「月姫」(present by TYPE-MOON)
―――――――ふと、目が覚めた。
暗い夜。
家の中にみんなはいない。
一人きりはこわいから
みんなにあいたいくて庭にでた。
屋敷の庭はすごく広くて
まわりは深い深い森に囲まれて。
森の木々はくろく・くろく
大きなカーテンのようだった。
それは まるでどこかの劇場みたい。
ざあ と木々のカーテンが開いて、
すぐに演劇が始まるのかとわくわくした。
遠くでいろんな音がしてる。
くろい木々のカーテンの奥。
森の中で みんなが楽しそうに騒いでる。
幕はまだ開かない。
がまんできずに 森の中へと入っていった。
すごく、くらい。
森はふかくて ツメタイヒカリも届かない。
ただ 寒い。
眼球の奥がしびれてしまうぐらいの 寒い冬。
自分の名前をよばれた気がして
もっと奥へと歩いていく。
木々のヴェールを抜けたあと。
森の広場にはみんなそろって待っていた。
みんなふぞろいのかっこう。
みんなばらばらのてあし。
一面 まっかになってる森のひろば。
───わからない。
バラバラにするために見知らぬ人がやってくる。
───よく わからない。
けれど誰かが前にやってきて
かわりにバラバラにされてくれた。
───ボクは子供だから よく わからない。
びしゃりと。
暖かいものが顔にかかった。
あかい。
トマトみたいに あかい水。
バラバラになった人。
その おかあさん という人は
それっきりボクの名前を呼ばなくなった。
―――――ほんとうに よくわからないけれど。
ただ寒くて。
意味もなく 泣いてしまいそうだった。
目にあたたかい緋色が混ざってくる。
眼球の奥に染みこんでくる。
だけどぜんぜん気にならない。
夜空には、ただ一人きりの月がある。
すごく不思議。
どうしていままで気がつかなったんだろう。
───なんて、ツメタイ───わるい、ユメ。
ああ───気がつかなかった。
こんやはこんなにも
つきが、きれい───────だ─────
「月姫」(present by TYPE-MOON)
翡翠編good
気がつくと病院のベッドにいた。
カーテンがゆらゆらとゆれている。
外はとてもいい天気で、
かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
「はじめまして遠野志貴くん。回復おめでとう」
初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めてきた。
にこやかな笑顔と、四角いメガネがとても似合っている。
清潔そうな白い服も、このおじさんにはぴったりだった。
「志貴くん。先生の言っている事がわかるかい?」
「……いえ。僕はどうして病院なんかにいるんですか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるような傷じゃなかったんだよ」
白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なにか、お医者さんらしくない事を言う。
――――――ひどく。
気分が、悪くなった。
「……眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。今は無理をせず、体の回復につとめるのがいい」
お医者さんは笑顔のままだ。
はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴くん」
「どうして、そんなに体じゅうラクガキなんかしているんですか。この部屋もところどころヒビだらけで、いまにも崩れちゃいそうですけど」
お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩したけれど、すぐにまたニコニコとした笑顔に戻って、カツカツと歩いていってしまった。
「―――やはり脳に異状があるようだ。脳外科の芦家先生に連絡をいれなさい。それと眼球にも損傷の疑いがあるな。午後は眼の検査に回すように」
お医者さんは、僕に聞こえないように、こっそりと看護婦さんに話しかけた。
「………ヘンなの。みんな体中にラクガキしてる」
くろい、ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうに走ってる。
意味はよくわからないけど、見ているだけでとても気持ちがわるい。
「……なんだろう、コレ」
ベッドにもラクガキがある。
指で触ってみたら、つぷり、と指先が沈み込んだ。
「―――あ」
もっと細い物で触れたら奥まで沈みそうなので、棚におかれた果物ナイフでラクガキをなぞってみた。
何の力もいれてないのに、ナイフは根元までベッドに沈み込む。
面白かったから、そのままラクガキどおりにナイフを引いた。
ごとん。
重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまった。
「きゃあああああ!」
となりのベッドにいる女の子が悲鳴をあげる。
看護婦さんたちが走ってきて、果物ナイフを取りあげられた。
「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」
お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、その方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。ねえ、どうしてこの病院はヒビだらけなの?」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんてないんだ。
それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒らないから教えてくれないかな」
「―――だから、その線をなぞっただけなんだ」
「……わかった。このお話はまた明日にしよう」
お医者さんは去っていく。
けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはくれなかった。
あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうとキレイに切れた。
力なんていらない。
紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることができた。
ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。
……試したことはないけれど、たぶん、きっと、にんげんも。
ラクガキはみんなには見えてないみたいだ。
なぜか自分だけに見える黒い線。
それがなんであるか、子供の自分にもなんとなく分かってきた。
アレはきっと、ツギハギなんだ。
手術をして傷口を縫ったあとのところみたいに、とても脆くなっているところだとおもう。
だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れるはずなんてない。
――――ああ、今まで知らなかった。
セカイはこんなにもツギハギだらけで、とても壊れやすいトコロだったなんて。
みんなには見えてない。
だから平気。
でも僕には見えている。
こわくて、こわくて、歩けない。
まるで、僕だけおかしくなってしまったみたいだ。
だからだろうか。
あれから二週間も経つのに、誰も僕の話を信じてくれない。
あれから二週間も経つのに、誰も、僕に会いに来てくれない。
あれから二週間も経つのに。
ずっと、僕だけがツギハギだらけのセカイに生きている――――
病室にはいたくない。
ラクガキだらけのトコロにいたくない。
だからココから逃げ出して、誰もいない遠い場所に行くことにした。
でも胸の傷が痛くて、少ししか走れなかった。
◇◇◇
気がつけば。
自分がいるのは街の外れにある野原で、ちっとも遠い場所になんて行けなかった。
「……ごほっ」
胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみこんでせきこんだ。
ごほっ、ごほっ。
誰もいない。
夏の終わりの、草むらの海のなか。
このまま、消えてしまいそうだった。
けれど、その前に。
「君、そんなところでしゃがんでると危ないわよ」
後ろから、女の人の声がした。
「え………?」
「え、じゃないでしょ。君、ただでさえちっこいんだから草むらの中でうずくまってると見えないのよね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるところだったんだから」
ふきげんそうに女の人は僕を指差した。
……なんか、ちょっとあたまにきた。
僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に?」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相手になってくれない? 私は蒼崎青子っていうんだけど、君は?」
まるでずっと知りあいだった友達のような気軽さで、女の人は手を差し伸べてきた。
断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と自分の名前をいって、女の人の冷たい手のひらを握り返した。
女の人とのおしゃべりは、とても楽しかった。
この人は僕の言うことを『子供だから』といって無視しない。
ちゃんと一人の友達として、僕の話を聞いてくれた。
色々なことを話した。
僕の家のこと。歴史のある旧い家柄で、とても行儀作法にうるさくって、お父さんが厳しい人だということ。
あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、いつも僕のあとを付いてきていたということ。
広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきはと一緒に友達と遊んだこと。
―――熱にうかされたように、色々なことを話した。
「ああ、もうこんな時間。
悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるからお話はここまでにしましょう」
女の人は立ち去っていく。
……また一人になるのかと思うと、寂しかった。
「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。君もちゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守るんだぞ」
「あ―――」
女の人は、まるでそれが当たり前だ、というように去っていった。
「……また、明日」
また明日、今日みたいな話ができる。
嬉しい。
事故から目覚めて。初めて、人間らしい感情が戻ってきた。
そうして、午後になると野原に行くのが日課になった。
女の人は青子って呼ぶとおこる。
自分の名前が嫌いなんだそうだ。
考えたあげく、なんとなく偉そうな人だから『先生』と呼ぶことにした。
先生はなんでも真面目に聞いてくれて、僕の悩みを一言で片付けてくれる。
……事故のせいで暗くなっていた僕は、少しずつ、先生のおかげでもとの自分に戻っていけた。
あんなに怖かったラクガキのコトも、先生と話しているとあまり恐くは感じなくなっていた。
だから、どこの誰だか知らないけど、もしかしたら先生は本当に学校の先生なのかもしれない。
でも、そんなコトはどうでもいいことだと思う。
先生といると楽しい。
大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。
「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」
ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物ナイフを使って、野原に生えていた木を切った。
あのラクガキみたいな線をなぞって、根元からキレイに切断した。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの他の誰にもできないよね」
「志貴―――!」
ぱん、と頬を叩かれた。
「先……生?」
「――――君は今、とても軽率な事をしたわ」
先生はすごく真剣な目をして見つめてくる。
……理由はわからなかったけれど。
僕は、いま自分がした事が、とてもいけないコトなんだって思い知った。
厳しい先生の顔と、叩かれた頬の痛みで。
とても、とても悲しい気持ちになった。
「……ごめん、なさい」
気がつくと、泣いていた。
「―――――志貴」
ふわり、とした感覚。
「―――謝る必要はないわ。
たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、それは決して志貴が悪いってわけじゃないんだから」
先生はしゃがみこんで、僕を抱きしめていた。
「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。
だから私は謝らない。そのかわり、志貴は私のことを嫌ってもいいわ」
「……ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。……私が君に出会ったのは一つの縁だったみたい」
先生はそうして、僕が見ているラクガキについて聞いてきた。
この目に見えている黒い線のことを話すと、先生はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「……志貴、君が見ているのは本来視えてはいけないものよ。
『モノ』にはね、壊れやすい個所というものがあるの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完全じゃない。
君の目は、そういった『モノ』の末路……言い代えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「……未来を……みてる、の?」
「そうよ。死が視えてしまっている。
――それ以上のことは知らなくていい。
もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるなら、必然としてそれなりの理屈を知る事になるでしょうから」
「……先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメよ。
ただ一つだけ知っておいてほしいのは、決してその線をいたずらに切ってはいけないということ。
―――君の目は、『モノ』の命を軽くしすぎてしまうから」
「―――うん。先生が言うならしない。それに、なんだか胸がいたいんだ。……ごめんね先生。もう、二度とあんなことはしないから」
「……よかった。志貴、いまの気持ちを絶対に忘れないで。そうしていれば、君はかならず幸せになれるんだから」
そうして、先生は僕からはなれた。
「でも先生。このラクガキが見えていると不安なんだ。
だって、この線を引けばそこが切れちゃうんでしょう? なら、僕のまわりはいつバラバラになってもおかしくないじゃないか」
「そうね。その問題は私がなんとかするわ。――どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
はあ、とため息をついてから、先生はニコリと笑った。
「志貴、明日は君にとっておきのプレゼントをあげる。私が君を以前の、普通の生活に戻してあげるわ」
◇◇◇
次の日。
ちょうど先生と出会ってから七日目の野原で、先生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば妙なラクガキは見えなくなるわよ」
先生がくれたものはメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。別に度は入ってないんだから」
先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
とたん―――
「うわあ! すごい、すごいよ先生! ラクガキがちっとも見えない!」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを奪ってまで作った蒼崎青子渾身の逸品なんだから。 粗末にあつかったらただじゃおかないからね、志貴」
「うん、大事にする! けど、先生ってすごいね! あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、なんだか魔法みたいだ、コレ!」
「それも当然。だって私、魔法使いだもん」
得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えたわけじゃないわ。ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、線はまた見えてしまう」
「―――そ、そうなの?」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ。志貴、君はその目となんとか折り合いをつけて生きていくしかないの」
「………やだ。こんな恐い目、いらない。またあの線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる」
「ああ、もう二度と線をひかないっていうアレか。ばかね、あんな約束気軽に破っていいわよ」
「……そうなの? だって、すごくいけないコトだって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事ね。
けどそれは君個人の力なのよ、志貴。だからそれを使おうとするのも君の自由なの。君以外の他の誰も、志貴を責める事はできないわ。
君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な能力を持ってしまった。
けど、それが君に有るという事は、なにかしらの意味が有るという事なの。
かみさまは何の意味もなく力を分けない。
君の未来にはその力が必要となる時があるからこそ、その直死の眼があるとも言える。
だから、志貴の全てを否定するわけにはいかないわ」
先生はしゃがんで、僕の視線と同じ高さの視線をする。
「でもね、だからこそ忘れないで。
志貴、君はとてもまっすぐな心をしてる。
いまの君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。
君は君が正しいと思う大人になればいい。
いけないっていう事を素直に受けとめられて、ごめんなさいと言える君なら、十年後にはきっと素敵な男の子になってるわ」
そう言って。
先生は立ちあがると、トランクに手を伸ばした。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネを外しちゃだめだからね。
特別な力は特別な力を呼ぶものなの。
どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人がよく考えて力を行使なさい。
その力自体は決して悪いものじゃない。結果をいいものにするか悪いものにするかは、あくまで志貴、君の判断しだいなんだから」
トランクが持ちあがる。
―――先生は何も言わないけれど。
僕は、先生とお別れになるんだとわかってしまった。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃわからない。
ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかったんだ。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたんじゃないか。
……だめなんだ。
先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだめに決まってるじゃないか……!」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も騙せないような嘘は、聞いている方を不快にさせるわ」
先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と僕の額を指ではじいた。
「―――自分でもわかってるんでしょう?
君はもう大丈夫だって。ならそんなつまらないコトをいって、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけないわ」
先生はくるり、と背を向けた。
「それじゃあお別れね。
志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし穴だらけなのよ。
君は人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい」
先生は行ってしまう。
とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、シャンとして見送る事にした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来よ志貴。その意気でいつまでも元気でいなさい。
いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト。
大丈夫、君なら一人でもちゃんとやっていけるから」
先生は嬉しそうに笑う。
ざあ、と風が吹いた。
草むらが一斉に揺らぐ。
先生の姿はもうなかった。
「……ばいばい、先生」
言って、もう会えないんだな、と実感できた。
残ったものはたくさんの言葉と、この不思議なメガネだけ。
たった七日だけの時間だったけれど、なにより大事なコトを教えてくれた。
ぼんやりと佇んでたら、目に涙がたまった。
―――ああ、なんてバカなんだろう。
僕はさよならばっかりで。
ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった。
◇◇◇
僕の退院は、それからすぐだった。
退院したあと、僕は遠野の家ではなく、親戚の家に預けられる事になった。
けど大丈夫。
遠野志貴は一人でもちゃんとやっていける。
新しい生活を、新しい家族と過ごす。
遠野志貴の九歳の夏はそうして終わった。
新しい秋がやってきて、僕は少しだけ、大人になったんだと思う――――
●『1/反転衝動T』
● 1days/October 21(Thur.)
―――――秋。
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
自分こと遠野志貴は、八年ぶりに長く離れていた実家に戻る事になった。
「志貴、早くしなさい。いつもの登校時間を過ぎていますよ」
台所から啓子さんの声が聞こえてくる。
「はい、いま出ますからー!」
大声で返して、それまで自分の部屋だった有間家の一室に手を合わせる。
「それじゃ行くよ。八年間、お世話になりました」
ぱんぱん、と柏手をうった後。
鞄一つだけ持って、慣れ親しんだ部屋を後にした。
玄関を出て、有間の屋敷を振りかえる。
「志貴」
玄関口まで見送りにきた啓子さんは、淋しそうな目で俺の名前を口にした。
「行ってきます。母さんも元気で」
もう帰ってくる事はないのに行ってきます、というのはおかしかった。
もうこの先、家族としてこの家の敷居をまたぐ事はないんだから。
「今までお世話になりました。父さんにもよろしく言っておいてください」
啓子さんはただうなずくだけだった。
八年間────俺の母親であった人は、ひどく悲しげな目をしていた。
この人のそんな顔、今まで見たことはなかったと思う。
「遠野の屋敷の生活はたいへんでしょうけど、しっかりね。あなたは体が弱いのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ」
「大丈夫、八年もたてば人並みに健康な体に戻ります。こう見えてもワリと頑丈なんです、俺の体」
「ええ、そうだったわね。けど遠野の方達はみなどこか違っている人達ですから、志貴が圧倒されないかと心配で」
啓子さんの言いたい事はなんとなくわかる。
今日から俺が住む事になる家は、お屋敷ともいえる時代錯誤な建物なのだ。
住んでる家も立派なら家柄も立派という名家で、実際いくつかの会社の株主でもあるらしい。
くわえて言うのなら、八年前に長男である俺―――遠野志貴を親戚である有間の家に預けた、自分にとって本当の家でもある。
「でも、もう決めた事ですから」
そう、もう決めた事だった。
「……それじゃあ行ってきます。今までお世話になりました」
最後にもう一度だけそう言って、八年間馴れしたんだ有間の家を後にした。
「――――はあ」
有間の家から離れて、いつもの通学路に出たとたん、気が重くなった。
―――八年前。
普通なら即死、という重症から回復した俺は、親元である遠野の家から分家筋である有間の家に預けられた。
俺は九歳までは実の両親の家である遠野の屋敷で暮らしていて、
その後の八年間、
高校二年生である今までを親戚である有間の家で暮らしていた、というコトになる。
なかば養子という形で有間の家に預けられてからの生活は、いたってノーマルなものだった。
あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事はまったくおこらなかったし、自分も先生のくれたメガネをかけているかぎり『線』を見る事がない。
遠野志貴の生活は、本当に平凡に。
とても穏やかなままで、ゆるやかに流れていた。
……つい先日。
今まで勘当同然に放っておかれた自分に、
『今日までに遠野の屋敷に戻って来い』
なんていう遠野家当主からのお言葉がくるまでは。
「はあ────」
またため息がでる。
実のところ、交通事故に巻き込まれて入院する以前から、俺は遠野の家とは折り合いが悪かった。
行儀作法にうるさい屋敷の生活が子供心にはつまらないモノに思えてしまったせいだろう。
だから有間の家に預ける、と実の父親に言われた時は、さして抵抗もなく養子に出た。
結果は、とても良好だったと思う。
有間の家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である文臣さんとも親子のように接してきた。
もともと一般的な温かい家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で本当の子供のように暮らしてきた。
そこに後悔のたぐいはまったくなかった。
……ただ一つ。
一歳年下の妹を遠野の屋敷に残してきてしまった、ということ以外は。
「……秋葉のやつ、俺のことを恨んでるんだろうな」
というか、恨まれて当然のような気がする。
あの、やたら広い屋敷に一人きりになって、頭の硬い父親とつきっきりで暮らしていたんだ。
秋葉がさっさと外に逃げ出してしまった俺のことをどう思っているかは容易に想像できる。
「…………はあ」
ため息をついても仕方がない。
あとはもうなるようになれだ。
今日、学校が終わったら八年ぶりに実家に帰る。そこで何が待っているかは神のみぞ知るというところだろう。
「そうだよな。それに今はもっと切迫した問題があるし」
腕時計は七時四十五分をさしている。
うちの高校は八時きっかりに朝のホームルームが始まるため、八時までに教室にいないと遅刻が確定してしまう。
鞄を抱えて、学校までダッシュする事にした。
「ハア、ハア、ハア――――」
着いた。
家から学校まで実に十分弱。
陸上部がスカウトにこないのが不思議なぐらいの好タイムをたたき出して、裏門から校庭に入る。
「……そっか。裏門から入るのも今日で最後か」
位置的に有間の家と遠野の家は学校を挟んで正反対の場所にある。
有間の家は学校の裏側に、遠野の屋敷は学校の正門方向。
自然、明日からの登校口は裏門ではなく正門からになるだろう。
「ここの寂しい雰囲気、わりと好きだったんだけどな」
なぜかうちの高校の裏門は不人気で、利用しているのは自分をふくめて十人たらずしかいない。
そのせいか、裏庭は朝夕問わずに静かな、人気のない場所になっている。
かーん、かか、かーん。
……だからだろうか。
小鳥のさえずりに混ざって、トンカチの音まで確かに聞き取れてしまうのは。
「トンカチの音か―――って、え……?」
かーん、か、かかーん、かっこん。
半端にリズミカルなとんかちの音がする。方角からして中庭のあたりからだろうか。
「………………」
なんだろう。
ホームルームまであと十分ない。
寄り道はできないのだが、なんだか気になる。
ここは――
ホームルームまであと数分。今は教室に直行するべきだ。
いつもより何分か余裕をもって教室に到着した。「―――ふう」
軽く深呼吸をして、窓際にある自分の机へと歩いていく。
と。
「おはよう遠野くん」
なんて、聞きなれない声で挨拶をされてしまった。
「―――え?」
戸惑いながら振りかえる。
「遠野くん、さっき先生が捜してたよ。なんかお家のことで話があるとか言ってたけど」
「……ふうん。家の事って、引っ越しについてかな」
……住所移転の手続きは昨日すませたはずだけど、なにか不備でもあったんだろうか。
「―――――」
クラスメイトの女生徒は立ち去るわけでもなく、じっとこっちの顔を見つめてくる。
「えっと……おはよう、弓塚」
「うん、おはよう遠野くん。わたしの名前、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
ホッとしたように吐息をもらして、彼女―――弓塚さつきは淡く微笑んだ。
「クラスメイトの名前ぐらいは覚えているよ。その、弓塚さんとはあんまり話をしたことはなかったけど」
「そうだよね。うん、だからわたし、遠野くんに話しかけるのはちょっと不安だったんだ」
言って、また弓塚は笑った。
なんだかひどく喜んでいるような、そんな素振りをしている。
「………………」
何か他に用件があるのか、弓塚はじっとこちらを見つめている。
……正直に言って、俺は彼女とはあまり親しくない。二年になって同じクラスになったものの、今までかわした言葉なんて数える程度のものだ。
ただ、弓塚さつきはクラスの中でも中心的な生徒だった。
クラスの男子のほとんどは弓塚に熱をあげているという話だし、女子の間でも悪い噂が流れないっていう、典型的なアイドルだ。
自然、弓塚のまわりにはいつも人だかりができてしまって、あまり社交性をもっていない俺はとは正反対の生徒だと思う。
こっちが『弓塚さつき』という名前を覚えている事はあっても、弓塚のほうは『遠野志貴』なんていうクラスメイトの名前を覚えているはずがないんだけど、どうも今日は厄介な偶然が働いたらしい。
「遠野くん。その、ちょっと聞いていいかな」
「はあ、俺に答えられる事ならいくらでもどうぞ」「うん……その、こみいったコトならごめんね。その、いま引っ越しって言ったけど、遠野くんどこかに引っ越しちゃうの……?」
言いにくそうに弓塚は語尾を濁らせる。
重ねられた両手も、モジモジとせわしなく動いていたりする。
「急な話だけど、もしかして転校とか、するの?」
「ああ、違う違う。住所が変わるだけで学校は変わらないよ。引っ越し先もこの街だし、そんなに大した事じゃないんだ」
「そう――――よかった」
ほう、と弓塚は胸を撫で下ろす。
「……?」
不思議だ。どうして彼女が俺の引っ越し一つでそんなリアクションをするんだろう……?
「でも遠野くん、お家が変わるっていう事は、もしかして有間さんのお家から出ることになったの?」「ああ、名残は惜しいけどいつまでもお世話になってるわけにもいかないし―――」
……あれ?
どうして弓塚がそんなコトを知ってるんだろう? 遠野志貴が有間さんの家に世話になっているという事は、この高校じゃアイツ以外誰も知らないと思ったけど―――
「いよぉう、遠野!」
と。突然、教室のドアから世間体を気にしない大声が聞こえてきた。
タイムリーな事に、中学時代からの友人であるアイツがやってきたみたいだ。
「おっ、弓塚じゃんか。珍しいな、オマエと遠野が話してるなんて」
「……おはよう、乾くん」
元気のない声で言って、弓塚はそのまま俯いてしまった。
……まあ、こいつに真っ向から話しかけられて元気に返事ができるキャラクターじゃないな、弓塚は。
「にしても、朝っぱらから女ひっかけてるなんてどういう風の吹き回しだよ。遠野、女にあんまり興味ないんじゃなかったっけ?」
有彦は大声で、中々に愉快なコトを発言してくれる。
「バカ、あんまり人聞きの悪いこと言うな。俺はいたって普通の、ちゃんと女の子に興味もある男の子だよ」
「そっかそっか、そりゃあよかった! ま、今どきはノーマルな性癖よりアブノーマルな性癖のほうが女どもにはウケるんだけどな。
もっともウケるだけでその後には続かねえけどさ!」
あはははは、と朝っぱらから底抜けに陽気な笑い声が教室に響きわたる。
……はあ。
毎回思うんだけど、どうして俺はこいつと知り合いだったりするんだろう。
オレンジ色に染めた髪、耳元のピアス。
いつでもだれでもケンカ上等、といった目付きの悪さと反社会的な服装。
進学校であるうちの高校の中、ただ一人とんがっている自由気ままなアウトロー。
それがこの男、乾有彦(いぬい ありひこ)くんである。
「ったく、朝っぱらからうるさいヤツだなオマエは。こっちは色々と込みいっててブルー入ってるんだから、今日一日は近寄らないでくれ」
しっしっ、と手をふって有彦を追い払う。
「ブルー入ってるって、どした遠野。あの日か?」
「―――いや、言い間違えた。今日一日といわず、この先一生近寄らないでくれ。おまえといると掛け算で憂鬱が増していきそうだ」
有彦を無視して自分の机に移動する。
鞄を置いて、椅子に座って、はあ、と大きく背伸びをした。
「あのな、遠野。あんまし人のこと無視しちゃいけないぞ。無関心は時に人のココロを傷つけるのだ」「へえ、そりゃあ初耳。じゃあさ、傷つけるなんて言わず、いっそ即死させられる方法ってないか? 教えてくれたらお礼にその場で試してみるから」
「……ひどいな遠野。なんかいつになくキツイんじゃない、今朝は?」
「ブルー入ってるって言ったろ。他のヤツにはともかく、オマエにだけは優しくしてやる余裕がないんだ」
「……はあ。どうしてかな、遠野ってばオレにだけ冷たいよな。他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平だ」
「なんだ、わかってるじゃないか有彦。世の中、公平な事ってあんまりないよ」
「……やっぱり遠野はオレにだけ冷たいよなあ」
大げさにため息をつく有彦。
別段こっちとしても有彦に冷たくあたっているわけではなくて、なんというか、コイツとはこういう関係になってしまうのだ。
「―――で、有彦。普段は二時限目から出席する夜型人間のおまえがホームルームに顔を出すなんて、どんな風の吹き回しだ。ちょっと、いやかなり普通じゃないぞ」
「あはは、俺だってそう思う。たまに早起きしたからって門限守って来るもんじゃないよな、学校ってヤツは」
「……おまえの趣味には口を出さないから同意はしないよ。俺が聞きたいのはおまえが早起きしてる理由だけだから」
「早起きの理由……? そうだな、最近はなにかと物騒だから夜遊びできないじゃん? だから必然的に夜中に眠ってしまうワケですよ。
遠野だって知ってるだろ、ここんところ連続している通り魔事件の話」
「―――そっか。そういえばそんな話もあったっけ」
有彦に言われて思い出した。
少し反省。
ここ二三日、遠野の家に戻る戻らないで悩んでいたため、世間のニュースにはまったく疎くなっていた。
「なんだっけ、すごく低俗な売り文句だったよな。連続猟奇殺人事件、とか」
「それだけじゃないぜ。被害者はみんな若い女で、二日前に八人目の被害者がでてる。かつ、その全員が―――なんだっけ?」
うむ?と首をかしげる有彦。
「………………」
コイツに聞いた自分が浅はかだったみたいだ。
「ああ、思い出した! 被害者全員がバラバラ死体で、アソートを作れるんだとかどうとか!」
「……違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、でしょう?」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見出しだったもんな、アレ」
「ふうん。詳しいんだね、弓塚さん」
「そんなコトないよ。この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」
……そうだったのか。
たしか隣の街で起きてる事件だと思ったけど、いつのまにかこの街に移り変わっていたんだ。
「――とまあ、そういうコトだよ遠野。いくらオレでもね、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びはしない。そういうわけで最近はまじめに朝七時に目を覚ましているのだ」
「……なんだ、そんな理由だったのか。まともすぎてつまらないな」
「なんだよ、つれないな。さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか?」
「いや、今朝はまだ大丈夫。心配してくれるのはありがたいんだけどね、そう四六時中貧血を起こしてたら体がもたないよ」
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫だっていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
―――と。
朝のお喋りをさえぎるように予鈴が鳴り響いた。
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻れ」
あいよ、と返事をして有彦は自分の席に戻っていく。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ―――うん、弓塚さんも、付き合わせて悪かったね」
たったった、と軽い足取りで弓塚さんも席に戻っていった。
二時限目の授業が終わった。
担任でもある数学の教師は、
「遠野、書類の書き漏らしがあるそうだから事務室に行ってきなさい」
と去り際に伝えてきた。
すぐに済むらしいので、三時限目が始まる前に事務室に行ってしまおう。
事務室は一階にある。
三階である二年の教室から離れているが、ダッシュで行けば三時限目が始まるまでに戻って来れるだろう。
―――走る。
―――走る。
―――はし――・
……!!??
ドン、という衝撃をうけて、床に尻餅をついた。 頭から何かにぶつかったのか、目がクラクラして周りがよく見えない。
「あ―――いたたた」
……すぐ近くから声が聞こえる。
聞いた事のない女性の声だ。
どうも、思いっきり誰かと正面衝突してしまったらしい。
「―――すみません、大丈夫ですか」
まだ満足に周りが見えてないけど、とにかくぶつかってしまった人に謝った。
「はい、わたしは大丈夫ですけど……そっちこそケガ、ないですか?」
丁寧な口調には、こっちを非難してくるような響きはまったくない。
この誰だか知らない相手は、本気でこっちの心配をしてくれているみたいだ。
「あ―――うん、俺も大丈夫だけど」
ふるふると頭をふって立ちあがる。
と、ようやくものがまともに見えるようになった。
「ほんとに大丈夫ですか? おでこなんか、ぷくっと腫れちゃってますけど」
「え―――?」
手で触れてみると、ずきん、と痛みが走った。
……この人の言うとおり、みごとに大きなたんこぶができているみたいだ。
「ごめんなさい、わたしがぼうっとしていたからぶつかってしまって。おでこ、痛いでしょう?」
申し訳なさそうに、女生徒は俺の顔を覗きこんでくる。
丁寧な口調だから一年生かなって思ったんだけど、リボンの色からするとこの人は三年生――つまり先輩だ。
「いえ―――いいんです、悪いのは俺のほうなんですから。こっちこそ先輩にぶつかってしまって、すみませんでした」
ぺこり、と頭をさげる。
「あ、そういえばそうですね。もうっ、ダメですよ廊下を走っちゃ。わたしみたいにぼーっと中庭を眺めていたりする人がいたりするんですから」
「はい、以後気をつけます。……それで先輩のほうは、その、ケガとかありませんか?」
「はい、おかげさまで転んじゃっただけです。遠野くん、わたしを避けようとして壁にぶつかってくれましたから」
「―――そうなのか。どうりでこう、いつまでたってもお星さまが飛んでるなって思った」
……というか、あの勢いで壁に頭をぶつけて、たんこぶぐらいですんだのはむしろラッキーだろう。
「……どうも、すみませんでした。でも、先輩も廊下でぼんやりしてちゃ危ないですよ」
「はい。これからは気をつけますね」
にっこり、と先輩は笑顔でうなずく。
「…………………」
なんていうか、すごくまっすぐな笑顔をする人だ。
「……えっと、それじゃあ、俺はこれで」
ズボンの埃をはたきながら、事務室へ歩き出そうとする。
けれどメガネの上級生はじーっと俺を見つめてきた。
「………………」
はて。そういえば、この先輩は誰だろう。
ぶつかってしまった事で混乱していたけど、冷静になってみるとこの人は美人だと思う。
これほどの美人なら、男子生徒の間で『三年にメガネの似合う美人がいる』なんて話が流れてきそうなものだけど。
「あの───俺、行きますから。先輩も教室に戻ったほうがいいと思いますよ。
あ、もし体がどっか痛むようだったらうちの教室にきてください。二年三組の遠野って言います。その、ケガの責任ぐらいはとりますから」
はい、と彼女は素直にうなずく。
……年上なのに、なんだか後輩を相手にしているみたいだった。
「それじゃあ、もし何かあるようでしたらお昼休みに教室にお邪魔しますね。けど志貴くん、急いでるからって廊下を走っちゃダメですよ」
「はい、わかりました。けど先輩も廊下でぼんやりしてちゃダメですよ」
そう返答して、手をあげて立ち去る。
────って、待った。
志貴くんって、俺は名前まで教えてない。
それに―――さっき、この先輩は俺の名前を当然のように口にしなかったっけ……?
「……あれ? 俺、先輩と前に会ったことあったっけ?」
先輩はええ!と驚いてから、ちょっといじけたように顔を曇らせる。
「ひどいですっ! 遠野くん、わたしのこと覚えてないんですね!」
「────?」
覚えてないって、いや、そんなコトはないと思う。これだけの美人と何かあったら、忘れるほうがどうかしてると思うんだけど……。
「………えっと………」
彼女はうらめしそうに下から覗き込んでくる。
その瞳には、たしかに覚えがあった……よう……、な。
……そういえば一度か二度、どこかで挨拶をかわした事があった……っけ?
「────シエル先輩、だっけ?」
恐る恐る彼女の名前を口にした。
「はい、覚えていてくれてよかった。遠野くん、ぽーっとしてて忘れてそうだったから」
……ぽーっとしているつもりはないけど、事実忘れていたんだから仕方がない。
「それじゃあまた。お昼休みにまた会いましょう」 シエル先輩はもう一度ペコリとおじぎをする。
それをぼんやりと眺めてから、どこか合点のいかない心持ちで廊下を歩きだした。
昼休みになった。
さて、どこで昼食をとろうか。
食堂に食べに行く。
食堂はいつも通り混雑していて、注文待ちに十分の行列ができていた。
食券を握り締めて並んでいる生徒たちを眺めながら、有彦とテーブルに座る。
「それで有彦。特別ゲストって誰?」
「うっ……おかしいな、食堂で待ち合わせだったんだが。ちょっと待っててくれ、様子を見てくる」
有彦はカレーうどんを残して走り去っていく。
「…………」
こっちのメニューは力うどんだ。
麺がのびる前に帰ってきてくれればいいんだけど。
「だめだ、先輩どっか行っちまったらしい」
「? ゲストって上級生だったのか?」
「ああ、かなり面白い人でさ、ここ数日アタックしてようやく昼食を一緒に食べてくれるってコトになったんだけどな。なんか、今日は『お礼をしたい人がいるから捜しているんです』って学校中を走り回っているらしい」
「―――はあ。忙しい人みたいだね、どうも」
「ああ。なんていうか、チョロQみたいな人なんだ」
有彦は残念そうに割り箸を割る。
「ま、仕方ねえわな。それじゃあいただきます」
「はい、いただきます」
二人そろって、ずぞぞ、とうどんを食べ始めた。
……ところで、チョロQってなんだろう?
「でさ。本当のところ、どうなんだよ」
「んー? どうってなにが?」
「今日おまえが朝から教室にいた理由。早起きしたからって学校に来るほどロマンチストじゃないだろ、有彦くんは」
力うどんを食べながら、横に座っている有彦に問いかける。
有彦はうむ、とつまらなそうに答えて、カレーうどんの汁をすすった。
「遠野は今日から実家に戻るのか?」
「そうだけど……あれ、その話したっけ?」
「してない。オレは担任から、きいただけ」
こっちの目を見ようともしないで、有彦はカレーうどんを食べ続けている。
「それで、だな。遠野がブルー入ってないか、ちょっと確認しようと思った」
「……そうか。それで成果は?」
「早起きするほど面白い見せ物ではなかったんで、がっかりしたかな、と」
「まったく。有彦はひま人だな」
言い捨てて、力うどんの肝ともいえる白いお餅を噛み切った。
……つまり、有彦はこういうヤツなのである。
俺は今日から預けられていた親戚の家から、実の両親の家に戻る事になっている。
その話をどこからか聞き付けた有彦は、俺がまいっているんじゃないかと心配になって、朝早くから学校に来ていたのだろう。
「……有彦、君は外見で損をしてると思うぞ。実際ナイーヴでセンチメンタルなヤツだよ、君」
「ひひひ、いつもメランコリックな遠野に言われたらオレも本物か」
ぞぞ、と音をたててうどんの麺をすする有彦。
「―――で。遠野はどうなのよ、実際」
「どうってなにが」
「おまえ、小学校から有間の家に預けられてたんだろ? どんな理由でか知らないが、それから八年も経つんだ。なんで今になって勘当してた息子を呼び戻すんだろうかな、キミの父親は」
「勘当されてたわけじゃないよ。なんとなく屋敷から追い出されただけなんだ」
「遠野くん。なんとなくで子供を家から追い出すような家庭があったら、それはすでに悲劇ではなく笑い話だ。オー、イッツパーティージョーク。しかし寒すぎて笑え、ナイ」
有彦は大げさに両手を広げて肩をすくめる。
どんな時でも深刻にならないのが有彦のわかりやすい特徴だ。
「……そうだな。たしかになんとなくで家から追い出されたら、そりゃあ笑うしかないだろうね」
「だろう? おまけに二度と敷居は跨ぐなっていう決め台詞まで言われたんだろう? 世間さまではそーゆーのは勘当というんだぞ。
今まで聞かなかったけどな、おまえはどうして勘当されたんだ」
「……………」
……………さあ。
そんな事、こっちが聞きたいぐらいだ。
「ま、話したくないなら、いい」
有彦はどんぶりを両手でもって、ぐびぐびと熱いカレースープを飲み干していく。
休み時間は短い。
有彦の早食いを見習って、こっちもぐびぐびと力うどんを平らげる事にした。
一日の授業がすべて終わって、放課後になった。
すぐさま屋敷に帰る気になれず、ぼんやりと窓越しに校庭を眺める。
教室は夕焼けのオレンジ色で染め上げられている。
水彩の赤絵の具に濡れたような色をしていて、目に痛い。
……朱色は苦手だ。
眼球の奥に染み込んできそうで、吐き気がする。
どうも、自分は血を連想させる物に弱い体質であるらしい。
いや、正確には血に弱い体質になってしまった、というべきかもしれない。
八年前、遠野志貴は死ぬような目にあったという。
それはものすごい大事故で、偶然いあわせた自分は胸に傷をおってしまい、何日か生死の境をさまよったとの事だ。
本来なら即死していてもおかしくない傷だったらしいのだけど、医師の対応がよかったのか奇跡的に命を取り留めたという。
当人である俺自身は、その時の傷があんまりにも重すぎてよく覚えてはいない。
八年前の、子供のころ。
俺は突然胸のまんなかをドン、と貫かれて、そのまま意識を失った。
あとはただ苦しくて寒いだけの記憶しかなくて、気がつけば病院のベッドで目を覚ましたんだっけ。
事故のことはよく覚えてないけれど、今でも胸にはその時の傷跡が残っている。
なんでもガラスの破片が体に突きささってしまったとかで、胸の真ん中と背中には火傷の跡のような傷がある。
……ほんと、自分でもよく助かったもんだと呆れてしまう。
以来、俺は頻繁に貧血に似た眩暈をおこしては倒れこんでしまって、まわりに迷惑をかけまくってしまった。
……父親が遠野家の跡取りとして不適合だ、と自分を分家筋の家に預けたのはそれが理由なのかもしれない。
「……胸の、傷、か」
制服に隠れて見えない、胸の真ん中にある大きな傷跡。
考えてみれば、あの事故の後に自分はあの『線』が見えてしまう体質になってしまった。
今では先生がくれたメガネのおかげで忘れてしまえるけれど、先生と出会えなかったらとうの昔に、この頭はイカレてしまっていたと思う。
啓子さん―――今まで母親だった人は、別れ際に遠野の屋敷はマトモじゃないと言っていた。
「……なんてことはないよな。俺のほうこそマトモじゃないんだから」
ズレかけたメガネを直して、鞄を手に取る。
いつまでも教室に残っているわけにもいかない。
さて――
いいかげん覚悟をきめて、屋敷に帰ることにしよう。
やる事もないし、早々に学校を後にする。
……考えてみれば、こうやって正門から下校するのなんて入学式以来だ。
「これからはここから屋敷に帰る道が通学路になるワケか……」
正門から出て住宅地に通じる交差点に出る。
ここから街に出るか、屋敷のある住宅地に出るかに別れるのだが―――・
「あれ、遠野くんだ」
ばったり、弓塚に出会ってしまった。
「あれ、弓塚さんだ」
弓塚が目を白黒させて俺を見ているように、こっちも目を点にしてみたりする。
「えーっと、弓塚さん? 俺の顔に何かついてる?」
「だって、どうして遠野くんがここにいるのかなって。遠野くんの家、反対方向だよ?」
「あ……まあ、昨日まではそうだったけど、今日からは別だよ。これからはあっちの住宅地の奥にある、坂の上の家に住む事になったから」
「あ、朝に言ってたのはその事だったんだ」
ぽん、と手を叩いて納得する弓塚。
……まあ、お世辞抜きにして、そういう仕草は愛らしいと思う。
「……そういう事。弓塚さんは知ってるから隠しても仕方ないよな。俺さ、預けられていた有間の家から今日づけで実家に戻ることになったんだよ」
「実家って、その……遠野さんのお屋敷に?」
「ああ。自分でも似合わないって思うんだけど」
「そっか、遠野くんってば本当は丘の上の王子さまなんだもんね。わたしと乾くんぐらいしか知らない秘密だったのに、これじゃすぐみんなにバレちゃうかなあ」
ふふ、と淡い笑顔をうかべて、弓塚は遠くに視線を投げた。
空の向こう。
遠くの坂の上にある、遠野の屋敷を見つめるように。
「でも大丈夫? 自分のお家だって言っても、もう八年も離れているんでしょう? その、恐いなー、とか不安だなー、とか思わない?」
「そうだね、実際不安ではあるよ。もとから俺はあの屋敷が好きじゃなかったし、今じゃ他人の家みたいに感じるしね。けど、それでも―――」
……妹である秋葉を一人残したまま、自分だけのんびりと暮らしていくことなんてできない。
どんなに不安でも、俺は屋敷に戻らないといけないんだ。
「―――やっぱり自分の家なわけだから。そこに戻るのが一番自然な形だと思うんだ」
「……そっか。あ、呼び止めちゃってゴメンなさい。遠野くん、急ぐんでしょ?」
「いや、別に用事はないよ。のんびり散歩がてらに帰ろうとしてただけだから」
「あ―――そう、なんだ」
どうしてか、弓塚はうつむいたまま黙ってしまう。
「……弓塚さん? どうしたの、気分でも悪いの?」
声をかける。
それでも彼女は中々顔を上げずに、じっと下を向いていた。
「………………」
放っておくわけにもいかず、こっちもじっと彼女の様子をうかがう。
―――、と。
「あ、あのね!」
「うん、なに」
「あの、そのね、わたしの家と遠野くんの家って、坂に行くまで帰る道が一緒、なんだ、けど……」
「そうなんだ。それじゃ途中まで一緒に行こっか」
「――――え?」
目をきょとん、とさせる弓塚。
そのまましばらく固まったあと、
「う、うん―――そうだよね、帰る道が一緒なんだから、途中まで一緒でもおかしくないよね!」
と、やけに弾んだ声をあげてこっちの横にやってきた。
「丁度よかった。俺、このあたりの道に不慣れだからさ、弓塚さん案内してくれないか」
「うん、それじゃあこっちの道に行こっ。坂道までの裏道があるんだ」
―――弓塚と話をしながら帰り道を歩いていく。
弓塚との会話は、これといって特徴こそないものの穏やかで楽しいものだった。
弓塚さつきはとても柔らかな雰囲気をしていて、一緒にいると安心できるタイプだと思う。
「―――ふふ」
と。会話のおり、突然思い出したように弓塚は笑みをこぼした。
「なに、いきなり。なにかおかしなこと言った、俺?」
「ううん。単にね、わたしと遠野くんは明日から同じ通学路になるんだなあって」
本当に嬉しそうに、彼女は笑った。
その笑顔は飾ったところがなくて、見ているこっちまで嬉しくなる。
……その、今まで気がつかなかったけど。
容姿や仕草がどうこう言う前に、弓塚さつきは可愛いと思う。
前からクラスの男子たちが弓塚さつきにお熱だった理由が、ちょっとだけ理解できた。
会話が途切れた。
弓塚の笑顔に見惚れてしまった俺と、弓塚が黙ってしまったからだ。
二人とも無言で、夕暮れの住宅地を歩いていく。
不意に――――
「ね。中学二年生の冬休みこと、覚えてる?」
そう、弓塚は呟いた。
「――――?」
首をかしげる。
中学二年生の冬休みっていったら、有間の家に居づらいんでわざと補習をうけたり学校に残ったりしていたころだ。
覚えているかと言われれば覚えているけど、どうしてそんなことを聞かれるのかてんで理由がわからない。
「やっぱりなあ。遠野くんの事だから、絶対に覚えてなんかないと思った」
がっくりと肩をおとす弓塚。
「ほら、わたしたちの中学校って体育倉庫が二つあったでしょ? 一つはおっきな運動部が使う新しい倉庫、もう一つはバドミントン部とか小さな運動部が使っていた古い倉庫。
で、この古い倉庫っていうのが問題でね、いつも扉の建て付けが悪くて、開かなくなる事が何回もあったの」
古い倉庫……体育館裏にあったコンクリート製の小さな建物……?
「ああ、あの倉庫か。一度生徒が中に閉じ込められてから使われなくなったっていう」
「そうそう。その生徒っていうのが当時のバドミントン部の二年生」
「――――ああ」
そう、確かにそんなコトがあった。
あれは新年になったばかりの、冬の寒い日だった。
三が日があけて、有間の家に居づらくなった俺は自分から補習を受けたり、学校に残れるような手伝いを申し出ていた。
けど、それも夕方の五時頃までだ。
あたりも暗くなってしまい、学校にいた教師たちも帰るという事で俺は教室から追い出された。
冬も最中。
夕方の五時過ぎといえば、あたりは本当に暗くなっている。
その日はたしか雪が降ると予報された日で、寒さも一段と厳しかった。
そんなわけで今日ぐらいはまっすぐ家に帰ろうとした時、校舎裏の旧倉庫からガンガンという音が聞こえてきて、様子を見に行ったんだっけ。
―――中に誰かいるの?
そう問いかけてみたら、倉庫の中から数人の女生徒の声が返ってきた。
部活の片づけをしている最中、風が入ってきて寒いので扉を閉めたら開かなくなってしまって、もう二時間も閉じ込められている、という事だった。
どうやっても扉は開かないらしく、できれば先生を呼んで助けてほしい、という。
……けど、教師たちは全員帰ってしまったし、今から電話で呼びつけても一時間はこのままだろう。
この日の寒さは、本当にひどかった。
雪が降ってこないのがおかしいぐらいの寒さの中、体操服のままで二時間も倉庫に閉じ込められていた中の子たちに、もう一時間も待たせるのは酷だと思った。
少し迷ったあと、周囲を見渡してあたりに誰もいない事を確認し、メガネを外して倉庫の扉に見える『線』を切った。
そうして扉は開いて、中から五人ほどの、涙で目を真っ赤にした女生徒たちが飛び出してきたんだっけ――――
「……そういえば、そんな事もあったな。
でもそんな話をよく知ってるね。あれ、閉じ込められてたバドミントン部の主将が“部の存続にかかわるからこの事は秘密にしなさい”って、俺に脅しをかけてきたぐらいなんだけど」
「もうっ。遠野くんってば中に誰が閉じ込められてたか、まったく興味がなかったんだね。いい? わたしはそのころバドミントン部の部員だったんだよ」
拗ねるような、弓塚の声。
えっと―――つまり、それは。
「――わたし、ちゃんと憶えてるよ。
今にして思えばただ倉庫に閉じ込められただけだったんだけど、あの時は寒くて暗くて、すごく不安だった。
このままここで凍死しちゃうんだーって、みんな本気で思ってたんだから。おなかだってぐうぐうに減ってたし、ほんとーにダウン寸前だったんだ」
「はあ。それは、タイヘンだったね」
いまいち実感が湧かず、気の無い返答をしてしまう。
弓塚は気にせず、昔の出来事を鮮明に思い出すように語り続けた。
「そうしてみんなが震えてる時にね、遠野くんがやってきたの。いつもの、自然で気負ったところのない口調で“中に誰かいるの?”って。見てわからないのかーっ、て主将がカンシャクをおこしたの、覚えてる?」
「ああ、それは覚えてる。ドガンって扉にバットを投げつけた音だろ。アレ、びっくりしたよ」
そうそう、と弓塚は笑った。
「でも、先生方はみんな帰ってるって聞いて、わたしたち本当に絶望したんだから。あと一分だって耐えられないのに、もしかしたら明日までここに閉じ込められるかもしれないって思って。
そうしてわたしたちが世をはかなんでいる時にね、コンコンって扉がノックされて、遠野くんはこう言ったんだ。『内緒にするなら開けられないこともないよ』って」
「ああ。そこでまたドガンって音がしたっけ。
“かんたんに開けられるなら苦労しないわーっ!”って、すごい剣幕だった」
「あはは。うん、主将はわたしたちが閉じ込められて責任を感じていたから、ちょっと余裕がなかったんだ。でもね、そしたらすぐに扉が開いたんだよ。
みんな主将のバットが効いたって喜んで外に飛び出したけど、わたしは扉の横でぼんやりと立ってた遠野くんをちゃんと見てたよ」
弓塚は暖かい眼差しを向けてくる。
……けど、そんな目を向けられても、困る。
あんなこと、こっちにとってはなんでもない事なので、あまり感謝される実感がない。
「その時ね、わたし、すごく泣いてたの。まぶたなんか腫れに腫れちゃって、もうクシャクシャ。そんなわたしを見て、遠野くんはなんて言ったと思う?」
「わからないな。なんて言ったの?」
……本当に覚えていないので、他人事のように聞いてみる。
だっていうのに、弓塚はやっぱり嬉しそうに笑って俺を見た。
「それがね、わたしの頭にぽんって手をのっけて、“早く家に帰って、お雑煮でも食べたら”って。わたし、よっぽど寒そうに震えていたんだなって恥ずかしくなっちゃった」
「……………」
むむ、と眉をよせる。
自分の事ながら、言動の意味が解らない。
「きっとね、遠野くんはお雑煮を食べれば体が温まるよって言いたかったんだと思う」
「……そっか。正月の後だったからね」
……それは、たしかに俺の言いそうな間の抜けたセリフだ。
こうして言われてみると、もうちょっとマシなセリフがあったんじゃないかって後悔してしまうぐらい。
「わたしね、あの時に思ったんだ。
学校には頼れる人はいっぱいいるけど、いざという時に助けてくれる人っていうのは遠野くんみたいな人なんだって」
「まさか、それは買い被りすぎだよ。ほら、ひよこが初めて見た人間を親と思うのと一緒。たまたま俺が助けられただけっていう話じゃないか」
「そんな事ない……! わたし、あの時から遠野くんならどんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてるんだから」
そうして、彼女は思い立ったように顔をあげた。
「弓塚さん、それ過大評価だよ。俺はそんなに頼れるヤツじゃないんだけど」
「いいの。わたしがそう信じてるんだから、そう信じさせて」
まっすぐに見つめられて断言されると、こっちとしては気恥ずかしくて反論ができない。
「――まあ、それは弓塚さんのかってだけど」
「でしょ? だからまたわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?」
弓塚は笑顔で告げてくる。
……それは、正直困る。
俺は弓塚が思っているほどなんでも出来るヤツっていうワケじゃない。
ワケじゃないけど……こんな笑顔を向けられているのに、その信頼を台無しにする事なんて、したくなかった。
「そうだね。俺に出来る範囲なら、手を貸すよ」
「うん。ありがとう、遠野くん。随分と遅れちゃったけど、あの時の遠野くんの言葉、嬉しかった」
言って、弓塚の足がぴたりと止まった。
つられてこっちの足も止まる。
「わたし、遠野くんとこうして話せたらいいなって、ずっと思ってた」
それは、どこか思いつめたような声だった。
夕焼けの赤色のせいか、弓塚はどことなく寂しそうに、見える。
「……なにいってるんだ。話なんていつでもできるよ」
「だめだよ。遠野くんには乾くんがいるから。それに、わたしは遠野くんみたいになれないもの」
遠慮がちに返答して、弓塚は俺から離れていく。
「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね」
ばいばい、と笑顔で手をふって弓塚は別の道へ歩いていった。
いつもとは違う帰り道を歩く。
見知らぬ道を通り抜けて、段々と遠野の屋敷へ近付いていく。
まわりの風景は、知らない風景ではなかった。
少なくとも自分は八年前───九歳まで遠野の屋敷で暮らしていたから、屋敷へ帰る道は初めてというわけでもないのだ。
……少しだけ気持ちは複雑だ。
この帰り道は懐かしくて、新鮮でもある。
さっきまで遠野の家に戻るのは気が進まなかったっていうのに、今はそれほどイヤでもなくなっている。
……遠野志貴が九歳まで暮らしていた家。
そこにあるのは日本じゃ場違いな洋館で、今は妹の秋葉が残っているという話だ。
俺を嫌っていた父親───遠野家の当主である遠野槙久は、先日他界したという。
母親は秋葉が生まれた時に病死してしまっていたから、遠野の人間は自分と、妹である秋葉の二人きりになってしまった。
本来なら長男である自分───遠野志貴が遠野家の跡取りになるのだろうけれど、自分にはそんな権利はない。
遠野家の跡取りになる、という事はがんじがらめの教育を受けるという事だ。
それがイヤで自由に暮らしていて、父親から何度小言を言われたかわからない。
そんな折、俺は事故に巻き込まれて病弱な体になってしまい、父親はこれ幸いにと俺を切り捨てた。 父親曰く『たとえ長男であろうと、いつ死ぬかわからない者を後継者にはできん』とかなんとか。
あいにく父親の予想を裏切って回復してしまったけれど、その頃には遠野家の跡取りは妹の秋葉に決められていた。
それまで遠野の娘に相応しいように、と厳格に育てられていた秋葉は、それからよけい厳しく育てられたらしい。
昔───事故に巻き込まれるまでは一緒に屋敷の庭で遊んだ秋葉とは、あれからまったく会っていない。
有間の家に預けられた当初、秋葉は何度か訪ねにきてくれたらしい。
あいにくとこっちは病院通いの毎日で会う事もできず、秋葉が全寮制のお嬢様学校に進学してからはまったく連絡をとっていなかった。
自分は秋葉とは違い、本家から外れた人間だ。
だからこうして自由気ままな生活を送れている。 高校もあくまで平均的な進学校で、ここ八年ばかり妹との接点は皆無といってよかった。
父親が死んで、俺は屋敷に戻ってこいと連絡を受けた。
はっきりいって、いまさら遠野の家に戻るつもりなんて全然なかったんだ。
ただ、遠野の屋敷には秋葉がいる。
子供の頃。
秋葉は大人しくて、いつも何かを我慢しているように怯えていて、トコトコと足音をたてて俺の後についてきた。
長い黒髪と豪華な洋服のせいか、秋葉は本当にフランス人形のように儚げな少女だったっけ。
あの広い館で父親をなくして一人きりの秋葉が心配だったし、なにより────全ての責任をあいつに押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目もある。
今回の話を了承して屋敷に戻る事にしたのは、そんな秋葉に対する謝罪の意味もあったのかもしれない。
遠野の屋敷は不必要なまでに大きい。
鉄柵で囲まれた敷地の広さは異常とさえいっていい。なにしろ小学校ぐらいならグラウンドごと中に入ってしまうぐらいなんだから。
木々に囲まれた庭は、すでに庭というより森に近い。その森の中心に洋館があり、離れにはまだいくつかの屋敷がある。
子供のころは何も感じなかったけれど、八年間ほど一般家庭で暮らしてきた自分にとって、この大きさはすでに犯罪じみている。
門に鍵はかかっていない。
力任せに押しあけて、屋敷の玄関へと向かっていった。
屋敷の玄関は重苦しくそびえ、訪れる者を威圧している。
鉄でできた両開きの扉の横には、不釣り合いな呼び鈴があった。
「…………よし」
緊張を振り払って呼び鈴を押す。
ぴんぽーん、なんていう親しみのある音はしない。
重苦しい静寂が続くこと数秒。
扉の奥でぱたぱた、という慌ただしい人の気配がした。
「お待ちしておりました」
がちゃり、と扉が開く。
開いた先にあるのは見覚えのあるロビーと、割烹着を着た少女の姿だった。
「よかった。あんまりに遅いから迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ。日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかなって思ってたんですから」
割烹着なんていうアナクロなものを着込んだ少女はにこにこと笑っている。
「あ、いや───それは、その」
こちらはというと、少女のあまりに時代錯誤なカッコウに面食らってしまって、まともな言葉が口にできない。
おどおどとしたこっちの口調を不審に思ったのか、少女はかすかに首をかしげた。
「志貴さま、ですよね?」
「え───ああ。さまっていうのは、その、余計だけど」
「ですよね? もう、脅かさないでくださいっ。わたし、また間違えちゃったかなって恐くなったじゃないですか」
少女はめっ、と母親が子供をしかるような仕草をした。
だっていうのに顔は微笑んでいて、少女はともかく暖かい雰囲気を崩さない。
……着物に割烹着。
客を出迎えにきて、俺なんかのことを『さま』づけで呼ぶ。
ということは、この子は────
「えっと、その───君、もしかしてここのお手伝いさん?」
こちらの質問に少女は微笑みだけで答えた。
「さ、お疲れでしょう? 遠慮せずにあがってくださいな。居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから」
少女はさっさとロビーを横切って居間へと歩いていく。
と、思い出したようにくるりと振り返ると、満面の笑みをうかべてお辞儀をした。
「お帰りなさい志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
少女の挨拶は、本当に華のような笑顔だった。
それに何ひとつ気のきいた言葉も返せず、おずおずと彼女の後についていった。
少女に案内されて居間へ移動する。
───居間は、初めて見るような気がした。
八年前の事で覚えていないのか、それともあれから内装を変えでもしたのか。
とにかく他人の家のようで落ち着かない。
きょろきょろと居間の様子を見回していると、割烹着のお手伝いさんがペコリと頭をさげていた。
「志貴さまをお連れしました」
「ごくろうさま。厨房に戻っていいわよ、琥珀」
「はい」
お手伝いさんはコハク、という名前らしい。
琥珀さんはそれでは、とこっちにも小さくおじぎをして居間から出ていく。
残されたのは自分と───見覚えのない、二人の少女だけだった。
「お久しぶりですね、兄さん」
長い黒髪の少女は凛とした眼差しのまま、そんな言葉を口にした。
……はっきりいって、思考は完っ全に停止してしまっている。
真っ白な頭はろくに挨拶もできず、ああ、とうなずく事しかできない。
……だって、そりゃあ仕方ないと思う。
八年ぶりに見た秋葉は、こちらの記憶にある秋葉ではなく、まるっきり良家のお嬢様と化していたんだから。
「兄さん?」
黒髪の少女はかすかに首をかしげる。
「あ────いや」
情けないことに間の抜けた言葉しか言えない。
こっちは目前の少女を秋葉と認識するために頭脳をフル回転させてるっていうのに、秋葉のほうはとっくに俺を兄と認識出来てしまっているようだ。
「なにか気分が悪そうですね。お話の前にお休みになりますか?」
秋葉はじろりとした視線を向けてくる。
……なんだか、すごく不機嫌そうに見えるのは気のせいなんだろうか。
「……いや、別に気分は悪くない。ただその、秋葉があんまりにも変わってたんで、びっくりしただけなんだ」
「八年も経てば変わります。ただでさえ私たちは成長期だったんですから。
――――それともいつまでも以前のままだと思っていたんですか、兄さんは」
……なんだろう。秋葉の言葉は、なんとなく棘があるような気がする。
「いや、それにしたって秋葉は変わったよ。昔より格段に美人になった」
お世辞ではなく素直に感想をもらす。
────と。
「ええ。ですが、兄さんは以前とあまり変わりませんね」
なんて、瞳を閉じたまま秋葉は冷たく言い切った。
「………………」
……まあ、それなりに覚悟はしていたけど。
やはり秋葉は俺の事をよく思っていてはくれなかったみたいだ。
「体調がいいなら話をすませましょうか。兄さん、詳しい事情は聞いてないんでしょう?」
「詳しい事情もなにも、突然屋敷に帰ってこいって事だけしか聞いてない。親父が亡くなったっていうのは新聞で知ったけど」
……一企業のトップに立っていた人物が亡くなれば、それぐらい経済新聞で取りあげられる。
遠野槙久の訃報は、彼の葬式が終わった後に新聞づてで息子である遠野志貴に届けられた。
親戚から報せなんてなくても、勘当された息子は一部百円のペーパーで親の死亡を知ることができた。
皮肉な話だけれど、本当に便利な世の中になったもんだ。
「……申し訳ありません。お父さまの事を兄さんに報せなかったのはこちらの失策でした」
秋葉は静かに頭をさげる。
「いいよ。どのみち俺が行ったって死人が生き返るわけでもないし。秋葉が気にする事じゃない」
「……ごめんなさい。そういってもらえると少しは気が楽になるわ」
秋葉は深刻な顔をするけど、そんなのは本当にどうでもいい話だった。
葬式というものは故人に対して感情を断ち切れない人達が、その感情を断ち切るために行う儀式だ。とうの昔に感情を断ってきた自分とあの父親の場合、葬式の必要はないと思う。
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の意向です。いつまでも遠野の長男が有間の家に預けられているのはおかしいでしょう?
お父さまが亡くなられた以上、遠野の血筋は私と兄さんだけです。お父さまがどのようなお考えで兄さんを有間の家に預けたかは分かりませんが、そのお父さまもすでに他界なさった身。
ですからこれ以上兄さんが有間の家に預けられる必要はなくなったので、こちらに戻ってもらう事にしたんです」
「……まあいいけど、そんなんでよく親戚の連中が納得したな。俺を有間の家に預けろって言い出したの、たしか親戚の人たちじゃなかったっけ?」
「そうですね。けれど今の遠野の当主は私です。親戚の方達の進言はすべて却下しました。
「兄さんにはこれからここで暮らしてもらいたいのですけど、ここにはここの規律があります。今までのような無作法はさけていただきますから、そのつもりで」
「はは、そりゃあ無理だよ秋葉。いまさら俺がお行儀いい人間に戻れるわけないし、戻ろうって気もないんだから」
「できる範囲でけっこうですから努力してください。それとも───私にできた事が兄さんにはできない、とおっしゃるんですか?」
じろり、と秋葉は冷たい視線を向けてくる。
なんだか無言で、八年間もここに置き去りにしてきた恨みをぶつけられている気がする。
「……オーケー、わかった。なんとか努力はしてみる」
秋葉はじーっ、と信用できなさそうに睨んでくる。
「努力する必要はありません。結果を出していただければそれで結構です」
凛、とした姿勢のまま、秋葉は容赦のない言葉を繰り出してくる。
「話を戻しますね。
現在、遠野の家には兄さんと私しか住んでいません。わずらわしいのはイヤなので人払いをしたんです」
「え? ちょっと待てよ秋葉、人払いっておまえ───」
「兄さんだって親戚の人達と屋敷の中で会うのはイヤでしょう? 使用人も大部分に暇をだしましたけど、私と兄さん付きの者は残してありますから問題はありません」
「いや、問題ないって秋葉。そんな勝手な事しちゃ親戚会議でたたかれるじゃないか!」
「もう、つべこべ言わないでください。兄さんだって屋敷の中に人が溢れかえっているより、私たちしかいないほうが気分は楽でしょう?」
……う。
まあ、それは本当に気が楽になるんだけど。
「だけど当主になったばかりの秋葉が、その、そんな暴君みたいなワガママを通したら親戚の連中が黙っていないんじゃないか? 親父だって親戚の意見には逆らわなかったじゃないか」
「そうですね。だからお父さまは兄さんを有間の家に預けたんです。けど私、子供の頃からあの人達が大っ嫌いでしたから。これ以上あの方達の小言を聞くのは御免です」
「ゴメンですって、秋葉───」
「ああもう、いいから私の心配なんかしなくていいの! 兄さんはこれからのご自分の生活を気に病んでください。色々大変になるって目に見えてるんだから」
秋葉は少しだけ俺から視線をそらして、不機嫌そうにそう言った。
「それじゃあ、これからは分からない事があったらこの子にいいつけて。────翡翠」
秋葉は傍らに立っていた少女にめくばせする。
ひすい、と呼ばれた少女は無表情のままペコリとお辞儀をした。
「この子は翡翠。これから兄さん付きの侍女にしますけど、よろしいですね?」
────────え?
「ちょっ、侍女って、つまり、その」
「分かりやすくいうと召使い、という事です」
秋葉は当たり前のように、きっぱりと言い切った。
……信じられない。
洋館に相応しく、メイド服を着込んだ少女は秋葉同様、そうしているのが当然のように立っていた。
「───ちょっと待ってくれ。子供じゃあるまいし侍女なんて必要ないよ。自分のことぐらい自分で面倒みれるから」
「食事の支度や着物の洗濯も、ですか?」
うっ。
秋葉の指摘は、カナリ鋭い。
「ともかくこの屋敷に戻ってこられた以上は私の指示に従ってもらいます。有間の家ではどう暮らしていたかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすんです。それ相応の待遇は当然と受け入れてください」
「う………」
言葉もなく、翡翠に視線を泳がす。
翡翠はやはり無表情で、ただ人形のようにこちらを見つめ返してくるだけだった。
「それじゃ翡翠、兄さんを部屋に案内してあげて」「はい、お嬢さま」
翡翠は影のような気配のなさでこっちへ歩いてくる。
「それではお部屋にご案内します、志貴さま」
翡翠はロビーへ向かう。
「……はあ」
ため息をつきながら、こっちもロビーへ歩きだした。
ロビーに出た。
この洋館はロビーを中心にして東館と西館に分かれている。
ロビーが鳥の胴体、東と西の館が鳥の翼のように斜めに伸びていて、片翼───つまり一方の館の大きさは小さな病院なみだ。
作りは左右対称で、東館も西館も同じ間取りをしていたと記憶している。
「志貴さまのお部屋はこちらです」
翡翠は階段をあがっていく。
どうやら遠野志貴の部屋は二階にあるみたいだ。
……そういえば、使用人の部屋は一階の西館にあったはずだから、翡翠と琥珀さんの部屋は一階にあるのだろう。
外はすでに日が落ちている。
ぼんやりと電灯の点った長い廊下を、メイド服の女の子が無言で歩いている。
「……なんか、おとぎの国みたいだ」
思わずそんな感想を洩らす。
「志貴さま、何かおっしゃられましたか?」
立ち止まって振りかえる翡翠。
「いや、ただの独り言だから気にしないでくれ」
「……………」
翡翠はじっとこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。
「………………」
言葉を失う、というのはこういうコトだろうか。
翡翠に案内された部屋は、とても一介の高校生が住む部屋の作りをしていなかった。
「……俺の部屋って、ここ?」
「はい。ご不満がおありでしたら違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その――」
ちょっと、いやかなり立派すぎるかなって。
「志貴さま?」
「―――いいんだ、なんでもない。喜んでこの部屋を使わせてもらうよ」
「はい。お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合はないと思います」
「―――?」
翡翠の言い方は、ちょっとヘンだ。
それじゃあまるで、ここが俺の部屋だったみたいな言い方じゃないか。
「……ねえ。ここって、もしかして俺の部屋だったの?」
「そう伺っておりますが、違うのですか?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
……安心した。
この娘にも、それなりに感情表現というものがあるみたいだ。
「……まあ、言われてみればそうかもしれない。少しは覚えがあるし、きっとそうだったんだろう」
親近感はまったく湧かないけど、八年間も離れていればそんなものなのかもしれない。
「けど、やっぱり落ち着かないな。今朝まで六畳半の部屋で暮らしてたからさ、なんだか高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちはわかりますが、どうかお慣れください。志貴さまは今日から遠野家のご長男なのですから」
「そうだね。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ」
トン、と机に鞄を置いて背筋を伸ばす。
―――色々と神経がまいりそうだけど、たしかに今日から慣れていくしかないだろう。
「志貴さまのお荷物はすべて運び込みましたが、何か足りないものはありますか?」
「―――いや、別にないけど。どうしてそんな事を聞くの?」
「……いえ、荷物が少なすぎるようですから。必要なものがおありでしたら用意いたしますから、どうかお聞かせください」
「……そっか。いや、とりあえず足りないものなんてないよ。もともと荷物は少ないんだ。自分の荷物っていったら、その鞄とこのメガネと……」
鞄の中に入っている教科書とか、誰のものとも知らない白いリボンとか、それだけだ。
「ともかく、荷物のことは気にしないでいい。こんな立派な部屋だけで十分だよ、俺は」
「……かしこまりました。では、一時間後にお呼びにまいります」
「一時間後って、もしかして夕食?」
「はい。それまで、どうぞおくつろぎください」
翡翠はやっぱり無表情で言ってくる。
……しかし。おくつろぎくださいって言われても、ここでどうおくろつぎすればいいんだろう?
時計は夕方の六時をまわったあたり。
いつもなら居間にいってテレビでも見てる時間だけど、この屋敷にそんなものがあるかどうか真剣に疑わしい。
「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。この屋敷にテレビってあるの?」
「テレビ……ですか?」
翡翠はかすかに目を細める。
……なんていうか、自分で言っておいてなんだけど、ひどく頭が痛くなる質問だ。
これだけ贅沢な洋館において、テレビがあるかないかを訊ねるなんてどこか間違ってる気がする。
翡翠はめずらしく困ったような顔をして、視線を宙に泳がした。
「……居間にはありません。ご逗留の方々はご使用になってらっしゃいましたが、出立される時に荷物はすべてお持ち帰りいただきましたので残ってはいないと思います」
「ちょっと待った。逗留って、誰がどのくらいしてたんだ?」
「分家筋である久我峰さまのご長男のご家族、刀崎さまのご三女とその婚約者、軋間さまのご長男がご逗留なさっていました。期間は三年ほどです」
「……三年、か。翡翠、そういうのって逗留っていうんじゃなくて居候って言うんじゃない?」
翡翠は答えない。
居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
まあ、ともかく逗留していた親戚筋の連中は自分たちの荷物を持ちかえらされたという事らしい。
となると、あの現代的な文化ってモノを俗物的と毛嫌いしていた父親がテレビなんて観るはずもない。
父親のもとで八年間も躾けられた秋葉も同じだろう。
「───ま、ないからって別に死ぬわけでもないか」
翡翠は黙っている。
……使用人の鑑というか、翡翠は聞かれた事以外は何も喋らない。
当然、こっちとしては気が滅入る。
なんとかしてこの無表情な顔を笑わせてみたいと思うのだけど、どうも生半可な努力では不可能そうではある。
「いいや、たしか一階の西館のほうに書庫があったよね。暇なときはそこから何かみつくろう事にするよ」
翡翠は答えない。
ただ部屋の入り口に突っ立ったまま、どこを見ているんだかわからない眼差しをしている。
「───翡翠?」
翡翠はうんとも言わない。
と、突然まっすぐにこちらを見据えてきた。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は?」
いやもう、ワケがわからない。
「……えーっと。あるって、何が」
「ですからテレビです。以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がありますから」
翡翠はまるで数年前の出来事を思い出すように言った。
「ちょっと待って。姉さんって、もしかして琥珀さんのこと?」
「はい。現在、このお屋敷で働かせていただいている者はわたしと姉さんの二人きりです」
……言われてみればよく似てる。琥珀さんがニコニコしていて、翡翠が無表情だからなんとなく姉妹だって結びつかなかった。
「そっか。琥珀さんならたしかにバラエティー番組を観てそうなキャラクターだ」
しかし、かといって『テレビ観せてくれい』と琥珀さんの部屋に遊びに行くのも気がひける。
「ごめん、この話はなかった事にしてくれ。これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
それにテレビなんてものを観ていたら、秋葉にどんな皮肉を言われるかわかったもんじゃない。
ここは遠野家の人間に相応しい、勤勉な学生になりきろう。
「それじゃ夕食まで部屋にいるから、時間になったら呼びにきてくれ。翡翠だって他にやる事あるだろ?」
翡翠ははい、とうなずいて背中を向ける。
きい、と静かにドアが開かれて、翡翠は部屋から退室していった。
夕食は秋葉と顔を合わせてのものだった。
当然といえば当然の話なのだけど、翡翠と琥珀さんは俺たちの背後に立って世話をするだけで、一緒に夕食を食べる事はなかった。
……自分としては四人で食べるのが当たり前と思っていたので、この、なんともいえない緊張感がある夕食はまさに不意打ちだったといっていい。
言っておくと、遠野志貴は完っっ全にテーブルマナーなんてものは忘れていた。
いや、いちおう断片的には覚えていたから素人というわけではなかったけど、人間というものは使用しない記憶は徹底的に脳内の隅においやってしまう。
こっちの一挙一動のたびに向かい側に座った秋葉の眉がつりあがっていく様は、なかなかに緊張感があってスリリングだった。
……正直、これが毎日繰り返されるかと思うと、本当に気が重い。
夕食を終えて、自室に戻ってきた。
時刻はまだ夜の八時過ぎ。
眠るには早すぎるし、どうしようか。
自室で大人しくしていよう。
「ん―――――」
夕食でガチガチにかたまった肩をほぐす。
思いっきり背伸びをして、そのままベッドに倒れこんだ。
「まいった。夕食だけですごく重労働なんだもんな」
いや、別にナイフやフォークが重いっていうわけじゃなくて、秋葉の視線が厳しいだけなんだけど。
「志貴さま、いらっしゃいますか?」
ノックと一緒に翡翠の声が聞こえてくる。
「いるよ。どうぞ、中にはいって」
「はい、それでは失礼します」
一礼して翡翠が入ってくる。
「ベッドメイクにまいりました。何分お見苦しいでしょうから、しばらく居間のほうでくつろいでいただけますか?」
「いや、別に見苦しいなんてコトはないだろ。部屋のすみっこで大人しくしてるから、俺のことは気にせず仕事をしてくれ」
ベッドから跳ね起きて、部屋の隅に移動する。
「………………」
翡翠は何か言いたそうな顔をして、けど結局何も言わず、もくもくとベッドメイクをしてくれる。
「―――翡翠」
「はい。なんでしょうか、志貴さま」
「いや、ベッドメイクしながらでいいんだって。いちいち姿勢を正す必要なんてないよ」
「……………」
翡翠は答えない。
どうも、この子はものすごく使用人としての教育が行き届いてしまっているみたいだ。
「頼むから仕事をしながら話してくれ。なんか邪魔してるみたいで申し訳なくなってくるから」
「―――志貴さまがそうおっしゃるのでしたら、失礼をさせていただきます」
翡翠は淡々とベッドメイクに戻る。
「えっと、ここの門限が七時っていうのは本当?」
「え―――あ、はい。
正確には七時に正門を施錠して、八時に屋敷の出入り口をすべて施錠いたします。
午後十時を過ぎたあとは屋敷内の移動も控えていただくのが規則です」
「屋敷の中も出歩くなっていうのか? ……まあ文句はないけど、それって厳しすぎないか? 俺も秋葉も子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいと思うけど」
「……はい。ですが志貴さま、規則ですからこればかりはお守りください。近頃の夜は物騒だと志貴さまもご存知ではないのですか?」
……ああ、有彦がいっていた例の吸血鬼騒ぎか。
たしかにこの街で連続殺人が起きている以上、用心にこした事はないんだろうけど……。
「何か他にご質問はありますか?」
翡翠はシーツをかけ終わると、くるりとこちらに振り向いてきた。
「えっと、そうだな――――」
質問は色々あるけど、翡翠と琥珀さんのことを自分はまったく知らない。
「あまり関係ない話なんだけど、いいかい?」
「はい、なんでしょう」
「翡翠と琥珀さんがここでどんな仕事をしてるのか知りたいんだけど、どうかな」
「わたしが志貴さま付きで、姉の琥珀は秋葉お嬢さまのお世話をさせていただいています。
お二人が留守の間は屋敷の管理を任されていますが、それがなにか?」
「……お世話って、やっぱりそういうコトか」
がっくりと肩が重くなる。
秋葉は当然のように言っていたけど、こっちはあくまで普通の高校生だ。
同い年ぐらいの女の子に世話をしてもらうなんて趣味は、今のところありはしない。
「……志貴さま付きって事は、俺専用の使用人ってこと?」
「はい。なんなりと申し付けてください」
「……まあ、それはわかったよ。秋葉のあの言いぶりじゃ君を解雇させてくれそうにないし、大人しく世話してもらうけど───」
「何か、特別なご要望でもあるのですか?」
「特別ってわけじゃない。ただ、その志貴さまっていうのを止めてくれないか。正直いって、聞いてると背筋が寒くなる」
「ですが、志貴さまはわたしの主人です」
「だからそれがイヤなんだって言ってるんだ。俺は昨日まで普通に生きてた身なんだ。いまさら同い年ぐらいの女の子に様づけで呼ばれる生活なんてまっぴらだよ」
はあ、と翡翠は気のない返事をする。
「俺の事は志貴でいい。そのかわりに俺も翡翠って呼び捨てにするからさ。それと堅苦しいのもなしにしよう。もっと気軽に、気楽に行こうよ」
翡翠は無表情ながらも眉を下げて、なんだか困っているような素振りをする。
「ですが、あなたはわたしの雇い主ですから」
「俺が雇ってるわけじゃないだろ。翡翠は俺にできない事をやってくれるんだから、そっちのほうが偉いんだぞ」
はあ、と翡翠はまたも気のない返事をする。
……どうも一朝一夕でこの子に言い含めるのは無理のようだ。
「―――ともかくそういう事だから、俺に対してあんまりかたっくるしいのはナシにしてくれ。お姉さんの琥珀さんにも伝えてくれるとありがたい」
「はい。志貴さまがそうおっしゃるなら」
翡翠は無表情で頭をさげる。
ものの見事に、全然わかってない。
「それでは失礼します。今夜はこのままお休みください」
翡翠は一礼してドアのノブに手をかける。
────と、一つ聞き忘れていた。
「あ、ちょっと待った」
ドアに走り寄って、立ち去ろうとする翡翠の肩に手を置いた。
瞬間────翡翠の腕が、物凄い勢いで俺の腕を払った。
バシ、と音をたてて手がはたかれて、翡翠は逃げるように後退する。
「え────」
あんまりに突然のことで、そんな言葉しかだせない。
翡翠は無表情のまま、けれどたしかに、仇を見るような激しさでこちらを睨んでいる────
「えっと―――俺、なにかわるいことしちゃったかな」
「あ……」
「……申し訳、ございません……」
緊張のまじった翡翠の声。
「……体を触れられるのには、慣れていないのです。どうか、お許しください」
翡翠の肩はかすかに震えている。
なんだか、ものすごく悪いことをしてしまったような気がする。
「あ───うん、ごめん」
思わず謝った。
自分でもよくわからない。ただ翡翠が可哀相に思えて、ペコリと頭をさげていた。
「──────」
翡翠は何も言わない。
ただ、心なし視線が穏やかなものになった気がする。
「───志貴さまが謝られる事はありません。非があるのはわたしのほうです」
「いや、まあそうみたいなんだけど、なんとなく」 ぽりぽりと頭をかく。
翡翠はじっと俺の顔を見つめてから、一瞬だけ目を伏せた。
「その……ご用件はなんでしょうか、志貴さま」
そうだった。
部屋を立ち去る翡翠を呼び止めたのは聞きたい事があったからだ。
「いや、秋葉はどうしてるのか気になってさ。あいつ、全寮制の学校に行ってたんじゃなかったっけ?」
「志貴さま、それは中学校までの話です。秋葉さまは今年から特例として自宅からの登校を許可されていらっしゃいます」
「……えっと、つまりこの家から学校に行ってるってコト?」
「はい。ですが、今日のように夕方に帰られる事は稀です。秋葉さまは夕食の時間まで習い事がありますから、お帰りになられるのは決まって七時前です」
「習い事って―――それ、なに?」
「今日は木曜日ですのでヴァイオリンの稽古でした」
「────え」
「平日は夕食前には戻られますから、秋葉さまにお話があるのでしたら夕食後に姉さんに申し付けてください」
では、と翡翠は頭をさげてから部屋を出ていった。
「ヴァイオリンの、稽古」
なんだろう、それは。
どこかのお嬢様じゃあるまいし、なんだってそんな面倒なことを――・
「……って、どこかのお嬢様だったんだ、あいつ」
そう、そういえば遠野志貴の妹は遠野秋葉という、生粋のお嬢様だったっけ。
こっちの記憶の中じゃ秋葉は大人しくて、いつも不安げな瞳で俺のあとをついてくる一歳年下の妹だった。
子供の頃の秋葉は無口で、自分のやりたい事も口にだせないほど弱気で、いつも父親である遠野槙久に叱られないかっておどおどしていた線の細い女の子だったのに。
「───そうだよな。八年も経てば人間だってガラリと変わる」
自分が八年間で今の遠野志貴になったように、
秋葉もこの八年間で今の遠野秋葉になったんだろう。
―――八年間は、長い。
今までの人生の半分。
それも子供から大人になろうと成長しようとする一番大切な時期に、俺はこの屋敷にいなかった。
「……ごめんな、秋葉」
その八年間を一緒にいてやれたらどんなに良かったろう、と思えて。
知らず、そんな謝罪の言葉を呟いた。
ひとり残されて、ベッドに横になった。
八年ぶりの家。
八年ぶりの肉親。
なんだか、他人の家のように感じる自分。
「……はあ。これからどうなるんだろ、俺」
誰に聞かせるわけでもなくぼやいて、そのまま眠りへと落ちていった。
オーーーーーーーーーン。
―――波の音のように、何かの声が聞こえてくる。
オーーーーーーーーーン。
―――なにかの遠吠え。野犬にしては細く高い。
オーーーーーーーーーン。
―――鼓膜に響く。月にでも吠えているのか。
オーーーーーーーーーン。
―――厭なにおい。この獣の咆哮は、頭痛を招く。
オーーーーーーーーーン。
―――音はやまない。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン――――――――
「……ああ、やかましいっ!」
目が覚めた。
窓の外からはワンワンと犬の鳴き声が聞こえてくる。
時計は夜の十一時になったばかり。
近所迷惑どころの話じゃない。
「くそ、こんなんじゃ眠れやしないじゃないか」
犬の遠吠えは屋敷の塀の近くから聞こえてくる。
……このままじゃ眠れそうにない。
いや、しかし・・・
なれない環境もあるし疲れているのかもしれない。
大人しく眠ろう。
犬の遠吠えはまだ続いている。
このままじゃはっきりいって眠れない。
……眠れないけど、まあ、それは常人の神経のレヴェルの話。
「………………眠いので、パス」
シーツをかぶって、ベッドに横になる。
犬の遠吠えなんて、道を走る自動車の音だと思えばいい。
「………はあ」
今日はなんだか長い一日だった。
慣れない屋敷での夕食や秋葉たちとの会話で精神もつかれきってる。
その前には犬の遠吠えなんて、ただの雑音に他ならない。
目を閉じてしまえば、あとはゆるやかに眠りの中へと落ちていけた。
――――懐かしい、夢を見た。
八年前の夏の終わり。
大きなケガをして、誰も来ない病院にうつされて、先生に出会ったあと。
屋敷に帰ってきた自分は、そこで、知らない家に預けられるという事を、父親の口から聞いた。
ことは、すごくあっけなかった。
退院した次の日、自分は有間の家に行くことになったから。
それは、雲一つない青空だったのを、覚えている。
秋の始まり。
自分は手をひかれて遠野の屋敷を後にした。
けど、そのほんの少し前。
あの子が、大人たちの目を盗んで会いに来てくれた。
『ここを出る時、裏庭の木にきてください』
そう言われて、父親の目を盗んで裏庭に行った。
青い空。
どこまでも落ちていけそうな青い空の下、彼女は一人で待っていた。
自分が知るかぎり、あの子が屋敷から外に出たのは、これが初めてだった気がする。
『これ、持っていって』
言って、少女は自分の髪を留めていたリボンをほどいて手渡してくれた。
餞別だったのだろうけど、なにぶん子供だった自分は、嬉しいともかんじない。
……だって、リボンをもらって喜ぶ九歳の男の子はいないと思う。
『そのリボンお気に入りなの。だから、あとでちゃんと返してね』
けど、その言葉で、救われた。
返してね、と少女はいった。
帰ってきてね、と自分には聞こえた。
――――それだけで、よかった。
誰一人として見送りさえしてくれなかった最後の日。
今まで一度も話したことがなくっても、彼女がそう言ってくれたのが、嬉しかった。
―――けど、きっと返すよ、とは言えなかった。
こんな時にかぎって利口な自分は、もうこの屋敷に帰ってこれることはないって理解してしまっていたんだろう。
……交わした言葉は、ただそれだけ。
少女の氷のような目は、けど、どこか哀しかった。
時間だから、と玄関へと歩いていく。
少女は、やっぱり人形みたいに立ち尽くして、去り行く自分の姿を見つめていた。
あおいそら。
くもひとつない、それは、ある晴れた日の、とおいゆめ。
●『2/反転衝動U』
● 2days/October 22(Fri.)
「―――おはようございます」
……聞き慣れない声がする。
見ていた夢が急速に失われていって、現実に呼び起こそうとする声がする。
「朝です。お目覚めの時間です、志貴さま」
聞き慣れない声がする。
……だから、志貴さまはやめてくれないか。
そう言われると背筋が寒くなるって、昨日ちゃんと言ったっていうのに────
―――目が覚めた。
翡翠はベッドから離れたところで、なにかの彫像のように立ち尽くしている。
「ん…………」
寝ぼけ眼であたりを見渡す。
「おはようございます、志貴さま」
メイド服の少女がおじぎをする。
一瞬我が目を疑って、ようやく遠野志貴の現状を思い出した。
「……そっか。自分の家に戻ってきたんだっけ」
体を起こして部屋の様子を流し見る。
窓の外はいい天気だ。
夢の中で見たような、ぬけるような青い空。
「おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれて、ありがとう」
「そのようなお言葉は必要ありません。志貴さまをお起こしするのはわたしの責務ですから」
翡翠は淡々と、まったくの無表情で返答する。
「……はあ。どうしてそうかたっくるしいのかなあ、翡翠は」
本当にもったいない。
翡翠も琥珀さんの半分ぐらい明るければ、ものすごく可愛いと思うんだけど。
「志貴さま。なにかご用ですか?」
こっちの視線に気づいたのか、翡翠はまっすぐに見つめ返してくる。
「あ、いや、なんでもない。目が覚めてまっさきに翡翠の顔を見て、ここが遠野の屋敷なんだなって実感しただけで――――」
氷のような、翡翠の瞳。
それはついさっきまで見ていた、ゆめのなかの光景に酷似している――・
「―――――そう、か」
完全に思い出した。
あの日、去り際にリボンを渡してくれたのは、いつも窓から俺たちを眺めていた少女のほうだ。
それは、つまり――・
「翡翠……だったんだ」
「はい。何かおっしゃられましたか、志貴さま?」
「ああ……翡翠、覚えているかな。八年前、俺がここを出ていく時のことなんだけど」
「はい、それでしたら覚えております。ですが、それが何か?」
「え―――何かって、翡翠」
「申し訳ありませんが、志貴さまがお屋敷を後にしてから八年が経ちました。ですからあの頃の事をおっしゃられましても、わたしは克明にお答えできません」
「な―――――」
それは、あの時の約束なんて覚えていないっていう事なのか。
「翡翠―――リボンのこと、覚えてないのか」
「……リボン……ですか?」
なにか言いにくそうに俯いて、翡翠ははい、と断言する。
「……そっか。そうだよな、八年も前のことだもんな。……ごめん、なんでもないんだ。今のは忘れてくれ」
「………………………」
……約束は忘れられていた。
けど、それを恨むような気分でもない。
なにぶん子供のころの話だし、あの頃、あの約束のおかげで前向きに生きていこうって思えたのは本当のことなんだし。
「さてと、それじゃあ起きるとしますか。翡翠、いま何時だかわかる?」
「はい、朝の七時をすぎた頃です」
「オーケー、それなら少しは余裕があるかな」
うーん、と背を伸ばしてベッドから立ちあがる。
「お言葉ですが、あまりお時間はございません。このお屋敷から志貴さまの学校まで三十分ほどかかりますから、あと二十分ほどで朝食を召し上がっていただかないと」
「え―――そっか、ここ有間の家じゃないんだっけ!」
愕然とした。
慣れ親しんだ有間の家からだったら二十分ぐらいで学校に行けるんだけど、ここからだと近道さえ解らない。
「学校の制服はそちらにたたんであります。着替えが済みしだい居間においでください」
「くそ、どうせ起こしてくれるならもっと早く起こしてくれればいいのに……!」
自分勝手な独り言をいいながら、たたまれた学生服に手を伸ばす。
学校の制服はきちんとたたまれていて、シャツにはアイロンまでかけられている。
袖に腕を通すと、なんだか新品みたいに気持ちがよかった。
居間には秋葉と琥珀さんがくつろいでいた。
秋葉の制服は浅上女学院、という有名なお嬢様学園の物だろう。
二人はとっくに朝食をすませたのか、優雅に紅茶なんぞを飲んでいた。
二人に挨拶しよう。
「二人とも、おはよう」
「おはようございます、志貴さん」
琥珀さんは白い割烹着に相応しい、これ以上ないっていうぐらいの笑顔で挨拶をかえしてくれた。
一方秋葉はというと、ちらりとこちらを一瞥するなり、
「おはようございます。朝はずいぶんとゆっくりなんですね、兄さん」
なんて最高に気の利いた嫌味をこぼしてくれる。
「ゆっくりって、まだ七時を過ぎたばっかりじゃないか。ここからうちの高校まで徒歩三十分ちょいなんだ、今日は早起きしたほうだよ」
「つまり朝食にかける時間は十分だけですか。おなかをすかせた犬じゃないんですから、朝食はゆっくりとってください」
「─────」
秋葉の言葉には、やっぱり棘がある。
「秋葉さま、そろそろお時間のほうも限界ですけど、よろしいんですか?」
「……わかってます。もうっ、初日からこれじゃ先が思いやられるじゃない」
ぶつぶつ、と文句らしきものを呟いて秋葉はソファーから立ちあがる。
「それでは、私は時間ですのでお先に失礼します。兄さんもお気をつけて勉学に励んでください」
秋葉はそのまま居間を後にした。
秋葉を玄関まで送るのか、琥珀さんも居間を後にする。
「勉学に励めって、秋葉」
……やっぱり親父の下で八年間もしつけられたからだろうか、細かいところで古くさいというか、礼儀ただしいというか。
「……まあ、言われなくても学校には行くけどさ」
ぽりぽり、と頬をかく。
去り際にみせた秋葉の顔はどうしてか胸をついて、朝から色々と注意されたことなんてどうでもよくなってしまった。
「そっか――――」
ぽん、と手を叩く。
さっきの秋葉の顔は、昔の秋葉にすごく似ていたから、俺はわけもなく目を奪われてしまったのだろう―――
琥珀さんが用意してくれた朝食を食べたあと、ロビーに出る。
と、ロビーには翡翠が鞄を持って待っていた。
「志貴さま、お時間はよろしいのですか?」
「ああ、こっから学校まで走れば二十分ないからね。いま七時半だろ、寄り道をしても間に合うよ」
こっちの説明に満足したのか、こくん、と翡翠は頷く。
「それでは、外までお見送りいたします」
「え―――あ、うん、どうも」
……やっぱり、自分付きの使用人というのはひどく照れくさい。
「あ、志貴さん! ちょっと待ってください!」
たたたっ、と琥珀さんが二階から降りてきた。
「……………………」
翡翠は琥珀さんがやってくると、すい、と身を引いて黙ってしまう。
「あれ、琥珀さんは秋葉と一緒じゃなかったの?」
「秋葉お嬢様はお車で学校に向かわれますから。今朝は志貴さんにお届け物があるので屋敷に残らさせていただいたんです」
「お届け物って、俺に?」
「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」
ニッコリと琥珀さんは笑顔をうかべる。
「え───? いや、俺は自分の荷物は全部持ってきたよ。もともとむこうで使ってたのは有間の家のものだったから、自分の物なんて着てる服ぐらいのものなんだけど……」
「そうなんですか? こちらが届けられたお荷物ですけど」
琥珀さんは二十センチほどの、細い木箱を手渡してくる。
重量はあまりない。
「───琥珀さん、俺はこんなの見た事もないんだけど」
「はあ。なんでも志貴さまのお父さまの遺品だそうですけど。志貴さんに譲られるようにって遺言があったとか」
「……あの親父が俺に?」
……それこそ実感がわかない。
八年前、俺をこの屋敷から追い出した親父がどうして俺に形見分けをするんだろう?
「まあいいや。琥珀さん、これ部屋に置いておいて」
「─────」
琥珀さんはじーっ、と興味深そうに木箱を見つめている。
なんだか玩具をほしがる子供みたいな仕草だ。
「じーーーーっ」
いや、子供そのものだ。
「……わかりました。中身が気になるんですね、琥珀さんは」
「いえ、そんなことないです。ただちょっと気になるなって」
………だから、十分気になってるじゃないか。
「なら開けてみましょう。せーのっ、はい」
スッ、と乾いた音をたてて木箱を開ける。
中には────十センチほどの、細い鉄の棒が入っていた。
「………鉄の棒………だ」
何の飾り気もない、使い込まれて手垢のついた鉄の棒。
……こんなガラクタが俺に対する形見分けとは、親父はよっぽど俺が気に食わなかったとみえる。
「───違います志貴さん。これ、果物ナイフですよ」
琥珀さんは鉄の棒を箱から取り出す。
「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じみたいです。せーの、はいっ」
パチン、と音がして棒から十センチほどの刃が飛び出す。
……なるほど、たしかにこれはナイフだ。
「ずいぶんと古いものみたいですけど、作りはしっかりしてますよ。裏に年号がかかれてます」
琥珀さんは刃をしまってからナイフを手渡してくる。
たしかに握りの下のほうに数字が刻まれていた。
七という漢字と、その後には夜という漢字。
「姉さん、これは年号じゃないわ。七つ夜って書かれているだけよ」
「っ!」
びっくりして振り返る。
と、今まで黙っていた翡翠が後ろからナイフを覗きこんでいた。
「び、びっくりしたあ……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくても、見たければ見せてあげるのに」
「あ―――――」
とたん、翡翠の頬がかすかに赤くなる。
「し、失礼しました。あの―――その短刀があまりにキレイでしたから、つい」
「キレイ? これ、キレイっていうかなあ。どっちかっていうとオンボロな感じだけど」
「――――そんな事はありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」
「……そうなの? 俺にはガラクタにしか見えないけど……」
翡翠があんまりにも強く断言するもんだから、こっちもその気になってきた。
……うん。これはこれで、形見としては悪くないのかもしれない。
「七つ夜……ですか。その果物ナイフの名前でしょうかね?」
「そうかもね。ナイフに名前を付けるなんてヤツはそういないと思うけど」
なんにせよ年代物という事ははっきりしている。
「ま、もらえる物はもらっとくのが俺の信条だし」
刃を収めて、ズボンのポケットにナイフを仕舞う。
「志貴さま。お時間はよろしいのですか……?」
「まずい、そろそろ行かないと間にあわないか。それじゃ琥珀さん、届け物ありがとうね」
いえいえ、と琥珀さんは笑顔で手をふった。
庭を抜けて門に出る。
翡翠は無言でしずしずと付いてきた。
「……翡翠。もしかして俺の見送り?」
はい、と 翡翠は無表情でうなずく。
「志貴さま。お帰りはいつごろでしょうか」
……翡翠はあくまで俺の名前にさまを付けたいらしい。
ここで話し込んで学校に遅刻するわけにもいかない。『さま』づけ論争に関しては時間がある時にするべきだろう。
「志貴さま?」
「あ、えーと、そうだな。四時あたりには帰ってこれると思うよ。俺は部活やってないから」
有彦と遊びにでかけなければ、まあ大体夕方には帰ってこれる。
こっちのいい加減な目算に翡翠は深々と頭をさげた。
「わかりました。では、行ってらっしゃいませ。どうか、道々お気をつけて」
……何をお気をつけてなのかは不明だけど、おそらくはこっちの体を気遣ってくれてるんだろう。
「ああ、サンキュ。翡翠も気をつけてな」
好意には好意で返すのは当たり前。
軽く手をあげて、翡翠に元気よく手をふってから屋敷の門を後にした。
───坂道を下っていく。
今まで有間の家から高校に通っていたから、この道順での登校は初めてだった。
「────あんまりいないな、うちの学生」
この周辺の家庭にはうちの高校に通っている人間は少ないようだ。
朝の七時半。
道を小走りで進んでいく学生服姿は自分しか見あたらない。
ちらほらと学生服をきた人影がまざってくる。
ここのあたりにくるとうちの学校の通学路になるのだろう。
「……弓塚さんは……ま、都合よくいないよな」
昨日、ここで『家がこっちだから』と別れたクラスメイトの笑顔を思い出す。
教室に行けば弓塚さつきがいると思ったとたん、心なしか足の進みが速くなった。
住宅地を抜けて交差点につく。
校門が閉まるまであと十分ほど。
遅刻しないようにとアスファルトの路面を駆け出した。
――――――到着。
屋敷から徒歩で三十分、というより二十分程度か。途中で何度か走ったから、ゆっくりしたいのなら七時すぎに屋敷を出る必要があるだろう。
「――――?」
教室に入るなり、空気がどこかあわだたしい事に気がついた。
朝の教室はいつも騒がしいけど、今日の騒がしさはどこか毛色が違う気がする。
窓際の自分の机まで歩いていく。
そこには仏頂面をした有彦が待っていた。
「有彦、なにかあったのか?」
「……さあね。別にたいした事じゃない。たんにうちのクラスの誰かが家出したってだけの話だ」
「そっか、どうりで騒がしいはずだ」
自分の机に座って、ふう、と一呼吸つく。
「―――って、そりゃ大事じゃないか! 誰が家出したんだよ、誰が!」
「そんなの俺が知るか。朝のホームルームが始まればイヤでもわかるだろ。家出したヤツは学校には来ないだろうから、空いてる席が家出をしたヤツだ」
「ああ、そりゃ納得」
納得だけど、有彦の態度はいつになくドライだ。
……クラスメイトが家出したっていうのに、まるで他人事みたいに無関心なのは問題があると思う。
「有彦。おまえ、ひどく無関心じゃないか。クラスメイトが家出したんだぞ。心配にならないか?」
「あ? ばっか、そんなの本気で心配してんのはオマエぐらいなもんだよ。クラスの連中が騒いでるのは、わりかし珍しい話題だからだ。
オレやおまえが家出したわけじゃないんだし、関心なんてあるわけないだろ」
……そういえば、こいつは身内以外にはひどく冷たいところがあるヤツだった。
「……でもまあ、違った意味で心配はしてるけどな。こんな時に家出をするなんて、よっぽど度胸があるのかよっぽどのアレかだし」
「……? こんな時って、どんな時?」
「昨日言っただろ、遠野。いま街じゃ通り魔殺人が流行ってるんだって。どこに家出したかしらないが、そこらへんで野宿してたらバッサリと通り魔に襲われても文句は言えないだろ」
「まさか――――いくらなんでも、そんなことはないだろ」
「遠野、おまえはちゃんとテレビを見なさい。今までで犠牲者が八人だぞ? それも全員無差別に殺されてるんだ。自分だけは安心、なんていう考えは捨てちまえ。
最近の夜の街はさ、それは静かなもんなんだぜ。出歩いているのは危機感が麻痺してる酔っ払いと警官だけでね、おかげで退屈で退屈で仕方がない」
有彦の声はいたって真面目だ。
……それを聞かされると、こっちも不安になってしまう。
「―――おっ、国藤が来たぜ。お待ちかねのホームルームだ」
有彦は自分の席に戻っていく。
しばらくして、全員が席についた。
生徒が座っていない席は一つしかない。
その席は、間違いなく弓塚さつきの机だった。
「それじゃあわたしは家がこっちだから。
ばいばい、また明日学校でね」
「………」
……昨日の別れ際、弓塚は確かにそう言っていた。家で何があったか知らないけど、あの笑顔はとても家出する直前には見えなかった。
「弓塚は欠席だな」
教壇に立つ担任は、ただ弓塚さつきを欠席扱いにして出席をとっていく。
……何事もなかったように、ホームルームは進んでいく。
俺は―――
弓塚さつきの事を尋ねる。
―――――昨日の弓塚の笑顔を知っている。
あんな顔をしてばいばい、なんて言えるヤツが家出をするなんて、とても思えない。
「―――先生」
「なんだ遠野。質問か?」
「はい。うちのクラスで家出をした生徒がいると聞きましたけど、それは本当なんですか?」
「む―――――」
ぴたり、と教室中の空気が固まった。
担任は難しい顔をしたあと、言いにくそうに顔をしかめてうなずいた。
「……たしかに弓塚さつきのご両親から、そういった報せは届いている。弓塚は昨夜から家に帰ってきていないそうだが、捜索願いが出されているのだからすでに見付かっているだろう」
そうして、担任は教室を後にした。
教室はざわざわと騒がしくなる。
なにか、イヤな予感がする。
……重苦しい。椅子に体が縛り付けられているみたいに重苦しい、イヤな予感だった。
―――二時限目が終わっても、弓塚はやってこなかった。
確かめる手段がないだけ、厭な予感だけが増していった。
昼休みになった。
朝はあれだけざわざわとしていたのに、教室はいつも通りの明るさに戻っている。
弓塚さつきが家出したという噂話を、クラスメイトたちはあまり重く受け取っていないらしかった。
「遠野、飯にしようぜ」
「いい。なんかそんな気分じゃない」
「ふーん……ま、仕方ねえか。関係のない苦労を背負うのもほどほどにしとけよ」
「………………」
関係のない苦労、か。
有彦のセリフは、いちいち的を射すぎている。
「あれ? 今日は乾くんと一緒じゃないんですか?」
「……先輩。どうしたの、うちの教室になんか来て」
「はい、遠野くんたちとお昼ごはんを食べようと思ったんですけど……遠野くん、お昼は食べないんですか?」
机に座り込んだ俺の顔を、先輩は心配そうに覗きこんでくる。
「いや、そういうわけじゃないけど、なんとなく食欲が湧かないんだ」
「はあ。気分でも悪いんですか?」
「……そんなトコかな。いいから、俺のことは放っておいて食堂に行ってください。有彦なら食堂にいますから」
「もう、元気ないですね遠野くんは。何があったかは知りませんけど、お昼ごはんを食べないとますます気分が悪くなっちゃいますよ」
「―――それは、そうだけど」
食欲が湧かないんだから、こればっかりはどうしようもない。
俺は――
……いや、やっぱり気分が悪い。
「……ごめん。本当に気分が優れないんだ。ちよっと保健室に行ってくるから、先輩は有彦と昼ごはんをすませてくれ」
「はあ……事情は知りませんけど、あんまり無理しないでくださいね遠野くん」
「はは、無理しないから保健室に行くんです」
無理やりに笑って、教室を後にした。
帰りのホームルームが終わった。
教室に残っているのは自分ぐらいのもので、クラスメイトは部活動に、帰宅部の連中はさも忙しそうに学校から走り去っていった。
「────さて」
こっちだっていつまでも教室に残っているワケにもいかない。
さっさと荷物を鞄につめて、教室をあとにした。
時刻は四時すぎ。
翡翠には四時ごろに帰る、と言ってしまった手前、寄り道をしている暇はない。
「……」
坂道にさしかかって、不意に足を止めた。
昨日のこの時間。
ここで、弓塚と当たり前のように別れたのを思い出してしまったせいだ。
「…………」
正直に言えば、弓塚のことが気にかかっている。 けど、いくら心配したところで俺にはどうする事もできない。
ピンチの時は、出来る限り手を貸すって言ったけど。
今の自分には、どこに手を貸していいのかさえ解らなかった。
坂道をのぼりきって、屋敷をかこむ塀を回って、屋敷の正門にたどりついた。
「……しっかし場違いな洋館だな、これは」
住宅地の奥、坂の終わりにどーんと構えた洋館はここだけ日本ではないような錯覚を覚えさせる。
なおかつ、加えて―――・
「お帰りなさいませ、志貴さま」
と、門の前で自分を出迎えてくれるメイドさんまでいる始末だ。
翡翠は俺がやってくる前から、彫像のように正門に立っていた。
「ただいま翡翠。……その、つかぬコトを訊ねるけど、もしかしてそこでずっと待ってたのか?」
「いえ、ずっとではなく三十分ほどお待ちしておりました。それがなにか?」
しごく当然のように翡翠は言う。
……ちょっと、それは俺には持て余すぐらい、忠義すぎる。
「───いや、出迎えてもらえるのは正直嬉しいんだけど、そこまでしなくてもいいんだ。そのカッコウじゃ目立つし、俺だってなんだか照れる」
くわえて季節は秋なんだ。そろそろ外にいるのは寒くなってくるだろう。
「………………………」
翡翠は黙っている。
異国の血がまじっているのか、群青の蒼い瞳はガラス細工のように無機質で、感情もなくこちらを見つめている。
しばらくの沈黙のあと。
「……わかりました。では、明日からはロビーでお迎えいたします」
翡翠は小さくお辞儀をして門をあける。
それきり彫像のように翡翠は動かない。
こっちが門をくぐって庭に入ると、静かに後からついてくる。
玄関につくと、翡翠はサッと前に出てきた。
「うわあ!」
思わず、反射的に体を引いてしまう。
「……なんでしょうか、志貴さま」
「あ、いや────その、なんでもないんだ」
「……………」
翡翠は無言で玄関の扉を開ける。
翡翠が前に出てきたのは、俺のかわりに玄関を開けるためだったらしい。
常に主人の後に付き添い、出番とあらば音もなく前に出て仕事をこなす。
まさにメイドさんの鑑なわけなんだけど、俺みたいな一般人は翡翠の一挙一動にびくびくしてしまう。
……どうもうまくない。こんなんじゃいつまでたってもお客さん気分が抜けないじゃないか。
「あのさ、翡翠」
「はい、なんでしょうか志貴さま」
「昨日もいったけど、俺は自分で出来るコトは自分でやりたいんだ。ていうか、やらせてくれ。
これは秘密なんだけどね、俺、実は根が怠け者だから甘やかされると際限なく堕落するんだ」
うん、秋葉にだけは秘密にしておいてもらいたい。
「……よくわかりませんが、志貴さまは厳しくしろ、とおっしゃるのですか?」
「いや、厳しくされるのはイヤだ。できればお気軽に生きたい」
「……申し訳ありません。志貴さまのお話の趣旨が、わたしには理解できないようです」
「……いや、だから真面目な顔でそう言われてもな」
……困った。
昨夜、少しだけ話してこの子には話が通じにくそうだっていうのは予感していたけど、ここまで生真面目な性格をしているとは思わなかった。
「───ああもう、いいから翡翠は俺にかまわなくていいって言ってるんだよ。
そりゃあ洗濯とか料理とかは世話してもらうけど、それ以外の事で遠野志貴に時間をわりあてなくていいんだって。
この広い屋敷に琥珀さんと二人きりなんだろ? 俺の世話なんていい加減でいいから、できるだけ楽してくれって言ってるの!」
「─────」
翡翠の表情は変わらない。
返事もしなければ頷きもしない。
ただ、一度だけ目蓋を閉じたような気がした。
「わかりました。ですがお心遣いだけで結構です、志貴さま」
───うう、全然わかってない………。
翡翠は俺に道を譲るために、サッと横に回ってしまう。
「…………はあ」
……本当にまいる。
そりゃあ献身的に世話をしてくれるのは嬉しいんだけど、琥珀さんの半分ぐらい明るくしてくれてもいいと思う。
ただでさえ翡翠は可憐な雰囲気があるんだから、もっと力を抜いてくれればそれはどんなに―――
「志貴さま、お部屋に戻られないのですか?」
「いや、すこし考え事をしてただけ」
ロビーを横ぎって階段に向かう。
翡翠は物欲しそうに俺の手にある鞄を見つめていた。
……たぶん、お荷物をお持ちします、という台詞を言いたいのだろう。
出迎えてもらえるだけで仰々しいっていうのに、そのうえ鞄まで運ばれては参ってしまう。
俺は翡翠の何か言いたげな仕草を無視して、自分の部屋へと歩いていった。
「着ていた学生服はこちらのほうにお脱ぎください。わたしは屋敷の掃除がありますので、用がありましたらお呼びください」
「……翡翠は屋敷の掃除、か。秋葉と琥珀さんはどうしてるのかな」
「秋葉さまはサロンで槙久さまのお仕事の引き継ぎをなさっておられます。姉さんでしたら、中庭の掃除をしていますが」
「……はあ。親父の仕事の引き継ぎって、もしかして弁護士かなんかと話してるのか?」
「はい。経営方針を教授していただいているそうですので、秋葉さまは夕食までご多忙と存じます」
「………………」
まあ、親父もいきなり他界したっていうから、会社のことは秋葉に何一つ教えられなかったんだろう。
「引きとめて悪かった。何かあったら行くから、仕事に戻っていいよ」
「はい。それでは失礼いたします」
学生服を脱いで、私服に着替える。
時計はまだ五時になったばかりだ。
このまま夕食までぼうっとしているのももったいない気がするし、ここは―――
翡翠に会いに行く。
……そうだな、昨日から世話になっているんだから、こうしてぼんやりしている暇があったら翡翠の手伝いぐらいしないと罰があたる。
―――さて。
屋敷を掃除するって言ってたけど、翡翠はどこにいるんだろう。
ロビーに下りてくる。
二階の廊下には翡翠の姿は見当たらなかったから、いるとしたら居間のほうだろうか。
……いない。
…………いない。
…………………いない。
…………………………………いない。
一階に翡翠の姿はない。
まだ見ていないのは鍵がかかっている遊戯室と客間、秋葉がいるっていうサロンぐらいなものだ。
「……すれ違って二階に行ったのかな」
これだけ広い屋敷だから、入れ違いになる事ぐらいはあるだろう。
気を取りなおして二階に向かった。
階段をあがって、廊下を見渡す。
と。
東館の奥、窓際に立ち尽くしている翡翠の姿を見つけた。
「ひす―――」
声をかけようとした喉が止まる。
廊下の奥。
明かりも満足にない暗がりのなか、翡翠は一人でぴくりとも動かないで立っていた。
「――――――」
……声が、出ない。
翡翠の姿は、どこか、危うい。
暗い洋館の中で佇む翡翠。
たしかに可憐だと思うのに、同時に幽霊を見るような肌寒さを思わせる静けさ。
翡翠は指先さえ動かさず、ただ窓の外を眺めている。
「――――――」
その窓は。
子供のころ、あの少女がいつも見下ろしていた窓ではなかったか。
「ひす―――――い」
こういうのも見惚れる、っていうんだろうか。
声をかける事も、かといって目をそむける事もできず、ただ呆然と翡翠を見つめる。
――――と。
人形のようだった翡翠の瞳が、つい、とこっちに向けられた。
「志貴さま、どうかなされましたか?」
「あ―――いや、別にどうしたっていうわけでもない、んだけど……」
「?」
かすかに首をかしげる翡翠。
そこに、さっきまでの不思議な緊張感はなくなっていた。
「暇だから何か手伝いをしたくて捜してたんだけど、翡翠が中々見付からなくて。いま、ようやく見つけたところ」
「……そうですか。ですが志貴さまがそのようなことをなされる必要はありません。どうかお部屋にお戻りください」
「む…………」
なんとなく予想はしていたけど、やっぱり翡翠は俺に働かせるつもりはないらしい。
「けど翡翠、他にやる事がないんだからしょうがないだろ。ぼーっとしているのも体に悪いんだから、なんでもいいから手伝わせてくれないか」
「お言葉ですが、志貴さまに手伝っていただけるような仕事はすべて終わりました。残っているのは秋葉さまの寝室の整理だけです。
たとえ志貴さまでも、男の方を秋葉さまの寝室にお入れするわけにはまいりません」
「む、むむむ…………」
それは、たしかにその通りだ。
……けど、なんか卑怯だ。翡翠はわざと俺にできっこない事を口にしている気がする。
「それではわたしは仕事が残っていますので失礼します」
翡翠はツカツカと足音をたてて、そのまま秋葉の寝室に入っていってしまう。
「……………む」
さすがに、暇だからって女の子の寝室に入っていくわけにはいかない。
「……仕方ない、部屋に戻るか」
踵を返す。
と、その前に翡翠が見ていた窓のことが気になった。
「あれ―――中庭にいるの、琥珀さんかな」
窓からは中庭の様子が一望できる。
翡翠は子供のころと同じように、この窓から中庭の様子を見つめていたんだろうか……?
夕食が済んで、居間で食後のお茶を飲む。
目の前には秋葉がいて、壁際には翡翠が控えている。
居間にはテレビなんてものはないし、秋葉も余分な事は話しかけてこない。
―――なんていうか、上品すぎる食後の時間だ。
「志貴さーん、ちょっといいですかー」
と、ロビーのほうから琥珀さんの元気な声が聞こえてきた。
「兄さん? 琥珀が呼んでいますけど、なにか呼ばれるような事をしたんですか?」
「いや、身に覚えはないけど―――ちょっと行ってくる」
秋葉と翡翠を居間に残してロビーにやってくる。
琥珀さんは玄関の前でなにやらぐるぐると歩いていたりする。
「……琥珀さん。それ、なにやってるの」
「あ、志貴さん。それがですね、ちょっと複雑な事情なんです。……そこにいられるとまずいですから、ちょっと外に出てくれますか?」
「……?」
訳が分からないまま、とりあえず琥珀さんの後についていく。
「話ってなんですか? もしかしてみんなには秘密にしておきたい事?」
「はい。とくに秋葉さまの耳に入ると、志貴さんが怒られそうなお話です」
秋葉に怒られそうな話……?
「なんですかそれ。俺、秋葉を怒らせるような真似はしてないけど」
「あ、志貴さんがどうこうしたワケじゃないんです。その、実はですね。志貴さんと秋葉さまのご夕食の最中、お客さまがおみえになられたんです」
「え? お客さまって、俺に?」
「はい。門の外でぐるぐると歩いていたので、気になって声をかけたんです。着ているご洋服が志貴さんの高校の制服だったものですから、もしかしてと思いまして」
そうして琥珀さんはそのお客さんの風貌を話してくれた。
年のころは俺と一緒で、やや童顔。長い髪を両おさげにした可愛い女の子……?
「……………」
どくん、と視界が真っ暗になった気がした。
その風貌。
それは、家出しているっていう弓塚さつきそのものじゃないんだろうか―――
「それでですね、その子、ここが遠野さんのお屋敷ですか?って聞いてきたんです。そうですよって答えたら、それなら遠野くんはいますか?って」
「……うん。それでどうしたの、琥珀さん」
「はい。志貴さんと話がしたがっていたようなので、おあがりいただこうとしたんですが断られちゃいました。なんでも今はまだ会えないからいいんだそうです」
なんなんでしょうね、と琥珀さんは首をかしげる。
けど、それを聞きたいのはこっちのほうだ。
「なんで――――――弓塚さんが、俺のところに来るんだろう………」
わからない。
わからないけど、ただ、厭な予感だけがしている。
「……琥珀さん、それってどのくらい前のこと?」
「えっと、志貴さんのご夕食が終わる前でしたから、かれこれ十分ほど前です」
「――! それで、その子はどっちのほうに帰っていったかわかる?」
「坂を街に向かって下りていきましたから、駅前のほうだと思いますよ」
―――十分前か。
走れば―――運がよければ、見つけられるかもしれない。
「……わかった。ちょっと出てくるから、この話は秋葉には黙っててくれ」
「存じております。秋葉さまが知ったら、また志貴さんがいじめられちゃいますから」
楽しそうに微笑む琥珀さんに礼を言って、夜の街へと走り出した。
「はあ――――はあ、はあ――――」
坂道を全力で下って、駅前方面に走っていく。
「はあ、はあ、はあ、はあ――――!」
駅前の人込みをかきわけて、弓塚らしき姿を捜す。
「はあ……はあ、はあ………」
息があがる。
苦しくなって、走りどおしだった足を止めた。
「……やっぱ、り……そう、簡単には、見付からない、よな……」
はあ、はあ。
荒い呼吸を整えて、すぐに走り出す。
―――弓塚さつきの姿は見当たらない。
当たり前といえば当たり前なのに、どうしてか簡単に諦められない。
……自分は別段、弓塚さつきが心配なわけではないと思う。
この胸にはほんの些細なわだかまりがあって、そのためにこうして走りまわってしまっている。
―――それじゃあね。ばいばい、遠野くん。
それは、どこにでもあるさよならのセリフ。
……本当に幸せそうだった、柔らかな笑顔。
あんな顔をするヤツが家出なんかするわけがない。
―――ピンチの時は助けてね、遠野くん。
そう、こんな事をしている理由なんて単純だ。
俺はただ、あの時の笑顔が裏切れないだけなんだから――――
「はあ―――はあ――――はあ―――」
公園にも弓塚らしき人影はない。
……初めから、何の手がかりもなしで人を捜し出せるはずはなかった。
見つけられっこないんだから、いいかげん屋敷に戻ろう。
「……く……そ……」
だっていうのに、まだ街のほうを見て回ろうと踵を返した。
もう一度駅前にやってくる。
時刻は夜の九時をすぎてしまっている。
連日の通り魔殺人のせいか、まだ九時だっていうのに人通りは極めて少ない。
――――と。
「弓――――塚」
一瞬、自分の目を疑った。
けど目の前で歩いている後ろ姿は、弓塚さつきに似すぎていた。
弓塚はふらふらとした足取りで人込みの中を歩いていく。
……遠くて、よくわからない。
見間違いかもしれないけど、とにかく追いついて呼びとめよう、と走った。
「待って、弓塚さん―――!」
追いかけながら声をかける。
「――――――」
声が聞こえたのか、弓塚はちらりとこっちに振り向いた。
その顔は、なんということはない。
前を歩いている少女は間違いなく弓塚さつきだし、彼女の顔が恐ろしげな表情をつくっていたわけでもない。
「――――あ」
なのに、ぞくりとした悪寒を感じてしまった。
―――どくん、と。
心臓の鼓動が速くなる。
あたまの後ろのほうがクラクラと重くなって、喉が少しだけ熱を帯びる。
「なんだろう……なんか、ヘンだ」
体中が熱い。
質の悪い熱病にうかされたみたいに、クラクラする。
そうしている間に、弓塚はまた歩き出してしまった。
「ま―――待てって、弓塚さん……!」
走りながら呼びかける。
弓塚は振り向かずに、ふらふらと歩いていく。
「こ―――の、聞こえないのか弓塚……!」
熱い体にムチを打って走る。
けど、どうやっても弓塚の背中をつかまえられない。
……いくら走っても、歩いている弓塚に追いつけない。
「――――――」
なにか、おかしい。
そうわかってはいるのに、何がおかしいのかわからなかった。
今の自分に出来る事といえば、なんの解決策もないまま弓塚さつきを追いかける事だけだった。
――――と。
不意に弓塚の背中が消えた。
さっきまで、追いつかないまでもちゃんと見えていたあいつの背中が見当たらない。
「……くそ……なんだっていうんだ、一体……!」 立ち止まって、呼吸を整える。
はあはあ、と胸が大きく上下していた。
……今まで気がつかなかったけど、随分と長い間走っていたみたいだ。
「……いま、何時、だろ……」
両膝に手をついて、適当なショーウィンドウに視線をなげる。
時刻は―――夜の十二時にさしかかっていた。
「――――うそ。そんなに走ってたのか、俺」
……そんな実感はないけど、時計に間違いはない。
見渡せば、繁華街の明かりも淋しくなりつつある。
「―――帰、ろう」
弓塚のことは気になるけど、これ以上捜しても見つけられない気がする。
……だいたい三時間近く追いかけて、何度も呼びかけたのに振り向きもしないなんて、あいつは何を考えてるんだろう。
はあ、と大きく深呼吸をして、屋敷に戻ることにした。
……このあたりにくると、人通りはまったくなかった。
繁華街のほうはまだ人通りがあったほうで、ここから屋敷に戻るまでの道は完全に人気がないだろう。
「…………」
通り魔殺人という単語が頭をよぎる。
夜の十二時。一人で街を歩いている自分は、通り魔にとって扱いやすい獲物かもしれない。
「――――!?」
物音。
建物の裏手のほうから、なにか物音がした。
人が倒れるような、そんな感じの音だったと思う。
「……路地裏のほう……?」
……物音は一度きりだった。
あたりは、不吉なぐらい、静かだ。
……イヤな予感がする。
路地裏のほうで、誰かが倒れたのか。
それとも風で荷物が倒れただけか。
……どっちにしたって、あまり関わりあいになるのは賢い選択とは言えない。
―――――けど。
さっきまで弓塚を捜していたせいか、そこに弓塚がいるような錯覚なんか持ってしまっている。
「……どう、しよう……」
あたりに人影はない。
頼れるものなんていったら、朝方琥珀さんが渡してくれたナイフだけだ。
俺は―――――
見に行く。
――――自分の錯覚を、無視できない。
もう何人も殺人を犯している通り魔が徘徊しているっていう夜の街で、怪しい物音がした路地裏に行こうだなんてどうかしてる。
どうかしてるけど、俺は――――昨日の弓塚の笑顔が忘れられない。
弓塚がいるはずなんてないけど。
もしそこに弓塚がいて、なにか取り返しのつかないコトになっていたのなら。
……俺は、それを見逃したコトを絶対に後悔する。
「――――よし」
大きく息を吸って、気を引き締めた。
なに、いざとなれば遠野志貴にはこの『眼』があるんだ。
先生は無闇に使うなって言ってたけど、相手が殺人鬼なら許してくれるだろう。
「……音、こっちからだったな」
覚悟をきめて、路地裏へ足を運んだ。
―――どくん。
心臓が、ひときわ大きく脈をうつ。
路地裏は静かだ。
……物音は、この奥の広場から聞こえてきた。
―――どくん。
首のうしろが、痛い。
極度の緊張で痙攣でもしているのか、背骨が皮膚から飛び出しそうなぐらい、痛い。
―――どくん。
どうしてだろう。
俺は何も考えていないのに、本能がさっきから警告を鳴らしている。
―――どく、ん。
行くな。
その先には行くな。
行けば、きっと戻れない。
―――どく、ん。
けど、もう遅い。
路地裏を抜けて、俺はその広場へと足を踏み入れてしまった。
「――――え?」
ただ、そんな声しか、出せなかった。
―――路地裏は、一面の赤い世界。
そこかしろかに、ゴミやガレキにまじって手足が散乱している。
手足は犬や猫のたぐいじゃない。
その断面から赤い血と、骨と、生々しい肉を見せた、紛れもない人間の手足だった。
地面や壁には赤い血が塗りたくられている。
鼻孔をつく重い匂い。
どろり、と。
赤い霧になって体にまとわりついてきそうなほど、濃厚な血のにおい。
顔。顔。顔。
首元から断ち切られ、苦悶の表情のまま転がった顔。
木乃伊のように干からびて、真っ二つに割れてカラカラと転がっている顔。
両目を刳り抜かれて、男とも女ともとれないぐらい正体不明のまま放置された顔。
「―――――」
声も出せず、ただ、ソレらの亡骸を傍観した。
いや、人の死体というにはあまりにも遠すぎる。 出来の悪いオブジェにしたって、もうすこしはマシだろう。
死体は、四つあった。
どれもこれも食い散らかされた残飯みたいに転がっている。
「は―――――は」
愕然と死体の海を見つめる。
首のうしろがズキズキと痛んで、
喉が乾いて呼吸が火のように熱い。
指先はガクガクと震えていて、口元がいびつな形にゆがんでしまう。
これは―――何だ。
いま目の前に広がっている世界は、なんだ。
「――――赤い」
そう。
目が醒めるぐらいに、攻撃的な一面の色―――・
ただ、呆と立ち尽くす。
どうかしている、と思った。
どくん。どくん。どくん。
こんな、ワケのワカラナイ風景を前にして。
俺の心臓は、どくどくと、何かを期待するように、高鳴ってしまっている、なんて。
がさり、と壁際の死体が動いた。
いや、違う。
そこにいるのは死体じゃない。
無造作に転がっている手足とは違う。
きちんと手足がある、れっきとした生きている人間のようだった。
「あ……」
なにか、意外なものを見た。
人が生きていたという事を喜ぶより、この光景の中でまだ生きている人間がいる事が、なんだか不自然な気がして。
けど、生きているのなら。
生きているんなら、助けて、あげないと。
「あの―――もしもし?」
どくどくと高鳴った感情のまま、まだ生きている人間のところに歩み寄っていく。
「――――ギ」
ずるり、と血の海から這い上がって、ソレは俺にむかって顔をあげた。
その、干からびた、シャレコウベのような顔を。
「ひ―――――!」
反射的に後ろに逃げる。
けど、そんな俺の動きなんかより、シャレコウベのほうが何倍も速い。
ひゅうひゅうという声をあげて、ソイツは俺の上にのしかかってきた。
――ひゅう、ひゅう。
イヤな声が、目の前で聞こえた。
見れば―――シャレコウベの喉は大きな穴が開いていて、満足に発音できないらしかった。
「――――あ」
干からびた顔、干からびた腕がのしかかってくる。
骨と皮しか残っていない喉の声帯が、ぶるぶると不気味な声にあわせて振動している。
「うわあああああ!」
ただ、必死になってソイツを引き剥がそうとした。だがソイツは不気味な声をあげて離れようとしない。
カカ、と音をたててシャレコウベの口が開く。
肩を一口で噛み砕けるぐらいに開いた口が、死にたくない、と助けを請うように、俺の顔へと近寄ってくる。
「や――――」
やめろ、という声も通じない。
骨と皮だけのソイツは、そのまま俺の頭にかじりつこうとして――――そのまま、唐突に、崩れ落ちた。
「え……?」
あんなに強かった力が消えていく。
かろうじて骨と皮だけが残っていたソイツは、残された骨と皮さえも無くして、跡形もなく消え去っていく。
さらさらと。
悪い夢みたいに、ソレは灰になって散っていった。
「………なんだよ、これ」
ずきりと、肩から痛みが走る。
「あ………つ」
掴まれていた両肩が、赤く腫れ上がっている。
痛みは現実。だからこれは、紛れもない現実。
ひどい、悪夢だ。
こんなコト―――悪い夢でしかないのに、夢ですら、ないなんて。
「遠野くん。それ以上そこにいると危ないよ」
「――――!」
背後からの声に振りかえる。
入ってきた路地裏の入り口に、弓塚さつきが立っていた。
「弓塚、さん―――?」
「こんばんは。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
まるで、街中で偶然であったように、気軽に弓塚は語りかけてきた。
「弓塚さんこそ……こんな時間に、何してるんだよ」
「わたしはただの散歩。でも、遠野くんこそ何をしてるの? そんなにいっぱいの人を殺しちゃうなんて、いけないんじゃないかな」
ふふ、と淡い笑顔で弓塚は言った。
「人を殺したって―――え?」
周囲を見渡す。
……それで、自分がどんな惨状の中で立ち尽くしているのかを思い出した。
一面の血の海の中。
遠野志貴は、まるで殺人鬼のように、呆然と立ち尽くしている。
「ち、違う、これは俺じゃない……!」
「違うことはないでしょう。みんな死んでいて生きてるのは遠野くんだけなら、誰だってやったのは遠野くんだって思うわ」
「そ、そんなワケないだろう……! 俺だってコイツに襲われかけたんだぞ……!」
さっきまで自分を襲っていた怪物を指差す。
けど、そこにはもう何もない。
アレは骨はおろか、灰さえものこさずに風に散って消えていた。
「あ――――」
息を飲む。
弓塚はくすくすと笑っている。
「ち、ちがう―――俺じゃ、俺じゃない、んだ」
あたまがマヒして、そんな言葉しか言えない。
……わかってる。
ちゃんと何がおかしくて何がおかしくないのかわかっているんだけど、思考が空回りして喋れない。
例えば、弓塚がどうしてこんなところにいるのか。
例えば、こんな惨状を目の前にして、どうして弓塚はそんなふうに笑ってられるのか、とか。
「弓塚さん、俺は―――」
「うん、ほんとはわかってるんだ。遠野くんは食事中に出くわしただけなんだって。
いじわるなこと言ってごめんね。わたし、いつも自分の気持ちと反対のことをしちゃうから、遠野くんにはこんなふうにしてばっかり」
弓塚はまだ笑っている。
……それがこの惨状にあまりに不釣り合いで、ぞくりとした。
弓塚は路地裏の入り口から動かない。
不自然に組まれた両腕。まるで、何かを隠すように後ろに組んでいる。
―――注意して見れば。
彼女の肘のあたりには赤々としたモノが、まだら模様をつくっていた。
「弓塚、おまえ――――」
「どうしたの? 恐い顔して、ヘンな遠野くん」
また、クスリと笑う。
「――――――」
……違う。
彼女は、弓塚さつきなんかじゃ、ない。
「弓塚――なんでおまえ、手を隠してるんだ」
「あ、やっぱりバレちゃった? 遠野くんってば抜けているようで鋭いんだよね。
わたしね、あなたのそうゆう所が昔っからいいなあって思ってたんだ、志貴くん」
強調するように、俺の名前を口にして。
弓塚さつきは、その両手を前に出した。
真っ赤に染まった両手。
血は乾ききっておらず、ぴちゃぴちゃと音をたてて赤い雫をこぼしている。
それを、誇るように。
弓塚さつきは、口元に笑みをうかべていた。
「弓塚、その手―――」
「うん。わたしが、その人たちを殺したの」
「な――――」
「あ、でもこれは悪いことじゃないんだよ。わたしはこの人たちが憎くて殺したんじゃないもの。生きていくためにはこの人たちの血が必要だから、仕方なく殺したんだから」
当たり前のように、彼女は言った。
そんな事、俺にはもちろん理解できない。
わかるのは、ただ―――この全身に、ゾクゾクと血が溜まっていく事だけだった。
どくん。どくん。どくん。
はあ。はあ。はあ。
まるで、血に染まった弓塚に一目惚れでもしてしまったみたいに、興奮、してる―――
「殺したって―――ホントなのか、弓塚」
「嘘だって言っても信じてくれないでしょ? それともわたしみたいな女の子じゃこんなコトできないって思ってくれる?」
クスクス、という笑い声。
―――信じられない。
信じられないけど、間違いなく彼女は嘘なんてついていない。
この惨状は。
みんな、弓塚が起こしたものだ。
「どうして―――こんな、酷い事を」
「ひどくなんかないよ。さっきも言ったでしょう、わたしはこの人たちが憎くて殺したんじゃないもの。志貴くん、生きるために他の生き物を殺すことはね、悪いことじゃないんだよ」
「なにを―――! どんな理由があったって、人殺しは悪いことだろ!」
「そんなコトないけどね。あ、でも悪いことも一つだけしちゃったみたい。
わたし、今日が初めてだから加減ができなくて、血を吸う時に自分の血も送っちゃったの。そのせいで逝き残ったのが出てきて、志貴くんが襲われる事になったわ。
「ごめんなさい。わたし、あやうく志貴くんを巻き込むところだった。ソイツが成りきれないで死んでくれて、本当によかった」
「なにを―――なにを言ってるんだ、弓塚」
「今はわからなくていいよ。わたしもまだ自分自身のことを把握しきれてないから、うまく説明できないわ。
けど、何日かすればきっと志貴くんみたいになれると思う。
志貴くんみたいな、立派な殺人鬼に――――」
言いかけて、弓塚は顔を歪ませて苦しみだした。
「はっ―――あ、う…………!!」
苦しげに喉をかきむしって。
弓塚は、ごぶりと、口から血を吐き出した。
「いた――――い。やっぱり、お腹が減ったからって無闇に吸ってもダメみたい。
質のいい、キレイな血じゃないと、体に合わないのかな―――」
コホコホとせき込む。
その咳は赤く、あきらかに血を吐いていた。
「ん――――く、んああ…………!!!」
弓塚の体がガクガクと震えている。
……よくわからない。
もう、何もかもよくわからないけど、ただ、弓塚がひどく苦しんでいるという事だけは、はっきりとした事実だった。
「苦しいのか、弓塚……!?」
思わず弓塚に駆けよって、その手を取ろうとする。
「――――だめ! 近寄らないで、志貴くん!」
けど、それは弓塚の声で止められた。
「……ダメ、だよ、全然大丈夫じゃないよ、志貴くん」
はあはあと。
苦しげな呼吸が、赤い血を吐いて、届いてくる。
「弓……塚、おまえ―――」
俺には、わからない。
弓塚が苦しんでいる理由も、どうして、彼女がそんなふうになってしまっているのかも。
「……どうしたんだよいったい。人を殺したって言ってたけど、そんなの嘘だろ……? 弓塚、そんなに苦しいんならすぐに病院に行かないとだめじゃないか」
……わかっている。
弓塚が本当にこの惨状を作ったんだってわかっていたけど、そんな、つまらない嘘を口にした。
「ほら、弓塚―――そっちに行くけど、いいな?」
優しく話しかける。
けど弓塚はブンブンと頭をふって、さっきより激しく俺を拒絶した。
「どうして―――苦しいんなら、すぐに病院に行かないとダメだろう……!」
「……ダメなのは志貴くんのほうだよ。ほんとに、いつもいつも、わかってくれないん、だから」
「ばか―――それを言ったら、さっきから何一つだってわからないよ、俺は!」
「あ……は、そっか、そうだよね……それでも、わたしに付き合ってくれてるんだ―――」
よろり、と。
逃げるように、弓塚の体が後ろに引いていく。
「……痛いよ、志貴くん」
ぜいぜいと、呼吸を乱して、赤い血が、吐き出される。
「……痛くて、寒くて、すごく不安なの。
ほんとは、今すぐにでも志貴くんに助けてほしい」
―――けど、今夜はまだダメなんだ。
そう言って。
弓塚は、突然に体を持ちなおした。
「―――待っててね、すぐに一人前の吸血鬼になって、志貴くんに会いに行くから!」
「な―――待てよ、弓塚!」
「――――――」
弓塚の姿はない。
俺が一歩駆け出す間に、弓塚はとっくに路地裏から走り去ってしまった。
……そのスピードは人間じみたものではなく、獰猛のケモノのソレだった。
「―――弓塚、おまえ―――」
なにが、あったっていうんだ、本当に………!
「ぐ―――!」
強く掴まれた肩が痛む。
振りかえれば。
あれだけ人間の部品が散乱していた路地裏の広場には、赤い血しか残っていない。
顔も。臓物も。手足も。
さっきのシャレコウベのように、灰になって消えてしまった。
「――――――あ」
どくん、と。
血液が逆流しているかのような、吐き気。
「うそ、だ――――」
どくん、と。
今にも射精してしまいそうなぐらいの、興奮。
「こんな、の―――」
いつまでも。
眼球に焼き付いて離れない、血の朱色。
「こんなのは、うそだ――――!」
ぐらりと。
目に映るものすべてが、歪んで見えた。
―――気がつくと、屋敷に帰ってきていた。
動物の帰巣本能というヤツだろうか。
今にも眩暈で倒れそうだって言うのに、ちゃんと自分の家に戻ってこれるなんて思わなかった。
「………く」
吐き気。吐き気がする。
「はっ―――は、あ―――」
なのに心臓はどくどくと脈打っていて、呼吸さえ、難しかった。
「……早く……休まないと、と……」
昔っから貧血で何度も倒れている分、自分がもうすぐ倒れるっていう気配がわかる。
―――休めば。
ベッドで体を休めてしばらくすれば、こんな吐き気も心臓もおさまって、みんな元通りになる。
あんな―――あんな出来事も忘れて、何もなかったみたいに、いつも通りの朝が迎えられる。
「志貴さん? お帰りになられたんですか?」
「あ……琥珀、さん」
西館の廊下から、ひょっこりと琥珀さんが顔を出す。
……そういえば、一階の西館に琥珀さんの部屋があるんだっけ。
「お帰りなさい志貴さん。それで、お知り合いの方にはお会いになれました?」
「あ―――ああ、一応は、会えた」
答えて、思い出してしまった。
散乱した手足。
顔。顔。顔。顔。
血にまみれた路地裏。
両手を真っ赤に染めて、クスクスと笑う弓塚の顔――――
「……ごめん。部屋に戻るから、琥珀さんも、戻ってくれ」
今は誰とも話したくない。
琥珀さんを振り払って、階段を昇っていった。
そのままベッドに倒れこんだ。
「は―――――あ」
胸が大きく上下して、空気を吸いこむ。
「―――――――」
遠くなっていく意識。
眩暈がやってくる。
このまま、たとえ気を失うっていう事でも、今はこのまま眠りたかった。
―――なのに寝つけない。
眩暈はしているっていうのに、いつもみたいに意識が薄れてくれない。
まぶたを閉じると、さっきの路地裏の光景が蘇ってくる。
どくん、と高鳴る心音。
それは恐怖ではなく、むしろ―――性的な興奮に近かった。
「なん、で――――」
それこそ理由はわからない。
もしかすると恐怖と性欲っていうのは、とても近い位置付けなのか。
「え…………?」
こんな夜更けに、誰だろう。
「志貴さま、起きていらっしゃいますか……?」
囁くような声は、翡翠のものだった。
とくん、と。
翡翠の姿を想像しただけで、胸の高鳴りは少しだけ収まってくれた。
「……ああ、起きてるよ。なにか用があるんなら、中に入って」
「―――失礼します」
……なんだろう。
翡翠は盆にコップと薬らしい紙の包みをもって入ってきた。
「……翡翠。どうしたんだよ、こんな時間に」
「はい。志貴さまがお休みになられないようなのでお薬をお持ちしました」
「え………? いや、それはそうなんだけど……よくわかったね、翡翠」
「姉からの言付けです。志貴さまはお疲れのようなので、気を使ってあげなさい、との事でした」
……そうか、琥珀さんか。
さっきロビーで出会った時に、俺の顔色が悪いのをちゃんと見てくれたんだ。
「……で、そのクスリってなに?」
「睡眠導入剤です。志貴さまの主治医から、服用しても問題はないと許可をいただきました」
「許可って……こんな夜遅くに!?」
「いえ、志貴さまがこの屋敷においでになる聞いて、姉が志貴さまの主治医から許可を頂いたそうです」
「はあ―――さすがは琥珀さん。気が利くなんてもんじゃないな」
とにかく、今はありがたい。
翡翠から水を受け取って、薬を飲む。
「ん―――――あ」
ほどなくして、とろんとした眠気がやってくる。
「……ありがと、翡翠。琥珀さんにもお礼を言っておいてくれ」
「かしこまりました。それではおやすみなさいませ、志貴さま」
……翡翠の足音が聞こえる。
体から力が抜けていくような感覚。
「ん―――気持ち、いい―――」
ぼんやりと。
気絶するように、眠りへと落ちていける―――
―――それは夢か。
赤い路地裏。
俺が足を踏み入れる前の、路地裏。
そこで弓塚さつきは殺している。
大通りで適当な通行人に声をかけて、路地裏につれこんで。
容赦なく後ろから首をひねって、ぞうきんみたいに捻じ曲がった首筋に、歯をつきたてる。
一人。
二人。
三人。
四人。
#0000ff
オレをさしおいて そんなコトを よくも
ただ夢中に、貪るように血を吸ったあと、弓塚は四つの死体をバラバラにして、まだ血を舐める。
赤い世界。
けど、不思議と忌まわしいという感覚はない。
#0000ff
へたくそめ へたくそめ へたくそめ
手にはナイフ。
呼吸ははあはあと荒い。
心臓はピストンのように、さっきからオレにそうしろとせかしている。
#0000ff
オレなら もっとうまくやる
はあ、はあ、はあ。
あえぐ吐息。
それは―――自分も弓塚さつきのようにしてみたい、という衝動を抑えているが為に、呼吸が乱れに乱れてしまっているのか。
乱れている。
こんなモノ―――俺は、見たくないから。
#0000ff
なにをためらう
ためらってなんか、ない。
#0000ff
なにをこらえる
こらえてなんか、ない。
#0000ff
耐えることに価値なぞない
誰かの、耳障りな、声。
#0000ff
オレは オレのしたいように 存在したい
その声は、自分の、声だ。
……弓塚は泣いている。
うまく殺せなくて泣いているのか、それとも痛くて泣いているのか、よくわからない。
#0000ff
無様
だと、思えばいいのか。
#0000ff
あの女は 無様だ
……そういう俺は、無様じゃないのか。
#0000ff
ブサマなヤツは 殺せ
……無様なモノは、殺していいのか。
#0000ff
殺せ
………………。
#0000ff
#0000ff
殺せ
…………。
#0000ff
殺せ
……。
#0000ff
殺せ
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせコロセころせコロセころせコロセころせコロセころせコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコ・
セコロセコロセコロせコ
ロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロ
セコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロ・
コロセコロセコロセ
●『3/反転衝動V』
● 3days/October 23(Sat.)
「志貴さま……!」
―――――声がする。
「お気をたしかに。いま飲み物を持ってまいります」
―――――遠ざかっていく気配。
カツカツという足音。
それで、ようやく朝になってくれた事に、気がついた。
「―――――」
目が覚めた。
部屋には誰もいない。
ゼイゼイ、という音が聞こえる。
「……なんだ……この、音」
声をだしてみて、それが自分の呼吸の音だという事に気がついた。
「あ……れ」
見れば、体中が汗まみれだった。
まるで何十キロっていうマラソンの後みたいに、体が疲れきっている。
「くっ………」
頭痛がする。
……ひどい夢を見たせいだ。
血にまみれた弓塚と、それを羨ましそうにずっと眺めていた自分なんていう、どうしようもない悪夢。
「……どうか、してる……」
荒い呼吸のまま呟く。
昨夜の夢はまだ頭にこびりついていて、薄れてくれない。
本当に、酷い悪夢だった。
夢の中の自分はボウ、としていて、自分一人じゃあの悪夢から目覚められなかったと思うぐらいに。
「志貴さま……!」
と。
慌てた様子で、翡翠が部屋にとびこんできた。
「翡翠……? どうしたんだ、ノックもしないで入ってくるなんて」
「あ……お目覚めになられたのですか、志貴さま……?」
「うん、いま起きた。おはよう翡翠。今朝も起こしに来てくれたんだ」
「あ――はい、おはようございます」
申し訳なさそうに挨拶を返して、翡翠はベッドまで近づいてくる。
「お飲み物をお持ちいたしました。ご気分が優れないようでしたらお飲みください」
見れば、翡翠は昨日と同じように銀のトレイに飲み物を用意していた。
「……? いや、別に気分は悪くないからいらないよ。ぐっすり寝たしね、頭もスッキリしてる」
「───ですが」
じっ、と俺を見つめる翡翠。
「先ほどはひどくご気分が優れていないようでした。志貴さま、胸の傷が痛んでいるのではないですか?」
「べつにそんなことはないけど。……まあ、たしかに夢見が悪くてうなされていたかもしれないな。さっきまでひどい夢をみてたから」
……思い出すと眩暈がする。
翡翠はじっと、そんな俺の顔を見つめている。
「……そっか。翡翠が起こしてくれたんだ」
「……はい。申し訳ございません」
「なに言ってるんだ。ありがとう、翡翠。起こしてくれて助かった」
心からの本心でお礼を言う。
翡翠が起こしてくれなかったら、俺はまだあの悪夢の中で立ち尽くしていただろうから。
「それじゃすぐに着替えてから食堂に行くからさ。わざわざ飲み物まで持ってきてくれたのに、ごめんな」
「いえ、いいんです。それでは居間のほうでお待ちしております」
翡翠は静かに退室していく。
正直、ちょっと感動している。
翡翠は無表情な子なんだなって思っていたけど、もしかして感情表現が下手なだけなのかもしれない。
俺がうなされているだけであんなに慌てていたなんて、想像するだけでつい笑ってしまう。
この分なら、翡翠の笑顔を見ることもそう難しい事じゃないかもしれない。
「――――さて、起きるか」
シーツをはいで、体を起こす。
―――瞬間。
ずきり、と激しく体が痛んだ。
「ぐっ………!」
痛みは奥のほうから、どくん、どくん、と鼓動に合わせるように、響いてくる。
「あ───ぐ───」
シーツをつかんで、なんとか痛みに耐える。
「は―――あ」
……おさまった。
突発的な発作だったのか、体に異常はない。
「……胸の……傷」
服の上から胸に触れる。
そこには大きな傷跡があって、完治した今でも、ときおり今みたいに痛むコトがある。
主治医が言うには、精神的な痛みが完治したはずの肉体の痛みを繰り返させる、というコトだ。
たいてい胸の傷が痛む時は、交通事故や生き物の死体を見たあとだ。
血や死のイメージが、八年前の事故を思い起こさせているんだろう。
「……昨夜のせい、か」
赤い路地裏。
そこで普段通りに話しかけてきた弓塚の笑顔。
「ぐ――――!」
胸が、痛む。
弓塚のことが頭から離れない。
けど、どうすればいいのか、どうするべきなのかさえ、俺には考えつかない。
俺に出来る事といえば、遠野志貴の日常をとりあえずこなす事ぐらいだ。
「く―――そ」
自分自身に悪態をついて、ベッドから起きあがる。
寝巻から学生服に着替えて、居間に向かうことにした。
居間には秋葉と翡翠の姿があった。
琥珀さんは厨房のほうで俺の朝食の支度をしてくれているんだろう。
「おはようございます、兄さん」
秋葉はソファーに座ったまま、こっちの顔色をうかがうように挨拶をしてくる。
「……ああ、おはよう秋葉」
挨拶を返して、そのまま食堂に向かう。
時間的に秋葉とのんびり居間で話をする余裕はないし―――俺自身にも、誰かと話をする余裕なんてなかった。
「兄さん、お話があるのですけど―――少し、よろしいですか」
「いいよ、時間がないから手短にな」
秋葉の向かいのソファーに座る。
「それでは率直に聞きますけど、兄さん昨夜はどこにいっていたんですか?」
秋葉はまっすぐな目で問いただしてくる。
……琥珀さんは秘密にしてくれただろうけど、さすがに二時間近く屋敷にいなければ隠し通す事なんかできなかったか。
「……別に。ただ街を歩いていただけだよ。遅くなったのは謝るけど、そう大したことじゃないだろ」
秋葉に嘘をつきたくないから、できるだけ曖昧に返答した。
「街を歩いていただけって、それは大した事でしょう。兄さんはまだ未成年なんですから、夜の街になんかいないでください。そうでなくても、最近は物騒なんですから」
「―――――――あ」
物騒―――夜の街を徘徊する通り魔。
なんで。
なんで、気がつかなかったんだろう。
人を殺して血を抜き取るという殺人鬼。
そのフレーズは、昨日の弓塚にぴったり当てはまってしまうじゃないか――――
「……こんなこと、私が言うまでもないでしょうけど、兄さんの体は無茶がきかないんです。
昨夜みたいに、その……ひどく疲れた顔をして帰ってこられたら、困ります。
何か悩み事があるのでしたら打ち明けてください。大した力にはなれませんけど、私でよかったら…………」
―――考えたくないけど。
弓塚。弓塚が、この街を騒がしている殺人鬼なのかも、しれない。
「兄さん? ちゃんと話を聞いてますか?」
「あ――――いや、うん、聞い、てる」
秋葉の声が聞こえる。
けど、こっちの頭の中はただ、昨日の弓塚の姿が思い出されるだけだった。
秋葉はじっと俺を見つめてくる。
「どうしても事情は話せないっていうんですね、兄さんは」
「ああ。秋葉には、関係ないことだ」
今は弓塚のことしか考えられない。
早く一人になりたくて、そんな言葉を、返していた。
「―――あくまで自分だけの勝手を通す、というのですね、兄さんは」
「………………」
「わかりました。では、どうぞご自由になさってください。兄さんがそうおっしゃるんでしたら、私も自分の勝手を通すだけですから」
秋葉はロビーへと立ち去っていく。
「志貴さま。よろしいのですか、それで」
「……よろしいって、なにが」
「秋葉さまは志貴さまを深く案じているんだと思います。……あの方はご自分のお気持ちを口にする方ではありませんから、志貴さまに伝わりにくいとは思いますが―――」
「ちゃんとわかってるよ。けど、今は頭がいっぱいでダメなんだ。……秋葉には、悪いと思ってる」
「………………」
翡翠はそれきり黙りこんだ。
「志貴さーん、朝ごはんですよー!」
食堂から琥珀さんの声が聞こえてくる。
席を立って、食堂に向かった。
「志貴さま、今日のお帰りは何時になるでしょうか?」
「ああ、今日は土曜日だから……いや、夕方になるかもしれない。ちょっと、探し物があるから」
「かしこまりました。それではどうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
ふかぶかと一礼する。
翡翠に見送られて、屋敷を後にした。
―――学校に来ても、何の意味もなかった。
弓塚さつきは欠席者として扱われて、誰も、彼女のことを案じていないように見えた。
時間はそれこそいつのまにか過ぎてしまっていた。途中、有彦やシエル先輩がやってきたような気がするけど、よく覚えていない。
昼になって学校が終わった。
何のあてもない。
何のあてもないけど、弓塚を捜さないといけない。
日が沈む。
街中を走りまわっても、弓塚さつきの姿は見つけられなかった。
「…………くっ」
悔しくて歯を噛んだ。
……弓塚が見つからないのが悔しいんじゃない。
二日前。
この道で、あんな約束をした自分が、腹だたしい。
―――ピンチの時は助けてね。
そう言ってきた弓塚に、俺は気軽に返答した。
自分に出来ることなら手を貸すよ、と。
……それは、なんて無責任な返答だったんだろう。
俺にできることなんて、本当にちっぽけだ。
痛い、と。
痛くて暗くて寒い、なんて苦しんでいた弓塚の姿を見つけ出すことさえ、できない。
「――――――」
日が沈んでいく。
……認めたくないけど、夜にならないと弓塚は見つけられないのかもしれない。
「……夕方には戻るって、翡翠に言ったんだっけ」
時間が早かったのかもしれない。
いったん屋敷に戻って、冷静に考えてみよう。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
ロビーでは翡翠が待っていた。
「ただいま。……翡翠、秋葉はどうしてる?」
「秋葉さまはお帰りになってらっしゃいません。遅くなるそうですから、夕食は先にとるようにとの事です」
「そうか。……夕食まで部屋で休んでるから、時間になったら食堂に行くよ」
「はい。お呼びしますので、ごゆっくりお休みください」
ふかぶかとお辞儀をする翡翠に背を向けて、自分の部屋へ足を運んだ。
―――夕食が終わって、ベッドに腰をかける。
時計の針は夜の九時にさしかかろうとしている。
この屋敷は八時をすぎてからの外出は禁じられているから、もう外に出る事はできない。
「……………」
だが、そんなものはただのきまりごとだ。
その気になればいくらでも外には出れる。
―――ばいばい。また明日学校でね、遠野くん。
……なにを……考えてるんだろう、と自分でもバカらしく思う。
弓塚がいったいどうなっているのか、俺にはてんでわからない。
アイツが街を騒がしている吸血鬼殺人の犯人だっていう事も、思い知らされてる。
けど、どうしても。
夕暮れの帰り道、弓塚の最後の言葉が、どうしても忘れられないでいる――――
……いつのまにか、時刻は十二時にさしかかっている。
俺はどうするべきかまだ迷ったままで、眠れない夜を過ごしていた。
「……志貴さま、起きていらっしゃいますか……?」
……翡翠の声だ。
どうしたんだろう、こんな夜更けに。
「起きてるけど、どうしたの翡翠?」
「―――はい、何分このような時間なので迷ったのですが、志貴さまが起きていらっしゃるようでしたらお伝えするべきだと思いまして」
「伝えるって、なにを?」
「先ほど、志貴さま宛に電話がかかってきたのです。公園で待っている、との言伝でした」
「電話って……こんな時間に?」
「はい。お名前も言われずにお切りになりましたので、志貴さまに伝えるのはどうかと迷ったのですが―――」
「いや―――それは」
……考えるまでもない。
その電話は、弓塚からのものだろう。
「……ありがとう。でも、今夜は遅いからまた明日にする。その子、学校のクラスメイトだから明日になれば会えるんだ」
「うそです。そんな辛そうな顔をしていらっしゃるのに、笑われては、困ります」
「ばか、うそなんてついてないよ。大丈夫、こんな時間に外出なんてしない。秋葉をまた怒らせるだけだし、翡翠にも迷惑をかけるじゃないか。だから、そんなコトはしないよ」
「…………………」
翡翠は押し黙る。
しばらく、俺たちの間には言葉がなかった。
「……志貴さま。どうか、ご無理はなさらないでください」
「……やだな、べつに無理なんかしてないって。これから寝るんだから、翡翠も部屋に戻っていいよ」
「………………」
翡翠はただ俺を見つめてくるだけだ。
「―――それじゃあ、おやすみ」
それに耐えきれなくなって、強引にドアを閉めた。
「……まいったな。翡翠に隠し事はできないか」
机の引き出しからナイフを取り出す。
……何をするというわけでもないけど、一応用心のために武器を持っていかないと安心できない。
「―――公園か。こんな時間に呼び出すなんて、どうして―――」
呟いて、つまらない寓話を思い出した。
吸血鬼は夜じゃないと活動できない。
それが本当だっていうんなら、弓塚はこんな時間に俺を呼び出したのではなく。
こんな時間じゃないと、俺を呼び出せなかっただけじゃないのか。
「……ごめんな翡翠。自分でもバカだなって思うんだけど、この無理をしないと、どうにも眠れそうにないんだ」
ここにいない翡翠に謝って、静かに、屋敷を後にした。
「はあ―――はあ――――はあ」
走りどおしで熱くなった体を休める。
時間はじき午前零時にさしかかろうとしていた。
大通りから離れた公園。
連日の殺人事件でこのあたりには人影がない。
「………」
どくん、と心臓が高鳴る。
緊張で喉が渇く。
翡翠が受けとった電話が弓塚からのものなら。
彼女は、この奥で俺を待っているハズだ。
夜の公園に人気はない。
物音一つしない月下。
わけもなく、全身の体温が下がった気がした。
「―――――――っ」
首の後ろがしびれる。
体がシン……と冷えきって、指先さえもかじかんでいくような、悪寒。
「はっ……はっ……」
冷めていく体とは正反対に、喉が熱かった。
カラカラに渇いている。
ポケットの中に手をいれる。
ただしきりに―――刃物を、手にしていたかった。
「なん―――だ」
ギリ………。
微かな頭痛。
低くなる体温。
氷のように冷めていく理性。
なにか、ヘンだ。
この公園。このあたりには、よくないモノが、渦巻いている気がする。
「……いまさら何を恐がってるんだ、俺は」
頭痛を振り払って、奥へと足を進ませた。
あたりには誰もいない。
ひどく暗くて、寂しい待ち合わせ場所。
そこに―――誰かが蹲っていた。
はあはあという呼吸。
顔色は真っ青で、苦しそうに喉をかきむしっている姿。
それは間違いなく、弓塚さつきの姿だった。
「弓……塚?」
その姿があんまりにも苦しげだったからだろう。 俺は昨夜のことなんて考えもせず、弓塚へと駆け出した。
「待って―――!」
そんな俺の行動を、弓塚は声だけで止めてしまった。
「……待って、志貴くん。来てくれたのは嬉しいけど、今は近くにこられると困っちゃうんだ。お願いだから、それ以上は近寄らないで」
苦しげな呼吸で。
今にも倒れそうに体を震わせながら、弓塚はそんなことを言ってくる。
「ばか、そんな顔色をしてるヤツを放っておけるわけがないだろ……!」
「ううん、わたしは、大丈夫……志貴くんが来てくれたから、もう元気になっちゃった」
無理やり体をあげて、弓塚は笑顔をうかべる。
「……いったいどうしたんだよ弓塚。どうして家に帰ってないんだ。昨日のアレは一体なんだったんだ。どうして、あんな――――」
「ん? あんな、なに?」
「あんな―――あんなことを、していたんだ……!」
「あんなことって、昨日のことは見たまんまだよ。わたしがあの人たちを殺したって言ったでしょ?」
あっさりと返答する。
……それを否定したいっていう俺の気持ちを、嘲笑うみたいに。
「それじゃあ……街で起きている殺人事件は、弓塚の仕業だっていうのか」
「あんまし答えたくないけど。そういう事になるよ、うん」
「―――そういう事になるって、なんで!?」
「そういう事はそういう事だよ。わたしはあの人たちを殺したし、きっとこれからも同じ事をしていくんだもん。嘘をついたって仕方ないでしょ?」
「弓……塚、おまえ―――」
「その呼び方、やめてくれないかな。わたしだって志貴くんって呼んでるんだから、志貴くんも名前で呼んでくれないと不公平だよ」
「なっ――――」
ごくりと息を飲む。
弓塚はやっぱり以前のままだ。
以前のままの仕草で―――ひどく恐ろしいことを、口にする。
「考えてみると、わたしってばかみたいだよね。
こんなふうに志貴くんって呼ぶこともできないで、何年間もあなたのことを遠くから見てるだけだった」
「え――――弓、塚…………?」
「ずっと志貴くんのことを見てた。あの倉庫で助けられる前から、ずっと志貴くんの事を見てた。
わたし、本当は臆病なんだ。だから周りの人たちに合わせて、無理をして笑ったり話を合わせたりしてたらね、いつのまにかアイドルみたいに扱われちゃった」
「だから、学校はあんまり楽しくなかったんだ。でも中学二年生になったばかりの時にね、志貴くんに話しかけられてから変わったんだよ」
「え―――?」
「ううん、志貴くんは覚えてなんかないよ。なんていうのかな、あなたはいつも自然で、飾らない人だから。たぶんあの時の言葉も、志貴くんにとってなんでもない一言だったんだろうなあ」
「――――――――」
なんていえばいいんだろう。
弓塚の言うとおり、俺は何も覚えていない。
弓塚と何を話したのか、いや、弓塚と話したことがあるなんていうことさえ、覚えてない。
「いいよ、そんな顔しなくても。志貴くんはあの頃から乾くんに付きっきりだったから、他のクラスメイトには興味がなさそうだったし」
「けど、それでも良かったんだ。志貴くんと同じ教室にいるんだって思うだけで、すごく嬉しかった。 いつかあなたにちゃんと話しかけて、弓塚さんって呼ばれることを目標にしてたなんて、今思うとすごく損してたなって笑っちゃうけど」
懐かしむように彼女は言った。
とても昔。……とても遠い昔のことを思い出すように。
「わたし、ずっとあなたのことを見てた。気付いてくれないってわかってたけど、ずっと見てたんだよ」
「――――――」
それは―――正直嬉しいけど。
「ね。志貴くんはわたしのこと、好き?」
今の彼女に、俺はなんて答えてあげればいいんだろう―――?
好き。
「―――正直、俺にはわからない。ただ、きみを放っておけない」
……そう。
弓塚と話をしたのはたった二日前の事だけど、それがずっと脳裏に残って離れない。
なら、それは。
「……俺は弓塚さんのように、昔からきみを知っているってワケじゃないけど――――」
危険だって解っているのに、こんなところまで足を運んでくるほど。
「きみのことが、好きなんだと、思う」
「――――――」
……弓塚は呆然と俺を見ている。
それを、できるだけまっすぐに受け止めて、見つめ返す。
「―――――、だ」
ふるふると首をふって。
今にも泣き出しそうな顔で、彼女は言った。
「―――そんなの、やだよ」
「……弓塚、さん……?」
「だって、そんなの―――わたし、ばか、みたい」
呆然としたまま呟いて、弓塚はうつむいた。
「あ――――」
びくり、と弓塚の体が震えた。
弓塚はハァハァと苦しげに息をはいて、そのまま―――地面に膝をついてしまった。
ごふっ、という音。
地面にしゃがみこんだ弓塚は、大きく咳をして、血の塊を吐き出した。
「―――弓塚!?」
今度こそ弓塚にかけよった。
「弓塚、大丈夫か、弓塚……!」
ぜいぜいと上下する肩に手をやる。
「あ――――」
ゾッとした。
弓塚の体は、服の上からでも分かるぐらい冷たかった。
「ばかっ、こんなに体が冷えきってるじゃないか! なんでこんなんで夜出歩いてるんだよ、おまえは!」
「―――志貴、くん」
虚ろな声で俺の名前を呼んで。
そのまま、弓塚は倒れるように俺にしなだれかかってきた。
はあ、はあ、と。
熱をもった吐息が、肌にかかる。
「弓……塚?」
「志貴くんがわたしのことを好きじゃなくてもいいよ。わたしだって、今までずっと志貴くんのことがわからなかったから」
こふ、と吐き出すような咳をしながら、弓塚は声をあげる。
「いいから、もうしゃべるな……! すぐに病院に連れていってやるから……!」
「でも、今なら解るよ。志貴くんのことも、志貴くんがやりたいことも、本当によくわかるんだ。
だって――――」
「え――――?」
「だってわたしも、志貴くんと同じになれたんだから―――!」
言って、弓塚は俺の首にその歯をつきたてた。
「あ――――――」
意識。意識が、遠のく。
首筋には弓塚の牙がえぐりこんできてる。
「―――――――」
吸われていく。
なにか、体中の全てのものが、液体に変えられて吸い上げられていくよう。
力が入らなければ、何も思いつかない。
これは、意識が遠のいているんじゃなくて。
単純に、意識を破壊されているだけだ。
「―――――――あ」
何も考えつかない。
このままだと死んでしまうって解っているのに、なにも―――・
だっていうのに。
俺の理性の与り知らないところで、どくん、と体中の血液が沸騰した。
「弓塚――――――!」
両腕はただ反射的に、弓塚の体を突き放した。
どすん、と地面に尻餅をつく弓塚。
「なに、を――――」
立ちあがる。
けど、それはできなかった。
体中が疲れきっていて、自分の腕一本さえも満足に動かせない。
弓塚はまるでアルコールを飲んだ後みたいに、ぼう、と座り込んでいる。
「あ――――」
弓塚の顔が、よく見えない。
意識が朦朧として、何もかも霞んでいる。
体の自由もきかない。
あるのはただ、首筋の痛みだけだ。
血がとくとくと流れている。
首筋に穿たれた、弓塚の歯形。
深く食い込まれた二つの穴から、なにか、黒いモノが体の中に注ぎ込まれてきているよう―――
血脈の中。
もう俺ではどうしようもできないところで、黒いモノが全身を犯していく。
ほんの一握りに満たない黒い塊が血管を通っていくたびに、体の中が焼かれていく。
「あ―――ぐ、ううううう!」
背骨、背骨を抜き取られるような、痛み。
「は――――あ、ぐうう……!」
ただ苦しくて、地面をひっかく。
けれどどこにも助けなんかない。
弓塚に体の中身を吸われて動けない上に、体の中に黒い蛇を注入されたような痛み。
動くこともできないで、体の中を這い回る黒いモノに好き勝手犯されていく。
「はっ――――あ、あ――――」
地面をかきむしる。
弓塚は恍惚とした瞳のまま、俺を、見つめて、いる。
「弓……塚……、おまえ、なにを………!」
「だいじょうぶ、痛いのは最初だけだから我慢して。初めは苦しいけど、血が混ざってくれればすぐに落ちつくよ」
「安心して、志貴くんを殺すようなことはしないわ。ちゃんとわたしの血を流し込んでおいたから、昨日の出来そこないみたいに崩れる事もないし、わたしの事だけを見てくれるようになるよ」
弓塚は嬉しそうに囁いてくる。
「なに―――言ってる、んだ、ゆみづ、か――」
「なにって、志貴くんもわたしと同じになるっていうことだよ。普通の食べ物のかわりに人間の血を吸って、太陽の下は歩けないから夜出歩くしかなくなる、違った生き物になるの」
……なんだ、それ。
ばかげてる、それじゃあまるで―――
「うん、吸血鬼みたいだよね。わたしもどうして自分がこんなになっちゃったか解らなかった。
二日前の夜、志貴くんが夜の繁華街で歩いているっていう噂を確かめにいって、気がついたら路地裏で倒れてて。
その時はただ、暗くて、寒くて、体中が痛いって思うだけだった」
「けど不思議なことにね、時間がたって、体が変わりきると色々なことが分かるようになってた。
わたしの体が痛いのはすごい勢いで崩れていっているからで、太陽の光をあびるとそれが早まっちゃうとか、体の崩壊を止めるには同じ生き物の遺伝情報っていうのが必要なんだとか」
「うん、理屈はよく解らなかったけど、とにかく何をしなくちゃいけないかは簡単だったんだよ。
わたしは寒かったし、一人で寂しかった。あのまま消えちゃうのなんてイヤだったから、とりあえず適当な人の血を吸ったんだ。
そうしたらね、それがすごく美味しいの! 体のの痛みも薄れて、もうなんだって出来る気がしたんだから」
「けど、あんまりにも美味しかったから、気がついたらその人の血を残らず吸っちゃてた。
その人ね、干からびてミイラみたいになっちゃて、すごく後悔したわ。わたし、体だけじゃなくて心まで怪物みたいになっちゃったのかなって。
―――でも、生きていくためにはそうしないといけなかった。
言ったでしょ、わたしは憎くて人を殺してるんじゃないわ。わたしが人から血を吸うのは志貴くんたちが他の動物を食べてるのと同じ理由よ。だから、人を殺すっていう事をあんまり深く考えないようにしたんだ」
「ば―――――」
なんだ、それは。
生きるために必要だから人間を殺してもいいっていうのか。
そんなこと、俺は―――
「でもね、これでわたしも一人前の吸血鬼になれたみたい。
今夜の食事はわりと楽しかった。今まではただ寒くて痛いから血を吸っていたけど、段々とコツがわかってきて面白くなってきたんだ。
志貴くんならわかるでしょう? あなたはわたしなんかより、もっと上質な人殺しなんだもん」
「な――――」
なに、を。
なにを言っているんだ、弓塚、は。
「わたしはずっとあなたを見てきた。だからあなたの優しいところも、恐いところもちゃんと分かってた。
わたしがあなたに話しかけられなかったのはね、志貴くんの恐いところがなんなのか解らなかったからなんだ」
「でも今なら解る。あなたはわたしと同じだもん。
憎いとか好きだとかいう感情とは関係なく、誰かを殺したいって思うんでしょう?」
「ふざ―――ける、な」
そんなこと、俺は今まで一度だって思ったことはない。
「ふざけてなんかないっ! わたし、志貴くんがもってる脆い空気がなんなのか解らなかった。けど、こんな体になって理解できたんだよ。
志貴くんはね、ただそこにいるだけで死を連想させる。
世の中には稀に生まれついての殺人鬼がいるけど、その中でもあなたは生粋の殺人鬼だわ」
「わたしね、昨日は嬉しかった。こんな体になって、初めてよかったなって思えた。
だって今まで解らなかった志貴くんを、ようやく理解できたんだもの。
ね、志貴くんだって同じでしょう? 誰かを見て、理由もなく心臓がどくんどくんって高鳴って、喉がカラカラに渇いたりするでしょう?」
「うそ――だ、そんなコト―――一度、だって」
「―――――」
一度、だって………ないとは、言え、ない。
「ほら。それが感情に左右されない、純粋な殺人衝動だよ。わたしが理解したくてずっと理解できなかった志貴くんの脆いところ」
「それともう一つ言い忘れてた。吸血鬼はね、血を吸った人間を吸血鬼にするっていうでしょ? あれはね、ほんとのことなんだよ。
正確にいうとね、血を吸っただけじゃその人間は死んじゃうだけなんだ。吸血鬼は血を吸う時にね、自分の血を相手の体に流し込むことで吸血鬼の分身にしてしまうの。
さっきまで志貴くんの体の中にあったのはね、わたしの血液」
立ちあがって、満足そうに、弓塚は言った。
「……そう。コレ、弓塚さんの、血、なん、だ」
……未だ体の中で毒を放ち続ける、黒いモノ。
こんな一口分にも満たない量で、狂いそうな寸前まで苦しいなんて、信じられない。
「さあ、もういいころだよね。立って、志貴くん」
……弓塚の命令が聞こえる。
痛みが薄れる。
手足の自由が戻って、俺はようやく立ちあがれた。
「―――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」
「………………」
「さあ、こっちに来て。わたしの傍にきて、わたしの手を握って、わたしを安心させて」
手を差し伸べてくる。
――――どくん。
心臓が一際高く鳴って、足が勝手に動き出す。
ただし、前ではなく後ろに動いた。
「志貴……くん?」
困惑する弓塚の声。
――――どくん。
心臓が高鳴る。
喉がはあはあと渇いていく。
神経という神経が、目の前のモノを敵と認識していってしまう。
「はあ……はあ……はあ」
その感情。
体の中でいまだ融けずに残っている弓塚の血の毒と、体中から沸きあがってくる衝動を、必死に堪えた。
「どうしたの……? ねえ、どうしてわたしの言うことをきいてくれないの……?」
どくん、と心臓が脈打つ。
それはついさっき弓塚本人が言っていた衝動というヤツなのか。
どくん、どくんと脈打つ鼓動は。
ころせ、ころせ、と自分自身に命令するように、繰り返されている。
「志貴くん、あなた―――」
「正気に戻るんだ、弓塚」
はあはあと苦しい呼吸のまま、弓塚を見据える。
「どうして―――!? どうしてわたしの血が効かないの……!?」
「……さあ。わからないけど、ほんの少しだけ、体の中に、泥が入っているような気がする」
それが弓塚の、吸血鬼の血。
こんな――たった一口分ぐらいの水だけの量で、これだけ吐き気がするというのなら。
全身がこんな血になってしまった弓塚は、どれほど苦しいのか想像もつかない。
……痛い、と。
弓塚が何度も繰り返して言っている言葉の意味が、ようやく理解できた。
「……やめよう、弓塚さん。こんなことしても何もならない。弓塚さんは、病気なんだ。だから早く病院にいって、元の体に戻らないと」
……自分のことを好きだといってくれた子を、これ以上苦しめたくない。
だっていうのに、彼女は憎しみのこもった目で俺を睨んだ。
「―――わたしの血は確かに志貴くんの血に混ざってる。それなら、あなたはもうわたしの体の一部のはずなのに……! まさか、わたしより前に誰かの支配を受けてたの……!?」
「……だから、俺にはてんでわからないんだ、弓塚。
俺にわかるのは、ただ―――暗くて寒くて独りきりだって、辛そうに言ったきみの姿だけだ。
二日前の帰り道、笑顔でピンチの時は助けてほしいって言ってた笑顔が、思い出されるだけなんだ」
……吸血鬼というものがどのようなものなのか、正直よくわからない。
それでも、生きるために人間を殺して血を吸って、それでも痛くて痛くて泣いてしまいそうだというのなら、なんとかして元に戻してあげなくっちゃ、ダメだ。
「……弓塚。きみは、苦しいって言ってた」
「そうだよ。わたし、こうしている時も苦しいんだ。まだ血管が人間の時のままだから、血が流れるだけで苦しいの。細くて弱くて、すぐに破裂しちゃう。
でもね、もっと多くの人たちの血を吸っていけば、すぐに血管も丈夫になるから平気だよ」
「……痛いって、言ってた」
「ええ、ココロが痛いわ。生きるためとはいえ、みんなの血を奪わなくちゃいけないんだもん。罪の意識とかじゃなくて、純粋にね、今までわたしだったわたしが薄れていくのが痛くて恐いんだ。けど、それも独りじゃなくなれば恐くなくなるよ」
「……寒いって、言ってた」
「うん。寒くて寒くて、指先が壊死してしまいそう。けど、それは別に辛くはないよ。ただ暖かいって感じなくなっただけだから」
「必死に―――助けてって、言ってた」
「助けてはほしいけど、もうダメだよ。わたしはもとのさつきには戻れっこないんだから」
弓塚はあの時とまったく同じ笑顔で告げる。
「どうして―――どうして、こんな、ことに」
「そんなの、わたしのほうこそ聞きたいわ。気がついたらこんな体になってて、人の血を飲まないと生けていけなくなってたんだよ? 目が覚めたら死んでたほうがずっとずっと楽だったのに」
「でも、こうなったからには仕方がないよね。みんなが当然のように他の動物を食べるように、わたしもみんなを食べるしかないんだもん」
「なっ―――なんだよそれ………! そんなのはどうかしてる……! そんなの―――どうして、弓塚が、そんな事に―――」
認められなくて、ただ声をあげた。
「――――――――――」
弓塚は無言で、ふるふると首をふる。
「どうして……! 昔みたいに、普通に笑って、普通に歩いて、普通に話したりする事が、もうできないっていうのか。たった―――たった二日前の話なのに……!」
「……そうだよね。たった二日前まで、わたしも志貴くん側の生き物だったなんて、夢みたい。失ってみて初めてわかった。―――うん、ホントに夢みたいな時間だったなあ。もし戻れるのなら、わたしはどんな代償を払っても戻りたい」
「なら―――」
「でも無理だよ。わたしは元に戻れない。ずっと、この寒くて痛くて、独りっきりのままで生きていくしかない」
弓塚はうつむく。
がくがくと震えていく、冷たい体。
「―――助けて、志貴くん」
喉から搾り出すような、小さな声。
「恐いの。すごく寒くて、どこにいってもわたしは独りきりで、すごく不安なの。お願いだから、わたしを助けて」
……わかってる。
二日前の帰り道にした、なんでもない約束を、覚えている。
「―――ああ。俺に出来る事なら、何でもするよ」
……本当に。
それで、きみがもとの弓塚さつきに戻れるっていうのなら、俺は何だってしてみせる。
けれど。
彼女の返答は、俺のそれとは、大きく違っていた。
「……あは。志貴くんったら、この後におよんでまだわたしを元に戻したいって思ってるんだ。
……ほんと、うっとりするほど優しいんだね。人殺しが大好きなクセに、それ以外ではすごく優しいなんて、すごい矛盾」
クス、と楽しそうに笑う弓塚。
「無理だって言ってるのに。志貴くんのやり方じゃ、わたしを助けるなんて事はできないよ」
「なっ―――じゃあ、じゃあどうすればいいんだ……! 俺は何もできない。弓塚を助けたくても助けてやれなくて、どうしていいか解らない――!」
「そんなことないよ。志貴くんならわたしを助けてくれるもん」
言って、弓塚は歩いてくる。
―――どくん、と。
背筋が、危機感で凍った気がした。
「――俺が弓塚を助けられるって、どうやって」
「簡単だよ。志貴くんが、わたしの仲間になってくれればいいんだから……!!」
「っ――――!」
赤い眼光に見据えられて、息ができなくなった。
―――まずい。
はっきりとそう分かるのに、両足はまったく動いてくれない。
「仲間って、なにを―――」
「そうすればわたしは独りじゃなくなって、寒い思いも恐い思いもしなくなるわ。
ううん、志貴くんさえわたしのモノになってくれれば、人間だった時よりわたしはずっとずっと幸せになれるんだから―――!」
―――ドクン。
心臓が一段高く鳴動する。
弓塚はまっすぐに、迷いなく俺の首を掴まえようと腕を伸ばしてくる。
その速度は、それこそ弾丸のようだ。
なのにそれがはっきりと見えている―――ような錯覚がして、咄嗟に地面にしゃがみこんだ。
quakey 2,50
「――――ぐっ………!」
必死に首をひねって地面にしゃがみこむ。
ゴウン、と。
風切り音をともなって、弓塚の腕が頭の上を通りすぎていく。
「は―――――あ」
「―――――うそ」
襲ったモノと、躱した者。
俺たちはお互いを驚愕の瞳で見ている。
「弓塚、おまえ―――」
「志貴――――くん?」
呆然と弓塚が俺を見下ろしてくる。
俺は―――逃げなくっちゃって分かっているのに、全身が固まったままだった。
どくん。
心音は、鐘のように。
片手は麻痺している俺の理性とは関係なく、ポケットの中のモノを掴んでいく。
弓塚は動かない。
ただその目だけが、驚きから喜びへと変化していく。
「……そうなんだ。志貴くんを手に入れるのは簡単に済むと思ってたけど、これなら―――」
どくん。
「――今夜は、わりと楽しめそうだよね、志貴くん?」
血に飢えた赤い眼光。
容赦なく伸びてくる、獣のような腕。
全身の毛が逆立つ。
このまま引き裂かれてしまう前に。
俺の手は独りでにポケットのナイフを取り出していた。
どくん。
「―――――え?」
自分の声より、自分の腕の動きのほうが早い。
ナイフはざとりと音をたてて、弓塚のむき出しの太ももを縦に削り取った。
「きゃあああああああ!」
甲高い弓塚の悲鳴。
―――呆然と自分の腕を見る。
そこには、たった今彼女の片足を裂いた、血に染まったナイフがある。
「……………あ」
正気が戻る。
体が動く。
―――気がつけば。
俺は震えながら、弓塚から逃げ出していた。
「はあ、はあ、はあ、はあ―――!」
ただ走った。
「なん、で―――なんで、俺は―――」
わからない。
どうして弓塚を刺してしまったのか、自分のことだっていうのにまったく理解できない。
どくん、と心臓が高鳴って。
気がつけば、ナイフで弓塚の足を裂いていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ―――!」
ただ、ナイフには弓塚の血がこびりついて。
この腕には、弓塚の肉を裂いた感触が残っている。
「なんで―――――」
本当に、なんでこんな事になったんだろう。
俺はただ―――弓塚さつきを、助けようと思っただけなのに。
「ぐっ―――」
なのに、弓塚の顔を思い出すと心臓がどくん、とはねあがる。
恐怖と興奮。
弓塚は俺を殺そうとしている。
心臓はドクドクとその危険に呼応している。
俺では。遠野志貴では、あの生き物には太刀打ちできない。
例えるのなら果実と人間だ。食べられる側のモノが、食べる側にどうやって逆らえっていうのか。
アレは、すでにそういったモノ。
遠野志貴がトマトを口にするのに何の苦労もしないように、弓塚さつきにとって俺はトマトとなんら変わらない。
遭えば。
捕まってしまえば、あとは当然のように殺されるだけ。
だから逃げている。
逃げて、自分がまだ生きているんだと、吐きそうなぐらい実感していた。
ただ、夜を走る。
とにかく今は走っている。
――――――何のために?
そんなのは決まっている。
そうしなければ捕まってしまう。
弓塚さつきが、自分を追いかけてきている気配を感じている。
さっきまでは針の先ほどの気配が、あっというまに背中全部をのっぺりと覆うほどに大きくなってきている。
「はあ、はあ、はあ――――!」
逃げるために走ってる。
けど、誰から逃げようっていうんだろう。
……あれは、きれいな笑顔だった。
中学時代の思い出話を語った弓塚さつきの笑顔は、本当に、優しかった。
「く………そ………!」
こんなコトって、こんなコトってあるか……!
弓塚は人を殺して、人の血を吸う化け物になってしまっ――――
quakey 1,50
「――――!?」
突然、背中に何かが当たって、そのまま地面に倒れこんだ。
「あ―――ぐっ―――ぅぅ………!!」
走ったまま転んだものだから、体中が擦り傷だらけになる。
だが、今はそれ以上に背中が痛い。
背中に受けた鈍器のような衝撃で、満足に呼吸ができない。
「なん―――」
だ、といいかけて、言葉を失った。
地面に倒れ込んだ自分の真横に。
たった今、自分にぶつかってきたものが転がっている。
「にん……げん」
それは、腕や足をいびつに曲げた、見知らぬ男だった。
「――――――あ」
男の体から、血が流れてくる。
アスファルトごしに赤い血が流れてきて、こっちの体を真っ赤にそめる。
それは。
首のない、人間の体だった。
「あーあ、当てるつもりはなかったんだけどなあ。運動神経が上がったのはいいけど、狙いが正確になりすぎちゃうのってのも困りものだよね」
背後から楽しげな声が聞こえてくる。
「あ―――」
倒れたまま後ろを向く。
そこには。
生首を片手にもった、弓塚さつきが歩いてきていた。
「ごめんなさい志貴くん、痛かったでしょう? ほんとは志貴くんが走ってく先に投げつけて、ちょっとビックリしてもらおうって思っただけなんだよ」
弓塚はごめんねと舌を出すと、ぽい、と生首を後ろに投げ捨てた。
「弓塚、今の、は―――」
「うん? ああ、ソレのこと? 志貴くんを追っかけてる時にぶつかっちゃったんだ。
なんだかんだってうるさいから、口と体を引き千切ったの。ペロッて血も舐めてみたけど、お酒で肝臓がやられてる男の人の血ってすごくまずいんだ。志貴くんも相手を選ぶ時は若くて健康な体にしなくちゃダメだからね」
愉しそうにそう言って、彼女は笑顔で近づいてくる。
そこに、あの時の笑顔の面影なんか、なかった。
ばいばい、と。
手をふって別れていった彼女の面影なんて、どこにもなかった。
「人を殺して―――なんとも思わないのか、弓塚」
「思わないよ。話をする人間と食用の人間は別物だもん。志貴くんだって、友達用の人間と殺し用の人間は別なんでしょ?」
「そりゃあわたしだって、初めはそんなふうにわりきれなかった。昨日の夜だって、自分自身がすごく嫌いだったんだから。
でも、体中が痛くて、痛みを和らげるためには血を飲むしかなかった。だからたくさんの人を殺したわ。一人殺すたびに、カラダの痛みが和らぐかわりにココロが痛かった」
ぴたりと立ち止まって。
弓塚さつきは、ほんの一瞬だけ、悲しそうに目を伏せた。
「でも、だんだんと分かってきたんだ。今はまだチクンって痛むけど、そのうちそれもなくなっていくはずだよ。だって―――人を殺すっていう罪悪感より、命を奪うっていう優越感のほうが、何倍も気持ちいいんだから。
言ったでしょ? すぐに志貴くんと同じになるからって。安心して。わたし、志貴くんみたいに人殺しが楽しめるような、立派な吸血鬼になるから」
笑顔で弓塚は近寄ってくる。
「―――――うそ、だ」
口にして、それさえも、嘘だと悟った。
自分さえ騙せない不出来な嘘を、どうして口になんかするんだろう。
――――ダメだ。
彼女は、ダメだ。
弓塚さつきはもう救えない。
俺に残されていた理性までも、その絶望的な結論に負けて、しまった。
「――――――――」
ナイフを握り締めたまま、立ちあがった。
どのみち彼女は俺の血を吸うつもりだ。そうすればこの命はなくなってしまうだろうし、俺は吸血鬼の仲間入りをするつもりはない。
なら。
初めから、やるべき事は決まっていた。
「――――弓塚。俺は、おまえを助けられない」
「そんなことないよ。志貴くんが大人しくしてくれれば、それでわたしも志貴くんも幸せになれるんだって」
「――――――」
違う。その幸せは歪んでいるんだ、弓塚。
「けどな、それでも約束したから。―――俺は別の方法で、おまえを助けてやらなくちゃ」
言って、メガネを外した。
ずきん、と頭痛が走る。
俺は、本当にはじめて。
人を殺すために、この視界を受け入れた。
「――――そう。やる気なんだ、志貴くんってば。でもだめだよ。おいかけっこはもうおしまい」
「―――――!?」
「がっ――――!」
―――なに、なにが、起きたんだろ、う。
一瞬だけ弓塚の姿が消えて、気がついたら真横に弓塚の顔が見えて―――そのまま、横腹を殴られた、のか。
「はっ―――あ、ぐ…………!」
……背中が痛い。
あの、なんでもない一撃で建物の壁まで吹き飛ばされた、のか。
「く――――――!」
強くナイフを握ってなんとか立ち上がる。
「あれ、まだ動けるんだ。志貴くんってわりと頑丈なんだね。いつも貧血をおこしてるから、病弱なのかなって思ってた」
弓塚の声が近づいてくる。
「はあ―――はあ、はあ」
呼吸―――呼吸が、荒い。
なんてコトだろう。
俺は、とんでもない勘違いをしていた。
「だめだよ、そんなナイフなんかに頼っちゃ。志貴くんの動きなんて止まって見えるんだから、てっぽうを持っててもわたしには敵わないのにね」
クスクスと、愉しげに笑う声。
「――――はあ――――あ」
それが、勘違いだ。
俺はモノの壊れやすい線が見えるけど、ただそれだけの人間なんだ。
今の弓塚みたいに、俺の何倍も速く動く動物が相手なら、その線に触れる事さえままならない。
「く―――」
ようするに。
彼女の前じゃ、こんな線が見えたとしても意味なんかないんだ。
「―――もう。仕方ないな、少し荒っぽくするからね。だいじょうぶ、頭と心臓だけ生きてれば、あとはなんとかできるから……!」
「く――――」
ドン、という衝撃がして、目の前が真っ暗になった。
弓塚の手が、俺の腕を握って。
そのまま、引きずるように放り投げたらしい。
それこそサッカーボールみたいに放り投げられて、背中から地面に落下した。
「あ―――ぐ――――!」
―――見えない。
全身が痛すぎて、何も、見えない。
「ほら、そんなところで寝てるとタイヘンだよ、志貴くん……!」
「――――!」
とっさに横に転がる。
さっきまで自分がいたらしい地面を、弓塚の腕が叩いたのか。
びきっ、なんてシャレにならない亀裂音まで聞こえてくる。
「はっ―――く………!」
しびれている体を無理やりに動かす。
視界はまだ真っ暗のまま。
感じられるのは弓塚の気配だけ。
「………こ…………の」
立ちあがって、弓塚の気配がするほうに、ナイフを構える。
「もう、無駄だって言ってるのに、どうしておとなしくしてくれないのかな、志貴くんは!」
弓塚の気配が迫る。
どくん、という自分の心音。
なまじ目が見えないおかげなのか、今度は弓塚の腕をすり抜けられた。
「―――――うそ」
呆然とした、弓塚の声。
きっと、弓塚はいま背中を見せている。
けど目が見えない俺にはどうするコトもできない。
そこへ―――ぞわり、とよけい強くなった殺気が走ってくる。
「このぉ―――おとなしくしてって言ってるのに!」
弓塚の声。迫ってくる死。
それに合わせて、闇雲にナイフをふるった。
「きゃあ―――!」
びしゃり、という音。
いま、たしかに弓塚の腕を切った。
「しまっ―――弓塚、大丈夫か……!?」
思わず口にして、自分の甘さにほとほと愛想がつきた。
なんだって俺は、自分を殺そうとしている相手にそんな心配をして―――・
「―――――あ」
体が、浮いた。
正面から何かに殴りつけられて、弾き飛ばされる。
「あ―――――」
視界が、戻った。
今の一撃があんまりにも強力だったおかげだろうか。
「……路地……裏」
どうも、さっきの一撃で路地裏の壁まで弾き飛ばされたみたいだ。
背中には硬い壁の感触がある。
「―――あ」
意識が遠のく。
なのに、弓塚は容赦なくやってくる。
「うそつき―――!」
恨みのこもった声をあげて、俺めがけて手を振り上げる。
「……………」
動けない。
動けないから、もう、殺されるしかなかった。
「…………………え?」
壁がゆれる。
弓塚の腕は、俺のすぐ横の壁を、ただ乱暴に叩いただけだった。
「うそつき―――! 助けてくれるって、わたしがピンチの時は助けてくれるって言ったのに!」
また、見当違いのところを彼女は壊している。
「どうして? わたしがこんなになっちゃったからダメなの? けど、そんなのしょうがないよ……! わたしだって、すきでこんな体になったんじゃないんだから……!」
どん、どん。
駄々をこねる子供みたいに、ただ、彼女は叫んでいる。
「……こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、どうして志貴くんはわたしを助けてくれないの!? 助けてくれるって約束したのに、どうして――」
どん、どん。
出口のない苦悶の声。
いつ自分の体を串刺しにされてもおかしくないこの状況で。
どうしてだろう、これから殺されるという恐怖は薄れていた。
「志貴くん―――志貴くんがわたしの傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに。どうして、どうしてあなたまでわたしの事を受け入れてくれないの……!」
……なんて、愚かさ。
繰り返される言葉は、俺に対する恨み言なんかじゃない。
弓塚さつきは、ずっと、どうしようもなくて泣いているだけだったって、いうのに――――
―――弓塚の声が聞こえなくなった。
もう指先ぐらいしか動かなくなった体で、彼女の姿を見つめる。
……どうしたんだろう。
弓塚は、ピクリとも動かなくなった俺を見て、呆然と立ち尽くしている。
……まるで。
悪い夢から覚めて、自分のしたことを、後悔する、ように。
「―――志貴くん、わたし……こんな、つもり、じゃ―――」
弓塚の声は震えている。
……冷静になってくれたらしいけど、それでもやっぱり、彼女の声は泣きそうだった。
「………いい………んだ」
―――そんなに、自分を責める必要なんて、ない。
たとえ、身も心も吸血鬼なんていうモノになってしまったとしても。
彼女はやっぱり、どうしようもないぐらい、可哀相な被害者なんだ。
どのみち、もう俺の体は動かない。
弓塚、キミがそんなに一人で、痛くて、寒いっていうんなら。
俺に出来ることは、もう一つしか残っていない。
「……いいよ、弓塚さん」
「志貴……くん?」
「俺の血でよければ吸っていいよ。
約束だもんな……キミと一緒に、いってやる」
それは、自分でもわからないぐらい、優しい声だったと思う。
彼女はためらった後、静かに俺の膝元に跪いて、俺の体をだきあげた。
「――――ほんとに、いいの?」
囁くような声には戸惑いと喜びが混ざっている。
「……なんだよ。今までそうしたくて散々追い回したんだろ。なんでここで遠慮するのかな、弓塚さんは」
「だって―――――わたし、本当にそうしたいけど、でも―――」
―――それをしたら、もう、本当にダメになってしまいそうで――・
そう、彼女の唇が声にならない言葉を紡ぐ。
「…………」
……なんて皮肉だろう。
たしかに彼女は吸血鬼になってしまっている。けど、それでも一番大切な部分で、人間のココロを残しているんだ。
だからこそ、そのココロが弓塚さつきに吸血鬼である自分を“痛い”と感じさせている。
人間であること。
そうであるかぎり、彼女は、ずっと痛いままなんだ。
「―――痛いんだろ。なら、いいよ。俺はキミを助けられない。だから、弓塚さんの言う方法で助けるしかないじゃないか」
「………志貴………くん」
コクン、とうなずいて。
彼女は、俺の首筋に唇を当てた。
「あ―――――」
消えていく。
体に残った微かな熱が、急速に力を失っていく。
静かな。
とても静かな、死。
今さら彼女を引き離す力もない。
この目に見えている『線』も、じき、消えてくれるだろう。
―――これで終わり。
じき遠野志貴は消えて、それで何もかもが終わりになる。
「―――――――ぁ」
終わり……終わって、いいん、だろう、か。
……戻って、きますよね……?
そんなセリフを、秋葉は言った。
八年間も放っておいた自分の妹。
何一つ、兄貴らしいことなんてしてやれなかった、黒髪の少女。
―――ずっと、
あの広い屋敷で一人きりだった遠野秋葉。
「―――――――」
さっき、俺は死が救いになる事がある、と弓塚にナイフを向けた。
そうして今も、死が救いになるのならとこの命を投げ出している。
けど、それは。
はたして、誰にとっての救いになるんだろうか。
少なくとも遠野志貴という自分にとって、一番大切な人に対する救いには、決してなっていない気がする―――
「あき―――は」
……死ねない。
間違っても、今は死ねない。
「弓、塚―――」
ナイフが動く。
……彼女の胸にある『線』。
自分を信じきって、最後の救いにすがっている彼女の心臓にある線。
……そこに、ナイフは深々と突き刺さった。
「―――志貴、くん?」
さつきの唇が離れる。
その力が急速にゼロになっていく。
「―――ごめん。俺は、弓塚を助けられない」
こんな方法でしか、助けられられない。
その痛みから逃れる事ができないのなら。
せめて―――最期ぐらいは、痛みもなく逝けるようにするしか、できない。
「そっか――――やっぱり一緒には行ってくれないんだね、遠野くん」
彼女の声は、ひどく穏やかだ。
まるで、二日前の夕暮れの帰り道のように。
「でも、うれしかったよ。ほんの少しの間だったけど、遠野くんは、わたしを選んでくれたんだもん。 ……うん、これならこのまま死んじゃっても悪くないかな。
あれだけいっぱいあった痛みもないし、こわい気持ちも魔法みたいに消えちゃったし―――」
ざら、とした感触が足にあたる。
見れば。
弓塚の両足は、もう膝までが灰になってしまっていた。
「―――それに、今は少しだけあったかいや。
えへへ、これって遠野くんの体温かな」
嬉しそうに弓塚は言った。
―――――俺は本当に。
後悔で、死にたくなった。
―――覚悟してた。
この裏切りをした時、どんな恨み言を言われてもいいと、覚悟していたのに。
―――どうして。
どうしてそんな、穏やかな声で、嬉しそうな声で。
俺を責めることさえ、しないんだ。
「―――ごめん。俺は―――無力で、最低だ」
瞳が熱い。
脳の奥が、ぼやけて視界がぼやけてしまってる。
「あは。遠野くんったら泣いてるんだ。
……優しいなあ。わたし、ひどいこといっぱいしたのに、それでも泣いてくれるんだね。
……うん、そんなトコ、誰よりも好きだった。
中学校からずっと遠野くんだけを見てたから―――そんな誰も知らないことだって、わたしはお見通しだったんだから」
誇らしげな声と、ざらざらという感触。
彼女の体は、もう上半身しか存在していない。
「……わたし、もっと遠野くんと話したかった。ほんとうに普通に、なんでもないクラスメイトみたいに話したかった。だから、いま死んじゃうのはホントにイヤだよ」
「――――――」
何も言えない。
俺には、彼女に語りかけられる言葉がない。
―――彼女は、最後にコン、と自分の額を、俺の額にあてた。
「でも、きっとこれが一番いい方法だったんだよね。
―――だから、泣かないで遠野くん。あなたは正しい事をしてくれたんだから」
ナイフの感触が軽い。
さつきの体には、もう、心臓がなかった。
「あ、もう声を出す事ができなさそう。
それじゃあ、わたしは家がこっちだから。そろそろお別れだね」
「弓――塚………っ!」
「うん、ばいばい遠野くん。ありがとう―――それと、ごめんね」
ざ。
一握りの灰が風に飛ばされて霧散するように。
弓塚さつきは、この目の前から、完全に消滅した。
……弓塚の姿は、まるで幻だったみたいに、あっさりと消えてしまった。
「――――――」
眩暈だけが、残った。
俺は、彼女を殺した。
救いたかったのに―――最後は彼女の言うとおりの救いをしようと思ったのに―――結局は、自分の身かわいさに、殺して、しまった。
「あ――――あ」
それでも。
それでも、彼女が散り際に嘘吐きとでも言ってくれればよかった。
そうしてくれれば、俺は本当に悪いやつになりきれたのに、どうして―――
ありがとう。ごめんなさい。
感謝されるいわれはない。謝られる理由もない。
「俺が――キミを、殺したのに」
……それでも、ありがとうと、言ってくれた。
だからこそ。
本当に、彼女を、救ってあげたかったのに。
「―――――」
しびれた体が、かってに立ちあがる。
今は、何も考えられない。
心と体は別物なのか。
ざっ、ざっ、と無様に体を引きずって、路地裏を後にした――――
ぎい、と音をたてて扉が開く。
傷だらけの体をひきずって、ようやく屋敷に帰ってきた。
「――――――あ」
ロビーには秋葉がいた。
あれからずっとここで待っていたんだろうか。
……今の自分には、もう、何もわからない。
「兄さん、今まで何をしていたんですか。いったい今何時だと―――」
「に、兄さん、その体―――」
……秋葉が驚いている。
どうして。
何に驚いているのかさえ、もう、考えたくない。
「兄さん、しっかりしてください……! いったいどうしたんですか、そんな傷だらけで、そんな……ひどい、目をして」
「……………………」
何も答えない。いや、答えられない。
秋葉が何を言っているのかも、わからない。
「――――――」
秋葉は無言で息を飲むと、つかつかとこちらに近づいてきた。
「とにかく手当てをしないと。兄さん、歩けますか?」
「………………」
ああ。生きているんだから、歩くことぐらいはできる。
「手当てをしますから居間に来てください。あ、それとお風呂――は無理ですから、お湯で体を拭かないといけませんね」
秋葉はパタパタと足音をたてて消えていった。
―――秋葉は一人で俺の怪我の手当てをしてくれた。
汚れた体もタオルで拭いて、食べ物まで作ってくれたあげく、部屋まで連れてきてくれた。
その間、俺は一言も、口にすることなんか、できなかった。
「……それでは、私は戻ります。兄さんも今夜はゆっくり眠ってください」
何も聞かず。
秋葉は最後まで何も聞かず、静かに立ち去っていこうとする。
消えていく。
俺が、殺してしまった、彼女の、ように。
――――そう思った瞬間、秋葉の腕を掴んでしまった。
「兄さん――!?」
そのまま秋葉を抱きしめる。
……強く。
ただ独りになるのが耐えられず、誰かの体温を感じたかった。
「あき―――は」
無心で抱きしめる。
……秋葉は何も言わない。
すぐに引き離してくるはずなのに、震えている俺の体を拒絶しない。
このまま―――ただ、こうしているだけで、よかったのに。
「俺は、最低だ」
そう、告白して。
自分の罪から、秋葉に逃げた。
「……助けたかった……助けたかったのに、助けてやる事が、できなかった」
ぐっ、と救いを求めるように秋葉を抱きしめる。
秋葉からの答えはない。
まるで俺の弱さを嫌うように、秋葉は俺から体を離した。
「……兄さん。貴方に何があったかは知りません。きっと、私が聞くべき事でもないと思います」
「――――」
「私には何も答えてあげることはできません。兄さんの問題は兄さんが解決すべきことです。
ですから―――こんなことで、私に甘えないでください」
……秋葉の言葉は、本当に、その通りだ。
その叱咤があまりにも的確すぎて、俺はようやく、自分の心を取り戻した。
「……すまない。今夜のことは、忘れてくれ」
「…………」
秋葉は答えずドアへ歩いていく。
そのまま出て行こうとして、ピタリ、と秋葉は立ち止まった。
「――――何があったかは聞きませんけど。
私、さっき兄さんを送り出す時、ひどく恐かったんです。なんだかこのまま兄さんは帰ってこないような気がして。八年前と同じ、そんな予感がしたんです」
「―――――――」
「でも、兄さんはちゃんと帰ってきてくれたわ。
……兄さんは誰かを救えなかったと言ったけど。少なくとも、兄さんは私をちゃんと、そんな予感から救ってくれたんです」
「―――ですから、お帰りなさい兄さん。
秋葉は兄さんが帰ってきてくれただけで、ほんとはものすごく嬉しいんです。……それを、わずかでいいですから覚えておいてください」
恥ずかしそうに言って、秋葉はぺこりとおじぎをした。
「秋葉――――――」
「私からはそれだけです。
……あたまのわるい兄さんのために言い直してあげると、もう二度と可愛い妹を一人きりになんかしないでくださいって事ですから」
「は、はは―――そっか、よくわかった。けどさ、可愛いって、そうゆうのは自分で言っちゃだめだよ、秋葉」
秋葉の言葉にようやく言葉が返せた。
たったそれだけの事なのに、秋葉は誇らしげな笑顔をうかべる。
「はい。それではまた明日。いい夢を見て、新しい朝を迎えてくださいね。
明日、朝になってもそんな顔をしていたら承知しませんから」
秋葉は去っていった。
俺は―――傷だらけの自分の体を眺めて、そのままベッドに倒れこんだ。
「は―――――あ」
深く。
何かに決別するように、深くため息をつく。
「……ごめん、弓塚。やっぱり俺は―――後悔は、しちゃいけないって、思うんだ」
……彼女との事は、きっと一生許せない傷痕になった。
けど、アレは正しかったんだって信じよう。
罪だっていうのは認めるし、いずれ罰があるっていうのなら受け入れる。
けど、自分がこうして生きている事に後悔だけはしたくない。
「……ただいま、秋葉」
精一杯の感謝の念をこめて、そう呟いた。
……意識が落ちる。
疲れきった体と心が、急速に眠りにおちていく。
その狭間で、思った。
自分は、生きていてよかったんだ。
少なくとも自分には帰るべき家があって。
それを待っていてくれた、かけがえのない肉親がいるんだから、と――――
●『4/昏い傷痕T』
● 4days/October 24(Sun.)
――――強い陽射しで目が覚めた。
「……………ん」
ベッドから起きて窓の外に視線を送る。
窓ごしに見える空は快晴で、日曜日に相応しいぐらい気持ちのいい天気だ。
……それは。
昨夜の出来事が夢のようにさえ思える、雲一つない青空だった。
「…………朝、か」
ずきりと胸が痛む。
空はこの上ないぐらいの青空で、自分はいつも通りの朝を迎えている。
そんな事が、ただ、いたたまれなかった。
彼女は。
昨日の夜、消えてしまった彼女はもう二度と、こんな朝を迎えられる事がないんだから――――
「志貴さま、お目覚めでしょうか?」
……その声で現実に引き戻された。
「……なにを、いまさら」
俺が後悔した所で、そんなものは偽善だろう。
「志貴さま? 起きていらっしゃいますか、志貴さま?」
トントン、という控えめなノックの音。
俺は自分の部屋に戻ってきている。
こうして、どんなに悔やんでもいつも通りに朝を迎えるしかない。
それが生きているかぎり、避けようのない現実だ。
それを今更、悔やんでも始まらない。
「……ああ、起きてるよ。どうぞ、入ってきて」
「失礼します」
がちゃり、と扉を開けて翡翠が入ってくる。
「おはようございます、志貴さま」
着替えを持ってきたのか、翡翠は洗濯したての洋服を持ってきてくれた。
「おはよう翡翠。えっと、秋葉たちはもう朝食を済ませたのか?」
「……志貴さま。失礼ですが、お目覚めになってから時間を確認なさいましたか?」
「え――? 時間って、まだ朝の―――」
朝の、十二時をとっくに過ぎていた。
「えぇ―――? な、なんでもう昼になってるんだ、この時計?」
「いつのまにか正午になっていたのは時計ではなく志貴さまのほうだと思います。
朝方から何回かお起こしいたしましたが、一向に目を覚ましてはいただけませんでした」
「………………」
……よっぽど深い眠りだったんだろう。
精神面だけじゃなく、体のほうも重い傷を負っていたというコトか。
「そっか、ごめん。せっかく起こしに来てくれたのに、なにやってたんだろうな、俺。
……ああ、昨日眠ったのが遅かったっていっても、起きないことの理由にはならないし」
「いえ、休日なのですからいつ起床しようと志貴さまの自由ですが―――志貴さま、まさか昨夜もお出かけになっていたのですか?」
「え―――いや、そんなコトは、その、ないんだけど……ああ、それより秋葉はどうしてるかな。
あいつも昨日は夜遅くまで起きていたと思うんだけど――――」
「秋葉さまでしたら、いつも通りに起床されておりますが」
翡翠は文句ありげな顔のまま、ちゃんとこっちのいい訳に答えてくれた。
「……そう。さすがに俺と違って規則正しいんだな、あいつは」
……昨夜、この部屋であった事が思い出された。
弓塚のことでボロボロになっていた俺を、秋葉は何も聞かずに介抱してくれたんだっけ。
そのあとのことは、その……我ながら恥ずかしいんであまり思い出したくはない。
「翡翠、秋葉は屋敷にいるのか? なにかと忙しいヤツだから、やっぱり休日も習い事をしてるとか」
「はい、秋葉さまは休日も予定が入っておりますが、今日は屋敷に残っておられます」
「………?」
予定はあるけど、屋敷には残ってる……?
「よくわからないけど……ま、とにかく着替えたら居間に行くから、先に行っていてくれ」
「はい。それでは失礼します」
翡翠はいつも通り、足音一つたてず立ち去っていく。
「あ、翡翠」
「はい? なんでしょう、志貴さま」
「うん、言い忘れてた。起こしにきてくれてありがとう。遅れたけど、おはよう翡翠」
「―――はい。どうかよい一日を、志貴さま」
「――――――――はあ」
天井を見上げて、大きく息を吐く。
弓塚さつきの事は、きっと一生忘れられない記憶になった。
だが、それに支配されてしまう訳にもいかない。
俺には帰るべき家があって、出迎えてくれた秋葉がいて、こうしていつも通りに機能する日常がある。
それを守るために彼女を裏切ったんだ。
だから―――せめて、それぐらいは守りとおさないと、全てが嘘になってしまう。
「―――――詭弁、かな」
それでも騙し騙しやっていくしかないんだろう。
さて、翡翠が待っている。
手早く着替えて、いつも通りの日常がある居間に向かわないといけない――――
居間にはソファーに座った秋葉と、その相手をしている琥珀さん、それに壁際で控えている翡翠の姿があった。
「おはようございます、志貴さん」
「うん、おはよう琥珀さん。悪いんだけど、ごはん作ってもらえるかな。ずいぶんと眠ってておなかが減っちゃってさ」
「はい、かしこまりました。いま支度をしますからしばらく待っていてくださいね」
琥珀さんはパタパタと食堂へと去っていく。
これで居間に残ったのは秋葉と、彫像のように無言を通している翡翠だけになる。
「……やっ。秋葉も、おはよう」
「……………………」
秋葉は不機嫌そうな顔で俺を一瞥するだけで、挨拶を返してこない。
「…………う」
やっぱり昨夜のことを怒っているんだろうか。
いきなり抱きついたんだから怒られてもしかたがないんだけど―――
「秋葉。昨日は、その―――」
「兄さん。いくらなんでもこんな時間に起きてくるなんて、なにを考えているんですか」
「え―――いや、その、だから、ごめん」
「……もうっ、そんなコトを怒っているんじゃありません。せっかくの休日なのにこんな時間まで眠っている、兄さんの緩みようを怒っているんです、私は!」
ふん、と顔をそむけて怒る秋葉。
……っていうか、怒っているというよりは拗ねているように見えるのは、気のせいだろうか。
「いや、だって仕方ないだろう。昨日は遅かったんだし、体だって疲れきってたんだから」
「そんなのは自業自得です。どんな事情があろうと、この屋敷で暮らしていくのでしたらきちんと規律は守ってください」
「………う」
悔しいが、こっちと同じ条件でちゃんと起きていた秋葉に言われると反論のしようがない。
「だいたいね、兄さん。朝起きるだけだったら翡翠に起こしてもらえばいいだけでしょう?
今日は、まあ昨夜のことがあるから大目に見てあげるけど、なんだっていつもいつも時間ぎりぎりで起床するのよ、兄さんは」
「……あのさ、秋葉。いちおう言っておくんだけど、俺だって好きで寝過ごしてるわけじゃないよ」
「なによ、それじゃあどうしていつも余裕のない朝を過ごしてるの? 私がいつもどんな思いで、時間ぎりぎりまで待って――――」
「秋葉さま」
「あ――――」
「…………?」
さっきまでの剣幕はどこにいったのか、秋葉は唐突に黙ってしまう。
「あのな、秋葉。言っとくけど俺が起きるのがいつも七時過ぎなのはワザとじゃないよ。
俺だって早起きはしたいけど、体が言うことをきかないんだからしょうがないだろ。
そんなに早起きさせたいんならすっごく強力な目覚まし時計を買ってくれ。それなら、まあなんとか早起きできるかもしれないから」
「……あの、兄さん? ふと疑問に思ったんですけど、兄さんは翡翠に何時に起こしてほしい、といった事は伝えてないの?」
「―――――あ」
そっか、そんな単純なことをど忘れしてた。
「そうだよな、せっかく毎朝翡翠が起こしにきてくれるんだから、翡翠に起こしてもらえばいいんだ。
そういうわけなんで翡翠、これからは朝の六時半ごろに起こしてくれると助かるんだけど……」
ちらり、と背後の翡翠に視線を投げる。
と、翡翠はじっ、と俺の顔を睨みつけた。
「お断わりします」
「え?」
「ですから、志貴さまを起こすのはお断わりします、と申しあげたのです」
「えーと、その」
なんて言っていいものか、あまりのショックで思考が働かない。
見れば秋葉もびっくりしたような顔で翡翠を呆然と見つめていた。
「な────」
「翡翠。どうして兄さんを起こすのは出来ないの」
「出来ない事はお引き受けできません。
志貴さまを私の意志で起こすのは、おそらく無理だと思います」
「───無理って、どうして」
思わず二人の会話に口を挟む。
と、またも翡翠は俺をじっと睨んできた。
「今までの三日間、すべて無理でしたから。
志貴さま、昨日はわたしが幾度お呼びしたか覚えてらっしゃいますか?」
「いや、覚えてらっしゃいますかって───俺はいつも翡翠の声で目が覚めてたんだけど……」
「それ以前のわたしの声は記憶にも留まっていない、という事ですね。───秋葉さま、つまりこういう事です」
なるほどねー、と秋葉はいじわるな眼差しを向けてくる。
……なんていうか、一瞬にして俺の立場は最悪なものになってしまった。
「ようするに翡翠がいくら起こしても、兄さんは自分の起きたい時間でなければ反応さえしてくれない───そういう事なの、翡翠?」
翡翠は無言でうなずく。
「………………」
俺も無言でうなずく。
そっかー、実は朝早くからちゃんと起こされてたのか。
自分でいうのもなんだけど、俺の熟睡ぶりもここまでくると神業の域に到達してしまっているかもしんない。
「………兄さん。どうして、そこで得意げな顔をなさるんですか」
「いや、つい。自分の大物ぶりに呆れてたとこ」
「……はあ。判りました、翡翠は今までどおり、兄さんが起きそうになったらなんとか起きてもらえるように努力してちょうだい」
はい、と翡翠はうなずく。
よし、話はまとまったようだ。
結局、俺は今までどおり自由気ままに朝を迎えるしかないってコトだろう。
「ねえ。ところで翡翠」
「はい、なんでしょうか」
「その、兄さんったら本当に起きないの? 呼びかけてもまったく反応しないの?」
「───はい。志貴さまの眠りはとても静かで、彫像のようですから分かりやすいんです」
……彫像のようって、なんだいそれ。
「へえ。兄さん、寝相いいんですね」
「いえ、そうではなくて───なんと申しますか、その、お眠りになられている志貴さまは別人のような気がします。
あのような静かな寝顔は見た事がありませんでしたから、初めて見た時はお亡くなりになられたのじゃないかと、その───」
「ですから起こしにくい、というのではなくて、起こすのがとても失礼な気がして、強く起こせないのです。
志貴さまがご自分でお目覚めになられる時は、白い頬に体温が戻っていって、ああ、お目覚めになられるんだな、とすぐに分かるんですが───」
翡翠は目を伏せたまま、人の寝相の感想をもらしている。
「……………」
……なんか、すごく恥ずかしい。
考えてみれば寝相っていうのは人間のもっとも無防備な姿なわけで、それをこう微にいり細にいり説明されると、裸を見られたみたいで赤面してしまう。
翡翠はそのまま黙ってしまうし、秋葉もなぜか顔をそむけて見当違いのところを見ていたりする。
「………………………」
なんか、ヘンに場が重い。
「はい、お待たせしました。志貴さん、朝食が出来ましたよー」
そこへ、明るい声で救世主が登場した。
「あ、ありがとう。それじゃあごちそうになります」
「はい、ゆっくり召し上がってくださいね」
琥珀さんの笑顔に背中をおされて、一人で食堂へ足を向けた。
昼食を済ませて戻ると、秋葉も翡翠も居間に残っていた。
二人を無視して部屋に戻るのも気まずいので、秋葉の向かい側のソファーに座ってみたりする。
「どうぞ、志貴さんはお茶のほうが好きなんですよね」
琥珀さんが食後のお茶をテーブルに置いてくれた。
「うん、ありがと。遠慮なくいただきます」
「いえいえ、遠慮なんかしないでくださいな。ここは志貴さんのお家なんですから、もっと楽にしてください」
琥珀さんは俺に気を使ってくれているのか、細かいところまで世話を焼いてくれる。
「……まいったな。俺、これでも屋敷には慣れたつもりなんだけど、まだ緊張してるように見える?」
「そうですねー、まだ両肩に力が入っている感じです。昔みたいに、とはいかないでしょうけど、もうすこしゆったりしていいと思いますよ」
「琥珀、あんまり兄さんを甘やかしちゃだめよ。
ただでさえ有間の家の暮らしで鈍っているんだから、初めは緊張しているぐらいがちょうどいいのよ、この人には」
「ふふ、秋葉さまは志貴さんにだけ厳しいんですね」
「私だって好きで厳しくしてるんじゃないわ。兄さんがあんまりにものんびりしてるから、こっちが気を配らないといけないだけだもの」
「………ふうん」
少し驚いた。
秋葉は琥珀さんと話していると、どことなくいつもの凛とした雰囲気がなくなっている。
同じ年頃だという事もあるんだろうけど、この二人はすごく仲がいいのかもしれない。
「………」
ちらり、と翡翠に視線を移す。
秋葉が何人もいた使用人を解雇して翡翠と琥珀さんを残した以上、翡翠だって秋葉に信頼されていると思う。
けど、やっぱり琥珀さんとは正反対の性格のためか、翡翠と秋葉が気軽に会話をする場面は少ない気がする。
「なんでしょうか、志貴さま」
俺が見ている事に気がついて、翡翠が用事を聞いてくる。
「いや、別に用事はないんだ。ただ翡翠は大人しいなって思っただけで」
「―――はい。そのように槙久さまにお教えいただきました」
きっぱりと返答する翡翠。
……なんていうか、きっぱりしすぎていて会話が続いてくれない。
「………………」
なんとなく気まずくなって黙り込む。
琥珀さんと秋葉はまだなにやら話しこんでいるようだ。
「―――志貴さま、一つお聞きしてよろしいでしょうか?」
「え―――ああ、いいけど、なに?」
「はい。志貴さまは昨夜もお出かけになられたようですが、深夜になると定期的に出かけるような用があるのですか?」
「あ―――いや、そんな事はないよ。ちょっとここ二日間は特別だっただけだから」
言って、秋葉の顔を盗み見る。
秋葉は黙って、ただ俺と翡翠の様子を見つめている。
……どうも、昨日の秋葉との一件は翡翠も琥珀さんも知らないらしい。
「大丈夫だよ翡翠。もう夜遅くに外出することはないから、よけいな心配はしなくていい。
それにさ、子供じゃないんだから夜出歩くぐらいそう危険なことじゃないだろ?」
「お言葉ですが、志貴さまは遠野家のご長男です。そのような無用心な行動はお控えください」
「そうそう、翡翠ちゃんの言うとおりですよ。志貴さんは貧血持ちなんですから、あんまり無理をしちゃいけないってお医者さんにも注意されてるじゃないですか」
「そうだけど、それと夜の外出は関係ないよ。一人で出歩くのがいけないんなら、俺は学校にだって行けないじゃないか」
「まあ、それはそうですけど、昼間は明るいから誰かが助けてくれるでしょう? けど夜は別です。とくに最近は吸血鬼殺人とか流行ってるんですから、貧血で倒れたところを襲われる、なんてコトがあったらどうするんですか」
「あ…………」
びくり、と思わず体が震えた。
吸血鬼殺人。夜の街を徘徊して無差別に人を殺していた殺人鬼。
……昨日の夜、この手で殺してしまったクラスメイト。
「いや、大丈夫だよ琥珀さん。夜の街に吸血鬼なんていない。……あの事件は、もう二度とおきないから」
弓塚さつきは、もうこの世にはいないんだから。
「はい? そうなんですか秋葉さま?」
「わたしに聞かれても解るわけがありません。断言しているのは兄さんなんですから、兄さんには何か根拠でもあるんでしょう。
そういえば、兄さんの高校では殺人事件の犠牲者になった方がいたらしいけど。二年三組といったら兄さんのクラスではなかったかしら」
「え……? 俺のクラスで犠牲者なんていないけど」
「あ、志貴さんは今朝のニュースを見てないんですね。なんでも一昨日の夜、弓塚さつきさんという方の血痕が大通りの路地裏で発見されたそうなんです。
血痕自体は三日ほど前についたものらしいんですけど、現場に残された出血量からして死亡しているのはまず間違いないという話ですよ」
「―――――――」
……動悸が激しい。
彼女。弓塚さつきが死亡しているなんて、そんな事は誰よりもよくわかっている。
けれど、こうはっきりと“死亡している”と言われると、“おまえが殺したんだろう”と言われている気がして――――
「―――兄さん? どうしたのよ、顔色が悪いわよ」
「―――――」
……大丈夫だって、答えられない。
彼女の死が。
自分の中のものだけじゃなくて、とうに、現実のものとして扱われてしまっている事が、ひどく、哀しかった。
「………………」
後悔はしないと決めたのに、こうして彼女のことを思うと影がさす。
――――と。
「みなさん、今夜は歓迎会をいたしましょう!」
なんて、トウトツに琥珀さんが声をあげた。
「――――はい?」
と、俺と秋葉、あまつさえ翡翠までもが首をかしげる。
「ですから志貴さんの歓迎会をしましょう! せっかくみんなそろっているんですし、志貴さんの引っ越し祝いもまだしてないじゃないですか。
ですから、今夜は志貴さんの歓迎会なんです」
ね、と琥珀さんは俺ににっこりと笑顔をむけてくる。
「…………」
……まいった。
俺は本当に元気のない顔をしていたらしい。
「秋葉さま、よろしいですか? お許しがいただければ、いまから腕によりをかけてご馳走をお作りしますけど」
「そうね、せっかく兄さんが帰ってきたのに何もしないっていうのもなんだし。わたしは賛成だけど、翡翠はどう? もちろん賛成でしょ?」
「あ―――はい、志貴さまがよろしいというのでしたら、わたしも、悪くはないと思います」
じっ、と三人の目がこっちにむけられる。
俺は――
……そうだな。
後悔はしないって決めたんだし、なにより俺を気遣ってくれた琥珀さんの気持ちを大切にしないと。
「賛成にきまってるよ。自分の歓迎会なんだから、断るはずがないだろ」
「きまりですね! それじゃあわたしはお料理の準備をしますね。翡翠ちゃんは―――今日のわたしの仕事を任せていいかな?」
「わかりました。ロビーと東館の掃除ですね」
「それじゃあ私は……どうしよっか、琥珀?」
「秋葉さまと志貴さんはお部屋でお休みくださいな。ご夕食を早めにして歓迎会を開きますから、ご用がおありでしたらそれまでに済ませてくださいね」
琥珀さんは厨房に、翡翠は中庭へ向かった。
「それじゃ私は部屋に戻ります」
さて。俺はどうしようか?
翡翠の手伝いをする。
琥珀さんも大変そうだけど、琥珀さんの分の仕事を任された翡翠のほうが忙しそうだ。
日ごろの恩返しもかねて、翡翠の手伝いをしにいこう。
ロビーに出ると、さっそく翡翠に出くわした。
調度品の手入れでもするのか、翡翠の足元にはハタキやらフキンやらが用意されている。
「翡翠、ちょっといい?」
「志貴さま? お部屋にお戻りになられたのではないのですか?」
「いや、部屋には戻らないよ。翡翠と琥珀さんが忙しくしてるのに、俺だけのんびりしてるわけにもいかないだろ」
「………………」
む、と翡翠は無言で俺の目を見詰めてくる。
「……志貴さま。まさかとは思いますが、わたしの仕事の手伝いをする、などとはおっしゃらないでくださいませ」
「―――――――う」
先手を打たれた。
「なんだよ、いいじゃないか手伝うぐらい。この広い屋敷を一人で掃除するのなんて無理なんだから、少しぐらい協力させてくれ」
「お言葉ですが、志貴さまに手伝っていただくほどの仕事量ではありません。……むしろ、今日は姉さんがいない分楽になったぐらいです」
「? なに、琥珀さんがいないと楽になるの、屋敷の掃除って?」
「あ―――いえ、あの、そういうわけでは………」
思わず口を滑らせたのか、翡翠はうつむいてごにょごにょと弁解をする。
……なんか、新鮮すぎて顔がにやけそうだ。
「……あの、志貴さま。今のは姉さんには、その……」
黙っていてください、とごにょごにょ呟く翡翠。
「なに、今のって琥珀さんに話しちゃいけないコトなんだ。そっか、わかった」
そういうコトは、ぜひ琥珀さんに教えてあげなくては。
「……志貴さま。その、なにを考えているかすぐ解るような態度は改めたほうがよろしいかと思います」
「ん? なに、別になにも考えてないけど、俺」
「………………………」
翡翠はじっと見つめてくる。
……なんか、さっきのはこっちが思っている以上に、琥珀さんにとっての禁句なんだろうか。
「わかった、琥珀さんには黙ってるからそう睨まないでくれ」
「……思い出しました。志貴さまは昔から根拠のない悪戯をされる方でしたね。どうしてそう、思い出したように天邪鬼なことをなされるのでしょうか、志貴さまは」
「いや、べつに大した理由なんてないよ。ちょっと翡翠の困った顔が見たかっただけだし」
「…………………」
……しまった。どうしてこう、素直に思ったことを口にしてしまうんだろう、俺は。
「志貴さま。わたしは仕事がありますので、そんなにお暇なら姉さんの手伝いでもしていてください。志貴さまがおっしゃられたとおり、こちらも忙しいので志貴さまのお相手はできません」
ふい、と顔を背けて、花瓶のまわりを拭き始める翡翠。
……なんか、手伝うつもりが怒らせてしまったみたいだ。
「……その、翡翠?」
「はい、なんでしょうか」
それでも話しかけると律儀に答えてくれる翡翠は、人間ができていると思う。
「さっきの話だけど―――あ、答えたくなかったら答えなくていいからな。
その、琥珀さんっていつも中庭の掃除をしてるけど、屋敷の中の掃除はあんまりしてないよな。あれって、さっき翡翠が言ってた事と関係あるのか?」
「え……はい、その、たしかに関係はあるのですけど……」
「姉さんには、あまり話さないでください。アレで自分の不器用さを気にしている風ですから」
「? 不器用って、琥珀さんは器用じゃないか。料理だっておいしいし、薬学の知識だってあるんだろ?」
「それが、その……人には向き不向きがありますから。姉さんはですね、大雑把な掃除でしたら楽しそうにこなしてくれるんですけど、こういった調度品の管理には致命的なまでにドジなんです」
「―――ドジって、翡翠。そんな直な表現をするなんて」
それこそ翡翠のイメージじゃ、ないんだけど。
「いえ。志貴さまはご存知でないからそう生易しい事が言えるんです。姉さんが掃除の名を騙って破損させた品の数は、十や二十ではすみません。
真剣になればなるほど掃除をしているのに散らかっていってしまう、という稀有な才能の持ち主なんです、あの人は」
ぐっ、と握りこぶしでも作りそうな勢いで翡翠は語る。
……どうも、今までよっぽど琥珀さんのドジとやらの被害をこうむってきたらしい。
「……そうなんだ。なんか、意外だな」
「……はい。姉さん本人もそれを気にしています。 わたしと秋葉さまが話し合って、姉さんには家事と庭の掃除に専念してもらう事にしたんですけど、その時の姉さんの落ち込みようは物凄かったんです」
「……まあ、琥珀さんは物を壊すから掃除はするなって言われたら、そりゃあ落ち込みはするだろうけど……」
あの、いつもニコニコした琥珀さんが落ち込む姿というのはどうも想像できない。
「そういうわけですので、志貴さまもどうか姉さんに室内の掃除をさせるような事は言わないでください。
姉さんはそれさえなければ立派な―――」
「はい? わたしのこと呼びました?」
「「!?」」
びくっ、と体を震わす翡翠と俺。
噂をすればなんとやらで、台所のほうから琥珀さんがやってきた。
「姉さん―――なにか足りないものでもあるの?」
「ええ、人手が足りないから志貴さんに手伝ってもらおうと思って」
にこり、とつっ立っている俺に笑顔を向ける琥珀さん。
「けど、一足遅かったみたいですね。志貴さん、どうか翡翠ちゃんのお手伝いをしてあげてください」
「姉さん。別に志貴さまに手伝ってもらっていたわけじゃありません」
きっぱりと翡翠は言う。
……まあ、それはその通りなんだけど。
「あ、そうなんですか? なら志貴さん、今は暇なんですね?」
「―――そうだね。人手が足りないなら手伝わせてもらうよ。けど、俺に琥珀さんの手伝いが務まるかな。料理はしたことないんだけど」
「いえいえ、ちゃんと誰でもできるような作業だってあるんです。ささ、そういうワケですからお手伝いをしてください」
ぐ、と俺の手を引っ張っていく琥珀さん。
「―――――――」
それを、翡翠はじっと見つめていた。
……屋敷の台所は、思ったより小さかった。
まだ屋敷にたくさんの人がいた頃は厨房を使っていたらしいんだけど、今は秋葉と翡翠、琥珀さんに俺という四人だけだから、新しく台所を改装したという事だ。
「はい、それではきちんと手を洗って、エプロンを着用してください」
誰の趣味なのか、おなかの部分に筆文字で“野暮天”と書かれたエプロンを渡される。
「それじゃあ志貴さんには単純作業から入っていただきますね。それが全部終わったら、次は志貴さんならではの作業がまってますから」
琥珀さんは上機嫌だ。
とりあえず、ざるいっぱいに入ったエビの皮むきを隊長から命じられた。
とん、とん、とん。
まな板を叩く軽快な包丁の音。
んんんんん〜。
調子のずれた琥珀さんのハミングが台所に響いている。
……。
…………。
…………………。
…………………………。
…………………………………。
………………………………………琥珀さんは調理に没頭しているのか、あまり話しかけてこない。
俺のほうもエビの皮むきが楽しくて、ついペリペリと皮をむき続けている。
「――――――」
……けど、懐かしい。
俺が事故にあって屋敷を出る事になる前、琥珀さんと秋葉と俺でこういったママゴトを何度かやったことがある。
あの頃は幼くて、お互いが異性なのだという事を考える事さえなかった。
ただこの広い屋敷にいる、知り合ったばかりの友達との毎日が楽しかっただけだ。
それまで色々とつもった出来事を忘れてしまうぐらい、俺たちははしゃぎまわっていたと思う。
……いや、それとも。
様々な過去を忘れるために、日々を楽しく過ごそうとしていたのかもしれなかった。
「志貴さん、エビの皮むき気に入りました?」
「え? いや、別にそういうわけじゃないけど、どうしてそんなコト言うんです?」
「だってすごく楽しそうじゃないですか。翡翠ちゃんはですね、エビの皮むきをしてると眉をよせていって、最後には八の字になっちゃうんですよ」
「そうなの? 意外だな、翡翠はこういうの淡々とこなしそうに見えるけど」
「ええ、どうしてか翡翠ちゃんはお料理が苦手なんです。お掃除とか、物を整頓するのはすごく得意なんですけどね」
「……へえ。なんか、似たような話を聞いたコト、あるよ」
うん、それもついさっき、その翡翠の口から。
「……まあ、考えてみれば翡翠だって琥珀さんだって何もかも一緒ってわけじゃないもんな。
琥珀さんは昔っから明るかったし、翡翠は昔っから屋敷に閉じこもっていたし」
「へえ、わたしって明るく見えました? いちおう、これでも志貴さんたちのことを見ているつもりだったんですけど」
「うん、それは知ってた。琥珀さんは一緒になってはしゃぎまわってくれたけど、危ないような遊びは止めてくれたし、いつも見守ってくれてただろ」
……ああ、ちゃんと覚えている。
屋敷の中庭で鬼ごっこをした時とか。
出来たばかりの池で、親父の鯉を釣り上げようと試行錯誤した時とか。
「ほら、そういえばさ、屋敷の門から抜け出して外に出た時があったじゃないか。
あの時なんか帰り道がわからなくなってさ、結局琥珀さんが屋敷に電話してくれて、使用人の人に迎えに来てもらったんだよね」
「ええ、そのあとに槙久さまがひどく志貴さんを叱ってましたね。みんなで遊びに出たはずなのに、いつのまにか遊びに出たのは志貴さんだけになっていて。志貴さん、どんなに怒られても悪いのは自分だっていつも言い張ってました。
……懐かしいです。わたしたちは色々とやんちゃな事をしてましたけど、最後には秋葉さまとわたしは志貴さんに助けられるのが日課でした」
くすくすと笑みをこぼしながら、懐かしむように琥珀さんは独白する。
「……なんだろ。こうして昔のことを話してると、帰ってきたんだなって気がする」
そう。
この屋敷にはあまり思い出がない分、琥珀さんと過ごした幼年期の思い出を話しているだけで、ひどく懐かしい気持ちになれる。
けど、思い出されるのはそんな楽しかった記憶だけじゃない。
「……翡翠には、悪いことをしたな」
……いつも心の片隅に残っていたあの子。
結局、一度もまともに話さなかった窓際の少女の記憶がある。
「……あの子、ずっと窓から俺たちを見てたんだ。いつもさ、子供心に気になってた。あんな寂しそうな顔してないで、こっちに来て遊べばいいのにって」
それでも、あの子は俺が屋敷から立ち去る時、ただ一人贈り物をくれたのだ。
「そうですよねー。翡翠ちゃんったら、あの頃から内気で何を考えているかよくわからない子だったから。わたしも、翡翠ちゃんが幸せになってくれるなら自分はどうなってもいいって、ずっと思ってたぐらいですから」
「そっか。琥珀さんは妹思いなんだな」
なんだか嬉しくて、そんな相づちをうつ。
「あ」
と。
短い声をあげて、琥珀さんが手をあげた。
見れば人差し指がざっくりと包丁で切られている。
「こ、琥珀さん、指切れてる……!」
「え?」
言われて、琥珀さんは自分の指が切れている事に気がついたようだ。
「あ、ほんとだ」
「ほんとだって、ちょっと琥珀さん!」
信じられない。
俺から見てもざっくりと切っているっていうのに、琥珀さんはずいぶんとのんびりとしている。
「恥ずかしいなあ。得意分野のお料理でドジをしちゃうなんて」
あはは、といつも通りに笑う琥珀さん。
「笑い事じゃない、早く手当てをしないと!」
「大丈夫ですよ。命に別状があるわけじゃないんですし」
「だからって放っておいちゃダメじゃないか! もうっ、そんなに切れてるんだから痛いだろうに……!」
「いえいえ。こういうのはですね、痛くないって思えば痛くないんですよ。この指だけ自分の体じゃなくて、人形か何かだと思い込むんです。そうすれば痛いなんていう感覚がしなくなるでしょう?」
「な――――」
笑顔で琥珀さんは達観したコトを言う。
そりゃあそういうふうに思えば、少しは痛みを我慢できるだろうけど、痛み自体はけっして和らがない。
「ああもう、ともかく手当てをしてください! 俺は血に弱いんです。ここで貧血で倒れたら琥珀さんのせいですからね……!」
「そうですね、ちゃんと手当てはしないといけませんね。それじゃ志貴さん、ちょっと席を外します」
最後までにこやかな笑顔を崩さず、ペコリと頭をさげて琥珀さんは台所から出ていった。
「それでは志貴さんが戻ってきた事を祝して、乾杯をしたいと思います。みなさん、どうかお好きなお飲み物を選んでください」
琥珀さんはまったく毒気のない笑顔で、並べられた飲み物を勧めてくる。
その大部分がジュースなどといったものではなく、れっきとしたアルコール飲料だったりした。
「……秋葉、あのさ」
「ん? なに兄さん?」
……秋葉は自分のグラスにとくとくと茶色の液体を注いで、オレンジジュースで割ったりしている。
「おま、おまえ、それウイスキーじゃ、ないんですか」
「そうだけど、何かヘンですか?」
「そうだけどって、秋葉」
その、未成年の飲酒はいけないんじゃなかったっけ……?
「兄さんの歓迎会なんですから、お酒ぐらいは飲まないとつまらないでしょう?
あ、それとも兄さん。もしかしてアルコールは弱いほう?」
秋葉はどことなく嬉しそうだ。
「あっ、翡翠ちゃん。珍しいね、今日はジュースじゃないんだ」
「…………………」
照れているのか、翡翠は無言でお酒をグラスについでいる。
「ほら兄さん、翡翠もお酒を飲むっていうんですから、まさか一人だけジュースですませようってつもりじゃないでしょう?」
「………ったく。わりとお祭り好きだったんだな、秋葉は」
「ええ。好きなお祭りは少ないですけど、今日は特別ですから」
――――はあ。
仕方ない、あんまり純度の高いアルコールは体によくないんだけど、少しぐらいなら大丈夫だろう。
テーブルに並んだ飲み物の中で一番度数の低いのは―――ワインかな。
「それではみなさん、グラスをどうぞ。
せーの、かんぱーいっ!」
キィン、とガラスとガラスの弾け合う音のあと、琥珀さんはクイッと一気に、秋葉は時間をかけてゆっくり、翡翠はチロチロと舐めるように飲み干していく。
……あーあ、どうなってもしらないからな、俺は。
――――ほら、だから言ったじゃないか。
……何がまずいって、とにかく翡翠がまずかった。
琥珀さんと秋葉は不心得にも酒に慣れているらしかったが、翡翠にとってまともに飲むのは今日が初めてだという。
だっていうのに俺に合わせての事なのか、頬を赤らめて一生懸命にグラスを口をつけて、その結果がコレだった。
「……あの、翡翠……? その、辛いんだったら無理に飲まなくてもいいんだぞ」
「……………………」
こくん、と頷く翡翠。
そのまま無言でグラスに口をつけて、ぼう、と視線を宙に漂わせる。
……いくら止めても翡翠はちょびちょびとグラスを傾ける。
……よく解らないけど、翡翠は翡翠でお酒が気に入ってしまったのかもしれない。
―――、と。
「ぁ………」
なんて声をあげて、猫のように翡翠はソファーにまるまってしまった。
「あはは、だめですよー、翡翠ちゃん。こんなところで寝ちゃったりしたら風邪引くじゃないですか。ほらほら、秋葉さまもぶつぶつと文句なんておっしゃらないでくださいな」
琥珀さんは笑顔で眠ってしまった秋葉と翡翠に話しかけている。
……どう見ても、琥珀さん本人も酔っているふうにしか見えない。
「……まいったな。翡翠、本当に初めてだったのか」
「はい。翡翠ちゃん、お酒にはてんで弱いですから。いつもはですね、一口飲んだだけで顔を真っ赤にしてしまうんですよー」
あははー、と陽気に笑う琥珀さん。
「……ちょっと。それ、かなり問題があるんじゃないか」
「そうですよね。翡翠ちゃんもいつもは断るんですけど、志貴さんが勧めるから無理したんですよー。 普段は愛想よく振る舞えないから、せめてお酌ぐらいはしようとしたんでしょうね。もう、わが妹ながらかわいいったらないじゃないですか!」
バンバン、と俺の背中を叩いてくる琥珀さん。
……なんだかんだと、この人もものの見事にできあがっている。
「今夜はこれでお開きかな。秋葉もへべれけだし、翡翠も丸まってしまってるし」
「……へべれけって……なんですか。兄さん、わからない言葉、使わないで、ください……」
ぶつぶつと文句を言う秋葉。
なんでも秋葉は解らない事があると不機嫌になるらしい。
それはそれでいいんだけど、こうして酒がまわってしまうと何もかもが理解不能になってしまうらしく、結果としてぶつぶつと文句を繰り返すマシーンと化していた。
「それでは秋葉さまはわたしがお運びしますから、志貴さんは翡翠ちゃんをお願いしますね」
「え―――ちょっと待って琥珀さん。俺、翡翠には触れられないよ。前に翡翠に触っただけで叩かれちゃったんだから」
「―――そっか、そういえば翡翠ちゃんってば極度の潔癖症でしたっけ。男の人と手を握るだけで吐いちゃうぐらいですから、志貴さんが抱きかかえるのは問題がありますねー」
「……手を握るだけで吐く……?」
それは潔癖症という言葉だけですませられる事じゃない。
八年前からおかしいと思っていたけど、翡翠って一体―――
「でも、翡翠ちゃんは眠ってるんだし大丈夫ですよ。はい、それじゃ秋葉さま、お部屋に戻りますからね」
「そんな、ちょっと琥珀さん!」
……琥珀さんは振り返らない。
秋葉に肩をかして、よろよろと食堂を後にしていく。
残ったものは。
食べきれなかった料理の山と、空になったお酒の山と、すーすーと安らかな寝息をたてる翡翠だけだった。
秋も本番。
こんなところで寝てしまったら風邪ぐらい引いてしまう。
「……いいのかな、翡翠に触っちゃって」
けど場合が場合だ。
……こっちだって、その、よこしまな気持ちはないんだし、翡翠を部屋に運ぶだけ、なんだし。
「……ごめん。あとで怒っていいから」
眠っている翡翠を抱き上げる。
「ぁ――――――」
それだけで、どくんと心臓が高鳴った。
「……軽い」
翡翠は思っていたとおり、軽かった。
すっぽりと両手に納まる華奢な体。
柔らかい手触りと、確かな体温。
「……まず。早く部屋に連れていかないと、俺のほうがどうかしそうだ」
翡翠を起こさないようにゆっくりと、食堂を後にした。
翡翠の部屋のドアノブに手をかけて、愕然とした。
「――――うそだろ」
鍵がかかってしまっている。
「鍵は―――翡翠のポケット、かな」
まずい。いや、ただポケットに手をいれるだけなんだけど、それはまずい。
そんなことをしたらこっちの理性がどうなるかわからない。
「…………仕方ない、よな、こういう場合」
幸い、翡翠の部屋と俺の部屋は二階だ。
――というわけで、
翡翠を抱えたまま自分の部屋に戻ってきた。
「よい……しょ、と」
ベッドに翡翠を寝かせる。
ほんとうに無理をしてお酒を飲んだらしく、翡翠はまったく目を覚まさない。
「……さて。俺はどうしようか―――」
quakey 1,250
「あ―――れ」
翡翠をおろして気が抜けたのか、絨毯に倒れこんでしまった。
「ん―――−む」
自分にも酒が回ってきたらしい。
くらり、と心地よい眩暈がする。
「……ま……いい、か」
別に何をするわけでもないんだし。
このまま、絨毯で眠ってしまっても、誰も文句は言わないだろう―――
―――懐かしい、匂いが、する。
古い和室。
暗い部屋。
―――あれは、
一体どのくらい昔のことだったろう。
新しく連れてこられて周りの人たちになれなくて、一人でずっと閉じこもっていた子供のころ。
とにかく何もかもがイヤで、誰とも話したくなかった。
ずっと、ずっと一人のままで、幸せだったころの、揺籃の時代の繭に閉じこもっていたかった。
その先に何もないってわかっていても、ずっとそうしていたかった。
トントン、という音。
「―――だれ?」
「あたしだよ」
ああ、またやってきた。
同い年ぐらいの女の子が、この部屋の扉を叩いている。
「シキちゃん、遊ぼ。そんなとこにいたらかびが生えちゃうんだからね」
「ヤだ。外は、ヤだ」
膝を抱えて、あかりのない部屋のすみで、ずっと小さくなっていた。
……女の子は毎日やってきた。
飽きもしないでノックをする。
少女は、決して無理強いはせず、扉を開けようともしないで、ただ自分に呼びかけ続けていた。
「どうして外に出てこないの?」
だって、外には知らない人しかいないもの。みんな、ボクのことを憎んでいるんだ。
「そんなことないよ。みんな、シキくんのこと好きになりたがってるよ」
うん。それはわかるけど、しんじられない。だって、ボクのお父さんは、そうして―――
そうして。
自分の父親は、そうして、バラバラにされてしまった。
「……そっか。そうだよね、それじゃあ誰もしんじられないよね」
そうなんだ。だから、ずっとここにいる。もうこわい思いはしたくないんだ。
「でも、それじゃいつまでもひとりきりだよ。ひとりきりはつまんないよ」
つまんなくても、こわいよりは楽しいとおもうけど。
「そんなの、ぜんぜんたのしくなんかない。もう、ほんとにしょうがないなあ。じゃあ、シキちゃんはあたしをしんじていいよ」
……しんじていいよって、なにそれ。あべこべだよ、ふつーはボクがしんじてあげてもいいってゆわない?
「いいのっ! シキちゃんはあたしをしんじて出てくるの!」
……いいけど。けど、しんじるってなにをしんじるの?
「かんたんだよ。もしみんながシキちゃんを嫌っても、あたしはきっとシキちゃんを好きだってこと。 あたし、シキちゃんのことが好きだから、こうやって遊びにいこうって言ってるんだもん」
…………そとは、たのしい?
「うん! ひとりでいるより、きっときっと楽しいよ―――――」
――――そうして、自分は外に出た。
思えば。
アレが遠野志貴にとって、一番はじめの景色だったと思う――――
●『5/殺人鬼T』
● 5days/October 25(Mon.)
―――明るい光に意識が冴えていく。
窓からさしこんでくる朝の光に目が覚めていく。
「………ん」
夢からさめる。
……よくわからない、ひどく曖昧な夢を見た気がする。
懐かしい匂いをかんじた。
あれは畳の匂い―――だろうか。
「あ………れ」
おかしいな、とっくに目を覚ましているっていうのに―――まだ、なんかいい匂いがしてくる。
「ん―――志………貴………」
耳元で聞こえる声。
「……え?」
何かすぐ近くに気配を感じて、まどろんでいた目を開けた。
「……………っっっっ!」
驚く声を、必死に押しとどめた。
どういう事なのか、翡翠が俺のベッドで眠っている。
そ、それだけじゃなくて、こんな間近に、あまつさえ俺の体によりかかって、その―――無防備すぎる寝顔がある。
「ぁ――――、っ」
緊張して声が出ない。
眠気なんて、もう一瞬でぶっ飛んだ。
「……どうなってるんだ、これ」
首だけを起こしてまわりを見渡す。
……ここは確かに俺の部屋だ。
翡翠はすーすーと安らかな寝息をたてている。
「……えっと、昨日は確か……」
昨日のことを思い出そうとしたけど、そんな事はどうでもよかった。
翡翠の吐息が胸にかかる。
……安らかな寝顔。
それをこんな間近で見ているだけで、もう他の事なんてどうでもよかった。
「…………………」
つい見惚れてしまう。
今まで漠然と感じてはいたけど、翡翠は本当にキレイだ。
……顔が美人だとかそういうんじゃなくて、その、楚々とした雰囲気が、とてもキレイだと思わせてくれる。
「……………翡翠」
できることなら、ずっとこうしていたい。
けどそれは不可能な話だし、そろそろ翡翠に起きてもらわないと困る。
「……翡翠。おい、翡翠」
……呼びかけても起きる気配がない。
「ほら、朝なんだって。そろそろ起きる時間じゃないのか」
ゆさゆさと翡翠の体を揺らす。
「翡翠。起きろってば、翡翠」
「う……ん」
ぴくり、と翡翠の指が動く。
そのまま、氷が溶けていくように、ゆっくりと翡翠のまぶたが開かれた。
「……………ん」
ゆらり、と腕をたてて起きあがる翡翠。
まぶたをこすりながらキョロキョロとあたりを見渡すこと数秒。
翡翠は自分が俺の部屋にいて、しかも目の前に俺がいるという事態をようやく把握してくれた。
「きゃっ――――!」
ベッドから飛び起きる翡翠。
「し、志貴さま、わたしはどうして――――」
「その……うまく説明できないんだけど、昨夜のことは覚えてる?」
「え―――昨夜の、事ですか?」
じっ、と考え込む翡翠。
と。とたん、翡翠の頬が赤くなった。
「思い出した?」
「はい―――志貴さまにはご迷惑をおかけしました」
頬を赤らめたまま、真正面から翡翠はこっちを見つめてくる。
「……その、ごめんな。翡翠の部屋まで行ったんだけど、鍵がかかっていて入れなかったんだ。
とりあえず俺の部屋で寝かせてから、琥珀さんを呼びに行こうと思ったんだけど……俺も酒が回ってたらしくて、そのまま眠っちゃったみたいなんだ」
……うん、たしかにそんな記憶がある。
けどおかしいな、昨夜はたしか―――
「……おかしいな、初めはちゃんと絨毯で眠ってたんだけど……その、いつのまにかベッドにあがってしまってたみたいだ。
あ、けど翡翠にヘンなことはしてないぞっ! 俺だっていまさっき目が覚めたんだから……!」
「………………」
翡翠はじっと無言で見つめてくる。
「ほ、ほんとだって! だって仕方ないじゃないか、琥珀さんは秋葉だけで手一杯だったし、あのまま翡翠を放っておくこともできなかったんだからっ! ……そりゃあ翡翠を抱えたことは謝るけど、それだって、その、あとで怒られるのを覚悟してたんだから!」
翡翠のまっすぐな視線になんとか答えようと、とにかく精一杯の弁解をする。
「…………………」
翡翠は何も答えないで、自分の服をかるく見て頷いた。
「そのようですね。服の乱れがありませんから、志貴さまは潔白です」
「よかった――――」
ほう、と胸を撫で下ろす。
「それに、志貴さまをベッドにあげたのは、その……きっとわたしです。
夜半に一度だけ目が覚めたのですが、その時に志貴さまが床で眠っていらしたものですから、そんなところで眠っては風邪をひかれます、とベッドでお眠りになっていただいた記憶があります」
「え……そうなの?」
それなら確かにベッドに上がってしまっただろうけど、どうして翡翠はベッドで眠っていたのだろう?
「……申し訳ありません。わたしも、その、お酒に酔って前後不覚になってしまい、目の前にベッドがあるなら自室に戻る必要なんてない、とかってに思い込んでしまって……」
恥ずかしそうに翡翠は説明する。
「そ、そう……そうだよな、たしかにそういうふうになっちゃうよな、酔ってる時って」
ははは、となんとなく笑ってみる。
翡翠は恥ずかしそうに肩をすぼませている。
……どうしてだろう。
さっきまで一緒に眠っていたっていうだけなのに、翡翠のことを妙に意識してしまって、うまく言葉がうかばない。
「と、とにかくこのことは二人に内緒にしよう。秋葉に知られたら怒られるし、琥珀さんに知られたらなんてからかわれるかわからないからな」
「―――はい。志貴さまがお許し下さるのなら、わたしとしても助かります」
「ああ、ごめんな翡翠。俺がもうちょっとしっかりしていれば、こんなコトにはならなかったのに」
ごめん、と翡翠に頭をさげる。
結局何もなかったけど、女の子を自分の部屋に連れこんで一緒に眠ってしまったのは事実なんだ。
翡翠がなんて言おうと、ここはやっぱり俺に責任があると思う。
「いえ、わたしのほうこそ、もっとしっかりしていれば志貴さまのお手を煩わせる事などなかったはずですから」
「いいの! とにかく謝らせてほしいだけだから。……まあ、できるなら『志貴さまのばかっ』ってはたかれたほうがスッキリするんだけど、どうあったって翡翠はそんなことしてくれないだろうしさ」
「あ……はい。そのようなことを、命じられても困ります」
「だろ? それなら、せめて素直に謝られてくれ。そうしてくれないと、俺はこれから翡翠に何も頼れなくなるから」
「……………」
翡翠はまた黙り込んで、じっと俺を見つめてくる。
「……本当に不器用なんですね、志貴さまは」
今までとは違う、ひどく優しい声で、翡翠はぽつりと呟いた。
「では、今回のことは志貴さまが悪いという事にさせていただきます。いつか償いをしていただきますので、その時まで忘れないでいてください」
「え―――ひす、い?」
「それでは失礼します。志貴さまも早く居間のほうに行かれないと遅刻してしまいます」
ちゃんとおじぎをして翡翠は退室していく。
「―――――」
俺はというと、ぽかんと口をあけたままでまだベッドの上にいたりする。
「…………わらった」
それだけの事なのに、時間が止まったみたいに感じられてる。
「―――――――」
まずい。なんだか、すごくまずい。
ただ笑いかけられただけだっていうのに、どうしてこうも、俺はぼんやりとしてしまっているんだろう―――
居間に行くと、すでに翡翠の姿があった。
秋葉はすでに朝食を済ませて紅茶を飲んでいるし、琥珀さんは台所にいるらしい。
「おはよう兄さん。今朝はいくらか早いんですね」
「ん? ああ、今朝はちょっとしたトラブル……」 言いかけて、ちらりと翡翠の顔を盗み見る。
「いや、まあ鬼の霍乱ってヤツで早起きしただけ。そういう秋葉もすごいじゃないか。昨日あれだけ酔ってたのに、こんなに早く起きてくるなんて」
「当然です。お酒は翌日のことをきちんと踏まえて楽しむものですから、お酒のせいで寝坊するなんていうのはありえません」
「ふーん。そのわりには昨日はへべれけだったけどな。もしかすると秋葉は人より分解酵素が多いのかもしれない。だとしたら羨ましい話だけど」
「……兄さん、なんですかその分解酵素って」
「いや、ちょっとした話だよ。アルコールは体内に入るとアセトなんとかっていう猛毒に変わるらしいんだ。
で、そうなるとまずいんで肝臓内でその猛毒を分解する酵素っていうのが分泌されて、アルコールをただの水に分解するんだってさ。
分解酵素の量は人種差があるらしいんだけどね、日本人は比較的少ないんだって。その酵素が少ない人のことを下戸って言うんだ」
へえ、と秋葉は感心したように目を丸くする。
「……驚いたわ。よくそんなこと知ってますね、兄さん」
「いや、べつに。友人で質の悪い酒飲みがいるだけだから」
「ふうん。そのわりには昨夜はあまりお飲みになられていなかったようですけど?」
「だから、俺はその下戸ってヤツなんだってば。酒は気合で呑むものだー、なんていう悪友をね、論理的に改心させるにはこうゆうふうに苦労しないといけなくてさ」
ちなみに、その悪友とは乾有彦に他ならない。
「……はあ。よくわかりませんけど、兄さんの私生活はなんだか楽しそうですね」
「なんだよいきなり。どうしていきなりそういう話になるんだ」
「兄さんの顔、すごく楽しそうでしたから。昨日だってそんな顔していなかったじゃないですか」
「う―――」
そりゃあたしかに昨日は楽しむっていうより呆れてたんだけど。
「志貴さーん、朝ごはんできましたよー」
と、いいタイミングで琥珀さんが声をかけてくれた。
「あ、すぐにいただきますー! ……んじゃ、そーゆー事なんでまたな、秋葉」
「…………………」
朝食を終えて居間に戻ると、秋葉の姿はすでになかった。
「あれ……? 翡翠、秋葉は?」
「秋葉さまでしたら、志貴さまが食堂に行かれたあとすぐに学校に行かれました」
「そっか、秋葉の学校って遠いんだっけ。……っと、俺ものんびりしてる場合じゃないか」
「はい、鞄を持ってまいります」
翡翠はパタパタと足音をたててロビーへと消えていく。
「……………」
その後ろ姿をぼんやりと眺めていたりする。
「ふーん。志貴さん、昨夜なんかあったんですか?」
「なっ―――いきなり出てきてなんて事言い出すんですか、琥珀さんっ!」
「あら、照れてるところをみるとやっぱりなにかあったんですね」
「え―――いや、なんにもなかったですよ。なんなら翡翠に聞いてみても、いいです」
「そうなんですか? なんか、翡翠ちゃんと仲がよくなってる気がしたんですけど」
はて、と首をかしげる琥珀さん。
……翡翠と仲がよくなったかなんて、そんなのはこっちが聞きたいぐらいだ。
「志貴さま、鞄をお持ちいたしました。そろそろ屋敷を出ないと時間的に余裕がありません」
「ああ、いま行くよ。それじゃ琥珀さん、また夕方」
「ええ、それではいってらっしゃいませ」
「今日はまっすぐ帰ってくるから、帰りは四時ごろになるよ。あ、それとここで出迎える、なんて事はしなくていいから」
「かしこまりました。それでは志貴さま、どうかお気をつけて」
「ありがとう。それじゃ行ってくるよ、翡翠」
ふかぶかとおじぎをしてくれる翡翠に手をふって、坂道へと走り出した。
何事もなく教室について、いつものように授業が始まった。
……弓塚の机はなくなっている。
クラスメイトが一人いなくなってしまったぐらいで学校の時間割に変動はない。
「………………」
少し、不安になる。
翡翠のおかげで忘れていられた事。
あんな出来事を経験してしまったためだろうか。
ここにいる事に違和感をうけて、何もかもが上の空に思えてしまっていた。
気がつけば一日が終わっていた。
「…………はあ」
有彦や先輩に会いに行く気分でもない。
今の自分は学校より、遠野の屋敷のほうが気分が落ち着いてくれるみたいだ。
ロビーに入ると、すぐに翡翠の姿があった。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「ただいま翡翠。琥珀さんと秋葉は留守?」
「秋葉さまはお帰りになられていらっしゃいません。姉さんでしたら裏庭の掃除をしておりますが」
「いつもと同じか。それじゃ部屋に戻るから、翡翠も仕事に戻っていいよ」
「はい。それでは失礼いたします」
二階への階段に足をかける。
「あ、志貴さま」
「ん?」
「わたしは槙久さまのお部屋の整理をしていますから、何かご用でしたらお呼びください」
翡翠は東館のほうに早足で去っていった。
鞄を置いて、上着を脱ぐ。
「……さて」
夕食まで時間があるし、何をしようか。
翡翠に会いに行く。
―――翡翠に会いにいく、か。
「……けど翡翠、仕事は手伝わせてくれないし、わざわざ会いにいって翡翠の仕事を邪魔するのもな……」
……困った。
翡翠に迷惑をかけるのは避けたい。
けど、なんとなく会いに行きたい。
「……………あ」
そういえば、まだ翡翠にリボンを返してあげていなかった。
翡翠は忘れたって言っていたけど、もともとあのリボンは翡翠のものだ。いつまでも俺が持っていても仕方がないし、返しに行こう。
親父の部屋で、翡翠は本の整理をしているらしかった。
もう主人はいないというのに、親父の部屋は昔のままで保管されている。
「翡翠、ちょっといい?」
「あ―――志貴さま。はい、なんでしょうか」
「その、前にも言ったけど、これを返しておこうと思って」
八年前に翡翠から渡されたリボンを差し出す。
「……………………」
「翡翠? やっぱり、もういらない……?」
「……いえ、お預かりします。それは、大切なものですから」
リボンを受け取ると、翡翠は黙り込んでしまった。
「……………」
話しかけられない。
今の翡翠は八年前の頃のように、周りの人間を拒絶しているように見えて。
「志貴さま、用件はこれだけでしょうか」
声も出せず、ただ頷く。
「それでは、どうかお部屋にお戻りください。まだ仕事が残っておりますから」
部屋の奥に歩いていく翡翠。
「……翡翠」
なにか、あのリボンには特別な意味でもあったのんだろうか。
この八年間。自分は本当に、遅すぎた約束を果たしただけなのかもしれない。
「……それじゃ、部屋に戻るよ。また後で、翡翠」
言って、部屋を後にした。
―――夕食が終わって、部屋に戻ってきた。
時刻は夜の十時になろうとしている。
今日はめずらしく食後のお茶会なんてものを秋葉たちと過ごしたもんだから、いつのまにか就寝時間になってしまっていた。
「ん………」
あまり疲れているわけでもないのに、どことなく体がだるい。
屋敷の生活に慣れてきた証拠だろうか。
無反応な翡翠や明るい琥珀さん、なんだかんだと俺のことを気遣ってくれる秋葉。
……たしかに、慣れてくるとこの生活は楽しいと思う。それこそ八年前の自分に戻ったような気さえしてくるぐらいだ。
有間の家では、ここまでくつろぐ事はできなかった。
おばさんにも中学生の子供がいたけど、どうも敬遠されているようで話をする機会も少なかったし。
「ん……ほんとに、眠くなってきた」
寝巻に着替えてベッドに横になる。
早く眠って早起きして、明日こそ秋葉を驚かせてやろう―――
「――――あれ」
気がつくと、街にいた。
午前零時。
人通りの途絶えた街の中を、歩いている。
「ハア―――ハア――――ハア」
どうしてか息があがっている。
オレは。
ぎょろぎょろと血走った目で、道行く人間を見定めている。
バカな連中。
まだ殺人鬼は捕まってもいないっていうのに、懲りずに街を歩いている。
――――自分だけはそんな目にあわないっていう自己の特別性を信じているのか、それとも死にたくても自殺する手段がなくて、誰かに殺してほしいのか。
まあ、恐らくは後者だろう。
―――見知らぬ連中が歩いていく。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
一人一人、丹念に凝視しては首をふる。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
見付からない。
ちゃんと特徴は聞き出したのに、なかなか、目当ての人物は見付からない。
イラ     イラ  す    る
いない。
いない。
いない。
いない。
なんで。
いない。
いない。
いない。
いない。
「ハア―――ハア―――ハア――――」
イライラ、する。
なんでいない、
なんでいない、
なんでいない、
なんでいない、
なんでいない、
なんでいない―――――!
「ク――――はは、は」
決めた。
今夜は趣旨を変えよう。
もう、誰でもいい。
殺せるのなら、誰でもいい。
もう一度。
もう一度、あのカンカクを味わいたい――――
―――いた。
長い髪の女が歩いている。
「あき、は」
ああ、今のは秋葉だ。
秋葉。秋葉。オレの妹。オレだけの、美しい妹。
それが 欲しい
妹とは、つまりオレのだ。
オレだけの、もののハズだ。
後ろから、できるだけ体をキズつけないように、殺した。
長い髪を握って、ずるずるとアキハのカラダを引きずっていく。
「ハア――――ハア――――ハア」
アキハの首筋にかじりついて、血を吸った。
―――――息が、狂しい。
この前の殺人とは違う。
アキハ。アキハだと思うだけで、こんなにも、素晴らしい。
脳髄がしびれる。
生殖器がいきり立つ。
血を吸いながら。
一滴残らず吸い上げながら、何度も何度も射精した。
「ア――――――レ」
終わって、気がついた。
「……なんだコイツ、ぜんぜんアキハじゃないじゃないか……!」
頭にくる。
死体をバラバラにしても、ぜんぜん気が晴れない。
ニセモノ。
ニセモノは、頭にくる。
「ハア――――ハア――――ハア――――」
余分な体力を使ってしまった。
夜だって長くはない。
朝になれば、志貴が目を覚ます。
「今夜は、疲れた。また明日、やろう」
うん、それがいい。そうしよう。
さあ。
朝が来る前に、誰にも気付かれないように、自分の寝床に戻らなければ――――
●『6/殺人鬼U』
● 6days/October 26(Tue.)
「あ―――――――!」
あ――――――・
「はあ――――はあ――――」
あさ、に、なってる。
ここは自分の部屋。
俺はいままでここで、
こうして、
眠っていた、ハズ―――――――――
「痛ッ………」
ズキリ、とこめかみが痛む。
「ゆ………め」
酷い夢を見た。
人を殺す夢。
殺しながら、何度も絶頂を迎えていた夢を。
「あ…………つ」
喉が、熱い。
体中がだるくて、両手には、ごきり、と。
人の首を、折る感触が、付着したまま。
「ちが……う」
違う。
あんなのは夢だ。間違いなく夢だ。
だが、あんなはっきりした夢があるのか。
何もかも鮮明に覚えている。
夜の街も、
首を折る感触も、
喉にはりつく血の粘つきも、
無惨に殺してしまった女の顔も―――――
だが夢だ。実際に遠野志貴はここにいたんだから、あんなものは夢にすぎない。
ただ、問題は。
俺が、人を殺して悦ぶような、夢を見てしまっているということ。
―――志貴くんはわたしと同じ
目の前が、ぐらくらとスライドしていく。
―――人殺しが大好きでたまらない人なんだよ
その、おかしくなるようなスピード。
失礼します、と声をあげて翡翠が部屋に入ってきた。
「おはようございます。今朝はもうお目覚めでいらしたんですね、志貴さま」
「………ああ。おはよう、翡翠」
スライドが収まる。
自分が立っている角度から滑っていく錯覚は、翡翠の声のおかげで止まってくれた。
「……志貴さま?」
「え―――――なに、翡翠?」
「なに、ではありません。お体の具合がよろしくないのですか? さきほどから何もおっしゃられません」
「……いや、ちょっと翡翠に見惚れてただけだ。わかってる、学校に行かないとね。すぐ居間に行くから、先に行っていてくれる?」
「志貴さま。お体の具合がよろしくないようでしたら、どうか無理はなさらないでください。学校も大事ですが、志貴さまのお体には代えられません」
「はは、やだな翡翠。学校は休まないよ。なんでもないんだから、あんまり甘やかさないでくれ」
「いえ、秋葉さまにはわたしのほうからお伝えいたしますから、どうかお休みください」
翡翠は珍しく食い下がってくる。
……そんな情けない顔をしているんだろうか、俺は。
「もう、翡翠ってわりと心配性だったんだな。本当になんでもないんだから、気にしないでいいんだ。 ……ちょっと顔を洗っていくから、先に居間のほうに行っててくれ」
ベッドから出て、まだ何か言いたそうにしている翡翠の横を通りすぎる。
部屋を出る時。
不安そうにこっちを見つめる翡翠の視線が、少しだけ痛かった。
脱衣場にいって、鏡を見る。
「……顔色は悪くないよな。翡翠、どうしてあんなに不安そうな顔してたんだろ」
バシャ、と冷たい水で顔を洗う。
―――昨夜の夢を思い返すと、たしかに吐き気がするし学校に行く気が失せていく。
けどそんな事で学校を休めば、それこそ何かを認めるような気がして、不安だった。
居間には秋葉と琥珀さん、翡翠がそろっていた。
毎度のことながら、ここに入ってくる順番は俺が最後である。
「あ、おはようございます志貴さん」
「うそ!? まだ六時半になったばかりじゃない!」
柔らかな笑顔を向けてくれる琥珀さんと、失礼にもソファーから身を乗り出して俺を見る秋葉。
「おはようございます琥珀さん。ああ、ついでに秋葉もおはよう」
「む。ついでにってなんですか、ついでにって」
「ついでにはついでにだよ。日ごろから朝早く起きろー、なんて言っておきながら、いざ早起きしたら驚くようなヤツなんかそれで十分だ」
「――――フン。たまに早起きしてきたからって、鬼の首でもとったような勢いですね、兄さんは」
「鬼の首って、秋葉―――」
首。
首……?
ぞわり、と夢の中の感触を思い出して、吐き気がしてきた。
「……ごめん、琥珀さん。悪いんだけど、ごはんの前に冷たい飲み物でももらえない?」
「はい、炭酸ものと果汁もの、どちらがよろしいですか?」
「えーっと、炭酸ものでお願いします」
「はい、かしこまりました」
琥珀さんはパタパタと台所に向かっていく。
「……兄さん? どうしたんですか、言い返しもしないで大人しくなるなんて。もしかして、どこか具合でも悪いの?」
「……まったく。翡翠といい秋葉といい、俺のことをなんだと思ってるんだ。ただ起きたばっかりで喉が渇いているだけなんだから、体のほうに問題なんかないっ……!」
自分の中の吐き気を否定するように、ただ、反射的に怒鳴ってしまった。
「……ごめんなさい、兄さん。確かにあまり気分のいいものではありませんよね、いちいち気を遣われるのは」
「あ―――いや、そういう事じゃない。その、心配してくれるのはすごく嬉しいんだ。ただちょっと、今日は夢見が悪くて苛々してた。
……ごめんな秋葉。謝るのは俺のほうだ」
ソファーに腰を下ろす。
自分でもどうかしているとわかっているけど、こればっかりはどうしようもなかった。
「兄さん、なにか悩み事でもあるんですか? この屋敷に関する事でしたら、相談していただければ少しは力になれると思いますけど……」
「いや、別に家に慣れてないとかそういう問題じゃないんだけど―――」
……そうだな。
例え話で秋葉に相談してみるのも気分転換になるかもしれない。
ここは――
相談する。
しないよりはしたほうがいいに決まっている。
だいたい自分一人で悩みを抱えているから、よけい暗く考えてしまうんだ。
「……じゃあ聞くけど。例えばさ、自分がやってはいけないって思う事をやってしまう、なんていうのはストレスのせいなのかな」
「自分がしてはいけないと思うこと、ですか。それは慢性的なものでしょうか、それとも突発的なものでしょうか」
「……そうだな、突発的なものなんじゃないかな。本人はあんまり意識していないみたいだから」
「意識していないでその行動をしてしまう、という事は本人の意思でその『してはいけないこと』を止める事はできないんですね?」
「―――そう、止められない。止めるっていう考えさえ浮かばなくなる」
「だとすると、その人は性格が一時的に反転しているとしか思えませんね」
「……性格が反転するって……裏返るっていうこと?」
「ええ。何かのきっかけでその人の道徳観念というか、物の優先度という天秤が逆になってしまうんです」
「それは心の病、とも言えるものかもしれない。
ほら兄さん、覚えてない? お父さまは優しい方でしたが、ときおり人が変わったように冷たくなってしまっていた事を」
「親父が―――?」
……言われてみれば……たしかに、遠野槙久は極端に優しかったり、極端に厳しかったりしていた気がする。
「……よく覚えてないな。翡翠は覚えてる?」
壁際の翡翠を見る。
―――と。
翡翠は、何かに耐えるように俯いて、俺の声が聞こえていないようだった。
「秋葉さま、あんまり極端なお話はしないでください。槙久さまは躁鬱の気が激しかっただけですよ」
と、琥珀さんが銀のトレイにグラスを乗せてやってきた。
「だめですよ、秋葉さま。亡くなられた方のことを悪く言っては。そうでなくても槙久さまは秋葉さまのお父上なんですから」
「わ、わかってます……! あなたに言われるまでもありません……!」
翡翠に続いて秋葉まで押し黙ってしまった。
「はい志貴さん、お待たせしました」
レモンスカッシュをそそいだグラスをテーブルに置く琥珀さん。
「どうも、いただきます」
ストローをさして、冷たい液体を飲み込む。
……それきり、翡翠と秋葉が口をひらく事はなかった。
朝の居間で元気なのは琥珀さんだけ。
……暗くなってしまった理由こそ分からないものの、親父の話が原因だという事だけは、はっきりと実感できた。
「それでは行ってらっしゃいませ、志貴さま」
「ああ、行ってくるけど……翡翠」
「……はい、なんでしょうか志貴さま」
「さっきの話。親父のことが出たとたん、翡翠は黙りこんだだろ。翡翠だけじゃなくて、自分から話しておいて秋葉も黙り込んじまった」
「なあ。俺がいなかった八年の間、親父に何かあったのか? さっきの翡翠と秋葉は普通じゃなかっただろ」
「……………………」
翡翠は答えない。
「……そっか。ま、無理に聞こうとは思わないよ。機会があったら話してくれ」
「―――いえ。あれは志貴さまには関係のない事です。
「志貴さま。これからこのお屋敷で暮らすのなら、二度と槙久さまの事は口にしないでください」
一瞬、火のような目をして、翡翠は屋敷へと戻っていった。
―――昼休みになった。
有彦はいつものように学校を休んでいる。
「……学食にいくか」
一人で昼飯を食べても塞ぎこむだけだ。
生徒たちでごったがえしている食堂に行けば、余計な事を考えなくてもすむだろう。
予想通り、食堂は派手に賑わっていた。
何十人という行列に並んで、手堅いA定食を買ってテーブルにつく。
生徒たちの話し声がやかましいおかげで、とりあえず食事に専念できた。
黙々とフォークを動かして栄養を摂取する。
――――と。
一瞬、なにかイヤな映像が見えた。
「……? テレビの映像かな」
食堂の奥にでーん、と鎮座する大型テレビを眺める。
うちの学校はその日の朝のニュースを録画しておいて、昼休みに食堂で流すという紙一重のサービスを実施している。
今日も今日とて数時間遅れのニュースを映し出しているテレビをぼんやりと眺める。
「――――うそ」
そのニュースを見て、愕然とした。
テレビに映し出されているのは、昨日、夢でみたあの路地裏だった。
ニュースキャスターが喋っている。
画面には大きく、吸血鬼殺人・九人目の犠牲者、なんていう血文字のテロップ。
そのあとに、今回の被害者の顔が映し出された。
長い髪をしたその女性は、たしかに、夢の中で自分が殺した相手だった。
「―――――――――」
一瞬。気が、遠くなったような。
「なん………で?」
アレは夢だ。間違いなく夢だった。
なのに実際夢と同じ人間が、同じ場所で、同じように殺されてしまっている。
「…………吸血鬼は、もう、いないのに」
弓塚は俺がこの手で殺した。
吸血鬼殺人なんていうものは、もう二度と起こらないはずじゃないのか。
「俺が――――殺した?」
そう、殺した。
弓塚をこの手で刺した時のように。
はあはあと息をあげて、
昨日の夜も見知らぬ女を―――――――
だから言ったでしょう志貴くん?
我慢したって、無駄なんだって。
「うっ―――」
吐き気を堪えて席を立つ。
教室には戻れない。
そのまま街へ走り出していた。
―――夢で見た場所にやってきた。
まわりには警察官が何人かいて、路地裏へは立ち入り禁止のテープがはられていた。
「―――――――同じだ」
たしかに夢の中でここを通った。
―――いや、アレは夢じゃない。
もう、夢だって誤魔化すことなんてできない。
「…………」
ここに長くいても警察の人たちに睨まれるだけだ。
……いまさら学校には戻れないし、今日はこのまま屋敷に戻ろう。
まだ午後二時になったばかりのためか、翡翠はロビーで待ってはいなかった。
「………………」
都合がいいといえば都合がいい。今は誰にも会いたくない。
「……はあ」
大きく息をはいて、ベッドに倒れこんだ。
……本当に、わけが分からない。
人を殺す夢を見る自分。
その通りに起きてしまっている殺人。
こうして普通通りに暮らしている自分。
夢の中で殺人に悦楽していた自分。
――――――一体どっちが。
本当の、遠野志貴なのか。
そんなもの いまさら 言うまでもないだろう?
……また、この声。
さあ 続けようぜ志貴
……頭の中から響いてくる、自分の声。
夜は毎日やってくるんだ
いつか必ず オレたちの望む相手が見つかるってもんだろう……?
「黙れ―――――!」
ベッドから起きあがる。
「はあ……はあ……はあ……」
呼吸が荒い。
たった今。
秋葉の姿を、求めた気がして。
「……はあ……はあ……」
……吐きそうになる。
俺はそんな事これっぽっちも考えていないのに、眠ろうとするとおかしな考えが頭の中にしみこんでくる。
まるで、頭の中にもう一人知らない自分がいるみたいだ。
「…………あ」
そういえば、秋葉も同じような事を言っていた。
あれは―――親父には躁鬱の気があって、極端に人柄が変わっていた、という話だった。……それは今の自分と似たようなことじゃないのか。
……そうだ、俺と親父は親子なんだから、遺伝的にそういうったモノを引き継いでしまっていてもおかしくはない。
「親父の部屋、まだ昔のままだったな……」
父親の部屋に行く。
親父の部屋は当時のままだ。
並べられた書籍はその大部分が学術書で、これといって興味を引くものはない。
今の自分がほしいものは親父の日記や手記だ。
几帳面だった親父のことだから、まず間違いなくそういった類のものを遺していると思うんだけど――・
「……さすがに目の届く場所には見あたらないか」 あるとしたら鍵のかかった所か。
机の引き出しあたりを、とりあえず見てみよう。
親父の机にあったペーパーナイフを使って、引き出しの鍵の『線』を切る。
机の中には紙を紐で束ねた古い記録書と、手記らしい本だった。
まず古い記録書に目を通す。
「……これ、うちの家系図かな」
間違いない。
遠野マキヒサの後には遠野シキ、遠野アキハという名前がある。
「え……親父のヤツ、十年前に養子をとってる。……あ、けどすぐに病死してるのか」
十年前っていえば、俺が小学一年生の頃だ。
そんな大昔のことなら、覚えていないのも当然か。
「ふうん……うちの当主ってわりと短命なんだな。 親父も五十前に病死してるし、その前は三十歳の時に事故死、か。……その前は十八歳で、自殺してる―――」
――――いや、待て。
いくらなんでも、これは、おかしい。
しっかりと家系図に目を通すと、遠野家の人間はみな異状な死に方をしていた。
発狂死。事故死。他殺。行方不明。死産。
……誰一人として、寿命で静かに他界したものがいない。
「な…………」
その一連の記録は、呪われてるとしかいいようのない。
とくに、その大半の死因は発狂。
遠野の人間は、その大部分が自らの命を断つことで他界してしまっている。
「おかしい―――おかしいぞ、これ」
だが、一体なにがおかしいのかが解らない。
「……あとは……親父の手記か」
わりと新しい装丁をした手記を手にとる。
――――どくん。
鼓動が響く。
この中身を見てはいけないと、心のどこかで悟っている。
けど、いまさら戻れない。
ごくりと唾を飲みこんで、親父の手記を開いた。
――――――遠野の血筋には魔が宿る。!w1500
書き出し文は、そういった類のものだった。
それは、比喩ではない。
遠野の祖先は本当に『人間でないモノ』との混血で、子孫にあたる自分たちにも、その『人間でないモノ』の血が混ざっている、という事だった。
血は。
濃い者と薄い者に分かれる。
血が薄い者なら普通の人間として問題なく暮らしていけるが、濃い者であるのなら、人間として生きていく事はできない。
遠野の血が濃い者は、すべからく特別な力を身体に宿して生まれてくる。
それは死ににくい体であったり、
手を使わず物を動かす力であったり、
他人から体液を搾取する牙であったりした。
この血。
この血が濃く現れだした遠野の人間は、段々と理性を失っていく。
そうして理性を失ってしまった遠野の人間はその大部分が人を食う悪鬼になりはてる。
故に、遠野の当主は、そうなってしまった同族を処罰する責任があるという。
「――――――――は」
……どうかしてる。
親父は、なにを。
夢物語みたいなことを、こんなに真面目に書き記しているんだろうか。
手記は、いつのまにか親父の語りに移り変わっていた。
日付はおよそ九年前。
手記には乱れた文字が続いている。
……ついに自分の血の昂ぶりが抑えられなくなってきた。
共感者の一族の孤児を手に入れ、自らの意志を強化したところで、それもいずれは効かなくなるだろう。私が私でいられる時間は、あと僅かなものかもしれない。
……恐ろしくなる。
気がつけば、一日の半分がまったく記憶にない。
私は、私の知らないところで、自身の反転している衝動をあの子供に押し付けてしまっている。
このままでは。
いずれ完全に理性をなくして、ただのケモノに成り果てるだろう。
私が私としていられる時間はあとどれほど残っているのか。
いや、あの子供がいればあと数年は保つだろう。
だがあの子供のほうは私の行為に耐えきれまい。 おそらく、あの子供が壊れた後、私は自らの手で自分の命を絶たなければなるまい。
だがそれまでは―――私は子供たちを守らなければならない。
アキハの血は薄い。アキハは自分から望まないかぎり、私のようにはならないだろう。
問題はシキだ。
あの子は、私にひどく近い。
せめてあの子だけには、私と同じ苦しみを味わわせたくはない。
……遠野の血が異状な血だというのなら、あの子を遠野という名前から遠ざけて、様子を見るしかないだろう―――――
「―――――――――」
読み終わって、愕然とした。
親父の手記の内容は、あまりに非現実すぎていて、気味が悪い。
親父は躁鬱が激しかったわけじゃない。
ただ、自分でも分からないうちに凶暴になっていただけだ。
今の―――遠野志貴と同じように。
「……いや」
違うか。
親父が俺と同じなんじゃない。
俺が、親父と同じなんだ。
それを恐れて親父は俺を屋敷から出した。
けど俺は屋敷に戻ってきて、今まで眠っていた遠野の血とやらが目覚めてしまったとでもいうのか。
「はっ……バカげてる、そんな話」
笑おうとして、笑い声さえあげられなかった。
遠野の人間には人間ではない血が混ざっている。
遠野の人間には特別な力がある。
……それが、もう笑いとばせない。
人と違う力。そんなバカげた力なら、俺は八年も前から持ってしまっている。
モノの死が視えるなんていう、この異状な眼。
「ぐ………………………」
――――――吐き気がする。
とてもじゃないけど立っていられない。
早く。
早く部屋に戻って眠らないと、頭がどうにかしてしまいそうだった。
「志貴さま、お帰りになられているのですか?」
……翡翠みたいな声が聞こえる。
「志貴さま、失礼します」
……翡翠が部屋に入ってきた。
「申し訳ございません。志貴さまがお帰りなっていた事に気付かず、お出迎えが遅れてしまいました」
「……いや、いいんだ。俺のほうがかってに早く帰ってきたんだから。それより翡翠、悪いんだけどしばらく一人にしてくれないか。今は人と話せる気分じゃないんだ」
「志貴さま、お気分が優れないのですか……?」
「―――さあ。自分でもよく解らない」
「…………………」
翡翠はこっちの体を気遣うような目を向けてくる。
……くそ、俺は何をしているんだろう。
翡翠は俺の心配をしてくれているのに、翡翠にヤツ当たりしても仕方がないだろう……!
「……ごめん。たしかに体調が悪いんだ。その、夕食まで眠りたいんだけど、何か薬とかあるかな。頭痛薬があれば一番いいんだけど」
「はい、それではお持ちしいたします」
「お待たせいたしました。どうぞ、お飲みください」
「ありがとう。いつもすまない」
翡翠の持ってきてくれた水と、粉末薬の入った包みを手に取る。
包みはなぜか二つあった。
「あれ、二つあるんだけど、これってなに?」
「はい、姉に志貴さまの具合が悪いと相談したところ、志貴さまの主治医から指示されていた安定剤を分けていただきました。
そちらの包み睡眠薬だそうです。ベンゾジアゼピン系のものだから、仮眠をとるには安全性が高いと言っていましたけど」
「…………?」
琥珀さんは頼りになるけど、そういう専門的な単語を翡翠に言いつけるのも問題ありだ。
「……あれかな、琥珀さんは将来薬剤師になるのかな」
言いつつ、二つの薬を飲む。
水で薬を喉に流し込む。
と、本当に即効性なのか、ほどなくして眠気がやってきてくれた。
「……それじゃ少し眠るから。夕食になったら起こしてくれ」
「はい。それでは失礼します」
翡翠が去っていく。
くらり、と意識がかすんでいく。
……少し、眠ろう。
まだ外は明るい。
この時間になら―――あんな、たちの悪い夢は見ないハズだろうから―――
「それでは失礼します。おやすみなさいませ、志貴さま」
ふかぶかと一礼して翡翠は退室していった。
「ん……ふぁ〜あ」
……まだかすかに眠い。
琥珀さんのくれた睡眠薬はわりと後をひいて、夕食はぼーっとしている合間に終わってしまった。
時刻はまだ夜の九時を過ぎたばかりだ。
すでに仮眠をとったこともあるし、眠るには早すぎる。
十時になって、屋敷の明かりが落ちた。
「……さて、どうしたものかな」
冷静に呟いてみるが、自分には何をするべきかさえまだ解っていない。
……俺が見る夢はなんなのか。
親父のように、自分で知らないうちにかってに歩きまわって、本当に人を殺してしまっているのか。
……いや、それはやっぱり違う気がする。
そもそも俺が屋敷を抜け出して夜の街を徘徊していたら、琥珀さんや翡翠がまっさきに気がつくはずだ。
夢の中で、あれだけ体が血に濡れていたのに、目が覚めればきちんとベッドで眠っている事も説明がつかない。
「…………はっきりさせる方法は一つぐらいか」
そう、全てをはっきりさせるのなら――
夜の街に出てみる。
―――夜の街を歩いて、通り魔殺人の犯人を見つける。
そうすれば、自分の見た夢が本当に夢だと証明される筈だ。
だって、実際に殺人鬼を見つけてしまえば。
街で起きている事件は全て、その殺人鬼の仕業に違いないんだから。
「………よし」
用心のためにナイフをポケットにしまって、行動を開始した。
―――――夜の街に出た。
通り魔……殺人鬼を探す手段なんてない。
自分にできる事といったら、街を徘徊して怪しい人物を探すか―――自分自身をおとりにして、殺人鬼に狙ってもらうぐらいしかない。
「………………」
弓塚との事があって、俺の危機感は麻痺してしまっているんだろうか。
たかだか人間の殺人犯が相手なら、そう緊張する事なく、ぶらぶらと夜の街を歩いていられた。
あてもなく徘徊する。
時刻は、じき午後十一時になろうとしている。
……怪しい人物は見当たらない。
時刻は、すでに午前零時を過ぎてしまっている。
……こんなところに来ても仕方がない。
……くそ。それらしい人影は見当たらない。
「はあ……はあ……はあ……はあ」
――――――イライラしてくる。
どうしてこう、それらしいヤツが出てこないのか。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
ポケットの中につっこんだ手は、もう我慢できずにナイフの柄を握っている。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもない。
あいつでもな――――――――
「―――――え」
一瞬、血走った目をした男の顔が見えた。
……なんていう事はない。
それは、ショーウィンドウに映った、自分の顔そのものだった。
「――――――――」
なんて―――――愚かさ。
ナイフを握り締めて。
はあはあと息を乱して。
俺は、夢の中の殺人鬼とまったく同じ事を、無意識のうちにやっている、なんて。
「ちが――――――!」
違う。こんな事を、したかったんじゃない。
「くそ……なにやってるんだ、俺は…………!」
……ほんとうに、なにをやっているんだろう。
あのまま自分の顔に気がつかなかったら、俺は本当に―――誰でもいいから、通りがかった人間を。
殺人鬼と決めつけて、ナイフをつきつけていたかも、しれない、なんて。
「っ―――――――――」
駆け出した。
ここにはいられない。
こんな方法じゃ何もわからない。
俺は―――どうか、してしまっている―――
はあ――――はあ――――はあ―――・
逃げ込むように部屋に戻って、ベッドに倒れこんだ。
「くっ…………!」
結局、何も解決できない。
……眠気がやってくる。
俺にできる事といったら、夢さえ見ないように深く眠ろう、と努力する事だけだった。
「ハア―――ハア――――ハア」
誰かに、見られている気がする。
オレは。
ぎょろぎょろと血走った目で、道行く人間を見定めている。
―――時間が時間のせいか。
昨夜に比べて、人通りはまったくない。
……誰かに、見られている。
見付からない。
今夜も、目当ての人物は見付からない。
イライラ する
「ハア―――ハア―――ハア――――」
場所を変えよう。
今夜は、街はやめだ。
屋根から屋根を伝って、ごちゃごちゃとしたところに出た。
……一際高い家の屋根から、道を見渡す。
みるな
「――――いた」
通りを一人きりで歩いている。
女だ。
今度こそ間違いなく
アキハだったら、いい。
オレを みるな
いや、別にそうでなくてもいい。
もう一度。
もう一度、あのカンカクを味わいたい――――
後ろから、できるだけ体をキズつけないように、殺した。
髪を握って、ずるずるとアキハのカラダを引きずっていく。
「ハア――――ハア――――ハア」
アキハの首筋にかじりついて、血を吸った。
―――つまらない。
昨夜ほど、今夜のは、面白くなかった。
やっぱりこんな短い髪だと、アキハじゃない。
「……つまらない……!」
頭にくる。
死体をバラバラにしても、ぜんぜん気が晴れない。
ニセモノ。
ニセモノは、頭にくる。
のぞくな
「ハア――――ハア――――ハア――――」
余分な体力を使ってしまった。
じき夜があける。
朝になれば、志貴が目を覚ます。
「今夜は、疲れた。また明日、やろう」
うん、それがいい。そうしよう。
さあ。
朝が来る前に、誰にも気付かれないように、今日は学校に戻らないと――――
●『7/透る爪痕』
● 7days/October 27(Wed.)
目が覚めない。
暗い夢に沈んだまま、目を覚ます気配がない。
―――ゾッとした。
何の理由もなく、さしたる確証もなく。
俺はこのままずっと、夢から覚めないのだと、わかってしまった。
「志貴さま、お時間ですよ。起きてくださらないと学校に遅れてしまいます」
「―――――――――え?」
目の前に翡翠の姿がある。
ここは自分の部屋で、外は呆れかえるぐらいのいい天気だった。
「ひ……すい?」
「おはようございます志貴さま。今朝はいつもよりお時間がおしておりますので、お早く居間においでください」
翡翠はいつも通り、淡々と声をあげる。
「は―――――――ぁ」
それで、何もかも消え去ってくれた。
目が覚めている自分と、確かに鼓動している自分の体を抱きしめる。
……ホッとする。
さっきまでの悪夢が、本当になんていう事はない、ただの悪夢に変わってくれた。
「……よかった。翡翠が起こしてくれなかったら、あのまま、目覚めなかったかもしれない」
「志貴さま……? 体調が優れないのでしたら、どうぞそうおっしゃってください」
「いや、そうじゃないんだ。―――おはよう翡翠。きみがいてくれて、よかった」
「え――――あ、はい。ありがとうございます、志貴さま」
微かに頬を染めて、翡翠は頭をさげてくる。
「いや、そうじゃないんだ。本当にお礼がいいたいのは俺のほう―――――って、もう七時半じゃないか! ごめん、すぐ起きるから先に居間に行っててくれ!」
「はい、それではお待ちしております」
翡翠が退室していくのと同時に、寝巻から学生服に着替える。
ベッドから跳ね起きて、琥珀さんの作ってくれた朝食を少しだけ食べて玄関に出る。
所要時間は実に十分とかかっていない。
「それじゃ行ってくる。またな、翡翠!」
「はい。お帰りをお待ちしております」
「……間に合ったぁ……」
はあ、と息をついて体を休める。
間に合った、といっても校門が閉められる時間に間に合っただけで、ここからさらに教室までスパートをかけないといけない。
「………はぁ」
まだ担任は教室に到着していなかった。
走り通しで荒くなった呼吸を整えながら自分の席に座る。
……教室の様子は、いつもより賑やかだ。
明日が創立記念日で休校なものだから、みんな気分が土曜日になっているのかもしれない。
放課後になった。
学校に残るような用事もないし、屋敷に戻る事にしよう。
「……昨日の夢」
たしかに昨日、ここで人を殺す夢を見た。
自分なりに夢を見ないようにと努力はしたけど、自分自身からは逃げられないという事なのか。
「―――――く」
ぎり、と歯をかみ締める。
弱気になっている自分が情けない。
あれは所詮、夢にすぎないことだ。
たしかにあんな夢を見るのはどうかしてるけど、今はまだ自分は正気のままだと思う。
……親父は親父だ。
遠野の血とやらがどんなものなのか俺は知らない。
ただ、俺がこうしてまだマトモでいられるうちは、秋葉たちに迷惑をかけたくない。
できるだけ普通に、今まで通りに振る舞いながら、なんとか解決策を見つけるしかないだろう―――
「お帰りなさいませ、志貴さま」
玄関を開けるなり、翡翠が丁寧に出迎えてくれる。
「ただいま。すぐ部屋に戻るから、翡翠は自分の仕事に戻っていいよ」
「はい。では居間の掃除に戻りますので、何かご用がおありでしたらお声をかけてください」
「……翡翠は居間の掃除、か……」
琥珀さんの姿が見えないけど、裏庭の掃除か買い物に出ているんだろう。
秋葉もまだ帰ってきていないようだし、いったん部屋に戻ろう。
鞄を置いて私服に着替える。
そのままぼんやりと部屋で過ごすこと一時間弱。
いきなり、ぐるうううう、なんていう音を聞いた。
不気味な音は、なんていう事はない。
正真正銘、自分の腹の虫である。
「……そっか。朝から満足な食事をとってなかったんだっけ」
朝は遅刻寸前という事で、琥珀さんの作ってくれた朝食も舐める程度にしか食べていなかった。
そのあと学校で昼食をとろうとも思ったが、昨日の食堂の一件を思い出したとたん食欲がなくなって、結局なにも食べていない。
「……夕食前になんか軽いものでも作ってもらえないかな……」
……余分な仕事を増やしてしまって申し訳ないけど、空腹なものは空腹なのだ。
ここは――
翡翠にお願いしてみる。
……その、ダメでもともとで翡翠にお願いしてみたりしたらどうなるだろう。
「……居間にいるんだっけ、翡翠」
ちょっとワクワクしてきた。
善は急げ、さっそく翡翠にお願いしてみよう。
「お断りします」
きっかり一秒もかけず。
翡翠はすごいカウンターで、こっちの思考をノックアウトしてくれた。
「そ……そうか。翡翠は忙しいもんな」
倒れそうになる体をなんとか支えながら、敗残兵のように撤退していく。
「悪かった。どうか、仕事を続けてください」
よろよろとロビーのほうへ立ち去っていく。
「あ……いえ、お待ちください志貴さま。
その……決して志貴さまにお食事をお作りするのが嫌だというわけではなくて、その……」
「え………?」
思わず振り返る。
と――・
そこには、なんだか妙にかわいい翡翠がいた。
「その、志貴さまは姉さんの食事になれてしまっていますから、わたしの作ったものなんてとてもお口に合わないと思って……」
もじもじと、言いにくそうに翡翠は言葉を続ける。
「ですから、もう少しわたしの技術が向上した時に召し上がっていただきたいのです、けど」
「―――――――」
な……なんて、ことを言ってくるんだろう、翡翠は。
さっきの『お断りします』もすごい衝撃だったけど、あんなもの今の翡翠に比べれば軽いジャブだ。
「な、なに言ってるんだよ翡翠! その、翡翠が作ってくれたものならなんでも食べるから、そんなコト気にしないでいいんだって!」
「…………いえ、そういうわけには参りません。どうか志貴さま、食事に関しては姉さんにお申しつけくださいませ」
「……いや、俺は翡翠のがいい。琥珀さんに頼むなら初めから琥珀さんのところに行ってる。
俺は、その―――翡翠に作ってもらいたくて、お願いにきたんじゃないか」
翡翠は俺を見つめてくるだけで、何も返答してくれない。
「…………む」
こうなったらこっちも意地だ。翡翠が作ってくれるまで居間に居続けてやる……!
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………」
「………………………………」
「……………………………………」
「…………………………………………」
「………………………………………………」
「……………………………………………………」
なんともいえない睨み合いが続く。
……おかしいな。
一体いつから、どうして、こんなコトになっちゃったんだろ?
「……わかりました。わたしでいいのでしたら、作らせていただきます」
「―――! やった、ほんとだな翡翠!」
「はい。ですが口にされたあと、後悔されてもしりませんから」
「え………?」
なんか空恐ろしいことを言って、翡翠は台所に向かっていった。
「――――――ふ。ふふ、ふふふふふ」
嬉しくて笑いがこみあげてくる。
壁一枚隔てた台所で、翡翠が俺のために料理をしてくれているかと思うと、つい口がにやけてしまう。
そりゃあ琥珀さんには毎日作ってもらっているけど、琥珀さんの場合はあんまりにもテキパキしすぎていて、『琥珀』という別の料理人がいるみたいでかしこまってしまう。
反面、翡翠は今まで料理らしきものは作っていなかったという事もあって、なんだか妙にドキドキしてしまう。
「……琥珀さん曰く、翡翠は料理ベタだっていう話だけど……」
まあ、それでも食べられないようなモノはでてこないだろう。
人並みの味覚があるんなら、食べられない料理なんていうものは普通どうあっても作れないものなんだから。
……。
…………。
…………………。
…………………………。
…………………………………。
……………………………………それにしても。
ちょっと、時間がかかりすぎかな。
「きゃっ――!?」
―――と。
台所から、ガタン、と大きな音が聞こえてきた。
「翡翠!?」
「どうした、なにかあったのか翡翠!?」
台所にかけこむ。
「――――あ」
入って、ちょっと引いた。
翡翠はものすごいご馳走でも作るつもりだったのか、台という台にこれでもかっていうぐらい食材が並んでいる。
まな板の上には墓標かどこかの聖剣のように包丁が突き刺さっているし、コンロには黒煙をあげているフライパンがあったりする。
「あ……と、翡翠?」
「……………………」
翡翠は恥ずかしそうにうつむいたままだ。
「あの、翡翠。俺は別に軽いものでよかったんだけど。ほら、簡単なところでホットケーキとか、そういうの」
「……お言葉ですが志貴さま。ホットケーキは、簡単ではありません」
きっ、と心底からの本心で翡翠は言い返してくる。
……まいった。これは本当に、翡翠に料理というのは鬼門なのかもしれな―――
「翡翠。ちょっと、手を見せて」
「え……手を、ですか」
翡翠は遠慮がちに手を見せる。
「やっぱり。指、切っちゃってるじゃないか」
「……はい。すみません、満足な料理一つ作れず、こんな無様な姿までお見せしてしまいまして……」
「ばか、そんなコト言いたいんじゃない。ケガをしたんなら、無理なんかしないで―――」
無理なんかしないで、すぐに手当てをしないといけないのに。
「……志貴さま?」
翡翠の白い指先が、真っ赤に染まっている。
とろり、と瑞々しく朱に濡れた翡翠の指先。
「―――酷いな。けっこう深い傷じゃないか、これ」
言って、翡翠の腕を取る。
「っ――――!」
びくり、と震える翡翠の体。
それにも気付かないで、ただ、翡翠のキズをどうにかしてあげたかった。
「あ――――」
翡翠の声。
―――よく聞こえない。
ただ子供の時みたいに、傷口を舐めて血をふき取る。
「………志貴、さま」
―――細い指。
赤い血は、翡翠の白い指には似合わない。
だからキレイにしてあげようと、思っただけ。
「……おやめください、志貴、さま……」
―――なんで、だろう。
翡翠の血は、すごく―――
「………………あ」
―――――あまい。
翡翠の血は甘くて、ただこうしているだけで、体が熱くなって、なんだか―――
「…………………」
―――声が聞こえない。
視線を上げれば、そこに翡翠の顔があった。
赤く染まった頬。深い碧色の瞳。
……昔。すごく間近にあった、赤い髪。
「――――っ!」
翡翠から離れる。
俺は―――いま、なにを――・
翡翠はうつむいたまま、ぴくりとも動かない。
「…………あ」
俺は―――異性に触れられるのを嫌っている翡翠の指を舐めて、それだけじゃなく――――翡翠の血を、あんなに長く、吸っていた、のか。
「……ごめん。俺、まともじゃない―――」
本当にまともじゃない。
夢の中だけじゃなかったのか。
誰かの血をうまいと感じるなんて、そんなことは夢の中だけじゃなかったのか―――
「……志貴さまはわたしの傷を気遣ってくれただけです。謝られる必要なんて、ありません」
「―――ちがう、俺は―――」
―――だめだ、翡翠の顔を見れない。
さっきの血の味が残っている。
翡翠の指の感触が、忘れられない。
「―――すまない。自分でいいだした事だけど、食事はもういい。部屋に戻るから―――少し、一人にさせてくれ」
翡翠は何も言わない。
その無言の圧力から逃げるように、自分の部屋にむかって駆け出した。
夕食が終わって、居間で食後のお茶を飲む。
……優雅にお茶を飲んでいる精神状態じゃないんだけど、秋葉や琥珀さんに誘われては断れるハズがない。
琥珀さんの淹れてくれた紅茶を飲みながら、秋葉と琥珀さんの会話を聞いている。
「ところで兄さん、年末のことなんだけど」
なんて、いきなり秋葉がこっちに話を向けてきた。
「年末のことって、気が早いんだな秋葉。まだ暦は十月だよ」
「何いってるんですか、もうじき十一月になるでしょう。十二月になればあっという間に冬休みになってしまうんですから、今のうちから予定を立てておかないと」
「……ふーん。まあいいけど、秋葉たちはどうするんだ? 俺は年明けはいつも決まってるんだけど―――」
「ええ、有間のおばさまから聞いています。なんでも兄さんは長い休みになるとご友人の家に泊まりこんで家に帰ってこないとか」
じっ、と何かいいたげな流し目をしてくる秋葉。
……うっ。なんでそんな事まで知っているんだろう、こいつは。
「……いいだろ、休みをどう使おうが人の勝手じゃないか。別に秋葉たちに迷惑はかけないんだから、ほっといてくれ」
「あら、志貴さんは旅行に行かれないんですか?」
「……あのですね。俺は一介の学生なんですから、旅行に行くほどお金は持っていません。そりゃあアルバイトぐらいはしたいんだけど―――」
「兄さん。遠野家の長男がアルバイトなんてしたらどうなるか解っているんでしょうね」
「ほら、ここにこういう鬼教官がいるから学生らしい遊びはできないんです、琥珀さん」
「まあ、それは仕方ありませんね。けど志貴さん、本当にご旅行にはいかれないんですか? せっかく秋葉さまと志貴さん、わたしと翡翠ちゃんで予約をとってあるのに」
「え―――予約って、どこの……?」
「ですから冬に行く旅行のホテルのです。志貴さんは和風びいきだから、今年は国内にしたんですよね、秋葉さま」
「い、言い出したのは琥珀のほうでしょう。私はただ賛成しただけですっ」
ふん、と視線を逸らす秋葉。
「はい、そういう事にしておきますね。とまあ、こういうワケですから年末は空けておいてください、志貴さん。
翡翠ちゃんも志貴さんが行くのなら外に出ていいって承諾してくれたんですから。
わかってます? 翡翠ちゃんが旅行に行くのなんて初めてなんですよ? いつもお留守番ばっかりで、お屋敷から出ようとしないんですから」
「………………」
……その、いきなりそんな事を言われても、困る。
家族で旅行に行くなんて、考えてみれば今まで一度もなかったから、その―――
「な、なんですか兄さん。べ、べつに無理強いはしませんから、他に用事があるんでしたらどうぞお断りください」
「いや、一緒に行くよ。だいたい秋葉の誘いを蹴っ日には、後でどんな報復が待っているかわからないもんな」
「だから、私の提案じゃないってさっきから言ってるじゃない……! 私は別に、その……一人でもかまわないんだから」
「ああ、そういう事にしとこう。とにかくサンキュ。……たしかに、みんなでどこかに行くのも楽しそうだ」
「……感謝される謂れなんてありません。家族で旅行に行くのは当たり前の事なんだからっ」
ふい、と顔を背ける秋葉。
それきりこれといった話題もなく、食後のお茶会はまったりと終わってしまった。
就寝時間になった。
……さっきの居間での会話のおかげか、気持ちは少しだけ楽になっている。
「……年末に旅行、か」
このメンバーでどんな旅行になるのか想像もつかないけど、まあ楽しい旅になることは間違いないだろう。
「―――――ふう」
大きく深呼吸をして、ベッドにもぐりこむ。
せめて、今夜ぐらいは。
あんな夢を見ないようにと、祈りながら瞼を閉じた。
……暗いところにいる。
雲が出ているのか。
今夜は、月明かりがなく、あたりが見えない。
――ハア――――ハア―――――ハア―――
息遣いが反響する。
今夜は人を殺しにはいかない。
そのかわりに、人形を壊している。
――ハア――――ハア―――――ハア―――
腕を掴む。もぎとれてもかまわないので、力の加減などしない。
引きずるように体を引いて、人形を犯しつづける。
――ハア――――ハア―――――ハア――・
コイツにも飽きた。
なにをしても悲鳴さえあげないコイツには、何も感じない。
……風が吹いた。
わずかに、雲が動く。
夜の教室。
そこに、美しい人形がいた。
人形は何も喋らない。
自分から動くことさえしない。
――ハア――――ハア―――――ハア―――
人形の目は、オレを見ていない。
虚ろな目に映っているのは月だけか。
――――――このガラクタ。頭にくる。
「―――もうすぐだ」
ぴくり、と人形の眉が動いた。
「―――もうすぐ殺してやる」
凍っていた頬に紅がさしこむ。
「―――もうすぐオレが戻ってやる」
おまえを殺して オレが 表に 出てやる
「―――そうすればオマエも用済みだ」
ハハ、それはおかしい。
「――ハア――ハア―――ハア――」
呼吸が乱れる。
「ハア――――――――ハハ、ハハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハあハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハはハハハハハハハハハハハハはハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ・
ハハハハハハハハ!」
眩病のなか、嗤い声が反響する。
●『8/「死」。』
● 8days/October 28(Thur.)
「――――――」
目が覚めると、もう時刻は十時になっていた。
「……そっか。学校は休みだっけ」
ベッドから体を起こす。
たまらず、寝巻のまま廊下に出た。
洗面所まで走って、嘔吐した。
「うっ―――ぐっ、あ…………!」
胃の中のものを吐いても吐いても、胸のむかつきは治まらない。
昨夜の夢。
ある意味、殺人の夢なんかより、もっと最悪な、夢。
「はっ―――ぁ、あ―――」
俺は―――秋葉だけじゃなく、翡翠や琥珀さんさえ、汚してしまった。
あんな夢を。
翡翠とも琥珀さんともとれない誰かを、一晩中犯し続ける夢を見るなんて。
「………は…………あ」
何も吐き出すものがなくなって、ようやく喉の痙攣が止まった。
ロビーに出ると、翡翠がなにやら作業をしていた。
模様替えだろうか、見なれない椅子をロビーに運んでいる。
「……………く」
眩暈がする。
今は―――まともに翡翠の顔が見られない。
けど、このまま無視して部屋に戻るのは、もっと耐えられない。
いつものように翡翠に起こしてもらっていたのなら、少しは―――この胸のむかつきも和らいでくれただろうし。
「……翡翠」
翡翠は俺に気がついたのか、トツトツと静かな足取りでやってくる。
「おはようございます、志貴さま」
「……ああ、おはよう。わるいね、自分かってな時間に起きちゃって」
「こちらこそ、お目覚めの時にお傍にいられず、申し訳ございません」
翡翠はスッ、と音もなく頭をさげる。
……無表情な翡翠。昨夜の夢を思い出しそうになって、後ろめたい。
「……いや、翡翠が謝る必要なんかない。決まった時間に起きないこっちが悪いんだから、翡翠は、俺に文句の一つでも言ってくれたほうが、いい」
……そうしてくれれば、少しは楽になれる。
「志貴さま……?」
でも、そんなのはこっちのかってな都合だ。
げんに、俺の言葉で翡翠は気に病んでしまっている。
「なんでもない、今のは忘れてくれ。……それより朝飯にしたいんだけど、朝食の準備って出来てる?」
「……姉さんは外に出ています。志貴さまのご朝食でしたら、食堂のほうにすでに用意されておりますが」
「そっか。それじゃあ有り難くいただいてくる。仕事中、呼び止めて悪かったね」
それじゃまた後で、と声をかけて食堂に向かった。
自室に戻ってはみたが、とりあえずやるべき事がない。
眠るのはもうこりごりだ。
何をしたものかとしばらく考えこんだあげく、八年ぶりに屋敷の中を散歩する事にした。
ロビーにおりてきた。
なんとなく、子供のころの思い出を確かめる為に、のんびりと屋敷の中を歩き始める。
廊下は長く延びている。
子供のころは、この廊下がどこまでも続いているんだって信じて疑わなかった。
屋敷は城のように広くて、毎日少しずつ歩き回っては壁や柱、床に自分の名前を刻み付けた。
当時、秋葉との遊びで陣地取りみたいなゲームが流行ったせいだ。
名前を刻んだところが自分の領地だ、なんていって二人で屋敷じゅう歩き回っては、自分の名前を刻んでいったんだっけ。
「……あった」
階段の手すりにシキという名前が刻まれている。
父親が屋敷の中で遊ぶのを禁じたのは、案外この遊びのせいかもしれない。
ともかく注意深くして見れば、そこかしこに自分と秋葉の名前が刻まれている。
外に出る。
……そういえば、秋葉と遊ぶのはたいていが庭でだったっけ。
秋葉は俺と違って親父の言いつけを守っていたから、一日に三十分ぐらいしか遊ぶ事ができなかった。
だっていうのにやる事といったら俺たちの後ろについてきて、じっと言うことを聞いているだけだった。
それでも、いざ遊び出せば元気に走り回って、何をするにしても俺たちと勝ち負けを競りあっていたんだ。
「……なんだ。あいつ、昔っから今の性格の下地はあったんじゃないか」
親父の手前、猫を五、六匹かぶっていたのかもしれない。
屋敷の壁にはまた名前が刻まれていた。
志貴、志貴、秋葉、シキ、秋葉、シキ、秋葉、志貴、志貴、シキ、志貴。
割合的にはこんなところで、さすがにシキという名前のほうが多い。
なんだかんだいっても秋葉は女の子で、男の子であるこっちの行動範囲には敵わなかったということだろう。
「琥珀さん……?」
裏庭にやってくると、ちょうど琥珀さんの後ろ姿が目に入った。
琥珀さんはこちらに気づいていない。
何をしにいくのか、森の中に入っていく。
「?」
興味をひかれて、少しだけ後についていった。
――――と。
琥珀さんが歩いていった先には、ちょっとした広場があるようだった。
「………あんなところに広場なんて……」
首をかしげて思い出そうとしてみるが、どうも記憶はあいまいだ。
屋敷の森の中、木々を切り取ったような広場が見える。
―――いや、見えるというのは正しくない。
普通に歩いている分には決して見えなかったはずだ。
琥珀さんがあそこに歩いて行かなければ、屋敷に住んでいながら一生気づかなかったぐらい隠れた、木々に囲まれた小さな広場。
「……おかしいな。あんな所に広場があったなんて、覚えてないけど」
少なくとも森の中の広場で秋葉と遊んだ記憶はない。
――――ない、ような、気が、する。
「…………」
少しだけ思案してから、その広場に入ってみることにした。
……広場には特別なにもない。
先に入っていった琥珀さんの姿もない。
「なんだ―――ただの空き地じゃないか」
広場の真ん中へ歩いていく。
広場は本当に、なんていうことはない空き地だった。
きれいにまったいらにされた土の地面と、
まわりを囲む深い森の木々。
蝉の声と。
溶けるような、強い、夏の陽射し――――――
「え…………?」
夏の、陽射し―――?
「い――――痛ぅ…………」
胸の傷が痛む。
まるで /   ざくりと。
包丁で胸を刺された   /  ような /  この痛み。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん――――・
――――どこかで、蝉の声がしている。
今はもう、秋なのに。
――――白く溶けてしまいそうな夏の陽射し。
遠くのそらには入道雲。
見えるのは空蝉のこえ。
足元には蝉のぬけがら。
ぬけがら。誰かの、ぬけがら。
「―――――――――…………………………」
傷が開く。
胸が真っ赤に染まって、この両手まで赤黒く赫灼と―――――
……うずくまる誰かの影法師。
近寄ってくる幼い少女の足音。
遠くの空には入道雲。空蝉の青いそら。
気がつけば、
目の前には血まみれの秋葉の泣き顔。
みーん、みんみん。
みーん、みんみん。
―――鼓膜を突き破ろうとする、
針みたいな蝉の声。!w750
「あ――――ぐ」
胸がいたい。
吐き気がする。
傷はとうのむかしに塞がっているはずなのに、どうしてこんなにも痛むのか。
胸が 壊れてる。
古傷が開いて セキショクの染みが流れ出す。
―――なんてこと。
俺の傷は、ぜんぜん癒えてなんかいない。
意識が沈む。
傷が痛む。
その、昏睡する直前に、イヤな映像を思い出した。
夏の暑い日。
血まみれの秋葉と、それを見下ろしている自分。
手についている血を舐めとる影。
……影はしだいに自分そのものの顔をした少年になって、愉しそうに、笑っていた―――
……話し声が聞こえてくる。
「秋葉さま、お医者さまをお呼びしないのですか?」
「馬鹿なことは言わないで翡翠。呼べるわけがないでしょう、兄さんの傷は普通の傷じゃないんだから……!」
……あきは と ひすい が話している。
ここは シキの 部屋だ。
どうやら ベッドの上で 眠っている らしい。
よお、と声をあげて起きようとしたけれど、体が思うように動かない。
胸の痛みはもうないくせに、体は鉛のように重い。
満足に動くのは、目と口だけのようだった。
「一体どういうつもりなの翡翠。志貴をあそこに近づけてはいけないって、あなたも知っているでしょうに……!」
「もうしわけ…………ありません」
「謝って済む問題じゃないわ。あなたを兄さん付きの使用人にしたのは、こういう事態を避けるためでしょう? それを忘れて、あなたは何をやっていたっていうのよ……!」
秋葉は普段からでは考えられないぐらい、感情を剥き出しにして怒っている。
対して、叱られている翡翠はうつむいたままずっと黙っていた。
「琥珀は? あの子にも言いつけてあったでしょう? 兄さんから目を離さないでって」
「姉さんは、いません」
「いないって……どういう事?」
翡翠は答えない。
ぎり、と秋葉は歯をならす。
―――いない?
なに言ってるんだ、琥珀さんならさっき、裏庭のほうにいたじゃないか―――
「秋葉さま。もう、やめましょう」
「―――翡翠」
「この人は違います。違う人なんです。この屋敷にいるときっと不幸になる。だから、もうやめましょう」
「そんな話、今は聞きたくないわ」
「いえ、だからこそ申し上げるのです。秋葉さまもお気づきになられているはずです。志貴さまは、このままだと本当の殺人鬼になってしまいます」
――――今。翡翠は、なんて。
「……屋敷にいることで遠野の血が騒いでいるっていうの? それこそまさかよ。兄さんに限って、それだけはありえないもの」
「……そうですね。この人はわたしたちと同じ、槙久様の気紛れで―――」
瞬間。
ぱん、と頬を叩く音が部屋に響いた。
「翡翠。それを口にする事は許さない、といったはずよ」
「…………………」
二人はそれきり黙りこむ。
息がつまりそうなほど張り詰めた空気が、二人の間に充満していた。
……翡翠は辛そうにずっとうつむいている。
秋葉がどうしてそんなに怒っているかは解らないけど、俺は、これ以上翡翠の辛そうな顔を見ていたくない。
「うーん」
なんて、わざとらしく身をよじってみる。
「……翡翠、あとは任せます。兄さんが起きたら、どうか労ってあげて」
「秋葉さまはよろしいのですか?」
「ええ。私がいたら、逆に兄さんの体を弱らせてしまうもの」
どこか自嘲するような苦笑いをのこして、秋葉は部屋から出ていった。
「………………」
さて、俺はこれからどうしよう。
まだ目が覚めていないフリをしていたほうがいいんだろうけど――・
「もう目を開けてよろしいかと思います、志貴さま」
「……なんだ、気がついてたのか。人が悪いな。翡翠」
「はい。秋葉さまはお気づきになられませんでしたが。……昔から、人の芝居を見抜くのが苦手な人ですから」
遠慮がちに翡翠は言う。
「……ふうん。それじゃあ翡翠は敏感なんだ」
「……どうでしょう。一番知りたい人の心が分かりませんから、わたしも自分が思っているほど勘がいい、というわけではないようです」
「そっか」
うなずいて、なんとなく翡翠が言っているのは琥珀さんのことなんだろうな、と直感した。
「……翡翠。さっき言ってたけど、琥珀さんはどこに行ったんだ?」
「……すみません。わたし、姉さんの事はよくしらないんです」
「……………」
なにか、ひっかかる。
けど何がひっかかるのか、今の自分には考えつかなかった。
こうしている間も。
体はだるくて、話すことにさえ体力を使う。
「志貴さま、ご無理をなさっているのではありませんか……?」
「……うん。白状すると、すごくだるい。俺、いったいどうしちゃったんだ?」
「……志貴さまは裏庭で倒れていらしたのです。いつもの貧血とは違っているようで、とにかく秋葉さまに連絡をいれてお部屋にお連れしました」
……倒れた。
裏庭で。
白い陽射しと、空蝉の声。
「――――思い出した。そう、いきなり立ち眩みがしてさ。そのままぐらっといっちまったんだ。
……まいったなあ、こんなの小学校以来だ」
「……お医者さまをお呼びしようともしたのですが、秋葉さまがもう少し様子を見るように、と」
「……ああ、秋葉は正しいよ。こんなのは精神的なものなんだから、医者を呼んでもどうにもならない。で、どのくらい気を失ってたんだ、俺?」
「……志貴さまが倒れているのを見つけたのが昼過ぎでしたから、ちょうど十二時間ほどです」
「な―――もうそんな時間なのか!?」
驚いて時計を見る。
が、体が動かない。
「今は午前零時です。今夜はここでお世話をさせていただきますから、何かありましたら遠慮なくお声をかけてください」
「あ……ああ、それは、頼もしいけど」
―――半日も意識を失っていたなんて、事故にあった時以来だ。
くわえて、半日も眠っていたっていうのに体はまだ眠りたがっている。
「……ごめん。なんか、すごく眠い……」
「それでしたらどうぞお眠りになってください。わたしは廊下で控えさせていただきますから、何かありましたらすぐに」
「……なに……言ってるんだ。看病してくれる人を、廊下になんて居させられないだろ。……頼むから、翡翠は……ここに……」
―――くそ、声が続かない。
ぐらり、と背中から水槽に落ちていくように。
意識は、唐突に途絶えてしまった。
――――――――ふと、夢を見た。
暗い夜だった。
夜半、なにか物音を聞いた気がして目を覚ました。
座敷は無人。
いつのまにか大人たちは出払ってしまったらしい。
一人きりは不安になる。
大人たちがどこに行ったのか確かめるために庭に出た。
それは、冬の凍えるような夜だった。
吐く息が白い。
庭は寒く、反面、夜空は美しかった。
冴え凍える、という表現はこの冬の夜空のためにあるに違いない。
凍る星。深い闇。
世界を照らす、命のない月の光。
子供の自分にとって、屋敷の庭は広すぎる。
庭をすぎれば周囲は森。
山奥にあるこの屋敷は、実のところ人間が住むような環境ではありえなかった。
屋敷は暗い森の中にある。
それは
深海の底でともる、発光魚の明かりに似ていた。
森の闇は深く高く、暗く遠い。
もはや木々というより、月にまで届こうとする黒いカーテンそのものだ。
音がして、大人たちが森の中にいるのだと確信した。
森に中に入っていく。
一切の光源さえない、絶対の闇がそこにある。
自分の体さえ見えない闇の中、ただ音がする方向へ歩いていく。
ただ 寒い。
眼球の奥がしびれてしまう。
その中で、自分の名前を呼ばれた気がした。
葦切りの鳴き声。
ザワザワとゆれる草。
そこで、赤い鬼と出会った。
鬼はこちらには関心がなく。
自分も、その鬼には関心はなかった。
紅。赤。朱。
緋色の海原と化した野原を、越える。
木々が切り取られた広場に出る。
そこには、大人たちの死体が散乱していた。
暗いはずの大地は毒々しい朱に染まって、まるで世界という生き物が流血しているように見える。
――――――それは。
流血する大地には、大人たちを殺した敵がいる。
――――――一番初めの、悪い夢。
敵はこの身さえ殺そうと近寄ってくる。
母は、この身を庇って切り殺された。
――――――顔にかかる、熱い血液。
凍えるような夜の中で。
その、温かさが。
――――――初めて嫌悪した、色。
敵の爪が胸に刺さった。
あまりの寒さに麻痺していたおかげだろう。
痛みは、あまり感じなかった。
――――――天を見る。
世界が醜く溶けていく。
その中で、唯一不変の蒼い闇。
――――――なんて キレイ
それは 硝子のような、儚い月。
ああ───気がつかなかった。
こんやはこんなにも
つきが、きれい────だ─────
●『9/硝る躯T』
● 9days/October 29(Fri.)
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………・
……………………………………………………………………………………………かちり、と静かに扉が閉められる音がして、意識が記憶から乖離していく。
浮上していくココロ。その果てには現実がある。
―――――そうして、旧い夢から目が覚めた。!w2000
「あれ……なんで」
頬にふれて、自分が泣いている事に気がついた。
なにが悲しかったのか、なにが痛かったのか、よく解らない。
ただ、ひどく大切なものから離されたという感覚だけ、胸に残っている。
「悪い夢じゃなかった、のかな」
今まで見ていた殺人の夢とは違っていたと思う。
昨夜は何日かぶりに、よく眠れた夜だった。
それもきっと、翡翠が近くで看ていてくれたからだろう。
「……翡翠?」
体を起こして部屋を見渡す。
翡翠の姿はない。
さっき扉が閉まるような音を聞いた気がするのは、翡翠が出ていったからだろうか。
ともかく朝だ。
今日は金曜日、学校は当然のようにある。
「さて、起きなくっちゃ」
昨日の後遺症か、ベッドから立ちあがると少しだけ吐き気がした。
「着替えは……なんだ、まだ用意してないんだ」
翡翠は学生服を取りに行ったらしい。
それならすぐに戻ってくるだろう。
「……あ……れ」
突然、力を失って前のめりに倒れこんだ。
いつもの眩暈―――なんだけど、立ちあがれない。
腕や足に力が入らない。
なんとか腕は動くものの、自分の体さえ持ち上げられない。
「……ちょっと、うそだろ」
必死になって力をこめる。
だけど動かない。腕立て伏せの一回もできない。
「まいったな……体、まだ本調子じゃないみたいだ」
絨毯に転がったまま、素直に現状を受け入れた。
このまま躍起になって起きあがろうと努力しても、起きあがれないのは明白だ。
別に苦しいというわけでもなし、しばらく横になっていればいずれ体力も戻ってくれるだろう。
「志貴さま、着替えを持ってまいりました」
ガチャリ、とドアが開いて翡翠が入ってくる。
「――――志貴さま!?」
悲鳴のような声と、駆けつけてくる足音。
「志貴さま、しっかりしてください、志貴さま……!」
翡翠は必死に呼びかけてくる。
「やっ、おはよう翡翠。その、倒れただけだからそう心配しないでくれないか」
「倒れただけって―――なにを言ってらっしゃるんですか、志貴さまは……!」
「大丈夫だって。起こしてくれれば、すぐにいつも通りになれるから」
「はい、かしこまりました―――」
即座にうなずいて、翡翠は俺の肩に手を伸ばす。
「あ……」
ぴたり、と翡翠の腕が止まる。
翡翠は緊張した面持ちで、額に汗さえうかべて、必死に腕を伸ばそうと努力している。
けど、それ以上のことはなかった。
翡翠は見ているこっちのほうが辛くなってしまうぐらい、唇を噛んで、必死に俺の体に触れようと努力して、体を震わせている。
「……そっか。いや、無理はしなくていいよ翡翠。琥珀さんを呼んできてくれればそれでいいだろ」
「……………………」
翡翠はこくん、とうなずいて駆け出していった。
「……なんだろうな。翡翠の潔癖症も、なんだか根が深そうだ」
倒れたままで、気楽にそんなコトを呟いた。
琥珀さんはすぐにやってきて、俺に肩を貸してくれた。
……といってもこっちは体に力が入ってくれないものだから、ほとんどが琥珀さんがやってくれた。 俺が脱力しているからなのだろうか、琥珀さんは“志貴さんったら女の子みたいに軽いですねー”なんて言っていた。
「おっかしいな……別段どうってことないんだけど、体が動かない」
「そうですねー、とりあえず熱もないようですし、ちょっと様子を見てみないことにはなんとも言えません。けど顔色もよろしいですし、しばらくすれば回復されると思いますよ」
琥珀さんは笑顔を崩さず、俺の体温を測ったりする。
その笑顔のおかげでこっちも気を楽にできるんだけど……
翡翠はさっきから顔を曇らせたままだった。
今も琥珀さんの背中に隠れるようにして、こっちの様子をちらちらと盗み見ている。
「兄さん……!」
―――と。
血相を変えて、秋葉が部屋に駆けつけて来た。
「やっ。朝から元気がいいんだな、秋葉」
片手をあげて挨拶をする。
「なっ―――」
だっていうのに、秋葉のヤツは人の顔を見た途端、お化けでも見るような驚きかたをしてくれる。
「なんだよ、大げさだな。別にどこもおかしくないんだから、そう恐い顔しないでくれ。なんだかこっちまで心配になってくる」
「それは……そうかもしれません、けど―――」
青い顔をして、秋葉はじっとこっちを見つめてくる。
俺本人はたいした事じゃないってわかってるのに、翡翠と秋葉は遠野志貴がひどい重症だと勘違いしているらしい。
「……そんなにひどい顔してるのかな、いまの俺って」
「そんなことないですよ。志貴さんはいつもどおりです。
ともあれ、まだ体のほうは本調子じゃないようですから、今日一日はゆっくりしていてください。学校には電話をしておきますから」
「……そうね。うちの主治医にも連絡をお願い。一応、精密検査をしてもらいましょう」
「精密検査ねえ……そんな必要はないと思うけどな」
「―――兄さん。精密検査がイヤでしたら、このまま入院してもらいますけど、それでよろしいですか」
「あ……いや、精密検査のほうが、いいです」
「けっこうです。それじゃ琥珀、翡翠。兄さんのことをよろしくお願いします。
この人はご自分の体を気遣えない人だから、その分あなたたちで気遣ってあげて」
散々な言い付けをして、秋葉は部屋から出ていった。
「それではわたしはお電話をしてきますね」
琥珀さんも部屋から出ていった。
残ったのは、寝たきりの自分とうつむいている翡翠だけになる。
「翡翠?」
「……はい、なんでしょうか、志貴さま」
「うん。俺なら大丈夫だから、自分の仕事に戻っていいよ。体も思うように動いてくれないし、ベッドから抜け出して外に出ることなんかないからさ」
「………………」
翡翠はうつむいたまま、一歩も動こうとしない。
「……翡翠? どうしたんだ、さっきから様子がおかしいぞ。気分が悪いんなら、俺になんかかまってないで休んでくれ」
「……………………」
翡翠はますます黙りこんでしまう。
……と。
不意に、意を決したように翡翠は声をあげた。
「……志貴さまは、お怒りでは、ないのですか」
「へ? お怒りって、なにに」
「ですから、先ほどのことです。……わたしは志貴さまのお世話をしなくてはいけないのに、志貴さまを助けることさえできなくて……」
「―――――翡翠」
……驚いた。そんな事を気にしていたなんて、思わなかった。
「たしかに、さっきはちょっとショックだったかな。すぐ翡翠が起こしてくれるかなって期待してたのに、結局は琥珀さんに起こされる事になったし」
「………………」
「けど、そんなのはどうでもいい話だよ。翡翠は気付いてないかもしれないけど、俺はすごく翡翠に助けられてる。それに比べたら、さっきの事なんてほんのご愛嬌なんだから」
「……そう、でしょうか。わたしは少しも志貴さまのお役にたっていないと思います」
「分かってないな。俺がこうして落ち着いていられるのは翡翠のおかげなんだ。……本当にお世辞とかじゃなくて、翡翠がいなかったら俺はとっくにどうかしてたんだから」
「……? わたしが、ですか?」
「そうだよ。俺さ、ここんところずっと情緒不安定でいつも悪い夢を見るんだ。
けど翡翠が毎朝おはようって言ってくれるから、俺はなんとか穏やかでいられてるんだと思う。
―――だから、俺はもう何度も翡翠には助けられてる。今日だって、翡翠が来てくれてすごく嬉しかった」
「え……あ、はい、ありがとうございます」
「ええっと、つまりそういうコトだよ。体になんか触れなくても、翡翠はちゃんと言葉で伝えてきてくれるだろ? それだけで嬉しいことって、いっぱいあると思うよ。だから、翡翠はすごく俺を助けてくれてるんだって」
「あの……ほんとうに、そうでしょうか」
「本当もほんとう。その証拠にね、今朝はまだ朝を迎えたような気になれないんだ。こっちはちゃんと言ったのに、翡翠がまだ言ってくれないから」
「―――――――」
翡翠はおずおずとこちらに視線を向けたあと、小さく、深呼吸をしたように見えた。
「……はい。おはようございます、志貴さま」
かすかに頬を染めて、翡翠はまっすぐな眼差しで言い忘れた言葉を告げてくる。
「そうゆうこと。人間誰にだって向き不向きがあるんだから、あんまり気にする必要はないよ。翡翠は翡翠の出来るコトをしてくれればいいんだから」
「……………」
翡翠は何も答えない。
ただ、じっと何かを考えるようにこっちを見つめてくる。
「あー、その……そう睨まれると緊張するんだけど、翡翠」
「は、はいっ、もうしわけありません」
言って、翡翠は逃げるように扉へと歩いていく。
「それでは失礼します。姉さんが連絡をしてくれたようですから、じきお医者さまがお見えになるでしょう」
いつものふかぶかとしたお辞儀もおざなりに、翡翠はトタトタと足音をたてて退室していった。
精密検査といっても、どうせ血圧とかを測る程度だと楽観していたのが甘かった。
さすがはお金持ちというか常識から外れているっていうか、精密検査にやってきたお医者さんはなにやらとゴテゴテした機械を隣の部屋に持ちこんで、簡易診察室を用意してくれた。
本格的に体中の検査をされて、お医者さんが屋敷を後にしたのが正午すぎ。
俺が琥珀さんに肩をかりて部屋に戻ったのは当然その後で、都合四時間近く拘束されていたことになる。
「…………はあ」
ベッドに横になって、軽くため息をつく。
あれだけ検査をしても異状は見当たらないという事だった。
……まあ、そもそも八年前の事故で命をとりとめた時点で奇跡的だったんだから、お医者さまも原因不明の病状、というものをあっさり受け入れてくれた。
とりあえずの方針として、こうしてベッドで休んでいる事が最適らしい。
点滴をされるのかとも思ったが、異状のない体に薬を投与するのはそれこそ危険なんだそうだ。
「志貴さーん、中に入りますよー」
琥珀さんが入ってきた。
その手にはお盆と、お粥らしきものが見られる。
「朝から何も食べていなかったですからね。遅くなりましたけどお食事をお持ちしました」
「そっか。さんきゅ、琥珀さん」
「いえいえ、これもわたしのお仕事ですから」
琥珀さんは枕元までやってくると、らんらんと鼻歌を歌いながらスプーンを持ったりする。
「あの、琥珀さん?」
「はい、あーんしてください、あーん」
ニコニコ笑顔で、この人はとても恥ずかしいことを強要してきた。
「…………え?」
事態を掴めずに、ぽかんと口をあける。
と、琥珀さんはおかゆをすくったスプーンを冷ましてから、俺の口にスプーンをさしいれた。
―――そのまま、開いているほうの手でもぎゅもぎゅとこっちのアゴを動かしてくる。
「……琥珀さん。その、なんの冗談?」
「冗談じゃないですよ。志貴さんは病人なんですから、お食事をお助けするのは当然じゃないですか」
にっこりと笑顔をうかべて、琥珀さんは第二撃を放ってきた。
「んぐっ―――」
とりあえず、今度は自分の力で咀嚼する。
「はい、よくできました。それじゃこんな感じでいきましょうね志貴さん」
「ちょっ、ちょっと待って琥珀さん……! 病人っていうけど、俺はただの貧血ですってば。こんなふうにしてもらわなくても、食事ぐらいは自分で食べられます……!」
「はい、いいから大人しくしててください。わたし、こういうのは慣れてるんですから」
えっへん、と胸をはって琥珀さんは第三撃を繰り出してくる。
「んっ―――」
強引にスプーンを口にいれられて、仕方なくアゴを動かす。
「お味のほうはどうですか? 有間のお家の方から、志貴さんは梅のおかゆが好物だって聞いたんですけど」
「……はい、たしかにおいしいです」
「よかった。それじゃ遠慮なく食べてくださいね」
琥珀さんはとても楽しそうだ。
「……はあ」
どうも、何を言っても無駄みたいだ。
観念して琥珀さんの看病をうけることにする。
……。
…………。
………………恥ずかしい。
恥ずかしいんだけど、嬉しいことには、まあ変わりはない。
琥珀さんの作ってくれたおかゆは美味しくて、あっというまに食事は終わってしまった。
「ところで志貴さん、お体の調子はどうですか?」
「いや、別に。だるいだけだからいつもの貧血と変わらないよ」
「そうですか。志貴さんは子供のころにもここで大怪我をしているんですから、無理をしちゃだめですよ」
食器を片付けながら、琥珀さんは、そんな事を言った。
「―――琥珀さん。それ、どういう意味?」
「え? どういう意味もなにも、志貴さんは八年前に事故にあって大怪我をしたんでしょう? その養生のために有間の家に預けられたって聞いてますけど?」
「いや、それはそうなんだけど……この屋敷で大怪我なんか俺はしてな―――」
―――いや、そもそも。
俺はどこで、死ぬような事故に巻き込まれたんだろう。
子供のころの大怪我。
死の線が視えるきっかけになった事故。
それは一体どんなもので、
一体どこでそんな事故に巻き込まれたのか、
俺はまったく覚えていない―――
「志貴さん? どうかなさいましたか?」
「え……あ、なんでもないんだ。琥珀さんに聞いても解るわけないよな、そんなこと」
―――けど、昨日かすかに思い出したアレは、
八年前の事故の記憶のような気がする。
あの時―――自分と、秋葉と、あともう一人、誰かいたような気がするんだけど――
「それでは食器を片付けてきますね」
琥珀さんは部屋を出ていこうとする。
「ちょっと待って琥珀さん。昔、琥珀さんと一緒によく遊んだよね。その時に誰か、他にもう一人いなかったっけ?」
琥珀さんは背中を向けたまま、ピタリと立ち止まった。
「わたしと、志貴さんが、いっしょに……?」
くすり、と。
昔を懐かしむような笑いが、冷たく部屋に響いた。
「さあ、気のせいじゃないですか? たまたま翡翠ちゃんが混ざっていただけかもしれないし」
「あ、そっか。そういう事もあるか」
「そうですよ。それではまた後で来ますね」
琥珀さんは食器を持って退室していく。
「―――――さて」
ごはんを食べたら眠くなってきた。
やることもないし、少しの間仮眠をとることにしよう―――
―――気がつくと、見知らぬ場所にいた。
そこは―――もう長いこと使われていない地下室らしい。
机や椅子が散乱している。
奥には壊れた黒板やパイプ椅子が棄てられている。
太陽の陽射しは差し込んでこない。
暗い、かびの匂いがする地下室で、ただ息を潜めていた。
机の上に座って、膝を抱えている。
床には、真新しい女の死体が転がっていた。
ハア  ハア  ハア
荒い息遣い。
血が足りない、とソレは思っている。
肉を食いたい、とソレは思っている。
人を殺したい、とオレは思っている。
ハア  ハア  ハア
ハア  ハア  ハア
はあ  はあ  はあ
呼吸が、ぴたりとあった。!w2000
「誰だ――――!」
声をあげて周囲を見渡す。
地下室には、誰もいない。
ハア  ハア  ハア
ハア  ハア  ハア
はあ  はあ  はあ
「クソ、またおまえか!」
ソレは、オレに向かってそう言った。
「やらない……! この女はオレがとってきたものだ! おまえに横取りされてたまるものか!」
言って、ソレは足元の死体のハラに食いついた。
ぞぶり。
ぐちゃ、ぐちゃ。
ハラワタを、食い破っていく音。
―――――――はあ。
はあ  はあ  はあ  はあ
息があがる。
なぜか。
ソレの呼吸と同化するように、こっちの呼吸も乱れていく。
「ころしてやる」
ハア  はあ  ハア  はあ
「はやく、はやくおまえを、ころして、やる」
狂ったように呟いて、ソレは、バキバキと音をたてて死体の骨さえも咀嚼していった。
「志貴さま、お眠りになられたのですか?」
「え――――?」
と、いつのまにか目の前に翡翠がいた。
「翡翠……いつのまに部屋に入ってきたんだ?」
「いつのまに……とおっしゃられても。わたしは五分ほど前に、志貴さまのシーツをお取り替えし終わったところです」
「そうなんだ。悪い、さっきまで眠ってたみたいで、翡翠が入ってきた事に気付いてなかった」
「……志貴さま、悪ふざけはおやめください。入室を許されたのも志貴さまですし、シーツを取り替えるように指示をくださったのも志貴さまです」
「な―――――――」
なんだそれ。
俺はさっきまで眠っていて、またイヤな夢を見て、翡翠の声で目が覚めたのに……?
「……翡翠。俺、起きてるように見えたのか?」
「……はい。シーツを取り替えたあと、志貴さまが目を閉じられたのでこれからお眠りになるのか尋ねていたところですが」
「―――いや。当分、眠らない」
なんとかそう返答して、自分の手を見た。
……手を持ち上げる事が、今は難しい。
体調は朝から一向に回復しない。
重い体。
今まで自分の――――遠野志貴の体と思っていたこの体が、見知らぬ他人のモノのような違和感がする。
「……しばらく起きてる。翡翠はこのあと、屋敷の仕事?」
「いえ、今日は志貴さまの看病を許されていますから。……その、志貴さまさえよろしければ、このままご様子を看させていただけないでしょうか?」
翡翠の提案は、こっちにこそありがたかった。翡翠がそばにいてくれるなら、さっきのような夢を見る事もないだろう。
「……こっちこそお願いするよ。翡翠に迷惑じゃないなら、しばらく部屋にいてくれないか」
「―――はい。それでは、そうさせていただきます、志貴さま」
ふかぶかとおじぎをして、立ったままでじっと見つめてくる翡翠。
「いや、だからってずっと気を使ってなくていいんだ。適当に椅子を持ってきて、本を読んだり自分の事をしていてくれたほうが嬉しい。こっちも適当に時間を潰しているからさ」
「あ……はい、かしこまりました」
翡翠は慌てて部屋から出ていく。
きっと俺が言ったとおり、椅子と本を持ってくるつもりなんだろう。
「律儀だな、翡翠は」
呟いて、つい笑いがこぼれた。
この屋敷で翡翠と再会した時、無表情で冷たい女の子だと思ったのが懐かしい。
あの時はそうとしか思えなかったけど、今は―――翡翠がどんな子なのか、少しずつ分かってきた。
「―――早く来ないかな、翡翠」
ベッドに体を預けて、本心からそう思った。
彼女が傍にいてくれるのなら、こうして病人でいるのも、そう悪いことじゃないだろう。
翡翠の看病は、それこそただ一緒にいるだけのものだった。
異性の体に触れられない、という翡翠はこっちの容体を看ることができない。
熱を測ったり汗を拭いたりしてくれるのは琥珀さんの役目で、翡翠は傍にいてこっちの『喉が渇いた』といった要望を聞いてくれるだけだ。
けど、それが不満というわけでもない。
一日中部屋にいてくれる、というわけではなかったけど、それでも極力部屋にいてくれたおかげで、あれ以降おかしな夢は見なかった。
そうして就寝時間である十時の、少し前。
「兄さん、具合はどう?」
と、秋葉が見舞いにきてくれた。
「ああ、気分はいいよ。体のほうはまだ自由がきかないけど、この分なら明日までには治ってると思う。昔も一度だけこういう事があったんだけど、その時とまったく同じだから」
「―――よかった。それを聞いて安心しました」
ほう、と胸を撫で下ろすように吐息をもらす秋葉。
「おやすみなさい兄さん。あ、でも気分がいいからって無理はしないでくださいね。それでケガをしてしまったら元も子もありませんから」
「わかってるって。……それじゃおやすみ秋葉。わざわざ心配してくれて、ありがとうな」
「え……まあ、兄妹なんですから、これぐらいは当然ですけど……
ともかく、お体を大事にしてくださいね。また今朝みたいに兄さんが倒れてるところなんて、私は見たくないんですから」
それでは、と軽く微笑みを残して秋葉は去っていった。
「―――――」
就寝時間になった。
どのみち体が動かないんじゃ動き回ることはできない。
きちんと眠って、明日には体を回復させないといけない。
今夜は何も考えず、ただ眠ることにした。
●『10/硝る躯U』
● 10days/October 30(Sat.)
窓から差しこんでくる朝日で目が覚めた。
「―――見なかったな、夢」
いい夢もわるい夢もなかった、真っ白い眠りだった。
おかげで気分はそう悪いものじゃない。
今日は土曜日だし、学校が終わったら翡翠や琥珀さんに看病してくれたお礼をしなくては、なんて考えがうかぶ。
時刻は朝の六時を過ぎたばかり。
一日中横になっていたから眠気なんて微塵もない。
「―――よし、起きるか」
ベッドから体を起こす。
「―――――え」
体が動かない。
……容体は、まったく治っていない。
それどころか悪化している。昨日は自分の腕ぐらいは動かすことができたのに、今はそんな単純なことが辛い。
「――――っ、く――――」
片腕を垂直に上げてみる。
……。
…………。
………………。
「――――はっ……あ」
ようやく上がった。
たったそれだけの事をするのに、体中の力をつかって、一分近くかかってしまっている。
「……どうなってるんだ、これ」
これじゃ死体だ。
それとも動力のきれたロボットか。
ともかく体が動かない。
けど、そのわりには意識ははっきりしているし、痛みはまったく感じない。
「翡翠―――琥珀さん、ちょっと―――」
来てくれ、と言おうとして止まった。
声は出せるけど、大声をあげようとすると眩暈がする。
……大声をあげるにも筋力を使うから、その負荷で脳に血がたまっていくような感覚。
「はっ―――――」
軽く息を吐く。
こうなったら翡翠が起こしに来てくれるまで、こうして待っているしかないだろう。
―――その後は、まるっきり昨日の朝の焼きなおしだった。
初めからこっちがベッドで倒れていた分、話は少しだけ早かったが大筋は変わらない。
俺を起こしに来た翡翠は顔を蒼白にして琥珀さんを呼びにいって、琥珀さんは俺の体を看てくれた。
話を聞きつけた秋葉がまた駆けつけてきて、昨日と同じように医者を呼んで検査をしてもらって、こうしてベッドに体を休めている。
……さすがに一日中寝たままなのは気分が悪くなるので、今は上半身だけを起こしてベッドボードに背中を預けている。
「志貴さま、何か言われましたか?」
「ん……? いや、ぼんやりとしてただけだよ。別になにも言ってない」
「―――――――」
「ほら、またそんな顔をする。別に痛みがあるわけじゃないんだから、翡翠が心配するような事じゃないって言っただろ」
「……はい。もうしわけありません、志貴さま」
「だからいいんだって。……まったく、翡翠は心配性なんだな。そういうところは姉妹なのかな、琥珀さんに似てるよ」
「え――――姉さんに似ているんですか、わたし」
意外そうに翡翠は尋ねてくる。
……似ているかって、そりゃあ外見はそっくりだ。
「ああ、ちょっと昔の話。子供のころから琥珀さんはお姉さん役だったって知ってるだろ?
だから俺や秋葉が無茶してケガをすると、琥珀さんがすぐ心配するんだ。……いや、ケガだけならまだいいんだけど、こっちが少しでも体調を崩していると寝てろ寝てろってやかましかった」
「え……その、やかしまかった、んですか?」
「ああ、こっちが照れるぐらいにやかましかった。 ……あれはいつだったかな、確かにちょっと風邪ぎみなのを無視して遊んでたコトがあったんだけどね。琥珀さん、三人で遊んでいる時に看病してやるからすぐ寝ろいま寝ろって連発してきてさ。
結局押しに負けて部屋に戻ったんだけど、そのあと楽しそうに濡れたタオルをもってきて人の顔にかけてきたんだ。窒息死するかと思ったよ、こっちは」
「…………、」
「なんだかなあ、今にして思うとアレは心配性っていうより、たんに看病っていう遊びをしたかっただけかもしんないな。琥珀さん、なんか妙に楽しそうだったし」
「……………………、」
「あ、けど琥珀さんが迷惑だったてワケじゃないぞ。琥珀さんのそういうところも嬉しかったし、秋葉を連れまわすのも楽しかった。
……そうだな。考えてみると、俺はすごく幸せな幼年期を送れたんだなって思うよ」
「―――はい。きっと、姉さんもそう思っていると思います」
翡翠は静かに頷く。
……って、しまった。子供のころの話なんかしても、翡翠には退屈なだけだったろう。
「―――わるい。翡翠にわからない話をしてもつまらなかっただろ」
「お気になさらないでください。楽しいです、わたし」
「え、そう……? それならいいんだけど……」
たしかに翡翠は退屈そうには見えない。
「はい。志貴さまのお体の具合がよろしいのでしたら、どうぞお話を続けてください。お医者さまも出来るだけ体を動かしたほうがいい、とおっしゃられてましたから」
……なるほど。体を動かすって、今の俺が動かせる体なんてこの口ぐらいなものだもんな。
「まいったな。そうなるとあんまり話す事ってないんだよな。昔のことだったら色々と思い出せるんだけど」
「わたしはそれでかまいません。どうぞ、志貴さまの子供のころのお話を聞かせてください」
「……そう? けど、昔の思い出話なんて翡翠にはつまらないと思うけど、いいの?」
「はい。楽しいです、わたし」
本当に嬉しそうな笑顔をうかべる翡翠。
「―――――」
今の自分の容体も忘れて、どくん、と心臓が高鳴った。
……滅多に見れない翡翠の笑顔は、こっちが赤面してしまうぐらい、その、なんていうか―――
「志貴さま? いかがなさいました?」
「あ―――いや、なんでもない。それじゃしばらく昔話に付き合ってもらうよ」
はい、とうなずく翡翠。
そうして、おぼろげな記憶を思い出しながら、トツトツとつまらない話を続けた。
昼食の時間になって、翡翠と入れ替わりに琥珀さんがやってきた。
琥珀さんはお湯のはいった洗面器と数枚の布巾を持ってきている。
「…………」
なんか、猛烈にわるい予感がした。
「それじゃ志貴さん、お体を拭きますからちょっと我慢していてくださいね」
「――――」
やっぱり、そうきたか。
「………う」
それはイヤすぎるけど、はっきりと嫌だとは言えなかった。
自分で満足に動けない以上、誰かに体を拭いてもらうしかないのは自明の理だ。
昨日から寝たきりで体も汗をかいているし、正直ベタベタして気持ち悪い。
「……はい。お願いします」
「いえいえ、こちらこそお願いしますね」
……終わった。
そりゃあ死ぬほど恥ずかしかったけど、いまさら琥珀さんには逆らえない。
そもそも用をたす時だって、琥珀さんに肩を貸してもらってトイレまで行っているんだ。
ここまで親身になって看護してくれるんだから、恥ずかしがっているのは失礼だと思う。
「はい、これでおしまいです。どうもおつかれさまでした」
きちんと新しい寝巻に着替えさせてくれて、シーツをかけなおしてくれる。
「でも志貴さん、本当に力が入らないんですね。体を拭かさせていただいた時に、反動がないのでびっくりしちゃいました」
「……そうだね。ほんとにどうしたんだろ、この体」
ふつう、介護される立場であったとしても、他人に腕や足を持ち上げられるとつい力が入って力に逆らうように筋肉が動いてしまう。
その反動があるから看護するほうも体力を使うんだけど、今の自分にはその反動さえない。
それこそ骨のないクラゲか何かになったような気分だ。
「クラゲ、か……あんがい当たってるかもな、それ」
冗談のつもりで呟いたが、笑う気持ちにはなれなかった。
……なんていうか、まるで生きているという気がしない。
体の自由がきかないというコト。
体の感覚がないというコトが、こんなにもゾッとするものだとは思わなかった。
これじゃあまるで、こうしている自分さえ夢のような、あやふやなモノみたいに思えてしまう。
「志貴さん、そんな不安そうな顔をしないでくださいな。きっと何か原因があって、それさえ解決できればすぐに元通りになってくれますから」
「……そうだね。けど、原因なんてあるのかな、これ」
……あるとしたら八年前の古傷か。
医者に言わせれば生きているだけで奇跡だって言われた事故から八年間。
もしかすると、奇跡のツケが今になってやっと回ってきただけかもしれない。
―――なら、遠野志貴は、もう。
このまま、一生自分で立ちあがるコトさえできなくなるのかも、しれない。
「志貴さん? どうかなさいました、ひどく不安そうな顔をしてますけど」
「あ……いや、ちょっとイヤな想像をしたら、急に恐くなっただけです」
「あー、ダメですよ志貴さん! 病は気から、弱気になってしまうと治る病気も治らないんですからねっ!」
「―――そうですね。悪いほうに考えても仕方がないですし。……どうも、ありがとうございます、琥珀さん」
「わかっていただければいいんです。志貴さんは物分かりが良すぎるっていうか、自分の境遇を潔く受け入れてしまう所がありますから。
ちゃんと、ここぞという時は自分のためだけにわがままを言ってもいいと思います」
……琥珀さんは真剣に注意してくる。
不意に、さっき翡翠に話した八年前のことを思い出した。
「……まいったな。琥珀さん、まだ看病好きだったんだな」
「はい? なんですか、それ?」
「昔さ、俺が風邪をひいてるのに無理して遊んでた時があったでしょ。その時と同じだなって」
「んーっと、そういえばそうコトもありましたね。志貴さん、自分の体のことはいつも黙っている子でしたっけ」
「琥珀さんにはすぐバレたけどね。あのあと離れのほうの屋敷に引っ張られたあとのことは、いまでも恨んでるんだからな」
……いや、本当は感謝してるんだけど、ついいじわるをしたくなって琥珀さんを責める。
「―――――――――」
と。
琥珀さんは何か必死に思い出そうとかたまってしまった。
「……あれ。なんだ、琥珀さん覚えてないんだ」
「なんかそうみたいです。すみません、わたし物覚えが悪いですから」
「いや、普通は八年も前のことなんて細かく覚えてないし、仕方ないんじゃない?」
「そうですねー。たいていのことなら覚えているんですけど、もう八年も前の話ですから。もしかすると、何か大事なことを忘れてしまってるかもしれませんね」
……それはまったく同感だ。
俺だってあの森の中の庭に行くまで、八年前の事故の映像を忘れていたんだから。
「それではお食事を持ってきますから、しばらくお一人で休まれてくださいな」
午後になって、一人になった。
俺一人に琥珀さんと翡翠をかまわせているのも申し訳ないから、とりあえず二人にはもとの仕事に戻ってもらった。
昨夜は悪夢を見なかったし、体は動かないものの体調は落ちついている。
この状態なら、夕食まで一人でいても大丈夫だと判断したからだ。
「……まあ体が動かないんだから体調が良いも悪いもないとは思うんだけどな」
ヘッドボードに背中を預けたまま、やる事もなく部屋を眺める。
屋敷に帰ってきてから十日。
初めは違和感のあったこの部屋も今では自分の部屋だと認識できてしまっているあたり、人間の順応性というのは侮れない。
―――と
―――いま、頭痛が
「………え?」
線。線が視える。
「メガネはしてるのに―――なん、で」
ハア――――ハア――――ハア――――
「――――っ、誰だ!?」
首を動かす。
部屋には自分以外、誰もいない。
ハア――――ハア――――ハア――――
息遣いが聞こえる。
野犬のような唾液にまみれた息遣いが、耳元で繰り返されている。
ハア――――ハア――――ハア――――
「――――な」
なんとか首を動かして振りかえる。
だが後ろには誰もいない。
気配さえない。
ならば幻聴か。
否。
この息遣いはむしろ幻視。だが実在。
ハア――――ハア――――ハア――――
室内に響かない。
響くのは俺の頭のなかにだけだ。
ならば。
息遣いは、間違いなく。
この脳髄のなかから、滲み出しているにすぎないのか。
ハア――――ハア――――ハア―――・
「はあ――――はあ――――はあ――――」
混ざり合う。
ピタリとかみ合う。
見知らぬ声と、自身の呼吸が和音する。
なんてコト。
なんてコトだ
俺とコイツは接合しかけている
オレとコイツは融合しかけている
三角歯車と/菱形歯車
雑音/反響
パノラマ/トレモノ
本来ならば接合点など皆無のはず
幻想でさえ既知感すら拒絶のはず
おかしい
おかしい
おまえはなんだ
おまえはなんだ
俺は
オレは!
「あ―――――」
堰をきって奔流する。
まわる。まわる。まわるまわるセカイがまわる。
太陽と月。雌とライオン。天使と汚濁。衝突する坂道。壊れた砂時計。遡る砂。割れた窓とノブのないドア。暗い。暗い。暗い。暗い。暗い。
「や、め――――」
クラッシュする。
融ける壁。解ける意味。説ける自己。可変透過率の滑らかさ。乱交する時間。観測生命と実行機能。小指のない手。頭のない目。走っていく絨毯。一重。二重。三重。とんで七百七十七の檻。破裂する風船。初めから納まらないという約束。初めからあぶれだすという規則。初め・
ら死ぬという契約。毒と蜜。赤と胎盤。水銀灯と誘蛾灯。多重次元に屈折する光源観測、泳ぐ魚、深層神澱にて詠う螺子。道具、道具、道具。際限なく再現せず育成し幾星へ意義はなく意志はなく。叶うよりは楽。他の誰でもないワタシ。洩れた深海。微視細菌より生じる矛盾。俯・
するクォーク。すべて否定。螺鈿細工をして無形、屍庫から発達してエンブリオ、そのありえざる法則に呪いこそ祝いを。
はは あははは
「なんだ、こ、れ――――」
停止こそ無視。流血する大地。血液に猛毒を代償して不死に至る。薔薇。薔薇。薔薇。薔薇。華美なるものにこそ太歳宿る。風現羅刹、飢給の糧を喰む。増殖する膿黴穢れ。五月より遅い四月、逆転する四肢、蛇蝎二元より生じ天秤宮に覚醒す。腐乱した果実の皮。焼けたセルロ・
ドの人形。百々目鬼あうカンナビス。摩擦と研磨。太陽と月。メスとライオン。衝突する近道。割れた砂時計。いびつな入道雲。比類できない我。遡る砂。八年前。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。おまえが。殺した!
は はは あははははははははははははは!
「だ―――だま、れ――――!」
「はあ――――はあ――――はあ――――」
……止まった。
思いっきり、それこそ自殺する勢いで後頭部を壁に叩きつけて、止めた。
「―――なんだ――――いま、の――――」
わからない。
ただデタラメな言葉が頭のなかに溢れて、何も考えられなくなった。
なにも―――それこそ、こんなふうに普通に考える事ができなくなって、機械のように単語を繰り返すだけの頭に、なってしまい、そうだった。
「…………あ」
気がつけば、目が涙を流していた。
鼻水やよだれもだらしなく垂らしている。
「あぐっ――――!」
頭が痛む。
いつもの貧血からくる頭痛じゃない。
脳がパンクしかけている。
俺の記憶には覚えられる限界があるっていうのに、その限界を何十倍も超えたモノが、頭の中に流れこんできたせいだ。
「…………っ」
もう一度。
もう一度さっきのわけのわからない頭痛がきたら、俺はきっと―――体の前に、心が壊れる。!w1000
あは あはは は
「な――――」
「やめ――――」
流れてくる。いや、拾ってしまう。アイツの、俺たちとは違うレヴェルの常識を、受信してしまう。
そう、接合しかけている。
俺とアイツの融合はとっくに始まっている。
それは八年前。白い夏の日。空蝉。祭りを開く蟻ども。誰だって初めは頓死。重力変化による疼痛、出血、ショック症。視野は狭窄する。暗黒視野。赤色視野。生命停止の危機率。堕胎。出産時における母体の切開と、飢餓界における幼児の試食―――
ムダな ことを
「や―――め」
オレは オマエが 眼を開けて いるかぎり
オマエと 一つに なっていく んだから
「―――――っ!」
助けを請うように、強く瞼を閉じた。
「…………は…………あ」
おさ、まった。
俺の中に入ってくる情報も、聞こえてくる声もなくなった。
「……たす……かった」
ホッと胸を撫で下ろす。
けど、その反面にゾッとした。
「……目を開ければ……また、アレがくるっていうのか」
わからない。
さっきのは、本当に一瞬のものだったのかもしれない。
けど恐ろしくて目を開けられない。
おぞましい感覚。
脳みそのなかをムカデが這いまわっていくような感覚には耐えられない。
「―――――」
……眠くなってきた。
だが眠れば、また悪い夢を見てしまうかもしれない。
「――――かまうものか。あんな夢、今のより何倍もマシだ」
意識を休める。
目を閉じたまま、眠りに落ちた。
―――ああ、また来てしまった。
暗い地下室。黴の匂いがする闇。
……学校の、おそらくは体育館の地下室。
散乱したセルロイドの人形。いや、食い散らかされた生身の人間。
アイツは。
まだこんな時間だっていうのに、また新しい人形を連れこんできた。
「ハア――――ハア――――ハア―――――」
獣のような息遣い。
「ハア――――ハア――――ハア―――――!」
人形の体にむしゃぶりつく。
ぷつん、と皮膚を噛みきる感触。
あまり上等な肉ではなく腹部の脂肪。
喉にからみつく熱い血液。
―――ゾッとする。
その全ての感覚を、自分は正確にトレースしてしまっている。
「ま、まままま、またオマエか志貴ィ!」
ソレは、叫んだ。
「くそ、くそ、くそ、くそ、くそ―――――!」
ソレは駄々っ子のように暴れた。
地下室に棄てられた机をかたっぱしから壊して、コンクリートの床をバリバリと引き裂いていく。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる……!」
言って。
ソレは、自分の手の平に、ナイフを突き刺した。
――――――ギッ――――!?
手の平を突き刺すナイフの痛み。それは、紛れもなく、こっちの手の平に伝わってきた。
「見ていろ、少しずつ殺してやる―――」
ソレは次に、自分の太ももを、机の破片で串刺しにした。
――――ガッ―――・
「そうして奪いかえしてやる―――――」
次に腹を、自らの爪で裂いて、臓物を引きずり出す。
―――いた、い。
いた、い。いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、・
たい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いた、い―――――――――――!!!!!!!
「その指も、その肌も、その瞳も!」
眼球を押しつぶす。
―――気が 狂う。
夢。夢なら、覚めて、くれ。
いたい。いっそ。死にたい。
ショック死しているぐらいの痛みなのに、死ねない。
「その声も、その位置も、全てはオレのものだ、本来はオレのものだったものだ―――!
待っていろ、もうじきもうすぐオマエを殺してオレがそこにいってやるからな……!」
叫んで。
ソレは自らの脳髄に、
ナイフを
ふかぶかと
突き刺した。
「ああああああああああああ!」
その、おそらくは考えられうる中で最高の痛みのイメージで、目が覚めた。
「あ――――はあ、はあ、はあ――――!」
夢。今のは夢だ。
「ぐっ……!」
なのに体中が痛い。
手の平。太もも。腹。目。脳天。
それら全てが痛む。
俺は。今の夢の中の痛みを、そのまま現実に持ってきてしまっている。
「い――――痛ぅ」
なのに体は動かない。
手の平に穴が開いているような感覚はあるのに、体が動かせない。
「あ―――――あ」
せめて体が動くなら―――精一杯暴れて、意識のうえだけでも痛みを緩和させるコトができるのに、そんな事さえ俺にはできない。
「く――――そ」
なんて、コト。
「なんで―――こんな」
さっきは、起きていると体の前に心が壊れるなんて思ったけど。
「こんな目に、あってるんだよ、俺は……!」
眠ってしまえば、心の前に体が壊れるだけらしい。
「アイツは―――なんなんだ」
夢の中ででてくる誰か。
俺のことを知っていて、俺と感覚を一つにしている、誰か。
毎夜、人を殺してまわっている殺人鬼。
なんだ まだ認めないのか
「……だから、なにを」
オレは オマエだ
「……そんなハズ、あるものか」
オマエは オレと同じ
「……違う。俺はまだ正気だ」
とっくの昔に オマエだって狂っちまってる
「……違うって言ってるだろうが……!」
「志貴さま―――!」
―――と。
ノックもせずに、翡翠が部屋に入ってきた。
「ひ―――すい……?」
「志貴さま、今のお声は志貴さまのものですか―――!?」
翡翠は切迫した口調でベッドまで歩み寄ってくる。
「な――――志貴さま、一体、何が――――」
翡翠の声が震えている。
……見れば。
シーツは、じっとりと、血で滲んでいた。
―――血は、手の平と太ももから流れ出たものらしかった。
らしかった、というのは推定でしかない。
なにしろ俺の体には傷口らしき傷口がないんだから、そもそも血がにじみ出るほうがどうかしていた。
「翡翠ちゃん、わたしは点滴の準備をしてくるから志貴さんの容体を看てあげて」
「待って姉さん、志貴さまは――――」
「翡翠ちゃん。たまにはお姉さんの言うことを聞いてくれてもいいでしょう?」
「あ――――」
「それじゃあ志貴さん、しばらくしたら輸血をいたしますから、それまでは安静にしていてください」
俺の手当てを終わらせて、琥珀さんは部屋から出ていった。
「志貴さま―――本当に何もなかったのですか? 姉さんは心配ないと言っていましたが、さきほどの出血はとても―――」
「……しつこいな。何もなかったって言ってるだろ。傷口だってなかったんだ。聞きたいのはこっちのほうだ」
―――乱暴に言って、自己嫌悪する。
翡翠には悪いけど、とても冷静でいられない。
俺は―――どうかしているのか。
眠れば殺人鬼の夢をみて、自分の体を傷つけてしまう。
出血はそれが原因だってわかってる。
わかっているけど、そんな事を翡翠や琥珀さんに言うわけにはいかない。
信じてもらえるはずがないし、なによりそんな事を打ち明ければ、二人はきっと俺が狂っていると思うだろう。
この体がおかしいって事は認めてやる。
けど翡翠や琥珀さん、秋葉に俺がマトモじゃないって思われるのだけは、いやだ。
それだけは、決して口になんてしたくない。
「ですが、もう志貴さまのお体は平常ではありません。熱もあるようですし、さきほどから呼吸も乱れていて、とても―――」
見ていられない、という声を翡翠は飲みこんだ。
「……いいから下がっていてくれ。心配してくれるのはありがたいけど、今は一人になりたいんだ」
「……それでは何かほしいものはございませんか。喉が渇いていらっしゃるのでしたら何かお持ちします」
「ほしい―――もの?」
ほしいもの?
そんなもの、別にない。
「……ああ、たしかに喉は渇いてるかな……」
そう、渇いている。
カラカラに渇いている。
だから吸わないと。
赤い、飲み物。
喉に貼りつく、とろりと粘るあの液体。
熱い、命のほとばしりみたいな真っ赤な血が、いまは、飲みたい――――
「あ――――」
「……志貴さま?」
ほしい、もの。
ほしいものは、あるに決まってる。
それは
夢で見た、翡翠の、カラダ。
「――――――――っ!」
ガン、と頭を叩いた。
動かないハズの腕は、自身に対する怒りで、動いてくれた。
「志貴さま!? いかがなさいましたか、志貴さま!」
「近寄るな――――!」
「志貴……さま」
「……はあ……はあ……はあ……」
喉が熱い。
体が熱い。
どうかしてる。どうかしてる。どうかしてる。
俺は、なんてことを思ったんだ―――
「……近寄るな……来れば、なにをするか、わからない」
「ですが、志貴さま―――」
「寄るなって言ってるだろう……! 俺は狂ってなんかない……!」
叫んで、翡翠を拒絶した。
でもそうしないと、俺は間違いなく翡翠を犯してしまう。
あの時の夢のように。
いま、どくどくと脈打つ心音に支配されて。
「―――いいから出ていってくれ。翡翠には、俺の体のことなんて、わからない」
「……はい。かしこまりました、志貴さま」
翡翠は立ち去っていく。
その背中を、朦朧とした視線で眺めた。
―――昂ぶったカラダは、誰を見ても同じ事しか考えなかった。
俺に輸血のための点滴をしてくれている琥珀さんでさえ、その白い喉に噛みつきたい衝動にかられた。
俺は―――一人でなければ正気を保てない。
だから翡翠も琥珀さんも、秋葉さえも部屋から追い出した。
―――だが、結果は変わらない。
一人でいればいるで、俺は壊れていくだけだ。
「ぐっ……」
頭痛が走る。
起きているとまたあの頭痛が流れこんでくる。
気が狂う前に、目を閉じて眠る。
かといって眠るとアイツの夢を見てしまう。
アイツが自分の体を傷つけるたびに、肉体的な痛みがやってくる。
「――――は」
その痛みで目が覚める。
けど、そうして目が覚めるたびにあの頭痛がやってくる。
だから目を閉じて―――また、眠りについてしまう。
………………その繰り返し。
軽いまどろみに何度も落ちて、脳を串刺しにされる痛みで目が覚める。
「はあ――――はあ――――はあ――――」
呼吸は、とっくに乱れていた。
手足は動かないくせに、ナイフでズタズタにされた痛みで痙攣している。
時間の感覚なんて、まるでない。
たった一時間が無限に感じる。
正直、俺は。
明日の朝まで正気でいられる自信なんて、まるでなかった。!w2000
―――がちゃり、とドアが開いた。
足音が近づいてくる。
……俺はまどろんでいて、それが誰であるか、はっきりとは分からなかった。
「―――兄さん。こんなに、やつれて」
泣くような、声。
「―――ごめんなさい……兄さんがこんなに苦しんでいるのに、私には何もできない」
そっと、重ねられる指。
「こんな事しか―――私にはできないんです、兄さん」
あきはの指が、俺の指に絡まっていく。
とくん。
とくん。
とくん。
点滴の音に合わせて、あきはの体温が伝わってくる。
―――温かい。
ボロボロに剥がれかけていた精神のカラが、それで、少しだけ塗りなおされた気がする。
「待っていて兄さん。私が、すぐに楽にしてあげますから」
……指が離れる。
足音が遠ざかっていく。
―――がちゃり、とドアが閉まった。
……まどろみのなかで。
そんな、不確かなゆめを見た。
●『11/硝る躯V』
● 11days/October 31(Sun.)
何度目かの朝を迎えた。
時間的には昨夜から一夜明けただけの事にすぎないが、眠りと覚醒を繰り返している自分にとって、日数や時間の感覚はもう瑣末な区切りにすぎなくなっていた。
「失礼します、志貴さま」
声がして、翡翠が入ってくる。
「おはようございます。お飲みものをお持ちいたしました」
「……………」
ありがとう、なんていう余裕もない。
翡翠がグラスを持ってやってくるのを苛だたしげに眺めるだけだ。
「志貴さま、ご自分でお飲みになられますか? まだお体の自由がきかないようでしたら、こちらでお飲みできるよういたしますが」
身を乗り出すようにこちらの様子を窺う。
飲ませてくれるって、それでも翡翠は俺の体には触れないだろう。
いや、そんな事より翡翠に近づかれるほうが困る。
昨日と同じだ。
体は言うことをきかないくせに、翡翠や琥珀さんの顔をみるたびに――・
―――俺は、それこそ狂い出しそうになる。
「……水ぐらい自分で飲める。グラスを置いたらさがってくれ」
「はい、かしこまりました」
グラスを置いて翡翠は壁ぎわまで下がった。
なんとか片腕を動かして、グラスに口をつける。
冷えた水は、空気のように味気ない。
熱くなった呼吸器官はこんなものじゃ冷やされないし、何かを欲しがる心臓はこんなものじゃ潤わない。
翡翠は壁際でじっとこちらを見つめている。
……なんてコトだろう。
たった三日間体が動かなくなっているぐらいで、俺は翡翠に嫉妬している。
あんなふうに自由に動く体を持っていて、なんの苦しみも持っていない彼女に、苛立ちを感じ始めている。
「翡翠」
「はい、なんでしょう志貴さま」
「用が済んだのなら出ていってくれ。まわりに誰かいると、落ちつけない」
「―――ですが志貴さま、それでは」
「何かあったら呼ぶって言ってるだろ。……あんまり同じコトを言わせないでくれ。喋るのは、わりと疲れるんだ」
「……かしこまりました。それでは時間をおいてもう一度参りますので、どうかご無理をなさらないでください」
扉が閉まる。
……翡翠は一時間ごとに看護にやってくる。
「………はあ」
気が滅入る。
今日だけであと十回以上も、こうやって翡翠を追い返さないといけないかと思うと、自己嫌悪で潰れそうだった。
「はぁ………!」
腕をナイフで滅多刺しにする痛みで目が覚めた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
いつのまにか、また眠ってしまったらしい。
アイツは今日もあの地下室で、自分の体を殺し続けていた。
「く……そ」
ダン、と壁に拳を打ちつける。
こんな痛みをあとどれくらい耐えなければならないのか。
それともアイツを俺自身の手でなんとかしないかぎり、この痛みは永遠に続くのか。
「どうしろっていうんだ、一体―――!」
ダン、ともう一度壁を打つ。
……って、あれ?
「……体、動くじゃないか」
上半身をベッドから起こす。
さっきまでは一時間近くかかっていた事が、今では当たり前のように―――いや、以前のとおり―――出来るように回復していた。
「やった……治ってくれた……!」
あんまりに嬉しくて、ベッドから跳ね起きる。
ぼとん。
「え?」
なにか落ちた。
視線をおとす。
絨毯には。
肘から抜け落ちた、俺の腕が転がっていた。
「――――――っ」
……夢を、見ていたらしい。
体中の力を総動員して、なんとか上半身を起こす。
片腕はまだちゃんと付いている。
感覚もなければ痛みもない。
まだ、遠野志貴は壊れていない。
「志貴さま、中に入ってよろしいでしょうか?」
……翡翠の声だ。
どうやら看護の時間になったらしい。
「……ああ、入っていいよ」
「失礼します」
「志貴さま。どうか横になっていてください。お体を起こしてはいけないと、お医者さまから注意されているはずです」
「一日中寝てるわけにもいかないだろ。それに医者だっていっても、少しも体を治せないんなら有り難みも何もない」
翡翠は肩をすくめて、申し訳なさそうに黙ってしまう。
……イライラする。
そんなうわべだけの気遣いをされても俺には不愉快なだけだって、どうして解らないんだこの女は――・
「――やめてくれ。そんな、いちいち同情しているような顔をされると気が滅入る」
「―――はい。申し訳ありません、志貴さま」
「……やることがあるなら早く済ませてくれ。どうせ俺には何もできないんだから、シーツを替えるなり点滴を換えるなり簡単にできるだろ」
「……はい、かしこまりました」
翡翠は無言で点滴の中身を取りかえる。
汗と血で汚れたシーツと寝巻を替えるのは琥珀さんの役割らしい。
作業が終わったのに、翡翠はなかなかベッドから離れようとしない。
「翡翠……?」
「―――志貴さま。一つ、お聞きしてよろしいですか……?」
「?」
翡翠の声は、どこか震えている。
「……いいけど、なに?」
「……はい。志貴さまのお体は、その……痛むの、ですか」
「な――――――」
一瞬、本当に翡翠に怒鳴りそうになってしまった。
痛むのか、だって?
翡翠に―――俺じゃないヤツに、この痛みが分かるものか。
自分の体が刃物で滅多ざしにされているだけでも狂いそうなのに、体がぴくりとも動いてくれない俺を見て、痛むのか、なんて―――
「―――さあ、どうだか。もうわからない。俺自身どうなっているのか、とっくに麻痺してしまってるからな」
「…………は……い」
翡翠の声はますます震えていく。
「ただ、体が透明の炎で燃やされていっているみたいだ。指の先から一本一本、少しずつ死んでいく」
「…………」
翡翠は辛そうに押し黙っている。
……。
…………。
………………。
………………………その後。
「―――志貴さま、わたしは」
翡翠の声はもう震えていない。
冷静な、いつも通りの、抑揚のない声。
「このような志貴さまを見ているのは、耐えられません」
そういう翡翠は。
俺の事なんてどうでもいいような、無表情な顔をしている。
―――どくん、と心臓がはねあがった。
「――――」
欲しい、という衝動が湧きあがる。
こんなに身近に翡翠がいる。翡翠の体がある。
手を伸ばせば、今すぐにでも自分のものにしてしまえる―――
「志貴さま、わたしは」
「うるさい……! そんな顔で俺を見るな!」
怒りは突発的だった。
ただ翡翠の無表情な態度が許せなくて、点滴のパックを掴んで、翡翠の顔にたたきつけた。
ぱしゃ、という液体の音。
翡翠にかかる、輸血パックの赤い染み。
それでも翡翠の表情は変わらない。
「―――志貴さま、無理はなさらないでください」
その言い方。感情のない、声。
「……うるさい。俺の体だ、どうしようが俺のかってだろう……!」
変わらない表情。それがますます神経に触れる。
「そうだよな。どうせ翡翠にとっては人ごとにすぎないことだ。そりゃあ痛くも痒くもないだろうさ!」
「志貴さま―――どうか、落ち着いてください」
翡翠の表情は変わらない。俺に何と罵られようが、黙って耐えている。
―――それが、逆に頭にくる。
「ああ、そうだろうさ。そりゃあ翡翠に比べたら俺なんか落ちつきのカケラもない……! おまえは俺がこんなに苦しんでるのに眉一つ動かさないで、そんなふうに冷静に観察していられるぐらい冷たいヤツなんだから――――!」
「志貴さま、どうか無理なさらないでください。そのように声をあげられてはお体にさわります」
「こ……の……! もういい、さっさと出ていけ! 何も出来ないのなら目障りだ……!」
「―――かしこまりました。それでは失礼します、志貴さま」
立ち去っていく翡翠。
その時、ちらりと翡翠の指先が見えた。
彼女は血が滲むぐらい強く、自分の手を握っていた。
……まるで、できるだけ自分の感情を押し殺そうと努力していたみたいに。
「あ――――」
それが、俺に気を使っての事だっていうのは、すぐに解った。
同情なんてするな、と俺が言ったから。
いちいち律儀に、俺の身勝手な八つ当たりに、じっと耐えて、いたのか―――
「くそ……なにやってるんだ、俺」
翡翠に当り散らしても体がよくなるわけでもない。
いや、そればかりか、俺は―――
「―――――く」
……本当に、どうかしている。
翡翠にやつ当たりをするだけじゃなくて、翡翠が近くにいるだけで欲情してしまってたなんて。
翡翠の肌を間近で見て、微かな匂いをかぐだけで欲しがってしまうのなら、俺はアイツと変わらない。
だから 同じだって いっているだろう
「また―――」
オレと オマエ は同じ 人間なんだから
「うる―――さい」
そう 同じだ オレが いままで閉じ込められていた ように オマエ も
「だまれ――――」
その部屋に 一生 閉じ込められる
「なっ―――」
その檻から 出られないで 一生
「き―――さま」
ずっと 閉じ込められたままなのさ……!
「うるさいって言ってるだろう……!」
ゴン、と頭を壁に叩きつける。
それで声は止んだ。
……だが、代償に意識が遠くなっていく。
「…………」
後は。また、あの地下室の夢を見る事に、なる。
―――夕方になった。
起きている間にやってくる頭痛は、今は少し薄れてくれている。
「……………」
琥珀さんは三度目の着替えをすませて退室していった。
……翡翠は、あれから姿を現さない。
「当たり前か。……あんなことを言われたら、ふつう来ない」
……翡翠は、もう来ない。
そう思っただけで気が遠くなりそうだったけど、それがいいんだっていう事も解っている。
万が一、翡翠がまたやってきてくれても。
俺は彼女に辛くあたるばかりで、看護される資格なんてないんだから。
「……失礼します、志貴さま」
そう言って、翡翠が部屋に入ってきた。
翡翠はドアをしめて、そこから一歩も動かない。
彼女の手には銀のトレイと、水がつがれたグラスがある。
「お飲み物をお持ちいたしましたが、お飲みになられますか?」
「――――――――」
翡翠は本当に無表情だ。
ただ、その指先が震えている。
「……翡翠」
……どうして。あんなコトまで言われたのに、彼女は俺なんかの看護をしてくれるんだろう。
「……いいんだ翡翠。無理をしなくていいから、俺なんかの相手をしなくて、いい」
「志貴さま。わたしは無理なんてしていません。志貴さまこそ、どうぞご無理はなさらないでください」
感情のない翡翠の声。
今も震えている白い指先。
……ようやく気がついた。
翡翠の声は、感情がないんじゃなくて、感情を押し殺した声なんだと。
「……ごめん。俺のこと、軽蔑していい」
「いいんです、志貴さま。わたしこそ何もできないのですから、責められて当然なんです」
――――そんな事、当然のハズがない。
悪いのは、一方的にこっちなんだから。
「……すまない。悪いけど、体が重いんだ。自分じゃ飲めそうにないから、飲むのを手伝ってもらえないか」
「……はい。そのお言葉を、お待ちしておりました」
そうして、翡翠はベッドまで歩いてくる。
「……失礼します」
遠慮がちな声でそう言って、翡翠は俺の体を起こしてくれた。
「え―――翡翠?」
「どうぞ、ゆっくりお飲みください」
片手で俺の背中を支えて、グラスを口に運んでくれる。
今まで。翡翠は決して、こっちの体には触れてこなかったのに。
「…………」
こくん、と水を数口含んで、首を横にふった。
グラスを置く翡翠。
そのまま、手の平を俺の額に重ねてくる。
――――どくん、と。
今までとは違ったふうに、心臓が高鳴った。
「翡翠―――いい、のか」
翡翠の手の平が離れる。
「……熱は、ないようです」
うつむく翡翠。
思ってもみなかった。こんな事だけで、こんなにも俺は痛みが和らいでしまっている―――
「翡翠……その、お願いがあるんだけど」
「はい、なんでしょうか志貴さま」
「ああ――もう少し、手を重ねていてくれないか
「なぜ……でしょうか」
「……翡翠の手、冷たくて気持ちがいいんだ。そうしてくれると、楽になれる」
―――本当に、さっきまでの痛みが嘘のように、楽になれる。
翡翠はかすかに頬を赤らめて、はい、と消え入るように答えて、俺の額に手の平を重ねてきた。
「……不思議だ……なんか、なつかしい……」
気分が落ち着く。
意識が和らいでいく。
……ああ、そういえば翡翠に看てもらったまま眠った時も、こんな感じだった。
「……ありがとう……ごめんな、翡翠」
意識が沈む。
ほんの僅かな時間。
何日かぶりに、何の苦痛に悩まされることもない平穏な眠りにつく事ができた。
深夜になって、翡翠には部屋に戻ってもらった。
さっきは気分が落ち着いてくれたが、いつまたあの『頭痛』がやってきて、俺が正気をなくしてしまうか分からない。
「っ…………」
くわえて、俺の体はどうかしてる。
指先一本だって動かないくせに、翡翠や琥珀さんの体を自由にするためだったら、それこそ俺の意思とは無関係に暴れ出してもおかしくない。
「痛―――う」
頭痛は止まらない。
体は動かない。
アイツが自分の体を傷つけることによって伝わってくるのは痛みだけじゃないのかもしれない。
「っつ―――は、あ、はぁ…………!」
ゴホゴホと咳き込む。
今日の夕方からずっと、アイツが喉をナイフで刺していたせいか、それ以来うまく呼吸ができなくなっている。
「はぁ……はあ……は……ぐ」
ぜー、ぜー。
しわがれた声が夜に響いていく。
故障したロボットじゃあるまいし、俺は息を吸う、なんて簡単なことさえ、細心の注意を払っていないと失敗してしまう。
「……ここまで……なのか、な」
本来なら八年前に停止していた体だ。
そりゃあ、いつかこうなる事ぐらい、考えてなかったワケじゃない。
「は………はは、は」
けど、これでいいのかもしれない。
俺はいつもアイツが人を殺す夢を見ていた。
けど、本当は『アイツ』なんていうヤツは初めからいなくて、アレは―――たんに、俺が行っていた現実だったのかもしれない。
……弓塚の言葉を思い出す。
彼女は俺のことを殺人鬼だと言っていた。
あの時は否定するしかなかったけど、今は―――それを否定する力もない。
マトモじゃない精神。
壊れている肉体。
人殺しの夢を見る自分。
自分の中から響いてくる、自分と違う自分の声。
……翡翠を汚している妄想が頭から離れない遠野志貴。
「…………っ!」
頭蓋骨が割れそうな頭痛。
まるで殺人鬼という人格が、今の自分を食い破ろうとしているかのような、脱皮の音。
……忘れている事故の記憶。
血にまみれた自分の姿。
なら、こうして見てしまう殺人の夢は、俺が過去に犯して、たんに忘れてしまっている映像が蘇っているだけなのかもしれない。
「―――っ……! あ、あううぅぅう……!
あたまがいたい。
何かを殺せ、と声が聞こえてくる。
……ああ、でも大丈夫だ。
たとえ俺が殺人鬼でも、もう誰も殺せない。
アイツの言うとおり、俺はこの部屋に閉じ込められたまま、もう一歩だって自分の力じゃ外に出る事はできなくなってしまっているんだから――――
●『12/白昼夢』
● 12days/November 1(Mon.)
ぜー、ぜー、ぜー
ぜー、ぜー、ぜー
ぜー。ぜー。ぜー。ぜー。
「……志貴さま!? どうか、どうかしっかりしてください、志貴さま……!」
ぜー ぜー ぜー ぜー
ぜー ぜー ぜー ぜー
ぜー、ぜー、ぜー、ぜー……!
「失礼します、志貴さま……!」
ぜー ぜー ぜー ぜー
「……あ……れ……ひす、い……?」
「よかった……お目覚めになってくれたんですね、志貴さま」
翡翠は声をつまらせて、そんな事を言ってくる。
ぜー ぜー ぜー ぜー
「……?」
俺には、翡翠がそんな顔をしている理由がてんでわからない。
「……どうしたんだよ翡翠。そんな顔して、なにかあったのか」
「…………いえ、何もありません。志貴さま、今は何もお考えにならず、どうかお体をお休めになっていてください」
「……ああ、言われなくてもそうしてるけど」
ぜー ぜー ぜー ぜー
「でも翡翠、なんか、今朝はうるさくないか。こうぜーぜーうるさいと、よく眠れない」
「……志貴さま、それは」
それきり、翡翠は言いにくそうに黙ってしまう。
ぜー ぜー ぜー ぜー
音はやまない。
とても近いところから聞こえてくる。
「――――っ」
ごほ、と咳き込む。
その時だけぜーぜーという音は止まった。
「あ―――」
……なんだ、馬鹿らしい。
どうりでうるさいと思ったら、ゼーゼーいっていたのは俺の呼吸だったのか。
「まいったな。別に、風邪をひいてるわけでもないん、だけど」
「……………」
翡翠はうつむいたまま、唇をきつくかみ締めている。
何かを言いたいのに、口にできない。
……翡翠の態度はそんなふうにとれる。
「翡翠、どうしたんだよ黙り込んで。なにも翡翠が悪いわけじゃないんだから、もっと楽にしていてくれ」
「―――はい。わたしで出来る事でしたら、精一杯お仕えさせていただきます」
「いや、お仕えってなんでそう仰々しいんだろうな、翡翠は。俺は翡翠がいてくれるだけで気が楽になれるんだから、できれば笑っていてくれたほうがいいんだけど」
「……あの、こんな顔でよろしいのでしょうか」
むっ、と真剣な顔をする翡翠。
……正直、以前見せてくれた笑顔に比べれると睨まれているようにしか見えないんだけど、それでも翡翠の一生懸命な気持ちが嬉しかった。
「うん、そんな感じでいいから楽にしていてくれればいいよ。……っと、楽ついでに何か飲み物を貰えない? 喉が渇いて、すこし息がしづらくなっている」
「はい、お飲み物でしたら用意してあります」
視界から翡翠が消える。
飲み物は壁際に用意してあったのだろう。
翡翠は銀のトレイを持ってきて、俺の上半身を起こそうと背中に手を置く。
―――その、瞬間。
その感情が、翡翠の手が触れた背中から脳髄まで、おぞましいまでのスピードでかけあがってきた。
「志貴さま、お体はこのぐらいでよろしいですか?」
「一息に飲むと体に毒ですから、ゆっくり口に含んでください」
「志貴さま? あの、お口を開けていただかないとこぼれてしまいます」
「離れろ――――――っ!」
「きゃっ!」
ガシャン、という音。
絨毯に落ちたグラス。
俺に押されて尻餅をついている翡翠。
ぜーぜーと。
ケモノのように息を荒だたしている、自分。
「志貴――――さま」
翡翠は突き飛ばした俺を怒るのではなく、よけいに心配そうな眼差しを向けてくる。
「も、もうしわけございません……志貴さまのお許しもないのにお体を動かしてしまうなんて、なんて恥知らずなことを―――」
「違う―――そうじゃない。そんな、翡翠が謝ることなんかない……!」
……悪いのは。
「違うんだ翡翠。きみが、翡翠が悪いわけじゃない」
悪いのは、
ぜーぜーと息をあげて、翡翠の体を欲しがっている俺のほうだ。
「志貴……さま?」
「いいから出ていってくれ。……頼む。せめて今だけでもいいから、一人にさせてくれないか」
「……志貴さまが、そうおっしゃられるの、でしたら」
震える声でそう言って。
翡翠は、部屋から退室していった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――・
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――・
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
時間がかしいでいる。
こんな体になってずっとベッドに横になっていると、時間の感覚が正常に感じられない。
……翡翠を追い返したのがつい一時間前か、それともあと三十分後のことなのか、よく確認できない。
俺が一人になってから、時計の針は三時間ばかり進んでいる。
けどそれはアテにならない。
丸いはずの時計盤は、さっきからひょうたんのようにおかしく歪んで見えている。
ぜー ぜー ぜー
自分の呼吸だけが聞こえる。
ゆがんだ時計は正午になったばかりだ。
検診は午後の二時ごろだから、あとしばらくはこうして一人で理性を保っていられる。
……まあ、もっとも。
一人でいるとあの『頭痛』がやってきて、今度こそ遠野志貴の理性というものを根こそぎ奪い去ってしまいそうではあるのだが。
「失礼します」
音もなくドアを閉めて、翡翠が入ってくる。
翡翠が持っている銀のトレイには水の入ったグラスと、何か薬のような包みが置かれていた。
「……翡翠。まだ検診の時間じゃないだろ」
「はい。志貴さまの喉がお渇きではないかと思ってまいりました」
カチャリとドアに鍵をかけて、翡翠はベッドまで近づいてくる。
………鍵を、かけて……?
「お一人で体を起こせますか? 無理のようでしたらわたしが手をお貸ししますが」
「いや、別に喉は渇いていないからいい。それよりどうして来たんだ。俺はしばらく一人にしてくれって言っただろう」
「お断りします。今の志貴さまを、とても一人にはしておけません」
きっぱりと言って、翡翠は俺の肩を掴んできた。
「ちょっ―――翡翠?」
「お一人で立てないのでしたら、そう言ってください」
「――――!?」
ぐい、と強引に体を起こされた。
翡翠の指はトレイに置かれた薬の包みを拾って、やっぱり半ば強引に俺の口に放りこむ。
「お飲みください。姉が処方した、特別な薬です」
「ん……っ!」
口に注がれるグラス。
「んー、ん、んー……!」
……さっきの事で怒っているのか、翡翠の動きには容赦がない。
的確で、しなやかで、それこそ本当に、意思のない人形のよう。
「はっ―――ぷはぁ……! もうっ、いきなり何するんだ翡翠! そりゃあここんところずっと翡翠に八つ当たりしてたけど、それにしたって今、の、は―――――」
あ――――れ。
起こされた体がベッドに倒れこむ。
……力が入らない。
力が入らないけど、不快じゃない。
むしろこれはカタチのある不自由さだ。
体が芯のほうから熱くなってくる。
―――その、なんだか。
こんなふうに『生きている』って感じるのって、本当に、久しぶりの気がする――――
「……信じられない。なんだか、これなら――」
歩くぐらいなら今すぐに出来そうな気がする。
「いけません。姉の話では少しずつ体の感覚を取り戻さないと効果がないそうです。
どうかしばらく、志貴さまはそのままで体を休めていてください」
「え……あ、うん。翡翠がそう言うんならそうするけど、翡翠はどうしてるんだ?」
「はい。わたしは志貴さまのお体を看させていただきます」
言って。
翡翠は体温の低い、氷のような指を、俺の胸に這わせてきた。
「――――――!」
ぞくん、と。
回復しつつある体力と同じように、鎮まっていたモノが鎌首をもたげてくる。
「翡翠……! みゃ、脈をはかるなら腕だろ、腕……!」
「いいえ。わたしは脈ではなく、志貴さまの鼓動を確かめていますから」
「んっ――――!」
ひやり、と。
冷たい指が胸から腹部へと伝っていく。
胸のあたり。はだけたシャツの隙間から、直に皮膚に触れてくる、指。
「っ、ひ、翡翠……!」
「どうかお静かになさってください。あまり動かれると、せっかくの貴重な薬が効果をなくしてしまいます」
「え―――それ、ほんとう……?」
「はい。体内に吸収されやすい性質だそうで、動かれるとすぐに溶けてしまうそうです。それでは効果が薄いので、できるだけ時間をかけて体内に浸透させるようにと姉が教えてくれました」
「う……琥珀さんがそう言ってたなら、仕方、ないけど」
赤面する。
ただでさえ異性の体に触れたがらない翡翠の指が、直にこっちの肌に触れているんだ。
こんな状態が続いたら、俺は―――
「あ…………れ」
「体温も一定になってきましたね。こうなるとしばらくは鬱状態になりますから、あまり難しいことは考えられなくなるそうです」
「…………な」
な―――にを。
言っている  んだろう  翡翠  は。
「ですがまだ時間がかかるようですから、なにかお話をいたしましょう。……そうですね。志貴さまのお好きな、子供のころのお話でもしましょうか」
立ったまま。
まるで棺の中に入った死者を葬送するように、翡翠はこっちを見下ろしてくる。
「覚えてらっしゃいますか? 志貴さまが庭で遊んでいらっしゃる時、いつもいつもわたしがいる窓を見上げていてくれたことを。
わたしは、あの時間がいつも待ち遠しかった。屋敷の方たちはみな、わたしのことをいないもの、存在しないものとして扱いましたから」
「わたしを見つめる志貴さまの目は、いつも無言でおっしゃっていました。早く外に出てきて、みんなで遊ぼうって。
ですが、わたしは屋敷の外には出なかった。出る方法もわかりませんでしたし、そんな事に意味があるのかどうかさえ解りませんでしたから」
―――翡翠の声が、とおい。
淡々とした翡翠の語り。それにはどこにも暗い翳りなんてないのに、ひどく――――
「わたしは、あの窓から外を見ている事に何か意味を求めていたわけではありません。
ただ槙久さまの部屋には居たくなかったから、槙久さまの部屋以外で唯一居ることが許されていたあの場所にいただけなんです。
だから、どうでもいいものだったんです。シキさまや秋葉さまが中庭で遊んでいる姿は、わたしには太陽の光や木の葉とさして変わりのないものでしたから」
「―――貴方さえ。わたしに気がつかなければ、それでよかった。志貴さまがわたしに手をふって、何もしらないクセにわたしに呼びかけるなんて事さえなければ、わたしはどうなっていたかわかりません。
いま、わたしがこうしていられるのも全て志貴さまのおかげなんです」
そう言って。
翡翠は、嬉しそうに、笑った。
「毎日、あの時間が待ち遠しかった。志貴さまが中庭からわたしを捜す姿を、いつも見ていました。
志貴さまは今日こそ遊ぼう、今日こそ出てきなさいって、いつもそんな目をしていました。
……笑ってしまいますよね。わたしは志貴さまがいて、初めて自分も外に出れる足がある人間なんだって気がついたんです」
「ねえ、聞いてます志貴さま? クスリが回ってきたからって簡単にはとばないでくださいね。
わたし、子供のころから志貴さまとこうしてお話がしたかったんですから」
……翡翠の口元が歪んでいる。
嬉しくて。楽しくて、唇がワライのカタチを作っている。
「わたし、本当に待ち遠しかった。でもそれは志貴さまがわたしを外に連れ出してくれる日が来るのが、ではありませんよ。わたし、そんなことは不可能だって分かっていましたから」
「希望なんて知らなければよかったんです。そうすれば絶望も知らないままでいられるんですから。
なのに貴方は得意げに、本当にそれが簡単な事のような目をして、わたしに出てくればいいのにって言うんです。
……本当に、毎日志貴さまが出てこられる午後の時間が待ち遠しかった。
わたしにとって、感情をぶつけられる相手は志貴さまだけでしたから。……それがどんな感情であれ、あんなに毎日、祈るような気持ちで志貴さまを思っていた事なんて、貴方は知らなかったでしょうね」
―――翡翠の声は、よく聞こえない。
ただ、淡々と語り続ける。
意識が朦朧として、その意味がよく解らない。
ただ――――翡翠が口にしているのは、この上ないほどの、呪いだという事ぐらいしか。
「あ――――、つ」
気がつけば、全身が熱かった。
どくん、どくんと血管が脈打っている。
あれほど死にかけて、今にも止まりかけていた体中の器官が段々と蘇生しだしている。
「あつ―――あつい、翡翠、すご、く―――」
熱い。熱くてどうにかしてしまいそうだ。
シーツ。シーツは邪魔だ。寝巻だって熱い。まるで真夏にコートを着ているような息苦しさ。
「は――――ぁ、くっ――――」
だが、まだ体が動かない。
三日間も満足に動いていなかった筋肉は、そう簡単に歯車を回してくれない。
「翡翠、どうなってるんだこれ……! 体、体は熱いけど、ちっとも体が動いてくれないじゃないか……!」
「―――はい。いくら機能を回復させても、それ以上に志貴さまから失われていっている生命力のほうが多いんです。ですから、さきほどのクスリではこんな小さな部分しか志貴さまを回復させることはできないでしょう」
――――――ドクン。
心臓が破裂しそう。
「…………」
体は、動かない。
……そりゃあ多少は動いてくれるけど、さっきまであった充実感は、失われてしまっている。
「――――――」
翡翠は衣服を正してベッドから離れる。
俺は―――翡翠にかける言葉がない。
体が興奮していたからって、あんなコトを―――あんな酷いことを翡翠にしてしまって、いまさら、何の弁解もできない。
「……翡翠……俺は」
「志貴さま。この事はお互い忘れましょう」
「―――でも、それじゃあ翡翠は」
「わたしは、もう忘れました。ですから志貴さまもそのようになさってください」
「―――――――」
なんて返答していいか、わからない。
俺は翡翠に謝る言葉も、かといって感謝するような言葉さえ、ない。
「それでは失礼します。くれぐれも、この事は秋葉さまや姉には他言しないでくださいませ」
「あ………」
翡翠は逃げるように去っていった。
……それも当然だろう。
あんなコトをされたんだ。こんな部屋になんて、もう一秒だっていたくはないだろうから。
……午後二時になった。
検診の時間になったけど、翡翠はやってこないだろう。
「…………はあ」
ため息しかでない。
なんであんなコトになってしまったんだろう。
そりゃあ始めたのは翡翠のほうだけど、いくら体が元気になったからって翡翠を押し倒して、あんな乱暴に抱くことなんて、なかったのに。
「―――――っ」
頭痛がする。
……理屈こそ解らないものの、翡翠と体液を交換した事で確かに多少の体力は戻ってくれた。
けど、回復した体力に合わせるように頭痛も強くなってきている。
……ノックがした。
琥珀さん……だろうか。
「失礼します、志貴さま」
「―――――――――え」
やってきたのは、翡翠だった。
「―――――――」
翡翠は無言で、いつも通りの検診をこなしていく。
今日はまだ眠っていないおかげで、出血はしていない。
輸血用の点滴は使われず、体温を測ったあとにシーツを替えて、水と飲み薬を用意してくれる。
「―――――――」
その間、俺たちの間に会話はまったくなかった。
……あんなことの後で、こっちは翡翠の顔がまともに見れない。
翡翠だってそうだと思うんだけど、そこは使用人としての責任があるんだろう。翡翠はテキパキと、いつも通りに作業をする。
不意に。
「志貴さま、お体の具合はいかかですか」
なんて、真横から話しかけられた。
「あ、いや、だって―――――」
具合っていったって、さっきので少しは体が動いてくれるようになったんだけど、その――
「志貴さま、どうかなされたのですか。なにか、お顔が赤いようですが」
「か、顔が赤いって、それは―――だって、翡翠が」
「はい。わたしがどうかしたでしょうか」
首をかしげる翡翠。
「う―――――」
くそ、はっきり言えない。
そもそも俺は、まださっきの事を謝ってさえいなかった。
「だから、その……さっきは、ごめん。」
「あ…………」
思い出したのか、翡翠は恥ずかしそうに顔をさげてしまった。
――――ワケでは、ないようだった。
「……いいんです。わたしのほうこそ、志貴さまのお体をいたわれずに、勝手なことばかりしてしまいました。わたしが志貴さまに嫌われてしまうのは、仕方のないことだと思います」
「ばっ―――嫌われるって、俺が翡翠のことを嫌いになるワケなんかないだろ……! この先なにがあったって、俺は翡翠を嫌ったりしない! ……そりゃあ、翡翠が俺のことを嫌いになるのは、仕方がないことかもしれないけど」
口にして、なんだか背中が重くなった。
自分で言っておいてなんだけど、いいかげん翡翠も俺に愛想がつきている頃だろう。
今だって、さっきのことを思い出して呆れているに違いない……って、あれ?
……おかしい。
なんでそう、嬉しそうに翡翠は笑っているんだろう……?
「……翡翠。なんで、笑ってるの」
「はい。今の志貴さまのお言葉は、そのままわたしの言葉でもあるんです。ですから、それがおかしくて」
くすくすと、本当に楽しそうに、翡翠は笑った。
……くらり、とする。
たまに見せる翡翠の笑顔は可愛すぎて、どうにかしてしまいそうだ。
だからだろうか。
さっきの翡翠の笑みが、ひどく恐ろしく感じるのは。
「……とにかく、まだお礼を言ってなかった。さっきはありがとう、翡翠。……その、方法に色々問題はあったけど、おかげで体もなんとか持ちなおせそうだ。今だったら少しは歩けるかもしれない」
「え―――あ、はい。わたしがした事なんて小さな事ですが、それでもお役にたてたのなら嬉しいです」
まっすぐに俺を見つめてくる翡翠。
……そう見られるとさっきの事を思い出してしまって、また興奮してきてしまう。
「……けど、やっぱりさっきのは、その、よくないと思うんだ。そりゃあ俺は嬉しかったけど、ああいうのは不自然だって」
「……不自然、ですか?」
「ああ、不自然だよ。ああゆうのはお互い合意のうえで、その……やるものだろ。いくら翡翠が使用人だからって、あんなコトまでする必要なんて、ない」
「わかりました。志貴さまがそうおっしゃるのでしたら、次から志貴さまのお体に触れる前にお許しをいただきます」
……いや、だからそういう事じゃなくて。
「それでは失礼します。なにかありましたらお呼びください、志貴さま」
そうして翡翠は退室していった。
「……クールだ」
ぽつりと呟く。
俺なんて翡翠の顔をみるだけで赤面しているなって自覚したぐらいなのに、翡翠はまったくいつも通りだった。
「……………」
なんだか腑に落ちない。
微妙な違和感は、しばらく消えずに俺の頭を悩ませた。
「あ――――――つ」
目が覚めると、もう外は日が暮れようとしていた。
……いつのまにか、眠っていたらしい。
はぁ はぁ はぁ はぁ
息が荒い。
体温が熱い。
なにか。体が、もえて、硝えているような、感覚。
「……み……ず……」
喉が渇いた。
熱くて声もあげられない。
翡翠や琥珀さんを呼ぶことも、できない。
「…………」
広い部屋。
いいかげん、何日もここにいると気が滅入ってくる。
落ち着かない部屋。
見覚えのない部屋。
……こんな部屋は、俺の、部屋じゃない気がする。
「……み……ず……」
喉が渇いた。
水。自分の家にいって、早く、水を飲まないといけない。
「はっ……はっ……はっ……」
壁に手をついて、崩れ落ちそうになりながら、なんとか歩き出す。
「はっ……はっ……はっ……」
……なんてこと。まだ十メートルも歩いていないのに、もう心臓が破裂しそうだ。
「………はっ………はっ………」
それでも、行かないと。
これ以上歩けば死んでしまうかもしれない。
だがこのまま水を飲まないでいても死んでしまうかもしれない。
なら、自分で歩いて水を飲む。
ベッドで待っているだけの生活なんて、これ以上やっていられない。
「はっ……はっ……はっ……」
中庭に出る。
水――――台所は、こっちじゃ、ないのに。
「…………は………あ」
林の中に入っていく。
……もうすぐ。
もうすぐ、水のある、懐かしい場所に着ける。
「は…………あ」
熱にうかされて、気がつけばこんな所までやってきていた。
白い、陽射し。
もう日は暮れようとしているのに、世界は白い。
まるで、ここだけ砂漠にでもなったように暑くて、白くて、目がかすむ。
……ごと、と物音がした。
……離れの中からだ。
……誰か。
……中に、いるのだろうか。
縁側から障子を少しだけあけて、中を覗いた。
そこには秋葉と琥珀の姿があった。
二人の様子はどこかおかしい。
しゅるり、という、帯の外れる音。
―――――なに、を。
無言のまま、琥珀は着物をはだけさせて、その胸をさらけだした。
裸体をさらけだした琥珀は、頬を赤くして、ぴくりとも動かない。
その、白い胸のふくらみに、秋葉は唇を押し当てる。
きり、という、緊張感。
胸をはだけて俯いている琥珀と、その胸元にうずくまるように顔をうずめている秋葉。
琥珀の胸元から、ぽたり、ぽたりと紅い雫がこぼれている。
ごくり、と秋葉の喉がなにかを嚥下する。
なにを―――なにを飲んでいるのか、そんな事はいうまでもない。理解するまでもない。
秋葉は、琥珀の血を、飲んでいる――――
……眩暈がする。
何も考えられない。
ただ白昼夢のような気持ちで、二人の妖しさを覗く。
不意に、秋葉は琥珀の体に腕を回したまま、口をあけた。
「例の殺人鬼の話……あなたはどう思う、琥珀」
「そうですね。間違いなくシキさまの仕業だと思います」
――――なにを。
「まあ―――そうよね。あんな体でどうして出歩けるかは知らないけど、もう放っておくわけにはいかない。遠野の血が起こした穢れは、遠野の血で祓さなければ」
――――だからなにを、言っているのか。
「では、秋葉さま」
「ええ。遠野の当主として、私が兄を殺します」
――――その言葉に、ぞくりとした。
秋葉の言葉に迷いはない。秋葉の言葉にうなずく琥珀さんさえ、本気だった。
「それでは秋葉さま。翡翠ちゃんにもその事を伝えないといけませんね」
「そうね。……けど、翡翠の手は借りなくていいでしょう。兄は満足に動ける体じゃない。息の根を止めるのは私とあなただけで十分でしょうから」
――――はぁ、はぁ、はぁ。
知らず、呼吸が乱れていく。
「いい、琥珀? くれぐれも兄さんには気取られないようにして。あと数日中に決着をつけるから、できるかぎり兄さんを苦しめたくない」
「はい、存じております。どのみちどうあってもお一人でベッドから起きあがれないのですから、気付かれる危険はないでしょう」
―――――はぁ、はぁ、はぁ。
指が震える。背中から吐き気が伝わってきて、倒れそうになる。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
―――――逃げないと。
ここで倒れたら、殺される。
いまこうして覗いているのが二人に知られたら、そのまま殺されてしまう。
「は――――あ」
……わからない。
二人がどうして俺を殺そうとしているのか、まったく理解できない。
それを理解しようとする頭も、熱にうかされて動いてくれない。
……わからない。
こんなのは、悪い夢だ。
――――――――――夢
夢――――――――――?
そう、これは夢。
いつも見ている、質のわるい悪夢にすぎない。
なら、早く覚めないと。
こんなおかしな妄想に食い尽くされる前に、早く目を覚まして以前の生活に戻らないと――――
「くっ――――う」
……なんとか部屋に戻って来れた。
あとは―――そうだ、鍵、鍵をかけないと―・
「志貴さま」
「―――――――!」
……いつから部屋にいたのか、翡翠は俺の部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
「なにをしていらっしゃったのですか。そんな体で出歩かれては困ります」
「ひ……すい」
「大人しく横になっていてください。志貴さまに無理をされては、わたしが秋葉さまに叱られてしまいます」
「秋葉に……叱られる……?」
どうして俺が外に出ているだけで秋葉に叱られるんだろう。
……いや、そんなのはもう解りきっている。
秋葉は俺が殺人鬼だって気がついたから、俺をこの部屋に閉じ込めて、今夜にでも、俺を殺そうとしているだけだ。
「――――出ていってくれ、翡翠」
「志貴さま……?」
「この部屋には誰も入らせない。たとえ翡翠だろうと、もう二度と入らせない……!」
「志貴さま―――きゃっ!」
どこにそんな力が残っていたのか、翡翠を力ずくでドアから廊下にはじき出す。
そのまま、ドアを閉めて鍵をかけた。
「志貴さま―――!? 志貴、さま、お開けください、志貴さま……!」
ドンドン、という音。
それを無視して、崩れ落ちるように、絨毯に倒れこんだ。
――――くる、しい。
脳髄にはりついてくる膜。毛穴という毛穴から染みこんでくる毒。鼻孔や口から酸素をとりいれるたびに、体内に入りこんでくる膿黴穢れ。
――――体が、うまく動かない。
なにか、器官とか機能とか、そういったものとは別のところのモノ、人間を活動させている根本的な命、エネルギーのようなものが、流出していっている。
俺の心臓には目には見えないパイプが外に向かって伸びている。
『命』は、そのパイプを通じて、アイツのほうへと流れていってしまっている。
―――――くる、しい。
だから、間に合わない。
俺の体でいくら生きていくためのモノを生産しても、すべてアイツに横取りされてしまう。
だから、外から活力を補充しないと、生きていけない。
点滴。栄養剤。注射。鎮痛剤。水分。血液。理性。知性。感情。記憶。視覚。聴覚。味覚。触覚。嗅覚。体液。愛情。衝動。
――――――は……ア
薬なんかじゃ、ただかろうじて命をとどめている事しかできない。
そんなんじゃ治らない。
俺を動けるようにしてくれるものがあるとしたら、それは――――
ドンドン、という音で目が覚めた。
ドンドン。
ドンドン。
ドンドン。
「……うる……さい、な」
壁に手をついて、なんとか立ちあがる。呼吸は、ぜいぜいと音をたてて、耳障りだった。
ドンドン。ドンドン。ドンドン。
「兄さん! 開けてください、兄さん!」
秋葉がドアを叩いている。
……そうか。鍵を閉めたから、誰も中に入って来れないのか。
「……なんで鍵なんか、かけたんだっけ……」」
朦朧とする頭を動かす。
それは、確か―――・
「――――――――」
そうだ。
秋葉をこの部屋に入れない為に、鍵をかけたんだった。
「兄さん……! 起きているんでしょう、検診をしなくちゃいけないのに鍵なんかかけて何しているんですか!」
どんどん、という音。
秋葉は必死に、それこそ恨みさえ篭っていそうな声で、部屋の中にいる俺に呼びかけてくる。
「ああもうっ、とにかく開けてくださいっ! 夕方の点滴もしてないなんて、兄さんは死にたいんですか!」
扉を叩く音が止まない。
……それは当然か。
秋葉にとって、俺が部屋に閉じこもる事は好ましくない。
俺がこうしているかぎり―――秋葉は俺を殺すコトができないんだから。
「兄さん……!? ちょっと、聞いているんでしょう、兄さん……!」
どんどん、という音。
……扉を叩く音はどうでもいいが、秋葉の声は、我慢ならない。
「うる、さい…………!!」
「え――――――」
扉の向こうで、息を飲む声が聞こえた。
「う、うるさいって……兄さん、私は兄さんが心配で―――」
「……知らない。俺はここから出て行かない。俺のコトが心配だっていうんなら、秋葉は消えてくれ」「なっ―――」
「いいか、俺は絶対に出て行かないからな。俺はおまえに、殺されてなんか、やらない……!」
だん、と扉を叩く。
……扉の向こうでは、大気が凍りついたような沈黙があった。
―――その、後。
「……兄さん、それはどういう意味ですか。私が兄さんを殺すだなんて、誰にそんな事を聞いたんです」
「……いいから出ていけ……! 俺は殺人鬼なんかじゃない、まだマトモな人間なんだ……!」
「まさか――――兄さん、貴方はそこまで引きずられてしまっているんですか」
呆然とした呟きのあと。
秋葉の気配がドアから離れた。
「……わかりました。兄さんはいま疲れているようですから、また後でやってきます」
「――うるさい。俺は、秋葉たちをこの部屋には入れない……!」
「……兄さん。今夜は兄さんの言うことを聞いてあげますけど、明日は私の言う事を聞いてもらいます。
今の兄さんは一日でも危ないのに、二日も放っておいたらそれこそ衰弱死してしまう。だから、あと一日だけ我慢していてください」
かつん、かつん、と遠ざかっていく足音。
「はぁ………はぁ………はぁ」
呼吸がうまくできない。たしかに秋葉の言うとおり、このままだと本当に衰弱死してしまう。
「はぁ………はぁ………はぁ」
それでも、秋葉に殺されるよりは、いい。
――――扉に鍵をかける。
あとは壁にもたれかかって、眠らないように、ずっと目蓋を開け続けた。
●『13/金糸の繭』
● 13days/November 2(Tue.)
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
――――夜が明けた。
ひどく、静かだ。
耳障りだったゼイゼイという呼吸音も聞こえない。
……とん、ととん、とん。
「――――――――」
体はもう、ぴくりとも動かない。
思考も完全に停止している。
鏡でもあったら、こうして壁に倒れかかっている自分が糸の切れた人形に見えていることだろう。
……と。とと、ん。と、ん。
「―――――――ごふ」
……またリズムを間違えた。
「ご―――は、あ、あ――――」
……とん。と、とん。
……とん。とと、んとん。
……とん。ととん。とん。
……とん、ととん、とん。
「、………、………」
リズムが戻って、なんとか呼吸を再開できた。
「―――――――――」
たった一晩一人きりでいただけで、体はひどく衰弱していた。
視界はぼんやりとかすんでいる。
肌にふれる空気は、それだけで痛い。
呼吸も意識してなければもつれて止まってしまいそうなほど、体の器官がおかしくなりはじめている。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
「志貴さま、起きていらっしゃいますか……?」
翡翠の声。
……これで何度目だろう。翡翠は、本当にこりない。
「起きてらっしゃるのでしょう? それでしたら、せめてお食事をおとりになってください」
「……いい。翡翠たちが持ってくるものは、食べない」
何も食べない。
この家で出されるものは何も信用できない。
食べ物も。水も。薬も。
自分を殺そうとするための、毒に思える。
「……志貴さま、ここにお食事を置いていきますから。わたしが立ち去ったあと、どうか扉をあけてお食べになってください」
……翡翠の気配が遠ざかっていく。
「………」
ごん、と壁に頭を打ち付ける。
……こうして翡翠を無視するのは何回目だろう。
……翡翠。翡翠は秋葉や琥珀さんとは違う。
翡翠は俺のことを殺そうとはしていないかもしれない。
「………」
けど、そんなものは妄想だ。
翡翠は俺をこの部屋に閉じ込めようとしていた。
今だって、さっきみたいに懲りずに俺の様子を窺いにきて、俺をこの部屋に閉じ込めている。
「――――は、あ」
……だめだ。
自分で自分の思考がとりとめのない、被害妄想じみている事は分かっている。
なのに、いまさら思考は正常には戻ってくれない。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
……とん、ととん、とん。
意識は朦朧としている。体は節々が痛い。
喉は乾いていて、今すぐ水を飲まなければ死にそうなほど。
……それでも、自分は頑なに扉に鍵をかけたままだった。
……またノック。
トントン、トントンという繰り返し。
「……志貴さま。お食事が、冷めてしまいました」
悲しそうな声。
「……秋葉さまも姉さんも、今日はお出かけになって戻られないそうです。今、この屋敷にはわたしと志貴さましかおりません」
だから外に出て来い、とでも言いたいのか。
「うるさい……! 俺にかまうなって言ってるのに、どうしてわからないんだ翡翠は……!」
「――――――――」
息を飲む気配。
翡翠の気配が遠くなっていく。
またトントン、という音。
立ち去っていく気配。
……そんな繰り返しを、数え切れないほど、している。
「は―――ぁ、つ―――――」
……苦しい。
空腹は、どうという事はない。
ただ喉の渇きと、発熱している体が苦しい。
「――――――――――――」
……何をしているんだろう、俺は。
こんなふうに壁によりかかって、今にも止まってしまいそうな体を抱えて。
閉じた窓。閉じた扉。
「――――――――――」
……そういえば、昔。
こんなふうな出来事があった気がする。
――――――あれは、
一体どのくらい昔のことだったか。
新しい環境に連れてこられて、周りの人間に馴染めずに一人でずっと閉じこもっていた子供の頃。
とにかく何もかもが嫌で、誰とも話したくなかった。
そんな時に、何度もドアを叩いてきた少女がいた。
トントン、というノック音。
だれだ、と俺が聞くたびに、「あたしだよ」と答えてくる声。
「シキちゃん、遊ぼ。そんなとこにいたらかびが生えちゃうんだからね」
余計なお世話だ、と何日も何日も、自分はその子を追い返していた。
またトントン、という音。
立ち去っていく気配。
……その子は毎日やってきた。
飽きもしないでトントン、とノックをする。
少女は決して無理強いはせず、扉を開けようともしないで、ただ自分に呼びかけ続けていた。
「どうして外に出てこないの?」
外に出る事はできない。屋敷の人間は、みな自分のコトを敵視している。
「そんなことないよ。みんな、シキちゃんのこと好きになりたがってるよ」
だが信じられない。
自分の父親は、それを信じて遠野槙久に殺されたのだ。
「……そっか。そうだよね、それじゃあ誰もしんじられないよね」
そうだ。だから、一人でいたほうが楽だった。
「でも、それじゃいつまでもひとりきりだよ。ひとりきりはつまんないよ」
かまわない。死ぬような目にあうよりは、そのほうがいいに決まっている。
騙されるよりは。
一人きりのまま、自分に騙されて、死に至ったほうが、キレイだ。
「もうっ。わかった、それじゃ志貴ちゃんはわたしを――――していいよ。それなら外に出て来れるでしょ?」
その言葉。
喉まで出かかっているのに思い出せない。
呆れたような口調で、何をしていいと、あの少女は言ったんだっけ――――
トントンという音。翡翠は、本当に懲りない。
こっちが飽きれるぐらいの我慢強さは、子供のころの思い出を想起させる。
「……………?」
足音がしない。
翡翠の気配が遠ざからない。
「…………翡翠?」
扉のむこうには沈黙がある。
翡翠は黙って扉の外に立っている。
長く。
翡翠の気配は、それこそもう二度と動かないぐらい長く、ずっと扉の向こうにあった。
「……どうして外に出てこないんですか、志貴さま」
……そんなのは決まってる。
誰も信じられなくなったから、こうして一人でいるんじゃないか。
秋葉も、琥珀も、自分自身さえもあやふやで信じられないから、こうして閉じこもっているしかない。
……ああ、ようやく気がついた。
秋葉のことなんて、本当は瑣末な事なのかもしれない。
俺は殺人鬼かもしれない自分自身を閉じ込めたくて、こうして一人でいようとしているのか。
「……誰も。何も信じられないというんですか、志貴さまは」
……そうだ。だから、翡翠が俺にかまう義務なんて、ない。
人の血を欲しがって、翡翠の体さえ乱暴に犯した俺なんかを、翡翠がそこまで気にかけるなんて、間違っている。
「……翡翠。いいから、もう行ってくれ。俺は一人のほうが気が楽なんだ。そのほうが誰にも迷惑をかけずに済む」
「嘘です。そんなの、全然楽しくなんかありません。志貴さまは嘘をついています……!」
……翡翠の声は、どこか怒っているようだった。
「志貴さま、貴方が誰も信じられないというのでしたら、わたしを信じてくださって結構です!
ですから、今だけはわたしの言うことを聞いてください……!」
……泣いているような、翡翠の声。
本当に怒っているのか、翡翠の言っているコトはメチャクチャだ。
わたしを信じていい、なんて、それこそあべこべだ。
普通は、俺のほうが信じてやる、とか言うものなのに。
「………まったく………」
滅茶苦茶だ。
そんな自分勝手な理屈を押しつけてくるのは、あの子だけだと、思ってた。
「……信じるって、なにを」
「そんなの、わたしにもわかりません……! わたしはただ志貴さまが好きだから、こうして志貴さまをお呼びしているだけです……!」
ドン、と一際強く、扉がノックされる。
「……志貴さま、どうか鍵を開けてください。わたしでは力不足でしょうけど、一人で閉じこもっていられるよりはずっとずっと楽になりますから……!」
泣くような翡翠の声。
それは口調こそ違えど、あのときの少女のセリフに、ひどく似ている気がした。
「まだダメなんですか……!? このままだと本当に志貴さまは危ないんです……!
どうして―――どうして昔に戻ってしまうんですか……! 帰ってきたら、またみんなで遊ぼうってあんなに約束したのに、どうして……!」
泣くような少女の声。
「あ…………」
微かに思い出す。
そういえば昔、俺が病院に運ばれる前にそんな些細な口約束をしたんだっけ。
あの時はケガが治ったら屋敷に帰って来るのが当たり前だと思っていたから、そんなものはそれこそ挨拶みたいなもので、気にもとめていなかったけど。
「志貴さまを―――あの時みたいに志貴さまを目の前で失うのは、もうイヤなんです……! どうか……お願いだから開けて……志、貴―――」
ドアを叩く音が止まる。
泣き崩れるような気配。
何日も何日も俺に呼びかけを続けてくれたあの子。
とても気があって、心配性で、いつも傍にいた少女。
―――それは。
本当は、一体誰だったっていうんだろう――?!w3000
「翡翠……!」
もう立ちあがる力なんてないハズだったのに、体は軋みをあげて立ちあがった。
動くたびに気が遠くなる。
けどそんな苦痛は、頭のすみのほうに追いやられていた。
――――――翡翠。
翡翠。
翡翠、翡翠、翡翠、翡翠――――!
ドアまでたどりついて、鍵に手をかける。
「……こ……の」
しびれた指先は思うように動いてくれなくて、中々鍵は開いてくれなかった。
がちゃり、とようやく鍵がはずれた。
開かれる扉。
その向こうで、懐かしい、翡翠の姿があった。
「志貴さま―――なんて、ひどい」
涙に濡れた顔のまま、翡翠は俺を見つめてくる。
けど、今は俺の体のことなんてどうでもいい。
そんな事より、俺は―――
「―――翡翠。キミが、あの子なのか」
「………………」
翡翠は答えない。
それはいいえ、という返答ではなく、はい、という沈黙だった。
「どうして――――俺はてっきり琥珀さんがそうなのかって思ってた。翡翠だって、昨日自分が屋敷の中にいた子だって、言ってたじゃないか」
「……志貴さま。それは、わたしではありません。きっと姉さんは、衰弱していく志貴さまを放っておけなくて、志貴さまをお助けしたんだと思います」
「え―――――」
――――それはつまり……昨日の、俺が襲ってしまった翡翠は、琥珀さんだったっていう事、なのか……?
「……それじゃやっぱり、翡翠が俺たちと遊んでいた子で、琥珀さんのほうが―――屋敷の中にいた子だっていうのか、翡翠」
「……………」
「どうして……? わからない。どうしてそんな入れ替わるような真似をしてるんだ、翡翠たちは」
「……志貴さまを欺こうとしたワケではないんです。志貴さまが有間の家にいかれた後、わたしは以前に比べて大人しくなったんだと思います。
姉さんはそんなわたしを励まそうと明るく振る舞うようになって、いつのまにか、わたしたちはそっくり立場が入れ替わっていただけなんです」
「そんな……どうしてそんな事に……? 翡翠……キミはあんなに元気な子だったのに」
「……違います。わたしはもともと、あまり活動的な子供ではありませんでした。ただ志貴さまがいらしたから、精一杯駆け足で志貴さまを追いかけていただけなんです」
「……ですが、それがいけなかったんです。わたしが志貴さまを庭に連れ出したから、志貴さまはあんな事故に会ってしまった。
わたしは―――ただ恐くて、志貴さまを見殺しにしてしまった。血にまみれた志貴さまをぼんやりと眺めているだけで、泣く事も助けを呼ぶ事もできなかった。
……その時から、わたしは自分がわからなくなってしまいました。どう考えても、以前の自分がどんなふうに話して、どんなふうに笑っていたのかが思い出せなくなっていたんです」
「……わたしは志貴さまが死にかけているのに何もできず、ただ見ていただけだった。そんなものは人形と変わりがありません。
だから―――いっそ人形になってしまえばいいんだなって、そんな呪いを、自分自身にかけてしまったのかもしれません。
気がつくとわたしは姉さんのように無口になっていました。……姉さんは仕事ができなくなってしまったわたしの代わりに働くようになって、わたしの代わりに笑うようになったんです」
「……待ってくれ、翡翠。キミの言うことは、俺にはよく―――」
わからない。
「俺が死にかけたってどういう事だ。翡翠は八年前の事故の事を知っているのか」
「……はい。志貴さまは事故に巻き込まれて怪我をなされたのではありません。……このお屋敷の中庭で、殺されかけただけなんです」
「な―――――」
それは、違う。
殺したのは俺のほうだ。
だって俺は、血にまみれた自分の体をいつまでも見下ろしていたんだから―――
「あ……」
気が遠くなる。足に力が入らなくなって、前のめりに倒れこむ――・
「志貴さま……! しっかりしてください……!」
……その寸前。
翡翠は、倒れる俺の体を正面から抱きとめてくれた。
「「あ―――――」」
……俺と、翡翠の声が重なる。
翡翠はよっぽど必死になって俺を支えてくれたんだろう。
俺と抱きしめあうカタチになって、体をふるふると震わせている。
「…………翡翠」
わかってる。
翡翠が異性と触れ合う事を苦手にしている事はわかってる。
だから今も、こうして支えてくれてはいるものの、翡翠の体は小刻みに震えているんだ。
「―――翡翠」
それでも、離れる事はできなかった。
翡翠の体に腕を回す。
その体温。柔らかな体。
……幼い頃から、俺のことを見守っていてくれた、少女。
ああ―――もう、間違いは、ない。
「翡翠……やっと、会えた」
満足に動かない体で、ただ、翡翠の体を抱きしめた。
「ぁ……志貴、さま……」
翡翠の体の震えは止まらない。
それでも拒まずに、翡翠は俺の背中に腕をまわしてくる。
「……ごめん」
何に対しての言葉なのか、自分でもわからない。
ただ、翡翠に謝らないといけないことが数えきれないぐらいある気がして、そんな事を言った。
「……いいんです。謝らないでください、志貴さま」
静かに答えて、翡翠は俺をベッドまで連れていってくれた。
ベッドに体を休める。
絨毯とベッドではこうも違うものなのか、ベッドに横になるだけで体が多少は楽になった。
翡翠はベッドに横になった俺にシーツをかけて、水の入ったグラスを持ち出す。
「志貴さま、お一人でお飲みになれますか?」
「ああ、なんとかそれぐらいは」
翡翠からグラスを受け取って、一日ぶりの水分をとる。
「ん……」
熱く渇いていた喉が癒される。
たったグラス一杯分の水が、どくん、と指先まで流れていくような感覚。
グラスを翡翠に返して、ばふっ、と音をたてて体をベッドに預けた。
「志貴さま!?」
「―――ああ、違う違う。あんまりにも気持ちがいいんで、力を抜いただけだ。体の調子は、そう悪くない」
「志貴さま、あまり驚かさないでください。今の志貴さまはこのままお倒れになってもおかしくないのですから」
本当に不安そうな目で俺を看ている。
……その眼差しに感謝する反面、ずきりと、後悔の念が走った。
「……志貴さま? どこか痛むのですか? 痛むのでしたらどうぞ遠慮なくおっしゃってください」
「いや、別に痛いところなんてないけど」
……ただ、胸が痛い。
俺が倒れてから、いつも自分の心配をしていてくれた翡翠。
その彼女に対して、俺は馬鹿な真似ばかりしてきてしまった。
彼女のまっすぐな献身にも気付かないで、翡翠の心を傷つけるような事ばかり、してた。
俺の体を回復させようと、あんな事までしてくれた翡翠を乱暴に扱った。
……あの時の翡翠は琥珀さんだったという話だけど、俺が翡翠に対して乱暴になったという事は事実だ。
それだけじゃない。
人を殺す夢を見て、実際にそれに引きずられるように、翡翠を犯す夢さえ見ていた。
……俺は。
こんなふうに、翡翠に看病される資格なんて、ない。
「志貴さま、お飲み物はお口にあいませんでしたか……?」
いや、と首を横にふる。
「そんな事ないよ。……その、色々ありがとう翡翠。水を飲むだけでこんなに楽になれるなんて、思わなかった。
でも、もういいんだ。俺は翡翠にここまでしてもらう資格なんてない」
「―――志貴さま、まだそんな事を言っているのですか。わたしはただ志貴さまをお助けしたいだけです。そこに資格なんてありません」
「違うんだ翡翠。キミが悪いわけじゃない」
……そう、悪いのは俺のほうだ。
いくら翡翠が献身的に尽くしてくれても、俺は、その好意をさかしまにして返してしまう。
「……俺は翡翠がいると、きっとまたひどいことをする。だから最低限の手当てをすませたら、すぐに部屋から出ていってほしい。……頼む。俺はもう、翡翠を傷つけたくないんだ」
翡翠は何も言わない。
けど俺の言いたい事は解ってくれるはずだ。
何秒か沈黙したあと、解ってくれたのか翡翠は顔をあげて頷いた。
「お断りします」
「……ああ、悪いけどそうしてくれると助かる……って、ちょっと待った。翡翠、いまなんて言った……?」
「お断りします、と申し上げました。
そのようなお言葉だけでは、志貴さまをお一人にはできません。納得のいく理由を言っていただかなければ、わたしは志貴さまのお言葉には従いません」
きっぱりと翡翠は返答する。
「理由をお聞かせください志貴さま。わたし、そうでなければここから一歩も動きません」
「な―――」
翡翠の目は真剣だ。
下手な言い訳も嘘も見抜かれてしまうだろうし、何より俺は―――翡翠に嘘なんて、つきたくなかった。
「……わかった。理由を言えば出ていってくれるんだな?」
「はい。それが納得のいくものであれば、わたしは志貴さまのお言葉をお守りいたします」
「………はあ」
深く息をはく。
……覚悟を決めて、口を開けた。
「翡翠、俺は人を殺す夢を見るんだ。毎夜毎夜、見知らぬ誰かを殺して、その血を吸う夢を見る」
「……夢を見るって……そんなコトが理由だなんていうんですか、志貴さま」
「……違う。だからさ、俺にはそれが夢であるかどうか判別がつかないんだ。本当は俺が気付いていないだけで、現実に人を殺してしまっているかもしれない。
……俺の親父である、遠野槙久みたいに自分の知らない自分がいて、そいつが街を騒がしている殺人鬼なのかもしれない」
「志貴さま、それは――そんなコト、ありえる筈がありません。志貴さまは今もこうして志貴さまのままじゃないですか」
「……今はそうだ。けど時折、わけのわからない考えが頭の中に浮かんでくる。俺が見ている夢だって、過去に俺が犯した殺人の記憶かもしれない」
……それに事実、俺は八年前に誰かを殺してしまっている。
あの中庭で血にまみれた少年の姿をじっと見下ろしていた記憶が、実際にあるんだから。
「志貴さま、しっかりしてください。まさかご自分が血を吸う怪物だなんて、そんな事を思い込むなんて、おかしいです」
「……ああ、おかしいな。けど笑い飛ばせないんだ。……翡翠は知らないだろうけど、遠野の人間はみんな普通とは違うらしいんだ。親父は二重人格者だったし、俺も似たようなものかもしれない。秋葉だって――――」
琥珀さんの、血を飲んでいた。
「とにかく、遠野の人間はみんな普通じゃないんだ。俺だってそれは同じだ。倒れてからずっと、翡翠や琥珀さんがやってくるたびに、二人が欲しくてたまらなかった。
今はまだなんともないけど、またあの頭痛がやってくれば、きっと―――俺は翡翠にひどい事をするに決まってる……!」
「―――志貴さま。そのような事でしたら、わたしも姉さんも初めから知っていました」
「は……? 知ってたって、なにを」
「ですから、遠野の人間が普通ではない、という事をです。いえ、逆にいえば知らないのは志貴さまだけでした。
わたしも姉さんも、初めからそれを知ったうえでこのお屋敷に引き取られたんですから」
「――――――な」
「ですが、それを奇異に思う事はありません。わたしと姉さんも、普通の人には持ち合わせていない力があります。わたしたちはその力があったから、槙久さまに引き取られたのです。
ですから遠野家の事でしたら、わたしたちは志貴さま以上に知っています」
「確かに遠野の血筋は異常と言っても差しつかえのないモノでしょう。
けれど志貴さま。そのようなことは貴方には関係がありません。志貴さまは槙久さまのような二重人格でもなければ、血を吸う鬼などでもありません。 貴方は―――どちらかというと、わたしや姉さんに近い人ですから」
「……俺が、翡翠たちに近い……?」
「はい。志貴さまは決して殺人鬼なんかじゃありません。……今はわたしを信じて、どうかお世話をさせてください」
「……だめだ。それでも俺が翡翠を、その……欲しいって思うのは事実なんだ。一緒にいたら俺は取り返しのつかない事をしてしまう」
「あ―――あの、その問題なのですが、一つお聞きしてよろしいでしょうか……?」
「え……? うん、別にかまわないけど……」
「あの、志貴さまは、その……わたしや姉さんを、お嫌いなのですか……?」
「――――――は?」
もじもじとせわしなく指を合わせて、翡翠はワケのわからない事を聞いてくる。
俺が翡翠や琥珀さんを嫌いか、だって?
そんなこと、天地がひっくり返ってもありえない。
「……あのね。俺が翡翠や琥珀さんを嫌うわけがないだろ。俺は琥珀さんには感謝してるし、翡翠にだって、その……ありがたいなって、いつも思ってるんだから」
「―――――はあ」
なぜか胸をホッとなでおろす翡翠。
「それでしたら何ら問題はありません。今の志貴さまは、体の影響で感情の抑制が不安定なだけなんです。普段思っている事が表に出てきているだけですから、それはあくまで志貴さま本人のご意志です。
ですから、志貴さまがわたしや姉さんに好意を持っていてくださるのでしたら、そのようなお気持ちになる事もおかしくはありません」
「あ……いや、それはたしかにそうだけど……!」
「ええ、危ないですね。けど志貴さまはいつも我慢していてくれたのでしょう? それでしたら今後も心配はありません。志貴さまはご自分を危険だとおっしゃいますけど、志貴さま自身はそれ以上に強いお方です。
今までだって我慢してこられたのですから、これからだって我慢できるはずでしょう? それに、それが志貴さまのご意志なんですから、二重人格だなんていう事もありません」
「いや……それは、そういう理屈になるだろうけど……」
……事はそんな簡単にはいかない。
けど、そんな信頼しきった笑顔を向けられると、それこそ死んでも我慢しなくちゃいけないって気になってくる。
「……わかったよ。翡翠がそこまで言うんなら、近くにいてくれ。俺もできるかぎり自分を抑えてみる」
「え――――いえ、その、わたしが言いたかったのはそういう事ではなくて…」
顔を赤くしてうつむく翡翠。
「ん……?」
わけがわからない。
翡翠は言いにくそうに、ちらちらとこっちに視線を向けてくるだけだ。
「翡翠? 俺、なにかおかしなこと言った?」
「……………………」
翡翠はじっと俺を見つめてくる。
「――――――――?」
なんか、ひどく居心地が悪い。
緊張で心臓が高鳴っているような、何か悪戯を見付かって怒られる直前のような、そんな半端な居心地の悪さ。
―――――どくん。
―――――どくん。
―――――どくん。
―――――どくん。
―――――どくん。
「く――――」
……しまった。
なんか、緊張していたせいか、眩暈がした。
「う……」
意識がぐらりと揺れる。
……忘れていたけど、俺はこんなふうに普通に喋っていられる体じゃ、なかった。
「あ…………、っ――――」
どくん、と心臓が脈打つたびに吐き気がする。
翡翠―――翡翠には悪いけど、今はこのまま眠っていたほうが、少しは楽になれるんだろうか――――
「志貴さま。お苦しいの、ですか」
「え……あ、ちょっと、苦しい。けどさっきよりはマシだから、心配しなくて、いい」
「……いえ。このままでは志貴さまのお体は衰弱死してしまいます。姉さんも、志貴さまは今夜を越すことはできないだろうと、言っていました」
「な――――」
言われて、ぞくりとした。
……そりゃあ考えていなかったわけじゃない。
この体が治らなかった時。
日増しに酷くなっていくこの体の果てが死であることなんて、そんな想像は何度もした。
けど、それを。
こうもはっきりと人の口から言われると、背筋が凍るぐらい、寒気がした。
「………………」
なんて口にしていいか、分からない。
そうか、と潔く受け入れればいいのか、
ふざけるなって暴れたほうがいいのか。
「………………」
どちらも出来ない。
自分の体が今夜にでも活動を停止する、なんていう予想はできているのに、まるで実感が湧いていない。
まるでモニターを通して、見知らぬ病人の人生を眺めているぐらい、他人事のような気がする。
「……秋葉さまと姉さんは、志貴さまの体を治すために出かけています。……けど、それだって間に合わないかもしれません。いくら志貴さまを治す事ができても、それまでに志貴さまの体力が尽きてしまっては、意味がないんです」
「……………まあ、それは、そうだな」
秋葉と琥珀さんが何をしに行っているかは知らない。
俺の体を治すっていうけど、こんな原因不明の病状を治療できるモノを探してでもいるんだろうか。
でもまあ、そんな努力も、結局。
二人が帰って来る前に俺が力尽きてしまえば、何の意味もなくなるだろう。
「……でも、ですね。秋葉さまたちが帰って来るまでの間、志貴さまが元気でいられるようにする方法があるんです」
「……?」
「……失礼でしょうが、その、志貴さまさえお許ししてくださるのでしたら、その方法を行えるんです、けど」
とぎれとぎれ、ためらいながら翡翠は俺の顔色をうかがってくる。
俺を今晩だけでも助ける方法がある、と翡翠は言う。
もしそれが本当なら、俺にそれを拒む理由なんかない。
「……許すも許さないもないよ。少しでも助かるっていうんなら、なんだってやるしかないだろ。そんなの、むしろ俺から頼みたいぐらいだ」
「―――はい。それでは志貴さま、少しの間だけ目を閉じていてくださいますか?」
「目を閉じるの? まあいいけど……はい、これでいい?」
「……けっこうです。そのまま、どうか動かないでいてください」
こつ、という足音。
近づいてくる翡翠の気配と、衣擦れの音。
その後。
ぎしり、とベッドが軋んで、唇に何かが触れてきた。
「―――――――」
柔らかい、感触。
人の体温を感じさせるそれは、間違いなく翡翠の唇だった。
――――ドク、と体温が上昇する。
ためらいがちに重ねられた、翡翠の唇。
その感触と、翡翠からもれてくる吐息が、まるで薬のように体中をかけめぐっていく。
「あ―――――」
どくん、どくん。
ただ唇を重ねているだけなのに、思考が真っ白になる。
体は浮いているように気持ちがいい。
痛みも、疲れも、何もかも消えうせていくような浮遊感。
「ん……、……ぁ」
……翡翠の吐息が、もれる。
ただ触れていただけの唇は、少しだけ、強く重なり合った。
「ん―――――ひす、い」
……自分でも、何をしているのかわからない。
ただあんまりにも翡翠の吐息が気持ちよくて、自分から翡翠の唇を求めた。
「……、志貴……さ、ま……」
ためらうように弱くなる翡翠の感触。
それがイヤで、覆い被さってきていた翡翠の体を抱き寄せた。
「ん……あ」
離れようとする翡翠を抱き寄せて、唇を求める。
「はっ……ん、ん……!」
息ができないのか、少しだけ翡翠は抵抗した。
「――――――は、あ」
でも止まらない。
翡翠の吐息。唇。唾液。その全てが、気持ちいい。
目を閉じたまま、翡翠の口に舌をいれる。
「ん―――ん!」
今までとは違って、本気で離れようとする翡翠。
それを抱きしめて押さえつけて、翡翠の舌を求めた。
「あ……ん、ん……!」
たぶん、目を開ければ翡翠の嫌がる顔があるんだろう。
そんなものを見てしまったら、俺はすぐに手を離してしまう。
だから、このまま。
何も見えないまま、ただ翡翠の舌を求めた。
「ん……ぁ、ぁ……」
唾液にまみれた舌を絡ませあう。
自分の舌が誰かの舌に触れ合っている事だけで、感覚が狂いそうだ。
味を確かめるため、触覚の中でもっとも鋭敏な感覚を持つ舌が、本来決して触れ合う事のない他人の舌と融けあっているという、その事実だけで理性がパンクしそうになる。
くわえて、それが翡翠の舌だなんていったらそれこそ限界破裂だ。
「ぁ……ん、ん……ぁ……」
赤い舌の絡み合いは続く。
唇は離れても、翡翠の舌と俺の舌はまだ融けあっている。
それは比喩ではなく。
俺たちの舌は、互いの唾液で、本当にドロドロに密着しあっていた。
―――そんな時間が、どのくらい続いただろうか。
気がつけば俺の体はどくどくとたぎっていて、翡翠は衣服を正しながらベッドの脇に戻っていた。
ドクン。
「あ――――っ」
ドクン、ドクン。
「は――あ……はぁ……はぁ……はぁ……」
ドクン、ドクン、ドクン。
「熱……体が、なんか……すごく」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
……翡翠は恥ずかしそうにうつむいたままだ。
俺には―――よく、今の行為の正体が、わからない。
「……翡翠……今の、どうして―――」
どうして、俺なんかにキスをしたのか。
どうして、キスをしただけで、薬以上に体が元気になっているのか。
その正体が、まるっきり解らない。
「……はい。その、今のが志貴さまを助ける方法なんです」
「俺を助けるって―――だから、どうして」
「どうしてといわれると困ります。ただ、わたしと姉さんは、体を重ねた人に力を分け与える事ができるんです。
……その、体液の交換をすれば、その人を自分と同じモノと認識できるようになって、自分の力を分け与えたり、その人の力を増幅させる事ができるんです」
「な―――なに、それ」
「わたしと姉さんは生まれついて、そういう特別な体質をしています。遠野の血筋とは別で、普通の人間から生まれる特異な能力者。槙久さまは『感応者』と呼んでいました」
――――あ。
その単語は、たしかに、親父の手記にあったようななかったような。
「槙久さまは、年々比重をましていく『遠野よりの自分』を抑制するためにわたしたちを引き取ったのです。わたしたちは力を分け与える事より、その人本人の力を強くする事のほうが向いていますから。
……槙久さまは、遠野よりの自分ではなく人間よりの自分に姉さんを感応させて、かろうじて人間としての自我を保っていたんです」
「……………」
いや、そんな事、俺に言わなくてもいいんだけど……つまりその、体液の交換っていうと、今のは―――
「……よくわからないけど、翡翠の体っていうのは、俺にとって薬みたいなものなの……?」
「はい。本来の志貴さまなら何の意味もないでしょうけど、今の志貴さまの体力は低下していますから。わたし程度の力を分けるだけで、なんとか人並みの生命力を維持できると思います」
「――――そっか。だからこんなに元気になってるんだ、俺」
ぐっ、と両手を握ってみる。
「……動く。うん、ちゃんと動く……!」
まだ体の節々は鈍いけど、それでも自分の意思で体を動かす事ができる。
なんだかそんな当たり前の事が、今はとんでもなく嬉しい。
「あ、ありがとう翡翠! おかげで元の体力に戻れたみたいだ!」
やったー、とばかりに腕をあげる。
けど、翡翠はまだうかない顔をしたままだった。 ……思い返してみれば。
いくら翡翠の吐息が気持ち良かったからって、あんなに強引に、嫌がる翡翠を無視してキスを続けてしまったんだ。
「あ……その、ごめん。翡翠の息が、すごく気持ちよくて、つい―――」
「いえ、先ほどの事は、あれでよかったんです。……その、わたしだけでは体液の交換はできなかったでしょうから」
恥ずかしそうに俺を見つめてくる翡翠。
そうして、翡翠はまぶたを閉じた。
◇◇◇
耳をすませると、すーすーと静かな寝息をたてている。
「……眠ったのか、翡翠」
翡翠をベッドに寝かして、シーツをかぶせる。
力尽きてしまった翡翠とは対照的に、俺のほうはまだ元気がある。
これで、とりあえず今晩は、俺は人並みの体に戻れた、という事だろう。
……翡翠はベッドで眠っている。
翡翠は安らかな寝息をたてて眠っている。
……行動を起こすとしたら、今しかない。
「……ごめんな。もう少し眠っててくれ、翡翠」
翡翠の髪を軽くすいてから、着替えて部屋から外に出た。
―――そういえば秋葉も琥珀さんもいないんだっけ。
ちょうどいい機会だ。
今のうちに俺の事、八年前の事故の事をハッキリと調べてやる。
親父の部屋に入る。
……ここになら、俺の疑問に答えてくれる何かがあるはずだ。
「……机の引き出し……には、もう何もないかな」
鍵がかかっている引き出しになら親父にとってプライベートなものがまだ残っているかもしれない。
けど、そんな所にあるものに、重要な記録を記したものがあるとは思えない。
「……金庫か何かあればいいんだけど」
部屋中を探す。
「…………あった」
金庫らしきものなら、わりあい簡単に見付かった。
鍵もないし、ダイヤルもわからない。
だからメガネを外して、金庫に見える『線』を切った。
「……ん……」
中には古びた日記帳と、便箋らしきものがあるだけだった。
日記帳は子供用のもので、もう一つは誰かにあてた手紙の原文らしい。
「……手紙の原文って、どうして」
筆跡は間違いなく親父のものだ。
内容はひどく断片的で、一見してなんの事だかわからない。
―――日付は、八年前の夏の日から始まって、その後は少しずつ月日が経過しているようだ。
「…………」
意味がわからないまでも、とりあえず目を通してみることにする。
〇月〇日。
息子のシキが遠野の血に傾斜する。
シキ、その場に居あわせた養子を殺害。
(養子は七夜の跡取り息子である。琥珀、翡翠といった感応者の一族ではないのは不幸中の幸いだった)
シキは反転が酷い。よって処罰するしかないと判断した。遠野の当主の役割といえ、我が子を殺すのは辛い。
遠野の血は、アキハよりシキのほうが濃い。
潜在的なレヴェルではアキハにより旧い起源を感じるが、血の濃さではシキが上回っていた。
そのために、シキは成人する前に反転してしまったのだろう。
シキの能力は『不死』と『共融』である。
シキは蘇った自己の能力を持て余し、結果として近くにいた七夜の養子を殺害し、その命を奪い取った。
初めての能力行使にしては素晴らしいと言わざるをえまい。
〇月×日
シキ、養子、ともに一命を取りとめる。
シキは私に殺される前に養子を殺害して『生命力』を奪っており、その余命で蘇生したようだ。
シキは臨死していたためか、反転していた理性も多少は戻ってくれた。
よって、危険ではあるが処罰するのを止め、遠野の屋敷から一時的に隔離する事にしたい。
七夜の養子のほうは、命をとりとめたといっても長くは持つまい。
仮に回復したとしても、シキに命を奪われている身である。いつ頓死してもおかしくない体だ。
養子は生きているかぎりシキと意識が同調してしまう可能性がある。シキと命を共有するが故の副作用だろう。だが、そうなってしまえばいずれ養子は衰弱死する。問題はない。
〇月〇日
社会的な処理が残る。
シキは七夜の養子を殺害してしまった。
事実は隠蔽したが、シキは表に出せる状態ではない。まだ私につけられた傷も癒えていないし、姿カタチも変貌してしまっている。
とても遠野シキとして人前に出せる状態……人間として表現できる生命ではない。
七夜の養子はまだ生きている。
アレが存命している間、まだ役にたってもらう事にした。
反対意見があるのなら返答を願う。
補足。
七夜の血筋は、ある種殺人鬼を輩出する一族である。
もしあの養子が生き残ってしまった場合、命を共有して繋がっているシキに悪影響を及ぼすだろう。
せっかく理性を取り戻したシキが、七夜の養子に引きずられて『殺人鬼』になってしまう可能性も否定できない。
そのような事態が起きないよう、養子は目の届く範囲で飼わなければならない。だが遠野の屋敷に近づける事も許されない。
管理に適切な分家筋を選んでほしい。
〇月×日。
……遠野の血に目覚めてしまったシキ。
一度臨死体験をしたためか、今では以前のような理性が戻ってくれた。
だが、いつ何かの拍子で反転してしまうかはわからない。
不本意ではあるが、シキも遠野の屋敷に近づける事はできない。
シキの世話は信頼できる使用人に一任する。
〇月×日。
あの子の理性が正常に戻った、という報告はまだこない。
……他人の家に預けてから、すでに一年が経過している。
心苦しい。あのような生活を我が子にかすのは辛い。早く、一刻でも早くシキが回復してくれればすぐに屋敷に呼び戻せるのだが。
「―――――――なんだ、これ」
養子。十年前に養子がいたっていう事は、知ってる。
そんな大昔のこと、俺はまるっきり覚えていないが、確かに養子がいたという事だけは知っている。
……そいつを、俺が殺した?
八年前、あの中庭で?
「……意識が繋がる……」
手紙には、俺とそいつの意識が繋がる可能性がある、と書かれている。
普通なら笑い飛ばす類の話。
だが、今の自分には身に覚えがありすぎる。
「―――――いや」
いや、そうじゃない。
これは、そういう事じゃない。
「―――――くっ」
……解っている。
もう、本当は何がどういう事なのか、気がついてくるクセに、俺はそれを考えないようにしている。
―――まだ否定したがっている。
養子は。
殺されたのは。
一体どちらなのかなんて、もうちゃんと解っているハズなのに、俺はその事実を見て見ぬふりをしたがっている――――。
「くっ―――なんて、無様」
自己を呪う呟きをこぼして、手紙を投げ捨てた。
「……あとはこっちか」
金庫にいれられた日記。
どうも子供のものらしくて、遠野槙久のものとは思えない。
パラ、とページをめくる。
そこにあるのは、ただ四文字のカタカナだけだった。
タスケテ
、と。
真っ白ページに、小さく、刻まれている。
「…………え?」
ページをめくる。
タスケテ。
めくる。
タスケテ。
めくる。
タスケテ。
めくる。
「な―――――」
それは、読んでいる者の足場を壊して、深い闇に落としかねないぐらいの、呪いだった。
タスケテ
タスケテ
タスケテ
タスケテ
タスケテ
タスケテ
タスケテ !w750タスケテ !w750タスケテ !w500タスケテ !w500タスケテ !w500タスケテ!w300タスケテ !w300タスケテ !w250タスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタス・
テタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケ――――――――
「―――――」
……吐き気がした。
今まで色んな悪夢を見てきたが、これは、それを上回る。
タスケテ、という文字。
この日記を書いた人間は、他の単語を知らなかったわけじゃない。
この文字しか。
コイツは、こんな感情しか浮かばなかっただけだ。
羅列される文字には、何一つ書きなぐられたものはない。
一文字一文字、吐き出すような感情をこめられて繰り返されるコトバ。
コイツはこうやってこの四文字を書くことでしか、逃げ場がなかった。
それ以外の呪いの吐き出しかたを、コイツは知らなかったんだ。
「……っ」
ページはまだ半分以上残っている。
俺には。
これ以上、この本と対峙する気力は、ない。
「――――」
できるだけ目を背けてページをめくっていく。
パラパラとめくっていった最後のページで、手が止まった。
「……普通の文章……?」
最後のページにあるのは、短い文章だった。
ま白いページに、銀色の鉛筆で書かれた文字。
だから 人形になってしまえばいい!w2000
私のからだは、少しずつ脈打つのをやめていきました
血管は一本ずつチューブになって
血液は蒸気のように消えていって
心臓もなにもかも、形だけの細工になる
ほら、だから   もう、痛くなんか
ない!
「――――――」
……日記を閉じて、金庫に戻す。
遠野槙久がなんのつもりでこれを金庫に仕舞っていたかは知らない。
ただ、これは。
この日記を書いた子供の怨念を恐れて、金庫に封印したものに違いなかった。
……日はとうに暮れていた。
暗くなった庭。
目前には黒い、ヴェールのような森が広がっている。
いつか、この屋敷に来る前に見た、とおいユメを思い出す。
「…………さて」
別にそこに行って何があるというわけでもない。
ただ自分の心にケジメをつけたくて、黒いヴェールの中に入っていった。
中庭には何もない。
八年前、ここで殺された誰かの死体があるわけでもないし、
八年前、ここで殺された誰かの血痕が残っているわけでもない。
「…………」
だが、それを一瞬だけ幻想した。
夏の暑い日。
俺は確かに、ここで血にまみれた自分の体を、他人ごとのように眺めていたんだ。
「……ふん。ここで誰かが殺されたのは間違いないっていうワケか」
その、殺されたのが自分なのかアイツなのか、それこそ俺にはわからない。
どっちが養子で。
どっちがシキという怪物なのか。
「……順当に考えるのなら、俺がここでアイツを殺したっていう事になるのかな」
「違います。ここで殺されたのは志貴さま、貴方のほうなんです」
「――――!?」
振り返る。
と、そこには、いつのまにか翡翠がすぐそばまでやってきていた。
「翡翠。もう目が覚めたのか。……その、いいんだぞ、あんまり無理しなくて。まだ疲れてるんじゃないのか……?」
「志貴さまのほうこそ、あまりご無理はなさらないでください。いくら体力を補充したといっても、失われていく量のほうが圧倒的に多いのですから」
翡翠はそのまま、俺の目の前までやってくる。
「あ……」
……どくん、と心臓に活が入る。
翡翠が近くにいてくれるだけで、本当に体に活力が湧いてきてくれる。
「すごいな、体がぽかぽかしてきた。……うん、翡翠の温かさが伝わってくる」
「けど翡翠。今のは一体どういう事なんだ。ここで殺されたのは俺のほうだって言ったけど、翡翠はここで何が起きたのか知っているのか」
「―――はい。わたしは志貴さまが殺されるのを見ていました。貴方はここで、シキに殺されたんです。……肉体や魂だけでなく、本当に、何もかも殺されてしまった」
翡翠の声は震えている。
それは恐怖によるものではなく、俺を殺した相手への怒りで震えているらしかった。
「……ちょっと待ってくれ翡翠。ここで殺されたのは七夜っていう家の養子なんだろ。なら、殺されたのはソイツのほうじゃないのか」
「いえ。殺されたのは貴方のほうなんです、志貴さま」
きっぱりと翡翠は返答する。
――――ああ、なるほど。
それじゃあやっぱり―――・
「―――そっか。養子なのは、俺のほうだったのか」
「……はい。志貴さまは七夜という家柄の跡取りでした。槙久さまは、七夜の家で唯一生き残った貴方を養子にとったんです。
……貴方の名前が志貴―――遠野槙久の息子である遠野シキと同じだ、という偶然を面白がって」
「同じ――――名前?」
「はい。ですから志貴さまが混乱なされるのも当然です。それに志貴さまはわたしたちとは違い、本当の家族として遠野家に引き取られましたから」
「―――――――」
声が出ない。
……そんなもの、別にいまさらショックでもなんでもない。
俺は初めから親父とは馬が合わなかったし、この屋敷にだって違和感を覚えていた。
だから、そんな――
そんな―――
そんな、こと―――
全て嘘だったにしても、俺は―――
「……もうしわけありません。志貴さまを悲しませるようなコトばかり、口にして」
「いや、いいんだ。別に悲しくもなんともない」
――――口にして、嘘だな、と思った。
これがどんな感情によるものかは解らない。
ただ、胸に空洞めいた間隙があることだけは、否定のできない事実だった。
「―――けど、おかしいな。遠野の人間はみんなおかしな力があるんだろう? アイツ……シキが吸血鬼だっていうんなら、俺はどうなるんだ。
俺だってアイツほどじゃないけど、おかしな目をもってる」
「……わたしも詳しくは存じません。ただ秋葉さまが言われるには、志貴さまはわたしや姉さんと同じ、遠野家のような『混血』と敵対する家柄なのだそうです。
……わたしたちにあるのは体液を交換した相手と感応する能力だけですが、七夜という血族には『魔を退ける』という、攻撃的な能力があるのでしょう」
……なるほど。
たしかに俺の眼は、翡翠のように誰かを生かす為の力じゃなくて、誰かを殺す為の力だ。
「……そうか。けど、それならどうして親父は俺を養子にとったんだろうな。自分たちの敵を養子にするなんて、おかしな話じゃないか」
「……志貴さまは七夜という退魔の家柄の中でも特殊な血族の跡取りです。
浅神、巫浄、両儀、七夜。
この四つの家系は『混血』のモノには天敵とされています。
槙久さまは、そのうちの一つを遠野家に取り入れる事で何かの抑止力として使うために、志貴さまを招いたのだと思います」
「……だから。どうしてそんな敵対しあっている連中がさ、養子にやったり養子にとったりするのかなって」
「それは……七夜家の中で志貴さまだけが命を取りとめたからだと、聞きました」
「………ああ、そういうこと」
十年前。
山間に隠れ住むようにあった古い和風の屋敷。
黒い森に囲まれた、それこそ歴史の流れに置いていかれたような鄙びた世界。
……よく、思い出せない。
こうして思い出せるのはガラスのような蒼い月と。
黒い森の広場で多くの人間をバラバラにしている、遠野槙久によく似た男の影だけだ。
「――――――、はぁ」
いまさら。
そんな終わってしまった事なんて、どうでもいい話だろう。
「……それで。俺がここでシキってヤツに殺されたのはわかった。けど、どうしてその俺が生きていて遠野志貴なんて立場になってるんだ。俺には、そのあたりがよくわからない」
「……はい。たしかに志貴さまはシキに胸を貫かれて瀕死の状態になりました。けれどその後、志貴さまは奇跡的に一命を取りとめたのです。
志貴さまは助かり、槙久さまに処罰されたシキも一命を取りとめた。
誰も死ななかったのですから、事はそれで終わる筈でした。けれどシキはもう人前に出れるカタチをしていなかったんです」
「そうか、それで遠野シキの代わりが必要になったっていうわけか。遠野槙久は一企業のトップだしな。その息子が突然いなくなった、じゃ言い訳がきかない」
「……はい。槙久さまは事故で死んだのは七夜という養子の子として処理し、志貴さまを遠野志貴として扱いました。……あくまで、遠野家の体面を守るためだけに」
「……ふぅん。なるほど、あの親父のやりそうなことだ」
ああ、それで全て合点がいく。
いくら遠野志貴だなんて言っておいても、俺は遠野家の人間じゃない。遠野の後継ぎは血を引いている秋葉以外、もういない。
だから親父は俺を有間の家に預けて、長男は健在だが体が弱いので後継ぎにはしない、という立場を作り上げたんだ。
「志貴さま―――わたしは」
「……いいよ。今まで黙っていて悪かった、なんて言わないでくれ。こうして話してくれただけで十分だ。翡翠だって俺と似たようなものなんだろう?」
「いいえ、わたしは志貴さまや姉さんに比べれば何も苦痛を味わっていません……!
槙久さまが亡くなられた後だって、秋葉さまがわたしたちの立場を擁護してくださっているんです。
ですから、わたしだけがただ安穏と、何も知らないまま今まで生きてきてしまったんです……!」
「ちょっと待った翡翠。
秋葉は――その、俺が本当の兄貴じゃないっていう事を知っているのか……?」
「……はい。志貴さまが有間の家に預けられたおり、槙久さまの口から聞かされているそうです。
ですが、秋葉さまにとって兄妹は志貴さまだけなんです。
……槙久さまは毎日のように志貴さまの事は忘れろ、と秋葉さまに言いつけておりました。
けれど、ただの一度も秋葉さまが頷いた事はありません。どんなに厳しく叱られても、秋葉さまは志貴さまだけをお待ちしていたんです。
「……本当の事を知られたら志貴さまは遠野の家から離れてしまう。だから志貴さまには真実は決して話さないでほしい、と秋葉さまはわたしたちに頭をおさげになりました。
わたしも姉さんも、秋葉さまには何度も助けられました。姉さんは槙久さま付きの使用人で、槙久さまのお部屋から出る事は許されなかった。それを嫌って、姉さんを自由にしてくれたのは秋葉さまです。
ですから―――秋葉さまがそう望むのなら、わたしも姉さんもこの嘘をつきとおしたかった。秋葉さま同様、わたしたちも、志貴さまには帰ってきてほしかったから」
「…………翡翠」
「ですから志貴さま、どうか秋葉さまをお恨みにならないでください。秋葉さまは誰よりも志貴さまの事を大切に思っているんです」
「……ああ、それは分かってる。俺が秋葉を恨むはずなんかないよ。恨まれるとしたら、それはこっちのほうだ。翡翠や秋葉が悩んでいたのに、俺は一人で気楽に暮らしていたんだからさ」
「…………」
だから、秋葉には感謝してる。
あいつは俺みたいな他人を屋敷に呼び戻す必要なんてなかったのに、それでも俺のことを兄だと言ってくれた。
……だから、俺も押しとおそう。
秋葉が遠野志貴を兄だと言ってくれるのなら、俺も、七夜志貴なんていう名前は知らない。
俺はこのまま、あいつの兄貴として、遠野志貴であり続けなくっちゃ――――
「ぐ――――っ!」
「志貴さま!?」
翡翠がかけよってくる。
不安そうな顔で俺の体を支える翡翠の手を放して、はあ、と深く息をはいた。
「……まいったな。せっかく翡翠に助けてもらっているのに、今でも頭痛が襲ってくる」
「―――志貴さま。貴方の体力の衰弱は、八年前の出来事が原因なんです。あの時、志貴さまの命を奪ったシキは、貴方の命を使うことで生き延びている。
だから―――志貴さまはこうして衰弱してしまって、シキという人間と、意識まで混同なされてしまうんです」
「……なるほどね。つまり、こういう事か。
俺の体はアイツを―――シキっていう殺人鬼をどうにかしないかぎり、二度と元に戻りはしないって」
「……はい。シキは志貴さまのことを憎んでいるんだと思います。だからこうして少しずつ志貴さまの体力を奪っていって、心さえ犯して、志貴さまを苦しめて楽しんでいる」
翡翠の声に、また怒りの色がまじる。
「俺が憎い、か。……解らないな。俺を殺したのはアイツの方じゃないか。俺がシキを恨むのなら解るけど、シキが俺を恨むなんていうのは筋違いだ」
「いえ。シキにとって、志貴さまは自分を殺した相手なんです。志貴さまは、遠野シキという人間を消してしまわれたのですから」
「……? 俺がシキを消した……?」
「はい。志貴さまはたしかにシキに殺されました。
けれどその後に一命を取りとめて、シキの代わりに遠野志貴として扱われたのです。
……その後、どこかで幽閉されていたシキにとって、志貴さまの存在は脅威だったと思います。
遠野シキという自分はたしかに生きているのに、現実に遠野志貴という人物は存在してしまっている。
シキは、生きていながら『遠野シキ』という存在全てを志貴さまに奪われて、どこの誰でもない、存在しないモノになってしまったんです」
「……そうか。俺っていうニセモノに立場を奪われたホンモノってワケか。どうりで―――」
シキが、俺を殺して戻りたがっているわけだ。
「ですがそれもここまでです。志貴さまのお体はわたしがお守りいたします。シキが何をしようと、もう二度とシキに貴方は殺させない。
……殺人鬼として街を徘徊しているシキも、いずれしかるべき処置をうけるはずです。ですからそれまで、志貴さまはお部屋でお休みになっていてください」
「………………」
部屋で休む……?
いや、そんなんじゃこっちが保たない。
翡翠は知らないだけだ。アイツとの同調は一日ごとに酷くなっていく。
だから。
アイツが本当に狂ってしまえば、俺だって正気でいられるか解らない。
「……は。なにしろ自分の体を傷つけてまで、俺に復讐してくるヤツだからな」
……復讐? いや、それは、違う。
……俺に殺されたというシキ。
……この俺を偽者というシキ。
……俺を殺しにいくと繰り返すシキ。
……俺さえいなければこんなコトにはならなかったというシキ。
……徒に、遠野槙久のように気まぐれで街の人々を殺していくシキ。
あとは、そう。
―――とおの昔に死んでしまった、!w1000
七夜志貴という幼いこども。
無意識のうちに、ぎり、と歯をならした。
「ふざけるな――――恨み言をいいたいのはこっちのほうだぜ、シキ」
ズキリ。
胸の古傷が痛む。
この傷の痛みを止める方法は、たった一つしかないだろう。
「志貴さま、どこに……?」
「きまってるだろ。アイツが来るっていってるんだ。そんなの、わざわざ待っていられないだろ」
アイツの根城はわかっている。こんなくだらない因縁は、こっちからいって決着をつけてやる。
「お止めください志貴さま……! 志貴さまのお体で外に出るなんて、危険すぎます!」
「翡翠。悪いけど、俺の部屋にナイフがある。持ってきてくれないか」
「―――お断りします。志貴さまを行かせる事なんてできません」
「……はあ。しょうがないな、それじゃ自分で取ってくる。翡翠は留守番を頼むよ」
「志貴さま……!」
翡翠に背を向けて歩き出す。
「志貴さま! そんなことしたら本当に怒りますから、わたし……!」
止めようと付いてくる翡翠に心の中で謝りながら、屋敷に戻っていった。
――――――正門に出る。
ポケットには七夜と刻まれたナイフ。
翡翠のおかげで体力はまだ保ちそうだ。
ただ問題があるとすれば、それは――・
「………………」
俺の傍らにぴったりと寄り添った翡翠だろう。
「……翡翠。頼むから屋敷に戻ってくれないか」
「……お断りします。志貴さまがわたしの願いを聞きとどけてくれないのですから、わたしも志貴さまのお言葉は聞きません」
ぷい、と顔をそらして翡翠は拗ねる。
「あのな。俺は翡翠が邪魔だって言ってるんじゃないんだ。……その、いまから行くところはすごく危険だから、翡翠には屋敷に残っていてほしいんだ」
「お言葉ですが、今の志貴さまはわたしから離れたらすぐに倒れてしまいます。本当に志貴さまが行かれるというのでしたら、わたしと連れ添っていただかないと志貴さまが困ります」
「え―――翡翠の力って、そういうものなの?
俺たちあんなに、その……体を重ね合ったんだから、しばらくは元気なんじゃないのか、俺は?」
「……違います。あれは親近者として、志貴さまと契約をするための儀式のようなものです。わたしや姉さんは血や体液を分け合った人の傍にいないと力を分け与えられません」
「――――それは」
困った。
それが本当なら、翡翠が傍にいてくれないと俺は学校にたどり着く事さえできない。
「それでも志貴さまが残れ、といわれるのでしたら残りますが。どうぞ、わたしがどのような行動をとればいいのかは志貴さまがお決めになってください」
翡翠はキッ、と正面から俺を睨んでくる。
「……う」
……答えは、もう決まっているようなものだった。
翡翠の助けがなければ学校に行けないのなら、俺は彼女に付き添ってもらうしかないんだから。
……何日かぶりにやってきた学校は、背筋が寒くなるほど静かだった。
人の気配、生の脈動というものが一切感じられない空間。
昼間は何百人という生徒たちの生活の場となっているソレは、月明かりの下では打ち棄てられた廃墟のように見えた。
「志貴さま、本当にここでよろしいのですか……?」
「――――――」
翡翠の問いに答える言葉がない。
俺だって、ただ夢でアイツが学校にいるところを見ていたにすぎない。
「……行くぞ、翡翠」
言って、校門をくぐり抜ける。
「――――っ」
「志貴さま、ここは―――」
俺の足が止まったように、翡翠もピタリと動きを止めていた。
――――ぎしっ、という音。
夜の校舎。
正門を抜けて中に入ってから、何か空気が違っている。
――――ぎしっ、ぎしっ。
……空気が軋んでいる。
張り詰めた大気は、吸いこむだけで肺を傷つけそうなほど刺々しい。
――――ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ。
「……この感覚、は―――」
夢の中で何度も味わった嫌悪感。
空気が凍りつく殺気。敵意。憎悪。
校舎の中で。
あの夢の中の出来事じみた、殺し合いが行われているような、殺伐とした闇。
「シキ……誰かと、戦っている、のか」
……わからない。
あの人間ばなれした怪物とまともに戦えるヤツなんて、いるはずがない。
「姉、さん―――?」
ぽつりと。
吐き気をおさえるような仕草で、翡翠はそんな事を呟いた。
―――姉さん―――琥珀さん。
朝からいなかった秋葉。
琥珀さんと出かけて、今日は戻らない。
……昨日の夜。
部屋に閉じこもった俺に、
あと少しの我慢だと言った秋葉。
「な……まさか、秋葉――――!?」
足が動く。
考えるより先に、ただ校舎の中へ走り出していた。
――――校舎に入る。
校内の空気は、外以上に張り詰めていた。
「志貴さま―――」
「…………………」
翡翠の呟きには答えず、ただ周囲に気を配る。
――――廊下は。
――――ひどく。
――――静かだ。
「………!」
きぃぃぃぃぃん、という音が響く。
鼓膜を震わせる耳障りな高音。びりびりと窓ガラスに共鳴している。
―――音は、上の階から響いてきたようだ。
「志貴さま、今のは―――」
「……ともかく俺から離れるな。行くぞ、翡翠」
翡翠の手をとって、階段へ駆け出した。
―――翡翠の手をとって、階段を上がっていく。
「…………っ」
ギリ、と知らずのうちに歯を噛んでしまっていた。
あの日。
熱にうかされて部屋を出て、秋葉と琥珀さんが話していたことを思い出す。
秋葉はシキを―――兄を殺す、と言っていた。アレは俺のことじゃなくて、シキの事だったって今ならわかる。
だから、今争っている二人というのは、間違いなく秋葉とシキだろう。
きぃぃぃん、と、また共鳴音が響いてくる。
音はもっと上―――四階あたりからだろうか。
「あのバカ……!」
三階の踊り場をかけあがる。
くそ―――なんて無茶なことをするんだろう、秋葉は。
シキのコトは今まで夢を通して体験してきた俺が一番よく知っている。
アイツの運動能力は人間の比じゃない。遠野家の人間がどれほど『人間ばなれ』しているか知らないけど、秋葉では勝てない。秋葉じゃ、自分からシキになぶられに行くようなものだ。
「…………っ!」
一歩でも早く階段をかけあがる。
―――秋葉。
俺は秋葉を信用できずに追い返した。
兄貴らしいことだって何もしてこなかったのに、それでも俺を兄だと言ってくれた。
――――そうして今、自分だけでシキなんていう殺人鬼と争ってしまっている。
「くっ―――そ!」
……なにか、ひどく絶望的な予感だけがする。
秋葉―――秋葉には、決して勝ち目なんか、ない。
シキは秋葉を殺すだろうか?
……わからない。夢の中であれだけ秋葉に固執していたアイツが秋葉を手にかけるとは思えない。
だが、その反面。
ヤツにとって、『何かに固執すること』とは、俺たちのように『それを手に入れること』とは異なっている気がする。
ヤツは、狂っている。
そんな男の観念は壊れていない俺にはわからない。
いや、狂人の思想なんて、狂人にだって到達できない唯一つの世界だ。
狂った本人にさえ理解できないから誰にも理解できず、ただ孤立して浮かぶしかない唯物論。
「秋、葉―――」
―――生きてる。
秋葉は、まだ絶対に生きてる。
シキなんかに殺されるハズがない。
だって、シキに殺されるのは俺だったハズだ。
秋葉が―――秋葉が俺の代わりに死ぬような事、あってはならない。
そんな事になったら、俺は―――
きぃぃぃぃぃん。
四階に着いたのと同時に、また例の共鳴が聞こえてきた。
音はすぐ近く。階段から廊下に出たすぐ先から聞こえてきている。
「秋葉――――!!」
最悪の光景を頭からふりはらって、廊下へと走り出た。
――――え?
瞬間、言葉を失って、立ち尽くした。
「―――――――」
俺の背中のほうで、翡翠の息を飲む気配がする。
「あ―――――あき、は」
俺も、そんな単語しか、頭に思い浮かばない。
月明かりだけの廊下。
吸いこむだけで肺を切り裂きそうな凍えた空気の中。
何メートルも離れた廊下の先に、秋葉は立っていた。
血のように、赤い。
―――初めはそれが、秋葉の鮮血に見えた。
だが違う。
赤いのは、秋葉の長い長い髪だけだ。
「――――――」
まだ、状況がよく掴めない。
廊下の先には、しっかりと床に足をつけて、赤い髪をなびかせている秋葉と―――!w1000
床に片ひざをついて、ゴボゴボと吐血している、アイツの姿があった。
秋葉を前にして跪いているのは、間違いなくアイツ―――シキだ。
秋葉はシキを悠然と見下ろしている。
……秋葉の背後には、寄りそうように琥珀さんの姿もあった。
はぁはぁと、今にも死んでしまいそうなほど弱っているシキと、呼吸一つ乱していない秋葉。
―――状況は。
信じがたいことに、圧倒的に秋葉のほうが優勢だった。
「ぐっ………!」
シキがはねる。
肉眼ではとらえられないほどの速度で黒い影が秋葉の肩へ食らいつきにいこうとする。
きぃぃぃぃん、という共鳴。
秋葉がシキを睨む。
同時にシキの体は床に引き戻されるように弾き飛ばされ、あの共鳴に反応するように、その躯が煙をあげて無くなっていく。
「ひっ―――あぁああああ!」
廊下に反響する、シキの悲鳴。
ざざざ、と煙をあげて蒸発していくシキの身体。
着物の下のヤツの身体は、その大部分が骨を露出し、まるでミイラのようだった。
それでも生きているのか、いびつな形になった体躯のままシキは秋葉を見つめている。恐怖に濁った、びくびくと怯えた瞳で。
反面、秋葉の衣服には綻び一つない。
……こうして離れていても解る。
秋葉の周囲は熱で蜃気楼のように歪んでいて、この校舎を包み込む空気以上に、『異界』だった。
「はぁ、ぐ、うああああ………!」
蒸発していく自分の体をかきむしるシキ。
それを僅かな油断もなく、冷静に観察している秋葉。
―――――二人の力は。
根本的に、『質』が異なる。
「すごい………秋葉さま、すごい……です」
背後で呆然と呟く翡翠。
それにはこっちも同意見だ。
……なんてことだろう。優勢だっていっても、アレは度がすぎる。
これじゃあ、圧倒的にすぎるじゃないか――――
「ここまでよ、シキ」
「秋、葉」
シキは荒い呼吸のまま、なんとか実の妹の名前を口にする。
秋葉は―――シキを睨んだまま、ぴくりとも動かない。
「なぜ―――どうしてオレをこんな目にあわせるんだ。オレはおまえの兄さんじゃないか」
「………………」
ぎり、と。
秋葉の周囲の歪みが増していく。
「愛しているんだ、秋葉。オレは、おまえだけを愛しているんだ。そのためにあの地下牢で生き延びて、あの偽者を殺してもとの兄妹に戻ろうとしていたのに……それなのに、それなのにどうしてオレの邪魔をするんだ、秋葉!」
「……邪魔をしているわけじゃない。これは遠野の血筋として当然の行為です。道を外れた同族を処理するのは遠野の当主の仕事だから」
「遠野の当主はオレだ! あいつさえいなければ、オレがずっとシキのままだったんだ。ずっと、おまえの兄さんのままでいられたんだ。目を覚ませ秋葉。おまえはあの偽者にだまされているだけなんだぞ!」
ぎり、とまた歪みが大きくなっていく。
秋葉はほんの少しだけ目をつむった後、決別するように、シキを睨みつけた。
「―――私はだまされてなんかない! わたしの兄さんは、あなたなんかじゃないんだから……!」
きぃぃぃん、と響く音。
「ひっ……!」
顔をかばうシキ。
……けど、そんなものは無意味だ。
秋葉の力がどんなものなのか、俺には解らない。
ただ、アレは―――秋葉の視界に納まっているもの、秋葉が見えているものなら、その物体から熱を奪い取るような、そんな不可避の『略奪』だ。
きぃぃぃぃん、という音。
だから、次の瞬間には。
シキの顔は、一瞬にして凍結して気化する。
する、筈だった。
「志貴さん?」
それは、俺たちに気がついた琥珀さんの、声だった。
「―――え?」
驚いて俺たちに振り向く秋葉。
……その、間。
わずか一瞬。しかし、絶対的なまでの、隙。
それを、アイツが見逃すはずがなかった。
「ヒ――――!」
泣き声とも笑い声ともつかない声をあげて、シキが跳ねる。
それこそ火花の速度で跳ねる、黒い影。
「こ―――――――――」
ここからでは、間に合わない。
間に合うとしたら、それは――――・
「しまっ―――」
秋葉がシキへと振り返る。
咄嗟に身を構える秋葉。だが黒い影は秋葉には行かない。
シキは、秋葉にではなく、その横にいる琥珀さんに向かって跳ねたのだ。
「こは――――――――」
―――アイツは知っている。
今の俺がこうして動けるのが翡翠の力によるもののように。
秋葉の圧倒的な力が、琥珀さんの助けによるものだっていう事を。
「琥珀さん、伏せろ―――――――――!」
叫んだ。初めからシキが琥珀さんを狙うと解っていたかのように、全身で声をあげた。
「琥珀…………!」
秋葉の体が琥珀さんの前に流れる。
―――――まさか。
身を呈して、琥珀さんを守ろうというのか。
「ヒ―――ィィイイイイ!」
シキは声をあげて、槍のような腕を琥珀さんの顔に向かって突き出す。
そこに割って入る秋葉の体。
――――それは、絶望的なまでのタイミングだ。
見たくない。
琥珀さんを庇って、秋葉が、その代わりに死んでしまうなんて、そんな所は。
「だ―――――め……………!!!!!」
その直前。
今まで聞いた事がなかった、琥珀さんの、泣くような声が聞こえた。
ずしゃ、という肉を裂く音がした。
赤い血が廊下にこぼれる。
「え―――――――――」
放心したような琥珀さんの声。
彼女は、咄嗟に秋葉を突き飛ばした。
自分の身を庇おうとした秋葉を突き飛ばして、自分から、シキの爪の前に身を投げ出した。
「キ――――キサ、マ」
シキの声は怒りで震えている。
……赤い血は流れていく。
「あ―――――ちが、違うんだ、秋葉。オレは、オマエを傷つけようなんて、少しも――――」
ぶるぶると首をふる。
シキの目の前には、片腕を真っ赤に染めて倒れた秋葉がいた。
……琥珀さんが突き飛ばしてくれたおかげで、シキの爪は秋葉の腕を裂くにとどまったのか。
「っ……くっ…………あ!」
床に倒れて、苦しげに片腕を押さえる秋葉。
それを震えながら見下ろすシキと。
呆然と、それこそ人形のように立ち尽くしている琥珀さん。
「あ――――キサ、キサマが、オレの邪魔をするのか……!」
シキが顔をあげる。
その先には琥珀さんがいる。
……どうしてなのか。
琥珀さんは、魂を抜かれてしまったかのように、ぴくりとも動いていなかった。
「キサマ――――キサマ、までオレの邪魔を…………!」
シキが咆える。
「志貴さま…………!」
懇願するような翡翠の声。
そんなの言われるまでもない。
琥珀さんが身を呈して秋葉を助けてくれたように、今度は俺がヤツを絶対に止めてみせる……!
「シキ…………!」
走る。メガネはとうに外してある。
視えている線は横一文字に断頭できる首と、左大胸筋から腹部中部までの斜線。
……どちらにしても、“通せば”確実に仕留められる。
ナイフを強く握ったまま、自分のモノとは思えない速さで廊下を駆けた。
「――――――――――!」
振り向くシキ。
だが、圧倒的に俺のほうが速い。
「くあああああああああああああああ!?」
苦悶の声が廊下に反響する。
「ひ――――――は、ははははははははは!」
気が違ったかのような笑い。
――――浅かったか。
なんて甘さ。秋葉の前で―――実の兄であるシキの首を刎ねるのを躊躇った。
ヤツの胸部から走る斜線。それを、途中までしか断てなかった。
「ひは、はははははははははははははははは!」
笑い声をあげて、シキは後退する。
ヤツはそのまま、隙だらけの背中を見せてズルズルと階段へと逃げ出してしまった。
……追う事はたやすい。
けど今は、それより何倍も大切なコトがある。
「――――秋葉! しっかりしろ、秋葉……!」
ひざまずいて秋葉の体を診る。
……ひどい。
秋葉の右腕は二の腕の部分をざっくりと裂かれて、赤いペンキを塗りたくられたようだった。
「……ぁ……兄さ……どうして……こんな、トコロに――――」
朦朧とした瞳。
はぁはぁと乱れた呼吸と蒼ざめた顔色。
……その全身に広がっていく、夥しい死のカタチ。
「……どう、して……部屋で、おとなしくして、いないん、ですか…………」
「ば――――黙ってろ……! 話は後でいくらでもするから、今は黙っててくれ……!」
「……そんな、の…………イヤ、です……にいさ、いつから、ココに、いた――――」
広がっていく。
秋葉の出血に合わせて、死の線が広がっていく。
「いいから黙ってろよおまえは……!
頼む―――頼むから、今ぐらいは大人しく、していて、くれ…………!」
「…………………………うん。にいさ、がそう言うの、でしたら―――あきはは、お行儀よく、してます、ね――――」
なにか、無理やりな笑みをうかべて、秋葉は口を閉ざした。
……いや、それは。
たんに、もう、話す事も見る事もできないぐらい、衰弱しているという、コト。
「ちが―――違う…………!!!! 待ってろ、すぐに止血してやるからな……!」
服を脱いで、即席の布にして秋葉の腕を縛る。
「くそ――――こんなんじゃ意味がない……! ちくしょう……! なんで、こんなに血が流れたら、それだけで死んじまうっていうのに、どうして…………!」
必死に秋葉の腕を縛る。
……それでどうにかなる筈がないと解っているのに、それ以外なにをするべきかも考え付かない。
俺は。
自分で自分が半狂乱になっているって解っているのに、冷静になるコトが、どうしてもできなかった。
「志貴さま、落ち着いてください……! それ以上秋葉さまの腕を縛られては逆効果です」
「翡翠――――――けど!」
「……大丈夫です! 秋葉さまは死にません。姉さんがいるのですから、秋葉さまはすぐに持ちなおします。……ね、そうでしょう姉さん?」
翡翠は人形のように立ちつくす琥珀さんの手を引いて、秋葉の隣に座らせた。
「……姉さん。今は、秋葉さまだけに感応してあげてください。姉さんだって秋葉さまに助かってほしいから、自分から壊してしまったのでしょう?」
「―――――――――――――」
翡翠は琥珀さんの白い手をそっと、両手で包んだ。
琥珀さんの視線は、まだ宙を見つめている。
それでも―――翡翠の言葉が届いたのか、あれだけ流れていた秋葉の血は、波が引くかのように止まってくれた。
「は―――――――ぁ」
……胸を撫で下ろす。
これで―――助かった。
さっきまで漠然と抱いていた不安。……秋葉が死んでしまうという最悪の不安が、少しずつ、消えていく。
「――――――――」
秋葉は琥珀さんと翡翠が助けてくれる。
なら、俺は。
遠野志貴にしかできない決着を、つけてこなくてはいけない。
「――――――翡翠。秋葉と琥珀さんを頼む」
「……志貴さま。やはり、行かれるのですか」
「―――――ある意味アイツと俺は似たもの同士だからな。せめて自分の手で、幕を下ろさせてやらないと」
「…………………………」
翡翠は無言で見つめてくる。
……その瞳が行くなと言っているけど、こればっかりは聞くわけにはいかない。
「……ここまでありがとう、翡翠。君がいてくれて、本当に良かった」
歩き出す。
背中にじっと向けられる視線を振り払って、シキの後を追いかけた。
―――血の跡が点々と続いている。
本気で逃げる気はなかったのか、それとも逃げるという行為さえ解らないほど正気ではないのか。
シキは、まるで俺を待つように廊下に佇んでいた。
「―――――シキ」
声をかける。
シキは焦点の合っていない眼で、こちらを見た。
「は――――――また、オマエか」
シキは動かない。
……先の俺の一撃と、秋葉につけられた傷のせいだろう。
アイツは、もうマトモに動ける体をしていない。
「くそ――――また失敗だ。うまくいかない。どうしてこううまくいかないんだよ……!
成功しない、うまくいったためしがない、いつもオレは間違える………!!!!!
おかしいじゃないか、なんでアイツがオレの邪魔をするんだ! アイツが、アイツの言うとおりにちゃんとやってきたのに、どうしていつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもオレの邪魔をするんだ、オマエは!」
……シキの目は虚空を睨んでいる。
ヤツは初めから、誰も見ていなかったのかもしれない。
こうして目の前でナイフを持っている俺でさえも、シキにとってはただの邪魔物にすぎないのか。
「シキ。そんなに、苦しいのか」
「苦しい? オレが? どうして?」
シキは心底可笑しそうに笑って、ゆらりと立ち上がった。
「オレは苦しくなんかない。素晴らしい人生だ。何をしても、誰にも、オレを罰するコトなんかできない」
シキの瞳に殺意が灯る。
……やる気になったか。
月光の下。
今まで何度も知っていたのに、初めて出会った敵に向かって、一歩踏みこんだ。
「いいぜ、殺し合おうじゃないか! オレを邪魔者扱いスルヤツは全員敵だ! 一人、一人のこらず殺してやる! おまえも、おまえも、秋葉も、琥珀も! 俺を死ぬまで地下牢に閉じ込めるなんて言いやがった親父と同じように、ズタズタに殺してやる……!」
狂人のように雄たけびをあげるシキ。
―――その姿が、ひどく哀れだったからだろうか。
これから殺し合いをするというのに、俺は冷静で、氷そのもののようだった。
「はっ、はは、ははははははははははは!」
真正面からシキが襲いかかってくる。
「――――――――――――――」
なんていうコトはない。
皿の上にもられた肉にナイフを通すように、苦も無く、遠野シキを切断した。
; 学校 : 屋内 : 学校廊下2(夜)<上シャッター(中)>
ごとん、と。
シキの首が床に落ちる。
力を失ったシキの体は、そのまま俺にのしかかってきた。
「―――――――――」
何も感じない。
後悔も痛みも、憎悪も嫌悪も。
まるでさっきの琥珀さんのように、俺は人形にでもなってしまったかのようだ。
「く―――――――クク、く」
……ありえない笑い声。
床に転がったシキの顔が、笑っている。
「スゴイぞ、オマエ―――こんな冷たい痛みは初めてだ。なんて―――なんて素晴らしい、邪魔者」
笑いながら、シキの顔は灰になっていく。
さらさらと、少しずつ消えていく。
シキは失せる。
その前に、ぎょろりと俺を見て、不思議そうに声をあげた。
「―――それで。オマエ、誰だ」
「……え?」
「オマエは、誰だよ」
「……解らないのか。俺はおまえがずっと標的にしていた遠野志貴だ」
「ああ、そっか。オマエが志貴だったのか」
消えていくシキの顔。
「なんだ――――聞いていた外見と、全然違うじゃない、か」
そう遺して、シキは完全に風化していった。
―――――――終わった。
これで、終わった。
何も感じない。
自分を悩ます頭痛がなくなった事とか、これで人並みの体に戻れた事とか、そんな事は嬉しくもなんともない。
――――――それで。何が終わったのか。
「―――――なんで」
くらりと、眩暈がする。
シキの最後の言葉が、眩暈になって網膜から剥がれない。
確かに何かが終わった。
けれど何が終わったのか、そもそも何を終わらせようとしていたのか、俺には解らない。
「――――――――」
月を見上げる。
漠然とした暗闇に心がとらわれたまま。
ただ呆然と、翡翠がやってくるまでの間、月光の下で佇んでいた。
●『5/カイン T』
●『an epilogue』
それからの一週間は、慌しく過ぎていった。
シキの遺体はその痕跡を一切残さずに風化し、秋葉の腕の傷も大事なく治療が施された。
遠野志貴としての自分の立場はあやふやな物になってしまったが、いまさら七夜志貴なんていう人間には戻れない。
そんなこっちの心情を知ってか知らずか、秋葉はあの夜の事を口にしようとしなかった。
遠野家の当主である秋葉がとぼけている、という事もあって、このまましばらくは遠野志貴としての生活が送れると思う。
――――平穏だった日常は戻ってきた。
シキが消えた事によって俺の体力は回復したし、秋葉の傷も順調に回復していっている。
琥珀さんと翡翠は変わらず屋敷で働いていてくれるし、どこにも不安の影なんてなかった。
……ないと、信じこんでいたかった。
「兄さん? もうお昼ですよ、兄さん」
……近くで呆れたような声が聞こえる。
「もう、天気がいいからってこんな所で眠らないでください。お昼寝でしたらご自分のお部屋でしたらいいじゃないですか」
……トントン、と肩を叩く指先。
「ん――――」
それで、胡乱な夢から目が覚めた。
「………ん、おはよう秋葉」
「おはよう、じゃありません。何をするでもなく居間にやってきて、そのまま眠ってしまうなんて何考えているんですか、兄さんは」
「………………まあ、色々と考えてるけど」
はあ、と重苦しいため息をついてソファーから立ち上がる。
「ちょっと兄さん。本気で自分の部屋で寝直すつもりじゃないでしょうね。
……ほら、せっかくの休日なんですから、もっとこう、有意義に使おうとか思いません? 例えばの話ですけど、たまには家族と親睦を深めるために遊びに出かけたりとか、日頃の感謝の意をこめて遊びに誘ってくれるとか」
「………………」
秋葉の言う有意義は、ひどく限定されている気がする。
「……そりゃあ思うよ。秋葉が思ってる有意義さと俺の思ってる有意義さは違うだろうけど、二度寝するのはもったいない。
それなのに部屋に戻る理由は簡単。寝起きに秋葉と顔を合わせるのは体力使うから、ちょっと部屋で目を覚ましてこようかなって、それだけ」
「むっ。ちょっと、それどういう意味ですか、兄さん!」
「どういう意味もなにも、寝ぼけた頭じゃ秋葉の小言を言い返せないだろ。だから自分の陣地でコンデションを整えてから戻ってくるだけだよ。どうせそろそろ昼食だし、話は後で聞くから」
ひらひらと手を振って秋葉に背を向ける。
秋葉はいかにも文句がありそうな顔で俺を見送る。
……ふう。これはまた、昼食は気合をいれてかからないとタイヘンだな。
部屋に戻ってくる。
俺が居間でうたた寝をしていた間、翡翠は部屋を掃除してくれたようだ。
「……しっかし、我ながら殺風景な部屋だよな、ほんと」
ベッドと机以外は何もない部屋。
冬も近い事だし、いいかげん暖房器具ぐらいは手に入れなくてはなるまい。
秋葉はああだこうだとうるさいが、間違っても暖炉なんてものを使う気にはなれないし。
「……? なんだろ、机の上に―――――」
置いた覚えのない手紙が置かれている。
気になって中身を見て見た。
「―――――――――――――――――」
……………………………………………………………………………………………………………………………………手紙には、あの木の下で待っています、とだけ書かれている。
「――――――――どうして」
そんな言葉しか呟けず、手紙を握り潰す。
机の棚を開けて、七つ夜と刻まれたナイフをポケットをいれた。
「――――――――」
……見なかった事にはできない。
自分の気持ちを整理するために深呼吸をして、部屋を出た。
――――それに、いつ気がついたかは覚えていない。
ただ、思えばなんとなく都合が良かったな、と思ったのがきっかけだった。
とにかく、何が一番都合が良いかと言うと、シキと俺の関係だ。
シキは俺の通っている学校を根城にしておきながらも、結局―――一番憎い相手である俺を狙う事はしなかった。
シキがその気になっていれば、俺はとっくに殺されていただろう。
それがこんな結末で幕を閉じたのは、誰かが都合のいい筋書きを用意していたからだとしか、思えなかった。
待ち合わせ場所にいくと、彼女はいつも通り笑顔で待っていた。
「遅いですよ、志貴さん。朝から待っていたのに、もうお昼になっちゃうじゃないですか」
「うん、申し訳ない。ちょっと居間のほうで二度寝して、ついさっき部屋に戻ったんだ」
「ああ、そうだったんですか。……失敗したなあ。やっぱり直接お伝えしたほうが良かったですね」
そうかもしれない、とうなずいた。
彼女はにっこりと笑いかけてくる。
「でも来てくれて良かった。ここなら二人きりで話せます」
「―――――」
嬉しそうに笑う。
笑顔のまま、本当になんでもない事のように、彼女は口を開けた。
「気づいてしまったんですね、志貴さん」
「……………………」
うなずく事も、首をふる事もできない。
やっぱり、と彼女は嬉しそうに笑った。
「志貴さん。シキ様をあのようにしてしまったのは、わたしなんです」
「……………」
……そんな、コト。
「秋葉さまに血をお分けしていたのも、秋葉さまを遠野よりのモノにしてしまうためでした」
「……………………」
……だから、そんなコトを。
「シキ様に間違った情報をお教えして、志貴さんではなく無関係な人が襲われてしまったのもわたしのせいだと思います」
「………………………」
言ってほしかったんじゃ、ない。
「子供のころ遠くから志貴さんたちを眺めていたのも、翡翠ちゃんじゃなくてわたしなんですよ、志貴さん」
「………………琥珀、さん」
「あの時、秋葉さまの注意を逸らしてシキ様に機会を作ってさしあげたのも意図的なものです」
「………………琥珀」
「けど失敗してしまいました。本当はあそこで、秋葉さまとシキ様には死んでほしいなって―――」
「――――――――琥珀っっっっっっっっ!」
うつむいたまま。
ただ、そう叫んでいた。
「……………………いい」
「志貴さん?」
「……………いいんだ、そんなコト。もう終わった事だし、俺は――――そんな話、聞きたくは、ない」
口にして、本当にそう思った。
こんな真実、気がつかなければ良かった。
琥珀さんは琥珀さんのまま。
いつも笑顔で、翡翠の事を大切に思っていて、秋葉と仲が良くて、俺と、なんでもない話をして笑い合えるような、そんな人のままでいて、ほしかった。
「―――俺は、知らない。琥珀さんが居てくれれば、それでいい、から」
「――――――――――」
……彼女は答えない。
長く。
痛い、静寂があった。
「だめですよ、志貴さん。わたしがしてしまった事は、無かった事になんかできません。
わたしは失敗したんです。何年間も自分を動かしていた理由に失敗してしまいましたから、この琥珀は消えるだけです」
「な――――」
顔をあげる。
そこには―――・
いつもと変わらない、彼女の貌があった。
「けど、志貴さんにはわたしを責める権利があると思ったんです。
貴方だけは遠野の家とは無関係の人ですから。
わたしは、その志貴さんを利用して秋葉さまとシキ様を陥れようとしました。だから志貴さんがわたしを責めたいというのでしたら、どうぞお好きになさってください」
「権利って、そんなもの――――琥珀さんを責める権利なんて、誰にもない」
……そう。
幼い頃にこの屋敷に引き取られて、遠野槙久の凶行を一身に受け続けた。
誰にも助けを呼べず、誰も助けてくれず、そんな日々を何年と重ねてきたのなら、それは。
「……権利なんていうのなら、琥珀さんには復讐する権利があった筈だ。……俺には想像する事さえできないけど、琥珀さんは遠野という家を、憎むしかなかったんだから」
詭弁だと知りながら、そんな不出来な嘘を口にした。
「――――いいえ。わたしは槙久さまも秋葉さまも憎くはありませんでした。
ですからわたしが行った事は復讐なんていうものではないんです。
わたしはただ、そうする事が一番人間らしいと思っただけ。
わたしはわたしの為だけに槙久さまとシキ様を陥れて、秋葉さまにも死んでいただこうとしたんです。
――――あるものはそれだけ。
そこには何の感情もありませんでした」
崩れない笑顔。
けど、それは嘘だ。
本当にそうだというのなら、今ごろ俺は―――彼女の事を、心の底から憎んでいた事になる。
「……違う、そんな事はない。琥珀さんはそう思いこみたいだけなんだ。
だって、それなら―――どうして琥珀さんは秋葉を庇ったんだ。
琥珀さんには感情があったから。……秋葉のことが好きだったから、自分から筋書きを壊したんじゃないか……!」
「――――――」
微かに。
彼女は少しだけ視線を逸らして、笑顔に戻った。
「……そうですね。わたし、自分から壊してしまいました。本当はあの時、わたしはシキ様に殺されるべきだったんでしょう。……だって初めからわたしか秋葉さま、どちらかしか生き残れないよう組み立てていたんですよ? なのにどうして、二人とも生き残ってしまったんでし・
うね」
困ったように言って、彼女は微笑みに戻る。
「……そんなの簡単だ。琥珀さんが秋葉に生きていてほしくて、自分も生きていたいから残ったんだろ。
それなら―――もう、それでいいじゃないか。たとえ全てを仕組んだのが琥珀さんでも、俺は嬉しい。秋葉が生きていてくれて、琥珀さんが生きていてくれて、それが凄く嬉しいんだ。
それだけじゃ――――琥珀さんは、駄目なのか」
言って、涙がこぼれた。
……哀しいというより悔しくて、感情が塞き止められなかった。
――――俺は、理解してしまっている。
この人は、もう戻ってきてくれない。
あの時、秋葉を庇った時からもう壊れてしまって、戻ってきてはくれないのだと、自分でも頭にくるほど理解してしまっている―――――
「泣いているんですか、志貴さん。芝居をしていただけの人形が壊れただけなのに、そんなのバカみたいです。
……ええ、本当に罵迦みたい。
ねえ志貴さん。わたし誰も憎くないって言いましたけど、一人だけそういう人がいたんですよ。
分かるでしょう? 琥珀は、志貴さんが憎かったんだと思います。だって志貴さんさえいなければ、わたしは何も考える必要もなくあの窓際にいられたんですから」
ニコリと笑って、彼女はくるりと背中を見せた。
蝶の羽のように着物の袖が翻る。
踏み出そうとする足。
だが動けない。
一歩でも。
一歩でも彼女に近づけば、それで―――取りかえしのつかない事に、なってしまう気がして。
「わたしが憎かったのは志貴さんだけです。あとの人は好きでも嫌いでもなかった。
わたし、そういった感情を無くしてしまったんです。だから――――秋葉さまを助けたのも、ただの偶然だったんですよ」
ゆらり、と後ろ姿が霞む。
「琥珀、さん―――」
何か、不吉な。
手を伸ばしても掴めないような、絶望だけがする。
―――その時。
「姉さん―――――!」
そう、彼女を呼ぶ声が響いた。
「翡翠――――――?」
「翡翠、ちゃん……?」
声が重なる。
翡翠ははあはあと肩を弾ませて、まっすぐに彼女を見据えていた。
「……翡翠ちゃん、どうして」
彼女の声が震えている。
それを受けて、翡翠はいっそう強い眼差しで彼女を見た。
「……嘘」
短く。強い声で、翡翠はそう言った。
「姉さんが言っている事は、全部嘘です。
姉さんは秋葉さまが好きだからあの時に庇ってしまったんだし―――今の琥珀が、志貴さまを憎む事なんて、できない」
「――――――――」
息を飲む気配がした。
背中を見せたまま、彼女は―――ひどく、怯えているように見えた。
「そうでしょう? 姉さんはわたしの役を演じていた。なら、志貴さまを憎む事なんて絶対にできない。
姉さんは昔の翡翠を演じていた。だから志貴さまを愛して、秋葉さまを守ろうとしただけ……! 姉さんは姉さんが信じ込んでいるような、空っぽな人なんかじゃないでしょう……!?」
振り絞るような翡翠の声。
彼女は振り向かず、ただ、いいえと答えた。
「……まいったなあ。志貴さんが居間で眠ったりしなければ、翡翠ちゃんに気づかれる事もなかったのに。
ほんとに、志貴さんには予定を狂わされてばかりでした」
背中を見せたまま、くすりと笑って。
彼女は口元に指を当てた。
ごくり、と。
何かを嚥下する音が、聞こえた。
「――――――――――――」
走る。
けど、間に合わない。
俺たちが駆け寄るより早く、赤い血を吐いて、彼女は地面に崩れ落ちた。
どさり。
固い、イヤな音。
彼女は微笑んだまま、唇から赤い雫をこぼしていた。
「姉さん――――――――!」
彼女の体を抱き寄せる翡翠。
けど、それは。
誰が見ても、もう遅い、終わってしまった後の、事だった。
「うそ―――姉さん、姉さん、姉さん――――――!!!!」
もう動こうとしない彼女の頭を抱いて、翡翠は必死に呼びかける。
その、血を吐くような思いが通じたのか。
ぱくぱくと、彼女の口が動いた。
「姉さん……? 姉さん、しっかりして……!!」
懸命な叫び。
それを見て、彼女は子供のように笑った。
「……あれ……だめ、だよ、翡翠ちゃん。そんなに、泣い、てると……昔に、戻った、みたい」
「そんな―――姉さん、どうして――――」
「……うん。だって、こうしないと、翡翠ちゃんが、戻れない、から」
途切れ途切れ。
翡翠も何も見えていないような目で、ぼんやりと、彼女はそう言った。
「―――――――――姉、さん」
翡翠の顔が歪む。
ぼろぼろと。とめどなく流れていく涙。
「……なんで? そんなコト、いいよ。わたしはこのままで良かった。姉さんさえ幸せなら、それで良かった。
わたし―――わたしはずっと姉さんに守られていたから、それで―――」
ずっと、幸せだったのに、と。
苦しそうに、翡翠は言葉を飲む込んだ。
「どうして……? 姉さんは翡翠のままで良かったんだよ。昔の、姉さんが憧れていた翡翠のままで良かったのに、なんで―――今になって、わたしに返そうって、そんなコト――――」
ぽたり、と涙がこぼれる。
彼女の頬に落ちた涙に反応したのか。
彼女は、うん、と静かにうなずいた。
「……そう、だね。
わたし、本当に、楽しかった。ぜんぶお芝居だったけど、楽しかったよ、翡翠ちゃん。
だから、翡翠ちゃんも、楽しかったら、いいな―――って」
血がこぼれる。
一言口にするたびに、彼女は血液を吐き出していく。
「ね――姉さん、しっかりして姉さん……! こんな、こんなのってない……! どうして、どうして姉さんが死ななくちゃいけないの……!?
姉さんが―――姉さんが死ななくちゃいけない理由なんて、何処にもないのに……!」
翡翠の声は、もう彼女には届いていない。
はあ、と大きく胸を上下させて、彼女は高い高い空を見上げる。
「……キレイ。わたし、外に出るコトはできなかったけど、空の色だけは、憶えてた」
「姉さん―――姉さん……?」
「……振りかえると、そんななんでもないコトが、わたしの一日、でした。
翡翠ちゃんと、志貴さんと、秋葉さまが、いて。
それは、とてもキレイな空をしていたん、です」
「うん……うまく、思い出せない。楽しかったコトとか、段々……薄れて、いく、みたい」
……力が抜ける。
かろうじて残された瞳の光が消えていく。
それを。
放っておける筈なんて、なかった。
ナイフを取り出す。
メガネはとっくに外してある。
あとは――・
「志貴さま、何を――――!」
翡翠が抱き付いてくる。
「――――琥珀さんを助ける。今はだまって、俺を信じてくれ」
翡翠を引き離して、彼女の体を凝視する。
……弓塚の時と同じだ。
あの時、自分の体内に混ざった弓塚の血液を“殺せた”のなら。
彼女が飲んだ毒だって、殺せる筈だ。
「―――――――――――く」
頭痛が激しい。
ギチギチと音をたてて、こめかみからカッターの刃が刺しこんでくるような頭痛。
それは、痛みで目を開けていられないほど。
「―――――――――――っ」
……他人の体内から異物を視るのは難しいのか。
明かに自身の能力を超えていると、脳髄は痛みを警告にして伝えてくる。
「あ――――――は、あ」
呼吸が発狂する。
だらしなく開けられた口から、ボコボコと泡が零れていく。
視界は赤く。
体中の体液が消毒液に変わってしまったかのような、灼熱の痛覚が迸る。
「き―――――ギギ、ギ―――――」
ああ。だが、それでも――――・
「く―――――――あ、あ―――――――!」
このまま、失明してもかまわないとソレを視つめた。
――――――断線していく意識の束。
世界が白くなったような光景。
ばちん、ばちん、と血管が焼き切れる音のなか、速やかに、遠野志貴が稼動不可能になる前に、彼女の体内の異物を抹殺した。
数日振りに見た光景は、白い診察室だった。
「……よし。どうやら問題はないようだね、志貴くん。濁りも見られないし、病状が再発することもないだろう。今日からは普通に暮らしてかまわないよ」
ここ数日、ずっと診ていてくれた医師はカルテになにやら書き込んでいる。
初めて見る彼の顔は、思いのほか優しげだった。
「それではお大事に。ああ、だからといってしばらくは無理をしないように。君はどうも、自分の体を厳しく扱いすぎる」
「―――解りました。それではどうも、お世話になりました」
心から感謝して頭をさげる。
そうして、椅子から立ち上がった。
廊下に出る。
待合室には翡翠の姿があった。
これまた何日かぶりに翡翠の顔を見て、ぶんぶんと手を振る。
翡翠はすぐにやってきて、病み上がりの俺の体を支えるように寄り添ってくれた。
「それじゃ行こうか。琥珀さんも今日から面会できるんだろ?」
はい、とうなずく翡翠。
「……あの、志貴さま。本当に体のほうはよろしいのですか?」
翡翠は心配そうに見上げてくる。
「あのね。医者っていうのは完治してない病人を自由にはさせない人たちなんだぞ。退院するって事はもう大丈夫ってコトなんだ。病院に慣れてる俺が言うんだから間違いはないって」
「――――はい。だから余計に心配なんです。志貴さまはお医者さまにかかって、きちんと治ってきたためしがありませんから」
「…………む」
……翡翠も言うようになった。
それはまったくの事実なので、返答のしようがない。
「―――ともかく、目の包帯も取れたんだ。ちゃんと翡翠の顔も見れるし、体も治ったんだから問題ないだろ。
さ、それより琥珀さんの所に急ごう」
まだ何か言いたげな翡翠の手を引いて、琥珀さんの病室へと歩き出した。
―――――あの後。
ナイフで琥珀さんの体を切り裂いた俺を見て翡翠は半狂乱になった。
なったが、琥珀さんの体に傷がないこと、そのあとに琥珀さんの呼吸が戻ったこと、くわえて俺がぶっ倒れたこととがあって、翡翠は混乱しながらも事後処理に奔走してくれたらしい。
結果として、琥珀さんは命をとりとめた。
俺の方はと言うと、著しい体力の低下に加えて、眼球が機能しないという状況におちいった。
……まあ、なんとなく失明したんだな、とは理解していた。実際、琥珀さんの体にナイフを走らせる時は、もう“線”しか視えない状態だったし。
だから失明したと知らされてもそうショックは受けなかったのだが、しばらくしてあっさりと視力は回復した。
検査をしてみれば眼球になんら異状はなく、神経に問題があっただけらしい。断線していた神経が繋がった、というより麻痺していた神経が回復したようなものなんだろう。
……どうも、俺の目は簡単に失明するほど優しいものではないみたいだ。
下手をすると、失明してもあの“線”だけは視えてしまうのかもしれない。
……まあ、そんな事はどうでもいいコトだ。
大事なコトは俺も琥珀さんも助かった、というコト。
……けど琥珀さんは五体満足、というワケではなかった。
彼女は一命をとりとめた。
だが、その代償として、失ってしまったものがあった。
「志貴さま」
「え――――ああ、先にどうぞ。俺より翡翠が先に入ったほうがいいと思う」
はい、と答えて翡翠は病室のドアをノックする。
どうぞ、という返事がして、俺たちは病室に入った。
――――病室には琥珀さんしかいない。
彼女はベッドに横たわったまま上半身だけを起こして、俺と翡翠を見た。
「……………………」
……琥珀さんに笑顔はない。
不安そうな瞳が、入ってきた来客を見つめるだけ。
「あの……どちらさまでしょうか?」
その言葉に、翡翠の肩が少しだけ震えた。
「お見舞いにきたんです。失礼しますね、姉さん」
姉さん、と呼ばれて琥珀さんは意外そうに目を翡翠を見る。
翡翠は琥珀さんの傍らに座った。
自分は邪魔だな、と思いつつ、目立たないように壁際の椅子に座る。
琥珀さんは相変わらず、元気のない顔をして翡翠と俺とを見比べた。
「あの……ごめんなさい。わたし、なんだかおかしいんです。お二人とも憶えはある気はするのですけど、それがどんな憶えだったの思い出せななくて」
申し訳なさそうに琥珀さんは言う。
それは冗談や何かの例えではなく、本当に、本心からの言葉だった。
―――――記憶に障害がある。
そう聞かされたのは、たぶん俺の方が先だったと思う。
琥珀さんは以前の琥珀さんではなくなっていた。
……いや、その言い方には語弊がある。
なんでも脳のシステムというのは銘記、保存、再生、再認という四大のものに区別できて、琥珀さんはそのうちの保存という機能が異状をきたしてしまったという。
医師の話ではこれから人並みに生活する事はできるが、過去……以前あった出来事の大半を思い出せなくなっている、とのコトだった。
……それは思い出せない、というよりすでに失われてしまったもの。
今まで保存されていた琥珀さんの過去の記憶―――情報は失われてしまって、思い出すにもその記憶素が無い。
だから、琥珀さんは俺の事も翡翠の事も思い出せない。
……以前の琥珀さんに戻れるなんていう事は、本当に、絶望的なまでにありえない。
致死性の毒物のショックでそうなったのか、それとも琥珀さん本人の意志で閉じてしまったのかは分からない。
ただ、こうして目の前にいる琥珀さんは、体も心も琥珀さんのままで、ただ、俺や翡翠や秋葉のコトを全て忘れてしまっているだけだった。
「あの…………」
上目遣いで琥珀さんは翡翠を見つめる。
はい? と答える翡翠に、琥珀さんは遠慮がちに話しかける。
「わたしと同じ顔をしたあなたは誰なんでしょう」
「―――――――――」
翡翠の体は、凍りついたように停止する。
けれどそれも一瞬。
翡翠は淡く微笑んで、琥珀さんの手を握った。
「わたしはあなたの妹です。ヒスイ、というんですよ」
「ヒスイ……ちゃん、ですか」
はあ、とどこか間の抜けた返答をする。
それは翡翠にとってひどく残酷な返答だったろう。
なのに翡翠はさっきよりもっと優しく微笑んで、はい、と答えた。
「……ごめんなさい。わたし、ヒスイちゃんのコトを思い出せないし、そこにいらっしゃる方のコトも思い出せないんです。
……あは、ちょっと怖くなっちゃいました。ヒスイちゃんのコトも分からないなんて、わたし、本当におかしくなってしまったみたい」
置いてけぼりにされた子供のように琥珀さんはうつむいた。
その、不安しかない暗い顔は、琥珀さんには遠すぎる。
―――それでも。
翡翠は強く、琥珀さんの手を握った。
「いいえ、安心して姉さん。どんなに不安でも、わたしがついてる。
……今まで姉さんがわたしを守っていてくれたように、今度はわたしが、ずっとずっと姉さんを守るから」
きょとん、とした顔。
琥珀さんは呆としたまま翡翠を見たあと、ありがとう、と祈るように返答した。
「え――――あ、うん」
照れたように下を向いて、翡翠はごにょごにょと言葉を紡ぐ。
「えっと、それで何か必要な物はありますか? 食べたいものとか、欲しいものとか」
照れ隠しの翡翠の言葉に、琥珀さんははい、とまっすぐな瞳でうなずく。
「……食べたいものはないけど、ほしいものがあるんです。お願いしていいでしょうか?」
琥珀さんは翡翠だけでなく、壁際に座っている俺にまで視線を向けてくる。
「はい。なんですか、姉さん」
「……わたし、コハクという名前をずっと嫌っていたみたいなんです。だから―――わたし、名前がほしくて」
「………………名前」
どうしてだろう。
そう言われて、一つの名前が頭に浮かんだ。
それはとっくに捨てられて、もう記憶にしか残ってない古い単語。
「……………志貴さま」
翡翠が振りかえる。
……彼女にも同じようなイメージがあったのか、同意を求めるように見つめてきた。
「……………ん」
うなずいて答える。
翡翠はコハクさんに振りかえって、
「七夜というのはどうでしょうか」
そう、伝えた。
「…………七夜」
吟味するように琥珀さんは呟く。
そうした後、何かを思い出したように顔をあげた。
「―――はい。わたし、その響きは好きみたいです。なんだか、すごく懐かしくて」
そう言って、彼女は笑った。
それはいつも彼女にあった、花のような笑顔。
―――彼女はようやく。
目覚めて初めて、嬉しそうに微笑んだ。
―――いつしか、二人が話をする光景には違和感がなくなっていた。
彼女たちはそれが当然のように、姉と妹として和やかに時間を重ねている。
……記憶を失ったコトが良い事なのか悪い事なのか分からない。
彼女にとっては辛い思い出でしかなかった過去が亡くなってくれたのなら、それは喜ぶべき事だとは思う。
だってそれなら、あとはもう幸福になるしかない。
哀しい出来事を忘れて、彼女はようやく人並みの幸福を得られるのだろう。
「――――――――――」
けど、こんなにも青い空を見つめていると、どうしても思い返してしまう。
窓際に立っていた幼い少女。
彼女にとっては過去は忘れるべき事なんだってわかってる。
だが、それでも――――できることなら、俺はあの琥珀さんに幸せになってほしかった。
……それはもう叶わない望みだ。
だからそんな願いはこれっきりにしよう、と。
――――憧れていた青空の下。
屈託のない彼女の笑顔を、名残りの花のように、最後に一度だけ幻視した――――
「志貴さま、少しよろしいですか?」
病院を出た後。
唐突に、翡翠はそんな事を言ってきた。
「え……? いいけど、なに?」
「はい。まだ時間もありますし、寄っていきたい所があるんです」
「寄っていきたい所……?」
翡翠の意図が分からず首をかしげる。
「ほら、いいですから行きましょう志貴さま!」
ぐい、と強引の俺の手を引っ張って翡翠は駆け出してしまった。
「――――――――――――――――」
連れ出された先は、街外れにある草原だった。
秋の終わりだというのに空は高い。
さわさわと揺れる草と頬を撫でる風が、沈みかけていた心を流してくれるような、そんな光景。
「翡翠……? ここに寄りたかったって、どうして」
「さあ、どうしてでしょう? 実を言うとですね、明確な理由はないんです。
ただ病院に来る途中、電車の窓からこの草原が見えただけですから」
傍らで風を受けながら、なんでもない事のように翡翠は言った。
「……ますます分からないな。確かにいい所だと思うけど、わざわざ立ち寄るような場所でもないだろ。遊びたいんなら、もっと別の――――」
「いいえ。立ち寄る場所はここでいいんです。
街の中ではなく、もっと静かでキレイで、前向きになれるような所に寄りたかった。
志貴さまがいつもの志貴さまにお戻りになってくれるような、こんな野原に」
淡く微笑んで、翡翠は俺を見上げてくる。
「いつもの俺って――――翡翠?」
「はい。だって病室での志貴さまはひどく落ちこんでいました。
……志貴さまがどんな思いをしているかは分かりますし、わたしも志貴さまがそう思ってくれて嬉しいです。
けど、そんな事を姉さんは望んでいなかった」
翡翠の手が伸ばされる。
スッ、と柔らかく握られてくる手のひら。
「そうでしょう? 志貴さまはもっと元気にしていいんです。
……ねえ志貴さま。志貴さまはお気づきになられていないでしょうけど、志貴さまには日向の匂いがするんです。
わたしはそんな志貴さまが好きで、これからもずっと好きなんだって思います」
まっすぐに見つめてくる瞳。
それは本当に優しい、前向きな瞳だった。
翡翠の方こそ日向の匂いがする。
八年前。
秋葉と俺と彼女で庭を駆け回った、あの時に戻ったみたいに。
「――――そうかな。俺、自分では暗い方なんじゃないかなって思うけど」
「志貴さまは自分からお話をされる方ではないだけです。
わたしにとって、いえ、わたしたちにとって、志貴さまはこんな野原のような人だった」
「――――――――――」
翡翠の指が動く。
ぎゅっ、と握られてくる手のひらの感触。
「ほら、だからそんな顔しないでください志貴さま。
秋葉さまも助かって、姉さんだって助かったんですよ? 志貴さまが悲しまれる理由なんて何処にもない。
姉さんは生きている。それならきっと元の姉さんに戻れる時が来るし、戻れなくたって今までの何倍も幸せになってもらうんです。
志貴さまには落ちこんでいる暇なんてない。だって、今から姉さんと秋葉さまをもっと幸せにしないといけないんですから」
「――――――」
翡翠の言ってる事はメチャクチャな気がする。
なのにどうしてだろう。
その言葉を聞いた瞬間――――陰鬱としていた心に光が差し込んできた。
「―――――そう、だね。
俺は兄貴なんだから、それぐらい当然のようにしなくちゃいけない」
はい、と翡翠はうなずいてくれる。
「……ああ。難しいだろうけど、やらなくちゃいけない。だってさ、俺だって二人には幸せになってほしいんだから」
「――――――はい。志貴さまなら、必ず」
力強くうなずいて、翡翠は俺の手を胸元に重ねた。
……とくん、という鼓動。
翡翠のささやかな体温が、草を揺らす風のように心に澄み渡っていく。
「―――それに、ですね。やっぱり志貴さまには元気になっていただかないと、わたしが困っちゃいますから」
どうして? と問い掛ける。
翡翠は頬を赤く染めたまま、それでもまっすぐに俺を見つめて―――・
「……わたしを幸せに出来るのは志貴さまだけですから。わたしは日向の匂いがする貴方の為に、ずっとお傍にいたいんです」
――――唇を触れ合わせる為に、背伸びをした。
空は高く。
悲しいコトなんて一点もないキレイな空の下、一番愛しい人の体温が伝わってきた。
――――野原からは。
確かに、柔らかなひなたの匂い。
――――ああ、翡翠の言うコトに間違いはない。
失ったものは大きかったけど、何もかもをも失ったわけじゃないんだ。
日々は未来にむけて続いている。
なら前向きに歩いていって、誰もが幸せになれるようにしなくちゃ損だ。
「……うん。ありがとう、翡翠」
華奢な体を抱きしめて、目を閉じた。
頬には悲しみとは違う、温かい涙が流れた。
生きているという事はそれだけで楽しいんだって、そんなコトはとっくに知ってる。
――――さあ。
翡翠の手をとって、悔いのないように歩いていく事にしよう――――――
――――fin
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