月姫
白日の碧(シエル・トゥルーエンド)
TYPE-MOON
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乾有彦《いぬいありひこ》
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●『オープニング』
―――――――ふと、目が覚めた。
暗い夜。
家の中にみんなはいない。
一人きりはこわいから
みんなにあいたくて庭にでた。
屋敷の庭はすごく広くて
まわりは深い深い森に囲まれて。
森の木々はくろく・くろく
大きなカーテンのようだった。
それは まるでどこかの劇場みたい。
ざあ と木々のカーテンが開いて、
すぐに演劇が始まるのかとわくわくした。
遠くでいろんな音がしてる。
くろい木々のカーテンの奥。
森の中で みんなが楽しそうに騒いでる。
幕はまだ開かない。
がまんできずに 森の中へと入っていった。
すごく、くらい。
森はふかくて ツメタイヒカリも届かない。
ただ 寒い。
眼球の奥がしびれてしまうぐらいの 寒い冬。
自分の名前をよばれた気がして
もっと奥へと歩いていく。
木々のヴェールを抜けたあと。
森の広場にはみんなそろって待っていた。
みんなふぞろいのかっこう。
みんなばらばらのてあし。
一面 まっかになってる森のひろば。
───わからない。
バラバラにするために見知らぬ人がやってくる。
───よく わからない。
けれど誰かが前にやってきて
かわりにバラバラにされてくれた。
───ボクは子供だから よく わからない。
びしゃりと。
暖かいものが顔にかかった。
あかい。
トマトみたいに あかい水。
バラバラになった人。
その おかあさん という人は
それっきりボクの名前を呼ばなくなった。
―――――ほんとうに よくわからないけれど。
ただ寒くて。
意味もなく 泣いてしまいそうだった。
目にあたたかい緋色が混ざってくる。
眼球の奥に染みこんでくる。
だけどぜんぜん気にならない。
夜空には、ただ一人きりの月がある。
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すごく不思議。
どうしていままで気がつかなかったんだろう。
───なんて、ツメタイ───わるい、ユメ。
ああ───気がつかなかった。
こんやはこんなにも
つきが、きれい───────だ─────
[#改ページ]
気がつくと病院のベッドにいた。
カーテンがゆらゆらとゆれている。
外はとてもいい天気で、
かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
「はじめまして遠野志貴くん。回復おめでとう」
初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めてきた。
にこやかな笑顔と、四角いメガネがとても似合っている。
清潔そうな白い服も、このおじさんにはぴったりだった。
「志貴くん。先生の言っている事がわかるかい?」
「……いえ。僕はどうして病院なんかにいるんですか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるような傷じゃなかったんだよ」
白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なにか、お医者さんらしくない事を言う。
――――――ひどく。
気分が、悪くなった。
「……眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。今は無理をせず、体の回復につとめるのがいい」
お医者さんは笑顔のままだ。
はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴くん」
「どうして、そんなに体じゅうラクガキなんかしているんですか。この部屋もところどころヒビだらけで、いまにも崩れちゃいそうですけど」
お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩したけれど、すぐにまたニコニコとした笑顔に戻って、カツカツと歩いていってしまった。
「―――やはり脳に異状があるようだ。脳外科の芦家先生に連絡をいれなさい。それと眼球にも損傷の疑いがあるな。午後は眼の検査に回すように」
お医者さんは、僕に聞こえないように、こっそりと看護婦さんに話しかけた。
「………ヘンなの。みんな体中にラクガキしてる」
くろい、ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうに走ってる。
意味はよくわからないけど、見ているだけでとても気持ちがわるい。
「……なんだろう、コレ」
ベッドにもラクガキがある。
指で触ってみたら、つぷり、と指先が沈み込んだ。
「―――あ」
もっと細い物で触れたら奥まで沈みそうなので、棚におかれた果物ナイフでラクガキをなぞってみた。
何の力もいれてないのに、ナイフは根元までベッドに沈み込む。
面白かったから、そのままラクガキどおりにナイフを引いた。
ごとん。
重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまった。
「きゃあああああ!」
となりのベッドにいる女の子が悲鳴をあげる。
看護婦さんたちが走ってきて、果物ナイフを取りあげられた。
「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」
お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、その方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。ねえ、どうしてこの病院はヒビだらけなの?」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんてないんだ。
それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒らないから教えてくれないかな」
「―――だから、その線をなぞっただけなんだ」
「……わかった。このお話はまた明日にしよう」
お医者さんは去っていく。
けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはくれなかった。
あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうとキレイに切れた。
力なんていらない。
紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることができた。
ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。
……試したことはないけれど、たぶん、きっと、にんげんも。
ラクガキはみんなには見えてないみたいだ。
なぜか自分だけに見える黒い線。
それがなんであるか、子供の自分にもなんとなく分かってきた。
アレはきっと、ツギハギなんだ。
手術をして傷口を縫ったあとのところみたいに、とても脆くなっているところだとおもう。
だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れるはずなんてない。
――――ああ、今まで知らなかった。
セカイはこんなにもツギハギだらけで、とても壊れやすいトコロだったなんて。
みんなには見えてない。
だから平気。
でも僕には見えている。
こわくて、こわくて、歩けない。
まるで、僕だけおかしくなってしまったみたいだ。
だからだろうか。
あれから二週間も経つのに、誰も僕の話を信じてくれない。
あれから二週間も経つのに、誰も、僕に会いに来てくれない。
あれから二週間も経つのに。
ずっと、僕だけがツギハギだらけのセカイに生きている――――
病室にはいたくない。
ラクガキだらけのトコロにいたくない。
だからココから逃げ出して、誰もいない遠い場所に行くことにした。
でも胸の傷が痛くて、少ししか走れなかった。
気がつけば。
自分がいるのは街の外れにある野原で、ちっとも遠い場所になんて行けなかった。
「……ごほっ」
胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみこんでせきこんだ。
ごほっ、ごほっ。
誰もいない。
夏の終わりの、草むらの海のなか。
このまま、消えてしまいそうだった。
けれど、その前に。
「君、そんなところでしゃがんでると危ないわよ」
[#挿絵(img/シエル 26.jpg)入る]
後ろから、女の人の声がした。
「え………?」
「え、じゃないでしょ。君、ただでさえちっこいんだから草むらの中でうずくまってると見えないのよね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるところだったんだから」
ふきげんそうに女の人は僕を指差した。
……なんか、ちょっとあたまにきた。
僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に?」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相手になってくれない? 私は蒼崎青子っていうんだけど、君は?」
まるでずっと知りあいだった友達のような気軽さで、女の人は手を差し伸べてきた。
断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と自分の名前をいって、女の人の冷たい手のひらを握り返した。
女の人とのおしゃべりは、とても楽しかった。
この人は僕の言うことを『子供だから』といって無視しない。
ちゃんと一人の友達として、僕の話を聞いてくれた。
色々なことを話した。
僕の家のこと。歴史のある旧い家柄で、とても行儀作法にうるさくって、お父さんが厳しい人だということ。
あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、いつも僕のあとを付いてきていたということ。
広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきはと一緒に友達と遊んだこと。
―――熱にうかされたように、色々なことを話した。
「ああ、もうこんな時間。
悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるからお話はここまでにしましょう」
女の人は立ち去っていく。
……また一人になるのかと思うと、寂しかった。
「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。君もちゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守るんだぞ」
「あ―――」
女の人は、まるでそれが当たり前だ、というように去っていった。
「……また、明日」
また明日、今日みたいな話ができる。
嬉しい。
事故から目覚めて。初めて、人間らしい感情が戻ってきた。
そうして、午後になると野原に行くのが日課になった。
女の人は青子って呼ぶとおこる。
自分の名前が嫌いなんだそうだ。
考えたあげく、なんとなく偉そうな人だから『先生』と呼ぶことにした。
先生はなんでも真面目に聞いてくれて、僕の悩みを一言で片付けてくれる。
……事故のせいで暗くなっていた僕は、少しずつ、先生のおかげでもとの自分に戻っていけた。
あんなに怖かったラクガキのコトも、先生と話しているとあまり恐くは感じなくなっていた。
だから、どこの誰だか知らないけど、もしかしたら先生は本当に学校の先生なのかもしれない。
でも、そんなコトはどうでもいいことだと思う。
先生といると楽しい。
大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。
「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」
ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物ナイフを使って、野原に生えていた木を切った。
あのラクガキみたいな線をなぞって、根元からキレイに切断した。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの他の誰にもできないよね」
「志貴―――!」
ぱん、と頬を叩かれた。
「先……生?」
「――――君は今、とても軽率な事をしたわ」
先生はすごく真剣な目をして見つめてくる。
……理由はわからなかったけれど。
僕は、いま自分がした事が、とてもいけないコトなんだって思い知った。
厳しい先生の顔と、叩かれた頬の痛みで。
とても、とても悲しい気持ちになった。
「……ごめん、なさい」
気がつくと、泣いていた。
「―――――志貴」
ふわり、とした感覚。
「―――謝る必要はないわ。
たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、それは決して志貴が悪いってわけじゃないんだから」
先生はしゃがみこんで、僕を抱きしめていた。
「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。
だから私は謝らない。そのかわり、志貴は私のことを嫌ってもいいわ」
「……ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。……私が君に出会ったのは一つの縁だったみたい」
先生はそうして、僕が見ているラクガキについて聞いてきた。
この目に見えている黒い線のことを話すと、先生はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「……志貴、君が見ているのは本来視えてはいけないものよ。
『モノ』にはね、壊れやすい個所というものがあるの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完全じゃない。
君の目は、そういった『モノ』の末路……言い代えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「……未来を……みてる、の?」
「そうよ。死が視えてしまっている。
――それ以上のことは知らなくていい。
もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるなら、必然としてそれなりの理屈を知る事になるでしょうから」
「……先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメよ。
ただ一つだけ知っておいてほしいのは、決してその線をいたずらに切ってはいけないということ。
―――君の目は、『モノ』の命を軽くしすぎてしまうから」
「―――うん。先生が言うならしない。それに、なんだか胸がいたいんだ。……ごめんね先生。もう、二度とあんなことはしないから」
「……よかった。志貴、いまの気持ちを絶対に忘れないで。そうしていれば、君はかならず幸せになれるんだから」
そうして、先生は僕からはなれた。
「でも先生。このラクガキが見えていると不安なんだ。
だって、この線を引けばそこが切れちゃうんでしょう? なら、僕のまわりはいつバラバラになってもおかしくないじゃないか」
「そうね。その問題は私がなんとかするわ。――どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
はあ、とため息をついてから、先生はニコリと笑った。
「志貴、明日は君にとっておきのプレゼントをあげる。私が君を以前の、普通の生活に戻してあげるわ」
次の日。
ちょうど先生と出会ってから七日目の野原で、先生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば妙なラクガキは見えなくなるわよ」
先生がくれたものはメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。別に度は入ってないんだから」
先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
とたん―――
「うわあ! すごい、すごいよ先生! ラクガキがちっとも見えない!」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを奪ってまで作った蒼崎青子渾身の逸品なんだから。粗末にあつかったらただじゃおかないからね、志貴」
「うん、大事にする! けど、先生ってすごいね! あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、なんだか魔法みたいだ、コレ!」
「それも当然。だって私、魔法使いだもん」
得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えたわけじゃないわ。ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、線はまた見えてしまう」
「―――そ、そうなの?」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ。志貴、君はその目となんとか折り合いをつけて生きていくしかないの」
「………やだ。こんな恐い目、いらない。またあの線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる」
「ああ、もう二度と線をひかないっていうアレか。ばかね、あんな約束気軽に破っていいわよ」
「……そうなの? だって、すごくいけないコトだって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事ね。
けどそれは君個人の力なのよ、志貴。だからそれを使おうとするのも君の自由なの。君以外の他の誰も、志貴を責める事はできないわ。
君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な能力を持ってしまった。
けど、それが君に有るという事は、なにかしらの意味が有るという事なの。
かみさまは何の意味もなく力を分けない。
君の未来にはその力が必要となる時があるからこそ、その直死の眼があるとも言える。
だから、志貴の全てを否定するわけにはいかないわ」
先生はしゃがんで、僕の視線と同じ高さの視線をする。
[#挿絵(img/シエル 29.jpg)入る]
「でもね、だからこそ忘れないで。
志貴、君はとてもまっすぐな心をしてる。
いまの君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。
君は君が正しいと思う大人になればいい。
いけないっていう事を素直に受けとめられて、ごめんなさいと言える君なら、十年後にはきっと素敵な男の子になってるわ」
そう言って。
先生は立ちあがると、トランクに手を伸ばした。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネを外しちゃだめだからね。
特別な力は特別な力を呼ぶものなの。
どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人がよく考えて力を行使なさい。
その力自体は決して悪いものじゃない。結果をいいものにするか悪いものにするかは、あくまで志貴、君の判断しだいなんだから」
トランクが持ちあがる。
―――先生は何も言わないけれど。
僕は、先生とお別れになるんだとわかってしまった。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃわからない。
ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかったんだ。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたんじゃないか。
……だめなんだ。
先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだめに決まってるじゃないか……!」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も騙せないような嘘は、聞いている方を不快にさせるわ」
先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と僕の額を指ではじいた。
「―――自分でもわかってるんでしょう?
君はもう大丈夫だって。ならそんなつまらないコトをいって、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけないわ」
先生はくるり、と背を向けた。
「それじゃあお別れね。
志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし穴だらけなのよ。
君は人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい」
先生は行ってしまう。
とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、シャンとして見送る事にした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来よ志貴。その意気でいつまでも元気でいなさい。
いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト。
大丈夫、君なら一人でもちゃんとやっていけるから」
先生は嬉しそうに笑う。
ざあ、と風が吹いた。
草むらが一斉に揺らぐ。
先生の姿はもうなかった。
「……ばいばい、先生」
言って、もう会えないんだな、と実感できた。
残ったものはたくさんの言葉と、この不思議なメガネだけ。
たった七日だけの時間だったけれど、なにより大事なコトを教えてくれた。
ぼんやりと佇んでたら、目に涙がたまった。
―――ああ、なんてバカなんだろう。
僕はさよならばっかりで。
ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった。
僕の退院は、それからすぐだった。
退院したあと、僕は遠野の家ではなく、親戚の家に預けられる事になった。
けど大丈夫。
遠野志貴は一人でもちゃんとやっていける。
新しい生活を、新しい家族と過ごす。
遠野志貴の九歳の夏はそうして終わった。
新しい秋がやってきて、僕は少しだけ、大人になったんだと思う――――
[#改ページ]
●『1/反転衝動T』
● 1days/October 21(Thur.)
―――――秋。
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
自分こと遠野志貴は、八年ぶりに長く離れていた実家に戻る事になった。
「志貴、早くしなさい。いつもの登校時間を過ぎていますよ」
台所から啓子さんの声が聞こえてくる。
「はい、いま出ますからー!」
大声で返して、それまで自分の部屋だった有間家の一室に手を合わせる。
「それじゃ行くよ。八年間、お世話になりました」
ぱんぱん、と柏手をうった後。
鞄一つだけ持って、慣れ親しんだ部屋を後にした。
玄関を出て、有間の屋敷を振りかえる。
「志貴」
玄関口まで見送りにきた啓子さんは、淋しそうな目で俺の名前を口にした。
「行ってきます。母さんも元気で」
もう帰ってくる事はないのに行ってきます、というのはおかしかった。
もうこの先、家族としてこの家の敷居をまたぐ事はないんだから。
「今までお世話になりました。父さんにもよろしく言っておいてください」
啓子さんはただうなずくだけだった。
八年間────俺の母親であった人は、ひどく悲しげな目をしていた。
この人のそんな顔、今まで見たことはなかったと思う。
「遠野の屋敷の生活はたいへんでしょうけど、しっかりね。あなたは体が弱いのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ」
「大丈夫、八年もたてば人並みに健康な体に戻ります。こう見えてもワリと頑丈なんです、俺の体」
「ええ、そうだったわね。けど遠野の方達はみなどこか違っている人達ですから、志貴が圧倒されないかと心配で」
啓子さんの言いたい事はなんとなくわかる。
今日から俺が住む事になる家は、お屋敷ともいえる時代錯誤な建物なのだ。
住んでる家も立派なら家柄も立派という名家で、実際いくつかの会社の株主でもあるらしい。
くわえて言うのなら、八年前に長男である俺―――遠野志貴を親戚である有間の家に預けた、自分にとって本当の家でもある。
「でも、もう決めた事ですから」
そう、もう決めた事だった。
「……それじゃあ行ってきます。今までお世話になりました」
最後にもう一度だけそう言って、八年間馴れしたんだ有間の家を後にした。
「――――はあ」
有間の家から離れて、いつもの通学路に出たとたん、気が重くなった。
―――八年前。
普通なら即死、という重症から回復した俺は、親元である遠野の家から分家筋である有間の家に預けられた。
俺は九歳までは実の両親の家である遠野の屋敷で暮らしていて、その後の八年間、高校二年生である今までを親戚である有間の家で暮らしていた、というコトになる。
なかば養子という形で有間の家に預けられてからの生活は、いたってノーマルなものだった。
あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事はまったくおこらなかったし、自分も先生のくれたメガネをかけているかぎり『線』を見る事がない。
遠野志貴の生活は、本当に平凡に。
とても穏やかなままで、ゆるやかに流れていた。
……つい先日。
今まで勘当同然に放っておかれた自分に、
『今日までに遠野の屋敷に戻って来い』
なんていう遠野家当主からのお言葉がくるまでは。
「はあ────」
またため息がでる。
実のところ、交通事故に巻き込まれて入院する以前から、俺は遠野の家とは折り合いが悪かった。
行儀作法にうるさい屋敷の生活が子供心にはつまらないモノに思えてしまったせいだろう。
だから有間の家に預ける、と実の父親に言われた時は、さして抵抗もなく養子に出た。
結果は、とても良好だったと思う。
有間の家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である文臣さんとも親子のように接してきた。
もともと一般的な温かい家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で本当の子供のように暮らしてきた。
そこに後悔のたぐいはまったくなかった。
……ただ一つ。
一歳年下の妹を遠野の屋敷に残してきてしまった、ということ以外は。
「……秋葉のやつ、俺のことを恨んでるんだろうな」
というか、恨まれて当然のような気がする。
あの、やたら広い屋敷に一人きりになって、頭の硬い父親とつきっきりで暮らしていたんだ。
秋葉がさっさと外に逃げ出してしまった俺のことをどう思っているかは容易に想像できる。
「…………はあ」
ため息をついても仕方がない。
あとはもうなるようになれだ。
今日、学校が終わったら八年ぶりに実家に帰る。そこで何が待っているかは神のみぞ知るというところだろう。
「そうだよな。それに今はもっと切迫した問題があるし」
腕時計は七時四十五分をさしている。
うちの高校は八時きっかりに朝のホームルームが始まるため、八時までに教室にいないと遅刻が確定してしまう。
鞄を抱えて、学校までダッシュする事にした。
「ハア、ハア、ハア――――」
着いた。
家から学校まで実に十分弱。
陸上部がスカウトにこないのが不思議なぐらいの好タイムをたたき出して、裏門から校庭に入る。
「……そっか。裏門から入るのも今日で最後か」
位置的に有間の家と遠野の家は学校を挟んで正反対の場所にある。
有間の家は学校の裏側に、遠野の屋敷は学校の正門方向。
自然、明日からの登校口は裏門ではなく正門からになるだろう。
「ここの寂しい雰囲気、わりと好きだったんだけどな」
なぜかうちの高校の裏門は不人気で、利用しているのは自分をふくめて十人たらずしかいない。
そのせいか、裏庭は朝夕問わずに静かな、人気のない場所になっている。
かーん、かか、かーん。
……だからだろうか。
小鳥のさえずりに混ざって、トンカチの音まで確かに聞き取れてしまうのは。
「トンカチの音か―――って、え……?」
かーん、か、かかーん、かっこん。
半端にリズミカルなとんかちの音がする。方角からして中庭のあたりからだろうか。
「………………」
なんだろう。
ホームルームまであと十分ない。
寄り道はできないのだが、なんだか気になる。
ここは――……なんだか気になる。様子を見にいこう。
中庭にむかって歩いていくと、音の正体はすぐに判明した。
中庭にある並木道の途中。
トンカチやらクギやらをもって、一人の女生徒がうずくまって作業をしている。
「…………」
ホームルームまであと数分もないっていうのに、あの女生徒はなにをしているんだろう。
「――もしかして、時計持ってないのかな」
一応、今の段階ではそんな推測しか成り立たない。
……見かけてしまった以上、無視するのは人道に反すると思う。
驚かさないように、そっと近寄って話しかける事にした。
[#挿絵(img/シエル 11.jpg)入る]
「もしもし、もうすぐホームルームだけど」
「はい?」
うずくまった女生徒が顔をあげる。制服には三年生を示す色のリボンがあった。
「……………」
上級生の女生徒は、トンカチを手に持ったままじーっとこちらを眺めている。
「あ───その」
メガネごしの女生徒の瞳は、引き込まれるぐらいに真っすぐだ。
なんて言うか、話しかけたのが申し訳なくなってくるぐらいの真剣な瞳。
見れば彼女が向かっている添え木はボロボロに腐食していて、使い物にならなくなっている。
……そういえばうちの学校の裏庭の手入れはひどいものだった。
添え木はまったく手入れもせず、花壇もずっと放置されたまま。
教師たちは年末の大掃除に生徒たちに片付けさせるつもりらしく、夏ごろから業者による修理もまったくされていなかったんだっけ。
―――なら、状況は一目見れば明らかだ。
彼女はトンカチとクギをもって、キレイな制服が汚れるのも気にしないで、壊された添え木の修理をしていたのだろう。
見知らぬ上級生の額は汗ばんでいて、いかに真剣にトンカチを振るっていたかが見て取れる。
……ただ知るかぎり、この学校にはこういった公共物を修理するなんていう係はなかった筈だ。
「あの、なんでしょうか?」
ズレかけたメガネをかけなおして上級生は聞いてくる。
「いや、たいした事じゃないんだ。ただ何をしてるのかなって思っただけだから」
「えっと、見てのとおり添え木を直している最中です」
うん、それは見れば分かる。
「いや、そうじゃなくてさ。どうしてそんな事をしてるのかなって。こんなのほっとけば業者が直しにくるじゃないか」
言われて、メガネの上級生はアハハ、と照れ隠しに笑った。
「わたし、こうゆうふうにちらかってるのを見ると我慢できなくなっちゃう人なんです。なんていうか、その、ほおっておけなくて」
ほおっておけないから自分から直しているらしい。
「……………」
なんというか、変わった先輩だ。
「だからって自分で直すのはどうかと思うよ。散らかっているのが気になるなら中庭に来なければいいじゃないか」
「そうなんですけど、わたしの教室ってあそこなんです」
ぴっ、と先輩は中庭に面した二階の教室を指差した。
「しかも窓際の席ですから、中庭の様子がすぐわかっちゃうんです。……まあ、いつもはなんとか我慢していたんですけど、今朝席についたらびっくりしました。なんとですね、このあたりの添え木がみんなそろって折られていたんです」
ひどい話ですよね、と先輩は顔を曇らせる。
……怒っているらしいのだが、なんというか、あまり真剣に怒っているようには見えなかった。
「それでですね、少し迷ったんですけど、善は急げという事で事務のおじさんから道具をお借りして直してしまおうって決めたんです」
以上、説明終わりです。
そんな間の抜けたお辞儀をして、先輩はまたもトンテンカンとトンカチを叩き始める。
「……話はわかったけど、とりあえずそこまでにしたらどう? 朝のホームルームまであと五分もないんだし、ここまで壊れてれば学校のほうですぐに直してくれると思うよ」
「まさか!」
ぐっ、とトンカチを握り締めて、メガネの上級生はブンブンと首をふった。
「このまま授業が始まっても、きっと気になって集中できません。授業の内容なんてちんぷんかんぷんになっちゃって、先生方に『こらそこ、なによそ見をしておるかっ』て怒られちゃうに決まってるじゃないですかっ」
先輩はトンカチを握り締めたまま力説する。
「……まあ、たしかによそ見をしてたら怒られるね、そりゃあ」
「でしょう? ですから今のうちにやっちゃうしかないんです」
言って、先輩はなれない手つきで修理作業を再開した。
カンカン、とトンカチが木を叩く音が響く。
……見れば、壊れている添え木の数は一つや二つではなかった。
このほんわかした上級生一人きりでは、全部を直し終わるまで何時間かかるか予測もできない。
くわえて、トドメとばかりに予鈴が鳴り響いた。
「……一時限目が始まったか」
ああ、こうなったらもうヤケだ。
無言で座り込むと、添え木の修理作業を手伝いはじめた。
いざ手伝ってみれば、修理はそう大変なものでもなかった。
メガネの上級生は慣れないながらも器用な人で、コツを掴むとてきぱきと作業をこなしたからだ。
先輩は体の動きもシャキシャキとしていて、見ているこっちが気持ち良くなってしまうぐらい、なんていうか小気味よい人だった。
……そうして気がつけば、直すべき添え木はあと一つだけになっている。
あれから三十分ほど経っている。
これ以上の寄り道はできないし、あと一つだけなら先輩だけでも問題はないだろう。
「それじゃあ、俺はこれで」
立ち上がってズボンの埃をはたく。
メガネの上級生は俺と同じように立ちあがると、さっきのようにじーっ、とこっちを見つめてきた。
「…………?」
はて。そういえば、この先輩は誰だろう。
あんまりにおかしな行動をとっているから考えもしなかったけど、冷静になってみるとこの人は美人だと思う。
これほどの美人なら、男子生徒の間で『三年にメガネの似合う美人がいる』なんて話が流れてきそうなものだけど。
「あの───俺、行きますから。先輩もほどほどにしておいたほうがいいと思うよ」
はい、と彼女は素直にうなずく。
……そっちのが年上なのに、なんだか後輩を相手にしているみたいだった。
「ありがとうございました。手伝ってくれて、嬉しかったです」
ぺこり、と彼女はおじぎをする。
「それじゃ休み時間にご挨拶に行きますね。あ、ちゃんと手を洗って行くんですよ、遠野くん」
「先輩もな」
手をあげて立ち去る。
────って、待った。
「……あれ? 俺、先輩と前に会ったことあったっけ?」
呆然とした表情で、俺はメガネの上級生を指差した。先輩はええ!と驚いてから、ちょっといじけたように顔を曇らせた。
「遠野くん、わたしのこと覚えてないんですね」
「────?」
覚えてないって、いや、そんなコトはないと思う。
これだけの美人と何かあったら、忘れるほうがどうかしてると思うんだけど……。
「………えっと………」
彼女はうらめしそうに下から覗き込んでくる。
その瞳には、たしかに覚えがあった……よう……、な。
……そういえば一度か二度、どこかで挨拶をかわした事があった……っけ?
「────シエル先輩、だっけ?」
恐る恐る彼女の名前を口にする。
「はい、覚えていてくれてよかった。
遠野くん、ぽーっとしてて忘れてそうだったから」
……ぽーっとしているつもりはないけど、事実忘れていたんだから仕方がない。
「それじゃあまた。寄り道させてごめんなさいでした」
シエル先輩はもう一度ペコリとおじぎをする。
それをぼんやりと眺めてから、どこか合点のいかない心持ちで校舎へと歩きだした。
……教室に着く頃には、一時限目が終わって休み時間になっていた。
ざわざわと教室が込み合っているスキをついて中に入る。
俺の机は窓際の一番後ろなので、こそこそと歩いていけば誰の目にもとまらない。
こうして抜き足で入っていけば、二時限目の出席をとる時に『ああ、遠野がいつのまにかいる!』
という、退屈な授業にちょっとだけエキセントリックな風を吹かす事ができる。
―――が、その作戦は今回は見送りらしい。
「よう、さぼり魔。らしくないな、時間に正確なおまえさんが遅刻してくるなんて」
「……………」
はあ、とため息が出た。
せっかく先輩と微笑ましい時間を共有した後だっていうのに、なんだか一気に自分の現実をたたきつけられたような感じだ。
「なんだよ、相変わらずシケた顔しやがって。人がたまに朝から来てやれば遅刻しやがるとはどういう了見だ、おまえ」
「……あのな。どういう了見もなにも、俺はおまえのために学校に来てるわけじゃないぞ」
「なにい!? バカ言うなよ、オレは遠野のために学校に来てるんだぞ! そんなの不公平じゃんか!」
「…………」
言葉がない。
……毎回思うんだけど、どうして俺はこいつと知り合いだったりするんだろう。
オレンジに染めた髪、耳元のピアス。
いつでもだれでもケンカ上等、といった目付きの悪さと反社会的な服装。
進学校であるうちの高校の中、ただ一人とんがっている自由気ままなアウトロー。
それがこの男、乾有彦《いぬいありひこ》くんである。
「そもそもな、オレとおまえは中学時代からの仇敵だろ? ライヴァルを前にしてそんなのんびりした顔してるとさっそく猫に寝首をかかれるんだぞ!」
有彦はともかく騒がしい。
気がつけば教室中の視線がこちらに集中していて、みんなが『よっ、おはよう遠野』なんて挨拶をしてきてくれる。
「……有彦、うるさい。こっそり教室に入ってさりげなく次の授業を受けようっていうこっちの意向を台無しにしやがって。
そもそもなんで俺とおまえがライバルなんだ。ケンカに強いのなら他にいっぱいいるんだから、あんまりかまわないでくれ」
……まあ、たしかに中学からこっち、総額一万円近い金額を貸してはいるから敵と呼べない事もないけど。
「どうしてかな、遠野ってばオレにだけ冷たいよな。他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平だ」
「なんだ、わかってるじゃないか。世の中、公平なコトはあんまりないよ」
「……はあ。やっぱり遠野はオレにだけ冷たいよなあ」
大げさにため息をつく有彦。
別段こっちとしても有彦に冷たくあたっているわけではなくて、なんというか、コイツとはこういう関係になってしまうのだ。
「それより有彦。普段は二時限目から出席する夜型人間のおまえが朝から出席してるなんて、どんな風の吹き回しだ。ちょっと、いやかなり普通じゃないぞ」
「まあな、オレだってそう思う。たまに早起きしたからって一時限目から来るもんじゃないよな、学校ってヤツは」
「……まあ、おまえの趣味には口を出さないよ。俺が聞きたいのはおまえが早起きしてる理由だけだから」
「そりゃあ最近はなにかと物騒だから夜は大人しく眠るコトにしているんだよ。遠野だって知ってるだろ、ここんところ連続している通り魔事件の話」
……連続している通り魔殺人……?
「―――そっか。そういえばそんな話もあったっけ」
有彦に言われて思い出した。
少し反省する。ここ二三日、遠野の家に戻る戻らないで悩んでいたため、世間のニュースにはまったく疎くなっていたらしい。
「なんだっけ、すごく低俗な売り文句だったよな。連続猟奇殺人事件、とか」
「それだけじゃない。被害者はみんな若い女で、二日前の事件でやられちまったのは八人目。かつ、その全員が―――なんだっけ?」
うむ?と首をかしげる有彦。
「………………」
コイツに聞いた自分が浅はかだったみたいだ。
「ああ、思い出した! 被害者全員が喉元にバツの字の傷跡があるんだっけ」
「違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、だよ」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見出しだったもんな、アレ」
「ふうん。詳しいんだね、弓塚さん」
「そんなコトないよ。この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」
……そうだったのか。
たしか隣の街で起きている事件だと思ったけど、いつのまにかこの街に移り変わっていたんだ。
「――とまあ、そういうコトだよ遠野。
いくらオレでもね、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びはしない。そういうわけで最近はまじめに朝七時に目を覚ましているのだ」
「……なんだ、そんな理由だったのか。まともすぎてつまらないな」
有彦をあしらいながら席に座る。
「なんだよ、つれないな。さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか?」
「いや、今朝はまだ大丈夫。心配してくれるのはありがたいんだけどな、そう四六時中貧血を起こしてたら体がもたないよ」
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫だっていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
と、話しこんでいるうちに予鈴が鳴った。
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻れ」
「あいよ。……っと、そうそう。今日の昼メシな、屋上じゃなくて食堂でするからな。本日は特別ゲストをお呼びしているので、楽しみにしているコト」
きしし、と何か企んでいそうな笑い声をあげて、有彦は自分の席に戻っていった。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ―――うん、弓塚さんも、付き合わせて悪かったね」
たったった、と軽い足取りで弓塚も席に戻る。
……しかし。
クラスメイトというだけの彼女が、どうして俺たちの会話に入ってきたのかは謎だった。
◇◇◇
昼休みになった。
さて、どこで昼食をとろうか。
昼休みの廊下はなにかと混みあっている。
これから学食に行こうとする生徒や、お弁当を片手にお気に入りの場所に向かう生徒たち。
そんな人の流れに混ざりながら、学食に行こうか購買に行こうかふらふらと迷ってみる。
「……………」
なんか、すごく自分が暇人のような気がしてきた。
こんなところで油をうっている暇があるなら、有彦のいる学食に向かったほうが幾分ましだ。
学食に向かって歩き出す。
と、その途中で見知った人が手を振って走ってきた。
「よかった。捜してたんですよ、遠野くん」
「えっと……シエル先輩。どうも、こんにちは」
―――なぜか気恥ずかしくなって、よく解らない挨拶を返してしまった。
「はい、こんにちは。……って、わたしと遠野くん、今日はもう会っていますからこんにちはというのは正しくないですね」
なにが楽しいのか、先輩は柔らかな笑みをうかべて見つめてくる。
「えっ―――あ、うん、そういえば、そうだね」
……ますます恥ずかしくなって、視線を逸らしてまたも気のない返事をしてしまった。
―――なんだろう。
先輩とこうして話すのなんて慣れているはずなのに、今日はやけにどきまぎしてしまっている。
「……遠野くん? なんか落ち着きがありませんけど、なにか急用があるんですか?」
「えっ―――いや、別にそうゆうんじゃないけど」
……ないけど、なんかシエル先輩の一挙一動が珍しく感じてしまって、落ち着けない。
「―――なんでもないです。それより先輩、さっき俺を捜してたって言ってましたけど、何か用ですか?」
「はい。遠野くんに朝のお礼をしたくて、ずっと捜してまわってたんです」
「……朝のお礼って……ああ、中庭のアレ?」
「もちろんです。それでですね、つかぬ事をお聞きしますけど、遠野くんはこれからお昼ごはんですか?」
「……はあ、そりゃあ昼休みに昼食をとらないヤツはあんまりいないですから」
「よかった、それならご一緒できますね。朝のお礼におごっちゃいますから、これから学食に行きましょうか」
「えっ――――?」
先輩は笑顔でそんな事をいうと、俺の腕を掴んで歩き始めた。
……もともと三年生である先輩が二年の廊下にいることだけで目立つっていうのに、これは余計に人目をひく。
ざわざわと、廊下中の生徒たちの視線が自分と先輩に注がれた。
「っ……! ちょっ、ちょっと待った……! いいよ、そんなことしてもらわなくても……!」
とっさに握られた腕を払う。
「あ、朝のアレはただの気紛れなんだから、先輩に感謝されるいわれはないんだ。わざわざお礼なんかしてくれなくてもいいよ」
自分が赤面しているな、なんて実感しながら先輩から離れる。
「遠慮しないでいいですよ。労働にはきちんとした報酬が与えられるべきなんですから、遠野くんはわたしにおごられてください」
なんて言って、先輩はまたも腕を掴んでくる
「だからそういう事じゃなくて、その―――」
先輩と一緒にいると目立つから気恥ずかしい、なんて事は言えない。
「ほら、早くしないと席がうまっちゃうじゃないですか。細かいことは後で聞きますから、とりあえず食堂に行きましょう」
ぐい、と腕を引っ張って先輩は歩き出す。
「………………」
これ以上廊下で問答をしていても、周囲の視線を集めるだけだ。
先輩の意図はよくわからないけれど、とりあえず食堂に付き合う事にした。
食堂の席は、もうほとんどが埋まっていた。
俺が廊下でぼんやりとしていた時間と、先輩と話していた時間。
あわせて十分ほど経っていたから、学食の席はほぼ全滅状態になっている。
「それじゃあわたしが並びますから、遠野くんは席を確保しておいてください。あ、それと嫌いなメニューってありますか? あるんでしたら今のうちに聞いておきますけど」
「……いや、ないよ。食べ物に好き嫌いはないから」
「わかりました。それじゃあパパッと行ってきますね」
先輩は注文待ちの列に並んでしまう。
「………………」
こうなったら大人しくごちそうになるしかなさそうだ。
「―――けど、席なんてあいてないぞ」
混雑した学食を見渡す。
この時間で二人分の、しかも並んだ席なんて空いているはずが―――あった。
「……………はあ」
ものの見事に二つといわず三つも四つも席が空いているテーブルがある。
そこに座っている生徒は一人だけで、そいつも席を探してきょろきょろしている俺に気がついたみたいだ。
「いょぉう、遠野!」
なんて、ぶんぶんと手を振ってくる生徒は、髪をオレンジ色に染めたクラスメイトだ。
「………………」
あたま、いたい。
けど他に空いている席もなし、仕方なく手を振ってくる友人のテーブルへと歩いていった。
「遅いっ。今日は特別ゲストを呼ぶから早く来いって言っておいただろうに、何してやがったかなおまえは」
有彦は顔を合わせるなり文句を言ってくる。
「ああ、そういえばそんなコト言ってたっけ。で、その特別ゲストって誰さ」
「うむ、それがな。昨日ちゃんと約束しておいたのに、今朝になって断られた。なんでも『お礼をしたい人がいるから今日の昼ごはんは忙しいです』だってさ」
力うどんを食べながら、有彦は無念そうにそう言った。
「…………お礼を、したい人」
なにか、その言葉はひっかかる。
「有彦。その特別ゲストって、もしかして三年生?」
「おうっ!?」
びくり、と体を震わす有彦。
「それでメガネをしてて、元気よく動き回るような女の子?」
「おおうっ!?」
ぴくりぴくりと振動する有彦。
……まわりのテーブルの生徒たちは、逃げるように席を立っていく。
「………え、えすぱー……?」
有彦はおそるおそる、人のことを指差してくる。
「……いや、そういうわけじゃなくてさ、その……」
「はい、お待たせしました。席、とれてよかったですね、遠野くん」
そこへ。
笑顔で銀のトレイを持った先輩がやってきた。
「っ………!」
目を見開いて驚く有彦。
「あれ? 乾くん、奇遇ですね」
にっこりと笑顔のまま、先輩は席に座る。
「あ―――う」
よくわからない返答をする有彦。
「遠野くんもどうぞ。今日は遠慮せずにおなかいっぱいにしてください」
にっこりとした笑顔をいまさら振り払えるわけがない。
「あ……うん、それじゃあごちそうになります」
……となりで呆然としている有彦の視線を受け流しつつ席に座る。
先輩は俺の前の席に、有彦は俺のとなりの席というこの位置関係。
「では、いただきます」
ぱん、と手を合わせて先輩の持ってきたトレイに視線を落とす。
と。
そこにあるメニューは、カレーライスとカレーライスとカレーうどんだった。
「…………………」
ちょっと、よくわからない。
「えっと、先輩……?」
「はい? なんですか遠野くん」
「いや、これ―――どういうことでしょうか」
「どうって、遠野くんとわたしのお昼ごはんじゃないですか。他に何に見えます?」
「……何って、カレーにしか見えないけど……」
「はい、カレーですよ」
先輩は嬉しそうに笑った。
……だから、問題はカレーにしか見えないことだ。
「……メニュー、三つありますね」
「もちろんです。遠野くんは男の子なんですから、いっぱい食べてもらわないと。わたしは一品でいいですから、どうぞお好きなものを選んでください」
「………あ、うん。それじゃカレーライスと、カレーうどんに、する」
……というか、それ以外の組み合わせは地獄的だろう。
「残さず食べてくださいね。遠野くん、好き嫌いないんですから」
「――――――――」
……先輩の笑顔には悪意が一片たりともない。
つまりこれは、なにかの冗談とか嫌がらせとかじゃなくて、一点の曇りもないパーフェクトな善意らしい。
「……はい、いただきます」
やけになって、とりあえずカレーライスにスプーンをつっこむ。
―――と。
「遠野くん!!!!」
横から、死んでいた男が蘇生の産声をあげた。
「おまえってヤツは、いつまで親友たるオレを無視してくれてやがるんでしょうか!」
とすっ、と有彦の肘がこっちの横腹に食い込む。
「え……? 乾くん、遠野くんとお知り合いなんですか?」
「知り合いも知り合い、中学校時代からの大親友ですよ、オレたちは!」
だん、とテーブルを叩いて力説する大親友。
「そうだったんですか。そのですね、わたしが今朝お世話になったのが遠野くんなんです」
「そうだったんスか。なんだ、名前さえ教えてくれたらこっちから遠野を連れてきてあげたのに。
……で、コイツなにしやがったんですか?」
「はい、添え木の修理を手伝っていただきました」
「はい? 葬儀の修理?」
怪訝そうに顔をしかめる有彦。
……まあ、たしかに葬儀の修理なんか手伝った日には何事かと思うだろう。
「違います、添え木の修理ですっ。もう、ごはんを食べてるんですから恐いこと言わないでくださいね」
ぷんぷん、という擬音が似合いそうな怒り方をするシエル先輩。
……なんていうか、見ていてあきない人だと思う。
「添え木の修理って……ああ、中庭の添え木のコト。またあ、先輩ってそういうのスキだよな。あんまりそういうコトをすると教師連中がアテにするからよしたほうがいいぜ」
「いいんですよ、わたしが好きでやってるんですから。それに先生がたもキチンと学校のことは考えてくれてるんですから、そういうコトを言うのは不謹慎です」
……二人の会話の内容は、こっちにはどうにもわかりづらい。
「先輩、もしかして普段からああゆうコトやってるの?」
「おう。なんだ遠野、知らないのか。シエル先輩っていったら影の生徒会長って呼ばれてるぐらい便利な人なんだぞ」
「いや、俺は先輩に聞いたんだけどね。まあいいけど……なに、その影の生徒会長って」
強いの?と目で聞いてみる。
うむ、とおおげさに有彦は頷いた。
「強い。肩書きだけの生徒会と違って、先輩に頼めばなんでも解決してくれるっていうぐらい、完璧な三年生だ。
一年じゃファンクラブまであるし、教師連中もなにか厄介ごとが起こると『シエルに相談すれば大丈夫だ』なんて暖簾に腕押し状態だからな。いまじゃ先輩が何をしたって、文句をいってくる教師もいないぐらいなのだ」
有彦は我が事のように誇らしげに語る。
「へえ。すごい人だったんだ、シエル先輩って。うちの教師連中に頼りにされるなんて、よっぽどのことだよ、それ」
感心して先輩を見る。
「あ、はい。その、ありがとうございます」
……何が恥ずかしいのか、先輩は顔を真っ赤にして照れている。
先輩はかちゃかちゃとスプーンでカレーライスをかきまわす。
照れ隠しらしいのだけど、それでこっちも当面の敵を思い出した。
カレーライスだけならいざしらず、その後にはカレーうどんが控えているのだ。
医者からあんまり食事を摂ってはいけないと忠告されてはいるが、この場合はしかたないのでとにかくカレーライスを食べ始めた。
…………もぐもぐ。
とりあえず一品食べ終わろうと、全精力をカレーライスにふりむける。
その間、先輩と有彦はなにやら自分の家について話をしていた。
有彦に親御さんがいないのは知っていたけど、先輩も一人暮しをしているらしい。
先輩のアパートは、学校からわりかし近いそうだ。ちょうど大通りと公園の間ぐらいか。
「ふーん。それじゃ遠野くんはどのあたりに住んでるんですか?」
「え?」
無言でカレーライスを食べていたこっちの顔を覗き込んで、先輩はトウトツになんの関連性もない事を聞いてきた。
「どのあたりって……どうしてそんなこと聞くんですか、先輩は」
「遠野くん、わたしの家の場所聞いちゃいましたよね? なのにわたしだけ遠野くんのお家を知らないのは、不公平だと思います」
「不公平って───妙なことを気にするんだな、先輩は」
「妙なことじゃないです。どこに住んでるかわからないんじゃ、なにかあった時お見舞いにもいけないじゃないですか」
カレーライスを食べる口が止まる。
何かいま、さらりと嬉しくなるような事を言われた気がした。
「……えっと。お見舞いって、その、俺が風邪でもひいたら先輩が見舞いにきてくれるの?」
「いえ、行きませんよ。今のところそんな予定はありませんから」
笑顔で、きっぱりと、当たり前のように先輩は速答した。
「……………」
さっきの嬉しくなるような感情はぬか喜びだったらしい。先輩にはまったく悪意がない。
そうか、天然なんだなこの人。
「……仕方ないな。
うん、俺の家もこの周辺だよ。徒歩にして四十分弱。ほら、郊外の坂の上に住宅地があるでしょ。あそこの奥まで行ったところです」
「そっか。今日から引っ越すんだっけ、おまえ」
ポン、と手をうつ有彦。
先輩はかすかに首をかしげている。
「引っ越したって───遠野くん、転校生だったんですか?」
「は?」
先輩はおかしな事を言い出す。
つい、有彦と無言で目があってしまった。
「……あのですね。俺は一年からこの学校にいるし、先輩ともその頃から顔見知りだったじゃないですか。なんだってそこで転校生だなんて単語が出てくるんです?」
「だって遠野くん、昨日引っ越したって───」
「引っ越したら誰だって転校生になるわけじゃありません。ただ住所が変わっただけで、学校は変わってないんです。今まで隣街の親戚の家にいたんですけど、もともとの自分の家に戻っただけなんですよ」
わけのわからない驚き方をしている先輩は、なるほど、と納得したようだ。
「お家が変わっただけなんですね。それで今は郊外の住宅地に引っ越した、と」
「そっ。坂の上にある仰々しいところにね。……正確にいうと、そこに行くのは今日からなんだけどさ」
「……はあ。それってもしかして、遠野さんのお屋敷の事ですか?」
先輩は恐る恐る、遠慮するように聞いてきた。
街の人達からすれば、坂の上にある洋館はなにか特別なものとして映っているのだろう。
こっちだってこの八年間戻っていないけど、記憶の中にある遠野の屋敷はばかみたいに大きかった。
「まあそういうこと。自分でも場違いだとは思ってるんだけどね、引っ越しちまったものはしょうがないから」
「───ふぅん。その様子じゃあんまり乗り気じゃなかったのか、おまえ」
「さあ、良くも悪くもないっていうのが本当のところだよ。自分でもよくわかってないんだ」
「ま、自分の家っていっても八年ぶりなんだろ? 落ち着かないのもわかるぜ。しばらくは他人の家みたいに感じるんだろうさ」
「……どうだろうね。まだ帰ってないからよくはわからないよ。まあ、俺にはおまえの家っていう避難場所があるから気は楽だけど」
「……むっ。ふざけんな、オレん家はおまえの避難場所じゃねえぞ。休みになりゃあ泊まりにきやがって、おかげで姉貴はオレより友達の遠野くんびいきになっちまったじゃねえか」
「…………」
それは有彦の素行が悪いからだと思うんだけど、口にするとますます話がこじれるので止めておこう。
───正直、自分の家が話題にあがるのは気持ちがいいものではない。
「へえ。仲がいいんですね、二人とも」
先輩は興味深そうに俺と有彦を眺めている。
「まさか。俺と遠野は奪い合う事はあっても手を取り合う事がない、いわば敵同士なのですよマドモアゼル」
有彦はうんざりした口調で言う。
……こっちだってこいつのエセ外人くさいところにうんざりしそうだ。
「でも遠野くんは乾くんのところに泊まりにくるぐらいなんでしょう? 仲、すごくいいじゃないですか」
「違いますよ先輩。遠野のヤロウは両親に遠慮して、長い休みになると家に居づらいってんで逃げてくるだけです。このヤロウ、預けられたってことで有間の家の人たちに遠慮してたんだ。
で、ていよく部屋が空いてるオレのところに転がり込んでくるってワケ。こいつは外見がいいから姉貴にも気に入られちまってさ、厚かましくも手ぶらで泊まりにくるんだぜ!」
許せん、と有彦は握りこぶしを震わせる。
「……預けられたって、遠野くんがですか?」
「あっ――――」
ハッとして自分の口を押さえる有彦。
「……わりい。無闇に口にするコトじゃなかった」
「いいよ。別に悪いことじゃないんだから」
有彦の顔を見ずに、カレーライスを食べながらそう言った。
「そっか。ま、そーだよな。アレで文句を言ったらバチが当たるってもんか」
うん、と納得する有彦。
こいつのこういう、突き抜けたような楽観性は本当にうらやましい。
「……ごめんなさい遠野くん。その、前のご家族とはうまくいってなかったんですか……?」
「いや、そんなコトはないっスよ。こいつ、有間の親御さんとは何の問題もないもんな。
あ、有間っていうのがこいつが預けられてた家の人達なんだけど、これがすっごくいい人達でさ、オレから見れば幸せな家庭だった。
だっていうのにこいつは養子にならないかって話も断って、休みになればオレんところに逃げてきやがるんだ。ったく、ホントに何が不満なんだオマエは」
「不満なんかあるわけないだろ。よくしてもらってるから、これ以上負担をかけたくないだけじゃないか」
答えて、カレーライスを食べ終わった。
さて、残るはカレーうどんだけなのたが―――
「いいよ、先輩。つまんない話をきかせて悪かった」
「え、そんなコトないですよ。わたしのほうこそヘンなコトを聞いてしまって、すみません」
先輩はむりやりに明るく振る舞おうとする。
……中学校から友人だった有彦ならいざ知らず、先輩を相手にこんなこみいった話をしても迷惑なだけだろう。
事実、先輩はとても居づらそうにそわそわしている。
「あー、ゴメン先輩。オレ、ちょっと遠野と内緒話があるからさ、席外してもらえない?」
無造作に、有彦はとんでもないことを言い出した。
今のセリフは遠まわしに、いやストレートに『先輩は邪魔だから消えてくれ』、と言っているようなものじゃないか……!
「ばっ、なに言ってるんだおまえ! 内緒話なんてどこでもできるし、先輩メシ食べ終わって――」
―――る。
あんなに有彦と話をしていたのに、いつのまにかちゃっかりきっかり、先輩はカレーライスを平らげていた。
「わかりました。それじゃあ、お先に失礼しますね」
先輩はペコリ、とおじぎをして席を立っていった。
テーブルには自分と有彦の二人きりになる。
「……はあ。先輩も居づらそうだったし、俺もこうしたほうがいいとは思ったけどさ。おまえってわりと紙一重だよな、有彦」
「んー、まあ、さっきのは仕方ねえだろ。口をすべらしたのはオレのほうなんだから、嫌われ役ぐらいは買ってでるよ」
……ぞぞぞ、と力うどんをすする有彦。
先輩と話をしていたせいですっかり冷めてしまっているようだ。
「……悪い。おまえ、先輩のこと狙ってたんだろ?」
「そりゃあね。うちの学校の中じゃピカイチだからさ。でもまあ、アレぐらいで気にするような性格だったらどうでもいい。
それ、と。オレが遠野に内緒話があるっていうのもホントのことだし」
「………?」
有彦の声はわりと深刻だった。
ぱきん、と割り箸を割って、カレーうどんを食べ始める。
「……なんだよ。気持ち悪いな、急に深刻になって。いっとくけどお金ならないぞ。今日から俺は金欠少年として生きるんだから」
「―――そんなんじゃねえって。オレが聞きたいのはさ、遠野は実際どうなのかな、と」
「どうって、なにが」
「だから。おまえ、小学校から有間の家に預けられてたんだろ? どんな理由でか知らないが、それから八年も経つんだ。なんで今になって勘当してた息子を呼び戻すんだろうかな、キミの父親は」
……そうか。
こいつはこいつなりに、遠野志貴のことを心配していてくれたらしい。
「……いや、別に勘当されてたわけじゃないよ。なんとなく屋敷から追い出されただけだから、有彦が気に病む程度のことじゃない」
「あのな、遠野くん。なんとなくで子供を家から追い出すような家庭があったら、それはすでに悲劇ではなく笑い話だ。オー、イッツパーティージョーク。しかし寒すぎて笑え、ナイ」
有彦は大げさに両手を広げて肩をすくめる。
「……まあ、そうかも。たしかになんとなくで家から追い出されたら、そりゃあ笑うしかないだろうね」
「だろう? おまけに二度と敷居は跨ぐなっていう決め台詞付きときた。世間さまではそーゆーのは勘当というんだぞ。
今まで聞かなかったけどな、おまえはどうして勘当されたんだ」
「……………」
……………さあ。
そんな事、こっちが聞きたいぐらいだ。
「ま、話したくないなら、いい」
有彦はどんぶりを両手でもって、ぐびぐびと冷めた力うどんの汁を飲み干していく。
休み時間は短い。
有彦の早食いを見習って、こっちもぐびぐびとカレーうどんを平らげる事にした。
◇◇◇
一日の授業がすべて終わって、放課後になった。
すぐさま屋敷に帰る気になれず、ぼんやりと窓越しに校庭を眺める。
教室は夕焼けのオレンジ色で染め上げられている。
水彩の赤絵の具に濡れたような色をしていて、目に痛い。
……朱色は苦手だ。
眼球の奥に染み込んできそうで、吐き気がする。
どうも、自分は血を連想させる物に弱い体質であるらしい。
いや、正確には血に弱い体質になってしまった、というべきかもしれない。
八年前、遠野志貴は死ぬような目にあったという。
それはものすごい大事故で、偶然いあわせた自分は胸に傷をおってしまい、何日か生死の境をさまよったとの事だ。
本来なら即死していてもおかしくない傷だったらしいのだけど、医師の対応がよかったのか奇跡的に命を取り留めたという。
当人である俺自身は、その時の傷があんまりにも重すぎてよく覚えてはいない。
八年前の、子供のころ。
俺は突然胸のまんなかをドン、と貫かれて、そのまま意識を失った。
あとはただ苦しくて寒いだけの記憶しかなくて、気がつけば病院のベッドで目を覚ましたんだっけ。
事故のことはよく覚えてないけれど、今でも胸にはその時の傷跡が残っている。
なんでもガラスの破片が体に突きささってしまったとかで、胸の真ん中と背中には火傷の跡のような傷がある。
……ほんと、自分でもよく助かったもんだと呆れてしまう。
以来、俺は頻繁に貧血に似た眩暈をおこしては倒れこんでしまって、まわりに迷惑をかけまくってしまった。
……父親が遠野家の跡取りとして不適合だ、と自分を分家筋の家に預けたのはそれが理由なのかもしれない。
「……胸の、傷、か」
制服に隠れて見えない、胸の真ん中にある大きな傷跡。
考えてみれば、あの事故の後に自分はあの『線』が見えてしまう体質になってしまった。
今では先生がくれたメガネのおかげで忘れてしまえるけれど、先生と出会えなかったらとうの昔に、この頭はイカレてしまっていたと思う。
啓子さん―――今まで母親だった人は、別れ際に遠野の屋敷はマトモじゃないと言っていた。
「……なんてことはないよな。俺のほうこそマトモじゃないんだから」
ズレかけたメガネを直して、鞄を手に取る。
いつまでも教室に残っているわけにもいかない。
さて――もう少しだけ学校に残っていよう。
廊下に出たとたん、見知った顔と出くわした。
「あれ、どうしたの先輩。二年の教室になんか用事?」
「はい。正確には二年生の教室にではなく二年生の誰かにですけど」
シエル先輩はにっこりと笑ってトテトテと近寄ってきた。
「あのですね、いい和菓子が入ったんですけど、お話し相手がいないんです。一人で食べるのはもったいないですから、暇そうなお話し相手を捕まえにきました」
「はあ……お話し相手、ですか。けど教室には誰も残ってないよ。他のクラスも同じだろうし、そもそも二年の教室に来る事ないじゃないか。先輩は下の階の人間だろ?」
そう、話し相手なら三年の同級生が山ほどいるじゃないか。わざわざ二年の教室まで上ってくる事はない。
「三年のクラスメイトを誘いなよ。そのほうが会話も弾むんじゃない?」
「そうなんですけど、今日は年下の男の子とお話がしたい気分なんです。なんとなくなんで理由は聞かないでください」
「……まあ、聞かないけど」
たぶん聞いても理解できないだろう。
先輩は笑顔を消して、じーっ、と俺の顔を見つめてくる。
「遠野くん、お暇ですか?」
「いや ───やる事がないという事を暇というのなら、間違いなく暇だけど」
くい、と先輩は俺の腕の袖をひっぱる。
「それじゃあ捕まえました。一緒にお茶、行きましょう」
笑顔で先輩は誘ってくる。
こっちには断る理由がないし、先輩と話をするのはむしろ嬉しいかもしんない。
「まあ、俺でいいなら付き合いますけど」
「決まりですね。それじゃさっそく行きましょう!」
先輩は服の袖を掴んだまま、軽い足取りで廊下を歩きだした。
「へえ。うちの学校にこんな部屋あったんだ。もしかして茶道部か何かの部室?」
「はい、一応茶道部の部室ってことになってます。わたしが入るまでは使われてなかったみたいですけど」
先輩は先に畳の上にあがっていくと、なにやらガチャガチャと用意をしはじめた。
「部室かぁ……でも先輩、それだと他の部員さんたちがやってくるんじゃないか? 俺みたいな部外者がいるのはまずいだろ」
「だいじょうぶ、茶道部っていっても部員はわたししかいませんから。そのおかげで放課後とか休み時間とか、こんなふうに自由に使っちゃってるわけなんです、はい」
笑いながら先輩はざぶとんを敷いてくれた。
お茶はお茶でも、本当に真面目なお茶会らしい。
正直、こういうのは参ってしまう。
「あのさ先輩。俺こういう作法ってちんぷんかんぷんなんだけど」
「何いってるんですか。わたしだって流し点前ぐらいしか知りませんよ」
きっぱりと答えて、先輩は急須と湯呑み、それにお茶菓子を盆に乗せてやってくる。
「気軽にお喋りするだけなんですから、堅っくるしいのはナシにしましょう。そうゆうの楽しくないじゃないですか」
先輩は柔らかに微笑んで、自分の湯呑みにお茶をそそいだ。
「……はあ。よく分からない人だね、先輩は」
ぼやきながら自分の湯呑みにお茶をそそいだ。
ずず、と音をたててお茶をすする。
茶菓子として出されている最中(もなか)を口に運び、またお茶をすする。
自分は決して関わらなかったけれど、有間の家は茶道の家元をしていたりする。
そんな家で育ったせいか、和室でお茶を飲みながらぼんやりする、という事には慣れていた。
先輩はなんだか困ったような顔で俺を見つめている。
「どうしたんですか先輩。なにかうかない顔してますけど」
「え? あ、その、なんだか遠野くんのほうが落ち着いてるなって、ちょっと驚いてました」
「そうでもないよ。うちはもともと厳しい家だったから、こういうのに慣れてるだけ。それより先輩、話があるんじゃないの?」
「ありますよ。お昼のお話の続きです」
「……昼の話の続きって、その、家のこと?」
はい、と先輩はうなずく。
「遠野くんがイヤじゃなければ、もう少し話を聞きたいなって。お昼の時は中途半端に終わっちゃったから気になっちゃって」
「……イヤってわけじゃないけど、うちの家の話なんて聞いたってつまらないですよ。それこそ時間の無駄です」
「つまらなくてもいいですよ。わたしがただ聞きたいだけなんですから」
「……はあ。物好きだね、先輩は」
そうかもしれませんね、と先輩は笑った。
「それじゃあさっきの話の続きをしましょう。自分の家に引っ越したって言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
先輩は興味深そうに質問してくる。
……まあ、たしかに何の事情も知らない先輩にとって、昼休みの会話はあまりに断片的すぎたんだろう。
「───そうですね。ようするに、俺は実家から勘当された男の子なんですよ、これが。
九歳の頃に交通事故に巻き込まれたとかで、ひどい傷をおってしまいまして。
傷そのものはなんとか治ったんですけど、それからはすぐ貧血で倒れるは食べたものは戻すわで、しばらく養生させるって事で親戚の有間って家に預けられる事になったわけなのです」
「ええっと、つまりその有間っていう方々が遠野くんの九歳からの育ての親、という事になるんですね?」
「そうですね。俺は自分の父親になんでか嫌われてて、有間の家に預けられた時から二度と自分の家……遠野の屋敷に戻ることはないってわかってたんです。だからまあ、有間の家の子供として暮らしていこうってずっと思ってた。
思ってたんだけど、つい最近その父親がぽっくり逝っちまってさ。もう父親はいないから屋敷に戻ってこい、なんて言葉にいまさらオーケーサインを出したわけなのです」
―――以上、遠野志貴の家庭の事情でした。
なんて話を切りあげる。
シエル先輩は無言でこくん、と小さくうなずいた。
「……一つ、聞いていいですか?」
「うん? まあ、俺に答えられることだったらどうぞ遠慮なく」
「……はい、それじゃあ聞きますけど。遠野くんは、やっぱり前のご家族が嫌いだったんですか?」
前のご家族───育ての親である有間の両親の事か。
本当の両親ではない父親と母親。
他人の家であるはずの見知らぬ建物。
けど、そんな事はぜんぜん関係なく───
「いや、好きだったな。血が繋がってないことなんて気にも留めない人たちで、俺が一人で落ち込んでいるのが申し訳なくなってくるぐらい、温かかった。
そういう盲目的な愛情を信じられる自分っていうのも、悪くないと思ってた」
───この人たちは自分を愛してくれている。
だから早く、一日でも早く、
ボクは本当の家族にならなくちゃ───
そんな言葉を、幼いころからずっと自分に言い聞かせてきた。
……ほんとうに、ずっと昔から。
気がとおくなるぐらい、ずっとずっと繰り返し誓ってきた───
「……えっと、たしかに有彦のいうとおり、有間の家に不満なんかひとつもなかったんです。
あの人たちは良くしてくれたし、自分もその愛情に応えてきたと思う。
そりゃあお互い、こんなのは家族ごっこだってわかってたけど、芝居じみたそれでさえ、苦痛ではなかったから」
いや、むしろ幸せだっただろう。
ある意味。有間の両親と俺は、理想の親子だったと思う。
「───でも、だめだったんですね」
「……ああ。それでも、一線をこえられなかった。自分は本当の家族じゃない、という言葉がどうしても頭から離れてくれなくてね。
そんなこと無視するべきだとわかってんだけど、どうしてもダメなんだ。
幼児体験だかなんだかしらないけど、こうなるとすでに呪いだね。なんだか、どこにいっても家族とはずっと他人のような気がする」
先輩は黙っている。
視線をそらして、申し訳なさそうに肩をすぼめていた。
「ほら、つまらない話だっただろ。だから時間の無駄になるって言ったのに」
「いえ、そんなことないです。すごく有意義なお話でした」
場を和ませようと先輩は無理やりに笑顔をうかべる。
「でも、ちょっと意外だったかな。わたし、遠野くんってのんびりしている子だなって思ってましたから」
「んー、基本的に俺はのんびりしてるよ。できるだけ今を楽しむっていうのを座右の銘にしたからさ。やっぱり人間、終わっちまった事より先のことを楽しみにしてたほうがハッピーじゃない?」
まあ、そりゃあ有彦からの受け売りなわけなんだけど。
「先のことを楽しみに、ですか。いいですね、そういうのって」
先輩はとても優しい笑顔をしてお茶をすすった。
こっちも先輩に倣って湯呑みを口にあてる。
ずず、と渋くてほのかに甘いお茶が喉に流れ落ちていった。
◇◇◇
いつもとは違う帰り道を歩く。
見知らぬ道を通り抜けて、段々と遠野の屋敷へ近付いていく。
まわりの風景は、知らない風景ではなかった。
少なくとも自分は八年前───九歳まで遠野の屋敷で暮らしていたから、屋敷へ帰る道は初めてというわけでもないのだ。
……少しだけ気持ちは複雑だ。
この帰り道は懐かしくて、新鮮でもある。
さっきまで遠野の家に戻るのは気が進まなかったっていうのに、今はそれほどイヤでもなくなっている。
……遠野志貴が九歳まで暮らしていた家。
そこにあるのは日本じゃ場違いな洋館で、今は妹の秋葉が残っているという話だ。
俺を嫌っていた父親───遠野家の当主である遠野槙久は、先日他界したという。
母親は秋葉が生まれた時に病死してしまっていたから、遠野の人間は自分と、妹である秋葉の二人きりになってしまった。
本来なら長男である自分───遠野志貴が遠野家の跡取りになるのだろうけれど、自分にはそんな権利はない。
遠野家の跡取りになる、という事はがんじがらめの教育を受けるという事だ。
それがイヤで自由に暮らしていて、父親から何度小言を言われたかわからない。
そんな折、俺は事故に巻き込まれて病弱な体になってしまい、父親はこれ幸いにと俺を切り捨てた。父親曰く『たとえ長男であろうと、いつ死ぬかわからない者を後継者にはできん』とかなんとか。
あいにく父親の予想を裏切って回復してしまったけれど、その頃には遠野家の跡取りは妹の秋葉に決められていた。
それまで遠野の娘に相応しいように、と厳格に育てられていた秋葉は、それからよけい厳しく育てられたらしい。
昔───事故に巻き込まれるまでは一緒に屋敷の庭で遊んだ秋葉とは、あれからまったく会っていない。
……八年前に棄てた屋敷の生活。
八年間という歳月は長くて、あの頃の記憶は大部分が薄れてしまっている。
それでも。
ある事柄だけは、今でも強く心に焼き付いている。
それは――――妹の秋葉の事だ。
有間の家に預けられた当初、秋葉は何度か訪ねにきてくれたらしい。
あいにくとこっちは病院通いの毎日で会う事もできず、秋葉が全寮制のお嬢様学校に進学してからはまったく連絡をとっていなかった。
自分は秋葉とは違い、本家から外れた人間だ。
だからこうして自由気ままな生活を送れている。高校もあくまで平均的な進学校で、ここ八年ばかり妹との接点は皆無といってよかった。
父親が死んで、俺は屋敷に戻ってこいと連絡を受けた。
はっきりいって、いまさら遠野の家に戻るつもりなんて全然なかったんだ。
ただ、遠野の屋敷には秋葉がいる。
[#挿絵(img/秋葉 11.jpg)入る]
子供の頃。
秋葉は大人しくて、いつも何かを我慢しているように怯えていて、トコトコと足音をたてて俺の後についてきた。
長い黒髪と豪華な洋服のせいか、秋葉は本当にフランス人形のように儚げな少女だったっけ。
あの広い館で父親をなくして一人きりの秋葉が心配だったし、なにより────全ての責任をあいつに押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目もある。
今回の話を了承して屋敷に戻る事にしたのは、そんな秋葉に対する謝罪の意味もあったのかもしれない。
遠野の屋敷は不必要なまでに大きい。
鉄柵で囲まれた敷地の広さは異常とさえいっていい。なにしろ小学校ぐらいならグラウンドごと中に入ってしまうぐらいなんだから。
木々に囲まれた庭は、すでに庭というより森に近い。その森の中心に洋館があり、離れにはまだいくつかの屋敷がある。
子供のころは何も感じなかったけれど、八年間ほど一般家庭で暮らしてきた自分にとって、この大きさはすでに犯罪じみている。
門に鍵はかかっていない。
力任せに押しあけて、屋敷の玄関へと向かっていった。
屋敷の玄関は重苦しくそびえ、訪れる者を威圧している。
鉄でできた両開きの扉の横には、不釣り合いな呼び鈴があった。
「…………よし」
緊張を振り払って呼び鈴を押す。
ぴんぽーん、なんていう親しみのある音はしない。
重苦しい静寂が続くこと数秒。
扉の奥でぱたぱた、という慌ただしい人の気配がした。
「お待ちしておりました」
がちゃり、と扉が開く。
開いた先にあるのは見覚えのあるロビーと、割烹着を着た少女の姿だった。
「よかった。あんまりに遅いから迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ。日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかなって思ってたんですから」
割烹着なんていうアナクロなものを着込んだ少女はにこにこと笑っている。
「あ、いや───それは、その」
こちらはというと、少女のあまりに時代錯誤なカッコウに面食らってしまって、まともな言葉が口にできない。
おどおどとしたこっちの口調を不審に思ったのか、少女はかすかに首をかしげた。
「志貴さま、ですよね?」
「え───ああ。さまっていうのは、その、余計だけど」
「ですよね? もう、脅かさないでくださいっ。わたし、また間違えちゃったかなって恐くなったじゃないですか」
少女はめっ、と母親が子供をしかるような仕草をした。
だっていうのに顔は微笑んでいて、少女はともかく暖かい雰囲気を崩さない。
……着物に割烹着。
客を出迎えにきて、俺なんかのことを『さま』づけで呼ぶ。
ということは、この子は────
「えっと、その───君、もしかしてここのお手伝いさん?」
こちらの質問に少女は微笑みだけで答えた。
「さ、お疲れでしょう? 遠慮せずにあがってくださいな。居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから」
少女はさっさとロビーを横切って居間へと歩いていく。
と、思い出したようにくるりと振り返ると、満面の笑みをうかべてお辞儀をした。
「お帰りなさい志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
少女の挨拶は、本当に華のような笑顔だった。
それに何ひとつ気のきいた言葉も返せず、おずおずと彼女の後についていった。
少女に案内されて居間へ移動する。
───居間は、初めて見るような気がした。
八年前の事で覚えていないのか、それともあれから内装を変えでもしたのか。
とにかく他人の家のようで落ち着かない。
きょろきょろと居間の様子を見回していると、割烹着のお手伝いさんがペコリと頭をさげていた。
「志貴さまをお連れしました」
「ごくろうさま。厨房に戻っていいわよ、琥珀」
「はい」
お手伝いさんはコハク、という名前らしい。
琥珀さんはそれでは、とこっちにも小さくおじぎをして居間から出ていく。
残されたのは自分と───見覚えのない、二人の少女だけだった。
「お久しぶりですね、兄さん」
長い黒髪の少女は凛とした眼差しのまま、そんな言葉を口にした。
……はっきりいって、思考は完っ全に停止してしまっている。
真っ白な頭はろくに挨拶もできず、ああ、とうなずく事しかできない。
……だって、そりゃあ仕方ないと思う。
八年ぶりに見た秋葉は、こちらの記憶にある秋葉ではなく、まるっきり良家のお嬢様と化していたんだから。
「兄さん?」
黒髪の少女はかすかに首をかしげる。
「あ────いや」
情けないことに間の抜けた言葉しか言えない。
こっちは目前の少女を秋葉と認識するために頭脳をフル回転させてるっていうのに、秋葉のほうはとっくに俺を兄と認識出来てしまっているようだ。
「なにか気分が悪そうですね。お話の前にお休みになりますか?」
秋葉はじろりとした視線を向けてくる。
……なんだか、すごく不機嫌そうに見えるのは気のせいなんだろうか。
「……いや、別に気分は悪くない。ただその、秋葉があんまりにも変わってたんで、びっくりしただけなんだ」
「八年も経てば変わります。ただでさえ私たちは成長期だったんですから。
――――それともいつまでも以前のままだと思っていたんですか、兄さんは」
……なんだろう。秋葉の言葉は、なんとなく棘があるような気がする。
「いや、それにしたって秋葉は変わったよ。昔より格段に美人になった」
お世辞ではなく素直に感想をもらす。
────と。
「ええ。ですが、兄さんは以前とあまり変わりませんね」
なんて、瞳を閉じたまま秋葉は冷たく言い切った。
「………………」
……まあ、それなりに覚悟はしていたけど。
やはり秋葉は俺の事をよく思っていてはくれなかったみたいだ。
「体調がいいなら話をすませましょうか。兄さん、詳しい事情は聞いてないんでしょう?」
「詳しい事情もなにも、突然屋敷に帰ってこいって事だけしか聞いてない。親父が亡くなったっていうのは新聞で知ったけど」
……一企業のトップに立っていた人物が亡くなれば、それぐらい経済新聞で取りあげられる。
遠野槙久の訃報は、彼の葬式が終わった後に新聞づてで息子である遠野志貴に届けられた。
親戚から報せなんてなくても、勘当された息子は一部百円のペーパーで親の死亡を知ることができた。
皮肉な話だけれど、本当に便利な世の中になったもんだ。
「……申し訳ありません。お父さまの事を兄さんに報せなかったのはこちらの失策でした」
秋葉は静かに頭をさげる。
「いいよ。どのみち俺が行ったって死人が生き返るわけでもないし。秋葉が気にする事じゃない」
「……ごめんなさい。そういってもらえると少しは気が楽になるわ」
秋葉は深刻な顔をするけど、そんなのは本当にどうでもいい話だった。
葬式というものは故人に対して感情を断ち切れない人達が、その感情を断ち切るために行う儀式だ。とうの昔に感情を断ってきた自分とあの父親の場合、葬式の必要はないと思う。
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の意向です。いつまでも遠野の長男が有間の家に預けられているのはおかしいでしょう?
お父さまが亡くなられた以上、遠野の血筋は私と兄さんだけです。お父さまがどのようなお考えで兄さんを有間の家に預けたかは分かりませんが、そのお父さまもすでに他界なさった身。
ですからこれ以上兄さんが有間の家に預けられる必要はなくなったので、こちらに戻ってもらう事にしたんです」
「……まあいいけど、そんなんでよく親戚の連中が納得したな。俺を有間の家に預けろって言い出したの、たしか親戚の人たちじゃなかったっけ?」
「そうですね。けれど今の遠野の当主は私です。親戚の方達の進言はすべて却下しました。
兄さんにはこれからここで暮らしてもらいたいのですけど、ここにはここの規律があります。今までのような無作法はさけていただきますから、そのつもりで」
「はは、そりゃあ無理だよ秋葉。いまさら俺がお行儀いい人間に戻れるわけないし、戻ろうって気もないんだから」
「できる範囲でけっこうですから努力してください。それとも───私にできた事が兄さんにはできない、とおっしゃるんですか?」
じろり、と秋葉は冷たい視線を向けてくる。
なんだか無言で、八年間もここに置き去りにしてきた恨みをぶつけられている気がする。
「……オーケー、わかった。なんとか努力はしてみる」
秋葉はじーっ、と信用できなさそうに睨んでくる。
「努力する必要はありません。結果を出していただければそれで結構です」
凛、とした姿勢のまま、秋葉は容赦のない言葉を繰り出してくる。
「話を戻しますね。
現在、遠野の家には兄さんと私しか住んでいません。わずらわしいのはイヤなので人払いをしたんです」
「え? ちょっと待てよ秋葉、人払いっておまえ───」
「兄さんだって親戚の人達と屋敷の中で会うのはイヤでしょう? 使用人も大部分に暇をだしましたけど、私と兄さん付きの者は残してありますから問題はありません」
「いや、問題ないって秋葉。そんな勝手な事しちゃ親戚会議でたたかれるじゃないか!」
「もう、つべこべ言わないでください。兄さんだって屋敷の中に人が溢れかえっているより、私たちしかいないほうが気分は楽でしょう?」
……う。
まあ、それは本当に気が楽になるんだけど。
「だけど当主になったばかりの秋葉が、その、そんな暴君みたいなワガママを通したら親戚の連中が黙っていないんじゃないか? 親父だって親戚の意見には逆らわなかったじゃないか」
「そうですね。だからお父さまは兄さんを有間の家に預けたんです。けど私、子供の頃からあの人達が大っ嫌いでしたから。これ以上あの方達の小言を聞くのは御免です」
「ゴメンですって、秋葉───」
「ああもう、いいから私の心配なんかしなくていいの! 兄さんはこれからのご自分の生活を気に病んでください。色々大変になるって目に見えてるんだから」
秋葉は少しだけ俺から視線をそらして、不機嫌そうにそう言った。
「それじゃあ、これからは分からない事があったらこの子にいいつけて。────翡翠」
秋葉は傍らに立っていた少女にめくばせする。
ひすい、と呼ばれた少女は無表情のままペコリとお辞儀をした。
「この子は翡翠。これから兄さん付きの侍女にしますけど、よろしいですね?」
────────え?
「ちょっ、侍女って、つまり、その」
「分かりやすくいうと召使い、という事です」
秋葉は当たり前のように、きっぱりと言い切った。
……信じられない。
洋館に相応しく、メイド服を着込んだ少女は秋葉同様、そうしているのが当然のように立っていた。
「───ちょっと待ってくれ。子供じゃあるまいし侍女なんて必要ないよ。自分のことぐらい自分で面倒みれるから」
「食事の支度や着物の洗濯も、ですか?」
うっ。
秋葉の指摘は、カナリ鋭い。
「ともかくこの屋敷に戻ってこられた以上は私の指示に従ってもらいます。有間の家ではどう暮らしていたかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすんです。それ相応の待遇は当然と受け入れてください」
「う………」
言葉もなく、翡翠に視線を泳がす。
翡翠はやはり無表情で、ただ人形のようにこちらを見つめ返してくるだけだった。
「それじゃ翡翠、兄さんを部屋に案内してあげて」
「はい、お嬢さま」
翡翠は影のような気配のなさでこっちへ歩いてくる。
「それではお部屋にご案内します、志貴さま」
翡翠はロビーへ向かう。
「……はあ」
ため息をつきながら、こっちもロビーへ歩きだした。
ロビーに出た。
この洋館はロビーを中心にして東館と西館に分かれている。
ロビーが鳥の胴体、東と西の館が鳥の翼のように斜めに伸びていて、片翼───つまり一方の館の大きさは小さな病院なみだ。
作りは左右対称で、東館も西館も同じ間取りをしていたと記憶している。
「志貴さまのお部屋はこちらです」
翡翠は階段をあがっていく。
どうやら遠野志貴の部屋は二階にあるみたいだ。
……そういえば、使用人の部屋は一階の西館にあったはずだから、翡翠と琥珀さんの部屋は一階にあるのだろう。
外はすでに日が落ちている。
ぼんやりと電灯の点った長い廊下を、メイド服の女の子が無言で歩いている。
「……なんか、おとぎの国みたいだ」
思わずそんな感想を洩らす。
「志貴さま、何かおっしゃられましたか?」
立ち止まって振りかえる翡翠。
「いや、ただの独り言だから気にしないでくれ」
「……………」
翡翠はじっとこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。
「………………」
言葉を失う、というのはこういうコトだろうか。
翡翠に案内された部屋は、とても一介の高校生が住む部屋の作りをしていなかった。
「……俺の部屋って、ここ?」
「はい。ご不満がおありでしたら違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その――」
ちょっと、いやかなり立派すぎるかなって。
「志貴さま?」
「―――いいんだ、なんでもない。喜んでこの部屋を使わせてもらうよ」
「はい。お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合はないと思います」
「―――?」
翡翠の言い方は、ちょっとヘンだ。
それじゃあまるで、ここが俺の部屋だったみたいな言い方じゃないか。
「……ねえ。ここって、もしかして俺の部屋だったの?」
「そう伺っておりますが、違うのですか?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
……安心した。
この娘にも、それなりに感情表現というものがあるみたいだ。
「……まあ、言われてみればそうかもしれない。少しは覚えがあるし、きっとそうだったんだろう」
親近感はまったく湧かないけど、八年間も離れていればそんなものなのかもしれない。
「けど、やっぱり落ち着かないな。今朝まで六畳半の部屋で暮らしてたからさ、なんだか高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちはわかりますが、どうかお慣れください。志貴さまは今日から遠野家のご長男なのですから」
「そうだね。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ」
トン、と机に鞄を置いて背筋を伸ばす。
―――色々と神経がまいりそうだけど、たしかに今日から慣れていくしかないだろう。
「志貴さまのお荷物はすべて運び込みましたが、何か足りないものはありますか?」
「―――いや、別にないけど。どうしてそんな事を聞くの?」
「……いえ、荷物が少なすぎるようですから。必要なものがおありでしたら用意いたしますから、どうかお聞かせください」
「……そっか。いや、とりあえず足りないものなんてないよ。もともと荷物は少ないんだ。自分の荷物っていったら、その鞄とこのメガネと……」
鞄の中に入っている教科書とか、誰のものとも知らない白いリボンとか、それだけだ。
「ともかく、荷物のことは気にしないでいい。こんな立派な部屋だけで十分だよ、俺は」
「……かしこまりました。では、一時間後にお呼びにまいります」
「一時間後って、もしかして夕食?」
「はい。それまで、どうぞおくつろぎください」
翡翠はやっぱり無表情で言ってくる。
……しかし。おくつろぎくださいって言われても、ここでどうおくろつぎすればいいんだろう?
時計は夕方の六時をまわったあたり。
いつもなら居間にいってテレビでも見てる時間だけど、この屋敷にそんなものがあるかどうか真剣に疑わしい。
「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。この屋敷にテレビってあるの?」
「テレビ……ですか?」
翡翠はかすかに目を細める。
……なんていうか、自分で言っておいてなんだけど、ひどく頭が痛くなる質問だ。
これだけ贅沢な洋館において、テレビがあるかないかを訊ねるなんてどこか間違ってる気がする。
翡翠はめずらしく困ったような顔をして、視線を宙に泳がした。
「……居間にはありません。ご逗留の方々はご使用になってらっしゃいましたが、出立される時に荷物はすべてお持ち帰りいただきましたので残ってはいないと思います」
「ちょっと待った。逗留って、誰がどのくらいしてたんだ?」
「分家筋である久我峰さまのご長男のご家族、刀崎さまのご三女とその婚約者、軋間さまのご長男がご逗留なさっていました。期間は三年ほどです」
「……三年、か。翡翠、そういうのって逗留っていうんじゃなくて居候って言うんじゃない?」
翡翠は答えない。
居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
まあ、ともかく逗留していた親戚筋の連中は自分たちの荷物を持ちかえらされたという事らしい。
となると、あの現代的な文化ってモノを俗物的と毛嫌いしていた父親がテレビなんて観るはずもない。
父親のもとで八年間も躾けられた秋葉も同じだろう。
「───ま、ないからって別に死ぬわけでもないか」
翡翠は黙っている。
……使用人の鑑というか、翡翠は聞かれた事以外は何も喋らない。
当然、こっちとしては気が滅入る。
なんとかしてこの無表情な顔を笑わせてみたいと思うのだけど、どうも生半可な努力では不可能そうではある。
「いいや、たしか一階の西館のほうに書庫があったよね。暇なときはそこから何かみつくろう事にするよ」
翡翠は答えない。
ただ部屋の入り口に突っ立ったまま、どこを見ているんだかわからない眼差しをしている。
「───翡翠?」
翡翠はうんとも言わない。
と、突然まっすぐにこちらを見据えてきた。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は?」
いやもう、ワケがわからない。
「……えーっと。あるって、何が」
「ですからテレビです。以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がありますから」
翡翠はまるで数年前の出来事を思い出すように言った。
「ちょっと待って。姉さんって、もしかして琥珀さんのこと?」
「はい。現在、このお屋敷で働かせていただいている者はわたしと姉さんの二人きりです」
……言われてみればよく似てる。琥珀さんがニコニコしていて、翡翠が無表情だからなんとなく姉妹だって結びつかなかった。
「そっか。琥珀さんならたしかにバラエティー番組を観てそうなキャラクターだ」
しかし、かといって『テレビ観せてくれい』と琥珀さんの部屋に遊びに行くのも気がひける。
「ごめん、この話はなかった事にしてくれ。これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
それにテレビなんてものを観ていたら、秋葉にどんな皮肉を言われるかわかったもんじゃない。
ここは遠野家の人間に相応しい、勤勉な学生になりきろう。
「それじゃ夕食まで部屋にいるから、時間になったら呼びにきてくれ。翡翠だって他にやる事あるだろ?」
翡翠ははい、とうなずいて背中を向ける。
きい、と静かにドアが開かれて、翡翠は部屋から退室していった。
◇◇◇
夕食は秋葉と顔を合わせてのものだった。
当然といえば当然の話なのだけど、翡翠と琥珀さんは俺たちの背後に立って世話をするだけで、一緒に夕食を食べる事はなかった。
……自分としては四人で食べるのが当たり前と思っていたので、この、なんともいえない緊張感がある夕食はまさに不意打ちだったといっていい。
言っておくと、遠野志貴は完っっ全にテーブルマナーなんてものは忘れていた。
いや、いちおう断片的には覚えていたから素人というわけではなかったけど、人間というものは使用しない記憶は徹底的に脳内の隅においやってしまう。
こっちの一挙一動のたびに向かい側に座った秋葉の眉がつりあがっていく様は、なかなかに緊張感があってスリリングだった。
……正直、これが毎日繰り返されるかと思うと、本当に気が重い。
夕食を終えて、自室に戻ってきた。
時刻はまだ夜の八時過ぎ。
眠るには早すぎるし、どうしようか。
居間に行って秋葉と話をしよう。
居間にやってくると、そこには秋葉が一人でくつろいでいた。
琥珀さんと翡翠の姿はない。
テーブルにはティーカップが二つあって、一つは秋葉が使っている。
「あら、兄さんも食後のお茶ですか?」
「いや――そうゆうんじゃなくて、たんに秋葉と話がしたいなって思ったんだけど」
邪魔なら戻るよ、と視線で意思表示をする。
「それでしたら立っていないで座ってください。飲み物は紅茶でよろしいですか?」
「……ああ、おいしいものならなんでも」
ホントは日本茶がいいんだけど、そんな我が侭はとりあえず黙っておく。
秋葉はティーポットをもって、もう一つのティーカップに透き通る紅色の紅茶をそそいでくれた。
「それじゃ、いただきます」
ソファーに座って、ティーカップを口に運ぶ。
……目の前には凛と姿勢を正した秋葉がいて、ちょっと戸惑ってしまう。
秋葉に会いに来たのはいいけど、こうして面と向かうと何を話していいものかわからない。
「兄さん? どうしました、黙ってしまって。私に話しがあるんじゃないんですか?」
じっ、と見つめてくる秋葉。
その姿は妹というより見知らぬお嬢さまといった感じで、気軽に話しかけられる雰囲気じゃない。
「えっと……秋葉はこの八年間、なにをしていたのかなって、思ってる」
「そんな事は言うまでもないでしょう。兄さんがいなくなった分、お父様の目が私一人に絞られただけの話です」
キッ、といかにも文句を言いたそうな目でこっちを見る秋葉。
……やっぱりこの八年間の事を尋ねるのはタブーになってしまっているみたいだ。
「そういう兄さんこそ、この八年間はどうだったんですか。私、何度か手紙を送ったはずですけど、返事は一つもきませんでしたね」
「………う」
思わず息がつまる。
たしかに秋葉からの手紙は何通か届けられた。
けど返事らしい返事を出したは一度もない。
筆不精という事もあったけど、やっぱり心の底で遠野の屋敷と縁を切りたくて、秋葉への返信を送ることがためらわれたせいだ。
「まあ、手紙のことはいいです。兄さんが返信をしても、お父様のところで止められていただけでしょうから。
それより八年ぶりに屋敷に帰ってきた感想はどうです? 少し前に老朽化のために改装をしましたけど、大きくは変わっていないでしょう?」
「―――――」
秋葉はそう言うけど、こっちとしてはまるっきり見知らぬ屋敷だ。
八年前っていえば、俺はまだ小学生だった。
屋敷のことはおぼろげに覚えてはいたものの、こうして中に入ってみると他人の家のようでひどく落ち着かない。
「兄さん?」
「あ―――いや、ちょっと考えごとをしてた。
その、さ。秋葉は変わってないっていうけど、俺にとってみるとこの屋敷はやっぱり落ち着かないよ。この居間とかロビーは見覚えがあるんだけど、廊下とか部屋とかはいまいち思い出せない」
「……そうですか。八年間は、長いですからね」
まあ、そういうことだろう。
なにしろ今までの人生の約半分だ。鮮明に覚えているほうがどうかしてる。
「ま、八年ぶりだからな。なんかしっくりこないけど、そのうち馴れると思う。そんなわけなんで、しばらくは無作法も大目に見てくれるとありがたい」
「馬鹿言わないでください。これ以上兄さんの無作法を大目に見れるほど、私の瞳孔は開いてくれません」
「ぶっ………!」
うっ……危ない危ない、思わず飲んでいた紅茶を吐き出しそうになってしまった。
さっきの夕食、ナイフを持つ順番が違っただけで秋葉の矢のような視線が向けられて冷や汗をかいたんだけど。
「……そっか。あれでも大目に見ててくれたのか、秋葉は」
「ええ、できるかぎりの譲歩はしてるんです。兄さんはあれから有間のおばさまに育てられましたから。
おばさまは分家筋の中でもとびきりの放任主義ですから、兄さんがどれほど甘やかされて育ったかはさっきの夕食で思い知りました」
「仕方ないだろ。俺だっておばさんだって、まさかこっちに戻ってくる事になるなんて思ってなかったんだから」
「……そうですか。なんだか戻ってきたくなかったような口振りをするんですね、兄さんは」
「ばか、そんなわけないだろ。そりゃあ俺だって迷ったけど、ここには秋葉が一人きりしかいないじゃないか。兄貴として、そんなのはほっとけないだろ」
そう、俺が戻ってきたのはそれが第一の理由なんだ。
秋葉がいなかったら、いまさらこんな屋敷に誰が戻ってくるもんか───
「八年間も音信不通だったから今更だとは思うんだけど、これでも秋葉が一人でも大丈夫なのかずっと気になってた。
俺が屋敷に戻ろうって思ったのは、秋葉のことが心配だったからだよ」
わずかに秋葉から視線をそらして、正直に自分の気持ちを言葉にする。
「あ───うん、その……ありが」
「けどそんなのは杞憂だったな。この八年間で秋葉はものすっごく頑丈に育ったみたいだ。安心できたけど、その分ちょっとは落胆したかな」
いや、ちょっとなんて生易しいものじゃない。
子供のころの大人しい秋葉のイメージしかなかった分、今の凛とした秋葉はまるで別人みたいでどきまぎしてしまうぐらいだ。
「───そうですか。兄さんの期待に応えられない、不出来な妹でもうしわけありません」
秋葉の目がこわい。
……まずい、また余計なことを言ってしまったみたいだ。
「それで兄さん。有間の家での生活はどうだったんですか?」
こわい顔のまま秋葉は話しかけてくる。
……なんていうか、妹と話しているだけだっていうのに、すごい緊張感だ。
「兄さん。私の話、聞いていますか?」
「聞いてるよ。有間の家での生活だろ? いたって普通、とりわけ問題はなかったよ。俺としてはこっちの生活より有間の家での生活のほうが性にあってたみたいだし」
「そうじゃなくて、体のほうはどうだったの?
慢性的な貧血でいつも倒れていたって聞いてましたけど」
「ああ、たしかに退院してからの一年はしょっちゅう倒れてたけど、今はもう大丈夫だよ。
……そりゃあ今でもときおり貧血は起こすけど、まあ月に一度ぐらいだし。おまえに心配してもらうほどやわな体してないさ」
トン、と傷口のある胸をたたいて強がってみせる。
秋葉はそう、と真剣な顔でうなずいた。
「けど兄さん、前は眼鏡なんてかけてませんでしたよね? その、入院してから視力でも落ちてしまったんですか?」
「――――――」
……そうか。秋葉は俺がメガネをした事も、している理由もしらないんだ。
けど物の壊れやすい『線』が見えるとか、このメガネがそれを見えなくしているとか、とてもじゃないけど説明できない。
「……いや、ちょっとね。事故の後遺症ってヤツで少しだけ眼がおかしくなったんだ。けど視力が落ちたってわけじゃないから、そう大した問題じゃない」
「───そうですか。その、さっき会った時は驚いたわ。兄さんが眼鏡をしてるなんて知らなかったから」
「そうか? そのわりにはすっごく冷静だったじゃないか、秋葉は」
「――当たり前です。八年ぶりに兄さんと再会する時に、無様なところなんて見せられないじゃないですか」
ふん、と秋葉は不機嫌そうに眉をよせる。
「秋葉さま、入浴の支度ができましたけど、どうしましょうか?」
「そう? ごくろうさま琥珀。すぐに行くから先にいっていて」
「あれ、いいんですか? せっかく志貴さまとくつろいでるんじゃないですか。志貴さまは逃げますけど、お風呂は逃げませんよ。もう少しごゆっくりしてくださいな」
「いいんです。別段たいした話をしてませんでしたから」
秋葉はスッと立ち上がると、琥珀さんを追い越してたったかとロビーへと向かっていった。
琥珀さんはしずしずと秋葉の後を追っていく。
一人居間に残されて、ぼんやりと残された紅茶を飲み干してみる。
秋葉と琥珀さんは浴場に向かったみたいだし、こっちも部屋に戻るとしようか。
「───って、待て。もしかして秋葉のヤツ、琥珀さんと一緒に風呂に入るつもりなのか……?」
いや、つもりもなにも間違いなく一緒だろう。
そうなると琥珀さんに背中を流してもらうんだろうか。
いや、そりゃあ女同士だから問題なんてないんだろうけど、その……。
「───まあ、別に何を想像するかは兄さんの自由ですけど」
「────!」
す、すごいタイミングで、秋葉が戻ってきた。
「間違っても翡翠につまらない事を強制しないでくださいね。あの子は琥珀と違って冗談が通じないんですから」
秋葉はこっちのよこしまな考えを見透かすように非難の眼差しを向けてくる。
……にしても驚いた。
もしかして盗聴器でも仕掛けてあるのか、この屋敷。
「───って、なんで戻ってきたんだおまえ。琥珀さんと風呂に入るんじゃなかったのか」
「一つ、浴場について言い忘れていたんです。あのね、兄さん。昔使っていた大浴場は使っていないんです。琥珀と翡翠だけでは管理が大変なので、とりあえず封鎖しておきました」
「……大浴場?」
って、なんだっけそれ?
「……むむむ?」
思い出せない、と首をかしげる。
秋葉はあきれたふうに眉をよせた。
「中庭に露天式の浴場があったでしょう? そんなことも覚えてないんですか、兄さんは」
……まあ、言われてみればあったようななかったような。
「―――にしても、ここ洋館だろ? 旅館じゃあるまいし、なんだってそんな場違いなモンがあるんだよ」
「お父様は半端に和風びいきでしたから。離れの屋敷が和風なのもその影響でしょう」
「そういうわけですから、湯浴みをするのでしたらご自分の浴場をお使いください。ロビーの裏手にある第二浴場が兄さんのものですから」
では、と秋葉は立ち去っていった。
「…………さて」
秋葉もいなくなったし、居間に残っていても仕方がない。
こっちも風呂に入って、部屋に戻ることにしよう。
「あ―――――」
部屋に戻ってくると、ベッドメイクが済んでいた。……俺が留守の間に翡翠が済ませてくれたのだろう。
「嬉しいんだけど、なんか身に余るよな、こういうのって」
ぽりぽりと頬を掻く。
――――――――と。
「志貴さま、いらっしゃいますか?」
ノックと一緒に翡翠の声が聞こえてくる。
「いるよ。どうぞ、中にはいって」
「はい、それでは失礼します」
「こんばんは。ありがとう翡翠、ベッドメイクしておいてくれたんだろ」
はい、と静かにうなずく翡翠。
「…………う」
やっぱり、自分にはこういうのは似合わない。
「……えっと、何かな。他に伝言でもある?」
「いいえ、わたしからは何も。ですが秋葉さまから、もし志貴さまから何かあるようでしたらお答えするように、と」
「……そっか。 確かに聞きたい事だらけだけど、そんなのは暮らしていくうちに覚えていくもんだしな……」
うん。今すぐ、寝る前に知っておきたい事っていったら、それは――
「それじゃ聞くけど、ここの門限が七時っていうのは本当?」
「はい。
正確には七時に正門を施錠して、八時に屋敷の出入り口をすべて施錠いたします。
午後十時を過ぎたあとは屋敷内の移動も控えていただくのが規則です」
「屋敷の中も出歩くなっていうのか? ……まあ文句はないけど、それって厳しすぎないか? 俺も秋葉も子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいと思うけど」
「……はい。ですが志貴さま、規則ですからこればかりはお守りください。近頃の夜は物騒だと志貴さまもご存知ではないのですか?」
……ああ、有彦がいっていた例の吸血鬼騒ぎか。
たしかにこの街で連続殺人が起きている以上、用心にこした事はないんだろう。
「あとは……そうだな、あまり関係ない話なんだけど、いいかい?」
「はい、なんでしょう」
「翡翠と琥珀さんがここでどんな仕事をしてるのか知りたいんだけど、どうかな」
「わたしが志貴さま付きで、姉の琥珀は秋葉お嬢さまのお世話をさせていただいています。
お二人が留守の間は屋敷の管理を任されていますが、それがなにか?」
「……お世話って、やっぱりそういうコトか」
がっくりと肩が重くなる。
秋葉は当然のように言っていたけど、こっちはあくまで普通の高校生だ。
同い年ぐらいの女の子に世話をしてもらうなんて趣味は、今のところありはしない。
「……志貴さま付きって事は、俺専用の使用人ってこと?」
「はい。なんなりと申し付けてください」
「……まあ、それはわかったよ。秋葉のあの言いぶりじゃ君を解雇させてくれそうにないし、大人しく世話してもらうけど───」
「何か、特別なご要望でもあるのですか?」
「特別ってわけじゃない。ただ、その志貴さまっていうのを止めてくれないか。正直いって、聞いてると背筋が寒くなる」
「ですが、志貴さまはわたしの主人です」
「だからそれがイヤなんだって言ってるんだ。俺は昨日まで普通に生きてた身なんだ。いまさら同い年ぐらいの女の子に様づけで呼ばれる生活なんてまっぴらだよ」
はあ、と翡翠は気のない返事をする。
「俺の事は志貴でいい。そのかわりに俺も翡翠って呼び捨てにするからさ。それと堅苦しいのもなしにしよう。もっと気軽に、気楽に行こうよ」
翡翠は無表情ながらも眉を下げて、なんだか困っているような素振りをする。
「ですが、あなたはわたしの雇い主ですから」
「俺が雇ってるわけじゃないだろ。翡翠は俺にできない事をやってくれるんだから、そっちのほうが偉いんだぞ」
はあ、と翡翠はまたも気のない返事をする。
……どうも一朝一夕でこの子に言い含めるのは無理のようだ。
「―――ともかくそういう事だから、俺に対してあんまりかたっくるしいのはナシにしてくれ。お姉さんの琥珀さんにも伝えてくれるとありがたい」
「はい。志貴さまがそうおっしゃるなら」
翡翠は無表情で頭をさげる。
ものの見事に、全然わかってない。
「それでは失礼します。今夜はこのままお休みください」
翡翠は一礼してドアのノブに手をかける。
────と、一つ聞き忘れていた。
「あ、ちょっと待った」
ドアに走り寄って、立ち去ろうとする翡翠の肩に手を置いた。
瞬間────翡翠の腕が、物凄い勢いで俺の腕を払った。
バシ、と音をたてて手がはたかれて、翡翠は逃げるように後退する。
「え────」
あんまりに突然のことで、そんな言葉しかだせない。
翡翠は無表情のまま、けれどたしかに、仇を見るような激しさでこちらを睨んでいる────
「えっと―――俺、なにかわるいことしちゃったかな」
「あ……」
「……申し訳、ございません……」
緊張のまじった翡翠の声。
「……体を触れられるのには、慣れていないのです。どうか、お許しください」
翡翠の肩はかすかに震えている。
なんだか、ものすごく悪いことをしてしまったような気がする。
「あ───うん、ごめん」
思わず謝った。
自分でもよくわからない。ただ翡翠が可哀相に思えて、ペコリと頭をさげていた。
「──────」
翡翠は何も言わない。
ただ、心なし視線が穏やかなものになった気がする。
「───志貴さまが謝られる事はありません。非があるのはわたしのほうです」
「いや、まあそうみたいなんだけど、なんとなく」
ぽりぽりと頭をかく。
翡翠はじっと俺の顔を見つめてから、一瞬だけ目を伏せた。
「その……ご用件はなんでしょうか、志貴さま」
そうだった。
部屋を立ち去る翡翠を呼び止めたのは聞きたい事があったからだ。
「いや、秋葉はどうしてるのか気になってさ。あいつ、全寮制の学校に行ってたんじゃなかったっけ?」
「志貴さま、それは中学校までの話です。秋葉さまは今年から特例として自宅からの登校を許可されていらっしゃいます」
「……えっと、つまりこの家から学校に行ってるってコト?」
「はい。ですが、今日のように夕方に帰られる事は稀です。秋葉さまは夕食の時間まで習い事がありますから、お帰りになられるのは決まって七時前です」
「習い事って―――それ、なに?」
「今日は木曜日ですのでヴァイオリンの稽古でした」
「────え」
「平日は夕食前には戻られますから、秋葉さまにお話があるのでしたら夕食後に姉さんに申し付けてください」
では、と翡翠は頭をさげてから部屋を出ていった。
「ヴァイオリンの、稽古」
なんだろう、それは。
どこかのお嬢様じゃあるまいし、なんだってそんな面倒なことを――
「……って、どこかのお嬢様だったんだ、あいつ」
そう、そういえば遠野志貴の妹は遠野秋葉という、生粋のお嬢様だったっけ。
こっちの記憶の中じゃ秋葉は大人しくて、いつも不安げな瞳で俺のあとをついてくる一歳年下の妹だった。
子供の頃の秋葉は無口で、自分のやりたい事も口にだせないほど弱気で、いつも父親である遠野槙久に叱られないかっておどおどしていた線の細い女の子だったのに。
「───そうだよな。八年も経てば人間だってガラリと変わる」
自分が八年間で今の遠野志貴になったように、
秋葉もこの八年間で今の遠野秋葉になったんだろう。
―――八年間は、長い。
今までの人生の半分。
それも子供から大人になろうと成長しようとする一番大切な時期に、俺はこの屋敷にいなかった。
「……ごめんな、秋葉」
その八年間を一緒にいてやれたらどんなに良かったろう、と思えて。
知らず、そんな謝罪の言葉を呟いた。
ひとり残されて、ベッドに横になった。
八年ぶりの家。
八年ぶりの肉親。
なんだか、他人の家のように感じる自分。
「……はあ。これからどうなるんだろ、俺」
誰に聞かせるわけでもなくぼやいて、そのまま眠りへと落ちていった。
オーーーーーーーーーン。
―――波の音のように、何かの声が聞こえてくる。
オーーーーーーーーーン。
―――なにかの遠吠え。野犬にしては細く高い。
オーーーーーーーーーン。
―――鼓膜に響く。月にでも吠えているのか。
オーーーーーーーーーン。
―――厭なにおい。この獣の咆哮は、頭痛を招く。
オーーーーーーーーーン。
―――音はやまない。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン――――――――
「……ああ、やかましいっ!」
目が覚めた。
窓の外からはワンワンと犬の鳴き声が聞こえてくる。
時計は夜の十一時になったばかり。
近所迷惑どころの話じゃない。
「くそ、こんなんじゃ眠れやしないじゃないか」
犬の遠吠えは屋敷の塀の近くから聞こえてくる。
……このままじゃ眠れそうにない。
こんなにうるさくては秋葉たちも眠れずに悩んでいるだろう。
屋敷にいる男手は自分だけだし、ここは様子を見にいくしかないと思う。
「……屋敷の右手のほう、かな」
カーテンを開けて、外の様子を確かめる。
――――と。
部屋の外の大きな木。
その枝に、一羽の青い鴉が止まっていた。
闇夜の中。
黒としか見えないのに、はっきりと鴉は蒼く見えた。
「………………」
青い鴉なんて、見たことも聞いた事もない。
ぎょろり。
意志のない、機械のレンズのような鴉の目が、こっちを睨んだ気がした。
くあう。
あくびのような鳴き声をあげたあと、鴉は羽音もたてずに飛び去っていった。
「……なんだ、今の」
……かすかに背筋が寒い。
犬の遠吠えはさらに大きくなっている。
オーーーーーーーン。
オーーーーーーーン。
オーーーーーーーン。
「……………」
なんだか、この音は癇に障る。
うるさいという以前に、聞いているだけで心臓がどくどくと活性化するような、生理的な嫌悪感だ。
「うる―――さい」
寝巻から制服に着替えて、部屋を後にした。
オーーーーーーーーン。
遠吠えは夜に響く。
音は、間違いなく屋敷の右手側のほうから聞こえてくる。
「………………」
なぜか喉が乾いている。
屋敷の周り、高い壁が延々と続く夜道。
喉をならしながら、犬たちが集まっている場所へ歩いていった。
鳴き声がしている場所にきた。
「……あれ?」
オーーーーーーーーーン。
鳴き声は依然としてやまない。
なのに、そこに犬の姿なんてなかった。
あるのは―――人影だけだ。
ぽつん、と闇をきりとったような街灯の明かりの下、黒いコートの男が立っている。
遠吠えは、男の側から聞こえている。
―――――だが、犬の姿などどこにもない。
コートの男はかなりの長身だ。
がっしりとした体格をした男は、こちらに背を向けて立ち尽くしている。
「――――――」
喉が、乾く。
オーーーーン、という犬の声が鼓膜に響く。
夜の空気が、じっとりと肌に絡み付く。
なにがどうというワケでもないのに。
海の底にいるみたいに、呼吸も身動きもひどく重苦しく感じられる――――
くわあ。
頭上から声がした。
ばさん、という羽音とともに、蒼い鴉が男の肩に降りてくる。
―――と。
鴉は、唐突にその姿を消してしまった。
「…………え?」
目の錯覚だろうか。
鴉は、黒いコートの中に消えたように見えた。
「―――――」
黒いコートが振りかえる。
[#挿絵(img/11.jpg)入る]
白い街灯の下、人影はまさしく影そのものだった。
黒い塊。
その中で、凶器みたいな理性をもった目だけが、爛々と輝いている――――
「…………あ」
呼吸ができない。
けれど、幸いに。
男の目は、こちらのことなどまるで見えていないようだった。
「ここでは、なかったか」
黒いコートが立ち去っていく。
人影が完全に見えなくなって、ようやくまともに呼吸ができるようになった。
「は――――はあ、あ」
ホッと息をつく。
気が付けば、犬の遠吠えは止んでいた。
部屋に戻ってきた。
秋葉たちは起きている気配がなく、あの犬の遠吠えに我慢できなかったのは自分だけだったらしい。
「―――――ぐ」
なんだろう。
まだ、頭が痛い。
「あれ……なんで震えてるんだろ、俺」
見れば指が震えている。
全身も小刻みにガタついていて、背筋がやけに冷たい。
例えるなら、そう。
脊髄をひきぬかれて、代わりに氷の柱を刺し込まれたみたい。
「―――――」
くらり、と眩暈がした。
……いつもの貧血だろうか。
意識が地面に落ちていく感覚。
その途中で、イヤなものを、見てしまった。
「なっ―――――」
メガネをしてるのに、あの『線』が視える。
「うっ………」
ここのところまったく視ていなかったせいか、反動が大きい。
気持ち悪い。
貧血の眩暈とあいまって、今にも胃の中のモノを吐き出してしまいそうだ。
「……どうなってんだよ、これ」
よく、わからない。
ただ、目を開けているかぎりあのラクガキが視界に飛び込んできてしまう。
―――悪い、夢だ。
なんとかベッドに倒れこむ。
……そう、眠ってしまえばいい。見えている物を否定するには、それが一番てっとり早い方法だ。
体も思うように動かない。
このまま、死体のように。
ベッドの上に倒れこんで、泥のように眠ってしまえばいいだけだ――――
[#改ページ]
●『2/反転衝動U』
● 2days/October 22(Fri.)
先生は言った。
この目が見てしまうモノは、物の壊れやすい個所なのだと。
それは人間でいうのなら急所、という事だろうか。
そこを刃物で通せば、何の力も要らずにモノを切断できてしまう線。
鉄みたいな硬いものでも、あの『線』は等しく切断できてしまう。
「つまりね、志貴。
あらゆるモノは“壊れてしまう”という運命を内包しているのよ。カタチがある以上、こればっかりは逃れようが無い条件だからね」
先生はそう言った。
子供のころ。
その意味がようやく理解できて、とても恐くなった記憶がある。
それはつまり、セカイはツギハギだらけでいつ壊れてもおかしくないという事だ。
地面にもラクガキが走っているのなら。
そこを歩いていたら、とうとつに地面が砕けてしまうという可能性があるというコト。
―――その意味に気がついた時、心底先生のくれたメガネに感謝した。
こんな線がいつも見えてしまっていたら、とてもじゃないけど生きていけない。
モノの壊れやすい個所。
そんなものが見えても、得になるコトなんて何ひとつないんだから―――――
◇◇◇
「―――おはようございます」
……聞き慣れない声がする。
「朝です。お目覚めの時間です、志貴さま」
……だから、志貴さまはやめてくれないか。
そう言われると背筋が寒くなるって、昨日ちゃんと言ったっていうのに────
―――目が覚めた。
翡翠はベッドから離れたところで、なにかの彫像のように立ち尽くしている。
「…………」
ここは、ドコだっけ。
「おはようございます、志貴さま」
メイド服の少女がおじぎをする。
「……ああ、そうだ。俺は、自分の家に戻ってきたんだっけ」
体を起こして部屋の様子を流し見る。
とたん―――
―――ズキリと、こめかみに痛みがはしった。
「あれ―――」
「眼鏡、でしょうか?」
翡翠は丁寧な動作でメガネを渡してくれた。
「――――ふう」
……一息つけた。
昨日の夜―――眠る前に、メガネをかけていたのに『線』が見えた気がしたけど、どうやら気のせいであってくれたらしい。
「つ……」
慣れない部屋で眠ったせいだろうか、意識は靄がかかっているように空ろだ。
「志貴さま……?」
翡翠が声をかけてくる。
ブンブンと頭をふって、寝ぼけたままの頭を覚醒させた。
「おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれて、ありがとう」
「そのようなお言葉は必要ありません。志貴さまをお起こしするのはわたしの責務ですから」
翡翠は淡々と、まったくの無表情で返答する。
……ひいき目に見ても、翡翠はきれいな顔立ちをしていると思う。
そういう子に起こされるのは喜ぶべきことなんだろうけど、翡翠にこうも感情がないとあまり嬉しい、という感じはしない。
……もったいない。
翡翠も琥珀さんの半分ぐらい明るければ、ものすごく可愛いと思うんだけど。
「―――なにかご用ですか?」
こっちの視線に気づいたのか、翡翠はまっすぐに見つめ返してくる。
「いや、なんでもない。目が覚めてまっさきに翡翠の顔を見て、ここが遠野の屋敷なんだなって実感しただけだよ」
さて、とベッドから起きて、うーんと大きく両手を伸ばす。
と、そこで自分がキチンと寝巻に着替えている事に気がついた。
―――えーっと、たしか昨日は……
「ありゃ? 俺、昨日制服のまま眠ったと思うんだけど」
「はい。あのままではお体に悪いので、姉さんが志貴さまを着替えさせたあと、ベッドに寝かし付けたのです」
翡翠は当然のように事情を説明してくれた。
そっか、着替えさせてくれたのか。たしかにあのまま眠っていたら風邪をひいていたかもしれない。
さすがメイドさん、行き届いてるな―――って、ちょっと待った……!
「な─────っ」
ばっ、とズボンとパンツを確認する。
ズボンは真新しい寝巻で、パンツもまっさらな新品だった。
「なっ、なっ、なっ」
なんてコトをするんだ、と言いかけて、なんとか言葉を飲み込む。
とりあえず落ち着いて考えよう。
……えっと、まず悪いのは半分ぐらい自分自身だ。
それに着替えさせたのは翡翠じゃなくてお姉さんの琥珀さん。
なら翡翠に文句を言うのはお門違いじゃないか。
「────翡翠」
「はい、なんでしょう」
「これからは、そういう余計な事はしなくていい。どうしてもって時は起こしてくれないか。着替えぐらい自分でできるから、自分でやりたいんだ」
顔を真っ赤にしながら言うと、翡翠ははい、と素直にうなずいた。
「学校の制服はそちらにたたんであります。着替えが済みしだい居間においでください」
「………………」
くそ、なんて不覚。
昨夜、あのままベッドで眠ってしまった事も不注意なら、着替えさせられてる時に目を覚まさなかったのも無神経すぎる。
「ふつう気がつくもんだけど……よっぽど疲れてたのかな、俺」
自分自身にグチってみても、起きてしまった事は変わらない。いつまでもバカな独り言をしてないで、さっさと着替えて朝食にしよう。
学校の制服はきちんとたたまれていて、シャツにはアイロンまでかけられている。
袖に腕を通すと、なんだか新品みたいに気持ちがよかった。
「…………いや、別にハダカぐらいいいんだけどね、うん」
いいんだけど、あのニコニコ笑顔の琥珀さんに着替えさせられた、という事実はどうしようもなく気恥ずかしい。
おまけに鏡に映った自分の顔は赤くなっているくせに、何度か嬉しそうにニヤついたりする。
……大丈夫なのか、遠野志貴。
こんなんじゃここで暮らしていけるのか不安になってくるじゃないか、未熟者め。
居間には秋葉と琥珀さんがくつろいでいた。
秋葉の制服は浅上女学院、という有名なお嬢様学園の物だろう。
二人はとっくに朝食をすませたのか、優雅に紅茶なんぞを飲んでいた。
俺は―――二人に挨拶をする。
「二人とも、おはよう」
「おはようございます、志貴さん」
琥珀さんは白い割烹着に相応しい、これ以上ないっていうぐらいの笑顔で挨拶をかえしてくれた。
一方秋葉はというと、ちらりとこちらを一瞥するなり、
「おはようございます。朝はずいぶんとゆっくりなんですね、兄さん」
なんて最高に気の利いた嫌味をこぼしてくれる。
「ゆっくりって、まだ七時を過ぎたばっかりじゃないか。ここからうちの高校まで徒歩三十分ちょいなんだ、今日は早起きしたほうだよ」
「つまり朝食にかける時間は十分だけですか。おなかをすかせた犬じゃないんですから、朝食はゆっくりとってください」
「─────」
秋葉の言葉には、やっぱり棘がある。
「犬じゃないんですからって、秋葉―――」
と、思い出した。
犬っていえば、昨日の夜のことがあったのだ。
「なあ。昨日の夜のコトだけど、ここって毎晩あんななのか?」
「―――はい?」
こちらの質問に、秋葉は首をかしげて応える。
……どうも、こちらの質問の意図がまったく伝わってくれてないみたいだ。
「だから、昨日の夜の話だよ。ワンワンワンワンってうるさかったじゃないか。アレじゃ秋葉たちだって眠れなかっただろ」
「―――兄さん? それ、なんの話です?」
「なんの話かって、昨日の夜の話に決まってるだろ。夜の十一時ごろ、野犬が吠えっぱなしだったじゃないか」
秋葉と琥珀さんは顔を見合わせたあと、そろり、と二人そろってこっちの顔をうかがう。
……人をキチ〇イか何かだと思っているような態度、許すまじ。
「いい、秋葉には聞かない。琥珀さん、昨日の夜はうるさかったよね?」
「―――ええっと、どうなんでしょうか。たしかに昨夜は風が強かったと思いますけど……深夜の見まわりで発見した異状は、志貴さんが制服のままベッドの上で眠っていらしたことぐらいですよ」
「……ああ、ソレですか。これからは、その、気をつけます」
「なに? なにかあったの、琥珀?」
「いえ、別になにもありませんでしたよー。ちょっと志貴さんの寝相が悪かった、というだけですから」
琥珀さんは笑顔で、秋葉の質問をサラリと流す。
……そう言えば、琥珀さんは志貴さん、と呼んでくれている。
昨夜の伝言を翡翠はちゃんと伝えてくれたみたいだ。
「……ホントに二人とも気がつかなかったのか? 昨日の夜、三十分ぐらい外で野犬が吠えてたのに。ワンワンワンワンって、そりゃうるさいったらありゃしなかった」
「ははあ。それはワンワンパニックですね」
……琥珀さんは、なんだかどこかズレてる気がする。
「……まあ、わかりやすく言うと、そういうコト」
「ふーん―――私はそんな覚えはないけど。琥珀もないでしょう?」
「そうですねー。志貴さんには申し訳ないんですが、昨夜はとくにそのような事はなかったと思います」
「決まりね。あと考えられるケースっていったら、兄さんが犬に吠えられる夢でも見てたんじゃないかってコトですか」
「…………う」
そりゃあたしかに、夢だったんじゃないか、と言われればそうだったかもしれないけど。
「―――兄さんはまだ屋敷に慣れていないから、そんな質の悪い夢を見たんでしょう。
そうですね、今夜も野犬に吠えられるようでしたら、とびっきり獰猛な番犬でも飼う事にしましょうか」
くすり、と底意地の悪い笑みをこぼす秋葉。
「私は時間ですのでお先に失礼します。兄さん、登校中に犬に襲われないよう気を付けてくださいね」
秋葉はそのまま居間を後にした。
秋葉を玄関まで送るのか、琥珀さんも居間を後にする。
「…………」
さて、そろそろ結論を出してもいいころだ。
昨夜から今までの経過を思い起せば考えるまでもないんだろうけど、
どうやら俺は、
秋葉にとてつもなく嫌われているらしい。
琥珀さんが用意してくれた朝食を食べたあと、ロビーに出る。
と、ロビーには翡翠が鞄を持って待っていた。
「志貴さま、お時間はよろしいのですか?」
「ああ、こっから学校まで走れば二十分ないからね。いま七時半だろ、寄り道をしても間に合うよ」
こっちの説明に満足したのか、こくん、と翡翠は頷く。
「それでは、外までお見送りいたします」
「え―――あ、うん、どうも」
……やっぱり、自分付きの使用人というのはひどく照れくさい。
「あ、志貴さん! ちょっと待ってください!」
たたたっ、と琥珀さんが二階から降りてきた。
「……………………」
翡翠は琥珀さんがやってくると、すい、と身を引いて黙ってしまう。
「あれ、琥珀さんは秋葉と一緒じゃなかったの?」
「秋葉お嬢様はお車で学校に向かわれますから。今朝は志貴さんにお届け物があるので屋敷に残らさせていただいたんです」
「お届け物って、俺に?」
「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」
ニッコリと琥珀さんは笑顔をうかべる。
「え───? いや、俺は自分の荷物は全部持ってきたよ。もともとむこうで使ってたのは有間の家のものだったから、自分の物なんて着てる服ぐらいのものなんだけど……」
「そうなんですか? こちらが届けられたお荷物ですけど」
琥珀さんは二十センチほどの、細い木箱を手渡してくる。
重量はあまりない。
「───琥珀さん、俺はこんなの見た事もないんだけど」
「はあ。なんでも志貴さまのお父さまの遺品だそうですけど。志貴さんに譲られるようにって遺言があったとか」
「……あの親父が俺に?」
……それこそ実感がわかない。
八年前、俺をこの屋敷から追い出した親父がどうして俺に形見分けをするんだろう?
「まあいいや。琥珀さん、これ部屋に置いておいて」
「─────」
琥珀さんはじーっ、と興味深そうに木箱を見つめている。
なんだか玩具をほしがる子供みたいな仕草だ。
「じーーーーっ」
いや、子供そのものだ。
「……わかりました。中身が気になるんですね、琥珀さんは」
「いえ、そんなことないです。ただちょっと気になるなって」
………だから、十分気になってるじゃないか。
「なら開けてみましょう。せーのっ、はい」
スッ、と乾いた音をたてて木箱を開ける。
中には────十センチほどの、細い鉄の棒が入っていた。
「………鉄の棒………だ」
何の飾り気もない、使い込まれて手垢のついた鉄の棒。
……こんなガラクタが俺に対する形見分けとは、親父はよっぽど俺が気に食わなかったとみえる。
「───違います志貴さん。これ、果物ナイフですよ」
琥珀さんは鉄の棒を箱から取り出す。
「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じみたいです。せーの、はいっ」
パチン、と音がして棒から十センチほどの刃が飛び出す。
……なるほど、たしかにこれはナイフだ。
「ずいぶんと古いものみたいですけど、作りはしっかりしてますよ。裏に年号がかかれてます」
琥珀さんは刃をしまってからナイフを手渡してくる。
たしかに握りの下のほうに数字が刻まれていた。
七という漢字と、その後には夜という漢字。
「姉さん、これは年号じゃないわ。七つ夜って書かれているだけよ」
「っ!」
びっくりして振り返る。
と、今まで黙っていた翡翠が後ろからナイフを覗きこんでいた。
「び、びっくりしたあ……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくても、見たければ見せてあげるのに」
「あ―――――」
とたん、翡翠の頬がかすかに赤くなる。
「し、失礼しました。あの―――その短刀があまりにキレイでしたから、つい」
「キレイ? これ、キレイっていうかなあ。どっちかっていうとオンボロな感じだけど」
「――――そんな事はありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」
「……そうなの? 俺にはガラクタにしか見えないけど……」
翡翠があんまりにも強く断言するもんだから、こっちもその気になってきた。
……うん。これはこれで、形見としては悪くないのかもしれない。
「七つ夜……ですか。その果物ナイフの名前でしょうかね?」
「そうかもね。ナイフに名前を付けるなんてヤツはそういないと思うけど」
なんにせよ年代物という事ははっきりしている。
「ま、もらえる物はもらっとくのが俺の信条だし」
刃を収めて、ズボンのポケットにナイフを仕舞う。
「志貴さま。お時間はよろしいのですか……?」
「まずい、そろそろ行かないと間にあわないか。それじゃ琥珀さん、届け物ありがとうね」
いえいえ、と琥珀さんは笑顔で手をふった。
玄関を出て、中庭を抜ける。
屋敷の門に出ると、なにやら騒がしい事に気がついた。
「……なんだろ。なんか屋敷の右手のほう、騒がしくないか?」
「それが、今朝方屋敷の東の路面で血痕が発見されたそうです」
「―――血痕……? それって、ようするに血のあとってこと?」
「はい。屋敷の塀にも血の跡がありました。志貴さまがお眠りになられている間、警察の方々が昨夜の様子を尋ねにもまいられましたが」
「……それって、まさか人が死んでたっていうことなのか……?」
「いえ、発見されたのは血の跡だけだそうです」
「――――――」
屋敷の東側―――それは昨日の夜、黒いコートの男がいたあたりだ。
血の跡……血のあと。
血の跡―――赤いあと。
そういえば、たしかに。
なにか、赤い色を見た気がしたけれど――――。
「志貴さま?」
「え………? い、いや、なんでもないよ」
ぶんぶん、と頭をふって不吉なイメージを振り払う。
「それじゃ行ってくる。見送りありがとう、翡翠」
「行ってらっしゃいませ。どうか、道々お気をつけて」
深々とおじぎをする翡翠。
……何をお気をつけてなのかは不明だけど、おそらくはこっちの体を気遣ってくれてるんだろう。
「ああ、サンキュ。翡翠も気をつけて」
好意には好意で返すのは当たり前。翡翠に元気よく手をふって、屋敷の門を後にした。
───見慣れない道を歩く。
今まで有間の家から高校に通っていたから、この道順での登校は初めてだった。
単に道が変わっただけなのに、まるで転校生みたいに新鮮な気持ちになる。
「────あんまりいないな、うちの学生」
この周辺の家庭にはうちの高校に通っている人間は少ないようだ。
朝の七時半。
道を小走りで進んでいく学生服姿は自分しか見あたらない。
オフィス街は通勤ラッシュで混雑している。
いつも通り、スーツ服姿の会社員たちが今日もお仕事に励もうと戦闘準備をしている光景。
いや、いつも通りというのは正しくない。
ここ数日の街の雰囲気は少し重い。
おそらくは例の連続通り魔の影響だろう。ここ数日は夕方になると街の人通りも少なくなっているとの事だ。
「───夜遊びはほどほどにって事だぞ、有彦」
街の雰囲気など気にせず夜遊びをする悪友の顔がうかぶ。
ま、言ったところでアイツが聞くわけもないんだけど。
道にちらほらと制服姿が人込みにまざってきた。
校門が閉まるまであと十分ほど。
遅刻しないようにとアスファルトの路面を駆ける。
───到着。
屋敷から徒歩で三十分、というより二十分程度か。途中で何度か走ったから、ゆっくりしたいのなら七時すぎに屋敷を出る必要があるだろう。
ホームルーム数分前の教室はざわざわとこうるさい。
担任がやってくるまで話し込んでいるクラスメイト達は無秩序に教室に散らばっていて、たった数分ながらもお祭りのような騒がしさをかもしだしている。
その中をゆったりと歩いて、窓際の自分の席に到着する。
────と。
「いょぉう。遅いぞ、遠野」
この微笑ましい朝の教室に相応しくない人物が一人、ニヤニヤ笑いをうかべて待っていた。
しかも───
「あ、おはようございます遠野くん」
───とんでもなく予想外な人物と一緒に、だ。
「先輩───なんでうちの教室にいるのさ」
呆然と、それこそお化けでも見るようにシエル先輩を指差す。
「あれ、そんなに珍しいことですか? わたし、遠野くんが教室にいるかなってちょっと寄ってみただけですけど」
「珍しいコトって―――普通、上級生が下級生のクラスには来ないよ。色々問題はあるけど、なにより場所が離れすぎてる」
なるほど、と先輩は生真面目に頷いたりする。
「でもその点は大丈夫ですよ。わたし、こう見えても走るのは速いんです。下の階の自分のクラスまで、一分もかかりません」
えっへん、と先輩は力説する。
「…………」
どうも、この人に世間体というものを問いただすのはあまり意味がないみたいだ。
「おまえも口やかましいな遠野。いいじゃんか、先輩が好きで来てるんだからさー」
有彦は有彦で、人の机にどっかりと腰をおろして先輩と楽しげに話をしている。
「………いいけど。ホームルームが始まる二分前になったら自分のクラスに帰らないとダメだよ、先輩」
なんだかどっと疲れてしまって、ため息まじりに椅子に座った。
「……乾くん、どうも遠野くんはご機嫌ななめみたいですね」
「……ああ、たぶん引っ越し先の生活が性に合わなくて、カンシャクおこしてるんだろうな。遠野はたいていのコトは気にしないんだけど、なんかよく解らない事があると暴れ出す悪癖があるからな」
「……そうなんですか? 遠野くん、あんまり怒りそうにないですけど」
「……いやあ、そんなコトはないぜ。遠野はねー、普段大人しい分、自分で理解できない事に出遭うとプッツーンとイっちまうヤロウなんだって」
「……はあ。ぷっつーん、ですか」
「……そうそう。一度キレると見境がなくなるから、先輩もこいつを信用しちゃダメだぜ」
……二人はひそひそと内緒話をしている。
「……あのさ。内緒話なら廊下でしてくれないか?人の机でそういうコトされても、全部聞こえてくるから意味がないぞ」
「なに、聞こえていたのか遠野!?」
大げさに驚く有彦。……ここまで芝居をうたれると、怒る前に気が滅入ってくる。
先輩はといえば、どこまで本気なのかハッとして口元を手で隠している。
……この人のことだから、きっと本気で内緒話をしているつもりだったのかもしれない。
「ひどいぞ遠野! オレと先輩のラブラブな内緒話を盗み聞くなんて、趣味が悪すぎだオマエ!」
ガガガッ、なんて効果音を出しながら有彦はこちらを指差す。
「―――有彦。おまえ、もしかして俺に喧嘩を売ってるのか?」
……ていうか、ぜひ売ってくれ。今ならどんな値段でも買ってやるから。
ぶるぶる、と有彦は首をふる。
「そんなワケないだろ、オレと遠野は親友じゃないか。オレは親とだって殴り合いはするがね、親友とだけは戦わないってポリシーがあるんだ。侠に生きる漢なんだよ、基本的に」
……凄いな、それは。
侠っていうのは肉親に手をあげていいものだったんだ、こいつの内面世界においては。
「なるほど―――腐ってるね、おまえのポリシーは」
「ははははは! なんだ、元気がないようなフリしやがって、根はいつも通りの遠野じゃないか! ったく、心配して損したぜ!」
バンバン、と背中を叩く有彦。
「……有彦。おまえ、もしかして今のは気を使ってくれたのか?」
「ばっか、そんなつまんないコト聞くなっての。
こういうのはさりげなくやるのが美徳じゃないのサ!」
ばんばんばん、とさらに背中を叩かれる。
……長い付き合いだけど、コイツの性格だけはいまだによく掴めない。
「それで、新しい家はどうなんだ? 見たところ、けっこうヘヴィにストレス溜まってそうじゃんか」
「さあ、どうだろう。とりあえず昨日はイヤな夢を見て、家の人達に白い目で見られたけど」
「―――むう。そうか、それは災難だな」
有彦は難しい顔をしてうんうんと頷く。
「…………………」
―――と。
黙っているかと思ったら、先輩は俺と有彦のくだらないやりとりをじーっと見つめていた。
「先輩?」
「遠野くん、やっぱり乾くんと仲がいいんですね」
「本気ですか先輩。今のを見てそう言えるなんて、そのメガネは度があってないですね」
「そんなコトないです。遠野くん、乾くんの前だとすごく気を抜いてるじゃないですか。ものすごく無防備で、乾くんを信頼しきってます」
なぜか先輩は嬉しそうに笑った。
「?」
有彦と顔を合わせて首をかしげる。
「羨ましいなあ。そうやって何の気負いもしないで分かり合える友人がいるのって、憧れます」
ほう、と感心する先輩。
「「そうかあ?」」
有彦と顔を合わせて眉をよせる。
「そうですよ。二人とも気がついていないだけです。あ、でも気がついたら終わってしまうのかもしれません。……そっか、そうなると遠野くんと乾くんは今のままでいいんでしょうね。うん、すごく絶妙なバランスです」
「まあ、絶妙といえば絶妙なタイトロープだけどね、俺とこいつの関係は」
同感だ、と頷く有彦。こういう所だけは阿吽の呼吸で意見が合う。
「あ、そろそろ時間ですね。それじゃあわたしは戻りますけど、遠野くん今朝のニュース見ましたか?」
「―――いや。引っ越した家にはテレビがなくてさ。朝のニュースは見れないんだ」
「そうですか。それじゃあ率直に聞きますけど、今朝のニュースで大きなお屋敷が映っていたんです。あれって遠野くんのお家ですか?」
「―――――え?」
今朝のニュース?
……そういえば警察が事情聴取にきたって翡翠が言っていたっけ。
「ああ、それはきっと家のコトだよ。今朝、警察が話を聞きに来たって言ってたし」
「―――そうですか。遠野くん、あんまり夜遊びしちゃダメですよ」
先輩は早足で立ち去っていく。
その後ろ姿を、俺たちは無言で見送った。
――――と。
「────遠野」
「なんだよ。つまんない事なら聞かないからな」
「つまらなくはないぞ。大きな疑問として、オマエはいつのまにあっちのほうから会いに来るぐらい先輩と親しくなってたんだろうな」
じっ、と有彦は真剣な眼差しをしてくる。
「さあ、俺に聞かれたってしるもんか。話をするようになったのはここ最近だし、今日だって単なる気まぐれなんじゃないか? 第一、そういうおまえだってえらく親しそうだったじゃないか」
「そうでもない。オレは七日もかけてやっと名前を覚えてもらったレベルだよ」
「へえ、めずらしいな。一日でなびかない女はめんどくさいから相手にしないっていうの、おまえのポリシーだったじゃないか」
「並みの女はそうだけど、先輩は別。秘密にしていたんだけど、実はオレはな────」
「メガネが似合う上級生が好みだっていうんだろ」
うっ、と有彦は頬を赤らめる。
「わかりましたか、親友」
「わかるよ。俺たちは親友だからさ。気が合うし、なにより趣味が似通ってるんだ」
「そうかそうか、遠野も先輩の良さがわかるのか────って、まて」
「ああ、俺たちは趣味が似てるんだろ? だから好きな女の子の好みも一緒なんじゃない?」
有彦はなるほど、と納得すると自分の席に向かっていく。
「短い友情だったな、遠野」
「ああ、まったくだ」
ひらひらと手を振って有彦を送り出す。
それとほぼ同時に、教室に担任が入ってきた。
◇◇◇
午前の授業が終わって、昼休みになった。
有彦は一足先に食堂に行っている。
さて、どこで昼食をとろうか。
……茶道室に行ってみようか。
たしか昨日の放課後、先輩は茶道室で昼食をとるコトがある、とか言っていた。
もし先輩がいるんなら、先輩と話しながら昼食がとれるかもしれない。
―――なにより。
先輩と昼食をとれるのは楽しいし、今朝のニュースとやらも気にかかる。
「―――よし」
善は急げだ。
有彦に嗅ぎ付けられる前に茶道室に行ってみよう。
茶道室のドアをノックする。
しばらく待つと、がらり、とドアが開いて先輩が顔を出した。
「あれ? 遠野くんですね」
不思議そうに先輩は首をかしげる。
嫌がっている、というのではなく、本当に俺が茶道室に現れた理由がわからない、といった風である。
「先輩。お昼ごはん、一緒に食べません?」
購買で買ってきたパンをかかげて、率直に目的を口にした。
「お昼ごはんですか。遠野くんにお誘いしていただけるのは嬉しいんですけど、その―――」
うーん、と困ったふうに考え込む先輩。
……雲行きがよろしくない。
先輩はどうも乗り気ではなさそうだ。
仕方ないので、ちょっとした小技を使うことにした。
「カレーパン、ありますけど」
「え―――?」
先輩の顔がほがらかになる。
……昨日の昼食でなんとなく思っていたんだけど、ここまでわかりやすいリアクションをされるとなんかこっちまで嬉しくなる。
「昨日のお昼ごはんのお返しにあげますから、一緒に食べません?」
「はい、どうぞどうぞ! ちょうどお茶をいれてたところですから!」
先輩はそそくさと中に入っていく。
その後に続いて、茶道室へと入っていった。
「あ……」
入って、先輩が考え込んだ理由がはっきりした。
畳の上には、すでに空っぽになったお弁当箱が一つある。
先輩はとっくに昼食を食べ終えていたらしい。
「遠野くん、お茶と紅茶どっちがいいですか?」
「えっ……ああ、お茶でいいですよ。それより先輩、もうお昼すませちゃってたの?」
「ええ、ちょっと前に。今日は寝坊してしまったので、朝ごはんを食べてなくて。午前中はおなかがペコペコで大変でした」
「……そっか。じゃあ無理して俺に付き合うコトはないよね。ごめん、邪魔しちゃって。
俺は教室で食べるから、どうぞゆっくりしててください」
「え―――パン、いただけないんですか?」
心底哀しそうに、先輩はそんな言葉を呟いた。
「いや、だって―――おなかいっぱいでしょ、先輩」
「そんなコトないです。わたし、おなか減ってます」
……こっちに気を使ってくれている……というワケではなさそうだ。
「そうですか。じゃあお邪魔しますけど……先輩、ホントに大丈夫? うちの購買のパンってボリュームあるよ」
「ご心配にはおよびません。わたし、好きなものならわりと限界なくいただけちゃいますから」
はにかむような笑顔は、照れているのではなくてカレーパンを楽しみにしているためだろう。
「……………」
……謎な人だ。
カレーパン一つでここまで喜んでくれるなんて、いまどき貴重な人材かもしれない……。
[#挿絵(img/シエル 12.jpg)入る]
先輩はパンを一つ、こっちは二つ食べて、食後のお茶とあいなった。
畳の上で正座をして、先輩とのんびりお茶をすする。
これが学校の昼休みじゃなかったら最高なんだけど、そう上手くいかないのが人生か。
「遠野くん、新しいお家のほうはどうですか? 朝はなんかタイヘンな事になってたみたいですけど」
「んー、どうかなあ。とりあえず家の中はすごく立派で、夜は野犬がうるさかったぐらいだよ。
しいて言うんなら、テレビがないのと和室がないのがネックかな。こんなふうにお茶を飲める場所がないから」
「? 野犬って、なんですかそれ。遠野さんの家で起きたのは例の通り魔事件なんじゃないですか?」
「さあ、俺にもよくわからない。うちの屋敷ってまわりが全部高い塀なんだけど、そこで血痕があったんだって。けどさ、そこって――――」
―――昨日の夜、野犬を見に行った場所なんだ。
とは言えなかった。
「……んー、まあいいや。どうせ俺たちには関係のない話だもんな。せっかく先輩とのんびりしてるのに、イヤな話をするのはよそうか」
「そんなことありませんっ。少なくともこの街で暮らしているんですから、通り魔事件は関係あると思います」
湯呑みを片手に、先輩はじっと真剣な眼差しを向けてきた。
「ああ、そりゃあそうだけどさ、夜に出歩かなきゃいいんじゃないか。殺されちゃった人たちってもう八人だっけ? それだけ犠牲者が出てればもうじき警察が犯人を捕まえてくれるよ」
「―――もうっ。遠野くん、それって全然危機感がありません。ニュースだって犠牲者が三人目のころから同じようなコトを言ってましたけど、結局まだ犯人は捕まってないじゃないですかっ」
「ん……まあ、そうだね。現代の吸血鬼、なんてふざけたテロップをうたれてるから、なんか身近な事件って気がしなくてさ。
ごめん、たしかに軽率だった。この街に住んでるんだから気をつけなくちゃいけないのにね」
「はい。わかってくれればいいんです」
にこり、と先輩は満足そうに笑った。
「けど先輩。吸血鬼って言うけど、どうしてそんなあだ名がつくんだろう」
「だって体じゅうの血を抜かれているんですよ? そうゆうのって吸血鬼みたいじゃないですか」
「……そうかなあ。吸血鬼に吸われた人間って、同じように吸血鬼になるっていうのが通説じゃないか。ちゃんと殺されてしまった人たちの死体はあるんだから、わざわざ吸血鬼なんて名づけなくてもいいのにね」
ははあ、と先輩は楽しそうに頷く。
「遠野くん、吸血鬼なんかがいるって本気で信じてるんですか?」
「……あのね。ニュースでそうゆうふうに煽り立てているから、それに合わせただけだよ。ホントに吸血鬼なんてのがいたら、さっき言った通り死体なんか残らないでしょ」
「そうですね。けど、こういうふうにも考えられません? 発見されている死体の方たちは、吸血鬼になれなかったから死んでしまった。
吸血鬼にはなれる人となれない人とがいて、なれる人は吸血鬼に襲われても死体は発見されないんです。
今も、どこかで生きているから」
「ははあ。そりゃあホラーだね、先輩」
「はい、わりとホラーな話です。残念ですがオチはつきませんでした」
あはは、と笑って、先輩は湯呑みを口にする。
そんなとりとめのない事を話しているうちに、昼休みは終わってしまった。
◇◇◇
五時限目。
古文の授業に眠気を誘われつつ、窓の外に視線を移す。
――――と。
教室のベランダに、鴉がとまっていた。
「―――――」
昨夜の青い鴉じゃなくて、ただの黒い鴉だ。
鴉は黒一色の目で、ガラスごしに教室の中を見つめている。
たしかに鴉がとまっているのは珍しいけれど、別段、どうという事はない出来事だった。
「あ――――」
それは唐突にやってきた。
視界がだんだんと白くなって、平衡感覚がぐるぐるとおかしくなっていく。
「―――」
くらり、と視界がゆらぐ。
頭のうしろのほうに何かがわだかまって、意識がずん、と重くなる感覚。
「……まず」
この感覚は知っている。突発的な眩暈は貧血の前触れだ。
脳の血管にたまった血液が、黒い塊になってクラクラと頭を揺らして、見えているものを真っ暗にしていってしまう。
例えるのなら、脳のほうから眼球の方向に闇が押し出されるような感覚。
―――まずいなあ……授業中に倒れるなんて、滅多に、なかったって、いうのに―――
暗くなっていく視界の中、手探りで机をつかんで寄りかかる。
それも、すぐに無駄になる。
指先に力が入らない。
あとはただ、床に向かって倒れこむだけ―――
「先生、ちょっといいっすか」
―――と。
どん、と乱暴に背中を叩かれた。
「遠野のヤツ、調子が悪そうなんで保健室に連れていきたいんですけど」
「――――有彦」
いつのまにか有彦がやってきている。
「遠野、本当に具合が悪いのか?」
教壇から教師の声が聞こえてくる。
「いえ、なんとか大丈夫―――」
「あー、ぜんっぜんダメだそうです。こりゃあ早退させた方がいいんじゃないっすか?」
……有彦は大声で、なんだかとんでもない事を言っている。
「そうか。乾がそう言うんじゃ間違いないな。先生も遠野の体のことは国藤先生から聞いている。
遠野。体調が優れないなら保健室で休むか早退していいんだぞ」
……まったく、人がいいのかなんなのか。
古典の教師は有彦の言い分を全面的に信じているみたいだ。
「ほら、帰っていいとよ。そんな青い顔しやがって、まずいと思ったらすぐにまずいって言わねえとわからねえだろうが」
有彦は不機嫌そうに人の背中を叩く。
「……それじゃあ早退させてもらいます、先生」
うむ、と古典の教師は重々しく頷く。
「……悪い、有彦。いらない心配をかけさせた」
「気にすんな。中学からの腐れ縁だからな、おまえが貧血でぶっ倒れそうな雰囲気ってのはすぐにわかんだよ」
有彦は自分の席に戻っていく。
さんきゅ、と目で礼を言って、まだ重苦しい体を動かして教室を後にした。
―――学校を出た。
本来なら保健室で横になったほうがいいのだが、この時間からだと起きる頃には放課後になってしまっている。
それなら多少無理をして、屋敷に戻って横になったほうが無駄がないと判断したのだ。
「……ふう。ちょっとは楽になってきたかな」
外の空気を吸っているうちに気分も持ちなおしてきた。
……まったく、自分の体の事ながらまいってしまう。
八年前。
命に関わる重症から回復した代償なのか、それからというもの遠野志貴は慢性的な貧血を起こす体質になってしまった。
病院から退院した当時は一日に一回は貧血で倒れてしまって、眩暈をおこしてしまうなんていうのは日常茶飯事になってしまっていたのだ。
あれからずいぶんと月日がたって、体も成長しきったおかげか突発的な眩暈や貧血を起こしにくくなった。
けれど、ときおり何かの弾みで眩暈を起こして、そのまま意識を失ってしまう事だけはなくならない。
今日は有彦が途中で声をかけてくれたから良かったものの、いつもならあのまま地面に倒れていたところだ。
「――――はあ」
ゆっくりと深呼吸をして、新鮮な空気を肺に送り込む。
頭の芯に沈澱した血のめぐりをなんとか堪えながら、学校を後にした。
大通りに出る。
ここを抜けて住宅街に出てしまえば、遠野の屋敷まで一直線だ。
「――――う」
……いけない。
まだ気分が晴れていないみたいだ。
額に手を当ててみれば、普段より熱をもっている。
「…………」
このまま無理をして道端で倒れこんでは元も子もない。
「―――しょうがないな、ほんと」
自分自身にあきれながらガードレールに腰をかける。
気分が落ち着くまで少し休む事にしよう。
……やることもないので、ぼんやりと大通りの様子を眺める。
平日の午後を過ぎたばかりだというのに、大通りは行き交う人々で賑わっていた。
歩いていく大勢の人たち。
名前も素性も知らない彼らは、すぐ隣で歩いている誰かに視線をなげかける事なく前へ前へと歩いていく。
同じ場所に、これだけ大勢の人間がいるというのに、誰も彼も視界は一つきりだ。
自分が自分の主役であるように、彼らは彼らが主役の一日を過ごしている。
そして、それぞれの一日はたいていは誰かと交わる事なく、やっぱり自分だけの一日で終わってしまう。
───それは、ある意味。
孤独といえば、ひどく孤独なことだと言えた。
「……………」
微熱のせいか、感傷的な考え事をしてしまう。
「―――帰ろ」
気分も落ち着いてきたし、ここにこうしていても意味のない事を考え込む一方だし。
さっさと屋敷に帰って休むためにガードレールから腰をあげた。
─────その女を、見てしまうまでは。
[#挿絵(img/アルクェイド 11.jpg)入る]
なにげなく。
本当になにげなく、人込みに視線をなげただけだったのに、視界が凍った。
───ドクン。
金の髪と赤い瞳。
白い、彼女の像を象徴するかのような白い服装。
───どくん。
脈拍がはねあがる。
静脈と動脈が活性化する。
神経は次々と破裂していって、脊髄が首の後ろに飛び出してしまいそうなほど、体の中身が暴れだしてる。
───ドクン。
人込みの中で歩いている女性は、ただ、美しかった。
「――――――――」
遠くなっていた眩暈が戻ってくる。
くらり、と意識が落ちかける。
―――――どくん。
息ができない。
指先は震えて、血液が届いてない。
全身のいたるところが寒くて、凍死してしまいそうだ。
―――――ドクン。
心臓が急いで、早く早くと命令してくる。
「あ―――――あ」
耐えきれなくなって、喉から喘ぎ声をもらした。
────考えられない。
ある一つの単語しか、俺の脳味噌は生み出してくれてない。
―――――ド、ク、ン。
そうして、繰り返される言葉はただ一つ。
彼女を。
あの女を。
オレは、このまま─────
『ぜー、ぜー、ぜー』
吐き気がする。
呼吸ができない。
息がくるしい。
正しい息の仕方を、どうしても思い出せない。
『ぜー、ぜー、ぜー』
喉がアツイ。
眼球が砕けそうだ。
手のひらはぐしょぐしょに濡れている。
体中が寒いのに────こんなにも、汗をかいてしまっている。
「はあ────はあ─────はあ────」
……追わないと。
あの女を追わないと。
追って、追いかけて、話をしよう。
凍った足を動かして、
ケモノのように呼吸を荒くして、
白い女を追いかけた。
「はあ────はあ────はあ────」
女はゆっくりと歩いている。
尾行しているこっちには気がついていない。
「は―――――あ」
ここからなら走れば話しかけられる。
話しかけて、名前を聞こう。
「は―――――はは、は」
―――名前を聞く?
冗談じゃない。
オレはそんな事をしたいんじゃないって、自分でよくわかってる。
……よくわかっているつもりなのに、よくわからない。
オレは他のコトがしたいみたいなのに。
どうしても、その『やりたいコト』とやらがはっきりと言葉にできない。
頭の中に、雨雲みたいな霧がある。
「―――――――」
ノドがアツイ。
さっきから全然イキがデキナイ。
だが、それがどうした。
そんなのは当然だろう? あれだけの女を目の前にしたんだ、興奮しないほうが失礼ってもんじゃないか?
呼び止めて名前を聞く?
ハッ、ガキじゃあるまいし止してくれ。
よくわからないけど。オレがやるべき事は、それこそただ一つだけだろう。
ポケットに手をいれて歩く。
かつん、と指先には鉄の手触り。
「く──────ク」
なんて幸運。
道具は、まさにそろってる。
……女は歩いていく。
十分に距離をとろう。
気付かれないように、周囲の連中に不審に思われないように。
オレとあの女は赤の他人だ。
だから出来るだけ自然に、あの女の後をつけなくてはいけない。
……女がマンションに入っていく。
まだ中には入らず、外から様子を眺めた。
女はエレベーターに乗って、上の階へとあがっていく。
エレベーターは六階で止まった。
一階にある共通のポストを調べる。
六階のポストは五つ。そのうちの一つに触れて、ぞくりときた。
匂いをかぐ。
間違いない。
六階の三号室が、彼女の部屋だ。
エレベーターに入って、六階のボタンを押した。
わくわくする。
エレベーターという狭い密室の中で、ポケットの中のナイフを握り締めた。
すぐそばにあの女がいる。
あともうすこしであの女を    できる。
ああ、そう考えるだけでひどい快感────
体中が、絶頂を控えた生殖器にでもなった気分。
エレベーターから出る。
六階の廊下に人影はない。
ますます好都合だ。
早く────早く、ヤリタイ。
────三号室の前についた。
呼び鈴を押そうとして、止めた。
メガネは邪魔だ。
こんなものをしていては出来る事も出来やしない。
―――約束よ、志貴。
決して、軽はずみな気持ちでモノを視ちゃダメだからね――
「………」
遠い昔に、そう言ってくれた女の人がいた。
でも、今は名前も顔も思い出せない。
ゆっくりとメガネを外した。
黒い線が、視える。
それだけじゃない。
この両目までどうかしてしまったのか。
視界には、忌まわしい線ばかりか黒い穴のような『点』が、無数に見えてしまっていた。
自分でもワカラナイ。
自分は何をしようとしているのか。
自分はなんだってこんな事をしているのか。
遠野志貴は────さっきの女を、どうしたいのか。
ワカラナイ。
ワカラナイママ、チャイムヲ押シタ。
「はい───」
扉ごしに声がして、扉がかすかに開く。
瞬間────そのわずかな隙間から部屋の中に滑り込んだ。
「え────」
女の声があがる。
否、あがろうとした。
女の声があがりきる事は永遠にない。
その前に、オレは彼女をバラしていたから。
ドアから中に入った瞬間。
一秒もかけず、女の体じゅうに走っていた線をナイフでなぞった。
刺し、
切り、
通し、
走らせ、
ざっくざっくに切断し。
完膚なきまでに、「殺した」。
女の体にある計十七個の黒い線、
首、後頭部、右目から唇まで、右腕上腕、右腕下部、右手薬指、左腕肘、左手親指、中指、左乳房、肋骨部分より心臓まで、胃部より腹部まで同二ヶ所、左足股、左足腿、左足脛、左足指その全て。
すれ違いざまに、
一秒の時間さえかけず。
真実 瞬く間に ことごとく。
彼女を、十七個の肉片に『解体』した。
『―――え?』
すごく間の抜けた声が聞こえた。
それが自分の喉から出た音だというコトに実感がわかなかった。
くらり、と眩暈がおこる。
目の前にはバラバラに散らばった女の体。
フローリングの床には、バケツの水を引っくり返したように赤い血が広がっていっている。
むせかえる血の匂い。
切断面はとてもキレイで、臓物はこぼれていない。
ただ赤い色だけが、地面を侵食していっている。
不思議なはなし。
部屋には何もなくて、ただ、バラバラになった女の手足と、自分だけが、呆然と立っている。
『───なに、を───』
フローリングの床に広がっていく赤い血の海。
自分の手には凶器のナイフが握られている。
『死ん───でる』
当たり前だ。
これで生きていたら人間じゃない。
『なん───で?』
なんでもなにもない。
たった今、自分の手で。
遠野志貴の手で、あっさりと、一瞬にして、見知らぬ女をバラバラにしてしまったんじゃないか。
『俺が────殺した?』
そう間違いなく。
それとも違うのだろうか。
自分には、そんなことをする理由がない。
だから違う、違うはずだ。
けど理由なんてものは初めからなかった。
だから違う、違うはずだ。
―――フローリングの床に、赤い血が広がっていく。
ぬらり、と。
足元に、赤い血が伝わってくる。
『………………あ』
驚いて靴をあげるけれど、間にあわない。
女の赤い血は、コールタールのように、ねっとりと足と床に糸を引いた。
『―――――――』
ああ……あかい、ち、だ
オレがバラバラにしてしまったから、いまも、だらだらとだらしなく流れ続けている厭な色。
「―――俺じゃ、ない」
ソウ、違ウハズ。
違う。違う。きっと違う、ぜったいに違う。
これは。
これは、これは、これは、これは、これはこれはこれはこれは――――――これは、何かの悪いユメだ。
けど、一体なにが違うんだろう?
違う 違う 違う 違う。
違う 違う 違う 違う。
自分が殺したというコトが違うのか。
それとも、自分が殺していないという事が違うのか。
ああ、もうそんなコトはまったく違う―――
違うんだ、違う、違う、違う、
違う、違う、違う、違う、違う違う、
違う、違う、違う、違う、違う違う違う、
違う、違う、違う、違う、違う違う違う違う、
違う違う違う、違う違う違う違う、違う違う違う違う違う、違う違う違う違う違う違う、違う違う違う違う違う違う違う、違う違う違う違う違う違う違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違違─────
「……ちが、う」
否、否、それこそ否
「違うって───言ってるのに」
非ず非ず、それこそ非ず。
「ちがうよ───ちがう、ちがう、ちがう、ちがうちがうちがう……! 俺は知らない、こんなヤツ、街で見かけただけのただの他人だ……!
ほら、おかしいじゃないか志貴……ただの他人をさ、どうして俺が殺さなくちゃいけないっていうんだよ……!」
叫んでも答えはない。
それに理由ならはっきりしてる。
彼女を見た時、俺は一つの事しか考えられなくなっていた。
「俺は────」
そう、俺は───
遠野志貴は あの女を 殺したい、と。
それが、あの時の俺の全ての意志だったハズだ。
ただ、頭の中がドロドロとしていて、あえて、そのイメージを言葉にしようとしなかっただけで。
「ちが─────う 」
吐き気が、する。
「う、うう、う」
胃の中のものが、戻ってくる。
「あ、ああ、あ」
眼球に、赤い朱色がしみ込んでくる。
「あああああ――――!」
駆け出した。
誰かに見られるとか、死体を隠さなくっちゃとか、そんな余分な事は一切考えられない。
ただここから逃げ出したくて。
半狂乱になって、見知らぬマンションの部屋から駆け出した─────
「ご―――ぼ――」
胃液が逆流する。
地面にひざまずいて、胃の中のものを残らず吐いた。
食い物も、胃液も、泣きながら吐き出した。
「はあ、はあ、はあ、はあ………!」
胃の中には何もない。
なのに起きてしまった出来事をなかった事に、もとの日常に戻そうとするかのように、体は嘔吐を強制する。
「……はあ……はあ……はあ……は、あ」
痛い。
内臓が焼けてるみたいに、痛い。
涙は止まらなくて、体はゴミのように地面に崩れ落ちた。
「あ、ぐ─────ぐ、ぐぐ、ぐ」
涙が止まらない。
……俺は、人を殺した。
人形でもバラすみたいにあっさりと、何の意味もなく、容赦なく殺してしまった。
───なんて事だろう。
どうしてあんな気分になってしまったのか、
どうしてほんとうに殺してしまったのか、
今でもその理由が解らない。
「────うそだ」
いや───いくらなんでもおかしすぎる。
もしかするとさっきのは現実じゃないかもしれない。ほら、いつもみたいに眩暈がして、その間に見ていたユメなんだ────
「────うそだ」
だいたい、どうしてナイフ一本で人間をあそこまでバラバラにできるっていうんだ。
本で読んだ事がある。人間一人をバラバラにするのは、ノコギリを使ったって何時間もかかる重労働なんだって。
だから、こんなナイフ一本であんな事ができるはずがない。
あんな『線』なんて初めからなくって、自分がかってにそう思い込んでいるだけの妄想なんだ────
「────うそだ」
「ご───ふ」
胃液が唇からもれる。
口はおろか、あごから下は胃液でベトベトだ。
胃液には朱色が交ざっている。
吐き出すものもないくせに胃が蠕動するもんだから、のどが傷ついて出血してるのか。
「い……た────」
痛い。
だからきっと。
さっきのはユメなんかじゃなく、俺は、自分にうそをついている。
「───全部、うそだ」
そう、ほんとは理解してる。
欲情してた。あの女性を見て興奮してた。
バラす時なんて、射精しそうなほど刺激的だった。
この目だってそうだ。
あの『線』が紙を切るみたいにモノを切断してしまう『線』だってわかっていたのなら。
遠野志貴は、さっきのように人間だって簡単にバラしてしまうって理解してたはずなのに。
俺は、そんなことを考えもしないで、ただ普通に暮らしてしまった。
―――自分が、簡単に何かを殺してしまえるような危険な人間なら。
俺はこの目を潰すか、誰とも会わないような生活をするべきだったのに。
「……ごめん、先生」
―――ほんとうに、ごめんなさい。
そんな簡単な事さえ、
遠野志貴は守れなかった────
「──────」
でも、自分の事なんてどうでもいい。
俺はあの人を殺してしまった。
あの人の今までの人生とか、
あの人のまわりの人達のこととか、
あの人がずっと夢見ていた未来とか、
全部───他人である自分がブチ壊してしまったんだ。
後悔しても許されない。
謝っても、絶対に許されない。
「俺────狂ってるのかな」
わからない。
あの時沸き上がった衝動は、もう微塵も残っていない。
けどもし───またあの感覚がやってきたら、自分はどうなるんだろうか?
耐えるとか、堪えるとか、そういった意思すら働かなかった。
我慢する、という考えさえうかばない。
『あの女を殺す』
そんなコトを、当たり前のように考えて実行してしまったのなら、自分でどうにかできる方法なんてありはしない。
なら答えは簡単だ。
俺は、きっと狂っている。
――――おそらくは八年前。
死亡確定といわれた事故から、奇跡的に蘇生したその時から。
―――――――さむ、い。
いつのまにか、日が落ちている。
―――――――いまは、もうどれくらいだろう。
よくわからない。
ただ、鼓膜にはざあざあと、なにかノイズめいた音が聞こえてきている。
ざあ。ざあ。ざあ。
音はやまず、ひどくさむい。
このまま――――ベンチに座ったままでいたら、死んでしまうような気がする。
……死んでしまえるような、気がする。
ざあ、ざあ、ざあ。
なにも感じない。
繰り返す雑音も、壊死してしまいそうな寒さも、どうでもいい。
体は震えている。
きっと原因は寒さか、不安か、恐れか、悔いか。
けど、いずれかは判別できない。
俺は人を殺して、そこに理由がないことを、説明できない。
―――お笑いだ。
理由がないんだから、説明なんてできるはずがない。
ただ、殺したいから殺した。
そんな理由、狂っている。
……ああ、狂っているのならどんなに楽だろう。
けどまだココロは正気のまま。
正気のままだから、こうして麻痺してしまっている。
ざあざあざあざあ。
手元には、まだナイフがある。
死ぬことは。とりあえず解決するコトはわりと簡単だ。
けど、それができない。
正気だからそれができない。
死を恐れるココロと、
そんな事は何の解決にも―――償いにもならないと、どこかで解っているココロがある。
ざあざあ、という雑音。
坂道を転がるように低くなっていく体温。
―――自分で死ぬことはできない。
けど、放っておけばこのまま消える。
……結局、それがいいのかもしれない。
俺みたいな人殺しは、生きていても、どうせ。
はやく
このまま
死んで、
しまえば。
「遠野……くん?」
不意に。
そんな名前を、呼ばれた。
「―――――――――」
顔をあげる。
そこには――――なんだか、もう何十年ぶりぐらいに思える、先輩の姿があった。
「どうしたんですか、こんな雨の中で座り込んじゃって」
「…………あ、め」
……ああ、なるほど。
さっきからざあざあとうるさかったノイズは、雨の音、だったのか。
どうりで寒いはずだ。
見れば、体中が濡れて冷えきっている。
「もうっ、傘もささないで。遠野くん、そのままじゃ風邪をひいてしまいますよ」
……先輩の声は、すごく、いたい。
思えばほんの数時間前まで聞いていた声なのに、今ではなんて―――遠くに聞こえる声なんだろう。
「遠野くん? わたしの声、聞こえてます……?」
「ん―――ああ、そうだね。風邪ぐらい、ひいてみても悪くはないかな」
なにも考えずに、ただそんな言葉だけを返した。
「だめですよ、いくら十月だっていってもこんな雨の中にいたら、風邪ぐらいじゃすまな―――」
言いながら俺の体に触れて、先輩は言葉を切った。
「遠野くん、いったいどのくらいこうしてたんですか……!? 体、こんなに冷たくなってるじゃないですか!」
先輩は俺の腕を掴んで、強引にベンチから立たせた。
「わたしの傘を貸してあげますから早く家に帰って、体をどうにかしてください。早く温めないと本当に命にかかわります」
「……ああ、そっか。けど、家には帰れない。俺、もうどこにも行けない」
……あんなコトをしてしまって、家には帰れない。
もうどこにも―――俺には休んでいい場所なんて、ないと思う。
「―――――――」
先輩はじっと、俺を見つめている。
「―――わかりました。それじゃあわたしの部屋に行きましょう。遠野くんの家よりは近いですから、ちょうどいいです」
先輩はぐい、と俺の腕を引っ張っていく。
「……………」
振り払うことは、できなかった。
俺は何も考えられなかったし、その―――先輩の体温は、なにもかも麻痺したこのセカイの中で、ただ一つ確かなものだったから。
◇◇◇
……先輩の部屋は、よくある二階建てのアパートの一室だった。
台所と六畳の部屋が一つあるだけで、本当に狭い。
部屋は先輩らしく小綺麗で、そんな些細なことが少しだけ、麻痺した神経をほぐしてくれた。
「はい、これで体を拭いてください」
バスタオルを手渡される。
「すみません、遠野くんのサイズにあう洋服はないみたいです。ちょっと、そのままで我慢してください。すぐにあったかい飲み物を淹れますから」
……先輩は台所へひっこんだ。
小綺麗な部屋に、一人きりになる。
「―――――――」
まさか、こんなふうに女の子の部屋にあがるなんて、思ってもみなかった。
女の子の部屋。
……女の人の、部屋。
強引に押し入って、殺してしまった女の部屋。
「っ――――――!」
吐き気が、する。
俺は――――なにをしているんだろう。
こんなところで。
こんなところで、先輩に気遣ってもらう資格なんて、まったくないのに。
「はい、お待たせしました―――って、遠野くん!」
「早く体を拭かないとダメじゃないですかっ!」
怒鳴って、先輩はバスタオルで俺の頭をわしゃわしゃと拭き始める。
「ほら、シャツもびしょびしょなんですから脱がないとダメです。このまま肺炎になってもしりませんからっ!」
すごい剣幕で先輩はシャツのボタンに手をかける。
と。
その指がぴたりと止まった。
「………えーと、その」
先輩はまじまじと俺の胸を見る。
「……これ、もう塞がってる傷、ですよね?」
……ああ、胸の古傷を見てびっくりしたのか。
俺の胸の真ん中に火傷みたいな跡があるんだから、知らなかったらびっくりするものなのかもしれない。
「……ああ、それは平気。もう八年も前のものだから」
「そうですか。……よかった、遠野くんがおかしい原因がこの傷だったら、今すぐ病院に連れていかなくちゃいけませんものね」
先輩は淡く、柔らかく微笑む。
……ずきり、と。
その笑顔を見て、胸が痛んだ。
「……いいです。自分でできますから、ほっといてください」
「はい。それじゃお茶を持ってきます。あ、シャツを脱いだらそこの毛布を上着代わりにするんですよ」
「………………」
バスタオルでズボンを拭く。
それでもズボンは湿っているので、こんな姿で毛布をはおったら濡らしてしまう。
シャツは脱いで、上半身はバスタオルで包んだ。
「あ、拭き終わりました? それじゃお茶にしましょうか」
先輩はティーセットを手にして座り込む。
「遠野くんも座ってください。立ったままでいられるとこっちが落ち着かないじゃないですか」
「……………」
言われたままに座った。
先輩は紅茶を淹れて、俺に手渡してくれた。
「――――――――」
「……………………」
お互い、何も言わない。
先輩は俺がいることなんて気にしてないように紅茶を飲んでいる。
俺も、先輩につられるように紅茶を口にした。
――――あつい。
舌先がヒリヒリするぐらい熱くて、どくん、と体に脈が入る。
心臓とか脳とか、止まっていた器官が、少しだけ動いてくれたみたいだった。
先輩は何も話さない。
しばらくして、ティーカップの中が空になる。
と、先輩は当たり前みたいに紅茶を注いでくれた。
「…………あ」
なにか。口にしないと、いけない気がする。
「遠野くん」
「っ―――――!」
びくり、と反射的に体が引いた。
「わたし、ちょっと出てきます。お留守番、頼めますか?」
「あ………う、うん、いいです、けど」
「はい、それじゃあお願いします。すぐに帰ってきますから、あんまりヘンなことしちゃダメですよ」
どこまで本気なのか、笑顔でそんなことを言って先輩は出かけてしまった。
―――――。
また、一人になる。
さっきまで温まっていた何かが、急速に冷めていく。
……先輩は、何も聞かない。
俺みたいなヤツを自分の部屋にあげて、面倒をみてくれて、それが当然みたいに振舞ってくれている。
……気がつかなかったけど。
紅茶の温かさとか、部屋の小綺麗さとか。
そんなコトなんかより、もっともっと何倍も。
誰かが傍にいてくれるというコトが、すごく、ココロを落ち着かせてくれていたんだ。
「くっ………!」
胸がいたい。
さっきまでは一人で何も感じずにいて、そっちのほうが楽だったのに。
いまでは先輩がいなくなっただけで、不安になる。
それこそ気が狂いそうになるぐらい、叫び出したくなっている。
……なんて傲慢さだろう。
俺は人殺しなのに。
先輩に優しくしてもらう資格なんてないのに。
早く、早く先輩に帰ってきてもらいたいなんて、そんな身勝手なことを考えている―――――
「ただいま遠野くん。お留守番、ごくろうさま」
「―――先、輩」
先輩はなにやら色々と買いこんできたみたいだ。
手に何個もビニール袋をさげている。
「えっとですねー、とりあえずコレに着替えてください。安物ですけど濡れた服よりはいくぶんいいです。ついでにお風呂もそろそろ沸きますから、お湯につかってゆっくりすれば少しは気持ちも紛れますよ」
「…………え?」
先輩はてきぱきと準備をしていく。
お風呂の用意とか、俺の着替えとか。
……この人が。
俺のためにそんなコトをする必要なんて、ないのに。
「……いいよ先輩。俺、帰るから。これ以上迷惑はかけられない」
「なに言ってるんですか。遠野くん、今日はお家に帰れないんでしょう? もう二人分の食材を買ってきちゃったんですから、責任とってください」
「責任って―――先輩?」
「ちゃんと体をあっためて、夕ごはんを食べて、しっかりしてくれるまで帰らないでください。そんな顔したまま帰られたら、気になって眠れないじゃないですか」
「――――――――」
ずきり、と胸が痛む。
嬉しいと。なんでか泣いてしまいそうなほど嬉しいと思う反面、この人の優しさを恐れている自分がいる。
「……なんで」
「はい? なんですか、遠野くん?」
「……なんで、そこまでするんですか、先輩。
俺には―――こんなふうに先輩に優しくしてもらう資格なんか、ないのに」
―――俺は、人を殺してきたのに。
こんなふうに。気遣ってもらうことなんて、できないのに。
「……俺は、ダメなんです。さっき、すごい間違いをしてしまって、責任もとらずに逃げてきて、死んでもいいとさえ思ったのに―――」
――こんなところで、先輩に縋ろうとしている。
あの罪を。
自らの手で殺めてしまった命を、なかったことにしようとしている。
「……俺のしてしまった間違いは、どんなことをしても許されない。……いや、許されちゃいけないことだと思う。
だから、だめなんです。こんなところで―――先輩に優しくしてもらう資格なんて、俺にはないんだ」
「……はあ。遠野くん、自分が悪い人だって思い込みたいんですねー」
あっさりと。
先輩は、俺の深いところにある真実をついてきた。
「けど、そう思うという事は、遠野くん自身が自分の行動に自信が持てないという事でしょ。
遠野くんは自分が間違いを犯したって解ってるんだけど、それが本当に良いことだったのか悪いことだったのか解らない。だから、そんなふうに自分を追い詰めてハッキリさせるしかないんですよね」
「――――いや、それは――――」
……解らない。
でも確かに、俺は自分がやってしまった事を認めるけど、どうしてあんな事をしてしまったのかは解らないんだ。
けれど人を殺したという事実があるんだから、俺は悪い人間ということになる。
だから。
無理やりにでも自分を悪者にして、罪の在処をハッキリさせようとしていたのかもしれない―――
「けど、わたしには遠野くんの間違いというものがなんであるか知りません。ぶっちゃけて言えばそんなことどうでもいいです。
遠野くんは自分が優しくされる資格なんてないって言いますけど、それは遠野くんだけの都合です。
わたしが遠野くんに優しくするのは、別に遠野くんのためじゃないですから気にしないでください。
……その、ですね。わたしは、わたしが遠野くんに優しくしてあげたいから、こうしているんです。
遠野くんの事情はあまり関係ありません。遠野くんにとっては迷惑でしょうけど、たちの悪い先輩に捕まったと思って観念してください」
そう言って、先輩は笑った。
あの、柔らかい、見守るような微笑みで。
ざあ、という雨だれの音を聞く。
……結局、自分には先輩の優しさを振り払う事はできなかった。
お風呂を借りて、寝巻まで用意してもらって。
夕食までごちそうになって、外は雨が降っているからとベッドまで借りて、こうして眠りにつこうとしている。
「―――――――」
喉がつまる。
あんまりにも先輩の気遣いが大きすぎて、感覚が麻痺してしまう。
先輩は夕食の時も明るく、いつも通りに話しかけてきた。
学校のこととか、繁華街の色々な店の話とか、とにかく話題ばかりをあげてきてくれた。
……それに、何一つ満足に返答できなかったけど、そのたびにどうにかしていた神経が、少しずつまともな自分に戻っていった。
今、こうして先輩のベッドに横になって、床に布団を敷いて眠っている先輩のことを、意識してしまっている。
―――なんてコトだろう。
たった数時間前に人を殺しておいて、こんな普通の学生みたいなコトにどきまぎしてしまっている。
本当に、感覚が麻痺している。
俺は―――遠野志貴は、もう二度とこんなふうな当たり前の幸せに溺れることなんて、できないと思ってたのに。
「………………」
眠れずに視線を泳がせる。
この先、自分がどうしていけばいいのかまったく解らなくて、迷っている。
ざあ、と。
外からは雨だれの音が聞こえる。
「遠野くん。早く眠らないと明日遅刻してしまいますよ」
「―――先輩、起きてるの……?」
「はい。遠野くんが眠るまで眠れません。わたし、いちおう女の子なんですから」
「……ごめん。やっぱり台所で眠るよ、俺」
「もうっ、何度言わせるんですか。遠野くんは風邪ひいちゃってるんですから、台所なんかじゃ寝かせられません。いいですからイヤなことは忘れて眠っちゃってください」
「―――――厭な、こと」
……ああ、それは無理だ。
あれは忘れられないものだし―――忘れてはいけないコトだ。
どんな理由であれ、人を殺してしまったのなら。
殺してしまった人の事を忘れるなんて、そんな事は罪深すぎる。
「……だめだ。罪は誤魔化せないよ、先輩。忘れることなんてできないし、忘れるつもりもないんだ。
……けど、ありがと。今日は先輩に色々助けられた。あのままでいたら本当に、俺は死んでしまってたかもしれない」
それは逃げだ。
本当に自分が間違ってしまったと思うのなら、安易に逃げだけはしてはいけないと思う。
「罪、ですか。どうも遠野くんの間違いっていうのは、わたしなんかじゃ想像もつかないコトみたいですね」
どこか笑い話にするような陽気な声で、先輩はそんな呟きをもらした。
「けど遠野くん。罪を犯さない人間なんていうのはいないんですよ。
世の中には罪を犯さない人間と犯してしまう人間がいるんじゃないんです。
生きている以上、誰だって過ちは犯してしまう。
……哀しいですけど、それは避けられない。生きるという事は磨耗するという事ですから。
わたしたちは、ただ個人が削れていくだけで何かに影響を与えてしまう生き物なんです」
「……なんだよ先輩。それじゃあさ、なんか救われないよ。みんなが過ちを犯してるなんて、そんな例え話、好きじゃない」
「……そうですね、それじゃあ救われませんね。
けど、罪というものは償えるじゃないですか。
世の中にいるのは、罪を償える人と償えない人がいるだけなんです。ですから、救われない人というのは、どうあっても自身の罪を償えない人のことだと思います」
……先輩の声は、なぜかとても哀しく聞こえた。
「でも、遠野くんは償える人です。どんな間違いをしてしまったかは知りませんけど、遠野くんは償える人ですよ。
不安で眠れないっていうんなら、この先どう償って生きていくかを考えればいいんです。
それはすごく難しいことですから、そのうちあたまがパンクして間違いなく眠れちゃいます」
どこまで本気なのか、先輩の言葉は冗談がまじってばかりだ。
「……償える人、か。けどさ、先輩。俺の間違いはきっと、どうやったって償えないよ。こればっかりははっきり言えるんだ」
「あはは、そうですよ。どんなモノであれ、罪というものは償えません。
誰かを傷つけて、その人の傷を治したとしても、傷つけたという罪は消えないでしょう?
どんなに頑張っても、犯してしまった過ちは消えてくれないんです。
償う、というのは結果ではなくその過程のことなんだって、わたしは思います。
償える人と償えない人、というのはそういう事です。だから遠野くんは間違いなく償えちゃう人ですね」
「……わかんないな。俺、ひどい人間だよ。先輩が思ってるほどいいヤツじゃない」
「そんなの簡単にわかりますよ。さっきですね、わたしちょっと感動しました。遠野くん、胸にすごい傷があるでしょ?」
「え……? あるけど、それがどうかした?」
「あれだけの傷跡ということは、とても大きな事故だったんでしょう。……爪あとというものはココロを歪ませます。あんなに大きな、しかもまだ消えない傷だなんて、ちょっと普通じゃないですよね。
けど遠野くんはとても自然です。あんな傷のある人が普通に生きていたという強さは、間違いなく誇れることです。遠野くんはきっと、とてもまっすぐな幼年期を過ごしたんでしょうね」
満足そうに呟いたきり、先輩は何も話さなくなった。
耳をすませば穏やかな寝息が聞こえてくる。
「……寝ちゃったのか、先輩」
返事はない。
ただ、外からはざあ、という雨だれの音だけが聞こえてくる。
「………償い、か」
犯した罪に相当する罰。
明日になれば俺に殺された彼女の死体が発見されて、新しい猟奇殺人としてニュースで報道されるのだろうか。
そうなった時、俺が失うものはそれこそ数えきれないだろう。
秋葉には迷惑をかけるだろうし、こうやって先輩と話をする事も二度と出来なくなる。
「…………………」
でも、それが償いになるのなら、受け入れるしかない。
それで償えるのなら―――救いらしきものは、たしかにどこかにあるのかもしれない。
「は――――あ」
少し、眠くなってきた。
明日のことはわからない。
わからないけど、もし許されるのなら。
自分の罪が発見されて、罪を問われるその瞬間まで。
この生活を、続けていきたいと願ってみた。
……がさり。
……しゅる。
「…………ん」
……なにか、近くで物音がしている。
目覚める気なんかまったくないのに、物音に反応してぼんやりと目が開いた。
―――――先輩が、着替えている。
まだ夜中なのか、窓からの明かりはない。
雨は止んでいるのか、あたりはとても静かだ。
その中で、先輩が服を脱いでいる。
「………………」
惜しい。
自分が殺人者なんだっていう後ろめたさとか、こんな寝ぼけた状態じゃなければ、今の先輩がどのくらい色っぽいのかちゃんと把握できるっていうのに、あたまはよく動いてくれない。
先輩の目は、どこか虚ろだった。
けど、そんな事より、なにかおかしな所がある。
――――あれは――――なん、だろう。
[#挿絵(img/シエル 15.jpg)入る]
「………………」
両腕におかしな痣がある。
……いや、痣とかじゃなくて、入れ墨なんだろうか。
……なにか、よくない、感じが、する。
「…………」
眠気が戻ってくる。
先輩の足元には、なにやらごちゃごちゃと散らかっている気がする。
それも、ここまで。
あとは沈むように、深い眠りに戻っていった。
[#改ページ]
●『3/黒い獣T』
● 3days/October 23(Sat.)
「――――――ん」
窓ごしの陽射しで目が覚めた。
……雨は止んでいるのか、雨音はしない。
空は曇り模様らしく、陽射しは明るいものとは言えなかった。
「……………え?」
きょろきょろと周りを見渡す。
……明らかに、自分の部屋ではない。
「あ、おはようございます。昨夜はぐっすり眠れましたか、遠野くん?」
「あ――――――――」
思い、だした。
ここは先輩の部屋で、俺は先輩のベッドを借りて、一泊してしまったんだ―――
「あ―――うん。おはよう、先輩」
なにかすごく恥ずかしくなって、ベッドから跳び起きた。
「えっと、昨日はすみませんでした。色々お世話になっちゃって、その―――」
「はい、一つ貸しにしておきますね」
先輩は笑顔で返答してくる。
……なんていうか、すごく大人だな、と思った。
「と、ともかくありがと。それじゃあ俺、帰るから」
「あれ、そうなんですか? まだ朝の六時になったばかりですよ、遠野くん」
「そうだけど、昨日は無断外泊しちゃったから。早めに屋敷に戻らないと秋葉になんて言われるかわからない」
「ああ、妹さんのことですね。えっと、一応昨日は電話しておいたから大丈夫だと思いますよ」
さらりと、先輩はとんでもない事を口走った。
「ちょっ―――電話したって、先輩が、うちに?」
「はい。遠野くんがうちに泊まるって連絡をいれておかないといけないかなって思ったんですけど、ご迷惑でした?」
「なっ―――――――」
絶句した。
シエル先輩がうちに電話したっていう事は、つまり、女の子が『遠野くんはうちに泊まるそうです』なんてことを連絡したっていう事だ。
それは、なんていうか―――
「―――困る。それは、すごく困る」
秋葉が電話に出ていたりしたら、俺はとんでもない女ったらしという誤解をされてしまう。
ただでさえ遠野家は厳格なんだから、そんなコトをしたってバレたらどうなるか想像したくもない。
「……遠野くん……わたしの部屋に泊まったこと、そんなに嫌だったんですね」
「あ、いや、そういうことじゃなくて、その……うちの家っていうのはすごく厳しくて、決して先輩のことを嫌がってるわけじゃなくて―――」
しどろもどろになって弁解をする。
「……いいです、言い訳なんかしてもらわなくても」
先輩は悲しそうに目をふせる。
……昨夜世話になったせいか、この人にこういう顔をされるとこっちが参ってしまう。
「違うって、俺は本当に先輩には感謝してるんだ。今だってすごく気持ちが楽になってるし、昨日の夜だって、先輩がいなけりゃどうなってたか解らないぐらいだったんだ……!」
「―――はい。そうですね、遠野くんの顔はいつもの調子に戻ってくれてます。昨夜どうしたか知りませんけど、元気になってくれて嬉しいです」
唐突に。
先輩はこれ以上ないっていうぐらい、満面の笑みをうかべた。
「――――え?」
「冗談ですよ。わたしだって遠野くんの家に直にお電話なんかしません。乾くんにお願いして、昨夜遠野くんは乾くんの家に泊まった、という電話をしてもらいました。それでしたら問題はありませんよね?」
「……ああ、それなら問題はないけど……先輩、ちょっと趣味悪い。いまのは本当に心臓が止まるかと思ったじゃないか」
「はい。わたし、わりといじわるなんですよ。好きな子っていじめたくなるじゃないですか。それといっしょです」
「……え?」
―――好きな子って、それは、その―――
「でも、たしかにお家には早めに帰ったほうがいいですね。ええっと、ちょっと待ってください」
先輩はなにやらタンスの中をごそごそとあさっている。
「はい、遠野くん。粗品ですけど、これあげます」
言って、先輩は古ぼけた指輪を差し出してきた。
「……粗品って……何これ、先輩」
「お守りです。遠野くん、なんかぽーっとしていて危ないから、持っててください」
「あ、うん―――貰えるものなら何でも貰うけど……わかった、大事にするよ」
指輪を受け取って、ポケットに入れる。
「それじゃそろそろ行くよ。……その、さ。昨日は本当にありがとう。先輩が言ってたとおり、自分なりに償いっていうのを考えてみるから」
「はい。それでは学校でお会いしましょう」
―――先輩は笑顔で送ってくれた。
けど、その笑顔はもう二度と見れないかもしれない。
昨日、俺が殺してしまった女性の遺体はとっくに発見されて、屋敷のほうには警察がやってきているかもしれないのだ。
……けど、それから逃げるわけにもいかない。
今は先輩の笑顔にお礼をいって、遠野の屋敷に戻るだけだった。
◇◇◇
結論から言うと、屋敷の様子は普段どおりだった。
「あ、おかえりなさいませ、志貴さん」
なんて、ロビーに入るなり琥珀さんに笑顔で挨拶をされてしまった。
「あ……ああ、ただいま。あの、琥珀さん?」
「ええ、朝ごはんですね? すぐに支度をしますから居間で待っていてください。秋葉さまも先ほど済ませたばかりですから」
琥珀さんはパタパタと音をたてて居間の方へ去っていってしまった。
……平和すぎる。
昨日の女性の死体はまだ発見されていないんだろうか。
「………………」
とりあえず制服を着替えに自室に戻る事にしよう。
自分の部屋に戻ると翡翠がいた。
「―――おはようございます、志貴さま。お帰りになられたのですね」
「うん、ついさっき。……あのさ、翡翠。悪いんだけど、替えの制服ってある? いま着ているヤツ、昨日の雨で濡れちゃってさ」
「……かしこまりました。すぐにご用意いたします」
翡翠は一礼して、音もなく部屋から出ていく。
その後、翡翠が持ってきてくれた替えの制服に着替えて、居間へ向かった。
居間には秋葉が憮然とした表情でソファーに座っていた。
「――あら、おはようございます兄さん。いつのまにかお帰りになってたんですね」
秋葉の声には、どことなく非難の棘がある。
「……ああ、おはよう。その、朝から機嫌が悪そうだな、秋葉」
「ええ。兄さんが頻繁に外泊をされる方だとは知りませんでしたから。機嫌を損ねている、というよりは呆れているんです」
じとり、とした視線を向けてくる秋葉。
「……う」
外泊したのは事実なので、こっちとしては反論のしようがない。
「まあ、体調が悪くなったのでしたら仕方がありませんけど。乾さん、という方とは中学校の頃からの友人なんですってね」
「そうだけど……そっか、電話をしてくれたのはあいつなんだっけ」
……トウトツに、不安になった。
あいつはなんていう口上でここに電話をかけたんだろう……?
「だいたいですね、学校を早退されるにしても、連絡を入れてくだされば迎えの車を送れるじゃありませんか。
何を遠慮しているか知りませんけど、兄さんは遠野家の長男なんです。使えるものはなんでも使ってください。……そうでなくても、兄さんは人より体が弱いんですから」
「――――あ」
そうか、昨日は学校を早退したんだっけ。
「雨にうたれたぐらいで貧血を起こすなんて、兄さん、体の具合が悪いんじゃないですか? 一度主治医に看てもらうにしても、登下校は車で送ってもらったほうがいいんじゃありません?」
「…………」
なるほど。そういった理由で有彦の家に泊まった、という事になっているのか。
「大丈夫、秋葉が気にするような事じゃない。ちゃんと月に一回は病院に通ってるし、車なんかで送られたらそれこそ体が鈍るだろ。
秋葉が俺のことでそこまで神経質になることはないよ。ま、心配してくれるのは嬉しいんだけどさ」
「……そんなこと、ないです。私、兄さんの心配なんてしてません、から」
ふい、と微妙に秋葉は視線を逸らした。
「志貴さーん、ご用意できましたー」
食堂から琥珀さんの声が聞こえてくる。
「んじゃ、そういうわけでメシ食ってくる」
「もうっ。兄さん、その乱暴な言葉づかいはやめてください」
きりっ、と秋葉は視線を鋭くする。
「……ああ、もとの調子に戻ってきたな。やっぱり秋葉はそうでなくっちゃ落ち着かない。俺の事なんか心配しないでいいから、気楽にしてろよ」
「―――しつこいですねっ。私、兄さんの心配なんてしてませんっ!」
秋葉はぷい、と顔を背ける。
それを微笑ましく眺めながら、食堂に移動した。
◇◇◇
「いってらっしゃいませ」
翡翠はいつもどおりの台詞をいった後、じっと視線を向けてきた。
「志貴さま、昨夜はどうなされたのですか」
「……いや、別になにもないよ。ただ雨にあてられてさ、貧血を起こしただけなんだ。これからは気をつける」
「責めているのではありません。ただ、今朝の志貴さまはひどく無理をしているように見えます。どうか道々、お気をつけくださいませ」
翡翠は深々とおじぎをして俺を送り出した。
……まいったな。
できるだけ平静にふるまって、秋葉にも琥珀さんにもボロをださなかったっていうのに、翡翠には通じなかったらしい。
「……もしかして気遣ってくれたのかな、翡翠」
いつも淡々とした彼女の感情はわかりにくい。
ともかく、今日が最後の登校になるかもしれないんだ。
できるだけいつも通りに、悔いの残らないような一日にしよう────。
どんなにこっちの心境が複雑でも、朝の様子は変わらない。
学校に近付くにつれ、学生服姿の生徒たちを多く見かけるようになってくる。
休日前の土曜日。
遠野志貴にとって、学校というものはこれで最後になるかもしれないかと思うと、歩いている足が止まりそうになる。
それでもできるだけ平静に、二年間馴染んだ通学路を歩いていく。
この交差点を抜けてしばらくすれば校門が見えてくる。
信号器が赤になって、横断歩道の前で立ち止まる。
この歩道の向こうはすでに学校の塀がある。
通学路だから歩道はガードレールに守られていて、今も我先にと生徒たちが校門へと向かっている。
この時間、道向かいの歩道にはうちの学校の生徒の姿しかない。
……それしか、いない筈だ。
なのに、車がせわしなく走っていく合間に、白い人影を見た気がした。
[#挿絵(img/アルクェイド 12.jpg)入る]
「─────な」
そこにいたのは、彼女だった。
肩口までの金の髪に白い服。
細く長い眉と赤い瞳。
たった一度しか見てはいないけれど、俺がその姿を見間違えるはずがない。
「──────」
けど、そんな筈はないんだ。
だって彼女は、昨日俺の手によって、バラバラに殺されたんだから。
信号が青にかわる。
まわりの生徒たちは向こう側へと歩いていく。
その中で、自分だけが立ち止まったまま呆然としていた。
彼女はガードレールに腰をかけて、足をぶらぶらとゆらしている。
まるで何か、誰かを待っているような様子。
どれくらい待っているのかは見当もつかないけれど、彼女の表情に険しいものはない。
───誰を待っているのだろう。
まるで恋人と待ち合わせをしているふうに、彼女はそわそわして落ち着いていない。
───イヤな、予感がする。
「あ―――――」
白い女がこっちを見た。
たぶん、そんなのはただの偶然。
アレはただ似ているだけの他人で、彼女は別の誰かを待っているに決まってる。
そうでなければ、この瞬間こそ悪い夢だ。
だって、彼女はこの手で、完膚なきまでに殺したはずなんだから――――
けれど、女はこっちを見て笑っていた。
『やっと来たわね』と自分を殺した相手を見付けて、心の底から満足そうに―――
女は親しげに手をあげて笑みをむけると、ガードレールから腰をあげた。
さらり、と髪をなびかせてこっちに向かってくる。
「───────来る、な」
悪い、夢だ。
信号が赤になる。
「―――――――来るな、よ」
彼女は気にした風もなく、車が行き交う道路を一直線に横断してくる。
あと、ほんの数メートルも距離はない。
「……来るなって言ってるのに――――!!!」
大声をあげても目の前の現実は変わらない。
そのまま、俺は自分でもよくわからない声をあげて、白い女から逃げ出していた。
走った。
全力で走った。
恥も外聞もなく、通り過ぎる人達を弾きとばしながら、アスファルトの上を全力疾走した。
「はっ、はっ、はっ、はっ─────!」
呼吸が乱れて、心臓がばくばくと悲鳴をあげる。
それでも走った。
走らないと気が狂いそうだった。
後ろを見る。
白い服の女が歩いてくる。
間違いなく俺を追ってきている。
俺が殺した女が、俺を追いかけてきている。
走る理由は、それだけで十分すぎた。
「はっ、はっ、はあ──────!」
爆発しそうな心臓を無視して走り続ける。
振り返るとあの女の姿がある。
とことこと軽い足取りで逃げる俺を追ってきている。
「はっ、はっ、はっ、はっ─────!」
顎があがる。
両腕がだるい。
足はとっくに千切れそうだ。
だっていうのに、
こんなにも全力で走っているのに、どうして歩いているだけの相手をふりきれないんだ──!
「はっ、はっ、はっ、はっ────」
息があがる。
もう何キロ全力で走ったろうか。
それでも振り返ればあいつが歩いてやってきている。
自然に、散歩するような足取りでピッタリとくっついてきている。
「………はっ、はっ、はっ、はは、はははは」
おかしくもないのに笑って、笑いながらまだ走った。
「はは、ははは、あははははははは!」
笑いが止まらない。
それでも走って、これ以上走れば死んでしまうって体が訴えているのに、まだ走った。
走る理由は簡単だ。
だってあいつに追い付かれたら、俺は間違いなく殺される。
何を根拠に、と自分自身でそんな妄想を笑い飛ばしても、そんなのが気休めだってのはやっぱり自分自身が一番よくわかっていた。
理由も根拠も証拠もない。
ただもう真実として、遠野志貴は、あの女に追い付かれたら殺されるって理解している─────
「あっ───」
無様に地面に倒れこんだ。
足がもつれてではなく、もう一歩も体が動かなくなって、前のめりに倒れこんだ。
「ぐっ───は、あ」
倒れたまま這いずって、なんとか壁ぎわに辿り着く。
「────」
壁に手をかけて立ち上がろうとしたけれど、ダメだった。
立ち上がったとたん膝から力を失って、ドスンと尻餅をつく。
そのまま、体はもう動いてくれなかった。
「はあ────はあ、はあ────」
顔をあげて息を吸う。
────苦しい。
まったく酸素がぜんぜん足りない。
おかげで頭がまともに動きやしない。
自分がなにをしているのかもちんぷんかんぷん。
どうしてこんなコトをしているのかわからない。
どうして、なんで、なんで殺した女が生きているのかもわからない。
間違いなく完璧に、およそ考えられる最終的なカタチで俺はあいつを殺した。
なのになんで、
あいつは学校の前で俺を待って、あんなふうに楽しげに笑いかけたり出来るんだろう──?
「……確かに、殺したのに」
―――そうだ。
たしかに殺したのに、
たしかに殺したのに、
たしかにころしたのに、
たしかにコロシタノニ、
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで──────!?
「あれ、追い掛けっこはもう終わり?」
カツン。
路地裏に軽やかな足取りでやってきた女は、残念そうに肩をすくめた。
「こんにちは。昨日は本当にお世話になったわ」
女はにこりと笑顔をうかべて、かつん、と音をたてて路地裏に入ってくる。
――――逃げなくちゃ。
そう思って後に退こうとして、がつん、とコンクリートの壁に頭をぶつけた。
「追い駆けっこは終わりなんでしょ? だってここ袋小路だもん。くわえて人気もないから、他に邪魔が入る心配もないし」
よっぽど嬉しいのか、女は笑顔のままだった。
あわてて周囲を見渡す。
路地裏に人気はなくて、自分のバカさかげんに本当に愛想がつきた。
こんなところに逃げ込むなんて───自分から殺してくださいと言っているようなものじゃないか。
「長かったなぁ。あれから十八時間、ようやく標的をつかまえた」
かつん、とさらにもう一歩、女は路地裏に入ってくる。
「お、おまえ────」
「なに?」
「おまえは、たしかに────」
「ええ。昨日貴方に殺された女よ。覚えていてくれて嬉しいわ」
「ばっ───」
嘘だ、そんなバカな話があるもんか……!
「ふざけるな、死んだ人間が生きてるハズがないだろう!」
「そうだけど、そう驚く必要はないんじゃない? たんに生き返っただけなんだから」
あっさりと答えて、女はかつん、と音をたてる。
女との距離は、段々と狭くなっていく。
「……生き……返った?」
呆然と女の台詞を繰り返す。
生き返ったって事は、あのあと医者にでもかかって手術のすえに回復したのだろうか……?
「―――って、罵迦にすんなっ! あんなに手足をバラバラにされて生き返る人間なんているはずがないだろ───!」
「うん。だってわたし、人間じゃないもの」
「─────は?」
女の言葉の意味は、その、あんまりに簡単すぎて違う解釈ができない。
わたしは人間じゃない。
たしかに、目の前の女はそう言い切った。
「……人間じゃ、ない……?」
「もう、そんなの当たり前でしょ。手足をバラバラにされて、ひとりでに再生できる人間がいると思う?」
「───────」
そんな人間、いるわけがない。
そんなのは人間に似ているだけのまったく違う怪物だろう。
殺しても蘇る。
息の根を止めてもおかまいなし。
ばらばらにしても、すぐに元通りになって動きはじめる人間とは呼べないもの。
「う────そ」
それが、今自分の目の前にいる女の正体らしい。
笑おうとして声をあげたけれど、喉は乾いてうまく笑えなかった。
「……なんだよ、それ」
笑い話にしてはあんまりに出来が悪い。
加えて、笑い話にできない材料がとりあえず揃っている。
だって、確かに。
この女が人間じゃないのなら、殺したはずなのに生きているってコトに、道理が通るかもしれないじゃないか。
―――頭の芯が落ち着いていく。
とりあえずよく見て。
そのあとで色々と考えなくっちゃいけない状況だ、これは。
「……人間じゃないって言ったな。それじゃあナンなんだ、おまえ」
「わたし? わたしは吸血鬼って呼ばれてるけど。あなたたち流に言えば人間の血を吸って生きてる怪物かな」
……良かった。
なにが良かったかって、吸血鬼っていう単語は、それなりに解りやすかったから。
「そう、吸血鬼なんだ───」
ええ、と女は満足そうに笑った。
……なんて、ふざけた返答なんだろう。
吸血鬼って昼間は歩けないっていうのが通説なんじゃないのか。
まあ、今はそんなコトなんて些細な問題かもしれないが。
「……で。その怪物が俺なんかに何の用だっていうんだ」
なぜか、女はびっくりして身をひいた。
と、それも束の間で、すぐに両手を腰にあてて、むっとした眼差しを向けてくる。
「貴方、昨日わたしに何をしたか忘れたの? あなたは見ず知らずのわたしを、会った瞬間にバラバラに殺してくれたのよ。それなのに何の用だ、なんてよっぽど手慣れてるみたいね」
怒っている、いうより呆れているみたいだ。
でも、今はこっちだってそんな気分をしている。
なにしろ自分が殺した女に、よくも殺してくれたわねって恨み言を言われているんだから。
「ちょっと。聞いてるの、殺人狂」
「……ああ、聞いてる。我ながらものすごい悪運持ちだなって、いま噛み締めてるところなんだ。悪いけど、ちょっと黙っててくれないか」
───ったく、ほんとになんて悪い運なんだろう。
理由もなく、突然殺したくなった女がいて、そのまま勢いにまかせて殺してしまった。
そのあとの記憶が曖昧で、それは夢だったのかと安心していたらそれはやっぱりホントのことで。
くわえて、実は殺した相手が人間じゃなかったときた。
「――――――は、はは」
つい笑ってしまう。
……けど、そう悲観したことばかりじゃない。
だって殺した相手が生き返ってるんだから、俺は誰も殺してない事になるじゃないか。
そりゃあ『殺した』っていう行為は残るけど、彼女はちゃんと生きている。
―――それだけは。
正直、喜ぶべきことだと思う―――
ああ、これならとりあえず生活は元通り。
遠野志貴は今までどおりのスクールライフを送れると思う。
……まあ、そのかわりになんかとんでもないヤツにこうしてライブで追い詰められてるってワケなんだけど、人殺しになるよりは遥かにラッキーだって言えるかもしれない。
「……オーケー、落ち着いた。言いたい事があったら聞いてやるよ。文句でも恨み言でも思う存分言ってくれ」
「そりゃあ言いたいコトはいっぱいあるけど……貴方、変わった人ね」
「開きなおってるだけだ。これでも突飛なことにはそれなりに耐性がついていてね」
まあ、それでもこんなケースにはついていけないけど。
「ふーん………」
女はじろじろと眺めてくる。
その視線には敵意というものがない。
……おかしいな。やられたらやり返すっていうのは、きっと世界で共通の法則だと思う。
そうなるとこの女は俺を殺そうとしているはずなんだけど―――
「――なに人のことをじろじろ見てるんだ。おまえは俺に復讐しにきたってワケなんだろ。なら――」
「ええ、たしかに殺したら殺し返すっていうのはセオリーよね。
それがお望みならしてあげるけど、とりあえず今はパスかな。それ、効率が悪いから」
女はじっ、と真っ正面から俺を見据えてくる。
「ねっ、反省してる?」
「――――え?」
一瞬、目が点になった。
この相手が、なにか―――ひどく場違いな声を出したから。
「わたしを殺しちゃったことを反省してるかって聞いてるの。
それでね、もし貴方が反省してるっていうんなら許してあげようかなって。
貴方、人間にしては嘘が下手そうな感じだし」
「反省って―――俺が?」
「うん。貴方がわたしにごめんなさいって言ってくれれば、わたしとしてはそれでいいよ」
―――信じ、られない。
なにが信じられないかって、それは。
自分を殺した相手を許すとか許さないとかじゃなくて、その―――この相手の声が、ひどく優しく聞こえてしまった事が。
「もうっ。人が真面目に聞いてるんだから、ちゃんと答えるのが筋ってものでしょ。ほら、早く答えて答えて。貴方が反省してるのかしてないのか、はっきりさせないと先に進めないんだから」
女はぷんぷんと怒っている。
―――反省しているか、だって?
そんなの、言われるまでもなく―――
「……そりゃあ後悔してる。何であれ、俺は、人を殺してしまったんだから」
容赦なく、なんの理由もなく、ただ自分のためだけに殺してしまった。
「……殺したって事も後悔してるけど。なにより、俺はあんたを手にかけた。だから―――」
……ああ、生き返っているから問題ない、とかいうのは嘘だ。
遠野志貴は、目前の女性を殺してしまった。
それは究極の略奪というか、これ以上ないっていうぐらいの暴力だと思う。
「だから―――あんたは、俺に復讐していいんだって――こうして俺に復讐に来たんだなって、当たり前のように、思ってた」
……俯いたまま。
誰に告白するのでもなく、そんな言葉を呟いた。
「―――そっか。うん、いい人なんだね、あなた」
女は、笑った。
自分のことを吸血鬼だなんて言うクセに、すごくまっすぐで、これ以上ないっていうぐらいの顔で。
「決めた。やっぱり貴方にはわたしの手伝いをしてもらうわ」
「え―――――?」
手伝いって、何を言っているんだろう、コイツは。
「……おい。手伝いってなんだ」
「簡単よ。この街に根付いている吸血鬼の始末を貴方に手伝ってもらおうかなってこと」
「――――?」
……ちょっと、ますますわからない。
「吸血鬼の始末って、だっておまえは―――」
「ああ、ちがうちがう。確かにわたしも吸血鬼だけど、この街に根付いている吸血鬼はまた別物よ。
貴方、この街に住んでいる人でしょ? なら最近起きている殺人事件も知ってるわよね」
「ああ、もう何人も殺されてる事件だろ……って、ちょっと待った」
……思い出した。
そういえば、あの通り魔殺人の犠牲者は、その全てが血液を搾取されていたとかいなかったとか。
「まさか、それって――――」
「まさかもなにも、ちゃんとニュースで『吸血鬼のしわざかっ』って言ってるじゃない。
おかしな話よね、ちゃんと犯人が何であるかわかってるのに誰も吸血鬼退治をしないんだもの。だから代わりにわたしがやってあげるしかないじゃない」
「いや、だって―――吸血鬼なんて存在しないだろ」
「むっ」
女は不機嫌そうに眉をよせる。
……そうだった。
いま自分の目の前にいるのは、自分から吸血鬼を名乗っている正体不明の存在だったっけ。
「―――よく、わからないけど。つまり、おまえは街で人を殺している吸血鬼を退治するって言いたいのか……?」
「そうなんだけど、その前になぜか見も知らずの殺人鬼に襲われて、いきなり殺されちゃったのよ。
うん、アレにはまいったなあ。もうかんっぺきな不意打ちで、反撃する間もなく十七つに切断されたんだから」
「う――――」
そうか。その殺人鬼って、ようするに俺のことを指しているのか。
「そうよ。わたしね、こうして復元するまでは本当に貴方を殺すつもりだったわ。あんな屈辱を受けたのは初めてだったし、復元しきるのに八割以上の力を消費してしまったわけだし」
「けど、それよりなによりほんっっっとうにもの凄く痛かったんだから。
あんまりにも痛いから気がふれそうになるんだけど、やっぱりあんまりにも痛くて正気に戻るの。
そんな繰り返しを一晩体験したわたしの気持ち、わかる?」
「……………」
わからない。
というか、わかりたくない。
「それでね、もう憎くて憎くて貴方を捜したわ。目的である吸血鬼のコトも放っておいたぐらい、ただそれだけに熱中したのよ。
それで貴方があの学校の学生だってわかって、それじゃあってあそこで待つコトにしたの」
「……わからないな。そこまで憎かったのに、どうして俺のことを許すなんて言うんだ、おまえ」
「―――そうね、簡単に言えば時間がたって冷静になったのかな。
わたしのほうも力を消費しちゃったコトだし、ここは貴方を殺すより盾になってもらったほうが効率的だなって考えたの」
「……ちょっと待て。いま、なにかよからぬ事を口にしなかったか、おまえ」
「え? そんなこと言った、わたし?」
「人のことを盾にするって、言った」
「そんなの当然じゃない。わたしは貴方のことを許したけど、それはわたし個人の感情に整理をつけただけだもの。貴方が犯した『殺害』っていう行為そのものは、やっぱり気持ちじゃなくて行為で贖うしかないでしょ?」
「―――いや、でしょって言われても」
「なによ、素直なんだかいじわるなんだかわからないひとね。繰り返すけど、わたしは貴方に殺されたのよ。
想像できないでしょうけど、一度死んでから蘇生するのにはそれなりに力を消費するんだから。
まあ単純に殺されただけならどうってコトないんだけど、貴方の方法は今まで見た事もない切断方式で、傷口が繋がらないから体を作り直すしかなかったの。
その結果、わたしは生き返るのにほとんどの力を使ってしまったわけなんだけど─── 」
ぷんぷん、という擬音が似合いそうなほど、女は腹を立てている。
……というか、今まで忘れていたけれど、話にした事でその時の怒りを思い出してしまったらしい。
「とにかく、今のわたしは弱ってるの! 二晩も経てば回復すると思うんだけど、その前に『敵』に襲われたら危ないじゃない。
だからその間、貴方にはわたしの盾になってもらうからね」
「いや、もらうからねって―――なに勝手に決めてるんだよ、おまえ」
「なによ。貴方のせいでこうなったんだから、それぐらいはして当然でしょう?
それとも、やっぱり反省なんかしてないっていうの?」
じっ、とまっすぐな目で女は見つめてくる。
「……………う」
それは、卑怯だ。
反省とかそういうコト以前に、そんな目をされるのは、卑怯だ。
……自分のことを吸血鬼だなんて言ってるクセにそんな純粋な目をするのは、反則だと思う――
「俺は、その―――」
返答に困って、なんとなく視線を上げた。
「……あれ?」
……なんだろう。
ビルとビルの切れ間に、なにかおかしなモノがある。
「ちょっと待った。アレ、なんだろう」
立ちあがって歩く。
路地裏の真ん中あたりまで歩いて、ようやくビルとビルの切れ間にいるモノがなんであるかわかった。
そこにいたのは、蒼い鳥だった。
正確にいうのなら鴉、というべきだろう。
……蒼い、カラス。
それは、二日前の夜に見た、不吉なモノではなかったか―――
「―――まいったな」
ぽつり、と女が呟く。
鴉はじぃ、と自分たちの様子を見つめている。
「もうっ。貴方がいつまでもぐずぐずしてるから見つかっちゃったじゃない」
女は路地裏の入り口を見ている。
「見つかったって、なにが」
路地裏の入り口に視線を送る。
―――――、と。
「―――――!」
びくっ、と思わず体が一歩引いてしまった。
いつのまにか、路地裏の入り口である細い道に一匹の犬がいた。
どこか歪つフォルムをした強靭な四肢と、ピン、とはりつめた鉄骨のような首。
人間とは大きくかけはなれた、『獲物を狩る』ことだけを追求したそのフォルム。
……そこに、言葉による威嚇など必要ない。
たいていの人間は、この種の『狩猟』動物を見ただけで緊張してしまう。
その、同じ生物として、絶望的なまでに優れた運動能力への畏敬として。
「……黒い、犬……?」
―――びくん、と体が震える。
……こっちを見ているあの黒犬は野犬と言い捨てられる大きさじゃない。
シェパードとかドーベルマンほどの大きさをした黒犬は、ただそこにいるだけでこちらを威圧しているようだった。
「…………」
彼女は何も言わず、つまらなそうな目をして黒犬を見つめている。
と。
唐突に、黒犬は跳んだ。
いや、走ってきた。ただそのスピードが速すぎて、跳んだとしか認識できない。
「――――――え?」
何もできない。
黒い犬は、その予備動作さえ感じさせないまま俺の喉元へと飛びついてくる。
見えているのに。
黒い肢体がやってくるのが見えているのに、自分は避ける事も、避けようという考えもうかばなかった。
ドン、という衝撃が体に走る。
「ぐっ―――――!」
いきなり横殴りに弾き飛ばされた。
黒犬に食いつかれた事による衝撃じゃない。
俺の体は、黒い犬に首を噛み砕かれる前に、いきなり女に弾き飛ばされたらしい。
その、まるでボールでも投げるような無造作な動作で、女は俺を片手で壁際まですっとばした。
「っ―――――!」
ダン、と派手な音をたてて、俺は尻餅をついてしまっている。
「こ……のぉ! おまえ、いきなり何するんだ!」
「いいから前!」
女が叫ぶ。
見れば―――俺という標的を失った黒犬は、そのまま壁まで跳躍していた。
ぴたり、と黒犬はトカゲのように壁に張り付いて、また跳んだ。
タン、と壁からこちらに向かって反射してくる。
黒犬の軌跡は、さながら黒い稲妻のようだった。
「―――!」
あまりに速すぎて反応できない。
黒犬は牙と唾液にまみれた口をあけて、今度こそ、俺の喉笛へと食らいつく―――
「くっ………!」
思わず目を閉じる。
喉に、黒犬の牙が食い込む。
が、その瞬間。
きゃん、と鳴き声をあげて、黒犬の牙は俺の喉元から離れていった。
「え―――?」
―――そんな、バカな。
黒い犬は、鳴き声をあげて真上に跳ね上がっている。
何もないのに、独りでに空高く舞い上がってしまっている。
そのまま――――何メートルも空中に跳ね上げられた黒犬は、きゃん、とやけに可愛い鳴き声をあげて、そのままコンクリートの上に落下した。
いや、正しくは。
コンクリートの上に、激しく叩きつけられた。
「――――なんだ、いまの」
「―――もう。また無駄な力を使っちゃったじゃない」
女は静かに黒犬へと近寄っていく。
黒い犬はコンクリートの上で押し花のようにペシャンコになっている。
「―――とんでもなく雑種の使い魔ね。……ようするに偵察役っていうことかしら」
黒い犬は、そのままコールタールみたいな黒い液体になって、コンクリートに吸いこまれていった。
「……溶けた……ううん、今のってもしかして融けたのかな。――――まさかね。こんなところに混沌があるわけないか」
ふう、と女は長い息をはいて、俺のほうへとやってくる。
「ふうん。とりあえず傷はないようだし、問題はないわね」
……女は何かぶつぶつと言っている。
俺は―――たった今、自分の喉元に食いついていた犬の牙の感触に、今更になってゾクリとしたモノを感じていた。
「おい―――今のは、なんだよ」
「敵の吸血鬼の使い魔よ。貴方がはっきりしてくれないから見つかっちゃったわ」
「見つかったって―――えっと、さっきおまえが言ってた敵の吸血鬼っていうヤツにか……?」
「ええ、ちょっとまずい展開になってきた。こうなったら本当に貴方には盾になってもらわないといけないみたいね」
さらり、と。
とんでもない事を、こいつは笑顔で言ってくる。
「ばっ―――バカなこと言うなよ、このばかっ! 今の見てたろ、俺に何ができるっていうんだ! 俺なんかよりおまえ一人のほうがよっぽどマシなんじゃないのか……!」
「そうでもないわ。だって、いま貴方を守るために力を使っちゃって、本当にカラッポになっちゃったから」
「なっ―――」
なんだよ、それ。
そりゃあとっさに庇ってくれて助かったけど、それにしたって―――
「……無理だ。無理だよ、俺にはあんなのを追い払う力はない。悪いけどさ、盾にだってなりゃしない」
「――――嘘よ。貴方はわたしを殺したのよ。その貴方がどうしてそんな嘘を言うの?」
「殺したって、アレは―――」
自分でも、自分がわかっていなかった時の話じゃないか。
「―――ダメだ。とにかく無理だ。俺は普通の人間なんだ。おまえの手伝いなんて、できない」
「……ふうん。それじゃあわたしが眠っているあいだ、まわりを見張ってくれてるだけでいい。それぐらいなら問題ないでしょう?」
「それは―――」
女はじっと、まっすぐに見つめてくる。
……その目をされると、なぜか弱い。
俺は――
「俺は―――」
協力なんかできるはずがない。
さっきの黒犬一匹に殺されかけているんだから、こんなヤツについていったら間違いなく死んでしまう。
「―――自殺するような真似は、できない」
震える声で、なんとか女を睨みながら返答した。
女は不機嫌そうに俺を見つめている。
「自殺って、どうしてよ。貴方ほどの殺害技術があるんなら恐いものなんてないと思うんだけど?」
「だからアレは違うんだ。
悪いけど俺は普通の学生で、吸血鬼なんていう化け物とは違いすぎる。普通の学生がさ、おまえみたいなヤツに協力なんかできるか」
「ふーん。普通の学生っていうのは見ず知らずの女の子をバラバラに切断しちゃうんだ?」
「────う」
それを言われると弱い。
「……けど、あれは特別だ。今まであんな事はなくて、俺は普通に生きてたんだ。俺は───」
「ああもう、うるさい!」
「え───」
赤い瞳の瞳孔が開く。
女の雰囲気が一変する。
なんて悪寒。
睨まれただけで、本当に心臓が止まるかと、思った。
「勘違いしないで。貴方はわたしを殺したの。本来ならここでその首を引き抜いてるところを、貴方が使えそうだから助けてあげてるだけなのよ」
ぎちり、と。
首の後ろに、カッターの刃を刺しこまれて行くような、痺れが、する。
「─────」
あんなに熱かった喉が、急速に冷えていく。
吸い込む空気が重い。
まるでこのあたりの空気が凍ってしまって、ボロボロと崩れてしまいそうな狭苦しさ。
世界そのものに睨まれているような、絶望的なまでの威圧感。
それらすべての重苦しさが一握りの大きさに凝縮されて、弾丸のように俺の脳髄にたたき込まれてる。
「あ─────え?」
意識が白くなる。
頭蓋骨に穴を開けられて、そのままアルコールを流し込まれてるようなおぞましさ。
その痛み。この感覚は、そうとしか思えない。
「カ―――――――」
悲鳴さえあげられない。
口からもれる音は、すでに人間の言葉でさえない。
「亜───具」
ココロが壊れる。
キオクが崩れる。
あの女に睨まれてるだけなのに、脳髄を素手でかき回されてるような感覚がする。
これ以上こんなのが続いたら、俺はヌケガラになっちまう────
「ヤ────メ、ロ」
意識が廃人になる前に、それだけの言葉が言えた。
とたん───頭の中に入ってきていた異物感がなくなっていく。
「は───あ」
圧迫から解放されて、自分の体を抱きしめる。
───まだ、生きてる。
俺は死んでない。
こうして生きていて、ちゃんと呼吸をしてる。
―――涙が、出そうだった。
そんな単純なことが、こんなにも感激するべきことなんて、今まで知らなかったぐらいに───
「どう? 自分の立場が少しはわかってくれたかしら」
「―――――――」
……そんなもの、わかるもんか。
俺はただ、ガタガタと震えている歯を必死に堪えて、こいつを見上げる事しかできない。
「貴方に許されている選択はわたしに協力するかしないかの二つだけ。
簡単でしょ? わたしは単に、アナタに生きるか死ぬかを聞いているだけなんだから」
「ふ──────」
声が、うまく出ない。
ただ、死にたくないという本能だけが、俺にこくんとうなずかせていた。
「うん、これで契約は成立、と」
さっきまでの殺気はどこにいったのか、気軽な口調で俺に手を差し伸べてくる。
「これでやっと自己紹介ができるわね。
わたしはアルクェイド───うん、長い名前だからアルクェイドだけでいいわ。真祖って区分けされる吸血鬼だけど、貴方はなんていう人?」
今までお目にかかった事もない自己紹介をされて、重苦しいため息をついた。
……諦めのため息というか、つまり、このデタラメな状況を受け入れてしまった証というか。
「遠野志貴。あいにくただの学生だよ。……前もって言っておくけど、本当に何の役にもたたないからな」
女───アルクェイドの手を握って立ち上がる。 彼女はまじまじとこちらを眺めた後、改めて握手を求めてきた。
「それじゃあよろしくね、志貴。
わたしを殺した責任、ちゃんととってもらうんだから」
ニッコリと左手を差し出すアルクェイド。
……世の中にはいろんな責任ってのがあると思うけど、殺した相手を手助けする責任を負うのは、たぶん俺が最初で最後なんじゃないだろうか。
「……くそ、もうどうにでもしてくれ」
けど、これじゃ他にどうしようもない。
嫌々ながら左手を差し出して、俺は、吸血鬼だという白い女と握手をした。
「……ん?」
路地裏から表通りに出た途端、彼女―――アルクェイドは不審そうに眉をよせた。
「ねえ志貴。貴方ってもしかしてクリスチャン?」
……アルクェイドの問いかけは、本当によくわからない。
「クリスちゃん……? なんだよ突然。そんな女の子の知り合いはいないけど?」
「そう。じゃあわたしの勘違いね」
あっさりと自分勝手に納得すると、アルクェイドはオフィス街にむかって踵を返した。
「それじゃ行きましょうか。とりあえず安全なところを探さないとね」
アルクェイドは歩き始める。
「――――はあ」
いまさら引き返す事はできそうにない。
ため息をついて、俺は彼女の後についていった。
◇◇◇
「うん、わりといい部屋ね。これなら一晩過ごしても文句ないかな」
楽しそうにホテルの部屋を見渡すアルクェイド。
「――――」
こっちとしては、とりあえず言葉がない。
「わたしの部屋はもうバレてるだろうから、今夜はここに隠れましょ。あ、お金のことは気にしなくていいよ。わたしお金持ちだから、おごってあげる」
陽気に言いつつ、アルクェイドは窓のカーテンを閉める。
ついでに部屋の電気も消してしまって、部屋の中は夜中のような暗さになった。
はあ、とため息がもれる。
「……アルクェイド。おまえ、なに考えてるんだ」
「なにって、別に色々考えてるけど」
「いや、そういうコトじゃなくて―――」
どうしてホテルの、それも安っぽいホテルじゃなくて高級ホテルの、あまつさえ最上階を全部貸しきりにするような真似をするのかっていうコトだ。
「……………」
そう言いかけて、やめた。
今の自分の役割は、この自称吸血鬼の見張りをする事だけなんだ。余分なことを聞くのはやめておこう。
「―――いや、いい。好きにしてくれ」
「ヘンな志貴。いきなり怒ったり黙ったりして、予測がつかないね」
何が楽しいのかニコニコ顔のままアルクェイドはベッドに横になった。
「日が沈むまで眠るわ。志貴もいまのうちに休んでおいたほうがいいわよ。
吸血鬼は昼間には活動できないから、本格的に見張りをしてもらうのは夜になるんだし」
「……おまえね。いま、自分自身の存在を全面否定するようなコトを言ったってわかってるか?」
「わたしはいいの。―――っと、そろそろ限界みたい。それじゃおやすみなさい、志貴。日が沈んだら起こしてよね」
「お、おい」
「―――――――」
アルクェイドは電池がきれた機械のように、唐突に眠ってしまった。
「は―――――」
なんていう、その、無防備さだろう。
「……逃げちゃってもいいってコトだぞ、それ」
もともと無理やり連れてこられたようなものなんだし、いまなら楽勝で逃げられる。
……それに、こっちにはもうそんな衝動は起きないけれど。
「仮にも―――俺は一度、おまえを殺してるっていうのに」
なのに、どうしていきなり眠ってしまえるんだろうか、この女は。
「…………………」
ベッドで眠るアルクェイドの顔を見つめる。
……ふくよかな胸が上下しているところをみると、呼吸はしているようだ。
その反面、体はぴくりとも動かない。
アルクェイドの周囲の空気だけが止まってしまったいるかのような、見ているこっちまで停止してしまいそうな静謐。
―――なんて、安らかな眠り。
まだ知りあって間もない俺のことを信頼しきっているような無防備さ。
「―――――ばかだな、こいつ」
……うん、ちょっと心配になるぐらい、ばか正直だと思う。
ともあれ、ここは基点だ。
自分が―――遠野志貴がまだ引き返せる最後のラインかもしれない。
俺は―――やはり逃げるべきだろう。
「――――――」
まだ、まっとうな世界で生きていたい。
……そりゃあアルクェイドを殺してしまった事に責任は感じている。
けど、だからって自分にできない事を強制されるのは何か違うと思う。
……けど、アルクェイドは眠っている。
仮にも一度、彼女を殺害してしまった遠野志貴を信用しきって、安らかに眠っている。
「…………くそ………!」
それでも――――俺には、無理なんだ。
静かに歩き出す。
……俺を信用しきって眠っているアルクェイドに背を向けて、ホテルの一室を後にした。
……廊下は静まり返っている。
最上階であるここ十一階はアルクェイドが全部屋借りきっているので、このフロアにいるのは自分とアルクェイドだけだ。
「―――――――」
まだ、かすかに迷っている。
それを振りきって、俺はエレベーターのボタンを押した。
ホテルから電車を使って、自分の街に戻ってきた。
……時刻は正午をすぎたあたり。
学校もそろそろ終わるころで、屋敷に戻っても問題はないと思う。
「………………」
でも、屋敷に戻ろうなんていう気は湧いてこない。
少し頭を冷やしたくて、公園に向かう事にした。
「―――――はあ」
ため息がこぼれる。
ベンチに座って、ただぼんやりと空を見上げている。
空はまだ曇っていて、今の自分の心象風景そのものだった。
……あいつは、まだ俺を信用しきって眠っているんだろうか。
俺は一度彼女を殺してしまったのに、彼女は俺を許すといった。
許すといったのに――――俺は、こんなところで何をしているんだろう?
昨日の夜。
アルクェイドを殺してしまったあと、どんな方法でも、自分なりの償いをしようって誓ったのに。
それは、いざ自分の命が危ないとなったら逃げだす程度の誓いだったっていうのか。
「……………くっ」
でも、やっぱり命は惜しいんだ。
それは生きている以上どうしても無視できない問題で、そう簡単に―――一時の情で忘れられることじゃない。
―――あなたの力はあなた個人のものなの。
でもね、だからこそ忘れないで。
「――――」
はるか昔の、大切な言葉を思い出す。
あの人は……先生は、なんて俺に残して去っていったんだっけ。
「…………」
まだ、間に合う。
日は沈みきっていない。
太陽が沈む前にホテルに戻れば、まだ十分間に合うだろう。
「く―――――そ」
迷いが捨てきれない。
俺は、結局―――ホテルに戻ろうと思う。
―――自分の迷いを、捨てきれない。
先生は言っていた。
……聖人になれ、なんて事は言わない。君は君が正しいと思う大人になればいい、と。
俺は、自分でもどうかしていると思うけど、あいつの信用を裏切れない。
たとえアルクェイドが人間じゃないっていっても、遠野志貴を信用してくれたんだ。
決して許されない俺の罪を、笑顔で許すと言ってくれたんだ。
なら――――自分の命ぐらい、こっちも笑って差し出すぐらいしなくちゃ恥ずかしい。
「…………よし!」
ベンチから勢いよく立ちあがって、振り返らずに走り出した。
……日没と同じぐらいのタイミングでホテルの部屋に帰ってくる。
「…………」
そーっ、と足を忍ばせて中に入る。
アルクェイドがまだ眠っていれば、とりあえず問題はない……ん……だけ、ど……。
「―――志貴っ!」
「…………あ」
きっかりちゃっかり、彼女は目を覚ましてぷんぷんに怒っていた。
「もう、何処に行ってたのよ! 外に出る時はちゃんと声をかけてから行ってよね!」
アルクェイドは怒っている。
けど、それは俺に裏切られた、と思っているようなものではないみたいだ。
「もうっ、日が落ちたから目を覚ましてみれば志貴ったらいないんだもの。
トイレかなって思ったら中々出てこないし、ロビーのほうで食事を摂っているのかなって様子を見にいっても姿がないし。
いったい何処に行ってたのよ、貴方は」
「あ―――ちょっと、ホテルの外」
「本気……? 使い魔に見つかった以上、志貴だって安全とはいえないのよ。
無闇に外に出ていって、またあの黒犬に襲われたらどうするつもりだったの?」
「……………あ」
―――唐突に、気がついてしまった。
アルクェイドが怒っているのは、俺がいなかったからじゃない。
こいつは、俺が裏切って逃げ出す、なんて事を微塵も考えていないんだ。
アルクェイドは俺がかってに出歩いて、危険な目に遭おうとしていた事を心配してハラをたてていたらしい。
「――――――」
……恥ずかしい。
俺は、本当に―――あともう少しで、こいつの心を踏みにじってしまうところだった。
「ちょっと志貴、わたしの話聞いてる?」
「……ああ、聞いてる。そうだな、俺が悪かった。勝手に出ていって、ごめん」
素直に頭をさげる。
と――
「えっ―――そ、そんなに、真剣に謝ってもらうコトじゃ、ないけど――
と、とにかく志貴は無防備すぎるわ。相手は吸血鬼なんだから、もっと気を引き締めないとだめよ」
「無防備なのはそっちだって同じだろ。
俺は一度はおまえを殺してるんだ。その俺を見張り番にして眠るなんて、どうかしてる。今回だってそうしなかったとは限らないじゃないか」
「あ――――」
アルクェイドはいま気がついた、とばかりに目を白黒させる。
「そういえばそうよね。―――なんでだろう。なんとなくね、路地裏で志貴と話しているうちに信頼しきってたみたい」
「……………」
……まあ、悪い気はしない、けど。
「オーケー、信頼されてるからにはそれなりに努力はする。で、あとはこれからずっと見張ってればいいのか?」
「ええ、とりあえず朝日が昇るまでの間ね。わたしは部屋から出ないから、志貴は誰かがこのフロアにやってきたようだったら用心して」
……用心してって、朝のような黒犬とかがやってきたら用心のしようもないんだけど。
「……はあ」
ため息がもれる。やっぱり、これは俺には重すぎる役割だ。
「……聞いておくけど。朝の時に襲ってきた黒犬っていうのは、おまえの敵が差し向けたヤツなのか?」
「差し向けた、っていうより街を監視するのがアイツの役割だったんだと思うわ。アイツの巡回ルートでわたしと志貴が話しこんでいて、結果的にわたしが居るっていう事がバレちゃったみたい」
「バレちゃったって、おまえの敵に?」
「そうね。体調が万全ならむしろ手間が省けるんだけど、今のわたしじゃ襲われたら逆に消滅させられかねないわ。とりあえず、力が戻るまでこうして身を隠すしかないっていうわけ」
……アルクェイドの敵、というのは街を騒がしている連続殺人犯―――つまり吸血鬼だ。
「……アルクェイド。俺、おまえに聞きたい事がある。俺の質問に答えてくれるか?」
「話をするぶんにはかまわないけど、どうしたのよ、急にかしこまっちゃって」
「―――ああ、大事なことをまだまったく聞いてなかったからさ。その、結局のところ、おまえの目的ってなんなんだ?」
「わたし? わたしは吸血鬼を追ってるだけよ。吸血鬼殺しがわたしの役割だから」
「ああ、たしかにそんな事をさっきから言ってる。けどアルクェイド、おまえは吸血鬼なんだろ?」
「なに、志貴ったらまだわたしのこと信じてないの?」
「いやっていうほど信じてるから安心しろ。
俺が言いたいのはそういう事じゃなくて、どうして吸血鬼であるおまえが吸血鬼を殺す、なんて物騒なことを言うのかってことだよ」
「あら、志貴は同族同士で殺し合うのは嫌いなんだ?」
……嫌いもなにも、殺し合い自体好きな部類には入らない。でも確かに、吸血鬼が吸血鬼を殺す、なんていうのはしっくりこないんだ。
「いや、なんか想像できなくて。吸血鬼っていうのは人間の血を吸うんだろ? なら殺す対象は人間であって、同じ吸血鬼じゃないじゃないか」
「血を吸う事と殺そうとする事は別物よ。
ま、それでも志貴の言いたい事はわかるわ。同じ種族同士助けあうべきだっていうんでしょ?
けどね、吸血鬼はそれぞれ同じ同類でありながらそれぞれが異なる生命種みたいなものなの。だから人間でいうところの仲間意識は希薄なのよ」
「……? じゃあその、おまえが追ってる吸血鬼っていうのはおまえとどこか違うっていうのか?」
「そうよ。わたしが追いかけているのは人間の吸血鬼だから、あなたたちの伝承に残っているものとほぼイメージは一緒ね。
人間の血を吸って、吸い殺した者を死者として使役して勢力を増やしていく―――わたしが追いかけているのはそういった吸血鬼よ。
この街に潜んでいるのは、そういった旧いタイプの吸血鬼なの」
───そういった吸血鬼って、吸血鬼にも種類があるらしい。
「……まさかとは思うけど。そいつをやっつけるから俺に盾になれ、だなんて事を言ってやがったのか、おまえ」
「───そうね、初めはそのつもりだった。けど、志貴と話をしているうちに気が変わったわ。
わたしはね、志貴。てっきり貴方が教会の人間だって思ってたの。
それなら敵の居場所をもう掴んでるんだろうなって期待してたんだけど、志貴ったらまるっきりふつうの人なんだもん。
敵の棺の場所はおろか、吸血鬼のことをまるで知らないし。
……うん、そもそもあの連中がこんな極東の無神論者の国にエクソシストを派遣するわけないものね。浅はかだったのはわたしのほうかな」
ぶつぶつと独り言を言うアルクェイド。
話が脱線してしまって、こっちはいい感じで置いてけぼりだ。
「アルクェイド、話が全然見えないんだけど」
「あ、ちょっと待って。……ええっと、どう説明しようかな……」
うーん、とアルクェイドは視線を泳がす。
……こいつ、どうにもあんまり会話慣れしてないみたいだ。
「いいから、今の状況を片っ端から口にすれば? 俺もわけがわからないけど、それなりになんとか話の筋を見極めるから」
「そう? ありがと、志貴」
「お礼はいいから、続けてくれ」
うん、とアルクェイドは素直に頷く。
「つまりね、この街にいる吸血鬼は旧いタイプの吸血鬼なの。自分は城主として君臨して、配下にした死者たちを街に放って、少しずつ勢力を増やしていくタイプ。
人間の血を吸って、吸った人間を自分と同じ吸血鬼にしてしまうっていう、普遍的な吸血種よ。
今はまだ分身である死者たちの数が少ないから能力はたいした事がないんだけど、犠牲者が増えれば増えた分だけ本体である吸血鬼の力が増すわ。
その前に本体を斃してしまえばいいんだけど、わたしはまだ敵の寝床を見付けてないのよ。
今回はよっぽど巧妙に隠れてるのか、あいつの気配さえ感じなかった。
それでも見付けさえすれば片付けるのは簡単なんだ。だけどまったく手がかりがない状態だから、仕方なく昼間も街を歩いて調べてたんだけどねー。
なんでかなあ、いきなり通りすがりの殺人鬼に襲われちゃって、今じゃ一時的にしろ『敵』である吸血鬼より能力が劣っちゃってる始末なのよね」
ちらり、と冷たい眼差しを向けてくるアルクェイド。たぶん、通りすがりの殺人鬼である俺へのあてつけなんだろう。
「……なるほど、とりあえず話は見えてきたよ。ようするにこの街には質の悪い化け物が巣くっていて、アルクェイドはそれを退治しにきた、と。
けどそいつの居場所がわからないから捜している時に、その―――俺にやられて、いまは弱ってるから回復するまで隠れてる……そういうコト?」
「わかりやすく言うと、そうだと思う」
「―――じゃあ次、本題。
アルクェイドは気軽に吸血鬼って言うけど、俺にはまだピンとこないんだ。
……そりゃあたしかにおまえは人間じゃない。それだけはわかるんだけど、だからって吸血鬼なんだって言われても実感がわかないんだ」
「そういえばそうね。志貴たちの知ってる吸血鬼像とわたしはちょっと違うわ」
「だろうね。俺は吸血鬼っていうのがホントにいるっていうことより、その吸血鬼がこんなヤツだなんて想像もしなかったし。
で、その違いっていうのはどんなものなんだ?」
んー、とアルクェイドは考え込む。
「そうね、少しぐらいは教えておいてあげたほうがいいのかもしれない。
いいわ、それじゃあ一時限目の授業は吸血鬼(1)についてにしましょう」
「……いいけどさ。なんだよ、その(1)っていうのは」
「志貴は素人だから基本的な知識から入らないといけないでしょ? だからまず初歩から教えてあげるっていうことよ」
「―――まあ、どうでもいいけど。とりあえず手短に頼むよ」
「ええっと、努力はするわ」
……アルクェイドは本当に話をする、というコトに慣れていないらしい。
まあ、時間はいくらでもあるからとりあえず文句もいわず、アルクェイドの話に耳をかたむける事にしよう。
「一般に吸血鬼というけど、わたしたちは大きく二つのモノに分けられるわ。
もとから吸血鬼であるモノと、吸血鬼になったモノ。
前者を真祖といって、後者を死徒と呼ぶの。
あなた達が吸血鬼って呼んでるほうは死徒のほうね。人間の血を吸い、下僕にして、太陽の光に弱く、洗礼儀式の前に敗退する。
わたしたちの敵も死徒に区別される吸血鬼よ」
いつのまにか『わたしの敵』から『わたしたちの敵』になっている。
……まあ、こうなっちゃ間違いはないから別にいいんだけど。
「……ふぅん。そのシトっていうのは初めから吸血鬼じゃないって言ったけどさ、それはどういうコト?」
「死徒はもともと人間だった者達よ。魔術の果てに不老になったモノか、真祖に血を吸われて下僕となったモノがいる。
どっちにしたって、吸血鬼となったモノたちは不完全ながらも不老不死の肉体を手に入れるわ」
「…………」
初めから吸血鬼だったものと、人間から吸血鬼になったものとがいる、ということか。
……なんだろう。
この話にはなにかひどい矛盾というか、構造的に大きな欠落があるような気がする。
「ねえ志貴。 志貴は吸血鬼にまつわる伝承をどのくらい知ってるの?」
「そうだな……ありきたりのイメージしかないよ。処女の血を吸ったり、睨むだけで人を金縛りにしたり、霧になったり、狼になったりするっていうのは、まあ一般的に聞くけど」
「うん、だいたいは当たってるかな。
処女の血を吸うっていうのは、まだ他の人間と体液の交換をしていない純粋な細胞と血液が、劣化していく自己の遺伝子を補うには最も都合がいいからよ。
死徒―――二次的に吸血鬼になった吸血種は、不完全な不老不死なの。
たしかに不老に成ったから寿命では死にはしない。けど、その分のエネルギーをつねに補充しないと消えてしまう。どんな生物だって栄養をとらないと活動できないでしょう? それと同じよ。
ただ吸血種は、栄養さえ取りつづけていれば寿命がない、という事だけなの。
死徒である吸血鬼はね、自分が生きていくのに必要だから血を吸うの。
もともとは人間だったから、不老不死の肉体というのは無理があるのよ。
彼らの肉体を構成する遺伝子は、違う器……吸血種になった時からもの凄い勢いで劣化していってしまう。
だからそれを補うために他人の血液を吸って、その遺伝情報を取り込むことで自身の肉体を固定してる。吸血鬼にとって血を吸うコトは食事ではなくて、存在のための最低限必要な行為なんでしょうね」
「…………」
難しい。それに、長い。
こっちの理解も追いついていないっていうのに、アルクェイドはかまわず話を続けていく。
「で、次。
睨むだけで金縛りにする、というのは魔眼の一種よ。目は言葉と並ぶ代表的な魔術回路だから、魔眼をもつ吸血種は多いわ。
わたしたちが持つのはたいてい魅惑の魔眼ね。
わたしたちが見た相手を魅惑するんじゃなくて、わたしたちの目を見てしまった相手を魅惑するの。強力な吸血鬼の魔眼は眼球から相手の脳に自らの意志を叩きつけて、完全に思考を掌握するんだけど、死徒の魔眼にはそれだけの力はないかな。
霧になったりするのは予め分身を作っておいて、それに意識を乗せている場合ね。用が済んだら分身の体を操る魔力をカットするから、自動的に塵に還るだけの話。
狼───他の動物に変わるっていうのは、破損した肉体を使い魔で補っている産物よ。
長い年代を生きた吸血鬼ほど、自らの破損した肉体の補修は通常の命では間に合わない。
人間は動物としては基礎能力が低い生物だから、肉体の補修には人間より種として優れている野生の獣を取り込んだほうが効率がいいの。
自らの肉体を獣で補っている吸血鬼は、必要な時にその獣をもとに姿に戻して使い魔として使役する。
えっと、聞いた話じゃ一千年クラスの吸血鬼で体中がぜんぶ使い魔っていうヤツがいるらしいわ。そいつが体内に内包してるケモノの数は六百六十六匹だとか」
「―――――」
アルクェイドの話は、ちょっと、いきすぎてると思う。
正直、俺なんかがついていける世界じゃない。
「えっと、こんなところかな。ざっと概要だけを説明したけど、これで吸血鬼がどんなものかわかってもらえた?」
「言葉の上でだけならなんとか」
というか、余計にアルクェイドが吸血鬼、という事実にピンとこなくなってしまった気がする。
「さて。それじゃあ次はわたしの番ね。実をいうと、わたしも志貴に大事なことを聞き忘れてたんだ」
「? なんだよ、俺に聞くようなことなんて何もないだろ。俺は吸血鬼でもなんでもない、ただの学生なんだから」
「ふーん。それじゃあ聞くけど志貴。貴方、どうやってわたしを殺したの?」
「は?」
「だから、どんな手段を使ったのかって聞いてるの。ルーンやカバラあたりの秘術には抗体耐性が出来てるからわたしには効かないし、抗体耐性が出来てないモノ───わたしがまだ経験したことのない魔術っていえばこの国の古神道と南米の秘宝ぐらいなものよ。
いえ、それだってあそこまでわたしを“殺して”おく事はできないわ。
答えて志貴。貴方、どんな年代物の神秘でわたしをあそこまで再起不能にしてくれたの?」
「年代物の神秘って……なにそれ?」
「歴史と想念を蓄えた触媒のこと! もう、この国にも神器ってあるんでしょう? たいていは法杖や剣、宝石や仮面を使用する対自然用概念武装のことだけど──ねえ志貴、貴方本当にそっちの方面の人じゃないの?」
「そっち方面もなにも、俺はただの学生だって言ったじゃないか。知ってる事なんてなにもないよ」
「うそよ。魔術師でもない人間がわたしを傷つける事なんてできないわ。……志貴、わたしに隠してることがあるでしょ?」
アルクェイドはむーっ、と怒った猫のように俺を睨む。……けど、そんな目をされてもこっちには隠し事なんて────ああ、あった。
「実をいうと一つある………けど関係あるのかな、これ」
むっー、とアルクェイドはまだ睨んでいる。
……どうも、このまま黙っている、というワケにはいかなさそうだ。
「それじゃあ言うけど……なんて言ったらいいのかな、俺さ、モノの切れる線が見えるんだよ」
「え?」
あ、呆れてる。
だろうな、こんな話ふつうは信じてくれないと思う。
「……それ、どういう意味?」
が、アルクェイドは真剣に問い返してきた。
さすがはふつうじゃないヤツ、こっちの期待をいい意味で裏切ってくれる。
「だからモノの切れる線が視えるんだよ、俺。
生き物とか地面とか、とりあえず触れられるものなら全部。
黒い線みたいでさ、それに刃物を通すとキレイに切断できるんだけど……これ、意味ある?
鉄をナイフで切れるっていうのは便利な事だけど、別に好きなところが切れるわけじゃないんだ。
線が視えてるところしか切れないし、おまえを切った時だって───その、ナイフなら女の肌ぐらい切れるだろ?」
「──────」
アルクェイドの目が真剣に───一度だけ俺に見せた、あの凶った瞳になっていく。
じろり、と。
見つめるだけでこっちの呼吸を止めてしまいそうな視線。
「────そう。直死の魔眼なんて童話の中だけの話だと思ってたけど、いるところにはいるものね。貴方みたいな、突然変異の化け物が」
「なっ――なんだよそれ。俺は吸血鬼に化け物だなんて言われる筋合いはないぞ!」
「化け物は化け物でしょう。『モノの死を視る』魔眼なんて、わたしたちでさえ保有している者はいないんだから」
「……? モノの、死をみる……?」
ええ、とアルクェイドは敵を見るような目つきのまま頷いた。
「志貴。貴方の目はね、きっと回線が開いちゃってるのよ。その目は生まれついてのものなの?」
「いや、こういうふうになったのは昔からだけど、生まれついてのものってわけじゃない」
「……ふぅん。それじゃあ以前に一度ぐらい死んでみたことがあるでしょう?」
「な────」
たしかに、八年前に死ぬような事故にあっているけど。
「やっぱり。潜在的な能力もあったんだろうけど、きっかけはそれでしょうね。……直死の魔眼、か。たしかにそれなら、間違いなくわたしだって殺せるわ」
ふう、と小さく息をはいて、アルクェイドはあの目をしなくなった。
「アルクェイド……おまえ、この線がなんだか知ってるのか?」
「貴方ほどじゃないけど、知識としてはわかるわ。貴方が見ているものはね、万物の結果、物の死に易い箇所なのよ。もっと解りやすく言うならあらゆる存在の死期……“死”そのものよ」
「――――」
……思い出した。
たしかにあの時。
このメガネをくれた先生も、アルクェイドと同じようなコトを教えてくれたんだっけ。
けど、先生の言葉とアルクェイドの言葉は微妙に違う。
俺が見ているものはただの線であって、そんな、死なんていう物騒なものじゃない。
「なにいってんだ。俺が見てる線ってのはさ、ただそこが切れるだけのものじゃないか」
「だからその線が『死』なの。
いい、志貴? ありとあらゆるものには終わりがある。それがいつになるかは個別差があるけど、とにかく果てというものはあるの。
死は到来するものではなく、誕生した瞬間に内包していて、いつか発現するものよ。
それが原因と結果。因果律って言葉、聞いた事あるでしょう?
発生している以上、あらゆるものには終わりがある。その終わりは初めから『いつになるか』は定められているのよ。それが物の『死期』というやつね。
で、それは初めから在るわけだから、『死期』という概念を理解できる機能、それと回線が合っている脳髄と眼球があるのなら目で視る事は不可能じゃない。
それが貴方の視ている『線』の正体よ。
あくまで概念でしかないけど、あえてあなたたちふうに理論づけるのなら分子と分子の結合のもっとも弱い部分、という所かしらね。
それともその個体の死因を発現させる、遺伝子に用意された崩壊のスイッチかな。
あっ、でもそれじゃちょっと理屈が合わないか。……うん、わたしは見えないから断言はできないけど、志貴が視てしまってるものは『線』だけじゃないんじゃない? 『線』よりは『点』なんだと思うけど」
「―――あ」
そうだ。
初めてアルクェイドを見た時。
自分が自分でないような、あの時。
メガネを外した俺の目は、いつものラクガキと―――ラクガキが流れ出している原因みたいな、黒い点が見えていた。
「……あった。あの時だけだけど―――たしかに、黒い点が視えてた。おまえの体に何個もあって、黒い線は点と点を結ぶように流れてた」
例えるのなら、それは血管のように。
「……なるほどね。『モノの死にやすい線』と『その死』か。よくそんな状態で今まで生きてこれたものだわ。よっぽど貴方はココロが穏やかなんでしょうね、志貴」
アルクェイドは淡々と語る。
俺は、彼女の言っている事がそれなりに把握できていたけど、はっきりいって何一つ認めたくなかった。
「───なんだよそれ。そんなものあるわけないし、ましてや視えるわけがないじゃないか……!」
「貴方は視えてるじゃない。
普通、生物は首を切ったら死ぬわ。これは切断したから停止した、という事よね。
逆にいえば、首が切断できない生物は死なないという事になる。あ、これはわたしのことだから例外と考えておいて。
で、貴方の場合はその原因を無視できるのよ。あらゆる外的要因を無効化するモノが相手でも、まず殺す。殺された相手はその後で『死んだ』状態になるんでしょうね。
切断したから停止した、ではなく、貴方の場合はモノを停止させて、その結果として対象が切断されるのよ。
ほら、これが化け物でなくてなんていうの?
ただ物が切れるだけの線って言うけど、その両目は今まで存在してきたどんな超常保有者よりも特異なものよ。
貴方はね、志貴。
あらゆるものを殺してしまう、死神みたいな目をもっているんだから」
「―――――――」
言葉がない。
アルクェイドの言うとおり、この目がそういうモノを視る目だというのなら。
俺が視ていたあの黒い線は、あらゆるものの、死期そのものだったっていうのか。
……なら、俺の周りは。
あんなにも、死で充満していたっていうのか。
「……じゃあ、なにか。おまえの言うとおりだっていうんなら、俺はおまえだって殺せるって事になるぞ」
「そう? じゃあ試しにやってみよっか」
アルクェイドは窓のカーテンを開ける。
電気のない部屋の中。
窓越しの月明かりだけが、かすかな明かりだった。
「ほら、いいから本気になってみて。あ、もしかしてそのメガネで視えないようにしてるの?」
「─────いいんだな」
もちろん、ただ視るだけのつもりでメガネをとった。
同時に、部屋じゅうに黒い線がのたくっていく。
窓の外には白い月。
昼間は強い陽射しのおかげで視えにくいけれど、微弱な月の明かりの下では、『線』は光ってさえ視えてしまう。
その中で。
アルクェイドの体にある『線』は、ひどくか細く、意識を集中しなくては視えないぐらいだった。
「あ―――」
「……志貴にやられてなければきっと完全に視えないでしょうけど、今はたぶん視えてると思う。
わたしね、夜は『死期』がないんだけど、昼間は多少できてしまうのよ。
志貴がわたしを殺せたのは昼間だったからだけど、その後の蘇生で力を失ってしまっているから、今は夜でも『死期』ができてしまってる。
―――ようするに不老不死でなくなったわけだけど、志貴、わたしの体の線が切れる?」
「――――」
……どうだろう。
たしかに線があるんだから切れるとは思うけど、あの時のように鮮やかに、一秒もかけずに切断するのは出来そうに無い。
「……やりにくいと思う。線が視えたり視えなかったりするから、アルクェイドが眠ってでもいないかぎり、できない」
「でしょう? それが貴方の最大の欠点ね。どんなに『死』が見えていようとも、その『線』を引くのは志貴自身の腕じゃないといけない。
いくらわたしが弱ってるからって、志貴に掴まるほど運動能力は低下してないもの」
……そっか。
言われてみれば、俺はすばしっこく動く動物を捕まえることが出来ない。
捕まえられない、ということは体に触れられないというコト。
つまり、こんな『線』が見えていても動くモノを殺す事は出来ないってコトか。
「―――痛」
ずきり、と頭痛が走った。
『線』を見ていると頭痛がおこるのは子供のころから同じだ。
メガネをかけて視界をもとに戻す。
「……………」
アルクェイドはじーっ、とこちらの様子を見つめている。
「……なんだよ。まだ何かあるのか」
「ううん、そうじゃなくて。志貴はそのメガネをかけていれば『線』が見えないの?」
「まあ、そうだけど。昔、俺の目がこうなったときに出会ったひとがくれたんだ。今じゃレンズだけしか使ってないけど、これのおかげでなんとか普通に生活が送れてるんだよ」
「そっか。そうだよね、どんなに強いココロがあったって、死とずっと向き合ってたら発狂するか目を潰すしかないものね」
言いつつ、アルクェイドは近寄ってくる。
「ね。それ、見せて」
「―――ヤだ。これは大事なものだから、渡さない」
「別に壊したりしないって。本当に見るだけだからいいでしょ?」
アルクェイドは力ずくで奪いかねないぐらい、じりじりと近寄ってくる。
……あやしい。
自分から『壊したりしない』なんていう所が、すっごく怪しい。
「―――見るだけでもダメ。路地裏の時におまえのばか力は思い知らされたからな。何かのはずみで握り潰されたりしたらどうしようもない」
「むっ。なによ、そのばか力って。言っておくけど、通常時の筋力だったら志貴のほうが上なのよ。わたし、そう無闇に物を壊したりはしないんだから」
言いつつ、力ずくでメガネを取ろうと手を伸ばしてくるアルクェイド。
……その態度がますます怪しい。
とっ、とベッドの上を転がってアルクェイドから離れる。
「あっ、逃げた」
「そりゃあ逃げるよ。言っとくけどな、このメガネだけは渡さないからな。万が一にも壊されたりしたら代えがないんだ。
だいたいな、このメガネがないと正気じゃいられないって言ったのはおまえだろ。それとも俺にそうなれって言いたいのかよ、おまえは」
「え―――? う、ううん、別にそんなことはないけど」
……露骨に俺から視線を逸らすアルクェイド。
「―――あのな、アルクェイド。
何企んでいるかは知らないけど、メガネがなくなったら俺はおまえに協力するどころの話じゃなくなるんだぞ。四六時中線が見えてたら、気が狂う前に頭痛で頭がパンクしちまうんだから」
「ふーん。『死』が視えてると脳に負担がかかるのかしらね。……うん、志貴の目にはなにかと原因がありそうだけど、とりあえずわたしが教えてあげられるのはこれぐらいかな。機会があったらもう少し詳しく教えてあげるわ」
「けっこうだよ。あいにく長話は嫌いでね」
「そうなんだ。わたしは誰かと話すのって好きだけどな」
アルクェイドは屈託なく笑った。
それこそ本当に、ただ話しているだけで楽しいんだよ、というように。
夜はふけていく。
アルクェイドはベッドに座り込んでいて、俺も同じようにベッドの上でぼんやりと時計を眺めていた。
時刻は午前四時すぎ。
夜明けまであと一時間ばかりというところだ。
「あと一時間、か」
今までこれといった異状はなかったし、アルクェイド本人は緊張している素振りさえない。
とにかく、あたりはまったくの平和だった。
なんとなくだけど、今夜はこのまま終わるのだろうという確信があったりする。
「ね、志貴」
アルクェイドから、これで何度目かの呼びかけがした。
「なんだよ。もう話すような内容なんてないからな、こっちは」
「そうなの? せっかくこうしてるのにもったいないね」
「……あのな。さっきから何時間おまえの意味のないお喋りにつきあってやってると思ってるんだ。六時間だぞ、六時間。なにが疲れたかって、見張りなんかよりそっちのほうが疲れたよ、俺は」
むっ、とアルクェイドは不満そうにこちらを睨む。
―――そうなのだ。
どういったワケなのか、この六時間アルクェイドはしきりに俺に話しかけてきていた。
弱っているのなら眠ればいいものを、「話しているほうが楽しいから」なんて言って、結局こうして二人で向かい合ってしまっている。
「………はあ」
ホントに、コイツの考えているコトは俺にはわからない。
―――ぐうううう。
おまけにハラも減ってきた。
考えてみれば今朝の朝食からこっち、もうじきまる一日何も食べていないことになる。
「おなかが減ってるならなにか食べたら? せっかくいいホテルに泊まってるんだから、ルームサービスを使えばいいのに」
「いいよ、ハラがいっぱいになると緊張感が和らぐからさ。それより、そういうおまえこそ何か食べたほうがいいんじゃないか? 弱ってるクセに眠りもしないんだから、せめて食事ぐらいしろよ」
「志貴がしないならわたしもやめとく。普通の食事もそれなりに意味はあるけど、一人で食べてもつまらないもの」
「普通の食事って、食事に普通も特別も―――」
……ああ、そうだったっけ。
アルクェイドは吸血鬼なんだ。そうなると、こいつだって人間の血を吸うコトが『食事』っていうコトになるのか。
「―――あるのか、おまえには。吸血鬼だもんな、血以外のものはあんまり口にしないんだ」
とてもそうは見えないけど、アルクェイドは吸血鬼なんだ。
吸血鬼は生きるために人間の血を必要とする、とアルクェイドは言った。
なら────こいつは今まで誰の血を吸って、何人の人間を殺してきたのだろう?
「────」
ちらり、とアルクェイドの顔を盗み見る。
……想像できない。
コイツだって吸血鬼だと解ってるのに、どうしてか、俺はこいつが人の血を吸っているところが想像できないでいる────
「なに? わたしの顔になんかついてる?」
「……!」
視線が合ってしまって、あわてて目をそらす。
アルクェイドはじーっ、と俺の顔を見つめてから、ふふん、と意味ありげな笑みをもらした。
「気になる?」
「な、なにが」
「わたしがどのくらいの人間から血を吸ったのか、気になる?」
「う─────」
……完全にこっちの考えが見抜かれてる。
アルクェイドの笑みは余裕に満ちていて、なんだかとにかく気にくわない。
なんだかとにかく気にくわないけど───それ以上に、アルクェイドが今までどれほどの人間を殺してきたのか、気になる。
「……そりゃあ気になるよ。俺はおまえと協力しあってるんだ。ならそれぐらい知っとかないと、いつおまえが心変わりして襲いかかってくるか予測がつかないじゃないか」
それは、本当に困る。
なるほどねー、とアルクェイドは納得する。
「それじゃあ問題。わたしは今まで何人の血を吸ってきたでしょう?」
タン、と軽やかにベッドから跳ねて、アルクェイドは窓の近くまで歩いていく。
「何人のって、それは―――」
アルクェイドはにまにまと笑って、黙り込む俺を愉快そうに眺めている。
……くそ、あきらかに挑発してる。
いいだろう、なら答えてやる。
そうだな────きっと、
「じゃあ百単位、かな」
「ざんねん、はずれです」
「なら千単位」
「はい、それもはずれです」
くすくすとアルクェイドはおかしそうに笑う。
……なんだか、すごく悔しい。
「くそ、それじゃあ、そんな事はないと思うけど、まさか十人単位か?」
「それもはずれ。もう、十だの百だの千だのって、志貴はわたしのことそういうふうに見てたわけね。ひどいなぁ、それじゃわたし見境なしじゃない」
「違うのか? 吸血鬼ってのは見境なしなんだろ。人間だって生きてるだけで腹が減るんだ。おまえたちだって生きてくためには血を吸わなくちゃいけないなら、見境なんてないじゃないか」
「そうね。それはそうなんだけど」
「わたしは何かの血なんて、この八百年一度も口にしたことないかな。ふつうの人間を殺した事だって、一度もないよ」
――――え?
「待てよ────おまえ、それ本当なのか」
「本当よ。だってわたし、血を吸うのが恐いんだもの」
───はあ?
血を吸うのが、恐いだって?
「嘘だろ? 血を吸うのが恐いって───おまえ吸血鬼なのに、どうして」
「……きっと臆病なのよ、わたしは。だからいつまでたっても、吸血種として半人前なんだ」
窓から夜空を見上げながら、アルクェイドはぼやく。
彼女はそのまま、長く空を見上げたままだった。
白い後ろ姿はおぼろげで、幻のように霞んでいる。
「……そっか。半人前、なんだ」
呟いて、俺は胸を撫で下ろした。
……なんだか、俺は喜んでる。
安堵するのは当たり前。
だって目の前の相手がそう凶悪な存在じゃないと解ったんだ。
とりあえず彼女の言葉を信じるのなら、俺は無闇に殺されるような事はないだろう。
だから安全。……安全なんだけど、俺はそんな事なんかよりもっと違うことでホッとしていた。
───まったく、どうかしてる。
例えばアルクェイドが半人前である事が嬉しいような、そんな的外れな安堵の仕方をしてるなんて。
「あ――――」
くらり、と微かに眩暈がした。
「志貴? どうしたのよ、そんなに額に汗をうかべちゃって」
「いや、あたまの奥でズキッて痛みが―――」
アルクェイドに答えて、愕然とした。
アルクェイドの背中の窓。
そのガラスの向こう、まだ夜の闇に沈んだ街並のただ中に。
蒼い鴉が、こちらを見つめていた。
「あいつは――――」
ぼんやりと窓の向こうを見つめるしかできない。
アルクェイドも窓に振り向く。
「……ネロ?」
『イカニモ。ヨウヤク見ツケタゾ、真祖ノ姫ヨ』
どこからか。
そんな意味合いの意思が、部屋の中に流れ込んだ。
アルクェイドの目が敵意に満ちる。
窓の外の鴉はクワア、と甲高く鳴いた。
『コレマデダ。イマスグ、其処ニ行クゾ』
蒼い鴉は飛び去っていく。
あとには、ただ夜の闇と白い月だけが残った。
――――――とたん。
ゴン、という重苦しい音とともに、部屋が激しくゆさぶられた。
いや、正しく言うのなら。
今の振動は、ホテル全体を揺らしたのだ。
「なんだあ―――!?」
ベッドから立ちあがる。
アルクェイドは黙ったまま、口惜しそうに唇を噛んでいるだけだ。
「アルクェイド、今の―――」
「――――――」
アルクェイドは答えてくれない。
「……なんか言ってくれよ。いまのは地震なんかじゃないよな」
―――例えばそう、ホテルのロビーに大きなダンプカーが全速で突進してきたような、そんな衝撃だったと思う。
「……アルクェイド!」
アルクェイドは、答えない。
耳をすませば、下の階のほうから音が聞こえてきていた。
……アルクェイドは深刻な顔をしている。
今の自分には何の力もない、とアルクェイドは語っていた。
だから、何も話そうとしないのだろうか。
「―――――」
ただ時間だけが過ぎていく。
二分。
さっきの衝撃から二分ほどたっているのに、ホテルはやけに静かだ。
アルクェイドはじっと黙っている。
唇をかみ締めて、何かに耐えるように。
見れば、彼女の唇からは赤い血が一筋、ゆっくりと流れ出していた。
「――――アルクェイド――――」
不安からか、それとも悔しさからなのか。
彼女は自分で自分を抱くようにして、じっと、何かを堪えている。
彼女はこの部屋から出ない、といった。
なら。
俺は、何のためにここにいるのか。
―――俺が、外の様子を見にいくべきだ。
「――――――よし」
やる事なんて、初めから決まっている。
ポケットからナイフを出して、部屋の扉まで歩いていく。
「――――志貴?」
「外の様子を見てくるよ。俺が帰ってくるまで、部屋から出ないで」
何か言いたげなアルクェイドの視線を振りきって、廊下へ出た。
廊下に人影はない。
……部屋の中では聞こえなかったけれど、廊下はがやがやと騒がしかった。
このフロアが騒がしい、のではない。
騒音は足元から。
下の階はごちゃごちゃと騒がしくて、なにやら何人もの人の話し声が響いてきている。
……おかしい。
時刻は午前四時をすぎた頃だ。
早起きにしたって、こんな時間に大勢の人間が目を覚ましているのは普通じゃない。
「…………異状は、ないよな」
廊下を歩いていく。
下の階からのざわめきは、海の波の音に似ている。
騒がしいのに―――ひどく孤独だと感じる、閑散とした騒音。
「―――――つ」
ナイフを持つ指先がかじかむ。
ぶるりと首のうしろが寒い。
なにか、こめかみのあたり。
眼球の奥から、痛みがやってきているよう。
堪えながら、さざなみのする廊下を歩いていく。
「――――――」
いた、い。
目が、いたい。
あたまが重くなって、そのまま倒れてしまいそうな浮遊感。
ああ、これは知ってる。貧血で倒れる直前の感覚だ。
「あ―――ぐ…………!」
いたい。
いたいから、耐えきれなくなって、メガネを外した。
……エレベーターは二つある。
一つは一階に、もう一つは五階で止まっていた。
「………」
厭な空気がする。
重苦しいような、張り詰めたような、そんな雰囲気。
ボタンを押して、エレベーターを呼びつける。
とにかく、下の階がなんで騒いでいるかを知りたい。
エレベーターはあがってくる。
……六階。
………………七階。
……………………………八階。
……………………………………………九階。
「―――くそ、なにやってんだ」
エレベーターはひどくゆっくりしている。
なにか―――致命的にとりかえしのつかない事になっているという予感だけが、正体のない影になって背中にのしかかってくる感覚――
…………………………………十階。
あと一階で、ここまでエレベーターは上がってくる。
「―――――早く」
息がつまる。
気がつけば。あれほど聞こえていた下の階からの雑音は、とっくの昔になくなっていた。
チーン、と間の抜けた電子音をあげて、エレベーターがやってきた。
扉が開く。
中には人がいない。
狭い鉄の箱の中は、ぞっとするほど小綺麗だった。
「――――――」
中に入って、十階のボタンを押した。
ごうん、と重苦しい音をたてて、エレベーターは下がっていく。
たった一階分の距離が、とても遠く感じる。
現在位置を示すランプが十階にさしかかった。
「やっとついた、か―――」
とたん――
世界は、一切の闇につつまれた。
「…………!?」
闇。完全な闇。
一切の光のない、完全な闇。
その中で。
うっすらと光る、死の『線』だけが確かだった。
「な―――ん、で」
息がつまる。
周囲からは、なにか―――ガサガサと、虫が這いずり回っているような音が聞こえてくる。
ガサ。
ガサガサ。
ガサガサガサガサガサ………………!
「っ―――――!」
叫び出しそうになって、なんとか声を堪えた。
「……まず、よく見て……」
昔、先生が教えてくれたみたいに。
「……そのあとに、よく考える……」
はあ、と大きく息を吸いこんで、なんとか思考を落ち着かせる。
「……そうか……停電、か」
……けど、こういうホテルっていうのは非常時の電源が用意されているはずだ。
それさえ働かない、という事はケーブルか何かのトラブルだろうか。
ガサ、ガサ、ガササササササササ――――――
「ひっ………」
ナイフを握り締めて、身を硬くする。
虫が這いずり回るような音は、エレベーターの周りからしている。
なにか、本当に。
巨大なゴキブリとかそういったものが、何百匹とエレベーターの外側に張りついているような、そんな気配がしてくる。
「―――ここにいても、ダメだ」
たしかランプは十階で止まっていたはずだ。
なら、扉さえ開ければそこは十階のフロアというコト。
「――――切るか」
呟いたあと。
唯一見えていた『線』にナイフを刺し入れ、エレベーターの扉を切断した。
「っ…………!?」
扉を開けた瞬間、なにか――――重苦しい臭いに包まれた。
十階のフロアじゅうに、イヤな臭いが充満している。
なんていうか―――吸っているだけで気管が塞がっていきそうなほど、濃密な臭い。
「―――――」
それでも、一歩踏み出せばそこは十階の廊下だ。
遠くで非常階段のランプがともっていて、そこだけがぼんやりと明るい。
それ以外は、ただ黒く塗りつぶされた世界だった。
一歩、外に出る。
「………誰か」
いませんか、と言おうとして、やめた。
よくわからない。けど、声をあげるのだけはまずい。
さらに一歩。
ゆっくりと廊下に出る。
廊下には、厭なにおいが充満していた。
生臭い。獣の臭いがする。
それと、どこからかゴリゴリという、何かを削るような音。
「………………」
さっきから首筋がキィィン、と痛む。
暗闇は、恐い。
この静けさが、恐い。
……ここで何が起きたのか、知ることがなにより恐い。
後ろの首、背骨の頂点が痛いのは、あまりの緊張を堪えているせいだ。
びりびりとするその痛みは、
今にも叫び出して逃げたいという気持ちを、必死に押さえつけている代償だった。
ガサ、ガサ、ガサ。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
ベリ、ベり、べり。
「はっ…………」
呼吸が乱れる。
体中、汗でぬらぬらと湿っている。
……ナイフを片手にして、俺は、一歩も動けないでいる。
だって。少しでも動いたら、なにか例えようもなく恐ろしいモノを見てしまいそうな気がするんだ。
「はっ……はっ……」
それでも―――上の階に戻らないと、まずい。
……この階にこのまま留まっているのは、それ以上にまずい。
こうして立ち止まっている一秒一秒が、自分の寿命を一年ずつ削っていっているぐらい、ものすごい速度で『死』が迫ってきている気がする。
「はっ……はっ……はっ―――は」
幸い非常階段のランプのおかげで階段がある場所はわかる。
この廊下の奥。
あの緑の非常灯まで行けば、上の階へ行くことができる。
ナイフを握り締めて、闇の廊下を歩きだした。
―――――ぴちゃり。
、と。足元で音がした。
「―――――」
廊下は水びたしになっているらしい。
それ以外にも、歩いているとゴツゴツと何かに足があたる。
「―――――」
それでも声はあげない。
全身を包むイヤな臭いを堪えながら、とにかく非常灯を目指す。
非常灯まで、あと、ほんの数メートル。
その時、なにか非常灯の下でうごめいている物が見えた。
「………………え?」
殺していたはずの声があがった。
ぐっちゃぐっちゃという生ぬるい音。
ごり、という乾いた音。
はあはあという荒い獣の息遣い。
「な―――――」
非常階段の緑色の明かりの下で。
さまざまな動物たちが、人間らしきカタチのモノに、群がっている。
どんな動物たちがヒトを食べているのかはわからない。
廊下は暗くて、非常灯の明かりは弱すぎる。
だから、こんなイメージしかわかない。
―――何十匹というゴキブリが、わさわさと笑い声のように羽音をたてて、人間の死体を咀嚼している。
俺にはそんなふうにしか、この悪夢が見て取れなかった。
ガサ、リ。
やってきたエレベーターから、なにか、物音が。
「は―――――」
後ろに振りかえる。
闇に目が慣れたせいだろうか。
それとも非常階段の明かりのおかげなのか、いままで自分が通ってきた廊下がどのようなモノに変わっているか、わかってしまった。
廊下は一面の赤い海。
その海の中、人の腕やら足やらがころがっている。
水浸しの廊下。なにやらゴツゴツと足にあたった硬いもの。
それらが、さっき俺が踏みしめてきたモノか。
「――――――」
あたまが真っ白になる。
廊下が赤いのは、地面だけだった。
壁や天井にはべったりと、なにか黒いモノたちが張りついている。
明かりがない故に黒く見えるんじゃない。
もとから、ソイツらは真っ黒だった。
ソイツらはカタチというものがなく、液体のように壁という壁、天井という天井に張りついている。
ただ、それらが動物だとわかったのは、目だけが。
爛々と輝くさまざまな形の獣の目が、自分というただ一人生きている人間に対して向けられていたからだ―――――
「ひ………」
悲鳴をなんとか押し殺す。
獣たちはじっと俺を見つめている。
声をあげた瞬間に襲いかかろうと、じっと息を潜めている。
「は、――――は」
乱れる呼吸をなんとか整える。
声をあげれば、一斉に襲いかかってくるのが、イヤというほど感じ取れた。
壁にいるモノたちは、一様に同じ目をしていない。
中には何の冗談か、サメらしきものの目まで、壁に張り付いているようだった。
「……………」
動け、と足に命じるのに、手足はぴくりとも動いてくれない。
――――動けない。
このセカイを見てしまった以上、もう足が動かない。
ごり……ごり………ご………り………
非常灯の下で鳴っていた音が小さくなっていく。
おそらくは―――あの獣たちが、最後の死体を食べ終えようとしているのだろう。
「……………」
息がつまる。
カサカサという音が近寄ってくる。
どうやら―――あの連中は、遠野志貴という次の獲物を見つけたのだ。
「あ…………」
けれど足が動かない。
ここはもう違う世界すぎて、俺の意識はまともに働いてくれない。
―――失敗した。
俺は間違っても、この階になんか来るんじゃなかったのだ――――
―――その時。
かつかつかつ、なんていう、やけに聞きなれた音が聞こえてきた。
いたって普通の、なんでもない、人間の足音。
それはついさっきまで自分がいた、世界の常識みたいなナンの変哲もない音―――
「あああああああ―――――!」
麻痺していたあたまが、凝固していた両足に力をこめる。
走り出す。
廊下に充満した赤い血を跳ね上げて、非常灯に向かって走り出した。
逃げるんだ。
早く、一分でも一秒でもはやく、この場所から離れなくっちゃ………!
けれど、それは間違いだった。
俺が走るのに反応して、壁という壁、天井という天井に張りついていた黒いモノは、波になって迫ってきた。
「っっっっっ!」
全力で階段へと走る。
けれど、黒い波の速度は俺なんかより何倍も速くて、あっというまに俺の体を―――
―――飲み込ま、なかった。
ぎ、ぎぎぎぎ、ぎ。
そんなうなりをあげて、黒い波は俺の目の前で停止してしまっている。
「……?」
わけがわからない。
わけがわからないけど、きっと、これが最後のチャンス。
走る。階段に向かって走る。
非常灯の下にいた動物たちは、俺ではなく、さっきまで俺がいたエレベーターの前―――かつかつと足音が聞こえてきた方へ走っていく。
動物たちが走っていった先で、ザンザンザン、と包丁で野菜を切るような、そんな小気味いい音が聞こえる。
なにか―――人影らしきモノが、黒いケモノたちを切り捨てている――――
「―――――?」
けど、それを確認している余裕なんてこっちにはない。
俺は這いつくばるように手足をつかって、犬のように非常階段を駆けあがった。
……十一階にあがってきた。
周囲はまだ闇。
けど、ここにはあの臭いがしない。
ケモノと、血と、臓物にまみれた、生臭い臭いがしない。
「は――――あ」
なんとか立ちあがって、壁沿いにアルクェイドの部屋へ歩いていく。
「―――――」
電気がついた。
このフロアは、以前となにも変わっていない。
変わっているものといえば、俺の体が―――ところどころ、人の血にまみれているというコトだけだった。
「は――――――」
ズボンは、初めから真っ赤な色だったみたいに、一面の朱。
腕や胸、顔にだって、赤いまだら模様がついてしまっている。
「はは――――――」
そういう、コトだったんだ。
エレベーターの前で、下の階からの物音が途絶えた時に気がつくべきだった。
つまり、あの時。
もう、生きている者は誰もいなかったということを。
「はは―――――は」
それは、なんだ。
今のはナンだったんだ。
一面の血の海。
下の階がああなっていたのなら、他の階はどうなってしまったのか。
あの殺戮はなんだ。
あの地獄はなんだ。
これも――――あれもこれもそれも、ぜんぶアルクェイドのいう『敵』ってヤツの仕業だっていうのか―――――!
「――――――」
ぎり、と歯を鳴らす。
このまま砕きそうなぐらい、歯と歯をかみ締める。
まだ体は震えている。
まだ意識は麻痺している。
けど、それ以上に―――俺は、あの光景が認められない。
さっきのはなんだ。
ようするにアレか。あんなワケのわからない動物たちに、下の階に泊まっていた人間はみんな食い殺されたのか。
食い殺されたのか。
問答無用に、およそ一方的に、逃げる事も助けを呼ぶ事もできず、無意味に殺されたっていうのか……!
「ふざけ―――」
ふざけ、やがって。
ナイフを強く握り締める。
と。
チーン、と陽気な電子音をあげて、十階に止まったままだったエレベーターが上がってきた。
「――――――」
もう、十メートルは離れてしまったエレベーターへ振りかえる。
ドアが開く。
そこには―――二匹の黒い犬が、いた。
「――――――」
……そうか。俺を、追いかけてきたのか、おまえら。
「―――――は」
ナイフを両手で握る。
黒犬がエレベーターから飛び出してくる。
二匹の黒犬は走りはじめた。
当然、最後の獲物である俺に向かって。
「は―――――!」
黒犬が向かってくる。
その体には無数の線と、その額には死の点が視えている。
――――ためらわずに。
まず、俺に跳びかかってきた一匹目の額を突き刺した。
断末魔もあげずに黒犬は床に落ちる。
どろり、と黒い液体になって溶けていく。
そのあと。
もう一匹の黒犬が、跳ねてきた。
黒犬が跳ねる。
カレらの速さは人間の比ではない。
十メートル程度の廊下なんて、それこそ二秒とかからなかった。
「く――――!」
ナイフを構えなおすけど、間に合わない。
黒犬の口が開く。
俺が持っているナイフなんかより何倍も鋭い牙をそろえた口が、的確にこちらの喉元へと向かってくる。
確実かつ迅速。
カレらが迫ってくる、と認識できた瞬間。
黒犬の牙は、ガギリ、と音をたてて俺の喉に食いついた。
遠野志貴は、死んだ。
それは間違っている。
こんなコトぐらいでは殺されないし、死んでもやらない。
オレは、この程度の惨劇じゃためらわない。
――――夏の、暑い日。 ずっと昔、それとも八年も前の昔。
オレは、もっとひどいコトを、目の当たりにしていたはずじゃないか――――
ざく。
首筋に噛みついた黒犬の額に、ナイフを突きたてた。
黒犬が首に噛みついて、そのまま噛み切ろうとするよりわずかだけ先に、腕が動いてくれた。
自分でもほれぼれする。
まるでモノを斬る機能しかない機械みたいに、無駄なく目の前にある犬の眉間にナイフを刺した。
そこが黒犬の『点』だったからだ。
普通、脳が破損しても筋肉というものは脳の下した命令を実行しようとする。
頭を貫いたところで、黒犬の口は俺の首を噛みきるだろう。
ああ、まあ―――その、普通なら。
だが、黒犬は『死』んでいる。
死は停止だ。こいつは俺に殺された時点で、あらゆる効力を失った。
二匹目の黒犬も床に落ちる。
どろり、とそのまま黒い染みになって、ホテルの廊下を黒く染めていく。
「は―――あ」
疲れた。
ドン、と壁に背中を預けて、天井を見上げた。
―――あたまが、いたい。
世界はツギハギだらけになって、そこかしこに黒い死の点も視えてしまって。
体中は冷え切っているのに、ただ理性だけが熱病にうなされている。
「―――く」
すぐ近くには二匹の黒犬の死体。
自分の片腕は血にまみれていて、もう片腕には赤いナイフ。
……ついでに言うのなら、床の下の階層には数え切れないほどの人の死体。
「――――は、はは、ははは」
笑うしかない。
だって、こんなのは現実じゃない。
こんなのが現実であるはずがない。
俺はいつから、瞳をあけたままで、悪い夢なんかを観てしまっているんだろう―――?
キンコーン。
「え――――?」
ひどく場違いな明るい音がした。
「……くそ、なんだこの頭痛―――」
刃物で突き刺されるような頭痛を堪えながら、物音がした方に向く。
「エレ……ベーター……?」
今のはもう一つのエレベーターが上がってきた音らしい。
扉が開く。
その中には、黒いコートを着た男が一人。
頭痛が、一段と強くなる。
「あいつ――――」
そう、見たことがある。
たしかに、自分はあの男を見たコトがあったはずだ。
「―――――――」
男は無言で向かってくる。
「おまえ―――!」
ナイフを構えて男を睨んだ。
「―――――――」
けれど、男はまったく反応しないで歩いてくる。
こちらのことなど、まるっきり眼中にないというふうに。
距離が迫る。
あと少し―――ほんのあと一メートル、というところまで近づいて、ようやく男はこちらに気がついたようだった。
その、血走った目。
人間の持つ目とは隔絶したその目を見た瞬間、体の自由は、まるっきりきかなくなった。
「皆殺しにしたはずだが、まだ残っていたか」
男はぐるり、と廊下に転がる二匹の黒犬の死体を見た。
「――塵どもめ。肉片ひとつ片づけられぬのでは、我が肉体である資格はない」
不快げに呟いて、男はざあ、と片腕をあげた。
コートがマントのように持ちあがる。
―――どうかしてる。
黒い犬たちは、びゅるん、と音をたてて、男のコートの中に消えてしまった。
「あ―――――」
叫び声さえ、あげられない。
男のコートの下は真っ黒で、輪郭というものしか存在しなかった。
そこにあるのは、ただ、泥のような闇だった。
「やば―――――――」
やばい。
ともかく、コイツはやばすぎる―――
そう本能が危険信号をかき鳴らしているっていうのに、指先一つまともには動いてくれない。
黒いコートは近づいてくる。
「――――――!」
このまま、ここにいては、やばい。
さっきから止まない頭痛が、耐えきれないぐらい強くなって、ここが危険だと訴えつづける。
どんな手段、どんな方法を用いても、すぐさまここから離れなくては命が亡いと。
―――――だが、とうに遅い。
目の前には男がいる。
その瞳はまったくこちらを見ていない。
「食え」
スラリ、とコートの片腕があがる。
その下の混沌とした闇。
そこから、何か巨大なモノが現れた。
ごう、と。
二つの風切り音が閉じられる。
男のコートの下から現れたソレは、人間を軽く丸呑みできそうなワニの口だった。
「あ―――――――」
―――思考が、バーストした。
とっさにワニの口めがけてナイフを振り下ろす。
けれどそんなモノに何の効果もない。
ぞぶり、という音。
「っ――――――!!!!!!!!!」
床に倒れた。
「はっ―――はっ――――はっ」
喉が壊れた。
呼吸というより、吐血。
心臓というポンプが、喉から、自分自身の血を吐き出させている。
「が――――あ、ああ、あ」
思考/が割れる。
痛みで 意思が 分断され/てる。
見れば。
俺の腹は、右半分が、まるっきり存在していなかった。
「―――志貴!?」
……声が、聞こえる。
でも、あんまりよく聞こえない。
「貴様の番犬にしては不出来だな、ソレは」
……男の声。
「―――信じられない。混沌とも名づけられた吸血種が、こんなくだらないゲームにのってくるなんて。なんだか出来の悪い夢みたいだわ、ネロ・カオス」
……アルクェイドの声。
「同感だな。私も、真祖の生き残りを捕らえるなど、そのような無謀な祭りの執行者にしたてあげられるとは夢にも思わなかった。
私にとっても、これは悪夢だ」
……男の、低い、声。
「……しかし、これはどういう事だ?
私の前の執行者は貴様に傷一つ付けられなかったという話だが、それはどのような間違いなのだ。
今の貴様の存在規模は脆弱すぎる。
一介の亡者にも劣るその衰退―――私が来る前に教会の者たちにでも襲われたか、アルクェイド・ブリュンスタッド」
……アルクェイドの声は、聞こえない―――
「……解せぬな。貴様を害せるほどの概念武装は限られている。アレを保有しているのは教会の殺し屋どもだけだ。このような極東の地に、埋葬機関が派遣されるとは思えぬが。
だが、どちらにせよ私にとっては僥倖だ。貴様がそこまで弱っている是非は問わぬ。
勝機があるうちに、その首を貰い受けるのみだ」
……カツン、という足音。
黒いコートの男は、その首を貰いうけるなんて言っておきながら、エレベーターへと去っていっている、ようだった。
「………………?」
ワケが、わからない。
ただもう―――熱くて。
意識が、ぼんやりと途絶えていく――――
「あ、気がついた」
「……アル……クェイド……?」
閉じかけていた目をあける。
目の前にはアルクェイドがいて、ここはホテルの廊下らしい。
「どう? とりあえず傷のほうは塞がってると思うんだけど、まだ痛むかな」
「……………?」
傷のほうは塞がってるって―――そんなコト、絶対にない。
俺があいつにつけられた傷は、もう傷なんて呼べるものじゃないんだ。
なにしろ腹が半分、ごっそりともっていかれた。
アレで生きているほうがおかしいし、あの傷が塞がるなんてコト、それこそ奇跡だ。
「――――あれ? ……なんで生きてるんだ、俺」
体を起こして、自分の体を確認する。
……痛みはない。
腹の右半分の部分は、とりあえず元通りになっている。
……その、なんだか黒くてぶよぶよしているみたいだけど。
「なっ、なっ、なっ―――――」
「なっなっなって、なに?」
「なっ、なに、コレ……?」
自分のおなかでぶるぶるしているモノを指差す。
たしかに痛みはないし、力も湧いてくるような気がするんだけど、これと似たようなものを、さっきまで見ていた気がするのは、気のせいだといいんだけど………
「ああ、それ? ネロの体を補強している使い魔よ。志貴、自分がやられる時に使い魔を殺したでしょ? それがまだ生きてたから、志貴の体の代わりになってもらったの」
「――――使い魔って、その、やっぱり―――」
……あの黒いコートの男から出てきたワニの事だろうか。
「そ。良かったね、志貴。これでそこの部分だけはぱわーあっぷできたよ」
心底嬉しそうにアルクェイドは笑った。
こっちとしては、無論、冗談ではすまされない。
「なっ、なんてコトしてくれるんだおまえはっ……! ひと、人の体に勝手におかしなモノつけやがって、一体なに考えてるんだよっ……!!」
「なにって、志貴を助けてあげたんじゃない。あのままじゃすぐに死んでたし、わたしは他人を治癒することなんてできないし。
それとも志貴、あのまま死んでいたほうが良かったの?」
「―――いや、そりゃあ助けてくれたのは感謝してるけど、でも―――こんな体で、この先どうやって生きていけっていうんだ……!」
「あ、その点は安心して。もともと使い魔は主と切れてしまえば、あとはただの肉片だから。
今はそうやってカタチが定まってないけど、そのうち志貴の体の情報に擬態して、ちゃんと元通りになってくれるわ。
くわえて、そこだけは今までの志貴の体より頑丈になってるよ。志貴が魔術を学べばもとのワニのカタチにだって戻せるかもしれないし」
嬉しそう、というより、羨ましそうにアルクェイドは言ってくる。
「嬉しいでしょ、志貴。こんなコトならいっそ体中破損してくれれば良かったのにね」
「ばっ―――嬉しいわけないだろ、こんなモノつけられて……!」
「うそ、志貴ったら嬉しくないの!?」
「これっぽっちも嬉しくない! ……そりゃあ、おかげでこうして生きているけど、それでもこんな方法は金輪際ごめんだからな……!」
「……ん。わかった、それじゃ次は違う方法でなんとかする」
ぼそり、と呟くアルクェイド。
……反省しているのか、それともまったく懲りていないのか、どっちともとれないセリフだ。
「……まあ、いいよ。突然のことでカッとなっちゃったけど、アルクェイドは俺を助けてくれたんだ。その点だけは、本当に感謝してる」
「そう? おかしなコトで感謝するんだね、志貴。わたし、たいした事してないのに」
「―――いいの。俺が感謝してるんだから、かってに感謝されてくれ。別に悪い気はしないだろ」
「……うん。たしかに悪い気はしない、かな」
ふむ、となにやらアルクェイドは考え込む。
「―――いいわ。とにかく、すぐにこの場を離れましょう。これだけの騒ぎを起こしてしまったんだから、長居するとなにかと面倒なことになるわ」
「これだけの騒ぎって――――」
―――ああ、そうか。
……このホテルに泊まっていた人たちは、みんな、生きてはいないのか。
「………………」
立ちあがる。
腹部の痛みはないものの、なにか―――体が他人のもののようで、グラリと意識がゆらいでいく。
「とりあえずわたしの部屋に行くけど―――志貴?」
――――意識が、ゆらぐ。
アルクェイドがなにか言っているんだけど、なにも聞こえない。
俺は今度こそ、谷底に落ちていくみたいに、意識を失っていった―――――
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●『4/黒い獣U』
● 4days/October 24(Sun.)
―――とくん。
すぐ近くに、誰かの心音を感じた。
目も見えないし耳もきかないのに、それがアルクェイドのものだという事は、すぐにわかった。
………どくん。
自分の心音。
体験したことのない恐怖と、死の間際にいたせいだろうか。
黒い。いままで体のどこかで隠れていた濃い血液が、体中をかけまわっているような気がする。
――――――とくん。
アルクェイドの体温は、ひんやりと冷たいのに、確かな生の温かさを持っている。
こうして抱きかかえられているだけで、さっきまでのささくれだった心が落ち着いていく。
…………………どくん。
いっそう強く、心臓が活動する。
自分のではないような、強い意思がこめられた血液が循環していく。
でもおかしな話だ。自分のものではない血液なんてものが、どうして今までずっと、俺の体の中に隠れていたっていうんだろうか――――
『―――この衝突事故は被害者である高田陽一さんのオートバイのブレーキペダルが何らかの異常をきたしており、ブレーキがきかない状態で急な坂道を下りてしまったことが原因とされています。
負傷者は二名、幸い死者はおりませんでした』
―――スピーカーから流れてくる、ニュースキャスターの声。
……その声で、まどろんだ意識が覚醒した。
「ここは―――どこだ?」
見知らぬマンションの一室にいる。
「……あれ、ここって――――」
見知らぬ、というのは撤回しよう。
ここに一度、自分は足を踏み入れた事があった。「……アルクェイドの、部屋か」
俺はベッドで横になっていて、体にはシーツがかぶせられている。
時刻はお昼をすぎたあたり。
部屋にはアルクェイドの姿はなく、ただつけっぱなしのテレビがつまらないニュースをたれ流している。
「……アルクェイド、どこに行ったんだろ」
と、台所で人の気配がする。
「台所、かな」
ベッドから立ちあがる。
気になって自分の腹を見てみると、もう完全に元通りになっていた。
「…………」
恐る恐る触ってみる。
くすぐれば痒いし、つねれば痛い。
あの黒いぶよぶよは本当に自分の体になってしまったみたいだ。
「……なんだかなあ」
とりあえず、そんな感想しかうかばない。
それより、今はアルクェイドにホテルでの事を詳しく聞かなくちゃいけない。
「おーい、アルクェ……」
『次のニュースです。本日未明、南社木市にあるホテルで大規模な行方不明者が出るという事件が発生しました』
「―――――」
ぴたり、と足が止まる。
目が、テレビのブラウン管に映るニュースキャスターにくぎ付けになった。
『ホテルに宿泊していた百三名の姿はいまだ発見されていません。
また、ホテルのいたるところに血痕が見られるところから、警察では何らかの犯罪に巻き込まれたという見解を強めています』
「なに―――言ってるんだ。血痕って、アレは―――そんな可愛いものじゃなかったのに」
ニュースキャスターは淡々と情報を読み上げていく。
画面は一点して、さっきまで自分がいたホテルの外観と、行方不明になったとされる百三名の宿泊客の名前を一覧した。
―――俺とアルクェイドの名前は、当然のようにない。
『また、ホテル内からは野生動物の体毛が大量に検出されており、宿泊客の行方不明に関わっている犯人の手によるものと推定されます。
動物の体毛は犬や狼、はては熊らしきものの体毛まで検出された模様です。検出された動物の体毛は何十種類とあるとのことで、何の冗談でしょうかサメの歯形まで検出――――』
ぱちん、とテレビのスウィッチを切った。
「――――」
百人。百人近くの人間が、あの時間、たった三十分の間に一方的に殺されたっていうのか。
血痕――――?
行方不明―――?
なんでそこまで解っていて、はっきりと口にしない。
わかりきってる。
あのホテルに泊まっていた人間はみんな、あのワケのわからない獣たちに、肉片ひとつ残さず食われちまったっていうコトを。
「ぐっ――――」
吐き気を堪える。
いちいち昨夜のことを思い出して嘔吐するなんてコト、俺にはできない。
そんな脆弱な同情、豚にも劣る。
あのホテルにいたのに自分だけ死んでいない自分には、その元凶を憎むこと以外は許されまい。
百人だ。
百人の人間が、人間の原形なんて留めないで、ただ血の跡だけを残して殺された。
黒いコートの男の顔が思い浮かぶ。
あいつが何者なのかは知らない。
ただ、ヤツがあの出来事の元凶であることは間違いない。
―――心が、まだ麻痺しているのか。
恐怖や嫌悪より、今は憎しみが勝っている。
それとも―――この胸の中で渦巻いている感情さえも、恐怖というものの一種なのか。
「ふざけ―――やがって」
ギリ、と歯を鳴らす。
悔しいのか恐ろしいのか、それともおぞましくて不快なのか。
俺は、あの黒いコートの男の顔を思いうかべるだけで、何かを壊したくなるぐらい、苛立ちを覚えている――――
「気がついたの、志貴?」
アルクェイドが台所から顔を出す。
「――――あ」
「ん? 恐い顔しちゃって、なにかあったの?」
アルクェイドはまるで何も起きていなかったみたいに、気軽に話しかけてきた。
「…………」
さっきまで高ぶっていた気持ちは、それでとうとつに消えてしまった。
「アルクェイド、おまえ―――昼間は寝なくちゃいけないんじゃないのか……?」
「それはそうだけど、志貴の体も安定していなかったみたいだから、わたしが眠るわけにはいかないでしょ。……ま、昨日はわたしが眠ってたから、今日は志貴が眠る番かなって」
「あ―――うん、サンキュ」
なにか気恥ずかしくて、つい視線を逸らしてしまった。
……なんていうか、相手は人間じゃないのに、アルクェイドがすごく魅力的に見えてしまった。
「そ、それよりアルクェイド。俺、どうしておまえの部屋で寝てたんだ? あの黒いコートの男……おまえはネロって呼んでたけど、あいつはなんなんだ」
「志貴がここにいるのはわたしが連れてきたからよ。志貴、ホテルの廊下で気絶したから」
「―――それはなんとなく覚えてる。けど、ネロってヤツはどうして帰ったんだ? なんか口ではすごく物騒なコトを言ってたけど」
「太陽が昇ったからでしょうね。わたしと志貴がホテルを出た時、もう太陽が昇ってたもの。ほら、吸血鬼は太陽が昇っていると満足に活動できないから」
他人事のようにアルクェイドはいうけど、こいつだってその吸血鬼のハズである。
「アルクェイド、そう言うおまえのほうはどうなんだ。
その―――俺に殺されて、力が弱まっているって言ってたよな。体、少しは良くなったのか?」
「ええ、おかげさまでね。昨日よりは幾分楽になってるわ。ようやく手足がちゃんと動くようになってくれたし」
――――?
手足がちゃんと動いてくれるって、それは、もしかして――
「ちょっと待って。アルクェイド、おまえ今まで体が満足に動かなかったっていうのか……!?」
「あれ、言ってなかった? わたし、とりあえず体の神経の大半が繋がってなかったから、自分の手足を肉体じゃなくて意思のほうで操ってるんだって」
「………………」
聞いてない。
そんな―――そんなボロボロの状態だったなんて、考えても、みなかった。
……昨夜、あの蒼い鴉がやってきて、悔しそうに唇を噛んでいたアルクェイドを思い出す。
コイツはあの時―――動きたくても動けない自分自身を、本当に口惜しく思ってたんだ。
「……そう、か。それで、今はどのくらいまで回復してるの?」
「そうね、最低限動かせるっていうレベルなら。体のほうは今晩までにはなんとかなりそうかな。
けど蘇生するために使った活力は当分戻りそうにないから、わたしが弱ってるっていうのは変わらないんだけど」
しれっとした顔で、アルクェイドはヘヴィな事実を口にする。
「……そうか。少しずつだけど、アルクェイドが楽になってくれてるなら、良かった」
ほう、と心からの安堵の息をもらす。
「へえ、どうしたのよ志貴。ちょっと前まではわたしのことを化け物呼ばわりしてたくせに」
「ばか、ちょっと前までじゃなくて、今でもそう思ってるよ。でも、それとこれとは別問題だろ。助けてもらったら感謝ぐらいはするさ」
「え? 助けたって、わたしが志貴を?」
アルクェイドは意外そうに目を見張る。
どうにもアルクェイド本人にはまったく自覚がないみたいだ。
「……ああ、やり方に問題があったけど、おまえは俺を助けてくれただろ。
だから、いまさらだけどありがとうな。おまえがいなかったら、今ごろ俺も百三名の仲間入りしていたところだった」
「ありがとう、って―――べつにいいよ、そんなコト考えなくて。志貴がネロと出会った原因はわたしにあるんだし、志貴に感謝されるいわれはないもの」
「それはそうだけど、助けられたのは事実じゃないか。アルクェイドは俺を助けてくれたんだから、その点だけは本当に感謝してる」
「―――でも、志貴はわたしの見張りを引きうけなかったらあんな目には遭わなかったわ。志貴の生活に毒素を混ぜたのはわたしよ。
だから、貴方はわたしを憎みこそすれ感謝するいわれはないと思うけど?」
「……そりゃあ、たしかにおまえのコトは厄介だって思ってるよ。けどさ、俺は自分の行動は結局自分で責任を持つしかないって思ってるんだ。
……ずっと昔にそういう事を教えてくれた人がいてさ。まわりがどうあれ、自分の意思でした事は自分で決着をつけなさいって。
当たり前の事だけど、俺もその考えには賛成なんだ」
だから、アルクェイドのことを憎んでるとか、そういう気持ちはない。
ただまあ、なんだか厄介な出来事に巻きこまれてしまったなあ、と思うぐらいで。
「―――そっか。言われてみれば、わたしが盾が必要だって思ったのは志貴に殺されたからだものね。なら志貴を巻き込んだことを謝る必要なんてないってことだね」
「そういうこと。自業自得なんだよ、今の俺は」
「自業自得かあ。うん、志貴ってばある意味で運が悪いわ。人を殺すにしたって、わたし以外の子にしておけばこんなコトにはならなかっただろうし」
「…………あのな」
そもそもアルクェイド以外の誰かを殺したかもしれない、なんていう仮定は成りたたないだろうに。
あんな気持ちになって、そのまま尾行して殺してしまったなんていう相手は、いまのところアルクェイドしかいないんだから。
……というか、コイツ以外にはいないって思いたい。
「―――あ」
「なに? 忘れ物でも思い出したの?」
「いや、そういうわけじゃなくてさ。……今まで考えたこともなかったんだけど、どうして俺はおまえを殺そうなんて思ったんだろうって」
アルクェイドは顔をしかめて俺を見る。
……まあ、当然の反応だと思う。
殺した本人であるこっちが、アルクェイドを殺した理由にまったく見当がつかないっていうんだから。
「理由なんてないんじゃない? だって、志貴って根っからの殺人鬼なんだから」
「――――――え?」
ちょっとマテ。
イマ、この女は、俺に対して、なんてコトを言ってくれやがったんだ―――?
「わたしを襲った時なんてすごく手慣れてたものね。チャイムを押して、扉が開いた瞬間に手を差し込んできて、有無を言わさず中に押し入る。
こっちが驚いている間に初撃で確実に生命活動を停止させて、あとはざっくざくに切り裂いてバラバラにする――――うん、あの不意打ちは完璧だった。
どのくらい完璧だったかっていうと、あの時の志貴をそのまま絵に閉じ込めれば、これ以上ないっていうぐらいの芸術品になるぐらい完璧だったわ」
「そ―――」
「けど、せっかく卓絶した殺人の超絶技巧をもっていても今回は殺した相手が悪かったわね。
志貴が今まで何人殺してきたかは知らないけど、獲物にわたしを選んだ時点で年貢の納め時だったんじゃない?」
「そ、そそ」
「『そそそ』って、なによさっきから恐い顔して。言いたいコトがあるならはっきり言えばいいのに。わたしと貴方の間で、いまさら我慢するコトなんてないでしょ?」
―――ああ、それもそうかも。
こくん、と頷いてから、ちょいちょい、とアルクェイドを手招いた。
「なに? 内緒話?」
わくわくしたふうにアルクェイドはよってくる。 その片耳に口を近づけて、言いたいコトをはっきりと口にすることにした。
「……あのな、アルクェイド」
「うん、なに?」
せーのっ!
「そんなワケないだろ、このばか女―――っ!」
ばかおんなー、おんなー、んなー、なー………
部屋の中、叫び声が反響する。
容赦なしで、ふるぱわーでありったけの音量をアルクェイドの鼓膜に叩きつけてやった。
「いっ……たあ………」
アルクェイドは大げさに耳をおさえる。
「もう、あったまきた! 突然なにするのよ志貴!」
「怒りたいのはこっちのほうだ! なんか微妙にめちゃくちゃな注文をしてくるかなって思ってたら、おまえ、そういうコトだったのか!」
「え―――? そういうコトって、なに……?」
「おまえが俺のことをいかれた殺人鬼だって思いこんで、化け物相手に盾になれとか見張りをやれとか言ってたコトだよ!
……まったく、とんでもない勘違いをしやがって。どおりで俺のことをやけに買ってるかと思ったら、つまりはそういうコトだったんだな。
いいか、このさい言っておくけど、俺は殺人鬼でも殺人狂でもないんだぞ。
人を―――人を殺したなんて、おまえがはじめてだったんだから」
ぽかん、と口をあけるアルクェイド。
……くそ、よっぽど今の発言が意外だったみたいだ。
「―――うそ。あんなに手慣れてて、あれが初めてだっていうの志貴……!?」
「……そうだよ。たしかにこんなおかしな目をもってるけど、それでも俺はそれなりに真面目に生きてきたんだ。この『線』を使って人を殺したい、なんて思った事は一度もない」
「だって――それじゃあどうして見ず知らずのわたしを殺したりしたのよ」
「それが俺にもわからないんだ。アルクェイドを街で見かけたとたん、なんだかすごく気になって――気がついたら、俺はキミを、バラバラにしてしまってた――――」
この部屋で。
何の理由も、目的もなく。
「―――――そう、か」
……ああ、そうだった。
俺が、アルクェイドを怒れる資格なんて、なかったんだ。
たとえ相手が生きていて、それが人間じゃないっていっても。
俺は実際に、彼女をこの手で殺しているんだから。
「なによ、またいきなり黙っちゃって。そうかって、なにがそうかなの、志貴?」
「…………だから、ごめん、って……言わなくっちゃ、いけない……」
俺は――――なんて大事なことを、自分の都合のいいように忘れてしまっていたんだろう。
「――ごめん。ごめんな、アルクェイド。
遠野志貴は、キミをここで殺した。俺はなによりそのことを、一番最初に謝らなければいけなかったのに―――」
……本当に、どうかしてる。
アルクェイドが俺を殺人鬼と勘違いするのは当たり前だ。
だって、俺本人でさえあの時の衝動が理解できない。
なら、もしかして。
遠野志貴は、
本当に殺人鬼かもしれないんだから―――――。
「―――殺したのは事実なんだ。だから―――俺は罪も罰も受けないといけない。
こんな人殺し、みんなの社会に混ぜるわけには、いかないだろ」
―――いまさら、そんな大事なことに気がつくなんて、卑怯すぎる。
たとえアルクェイドが何者であれ――遠野志貴は、理由もなく人を殺してしまう人間なんだから。
「―――そう。志貴は本当に、自分でも理由がわからないのね」
……無言で頷く。
「つまり楽しいとも感じなかったってコトでしょ?……うん。たしかに殺人鬼の中には呼吸をするみたいに殺人を行うヤツもいるけど、志貴は普段はまともっぽいよね」
「……そうだな。一応、そのつもりだけど」
「いえ、すごくまともよ貴方は。それで殺したくなったのはわたしだけなの?」
「……ああ。アルクェイド以外には、そんな気持ちにはならなかった」
「なーんだ、なら問題ないじゃない。志貴は殺人鬼なんかじゃないよ」
実にあっさりと、なかば投げやりにアルクェイドは言いきった。
「それに何の罰も受けなくていいと思う。
たまたま志貴が殺したいって思った相手がわたしで、厄介なことに志貴にはこれ以上ないっていうぐらい殺人の技巧がそなわっていた。
けど、都合のいいことにわたしが吸血鬼だったんだから、誰も死んでないでしょう? だから志貴がそんなに悩む必要なんかないわ。
人間たちの社会の道徳なんてものも気にしなくていいと思う。
だって、いまのところこの世界で志貴を責めていいのは、被害者であるわたしと当事者である志貴本人だけなんだから」
「―――それはそうだけど。おまえを殺したっていう事実だけは、決して、変わらないじゃないか」
そう。
罰はないかもしれないけど、罪だけは、永遠に消え去らない。
「それは当然よ。わたしだってまだ根に持ってるんだから、そう簡単に忘れられちゃ困るわ。
だけどね、志貴。ちゃんと貴方本人がそう思えて、ずっと後悔していくんなら問題はないんじゃない?」
―――だが、それは詭弁だ。
「志貴。人間の中にはね、どんなに世の中を恨んでいても悪魔に魂を売れない人が本当にいるわ。例えば吸血鬼相手にごめんなさい、なんて言える正直者とかね。
だから大丈夫。誰がなんていったって、志貴本人がそうじゃないって言いきったって―――志貴は、まだそっち側の世界にいられるよ」
「―――――」
……言葉がない。
よくもまあ―――自分を殺した相手に対して、こんな台詞を笑顔で言えるんだろう、コイツは。
「アル……クェイド―――」
「ほら、そんな事よりわたしたちにはもっと厄介な問題があるでしょ。志貴も目が覚めたことだし、今後のことを話し合いたいんだけど」
……そうだった。
今は自分のことよりアルクェイドの事と―――あのホテルで起こった惨劇のことを、俺は聞かなくちゃいけない。
「……そうだな。アルクェイド、昨日のホテルのこと、聞いていいか」
「いいけど、立ったままっていうのもなんでしょ? 志貴、まだ体が馴染んでないんだから横になったら?」
「……ばか。横になるのはおまえの方だよ。昼間は辛いんだろ? 俺のことは気にしなくていいから、横になって話をしろよ」
「いいよ、そんなの。せっかく志貴と話ができるんだから、ちゃんと顔を合わせないともったいないわ」
……淡い笑顔をうかべて、アルクェイドはまっすぐに俺を見つめてくる。
「……まあ、おまえがいいっていうんなら、かまわないけど」
かすかに視線をそらして、ベッドに腰をかける。
アルクェイドもこちらに倣うようにソファーに腰をおろした。
「それじゃ聞くけど。
昨日のあいつ―――おまえはネロって言ってたけど、あいつは一体なんなんだ。
こっちは真面目に聞いてるんだから、くれぐれも体からワニを出せる手品師だ、なんてつまんないコトは言わないでくれ」
「言わないわよ、そんなこと。
志貴もわかってると思うけど、あいつも吸血鬼よ。わたしたちの間ではネロっていう名称で呼ばれてる、かなりの変種。
……実を言うと、こんなふうに気軽に話せるような相手じゃないわ」
「……………」
やっぱりあいつは吸血鬼だったのか。
けど、なんとなく―――目の前にいるアルクェイドがそうは思えないように、あいつも吸血鬼というイメージにはそぐわない。
「そのさ、あのネロっていうやつはどんなヤツなんだ。アルクェイドは知り合いだったみたいだけど」
「まさか。わたし、吸血鬼に知り合いはいないわ。知り合ったっていうコトは次の瞬間に殺しているっていう事だもの。今回みたいに顔を合わせたのに別れた、なんていうのは初めてよ」
「でも色々と話をしてたじゃないか」
「だからって知り合いっていうのは早計ね。
ネロはそれなりに有名な吸血鬼だし、わたしも彼らの間じゃ名前が通っているから自己紹介の必要がなかっただけよ。
歴史を重ね、特異な能力を保有する吸血鬼ほど名前が知れ渡るのは当然でしょう?
ネロはね、その中でもさらに特別。
古参の吸血鬼の一人なのに、城も領地も持たないでさまよってる変わり者。
教会の連中からはなんでかカオスっていう二つ名をつけられているんだけど」
「……かおす? なに、それ」
「混沌って意味。ぐちゃぐちゃしてるってことよ。
原初の地球みたいに色々なモノが混ざり合って何が飛び出してくるか解らない……っていう意味かもしれないわね、昨夜の様子からしてみると」
「何が飛び出してくるかわからない……?」
「もうっ。志貴も見たでしょう、あいつの体の中身を。前に話したと思うけど、長く生きた吸血鬼ほど自分の肉体が破損すると中々修復できなくなるの。
すでに何百年と存在してきた器を修復するには、人間ぐらいの命ではレベルが足りない。
だから単純に、生命としてより優れた素材をもつ猛獣や魔獣をとりこんで、自分の肉体として作り変える。
……ネロは吸血鬼の中でも最古参の一人らしいから、体の代わりにして獲りこんでいるケモノの数が桁違いに多いのかも」
「けた違いに多いって―――あの黒犬とかもネロってヤツの体の一部だっていうこと?」
「そうよ。でもヒトの器には限りがあるから、せいぜい自身の肉体として制御できるのは三十匹ぐらいかな。
魔獣、幻獣と区別される幻想種をとり込んでしまうと一匹以上では容量がパンクする。
それを考えればネロの使い魔たちは現存する生物たちだと思う。
……うん、その点はラッキーかも」
……最後のあたりはよく解らないけど、とりあえずあの黒犬が三十匹もいるっていうことか。
「……いや、違う。ホテルで暴れていたのは黒犬だけじゃなかった。ライオンとか豹とかもいると思う」
「でしょうね。……同種のケモノたちなら三十匹ぐらい統括できるけど、異なるケモノたちを体内で統括するあたり、確かにネロの意思の強さは桁が外れてる。
……まあ、それだけの意思力を持つのに野生の動物ばかりを体にしているっていうのはおかしな話かな。アイツだったらかなり上等な魔獣を抑えつけるだけの意思力はあると思うんだけど――――」
うーん、とアルクェイドは何やら考え込む。
「ま、いっか。とにかくあいつの武装は二十から三十ぐらいの使い魔だってわかったんだから。
……ついでに言うとネロっていうあだ名の由来も少しはわかったかな」
「え……? アイツ、ネロっていうのは本当の名前じゃないのか?」
「うん、長く生きた死徒たちは大抵が人間だったころの名前を使わなくなるのよ。
かといって自分で名前をつけないものだから、教会側がかってに名称をつけてしまう。
それも新しい特色が判明した時点で付け足していくから、中には呪文みたいに長い名前のヤツもいるわ。
……ま、アイツが初めにネロって名づけられたのは、よっぽど教会側に嫌われたからでしょうね。
だいたい、ホテルなんていう限定された狩猟場ならたかだか人間百人、ライオン一匹で事足りるでしょう? なのに体中の全てのケモノを解放して、わざわざあんな方法で食事をとるなんて無駄好きにもほどがあるわ」
「………………」
……ネロという吸血鬼の中にいる、三十匹ものケモノ。
たったそれだけで、わずか三十分のうちに、ホテルで逃げ惑った百人もの人間は残らず食い殺されたのか。
「――――信じられない。それじゃあ、まるっきり化け物じゃないか」
「そうね。ネロはこれ以上ないっていうぐらい最悪の相手よ。できれば出会いたくない部類に入る。
けど、なにより最悪なのはそんなヤツにわたしたちの居場所を見つけられたっていうこと。
こうしている間も、ここは間違いなくネロの使い魔たちに監視されてるわ」
「な――――」
「当然でしょう? さっきは太陽が昇ってくれたから助かったけど、今夜はそんな助けはないわ。こっちの場所がわかっているんだから、午前零時っていう最高のタイミングでわたしを殺しに来るでしょうね」
「殺しにくるって、今夜……?」
「ええ、アイツ自身がそう言ってたじゃない」
――――なんだ、それ。
あいつが―――あの黒いコートの男が、今夜やってくるっていうのか。
「――――――」
何を言うべきか、わからない。
逃げるべきだっていうのが、とりあえず一番賢い選択だってのはわかっている。
けど、アルクェイドはこんな体だ。
たとえ逃げても、あんな化け物相手に逃げきれるとは思えない。
いや、アルクェイドのことより自分のことだ。
ここにいたら―――アルクェイドに関わっていたら、間違いなくアイツと出会う。
アイツは、やばい。
はっきりいってマトモじゃない。
体の中に動物がたくさん入っているとか以前に、あの目は、まるで機械のそれだった。
感情というものが一切ない。
ただ決められた事だけを当然のようにこなす、本当の殺人鬼の目だった。
間違っても関わってはいけない相手だっていうのは、一度殺されかけた俺自身が実感してる。
「―――――」
けど、だからってアルクェイドを置いて一人だけ逃げるのか?
こいつが何であれ、俺を庇ったせいで満足に動けもしないヤツに、それじゃあ頑張れよ、なんて言って帰ることができるのか―――
「アルクェイド、俺は――――」
「でも安心ね。だって、志貴ならネロなんて問題じゃないんだもの。貴方は相手が何であれ一撃で殺せるんだから」
「―――――――へ?」
なにか、とんでもない事を。
当然のように、アルクェイドは言った。
「ちょっ―――おまえ、なに言ってるんだ、いったい」
「なにって、わたしと一緒に戦ってくれるんでしょ志貴?」
アルクェイドはまっすぐに俺を見つめてくる。
もう、完全に俺を信用しきった眼差し。
だが冗談じゃない。
俺は――――
―――断る。
断るべきだって、わかっている。
だってどう考えたってあんなのは俺がどうにかできる相手じゃないんだ。
「―――アルクェイド。悪いけど、俺は―――」
見捨てるのか。
自分のせいで。遠野志貴のせいで、満足に動けやしないこの女を。
「――――俺は――――」
逃げるのか。
あんな―――大勢の人間を、無慈悲に、容赦なく、一方的に殺戮した化け物から。
見なかったふりをして、逃げるのか。
自分だけ生き残っておいて、何の良心の呵責もなしで、逃げるのか。
「――――――――」
自分だけに視える死の線。
この力は必要とする時がくるからあるんだって、大切な人に教えられたっていうのに―――?
「―――志貴?」
「……ああ、わかってる。いまさら自分だけ逃げようなんてコト、できやしない」
はあ、と天井を見上げて、大きく息を吸いこむ。
幸い、覚悟はそれで固まってくれた。
「いいぜ――――手伝うよ、アルクェイド。それがあのホテルにいて、自分だけ生き残った、俺の義務だと思うから」
「それじゃあ決まりね。大丈夫、志貴の腕ならきっとあっけないぐらい簡単に殺せるから」
アルクェイドは穏やかな顔をして、ひどく物騒なことを言う。
……まあ、そう上手くはいかないとは思うけど、こうなったらやるしかない。
「問題はどう行動するか、だろ。ホテルではあいつの目を見ただけで動けなかったんだから、あいつに見つからないように後ろから近づいて、なんとか追い返すのが精一杯だと思うけど」
「ああ、アレね。あれは志貴の意思が弱かったのよ。ネロの魔眼は大したことがないんだから、ちゃんと迷いを断っていれば真正面から目を見てもあいつの魔眼なんて弾き返せるわ」
「…………」
アルクェイドはこともなげに言うけど、こっちとしてはやっぱり不安だ。
「……いや、経験してないコトを目算にいれるのはやめよう。やっぱりさ、俺がなんとか背後から近づいて、あいつの手足の『線』を切るよ。
そうすれば、とりあえず自由を奪うことになるんだから―――」
「―――志貴。それじゃ、貴方は死ぬわ」
「え―――?」
「問題はどう行動するか。志貴はそう言ったけど、それは違う。どう行動するかじゃなくて、どう殺すかの間違いでしょう」
「―――それは―――そうだけど」
「志貴、貴方はこれから吸血鬼っていう怪物を相手にするのよ。なら、今夜だけでも人間の道徳観念は捨てなさい。そんな荷物を持っていると、いざという時に体が重くなるだけだから」
「――それぐらいわかってるよ。相手が化け物だから、俺だって手伝う気になったんだ」
「いえ、志貴はわかってない。手足を切る? やめてよ、そんな自殺行為。手足を切る暇があるのなら、まず命を切りなさい。
他の者ならともかく、貴方だけはそれが出来るのよ。いい? 絶対にネロに反撃の機会を与えないこと。
ただでさえ攻撃能力に差がありすぎるんだから、初撃を外したら志貴に勝ち目は一つもないんだから」
アルクェイドの目が、俺に否定を許さない。
―――たしかに。
彼女の言う通り、まず手足を切る、なんて悠長な真似をしている間、こっちの頭はワニの口に食われているかもしれないのだ―――
「志貴。ネロは深夜になればやってくる。その時にわたしたち―――いえ、わたしと志貴であいつをこれ以上ないっていうカタチで『殺す』の。
どう行動するかじゃない。
どう『殺す』のか、それだけを考えなさい」
アルクェイドは凶った眼で、まっすぐにこちらを見据える。
彼女は―――本当に、怒っている。
俺が、遠野志貴が、まだどこかで甘い考えを持っているということを。
「―――わかった。俺はためらわない。
一撃でヤツの『死の点』を断つ。それでいいんだろう、アルクェイド」
「……………」
アルクェイドは答えない。
何も言ってこないという事は、一応は納得してくれたみたいだ。
「―――でも、どこで待ちうけようか。このマンションで待ったら、またホテルの時みたいに関係のない人たちが殺されるだろ。場所、変えたほうがいいんじゃないか」
「―――そうね。公園あたりでいいと思う。深夜になれば人通りはないんだし―――それでも通りかかってしまう人がいたのなら、それはその人に純粋に運がなかったっていう事だしね」
言って、アルクェイドは背中を向けた。
「なんだよ。言いたいことがあるなら言ってくれ。手伝うって決めたんだから、多少の無茶はやってみるよ」
「……無理よ。結局、志貴は一度も『殺す』っていう単語を口にしてくれない。このままだと、最後の瞬間で貴方はきっとためらうわ。それで、あっけなく殺される」
「―――そんなコトはない。相手は百人以上人間を食い殺した化け物だ。殺すコトにためらいなんて、あるはずがないだろう」
「―――――――」
小さく、アルクェイドはため息をついた。
「―――志貴を魅了してしまえば確実にネロを仕留められるのにね。
どうしてかなあ、初めてそういう気になったっていうのに、初めてそうするのがイヤになっちゃった。なんか、すごい矛盾」
……よく解らない事を呟いて、くるり、とアルクェイドは振り向いた。
「志貴を信じるわ。二人でネロを追い返しましょう」
アルクェイドは笑顔をうかべる。
それは、ひどく不安げな笑顔だった。
計画自体は、これ以上ないっていうぐらいシンプルだ。
深夜になる少し前、アルクェイドが先に部屋を出て公園に向かう。
ネロの使い魔―――アルクェイドが言うには蒼い鴉らしい―――がアルクェイドに付いていくだろうから、しばらく経ったら俺も部屋を出て、公園に行く。
あとはアルクェイドが見える茂みに隠れてネロがやってくるのを待って、アルクェイドがネロを引きつけている間に背後から近寄って、ネロの『死の線』を切断すればいいだけだ――――。
◇◇◇
―――公園の真ん中で、アルクェイドはぼんやりと立ち尽くしている。
こちらはというと、アルクェイドからニ十メートルほど離れた茂みに身を隠していた。
「………………」
公園に人気はない。
時刻は午前零時十分前。
アルクェイドはかすかに顔をあげて、頭上の青い月だけを見つめている。
「………………」
ナイフを強く握る。
ネロは必ずやってくる、とアルクェイドは言った。
俺がやるべき事は、やってきたネロの背後にまわって、できるだけ足音をたてずに近づき、一息で、ヤツの『線』を切るだけだ。
「は―――――あ」
深呼吸をしてみる。
体は、とりあえずきちんと動いている。
ただ、ナイフを持つ指先だけが自分の肉体ではないみたいに、ガッチリと固まって動かない。
「――――――」
緊張しているんだろうか、俺は。
ネロという吸血鬼が現れることを。
あの怪物とまた、出会わなければいけないということを。
「――――――」
それとも。
これからそいつを殺さなければいけない、という事実を。
「は――――ア」
呼吸が速まる。
心臓が、この体とは違うパーツみたいに、どくんどくんと浮き足立ってる。
「落ち着け―――まだやってきてもいないじゃないか、志貴」
そう、まだ標的はやってきてもいない。
こんな調子じゃネロが現れた時、ちゃんと足が動くか不安になってしまう。
「アルクェイド……おまえは、恐くないのか」
ただ、ぼんやりと月を見上げている白い女を見つめる。
彼女はまったく不安がっている様子はない。
月を見上げるその顔が、つい、と地上に視線を戻しただけで。
それと同時に。
「―――待たせたな、真祖の姫君」
重い、錆びた鉄のような声がした。
「―――――!」
アルクェイドが視線を移した理由はそれか。
彼女からは五メートル以上。
こちらからは十メートル以上離れたその場所に、黒いコートの男が亡霊のように現れていた―――
「そうね。随分と待たされたわ、ネロ・カオス。
それともフォアブロ・ロワインと呼んだほうがいいのかしら? そのほうが品があっていいのだけどね、わたしとしては」
アルクェイドの声が、風に乗って届いてくる。
「―――よもや、な。私がいまだ人の身であった頃の名を聞く事になろうとは夢想だにしなかった。
さすがは我らの処刑役。現存する死徒二十七祖の経歴なぞ、とうに知り尽くしているというわけか」
返答するネロの言葉も、はっきりと聞こえてくる。
「―――――は」
呼吸が、大きくなる。
アルクェイドがネロの注意を引きつけている。
チャンスは今しかない。
自分の意思で、メガネを外した。
「っ――――――」
ナイフを握った右手を胸にそえる。
……白い凶器。
これから、これで。
俺は、あの人食いの化け物を『解体』する―
……いや、まだ早い。
ネロはやってきたばかりだ。
もう少し―――アルクェイドに集中してもらわないと、奇襲ができない。
「間違わないでネロ。現存している死徒は二十七祖じゃなくて二十八でしょう。貴方たちは『蛇』を同胞と認めていないの?」
「無論だ。ヤツの思想は我々とは大きく異なる。ヤツは吸血種である意味をもたない吸血種だ。よって、多くの死徒はアレを同胞と認めていない」
「―――もっとも、私はヤツとは旧知の関係でもある。他の死徒たちよりはアレを深く理解はしているつもりだが」
「……そう。考えてみれば貴方も『蛇』同様、他の吸血種とは趣が異なるものね。異端同士、趣味が合うというわけかしら」
「真逆。異端は孤立するが故に異端だ。群から外れているからといって、異端同士が分かり合える道理はない」
「そう? わたしを追ってこんな国までやってくるあたり、貴方たちは似ていると思うけどね」
「ほざくな。ならば貴様こそ酔狂がすぎよう。
現存する死徒たちを処刑するはずの貴様が、なぜ執拗にアカシャの蛇を追う。『蛇』は真祖の姫君が固執するほどの毒ではありえまい」
……ネロの声が、わずかだけ大きくなる。
アルクェイドの挑発が効いているのか、ネロは一心に自らの敵である白い女性しか見ていない。
―――どうする?
ネロはアルクェイドしか見ていない。
チャンスはこの一瞬だけ。
ナイフを構えて、身を低くして。
一息で、俺はネロへと走り出した。
ネロは全神経をアルクェイドに向けている。
無関係である自分にもわかるぐらいに、ネロは前しか見ていない。
背後から走りこんでくる俺に、あと数秒で解体されるなんて夢にも思っていない、無防備すぎるその背中。
―――行ける。
直感。
間違いなく、このまま殺せる。
「――――」
走りこむ。
ネロの背中は、あと数歩でナイフの届く距離にある。
背中。
無防備な背中。
間違いなく、俺のことに気がついていない。
「――――」
あと一歩。
それで終わり。
「――――――え?」
足が、止まった。
なんだ。
なんだ、コイツの体―――――!?
「な――――い」
ない。
ない、ない、ないないないないない……!
一本たりとも死の『線』がない!
そんな馬鹿な、そんな『命』があるはずが―――
――――ずき、ん。
頭痛が走る。
ナイフを持った指が震える。
ぎり、という頭が潰されるような痛みのあと。
ネロの背中に、一つだけ黒い『点』が視えた。
「――――――!」
――――それだ。
それがコイツの急所、死に易い個所に違いない。
……線じゃなくて点だというのが何か違和感があるけど、とにかく――――そこを、ナイフで貫く!
一歩、踏み込む。
右手のナイフが、ネロの『点』へと走っていく。
「――――――え?」
その直前。
ネロの背中の点が、急速な勢いで増えていった。
一つ。二つ。三つ。四つ。五つ、八つ、九つ、十、二十――――
八十、百、二百、三百、四百―――――!
「―――――!?」
……なにか、違う。
これはヤツの『死』じゃない気がする。
これはもっと異質なものの集合体だ。
コイツは――――コイツの体は、いったい何がどうなって―――
「――――志貴!」
……アルクェイドの、声。
ああ、迷っている暇なんてない。
もうネロの背中は目の前なんだ。とにかく、どれでもいいからこの『点』を衝けば終わる。
「――――そこ!」
声をあげて、ナイフを落とす。
けれど、その前に。
ネロの背中が風船のように盛り上がった。
ぼこり。
まるで黒い海から這い出してくるみたいに、ネロの背中から、一匹の黒犬が現れた。
「なっ―――」
黒犬は、それこそミサイルのように飛び出してきた。
「―――!」
黒犬の体の『線』をナイフで切断する。
けれど、それはあくまで『線』にすぎなかった。
切れたものは、黒犬の両足だけ。
黒い犬の突進は止まらない。
「ごっ――――」
どぶ、と。
黒い犬は頭から、こちらの腹めがけて額をぶつけてきた。
「―――――ぐっ!」
なんて力。
軽く何メートルも吹き飛ばされて、俺は地面に押し倒された。
黒い犬は、そのまま俺の首筋に牙を食い込ませようとしてくる。
「ハッ………ア―――!」
トン、と犬の左腹にナイフを刺しこむ。
『死の点』は空気みたいな柔らかさで、ナイフを黒い犬の体に招き入れてくれた。
黒い犬の動きが止まる。
とたん―――その体は黒い液体になって、俺の体に降り注いだ。
「――――!?」
体が黒い液体にまみれて、立ちあがれない。
「こ―――の」
剥がれない。
地面に縫い付けてしまったみたいに、動けない。
「―――ふむ。背後で何か起きたようだ」
ネロの声が聞こえる。
地面に張りつけにされたまま、ネロとアルクェイドへ視線を向けた。
「貴様の使い魔か。だが、残念だったな。私の領域に入ったものは、私が気づかずとも私たちのいずれかが発見し、これを迎撃する。もとより、私に奇襲は通用しない」
「……そうみたいね。わたし以外のモノを一切見てなかったっていうのに、背後の危険に反応できるなんて。それが群体の強み、というところかしらね、ネロ・カオス」
アルクェイドは微かに目を細めた後、ゆらりと、ネロにむかって歩き出した。
「―――面白い。空想具現化も出来ぬほど衰退している貴様が、そのままで私に挑むというのか?」
「いらない。たかだか死徒相手に世界と同化しても仕方ないわ。
あなた程度―――この爪だけで十分よ、ネロ・カオス」
ク、と鴉のような、短い笑い声があがる。
「―――たわけ。その身を痴れ、アルクェイド・ブリュンスタッド―――!」
ネロの片腕があがる。
コートはマントのようにはためいて、そこから、無数の生物が飛び出していく。
ゴンゴンゴン。
轟音をあげて、弾丸のような速度で、アルクェイドめがけて三匹の獣が走る。
黒い犬、なんかじゃない。
そのいずれも本体であるネロ自身より巨大な、悪魔みたいに凶悪なシルエットをした、三匹の豹だった。
「――――――」
アルクェイドは動けない。
三匹の豹は、ただ、地面を駆けて行くだけでレンガ作りの地面にヒビをいれていく。
逃げようとするアルクェイドより、豹たちのほうが何倍も速い。
―――三匹の猛獣がアルクェイドにむしゃぶりつく。
あっさりと、終わった。
一瞬にして。
三匹の豹は、そのどれもが胴体から真っ二つに裂かれて、地面に転がった。
「―――な、に?」
ネロの声が響く。
アルクェイドは何も言わない。
そのまま、ネロ本体へと一息で襲いかかる。
「――――!」
ネロの体から獣が出る。
獅子は、出た瞬間にアルクェイドに顔をつかまれ、胴体から引きぬかれた。
豹は、襲いかかった瞬間、眉間をこぶしで突き破られて絶命した。
虎は、粘土細工みたいに胴体そのものを引き裂かれた。
そのあとに続くものは、みな同じ運命をたどった。
空を飛ぶ鷲も、見上げるほど巨大な灰色熊も。
地面を泳ぐけったいな鮫も、
冗談としか思えない、ショベルカーみたいな巨大な象も。
結局は、アルクェイドを止める事さえできず、一瞬にして黒い粘液に戻っていった。
「――――な」
ネロが逃げる。
アルクェイドが爪を振るう。
――――ざん、という音のあと。
ネロの体は首筋から二つに分かれた。
「ギィイイイイィィィィィィィ!!」
苦悶の叫び声をあげながら、弾けるようにアルクェイドから跳び退くネロ。
その体は、首から腰あたりにかけて、半分以上が失われていた。
どさり、と。
アルクェイドの足元に、たった今引き裂かれたネロの半身が落ちる。
「―――――――」
勝負に、なってない。
……アルクェイドのヤツ、なにが動くだけで精一杯だ。
ネロが体から出した獣は決して弱いものじゃない。
ライオンも虎も、一頭だけで自動車をまたたくまにスクラップにできるほどの動物なんだ。
おまけに灰色熊っていったら、戦車だってひっくり返されてスクラップにされかねないほどの『暴力』のかたまりなのに。
そんな猛獣たちが、なす術もなくアルクェイド一人に引き裂かれ、ネロ本人もすでに瀕死になっている。
「は―――――――」
なんだかバカみたいだ。
これなら、俺なんて初めからいなかったほうが良かったんじゃないだろうか――
「ガ……ア、あああ、あ……!」
ネロはアルクェイドから逃げるように後退していた。
疲れているのか、アルクェイドは走らずにゆっくりネロへと近寄っていく。
「はあ――――はあ――――はあ」
荒い呼吸音が聞こえる。
……アルクェイドの呼吸音だ。
「はあ――――はあ――――はあ」
なんで、だろう。
半身を裂かれているネロ以上に、アルクェイドの呼吸は苦しげだった。
「――まさか、な。それほどの衰退をして、なおその戦闘能力か。さすがは真祖たちが用意した処刑人。
……曰く、白い吸血姫には関わるな―――か。どうやら同胞たちの忠告は正しかったとみえる」
ネロの声には、いささかの曇りもない。
――――なにか。
ひどく、絶望的な予感がする。
「はあ――――は、あ」
呼吸を整えながら、アルクェイドはゆっくりとネロへと近づいていく。
「だが私とて、もとより十や二十程度の私で貴様を仕留めようなどとは思っていない」
「―――強がりはそこまでよ。あなたが使役する使い魔では何匹かかろうとわたしを殺せないし、その半身もすでに断った。どうやってもあなたに勝ち目なんかない」
「フン―――私の使い魔はことごとく殺されたがね。一つ、貴様は思い違いをしているようだ」
「――――?」
「私は使い魔など持っていないし、使役などもしていない。今おまえの相手をしたのは、あくまで私自身なのだよ。
……破損した肉体を他の生物で補おう、などとする他の雑種どもと同一視されるのは不愉快だ。
本来の貴様ならば一目で気がついたろうに。その金色の魔眼をこらしてよく見るがいい。視えるだろう? 我が体内に内包された、六百六十六素の“ケモノ”たちの混沌が―――」
びゅるん、と。
視界のはじっこで、何かが動いた。
「あ―――――」
アルクェイドの背後。
たったいまアルクェイドに裂かれ、地面に朽ち倒れたネロの半身が震えている。
ぶるん、と大きな塊になって、アルクェイドへと鎌首をもたげて―――。
「アルクェイド、後ろ―――!」
「志貴――――?」
アルクェイドが背後に振り向く。
けれど、とうてい間に合わない。
地面に横たわったネロの半身は無数の大蛇となって、アルクェイドの背後から襲いかかった。
「しまっ―――」
アルクェイドは大蛇に纏わりつかれ、蛇たちはそのままもとの黒い濁流に戻っていく。
今の俺と同じように、正確には俺の何百倍という質量に圧迫されて、アルクェイドは地面にくぎ付けにされてしまった。
「こ、これ―――そんな……!?」
黒い粘液に押しつけられながら、アルクェイドはなんとか逃げようともがいている。
「無駄だ。それがどのようなモノなのか、貴様ならば理解できるだろう、真祖の姫」
「っ…………!」
アルクェイドの顔に苦痛と―――驚愕がうかんでいる。
ネロは半身のまま、ただ、高らかに吠えるように声をあげた。
「―――思慮のあるものは獣の数字をとくがいい。それは人間を表す数字、すなわち666である―――くく、我が体内の混沌は気にいったか、アルクェイド・ブリュンスタッド」
「正気なの、あなた……!? ヒトの体に……ヒトの形なんていう狭量で密閉された空間に、三百以上の数の因子を圧縮して内包してるなんて、これじゃまるで―――」
「いかにも。これでは原初の海と何らかわりはない。
私はな、他の動物どもを我が肉体としているのではない。『動物』という因子を肉体とし、混濁させているのみだ。
私に使い魔などいない。いるのは六百六十六ものケモノたち―――それと同等の数を持つ命たちだ。
この身の半身を断とうが、この首を潰そうが意味はない。私は一にして666。私を滅ぼすつもりであるのならば、一瞬にして六百六十六の命を滅ぼすつもりでなくてはな」
「……うそ……カオス……混沌って、そういう意味……!?」
「無論だ。―――よって、我が分身たちはその存在が一定しない。
我が領地であるこの肉体から外界に放たれた時、初めて何らかの『種』としてカタチをなす。
もとよりカタチのないモノたちだ。外で殺されたところで、私の中に戻れば再び混沌の一つとして蘇生する。
……もっとも、外に出る時に何になるのかは私自身にも予測がつかぬがね。この乱れた系統樹を把握し、操作する事が私の永遠の命題だよ」
半身しかない吸血鬼は、誇らしげに、くぐもった笑い声をあげる。
「そんなの不可能だわ……! 魂を――――何の着色もすんでいない存在概念なんかを内包したら、あなた自身が消えてしまう……!」
「いかにも。故に、ここにいるのは個人ではない。すでにネロなどという人格は存在せん。我らは個体ではなく限りなく群体に近い。
……たしかに。そうなった生命になど存在の意義はない。永久機関ともいえる生命種ならばすでに深海に棲息している。この身もいずれ、彼らと同じように知性を失いただの『標本』になりさがろう。
だが、素晴らしいとは思わないか。
私の中には『何になるか解らないもの』が渦巻いている。それは原初のこの世界そのものともいえる小世界だ。
どのような生き物が生まれるか予測がつかない混沌とした空間。
現存するこの星の系統樹と同じでありながら、なお劇的な変化の可能性を持つ混沌の闇。
その果てになにが待つのか、私は私が消える前に知りたい。
故に教会の者たちは私をこう名づけた。
――――ネロ・カオス。
体内に六百六十六匹ものケモノを武装した、すでに吸血鬼ではなく混沌とした空間でしかない、禁忌にふれた異端者とな」
「――――――!」
アルクェイドの声が押し殺された。
黒い液体はぞぶぞぶと蠢いている。
もう、アルクェイドの顔さえ、半分ぐらいしか見えなくなっている――――。
「……以上だ。いかな貴様といえど、その檻からは抜けられぬ。我が分身のうち五百もの結束で練り上げた“創世の土”。
たとえ貴様が万全であったとしても、それを破壊することは叶わぬ。―――大陸を一つ、破壊するようなものだからな」
半身しかないネロは、ゆっくりとアルクェイドへと近寄っていく。
「貴様が現れてから何人の同胞が葬られ、何人の先達たちが貴様を破ろうとし、その逆の運命を打ち付けられたか。
――――だが、それも終わりだ。
今まで誰もなしえなかった偉業を、このネロ・カオスが成し遂げた」
「――ネロ。貴方、この固有結界を誰に―――」
「知れたこと。貴様の仇敵である“蛇”がな、わざわざ自分から私に教授に来たのだよ。といっても今代のヤツではない。巴里でヤツが貴様に殺される前に、私にこの“檻”の作り方を遺したのだ」
「―――――」
アルクェイドの声が聞こえない。
見れば、もう口まで黒い粘液に飲み込まれている。
「しかし“蛇”も無惨なものよ。吸血種と成る前は教会の司祭だった男が、貴様のような死神に狙われたばかりに生き延びられんとは。
ヤツが生きておれば、我が体内の混沌も今ごろは法則性が作られていただろう。……それほどの魔道の冴えを持ちながら発揮できずに滅ぼされるなど、さぞ無念であったろうよ」
「“蛇”とは盟友であった。なぜ貴様がヤツばかりを執拗に敵視していたかは興味が尽きぬが―――もはや口も利けぬようだな」
黒い粘液はぞぶぞぶと音をたてて、アルクェイドの体という体を束縛していく。
もう、あそこに倒れているのはアルクェイドという女性の体ではなく、ただカタチのない泥だった。
「―――このまま私の一人になってもらうぞ、アルクェイド・ブリュンスタッド。
貴様ほどの意識を飲みこむのは骨が折れそうだが、なに、その暁には私は最高位の吸血種となる。多少の苦痛などむしろ誕生の祝いだ。
そうなれば―――忌まわしい埋葬機関の殺し屋どもとて恐るるに足らん。カビの生えた教会なぞ、関わった者すべて根絶やしにしてくれる」
ず、と音をたててアルクェイドの顔が沈んでいく。
さっきまではかろうじて見えていたアルクェイドの体のラインも、今では見えなくなっている。
――――このまま。
ほうっておけば、アルクェイドはあの黒い液体に飲みこまれてしまうっていうのか―――
「こ―――のぉ……!」
自分の体をおおう液体を『視』る。
黒い死の線は、たしかにある。
「くっ―――!」
ずきり、と頭に走る痛みをこらえてナイフを走らせる。
黒い液体は、線を切られてそのままただの水のようなものになってしまった。
「よし………!」
荒い呼吸のまま立ち上がる。
―――助けないと。
あの怪物からアルクェイドを助けないと。
でも、一体どうやって?
俺にはネロに近づく事さえできない。
アルクェイドだって―――あれだけ凄まじかったっていうのに、ネロを追い詰めることはできなかった。
なら、俺なんかが立ち向かったところで、一瞬にして殺されてしまうのがオチじゃないのか。
黒犬一匹を殺すのに必死な俺が、それ以上の獣であるライオンや豹の相手なんて、一秒だってできっこない。
それに。
ヤツの背中に視えた、何百という死の『点』。
ネロとアルクェイドの話はよく理解できなかったけど、ようするにあのケモノ一つ一つがあいつなんだ。
だから。
ネロという吸血鬼を倒したいのなら、あの『点』を持つケモノたちを全て殺さなくてはいけないというコトになる――――
「く――――」
踏み出せない。
いくらなんでも―――人間では、あんな化け物相手には踏み込めない。
「く―――そ」
俺は、結局。
また、見殺しにして、自分だけ助かろうとしていやがる――――
「―――ほう」
声がした。
ネロの、喜びを押し隠したような声。
いや、違う。
あいつの声じゃない。
なにか、足音みたいな音が聞こえてくる。
「まさ―――か」
音は遠くから聞こえてきている。
けれど確実に、スキップするような軽い足取りで近づいてきている。
―――アルクェイドは言った。
夜の公園に人通りはないんだし―――それでも通りかかってしまう人がいたのなら、それは、その人に純粋に運がなかったという事だ、と。
遠くに、小さく人影が見えた。
歳のころは俺と同い年ぐらいの、顔もしらない女の子が。
「――――」
まずい。なにがまずいって、こんなところに来たら、それは――
「逃げろォーーーーっ!」
叫んだ。
ネロにまだ自分がいる事を気づかれてしまうとか襲われるとか、そんな事を忘れて叫んだ。
なのに通行人は止まってくれない。
何も知らないまま、本当に気軽にこの広場にやってこようとしている。
黒いコートを着た、体が半分しかない吸血鬼は、ほう、と吐息をもらした。
「……体を裂かれたばかりだ。養分がまるで足りていない」
ぞぞ、と半分しかない黒いコートが、生き物のように蠢いていく。
「よい頃合で、栄養分が現れてくれたようだ」
ネロの体から黒い獣が飛び出していく。
「やめ―――――!」
制止の声も届かない。
ここからずっと離れたところにいる人影にむかって、黒い風のような獣が走っていく。
事は、あっけないほど一瞬だった。
ひい、という短い悲鳴と、人間の倒れる音。
離れていても漂ってくる血のにおい。
黒い虎は、そのまま倒れた人間を咥えて戻ってきた。
……女の子の顔は、顔がなかった。
たぶん、虎の爪でゼリーでも削るように、顔をそっくりえぐられたのだ。
―――無慈悲、すぎる。
なんて一方的な、おぞましいほどの、暴力。
「が―――――!」
あたまが、いたい。
喉がカラカラと乾いていく。
意識が収束していって、もう、目の前の敵しか見えなくなる―――
虎は蛇のようにズゾゾゾ、と蛇行してネロ本体へと戻った。
おかしなことに。
虎が口にくわえていた女の子の死体は、そのまま忽然と掻き消えてしまった。
なのに。
―――――ごり。がき。ぐしゃり。
姿はないのに、音がする。
―――――ぎぎ。ぞぶり。ごくり。
あの、ネロという男の体の中で、音がしている。
肉を溶かし、骨を砕き、ゆっくりと人間を咀嚼している音がしている――――
「て―――――」
間違いない。
アイツは、体の中で、人間をまるごと食っている。
ニヤリと、ネロの口元が笑いに歪んだ。
――――それで。
頭の奥のほうで、カチリ、と何かがはまる音がした。
「てめえ――――!!!!」
何も考えられない。
ただ、ネロへと走りだした。
―――眼球に、朱が染まる。
「―――食え」
ネロの体から黒い豹が飛び出してくる。
その速さ、獰猛さは黒犬の何倍だろうか。
「―――――」
だが、そんなコトは知らない。
要は生き物。
生きているのなら、この俺の敵じゃない。
「邪魔だよ、おまえ」
立ち止まって、足元に転がる死体に吐き捨てる。
黒豹は、四つのパーツにわかれて俺の足元に転がっていた。
「―――そうか。さきほど私を背後から襲ったのは、おまえか」
ここにきて初めて、ネロは遠野志貴という人間に気がついたらしい。
感情のない目が向けられる。
―――ああ、アルクェイドの言うとおりだ。
迷いさえなければ、こんなヤツに睨まれたところで何ひとつ変わらない。
「……アルクェイドを離せ、化け物」
「―――――」
「離せっていってんだよ。オマエの相手はこの俺だ。そんな半分だけの体じゃ話にならねえだろう」
「―――――」
無言。
無言のまま、黒いコート姿の吸血鬼は、俺とアルクェイドを見比べた。
「おまえが、私の相手をする、だと?」
「そうだ。だから、アルクェイドを離してさっさと元の体に戻れって言ってるんだ」
「―――――、――――、―――――」
ネロの首が上下に動く。
ヤツは、笑っている、らしかった。
「興がそがれた。責任をとってもらうぞ、人間」
ネロは変わらない。
あくまでアルクェイドを包み込んだ半身をそのままにして、そんな半分だけの体でいるらしい。
「契約しよう。おまえは生きたまま、少しずつ、高熱で熔かすように咀嚼すると」
ざあ、と。
残された半身の腕があげられた。
「―――その劣悪な思考回路。私の相手をするといったおまえの思いあがりは、万死に値する」
ごう。
生暖かい風を吐き出して。
ネロの半身から、何十という獣たちが吐き出された。
「―――」
ネロから吐き出された獣の数は、十や二十ではすまなかった。
そのどれもが取るに足らない獣だとしても、その数が百近いとしたら一個の人間など、蟻にたかられる角砂糖のようなものだった。
「なっ―――」
目前に迫った黒犬の首筋にナイフをつきたてる。
『死』を裂かれた黒犬は、そこで絶命した。
瞬間、頭の上で鳥の羽音。
がっ、と骨をけずる音がして、こめかみの肉が、骨に至るまで持っていかれた。
「つぅ―――!」
痛みに嘆いている暇などない。
鳥の羽音と同時に、左右から、何匹かの黒犬に腕と腹を食いつかれていた。
「こい、つ、ら―――!」
ざん、ざん。
視えている範囲で、二匹の犬の『死』を穿つ。
けれど全然間に合わない。
一匹殺している間に、十匹以上の獣が、俺の体をついばんでいく。
「あ―――――あ」
見えない。
何も、見えない。
目の前が真っ暗だ。
目がおかしくなったんじゃない。
俺のまわりは―――黒い獣たちで、真っ黒になっていた。
「―――――!!!!!」
このままじゃダメだ。
死ぬ。あと五秒も保ちそうにない。
ぞぶり、と足首を噛まれた。血が出る。体が倒れそうになる。倒れたら、それこそ終わる。
倒れこんだ俺の体を、コイツらはさも貪欲にガツガツと貪っていくに違いない。
「ヤ―――」
厭だ。
それは、痛いというより、きっと恐い。
―――目の前は真っ暗だ。
何も見えない。何も出来ない。
けど、だからこそ考えなくっちゃいけない。
「―――――」
……大元を。
コイツらを操っているネロ本体をなんとかすれば、アルクェイドぐらいは救い出せるかもしれない――
「ああああああああ!」
闇雲にナイフを振り回す。
ところどころ欠けている体に鞭をうって、前へと走った。
あいつが、余裕をかましてまったく動いていないのなら。
この先に、半分しかない体のままでコイツらの親玉が立っているハズ―――
「――――!」
ネロ―――!
「さわぐな、見苦しい」
黒いコートがゆれる。
そこから。
白い角が、まっすぐに伸びてきた。
「え―――?」
鹿の角らしきものが、俺の、腹に刺さっている。
とすん、と。
あんまりに鋭角的すぎて、あんまり痛みは感じなかった。
「―――――」
そのまま、あお向けに、地面に倒れこんだ。
「私は人間であるのならえり好みはしない主義でな。安心しろ、細胞一つたりとも残さんよ」
声が聞こえた。
同時に、黒いドームが覆い被さってきた。
「あ―――――」
黒い傘みたいな天井。
それらは全て目を輝かせたケモノだ。
じゅっ。皮が裂かれる。
――――死ね。
ざくっ。肉を食んでいく。
――――死ネ。
ごりっ。骨を削っていく。
――――シネ。
何かを考えようとする理性は、もう働かない。
ただ、必死に腕で顔だけを庇った。
右手はガッチガチに固まって、ナイフをずっと握ったまま。
―――シネ。
がつがつと、食われていく。
おかしな話―――これだけのケモノに襲われたら、一分で骨さえ残らないっていうのに、コイツらは少しずつ俺の体を食べていく。
―――シネ。
血が、流れすぎてる。
体ジュウ、もう血と、コイツらの唾液でべとべとだ。
すごく――――気持ち、ワルイ。
―――シネ。
外が見えない。
ただ、ひたすらに、黒い。
―――シネ。
何十という目が言っている。
本当に少しずつ肉をついばみながら、言っている。
喋れないかわりに、ランランと輝く目だけで、コイツらは呟いている。
―――シネ。
いいかげん死んでしまえ、と。
黒いドームを作るケモノが、みな、その言葉を合唱している。
「―――――!」
悲鳴がもれた。
けど誰も助けてなどくれない。
―――殺される。
自分も、さっきの誰かのように生きたまま咀嚼される。
「あ―――ぁ、あ」
――――イヤだ。
そんなのは、イヤだ。
生きたまま死ぬなんて、イヤだ。
意識があるのに食われるなんて、イヤだ。
このまま殺されるのなんて、イヤだ。
恐い。それは恐い。とても恐い。
恐い、恐い、怖い、怖い、怖い恐い恐い恐い恐い恐い――――
「ころ――され、る」
そう、殺される。
逃げ場なんて、ない。
「このまま、ころされ、る」
それこそすぐにバラバラにされて、何十という獣たちの食事になろうとしている。
もう、やることもないので。
朱に染まった目で、そんな自分をぼんやりと見つめた。
「は。ははは、は。」
なぜかわらいがこみあげてきた。
だって、俺は自分が殺される理由がわからない。
それでも―――遠野志貴は、殺されるのか。
「強情だな。壊れてしまえば楽になるものを」
ク、クク、ク。
とおくでアイツがわらっている。
俺をゆっくりと貪ってわらっている。
ああ―――全身が、融けていくよう。
「―――――――」
……酷い。酷すぎる。こんなのは、酷すぎる。
傷が痛い。それは痛い。とても痛い。
死が怖い。それは怖い。とても怖い。
とおくでアイツはわらっている。
俺の死に様を見てわらっている。
耳をすませば。
まだ、アイツの体の中から、ゴリゴリと骨を砕く音がしていた。
昨日、あれだけの人間を食い散らかしただけじゃなく。
いま、何もしらない誰かを食べただけじゃなく。
アイツは、ここで俺まで食い散らかそうとしてやがる――――
「ガ――――」
ドン、と爪らしきものが胸に食い込んだ。
そこは昔、大怪我をしたところだ。
すごく痛くて、怖くて、ひたすらに憎かったところ。
―――八年前の―――あの夏の日。
ああ、ひたすらに憎かった。
怖いとか痛いとか、そんな余分なものなんてなかったぐらいに。
そうだ。俺は、ただ、ひたすらに憎かった。
ならばやる事は決まっている。
―――オマエが、オレを、殺すというのなら。
全身はとうに麻痺している。
残ったものは、未だナイフを離さない右手の感触だけ。
殺される―――殺される?
誰が。
何に?
「はは、は―――――――」
笑いが零れる。
ああ、たしかにその通りだ。
絶対に逃げられない。
絶対に逃がさない。
やるべき事は、ただひとつだけなんだから。
殺される。
殺される。
きっと、間違いなく殺される。
他の何にでもなく、
他の誰にでもなく。
――――――ヤツは、この俺に、殺される。
「あははははははははは!」
裂帛の気合のかわりに、白痴のごとき笑い声をあげた。
おかしい。
おかしくて、笑いがとまらない。
ザンザンザンザンザン、と音をたててケモノたちは次々と死んでいく。
脳髄が痛い。
体じゅうの神経血管細胞血液、全てがどうかしちまった。
―――黒いドームはなくなった。
この身をついばんでいた雑種どものうち七十匹ばかりを、とりあえずブチ殺した。
「な―――――に?」
ネロの声が聞こえる。
さあ―――立ちあがらないと、これ以上は殺せない。
立ちあがる。
「――――」
問題ない。
傷ついていない個所なんてないけれど、とりあえずこれならしばらくは動き回れる。
「貴様―――なにを」
「―――ああ、おまえの気持ちはよくわかったよ、吸血鬼」
脳髄には火の感触。
似てる―――アルクェイドを殺した時と同じで、まともに呼吸ができやしない。
イッちまいそうなほどの頭痛と熱と引き換えに、
吐き気がするほど、
セカイに死が満ちている―――。
「俺を殺したいんだな、化け物」
なら、俺たちは似たもの同士だ。
「いいだろう。―――殺しあおうぜ、ネロ・カオス……!」
あれだけ硬かった右手が自由に動く。
くるん、とナイフをまわして逆手に構えて、ネロに向かって走り出した。
ネロの体から、一際大きいケモノが現れる。
ようやくアルクェイドに出していた大物を出してきてくれたらしい。
「――――――」
だが、あまり長くは保たなかった。
どんなに巨大で迅速で強暴でも、連中は基本的に直接触れなければ俺を殺せない。
直接こちらに触れようとするのなら。
その触れようとする部分を切断する。
結局は、黒犬もライオンもトラもあまり変わらなかった。
二匹の大物が倒れて、黒い水に変わっていく。
ネロまでは――まだいくらか距離が開いているか。
「―――馬鹿な。姫君でさえ消滅させられなかった私たちが―――ことごとく、無に帰している」
なにか、言ってる。
「―――不理解だ。貴様、何をした」
ネロの体を凝視する。
何十という無数の点。
―――生き残りたいのなら。
アイツを殺したいのなら、アレを、全て殺さなければいけない。
「…………」
流石にそれは不可能だろう。
それでも―――このままじゃ終われない。
黒い粘液に飲まれたアルクェイド。
殺されてしまった何百という人たち。
―――そして、殺されかけたこの体。
「……………!」
ギリ、と歯を噛んだ。
恨み言を口にする余裕はない。
あいにく動くだけで精一杯なんだ。ネロの口上に付き合っている余裕はない。
―――否
そんな余裕があるのなら、一秒でも早く――
「―――よかろう。おまえを、我が障害と認識する」
―――このケモノ臭い化け物の息の根を止めたほうが、幾分はましだろう。
ごっ、と黒いコートが大きくはだけた。
品のないケモノの臭い。
危機感は、今までの比ではない。
コートの中から、どこか、子供のころに一度は見た覚えがあるようなケモノが飛び出してくる。
額に角のある馬だの、翼の生えた大きなトカゲだの。
それらは、たしかに厄介だった。
とても簡単には殺せない。
なにしろ『死に易い部分』がとても少ない。
だから―――よけい、真剣になる。
殺す、と言葉にしたせいだろうか。
血の流れが痛い。
神経がグラインドする。
体中のあらゆるものが、あの障害を排除するために連結していく。
角の生えた馬は、その角ごと、真っ二つにした。
トカゲは、背中から右下腹部にかけて切り取った。
「――――あり得ん」
障害の声が聞こえる。
あいにく、こっちはもうまともに視界が働かない。
視えているのは、ただ黒い点と線だけ。
「おのれ―――なぜ私が、たかだか人間風情に渾身でかからねばならぬのだ―――!」
びゅるん、という音。
半分しかなかったネロの体が、ヒトとしての完全な形に戻る。
―――ようやくアルクェイドを捕まえていた半身を、自分の体に戻したらしい。
「―――殺す。我が内なる系統樹には、貴様らの域を凌駕する生命が有ると知れ―――」
ネロの両腕が、自らの胸を掻きむしる。
闇を裂くように。
ヤツは、自分の胸を自らの腕で裂いた。
ネロの胸に空いた穴から。
何か、奇怪なモノが這い出てくる―――
一言で表現するなら、蟹のような蜘蛛。
大きさ的には、アルクェイドが仕留めた巨象よりやや大きめ。
「―――――」
視界が赤くてよく見えない。ただ、奇怪なシルエットと『死』だけがみえる。
指先が冷たい。
血を流しすぎたのか、体中が冷えきっている。
それでも―――まだ体は悲鳴をあげてない。
そんな余力があるのなら、一秒でも早くアイツを殺せと命令してくる。
―――背骨がいたい。
体がさむい。
指先が凍てついていく。
なのに、脳髄だけが火のように熱く。
蜘蛛とも蟹とも取れないケモノは次々とネロの体から這い出てくる。
ネロまではあともう少し。
ヤツの近づくためには、この生き物たちは邪魔だった。
とりあえず三匹。
出てきた分の邪魔者は、ことごとく殺した。
「――――有り得ん」
ネロは眩暈でもおこしたように、よろりと後ずさる。
「―――私のあらゆる殺害方法が殺されるなど、そのような事実が有り得るはずがない……!
私たちは不死身だ。
私が存命しているかぎり死しても混沌となりて我に戻り転輪す不死のケモノたちが―――なぜ、貴様に刺されただけで、元の無に戻ってしまうのだ―――!」
叫んでいる敵に歩み寄る。
ネロは後ろに引こうとして、かろうじて、後退することを押しとめた。
「―――無様」
機械のようだった目に、赤い憎しみの感情が、ようやく燈った。
ヤツのココロは理解できる。
―――おそらく。
殺人鬼としてのネロは己に撤退を命じている。
しかし吸血鬼としてのヤツは、自らがただの人間に敗退することを認めない。
理解しない。
撤退することさえ許さない。
だから、それ以上後退することを可能としない。
その精神、自身が無力だと悟るも認めぬ頑なさ。
さらに一歩。
これで、あとは跳びかかればナイフでヤツの体を裂けるところにきた。
「―――否、断じて否―――!
我が名はネロ、朽ちずうごめく吸血種の中において、なお不死身と称された混沌だ! それがこのような無様を見せるなぞ、断じてありえぬ……!」
―――ネロの体が、カタチをもっていく。
今まで闇でしかなかった体は、明らかに個として化肉していく。
「この身は不死身だ。
死など、とうの昔に超越した―――!」
ネロの体が跳ねる。
ケモノたちではない。
ヤツは、残っているケモノたちを極限まで凝縮し、自らを最高のケモノと成して、こちらの息の根を止めに来た。
その速度、アルクェイドにも劣らない。
触れればその場で首を粉砕されかねない腕が伸びてくる。
それをかわして、すれ違いざまにヤツの腕にある『線』を断った。
ざざざ、という音。
速すぎる速度が制御できないのか、ネロはすぐに止まれずに通りすぎていく。
―――また、距離が開いてしまった。
―――眩暈がする。
震えが、とまらない。
「―――――なんだ、これは」
切られた腕を見て、ネロは愕然としている。
「なんなのだ、これは―――! 何故――何故切られた個所が再生しない!? こんなたわけた話があるものか……! アレは魔術師でもなければ埋葬者でもないというのに、何故、ただ切られただけで私が滅びねばならんのだ―――!?」
「―――馬鹿ね。そんなつまらない体面を気にしてると殺されるわよ、ネロ・カオス」
ネロの傍らから、聞きなれた声がした。
「貴様―――!」
ネロは血走った目を、傍らで優雅に佇んでいるアルクェイドに向ける。
―――ああ、そうか。
ネロが半身じゃなくなった時点で、彼女も自由になっていたのか。
「ああ、わたしのことは気にしなくていいわ。あなたの始末は志貴がする。邪魔をしたらわたしまで殺しかねないものね、今の彼は」
クスクスという笑い声。
「苦しませて殺そうだなんて思うからこういう目にあうのよ。
敵は初撃で、反撃の機会を与えずに倒すものでしょう? あなたはね、そこを間違えたのよ」
「―――黙れ。私に間違いなどない。現に私には未だ五百六十もの命がある。
……待っていろ、ヤツをくびり殺した後、もう一度貴様を捕らえる」
「そう? 期待しないで待ってるわ」
アルクェイドはネロには近寄らない。
ネロはもうこちらしか見ていない。
―――やってくる。
左手を右手にそえて、ナイフを両手で握った。
ネロの体が低くなる。
それは、獲物に跳びかかる時の、狩猟動物の予備動作。
「そうそう、ひとつ言い忘れていたわ、ネロ」
その前に、風のような彼女の声が流れた。
「今さら遅いかもしれないけど。彼はね、一度わたしを殺しているのよ」
「な―――に?」
今度こそ、本当に。
愕然とするあまり、ネロは自身を見失った。
その間隙。
忘我するヤツの思考が、それこそ呪いのように、俺の意識に流れてくる。
―――それは、悪夢か。
アルクェイド・ブリュンスタッドを殺す?
この、不死身などという言葉さえ生ぬるい怪物を、あの人間は殺したというのか?
いや、それこそ否だ。
だがもし。仮釈、それが真実だとするならば。
―――果たして。
思いあがっていたのは、一体どちらだったのか。
「そういうコト。思いあがっていたのはあなたのほうだったみたいね、ネロ・カオス」
「く――――ふふ、はははははははは!」
憎悪と混乱の果てに。
ネロ・カオスは、心底愉快そうに、声をあげて嗤った。
―――もう待てない。
動かない標的に向かって走り始める。
「そうか、私を殺すのか、人間――――!」
―――ケモノが吠える。
片腕で、
一直線に俺の心臓を貫こうと疾走してくる。
[#挿絵(img/アルクェイド 27.jpg)入る]
その速さは文句のつけようがないほど、
単純で、
余分なものがない、
この俺を殺そうとするだけの、
綺麗すぎる活動だった。
「―――――」
伸ばされた腕を切る。
ヤツの体には、何百という『死の点』が存在する。
けれど、そんなモノより。
ヤツの深いところ、中心の最中にある『極点』が、確かに視えた。
――――何百という命を持とうが、関係ない。
俺が殺すのは、ネロ・カオスという『存在』のみだ。
だから、ネロを殺すのではない。
この男が内包したと言う、その混沌。
一つの世界を抹殺する――――――
正面からぶつかりあう。
トン、という軽い音。
――――ナイフは、確実にヤツの最中を貫通する。
にやりと口の端をつりあげて、吸血鬼は声も無く笑った。
「まさか、な」
じくり、と。
指先からバラバラと一つ一つに崩れていく黒い黒いケモノの躯。
「―――――おまえが、私の死か」
体温が、急速に霧散していく。
終わりは幕を引くように一瞬だった。
この一撃のもと。
残る五百六十の獣とともに、ネロ・カオスは死滅した。
「つか―――れた」
がくん、と地面に崩れ落ちる。
尻餅をついて、両手で倒れようとする体を支える。
右手はようやくナイフを離してくれていた。
「―――さむ」
とにかく寒い。
痛みはとうに麻痺していて、むしろ心地いい。
体のふしぶしには犬の歯形だの鳥のくちばしがつけたえぐり傷だの、盛大にやられたもんだ。
―――まあ、間違いなく。このまま死んでしまうとは、思うんだけど。
「――――志貴!」
アルクェイドの声。
「―――逃げて、狙われてる!」
声を上げながらアルクェイドは駆け寄ってくる。
「………え?」
地面に座り込んだまま、夜空を見上げた。
そこには。
白い月と、
蒼い鴉の姿。
クワア、と鳴き声をあげて、蒼い鴉は一直線に落ちてくる。
鋭いくちばしで、俺の脳天を貫こうと落下してくる。
「っ――――!」
逃げようと立ちあがる。
けれど、体はやっぱり限界だった。
立ちあがるつもりが、地面に倒れこんでしまう。
あお向けに倒れこんだせいで、よけいはっきりと蒼い鴉の姿が見えた。
ソレは、本当に弾丸のように俺の顔めがけて落下してきて―――目の前で、ザン、と音をたてて絶命した。
蒼い鴉は、突然飛んできた刀じみた強大な釘に、串刺しにされた。
釘は上空から飛んできたとしか思えない。
「…………」
夜空を見上げる。
そこには、白い月と。
[#挿絵(img/シエル 16.jpg)入る]
神父のような黒い服を着た、誰かの人影があった。
「―――――」
街灯の上に立って、こっちを見下ろしている。
危うく殺されるところだったっていうのに、ぼんやりと、編み上げブーツがかっこいいな、とか思った。
人影は何も語らない。
感情のない瞳が、月光の鋭さに似ている。
似ている。
すごく――――先輩に、似ている。
「……………」
意識がゆらぐ。
クアアアアアアアア、という鴉の断末魔。
そのまま、静かに目を閉じた。
……血が流れていく。
朦朧とした意識の中。
アルクェイドと誰かがいがみあっているような声が聞こえてくる。
「貴女には任せておけません。彼は、わたしが治療します」
ひどく敵意に満ちた声。
「余計な真似をしないで。コレはわたしのなんだから、あなたには関係ないわ」
アルクェイドの声も負けてはいない。
……いないけど、かってに人を自分の物扱いしないでほしい。
「ええ、たしかに今のところは無関係です。
ですが、今の貴女にこれだけの傷が治療できるとは思えません。このままでは見殺しにするだけでしょう。
それとも―――この若者を貴女の下僕にするつもりですか、アルクェイド・ブリュンスタッド」
「……あなた、そんな真似をわたしがすると思っているの?」
……二人の声からは敵意以上のものが感じられる。
ともすれば、このまま殺し合いが始まるんじゃないかっていうぐらい、張り詰めた声。
「では黙っていてください。この傷ではそう長くは保ちません」
「―――わたし、あなたのこと大嫌いなの。殺されない内にさっさと消えて」
「わたしだって貴女の事は大嫌いです。言われなくとも、彼の治療を終えたらすぐに立ち去ります。
貴女こそわたしに殺されないうちにこの街から消えてください。目障りですから」
……なんか、鬼気迫る話し声。
意識は、完全に真っ白になっていった――――
「――――かた、い」
そう、硬い。
あんまりに背中にあたる感触が硬くて、スパッと目を覚ました。
「…………………」
「あれ―――アルクェイド」
はて、と周りを見渡す。
ここは公園。自分はベンチで横になっている。
公園の時計を見るかぎり、時刻は午前一時すぎ。あれから一時間ほどしか経っていない、という事だろうか。
「……………………」
アルクェイドは、無言で俺を見つめている。
……というか、睨んでいるような、気もする。
「アル……クェイド……?」
「…………………」
アルクェイドは答えない。
原因は不明だけど、どうも彼女はいたくご立腹みたいだ。
「……よっと」
とりあえず、ベンチから立ちあがった。
「あ―――傷、塞がってる」
あれだけボロボロに切り裂かれたっていうのに、体には一つの傷跡さえない。
痛みも当然のようになくて、まるでネロとの一戦が夢だったみたいだ。
―――けど、あれは夢じゃない。
と、なると―――これは、もしかして。
「アルクェイド。おまえまさか、またネロの体を塗りつけたのか……?」
「いいえ、残念ながらはずれよ。そのほうが手っ取り早いし、志貴も強くなれたんだけどね。そもそも志貴がネロを完全に『殺』しちゃったから、ネロの体はもう使えないわ」
「へえ、それじゃあちゃんとあれ以外の方法で治してくれたんだ。
……すごいな、ほんとに元通りだ。痛みもないし眩暈もしない。いったいどんなふうに治したんだ、アルクェイド」
「しらない。志貴を治したのはわたしじゃないから」
乱暴に言って、アルクェイドは不機嫌そうに顔をそむけた。
「………?」
アルクェイドが不機嫌なのは、どうもそのあたりが原因みたいだ。
けど、俺を治したのはアルクェイドじゃないとしたら、いったい他に誰が―――
「――――――あ」
いた。
もう一人、誰かがいたんだ。
すんでのところで自分を助けてくれた誰か。
……シエル先輩に似すぎていた、あの黒い服の女の人。
「アルクェイド、さっきのヤツは!?」
「……………」
アルクェイドは不機嫌な顔つきのまま、そっぽを向いて無視なんてしやがる。
「アルクェイド、おい! さっきの人はどうしたかって聞いてるんだけど!」
「知らない。わたし、そんなヤツ見なかった」
ぷい、と顔を背けてあくまでしらをきるアルクェイド。
「あのな―――さっき俺を治したのは自分じゃないって言ってただろ。おまえじゃなかったら、他の誰が俺を助けてくれたっていうんだよ!」
「ああもうっ、知らないったら知らないのっ!」
あ。アルクェイドが、逆ギレした。
「だいたいね、どうして志貴があいつなんかのことを気にかけるのよ。あいつが誰であろうと志貴には関係ないんじゃない?」
「ばっ―――関係なんか、ある。……暗くてよくわからなかったけど、さっきの人影は、その……知ってる人に、似てた気がするんだ」
「――――そんなのただの偶然よ。いいからあんなヤツのことは忘れて。わたしの前であいつの話をしたら、本当に怒るからね」
ぴしゃりと言いきって、アルクェイドは顔を背けた。
「……本当に怒るって、なんだよそれ」
怒りたいのはこっちのほうだ。
俺はただ、さっきの人影のことが知りたいだけなのに。
「……ああ、わかった。もうなにも聞かないよ。だいたいこれで俺とおまえの関係も終わりだからな」
「え―――?」
「当然だろ。この街ですき放題やってた吸血鬼は倒したんだし、これで俺の責任ってヤツもなくなったんだ。
俺だってそろそろ家に戻らないと秋葉のヤツになんて叱られるかわからないしな。ここらが潮時なんじゃないか、アルクェイド」
「ん―――そうね、言われてみればそうかも。時間もこんなになっちゃったし」
うん、とアルクェイドは頷いてくれた。
「よし」
こっちも納得して頷く。
……納得して頷いたんだけど。
なにか、心のどこかでしこりがある。
このままコイツと別れるのが残念なような、そんな、未練らしきものがある。
「―――――」
そんなバカな。
こいつは吸血鬼で、俺は普通の人間なんだ。
これ以上関わると、それこそ取りかえしのつかない事になる………んだから。
「……それじゃあな、アルクェイド」
片手をあげて、アルクェイドから離れる。
「その、さ。色々酷い目にもあったけど、わりと楽しくはあったよ。えっと、だから―――おまえも元気でな」
「そうね。今夜はもう遅いし、家に帰らないといけないか」
「おやすみ。それじゃあまたね、志貴!」
「…………」
……なんか今、あいつおかしな事を口走った気がする。
走り去っていくあいつの背中に『これっきりだ、ばか』と言おうとして、やめた。
「……まあ、色々と問題はあるけど、面白いヤツなんだ、あいつは」
なんて、自分自身を弁解するようなセリフを呟いてみる。
けどそれは本当の話。
だから、たまには。
なにかの拍子で、もう一度ぐらいは会うことがあっても、悪くはない気がしていた。
◇◇◇
屋敷に帰ってきた。
時刻は午前二時になったころで、屋敷には電灯一つついていない。
「……忍び込むしかないかな」
鉄柵をよじ登って、庭に入る。
幸い玄関の鍵は開いていて、誰も起こさずに中に入る事ができた。
「はあ――――」
自分の部屋に帰ってきて、大きく背伸びをする。
終わった。
この三日間に渡って起きた、おかしな出来事はこれで本当に終わったんだなって、実感できた。
「さて―――寝るか」
疲れきった体をベッドに沈ませて、安らかな眠りに落ちていった。
―――いや、落ちるつもりだった。
「……………」
なのに眠れない。
体も心も疲れきっているのに、どうしてあの人影のことが気になって、眠れない。
「……先輩……のハズはないんだけど……」
けど、どうしても先輩とイメージがだぶってしまう。
はっきりと顔も見てないし、似ているのか、と問われたら断言できない。
だから―――ただの勘違いだとは思う。
「……明日……学校で聞けば……いいか」
そう―――だな。
先輩とはいつでも学校で出会えるんだから、その時に聞いて、『そんなのはわたしじゃないです』っていう、当たり前の返答を聞けばいいんだ。
「―――よし、そうしよう」
決めた。
さて、あとは―――なにかつまらない本でも読めば、いつのまにか眠ってしまっているだろう。
[#ここから3字下げ]
『不老不死』。
その言葉が真実無二ならば、それは永遠を定義するものの一つとなろう。
だが現実に、その域に達しているモノはいない。
例えば、伝承に時折顔を出す吸血鬼の類としても、不老不死ではありえない。
彼らは所詮、他者からなにかを略奪しなければ存在していられない欠陥品だ。
しかもその補充品が同種―――この場合、大半が人間という事になる―――でしかありえない、という点において、まったく汎用性というものがない。
超越種、などと謳ってはいるが、それは進化ではなく退化であろう。
単一種としての永久機関でなければ、それは永遠とは呼べまい。
他者に依存しなければ不老でいられぬ命など、不老不死を名乗るもおこがましい。
単一種としての永久機関には、すでに完璧に近い生物が存在する。
自らを食料とし、それを糧に繁殖する。寿命などというものもない。古くなった細胞は栄養源として食料になり、新しい細胞を生み出し続ける。
群体と呼ばれるもの。例えばクラゲ。
しかし、それは知性という余分な機能を持たないが故の永久機関だ。
知性を持たないでいいというのなら、それは死をもって永遠とする所となんら変わりはない。
ヒトとしての形を保ちながら永遠でいたいのならば、不老不死という手段では不可能だ。
長い年月は肉体を崩壊させ、思考の柔軟さを磨耗させていく。
不老不死か、永遠か。
手垢のついた不老不死になど、未練はない。
個人に固執するのならば永遠はありえまい。
一人の人間として生き続ける不老不死より。
私は、永遠に存在し続ける無限を選んだ。
……なるほど、たしかにそれは私とは違うアプローチだ。しかしな、その方法では人間が絶滅した場合、君は永遠ではなくならないか?
君の手段には、どうしても自分以外の生まれていない胎児が必要となるではないか。
ええ、そうですね。けれど私は私以外の人間がいなければ自己を認識する事ができません。
ですから―――人間が絶滅するのなら、自分だけ生き延びようとする事そのものが無価値でしょう。私の不老不死は、その時点で終わりです。
……君の理論はわからんな。それでは命題たる永遠には程遠いぞ、蛇よ。
いえ、永遠ですよ。滅びる時はみな全て滅びればいい。観測者がいなくなれば、それすなわち全てが不変。
私が体現する永遠はね、その時までの仮初めのものです。
私では全てを無にする事はできない。ですからその時まで、こうして生き続けようとしているのです。
……もっとも。今では、それ以外に一つだけ楽しみというものが出来てしまいましたが。
わざわざ私を呼びつけた目的はそれか。
はい。あなたの中のソレを、少しばかりカタチにできる神秘を教授いたしましょう。その神代の御業をもって、あなたに捕らえてほしいひとがいるのです、混沌よ。
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●『5/朱い残滓T』
● 5days/October 25(Mon.)
朝の光を感じる。
まぶたを閉じて眠りに落ちていても、柔らかな陽射しは混濁する意識を目覚めさせようとする。
―――意識が、だんだんと自分を取り戻す。
静かな雰囲気。
空気はほどよく冷たく、陽射しはそれを緩和するぐらいに温かい。
どうやら、今日はこれ以上ないっていうぐらいいい天気みたいだ。
―――なら、起きて学校に行かなくちゃ―
そう、学校に行かないと。
なにしろこの二日間、自分が学生なんだって忘れるぐらいにメチャクチャな生活を送っていたんだから――――
「…………」
目が覚めた。
体はベッドに横たわっていて、枕元にはメガネがある。
何の思考もしないままにメガネをかけて、視線を泳がせる。
さあ、という音が聞こえてきそうなほど、窓からさしこんでくる陽射しは清らかだ。
「――――」
はあ、と静かに呼吸をする。
肺が新鮮な空気をとりこんで、胸の中が洗浄されていくよう。
時計の針はカッチコッチと音をたてて、
外の林からは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
自分は暖かなベッドに横になっていて、何をするのでもなく緩やかな時間を感じている。
―――――それは、紛れもなく平穏な日常だ。
「……………」
なのに、それを少しだけ物足りなく感じてしまっている。
こんな清らかな朝に戻ってこれたっていうのに、俺は―――なにか、おかしな違和感を感じてしまっている。
あの黒いコートの吸血鬼を倒して、もう何もかも元通りになったっていうのに―――何か、足りないと感じてしまっている。
「……そんなバカな。どうかしてるよ、それは」
ふるふると頭をふって、つまらない思いつきを振り払う。
―――と。
「おはようございます、志貴さま」
「うわああああ!」
思わずベッドから上半身を跳ね起こす。
見れば、ベッドの足元のほうに翡翠が静かに立っていた。
「ひ、ひひ、翡翠―――」
「……申し訳ありません。志貴さまが中々お気づきになられませんので、こちらからお声をおかけしました」
「あ―――うん、いや、こっちこそ、ゴメン」
翡翠はうやうやしく一礼する。
―――び、びっくりした。
まだ心臓がばくんばくんって驚いている。
「―――あれ? まだ七時前だよね、翡翠」
「はい。志貴さまがお目覚めになられるには、少しばかり早い時間です」
「そうなんだけど―――それじゃあ翡翠はなにしにきたんだ?」
「志貴さまを起こしきたのです。秋葉さまがここ二日間のお話を聞きたいので志貴さまをテコを使ってでも連れて来るように、との事です」
「―――――あ」
……忘れていた。
そういえば土曜は学校を休んで、その次の日曜日はアルクェイドにつきっきりだったんだ。
しかも、昨夜は夜遅くに帰ってきて、ドロボウのように自分の部屋に忍び込んで眠ってしまった。
「……もしかして、秋葉のヤツ怒ってる……?」
「さあ、どうでしょうか。それは志貴さまがじかにお会いしてお確かめください」
―――翡翠の声は、ものすっごく冷たい。
「……翡翠は、俺が帰ってきたの、知ってたの?」
「はい。志貴さまが昨夜の午前二時過ぎにお帰りになられた事には気がつきました。防犯カメラが、門をよじのぼっている志貴さまの姿を捉えていましたから」
「―――えっと。それは、秋葉は知ってるのかな」
「いいえ、それはわたしと姉さんしか知りませんが」
「それは―――良かった」
……とりあえず、最悪の事態はさけられたか。
けど、それにしたってまずいぞ。
二日間も音信不通にしておいて、しかも夜中に帰ってきたなんてバツが悪すぎる。
「―――わかった。すぐに行くから、秋葉には、その……できるだけ落ち着くように言っておいてくれると、嬉しいかな」
「秋葉さまは十分落ち着いているようです。わたしからのお言葉では、これ以上落ち着いていただくのは難しいかと」
「―――」
うう、一難さってまた一難か。
ネロなんていう怪物をどうにかした後だっていうのに、間髪いれずに死闘が待っているなんて思いもしなかった。
まあ、ともかく起きよう。
いつまでもベッドに眠っていても始まらない。
「着替えたら行くから、翡翠は先に行っててくれ。……大丈夫、すっぽかしたりしないから」
「―――はい。それではお待ちしております」
……はあ。
それじゃあ、さっさと着替えて秋葉お嬢さまにお目通りに行くとしようか。
―――さて、やってきてしまった。
ここから扉一枚隔てて、秋葉が待っているという居間がある。
どんな事情があったにしても、学校を無断欠席して、あまつさえ二日も家に帰ってこなかった事実は弁解のしようがない。
ここは――素直に謝る。
「……そうだな。それが一番いいと思う」
アルクェイドやネロといった『人間外のもの』のことなんて話しても通じないだろうし、本当のことが話せないのなら、せめて素直に謝るべきだ。
「―――よし、行くぞ」
大きく深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
居間には秋葉がソファーに、翡翠が壁際に立って待っていた。
「―――おはようございます、兄さん」
じろり、と秋葉はいかにも『私、怒ってます』なんていう視線を向けてくる。
「えーと、その……おはよう、秋葉」
「挨拶はいいですから、そこに座ってください。兄さんに話があります」
「――――――」
秋葉の言葉には、なにか有無を言わせない迫力がある。
しずしずと、大人しく秋葉の前にあるソファーに腰を下ろす。
「兄さん。早速ですけど、一昨日と昨日のお話を聞かせてくれませんか?」
「―――――う」
聞かせてくれませんか、なんて丁寧口調で言っているものの、秋葉のそれは間違いなく脅迫だ。
だが、お兄ちゃんはそんなお話を聞かせてあげるわけにはいかないのだ。
「それなんだけど、秋葉」
「はい、なんでしょう」
「悪いんだけど、事情は説明できないんだ」
がちゃん。
と、秋葉の持っていたティーカップがテーブルに落ちた。
いや、意図的に落とした、という表現の方が近かった。
「秋葉さま―――」
「ああ、ごめんなさい翡翠。急いで片付けてもらえる?」
翡翠が無言でこぼれた紅茶とか、割れた(とても高級そうな)ティーカップを片付けていく。
その様子を、こっちは秋葉に睨まれながら気まずく見つめていた。
片付けを終えて、翡翠が厨房に入っていく。
「―――それで、兄さん」
「……なに?」
「もう一度、お聞きしていいでしょうか?」
秋葉は諦めていない。
意地でも俺から話を聞こうとしている気迫がありありと感じ取れる。
それでも、やっぱり話すわけにはいかないと思う。
自分のためという事もあるけど、秋葉のためにもこんな話はするべきじゃない。
「……だめだ。何度聞かれたって話せないものは話せない。秋葉にはいらない心配をかけさせて悪いと思ってる。けど、話せない事は話せないんだ」
「―――悪い、と思っているのに話せないんですね、兄さんは」
「そうだよ。連絡をいれなかったり、事情を話せない事はすまないと思ってる。でもこの二日間、悪いコトはしていない。……あれが間違っていた事だなんて、思いたくない」
―――そう。
殺したり殺されたり、そんな意味合いしかなかった二日間だったけど、あれは――正しいことだったのだと思いたい。
アルクェイドを助けるためというのもあったけど、なにより―――俺は、あの人食いの怪物を殺したことを後悔はしてない。
少なくとも、これ以上街で血を吸われて殺されてる、なんていう犠牲者が出るという事はなくなるんだから。
「―――ごめんな、秋葉。迷惑をかけてすまないけど、これ以上は聞かないでくれ」
「―――――――」
秋葉はじっとこっちの目を見つめてくる。
しばらく、そんな息苦しい時間が続いた。
「……わかりました。考えてみれば兄さんにも兄さんの事情があるんでしょうし、私がそれに深く干渉することはできませんものね」
「……悪い。そう言ってもらえると、助かる」
「――――――」
「わかりました。今回のことはこれ以上はお聞きしません。けれど、今後はこのような事は控えてくださいね。兄さんは遠野家の長男なんですから、もう少しご自分の立場というものを理解していただかないと困ります」
「―――む。なんだよ、それは関係ないだろ。だいたい遠野の跡取りは秋葉に決まったんだから、俺がなにをしようがいいじゃないか。家のことを思うなら、遠野の家に相応しい婿養子でも見つければいいのに」
「―――――」
……?
なぜか秋葉は黙り込む。
「どうした? 気分でも悪いのか、秋葉」
「――なんでもないです。私のことを気遣う余裕があるのでしたら、ご自分の体調を気にしてください。慢性的な貧血持ちなんですから、兄さんは」
「………む」
……そりゃあたしかに、こっちは頻繁に貧血で倒れたりするけど。
「ともかく、あまりお一人で屋敷を出ないでください。それでなくとも近頃の街は物騒なんですから。兄さんみたいにぼう、としている人は通り魔に襲ってください、と言っているようなものです」
「通り魔って―――ああ、例の連続殺人か」
たしか九人ぐらいの犠牲者が出ている、という連続殺人事件。
死体はすべて血液を搾取されているところから現代の吸血鬼か、なんて言われていたけど――
「ああ、それなら大丈夫。あんな事件、二度と起きないから」
「――――は?」
「吸血鬼はいないっていうことだよ。その犯人は、もう捕まったんだ」
「そうなんですか……? 兄さん、よくそんなことを知っていますね」
「ま、たまたま見ただけだけど、たしかに、もうあんな事件は起きないんだ」
……そう、少なくともこれ以上ネロに殺される人はいない。
アルクェイドと過ごした二日間は、そりゃあ色々ありすぎて何が正しくて何が悪かったか、なんて言えない。
けど、その事実だけは―――胸を張って良かったって言える事だと思う。
「兄さん―――? どうしたんです、急に嬉しそうな顔をして」
秋葉は不思議そうにこちらの顔を覗いてくる。
「べつになんでもない。ただ、終わったんだなって、ようやく実感できただけだから」
知らずに笑顔で、俺はそんな返答をしていた。
時刻は七時すぎになった。
「志貴さーん、朝ごはんの支度、できましたよー」
なんて、食堂から琥珀さんの元気のいい声が聞こえてくる。
「それじゃ朝ごはん食べてくるから。秋葉もそろそろ時間だろ。俺に気を使わないで先に行けよ」
「ええ、わかってるわ兄さん」
しばらく話しをしていたせいか、秋葉は上機嫌だ。
席をたって、食堂に移動した。
食欲がまったくない。
なぜって、そりゃあ白いごはんに赤い血のふりかけがかかっていたら、誰だって食欲をなくす。
「────」
ぶんぶん、と頭をふる。
そんなのはもちろん錯覚で、琥珀さんの作ってくれた朝食はいつもどおり素晴らしいものだった。
気を取り直して朝食を口に運ぶ。
───とたん、俺は吐き出してしまった。
すぐに食堂から出てきた俺に、秋葉は不審げな眼差しを向けてきた。
「兄さん、なにか忘れ物ですか?」
「いや、なんでもない。ちょっとした事だから」
「志貴さん、今朝は食欲がないんだそうです。お食事を口に運んでも戻されてしまうので、お薬だけ服用していただきました」
「え────?」
「いや、クスリっていってもただのビタミン剤だよ。今朝はちょっとさ、夢見が悪かったんだ。しばらくしたら気分が落ち着くから、メシは学校で食べる事にする」
琥珀さんにではなく、目に見えて何かいいたそうな秋葉にそう告げる。
「そんなわけなんで、そろそろ行くよ。散歩がてらに街を歩いてれば頭もスッキリするだろうし」
「ちょっと、兄さん───」
背中に秋葉の声がかかる。
「行ってくる。今日は早く帰ってくるから、小言はそん時にしてくれ」
秋葉の心配そうな声をふりきって、屋敷の外へと出ていった。
翡翠は鞄を持って門まで付き添ってくる。
「それじゃ行ってきます。見送りありがとうな、翡翠」
翡翠は無言で鞄を手渡してくれる。
「志貴さま、お帰りは何時ごろでしょうか?」
「俺も信用がないんだな。大丈夫、今日はちゃんと夕方までには帰ってくるから」
「―――かしこまりました。それでは行ってらっしゃいませ」
翡翠はふかぶかとおじぎをする。
それに照れくさいものを感じつつ、屋敷の門を後にした。
交差点にはうちの高校の生徒たちしかいない。
あの時のように、ガードレールに腰を下ろして誰かを待っている女性の姿はない。
「―――ま、当たり前か」
あいつとはもう会う事はないだろう。
そもそもあいつの目的は吸血鬼を退治する事だったらしいから、ネロが消えた今この街に残っている理由がない。
―――少し、胸に残ってる。
後悔とか、未練とか、そういったものが。
そりゃああいつは厄介ごとしか持ち出さないヤツだったけど、それでも少しは……まあ、一緒にいれて楽しかったんだ。
「…………」
自分で自分がどうかしているとは思う。
あんな危険な目にあったっていうのに、無意識にアルクェイドの姿を思い出そうとしてしまう自分がいる。
……なんだか、まるであいつに片思いをしているみたいだ。
遠野志貴はもう二度と、あんな危険な目に遭うのはゴメンだっていうのに。
朝食を抜いたおかげか、ゆったりと歩いても正門が閉められる十分前に到着できた。
この時間は朝の部活をしていない生徒が登校してくる時間帯だ。
進学校であるうちの高校の部活は、おもだった体育系の部活しか朝錬はしていない。
自然、校門は群がる生徒たちでごった返すことになる。
「────あ」
校門をくぐっていく後ろ姿に見知ったものがあった。
自分でも何をしたいのか分からないまま、その後ろ姿を追いかけた。
「あ、おはようございます遠野くん。めずらしいですね、校庭で会うなんて」
「……うん。先輩の後ろ姿が見えたから走ってきたんだ。その……ちょっと聞きたい事があってさ」
ちら、と先輩の顔を盗み見る。
「はい、なんでしょう」
先輩はいつもの柔らかな笑顔を向けてくる。
俺は───
───おもいきって、昨夜の事を聞いてみた。
「……あのさ先輩。昨日の夜、公園のほうにいなかった? 黒いコートみたいな服を着て、スカートをこうばさばさーとなびかせて」
「……? なんですか、それ」
「だから……! えっと、それと――そう、編み上げブーツがすごく似合ってたじゃないか。ちょっと見惚れるぐらい、かっこ良かった」
……はい? と先輩は首をかしげる。
俺が何を言ってるのか皆目見当がつかない、というように顔をしかめてから、先輩はきっぱりと否定した。
「えっと、よくわかりませんけど、昨日の夜にわたしが公園にいて、そうゆうカッコウをしていたんですか?」
「ああ。あれ、先輩だろ?」
「わけありませんっ。遠野くん、わたしってそんなに暇な人に見えるんですか?」
―――先輩は、本気で怒ってしまった。
そこにしらをきっているとか嘘をついているとか、そういったものは一切ない。
「あ───いや、そんな事はないんだけど、その……昨日、先輩に似た人を公園で見かけたから、それで―――」
はあ、と先輩はため息をつく。
「遠野くん、それわたしじゃないです。わたし、そういう趣味はないですから」
「あ───うん、わかってる。ただちょっと聞きたかっただけなんだ」
そう、言われて見ればその通りだ。
シエル先輩と昨日の夜の人物はぜんぜん結びつかない。
そもそも先輩は普通の人だし、もしあの場に居合わせたのなら───俺がナイフをもって吸血鬼を殺したところを見たはずだ。
あんな凄惨な場面を見てしまったのなら、俺とこうして今までどおり話なんか出来るはずがない。
「……ごめん、今のは忘れて。なんか他人の空似だったみたいだ」
「いいですけど……そんなにわたしに似てたんですか、そのヘンな人」
「そう言われると自信ないな。夜だったし、遠かったし………って、あれ?」
そう、遠くて顔だってよく見えなかった。
なのにどうして、俺はアレが先輩に似てる、なんて思ったんだろう……?
「……なんだかなぁ。やっぱりどうかしてたのかもしんない」
うーん、と腕をくんでうなだれる。
と、門限十分前の予鈴が鳴り響いた。
「―――やばっ、遅刻する。それじゃ先輩、またあとで!」
「はい、お昼休みにお邪魔しますね」
教室に駆け込む。
ホームルーム五分前、教室の中はいまだにがやがやと騒がしい。
「―――ふう」
一息をついて机に向かう。
この分なら、別段走る必要はなかったかもしれない。
「いょぉう、さぼり魔」
「…………」
背後から、聞きなれたあまりよろしくない声がかけられた。
「どうしたんだよ遠野。おまえが学校をさぼるなんて聞いてないぞオレ。こまるじゃんか、ちゃんと今日はさぼって遊びに行くぞって報告してくれなくちゃ!」
やけに嬉しそうな顔で、有彦はたわけた言葉を吐き出してくる。
「……あのさ。なんで俺が学校を休むってことをいちいちおまえに報告しなくちゃいけないんだ」
「あったりまえだろ。遠野が来ないってコトは先輩もうちの教室にやってこないんだから、事前に手をうっておかないとまずいじゃないか」
……何がまずいんだろうか、この男は。
「しっかしさ、ホントに土曜はどうしたんだよ。おまえは中学からこっち、貧血持ちのくせに学校だけは休まなかったじゃないか。
まあ、そりゃあ登校した瞬間に帰るっていう離れ技は何度かあったけどな」
「それと似たようなものだよ。交差点あたりまでは登校したんだけ、そこで気分が悪くなって帰ったんだ」
「ふーん。弓塚といいおまえといい、最近素行が悪いんじゃないか?」
「――まあ、素行が悪いっていうのは否定しないけど……弓塚さん、どうかしたの?」
「うん? ああ、ここんとこずっと欠席。あいつもずっと優等生してたからさ、いいかげんテンパッてたんじゃないか? だけどフリテンだから上がれないんだぜ、きっと」
「……………」
有彦の例え話は、なんというか独特だ。
―――そうこう話しているうちに、ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り出した。
「おっと、んじゃオレはこれで。土曜日さぼった分、まじめに勉学に励むんだぞ」
有彦はいそいそと自分の机へと戻っていった。
◇◇◇
四時限目が終わって、教室はにわかにざわめきだす。
食堂に走りだすヤツ、教室で机をくっつけて弁当を広げる女生徒たち、ついでにいうとサンドウィッチを手にしてやってくる乾有彦。
「おう遠野、メシにしようぜメシ」
「―――」
……さて、どうしよう。
食欲は朝からまったくない。とりわけ空腹を感じているわけでもないから、無理をして昼食をとる必要はないかもしれない。
……食べたら食べたで、また吐き出したりしたら面倒だし、ここは―――。
―――やめよう。
二食ぐらい抜いても人間は死ぬことはないんだし。
「……ん、今日はパスする。有彦の好きにしていいよ」
また食べ物に赤い血がかかっているような錯覚を見るのはゴメンだ。
正直、有彦のもっているサンドウィッチを見かけただけでうんざりしている。
だって、ご丁寧に真っ赤なトマトがたっぷりと入っているのだ。
「なんだ、おまえますます不健康になってくな。そんなに新しい生活は合わないのか?」
「ああ、そうなのかもしれないな。
朝は七時に起きても遅いと文句は言われるし、門限は八時だし。おまけに無断外泊すると厳しく詰問されるなんて、監獄生活みたいだろ?」
「いいじゃねえか、規則正しい生活で。管理体制万万歳、若者はもっとタイトに生きねえとな。若いうちから楽しちゃろくな大人になれないぞ」
「同感。……けど、有彦に言われると誰に言われるより説得力があるね」
その、究極的な反面教師として。
「そうか? なんだ、今日の遠野はやけに素直じゃないか。よしよし、サンドウィッチを一切れ分けてあげましょう」
「だから食べ物はいいって。俺のことは気にせず食べろよ。昼休み、終わっちゃうぞ」
「そう? んじゃ遠慮なくいただきます」
両手を合わせてから有彦はサンドウィッチを食べ始める。
───と。
「おじゃましまーす」
先輩が、お弁当らしきものを手にしてやってきた。
「おっ? 先輩って学食じゃなかったっけか?」
「いえ、べつに食事は決まってないですよ。その日の気分でなんでもありです」
先輩は可愛らしい巾着袋からお弁当を取り出す。大きさは女の子にしてはやや大きめだ。
「……つまり今日は早起き出来たからお弁当を作ってきた、っていうコト?」
「そうなんです、今朝はめずらしく七時前に起きれたんですよー……って、何を言わせるんですか遠野くんは!」
「……いや、そんなつもりはなかったんだけど……先輩、もしかして朝は弱いほう?」
「え───? あ、はい、実はわたし、早起きって苦手なんです」
先輩は教師に注意された生徒みたいにかしこまる。
「わたしの実家はパン屋さんでしたから、すっごく朝が早かったんです。
けどわたしはどうしても朝に弱くて。もう子供のころからお父さんに怒られてばかりでした」
なんとパン屋!
有彦は視線があう。
あいつも今、部屋にカマドがあって、その白い指で小麦粉を練って焼いたりするシエル先輩の姿を想像したに違いない。
「お父さんとの戦いは十年ほど続きましたが、最後には『おまえをしつけるのなら二人分働いたほうがましだ』とさじを投げられちゃいました。
それ以来、わたしは起きる時間に関してはわがまましほうだいなのです」
えっへん、と発育のいい胸をはるシエル先輩。
「へえー、そうなんだ。なんか意外だな、先輩ってすっごくしっかりしてそうなのに」
「はい、遠野くんの前では失敗しないように頑張ってますから。ほんとはですね、どっちかっていうと要領が悪いほうなんです、わたし」
ああ、たしかに要領は悪いほうなのかもしれない。
思えば先輩と親しくなるきっかけになったのは、上級生が一人きりで中庭の添え木を直しているのをほうっておけなかったからだし。
要領がいい人間っていうのは、ああいった一文の得にもならない事はやらないものだ。
「そっか。───でも俺、要領が悪い人のほうが好きだよ。一緒にいると安心できる」
うむ、と隣で同意する有彦。
「それで、朝が弱い先輩はたいてい学食だったってわけなのか」
「ええ、そういうわけなので学食がほとんどなんですけど、たまにはこうやってお弁当ぐらい作ります。お二人は学食派ですよね?」
「いんや、俺たちもその日の気分だな。一年の頃は俺も姉貴にメシ作ってもらってたんだけどよ、遠野のやつが学食だったりパン食だったりするから、合わせてるうちにこうなっちまったんだ」
「はあ。遠野くんは気分屋さんなんですね」
「そーそー。こういう男と付き合うと疲れるだけだから、先輩も気をつけな」
そうですねー、と有彦に同意しながら先輩はお弁当のふたをあける。
まるい弁当箱にはごはんとおかずが半分半分。実にオーソドックスなものだけど、それなりに量は多めのようだ。
「ではいただきます。となりの人の椅子、借りていいでしょうか?」
「いないヤツの椅子はみんなの椅子だよ。高田クンも先輩に座ってもらえて本望だろうし」
高田クンはとなりの席の、よく肥えた肉体をした人のいい青年だ。
たまに、無期限でお金を借りるコトもある。
先輩は俺の机にではなく、自分の膝の上にお弁当をおいて食べ始める。
その斜め横では、立ったままで二個目のパンの封をあけている有彦。
二人の様子を横目に、俺は窓の外の風景を意味もなく眺めたりする。
「あれ? 遠野くん、お昼は食べないんですか?」
「ちょっとね。昼飯は食べないコトにしたんだ」
「食べないって……それじゃお腹すいちゃいますよ」
「いや、別に腹は減ってないし。昼をぬいたぐらいでどうにかなるほどやわじゃないよ」
「うわあ、すごいなあ。わたし、一食でもぬいたら動けません。おなかがぺこぺこになって倒れちゃいます。
……恥ずかしいですよね、普通の子よりたくさん食事はとってるほうなのに、すぐお腹が減っちゃうんですから」
「そんなことはない。先輩は他のおんなどもに比べて発育いいからな。胸が大きいぶん燃費が悪いのは致し方あるまい」
うむ、有彦の意見はもっともだ。
俺たちとしては、むしろもっと食べて存分に育ってほしい。
先輩は恥ずかしいのか照れているのか、よくわからない顔をしている。
……まあ、おそらくは嬉しいんだと思うけど。
「でも遠野くん、本当におひるごはんを抜いてだいじょうぶなんですか?」
「大丈夫だよ。まる一日ぐらい食事を断つのは珍しい事じゃないんだ。今日は朝食を食べてないだけだから、まだ夜までは元気かな」
「うわあ───遠野くん、そんな生活してちゃ体壊しちゃいますよ」
「壊れないって。たんに精神的な問題で食事制限してるだけだよ。……まあ、昔の事故のせいでお医者さんにあんまり体重を増やさないように注意もされてるし、たまにメシを抜いたほうが俺は丁度いいんだってさ」
「はあ。おとこのひとでもダイエットって考えるんですね」
先輩はなにやら上目遣いで俺を見ると、少し考えこんだあげくお弁当のふたを閉じてしまった
「えーと、用事を思い出したんで失礼します」
テキパキと後片付けをすまして、先輩は風のように去っていく。
「───うむ、かわいい」
先輩が出ていった扉を未練がましく見つめながら、有彦はそんな言葉を呟いた
◇◇◇
授業が終わって、教室は急速に黄昏はじめる。
遠くの地平線に日が沈んでいく。
教室には誰もいない。
こうやって、別段やる事もなく教室に残っている物好きは自分ぐらいしかいない。
「―――――」
茜色に染まっていく教室。
───夕焼けは、あまりみたくない。
鮮烈な血をイメージさせて、ここ数日の出来事を思い返してしまう。
「――――――」
だっていうのに、あまり家に帰る気にはなれなかった。
ぼんやりと窓の外の緋色を眺める。
赤い。
赤い、夕焼け。
「い―――――た」
ずきりと、胸の古傷が、痛んだ。
赤い色。
赤いなにか。
例えば、人の血。
べったりとはりついて、むせ返るような濃厚な匂いをもった、たくさんの血液。
「――――くっ」
痛い。
メガネをちゃんとかけてるのに、頭が、痛い。
どうして。
ずきりと。    あたまが
どうして。
あたまが。
どうして。
ずき
り    と   どうして――――
「はあ――――はあ――――は―――――」
呼吸が荒い。
なにかひどく―――気が高ぶっている。
イライラして、何か気に食わなくて、何かにヤツ当たりでもしないとおさまらない――――。
「……遠野くん、ですか?」
「あれ――――先、輩」
先輩は何か深刻な顔をして、教室の中に入ってくる。
「いま、机を倒すような音がしたから来たんですけど……それ、遠野くんがやったんですか?」
「――――え?」
振りかえる。
そこにはたしかに、乱暴に倒された机や椅子が散乱していた。
「……あ……うん、そうみたいだ。なんか、ワケもなくムシャクシャしちゃって、その―――」
俺が、こんなふうに散らかしたんだろうか?
「もう、ダメじゃないですか。何があったか知りませんけど、物に八つ当たりなんかしちゃだめです」
先輩は倒れた椅子と机を直していく。
俺も無言で机を立てなおした。
「……すみません。なんか、自分でもよくわからなくて」
「はあ。遠野くん、なんかヘンですよ。あの時だって雨にうたれてぼーっとしてて、今日は今日で机を倒してぼっーとしているんですから」
「ああ―――うん、ここんところ少し疲れていてヘンなんだ、俺」
はあ、と深く深呼吸をする。
……先輩の顔が見れたからだろうか。
さっきまでの頭痛も、わけのわからない苛だちもキレイさっぱり消えてしまった。
「ごめんね、また迷惑かけちゃって。それじゃ帰るから、また明日」
「あ、遠野くんは今からお帰りなんですか?」
ああ、と頷く。
先輩はさっきのコトなんてまるで無かったことのように、淡い笑顔をうかべた。
「奇遇ですね。わたしも今日は早めに帰ろうかなぁ、って思ってたんです。ちょうどいいですから一緒に帰っていいですか?」
「いや、俺は嬉しいけど……先輩の家と俺の家って逆方向じゃないか。一緒には帰れないよ」
「ですから、校門までご一緒します」
「……まあ、そういうコトなら喜んで」
「はい。それじゃあ荷物をとってきますから、ちょっと待っててください」
タッ、と軽快な足音をたてて先輩は走っていく。
待つ事、実にわずか一分で先輩は帰ってきた。
「お待たせしました。それでははりきって行きましょう!」
先輩の姿は、本当に明るい。
なんていうか、見ているだけでさっきまでの陰鬱とした気持ちが晴れていく。
こんないい人が誘ってくれてるっていうのに、いつまでも暗い顔をしてちゃバチがあたるってもんだ。
「……オッケー、それじゃ行こうか。けど、そんなにはりきったら校門までなんてあっという間だね」
「あ、そうですよね。できるだけゆっくり行かないともったいないです」
先輩はトコトコと歩きだす。
その後ろについて、夕暮れの教室を後にした。
夕暮れの廊下を先輩と歩いていく。
お互いつまらない事を話しながら、できるだけゆっくりとした足取りで歩いていく。
なんていうか、すごくいい雰囲気だった。
―――思い返してみれば、俺は先輩の部屋に一泊したんだ。
あの時は人を殺してしまったっていう事で頭がいっぱいだったし、その後はアルクェイドと過ごしていて忘れていたけど。
……あの夜がなかったら、今の遠野志貴はなかったとさえ思う。
先輩は話題にさえあげないけど、先輩にとってあの夜はどんなものだったんだろう。
……単に、落ち込んでほっとけない後輩に手を差し伸べただけなんだろうか。
雨の中、捨てられている子犬を拾う時みたいに。
「……先輩、あのさ―――」
「はい?」
先輩が視線を向けてくる。
……ええいままよ、とあの夜のことを聞こうとした瞬間。
ぐるうううう。
と、腹の虫が鳴った。
いや、鳴ったというより啼いた。
「……………う」
「……………」
沈黙が、すこし気まずい。
「……遠野くん、おなか減ってるみたいですね」
「―――そうみたい。まいったな、食欲がなくてもおなかっていうのは減っちゃうものなのか」
はあ、とため息まじりに呟く。
そんな俺を見て、先輩はクスリと笑った。
「当たり前ですよ。なにか食べなくちゃ生きていけないのが人間ですから」
「違いない。……っと、そう思ったら本当にハラが減ってきやがった」
……気がつかなかったけど、朝と昼をぬいたのはそれなりに堪えていたらしい。
この分じゃ夕食まで我慢できそうにないし、途中でパンでも買っていくか────
「遠野くん、これ」
先輩は手に持った巾着袋を差し出す。
たしかそれは先輩のお弁当袋だったっけ。
「食べかけだけど、いいですか?」
わずかに頬をそめて、恥ずかしそうに先輩はそう言った。
……そういえば先輩、お昼はお弁当を半分だけ食べてフタをしたんだっけ。
人の食べかけのお弁当を食べる、というのは世間一般の常識では恥ずかしい事だとおもう。
俺は────
かまわず食べるサ。
人の好意は素直に受けとるのが俺の信条なんだし。
「───食べる。ハラ減ってますから、いただけるものなら何でも食べます」
はい、少しぐらいなら正味期限も気になりません。
「それじゃ茶道部に行きましょうか。部室ならお茶ぐらいだせますから」
先輩はトテトテと早足で廊下を歩きだした。
[#挿絵(img/シエル 13.jpg)入る]
「では、いただきます」
両手をあわせて先輩のお弁当に手をかける。
ばくばくと遠慮なしで食べていると、先輩はじっーと俺の事を眺めていた。
ばくばく。
ばくばぐばく。
ばくばくばくばくばく。
「────ん」
ごっくん、とお茶を飲む。
先輩はまだじっーっとこっちを眺めていた。
「お弁当、おいしいですか?」
「んー、冷めててイマイチです」
……我ながらこの素直すぎる発言はどうかと思うんだけど、性格なので変えようがない。
先輩はくすり、と小さく笑ってまっすぐに俺の目を見つめると、
「遠野くんって、達観してる」
なんて、すごく優しい声で言った。
「……はあ。わかんない人ですね、先輩は。いきなりなんですか、それ」
「だってそうじゃないですか。普通、人の食べかけのお弁当なんて食べませんよ。遠野くんは世間体というものを気にしない人なんですね」
「───? そうかな、あんまり自覚はないけど」
俺は、ただ自分に素直に生きているだけだから。
けど、まわりの事を気にしないで暮らしていく事が達観しているっていうんなら、俺なんかよりこの人のほうがよっぽど達観している。
俺だったら───みんなが無視してしまうような添え木の修理を、一人きりでやってしまうなんてコトはできない。
「俺から言わせてもらえば、先輩のほうがよっぽど達観してると思うけど。
先輩はいつだって自分のペースで動いてるじゃないですか。なんか、見ていて気持ちいいぐらい」
素直な感想を口にする。
もちろん誉め言葉だったんだけど、なぜか先輩は『そうですか』なんて、まるでアテにしていた宝くじが外れたみたいにうなだれた。
「あの……先輩? 俺、なんか悪いこと言っちゃったかな」
「―――はい。
だって、世間ではそういうのはおばさんくさいって言うじゃないですか。わたしだって女の子なんですから、ショックうけます」
……むむ。先輩の中では達観している、という事はお年よりくさい、というコトらしい。
「なんだ、なら俺はじいさんくさいって事ですか。失礼ですね、俺は前途多難な高校生です」
「あ、でも否定はできませんよ。遠野くんはざぶとんとお茶が似合ってますから。ゆったりしてて、まるでどこかのご隠居さんみたいです」
くすくすと先輩は笑う。
……せめて和服の似合う若旦那ぐらいにしてほしかったけど、先輩に言われるとご隠居も悪くはないかな、と思えた。
「そっか。それじゃ年寄同士、お茶でも飲みながら長話しでもするとしますか」
「そうですね。それじゃあ気のすむまでお付き合いしましょうか、志貴さん」
こぼれるような満面の笑みをうかべて、先輩は俺の湯呑みにトクトクとお茶を注いでくれた。
それから一時間。
五時半まで話した俺たちは、校門が閉められる前に学校を出て、交差点で別れる事になった。
坂道を上がりきって、屋敷のまわりを歩いていく。
しばらく歩いて屋敷の正門に回りこむと、そこに翡翠が一人で立っているのが見えた。
「……? なにしてるんだろ、翡翠」
首をかしげながら正門に向かう。
と、翡翠はこちらに気がついて、ペコリと頭をさげてきた。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「―――あ、うん―――ただいま、翡翠」
うやうやしく出迎えをされて、戸惑いながらもなんとか返答する。
「あの―――もしかして、俺が帰ってくるのを待っててくれたの?」
「はい。主人の出迎えをするのは使用人の務めですから」
さも当然のように、翡翠は眉ひとつ動かさずに言ってくる。
「いや、あのさ翡翠。出迎えてくれるのは正直嬉しいんだけど、わざわざ外で待ってなくていいよ。
俺は勝手に帰ってくるから、帰ってきたなって気づいた時だけ声をかけてくれればいいから」
「―――――」
翡翠はわずかに顔をくもらせる。
……もしかすると。
土曜日も日曜日も、翡翠はこうしてずっと俺の帰りを待っていたのかもしれない。
「――翡翠、あのさ――」
「わかりました。明日からはロビーで志貴さまのお帰りをお待ちいたします」
ぺこり、と頭をさげて翡翠は屋敷の門を開けた。
翡翠は門に手をかけたまま、こちらに背中を向けている。
「…………はあ」
なんだか、話しかけられる雰囲気じゃない。
屋敷の門をくぐると、翡翠は門を閉めて玄関まで歩いていき、やっぱり無言で扉を開けて俺をロビーまで先導した。
自室に帰ってきた。
秋葉は習い事から帰っておらず、琥珀さんは夕食の支度、翡翠は屋敷の掃除があるとのことだ。
「―――まいったな、やることがない」
いや、学生なんだから勉強とか復習とか暗記とかやらなくちゃいけない事はたくさんある。
ただ、なんとなくなーんにもやる気にならない。
ちらり、とアルクェイドの顔を思い浮かべた。
良きにつけ悪きにつけ、忙しい二日間だったことの反動だろうか。
しばらくは、何かをするよりぼんやりとしていたほうが、心が休まるような気がしていた。
◇◇◇
だだっ広い食堂で一人の夕食を終えた後、琥珀さんに傷口の手当てをしてもらって自室に戻ってきた。
夕食時になっても秋葉は帰ってこなかった。習い事が長引いているので、外食をすることになったらしい。
時計の針は夜の十時を大きく回っている。
少し早いが体の疲れもあることだし、今夜は早めに眠るとしよう―――
………体は疲れている。
なのに、深い眠りにつけないでいる。
体のふしぶしにある傷がズキズキと痛んで、熟睡しようとすると意識が半端に起きてしまうためだ。
ベッドの中から時計を見る。
午前三時過ぎ―――もう五時間近く、眠りとまどろみの境界の中にいる。
「……くそ、眠れない」
眠りたくても眠れない、というのは拷問に近いと思う。
チッ、チッ、チッ、と時を刻む秒針の静けさが癇に障る。
チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、ギイ、チッ、チッ、チッ、チッ―――
「え――?」
今、時計の秒針の音にまぎれて、物音がした気がする。
扉が開く音に似ていたけど、こんな時間に誰がやってくるっていうんだろう?
カツ、カツ、カツ。
いや、間違いない。
誰か部屋に入ってきて、こっちに近づいてきている。
「―――――」
誰だろう……こんな夜遅くにやってくるっていったら、それは―――
……シエル先輩、かな。
「……って、バカか俺は。いくらなんでも先輩のはずが――――」
「こんばんは、遠野くん」
「ないって、ええ―――!?」
思わずベッドから上半身を跳ね起こす。
「せ、せせせ、先輩………!?」
「はい。遠野くんに会いたくなったので、会いに来ちゃいました」
笑顔で、あっさりと、なんでもない事のように先輩は言った。
「会いに来たって―――うそ、だ」
「うそじゃありません。現に、こうしてわたしがいるじゃないですか」
「だから、それがうそだって言ってるの……! だって今はこんな時間なんだぞ! それにここは俺の部屋だし、先輩がひょいひょいってやってこれる場所じゃないっ……!」
「そんなコトありませんよ。だって、これは夢なんですから」
「――――へ?」
夢なんですから、って、はい?
「夢って―――先輩?」
「ええ、遠野くんが見ている夢なんです。とりあえず、そういうコトにしておきましょう」
にこり、と先輩は笑う。
……先輩はいつも通りの先輩だ。
けど、なにか―――すごく、違う気がする。
優しげな瞳は、なにかたくらんでいるみたいに妖しげに見える。
丁寧な口調は、所々いたずらっぽくこっちの動揺を煽りたてているみたいだ。
―――いや、なにより俺の部屋に先輩がいるっていうこの状況が異常なんだ。
ちらり、と時計を見る。
時刻はまだ午前三時過ぎのまま。
いくらなんでも、こんなのは――
「うそだ。こんなリアルな夢なんかあるわけないっ……!」
ベッドから立ちあがる。
部屋の真ん中にいる先輩まで歩み寄ろうと足を進ませた。
「あ………れ?」
足が。その、足がぴくりとも動いてくれない……!?
「だめですよ、かってに動いちゃ。遠野くんにはそこにいてくださいね」
「……そこにいてくださいねって―――ちょっと待った先輩。
俺の足、どうして動かないんですか……?」
「そんなの夢だからに決まってるじゃないですか。遠野くん、まだ信じてくれないんですね」
呆れているのか、先輩は肩をすくめて俺を見つめる。
けど、呆れたいのはこっちのほうだ。
「夢って―――ふざけないでくださいっ。いったいなんのつもりでこんな時間に俺の部屋に忍び込んできてるんですか、先輩はっ!」
「なんのつもりもないです。女のコが男のコの部屋にやってくる理由なんて、一つしかないですよね」
先輩は頬を染めると、意味ありげな笑みをこぼす。
「え……一つしかないって……その、先輩?」
えっと、それは、その―――おいしいごはんを作ってくれるとか、二人で不毛なカードゲームをしたりするんじゃなくて、その――
「はい。えっちなこと、しましょう」
もう、いつも通りの気軽さで。
先輩は、とんでもない事を言ってきた。
「ちょっ―――ちょっと待った、なに言ってるんだよ先輩……っ! なな、なんでいきなりそういう思考になるんですかっ、あなたは……!」
自分が顔中真っ赤にしているって実感しながら、ぶんぶんと手をふって暴れてみた。
今の状況は本当にワケがわからないけど、ともかく先輩の言ってるコトはどうかしている。
だいたい俺と先輩は俺と先輩なわけで、
その、恋人同士っていうわけでもないし、
どっちかっていうと仲のいい話友達みたいなもので、
その、こんなふうに先輩に誘われて実はすごく嬉しがっている自分に呆れていて―――
「ああもう、ともかくこんなのはおかしいだろ! なんで先輩が俺なんかにそんなコト言うんだ……!」
「……はあ。わかりました、遠野くんはわたしとじゃイヤなんですね」
「あ――いや、そうじゃないけど……いややや、そうだけど! その、おかしいじゃないか。
先輩は俺にとって大切な相談相手で、あんまり男女の関係ってないと思ってて、これからも有彦とかと三人で楽しくやっていけたらいいなって思ってたんだ!
だから―――こんなの……たとえ夢でも、どうかしてる」
「そーですか。遠野くんの考えはよっくわかりました」
ふい、と先輩は俺から視線をそらす。
「あ………」
さっきまでまったく動かなかった足が動く。
どうして動かなかったのかは知らないけど、これで先輩を家から外に出す事ができる―――。
「遠野くん」
鋭い、先輩の声とは思えない、厳しい声で呼びかけられた。
「え――は、はい?」
「決めました。わたし、いじわるになりますね」
ニッコリと笑って。
先輩は一歩、俺の方へと近寄ってきた。
「ちょっ――先輩、いいかげんに悪ふざけは」
「わたし、ふざけてなんかいませんよ。
悪戯っていうのはですね、こういうのを言うんじゃないでしょうか?」
ぱちん、と先輩が指を鳴らした。
―――とたん。
「――――!?」
いきなり、俺の体はベッドの上に尻餅をついてしまった。
「なっ―――!?」
わ、わけがわからないっ!
両手は後ろにまわされていて、何か―――皮のベルトみたいなものでぐるぐる巻きにされてしまっている。
両足もくるぶしのあたりがベルトで縛られていて、まったく身動きがとれない。
「な、なんで、こんな、いきなり……!?」
「はい。夢なんですから、それぐらい朝ごはん前です」
「なっ――――」
両腕に力をいれて、ベルトを外そうとする。
けれどベルトはガチャガチャと音を鳴らすだけで、まったく外れる気配がない。
「…………ていうか、鎖かこれ」
なんか、そんな些細なコトがずーんと背中にのしかかってきた。
両手両足の縛めは外れそうにない。
目の前にいるシエル先輩はなんだかいつもと様子が違う。
命の危険を感じているわけじゃないけど―――なんか、すごくまずい気がする。
えっちなこと、しましょう。
先輩はそんなコトを言っていた。
夜の部屋で、二人っきりでそんなコトを言われたら、興奮しないほうがおかしい。
事実、なんだかんだ言って心臓はバクンバクンって脈打っている。
けど―――なんか、違う。
先輩とそんなコトをするのは、なんか違う気がするんだ――――
「―――――――」
こうなったらもうヤケだ。
まだ口は塞がってないんだから、大声をあげれば翡翠がやってきてくれる―――!
「だめですよ。大きな声をあげたら誰かやってきちゃうじゃないですか。そうなったら、遠野くんはなんて言い訳するんです?」
先輩がベッドに乗った。
ぎしり、と二人分の体重でクッションが沈む。
その後に。
しゅるり、とリボンの解ける音がした。
「な――――」
止める間もなく。
……いや、止めようとする理性より、見たいという欲望のが勝ってしまったのか。
俺は、そのまま。
[#挿絵(img/シエル 31.jpg)入る]
先輩が制服はおろか、下着まで脱いでしまうのを、ただ息を呑んで眺めるだけだった。
「……せっ、先輩――――」
「ほら、もうこれでおしまいです。お家の人が来てしまったら、困るのは遠野くんのほうですね」
くすり、と意地の悪い笑みを口元にうかべて、先輩は猫のように、ベッドの上で膝を立てている。
「―――――――」
喉が熱い。
頭の中は泥酔した時のようにぐるぐるとまわって、何を言うべきか、何をするべきか、さっきまでは何をしていたんだろうか、とか、もうまったくといっていいほど考えられなくなってしまっている――――
「…………ぁ」
ごくりと喉が動く。
目の前には一糸纏わぬ姿の先輩の姿がある。
今の俺にできる事といったら視線をそらして、裸の先輩を見ないようにする事だけなのに―――体は、そんな建前めいた理性の言い分を聞いてはくれない。
……柔らかそうな胸の膨らみ。
剥き出しの白い肌はそれだけで煽情的で、匂いさえ伝わってきそうだ。
どくん、と心臓が破裂する。
見てはいけないものなのに―――先輩の裸体はやけに官能的で、意識が囚われてしまったように、視線が固まったままだった。
「さ、どうしてあげようかな。このままおそっちゃってもいいんですけど、それじゃちょっとつまらないですよね」
口元に妖しい笑みをうかべたまま、先輩は少しずつにじり寄ってくる。
……違う。
さっき、先輩が猫のようだって思ったけど、ちょっと違う。
少しずつ近寄ってくるアレは猫というより豹のようで、自分がただ食べられるだけの獲物のような錯覚さえ浮かんでくる。
「せ、先輩……! 悪ふざけは止めて、服を着てくださいっ……!」
なんとか欲望を抑えて、そんな事を小声で言う。
「…………もう。遠野くん、まだ状況がわかってないんですね」
むっ、と眉をよせて先輩は俺を流し見る。
「今の遠野くんが自由に動けるところなんて、本当に少ししかないんですよ。
そんなコト言われたら、ますますいじわるしたくなっちゃうじゃないですか」
「え―――先輩!?」
突然、先輩の姿がなくなった。
ベッドの上には誰もいない。
先輩の姿は部屋のどこにもなくて、ただ誰かいる、という気配だけが――
「ふっ」
「うわああああああ!?」
―――と。
後ろから、いきなり耳に息を吹きかけられた。
「せ、せせ、先輩っ……!?」
「驚かせちゃいました? そんなつもりはなかったんですけど、遠野くんは感じやすいから人一倍驚いちゃったみたいです」
言って。
ぴたり、と先輩の体が俺の背中に密着してきた。
「っ――――!!!!!」
「大きな声はあげないほうがいいですよ。夜中ですから、もしかすると誰か来ちゃうかもしれません」
……先輩の声は、真後ろから聞こえてきた。
つ、と。
後ろ首をなぞっていく、指。
「んっ――――っ……………!」
ぞくりとした感触に、顔があがる。
心臓の音が、一際高く響く。
どくん、と。
血脈の流れに呼応して、精神が欲情していく。
「……やめ……ちょっと、先輩……っ!」
「もうっ。そんなにわたしのことが嫌いなんですか、遠野くんは」
―――そんなコト。
そんなコトは、絶対に、ない、けど。
首筋から背中。
背中から、抱きしめるように、胸へと指がまわってくる。
ぎゅっ、と。
背中に、先輩の胸の感触が伝わってくる。
「っ……………!」
まずい。
こっちはその気がないっていうのに―――なんで、男っていうのは、こう―――
「だからこうしてやってきたんですよ。強情な遠野くんでも、夢のなかなら素直になってくれるかなって」
声は耳元で囁かれる。
唇と耳があんまりにも近すぎて、先輩の吐息が、耳の器官をくすぐっていく。
「……夢……って、ほんとに……?」
「はい。夢じゃなかったら、こんなコトはできません」
「……なんだ……それなら声をあげても……誰もやってこない、じゃない、か」
いきり立とうとする自分自身を堪えるために、途切れ途切れに声をあげる。
先輩は、耳元でくすりと笑った。
「やってきますよ。遠野くんが声をあげれば、妹さんが不審に思ってやってきます。これはそうゆう、半端に都合がいい夢ですから」
―――それは。
やっぱり、夢とは呼べない現実じゃ、ないんだろう、か。
先輩の指が、胸から滑る。
一本一本の指が、それこそ蜘蛛の足みたいに、滑らかに、こっちの神経を刺激するように、ゆっくりと下へ下へと侵食していく。
心臓が、高い。
気がつけば自分は何も着ていなくて、股間のモノはとっくに直立に膨張してしまっていた。
さわさわと。
タランチュラのように、落ちてくる指。
「それじゃあ、これからいじわるしちゃいます。覚悟してくださいね、遠野くん」
先輩の指が、あらわになっている俺自身に触れる。
青い血管を浮き彫りにしてそそり立つ自分自身に、自分以外の触覚がふれる。
それだけでも羞恥心でどうにかしてしまいそうなのに、それが先輩の指だなんて―――死にたくなるぐらい、恥ずかしい。
「――うわあ、遠野くんったらカチカチなんだ。うん、これならちょっとぐらい乱暴にしてもいいかな」
先輩の声は、ひどく愉しげだ。
触れていただけの指が、屹立した生殖器にからまってくる。
ぐいっ、ともぎ取ろうとするぐらいの勢いで、いきなり強く握られた。
「んっ…………!」
声がもれる。
一瞬、腰のあたりから脳天まで、何か、どろどろとしたモノが駆けぬけていった。
「あ、びっくりさせちゃいました?
ごめんなさい、遠野くんのまだ濡れてませんもんね。えっと、だいじょうぶです。ちゃんと優しくしますから」
先輩の手の平が、離れる。
白い指はそのまま、今度は慎重に、柔らかな動きで男根の下部を包み込む。
「あ―――、つ―――!」
自分のペニスをまさぐっていく先輩の指の感触に、呼吸が跳ねる。
「ちが―――先輩、そうじゃ、なくて―――」
俺は、ただ止めてほしい、だけ、なのに。
ガチャリ、と縛られた腕を動かす。
―――動かない。自由がない。
そんな俺のもがく姿と、さわられて耐えようとするあえぎ声を、先輩は愉しそうな目で眺めている―――
「ふふ、ちょっと楽しみです。さっきまであんなに強情だった遠野くんは、いったいどのくらいがまんできるんでしょうねー」
声は耳元で聞こえて、そのまま、耳の中に赤い舌がさしこまれた。
「………んっ!」
思わず目を閉じる。
……シタでは、そんなコト以上にひどい仕打ちがされていく。
「っ―――や、め―――」
先輩の三本の指は、熱く膨張したペニスを下から上へと、じれったくなるぐらいの遅さで、しごきはじめた。
しゅ。しゅっ。ずゅっ。
乾いた肉棒をこする音は、そして時間をかけずに、粘つく音に変わってしまう。
こする。
押す。
そのまま、搾り取るように練りあげる。
「……ん、だんだんいやらしくなってきましたね、遠野くんの。
ほら、目は自由でしょう? 自分のモノなんですから、ちゃんと見てあげてくださいね」
「な―――」
先輩の声が、よけい、羞恥心を向上させる。
ずっ、ずちゃ、ぬちゃ。
何度も何度も、執拗に責められた肉棒は際限なく膨張していく。
大きくなればなるほど、その異形さは先輩の指とはあまりにもかけ離れていて―――見ているだけで、気がヘンになりそうだった。
……先輩の指は、執拗に愛撫を繰り返す。
「っ―――く、ふ―――」
懸命に堪えても、声がもれる。
感じてなんて――欲情なんかしないって歯を食いしばっているのに―――体は、言うことなんてきいてくれない。
男根は一段と膨張して、いまにも弾けそうなぐらいになってしまっている。
先輩の指で触れられているだけで理性がガラガラと崩れていくのに―――その指の動きは、それ以上に破滅的だ。
じゅっ、と先輩が指を下から上に動かすだけで。
俺は、熱くたぎったナカのモノを打ちだしてしまいそうに、なる。
「は―――く、ぅ―――」
乱れる声を堪える。
できるだけ小さく、声が外に漏れないように、息を吐く。
……そうするたびに。
俺の真横で、くすくすと先輩の笑い声がした。
「なんかドキドキしちゃいます。遠野くんの声、色っぽいから」
「ふざ、け―――」
ないでくれ、と言う前に、また先輩の指が動いた。
先輩の指の動き。
たった十センチにも満たない動きに、全身が翻弄されている。
……先輩に、逆らえない。
手足を縛られて、思うままに一物を慰められて。
自分だけが恥ずかしげもなく呼吸を荒くして、必死に、快感を堪えている。
……その、快楽に逆らえない。
本来なら、そんなコトは怒りにしかならない。
なのに――今は、それが余計に理性を麻痺させていた。
「先輩―――やめ、よう、よ。こんなの……なんか、違う……だろ」
……そう、違う。
こんなのはイヤだ。
俺は先輩を愛してないのに、こんなコトはできない。
……愛してない……?
そうなんだろうか。本当にこれが俺の夢なら、これは遠野志貴の願望っていうコトになるのに?
「はっ……はっ……はっ―――」
……ダメだ。よく、考えられない。
気持ちが―――良すぎて。
なんで、なんでこんなに昂ぶるのか。
生殖器を指がしごくなんて、別に初めてというワケじゃないのに。
なのに、自分でするのはとまるで違う。
このままじゃ我慢できない。
だからやめて欲しいのに、この指は自分の指じゃないから、こっちの言うことをきいてくれない。
もう、とっくの昔にペニスは半透明の液体で濡れている。
射精の前ぶれのトロミ、腺液が狭い尿道からだらしなくこぼれている。
「はっ……く……ぅ」
それでも、最後に残ったちっぽけな理性が、その衝動を抑えてくれている。
「……もう、遠野くんはほんとに強情ですね。体はこんなに正直なのに、どうして心は意地をはってるのか、な!」
先輩の声に合わせて。
優しげな指が、動物の牙のように、肉の竿に爪をたてた。
「―――――っ!」
――――ぞくん!
背筋が反りかえる。
今までのじれったい、本当に早くしてほしいっていう感覚とは正反対の、すぐさま解放してほしいという感覚。
悦びと痛みの、衝突。
それが、股間から背骨を通って、脳髄に叩きつけられた。
ガチャリ、と腕を縛った鎖が鳴る。
自由になりたくて両腕が力をこめる。
それでも、鎖は隙間さえできやしない。
「あっ―――あ、あ―――!」
先輩の爪はまだ竿に食い込んでいる。
ギリギリと。もう放出寸前だったモノを塞き止めるように、ペニスを責めたてている。
「せ、先、輩………っ!」
「ああ、ダメですよ遠野くん。その鎖は外れないんですから、あんまり無茶すると血が出ちゃいます」
「違――そんなんじゃなくて、爪、つめ―――!」
「あら。遠野くん、もしかしてわたしの指で感じてるんですか?」
いじのわるい声で、先輩はとんでもないコトを聞いてきた。
「……………っ!」
ぎり、と歯を噛んで、痛みを堪える。
先輩の指が離れる。
男根の中ほどには爪のあとがくっきりと残っている。
そのおかげか、放出寸前だったモノは、とりあえずひっこんでくれたみたいだ。
「……先輩、いいかげんに、してくれ……これ以上のことは、本当に、怒る、から、な―――」
「ええ、わかってます。わたしだって遠野くんがその気になってくれないのに、これ以上のことはしませんよ」
こっちの心まで見透かすような目をして、先輩はまた指を動かしはじめた。
「……っ! ぜんぜんわかってないじゃないかっ、ばか!」
先輩は答えない。
ただ、またゆっくりと、緩やかな動きで俺自身をまさぐりはじめる。
ゆっくりと。
根元からこすりあげて。
ぬちゃりと音をたてる、醜い肉の棒を愛撫していく。
何度も、何度も。
なんでそんなにゆっくり―――もっと速くして、いっそ楽にしてほしいって思うぐらいに、ゆっくりとした、動き。
「……………っ」
呼吸が収まってくる。
先輩の指に慣れてきて、呼吸が落ち着いた。
けど、それはもう手遅れだ。
ゆるやかで、じれったくて、盛り上げるだけ盛り上げられたのに、終わりがこない。
反りかえったペニスは、まるで女性の生殖器なみに腺液で濡れてしまっている。
なのに、まだ一度も出していない。
「………ん………」
ゆるやかな指の動き。
ただ、前触れの液体だけが出続けている。
「あ………く」
出したいのに、出ない。
ペニスの根元にぐつぐつとたぎっているのに、俺はこの浅い快楽に慣れてしまって、到達することができない。
出したい。
けど出ない。
果てたい。
けど果てられない。
先輩のゆるやかな指。
じれったい。じれったい。なんで、ここまでしたのに。
さっきみたいに、爪をたてたりして、一気に昇り詰めさせてくれないんだ。
―――早く。
早く、早くしないと、どうにかなってしまう。
根元でドロドロとしているものが重くて、痛くて、早く外に出さないと、出さないと――
この頭の中に釘がささったような快楽がずっと続いて、俺はおかしくなっちまうじゃないか……!
「……く……そ」
頭の中が、どうにかしてしまう。
早く――もう、いいから。
理性とか先輩のコトとか、そんな瑣末なことはいいから。
つまらない強情なんてはってないから、早く―――
「ね、遠野くん。もうすぐイッちゃいますか?」
横から、真面目な声で先輩が聞いてくる。
さっきまでの愉しむような声じゃなくて、真剣に問いただしてくる。
「ばっ―――そんな、コト、ない。俺は感じてなんか、ないんだから―――こんなコト、しても無意味、だ」
……なのに、口から出た言葉は、気持ちとは正反対のものだった。
はあ、と先輩のため息が聞こえた。
「負けました。遠野くんには敵いません。敵いませんから、もうやめますね」
「――――え?」
あっさりと、先輩の指が離れた。
さっきまでしていた、浅い愛撫が途切れる。
「はい。これで楽になれたでしょ、遠野くん?」
「――――あ」
そんな―――そんなワケ、ない。
さっきまで当たり前のようにされていた愛撫が途切れて、俺はよけいいきり立ってしまっている。
ぱんぱんに。
もうこれ以上はないっていうぐらい膨張したペニスは、まだとくとくと腺液をこぼしている。
なのに、いけない。
あんな感覚に慣れてしまったから、素のままじゃいけない。
けど俺の腕は鎖で縛られているし、先輩の指さえ、もう離れてしまった。
「…………や」
「はい? なんですか、遠野くん」
「やめ………」
「ですからやめてあげたじゃないですか。それとも、何かしてほしいコトでもあるんですか?」
愉しそうな声で、先輩はそんな事を聞いてきた。
「どうしてほしいんですか? はっきり口にしてくれないとわかりませんよ、遠野くん」
「……………」
言えない。そんなコト、口が裂けてもいえない。
けれど、このままじゃ本当に気が狂う―――。
「……やめ……ない……」
「よく聞こえません。もっとはっきり言ってください」
先輩の声は、愉しそうに弾んでいる。
……しらなかった。
先輩が、こんなにいじわるな人だなんて。
「……やめないで、くれ。このまま……先輩に、して、ほしい……」
途切れ途切れに、そう口にしてしまった。
真横で。
くすりと、先輩の声が聞こえた。
「わかりました。それじゃあ素直な遠野くんに、ご褒美をあげますね」
先輩の体が離れる。
どさ、という音がして。
シエル先輩は、俺の前にひざまずいた。
[#挿絵(img/シエル 32.jpg)入る]
「せ―――先輩………!?」
思わず腰を引いてしまった。
先輩はベッドに座っている俺の前に膝をついて、その―――その唇で、俺自身に軽くキスをしたから。
「ん……すごい量。遠野くんが強情だからこんなになっちゃったんですね」
腺液にまみれた男根を手にして、先輩はくんくん、と俺のモノの匂いをかぐ。
俺でさえ正視できないそれを掴んで、そんなに顔を近づけて―――
――――どくん。
「……は……」
まだ何もされていないのに、びくっ、と男根が振動した。
快楽は肉体的なものと精神的なものとが交じり合うものなのか、先輩の顔が近くにあるというコトだけで、行き場をなくしてとぐろを巻いていた熱いモノが、どくん、と鎌首をもたげてしまう。
……見れば、先輩の頬は赤く上気している。
さっきまでは一方的に弄ばれていたものだとばかり思っていたけど。
先輩も、ずっと―――そんな顔で、俺に寄り添っていたんだろうか―――
―――どくん。
いっそう。
感情が、吐き気のように、喉元までせりあがる。
「……先輩、俺……なんか、ダメだ」
「……わかりますよ。だって、すごい―――遠野くん、火鉢みたいに熱くなってる」
感嘆するように呟いて。
先輩は、ぺろりと、濡れに濡れた亀頭に舌を這わせた。
「ん――――っ!」
今までの指とは違う、ざらりとした感触に体がしびれる。
舌はそれこそ液体みたいにぴちゃりと張りついてくるのに、やっぱり確かな固体としての反動がある。
「はっ―――あ、あ」
ぴちゃり、ぴちゃり。
腺液にまみれた亀頭をふき取るように、先輩の舌が這っていく。
「―――んっ!」
それだけで根元からこみ上げてくるものがあるのに、先輩の指が波のように動く。
縦にペニスを握って、四本の指で屹立した肉の柱をすりあげる。
熱い肉棒には青い血管が浮き出ていて、それが腺液に濡れて、鈍くてらつく。
そんなグロテスクなものを、先輩の指がしごく。
ずちゃ、ずちゃ、と音をたてて、根元に溜まったモノを搾り出すように、動く。
親指は亀頭を押し上げて、びくん、と尿道口を圧迫する。
「せんぱ―――で、出る―――から、」
息もできず、ただそれだけを口にした。
先輩の顔は離れない。
指も舌も、こっちの昂ぶりなんて無関心に動き続ける。
「だめ――たえら、れな、い―――!」
でも、いくらなんでも―――先輩の顔に出すなんて、できない。
ぐっ、と腰に力をいれて堪える。
腕が。腕が自由なら、すぐさま先輩の顔を突き放して出せるのに―――!
「遠野くん、どうして我慢するんですか?」
こっちの気持ちも知らず、先輩は聞いてくる。
「……ばっ……だって、先輩の……顔になんか、出せない、だろ……」
歯を食いしばって、それだけ言った。
でも―――もう、我慢できない。
「……ふふ。遠野くんは可愛いですね」
くすり、と先輩は笑って。
「だから―――もっともっといじめてあげます」
もう一つの手で、男根の下―――ふくろの付け根を通る、輸精管を圧迫した。
「―――――!?」
びくん、と体が震える。
なにか――頭蓋骨に、穴が開けられた、みたい。
「ここをですねー、こうして押さえつけると射精できないんですよね、男のコって」
「あ―――え?」
びくん、と竿がゆれる。
本来ならとっくに撃ち出しているはずのモノだけがなく、びくびくと、痙攣している。
「この状態で責めると、遠野くんは壊れちゃうかな」
ぺろり、と。
先輩は俺の腺液にまみれた舌で、自分の唇を舐める。
「でも、遠野くんは自分からわたしにメチャクチャにして欲しいって言いました。だから―――」
「あ……先、輩……?」
「―――だからここでグチャグチャに、遠野くんを壊してあげます」
言って。
先輩は舌先をすぼめると、狭い尿道口にソレを押し入れてきた。
「は――――――っっっっっ!」
根元―――根元から、取れる……!
普段まったく触れられない尿道口の中。
そこに強引に入ろうとしてくる舌の感覚に、狂ってしまう。
今までで最高の衝撃をうけて、生殖器は全力で精を放とうと試みる。
けれど、出来ない。
先輩の指にその通り道を塞き止められていて、射精が許されない。
「はっ―――あ、あ、あ―――!」
腕をゆらす。
鎖の音が部屋中に響きわたる。
もう―――誰が起きてこようとしったこっちゃない。
そんなコト気にしていたら、その前に俺の気が狂う。
ず、ち、う―――
感覚が変化する。
尿道口に入ろうとしていた舌が離れて。
先輩の唇が、吸い衝いてきた。
ちゅううう、と。
出せないってわかっているのに、それを吸い上げるように。
射精の道の中が、先輩の唇に吸引されて、真空になる。
「かはっ――――!!」
さっき開けられた頭蓋骨の穴から、直接アルコールを注ぎ込まれたみたい。
意識が。消しゴムをかけられたみたいに、真っ白になっていく。
指が離れる。
射精を塞き止めていた指が離れて、イヤというほどじらされていたモノが、炸裂する。
どくっ。
どくどくどく、どく、ん。
こっちの意識とか理性とか記憶とか、そういったものを根こそぎ奪っていくように、白濁したモノがはきだされる。
―――もう、朦朧としたあたまは先輩の顔がよく見えない。
ばたりと、ベッドに倒れこむ。
手足の鎖は、初めからなかったみたいに、解かれていた。
「は――――――」
びゅく。
……ペニスには、まだ先輩の体温が伝わっている。
先輩は亀頭をほおばって、まだ中に管に残っている精液を、びゅくん、と飲み下してくれた。
「――――――あ」
けど、それがトドメだった。
かろうじて残っていた意識も、それで、残らず先輩に飲みこまれてしまったみたいだ――――
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●『6/空の弓T』
● 6days/October 26(Tue.)
………、………………、………………………。
「―――あ――さ」
ぼんやりとしていた意識が目を覚ます。
窓からは陽射しが差し込んできていて、部屋は暖かな雰囲気に包まれている。
「………………」
じっと、自分の両手を見る。
両手にはかすかな発汗。体中に汗をかいていて、なんだか熱帯夜の中にいたみたいだ。
くわえて、呼吸はなんだかぜいぜいと乱れている。
「……………えっと」
……オーケー、落ち着こう。
まず呼吸を平静に整えて、目を閉じる。
ここは自分の部屋。
時間は朝の七時前。
部屋にいるのは自分だけだし、先輩の姿なんか当然のようにない。
先輩の言っていたとおり。
さっきまでのコトはみんな夢だったんだ。
「…………」
そう、わかっている。
夢だってわかっている。冷静になってみれば、そもそも先輩があんなコトをしにくるはずがないんだ。
その時点で、昨日の出来事は破綻している。
「は――――あ」
ほう、と胸の中にたまった空気を吐き出した。
……それでもたしかに、体には先輩の感触がのこっている。
下着姿で後ろから抱きついてきた胸の感触とか、股間にふれていた指の感触とか。
夢だってわかってるのに―――感覚がリアルすぎて、なんだか現実のように思えてしまう。
……それでも、今のは間違いなく夢なんだ。
それが喜ぶべきものなのか、それとも残念なことなのか、正直どっちだって判断できないけど、俺のかってな妄想にすぎない。
けど、
「―――なんで―――」
あんな夢を、見たんだろう。
俺にとって、先輩はたしかに大切な友人だとは思うけど、あんな夢をみるぐらい、その――先輩を女として見ているんだろうか、俺は。
「―――――う」
思い出して、やけにリアルだったシエル先輩の肌の感覚が甦る。
これが現実なんだ、と確かめるために自分の腕を抱く。
……ああ、たしかにこれが現実。
シエル先輩の肌は、こんな男の肌とはもう根本的に違って、柔らかで、温かかったし。
「……おまけに、すっごくいじわるだった」
―――思い出すだけで呼吸が荒くなる。
……まあ、いろいろとひどい目にあった気がするけど、たまらなく気持ちが良かったのは事実なわけで。
先輩を夢の中で抱くなんて、それだけで先輩に対して後ろめたいっていうのに、俺はむにゃむにゃと夢の内容を思い出して呆、としてしまった。
そこへ。
「志貴さま」
「うわあああああ!」
ばたばた、と逃げるようにベッドから転がり落ちた。
いや、実際逃げようとしたんだけど、結果的にはシーツごと床に転げ落ちただけだった。
「ひ、ひひ、翡翠……っ!? い、いったいいつからそこに!?」
「志貴さまがお目覚めになられる前からですが」
いつも通りの無表情さで翡翠は即答する。
床の上、シーツにくるまったまま、立ちあがる事もできずに翡翠の顔を見上げる。
「……俺が起きる前、から……」
―――ということは、もしかして。
俺は、あんな夢を見ている時の寝顔を、翡翠に見られてたっていうんだろうか――
ぼっ、と自分でも自分の顔が真っ赤になったのがわかった。
翡翠は相変わらず無表情で、自分からは何も話しかけてこようとしない。
「その……俺、なんかヘンだった……?」
「それは、わたしの口からご説明するのははばかられます」
「あ―――う」
……やっぱり、なんかすごい寝姿をしていたみたいだ。
「ですが、志貴さまがどうしてもとおっしゃられるのなら、出来るだけ緻密にご説明いたしますが?」
「……いい。説明しなくていいです、はい……」
顔を赤くして、消え入りそうな声で答えた。
「あの、翡翠さん?」
コホン、と咳払いをして場を切り返す、
……『さん』がついているのは、動物が自分のおなかを見せるのと同意語だ。
「なんでしょうか、志貴さま」
「その、着替えるから外に出てもらえない?」
―――というか、とにかく気恥ずかしいので外に出てもらいたい。
っていうのに、今日にかぎって翡翠はこっちの言い分を聞いてくれない。
「志貴さまが起き上がられるのを見届けましたら退室させていただきますが」
「……!」
じょっ、じょじょじょ冗談じゃない!
なんだって俺がベッドから転げ落ちてもシーツなんかで体を包んでると思ってるんだ!
それもこれも、まだいきり立っている股間のモノを隠してるからじゃないか!
「い、いいから外に出て。ちゃんと一人で起きれるし、二度寝したりはしないから。翡翠が外に出たらすぐに着替えて居間に行くよ」
「志貴さま―――お体を打たれてお立ちになれないのですか……?」
翡翠は心配そうに近寄ってくる。
「いや、そんなコトはない。十分に立ってる、じゃなくて立てるから、気にしないでいい」
ずりずり、とナメクジみたいにシーツを引きずって、四つんばいの姿勢で翡翠から離れていく。
ベッドをバリケードにして、翡翠と十分に距離をとった。
「……では、失礼します。食堂で朝食の準備をいたしますので、着替えてからおいでください」
かなり疑問に思っただろうが、翡翠は一礼して部屋から出ていく。
「――――はあ」
ああ、びっくりした。
夢の内容にも驚きだったけど、翡翠にその時の寝顔を見られていたっていうのも心臓に悪い。
……これというのも、シエル先輩に対してあんな夢を見た自分がいけないのか。
「……自業自得かな。先輩みたいないい人を相手にして、なんて夢を見るんだろ、俺は」
はあ、と自己嫌悪のため息をつく。
けど、当分。今夜の夢は忘れられないで残っていそうな予感がした。
気持ちを十分に落ち着かせて居間に移動する。
居間では、やっぱりすでに秋葉がソファーに座って紅茶を優雅に飲んでいた。
「おはようございます兄さん。今朝は早いんですね」
そんなにこっちが早起きしたことが嬉しいのか、秋葉は笑顔で声をかけてくる。
「ああ、おはよう。今朝は、まあ色々とあってさ」
言って―――また、先輩の舌の感触が蘇ってしまった。
「うっ―――」
まずい。自分でもどうしようもないぐらい、顔が赤くなっていくのがわかる。
「兄さん―――?」
がた、という物音。
「どうしたの? 顔が赤いけど、熱でもあるんですか?」
「―――――!」
すぐ間近にやってきて、秋葉は下から俺の顔を覗きこむ。
だから、下から見上げるっていうアングルは、その―――
「―――はあ、本当に熱があるみたいですね。琥珀、ちょっと来て。兄さん、体の具合がよくないみたいなの」
秋葉は食堂に向かって声をあげる。
厨房では琥珀さんが俺の朝食を作っている最中なんだろう。
「いい―――! た、ただの風邪だから、そんなに気にしなくていい!」
「風邪ならなおさら放っておけませんっ。些細な病気でも兄さんには大事でしょう。免疫や抵抗力が人より低いんですから」
秋葉は呆れながら、スッ、と自分の手を俺のひたいに当てた。
ひやりと冷たい、華奢な手のひらの感触――
「っっっっっっっっ!」
まずい。
まずいので、秋葉の手を払って、ロビーへと走り出した。
どたたたたたたたた。
「志貴さま? 朝食はもうお済みになられたのですか?」
「いや、そうじゃないけど―――ええっと、俺の鞄は?」
「こちらですが、もう登校されるのですか?」
こくん、と頷いて翡翠の手から鞄を奪い取る。
「それじゃ行ってくる。見送りはいいから!」
「兄さん、さっきからヘンです。熱があるっていうのに何をしてるんですかっ」
「ああもう、なんでもないんだって! なんでもないんだから、俺はこのまま学校に行く! 朝飯はかってになんとかするからほっといてくれ!」
「ほっとけって―――ちょっと、兄さん!?」
どたたたたたたたた。
「はあ―――――」
いくら秋葉でも、ここまできてしまえば追いかけてくるなんてコトはありえまい。
子供じゃないんだから、登校するといった人間を捕まえにくることなんてしないはずだ。
「――――ふう」
大きく息をはいて、ようやく落ち着いた。
「………って、なんで逃げてるんだ、俺」
落ち着いたら冷静になった。
別段悪いことなんかしてないんだから、逃げるように出てくる必要なんて、なかった。
「―――信じられない。まるっきりバカみたいじゃないか、これじゃ」
かといって、いまさら屋敷に戻って朝ごはんをいただくというのは、もっと間が抜けていると思う。
「―――学校に行くか」
はあ、とため息をついて、住宅街に続く坂道を下り始めた。
◇◇◇
―――いつもより三十分は早く到着した。
正門に生徒の姿はまばらで、こんな半端な時間に登校するのは俺だけらしい
グランドでは運動系の部活が朝練をしている。
……今はどこの部活にも入っていないけれど、実際、体を動かすことは好きな部類に入ると思う。
運動神経もそれなりに、ちょっとは誇れるぐらいにはあると自負もしている。
けれど部活に入ることはできなかった。
俺の体は慢性的な貧血持ちだから、ここぞという時にまわりに迷惑をかけてしまうし―――頻繁に運動はしてはいけない、と医者からも堅く念をおされていた。
中学のころから部活に入らないか、と誘われたのは一回や二回じゃない。
それを『ガラじゃないですから』と、何度断ったか数えきれない。
断るたびに、なにか―――言いようのない隔たりを感じる事があった。
あれは結局。
どうやったってあっち側の仲間には混ざれないのだという、無意識下の壁だったのかもしれない。
「……………」
ああ、やめやめ。こんなの、それこそガラじゃない。つまらない感傷を切り上げて、さっさと教室に向かう事にした。
「ありゃ―――」
一番乗りだと思っていたのに、教室にはすでに何人かのクラスメイトがやってきていた。
「よっ、早いな遠野」
「おはよう。わりと暇人が多かったんだ、このクラス」
「わけないだろ。俺たちは朝練が終わったばっかりだよ。部活もやってないのにこんな時間にくるのは日直だけだろ、普通」
なるほど、言われてみればその通りだ。
教室にいる連中に軽く挨拶をして、自分の席に座る。
ホームルームまであと三十分。
こうして教室に少しずつクラスメイトが集まっていくのを眺めるのも、そう悪くはない趣向だろう。
教室がざわざわとした喧騒に包まれだした午前七時五十分。
「―――あれ?」
廊下に、先輩の姿がちらりと見えた気がした。
「また一年の廊下にやってきて―――何してるんだ、あの人は」
もしかして俺に用があるんだろうか。
それなら――廊下に出て話しかけよう。
まあ、うちの教室のまわりでクルクルまわっているということは、俺に用があるのかもしれない。
「……なんだろ。いつもは遠慮なく教室に入ってくるくせに」
それとも、ようやく三年生が二年生の教室にやってくることがわりと珍しいことだって気がついてくれたんだろうか。
「―――ないな。それだけは絶対にない」
うん、と納得して、とりあえず廊下に足を運んだ。
「先輩」
「あれ―――遠野くん?」
呼びとめられて、先輩はなんだか驚いたように口をぽかん、とあけた。
「なにしてるんだ。もうすぐ授業が始まるっていうのに、こんなところで油をうって」
「―――――」
先輩は呆然と俺を眺めると、なんだか機嫌を害したみたいに視線を逸らす。
「なにしてるんだって、そんなこと遠野くんには関係ありません」
「いや――まあ、たしかに関係はないんだけど」
「―――うそです。関係は、ちょっとぐらいあります」
視線を逸らしているかと思ったら、先輩はくんくん、とこちらの匂いをかいだりする。
「……あの、先輩……?」
「―――――あ」
真っ正面から見られると、その―――昨夜の夢を、思い出してしまう。
「遠野くん? どうしたんですか、顔が赤いですよ」
「い、いや、なんでもない。ちょっと、その、今朝は夢見が悪くてさ。気分がよろしくないんだ」
悪くない、と言わないあたり、自分は正直ものだと思う。
「………遠野くん?」
先輩は深刻な顔のまま、じっと俺を見つめている。
「……先輩……?」
少し戸惑う。なんだか、先輩に心を読まれているような気がして、ますます昨夜の夢を思い出してしまう。
「遠野くん、いま夢見がよくなかったって言いましたよね。それってどういう意味ですか?」
「どういう意味も何も、別に先輩には関係ないっ。俺の夢の話なんていいから、俺は先輩が何してるのかって聞いてるんだって」
「関係ありますっ! 遠野くん、昨日はよく眠れなかったんじゃないですか?」
「――――え?」
いや、それは―――たしかに、その通りなんだけど。
「……先輩、どうしてそんなコトわかるの?」
「だって、遠野くん顔が真っ赤じゃないですか。どんな病気かは知りませんけど、体調が悪そうです」
「あ―――そうゆうコト」
一瞬、すごくドッキリした。
先輩が昨夜の事を言い当てるものだから、まさかとは思うんだけど、てっきり―――
「それより遠野くんの夢の話です。どんな夢を見たんですか、聞かせてください」
……諦めてなかったのか、先輩はまたそんなコトを聞いてくる。
「……もう。本当に大したコトじゃないよ。ただ……その、先輩が、ちょっと出てきただけ……だし」
ぼそぼそと返答する。
とたん。
「わ、わたしが出てきたんですかっ!?」
先輩は、今までで一番、わかりやすく怒ってしまった。
「あの……先輩?」
「……………………」
先輩はサッと俺から一歩引くと、じっ、と上目遣いで俺を見つめてくる。
「……………」
先輩は何か言いたそうな顔をしたあと、ペコリ、とおじぎをして走り去ってしまった。
「………?」
はて、と首をかしげる。
直後、ホームルーム開始を告げる予鈴が鳴り響いた。
◇◇◇
昼休みになったとたん、今まで授業に一時間も出てなかった男がやってきた。
「よう! メシ食おうぜ、メシ!」
何が嬉しいのか、有彦はとにかく威勢がいい。
「そりゃあメシは当然のように食べるけど、えらく機嫌がいいじゃないか。なにかあったのか、有彦」
「おう。ついさっきそこで先輩に昼メシいっしょにどうっすかって声をかけたらさ、断られたんだ」
「………………」
不思議だ。
先輩っていうとシエル先輩のことだろうけど、誘いを断られると嬉しいらしい、この友人は。
「あのさ。有彦、そういう趣味だったっけ」
「いやいや、話は最後まで聞けって。でな、先輩にどうしてダメなんだよう、って聞いたら『遠野くんが一緒だと、イヤです』だってさ! うわははははははははは! 愉快だろう、遠野!」
「………………」
不思議だ。
どうして、俺はこうゆう友達甲斐のない男と、中学時代から友人だったりするんだろう?
「いやあ、嫌われたもんだな遠野! ライバルが減って嬉しいので、今日の昼メシはオレがおごってやろう!」
ばんばん、とオレの背中を楽しそうに叩く有彦。
「……いや、おごってくれるのは嬉しいんだけど、先輩、俺のことを怒ってたのか?」
「ん? ……えっーと、たしか『遠野くんも一緒ですか』って聞いてきて、うなずいたら顔を赤くしてたな。おまえの名前を聞いた瞬間、怒りで頬が高揚したのかもしれヌ」
「……しれヌ、ってそれ、ちょっと違うんじゃないか有彦」
「さあな。そうでないかもしれヌ」
……有彦の情報はアテにならない。
たしかに朝の先輩は怒っていたようだったけど、こっちには先輩に怒られる理由がてんでわからない。
「……まさか、俺がどんな夢を見たのか気づいたわけじゃあるまいし」
あれだけの会話でそれがわかったら、先輩は将来名探偵になれるだろう。
「ほら、ブツブツ言ってないで行くぞ遠野。食堂の席は利用客の半分しかないんだからな」
「あ―――いや、俺は―――」
いや、嫌われても先輩に会いに行こう。
「―――今日はパスする。パン買って、一人で食べる」
「そなの? んじゃ、俺は一人で行くぜ」
有彦は食堂に向かっていった。
「……さて」
こっちも席を立って、先輩のいそうな茶道室に行く事にした。
……茶道室の前にやってきた。
もちろんここに来る前に購買によって、自分の分の昼食は買ってきてある。
コンコン。
茶道室の扉をノックする。
中でごそごそという音がして、人の気配らしきものがやってきた。
「はい、どなたですか」
扉ごしに先輩の声が聞こえてくる。
「俺だけど。先輩、お昼ごはん一緒に食べない?」
……返事がない。
「先輩、お昼ごはんだってば」
「……遠野くんとは食べません」
扉ごしの声は元気がない。
少し迷ってから、
「カレーパン、あるよ」
という、物量作戦に出た。
「遠野くん、わたしが食べ物につられる人間だって思ってるんですかっ!?」
扉ごしに先輩が怒鳴る。
……さすがに百円でおつりが来るような食べ物ではつれないらしい
「……………」
まいったな。このまま強引に中に入ったらますます怒られそうだし、今日は退散するしかないのかもしれない。
―――と。
「まあ、それはそれでもらっておきます」
ガラリと扉を開けて、先輩が現れた。
「せ、先輩――?」
「考えてみたら、遠野くんに八つ当たりする言われはないですから。せっかく来ていただいたお客さんを追い返すなんて、失礼です」
顔を赤くして、なにやら言い訳めいた事をぶつぶつと言っている。
「先輩、それってつまり、一緒にお昼を食べていいってこと?」
「……ええっと、そうとってもらってかまいません。そんなに和室が好きなんでしたら、どうぞ中に入ってください」
先輩は茶道室の中に戻っていく。
その後に続いて、こっちも茶道室に入っていった。
先輩と昼食を一緒に食べる。
有彦の話と、さっきの先輩の態度から考えるに先輩はいたくご機嫌ななめのハズなのだが、どうもそんなコトはないみたいだ。
「……先輩。有彦から聞いたんだけど、俺の事を怒ってたって、どうして?」
「え――いえ、べつに遠野くんのことを怒ってたわけじゃないんです。そのですね、遠野くんに対してというより、遠野くんの背後っていうか、その……たぶん、遠野くんの無神経さに怒ってたんじゃないでしょうか」
「……ちょっと先輩。いつも難解な人だけど、今日は輪をかけて難しいな。俺の無神経さに怒るのはいいけど、なんだよそのたぶんって。
先輩、自分の事わからないのか?」
「はあ。ちょっと自信はありません。わたし、あんまり自分に関心はありませんから」
謝るような声で、先輩はそんな事を口にした。
「―――きっと、自分のことなんて好きじゃないんです、わたし」
「……先輩?」
先輩は黙り込んだまま、こっちを見ない。
そうしてちょっとした沈黙が続いたあと、先輩はキッと俺を見つめてきた。
「そんな事より、遠野くん」
「……はい」
姿勢を正して先輩の瞳を見つめ返す。
……先輩が、これからすごく深刻な話をしてくるのがわかったから。
「あの……なんですか、先輩」
「カレーパン、ください」
「な、なんですかいきなり! だいたい先輩、さっきは食べ物にはつられないって言ってたじゃないか!」
「それとこれとは別問題ですっ。遠野くん、自分が言った事をいまさら反古にする気なんですか!?」
……先輩は怒っている。
俺にとっては冗談だったけど、先輩にとってさっきのは大真面目な取引だったらしい。
「……はいはい。わかりましたよ、どうぞお納めください将軍さま」
ずい、とカレーパンを渡す。
こうなると、こちらの手元に残ったのはソーセージパンだけだ。
わーい、と先輩は喜んでカレーパンを手に取った。
……子供なんだろうか、このひとは。
「それじゃあ遠野くんにはハンバーグを分けてあげます」
はいどうぞ、とお弁当箱のハンバーグを二つに割って、半月ハンバーグが渡された。
「…………」
物々交換にしては、レートに差がありすぎると思う。
[#挿絵(img/シエル 12.jpg)入る]
お互い昼食を終えて、お茶をすすりながらぼんやりと時間を過ごす。
まったりとした、平穏な時間が流れる。
先輩は俺のことを意識していないみたいだし、こっちも先輩のことは特別意識していない。
ただ、ゆったりと。
同性の友人みたいな感覚で、残りの休み時間を過ごしている。
「ねえ、遠野くん」
「はい? なんですか先輩」
「前から思ってたんですけど、遠野くんのメガネって度が入ってないんじゃないですか?」
「……へえ。すごいな先輩、ドンピシャだ。実はこのメガネは伊達でかけてるんだ」
やっぱり、と先輩は得意げに頷いたりする。
「ね、遠野くん。お願いがあるんですけど、いいかな」
先輩は期待のこもった目で、じっと俺の目を見る。……っていうより、俺のメガネを見ている。
「一度でいいですから、そのメガネ、とってみてくれません?」
「―――――――――」
それは、困る。
このメガネをとるっていう事は『線』を視るっていう事だし、なにより―――俺は身近な人の『死』なんてモノ、視たくはない。
「それはダメですね。残念ながら、このメガネは人前でとったコトはないんです。ちょっとした願掛けですから、先輩のお願いは却下します」
きっぱりと返答する。
先輩は残念そうにうなだれた。
「はあ。遠野くんがそう断言するからにはダメなんでしょうね」
「はい。なにしろこの八年間、決して――――」
……人前ではとっていなかった、けど。
「――――」
そうか。もう、そうじゃなくなったのか。
俺は、この目で。
色々なモノの、死を視てきてしまったから。
[#挿絵(img/21.jpg)入る]
「―――――――遠野くん?」
「あ―――うん、なに先輩?」
「なに、じゃないですよ。急にぼーっとしちゃってびっくりしました。休み時間、もう終わっちゃいますよ」
「……あ、本当だ。なんだ、あと十分ぐらいあると思ったんだけどな」
「ええ、十分ぐらいありましたよ。遠野くんがずぅーっとぼんやりしてただけです」
先輩は二人分の湯呑みを片付けはじめる。
「あれ……十分も経ったかな……」
微かに首をかしげながら、俺も先輩の手伝いをして、茶道室を後にした。
◇◇◇
今日も確実にひまを持て余しながら授業が終わった。
さて――茶道室に顔を出しにいこう。
茶道室へ急ぐ。
と、ちょうど先輩が茶道室の扉に手をかけているところだった。
「先輩!」
「あ、遠野くん。これからお帰りですか?」
「いや、ちょっと先輩と話していこうと思って。これから茶道室でお茶するんだろ? 俺もごちそうになろうかなって」
「いえ、今日は帰るところなんです。用事もあるし、そろそろ今月の部費も底をついてしまいまして」
「―――あ。そっか、茶道室にある和菓子って茶道部の部費で買ってるんだっけ」
……しかし部費でお菓子が買える部活っていうのも、考えてみると素晴らしい。
「そういうわけですから、遠野くんにはお付き合いできません。……遠野くん、この後なにか予定が入ってますか?」
「俺? いや、今なくなったけど」
「それでしたらわたしにお付き合いしてください。校門まで一緒に帰りましょう」
「ええ、喜んでお付き合いします」
先輩はにっこりと頷くと、俺の横について歩き出す。
校門までの、わずか五分たらずの帰り道を一緒に帰ることになった。
たいした会話もなく正門に到着した。
「それじゃあまた明日な、先輩」
片手をあげて、先輩とは正反対の道へ歩き出す。
「あ、ちょっと待ってください。わたし、遠野くんに聞きたいことがあったんです」
「? なに、聞きたい事って」
「昨日遠野くんが言っていた、わたしに良く似た誰かの話です。なんだか気になっちゃって、もうすこし詳しく話が聞きたいなって」
好奇心旺盛、とばかりに先輩は目を輝かせている。
……けど、俺にしてみるとあの出来事はあんまり思い出したくない部類のものだ。
「……ごめん、その話はしたくないんだ。アレは俺の見間違いだったんだから、それでいいじゃないか」
先輩から視線を逸らして、曖昧な言い訳をする。
「そうですか」
先輩はあっさりと質問をとりやめた。
「でもその人を見たのは夜中なんですよね。
……遠野くん、あんまり夜遅くに出歩くのは危ないと思います。この街では通り魔殺人が続いているんですよ。そんな、夜中に出歩いて通り魔に出会ってしまったら大変でしょう?」
「……先輩、もしかして俺が夜出歩いているっていうの、心配してくれたのか?」
「―――はい。遠野くんは人がいいですから。なんか、あっさり騙されて危ない目にあうタイプです」
真剣に先輩は心配してくれているみたいだ。
「―――――ん」
うん、そういう心遣いは、すごく嬉しい。
「ありがと先輩。けど大丈夫だって。あの事件の張本人はもういないんだから」
「え? もういないって、なんですそれ?」
……しまった、ネロの事は俺とアルクェイドだけの秘密だ。
先輩に言うことはできないし、第一あんな話をしても仕方がない。
「いや、うん、そうだな、夜中に出歩くのは危ないよな、実際」
「……。とにかく、今夜から出歩くのはやめてください。遠野くんはまじめな学生さんなんですから」
「ああ、わかってるって。真面目かどうかはしらないけど、先輩のいうとおり夜遊びは控えるよ」
「………………」
先輩はじーっ、と見つめてくる。
―――信用がないのか、先輩は納得してくれないみたいだ。
「……わかったよ。それじゃ、約束」
スッ、と片手を差し出す。
「先輩には一回、とんでもなく大きい借りがあるからさ。先輩の言いつけはちゃんと守るよ。だから、約束しよう」
「えっと……………握手、するんですか?」
「そっ。指きりって歳じゃないから、握手して約束しよう」
「………………」
先輩はすこし戸惑ったあと、差し出した手を握り返してきた。
「わかりました。約束ですからね、遠野くん」
ぶんぶん、と先輩は握った手を上下に振る。
「それじゃさよなら。また明日、学校で会いましょう」
先輩の姿が夕焼けの中、遠くなっていく。
それを見届けてから、こっちも帰途につくことにした。
◇◇◇
坂をのぼりきって、屋敷に帰ってきた。
時刻はまだ夕方の六時前。
夕食まであと一時間、部屋で時間を潰すとしようか―――
―――夕食が終わって、夜。
居間には珍しく秋葉、琥珀さん、翡翠というフルメンバーが残っていて、俺も食後の紅茶をいただくことにした。
「そうでしょうか。わたし、一番目より二番目のほうが好きですね。あっちのほうが味に品があるとは思いますけど」
「難しいわね。味は格段に違うんだけど、濃度の違いをどうとるかは人それぞれだから。けど、どのみち琥珀は日本茶のほうが好きなんでしょう? 紅茶党は翡翠のほうだったと思うけど」
「翡翠ちゃんはあんまりブランドにこだわりませんよ。神経質そうに見えますけど、翡翠ちゃんはわりと―――」
「姉さん」
「―――見た目どおりに神経質なんですから。ほら、お掃除とかお裁縫とか、できない事ってないんですよ、志貴さん」
と、唐突に琥珀さんは俺に話をふってくる。
翡翠の眼差しは、なんだか恐いし。
「……そこでなんで俺にふるかな、琥珀さんは」
「だって志貴さんは翡翠ちゃんと一緒ですから。翡翠ちゃんの神経質なところは知っているでしょう?」
「いや、それは―――」
ちらり、と翡翠のほうを見る。
「……………………」
……翡翠は無言で、なにか攻撃色を発しているし。
「―――いや、別に神経質っていうコトはないんじゃないかな。俺がポカやってもすぐに片付けてくれるし、夜遅くに帰っても誰かさんみたいに怒らないし」
「兄さん。門限を守れない人は怒られて当然なんだって、わかってる?」
「……承知してる。けどさ、いくらなんでも八時っていうのは早すぎないか? 子供じゃないんだから、このさい十時ぐらいに決めなおそう」
「却下です。兄さんにはそんな時間まで外にいる理由なんてないでしょう。塾にかよっている訳でも部活をしている訳でもないんですから」
「……………む」
そう言われると、こっちとしては立場が弱い。
俺のような自由人が家に帰ってこない、という理由はその大部分が遊びになってしまうからだ。
「志貴さん、秋葉さまの言うとおりですよ。近頃は物騒なんですから、あんまり夜の街を出歩かないでくださいね」
「―――物騒って、例の通り魔のこと?」
はい、と琥珀さんは頷く。
……なんか、つい笑ってしまう。
通り魔殺人をしでかしていたネロはもういない。
けどそれを知っているのは俺とアルクェイドだけで、世間の人たちはもはや不在になった通り魔という影に怯えているなんて。
「今朝も繁華街のほうで被害者が発見されたそうですから。これで十一人目ですよ、十一人目」
「……へえ、十一人目か。そりゃあすごいな、野球ができ―――」
―――――ちょっと、待った。
「琥珀さん!」
「はい?」
「今の話、本当なのか!?」
「ええ、本当ですよ。今朝のニュースでやってましたから。なんでも昨夜殺されてしまったらしいんですけど、やっぱり全身の血を抜かれてしまっている猟奇殺人だとか」
「な――――――」
それは、おかしい。
だってネロはとっくに死んでる。
二日前に死んだハズのあいつが、どうして次の日の夜に被害者を出せるっていうんだ。
「まさか―――」
死んでいなかったのか。……いや、それは絶対にない。あいつは紛れもなく消え去った。
なら、どうして――
「―――――」
まさか、とは思う。
けど街を騒がしている吸血鬼が消えて、それでも事件がまた起こったっていうのなら。
あと、この街に残っている吸血鬼は、あいつ以外にはいないじゃないか―――
「おやすみなさいませ、志貴さま」
「……ああ。おやすみ、翡翠」
ぱたん、とドアが閉まって、部屋に一人きりになった。
「……………」
犠牲者が出ている。
吸血鬼による死体が、また一つ出てしまった。
「アルクェイド……のハズはない、よな」
あいつは人の血は吸わないって言ってたし、なにより―――あんなに人間くさいヤツが、そんなコトをするなんて思えない。
あいつとはたった二日しか一緒にいなかったけど、悪いヤツじゃないって信じてる。
あんなにキレイで、あんないい顔で笑うヤツが人の血を吸って、死体を道に捨てていくなんて酷いことをするハズがない。
「――――――けど」
けど、新しい死体があがってしまった。
「……もう一度あいつに会って、話を聞くしかないか」
言葉にしてみると、あとの行動は早かった。
ネロとの一戦以来しまっておいたナイフを取り出して、足音を立てないように屋敷から外に抜け出す。
夜の街に出て、アルクェイドの姿を探しはじめた。
◇◇◇
「―――はあ、はあ、はあ」
足を止めて、呼吸を整える。
今まで走りづめだった体が、ぜいぜいと貪欲に酸素を取り入れようとする。
「はあ―――はあ―――はあ」
……だめだ、見つからない。
街中を走りまわって、アルクェイドの部屋にも行ってみたけれど、あいつの姿はてんで見つからない。
「……あいつ……どうでもいい時はひょこひょこ歩いてるクセに、どうして肝心な時はどこにもいないんだ……!」
つい、身勝手にぐちを言ってしまう。
あれから四時間。時刻はじき午前零時になろうっていうのに、アルクェイドは見つからない。
……なんとなく。
なんとなく、捜せばすぐに見つかるだろう、なんて楽観をしていた。
俺はあいつに会いたかったし、あいつだって別れ際に『またね』なんて言ってたし。
「くそ……何処いったんだよ、アルクェイド……!」
なにか、すごく苛々する。
せっかくまた会えるって思ったのに会えないなんて、これじゃ生殺しみたいなものじゃないか。
「……せっかく……また、会えるって………」
―――?
なんだろう、それは。
それじゃまるで、その……俺が、アルクェイドに片思いでもしてるみたいじゃないか。
「―――そんな」
[#挿絵(img/アルクェイド 22.jpg)入る]
「―――ばかな」
無理やりに苦笑して、つまらない考えを振り払う。
「……最後に公園を見て、それで見つからなかったら帰るか」
ふう、と大きく息をはいて公園へ歩き出す。
二日前の夜。
アルクェイドと別れた、いわくつきの公園へ。
「―――ん?」
何か、公園の様子がいつもと違う。
「………街灯がついてない」
公園中の街灯が消えてしまっている。
月明かりでうっすらと見える公園は、いつにもまして活気というものがなかった。
「なんだろ……停電かな」
きょろきょろとあたりを見渡す。
……公園の外の街灯はきちんとついている。
街灯がついていないのは、公園の中だけらしい。
――――キィィィン――――
「え――――なんだ、いまの」
なにか、耳をすますと音が聞こえてくる。
ケンカとか争いごととか、そんなような事をしているような雑多な音の群れ。
「―――――」
気にかかる。
根拠なんてまったくないけれど、こんな夜更けに、なにやらトラブルくさいことを起こしているのはアイツぐらいだと思うのだ。
「………よし」
できるだけ物音をたてないように、そろそろと物音がする方へ向かった。
「――――!」
向こうで二つの人影が争っている。
一人は真っ黒い服装をしていてよくわからない。けどもう一人ははっきりとわかる。
白い服装に、月明かりだけでもはっきりと見てとれる金の髪。
「……アルクェイド……!」
アルクェイドは、何か黒い人影に襲われていた。
黒い人影は剣のようなものを持っていて、とてもケンカとかいったレベルの争いじゃない。
人影は剣を構えてアルクェイドへと跳びかかる。
アルクェイドは自分の胸に突き刺さろうとする剣を手で弾くと、そのまま剣を持った人影の胸にトン、と軽く触れた。
次の瞬間。
剣を持った人影は、サッカーボールか何かのように大きく弾き飛ばされていた。
ダン、ダ、ごろごろごろごろ。
公園のレンガ道の上に落下して、そのまま受身をとるように転がっていく。
いや、正しくは。
そのまま、俺の目の前に転がってきた。
「……?」
暗くてよく解らないけど、人影はちょうど俺の目の前で転がるのをやめて、素早く態勢をたてなおす。
「くっ――――!」
という、切迫した声。
「は……あ」
その動きに見惚れて、思わず感嘆の息をつく俺。
ぴたり、と。
剣を持った人影の動きが止まった。
「見られた――――!?」
人影は目の前に立っている俺に、いまさら気がついたみたいだ。
そのまま―――チャッ、と剣を構えなおして、俺の目の前に踏み込んできた。
「――――え?」
刀の切っ先が、こちらの喉に伸びてくる。
その速さ。踏み込んでくるスピード、的確な急所への一撃は、ネロのケモノどころの話じゃない。
人影の動きは、ネロのケモノたちを蹴散らしていた時のアルクェイドに動きに匹敵していた。
チッ、と剣の切っ先が、喉に突き刺さる。
――――どくん。
心臓が一際高く振動する。
危ないとか避けようとか考える暇さえなく、死んだかと、思った。
けれど俺の喉は貫かれる事もなく、剣は、ピタリと見事に静止してくれていた。
[#挿絵(img/22.jpg)入る]
「志貴……くん―――?」
「――――――先、輩」
声が、はもった。
お互い、信じられない、といったふうな声が混ざって―――呆然と、俺とシエル先輩は見つめ合う。
「志貴、そいつから離れて!」
遠くからアルクェイドの声。
「―――――――」
アルクェイドが駆け寄ってくる。
先輩は別人のような目で俺を睨んで――
―――そのまま、背中を見せて走り去っていってしまった。
「な……なん、で?」
先輩の姿はもうない。
黒い人影。黒い服を着た先輩。……二日前の夜、蒼い鴉に殺されかかった俺を助けてくれた誰か。
でも―――ちゃんと、別人だって先輩は言ってのに、どうして――
「志貴―――!」
……気がつけば、目の前にはアルクェイドが駆け寄ってきている。
「あ――アル、クェイド――」
「大丈夫!? あいつに何もされなかった?」
さっきの先輩と同じく、アルクェイドもキッと厳しい目で睨んでくる。
けど、そんなコトは、どうでもよかった。
「何もされなかったって……」
呟いて、さっきまで剣をつき立てられていた喉に手をふれてみた。
チクリ、と軽い痛みがはしる。
喉に触れた指は、かすかに赤く染まっていた。
先輩の剣はほんの数ミリ、俺の喉に傷をつけたのだ。
「……わけが、わからない。なんで俺が、先輩に襲われなくっちゃいけないんだ」
本当にどうして―――先輩に、あんな目で睨まれなくっちゃいけないのか。
「それは当然でしょ。わたしたちが殺しあってる所を見たんだもの。あいつらは機密厳守だから、志貴みたいな一般人に自分たちの事を見られる事を嫌うのよ」
アルクェイドはとんでもない事をきっぱりと言ってくる。
「―――殺し……あってたって、どうして。
なんで―――どうして先輩とおまえが、そんなコト、してるんだよ」
呆然として、そんなコトしか口にできない。
だいたい俺はそんな事を聞きに来たんじゃない。俺はこいつに―――アルクェイドに聞きたいことがあって、ただ、こうして夜の街を捜しまわっていただけなのに。
「……わからない。俺はおまえに会いに来ただけなのに、どうして―――どうしておまえが、先輩と殺しあってたりしなくちゃいけないんだ」
「え? 志貴、わたしに会いに来たの?」
「―――そうだよ。どうしても話したいことがあったから、ずっと捜してたのに―――なんで、どうしてこんなコトになってるんだ。
……わからない。頭にくるぐらい、わからない。頼むから―――事情を説明してくれないか、アルクェイド」
「事情って言われても、単に教会の人間とわたしが戦ってただけなんだけど。志貴には関係のないコトだから、さっきのは忘れていいよ」
「――――関係はあるんだ。そもそもその教会の人間っていうのはどういう意味なんだ。俺にわかるように説明してくれ」
アルクェイドは答えない。
彼女はしばらく一人で考え込んでから、『ま、いっか』とこれまた一人で頷いた。
「志貴がそこまで言うんなら教えてあげる。けど、本当に志貴には関係のない話よ。そんなつまらない話、わたしがしていいの?」
「ああ。どんな話だろうと、おまえに文句は言わないよ」
「ふーん、熱心なのね。わたしは、志貴がわたしに会いに来てくれた理由のほうが気になるんだけどな」
「……いいから、早くしてくれ。聞きたいんだ、さっきの人のことを」
むっ、アルクェイドは不機嫌そうに顔をしかめる。
どうしてアルクェイドがそんな顔をするのか疑問に思う余裕が、今の自分にはない。
……ずきり、と喉が痛む。
先輩―――シエル先輩が、俺に剣を、向けた。
その事実が頭に張りついて、それ以外のことなんてとてもじゃないけど考えられない。
「……いいわ、それじゃ話してあげる。
死徒と呼ばれる吸血鬼はね、極力自己の存在を隠蔽しようとする。
彼らは生きる為に人間の血を吸わないといけない。だから彼らが存在しているかぎり、犠牲者は必ず出てくる。けど、吸血鬼に殺されたなんていう人の話なんて滅多に出てこないでしょう?
これ、どうしてだか解る?」
「……アルクェイド。俺が聞きたいのは吸血鬼の話じゃない」
「もう、志貴のために順序だてて説明してあげてるんだから、ちゃんと答えてよね。
いい? 吸血鬼たちは犠牲者を出しても、周囲――つまり志貴たちがいる一般社会ね。それらにその犠牲者が発見されないように、人間たちの社会に異状だと気がつかれないように様々な魔術を行使して事実を隠蔽する。
これ、どうしてだか解る?」
「……ああ、そりゃあ人間だってバカじゃないからな。自分たちの住んでいるところにそんな化け物がいるってわかれば反撃する。
いくら人間が弱いっていったって警察とかがあるんだ。吸血鬼なんてものがいれば、これ以上犠牲者を出さないように身を守るよ。……そうなると今のこの街みたいにさ、夜出歩く人間がいなくなるじゃないか。それが厄介だから自分のことをバレないようにするんだろ、吸血鬼は」
「―――まあ、たしかにそれもあるけど、警察はあくまで人間に対する法律組織でしょう。わたしたちはそんなのは考慮にいれない。
けどまあ、自己保身のために自らの痕跡を隠蔽する、というのは正しいわ。
志貴、吸血鬼には天敵がいるのよ。それも今ではパワーバランスはそっちのほうが上っていう、殺し屋みたいな集団がね。
……他の超越種たちもそうだけど、とくに吸血種は自らの存在を明かしては命とりになる。
たとえ小さな、文明社会から隔離された山村一つを支配して秘密の王国を作っても、犠牲者が増えればかならず彼らが嗅ぎ付けるから。
吸血鬼たちが秘密裏に人間を搾取するのは何のためでもない、ただ自己保身のためだけよ。彼らは社会的な風聞ではなく、その天敵に嗅ぎ付けられる事を嫌って自然に死体を隠蔽するの」
「……吸血鬼の……天敵?」
つまり吸血鬼と敵対するもの。
……さっき、アルクェイドに対して剣をふるっていた先輩のように。
「……それも人間じゃない生き物なのか?」
「何いってるのよ。その天敵っていうのは紛れもなくあなたたち人間の事よ」
「────? 天敵って、俺たちが?」
「そう。もうずっと昔、人間は様々な魔術、神秘学、式典儀礼をもとに組織体系を作り、人間以外の霊長類を排除しはじめたの。
その最たる物が基督教───法王庁が誇るエクシシストの集団よ。旧教《カトリック》は昔っから『人間でないモノ』を徹底的に淘汰してきたけど、その中でも吸血鬼に対する敵視はどうかしてるわ。
世界中のどんな宗教をみたって、カトリック以上に吸血鬼を敵視している宗教はない。
あれはね、すでに憑かれてる。病的すぎてわたしでさえ彼らには関わりたくないぐらいだもの」
はあ、とアルクェイドはため息をつく。
「ここまでいえば解るでしょう?
さっき志貴を殺そうとしたのは、その中でも異端狩りを専門としている連中の一員よ。
埋葬機関っていう、キリスト教の矛盾点を法ではなく力で処理していく連中でね。決して表には出てこない、殺し屋みたいなエクソシスト。
矛盾を潰していくっていう、その存在自体が闇である彼らは決して人前には出てこない。彼らはキリスト教っていう組織の中には本来存在してはいけない機関。だから―――自分たちを知ってしまった人間は、例外なく抹殺してしまう。
あの女―――今はシエルっていう名前らしいけど、きっとこの街に巣くった吸血鬼を処理しにきたんでしょうね。あいつは、わたし以上に『敵』に関する嗅覚が鋭いから」
苛だたしそうにアルクェイドは顔をしかめる。
「…………」
言葉がない。
先輩が―――吸血鬼を殺しにきたエクソシストとかいうヤツだなんて―――そんな話、いくらなんでも信じられない。
だって先輩は、すごくお人よしで
とても殺し合いなんて―――俺みたいにこんな異常な出来事に対応できるようなひとじゃ、ない。
「―――嘘だ。そんなのは嘘だ、アルクェイド。だって、先輩は俺の学校の先輩なんだぞ。それがどうして、教会なんていうところの人間だっていうんだよ……!」
「むっ。志貴、あいつと知り合いなの?」
許せない、とばかりにアルクェイドは詰め寄ってくる。
「あたりまえじゃないか。知り合いもなにも、先輩は俺の学校の三年生で、俺は一年のころから――」
――――一年の、ころから?
「―――あ――れ」
……なんか、ヘンだ。
言われてみれば、先輩はいつからいた先輩なんだろう。
俺はあの人がどこのクラスなのかも知らない。
思い出だって―――あの日、中庭で添え木を修理していた前のものは、存在しない。
[#挿絵(img/シエル 11(2).jpg)入る]
―――ありがとうございました、遠野くん。
先輩が笑顔でそういうものだから。
俺はなんだか、あの人とはずっと知り合いだったような気がしてた。
「―――う――――そ」
そもそも、一番の違和感は。
先輩は当たり前のようにシエルって呼ばれていたけど、それ以外の名前を誰も口にしない。
ただシエルとだけ呼ばれていて。
どうして誰も、そんな名前に疑問を持たなかったんだろう―――。
「アルクェイド―――先輩は……あの人、いったい……」
「だから埋葬機関の一人だって言ってるでしょう。八年前に入った新参者だけど、才能は随一だったんでしょうね。今じゃ第七なんていう、完全数の席にいる代行者よ」
「――――」
アルクェイドの言っている事はよく解らない。
ただ、七という数字は、たしかに完全数だ。
数字の中でも孤立した数字。
孤独で、行き場のない数字。
孤立、孤立。完結しているが故に、その数を冠する外典は転生を否定する。
……よく、解らないけど。
なぜか、そんな言葉が、頭の中で繰り返された。
「……そうね、埋葬機関のメンバーは形の上だけでもアデプトのはずだから、奇跡に何の耐性もない一般人に暗示をかけるのは簡単か。
あの女はね、志貴たちを騙して志貴の学校に紛れこんでいたんでしょう」
「……暗示……その、催眠術みたいなもの?」
「ええ。暗示っていうのはそう複雑な命令は送れない。きっと『シエルのことを疑問に思わない』っていうシンプルな刷り込みなんじゃないかな」
……ああ、そうだ。
俺だって初めは違和感があったけど、会うたびにそんな疑問は消えていった。
そこにいても、それが当然だと思うこと。
それが先輩の特徴だったじゃないか。
「……わかった。けど、腑に落ちない。
先輩がその埋葬機関っていうところの人間だとして、どうしておまえと争ってるんだ。教会のエクソシストっていうのは悪い吸血鬼しか退治しないんだろ。なら―――おまえと先輩が殺しあう必要なんて、ぜんぜんないじゃないか」
―――悪い、吸血鬼しか、退治しない。
それは例えば、人間の血を吸って、路上に死体を放り捨てる、といったふうな。
「……アルクェイド、おまえ―――」
「ん? なに、わたしがどうかした?」
アルクェイドはまっすぐに俺を見つめてくる。
……思えない。
こいつが人の血を吸うなんて、思いたくない。
けど、実際に殺人事件は起きてしまった。
くわえて、教会のエクソシストだっていう先輩がアルクェイドを殺そうとしていたという事は。
「―――アルクェイド。
まさか、昨日の殺人事件はおまえの仕業なのか。だから先輩はおまえのことを殺そうって―――」
ぎり、と歯をかんで。
まるで片思いの女の子に告白するような重苦しさで、アルクェイドに問いただした。
「志貴、それ本気?」
「俺だってそんなこと信じたくない。けど、そうじゃなければなんだっていうんだ。ネロはもう死んだんだろ。
なら……あとは、その、おまえしか……いないじゃ、ないか」
……こんなコトを口にする事が、悔しかった。
俺はアルクェイドを気に入ってる。
こいつには命を助けられたし、あの二日間は楽しかった。
だから―――これでアルクェイドと決別する事になるのが、イヤだった。
でも、こいつが人食いの吸血鬼であるんなら、俺は――――
――――――と。
ぱかん、とぐーで頭をはたかれた。
「志貴のばか」
「え……アルクェイド……?」
「本来ならこんなんじゃすまさないけど、いまの志貴の顔に免じて、それで許してあげるわ」
笑顔で言って、アルクェイドはタン、と軽く後ろに下がった。
「志貴。あなた、いい人ね」
「なっ――――」
いきなりそんな事を言われて、かっと頬が熱くなった。
「おまけにすっごく正直者。わたし、貴方のそういうトコロ、気に入っちゃった」
アルクェイドは嬉しそうに笑う。
そこには、その―――やっぱりどう見ても、彼女が人を殺して血を吸うようなイメージはない。
「アルクェイド、それじゃあ―――」
「ええ。志貴の言っている通り魔はわたしじゃないわ。アレはわたしじゃなくて、他の吸血種の仕業よ」
「――――――――」
さあ、と胸のもやもやが消えていく。
そうか―――やっぱり、アルクェイドはそんなコトはしてなかったんだ。
「そっか―――おまえ以外の吸血鬼の仕業なのか」
それなら安心だっ……って、それ、なんかヘンだぞ。
「ちょっと待ってくれアルクェイド。他の吸血種の仕業っていうけど、そう次から次へと吸血鬼が出てくるのって、おかしくない?」
「なに言ってるの? 新しい吸血鬼なんて出てきてないわよ」
「―――なっ。だってもうネロはいないんだぞ。ネロ以外であんなコトをするヤツなんて、他にはもういないじゃないか」
「……そっか。志貴、すごい勘違いをしてたんだね」
はあ、と呆れたようにアルクェイドはため息をつく。
「いい? 志貴の言っている連続殺人事件っていうのはね、初めから一人の吸血種の仕業なのよ。
新しい吸血種なんてのはやってこないし、ネロだってあの事件にはまったく関係がないわ」
――――え?
ネロだって、関係ない……?
「な―――それ、どういう意味だよ」
「言ったとおりの意味だけど。……もう、志貴ってキレるようでいてどこか抜けてるのね。
思い出して志貴。たしかにネロは吸血種だったけど、あいつは人の血を吸っていた?」
「吸っていたかって、あいつは人間をバリバリと頭から食ってただろ―――って、あ」
そう、か。
なんでそんな単純な間違いに気がつかなかったっていうんだろう。
通り魔殺人の被害者たちは、血を抜かれた遺体として発見されている。
けれどネロは違う。
あいつは一切死体を残さない。血を吸うどころか肉さえ食らって、その痕跡を無くしてしまう。
現に、ホテルでアイツに食われてしまった人たちは殺人事件としてではなく、行方不明者として扱われていた。
なら―――それは、明らかに巷でおこっている事件とは違うものだ。
「まってくれ。それじゃあ今おきている殺人事件はなんなんだ。いったいどこの誰があんな真似をしているっていうんだよ」
「だから、あの事件はネロとは別の吸血種の仕業なのよ。正確にいうとソイツがいるからわたしがこの街にやってきて、ネロはわたしを追いかけてこの街にやってきた、っていう相関図かな」
「―――な。そ、それじゃあおまえが追っている敵っていうのはネロじゃなかったのか……!?」
「ええ。わたし、初めから自分の標的がネロだなんて言わなかったでしょ? ネロにとっての標的はわたしだったけど、わたしにとっての標的はネロじゃなくて、この街で『通り魔』って言われている吸血鬼だけよ」
「な―――――」
愕然と息を飲む。
けど―――たしかにアルクェイドの言うとおりだ。
アルクェイドの目的が吸血鬼殺しだというから、俺は完全に早とちりして、こいつはネロを倒すためにいるんだってばかり思ってた――――
「……それじゃあ何か? あの夜ネロと殺しあったのは、実はまったく無意味なことだったっていうのか………!?」
「無意味じゃないわ。志貴はわたしの代わりに戦ってくれたんじゃない。ま、もっとも志貴さえわたしを殺さなかったら、あんな事にはならなかったでしょうけどね」
「――――――」
くらり、と眩暈がする。
「……つまり、ネロは吸血鬼殺人にはまったく関係なくて、ここ一ヶ月街を騒がしているのは別の吸血鬼の仕業ってこと……?」
「うん、そうゆうこと。でも、これはわたしが済ませる問題だから志貴は気にしないでいいよ。そんなコトより、ねえ」
やけに楽しそうな笑顔をうかべて、アルクェイドは呆然としている俺を見上げてくる。
「昨夜はどうだった? 誰が出てきた?」
「は?」
昨夜って、なんのコトだろう。
アルクェイドの言っている事は、よくわからない。
どうせ俺はアルクェイドの言葉をかってに勘違いして見当違いのことばっかり考えてたお間抜けさんだから、アルクェイドの言ってることなんて解るはずがないだろうけど―――って、あれ?
昨夜誰が出てきたのか、とアルクェイドは聞いてきたのか―――?
「……アルクェイド。昨夜って、なに」
「あれ? おっかしいなあ、ちゃんと夢魔を送っておいたんだけど」
「まった。なに、そのムマって」
「えーと、ようするにその本人が望むような夢を見せる使い魔のことよ。志貴は男性だからサキュバスを送っておいたんだけど、いい夢見れたでしょ?」
「お―――――」
いい夢見れたでしょ、って、アレは。
現実としか思えないぐらいリアルな夢を思い出して、カッと自分が赤面するのがわかる。
「おまえ、アレはおまえの仕業かッ―――!」
にんまり、とアルクェイドが笑う。
―――しまった。
黙っていればこんな話題はすぐに終わったっていうのに、わざわざ自分で認めるなんて―――
「あ、やっぱり届いてたんだ。ね、それでどんな夢だったの? 夢魔は志貴の願望をカタチにしてくれるから、気持ち良かったでしょ?」
「どんな夢かって、そんな―――」
―――そんなコト、死んでも言えない。
「アルクェイドには関係ないだろ。いいからほっといてくれ」
アルクェイドから目を逸らして、つっぱねる。
だっていうのに、ねーねー、とアルクェイドはしつこく聞いてくる。
「ね、教えてよ。志貴がどんな夢を見たかぐらい、教えてくれてもいいじゃない」
アルクェイドは興味本位の子供みたいに問いただしてくる。
いくら視線をそらしてもすぐに視線の先に回りこんできて、ねーねーと声をあげる。
「……頼むから、かんべんしてくれ。あの夢はどうかしてたんだ。……今だって、あんな―――」
あんな夢を見た理由がわからない。
アルクェイドは俺の願望だっていうけど、アレが自分の願望だなんて思いたくない。
「あ、それとももしかして悪夢になっちゃったとか。あの子、相手のことを気にいると勝手に脚色しちゃうのよね。まだ半人前だから仕方ないかもしれないけど」
ぶつぶつとアルクェイドは呟く。
「……? かってに脚色するって、どういうこと」
「対象の願望を自己流に解釈するのよ。志貴に送った夢魔はまだ子供だから、いたずら好きなんでしょうね」
「――――そう、か」
……安心した。
そうだよな、いくらなんでもあんな夢―――自分から見るはずがないんだから。
ホッと胸を撫で下ろす。
これで俺の潔白はそれなりに証明されたわけだけど――
「アルクェイド。おまえ、どうしてそんな物騒なヤツを送りつけたんだ。嫌がらせにしてもホドがあるぞ、アレ」
「むっ。嫌がらせなんかしないわ。
志貴に夢魔を送ったのは、ネロを倒してくれたお礼じゃない。貴方には感謝してるから、喜んでくれたらいいなって思ったのに!」
「お礼って―――いや、感謝してもらえるのは嬉しいけど、その」
いくらなんでも、ああいうお礼はお断りしたい。
「なによ。人の好意を受け取れないっていうの、志貴は」
「……あのね。人じゃなくて吸血鬼だろ、アルクェイドは」
「……それは……そうだけど」
しゅん、とアルクェイドは肩をすくめる。
……なんていうか、アルクェイドの感情表現はストレートだ。
喜んだり怒ったり反省したり、ともかくくるくると表情が変わって―――その、すごく魅力的だと思う。
……口では吸血鬼だろ、なんて言っておきながら。
俺自身、そんな事実を忘れてしまうぐらい、アルクェイドは人間らしい。
「あ―――街灯がついた」
さっきまで消えていた街灯が灯っていく。
月明かりしかなかった公園で、これで多少は明るくなってくれたみたいだ。
「あの女が結界を解除したんでしょうね。誰も公園に入ろうって思わせない暗示だったけど、志貴には通用しなかったわけか」
「ん? なんだ、さっきまでの停電って先輩の仕業だったのか?」
「ええ、連中得意の人よけ。わたしや志貴には関係のないコトよ」
「ところで志貴。一つ聞くけど、貴方はシエルのことをどう思ってるの?」
アルクェイドは冷たい声で、突然にそんな事を聞いてくる。
「……先輩のことって……なんでそんな事聞くんだよ、アルクェイドは」
「なんでもよ。わたし、あの女は嫌いなの。さっきもね、お互いの情報を交換しようって事で会ってみたんだけど、話してるうちにムカムカしてきちゃって、結局殺し合いになっちゃったし」
「こ、殺し合いって―――どうしてそう物騒なコトを口にするんだおまえはっ! だいたい先輩は吸血鬼じゃないじゃないか。どうしてアルクェイドが先輩を殺す、なんてコトを言うんだよ」
「それはこっちの台詞よ。いっとくけどね、先に手を出してきたのはあいつのほうなんだから」
「――――え?」
……先に手を出したのは、先輩のほう……?
「そうよ。『やっぱり止めます。わたし、あなたの存在が認められません』なんていって、いきなり襲いかかってきたんだから。おとなしい顔してるけど、埋葬機関の人間はみんな好戦的なの。志貴も騙されちゃだめだからね」
「な―――――」
好戦的って、あの先輩に限ってそんな―――
「―――志貴。貴方、あいつに今まで騙されてたんでしょう? なのにどうしてあいつの肩を持つようなことをいうのよ。
あいつはね、何も知らない志貴を騙して、一般人のふりをしてたのよ。利用されて悔しいとか思わないの?」
じろり、とアルクェイドは睨んでくる。
「……………」
それは。
たしかに先輩がアルクェイドみたいに、俺たちとは違った側の人だったのはショックだったけど。
けど、騙されていたとかいう感覚はまったくない。逆に何度も先輩には助けてもらった。
「俺は――――」
……先輩のことは、正体を知った今でも先輩だって思ってる。
あの人と昼食を一緒に食べたり、有彦と三人でバカな話をして盛り上がったり、校門まで一緒に帰ったりするのは、楽しいんだ。
だから―――出来ることなら。
先輩の正体なんて、知らないほうが良かったのに。
「志貴。貴方、あの女とわたし、どっちの味方?」
じろり、と。
アルクェイドの目が、ゆらいでいる。
今までの人間らしいものじゃなくて、獲物を狩る肉食動物みたいに感情のない瞳。
アルクェイドにとって、シエル先輩はどうしても許せない敵なんだ。
だからそんな、敵意に満ちた視線をする。
俺が。彼女の敵に味方をするのなら、その時点で遠野志貴さえも敵だというように。
「……アルクェイド……」
言葉がつまる。
俺は――
俺は、それでも――――先輩のことを、敵とかそういうふうに、思いたくない。
「……先輩は大切な友人だ。味方とか敵とか、そういう割り振りはできない」
「なによ。それじゃあわたしはどういう割り振りなの?」
「おまえは―――ほっとけないヤツっていうか、その……」
ぽりぽり、と頬をかく。
ほっとけないっていうか―――先輩とはまた別の意味で気になっている。
今夜だって、こいつを捜そうって思って、けど中々見つからなくて苛々していた。
それは、惚れた相手にやきもきするような感情に近かったと思う。
「―――――あ」
……いや、そんなハズないっ!
たしかにこいつは美人だけど、俺は―――
[#挿絵(img/アルクェイド 22.jpg)入る]
「ああ、もういいだろ! なんだってそんな事を聞くんだ、おまえは!」
「そんなの、わたしにわかるわけないでしょ!」
理不尽に怒鳴ったら、それ以上に理不尽に怒鳴り返された。
「もういい、志貴なんか知らない!」
「おい、ちょっと待てったら。どこに行く気だよ」
「志貴には関係ないわ。ついてこないで!」
本当にご立腹なのか、アルクェイドは振り返りもせずに歩いていってしまった。
アルクェイドの姿は段々と遠くなっていく。
「…………あ」
あいつ、どこに行くつもりなんだろう。
「……なんだよ、いきなり逆ギレしやがって」
うん。夢魔ってヤツを送りこまれたんだから、怒りたいのはこっちのほうなのに。
「……俺、なんか怒らせるようなコト、したのかな……」
わからない。
もともと吸血鬼の考えることなんてわかるもんか。
「―――――」
アルクェイドは一人で怒ってどっか行ってしまったし、こっちだって聞きたい事は聞いたんだから家に帰ろう。
……けど、足は屋敷に少しも帰ろうとしてくれない。
理性はちゃんと理路整然としているのに、心がついてきてくれない。
―――よく言われる話だけど。
好き嫌いの感情っていうのは、理屈じゃないのか。
「―――――ああ、もう!」
くそ、なんでこんなに放っておけないんだろう、あのアルクェイドっていうヤツは……!
「アルクェイド! ちょっと待てって言ってるだろ!」
声をあげて、振りかえりもせずに歩いていくアルクェイドを追いかけた。
アルクェイドは夜の街を歩いていく。
ただ前だけを見て、金の髪をなびかせる白い影。
その姿は、初めて彼女を見た時のイメージとひどく一致している。
いや、それとも。
夜の公園で、ネロと対峙していた時のアルクェイドそのものかもしれない。
……なにか、厭な予感がする。
「おい、アルクェイド」
「――――――」
アルクェイドは振り向きもしないで歩いていく。
「話を聞けって。なにをしているかぐらい教えてくれてもいいだろう」
「――――――」
アルクェイドはやっぱり振り向かずに歩いていく。
……ここで引き下がるのも情けない。
情けないけど、とりあえず無言で後を付いていくことにした。
カツカツカツカツ、と足音を響かせて無言の散歩が続く。
―――と。
ピタリ、と立ち止まってアルクェイドは振り向いた。
「ついてこないで。後ろに貴方みたいな普通の人にいられると迷惑だって、わからない?」
「―――だから、なにをしてるのか教えてくれたら帰るって」
「……志貴には関係ないから、ほっといて」
ぷい、とアルクェイドは前を向いて歩き始める。
……まいったな。
また無言の徘徊が始まるみたいだ。
大通りにさしかかった時、アルクェイドはぴたりと足を止めた。
「―――見つけた」
「え………?」
アルクェイドの声が、別人のように冷たい。
「――――あ」
……背筋が震える。
背中ごしにも、今のアルクェイドがどれくらいの敵意を帯びているのかが、はっきりと感じ取れる。
「アルクェイド―――おまえ、なにを――」
するつもりだ、とは言えない。
だって彼女が何をしようとしているのか、言葉にするまでもなく解りきっている。
アルクェイドの体から放たれているのは紛れもない、一点の濁りもない『殺意』に他ならないんだから。
「おい―――なに考えてるんだ、おまえ……!」
「――――」
アルクェイドは答えない。
その視線の先には、なんでもない、背広姿の男性が歩いているだけだった。
「志貴。メガネを外してあの人間を見てみなさい」
「あの人間って―――あのサラリーマンのこと?」
「早く。わたしが何をしているか知りたいのなら、質問はあとよ」
「――――わかった。あんまり街中で視たくはないんだけど―――」
メガネを外す。
「………く」
こめかみには軽い頭痛。
その痛みと引き換えに、うっすらと、地面や壁に『線』が視える。
「聞いておくけど。志貴、貴方が普通の状態で『点』を視れるのは生物だけでしょ」
「え―――? ああ、そういえばそうみたいだ。建物には線しか見えない」
……ホテルの時は視えていたけど、アレは気絶しそうな程の頭痛を伴なった結果だったし。
「でしょうね。貴方は生物だから、鉱物の死を理解できないのよ。
だから鉱物の死を『視る』ためには、まず彼らと同じ指向性を持つための回線に繋がらないといけない。『視る』ためには『理解』しないといけないから」
「それじゃあついでに聞くけど、今の志貴からみて、あの人間はどんな感じ?」
「――――?」
そんなの、いつもと変わらないと思うけど――
「――――!?」
思わず、足が後ろに引いてしまった。
……なんだ、アレ。
たしかに、どんな人間だって『線』はある。
けどそれは数えられる程度の数で、ある意味幾何学模様みたいなものなんだ。
なのに―――アレは、なんだ。
体中に『線』が走っている。『線』は静脈動脈のように浮き出ていて、『線』に塗りつぶされてあの男性がどんな風貌をしているのかさえ、見えない。
「――――ぐっ」
吐きそうになる。
その、黒い『線』―――ラクガキがヒトの形をしたモノのいたるところに、血を流しているような『黒い点』が視えている―――
「志貴にはどう見える? わたしとしては、志貴には普通の人間に見えていてほしいんだけど」
「――――――」
アルクェイドの言葉に答えられない。
今は―――吐き気を堪えるだけで精一杯だ。
「―――そう。残念ね、志貴はアレにも死を視てしまっているなんて」
「ああ……なんか普通、とは違う、けど……線は、視え、てる……」
「やっぱり───死者さえ殺せるのね、貴方は。命が有る無しの問題さえ無関係。動いているもの、破壊できるものなら例外なく停止させる───なによ、ほんとの化け物は貴方のほうじゃない」
「え─────」
「見たとおり、アレはもう人間とは呼べないわ。自らの死という負債を、他人の血を吸い上げることで誤魔化し続ける吸血鬼だから」
アルクェイドは歩を速める。
一直線に、どこにでもいるような男性に向かって。
「おい、アルクェイド―――」
「志貴はそこにいて」
男性はアルクェイドに気がついたのか、逃げるように路地裏へ走っていく。
アルクェイドはゆらり、と足音もたてずに歩いていく。
月明かりの下、彼女の体は路地裏へと消えていった。
―――どくん。
心臓の音が、やけに近くで聞こえた。
まだ夜も深くないという時間。
賑やかな繁華街のただ中にいるのに、自分以外の人の気配が、まったく感じられなくなった。
―――ドクン。
メガネ―――メガネを早くかけなくっちゃ。
そうしないと、厭なものを見てしまう。
今まで視えていたものなんて入り口にすぎないぐらいの闇を、見ることになってしまう。
―――ど、く、ん。
でも体が動かない。
ツギハギだらけのセカイを視る裸眼は、魅了されたように、アルクェイドが入っていった路地裏を、壁越しに見つめている。
「───────」
唐突に、音が消えた。
人の気配も、
風の音も、
土の匂いも。
すべて、ピタリと凍りついた。
──────ギ
絶対零度の月の下。
壁のむこうで、何か、異質な音がしている。
──────ゴ。
見えるはずがないし、
音なんて聞こえてこない。
──────ず、ぶ
なのに、視えた。
死と死が衝突する音を、この眼が確かに視た。
「ぐ――――」
視界が朱い。
なんで―――見えないはずのものの、『死』を視てしまっているんだ、この目は。
「――――」
メガネ。メガネをかけないと、頭がどうにかなってしまう。
喉元までせりあがった嘔吐感をこらえながら、震える手でメガネをかけなおした。
音と光が戻る。
気をしっかりと持ってあたりを見渡せば、繁華街に異状はない。
雑多な喧騒と、まわりを歩いていく人々の姿。
飾り付けられた店のショーウィンドウの明るさや、道路を走る自動車のエンジン音が溢れている。
「はあ――はあ、はあ―――」
呼吸がうまく出来い。
メガネをかけていても、どこか視界のすみにさっきの『死』が残っていそうで、気持ち悪い。
アルクェイドが路地裏から出てきた。
そこにはさっきまでの殺気が微塵もなくて、どことなく上機嫌のように見える。
「アル――クェイド……?」
「あれ? あ、そっか。志貴ったらまだ残ってたんだ」
「残ってたって、おまえな……」
あんなモノ視せられて、そう簡単に帰れるもんか。
「あれ、どうしたの志貴? 貴方、ぜんぜん生気がないけど」
「―――気にしないでくれ、ただの貧血だ。
それよりアルクェイド。いまの、どういうコトなんだ」
アルクェイドの腕を掴んで睨みつける。
「ちょっ―――志貴、いきなり何するのよ。苦しいんなら家まで送っていってあげよっか?」
「いらない。そんなのはいいから、今のヤツがなんなのか答えてくれ。ここまで視せていて、いまさら関係ないだなんて言ったら殴るからな、アルクェイド……!」
ぜいぜい、と呼吸が苦しいのも無視して、アルクェイドに詰め寄る。
「―――――――」
アルクェイドは一転して厳しい顔つきになる。
けど、俺も引き下がるつもりはまったくない。
しばらくの睨み合いの末、アルクェイドははあ、とため息をついた。
「もう。わりとしつこいんだね、志貴って」
「……………悪かったな、しつこくて」
「ばかね、誉め言葉よ。
――さて。それじゃ場所を変えましょうか」
「場所を変えるって、なんで」
「志貴に話をしてあげるためでしょ。こんな場所じゃなんだから、公園に戻ろっか。志貴、歩ける?」
「あ……ば、ばかにするな。こんな貧血、日常茶飯事だ」
なんだあ、と残念そうに笑って、アルクェイドは歩き出す。
立ち眩みをこらえながら、その後についていった。
◇◇◇
「さて。それじゃあ志貴のお望み通り、なんでも話してあげるわね。聞きたい事があるんなら遠慮せずに聞いていいよ」
「それじゃ聞くけど、さっきのヤツはなんだったんだ。おまえは吸血鬼って言ってたけど、アレがおまえの標的だったのか?」
「違うわ。たしかにアレも処刑する対象だけど、あんな死者を塵に還すことが目的じゃない。アレはわたしの『敵』の下僕だから始末しただけ。
あんなのでもね、ほっとくと人を殺して力を蓄えられてしまうから」
「……アルクェイド。その、もっと俺にもわかるように説明してくれないか。俺にはさっきの、あのおかしなヤツが人間なのかどうかもわからないんだ」
「そっか。志貴にはまともに吸血鬼について話した事がなかったものね。ネロは吸血鬼の中でも特異すぎた吸血種だから、説明する必要がなかったんだけど」
「……? まともな吸血鬼って、なにさ」
「だから、あなた達が想像しているような吸血鬼のことよ。不老不死で、人間の血を吸って、吸った者も吸血鬼にして使役し、太陽の光の前に敗退するっていうごく当たり前の吸血鬼。
わたしの『敵』はね、そういう旧いタイプの吸血鬼なの」
「……えっと、つまりその『敵』っていうのが街で通り魔殺人をおこしてるヤツの事だよな」
「……どうかしらね。実際に人を殺して血を吸っているのは、さっき始末したような『死者』の仕事かもしれない。
志貴、ネロが体内に山ほどの使い魔を装備していたのは覚えてるでしょ?」
「―――ああ。そう簡単に忘れられることじゃないよ、あれは」
「さっきの死者はそれと同じよ。いい? 吸血鬼に血を吸われ、その時に吸血鬼に血を送られると、その人間は死んでいるにもかかわらず現世に残ってしまうの。これを死者といって、吸血鬼の一般的な使い魔とされるわ。
あ、志貴にはゾンビっていったほうがわかりやすいかな。アレは死体に寄生するハイチの白蛇のことだけど、動く死体っていったらゾンビが有名なんでしょ?」
―――うん、そう言われたほうがしゃっきりとイメージできる。
「わかった、つまりさっきの男はとっくの昔に吸血鬼に殺されてて、そのあとでゾンビにされてこき使われてるっていうコトなんだな?」
そうそう、と満足そうに頷くアルクェイド。
「―――わかんないな。吸血鬼ってのはどうしてそんなコトするんだよ。殺した人間を―――殺しちまった人間をさ、そのまま生きかえらせてアゴで使うなんて、趣味が悪すぎる」
「そうね。吸血鬼が悪趣味なのは認めるわ。でもそれは死徒に限った話よ。初めから吸血種だったものはあまりそういうコトはしないもの」
「――――?」
初めから、吸血鬼だったもの……?
「―――思い出した。そういえば言ってたな、吸血鬼には二種類あるって。初めから吸血鬼だったのと、人間から吸血鬼になった吸血鬼。
……前に聞いた時、その話がひっかかってたんだ。なんかおかしいなって。そもそもさ、初めから吸血鬼じゃないって、それはどういうコトなんだ?」
「どういうコトもなにも、死徒はもともと人間だった者達よ。魔術の果てに不老になったものと、真祖に血を吸われて下僕となったものとがいるわ。
……志貴、貴方はさっき殺した人間を使役するのが悪趣味だと言ったけど、それでもまだマシなほうなのよ。中にはもっと理解不能な遊びを考案する吸血鬼もいるんだから」
「―――遊びって―――なんだよ、それ。おまえたちは遊びで人間を殺して、その死体を玩具にしてるっていうのか……!」
「……否定はしないわ。
吸血鬼にとって『娯楽』は呼吸と同じことなのよ。人間という連環種でありながら、不完全ながらも不老不死に近付いた彼らにとって最大の敵は“退屈”だったの。
もともとわたし達と違って目的がないくせに“不老不死”になった彼らは、不老不死を手にいれた瞬間にあらゆる物欲がなくなってしまったのよ。
目的が不老不死だったんだから、まあ仕方がないっていえば仕方がないんだろうけど」
「───退屈だから遊びたい、なんてふざけた事は言わないでくれよ。だいたいさ、歳もとらないで死にもしないっていうんなら、もうそれで十分じゃないか。他の楽しみなんていらないだろ」
「だから、それで十分になってしまったのよ、彼らは。けれどそれでは存在の意味がない。
自らを無価値と―――停止してしまったのだと認識した生命は、そこで存在している価値がなくなってしまう。
不老不死というのはね、死の別名でもあるのよ。
だから彼らは段々と磨耗していって、自分たちから娯楽を作る事にした。生きているんだって、自分たちはまだ楽しみがあるんだって自らを弁護するように。―――それが、貴族の発端。
彼らは人間の真似ごとをして、自分を城主にみたてて自らの勢力を広げるゲームを始めたわ。
ありていに言ってしまえば死者の王国ね。思いの外、それは彼らにとって刺激的だったみたい」
……他人ごとのようにアルクェイドは言う。
そういうアルクェイドだってその一人のはずなのに、どうも彼女にはそういった趣味はないみたいだ。
「さて、ここで話は前後するけど、死徒というものは元は人間なの。
魔術を究めて、その果てに吸血鬼となった稀なケースもあるけど、大部分は血を吸われた人間が死徒になる。
死徒はたしかに不老不死だけれど、彼らは永久機関じゃないわ。たえず他者から命を吸い上げないと不老不死ではいられない。
不完全な不老不死だと言ったでしょ? 死徒は結局、人間という捕食対象がいないと“不老不死”ではいられない。
けど、無闇に人間を捕食していると“吸血鬼”という自分の存在が明るみになってしまう。そうでなくても死徒は活動しているだけで場を歪ませてしまうから、いずれシエルのような教会の代行者を呼び寄せてしまう」
「……えっと、それはつまり、吸血鬼は自分の好きなように活動できないっていうコト?」
「そうね。教会との契約を破って好き勝手に活動すれば、即座に発見されて消滅させられてしまう。
だから死徒の大部分は、自分が眠ったままでも自分に人間の血肉を注ぎ込んでくれる分身を作り出す。
血を吸って、自分の血を死体に送りこんで、自分の操り下僕として活動させる生者の擬態。これをわたしたちは単純に“死者”って呼ぶのよ」
「……ふうん……それじゃあさっきアルクェイドが、その、始末した死者っていうのは死徒っていうヤツの兵士みたいなものなんだ」
「兵士っていうよりは人形ね。本来なら血を吸われた人間が自力で吸血種として蘇生する過程を無視して、完全に死徒の分身として操っているんだから。死者は親である死徒と繋がっているわ。
死者だって自らが生存するためのエネルギーを必要とするから人間を襲い、肉をすする。けど、その半分以上は親元である死徒に流れていくのよ。
ようするに女王蜂を養う働き蜂みたいなものね。死者を操る死徒は、自分の棺の中で眠っているだけで力を蓄えてしまえるのよ。
……わたしの『敵』が簡単には見つからないのは、『敵』が死者を多く使っているから。
あいつが自分の手を汚すのは一回だけ。あとは死者にした人間を操って、自分は眠っているだけで領地を広げていく。
―――通り魔殺人による遺体が何体も発見されてるって言うけど、あんなのは偽造に失敗しただけのものよ。
実際、この街の犠牲者は百人を超えているわ。ひっそりと、人知れずいなくなってしまっている人達の一部分が、あなたたちが騒いでいる犠牲者っていうことね」
「な――――」
百人単位―――?
その、吸血鬼に血を吸われて殺された人間がそんなにいるっていうのか?
しかも、血を吸われた人間も同じように血を吸う化け物になって、さっきみたいに何気なく街を徘徊してるなんて―――
「………ふざけ、てる」
三日前。
ホテルに泊まっていた人々が、それこそ何の意味もなく殺され尽くしたのを、思い出す。
俺はあのホテルにいたけれど、その場面を見ていない。だから言葉の上でしか想像できず、ソレがどんなに憎むべき暴力であったかを肌で感じ取れなかった。
今だってそれは同じだ。
人間の血を吸う吸血鬼がいて、そいつが少しずつ自分の領地を広げているなんて聞いても、実感はわかない。
―――ただ。
何の理由も、どんな前触れもなく、例えば自分のもっとも身近な人間がそんなふうに殺されたら、俺はどうなってしまうだろうか。
想像したくもないのに、ほんのわずかだけ。
血を吸われて、それこそゴミのようにうち捨てられている秋葉の姿を想像する。
「くっ――――」
あたまにくるのは―――そんな最悪な出来事がもう今にだって起きえるのだというこの街の状況と、それに気がつきもしなかった自分自身の平和さだ。
「やっぱり怒ったわね、志貴。
……わたしがあんまり話したくなかったのは、これは捕食される側――あなたたちにとっては一切の言い訳も許さない『悪』そのものだからよ。
志貴にとっては気持ちのいい話じゃなかったでしょう?」
「――――まあ、な。そんな話を聞いたら、これからどうしていいのかわからなくなる」
……そう。
明日にでも親しい人が犠牲者になるかもしれない街で、今までどおり平和に暮らしていけるハズがない。
知ってしまったのなら。
俺は、ネロの時みたいに戦わなくちゃいけない。
「……………くっ」
あんな。
気がふれる直前まで追いこまれるような戦いを、まだしなくちゃいけないって、いうのか。
「ほら、志貴ったらまたそんな顔しちゃって。
いいよ、志貴は安心して。吸血鬼たちの天敵はこの国にはいないみたいだけど、今はわたしがちゃんといるんだから。
言ったでしょ、わたしの目的は吸血鬼を退治するこことだって」
さっきまでの淡々とした雰囲気はどこにいったのか、アルクェイドは一変して明るくなった。
「ああ、それは聞いてる。……けど、アルクェイドだって吸血鬼なんだろ。どうしてそんな、人間の味方みたいなことをしてるんだ」
「わたし、別に人間の味方をしてるわけじゃないよ。ただ、それ以外にやる事がないからやってるだけだもの」
「――――?」
それ以外にやる事がないって、ますますアルクェイドがわからない。
「ま、そんなコトをやっているから死徒たちに狙われているんだけど、その追っ手であるネロも志貴が倒してくれたでしょう?」
「だから、あとは当初の予定どおりこの街に潜んでいる『敵』を見つけて、なんとか始末してみせるわ。
だから志貴は今までどおり普通の生活に戻って、わたしたちなんかに関わらなくていいんだよ」
何が嬉しいのか、アルクェイドはまっすぐな笑顔を向けて、そんな事を言った。
「……………」
「志貴? なによ、また難しい顔しちゃって」
「そりゃあ難しい顔ぐらいする。だって、これは俺たちの住んでいる街の問題なんだから」
「だから気にしなくていいんだって。二三日じゅうになんとかするから、もうこれ以上は犠牲者は出させないわ」
ああ、正直こっちだって関わり合いになんかなりたくない。
―――でも、その台詞は。
この街を守るようなその台詞は、アルクェイドではなくこの街に住んでいる俺が、言わなくちゃいけないコトじゃないんだろうか。
「……アルクェイド。その、一つ聞くけど。おまえの言ってる『敵』っていうのは強いのか?」
「さっきの死者よりは格段に優れているでしょうね。今回はまだ出会っていないからわからないけど、八年間も潜んでいたんだから第五階級ぐらいにはなってるんじゃないかな」
「……第五階級って、よくわからないけど。もしかしてネロより強いのか、そいつ」
「まさか。ネロは別格よ。あいつは私がまともな時でも倒しきれない最高純度の吸血種よ。それに比べれば、わたしの敵はいくぶん格が落ちるわ」
「――――そうか。それなら―――おまえがやられるっていう事、ないよな」
安堵のためか、はあ、と大きく息をはいた。
「さあ、どうでしょうね。ちょっと前までのわたしなら問題なかったと思うけど、今のわたしは病み上がりだもの。アイツのほうが力をつけている可能性は高いわ」
「……病み上がりって、風邪でもひいたのかアルクェイド」
「うん、どうにも志貴に殺された後遺症がぬけきらなくて。このぶんじゃあと何日かはダメみたい」
「――――あ」
そうか――アルクェイドが弱っているのは、他の誰でもなく、この俺の責任だった。
「けど大丈夫よ。差し違えても倒してみせる。必ず吸血鬼は始末するから、志貴がこの街のことを心配することはないわ」
「……ばか。俺が心配してるのはおまえのことだ」
「え? なんで志貴がわたしの心配をするの?」
心から不思議そうに、アルクェイドは目を白黒させている。
……だって、そりゃあ心配する。
相手がネロより弱いって聞いて安堵したのは、それならアルクェイドがやられるコトがないって思ったからだ。
こいつが。
アルクェイドが傷つくところなんて、俺は想像ができないし、したくもない。
「……………」
たしかに不思議だ。
どうしてこう―――俺は、こいつのことが放っておけないんだろう。
たしかに俺はこいつを殺してしまった責任がある。俺のせいで彼女が弱っているっていう負い目もある。
けど、そんなコトがなくったって、俺はアルクェイドを放っておけない。
―――さっきも思ったけど。
やっぱり、こういうのは理屈じゃないのかもしれない。
……自分が死ぬかもしれないっていう恐れより。
今は、アルクェイドの力になってやりたいっていう気持ちのが強いんだから。
「さっきの話だけどな、アルクェイド」
「さっきの話って、なに?」
「だからさ。俺が先輩とおまえ、どっちの味方かって話」
「待て、最後までちゃんと聞いてくれ。
あのさ、その―――おまえはたしかに常識外れで我がままで手におえないヤツだ」
アルクェイドはますますま不機嫌そうに目を細める。
それでもかまわず、もう勢いにまかせて、自分の今の気持ちを口にする。
「……でもまあ、おまえと一緒にいると退屈はしないんだ。俺は、アルクェイドのことが気に入ってる。
だから、その敵とやらをやっつけるのを見届けさせてくれないか。……その、ようするに俺は先輩じゃなくて、おまえの味方っていうことなんだけど……」
ちらり、とアルクェイドの顔を盗み見る。
「―――――――ほんと?」
アルクェイドはびっくりしたリスみたいな仕草で、遠慮がちに俺の目を見つめ返してきた。
「……まあ、そういうこと。自分でもどうかしてるって思ってるんだけど、乗りかかった船だしさ。自分の住んでいる街の問題を見過ごす事もできないだろ」
「それじゃあ、もしかして―――」
「ああ。おまえがまだ弱ってて、俺の力を必要だっていうんなら協力するよ。
……その、足手まといになるかもしれないけど」
「うん―――! 志貴が手を貸してくれるなら、出来ないコトなんて何もないよ―――!」
……本当に、よっぽど嬉しいのか、アルクェイドの笑顔はすごく輝いてる。
「でもいいの? 志貴、また死ぬような目にあうかもしれないわよ」
「それぐらい覚悟してる。それにね、もとから俺の目はこういうコトのためにあるようなものなんだ。―――子供のころ、そう教えてくれた人がいた。
人にない力があるんなら、人にできない事をするべきだって。きっと、これがそうなんだ」
「ふーん……志貴の事情は知らないけど。
なんか、それっていいね」
……アルクェイドはすごく上機嫌だ。
かくいう自分も、彼女につられてすごく気持ちが上向きになってはいるんだけど。
「さて、それじゃあこれからどうするんだ。またさっきみたいに街を歩いて死者を探すの?」
「そうね、今はそれぐらいしか手はないかな。さっきので十二人目だから、そろそろ死者も打ち止めだと思う。この街にいる死者を全員潰してしまえば親元の吸血鬼が出て来ざるをえなくなるから、それまでは残りの死者を探すって方針だけど」
それでもいい? とアルクェイドは視線で問いただしてくる。
「いいもなにも、俺はアルクェイドに付き合うだけだよ。アルクェイドがそうするっていうんなら、大人しくしたがうさ。――じゃ、もう一度街に行くか」
「あ、今夜はもういいの。効率よく死者を操るためにはね、それなりの活動ルートを定めているもので、一晩に複数の死者は活動させないと思う。
ただでさえ数が減ってきているんだから、むこうも無闇に活動させないでしょうし」
「―――そうなの? でも、それじゃあアルクェイドから死者を隠そうとするんじゃないのか、その『敵』ってヤツは」
「基本的にはね。けど、『敵』が吸血鬼である以上、どうしても他者から血や精を搾取しないと存在してられないのよ。
だから、むこうはわたしに狙われてるってわかっていても、最低限の食料を得るために死者を出すしかないっていうわけ」
―――はあ。
で、その最低限の死者が、さっきの男性だったわけか。
「そういうこと。だから今夜は、これ以上探し回っても無駄だと思う」
「……まあ、俺はどうでもいいけど。なんだかまだるっこしいな、それ」
「ええ。もともと吸血鬼退治は面倒なものなの。この街のどこかにある『敵』の棺を探しあてるんだから、そう簡単には終わらないわ」
アルクェイドは俺から手を離すと、タン、という軽い足取りでうしろに跳んだ。
「アルクェイド……?」
「今夜はここでお別れにしましょう。どうせ、またすぐ明日に会えるんだから」
アルクェイドは踊るようなステップで、こっちを見たまま遠ざかっていく。
「明日って―――ちょっと待て、待ち合わせ場所とかどうするんだよ……!」
「ここでいいよ。時間は―――そうね、十時ごろがちょうどいいかな」
笑顔で、実にかってに約束をする。
「おやすみなさい、志貴。また明日、ここでね!」
と。
手をふって、アルクェイドは去っていった。
◇◇◇
―――屋敷に帰ってきた。
時刻は夜の一時半。
屋敷の明かりは、完全に消え去っている。
「………まずい、かな」
屋敷の門に手をかける。
がちん、という音。
門には頑丈そうな錠が内側からかけられていた。
「―――まいったな。切るわけにもいかないし」
少し悩む。
悩んでから、門を自力でよじのぼる事にした。
……疲れた。
ドロボウさんよろしくで門をよじ登って、玄関にたどり着く。
門は鍵がかかっていたが、玄関の扉は開いていた。
「……翡翠、ちゃんと開けててくれたんだ」
ほう、と感謝の吐息がもれる。
秋葉や琥珀さんたちを起こさないように、抜き足で屋敷の中へと入っていった。
「――――――ふう」
一息ついて、ベッドに腰をかける。
「………………」
アルクェイドとの約束。
なんの因果か、また厄介なコトに足を踏み入れた遠野志貴。
「――――仕方ないじゃないか。だってさ、放っておけなかったんだから」
それとも、放っておきたくなかったのか。
「そりゃあ……アルクェイドのことは、好きだけど」
けど、それって愛情なんだろうか。
自分の気持ちがよく解らない。
ともかく、明日からまたアルクェイドの手伝いをする事になったんだ。
今は余計なことは考えず、ゆっくりと体を休めて明日にそなえるとしよう――――
―――眠れない。
目を閉じると、なにか色々なものが浮かんでくる。
アルクェイドのこと。
この街に巣くっている吸血鬼のこと。
……黒い法衣姿の、先輩のこと。
「――――」
……眠れない。
仕方ない、こういう時は読書にかぎる。
たしかこの前、読みかけの本があったハズだけど――――
[#ここから3字下げ]
一番初めの感情は、むしろ憐憫だった。
怒りでも失望でもない。
ただ、目にうつるすべてのものが哀れに思えた。(無論、最も哀れなのはこの身ではあるのだが)
際限なく壊れていく命。
際限なく薄れていく営み。
際限なく忘れていく時間。
みな落ちるだけだ。
なのに懸命に存在しようとあがき、それが叶わぬと識ると生み続ける。
生み出し続ける。
結局、それらさえ亡くなるというのに、それではあまりにも報われない。
無論、死にゆく存在が報われないのではない。
我々には初めから救いなどない。
報われないのは、その試み。
永遠を望もうとする、気高い、およそ一文にもならぬほど需要のない、誰も求めてなぞいない祈りだ。
壊れていくものには一切の興味はない。
もし私に死というものが視覚でき理解できるのならば、多少の関心はもてるだろうが。
およそ計測不可能なほど繰り返され、なお繰り返されるその祈り。
もはや滑稽とさえされるその祈りを、ただ一つの清らかなものに代えようと思った。
方法は言うまでもない。
祈りは、叶えられた時点で結果となる。
それだけを目的として生きてきた。
別段信念があったわけではない。
私が最初に覚えた言葉が、永遠という単語であっただけの話だ。
……ふうん。それで、とりあえず一番手近な永遠を手に入れようとするんだね、君は。
まさか。彼らはただ年老いにくく、死ににくいだけの種ですよ。彼らの仲間入りをするのは、たんにこの身の限界にいきついてしまったからです。これ以上先に進むのならば、この器では時間がかかる。
永遠を求める君が生き急ぐとは皮肉な話だね。
それで、明日にでもココを去るのか。
埋葬教室に関しては貴女に一任しますよ。どうせ司祭の席は一つしか空いていない。ここに上り詰めるまでで父の遺産はすべて使いきりましたし。潮時だったんですよ、これが。
……まあいいけどね。それで君は自分の魔術理論を完成させるわけか。あたしはここから離れる気はないから、君に合わせて生きていく事はできんな。ま、幸いあたしは女だ。さっさと子供を産んで君の事を伝えるとしよう。
ほう。なんと伝えますか、ナルバレック。
そうだな、あと百年もたてば新参の死徒が台頭してくる。そいつの相手をするのは無意味だから無視してしまえ、という口伝にしよう。
いえ、百年も待つ必要はありません。私はすぐにあちらでも上り詰めます。この身は最も優れた吸血種に成るのですから、十年もあれば十分です。
たわけたことを。いかに君といえど、死者からやり直すのであれば百年はかかろう。連中の世界の苛烈さはあたしたちの比じゃないぞ。
まともな方法ならそうでしょうね。
しかし初めから最強の吸血種になるのであれば、彼らの世界の法則も通用しない。
……わからないな。どういうことだ、それは。
簡単な話です。
司祭殿は死徒の能力が、その血を吸った真祖の能力の影響を受けるのはご存知でしょう。
ですから―――解答は実にシンプルだ。
己が最強の死徒になりたいのであれば。
己が血を、
最強の真祖に吸わせればいいのです―――
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●『7/空の弓U』
● 7days/October 27(Wed.)
夢を見ている。
曖昧な、とくに意味などない、灼けたアメのようなユメを見ている。
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彼女のことが、好きなのか。
感情の正体はわからないけど、どうしても気になってしまうのは、もう否定しようのない事実だと思う。
[#挿絵(img/シエル 11.jpg)入る]
彼女のことが、好きなのか。
……わからない。ただ、自分がどうにかしてしまいそうな時、助けてくれたのは彼女だけだ。
彼女がいなければ。
雨にうたれて、あのまま本当に死んでいたかもしれない。
[#挿絵(img/シエル 16.jpg)入る]
――――わからない。
だから、聞かないと。
どうしてそんなコトをしているのか。
どうして、そんな感情のない目をしているのかって――――
「―――志貴さま」
……朝の光に交じって、翡翠の呼び声が聞こえてくる。
「―――志貴さま、お時間です。お目覚めください」
抑揚のない翡翠の声に、意識がはっきりと覚めていく。
「――――――」
目を覚ましたとたん、厭なモノが視界に入ってきた。
ずきり、とこめかみには銃創のような頭痛。
「あ――――」
起きたばかりの意識が、がらり、と足場を失っていく。
そのまま眩暈を起こしてしまう前に、急いで枕元のメガネを手に取った。
「志貴さま……? ご気分が優れないのですか?」
「……いや、そういうわけじゃなんだ。ちょっとした貧血だから」
軽く頭をふって、さっきまで視えていたものを記憶から振り払う。
「そんなことより、おはよう翡翠。起こしにきてくれてありがとう」
ベッドから上半身を起こしながら、できるだけ自然に笑顔を向けた。
「いえ、これがわたしの仕事ですから。志貴さまに感謝されるほどのことではありません」
「そうかな、俺はすごくありがたいけど。目覚し時計の音なんかより、何倍もあったかい感じがする」
ベッドから立ちあがる。
時刻は朝の七時前―――いつもより十分ほど早い時間。
「……ああ、朝ごはんだろ? すぐに行くから先に行っててくれ」
「それなのですが、志貴さま。その―――秋葉さまが、志貴さまに問い詰めたい事がある、と居間でお待ちになっておられます」
言いにくそうに翡翠はそんなコトを言ってくる。
「……問い詰めたいコトって……あいつ、もしかしてご機嫌ななめ……?」
「……はい。志貴さまが昨夜遅くに出かけた事を、お気づきになられたようです」
「……あ」
思わず声をあげてしまった。
昨夜はつい勢いにまかせてアルクェイドを捜しに行って、夜遅くに帰ってきてしまったんだっけ。
「……まいったな……いちおう見付からないように出ていったのに」
「はい。わたしも、気がついたのはわたしだけだと思っていました」
しずしずとした声で翡翠は相づちをうってくれる。
「……? 翡翠、俺が出ていったコトに気がついてたのか……?」
「あ……」
翡翠は申し訳なさそうにうつむいてしまう。
「そっか、翡翠は知ってたのか。どうりで屋敷の玄関が開いてたわけだ」
「……………はい」
ぽつり、と翡翠は答える。
「さんきゅ。おかげで昨日は助かった。その、気を遣ってくれてありがとうな」
「ですが、それで姉さんに気づかれてしまいました。わたしと姉さんは二時間交代でお屋敷の見まわりをするんです。
それで、玄関の鍵をわたしが外しているのを気がつかれてしまって―――」
……なるほど。
琥珀さんは秋葉つきの人だから、そこから秋葉に昨夜のことが漏れてしまったというコトか。
「翡翠が謝る必要はないよ。もともと夜中に出歩く俺が悪かったんだから、自業自得なんだ。
翡翠が玄関を開けていてくれただけで、すごく嬉しい」
「―――――」
翡翠はじっとこっちを見つめてくる。
「……なに?」
「……いえ、なんでもありません。着替えが済み次第、居間においでください」
翡翠は何か言いたそうな目のまま、廊下へ出ていってしまった。
「……しかしまいったな。また秋葉のお説教を聞くことになるなんて」
独りごちて、制服に着替える。
そんな暇があるなら―――何か、大切な事をしなくちゃいけない。
「……そうだ。先輩に話を―――」
「っ――――」
ずきん、とまた頭痛がした。
翡翠と話をしていた時はおさまっていたクセに、一人になった途端に頭がズキズキと痛みだす。
「くっ……まず、これ――すぐに、収まりそうに、ない……」
ベッドに倒れこんで、ただ頭痛に耐える。
……痛みは消えない。
ずきん、ずきん、と頭に釘を打ち込まれるような痛み。
……おかげで、さっきまで何を思っていたか忘れてしまう。
振りかえってみれば、事故にあってから八年間。遠野志貴は、ずっとこんなポンコツみたいな体と折り合いをつけてきた。
突発的にやってくる眩暈。頭痛。貧血。
それのおかげでどれだけのコトを諦めなければならなかったのか、数えきれない。
医者は奇跡的に命を取り留めたという。
こうして生きていること事態が奇跡なんだから、多少の痛みは我慢しろっていうことなのか。
……壊れた目。この目となんとか折り合いをつけてくれた先生は、その奇跡を大切にしなさいと言っていた。
……あれは。
人の命は尊くはないが、戻らないものだから、大事にしなさい、という意味だったんだろうか。
ここ数日、俺はたくさんの人の死を視てきた。
あっけない。笑ってしまうほどあっけない命。
あんなふうにあっさりと消え去るものならば、もとからその程度だということじゃないのか。
ならば、それを尊いと考えることなぞ無意味だ。
…………あ、れ。
オレは、            オマエは、
なんで、            いつまで、
そんなコトを考えているんだろう?
「……はあ」
頭痛が収まってくれた。
「……血を見すぎたのかな。なんか、ひどいことを思っちまった」
はあ、と大きく深呼吸をする。
朝の新鮮な空気を肺にとりこんで、イヤな気持ちを洗い流す。
「―――はやく、学校に行かないと」
行って、シエル先輩に会わないといけない。
頭の隅にしこりのように残っている頭痛を堪えながら、自分の部屋を後にした。
階段を下りて、ロビーにつく。
すぐ横手には居間に続く廊下。
正面には外に通じている玄関がある。
「………………」
どうしよう。
秋葉が居間で待っているというけど、一刻も早く学校にいって先輩をつかまえたい。
―――ダメだ、やっぱり先輩のことが気にかかる。
朝飯なんてゆっくり食べている場合じゃない。
「―――志貴さま?」
居間から翡翠がやってきた。
いつまでたっても居間に現れない俺を迎えに来たのだろう。
「……悪い。俺、このまま学校に行くよ。秋葉にはごめんって伝えておいてくれ」
「……お待ちください志貴さま。志貴さまのお顔の色が優れません。ひどく体調が悪いのではないですか……?」
「―――いいんだ、ただの頭痛だから。それじゃ行くよ。……ごめんな、また勝手なコトしちまって」
……本当に自分勝手なことをいって、返事も聞かずに玄関に手をかけた。
◇◇◇
校門についた。
屋敷から走ってきたから、時刻はまだ七時半にもなっていないはずだ。
「…………」
正門に立って、先輩を待つ。
ちらほらと登校してくる生徒たちにおかしな目で見られていたけど、そんな事はどうでもよかった。
「……………」
先輩はなかなかやってこない。
時刻は、七時半を過ぎてしまった。
さらに十分。
校門は登校してくる生徒たちで混雑している。
校門が閉まるまで、あと五分もない。
あれから今まで、先輩はやってこなかった。
「…………」
今日は―――来ないのかも、しれない。
昨日、俺にあんなところを見られたから、今日といわず明日も、明後日も、このまま――
―――どくん。
「………っ」
なにか、そう思ったら眩暈がしてきた。
ふるふると頭をふって、厭な考えを振り払う。
……と。
ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
「遠野くん、こんなところで何してるんですか」
「せっ、先輩………!?」
「はい」
こくん、と先輩は頷いた。
「ほ、ほんとに……!? だって昨日、俺は先輩があんなコトしてたの―――」
もが。
最後まで言いきる前に、先輩の手が口を塞いだ。
「遠野くん、ここじゃなんですから、ちょっと体育館裏に行きましょう」
先輩はいつも通りの笑顔で、俺の口を塞いだまま、むんずと腕を掴んでくる。
「っ、っ!」
ちょっと待ってと抗議をしたんだけど、声にならない。
そのまま強引に、ずるずると引きずられていってしまった。
――――高らかに予鈴の音が鳴り響く。
……朝のホームルームが始まってしまった。
くわえて、周りにはまったく人の気配がない。
「はい、ここなら誰にも聞かれません」
先輩はようやく両手を離してくれた。
バッ、と後ろに跳びすさって、先輩を正面から見据える。
「昨日の夜の話でしょう? 言いたいコトがあるんでしたら、遠野くんのほうからどうぞ」
先輩は冷静にそんな事を言ってくる。
まるで昨日の夜の事なんて、そう大した事じゃなかったみたいに。
「…………っ!」
けど、俺にとっては大した事だった。
先輩のこの態度は、なんだかカチンときてしまう。
「それじゃあ昨日の夜のアレは、本当に先輩なんだな……!」
「はい。遠野くんの名前も口にしちゃいましたし、もうさすがにごまかしようがありません」
「っ…………!」
ぎり、と歯を噛む。
……そりゃあ、別に謝ってもらおうとか思ってたわけじゃないけど、それでも―――
「……違うって……関係ないって言ったじゃないかっ!」
「なにがですか?」
「三日前の夜のことだよ! あの夜、公園で俺を助けてくれたのは先輩かって聞いたら、先輩は違うって言ったのに……!」
「あれ、うそです」
きっぱりと。
もう、一人で怒っているこっちがバカに思えるぐらい、気持ち良く先輩は断言した。
「……あの……うそって、先輩?」
「遠野くんのほうこそ、わたしとの約束を守ってくれなかったんですね。もう夜は出歩かないっていったのに」
「………う」
先輩はじっと俺を見つめてくる。
なんか、一瞬にしてこっちが悪人になってしまったみたいな、後ろめたさ。
「こうなっちゃうかもしれないから、ちゃんと約束したのに。遠野くんにとってわたしとの約束なんてそんな程度のものだってなんて、悲しいです」
「あ―――いや、違うんだ。昨日はだって、アルクェイドが通り魔事件の犯人かと思って、けどそんなの違うはずだからどうしてもあいつに話を聞きたくて―――」
あたふたと昨夜の状況説明をする。
先輩は黙って、およそ説明になんかなっていない俺の独り言を聞いてくれた。
とりあえず偶然アルクェイドと知り合って、この街に吸血鬼がいるっていう事を教えられて、街を守るために協力してるっていう、今までのいきさつを。
「―――わかりました。
遠野くんは彼女に協力してこの街に根付いている吸血鬼を倒そうとしているんですね」
「まあ、そういうコトに、なるけど」
「……信じられません。遠野くん、吸血鬼のことなんて本当に信じてるんですか?」
「な……なに言うんだよ先輩。先輩だって、教会っていうところのエク―――」
ぴっ、と先輩の指が、俺の唇に当てられた。
「わたしのことはいいです。それより問題なのは遠野くんのほうでしょう?」
「俺のほうって、別に俺に問題なんかないよ」
「……はあ。自覚、ないんですね」
困ったように先輩はため息をつく。
「一つお聞きしますけど。遠野くん、彼女にどれくらいの事を聞いてるんですか?」
「どのくらいの事って……この街に、人間の血を吸ってる吸血鬼がいるって事ぐらいだけど」
「つまり彼女本人のことも、彼女が追いかけている『敵』のことも聞かされていないんですね」
「……そりゃあ、詳しくは、聞いてないけど」
「そうですか。では、わたしが教えてあげます」
「……へえ。すごいな、先輩知ってるんですか?」
「あのですね。わたし、これでも教会の人間なんですから、それぐらい知ってて当たり前じゃないですか!」
「あ、そっか。……ごめん、なんか忘れてたよ、それ」
あはは、と誤魔化し笑いをしてみたりする。
「もうっ。まじめな話をしているんですから、ちゃんと聞いていてください!」
はい、と反省をこめて頷く。
「……あれ。けど、そういうのって秘密なんじゃないのか。アルクェイドは、その……先輩たちは秘密をすごく守るって言ってたけど」
「はい。本来なら口にしていいものではありませんけど、今日は特別です。
監視役がいるわけでもないですから、遠野くんが誰にも話さないでいてくれればオッケーです」
「……あの。もし、俺が先輩のコトとかを誰かに話したらどうなるの、かな」
「はい。遠野くんが思ってるとおりの事をするだけです」
笑顔で、先輩は恐ろしい返答をする。
「それじゃあ簡単に説明しますけど、遠野くんは吸血鬼についてどんな事を教わりました?」
「―――二種類いるっていう事と、死徒っていうヤツが人間の血を吸う吸血鬼だっていうことぐらいかな。でも、吸血鬼ってのがどんな化け物なのかはわかってるつもりだよ」
「そうでしょうね。遠野くんは実際に吸血鬼を倒しているんですから」
「はは、最後の最後で先輩に助けられたけど――――って、先輩!」
「ええ。遠野くんが『混沌』を消滅させる所は見せてもらいました。わたしが駆けつけた時には、もう『混沌』は息絶えていましたけど」
「―――――――」
驚いた。それじゃあ先輩は俺の目の事も――
「ひどい話ですよね。なんだって遠野くんにあんな真似をさせたんですか彼女はっ。
『混沌』を滅ぼせるぐらいの概念武装があるんだったら、自分で戦えっていうんです。
遠野くんをあんなに血だらけにしちゃうなんて、あの場で彼女をこらしめようと思ったぐらいあたまにきました。
遠野くんも遠野くんです。いくら吸血鬼を倒せる武器を貰ったからって、生身で戦うなんて何考えてるんですか。もしかして彼女に弱みでも握られているんですか?」
呆れた顔で、先輩はぶつぶつと文句を言う。
「……えっと、先輩? 吸血鬼を倒せる武器って、なに?」
「なにって、遠野くんが持ってたナイフの事ですけど……そっか、彼女が教えてくれるハズありませんよね。自分にとっても不利なことなんですから。
えっとですね、吸血種は傷を受けてもたいていは治癒してしまうんです。
ありきたりの外的要因……つまり凶器ですね。これでは吸血種の復元速度を上回る破壊力は得られません。
吸血種を滅ぼすには復元速度を上回る規模の外的要因か、復元速度そのものを無効にする外的要因が必要となります。
この、彼らの復元呪詛―――傷を治療する、ではなく破損した個所を元通りにしようとする時間の逆行。この呪詛を無効にする神秘の類を概念武装っていうんです」
「………………」
先輩は楽しげに、よく解らない事を言う。
「ようするに魔法の武器です。
わたしたちはあくまで吸血鬼が人だった頃の経歴から彼らを回呪しますからあまり使用しないんですけど、初めから人でない吸血種を処理する時に使用する、言うなれば奥の手です。
遠野くんのナイフって、彼女が持ち出した対吸血鬼用の武器なんでしょ?」
「あ―――え?」
「それとも遠野くんのお家の家宝か何かですか? ……あ、けど遠野の血筋に退魔の宝具があるのはおかしいですよね」
ぶつぶつと先輩の独り言は続く。
……先輩の思惑はよく解らないけど、どうも俺の目の事はまったく知らないみたいだ。
「―――あの、先輩。吸血鬼の話は、どこにいってしまったんでしょう」
「――――――――――――」
ぴたり、と先輩の独り言が止まった。
照れ隠しなのか、控えめな笑顔をうかべる。
……この人の性格は、やっぱり難しい。
「それでは本題に戻ります。まじめに聞いてくださいね、遠野くん」
「はい、手短にお願いします」
「遠野くんは吸血鬼が真祖と死徒に分けられるという事は知っているんですね。
なら話は簡単です。
彼女が追っている『敵』は死徒と区分される吸血種です。俗称は『蛇』。死徒たちの中でも異端扱いされている、特別な吸血鬼。
……この吸血鬼は、遠野くんが倒した『混沌』ほど強力な個体ではありません。
けれど、ある意味『混沌』より滅ぼすのが困難な相手なんです。なにしろ死んでも生き返ってしまうんですから」
「……あの、先輩。吸血鬼って不老不死なんだから、殺しても生き返ってくるのは当たり前なんじゃないかな」
「遠野くんは『混沌』を消滅させたでしょう。
吸血鬼といえど、その肉体と魂が破壊されれば消滅します。吸血鬼だって殺されれば死んでしまう。けれど、『蛇』はそれを克服してしまった吸血鬼なんです。
遠野くんは輪廻転生という言葉をご存知ですか? 仏教用語ですから日本の方には馴染みはあると思うんですけど」
「……ああ、あるよ。死んでも次の人間として生まれ変わるっていうヤツだろ」
「はい、その通りです。
ようするにですね。
『蛇』と呼ばれる吸血鬼は、その輪廻転生を自分の物にしてしまっているんです。
殺しても生き返る、というのはそういう意味です」
「輪廻転生って―――ようするに、死んだらまた赤ん坊からやり直すっていう、こと……?」
「そうです。『蛇』は存命している間に、次の自分の肉体をあらかじめ決めておいて、その赤子が誕生した時点で『自分』の全情報を移植します。
『蛇』の情報はその赤子が成人、ないし自己としての知性を持つまで影を潜めています。
『自分』を引き継ぐに相応しい知性をもった段階で、その赤子は『蛇』という吸血鬼になってしまうんです」
「―――ちょっと待って先輩。それってなに、まさか赤ん坊が母親の中にいる時に手術とかをするっていうことなのか……?」
「いいえ、医学的な手段ではないんです。
だって『蛇』は今の自分の肉体が滅ぼされた瞬間に、あらかじめ『次はこの母体にしよう』と決めておいたモノに転生するんですから。
さきほどは『全情報』といいましたけど、解りやすく言えば『魂』ですね。
魂が大気を伝搬して他者に乗り移る、なんていうのは実感が湧かないでしょうけど、ようするに電波と同じなんです。
この場合、電波を発信するのも受信するのも人間の脳。
カレの優れたところは、魂なんていう計測不能にして、肉体という器から離れたら霧散してしまうモノを、伝達可能なモノとして加工したことでしょう」
「……………」
先輩の話は、なにか実感が沸かない。
いや、話としては理解できてる。
ようするにその蛇っていうヤツは、死んだらまたどこかの赤ん坊として生まれてきて、成人したら蛇っていう吸血鬼になるんだろうけど……。
「……先輩の話を鵜呑みにするとさ、そいつって本当に死なないじゃないか。そりゃあ不死身ってワケじゃないけど、それ以上に質が悪いよ。
殺しても違う人間として生まれてくるなんて、それじゃ永遠に生き続けてるようなものじゃないか」
「ええ、その通りです。
『蛇』が死徒として吸血種に成ったのは、今から八百年ほど前です。
それから現代まで、『蛇』が転生した回数は十七回。そのことごとくを、アルクェイド・ブリュンスタッドは殺害しています」
「アルクェイドが……?」
「はい。彼女にとって『蛇』は特別な吸血鬼なんです。……わたしにとっても『蛇』は特別な吸血鬼なんですけど」
「……でもさ、そいつは結局死んでもまた生まれてくるんだろ? なら―――何回殺したところで意味なんかないじゃないか」
「――――そうですね。
『蛇』は彼女に殺され、そのたびに転生し、また彼女に殺される。
そんな繰り返しをもうずっとしてきたんです。
……もしアルクェイドに『肉体』ではなく、その『意味』を消滅させられるような力があればこんなコトにはなっていないんでしょうけど」
先輩はかすかにうつむいて、ぎり、と歯を噛んだようだった。
……理由はわからないけど。
アルクェイドと同じように、先輩もその『蛇』とやらになんらかの恨みをもっているみたいだ。
「……殺してもまた生まれてくる吸血鬼……」
それがアルクェイドと先輩の『敵』っていうことか。
「……先輩。その蛇っていうのはどんなヤツなんだ?」
「いちおう男性ですが、転生先の肉体によって性別は変化します。
この死徒の厄介なところは、その発見が極めて困難という共通点があるんです。
なにしろちゃんとした赤子として生まれて、両親がいるんです。
『蛇』が吸血鬼として肉体と意識を変貌させるのは、『蛇』が満足に活動できる歳になります。
ですからそれまでは吸血鬼としての片鱗をまったく見せません。そのくせ一度『蛇』として目覚めたら、今まで培った人間関係を利用して完全に社会に融け込むんです。
教会が『蛇』に気がついた時には、たいていが一つの街がそのまま死都になった後だったと聞いています」
……そっか。
例えば俺がその蛇っていうヤツに転生させられていたとするんなら、蛇になっても遠野志貴のふりをして生活する。
よほどのヘマさえしなければ、周囲に気づかれることなく人間の血を吸い続けられるだろう。
――――それは。
「……恐いね。あ、もちろん周囲の人たちも危ないけどさ。
そいつに転生させられた人間は、成人したら消えてなくなるってコトなんだろ?
自分がそんな怪物だって気づかないまま、ある日突然『蛇』ってヤツにとってかわられるっていうんなら、それは恐いよ」
「……はい。けど、一つの肉体に二つの人格が共存しているっていうワケじゃなくて、人間としての赤子も、やっぱり『蛇』なんです。
ただ生まれた環境によって、それがいい人格だったり悪い人格だったりするだけ。
……それも大本である『蛇』が覚醒した時点でなくなってしまいます。
ようするにですね、『蛇』は次の肉体に生まれ変わって、その肉体が知性を持つに至った時点で前世の自分の人格を取り戻し、吸血鬼としての自分に成ってしまうんです」
「……おかしいよ、それ。
いくら転生したっていっても、その赤ん坊はちゃんとした人間じゃないか。なら、いくら前世の人格とやらが目覚めても、体は吸血鬼にはならないでしょう?」
「転生するのは人格ではなく魂なんです。
ですから人格は毎回、『蛇』がどんな家庭で、どんなふうに育ったかで変化します。けれど大本の魂に変化はありません。
一度真祖に血を吸われた人間は、その肉体のみならず魂まで汚染されます。肉体を変貌させるのは魂なんです。
『蛇』は魂という情報すべてを引き継がせるわけですから、とりあえず『蛇』が目覚めた時点で肉体も吸血鬼のそれになるんですけど――――」
「ですけど、なに」
「遠野くんの言うとおり、それでは弱いんです。
ですから『蛇』次の転生先を生きているうちに決定します。
転生先に選ばれる家柄は二つの条件があって、一つは富豪であること。
社会的地位も高く、財産も豊かな家の子供として生まれれば、そのあとに街すべてを吸血鬼化させるのに便利ですから。
それともう一つ、これが大事なんですけど、わたしたちのような普通の人間の中にも、特別な力を持つ人たちがいるんです。
魔術と呼ばれる、学べば修得できるという神秘ではなく、生まれついてその肉体が持ってしまう特異能力。
―――一般に超能力者とか鬼子と差別される人たちです。
特異能力というのは肉体的なものですから、もちろん家系―――血筋で遺伝します。
『蛇』は自分の新しい肉体にそういった『人間ではないもの』の家系を選ぶんです。
富と名声があり、その裏で人間外の力をもつ家系。
それが『蛇』が転生先に選ぶ条件なんです」
「…………ずいぶんと用意周到なヤツなんだな、その蛇っていう吸血鬼は」
「ええ。なにしろ蛇ですから。執念深くて細かいんです」
「………………」
なにか。
この話は、聞いていて、おもしろくない。
「遠野くん? 今の冗談だったんですけど、聞いてました?」
「え―――? あ、うん、先輩の冗談はつまらないな」
先輩は黙ってしまう。
けど―――本当に、今はあんまり笑える気分じゃなくなってる。
なんだってこう、俺はいきなり気持ちが沈んでしまったんだろう………?
「……けど、ようやく解ったよ。そいつが俺たちの敵なんだな、先輩」
「―――違います。アルクェイド・ブリュンスタッドと、わたしの敵です。遠野くんは『蛇』に関わる必要なんかありません。
ですからこれ以上、アルクェイドとは行動しないでください。
『蛇』はわたしか彼女、どちらかが必ず仕留めます。遠野くんが危険な目にあう必要なんてない」
「危険って―――もう、この街に住んでるだけで十分危険じゃないか! 先輩だってアルクェイドだって、この街を守るために戦ってるんだろ?
なら俺だって、見て見ぬふりなんかできない」
「―――いいえ。彼女はこの街のことは考えていません。彼女が『蛇』を追うのは個人的な問題なんです。
遠野くん。死徒というものはもとは人間なんです。
彼らが吸血種になる方法は二つあります。
真祖と呼ばれる、初めから吸血種として生まれてきた人間ではないモノに血を吸われるか、魔術を究めて自らの肉体を永久機関に変革するか。
『蛇』は、真祖に血を吸われて死徒となりました。わかりますね。『蛇』は真祖という、ヒトでさえなかった超越種の犠牲者なんです」
じっ、と先輩が見つめてくる。
その感情のない瞳が、次に何を言おうとしているのかを告げてくる。
「……まさか。その、真祖っていうのは」
「アルクェイド・ブリュンスタッド。八百年前にただ一度だけ過ちをおかした真祖の王族。
彼女が『蛇』を作り出した張本人なんですよ」
「え―――――」
「……もともと真祖というものは、わたしたちとは大きくかけ離れた存在です。
死徒はたしかに吸血種として絶大な能力を持っていますが、それらは所詮『人間の延長』でしありません。
死徒というのは長い寿命を得たからこそ、自己の能力を向上させていって、結果としてあのような『超』能力を持つに至ります。
言いかえれば、長い寿命さえあれば誰だって吸血鬼程度の能力は修得できるんです」
……ああ、そういえば何かで読んだっけ。
不老不死不老不死っていうけど、吸血鬼なんていうのはそう大したものじゃないんだって。
「ですが、真祖は違います。彼らは生まれた時からすでに人知の及ばない力を保有してくる。
もともと真祖というものは、わたしたち人間よりではなくこの世界よりの存在なんです。
わたしたち人間は、自然から独立することによってここまで繁栄してきました。
自然の恩恵を受けながらも自然から略奪し、自然が滅びようとわたしたちは滅びない。
わたしたちが地球上でもっとも優れた存在になれたのは、おそらくこの一点のみが、人間だけが持ってしまった罪だからです。
わたしたちは自然とはもう融け合えない。そのかわりに自然、つまりこの星さえ破壊しえる業を手に入れました。
けれど、自然にしてみればそれは悪です。世界だって一つの生命なんですから、自身をわたしたちから守ろうという意思が働きます。
けれど世界には触覚がない。
だから―――わたしたちをいさめる分身を、わたしたちと同じように自然と乖離したカタチとして生み出します」
……先輩はおかしい。
自然に意思なんかあるわけない。
そう、あるわけがない―――だが、それは単に感じ取れないだけではないのか。
自然に、世界に意思はある。だからこそ今も存在していて、美しく保とうとする。
問題は、それが感じとれないというコトではなく。
自然が美しいと思う基準と、人間が美しいと思う基準が同じだということだ。
「自然、世界が自らの触覚として独立させた存在。それが一般に神霊、精霊と呼ばれるモノたちです。 動物霊が現世に残り続けて『霊体』として残ったモノとはそもそも存在の次元が違う超越種たち。
真祖というのはその一種族なんです。
もとから人間をいさめる役割として生まれた彼らは、人間を悪としか思っていない。
わたしたちが人間を捕食する吸血鬼を『悪』と思うように、彼らにとって自然を食い物にする人間は『悪』なんです」
だが滑稽だ。
ならば何故、連中は悪たる人間を食い物にしなければ存在できない。
「―――真祖にとって人間は敵にすぎません。
もともと自然の一部、いえこの世界そのものとリンクしている彼らの能力は、それこそ際限というものがないんです。
……教会の長い歴史の中でも、真祖と戦った記録は数えるほどしかありません。
彼らは世界そのものから力を引き上げる。
だから、彼らを倒すということは世界を倒すほどの概念武装が必要になります。
……もちろん、そんな武装はありません。
ですから彼らには、外的要因による『死』を与えることができない」
あの夜。
ホテルの一室で彼女は言った。
遠野志貴が彼女を殺そうとしたときが夜であったのなら、たとえこの目でも彼女から死を視るコトはできなかった、と。
つまり。
それは、死なないというコトだ。
「いいですか、遠野くん。
アルクェイド・ブリュンスタッドが『蛇』を追っているのは、『蛇』に与えてしまった自分の力を取り戻すためなんです。
それは決して人間のためなんかじゃない。
どうして今の彼女があんなに弱っているかは知りませんけど、もし力が戻れば―――遠野くんに手を貸してもらう必要なんてなくなる。
その時、彼女が遠野くんを無事に帰すと思いますか?」
「……………帰すに決まってる、だろ。
だって―――あいつが俺をどうにかするなんて、そんな理由ないんだから」
「彼女は吸血鬼です。それも死徒たちのように、自分が生き延びるために他人の血を必要とする吸血種じゃない。
いいですか遠野くん。真祖たちが人間から血を吸わなければ、そもそも吸血鬼なんていう存在は生まれなかった。
彼らは―――人間の血なんか吸わなくても生きていけるくせに、ただ吸いたいっていう衝動だけで人間の血を吸って、人間を人間外のものにしてしまうんです。
そんなモノの傍に、一般人である貴方を歩かせるわけにはいきません」
―――先輩の話は、それで終わった。
俺は―――なんだかさっきからクラクラと眩暈がする頭のせいか、先輩の言っていた事を他人事のように感じてしまっている。
「遠野くん。これで彼女がどれほど危険な存在なのか、わかってもらえましたか」
「うん、まあ、額面通りには、なんとか」
「それじゃあ彼女にはもう協力しないでくださいね」
「それは―――」
それは、できない。
先輩の言っている事は納得できない。
だって。先輩はアルクェイドを知らない。
あいつがいいヤツなんだって、知らないクセに。
「―――遠野くん」
むーっ、と先輩はうなる。
けど、そんな顔されたって自分に嘘はつけない。
「……悪い、先輩。俺にも事情があってさ、あいつに協力してやりたいんだ。
たしかに逆らえば何してくるかわからないって事もある。けどあいつを放っておけないのも本当だから」
「……ばかいわないでください。遠野くんは普通の男の子じゃないですか。だから―――こんな危険なマネ、しちゃいけないです」
「……うん、そう言ってくれるのはありがたい。
けど、守れるのなら守りたかったコトだってあるんだ。この街の事とか、先輩と穏やかに過ごせる学校とかをさ。
……まあ、実際は先輩に守られたわけだけど」
「……でも、やっぱり危険すぎます。『混沌』の時だって、遠野くんは死にそうだったじゃないですか……!」
「ああ、それは大丈夫なんじゃない? だってさ、アルクェイドがそれだけぶっとんだヤツなら、蛇なんていう吸血鬼なんて簡単に始末できるだろ」
「ですから、その彼女自身が危険なんです! いいかげん目を覚ましてください!
彼女は人間じゃないんです。いつ気紛れで人間の血を吸うかわからない、死徒以上の怪物なんですよ……!」
「な―――――」
……わかってる。
先輩が本気で俺の事を心配してくれてるのは解ってる。
けど――――その言葉は、許せない。
「―――やめてくれ先輩。あいつは怪物なんかじゃないよ。ちゃんとあいつと話してもいないくせに、そんなこと言わないでくれ」
「……それは、たしかにそうですけど。
だけど彼女は吸血鬼なんです。それだけはちゃんと理解してください……!」
「だから、それは違うんだって……!
いいか先輩、アルクェイドは血を吸わないんだ。
あいつは自分でそう言ったし、それに嘘があったとは、俺には思えない。
真祖っていうのがどんなヤツらかは知らないけど、アルクェイドは別だ。
あいつだけは、きっと―――」
「きっと、なんだっていうんです?
いいですか、たとえ彼女が危険でないとしても、遠野くんが戦うコト自体が危険じゃないですか。
遠野くんは彼女のように、傷ついてもかってに治ってくれる体なんかもってない。傷つけば死んでしまうんです、貴方は……!
わたしが許せないのは、それを知っているくせに彼女が遠野くんを戦わせている事なんです。
それじゃまるで、遠野くんを道具としてしか見ていないってコトじゃないですか!」
怒鳴るように先輩はそう言った。
……わかってる。
先輩が正しいっていうのはちゃんと理解できてる。
けど、だからこそ―――その声が、うとましかった。
「……うる、さい」
「志貴……くん?」
「―――先輩はうるさい! アルクェイドは俺を道具扱いなんかしていない……!
知らないのに―――アルクェイドの事を知らないくせに、あいつを怪物扱いしかできないくせに、先輩にそんな事をいう資格はない……!」
「ですから、冷静になってください。
確かにわたしは彼女の事をよく知らない。けど彼女が遠野くんを騙している可能性だって―――」
「うるさい、俺を騙してたのは先輩のほうだろう!」
「………………あ」
しまっ―――た。
なんで、俺は。
そんな―――酷いことを、ムキになって言い返したんだろう。
「………先輩、いまのは………」
言いすぎた、とは、言えなかった。
先輩の顔があんまりにも壊れそうで。
何か口にしただけで、今にも崩れてしまいそうだったから。
「そうですねー、言われてみればその通りです」
「先………輩?」
「ええ、そうでした。わたし、遠野くんを騙してますから。信用なんてされませんよね」
さっきまでの顔はどこにいったのか、先輩は本当に笑顔をうかべている。
作り笑いには見えない。
作り笑いのはずなのに。
俺には、本当の笑顔としか、見破れない。
「お時間をとっちゃってごめんなさいでした。
えっと、それじゃあ―――わたし、消えますね」
「――――え?」
ざあ、と風が吹いた。
たったそれだけの間に。
シエル先輩は、俺の前から姿を消してしまっていた。
◇◇◇
昼休みになった。
教室はあわだたしくなって、それ以上にあわだたしい友人がやってきた。
「遠野、今日はどこで昼メシにする?」
「………どこでも。学食でも教室でもかまわない」
「んじゃま、パン食にすっか。教室にいれば先輩もやってくるだろうし。購買に行ってくるけど、リクエストあるか?」
「……カレーパン以外ならなんでも。ああ、あと牛乳」
「あいよ、りょーかい」
有彦は軽い足取りで教室から出ていった。
「あいよ、カレーパン二つと牛乳、お待たせー、しました」
「………………」
カレーパン以外、という説明は、こいつにとっては逆効果だったみたいだ。
ごくろうさん、と買い出しのねぎらいをして、お代を渡す。
あとは、もくもくとカレーパンを食べた。
「なあ遠野。先輩、来た?」
いや、と首をふる。
「ちぇっ。今日は学食のほうだったか」
「有彦。先輩ならもうこないよ」
「えぇー!? なんで、おまえ先輩にケンカでも売ったのか!?」
「そういうわけじゃないけど、愛想つかれされた。悪いな有彦。もし先輩に会えたら、ごめんって言っておいてくれ」
……口にして、はっきりと実感した。
俺はすごく先輩を傷つけた。
先輩はもう俺の前には出てきてくれない。
「なんだよ遠野。もしかしてオレに抜け駆けして告白して、ごめんなさいっていうオチか?」
「―――それだったらまだ良かった」
そう、ゴメンナサイとかサヨナラとかのほうが、まだ希望がある。
たしかに、俺だってアレは失言だったと思うけど。
「……けどさあ。消えますね、はないよな、有彦」
言って、そのまま机につっぷした。
◇◇◇
放課後。
水曜日という事もあって、ホームルームが終わるやいなや、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように教室から出ていった。
せっかくの水曜日だっていうのに、何もやる気が起きない。
茶道部に行っても、シエル先輩の姿はありはしないだろう。
「―――――」
それこそ死者のような生気のなさで、一人屋敷への帰路についた。
◇◇◇
「お帰りなさいませ、志貴さま」
屋敷に帰ってくるなり、翡翠が出迎えてくれる。
わざわざ待っていてくれたっていうのに、そんな翡翠に空返事しかできず、自分の部屋に引きこもった。
夕食が済ませて、部屋に戻る。
アルクェイドとの約束の時間まで、あと少し。
―――ばかいわないでください。
遠野くんは普通の男の子じゃないですか。
だからこんな危険なマネ、しちゃいけないです。
「……………」
先輩は、ただ俺の心配をしてくれていだけなのに。
俺は結局、先輩よりアルクェイドのほうを大事にしたっていうコトなんだろうか。
「……なんで自分の気持ちが自分でわからないんだろうな、志貴」
窓ガラスに映った自分に、そんなグチをこぼしてみた。
「っ―――く」
軽い頭痛。
ここのところ頭痛が多くなってきてる。
貧血による影響は、今までは眩暈だった。それが頭痛に変わってしまったのはメガネを外して『死』を視はじめたせいだろうか。
「……時間か」
アルクェイドとの約束の時間だ。
どのみち、先輩がなんて言おうと約束したからには守らないといけない。
ナイフをポケットにいれて、自分の部屋を後にした。
外に出た。
もともと屋敷の周りは人通りが少ないのに、通り魔殺人のせいであたりは余計に静まり返っている。まだ夜の十時前だっていうのに、もう午前一時になったような寂しさだ。
「――――はあ」
十月も下旬にさしかかって、風もわずかに冷たさを含みはじめている。
じき秋も終わるだろう、なんて感傷を抱きながら誰もいない道を歩き出した。
屋敷の周囲を歩く。
ここを越えて坂道を下れば、アルクェイドとの待ち合わせ場所である公園にたどり着く。
―――と。
その途中、屋敷の塀に黒い人影がよりかかっているのが見えた。
道を行く俺の邪魔をする、というわけじゃなくて、まるで見送るように壁によりかかっている、黒い法衣を着た女の人。
「こんな夜更けに何処に行くんですか」
拗ねているような声で、先輩は俺の顔に見ずにそんな事を言ってきた。
「先、輩――――」
ぴたりと足が止まる。
先輩同様、俺も先輩の顔はまっすぐに見れない。
朝の先輩との一件が気まずくて、先輩にあわせる顔がない。
「あれだけ言ったのに彼女のところに行くっていうんですね、遠野くんは」
「……仕方ないだろ。アルクェイドを一人にしておけないし、やっぱり街に巣くっている吸血鬼のことは無視できないんだから」
「―――そうですね。遠野くんの言い分はもっともです」
先輩は口を閉ざす。
壁によりかかっている先輩の横を、通りすぎた。
「ごめんな、先輩。……その、いろいろ」
「気にしないでください。遠野くんは間違ったことはしてないんですから」
……背中に先輩の声がかかる。
アルクェイドのところに行こうとするのを止めよう、という意思は感じられない。
これで本当に、俺は先輩に呆れられたみたいだ。
「それじゃあ。俺、行くから」
「はい、どうぞ遠野くんのお好きなようにしてください」
声だけが聞こえてくる。
それでも振り向けずに、俺は屋敷から離れていった。
トコトコトコトコ。
夜の住宅街に、固い足音が響いていく。
トコトコトコトコ。
夜の住宅街に、固い足音が響いていく。
それは重い男の足音じゃなくて、もっと軽やかな体の足音だ。
くわえていうんなら、俺のスニーカーじゃこんな音は出ない。
底の固い、例えるなら編み上げブーツじゃないとこんな軽快な音はたてられない。
……というか、例える必要なんかない。
さっきからトコトコとついてくる足音は、紛れもなく編み上げブーツによるものなんだから。
ぴたり、と足を止める。
トコ、と足音も止まる。
「…………」
ダメだ。
これ以上無視して歩いていくと、じき公園に着いてしまう。
ここは一つ、はっきり言ってやらなければなるまい。
くるり、と背後に振りかえる。
「―――なあ、先輩」
「はい?」
「……その、先輩の家ってこっちのほうだったけ」
「いえ、まったく逆方向ですね。遠野くん、一度来たことあるでしょう。忘れちゃったんですか?」
「いや、覚えてるよ。でもさ、ちょっと記憶に自信がなくなったんだ」
「いえ、自信をもっていいです。わたしの家、あっちのほうですから」
そっか、そうだよね、ととりあえず笑ってみた。先輩はそうですよー、と笑い返してくる。
「それじゃ俺はこっちだから」
「はい。どうぞ、遠野くんのお好きなように」
にっこりとした笑顔で、先輩は俺を送り出そうとしている。
……けど、なんか……すごく、イヤな予感がしてきた。
「――――――」
すう、と息を吸いこむ。
「どうしました、行かないんですか?」
先輩が問いかけてくる。
その一瞬の隙をついて、俺は夜道を走り出した。
「はあ、はあ、はあ―――」
ここまで。
ここまで全力で走ってくれば、これ以上付いてくるなんて事は――
「遠野くん、あんまり慌てちゃ危ないですよ」
ぽん、と背後から肩を叩かれた。
「うわあああ!」
思わず跳びすさる。
先輩はそれこそ当然のように俺の後に付いてきていた。
「な、なんでついてくるんだよ先輩!」
「なんでもなにも、遠野くんひとりじゃ不安じゃないですか」
またもきっぱりと言いきられた。
「あー、うー」
そう言いきられると、こっちとしても返答に困る。
返答に困るけど、ここは――
もう、はっきりと言い返して帰ってもらうしかないだろう。
「先輩、俺の心配なんてしなくていいから帰ってくれ。このままじゃタイヘンな事になるだろ」
「はあ。タイヘンって、どんなふうにタイヘンになるんですか?」
……先輩の俺の言い分なんてまるで聞いていない。右から左にスルーっと聞き流してしまっている。
「―――もう、なんで人の話を聞いてくれないんだ! 先輩、俺の好きにしていいってさっき言ってくれたじゃないか! なのになんでこっちの邪魔をしようっていうんだよ!」
「ですから、遠野くんは好きに行動してください。わたしも遠野くんを見習って、自分の好きに行動しているだけですから」
きっぱりと笑顔で言って、先輩はトコトコと先を歩き出してしまう。
「ちょっ―――先輩!」
「はあ。なんでしょうか、遠野くん」
「なんでしょうか、じゃないだろ……! もう、そんなに俺を困らせて楽しいっていうのか!」
ニッコリと笑う先輩。
……どうも、俺を困らせて本当に楽しいらしい。
「……わかった。先輩がいじわるな人だっていうのはわかったから、今日はもう勘弁してくれ。これ以上付いてこられると俺だけじゃなくて先輩まで危ない目にあうんだぞ」
「そうなんですか? わたしは別に遠野くんについてきているわけじゃありませんけど」
「え―――?」
「わたし、公園に用があるだけです。遠野くんがこれから何処に行くのかは知りませんけど、行き先が公園でないのならここでお別れですよ」
「―――――――」
そうきたか。
確かにそれは、俺がとやかく言える筋合いじゃない。
筋合いじゃないけど―――
「ああもうっ、それでもダメ! 公園にはアルクェイドがいるんだ!
あいつが先輩のこと毛嫌いしてるのは知ってるだろ? なら、このまま先輩とあいつを会わせるワケにはいかないじゃないか!」
「あら。わたしのこと心配してくれるんですか?」
「そんなのあたりまえだろ、俺は先輩とアルクェイドが争うところなんか見たくない。もう、頼むからおとなしくこのまま帰ってくれ!」
「――はあ。そうですか、わたしの心配じゃなくて彼女の心配をしているんですねー、遠野くんは」
あさっての夜空を見つめながら、先輩はこっちの言い分を完全に無視した。
……なんか、これは。
先輩はわざと、意図的に、俺を困らせて楽しんでいるような、気がする。
「……先輩。もしかして、朝のことすごく根に持ってない……?」
先輩はにっこりと笑うだけで、何も言わない。
……怒ってる。
あれは、間違いなく根に持っている顔だ。
「……わかった、朝の事はこっちが一方的に悪かったよ。アレは失言だったって謝る。
だから―――」
「だから帰ってくれ、なんていったらはったおしますよ、遠野くん」
「………へ?」
「遠野くん。わたしたち、いま絶交中なんです。けんかしてるんです。わたしも拗ねてるみたいですから、生半可なコトじゃ素直になれません」
「あの……先輩?」
「遠野くんが帰ってくれるんなら仲直りできるんですけど、それは無理だってわかってます。
ですから、こんな話をしていても無意味です。
貴方がわたしに謝る必要もありません。わたし、朝の事は気にしていませんから」
感情のない目をして、先輩はまっすぐに俺を見つめる。
「わたしの役割は吸血鬼を退治すること。それ以外のことなんて、瑣末です」
先輩はカツカツと足音をたてて公園へ入っていく。
「ちょっ―――先輩!」
先輩は公園を横断していく。
向かう先は、やっぱり俺とアルクェイドの待ち合わせ場所みたいだ。
「ちょっと待てって、どうしてそんなにムキになってるんだよ、先輩!」
「―――わたし、ムキになんかなっていません。貴方のほうこそ、わたしと一緒にいると彼女に誤解されるんじゃないですか」
「誤解って―――何を誤解されるっていうんだよ」
「貴方は彼女が好きなんでしょう? なら、彼女の敵であるわたしと一緒にいるのは立場的にまずいと思いますけど」
「な……別に俺は、あいつの事が好きってわけじゃ……」
わけじゃない、とは断言できなかった。
自分自身、この感情の正体はわからないけど、たしかにアルクェイドに惹かれていると思うから。
「ほんと、自分自身にも嘘をつけないんですね貴方は。なんか正直者すぎてまいっちゃいます」
能面みたいだった先輩の顔が、はあ、と感情を顕にする。
「けど、本当にここで別れたほうがいいですよ。わたしたちは絶交中なんですし、こんなところをアルクェイドに見られたら―――」
「ふうん。見られたらどうなるのかしらね、シエル」
「――――!」
背後から聞こえてきた声に、二人して振り向く。そこには―――なんか、すごく不機嫌そうなアルクェイドの姿があった。
「驚いたわ。志貴の声が聞こえたから来てみれば、まさか貴方が一緒だなんてね。
昨日でお互いの情報は交換しあったでしょう。もうわたしに用はないと思うけど?」
「ええ、貴方に用などありません。わたしは彼があんまりにも危なっかしいので指導してあげているだけです」
「ふーん。人のパートナーを横取りするつもり?」
「……ええ、それもいいですね。貴方には一度、大きな痛手をもらったままですし」
先輩とアルクェイドは、まさに一触即発状態だ。
二人の間に立たされている者として、このまま見ているわけにはいかない。
……実際問題として、先輩、俺、アルクェイドという位置関係だ。
このまま二人が争いだしたら、俺はまず間違いなく巻き込まれる。
「二人とも、何睨み合ってるんだよ。お互い目的は同じなんだから、もうちょっと冷静に……」
「志貴は黙ってて!」
「遠野くんは黙っててください!」
「―――――――」
……失敗した。
俺が声をかけても逆効果にしかならないみたいだ。
「――いいわ。志貴は貴方のことが大事らしいから、見逃してあげる。
手は出さないから今すぐここから消えなさい」
「……驚きましたね。貴方にとって彼はそんなに重要な人間なんですか。
アルクェイド・ブリュンスタッドは吸血鬼殺し以外になんの関心ももたないと思っていましたが」
「――――――」
「貴方にしてみれば、人間なんて思い通りに操れるでしょう。
彼に協力させるならいっそ下僕にしてしまえばいいのに、どうしてそれをしないんです、アルクェイド」
「―――出来の悪い冗談はやめて。志貴はわたしのパートナーよ。
そんなコトをしなくても、わたしの手助けをしてくれるって言ったもの」
気まずそうにアルクェイドは視線をそらす。
そこには、さっきまで満ちていた殺気がまるでなくなってしまっている。
「―――アルクェイド。貴方、まさか。
ほんとうに―――彼の血を欲しがってしまってるんですね」
カチャリ、と。
先輩のほうから、硬い金属音が聞こえた。
「……そうですか。貴方が人間に興味を持つなんて意外でしたけど、まあわたしにとってはどうでもいい問題です。
ただ、貴方が人の血を欲しているのなら、やる事は一つだけです」
キン、と先輩の手の平が音をたてる。
そこには何本もの長い釘みたいな剣があった。
「……ちょっ、先輩……!?」
「遠野くんは下がっていてください。
たったいま、彼女を吸血鬼と確認しました。たとえ教会に協力している真祖といえど、血を吸うモノになったのならわたしたちの害敵です。
この場で、犠牲者を出す前に処理します」
「―――黙って聞いていれば言いたい放題いってくれるわねシエル。
いいわ、死にたいっていうんなら望み通り殺してあげる。同じ人間を二回殺すなんて滅多にないことだしね」
アルクェイドの目に殺気がともる。
先輩も剣を構えたまま、アルクェイドの視線を受け止めている。
キィン、と。
公園中の空気が凍りつくような、息苦しいまでの緊張感。
―――まずい。
このままだと二人は本当に殺しあう。
「……ちょっと待ってくれ二人とも。少しは冷静になれって言ってるだろ……!」
張り詰めた空気に気おされないよう、腹に力をこめて怒鳴る。
「――――」
「――――」
二人の呼吸が、一瞬だけ止まった。
その後に、ダン、と地面を蹴る音が二つ。
―――俺の怒声が最後の引き金になったのか。
白い影と黒い影は、寄せ合う磁極のように衝突した。
二人の戦いは、正直俺の理解の及ぶところではなかった。
アルクェイドの体の動きは、とてもじゃないけど目で追っていけない。
ただ、夜の闇に白い残像が流れていっているようにしか見えない。
驚くべきなのは、そんなアルクェイドを前にして一歩も引かない先輩の姿だった。
先輩は別段、アルクェイドのように常識外れのスピードとか動きをするわけじゃない。
ちゃんと地面に足をつけて、的確に矢のようなアルクェイドの猛攻をさばいている。
第三者的に見て、二人の戦闘能力は伯仲している。
けれど、先輩自身が口にしていたとおり、アルクェイドの能力というものに限界はないみたいだ。
いくら先輩がすごいって言っても、それは一定以上に伸びていくものじゃない。
なのにアルクェイドのヤツときたら、まるで際限というものがない。
初めは先輩に圧されていたくせに、すぐに先輩と互角になって、今では先輩の力を軽く上回ってしまっている―――
勝敗はすぐに決した。
先輩の体が軽く宙にういて、ダン、とゴミのように地面に転がる。
「くっ―――」
うめき声をあげて先輩は立ちあがる。
でも、それも無駄な抵抗。
先輩の体は見えない何かに弾かれたように、一層大きく宙に浮いて、地面に倒れこむ。
先輩は倒れこんだまま動かない。
じわりと。公園のレンガ道に広がっていく、赤い血液。
「先―――輩?」
返事はない。
先輩は倒れこんだまま、意識がない。
そこへ――――容赦なく、それこそ先輩の首でもかき切るような冷酷な目をして、アルクェイドが走りよっていく。
「――――――あ」
声が出ない。
アルクェイドは間違いなく先輩を『殺す』つもりだ。
そして、先輩にはそれを防ぐ力がない。
「――――――」
そんなコト、俺は。
許せるはずが、なかった。
「―――やめろ、この大馬鹿ヤロウ……!」
ただもう、夢中になって先輩の前に走りよった。目前まで迫っていたアルクェイドの動きがピタリと止まる。
「志貴!?」
あれだけ殺気を帯びていたアルクェイドが、一瞬にしてもとの顔つきに戻る。
彼女にとって、俺が先輩を庇うというのはそれだけ意外なことだったのか。
「なんで? どうして志貴がそいつを庇うの……!?」
「……言っただろ。先輩は俺にとって大事な人なんだ。いくらおまえでも―――これ以上先輩に手をあげたら許さないからな」
ぎゅっ、とポケットの中のナイフを握り締めてアルクェイドを睨みつける。
「……志貴、あなた―――」
アルクェイドの目が殺気を帯びていく。
「退いて。今ならまだ許してあげる。
早く。そんなヤツを庇うのはやめて、わたしにそのナイフを向けないで」
アルクェイドの赤い目が、蝋燭の火みたいにゆらいでいる。
彼女の殺気は先輩にではなく、今は俺に、向けられようとしている。
ごくり、と喉が動く。
いますぐ退かないととり返しのつかないコトになるって本能が警告を鳴らしている。
けど、それでも―――
「………ダメだ。おまえが先輩に手をあげないって言うまで、退かない」
「―――退きなさい、志貴!」
「おまえこそ引けアルクェイド……! おまえは俺に言ったじゃないか、人間は殺さないって。
それとも、あれは俺を安心させるための嘘だったっていうのか……!」
「――――ええ。わたしは人間は殺さない。
けど人間の規格を大きくはずれたヤツには敬意を表してる。だから対等の存在として殺すこともいとわないわ。
例えば貴方や、そこの女みたいな相手はね」
一歩。
アルクェイドが、踏み込んできた。
「そう―――貴方はまたわたしにナイフを向けるんだ、志貴」
さらに一歩。
アルクェイドは無造作に近寄ってくる。
「一度目は許した。けど二度目を許せる自信はないわ。……もっとも、貴方のナイフじゃわたしは傷つかないでしょうけどね。
いくら貴方の直死の眼でも、今のわたしから死を読み取ることはできないでしょう?」
真正面から。
金の瞳が、俺の眼球に飛び込んできた。
「――――ア」
心臓が止まったかと思うほどの、緊張。
背骨がまるごと引き剥がされるような悪寒。
ネロの時なんかとは比べ物にならない、自分以外のもの全てに睨まれているような、圧倒的な絶望感。
……何も、できない。
これが―――アルクェイドを敵に回すっていう、コトなの、か―――
「志貴、これが最後よ。まだ貴方の意識が残っているあいだにそこから離れて。
わたし、そんな女のために初めて気に入った相手を、失いたくなんかない」
――――ぞくん、と首筋に悪寒が集中する。
アルクェイドは、もうすぐさま俺を殺せる位置にいる。
その腕が動けば、俺のナイフなんかより早くこの首を斬断する。
それでも―――こんなのは、違う。
「……なんで。俺にはわからない、アルクェイド。どうして先輩にだけ、おまえはそんなに酷いヤツになっちまうんだ。
そりゃあたしかにおまえは一般道徳が欠けてたけど、そんな簡単に人を殺すとか、そんな事を口にするヤツじゃなかっただろう……!?」
「志貴――――」
アルクェイドの殺気が薄れた。
彼女はそのまま、ふらりと、俺と先輩から離れていく。
「そう。その女の肩を持つのなら、志貴なんか知らない」
「あ―――アルクェイド……?」
「せいぜい気をつけることね、志貴。
志貴が庇ったその女は、志貴が思っているようなまっとうな人間じゃないんだから」
「なにを―――なにを言ってるんだよ、おまえ」
「ふんだ、志貴なんかその女に騙されて血を吸われちゃえばいいんだ。
じゃあね! あとでわたしに泣きついてきても聞いてあげないんだから!」
アルクェイドは振りかえらずに公園から消えていく。
あとに残ったのは俺と、傷ついて倒れこんでいる先輩だけだ。
「――――あいつ、なにを――――」
ばかなコトを、言ってたんだ。
先輩が俺の血を吸うって……?
「―――なにつまんないウソを、言ってるんだ」
それじゃあまるで。
「―――先輩が、吸血鬼みたいじゃないか」
呟いて、思わず笑ってしまった。
だってそんなコト、万に一つもありえない。
先輩は昼間でもちゃんと歩いていた。
そりゃあアルクェイドも昼間に歩ける吸血鬼だけど、あいつでさえ昼間は弱くなる。
その点、先輩は昼間も夜も変わらない。
第一、先輩は教会っていうところの人間じゃないか。
吸血鬼退治の組織に、吸血鬼がいるなんて矛盾している。
「―――って、そんな事より先輩!」
振り返って先輩の容体を確かめる。
さっきまで地面を血に染めていたぐらいだから、今すぐ病院につれていかない、と………
「………………え」
血が―――消えてる。
あんなに、先輩の黒い法衣が真っ赤に染まるぐらい流れていた血だまりが、キレイさっぱりなくなっている。
「――――」
先輩は何事もなかったように立ちあがっている。ここにあるのは、ただ無傷なままの先輩の姿だけだった。
「先輩――これ、どうし、て」
「……遠野くん。どうしてわたしを庇ったんですか。彼女が本気で遠野くんを殺そうとしてたって、わかっていた筈なのに」
先輩の目には感情というものがない。
俺の質問なんて。俺の姿さえ見えていない、人形のような虚ろな目。
「どうしてって、先輩が殺されかけたんだ。誰だって庇うだろ、あの場合は」
「自分が殺されるっていうのに? 遠野くん、献身とは自分の命を投げ出す事ではありません。
自分の命を蔑ろにして他者の命を救おうというのは、献身でも犠牲でもなく、ただの自己愛です。
貴方は―――どうして、そう――――」
先輩の声は厳しい。
厳しく俺に忠告している。
「貴方は、ただ自分が後悔したくないためにあんなマネをして、それで満足しているんですね。
……はっきり言って、すごく、迷惑です。
正しく生きようとするのは立派ですが、貴方の身勝手な正しさに、わたしを巻き込まないでください」
「なっ―――なんだよそれ。俺はただ先輩に死んでなんかほしくなかっただけだ……!
それが、それが迷惑だっていうのか!? 先輩はあのままアルクェイドに殺されていても良かったっていうのかよ―――!」
「はい。わたしの命なんですから、貴方にどうこう言われるモノではないはずです。
……吸血鬼にお情けで見逃されて生き延びるなんて、無様すぎます」
「―――――!」
頭にきた。
庇ったあげくに拒絶された事もある。
けど、なにより―――
「ふざけんなっ……! 自分の命を――自分の命をなんだと思ってるんだ、先輩は!
いいか、死んだらそれまでなんだぞ!?
どんなに酷くて、どんなにみっともない事をしてでも生きていなくちゃ嘘だ!
生きていなくちゃ……生きていなくちゃ何もないんだ。
無様でもいいじゃないか。それを感じられなくなるより、ずっとずっと何倍もいい………!」
「―――そうでしたね。貴方は八年前に一度死にかけた人でした。だから―――そんな単純な考えで満足できるんです」
先輩は虚ろな瞳のまま。
俺も、自分さえも見えていないような目で、そう言った。
「幸せなひと。そんな言葉は、わたしには言えません」
言って、先輩は俺を見たまま、後ろに下がった。
「……遠野くん。さっき彼女が言っていた事は、本当です」
「なっ……なにを、先輩まで、そんな……」
「アルクェイドの言うとおり、わたしは人間とは呼べません。
遠野くんも見たでしょう? さっきまであんなにこぼれていた血が、まるで無かったことのように消え去ってしまっているのを」
「それは――――」
「いいんです。わたし、化け物なんです。
わたしは吸血種ではないんですけど、普通の、人間らしい体をしているわけでもないですから」
先輩はうつむいたままで、そんな言葉を口にする。
「……なに……言ってるんだよ先輩。人間らしい体って、先輩はじゅうぶん普通じゃないか……!」
「これでも、ですか?」
先輩はゆっくりと、自らの剣を自分の首筋にあてる。
「せ、先輩……!」
止めるのも間に合わない。
ざくっ、と音をたてて剣が首筋に入っていく。
びしゃあ、と。
眼球に染みこんでくるような、鮮やかな朱色が散った。
どく
どくどく
どくどくどくどくどく
美しい。
視界も意識も奪うような鮮血が、だらだらと黒い法衣を染めていく。
あの法衣のした。
先輩の白い裸体に流れていく紅は、さぞ麗しい傾斜した美を顕にしているだろう―――
チッ、と指に血が飛び散ってきた。
なにか、一瞬心を奪われていたけれど、それで現実が戻ってきた。
目の前には。血に濡れていく先輩の姿がある。
「先輩……!」
慌てて先輩に駆け寄る。
「あわてる必要はないです。ほら、見てください」
先輩は俺を止めて、自らの首元を指差す。
……傷は、とうに塞がっていた。
そればかりかあれほど流れていた血がまったく無くなっている。
まるで、ビデオの映像を巻き戻しにするように、何もかもモトに戻っていく。
[#挿絵(img/シエル 18.jpg)入る]
―――それは。
蘇生や治癒というより、本当に『巻き戻る』という表現がピッタリくるような、異状な時間だった。
「……………」
言葉がない。
こんなものを見せられて―――まだ先輩はまともだよ、なんて言えるほど、俺はぶっ飛んだ精神をしてくれてはいなかった。
「……はい、このとおりです。出来ることなら、遠野くんには知られたくなかったですけど」
先輩はどこか寂しそうに、笑った。
俺は
何を言っていいかわからない。
「……遠野くんの言ってたとおりなんです。
わたしは貴方のことを騙してましたから。あんなふうに怒られても、それは仕方のないことなんです」
「………………あ」
でも、先輩を責められない。
こんなコト―――俺だって、出来ればずっと隠し通してほしかった。
このまま……先輩のままで、いてほしかった。
「けど、今日の朝のことは後悔してません。
遠野くんがわたしとの思い出が楽しかったって。できるんなら守りたかったって言ってくれて、嬉しかった」
「―――先、輩」
だって、それは。
本当に、ずっと続けばいいと思うぐらい、穏やかな時間だったから。
「さよなら」
最後にいつもの笑顔をうかべて、先輩は俺の前からかき消えた。
「――――――」
頭が、ぐちゃぐちゃに、回っている。
先輩の後を追えない。
アルクェイドは先輩のことを吸血鬼だと言って。
先輩はそれを否定もせず、いっそう確かな証拠を残して、さよならと消えていった。
嘘でも。
たとえすぐに見破れるような嘘でも良かったから、そんなコトはないって言ってくれれば、それだけで良かったのに。
あの、悲しそうな顔が、離れない。
あんなに人のいい先輩が。
ただの、学校の先輩のはずのひとが。
こんなに遠いひとだったなんて、知りたくなかった。
―――さよなら。
最後の台詞。
その意味を考えるまでもない。
先輩の正体を知ったり、先輩を傷つけたりしたけど、それでも先輩は会いに来てくれた。
けど、それも終わり。
こんなに―――もう、出会えないってはっきり実感できるなんて、したくなかった。
「――――うそ、だ」
頭が正常に働いてくれない。
ただ、ショックで。
なにがショックだったのかわからないぐらい、ショックで。
おぼつかない記憶と崩れそうな足取りで、公園を後にしていた。
―――ズキン。
―――ずきん。
―――ズキン。
―――ずきん。
……ひどく、疲れた。
頭痛がひどい。
先輩のこともアルクェイドのことも考えずに、何も考えずに、今は、ただ眠りたかった。
[#改ページ]
●『8/死。』
● 8days/October 28(Thur.)
夏の、暑い日。
青い空と 大きな大きな入道雲。
じりじりとゆらぐ風景と
気が遠くなるような蝉の声。
蝉の声。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん
――――うるさくて死にたくなる。
広場には蝉のぬけがら。
たいようはすぐそばにあるようで、
広場はじりじりと焦げていく。
真夏のあつい日。
まるで、セカイがふらいぱんになったみたい。
えーん えんえん
えーん えんえん
えーん えんえん
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
秋葉が泣いている。
秋葉の足元には子供がひとり倒れている。
白いシャツが真っ赤に染まって、ぴくりとも動かない。
それを見下ろしている。
自分の両手は倒れている子供と同じように赤い。
いや、違う。
この両手は。
倒れている子供の血で、赤いのだ。
[#挿絵(img/アルクェイド 22.jpg)入る]
日の当たらぬ草原。
月光だけを頼りにして咲き誇る、白い白い大輪の花。
透き通るような月の下。
ただ一人存在していた、白い女。
言葉さえ知らず。
自己の意義も解せず。
ただ、殺戮の手段としてしか扱われぬ。
鮮血にまみれた白い女は、決して傷などついていない。
ドレスを濡らす朱は、ただ敵の血のみで赤いのだ。
彼女に許された時間は、血に濡れて帰還したあとの、このわずかな数刻のみだ。
その後に待つものは、自身では目覚める事さえできない眠りのみ。
……白い彼女はその運命さえ知らず、ただ、遠い目で月を見上げている。
―――そこに、永遠を見た、と思った。
錯覚か。
おそらくは錯覚だろう。
だがかまわない。
その姿が永遠に、この網膜に焼きついた事だけが真実故に―――
懐かしいユメを見ていたような気がして、眠りから目覚めた。
「あ――――」
今まで呼吸をしていなかったように、大きく喉が酸素をとりこむ。
それで、はっきりと目が覚めた。
「……………」
自分の部屋にいる。
あの後―――公園で先輩に別れを告げられたあと、自分はどうにかしてこの部屋に戻ってきたのか。
「―――シエル、先輩―――」
あの顔が忘れられない。
どうして、あの時何も言えなかったんだろう
俺はアルクェイドが吸血鬼だってわかっていながら惹かれていたんだ。
それなら、たとえ先輩が吸血鬼だったとしても、あんなふうに驚くことはなかったハズだ。
……笑って。
冗談みたいに笑って受け流していれば、先輩だっていつも通りに笑ってくれたかも、しれないのに。
「……違う。俺は、やっぱり―――」
先輩には、本当に先輩でいてほしかった。
退屈で、けど平和で、楽しかった学校での先輩との時間が、すごく大切だったんだ。
「――――く」
けど、それも終わりだ。
彼女はもう二度と、先輩として学校に来る事なんてなくなったんだから。
「……どうすればいいんだろうな、俺」
解らない。
街に巣くっている吸血鬼を倒そうとは思ったけど、俺一人じゃ探すことさえできない。
アルクェイドとは決裂して、先輩とは絶交中。
……いや、先輩とはもう会う事さえできないだろう。
「―――――――」
メガネをかけて、ベッドから体を起こす。
時計は午前八時過ぎ。
いつもならとっくに朝食を済ましている時間だけど、今日はうちの学校は創立記念日で休校だった。
「翡翠は……いないか」
いつもなら影のように扉の前で控えている翡翠はいない。
「ん……」
また、軽い頭痛が走った。
慣れない屋敷の生活にくわえて、ここ数日の異状な体験でストレスがたまっているのか。
「…………はあ」
深く息を吐く。
何をするべきか解らないけど、やるべき事は沢山ある。
先輩のことが気になるのなら、先輩のアパートを訪ねてみればいいんだし。
「――よし。なんにせよ、まずは朝飯だな」
人間、とりあえず何かを食べなくちゃ始まらない。
起きたばかりのねぼけた頭と体を動かして、居間に向かう事にした。
ロビーでは翡翠がなにやら作業をしていた。
模様替えだろうか、見なれない椅子をロビーに運んでいる。
「翡翠」
翡翠は俺に気がついたのか、トツトツと静かな足取りでやってきた。
「おはようございます、志貴さま」
「……ああ、おはよう。わるいね、自分かってな時間に起きちゃって」
「こちらこそ、お目覚めの時におそばにいられず、申し訳ございません」
翡翠はスッ、と音もなく頭をさげる。
……ここで謝られると、夜中は街に出歩いて、深夜に自分でも解らないまま帰ってきてベッドにもぐりこむ、なんていう自分がひどく極悪人に感じられる。
「翡翠が謝る必要なんかないよ。決まった時間に起きないこっちが悪いんだから、翡翠は文句の一つでも言ってくれたほうがいい」
とくに今はそれぐらい厳しくしてもらわないと、気持ちが揺らいでしまいそうだ。
「志貴さま……?」
「ああ、なんでもないんだ。今のは忘れてくれ。それより朝飯にしたいんだけど、朝食の準備って出来てる?」
「……姉さんは外に出ています。志貴さまのご朝食でしたら、食堂のほうにすでに用意されておりますが」
「そっか。んじゃちょっと食べてくる。仕事中呼び止めて悪かったね」
それじゃまた後で、と声をかけて食堂に向かった。
朝食を食べ終わってロビーに戻る。
……先輩のアパートに行ってみるにしても、一度部屋に戻って着替えたほうがいいだろう。
「――――痛っ」
がたん、とつま先を椅子にぶつけてしまった。
「……ったあ、なんでこんなところに椅子なんて……」
ああ、さっき翡翠が運んでいた椅子か。
普段無いものだから、ついいつも通りに歩いてぶつかってしまったんだ。
「……まいったな。こんなのにぶつかるほど参ってるってことか」
はあ、とため息をつく。
―――けど、翡翠も翡翠だ。こんなところに椅子を置いても仕方がないだろう。
そもそも通り道に椅子を置くなんて、何を考えているんだか。
……椅子の足にぶつけた爪先が、まだ痛んでいる。
これは余分な痛みだ。
こんなところに椅子さえなければしなくて良かった痛み。
―――ケチがついた。
俺はこれから先輩に会いにいくっていうのに、どうしていきなり邪魔をするんだ。
この椅子、すごく邪魔だ。
どうしてこんなものがここにあるんだ。
なければいいのに。なければ俺がつまずくなんて事もなかったのに。
頭にきて、椅子を蹴りつけた。
ずきん。
すると、蹴ったつま先がよけいに痛んだ。
ずきん、ずきん。
ずきん、ずきん、ずきん。
「―――――――コイツ」
なんて、邪魔な、ヤツ。
消えろ。
目障りだ、この椅子。
この椅子。この椅子。この椅子。この椅子。この椅子。この椅子。この椅子。この椅子。この椅子。この椅子 この椅子。この椅子 この椅子。この椅子 この椅子 この椅子。この椅子 この椅子 この椅子 この椅子。この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子。この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子。 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子。この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子 この椅子!
「志貴さま……!?」
「―――あれ、翡翠。どうしたんだ、いきなりそんなところに、いて」
言って、驚いた。
……自分の呼吸が乱れている。
ぜいぜいと激しく蠕動している。
まるで、何十キロとマラソンをしていたみたいに。
「あれ……なんでこんな、息があがってるんだろう、俺」
はあはあと息をつく。
「志貴さま―――なにを、言ってらっしゃるのですか?」
「え、なにって―――翡翠こそどうしたんだよ、そんな不安そうな顔して。なにか、あったのか?」
「……志貴さま、ご自分が何をなさっていたのか、わかっていらっしゃらないのですか……?」
「なにをしてるかって、俺は別に何も―――」
「くっ―――」
また頭痛。
それを振り払うように頭をふった時、自分の足元にあるモノに気がついた。
そこにあるのは。
もう、原形もとどめていないぐらいに壊された椅子の残骸だった。
「――――――え?」
どくん、と。
心臓が、早鐘を打つ。
「―――これ―――俺、が?」
「―――はい。志貴さまが椅子を持って、床に何度も叩きつけた結果です」
「な―――――」
なんで。なんでそんなコトを、俺はしたんだ。
そりゃあたしかに椅子に足をぶつけて、痛いなって思ったけど。
なんでそんなコトぐらいで、俺は―――こんな子供みたいに、些細な怒りにまかせて物を壊したりしたんだろう……?
「志貴さま、なにかご気分が優れないのですか? 体調が悪いのでしたら、お医者さまをお呼びいたしますが」
「――――違う。なんでもない。なんでもないんだ。ごめん翡翠、ごめん……俺、どうかしてる」
翡翠から離れる。
壊れた、俺の手によってバラバラにされた椅子から離れる。
「志貴さま、落ち着いてください。そんなに息を荒だたしてはお体に障ります」
「いいんだ、ほっといてくれ! 一人になりたいんだ、一人にさせてくれ……!」
そう叫んで、階段を駆け上がる。
まるで翡翠から逃げだしているみたいだな、と他人事のように思えた。
部屋に戻って、ベッドにうずくまった。
まただ。
また、こめかみが疼く。
ずきんずきん、と。
まるで脳髄の中に新しい心臓ができたみたいに、軽い頭痛が繰り返される。
「…………くっ」
痛い。
痛い。
痛い。
さっき、わけもなく凶暴な気持ちになったのは、この痛みのせいかもしれない。
連日の事件で、『死』を視すぎて頭がどうかしてしまったのか。
ともかく―――今は、落ち着かないと。
頭痛だって、メガネさえ外さなければこれ以上強くなることはないんだし。
「………なにやってるんだろ、俺………すぐに、先輩のところに、行かないと………いけないのに」
だけど、こんな状態でいったらまた先輩を傷つけるだけだ。
落ち着かなくちゃ。
静かに。静かにしていれば、頭痛もちゃんと収まってくれる。
……
…………
…………………
……………………………ほら、収まってきた。
部屋はとても静かだ。
時計の針の音しかしないこの部屋なら、すぐに気持ちも静まってくれる。
チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
…………時計の針。
チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
…………ちょっと、静かにしてくれ。
チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
…………おい。
チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。チッ。
…………静かにしろって言ってるのに………!
―――とまった。
ガシャン、と音をたてて、時計が止まった。
「―――静かに、なった」
うん、良かった。
これなら先輩に会いに行ける。
玄関に出る。
天気は、青が眼に染み込むぐらいの快晴だ。
門に向かって歩き出す。
その途中。がさり、と庭のほうから物音がした。
「…………?」
おかしいな。翡翠はロビーで椅子の片付けをしていた。
琥珀さんは外に出ていて、秋葉は学校。
……屋敷には、他に誰もいないハズなんだけど。
庭にやってきた。
……そういえば、子供のころはよくここで秋葉たちと遊んだものだ。
屋敷に帰ってからこっち、色々とあわただしくて庭の散歩もしてなかったんだっけ。
がさり。
また、物音。
誰かが庭を横断している音みたいだ。
「あれ、翡翠……?」
そこにいたのは翡翠だった。
……俺のほうには気がついていないみたいだけど、たしかに翡翠が林のほうへ行こうとしている。
翡翠はこちらに気づいていない。
何をしにいくのか、翡翠は森の中に入っていく。
「?」
興味をひかれて、少しだけ後についていった。
――――と。
翡翠が歩いていった先には、ちょっとした広場があるようだった。
「……? あんなところに広場なんて……」
首をかしげて思い出そうとしてみるが、どうも記憶はあいまいだ。
屋敷の森の中、木々を切りとったような広場が見える。
―――いや、見えるというのは正しくない。
普通に歩いている分には決して見えなかったはずだ。
翡翠があそこに歩いて行かなければ、屋敷に住んでいながら一生気づかなかったぐらい隠れた、木々に囲まれた小さな広場。
「……あんな広場、あったかな……あったならかっこうの遊び場になってたはずなんだけど……」
少なくとも森の中の広場で秋葉と遊んだ記憶はない。
――――ない、ような、気が、する。
「…………」
少しだけ思案してから、その広場に入ってみることにした。
……広場には特別なにもない。
先に入っていった翡翠の姿もない。
「なんだ―――ただの空き地じゃないか」
広場の真ん中へ歩いていく。
広場は本当に、なんていうことはない空き地だった。
きれいにまったいらにされた土の地面と、
まわりを囲む深い森の木々。
蝉の声と。
溶けるような、強い、夏の陽射し――――――
「え…………?」
夏の、陽射し―――?
「い――――痛ぅ…………」
胸の傷が痛む。
まるで/ざくりと。
包丁で胸を刺された/ような/この痛み。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん――――
――――どこかで、蝉の声がしている。
今はもう、秋なのに。
――――白く溶けてしまいそうな夏の陽射し。
遠くのそらには入道雲。
見えるのは空蝉のこえ。
足元には蝉のぬけがら。
ぬけがら。誰かの、ぬけがら。
「――――………」
―――ああ、癇に障る。
せっかく気持ちが落ち着いたのに、また、何もかもうざったくなってきた。
俺は先輩に会わないと。
早く会いにいって、先輩が吸血鬼でもかまわないんだって、言わないと。
……
…………
…………………
…………………………
…………………けど、ホントはどうなんだろう。
遠野志貴は本当に、シエル先輩が吸血鬼でも、今までどおりに笑いあえる事ができるっていうんだろうか―――
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
……うずくまる誰かの影法師。
近寄ってくる幼い少女の足音。
遠くの空には入道雲。空蝉の青いそら。
気がつけば、
そこには、
胸を貫かれて殺されている俺の体と。
俺の死体を呆然と見下ろす、
やっぱり俺自身の姿があった。
「あ――――ぐ」
胸がいたい。
吐き気がする。
傷はとうのむかしに塞がっているはずなのに、どうしてこんなにも痛むのか。
胸が 壊れてる。
古傷が開いて セキショクの染みが流れ出す。
―――なんてこと。
俺の傷は、ぜんぜん癒えてなんかいない。
イタイ。
コワイ。
―――眩暈がする。
コレガ、
死トイウ衝動カ。
意識が沈む。
傷が痛む。
どさり と、自身の体が地面に倒れこむ音をきいた。
◇◇◇
……話し声が聞こえてくる。
「秋葉さま、お医者さまをお呼びしないのですか?」
「馬鹿なことは言わないで翡翠。呼べるわけないでしょう、兄さんの傷は普通の傷じゃないんだから……!」
……あきは と ひすい が話している。
ここは シキの 部屋だ。
どうやら ベッドの上で 眠っている らしい。
やあ、と声をあげて起きようとしたけれど、体が思うように動かない。
胸の痛みはもうないくせに、体は鉛のように重い。
満足に動くのは、目と口だけのようだった。
「一体どういうつもりなの翡翠。志貴をあそこに近づけてはいけないって、あなたも知っているでしょうに……!」
「もうしわけ…………ありません」
「謝って済む問題じゃないわ。あなたを兄さん付きの使用人にしたのは、こういう事態を避けさせるためでしょう? それを忘れて、あなたは何をやっていたっていうのよ……!」
秋葉は普段からでは考えられないぐらい、感情を剥き出しにして怒っている。
対して、叱られている翡翠はうつむいたままずっと黙っていた。
……俺には、二人がどうしてこうなっているのか全然わからない。
わからないけれど、翡翠が俺のせいで怒られている、という事ぐらいは読み取れた。
「答えなさい翡翠。あなたは、今日一日どこでなにをしていたっていうの?」
秋葉の質問に翡翠は答えない。
二人の間の空気は段々と重苦しくなってくる。
ぎゅっ、と唇をかみしめて、秋葉が翡翠に一歩だけ近寄る。
……秋葉が、翡翠に手を上げようとしているのは、俺の目から見てもよくわかった。
翡翠もわかっているだろうに、うつむいたままそれを黙って受け入れようとしている。
「―――ちょっと待て秋葉」
「兄さん――気がついたんですか!?」
「ああ、秋葉があんまりにうるさいんで、いま目がさめた」
「あ…………」
秋葉は気まずそうに視線をそらす。
翡翠はやっぱりうつむいたまま、俺のほうを見ようともしなかった。
「あのさ、あんまり翡翠にあたるなよ。事情はしらないけど、ようするに俺が倒れたことでもめてるんだろ? なら翡翠に責任なんかないよ。こんなの俺がかってに倒れただけなんだから」
よっ、と腕に力をこめて、なんとか上半身だけベッドから起こした。
今は、それだけでもう指一本だって動かせそうにない。
けれど翡翠が落ち込んでいる手前、無理をしてでも元気なフリをしなくちゃいけない。
「まったく、おまえも俺のコトなんかでケンカなんかするな。大人びたように見えてまだ子供なんだな」
「でも――――兄さんはあれからずっと気を失っていたんですよ? 十時間以上も昏睡しているなんて、今までなかったはずです。もし―――兄さんがあのまま目が覚めなかったら、私はどうすればいいんですか……!」
「ばか、縁起でもないこというなよ。こんなのはただの貧血じゃないか。……って、なんだ。もう夜の十時をまわってるのか」
「……ええ。兄さんはお昼から今までずっと気を失っていたんです」
遠慮がちに秋葉は語る。
「――――――」
どっ、と体から力が抜けた。
あれからずっと、こうしてここで眠っていたのか。
先輩のアパートに行くこともできず、ただ昏々と眠っていただけ。
「……まいったな。半日も倒れてるなんて小学校以来だ。ああ、あの時は頻繁に倒れてたっけ。有間の家になれなくってさ、神経がまいってたんだ」
貧血の後遺症か、なんだかまだユメを見ているようだ。
ぼんやりと、天井をみながらそんな昔の出来事を思い返した。
「……そうですね。ここに帰ってきてまだ一週間です。兄さん、色々と疲れがたまっているんですよ」
「――ああ。それは、今日やばいぐらい実感した」
「でしょう? ですから、今日はもうこのままお休みください。兄さんは人より体が不安定なんですから、たまには一日何もしない日がないと参ってしまうんです」
秋葉は真剣な眼差しで見つめてくる。
「………………」
……たしかに、秋葉の言うとおりだ。
何もかも忘れて。
先輩のことも吸血鬼のことも考えないで休まないと、本当に参ってしまう。
悩んで悩んで、そのあげくに椅子にヤツ当たりするなんて、どうかしてる。
「……そうだね。秋葉の言うとおり、今日はおとなしく眠ることにするよ」
言って、ベッドに体を横たえた。
「ほんとう……? あとになって部屋を抜け出したりするのもナシですよ?」
「なんだよそれ。俺、そんなに信用ないのかな」
……ああ、ないか。
今まで散々、秋葉を放っておいて外に出ていっていたんだから。
「翡翠、琥珀に兄さんが目を覚ました事を伝えにいって。兄さん、夕食はどうしますか?」
「……そっか。いや、琥珀さんには悪いけど、食べられそうにない。今夜はこのまま眠ることにするよ」
「……わかりました。じゃあ翡翠、そう琥珀に伝えてきて」
翡翠はうつむいたままコクン、とうなずいて部屋から出て行く。
……さて。
ベッドに体を預けたら、また眠気がやってきた。このままならあと一分もかからずに眠れるに違いない。
―――と、その前に。
「秋葉。うちの庭に、あんな場所あったっけ?」
「ええ。私たちが子供のころ、よく遊んだ場所です」
「そっか。なんだか、よく覚えてないな」
……ああ。本当に、忘れてしまってた。
「それともう一つ。……ヘンな事を聞くんだけど、子供のころさ、俺と秋葉と―――もう一人ぐらい、子供がいたとかいう話はしらないか?」
「は?」
秋葉は見当もつかない、と首をかしげる。
……そうだよな。そんな子供、いるはずがない。
あんなのはただのユメだ。
あの広場で。子供のころの自分が自分とそっくりの誰かに殺されているなんて、どうかしてる。
それならここにいる俺はなんだっていうんだ、まったく。
「いや、なんでもない。ただのユメの話だ」
「そうですか。ではおやすみなさい、兄さん。今日はゆっくり休んでください」
「ああ、そうする」
秋葉の声にそう答えたとたん。
いつもの貧血のように、唐突に眠りに落ちていっていた。
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●『9/空蝉』
● 9days/October 29(Fri.)
暗いところにいた。
目が覚めてから八年間。
ずっと、暗いところで息をひそめていた。
なんのためにかは、オレにもわからない。
そんなものはとっくに磨耗してしまった。
ココにあるのはただの闇だ。
それでも、オレは何かを成さなければならないらしい。
なんのためにいるのかは、わからない。
だがオレの目的ははっきりしている。
オレを縛めていたモノはすべて消えた。
阻むものはなにもない。
あとは。
オマエを、殺しにいくだけだ。
◇◇◇
チチ、チチチ、チチチチチ
……窓が開けっぱなしになっているんだろうか。
庭のほうから小鳥の鳴き声が聞こえてきている。
ひんやりと冷たい風が頬にあたる。
目蓋には淡い陽の光。
静かで、ゆるやかな周囲の色合い。
柔らかな朝の訪れ。
朝、か。
昨夜、秋葉に看病されたまま眠って、そのまま朝を迎えてしまったらしい。
体はベッドに横になったままで、体のふしぶしが微かに重かった。
それでも昨夜よりは体は回復している。
目を開けて、体を起こす事にした。
「う…………」
とたん、吐きそうになった。
昨日の貧血がまだ続いているのか。
胸のあたりがムカムカして、気持ちが悪い。
「失礼します」
翡翠が部屋に入ってくる。
まだ俺が眠っていると思ったのか、翡翠は入ってくるなり起きている俺を見て微かに驚いたようだ。
「おはようございます。お目覚めになられていたんですね、志貴さま」
「――――」
なぜか。
そんな、些細な翡翠の仕草が癇にさわった。
「おはよう。朝食だろ、すぐに行くから出ていってくれ。着替えるんだ、これから」
「……はい、失礼しました」
「…………」
いくら気分が悪いからって翡翠にあたるなんて、どうかしてる。
「――――」
気分が悪い。
こんなんじゃ学校にいっても授業にならない。
「……休むか、な」
けど、学校には行かないと。
学校に行けば先輩に会えるかもしれない。
……あの人がまだ『先輩』でいてくれている望みなんて無いだろうけど、それでも―――もしかしたら、先輩はいるかもしれない。
「―――――ふう」
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
なんとか眩暈を抑えこんで、自分の部屋を後にした。
「あ、兄さん。……おはよう、ございます」
……居間に入るなり、秋葉はうわずった声で挨拶をしてきた。
「……ああ、おはよう。今朝も早いな秋葉は」
「わたしはいつも通りですけど……兄、さん?
……大丈夫なんですか? まだ顔色が悪いようですし、気分が優れないのでしたら今日はお休みになったほうが―――」
「いや、大丈夫だ。そのうちに治るから、秋葉に心配してもらう必要はない」
即答して秋葉の前を通りすぎる。
食堂にいって、朝食を食べないと力が出ない。
「じゃあな。おまえ、そろそろ時間だろ」
「……………はい。それではお先に失礼します」
ためらいがちに言って、秋葉は静かに立ちあがった。
秋葉が居間から出ていく。
それを横目で眺めながら食堂に入っていった。
◇◇◇
屋敷を出て学校に向かう。
手足がまだ重く、他人の体を着ているような感覚で坂道を下りていく。
朝の七時四十分。
正門は登校してくる生徒たちの姿で混雑している。
「……………」
先輩が来るとは思えないけど、教室で待っているよりはここで待ち伏せしたほうがいいんだろうか。
「…………」
ここで待とう。
先輩が来てくれるとは思えないけど、もしかしたら昨日のように登校してくるかもしれない。
――――時間になった。
ホームルームまであと十分ほどという時間になって、正門が閉められた。
「…………」
先輩はやってこない。
ため息をついて、重い足取りで教室に向かった。
ホームルームが間近に迫っているというのに、教室の中はわいわいと騒がしい。
窓際の自分の席に移動して、鞄を置く。
「おう、おはようさん。今朝はまた、随分と顔色が悪いね」
「……まったく。どいつもこいつも人の顔を見ればそれか。そんなに顔色悪いのか、俺」
「え―――? ……そうだな、言われて見れば普通だよな。なんでかね、遠野がすっごく落ち込んで見えるせいかね」
「…………落ち込んでる、か」
確かに気持ちは落ち込んでいる。
先輩にさよならを言われて、体はなんだドロドロと重くて、心も体もノックアウト状態だ。
「―――有彦。おまえ、今日は先輩見た?」
「あ? 先輩ってどこのだれ先輩だよ」
「どこのって……俺とおまえの共通の先輩っていえば、シエル先輩以外いないだろ」
「だれそれ、しえるって。うちの学校に留学生なんかいたっけ?」
――――愕然と、口を開けた。
「……有彦、おまえ」
途切れ途切れで、なんとかそこまで声をあげる。
けれど、そのあとは中々続いてくれなかった。
「なんだよ遠野。言いたい事があったらはっきり言えって。金の問題以外ならなんでも聞くぞ」
有彦の様子はいつもと変わらない。
いつもと変わらない様子で、あっさりと、先輩の事をまるっきり覚えていない。
「……いや、なんでもない。席に戻れよ。ホームルーム、始まるぞ」
「おっ、そんな時間か。んじゃまあ、また後でな」
有彦が自分の席に戻って、教室に担任が入ってくる。
ホームルームが始まって、そのまま一時限目の物理の授業が始まった。
―――それを、まるでスクリーンに映った映画を見るような気持ちで、眺めていた。
先輩は、本当に消えてしまった。
俺の前からいなくなったんじゃなくて、シエル先輩っていう存在が痕跡一つ残さず消えてしまった。
有彦は覚えていない。……きっと、他の誰も覚えていない。
あのさよならは、こういう意味だったんだ。
「――――――――」
目の前では、黒板に白いチョークを走らせる教師の映像が流れている。
なんだか、現実に現実感というものがなくなってしまったみたいだ。
もう、このまま授業が終わって休み時間になっても、あの人がやってくるコトなんてない。
昼休みに、茶道室でのんびりと昼食を一緒にとることもない。
……どこかで。まだ一縷の望みを持っていたけど、それも終わった。
俺は、シエルという人を完全に失った。
まだ何も―――何もしてなかったし、何も伝えてなかったのに。
今日みたいにいい天気、青い空を眺めながら昼食をとっていた時もあったのに。
それは、なんてとおとい。大切な、夢だったんだろう――――
◇◇◇
気がつくと、教室にいるクラスメイトの数が激減していた。
―――どうも、とっくに昼休みになっていたらしい。
「……………」
何もやる気が起きない。
体もだるいし、このまま――
―――このままここで腐っていても始まらない。
たたでさえ体調が悪いんだから、食事ぐらいはとらないと本当に倒れてしまう。
「学食に行くか」
気乗りしないまま呟いて席を立った。
もうラッシュの時間は終わったのか、食堂に行列はできていない。
テーブルはほとんどが生徒たちで埋まっている。
空いている席はないか、と食堂中を見渡す。
―――と。
……先輩によく似た生徒を見つけてしまった。
「――――は」
お笑いだ。
ちょっと似ているだけでシエル先輩と見間違うなんて本格的にまいってる。
まいっているって分かっているのに、先輩似の誰かから視線を外せない。
先輩に似た誰かはテーブルに座ってうどんをつるつると食べている。
しかもカレーうどん。
食べている物まで先輩そっくりだ。
「――――――あ」
っていうか、シエル先輩本人だった。
「――――先輩っ!」
全力で先輩の座っているテーブルへ駆け寄る。
「―――――――」
先輩はチラッ、と俺の顔を見上げると、ぷい、と顔を背けてしまった。
明らかに避けられている。
だがそんな事を気にしてられない。
「先輩、どうしてこんなトコにいるんだよ……!」
気が急いてしまって、そんなぶしつけな言葉しか思いつかない。
「なんでって、わたしはここの生徒です。お昼になったらごはんを食べないとダウンしちゃうじゃないですか」
「いや、だからそういうコトじゃなくて、俺は―――」
なんて口にしていいか、あんまりに突然すぎて頭がキレイに働いてくれない。
先輩はいかにも文句がありそうな顔で、つーんと俺から視線を逸らしている。
「俺は、先輩がここにいるのが不思議で。だって一昨日、先輩がさよならって言ったから、もう会えないって―――」
「はい。だって一昨日はもう時間が遅かったでしょ。学生さんは家に帰らないといけないです」
しれっと。
とんでもないボケを、この人は言ってくれた。
「なっ―――」
「それとも遠野くん。わたしみたいなのが学校にいちゃいけませんか」
先輩は一昨日の、無感情な目をして、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
……わたしみたいなの、と先輩は言った。
先輩が本当に吸血鬼かどうかなのはわからない。
ただ、死ぬような傷を負ってもすぐに治ってしまう体、なんていうのはアルクェイド同様、遥かに人間離れしている。
それが人間らしいのかと問われれば、言い淀むしかない。
けど、それでも。
遠野志貴にとって、この人は大事な人なんだ。
それがどんな感情なのかはまだわからない。
けどたった半日。たった半日間でも、この人がいないと思っただけで現実が薄っぺらに感じてしまった。
だからもう―――自分にとって、この人は無くせない人になってしまっているんだ。
「……先輩、俺は―――」
そんなこと、全然っていうのは嘘だけど、本当に気になってない。
先輩がたとえアルクェイドと同じでも、先輩は先輩だ。それは絶対に信じられる。
そう、昨日の夜に言えなかった言葉を口にしようと先輩を睨む。
けれど、その前に。
「いいです。遠野くんに嫌われても仕方ないんですから、もう気にしません。それにこれはわたしの日常ですから。遠野くんがなんて言おうが、好きにやるって決めたんです」
そう、きっぱりと先輩は言いきった。
文句なんかないですよね、と先輩は無言で見つめてくる。
「…………は」
もちろん、文句なんかあるわけがない。
あんなに悩んでいた自分がバカみたいでがっくりと力が抜けた。
けど、それ以上に今は嬉しくて仕方がない。
「……ああ、文句なんかあるわけないだろ。俺だって今まで、先輩の忠告を聞かないで好き勝手やってたんだから」
「よろしい。なら、握手しましょう」
先輩は手を差し出してくる。
先輩の意図はよくわからないけど、差し出された手を握った。
ぶんぶん、と握手した手を上下に振る先輩。
「はい、これで仲直りです。これからもよろしくお願いしますね、遠野くん」
先輩は本当に嬉しそうに、満面の笑みをうかべる。
先輩はそのまま席を立って、どんぶりを持ってトコトコと歩きだした。
……どこに行くのかは知らないけど、とにかくどこかに行こうとしているみたいだ。
「あ――――」
先輩はどんぶりを食器置き場に置いて、食堂から立ち去っていく。
……いいけど。
先輩が学校に残っていて、仲直りできただけでも嬉しいけど―――このまま、アルクェイドや吸血鬼のことをうやむやにしていいんだろうか?
「……いいはずないじゃないか。先輩、ちょっと!」
急いで先輩の後を追いかけた。
「あれ? 遠野くん、五時限目始まっちゃいますよ。早く教室に戻らないと」
「ばか、それは先輩も一緒だろ。なんだって中庭なんかに―――」
……そっか。
先輩は生徒のふりをしているだけなんだから、授業を受ける必要なんかないのか。
「ふふ、そうですね。わたしも五時限目に遅れてしまいます。今日はこのまま帰ろうと思いましたけど、やっぱり真面目に授業を受けることにしますね」
なんか、先輩は嬉しそうに笑っている。
「……先輩? もしかして、今までちゃんと授業受けてたの……?」
「あたりまえじゃないですか! その気がなかったらこんな格好してません!」
……なんか、先輩は不機嫌そうに怒ってる。
「―――は、はは」
「むっ。なにがおかしいんですか、遠野くんは!」
「いや、だって―――喜んだり怒ったりさ、やっぱりシエル先輩はシエル先輩なんだって」
そう実感できて、嬉しいだけだ。
「……はあ。わたしはわたしですけど、それでどうして笑うんでしょうか、遠野くんは」
「いいんだ、こっちの話。
それより先輩。その、さ。アルクェイドのことなんだけど―――」
「―――う」
先輩は一瞬にして、あの無表情な目をして見つめてきた。
……言いにくい。言いにくいけど、はっきり言うために追ってきたんだ。
「……怒らないで聞いてくれよ。先輩はさんざん止めろって言ってくれたけど、やっぱり俺は吸血鬼の事は放っておけないんだ」
……うっ。無表情だった先輩の目が、なんか激しく怒ってる。
「……とにかく、吸血鬼の事は放っておけない。けど、昨日のことでアルクェイドとは決裂しちゃって、俺には何かをしたくても手段がないんだ。
だから―――先輩が吸血鬼を探してるっていうんなら、それに協力させてくれないか」
……先輩は黙っている。
そうして、はあ、と深くため息をついて、
「イヤです」
なんて、笑顔で断言した。
「イヤですって、なんで!?」
「あったりまえじゃないですかっ! 遠野くん、昨日の夜だって彼女に殺されかけたって自覚してないんですか!?
吸血鬼を追うっていうのは、いつ殺されてもおかしくないぐらい危険な事なんです。そんな事に遠野くんを引き込むなんてできません!」
「―――だから、そういうのは覚悟の上だって言ってるだろ! これでも散々死ぬような目にあってきたんだ。自分の身ぐらい自分で守れる!」
「……あのですね。遠野くん、なにを根拠にそんなコト言ってるんですか。
確かに遠野くんの運動神経がいいのは認めます。遠野くんは病弱ですけど、肉体そのものは優れているってわかってますから」
肩をすくめて、先輩は意外なことを口にする。
「……そ、そうなの?」
毒気を抜かれてしまって、つい聞き返してしまった。
「ええ。遠野くん、わたしの部屋に泊まったとき裸になったじゃないですか。その時に見たんです。贅肉のない、引き締まった筋肉をしてました。
遠くからでしたけど、その時にキレイな躯しているなあって思ったぐらいです」
「……裸って――――俺、裸になんかなってないけど」
「忘れちゃったんですか? 遠野くん、お風呂に入るとき台所で着替えてたじゃないですか」
あ、そうだった。
たしか脱衣場に洗濯物が干してあって、邪魔になるからって―――
「知らなかった。先輩、人の着替えを覗き見するような人だったのか」
「―――え、いえ、アレはですね、不可抗力と申しましょうか、その、隙間から見えてしまって、ちょっとだけ興味があったものですから、いいかなーって」
先輩の顔は弁解しながら真っ赤になっていく。
……どうも、言いながらその時の光景を思い出してしまったらしい。
「ああもうっ、とにかく! いくら遠野くんが立派な体をしていようと、普通のひとに吸血鬼と戦う事なんて出来ないんですっ」
なんだ、先輩が俺を戦わせたくない理由はそれなのか。
「そう。それじゃこれで問題はないだろ」
メガネを外す。
ナイフを手に取る
ずきん、とこめかみに痛みが走る。
それを堪えて、木に見えている適当な『線』を切断した。
「遠野くん、今の―――」
「……とまあ、こういうコト。悪いけど、俺の目って普通じゃないんだ。
アルクェイドの話じゃモノの『死』が視える、直死の魔眼ってヤツらしい」
先輩は目を見張って、言葉を飲みこんでいる。
「――そう、ですか。つまりそのナイフが特別というワケではなくて、遠野くん本人が特別だったんですね」
「……特別って、そういうんじゃない。ただ事故の後遺症で、この両目がイカれただけだよ」
「―――彼女が遠野くんを気に入るわけですね。貴方の目は、個人が保有する能力にしてはいきすぎていますから」
先輩は力をなくしたように、急に元気をなくしてしまった。
「……たしかに、それだけの力があるんでしたら、遠野くんを一人にしておくのは逆に危険ですね。
わたしが断っても遠野くんは一人で吸血鬼探しをしてしまうでしょうし、カレのほうも―――遠野くんのことは無視できません」
「先輩……? それって、つまり―――」
「はい。あまり遠野くんを巻き込みたくないんですけど、もう手遅れですから。いまさら遠野くんには関係ないってつっぱねられません」
「それじゃあ、一緒に吸血鬼退治をしていいっていうこと?」
「はい。こうなったらわたしも覚悟を決めちゃいました」
先輩は片手を差し出してくる。
それはさっき食堂でしたものとは違って、どこか決意を感じさせる。
「―――――」
もちろん、その手を握り返す。
わずかな間だけ手を取り合って、握手は終わった。
「それじゃあこれからわたしたちはチームです。わたしも遠野くんを頼りますから、遠野くんもわたしに頼ってください。
これからは二人で、この街に巣くった吸血鬼を倒しましょう」
柔らかな笑顔で先輩は語りかけてくる。
それに無言で頷いた時、昼休み終了を告げる予鈴が鳴り響いた。
「それじゃあ放課後、茶道室に来て下さい。そこでこれからのことを話し合いましょう」
先輩は校舎のほうへ走っていく。
それに遅れまいと、こっちも校舎へと走り出した。
◇◇◇
帰りのホームルームが終わった。
がやがやと話し声をあげながらクラスメイトたちが席を立つ。
いつもはその混雑を避けて最後までゆったりしている俺も、今日にかぎっては一緒になって席を立った。
急ぎ足で教室から出る。
目指すは茶道室だ。
先輩とは色々あったけど、これで本当にうまくいく。
先輩の力になれる事は嬉しいし、正直自分ひとりじゃ持て余していた吸血鬼に関してもこれで安心できる。
いや、それよりなにより―――やっぱり先輩と一緒に過ごせるかと思うと胸が弾む。
はっ、はっ、はっ――――
息を弾ませながら、廊下を全力疾走して茶道室へと向かっていった。
茶道室には誰もいない。
まだ先輩は来ていなかった。
……はあ……はあ。
……どうも、少しはしゃぎすぎたらしい。
畳の上に腰をおろして、呼吸を整える。
……はあ……はあ……はあ。
熱くなった体はそう簡単には冷めない。
喉も苦しげに酸素をとりこもうと大げさに動いている。
体中、じんわりと汗をかいて、気持ち悪い。
……はあ……はあ……はあ……はあ……はあ。
なにか―――ヘンだ。
さっきから体を休めているのに、呼吸は乱れていく一方だし。
だいたいどうして、ここまで走ってくるだけでこんなに体中が疲れているんだろう……?
「――――がっ!?」
トウトツに。
胸が、キしんだ。
「っっっ、っ…………!」
ばたん、と体が倒れこむ。
「っ、あ、あ…………!」
全身が、痙攣する。
いた、い。
胸、胸が、焼け、る、、、、、、!
「―――っあうううぅううう………!」
意識がとぶ。
あまりの痛みで、指先が畳に爪を立てる。
ギリギリと畳を引き裂く。
でも、そんな事をしたところで痛みは収まらない。
「はっ、はっ、はあううう……!」
痛い。
痛い。
痛い。
こんな。痛いなんて。恐い。
「う、うく、くあああ………!」
耐えられない。
この痛みがまだ一秒でも続くというのなら。
いっそ、殺して、くれればいいのに――――!
『いいぜ。オマエの望み、聞いてやるよ志貴』
「――――え?」
畳の上に這いつくばった顔をあげる。
その前に
その前に。
痛みが消えていた。
もう、どこも痛いとは感じない。
重いとも感じない。
生きているとも、感じない。
「――――」
何か言おうとしても、喉が動かない。
なにもない。
痛みも。
感覚も。
自由も、ない。
「―――――!」
わけもわからず、なんとか起きあがろうとする。
体はぴくりとも動かない。
何かに縛られているわけでもなく、体中が麻痺しているような感じでもない。
その、例えるのなら。
俺はとっくに死んでしまっていて、何かの間違いで意識だけが死体に残っているような感覚。
「――――――、」
体の五感の中で、視覚だけがかろうじて生きている。
……茶道室は暗い。
いつのまにか、外は完全に夜になっていた。
「―――」
顔が動かないので、なんとか眼球だけをせわしなく動かした。
――――、―――――、―――――――、
なにか。
すぐ近くで、音がしている。
耳をすませても何も聞こえない。
自分の呼吸の音さえ聞こえないということは、俺の耳はどうかしてしまったらしい。
ただ。
すごく苦しそうな声で、遠野くん、と名前を呼ばれ続けている気がした。
「―――ほう。完全に消えたかと思ったが、わりあいしつこいんだな、志貴」
聞こえない筈の声が聞こえる。
「――――!」
闇の底を凝視する。
そこに。
なにか、見知らぬモノが座っていた。
[#挿絵(img/23.jpg)入る]
「――――!?」
誰だコイツ。
初めて見る。初めて見るヤツなのに―――昔から、知っているような、気がする。
「なんだ、その反応はひどいじゃないか志貴。
オマエがオレを捜しているっていうからせっかく出向いてきてやったのに、オマエはオレを覚えていないのか」
くっ、と愉しげな笑い声をあげて、男は赤黒い眼差しを向けてくる。
「―――――」
唯一まともに動いてくれている意識が、凍りついた。
まだ、はっきりとは言われていない。
まだはっきりとしていないのに―――コイツが吸血鬼なんだと。
コイツが先輩とアルクェイドが追い詰めている蛇なんだと、はっきりと認識できた。
「……否、それは違う。たしかに私は転生するアカシャの蛇と呼ばれる吸血種だ。だがね、オマエにとって私は蛇ではなくシキの筈ではないのか?
―――チッ、まったく冷たいヤツだよオマエは。これじゃ八年間思い続けてきたオレが馬鹿みたいじゃないか。
なあ、君もそう思うだろうシエル」
男はこちらを見たまま、そんな言葉を口にした。
「――――!」
先輩。先輩がいるのか?
でもどこに。気配もなければ姿も見えない。
それに先輩がいるなら、どうしてコイツをどうにかしないんだ。
目の前に。いま目の前に、俺たちの敵が座っているっていうのに………!
「ああ、あんまり無茶なことはシエルには言わないほうがいい。今ね、ちょっと人前に出せるような状態じゃないんだ彼女。
まあそもそも―――今のオマエには何も見えていないとは思うんだが」
じゃり、という音。
なにか。
狂おしいぐらいの執念で、畳に爪をたてる音が、聞こえた。
「……だから、そんなモノに気を取られるなと言っているだろう……!
いいか志貴、いまのオマエが見れるものはオレだけだ。
オマエが聞き取れる音はオレの声だけ。
オマエが感じ取れる存在はオレのモノだけ。
オマエにとっての生の在処はこのオレだけなんだ………!
やっと、やっとこうしてオマエと会える場面を迎えたっていうのに、オレ以外のモノなんぞ考えるな―――!」
――――ざくり、という音。
目の前の男―――蛇という吸血鬼の手元で、何か、厭な音がして。
その後、苦痛をおびた吐息が、かすかに聞こえた。
――――の、く――ん
よく聞こえないけど、そんな声が。
「―――本当に忘れているのか志貴。
……親父の暗示はよほど出来がよかったのか、それとも―――一度死んだ後だから、それまでの記憶は破損しちまったのか。
くそ、どちらにせよこれじゃあ台無しだ!
わかってるのか!? 八年間、八年間も待ってたのに! オマエに、オレを殺したオマエから全てを奪えるこの瞬間をずっと待っていたのに、肝心のオマエが脱け殻になっているんじゃ話にならないじゃないか……!」
「―――――」
なに、を、言っているんだ、コイツは。
俺が―――コイツを、殺した?
「そうだ! 忘れているのなら思い出せ。オレたちはいつも三人一緒だっただろう?
遠野の屋敷で。秋葉とオレと、オマエの三人でよく庭を遊びまわった。
八年前のあの日、オレがこうなっちまう前までな!」
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
―――よく、思い出せない。
たしかに―――子供のころ、もう一人誰かいた気がするんだけど。
「……思い出せないのか。オレとオマエはあんなに仲が良かったのに」
ぎり、と。
なにか、本当に口惜しそうに、ヤツは表情を曇らせた。
「―――まったく。苦しんでいたのはオレだけっていう事か。
酷い話だぜ、志貴。オレはずっと親父に閉じ込められていたけどな、それでもオマエの事だけは感じてたんだぜ。
はは、なんていったってオマエの『命』はオレが使わせてもらってるんだからな。オレとオマエは血の絆のかわりに魂で繋がっている。
だからこそオマエには―――この上ないほど凄惨な終わり方を迎えさせてやりたかったんだが」
残念だ、とヤツは言った。
じゃり、じゃり、と。
また、畳を引っかくような音が聞こえてくる。
「……うるさい女だ。この命はオレが奪ったものだ。もう八年も前からオレのものなんだよ! いまさら志貴に還すなんてマネ、できると思うか?
だいたいな、コレがなかったらオレが死んじまうじゃねえか。シエル、オマエはオレに死ねっていうのか? ったくひでえ女だ。いいから黙って、そこで死んでろ」
ざく、という音。
じゃり、という音はそれで聞こえなくなった。
「――――と、どこまで話したかな。
ああ、そうそう。オマエとオレの絆の深さについて話してたんだっけ。
ようするにさ、志貴。オレはオマエの兄貴ってコトさ。秋葉もオマエも、薄情にも忘れてくれているけどな」
「―――――」
俺の……遠野志貴の、兄………?
「……まあ、そういう事にしておこうか。
志貴、オマエはシエルに私については聞いているだろう。転生する魂。死した後、新しい人間として孵って来る吸血種のことを」
ヤツの目が細まる。
さっきまでのヤツとは、雰囲気が変わっていく。
とても静かで、人間性がまったく感じられなくなる。
「この私は十八人目の私だ。私が転生先に選ぶ条件は知っているな。
旧い異能者としての血筋を持ち、社会的に大きな影響力を持つ家系。
この二つの条件に見合っているモノがなんであるかは言うまでもないだろう。
十七人目―――先代の私は、滅ぼされる前に遠野という血筋を候補にあげていた。
極東の地を選んだのはただの気紛れだがね。ふん、十七回繰り返したところで何一つ変化がない人生に、新しい刺激を求めたのかもしれないが。
かくて私は姫に滅ぼされ、十八人目の私として遠野シキの体に転生した。
遠野シキの肉体は申し分がなかった。知性の発達も早熟で、この国の淀んだ空気も心地よかった。
―――だが、調子が良かったのはそれまでさ。
『蛇』―――まあ、ロアっていうヤツなんだが、ヤツの誤算は遠野の人間っていうのは力が強すぎたっていう事だ。
オレや秋葉はな、ようするに半分だけしか人間じゃない。あとの半分はロアのようにもとから化け物っていうワケで、遠野の人間はそれを抑えながら生きている。
だがな、中には精神が弱くて抑えきれないヤツだって出てくるんだ。
そういう反転しちまって人間じゃなくなったヤツを殺すのが遠野の当主の役割なんだが―――
ようするに、オレは負けたのさ。
本来ならオマエみたいにちゃんと成人するまでロアは目覚めない。
だが―――オレと繋がっているオマエなら解るだろう、志貴?
一つの肉体に二つのイシは入らない。
一つのイシから乖離する人格ならともかく、まったく異なる魂のイシは入らないんだ。入らないとどうなるのか?
簡単さ、器である脳が悲鳴をあげる。
頭痛が走るんだよ。わけもなく、意味もなく、突発的にな」
「―――――」
頭……痛……って、それは、まさか―――
「そうだよ。オマエの頭痛は、オレからオマエに流れているものだ。
言っただろう? オマエの命はオレが使っている。オレたちはさ、一つの命を取り合って生きているんだ。
だから―――オレがこうして活動すれば、オマエは死体みたいに動けなくなるっていうワケだ。
イシを殺すものはイシだからな。オマエの生きようとするイシより、オレの生きようっていうイシのほうが強い。
……まあ、それでもたいしたもんだ。オレは殺すつもりでオマエの動力を使っているんだが……おかしいな、どうしてオマエは生きているんだろう」
ヤツは本気で首をかしげている。
……首をかしげたいのはこっちだ。
なんだって俺の命とやらがコイツに使われているのか、そもそもコイツは何なのか、本当にワケがわからない。
「……まだわからないのか志貴。
だからさ、イシを殺すのはイシなんだよ。逆に言えばイシを殺しても器である体は死なない。
オレの中に在たロアはさ、オレ以外のイシだったんだ。
八年前の夏の日。ロアは、遠野シキというイシを殺した」
「――――」
だから。遠野志貴は、俺じゃないか。
「ああ、おまえは遠野志貴だ。反転して人間じゃなくなったオレの代わりに遠野家の長男になった、真っ赤なニセモノなのさ」
「―――――」
「まあ聞けよ。
……オレはさ、志貴。オマエのことが好きだったぜ。
オレも親父とは反りが合わなかったし、オマエは本当にいいヤツだった。オレたちは敵同士だったが、本当に仲が良かった。
もちろん秋葉のことだって愛していた。あいつがオマエのほうに懐いているのは許せなかったがな」
……ちょっ……ちょっと、待て。
コイツ。コイツは、何を――――
「……ああ、あの時の気持ちを覚えている。
目の前が真っ赤になって、なにもかもが気に食わなくなるんだ。鳥の声や木の葉のずれる音さえ耳障りで、気がつくと壊していた。
八年前の話だ、志貴。
あの中庭で、オレのイシはロアに殺された。
いつもならそれでロアが覚醒して終わる。けどな、遠野の人間は特殊なんだ。
オレという理性をなくした肉体は反転する。
反転衝動というのかな。今までタブーと思っていた事をまっさきにやっちまうんだ。
オレは心のどこかでオマエに嫉妬していたんだろうさ。結局、いあわせたオマエを殺した。
まったく、あの時以上の快感はなかったぜ!
この手をオマエの胸につっこんでさあ、心臓を抉り出した時の嘔吐感っていったら、もういっきに生まれ変わるんじゃないかって思うぐらいだった!
それがあんまりにも気持ち気持ちイイもんでさ、もう少しオマエの体で遊ぼうって思ってたのが運の尽きだったんだがね。
オレがオマエの心臓をキレイにしようって躍起になっている時にさ、誰かがオレとオマエの事を親父に密告しやがった。
親父のヤロウ、駆けつけてくるなりオレのことを殺しやがった! 実の息子のこのオレをだぜ!? ったく、酷い親父もいたもんだ。あんなんじゃ息子にくびり殺されても文句は言えないよな志貴!
まあ最後は――わりとスカッとしたけどな」
――――――血。
あの中庭で。
血にまみれていた、子供の死体は。
「――そうだ、ようやく思い出してくれたか志貴……!
そうなんだ、オマエを殺したのはオレなんだよ! だっていうのに生き汚いオマエは生き残って、あまつさえオレの代わりに遠野志貴になんかなりやがった……!
親父のヤロウ―――自分で殺したオレの体をゴミみたいに地下牢に捨てやがって。
遠野家の長男をなくすワケにはいかない、なんて下らない理由で養子のオマエを遠野シキに仕立てやがったんだよ、アイツは!」
俺が――――――――養、子?
「ああ。親父は奇跡的に助かったオマエを利用したのさ。幸いまだガキだったからな、オレたちは。
自分たちが本当の兄弟だって疑わなかったし、オマエも―――事故のショックでどうにかしてたんだろ。
親父の簡単な嘘に秋葉もオマエも騙されて、今まで本当の遠野シキであるオレを忘れていやがったのさ!」
――――――誰も、いなかった。
あの事故のあと。
どうして自分はあんなに一人だったのか。
それは、つまり―――
「そう、オマエがいらない人間だったからだ。
まあ、世間体を保つためにカタチだけは遠野志貴として扱われたんだろう。
―――ああ、だがオレにとってオマエは必要だった。
なにしろオマエから命を奪っていたおかげで、親父に殺されてもなんとか生きのびれたんだ。
その一点だけは本当に感謝してるぜ、志貴」
……わからない。
じゃあなんで。
俺は生きてる?
「さあな。それは俺も知りたいところだが―――まあ、どうでもいい問題だ。どのみちオマエはここで死ぬんだから」
言って。
ヤツ―――ロアは、ゆっくりと立ちあがった。
「―――遠野志貴を苦しめて殺す、というのがこの肉体……遠野シキの目的だ。それに今まで付き合ってきてやったが、そろそろ幕にしよう。
私も―――いつまでも二つの肉体に一つの命では効率が悪くてね」
声が、近づいてくる。
このまま殺される。
……いや、殺されているというのならとっくに殺されているのか。
手も足も動かない。
目も耳も鼻もきかない。
―――俺には、もう何もない。
コイツの言っている事は、あまり受け入れたくなかったけれど。
……もう、なにもかもどうでもいい。
俺の目が『死』を視ていたのは、俺自身が死人みたいなものだったからだ。
結局、俺はニセモノで。
八年前のあの夏の日に、とっくの昔に死んでいたんだから――――
「――――遠野くん――――!」
……けど、声が聞こえた。
泣くような。
すごく悲しく、叫ぶような声が聞こえた。
[#挿絵(img/シエル 19.jpg)入る]
―――闇に目が慣れたのか。
それとも、俺のイシとやらが、少しだけ目覚めたのか。
俺は、今までどんな状態であのクソヤロウの長話を聞いていたのか、あいつが今まで何に座っていたのか、ようやく把握した。
「―――チ、また蘇生したか」
ロアの足が止まる。
ヤツはそのまま、先輩へと振り向いた。
「大人しく死んでいろといっただろう。先ほどから見苦しいんだよ、君は」
ざく、と。
先輩の剣が、ロアの手で、先輩の体に突き刺さる。
「あうっ…………!」
苦悶の声。
じゃり、と先輩の爪が畳をかきむしる。
じゃり、じゃり。
その爪は剥がれかけていて、先輩の呼吸は車のエンジンみたいに乱れている。
なのに。
「……遠野、くん………!」
じゃりじゃりと。
人形みたいに倒れている俺に向かって、必死に、呼びかけ続けていた。
「……うるさい女だ。何度呼びかけても志貴には聞こえていないと言っているだろう。
そいつはな、もう生きる死体だ。私の声以外は聞こえない。
……いや、私の声さえ聞こえん。命を共有するという事でのみ、かろうじて私のイシを伝えているだけだというのが、なぜ解らない」
ざく、ざく。
無造作に、剣が先輩の体に刺さる。
「っ――――!」
びくん、と先輩の体が跳ねる。
それでも―――先輩は、本当にバカみたいに、俺に向かって名前を呼びかけ続けていた。
遠野くん。
遠野くん。
遠野くん、って。
痛みと、涙の混ざったクシャクシャな声で。
「――――――――」
聞こえてた。
……ちゃんと、さっきから聞こえてた。
でも、きっと先輩が言ってくれた半分も、聞いてやれなかった。
そんな、血を吐きながらも。
こんなガラクタの人形みたいになった俺に、ずっと呼びかけ続けてくれてたのに。
「―――死ねない体、か。
愚か者め、これほどの能力を有しているのならば私とて倒しえただろうに」
ざく。
「それが、こんな男のために自ら剣を放棄するとはな。見下げ果てたぞエレイシア。こんな無様なモノが私の娘と思うと吐き気がする……!」
ざく、ざくざく。
ロアは気が狂ったように、先輩の体を滅多刺しにしていく。
無防備な背中を。肩を。足を。喉を。
俺に向かって伸ばされた、血まみれの腕を。
ざくり、と容赦なく刺していく。
それでも。
それでもなお、先輩の口は俺の名前を繰り返している。
……聞こえない。
もう、聞こえない。
俺の耳がおかしいんじゃなくて、先輩の喉が、もう死んでいる。
なのに、俺に向かって叫び続けている。
そうすれば、いつかは俺が動けるようになるんじゃないかって願っているみたいに。
「―――――」
正直。
俺には、なんで先輩がそこまでしてくれるのか、わからなかった。
「―――――や」
気が狂いそうで。
俺なんかのために傷ついている先輩を見て、気が、狂いそう。
「――――――メ」
けど、動かない。
悔しいぐらいに動かない。
どうやっても―――どうやっても、この体が動いてくれない……!
「――素晴らしい。致死性を持つほど純粋な憎悪。瞬間だが、貴様から漏れたイシは私に迫る。
昏むような良い殺気をしているが―――コレは、そんなに目くじらをたてるほどのコトではないよ」
ロアが剣を引きぬく。
先輩の体が畳に沈み込む。
その前に、ロアの手が先輩の髪をつかんで、引きずりあげた。
「いいかい少年、一つ教授してやろう。
いかに無限に近い治癒能力を持つ吸血種でも、それは生きている間だけの話だ。
吸血種が不死身であるのは、かろうじて息が続いている間だけでね。完全に死んでしまえばその治癒機能も停止する。
吸血種は死に難いだけであって、決して不死ではないのだが―――」
ずっ、と音をたてて。
先輩の胸から、黒い剣が生えた。
くん、と胸がつきだされる。
ロアは背中から、先輩の心臓を、剣で突き刺した。
「っっあう………!」
死んでいたはずの喉が動く。
赤い血を吐いて、先輩は苦しそうに、ふるふると体を震わせる。
「だが―――この女の凄まじい所はな、少年。
たとえ完全に死んでしまっても、本人ではなく時間がかってに肉体を蘇生させるという所にある。
理解できるか?
この女は死したのち、誰の手も借りず、自分の手さえ使わず、この世界そのものが矛盾点を修復するために復元させてしまうのだ。
例えば―――ほら、こんなふうに!」
愉快そうなロアの声にあわせて。
先輩の額から、ずぶりと。
黒い、角が生えてきた――――――
あたま。
後頭部から。
あの細く鋭い剣で。
生きたまま、脳を串刺しにした、の、か―――
「ひゃははは、さすがに脳を突き刺せばぴったりと死んでくれたぜ! ほら見ろよ志貴、まるでテルテルボウズみたいに手足がビクビク動いているじゃんか!」
愉しそうに。
ロアという吸血鬼は、私からオレという有り方に変わっていた。
「でも見ろよ、一度瞳孔がひらききって生命活動が停止したっていうのに、もう心臓が再活動してるだろ? ……ったく、ふざけた命だぜ。
一つっきりの命でおっかなびっくり生きてるオレたちがバカみたいじゃねえか」
ブン、とロアが腕を振るう。
そのまま、本当にゴミのように、先輩の体が壁に叩きつけられた。
それが、決定的だった。
もう、いい。
もうどうなってもいい。
このままおかしくなって、
殺人鬼だなんて呼ばれるコトになっても、
コイツを。
「な、オレなんざコイツに比べれば可愛いもんさ。コイツはな、肉片の一つ残らず、細胞の一つ残らずをぶっ潰しても、無から完全に元通りになる怪物だ。どうあっても死なねえヤツを殺しても、それって罪になるのかなぁ……!」
ひひひ、と耳障りに笑い続けて。
ロアは、手に持っていた剣を、先輩の体にダーツのように投げつけた。
ざく、という音。
それが合図。
理性が、それで焼ききれた。
「―――――――――」
立ちあがった。
「貴様、なぜ動ける―――!?」
「―――――」
語るまでもない。
イシの強いほうが命を使うんだろう。
なら―――俺は今まで。
こんなに強く、一つのことを思ったことは、ない。
「嘘だ。オレが―――オレのほうが弱いっていうのか、オマエより……!」
ロア。オマエを殺してやる。
闇の中で。
ナイフと、ロアの爪とが交錯する。
ロアの動きは見えないぐらいに速い。
けれど、体が付いていく。
腕が別の生き物のように動く。
眼球は的確に執拗に確実に残酷に、ヤツの『線』だけを捉えていく。
全身が熱い。
頭蓋が焼ける。
初めて―――あの金髪の吸血姫を見た時のように、体中が別物になっている。
「チッ――――!」
ロアが離れる。
その片足。右腕上腕部分。鎖骨の左あたり。
それら三つの『線』は、すでに切断してある。
代償はこちらの右腕。
ロアは俺のナイフを持つ腕をまず潰した。
だから、こっちは残った左腕を潰されれば負けというコトになる。
この場合、負けというのは即死を意味する。
「―――まさかな。吸血種であるオレと互角か。
……おまえのその目は、ある意味オレ以上に私に相応しい業なのかもしれない」
「――――」
「気づかないのならいいさ。ああ、これは語るまでもないつまらない話なんだから」
じり、と。
ロアの体が、間合いを外していく。
「……大昔の話さ。永遠を生きるという事を考えすぎた愚かものの末路だよ。それを手にいれたのは、結局どちらだったのかなってコトさ。
―――永遠を生きる。
それがロアが夢見た奇跡だ。
私は輪廻転生することこそが永遠とした。
だがね、そんなものは一つの血族を延々と続けていくのと変わりはないのさ。
死を受け入れたロアというモノの子孫が最後に得る力があるとすれば―――それは吸血種として他者の命を奪う、というものではなく。
……少年。オマエのような死を視る力こそ、死に挑んだ私に相応しい果てではなかったのか、とな」
ロアの体が、わずかに低くなる。
「そのような、下らぬ感傷を抱いただけだ!」
ロアの腕が伸びる。
それを、咄嗟に切り返した。
「ぐっ―――!」
ロアが逃げる。
それを追う。
ロアの動きは、俺なんかの何倍も早い。
けど、そんなことは、あまり問題じゃなかった。
ただ殺す。
それ以外のことなんて、どうでもいい。
事実。
とっくにロアの片足を殺して、ヤツの動きは半減させている。
ロアは逃げながら。
壁に手をついて、俺を睨んだ。
「チクショウ―――自分と戦おうっていうのか、志貴」
「――――――」
「黙るな……! オマエはオレだ。オマエもシキならオレだってシキだ。
オレたちはな、似たもの同士だ。ロアなんてヤロウはいてもいなくても変わらない。
……オレはもともと人食いの変種でね、ガキの頃から人の肉を食いたいって衝動があった。今じゃ血なんていう物足りないものが主食になっちまったが、ロアが入ってこなかったら間違いなく人食いの化け物になってたさ。
―――だがな、それはオマエも同じだ。
オレが人食いに悦楽するようにさ、オマエも人殺しがスキなんだよ! 思い出せ、オマエがあの女を初めて見た時の衝動を、そのナイフで色んなモノを殺してきたあとの恍惚を!」
「――――――」
初めてあの女を見た時の衝動――――?
それは―――アルクェイドを殺した時のコトか。
「ああそうだ。オマエがどんなにイイ子ぶってもな、アレだけは言い訳がきかねえよ。オマエはあの女に欲情して、オマエが一番興奮する手段でサバいたんじゃねえか。
これが殺人鬼じゃなくてなんだっていうんだ。
オレとオマエは、所詮同じイキモノ―――同じトコロに棲んでいる異常者なのさ」
「――――――」
……うるさい。
これ以上コイツの声を聞いていると、おかしくなる。
「そう、同じだ。
なのにどうしてオレを殺す! ただオレにだけロアのヤロウが入ってきただけだろう!?
もしロアがオマエに入っていれば、オレたちの立場はまるっきり入れ替わっていたハズなんだ……!
なのにオレを殺すのか!? おまえは、おまえは自分に手をあげているんだぞ……!」
ロアが叫ぶ。
八年間。
この街に巣くって、何人もの人間の血を吸ってきた化け物が叫ぶ。
「―――おまえは俺じゃない。つまらない、ただの人殺しだ」
「ハッ、わかってないな。オレだって初めはそう思ってた。オレはマトモだ。ロアの意思があってもきっと大丈夫だってな。
けどダメだった。オマエも同じさ。オマエも、オレと同じ、ただの人殺しになりさがるんだよ、遠野志貴!」
おかしそうにロアは笑う。
「そうだろう? 知っているぜ、オマエの中にもアレが生まれてるって。
いいか、オマエに生まれつつある衝動はオレから流れたものじゃない。
いいかげん認めろよ殺人鬼。
オマエの反転する衝動は、紛れもなくオマエ自身の望みなんだってな……!」
「―――――」
ナイフを構える。
これ以上、ロアの声を聞きたくない。
じっと、ヤツの体を凝視する。
あとは、それを切断するだけ。
「……そうかよ。どうしてもオレを殺すっていうんだな、志貴」
じり、とロアが体を引く。
それがヤツの最後の行動―――
「けどさあ、オレたちは本当はどちらが殺されたのか疑問に思わないか?」
「――――」
ぴたり、と。
襲いかかろうとした、体が止まった。
「そう、結局オレたちは二人ともあの中庭で死んでいるんだ。
ならさ―――本当はロアに殺されたのがオレで、生き残っているおまえが、蛇っていう吸血鬼に乗っ取られた遠野シキかもしれないだろ?
なあ志貴。どうしてこうも考えないんだ。
本当はさ、オマエ本人が気がついていないだけで、とっくの昔にオマエはオレみたいに狂っちまってるんだって!」
――――――――それは。
そんなコトは絶対にない―――と言いきれるのか、ホントウに?
「はっ―――!」
だん、と背中から壁に蹴りつけられた。
「ぐっ……!」
なんてコト。くだらない言葉に踊らされて、見誤った。
残った左腕も切り裂かれて、血に染まっている。
力は一切入らず、ナイフは床に転がっている。
そうして―――目の前には、血走った目をしたロアがいる。
「―――バーカ、そんなワケがないだろう。ロアはオレだよ。オマエはただ、オレと意識下で繋がっていたから反転衝動を持っただけだ」
にやり、と笑って。
ロアは一歩踏み込んできた。
「じゃあな、志貴。最後はわりと楽しかったゼ!」
そうして、ロアはカッターの刃みたいに伸びた爪を振り下ろした。
「――――――」
痛みがない。
ただ、ビシャリ、と血の飛び散る音がするだけ。
「女、貴様――――!」
ロアの声。
目の前には、俺を庇ってロアの爪を受けている、先輩の体がある。
「――――――――」
何も考えられない。
否、何かを考える必要なぞない。
俺は床に落ちているナイフを食った。
ガギリ、と柄を歯で噛み砕いて。
ロアにぶつかって、崩れ落ちるように。
ヤツの肩口からナナメに走った『線』を、切断した。
「くああああああああああああああああああ!」
化鳥じみた断末魔をあげて、ロアが跳ねる。
俺と先輩から逃げるように窓際まで跳び退いて、ヤツはそのまま落ちた。
窓ガラスを割って、校庭へと落ちていく。
「逃がすか―――!」
窓ガラスまで走りよる。
「くっ………!」
けど、さすがに三階から飛び降りるなんて真似はできない。
月夜の下。
死の『線』だけでは致命傷には至らなかったのか、ロアは獣のように走り去っていく。
「―――」
……追いかけられない。
ここからじゃヤツには追いつかない。
けど、追いかける必要はないみたいだった。
月明かりの下、走り去っていくロアの影が止まった。
校庭にのびる影は一つではなく二つ。
一人は、獣のようにうずくまるロアの影。
一人は、気高く敵を威圧する白い装束の吸血姫。
―――勝敗は、それこそ一瞬でついた。
ロアは断末魔をあげて、その場でサラサラと塵になっていく。
「――――アル……クェイド」
悠然と立ち尽くしたアルクェイドは、一度だけ俺に視線を投げて、そのまま消えるように立ち去っていった。
「は――――あ」
……疲れた。
どさり、と体が倒れこむ。
壁を背にして、だらしなく座り込む。
「ぐ―――」
口にくわえていたナイフが落ちる。
右手は肘から下の部分がねじれて、骨が捻じ曲げられている。
左手は肩口あたりからザックリとロアの爪を受けてしまって、だらりと下がったままピクリとも動かない。
両腕が動かないだけで、なんだかイカかタコにでもなった気分だ。
「……先……輩」
廊下を見渡す。
さっき、俺を庇ってくれた先輩が倒れている方へ首をまわす。
と。
「先―――輩、傷、いいのか」
「はい。あのぐらいの傷なら、すぐに治ります」
先輩の顔色は、暗くてよく見えない。
ただ、いつもより青白いな、と思った。
「ぐっ――――!」
――――どくん。
頭痛。
――――どくん。
頭痛が、
――――どくん。
まだ、『線』を見てしまっているから、
――――どくん。
頭痛が、する。
「……遠野くん? どうしたんですか?」
「いや――頭、頭が―――痛い、だけ」
頭痛をこらえながら、なんとかそう返答する。
両手。両手が動くんなら、頭を支えて少しぐらいは気分が落ち着くっていうのに、俺の手はどっちも動いてくれない。
「―――死を視すぎた反動かもしれません。
……遠野くん、無理をするから。一人でロアを倒そうとするなんて、無茶です」
「……無茶じゃないよ。無茶っていうのは先輩のほうだ。どうして―――あんな、ヤツに、いいようにやられてた、んだよ」
「それは……わたしが油断して、その……」
「―――ばか。話、聞こえてた」
……先輩が、俺のために自分から剣を放棄したって、聞こえてた。
「……俺なんかを庇って、あんな目にあうなんて、ばかだ」
あんなになってまで、俺の名前を呼び続けていたなんて、どうかしてる。
「……そうですね。わたしが何かするまでもなく、遠野くんは自分から蘇生してくれましたから。
わたし、お節介なことをしただけ、でした」
「――――――」
そんな―――そんなこと、ない。
「……でも、聞こえた」
「遠野くん……?」
「先輩の声が、ちゃんと聞こえた。先輩が名前を呼び続けてくれたから―――俺、まだ生きているんだなって、思えた」
だから、やっぱり。
俺を救ってくれたのはこの目でもロアへの殺意とかじゃなくて、
ただ、先輩の声だけだった。
「ぐっ―――!」
「遠野くん―――!? 傷、痛むんですか? 待っててください、すぐに治療しますから……!」
「……いや、腕の傷はそう痛くない、んだけど……」
頭痛が、酷い。
外側から突き刺されるような痛みじゃなくて、内側から弾けるような、痛み。
「……『死』を視すぎた反動です。遠野くんの脳が思考速度を急激に早めてしまったため、それにあわせようと血が流れすぎてるんです」
「……それは、わかってる、けど」
「いいですか、あなたの力は遠野くん本人にとっても危険なものです。これ以上『本来の目では見れないもの』を見ようとすれば、急激な血の流れに血管が耐えられなくなる。
人間……自分に近い生物の『死』を視るぐらいなら問題はないでしょうけど、本来殺せないものの『死』を視ようとすれば、いずれ死んでしまいます」
「……ああ、それは大丈夫、先輩。
ロアは……あいつは死んだんだ。もう、これ以上、『死』を視ることなんてないんだから――――
だから、もうこんなモノ視なくていい。
……先輩、俺のメガネ、知らない?」
「――――――は?」
「メガネ……メガネがないと、勝手に余計なモノが視えちまうんだ。
アレがないと、俺はおかしくなる。……先輩、きっと茶道室に落ちてるから、持ってきてくれないか」
「遠野くん、何を言ってるんですか。メガネなら、ちゃんと――――」
「……わかりました。すぐに取ってきますから、遠野くんは目を閉じていてください。これ以上その目を使うと、遠野くんが参ってしまいますから」
「―――そうする。悪いけど、頼むよ」
言って、眠るように瞼を閉じた。
しばらくして。
こめかみに先輩の指の感触がした。
「はい、これでオッケーです。目を開けてもいいですよ、遠野くん」
「あ……」
死の線が消えている。
頭痛のほうは目を閉じた時からしなくなっていたから、これでようやく―――まともに先輩の顔が見れる。
「ありがと先輩。これで元通りになった」
「なに言ってるんですか。遠野くんを元通りにするのはこれからなんですから、まだじっとしていてください」
言って、先輩は俺の横に座り込む。
「―――へえ、見た目ほどひどい傷じゃないですね。これならすぐに治せますから、もう少し我慢していてください」
先輩は割れ物を扱うような手つきで、ねじれた俺の腕に触れていく。
「ん――――」
なんか、ぬるま湯をかけられているような、くすぐったい感覚。
冷え切っていた腕が段々と熱を持つようになって、そのあとに、麻痺していた痛みがやってきた。
「あいた」
「はい、痛みがあるのは生きている証拠です。それじゃあ次は左手のほうですね」
先輩は軽い足取りでこっちの左側に移動して、今度は傷のある肩口に手をあてる。
「……すごいな。左手、もう治ってる」
「すごくなんかないですよ。わたしはこれが本職なんですから、できて当たり前なんです」
……これが本職って、先輩は看護婦さんか何かなんだろうか。
まあ、看護婦さんはねじれた腕を数分で治してしまう、なんて芸当はできないけど。
「……なあ、先輩」
「――はい?」
「先輩って、いったいどうゆう人なのかな。考えてみたら、俺はシエル先輩のこと、なにも知らない」
傷口に触れていた指が止まる。
けど、それも一瞬だけの反応だった。
「遠野くんと同じですよ。わたしも、生まれつきこういう体をしていたワケじゃありません。
一度死にかけて……いえ、一度死んでそこから生きかえった人間なんです。なんか、そうしたら生きかえるのがクセになっちゃいまして」
冗談のつもりなのか、先輩の台詞は苦笑まじりだ。
「……なんだよそれ。普通さ、死んだら生きかえってこれないよ」
「ですから、わたしは普通じゃなかったんです」
「普通じゃないって……その、アルクェイドみたいに?」
「……………………」
先輩は答えない。
傷の手当てが終わったのか、先輩は立ちあがった。
「はい、おしまいです。どうですか、ちゃんと動きます?」
「……………」
とりあえず立ちあがって、軽く両手を動かしてみた。
指は思い通りに動くし、痛みは少ししかない。
「ああ、問題ないみたいだ。……ありがとう先輩。とにかくもう、色々助けられっぱなしだ」
先輩は何も言わず、ただ笑顔を向けた。
「それじゃあ帰りましょう。もうここには何もありませんから」
先輩は歩き始める。
……廊下に落ちているナイフを拾って、俺も学校を後にする事にした。
……月明かりの下、二人で正門まで歩いてきた。
先輩は何も言わない。
俺は先輩の背中を見つめながら、あまり考えたくないことを考えていた。
ロアは消えた。
アルクェイドも去った。
初めから彼女たちの目的がロアの消去であったのなら、もう、先輩がここに残る理由はない。
「………………」
……冗談じゃない。
そりゃあそういう理屈はわかっていたけど、いくらなんでも―――こんなに早く、その時が来るなんて思ってもいなかった。
俺は先輩に、残ってほしい。
残ってほしいけど―――こればっかりは俺の問題じゃない。
「…………」
ちらり、と先輩の顔を盗み見る。
先輩は。
先輩はこれからどうするつもりなんだろう……?
と。
いきなり、先輩が足を止めた。
「遠野くん」
感情のない目で、まっすぐに見つめてくる。
「……なに、先輩」
「さっきの話の続きです」
「さっきの話って―――その、先輩がアルクェイドみたいって、ことですか」
こくん、と先輩は頷く。
そのまま、じっとまっすぐに俺の目を見て、先輩は口を開けた。
「遠野くん。わたしが吸血鬼だったらどうしますか?」
「なっ――――」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
先輩が何を聞きたいのか、俺にはてんで解らない。
ただ――
「……先輩は先輩だよ。たとえ吸血鬼だろうと、それは変わらないと思うけど」
先輩の表情は変わらない。
ただほんの一瞬だけ。
寂しそうに微笑んだ気がした。
「わたしは彼女と同じなんです。彼女が経験のない吸血鬼であるように、わたしは自覚のない吸血鬼なのかもしれない」
独白するように、先輩はそう言った。
「……………」
言葉がない。
……そんなことを言われたら、なんて答えていいのか解らない。
だから、さっきと同じように、自分の素直な気持ちを言うことしかできなかった。
「……いいよ」
「え?」
「だからいいって言ったの。吸血鬼でも、俺は先輩が好きだよ」
「な――――」
先輩は呆然と立ち尽くす。
こっちはなんていうか、勢いで言ってしまったということもあって、顔を赤くしてあさっての方向を見てみたりする。
「ああもうっ、とにかく言いたい事はそれだけだ! さ、早く帰ろうぜ先輩!」
照れ隠しにそう言って、現実に引き戻された。
帰る。
帰るって、先輩はどこに帰るのか。
「――――――」
一気に気持ちが凍っていく。
先輩の顔を見るのが恐くて、振り向けない。
「―――遠野くん」
背中ごしに、先輩の声が聞こえた。
感情のない、静かな声。
「……なに?」
振り向けずに返答する。
「わたしが何のためにこの街に来たか、知っていますよね」
「――――ああ。残念ながら、知ってる。ロアを、退治するためだろう」
「……ええ。けど、その理由までは話していませんでした。本当は今日、茶道室でお話しようと思ってたんですけど、なんかあっけなく終わっちゃいましたね」
「……そうだね。ちょっと、拍子抜けした。
けど先輩がロアを追っていたのは、教会っていうところの仕事なんじゃなかったの」
「……いえ。わたしの所属しているところは、なんていうかあんまり仕事がないんです。あっても年に数回、ちょっと呼び出される程度で。
ですから今回の件はわたしの独断なんです。わたしは教会の指示によってではなく、自分の意思でこの街にやってきました」
「……先輩の、意思?」
「ええ。わたしは自分の事情だけでここに来たんです。わたしは人間として死にたいから、ずっとロアを追っていました。わたしの体がこんなになってしまったのはカレに原因がありましたから」
……死にたい。死にたいって、それは―――
「……ただそれだけのために、わたしはこうして生き長らえてきました。
けど、それも終わりです。
……五年間。長かったのか短かったのか、よくはわかりませんけど」
感情のない声は、そこで終わった。
たん、と踊るような足取りで、先輩は俺の前に顔を出す。
「ですから遠野くんには感謝しています。
わたしの仕事はこれでおしまいです。あとは、残った自分の責任を、果たさなくちゃいけません」
「……先輩、やっぱり―――」
もう、行ってしまうのか。
「今までありがとうございました。わたし、こんなに嬉しかったの久しぶりです。
ですから、最後に握手しましょう」
先輩は手を差し出してくる。
その手を、無言で握り返した。
ただ、強く握っただけの、握手。
「それではお別れです。えっとですね、わたしがいなくなっても乾くんと仲良くしてくださいね。
わたし、遠野くんと乾くんみたいな学生になりたかった。
あ、あとですね、あんまりメガネを外しちゃダメですよ。特異なモノは特異なモノを引き寄せるんです。今回は解決しましたけど、次はどうなるかわからないんですから」
「……ああ。わかってる、それは昔教えられたよ。
そもそもさ、俺がメガネを外したのなんて、本当にここ最近だけの話なんだぜ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
先輩の指が離れる。
握手が終わって、俺たちはすこし距離をとった。
「それじゃあさよなら。また会えるといいですね、わたしたち」
「――――」
返事はできなかった。
止めるコトも、できなかった。
◇◇◇
屋敷に帰ってきた。
時刻は夜の九時すぎ。……門限を一時間もオーバーしてしまっている。
「あっ、志貴さん。今日は随分と遅いお帰りなんですね」
今まで居間にいたのか、琥珀さんが出迎えてくれた。
「ただいま。ごめん、遅くなった」
「いえ、無事に帰ってきていただけたのならいいんです。ご夕飯でしたらすぐに作りますから、居間のほうでお待ちしていてくださいな」
「あ―――居間には秋葉はいる?」
……門限が守れなかったとかそういった理由ではなくて、ただ―――ロアの話が気になって、今は秋葉とまともに顔を合わせる自信がない。
「いえ、秋葉さまでしたらお部屋のほうに戻られていますから、安心していいですよ」
「……いや、そういうわけじゃないんだけど……ねえ琥珀さん。この家にさ、俺と秋葉以外の兄弟がいたっていう話、聞いたことがある?」
「そういった話はないと思いますね。どうしたんですか志貴さん。なんかあったんですか?」
「―――いや。ただ、俺に兄貴がいたかもしれないって、そんな話を聞いてさ。ちょっと記憶に自信がなくて」
「志貴さんと秋葉さまは二人きりの兄妹ですよ。幼いころからこの屋敷で働いているわたしが言うんですから間違いありません」
琥珀さんは愉快そうに笑った。
「―――え? 琥珀さん、昔からここで働いてたの……!?」
「はい。見習としてですけど、翡翠ちゃんと一緒にお屋敷のほうでお手伝いをさせていただいていたんです。何分昔のことですから、志貴さんが覚えてらっしゃらないのは当然だと思いますよ」
昔を懐かしんでいるのか、琥珀さんは笑顔のまま居間に戻っていく。
「…………」
結局、アイツの言っていた事はなんだったんだろう。
「―――まあ、今になっちゃどうでもいい問題か」
呟いて、夕食を作ってもらうために居間へと足を向けた。
……夜になって、ベッドに横になる。
シーツをかぶって、ぼんやりと天井を見上げる。
――――終わった。
傷や思い出とかは残ったままだけど、とにかく、これで終わったんだ。
これからは普通の学生として、今までどおり平穏に生きていける。
殺したり殺されたりするのは、いい加減もうこりごりだ。
忘れよう。
みんな忘れて、また明日から――
「っ―――――」
……わけがない。
忘れられるわけがない。
「く――――そ」
でも、こればっかりはどうしようもない。
初めから、俺と先輩は住む世界が違ったんだから。
「………………」
……眠ろう。
明日になれば、きっと諦めがついてくれる。
いまは眠って、気持ちを落ち着かせないといけない―――
……眠れない。
胸がイライラして眠れない。
「………しょうがないな」
ごそごそと枕もとから適当な本を取り出して、眠くなるまで小さな英文を目で追い続けた。
[#ここから3字下げ]
1976年。
わたしはフランスの片田舎の、一商人の子供として生を受けた。
東洋人の母を持つわたしの容姿は母ゆずりで、街のどこにいても異邦人のような違和感を持って育った。
けれど街の人々はみな一様に陽気で、わたしを笑顔で迎えてくれた。
わたしはその笑顔に応えられるように、日々を素直に、前向きに生きていた。
父の手伝いをして、学校に通って、当たり前の片思いをした。
それがわたしに課せられた義務であり、当然のように許された幸福だと疑わなかった。
十六歳の誕生日を迎えるまでの、本当にわずかな時間だけの日々ではあったけれど。
それは、わたしの体に突然訪れた。
たとえば子供たちと遊んでいるとき。ワケもなく、そのか細い首をへし折りたくなる。
たとえば道端に哀れなものごいを見かけたとき。 おかしくて、その胸にナイフを刺したくなっている。
……その感情には理由がなかった。
誰にも打ち明けられず、わたしは日に日に部屋に閉じこもりがちな人間になっていった。
暗い情念は、わたし本人からくるものだった。
自分が二重人格になってしまったとか、他の誰かの心がわたしの中に入ってきたわけでもない。
そもそも、わたしはそんな非科学的なことは信じていない。
わたしの思いは、誰だって思う、ほんのささいな破壊衝動だ。
夜更かしした次の日、いつもどおり起こしにきた父さんにちょっとした恨み言を口にしたり。
雨上がりの大通りを歩いていて、道を行く自動車に水たまりの水をかけられて不愉快になったり。
そんな小さな、ほんの一瞬だけの意識がカタチになって自分を支配してしまう。
だから。
わたしはこのままでは、自分が恐ろしいことをしてしまうと理解していた。
わたしには、もう自分の部屋に閉じこもることしかできなかった。
誰にも会わず、何もせず日々を過ごしていくしかできない。
……そうすれば、誰も恨むことがなくて、何にもいきどおりを感じることがなくなるから。
―――けれど、それは間違いだった。
部屋という檻の中で息を潜めて過ごしていくうちに精神は磨耗して、やがて、臨界を超えてしまった。
その日。
もう、完全に入れ替わったわたしが思ったことは、喉の渇きだった。
ゆるり、と弱った肉体を引きずって、部屋の外に出る。
サロンでくつろいでいた両親は、何ヶ月かぶりに部屋から出てきたわたしにかけよってくる。
心配そうによりそってくる父と母を微笑みで迎えて、わたしはふたりを殺害した。
本当に、あっけなかった。
わたしは衰弱した体のまま、両親の喉に食いついてごくごくと喉をならす。
二人分の血と命を吸い上げて、わたしは身を起こした。
「―――百年ぶりか。今回の肉体は、素晴らしく魅力的だ」
それは、聞いた事もないわたしの声だった。
くく、と口元をゆがませて、わたしだったものは自らの体を抱きしめた。
◇◇◇
―――それはどんな偶然だったのか。
本来、私が生まれ代わる家柄というのは前回の私があらかじめ定めておいた家柄である。
しかし前回の私は、それを決定しきる前に『姫』に討たれてしまった。
私は、肉体的に私に相応しい者という条件しか決められず、不完全な転生をした。
結果として肉体として素質はあるものの、社会的地位の低い、普通の家庭の子供として生を受けてしまった。
これでは人知れず街を支配下に置くことは難しい。
だが、私は悲観しなかった。
むしろ、この全身をうつ閃光は歓喜であろう。
たしかに普通の家柄ではその時代の権力を掌握するのに時間がかかる。
この私では社会的に街を掌握するのは困難だろう。
だが、その不自由さと引き換えに、私は真に優れた肉体を手に入れた。
今まで。
私は肉体と家柄を天秤にかけ、その結果として真に優れた肉体には出会わなかった。
だが―――今回の肉体が持つ魔力回路の多さは過去において最大であり、大本の私―――一人目の私とほぼ同等の素質を有していた。
私は、今までの自分の計算高さを嗤った。
家柄など、いくらでも後から作ることができる。
だが肉体の素質だけは、後付けのきかない天性の物に他ならない。
こと十七回目の転生にして、私はようやくその真実にたどり着いた。
目覚めた私は、ごく自然に、水が地面を浸食していくように、ひそやかに街の人々を配下にくわえていった。
けれどその手段は今までのように乱暴ではなく、むしろあまり血を流さないものだった。
理由は、ひどく残酷なものである。
転生した私という意識は、それ単体では存在できない。
あるのは『〜をこうしたい』という意思だけである。
今、この肉体を動かしているのは私だが、その過程・方法を選ぶのは肉体として育ち、肉体とともに形成された精神であるわたしだった。
つまり―――わたしは意思だけは私という転生体のものであるが、意識はもとのわたしのままなのだ。
わたしの意識はあり、記憶も確かにある。
わたしは眠ったまま、自分が犯す悪夢を見続けることしかできない。
覚えている。
両親の喉に食いついた時の感触を。
わたしに笑顔を向けてくれた街の人たちを一人一人、じっくりと足元から熔かすように、その魂を陵辱し続けた日々を。
わたしは、たった一月で。
街の人たちの命を掌の上に乗せて、ただ己の快楽のためだけに弄ぶようになった。
いっそ、狂いたかった。
狂って、全てを私にゆだねたかった。
けれどそうすれば、わたしは今以上の罪を犯すだろう。
わたしは、ずっと。
このまま正気を保ち続けて、せめて私の行為が最小限に収まるように生きるしかない。
救いがあるとすれば、それは。
悪夢の終わりは、わりあいあっさりと訪れたという事だった。
その白い女は、赤い月の夜にやってきた。
わたしは知らない。
けれど私はそれが誰であるか解っていた。
戦いの末、白い吸血姫はわたしを仕留めた。
すでに転生の準備を進めていた私はまたも転生し、あとに残されたのはわたしの遺体だけとなる。
白い女は去り、わたしの遺体は、法王庁に運ばれた。
[#ここで字下げ終わり]
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●『10/朱い残滓U』
● 10days/October 30(Sat.)
「――――――!」
バッ、とシーツをはいでベッドから飛び起きた。上半身がバネじかけのカラクリにでもなったみたいに、勢いよく体が起きる。
「な―――――」
額に浮かぶ汗をぬぐう。
なにか酷い夢で見たのか、体中がべっとりと汗をかいていた。
特別うなされるような夢をみた覚えはない。
……眠る前に見ていた本の影響だろうか。
少しはイヤなものを見たような気がするけれど思い出せない。
……まあ、夢は忘れ去られる運命にある、って有名な博士も言っていることだし、そう躍起になって思い出そうとする事もないだろう。
―――コンコン。
控えめなノックの音。
「――おはようごさいます、志貴さま」
「ん、おはよう」
挨拶を返してベッドから立ちあがる。
翡翠は手に持った着替えの制服を机の上に置いて、しずしずとドアのほうへ戻っていく。
「それでは、着替えが済みしだい食堂のほうへおいだください」
「ああ。いつもすまないね」
はい、と返事をして翡翠は部屋から出ていく。
「…………あれ」
翡翠の顔を見て一息ついたせいか、さっきまで何を考えていたか忘れてしまった。
「……まいったな。こんなに忘れっぽかったかな、俺って」
自分自身に首をかしげながら制服に着替える。
机の上にはナイフがある。
ここ数日、いつもポケットに忍ばせていた父の形見だという短刀。
―――それも、もう使う事はないだろう。
「………そっか。もう、いないんだ」
アルクェイドもシエル先輩も。
ネロというケモノの群れも、ロアっていう吸血鬼も。
みんな、いっしょくたになって何処かに行ってしまった。
「忘れたものは、案外それかもな」
学校に行っても何があるわけでもない。
先輩がいないのなら―――別段楽しいという場所ではないだろう。
けど、それが今までの遠野志貴の日常だった。
俺は新しく得たものを無くしただけ。
もとからあったものは、ちゃんと全てありのままで残っている。
「―――――はあ」
そう思えば、先輩がいなくなってもやっていける。
忘れられないけど、やっていける。
そう自分を誤魔化して、ドアを開けた。
さあ。
今まで通り、元気に学校に行くとしよう―――
七時五十分。
正門の前は登校する生徒たちの姿であふれかえっている。
今日が土曜日というコトもあってか、みんなたいていは明るい顔つきで登校してきていた。
「………………」
その中を、一人陰鬱とした顔をして歩いていく。やっぱり、どんなに自分を鼓舞したところで先輩がいないっていう事実が、重く肩にのしかかってしま――――
「――――――え?」
一瞬、我が目を疑ったけど、間違いない。
目の前に、シエル先輩がひょこひょこと歩いて登校している。
「せ、先輩―――!?」
思わず声をあげると、先輩はこっちに振りかえった。
「あ、遠野くん。おはようごさいます」
ぺこり、と先輩はおじぎをしてくる。
「おはようごさいますって、先輩帰ったんじゃなかったのか……!?」
「いいえ。わたしが遠野くんを置いて帰るわけないじゃないですか」
淡い笑顔で、先輩はそう言った。
遠野くんを置いて帰るわけが、ない。
まわりには登校中の生徒たちがうようよしているっていうのに、ぼっ、と自分の顔が熱くなるのを実感する。
「――――えっと、それは」
「はい、なんですか?」
「その、言葉通りの意味として、受け取っていい、んでしょうか」
「はい、遠野くんの想像にお任せします」
先輩は曇りのない笑顔で頷く。
「――――――――!」
息がつまる。
それはもちろん、今まで感じてきた緊張からくる苦しさじゃなくて、あんまりにも嬉しくて胸が熱くなっているからだ。
もし周りに誰もいなかったら、やったあ、なんて大声で叫び出しているぐらい、どうかしてる。
「先輩!」
がしっ、と先輩の手を握る。
「それじゃあ、もう本当にどこにも行かないんだな!? ずっと、このまま学校にいるんだな!?」
「あのですね、ずっと学校にいたらおばあさんになっちゃいます。わたしは三年生なんですから、あと四ヶ月で卒業ですよ」
「でも、ちゃんと残ってくれるんだろ? 昨日みたいにいきなり帰るなんていうコトはないんだよな?」
「はい。こうなったら最後までお付き合いします」
「いやったあーーっ!」
手を離して、なんとか体中の力を堪える。
とにかく、いますぐグランドを何周も走りたい気分だった。
まるで宝くじで一等が当たった時みたいに、気分がハイになっている。
いやいや、そんなものが当たるより今はもっと、何倍も何倍も笑い出したい気分だ。
もう、こうしてジッとしているのが我慢できないぐらい、どうかしてる。
「遠野くん、そろそろ行かないと遅刻しちゃいます」
「――――あ、そうだね。それじゃ先輩、また休み時間に!」
先輩に手をふって、先に校舎に向かう。
俺は独りでにやけながら、教室まで全力で走り出していた。
◇◇◇
――――一時限目が終わった。
次の授業まで、十分間だけの休み時間がある。
「―――よし」
三年のどこかの教室にいる先輩を捜しに行こうと、席を立った矢先。
「あれ、どこかに行っちゃうんですか、遠野くん」
―――先に、先輩がやってきた。
「いや、先輩を捜しに行こうかなって。いつも待ってるばかりだからさ、たまにはこっちから行こうって思ったんだ」
「そうですか。嬉しいですけど、遠野くんわたしのクラスを知らないでしょ? 3年のBクラスですから覚えておいてくださいね」
「へえ―――やっぱりちゃんと授業を受けてたんだ。感心感心、茶道部の部費でお茶飲んでるだけじゃなかったんだね」
「はい、なんとか授業についていってます――
って、遠野くん、わたしのことそういうふうに思ってたんですか!」
「――う」
思っていなかった、と断言できないところが後ろめたい。
「あー、いや、悪かった。けどさ先輩、茶道部に部員はいないって前に言ってたけど、もしかしてこの学校、初めから茶道部なんてないんじゃない?」
先輩は突然、口の中に氷を投げ入れられたみたいに、大人しくなってしまった。
「……あれ。もしかして本当にないの? あの茶道室って、使われてないただの和室?」
「―――さあ。わたしにはてんでわからないお話みたいです」
シエル先輩は窓の外に視線を移して、あからさまに怪しいとぼけかたをする。
「……いいけど、別に。どんな悪さをしようたって、先輩は根っからの悪人じゃないからな。誰にも迷惑をかけてるようなコトはないんだろうけど、先輩の暗示ってそんな事まで出来ちゃうのか?」
「ですから、遠野くんのお話はてんでわからないのでお答えできません」
「―――――」
机に座ったまま、下からじっとシエル先輩を見つめる。
沈黙すること、一分弱。
「……わりとしつこいんですね、遠野くん」
「別に。ただ先輩の目って青いんだなって、見てただけ」
「……………」
はあ、と根負けしたようにため息をつくシエル先輩。
「言っときますけど、暗示っていうのはそんなに都合のいいものじゃないんです。
暗示というのは物事の捉え方を変える、のではなく逸らす、というのが大前提なんです。
ですからわたしが、『遠野くんはカレーが大好き』って言い聞かせても、遠野くん本人がカレーが大嫌いならその暗示は成功しません」
「……そうなの? つまり本人が嫌がっている事は暗示にかけられないっていうコト?」
「はい。まあ、それでも遠野くんにカレーを食べさせる方法はいくらでもありますけど。
例えば、大好きだから食べる、というのではなく、食べなければ死んでしまう、という暗示をかければ――」
「なるほど、大嫌いでも食べるしかないな。……なんだ、やっぱりなんでも出来るじゃないか、それ」
「いえ、そういった意味の挿げ替えはとても難しいですから、よっぽど舞台を整えてやらないとかかってくれません。
暗示にかかりにくい人も大勢いますし、わたしに出来ることなんて『わたしを疑問に思わない』っていう暗示ぐらいです」
……ああ、それは前にアルクェイドも言っていたっけ。
「―――なるほどね。ところで先輩」
「はい? なんですか、あらたまって」
「うん。先輩、なんかカレーにこだわるけど。もしかして、好きなの?」
シエル先輩は笑ったまま答えない。
なんとも微妙な表情で、否定しているのか肯定しているのか判別不可能だ。
「っと、そろそろ時間ですね。また放課後に来ますけど、遠野くん体のほうは大丈夫ですか? 両腕、ちゃんと動いてます?」
「ああ、もう痛みもないよ。こうして学校に来れるのは先輩のおかげです」
感謝、と手を合わせて拝んだりする。
「そうですか。それじゃ頭痛のほうはどうです? 昨夜はすごく痛がってましたけど」
「頭痛のほうもオッケーだよ。だいたいメガネをかけていれば問題なんかないんだから」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
シエル先輩はトコトコと廊下に向かって歩いていく。
と。何かを思いたったようにピタリと足を止めると、くるりとこっちに振り向いた。
「聞き忘れてました。遠野くん、気分のほうはどうですか」
「―――いや、気分はいいけど。その、先輩がいてくれたから、悩みが消えた」
「よかった。それじゃあ何かおかしなことがあったら、遠慮なく相談してください。これ、わたしの部屋の電話番号です」
「―――――え」
シエル先輩は電話番号の書かれたメモ用紙を俺に手渡して、早足で教室から去っていった。
「……電話番号って……これ?」
渡されたメモ用紙を呆然と眺める。
シエル先輩は昨夜のことを心配してくれてこんなコトまで教えてくれるんだろうけど……。
「……すっごいラッキーだけど。いいのかな。こんなトントン拍子で」
……我ながら情けない。
生まれつき小市民なせいか、自分の幸福を素直に喜べない性格らしい。
◇◇◇
ホームルームが終わって、教室はにわかに騒がしくなる。
時刻はまだ十二時になっていない。
土曜の放課後は賑やかだ。
すぐに家に帰る生徒と、教室で昼食をすませて部活に出ようとする生徒たちがごちゃごちゃと入り混じっている。
席を立って、帰りの支度をしながら先輩を待つ。
……と。
いつから学校にきていたのか、有彦が怪しい笑みをうかべたまま近寄ってきた。
「遊びに行こう、遠野」
……前振りも何もなしで、実に率直に己の欲望を叩きつけてくる。
「……また、今日はえらく率直にきたな。なんかイヤなことでもあったのか、おまえ」
「べっつにー。今日はワケもなく親友と遊びに行きたくなっただけだぜー」
……露骨にあやしい。
「お断りだ。どうせ約束をすっぽかされたかなんかしたんだろ。今日は先輩と帰るんだから、おまえのグチに付き合ってやる余裕はないよ」
「先輩? 先輩って、シエル先輩?」
有彦の眉が跳ねあがる。
「……そうだけど……有彦、おまえ先輩のこと覚えてるのか……!?」
「なんですかソレは。先輩はオレの大本命だぞ、忘れるわけないじゃんか」
あっさりと、当たり前のように有彦は即答した。
「………………」
そっか。シエル先輩が学校に戻ってきたんだから、何もかも元通りになったっていうことなんだ。
「あっ、せんぱいだー」
教室のドアを指差す有彦はとても嬉しそうだ。
「お待たせしました。乾くんも、こんにちは」
シエル先輩は丁寧におじぎをする。
「それじゃ帰りましょうか。それとも茶道室に寄っていきます?」
「そうしようか。このまま帰ると正門でお別れだもんな。今日はもっと先輩と話がしたいし、茶道室でお茶でも飲みながら―――」
「――――!?」
せ、背中にいきなり何者かによる衝撃が――
「どげし」
「……………おまえか、有彦」
「そう、オレだ。あんまりこうゆうのに口だしする趣味はないんだが、今のはあんまりにもアレだったんで、口だしをする」
有彦は呆れたような目で俺と、ついでにシエル先輩まで一瞥する。
「?」
思わずシエル先輩と顔を合わす。
「あのね、キミたち。せっかくの土曜の半ドンをどうしてそういうふうにしか使えないんだ。
茶道室に寄っていくんなら、もっとマシな遊び場があそこには山ほど転がってるだろうに!」
ビシッ、と大げさに有彦は窓の外を指差した。
「……えっと、ドコでしょうか」
「窓の外は、まあ、ようするに外だと思うけど」
シエル先輩の疑問に、自分なりに答えてみる。
と。
また有彦に殴られた。
「遠野、オマエがそんなだから先輩までボケちまってるんじゃないか!
いいか、土曜日だぞ? まだ昼なんだぞ? ついでにオレたちは学生なんだぞ!? これだけの条件が揃っていてどうして街に遊びに行こうとか思わないんだ、オマエは!」
「――――む」
ばかもの。
それぐらい俺だって思ってる。
思ってるけど、その―――
「?」
シエル先輩の姿を盗み見る。
この人は街で派手に遊ぶより、公園とかでのんびりしたほうが性に合っているような気がして、どうも誘えない。
これから街に遊びに行こうっていっても、先輩は断ってくると思うし―――
「そうですね、それじゃあ三人で遊びに行きましょうか」
「………先輩?」
「いいじゃないですか。もう何に気がねをする必要もないんですし、遠野くんと乾くんと三人で遊びに行くんならきっと楽しいです」
「あ―――うん、先輩がいいっていうなら、俺も嬉しいけど」
「はい。乾くんもいいですよね?」
「―――――――」
コクコク、と有彦は首を上下に動かしている。
……あいつ自身、まさかこんなコトになるなんて予想だにしてなかったんだろう。
「それじゃあ決まりですね。えっと、二人ともお昼ごはんはどうします? お家で食べてくるか、それとも三人で一緒に食べましょうか」
「いや、それは学校でいつもやってるし、外食する分の金は遊びにまわそう。俺も有彦もあんまり金もってないし。な、有彦」
「……う……オレ、姉貴に金借りてもいいかも」
……どうも有彦はシエル先輩と外食がしたいらしい。
「―――先輩は? なんか外で食べに行きたいところとかある?」
「いえ、わたしはあんまり……人前でごはんを食べるのは、ちょっと」
「そっか。人よりいっぱい食べるもんな、先輩。そりゃ金がかかるか」
「ち、違いますっ! なんてコト言うんですか遠野くんは!」
……いや、今まで茶道室で一緒に昼飯を食べてきたデータをもとに、客観的に意見を述べただけなんだけど。
「いいです、わたしも乾くんに賛成です。今から三人でお昼ごはんを食べに行きましょう。映画館の横にあるアーネンエルベのストロベリーパイがおいしいらしいです」
「おっ、通だね先輩! あの喫茶店のマスター、実はどこぞのイタリア料理の達人らしいぜ!」
……また、どうしてこの男はそういうワケのわからない噂話に詳しいんだろう。
「それじゃ映画館の前に三十分後に集合しましょう。いいですね、遠野くん!」
「―――あの。俺、家に帰るのに三十分かかるって知ってるだろ、先輩」
シエル先輩はずかずかと廊下へと去っていった。
「おーし。遅れてくれ遠野。いっそ一日ぐらい遅れてくれてもかまわないからな!」
有彦もダッシュで教室から立ち去っていく。
……なんだか、あれよあれよとおかしな話になってきた。
「……ま、いいか」
ともかくシエル先輩と遊びに行けるんだ。
鞄を手にとって、こっちもダッシュで家に帰る事にした。
◇◇◇
「あら、志貴さん今日はお早いお帰りなんですね」
「ああ、ただいま琥珀さん。ちょっと急いでるから、また後で!」
「志貴さま? お帰りになられたのですか?」
「いま帰ってきたトコ。すぐに出かけるから、昼飯は用意しなくていい!」
「よし、十五分!」
学校からここまで、新記録を更新した。
鞄を机に放り投げて、すぐに制服から私服に着替える。あとはそのまま、息つく間もなく部屋から飛び出した。
屋敷から街の大通りまでは学校から屋敷までの距離より遠い。
はっきり言ってあと十五分でたどりつける距離ではない。
先輩は俺の家が坂の上にあるって知ってて、あんな無理難題な待ち合わせ時間を指定したのだ。
「―――くそ、案外いじわるなんじゃないか、あの人は」
ぼやきながら、階段を駆け下りていく。
―――――ずきん。
「――――――え」
―――――ずきん。
いきなり、何の前触れもなく。
―――――ずきん。
目の前が、真っ赤になった。
「―――志貴さま!?」
……翡翠の声が聞こえる。
ドタドタ、という足音。……翡翠とは思えないぐらい、慌てている。
「志貴さま、お怪我はありませんか!?」
耳元で声がする。翡翠の姿は見えない。
―――――ずきん。
ただ、頭痛がする。
「落ちついて翡翠ちゃん。階段から落ちた怪我は打撲だけだから、お医者さまを呼ぶほどのことじゃありません。
それより志貴さんの体が熱いんです。階段を踏み外したのも熱のせいでしょうから、すぐにベッドの用意をして」
「わかりました。姉さん、このことは秋葉さまには……」
「そうですね、このまま大事がなければお報せする必要はないでしょう。それと解熱剤がわたしの部屋にあるから、お願い」
タタタタタ、と翡翠の足音が遠ざかっていく。
俺は―――
「志貴さん、気がつかれました?」
「……琥珀……さん?」
「はい。志貴さん、いま派手に階段から転がってきたんですよ。幸い背中に痣ができている程度ですから大事はないようですけど、熱がありますね。
どこかにお出かけするみたいでしたけど、今日はこのまま休んでください」
琥珀さんは俺の肩に手をやって、なんとか立たせてくれた。
「いや――大丈夫だから、休む必要なんてないよ。きっと、ここまで全力で走ったから息があがってるだけなんだ」
「だめです! そんな、今にも吐きそうな青い顔して何を言ってらっしゃるんですか。
これでもわたし、志貴さんの主治医さんからキチンと志貴さんの健康管理を任されているんです。このまま志貴さんを危ない目に合わせる事はできません」
「でも、約束が―――」
「お断りの連絡でしたら引き受けます。あんまり無茶するようでしたらお注射の出番ですからねっ」
……琥珀さんは俺を引きとめるように、前に立ちはだかっている。
―――ずきん。
頭痛が、する。
俺は――
―――それでも約束を破る事はできない。
「っ――――!」
刃物が体に突き刺さるような頭痛。
それを堪えて、なんとか前へと歩き出す。
「いけません、志貴さん! そんなお体で出かけられてはわたしたちが秋葉さまに叱られます!」
琥珀―――さんが、外に出ようとする俺の、邪魔をする。
「――――」
……この人が止めようとする気持ちもわかる。
こんな頭痛を抱えて遊びにいっても、そこいらで倒れてしまうに決まっている。
だからここでじっとしていろって言っている。
けど聞けない。
「……うる……さい」
何故だろう。
なんの理由もなく、思った。
いま会いにいかなければもう永遠に、マトモなままで先輩に会えないだろう、と。
「何かお約束をされたのならわたしが代理で断りに行きますから、志貴さんは部屋に戻って――」
「うるさい、そこを退けって言ってるんだ……!」
「あ――――」
乱暴に琥珀さんを押しのけて、外に向かって走り出した。
「いけません、志貴さん……!」
琥珀さんの声をふりきって、吐き気を堪えながら走る。
ただ走った。
先輩との約束に追いつけるように、
何か得体のしれないモノから逃げるように、
倒れる寸前の躯にムチをうって走った。
―――街は人間であふれかえっている。
熱い陽射し。
むせ返る惰性に満ちた活気は見苦しい。
どうしてこう。
無為な昆虫のように、知性あるものが、命題もなく群をなすのか。
「―――――――」
……朦朧とする。
吐き気と眩暈のせいだろうか。
何か、自分が、自分でないような、気がする。
「――――――先、輩」
周囲を見渡す。
先輩は――――何処に、いるんだろう。
意識が霞んで見つけられない。
―――――見つけられない。
こう人が多いと。
。見つけられない―――              こう雑多すぎると。
何も。
意味などないような
眩暈が
[#挿絵(img/24.jpg)入る]
「あ、遠野くん。驚いたなあ、ほんとに時間通りに来たんですか?」
「先……輩?」
―――初めて見た。先輩の、私服だ。
「……えっと、さっきはちょっといじわるしちゃいました。そんなに疲れるぐらい走らせちゃって、ごめんなさい」
―――ぺこり、と頭をさげてくる先輩。
「―――――っ」
ばかだな。そんなこと、気にしなくていいのに。
「あ、遠野くん―――!?」
……ああ、吐き気がする。
けど来て良かった。
先輩の私服を見れたんだから、こんな眩暈ぐらい我慢して、今日は三人で楽しく遊ばなくっちゃいけない―――――
――――気がつくと、ベッドに眠っている自分がいた。
「あ―――れ」
首だけを動かして周囲を見る。
ここは自分の部屋で、窓の外は夜。
部屋には翡翠がいて、眠っていた俺の様子をうかがっていた。
「志貴さま、お目覚めになられましたか?」
「……翡翠。俺は、どうして」
手足がしびれて、自由のきかない体のまま、首だけを動かして翡翠を見る。
「志貴さまは外でお倒れになられました。
志貴さまと同伴していたご学友が屋敷に連絡をくださいまして、そのまま志貴さまをお屋敷にお連れしました」
「――――そうか。結局、俺は」
琥珀さんを押しのけておいて、気を失ってしまったっていうワケか。
「……バカみたいだ。琥珀さんに、会わせる顔がない」
後悔と一緒になって頭痛がやってくる。
……体の具合はそれなりによくなってはいるみたいだけど、頭痛だけは消えてくれない。
「……翡翠。俺の体、どうなったんだ?」
「ご安心ください。志貴さまのお体に大事はありませんでした。姉さんが処方した鎮痛剤もありますから、頭痛がするようでしたらお飲みください」
翡翠は銀のトレイに水と、琥珀さんが用意してくれたっていう薬を持ってくる。
だが、今は飲む気になんてなれなかった。
「……ああ。ひどくなったら自分で飲むから、そこに置いておいてくれ」
「姉さんは槙久さまのご好意で薬剤師としての教育を受けさせていただいたんです。
槙久さまが亡くなられる前は、槙久さまの健康面での相談役でもありました」
翡翠はいつもの無表情な顔に戻って、そんな聞いてもいないコトを言ってくる。
「ぐっ…………!」
キリキリと、こめかみが痛む。
こっちはこんなに苦しんでいるっていうのに、翡翠は眉一つ動かさないで、俺の看病をしているつもりらしい
……まあ、それも当然か。
痛いのは俺であって翡翠じゃない。
彼女が、俺の代わりに痛いフリをして暗い顔をされるのも面倒だ。
「ぐ――――っ!」
「志貴さま、まだどこか痛むのですか?」
「―――翡翠、悪いけど」
「はい、なんでしょう」
「目障りだから、出ていってくれ。そこにいられると気になって眠れない」
「――――はい。それでは失礼します。何かご用がありましたらお呼びください」
翡翠が部屋を出ていく。
心なしか、それで気持ちがスッとした。
頭痛も収まって、これでゆっくり眠れるだろう。
……。
…………。
…………………。
…………………………。
…………………………………。
…………………………………………。
……………………………………………………。
コンコン、と甲高い音がして、扉が開いた。
「―――失礼します、兄さん。起きてらっしゃいますか?」
「……ああ、起きてるよ。なにか用か秋葉」
「いえ、兄さんが貧血で休んでいる、と聞きましたから様子を見にきただけです」
秋葉の視線は、ベッドで横になっている俺に向けられている。
いかにも心配しています、といった憂いを帯びた視線。
……正直、うざったい。
「体はなんともないよ。看病されるほどのものでもないから、こうして一人で休んでいるんだ。秋葉も自分の部屋に戻れ」
「―――兄さん、なに言ってるんですか。
もう夕食の時間なんですよ。わたし、兄さんを呼びにきたんです」
……夕食……?
ああ、もうそんな時間なのか。
けど空腹というわけでもないし、何か食べたいという意欲もない。
「食欲はないから、夕食はいいよ。いいから、今日は下がってくれ。気分が悪いんだ」
「……わかりました。今日はゆっくりお休みください。ですけど兄さん。起きてらっしゃるのでしたらお部屋の電気をつけてください。暗がりにいると目を悪くするでしょう」
「―――いいんだ。このほうが落ちつくから」
「………………」
秋葉は最後まで何か言いたそうな目をして、部屋から出ていった。
「………………」
ああ、イライラする。
翡翠の態度とか、秋葉の心配そうな目とか、なんだってそんな腫れ物を扱うみたいに俺に接するんだ。
こんなのはいつもの事だろう。
別に血を吐いてるとか血を吸ってるとかの大怪我をしているワケじゃないんだから、ほっといてくれないのか。
――――ギリ。
暗がりの中で、自分の歯軋りの音がする。
「…………」
神経がささくれだっている、というのが自分でもわかる。
このまま起きていると鬱になってしまいそうだ。
眠くはないが、なんとか眠ることにしよう。
大通りに出た。
日付はつい二分ほど前に変わった。
日曜の午前零時。
道を歩く人影は皆無だ。
時間を誤ったか。
あと一時間早く出歩けば、こんな手間はかからなかったろうに。
ずるずると歩く。
ずるずると音をたてているのは、
ずるずるとしているモノであって、
ずるずると自分が歩いているわけではない。
時間は正しかった。
あと一時間早く出歩いていれば、こんなふうに歩くことはできなかったろう。
ずるずる。
片手に、女の髪を掴んで歩く。
長い髪。秋葉に似ていたから、この女に決めた。顔は似つかない。ただ、髪が気に入った。
髪から手を離す。
女は、意識を失ったまま地面に倒れこむ。
殺してはいない。
夕食を食べていないので、食事は、できるだけ食欲をそそる方法でとりたかった。
死人の血は、冷えていてあまり美味くはないと聞いた事がある。
化粧けのない女の首筋は、悪くはない。
ナイフを片手に握ったまま、その首筋に向けて、口を――
という夢を見て、目が覚めた。
「――――っ!」
眠りから覚めて、意識がはっきりとしてくる。
喉がひどく渇いていて、全身がざわざわと総毛だっている。
「なんて―――夢を」
見ているんだろう、俺は。
信じられない。
夜の街に出て、見ず知らずの女性を後ろから昏倒させて、路地裏に連れこむなんて。
はっきりいって、どうかしてる。
夢だからいいようなものの、現実にあんな真似をしていたら、それこそ気が狂っている。
「はあ―――はあ、はあ――――」
なぜか荒くなっている呼吸を整える。
瞼を指で押さえて、深呼吸をした。
……ちょっと、いくらなんでもこれから二度寝はできそうにない。
部屋の電気をつけて、朝が来るまで本でも読んでいよう。
目が、次第に。
暗闇に、なれてきた。
「―――――――――――な」
息が止まった。
ここは、自分の部屋なんかじゃない。
路地裏。
俺の手にはナイフ。
目の前には。
気を失って倒れている、見知らぬ女。
「は――――――――――」
何を。
何をしているんだ、俺は。
夢じゃないのか。
さっきまでのは夢じゃないのか。
「――――――――――」
夢のはずだ。
だって俺は、こんなコトをしたいなんて一度も思った事がない。
見ず知らずの女を襲って、
そのしなやかな体に走る幾条もの『線』にナイフを走らせ、
手足を解体して赤い、あかい血を見たいだなんて、少しも――――少しも?
あぁ、少しも思っていないのに。
でも、どうしようもなく―――それをしなくちゃいけなって、考えて、しまっている。
バラせ。
バラせ。
バラせ。
バラせ。
そうすれば、俺は。
つまらないしがらみから解放されて、誰にも束縛されない生き物になれる。
そういえば。
似たようなコトを言っていたヤツが、いたっけ。
―――オマエも同じさ。オマエも、オレと同じただの人殺しになりさがるんだよ、遠野志貴。
「…………さい」
―――いいかげん認めろよ殺人鬼。
オマエの反転する衝動は、紛れもなくオマエ自身の望みなんだってな――
「うる……さい」
けど、なんだ。
これはなんだ。
俺はどうしてこんなコトをしているんだ。
こうして気がついた今も、どうしてナイフを女の首につきたてようとしているんだ。
夢でなく、現実でこんなコトをしてしまうというのなら。
それは気が狂っているという事だと、さっき思ったのは誰だった?
「――――ん」
女の瞼が動いた。
女の目が覚める。
その前に。
確実にバラしておかないと。俺は―――
「あ」
ナイフが動く。
でも、それは。
「……だれ?」
女の声が聞こえる。
彼女は、自分の首元にあてられているナイフに気がついた。
「きゃ――――」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
女の悲鳴は、俺の叫び声にかき消された。
叫んで。壊れたサイレンみたいに叫び続けて、気がつけば走っていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――」
指が震える。
頭の中が真っ白だ。
それでもかろうじて、あの女性にナイフを突き刺す前に走り出せた。
だが。もし彼女が、俺より先に悲鳴を上げていたのなら。
俺は、あのまま――――
「はっ、はっ、はは、ははははは………!」
恐い。
それは恐い。
今まで体験してきたどんな恐怖より、これは恐い。
「はっ、はっ、はっ……!」
追ってくる。
背中に覆い被さってる。
いくら逃げても―――自分の恐さから逃げられない。
「はっ、はっ、はあ!」
部屋に飛び込んで、鍵をかける。
ガチャガチャと音だけがして、うまくかけられない。
指先。
指先が狂ったように動き回って、ただ金属のポッチをスライドさせるだけの作業が、どうしてもうまくできない。
「はっ、はっ、はっ!」
恐い。
早く鍵をかけないと部屋に入ってくる。
得体のしれない何かが入ってくる。
「くっ……………!」
鍵、鍵をかけないと。
この部屋に入れちゃダメだ。
この部屋から出しちゃダメだ。
でも何を?
わからない。
わからないまま、狂ったように鍵をかけ続ける。
がちゃがちゃと、一晩中鍵をかけようと努力した。
何時間かけても鍵一つかけられない。
それで思った。
俺は、とっくに狂ってしまったんだ、と。
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●『11/蜃気楼(T)』
● 11days/October 31(Sun.)
朝になって、ようやく、鍵が閉められた。
はあ、はあ、はあ
ケモノの息遣いめいた呼吸音が部屋に充満している。
頭がいたい。
メガネをどこかで落としてしまったらしい。
部屋中に『線』が視えて、吐き気がする。
はあ、はあ、はあ
あんまりにも吐き気がするから、片っ端から切りつけた。
気持ちが、少しだけ楽になる。
モノを切断する瞬間だけ、心が穏やかになってくれた。
反面、モノを切れば切るほど、その後にまっているのは倍化する渇きだった。
はあ、はあ、はあ
何に渇いているのか、もうわかりきっている。
俺はとにかく、あらゆる物に渇いていた。
目に映る全てのものが腹だたしい。
見苦しい。
死を内包しているくせにだらだらと生きている無様さが許せない。
なぜ死なない。終わりがあることから逃れられぬのなら、なぜそうやって存在している。
いずれ終わるのならば―――有る意味など何処にある。
見えているモノが全て不気味に見えてしまう。
かといって目を閉じれば、思い出すのは人を殺した時の感触だけだ。
硬い、血のかよっていない刃物が、
柔らかな、脈打つ肉と一体化していく感触。
おそらくは人としてアレにまさる刺激はありえまい。
舌を噛み切りたくなるほどのおぞましい感触だった。
それが正であるか負であるかは問題ではない。
とりわけ俺の場合、一番初めの相手が最悪なまでに最高だったから始末が悪い。
……アルクェイド。あいつの体を十七つに解体した時の興奮が、脳に焼き付いて離れない。
あの美しい肢体を。
人間の器でありながら、ヒトを遥かに凌駕した強靭な命を。
ざっくざくに切断した時の快感は終わっていた。あの時。殺されたのはアルクェイドではなく、俺の脳髄のほうだったに違いない。
はあ、はあ、はあ
全て壊したくて、
全て殺したい。
それが禁じられている事だとわかっているのに、我慢できそうにない。
体中が興奮していて、どうにかしそうだ。
「志貴さま、起きてらっしゃるんですか?」
「――――っ!」
扉の向こうから翡翠の声が聞こえてきた。
「志貴さま、鍵をかけられては困ります。起きていらっしゃるのでしたら開けてください」
「…………け……る……?」
ドアを、開ける?
扉を開けて、翡翠を中に入れる?
―――冗談じゃない。
そんなコトになったら、俺は何をするかわからない。
こうして―――こうして一人きりになって、カーテンを閉めきってベッドにうずくまって、かろうじて理性が欲情を押しとどめてくれているのに。
だっていうのに、翡翠になんか入ってこられたら、それこそ俺は―――
「―――うるさい! 俺にかまうな!」
ドアに向かって、大声で叫んだ。
「……志貴さま? 体調が優れないのですか?」
「かまうなって言ってるだろ……! いいから、大丈夫だから俺にかまわないでくれ……!」
部屋に―――中に入ってきたら、きっと取り返しのつかない事をしてしまう。
「……………」
沈黙のあと、翡翠の足音が聞こえた。
静かに、俺の部屋の前から遠ざかっていく。
はあ、はあ、はあ
―――これで、安全だ。
そう思ったら少し落ちついた。
気晴らし―――気晴らしに、本でも読もうか。
「あ―――れ」
いつも枕元にあった本がない。
英文で書かれた本。……そりゃあ俺に読めるはずがないんだけど、それでも気晴らしにはなるはずなのに。
探しても見付からない。
見つからない。
必死にどんな装丁だったかを思い出す。
どうしても、思い出せない。
はあ、はあ、はあ
「本―――本」
考えてみれば。
あんな本を、俺はどうして枕元になんか置いておいたんだろう。
知らない。あんな本を持ってきた記憶がない。
あんな本がどこにあったのかも知らない。
そもそも―――そんなもの、本当にあったんだろうか。
……本当は、オマエ本人が気づいていないだけで
……耳障りなロアの声を思い出す。
あの本―――その内容。
いつも眠れなくて読んでいた本。
でもそれは、眠っている時に、眠れないという夢を、見ていただけじゃ、なかったのか。
……とっくの昔に、遠野志貴は狂ってるのさ……!
ロアは、そんな言葉を言っていた。
ユメ―――ゆめ。
でも、俺はあんな夢なんかみない。
そもそも、遠野志貴の中にあんなワケのわからない知識はない。
あんな夢を見る材料がない。
アレは、俺の夢なんかじゃない。
おまえ本人が、気がついていないだけで
「――――うる、さい」
はあ、はあ、はあ
それじゃあアレはなんだ。
俺はいったいいつから、自分でないヤツの夢なんてものを見始めていたっていうんだ。
オレとオマエは繋がっているんだ志貴
「――――だまれよ、死人」
とっくにくたばった貴様が、何度も何度も耳障りな声をあげるんじゃない。
俺は―――貴様とは違う。
俺は殺人鬼なんかじゃない。
今はただ、後遺症で戸惑っているだけだ。
せっかくシエル先輩が帰ってきてくれたのに、こんなコトで、イカレてなんかやるものか。
―――ああ、オレも初めはそう思ってた。
ロアなんてヤツが入っていても―――
「―――黙れって言ってるだろう……!」
はあ、はあ、はあ――――
……呼吸が荒い。
太陽の光が癇に障る。
喉が。喉が渇いて、どうかしそうだ。
「志貴さま……! なにをしていらっしゃるんですか、志貴さま!?」
ドアの向こうから翡翠の声が聞こえる。
……答える余裕がない。
コトバ。自分のコトバを、思い出せない。
頭に浮かぶのは。
頭に、浮かぶのは。
ただ、欲望のままに。
雌を、犯したくて、犯したくて
狂ったように発情している、自分の姿だけ。
「うわあああ――――!」
頭。頭を壁に打ち付ける。
何度も何度も、額が割れそうになるまで打ちつける。
それでも―――翡翠をズタズタにしようっていう考えが、頭の中から消えてくれない。
がんがんと、壁に頭をうちつける。
まるで俺のソレと競争するように、翡翠のドアを叩く音が大きくなっていく。
はあ、はあ、はあ――――
そういう、コトか。
この衝動。
俺の意思を残したままで狂わせようとするこの衝動。
これが。
これがロアなのか。
でもどうして。少なくとも、俺はずっとマトモだったのに。
この屋敷に帰ってくるまでは、本当に普通の人間だったのに。
どんどん、とドアを叩く音がする。
けれどそこを開けるワケにはいかない。
開ければ、俺はそれで終わってしまう。
[#挿絵(img/21.jpg)入る]
「あ―――――」
ようやくわかった。
あの夢は、俺より一代前のロアの記憶だ。
部屋に閉じこもって、そのあげくに両親を殺して、自分の住んでいた街を吸血鬼だらけにしてしまった、見知らぬ誰かの、最後の記憶。
「――――――」
……手段がない。
コイツは、俺が自殺すれば解決するという問題でもない。
こればっかりは、もうどうしようもない。
前のヤツの気持ちがわかった。
俺が死んだところで、死ぬのは俺のイシとやらだけだ。そうなれば残ったロアのイシがこの体を完全に操るだろう。
そうなれば―――もっと酷いコトになる。
「は―――はは、は」
……もっとも、俺には自殺するなんていうつもりは微塵もないんだけど。
「志貴さま、開けてください、志貴さま!」
ドンドン、と扉の向こうから翡翠の声が聞こえる。
……翡翠の声は、どこか知らない異国のコトバのように聞こえた。
遠すぎる。
たった一枚。たった一枚の壁を隔てただけなのに。
今はそれが、もう月と星の間ぐらい、遠く離れて聞こえていた。
午前十時になった。
翡翠は諦めて引き下がった。
かわるがわる、秋葉や琥珀さんがやってきて扉をノックしたが、すべて無視した。
十二時。
……腹がへった。
けど、まだ大丈夫だ。
シーツをかぶって、ガタガタと震える体を抱きしめている。
二時。
……喉がかわいて、死にそうだ。
時間の感覚が、少しおかしい。
とてもゆったりと感じられる。
興奮剤をうたれつづけているみたいに、体中が動き回りたくて暴れている。
四時。
……またドアがノックされた。
名前を呼ばれる。
それが誰の声だったか、誰の名前を口にしているのか、どうしても判別できない。
五時。
段々と暗くなっていく。
六時。
七時。
八時。
―――誰か、きた。
「志貴さん、夕ごはんをもってきました。朝から何も食べていないんじゃまいってしまいますよ」
琥珀の声だ。
どんどん、と扉をノックしている。
「もう、こうなったらお食事だけでも食べてもらいますからね」
ガチャガチャ、という音。
ドアをノックする音ではなく、鍵を開けているような、そんな音。
「ふふふ、最後の切り札マスターキーの出番ですよー」
「――――あ」
カギが、開く。
……扉が開く。
もう遅い。今から彼女を追い返しても、部屋の中に入られる事は変わらない。
――――それでも。
食事を食べる、という行為は、できない。
それはひどく牡的な喚起をさせて、かろうじて残っている『遠野志貴』という自分を、粉々に砕いてしまう。
「……はあ……はあ……はあ……」
息があがっている。
なんとか。
コレを、抑えつけないと。
「志貴さん、中に入りますからねー……って、どうしたんですか、これ」
彼女は笑顔のまま、そこらじゅうズタズタに裂かれた部屋を見て驚く。
「……はあ……はあ……はあ……」
恐れを知らない、可憐な顔立ち。
俺をまったく警戒していない、無防備すぎる姿。赤い髪と―――うっとりするぐらい生々しい、美味そうな肌。
「志貴さん……? おかしいですよ、なにがあったらこんなふうになっちゃうんですか」
笑顔のまま、彼女はベッドの上に丸まった俺に近づいてくる。
―――――――――――――――――早く。
ダメだ。
――――――――――――――早く。
ちがう。
―――――――――――早く。
やめろ。
――――――――早く。
だまれ。
――――――早く。
イヤだ。
――早く。
オレは。
「に―――げ、ろ」
最後に残った理性を限界まで引き上げて、なんとかその単語を口にした。
「え? ごめんなさい、よく聞こえなかったのでもう一度言ってもらえますか、志貴さん」
なのに、逆効果だ。
琥珀は安心しきって、ベッドにうずくまった
俺の/オレの、
体に/躯に、
顔を/貌を、
寄せて/誘って、
きた。
ぽん、と白い指が肩に触れた。
血の通った指。
わずかな体温。
パチン、と頭の後ろのほうで、火花が散った。
「キャ……!」
悲鳴らしき声が聞こえた。
俺の手は、琥珀の首を掴んでいる。
「はあ―――は、あ、は――――」
呼吸が荒い。
俺は。何を。しようとして。いるのか。
「志貴さ、ん―――」
琥珀の声が小さくなっていく。
かまわず腕に力をいれた。
ぎっ、と。
琥珀の首の骨が、軋む。
「や、め―――!」
ぞり、と音がした。
琥珀の指が、俺の腕に爪をたてたのだ。
殺される一歩手前で、彼女も必死なんだろう。
琥珀の爪は、服の上からでも俺の皮膚を引き裂いて、肉まで千切っていた。
「い――――た」
痛い。
首を絞められている琥珀に比べれば鈍痛。
だが血が流れていく。
引き裂かれた皮膚から流れた血は、腕を伝って、琥珀の首を絞めている手にまでこぼれてきた。
「は――――は」
真っ赤に染まる。
もう抵抗をしてこない琥珀の首に、赤い血が流れていく。
琥珀の感触は、よくわからない。
ただあと数秒で彼女が死ぬという事実が、なぜか。
「はは――――は」
例えようもなくおかしくて、笑いがこみあげる。琥珀の首を絞めて、まだ一分と経っていない。
彼女は酸欠で死ぬんじゃない。
ここで、俺に。
「は、はは、は」
何の理由もなく、唐突に。
「ははは、は―――は、は、は」
或る道具として。
「あはははははははははははは!」
首の骨を折られて、死ぬだけだ。
瞬間。
憑き物が落ちたように、熱さが消えた。
目の前には顔を真っ赤にした琥珀さんの体がある。
俺の腕はいまも琥珀さんの首を握り締めて―――
「――――――!」
急いで手を離した。
音もなく。
琥珀さんの体は、床に転がった。
「うっ……は、っ――――」
琥珀さんは目を閉じたまま、苦しげに咳き込む。
「琥珀―――さん」
……生きてる。
あと少し。あともう少しあのままだったら、俺は間違いなく、この人をこの手で―――
「うっ……っ、う、う………」
……泣いている。
琥珀さんは、倒れたまま、動くこともできずに泣いている。
見れば。
彼女の着物には、白い液体がべっとりとこびりついている。
それは、俺の精液だった。
俺は―――射精することで、自分の中にたぎっていた衝動から、解放されたのか。
「―――――は」
信じられない。
俺は片手で琥珀さんの首を絞めながら、もう片手で―――何かを殺す、という事にこの上ない快感を、感じていたのか。
――――どく、ん。
それは、まだ終わっていない。
俺の生殖器は依然としていきり立っているし、なにより俺自身、まだ全然潤っていない。
渇いている。
こんなに―――琥珀さんにこんなひどいコトをしたっていうのに、まったく終わらない。
事実、いまだって罪悪感が薄れていって、すぐにでも、琥珀さんの喉。
白い喉。
喉に、歯を、つきたてて。
―――――血を、吸いたく、なっている。
「――――はは」
壊れた。
「あは、あはは」
もう、本当に壊れた。
俺は、ダメだ。
これ以上―――正気でいられる自信がない。
「あはは、ははは、は」
外。
外に出ないと。
このままじゃ琥珀さんを殺してしまう。
屋敷にいれば秋葉や翡翠にも手をかけてしまう。だから、またあの衝動が来る前に、消えないと。
「あははははははははは!」
誰もいないところ。
誰もいないところ行かないと、また俺は狂ってしまう――――
屋敷の外に出る。
……なんてことだろう。
まわりには誰もいないのに、人の気配を感じる。建物。まわりにある家々から、人の気配を感じ取っている。
「はあ――――はあ――――――」
こんな人が沢山いるところにいると、また堪えきれなくなる。
どこか―――どこか周りに誰も存在していないところに行かないと安心できない。
誰もいないところ。
周りに誰も住んでいないところ。
……俺が狂ってしまっても、誰にも迷惑のかからないところ。
「……はあ……はあ………」
公園には誰もいない。
ここならまわりに家もない。
……誰もいないはずなのに、落ち着かない。
いくら離れていても、人々の家がまわりにある。遠くには街の明かりが見えている。
「あるわけ、ない」
そう、あるわけがなかった。
街の中で、人間の気配がまったくしない場所なんてあるわけがなかった。
本当の意味で一人になることなんて、文明の発達した街じゃもう不可能なコトだったんだ。
「く――――そ」
まわり。
まわりには人間が沢山いて、少し歩くだけで、獲物なんていくらでも手に入る。
「だま―――れ」
頭がいたい。
せっかく、あの忌々しい『線』が視えなくなったっていうのに、これじゃまた視えるようになってしまう。
「――――え」
待ってくれ志貴。
それはおかしいだろ。
だって俺は、気が昂ぶっていたから『線』を視ていたというワケじゃないハズだ。
『線』はどうしたって、メガネがなければ視えてしまうものなんだ。
だからいくら今は落ちついていても、メガネがなければ視えてしまう。
けど俺はメガネを落として―――
「――――あ、る」
指で顔を触ってみれば、メガネはずっと顔にかかったままだった。
ようするに、俺は。
先生にもらったメガネをかけていても、もう自分の視力を制御できないというコトか。
「は―――はは」
思い知った。
ロアの言っていたとおり、俺一人気がついていないだけで、遠野志貴はとっくに狂っていた。
あの夜。
シエル先輩を陵辱していたヤツを、心の底から殺してやると思ったあの時から。
「……そうか……それじゃあ、あの時の頭痛は」
ロアと殺しあっていた時の頭痛。
メガネを外した覚えもないのに死の『線』が視えていて、シエル先輩にメガネを探してもらったあの夜。
あの時から、俺は―――メガネをしていても、俺の意思とは無関係に『線』が視えるようになっていたのか。
「……先輩……知ってた、んだ」
いや、きっと黙っていてくれたのか。
俺を心配させないように、俺の勘違いを嘘で守ってくれていた。
「……そうだ……先……輩」
何かあったら相談してください、ってあの人は言ってくれた。
電話番号なんか、とっくに暗記している。
「電話―――」
すぐ近くに公衆電話がある。
けど―――電話をしてどうするんだ?
俺の体は誰にも治せない。
いくらシエル先輩だって、俺の中身までは治してくれない。
でも、会いたい。
シエル先輩の声を聞きたい。
今の自分が唯一人弱音を言えて、それを聞いてくれるひと。
シエル先輩がいてくれるなら、俺はまだ遠野志貴でいられる。
「……………」
ダイヤルを回す。
呼び出し音が三回鳴ったあと、受話器ごしにシエル先輩の声が聞こえた。
「はい、もしもし。どなたですか?」
「……………」
不思議だ。
この人の声が、すごく温かく聞こえる。
「もしもし? おーい、聞こえてますかー?」
とぼけた声。
一度だけしか行ってないけど、シエル先輩が自分の部屋で受話器を持っている姿が想像できた。
「………………」
言葉が出ない。
何を言っていいのか、わからない。
いや、やっぱり電話なんかするんじゃなかった。このひとを、俺なんかの問題に巻きこんじゃいけない。
このまま――何も言わず、電話をきろう。
「遠野くん? もしかして遠野くんですか?」
「あ―――――――――」
名前を呼ばれて、不意に、泣きそうになった。
「………はい」
声がもれる。
「あ、やっぱり遠野くんじゃないですか。どうしたんです、こんな夜更けに」
「………………」
やめよう、と思った。
当たり障りのない嘘を言って、また明日学校で、と告げて電話を切ろうと努力した。
けど、どうしてもできなかった。
「先輩、俺、ダメ、みたいだ」
かすれた声で呟く。
「――――遠野くん?」
シエル先輩の声が凍りついたように、聞こえた。
「遠野くん、それどういう意味ですか? ダメって、なにがダメなんです?」
「――――だから、ダメなんだ。
自分なりになんとかしてみようと努力はした。けど無駄だった。俺はアイツの言っていたとおり、ただの殺人鬼、みたいだ」
それもとびきり質が悪い。
今でも気を抜けば秋葉や翡翠の喉をナイフで切り裂きたいと思ってしまう。
他の誰でもなく、身近な人々の血が見たいと思っている時点で――俺の理性は崩壊しかかっているんだから。
「……どうすればいいんだろう。俺、自殺なんてできない。自分で自分を殺すなんて、そんなこと教わったこともない」
「……それで、今どこにいるんですか」
「公園。人気がないところに来たつもりだけど、ここもダメだ。まわりに家が多すぎて、どうかしそうだ」
「……わかりました。これから学校に向かいますから、そこで落ち合いましょう。学校なら周りに人家もありませんし、静かでしょう?」
「―――そうか―――学校なら、誰もいない」
「いいですね。学校の校庭で待っていてください」
ぶつ、と電話が切れた。
「―――――」
公衆電話から出る。
先輩―――シエル先輩に会える。
会ってどうなるわけでもないけど、それでも会いたい。
「――――は、あ」
また、体中が熱くなり始めた。
学校に行くまで誰にも出会わないように願いながら、おぼつかない足取りで公園を後にした。
学校は静まり返っている。
あたりには人家もなくて、このあたりは本当に静かだ。
「はあ―――はあ、はあ――――」
メガネを外して、校門を閉めている鍵をナイフで切断する。
「あ」
……信じられない。
自分でも意識しないまま、俺はナイフをポケットに収めていたらしい。
たぶん、きっと。
いつでも人を殺せるように。
「は…………あ」
グラウンドについたとたん、膝から地面に崩れ落ちた。
膝をグラウンドの土につけて、倒れようとする体を両手で支える。
「………………」
体が熱い。
けど、さっきまでの自分が自分でなくなるような感覚はない。
きっと、
琥珀さんを 汚して
一時的に、衝動が収まったんだ。
「――――ぐ」
胃液が逆流する。
口の中が苦い。
今日は何も口にしていないから、吐き出すものは酸味のきいた胃液だけだった。
「琥珀―――さん」
謝って許されるコトじゃない。
だから、謝ることなんてできない。
俺はあの人に、この先どう償えばいいんだろう。
もう、何日も前の話。
アルクェイドを殺してしまって自暴自棄になっていた俺を、シエル先輩が助けてくれた。
あの人は―――罪を犯す人と犯さない人がいるんじゃなくて、償える人と償えない人がいるだけだ、と教えてくれた。
でも、どうすれば。
犯した罪、傷つけた心というのは、償えるっていうんだろう――――
「―――?」
すう、とあたりが暗くなった。
かっ、かっ、という足音。
地面に手足をついていて下を見ていたから気付かなかったけど、誰かがこっちにやってくる。
月明かりの下。
その人の影が、四つんばいになっている俺にかかって暗くなったのか。
「懺悔の真似事ですか、遠野くん」
どこか冷たい、シエル先輩の声。
「――――先輩」
……本当に、来てくれた。
ただ先輩の顔を見たくて、夜空をあおぐみたいに顔をあげる。
「――――え?」
―――それは。
[#挿絵(img/シエル 21.jpg)入る]
―――俺の知っている、
シエルという人物ではなかった。
剥き出しの腕にある、黒い十字架の入れ墨。
冷たい、まるで知らない他人を見るような目。
……無骨で、剥き出しで、見ているだけで寒気を呼びおこしそうな、先輩にはあんまりにも不似合いな凶器。
「―――――――あ」
……知っている。
頭が、あの凶器がどんなものだか、知っている。アレはたしか―――第七聖典と呼ばれる、門外不出の外典の一つ。
「先―――輩?」
「やっぱり貴方がロアだったんですね、遠野くん」
冷たい目のまま。
先輩は、同じように冷たい声でそう言った。
「――――」
ぞくり、と背筋が震える。
ワケもなく。いや、本能と理性が総動員して危険を報せてきて、思わず先輩から跳び退いた。
「――――――」
先輩は固く口を閉ざしたまま、一歩、あの不吉な凶器を持ったまま近寄ってくる。
……そこには、まったくといっていいほど隙がない。
下手に逃げれば。
このまま背中を向けて走り出せば、自分の心臓がアレで貫かれて、転生もかなわぬまま消滅してしまうってわかってしまう。
……俺の記憶には、そんな知識はありはしないというのに。
「―――なんで。俺は、ただ―――」
ただ、先輩に会いたかっただけなのに。
「わかってます。ロアの意識が浮上しているんでしょう? なら、もう手遅れです」
ざっ、と。
もう一歩、無造作に近づいてくる。
その姿はまるで―――
「―――おかしいよ先輩。
それじゃあまるで―――俺を、殺そうと、しているみたいじゃないか」
「―――――」
彼女は答えない。
ただ、どこを狙えば確実に仕留められるのか、それだけが関心事のように俺を見つめている。
「―――先、輩」
本気だ。
この人は、本気で、俺を殺すつもりだ。
―――ギッ。
殺される直前ということを感じとって、神経が軋みをあげる。
脊髄はびりびりと悲鳴をあげて、首の後ろがギチギチとかじかんでいく。
けど―――そんな死の恐れより、俺は。
この人がどうしてそんなことを言うのか、本当に、信じられなかった。
「――――なん、で?」
わからない。
「先輩は、俺のために残ってくれるって、言ったのに」
「――――――」
ぴたり、と。
シエル先輩の足が止まる。
彼女は俺を凝視したまま、クスリと、笑った。
「貴方の人の良さは国宝級ですね。人を信じるのはいいですが、もう少し冷静に物事を考えられたのなら逃げおおせることもできたのに」
「え―――」
「だいたい、どうしてわたしがこの学校に紛れこんでいたのか、その理由を一度も考えなかったんですか貴方は。
わたしは別に、好きでこんなコトをしていたわけではないんですよ」
「――――――先、輩?」
「わたしの目的は『蛇』―――ロアを消滅させる事だと知っているでしょう。
わたしがこの学校にやってきたのは、ここにロアの転生体がいるとわかったから。けれど確たる証拠がなくて、しばらくその転生体の様子を見る必要があった」
「ちょっと待ってくれ、一体なにを―――」
なにを口走ってるんだろう、この人は。
わからない。
まるで、てんで理解できない。
先輩は困惑する俺を無視して話をする。
「……前に教えてあげたでしょう、遠野くん。ロアが転生先に選ぶ家系には条件があると。
逆に言えば、その条件さえあっている家系を探せばいいだけ。ロアの転生体の特定は、わかってしまえば容易なんですよ。
その家系が旧い異能の血を継いでいるかは調べればすぐにわかります。この街ではロアの転生先になるような家柄は一つしかなかった。
ですから―――初めから誰がロアであるかは解っていたんですよ、わたし」
「―――――な」
そんなのは、おかしい。
初めから解っていたんなら、さっさとそいつを殺すか、掴まえるかすれ……ば……。
初めから?
誰であるか、わかって、いた……?
「そうです。ほら、もういいかげん気がついたでしょう?
わたしはね、遠野くん。初めから、貴方を捕えるためにこの学校に紛れこんだんです」
「――――――――――――――」
待て。
それは、ちょっと、待って、ほしい。
「ですが、そこで少し間違いが起きてしまいました。
……貴方の中のロアを刺激しないように遠くから監視していたんですが、どうも貴方はロアの転生先ではないと結論がでたんです。
けど、ロアの転生先は絶対に遠野家の長男なんです。それに間違いはありませんから、そうなると間違っているのは遠野くんのほうになる」
シエル先輩は淡々と語る。
俺は―――何も、言えない。
「調べてみれば、遠野くんは八年前に大怪我をして親戚の家に預けられている。
そのあとの出来事は二日前の夜、本当の遠野シキが言っていた通りです。
八年前の遠野家で何があったのか知りませんが、遠野くんはあのシキという少年に殺された。いえ、命を奪われたんでしょうね。
結果として遠野くんはロアの転生先であるシキと繋がってしまった」
感情のない声で、淡々と。
それは俺の知らないシエル先輩だ。
それとも、これが。
これが本当のシエルで、今までの優しかったこの人は、全部――――
「これまで何度かシキを通じて遠野くんの中にロアの記憶が流れ込んでくる事もあったでしょう。
もともと魂という、カタチに出来ないモノを加工した吸血鬼です。ロアにとってみれば、一つの命を共有している貴方たちは良く出来た二重存在だった。
だから―――シキの肉体が滅んでも、ロアは次の転生先に行く必要がない。この時代には、まだ貴方という避難先があったんですから」
冷たい。
まるで仇を睨むように、彼女は俺を憎んでいる。
「でも、それも終わりです。あの夜は突然の事で準備が出来ませんでしたが、今夜は違います。
ある意味、わたしは幸運ですね。あのままアルクェイドにロアが消されていたのなら、ロアはまた転生してしまったでしょうから」
……信じ。られない。
そんなもの―――そんな、ものは
「――――うそ、だ」
「どうぞ、ご勝手に否定して、そこで惚けていてください。そのほうがわたしの仕事も楽になります。もっとも―――」
かちゃり、とあの凶器が音をたてる。
「貴方がその気になっても楽に始末できることには変わりはありませんけどね、ロア」
「―――――――」
その、あざ笑うような声で、解った。
……彼女の言葉に嘘はない。
……彼女の目は『俺』を見ていない。
……彼女の気持ちには初めから『俺』なんていない。
「……なんだよ、それ。
それじゃあ、それじゃあ先輩ははじめっから俺がロアだって当たりをつけてたのか。
先輩が。先輩が俺と仲良くしていたのは、全部……………!」
―――言えない。
その先は、口にできない。
そうしてしまえば、その瞬間に全ての出来事が嘘になってしまいそうで。
「当然でしょう。シキが消えた後、わたしが学校に残ったのはロアが消えていなかったからです。ロアがこの学校の生徒である以上、ここに残ったほうが何かと便利ですから」
……わたしが遠野くんを置いて帰るわけがないじゃないですか。
先輩はそう、笑顔で言った。
アレは、俺のためじゃなくて。
この人はまだ生きているロアを捜すために残って、その追跡者に、俺は自ら電話を入れたわけだ。
「――――は」
[#挿絵(img/シエル 11(3).jpg)入る]
じゃあ、あれも。
「はは―――」
[#挿絵(img/シエル 12(2).jpg)入る]
あの時のことも。
「はは――――は」
[#挿絵(img/シエル 14(2).jpg)入る]
あの夜、俺を救ってくれたのも。
「あ………は、は」
[#挿絵(img/シエル 18(2).jpg)入る]
あの、悲しそうな目も。
「はは――――は」
……そうだ志貴、なんてコトはないじゃないか。こんな記憶―――きっと、どうというコトはない。
ただ、愛してるって。
愛されてるって、思っていただけの話。
……まったくお笑いだ。
そんなもの、芝居の上で作られた幻でしかなかった。
――――全部。
全部、嘘でかためられた夢物語だっただけ――
「―――納得いったよ。けどさ、先輩。
どうして先輩にはロアが生きているってわかるんだ。どうして、どうして遠野志貴っていうヤツがロアの転生先だってわかったんだ」
「わかりますよ。だって自分のことなんですから」
しれっと、先輩は理解不能な事を言う。
「……自分の、こと……?」
「ええ。遠野という血筋を探し当てて、それを次の転生の候補に選んだのはわたしなんですから。
……まあ、実際にロアの意識が浮上しないと『現れた』とわかりませんから、あまり役に立つ記憶ではありませんでしたけど」
「先輩、何を―――言ってるんですか、いったい」
「何って、ちょっとした昔話です。
いまから八年前の話なんですが、遠野くんと同じように何も知らなかった少女がいたんです。
彼女がその衝動に汚染されはじめたのは十六歳のころでした。
……それまで何も。その子は遠野くんみたいに特別な力なんてありませんでしたから、本当に何も知らないまま、普通に暮らしていたんです。
お父さんの手伝いをして、学校に行って。
早起きするのが苦手で、お父さんの手伝いをするのはいつも夕方からのお店番でしたけど、それでも将来はお父さんのお店を受け継ごうって思ってたんですね」
[#挿絵(img/25.jpg)入る]
「え―――」
今、なにか。
見た事がなくて、けど見た覚えのある風景が頭に浮かんだ。
先輩の話は、なんだか―――俺が見た夢に、とても似ている気がする。
「でも、その子の夢は叶わなかった。当たり前のようにあった幸せを、自分の手で壊してしまったんです。
その子は、ロアの転生体でしたから。
少女の体はすごく才能があるって、ロアは喜んでましたっけ。
その子もいまの遠野くんみたいにそれなりに努力はしたんですけど、無駄な努力でした。結局お父さんとお母さんの血を吸って、街の人たちをゆっくりと殺していって。
その子、もしかしたらその時に気がふれてしまったのかもしれませんね。
わかるでしょう遠野くん?
アレって止めようがないんです。やめよう、とかいけない、とか、そういう考えさえ浮かばなくなる。
おかしいですよね。―――ちゃんと、自分の意識はあるっていうのに」
「せ―――ん、ぱい。それは、その話は、まさか」
「でも悪夢はわりあい早く終わりました。白い女性がやってきて、少女の心臓を貫いたから」
―――ああ、知っている。
そうして少女は死んでしまって、ロアは遠野シキっていうヤツに転生した。
でも、それは。
「けど、その子、死にきれなかったんです」
ぽつりと。
笑うように、彼女は言った。
「少女の死体は教会に運ばれて、吸血種から人間に戻った死体のサンプルとして保存されました。
……けど、どういう因果だか知りませんけど、その子の躯というのはすごく特殊な躯で、人並み以上の蘇生能力があったんです。
その子は三年たったある日、よせばいいのに死から目覚めてしまったんです。
……おかしいですよね、ロアという魂に見捨てられたただの脱け殻のくせに生きかえっちゃうんですもの。
そのあとはタイヘンでした。教会の人たちは異端者だってその子を何度も何度も殺すんですけど、どうやっても死なないんです。
……ごめんなさい、恨み言を言っていいですか? その子はね、一ヶ月もただ殺されるだけの生活を送ったんですよ。一日の休みも、たった少しの休みもなく、生き返った瞬間に殺されるっていう毎日を」
「………………な」
死ねない、体。
どうあっても元通りになる肉体。
遠野シキに転生したロアという吸血鬼は、この人をそう罵倒していた。
……痛そうだった。
どんな傷を受けても治るというけど、先輩は、傷をうけるたびに苦痛で顔をゆがませていた。
それを、毎日?
毎日、一日の間に休む事なく、殺されて生き返るだけの生活を送ったって……?
「それでですね、教会の人たちもいくらなんでもコレはおかしいって気がついてくれました。
対処できない問題、解決できない問題はみんな埋葬機関っていうところに回されるんです。
そこで、その子は自分がどうなってしまったのか教えられました。
……まあ、ようするにその子は矛盾しているんです。
その子はロアとして生まれた人間です。たとえ十五歳までの人格が一人前の人格だっていっても、魂の名前はロアなんです。
その子はその子でありながら、ロアでもある。
だから、ロアが生きているのにロアであるその子が死んでいては矛盾している。
ロアという存在が生み出す子孫……娘であるその少女は、ロアより先に死ぬ事はできないんです。
この世界はわずかな綻びがあれば、世界が世界自身のためにその綻びを修復します。
ですから――その子は、ロアという転生する魂が消えないかぎり、永遠にそこにあり続けてしまう。他の誰でもない、この世界がかってに『治して』しまうんです。
司祭殿はその子を『輪から外れている』と言っていました。ロアが生きているかぎり永遠に止まったまま。
歳をとることもできませんから寿命では死ねませんし、消し炭にしても時間が巻き戻って元に戻ってしまう。
そんな怪物、本来ならずっと幽閉されたままでしょうけど、その子はロアだったころの魔術の知識とか引き継いでいたんです。
埋葬機関の司祭殿は利用価値があるといって、その子を教会に迎え入れてくれました。
それから五年。生き残ってしまった脱け殻はかつての名前を捨てて、吸血鬼を退治するための生き方を選んだんです。
―――わたしはロアの主であるアルクェイドよりも、ロアという魂が何処に居るかを知覚することができます。
その理由は、もう言うまでもないでしょう?」
「―――――――」
そう、言うまでもない。
けどそんな事、認めたくない。
「前に言いましたよね、遠野くん。シエルの目的はただ一つだって」
――わたしは、人間として死にたいから―
あの時、それがどんな意味なのか、解らなかった。
けど今なら。
今なら、少しは―――理解ができるのか。
「――――できない」
ああ、悔しいぐらい、できっこない。
俺には死にたいなんていう気持ちがわからない。生きている以上―――死にたいと思うことぐらいはあるけど、心の底から願うことなんてない。
けど、先輩はそれだけが望みなんだ。
そうなってしまった思考。
そんなことしか望めなくなるような人生。
俺はまだ知らない。
自分の手で。
自分の意思が残ったままで、大切な人たちを殺してしまう痛みを、知らない。
……そんなもの、一生涯知りたくはない。
でもこの人はその上にいる。
だから―――ただ、死にたいと思うのか。
「違う……そんなのは、違う」
「違わないですよ。わたしは、人並みに死にたいだけなんですから」
先輩の声はどこまでも冷たい。
「………………だ」
……俺は、頷くしかない。
彼女の望みも。
彼女が得てしまった苦しみも、わかってしまった。
「…………いや、だ」
なにもかも、俺の境遇もシエルの望みもイヤだ。こんなもの―――現実だなんて思いたくない。
けど、現実は待ってくれない。
ガチャリと音をたてて。
シエルという代行者が、俺を殺すために踏み込んできた。
もう、これ以上語る言葉もなければ、語る必要もないと。
シエルの両腕が、あの『凶器』を持ち上げた。
第七聖典。
輪廻転生を否定する教会が作り上げた、転生批判のあらゆる弾劾を記した教本。
聖典でありながら外典、教本でありながら凶器という曰くつきの一品だ。
アレに撃たれれば、魂そのものが霧散する。
「――――――」
銃剣が跳ねあがる。
その切っ先がこちらに走る。
なぜか、ゆったりと。
彼女なら―――シエルなら、俺が刺されたと気がつく間もないぐらいのスピードで、突き刺す事が出来るはずなのに。
「あ――――」
考える余裕はない。
俺は―――
―――体を前に倒した。
後ろを向けば。背中を見せれば、背後から心臓を穿たれると、さっきから感じていた。
「ひゃ――――!」
ズン、と顔の真横を銃剣が通過していく。
本当に、ゆっくりだ。
俺は突き出された先輩の銃剣をかわして、そのまま彼女の真横へ出て、そのまま――――
「っ――――!」
前に走りぬけようとした矢先、先輩の動きが一変した。
一瞬、先輩の体が消えたと錯覚するぐらいのスピードで、彼女はあのバカでかい凶器を横に薙いだ。
ゴオン、という風きり音が聞こえて俺は―――なぜか、彼女から何メートルも離れたところに立っていた。
「―――――――」
チッ、と舌うちして先輩がこちらを睨む。
「痛っ……!」
左腕が痛む。
「なん……えぇ――――!?」
驚いた。
肘から先、下腕部がものの見事に折れている。
それも生半可な折れ方じゃなくて、腕が山形にひん曲がってる。
「―――首を庇って腕一つですか。何もしなければ、今ので楽にしてあげたのに」
「な――――」
自分でも解らないけど、さっきの先輩の一撃を受けて腕がイッちまったらしい。
「ナイフ、抜かないんですか」
つまらなそうに先輩は俺を見る。
……見下してる。
先輩は、俺をいつでも殺すコトができるって、見下している。
「ぐっ……!」
痛み。腕の痛みが頭にきた。
折れた腕の血が、そのまま毒になって脳髄に送り込まれたような痛み。
ずきん、と。
それだけで、意識に白いブランクができてしまう。
「―――――」
先輩は、冷めた目で俺を眺めている。
「こ―――の」
人の腕を折っておいてそれか。
これがどのくらい痛いかわかっているのか。
馬鹿にして。
馬鹿にして。
馬鹿にして―――――!
「先輩が、その気なら――――」
ポケットの中にあるナイフを握る。
「こっちだって、むざむざ――――」
かつん、という硬い感触。
「殺されてやるつもりなんか、ない」
バチン、という音をたてて。
ナイフの刃を突き出した。
「―――馬鹿ですか、貴方は」
瞬間。
先輩の体が、爆ぜた。
――――いや、それは違う。
先輩はとても低く―――それこそトカゲみたいに地面スレスレに身をかがめて、俺の目の前まで、一瞬で走りこんできた。
瞬きの間に、六メートルはある距離をつめる。
こっちの視界にはいない。
先輩の体は俺の膝下よりさらに下にあって、目の前で、爆ぜた。
ドン、という音。
ほぼ真下から突き上げられる先輩の銃剣は、惚れ惚れするぐらいの正確さで俺の喉のあたりを串刺しにした。
「が―――――あ」
息、息がもれる。
痛みは、痛みはあるか? ある、まだ痛いって感じられる。
「は―――――う」
意識、意識は? よし、まだなんとかそれなりに。
「あ、ああああああ…………!」
体、体は――――どうか、してるか。
どぷどぷという音。
それは俺の左肩からしている。
見れば、そこはもう血の滝だ。どくどくと血が流れている。
たった今。
先輩の銃剣が、俺の喉をそれて左肩を突き刺したんだ。
「あ、ああ、ああああああああ!」
イタイ。
イタイとかそういう問題じゃないぐらい、イタイ。
「はあ、あああ、あぐぐぐぐぐぐ――――――!」
でも、生きている。
なんとか生きてる。
体。体は、また先輩から離れている。
肩にはかすかな火薬の匂い。
「あ、ああ、あ」
さっき。あの銃剣が突き刺さった瞬間、引き金を引かれたんだ。
それで俺は吹っ飛んで、また先輩と距離が離れてくれている。
「……二度続く、という事は偶然じゃないですね。その出血でもショック死しないという事は、身体の変化は始まっている、という事ですか」
ジャコン、という音。
あの凶器の切っ先の剣が新しいものに代わる。
今さっき俺を撃った剣は落ちて、そのまま―――パラパラと本のページになって散っていった。
「……で……デタラメ、だ」
でも、そのデタラメなものがとても恐い。
アレは―――ただ、この体に触れるだけで致死性の毒を持つ。
死。
死ぬ。
間違いなく、殺される。
死ぬのか。
それが恐いのか。
わからない。
「あ、く………っ!」
肩が燃えている。
熱くて熱くて、このまま全身が焼かれてしまいそうなほどの灼熱。
かちゃり、と先輩があの凶器を構えなおす。
……二回。
二回もアレをなんとか出来たのは、奇跡以外の何物でもない。
次は間違いなく――――
あの銃剣が俺の顔の真ん中にささって、そのままえぐりこむ姿を想像した。
それは恐いというよりおぞましい。
死は。
それがどんなカタチであれ、無様で、汚くて、おぞましいもの。
俺は自分が好きだから―――そんな目にはあいたくない。
だから恐いのか。
わからない。
思えば―――俺はあれだけ『死』を視ておきながら、『死』というものをまったく考えたことがなかった。
いや、そんなコト、今はどうでもいい。
「はっ、はっ、はっ―――――」
逃げないと。
死にたくないんだから、今は逃げないと。
「――メガネ、取らないんですか」
プラスティックな、簡素な声。
その言葉。その意味にハッとした。
だってメガネを外すっていうことは、先輩の『線』を視るということだ。
そんなコトになれば、俺は先輩を殺してしまうかもしれない――――
「な――なにを、言うんですか、先輩は……!」
「―――――――」
ぞくり、と。
大気が燃え立つかのような、殺気。
「……つきあってられません。いいですから、もう死んでください」
先輩の姿勢が低くなる。
―――来る。
また走りこんでくるってわかってるけど、俺には先輩の姿を視認することさえ難しい。
―――逃げる以外、考えつかない。
殺されたくないなら―――もう逃げるしか手段がない。
幸い、距離は十メートル近く離れている。このまま全力で走れば、校舎の中ぐらいには逃げられる。こんなまったいらな所じゃなく、校舎の中ならなんとかなるかもしれない―――!
「――――――」
背中。
背中に、何か―――刺さって、る。
「痛――――い」
どさり、と体が前のめりに倒れた。
あと少し。
あと少しで、校舎の中に、入れたのに。
「くっ―――――」
片手で体を立ちあがらせる。
背中に刺さったのは、先輩が以前に使っていた釘のような剣だった。
「こ――――の………!」
痛みなんて麻痺しているのか、背中に刺さった剣を引きぬいた。
……体を貫通していたから、頭にきて胸の方から抜いてやった。
「よし………!」
これで、校舎の中に逃げられる……!
「逃げてどうするつもりですか、遠野くん」
その前に。
後ろから、先輩の声がした。
「まだ解らないんですか。貴方は今、校庭からここまでどのくらいの速さで走ったと思っているんです。本来なら致命傷である傷を受けて、どうして死なないでいるんです」
「や―――――――」
意識が、白くなる。
騙されるな。
騙されるな。
その女にはずっと騙されてきたじゃないか。
もうあいつの言葉になんて耳を貸すな。
聞けばそのまま死に至る。
無視しろ。
受け入れるな。
それが真実だろうと、もう跳ね除けるしかないんだ、この体は―――
「――――やめ、ろ」
「もう、何処にも逃げ場なんてないんです。
貴方には戦うか殺されるかの道しかない。けれど戦う事ができないのなら、あとはもう死ぬしかないでしょう」
かつかつと。
足音をたてて、先輩がやってくる。
「―――――――!」
跳ねた。
背中も、肩も、腕もほとんど死んでいるっていうのに、そんなものは瑣末なことのように、体が跳ねた。
―――自分でも、信じられない。
俺は荒い息遣いのまま、先輩に負けないぐらいの速さで、校舎の中へと走りこんだ。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――――」
走った。
何も考えずに、ただ、何かから逃げたくて走り続けた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――――」
それも限界。
息があがってしまったのか、体の傷がひどくて手足がもう動かないのか。
そんなもの、どっちだってあまり大差はないだろう。
「はっ……はっ……はっ――――――」
廊下の突き当たり。
もう道のない壁につきあたって、倒れこんだ。
あお向けに倒れて、起きあがろうと手足に力をこめて、馬鹿らしくなった。
「……はっ……はっ……は」
床にあぐらをかくように座り込んで、そのまま壁に背中をあずける。
膝をたてて、顔をのけぞらせて、大きく息を吸った。
「―――――月」
見上げれば、窓からは月明かりがうかがえた。
疲れているせいだろうか。
なんだか目に見えるものすべてに靄がかかったように、虚ろに見える。
虚ろ。
それは不確かという事か。
俺と同じで。遠野志貴という人間と同じで、不確か。
「……い……た………」
ずきりと肩が痛んだ。
自分がこの痛みぐらい確かなものだったら、こんな事にはならなかったのか。
よく、わからなくなってきた。
自分はずっと遠野志貴だと思って生きてきた。
けどそいつは別にいて、俺は、どこの誰とも知らない養子だという。
養子という事は遠野の屋敷に来る前の記憶があるはずなのに、そんなものはまったくない。
俺は。本当に、遠野志貴としての記憶しかもっていない。
夜空には、ただ独りきりの月がある。
「――――」
すごく、不思議だ。
どうして今まで気がつかなかったのか。
今夜はこんなにも―――
……結局、俺はなんだったんだろう。
自分の事なんて何一つ知らないまま、あげくには自分そのものがなくなろうとしているなんて、馬鹿げてる。
なにもかもぼんやりしていて、馬鹿げてる。
死の見える世界。
死が視える視界。
八年前のあの日。
俺は先生に出会えて、こうしてマトモに生きてこれた。
アレは正しい出会いだったと、今でも断言できる。
「……けど先生。俺は、生きてちゃいけない、人間だったみたい、だ」
……まだそう思える自分がいるうちに、自らの命を絶つべきなんだろう。
でも出来ない。
自殺なんかできない。
たとえ無様でも、間違っていても、生きていたんだ。
死んだら何もかも嘘になる。
生きていたい。
どんなに間違っていて、色々なものをなくしてしまうとしても、生きていたい。
あの人さえ。
シエル先輩さえいてくれれば、あとは、何を無くしたってかまわなかったのに。
―――ただそれだけのために、わたしはこうして生き長らえてきました。けど、それも終わりです。
五年間。長かったのか短かったのか、よくはわかりませんけど。
「……うそつき」
そんな言葉、聞きたくなかった。
―――遠野くんには感謝しています。
わたしの仕事はこれでおしまいです。あとは、残った自分の責任を、果たさなくちゃいけません。
「……うそ、つき」
ああ。けど、真実だってあったのかもしれない。 だって、あの人は俺を騙してはいたけど、ただの一度も
―――今までありがとうございました。わたし、こんなに嬉しかったの久しぶりです。
ですから、最後に握手しましょう。
「………おお、うそつき」
ただの一度も。あの人は、俺に嘘はつかなかった。
―――わたしがいなくなっても乾くんと仲良くしてくださいね。
わたし、遠野くんと乾くんみたいな学生になりたかった――――
「…………………」
でも、あの人自体が嘘だった。
あの笑顔が本当の嘘だったなんて、俺には思えない。
けど、現実なんてこんなもんだ。
……シエルは嘘で、ただ俺を殺すためだけに傍にいてくれただけ。
騙されていた。
シエルは俺を愛してなどいてくれていなかった。俺がダメになっていた時に助けてくれたのも。
休み時間に二人で意味もなく過ごしたことも。
全部、俺がロアかどうかを確かめるためのものだった。
ぎり、と歯が軋んだ。
奥歯を強くかみ締める。
「……ちく、しょう」
悔しくて、壁を引っ掻く。
そう、騙されていた。
シエルは全て計算づくで自分に近づいてきた。
「……それなのに」
切なくて、壁を爪弾く。
……そう、騙されていた。
けれど、それでも―――
「―――俺は、先輩を憎めない」
憎めるはずなんか、ない。
あの人にとっては嘘でも、俺は楽しかった。
どうあってもそれだけは本当なんだ。
先輩と出会ってからたった二週間にも満たない時間だったけど、本当に―――自分は、あんなにも幸せだった。
「……ちく、しょう――――」
だから憎めない。
でもそんなものは俺だけの幻想だ。
だから、それだけが悔しかった。
視界が滲んでいく。
窓の外には白い夜。
ここは静かで、海の底に沈んでいるような校舎。
ゆらゆらと揺らいでいる。
何もかも偽りで、近づけば消えてしまう幻。
それは一つの、掴みようのない蜃気楼のようだった。
かつん、かつん、という足音が聞こえてくる。
……彼女がやってくる。
「――――殺すか」
頭の中で、そんな声が聞こえた。
死にたくないのなら、バラせ。
自分が間違っていないと思うのなら、バラせ。
いいからバラせ。
バラせ。バラせ、バラせ、バラせ、バラせ、バラせ、バラせ、バラ、バラバラ、バラバラバラバラバラバラバラバラ――――――
「――――――」
……本当に、俺はここまでみたいだ。
また頭の中がぐちゃぐちゃになりはじめた。
それでも俺は死にたくない。
死にたくないんなら―――やる事は一つだけ。
かつん、かつんと足音が大きくなってくる。
先輩の影が伸びてくる。
―――メガネ、取らないんですか。
それが何を意味するかわかっていながら、彼女はそう言っていた。
ならば―――どうするというんだ、俺は。
「できる………、か」
細かく痙攣する指でメガネに触れて、そのまま、放り投げた。
カラン、という音が海の底の廊下に響く。
「できるわけないだろ、そんなマネ―――!」
頭にきて、俺の中の誰かに向けて怒鳴った。
自分自身に殺意を覚えたなんて、これがはじめてだ。
カラン、カラン、と硬い物が廊下に転がっていく。
……線など視えない。
放り投げたものは、持っていたナイフだ。
メガネは外さない。……絶対に、外さない。
ただ、俺はもう自信がないから、ナイフを遠くに投げただけだ。
持っていればきっと、俺は自分が死ぬよりイヤな事をしてしまうだろう。
「―――――――」
そうして、彼女がやってきた。
感情のない瞳も、不吉な凶器も、さっきとまったく変わっていない。
彼女は、座り込んだ俺の前で止まった。
どうしてだろう。
彼女はすぐにトドメをさそうとしてこない。
ただ、俺たちはお互いをぼんやりと見つめ合うだけだった。
「―――一つ、聞きますけど」
銃剣の切っ先が俺の胸に向けられる。
「どうしてメガネを外さなかったんです。
どうして―――ただの一度も、わたしと戦おうとしなかったんです」
「……そんなの、なんでもなにもない」
ただ、そんなことを思いもしなかっただけ。
「そんな酷いこと、先輩にはできないだろ」
「酷いって………馬鹿ですか貴方は。
わたしは貴方を殺すんですよ。わたしは貴方の先輩なんかじゃない。全て嘘だったって、あれだけ言ってまだ解らないんですか、貴方は……!」
……先輩の声には苛立ちがある。
―――すごく、怒ってる。
冷静な顔をしているけど、手足が震えるぐらい怒っているなと、なんとなく解ってしまった。
「……知ってる。先輩は、ずっと俺を騙してきた。シエル先輩なんていう人は、初めからいやしなかったんだって、わかってる」
「解っているんなら、どうして……!」
「……いいんだ。先輩が嘘でも、関係ない。
俺は、すごく楽しかった。先輩と過ごした時間は、先輩にとってはどうでもいい時間だったかもしれないけど、俺にとっては大切だった」
……だから、いいんだ。
たとえ先輩にとって全てが嘘でも、
俺がそれに救われていたのは本当の話。
「―――だから、いいんだ」
この二週間は楽しかった。
けど、ここで先輩を憎めば、それさえも亡くなってしまう。
先輩にとってそれが嘘だったのなら、せめてあとの半分。
半分の俺ぐらいは、最後までそれを本当のものにしておきたいんだ。
……自分の命と引き換えにするにしては、ひどく滑稽な望みかもしれないけど。
「―――そんなコト。そんなコトのために、命を投げ捨てるんですか。望みは。貴方の望みっていうのは、その程度のものなんですか」
「……そっか。やっぱり小さい、かな」
―――でもまあ、今はそれが二番目ぐらいに大切なんだ。
それ以外の望みなんて、どうあっても一つしか思いつかない。
「―――わたし、色々な人を見てきましたけど」
一歩、踏み込んで。
「貴方ほど馬鹿な人は、初めてでした」
先輩は銃剣の切っ先を俺の心臓に当てた。
「――――――」
「――――――」
……どうしてだろう。
なぜか、引き金が引かれない。
俺を見つめてくる目は虚ろだ。
……先輩が時折見せる、感情のない瞳。それは、この人が冷酷な人というわけじゃなくて。
単に―――自分自身を騙せないから、結局自分の感情を殺すしかないからじゃないんだろうか。
「―――――」
ああ、やっと気づいた。
この目をする時、先輩はいつも――俺ではなく、自分自身を、騙していたんだっていうコトが。
「……殺さないのか、先輩」
「―――忘れていました。最後に、懺悔を聞いておかないといけません。わたし、これでも聖職者ですから」
「……そう。懺悔なんてないけど、一つだけ、聞いていいかな」
「――――はい。手短にお願いします」
「……うん、すぐ済む。ただ、どうして先輩は、そんなに泣きそうな顔をしてるのかなって、思って」
「な―――――――」
びくり、と。
シエルの体が、震えた気がした。
「―――わたしは、泣いてなんて、いません」
断言する先輩の顔は、確かに冷酷そのものだ。
……そう言われると、こっちもつい首をかしげてしまう。
けどどうしても、俺には―――
「……泣きそうな顔に、見える。どうしてか、わからないけど」
「それは貴方の錯覚です。わたしは何も感じていませんから。
―――わたしにある感情は、人間として死にたいというものだけです。それ以外の感情なんて、ない」
感情のない目をしたまま、彼女はそう言った。
ひどく、悲しい。
こんな時に、それが嘘だなんて解ってしまうなんて、皮肉すぎる。
「……ひどいな。最後まで、先輩は俺に嘘をつくのか」
「―――――――」
答えがない。
凍りついたように、先輩は動かない。
「―――貴方こそ、嘘をついてる。ここでわたしに殺されることが望みなんて、思ってはいないでしょう」
「……当然だろ、そんなの。死んだらなにもないじゃないか。一応経験があるから、それぐらいはわかってる。……本音を言えば生きていたい。けど、ただ生きているなんてのは、もうダメなんだ」
……そう、ダメだ。
もしここでなんとか生き延びても、その先には何もない。
遠野志貴なんていう人間もいなくなって、この人が経験してしまったような出来事を繰り返す。
けど、そんな事より。
このままでいっても、そこには先輩がいない。
そんな生活には、俺はきっと耐えられない。
「……今まで、すごく楽しかったんだ、先輩。
有彦と俺と先輩でバカな話をしている時は、悪くなかった。ただの休み時間でも、先輩がきてくれるだけで夢みたいに、楽しかった。
……だから、きっとそれが俺の願いなんだ。もう叶わないけど、俺は―――ずっと、あのままの生活が続いてほしかった」
「まだ解らないんですか。アレはただの芝居だったって、言ったのに」
「ああ、それでも――――本当に、楽しかった」
そう口にした瞬間、ひどく心が落ち着いた。
届かない幻でもいい。初めから存在しなかった蜃気楼でもかまわない。
いや、むしろ幻だったからこそ―――今、こんなにも先輩と過ごした時間が、愛しく感じられる。
どのみち、俺はもう助からない。
それなら―――あのゆめを夢みたままでいられるなら、それはどんなに――――
「な―――――んて」
愚か、と呟いて。
先輩はわずかに銃剣を動かした。
ギッ、と音をたてて、銃剣が胸に刺さる。
ほんの少し。爪の先ぐらいだけ、刃が胸にえぐりこむ。
先輩の目は止まっている。
あとは、そのまま。
彼女が一歩踏み込むだけで、終わる。
「―――――――――」
その最後の一歩が、始まらない。
彼女は銃剣を構えたまま、感情のない瞳で俺を凝視している。
ぎり、と。先輩は、苦しそうに、唇を噛んだ。
「………そっか」
……俺に見られていてはやりづらいだろう。
これ以上、この人のこんな、泣き出しそうな顔を見ていたくなかったコトもあるし。
せめて、苦しませないように。
目を閉じて、受け入れる事にした。
―――どくん、と心臓が震える。
覚悟しているハズなのに、吐き気とか寒気とかは消えてくれなかった。
―――どくん。
どくん、どくん。
どくん、どくん、どくん。
「――――――――」
喉が熱い。
指先がガチガチと震えている。
解っている。ここで殺されるコトが一番いい方法なんだってわかっているクセに―――ただ、恐かった。
――――はあ。はあ。はあ。
漏れそうになる呼吸を必死に圧し留める。
先輩があと十センチも手を前に突き出せば、俺はただの肉片になってしまう。
こうして潔く覚悟したつもりなのに、本当は恐くて恐くて震えているココロも、たぶん跡形もなく消えてしまう。
――――はあ、はあ、はあ、はあ。
ただ必死に、口を閉じて受け入れようと努力した。
胸を刺されれば痛いだろう。
今こうして思っている自分が、思うことさえできなくなるという事は不理解で恐いだろう。
「っ―――――ぁ」
額に汗が滲む。
それでも、声はあげたくなかった。
静かに、潔く果てる事ができたのなら。
先輩は罪悪感なんて抱かずにすむだろうし。
「――――――――っ」
息を呑む音がする。
「どうして―――――」
搾りだすような声。
「どうして、そんな」
胸に突きつけられた剣が震えている。
「わたしを恨まないで、いられるんですか」
いや。震えているのは、先輩の声だった。
「わたし、わたしは貴方を殺そうとしているんですよ……!? 今まで騙していて、裏切って、こうして残酷に追い詰めているのに、なんでそんな穏やかな顔をしてるんですか、貴方は……!」
かつん、と。
銃剣はそのままで、先輩は俺に向かって踏みこんできた。
「答えなさい……! わたしは貴方を殺すんです。貴方の意思なんて関係なく、ただ一方的に殺そうとしているんです……! ならせめて、わたしを憎まないと貴方は報われないじゃないですかっ……!」
火のついたような激しさで、先輩は問い詰めてくる。
……やだな。せっかく恐いのを堪えているのに、ここで声をあげたら感情が堰をきりそうだ。
「それとも本当に馬鹿なんですか貴方は……! わたしは、貴方を汚らしい吸血鬼として処理するんです。なのに、どうして―――」
……そんなの、どうしてもなにもないって、さっき言ったのに。
「―――だって。それは、先輩のせいじゃないだろ」
「っ………!」
ズッ、と。
剣の切っ先が胸に食い込む。
皮膚を裂いたのか、とろり、と生ぬるい血が胸を伝っていった。
「っ――――あ、ぅ………っ!」
――――激痛。
傷自体はそう深くはない。ただ第七聖典という凶器が体内に侵入しただけで、意識がバラバラと砕けていく。
「あ――――ぁ、あ………っ!」
ガクガクと体が震える。
体中の血液が逆流して、吐血してしまいそうな程の、痛み。
「―――痛いでしょう。本来なら痛みなんて感じさせないように消してあげられるのに、こうしてわざと貴方を苦しめているんです。
……今まで貴方に付き合わされた分、こうでもして楽しまないと帳尻が合いませんから」
たどたどしい声でそう言って。
いっそう深く、銃剣が食い込んできた。
「ひ――――――アっ!」
あまりの痛みに全身から汗が噴き出す。
内臓が、口からこぼれてくるかと、思った。
「ほら、わたしが憎いでしょう遠野くん。
だから、だから早く恨んでください……! わたしに裏切られたって、わたしなんか信用しなければよかったって言ってください。
そうでないとわたし―――貴方を殺す事が、できないじゃないですか……!」
震える声で、そんな事を言った。
……けど、それはおかしな話だ。
恨まれないのならそれに越した事はないハズなのに、この人は俺に恨まれたがっている。
せめて、そうやって一番悪いヤツになる事が―――自分の罰なんだって、言うみたいに。
「ぁ……………あ」
でもそれは無茶な注文だ。
恨めるハズなんて、ない。
こんな、まるで泣いている子供のようなこの人を、恨むことなんてできない。
「……まさか。先輩を恨むことなんて、できない」
「や―――やめてください……!
どうして、どうして最期までそんなコトを言うんですか……! 悪いのはわたしで、貴方は被害者だっていうのに……!」
「…………」
……被害者なのは、先輩も同じだろうに。
それにどのみち、もうすぐ俺はロアに支配されてしまうんだ。
その前に、シエル先輩の時のような間違いを犯す前に、俺はロアを殺さないといけない。
ロアを消す方法が俺の死以外にないのなら―――これは、もうどうしようもないコトなんだ。
「……いいんだ。先輩は悪くないよ。それよりごめん。こんな役目を、先輩に押し付けて」
「や――――め」
やめて、と小さな声がして、わずかだけ胸に刺さっていた銃剣が離れた。
「だめ――――わたし、わたしは――――ロアを、見逃すコトなんて、できない」
ゆらゆらと第七聖典の切っ先が揺れている。
……だが、それもじき終わるだろう。
「そんなコト―――許されないんです、遠野くん」
ギリ、という音。
先輩は必死に歯を噛んで、ぴたりと、第七聖典を止めた。
第七聖典の切っ先は、ぴったりと俺の心臓を狙いこむ。
「――――――」
先輩の息を飲む音が聞こえた。
目を閉じていても、引き鉄にかけた指に力が込められていく気配がわかる。
カチリ、と。
硬い鉄の音がする直前。
「ありがとう。たとえ嘘でも―――先輩が先輩でいてくれて、良かった」
最期に、一番伝えたかった言葉を、遺した。
「………う、う」
―――声が、聞こえる。
「うあ………あ、ああ、あ」
―――ぽろぽろと。
子供が泣くような、声が聞こえる。
「うぁ……あ……あ、あ」
―――どすん、という音。
鉄の塊が床に落ちる。
俺の背後の壁には、槍で貫かれたような銃創が一つ。
―――ひっく、ひっく、という、苦しそうな声。
それが誰のものかわかって、ゆっくりと目を開けた。
「――――――」
そこにいるのは、さっきまでの先輩じゃなかった。
俺の前で立ち尽くしているのは、うつむいて苦しそうに泣いている、ただの女の子だった。
彼女の両手には何もない。
第七聖典は床に落ちている。
俺の心臓を撃ち抜くハズだった銃剣は、俺のわき腹をすり抜けていった。
「……う……うあ、あ、あっ……!」
……先輩は、ただ泣いていた。
何が悲しいのか、血を吐き出すような苦しさで泣いていた。
「…………先、輩」
声をかける。
「……ずるい……遠野くんは、ずる、い……!」
ひっく、と喉をしゃくりあげて、駄々ッ子のように先輩は声をあげる。
「……あんな……あんなコト言うなんて、ずるい、です……! なんで、わたし、なんか、を……!」
ポロポロとこぼれる涙。
「できない……わたし、自分だっていつでも殺せるのに、あんなコト言われたら、できない……!」
彼女は俺を見る事を恥じるように。
「ありがとう、なんて―――そんな幸せな人を、死なせるなんて、ヤだ――――」
両手で両目を覆って、ただボロボロと泣き続ける。
「……先輩。そんなに泣かれると、困る」
……その、どうしていいか解らなくなるから。
「うっ……うう、うあぁぁぁぁぁぁぁん……!」
……俺の言葉が悪かったのか、先輩は声をあげて一際大きく泣き始めた。
「もう―――――なんだって、いきなり……!」
自分でもどうしてそうしたのかは解らない。
ただ、目の前で泣いているこの人を放っておけなくて、強引に腕を引っ張って抱き寄せた。
[#挿絵(img/シエル 22(2).jpg)入る]
――――どん、という衝撃。
先輩はあっさりと俺の胸に倒れてきて、声を押し殺して泣き続けた。
「………ごめん、なさい……!」
―――ごめんなさい、と。
震える声で、何度も何度も、そんな言葉を繰り返しながら。
「――――――」
……なんだ。
嘘だったのは、さっきまでの先輩じゃないか。
やっと、先輩に会えた。
電話をしてからたった一時間程度だけど、とても長い間、先輩を待っていた気がする。
「……謝らなくていいんだ、先輩」
ただそうしてあげたくて、満足に動く右手で先輩の体を抱く。
「あ――――――――」
なにか、張り詰めていたものが切れたような声をあげて。
先輩は、ようやく泣きやんでくれた。
……どくん、とくん、という音。
お互いの心音が、自分のもののように聞こえる。
「………………」
ひどく、静かだ。
かける言葉なんて見当たらない。
ただこうして―――この人の鼓動を聞いているだけで、よかった。
―――求めていたものは。
俺が望んだことなんて、本当に小さな事だった。こうして、先輩が先輩のままでいてくれるだけでよかったんだから。
「……先輩。先輩の体、あったかい」
「……違います。あったかいのは遠野くんのほうで、わたしは、イヤになるぐらい、冷たい人間です。こんなに―――優しいひとに、酷いことを、しました」
……違う、先輩。俺は優しくなんかない。
今だって、ただ、先輩に触れていたいだけなんだ。
ただ――――ずっと、こうしていたいだけなんだ。
「……いいよ。俺はまだ生きているんだから、それでいい。もう……こうしていられるなら、それでいいんだ」
俺は、昔死にかけて。
その後に、ただ生きているというコトは、それだけで幸運なコトなんだって気がついた。
死の見える世界。
死が視える世界。
いつだって簡単に、何かの弾みで失われていくモノたち。
けど、だからこそ――――生きているという事は、それだけで幸運なコトなんだ。
それを実感できる事。こうして先輩の体温を感じられる事は、それだけで、幸福すぎる。
「―――先輩。俺、先輩がすごく大切だ」
「…………っ」
「俺はやっぱり死にたくない。ぎりぎりまで生きて、こうして先輩と一緒にいたい」
ぎゅっ、と。
先輩の手が、強く、握られる。
「だから先輩には生きていてほしいんだ。お願いだから……死ぬことが望みなんて、言わないでくれ」
「……………」
返答はない。
とくん、とくん、と。
先輩の鼓動が、肌を通じて伝わってくるだけで。
「……………だめ、ですよ、そんなの」
不意に。
泣きそうな声で、彼女は言った。
「……わたしは、そのために今まで生きていたんです。
死ねるから。ロアさえ消してしまえば死ねるから、わたしは死ななくちゃいけないから、ずっと、我慢してこれた。
お父さんとお母さんを殺したから、みんなを殺してしまったから、こんな体になったから、遠野くんを騙して殺そうとしたから―――わたしは、早く、一秒でも早く、死なないと、いけない」
「……死ななくちゃいけないって、どうして。
そりゃあたしかに先輩は苦しいことをしてきただろうけど、それは先輩のせいじゃないだろ……!」
「だとしても、悪いコトをしてきたのはわたし自身の手でしょう、遠野くん」
「違う……! 悪いのはロアのヤツだ。先輩が死ななくちゃいけない理由なんて、どこにもない!」
「―――でも、生きていていい理由も、ないじゃないですか」
言って。
先輩はくすりと、自分自身を蔑むように、笑った。
「……わかってる。わたしにはそんな資格なんてないって、わかっている、つもりでした。わたしは、ひどいことを、たくさんしてきてしまったから」
なのに、どうして、と。
先輩は、震える声で呟いた。
「わたしは幸せになんかなってはいけないんです。だから今までずっと考えなかったのに、夢見る事さえなかったのに……!
なのに、なのに、どうして―――」
だん、と。
泣いている子供のように、先輩の手が、胸を叩く。
「今になって、どうして―――こんな、罪深い、夢を」
見て、しまっているのか、と。
深く、いっそう俺の胸に顔をうずめて、震える声で、先輩は言った。
「……あんまりにも、楽しかったんです。
こんなのは嘘だ、わたしは楽しい生活の芝居をしているだけなんだって解っていたのに、それでもいいって思うぐらい――――嘘でもいいから無くしたくないって思うぐらい、楽しかった。
まるで夢の中の出来事みたいに幸せで、一日でも長く続いてほしかった」
……なんだ。俺たちの欲しかったもの、望んでいたものは、結局同じだったんじゃないか。
「―――でも、そんな我が侭は許されない。
わたしは一刻も早くロアを殺して、罰を受けないといけないんです。
わたしには遠野くんたちみたいに生きていい権利なんてない。
そんなコト、言われなくてもわかってる。
こんな夢を見てしまって、遠野くんさえ殺せないのなら、わたしは消えるしかない。
わたしにはもう、ここにいていい理由がありません」
痛みに耐えるぐらいの悲しい顔をして、先輩はそう言った。
「……さよなら。ありがとうって言ってくれて、本当に、嬉しかった」
先輩はそっと離れた。
さっきまで伝わってきていた心音が途切れてしまう。
……この人には、もう何度もさよならを言われてきた。
あの時だって。
笑顔で、とても大切な事のように、こんな事を言っていたんだっけ。
―――さよなら。わたし、遠野くんと乾くんのような学生になりたかった。
……本当に、どうして気がつかなかったんだろう。
この人は、そんな簡単なことを。
とおとい夢のように、語っていた。
「―――違う。そんなのは夢なんかじゃない」
「え――――きゃっ……!」
離れていく先輩の体を力ずくで引き戻した。
愛しいというより、ただ悲しくて、先輩の体を抱き寄せる。
「と、遠野くん、もう――――」
「駄目だ。先輩の嘘には、もう騙されない」
離れようとする先輩の体を抱きしめる。
「続けたいんなら続ければいいじゃないか。先輩が言っているコトは、決して夢なんかじゃない」
「そんな……そんなコト、できっこない、です」
「なんで? だって本当にあったコトじゃないか。先輩さえ望めばすぐに戻ってくる生活だろ。そんな簡単なコト、夢みたいだったなんて言わないでくれ」
「……無理です。遠野くんをこんなに傷つけてしまったのに、今さら―――元に戻ることなんて、できないでしょう」
「ああ、それなら大丈夫。俺は気にしてないから、先輩も気にしなくていいよ。
ほら、好きな人に追いかけられるっていうのも貴重な経験だったしさ」
できるだけ明るく、冗談のように言う。
「…………」
先輩は黙っている。
「それに今夜の先輩、かっこ良かった。いつもの神父さんみたいな服装もいいけど、今日みたいなハデな服も似合ってて、見れてラッキーだったし」
「…………………」
先輩は黙っている。
「先輩、メガネをかけてないとイメージ変わるんだな。キリッとして、なんだか年上みたいに見えたよ」
「…………………………」
……やっぱり先輩は黙っている。
「――――――――はあ」
何を言っても先輩は答えてくれない。
場をなごませようとした会話も空振りしてしまって、他に言うべき言葉が見付からない。
「……先輩、何か言ってよ。それとももう俺なんかとは話したくない?」
「………………………」
先輩は答えない。
ただ俺の胸にこつん、と額を当てて。
小さく、囁くように、
「…………………………ばか」
……なんて、コトを言ってきた。
「……遠野くんは、ばかです。
わたしは、遠野くんが思っているような人間じゃないのに、どうして、そんなに優しく、できるんですか」
「だって、先輩には泣いてほしくない。笑っていてほしいから、元気になってほしいんだ」
「……でも、わたしにはそんな資格ありません。遠野くんに優しくしてもらえる資格なんて、ないんです」
「………………」
―――優しくしてもらう資格。
そんなもの、俺にだってありはしなかった。
けど、それでも―――そんなものは必要ないって笑い飛ばしてくれたのは、この人だけだった。
「知らないよ。俺には先輩の事情なんてわからないし、正直そんなものどうでもいい。俺が先輩に優しくするのは先輩のためじゃないから、気にしないでくれ」
いつか。
アルクェイドを殺してしまって、自殺ぐらいしか考えつかなかった俺に、貴方がそう言ってくれたように。
「……あの、さ。俺は、俺が先輩に優しくしてあげたいからこうしているんだと思う。
そこに先輩の事情はあまり関係ないんだ。先輩にとっては迷惑だろうけど、たちの悪い後輩に捕まったと思って、いいかげん観念してくれないか」
ぎゅっ、と。
一際強く抱きしめて、先輩と肌を重ね合う。
「あ―――――志貴、くん」
「先輩の罪なんて知らない。
俺は先輩の事が好きだから―――先輩を愛しているから、優しくするんだ。
他のことなんてどうでもいい。俺は先輩と幸せになりたい。―――ずっと一緒にいたいから、シエルに、死んでほしくないだけだ」
「でも―――わたし、は――――」
「……それでも。それでも先輩が幸せになりたくないっていうんなら、それでもいい。俺がかってに、先輩がどんなに嫌がっても傍にいて幸せにしてやるから……!」
「だから―――もう、さよならなんて言わないでくれ」
言って。抱き寄せた先輩の顔に手をそえる。
「志貴――――――くん」
微かな呟きのあと。
俺たちは、そうする事が自然のように、互いの唇を重ね合った。
「―――――ん」
……唇が離れる。
抱き寄せていた腕も力尽きたように解けて、シエル先輩はそっと体を離した。
「……………」
……廊下は静まりかえっている。
月光だけが青く世界を染める光景を見て、俺は、急速に現実に引き戻された。
「は………あ」
俺の行為は、この上なく愚かだ。
自分自身でさえ出口がないっていうのに、先輩を抱きとめても意味がない。
けど、抱き寄せずにはいられなかった。
出来る事なら、あのままずっと、この人を抱きしめていたかったぐらいに。
「遠野くん。いいんですか、そんなコトいって」
「―――ごめん。俺、考えなしだ。俺本人、もうどうしようもないのに―――偉そうなこと、口にしてる」
「そんなコトを言ってるんじゃないですよ。わたしなんかとそんな約束していいんですかって、聞いてるんです」
先輩の声からはさっきまでの弱々しい響きが消えている。
「……いいに決まってるだろ。俺はこんなだけど、せめて自分が残っているうちぐらいは、先輩のことを愛してる」
「無責任なこと言わないでください。わたしを幸せにしてくださるんでしたら、ずっと、遠野くんには遠野くんのままでいてもらわないと困ります」
……それはそうだけど、それは叶わない。
俺は明日にだって、自分でいられるかどうか自信がないんだ。
「……ごめん。俺は、駄目だ。先輩、俺が本当に戻れなくなったら、その時は―――」
「―――死なせません」
きっぱりと。
強く、彼女は俺の言葉をさえぎった。
「貴方は、絶対に死なせない。ロアなんかに遠野くんは渡さない」
「先輩、けど―――」
「わたしが貴方を守ります。必ず、必ず救ってみせる。だから―――そんなこと、言わないでください」
先輩はすぐに立ちあがって、真剣な顔つきで俺の体の傷を看てくれた。
「……傷そのものはもう治ってますね。夜ですから、肉体が吸血種よりになっているんです。
えっと、そのおかげで遠野くんを殺さずにすんだんですから、少しはロアにも感謝するべきなんでしょうか」
……場をなごますためか、先輩は返答しにくい冗談を口にした。
「遠野くん、一人で立てますか?」
「立てるけど―――先輩、俺を救うってなにか方法でもあるのか……?」
「……確実とは言えませんが、法王庁に戻れば何か手段が見付かるかもしれません。
その、以前と違ってわたしというサンプルがありましたから、転生体の意識を残したままロアの魂だけを封印する技術らしきものは研究されている筈なんです」
「―――なんだよそれ。そんな便利な方法があるんなら、どうして―――」
「……遠野くん。たしかに教会に行けば貴方は助かるかもしれない。けど、そこで待っているのは地獄かもしれない。
教会の方々にとってみれば、わたしも貴方も異端者です。遠野くんは研究に協力するという形で治療をうけます。
……遠野くんは目の事さえ黙っていれば一般人ですから、わたしのように研究材料として扱われる事はないでしょうけど―――」
「―――つまり、すごく痛い?」
「―――はい。それでも治療ができなかった場合、遠野くんは吸血種として扱われてしまうんです。
……わたしは貴方に、死より辛い事を経験してほしくはありません。
だからわたしは、いっそ―――」
「……いいよ先輩。どのみちこのままじゃ行き止まりなんだ。少しでもなんとか出来る可能性があるんなら、ローマだろうがイタリアだろうが、どこにだって行くしかないだろ。
……たとえどんな結果になろうと、先輩に文句はいわないよ」
「―――いえ。誰にも遠野くんは傷つけさせません。それだけは信じてください」
「……ああ。先輩を信じるよ」
……というか、そんな事より旅費とかパスポートとかを心配してしまう自分の小市民ぶりが情けない。
「けどどうするんだ。もしかしてこのまま法王庁とやらに行くことになるの?」
「いえ、今夜はわたしが遠野くんの治療を行います。ロアは吸血種ですから、朝になれば活動も沈静化します。
……単に法王庁に赴くだけなら簡単なんですけど、遠野くんの問題は裏側のものです。わたしの時と同じで本来有り得てはいけない事柄ですから、遠野くんは教会の裏側に足を運ばないといけない。
ですが、そこに遠野くんを直接連れていくには幾つかの許可をとらないとダメなんです。最低限の洗礼を行うにしても、この街に秘跡を行える聖堂はありません。
この国でわたしたちよりの洗礼ができる聖堂は一つしかありませんから、まずは一度聖堂まで来てもらわないと」
「ふうん。それじゃ朝になったら教会に行くっていうことですか」
「いえ、そう簡単にはいかないんです。信徒でもない遠野くんが法王庁に入るためには、もう頭が痛くなるぐらい面倒な許可が必要になります。
ですから、明日になったらわたしが遠野くんに仮の入会が許されるようにこの国にある聖堂に赴きます。
……その、手続きには何日かかかるでしょうけど、その間はわたしの部屋で待っていてください。部屋には吸血鬼用の封鎖を施しますから、そこにいてくれれば一週間や二週間程度はロアを抑えられるでしょう」
「……先輩の部屋って―――もしかして、先輩の部屋に泊まりこむのか、俺!?」
「……あのですね。遠野くんの命がかかっているんですから、それぐらい我慢してください。あ、妹さんに連絡を入れるぐらいはいいですけど、あんまり事情は説明しないでくださいね」
「……いや、こんな事情は頼まれたって説明はできないけど―――」
「それじゃ行きましょうか。とりあえず遠野くんに溶け込んでるロアの意識を乖離させないといけません」
ぐい、と強引にこっちの腕を掴んで先輩は歩き始める。
……なんていうか、そこにさっきまでの弱々しさは微塵もない。
けどそれは無理やりな明るさだ。
先輩は、俺を不安にさせまいと無理をしている。
「……ありがと、先輩」
聞こえないように、小さく、そんな言葉を呟いた。
◇◇◇
「どうぞ、狭苦しいところですけど楽にしてください」
「あ……うん。えっと、おじゃまします」
こんな夜更けに女の子の部屋にあがる、なんてコトを妙に意識しながら部屋に入った。
シエル先輩の部屋は、あの時となんら変わってはいない。
「それで、先輩。俺はこれからどうすればいいのかな」
「えっとですね、まず遠野くんの中のロアを一時的に沈静化させます。
……といっても、わたしの部屋そのものが簡易的な聖域になっていまから、ロアの意識だけならここに篭っているだけで侵食速度をかなり遅めることになります」
「―――へえ。それじゃこの部屋にいるだけでとりあえずは安全っていうことなのか?」
「はい、ロアの意識が遠野くんの意識に侵食するのを阻むだけなら、この部屋にいてくれるだけで十分なんですけど、その……」
「ん……?」
シエル先輩は頬を赤らめて、なにか言いにくそうにごにょごにょと呟いている。
「……先輩? どうしたの、他になにか問題でもあるのか?」
「いえ、問題というほどのコトじゃないんですけど、それなりに命にかかわる問題なんです」
「……先輩。命にかかわる事なら、それって重大な事じゃないの?」
「ええまあ、そうなんですけど、その……単刀直入に言うとですね。遠野くん、さっきから体のどこかがおかしいんじゃないですか?」
「体がおかしいって、そりゃあ人間離れした頑丈さにはなってるみたいだけど」
「……そうゆうコトじゃなくてですね、こう熱いー! とか、あばれたーい! とか、きません?」
「えっ―――そ、それは、その―――」
……そういった破壊衝動は、たしかについさっきまで自分の中で渦巻いていた感情だ。
現に俺は、琥珀さんを相手に酷い事をしてしまった。
「……いや、大丈夫だよ。この部屋に入ってから俺以外のヤツの声も聞こえない。先輩の言うとおり、ここにいればロアのヤツも大人しくしてくれてるみたいだ」
「ですから、それは精神面の問題であってですね、身体面の問題じゃないじゃないですか」
「―――?」
シエル先輩はまたも言いにくそうにごにょごにょと呟いている。
……わけがわからない。
とりあえず床に腰を下ろして体を休める。
「ほら、先輩も立ってないで座ったら? あんなコトの後なんだから疲れてるだろ」
「…………………」
シエル先輩は答えず、なにやら真剣に考え込んでいる。
と。
「遠野くん、シャワーを浴びてください」
「――――はい?」
「だって、いま言ったじゃないですか。たしかにあんなコトがあったんですから、体を洗って落ち着かないとヘンですよ」
「いや―――でも」
「デモもパンもないでしょ。遠野くん、一度うちのお風呂を使ってるんですから、今さら遠慮なんかしないでください」
ぐい、と強引にシエル先輩は俺の腕を引く。
「ちょっ、ちょっと先輩、まずいってば……!」
こっちの言い分なんて聞いてもくれない。
シエル先輩は強引に俺を脱衣場に追いやって、結局シャワーを借りる事になってしまった。
当然、一人きりだ。
シエル先輩は俺があがるまで部屋で待っている、とのコトだった。
「……なんだかなあ」
仕方なくシャワーを浴びる。
……たしかにシエル先輩の言うとおり、体は汚れていた。
腕や首元には泥がついているし、体中がなんだか汗臭い。
「そっか……昨日からずっと部屋に篭ってたんだもんな。しかもずっと発情していたようなもんだったっ………」
……?
発情していたって、その―――おかしいな、俺、いまも元気に勃っちゃってるんですけど……?
「あれ―――あれ?」
別に興奮してるワケじゃないのに、どうしてこんな―――パンパンになっているんだろうか、俺自身さまは。
「ちょっと待った、ヘンだぞコレ―――!」
いきり立った俺の一物は、俺本人の意思とは無関係に充血してしまっている。
「――――まさか、その――――」
昨日の夜から。
ロアの意識に促されて、夜の街に出て女の人を襲った時から、その―――ずっとこのままだったんだろうか、俺は。
「…………」
さあ、と頭から血の気が引いていく。
……それは、まずい。
シエル先輩の部屋の中ならロアの意識は大人しくなってくれるけど、体は大人しくなってくれていないみたいだ。
「……おい。何時間も勃起したままって、その、まずくなかったっけ、なんか」
いや、なんかではなくて確実にまずかったはずだ。
だいたい一時間近く勃っているだけで痛いんだから、まる一日も勃っていたら、それこそどうかしてしまう。
「―――――出さないと、ダメかな」
口にしてみて、愕然となった。
なになに、一日中モノが勃起したままで?
このままじゃまずいから、シエル先輩の部屋の風呂場で一発抜くっていうのか?
「信じ―――られない」
そんな、そんな恥知らずなコト、できるもんか……!
そりゃあ風呂場なんだから、ここで何をしてもシエル先輩にバレるコトはないだろうけど、それにしたって、いくらなんでも情けなさすぎる。
……けど、一日中勃ちっぱなしっていうのは本当にまずい。
琥珀さんを襲ってしまった後はしばらく大人しかったと思うから、正確には一日中というワケじゃないけど、それでもやっぱり―――
「―――ああもう! さっきまで好きなひとに殺されそうな目にあってたっていうのに、なんで今になってこんな低レベルな事で苦しまなくっちゃいけないんだ、俺は!」
……怒鳴っても始まらない。
観念して、自分でなんとか自分自身を静めることにした。
「…………」
風呂場からあがった。
「あ、キレイになりましたね。ずいぶん時間がかかったみたいですけど、遠野くんってお風呂好きなんですか?」
「―――イヤ。そんなコトは、ないけど」
答える声には力がない。
俺は―――あんな、プライドをお湯に流すような真似までしたっていうのに、その―――
「で、どうでした。自分でスッキリできましたか、遠野くん」
「え―――先輩、それって、その………」
「はあ、やっぱりダメでしたか。そこまで、その……溜まっちゃってると、ロアの意思でないとダメなのかもしれませんね」
「―――――――」
シエル先輩が頬を赤らめているように、こっちの顔もボッと火がついたみたいに赤くなった。
溜まってる、なんて、そんな身もフタもない事を言われると、困る。
「あ………う…………」
けどシエル先輩の言うとおり、どう頑張っても自分一人じゃ体の昂ぶりをどうする事もできなかった。
俺は結局、自分のナニを大人しくするのを諦めて風呂場から出てきたのだ。
「ええい、こうなったらもう恥ずかしがってる場合じゃないっ。そう、先輩の言うとおり、なんか俺の体ヘンなんだ。
誓っていうけど、俺はなにもやらしいコトなんて考えてないんだ。ないんだけど、その、体がかってにいきり立ちやがって、その―――」
このままじゃ生殖器が充血しすぎて腐ってしまう、とまでは言えなかった。
「ほら、だから言ったじゃないですか。遠野くんの体でおかしなところはないですかって」
「―――! さっきのアレって、コレのことを聞いてたの先輩……!?」
「はい。遠野くん、自分で気がついていないだけですごく昂ぶってますから。意識は静められたけど、体のほうも静めないと結局ロアに乗っ取られてしまいます」
「そうだったのか……って、そうゆうコトはハッキリ言ってくれ! 裸にまでなってようやく気がついた俺がバカみたいじゃないか!」
「ハッキリ言えたら苦労しませんっ!」
―――あ。
そっか、そりゃあハッキリ言えないよな、シエル先輩は女の子なんだから。
「ごめん。けどどうしよう。俺もなんとかしようって思ったんだけど、全然大人しくなってくれないんだ。
なんだか体と心が別々になったっていうのか、自分の体が自分の体じゃないみたいで、ぜんぜんその気になれないっていうか―――」
ああもう、ズバリ言ってしまえば不感症になってしまったみたいなんだ!
……なんてハッキリ言えれば楽なんだけど、シエル先輩にそんな事を言うわけにはいかない。
「……わかってます。
遠野くん、わたしは貴方の体を治療するためにここに連れてきたんです。
そのですね、遠野くん一人じゃダメな事はわかってました。その……わたしも、昔はそうだったから」
先輩は遠慮がちに呟く。
そうか……シエル先輩もロアに支配された事があるひとだ。
だから俺がこうなることも、あらかじめわかってたんだ。
「先輩、それじゃあどうすればいいのか知ってるの……?」
「もちろんです。
……えっと、ですね。遠野くんの意識は、いま自分の体と感覚が途切れがちになってるんです。
だから自分でするより、その……他人の肌というか、他人にしてもらったほうが、自分でするより感じるんです」
「――――――」
一瞬。
シエル先輩の言葉を聞いて、頭の中が真っ白になった。
「……他人にしてもらうって……その、シエル先輩?」
「そういうコトです。わたしじゃ遠野くんも不本意でしょうけど、ここは我慢してください。あ、これは鎮めるための手段なんですから、別段性的なものじゃありません。
ですからそんな、恥ずかしがらないでいいです」
「あ………う」
そうハッキリと言われると、なんて言っていいのかわからない。
「それじゃ遠野くんは部屋のほうで待っていてください。わたしも準備がありますから」
「待っていてって……先輩、どこか行くの……?」
「はい。わたしもシャワーを使うんです。その、両腕にこんなペイントをしたままじゃ、イヤですから」
恥ずかしがらなくていい、とか言っていたクセに、シエル先輩は頬を赤くしたりする。
「先輩、やっぱり……その、悪いよ、そんなの」
「いいですから、遠野くんは部屋のほうで待っていてください! わたしも覚悟を決めてまいりますから……!」
先輩は脱衣場に駆けこむと、ばたん、とドアを閉めてしまった。
「あ―――――」
止める間もない。
どのみち、とにかく一物を大人しくしないとどうしようもないんだ。
先輩に悪いってわかってるけど、ここは好意にあまえるしかない。
そう観念して部屋に戻ろうとした時。
「……あ、遠野くん? あのですね、その、メガネをつけているとイヤだとか、そういうのありますか……?」
なんて声が、ドア越しに聞こえてきた。
「? メガネって……先輩、なんでそんなコト尋くのさ」
「いえ、その……男の人の中には、そういうのを気にする人がいるらしいですから」
ごにょごにょ、と恥ずかしそうな声が聞こえてくる。
「……メガネね……先輩もおかしなコト気にするんだな」
……けど、扉ごしに顔を真っ赤にして尋いてくる先輩というのも可愛らしい。
さて、ところで自分としては―――メガネをしてない先輩なんて先輩じゃないっ!
「つけておいてください」
「……遠野くん? すみません、よく聞こえなかったんですけど……」
「是非つけておいてください、と言いました」
断言すること、数秒。
ドアの向こうでぼんやりとした沈黙があった。
「えっと……はい、了解しました。それじゃあ部屋で待っていてください」
……ガラリ、という音がして、すぐにシャワーの音が聞こえてきた。
「……………」
ベッドに腰をおろして、自分の股間のモノを見下ろしてみる。
本当に自分でも天を仰ぎたくなるぐらい、こっちの意思とは無関係に屹立してしまっている。
他人にしてもらったほうがいいんです、とシエル先輩は言った。
その方法まではっきりとは言わなかったけど、さっきの雰囲気からして、なんとなく方法とやらがなんであるかは読み取れる。
「――――む」
そう思った瞬間、どくん、と心臓が脈動した。
「ばか、何考えてるんだ、俺」
いかんいかん、と頭をふって冷静になろうと努力する。
シエル先輩は鎮めるための手段だから、性的な意味はないって言ったじゃないか。
せっかくロアの意識が静かになっているっていうのに、俺自身が興奮してどうするっていうんだ。
「……冷静に、冷静に」
呪文のように繰り返す。
そんなことをしている間に、シエル先輩が台所からやってきた。
[#挿絵(img/シエル 33(2).jpg)入る]
「――――――」
開いた口が塞がらない。
シエル先輩はシャツにパンツだけっていう、とんでもなく身軽なカッコウで部屋に入ってきた。
「せ、先輩! な、なな、なんて格好をしてるんですか、あなたは………!」
動転して腕を振りまわす俺を、シエル先輩ははにかむような微笑をうかべたままで見つめている。
「あの、おかしいですか? わたしなりに遠野くんのお手伝いができるような格好をしてみたんですけど」
「お、お手伝いって、なんの!」
「……その、遠野くんが少しでも欲情してくれるように、がんばってみたつもりなんですけど……」
ぼそぼそとシエル先輩は答える。
「―――――」
言葉がない。
俺が呆然とシエル先輩を見つめていると、シエル先輩は気まずそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい。やっぱりわたしなんかがこんな格好をしても、ぜんぜん色っぽくないですよね」
「な、なに言ってるんだ! そんなの、じゅうぶんすぎるぐらい色っぽいに決まってるじゃないか!」
元気に即答して、自分がなんかとんでもない事を口走ったことに気がついた。
「あ―――いや、その、ともかく、気持ちは、ありがたいん、だけど」
……そのカッコウはまずいです、先輩。
このままだとロアの意識なんかより俺の意識のほうが凶暴化しかねない。
「遠野くん?」
「―――――」
シエル先輩から視線を反らす。
その、白いシャツだけの肩の輪郭とか、
見え隠れしている下着の色とか、
柔らかそうな太ももとか、
正視しているだけで感情が昂ぶってくる。
……そりゃあ俺の気分を昂ぶらせてスッキリさせようっていうのがシエル先輩の目的なんだろうけど、それにしたって、その―――
「先輩、やっぱり止めよう。俺、ちょっと自信ない」
「心配しないでください。その、男の方のそこは敏感だって言いますから、わたしでもなんとか鎮めることはできると思います」
「いや、だから、自信がないっていうのはそういう事じゃなくて」
シエル先輩に対してガマンできるかどうかっていう自信がないっていうコトなのに。
「それじゃ始めますけど、遠野くん」
「な、なに……?」
「ズボン、脱いでくれませんか? 前のチャックを開けて、はだけさせるだけでいいですから」
「あ――――う」
先輩はやる気だ。
それもあんまり恥ずかしがってない。
「……先輩……その、恥ずかしく、ないの?」
「そうですね、ホントは少し不安ですけど、このままじゃ遠野くんの体のほうが持ちませんから。
たんに体から膿を出す作業と大差はないって、自分に言い聞かせてあります」
「ウミって……随分とストレートな表現だな、それ」
「あ、遠野くん。その、わたしが鎮めているところは、あんまり見ないでくださいね。人に見られてると集中できませんから」
言って、シエル先輩は俺に近づいてくる。
俺は―――シエル先輩が冷静でいればいるほど、逆に気持ちが混乱していってしまっている。
「ちょっと待った、やっぱりやめようよ先輩。
こんなのは、やっぱり違う。そりゃ俺だって先輩のことを―――」
抱きたい、って思うけど、こんな理由でこんなコトになるなんていうのは、イヤだ。
「遠野くん。わたし、明日の朝には貴方を置いて行かなくちゃいけないんです。
わたしたちの時間は今しかないでしょう? いま遠野くんの体を鎮めておかないと、わたしが帰ってくるまでずっとそのままなんですよ」
「それは……そう、か」
「はい。いいですから、遠野くんはそこで座っていてください。わたし、不慣れですけどがんばりますから」
先輩はかすかに頬を赤らめて、まっすぐに俺の目を見詰めてくる。
……そうか。先輩だって恥ずかしいのは同じコトなんだ。
このひとが覚悟を決めてるのに、俺が駄々をこねているわけにはいかない。
「……わかったよ。えっと、それじゃあこれでいいの?」
ズボンのジッパーを下げて、下着をさげる。
ギチギチと音が立ちそうなほど屹立した俺のモノを目の当たりにして、シエル先輩はぴたり、と動きを止めてしまった。
「……先輩……? その、やっぱりやめよっか?」
「い、いえ、そんなコトないです! ただちょっと、これが遠野くんなんだなって」
はあ、と深く息を吸い込むと、シエル先輩はトコトコと俺の傍まで歩いてきた。
「えっと、よろしくお願いします。遠野くん、天井でも見上げていてくださいね」
シエル先輩の体が消える。
シエル先輩はベッドに座って股を開いている俺の足の間にしゃがみこんで、
屹立した俺の生殖器に吐息がかかるぐらいの位置で向かい合った。
……シエル先輩の指が、俺のペニスに触れている。
片手で、ためらいがちに指をそえて、上下にしごいている。
「遠野くん、どうですか? 気持ちよくなったらいってくださいね」
「――――――」
シエル先輩の声には答えられない。
……なんていうか、すごく後ろめたい。
シエル先輩の指はぎちこない動きで、腫れ物に触るように俺の男根に触れてきている。
「……………ん」
実際、それだけで。
ただシエル先輩に触れてもらっているというだけで、あたまのなかはぐらぐらに揺れている。
揺れているんだけど、限界近くに膨張した生殖器はまったく感じてくれていない。
「ん……なんか、前より硬くなっちゃた、かな……」
細い指を絡ませながら、シエル先輩の呟きが聞こえてくる。
……俺のモノはまだまったく感じていないらしく、前触れの線液さえ出していない。
渇ききって熱くなっている男根を、先輩はなんとか鎮めようとしてくれている。
……そんな微妙な、快感よりも羞恥心でどうにかしてしまいそうな時間が、何分と続いていく。
初めはぎこちなかった先輩の指の動きも、段々と慣れる……というか、強気なものになっていた。
指で竿を包み込んで、ただ上下に動かしていただけだった初めに比べて、今では力強く握ったままでしごいてくる。
「……おかしいな……どうして、ぜんぜん、言うコト聞いてくれないんでしょう、遠野くん」
困ったような声が、聞こえる。
こっちの意識は、シエル先輩の声を聞くだけでどうにかしそうだ。
先輩の指でしごいてもらって、それなりに気持ちはいいんだけど、達するにはまだ程遠い。
そんな感覚より、今は―――シエル先輩の指使いが上手になればなるほど、このひとを抱きしめたい気持ちが強くなってしまう。
「ん……」
シエル先輩の声に、熱がこもる。
羞恥心からなのか、それともそれほど熱心に俺のモノと格闘しているからなのか、かすかにかかる吐息が熱い。
「ん……は、あ……ん、っ……」
聞こえてくる呼吸が荒い。
気がつけば、片手だった指が今では両手に変わっている。
「……はあ……は……ん、は……ぁ」
両手の指で、丹念に織物を織るように、俺の男根を包み込んでくる。
何度も刺激されたせいだろうか、それでようやく、こっちにも快感らしきものが伝わってきた。
ぞくり、と背中にしびれが走る。
けれどそれは、シエル先輩の指のおかげじゃない。
たんにシエル先輩が、両手で懸命になって俺のモノに触れてくれている、というコトが、俺自身を興奮させているだけだ。
「は、ん、ん――――」
シエル先輩の声が小さくなる。
とたん――
「くっ―――!?」
今までのくすぐるような感覚とは度が違うほどの快感が、背中を反らせた。
「……ん、む、んく―――」
シエル先輩の声は、声というより呼吸に近い。
満足に呼吸ができないのか、シエル先輩の吐息は苦しげだ。
けど俺のモノに拭きかかる吐息は熱くて、とても近い。
そればかりか―――ぬらり、と渇いていた男根が濡れていっている。
「あ、ん―――」
……シエル先輩の吐息が、悩ましげに熱を帯びていく。
「ちょっ、先輩……!?」
背中にぞくぞくと這いあがってくる快感に堪えきれなくなって、思わず視線を下に下げた。
[#挿絵(img/シエル 34(2).jpg)入る]
「――――――」
あたまが、真っ白になった。
背中に這いあがってくる、寒気にも似た感覚の正体は、ソレだった。
どくどくと青い血管を浮かび上がらせる肉の棒。
いとおしげに絡みついた細い指。
鼻孔からの呼吸さえも感じ取れるほど近づいた顔。
ぬめり、と。
渇いた肉棒を舐めあげていく、赤い生き物のような舌。
「ん、ん、はあ、ン………」
シエル先輩は目を閉じたままで、ただ熱心に舌をはわせてくる。
舌の感触は、指なんかとは比べ物にならない。
……まずい。
こんなもの見せられたら、体だけじゃなくて俺の意識のほうも昂ぶっちまうじゃないか。
事実、もう俺のほうもとっくに感じていてしまって、びくん、と竿がシエル先輩の指から逃れるように屹立した。
「ん―――!?」
シエル先輩は驚いて、けれどすぐに指をからめてきた。
……今まで渇いていた男根が、脈動する。
亀頭の先っぽから透明の線液がしずくになってこぼれだして、それを、シエル先輩の指が絡め取る。
男根にぬりつける。
赤い舌が舐めとっていく。
「遠野、く、ん――――」
そんな声をあげて、舐めあげていく。
シエル先輩の口元は、口内からしたたっていく唾液が線を引いていた。
「あ――――」
まずい。
ほんとに、こんな懸命なシエル先輩を見ていたら、どうかしてしまう。
「先輩、ダメだ……! こんなんじゃ出る前に、俺のほうがどうかしちまう……!」
「ん……ダメ、です、遠野くん。ちゃんと出すまで、やらないと」
ぞくん、という感覚。
シエル先輩の舌が、亀頭の裏側を舐め上げたのだ。
「……やめよう……! このままじゃ俺、ガマンできなくなっちゃうだろ……!」
「だから、がまん、しないでください。
溜まったものを出してしまえば、それで鎮まってくれるんですから」
「相手が先輩だから、よけいにダメなんだって……! いいから止めよう先輩。そんな……そんなコトまでさせて悪いとは思うけど、俺のは、先輩が相手だと静まらないんだ……!」
「わたしのことは、気にしないでいいです。わたし、なんとも、思ってません、から」
はっきりと断言して、シエル先輩はまた丹念に俺の一物を舐めあげる。
「――――っ!」
思わず声があがる。
……シエル先輩がコレをただの作業と思っているんなら、俺もガマンするしかない。
出きるだけ先輩を見ずに、ただ溜まったものを放出することに全力を傾けよう。
「あ………ん、く―――」
シエル先輩の吐息が聞こえる。
味わうように這ってくる舌の感触と、
こすりあげてくる指の硬さ。
部屋には俺の心音と、シエル先輩の吐息だけが響いている。
これだけの快感。
いつもならとっくに達しているはずの感覚に包まれているっていうのに、俺の一物は依然として変化がない。
さっきは自分から濡れはじめたったていうのに、今じゃまたもとの肉棒に戻ってしまっているようだ。
「ん……ん、は、はあ……あ………」
……シエル先輩の吐息も苦しげになってきた。
さっき少しだけ達しそうになったのは快感のおかげじゃなくて、シエル先輩のあんな顔を見てしまったからなんだろうか。
「はあ……はあ………あ……ン………」
「……先輩?」
シエル先輩の吐息がやけに苦しげで、様子を見てみた。
シエル先輩はなにかもじもじと体を動かしている。
長い間同じ姿勢でいたためか、それともこの姿勢がやりずらいのか、なんだか落ちつきがない。
「先輩、もしかしてこの位置関係ってやりずらい? さっきからなんか苦しそうだけど」
「え―――あの、どうしてですか?」
「だって、さっきから息があがってるじゃないか。……その、苦しいならやっぱりやめようか?」
「え……いえ、息があがっているのは苦しいからじゃないんですけど……そうですね、ちょっと姿勢を変えましょうか。
なんか、遠野くん少しも感じてくれてないみたいですし」
不満そうにシエル先輩は口をとがらす。
「……あのね」
さっきから十分すぎるほど感じているんだって、この人はわかってないらしい。
「それじゃあベッドにあがって。さっきから床に膝をついてたから、足が痺れてるんじゃないか」
「え――あ、はい。それじゃベッドにあがりますから、むこうを向いていてください」
「………?」
よく解らないけど、とりあえず視線を反らす。
シエル先輩はベッドにあがって、またも天井を見上げていてください、と言ってきた。
「……先輩。俺、なんか先輩の顔を見てたほうが感じるみたいなんだけど、それでも天井を見てなくちゃダメ?」
「あ、あたりまえですっ! こ、こんなところを遠野くんに見られたらわたし死んじゃいます!」
「死んじゃうって―――どうしてだよ。なんとも思ってないんなら見られてもいいじゃないか」
「あ―――それは、そうなんですけど……」
シエル先輩は顔をかすかに赤らめて、とにかく天井を見ていてください、と繰り返した。
「――――――」
シエル先輩はベッドに四つんばいになる形で、俺の股間に手を伸ばしてくる。
「………………」
その間に、ちらり、とシエル先輩の姿を盗み見た。
……先輩の体は、さっきよりずっと熱っぽい。
どこか熱っぽいのかは解らないけど、例えば剥き出しの太ももの肌が上気していたり、ぬらりと光っていたりする。
……? 光っているって……あれ?
「―――――あ」
それがナンであるか気がついた途端、カチン、とあたまの中で撃鉄が落ちた。
「―――先輩、ちょっと」
「ん……な、なん……ですか、遠野くん」
「いいから、ちょっと横になって」
「え――――きゃあ!」
ぽい、とシエル先輩をベッドに倒す。
[#挿絵(img/シエル 35(2).jpg)入る]
「あ―――――」
シエル先輩の顔が、固まる。
「……先輩。なんで、そこ濡れてるの」
「あ―――あ」
シエル先輩の顔がみるみる赤くなっていく。
「……ふうん。なんとも思ってないクセに、どうしてそんなになってるのかな。
下着までぐしょぐしょにして、足にまでたれてるじゃないか、それ」
「ち――ちが、―――ちがうんです、これは―――」
顔を真っ赤にして、シエル先輩は凍りついている。
「違うって、なにが?」
なでるようにシエル先輩の太ももに掌を置く。
「んっ―――!」
びくん、とシエル先輩の体が震える。
掌には粘つく液が絡みついて、太ももから手を離すと淫らな糸を引いた。
「や―――やだ……! 見ないで、見ないでください、遠野くん……!」
よほど恥ずかしいのか、目に涙をためてシエル先輩は声をあげる。
けど、そんな仕草が可愛くて、よけいにこのひとをいじめたくなってしまう。
「ああ、先輩が見ないでっていうんなら見ないけど、その前にどうしてそうなったのか教えてよ。そうすればすぐに天井を見上げるからさ、俺」
「どうしてって、そんな―――そんな、コト」
「言えないの? なら、先輩の体に直接聞くからいいよ」
離れていた掌を、もう一度太ももに張りつける。
そのまま、たれている愛液をつたって、シエル先輩の股間に指を這わせた。
「んぁ…………!」
びくん、とシエル先輩の腰が引く。
「うわ、ほんとにぐしょぐしょじゃないか。
こっちがいけないって悩んでる時に、先輩は一人だけ気持ち良くしてたなんて、ひどいな。
……そっか、先輩は俺をいじめて愉しんでたんだ」
「ち、ちがいます――! わたし、ほんとに遠野くんを鎮めようって思って、けどぜんぜん遠野くんは反応してくれなくて、それで―――」
「それで?」
くっ、と人差し指に力をいれる。
下着の上から、十分に塗れた恥丘を持ち上げる。
「ン…………!」
恥ずかしそうに声をあげる。
その声。
その顔を見ているだけで、さっきより何倍も胸の鼓動が早まってくる。
「ほら、答えて。どうしてそんなにいやらしい体になってるのかな、先輩は」
「……わたし……ただ、遠野くんのをいじっているうちに、熱くなって―――自分でもおかしいって解ってたのに、なんだか頭がぼーっとして、それで―――」
「舌を使って、あんなに熱心に舐めあげてくれたんだ」
「――――――!」
ぼっ、と火が出るぐらいの勢いでシエル先輩の顔が真っ赤になる。
「でもわたし、ほんとに自分じゃ何もしてないんです……! ただ遠野くんのに触ってるだけで熱くなって、それで―――」
「下着をぐしょぐしょにするぐらい濡れちゃったってコトですか。
思ったよりやらしいんだね、シエル先輩は」
「と、遠野くん! さっき、さっきからなんだかすごくいじわるです! ちゃんと話したんですから、もう見ないでください……!」
シエル先輩の声を聞いて、確信した。
こんなふうに顔を真っ赤にして、俺のを触っているだけでこんなにまで感じてくれている。
さっきから何をやっても無駄なはずだ。
俺は、このひとじゃないと、ダメなんだ。
指先や舌先の感触なんかより、ただシエル先輩の姿を見ていたほうが、何倍も感じている。
「……先輩。俺、先輩のこと、抱きたい」
「え―――遠野くん?」
「やっとわかった。いくら先輩にしてもらっても、先輩の顔を見てないと、ダメなんだ。
先輩がじゃないとその気になれない。
俺は、先輩が相手じゃないときっと達することなんてできない」
「えっと……それは、嬉しいんですけど、けど今は―――」
「ロアのことなんて関係ないっ! 例えロアなんてヤツがいなくても、俺は先輩を抱きたいんだ。
こんな―――こんな可愛いシエル先輩を前にして、おとなしくしてることなんて、できない」
「――――――」
シエル先輩は呆然と俺を見つめてくる。
さっきまでの羞恥心でいっぱいの顔とは違って、どこか気の抜けた顔を。
「遠野くん……それ、本気で言っているんですか?」
「冗談でこんなコト言えるもんか。……けど、先輩がイヤだっていうんなら止める。俺、こんなコトでシエル先輩に嫌われたくはない」
「あ――――」
シエル先輩はわずかに表情を輝かせてから、また、気まずそうに下を向いてしまった。
「わたしだって……遠野くんと、したい、です。
……けどいいんですか? わたしはずっと我慢してきたけど、遠野くんは違うじゃないですか。
その体だって、ロアの影響で昂ぶっているだけなんだし―――」
「ばか。我慢してたのは俺のほうだ。さっきからもうずっと、先輩に触れたくてたまらなかった」
「ん――――!」
そのままシエル先輩の唇を塞ぐ。
荒い呼吸のまま、お互いの唇を塞いで、初めは手探るように、あとはただ激しく舌先を絡ませる。
「は、あ、あは―――」
シエル先輩の吐息。
彼女の体はとっくに火照っていて、いまさら俺がどうする必要もないようだった。
「遠野、くん」
「……先輩。服、脱がすよ」
白いシャツと下着を脱がす。
その下に現れた裸体は、こっちの理性を打ち崩すには十分すぎるほどキレイで、淫らだった。
上気して汗ばんだ肌。
ぴくん、と勃った形のいい乳首。
大きめの胸は弾力がありそうで、もみしだくだけで呼吸が荒くなる。
それと、茂みの下。
ピンク色の秘裂は十分に濡れていて、ぷっくりと充血した肉芽がてらてらと光っている。
「……なんだ、もうこんなになってたんだ、先輩」
指で赤い肉の芽をこする。
「あふぁッ………!」
男性のアノ部分に相当する器官を責められて、シエル先輩の体が跳ねる。
「ん、んあ、んくっ―――!」
くりくりと指先で転がしながら、秘裂の中に指をいれる。
ぐじゅり、という感触。
中はもうトロトロで、十分に濡れている。
これなら、いますぐ俺自身を突き入れてもなんら問題はなさそうだ。
「―――先輩、挿れるけど、いい?」
「あ―――は、はい、けど、遠野くん」
途切れ途切れの声。
切なげな瞳のまま、シエル先輩は俺を見つめてくる。
「……いまは……先輩って言うのは、やめてください。シエルと呼んでくれなきゃ、イヤです」
瞳に涙をたたえて、彼女はそんな願いごとを口にした。
「―――わかった。それじゃ行くぞ。両足をあげて、シエル」
「は―――は、い」
……シエルの両足がもちあがる。
それを両手で支えながら、俺は肉の棒と化した男根を先輩……シエルの中へ突き入れた。
[#挿絵(img/シエル 36(2).jpg)入る]
「んあ――――――――!」
ずぶ、とにぶい音をたてて、男根がシエルの中に入っていく。
ずぶ、ずぶぶぶぶ。
厚い、何十という襞をかきわけて、奥へ奥へと突き入れる。
その過程。
その途中で絡み付いてくるような感覚は、たとえようもなく気持ちがいい。
こんなこと、そう大した運動でもないのに息があがるのは、きっと快感が強すぎるせいだろう。
「んっ……なかに、はいって……!」
ぞぶ、と奥に入れるたびにシエルの声があがる。
引いて、もう一度突き入れる。
「あくっ……! あ、ん、ん――――」
シエルの声が乱れていく。
それに合わせるように、細かく、何十と腰を前後させる。
どぶ、どぶ、と、ハンマーのような重いモノで、シエルの中を叩いているな、感覚―――
「ん、んあっ、あ―――! 遠野くん、すご―――い」
限界以上に膨張しているせいか、生殖器は中に入るというより中をえぐっていくみたいだ。
シエルの膣は、とても、狭い。
ぎしぎしと音をたてて、肉そのものを引き千切ってしまうんじゃないかって思うぐらいに。
はっ、はっ、はっ、はっ――――!
それでも腰を突き入れる。
乱れる呼吸にあわせて、何度も何度も出し入れする。
「あ――――んくっ、はあ、あ――――」
シエルの声は泣き声に近い。
頬はまだ赤くて、羞恥心と快楽が拮抗しているんだろう。
「はっ、ん、ああうっ、ああ―――あ――」
シエルの体が振動する。
そのたびにゆれる胸を、両手で抑えつける。
腰を突き挿れながら胸を掴む。
なんとも言えない、心地いい弾力。
ピン、と立った乳首を指先で転がして、舌で舐めあげる。
「ん―――遠野くん、そこ、いい、です―――」
今までとは違った反応。
どうもシエルは乳首に弱いらしい。
ねだってくる甘い声が聞きたくて、執拗に乳首を舐めた。
「あっ―――遠野くん、やさし、い―――!」
シエルの声も、もうよく聞こえない。
さっきから、こっちの息も限界まであがってしまっている。
ただ、腰を動かす。
シエルの中は熱くて、いまにも蕩けてしまいそうだ。
もうとっくに体はその気になっていて、今すぐにでも溜まったものを吐き出せる状態にある。
はっ―――はあ、はあ、はあ―――!
それでも、まだ腰を突き入れている。
我慢している場合じゃない。
我慢している場合じゃないんだけど、もう少し……まだ、できることならずっとこうしてシエルの膣と繋がっていたい。
「んっ、んあ、はあ、あは、んっ――――!」
どくん、と一層締め上げてくるシエルの膣。
苦しげにあげられる声も、
泣きそうな瞳も、
まだ離したくない。
「シエ、ル―――もう少し、この、まま―――」
「は―――は、い、遠野くん、もっと、もっと強く―――!」
シエルの声も聞こえない。
ただバクンバクンと脈打つ心音に合わせて、力の限りペニスを突き入れる。
ずっ、と。
シエルの一番奥に、俺の一番先が、当たる。
「ふ、うくっ、んああぁあ……!」
よほど痛かったのか、まだ襞という襞が吸いついてくる。
生殖器……俺の体で一番敏感なところを、あますところなく責めあげてくる。
シエルの目には涙が溜まっている。
けど痛いとも言わず、彼女はただ俺を見つめている。
いまはただ、その視線が愛しかった。
「シエル、愛してる、シエル………!」
―――本当に、よく分からない。
思考は完全にストップしていて、そんな陳腐なセリフしか浮かばない。
「はい――わたし、わたし、も――――!」
シエルの声が、脳髄の奥のほうで響く。
それが、きっと最後の引きがねになった。
「くっ―――出る……!」
腰のあたり。
ペニスの根元にとぐろをまいていた熱い塊が、弾ける。
「っ―――!」
急いでシエルから体を離す。
睾丸のあたりに走る、ぞくん、という感覚。
そのあとに、もはや粘液というよりゼリー状になるぐらいの硬さをもった白濁液が、びくびくと尿道口から吐き出された。
「は―――――あ」
息があがる。
ベッドの上に体を倒して、喉をあげて息を吸う。
「つか―――れたぁ」
本当に何十キロというマラソンを走り終えた後みたいに、体が疲れきっている。
もっとも、その疲れ以上にシエルの体は気持ち良かった。
こうして体を休めている今でも、思い返せばボウ、としてしまうぐらいに。
「そうだ、シエル―――」
体を起こしてシエルを見る。
「……あ、れ?」
ちょっと、驚いた。
てっきりシエルも余韻にひたっているかと思ったら、そんなコトはなくて全然元気そうなのだ。
「シエル……その、疲れて、ないの?」
「え……あの、遠野くん、お疲れなんですか……?」
そっちのほうが驚き、とばかりにシエルは口に手をあてる。
「そっか―――シエル、あんまり動いてないもんな。疲れたのは俺だけか――」
はあ、とベッドに体を倒す。
「けど、おかげで出すものも出せたし問題は解決かな。ありがとシエル、これで安心して眠れるよ」
「はあ………そう、ですよね」
……シエルの言葉には、なんだか元気がない。
「……どうしたの? なにかまだ問題でもあるのか?」
「えっと、その―――遠野くんのソコ、汚れちゃったなって」
「あ――――」
言われてみればその通りだ。
まったく、デリカシーも何もあったもんじゃない。
「ご、ごめん。ティッシュ貸してもらえない?」
「あ、それでしたらわたしがキレイにしてあげますから、そのまま横になっててください」
「………そ、そう? それじゃお願いします」
シエルの考えていることはよくわからないけど、とりあえずベッドに横になった。
「はあ――――」
深呼吸をする。
股間の一物も大人しくなってくれたし、これで安心して眠れる。
「ん――――?」
さわさわ、とした感触にぶるっときた。
シエルがティッシュで俺の股間を拭いてくれている。
「あ―――」
ちょっと、気持ちいいかもしんない。
ティッシュごしにシエルの指の動きがなんとなくわかる。
一度射精して萎えてしまったペニスを、つまむようにシエルがふき取ってくれている。
あれだけ濃かった精液だから簡単には拭き終わらないんだろうか。
とにかく丁寧に、丹念にふき取ってくれている。
「………………う」
……こらえ性がないっていうか、男っていうのは本当に野生の生き物なのか。
シエルに触られている、というコトだけで萎えていたモノが少しずつ勃ち始めてしまう。
「―――――」
いけないいけない。
理性を総動員してナニを鎮める。
――――と。
ぞくん、と背筋にしびれが走った。
小さかったペニスが大きくなる。
シエルの指の感触だけでなく、その……ぬらりとした舌の感触まで受けて、完全に屹立してしまった。
「ちょっ、先輩……!」
思わず顔をあげる。
と―――
そこには、見ている俺まで恍惚としてしまいそうな、シエルの顔があった。
シエルは俺の男根にこびりついた精液を、その舌で舐め取っている。
「あ――――」
その感覚。
竿の部分を舐めあげていく舌の感触と、俺の……あんなどろりとした精液を舐め取ってくれている、という事実。
それで、もう完全に男根はもとの元気を取り戻してしまった。
「あっ―――ちょっ、シエ、ル―――」
シエルは熱心に俺自身を愛撫していて、まるっきり俺の話なんて聞いていない。
情熱的な舌の動き。
からみついた指は亀頭を磨くようにこすりあげて、尿道口からはまた前触れの線液があふれだしてしまっている。
「……ったく、出したばっかりなのに、もう―――!」
自分の体の貪欲さに腹が立つ。
けど、それも仕方がないか。
あんなにも優しく、それでいて激しく愛撫されていたら勃たないほうが男としてどうかしてる。
けど、それより―――どうしてシエルはあんなに、俺を喜ばすようなコトをしてくれてるんだろう……?
「…………あ」
ピンときた。
もしかして、と思うんだけど、まさか―――
「シエル。その、もしかして、まだイッてなかったのか……?」
「――――」
シエルは俺自身から離れると、顔を真っ赤にして、こくんと頷いた。
「えっと、それじゃあその、俺のを元気にしたっていうことは、その………」
もう一ラウンドやれっていうコト、だよな……。
「……シエル、さっきのじゃイケなかったの?」
「……はい。あの、わたし、まだ遠野くんと気持ちよくなりたい、です」
俯いたまま、耳まで真っ赤にするシエル。
「――――――」
ぐっときた。
そこまで言われて、いや、そんなことを言わしてしまった自分が恥ずかしい。
「……そうだね。俺も、まだこんなんじゃ足りない。
朝になったらしばらく会えなくなるんだから、その分ここでシエルの体を味わっておかないと。
ここでぶっ倒れるまでやっておけば、しばらく体のほうも大人しくしてくれるだろうし」
「それはそうかもしれませんけど……遠野くん、なんか言い方が乱暴です」
「なんだい、ねだってきたのはシエルのほうじゃないか。イヤなら俺はやめてもいいんだけど?」
「あ――いえ、その――ご、ごめんなさい!」
恥ずかしそうに、全力で謝ってくるシエル。
「ごめん、冗談だって。こんなに元気になっちゃったんだから、俺だってシエルが欲しい。
けどちょっと疲れてるのも事実だからさ、上になってくれないかな」
「え―――上って、遠野くんの上、ですか?」
「そ。俺はあんまり動けないから、今度はシエルのほうで動いてよ」
俗に言う騎上位というヤツだ。
「えっと――こう、ですか」
シエルは猫みたいに手足をついて歩いてくると、俺の腰のあたりで体を上げた。
「……いい眺めだな、これって」
目の前で立ちあがったシエルの、胸の形があおりの視界で一望できる。
[#挿絵(img/シエル 37(2).jpg)入る]
「ん、く――――!」
顔を背けて、シエルは腰を下ろしていく。
ぬめり、という感触。
さっきので慣れているのか、シエルの膣はさほど抵抗せずに俺のモノを受け入れた。
「あ―――入っちゃっい、ました」
「そりゃあ入るだろ。さっきだって入ってたんだから」
言われて、ボッと顔を赤くするシエル。
……なんていうか、積極的なんだか恥ずかしがり屋なんだかわからないひとだ。
「それじゃ動いて。初めはゆっくりで、慣れてきたら激しくすればいいから」
「は、はい―――」
遠慮がちにシエルの腰が揺れはじめる。
ず、ず、とゆったりとしたテンポ。
それだけでも十分感じるのか、シエルの吐息は乱れ始めている。
「ん……く、ふぁ、あ――――」
ずず、ずず、と次第に動きが大きくなる。
俺の男根はシエルの秘部からこぼれてくる蜜でドロドロになっている。
股間も、ぴちゃりと粘つく液体でそこかしろかに濡れてしまっている。
「んっ、んあ、あ、ん、んくっ―――!」
ずちゃり、ずちゃり。
粘液と肉がこすれあう、淫らな音。
今回は自分があまり動いていないおかげか、疲れがなくて快楽だけが脳髄に流れこんでくる。
……と、それだけではやっぱり退屈なので自分も動くことにした。
シエルの腰が上がって、下がる。
そのタイミングに合わせて、腰を上につきあげた。
「ひあ―――――!?」
ごん、という重苦しい感触。
膣の中ではなく腹のあたりを突き上げるような、そんな感触だった。
「あ、は……んあ、あうううう………!!」
シエルの声が乱れる。
それでも彼女の腰のスライドは止まらなくて、こっちもそれに合わせて腰を突き上げた。
「あ、い……い、遠野くん、すご、く――!」
シエルの背中が反り返る。
それ以上返れば折れてしまうんじゃないかって思うぐらい、激しく。
「……ん、んあっ、あッ、ふぁ……あ、んくっ、ん……!」
シエルが今までにないぐらい乱れているように、こっちも息が乱れてきた。
この姿勢で腰を突き上げるのは、まともな体位より遥かに疲れる。
「――――」
両腕がお留守になってた。
片手をシエルの足に、もう片手をはりのあるヒップに置く。
「んっ――気持ち、ふっ、んく、ぁ――よく、て……!」
一層強い快楽を求めてくるように、シエルの体が激しく動く。
ずちゃ、ずちゃ、という音にあわせて揺れる、形のいい乳房と黒髪。
乱れている彼女の吐息を感じながら、ヒップにまわした手を動かす。
初めは柔らかな尻の弾力を楽しむように、ぐっとにぎりしめてみる。
「あ……ん、ん………」
シエルの表情が歪む。
今までの反応とは少し違う、と思った。
そのまま手の平をヒップにはりつけたまま、人差し指を割れ目へとさしこんでいく。
胸の谷間とはまた違った、柔肉と柔肉の間に侵入していく、指。
指は完全にお尻の間に埋没して、彼女のもう一つの穴の表面にふれた。
「く、んぁ―――!?」
びくん、と反りかえる背中と、懸命に声を殺そうとする顔。
膣の中も、さっきまでの締まりとは比較にならないぐらい締めつけてくる。
「シエル……もしかしてお尻、弱い?」
「あ―――いえ、弱いっていうか、その、触られると、ムズムズ、する――――」
「へえ……ムズムズするんですか、シエルさんは」
触れていただけの指を、クッ、と菊門に刺し入れる。
ほんの少し、爪の半分程度だけの挿入。
「――――――ふぁうっ……!」
なのに、シエルの体はどこを愛撫されるよりはっきりと反応した。
「あ……あ、く―――遠野くん、そこは、やめてください」
はあはあと荒い呼吸でシエルは言う。
頬が赤いのは熱さのせいだけじゃなくて、肛門をいじられているという恥ずかしさからだろう。
「……………」
なんだかこっちもムラムラしてきた。
無性に、シエルをいじめたくなってきた気分。
「そっかー、シエルはお尻が弱かったのか。早く言ってくれればよかったのに」
「え―――遠野くん……?」
「交代しよっか。次は俺が動くよ」
シエルから離れて、立ちあがる。
「シエル、手足をベッドについて」
「……えっと……こう、ですか?」
言われたとおりに四つんばいになるシエル。
くっ、とあげられた腰からは、トロトロと愛液が流れている。
秘部から股をつたって足首まで、本当にいやらしく汚れている。
「ん―――ほんとに底無しだな、シエルは。あんなに濡れてたのに、まだこぼれてきてるなんて」
足首から。
伝ってきているその蜜を舐めあげていく。
「はっ……ん、志貴く、そんなこと、しないで、ください」
「なんで? シエルも俺のを舐めとってくれたじゃないか。これは、そのお返し」
「ん………はあ………あ」
足首から膝まで。
膝の裏から螺旋をえがくように太ももまで舐め上げて、蜜を分泌させているピンク色の柔肉まで。
「…………!」
びく、とシエルの腰が引く。
それを追いかけるように、シエルの秘部に口付けた。
舌を入れる。
トロトロに熟した秘裂の中を、舌先でかき乱す。
まだこぼれ出してくる蜜を吸い上げるように飲み下す。
「そんな―――そんなところ、きたない、のに」
シエルの声が震えている。
歓喜と羞恥が入り乱れていて、彼女自身も自分が何を言っているのか分かっていないようだった。
「汚くなんかないよ。ここが俺たちを気持ちよくさせてくれてるところなんだ。それとも、シエルは気持ちよくない?」
口付けをやめて、指先でもりあがった恥丘をなでる。
「ふあ――――あ、きもち―――いい、です」
「そっか。でも、ホントはココよりコッチのが感じるんだろ、シエルは」
ぐっ、と両足の付け根を持ち上げる。
シエルの愛液で濡れに濡れた手を、彼女のお尻の間に挟む。
トロトロとした粘着性の水を、肛門あたりに塗りつける。
「ん―――! 遠野くん、まさか、その……」
「せいかーい。歯、食いしばらないほうがいいって話だよ。口で息をしたほうが痛くないっていう話しだから」
「ちょっ―――遠野くんのばかぁ! そんなトコ、触らないで―――んあ!」
逃げるシエルの腰を掴まえて、お尻の間に顔をうずめる。
ひくつくお尻の穴を、舌で舐める。
ぴり、とかすかに刺激がしたけどすぐに慣れた。
「はっ、ん―――! あ、ああ、あうう、うっ……!」
逃げようとするシエルの体が止まる。
「お尻の穴を舐められてぐったりするなんて、シエルはホントにすきものだな」
「やだ――遠野くん、お願いですから、お尻なんて、舐めないで、ください―――」
そう言われるとよけい舐めたくなる。
さっきは表面を舐めていただけだったものを、今度は中に舌を刺し入れた。
シエルの愛液と俺の唾液で、肛門をぐちょぐちょに濡らしていく。
「んっ―――! はあ、ん、あああ………!」
舌先だけでそんなに乱れられると、このあとどうなるか楽しみでもあり恐くもある。
だがここまできた以上、いまさら止めることはできない。
なにより俺自身が、そこに自分自身を入れたがっている。
「―――そろそろいいかな」
ひたり、と勃起したペニスの先端をお尻にあてる。
「―――――!」
ひくつくシエルの体。
それを抑えつけて、男根を彼女の尻の穴へつき入れた。
[#挿絵(img/シエル 38(2).jpg)入る]
ずぶ、ではなく、めり、という感触。
生殖器に比べてあまりにも小さい穴は、俺のモノを拒むように固まっている。
それをえぐっていくように、少しずつ肉の棒を突き入れていく。
「んあ、あああああ――――!」
シエルの声は悲鳴に近い。
男のモノを受け入れるように出来ていない排泄器官に異物を刺し入れられているのだ。
痛みと、本来ならありえないはずの感覚に混乱しているのかもしれない。
「――――くっ」
が、きついのはこっちも同じだ。
異物の侵入を阻もうと締めつけてくる括約筋を食い破るように、亀頭を少しずつ突き入れていく。
めき、という音がしかねないほどの圧迫。
もとより充血した男のモノが通るほどの大きさでない穴を、力づくで広げようとしているのだ。
こっちだって、快楽よりは痛みのが先行する。
「あっ、ふぁ、あ、あ―――」
懸命に堪えようとするシエルの声。
「―――き、つ―――」
圧迫してくる筋肉の壁に負けじと亀頭を埋没させる。
……と、事前に唾液と愛液という潤滑油をつけていたためか、亀頭が入ってしまえば竿の部分は思ったより楽に中に入っていく。
「くぁ―――は、ダメ、そんなおっきいの、入ら、ない………!」
アヌスを犯されているシエルの額に、うっすらと脂汗がうきでている。
……この狭い穴を、肉を押し広げて男根を挿れているためだろう。
俺のモノは、彼女には二倍近くの質量に感じられているに違いない。
「ああ、う、あ、あ、あああ―――!」
締めつけてくる。
きつい、なんてもんじゃない。
排泄器官なんていう汚らしいところに入ってきたモノを罰しようと、俺自身を根こそぎ千切りとろうとするぐらい、きつい圧迫。
「―――く―――は、は、あ」
こっちの息も乱れる。
痛い。痛いけど、これは――――根こそぎ吸い上げられるような、快感。
「すご……こんなの、初め、てだ―――シエルのおしり、すごく、いい」
深く引いたら二度と挿いらない気がして、少しだけ腰を引いて、押す。
少しだけ引いて、押す。
それでさっきより少しだけ奥に入るようになって、また少しだけ引いて、押す。
……そんな繰り返しを、絶え間なく機械のように繰り返す。
「ん、ん、んく――――、は………!」
腰をつきいれるたびに声がもれる。
「あ、はあ、遠野、くん、はあ、う………!」
それはシエルも同じ。
こっちが痛みより快楽が勝ったように、彼女もようやくこの異物を受け入れ初めてくれたらしい。
「ん、あ、はあ、あ、あァ、あ………!」
少しずつ。
「く―――ん、い、きもち、いい、です、遠野くん…………!」
少しずつ。
「ふぁう……あ、ああ、あ―――入って、きて、遠、の、くん」
少しずつ。
「あ、んく、ん、んぁ――――とおの、あ、んく――とおのクン、おく、に―――」
もう、こっちも。
「もっと、もっと奥、に―――!」
とっくに、限界を超えていた。
「シエル、俺、もう―――」
「―――ダメ、です……! ここで終わりなんて、許し、ません……!」
―――ぐ!
引こうとした腰が止まる。
ただでさえきついシエルのお尻が、いっそう強く締まってくる。
出れない。
ほんの少ししか下がれない。
俺はとっくに射精寸前だっていうのに、シエルはそれを許してくれない。
「こ……の……!」
ヤケになって、さらに奥へと突き入れる。
ずん、と。直腸をえぐるように破裂寸前のペニスを突き入れる。
[#挿絵(img/シエル 39(2).jpg)入る]
「ん、く―――――!」
シエルの腕が、折れた。
もうよつんばいになる力もないのか、腰だけをあげて、シエルはベッドに倒れてしまう。
それでも―――俺は動きをやめなかった。
「―――あ、あぁ、遠野くんが、奥、に」
ベッドのシーツを握り締めて、シエルは必死に何かを堪えている。
「くっ――――」
こっちだって、もう熱いたぎりが根元から通り越している。
それを我慢して、つき入れる。
とっくに俺のモノは尻の根元まで入っている。
ずん、と。
シエルの腹をえぐるように、突き入れる。
「ふ――――んく、んあ、あ――――」
一回。
「わた、し―――もう、いけま、せん―――」
二回。
「あ―――んあ、ンンっ、んっ―――――!」
三回。
シエルの体が強ばっていく。
これで、本当に、終わりだ。
俺のほうももう先の方まであがってきている。
急いで俺自身をシエルの中から引き出さないといけない。
「―――遠野くん、なか、なか、に―――!」
哀願するような、声。
「―――」
それで、引き出そうとする腰を、さらに奥へとたたきつけた。
「んくっ―――!」
反りかえる背中。
必死にシーツを握り締めて、何かを堪えている細い手足。
ぎしり、と。
俺を自分の中から逃すまいと包み込んでくる、シエル自身。
その全てが、ただ、欲しいと思った。
「―――出すぞ、シエル!」
「は、はい……! きて、きてください、遠野くん!」
今までで一番強く、ただ奥へとたたきつけた。
どくん! という熱い感覚。
びくびくとシエルの中で痙攣するペニスと、熱い、マグマみたいな射精の感覚。
[#挿絵(img/シエル 41(2).jpg)入る]
「あっ―――あぁ、あ―――わたし、もう―――――!」
どく、どく、どく。
何回出すつもりなのか、それは一回や二回では終わらない。
熱い迸りは弾丸のように、シエルの中に叩きつけられる。
「あ――――は、あ」
撃ち出すたびにシエルの体が貸すかに動く。
その手はシーツを握り締めたままで、瞳からは一筋の涙が流れていた。
「――――――――」
ぐったりとベッドに倒れこむシエル。
「っ――――」
力が抜けた所で、アナルが狭苦しい事には変わりない。
ずっ、と重い音を立てて自分自身をシエルのお尻の穴から抜き出した。
とたん。
ごぽりと溢れ出してくる、大量の精液。
「――――ん――――志貴―――くん――――」
はあ、と喘ぐように、俺の名前を呼ぶ。
……俺が先輩をシエルと呼んだように。
最後に、先輩は俺の名前を口にした。
「――――は、あ」
出し終わって、締めつけてくるシエルの感覚もなくなった。
腰を引く。
ぬらり、と糸をひいて生殖器が出てくる。
それと同時に、白い液体がシエルの菊門からこぼれ出していく。
……なんていうか。
いまさらながら、その―――シエルと初めてのセックスだったっていうのに、随分とひどいことをしてしまったな、と反省する。
「シエル―――体、大丈夫か?」
「……おしり、いたいです」
「そ、そうか……ごめん、シエルがあんまりにも可愛いから、いじわるしたくなったんだ」
「……イヤです。そんな言葉じゃだまされません」
ベッドに横になったまま、シエルはじろりと非難の眼差しを向けてくる。
「……なんだよ、そっちだって最後はその気だったじゃないか。俺だって痛かったんだからな。
シエル、あんな重そうな武器を振り回してたけど、実はお尻の穴まで鍛えてたんじゃないの?」
「と、とんでもないコト言い出しますね、志貴くんは!」
がばっ、とシエルは起きあがって、ぱかんと俺の頭をこづいた。
「いってー、暴力反対―」
手をあげて抗議する。
シエルははあ、と呆れて肩を落とした。
「……もうっ、ゆっくり余韻に浸らせてもくれないんですね。朝になったらしばらく会えなくなるのに、もうちょっと雰囲気を大切にしてほしいです」
「……それはそうだけどさ、ちょっと乱れすぎただろ。お互いシャワーでも浴びて、シーツも代えない?」
あ、と今更気がついたように声をあげるシエル。
「そ、そうですね! それじゃあわたし、先にシャワーをあびてきます……!」
シエルは慌てて浴場へ走っていく。
「―――――は、はは」
なんか、笑いがこぼれてしまった。
俺はロアっていう爆弾をかかえているのに、今はそんなことを不安にさえ思わない。
……今まで、何度も失ったとばかり思わされてきたひとが、本当に俺の傍にいてくれる。
シエル先輩がいてくれるなら、不安なんてどこにもない。
夜の学校で、俺はあの人を抱きしめた。
あの時は愛しいというより悲しくて、シエルを抱きしめてあげたかった。
けど今は違う。
今はただ愛しい。
あの人をこのまま行かせたくないぐらい、ただ、愛しいと思えていた。
……結局、あの後は二人でベッドに入って、眠らずに天井を見上げているだけだった。
話しをすると、きっと俺はシエルを引きとめてしまう。
だから黙って、ただシエルの吐息とか肌の感触とかを、傍で感じていたかっただけ。
そうして朝方になって、シエルはベッドから出た。
「行ってきます。できるだけ早く戻ってきますから、それまでこの部屋から出ないでくださいね」
ちなみに二週間分の食べ物はすでに買いこんであるそうだ。
その大半がレトルトのカレーだったりするのは、まあこの際おいておこう。
「それじゃあ、わたしがいない間に浮気なんかしないでくださいね。わたし、すごく嫉妬深いですから」
笑顔でうっすらと恐いことを言って、シエルは部屋を後にした。
時刻は朝の五時前。
十月の最後の月曜日は、こうして始まった。
[#改ページ]
●『12/果てずの石』
● 12days/November 1(Mon.)
シエルが居なくなるとこの部屋も広く感じる。
時刻はまだ朝の七時すぎ。
昨夜がんばったせいか、まだ体は眠たがっている。
月曜日。
本来ならこれから学校に行かなくちゃいけない時間だけど、この部屋から出るなとシエルに堅く言われている。
今はシエルが帰ってくるまで外と連絡をとるような事はしないほうがいい。
……秋葉にしばらく帰れないと伝える事。
……琥珀さんに、許される筈はないけど、それでも謝らなくてはいけない事。
その二つを残したままでいるのは心苦しいけど、今はロアをなんとかするほうが先決だと思う。
「………………」
シーツを頭からかぶる。
胸に重苦しいしこりを抱えたまま、沈むように再び眠りに落ちていった
[#ここから3字下げ]
――――目的は、変わったのか。
いや、目的そのものは変わっていない。
私は永遠を目指す。
ただ理由もなく永遠を目指そうとした。
それはなんて、純粋で穢れのない意思だったのだろうか。
変わってしまった。
私は、変わってしまった。
目的を。永遠を目指すという目的が、手段になりさがる。
なんという無様さだ。
自分で理解していながら、それでも己の心を変えられない。
あの女。
あの女がいるせいだ。
あの女のせいで――――私は、純粋ではなくなった。
だが、どうすればいいのだろう。
人間という生命種に千年を生きる力はない。
肉体的にも精神的にも、人の器はその磨耗に耐えきれない。
たとえ吸血種として不死の肉体を手にいれても、精神の老化だけは止められない。
老化を防ぐことはできる。だがそれは停止だ。停止した精神になど価値はない。
私は、この私という純度を保ったままで有り続けねばならない。
そうでなくては―――あの女には届くまい。
やはり、転生という手段をとろう。
一から生まれなおし、私となってまた死ぬ。
この循環の中でなら、私は私という純度を保ったまま在きられる。
おしむらくは、かつての純粋さが失われてしまったこと。
私は、他の有象無象どもと同じように、今の私のままで存在し続けたいと願ってしまっている。
憎悪というものを初めて知った。
それも全て、あの女さえいなければありえなかった堕落だからだ
[#ここで字下げ終わり]
「……あの……女……?」
なにか、とても強い意思を思い出して、目が覚めた。
「あの――女?」
―――ズキン。
「い――――た」
――――――――ズキン。
「……俺の……知ってる、女……?」
――――――――――――――ズキン!
「がっ―――!」
―――なんだ、今の、頭痛。
普通、普通じゃ、ない……!
「あ………ぐ……!」
両手で頭を押さえる。
痛い。今までみたいな生半可な痛みじゃない。
あたま。頭を、ハンマーで殴られ続けているみたいな、痛み。
「ぐ――――がっ………!」
やめ、やめ、ろ
これ以上、これ以上続くと、割れる。
あたま、が、くだ、ける――――
「ギッ――――!」
びくん、と体が跳ねる。
いたい。まだ、収まってくれないの、か。
「ひ―――――」
あんまりに痛くて、頭をテーブルに打ち付けた。
ぽたり、という音。
ガラスのテーブルが割れた。
額からは血が流れている。
だが、こんなものはまったく痛くない。
そんなものより、何もしないのにやってくる頭痛のほうが、はるかに―――
「―――――――、て」
耐えられない。
気絶することさえ、できない。
何秒。何分。何時間ごとに、この、痛みが、くる、のか。
「―――た、すけ」
いたい。
どうにかしようと、ナイフで掌をザクザクと刺してみた。
ダメだ。ぜんぜんイタク、ない。
「―――――――」
シエル……シエル先輩は、まだ、帰ってこない。時計をみたら、まだ昼にもなってない。
目を覚ましてから、たった一時間しか経っていない。
明日の朝になるまで、あと二十時間以上、ある。 その事実だけで、気が狂いそうになった。
「―――――――――」
ズキン、ズキン、ズキン。
もう、何時間この痛みに耐えたか、わからない。とっくに限界は超えている。
これ以上この痛みを我慢していたら、シエルが帰ってくる前に、俺自身が死んでしまう。
「―――――――は」
この部屋にいると、頭痛がする。
外。
外に出ないと、気が狂う。
「ダ――――め」
シエルが言っていた。この部屋から、外には出るな、と。
だが―――このままいれば、ロアなんかに乗っ取られる前に、俺が死ぬ。
「だメだっ―――て、いってる、のに」
ふらふらと足が玄関に向かう。
ふと、理由もなく。
無性に、金色の月が見たくなった。
―――線が、消えない。
視界の歪みが、一段とひどくなっている。
夜の街は白い霧に覆われていて、もう何千年も前に死んでしまった都に似ている。
街に人の気配はない。
道という道、建物という建物にかかる、蜘蛛の糸のような繭。
ひどく、静か。
深海の底に建てられたような死の都。
そんな幻視に眩わされながら、歩いた。
頭上には一際大きく、晧晧と輝く黄金の月。
月の光の恩恵だろうか。
あれだけあった頭痛は消えて、頭の中は眠っている時みたいに、ぼんやりとしている。
月の下。
何かに惹かれるように、歩いていた。
夜の公園。
何もかもあやふやな視界の中、唯一つはっきりとした影がある。
「――――――」
なんとなく。
俺ではないオレが、こうなることを、望んでいたらしい。
月光は強く。
太陽の明かりほど眩しい月下。
そこに、白い装束のアルクェイドが立っていた。
「久しぶり。今夜はいい月ね、志貴」
「――アルクェイド。おまえ、帰ったんじゃなかったのか」
「いいえ。わたし、まだ自分の目的を果たしてないもの。このまま帰るわけにはいかないでしょう?」
―――無造作に。
アルクェイドは、紅い瞳で俺を見つめた。
「っ―――――」
呼吸が止まる。
先輩と対峙した時とは比べ物にならないぐらいの、異質なまでの圧迫感。
これが―――彼女を、『敵』に回した時の重圧。
「――――――」
息ができない。
喉が動かない。
そんな余分な真似をすれば―――次の瞬間、この首が千切られてしまう。
「ばかな志貴。あんな女に肩入れしなければ、そんな目にあわなかったのにね」
アルクェイドはほんのわずかな憐憫と、この上ない娯楽を見つけた子供のように、嬉しげに目を細める。
「それで、どうなの志貴? 自分の中にロアがいるっていう感想は?」
形容しがたいほどの殺気をこめて、白い吸血姫はそう言った。
背骨をまるごと引きはがされそうな危機感をあびて、はっきりと目が覚めた。
―――目の前には俺を殺すつもりでいるアルクェイドがいる。
距離は―――七メートルぐらいか。
くそ、コイツ相手なら百メートルあっても安心できないっていうのに、たった七メートルしか離れていない。
「―――なに、バカなこと言ってるんだ、おまえ」
ポケットの中にナイフが入っている事を確認して、とりあえずとぼけてみた。
「無駄よ。もともとロアはわたしが死徒にしてしまったヤツだもの。奪われた自分の力がどこで脈づいているかは簡単に感じ取れるわ」
―――そうか。
そういえばシエルが前に言っていたっけ。
ロアはもともと、アルクェイドに血を吸われて吸血鬼になったヤツだと。
「どういう理由かは知らない。今まで十七回も繰り返してきたけど、こんな事は初めてよ」
アルクェイドはぴくりとも動かない。
近づこうとする必要なんて、ないんだ。
ここはもう、あいつの間合いの中なんだから。
……紅い、瞳。
それに見つめられていると、ずきりと、頭痛が戻ってくる。
ずきり、ずきり。
頭の中で。
ロアという吸血鬼が、活性化したがっている。
「でもたしかに貴方からロアの波動を感じる。あの時、ロアは貴方の中に転移したのね。どうしてそんな事になったのかわたしにはわからないけど」
「―――――――」
……痛む。
アルクェイドがヤツの名前を口にするたびに、脳髄の中でヤツの記憶が暴れまわる。
ずきり。
ずきり。
ずき――――――り
[#挿絵(img/アルクェイド 21.jpg)入る]
―――それは、どこだったか。
深い、深海の底のように深い、山間の古城。
そこに囚われていた一人の少女の姿。
それだけが、もうただの記憶に成り果てた男の魂に、焼きついている。
俺には、解らない。
真祖である彼女は自らの意味も教えられず、ただ堕ちた真祖たちを狩るための道具として扱われていた。
自身はかすり傷さえ帯びず。
ただ返り血だけで真紅に染まった少女。
言葉も知らず、ただ白痴のように月だけを見上げていた女。
頭上には仰ぐほど大きい黄金の月。
何もかも枯れ果てた庭園の中で、彼女の姿だけが、鮮明だった。
その姿を、彼は、美しいと感じた。
生まれて初めて。
おそらく、いや、生涯にただ一度のみ。
――――ミハイル・ロア・バルダムヨォンは、その白い少女に恋をした――――
「――――――――」
初めて。
衝動ではなく、ロアという人物の心が見えた。
残された唯一の感情。
かつてのロアという人格はとっくに亡くなってしまっているのに、決して消えずに焼きついている、永遠の記憶。
「……そう、か」
だから―――そんなにアルクェイドが憎かったのか。
自分から純粋さを奪った女。
たった一瞬。ただ一度見ただけだというのに、それだけで心を奪われてしまった自分。
純粋であった自分を堕落させた、憎い真祖。
その存在。白い吸血姫の全てが、憎かったのか。
「……なんて、間違い」
なんていう間違いだろう。
ロアはあんまりにも憎くて、何回も転生して、そのたびにアルクェイドが追ってくるのを待っていた。
そのために彼はなんでもした。
アルクェイドを騙して、自分が吸血種だという事さえ知らないアルクェイドを騙して、自分の血を吸わせた。
アルクェイドの死徒になった彼は、他でもない彼女自身の力で、細々と生き残っていた真祖たちを皆殺しにして、じっとアルクェイドを待ったんだ。
なんで、わからなかったのか。
何十回と転生してはアルクェイドを苦しめようと待ち続けるその憎しみ。
それは憎悪の類じゃない。
ロアっていう男は純粋すぎて、自分の感情さえわからなかった。
自分がどうにかしてしまうぐらい、他者のことを思うこと。それは憎悪にひどく似ている。
けど、たった一言。
それが愛情というものだって教えられていたのなら、ロアという男は、こんな間違いを犯さずにすんだっていうのに―――
「………………」
――――一瞬。いや、長い間。
全ての元凶、転生して『現代』に有り続けようとした男の、夢を見ていた。
「余裕ね。わたしが目の前にいるっていうのに逃げもしないなんて。
それとももう観念してくれたの、志貴?」
「観念って、なにを諦めろっていうんだよ。あいにく俺はロアなんてヤツには負けない。
明日になれば、きっと―――」
シエルが帰ってきてくれる。
だからそれまで。
ここで、アルクェイドに殺されるわけにはいかない。
「―――ふうん。まだ強がりを言えるなんて意外ね。てっきり半分以上ロアに呑まれてると思ったけど―――そっか、そういうコトなんだ」
アルクェイドの声は弾んでいる。
……何が楽しいのか知らないけど、あいつにはまだ人間味というものが残っている。
なら、どうにかすれば。
このまま逃げられるっていうチャンスも出てくるかもしれない―――
「……何を納得してるか知らないけど、ロアとは俺がキチッとカタをつける。
俺はロアには負けない。おまえがロアを殺したいっていうんなら、きっかり俺がヤツの始末をつけてやる。
だから、このまま―――」
「帰れっていうのなら聞かないわ。どうせ志貴がアテにしているのは教会の連中でしょう? あいつらにロアを封印されるのはお断りよ。
志貴、わたしがロアを処分するのは自分の力を取り戻すためなの。
だから、ね。ロアを内包した人間はわたしの手で始末をつけないと意味がないわ」
「――――そうかよ。それじゃどうしても―――」
俺を、殺すっていうのかアルクェイド。
「でもね、志貴。貴方の中にいるロアの波動は弱々しいわ。
きっとあいつは赤子から生まれなおさないと、その肉体の中でかつての意思を保てないんでしょう。なんとか貴方の中に転移したのはいいけど、それが限界。ロアは貴方の中で貴方の暗黒面として生き続けるしかできない」
「………え?」
つまり、ロアの意思っていうのはほとんどないっていう事なのか……?
「アルクェイド、それって―――」
「ええ。それなら殺すまでもないわ。わたしはロアに奪われた力が、わたしの下で動けばそれでいいんだから」
「――――?」
殺すまでもない、と彼女は言う。
ならどうして俺の前なんかにやってきたんだ。
どうしてそんなに―――真剣な目で、俺を見ているんだ、コイツは。
「……わからないな。何が言いたいんだ、アルクェイド」
「貴方に、わたしの下僕になれって言ってるのよ」
「な―――――」
―――冗談では、なさそうだ。
シエルとアルクェイドが睨み合っていた時、アルクェイド本人は質の悪い冗談だって言ってたのに。
「……なんだ。あれ、冗談じゃなかったのか」
「ええ。わたしは貴方が気に入っている。なら、殺すよりは傍においておきたい思うのは当然でしょ?」
――――バキン。
その一言で、今までとは比べ物にならない頭痛が走った。
ロア。俺の中のアイツが、アルクェイドの言葉を憎悪している。
……それが歓喜からくる反転した衝動なのか、それとも遠野志貴という俺に対しての嫉妬なのかはどうにも。
「わたしの下僕になるのなら、ロアの侵食は止めてあげるわ。そのままじゃ貴方はロアに乗っ取られるんだから、考えるまでもない事だと思うけど」
「……簡単に言ってくれるけどさ。アルクェイド、おまえはどうやって俺の中のロアを止められるっていうんだ」
「あら、ロアを止められるのはきっと貴方だけよ、志貴。
けどその方法では志貴自身も死んでしまう。
だから、わたしの方法は志貴自身を強くするだけ。貴方がロアより強い心を持てば、ロアがどう暴れようと関係ないでしょう?」
バキン、ともう一度頭痛が叩きつけられる。
ロアが暴れている。
騙されるな。あの女は、おまえを人形にするつもりだ、と暴れている。
「―――――はあ」
一度だけ、深く息をついた。
……ロアの言い分なんか信じない。
けど、俺にだってわかる。今のアルクェイドは俺が知っていたアイツとは少し違う。
アルクェイドの言う方法は、たしかにロアを抑えつけられるかもしれない。
けど―――この頭痛に耐えられるぐらい強くなった心というのは、もう何も感じなくなるぐらい、不感症な心になるという事だ。
メガネを外す。
ナイフをポケットから出す。
刃を出して、自分の目の高さにあげて、両手で構えた。
「――――志貴」
「お断りだ。悪いけど、俺はおまえの物になんかならない」
シエルが、帰ってくるんだから。
「そっか。しかたないな、なら力ずくね」
かつん、という硬い足音。
「貴方には一度殺されたこともあるし。一度、お返しをしてあげなくっちゃって思ってたんだ」
突風をともなって、白い影が迫ってくる。
――――瞬間。
戦いは、始まっていた。
ギィィィン。
アルクェイドの爪と、俺のナイフがぶつかり合う。
金色の月の下、走りこんできたアルクェイドの姿は、敵だとしても美しかった。
ギィィィィン。
また弾けあう。
正直、俺にはアルクェイドの動きなんて見えていない。
ギィィィィン。
さらに弾く。
アルクェイドは全然本気でやっていない。
けど、それでも俺の手足を引き裂くぐらいは容易なんだろう。
ギィィィィン。
まだ弾く。
体が動く。俺は何も考えていないのと同じだ。
この手足、この体が、ただ死にたくないとう号令のもと、かってにアルクェイドの爪を弾いている。
「く―――――」
口元が皮肉げに歪んだ。
あまり認めたくないが、俺の体は遥かに人間ばなれしてしまっているみたいだ。
夜のうちなら、遠野志貴はかつてのシキという男並みに、校舎の三階ぐらいなら楽に飛び降りられるだろう。
ギィ、ィィィ。
だが、それも限界だった。
初めから―――アルクェイドには勝てっこないって解っていた。
そもそも、俺の唯一の武器である『線』が視えない。
俺には彼女を傷つける手段がない。
いつかアルクェイドが言っていた。
夜であるのなら、アルクェイドは死の要因がなくなる生命だと。
ギイン。
勢いよくナイフが弾かれる。
アルクェイドの腕の一振りで、俺は大きく弾き飛ばされた。
「くっ――――!」
なんとか地面に着地して、ナイフを構える。
いくら睨んでも、アルクェイドの体には『線』一つ視えない。
「くそ、なんてデタラメなんだ、アイツは……!」
――――まったくもってその通りだ。
太陽の恩恵がないこの夜のなか。
月の姫に挑むということは、あまりにも無謀すぎた。
「は――――あ、あ」
喉があつい。
心臓が爆発しそう。
気がつけば、俺はアルクェイドと出会った時から彼女の紅い瞳に威圧されて、呼吸さえ満足にさせてもらっていなかった。
「どう? 少しは目が覚めた?」
アルクェイドは息ひとつあがっていない。
こっちは酸欠でいまにも心臓が止まりそうだっていうのに、いい気なもんだ。
「―――もう。本当に強情ね。それだけの強さがあるんなら、さっさとロアを殺してしまえばよかったのに」
「な―――なに、言ってる、んだ、おまえ」
ぜいぜいと喉を動かして、なんとか酸素を吸いこむ。
「ロアを、殺すって、いう事は、自殺するって、コトだ、ろ」
……まあ、逃げるためではなく戦うために自殺するということは、たしかに強い心かもしれないけど。
「わかってないのね。志貴、貴方の目は肉体ではなく意味を、存在そのものを死滅させるのよ。
モノの死、『点』というのは肉体を殺すものではないわ。
貴方は命を殺しているわけではないの。その程度の力ならこの世界にはありふれている。
志貴、貴方を唯一つのモノとしているその眼は、物の意味を殺すのよ。死滅するのはその存在。命が消えてしまうのは、あくまでその後についてくるおまけでしかないわ。
だから貴方の力なら、肉体を殺さずに魂そのものを仕留める事だって出来る。もっとも魂がなくなった肉体はすぐに停止してしまうから、それではただの自殺と変わらない。
けど今の志貴は違うでしょう? 一つの肉体に二つの魂が入っているんだもの。
まあ――いつだって負けるのは弱いほうだから、今の志貴ならロアとは互角かな。かなりの確率で二人とも消えてしまうでしょうけどね」
「え――――ちょっと、待って。それはどういう………」
「だめ。待ったげない」
「ぐっ――――!」
ガン、という音が後頭部でなった。
両肩にはアルクェイドの体重がかかっている。
倒された。
一瞬で、わけもわからないまま、アルクェイドに押さえつけられてしまった。
[#挿絵(img/アルクェイド 15.jpg)入る]
「――――――」
アルクェイドは無言で、俺を睨みつけてくる。
両肩にかかった体重。
いますぐ俺をどうにかできるのに、まるで躊躇っているように、アルクェイドは止まっている。
「――――――」
息を飲む。
けど、それはアルクェイドの静寂だったのかも、しれない。
「――――――」
こんなに間近。
抱き合う寸前まで近づいた今なら―――視えるかもしれない。
――――――アルクェイドの体を凝視する。
びきり、と頭の芯で音がする。
今までのような頭痛じゃなくて―――本当に、脳に亀裂が走ってしまいそうな、おと。
「――――――っ」
それでもだめだ。
アルクェイドという存在から『死』が読み取れない。
日中ならともかく、夜においてはコイツはかぎりなく完璧に近い命、死という概念を持たない存在なんだから。
「……ロアをどうするつもりなんだ、アルクェイド。おまえは俺を殺さないっていうけど、俺が生きているかぎりロアは生き続けるんだぞ」
「希薄になったロアは放っておいてもかまわないわ。……そうね、だから貴方のことも見逃してあげてもよかったんだ」
「―――なんだ、遠慮しないで見逃せよ。俺なんかにかまってないでさ、早く帰って故郷のパパを安心させてやれ」
「でもね。もともと自分の力なんだから取り戻そうとするのは当然でしょう? なによりわたしは貴方の事を気に入っている」
ぎり、と。
両肩にかかる体重が、重くなる。
「わたしは貴方を殺してロアを奪り混むより、このまま志貴を取りこみたい」
だから殺さない、と。
赤い瞳が、訴えてくる。
「信じられないけど、わたしは貴方が好きみたい。だから助けてあげる。血も吸わないし、貴方の嫌がることは決してしない」
だから言うコトを聞いて、と赤い瞳が語ってくる。
―――それは、間違いなくアルクェイドの本心だった。
けど、聞けない。
気が緩んでいるのか、アルクェイドの体から完全が薄れている。
「……志貴。それとも、わたしのコトは嫌い?」
まっすぐに見つめてくる、目。
押さえ付けられながら彼女の顔を見つめた。
真摯に。―――脳が焼ききれてしまうほど、強く。
「……アルクェイドのことは、嫌いじゃない」
「ほんと?」
嬉しそうに彼女は言った。
……額が熱い。
脳がぐつぐつと音をたてるなか、確かに――
たった一本だけの、死に易い『線』を見た。
「けど、やっぱりお断りだ。俺が惚れてるのはシエルであって、アルクェイドじゃないんだから……!」
「―――――――!」
アルクェイドの目が怒りに染まる。
だがその前に。
俺は、彼女の首に視えている『線』をかっ切っていた。
「あ―――――」
喉から鮮血をこぼして、アルクェイドは倒れこむ。
俺は彼女の下から抜け出して、今のうちに離れた。
「は――――あ」
息があがっている。
傷はないけど、これじゃあまともに走れない。
アルクェイドのことだ、あの程度の傷すぐに治して、また襲いかかって――
「アル……クェイド?」
彼女は、ぴくりとも動かない。
地面に血を流して、白い体を朱に染めている。
―――――まさか。殺して、しまったの、か。
「な―――アルクェイド、そんな―――」
逃げようとした足を止めて、アルクェイドの体に駆け寄ろうとして、息を飲んだ。
片腕。
倒れこんだアルクェイドの片腕が、ぎっ……と、蜘蛛の足のように、地面に手をついたから。
その時。
確かに、世界が凍りついた。
「こ    ろ    し    て」
はあ。はあ。はあ。
……彼女の喉から漏れる鮮血と、呼吸。
アルクェイドの腕にぐ、と力が入っていく。
「し   て、      げ    る、」
はあ。はあ。はあはあ。はあ。は。
……朱い血はまだ流れ続けている。
静かに、彼女の体が地面から離れていく。
「こ    ろ    し    て」
はあ。はあはあ、はあ。あ。あははは、は。
……血にけがされた、白い彼女。
顔があがる。
金色の髪の間に目が見える。
瞳は、黒く落ち込んだ娑齢頭のように闇。
その中に。
火傷してしまいそうな程に、爛々とした赤があった。
「ころ   して   あげ   る」
はあ。はあ。はあ。
はあ。はあはあ、はあ。あ。あははは、は。
ははは、あははは、
あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは―――――!!!!
「アル―――クェイド」
彼女の目は、何も見ていない。
片手で立ちあがろうとするのだけれど、そのたびに彼女は地面に倒れてしまう。
自らの血だまりで手が滑って、そのたびに彼女の体は赤くなっていく。
何度も、何度も。
立ちあがろうとして、滑って、倒れて。
……そんな無様な行為さえ、彼女は愉しんでいるようだった。
「まっ、てて」
「―――――――」
動けない。
アルクェイドの声が、姿が、意思が―――否応無しに頭の中に流れこんでくる。
俺という意思が流される。融かされる。翻弄される。
ぐるぐると世界が回る。
その中で、彼女のイメージが入ってくる。
そう。
こんな屈辱は味わったことがない。
こんな恥辱は身にうけたこともない。
―――だから、愉しい。
志貴に、この身を焦がすほどの憤怒をぶつけ、叩きつける時がどれほど気持ちよい事か想像もつかない。
壊す。壊す。壊す。
少しずつ、一息に、この上なく優しく、痺れるぐらい残酷に、あの命を犯しつくそう。
そう。
四肢を引き千切って肋骨をあばいて臓物をよじり出して、助けをこう喉を踏み潰して眼を噛み砕いて頭蓋を切開して脳髄をバターのように地面に塗りたくるその瞬間―――――!
「待っていて、すぐに殺してあげるから……!」
笑って、狂ったように笑い続けて、アルクェイドは自らの血の海でもがいている。
「――――」
動けない。
いけない。
ロアのヤツでさえ、固まってる。
ここにいたら、本当に殺される。
逃げないと。
どこでもいい、早くここから離れないと、殺される。
「―――――あ」
なのに足が動かない。
どのみち、何処に逃げても。
もう、絶対に殺されるって理解してやがるのか。
「遠野くん! 何してるんですか、こっちです!」
―――その声。
その声で、恐怖から解放された。
「先輩……!?」
「いいですから、早く逃げるんです……! 彼女の蘇生が終わる前に、早く!」
「あ――――」
当惑する俺を無視して、シエルは俺の腕をとって走り出した。
「ちょっ……先輩、どうして―――!?」
「どうしてもなにも、聞きたいのはこっちのほうです! あれほど部屋から出ないでくださいって言ったのに、どうして外でアルクェイドなんかと会ってたんですか、遠野くんのうわきもの!」
「――――」
いや、浮気者って、今はそういう場合じゃなくて。
「先輩、違うんだ。その、部屋から出たのは謝るよ。けどどうしても耐えられなくて、それで外に出たらアルクェイドがいて―――」
「――もう、言い訳はあとでたっぷりしてもらいますから、今は急ぎます!」
シエルは走りつづける。
……この方角。
どうも、彼女は学校に向かっているらしかった。
ここまで走り続けて、ようやくシエルは足を止めた。
「―――先輩、どうしたんだ一体。アルクェイドから離れるのはわかるけど、どうして学校になんて来たんだよ」
「……ここなら他に被害はでませんから。遠野くんは先に校舎の中に入っていてください」
「な―――どうして」
「……アルクェイドが来ます。遠野くんは逃げてください」
「――――――」
アルクェイドが来るって―――あいつが、ここまで追いかけてくるっていうのか。
「……それはないんじゃないか。たしかにあいつの壊れっぷりは凄まじかったけど、それでも……あの、怒らないで聞いてくれよ。
あいつは本当にいいヤツなんだ。さっきのは俺がやりすぎちまって血迷ってたけど、ちゃんと傷が治って落ちつけば―――」
「―――無理ですね。そもそも遠野くんの中には彼女が敵視しているロアがいる。
それにくわえて、あそこまで彼女に傷を負わせたんです。……今の彼女は血に飢えた吸血鬼と化しています。遠野くんが知っているアルクェイドには、貴方を殺すまで戻ってはくれないでしょう」
「なっ――――」
「……そろそろ蘇生が終わるころですか」
ぽつりと呟くと、シエルは俺の腕を掴む。
「―――校舎の中なら、少しは勝ち目があるかもしれません。どのみち遠野くんを守るためには、彼女と決着をつけなくちゃいけなかった」
「シエ……ル?」
「彼女が活動していると、その下僕であるロアの意思も活性化するんです。遠野くんの中のロアを抑えるには、まず彼女を眠らせるか追い返すかしなくてはいけません。
ですから、ここで彼女を倒すのは一石二鳥です」
行きます、とシエルは俺の腕をひいて校舎へと走り出した。
夜の廊下に、月明かりがさしこんでいる。
「………」
昨夜のことを思い出す。
どうも、夜の学校にはいい思い出がまったくない。
「遠野くんは二階にあがっていてください。彼女と戦うのはわたしの役割ですから」
「イヤだ。こうなったのも俺の責任だから、先輩こそ二階にあがっていてくれ。あいつとは――俺がケリをつける」
「……遠野くん。わたし、怒りますよ」
じっ、とシエルが睨んでくる。
けどそれは怒る、というよりいじけているような、そんな視線だった。
「えっと……先輩?」
「遠野くん、わたしの体のことは知っているでしょう? わたしは何があっても死にません。けど遠野くんは些細な傷でも命取りになる。
たしかに遠野くんの目ならアルクェイドを倒せるかもしれませんけど、その前に彼女の爪が貴方を殺します。
遠野くん、言ったじゃないですか。わたしを幸せにしてくれるって。なら、お願いですからこんなところで死なないでください」
「でも―――先輩一人じゃ、あいつは―――」
「見くびらないでください。わたし、これでも何十という吸血種を退治してきたんですよ。こと吸血種に対しての事なら、わたしたちの右にでる者はいないんです」
自信ありげにシエルはガッツポーズなんかをとったりする。
……けど。
彼女の指先が震えているのが見えてしまった。
恐いのか。
その、何十っていう吸血鬼を退治してきたシエルでも。
いや、退治してきたシエルだからこそ、さっきのアルクェイドが普通じゃなかったってわかるのか。
「……だめだよ。先輩、俺はそれでも―――」
シエルを一人にして、自分だけ逃げるなんて事はしたくない。
その思いを口にする前に、ぴっ、と俺の口に人差し指を当てて、シエルは言葉をさえぎってしまった。
「遠野くん、その先は言っちゃダメです。お願いですから、わたしの我が侭を聞いてください。
一度ぐらい―――本当に一度ぐらい、わたしだけの意思で貴方を守りたいんです。そうしないと、わたしは遠野くんに心から笑顔を向けられなくなっちゃうじゃないですか」
……彼女は瞳に涙をたたえて、そう言った。
「……遠野くん。わたしがこんなに早く帰ってきたのは、駄目だったからなんです」
「―――――」
「遠野くんを助ける方法は教会にはありません。あそこにあるモノはロアを利用しようっていう方法ばっかりで、転生体である遠野くんを助けようとする方法なんて、なかったんです」
「――――そう、か。まあ、仕方ないよな。それは、シエル先輩が、泣くようなことじゃない」
「いいえ……! わたし、わたしがもっとしっかりしていれば、もっと方法が見付かったはずなのに、駄目だったんです……!
だから、もう―――わたしに出来ることは、ロアの侵食を少しでも遅くすることしかできない。
……苦しいって。
遠野くんがどれだけ苦しいかってわたしは知っているのに、それでも少しでも長く遠野くんにいてほしいって、そんな自分勝手なコトばっかり考えてるんです、わたしは―――!」
「――――――」
シエルの涙なんか見たくない。
見たくないから、見えないように、そのまま彼女を抱きしめた。
「遠野―――くん」
「だから、いいって。俺だってシエルとできるだけ一緒にいたい。どんなに苦しくても、最後までロアにあがいてみせる。
……先輩は自分勝手じゃないよ。自分勝手なのは俺のほうなんだから」
「でも―――でも、それじゃ……!」
「勘違いしないでくれ。俺、いっとくけどこれっぽっちもロアなんかに負けるつもりはないぜ。
さっき、ちょっとさ。アルクェイドのヤツがヘンなことを口走ってたんだ」
だから、もしかしたら―――手は、まだあるんだと思う。
「……シエル。俺は負けない。けど、たしかに俺じゃあアルクェイドを止めるには分が悪い。
だから、任せる。吸血鬼に関してなら百戦錬磨なんだろ、先輩は」
「―――――はい。ありがとう、ございます」
背中にまわされたシエルの腕が、ぐっとしまる。抱きあって、そのままシエルの唇に、自分の唇を重ねようとする。
と、シエルはウサギみたいにぴょこん、と離れてしまった。
「―――キスはダメですよ。そんなことされたら、わたし嬉しすぎて気が抜けちゃいます。
ですから、今は抱き合うだけにしておきましょう」
「………だね。じゃあ少し離れてるけど、ピンチになったら呼んでくれ。すぐに駆けつけるから」
こくん、とシエルは無言で頷く。
俺は―――彼女を信じて、背中を向けた。
「待ってください」
「……? なに、忘れもの?」
「はい。……その、明日になったら街に遊びに行きましょう。乾くんと三人で、この前のやり直しをするんです」
儚げな笑顔で、彼女はそう言った。
――――よかった。
シエルにとってあの約束が大切なものであってくれた、本当に、よかった。
「―――ああ。それじゃあ約束」
片手を差し出す。
「はい、今度はちゃんと守ってくださいね」
シエルの手が俺の手に触れる。
ぶんぶん、と元気よく振って、離した。
「―――それでは離れていてください。彼女の蘇生が、たった今終わったみたいです」
「ん」
頷いて、今度こそシエルに背中を向けて歩き出した。
―――静かだ。
二階に上がってきて、ナイフを手にして、深呼吸をする。
……シエルのことは信頼している。
あの人が守るといってくれたのなら、絶対に守ってくれる。
「……ばか」
けど、それは俺だって同じ気持ちだ。
シエルが俺を守るって言ってくれたように、俺だってシエルのことを守りたい。
だから、すぐにあの場所に戻る。
シエルと戦っている時なら、アルクェイドにだって隙はあるだろう。
その一瞬。
その間隙に、全てをかける。
「……オマエとの決着はその後だ。いいだろ、ロア」
月を見上げながら、呟いた。
―――アルクェイドを追い返したあと。
俺は、とても成功率の低い綱渡りをしなくちゃいけない。
生き残れるなんていう保証はないし、そもそも『そんな方法』でいいのかどうかもわからない。
けど、もうそれしかない。
―――その力が、君に有るという事。
それには何かしらの意味があって、俺の未来にこの力を必要とする時がくるって教えてくれた人がいる。
「……ああ、そうだね。きっとこれが俺の役割なんだ、先生」
……覚悟は決まった。
後はアルクェイドのヤツを、どう追い返すか――
「―――!?」
校舎がゆれた。
ゴン、という衝撃。
ダンプカーが一直線に、フルアクセルノーブレーキでつっこんできたような、衝撃。
「――――うそ、だろ」
校舎はまだ揺れている。
蘇生が終わった、とシエルが口にしてからまだ一分とたっていない。
あの公園からここまでの距離を。
たったそれだけの時間で、あいつはやってきたっていうのか―――!?
……それは、違う。
俺の知ってるアルクェイドとは、違いすぎる苛烈さだ。
「―――――先輩!」
一瞬の隙をつくなんて、どうでもいい。
何も考えられず、全力で走り出した。
――――それは、悪夢だ。
廊下にはシエルと、アルクェイドの姿がある。
事実としては、ただそれだけ。
それだけなのに、足が凍った。
この空気。
廊下にはまっとうな空気というものがない。
その全て。
その全てが、アルクェイドという吸血鬼の意思で塗り固められた、生き物の胎内じみた息苦しさ。
その中で、シエルとアルクェイドの戦いは、あっけないほど一方的に終わってしまっていた。
「――――先、輩」
遠い。ここからすごく遠いところで、シエルは、アルクェイドに殺されかけてる。
……シエルはほとんど死にかけていて、何も、アルクェイド以外は見えていないようだった。
……アルクェイドの腕が、シエルの胸にのびる。ずぶり、という音をたててシエルの心臓を抉り出そうとする。
それは、あんまりだ。
いくら死なないっていっても、そんな―――生きたまま心臓を引きずり出すなんて、あんまりだ。
「やめろ…………!」
アルクェイドが振り向く。
なにげない、虫でも見るかのような一瞥。
「―――――あ」
それだけで、自分が生き物だという事さえ、忘れてしまった。
「なんだ、ちゃんといるじゃない。そこで待っていて。すぐに、終わらせてあげるから」
言いながら、アルクェイドはシエルをいたぶる。 首の骨を折ったまま、もう一本の腕で何度も何度も体を引き裂く。
「しぶといなあ。やっぱりロア本人を殺さないと貴女は死なないみたいね、シエル」
ざくざくと。
あの人が教会でされていたっていう、殺しては生き返ってしまう、という繰り返し。
「わたしがロアを奪り混んでしまえば、貴女はわたしが死ぬまで生き続けるしかなくなる。
貴女が死ぬためには教会で用意した転生批判の聖剣でロアを殺さないといけない」
「っ……それが……どうしたって、いうん、ですか」
苦しそうに、半ば朦朧とした意識でシエルが答える。
「けれど、いいの? ロアが死ぬという事は貴女も死ぬという事なのよ。ロアを消滅させてしまえば、貴女のこの体も普通の、つまらない人間の体に戻ってしまうでしょう」
「……それが……わたしの、望み……です」
「そう。かわいそうね。貴女の望みは叶えられない。わたしは今度こそロアを奪り混む。
あそこにいる肉塊をこの手で何百回と引き裂いてね……!」
「―――――!」
どくん、とシエルの体が跳ねた。
アルクェイドが彼女の心臓を引き抜く。
それでもすぐに意識が戻るシエルは、ごぼごぼと口から血液を逆流させる。
「―――――――アル」
バキン、という音。
激しい頭痛。
吐き気。
[#挿絵(img/アルクェイド 22.jpg)入る]
「黙ってろ、テメエは―――!」
ガン、と頭を壁に打ち付ける。
見ろ。
今はこんなヤツにかまっている時じゃない。
もう、あれ以上、指一本だってシエルを傷つけさせない。
見ろ。
血管が焼ききれるほどの負荷を脳に与えて、凝視しろ。
見ろ。見ろ。見ろ。
あの吸血鬼を、絶命させる『死』を視ろ――
「どうして――――!」
狂いそうになる。
生命の死。植物の死。空間の死さえ視えている。なのに、アルクェイドには死の要因がない。
……あれは、この自然界の上にいるだけで完璧な生命だと、前に誰かが言っていた。
自然の延長である真祖は、この世界という地盤からいくらでも活力を引き上げられる。
だから死なない。限界というものがない。
「あ――――」
つまり。
それは、自然界の上だけの完全なのか。
―――探せ。
あるはずだ。
あらゆるものの死、『点』が視えるのなら、必ずどこかにあるはずだ。
俺は間違っていた。
アルクェイドに死の要因はない。
それなら―――その要因をなくしているものを、まず先に―――
あった。
遠いか、だがこれ以上は許せない。
「アルクェイド――――!」
ぴたり、とアルクェイドの手が止まる。
「ついてこい。そこで、おまえを殺してやる」
言って、そのまま窓から校庭へと駆け出した。
―――グラウンドの真ん中か。
遠い。間に合うか。
アルクェイドはタン、と軽い足取りで追ってくる。
速い。速いけど、今度ばかりは俺のほうが先をとる―――
「はっ―――」
グラウンドの真ん中にたどりつく。
アルクェイドは一直線に俺へと向かってくる。
その前に。
この足元にある一際巨大な『点』、このあたり一帯の世界そのものの『死』を、ナイフで刺した。
ごん、というズレ。
これで、終わった。
この一帯。アルクェイドに向けて放たれている活力とやらの供給源である自然を、この一帯だけ『殺した』。
「――――考えたわね、志貴!」
アルクェイドが走りこんでくる。
その体、いたる所に死が浮かび上がっている。
「よし―――――!」
いける。
これならアイツを仕留められる――――そう、勝利を確信するより早く。
「ご―――――ふ」
口から、血が逆流してきた。
「え……?」
……彼女の動きがあまりに速すぎたせいだろう。ただ、信じられなくて、痛みも衝撃も、何も感じなかった。
ザン、という音が、今さらになって耳に響いた。ドボドボと大量の液体がこぼれていく音。
見れば。
アルクェイドの爪は、俺がそれに気がつくより早く、俺の胸を串刺しにしていた。
「―――――――あ」
意識が遠のく。
急激に、何もかもが喪われていく。
アルクェイドの腕は、俺の胸を穿って、そのまま体を貫通していた。
それは。
普通の人間なら、間違いなく即死の傷だ。
「は――――――」
けど、まだ死なない。
今の俺ならあと少しぐらい生きていられる。
……足首から、真っ黒い死の影が侵食してくる。
「あ………………ぁ」
かまうものか。
口から逆流してくる血液を無理やり飲みこんで、片手で、彼女の胸の『線』にナイフをつきたてた。
「くっ…………!」
アルクェイドの、声。
それももう、よくは聞こえない。
あたま。あたまが、とけてる。
アルクェイドに貫かれた胸の痛みによるものか。それとも限界まで脳を酷使して、体より先に脳が焼き切れようとしているのか。
……まあ、どちらにしても、俺の死がもうすぐやってくる事には変わりはない。
意識が遠のく。
けど、その前に――――このナイフで、こいつの線を切断しないと。
「……消えろ、吸血鬼―――!」
「ふざけないで、この程度でわたしは死なないんだから!」
アルクェイドの手が俺の頭を掴む。
そのまま握りつぶそうとするアルクェイドより早く、ナイフを彼女の股下まで切り下げた。
「いいから消えろ……! ロアは俺が連れて行く、おまえに手間なんかかけさせずに必ずあの世に連れて行ってやる!
だから、消えろ。俺はおまえと殺し合いなんかやりたくない……!」
「今さら何よ―――わたしを拒んだのは貴方のほうじゃない!」
ぐ、とアルクェイドの腕に力がこもる。
めきり、と頭蓋に亀裂の走る音。
「ロアはここで殺してやる。そうでもしなければ帰らないって言ったでしょう!?」
「こ―――この、ばか女が―――!」
ナイフが踊る。
ざん、という音をたてて、アルクェイドの腕を切断した。
ぼたりと地面に落ちる白い腕。
よろよろとアルクェイドは後退する。
それを見届けたとたん、俺は地面に崩れ落ちた。
どすん、と糸の切れた人形みたいに、地面に尻餅をつく。
「志、貴――――」
……どこか、ためらうような、アルクェイドの声が聞こえた。
「――――――――」
声が、うまくでない。
ごぼっ、と。
喉を動かすと、その代わりに、赤い血が流れてくる。
「志――――貴」
……薄れていく。
さっきまでアルクェイドに纏わりついていた殺気とか威圧とかが、薄れていく。
彼女が傷を負ったからか、それとも彼女がつけた俺の傷があまりに酷すぎたおかげか。
アルクェイドは、俺のよく知っている、以前の彼女に戻りつつある。
「――――よかっ、た」
何がいいのかは、もうわからない。
ただ、やっぱり、俺は。
「しっかりして、志貴……! そんな傷ぐらい、志貴がわたしのものになってくれるならすぐに平気になるんだから……!」
アルクェイドが手を伸ばしてくる。
「――――――」
朦朧とした意識で。
イヤだ、と手をあげて彼女を止めた。
「なんで……? 志貴、このままだと死んじゃうのよ? いいから―――さっきのことは許してあげるし、シエルの事も気にしない。
わたし、わたし志貴に無くなってほしくない……! だから―――お願いだからわたしのものになって、志貴……!」
ふるふる、と。
満足に息もできない体で、首をふる。
「……わからない。志貴が死んじゃったらロアはまた転生してしまうのよ。志貴だってロアを恨んでいるんでしょう? そのままだと、志貴が死んでしまったあと、ロアが貴方の体を乗っ取るわ」
「―――――――」
……そうか。それは確かに―――放っておけない、かな。
けど、このままアルクェイドに従っても、同じことの繰り返しになると思う。
例えば俺がアルクェイドに血を吸われて、かつてのロアのようになって、ロアに負けないぐらいの意思の強さを手に入れても。
……結局は、アルクェイドがロアに振り向いてやらないかぎり、ロアが自分から消える事は、ないんだ。
「……ダメだ。おまえの言う事は、きけない」
「どうして。そんなに―――そんなにわたしの事が嫌いなの、志貴」
……まさか。そんなこと、たとえ嘘でも――
「……頼む。おまえの気持ちもわかるけど、もう許してやってくれ。ロアはさ、たんにおまえに振り向いてほしかっただけなんだよ。そのために何回も生き返って、おまえがやってくるのを心待ちにしていた。
……でもあいつは人間なんだ。おまえのように長く長く生きられる命じゃない」
……そう、人間には不老不死なんてもの、遠すぎるんだ。
ロアは転生という方法で自分が自分のままで存在し続けられると信じた。
けど、それさえも限界があった。
その方法ではただ、同じ過去と目的を共有する『子孫』を作るだけであって、自分の『分身』を作ることにはならなかったから。
「……ロアはすでに居ないのと同じなんだ。あいつはもう、過去を引きずって同じことを繰り返すだけの存在だ。
―――だから、もう終わりにしてやらないと」
「志貴―――あなた、もう」
……アルクェイドの目が、正気に戻っていく。
紅色の瞳が、赤い瞳に薄れていく。
月の下、金色の髪がゆれていて。
そこにいるのは、やっぱり、俺が好きだったアルクェイド本人だった。
月を見上げるように、彼女を見上げる。
……ごめん、シエル。やっぱりさ、俺はアルクェイドを、すごく、キレイだって思うんだ。
あの赤い瞳も、毅然としたくせに人懐っこい目も、白く細い輪郭も、俺がたった今つけてしまった、胸に咲いた赤い血の痕でさえも。
なにもかも、あるものすべてひっくるめて本当に―――アルクェイドは、綺麗だった。
だから残念。
こんなふうに決着がついたのは、胸が痛い。
……くそ。アルクェイドももうちょっと早く正気に戻ってくれれば、こんな真似しなくても、良かったのに。
「そうなの、志貴。貴方……もう、ロアと一つなの?」
「……………」
さあ、わからない。
ただ―――今のは、無茶をしすぎた。
こうしている今もボロボロと記憶がかけていってる。
シエルが言っていたっけ。
本来視えないものを視ようとすれば、血管が切れて、廃人になっちまうって。
「……なによ、馬鹿。それじゃあシエルに殺されてやるっていうの、貴方は」
「―――まさか。けど、おまえのおかげでこのザマだ。もう、長くは保たないだろ」
「………………」
アルクェイドは自分の体を見下ろす。
胸と、そのまま縦一文字につけられたナイフの傷。
「信じられない。今まで、わたしをこんなに傷つけた相手はいなかったわ」
声にはほんのわずかな恨みと、惜しむような、響きがあった。
「……本当に残念。けど、わたしもそろそろ限界みたい。この傷を治すには今すぐにでも故郷の城に戻る必要があるでしょうね」
「―――だろ。なら、さっさと帰っちまえ」
「………………」
彼女は答えない。
実際には、沈黙なんてなかったのかもしれない。
ただその間。
お互いの別れになるこの時を、ただ、長いものとして感じたかっただけだったんだろう。
「――――――はあ」
と、アルクェイドは呆れたようにため息をついた。
「いやな男ね。最後まで憎まれ口をたたくんだから。けど、わたしね。
志貴の、そういう所が好きだったなあ」
言って。
最後に、笑顔のままで、彼女の体は霧に溶けていくように消えていった。
「なんだ――――同じだったのか」
呟いて、ただ月を見上げた。
最後のわずかな間だけ、俺たちは元の、協力しあっているんだかいないんだかっていう、あやふやな関係に戻っていた。
「――――っ」
あいつのことが、好きだった。
俺の中にいるロアの影響なんて、知らない。
ただ、気に入っていた。
だからこんな、殺しあったすえに別れるなんていう結末は、痛すぎる。
どうしてこんな事になったんだろう。
俺とアイツの関係にかぎって―――目のアテられないような過ちなんて、そう犯してはいなかったと思うんだけど。
「ご――――ぼ」
血が止まらない。
息を吸おうとすると、ポンプのように口から血の塊が吐き出される。
……意識が、途絶える。
アルクェイドも手加減ぐらいしてくれたらよかったのに。
こんな、胸に大穴を開けられたら、吸血鬼になりかけの半端な俺じゃ助からない。
「――――――っ」
どくん、と振動する。
心臓ではない。心臓の動きなんて、もうとっくに止まっている。
この、体そのものがズレるような振動は頭からしてきている。
アルクェイドを追い返すために限界以上に脳を酷使したせいだろう。
俺―――遠野志貴というモノが段々と削れていって、段々とロアの意思が強くなってきている。
……体は、じき停止する。
そのあとに俺まで亡くなってしまえば、この体はロアのモノだ。
俺では助からないこの傷も、ロアのヤツならなんとか蘇生させる事ができるだろう。
そうなってしまえば――――俺は、シエルと同じ過ちを繰り返す事になる。
「――――ごめん」
ただ、その言葉を口にした。
どく、ん、という躍動。
本当に、意識が、保てなくなっている。
その前に―――俺は、自分の体を直視した。
胸の古傷に、その『点』は存在する。
俺と―――ロアの死ともいうべき『点』が。
―――遠野くん、言ったじゃないですか。わたしを幸せにしてくれるって。
なら、お願いですからこんなところで死なないでください。
「―――――――」
だから、謝るしかない。
許してくれなんて、そんな事は言えない。
色々な事をしてあげたくて、けど結局は何一つ叶えてやれないっていうのなら。
せめて、最後に。
彼女を、こんなつまらない因縁から、解放するぐらいは、してやらないと。
「―――――はあ」
大きく息をはいて、ナイフを胸に突きつける。
ナイフの先にあるものは『点』だ。
あとは、力をいれるだけ。
それだけで。
―――――ヤメロ。
……声が聞こえる。
おそらくは幻聴だろう。
…………遠野くん…………!
泣き叫ぶような声が、校舎のほうから届いてきた。
見れば、すっかり傷の塞がったシエルが、俺に向かって走ってきている。
――――――――ヤメロ。
「………………」
……顔を見れば、決意が鈍る。
きっと、申し訳なくて、ナイフを持つ力が無くなる。
だから、彼女がやってくる前に。
ナイフを持つ手に力を入れた。
スウ、と音もなく感触さえなく、ナイフの刃が体に透る。
それだけで。
――――ヤ――――
声は、それで消えた。
一冊の古びた本。
それが、パラパラとページを撒き散らしながら、闇に蕩けていく幻視が、見えた気がした。
それだけで。
もう何年も前に落ちたことのある、深い深い闇へと落ちていけた。
遠野くん、遠野くん……!
―――声が、聞こえる。
遠野くん、そんな……どうして……!
―――ほら。やっぱり思ったとおり。
……やだ。こんなの、わたしはイヤです……!
―――こうなふうに、泣きじゃくる声を聞けば。
どうして……!? 死なないって、死なないって言ったのに……!
―――――きっと、後悔すると、思ってた―――
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●『白日の碧』
●『an epilogue』
―――――そこは、
何処か懐かしい匂いのする病室だった。
「………………あ」
呼吸がもれる。
「…………生き、てる」
呼吸に合わせて胸が上下する。
開きっぱなしの窓からは、気持ちのいい風がそそいできている。
黄色のカーテンが風になびいている。
外はハッとするほどの鮮やかな青空で、
気温は春先のように、暖かだった。
「生きてる……俺」
呆然と呟いて、きょろきょろとあたりを見渡した。
広い病室には誰もいない。
俺はベッドに横になっていて、右腕には点滴のための針が刺さっている。
胸には包帯があって――――
「…………なんだよ、これ」
点滴の針を外して、胸の包帯を取る。
包帯が取れたあとには、何もなかった。
あるのは自分の胸だけだ。
包帯が巻いてあるという事は傷がある、という事なのに、胸には傷痕はおろか染み一つなかった。
……かすかに首をかしげる。
俺は、胸に包帯を巻くような怪我を、したんだろうか。
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「―――――」
と。開けっぱなしのドアの向こう。
誰もいない廊下で、見知らぬ子供が病室を覗いていた。
「……………」
きみ、と呼びかける前に、子供はどこかに歩いていってしまった。
――――――なんだろう、今のは。
「―――――なにか」
忘れている気が、する。
「遠野、入るぞー」
病室のドアがノックされて、有彦が入ってきた。
「よっ、目が覚めたか。よしよし、昨日はろくに話にならなかった分、今日は少しだけマトモっぽいじゃんか」
陽気に言って、有彦はベッドの傍までやってくる。
「……有彦。おまえ、なにしてるんだ」
「はあ? 何してるんだって、遠野の見舞いに来てやってるんだよ。昨日と同じ質問しやがって、まだ寝ぼけてんのかおまえは」
「見舞いって―――誰の?」
「あのなあ。そりゃあ二ヶ月も眠ってれば頭もボケるだろうけど、昨日と同じコトばっかり聞くなよな。自分の事なんだから、医者にさんざん説明されたんじゃなかったのか?」
呆れたふうに言って、有彦は椅子に座った。
「…………え?」
ますますワケが解らなくなって、頭を押さえる。
「なんだ、医者に聞いてないのか? おまえさ、ここんとこずっと入院してたんだぜ」
「……ああ。まあ、それはなんとなく解る、けど……」
「……ふーん。もしかしたら遠野本人は解ってないかもしれないって医者は言ってたからな。
ま、しゃーないか。医者にあれこれ説明されるよりオレが教えてやったほうがフレンドリーってもんだろ」
うむ、と鹿爪らしく腕を組んで、有彦は俺の目をまっすぐに見た。
「もう二ヶ月ぐらい前の話。おまえさ、学校のグラウンドで倒れてたんだってさ」
「………グラウンド…………」
―――なんだろう。
なにか、言われてみると心当たりがあるような気がする。
「陸上部の連中がさ、朝練の時に見つけたらしいぜ。あいつら朝の五時には来るって話だから、遠野は夜のうちに倒れたんじゃないかって言われてるけど、どうなんだ?」
「いや―――どうなんだって言われても、わからない。だいたいグラウンドで倒れてたって、俺はグラウンドになんか寄りつかないだろ」
「だよな。ま、ともかく遠野が倒れていたワケだ。とりあえず傷もなければ出血もないからいつもの貧血ってコトで保健室に運ばれたんだが、これが一向に目を覚まさない。
仕方ないっていうんで遠野んちに連絡して、そのまま病院に担ぎ込まれたんだよ、おまえは。
それから二ヶ月近く、おまえさんは昏睡状態だったってわけ」
あっさりと、なんか物凄いことを有彦は言ってくれる。
「二ヶ月も昏睡状態って―――それって、普通」
「ああ、医者のほうもサジを投げてたらしいぜ。昏睡が一週間も続けば立派な植物人間だからな。オレも昨日、おまえが目を覚まして『よっ、有彦』なんて声をかけてきた時は心臓止まるかと思った」
あははは、と本気とも冗談ともとれる笑いをこぼす有彦。
「ま、遠野はいつくたばってもおかしくないヤツだったからな。オレはてっきりずっとあのままだと思ってた分、余計にびっくりしたのだ」
「……おまえな。人がそんな状態だったっていうのに、随分なコトを言ってくれるじゃないか」
「いーじゃん、ちゃんと回復したんだから。それにな、おまえが植物してた時は凄かったんだぞ。
もう回復する見込みはないっていうのに秋葉ちゃんは毎日見舞いにきて、その時に先輩が来るもんだから居づらいのなんのって」
ふふん、と意味ありげな笑みをうかべる有彦。
……って、ちょっと待った。
「待て有彦。その、秋葉ちゃんって何だ」
「秋葉ちゃんは秋葉ちゃんだ。遠野の妹さんで、ここで顔を合わすたびにオレたちは親密な関係になったりならなかったり」
「……秋葉……そうか、あいつ見舞いにきてた、のか」
……言われて、秋葉の事を思い出した。
有彦の言うとおり、俺はまだ寝ぼけているのか。なんだかこの病室以外の事を忘れてしまっている。
……言われれば思い出すからどうという事はないのだが、なんだか自分がふわふわしているようで不思議な感じがする。
「……けど秋葉と会ってたのか。……わるいな有彦。あいつ、わりときついだろ? 時々厳しいコトを言ってくるだろうけど、大目に見てやってくれ」
「わりと、時々! すごいな遠野、オレは今ほどおまえを大物と思ったコトはないぞ!」
有彦は椅子に座って、腕組みをして、嬉しいんだかひきつっているんだか解らない笑い声をあげる。
有彦はいつも通りだ。
正直、自分がどうなってしまったのか全然解っていないけど、こいつの底抜けの陽気さのおかげで気分が落ち着いてくれた。
「―――――はあ」
ベッドに体を預けて、深く深呼吸をする。
「おっと、そろそろ診察の時間か。それじゃまたな。先輩も連れてこようとしたんだけど、学校で会うからいいって来なかったんだよ」
「え……先、輩?」
「そっ。今までオレと交代で来てたんだぜ。だっていうのに、昨日おまえが起きてすぐ先輩に抱きついたりするから、もう病院には行きませんってヘソまげちまったんだ。先輩怒ってたからな、言い訳ぐらい考えとけよ」
言って、有彦は病室から去っていった。
「…………先輩?」
ちょっと、よく、思い出せない。
自分にとって先輩っていったらあの人しかいない。
名前も、顔も、どんな人だったかも知っている。
なのに、どうしてか。
俺は、その先輩とやらの事を深く考えていけない気がした。
ふわふわしている。
二ヶ月も昏睡していたせいで、体がまったく動いてくれないせいだろうか。
なんだか、足りないモノがある気がする。
―――そういえば、もう一つおかしな所がある。
自分はこの病室には見覚えがあった。
けど、俺の記憶が確かなら。
八年前のあの病院は、もうとっくになくなっているハズなんだけど――――――
翌日、屋敷に帰ってきた。
長く眠っていたせいか、自分の家に帰ってくるのはひどく久しぶりのような気がする。
「………?」
屋敷の玄関に向かう前に、屋敷の林に立ち寄ったあと、おかしな場所に出た。
「…………」
……知らなかった。
屋敷の林の奥に、こんな和風の屋敷があったなんて。
「――――――!」
がさり、と背後で物音がした。
振りかえると、そこには――
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見知らぬ、子供がぼんやりと立っていた。
「―――――――」
……迷い込んだのだろうか。
子供はどこか浮世離れしていて、それこそ幽霊か何かのようだ。
ただ、その胸。
着物がはだけたその胸にある何かの痕が、ひどく――――
「志貴さん、何をしていらっしゃるんです?」
「え――――琥珀、さん?」
「はい、志貴さんをお迎えにあがりました。玄関で待っていたんですけど、志貴さんったら庭のほうに歩いていってしまうんですもの。わたし、なんか驚いちゃいました」
琥珀さんはいつも通り、こっちが嬉しくなるような笑顔を浮かべている。
「……いや、ちょっと寄り道しただけなんだけど。琥珀さん、さっきの子はどこの子?」
「はい? 子供って、なんの事ですか?」
琥珀さんはさっきの子供を見なかったみたいだ。
「いや、見なかったならいいんだ。それじゃ屋敷に行こうか。秋葉のヤツ、待ってるんだろ?」
「ええ、秋葉さまは何もおっしゃりませんけど、今朝はずっとロビーのほうでぐるぐると歩きまわってらっしゃるんです。きっと志貴さんのお帰りを今か今かとお待ちしているんですよ」
「―――そっか。そりゃあ早く行かないとどんな文句を言われるかわからないな」
「はい、急ぎましょう志貴さん」
琥珀さんは俺の手をとって屋敷へと走り始める。
―――去り際。
後ろ髪を引かれた気がして、もう一度だけ和風の屋敷に振りかえった。
……幻だろうか。
子供はじっと、何か言いたそうな目をして、走り去っていく俺の背中を見つめていた。
何かが欠けたまま、遠野志貴はもとの生活に戻っていた。
屋敷に帰って、秋葉に小言を言われて、朝になったら翡翠に起こされて、琥珀さんの作ってくれた朝食を食べて屋敷を出る。
―――なにか、欠けている。
それを思い出せないまま、学校に着いた。
「よっ、おはようさん。もう学校に来ていいんだ、おまえ」
気軽に声をかけてくる有彦。
「あとしばらくはリハビリだって聞いたけどな。そっか、そんなに無理して学校に来るっていう事は、やっぱりそういうコトですか」
にしし、と意味ありげな笑いをする。
「そうだよなあ、あと一ヶ月ちょいで卒業式だもんな。一緒にいられるのもあと少しっていうワケだ」
……?
「……わからないな。一緒にいられるって、誰とだよ」
「誰とって、そりゃあおまえ――――」
有彦の声が止まる。
たっ、たっ、たっ、という軽快な足音が聞こえてくる。
明るい春先の陽射しの下。
息を弾ませて、彼女は目の前に現れた。
「おはようございます。今日もいい天気ですね、遠野くん!」
その人はいつも通りの笑顔をしていた。
「―――――先、輩」
息がつまる。
そうだ。どうして俺は、この人のコトを思い出さずにいたんだろう。
「遠野くん? おはようございます、ですけど」
「あ―――うん、おはよう、先輩」
ぎこちない仕草で挨拶を返す。
先輩はどこか納得いかないような顔で首をかしげた。
「もうっ、せっかく退院したっていうのに元気がないです。わたし、遠野くんが元気になってるって聞いて楽しみにしてたのに」
「楽しみにしてた……?」
どうしてか、思い出せない。
なにがあったのか。
この人とはすごく大切なコトをしあった気がするんだけど、思い出せない。
俺が覚えているコトといえば、この人は三年の先輩で、どうしてか俺と有彦と気が合って、昼休みに三人で過ごしていた事ぐらいしか、思い出せない。
……思い出せない。
他のことは思い出せない。それは悲しかったり辛かったりする事だから、いらないモノだと切り捨てたみたいに、思い出せない。
「もう、遠野くんったら約束を忘れたんですか?」
先輩は不満そうに見つめてくる。
―――約束。
約束。
大切な、約束――――
「ほら、今度三人で街に遊びに行こうって言ったじゃないですか。遠野くん、その前日に倒れちゃって病院に運ばれちゃいましたけど」
本当に、そんな些細なコトが楽しみそうな顔だったから。
他のことなんて、もうどうでもよくなってしまった。
「……そう、だね。そういえば、そうだった」
「はい。今度は忘れないでくださいね、遠野くん」
「いや、今度こそ忘れていいぞ遠野。そん時こそオレは先輩と二人っきりでキメにかかるからな」
……いつか聞いたような事を有彦は繰り返す。
「だめですっ! こんな機会はもうないかもしれないんですから、今回だけは三人で行かないと!」
むっ、と先輩は珍しく怒っている。
「そ、そんなコトないですって。オレたちまだ学生なんだから、遊びに行く機会なんていくらでもあるじゃないッスか」
「ええ、たしかに遠野くんや乾くんはお暇でしょうけど、わたしは春から忙しいんです。進学先がちょっと遠いですから、そう簡単にこっちには戻ってこれません」
「あ。そっか、先輩って、たしか―――」
言葉を飲む有彦。
俺には先輩の言っている意味がわからない。
「はい、卒業したら外国に留学するんです。一人前のケーキ職人になるのが夢でしたから」
――――なんか、笑顔で。
先輩は、とんでもないコトを口にした。
「……先輩。留学するって、この街に残るんじゃないのか……?」
「ええ、残りますよ。わたしの家はこの街にあるんですから、あちらに永住するコトなんてないです。お父さんをいつまでも一人にしておけないですし。
ただお弟子にとってくれるっていう職人さんは厳しい方ですから、少なくとも三年は帰ってこれないでしょうけど……」
――――――――な、に?
「けど、わたしが子供のころから憧れていたコトですから。わたしが住み込みで働かせていただくお店はですねー、王室ご用達の職人さんなんです。
家系の人以外はお弟子にとってくれないお店なんですけど、筋はいいからすぐに来なさい、なんて内定までいただいちゃいました」
先輩は嬉しそうに、俺にはよく分からない世界の話をしてくれる。
「そう―――それは、良かった、けど」
―――三年も、離れ離れになるなんて、どうして。
「はい、ありがとうございます。三年は長いですけど、遠野くんなら待っていてくれますよね?」
上目遣いで、先輩は照れ隠しの微笑みをする。
「わたしがいないからって浮気しちゃイヤですよ。遠野くんは情にほだされやすいところがありますから、ホントは連れていきたいぐらいなんですけどねー」
はあ、とため息をつく先輩。
「え―――あの、先輩?」
「けどそういうワケにもいきませんね。遠野くんはまだ学生さんですし、なにより秋葉さんを説き伏せるなんて一年や二年じゃ絶対無理でしょう? ですから今回は遠野くんを信じて、三年間だけ離れる事にしたんです」
……なんか、先輩はひどく強気な発言をしてくる。
俺の隣にいる有彦なんか、先輩の言葉を聞いてあんぐりと口を開けているぐらいだ。
「そういうわけで、三人で遊びに行けるなんて今回が最後かもしれないんです。ですから今度こそ、ちゃんとした思い出を作らせてください」
彼女は、本当に嬉しそうに言う。
―――――ズキン、と。
胸の古傷が痛んだ、気がした。
「遠野くん? どうしました、胸なんか押さえちゃって。まだ体が痛むんですか?」
「あ――いや、別に。胸には傷なんてないから、ただの気のせいだよ」
答えて、なにかおかしいな、と思った。
辻褄が、ズレてしまっている、気がする。
予鈴がなった。
じき朝のホームルームだ。
「それじゃまたお昼休みに行きますね」
先輩は一足先に校舎へと去ろうとする。
その前に、一つだけ聞いてみた。
「――――先輩。先輩のお父さんって、どんな人だっけ」
「え? 遠野くん、お父さんを知ってるでしょ? わたしの家は隣街でパン屋さんをやっていて、前に買いに来てくれたじゃないですか。
お父さん、遠野くんのこと愉快な青年だって気に入ってくれましたし」
彼女は、本当に嬉しそうに言う。
「――――――――――――」
……そう言われてみれば、そんな気がする。
―――でも、それは違うんだ。
先輩。あなたのお父さんが、生きているハズなんて、ない。
「遠野くん?」
先輩が話しかけてくる。
あたりは急速に熱を失っていく。
「気付いちゃったんですか、遠野くん?」
どこか物悲しい声で、そんな事を聞いてくる。
「――――――ああ、気がついた」
言って、瞳が涙で滲んだ。
―――気がつかなければよかった。
そうすれば―――このまま幸せなままで、誰も傷つくことのない世界が続いていただろうから。
「すごいですね。普通、気がつかないものなんですよ、こういうのって。おかしな所とか辻褄が合わない所とか、そんな都合の悪い事はみんな無視しちゃうのに」
「――――そうだね。少しぐらいおかしくても、それが幸せであるのなら、無視すれば良かった」
「そうですよ。そんな事にさえ嘘をつけないなんて、ほんと、正直なんですから」
……先輩は。
先輩に似た彼女は、本当に悲しそうに、そんな言葉を口にした。
「―――――――――」
ひどく、彼女に申し訳がなくって、胸が後悔でしめつけられた。
でも仕方がないじゃないか。
以前のままの学園生活。
まるでこの街の住人のようなシエル先輩。
あの傷から生きていて、八年前の胸の傷痕さえない遠野志貴。
……悲しいことなんて何一つない、今までに似た時間。
―――それが、あんまりにも幸福だから。
これが夢だと、わかってしまった。
「やだなあ。遠野くんはいつもそうですよね。些細な事は見逃してくれるくせに、本当に見逃してほしい事だけは気がついてしまう。それが遠野くんのいい所なのかもしれません。
けど、それでも――――」
最後に、恨むように俺を見て。
「今回ぐらいは、見逃してくれても良かったのに」
……先輩の姿は、消えた。
世界も。
同じように、消えていく。
――――――そうして、何もかもなくなった。
ようやく相応しい世界になってくれたらしい。
俺は死んで。いや、死んでいたらこんな幻の途中にさえいないだろうから、死に至る直前なのかもしれない。
まあ、ともかく―――ここが『死』という地点に限りなく近い、という事だけは確かだろう。
「―――――――」
……不思議と、恐怖は感じなかった。
自分が死んでしまったにしろ、もうすぐ消えてしまうにしろ、本当はとっくに消えてしまっているにしろ。
今は、自分なんかの事よりあの人のほうが大切だった。
「…………先、輩」
さっきまで俺の前で笑っていた人。
あんなに嬉しそうに、こんな都合のいい作り話を語っていたシエル。
イヤな事も苦しかった事もなくて、あの人が望んだままの、当たり前の日常の話。
悲しいことなんて何もなくて、ただ、それなりに平凡で、それなりに輝かしい事がある世界。
俺や有彦にとってみれば、退屈すぎて何の価値も見出せなかった毎日の繰り返し。
それが。そんな、つまらない、ものが。
「―――あの人にとって、かけがえのない、夢だったんだ」
呟いて、悲しくなった。
俺は自分の勝手な考えで、自らの命を断った。
そのあとの事なんて深く考えなかった。
こんなものが、あの人の夢だったというのなら。俺は、どんなに無様で、どんなに酷い人間になってしまったとしても。
彼女の傍にいて、彼女に助けられながら、彼女を守っていくべきだったんじゃ、なかったのかって。
「それはシエルという人の願いだよ。志貴という君の願いじゃないんだから、気にする必要はないんじゃない?」
―――――え?
「遠野志貴は考えられる、およそ最善の行為を行ったんだよ。それをシエルという他人の思惑と天秤にかけるコトはいらないよ。そんなことをすると、さっきみたいに人のユメにひっぱられるコトになる」
――――もう、俺以外は誰もいないのに、声が聞こえてくる。
「うん、ユメから冷めてしまった志貴だから、ここには志貴以外のイメージはありえない。
なんだ、少しは頭が働くようじゃないか、遠野志貴」
――――それじゃ、おまえは。
「ううん、勘違いはしないでほしいな。ロアはとっくに君に殺されたよ。
だいたいね、ロアが生き残っていたら君がまだ残っているハズはないじゃないか。
君は、とうに死んでいるのに」
――――よく、わからない。
それじゃあ、こうしている俺はなんなんだろう。
「そうだね、自己を失う手前の君なんじゃない?
ナイフで自分の胸をさした時と、その後に死んでしまった志貴の間の君。わずかな瞬間の隙間がここなんだろう」
ぱちん、と音がして。
見覚えのある、病室が映し出された。
「夢というものにはね、完全な虚像というものはないんだ。どのような作り話でも、所詮はその人間が得た知識の延長のものでしかない。
だから、君がさっき見た夢にだって現実でいうところの真実はある。
例えば――――」
―――俺が、意識を失ったままで植物人間になってしまっている、という所とか?
「うん、それだけは本当のことだ。
君は自らをナイフで刺したあと、目覚める事もなくただ延々と残っている。この瞬間は、そうなる前のわずかな隙間だよ。
この夢が覚めてしまえば―――君は、おそらく起きる事のない昏睡の体になって、夢を見る事さえできなくなる」
―――それじゃあ、先輩はどうなるんだ。
「さあ。けど他人の事なんかよりさ、自分の事を考えたほうがいいんじゃない?
悪いことは言わないから、もう一度目を閉じるんだ。
それで今度は冷めないように努力するといい。
そうすれば―――また幸せなユメを見れる」
―――わからない。おまえは、誰だ。
「あのね。そんなコトは関係ないだろう。どうせ目を覚ましてしまえば、君はユメを見るなんていう事さえできない、ただの『器官の群』になっちゃうんだよ?
それならここで、ユメともゆめともつかない夢に沈んでいたほうがいい。
君は今までよくやった。シエルっていう人も可哀想だけどね、君も僕も悲惨なものだったじゃないか。
だから、これぐらいおいしいユメを見てもいいとは思うんだけど?」
―――――だから。おまえは、誰だ。
「……はあ。そんなのさっき君自身が言ったじゃないか。ユメから冷めたんだから、ここには志貴以外のイメージはないんだって。
だとすると、僕はきっと――――」
[#挿絵(img/26(3).jpg)入る]
「―――こんなカタチを、してるんじゃないかな」
―――こど……も……。
「あ、失礼だな。これでも君より一歳だけ年上なんだぜ。遠野志貴はまだ八年だろ? その点僕は九年近く在ったんだから」
―――じゃあ、おまえは。
「そういう事。今まで廃棄物っぽく底で捨てられてたんだけどね、君が同じところに落ちてきたから声をかけたんだよ。
あ、でも別に僕は君と別人ってわけじゃないぜ。僕らはあくまで一つの名前の棲む現象だからね。
たとえ君が忘れていたとしても、君はもちろん僕の延長である志貴だ。ただ僕の場合は君の土台ではあるが過去ではないから、廃棄物っていう事になってしまう。
ま、そのあたりは難しい話だからおいておこう」
―――――わからない。その廃棄物が、俺になにをさせたいんだ。
「だから、目を醒ますのは止めたほうがいいっていう忠告だよ。君、つまり遠野志貴の現実は『一生病院のベッドで意識不明のまま』っていうリアルだ。その状態に覚めてしまえば、君は夢を見る事さえできなくなる。肉体は維持できても脳はまともに機能してくれていないんだ
つまり、それは死だ。存在としての死ではなく、意味としての死だね。そんな状態……わざわざ死ぬ必要なんかないだろ? どうせ目が覚めても現実に生きられないのなら、ここで現実をユメ見ていてくれたほうが僕は嬉しい」
―――……なんだよ、それ。
たとえ一生寝たきりでも、こんなふうに自分だけのゆめを見ていても、楽しくなんかないだろ。
「そうだね。現実に覚めて意味としての死を迎えるか、ここで自分だけのユメを見続けるか。
どっちにしたってあんまり変わりなんかないんだ。
現実に覚めて死んでしまえば、こんなふうに悩む事もなくなる。
幸せというのなら、きっとそっちのほうが何倍も幸せなんだろう」
―――な……。
「……けど、僕は君にユメを見てほしい。僕らは同じ名前でありながら、見れるユメが違うんだ。
僕の見るユメはね、たいていはあの日の出来事か、九歳までの出来事だけなんだ。
それはそれで楽しいのかも知れないけど、そこには志貴の未来がない。
例えば、大人になって、好きな人が出来て、毎日を忙しく生きていく、といった未来かな。
僕の現実、僕が知り得た知識、そこから想像できるであろう未来は、とても狭くて救われないものばかりだから、そういったものを想像する事さえできない。
けど君のユメは違った。君にとっては当たり前の風景も、僕にとってみれば輝かしい風景なんだ。それこそ夢にまで見たっていうヤツだよ。
……もっとも狭量な僕の年月では君のようなユメは思い浮かばないんだけどね」
―――…………。
「君は自分だけのユメに我慢できないんなら、僕も少しは手を貸そう。君が忘れてしまっている昔の出来事を提供してもいい。僕たちがお互いを騙そうと努力すれば、それなりに幸せなユメを見れるさ」
―――………………。
「……気が乗らないみたいだね。やっぱり冷めてしまうと目を覚まそうとしてしまうものなのかな。
けど、君の現実は終わってるんだよ。たしかにユメに見る現実なんて、本当の現実に比べるべくもないものだけどさ。
それでも―――頑張れば、少しぐらいは幸せになれるじゃないか」
―――……違う。
そこで幸せになれるのは、俺たちだけじゃないか、志貴。
「………馬鹿だな。幸福なんて、自分だけのモノにしておけば簡単なのに。他人の事まで考えるとね、色々と難しくなっていくんだよ。
その結果、なにが良くて何が悪かったのかなんて事さえ難しくてわからなくなる。
事実、僕も君も何一つだって悪い事はしなかった。なのに結果はこうだろう?
ほら、志貴はそういう人間なんだ。奪われてばかりの人生だから、誰かの幸福なんて欲しがっちゃいけないんだよ」
―――そうかもしれない。
けど、それでも、一人にしないって約束したんだ。
さっきまでのものも、こうしている自分も、そのすべてが夢だというのなら――――早く、こんな夢から醒めないと。
「夢が終われば。そこには、何もないかもしれないのに?」
―――だって、彼女が待ってるんだ。早く戻らないといけないだろ。
たとえ死ぬ事になっても―――彼女が待っている所に居るって、約束したんだから。
「……そう。それじゃお別れだ。放っておけなくて手を出しちゃったけど、やっぱり今さら僕は必要なかったみたいだな。
……でもまあ、楽しかったよ。僕は将来あんな生活を送れるんだって、いいユメを見せてもらえた」
―――な、なんだよ。いきなり握手してくるなんて、気持ちわるいな。
「あはは、僕だって気持ち悪いよ。でもこうしないと渡せないんだから仕方がないじゃないか。
いくら同じ自分だっていってもね、ここまで別れてしまうと『触れ合う』っていうイメージが必要になってくるワケ。ま、そのあたりの知識を忘れちゃってる君に言ってもそれこそ無為か」
―――ちょっと……おまえ、消えかかってる、けど。
「そう言う君はカタチが出来はじめてるね。
さて、それじゃあこのへんでお別れだ。僕は君のことを忘れるから、君も僕のことは忘れてくれ。
今さら―――遠野志貴以前の志貴になんて、戻っても意味がないんだ」
―――。
「ああ、そうそう。彼女のことだけど、僕も気に入ったよ。だから君が自分よりあの人の事が大切だっていう意見には賛成する。
けどな、君。それだったらもう二度と、つまんない事をやって泣かせたりするんじゃないぞ」
―――そうして、消えてしまった。
いや、亡くなってしまった、という感覚のほうが近いんだろうか。
……チクリと、不思議な痛みが走る。
懐かしくて、もう二度と取り戻せない何か。
何か、悲しくて。
深く、思い出そうとしても。
それが郷愁と呼ばれるものだと気が付く事は、自分には、ついぞ、出来なかった。
「………………」
意識が覚めていく。
一時のユメが冷めていく。
このユメが消えて、こうしている俺も消えれば。
そこにあるのは、もう夢を見る事さえない、死んでいる自分だけだった。
―――ぼんやりと。
朝の光が、映ってくる。
朦朧としたあたま。
まだ、何も考えられない。
体は倒れている。
頭は―――なにか、柔らかいモノの上にある。
―――おかしいな。
もう、ユメは冷めているはずなのに。
目蓋をあける。
目の前には、彼女の、泣き顔があった。
[#挿絵(img/シエル 24(2).jpg)入る]
「――――――――」
……ただ手を伸ばして、彼女の頬に触れた。
指先に涙が伝わってくる。
それは、紛れもなく現実でしかない、温かい泪だった。
「――――――――」
……彼女は何も言ってこない。
俺も―――言葉を発する必要性なんかこれっぽっちも感じなくて、ただ彼女の体温だけを感じていた。
―――どくん、という鼓動。
夜空にはアルクェイドが消えた時のままの月があって、俺の胸は血にまみれていた。
ただ、そこにあった穴は塞がっていた。
彼女が治癒してくれたのか、それともあんな傷は初めからなかったのか。
……まあ、生きているのなら、そんなコト。
こうしていられるコトに比べれば、本当に瑣末だろう。
「……遠野くん……わたしのこと、わかりますか……?」
震えているような、声。
「……驚いたな。先輩、すごく、泣いてる」
「―――はい。わたし、こんなにどうしようもない気持ちなんて、生まれて初めてです」
「はは、そりゃあ言い過ぎだよ、先輩」
ぼんやりとした頭で、そんな軽口を言う。
ぼう、とする。
頭痛はない。痛みもない。ロアがどうなったのか、自分がどうなったのか、まったくわからない。ただ、わかるのは朝の光と目の前にシエルがいるという事だけだ。
「………はあ」
なんて倖せ。
欲しいものは、目の前にそろっている。
「……良かった。約束が、守れて」
はあ、と喘ぐような吐息をもらして、そう言った。
「なに言ってるんですか。今日は学校が終わったら乾くんと三人で遊びに行くんでしょう? ですから、いつまでもこんなふうに膝まくらされてる暇なんてないですね」
彼女はクスリと、以前のようにイタズラな笑みを浮かべる。
[#挿絵(img/シエル 25.jpg)入る]
「――――そっか。それじゃあいいかげん起きないといけないか……って、痛っ……!」
体を起こそうとしたとたん、胸が激しく痛んだ。
「あ、まだ動いちゃダメですっ……! あんな大きな傷口だったんですから、あと一時間はそのままでいてもらわないと」
「……シエル。すごく、矛盾したこと言ってるって、わかってる?」
「あ……はい、そうみたいです。その、遠野くんが目を覚ましてくれたから、わたしどうかしちゃってます」
顔を真っ赤にして、彼女はそんな事を言った。
「……けど参ったな。あと一時間もこのままだなんて、退屈だ」
動かせるとしたら腕ぐらい。
それに彼女だって一時間も膝まくらをしていたら疲れてしまうだろうし。
「……ごめん。このままじゃ何かと疲れるだろシエル。なんだったら地面にそのまま寝かせてくれてもいいんだけど―――」
「……もう、何言ってるんですか。わたしは好きでこうしているんですから、これぐらいの我が侭はさせてください」
頬を赤く染めたまま、彼女はじっと俺を見つめてくる。
「……それに、ですね。こうしていれば、遠野くんにしてもらえるかなっ、って……」
「あ――――――」
―――思い出した。
そういえば、さっきそんな事を、約束した気がする。
「……うん。俺も、今はそうしたい」
言って。
唯一自由になる腕で彼女の頬に手をそえる。
彼女が静かに頭をさげてくる。
―――唇が、深く、触れ合った。
それこそ一時間にも思える口付けをして、俺と彼女は顔を離した。
「―――――――――」
……言葉がない。
ただ、本当に、ようやく。
俺は、長い夢から、目覚められた気がした。
「……とりあえず、おはようシエル」
「はい。おはようございます、遠野くん」
その笑顔は涙に濡れていながら、何よりも華やかだったから。
つい、気が抜けて瞼を閉じてしまった。
「え……? 遠野くん、遠野くん……!?」
「ん―――ごめん、先輩。もうちょっと……眠らせて、くれないか」
……本当にホッとして、今までの疲れが戻ってきてしまった。
出来る事なら、このまま先輩に抱かれたまま眠りたいけどそうもいかないだろう。
「……どっか適当な物陰にでも置いておいてくれればいいから……授業が始まったら、起こして」
「――――むっ」
いかにも不満そうな声が聞こえる。
けど、本当に―――今は、眠くて。
「―――わかりました。それじゃこのままわたしの部屋に連れていきますけど、それでいいですね?」
「え……それは、ちょっとまずいんじゃないか、な。それじゃ学校を休んじゃう、じゃない、か」
「いいんです、今日はさぼっちゃいましょう。どのみち遠野くんには聞きたい事が沢山あったんです」
―――と。
体がひょい、と抱きかかえられた。
「ちょっ―――先輩、保健室でいいから、先輩の部屋に行くのはやめよう……!」
「却下します。遠野くんにはわたしが居ない間、アルクェイドと何をしていたかを教えてもらわないといけませんから」
俺を抱きかかえたまま、ニッコリとシエルは微笑む。
それは、こっちの眠気を無くしてしまうぐらい、静かな迫力があったと思う。
「それじゃ行きますね。まだ日が昇ったばかりですし、急げば人目につく事もないでしょうから」
「先輩、だから保健室でって―――うわあ!」
たん、という軽い足音がして、シエルは大きく跳んでいた。
それはほとんど宙に浮いているような跳躍だったと思う。
この分なら、本当にすぐシエルのアパートに辿り着きそうなんだけど―――
「……………ふう」
なんていうか、今更ながらすごい人に惚れたんだなって実感する。
けどまあ、それも覚悟の上か。
俺とロアの問題が解決したところで先輩には先輩の問題があるんだから、このまま平穏な生活に戻れるとは思えない。
けど、それでも―――もう、この人と一緒にいるって決めたんだ。
この先なにがあろうと、二人でなんとかやっていこう。
「そう――――だよな、志貴」
ユメの中にいた誰かにそう呟く。
さて、それじゃあとりあえず―――今は、アルクェイドとの事をどう言い訳したものか、なんて真面目に考えなくっちゃいけないか―――
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Fin