……まあ。
今更こんな事を訊いても仕方がないとは思うんだけど、やっぱりはっきりさせておかないと気持ちが悪い。
「――――あの、もしかして」
「………………………………」
「ここにトンできたのって、君の仕業?」
【レン】
【レン】
【レン】
「………………………………」
こくん、とうなずく。
「―――――――――――はあ」
思わず空を仰いで深呼吸をしてしまった。
公園から路地裏までのショートカット。
そんな都合のいいコトが出来るってコトは、この子は間違いなく彼女だ。
もう今まで何度も出会っていたクセに、この瞬間まで気が付かなかったなんてホントに間が抜けている。
「どうして気付かなかったのかな。考えてみればすぐに解るはずだし、それに―――君とは、ずっと前に会ってただろ。……あ、いや、実際こうして会ったわけじゃないけど、夢の中で」
【レン】
「………………………………」
……なんかヘンな言いまわしだ。
夢の中って言えば今だって夢の中なのに、これじゃあなんだか、今はれっきとした現実みたいじゃないか。
「けどこれではっきりした。俺がこんな夢を見ているのは君の仕業なんだろ?……で、どうしてそんなコトをしてるのかな」
【レン】
「………………………………」
「違う違う、別に怒ってる訳じゃないんだ。今まで楽しかったし、逆に感謝してるよ。ただ理由が解らないのは居心地が悪いだろ? だからどうしてこんな事をしているのか、どうやったら目が醒めるのか教えてほしいんだけど……」
【レン】
「………………………………」
……む。女の子は困ったように地面を見る。
もともと無口な子だけど、こればっかりは言わないのではなく言えない、といった風に。
「……秘密なわけか。あ、もしかしてアルクェイドのヤツが何か言ったのか!?」
っていうか、それだ。
アイツのコトだから、なんかトンデモナクどうでもいい理由でこの子を使役したに違いない。
たとえば、アイツが軽い気持ちで俺の頭を叩いたらものすごい大怪我になっちゃって、それを誤魔化すためにこうゆう夢を見せているとか。
「――――う。なんか十分有り得るぞ、それ」
うわあ、謎は全て解けたって感じだな。
【レン】
【レン】
【レン】
「え? 違う、そうじゃない?」
「………………………………」
まっすぐに俺の目を見ながら女の子は頷いた。
「それじゃあ一体どうし――――」
て、と言おうとした矢先。
□行き止まり
かつん、と。
遠くで、誰かの足音がした。
「アイツ―――――――」
……そうか。そんなに今夜中にハッキリさせたいっていうんなら構わない。
こっちだっていい加減、何かの弾みで殺されるのはまっぴらだ。
「……まったくボけてるな。今は問いただすより先に済まさなくちゃいけない事があった」
ポケットの中のナイフを確かめる。
オーケー、ナイフの硬さはいつも通りで、握り締めるだけで呼吸は落ちついてくれた。
……左足はまだ痺れている。痛みは耐えられるが、これでは反応が遅れるだろう。
「――――――――――」
夜ごと繰り返されたアイツとの殺し合い。
七夜という名前をもった、アイツの獣じみた動きを思い出す。
「はあ。ただでさえ戦力差があるっていうのに」
それを嘆いても始まらない。
時間はあとわずか。
アイツの事だ、迷いもなくこの路地裏へやってくるだろう。
こんな狭い、四方が壁だらけの場所では圧倒的にアイツが有利だ。
勝機があるとしたらまっ平らな場所で戦うこと。
それと、あと一つ。
俺にあってアイツにない何かを用意しなくてはならない。
俺にはアイツのような、クモめいた立体的な歩法はない。
だからこっちも、せめて一つぐらいはアイツにはない何かを切り札にしなければ太刀打ちできまい。
「―――――――――チ」
けれどそんな都合のいい考えなんて浮かばない。
自分のあまりの不利さ加減を痛感して歯を軋ませる。
―――――と。
【レン】
「………………………………」
俺があんまりにも情けない顔をしていたもんだから、彼女にも悲しい顔をさせてしまった。
「あ―――いや、心配するコトはないよ。君はここに隠れてればいい。アイツが外に来たら俺が出る。なんとかアイツをここから引き離すから、その間に安全なところに行っていてくれ。……そうだな、いくらアイツでもアルクェイドには敵わないだろうし、秋葉の前には顔を合わせたくないだろう。アルクェイドのマンションか屋敷に逃げこめば安全だよ」
「………………………………」
無言。
うなずきもせず、ただ心配そうな視線を向けてくる。
「……もしかして、心配してるのは俺のコト?」
「………………………………」
かすかな頷き。
「大丈夫だよ。こう見えてもこういうのには慣れてる。きりのいい所で俺も逃げ出すから、こっちの心配なんかしなくていい」
【レン】
【レン】
【レン】
……女の子は悲しそうに首をふる。
それはまるで、俺の死を予感しているような、そんな否定だった。
外には出るな。
出たら、今度こそ死んでしまう、といった風な。
「……まあ。それでもここに隠れてるワケにはいかないだろ」
【レン】
「………………………………」
どうして? という眼差し。
死ぬのが恐くないのかと問われているようで、ついこちらも頷いてしまった。
「うん、恐い。何回もやられてるからってね、殺されるのなんて慣れる筈がない。正直言うと、早く目が覚めないかなって期待してる」
【レン】
「………………………………」
ならどうして?と、もう一度瞳で問われた。
……まあ、それはなんていうか。
「それでもさ、男の子にはやせ我慢をしなくちゃいけない時ってのがあるんだ。例えば、自分より弱い女の子が側にいる時とか」
馬鹿なこと言ってるなあ、とか思いつつも、それが偽りない本心なんだろう、と納得したりする。
そうして表通りには、少しずつアイツの気配が近づいてきていた。
「それじゃここで一旦別れよう。俺が出ていって、しばらくしたら外に出るんだぞ」
「………………………………」
彼女はまだ納得がいっていないようだ。
「―――もう。心配性なんだな、君は」
呆れて言って、ぽん、と彼女の頭に手の平を置いた。
「けどありがとう。そうやって引き留めてもらえるのは純粋に嬉しいよ」
「………………………………」
彼女の瞳は変わらない。
ただ不思議そうに―――本当に不思議そうに、自らの頭に置かれた手を見つめている。
「だから、やっぱり俺がアイツを引き受けないとね。アイツは俺の悪夢なんだろ? その悪夢が君を殺そうとしているんだから、これ以上は放っておけない」
アレが俺の悪夢だと言うのなら、自分自身の手で決着をつけなくてはいけないのだ。
「恐い思いをさせてごめん。アイツとカタがついたらまた。……あ、けどその時が昼間だったら覚えてないのかな」
うーん、それは問題だ。
この後、なんとかしてアイツに打ち勝っても明日になればそれさえも忘れてしまうかもしれないし。
「――――しょうがないか。続きはまた、夜に散歩したくなった時にしよう」
ぽんぽん、と女の子の頭を撫でる。
「………………………………」
あ、という小さな呟き。
ほんの一瞬、ぽん、と頭を撫でるために手の平が離れた時、彼女はすごく物欲しそうな目をした。
「ん?」
それも一瞬。
手の平が彼女の頭に触れていると、途端にまた不思議そうな目に戻る。
「………………………………」
じっと、身動きしないで俺の腕を見つめる女の子。
「――――――――――――」
……なんか、手が離しづらくなってしまった。
この手を離した途端、またさっきの目をされるかと思うと別れ辛くなってしまう。
「………………………………」
不満なのか、不満でないのか。
嬉しいとも嬉しくないとも言わず、ただぼんやりと、いつまでもこうしていたいような彼女の瞳。
けれどそうもいかない。
アイツの気配は、もう余裕のない所まで近づいてきていた。
□行き止まり
「―――それじゃ行くよ。夜になったらまた」
「………………………………」
ゆっくりと手を離して、大通りへと踵を返す。
ナイフを強く握って外へ向かう。
その途中。
【レン】
泣きそうな顔で佇むあの子の姿が瞳に映った。
……外は一転して闇だった。
街を照らす月光からして違っている。
空気は息苦しいほど張り詰め、これほど明るい月夜だというのに生き物の気配がまるでない。
……これではいつもと反対だ。
何度も惨劇の舞台となった路地裏だけが温かで、街はことごとくが凍結してしまっている。
それも、全ては
「―――――そこにいたのか、遠野」
この男が原因だった。
「……ふん。随分と口が達者になったんだな、おまえ」
「これだけ時間が経てば自我も起きる。加えて終わりが近いとあれば、生まれたばかりの雛でも飛び立とうと必死になろう」
アイツ―――遠野志貴が見る悪夢は口元を歪ませて言った。
「……そうかよ。自分の鏡像ってのがおまえかと思うと昔の自分に申し訳なくなってくるな。少なくとも、俺が覚えている七夜志貴はおまえほど人でなしじゃない」
「ほう? なるほど、さすがは俺の素だ。人でなしとは、また上手い言いまわしだな」
アイツ―――七夜がナイフを取り出す。
冴える月下。
伸びる影は長く、ナイフの照り返しは肌に突き刺さるように鋭利。
「―――――――ハ」
嫌悪を息にして吐き出した。
まったく、何もかもいつもの殺し合いと同じでうんざりする。
「で、今夜もまたやりあおうってワケか。いっとくけどな、おまえがいくら俺に勝った所で変わらないぞ。俺が殺されるってコトはこの夢が終わるってコトだ。なら、その瞬間にこの街もおまえも消え去る。
おまえは、意味のない殺し合いをしているだけだ」
「……そうかな。話がそれで済むのなら俺がここまで歪曲する事もなかった。七夜という悪夢が遠野志貴を殺しても世界は醒めない。だからこそ、俺はおまえと入れ替わるしか消え去る方法がない」
「―――解らないな。どうして俺と入れ替わろうとするんだおまえ。せっかく七夜志貴として存在できたのなら、無理に遠野志貴に成る必要はないだろう」
「ふざけるな、愚痴を言いたいのは俺の方だ。俺は殺人鬼、おまえの見る悪夢として存在する。いいか、俺は悪夢として存在できるのならそれに越した事はない。
だというのにこのような自我を起こしてしまい、あまつさえこの世界は終わろうとしている。悪夢として存在する事もできず、俺が唯一存在できうるこの場所さえ消えようとしているのだ。
―――どうだ、行き詰まった俺がおまえに成り代わろうとするのも、あの小娘を殺そうとするのも必然だとは思わないか」
「……またそれか。おまえは会うたびに世界がどうだの言うけど、それは一体どういう事だ。単にこの街が消えかけているっていうんなら、それは俺が夢から醒めようとしているってコトじゃないのかよ」
「―――夢というものは消えない。夢を形成するモノが生きているかぎり、変化はすれ消える事などありえない。
だというのにこの世界は末端から崩壊していっている。……所詮観測者であるおまえには解らないだろうが、悪夢である俺には感覚として理解できる。
―――そう。間違いなく、この世界はじき崩壊する」
七夜の姿勢が低くなる。
……殺気が、首筋に押しつけられる。
「待て、それは―――」
「夢が崩れる理由などただ一つだろう。夢というものは、見ている本人が死ねば消滅する」
「ちょっと待て! それって、まさか――――」
「そうだ。“外”の遠野志貴はじき息絶える。そうでなくては、この崩壊に理由が付かん――――!」
「っ―――――!」
一足で間合いを詰め、ナイフを振るってくる七夜。
それを咄嗟にナイフで弾き、瞬時に退路を視界に収めた。
「この―――なら、なんで執拗に俺を狙うんだ、おまえは! そんなことをしても意味ないって解ってるんじゃないのかっ……!」
「どこまでも身勝手な男だな、おまえ―――! 俺を殺人鬼として生み出しておいて、殺すべき対象はおまえだけだと!? そのような半端な事などしていられるものか……!」
さらに一撃。
七夜はナイフに感情を乗せるように一撃を見舞ってくる。
以前の、相手の死角だけを狙うヤツとはまるで別人だ。
「なんだ、ようするにアレか、あれだけカッコウつけておいて、結局は――――」
「そうだ、俺はおまえが気に食わないだけだ……! 悪夢を形に成せるというのなら、もう少し大層な悪夢を見ろこの甲斐性なしめ……! まったく、自分を殺す為だけの自分などと、そのような役割が何度も続けられると思うかたわけが……!」
「っ―――――!」
受けに回った腕が痺れる。
じくりと、左足がわずかに沈んだ。
「っ―――――ふざけんな、何度も何度も生首にされる俺の身にもなってみろってんだ、てめえ!」
「己の未熟さを棚にあげるな! あのような子供騙しに何度も踊らされおって、それでも貴様俺の末か! ええい、やはり世界がなくなる前に完全に殺しておかねば気がすまん……!」
「あ、くっ……!」
三撃目。
あまりの衝撃にメガネがズレ、左足はさらに沈みこんだ。
「っ……こ、の――――メガネが取れるだろ、メガネが!」
こいつ、以前の技巧とは正反対に力任せに打ちつけてくると思ったら、狙いはそれか。
さっきの公園での一件で左足を傷めた俺は全力で走る事ができない。
それを見越した上で、七夜は足を止めての力勝負に出てきている。
これならあと四合も打ち合えば、こっちの左足は完全に使い物にならなくなるだろう。
「―――――――」
だがそれはまずい。
少なくともここで仕留められる訳にはいかない。
路地裏にはまだあの子がいる。
だから今は、たとえ足を犠牲にしてでもここから離れなければいけない――――
「――――――」
打ちつけられる四撃目。
それを弾く事は容易い。だがそれでは五合目を迎えるだけになる。
「こ――――のっ……!」
紙一重。
顔面に突きつけられるナイフを、片目ぐらいもっていかれる覚悟でやりすごした。
からん、と。
メガネがアスファルトに落ちる音。
□街路
「はっ―――あ…………!」
冷や汗で視界が滲む。
だがやった。一歩間違えれば確実に脳髄に突き刺さっていたナイフを紙一重でやりすごした。
「―――――――は、あ……!」
その一撃に力がこもっていればいるほど、空振りした時の隙は大きい。
その隙をついて走り出す。
とにかく、今は無策でも走らなければならなかった。
せめて、あの子が逃げだせるぐらい遠くまで走らなければ―――
□街路
「な……」
だが、足が止まった。
どろりと足場が融ける。
厭な気配。黒い何かが蜃気楼にのように揺らいでいる。
「余所見を――――!」
背後で七夜の罵倒が聞こえる。
「待て、それどころじゃ――――」
振り向いてナイフを弾く。
きぃん、という音も今では灰色。
「そうか、これが―――」
七夜の言っていた世界の崩壊だ。
俺は今までこれが世界の果てだと思っていた。
しかし、なるほど。
冷静になって見てみれば、これは確かに何者かによってこの一帯が殺されていくように見える。
「―――――――え?」
目の錯覚。
目の錯覚だと信じたかった。
この、影絵の街に、どうして、アレが。
―――――――――その男は。
記憶の底の姿のまま、死の中心に立っていた。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――うそだ」
そうとしか、言えなかった。
「――貴様、なにを見ている……?」
よほど俺の顔は蒼白だったのか。
七夜は俺を仕留めるコトさえ忘れて、俺が見つめている先へ視線を送った。
「……呆けたか。あちらに何があるという」
「――――――――――――」
見えていない。
コイツにはアレが見えていない。
……いや、そればかりか今も腐食していっている地面にさえ気が付いていない。
「――――――――――メガネ」
ああ、なんてコトだろう。
この、もう取り返しがつかない場面でようやく思い起こした。
俺とヤツの相違点。
遠野志貴にあって七夜志貴にないもの。
それは。
七夜志貴にはまだ、死を視るという特別な眼が存在していないというコト。
そうして。
アレが、ゆらりと揺らいだ。
「――――跳べ!」
咄嗟に、もう足が千切れるぐらいの力で跳んだ。
距離にしてざっと十メートルほど。
自分でも常軌を逸していると思ったが、きっと夢の中だから五割ぐらい増しで跳んだのだ。
そう、こんなコト。
悪夢だと思う以外どうしろという。
ヤツは間に合わなかった。
見えていなかった分、こちらより僅かに遅れた為だろう。
飛び散る紅い血。
かつての遠野志貴のように、
生首になって忘我する七夜志貴。
がたがた。がたがた。
歯と歯がうまく噛み合わず、背筋はバラバラになってしまいそうなぐらい震えている。
――――なんていう、悪いユメ。
突風をともなって出現したソレは、呆気なく七夜を殺していた。
がたがた。がたがた。
「―――――――――――――――は。はは、は」
笑った。
笑うしかなかった。
いったい他に何が出来る。
がたがた。がたがた。がたがた。
瞬きの間だった。
まるで台風だ。
ソレは有無を言わせぬ強引さで飛び込んできて、その瞬間に七夜の首を引き千切っていた。
それも片腕。首は引き千切られたというのに断面はまっ平ら。そんな切断面、普通あり得るはずがない。
―――ハッ。やめてくれよ、デタラメすぎる。
いくら視えなかったとはいえ、仮にも七夜志貴が、反応さえできずにあの始末だってのか。
がたがた。がたがた。がたがた。
「おまえ、は――――――――――」
がたがた。がたがた。がたがた。
「なん、で―――――――――――」
がたがた。がたがた。がたがたがたがた………!
……ああ、みっともない。
震えは止まらず、ヤツをまともに見る事さえできない。
あの独眼。遥か昔に見かけただけの真紅しか見返せない。
簡単に潰れた。
トマトを鷲掴みにするような感じで、映像的にもまるっきり同じだったと思う。
――――ああ、死んだな。
間違いない。
いくらここが夢の中でアイツが悪夢だったとしても、アレは死んだ。
蘇る事なんてとんでもない。目の前に立つのは世界を殺してまわっているような怪物だ。俺の悪夢にすぎなかったアイツが、その手にかかって消滅しない筈がない。
「――――――」
気が付けばもう腰まで沈んでいた。
いつもの終わりだ。
このまま世界の崩壊に巻き込まれて一日が終わる。
……それがどれだけ幸運だったのか、今にしてようやく分かった。
この腐食に巻きこまれて消えるのなんて生易しい。それならまだ明日の朝には元通りになれるレベルだ。
だが―――ヤツの手にかかっていたら、俺も七夜と同じく消えてしまっていただろう。
―――だが、今回ばかりはそうはいかない。
七夜を潰したソレは、緩慢な足取りで、沈んでいく俺へと近づいてくる。
死神の鎌めいた腕を伸ばして、俺の頭を掴みに来る。
「……………………!」
その前に、黒い壁が立ち塞がってくれた。
沈んでいく俺を守るように立ち塞がった壁の正体は、黒いコートを着た女の子だ。
ソレに容赦などない。
ソレはあの子の体を掴み、たやすく、無残なまでに握りつぶした。
――――――世界を引き裂く悲鳴が響く。
黒いコートがひらひらと舞い落ちる。
血も内臓も零れない。
黒いコートが落ちた後、そこから飛び出したのは一匹の黒猫だった。
「―――――――」
走り去って行く黒猫。
怪物の姿も消えている。
後には誰の姿もなく、あるものといえば崩れていく世界だけだ。
……急速な眠気。
かろうじて一命を取りとめたという安堵が、よけいに眠気を強くする。
体ばかりか頭まで沈んでいく。
そうして闇に呑まれて、今更ながら、
「……そっか。やっぱりあの子、猫だったんだ」
なんて、愚鈍なことを呟いた。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s306
□志貴の部屋
――――――――一日が終わった。
ベッドに入ってぼんやりと天井を眺める。
疲れているのか、こうして横になると激しい眠気が体中に浸透していく。
それでも、眠る気にはなれなかった。
――――真夜中。
虫の声に誘われるように外に出た。
ふらりと、花壇の柵に腰をかけた。
息を殺して木々の奥、夜の闇を見透かそうと瞳を凝らす。
遠くでは鳥の羽音。
音は近いくせに姿が見えない所をみると、カラスが闇に紛れているのかもしれない。
「―――――――」
はあ、と大きく息を吐いた。
肺の中の余分なモノを吐き出す。
頭の中身を酸欠にする。
そうしてようやく、思考は一つの事柄だけを追及するに足る鋭利さを手に入れる。
アレがなんであるかはもう見当がついている。
七夜志貴という殺人鬼は遠野志貴が怖れていた悪夢だ。
七夜志貴は遠野志貴が抱く悪夢の中でもっとも濃い悪夢だからこそ浮上した。
それを一撃で圧壊したアレが、遠野志貴の悪夢である筈がない。
メガネを外した時だけに視える世界の裏側。
死を視覚できるこの両目は、世界の死を映像として明確に捉えていた。
そうしてアレが現れるのもその時だけだ。
ならば答えは明白だろう。
アレは死の具現。
この世界を、夢を見ている宿主を侵食していく癌細胞そのものだ。
そうして、死の具現である以上、その姿は観測者にとって最大の死のイメージとして現れる。
――――紅赤朱。
遠野志貴の記憶の底をさぐっても輪郭しか思い出せない怪物。
ずっと昔、山奥に隠れ住んでいた七夜という一族を皆殺しにした男。
思い出してはいけない、絶対に敵う筈のない存在。
だからこそ死のイメージとしてアレが現れた。
もはや自己の中で神格化さえされている絶対不可侵の悪鬼。
故に、アレは遠野志貴にとっての死神なのだ。
□中庭のベンチ
「――――――――――」
アレに、勝てるか。
何度も何度も、頭の中で想定する。
アレと打ち合っていい条件。用意するべき攻撃手段。初撃を生き延びられる奇策。その後に続く、最も有効な反撃。―――ヤツを打倒できる可能性。
「――――――――――」
思いつかない。
何度条件を作りなおしても、ただの一度もアレが傷を負う姿さえ思いつかない。
自由にできる頭の中でさえこれだ。
例えば、本当に最高の条件としてこんな事を考えた。
アレと向かい合った時、絶好のタイミングで空から飛行機がアレに落下してくる。何かの事故で、それこそミサイルのように一直線の突進をしてアレは直撃と爆発に巻きこまれる。
勝った。それでこちらの勝ちだ、と思った瞬間、そんな事を考えたくもないというのに、アレは何事もなかったように炎の中から現れてくる。
―――そんな怪物をどうしろという?
そもそも死神というものを殺せるのかどうかさえ怪しい。
ヤツが遠野志貴にとっての死の具現であるのなら、そう視えてしまっている以上、遠野志貴にアレは超えられないという事ではないのか。
「――――――――チ」
見れば指はだらしなく震えていた。
全身は畏れで震えっぱなしだった。
震えがとまらない体を抱いて、精一杯の虚勢をはって夜の闇を睨んでいる。
そうでもしていなければ決意が鈍るし、挑む前から自身に呑まれてしまうだけだ。
「……………ん?」
不意に木々の間の闇が揺れた。
相変わらず気配もなく、黒いコートの少女が現れた。
【レン】
「……………………………」
林から出てきて、トコトコと近くまでやってくる。
薄明かりの下でさえ、その顔色は青かった。
「こんばんは。隣、座る?」
【レン】
【レン】
【レン】
「そっか。それじゃ今夜は急ぎの用なんだ」
【レン】
【レン】
【レン】
首を振るその姿も弱々しい。
……さっきまで神経を研ぎ澄ませていたせいだろう。彼女はいつもと何ら変わりのないように頑張っているというのに、そんなのはやせ我慢なんだって看破できてしまうのは。
「……………………………」
彼女は立ち去らない。
何か言いたいことがあるのか、ただじっとこちらを見つめている。
「……まいったな。君に会ったらいっぱい言わなくちゃいけないコトがあったんだけど、忘れてしまった。元来忘れっぽい人間でね、肝心な時に大事なことばかり言い逃してしまう」
【レン】
そう、いつも忘れてばっかりだ。
けど、それでも一つだけ、忘れずに言おうとしていた言葉がある。
「―――その、今までありがとう。他にも色々あるんだけど、これが一番言いたい言葉」
笑いかける。
【レン】
今まで無理をしていた彼女に、最後の力でこの夢を維持してくれた淋しい彼女に。
「……………………………」
眼差しに翳りがさす。
……彼女は無言で、ある事を抗議している。
もともとそれを止める為に彼女はやってきたのだろう。
「うん、アイツと戦ってみる。普通の方法じゃ勝てないのは、まあ自分でも解っているんだ。そういうわけだから、そんな目をしてそういじめないでくれ」
出来るだけ強がって、なんでもない事のように言った。
「……………………………」
彼女の視線はますます翳りを濃くしていく。
―――その瞳が言っている。
今までどおりにしていれば何の問題もないのに、どうしてそんな自殺するような真似をするのか。
何も気付かず、夢から醒めるまでずっとこうしていればいいのに、どうして、と。
「……そうだね、確かにどうしてだろう。色々と理由はあるんだけど、どれも一番ではない気がする」
それは、
これ以上この世界を維持していれば彼女が消えてしまうからだし、
アイツを放っておけば死はどんどん広がって、外で眠っている自分が死んでしまうからだし、
もしかすると心の奥底であの男と決着をつけたがっている自分がいるのかもしれないからだし。
けれど、それらは全て、なんだか二つ目ぐらいの理由にしか思えなかった。
【レン】
「……………………………」
視線はいまだ頬に刺さっている。
その視線に答えるために、
「……ああ、やっぱり自分の命のためってコトがあるのかもしれない。けど、それとは別にアイツは倒さないといけない気がするんだ。
―――だってさ。アイツがいたら、この夢が続けられなくなっちゃうだろう?」
いまだ自分には掴めない、本当の理由を口にした。
「―――――――――――――」
問いかけてきていた視線が消えた。
彼女は呆然と佇んだあと、
【レン】
今まで一番強く、確かな瞳で俺を見た。
「………………………………」
黒いコートが揺れる。
少女は小さくおじぎをするように頭をさげて
別れを告げるように、唇を重ねてきた。
「―――――――」
あんまりに突然のコトで、体が動かない。
頬に添えられた指の感触。
重ねられただけの唇。
ただ、本当にしたかったからした、といった、動物のような触れ合い。
―――彼女は本当に、
切なくなるぐらい、
俺のことを好いてくれているのだと。
それは愛情も情欲も馬鹿馬鹿しくなるぐらい、無垢で愛らしい、さよならのくちづけだった。
□中庭のベンチ
「―――――――――」
唇が離れた瞬間、少女の姿は完全に消えてしまった。
□中庭のベンチ
「な―――――――」
いつものように走り去っていったのなら、どんなことをしてでも追いついて捕まえた。
なのにこれではその後を追うコトさえできない。
□中庭のベンチ
「―――――――」
あの子が。
俺とアイツが出会う前にアイツを倒そうだなんて、無茶なコトを考えていたのが分かったのに。
□中庭のベンチ
「だめだ―――行っちゃ、だめだ」
途切れていく意識の中、最後にそう呼びかけた。
答えなんて返ってこない。
あの子は俺より一足先にアイツの所に行ってしまった。
……なんてことだろう。あの子では、アレには勝てない。
俺にだったらまだ可能性ぐらいはあるだろうけど、あの子では絶対にアレには抗えない。
何故なら、それは―――――
――――そこで意識は途絶えた。
……アレは、あの森で俺を待っている。
遠野志貴に逃れがたい死を投影したあの場所。
そこがこの夢の最後の舞台。
自分にとっても、
あの、小さな体で必死に走っていった少女にとっても。
だから、急がないと。
自らの肉体に刻みつけるように、たとえ何もかも忘れていようとあの場所に向かうのだと、心に刻み付けて闇に落ちた―――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s307
□中庭
白く融けてしまいそうなぐらい、中庭には光が溢れていた。
穏やかで輝かしい朝の風景。
「ん〜〜〜〜!」
思いっきり背伸びをして、新鮮な空気を吸いこんだ。
もうこの世界には何処にも影がない。
悪夢も死の気配も消えた平和な日々。
それこそ完璧な、誰かが見た夢のような、終わらない幸福な時間。
「―――――――けど」
はたして、自分はここまで平穏な夢を見続けることができるだろうか?
だって、これは日常だ。
夢というものはもっと都合のいいもので、もし自分が夢を見るとしたら、もっと突拍子のない展開の連続になると思う。
……こんな、いくら平穏でも、日常となんら変わりの無い夢なんて、大事に思えるほどのユメじゃない。
「――――――――やあ」
背後に気配を感じて振り向いた。
―――白く消えてしまいそうな朝の陽射しの下。
黒いコートの女の子が、ちょこんと行儀よく佇んでいる。
【レン】
「…………………………」
「おはよう。ここに来れば会えると思った」
「…………………………」
女の子は答えず、遠い瞳でこちらを眺めている。
……やっぱりまだ元気がない。
死の具現は消えたというのに、あんな応急処置では彼女を助ける事などできないとでも言うように。
「そうだな、まだるっこしいコトはなしにしよう。とりあえず一人で話をするけど、いいかな」
「…………………………」
女の子はどこか不安そうに頷いた。
「ありがとう。それじゃあ単刀直入に言うけど、これって夢の中の話なんだろ? 同じ一日を繰り返していたのも、昨日のコトを忘れているように思っていたのも、実はなんという事はない、ここで起きえる事をすべて内包した箱庭なんだ。
だから一日、なんていう概念もなくていい。すべては起こり得る事なんだから、あらかじめ体験していてもいいし、まだ体験していなくてもいい。
それでも朝と夜っていう境界を引いたのは、やっぱり出来るだけ忠実にしたかったんだろうね」
【レン】
「…………………………」
「違うってば、怒ってるわけじゃないって。逆に感謝してるんだ。ここでの時間はすごく楽しかった。きっと、他の人たちもそう思ってるんじゃないかな。いつも目が醒めた後、ああ今日の夢も楽しかった……って喜んでるよ。その点でいうと、君はすごく立派な夢魔なのかもしれない」
【レン】
「けど文句がないワケじゃないぞ。他の人たちは毎日の夢でちょっと引っ張り出されるだけだろうけど、主観にされてるこっちはかなり混乱したんだ。初めは閉じ込められたのかなって不安になったぐらいだし、少しは説明があっても良かったんじゃないか?」
むっ、と抗議の眼差しを送る。
【レン】
「…………………………!」
あ、慌ててる慌ててる。
よしよし、今後こんなイタズラが癖になったら問題だし、怒る所はちゃんと怒っておかないといけない。
「反省してるならそれでいいよ。……まあ、君が秘密にしようとした理由も解らないでもないんだし」
【レン】
「…………………………」
「分かってる。俺がこの夢の主観であり、いつまでも夢を見続けているってコトは、現実の遠野志貴が怪我をしたからだろう?
……えーと、あらましはこんなトコだと思う。
何かの事故にあった俺は、とりあえず病院に担ぎ込まれた。で、昔の後遺症なのかしらないけど中々目を醒まさない。それを心配したアルクェイドが君を使って俺が精神死を迎えないようにした――どう、あってる?」
「…………………………」
む、なんか複雑な沈黙だ。
当たっているのか間違っているのか、ちょっと自信がなくなってくる。
「……話を戻すけど。
そうして眠り続けている遠野志貴は、こうして夢の世界でのんびりして、その間に現実のほうで治療が終わる。
これは憶測なんだけどね。俺の怪我って、実はとっくに治っているんじゃないか? だから俺も、もうじきこの夢を見ることがなくなってしまう」
「…………………………」
気付いていたんだ、と彼女は瞳で告げた。
「うん。いくら俺が鈍感でも、さすがに気付いた」
―――それと。
この夢を維持するために走り続けてきた君も、もうじき夢のように消えてしまうというコトも。
「…………………………」
彼女はかすかに俯いた。
……長い沈黙。
それにいつまでも付き合おう、と考えている矢先、彼女は凛とした瞳を向けて。
【レン】
“もう目覚めて”
そう、彼女は感情のない瞳で言った。
……一人きり。あの、遠い風景を眺めていた頃と変わらない瞳で、声もなく別れを告げる。
「――――――――」
その言葉を聞いて確信してしまった。
……彼女は気が付いていない。
俺は、自分で目覚めることなんてできない。
だってこれは、遠野志貴が見た夢じゃないんだ。
ここでは誰もが役者だと悪夢は言った。
その中で唯一俺が主観だった理由は、きっと俺自身が語った通りなのだろう。
けれど、こんななんでもない日々を大切に、届かない憧憬のように作り上げたのは俺じゃない。
「……そうか。そんなことにさえ、気が付かないほど」
君は、ずっと独りだったのか。
歩み寄る。
彼女は逃げ出さずに見上げてくる。
その肩に手を置いて、言った。
「―――違うんだ。これは、俺の夢じゃない」
「…………………………?」
不思議そうに首をかしげる。
……そう。
この世界が死にかけているのは当然といえば当然なんだ。
そもそも、命に大事のない遠野志貴の夢なら、世界が死にかけるなんて事も起きえない。
……初めから、死にかけているのは一人だけ。
その間際に見た最後の夢が。
「これはきっと、君がずっと見たがっていた」
本当に、どうということのない、
「大切な、君の夢なんじゃないかな」
独りきりの子猫が見た、ありきたりの日常だった。
「―――――――――――――――――」
呆然とした彼女の貌。
……唇が静かに揺れている。
わたしの、ゆめ。
怖れるような、信じられないような、そんな震え。
彼女はただ呆然とその言葉を繰り返す。
「………………」
きっと、彼女はアルクェイドを通して俺たちの日常を眺めていた。
ただぼんやりと、喜怒哀楽を持ちながら、それがそれぞれどのような事柄なのかさえ知らなかった彼女は、自分でも分からないままに望んでいたのだ。
誰かと話して、誰かに触って。
それがどういうコトなのか知らないけど、ただ、そうしていられたらいいと。
……撫でられた子猫が、嬉しいという意味なんて関係なく、ただいつまでもそうしていようとするように。
―――けれど、彼女にはそうする理由というものがなかった。
だからどんなに望んでも見つめているだけ。
遥か昔、彼女の主がそうであったように。
ただ世界を眺めて個人であろうとし、結局最後に、彼女に触れて温かみを教えてしまった独りの老人。
彼女はただ眺めるだけ。
中に入れず、けれど温かみを知っていて、誰かの幸福を眺めているだけの少女。
「――――――」
そんなのは、もう、やめにしよう。
□中庭
地面に膝をついて、優しく、彼女を抱きしめた。
「もういいよ」
力を入れて、けれど束縛することなく、そっと抱きしめた。
「今までずっと淋しかったんだ。だからもう、中に入ってきていいんだよ」
こつん、と額をあてて言った。
「…………………………」
初めは、驚いたように顔を上げて。
何か、長年の呪縛から解かれたように、つう、と彼女の頬に涙が零れていった。
「…………………………」
たどたどしく寄せられるか細い指。
ただ一筋の涙を流して、少女はすがるように抱きついてきた。
ありがとう、と。
声無き声で、子猫が鳴くように繰り返す。
「……ばか。そんなの、お礼を言わなくちゃいけないのはこっちの方だ。怪我が治るまでずっと守ってくれただろ。だから、そのお礼をしなくちゃ。
……頼りにならないだろうけど、俺で構わないのなら」
少女から腕を離して、ぶつりと人差し指を噛みきった。
つう、と零れていく赤い血液。
「君の力になれないかな。こんなものでよければいくらでもあげるから」
「…………………………」
血に濡れた指を差し出す。
彼女は慌てながら、どこか不安そうな目で困っている。
「知ってる、こういうのって契約っていうんだろ。アルクェイドのヤツじゃ君に力を分けられないなら、俺が君と契約する」
【レン】
「…………………………」
少女は陶然と吐息をつく。
――――彼女は、恥ずかしそうに俯いたあと、
ふるふると、首を横に振って断った。
【レン】
「……………………」
彼女は恥ずかしそうに俯いて、ひどく言いにくそうにこちらを見ている。
「……? 契約するのはイヤ、なのかな」
【レン】
【レン】
【レン】
「………………!」
力いっぱい首を振る。
「?」
どうにも契約自体はイヤじゃないようだ。
けど、ならどうして血を飲むのを断ったんだろう。
【レン】
「……………………」
彼女はすがるような目を向けてくる。
「―――あの、君が言いたい事はよく分からないんだけど……とにかく契約自体は問題ないんだね?」
「……………………」
頷く少女。
それなら、もう一度――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s308
□中庭
白く融けてしまいそうなぐらい、中庭には光が溢れていた。
穏やかで輝かしい朝の風景。
「ん〜〜〜〜!」
思いっきり背伸びをして、新鮮な空気を吸いこんだ。
もうこの世界には何処にも影がない。
悪夢も死の気配も消えた平和な日々。
それこそ完璧な、誰かが見た夢のような、終わらない幸福な時間。
「―――――――けど」
はたして、自分はここまで平穏な夢を見続けることができるだろうか?
だって、これは日常だ。
夢というものはもっと都合のいいもので、もし自分が夢を見るとしたら、もっと突拍子のない展開の連続になると思う。
……こんな、いくら平穏でも、日常となんら変わりの無い夢なんて、大事に思えるほどのユメじゃない。
「――――――――やあ」
背後に気配を感じて振り向いた。
―――白く消えてしまいそうな朝の陽射しの下。
黒いコートの女の子が、ちょこんと行儀よく佇んでいる。
【レン】
「…………………………」
「おはよう。ここに来れば会えると思った」
「…………………………」
女の子は答えず、遠い瞳でこちらを眺めている。
……やっぱりまだ元気がない。
死の具現は消えたというのに、あんな応急処置では彼女を助ける事などできないとでも言うように。
「そうだな、まだるっこしいコトはなしにしよう。とりあえず一人で話をするけど、いいかな」
「…………………………」
女の子はどこか不安そうに頷いた。
「ありがとう。それじゃあ単刀直入に言うけど、これって夢の中の話なんだろ? 同じ一日を繰り返していたのも、昨日のコトを忘れているように思っていたのも、実はなんという事はない、ここで起きえる事をすべて内包した箱庭なんだ。
だから一日、なんていう概念もなくていい。すべては起こり得る事なんだから、あらかじめ体験していてもいいし、まだ体験していなくてもいい。
それでも朝と夜っていう境界を引いたのは、やっぱり出来るだけ忠実にしたかったんだろうね」
【レン】
「…………………………」
「違うってば、怒ってるわけじゃないって。逆に感謝してるんだ。ここでの時間はすごく楽しかった。きっと、他の人たちもそう思ってるんじゃないかな。いつも目が醒めた後、ああ今日の夢も楽しかった……って喜んでるよ。その点でいうと、君はすごく立派な夢魔なのかもしれない」
【レン】
「けど文句がないワケじゃないぞ。他の人たちは毎日の夢でちょっと引っ張り出されるだけだろうけど、主観にされてるこっちはかなり混乱したんだ。初めは閉じ込められたのかなって不安になったぐらいだし、少しは説明があっても良かったんじゃないか?」
むっ、と抗議の眼差しを送る。
【レン】
「…………………………!」
あ、慌ててる慌ててる。
よしよし、今後こんなイタズラが癖になったら問題だし、怒る所はちゃんと怒っておかないといけない。
「反省してるならそれでいいよ。……まあ、君が秘密にしようとした理由も解らないでもないんだし」
【レン】
「…………………………」
「分かってる。俺がこの夢の主観であり、いつまでも夢を見続けているってコトは、現実の遠野志貴が怪我をしたからだろう?
……えーと、あらましはこんなトコだと思う。
何かの事故にあった俺は、とりあえず病院に担ぎ込まれた。で、昔の後遺症なのかしらないけど中々目を醒まさない。それを心配したアルクェイドが君を使って俺が精神死を迎えないようにした――どう、あってる?」
「…………………………」
む、なんか複雑な沈黙だ。
当たっているのか間違っているのか、ちょっと自信がなくなってくる。
「……話を戻すけど。
そうして眠り続けている遠野志貴は、こうして夢の世界でのんびりして、その間に現実のほうで治療が終わる。
これは憶測なんだけどね。俺の怪我って、実はとっくに治っているんじゃないか? だから俺も、もうじきこの夢を見ることがなくなってしまう」
「…………………………」
気付いていたんだ、と彼女は瞳で告げた。
「うん。いくら俺が鈍感でも、さすがに気付いた」
―――それと。
この夢を維持するために走り続けてきた君も、もうじき夢のように消えてしまうというコトも。
「…………………………」
彼女はかすかに俯いた。
……長い沈黙。
それにいつまでも付き合おう、と考えている矢先、彼女は凛とした瞳を向けて。
【レン】
“もう目覚めて”
そう、彼女は感情のない瞳で言った。
……一人きり。あの、遠い風景を眺めていた頃と変わらない瞳で、声もなく別れを告げる。
「――――――――」
その言葉を聞いて確信してしまった。
……彼女は気が付いていない。
俺は、自分で目覚めることなんてできない。
だってこれは、遠野志貴が見た夢じゃないんだ。
ここでは誰もが役者だと悪夢は言った。
その中で唯一俺が主観だった理由は、きっと俺自身が語った通りなのだろう。
けれど、こんななんでもない日々を大切に、届かない憧憬のように作り上げたのは俺じゃない。
「……そうか。そんなことにさえ、気が付かないほど」
君は、ずっと独りだったのか。
歩み寄る。
彼女は逃げ出さずに見上げてくる。
その肩に手を置いて、言った。
「―――違うんだ。これは、俺の夢じゃない」
「…………………………?」
不思議そうに首をかしげる。
……そう。
この世界が死にかけているのは当然といえば当然なんだ。
そもそも、命に大事のない遠野志貴の夢なら、世界が死にかけるなんて事も起きえない。
……初めから、死にかけているのは一人だけ。
その間際に見た最後の夢が。
「これはきっと、君がずっと見たがっていた」
本当に、どうということのない、
「大切な、君の夢なんじゃないかな」
独りきりの子猫が見た、ありきたりの日常だった。
「―――――――――――――――――」
呆然とした彼女の貌。
……唇が静かに揺れている。
わたしの、ゆめ。
怖れるような、信じられないような、そんな震え。
彼女はただ呆然とその言葉を繰り返す。
「………………」
きっと、彼女はアルクェイドを通して俺たちの日常を眺めていた。
ただぼんやりと、喜怒哀楽を持ちながら、それがそれぞれどのような事柄なのかさえ知らなかった彼女は、自分でも分からないままに望んでいたのだ。
誰かと話して、誰かに触って。
それがどういうコトなのか知らないけど、ただ、そうしていられたらいいと。
……撫でられた子猫が、嬉しいという意味なんて関係なく、ただいつまでもそうしていようとするように。
―――けれど、彼女にはそうする理由というものがなかった。
だからどんなに望んでも見つめているだけ。
遥か昔、彼女の主がそうであったように。
ただ世界を眺めて個人であろうとし、結局最後に、彼女に触れて温かみを教えてしまった独りの老人。
彼女はただ眺めるだけ。
中に入れず、けれど温かみを知っていて、誰かの幸福を眺めているだけの少女。
「――――――」
そんなのは、もう、やめにしよう。
□中庭
地面に膝をついて、優しく、彼女を抱きしめた。
「もういいよ」
力を入れて、けれど束縛することなく、そっと抱きしめた。
「今までずっと淋しかったんだ。だからもう、中に入ってきていいんだよ」
こつん、と額をあてて言った。
「…………………………」
初めは、驚いたように顔を上げて。
何か、長年の呪縛から解かれたように、つう、と彼女の頬に涙が零れていった。
「…………………………」
たどたどしく寄せられるか細い指。
ただ一筋の涙を流して、少女はすがるように抱きついてきた。
ありがとう、と。
声無き声で、子猫が鳴くように繰り返す。
「……ばか。そんなの、お礼を言わなくちゃいけないのはこっちの方だ。怪我が治るまでずっと守ってくれただろ。だから、そのお礼をしなくちゃ。
……頼りにならないだろうけど、俺で構わないのなら」
少女から腕を離して、ぶつりと人差し指を噛みきった。
つう、と零れていく赤い血液。
「君の力になれないかな。こんなものでよければいくらでもあげるから」
「…………………………」
血に濡れた指を差し出す。
彼女は慌てながら、どこか不安そうな目で困っている。
「知ってる、こういうのって契約っていうんだろ。アルクェイドのヤツじゃ君に力を分けられないなら、俺が君と契約する」
【レン】
「…………………………」
少女は陶然と吐息をつく。
――――彼女は、恥ずかしそうに俯いたあと、
ゆっくりと、差し出した指を舐めた。
「ひゃっ……!」
驚いて指を引っ込める。
「ちょっ、ちょっと、今のすっごく冷たかったけど……!」
「…………………………」
はい、とばかりに頷くと、トテトテと歩いていく。
そうして、こちらと少し距離をとった後、
【レン】
スカートの裾をあげて、つい、と行儀よくお辞儀をした。
「あ……これで契約は済んだってコト?」
「…………………………」
これまた笑顔でうなずく少女。
「そっか、ならもう君が死にかける、なんて事もないんだな?」
「…………………………」
はい、頷いて少女は空を見上げた。
つられてこっちも空を仰いだ。
それは、これ以上はないというぐらいの青空だった。
本当に吸いこまれそうな青は、彼女の心を映し出しているようにもとれる。
――――――、と。
□病室
いつもの眩暈が、やってきた。
「ぁ―――――ちょっと待った……!もしかしてもう起きちまうのか!?」
返事はない。
ただ眩暈だけが強くなる。
「―――まあ、それはかまわない、けど」
目覚めるのなら早い方がいいだろうし。
ただ、その前に―――
「君の名前、まだ聞いてなかっただろ」
そう。
他の誰からでもなく、彼女自身の口からその名前を聞きたかった。
この夢が有ったのだという確かな証に。
これから大切な家族となる彼女の名前を。
――――そうして白。
視界は途絶え、今度こそ本当の眠りへと落ちていく。
その前に。
いだすらな舌を出して、二文字の言葉を残していった彼女の姿を見た。
――――全ては有ったが無かったこと。
なら終わりはここじゃない。
もう一度初めに戻って、今度こそ本当の目覚めを迎えよう。
そこにはきっと夢で出会った全ての人が待っていて、最後に、この夢で知り合ったあの子の姿があるだろうから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s400
□教室
ホームルームが始まった。
クラスは真夏の一日のように騒々しくて、いつもの平坦な授業とは趣きが異なる。
ん?
ああ、そういえば、今日は――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s401
□教室
ホームルームが始まった。
クラスは真夏の一日のように騒々しくて、いつもの平坦な授業とは趣きが異なる。
ん?
ああ、そういえば、今日は――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s402
□教室
ホームルームが始まった。
クラスは真夏の一日のように騒々しくて、いつもの平坦な授業とは趣きが異なる。
ん?
ああ、そういえば、今日は――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s403
――――――静かに。
ゆっくりと眼を開いた。
視界いっぱいに広がる、錆びた黄金色の野原。
それが、彼女が一番初めに見た世界だった。
日々は変わらない繰り返しだった。
何一つ変化はなく、何一つ起こらない。
彼女は白紙の頭で日々を見る。
もとより人ではなく、感情に意味づけする必要のない生き物だったおかげだろう。
生きている必要性さえ感じられないそこでの日々は苦痛ではなかった。
否。
そもそも楽しいという意味を知らないのだから、苦しいという意味もない。
――――次に見たのはその背中。
彼女の記憶に残っている映像の、三つの二つ目。
もちろんそれしか覚えていない訳ではない。
彼女が見たものは、その三つしかなかっただけだ。
気が付いた時、彼女はそこにいた。
世界の事が解らないのだから自分の事など解るはずがない。
ただその背中を見た時に、自分はこの人に作られたのだと本能が受け入れた。
――――それからの日々は、ただ魔術師の背を眺めるだけだった。
視界はいつも錆びた黄金。
高い高い丘の上に、魔術師は一人で住んでいた。
丘の下には一つの村。
ずっと、気の遠くなるぐらいずっと、魔術師はここに一人で住んでいる。
村の老人が子供で、その親が子供だった頃からずっとひとり。
丘の上には魔術師が住む。
村の人間はそれだけしか知らなかった。
誰も確かめる事はしなかったし、その必要もなかったのだろう。
村の人間は魔術師を必要としないのだし、
魔術師も村の人間を必要としないからだ。
魔術師はただ研究だけを続けていた。
廃墟のような屋敷には誰もいない。
研究以外にやることは、夕暮れ時に中庭で遠くを眺めるだけだった。
魔術師は彼女を作った。
彼女は確かに必要とされていて、
彼女も確かに必要だから作られた。
けれど魔術師は彼女を見なかった。
そして彼女も魔術師を見なかった。
―――きっと、お互いに必要がなかったからだ。
長い年月二人でいたのに、
ふたりは会話するコトさえなかった。
魔術師は頑なで、生きているうちに話した回数はきっと指で数えられるほど。
彼女に確固たる思考があったのなら、
まるで死人のようだと、
魔術師のことを評したかもしれない。
彼女は魔術師の声を知らない。
ただ一度。
彼女に彼女の在り方を告げた一言しか。
だから何も知らないまま。
言葉も感情も、与えられた知性の意味もわからない。
わからないまま、ただずっと、その背中を眺めていた。
――――――これは、ただそれだけの話。
回る風車。
いつもきまって夕暮れに佇む老人。
ただの一度しか話しかけられず、
ただの一度しか触れてもらえなかった、
そんなコトなんてどうというコトもなかった、ちっぽけな彼女の話。
――――――これは、ただそれだけの話。
……ただそれだけで、彼女が幸せだった頃の話。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s404
――――――初めに名前を。
次に、在り方を教えよう。
それが彼女の聞いた、魔術師の唯一の言葉。
風車が回っていた。
煉瓦造りの塔は、その三つ葉で風を織る。
草原は一斉にたなびき、夕焼けはひどく遠く。
風は、駆けぬける竜のように迅く、雄大に過ぎていく。
魔術師が座る椅子が揺れている。
その椅子の下で、共に夕焼けを見るのが彼女の日課だった。
もちろん彼女は夕焼けが好きだったわけではない。
もともと好きだとか嫌いだとか、そういった感情を彼女はまだ知らない。
それでも飽きずに夕焼けを見つめていたのは、ただ主の真似をしようという動物的な思いつきだった。
秋はその日に終わった。
錆びた黄金の草原は、明日から段々と鋼色の荒野へと変わっていくだろう。
風は冷たく、風車はいつもより早く回り、夕焼けは今まで見た中で一番赤かった。
だから。
そんな予感がしていたといえば、確かに予感はしていたのだ。
魔術師は一人で、結局、彼女が知り得る範囲で最期まで独りだった。
何の研究をしていたのかなんて彼女に解る筈がない。
魔術師というものは魔法を求めて、自分でもその次の自分でも辿りつけないと知っていながら血脈を重ねていく者らしい。、
それでも、気の遠くなるような継承を繰り返しても、魔法に辿りつける魔術師なんていないのだ。
魔術師では永遠に魔法には辿りつけず、彼らは永遠に報われない。
魔術師が一番はじめに学ぶのは、自分たちのやることは全て無駄だと覚悟することらしい。
それでも代を重ねて研き上げた技術を後継ぎに託していくのだ、と彼女は二番目の主に聞かされたことがある。
けど、それだとこの魔術師はなんだったのだろう。
弟子もとらず、魔法を求めていたわけでもない。
栄光なんて興味もなく。
長く、おそらくはただの一度も満足したコトなんてなかった。
――――それは、なにも残さない人生だった。
他人と関係を持つ時間も惜しんで研究にうちこんで、ただの一度も報われず。
いいや、きっと報われようなんて、そんな余分なことさえ思わなかったに違いない。
あの老人が求めたのは過程だけ。
結果なんて知らない。
ただ、際限なく学ぼうとしていただけ。
それが魔術師の全てだった。
もちろん、そんな人生が楽しかった筈はない。
……だって、やっぱり。
楽しい、だなんて感情も、研究には余分なコトだったに違いないから。
――――――おまえに在り方を教えよう。
はじめて、恐る恐る目を開けて世界を見たあと。
今にも崩れそうな枯れ木のような、
何をしても欠片さえ出さない岩のような、
年老いた魔術師は彼女に教えた。
「使い魔は、自らの意志で行動してはならぬものだ」
それが彼女の聞いた、魔術師のただ一つの言葉。
彼女は教えに従った。
終わりのような時間だと彼女は思った。
風は冷たく、風車はいつもより早く回り、夕焼けは今まで見た中で一番赤かったから。
だから、予感がしたのだ。
彼女は椅子の下から出て魔術師を見上げた。
その相貌に変わりはない。
何一つ変化はなく、遠い落陽を見つめたまま、わずかに口元が動いた気がした。
彼女はかけあがる。
初めて自分から魔術師に触れた。
膝の上に重ねられていた本に乗って、よく聞こえるように耳をたてた。
何十年ぶりだろう。
初めと二番目。
ようやくその次になる教えを聞けるのだと、
彼女は初めて、期待で主を見上げていた。
しわがれた手の平が彼女を撫でた。
彼女は驚いて動けなくなってしまった。
知らない。
ただ頭を撫でられただけなのに、ずっとこうしていたくて、体が動かなくなってしまうなんて知らなかった。
けれどそれは一瞬だけだったと思う。
魔術師は遠くを見つめたままで彼女から手を離して、一言も残さず、その、長い長い人生を終えた。
なんの意味もない終わりだった。
もとよりなんの意味もない生でもあったのだから、それはまあ、仕方のないことだと思う。
ただ最期の最期で、魔術師は失敗をした。
たとえ無意識で行ったことにしたって、彼女に触れるコトはなかった。
それで彼は魔術師ではなく、寂しい老人になって息を引き取ってしまったのだから。
――――――訳も解らず、彼女は鳴いた。
だって、あんまりにもあんまりだ。
そんな人並みの感傷を見せるなんてあんまりだ。
そのせいで、魔術師は自らの孤高はただの孤独ではなかったのかと、最期の最期に迷ってしまったのだから。
そうして葬送の鐘の音を、彼女は椅子の上で聞いていた。
―――――彼女は空席に揺られて夢を見る。
ただの一度しか触れなかった主。
ただの一度だけ触れてくれた主。
自らの最期を台無しにしてまで別れを告げてくれた、無口だったある魔術師。
……だから、それが悲しい。
老人がどれほど彼女を必要としていて、どれほど彼女を愛していたか。
そんなもの、彼女が一人になってから教えられても、もうこの椅子には誰も座りはしないのだから。
そうして秋は終わって、鋼色の冬が来た。
そのあとのコトを彼女は知らない。
新しい主人がやってきて彼女を引き受けて行っただけだ。
だから、彼女が覚えている風景は三つだけ。
生まれて初めて、そうしてずっと見つめ続けていた錆びた黄金。
何も語らなかった主の背中。
それと――――――
それと、
ただ一度だけ魔術師の膝の上で見た、その年一番の赤い夕日と、しわがれた―――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s405
□病室
――――――そうして飽きもせず夢を見る。
穏やかな朝。
柔らかな陽射しとカーテンを揺らす風。
白く清潔な病室で、すやすやと眠っている呑気者は間違いなく自分である。
―――……ったく。こっちの苦労も知らないで平和そうに眠りやがって。
ぱかん、と一発ぐらい殴ってやりたいが、それだと自分で自分を殴るおかしな人ってコトで退院が遅れてしまう。
ここはぐっと、言いたい事を我慢するのが大人ってものだろう。
―――ああ、けど良かった。怪我、大したことなさそうじゃないか。
うん、頭に巻かれた包帯はそう大したものでもない。
何針も縫ったのかな、と思っていたけど体のどこにも手術の跡はないし、ようするにこれは秋葉のヤツが大げさに個室を用意しただけだろう。
……だから、何を恐れる必要もなかったんだ。
遠野志貴はすぐにでも目を醒ます。
死にかけるほどの事故でもなかったし、死にかけるほどの怪我でもなかった。
そんなワケで、あの死の具現なんて初めから敵じゃなかったのだ。
―――だから、それがおかしいんだってば。
そう、それがおかしい。
遠野志貴がなんの大事もないっていうんなら、そもそも死の具現なんて出てこない筈なんだから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s501
□教室
「……む……?」
はて、と首をかしげる。
そういえばお祭りの準備をしていた気がするけど、それにしたって――
【有彦】
「おーう、早く着替えてグラウンド行こうぜー。遠野、一発目の五十メートルのトップバッターだろ?」
「あれ、そうだっけ……体育祭、だったっけ」
「はあ? なにぼけてんだよ、みんな体操服に着替えてんだろ。ほら、オレたちもとっとと着替えねーと開会式に間に合わねーぜ」
シュッパ、とズボンを脱いでジャージに着替える有彦。
「わわ、ちょっと待った! すぐに俺も着替えるから待てっての。……って、ジャージと短パンとハチマキは何処に置いたっけな……」
「名札も忘れんなよー! んじゃ先に行ってるからなー!」
だだだだだ、と勢いよく駆け出していく。
「―――――そっか、名札も忘れちゃダメだよな」
いそいそとロッカーから着替えを出して、急いで体育祭の用意をした。
□校舎前
開会式が終わって、各クラスがそれぞれの応援席へと移動していく。
うちの学校は進学校なだけあって、体育祭にはあまり力が入っていない。
あくまでお決まりの競技とお決まりの日程ですぎていくため、文化祭の盛りあがりには遠く及ばないというのがホントのところだ。
―――五十メートル走の選手はただちに第一トラック前に集合してください。
繰り返します、五十メートル走の選手は――
「……っと、考え事をしてる場合じゃないか」
ぼけた頭を切り替えて第一トラックへ向かう。
「あ、遠野くん!」
と、その前に先輩に呼びとめられた。
「はい、なんですかせんぱ――――」
そうして振り向いた瞬間、ぼけた頭がさらにぼけてしまった。
【シエル】
………反則だ。
先輩の体操服姿は、健康的なお色気というレヴェルを逸脱している。
「……先輩。その―――こんな事を口にすると誤解されそうなんですけど」
「はい? 誤解というと、なんでしょうか」
「先輩、きつきつですね。サイズ合ってないんじゃないですか」
「え? サイズ的には合ってますけど、そんなにヘンですか?」
不安そうに体操服を見るシエル先輩。
―――うむ、コレはコレで正解なのであえて何もいうまいよ。
「いえ、全然ヘンじゃないです。それよりなんですか先輩、急に呼びとめて」
「あ、そうでした。遠野くん、これから五十メートル走ですか?」
「はい。ちょっくらひとっ走りしてきますけど、それが何か」
「ではその次の競技はなんでしょうか」
「……はあ。次は高跳びと曲芸ですね。そうしてお昼休みを挟んで、騎馬戦とリレーですけど」
「そうですか! それじゃお昼休みに挟む競技はとってないんですね?」
「ですねー。高跳びは長引くと昼休みに食いこみますけど、きっと予選落ちですから」
「良かった、それなら予約を入れちゃいます。今日はお弁当を作ってきましたから、お昼は一緒にとりませんか?」
じっ、と先輩は上目遣いで提案してくる。
「……あのですね、先輩。その格好でそんなコトを言われてノーといえる男の子なんていません。よろこんでご一緒します」
「良かった、それじゃあ失礼しますね。いいですか、もう約束しちゃいましたからねー!」
手を振って自分の応援席へ駆けていくシエル先輩。
「―――――やった」
お昼は先輩と一緒かあ。
……とっ、にやけている場合じゃない。こっちも急がないと五十メートル走に遅れて――
「ああ、良かった。待ってください、兄さん!」
―――と、今度は秋葉に呼びとめられた。
「ああもう、なんだよ秋葉! 見てのとおりもう急がないといけないんだってば!」
それでも律儀に振り返る。
【秋葉】
――――――――。
いや、これはこれで。
「に、兄さん……? あの、お忙しいのは解りますが、その前に少しいいですか?」
体操服姿が恥ずかしいのか、秋葉は借りてきた猫のように大人しい。
シエル先輩とは正反対の魅力というか、まっとうな体操服姿もやっぱりいいなあ、とかなんとか。
「―――うん、これはこれで」
「……はい? あの、お話をしていいんですか兄さん?」
秋葉はおどおどとこちらを見上げる。
……その仕草は反則だ。ていうか、さっきから反則のオンパレードだ。
「いいけどなんだよ。急いでるから手短にしてくれ」
「それでは簡潔に言いますね。琥珀が二人分のお弁当を作りましたから、お昼は学食に行く必要はありません」
「あ、そうなんだ。さっすが琥珀さん、気が利いてるな」
「そうですね。今日は特別手を加えたという事ですから、楽しい昼食になりそうですね」
「そうだな。それじゃあおいしくお弁当が食べれるように全力で走ってくるか!」
よーし、と気合をいれる。
……なんかどこかひっかかるけど、琥珀さんのお弁当は本当にありがたい。
「それでは失礼します。それと兄さん、一位以外の結果なんて認めませんからね」
最後にらしいセリフを残して秋葉も応援席へと戻って行った。
「………………」
しばし休憩。先輩と秋葉の姿を思い返して、こういう展開もアリだな、とかみさまに感謝する。
【久我峰】
「いやあ、体操服はいいですなあ」
「うわ、な、なんでこんな所にいるんだアンタ!」
「はっはっはっ、親族として見学に来たのですよ。秋葉様のブルマ姿など今までは拝見できませんでしたからねえ」
突如現れたふとっちょはほがらかに笑う。……この人もある意味大物というか、まったく懲りないというか、ともかくこの邪魔くさい人は久我峰斗波という。
その名前が示す通り、久我峰家の長男さんだ。
久我峰は遠野家の分家筋の中で最も格式の高い一族だ。その力は経済面において発揮され、財団法人である遠野グループの三分の一は久我峰の息がかかっている。
そんなこんなで遠野家としても久我峰は邪険にできる相手ではなく、このふとっちょ……もとい、斗波さんはちょっと前まで秋葉の婚約者だった。
本人は色々と問題のある性癖……いや、性格をしていて、遠野家に在留している間は翡翠を大いに困らせたという。
……まあ、今では改心してわりといい人になっているようなのだが。
「……いいんですか。秋葉に見つかったら今度こそ殺されますよ、アナタ」
「はっはっはっ、その程度のリスクを気にしていては会社はやっておられませんな。見たいものは見る。見れるものは見られるうちに見ておくべしです。
しかし惜しい。ワタシが秋葉様とご婚約していれば、もう好きなだけ着せ替えができたのでしょうなあ……」
しみじみと応援席の女生徒を眺めるふとっちょ。
とくにブルマと肌の隣接部分を射抜くように観察している。
【久我峰】
「それではワタシはこれで。撮影部隊に指示を送らねばなりませんので」
「……アンタ。まだその盗撮ぐせが治ってないのか」
【久我峰】
「はっはっはっ。ベストショットがありましたら志貴君にも譲ってさしあげましょう。それと老婆心ながらも一つ。二兎を負うものは二匹の兎にかこまれて袋叩きに遭いますぞ?」
ズシャーアー! とあの巨体に似合わない足取りで観客席に消えていくふとっちょ。
「……また妙なのに会っちまったな」
まあ、それでも昔ほど苦手という訳ではなくなっている。
秋葉と婚約を解消してから丸くなったし、なんか俺にも好意を抱いてくれているらしいんで邪険にはできないし。
「けど二兎を追うものってなんなんだろう」
呟いた途端、さっき秋葉と話した時に感じた違和感が蘇ってきた。
□校舎前
「―――? なんだ、なんか冷や汗が出てるぞ?」
というか、背筋が妙に冷たい。まるでこの先に待つ危険を察知したかのように体が震えていた。
「武者震いかな?」
あはは、と笑って自分を誤魔化したりする。
さて、それじゃあ第一トラックへ向かうとしますか。
――――んで、自分の間抜けさ加減に呆れた。
こういう展開になるって考えつきそうな物だったのに、どうしてその時になるまで考えもしなかったんだろう?
□中庭
ゴゴゴゴゴゴゴ!
はた迷惑にも大地を鳴動させるこの緊張感! 危険を察したのか中庭からは小鳥たちが一斉に空へ羽ばたき、うらやましいなー!なんて言っていた男子生徒たちも急用を思い出した、とばかりに教室に逃げ帰ってしまった。
「――――――――――――」
「――――――――――――」
にらめっこでもしているのか、二人はかれこれ十分ほど無言で対峙し、
「――――――――――――ふ」
「――――――――――――うふふふ、ふ」
このように時折含み笑いを洩らす。
実に、心臓によろしくない。
「――――それで先輩。その手に持っているみすぼらしい包みはなんですか?」
「あら秋葉さん、お弁当箱も見たコトないんですか? 図々しくもこちらに通い出してから大分経っているのですから、少しは一般教養が身についているかと思ったのに」
「そうですね、まだまだいたらぬ身で恥ずかしいかぎりです。けれど私が知っているお弁当というのは保存食としての機能も兼ね備えたものだと聞きます。そんな、白飯にカレーをぶっかけた物をお弁当と認めるワケにはいきません」
「失礼ですね、中身も見ていないくせに適当なコトを言わないでくれませんか? これは遠野くんと二人で食べられるように工夫に工夫を重ねたお弁当です。
―――そんな、あからさまに琥珀さんに作ってもらっただけの、他人の手を借りたお弁当とは内容も愛情もけた違いです」
例えるならミリとキロメートルぐらいですか、と笑顔で付け足すシエル先輩。
「―――――――――」
ぎり、と歯を鳴らす秋葉。……ゴゴゴゴ、という鳴動はさらに激しくなっていく。
これでこう、背景にバーン!と竜虎が相打ったら絵になるんだが。
「―――そう、先輩も苦労なさっているんですね。兄さんに誇れるだけの技術がないから愛情だとか時間をかけたとか、そんな犬の餌にもならない物を持ち出すしかないなんて。
ええ、本当に可哀相。空想でお腹は膨れません。だっていうのにそんな物を今まで無理やり食べさせられてきたんですね、兄さんは」
「あはは、その言葉はそっくり秋葉さんにお返しします。遠野くんも琥珀さんのお弁当だけならタイヘン美味しくいただけていたでしょうから」
「……ちょっと。それ、どういう意味ですか」
「額面通りに受け取ってくださって結構ですよ。食事というのはですね、料理が巧ければ美味しいというわけではありませんから」
バチバチバチバチ。
おお、やっぱり絵になったか!
「……いいでしょう、これ以上先輩と問答をしていても無意味です。私はこれから兄さんと昼食をとりますから、先輩はどうぞ街灯の上ででも一人で食事をなさってください」
「解らない人ですね秋葉さんも。先ほどから言っている通り、先に約束をしたのはわたしの方です。秋葉さんこそ離れに帰って食事をしたらどうです? 今日は特別に見逃してあげますから琥珀さんを召し上がっていいんですよ。ほらほら、こんなふうに無理に人間らしいフリをしなくていいんですってば」
あわわわ。
「―――そう。どうやら貴方とは一度白黒をつけなければならないようね、シエル」
「同感です。遠野くんの肉親だからと見逃していましたが、獅子身中の虫とも言いますし。一番始めに叩くべきは貴方でしたね、遠野秋葉さん」
あわわわわわわ。
「では勝負形式を決めましょう。後腐れがないように第三者にジャッジをしてもらうというのはどうですか」
「おや奇遇ですねー、わたしも同じことを考えてましたよ」
「ええ。つまり兄さんが選んだお弁当の持ち主が勝者ということで。これならお互いの能力はあまり関係ありませんから、純粋に勝敗の責任は全てそこの人にいくわけです」
ちらり、と。意味ありげな流し目を向けてくる鬼妹。
あわわわわわわわわわわ!
「ちょっ、ちょっと待った! その勝負形式は極めて俺に不公平だ!」
「あら、そんなコトはありませんよ? 兄さんはただお好きな方のお弁当を選べばいいんです。それで昼食は円満に始められますし、先輩との決着もつけられる。こんなに合理的な形式はないと思いますけど?」
「まったく同感です。一石で二鳥を落とす、というワケですね。まあ、この勝負形式の唯一の問題点は選ばれなかった方が勝者を恨むのではなくジャッジを恨む、という所でしょうけど」
ちらり、と。意味ありげな流し目を向けてくる鬼眼鏡。
「話は決まりましたね。
――――それじゃあ兄さん。潔く、どちらにするか決めてください」
ずい、とお弁当を差し出してくる秋葉。
「ええ。どっちも選べないとかどっちも食べたい、だとかぬかしやがったらタダじゃおきません」
ずい、とお弁当を差し出してくる先輩。
□中庭
「さあ」
ずい。
「さあ」
ずい。
「さあ!」
ずずい!
「さあ!」
ずずずい!
後じさりしていた足がごつん、とベンチに当たる。
退路はない。
目の前には標的を相手からこちらに変えたあくまが二人。
「は―――――――――は」
手詰まりだ。
こうなってしまったが最後、遠野志貴が無事に済む選択肢なんてどこにもないじゃないかよう……!
「―――――うわあ、もう食べられないよう!」
□志貴の部屋
で、ベッドから跳ね起きた。
「――――――む?」
はぁはぁと荒い息遣いのまま周囲を確認する。
……ここは自分の部屋。
時刻は午前四時過ぎで、時計の音がチクタクと夜の静けさを明確にしていた。
「……夢?」
はい、夢でした。
まあどんな夢だったかなんて思い出せないんだけど、なんか両手を縛られて無理やり二人分のお弁当を食べさせられているような、そんな拷問じみた夢だった気がする。
「……別にお腹は減ってないけど」
ばふ、とベッドに横たわる。
眠気はまだ十分にあるし、このままもう一度寝てしまおう。
―――さて。
願わくば、次はあんな悪夢を見ませんように――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s505
――――ヤツのが迅い……!
突き出した右腕がそのまま横一線に振るわれる!
□七夜の森
「……こ、のぉ――――――!」
さらに左足に全体重をかけて横に跳んだ。
それがトドメ。左足の感覚はそれで消えた。
「――――――――!?」
同時に、バキバキと倒れていく大木。
――――化け物。
ヤツの死角に入るため、木の陰へと跳んだ俺。
それを狙った結果がこれだ。
刃物ではなく、腕という単純な鈍器で叩き切られた木が倒壊していく。
□七夜の森
「――――――――」
倒れる大木と舞い散る落ち葉。
視界は塞がれ、ここに留まっていては倒壊に巻きこまれる。
状況はどちらにも不利。
だがその状況こそが唯一の機会……!
これが、二度目―――――!
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s506
―――――殺った………!
神速でたたらを踏む体を立て直し、ためらう事なくヤツの心臓めがけてナイフを突き出す……!
噴き出す鮮血。
「―――――――ひ」
口元が笑いに歪む。
本当に、なんて呆気ない。
「―――――ひひ、ひひひ」
こんなの、初めからどうってコトなかったのか。
ヤツは、無造作に残った左手で、突き出した俺の腕を掴み。
「―――――ひゃはははははは!」
一瞬にして、握りつぶした。
□七夜の森
「はは――――ははは、は、ぁ――――」
肘から先、もう存在しない腕を引いてよろめいた。
ドロドロとこぼれていく。
いまや巨大なホースと化した左腕は、凄まじい勢いで体の中身を噴出している。
【コウマ】
「―――――――――――」
錯乱する遠野志貴へ、ヤツは容赦なく腕を突き出した。
掴まれた頭の末路はこの通りだ。
ヤツの五指は、まるで空気を握るかのようなスムーズさで、止まることなく俺の頭蓋を粉砕し脳漿を噴出させ脳味噌を圧縮した。
――――酷い結末だ。
だが、一つだけ喜ばしいコトがあった。
それはあんまりに瞬間だったため、まったく痛みを感じなかったということだ――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s507
□七夜の森
「っ―――――――――!」
舞い落ちてくる枝をナイフで弾く。
大木が倒れている下に飛び込む、という事は倒壊するビルの中に飛び込むようなものだ。
こんな中ではヤツに致命傷を与えられない。
ここは、まず距離をとってヤツの姿を確認するのが先決―――
【コウマ】
「な―――――」
目を疑った。
倒壊していく大木の下、容赦なく落ちてくる破片を意にも介さず俺の首を狙う眼光がそこにある――――
「くあぁあああああ……………!」
喉から気合を絞り上げて、体を反らした。
真正面から最速で繰り出された一撃をかわすために体は海老ぞりになり、そのまま――――
反った腹の上を轟音が過ぎていく。
左足は、これ以上踏ん張れない。
無理な命令に従ってきた肉体も、限界以上に張り詰めていた神経もここまでだ。
「は―――――――」
ナイフを強く握り締める。
この距離。お互いが腕を伸ばすだけで首を掴まえられるこの距離が、最後の―――
三度目……………!
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s508
□七夜の森
―――倒壊する樹木。
落ちてくる枝や欠片は、当たり所が悪ければ俺をたやすく仕留めるだろう。
だが―――それは、ヤツにとっても同じコトだ。
「―――――――行け!」
自らに言い聞かせ、破片が舞い落ちる渦中へと踏みこんだ。
死の雨が降る。
ザクザクと木の破片が背中に刺さる。
それでもそれは致死ではない。
この程度の傷を代償にしてヤツを仕留められるのであれば、そんなもの―――
【コウマ】
「な―――――」
目を疑った。
倒壊していく大木の下、
容赦なく落ちてくる破片を意にも介さず、俺の首を狙う眼光がそこにある――――
「づぁあああっ………!」
咄嗟にナイフを突きたてるが、憂鬱なまでに遅い。
真実、火花を散らして暴走する列車が衝突するかの如き衝撃をともなって、
ヤツの魔手が、
俺の顔を圧壊した。
びしり、とも。
ばきり、とも。
そんな半端な、生易しい葬礼の音などしなかったと思う。
全ては一瞬。
もとから遠野志貴の肉体に硬度などなかったかのような横暴さで、
ヤツの五指は、俺の命を握りつぶした――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s509
「く…………………!」
体が左側に沈む。
力が入らなくなった左足が滑って、体はそのまま地面へと倒れこむ。
「はっ……!」
ゴン、と受け身もとれずに背中を打った。
痛みに耐えて目を開ける。
頭上には。
□七夜の森
【コウマ】
もはや逃げる手段さえ失った獲物を狙う、死神の姿があった。
―――――終わった。
間違いなくこれで終わった。
……始めに決定したとおり、三合が俺の限界だった。
その過程でヤツを打倒する機会を作れなかった結果がこれだ。
……落とされる死神の鎌。
アレに握られた瞬間、俺の頭は潰される。
おそらく苦しみはないだろう。
なにしろあの怪力だ。タイムラグなんかなし、一瞬で握りつぶされるんだから、死んだ事にさえ気が付かないかもしれない。
――――ああ、そうか。
なら別に、死を恐がる必要なんてなかったわけだ。
最期になって気が付くなんて抜けている。
視界には振り落とされるヤツの魔手。
……ただ、視界の端に。
小さくて柔らかそうで、苦しそうに、お腹を動かして息をしている何かが見えた。
―――――打撃が迫る。
これで最期? これで最期だって?
そんな筈はない、だってまだ右足は生きているしナイフだって握ったまま、意識は何一つ欠けていないし傷だって負っていない、なにより俺はまだ、何一つだってしてやいない……!
「こ――――」
―――――ふざけるな、まだ俺は
落ちる圧壊。
それを迎い打つ形で、
――――戦ってさえ、いないじゃないかっ……!
手にしたナイフで斬鋼した。
□七夜の森
火花が散る。
ナイフの鋼が魔腕の鋼と鬩ぎ合う。
「は――――――っ!」
ナイフがヤツの腕を掠る。
倒れたまま、右足首だけの力で、それこそバネのように立ちあがりながらの交差。
―――それは、我ながら常軌を逸した運動だった。
【コウマ】
「―――――――」
だがその奇跡に昂ぶっている余裕はない。
次いで、ヤツの突風そのものの腕が繰り出される。
捕まればそこで終わる一撃を、必死で避ける。
避けた所をさらに追撃してくる一撃。かすった。またも奇跡みたいな回避。小指に触れられた左肩は、それだけで骨と肉を外された。
「―――――――は」
捕まるだけでなく、触れられただけで即死という事。
そんなデタラメな、ミサイルみたいな一撃が繰り返される。
□七夜の森
□七夜の森
□七夜の森
吐き気がするまでの至近距離。
互いの心音が伝わるぐらいの距離で死の旋風が吹き続ける。
「はっ……はは」
触れば終わり。
七度目を躱したのがこれ以上はないっていう奇跡だっていうのに、体は、それを上回る難度の八度目を自然にこなした。
「はぁ―――はは、は――――!」
神経がいかれすぎて、口元が笑いで歪む。
それでもかわした。
笑わせる、何が三度が限界だ。
俺は戦えている。十分に、この怪物と凌ぎあえている。
決して敵う筈のない、自らの死の投影を前にして一歩も引いていないじゃないか――――!
「ぬ―――――――!」
初めて。ヤツは、人間らしい反応をした。
ヤツの左腕が走る。
右腕を躱して体が泳いでいる俺の腹を、左腕は容赦なく掴んだ。
瞬間。
「ご―――――」
体が、破壊された。
□七夜の森
「あ――――――が…………!!!!!!!!!」
背中に鈍痛。投げ飛ばされて、木にぶつかって止まったというところ。
心臓から逆流してきた血を吐いて、まだ自分が生きていると確認する。
「はっ……あ、ぐっ…………!」
腹。腹を見て、あまりのグロテスクさに目を背けた。
それは自分の体とは思いたくないほどの状態で、おそらく、臓器の半分はもっていかれたのではないかというぐらい。
「……この……好き放題、やりやがって―――」
ヤツは左腕で俺の腹を鷲掴みにして、瞬間、腹の大部分を握りつぶしてくれた。
そればかりでは飽き足らず、片腕一本で軽がると俺を持ち上げここまで投げ飛ばしてくれやがった。
「……つぅ……あの血の跡って、俺の中身か」
よく下がくっつているもんだ。
いや、それを言うならよく生きているもんだ、か。
「―――――――――」
だが、それが何よりおかしい。
ヤツの腕は必殺であるべきだ。
それが何故、あそこまでこちらを捉えておきながら殺す事ができなかったのか。
【コウマ】
……ヤツが現れた。
「……………は…………あ」
大きく息をした。
肺にまだ空気が残っていたのだろう。
……またこんな、最期になって気が付いた。
アイツと対峙してから、自分は一度も呼吸というものをしていなかった。
――――なんていう無様さだ。
それでは戦う事もできなければ、ヤツを殺す事さえできないだろうに。
「まだ生きているのか、貴様」
「―――――――――――――」
……ああ、ついに言葉まで話しはじめた。
自己嫌悪で押しつぶされそう。ヤツも七夜志貴という殺人鬼と同じく、俺がカタチを与え、そして成長してしまった存在だ。
ヤツはついに言葉まで手に入れた。
それで、もう勝敗は決したようなものだった。
「煩わせてくれる。その生き汚さは父親譲りか」
語りながら近寄ってくる。
「―――――――なんて、ものを」
メガネを外した。
【コウマ】
呼吸を忘れていたように、こんな事さえ忘れるほどアレを怖れていたという事か。
「だがこれで終わりだ。潔く黄泉路へ行け」
ヤツは目前までやってきて、ゆっくりと腕を伸ばした。
がしり、と。
遠野志貴の頭部を鷲掴みにする圧壊の腕。
「―――頼むから、やめてくれ」
後悔が強すぎて、つい声をあげてしまった。
「命乞いか。あまり失望をさせるな」
……ああ、俺はなんてものを作り上げてしまったんだろう。
こんな。
「―――もう喋るな。アイツは、そんな余分なコトはしないから」
こんな無様な、偽物を。
□七夜の森
ぐらり、と体が持ち上げられた。
俺の頭を鷲掴みにしたまま持ち上げたのだ。
【コウマ】
ヤツは瀕死の遠野志貴の姿を観察し、なにやら満足したようだった。
「―――死ね」
「おまえがな」
頭を掴んでいた腕を切った。
いや、正確には“線”を通した。
「ぬ―――――――!?」
引き下がる怪物。
その前に事は済んでいた。
ヤツが自身の腕が断たれたと気が付く前に、返す刃で、その心臓を突いたからだ。
――――無論、そこがヤツの“点”である。
□七夜の森
……思えば。
三度だとかなんとか制限をつけてみた所で、コイツが俺の死ならば抵抗できる筈がなかったのだ。
それが凌げた。
所詮、コレは俺が抱く死の具現を借り受けただけの虚像にすぎなかったからだ。
そうしてコレの一撃を凌げば凌ぐほど俺のイメージは弱体化していき、ついにはこんな、愚にもつかない三流に成り下がってしまった訳である。
「な―――――――ぜ」
「……ふん。何故もくそもあるかよ」
消えていく。おそらくは一時の物だろうが、それでも死は消えていく。
「単純な話だ。――――本物は、こんなものじゃなかったんだよ」
……それも皮肉な話か。
俺が思い描いたこれ以上はないという死のイメージでさえ、あの赤い瞳には太刀打ちできないという事なのだから。
「……もう消えろ。ヤツと戦うことがあるとしたら、それはこんな所でじゃない。いいか、二度とその姿でこの世界に現れるな……!」
ナイフを走らせる。
いつぞやの解体に迫るほどの煌きを見せて、ソレは、バラバラに分割されて消失した。
□七夜の森
「――――――――っ、と」
どたん、と体が地面に倒れこむ。
「っつう……そういえば腹、なかったんだっけ」
これだけの傷だと朝を迎えて振り出しに戻るより、死亡して振り出しに戻るほうが先だろうか。
「……しまらないなあ。今回こんなんばっかりだ」
はあ、と誰にするのでもない愚痴をこぼす。
……まあ、それもこれでおしまいだと思う。
一時的、緊急用の応急手当みたいなものだろうけど、とにかく“死”は排除したんだ。
□七夜の森
視界の隅では、ひょっこりと立ちあがってトコトコと近づいてくる黒猫の姿がある。
……ほら、これで解決。
この世界が壊れる事はなくなって、あとはあの子と話をすれば全てが終わる。
「――――――――」
ああ、けど今はまともに話せそうにない。
だから、とりあえずはまた明日。
君が住み着いたあの場所で、ばんざいと喜びあうのも悪くはないだろうから――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s510
――――ここが、最後の―――!
渾身の力をこめてナイフを撥ね上げる。
体を反らしたままの無理やりな一撃だというのに、それは間違いなく最高の一線と言えた。
針の穴を通す精密さでナイフはヤツの心臓に刺さる。
―――――それで終わりだ。
今度ばかりは、俺の方が圧倒的に速い……!
□七夜の森
と。
ずるり、と体が滑った。
もう力が入らなくなっていた左足が泳ぐ。
「な――――」
ちょっと、待て。
あとほんの一突き。たったそれだけでナイフはヤツの胸を貫いて、その心臓を打ちぬくというのに――――
【コウマ】
「チィ――――――!」
叩き込まれる剛腕。
地面に倒れようとする自分に、それを回避する手段はない。
ゴオン、と。
頭を鷲掴みにされたまま、後頭部を地面に叩きつけられた。
―――――生き死にの問題であるのならば。
結果は、そこで決定していた。
すでに後頭部は砕け―――さらに、ヤツの五指が握られた。
耳朶に響く、この世でもっとも近い炸裂音。
外界から響く振動ではない。
内界から伝わる振動を聴いて、何もかも粉々に消滅した。
後に残ったものは、森に転がる、頭のない死体だけだろう――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s511
□中庭
―――その時、ふと思い出した。
使い魔は主人から生命力を分け与えられて存在する。
それなら、より明確な生命力というのは血ではなく精ではないのか、とかなんとか。
「あ……もしかして、血より精のがいいのか、な」
照れながら言う。
【レン】
「……………………」
彼女はこくん、と小さく頷いた。
「―――――――!」
途端に顔が真っ赤になる。
そりゃあこの子の事は好きだし、助けてあげたいって思うけど、精を与えるって事は、つまり―
【レン】
「……………………」
うわ、またその顔。そんなふうに見られるととてもじゃないけどイヤだなんて――
「…………君は、それでいいの?」
視線に負けて、そんな言葉を呟いた。
【レン】
「…………………………」
頷く少女。
そのまま彼女は体を預けるように抱きついてきて、
精でなければイヤ
なんて心を、伝えてきた。
「……っ」
それは、不意討ちだ。
提案でもなく願いでもなく、そんな、おねだりをするように言われたら、もう断りようがない。
「……その。いいの、俺で?」
【レン】
彼女の返事は一つだけだ。
……それでこっちも気持ちが決まった。
「―――部屋に行こう。そこで、君と契約する」
静かに手を差し出す。
【レン】
少女は柔らかに笑って、行儀よく、差し出した手に指を絡ませた。
□志貴の部屋
部屋に戻ると、とうに日は落ちていた。
夜の帳の中、誰もいない屋敷で少女と一緒にベッドに腰を下ろす。
「……………………」
少女はフランス人形のように行儀良くベッドに体を預けている。
それを見て、やはりまだわずかに躊躇いがあると思い知った。
……とにかく、少女は幼いのだ。
こんな無垢な体を抱く事も、自分のモノを見せる事にも抵抗がある。
「……………………」
そんなこっちの思惑も知らず、少女はまっすぐにこちらを見上げている。
そこに不安の翳りはなく、ただ純粋に俺を求めているように見えた。
「――――そう、だな。……それじゃ始めよう」
少女の肩に手の平を置く。
彼女は動かず、俺に全てを任せているかのように、じっとこちらを見つめている。
それで、躊躇いは少しだけ消えてくれた。
「―――――――脱がすよ」
諭すように告げて、ゆっくりと、彼女のコートに手をかけた。
息を呑む、というのはこういう事だろうか。
……華奢な体。
幼い少女には不釣合いな黒い衣服が、余計に彼女の白い肌を際立たせる。
膨らみの未熟な胸。
まだ誰も触れていない新雪のような肌。
強く抱き寄せればそのまま呑みこめてしまうほど小さな体。
その全てが、なんだか―――
例えようもなく綺麗だというのに、ひどく、淫らな気持ちにさせる。
「………………………」
彼女の視線があがる。
見つめてくる瞳にはかすかに戸惑いが見えた。
こっちが黙り込んでしまったものだから不安に思ったのだろう。
少女はさらした素肌を気にしながら、止まってしまった俺を覗きこむ。
……彼女が不安に思っているのはこれからのコトじゃない。
俺が止まってしまったものだから、自分が嫌われてしまったのではないか、そう怖れているだけだった。
「……そんなコトはないよ。すごくキレイで、驚いてる」
「…………………」
ぽう、と少女の頬に赤みがさす。
彼女は憑かれたように、ただ俺の顔だけを見つめている。
「――――――」
それで興奮しない筈がない。
目の前には背徳的なまでに幼い肢体があって。
黒く白い彼女は子供のような純真さで俺そのものを求めている。
「―――――っ」
どくん、と心臓が高鳴った。
……彼女の衣服を脱がせば脱がすほど、本来その白さとは正反対である筈の衝動が沸き起こってくる。
「―――――」
何か、この興奮は普段とは違う気がする。
無垢なモノに愛されているという喜びか、背徳的な状況に刺激を受けての悦びなのか。
どちらともつかない衝動は針になって、ズボンの下にあるモノをいきり勃たせる。
「…………、………」
彼女の視線が下がって、苦しげに張り詰めたソレにいきついた。
「あ―――――――――」
カア、と頬が熱くなる。
契約だなんていっておきながら、自分だけ昂ぶっているなんて事がよけいに欲情を煽りたてる。
「……ごめん。俺、自分がこんなに節操ないなんて思わなかった」
照れ隠しに視線を逸らす。
「………………………」
少女はわずかに笑った後、たどたどしい動きで、俺の股間へ指を這わせた。
―――ジッパーの外れる音。
期待していなかった、というのなら嘘になる。
存分に昂ぶり、勃起したソレが外気に触れる。
生々しく毒々しい肉の柱。
それを、少女は大切なものように包み込んだ。
「―――――――っ」
途端、息が切れる。
少女は屹立したモノに両手を添えて、ぴちゃぴちゃと舐め始めた。
「………、…………、、…………」
はじめはただ、恐る恐る触れる程度の接触。
それも数を重ねてくると、少女はより長く舌を俺のモノに触れさせれるようになった。
――――少女は、味を確かめている。
ただ舌先でつつくだけだった行為は次第に粘着性を増していく。
触れていた舌先は舌の表面に。
熱く渇いたままだった肉棒は次第に少女の唾液に濡れはじめ、ぬらりと、よりいっそう少女に不釣り合いなオブジェと化す。
それは、本当に一途な奉仕だった。
「…………、……、――――――」
少女の息遣いが濡れた生殖器を撫でていく。
つう、と。
今まで点でしかなかった感触は、いつしか線になって亀頭から陰嚢までを舐め上げている。
「んっ…………レ―――ん、そこ―――」
ぎちっ、と跳ねあがる肉棒。
「………………っ!」
それに驚いて、彼女はいっそう強く指に力を込めた。
充血した生殖器は少女の小さな手には大きすぎるのだろう。それを両手で、必死になって支えようとする姿はあまりにも可愛らしかった。
「……ん……そのままで、動かないで」
だから指を這わせた。
少女の幼い背中をなぞって、熱く火照ったお腹に手の平を当てた。
「……、……っ!」
びくり、と震える体。
それを無視して、
「大丈夫、こわいことはしないから」
耳元で囁いて、長い髪の間をすり抜けるように、その首筋にキスをした。
「……」
短い吐息。
彼女は脱力するような吐息をこぼして、不安そうに見上げてきた。
……こうして直接愛されることには慣れていないのか。
少女は首筋に当てた口付けと、肢体に当てた手の平だけでふるふると震え出してしまった。
「……こういうのは苦手?」
「………………」
少女の眼差しに力がない。
わからない、と不安そうに首をふる。
―――それがあまりにも弱々しかったからか。
「そっか……苦手なことは克服しないといけないね」
うなじに当てた唇から舌を出して、ぞろりと少女の首を舐めた。
「……、……!」
跳ねあがる体。
それを押さえつけるようにお腹に当てた手の平を動かす。
指を広げて、なだらかな丘のようなお腹に指を這わせる。
「……、……っ!」
それは、少女の肢体を蹂躙するような痺れだった。
彼女は目を閉じて、何かを堪えるように口を閉ざす。
少女の首筋に触れる舌。
腹部を滑る指は下腹部へと伸びて、まだ体毛さえない少女の秘部に到着した。
「……、…………」
はあ、という息遣い。
歯を食いしばっていた彼女は、今までとは違う脱力を見せた。
「なんだ、もう―――」
指先には十分な粘り。
少女の秘裂は柔らかく、あまりに汚れというものがない。
その花弁のような肉襞は、男性を受け入れる為の潤滑液に満ちていた。
「―――――ん」
つう、と人差し指で秘裂をなぞる。
「………………」
彼女の吐息はさらに熱を帯びて、甘えるように体を預けていくる。
さらに指を深く。
第一関節が沈むぐらいに、彼女の膣に没入させた。
「………、………!」
少女の顔がはねる。
侵入してきた異物を攻撃するように、彼女の襞は俺の指を締めつける。
零れる愛液。
少女のソレは、もう十分に熱く濡れていた。
「なんだ、敏感なんだ、ここ」
「……、……」
あわてながら、こくんこくん、と少女は頷く。
……どうして慌てるのかは分からないけど、彼女も羞恥で照れているのかもしれない。
「―――――――」
その仕草で、生殖器はより屹立を激しくした。
彼女の愛撫は俺を果てさせるほど激しくはなかったけど、彼女同様、もう十分なまでに濡れている。
□志貴の部屋
「……………………」
少女は濡れそぼったペニスから手を離して、じっと俺を見上げてくる。
―――その言葉は分かっている。
そもそも、我慢できないのはもうこっちの方だった。
「はじめよう。こっちにおいで―――」
思い出せない名前を口にする。
彼女は体そのものを俺に預けてきて、俺はそれを受けとめた。
その小さな背中に口付けをして、彼女の細い足を抱きかかえて、ただ欲求のままに、少女の肢体を貫いた。
「な―――――――、っ!?」
途端。眼球がひっくり返りそうなほどの感覚が、全身を貫いた。
「レ――――――ん、き、み――――っ!」
あまりの感覚に頭が真っ白になる。
―――まだ先端。
その小さな、およそ俺のモノなど受け入れられるように出来ていないモノに入った途端、愛撫とは比べ物にならない感覚に支配された。
「はっ……あ、くっ……!」
根元から一気にせり上がってくる熱い塊。
「はっ――――あ……、は―――」
抱きかかえた少女の体を止めて、なんとか、その感覚を圧し留める。
「れ―――――ン、君、は、」
うまく声が出ない。
……本当に、なんてコトだろう。
狭い肉襞をこじ開け、少女を穿つように生殖器をこじ入れた。
ただそれだけ。
ただそれだけでまだ彼女の中にも入っていないというのに、男根を伝わって脳髄に電流が叩きこまれたような快楽があった。
けれど、そんなコトは彼女には無関係のようだった。
「……っ、……!」
彼女は喘いで、ただ必死に痛みに耐えている。
両足を開かれているという羞恥と、入るはずのないモノを入れられようとする痛みで、ただ苦しげに息をしている。
ん……あ――
吐息にはそんな響きがあった。
痛みと恥ずかしさが一心に彼女を責めている。
体を赤く染めて、呆然と自身と繋がっているオレを眺めている。
「………………っ」
それでも彼女は抗わない。
足の指に力を込めて、ただオレそのものを受け入れようと震えている。
「――――――――」
痛いのか、なんて口にする気さえなくなった。
彼女が求めているんなら、こっちだって最後まで彼女を手に入れるだけだ。
「―――続けるよ。暴れてもいいから、我慢して」
「………………」
わずかに頷く。
それで、より深く自分自身を突き入れた。
「…………!」
跳ねる体。
「づっ――――ぐっ……!」
歯をかみ締めるのはこっちだって同じコトだ。
竿を中ほどまで呑んだ少女の膣は、麻薬そのものだった。
「ぐっ―――まだ、まだ……!」
「……っ、……っ!」
少女の体を持ち上げて、下げる。
中ほどまで入った男根をスライドさせる。
少しずつ入っていく、という過程ではない。
始めから、少女の膣はオレが入れる大きさじゃない。だからこれは入るのではなく穿つ行為だ。狭い穴を削り取っていく削岩機のようなもの。その激しさは、少女に快楽より苦痛を優先させてしまう。
ず、ず、と。
肉を千切っていくような交わり。
少女にとっては痛みが優先する性交。
―――だが、俺にとっては、それこそ吐きそうなほど気持ちが良かった。
「は―――づっ……!」
狂いそうだ。
彼女の膣は、普通じゃない。
襞の一つ一つ、細胞の一つ一つにいたるまで男を溺れさせる魔だ。
吸いつき、絡みついて、引きこむように融合し、痛みとともに圧し返してくる。
熱い肉の壺は、本当に、男根を溶かしているのではないかと疑うほど。
「は―――――あ、く――――っ!」
呑まれそうになって、なんとか快楽から引き抜いた。
だが亀頭はいまだ少女に触れたままで、快楽に溺れた腕はすぐさま彼女の体を下げ、またあの中へと入るコトになる。
―――わずかに残った理性に出来る事は、ただ射精を先延ばしにする事だけだった。
もう容赦なんてない。
両足を掴んだ腕は乱暴に彼女を扱い、そのスライドは段々と速度を増していく。
「……、……、……っ」
そのたびに彼女の吐息は熱くなっていく。
白い肌が赤く赤く上気していく。
ギチギチと肉を開いていく男根。
それをただ必死に受けとめようとする少女の吐息。
「はっ……あ、っ……っっ!」
――だから、簡単に果てる訳にはいかなかった。
絡みついてくる彼女のなか。
突き入れ、何度も上下する男根を捕らえては溶かす波。
生殖器というものはただこすれるだけで感度をあげていく。
だというのに少女にはまだその先があって、彼女にとって快感というのは別のものだった。
―――入った途端、神経を剥き出しにされる感じ。
それも一瞬で、絡まり、圧迫してくる肉襞は俺と彼女を繋げてしまい、容赦なく脳髄に直接快楽を送ってくる。
「フッ――――ぐ、つ……っ!」
脳髄に直接来る、というのは比喩なんかじゃない。
理性も意識も融かされる。
始めはその底無しの快楽が恐ろしかった。
だがそれがどんなモノか体が知ると、あとはもう止まらない。
「っ―――フ、つ――――!」
「……、………………!」
彼女は声をあげて俺の動きを耐えている。
怒張は深く、ねじ入れた肉棒はすでに半ばをすぎて、少女の膣を満たしていた。
突き上げる腰の動き。
肉を広げる音、体液と体液が絡み合う音が、麻痺した理性をかろうじて現実に留めている。
「…………、…………っ」
そうして、彼女が動いた。
今までただ反応するだけだった膣は、自分からオレを受け入れようと蠕動する。
「くっ―――――――!」
舌を噛みかねない快楽。
「…………、ん…………」
恍惚とした呻きをあげて、彼女はなかに入ったオレを呑みこもうと腰を下げた。
「――――――――――、あ」
ひどい話だ。
脳髄がそのまま肉棒の中に移動しちまって、それをくまなく愛撫されるような感じ。
揺れる肉の波、熱い彼女の膣で洗われる。
だからひどい話なワケだ。これも、ある意味ブレインウォッシュみたいなもんなんだから。
「だめ、だ――――もう」
耐えるコトなんて、できない。
膣を広げるペニスはまだ根元まで入っていない。
だから、それまでは少しずつ広げていかねばならないのに、そんなコトはもうできる筈がない。
「………………」
彼女は息をあげて自らを見下ろす。
そこにあるのは膨れ上がった腹部だ。
小さな彼女の体はもう限界で、中はもう全て満たされていた。
それでも俺のモノは全て入っていない。
―――倒錯してる。
このまま、自分のモノで彼女の内臓すべてを埋め尽くしたいなんて、そんな衝動に支配される―――
「レ――――ン」
いいかい……? と、思っているだけだった欲望が言葉になった。
「――――――――」
こくん、と頷く顔。
それで、もう何もかもが解き放たれた。
突き上げる感覚。
残った肉の棒を、彼女の子宮を突き破る勢いで突き入れた。
「ん―――――んああぁああああ………!!」
喋れないはずの少女の声。
それは快楽によるものか。いや、快楽にしても痛みに近い感覚だろう。
彼女にしてみれば。
体の半分を、俺のモノで貫かれたようなものなのだから。
「ぐっ―――――っ……!」
だがそれはこっちだって変わらない。
根元まで突き入れた男根は、決して引き出すコトができなかった。
少女が貫かれたのであれば、俺は呑みこまれたに近い。
神経を剥き出しにされ、感度を限界まで上げられたペニスは襞という襞に愛撫され、その中身を搾り出される。
「は、あ――――――!」
耐えに耐えた迸りを解放する。
もはや精液と呼ぶには重すぎる衝撃が少女の膣にたたき出される。
「……、…………………!」
それを全身で受けとめて、彼女は大きく息を吐いた。
「――――――――あ」
……呼吸まで彼女と重なっていたのか。
彼女が力尽きて脱力するのと同時に、俺の体も限界を迎えて――――
□志貴の部屋
「――――――――」
レンから手を離して、背中からベッドに倒れこんだ。
呼吸は荒く、体は鉛のように重い。
「つか―――れた」
天井を見上げながら、思わずそんな弱音を口にしてしまった。
……少女との行為はとにかく何もかもが違っていた。小さな彼女と交じり合うなんて今でも想像がつかないけれど、いざ始めてしまえば彼女の中は格別だったと思う。
楽しむ理性も愛する余裕も根こそぎ奪われて、ただ彼女の体を求めた感じ。
事実、一度きりの射精とは思えないほどの精を出した。
彼女は夢魔で、これは契約だったのだと、今更ながらに実感する。
「けど、これで――――」
もう心配する事は何もない。彼女は消えずに居続けられる。
この夢は覚めるけれど、その代わりにこの子は長い孤独から解放されるのだ。
「―――――――はあ」
安堵のため息をついて体を伸ばす。
疲れきった体をだらしなくベッドに預けるのが心地よい。
「…………」
そこへ、どこか戸惑っているような、彼女の声がした。
「え?」
視線を移す。
きっと彼女も同じようにベッドに倒れているのだろう、とベッドを見る。
―――――と。
そこには、ひどく淫らな、少女の肢体が立っていた。
「レ……ん?」
「………………………」
はあはあという息遣い。
彼女はいまだ落ちついてはいない体で、困ったような目で俺を見つめていた。
「………………………っ」
火照った体に戸惑っているのは、なにより彼女自身だったろう。
彼女は乱れた息のまま、昂ぶったままの自分の体に当惑している。
ぴちゃり、ぴちゃり、と零れる液。
少女の淫裂から零れるそれは俺が吐き出したものだ。
彼女が必要とした俺の精。
零れていくそれも分からないほど、少女は熱を持った自身の体を持て余している。
―――は……ぁ……は……あ。
苦しげに吐息を洩らして、物欲しそうに俺を見る瞳。
「―――――――」
その姿を見て、どうにかならない筈がない。
赤く染まった肌。
切なげにゆれる瞳。
開かれた足は少女の幼さとはあまりにもアンバランスで、それが逆に息が詰まるほど淫靡だった。
「っ……」
……我ながら節操がない。
萎えていた筈の男根はそれで活力を取り戻していきり勃つ。
「………………」
それを見て、少女の吐息は一層熱を増してしまった。
「……、……」
彼女は何をするべきかさえ分からず、ただ倒れた俺を見つめている。
言葉が話せたのなら、彼女はこんなにも自分の気持ちを持て余さなかっただろう。
少女は熱に浮かされるように、少しずつ俺へ近寄ってくる。
……なんか、まな板の上の鯉にでもなった気分だ。
それでも彼女のもどかしさは愛らしくて、それで喜んでくれるなら食べ尽くされても構わないとさえ思った。
いや、むしろそれぐらいの甲斐性は見せてやるべきでははないか、などと思ったぐらい。
「いいよ、続きをしようか」
話せない彼女の代わりに、声に出して彼女を誘った。
「……、……」
はあ、という熱い吐息。
少女は戸惑いのまま俺へと体を寄せてくる。
ぎしり、と軋むベッド。
俺は立ち上がらず、横になったままで少女を迎え入れた。
「今度は自分から入れてごらん。やり方はもう分かるだろう?」
「…………」
いつもの頷きはない。
少女は緊張した趣きで俺の言葉に従って――
横たわった俺の上にまたがった。
「――――――――」
しばし、声を忘れた。
下から見上げる少女の体は、やはりあまりにも幼かった。だというのに、こんなにも女性を感じさせるという矛盾。
朱がさしこんだ肌と、戸惑いで上気した頬。
その、いびつに膨張し突き出したオレ自身を受け入れようとするピンク色の肉の割れ目。
「………………っ」
秘部に手をやって、少女はかすかに声をあげた。
……そのままでは入らないと分かっているのだろう。少女はためらいがちに自らの指で秘裂を広げようとし、その行為そのもので呼吸をさらに乱してしまう。
「…………、…………、、……っ」
気温が上がる。
ドキドキという鼓動が聞こえてくるぐらい、彼女は緊張しているようだ。
控え目に広げられた少女自身からこぼれる蜜。
それは雨だれのように、反り返ったペニスを濡らしていく。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから、入れて」
「―――――――」
うん、と答える瞳。
少女はゆっくりと、自身の秘裂に屹立したモノを挿入した。
……にちゃ。
柔肌を開いていく音と感触。
「……っ!」
彼女は苦しげに目を閉じて堪えて、さらに深くオレを受け入れようと腰を落とす。
大きさが違いすぎるのか、逃げるように腰をひねる少女。まるでネジを挿れるような感覚は、指を噛み切りたくなるぐらい気持ちが良かった。
「……っ、……っっ、っ……!」
ぬ、ぬぬ、ぬ。
少しずつねじ込まれていく肉の塊。
そのたびに彼女は声を殺して喘ぎ、俺は弾けそうな快感を必死に堪える。
「っ……ん、やっぱり、君の、なかは」
「……、……?」
「すごく、あったかい。正気でいられるのが、難しいぐらい」
……気が付けばこっちも息が乱れていた。
俺の言葉をどう捉えたのか、少女は呆然としたあと、ぺろりと、嬉しそうに唇を舐めた。
―――ぞくりとする。
少女の無垢さと雌の淫蕩さが混じった彼女は、確かに人間ではないのだから。
「…………」
少女の頬の赤みが一段と増していく。
今のが何かのきっかけになったのか、彼女は大きく息を乱しながら腰を動かした。
「っ……ん、は―――」
それに引きこまれた。
彼女が腰をスライドさせるのに合わせて、俺も腰をスライドさせる。
ずっ、ずっ、と控え目だった交わりは、段々と激しさを増してきていた。
「あ、れ―――なんか、これ」
……さっきとは違う、気がする。
半ばまで彼女のなかに埋没して気付いたのだが、少女の中は先ほどのようにこちらを溶かそうとするモノではなかった。
「はっ……はあ、はあ、んっ……!」
……全身を刺激する感覚は変わらない。
ただ、これは与えてくる快楽だ。
さっきのはただ奪うだけの暴力的な快感だったと思う。
けれどこれは違くて、まるで―――
「ん―――レ、ん―――」
手を伸ばして彼女の体に触れる。
柔らかな肌は指に吸いついてきて、そのたびに少女は切なげに吐息を洩らした。
ずっ、ずちゃ、ずっ――
求め合う衝突は強くなる一方だ。
強く、体の奥から俺を求めようとする少女の動き。
それに応えて自分自身を打ち出す体。
魂を奪い合うような交わりではなく、普通の、ただお互いを愛し合う性行為。
「……、……っっ、……!」
いつしか俺のモノは彼女の奥へ届いていた。
がつん、と彼女の奥を打ちつけるたびに揺れる体。
「……、……っっ、……っっっっ!」
それでも少女はいっそう激しく俺を受け入れた。
繰り返される律動。
そのたびに彼女は、声にならない声で、シキと、俺の名前を繰り返す。
「……し……き……、ん……っ!」
一心に、痛みに耐えるように両手を合わせて少女は自らの陰部を押し当ててくる。
―――いつか。
こんな夢を見た気がした。
その時は叶わず、少女はただ一人で俺を求めていただけだった。
「レ―――ン――――」
名前を口にする。
彼女の魔法が外れたのか、俺が外してしまったのかは分からない。
ただもう、この子を名前で呼びたくて気が狂いそうだっただけ。
「……レン、レン……!っ」
打ち付ける腰の動きが激しくなる。
体は起きあがって、ただもう、レンを全身で受け入れる。
「……っ、……!!」
はあ、と一際大きく声をあげるレン。
力尽きようとしているのか、レンの体は後ろに倒れようとする。
「……レン、こっち……!」
それを両手で掴まえて、小さな体を抱き寄せる。
「っ、っ……!」
鳴くように。
俺の体にすがりついてくる、レン。
熱い体温。
レンのなかは狭く、きつくて、それでも今までずっと、懸命にオレを受け入れてくれていた。
「――――――」
「――――――」
それもここで終わり。
オレたちはもう、互いが互いを受け入れたくて気が狂いそうだ。
「いいな、行くぞ……!」
「…………っ」
覚悟するように頷くレン。
そうして―――引き寄せた少女の体を貫くように、今までで一番強く彼女に応えた。
「――――――っ」
どくん、と高鳴る心臓。
しゃにむに抱きついてくるレンの感触と、消え去りそうな意識の奔流。
放たれた熱い泥は、レンの小さな体を覆い尽くしていく。
「……、……、…………」
レンはただ泣いている。
乱れた呼吸のまま、ただ俺の体を抱きしめて、俺と自分の存在を確かめるように爪を立てる。
「……レン。それ、痛い」
「……………………」
ぶんぶん、と首をふってさらに爪をたてるレン。
……そのうち噛みついてきそうだな、なんて思いつつ、それを咎める気にはなれなかった。
「ありがとう、レン」
満ち足りた気持ちで、もう一度彼女にそう言った。
「…………………………」
レンは答えず、ただ俺の胸に体を預ける。
「――――――」
……それで、俺たちは契約という形の上だけでなく、心の方でも繋がれたのもしれない。
□志貴の部屋
……そうして、気が付けばベッドに横たわっていた。
心地よい疲労感。
最後の眠りに至る前に、こうしてレンと朝を迎えるのも悪くはないだろう―――
□志貴の部屋
――――そうして朝。
陽射しは柔らかく、風はあまりにも心地よい。
最後の朝だからこそ、彼女は最高の始まりを用意したに違いない。
「これでおしまいか。少し残念な気もするけど仕方ないよな。目が覚めれば、続きはいくらでも待ってるんだから」
ベッドに横たわったまま呟く。
レンは頷いて、ゆっくりと窓の外へと視線を投げた。
つられて空を仰ぐ。
それは、これ以上はないというぐらいの青空だった。
本当に吸いこまれそうな青は、彼女の心を映し出しているようにもとれる。
――――――、と。
□病室
いつもの眩暈が、やってきた。
「――――トウトツだな。もう少し余韻があると思ったのに」
返事はない。
ただ、振り向けば首をかしげた、いつもの彼女の笑顔があるのだろう。
眩暈は一段と強くなる。
「―――それじゃあ少しだけお別れだ。その前に、もう一度だけ―――」
君の名前を口にしよう。
この夢が有ったのだという確かな証に。
これから大切な家族となる君の名前を。
「おやすみレン。朝になったら、また」
――――そうして白。
視界は途絶え、今度こそ本当の眠りへと落ちていく。
――――全ては有ったが無かったこと。
なら終わりはここじゃない。
もう一度初めに戻って、今度こそ本当の目覚めを迎えよう。
夏の始まり。あの交差点で、本当の自分に戻らなければいけない。
そこにはきっと夢で出会った全ての人が待っていて、最後に、この夢で知り合ったあの子の姿があるだろうから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s512
□中庭
もう一度指を差し出す。
彼女はほんの少しためらった後、
「ひゃっ……!」
ぺろりと、俺の血を舐めた。
驚いて指を引っ込める。
「ちょっ、ちょっと、今のすっごく冷たかったけど……!」
「…………………………」
はい、とばかりに頷くと、トテトテと歩いていく。
そうして、こちらと少し距離をとった後、
【レン】
スカートの裾をあげて、つい、と行儀よくお辞儀をした。
「あ……これで契約は済んだってコト?」
「…………………………」
これまた笑顔でうなずく少女。
「そっか、ならもう君が死にかける、なんて事もないんだな?」
「…………………………」
はい、頷いて少女は空を見上げた。
つられてこっちも空を仰いだ。
それは、これ以上はないというぐらいの青空だった。
本当に吸いこまれそうな青は、彼女の心を映し出しているようにもとれる。
――――――、と。
□病室
いつもの眩暈が、やってきた。
「ぁ―――――ちょっと待った……!もしかしてもう起きちまうのか!?」
返事はない。
ただ眩暈だけが強くなる。
「―――まあ、それはかまわない、けど」
目覚めるのなら早い方がいいだろうし。
ただ、その前に―――
「君の名前、まだ聞いてなかっただろ」
そう。
他の誰からでもなく、彼女自身の口からその名前を聞きたかった。
この夢が有ったのだという確かな証に。
これから大切な家族となる彼女の名前を。
――――そうして白。
視界は途絶え、今度こそ本当の眠りへと落ちていく。
その前に。
いだすらな舌を出して、二文字の言葉を残していった彼女の姿を見た。
――――全ては有ったが無かったこと。
なら終わりはここじゃない。
もう一度初めに戻って、今度こそ本当の目覚めを迎えよう。
そこにはきっと夢で出会った全ての人が待っていて、最後に、この夢で知り合ったあの子の姿があるだろうから―――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s515
□アルクェイドの部屋
―――思いきって、心を鬼にして切り捨てよう。
「だめだ、これから学校だって言ってるだろ。帰りにまた顔を出すから、それまで大人しく寝てろ」
【アルクェイド】
「えーっ。志貴のごはん食べたかったのになあ」
ゴロゴロとベッドで暴れるアルクェイド。が、朝からお姫さまに付き合っていたら一日がメチャクチャになってしまう。
「また機会があったら作ってやるから、今日はパスな。それじゃホントに大人しくしてろよ」
バタン、とドアを閉めてアルクェイドの部屋を飛び出した。
残り時間はあとわずか。さあ、いまから全速力で学校に向かわないと……!
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s516
□シエルの部屋
……う……たしかにそれは魅力的だけど、同時にとんでもない罠のような気もする。
だいたい先輩と朝ごはんを食べたら、そのままのんびりとした雰囲気になって学校を休みかねない。
「……えー、悪い予感がするのでパスします。先に行ってますからまた後で会いましょう、先輩」
しゅた、と手を上げて外へと駆け出す。
「ざんねん、逃がしちゃいました」
ちぇっ、と舌打ちする先輩の声を背中にアパートを後にする。
ここから学校まで十分弱。
全力で走れば間に合わないこともない――――
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s517
□アルクェイドの部屋
「いや、やめとく。さっきまで寝てたから、さすがにこれ以上は眠れない」
煩悩を押し殺して、もっともらしい返答をした。
「そっか。たしかにそれじゃ無理だよね」
納得するアルクェイド。こいつはこういった筋の通った理屈に弱いのだ。
「いいわ、見逃してあげる。志貴が一緒に眠れないんなら意味がないもの。あ、でも一緒に寝ていたい時は別だからね。……その時はわたし、そんな言葉じゃ引き下がらないんだから」
ふーんだ、と不満そうに口を尖らした後、アルクェイドは速やかに眠ってしまった。
□マンション入り口
アルクェイドを起こさないように部屋を後にした。
陽射しが目をかすませる。
頭上の太陽は、こうしているだけで気持ちがよくなるほど眩しかった。
「―――――散歩でもするか」
気を取りなおして、お昼になるまで公園を散歩する事にした。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s518
□廊下
「いや、まだ始まったばかりだし、遅刻にとられないかもしれないか」
うむ、と自分に言い聞かせて教室へと駆け出した。
return
-----------------------------------------------------------------------------
*s519
□志貴の部屋
うっすらと目を開けると、もう朝がやってきていた。
うーん、と両手を前に伸ばして口をあける。
手の甲で口元と髭をさすってから、さて、とベッドから跳ね起きた。
トン、と絨毯に着地する。
おお、なんという身の軽さ! こんなに体が軽くて調子がいい朝なんて、今までなかったなー、と尻尾を揺らす。
―――――――?
ありゃ? なんか、妙にベッドがおっきい。
そういえば床も広いし、随分と部屋が拡大した感じ。
「にゃ?」
な?と声をあげたつもりだった。
「にゃにゃ?」
なんだ?と声をあげたんだってば。
「にゃにゃにゃにゃにゃ!?」
なにごとー!?と声をあげたんですけど、俺!
「フぅーーーーーーっ!」
背中の毛をたてて威嚇する。
……いやもう、何が起きているかは判っているんだけど、納得がいかずに部屋中を走りまわった。
ネコ!?
ネコの呪いなのかにゃ!?
昨日、あの着ぐるみを着たまま眠ったのがまずかったって言うのかにゃーーーー!?
「うにゃーーーーーー!」
ぐるぐると部屋中を走りまわる。
それこそバターになりかねない回転数をこなした後、観念して絨毯に倒れこんだ。
ぱたり。
「―――――――――」
さて、そろそろ冷静に考えよう。
遠野志貴はネコになってしまった。
以上、終わり。
「フーーーーーーっ!」
なんだそりゃー! と横に倒れたままで手足をつっぱってみる。
……うわあ、まんまネコだなあコレ。
―――!
そうか、もう翡翠がやってくる時間だ。
別に隠れるコトもないと思うんだけど、なにかと面倒なコトになりそうなのでベッドの下に駆け込んだ。
【翡翠】
「失礼します」
【翡翠】
「志貴さま、お目覚めの時間ですが―――」
と、翡翠は言葉を切る。
当然だろう、ベッドには俺の姿はなく、部屋はもぬけの殻なんだから。
【翡翠】
「志貴さま……? どこかでお隠れなのでしょうか?」
困ったふうに部屋の隅とかカーテンの裏を見て回る翡翠。
もちろんそんな所に遠野志貴の姿はない。
……それでも部屋を探す翡翠が可哀相になってきて、翡翠の前まで歩いて行った。
「にゃ」
ぺしぺし、と足を叩く。
【翡翠】
「え……?」
驚いて下を見る翡翠。
うにゃ、と見上げるこっちと目が合った。
【翡翠】
「―――――――――」
翡翠は無言で見知らぬ猫を見つめると、
【翡翠】
なぜか、おじぎをした。
【翡翠】
「こんにちは。あなたも中庭の猫さんの友達ですか?」
「にゃ。にゃにゃにゃ」
違う。だが正体は明かせない。
などと言ってみたのだが、翡翠はやっぱり、と優しく笑みを浮かべるだけだった。
【翡翠】
「猫さん。あなた、ずっとここにいましたか?」
「………」
頷く。
「それではここで眠っていた人を知らないでしょうか。猫さんと同じようなくせっ毛をしていてメガネをしていらっしゃるのですが」
と、翡翠はベッド脇に置かれたままの俺のメガネを見る。
【翡翠】
「訂正します、メガネはしておりません。手がかりは猫さんと同じくせっ毛だけです」
「………………」
うーん、どう言ったものだろう。
ここにいる、なんて言っても事態を混乱させるだけだろうし、そもそも通じる気がしない。
ここは適当に、窓から出て行ったというジェスチャーをして翡翠を安心させてあげるのが適切だろう。
「…………………」
と。翡翠はじっ……と、熱心にこっちを見つめていた。
「?」
首を傾げる。
「……猫さん、どことなく志貴さまに似ていらっしゃいます……」
翡翠はそんなコトを呟いたあと。
「……性別は、どうなのでしょう」
なんて、人の体を強引に抱き上げた。
「――――――――!」
にゃーーー!と暴れたが猫の身ではどうしようもない。
「失礼します」
なんて、とんでもなく失礼なコトを言って、翡翠は後ろ足を掴んでまじまじとそのあたりを観察した。
【翡翠】
「男の子なんですね。本当に志貴さまに似ていらっしゃいます」
嬉しそうに微笑む翡翠。
「にゃ、にゃ―――――」
ひ、ひ、
「にゃにゃにゃにゃ―――――――!」
翡翠のばかーーーーーーーーーー!
□屋敷の廊下
廊下を全力で駆けぬけて停止する。
……うう、翡翠に悪気はないといえとんでもない目にあってしまった。
この借りは必ず返すにゃ、と尾っぽを立てつつ顔を上げる、と。
あ。ここ、秋葉の部屋の前だ。
しかも扉はわずかに開いている。
「………………」
ピンときた。
ネコになってしまった理由や対策を考えるのもいいが、ネコならではの利点というものも考慮にいれなくてはいけない。
例えば、普段なら覗き見ることなんかできない秋葉の私生活を拝見しちゃうとかなんとか。
「にゃ。にゃにゃにゃ」
ふ。ふふふふふふ。
えいっ、と頭で押してドアの隙間を広くする。
そのまま、するりと秋葉の部屋へ侵入した。
□秋葉の部屋
【秋葉】
「………………」
秋葉は机に向かって勉強をしていた。
ノートを開いて、参考書を見ながらなにやら難しい顔でシャープペンシルを走らせている。
「……にゃ」
にゃんだ、つまらない。
我が妹ながら、一点の隙も無いのは実に可愛くない。
【秋葉】
「……………………」
よほど難しい問題を解いているのか、時折そっぽを向いてはまたシャープペンを走らせる。
「…………にゃ」
……どんな問題を解いているんだろう。
ちょっと興味が湧いてきたので、ひょい、と秋葉に気付かれないように後ろに回って、机に広がったノートに目をやった。
ノートの出だしには、
“落ちていく太陽。波の音だけが耳に響く”
なんて、わけのわからない走り書きがあった。
「……?」
現代文?と首をかしげて続きを見る。
―――そうして夕暮れの海岸で兄さんは私の肩にそっと手を置いた。
「馬鹿だな秋葉。俺にとって大切なのはおまえだけだよ」
近づく瞳と瞳。
けれど私はその手を解く。
「―――嘘です。兄さんにはアルクェイドさんがいらっしゃるのでしょう? あの方、美人ですもの。それに体だって、その―――とても魅力的ですし」
「馬鹿だな秋葉。ああいうのはデブっていうんだ。秋葉の長い黒髪と控え目な胸には敵わないよ」
逃げる私を兄さんの五指が掴まえる。
私たちはそのまま、どんな言葉もなくゆっくりと―――
□秋葉の部屋
「なーんてね! あはは、なにやってるんだろう私!」
……自分で書いていて照れたのか、ごしゃー!と豪快に消しゴムをかけていく遠野秋葉。
「……ほんと、なにしてんだろ。せっかく一つ屋根の下にいるっていうのに、こんなコトしてるようじゃ望み薄ってものじゃな―――」
【秋葉】
あ。目が合った。
【秋葉】
わなわなと肩を震わせてこっちを睨む秋葉。
「貴方、見たわね?」
「にゃ………!」
見てない見てない、と首を振る。
が、秋葉はこっちの言い分なんてまるで聞いていない。
「―――そう、見たの。困った子ね、どうしてこう猫っていうのは失礼な輩ばかりなのかしら」
カッターやら万年筆やら、先がとんがったものを集める秋葉。
【秋葉】
「それになんだか兄さんを彷彿とさせるくせっ毛。あの人、昼行灯が過ぎてネコになってしまったのかしらね」
ふふ、なんて笑いながら着々と実弾を手にしていく。……本人は冗談のつもりなんだろうけど、的を射ている所が恐ろしい。
「―――あら、そんなに怯えなくて大丈夫よ。ほら、女の子で猫が嫌いな子はいないでしょう?」
笑みをうかべてじりじりと間合いをつめる秋葉。
まずい。
アレは本気だ、と看破して秋葉と向かい合ったまま後退していき―――一気にドアへと駆け寄った!
「逃がすか―――!」
しゅっぱん、なんて音をたてて、さっきまで自分がいた絨毯にカッターが突き刺さっていた。
「にゃ、にゃにゃにゃにゃにゃ………!」
「ふん、年頃の女の子がみんな猫を好きだと思ったら大間違いよ……! 待ちなさい、盗み見をするような泥棒猫はお仕置きをして二度とうちに寄りつかないようにしてやるから!」
しゅぱんしゅぱんしゅぱんしゅぱん!
機関銃のごとく繰り出される秋葉の投げカッター&万年筆!
「うにゃーーーーーー!」
後ろ足で思いっきり絨毯を蹴ってドアの隙間に飛び込む!
□屋敷の廊下
「チ、小癪な――――!」
部屋からはドタドタという鬼妹の足音が響いてくる。
「にゃ!」
全速力で廊下を駆けるのにゃー!
□遠野家1階ロビー
「フゥー、フゥー、フゥー……!」
ロビーまで駆けてきて、ぜいぜいと息を継いだ。
……うう、酷い目にあった。
秋葉のヤツ屋根裏まで追いかけてきやがって、ここまでまくのにどれだけ体力を使ったことか。
「……フゥー……フゥー……」
ぺたん、と絨毯に座りこむ。
ああもう、しばらくはここでこうしてお饅頭になっていたい気分。
【琥珀】
「あら? また新しい猫さんですね」
「にゃ……!?」
しまった、屋敷にはまだ三人目にして最大のトンデモナイ人が残ってた……!
「にゃーーーー!」
残った体力をふりしぼって離脱する。
「えいっ。捕まえちゃいましたー!」
が、あえなく捕まってしまいましたー。
【琥珀】
「もう、顔を見るなり逃げようとするなんてシャイなんですねー。そういう子はお部屋に連行しちゃいます」
にゃにー!?
□琥珀の部屋
【琥珀】
「ふふ、ここなんてどうですか?」
……人の体をしっかり掴まえつつ、首の下を掻き始める琥珀さん。
「――――――」
【琥珀】
「あれ? 気持ちよくありませんか?」
「――――――」
ふんだ、そんな素振りしてやるもんか。人がネコである事をいいことにどいつもこいつも好き勝手やりやがって、こうなったら断固可愛げのないネコを演じてやろうじゃないか!
【琥珀】
「うーん、それじゃ次はこっちで」
喉から首の後ろに手を回す琥珀さん。
そのまま、首のつけねあたりを掻き始める。
……ふん、そんなコトしたって……したって……あれ……なんか、すごく……
【琥珀】
「ほらやっぱり。猫さんはですねー、自分じゃ掻けない所を触られると気持ちいいんですよ」
さらにさわさわと撫でてくる。
いや、あの―――それはすっごく気持ちいいんだけど、あう、そ、そんな所まで触られるのは、ちょっと―――
「―――――んにゃ!」
精一杯の抵抗として、バタバタと手足を動かす。
【琥珀】
「あら、そんなに気持ちいいんですか?それじゃもっとサービスしてさしあげますね!」
なにかひどい勘違いをした琥珀さんはますます手つきをヒートアップさせる。
首の後ろから背中、トドメとばかりに尻尾の付け根をまんべんなくまんべんなくっ!
「あら。猫さん、男の子だったんですねー。ついでですから体を洗ってさしあげましょう」
ひょい、と暴れるネコを抱き上げてお風呂へと向かう琥珀さん。
「猫くん、お湯は慣れてます? 初めてだといやでしょうけど、慣れると気持ちいいんですよ〜。大丈夫、お姉さんが隅々までキレイにしてあげますから!」
「んにゃ〜〜〜〜!」
やーめーてー、お婿に行けなくなっちゃうにゃー…………!!
□林の中の空き地
「……………………」
……うう、酷い目にあった。
ちょっとした出来心で猫着ぐるみを着たばっかりにネコになってしまっただけでも酷いのに、どうしてこう会う人間会う人間が追い打ちをかけてくるんだろう?
ネコが人間嫌いなのも解る気がするにゃー、と哲学しながらトボトボと森を歩く。
目的地はただ一つ、遠野志貴の心の安息地である離れの屋敷だ。
なにしろ、あそこなら危害を与えてくる人間が存在しない。
□離れの入り口
「にゃ」
到着。
こうしてネコ視点で見上げると、この離れも随分と大きく見える。
「……?」
……あれ? なんだろう、壁の色が不自然なまでに違う個所がある。
「にゃ?」
近寄って触ってみると、がたん、と壁がスライドした。
―――すごい、隠し財宝大発見!
まあネコなのでどうしようもないのではあるが。
「……にゃ」
ふん、と隠し棚なんか無視して縁側へ行く事にした。
……しかし、地面スレスレに隠し棚か。
ネコになっていなければ一生発見できなかったかもしれないな、アレ……。
そんなワケで、離れの縁側で横になった。
こう、体をまるめて日向ぼっこをしているとネコもまんざらじゃないなー、と見なおしてしまう。
「……………うにゃ」
ああ、いい気持ちだ。
琥珀さんに体を洗ってもらったっていうコトもあるけど、こうしているとたまらなく眠くなってくる。
すーすー。
ああもう、いいや寝てしまえ。
これからどうするかは起きてから考えるコトにしよう!
□志貴の部屋
「――――――――――」
ベッドから体を起こす。
ゆっくりと辺りを見渡すと、まごうことなき自分の部屋だった。
もちろん体は人間。ネコになっているだなどと非常識なコトは一ミリもない。
「――――なんだよ、やっぱり夢か」
ま、それでも気分転換にはなった。
「それじゃ、おやすみ」
ばたん、とベッドに倒れて目蓋を閉じる。
――――さて。
とりあえず、これでネコの呪いはなくなってくれただろう―――
return
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*s520
目が覚めて軽い眩暈。
いつものコトだと深呼吸をしたら、窓の外には真っ黒いカラスの姿。
気を取り直して学校に向かったら、いつもの道を霊柩車が通りすぎた。
――――空は、目が霞むほどの晴天だった。
肌を焼く強い陽射し。
汗ばむ体を薙ぐ乾いた風。
アスファルトから立ち上る白い熱気と、
路面に張りつく豊かに育った木々の影ぼうし。
そういった様々な事柄が、もうすぐそこまで夏がやってきている事を告げていた。
のんびりと背中をせっつく夏の予兆。
去年の猛暑を思い出してうんざりする反面、なにか楽しげなコトが起きるかな、と期待しているのも例年通りだ。
額の汗を拭って空を見上げる。
空には眩いばかりの太陽が燃えている。
学校も休みに入る事だし、夏に備えて色々予定を考えとおかないといけないだろう。
月日が経つのなんてあっという間だし、一度きりの夏を楽しみたいのなら今から用意を周到にしておかなければ。
―――――さあ。
息苦しいぐらい暑い夏が、今年もすぐそこまでやってきている――――
□分岐路
「などと格好いいコトを思いつつ、夏の予定なんて何一つ考えていない遠野志貴なのであった、まる」
うーん、と背筋を伸ばしながら益体のないことを呟いた。
夏バテには早すぎると思うのだが、ここのところどうも心も体もやる気というものが欠けていて気合がまったく入らない。
「夏休みかあ……今年も暑そうだなあ」
あくびをかみ殺していつもの通学路を歩く。
とりあえず考えつく事といったら、今日の天気なら布団を干せばさぞ気持ちいいだろう、なんて事ぐらいだ。
……まったく、学生の一大イベントを前にしてこのたるみよう。連日の試験勉強で遊び心というものが根こそぎ削られている証拠だった。
「―――ま、それも今日でラストだし!」
期末試験最終日、しかも残った科目は二つだけ。
この最後の波を乗り越えれば、明日からは何の気がねもなく布団を干せるというものなのだ。
□交差点
いつもの交差点に着く。
と、ブレーキ音をあげて道を滑っていくダンプカーが目に入った。
「――――――――――」
別段、ダンプカーの先に人間が居るわけではない。
信号も何もない所でダンプカーはフルブレーキングし、スピードを殺そうと努力していた。
「―――――――――」
なんだろう、と思うより先に、危ない、と体が反応していた。
足が動く。
相変わらずの考えなしでダンプカーの前へ飛び出そうとした矢先。
「おっはよう、志貴―――――!」
なんて、場にそぐわない元気のいい挨拶をかまされてしまった。
return
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*s521
□交差点
「―――――――――」
飛び出そうとした足が止まる。
背後へと振り返ると、そこには―――
【アルクェイド】
嬉しそうに手を振るアルクェイドの姿があった。
「やっほー! こんな所で会えるなんて奇遇だねー」
どこまで本気なのか、初夏の陽射しの下でアルクェイドはにまにまと笑っている。
「………………」
こいつめ。学校がある日は間違っても通学路には来るなって言ってあるのに聞きやしねえ。
「……あのな、アルクェイド。おまえが朝っぱらから出歩く時点で自然じゃないんだ。こういうのは奇遇っていうんじゃなくて故意って言わないか、普通」
【アルクェイド】
「え、そっかな? だってなんとなく志貴に会いたくなって、ここで会えたらいいなーって待ち伏せしてただけだよ? それで会えたんだから偶然だと思うけど」
……なるほど。聞きようによってはそれなりに偶発的な接触と言えるかもしれないな、それは。
「―――却下。こっちの通学路を知ってる時点で偶然でもなんでもないだろ。ったく、こんなところ人に見られたらどうするんだよ。ただでさえ生活指導の教師に睨まれてるんだから、間違ってもここには来るなって言っただろアルクェイド」
しっしっ、と手を振ってアルクェイドを追っ払う。
【アルクェイド】
と、さっきまでの笑顔はどこにいったのか、いかにも不満そうにアルクェイドは顔をしかめた。
「―――癇に障った。何よその言い方、まるでわたしがここにいちゃいけないみたいじゃない!」
「みたいじゃなくてズバリいけないんだってば!」
反射的に怒鳴り返す。
……なんというか慣れというものは恐ろしいもので、アルクェイドの理不尽な言い分に落ち着いて対応できるようになった自分がいたりする。
「――とにかく、通学路にやってくるのはルール違反だろ。大事な用ならすぐそっちに行くし、普段も頻繁に顔だしてるんだからここで待ってる必要なんてない筈だ。だっていうのに約束を守れないっていうんなら、こっちだってアルクェイドとの約束を守れないぞ」
【アルクェイド】
「う………………それは、そうだけど」
しゅん、と肩をすくめるアルクェイド。
突発的にワケの分からない行動に出るくせに理屈に弱いアルクェイドには、こういった言葉が二番目ぐらいに効果的だ。
……ちなみに一番はというと、まあ、公衆の面前では出来ない実力行使というか、そんな感じ。
【アルクェイド】
「……でも仕方ないじゃない。なんか、今朝になってすごく嫌な予感がしたんだから。放っておいたら志貴が怪我するような気がしちゃったし―――」
「―――――?」
自信なげにアルクェイドはそんな事を言う。
……その、嫌な予感というのはよろしくないが、こっちの身を心配して来てくれたというのは純粋に嬉しかった。
「……そっか。悪いこと言ってすまなかった。けどさ、気にかけてくるのはありがたいけどそう怪我なんてしないって。これでも吸血鬼と渡り合った人間なんだからな」
【アルクェイド】
「そっかなあ。万年貧血症の志貴が言っても説得力ゼロなんだけど―――」
……うっ。そういえばそうでした。
【アルクェイド】
「こうして見ると顔色だって悪いし、最近元気がないじゃない。志貴、わたしに隠してる悩み事とかあるんじゃない?」
……そうか。別に隠しているワケではないので、この際ハッキリ言っておこう。
「いや、そりゃあおまえだって」
ぴっ、とアルクェイドを指差す。
「え、わたし?」
「そうだよ。悩み事といったら、そりゃあアルクェイドは頭痛の種どころか頭痛の元凶だからな。もーすこし俺の身になってくれると嬉しい」
……まあ、我が侭を聞くのも楽しくはあるんだけど、そんな事を言ったら増長するので黙っておく。
【アルクェイド】
「そ、そうなの……? わたし、志貴にそんな無理させてた……?」
―――と。
なんか、アルクェイドはよく分からない勘違いをしているようだ。
「……アルクェイド。無理って何が?」
【アルクェイド】
「え……だって、志貴ここのところ元気ないでしょ? それで、もしかしたらわたしが無理に体力使わせてたのかなあ、とか……」
もじもじと指を絡めるアルクェイド。
「――――――――――」
まずい。そういう反応をされると、初々しいだけにこっちまで照れてしまう。
「……あー、そういうんじゃないってば。あのさ、ここんところ元気がないのはテスト勉強してたからだよ。半端な成績だと秋葉のヤツがうるさいんで、ここ数日本腰いれてたから疲労が溜まってるだけだって」
【アルクェイド】
「テスト勉強……? ああ、そういえば妹もそんなコト言ってたっけ。試験が終わるまで屋敷の敷地に入ったら覚悟しなさい、とか言ってたっけ」
ふむふむ、と頷くアルクェイド。
……こいつの事だから、何も知らないようでいて、実は期末試験というものがどんな物かぐらいは知っているんだろう。
「ま、そういうコト。ここんところ元気がないのはアルクェイドのせいじゃないから、そう気にするコトはないよ」
「そうなんだ。志貴もタイヘンなんだね」
「ああ。俺も出来る事なら試験のコトなんて忘れて、ぱーっと夏休みを楽しみにしていたいねえ」
腕を組んでつい本音を洩らす。
と。
【アルクェイド】
「あはは、そんなの簡単だよ」
笑いながら言って、アルクェイドは手を上げた。
―――ゴツン、という音。
何を思ったのか、アルクェイドは俺の後頭部をゲンコツで殴った。
□交差点
「ちょっ――――なに考えてんだ、アルク―――」
咄嗟の文句も最後まで言えない。
……急速に気が遠くなる。
視界が黒と白で点滅している中、
朝起きた時にいたカラスとか、
街を走っていた霊柩車とかが脳裏に浮かんだ。
意識が薄れていく。
とにかくもう、有無を言わせぬ激しい打撃だった。
どのくらい激しかったかと言うと、アルクェイドの言うとおり昨日のコトとか明日のコトとか、ともかくなんでもかんでも忘れられそうな気がするぐらい。
――――いや、アルクェイド。
いくらなんでも、それはやりすぎ。
などという悪態ももう口に出せない。
……そうそう。思えば、今日は朝から不吉な予感がしていたんだったっけ―――
return
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*s522
□交差点
――――それでも駆け出した足は止まらなかった。
けたたましく響くブレーキ音。
路上を滑っていくダンプカー。
その前に。
びっくりして固まっている、小さな子猫の姿があった。
「――――――!」
必死に走り抜ける。
かたまっている子猫を抱き上げて、間近にまで迫ったダンプカーと衝突しようとする直前――
力のかぎり、アスファルトを蹴っていた。
ターン、と、ほれぼれするぐらいの跳躍だったと思う。
子猫を抱いたまま、ラグビー選手のように道の端っこにトライする。
そのまま視界がぐらぐら揺れた。
……何事も全力を出せばいいというわけではない。
ほれぼれするぐらいの跳躍は、勢いあまってブロック塀につっこむぐらい容赦なしだった。
しかも頭から、なんの受け身も取れないままで。
「志貴、なにやってるのよあなた……!」
怒っているようで慌てている、アルクェイドの声。
意識はこれまた容赦なく薄れていく。
ぬらり、と額に落ちていく血の感触。
「……………………」
ああ、こりゃあ何針か縫うのかなあ、と冷静に判断して、意識はそこで幕を下ろした。
ああ、そうそう。
受け身を取らなかった理由は、言うまでもなく子猫を抱いていたからである――――
return
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*s523
――――――そうして。
長い夢から、目を醒ました。
□病室
まず第一に思ったコトは陽射しが強いというコト。
その次に思ったのが、まだ朝になったばかりというコトだった。
「――――――――――あつ」
窓から入ってくる陽射しのせいだろう、額はわずかに汗をかいている。
それでもその暑さは不快なものではなくて、逆に清々しささえ感じさせた。
と、ドアの外に人の気配。
ドアノブが回って誰かが入ってくる。
【アルクェイド】
「あ、起きてる」
ドアを開けるなり、アルクェイドはなんでもない事のようにそう言った。
「よっ、おはよう」
アルクェイドに対抗して、なんでもない事のように挨拶をしてみる。
【アルクェイド】
「………………」
アルクェイドはわずかに文句がありそうな顔をしてから、
【アルクェイド】
「おはよう志貴。その様子ならすっかり回復したみいね」
と、やっぱりなんでもない事のように挨拶を返してきた。
それが現実。
こいつのこういう所を見せられると、今までのことが夢のように思えて馬鹿らしくなる。
「―――――――――ぷ」
【アルクェイド】
「むっ。なに笑ってるのよ志貴。他に言うことあるんじゃない? まったく、こっちの気も知らないで、いつまでも呑気に眠ってるんだから」
「そうなのか。で、俺ってどのくらい寝てたんだ?」
【アルクェイド】
「えーっと、三日ぐらいかな。大した怪我じゃないのに目を覚まさなくてね、妹がすっごくやかましかったのよ」
「……ああ、そっか。アルクェイドが病院の手配なんてしてくれる筈ないもんな。なんだ、それじゃあ秋葉に連絡したのか」
【アルクェイド】
「別にしてないよ。志貴を病院に運んだのは車の運転手だし、妹は呼んでもないのに飛んできたわ」
「――――む。それはまた、後で色々と言われそうな展開だな」
はあ、とため息をついて額に手をやる。
……頭は包帯でぐるぐる巻きにされている。
三日間も眠っていたせいか体は思いっきりだるくて、すぐには動かせそうにない。
とどめに、実はまだ頭がぼーっとしてまともに話せる状態でもない。
「わるいアルクェイド。ちょっと水持ってきてくれないか」
【アルクェイド】
「はいはい。あ、ついでに妹たちに志貴が起きたって伝えてくるから時間がかかるわよ」
「あいよ。別に喉が乾いてるわけじゃないから、急がず慌てず騒ぎにせず、ゆっくり行ってきてくれ」
【アルクェイド】
「むっ。まだぼーっとしているクセにその減らず口は健在なのね」
「ああ、おまえにだけはいつでも頭がハッキリしてるんだ、俺」
「―――――――」
お、なんか思わぬ効果があったのか、アルクェイドは大人しく飲み物を調達しに行ってくれた。
□病室
「――――――はあ」
途端、意識が朦朧としてきたりする。
時計の針がよく見えない。
あれだけ深い眠りの中にいた後遺症か、まだ時間を感じる機能が麻痺しているようだ。
その証拠に、なんていうか。
【シエル】
「もう、相変わらず目が離せない人なんですから遠野くんは。たまには心配するこっちの身にもなってください」
シエル先輩は心底呆れながらも、ほう、と安堵の吐息を洩らしてくれた。
【シエル】
「けど遠野くん、良かったですねー。怪我で期末試験受けられませんでしたけど、夏休みに補習を受ければ大目に見てくれるそうですよ?」
「……うわ。それ、先輩が言い出した事じゃないだろうな」
【シエル】
「ほうほう。寝ぼけているようで勘は鋭いんですね遠野くん」
なんて、悪魔みたいな事を言ってくるシエル先輩も。
□病室
【秋葉】
「兄さん、お体の具合はどうですか……?」
不安そうに声をかけてくる秋葉。それにヒラヒラと手をふって健在ぶりをアピールする。
【秋葉】
「……そう、その様子なら安心ですね。お医者さんは目が覚め次第退院しても構わないと言っていましたから、さっさと退院の手続きをしてきましょう。ここにいると色々と来客が多いようですからっ!」
「ああ、そうだな。早く屋敷に帰らないと。やらなくちゃいけないことが溜まってる」
【秋葉】
「? 兄さん、やらなくちゃいけない事ってなんですか?」
「えーっと、そうだな。ほら、まずはフトンを干さなくちゃ」
こんなにいい天気なんだから勿体ないだろ、と秋葉に諭す。
納得がいかない顔をしつつ、まあ兄さんが言うのでしたら……と退室していく秋葉とか。
□病室
【琥珀】
「おはようございます志貴さん。何かご用はございませんか?」
アルクェイドばりに平静な琥珀さんは相変わらずだ。
「……そうだなあ、屋敷に戻ったら琥珀さんの料理が食べたいかな。三日間点滴ばかりだったから、体が食べ物を欲しがってる」
おもに肉。しかも焼肉。なにしろさんざん食いっぱぐれたから。
【琥珀】
「はい、かしこまりました。けどあんまり重いものはダメですよ志貴さん。病み上がりなんですから、胃に優しいものにしましょう。あの、なにかご要望はありますか?」
……ふむ。
胃に優しくて、食べやすくて、食べたいものといったら――
「ウメサンド」
「は?」
「ウメ干しのサンドウィッチが食べてみたいんだけど、いいかな」
「――――――――」
琥珀さんはちょっと考え込んで、
【琥珀】
「はいっ、腕によりをかけてお作りさせていただきますね!」
と弾けるような笑顔で言ってくれたり。
□病室
【翡翠】
「―――志貴さま、お目覚めになられたのですね」
緊張の糸が切れたのか、ほう、と大きく胸を撫で下ろす翡翠。
……にしても、病院にそのカッコウでくるのはどうかと思う。
「――――やっ」
と、挨拶をしようとして少し眩暈がした。
まだ一人で体を動かせる状態ではないようだ。
【翡翠】
「志貴さま……? あの、まだお体の具合がよろしくないのでしょうか……?」
「ん……いや、ただの眩暈だから気にしないでくれ。だいたい三日も寝てたんだから、体のほうはずっと調子がいいよ。ただ筋肉が怠けてるだけで、しばらくすればすぐに動けるようにもなるし」
【翡翠】
「あ―――それでしたら夏祭りには参加できるのですね?」
その声には期待が満ちていた。
……夏祭りって―――ああ、もうじき神社でやる恒例のお祭りのことか。
秋葉たちは行った事がないっていうから今年は行こうって誘ったんだっけ。
「ああ。それまでにはきっちり回復してると思う」
【翡翠】
「――――良かった。わたしも姉さんも、お祭りなんて初めてですから」
そう、滅多に笑ってくれないけど笑えばこんなにも優しい顔をする翡翠も。
□病室
もう、誰が誰の後にやってきたか分からなくなるぐらい、頭はいまだ夢の余韻に酔っていたりするワケである。
「むぅ―――――」
いかんなあ、と軽く頭を叩いた。
もう夏も間近。
陽射しはこれから一日ごとにもっともっと暑くなって、毎日はもっともっと忙しくなる。
だから呆けているのはこれぐらいにして、今すぐにでも起きあがらなくっちゃいけないだろう。
【アルクェイド】
「あれ? 妹たち帰ったの?」
両手いっぱいに抱えきれないほどのジュースを持ってアルクェイドが帰ってきた。
「ああ、色々と手続きがあるからってさ。まあ、あと一時間ぐらいはここでこうしているみたいだ」
【アルクェイド】
「そうなんだ。それじゃわたしも一度帰るわ。日中に出歩いていると余計に体力使うもの」
「なに言ってるんだ。これからもっと暑くなるんだから、これぐらい我慢できるようになっとけよ。その、夏になったら色々と連れまわすんだからさ」
さすがに照れくさいので視線を逸らしてぼやく。
「―――そうね。楽しみにしてるよ、志貴」
これまたあっさりと返答してアルクェイドはドアへと歩いていく。
その背中へ、アルクェイド、と呼びかけた。
【アルクェイド】
「なに?」
「―――心配したか?」
それは一瞬の事だったと思う。
アルクェイドは何を悩むのでもなく、それこそ心から、
【アルクェイド】
「うん、心配した!」
なんて、笑顔で言ってくれた。
□病室
白いカーテンが揺れている。
「―――――さて」
そうして一人になって、ようやくさっきからこっちを見ていた彼女と目を合わせてみた。
「とまあ、以上が大まかな事情です」
窓際の棚の上。
陽射しを浴びながら丸まっていた黒猫は、こくん、とかすかに頷いたようだった。
「俺が運び込まれてからずっとそこにいたんだ。よく看護婦さんに見つからなかったなぁ」
いや、見つかる筈もないか。
秋葉や先輩でさえ気付かなかったんだから、もしかするとアルクェイドでさえ気付いていなかったかもしれない。
「―――ところでさ、そこ暑くない? 俺はもう大丈夫だから、一足先に屋敷に戻っててもいいよ」
確か中庭の椅子の下が彼女のお気に入りだった筈だ。
黒猫は無関心なままで頭をあげて、からり、と前足で窓ガラスを開ける。実に器用だ。
「じゃあね。また後で会おう」
黒猫は頷きもせず窓から外へ飛び出した。
こっちのことなんて見てもいない、という無愛想さは健在という所か。
「―――はあ。相変わらずなんだなレンは」
彼女が飛び降りた窓の外に視線を送る。
――――陽射しはどこまでも白く、
じりじりと肌を焼くようだ。
秋はまだまだずっと先。
彼女はずっと眺めていただけの世界へ飛び出して、おそらくは初めての夏を迎える。
「――――――あつ」
額に浮かんだ汗を拭う。
窓の外は霞むような陽気で、アスファルトはゆらゆらと陽炎を吐き出している。
「さて、それじゃあ起きるとしましょうか!」
まだ満足に覚醒していない手足を無理やり動かして、思いっきり伸びをした。
ばきばきと鳴る背骨。
その痛みも今は始まりの合図のようで心地よい。
暦はじき八月へ。
際限なく暑くなっていくこの季節、今年も負けじとエンジンをいれなくちゃ。
命短し恋せよなんとか、のんびりかまえている暇なんてありゃしない。
「―――ああ、今年は特に忙しそうだ」
たるみきった手足を運動させながら青い青い空を見た。
窓の外には白い雲。
ほんの少し眠っている間に、一度きりの暑い夏がもうそこまでやってきていた―――