「月姫」(present by TYPE-MOON)
―――――――ふと、目が覚めた。
暗い夜。
家の中にみんなはいない。
一人きりはこわいから
みんなにあいたいくて庭にでた。
屋敷の庭はすごく広くて
まわりは深い深い森に囲まれて。
森の木々はくろく・くろく
大きなカーテンのようだった。
それは まるでどこかの劇場みたい。
ざあ と木々のカーテンが開いて、
すぐに演劇が始まるのかとわくわくした。
遠くでいろんな音がしてる。
くろい木々のカーテンの奥。
森の中で みんなが楽しそうに騒いでる。
幕はまだ開かない。
がまんできずに 森の中へと入っていった。
すごく、くらい。
森はふかくて ツメタイヒカリも届かない。
ただ 寒い。
眼球の奥がしびれてしまうぐらいの 寒い冬。
自分の名前をよばれた気がして
もっと奥へと歩いていく。
木々のヴェールを抜けたあと。
森の広場にはみんなそろって待っていた。
みんなふぞろいのかっこう。
みんなばらばらのてあし。
一面 まっかになってる森のひろば。
───わからない。
バラバラにするために見知らぬ人がやってくる。
───よく わからない。
けれど誰かが前にやってきて
かわりにバラバラにされてくれた。
───ボクは子供だから よく わからない。
びしゃりと。
暖かいものが顔にかかった。
あかい。
トマトみたいに あかい水。
バラバラになった人。
その おかあさん という人は
それっきりボクの名前を呼ばなくなった。
―――――ほんとうに よくわからないけれど。
ただ寒くて。
意味もなく 泣いてしまいそうだった。
目にあたたかい緋色が混ざってくる。
眼球の奥に染みこんでくる。
だけどぜんぜん気にならない。
夜空には、ただ一人きりの月がある。
すごく不思議。
どうしていままで気がつかなったんだろう。
───なんて、ツメタイ───わるい、ユメ。
ああ───気がつかなかった。
こんやはこんなにも
つきが、きれい───────だ────
「月姫」(present by TYPE-MOON)
琥珀編
気がつくと病院のベッドにいた。
カーテンがゆらゆらとゆれている。
外はとてもいい天気で、
かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
「はじめまして遠野志貴くん。回復おめでとう」
初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めてきた。
にこやかな笑顔と、四角いメガネがとても似合っている。
清潔そうな白い服も、このおじさんにはぴったりだった。
「志貴くん。先生の言っている事がわかるかい?」
「……いえ。僕はどうして病院なんかにいるんですか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるような傷じゃなかったんだよ」
白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なにか、お医者さんらしくない事を言う。
――――――ひどく。
気分が、悪くなった。
「……眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。今は無理をせず、体の回復につとめるのがいい」
お医者さんは笑顔のままだ。
はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴くん」
「どうして、そんなに体じゅうラクガキなんかしているんですか。この部屋もところどころヒビだらけで、いまにも崩れちゃいそうですけど」
お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩したけれど、すぐにまたニコニコとした笑顔に戻って、カツカツと歩いていってしまった。
「―――やはり脳に異状があるようだ。脳外科の芦家先生に連絡をいれなさい。それと眼球にも損傷の疑いがあるな。午後は眼の検査に回すように」
お医者さんは、僕に聞こえないように、こっそりと看護婦さんに話しかけた。
「………ヘンなの。みんな体中にラクガキしてる」
くろい、ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうに走ってる。
意味はよくわからないけど、見ているだけでとても気持ちがわるい。
「……なんだろう、コレ」
ベッドにもラクガキがある。
指で触ってみたら、つぷり、と指先が沈み込んだ。
「―――あ」
もっと細い物で触れたら奥まで沈みそうなので、棚におかれた果物ナイフでラクガキをなぞってみた。
何の力もいれてないのに、ナイフは根元までベッドに沈み込む。
面白かったから、そのままラクガキどおりにナイフを引いた。
ごとん。
重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまった。
「きゃあああああ!」
となりのベッドにいる女の子が悲鳴をあげる。
看護婦さんたちが走ってきて、果物ナイフを取りあげられた。
「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」
お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、その方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。ねえ、どうしてこの病院はヒビだらけなの?」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんてないんだ。
それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒らないから教えてくれないかな」
「―――だから、その線をなぞっただけなんだ」
「……わかった。このお話はまた明日にしよう」
お医者さんは去っていく。
けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはくれなかった。
あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうとキレイに切れた。
力なんていらない。
紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることができた。
ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。
……試したことはないけれど、たぶん、きっと、にんげんも。
ラクガキはみんなには見えてないみたいだ。
なぜか自分だけに見える黒い線。
それがなんであるか、子供の自分にもなんとなく分かってきた。
アレはきっと、ツギハギなんだ。
手術をして傷口を縫ったあとのところみたいに、とても脆くなっているところだとおもう。
だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れるはずなんてない。
――――ああ、今まで知らなかった。
セカイはこんなにもツギハギだらけで、とても壊れやすいトコロだったなんて。
みんなには見えてない。
だから平気。
でも僕には見えている。
こわくて、こわくて、歩けない。
まるで、僕だけおかしくなってしまったみたいだ。
だからだろうか。
あれから二週間も経つのに、誰も僕の話を信じてくれない。
あれから二週間も経つのに、誰も、僕に会いに来てくれない。
あれから二週間も経つのに。
ずっと、僕だけがツギハギだらけのセカイに生きている――――
病室にはいたくない。
ラクガキだらけのトコロにいたくない。
だからココから逃げ出して、誰もいない遠い場所に行くことにした。
でも胸の傷が痛くて、少ししか走れなかった。
気がつけば。
自分がいるのは街の外れにある野原で、ちっとも遠い場所になんて行けなかった。
「……ごほっ」
胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみこんでせきこんだ。
ごほっ、ごほっ。
誰もいない。
夏の終わりの、草むらの海のなか。
このまま、消えてしまいそうだった。
けれど、その前に。
「君、そんなところでしゃがんでると危ないわよ」
後ろから、女の人の声がした。
「え………?」
「え、じゃないでしょ。君、ただでさえちっこいんだから草むらの中でうずくまってると見えないのよね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるところだったんだから」
ふきげんそうに女の人は僕を指差した。
……なんか、ちょっとあたまにきた。
僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に?」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相手になってくれない? 私は蒼崎青子っていうんだけど、君は?」
まるでずっと知りあいだった友達のような気軽さで、女の人は手を差し伸べてきた。
断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と自分の名前をいって、女の人の冷たい手のひらを握り返した。
女の人とのおしゃべりは、とても楽しかった。
この人は僕の言うことを『子供だから』といって無視しない。
ちゃんと一人の友達として、僕の話を聞いてくれた。
色々なことを話した。
僕の家のこと。歴史のある旧い家柄で、とても行儀作法にうるさくって、お父さんが厳しい人だということ。
あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、いつも僕のあとを付いてきていたということ。
広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきはと一緒に友達と遊んだこと。
―――熱にうかされたように、色々なことを話した。
「ああ、もうこんな時間。
悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるからお話はここまでにしましょう」
女の人は立ち去っていく。
……また一人になるのかと思うと、寂しかった。
「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。君もちゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守るんだぞ」
「あ―――」
女の人は、まるでそれが当たり前だ、というように去っていった。
「……また、明日」
また明日、今日みたいな話ができる。
嬉しい。
事故から目覚めて。初めて、人間らしい感情が戻ってきた。
そうして、午後になると野原に行くのが日課になった。
女の人は青子って呼ぶとおこる。
自分の名前が嫌いなんだそうだ。
考えたあげく、なんとなく偉そうな人だから『先生』と呼ぶことにした。
先生はなんでも真面目に聞いてくれて、僕の悩みを一言で片付けてくれる。
……事故のせいで暗くなっていた僕は、少しずつ、先生のおかげでもとの自分に戻っていけた。
あんなに怖かったラクガキのコトも、先生と話しているとあまり恐くは感じなくなっていた。
だから、どこの誰だか知らないけど、もしかしたら先生は本当に学校の先生なのかもしれない。
でも、そんなコトはどうでもいいことだと思う。
先生といると楽しい。
大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。
「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」
ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物ナイフを使って、野原に生えていた木を切った。
あのラクガキみたいな線をなぞって、根元からキレイに切断した。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの他の誰にもできないよね」
「志貴―――!」
ぱん、と頬を叩かれた。
「先……生?」
「――――君は今、とても軽率な事をしたわ」
先生はすごく真剣な目をして見つめてくる。
……理由はわからなかったけれど。
僕は、いま自分がした事が、とてもいけないコトなんだって思い知った。
厳しい先生の顔と、叩かれた頬の痛みで。
とても、とても悲しい気持ちになった。
「……ごめん、なさい」
気がつくと、泣いていた。
「―――――志貴」
ふわり、とした感覚。
「―――謝る必要はないわ。
たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、それは決して志貴が悪いってわけじゃないんだから」
先生はしゃがみこんで、僕を抱きしめていた。
「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。
だから私は謝らない。そのかわり、志貴は私のことを嫌ってもいいわ」
「……ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。……私が君に出会ったのは一つの縁だったみたい」
先生はそうして、僕が見ているラクガキについて聞いてきた。
この目に見えている黒い線のことを話すと、先生はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「……志貴、君が見ているのは本来視えてはいけないものよ。
『モノ』にはね、壊れやすい個所というものがあるの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完全じゃない。
君の目は、そういった『モノ』の末路……言い代えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「……未来を……みてる、の?」
「そうよ。死が視えてしまっている。
――それ以上のことは知らなくていい。
もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるなら、必然としてそれなりの理屈を知る事になるでしょうから」
「……先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメよ。
ただ一つだけ知っておいてほしいのは、決してその線をいたずらに切ってはいけないということ。
―――君の目は、『モノ』の命を軽くしすぎてしまうから」
「―――うん。先生が言うならしない。それに、なんだか胸がいたいんだ。……ごめんね先生。もう、二度とあんなことはしないから」
「……よかった。志貴、いまの気持ちを絶対に忘れないで。そうしていれば、君はかならず幸せになれるんだから」
そうして、先生は僕からはなれた。
「でも先生。このラクガキが見えていると不安なんだ。
だって、この線を引けばそこが切れちゃうんでしょう? なら、僕のまわりはいつバラバラになってもおかしくないじゃないか」
「そうね。その問題は私がなんとかするわ。――どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
はあ、とため息をついてから、先生はニコリと笑った。
「志貴、明日は君にとっておきのプレゼントをあげる。私が君を以前の、普通の生活に戻してあげるわ」
次の日。
ちょうど先生と出会ってから七日目の野原で、先生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば妙なラクガキは見えなくなるわよ」
先生がくれたものはメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。別に度は入ってないんだから」
先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
とたん―――
「うわあ! すごい、すごいよ先生! ラクガキがちっとも見えない!」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを奪ってまで作った蒼崎青子渾身の逸品なんだから。 粗末にあつかったらただじゃおかないからね、志貴」
「うん、大事にする! けど、先生ってすごいね! あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、なんだか魔法みたいだ、コレ!」
「それも当然。だって私、魔法使いだもん」
得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えたわけじゃないわ。ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、線はまた見えてしまう」
「―――そ、そうなの?」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ。志貴、君はその目となんとか折り合いをつけて生きていくしかないの」
「………やだ。こんな恐い目、いらない。またあの線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる」
「ああ、もう二度と線をひかないっていうアレか。ばかね、あんな約束気軽に破っていいわよ」
「……そうなの? だって、すごくいけないコトだって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事ね。
けどそれは君個人の力なのよ、志貴。だからそれを使おうとするのも君の自由なの。君以外の他の誰も、志貴を責める事はできないわ。
君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な能力を持ってしまった。
けど、それが君に有るという事は、なにかしらの意味が有るという事なの。
かみさまは何の意味もなく力を分けない。
君の未来にはその力が必要となる時があるからこそ、その直死の眼があるとも言える。
だから、志貴の全てを否定するわけにはいかないわ」
先生はしゃがんで、僕の視線と同じ高さの視線をする。
「でもね、だからこそ忘れないで。
志貴、君はとてもまっすぐな心をしてる。
いまの君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。
君は君が正しいと思う大人になればいい。
いけないっていう事を素直に受けとめられて、ごめんなさいと言える君なら、十年後にはきっと素敵な男の子になってるわ」
そう言って。
先生は立ちあがると、トランクに手を伸ばした。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネを外しちゃだめだからね。
特別な力は特別な力を呼ぶものなの。
どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人がよく考えて力を行使なさい。
その力自体は決して悪いものじゃない。結果をいいものにするか悪いものにするかは、あくまで志貴、君の判断しだいなんだから」
トランクが持ちあがる。
―――先生は何も言わないけれど。
僕は、先生とお別れになるんだとわかってしまった。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃわからない。
ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかったんだ。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたんじゃないか。
……だめなんだ。
先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだめに決まってるじゃないか……!」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も騙せないような嘘は、聞いている方を不快にさせるわ」
先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と僕の額を指ではじいた。
「―――自分でもわかってるんでしょう?
君はもう大丈夫だって。ならそんなつまらないコトをいって、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけないわ」
先生はくるり、と背を向けた。
「それじゃあお別れね。
志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし穴だらけなのよ。
君は人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい」
先生は行ってしまう。
とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、シャンとして見送る事にした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来よ志貴。その意気でいつまでも元気でいなさい。
いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト。
大丈夫、君なら一人でもちゃんとやっていけるから」
先生は嬉しそうに笑う。
ざあ、と風が吹いた。
草むらが一斉に揺らぐ。
先生の姿はもうなかった。
「……ばいばい、先生」
言って、もう会えないんだな、と実感できた。
残ったものはたくさんの言葉と、この不思議なメガネだけ。
たった七日だけの時間だったけれど、なにより大事なコトを教えてくれた。
ぼんやりと佇んでたら、目に涙がたまった。
―――ああ、なんてバカなんだろう。
僕はさよならばっかりで。
ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった。
僕の退院は、それからすぐだった。
退院したあと、僕は遠野の家ではなく、親戚の家に預けられる事になった。
けど大丈夫。
遠野志貴は一人でもちゃんとやっていける。
新しい生活を、新しい家族と過ごす。
遠野志貴の九歳の夏はそうして終わった。
新しい秋がやってきて、僕は少しだけ、大人になったんだと思う――――
●『1/反転衝動T』
● 1days/October 21(Thur.)
―――――秋。
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
自分こと遠野志貴は、八年ぶりに長く離れていた実家に戻る事になった。
「志貴、早くしなさい。いつもの登校時間を過ぎていますよ」
台所から啓子さんの声が聞こえてくる。
「はい、いま出ますからー!」
大声で返して、それまで自分の部屋だった有間家の一室に手を合わせる。
「それじゃ行くよ。八年間、お世話になりました」
ぱんぱん、と柏手をうった後。
鞄一つだけ持って、慣れ親しんだ部屋を後にした。
玄関を出て、有間の屋敷を振りかえる。
「志貴」
玄関口まで見送りにきた啓子さんは、淋しそうな目で俺の名前を口にした。
「行ってきます。母さんも元気で」
もう帰ってくる事はないのに行ってきます、というのはおかしかった。
もうこの先、家族としてこの家の敷居をまたぐ事はないんだから。
「今までお世話になりました。父さんにもよろしく言っておいてください」
啓子さんはただうなずくだけだった。
八年間────俺の母親であった人は、ひどく悲しげな目をしていた。
この人のそんな顔、今まで見たことはなかったと思う。
「遠野の屋敷の生活はたいへんでしょうけど、しっかりね。あなたは体が弱いのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ」
「大丈夫、八年もたてば人並みに健康な体に戻ります。こう見えてもワリと頑丈なんです、俺の体」
「ええ、そうだったわね。けど遠野の方達はみなどこか違っている人達ですから、志貴が圧倒されないかと心配で」
啓子さんの言いたい事はなんとなくわかる。
今日から俺が住む事になる家は、お屋敷ともいえる時代錯誤な建物なのだ。
住んでる家も立派なら家柄も立派という名家で、実際いくつかの会社の株主でもあるらしい。
くわえて言うのなら、八年前に長男である俺―――遠野志貴を親戚である有間の家に預けた、自分にとって本当の家でもある。
「でも、もう決めた事ですから」
そう、もう決めた事だった。
「……それじゃあ行ってきます。今までお世話になりました」
最後にもう一度だけそう言って、八年間馴れしたんだ有間の家を後にした。
「――――はあ」
有間の家から離れて、いつもの通学路に出たとたん、気が重くなった。
―――八年前。
普通なら即死、という重症から回復した俺は、親元である遠野の家から分家筋である有間の家に預けられた。
俺は九歳までは実の両親の家である遠野の屋敷で暮らしていて、
その後の八年間、
高校二年生である今までを親戚である有間の家で暮らしていた、というコトになる。
なかば養子という形で有間の家に預けられてからの生活は、いたってノーマルなものだった。
あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事はまったくおこらなかったし、自分も先生のくれたメガネをかけているかぎり『線』を見る事がない。
遠野志貴の生活は、本当に平凡に。
とても穏やかなままで、ゆるやかに流れていた。
……つい先日。
今まで勘当同然に放っておかれた自分に、
『今日までに遠野の屋敷に戻って来い』
なんていう遠野家当主からのお言葉がくるまでは。
「はあ────」
またため息がでる。
実のところ、交通事故に巻き込まれて入院する以前から、俺は遠野の家とは折り合いが悪かった。
行儀作法にうるさい屋敷の生活が子供心にはつまらないモノに思えてしまったせいだろう。
だから有間の家に預ける、と実の父親に言われた時は、さして抵抗もなく養子に出た。
結果は、とても良好だったと思う。
有間の家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である文臣さんとも親子のように接してきた。
もともと一般的な温かい家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で本当の子供のように暮らしてきた。
そこに後悔のたぐいはまったくなかった。
……ただ一つ。
一歳年下の妹を遠野の屋敷に残してきてしまった、ということ以外は。
「……秋葉のやつ、俺のことを恨んでるんだろうな」
というか、恨まれて当然のような気がする。
あの、やたら広い屋敷に一人きりになって、頭の硬い父親とつきっきりで暮らしていたんだ。
秋葉がさっさと外に逃げ出してしまった俺のことをどう思っているかは容易に想像できる。
「…………はあ」
ため息をついても仕方がない。
あとはもうなるようになれだ。
今日、学校が終わったら八年ぶりに実家に帰る。そこで何が待っているかは神のみぞ知るというところだろう。
「そうだよな。それに今はもっと切迫した問題があるし」
腕時計は七時四十五分をさしている。
うちの高校は八時きっかりに朝のホームルームが始まるため、八時までに教室にいないと遅刻が確定してしまう。
鞄を抱えて、学校までダッシュする事にした。
「ハア、ハア、ハア――――」
着いた。
家から学校まで実に十分弱。
陸上部がスカウトにこないのが不思議なぐらいの好タイムをたたき出して、裏門から校庭に入る。
「……そっか。裏門から入るのも今日で最後か」
位置的に有間の家と遠野の家は学校を挟んで正反対の場所にある。
有間の家は学校の裏側に、遠野の屋敷は学校の正門方向。
自然、明日からの登校口は裏門ではなく正門からになるだろう。
「ここの寂しい雰囲気、わりと好きだったんだけどな」
なぜかうちの高校の裏門は不人気で、利用しているのは自分をふくめて十人たらずしかいない。
そのせいか、裏庭は朝夕問わずに静かな、人気のない場所になっている。
かーん、かか、かーん。
……だからだろうか。
小鳥のさえずりに混ざって、トンカチの音まで確かに聞き取れてしまうのは。
「トンカチの音か―――って、え……?」
かーん、か、かかーん、かっこん。
半端にリズミカルなとんかちの音がする。方角からして中庭のあたりからだろうか。
「………………」
なんだろう。
ホームルームまであと十分ない。
寄り道はできないのだが、なんだか気になる。
ここは――
ホームルームまであと数分。今は教室に直行するべきだ。
いつもより何分か余裕をもって教室に到着した。「―――ふう」
軽く深呼吸をして、窓際にある自分の机へと歩いていく。
と。
「おはよう遠野くん」
なんて、聞きなれない声で挨拶をされてしまった。
「―――え?」
戸惑いながら振りかえる。
「遠野くん、さっき先生が捜してたよ。なんかお家のことで話があるとか言ってたけど」
「……ふうん。家の事って、引っ越しについてかな」
……住所移転の手続きは昨日すませたはずだけど、なにか不備でもあったんだろうか。
「―――――」
クラスメイトの女生徒は立ち去るわけでもなく、じっとこっちの顔を見つめてくる。
「えっと……おはよう、弓塚」
「うん、おはよう遠野くん。わたしの名前、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
ホッとしたように吐息をもらして、彼女―――弓塚さつきは淡く微笑んだ。
「クラスメイトの名前ぐらいは覚えているよ。その、弓塚さんとはあんまり話をしたことはなかったけど」
「そうだよね。うん、だからわたし、遠野くんに話しかけるのはちょっと不安だったんだ」
言って、また弓塚は笑った。
なんだかひどく喜んでいるような、そんな素振りをしている。
「………………」
何か他に用件があるのか、弓塚はじっとこちらを見つめている。
……正直に言って、俺は彼女とはあまり親しくない。二年になって同じクラスになったものの、今までかわした言葉なんて数える程度のものだ。
ただ、弓塚さつきはクラスの中でも中心的な生徒だった。
クラスの男子のほとんどは弓塚に熱をあげているという話だし、女子の間でも悪い噂が流れないっていう、典型的なアイドルだ。
自然、弓塚のまわりにはいつも人だかりができてしまって、あまり社交性をもっていない俺はとは正反対の生徒だと思う。
こっちが『弓塚さつき』という名前を覚えている事はあっても、弓塚のほうは『遠野志貴』なんていうクラスメイトの名前を覚えているはずがないんだけど、どうも今日は厄介な偶然が働いたらしい。
「遠野くん。その、ちょっと聞いていいかな」
「はあ、俺に答えられる事ならいくらでもどうぞ」「うん……その、こみいったコトならごめんね。その、いま引っ越しって言ったけど、遠野くんどこかに引っ越しちゃうの……?」
言いにくそうに弓塚は語尾を濁らせる。
重ねられた両手も、モジモジとせわしなく動いていたりする。
「急な話だけど、もしかして転校とか、するの?」
「ああ、違う違う。住所が変わるだけで学校は変わらないよ。引っ越し先もこの街だし、そんなに大した事じゃないんだ」
「そう――――よかった」
ほう、と弓塚は胸を撫で下ろす。
「……?」
不思議だ。どうして彼女が俺の引っ越し一つでそんなリアクションをするんだろう……?
「でも遠野くん、お家が変わるっていう事は、もしかして有間さんのお家から出ることになったの?」「ああ、名残は惜しいけどいつまでもお世話になってるわけにもいかないし―――」
……あれ?
どうして弓塚がそんなコトを知ってるんだろう? 遠野志貴が有間さんの家に世話になっているという事は、この高校じゃアイツ以外誰も知らないと思ったけど―――
「いよぉう、遠野!」
と。突然、教室のドアから世間体を気にしない大声が聞こえてきた。
タイムリーな事に、中学時代からの友人であるアイツがやってきたみたいだ。
「おっ、弓塚じゃんか。珍しいな、オマエと遠野が話してるなんて」
「……おはよう、乾くん」
元気のない声で言って、弓塚はそのまま俯いてしまった。
……まあ、こいつに真っ向から話しかけられて元気に返事ができるキャラクターじゃないな、弓塚は。
「にしても、朝っぱらから女ひっかけてるなんてどういう風の吹き回しだよ。遠野、女にあんまり興味ないんじゃなかったっけ?」
有彦は大声で、中々に愉快なコトを発言してくれる。
「バカ、あんまり人聞きの悪いこと言うな。俺はいたって普通の、ちゃんと女の子に興味もある男の子だよ」
「そっかそっか、そりゃあよかった! ま、今どきはノーマルな性癖よりアブノーマルな性癖のほうが女どもにはウケるんだけどな。
もっともウケるだけでその後には続かねえけどさ!」
あはははは、と朝っぱらから底抜けに陽気な笑い声が教室に響きわたる。
……はあ。
毎回思うんだけど、どうして俺はこいつと知り合いだったりするんだろう。
オレンジ色に染めた髪、耳元のピアス。
いつでもだれでもケンカ上等、といった目付きの悪さと反社会的な服装。
進学校であるうちの高校の中、ただ一人とんがっている自由気ままなアウトロー。
それがこの男、乾有彦(いぬい ありひこ)くんである。
「ったく、朝っぱらからうるさいヤツだなオマエは。こっちは色々と込みいっててブルー入ってるんだから、今日一日は近寄らないでくれ」
しっしっ、と手をふって有彦を追い払う。
「ブルー入ってるって、どした遠野。あの日か?」
「―――いや、言い間違えた。今日一日といわず、この先一生近寄らないでくれ。おまえといると掛け算で憂鬱が増していきそうだ」
有彦を無視して自分の机に移動する。
鞄を置いて、椅子に座って、はあ、と大きく背伸びをした。
「あのな、遠野。あんまし人のこと無視しちゃいけないぞ。無関心は時に人のココロを傷つけるのだ」「へえ、そりゃあ初耳。じゃあさ、傷つけるなんて言わず、いっそ即死させられる方法ってないか? 教えてくれたらお礼にその場で試してみるから」
「……ひどいな遠野。なんかいつになくキツイんじゃない、今朝は?」
「ブルー入ってるって言ったろ。他のヤツにはともかく、オマエにだけは優しくしてやる余裕がないんだ」
「……はあ。どうしてかな、遠野ってばオレにだけ冷たいよな。他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平だ」
「なんだ、わかってるじゃないか有彦。世の中、公平な事ってあんまりないよ」
「……やっぱり遠野はオレにだけ冷たいよなあ」
大げさにため息をつく有彦。
別段こっちとしても有彦に冷たくあたっているわけではなくて、なんというか、コイツとはこういう関係になってしまうのだ。
「―――で、有彦。普段は二時限目から出席する夜型人間のおまえがホームルームに顔を出すなんて、どんな風の吹き回しだ。ちょっと、いやかなり普通じゃないぞ」
「あはは、俺だってそう思う。たまに早起きしたからって門限守って来るもんじゃないよな、学校ってヤツは」
「……おまえの趣味には口を出さないから同意はしないよ。俺が聞きたいのはおまえが早起きしてる理由だけだから」
「早起きの理由……? そうだな、最近はなにかと物騒だから夜遊びできないじゃん? だから必然的に夜中に眠ってしまうワケですよ。
遠野だって知ってるだろ、ここんところ連続している通り魔事件の話」
「―――そっか。そういえばそんな話もあったっけ」
有彦に言われて思い出した。
少し反省。
ここ二三日、遠野の家に戻る戻らないで悩んでいたため、世間のニュースにはまったく疎くなっていた。
「なんだっけ、すごく低俗な売り文句だったよな。連続猟奇殺人事件、とか」
「それだけじゃないぜ。被害者はみんな若い女で、二日前に八人目の被害者がでてる。かつ、その全員が―――なんだっけ?」
うむ?と首をかしげる有彦。
「………………」
コイツに聞いた自分が浅はかだったみたいだ。
「ああ、思い出した! 被害者全員がバラバラ死体で、アソートを作れるんだとかどうとか!」
「……違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、でしょう?」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見出しだったもんな、アレ」
「ふうん。詳しいんだね、弓塚さん」
「そんなコトないよ。この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」
……そうだったのか。
たしか隣の街で起きてる事件だと思ったけど、いつのまにかこの街に移り変わっていたんだ。
「――とまあ、そういうコトだよ遠野。いくらオレでもね、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びはしない。そういうわけで最近はまじめに朝七時に目を覚ましているのだ」
「……なんだ、そんな理由だったのか。まともすぎてつまらないな」
「なんだよ、つれないな。さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか?」
「いや、今朝はまだ大丈夫。心配してくれるのはありがたいんだけどね、そう四六時中貧血を起こしてたら体がもたないよ」
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫だっていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
―――と。
朝のお喋りをさえぎるように予鈴が鳴り響いた。
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻れ」
あいよ、と返事をして有彦は自分の席に戻っていく。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ―――うん、弓塚さんも、付き合わせて悪かったね」
たったった、と軽い足取りで弓塚さんも席に戻っていった。
二時限目の授業が終わった。
担任でもある数学の教師は、
「遠野、書類の書き漏らしがあるそうだから事務室に行ってきなさい」
と去り際に伝えてきた。
すぐに済むらしいので、三時限目が始まる前に事務室に行ってしまおう。
事務室は一階にある。
三階である二年の教室から離れているが、ダッシュで行けば三時限目が始まるまでに戻って来れるだろう。
―――走る。
―――走る。
―――はし――・
……!!??
ドン、という衝撃をうけて、床に尻餅をついた。 頭から何かにぶつかったのか、目がクラクラして周りがよく見えない。
「あ―――いたたた」
……すぐ近くから声が聞こえる。
聞いた事のない女性の声だ。
どうも、思いっきり誰かと正面衝突してしまったらしい。
「―――すみません、大丈夫ですか」
まだ満足に周りが見えてないけど、とにかくぶつかってしまった人に謝った。
「はい、わたしは大丈夫ですけど……そっちこそケガ、ないですか?」
丁寧な口調には、こっちを非難してくるような響きはまったくない。
この誰だか知らない相手は、本気でこっちの心配をしてくれているみたいだ。
「あ―――うん、俺も大丈夫だけど」
ふるふると頭をふって立ちあがる。
と、ようやくものがまともに見えるようになった。
「ほんとに大丈夫ですか? おでこなんか、ぷくっと腫れちゃってますけど」
「え―――?」
手で触れてみると、ずきん、と痛みが走った。
……この人の言うとおり、みごとに大きなたんこぶができているみたいだ。
「ごめんなさい、わたしがぼうっとしていたからぶつかってしまって。おでこ、痛いでしょう?」
申し訳なさそうに、女生徒は俺の顔を覗きこんでくる。
丁寧な口調だから一年生かなって思ったんだけど、リボンの色からするとこの人は三年生――つまり先輩だ。
「いえ―――いいんです、悪いのは俺のほうなんですから。こっちこそ先輩にぶつかってしまって、すみませんでした」
ぺこり、と頭をさげる。
「あ、そういえばそうですね。もうっ、ダメですよ廊下を走っちゃ。わたしみたいにぼーっと中庭を眺めていたりする人がいたりするんですから」
「はい、以後気をつけます。……それで先輩のほうは、その、ケガとかありませんか?」
「はい、おかげさまで転んじゃっただけです。遠野くん、わたしを避けようとして壁にぶつかってくれましたから」
「―――そうなのか。どうりでこう、いつまでたってもお星さまが飛んでるなって思った」
……というか、あの勢いで壁に頭をぶつけて、たんこぶぐらいですんだのはむしろラッキーだろう。
「……どうも、すみませんでした。でも、先輩も廊下でぼんやりしてちゃ危ないですよ」
「はい。これからは気をつけますね」
にっこり、と先輩は笑顔でうなずく。
「…………………」
なんていうか、すごくまっすぐな笑顔をする人だ。
「……えっと、それじゃあ、俺はこれで」
ズボンの埃をはたきながら、事務室へ歩き出そうとする。
けれどメガネの上級生はじーっと俺を見つめてきた。
「………………」
はて。そういえば、この先輩は誰だろう。
ぶつかってしまった事で混乱していたけど、冷静になってみるとこの人は美人だと思う。
これほどの美人なら、男子生徒の間で『三年にメガネの似合う美人がいる』なんて話が流れてきそうなものだけど。
「あの───俺、行きますから。先輩も教室に戻ったほうがいいと思いますよ。
あ、もし体がどっか痛むようだったらうちの教室にきてください。二年三組の遠野って言います。その、ケガの責任ぐらいはとりますから」
はい、と彼女は素直にうなずく。
……年上なのに、なんだか後輩を相手にしているみたいだった。
「それじゃあ、もし何かあるようでしたらお昼休みに教室にお邪魔しますね。けど志貴くん、急いでるからって廊下を走っちゃダメですよ」
「はい、わかりました。けど先輩も廊下でぼんやりしてちゃダメですよ」
そう返答して、手をあげて立ち去る。
────って、待った。
志貴くんって、俺は名前まで教えてない。
それに―――さっき、この先輩は俺の名前を当然のように口にしなかったっけ……?
「……あれ? 俺、先輩と前に会ったことあったっけ?」
先輩はええ!と驚いてから、ちょっといじけたように顔を曇らせる。
「ひどいですっ! 遠野くん、わたしのこと覚えてないんですね!」
「────?」
覚えてないって、いや、そんなコトはないと思う。これだけの美人と何かあったら、忘れるほうがどうかしてると思うんだけど……。
「………えっと………」
彼女はうらめしそうに下から覗き込んでくる。
その瞳には、たしかに覚えがあった……よう……、な。
……そういえば一度か二度、どこかで挨拶をかわした事があった……っけ?
「────シエル先輩、だっけ?」
恐る恐る彼女の名前を口にした。
「はい、覚えていてくれてよかった。遠野くん、ぽーっとしてて忘れてそうだったから」
……ぽーっとしているつもりはないけど、事実忘れていたんだから仕方がない。
「それじゃあまた。お昼休みにまた会いましょう」 シエル先輩はもう一度ペコリとおじぎをする。
それをぼんやりと眺めてから、どこか合点のいかない心持ちで廊下を歩きだした。
昼休みになった。
さて、どこで昼食をとろうか。
食堂に食べに行く。
食堂はいつも通り混雑していて、注文待ちに十分の行列ができていた。
食券を握り締めて並んでいる生徒たちを眺めながら、有彦とテーブルに座る。
「それで有彦。特別ゲストって誰?」
「うっ……おかしいな、食堂で待ち合わせだったんだが。ちょっと待っててくれ、様子を見てくる」
有彦はカレーうどんを残して走り去っていく。
「…………」
こっちのメニューは力うどんだ。
麺がのびる前に帰ってきてくれればいいんだけど。
「だめだ、先輩どっか行っちまったらしい」
「? ゲストって上級生だったのか?」
「ああ、かなり面白い人でさ、ここ数日アタックしてようやく昼食を一緒に食べてくれるってコトになったんだけどな。なんか、今日は『お礼をしたい人がいるから捜しているんです』って学校中を走り回っているらしい」
「―――はあ。忙しい人みたいだね、どうも」
「ああ。なんていうか、チョロQみたいな人なんだ」
有彦は残念そうに割り箸を割る。
「ま、仕方ねえわな。それじゃあいただきます」
「はい、いただきます」
二人そろって、ずぞぞ、とうどんを食べ始めた。
……ところで、チョロQってなんだろう?
「でさ。本当のところ、どうなんだよ」
「んー? どうってなにが?」
「今日おまえが朝から教室にいた理由。早起きしたからって学校に来るほどロマンチストじゃないだろ、有彦くんは」
力うどんを食べながら、横に座っている有彦に問いかける。
有彦はうむ、とつまらなそうに答えて、カレーうどんの汁をすすった。
「遠野は今日から実家に戻るのか?」
「そうだけど……あれ、その話したっけ?」
「してない。オレは担任から、きいただけ」
こっちの目を見ようともしないで、有彦はカレーうどんを食べ続けている。
「それで、だな。遠野がブルー入ってないか、ちょっと確認しようと思った」
「……そうか。それで成果は?」
「早起きするほど面白い見せ物ではなかったんで、がっかりしたかな、と」
「まったく。有彦はひま人だな」
言い捨てて、力うどんの肝ともいえる白いお餅を噛み切った。
……つまり、有彦はこういうヤツなのである。
俺は今日から預けられていた親戚の家から、実の両親の家に戻る事になっている。
その話をどこからか聞き付けた有彦は、俺がまいっているんじゃないかと心配になって、朝早くから学校に来ていたのだろう。
「……有彦、君は外見で損をしてると思うぞ。実際ナイーヴでセンチメンタルなヤツだよ、君」
「ひひひ、いつもメランコリックな遠野に言われたらオレも本物か」
ぞぞ、と音をたててうどんの麺をすする有彦。
「―――で。遠野はどうなのよ、実際」
「どうってなにが」
「おまえ、小学校から有間の家に預けられてたんだろ? どんな理由でか知らないが、それから八年も経つんだ。なんで今になって勘当してた息子を呼び戻すんだろうかな、キミの父親は」
「勘当されてたわけじゃないよ。なんとなく屋敷から追い出されただけなんだ」
「遠野くん。なんとなくで子供を家から追い出すような家庭があったら、それはすでに悲劇ではなく笑い話だ。オー、イッツパーティージョーク。しかし寒すぎて笑え、ナイ」
有彦は大げさに両手を広げて肩をすくめる。
どんな時でも深刻にならないのが有彦のわかりやすい特徴だ。
「……そうだな。たしかになんとなくで家から追い出されたら、そりゃあ笑うしかないだろうね」
「だろう? おまけに二度と敷居は跨ぐなっていう決め台詞まで言われたんだろう? 世間さまではそーゆーのは勘当というんだぞ。
今まで聞かなかったけどな、おまえはどうして勘当されたんだ」
「……………」
……………さあ。
そんな事、こっちが聞きたいぐらいだ。
「ま、話したくないなら、いい」
有彦はどんぶりを両手でもって、ぐびぐびと熱いカレースープを飲み干していく。
休み時間は短い。
有彦の早食いを見習って、こっちもぐびぐびと力うどんを平らげる事にした。
一日の授業がすべて終わって、放課後になった。
すぐさま屋敷に帰る気になれず、ぼんやりと窓越しに校庭を眺める。
教室は夕焼けのオレンジ色で染め上げられている。
水彩の赤絵の具に濡れたような色をしていて、目に痛い。
……朱色は苦手だ。
眼球の奥に染み込んできそうで、吐き気がする。
どうも、自分は血を連想させる物に弱い体質であるらしい。
いや、正確には血に弱い体質になってしまった、というべきかもしれない。
八年前、遠野志貴は死ぬような目にあったという。
それはものすごい大事故で、偶然いあわせた自分は胸に傷をおってしまい、何日か生死の境をさまよったとの事だ。
本来なら即死していてもおかしくない傷だったらしいのだけど、医師の対応がよかったのか奇跡的に命を取り留めたという。
当人である俺自身は、その時の傷があんまりにも重すぎてよく覚えてはいない。
八年前の、子供のころ。
俺は突然胸のまんなかをドン、と貫かれて、そのまま意識を失った。
あとはただ苦しくて寒いだけの記憶しかなくて、気がつけば病院のベッドで目を覚ましたんだっけ。
事故のことはよく覚えてないけれど、今でも胸にはその時の傷跡が残っている。
なんでもガラスの破片が体に突きささってしまったとかで、胸の真ん中と背中には火傷の跡のような傷がある。
……ほんと、自分でもよく助かったもんだと呆れてしまう。
以来、俺は頻繁に貧血に似た眩暈をおこしては倒れこんでしまって、まわりに迷惑をかけまくってしまった。
……父親が遠野家の跡取りとして不適合だ、と自分を分家筋の家に預けたのはそれが理由なのかもしれない。
「……胸の、傷、か」
制服に隠れて見えない、胸の真ん中にある大きな傷跡。
考えてみれば、あの事故の後に自分はあの『線』が見えてしまう体質になってしまった。
今では先生がくれたメガネのおかげで忘れてしまえるけれど、先生と出会えなかったらとうの昔に、この頭はイカレてしまっていたと思う。
啓子さん―――今まで母親だった人は、別れ際に遠野の屋敷はマトモじゃないと言っていた。
「……なんてことはないよな。俺のほうこそマトモじゃないんだから」
ズレかけたメガネを直して、鞄を手に取る。
いつまでも教室に残っているわけにもいかない。
さて――
いいかげん覚悟をきめて、屋敷に帰ることにしよう。
「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね」
ばいばい、と笑顔で手をふって弓塚は別の道へ歩いていった。
いつもとは違う帰り道を歩く。
見知らぬ道を通り抜けて、段々と遠野の屋敷へ近付いていく。
まわりの風景は、知らない風景ではなかった。
少なくとも自分は八年前───九歳まで遠野の屋敷で暮らしていたから、屋敷へ帰る道は初めてというわけでもないのだ。
……少しだけ気持ちは複雑だ。
この帰り道は懐かしくて、新鮮でもある。
さっきまで遠野の家に戻るのは気が進まなかったっていうのに、今はそれほどイヤでもなくなっている。
……遠野志貴が九歳まで暮らしていた家。
そこにあるのは日本じゃ場違いな洋館で、今は妹の秋葉が残っているという話だ。
俺を嫌っていた父親───遠野家の当主である遠野槙久は、先日他界したという。
母親は秋葉が生まれた時に病死してしまっていたから、遠野の人間は自分と、妹である秋葉の二人きりになってしまった。
本来なら長男である自分───遠野志貴が遠野家の跡取りになるのだろうけれど、自分にはそんな権利はない。
遠野家の跡取りになる、という事はがんじがらめの教育を受けるという事だ。
それがイヤで自由に暮らしていて、父親から何度小言を言われたかわからない。
そんな折、俺は事故に巻き込まれて病弱な体になってしまい、父親はこれ幸いにと俺を切り捨てた。 父親曰く『たとえ長男であろうと、いつ死ぬかわからない者を後継者にはできん』とかなんとか。
あいにく父親の予想を裏切って回復してしまったけれど、その頃には遠野家の跡取りは妹の秋葉に決められていた。
それまで遠野の娘に相応しいように、と厳格に育てられていた秋葉は、それからよけい厳しく育てられたらしい。
昔───事故に巻き込まれるまでは一緒に屋敷の庭で遊んだ秋葉とは、あれからまったく会っていない。
有間の家に預けられた当初、秋葉は何度か訪ねにきてくれたらしい。
あいにくとこっちは病院通いの毎日で会う事もできず、秋葉が全寮制のお嬢様学校に進学してからはまったく連絡をとっていなかった。
自分は秋葉とは違い、本家から外れた人間だ。
だからこうして自由気ままな生活を送れている。 高校もあくまで平均的な進学校で、ここ八年ばかり妹との接点は皆無といってよかった。
父親が死んで、俺は屋敷に戻ってこいと連絡を受けた。
はっきりいって、いまさら遠野の家に戻るつもりなんて全然なかったんだ。
ただ、遠野の屋敷には秋葉がいる。
子供の頃。
秋葉は大人しくて、いつも何かを我慢しているように怯えていて、トコトコと足音をたてて俺の後についてきた。
長い黒髪と豪華な洋服のせいか、秋葉は本当にフランス人形のように儚げな少女だったっけ。
あの広い館で父親をなくして一人きりの秋葉が心配だったし、なにより────全ての責任をあいつに押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目もある。
今回の話を了承して屋敷に戻る事にしたのは、そんな秋葉に対する謝罪の意味もあったのかもしれない。
遠野の屋敷は不必要なまでに大きい。
鉄柵で囲まれた敷地の広さは異常とさえいっていい。なにしろ小学校ぐらいならグラウンドごと中に入ってしまうぐらいなんだから。
木々に囲まれた庭は、すでに庭というより森に近い。その森の中心に洋館があり、離れにはまだいくつかの屋敷がある。
子供のころは何も感じなかったけれど、八年間ほど一般家庭で暮らしてきた自分にとって、この大きさはすでに犯罪じみている。
門に鍵はかかっていない。
力任せに押しあけて、屋敷の玄関へと向かっていった。
屋敷の玄関は重苦しくそびえ、訪れる者を威圧している。
鉄でできた両開きの扉の横には、不釣り合いな呼び鈴があった。
「…………よし」
緊張を振り払って呼び鈴を押す。
ぴんぽーん、なんていう親しみのある音はしない。
重苦しい静寂が続くこと数秒。
扉の奥でぱたぱた、という慌ただしい人の気配がした。
「お待ちしておりました」
がちゃり、と扉が開く。
開いた先にあるのは見覚えのあるロビーと、割烹着を着た少女の姿だった。
「よかった。あんまりに遅いから迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ。日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかなって思ってたんですから」
割烹着なんていうアナクロなものを着込んだ少女はにこにこと笑っている。
「あ、いや───それは、その」
こちらはというと、少女のあまりに時代錯誤なカッコウに面食らってしまって、まともな言葉が口にできない。
おどおどとしたこっちの口調を不審に思ったのか、少女はかすかに首をかしげた。
「志貴さま、ですよね?」
「え───ああ。さまっていうのは、その、余計だけど」
「ですよね? もう、脅かさないでくださいっ。わたし、また間違えちゃったかなって恐くなったじゃないですか」
少女はめっ、と母親が子供をしかるような仕草をした。
だっていうのに顔は微笑んでいて、少女はともかく暖かい雰囲気を崩さない。
……着物に割烹着。
客を出迎えにきて、俺なんかのことを『さま』づけで呼ぶ。
ということは、この子は────
「えっと、その───君、もしかしてここのお手伝いさん?」
こちらの質問に少女は微笑みだけで答えた。
「さ、お疲れでしょう? 遠慮せずにあがってくださいな。居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから」
少女はさっさとロビーを横切って居間へと歩いていく。
と、思い出したようにくるりと振り返ると、満面の笑みをうかべてお辞儀をした。
「お帰りなさい志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
少女の挨拶は、本当に華のような笑顔だった。
それに何ひとつ気のきいた言葉も返せず、おずおずと彼女の後についていった。
少女に案内されて居間へ移動する。
───居間は、初めて見るような気がした。
八年前の事で覚えていないのか、それともあれから内装を変えでもしたのか。
とにかく他人の家のようで落ち着かない。
きょろきょろと居間の様子を見回していると、割烹着のお手伝いさんがペコリと頭をさげていた。
「志貴さまをお連れしました」
「ごくろうさま。厨房に戻っていいわよ、琥珀」
「はい」
お手伝いさんはコハク、という名前らしい。
琥珀さんはそれでは、とこっちにも小さくおじぎをして居間から出ていく。
残されたのは自分と───見覚えのない、二人の少女だけだった。
「お久しぶりですね、兄さん」
長い黒髪の少女は凛とした眼差しのまま、そんな言葉を口にした。
……はっきりいって、思考は完っ全に停止してしまっている。
真っ白な頭はろくに挨拶もできず、ああ、とうなずく事しかできない。
……だって、そりゃあ仕方ないと思う。
八年ぶりに見た秋葉は、こちらの記憶にある秋葉ではなく、まるっきり良家のお嬢様と化していたんだから。
「兄さん?」
黒髪の少女はかすかに首をかしげる。
「あ────いや」
情けないことに間の抜けた言葉しか言えない。
こっちは目前の少女を秋葉と認識するために頭脳をフル回転させてるっていうのに、秋葉のほうはとっくに俺を兄と認識出来てしまっているようだ。
「なにか気分が悪そうですね。お話の前にお休みになりますか?」
秋葉はじろりとした視線を向けてくる。
……なんだか、すごく不機嫌そうに見えるのは気のせいなんだろうか。
「……いや、別に気分は悪くない。ただその、秋葉があんまりにも変わってたんで、びっくりしただけなんだ」
「八年も経てば変わります。ただでさえ私たちは成長期だったんですから。
――――それともいつまでも以前のままだと思っていたんですか、兄さんは」
……なんだろう。秋葉の言葉は、なんとなく棘があるような気がする。
「いや、それにしたって秋葉は変わったよ。昔より格段に美人になった」
お世辞ではなく素直に感想をもらす。
────と。
「ええ。ですが、兄さんは以前とあまり変わりませんね」
なんて、瞳を閉じたまま秋葉は冷たく言い切った。
「………………」
……まあ、それなりに覚悟はしていたけど。
やはり秋葉は俺の事をよく思っていてはくれなかったみたいだ。
「体調がいいなら話をすませましょうか。兄さん、詳しい事情は聞いてないんでしょう?」
「詳しい事情もなにも、突然屋敷に帰ってこいって事だけしか聞いてない。親父が亡くなったっていうのは新聞で知ったけど」
……一企業のトップに立っていた人物が亡くなれば、それぐらい経済新聞で取りあげられる。
遠野槙久の訃報は、彼の葬式が終わった後に新聞づてで息子である遠野志貴に届けられた。
親戚から報せなんてなくても、勘当された息子は一部百円のペーパーで親の死亡を知ることができた。
皮肉な話だけれど、本当に便利な世の中になったもんだ。
「……申し訳ありません。お父さまの事を兄さんに報せなかったのはこちらの失策でした」
秋葉は静かに頭をさげる。
「いいよ。どのみち俺が行ったって死人が生き返るわけでもないし。秋葉が気にする事じゃない」
「……ごめんなさい。そういってもらえると少しは気が楽になるわ」
秋葉は深刻な顔をするけど、そんなのは本当にどうでもいい話だった。
葬式というものは故人に対して感情を断ち切れない人達が、その感情を断ち切るために行う儀式だ。とうの昔に感情を断ってきた自分とあの父親の場合、葬式の必要はないと思う。
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の意向です。いつまでも遠野の長男が有間の家に預けられているのはおかしいでしょう?
お父さまが亡くなられた以上、遠野の血筋は私と兄さんだけです。お父さまがどのようなお考えで兄さんを有間の家に預けたかは分かりませんが、そのお父さまもすでに他界なさった身。
ですからこれ以上兄さんが有間の家に預けられる必要はなくなったので、こちらに戻ってもらう事にしたんです」
「……まあいいけど、そんなんでよく親戚の連中が納得したな。俺を有間の家に預けろって言い出したの、たしか親戚の人たちじゃなかったっけ?」
「そうですね。けれど今の遠野の当主は私です。親戚の方達の進言はすべて却下しました。
「兄さんにはこれからここで暮らしてもらいたいのですけど、ここにはここの規律があります。今までのような無作法はさけていただきますから、そのつもりで」
「はは、そりゃあ無理だよ秋葉。いまさら俺がお行儀いい人間に戻れるわけないし、戻ろうって気もないんだから」
「できる範囲でけっこうですから努力してください。それとも───私にできた事が兄さんにはできない、とおっしゃるんですか?」
じろり、と秋葉は冷たい視線を向けてくる。
なんだか無言で、八年間もここに置き去りにしてきた恨みをぶつけられている気がする。
「……オーケー、わかった。なんとか努力はしてみる」
秋葉はじーっ、と信用できなさそうに睨んでくる。
「努力する必要はありません。結果を出していただければそれで結構です」
凛、とした姿勢のまま、秋葉は容赦のない言葉を繰り出してくる。
「話を戻しますね。
現在、遠野の家には兄さんと私しか住んでいません。わずらわしいのはイヤなので人払いをしたんです」
「え? ちょっと待てよ秋葉、人払いっておまえ───」
「兄さんだって親戚の人達と屋敷の中で会うのはイヤでしょう? 使用人も大部分に暇をだしましたけど、私と兄さん付きの者は残してありますから問題はありません」
「いや、問題ないって秋葉。そんな勝手な事しちゃ親戚会議でたたかれるじゃないか!」
「もう、つべこべ言わないでください。兄さんだって屋敷の中に人が溢れかえっているより、私たちしかいないほうが気分は楽でしょう?」
……う。
まあ、それは本当に気が楽になるんだけど。
「だけど当主になったばかりの秋葉が、その、そんな暴君みたいなワガママを通したら親戚の連中が黙っていないんじゃないか? 親父だって親戚の意見には逆らわなかったじゃないか」
「そうですね。だからお父さまは兄さんを有間の家に預けたんです。けど私、子供の頃からあの人達が大っ嫌いでしたから。これ以上あの方達の小言を聞くのは御免です」
「ゴメンですって、秋葉───」
「ああもう、いいから私の心配なんかしなくていいの! 兄さんはこれからのご自分の生活を気に病んでください。色々大変になるって目に見えてるんだから」
秋葉は少しだけ俺から視線をそらして、不機嫌そうにそう言った。
「それじゃあ、これからは分からない事があったらこの子にいいつけて。────翡翠」
秋葉は傍らに立っていた少女にめくばせする。
ひすい、と呼ばれた少女は無表情のままペコリとお辞儀をした。
「この子は翡翠。これから兄さん付きの侍女にしますけど、よろしいですね?」
────────え?
「ちょっ、侍女って、つまり、その」
「分かりやすくいうと召使い、という事です」
秋葉は当たり前のように、きっぱりと言い切った。
……信じられない。
洋館に相応しく、メイド服を着込んだ少女は秋葉同様、そうしているのが当然のように立っていた。
「───ちょっと待ってくれ。子供じゃあるまいし侍女なんて必要ないよ。自分のことぐらい自分で面倒みれるから」
「食事の支度や着物の洗濯も、ですか?」
うっ。
秋葉の指摘は、カナリ鋭い。
「ともかくこの屋敷に戻ってこられた以上は私の指示に従ってもらいます。有間の家ではどう暮らしていたかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすんです。それ相応の待遇は当然と受け入れてください」
「う………」
言葉もなく、翡翠に視線を泳がす。
翡翠はやはり無表情で、ただ人形のようにこちらを見つめ返してくるだけだった。
「それじゃ翡翠、兄さんを部屋に案内してあげて」「はい、お嬢さま」
翡翠は影のような気配のなさでこっちへ歩いてくる。
「それではお部屋にご案内します、志貴さま」
翡翠はロビーへ向かう。
「……はあ」
ため息をつきながら、こっちもロビーへ歩きだした。
ロビーに出た。
この洋館はロビーを中心にして東館と西館に分かれている。
ロビーが鳥の胴体、東と西の館が鳥の翼のように斜めに伸びていて、片翼───つまり一方の館の大きさは小さな病院なみだ。
作りは左右対称で、東館も西館も同じ間取りをしていたと記憶している。
「志貴さまのお部屋はこちらです」
翡翠は階段をあがっていく。
どうやら遠野志貴の部屋は二階にあるみたいだ。
……そういえば、使用人の部屋は一階の西館にあったはずだから、翡翠と琥珀さんの部屋は一階にあるのだろう。
外はすでに日が落ちている。
ぼんやりと電灯の点った長い廊下を、メイド服の女の子が無言で歩いている。
「……なんか、おとぎの国みたいだ」
思わずそんな感想を洩らす。
「志貴さま、何かおっしゃられましたか?」
立ち止まって振りかえる翡翠。
「いや、ただの独り言だから気にしないでくれ」
「……………」
翡翠はじっとこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。
「………………」
言葉を失う、というのはこういうコトだろうか。
翡翠に案内された部屋は、とても一介の高校生が住む部屋の作りをしていなかった。
「……俺の部屋って、ここ?」
「はい。ご不満がおありでしたら違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その――」
ちょっと、いやかなり立派すぎるかなって。
「志貴さま?」
「―――いいんだ、なんでもない。喜んでこの部屋を使わせてもらうよ」
「はい。お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合はないと思います」
「―――?」
翡翠の言い方は、ちょっとヘンだ。
それじゃあまるで、ここが俺の部屋だったみたいな言い方じゃないか。
「……ねえ。ここって、もしかして俺の部屋だったの?」
「そう伺っておりますが、違うのですか?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
……安心した。
この娘にも、それなりに感情表現というものがあるみたいだ。
「……まあ、言われてみればそうかもしれない。少しは覚えがあるし、きっとそうだったんだろう」
親近感はまったく湧かないけど、八年間も離れていればそんなものなのかもしれない。
「けど、やっぱり落ち着かないな。今朝まで六畳半の部屋で暮らしてたからさ、なんだか高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちはわかりますが、どうかお慣れください。志貴さまは今日から遠野家のご長男なのですから」
「そうだね。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ」
トン、と机に鞄を置いて背筋を伸ばす。
―――色々と神経がまいりそうだけど、たしかに今日から慣れていくしかないだろう。
「志貴さまのお荷物はすべて運び込みましたが、何か足りないものはありますか?」
「―――いや、別にないけど。どうしてそんな事を聞くの?」
「……いえ、荷物が少なすぎるようですから。必要なものがおありでしたら用意いたしますから、どうかお聞かせください」
「……そっか。いや、とりあえず足りないものなんてないよ。もともと荷物は少ないんだ。自分の荷物っていったら、その鞄とこのメガネと……」
鞄の中に入っている教科書とか、誰のものとも知らない白いリボンとか、それだけだ。
「ともかく、荷物のことは気にしないでいい。こんな立派な部屋だけで十分だよ、俺は」
「……かしこまりました。では、一時間後にお呼びにまいります」
「一時間後って、もしかして夕食?」
「はい。それまで、どうぞおくつろぎください」
翡翠はやっぱり無表情で言ってくる。
……しかし。おくつろぎくださいって言われても、ここでどうおくろつぎすればいいんだろう?
時計は夕方の六時をまわったあたり。
いつもなら居間にいってテレビでも見てる時間だけど、この屋敷にそんなものがあるかどうか真剣に疑わしい。
「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。この屋敷にテレビってあるの?」
「テレビ……ですか?」
翡翠はかすかに目を細める。
……なんていうか、自分で言っておいてなんだけど、ひどく頭が痛くなる質問だ。
これだけ贅沢な洋館において、テレビがあるかないかを訊ねるなんてどこか間違ってる気がする。
翡翠はめずらしく困ったような顔をして、視線を宙に泳がした。
「……居間にはありません。ご逗留の方々はご使用になってらっしゃいましたが、出立される時に荷物はすべてお持ち帰りいただきましたので残ってはいないと思います」
「ちょっと待った。逗留って、誰がどのくらいしてたんだ?」
「分家筋である久我峰さまのご長男のご家族、刀崎さまのご三女とその婚約者、軋間さまのご長男がご逗留なさっていました。期間は三年ほどです」
「……三年、か。翡翠、そういうのって逗留っていうんじゃなくて居候って言うんじゃない?」
翡翠は答えない。
居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
まあ、ともかく逗留していた親戚筋の連中は自分たちの荷物を持ちかえらされたという事らしい。
となると、あの現代的な文化ってモノを俗物的と毛嫌いしていた父親がテレビなんて観るはずもない。
父親のもとで八年間も躾けられた秋葉も同じだろう。
「───ま、ないからって別に死ぬわけでもないか」
翡翠は黙っている。
……使用人の鑑というか、翡翠は聞かれた事以外は何も喋らない。
当然、こっちとしては気が滅入る。
なんとかしてこの無表情な顔を笑わせてみたいと思うのだけど、どうも生半可な努力では不可能そうではある。
「いいや、たしか一階の西館のほうに書庫があったよね。暇なときはそこから何かみつくろう事にするよ」
翡翠は答えない。
ただ部屋の入り口に突っ立ったまま、どこを見ているんだかわからない眼差しをしている。
「───翡翠?」
翡翠はうんとも言わない。
と、突然まっすぐにこちらを見据えてきた。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は?」
いやもう、ワケがわからない。
「……えーっと。あるって、何が」
「ですからテレビです。以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がありますから」
翡翠はまるで数年前の出来事を思い出すように言った。
「ちょっと待って。姉さんって、もしかして琥珀さんのこと?」
「はい。現在、このお屋敷で働かせていただいている者はわたしと姉さんの二人きりです」
……言われてみればよく似てる。琥珀さんがニコニコしていて、翡翠が無表情だからなんとなく姉妹だって結びつかなかった。
「そっか。琥珀さんならたしかにバラエティー番組を観てそうなキャラクターだ」
しかし、かといって『テレビ観せてくれい』と琥珀さんの部屋に遊びに行くのも気がひける。
「ごめん、この話はなかった事にしてくれ。これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
それにテレビなんてものを観ていたら、秋葉にどんな皮肉を言われるかわかったもんじゃない。
ここは遠野家の人間に相応しい、勤勉な学生になりきろう。
「それじゃ夕食まで部屋にいるから、時間になったら呼びにきてくれ。翡翠だって他にやる事あるだろ?」
翡翠ははい、とうなずいて背中を向ける。
きい、と静かにドアが開かれて、翡翠は部屋から退室していった。
夕食は秋葉と顔を合わせてのものだった。
当然といえば当然の話なのだけど、翡翠と琥珀さんは俺たちの背後に立って世話をするだけで、一緒に夕食を食べる事はなかった。
……自分としては四人で食べるのが当たり前と思っていたので、この、なんともいえない緊張感がある夕食はまさに不意打ちだったといっていい。
言っておくと、遠野志貴は完っっ全にテーブルマナーなんてものは忘れていた。
いや、いちおう断片的には覚えていたから素人というわけではなかったけど、人間というものは使用しない記憶は徹底的に脳内の隅においやってしまう。
こっちの一挙一動のたびに向かい側に座った秋葉の眉がつりあがっていく様は、なかなかに緊張感があってスリリングだった。
……正直、これが毎日繰り返されるかと思うと、本当に気が重い。
夕食を終えて、自室に戻ってきた。
時刻はまだ夜の八時過ぎ。
眠るには早すぎるし、どうしようか。
琥珀さんの部屋にテレビを見にいこう。
見ろ、琥珀さんだって目を白黒させたまま呆れて―――ないや。
「あはは、そういえばそうですよね。志貴さまは昨日まで有間のお屋敷で暮らしていたんですもの。いきなりではこのお屋敷の空気は重かったでしょう?」
琥珀さんは陽気に笑いかけてくる。
「えっとですね……このコト、秋葉さまと翡翠ちゃんに話しちゃいました?」
「このコトって、琥珀さんの部屋に行くってこと?」
はい、と頷く琥珀さん。
「いや、誰にも話してないけど、それがどうしたんですか?」
「いえいえ、もしお話されていたら志貴さまを追い返さないといけないなって、そんな感じです」
笑顔のまま言って、琥珀さんはきょろきょろと廊下を見渡す。
「さいわいあたりに人影なし。ささ、見つかるとタイヘンですから早くあがってくださいな」
ぐっ、と琥珀さんはこっちの腕を掴む。
「えっ、ちょ、ちょっと琥珀さん……!」
「適当な所に座ってください。わたし、お茶を淹れてきますから」
「…………」
こほん、と咳払いをしてから座る。
琥珀さんの部屋はたくさんの小物がある。
女の子の部屋にしては散らかっている方なのかもしれない。可愛い、という小物はあんまりなくて、あるのはあまり役に立ちそうにない物ばかりだ。
……どっちかっていうと、整理整頓が好きな学者さんの部屋みたいな雰囲気がする。
色々とある雑多な品物。
その中にうずもれるようにテレビがあるのを発見した。
テーブルの上にはリモコンがある。……琥珀さんも、さっきまでテレビを見ていたのだろうか。
「はい、お待たせしました。お茶でいいですよね、志貴さま」
「あ、どうも。その、おかまいなく」
「いえいえ、こちらこそ気の利いたおもてなしは出来そうになくてすみません」
琥珀さんはニッコリとした笑顔で言う。
「テレビでしたね。志貴さまはこの時間、なにを観ているんですか?」
「とくに決まってないけど、基本的にはニュースかな。わりとミーハーでさ、スノッブな話が好きなんだ」
「そうなんですか。志貴さまは落ち着いていますから食後は読書をなさるのかな、なんて思ってたんですけど」
「あはは、そんな優雅な趣味はしてないよ。自分では落ち着いているって気もしないんだけど、メガネをかけてるとそういうイメージが先行するのかもしれないね」
「――あっ、志貴さまメガネをかけてたんですよね。秋葉さまは志貴さまがメガネをかけているなんて一言もおっしゃいませんでしたから、お迎えにあがった時はびっくりしました」
……そうか。このメガネをかけてから、秋葉には直接会ってはいないんだっけ。
「けど、このメガネは伊達メガネなんだ。目が悪いっていえば悪いんだけどね、視力は人よりいい方だと思う。別に勉強のしすぎで視力が落ちたわけじゃない……って、ああ、しまった。知的なイメージがあったのに、幻滅させた?」
「そんなことはないですよ。わたしだって本よりテレビのほうが楽しいですもの。志貴さまが思ったとおりの元気な方で、嬉しいです」
「あ……うん、どうも」
なんか、照れる。
琥珀さんは真正面から屈託のない笑顔を向けてきて、ついドキマギしてしまう。
「あ、ごめんなさい。ニュースを観にこられたんですよね、志貴さまは」
琥珀さんはテレビのスウィッチをオンにする。
時刻はすでに夜の九時。
ニュースはいつもどおりの、少し大げさな手振りで一日の事件を報道している。
「ありゃ。また通り魔殺人ですか」
琥珀さんはとなりに俺がいるのに、まったく気にした風もなく独り言を言う。
ニュースは、ちょうど連続通り魔殺人を特集していた。
となり街から始まった通り魔殺人は、現在この街で集中的に起こっている。
内容は単純なものだ。
深夜、出歩いている若い女性を無差別に拉致して殺害、最後に血液を抜き取る、なんていう真似をしている。
被害者は昨夜で九人目になってしまったらしい。
「お巡りさんは何をしているんでしょうね」
「どうだろう。深夜に通り魔が出てくるなら簡単に捕まえられそうなものだけど、犯人はものすごく周到なヤツで尻尾を出さないとか」
「そうかもしれませんね。殺人は数を重ねれば重ねるほど証拠を残してしまいますから。九人も殺されてしまっているのに犯人を捕まえられないなんて、よっぽど用意周到な犯人なんでしょう」
「用意周到な通り魔、か。けど、通り魔って突発的な犯罪じゃない? それが用意周到っていうのもおかしな話だけど」
「ですねー。一切の証拠が残らない時点で通り魔殺人ではないのかもしれません。はじめから綿密な計画のもとで犯人は犯行を重ねているとしか思えません」
「ああ、なるほどね。けどさ、それじゃあ殺された九人の女の子って何か意味があるのかな。友人とか、知り合いとか」
「うーん、ないんじゃないでしょうか。そんな繋がりがあったらお巡りさんも気がつくと思います。
結局のところ、これは目的や関連性のない、極めて理解不能の事件ですねー」
……琥珀さんは物騒な話題を笑顔で言う。
琥珀さんはこの事件にはあまり関心はないみたいだ。
「琥珀さん、これってこの街で起きてる事件なんだよ。琥珀さんだって若い女の人なんだから、少しは恐いって思うでしょう?」
「大丈夫ですよ。通り魔さんは深夜に出現するだけですから。夜は外に出なければ会うこともありません」
琥珀さんの考えは実にスッキリしている。
……そう割り切るには少し生々しすぎる気もするのだけど、確かにニュースで知る事件なんてのはそんなものかもしれない。
「お邪魔しました。また観たくなったらやってきますから、よろしく」
「はい、お待ちしております」
琥珀さんはきょろきょろと廊下を見渡す。
「このままお部屋までお送りしたいんですけど、志貴さまのお部屋には翡翠ちゃんが待ってますから、ここで失礼しますね」
「はい。それじゃ、おやすみなさい」
「……」
……屋敷の就寝時間が夜の十時なんて、知らなかった。
この屋敷では十時以降は部屋から出てはいけない、という暗黙のルールがあるらしい。
「親父がいなくなっても堅苦しいのは変わらないんだ」
ま、それも当然か。
こっちも慣れない屋敷の空気に疲れているし、大人しく部屋に戻ろう。
「あ―――――」
部屋に戻ってくると、ベッドメイクが済んでいた。……俺が留守の間に翡翠が済ませてくれたのだろう。
「嬉しいんだけど、なんか身に余るよな、こういうのって」
ぽりぽりと頬を掻く。
――――――――と。
「志貴さま、いらっしゃいますか?」
ノックと一緒に翡翠の声が聞こえてくる。
「いるよ。どうぞ、中にはいって」
「はい、それでは失礼します」
「こんばんは。ありがとう翡翠、ベッドメイクしておいてくれたんだろ」
はい、と静かにうなずく翡翠。
「…………う」
やっぱり、自分にはこういうのは似合わない。
「……えっと、何かな。他に伝言でもある?」
「いいえ、わたしからは何も。ですが秋葉さまから、もし志貴さまから何かあるようでしたらお答えするように、と」
「……そっか。 確かに聞きたい事だらけだけど、そんなのは暮らしていくうちに覚えていくもんだしな……」
うん。今すぐ、寝る前に知っておきたい事っていったら、それは――・
「それじゃ聞くけど、ここの門限が七時っていうのは本当?」
「はい。
正確には七時に正門を施錠して、八時に屋敷の出入り口をすべて施錠いたします。
午後十時を過ぎたあとは屋敷内の移動も控えていただくのが規則です」
「屋敷の中も出歩くなっていうのか? ……まあ文句はないけど、それって厳しすぎないか? 俺も秋葉も子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいと思うけど」
「……はい。ですが志貴さま、規則ですからこればかりはお守りください。近頃の夜は物騒だと志貴さまもご存知ではないのですか?」
……ああ、有彦がいっていた例の吸血鬼騒ぎか。
たしかにこの街で連続殺人が起きている以上、用心にこした事はないんだろう。
「あとは……そうだな、あまり関係ない話なんだけど、いいかい?」
「はい、なんでしょう」
「翡翠と琥珀さんがここでどんな仕事をしてるのか知りたいんだけど、どうかな」
「わたしが志貴さま付きで、姉の琥珀は秋葉お嬢さまのお世話をさせていただいています。
お二人が留守の間は屋敷の管理を任されていますが、それがなにか?」
「……お世話って、やっぱりそういうコトか」
がっくりと肩が重くなる。
秋葉は当然のように言っていたけど、こっちはあくまで普通の高校生だ。
同い年ぐらいの女の子に世話をしてもらうなんて趣味は、今のところありはしない。
「……志貴さま付きって事は、俺専用の使用人ってこと?」
「はい。なんなりと申し付けてください」
「……まあ、それはわかったよ。秋葉のあの言いぶりじゃ君を解雇させてくれそうにないし、大人しく世話してもらうけど───」
「何か、特別なご要望でもあるのですか?」
「特別ってわけじゃない。ただ、その志貴さまっていうのを止めてくれないか。正直いって、聞いてると背筋が寒くなる」
「ですが、志貴さまはわたしの主人です」
「だからそれがイヤなんだって言ってるんだ。俺は昨日まで普通に生きてた身なんだ。いまさら同い年ぐらいの女の子に様づけで呼ばれる生活なんてまっぴらだよ」
はあ、と翡翠は気のない返事をする。
「俺の事は志貴でいい。そのかわりに俺も翡翠って呼び捨てにするからさ。それと堅苦しいのもなしにしよう。もっと気軽に、気楽に行こうよ」
翡翠は無表情ながらも眉を下げて、なんだか困っているような素振りをする。
「ですが、あなたはわたしの雇い主ですから」
「俺が雇ってるわけじゃないだろ。翡翠は俺にできない事をやってくれるんだから、そっちのほうが偉いんだぞ」
はあ、と翡翠はまたも気のない返事をする。
……どうも一朝一夕でこの子に言い含めるのは無理のようだ。
「―――ともかくそういう事だから、俺に対してあんまりかたっくるしいのはナシにしてくれ。お姉さんの琥珀さんにも伝えてくれるとありがたい」
「はい。志貴さまがそうおっしゃるなら」
翡翠は無表情で頭をさげる。
ものの見事に、全然わかってない。
「それでは失礼します。今夜はこのままお休みください」
翡翠は一礼してドアのノブに手をかける。
────と、一つ聞き忘れていた。
「あ、ちょっと待った」
ドアに走り寄って、立ち去ろうとする翡翠の肩に手を置いた。
瞬間────翡翠の腕が、物凄い勢いで俺の腕を払った。
バシ、と音をたてて手がはたかれて、翡翠は逃げるように後退する。
「え────」
あんまりに突然のことで、そんな言葉しかだせない。
翡翠は無表情のまま、けれどたしかに、仇を見るような激しさでこちらを睨んでいる────
「えっと―――俺、なにかわるいことしちゃったかな」
「あ……」
「……申し訳、ございません……」
緊張のまじった翡翠の声。
「……体を触れられるのには、慣れていないのです。どうか、お許しください」
翡翠の肩はかすかに震えている。
なんだか、ものすごく悪いことをしてしまったような気がする。
「あ───うん、ごめん」
思わず謝った。
自分でもよくわからない。ただ翡翠が可哀相に思えて、ペコリと頭をさげていた。
「──────」
翡翠は何も言わない。
ただ、心なし視線が穏やかなものになった気がする。
「───志貴さまが謝られる事はありません。非があるのはわたしのほうです」
「いや、まあそうみたいなんだけど、なんとなく」 ぽりぽりと頭をかく。
翡翠はじっと俺の顔を見つめてから、一瞬だけ目を伏せた。
「その……ご用件はなんでしょうか、志貴さま」
そうだった。
部屋を立ち去る翡翠を呼び止めたのは聞きたい事があったからだ。
「いや、秋葉はどうしてるのか気になってさ。あいつ、全寮制の学校に行ってたんじゃなかったっけ?」
「志貴さま、それは中学校までの話です。秋葉さまは今年から特例として自宅からの登校を許可されていらっしゃいます」
「……えっと、つまりこの家から学校に行ってるってコト?」
「はい。ですが、今日のように夕方に帰られる事は稀です。秋葉さまは夕食の時間まで習い事がありますから、お帰りになられるのは決まって七時前です」
「習い事って―――それ、なに?」
「今日は木曜日ですのでヴァイオリンの稽古でした」
「────え」
「平日は夕食前には戻られますから、秋葉さまにお話があるのでしたら夕食後に姉さんに申し付けてください」
では、と翡翠は頭をさげてから部屋を出ていった。
「ヴァイオリンの、稽古」
なんだろう、それは。
どこかのお嬢様じゃあるまいし、なんだってそんな面倒なことを――・
「……って、どこかのお嬢様だったんだ、あいつ」
そう、そういえば遠野志貴の妹は遠野秋葉という、生粋のお嬢様だったっけ。
こっちの記憶の中じゃ秋葉は大人しくて、いつも不安げな瞳で俺のあとをついてくる一歳年下の妹だった。
子供の頃の秋葉は無口で、自分のやりたい事も口にだせないほど弱気で、いつも父親である遠野槙久に叱られないかっておどおどしていた線の細い女の子だったのに。
「───そうだよな。八年も経てば人間だってガラリと変わる」
自分が八年間で今の遠野志貴になったように、
秋葉もこの八年間で今の遠野秋葉になったんだろう。
―――八年間は、長い。
今までの人生の半分。
それも子供から大人になろうと成長しようとする一番大切な時期に、俺はこの屋敷にいなかった。
「……ごめんな、秋葉」
その八年間を一緒にいてやれたらどんなに良かったろう、と思えて。
知らず、そんな謝罪の言葉を呟いた。
ひとり残されて、ベッドに横になった。
八年ぶりの家。
八年ぶりの肉親。
なんだか、他人の家のように感じる自分。
「……はあ。これからどうなるんだろ、俺」
誰に聞かせるわけでもなくぼやいて、そのまま眠りへと落ちていった。
オーーーーーーーーーン。
―――波の音のように、何かの声が聞こえてくる。
オーーーーーーーーーン。
―――なにかの遠吠え。野犬にしては細く高い。
オーーーーーーーーーン。
―――鼓膜に響く。月にでも吠えているのか。
オーーーーーーーーーン。
―――厭なにおい。この獣の咆哮は、頭痛を招く。
オーーーーーーーーーン。
―――音はやまない。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン――――――――
「……ああ、やかましいっ!」
目が覚めた。
窓の外からはワンワンと犬の鳴き声が聞こえてくる。
時計は夜の十一時になったばかり。
近所迷惑どころの話じゃない。
「くそ、こんなんじゃ眠れやしないじゃないか」
犬の遠吠えは屋敷の塀の近くから聞こえてくる。
……このままじゃ眠れそうにない。
犬の遠吠えはまだ続いている。
このままじゃはっきりいって眠れない。
……眠れないけど、まあ、それは常人の神経のレヴェルの話。
「………………眠いので、パス」
シーツをかぶって、ベッドに横になる。
犬の遠吠えなんて、道を走る自動車の音だと思えばいい。
「………はあ」
今日はなんだか長い一日だった。
慣れない屋敷での夕食や秋葉たちとの会話で精神もつかれきってる。
その前には犬の遠吠えなんて、ただの雑音に他ならない。
目を閉じてしまえば、あとはゆるやかに眠りの中へと落ちていけた。
――――懐かしい、夢を見た。
八年前の夏の終わり。
大きなケガをして、誰も来ない病院にうつされて、先生に出会ったあと。
屋敷に帰ってきた自分は、そこで、知らない家に預けられるという事を、父親の口から聞いた。
ことは、すごくあっけなかった。
退院した次の日、自分は有間の家に行くことになったから。
それは、雲一つない青空だったのを、覚えている。
秋の始まり。
自分は手をひかれて遠野の屋敷を後にした。
けど、そのほんの少し前。
あの子が、大人たちの目を盗んで会いに来てくれた。
『ここを出る時、裏庭の木にきてください』
そう言われて、父親の目を盗んで裏庭に行った。
青い空。
どこまでも落ちていけそうな青い空の下、彼女は一人で待っていた。
自分が知るかぎり、あの子が屋敷から外に出たのは、これが初めてだった気がする。
『これ、持っていって』
言って、少女は自分の髪を留めていたリボンをほどいて手渡してくれた。
餞別だったのだろうけど、なにぶん子供だった自分は、嬉しいともかんじない。
……だって、リボンをもらって喜ぶ九歳の男の子はいないと思う。
『そのリボンお気に入りなの。だから、あとでちゃんと返してね』
けど、その言葉で、救われた。
返してね、と少女はいった。
帰ってきてね、と自分には聞こえた。
――――それだけで、よかった。
誰一人として見送りさえしてくれなかった最後の日。
今まで一度も話したことがなくっても、彼女がそう言ってくれたのが、嬉しかった。
―――けど、きっと返すよ、とは言えなかった。
こんな時にかぎって利口な自分は、もうこの屋敷に帰ってこれることはないって理解してしまっていたんだろう。
……交わした言葉は、ただそれだけ。
少女の氷のような目は、けど、どこか哀しかった。
時間だから、と玄関へと歩いていく。
少女は、やっぱり人形みたいに立ち尽くして、去り行く自分の姿を見つめていた。
あおいそら。
くもひとつない、それは、ある晴れた日の、とおいゆめ。
●『2/反転衝動U』
● 2days/October 22(Fri.)
「―――おはようございます」
……聞き慣れない声がする。
見ていた夢が急速に失われていって、現実に呼び起こそうとする声がする。
「朝です。お目覚めの時間です、志貴さま」
聞き慣れない声がする。
……だから、志貴さまはやめてくれないか。
そう言われると背筋が寒くなるって、昨日ちゃんと言ったっていうのに────
―――目が覚めた。
翡翠はベッドから離れたところで、なにかの彫像のように立ち尽くしている。
「ん…………」
寝ぼけ眼であたりを見渡す。
「おはようございます、志貴さま」
メイド服の少女がおじぎをする。
一瞬我が目を疑って、ようやく遠野志貴の現状を思い出した。
「……そっか。自分の家に戻ってきたんだっけ」
体を起こして部屋の様子を流し見る。
窓の外はいい天気だ。
夢の中で見たような、ぬけるような青い空。
「おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれて、ありがとう」
「そのようなお言葉は必要ありません。志貴さまをお起こしするのはわたしの責務ですから」
翡翠は淡々と、まったくの無表情で返答する。
「……はあ。どうしてそうかたっくるしいのかなあ、翡翠は」
本当にもったいない。
翡翠も琥珀さんの半分ぐらい明るければ、ものすごく可愛いと思うんだけど。
「志貴さま。なにかご用ですか?」
こっちの視線に気づいたのか、翡翠はまっすぐに見つめ返してくる。
「あ、いや、なんでもない。目が覚めてまっさきに翡翠の顔を見て、ここが遠野の屋敷なんだなって実感しただけで――――」
氷のような、翡翠の瞳。
それはついさっきまで見ていた、ゆめのなかの光景に酷似している――・
「―――――そう、か」
完全に思い出した。
あの日、去り際にリボンを渡してくれたのは、いつも窓から俺たちを眺めていた少女のほうだ。
それは、つまり――・
「翡翠……だったんだ」
「はい。何かおっしゃられましたか、志貴さま?」
「ああ……翡翠、覚えているかな。八年前、俺がここを出ていく時のことなんだけど」
「はい、それでしたら覚えております。ですが、それが何か?」
「え―――何かって、翡翠」
「申し訳ありませんが、志貴さまがお屋敷を後にしてから八年が経ちました。ですからあの頃の事をおっしゃられましても、わたしは克明にお答えできません」
「な―――――」
それは、あの時の約束なんて覚えていないっていう事なのか。
「翡翠―――リボンのこと、覚えてないのか」
「……リボン……ですか?」
なにか言いにくそうに俯いて、翡翠ははい、と断言する。
「……そっか。そうだよな、八年も前のことだもんな。……ごめん、なんでもないんだ。今のは忘れてくれ」
「………………………」
……約束は忘れられていた。
けど、それを恨むような気分でもない。
なにぶん子供のころの話だし、あの頃、あの約束のおかげで前向きに生きていこうって思えたのは本当のことなんだし。
「さてと、それじゃあ起きるとしますか。翡翠、いま何時だかわかる?」
「はい、朝の七時をすぎた頃です」
「オーケー、それなら少しは余裕があるかな」
うーん、と背を伸ばしてベッドから立ちあがる。
「お言葉ですが、あまりお時間はございません。このお屋敷から志貴さまの学校まで三十分ほどかかりますから、あと二十分ほどで朝食を召し上がっていただかないと」
「え―――そっか、ここ有間の家じゃないんだっけ!」
愕然とした。
慣れ親しんだ有間の家からだったら二十分ぐらいで学校に行けるんだけど、ここからだと近道さえ解らない。
「学校の制服はそちらにたたんであります。着替えが済みしだい居間においでください」
「くそ、どうせ起こしてくれるならもっと早く起こしてくれればいいのに……!」
自分勝手な独り言をいいながら、たたまれた学生服に手を伸ばす。
学校の制服はきちんとたたまれていて、シャツにはアイロンまでかけられている。
袖に腕を通すと、なんだか新品みたいに気持ちがよかった。
居間には秋葉と琥珀さんがくつろいでいた。
秋葉の制服は浅上女学院、という有名なお嬢様学園の物だろう。
二人はとっくに朝食をすませたのか、優雅に紅茶なんぞを飲んでいた。
琥珀さんに挨拶をする。
「おはよう琥珀さん。今朝はいい天気ですね」
「はい、おはようございます志貴さん」
ありきたりの朝の挨拶に、琥珀さんは満面の笑みを返してくる。
「昨夜はよくお眠りになられましたか? 慣れないお屋敷の夜でしたから、色々と不具合がないかって心配していたんですけど」
「ああ、とりあえず困るようなコトはないよ。これでも昔はここに住んでいたんだし、今はちゃんと気を配ってくれる琥珀さんがいるし」
「あら。お上手ですね、志貴さん」
「えっ? いや、たんに思ったことを口にしただけど……お上手って、なにが上手なんですか?」
琥珀さんは笑顔のままこっちを眺めているだけだ。
……なんていうか、そうまっすぐに見られると照れくさくて、視線をよそに移す。
―――と。
さっきから無言でこっちを見つめている、もう一つの視線に気がついた。
「あ……よお」
軽く手をあげて挨拶をする。
秋葉はじっとこっちを見つめてくる。……っていうか、睨んできてる。
「えっと、その……おはよう、秋葉」
「あら、無理に挨拶をしてくれなくてもいいのに。どうぞ、私のことは無視して結構です。兄さんは琥珀と楽しく朝を迎えたいみたいですから」
「うっ……」
秋葉の言葉はちくちくする。
……こっちだって別に秋葉のことを無視していたわけじゃなくて、ただ琥珀さんに挨拶をしただけなんだけど……。
「秋葉さま、あんまり志貴さんをいじめないであげてください。お時間もありませんし、志貴さんはまだ朝食を済ませていないんですから」
「朝食が済んでいないのは兄さんの起床が遅いからでしょう。朝があわただしくなるのは兄さんの自業自得です」
ふん、と鼻をならす秋葉。
……どうも、俺がこの時間にやってきた事に文句があるのにプラスして、秋葉に挨拶をしなかったのがダブルパンチで気に食わないみたいだ。
「……あの、琥珀さん。朝食って、俺の分はできてるんですか?」
「はい、食堂にご用意させていただきました。どうぞ、ゆっくり召し上がってくださいな」
「だめよ琥珀、そんなの無理にきまってるでしょう。もうこんな時間なんだから、兄さんに朝食を摂る時間なんてありません」
「あのな秋葉、まだ七時を過ぎたばかりなんだから、それぐらいの時間はあるよ。ここからうちの高校まで徒歩三十分ちょいなんだから、十分ぐらいゆっくりしてられるじゃないか」
「つまり朝食にかける時間は十分だけですか。おなかをすかせた犬じゃないんですから、朝食はゆっくりとってほしいですね」
「─────」
秋葉の言葉には、やっぱり棘がある。
「秋葉さま、そろそろお時間のほうも限界ですけど、よろしいんですか?」
「……わかってます。もうっ、初日からこれじゃ先が思いやられるじゃない」
ぶつぶつ、と文句らしきものを呟いて秋葉はソファーから立ちあがる。
「それでは、私は時間ですのでお先に失礼します。兄さんもお気をつけて勉学に励んでください」
秋葉はそのまま居間を後にした。
秋葉を玄関まで送るのか、琥珀さんも居間を後にする。
「勉学に励めって、秋葉」
……やっぱり親父の下で八年間もしつけられたからだろうか、細かいところで古くさいというか、礼儀ただしいというか。
「……まあ、言われなくても学校には行くけどさ」
ぽりぽり、と頬をかく。
去り際にみせた秋葉の顔はどうしてか胸をついて、朝から色々と注意されたことなんてどうでもよくなってしまった。
「そっか――――」
ぽん、と手を叩く。
さっきの秋葉の顔は、昔の秋葉にすごく似ていたから、俺はわけもなく目を奪われてしまったのだろう―――
琥珀さんが用意してくれた朝食を食べたあと、ロビーに出る。
と、ロビーには翡翠が鞄を持って待っていた。
「志貴さま、お時間はよろしいのですか?」
「ああ、こっから学校まで走れば二十分ないからね。いま七時半だろ、寄り道をしても間に合うよ」
こっちの説明に満足したのか、こくん、と翡翠は頷く。
「それでは、外までお見送りいたします」
「え―――あ、うん、どうも」
……やっぱり、自分付きの使用人というのはひどく照れくさい。
「あ、志貴さん! ちょっと待ってください!」
たたたっ、と琥珀さんが二階から降りてきた。
「……………………」
翡翠は琥珀さんがやってくると、すい、と身を引いて黙ってしまう。
「あれ、琥珀さんは秋葉と一緒じゃなかったの?」
「秋葉お嬢様はお車で学校に向かわれますから。今朝は志貴さんにお届け物があるので屋敷に残らさせていただいたんです」
「お届け物って、俺に?」
「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」
ニッコリと琥珀さんは笑顔をうかべる。
「え───? いや、俺は自分の荷物は全部持ってきたよ。もともとむこうで使ってたのは有間の家のものだったから、自分の物なんて着てる服ぐらいのものなんだけど……」
「そうなんですか? こちらが届けられたお荷物ですけど」
琥珀さんは二十センチほどの、細い木箱を手渡してくる。
重量はあまりない。
「───琥珀さん、俺はこんなの見た事もないんだけど」
「はあ。なんでも志貴さまのお父さまの遺品だそうですけど。志貴さんに譲られるようにって遺言があったとか」
「……あの親父が俺に?」
……それこそ実感がわかない。
八年前、俺をこの屋敷から追い出した親父がどうして俺に形見分けをするんだろう?
「まあいいや。琥珀さん、これ部屋に置いておいて」
「─────」
琥珀さんはじーっ、と興味深そうに木箱を見つめている。
なんだか玩具をほしがる子供みたいな仕草だ。
「じーーーーっ」
いや、子供そのものだ。
「……わかりました。中身が気になるんですね、琥珀さんは」
「いえ、そんなことないです。ただちょっと気になるなって」
………だから、十分気になってるじゃないか。
「なら開けてみましょう。せーのっ、はい」
スッ、と乾いた音をたてて木箱を開ける。
中には────十センチほどの、細い鉄の棒が入っていた。
「………鉄の棒………だ」
何の飾り気もない、使い込まれて手垢のついた鉄の棒。
……こんなガラクタが俺に対する形見分けとは、親父はよっぽど俺が気に食わなかったとみえる。
「───違います志貴さん。これ、果物ナイフですよ」
琥珀さんは鉄の棒を箱から取り出す。
「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じみたいです。せーの、はいっ」
パチン、と音がして棒から十センチほどの刃が飛び出す。
……なるほど、たしかにこれはナイフだ。
「ずいぶんと古いものみたいですけど、作りはしっかりしてますよ。裏に年号がかかれてます」
琥珀さんは刃をしまってからナイフを手渡してくる。
たしかに握りの下のほうに数字が刻まれていた。
七という漢字と、その後には夜という漢字。
「姉さん、これは年号じゃないわ。七つ夜って書かれているだけよ」
「っ!」
びっくりして振り返る。
と、今まで黙っていた翡翠が後ろからナイフを覗きこんでいた。
「び、びっくりしたあ……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくても、見たければ見せてあげるのに」
「あ―――――」
とたん、翡翠の頬がかすかに赤くなる。
「し、失礼しました。あの―――その短刀があまりにキレイでしたから、つい」
「キレイ? これ、キレイっていうかなあ。どっちかっていうとオンボロな感じだけど」
「――――そんな事はありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」
「……そうなの? 俺にはガラクタにしか見えないけど……」
翡翠があんまりにも強く断言するもんだから、こっちもその気になってきた。
……うん。これはこれで、形見としては悪くないのかもしれない。
「七つ夜……ですか。その果物ナイフの名前でしょうかね?」
「そうかもね。ナイフに名前を付けるなんてヤツはそういないと思うけど」
なんにせよ年代物という事ははっきりしている。
「ま、もらえる物はもらっとくのが俺の信条だし」
刃を収めて、ズボンのポケットにナイフを仕舞う。
「志貴さま。お時間はよろしいのですか……?」
「まずい、そろそろ行かないと間にあわないか。それじゃ琥珀さん、届け物ありがとうね」
いえいえ、と琥珀さんは笑顔で手をふった。
庭を抜けて門に出る。
翡翠は無言でしずしずと付いてきた。
「……翡翠。もしかして俺の見送り?」
はい、と 翡翠は無表情でうなずく。
「志貴さま。お帰りはいつごろでしょうか」
……翡翠はあくまで俺の名前にさまを付けたいらしい。
ここで話し込んで学校に遅刻するわけにもいかない。『さま』づけ論争に関しては時間がある時にするべきだろう。
「志貴さま?」
「あ、えーと、そうだな。四時あたりには帰ってこれると思うよ。俺は部活やってないから」
有彦と遊びにでかけなければ、まあ大体夕方には帰ってこれる。
こっちのいい加減な目算に翡翠は深々と頭をさげた。
「わかりました。では、行ってらっしゃいませ。どうか、道々お気をつけて」
……何をお気をつけてなのかは不明だけど、おそらくはこっちの体を気遣ってくれてるんだろう。
「ああ、サンキュ。翡翠も気をつけてな」
好意には好意で返すのは当たり前。
軽く手をあげて、翡翠に元気よく手をふってから屋敷の門を後にした。
───坂道を下っていく。
今まで有間の家から高校に通っていたから、この道順での登校は初めてだった。
「────あんまりいないな、うちの学生」
この周辺の家庭にはうちの高校に通っている人間は少ないようだ。
朝の七時半。
道を小走りで進んでいく学生服姿は自分しか見あたらない。
ちらほらと学生服をきた人影がまざってくる。
ここのあたりにくるとうちの学校の通学路になるのだろう。
「……弓塚さんは……ま、都合よくいないよな」
昨日、ここで『家がこっちだから』と別れたクラスメイトの笑顔を思い出す。
教室に行けば弓塚さつきがいると思ったとたん、心なしか足の進みが速くなった。
住宅地を抜けて交差点につく。
校門が閉まるまであと十分ほど。
遅刻しないようにとアスファルトの路面を駆け出した。
――――――到着。
屋敷から徒歩で三十分、というより二十分程度か。途中で何度か走ったから、ゆっくりしたいのなら七時すぎに屋敷を出る必要があるだろう。
「――――?」
教室に入るなり、空気がどこかあわだたしい事に気がついた。
朝の教室はいつも騒がしいけど、今日の騒がしさはどこか毛色が違う気がする。
窓際の自分の机まで歩いていく。
そこには仏頂面をした有彦が待っていた。
「有彦、なにかあったのか?」
「……さあね。別にたいした事じゃない。たんにうちのクラスの誰かが家出したってだけの話だ」
「そっか、どうりで騒がしいはずだ」
自分の机に座って、ふう、と一呼吸つく。
「―――って、そりゃ大事じゃないか! 誰が家出したんだよ、誰が!」
「そんなの俺が知るか。朝のホームルームが始まればイヤでもわかるだろ。家出したヤツは学校には来ないだろうから、空いてる席が家出をしたヤツだ」
「ああ、そりゃ納得」
納得だけど、有彦の態度はいつになくドライだ。
……クラスメイトが家出したっていうのに、まるで他人事みたいに無関心なのは問題があると思う。
「有彦。おまえ、ひどく無関心じゃないか。クラスメイトが家出したんだぞ。心配にならないか?」
「あ? ばっか、そんなの本気で心配してんのはオマエぐらいなもんだよ。クラスの連中が騒いでるのは、わりかし珍しい話題だからだ。
オレやおまえが家出したわけじゃないんだし、関心なんてあるわけないだろ」
……そういえば、こいつは身内以外にはひどく冷たいところがあるヤツだった。
「……でもまあ、違った意味で心配はしてるけどな。こんな時に家出をするなんて、よっぽど度胸があるのかよっぽどのアレかだし」
「……? こんな時って、どんな時?」
「昨日言っただろ、遠野。いま街じゃ通り魔殺人が流行ってるんだって。どこに家出したかしらないが、そこらへんで野宿してたらバッサリと通り魔に襲われても文句は言えないだろ」
「まさか――――いくらなんでも、そんなことはないだろ」
「遠野、おまえはちゃんとテレビを見なさい。今までで犠牲者が八人だぞ? それも全員無差別に殺されてるんだ。自分だけは安心、なんていう考えは捨てちまえ。
最近の夜の街はさ、それは静かなもんなんだぜ。出歩いているのは危機感が麻痺してる酔っ払いと警官だけでね、おかげで退屈で退屈で仕方がない」
有彦の声はいたって真面目だ。
……それを聞かされると、こっちも不安になってしまう。
「―――おっ、国藤が来たぜ。お待ちかねのホームルームだ」
有彦は自分の席に戻っていく。
しばらくして、全員が席についた。
生徒が座っていない席は一つしかない。
その席は、間違いなく弓塚さつきの机だった。
「それじゃあわたしは家がこっちだから。
ばいばい、また明日学校でね」
「………」
……昨日の別れ際、弓塚は確かにそう言っていた。家で何があったか知らないけど、あの笑顔はとても家出する直前には見えなかった。
「弓塚は欠席だな」
教壇に立つ担任は、ただ弓塚さつきを欠席扱いにして出席をとっていく。
……何事もなかったように、ホームルームは進んでいく。
俺は―――
弓塚さつきの事を尋ねる。
―――――昨日の弓塚の笑顔を知っている。
あんな顔をしてばいばい、なんて言えるヤツが家出をするなんて、とても思えない。
「―――先生」
「なんだ遠野。質問か?」
「はい。うちのクラスで家出をした生徒がいると聞きましたけど、それは本当なんですか?」
「む―――――」
ぴたり、と教室中の空気が固まった。
担任は難しい顔をしたあと、言いにくそうに顔をしかめてうなずいた。
「……たしかに弓塚さつきのご両親から、そういった報せは届いている。弓塚は昨夜から家に帰ってきていないそうだが、捜索願いが出されているのだからすでに見付かっているだろう」
そうして、担任は教室を後にした。
教室はざわざわと騒がしくなる。
なにか、イヤな予感がする。
……重苦しい。椅子に体が縛り付けられているみたいに重苦しい、イヤな予感だった。
―――二時限目が終わっても、弓塚はやってこなかった。
確かめる手段がないだけ、厭な予感だけが増していった。
昼休みになった。
朝はあれだけざわざわとしていたのに、教室はいつも通りの明るさに戻っている。
弓塚さつきが家出したという噂話を、クラスメイトたちはあまり重く受け取っていないらしかった。
「遠野、飯にしようぜ」
「いい。なんかそんな気分じゃない」
「ふーん……ま、仕方ねえか。関係のない苦労を背負うのもほどほどにしとけよ」
「………………」
関係のない苦労、か。
有彦のセリフは、いちいち的を射すぎている。
「あれ? 今日は乾くんと一緒じゃないんですか?」
「……先輩。どうしたの、うちの教室になんか来て」
「はい、遠野くんたちとお昼ごはんを食べようと思ったんですけど……遠野くん、お昼は食べないんですか?」
机に座り込んだ俺の顔を、先輩は心配そうに覗きこんでくる。
「いや、そういうわけじゃないけど、なんとなく食欲が湧かないんだ」
「はあ。気分でも悪いんですか?」
「……そんなトコかな。いいから、俺のことは放っておいて食堂に行ってください。有彦なら食堂にいますから」
「もう、元気ないですね遠野くんは。何があったかは知りませんけど、お昼ごはんを食べないとますます気分が悪くなっちゃいますよ」
「―――それは、そうだけど」
食欲が湧かないんだから、こればっかりはどうしようもない。
俺は――
……いや、やっぱり気分が悪い。
「……ごめん。本当に気分が優れないんだ。ちよっと保健室に行ってくるから、先輩は有彦と昼ごはんをすませてくれ」
「はあ……事情は知りませんけど、あんまり無理しないでくださいね遠野くん」
「はは、無理しないから保健室に行くんです」
無理やりに笑って、教室を後にした。
帰りのホームルームが終わった。
教室に残っているのは自分ぐらいのもので、クラスメイトは部活動に、帰宅部の連中はさも忙しそうに学校から走り去っていった。
「────さて」
こっちだっていつまでも教室に残っているワケにもいかない。
さっさと荷物を鞄につめて、教室をあとにした。
時刻は四時すぎ。
翡翠には四時ごろに帰る、と言ってしまった手前、寄り道をしている暇はない。
「……」
坂道にさしかかって、不意に足を止めた。
昨日のこの時間。
ここで、弓塚と当たり前のように別れたのを思い出してしまったせいだ。
「…………」
正直に言えば、弓塚のことが気にかかっている。 けど、いくら心配したところで俺にはどうする事もできない。
ピンチの時は、出来る限り手を貸すって言ったけど。
今の自分には、どこに手を貸していいのかさえ解らなかった。
坂道をのぼりきって、屋敷をかこむ塀を回って、屋敷の正門にたどりついた。
「……しっかし場違いな洋館だな、これは」
住宅地の奥、坂の終わりにどーんと構えた洋館はここだけ日本ではないような錯覚を覚えさせる。
なおかつ、加えて―――・
「お帰りなさいませ、志貴さま」
と、門の前で自分を出迎えてくれるメイドさんまでいる始末だ。
翡翠は俺がやってくる前から、彫像のように正門に立っていた。
「ただいま翡翠。……その、つかぬコトを訊ねるけど、もしかしてそこでずっと待ってたのか?」
「いえ、ずっとではなく三十分ほどお待ちしておりました。それがなにか?」
しごく当然のように翡翠は言う。
……ちょっと、それは俺には持て余すぐらい、忠義すぎる。
「───いや、出迎えてもらえるのは正直嬉しいんだけど、そこまでしなくてもいいんだ。そのカッコウじゃ目立つし、俺だってなんだか照れる」
くわえて季節は秋なんだ。そろそろ外にいるのは寒くなってくるだろう。
「………………………」
翡翠は黙っている。
異国の血がまじっているのか、群青の蒼い瞳はガラス細工のように無機質で、感情もなくこちらを見つめている。
しばらくの沈黙のあと。
「……わかりました。では、明日からはロビーでお迎えいたします」
翡翠は小さくお辞儀をして門をあける。
それきり彫像のように翡翠は動かない。
こっちが門をくぐって庭に入ると、静かに後からついてくる。
玄関につくと、翡翠はサッと前に出てきた。
「うわあ!」
思わず、反射的に体を引いてしまう。
「……なんでしょうか、志貴さま」
「あ、いや────その、なんでもないんだ」
「……………」
翡翠は無言で玄関の扉を開ける。
翡翠が前に出てきたのは、俺のかわりに玄関を開けるためだったらしい。
常に主人の後に付き添い、出番とあらば音もなく前に出て仕事をこなす。
まさにメイドさんの鑑なわけなんだけど、俺みたいな一般人は翡翠の一挙一動にびくびくしてしまう。
……どうもうまくない。こんなんじゃいつまでたってもお客さん気分が抜けないじゃないか。
「あのさ、翡翠」
「はい、なんでしょうか志貴さま」
「昨日もいったけど、俺は自分で出来るコトは自分でやりたいんだ。ていうか、やらせてくれ。
これは秘密なんだけどね、俺、実は根が怠け者だから甘やかされると際限なく堕落するんだ」
うん、秋葉にだけは秘密にしておいてもらいたい。
「……よくわかりませんが、志貴さまは厳しくしろ、とおっしゃるのですか?」
「いや、厳しくされるのはイヤだ。できればお気軽に生きたい」
「……申し訳ありません。志貴さまのお話の趣旨が、わたしには理解できないようです」
「……いや、だから真面目な顔でそう言われてもな」
……困った。
昨夜、少しだけ話してこの子には話が通じにくそうだっていうのは予感していたけど、ここまで生真面目な性格をしているとは思わなかった。
「───ああもう、いいから翡翠は俺にかまわなくていいって言ってるんだよ。
そりゃあ洗濯とか料理とかは世話してもらうけど、それ以外の事で遠野志貴に時間をわりあてなくていいんだって。
この広い屋敷に琥珀さんと二人きりなんだろ? 俺の世話なんていい加減でいいから、できるだけ楽してくれって言ってるの!」
「─────」
翡翠の表情は変わらない。
返事もしなければ頷きもしない。
ただ、一度だけ目蓋を閉じたような気がした。
「わかりました。ですがお心遣いだけで結構です、志貴さま」
───うう、全然わかってない………。
翡翠は俺に道を譲るために、サッと横に回ってしまう。
「…………はあ」
……本当にまいる。
そりゃあ献身的に世話をしてくれるのは嬉しいんだけど、琥珀さんの半分ぐらい明るくしてくれてもいいと思う。
ただでさえ翡翠は可憐な雰囲気があるんだから、もっと力を抜いてくれればそれはどんなに―――
「志貴さま、お部屋に戻られないのですか?」
「いや、すこし考え事をしてただけ」
ロビーを横ぎって階段に向かう。
翡翠は物欲しそうに俺の手にある鞄を見つめていた。
……たぶん、お荷物をお持ちします、という台詞を言いたいのだろう。
出迎えてもらえるだけで仰々しいっていうのに、そのうえ鞄まで運ばれては参ってしまう。
俺は翡翠の何か言いたげな仕草を無視して、自分の部屋へと歩いていった。
「着ていた学生服はこちらのほうにお脱ぎください。わたしは屋敷の掃除がありますので、用がありましたらお呼びください」
「……翡翠は屋敷の掃除、か。秋葉と琥珀さんはどうしてるのかな」
「秋葉さまはサロンで槙久さまのお仕事の引き継ぎをなさっておられます。姉さんでしたら、中庭の掃除をしていますが」
「……はあ。親父の仕事の引き継ぎって、もしかして弁護士かなんかと話してるのか?」
「はい。経営方針を教授していただいているそうですので、秋葉さまは夕食までご多忙と存じます」
「………………」
まあ、親父もいきなり他界したっていうから、会社のことは秋葉に何一つ教えられなかったんだろう。
「引きとめて悪かった。何かあったら行くから、仕事に戻っていいよ」
「はい。それでは失礼いたします」
学生服を脱いで、私服に着替える。
時計はまだ五時になったばかりだ。
このまま夕食までぼうっとしているのももったいない気がするし、ここは―――
琥珀さんの手伝いをしにいく。
……そうだな、昨日から世話になっているんだから、こうしてぼんやりしている暇があったら琥珀さんの手伝いぐらいしないと罰があたる。
「たしか庭のほうで掃除をしているっていう話だったっけ」
庭の掃除ぐらいだったら自分でも手伝える。
よし、と気合をいれて庭に向かった。
「あら。お帰りなさいませ、志貴さん」
にっこり、と琥珀さんは柔らかな笑みを向けてくれる。
「ただいま。琥珀さんは一人で庭の掃除?」
「はい。庭師さんが来てくださるまで三日ほどありますから、落ち葉の整理ぐらいはしておこうと思ったんです」
竹ぼうきを両手に持っている琥珀さんは、どことなく楽しそうだ。
この広い庭の落ち葉を一人きりで整理するのはひどい重労働だろうに。
「偉いな琥珀さんは。俺だったら文句の一つも口にしてるよ、こんな庭の掃除なんて」
「いえいえ、ぜんぜん偉くなんかないですよ。わたしはこれがお仕事だから、投げ出したりしちゃったらお米が食べられなくなっちゃいますもの。そんなわけで泣く泣くお庭の手入れをしているんです」
あはは、と琥珀さんは屈託のない笑顔をうかべる。
なんというか、その、明るい人だ。
「それにですね、わたしは屋敷の裏庭を使わせていただいていますから、仕事がなくてもこまめに庭の様子を見ておかないといけないんです」
「え……? 使わせてもらってるって、なにをですか?」
「それがですねー、子供の頃からの趣味で花を育てているんです。気紛れで色々なものを集めてきますから、花壇というよりはジャングルになっちゃってますけど」
あはは、とまたも陽気に笑う琥珀さん。
……けどそれは知らなかった。裏庭なんて滅多に行かないから気付かなかったけど、そういえば二階の窓から花園らしきモノが見えたっけ。
「へえ、園芸が趣味なんだ琥珀さん。それで、その花壇には何があるの?」
「えーと、まあ色々です。アサガオとか、そういったモノが中心ですけど」
「へえ、アサガオですか。なんかイメージ通りですね」
「そうですか? わたしはお屋敷の雰囲気には合わないのでどうかなーって落ち込みますけど」
「違うって。屋敷のイメージじゃなくて琥珀さんのイメージ。アサガオってなんか質素でキレイな感じがするじゃないか」
「志貴さん、それって間違いですよ。庭に植えてあるのはチョウセンアサガオですから。ちょっと危ない花なんです」
何がおかしいのか、琥珀さんはクスクスと笑っている。
「そうなの? チョウセンアサガオって、だからアサガオでしょ?」
「はい。キチガイナスビとかダチュラといった名前を持っている、麻酔薬にもなるお花ですね。日本で初めての全身麻酔薬である通仙散というのはチョウセンアサガオといくつかの薬草を混合させたものなんです。ええっと、間違って飲んだりするとせん妄状態になっちゃうぐらい・
ないものですから、志貴さんも気をつけてください」
……いや、間違えるも何も、花を飲むなんていう事はそもそも起きないんだけど、琥珀さん。
「サボテンとかそういった可愛いものも扱ってみたいんですけどね、秋葉さまに猛反対されて止まっちゃってるんです。ですから、残念ですけど花壇にいっても志貴さんにお見せできるようなものはないんですよ」
そう言って、琥珀さんは再びほうきを手に取った。
「……そっか。琥珀さんが庭の掃除をするのは、花とかそういったものが好きだからなんだね」
「いえ、別にそういった理由からじゃないですよ。単にですね、わたしはお屋敷の中のお掃除が苦手なんです。なぜか知らないんですけど、ことあるごとに何か壊しちゃって」
「へ?」
「それもその部屋でいちばん高価なものを落としちゃったり破いちゃったりするんです。あの、誓ってわたしに悪気はないんですよ? なのに翡翠ちゃんったら、姉さんは家計簿と料理だけしてくれればいい、なんてひどいコトいうんです!」
笑顔のまま怒る、なんて器用なマネを琥珀さんはする。
しかし────なんか、初対面の時とイメージ違うな、琥珀さん。
「……もしかしてさ。琥珀さん、わりと不器用なほう?」
ドジなほう、とストレートに聞くのはやめておいた。
琥珀さんは不満そうに、むーっ、とうなる。
「志貴さんまでそんなコト言うんですねっ。翡翠ちゃんは姉さんは動きが緩慢だって冷たいし、秋葉さまは注意力がたりないっていじめるし。
わたしだって好きで失敗ばっかりしてるワケじゃないのに、ひどいです」
「……そうだね。好きで失敗をする人は、あんまりいない」
なんてフォローしていいかわからず、毒にも薬にもならない事を口にした。
「ですよね! 大事なのは気持ちなんですから、十回や二十回の失敗なんて大目に見てくれてもいいと思います!」
ざっざっ、とホウキで落ち葉を掻き集める琥珀さん。
───と、こっちも仕事の邪魔をしにきたわけじゃないんだっけ。
「琥珀さん、ホウキもう一本ある?」
「はい、倉庫に何本でもありますけど。何にお使いになるんですか?」
「いや、俺も落ち葉集めをやろうかなって」
ぴた、と琥珀さんのホウキが止まる。
「────そんなのはいけません。志貴さまにそんな事をされては、後でわたしがお叱りを受けちゃいます」
「お叱りって誰に───って、一人しかいないような、そういうヤツは」
「はい」
琥珀さんははっきりとうなずく。
「いいよそんなの。俺が好きでやるんだから、秋葉が文句を言うのは筋違いだろ。もし言うにしても、それは琥珀さんじゃなくて俺本人に向けて言うべきだ」
「なるほど、それは正論ですね」
「だろ? だから気にしないでいいよ。こうゆうのは二人でやったほうが楽しいぜ、きっと」
「……うーん、志貴さんは秋葉お嬢さまの事をよく解ってないんですね。こうゆう事をすると、秋葉お嬢さまは違った意味で怒っちゃうと思います」
「……よくわからないけど、どっちにしても怒るってこと?」
「あはは、そういえばそうですよね。ええ、そうゆうわけですからやっぱり止めてください」
笑顔で、きっぱりと琥珀さんは言いきる。
「…そっか。そうだよな、どっちにしても琥珀さんが秋葉に怒られるんなら、俺が手伝っても迷惑な話か。ごめんな、考えなしで余計な真似しようとして」
「いいえ、ぜんぜん余計なんかじゃありません。わたしも手伝ってもらえるって分かった時、すごく嬉しかったですから」
うう、そう屈託のない笑顔で言われると結局手伝ってあげられない自分が辛い。
はあ、とため息をつく。
琥珀さんは俺の顔を楽しそうに見上げている。
「志貴さん、ほんとに手伝ってくれます?」
「ああ、そりゃあ琥珀さんに迷惑がかからないならいくらでも手伝うけど───」
「それじゃあ場所を変えましょうか。ここだと秋葉さまに見つかってしまいますから、裏のほうでこっそりお掃除すればいいんです」
「裏って───その、裏庭?」
「はい。そこなら秋葉さまにも見つかりません。二人で仲良くお掃除しましょう」
はい、と琥珀さんは自分の持っていたホウキを手渡してくれる。
「それじゃあ倉庫からホウキを持ってきますから、志貴さまは先に行っていてください。途中、くれぐれも翡翠ちゃんと秋葉さまに見つからないでくださいね」
たたた、と軽い足取りで琥珀さんは走っていってしまった。
───いたずらっこみたいな人だな、ほんと。
気がつけば口元がにやけていた。
秋葉と翡翠が冗談の通じない性格な分、琥珀さんの明るさは本当に微笑ましい。
「よし、やるか─────!」
さっきまで琥珀さんが使っていた竹ぼうきを力強く握り締めて、俺は人目につかないという屋敷の裏庭へと歩いていった。
夕食が済んで、居間で食後のお茶を飲む。
目の前には秋葉がいて、壁際には翡翠が控えている。
居間にはテレビなんてものはないし、秋葉も余分な事は話しかけてこない。
―――なんていうか、上品すぎる食後の時間だ。
「志貴さーん、ちょっといいですかー」
と、ロビーのほうから琥珀さんの元気な声が聞こえてきた。
「兄さん? 琥珀が呼んでいますけど、なにか呼ばれるような事をしたんですか?」
「いや、身に覚えはないけど―――ちょっと行ってくる」
秋葉と翡翠を居間に残してロビーにやってくる。
琥珀さんは玄関の前でなにやらぐるぐると歩いていたりする。
「……琥珀さん。それ、なにやってるの」
「あ、志貴さん。それがですね、ちょっと複雑な事情なんです。……そこにいられるとまずいですから、ちょっと外に出てくれますか?」
「……?」
訳が分からないまま、とりあえず琥珀さんの後についていく。
「話ってなんですか? もしかしてみんなには秘密にしておきたい事?」
「はい。とくに秋葉さまの耳に入ると、志貴さんが怒られそうなお話です」
秋葉に怒られそうな話……?
「なんですかそれ。俺、秋葉を怒らせるような真似はしてないけど」
「あ、志貴さんがどうこうしたワケじゃないんです。その、実はですね。志貴さんと秋葉さまのご夕食の最中、お客さまがおみえになられたんです」
「え? お客さまって、俺に?」
「はい。門の外でぐるぐると歩いていたので、気になって声をかけたんです。着ているご洋服が志貴さんの高校の制服だったものですから、もしかしてと思いまして」
そうして琥珀さんはそのお客さんの風貌を話してくれた。
年のころは俺と一緒で、やや童顔。長い髪を両おさげにした可愛い女の子……?
「……………」
どくん、と視界が真っ暗になった気がした。
その風貌。
それは、家出しているっていう弓塚さつきそのものじゃないんだろうか―――
「それでですね、その子、ここが遠野さんのお屋敷ですか?って聞いてきたんです。そうですよって答えたら、それなら遠野くんはいますか?って」
「……うん。それでどうしたの、琥珀さん」
「はい。志貴さんと話がしたがっていたようなので、おあがりいただこうとしたんですが断られちゃいました。なんでも今はまだ会えないからいいんだそうです」
なんなんでしょうね、と琥珀さんは首をかしげる。
けど、それを聞きたいのはこっちのほうだ。
「なんで――――――弓塚さんが、俺のところに来るんだろう………」
わからない。
わからないけど、ただ、厭な予感だけがしている。
「……琥珀さん、それってどのくらい前のこと?」
「えっと、志貴さんのご夕食が終わる前でしたから、かれこれ十分ほど前です」
「――! それで、その子はどっちのほうに帰っていったかわかる?」
「坂を街に向かって下りていきましたから、駅前のほうだと思いますよ」
―――十分前か。
走れば―――運がよければ、見つけられるかもしれない。
「……わかった。ちょっと出てくるから、この話は秋葉には黙っててくれ」
「存じております。秋葉さまが知ったら、また志貴さんがいじめられちゃいますから」
楽しそうに微笑む琥珀さんに礼を言って、夜の街へと走り出した。
「はあ――――はあ、はあ――――」
坂道を全力で下って、駅前方面に走っていく。
「はあ、はあ、はあ、はあ――――!」
駅前の人込みをかきわけて、弓塚らしき姿を捜す。
「はあ……はあ、はあ………」
息があがる。
苦しくなって、走りどおしだった足を止めた。
「……やっぱ、り……そう、簡単には、見付からない、よな……」
はあ、はあ。
荒い呼吸を整えて、すぐに走り出す。
―――弓塚さつきの姿は見当たらない。
当たり前といえば当たり前なのに、どうしてか簡単に諦められない。
……自分は別段、弓塚さつきが心配なわけではないと思う。
この胸にはほんの些細なわだかまりがあって、そのためにこうして走りまわってしまっている。
―――それじゃあね。ばいばい、遠野くん。
それは、どこにでもあるさよならのセリフ。
……本当に幸せそうだった、柔らかな笑顔。
あんな顔をするヤツが家出なんかするわけがない。
―――ピンチの時は助けてね、遠野くん。
そう、こんな事をしている理由なんて単純だ。
俺はただ、あの時の笑顔が裏切れないだけなんだから――――
「はあ―――はあ――――はあ―――」
公園にも弓塚らしき人影はない。
……初めから、何の手がかりもなしで人を捜し出せるはずはなかった。
見つけられっこないんだから、いいかげん屋敷に戻ろう。
「……く……そ……」
だっていうのに、まだ街のほうを見て回ろうと踵を返した。
もう一度駅前にやってくる。
時刻は夜の九時をすぎてしまっている。
連日の通り魔殺人のせいか、まだ九時だっていうのに人通りは極めて少ない。
――――と。
「弓――――塚」
一瞬、自分の目を疑った。
けど目の前で歩いている後ろ姿は、弓塚さつきに似すぎていた。
弓塚はふらふらとした足取りで人込みの中を歩いていく。
……遠くて、よくわからない。
見間違いかもしれないけど、とにかく追いついて呼びとめよう、と走った。
「待って、弓塚さん―――!」
追いかけながら声をかける。
「――――――」
声が聞こえたのか、弓塚はちらりとこっちに振り向いた。
その顔は、なんということはない。
前を歩いている少女は間違いなく弓塚さつきだし、彼女の顔が恐ろしげな表情をつくっていたわけでもない。
「――――あ」
なのに、ぞくりとした悪寒を感じてしまった。
―――どくん、と。
心臓の鼓動が速くなる。
あたまの後ろのほうがクラクラと重くなって、喉が少しだけ熱を帯びる。
「なんだろう……なんか、ヘンだ」
体中が熱い。
質の悪い熱病にうかされたみたいに、クラクラする。
そうしている間に、弓塚はまた歩き出してしまった。
「ま―――待てって、弓塚さん……!」
走りながら呼びかける。
弓塚は振り向かずに、ふらふらと歩いていく。
「こ―――の、聞こえないのか弓塚……!」
熱い体にムチを打って走る。
けど、どうやっても弓塚の背中をつかまえられない。
……いくら走っても、歩いている弓塚に追いつけない。
「――――――」
なにか、おかしい。
そうわかってはいるのに、何がおかしいのかわからなかった。
今の自分に出来る事といえば、なんの解決策もないまま弓塚さつきを追いかける事だけだった。
――――と。
不意に弓塚の背中が消えた。
さっきまで、追いつかないまでもちゃんと見えていたあいつの背中が見当たらない。
「……くそ……なんだっていうんだ、一体……!」 立ち止まって、呼吸を整える。
はあはあ、と胸が大きく上下していた。
……今まで気がつかなかったけど、随分と長い間走っていたみたいだ。
「……いま、何時、だろ……」
両膝に手をついて、適当なショーウィンドウに視線をなげる。
時刻は―――夜の十二時にさしかかっていた。
「――――うそ。そんなに走ってたのか、俺」
……そんな実感はないけど、時計に間違いはない。
見渡せば、繁華街の明かりも淋しくなりつつある。
「―――帰、ろう」
弓塚のことは気になるけど、これ以上捜しても見つけられない気がする。
……だいたい三時間近く追いかけて、何度も呼びかけたのに振り向きもしないなんて、あいつは何を考えてるんだろう。
はあ、と大きく深呼吸をして、屋敷に戻ることにした。
……このあたりにくると、人通りはまったくなかった。
繁華街のほうはまだ人通りがあったほうで、ここから屋敷に戻るまでの道は完全に人気がないだろう。
「…………」
通り魔殺人という単語が頭をよぎる。
夜の十二時。一人で街を歩いている自分は、通り魔にとって扱いやすい獲物かもしれない。
「――――!?」
物音。
建物の裏手のほうから、なにか物音がした。
人が倒れるような、そんな感じの音だったと思う。
「……路地裏のほう……?」
……物音は一度きりだった。
あたりは、不吉なぐらい、静かだ。
……イヤな予感がする。
路地裏のほうで、誰かが倒れたのか。
それとも風で荷物が倒れただけか。
……どっちにしたって、あまり関わりあいになるのは賢い選択とは言えない。
―――――けど。
さっきまで弓塚を捜していたせいか、そこに弓塚がいるような錯覚なんか持ってしまっている。
「……どう、しよう……」
あたりに人影はない。
頼れるものなんていったら、朝方琥珀さんが渡してくれたナイフだけだ。
見に行く。
――――自分の錯覚を、無視できない。
もう何人も殺人を犯している通り魔が徘徊しているっていう夜の街で、怪しい物音がした路地裏に行こうだなんてどうかしてる。
どうかしてるけど、俺は――――昨日の弓塚の笑顔が忘れられない。
弓塚がいるはずなんてないけど。
もしそこに弓塚がいて、なにか取り返しのつかないコトになっていたのなら。
……俺は、それを見逃したコトを絶対に後悔する。
「――――よし」
大きく息を吸って、気を引き締めた。
なに、いざとなれば遠野志貴にはこの『眼』があるんだ。
先生は無闇に使うなって言ってたけど、相手が殺人鬼なら許してくれるだろう。
「……音、こっちからだったな」
覚悟をきめて、路地裏へ足を運んだ。
―――どくん。
心臓が、ひときわ大きく脈をうつ。
路地裏は静かだ。
……物音は、この奥の広場から聞こえてきた。
―――どくん。
首のうしろが、痛い。
極度の緊張で痙攣でもしているのか、背骨が皮膚から飛び出しそうなぐらい、痛い。
―――どくん。
どうしてだろう。
俺は何も考えていないのに、本能がさっきから警告を鳴らしている。
―――どく、ん。
行くな。
その先には行くな。
行けば、きっと戻れない。
―――どく、ん。
けど、もう遅い。
路地裏を抜けて、俺はその広場へと足を踏み入れてしまった。
「――――え?」
ただ、そんな声しか、出せなかった。
―――路地裏は、一面の赤い世界。
そこかしろかに、ゴミやガレキにまじって手足が散乱している。
手足は犬や猫のたぐいじゃない。
その断面から赤い血と、骨と、生々しい肉を見せた、紛れもない人間の手足だった。
地面や壁には赤い血が塗りたくられている。
鼻孔をつく重い匂い。
どろり、と。
赤い霧になって体にまとわりついてきそうなほど、濃厚な血のにおい。
顔。顔。顔。
首元から断ち切られ、苦悶の表情のまま転がった顔。
木乃伊のように干からびて、真っ二つに割れてカラカラと転がっている顔。
両目を刳り抜かれて、男とも女ともとれないぐらい正体不明のまま放置された顔。
「―――――」
声も出せず、ただ、ソレらの亡骸を傍観した。
いや、人の死体というにはあまりにも遠すぎる。 出来の悪いオブジェにしたって、もうすこしはマシだろう。
死体は、四つあった。
どれもこれも食い散らかされた残飯みたいに転がっている。
「は―――――は」
愕然と死体の海を見つめる。
首のうしろがズキズキと痛んで、
喉が乾いて呼吸が火のように熱い。
指先はガクガクと震えていて、口元がいびつな形にゆがんでしまう。
これは―――何だ。
いま目の前に広がっている世界は、なんだ。
「――――赤い」
そう。
目が醒めるぐらいに、攻撃的な一面の色―――・
ただ、呆と立ち尽くす。
どうかしている、と思った。
どくん。どくん。どくん。
こんな、ワケのワカラナイ風景を前にして。
俺の心臓は、どくどくと、何かを期待するように、高鳴ってしまっている、なんて。
がさり、と壁際の死体が動いた。
いや、違う。
そこにいるのは死体じゃない。
無造作に転がっている手足とは違う。
きちんと手足がある、れっきとした生きている人間のようだった。
「あ……」
なにか、意外なものを見た。
人が生きていたという事を喜ぶより、この光景の中でまだ生きている人間がいる事が、なんだか不自然な気がして。
けど、生きているのなら。
生きているんなら、助けて、あげないと。
「あの―――もしもし?」
どくどくと高鳴った感情のまま、まだ生きている人間のところに歩み寄っていく。
「――――ギ」
ずるり、と血の海から這い上がって、ソレは俺にむかって顔をあげた。
その、干からびた、シャレコウベのような顔を。
「ひ―――――!」
反射的に後ろに逃げる。
けど、そんな俺の動きなんかより、シャレコウベのほうが何倍も速い。
ひゅうひゅうという声をあげて、ソイツは俺の上にのしかかってきた。
――ひゅう、ひゅう。
イヤな声が、目の前で聞こえた。
見れば―――シャレコウベの喉は大きな穴が開いていて、満足に発音できないらしかった。
「――――あ」
干からびた顔、干からびた腕がのしかかってくる。
骨と皮しか残っていない喉の声帯が、ぶるぶると不気味な声にあわせて振動している。
「うわあああああ!」
ただ、必死になってソイツを引き剥がそうとした。だがソイツは不気味な声をあげて離れようとしない。
カカ、と音をたててシャレコウベの口が開く。
肩を一口で噛み砕けるぐらいに開いた口が、死にたくない、と助けを請うように、俺の顔へと近寄ってくる。
「や――――」
やめろ、という声も通じない。
骨と皮だけのソイツは、そのまま俺の頭にかじりつこうとして――――そのまま、唐突に、崩れ落ちた。
「え……?」
あんなに強かった力が消えていく。
かろうじて骨と皮だけが残っていたソイツは、残された骨と皮さえも無くして、跡形もなく消え去っていく。
さらさらと。
悪い夢みたいに、ソレは灰になって散っていった。
「………なんだよ、これ」
ずきりと、肩から痛みが走る。
「あ………つ」
掴まれていた両肩が、赤く腫れ上がっている。
痛みは現実。だからこれは、紛れもない現実。
ひどい、悪夢だ。
こんなコト―――悪い夢でしかないのに、夢ですら、ないなんて。
「遠野くん。それ以上そこにいると危ないよ」
「――――!」
背後からの声に振りかえる。
入ってきた路地裏の入り口に、弓塚さつきが立っていた。
「弓塚、さん―――?」
「こんばんは。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
まるで、街中で偶然であったように、気軽に弓塚は語りかけてきた。
「弓塚さんこそ……こんな時間に、何してるんだよ」
「わたしはただの散歩。でも、遠野くんこそ何をしてるの? そんなにいっぱいの人を殺しちゃうなんて、いけないんじゃないかな」
ふふ、と淡い笑顔で弓塚は言った。
「人を殺したって―――え?」
周囲を見渡す。
……それで、自分がどんな惨状の中で立ち尽くしているのかを思い出した。
一面の血の海の中。
遠野志貴は、まるで殺人鬼のように、呆然と立ち尽くしている。
「ち、違う、これは俺じゃない……!」
「違うことはないでしょう。みんな死んでいて生きてるのは遠野くんだけなら、誰だってやったのは遠野くんだって思うわ」
「そ、そんなワケないだろう……! 俺だってコイツに襲われかけたんだぞ……!」
さっきまで自分を襲っていた怪物を指差す。
けど、そこにはもう何もない。
アレは骨はおろか、灰さえものこさずに風に散って消えていた。
「あ――――」
息を飲む。
弓塚はくすくすと笑っている。
「ち、ちがう―――俺じゃ、俺じゃない、んだ」
あたまがマヒして、そんな言葉しか言えない。
……わかってる。
ちゃんと何がおかしくて何がおかしくないのかわかっているんだけど、思考が空回りして喋れない。
例えば、弓塚がどうしてこんなところにいるのか。
例えば、こんな惨状を目の前にして、どうして弓塚はそんなふうに笑ってられるのか、とか。
「弓塚さん、俺は―――」
「うん、ほんとはわかってるんだ。遠野くんは食事中に出くわしただけなんだって。
いじわるなこと言ってごめんね。わたし、いつも自分の気持ちと反対のことをしちゃうから、遠野くんにはこんなふうにしてばっかり」
弓塚はまだ笑っている。
……それがこの惨状にあまりに不釣り合いで、ぞくりとした。
弓塚は路地裏の入り口から動かない。
不自然に組まれた両腕。まるで、何かを隠すように後ろに組んでいる。
―――注意して見れば。
彼女の肘のあたりには赤々としたモノが、まだら模様をつくっていた。
「弓塚、おまえ――――」
「どうしたの? 恐い顔して、ヘンな遠野くん」
また、クスリと笑う。
「――――――」
……違う。
彼女は、弓塚さつきなんかじゃ、ない。
「弓塚――なんでおまえ、手を隠してるんだ」
「あ、やっぱりバレちゃった? 遠野くんってば抜けているようで鋭いんだよね。
わたしね、あなたのそうゆう所が昔っからいいなあって思ってたんだ、志貴くん」
強調するように、俺の名前を口にして。
弓塚さつきは、その両手を前に出した。
真っ赤に染まった両手。
血は乾ききっておらず、ぴちゃぴちゃと音をたてて赤い雫をこぼしている。
それを、誇るように。
弓塚さつきは、口元に笑みをうかべていた。
「弓塚、その手―――」
「うん。わたしが、その人たちを殺したの」
「な――――」
「あ、でもこれは悪いことじゃないんだよ。わたしはこの人たちが憎くて殺したんじゃないもの。生きていくためにはこの人たちの血が必要だから、仕方なく殺したんだから」
当たり前のように、彼女は言った。
そんな事、俺にはもちろん理解できない。
わかるのは、ただ―――この全身に、ゾクゾクと血が溜まっていく事だけだった。
どくん。どくん。どくん。
はあ。はあ。はあ。
まるで、血に染まった弓塚に一目惚れでもしてしまったみたいに、興奮、してる―――
「殺したって―――ホントなのか、弓塚」
「嘘だって言っても信じてくれないでしょ? それともわたしみたいな女の子じゃこんなコトできないって思ってくれる?」
クスクス、という笑い声。
―――信じられない。
信じられないけど、間違いなく彼女は嘘なんてついていない。
この惨状は。
みんな、弓塚が起こしたものだ。
「どうして―――こんな、酷い事を」
「ひどくなんかないよ。さっきも言ったでしょう、わたしはこの人たちが憎くて殺したんじゃないもの。志貴くん、生きるために他の生き物を殺すことはね、悪いことじゃないんだよ」
「なにを―――! どんな理由があったって、人殺しは悪いことだろ!」
「そんなコトないけどね。あ、でも悪いことも一つだけしちゃったみたい。
わたし、今日が初めてだから加減ができなくて、血を吸う時に自分の血も送っちゃったの。そのせいで逝き残ったのが出てきて、志貴くんが襲われる事になったわ。
「ごめんなさい。わたし、あやうく志貴くんを巻き込むところだった。ソイツが成りきれないで死んでくれて、本当によかった」
「なにを―――なにを言ってるんだ、弓塚」
「今はわからなくていいよ。わたしもまだ自分自身のことを把握しきれてないから、うまく説明できないわ。
けど、何日かすればきっと志貴くんみたいになれると思う。
志貴くんみたいな、立派な殺人鬼に――――」
言いかけて、弓塚は顔を歪ませて苦しみだした。
「はっ―――あ、う…………!!」
苦しげに喉をかきむしって。
弓塚は、ごぶりと、口から血を吐き出した。
「いた――――い。やっぱり、お腹が減ったからって無闇に吸ってもダメみたい。
質のいい、キレイな血じゃないと、体に合わないのかな―――」
コホコホとせき込む。
その咳は赤く、あきらかに血を吐いていた。
「ん――――く、んああ…………!!!」
弓塚の体がガクガクと震えている。
……よくわからない。
もう、何もかもよくわからないけど、ただ、弓塚がひどく苦しんでいるという事だけは、はっきりとした事実だった。
「苦しいのか、弓塚……!?」
思わず弓塚に駆けよって、その手を取ろうとする。
「――――だめ! 近寄らないで、志貴くん!」
けど、それは弓塚の声で止められた。
「……ダメ、だよ、全然大丈夫じゃないよ、志貴くん」
はあはあと。
苦しげな呼吸が、赤い血を吐いて、届いてくる。
「弓……塚、おまえ―――」
俺には、わからない。
弓塚が苦しんでいる理由も、どうして、彼女がそんなふうになってしまっているのかも。
「……どうしたんだよいったい。人を殺したって言ってたけど、そんなの嘘だろ……? 弓塚、そんなに苦しいんならすぐに病院に行かないとだめじゃないか」
……わかっている。
弓塚が本当にこの惨状を作ったんだってわかっていたけど、そんな、つまらない嘘を口にした。
「ほら、弓塚―――そっちに行くけど、いいな?」
優しく話しかける。
けど弓塚はブンブンと頭をふって、さっきより激しく俺を拒絶した。
「どうして―――苦しいんなら、すぐに病院に行かないとダメだろう……!」
「……ダメなのは志貴くんのほうだよ。ほんとに、いつもいつも、わかってくれないん、だから」
「ばか―――それを言ったら、さっきから何一つだってわからないよ、俺は!」
「あ……は、そっか、そうだよね……それでも、わたしに付き合ってくれてるんだ―――」
よろり、と。
逃げるように、弓塚の体が後ろに引いていく。
「……痛いよ、志貴くん」
ぜいぜいと、呼吸を乱して、赤い血が、吐き出される。
「……痛くて、寒くて、すごく不安なの。
ほんとは、今すぐにでも志貴くんに助けてほしい」
―――けど、今夜はまだダメなんだ。
そう言って。
弓塚は、突然に体を持ちなおした。
「―――待っててね、すぐに一人前の吸血鬼になって、志貴くんに会いに行くから!」
「な―――待てよ、弓塚!」
「――――――」
弓塚の姿はない。
俺が一歩駆け出す間に、弓塚はとっくに路地裏から走り去ってしまった。
……そのスピードは人間じみたものではなく、獰猛のケモノのソレだった。
「―――弓塚、おまえ―――」
なにが、あったっていうんだ、本当に………!
「ぐ―――!」
強く掴まれた肩が痛む。
振りかえれば。
あれだけ人間の部品が散乱していた路地裏の広場には、赤い血しか残っていない。
顔も。臓物も。手足も。
さっきのシャレコウベのように、灰になって消えてしまった。
「――――――あ」
どくん、と。
血液が逆流しているかのような、吐き気。
「うそ、だ――――」
どくん、と。
今にも射精してしまいそうなぐらいの、興奮。
「こんな、の―――」
いつまでも。
眼球に焼き付いて離れない、血の朱色。
「こんなのは、うそだ――――!」
ぐらりと。
目に映るものすべてが、歪んで見えた。
―――気がつくと、屋敷に帰ってきていた。
動物の帰巣本能というヤツだろうか。
今にも眩暈で倒れそうだって言うのに、ちゃんと自分の家に戻ってこれるなんて思わなかった。
「………く」
吐き気。吐き気がする。
「はっ―――は、あ―――」
なのに心臓はどくどくと脈打っていて、呼吸さえ、難しかった。
「……早く……休まないと、と……」
昔っから貧血で何度も倒れている分、自分がもうすぐ倒れるっていう気配がわかる。
―――休めば。
ベッドで体を休めてしばらくすれば、こんな吐き気も心臓もおさまって、みんな元通りになる。
あんな―――あんな出来事も忘れて、何もなかったみたいに、いつも通りの朝が迎えられる。
「志貴さん? お帰りになられたんですか?」
「あ……琥珀、さん」
西館の廊下から、ひょっこりと琥珀さんが顔を出す。
……そういえば、一階の西館に琥珀さんの部屋があるんだっけ。
「お帰りなさい志貴さん。それで、お知り合いの方にはお会いになれました?」
「あ―――ああ、一応は、会えた」
答えて、思い出してしまった。
散乱した手足。
顔。顔。顔。顔。
血にまみれた路地裏。
両手を真っ赤に染めて、クスクスと笑う弓塚の顔――――
「……ごめん。部屋に戻るから、琥珀さんも、戻ってくれ」
今は誰とも話したくない。
琥珀さんを振り払って、階段を昇っていった。
そのままベッドに倒れこんだ。
「は―――――あ」
胸が大きく上下して、空気を吸いこむ。
「―――――――」
遠くなっていく意識。
眩暈がやってくる。
このまま、たとえ気を失うっていう事でも、今はこのまま眠りたかった。
―――なのに寝つけない。
眩暈はしているっていうのに、いつもみたいに意識が薄れてくれない。
まぶたを閉じると、さっきの路地裏の光景が蘇ってくる。
どくん、と高鳴る心音。
それは恐怖ではなく、むしろ―――性的な興奮に近かった。
「なん、で――――」
それこそ理由はわからない。
もしかすると恐怖と性欲っていうのは、とても近い位置付けなのか。
「え…………?」
こんな夜更けに、誰だろう。
「志貴さま、起きていらっしゃいますか……?」
囁くような声は、翡翠のものだった。
とくん、と。
翡翠の姿を想像しただけで、胸の高鳴りは少しだけ収まってくれた。
「……ああ、起きてるよ。なにか用があるんなら、中に入って」
「―――失礼します」
……なんだろう。
翡翠は盆にコップと薬らしい紙の包みをもって入ってきた。
「……翡翠。どうしたんだよ、こんな時間に」
「はい。志貴さまがお休みになられないようなのでお薬をお持ちしました」
「え………? いや、それはそうなんだけど……よくわかったね、翡翠」
「姉からの言付けです。志貴さまはお疲れのようなので、気を使ってあげなさい、との事でした」
……そうか、琥珀さんか。
さっきロビーで出会った時に、俺の顔色が悪いのをちゃんと見てくれたんだ。
「……で、そのクスリってなに?」
「睡眠導入剤です。志貴さまの主治医から、服用しても問題はないと許可をいただきました」
「許可って……こんな夜遅くに!?」
「いえ、志貴さまがこの屋敷においでになる聞いて、姉が志貴さまの主治医から許可を頂いたそうです」
「はあ―――さすがは琥珀さん。気が利くなんてもんじゃないな」
とにかく、今はありがたい。
翡翠から水を受け取って、薬を飲む。
「ん―――――あ」
ほどなくして、とろんとした眠気がやってくる。
「……ありがと、翡翠。琥珀さんにもお礼を言っておいてくれ」
「かしこまりました。それではおやすみなさいませ、志貴さま」
……翡翠の足音が聞こえる。
体から力が抜けていくような感覚。
「ん―――気持ち、いい―――」
ぼんやりと。
気絶するように、眠りへと落ちていける―――
―――それは夢か。
赤い路地裏。
俺が足を踏み入れる前の、路地裏。
そこで弓塚さつきは殺している。
大通りで適当な通行人に声をかけて、路地裏につれこんで。
容赦なく後ろから首をひねって、ぞうきんみたいに捻じ曲がった首筋に、歯をつきたてる。
一人。
二人。
三人。
四人。
オレをさしおいて そんなコトを よくも
ただ夢中に、貪るように血を吸ったあと、弓塚は四つの死体をバラバラにして、まだ血を舐める。
赤い世界。
けど、不思議と忌まわしいという感覚はない。
へたくそめ へたくそめ へたくそめ
手にはナイフ。
呼吸ははあはあと荒い。
心臓はピストンのように、さっきからオレにそうしろとせかしている。
オレなら もっとうまくやる
はあ、はあ、はあ。
あえぐ吐息。
それは―――自分も弓塚さつきのようにしてみたい、という衝動を抑えているが為に、呼吸が乱れに乱れてしまっているのか。
乱れている。
こんなモノ―――俺は、見たくないから。
なにをためらう
ためらってなんか、ない。
なにをこらえる
こらえてなんか、ない。
耐えることに価値なぞない
誰かの、耳障りな、声。
オレは オレのしたいように 存在したい
その声は、自分の、声だ。
……弓塚は泣いている。
うまく殺せなくて泣いているのか、それとも痛くて泣いているのか、よくわからない。
無様
だと、思えばいいのか。
あの女は 無様だ
……そういう俺は、無様じゃないのか。
ブサマなヤツは 殺せ
……無様なモノは、殺していいのか。
殺せ
………………。
殺せ
………………。
殺せ
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせころせコロセころせコロセころせコロセころせコロセころせコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコ・
セコロセコロセコロせコ
ロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロ
セコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロ・
コロセコロセコロセ
●『3/反転衝動V』
● 3days/October 23(Sat.)
「志貴さま……!」
―――――声がする。
「お気をたしかに。いま飲み物を持ってまいります」
―――――遠ざかっていく気配。
カツカツという足音。
それで、ようやく朝になってくれた事に、気がついた。
「―――――」
目が覚めた。
部屋には誰もいない。
ゼイゼイ、という音が聞こえる。
「……なんだ……この、音」
声をだしてみて、それが自分の呼吸の音だという事に気がついた。
「あ……れ」
見れば、体中が汗まみれだった。
まるで何十キロっていうマラソンの後みたいに、体が疲れきっている。
「くっ………」
頭痛がする。
……ひどい夢を見たせいだ。
血にまみれた弓塚と、それを羨ましそうにずっと眺めていた自分なんていう、どうしようもない悪夢。
「……どうか、してる……」
荒い呼吸のまま呟く。
昨夜の夢はまだ頭にこびりついていて、薄れてくれない。
本当に、酷い悪夢だった。
夢の中の自分はボウ、としていて、自分一人じゃあの悪夢から目覚められなかったと思うぐらいに。
「志貴さま……!」
と。
慌てた様子で、翡翠が部屋にとびこんできた。
「翡翠……? どうしたんだ、ノックもしないで入ってくるなんて」
「あ……お目覚めになられたのですか、志貴さま……?」
「うん、いま起きた。おはよう翡翠。今朝も起こしに来てくれたんだ」
「あ――はい、おはようございます」
申し訳なさそうに挨拶を返して、翡翠はベッドまで近づいてくる。
「お飲み物をお持ちいたしました。ご気分が優れないようでしたらお飲みください」
見れば、翡翠は昨日と同じように銀のトレイに飲み物を用意していた。
「……? いや、別に気分は悪くないからいらないよ。ぐっすり寝たしね、頭もスッキリしてる」
「───ですが」
じっ、と俺を見つめる翡翠。
「先ほどはひどくご気分が優れていないようでした。志貴さま、胸の傷が痛んでいるのではないですか?」
「べつにそんなことはないけど。……まあ、たしかに夢見が悪くてうなされていたかもしれないな。さっきまでひどい夢をみてたから」
……思い出すと眩暈がする。
翡翠はじっと、そんな俺の顔を見つめている。
「……そっか。翡翠が起こしてくれたんだ」
「……はい。申し訳ございません」
「なに言ってるんだ。ありがとう、翡翠。起こしてくれて助かった」
心からの本心でお礼を言う。
翡翠が起こしてくれなかったら、俺はまだあの悪夢の中で立ち尽くしていただろうから。
「それじゃすぐに着替えてから食堂に行くからさ。わざわざ飲み物まで持ってきてくれたのに、ごめんな」
「いえ、いいんです。それでは居間のほうでお待ちしております」
翡翠は静かに退室していく。
正直、ちょっと感動している。
翡翠は無表情な子なんだなって思っていたけど、もしかして感情表現が下手なだけなのかもしれない。
俺がうなされているだけであんなに慌てていたなんて、想像するだけでつい笑ってしまう。
この分なら、翡翠の笑顔を見ることもそう難しい事じゃないかもしれない。
「――――さて、起きるか」
シーツをはいで、体を起こす。
―――瞬間。
ずきり、と激しく体が痛んだ。
「ぐっ………!」
痛みは奥のほうから、どくん、どくん、と鼓動に合わせるように、響いてくる。
「あ───ぐ───」
シーツをつかんで、なんとか痛みに耐える。
「は―――あ」
……おさまった。
突発的な発作だったのか、体に異常はない。
「……胸の……傷」
服の上から胸に触れる。
そこには大きな傷跡があって、完治した今でも、ときおり今みたいに痛むコトがある。
主治医が言うには、精神的な痛みが完治したはずの肉体の痛みを繰り返させる、というコトだ。
たいてい胸の傷が痛む時は、交通事故や生き物の死体を見たあとだ。
血や死のイメージが、八年前の事故を思い起こさせているんだろう。
「……昨夜のせい、か」
赤い路地裏。
そこで普段通りに話しかけてきた弓塚の笑顔。
「ぐ――――!」
胸が、痛む。
弓塚のことが頭から離れない。
けど、どうすればいいのか、どうするべきなのかさえ、俺には考えつかない。
俺に出来る事といえば、遠野志貴の日常をとりあえずこなす事ぐらいだ。
「く―――そ」
自分自身に悪態をついて、ベッドから起きあがる。
寝巻から学生服に着替えて、居間に向かうことにした。
居間には秋葉と翡翠の姿があった。
琥珀さんは厨房のほうで俺の朝食の支度をしてくれているんだろう。
「おはようございます、兄さん」
秋葉はソファーに座ったまま、こっちの顔色をうかがうように挨拶をしてくる。
「……ああ、おはよう秋葉」
挨拶を返して、そのまま食堂に向かう。
時間的に秋葉とのんびり居間で話をする余裕はないし―――俺自身にも、誰かと話をする余裕なんてなかった。
「兄さん、お話があるのですけど―――少し、よろしいですか」
「いいよ、時間がないから手短にな」
秋葉の向かいのソファーに座る。
「それでは率直に聞きますけど、兄さん昨夜はどこにいっていたんですか?」
秋葉はまっすぐな目で問いただしてくる。
……琥珀さんは秘密にしてくれただろうけど、さすがに二時間近く屋敷にいなければ隠し通す事なんかできなかったか。
「……別に。ただ街を歩いていただけだよ。遅くなったのは謝るけど、そう大したことじゃないだろ」
秋葉に嘘をつきたくないから、できるだけ曖昧に返答した。
「街を歩いていただけって、それは大した事でしょう。兄さんはまだ未成年なんですから、夜の街になんかいないでください。そうでなくても、最近は物騒なんですから」
「―――――――あ」
物騒―――夜の街を徘徊する通り魔。
なんで。
なんで、気がつかなかったんだろう。
人を殺して血を抜き取るという殺人鬼。
そのフレーズは、昨日の弓塚にぴったり当てはまってしまうじゃないか――――
「……こんなこと、私が言うまでもないでしょうけど、兄さんの体は無茶がきかないんです。
昨夜みたいに、その……ひどく疲れた顔をして帰ってこられたら、困ります。
何か悩み事があるのでしたら打ち明けてください。大した力にはなれませんけど、私でよかったら…………」
―――考えたくないけど。
弓塚。弓塚が、この街を騒がしている殺人鬼なのかも、しれない。
「兄さん? ちゃんと話を聞いてますか?」
「あ――――いや、うん、聞い、てる」
秋葉の声が聞こえる。
けど、こっちの頭の中はただ、昨日の弓塚の姿が思い出されるだけだった。
秋葉はじっと俺を見つめてくる。
「どうしても事情は話せないっていうんですね、兄さんは」
「ああ。秋葉には、関係ないことだ」
今は弓塚のことしか考えられない。
早く一人になりたくて、そんな言葉を、返していた。
「―――あくまで自分だけの勝手を通す、というのですね、兄さんは」
「………………」
「わかりました。では、どうぞご自由になさってください。兄さんがそうおっしゃるんでしたら、私も自分の勝手を通すだけですから」
秋葉はロビーへと立ち去っていく。
「志貴さま。よろしいのですか、それで」
「……よろしいって、なにが」
「秋葉さまは志貴さまを深く案じているんだと思います。……あの方はご自分のお気持ちを口にする方ではありませんから、志貴さまに伝わりにくいとは思いますが―――」
「ちゃんとわかってるよ。けど、今は頭がいっぱいでダメなんだ。……秋葉には、悪いと思ってる」
「………………」
翡翠はそれきり黙りこんだ。
「志貴さーん、朝ごはんですよー!」
食堂から琥珀さんの声が聞こえてくる。
席を立って、食堂に向かった。
「志貴さま、今日のお帰りは何時になるでしょうか?」
「ああ、今日は土曜日だから……いや、夕方になるかもしれない。ちょっと、探し物があるから」
「かしこまりました。それではどうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
ふかぶかと一礼する。
翡翠に見送られて、屋敷を後にした。
―――学校に来ても、何の意味もなかった。
弓塚さつきは欠席者として扱われて、誰も、彼女のことを案じていないように見えた。
時間はそれこそいつのまにか過ぎてしまっていた。途中、有彦やシエル先輩がやってきたような気がするけど、よく覚えていない。
昼になって学校が終わった。
何のあてもない。
何のあてもないけど、弓塚を捜さないといけない。
日が沈む。
街中を走りまわっても、弓塚さつきの姿は見つけられなかった。
「…………くっ」
悔しくて歯を噛んだ。
……弓塚が見つからないのが悔しいんじゃない。
二日前。
この道で、あんな約束をした自分が、腹だたしい。
―――ピンチの時は助けてね。
そう言ってきた弓塚に、俺は気軽に返答した。
自分に出来ることなら手を貸すよ、と。
……それは、なんて無責任な返答だったんだろう。
俺にできることなんて、本当にちっぽけだ。
痛い、と。
痛くて暗くて寒い、なんて苦しんでいた弓塚の姿を見つけ出すことさえ、できない。
「――――――」
日が沈んでいく。
……認めたくないけど、夜にならないと弓塚は見つけられないのかもしれない。
「……夕方には戻るって、翡翠に言ったんだっけ」
時間が早かったのかもしれない。
いったん屋敷に戻って、冷静に考えてみよう。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
ロビーでは翡翠が待っていた。
「ただいま。……翡翠、秋葉はどうしてる?」
「秋葉さまはお帰りになってらっしゃいません。遅くなるそうですから、夕食は先にとるようにとの事です」
「そうか。……夕食まで部屋で休んでるから、時間になったら食堂に行くよ」
「はい。お呼びしますので、ごゆっくりお休みください」
ふかぶかとお辞儀をする翡翠に背を向けて、自分の部屋へ足を運んだ。
―――夕食が終わって、ベッドに腰をかける。
時計の針は夜の九時にさしかかろうとしている。
この屋敷は八時をすぎてからの外出は禁じられているから、もう外に出る事はできない。
「……………」
だが、そんなものはただのきまりごとだ。
その気になればいくらでも外には出れる。
―――ばいばい。また明日学校でね、遠野くん。
……なにを……考えてるんだろう、と自分でもバカらしく思う。
弓塚がいったいどうなっているのか、俺にはてんでわからない。
アイツが街を騒がしている吸血鬼殺人の犯人だっていう事も、思い知らされてる。
けど、どうしても。
夕暮れの帰り道、弓塚の最後の言葉が、どうしても忘れられないでいる――――
……いつのまにか、時刻は十二時にさしかかっている。
俺はどうするべきかまだ迷ったままで、眠れない夜を過ごしていた。
「……志貴さま、起きていらっしゃいますか……?」
……翡翠の声だ。
どうしたんだろう、こんな夜更けに。
「起きてるけど、どうしたの翡翠?」
「―――はい、何分このような時間なので迷ったのですが、志貴さまが起きていらっしゃるようでしたらお伝えするべきだと思いまして」
「伝えるって、なにを?」
「先ほど、志貴さま宛に電話がかかってきたのです。公園で待っている、との言伝でした」
「電話って……こんな時間に?」
「はい。お名前も言われずにお切りになりましたので、志貴さまに伝えるのはどうかと迷ったのですが―――」
「いや―――それは」
……考えるまでもない。
その電話は、弓塚からのものだろう。
「……ありがとう。でも、今夜は遅いからまた明日にする。その子、学校のクラスメイトだから明日になれば会えるんだ」
「うそです。そんな辛そうな顔をしていらっしゃるのに、笑われては、困ります」
「ばか、うそなんてついてないよ。大丈夫、こんな時間に外出なんてしない。秋葉をまた怒らせるだけだし、翡翠にも迷惑をかけるじゃないか。だから、そんなコトはしないよ」
「…………………」
翡翠は押し黙る。
しばらく、俺たちの間には言葉がなかった。
「……志貴さま。どうか、ご無理はなさらないでください」
「……やだな、べつに無理なんかしてないって。これから寝るんだから、翡翠も部屋に戻っていいよ」
「………………」
翡翠はただ俺を見つめてくるだけだ。
「―――それじゃあ、おやすみ」
それに耐えきれなくなって、強引にドアを閉めた。
「……まいったな。翡翠に隠し事はできないか」
机の引き出しからナイフを取り出す。
……何をするというわけでもないけど、一応用心のために武器を持っていかないと安心できない。
「―――公園か。こんな時間に呼び出すなんて、どうして―――」
呟いて、つまらない寓話を思い出した。
吸血鬼は夜じゃないと活動できない。
それが本当だっていうんなら、弓塚はこんな時間に俺を呼び出したのではなく。
こんな時間じゃないと、俺を呼び出せなかっただけじゃないのか。
「……ごめんな翡翠。自分でもバカだなって思うんだけど、この無理をしないと、どうにも眠れそうにないんだ」
ここにいない翡翠に謝って、静かに、屋敷を後にした。
「はあ―――はあ――――はあ」
走りどおしで熱くなった体を休める。
時間はじき午前零時にさしかかろうとしていた。
大通りから離れた公園。
連日の殺人事件でこのあたりには人影がない。
「………」
どくん、と心臓が高鳴る。
緊張で喉が渇く。
翡翠が受けとった電話が弓塚からのものなら。
彼女は、この奥で俺を待っているハズだ。
夜の公園に人気はない。
物音一つしない月下。
わけもなく、全身の体温が下がった気がした。
「―――――――っ」
首の後ろがしびれる。
体がシン……と冷えきって、指先さえもかじかんでいくような、悪寒。
「はっ……はっ……」
冷めていく体とは正反対に、喉が熱かった。
カラカラに渇いている。
ポケットの中に手をいれる。
ただしきりに―――刃物を、手にしていたかった。
「なん―――だ」
ギリ………。
微かな頭痛。
低くなる体温。
氷のように冷めていく理性。
なにか、ヘンだ。
この公園。このあたりには、よくないモノが、渦巻いている気がする。
「……いまさら何を恐がってるんだ、俺は」
頭痛を振り払って、奥へと足を進ませた。
あたりには誰もいない。
ひどく暗くて、寂しい待ち合わせ場所。
そこに―――誰かが蹲っていた。
はあはあという呼吸。
顔色は真っ青で、苦しそうに喉をかきむしっている姿。
それは間違いなく、弓塚さつきの姿だった。
「弓……塚?」
その姿があんまりにも苦しげだったからだろう。 俺は昨夜のことなんて考えもせず、弓塚へと駆け出した。
「待って―――!」
そんな俺の行動を、弓塚は声だけで止めてしまった。
「……待って、志貴くん。来てくれたのは嬉しいけど、今は近くにこられると困っちゃうんだ。お願いだから、それ以上は近寄らないで」
苦しげな呼吸で。
今にも倒れそうに体を震わせながら、弓塚はそんなことを言ってくる。
「ばか、そんな顔色をしてるヤツを放っておけるわけがないだろ……!」
「ううん、わたしは、大丈夫……志貴くんが来てくれたから、もう元気になっちゃった」
無理やり体をあげて、弓塚は笑顔をうかべる。
「……いったいどうしたんだよ弓塚。どうして家に帰ってないんだ。昨日のアレは一体なんだったんだ。どうして、あんな――――」
「ん? あんな、なに?」
「あんな―――あんなことを、していたんだ……!」
「あんなことって、昨日のことは見たまんまだよ。わたしがあの人たちを殺したって言ったでしょ?」
あっさりと返答する。
……それを否定したいっていう俺の気持ちを、嘲笑うみたいに。
「それじゃあ……街で起きている殺人事件は、弓塚の仕業だっていうのか」
「あんまし答えたくないけど。そういう事になるよ、うん」
「―――そういう事になるって、なんで!?」
「そういう事はそういう事だよ。わたしはあの人たちを殺したし、きっとこれからも同じ事をしていくんだもん。嘘をついたって仕方ないでしょ?」
「弓……塚、おまえ―――」
「その呼び方、やめてくれないかな。わたしだって志貴くんって呼んでるんだから、志貴くんも名前で呼んでくれないと不公平だよ」
「なっ――――」
ごくりと息を飲む。
弓塚はやっぱり以前のままだ。
以前のままの仕草で―――ひどく恐ろしいことを、口にする。
「考えてみると、わたしってばかみたいだよね。
こんなふうに志貴くんって呼ぶこともできないで、何年間もあなたのことを遠くから見てるだけだった」
「え――――弓、塚…………?」
「ずっと志貴くんのことを見てた。あの倉庫で助けられる前から、ずっと志貴くんの事を見てた。
わたし、本当は臆病なんだ。だから周りの人たちに合わせて、無理をして笑ったり話を合わせたりしてたらね、いつのまにかアイドルみたいに扱われちゃった」
「だから、学校はあんまり楽しくなかったんだ。でも中学二年生になったばかりの時にね、志貴くんに話しかけられてから変わったんだよ」
「え―――?」
「ううん、志貴くんは覚えてなんかないよ。なんていうのかな、あなたはいつも自然で、飾らない人だから。たぶんあの時の言葉も、志貴くんにとってなんでもない一言だったんだろうなあ」
「――――――――」
なんていえばいいんだろう。
弓塚の言うとおり、俺は何も覚えていない。
弓塚と何を話したのか、いや、弓塚と話したことがあるなんていうことさえ、覚えてない。
「いいよ、そんな顔しなくても。志貴くんはあの頃から乾くんに付きっきりだったから、他のクラスメイトには興味がなさそうだったし」
「けど、それでも良かったんだ。志貴くんと同じ教室にいるんだって思うだけで、すごく嬉しかった。 いつかあなたにちゃんと話しかけて、弓塚さんって呼ばれることを目標にしてたなんて、今思うとすごく損してたなって笑っちゃうけど」
懐かしむように彼女は言った。
とても昔。……とても遠い昔のことを思い出すように。
「わたし、ずっとあなたのことを見てた。気付いてくれないってわかってたけど、ずっと見てたんだよ」
「――――――」
それは―――正直嬉しいけど。
「ね。志貴くんはわたしのこと、好き?」
今の彼女に、俺はなんて答えてあげればいいんだろう―――?
・・・いや、答えられない。
「弓塚――――俺は」
俺は―――答えられない。
自分でもひどいヤツだって思うけど、それが本当の気持ちなんだ。
弓塚さつきっていうクラスメイトの事を、今まで意識したことはない。
ここにいるのだって、二日前の帰り道があんまりにも印象的だったから、どうしても放っておけなかっただけなんだ―――
「そうだよね。志貴くん、わたしのことなんて見てなかったもの。わたしのことを好きになってくれるはずないわ」
「あ――――」
びくり、と弓塚の体が震えた。
弓塚ははぁはぁと苦しげに息をはいて、そのまま―――地面に膝をついてしまった。
ごふっ、という音。
地面にしゃがみこんだ弓塚は、大きく咳をして、血の塊を吐き出した。
「―――弓塚!?」
今度こそ弓塚に駆けよった。
「弓塚、大丈夫か、弓塚……!」
ぜいぜいと上下する肩に手をやる。
「あ――――」
ゾッとした。
弓塚の体は、服の上からでも分かるぐらい冷たかった。
「ばかっ、こんなに体が冷えきってるじゃないか! なんでこんなんで夜出歩いてるんだよ、おまえは!」
「―――志貴、くん」
虚ろな声で俺の名前を呼んで。
そのまま、弓塚は倒れるように俺にしなだれかかってきた。
はあ、はあ、と。
熱をもった吐息が、肌にかかる。
「弓……塚?」
「志貴くんがわたしのことを好きじゃなくてもいいよ。わたしだって、今までずっと志貴くんのことがわからなかったから」
こふ、と吐き出すような咳をしながら、弓塚は声をあげる。
「いいから、もうしゃべるな……! すぐに病院に連れていってやるから……!」
「でも、今なら解るよ。志貴くんのことも、志貴くんがやりたいことも、本当によくわかるんだ。
だって――――」
「え――――?」
ぐっ、と弓塚の腕に力がこもる。
ものすごい力で、俺の肩を押さえつけてくる。
「だってわたしも、志貴くんと同じになれたんだから―――!」
言って。
弓塚は、俺の首にその歯をつきたてた。
「あ――――――」
意識。意識が、遠のく。
首筋には弓塚の牙がえぐりこんできている。
「―――――――」
吸われていく。
なにか、体中の全てのものが、液体に変えられて吸い上げられていくよう。
力が入らなければ、何も思いつかない。
これは、意識が遠のいているんじゃなくて。
単純に、意識を破壊されているだけだ。
「―――――――あ」
何も考えつかない。
このままだと死んでしまうって解っているのに、なにも――――
その女を 殺せ
だっていうのに。
俺の理性の与り知らないところで、どくん、と体中の血液が沸騰した。
「弓塚――――――!」
両腕はただ反射的に、弓塚の体を突き放した。
どすん、と地面に尻餅をつく弓塚。
「なに、を――――」
立ちあがる。
けど、それはできなかった。
体中が疲れきっていて、自分の腕一本さえも満足に動かせない。
弓塚はまるでアルコールを飲んだ後みたいに、ぼう、と座り込んでいる。
「あ―――――――」
弓塚の顔が、よく見えない。
意識が朦朧として、何もかも霞んでいる。
体の自由もきかない。
あるのはただ、首筋の痛みだけだ。
血がとくとくと流れている。
首筋に穿たれた、弓塚の歯形。
深く食い込まれた二つの穴から、なにか、黒いモノが体の中に注ぎ込まれてきている―――
「あ―――ぐ、ううううう………!」
背骨、背骨を抜き取られるような、痛み。
「は――――ぐ、ああぁああ……!」
ただ苦しくて、地面をひっかく。
けれどどこにも助けなんかない。
弓塚に体の中身を吸われて動けない上に、体の中に黒い蛇を注入されたような痛み。
動くこともできないで、体の中を這い回る黒いモノに好き勝手犯されていく。
「はっ――――あ、あ――――!」
地面をかきむしる。
弓塚は恍惚とした瞳のまま、俺を、見つめて、いる。
「弓……塚……、おまえ、なにを………!」
「だいじょうぶ、痛いのは最初だけだから我慢して。初めは苦しいけど、血が混ざってくれればすぐに落ちつくよ。
志貴くんを殺すようなことはしないから安心して。ちゃんとわたしの血を流し込んでおいたから、昨日の出来そこないみたいに崩れる事もないし、わたしの事だけを見てくれるようになるから」
弓塚は嬉しそうに囁いてくる。
「なに―――言ってる、んだ、ゆみづ、か――」
「なにって、志貴くんもわたしと同じになるっていうことだよ。
普通の食べ物のかわりに人間の血を吸って、太陽の下は歩けないから夜出歩くしかなくなる、違った生き物になるの」
……なんだ、それ。
ばかげてる、それじゃあまるで―――
「うん、吸血鬼みたいだよね。わたしもどうして自分がこんなになっちゃったか解らなかった。
二日前の夜、志貴くんが夜の繁華街で歩いているっていう噂を確かめにいって、気がついたら路地裏で倒れてて。
その時はただ、暗くて、寒くて、体中が痛いって思うだけだった」
「けど不思議なことにね、時間がたって、体が変わりきると色々なことが解るようになってた。
わたしの体が痛いのはすごい勢いで崩れていっているからで、太陽の光をあびるとそれが早まっちゃうとか、体の崩壊を止めるには同じ生き物の遺伝情報っていうのが必要なんだとか」
「うん、理屈はよくわからなかったけど、とにかく何をしなくちゃいけないかは簡単だったんだよ。
わたしは寒かったし、一人で寂しかった。
あのまま消えちゃうのなんてイヤだったから、とりあえず適当な人の血を吸ったんだ。
そうしたらね、それがすごく美味しいの! 体の痛みも薄れて、もうなんだって出来る気がしたんだから」
「けど、あんまりにも美味しかったから、気がついたらその人の血を残らず吸っちゃてた。
その人ね、干からびてミイラみたいになっちゃて、すごく後悔したわ。わたし、心も体も怪物みたいになっちゃったのかなって。
――――でも、生きていくためにはそうしないといけなかった。
言ったでしょ、わたしは憎くて人を殺してるんじゃないんだって。
わたしが人の血を吸うのは志貴くんたちが他の動物を食べてるのと同じ理由だもの。
だからわたし、あんまり深く考えないようにしたんだ」
「ば―――――」
なんだ、それは。
生きるために必要だから人間を殺してもいいっていうのか。
そんなこと、俺は―――
「でもね、ようやくわたしも一人前の吸血鬼になれたみたい。
今夜の食事はわりと楽しかった。
今まではただ寒くて痛いから血を吸っていたけど、段々とコツがわかってきて面白くなってきたんだ。
志貴くんなら解るでしょう? あなたはわたしなんかより、もっと上質な人殺しなんだもん」
「な――――」
なに、を。
なにを言っているんだ、弓塚、は。
「言ったでしょう? わたしはずっとあなたを見てきた。だからあなたの優しいところも、恐いところもちゃんとわかってた。
わたしがあなたに話しかけられなかったのはね、志貴くんの恐いところが何なのか解らなかったからなんだ」
「でも今なら解る。わたしはあなたと同じものになれたんだから。
ねえ志貴くん。あなただって、憎いとか好きだとかいう感情とは関係なく誰かを殺したいって思うんでしょう?」
「ふざ―――ける、な」
そんなこと、俺は今まで一度だって思ったことはない。
「ふざけてなんかないっ! わたし、志貴くんがもってる脆い空気が何なのか分からなかった。けどこんな体になって理解できたんだよ……!
志貴くんはね、ただそこにいるだけで死を連想させる。あなたはそういう人よ。今のわたしと同じで、人を殺さないと生きていけない人。
呼吸をしなくちゃ生きていけないのと同じぐらい、志貴くんにとって殺人行為は当たり前のことなんでしょう?」
「わたしね、昨日は嬉しかった。こんな体になって、初めてよかったなって思えた。だって今まで分からなかった志貴くんを、ようやく理解できたんだもの。
ね、志貴くんだって同じでしょう? 誰かを見て、理由もなく心臓がどくんどくんって高鳴って、喉がカラカラに渇いたりするでしょう?
赤い血を見て、お酒に酔ったときみたいにぼうっとするコトがあるでしょう?
人の命を奪ったり、人の命を殺したりするのはドキドキするぐらい楽しいよね!」
「うそ――だ、そんなコト―――一度、だって」
「―――――あ」
アレは、夢の中の話だったけど。
一度だって、ないとは、言え、ない。
「ほら。それが感情に左右されない、純粋な殺人衝動だよ。わたしが理解したくてずっと理解できなかった志貴くんの脆いところ」
「それともう一つ言い忘れてた。吸血鬼はね、血を吸った人間を吸血鬼にするっていうでしょ?
あれはね、ほんとのことなんだ。
正確にいうとね、血を吸っただけじゃその人間は死んじゃうだけなんだ。
吸血鬼は血を吸う時にね、自分の血を相手の体に流し込むことで吸った相手を自分の分身にしてしまうの。だから、いま志貴くんの体の中で流れてるのはね、わたしの血液」
立ちあがって、満足そうに語る弓塚。
「……そう。コレ、弓塚さんの、血、なん、だ」
……未だ体の中で毒を放ち続ける、黒いモノ。
こんな一口分にも満たない量で、狂いそうな寸前まで苦しいなんて、信じられない。
ならば
この血。
体中をぐるぐると回っていっている、異物。
目には見えない。
けど、俺の『目』なら、そんなもの―――
まず
地面に這いつくばってもがいたせいで、メガネがはずれた。
線。自分の体に走る、異物らしき、点が視える。
それから 殺せ
ナイフを、その点に刺した。
自分の体にナイフが入る。だが肉体には仔細ない。
殺した対象は、俺自身ではなくこの異物故。
「さあ、もうそろそろいいころだよね。立って、志貴くん」
……弓塚の命令が聞こえる。
痛みが薄れる。
手足の自由が戻って、俺はようやく立ちあがれた。
「―――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」
「………………」
「さあ、こっちに来て。わたしの傍にきて、わたしの手を握って、わたしを安心させて」
手を差し伸べてくる。
――――どくん。
心臓が一際高く鳴って、足が勝手に動き出す。
ただし、前ではなく後ろにむかって。
「志貴……くん?」
殺せ
困惑する弓塚の声。
――――どくん。
心臓が高鳴る。
喉がはあはあと渇いていく。
神経という神経が、目の前のモノを敵と認識していってしまう。
殺せ
「はあ……はあ……はあ」
その感情。
まるで他人のような、自分の思考。
体中から沸きあがってくる衝動を堪えきれない。
―――――――意識が/朦朧と/する。!w2000
「どうしたの……? ねえ、どうしてわたしの言うことをきいてくれないの……?」
殺せ
どくん、どくん、と脈打つ鼓動は。
ころせ、ころせ、と自分自身に命令するように、繰り返されている。
「志貴くん、あなた―――」
「……だめだ、弓塚――――」
はあはあと苦しい呼吸のまま、弓塚を見据える。
「どうして―――!? どうしてわたしの血が効かないの……!?」
「……弓塚の血は、殺した。だから、きみの仲間には、ならない」
「な―――」
呆然と俺を見る目。
殺せ
「……消えてくれ、弓塚。……どうしてかわからないけど……きみがいると、俺は―――」
殺せ
「俺は――――」
殺せ
「人を殺したくなんか、ない――――」
――――――――意識が/反転/する。!w2000
弓塚の目が黒く灯る。
針のような敵意。
遠野志貴の体は、遠野志貴の意思とは離れて、唇を舐めながらナイフを逆手に持ちなおす。
「そう。やる気なんだ、志貴くん」
「―――――――――――」
声が出ない。
何も、答えるべき思考が働かない。
視界さえゼロになる。
「うそつき。わたしのこと、助けてくれるって言ったのに」
そんなものは しらない
「……いいわ。志貴くんがおとなしくしてくれないなら、まず先に殺してあげる。わたしの血を送るのは、その後でも十分間に合うものね……!」
できそこないが よくいった
……ただ、声が聞こえる。
意思などない。
この体を殺そうとする弓塚を、この体が、殺し返そうとするだけだった。
トス、という感触。
ナイフを持った右腕は重く、だらりと下がった左腕は熱い。
左腕の熱さは、血の流れによるものだ。
弓塚の爪が、ざくりと、服を皮膚を裂いて俺に血を流させた。
その出血のおかげで、煮えたぎっていた血液が冷えてくれたのか。
猛々しく脈打っていた心臓が鎮まっていく。
だが、気がつけば。
俺は、弓塚の体を抱きしめるように、その心臓をナイフで貫いていた。
「な―――――――」
それは、悪夢の続きだった。
俺は、無意識のうちに。
弓塚さつきを、殺してしまっていた。
「なん……で」
しなだれかかってくる弓塚の体は冷たい。
体温なんて、初めからなかった。
彼女は氷のように冷たい体のまま、何もせずに、ただ俺に抱きついてくる、だけだった。
「………弓、塚」
ナイフを持った指が震える。
はあ、はあ、という呼吸。
それは俺と、弓塚のものだった。
「俺は――――――なんて」
殺すつもりなんてなかったのに。
弓塚を傷つける意思さえ、何一つなかったのに、どうして――――!?
「志貴……くん」
耳元で弓塚の声が聞こえる。
それはきっと、怨嗟の声だ。
助けると言っておいて。自分でも分からないままに彼女を殺してしまった俺に対する。
「…………うれ、しい」
なのに。
弓塚は、夢見るような穏やかさで、そんなコトバを口にした。
「どう、して」
「……だって、初めてわたしを真剣に見てくれたでんだもん。だから、うれしいの。わたしが、志貴くんにとって初めての相手、なんだなって」
―――――――どくん。
「……ごめんね。ばかは死ななきゃ治らないっていうけど、わたしの場合、死んでもなおってくれなかったみたい―――」
―――――――どくん。
「……弓……塚?」
―――――――どくん。
返事はない。
ざあ、と。
彼女の体は、まるで初めから無かったもののように、灰になって崩れ落ちた。
―――――何が、どうなったのか。
そうだ
―――――俺には、理解、できなかった。
それで いい
「は―――――――あ」
……息があがる。
ナイフを手にして、胃の中のものが、喉からせりあがってくる。
「あ――――はあ―――はあ―――」
……どうしてなのか。
彼女を殺してしまった後悔もある。罪悪感もある。
けれど、今はそれ以上に―――この感覚にこらえきれない。
「はあ―――はあ―――はあ―――」
なんて、衝撃。
この痛みを快楽というのなら、おそらくはこれ以上の快感はこの世には存在しまい。
そう思えるほど、全身の血がたぎって、どくどくと脈打っている。
……あなたはそういう人よ。いまのわたしと同じで、人を殺さないと生きていけない人。
―――――彼女は。
……呼吸をしなくちゃいきていけないのと同じぐらい、志貴くんにとって殺人行為は当たり前のことなのよ。
―――――人殺しが楽しいといった彼女は、誇らしげに、俺に対してそう言っていた。
「―――違う」
そんなものは違う。
そんなものを認めるわけにはいかない。
そんなものを認めてしまっては、自分はまともでいられなくなる。
「――――俺は違う。キミとは違うよ、弓塚」
反論に力はなかった。
視界が歪む。
ここに―――これ以上いたら、俺はダメになる。
……戻らないと。
自分の世界に、遠野志貴の日常に早く戻らないと、この毒に冒されてしまう。
「――――――く」
鋭い頭痛をかみ殺して、ふらふらと歩き出した。
ぎい、と音をたてて扉が開く。
重い身体と鈍い思考のまま屋敷に帰ってきた。
ずっ、ずっ、という足音。
月明かりに伸びる自身の影は、くたびれた亡霊じみている。
「―――――――――――っ」
……弓塚に裂かれた左腕が痛む。
出血はとうに止まっている。軋むような痛みは残留しているものの、傷自体はそう深いものではなかったらしい。
「―――――――――――」
階段に向かう。
傷の手当てなんて知らない。
今はただ、一秒でも早く部屋に戻って、泥のように眠りたかった―――――
●『4/揺籃の庭』
● 4days/October 24(Sun.)
長い眠りから目が覚めた。
窓から入ってくる陽射しは、すでに朝というより昼の陽射しだった。
昨夜、夜遅くに帰ってきたせいだろう。
昼近くになって、ようやく俺は目が覚めたらしい。
「……………」
ベッドから体を起こして、自分の手を見る。
――――まだ、弓塚を刺した時の感触が残っている。
二日前の夜。
弓塚に出会って、その晩にひどい悪夢を見た。
「……いっそ昨日のことも……夢なら、よかったのに」
そんな都合のいい話はない。
弓塚が吸血鬼だった理由もわからなければ、アイツを助けてやる事もできなかった。
―――いや。
ああなってしまった弓塚を助ける方法なんてなかったのかもしれない。
彼女は、とっくに生きてはいなかった。
俺がした事は、人並みに動き回れる死体を、ちゃんとした死体に戻しただけの事だって、それぐらいのことは考えられる。
だが、それでも――・
「失礼します、志貴さま」
もう馴染みになった声がして、翡翠が部屋に入ってきた。
「おはようございます志貴さま。今日は体調のほうはよろしいですか?」
「ん……ああ、よく眠ったおかげかな、体の調子は悪くないよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
……眉一つ動かさないで言われても、翡翠が安心しているようにはとても見えない。
「…………」
けど、俺は安心できた。
昨夜の出来事から、たった一晩しか明けていない。俺は、もうあの異常な世界から抜け出せないだろうって、心のどこかで諦めていた。
「……ありがとう翡翠。きみの事だから、朝から何度も様子を見に来てくれたんだろ? 気を遣ってくれて、感謝してる」
「――――いえ。志貴さまのお世話をさせていただくのがわたしの仕事ですから」
かすかに嬉しがっているような翡翠の表情。
……それに、幾分救われた気がした。
こうしてベッドに眠っていて、いつも通り翡翠が起こしに来てくれる。
そんな些細な事だけで、自分はちゃんとした日常に戻ってこれたって実感できたんだから。
「あの……志貴さま、申し上げにくいことなのですが、よろしいでしょうか?」
「……? なに、言いにくい事って。昼過ぎまで寝てた事には弁解のしようがないから、平謝りするしかないけど」
「いえ、そのようなことではないのですが、多少は志貴さまの睡眠時間が関係あることかもしれません」
翡翠は言いにくそうにもじもじと指を絡ませている。
「……その、わたしがいたらないばかりに、昨夜のことを秋葉さまに知られてしまいました」
「え……昨夜のことって……なに?」
「ですから、志貴さまがお出かけになられた事です」
「う――――」
思わず翡翠から目を逸らす。
自分ではうまくやり過ごしたつもりだったけど、やっぱり翡翠にはバレてしまっていたか。
「志貴さまは夜のうちに戻られましたから秋葉さまもそう気に留めてらっしゃらないようですが、のちほど何か聞かれることは確実です。
居間のほうにいかれるのでしたら、どうか気を引き締めてください」
「………そっか。まあ仕方ないよな、文句の一つや二つぐらい。門限を破っているのはこっちのほうなんだから」
「その件ですが、今後もこのような事があるのですか? わたしは志貴さまをお止めすることはできませんが、昨夜のような事が続くようでしたら秋葉さまにお報せしなくてはなりません」
「――――いや、昨日みたいな事はもうないよ。全部、昨日で終わったんだ。……もう、電話がかかってくることなんて、ない」
―――そう。本当に、決着がついた。
こうして言葉にして、ようやく終わった。
弓塚さつきはもういない。
街を騒がしていた吸血鬼は消えて、俺は、自分のことを好きだったと言ってくれたクラスメイトを、自らの手で、永久に喪った。
「…………………」
翡翠は痛ましそうな顔で俺を見る。
……まったく、翡翠にあんな顔をさせるぐらい、今の自分はひどい顔をしてるってコトか。
「―――さ、時間も時間だしいいかげん起きないとな。翡翠、秋葉は今日は屋敷にいるの? なにかと忙しいヤツだから、やっぱり休日も習い事をしてるとか」
「はい、秋葉さまは休日も予定が入っておりますが、今日は屋敷に残っておられます」
「………?」
予定はあるけど、屋敷には残ってる……?
「よくわからないけど……ま、とにかく着替えたら居間に行くから、先に行っていてくれ」
「はい。それでは失礼します」
翡翠はいつも通り、足音一つたてず立ち去っていく。
―――と、大事なコトを忘れていた。
「翡翠」
「はい? なんでしょうか、志貴さま」
「うん、言い忘れてた。起こしにきてくれてありがとう。遅れたけど、おはよう翡翠」
「―――はい。どうかよい一日を、志貴さま」
さて。
こっちも手早く着替えて居間に向かうことにしよう。
居間にはソファーに座った秋葉と、その相手をしている琥珀さん、それに壁際で控えている翡翠の姿があった。
「おはようございます、志貴さん」
「おはよう琥珀さん。悪いんだけど、ごはん作ってもらえるかな。ずいぶんと眠ってておなかが減っちゃってさ」
「はい、かしこまりました。いま支度をしますからしばらく待っていてくださいね」
琥珀さんはパタパタと食堂へと去っていく。
これで居間に残ったのは秋葉と、彫像のように無言を通している翡翠だけになる。
「……やっ。秋葉も、おはよう」
「……………………」
秋葉は不機嫌そうな顔で俺を一瞥するだけで、挨拶を返してこない。
「…………う」
翡翠の教えてくれたとおり、昨夜のことを怒っているらしい。
朝に『夜遊び厳禁!』って注意されたのに、その日の深夜に外出すれば、そりゃあ秋葉だって怒って当然か。
「秋葉。昨日は、その―――」
「兄さん。いくらなんでもこんな時間に起きてくるなんて、なにを考えているんですか」
「え―――いや、その、だから、ごめん」
「……もうっ、そんなコトを怒っているんじゃありません。せっかくの休日なのにこんな時間まで眠っている、兄さんの緩みようを怒っているんです、私は!」
ふん、と顔をそむけて怒る秋葉。
……っていうか、怒っているというよりは拗ねているように見えるのは、気のせいだろうか。
「いや、だって仕方ないだろう。昨日は遅かったんだし、体だって疲れきってたんだから」
「そんなのは自業自得です。だいたい夜の十二時すぎに出かけるなんて、いったい有間の家でどういう生活をしていたんですか、兄さんはっ!」
「うっ……あっちでだって門限は厳しかったぞ。夜の外出も禁じられてたし……」
「へえ、それはそれは。有間の家では規則を守っていたのに、こっちにきてからは守ってくださらないんですね。
……つまり兄さんは私の注意なんて微塵も気にとめていないっていうコトなんだ。ふーん、そうなるとこっちもそれなりの体罰を考えないといけませんね」
意地の悪い流し目をする秋葉。
……なんていうか、秋葉のセリフは冗談を言っても冗談には聞こえないあたり、恐ろしい。
「……体罰って、秋葉。おまえ、なんか恐いぞ」
「あのですね、あくまで例え話ですっ。夜は夜更かししほうだい、朝は気の済むまで眠ってる、なんていう人をしつけるには厳しくしないといけないでしょ」
むー、とうなる秋葉。
……悔しいけど、秋葉の言うことはまったくの正論なので反論のしようがない。
「だいたいね、兄さん。朝起きるだけだったら翡翠に起こしてもらえばいいだけでしょう?
今日は日曜日だからよかったものの、なんだっていつもいつも時間ぎりぎりで起床するのよ、兄さんは」
「……あのさ、秋葉。いちおう言っておくんだけど、俺だって好きで寝過ごしてるわけじゃないよ」
「なによ、それじゃあどうしていつも余裕のない朝を過ごしてるの? 私がいつもどんな思いで、時間ぎりぎりまで待って――――」
「秋葉さま」
「あ――――」
「………?」
さっきまでの剣幕はどこにいったのか、秋葉は唐突に黙ってしまう。
「あのな、秋葉。言っとくけど俺が起きるのがいつも七時過ぎなのはワザとじゃないよ。
俺だって早起きはしたいけど、体が言うことをきかないんだからしょうがないだろ。そんなに早起きさせたいんならすっごく強力な目覚まし時計を買ってくれ。それなら、まあなんとか早起きできるかもしれないから」
「……あの、兄さん? ふと疑問に思ったんですけど、兄さんは翡翠に何時に起こしてほしい、といった事は伝えてないの?」
「―――――あ」
そっか、そんな単純なことをど忘れしてた。
「そうだよな、せっかく毎朝翡翠が起こしにきてくれるんだから、翡翠に起こしてもらえばいいんだ。そういうわけなんで翡翠、これからは朝の六時半ごろに起こしてくれると助かるんだけど……」
ちらり、と背後の翡翠に視線を投げる。
と、翡翠はじっ、と俺の顔を睨みつけた。
「お断わりします」
「え?」
「ですから、志貴さまを起こすのはお断わりします、と申しあげたのです」
「えーと、その」
なんて言っていいものか、あまりのショックで思考が働かない。
見れば秋葉もびっくりしたような顔で翡翠を呆然と見つめていた。
「翡翠。どうして兄さんを起こすのは出来ないの」
「出来ない事はお引き受けできません。志貴さまを私の意志で起こすのは、おそらく無理だと思います」
「───無理って、どうして」
思わず二人の会話に口を挟む。
と、またも翡翠は俺をじっと睨んできた。
「今までの三日間、すべて無理でしたから。
志貴さま、今朝はわたしが幾度お呼びしたか覚えてらっしゃいますか?」
「いや、覚えてらっしゃいますかって───俺は翡翠の声で目が覚めるか、自分でかってに起きるだけなんだけど……」
「それ以前のわたしの声は記憶にも留まっていない、という事ですね。───秋葉さま、つまりこういう事です」
なるほどねー、と秋葉はいじわるな眼差しを向けてくる。
……なんていうか、一瞬にして俺の立場は最悪なものになってしまった。
「ようするに翡翠がいくら起こしても、兄さんは自分の起きたい時間でなければ反応さえしてくれない───そういう事なの、翡翠?」
翡翠は無言でうなずく。
「………………」
俺も無言でうなずく。
……そっかー、実は朝早くからちゃんと起こされてたのか。
自分でいうのもなんだけど、俺の熟睡ぶりもここまでくると神業の域に到達してしまっているかもしんない。
「………兄さん。どうして、そこで得意げな顔をなさるんですか」
「いや、つい。自分の大物ぶりに呆れてたとこ」
「……はあ。わかりました、翡翠は今までどおり、兄さんが起きそうになったらなんとか起きてもらえるように努力してちょうだい」
はい、と翡翠はうなずく。
話はまとまったようだ。
結局、俺は今までどおり自由気ままに朝を迎えるしかないってコトだろう。
「ねえ。ところで翡翠」
「はい、なんでしょうか」
「その、兄さんったら本当に起きないの? 呼びかけてもまったく反応しないの?」
「────はい。志貴さまの眠りはとても静かで、彫像のようですから分かりやすいんです」
「………………?」
……彫像のようって、なんだいそれ。
「へえ。兄さん、寝相いいんですね」
「いえ、そうではなくて───なんと申しますか、その、お眠りになられている志貴さまは別人のような気がいたします。
あんな静かな寝顔は見た事がなかったから、初めて見た時はお亡くなりになられたんじやないかって、その───」
「ですから起こしにくい、というのではなくて、起こすのがとても失礼な気がして、強く起こせないんです。
志貴さまがご自分でお目覚めになられる時は、白い頬に体温が戻っていって、ああ、お目覚めになられるんだな、とすぐに分かるんですが───」
翡翠は目を伏せたまま、人の寝相の感想をもらしている。
「……………」
……なんか、すごく恥ずかしい。
考えてみれば寝相っていうのは人間のもっとも無防備な姿なわけで、それをこう微にいり細にいり説明されると、裸を見られたみたいで赤面してしまう。
翡翠はそのまま黙ってしまうし、秋葉もなぜか顔をそむけて見当違いのところを見ていたりする。
「……………」
なんか、ヘンに場が重い。
「はい、お待たせしました。志貴さん、朝食が出来ましたよー」
そこへ、明るい声で救世主が登場した。
「あ、ありがとう。それじゃあごちそうになります」
「はい、ゆっくり召し上がってくださいね」
琥珀さんの笑顔に背中をおされて、一人で食堂へ足を向けた。
昼食を済ませて戻ると、秋葉も翡翠も居間に残っていた。
二人を無視して部屋に戻るのも気まずいので、秋葉の向かい側のソファーに座ってみたりする。
「どうぞ、志貴さんはお茶のほうが好きなんですよね」
琥珀さんが食後のお茶をテーブルに置いてくれた。
「うん、ありがと。遠慮なくいただきます」
「いえいえ、遠慮なんかしないでくださいな。ここは志貴さんのお家なんですから、もっと楽にしてください」
琥珀さんは俺に気を遣ってくれているのか、細かいところまで世話を焼いてくれる。
「……まいったな。俺、これでも屋敷には慣れたつもりなんだけど、まだ緊張してるように見える?」
「そうですねー、まだ両肩に力が入っている感じです。昔みたいに、とはいかないでしょうけど、もう少しゆったりしていいと思いますよ」
「琥珀、あんまり兄さんを甘やかしちゃだめよ。ただでさえ有間の家の暮らしで鈍っているんだから、初めは緊張しているぐらいがちょうどいいのよ、この人には」
「ふふ、秋葉さまは志貴さんにだけ厳しいんですね」
「私だって好きで厳しくしてるんじゃないわ。兄さんがあんまりにものんびりしてるから、こっちが気を配らないといけないだけだもの」
「………ふうん」
少し驚いた。
秋葉は琥珀さんと話していると、どことなくいつもの凛とした雰囲気がなくなっている。
同じ年頃だという事もあるんだろうけど、この二人はすごく仲がいいのかもしれない。
「………」
ちらり、と翡翠に視線を移す。
秋葉が何人もいた使用人を解雇して翡翠と琥珀さんを残した以上、翡翠だって秋葉に信頼されていると思う。
けど、やっぱり琥珀さんとは正反対の性格のためか、翡翠と秋葉が気軽に会話をする場面は少ない気がする。
「なんでしょうか、志貴さま」
俺が見ている事に気がついて、翡翠が用事を聞いてくる。
「いや、別に用事はないんだ。ただ翡翠は大人しいなって思っただけで」
「―――はい。そのように槙久さまにお教えいただきました」
きっぱりと返答する翡翠。
……なんていうか、きっぱりしすぎていて会話が続いてくれない。
「………………」
気まずくなって黙り込む。
と、そんな俺に気を使ってか、琥珀さんが話しかけてきた。
「そういえば志貴さん、一つお聞きしてよろしいですか?」
「え―――ああ、いいけど、なに?」
「ええ、志貴さまは昨夜もお出かけになられたようですけど、深夜になると定期的に出かけるような用があるのかなって」
「あ―――いや、そんな事はないよ。ちょっとここ二日間は特別だっただけだから」
ちらり、と翡翠に視線を移す。
翡翠は無言で、俺と琥珀さんのやりとりを見つめている。
「大丈夫だよ琥珀さん。もう夜遅くに外出することはないから。それにさ、子供じゃないんだから夜出歩くぐらいそう危険なことじゃないだろ?」
「もうっ、なにのんきなコトを言ってるんですか志貴さんはっ! ね、翡翠ちゃんもそう思うでしょ?」
「姉さんの言うとおりです。志貴さまは遠野家の長男なのですから、そのような無用心な行動はお控えください」
「ほら、翡翠ちゃんだって怒ってるじゃないですか。いいですか、志貴さんは貧血持ちなんですから、あんまり無理をしちゃいけないんです。
わたし、志貴さんの主治医さんにも注意されてるんですからね」
「……いや、それはそうだけど、それと夜の外出は関係ないよ。一人で出歩くのがいけないんなら、俺は学校にだって行けないじゃないか」
「関係ありますねー。昼間は明るいから誰かが助けてくれるでしょう? けど夜は別です。とくに最近は吸血鬼殺人とか流行ってるんですから、貧血で倒れたところを襲われる、なんてコトがあったらどうするんですか」
「あ…………」
びくり、と思わず体が震えた。
こうして、自分以外の誰かから『吸血鬼』という単語を聞くと、本当に弓塚が人を殺していたんだというコトを再認識してしまって。
「……いや、大丈夫だよ琥珀さん。夜の街に吸血鬼なんていない。……あの事件は、もう二度とおきないから」
弓塚さつきは、もうこの世にはいないんだから。
「はい? そうなんですか秋葉さま?」
「わたしに聞かれてもわかるわけがありません。断言しているのは兄さんなんですから、兄さんには何か根拠でもあるんでしょう。
そういえば、兄さんの高校では殺人事件の犠牲者になった方がいたらしいけど。二年三組といったら兄さんのクラスではなかったかしら」
「え……? 俺のクラスで犠牲者なんていないけど」
「あ、志貴さんは今朝のニュースを見てないんですね。なんでも一昨日の夜、弓塚さつきという方の血痕が大通りの路地裏で発見されたそうなんです。
血痕自体はもっと前についたものらしいんですけど、現場に残された出血量からして死亡しているのはまず間違いないという話ですよ」
「―――――――」
……動悸が激しい。
彼女。弓塚さつきが死亡しているなんて、そんな事は誰よりもよくわかっている。
けれど、こうはっきりと“死亡している”と言われると、“おまえが殺したんだろう”と言われている気がして――――
「―――兄さん? どうしたのよ、顔色が悪いわよ」
「―――いや、別に、なにも―――」
気分が沈む。
せっかく翡翠のおかげで心が落ち着いてくれたのに、こんな些細なことで倒れそうになるなんて、なんて、この心は弱いのか。
「みなさん、今夜は歓迎会をいたしましょう!」
と。
いきなり、琥珀さんがはしゃぐような大声をあげた。
――――はい?
と、俺と秋葉と、あまつさえ翡翠までもが首をかしげる。
「ですから志貴さんの歓迎会をしましょう! せっかくみんなそろっているんですし、志貴さんの引っ越し祝いもまだしてないじゃないですか。
ですから、今夜は志貴さんの歓迎会なんです」
ね、と琥珀さんは俺ににっこりと笑顔をむけてくる。
「…………………」
……まいった。
翡翠といい琥珀さんといい、どうしてこう、俺が弱っているコトに敏感なんだろう。
「秋葉さま、よろしいですか? お許しがいただければ、いまから腕によりをかけてご馳走をお作りしますけど」
「そうね、せっかく兄さんが帰ってきたのに何もしないっていうのもなんだし。わたしは賛成だけど、翡翠はどう? もちろん賛成でしょ?」
「あ―――はい、志貴さまがよろしいというのでしたら、わたしも、悪くはないと思います」
じっ、と三人の目がこっちにむけられる。
俺は――
もちろん賛成だ。
……そうだな。
後悔はしないって決めたんだし、なにより俺を気遣ってくれた琥珀さんの気持ちを大切にしないと。
「賛成にきまってるよ。自分の歓迎会なんだから、断るはずがないだろ」
「きまりですね! それじゃあわたしはお料理の準備をしますね。翡翠ちゃんは―――今日のわたしの仕事を任せていいかな?」
「わかりました。ロビーと東館の掃除ですね」
「それじゃあ私は……どうしよっか、琥珀?」
「秋葉さまと志貴さんはお部屋でお休みくださいな。ご夕食を早めにして歓迎会を開きますから、ご用がおありでしたらそれまでに済ませてくださいね」
琥珀さんは厨房に、翡翠は中庭へ向かった。
「それじゃ私は部屋に戻ります」
さて。俺はどうしようか?
琥珀さんの手伝いをする。
単純に考えて、四人分のご馳走を作る琥珀さんが一番タイヘンだろう。
こと料理に関して何を手伝えるか不安だが、とりあえず琥珀さんのところに行こう。
すでに台所は戦場と化していた。
台という台には山のように積まれた食材が散乱していて、台所に足を踏み入れた瞬間に逃げたくなるぐらい仰々しい。
「志貴さん、何かご用ですか?」
ひょこっ、と琥珀さんが顔を出してくる。
「……いや、何か手伝えないかなってやってきたんだけど――――」
これは、俺なんかがやってきてはいけないセカイのような気がする。
「あ、それは助かっちゃいます。ほんとを言うとですね、わたしのほうから志貴さんにお願いに行こうかなって思ってたんですよ」
「そ、そうなの……? けど俺、料理をしたことがないから琥珀さんの力になれるかちょっと不安なんだけど」
「いえいえ、ちゃんと誰でもできるような作業だってあるんです。ささ、そういうワケですからお手伝いをしてください」
ぐ、と俺の手を引っ張っていく琥珀さん。
「…………」
なんか納得がいかないまま、琥珀さんの手伝いをする事になった。
……冷静になってみると、この屋敷の大きさからいって、この台所は小さかった。
まだ屋敷に沢山の人がいた頃は厨房を使っていたらしいんだけど、今は秋葉と翡翠、琥珀さんに俺という四人だけだから、新しく台所を改装したという事だ。
「はい、それではきちんと手を洗って、エプロンを着用してください」
誰の趣味なのか、朴念仁と書かれたエプロンを渡される。
「それじゃあ志貴さんには単純作業から入っていただきますね。それ、全部終わったら次は志貴さんならではの作業が待っていますから」
琥珀さんは上機嫌だ。
――――とりあえず、ざるいっぱいに入ったエビの皮むきを隊長から命じられた。
とん、とん、とん。
まな板を叩く軽快な包丁の音。
んんんんん〜。
調子のずれた琥珀さんのハミングが台所に響いている。
……。
…………。
……………………。
琥珀さんは調理に没頭しているのか、あまり話しかけてこない。
俺のほうもエビの皮むきが楽しくて、ついペリペリと皮をむき続けている。
「――――――」
……けど、懐かしい。
俺が事故にあって屋敷を出る事になる前、琥珀さんと秋葉と俺でこういったママゴトを何度かやったことがある。
あの頃は幼くて、お互いが異性なのだという事を考える事さえなかった。
ただこの広い屋敷にいる、知り合ったばかりの友達との毎日が楽しかっただけだ。
それまで色々とつもった出来事を忘れてしまうぐらい、俺たちははしゃぎまわっていたと思う。
……いや、それとも。
様々な過去を忘れるために、日々を楽しく過ごそうとしていたのかもしれなかった。
「志貴さん、エビの皮むき気に入りました?」
「え? いや、別にそういうわけじゃないけど、どうしてそんなコト言うんです?」
「だってすごく楽しそうじゃないですか。翡翠ちゃんはですね、エビの皮むきをしてると眉をよせていって、最後には八の字になっちゃうんですよ」
「そうなの? 意外だな、翡翠はこういうの淡々とこなしそうに見えるけど」
「ええ、どうしてか翡翠ちゃんはお料理が苦手なんです。お掃除とか、物を整頓するのはすごく得意なんですけどね」
「そうなんだ。翡翠も琥珀さんも、なんでも出来るって感じだけどな」
「そうだったら嬉しいんですけど、わたしも翡翠ちゃんも生まれつき一般の常識からズレてる所があるんです。
翡翠ちゃんは味覚がおかしくて、翡翠ちゃん本人が美味しい料理を作ったつもりでも、わたしや秋葉さまからするとものすごく玄妙な味わいがしたりするんです」
なるほど、それで翡翠は料理はしないのか。
翡翠は味覚がちょっとヘンで、琥珀さんは……どこがズレてるんだろう?
「……まあ、考えてみれば翡翠だって琥珀さんだって何もかも一緒ってわけじゃないもんな。
琥珀さんは昔っから明るかったし、翡翠は昔っから屋敷に閉じこもっていたし」
「へえ、わたしって明るく見えました? いちおう、これでも志貴さんたちのことを見ているつもりだったんですけど」
「うん、それは知ってた。琥珀さんは一緒になってはしゃぎまわってくれたけど、危ないような遊びは止めてくれたし、いつも見守ってくれてただろ」
……ああ、ちゃんと覚えている。
屋敷の中庭で鬼ごっこをした時とか。
出来たばかりの池で、親父の鯉を釣り上げようと試行錯誤した時とか。
「ほら、そういえばさ、屋敷の門から抜け出して外に出た時があっただろ。
あの時なんか帰り道がわからなくなってさ、結局琥珀さんが屋敷に電話してくれて、使用人の人に迎えに来てもらったんだよな」
「ええ、そのあとに槙久さまがひどく志貴さんを叱ってましたね。みんなで遊びに出たはずなのに、いつのまにか遊びに出たのは志貴さんだけになっていて。色々とやんちゃな事をするんですけど、最後には秋葉さまとわたしは志貴さんに助けられるのが日課でした」
くすくすと笑みをこぼしながら、懐かしむように琥珀さんは独白する。
「……なんだろ。こうして昔のことを話してると、帰ってきたんだなって気がする」
そう。
この屋敷にはあまり思い出がない分、琥珀さんと過ごした幼年期の思い出を話しているだけでひどく懐かしい気持ちになれる。
けど、思い出されるのはそんな楽しかった記憶だけじゃない。
「……翡翠には、悪いことをしたな」
……いつも心の片隅に残っていたあの子。
結局、一度もまともに話さなかった窓際の少女の記憶がある。
「……あの子、ずっと窓から俺たちを見てたんだ。いつもさ、子供心に気になってた。あんな寂しそうな顔してないで、こっちに来て遊べばいいのにって」
それでも、あの子は俺が屋敷から立ち去る時、ただ一人贈り物をくれたのだ。
「そうですよねー。翡翠ちゃんったら、あの頃から内気で何を考えているかよくわからない子だったから。わたしも、翡翠ちゃんが幸せになってくれるなら自分はどうなってもいいって、ずっと思ってたぐらいですから」
「そっか。琥珀さんは妹思いなんだな」
なんだか嬉しくて、そんな相づちをうつ。
「あ」
と。
短い声をあげて、琥珀さんが手をあげた。
見れば人差し指がざっくりと包丁で切られている。
「こ、琥珀さん、指切れてる……!」
「え?」
言われて、琥珀さんは自分の指が切れている事に気がついたようだ。
「あ、ほんとだ」
「ほんとだって、ちょっと琥珀さん!」
信じられない。
俺から見てもざっくりと切っているっていうのに、琥珀さんはずいぶんとのんびりとしている。
「恥ずかしいなあ。得意分野のお料理でドジをしちゃうなんて」
あはは、といつも通りに笑う琥珀さん。
「笑い事じゃないだろ、早く手当てをしないと……!」
「大丈夫ですよ。命に別状があるわけじゃないんですし」
「でも痛いでしょう、そんなに切れてるんだから!」
「いえいえ。こういうのはですね、痛くないって思えば痛くないんですよ。この指だけ自分の体じゃなくて、人形か何かだと思い込むんです。そうすれば痛いなんていう感覚がしなくなるでしょう?」
「な――――」
笑顔で琥珀さんは達観したコトを言う。
そりゃあそういうふうに思えば、少しは痛みを我慢できるだろうけど、痛み自体はけっして和らがない。
「ああもう、ともかく手当てをしてください! 俺は血に弱いんです。ここで貧血で倒れたら琥珀さんのせいですから……!」
「そうですね、ちゃんと手当てはしないといけませんね。それじゃ志貴さん、ちょっと席を外します」
最後までにこやかな笑顔を崩さず、ペコリと頭をさげて琥珀さんは台所から出ていった。
「それでは志貴さんが戻ってきた事を祝して、乾杯をしたいと思います。みなさん、どうかお好きなお飲み物を選んでください」
琥珀さんはまったく毒気のない笑顔で、並べられた飲み物を勧めてくる。
その大部分がジュースなどといったものではなく、れっきとしたアルコール飲料だったりした。
「……秋葉、あのさ」
「ん? なに兄さん?」
……秋葉は自分のグラスにとくとくと茶色の液体を注いで、オレンジジュースで割ったりしている。
「おま、おまえ、それウイスキーじゃ、ないんですか」
「そうだけど、何かヘンですか?」
「そうだけどって、秋葉」
その、未成年の飲酒はいけないんじゃなかったっけ……?
「兄さんの歓迎会なんですから、お酒ぐらいは飲まないとつまらないでしょう?
あ、それとも兄さん。もしかしてアルコールは弱いほう?」
秋葉はどことなく嬉しそうだ。
「あっ、翡翠ちゃん。珍しいね、今日はジュースじゃないんだ」
「…………………」
照れているのか、翡翠は無言でお酒をグラスについでいる。
「ほら兄さん、翡翠もお酒を飲むっていうんですから、まさか一人だけジュースですませようってつもりじゃないでしょう?」
「………ったく。わりとお祭り好きだったんだな、秋葉は」
「ええ。好きなお祭りは少ないですけど、今日は特別ですから」
――――はあ。
仕方ない、あんまり純度の高いアルコールは体によくないんだけど、少しぐらいなら大丈夫だろう。
テーブルに並んだ飲み物の中で一番度数の低いのは―――ワインかな。
「それではみなさん、グラスをどうぞ。
せーの、かんぱーいっ!」
キィン、とガラスとガラスの弾け合う音のあと、琥珀さんはクイッと一気に、秋葉は時間をかけてゆっくり、翡翠はチロチロと舐めるように飲み干していく。
……あーあ、どうなってもしらないからな、俺は。
――――ほら、だから言ったじゃないか。
……何がまずいって、とにかく翡翠がまずかった。
琥珀さんと秋葉は不心得にも酒に慣れているらしかったが、翡翠にとってまともに飲むのは今日が初めてだという。
だっていうのに俺に合わせての事なのか、頬を赤らめて一生懸命にグラスを口をつけて、その結果がコレだった。
「……あの、翡翠……? その、辛いんだったら無理に飲まなくてもいいんだぞ」
「……………………」
こくん、と頷く翡翠。
そのまま無言でグラスに口をつけて、ぼう、と視線を宙に漂わせる。
……いくら止めても翡翠はちょびちょびとグラスを傾ける。
……よく解らないけど、翡翠は翡翠でお酒が気に入ってしまったのかもしれない。
―――、と。
「ぁ………」
なんて声をあげて、猫のように翡翠はソファーにまるまってしまった。
「あはは、だめですよー、翡翠ちゃん。こんなところで寝ちゃったりしたら風邪引くじゃないですか。ほらほら、秋葉さまもぶつぶつと文句なんておっしゃらないでくださいな」
琥珀さんは笑顔で眠ってしまった秋葉と翡翠に話しかけている。
……どう見ても、琥珀さん本人も酔っているふうにしか見えない。
「……まいったな。翡翠、本当に初めてだったのか」
「はい。翡翠ちゃん、お酒にはてんで弱いですから。いつもはですね、一口飲んだだけで顔を真っ赤にしてしまうんですよー」
あははー、と陽気に笑う琥珀さん。
「……ちょっと。それ、かなり問題があるんじゃないか」
「そうですよね。翡翠ちゃんもいつもは断るんですけど、志貴さんが勧めるから無理したんですよー。 普段は愛想よく振る舞えないから、せめてお酌ぐらいはしようとしたんでしょうね。もう、わが妹ながらかわいいったらないじゃないですか!」
バンバン、と俺の背中を叩いてくる琥珀さん。
……なんだかんだと、この人もものの見事にできあがっている。
「今夜はこれでお開きかな。秋葉もへべれけだし、翡翠も丸まってしまってるし」
「……へべれけって……なんですか。兄さん、わからない言葉、使わないで、ください……」
ぶつぶつと文句を言う秋葉。
なんでも秋葉は解らない事があると不機嫌になるらしい。
それはそれでいいんだけど、こうして酒がまわってしまうと何もかもが理解不能になってしまうらしく、結果としてぶつぶつと文句を繰り返すマシーンと化していた。
「それでは秋葉さまはわたしがお運びしますから、志貴さんは翡翠ちゃんをお願いしますね」
「え―――ちょっと待って琥珀さん。俺、翡翠には触れられないよ。前に翡翠に触っただけで叩かれちゃったんだから」
「―――そっか、そういえば翡翠ちゃんってば極度の潔癖症でしたっけ。男の人と手を握るだけで吐いちゃうぐらいですから、志貴さんが抱きかかえるのは問題がありますねー」
「……手を握るだけで吐く……?」
それは潔癖症という言葉だけですませられる事じゃない。
八年前からおかしいと思っていたけど、翡翠って一体―――
「でも、翡翠ちゃんは眠ってるんだし大丈夫ですよ。はい、それじゃ秋葉さま、お部屋に戻りますからね」
「そんな、ちょっと琥珀さん!」
……琥珀さんは振り返らない。
秋葉に肩をかして、よろよろと食堂を後にしていく。
残ったものは。
食べきれなかった料理の山と、空になったお酒の山と、すーすーと安らかな寝息をたてる翡翠だけだった。
秋も本番。
こんなところで寝てしまったら風邪ぐらい引いてしまう。
「……いいのかな、翡翠に触っちゃって」
けど場合が場合だ。
……こっちだって、その、よこしまな気持ちはないんだし、翡翠を部屋に運ぶだけ、なんだし。
「……ごめん。あとで怒っていいから」
眠っている翡翠を抱き上げる。
「ぁ――――――」
それだけで、どくんと心臓が高鳴った。
「……軽い」
翡翠は思っていたとおり、軽かった。
すっぽりと両手に納まる華奢な体。
柔らかい手触りと、確かな体温。
「……まず。早く部屋に連れていかないと、俺のほうがどうかしそうだ」
翡翠を起こさないようにゆっくりと、食堂を後にした。
翡翠の部屋のドアノブに手をかけて、愕然とした。
「――――うそだろ」
鍵がかかってしまっている。
「鍵は―――翡翠のポケット、かな」
まずい。いや、ただポケットに手をいれるだけなんだけど、それはまずい。
そんなことをしたらこっちの理性がどうなるかわからない。
「…………仕方ない、よな、こういう場合」
幸い、翡翠の部屋と俺の部屋は二階だ。
――というわけで、
翡翠を抱えたまま自分の部屋に戻ってきた。
「よい……しょ、と」
ベッドに翡翠を寝かせる。
ほんとうに無理をしてお酒を飲んだらしく、翡翠はまったく目を覚まさない。
「……さて。俺はどうしようか―――」
―――目の前では酒盛りが続いている。
一体どこでどう間違ったのか、遠野志貴の歓迎会は身内での酒宴に変わってしまったらしい。
普段からアルコールに慣れているのか、秋葉はすました顔でグラスをあおっていく。その勢いたるや、水を飲むが如しだ。
琥珀さんはそんな秋葉に酌をしながら、秋葉の付き合いでゆっくりと飲んでいる。
二人とも外見上に変化がないところを見ると、あまり顔に出ない性質らしい。
……ちなみに、翡翠はお酒を一口飲んだ後、ふらふらとソファーに座りこんで、そのままうつらうつらとしていたりする。
「……秋葉のヤツ、ざるだな」
笑顔で盛りあがっている秋葉と琥珀さんを眺めながらグラスをあおる。
中はただの水で、俺は乾杯の時に交わした一口しかアルコールを摂っていない。
ひょい、とテーブルにもられたスモークサーモンを口に運ぶ。……美味である。やるな遠野家、酒のつまみも一級品だ。
「………………うむ」
なにか、色々と問題はあるような気がするけど、これはこれで楽しいのかもしれない。
秋葉と琥珀さんの会話は、はっきりいってつまらない。太陽が東から昇って西に沈む、といった当たり前の話しかしていない。
だっていうのにそのつまらない話で楽しそうに笑い合っているあたり、見ていて微笑ましいものがあった。
「………………」
一方、翡翠は乾杯の時に使ったグラスを大事に持ったまま、ぽーっとしていた。
少し目を離してたから翡翠を見ると、少しだけグラスの中身が減っている。……アレはアレで、楽しんでいるようだった。
ひょい、とまたも酒のつまみを口に運ぶ。
アルコールは苦手なくせに、こういった小料理は割合好きだ。
……と。
「…………?」
どうしたんだろう。
いつのまにか、秋葉がむこうのソファーから立ち上がって、俺の目の前に立っていたりする。
「兄さん。さっきから食べてばっかりで、お酒が進んでいないようですけど」
何が気に食わないのか、秋葉はむっ、と瞳を細めて睨んできた。
「……あのな。おまえが酔う分にはかまわないけど、人を自分のペースに巻き込むのはやめたほうがいいぞ。もともと俺は酒は苦手なんだから、飲み合いっこがしたいんなら琥珀さんと――――」
琥珀さんを指差そうとして、指が止まった。
琥珀さんの姿がない。どうも、お酒を調達しに厨房まで引っ込んでしまったみたいだ。
「失礼ですね。私、これっぽっちも酔ってなんかいませんわ」
グラスを片手に、ぐいっと身を乗り出してくる秋葉。
「……そっか。琥珀さんが居なくなったから……」
クダを巻く相手がいなくなって、俺にちょっかいを出しにきたというコトか。
「琥珀は関係ないでしょう。今はどうして兄さんがお酒を飲んでくださらないか、という話をしている筈ですっ」
「……いや、別に酒ならさっきから飲んでるけど」
「嘘ですっ。私、まだ一度もお酌をしていないじゃないですか。
私、兄さんがくつろげるようにと積極的にお酒を飲んでいるんです。なのに兄さんったらさっきからぱくぱくぱくぱくと琥珀の作ったものにばかり箸をつけて、一向にグラスを空にしてくれないじゃないですかっ」
むむむー、と顔をしかめて俺を見下ろしてくる秋葉。
気のせいか、秋葉の足元はおぼつかない。
「秋葉。一つ聞くけど、酔ってる?」
「とんでもありません。私、酔ってなんかいないもの。だって秋葉は、兄さんが泥酔してくださるまではずっと正気でいるんだからっ」
「……泥酔ってな、おまえ」
「いいから、早くグラスを空にしなさい。話があるのならその後に聞いてあげます」
びっ、と俺のグラスを指差す秋葉。
ふらふらと揺れている人差し指が、ちょっとだけ心もとない。
「……秋葉。重ねて言うけど、おまえは酔ってる」
「もうっ――――! しつこいですね、酔ってないって言ってるでしょう!」
怒鳴って、くらりと秋葉はよろめいた。
……自分の声で眩暈を起こすなんて、やっぱり酔っている証拠じゃないか。
「……しょうがないな。ほら、立ってないで座りなさい。話があるんならちゃんと聞くから」
ぽんぽん、と隣のソファーを叩く。
「あ……はい、座ります」
ちょこん、とソファーに座る秋葉。
さっきまでの威勢はどこにいったのか、隣に座った途端、秋葉は大人しくなってしまった。
「…………………………」
「…………………………」
なぜか、唐突に気まずくなる。
「………………ん」
所在ないので、仕方なくグラスを手に取った。
ぐい、と軽くグラスをあおる。
慣れないアルコールは喉に熱くて、あまり美味いとは感じられない。
ただ貧血の眩暈に似た、地面が低くなるような感覚があるだけだ。
「……………………」
まあ、それでも気持ち悪いというものじゃない。
ここまで飲んだのならいっそ全部飲んでしまえ、と一気にグラスを空にした。
「……呆れた。さっきまで何か囀っていたようですけど、結局はお酒好きのようですね、兄さんは」
「むっ。なんだよそれ、別に俺は酒好きってわけじゃないぞ」
「そんなわけないでしょう。あんなに美味しそうに飲んでいらしたクセに、弁解はしないでください」
秋葉は身を乗り出してテーブルの上にあるボトルを取った。
「お湯で割りますけど、他に希望はありますか?」
勝手に人のグラスにウイスキーを注ぐ秋葉。
常識的には止めるべきだ。
けどやけに秋葉が嬉しそうなんで、このさい常識とか道徳はうっちゃっておくべきだろう。
「……思いっきり薄めにしてくれ。そうしたら飲んでもいい」
「はい、解りました。とりあえず始めはこれで許してあげます」
やっぱり嬉しげな顔で秋葉は酒をグラスに注ぐ。
「…………ったく。有彦と飲む時だって深酒はしないっていうのに」
グラスを持って、ソファーに体を預ける。そのまま天井を見上げるようにグラスを仰いだ。
ゆっくりと、それでもグラスを唇から離さず、秋葉が注いでくれた酒を飲み干す。
「―――ふう。これで満足ですか、お嬢様」
空になったグラスをテーブルに置く。
「ええ、気持ちのいい飲み方だったわ。勢いがなかったのは減点だけど、おおむね合格かな」
「厳しいな。今のは自己新だったんだぞ。秋葉が飲めっていうから、精一杯背伸びしたつもりなんだけど」
「そうなの? 珍しいな、兄さんが私に付き合ってくれるなんて」
くすり、と笑って。
秋葉は自分で酒を注いで、ぐい、と一気に飲み干した。
―――――その横顔に、どきりとした。
グラスをあおる秋葉の横顔は、ひどく大人びて見えた。
瞼を閉じて顔をあげる。
ごくり、とアルコールを嚥下する白い喉はそれだけで艶めかしくて、つい酔っている事を忘れてしまう。
「―――――はあ」
と、深く息をつく秋葉。グラスは空になっている。
……おいしい、とため息めいた呟きがした。
「………………」
「? どうしました兄さん。私の顔になにかついてるんですか?」
「あ――――いや、別にそういうわけじゃない」
言って、意味もなくグラスを手に取った。
「はい、次ですね。今度はもうちょっと、アルコールの分量を増やしましょう」
秋葉はまたもグラスに酒を注いでくる。
……別に酒が飲みたくてグラスを手にとった訳ではなかったが、まあ、これも悪くはないか。
「……………………ん」
ぐい、と秋葉に倣って一息で酒を飲み干す。
どうっていう事のないアルコール量だったが、一気に飲んだのがいけなかったのか。
頭が唐突にぐらん、としてソファーに大きく倒れこんだ。
「兄さん―――? ちょっと、大丈夫ですか……!?」
「あー、大丈夫。ちょっと回っただけで、酔ったわけじゃない。しばらくこうしているから、俺の事はほっといて楽しんでくれ」
ソファーに背中を預けて、ぼんやりと天井を見上げる。
力を抜いてこうしているのが、ひどく気持ち良かった。
「……ごめんなさい。私、無理をさせてしまったんですね」
しんみりとした秋葉の声。
「いや、無理だったけど気持ちはいいよ。秋葉があんまりにも美味しそうに飲むから釣られたんだけど、結果オーライってところ。
だから、秋葉はそのまま飲んでいてくれ。俺も落ち着いたらまた付き合うよ」
「―――はい。それじゃお言葉に甘えて、兄さんが落ち着くまで待たせてもらうわ」
とくとく、という水の音。
秋葉はダウンした俺の隣で、やっぱり美味しそうにグラスをあおっている。
「……………………」
……不思議だ。こんな事はどうという事はないのに、ひどく―――安らいでいく気がする。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………・
…………………よし」
一息ついて、ソファーから体を起こす。
「兄さん? もう気分はよろしいんですか?」
「いいよ。もう少しぐらい秋葉に付き合う」
グラスを秋葉に向ける。
秋葉は笑顔のままで酒を注いできて、それを今度はゆっくり、自分のペースで飲むことにする。
……時間が流れていく。
いつのまにか翡翠はソファーで眠っている。
厨房に行った琥珀さんは一向に戻ってこない。
居間で活動しているのは俺と秋葉の二人だけで、俺はアルコールが回ってきてあまりマトモに活動しているとは言えない状態になりつつある。
それでも琥珀さんが戻ってくるまで、秋葉に付きあっていたかった。
「……兄さん。今日は優しいんですね」
不意に。小声で、秋葉はそんな事を言った。
「――――え? 優しいって、俺が?」
「ええ。普段、兄さんは冷たい人ですから。今日みたいに気を許してくれる事なんて滅多にないでしょう?」
「………………そう、かな。自分ではよく解らないけど、俺は冷たい、のかな」
「……もう。兄さんはご自分の性格がよく解っていないんですね。貴方は優しい人だから、同時にとても冷たい人なんです。
……だって、兄さんは誰にだって分け隔てなく接するでしょう? どんなに憎い人でも、どんなに好きな相手でも、遠野志貴の中では一番になる人がいない。兄さんは誰だって好きになれるし、誰だって許してしまう」
「……けどそれは、一番になりたい者にとっては残酷だわ。兄さんにとっては誰だって等価値にすぎない。私も琥珀も翡翠も、みんな同じ所にいるだけ。
それは優しい、という領域を逸しているのよ。自分の死期を悟った老犬が黙って消えていくみたいに、兄さんは自分から何かを残そうとしてくれない。
……昔からそんな所はあったけど、帰ってきてからの兄さんは、なんていうか……とても危うい匂いがして、不安になる」
秋葉はうつむいたまま、そんな独り言を続ける。
グラスは空。酒は注がれず、ただ静かな声だけが響いている。
「……ねえ。もしかすると兄さんはとても無関心な人で、本当はとても孤独な人なのかもしれないって、私―――そんな罵伽な事を、思ってしまうんです。
兄さんの中には一番になれる人がいない。もしかすると、遠い昔に一番だった人を失っているのかもしれない。
昔の私は、それでも好いていてくれるのならいいって思ってた。兄さんには一番に思える人がいないんだから、それでいいって。
……けど今は、もう――――」
「お待たせしましたー! 追加のお酒とお料理です」
笑顔で琥珀さんが戻ってきた。
「あ……」
秋葉は急に言葉を飲みこむと、はあ、とため息をついてグラスに酒を注ぐ。
「ほら、兄さんも飲んでくださいっ。さっきから私ばっかり飲んでるじゃないですかっ」
琥珀さんの持ってきたボトルを手に取って、秋葉はドクドクと俺のグラスに酒を注ぐ。
「いや、もう限界だよ。いつもの二倍近く飲んだんだから勘弁してくれないか。これ以上飲んだら、本当に体を悪くする」
「なに言ってるのよ。まだ一瓶も空けていないくせに限界なんて早すぎるわ。ほら、今日はとことんまで付き合ってくれるって言ったじゃない」
さあ、と秋葉はグラスを差し出してくる。
が、こっちは本当にそろそろ限界なんだってば。
「だめですよ秋葉さま。秋葉さまみたいなザルと志貴さんを一緒にしないでください。
ほら、志貴さんもはっきりお断りしないと大変ですよ。秋葉さまはいくら飲んでも酔われないんですから、とことんまで付き合ったら夜が明けてしまいます」
「ちょっと琥珀! ザルってなによ、ザルって。せめて酒仙とか酒豪とか、そういう言い方をしてくれない!?」
むっ、と怒って、秋葉はぐいっと酒を飲んだ。
あれだけ飲んでいたのに、まるでこれが一杯目かのような勢いだ。
……秋葉がなんて言おうが、琥珀さんの言葉に間違いはないと思う。
「……悪い秋葉。本当にこれ以上は付き合えないんだ。俺が医者に過度のアルコール摂取を禁じられてるのは知ってるだろ?」
うっ、とばつが悪そうに秋葉は黙り込む。
「……それは、そうだけど……」
「そんな顔するなよ。秋葉が満足するまで一緒にいるから、それでいいだろ?」
「……………………」
秋葉は納得のいかない顔のまま、こくん、と頷いた。
「それじゃ秋葉さまのお酌はわたしがしますね。ほら秋葉さま、志貴さんが付き合ってくださるんですから、それでいいじゃないですか」
「そう、ね……確かに兄さんが付き合ってくれるなんて、滅多にない事だもの。とりあえず今日はこれで勘弁してあげるわ」
秋葉は琥珀さんにグラスを差し出す。
琥珀さんは笑顔で秋葉にお酒を注いで、秋葉はちびちびと控えめに飲み始めた。
時間が経過する。
いつのまにか翡翠も目を覚ましていて、とりとめのない会話が流れた。
アルコールのせいか会話の内容はよく覚えていない。
ただ何の意味もない、温かい会話だった。
そういったものに慣れていない自分は、柔らかい真綿に締められているような、不安定な居心地を味わっている。
そのせいだろう。
この時間がもう少し続いてくれればいいと思う反面、少し一人になりたい、と思ってしまった。
不意に。
「……兄さん……?」
と、秋葉が不安げな瞳で見上げてきた。
「どうした? 気分が悪くなったのか、秋葉?」
「いえ……そうではないんです。ただ、急に不安になって。……ねえ兄さん。兄さんは、もう何処へも行きませんよね?」
「いかないよ。……そりゃあ先の事は解らないけど、今はここにいようって決めてるから」
……そう、少なくとも学校を卒業するまではここにいるし、秋葉が一人でもやっていけるようになるまでは離れられない。
―――だが。
それはいつかは出て行く、という意味でもある。
「やめて。そんな言葉、聞きたくありません。ここは兄さんの家なんですから、なにがあったってここで暮らしていけばいいじゃない」
言って、秋葉は一気にグラスをあおいだ。
……凛々しい横顔。
不快な思いを一気に飲み干すように、秋葉はグラスを空にする。
ぐびり、と動く白い喉。
ほのかに赤くなった頬が、秋葉がかすかに酔っている事を示している。
「はぁ……もう、どうして兄さんは、そうやっていつも私を不安にさせるんですか」
酔っているのか、秋葉は焦点の定まってない瞳で俺を睨む。
――――――っ。
それに。
理由もなく、どくん、と心臓が高鳴った。
「……聞いてるんですか? 兄さんさえいてくれれば、私はそれでいいんです。だっていうのに、兄さんはいつもいつも…………」
まっすぐに見つめてくる瞳。
秋葉の頬が赤くて、その瞳がうるんでいる。
それがなんだか――――ひどく、妖しかった。
……俺の頭にもアルコールが回っているせいだろうか。
秋葉は妹なのに、なんだか――――
「……………………あき、は」
「……ん……兄さん、私……なんか、ヘン……」
ぼんやりと呟く声さえ、他人のようで。
俺は、そのまま――――
「秋葉さま。グラスが空ですから、お酒をおつぎしますね」
「あ……うん。ありがとう、琥珀」
琥珀さんからグラスを手渡しされて、秋葉はまたもぐいっと一気飲みをする。
―――――と。
途端、秋葉は真面目な顔になってしまった。
「……秋葉?」
「……おかしいわね。私、なんだか酔ったみたい」
秋葉はこめかみを指で押さえている。
「酔ったみたいって……おまえ、さっきまで酔ってたじゃないか」
「なに言ってるんですか。私がお酒に酔ったら、まともに話ができるわけないじゃない」
とん、と秋葉はグラスをテーブルに置く。
「おかしいなぁ……このぐらい、まだ中頃にすぎないのに」
言って。
ばたん、と秋葉はこちらに倒れてきた。
「ちょっ、ちよっと秋葉……!? おまえ、いきなりどうし――――」
どうしたも何もない。
「………………おい」
声をかけても反応はない。
秋葉はスースーと、それはそれは幸せそうに眠っていた。
「あら、珍しいですね。秋葉さまが酔ってしまうなんて何年振りでしょうか」
クスクスと楽しそうに笑う琥珀さん。
「……琥珀さん。秋葉が酔ってるって、どういう事?」
「はい、秋葉さまはお酒には酔われないんです。ただ一定量を超えてしまうと一気に今までの酔いが襲ってくるらしくて、そうなると眠ってしまうんです。ですから秋葉さまにとって酔う、というのは眠る、という事なんです。
でも不幸中の幸いと申しましょうか、もし秋葉さまが普通の酔い方をしたら怖いでしょう? 志貴さん、酔って乱暴になった秋葉さまって想像できます?」
……琥珀さんは中々に恐ろしい事を尋ねてくる。
その答えは保留して、眠ってしまった秋葉の寝顔を見てみた。
―――秋葉は安らかに眠っている。
お互い肩をくっつけて、体が密着した状態。
秋葉の寝息や体温が直に伝わってくる距離。
……さっきの、おかしな感覚が思い出される。
秋葉が酔っていたからなのか、さっきの秋葉はまるで別人みたいだった。
それでドギマギしていたのは否定できない。
けどこうして安らかに、俺によりかかって眠っている秋葉を見るとホッとする。
秋葉は、確かに綺麗だ。
八年ぶりにあって妹だって思えなかったのも本当のこと。
けど、そんな事はもう関係ない。
こうして俺に身を預けて、安心して眠っている秋葉を見ているだけで良かった。
秋葉は間違いなく俺の妹だ。
俺がこの屋敷に帰ってきた理由の一つは、秋葉を守るためだったんだから――――
「志貴さま。そのままでは秋葉さまがお風邪を引いてしまわれるのではないでしょうか?」
「え―――あ、そっか。まだ十月っていっても油断はできないもんな。それじゃ悪いけど―――」
「はい、秋葉さまをお部屋へお連れいたします」
翡翠は秋葉に肩をかして、そのまま居間を後にした。
残されたのは俺と琥珀さんだけになるのだが―――
「そうですね、秋葉さまもお眠りになられましたし、そろそろお開きにしましょうか。片付けはわたしが行いますから、志貴さんもお部屋にお戻りください」
琥珀さんの言葉に頷く。
本当は後片付けぐらい手伝いたいんだけど、こっちも酒が回っていて手先がうまく動いてくれない。
こんな状態で手伝っても、琥珀さんに迷惑をかけるだけだろう。
「ん……悪いね琥珀さん。それじゃ後を頼むよ」
「はい、おまかせください。それではおやすみなさい志貴さん」
――――酔いを冷ます為に中庭に出た。
夜風はかすかに肌寒く、アルコールで火照った肌を冷ますには丁度いい。
「―――まず。ほんとに飲みすぎたな、今日は」
アルコールを飲んだ事による頭痛に誘発されて、いつもの眩暈がやってきた。
……この分だと今夜はひどい悪夢を見てしまうかもしれない。
まあ、それも覚悟の上で飲んだ事だ。
今日の秋葉は楽しそうだった。
それに比べれば、悪夢の一つや二つはどうという事はないだろう。
中庭に用意された椅子に座って、はあ、と大きく息を吐いた。
「―――――――ん」
夜風が冷えた薄布のように肌をかすめていく。
……中庭は物音一つしない。
住宅地にあるといえ、遠野の屋敷は他の住宅から遠く離れている。
こうしていると深い森の中にある洋館にいるようで、自分が遠野志貴という学生である事さえ忘れそうになる。
色のない、衰弱した空気。
音もせず、停滞した景色。
微小にのみ記憶に吊られた揺籃の庭。
そこにはもう誰もいない。
自分たちを叱る父親の支配も、
自分たちを縛る立場の隔壁も、
遠野志貴を驕る誰かの狂想も、
とうに磨耗し、或いは暴落し、とうに非価値な物となっている。
「――――――――――」
そんな、とりとめのない事を考えているうちに、段々と瞼が落ちてきた。
「志貴さん、そんな所で寝てしまうと風邪をひきますよ」
―――と。
その声で、胡乱な眠りから引き起こされた。
「……ごめんなさい志貴さん。お酒は出さなかったほうが良かったですね」
俺の目を見るなり、琥珀さんは微笑みながらそう言った。
……俺が酔いを冷ます為にここに来た、という事を琥珀さんは察してしまったみたいだ。
「わたしもはしゃぎすぎてしまいました。志貴さんのお体の事を考えもしないで、こんな事をしてしまって。志貴さん、辛かったんですね?」
琥珀さんはこっちには近寄らず、申し訳なさそうに離れて立っている。
……なんだか、それはいつも笑顔な琥珀さんらしくない。
酒を飲んだのは自分の意思だし、そんな事で琥珀さんが心を痛める必要なんて、ない。
「……まったく。らしくないな、琥珀さん」
目を合わすと琥珀さんはまた謝ってきそうなので、まだ寝ぼけているふりをして森に視線を向ける事にする。
「辛かったかなんて、そんな事はないよ。秋葉も明るかったし、楽しいお酒だったじゃないか。琥珀さん、過保護すぎるって言われるでしょ」
ぼんやりと森を眺めながら、出来るだけ優しい声でそう言った。
…………。
………………………。
……………………………………。
……………………………………………………。
少しの、沈黙の後。
突然、それこそ草むらから出てきた兎のように、ぴょこんと琥珀さんが俺の視界に入ってきた。
「琥珀さん?」
「あっ、やっぱりちゃんと起きてたんですね志貴さん。急に黙り込んだりするから、眠っちゃったのかと思ったじゃないですか」
めっ、と叱ってくる。
どうも、ここで眠ったらいけませんよー、という事を言いたいらしい。
「……大丈夫だよ琥珀さん。ちゃんと起きてるから、心配しなくていい。酔いが冷めたら部屋に戻るから、琥珀さんは部屋に戻ってなよ」
「んー、お断りします。わたしも涼みたかった所ですし、志貴さんがお部屋に戻られるまでお付き合いさせてくださいね」
いつも通りの笑顔で言って、琥珀さんは森の中で落ち葉を楽しそうに眺めたりする。
「……まあ、涼むのは琥珀さんの勝手だからいいんだけど」
琥珀さんは答えず、カシュカシュと音をたてて落ち葉を踏んだりしている。
…………。
………………………。
……………………………………。
……………………………………………………。
また、しばしの沈黙のあと。
「……ありがとう琥珀さん。今日は楽しかった」
椅子に座ったまま、心からの本心を告げた。
「どうしたんですか? 今日の事なんて、そんなお礼を言われるほどの事ではないですよ」
「……そうかな。でも本当に楽しかった。考えてみると、こういうふうに家族で騒ぐのは初めてだったし、きっと、こういうのに憧れていたから」
……有間の家でこういう席がなかったわけじゃない。ただ自分は有間の家で誰にも迷惑をかけないいい子でいたから、今日のように気がねなく楽しむ事はなかっただけ。
「家族……ですか?」
首をかしげて、静かに呟く。
琥珀さんはほんのわずかだけ能面じみた貌をした後、いつもの調子で顔をあげた。
「でも志貴さん。貴方はこの屋敷にいるかぎり、志貴さんが憧れているような家族というものは手に入りませんよ。
遠野家の親戚の方々はみな志貴さまを疎んじておられます。志貴さんの味方は秋葉さまだけです。
ですから、これからの生活は志貴さんにとって心苦しいものになるでしょう」
……琥珀さんの言う事はもっともだ。
八年前、俺は親父や親戚会議で勘当寸前にまで扱われたわけだから、そんな自分の立場が今になって良くなるとは思っていない。
「……まあ、それぐらいは覚悟してるよ。でも、そんな事はどうでもいいんだ。秋葉はそれを八年間も耐えてきたじゃないか。俺は兄貴なんだから、秋葉が耐えてきた事ぐらい余裕でこなさないと悪いだろ」
八年間。
秋葉は子供の頃から、一人で遠野家の厳格な教えに耐えてきた。
それに比べれば親戚連中からの嫌味なんて、顧みるに値しないだろう。
「そうですか。秋葉さまは幸せですね。こんなに妹思いのお兄さんが傍にいてくれるんですから」
「それはどうかな。秋葉にとって、俺はいい兄貴じゃないと思うけど」
琥珀さんは笑顔のまま、ただクスクスと笑い続けた。
……なんていうか、そう嬉しそうにされるとこっちまで恥ずかしくなる。その、くすぐったくて。
「けどおかしいですね。志貴さんは秋葉さまの事ばっかりで、ご自分の事を考えてあげていないんですから」
「――――――え?」
「志貴さんだって、そう幸せな日々ではなかったでしょう。遠野家から勘当された志貴さんには、辛いことだってたくさんあったはずです。
そうしてやっと有間の家に馴染めてきたのに、志貴さんは戻ってきてしまわれました。
志貴さんは志貴さんがずっと憧れていた普通のご家族から、遠野の家の勝手な事情でまた離されてしまったんです」
「………………………」
それは―――答えられない、言葉だった。
三日前の朝。有間の家の玄関で別れた啓子さんの顔が思い出される。
あの、いつも気丈な人があんな悲しそうに笑うのを、見たかったワケではなかった。
琥珀さんの言うとおり―――俺はようやく自分に馴染んでくれた半身を、自分から切り捨てたようなものなんだから―――
「ほら。志貴さんだって、それを考えなかったわけではないんですよね?」
「――――――」
違う。それは、考えてはいけない事だ。
「……琥珀さん……どうして、そんな―――」
コトを、今になって言うんだろう。
出来れば琥珀さんや秋葉、翡翠には、俺は望んでこの屋敷に帰ってきたと、それだけを思っていてほしかったのに。
「志貴さん」
琥珀さんの声が聞こえる。
その声を無視する事ができない。誘われるまま、視線をあげた。
「わかっているはずです。志貴さんは有間の家で暮らしていたほうが幸せだった」
――――それは。
けどどうして、そんな―――・
「どうして? どうして今になってこの屋敷に戻ってきてしまったんですか? 志貴さんは、ここに来ては不幸になるだけなのに」
―――どうしてそんな―――泣き出しそうな顔を、しているんだろう――――
「……………………」
俺に答えはない。
ただ魅入られたように琥珀さんの姿を見続けて、静かに、視線を落とした。
「……ひどいな。琥珀さんは言いにくい事を聞いてくる」
「はい、申し訳ありません。わたしも酔ってしまっているみたいですね。こんな事を尋ねるなんて、どうかしています」
琥珀さんは笑顔だった。
……なんだかそんな顔をされると、さっきの質問がまるで嘘だったかのように思える。
「……琥珀さん。さっきの話だけど。やっぱりさ、自分の家に戻ってくるのは当たり前の事じゃないか。秋葉を一人きりにしておけないし、有間の人たちに迷惑もかけられないだろ」
「では、それが志貴さんが戻られた理由なんですね」
なるほど、と納得してくれる琥珀さん。
―――けど、それは嘘だ。
本当はもう一つ―――秋葉の事より大切な出来事が、確かにあった。
「志貴さん? どうしたんですか?」
「……いや、違うんだ琥珀さん。ホントはね、もう一つだけ大事な理由がある」
「へえ、それってもしかして秘密なコトなんですか?」
「……どうだろう。秘密っていうわけじゃないけど、人には話したくない大事な思い出。
俺はね、ここを出るときに借り物をしちゃたんだ。それをきちんと返したくて、ここに帰ってきたんだよ」
「――――――――――」
……それも、翡翠は覚えていなかった事だけど。
椅子から立ちあがる。
「酔いも冷めたし、部屋に戻ります。それじゃ、また明日」
片手をあげて中庭から立ち去る。
琥珀さんは呆然と、そんな俺をいつまでも見送っていた。
ベッドに倒れこむ。
アルコールのおかげか、すぐさま眠気がやってきてくれた。
「……………………」
琥珀さんにあんな事を言ったせいだろう。
とりとめもなく、八年前の約束が思い出される。
――――二度とこの屋敷に入る事はできない。
そう父親に断言されて部屋を出た時の気持ちを、今でもまだ覚えている。
事故にあって、ずっと一人きりで、先生に出会った後、結局は一人に戻ったのだと知った時。
俺は先生との約束を守れないで、無感動な人間になっていたと思う。
その時、ただ一度だけ話しかけてきてくれた少女。
……それが、唯一つの救いだった。
あの言葉にどんな魔法がかかっていたのかは知らない。
“返してね”なんていう、ただそれだけの言葉。
けどそれは、あの時の自分には大切な言葉だった。
それを―――ただ大事に思い続けてきただけ。
……まあ、その約束をしてくれた当の本人である翡翠は忘れてしまっていたわけだけど。
「……仕方ないよな。子供のころの約束なんだし」
それは本当に仕方のない事だと思う。
八年間は長い。
それが子供の頃の約束だとしたら、覚えているほうがおかしいんだ。
「……寝るか」
はあ、と深呼吸をして瞼を閉じる。
――――後には、深い水底に沈むような眠りがあった。
―――熱さを覚えて体を起こした。
灼い。喉が燃えている。触れてみると血が滲んでいた。
あまりに灼かったため、何度も掻き毟った跡だろう。
「―――――」
灼い。
灼くてうまく辻褄が合わない。
部屋には誰か、自分以外の気配の汚濁がある。
灼い。
灼くて部屋から出る事にした。
―――時刻はとうに零時を過ぎていた。
体の灼さは治まらない
/錯乱。
どくん、どくん、という脈動
/発情。
視界が鼓動に合わせて跳ねていく
/妄想。
灼い。紅い。
/燃料チューブ。
硝える。殖える。
/昆虫ノ黒イ羽根。
まるで眼球に
/狂想血液。
動脈があるかのように。
/タイプ、死異。
闇に入る。
心臓の活動は自己を苛烈に責めたてる。
さらにさらに。
どくん       どくん、!w1000
ドクン        ドクン。
自己の存在を希薄にするほどの鼓動音。
心臓は双子に増えて、ざむざむと脈うつが故に一つしかない我が身は灼い。
さあ、彼女が望む結末をかなえなければ。。。
―――そして、
目の前には見知らぬ誰かの死体があった。
「―――――一人、二人、三人……か」
口にだして数える。
人差し指で確認したのだが、その人差し指は真っ赤だった。
いや。
俺の両手は、赤いペンキを塗りたくったように赤い。
無論、周囲に赤いペンキなどない。
あるのはできそこないのスパゲッティ(無論、ソースはミートソースだ)にしか見えない、人間の死体が三つ。
地面には俺の―――七つ夜と刻まれたナイフが落ちている。
「…………つまり、これは」
考えるまでもないと思うのだが。
「…………俺が、やったワケか」
ナイフを拾う。
……信じられないが、やってしまったものは仕方がない。
気がつけばあれだけ灼かった体も冷めている。
用は済んだのだし、さっさと屋敷に帰るとしよう。
「―――――――チッ。誰かくる」
通路から誰かがやってくる。
まいった。
ただでさえここはスパゲッティでごった返しているのに、この上また新しいミートソースをブチまけなくてはいけないのか。
かつん、かつん、と足音が近づいてくる。
闇でしかなかった人影が露になる。
「――――――」
ナイフを握る。
人影は、路地裏に入ってきた。
キィィィン、という音。
――――信じられない。
有無を言わさず踏み込んだ俺を、人影は迎撃してきた。
敵のエモノもナイフ。
俺たちは互いに、相手の喉元を狙った必殺の一撃を相殺しあった。
「「―――――驚いたな」」
闇に声が重奏する。
俺はナイフを仕舞い、敵もナイフを仕舞った。
「戻ってきてみれば同類に出くわすとはな。まったく、殺人鬼なんて初めて見た」
言って、男は笑った。
嫌味のない笑み。減量の果てにリングにあがったボクサーが、生涯最高の敵と対峙した時のような、悦びに満ちた笑いだ。
おそらく。
俺も、それと同じ笑みをうかべていたのだろう。
「――――ふん」
男は鼻をならして背を向けた。
大通りに向けて歩いていく。
「ここいらにするか。大の男が二人、突っ立っているのもなんだろ?」
道端に座りこむ。
男は思い立ったように自動販売機まで歩いていった。
「おい、金だせ。金もってねえんだ、オレ」
こっちも財政状態はよろしくないが、一際大きいコインを投げた。
「一度ぐらいは試してみたかったんだ、コレ」
嬉しげに言って、男は缶コーヒーを二つ買った。
「投げるぞ」
「あいよ」
缶コーヒーとつり銭を受け取る。
男は俺の隣に座って、缶コーヒーを一口飲む。
……なんていうか、今日はこんなんばっかりだな、と思った。
「……まず。なんだかなあ、煙草も珈琲もあんまりいいもんじゃねえんだな。なんだってこんなもん口にすんだろうなあ、大人ってヤツは」
「そりゃあ我慢強さを鍛えてるんだよ。大人になったら、まあ色々と大変だからね」
「ああ、なるほど。オマエ頭いいな」
けけけ、と愉快そうに男は笑う。
こっちも缶コーヒーを飲んだ。
……まったく同感だ。こんな毒物めいたものを飲む連中は自殺願望が多分にありすぎる。
「しかしまあ、なんだね。オマエは酷いヤツだな。いきなり喉元にナイフ突きつけてくるか、フツー」
「よく人の事が言えるな。アンタこそ俺を殺す気だったじゃないか」
「そうだっけ? まあいいじゃんか、昔の事は。お互い命があったんだからチャラにしようぜ」
……まあ、確かに。
お互いが殺し合ったんだから、どちらが死んでいようと結果はチャラだ。
競技として、差し引きはそれなりに合っている。
男は不味い不味いといいながら、嬉しそうに缶コーヒーをあおっている。
「……んー、まあこれも慣れれば悪くないねえ。なんていうかさ、世間から外れた不良仲間って感じ」
男は笑いをかみ殺しながら、そんな事を呟いていた。
「そう? なら煙草にしよっか」
そのほうが不良少年、というイメージは強い。
「あー、いらね。ありゃ思考を鈍らせる。純粋でありたかったら、毒物は摂らぬが吉だ」
「……そう言いながらもコーヒーを飲んでいる」
「なんだオマエ、殺人鬼のくせに細かいな。人間なんて毒食って生きてるようなもンなんだから、これぐらいはまだ許容範囲じゃないか。オマエだって耐性ぐらいついてんだろ」
ケタケタと男は笑う。
まったく同意見なので、缶コーヒーを口に運んだ。
それから一時間ばかり、男と話した。
道行く車を眺めながら、とりわけ意味のない事を語る。
中でも意味がなかったのは、お互いの能力についてだった。
モノの死が視えるという俺の眼と、
中々死に難いという男の体。
お互いその原理を語り合っているうちに、
「……そっか。それじゃあさ、オマエってもしかして五感を殺せるってコト?」
なんて、意味不明なコトを言い出した。
「できない。そんな曖昧な、表現でしか表現できないものは殺せない」
「そんなワケねえだろ。いいか、視覚なら眼、聴覚なら耳を殺せばいいだけの話じゃんか。けどそんな事ならオレにでもできる。
けどオマエは違うだろ。モノを潰さずに殺すコトができる。オマエはさ、その線とやらが見えている時点で物体じゃなくて意味を殺しているんだよ。
だから――――五感の上にあるもの、第六感とかそういった便宜上のモノ……魂とか感情とか、そういったモノだって削り取れるハズだぜ」
「………………………ふうん」
……それは、確かにそうだ。
もともと俺の眼はそれ自体が異状なもの。
それをまっとうな理屈で考える事自体、前提を間違えている。
……なら俺はアレを殺せるだろうか。
子供の頃に一度だけ見かけた蜃気楼。
たしか、くれないせきしゅ、とか言う憑き物。
「けど、それはタイヘンそうだ。そんなモノまで視えてしまったら、俺はマトモな思考ができなくなると思う」
「だな。人間の頭脳しかもってないくせに、神様の計算をしようってコトだもんな。そりゃあ廃人になるぜ、普通」
言って男は立ちあがると、また自動販売機まで歩いていった。
「おい」
自販機を見たまま、後ろにいる俺に手を差し出す。
コインを投げると、男は器用に受け取ってまた缶コーヒーを買ってきた。
男は缶コーヒーを飲んだあと、
「久しぶりに人間と話してる」
なんて事を口にした。
「……おかしな事を言うね。アンタ、今まで無人島にでも住んでいたのか?」
「あー? 今も住んでるぜ、この無人島にさ。なんでもオレは世間とズレているらしい。意味もなく人殺しをするようなヤツは正気じゃないんだとよ。
だからまあ、ズレてるオレはズレてないヤツラと話しても会話が成立しないわけ」
「……ふうん。ズレてるんだ、俺たち」
「そっ。どっちが異常なのかは問題じゃない。ようは世間から外れているほうがズレてるワケ」
「そう? 異状なのは世間のほうかもしれないよ」
「へえ、そりゃあどういう意味だ」
「言葉通り。アンタだって言ってたじゃないか。
多数決と一緒。大部分の意見に賛同しなかった小数意見は“使えない”と除外されるじゃないか。
どっちが正しいかなんて、関係ないんだ。みんなに合っていないヤツは、正しかろうがなんだろうが仲間はずれにされるだけ。ズレてるなんていう表現には普遍的な基準は当てはまらないよ」
「―――――フン。じゃあ何か、オレたちみたいな殺人鬼は悪党じゃない、って言ってるワケ?」
「……さあ。事の善悪なんて知らないよ。ただ理屈で考えるとズレているのは俺たちじゃないだろ。
……そうだな、例えばボクサーっているじゃない。別にボクサーじゃなくてもいいんだけど、とりあえず解りやすいから例にあげる」
「ボクサーっていうのはさ、殴り合うのが仕事なんだって。それもただ殴り合うだけじゃないんだ。減量っていう苦しい思いをして、毎日毎日人を殴る訓練をする。いかにうまく人を殴るか。いかに効率よく人を倒すか。それだけを毎日、刃物を研ぐように鍛え上げていくんだ。
これってさ、どう思う?」
「……ふうん。そんな連中がいるんだ。で、続きは?」
「いや、それだけだよ。
ただね、彼らは殴り合うだけで相手の息の根は止めない。そりゃあ事故で死んでしまう場合もある。けどその場合は一般的な殺人罪には問われない。なんかさ、これってすごくない?」
「―――殺してもいいってコトかよ、それ」
「違う違う。殺しちゃ駄目。けど殺してもいいんだ。すごい矛盾だろ。それだけじゃない。ボクサーっていうのは拳が凶器として認められるから、ケンカをしちゃいけないんだって」
「……これってすごいぜ。ボクサーの拳が凶器だって解ってるのにさ、どうしてボクサーなんていう職業があるのかな。人を殺しかねない凶器ならさ、ボクサーっていうモノを無くすべきだろ。
殺しちゃ駄目、殺しちゃ駄目。
そのくせ世界にはね、人殺しの道具があふれているんだ。法律でさえ容認されている。なのに人殺しは駄目だっていうんだから、これはもう混沌というしかない。常識というものが多くの人間が考えているような善良なものであるのなら、俺たちはズレてないんだよ。
だって、常識からズレているとしたらそれはこの世界のほうなんだから」
……とは言っても、ボクサーという職業を敵視しているわけではない。
色々な職業はあるけど、あれほど自己の目的のためにストイックになれるモノはないだろう。
一切の誘惑を断ちきって自身を鍛え上げる。
人間は解りやすい強さに興味を示す生き物だ。だから競技はなくならない。
その中でも他者を傷つけ合う競技を選ぶものは、一種憑かれている。
強さへの憧憬。
強さにしか執着できなかった思考。
それはきっと、とても健全な精神だ。
俺やこの男のように結果でしか意味を求められない思考とは、色彩こそ似通ってはいるもののそのカタチは異なるだろう。
何か、自己さえ忘れて打ち込める嗜好。
それはその個人の自由にはならない。
学問を崇拝する者、芸術に焼身する者、商業に邁進する者。
それを個人で決定できるのなら、この世界はもう少し解りやすい、キレイなパズルになっているだろう。
だがこのパズルは穴だらけだ。
所々欠けているし、中にはまったく規格の異なるピースが混ざっている。
「ふうん。オマエ、よくしゃべるヤツだな。昔さ、オマエみたいな友人がオレにもいたんだぜ。
そいつはなんていうか……そうだな、何も持っていなかったんだ。だから何も求めていなかったように見えたんだろう。
それはなんていうか、ひどく孤高でさ。孤高っていうのは孤独の別名だろ。だからオレは、それが気になって仕方がなかった」
「……ふうん。何も求めていない、か。アンタはどうなんだ? 何か欲しいものはある?」
「……どうだろう。あった気がするが、思い出せない。そういうオマエはどうだ?」
「求めているものは誰にだってあるだろ。けど夢中になれるような事はなかった。
自己を見失うほどの白熱は、そうだな―――今夜のこれが初めてだったかもしれない」
「あはは。つまるところおまえも殺人鬼って事だよな、それは」
「……どうだろう。まだ断定はできない。そういうアンタはどうなんだ? 人殺しは楽しいかい?」
「――――バカかオマエ。楽しかったら休むことなくやってるだろ。こんなのにはさ、理由はねえんだよ。ただやり始めたら夢中になる。それだけの話だ」
……なるほど。
それは少しだけ理解できた。
ようするに、殺人行為を嗜好しているワケではなく、殺人を行為してしまった場合、その作業に没頭できるかどうか。
それがズレているかいないかの違いという事らしい。
「アンタさ。子供の頃、ラジオとか解体してた口じゃない?」
「螺字男……? いや、そんなヤツをバラした事はねえけど」
「―――オーケー、つまらないボケをありがとう。ついでに言うと、今のは冗談だよ。有機と無機は対極だからね。俺たちみたいなのは、わりと医者とかが向いてるかもしれない」
「医者、か。オレ、クスリは嫌いだ。射たれると自分が希薄になるだろ。なんだかさ、傀儡になりさがる気がするじゃんか」
……そんなものか。
こっちは主治医までいる体だから、クスリなんてもう日常茶飯事なものだけど。
「―――――あーあ。楽しかったぜ、ほんと」
男は腰をあげる。
そうして――――感情のない目で俺を見下ろした。
「―――さて。同じ街に二人はいらねえよな。こんな狭い檻の中にライオンが二匹もいたんじゃ縄張りさえ作れない」
男はナイフを取り出そうとする。
無機質な殺気。
男は本気で、俺と殺し合いを望んでいる。
「やめておいたほうがいいよ」
至極自然に、そんな声が出た。
「なぜ?」
「そりゃあ、生き物としてアンタのほうが強いけど」
――――だが、それが殺し合いなら。
「アンタより、俺のほうが優れてる」
「――――――、――――――」
ぎり、という歯が軋む音。
男はひきつった笑みを浮かべたあと、
「ハ……あは、あっーはっはっは……ッ!!」
なんて、大声で笑い出した。
「なんだよ。そんなに可笑しかったのか、殺人鬼」
ひひ、ひひひ、と男は神経質に笑い続ける。
……仕方がないのでこのまま放っておこうとした矢先、男はピタリと笑い止んで俺を見た。
「――――そうだな。オマエは、正しい」
それだけ言うと、男は一人で歩き出してしまった。
「これで潮時になっちまった。おまえみたいなヤツが出てきた以上、オレの方がこの街を出て行くしかないもんな」
「……別に俺はアンタの後釜につく気はないけど」
「いやいや無理だって。今夜、初めて夢中になれたんだろ? ならもう明日からは同じ事さ。オマエはもう一日だって我慢する事なんてできねえよ。
それじゃあまあ、二度と会わない事を祈ってるぜ」
片手をあげて、男は去っていった。
「――――――――」
二度と会わない、と聞いて少しだけ残念に思った。
足元には男が飲み干した缶コーヒーが十缶ほど。
つまり、この借りを返してもらえる事はないという事だった。
――――さて、部屋に戻ってきた。
じき夜も明ける。
言われたとおり全てを忘れて、このまま眠ることにしよう――――
● 5days/October 25(Mon.)
背骨がギリギリと軋むような感覚がして、独りでに目が醒めた。
「あ………い、痛ぅ……………」
ベッドから体を起こす。
寝ぼけた頭のまま背中をさすると、背中にはこれといって傷はない。
……痛みは背中ではなく、背骨から伝わってきていたみたいだ。
それも痛みというより、何か熱い物が首の後ろあたりに溜まっていたような感じ。
「……寝違えたかな。ベッドがふかふかなのはいいけど、こう立派すぎると――――」
と。
自分の手を見て、思考が止まった。
「―――――なんだ、これ」
じっと両手を見つめる。
赤い。両手は肘のあたりから赤いペンキに塗れていて、掌は真っ赤になっていた。
いや、赤というのは似つかわしくない。
両手に付着したペンキは乾燥して、今では赤というより黒っぽかった。
「―――――――」
よく、解らない。
昨夜は確か琥珀さんと中庭で話をした後、そのまま眠ってしまったはずだ。
こんな手を汚すような真似はしなかったし、悪い夢を――――見た覚えも、ない。
「っ…………!」
ずきん、と頭痛がした。
どうして両手がペンキに塗れているかは、とりあえず置いておこう。
もうじき七時になってしまう。
翡翠が俺を起こしくる前に、この両手のペンキを洗い流さないといけないだろう。
浴場で両手を洗ってロビーに戻る。
「志貴さま?」
と、翡翠に呼びとめられた。
「あ、おはよう翡翠。今朝は早く起きたから、ちょっと顔を洗ってたんだ」
なんとなく後ろめたくて、言い訳をしてみたりする。
「はい、おはようございます。それでは着替えはいかがいたしましょう。お部屋のほうに用意させていただきましたが」
翡翠はすでに俺の部屋に行っていたらしい。ちょうど階段で入れ違いになった、という事か。
「そうだね、朝食が終わったら部屋で着替えるから、そのままにしておいてくれ。起こしに来てくれたのに留守にして悪かったね」
「……はい、かしこまりました。それでは姉さんに声をかけてきますから、どうぞ居間でお待ちください」
翡翠は琥珀さんを呼びに、西館へと歩いていった。
「―――――さて」
時刻はまだ六時半。
この時間なら居間には誰も居ないだろうし、ゆっくりと朝を過ごす事にしよう。
「驚いたな。兄さん、早いんですね」
――――と。
居間の扉を開けるなり、優雅に紅茶なんかを飲みながら秋葉はそう言ってきた。
「………いや。驚いたのはこっちの方だけど」
なんとか冷静に返答しつつ、居間の中へと足を踏み入れる。
「どうしたんだよ秋葉。まさかとは思うんだけど、おまえっていつもこんなに早起きなのか?」
「そう? 今日はいつもより一時間ほど寝過ごしたから、別に早起きというワケではないと思いますけど」
何が嬉しいのか、秋葉は上機嫌である。
いつもだったら、
「兄さん、学生にとってこの時間に起きるのは常識でしょう。無為に時間を過ごしている兄さんと私を一緒にしないでください」
ぐらいは言ってくるものなのに。
「……秋葉? なんか良いことでもあったのか?」
恐る恐る尋ねてみると、秋葉はこれ以上ないっていう笑顔ではい、と上品に頷いた。
「ほら、兄さんも立っていないで座ってください。朝食まではまだ時間がありますから、しばらく私の相手をしてください」
「あ―――まあ、いいけど」
秋葉の向かいのソファーに座る。
秋葉が使っている物とは別に、ティーカップはもう一つ用意されていた。
とぽとぽと音をたてて、とても高級そうなティーカップに紅色の液体が注がれていく。
ゆらり、と。
昇り立つ湯気さえも、どことなくブルジョワジー。
「ミルクは入れますか? 入れるのでしたら持ってきますけど」
「いや、このままでいい。けどさ秋葉。なんでティーカップが都合く二人分あるのかな、と不思議に思ったりしないか?」
素朴な疑問を口にする。
「はい。いつ兄さんが来てもいいように、紅茶の支度はいつも二人分にしてあるんです」
「え――――それはつまり、昨日も一昨日も俺を待ってたっていう事、でしょうか」
秋葉の答えが怖くて、語尾が敬語になったりする。
が、秋葉はこれまた怒った風もなく、
「そうだけど、別に兄さんが気にする事でもないわ。これは私が好きでしている事なんですから、兄さんもご自分の朝を好きに過ごしていいんだもの」
……うむ。秋葉の言い分はまったくの正論だ。
「それに私、兄さんは今のままでいいと思ってるの。本当にたまに、気まぐれでいいからこうして早起きしてくれるだけで十分です」
にこり、と笑って秋葉はティーカップを口に運んだ。
「う―――――」
ぞわりと背中に悪寒が走る。
なんか、おかしい。
そりゃあ秋葉が大人しくて上品で優しい分には俺も幸福なんだけど、いくらなんでもこれはおかしい。
おかしい事は気になるので、ちょっと探りを入れてみよう。
「秋葉、おまえさ」
「はい? なんですか、兄さん」
「うん。言いたくないけど、さてはまだ酔っ払ってるんだろ」
「――――――――――はい?」
小鳥のように首をかしげる秋葉。
ぴくり、と片眉がひきつったような気がするが、それでも笑顔を維持するあたり強者だ。
「あの。聞きたくありませんけど、兄さんはいったいどのようなお考えをしているんですか?」
「いや、だって昨日の秋葉の飲みっぷりは凄かったじゃないか。普通あれだけのアルコールは一日じゃ抜けないから、秋葉はまだ酔ってるんだよ」
そうでもなければ、今朝の秋葉の上機嫌ぶりは説明がつくまい。
「に、兄さん、あなた――――――――」
うつむいてふるふると肩を震わす秋葉。
どうも、見破られて悔しいらしい。
「ほら、別に無理して俺に愛想をふりまく必要はないから、部屋に戻れって。今日ぐらいは学校を休んでも笑わないから」
「そんな訳ないでしょう――――!!!!!」
だん、と秋葉の手がテーブルを叩く。
宙に浮くティーカップティーカップ。
「―――そなの? 秋葉、やせ我慢はよくないんだぞ」
「やせ我慢もしてないっ……! 兄さんは私は昨夜のアルコールを翌日に持ち越すような不体裁をすると思っていたんですか!?」
だん、と再びテーブルが叩かれる。
またも宙に浮くティーカップティーカップ。
「だいたいね、かってに人の一日を決め付けないでくれない? なんで私が、学校を休むのにいちいち兄さんの許可をとらないといけないっていうのよ……!!!」
はあはあと荒い息遣いで睨む秋葉。
「…………………」
それを真顔で受け止めて、うむ、と腕を組んだ。
「調子が出てきたじゃないか。まあ、それぐらい元気なら確かに昨夜の深酒は抜けてるみたいだな」
「あ―――――――」
と栗鼠が砂糖菓子を食べたような顔をして、秋葉はむっと眉をよせる。
「……兄さん。今の、わざとですね」
「べつにー。そう思ったのは本当の事だったけどな」
「手段が姑息です。どうしてこう、ごく自然に穏やかな朝が演出できないんですか、兄さんは」
「おまえこそ。平和な朝っていうのは演出するもんじゃないだろ。……まあ、いつも待っていてくれた事は正直嬉しいよ。
けどなんて言うかさ、秋葉とは喧々囂々とした朝を過ごしたほうが張り合いがあるんだから、言いたい事があったらじゃんじゃん言ってくれたほうが嬉しいんだ」
……まあ、秋葉が本気で文句を言ってきたら遠野志貴は潰れてしまうので、そのあたり手加減してほしいとは思うんだが。
「なによそれ。喧々囂々って、私と兄さんってそういう仲なんですか」
「ダメかな。俺、秋葉とは本音で言い合いたいんだ。嘘は言いたくないし、できれば隠し事だってしたくないよ」
「あ……うん、それは私も、そうなんだけど……」
ぶつぶつと何やら呟く秋葉。
「……もう。兄さん、しばらく見ない間に口がうまくなったのね。昔はこんなふうに私をなだめることなんてできなかったのに」
「そうか? 今のは単なる本音だよ。最愛……とまではいかないけど、大切な妹とは仲良く暮らしたいんです、お兄ちゃんとしては」
「お兄ちゃんって顔ですか、兄さんは。冗談でも二度とそんなコトは口走らないでくださいね。気持ち悪いですから」
ふん、と秋葉は顔を背ける。
そうして秋葉は所在なさげにティーカップを眺めていたかと思うと、うつむいたまま、
「……私も、兄さんには隠し事はしたくありません」
なんてことを呟いた。
「なんだよ。俺に隠し事してるのか、秋葉」
「違いますっ。ただ欲を言えばいつも兄さんには早起きしてほしいです。……ほんとに、今朝は兄さんが早起きしてくれてすごく嬉しかったから。
だから、その……兄さんがいつもこうしてお茶に付き合ってくれれば、毎日幸福な気持ちで学校に行けるのになって、私―――」
もじもじとあさっての方角を見ながら続ける秋葉。
そこへ。
「お待たせしました。志貴さん、朝ごはんの支度ができましたけど」
と、琥珀さんがやってきた。
「あれ……? 秋葉の朝食はないんですか?」
「いやですね、秋葉さまならもう済ませているじゃないですか。志貴さん、秋葉さまと朝食をご一緒したかったら六時前には起きないとダメですよ」
……はあ。それはまあ、当分は不可能だろう。
「そっか。それじゃ朝食を済ませてくるから、またな秋葉」
席を立って食堂に向かう。
「……………………」
秋葉は黙ったままで俺を見送る。
その、何か言いたげな視線は俺にではなく、俺を呼びに来た琥珀さんに向けられているような気がした。
朝食を終えて居間に戻ると、秋葉の姿はすでになかった。
代わりにといってはなんだけど、翡翠がティーセットを片付けていたりする。
「あれ……? 翡翠、秋葉は?」
「秋葉さまでしたら、先ほど学校に行かれましたが」
「そっか、秋葉の学校って遠いんだっけ。……っと、俺ものんびりしてる場合じゃないか」
「はい。お部屋に制服が用意してありますので、着替えが終わりましたらお呼びください」
翡翠は足音も立てず、静かにロビーへと消えていった。
部屋で制服に着替えてから、いつもより余裕をもって屋敷を後にする。
「今日はまっすぐ帰ってくるから、帰りは四時ごろになる。あ、それとここで出迎える、なんて事はしなくていいから」
「かしこまりました。それでは志貴さま、どうかお気をつけて」
「ありがとう。それじゃ行ってくる」
ふかぶかとおじぎをしてくれる翡翠に手をふって、坂道へと走り出した。
何事もなく教室について、いつものように授業が始まった。
「――――――――」
そこで気がついた。
弓塚の机はなくなっている、という事に。
クラスメイトが一人いなくなってしまったぐらいで学校の時間割に変動はない。
空席は空席のままではなく、空いてしまった机は埋められ、日常は普段通りに流れていく。
「……どう、して」
気がついて、不安になった。
弓塚との事は、決して忘れられない出来事のはずだった。
なのに俺はどうして―――今の今まで、彼女の事を思い出そうとしなかったんだろう。
――――志貴くんもわたしと同じだよ。
……その言葉は、まだ脳裏に焼き付いている。
「……………けど、ヘンだ」
なのにどうしても、それを深く考える事ができない。
あの夜。
秋葉に手当てをしてもらった時に、何かを落としてしまったみたいだ。
こうしてここにいる事も、吸血鬼のようだった弓塚さつきとの事も、何もかも空ろすぎる。
それともアレは、本当に朧な夢だったのか。
「………そんなハズは、ないけど………」
それを否定する事がどうしてもできない。
こうしている今も、弓塚がいない教室にいるっていうのに彼女の事をうまく思い出せない。
あの夜からこっち。
なにかが、うまく現実として、遠野志貴の中で噛み合ってくれていないようだった―――――
気がつけば一日が終わっていた。
「…………はあ」
有彦や先輩に会いに行く気分でもない。
今の自分は学校より、遠野の屋敷のほうが気分が落ち着いてくれるみたいだ。
ロビーに入ると、すぐに翡翠の姿があった。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「……ああ、ただいま翡翠。琥珀さんと秋葉は留守?」
「秋葉さまはまだお帰りになられておりません。姉さんでしたら裏庭の掃除をしておりますが」
「いつもと同じか。それじゃ部屋に戻るから、翡翠も仕事に戻っていいよ」
「はい。それでは失礼いたします」
二階への階段に足をかける。
「あ、志貴さま」
「ん?」
「わたしは槙久さまのお部屋の整理をしていますから、何かご用でしたらお呼びください」
翡翠は東館のほうに早足で去っていった。
上着を脱いて、鞄の中身を整理する。
――――と。
教科書にまぎれて、白いリボンが出てきてしまった。
「……………そう、か。いいかげん、返さないといけないのかな」
八年前のあの日から持ち歩いていたリボン。
俺をこれを返すために帰ってきたんだから、そろそろ持ち主に返さないといけない。
リボンを握り締めて立ち尽くす。
……翡翠にリボンを返すシーンを想像して、首を横にふった。
八年前。
あの木の下で交わした言葉は、それこそたった二言や三言だけだった。
それでもアレは自分にとって大切な思い出だ。
だから―――たとえ自分勝手な思いだとしても、翡翠が約束を覚えていない以上リボンを返すのはイヤだ。
「―――――それに、どこか」
うまく言えないけど、何か違う気がする。
この胸のひっかかりが無くなるまでは、このリボンは自分で持っていたかった。
「―――――はあ」
椅子に座って、はらはらと散っていく落ち葉を眺める。
ポケットにはリボン。
館内では翡翠に会ってしまうので、気分が落ち着くまで中庭で涼む事にした。
…………。
……………………。
………………………………。
……………………………………………。
………………………………………ふと、昨日の事を思い出す。
酔いを冷ますために中庭に出た後、琥珀さんと話をした時。
――――どうして戻ってきてしまったんですか。
いつもの笑顔ではなく、ほんの一瞬だけだった顔。
あれは一体、どういう事だったんだろう―――
「おや? 志貴さん、ここがお気に入りになっちゃったんですか?」
掃除の帰りなのか、琥珀さんはホウキを持ってやってきた。
「ぁ―――い、いや、そういうわけじゃないです」
ちょうど琥珀さんの事を考えていた時に本人がやってきてしまったものだから、つい声がどもってしまった。
ともかく、ここにいては琥珀さんの掃除の邪魔だろうからすぐに部屋に戻らないと―――
「あれ、志貴さん行ってしまうんですか? まだ時間も早いですし、もうしばらくは中庭にいらしてもいいじゃないですか」
ホウキを地面に置く琥珀さん。
「いや、琥珀さんの仕事の邪魔をしちゃ悪いから」
「中庭のお掃除は終わってますよ。先ほど裏の花壇の様子を見て、今日のお掃除はおしまいなんです。夕食までもう少し余裕がありますから、わたしもここでお休みしようと思ってたんです」
琥珀さんは庭のほうから中庭のテラスまであがってくると、仕事はしませんよー、と言うかのようにエプロンを外してしまった。
「そういうわけで志貴さん。わたしのお話相手になってくれません?」
「あ―――はい。琥珀さんがいいなら、よろこんで」
決まりですね、と笑顔で言って琥珀さんは少し離れた椅子に腰をかけた。
―――いや、訂正。
腰をかけようとして、まじまじと俺の顔を見つめてきた。
「志貴さん。なんだかうかないお顔をしていますね」
「え? 浮かない顔してますか、俺?」
「はい。そんな思いつめた顔をしているとメガネが曇っちゃいますよ」
琥珀さんは冗談とも本気ともつかない忠告をしてくる。
「ところで志貴さん。昨夜お話されていた事ですけど」
「? 昨日の話って、どんな」
「ですから、昔志貴さんが借り物をした、というお話です。それ、もうお返ししたんですか?」
目を輝かせて琥珀さんは尋ねてくる。
……ナイフの時といい今といい、琥珀さんはわりと好奇心が強い性質らしい。
「……いや、実は借りた相手があんまり覚えていなかったみたいなんだ。だからってわけじゃないけど、借り物はしばらく預かったままにしておこうかなって」
「あら、志貴さんったらそのままネコババしてしまうんですか? そんなにいいものだったというわけではないでしょう?」
「あはは。うん、確かにいいものじゃなかったな。借りたのはいいけど、結局一度も使ったことはないから」
……まあ、男がリボンを使っても気味が悪いだけだし、幸い自分にはそっちの趣味もなかったし。
「ふーん、そうですか。……ねえ志貴さん。志貴さんが借りた相手、というのを当ててみせましょうか?」
「いいけど。琥珀さん、こういうの好きなんだね」
「はい。それでですね、志貴さんが何かを借りた相手、というのはズバリ翡翠ちゃんでしょ」
「―――あたり。よく解ったね、琥珀さん」
「だって八年前の事でしょう? その頃の志貴さんと仲が良かったのは翡翠ちゃんじゃないですか」
琥珀さんは楽しそうに言う。
「……………?」
仲が、良かった……?
「……そうだったかな。けど仲が良かったはどうかは別にして、その約束は大事なものだったんだ。
八年前のあの日。今まで見ているだけだったあの子が返しに来てと言ってくれた。……それだけで、遠野志貴は救われたんだよ」
「……………は?」
ぴたりと。
琥珀さんは、真面目な顔で俺を見た。
「彼女にとってどうだったかは知らないけど、あの約束がなかったら俺は世の中を拗ねて、すごく捻くれたヤツになってた思う」
……いらない子供として扱われたあの日。
一番のお気に入りの物を渡されて、それを必ず返しに来てと約束させられた。
自分の帰るべき場所で、唯一あの子だけが、遠野志貴の帰りを待っていてくれると思えただけで―――もう、何もいらなかったぐらいに。
「……ああ、そうだ。だから簡単に返すのなんて、できない。
リボンを返しても、まるで空になった食器のように翡翠は古びたリボンを受け取る。……そんなのは、イヤだった」
「―――――」
「こんなのは自分だけのワガママなんだってわかってる。けど、どうしても翡翠には返せない。
このリボンを返す時は、相手にも覚えていてほしい。本当に嬉しかったから、ありがとうってお礼を言って、きちんと約束を果たしたかった。
……そうしないと俺は、あの時の翡翠にも、そのおかげでここにいる自分にも申し訳がたたない気がして」
椅子に座ったまま、自分の中にだけ留めておくべき心情を吐露した。
……どうして琥珀さんにこんな話をしてしまったのかは解らない。
昨夜といい今といい、この庭にはなにか、過去を彷彿させるような効果でもあるのかもしれない。
「……琥珀さん? どうしたんですか、なんか辛そうな顔をしてますけど」
「え? わたしはいつも通りにしてますけど」
辛そうな顔のまま、琥珀さんは変わりない口調で笑う。
……いや、笑ったつもり、みたいだ。
「志貴さん? わたし、そんなにおかしな顔をしてますか?」
言って、琥珀さんは窓ガラスを見た。
そこにはやっぱり辛そうな顔をした琥珀さんがいて、そんな自分を琥珀さんは呆然と眺めている。
「琥珀さん……? 気分が悪いんなら、無理して俺に付き合わなくていいから、部屋に戻って休んだほうがいいよ」
「―――そうですね。少し休んでから、ご夕食の支度をしないといけませんから」
琥珀さんは急ぐのでもなく、ゆっくりとテラスから下りていく。
「それと志貴さん? 翡翠ちゃんは忘れっぽいから、気長に待ってあげてください。
あ、それとも八年前と同じ庭の木の下に連れていくのもいいかもしれませんね。何かの拍子で思い出すかもしれませんよ」
琥珀さんはホウキを拾って、屋敷の裏手にある裏口へと歩いていった。
「……なるほど。あの木の下に連れていけば、確かに思い出してくれるかもしれないな……」
けど、それもなんだか間違っている気がする。
俺が一人で躍起になって、強引に翡翠に思い出してもらっても嬉しくはない。
けど、あの木を見に行くのはいい考えだ。
帰ってきてからまだ一度も行ってない事だし、次の休みにでも様子を見に行っても―――
「…………………あれ?」
そういえば、どうして琥珀さんは翡翠と会った場所を知っているんだろう。
……琥珀さんと翡翠は姉妹だから、翡翠から聞いていたとしても、どこか納得がいかない。
あの約束は、なんていうか秘密めいた物だった。
翡翠の性格を考えると、いくら姉だからって琥珀さんに教えているような、そんな場面はどうしてもイメージできない――――
夕食はいつもどおり、俺と秋葉だけの静かなものだった。
琥珀さんは秋葉の後ろに、翡翠は俺の後ろに立って、一言も話さないというお決まりのディナー。
「……………」
ただ、いつもと違って秋葉の様子はおかしかった。
今までは俺が食器の音をたてるたびにじろりと睨んできたっていうのに、今日は秋葉本人もカチャカチャと耳障りな音をたてる。
しまいには、
「――部屋に戻ります。夕食はさげてください」
なんて言って、途中で食堂を後にしてしまった。
「……どうしたんだろう、秋葉のヤツ。朝はあんなに元気が良かったのに」
「…………………」
翡翠は黙ったまま何も言わない。
琥珀さんはというと、厨房でいつも通り食器を片付けている。
――――と。
ロビーのほうから、何かが倒れる音がした。
「―――秋葉!?」
ただそんな予感だけがして、ロビーへと駆け出した。
「―――――!」
そこには、階段にもたれかかった秋葉の姿があった。
秋葉の呼吸は乱れていて、離れていてもぜいぜいという音が聞こえてくる。
顔色は真っ青で、額や腕に玉のような汗が浮かんでいた。
……その姿は、一目見ただけで尋常ではないと解る。
「おい、秋葉!」
「近寄らないで……!」
「っ!」
足を止める。
秋葉は、階段にもたれかかったままで、激しく俺を拒絶した。
「なっ―――近寄らないでって、なに言ってるんだよ。何があったか知らないけど、そんな苦しそうなヤツを放っておけるわけないだろ」
「―――いいから、兄さんだけは、近寄らない、で」
「な――――」
どくん、と心臓が跳ねる。
ただ、苦しげに息をはく秋葉の姿。
……どうかしている。
それが弓塚さつきの姿にひどく似ていると、一瞬だけでも思ってしまったなんて。
「秋、葉―――」
「いいから来ないでくださいっ。いま近くにこられたら、私はきっとダメに、な――――」
ずるり、と。
階段にもたれかかっていた秋葉の体が倒れこむ。
「秋葉―――――――――!」
秋葉に駆け寄る。
「にい、さ……やめ、て―――」
倒れながらも俺の手を拒む秋葉。
それを無視して、秋葉を両手で抱きかかえた。
「っ………………」
秋葉の顔が苦痛で歪む。
何かに耐えるように、唇を噛み締める秋葉の表情は、あまりにも苦しげだった。
「―――志貴さん……!?」
琥珀さんがロビーにやってくる。
「琥珀さん、秋葉がヘンなんだ。とりあえず寝かせてくるけど、いいですね?」
「―――はい。わたしもすぐに参りますから、秋葉さまをお願いします……!」
琥珀さんは小走りで西館へと消えていった。
「……ぁ……はっ、あ…………!」
声をかみ殺す秋葉。ぐっ、と苦しげに反り返った背中と、突き出された胸が痛ましい。
「にいさ―――はなし、て―――」
「バカ、大人しくしてろ……! すぐに部屋につれていってやるから……!」
腕の中で暴れる秋葉を抱きかかえて、階段を駆け上がった。
「だめ……にいさ……はなし、て―――」
虚ろな瞳のまま、秋葉はまだ俺の手を引き離そうとする。
「いいから黙ってろ……! 今ぐらいは大人しく俺に頼ってもいいだろう……!」
言い伏せて廊下を走る。
乱れた秋葉の息。
乱れた秋葉の爪。
乱れた秋葉の髪が、俺から冷静さを奪っていく。
「―――――」
どうかしている。
今、一瞬。何か赤い色彩が、見えた気がした。
「……は……ぁ、ん……は、あ………」
秋葉の呼吸は、見ているだけで熱そうだった。
ぎゅっ、と細い指が、俺の服を引き裂きかねない強さで掴んでくる。
「ほら秋葉、ベッドに寝かすから楽にして」
「ふぁ……ぁ……はっ……あ………」
はぁはぁと乱れた呼吸のまま、秋葉はベッドに横になった。
「んっ………あ、んんっ……………!!」
ぎしり、と軋むベッド。
秋葉は長い髪を乱して、苦しそうに胸元を掻き毟る。
―――また赤い色彩。
それは気のせいだ。妄想を振り払うように、大声をあげた。
「しっかりしろ秋葉……! くそ、どうしていきなり、こんな……!!!!」
俺は、苦しむ秋葉を前にして何も出来ない。
悔しくて唇を噛む。秋葉の姿があまりに苦しそうで、自分も力の加減ができなかった。
―――ぷつ、と。唇が切れて、血が滲んだ。
赤い水玉がベッドに落ちる。
それは秋葉の赤い髪に溶けて、すぐに見えなくなってしまった。
「―――――」
いや、目の錯覚だ。
秋葉の髪は黒い。赤く見えたのは、ただ俺が動転しているだけの話――――
「……………ぁ…………ん…………」
横になった事が幸いしたのか、秋葉は呼吸は段々と静かになっていく。
「―――――――」
ほう、と胸をなでおろす。
この分なら俺が付いていなくても大丈夫だろう。すぐに琥珀さんが来てくれるだろうし、いつまでも秋葉の寝室にいる訳にもいかない。
「……大人しくしてろよ。すぐに琥珀さんが来てくれるから」
ベッドから離れようと立ちあがる。
その、瞬間。
「――――――だめ……………!!!!!!」
秋葉が、抱き付いて、きた。
「――――――っ」
いや、抱き付いてくるなんてものじゃない。
秋葉は一心に、俺の背中を掻き毟るぐらいの激しさで、しがみついてきただけだ。
「あ……秋葉、おまえ―――」
その力は秋葉の細腕からは想像できないぐらい強い。痣が出来てしまうぐらい強く、秋葉は俺を締める。
「…………いやだ……行かないで、兄さん」
ぎゅっ、と秋葉の爪が背中に食い込む。
何かに怯えるように、秋葉はただ一心に抱きついてくる。
それを。どうして、振り払う事ができただろう?
ざくり、と秋葉の爪が背中を裂く。
傷をつけられていく中、それでも秋葉の肩を抱いた
「…………秋葉。大丈夫、ちゃんといるから」
「あ………ぁ、あ―――――」
震える手。秋葉は俺の肩に顔をうずめて、嗚咽を押し殺している。
「―――秋葉。そんなに苦しいなら、無理しなくていいんだ。我慢するコトなんて、ない」
「……ちがう……ちがうの、兄さん。
私は、そんな―――兄さんに言ってもらえる資格なんて、ない」
言って。
がくん、と秋葉の体から力が抜けた。
「……お父様、私は――――私は、兄さんを、どうしても」
こぼれる嗚咽。
それに隠れるように、
「どうしても、この手にかけないと、いけないんですか」
―――と。
吐き出すような悲哀が、聞こえた。
「―――――――秋、葉?」
「嫌―――私、どうすれば…………!」
震える声で、秋葉は涙をこぼす。
嗚咽は堰をきってこぼれだす。
「…………………」
何も言えず、ただ秋葉を抱きしめた。
―――そうして、どれくらいの時間がたっただろう。
泣きつかれた子供のように秋葉は眠って、そのか細い体を、俺はベッドに横たわらせた。
「志貴さん。秋葉さまは落ち着かれましたか?」
廊下で待っていたのか、琥珀さんは秋葉の寝室の前で待っていた。
「……ああ。今は眠ってる。けど琥珀さん、秋葉はどうして、あんな―――」
「いえ、志貴さんが心配する事はありませんよ。秋葉さまは突発的な呼吸困難におちいる事があるんです。志貴さまが貧血ぎみであるように、秋葉さまも遠野家の人間ですから」
「……なんだよそれ。秋葉はいつも元気そうだったじゃないか」
「はい。けど遠野家の方々は、みなそういった疾患を持っているんですよ。
遺伝的な欠陥なのか、秋葉さまも志貴さんも、お二人の父親である槙久様も何らかの身体的な発作を持病としてお持ちなんです。
その中でも秋葉さまの病状は軽い方なんです。楽観はできませんが、志貴さんと違って決して命に関わる物ではありませんから、そう怖い顔をしないでくださいな」
「―――怖い顔って、仕方ないだろ。さっきまで秋葉があんなに苦しんでたんだ。
俺は何もできないし、今まで―――秋葉がそんな体だったなんて、知りもしなかった」
「ええ。秋葉さまは志貴さんにはくれぐれも内密にするように、と気を配っていましたから。
わたしたちも志貴さまには内緒にするよう、きつく言われてましたからね」
「――――そんな、どうして」
「秋葉さまは志貴さんに不快な思いをさせたくないんです。ですからどうか、志貴さんも秋葉さまのお心遣いを無下にするような事はしないでください」
「……………っ」
言葉がない。
琥珀さんの言う事は正しすぎて反論できない。
結局は俺は、一人だけ何も知らないまま、自分だけ悩みを持っている気になっていただけだ。
「………すみません。秋葉をよろしくお願いします、琥珀さん」
琥珀さんに頭をさげて、秋葉の部屋の前から立ち去った。
「――――――――」
部屋に戻っても眠る事などできなかった。
何かを怖がっていた秋葉の姿が目蓋に焼き付いてしまって、心が穏やかになってくれない。
「い……………た」
背中の傷が痛む。
秋葉の爪が掻き毟った背中には、血が滲んでいた。
爪は肌を裂いて、カッターで切りつけたような跡を何十と残している。
……だが、こんな傷はそう痛いものではなかった。
窓から遠い月を眺める。
秋葉を心配する心は、それでも穏やかになってくれない。
……あんなに苦しんでいた秋葉。
……体に疾患を持つという遠野の一族。
「―――――――」
脈拍があがる。
それを思うだけで、何も知らなかった自分に対する怒りが湧き上がる。
「―――――――」
赤い。唇から雫れた赤い血。
わずか一瞬だけ、赤く―――血のように赤く見えた、秋葉の髪。
「―――――――く、そ」
自分に対する怒りで穏やかになれない?
そんなのは嘘だ。
あの髪。あの色彩を思い出すだけで、ドクンドクンと心臓が鼓動する。
……俺はどうしてしまったんだろう。
あの、赤い髪の秋葉を思い出すだけで、血が昂ぶって、息が苦しくなる。
だから考えないようにしているのに、どうしてもそれができない。
あの秋葉の姿は、美しすぎた。
こんなにも。
こんなにも何かに夢中になったのは、これが初めてだった。
――――いや、それとも。
この頭の中が真っ白に燃えるような感覚を、何日か前に、体験したような気がする。
「……まったく。これじゃ秋葉に恋をしているみたいじゃないか」
……それも、また嘘。
この昂ぶりは恋なんて優しいものじゃない。
思い出して、呼吸を乱す。それは欲情と呼ばれるモノだ。
「――――――――」
顔を手で覆って、ベッドに倒れこんだ。
気分は収まらない。
今夜はこのまま、ずっとこんな気持ちのまま過ごさないといけないんだろうか―――!w1000
トントン、というノックの音。
「志貴さん? 起きてらっしゃいますか?」
「えっ……起きてるけど、琥珀さん?」
「はい。失礼しますね、志貴さん」
琥珀さんは銀のトレイを持って部屋に入ってきた。
トレイには水の入ったグラスと、薬らしき錠剤がある。
「あ、やっぱりご気分が優れないみたいですね。さっきの志貴さん、すごく思いつめてましたから。もしかしたら眠れないのかなー、って老婆心ながらもやってきてしまいました」
琥珀さんはトコトコとベッドまで歩いてくる。
「……琥珀さん。それ、もしかして睡眠薬か何かですか?」
「いえ、そこまで強いものではありません。ちょっとした安定剤ですけど、志貴さんがよろしいのでしたらお勧めしようと思って」
琥珀さんは控えめな口調だった。
薬は勧められないけど、俺がどうしても眠れないのなら使ってください、という意味。
……その心遣いは、本当に助かる。
「―――ありがとう。ちょうど眠れなかったところなんだ。薬、貰うよ」
「……いいんですか? 志貴さん、お薬の服用はあまり好きではない、と主治医さんから伺っていますけど」
「別に薬嫌いなわけじゃないよ。あの主治医はね、薬の副作用とか説明しないで、人をモルモット扱いしてやがんだ。
けど琥珀さんは別。琥珀さんのくれた薬なら安心できるよ」
グラスを受け取って、錠剤を飲みこんだ。
水で薬を胃まで流し込む。
……別に即効性というワケではないだろうけど、冷たい水の感触が昂ぶった心を落ち着けてくれたみたいだ。
「ありがと。これならすぐに眠れそうだ」
「はい。それでは失礼しますね。どうか良い夢を、志貴さん」
琥珀さんはおじぎをして退室していった。
「――――――ふぁ」
両腕を伸ばして、大きく息を吐く。
……今夜は秋葉の事を考えるのは止めよう。
今はともかく眠って、やるべきことは明日になったら―――――
●『Y/未来視 未来死』
目が醒めた。
琥珀の薬のおかげが、この上ないほど頭の中がクリアになっている。
四角い窓から見上げる空は、同じようにクリアな空だ。
なにか、今日はいいコトがありそうな気がする。
朝食を済ませて学校に向かう。
今日は秋葉の顔ぐらいは見ておこうと思ったが、やめておいた。
何事も急いては台無しにしてしまう。
今日は大人しく学校にいる事にしよう。
――――学校はいつも通りだった。
とりわけ変化もなく、自分を脅かすものもない。
夕方になれば生徒たちは下校していって、校舎はとたんに静かになる。
意味もなく日没まで時間を潰す事にした。
夜になった。
まだ屋敷に帰る気にはなれない。
少し遊んでから、どうするか考えよう。
――――はっ、はっ、はっ、はっ―――・
コトを済ませて、呼吸を再開した。
目の前には真新しい女の死体。
両手はやはり血に染まっている。
――――はっ、はっ、はっ、はっ―――・
またやってしまったらしい。
やる気はなかったのに、始めてしまうとつい白熱してしまう。
悪い癖だ。
さて、死体はどうしようか。
――――はっ、はっ、はっ、トン―――・
自分の呼吸音だけが夜に響く。
なのに、今、最後におかしな音がした。
「――――――――誰だ!?」
振り返る。
大通りに通じる小道から、足音が聞こえてくる。
――――はっ、はっ、はっ、はっ―――・
ぽたり、と額から汗がこぼれた。
……緊張しているワケではない。
身体が、ひどくあつかった。
どうかしている。あまりの暑さに喉が乾く。
死体を、ひどくあつかった。
死体の首筋に歯をたてて、血を飲む。
喉の乾きはそれぐらいでは収まらない。
――――はっ、はっ、はっ、はっ―――・
ゆらりと視界が歪む。
気のせいではない。
この周辺の気温が異状。
大気の冷たさに比べて、地面の温度が高すぎる。
煙る蒸気が、この上ないほどの危険を告げている。
「―――――――チッ」
死体に噛みついたまま走った。
ここにいては危険だと本能が告げていた。
――――はっ、はっ、はっ、はっ――――!
学校まで逃げてくる。
ここなら他人の目につく事はない。
さっきのが何だったのかは解らないが―――
アイツが、笑っている。
「――――――――!」
背後に言いようのない熱さを感じた。
振り返ると、そこには。
赤い熱気のようなものが。
何か、得体の知れないモノの気配が近づいてきていた。
「くそ――――――」
追いかけられている。
……面倒くさいので殺そう、とナイフを握る。
赤い熱気が広がっていく。
足音をたてて、堂々と『誰か』がやってくる。
隙だらけの歩き方だ。
得体が知れないが、格好の獲物だと唇を舐めた後。
「あ―――――――――」
どくん、と。
心臓が、アレには絶対に敵わない、と告げてきた。
「はっ――――――はは、は」
汗が流れる。
熱さのためではない。
本能に次いで、理性も悟った。
自分は、アレに捕まったら始末される、と。
「はは、ははは、ははははははははは!」
怖くなって、校舎の中へ逃げ出した。
――――はっ、はっ、はっ、はっ―――・
四階まで上がってきた。
ここまで来れば、アレが追ってくる事もないだろう。
おまえ―――どうして、笑っているんだ。
「はぁ………は、はは、は」
ようやく一息つけて、自分がまだ死体を噛んでいる事に気がついた。
口をあける。
ぼと、と廊下に死体が落ちる。
手足はまだついたままだ。
ちょうどハラが減った事だし、ここで処理する事にしよう。
――――――カツン。
「―――――――!?」
振り返る。
そこには―――あの、得体の知れないヤツが立っていた。
「やっぱり貴方だったんですね、兄さん」
誰かが言う。
この両手は血で濡れている。足元には新しい死体。
見られた。
人を殺している所を見られた。
なら、もう怖がってなんかいられない。
相手が誰であろうと、ここでコイツを始末するだけだ。
「はっ――――――!」
ナイフを握って、敵へと走る。
その途端。
きぃぃぃぃん、という音がして、片手が消滅した。
「なっ…………!?」
足を止めて、後ろに跳ぶ。
赤い熱気めいたものを、間一髪でかわす。
「貴様、何を――――」
肘から先がなくなっていた。
痛みもない。
出血もない。
断面からは肉と骨が見えていて、そこから―――吐き気がするぐらいの冷気が体内に侵入してくる。
「はっ……は、あ……!?」
解らない。
敵は何もしていない。ただ、今はもう無くなってしまった片腕を睨んだだけ、のようだった。
つまり―――睨んだだけで、殺せるという事か。
いや、それは違う。
かつん、と乾いた足音が響く。
敵がやってくる。
それは、拙い。
敵の視界に入れば成す術もなく殺される。
「ひ…………ひひ、ひ…………!」
闇にまぎれて、見られないように廊下を走った。
階段までついた。
足音は近づいてくる。
「はっ――――はは、は――――」
窓を開ける。ここは四階だが、かまわない。
敵と自分とではスキルが違いすぎる。
こっちは近づかなくちゃ殺せないのに、敵は見るだけでいいときた。
そんな手合いを殺すには、完全な奇襲以外はありえない。
今はここから逃げて、違う日にこっちから殺しにいってやる。
窓の外には。
無数の赤い糸が張り巡らされていた。
窓を開けて外に身を乗り出す。
「っ―――あ、ああああああああ!」
途端、体が燃えた。
火がつく前に廊下に転がる。
「な……なん、だ―――」
だから、校舎を赤い糸が包んでいる。
解らない。
窓の外には何もないのに、外に出ようとすると体が発火してしまう。
――――かつん、という足音が聞こえる。
「くそ……窓はだめだ……!」
逃げなければ。
とにかく逃けないと殺される。
転がるように階段を駆け下りた。
三階を駆け下りて二階に来た。
……いける。敵よりこちらの足が速い。
違う。もう、すぐ後ろに赤い髪が。
「……………っ!」
転がった。
唐突に、片足が蒸発した。
「がっ――――あ、あ………!?」
転がる。階段の方とは逆に転がった。
上からは、階段を降りてくる敵の足音。
「はっ――――は、はっ、はっ…………!」
残された片腕と片足で、廊下を這って逃げた。
「ぐっ………なんだってんだ、チクショウ………!」
這いながら、叫んだ。
敵はまだ階段にいるハズなのに、体のいたる所が寒い。
廊下には、赤い熱気。
廊下は汗がでるほど熱いのに、体は冷たい。
そうして、冷たいと感じた部分が、次の瞬間には蒸発していた。
「はっ――――はっ、あ……………!」
だがこの程度では死なない。
そのまま、身近な教室に入った。
……かつん、かつん、かつん、かつん。
足音が近づいてくる。
……敵がどんなカラクリをしているのかは解らない。
いや、だから。
敵の殺傷能力は、どう考えてもこっちより数倍は優れている。
あの赤い熱気だろう。
だが―――それを扱っている本体は最低だ。
気配の消し方も出来なければ、相手を察知する能力もない。
かつん、と。
敵はこちらに気がつかず、そのままこの教室を通り過ぎようとしている。
「――――――――――」
落ち着いてきた。
素人が飛び道具を持っているだけなら、どうという事はない。
……敵は教室を通りすぎた。
なら、後は簡単だ。その隙だらけの背中を仕留める。
片足がなくとも仔細ない。
敵が振り返るより早く、確実に、敵の脳髄を切り取ってやる――――――!
廊下に出る。
敵は背中を見せている。
……なんて無様。まだこちらの気配さえ察していない。
確信して、跳躍した。
「―――――!?」
敵が驚いて振り向く。
時間にして五秒はあったろう。
それなら七回は殺せる時間だった。
だった。だった。だった。だった。だった、ハズだ。
敵は。
無慈悲な目をして、振り返った。
「―――驚いたわ。そんな体でまだ動けるなんて」
敵が言う。
からん、とナイフが廊下に落ちた。
……ア・ツ・イ。
なんて、コト。
コイツは、別に、気配を察知する必要も、身を守る必要も、なかった。
敵の周囲は、密度すら感じる熱気で充満している。
近づくだけで―――肌が灼けて、動けなく、なった。
それは、赤い髪が手足にまとわりついている為だろうに。
「は――――――あ」
見上げる。
雲は途切れる。解放された月光が、敵の姿を映し出す。
全て終わったと確信したのか。ゆらめいていた敵の髪が、さらりと落ちた。
――――秋葉、だった。
「―――――」
あまりの事に声が出ない。
ただ、それで――――これが夢だと、ようやく悟った。
「さよなら兄さん。さんざん逃げ回ってくれたけど、これで終わりね」
秋葉の視線が向けられる。
赤い髪が絡み付こうと伸びてくる
視線から逃げる事はできない。
違う。それは、違う
骨の芯から凍りつくような悪寒。そのあと、何もかも奪われてしまうような感覚。
だから、違う。まだ間に合う。切れ。その髪を切れ。それとも、やはり
成す術もなく。意識が、薄れていく。
これは夢だから、今の俺には見えていないのか
「どうして、こんな事に」
呪うような秋葉の呟き。
そこへ。
「当主としてのお役目、ご苦労様でした」
と。笑顔で、琥珀さんが告げていた。
悪い夢。
これは悪い夢。
これはもう少し先の未来。
これはまだ決定していない先の時間。
だから早く、もとの時間に戻らなくっちゃ―――
●『6/カイン U』
● 6days/October 26(Tue.)
――――そうして、ベッドから跳ね起きた。
「ハッ―――ハァ、ハ――――」
ぜいぜいと空気を吸う。
今のは、夢だった、らしい。
「はあ―――はあ、あ…………」
呼吸を整えながら、自分の体を抱いた。
……体は依然として存在し、肌が灼けた跡も、失われている部分もない。
背中に指を当てると、びしゃりと音がした。
「……すごい……汗……」
口にして、なんだか他人事のように思えた。
全身が汗をかいていて、寝巻は水をかぶったように水気を帯びている。
今の夢―――あの悪夢から覚めた今でも、額からはポタポタと汗がこぼれていた。
「……気持ち……悪い」
吐き気を堪えながらベッドから起きあがる。
窓際まで歩いて外の風を浴びて、少しだけ気分が落ち着いてくれた。
「……なんて夢を見てるんだろう、俺は」
あの悪夢を反芻して、自分の両手を確認する。
両手には血の染み一つない。
それは当然の事だ。
さっきのは夢にすぎないんだから、俺が殺人の返り血を浴びる事も、人の血を吸うような真似をするハズもない。
―――だが。
昨日の朝、遠野志貴は何をしただろう。
確か赤いペンキに塗れた両手を、
誰にも見つからないようにと、
洗い流しにいったのではなかったか。
――――志貴くんはわたしと同じだよ。
そう言っていた少女がいた。
……よく思い出せない。
遠野志貴は彼女に噛まれた。
……よく思い出せない。
血を吸う病があるのなら。
……よく考えられない。
それは、噛まれる事によって伝染する。
「――――――違う………っ!!」
言って、脳内に巣くう暗い情念を払拭した。
だが今の夢は消えてくれない。
人殺しをする自分がいた。
きっと問題はそこだ。
俺は、たとえ夢の中だとしても殺人をして、それに何の罪悪感も抱いていなかった。
ただ、当たり前のように殺して、それを眺めていただけ。
それは異常だ。
夢の中の自分は正気じゃなかった。
アレは、こうしている自分とはまったくの別人だ。
だが、あの夢は遠野志貴が見たものだ。
なら―――正気じゃなかった遠野志貴も、自分である事に間違いはない。
「―――――違う」
……そうして、そんな遠野志貴を罰しに来た秋葉。
夢かと言われれば夢だろう。
だがアレは悪夢というよりは、そう遠くない未来のような気がして、吐き気がする。
と。控えめな、ノックの音がした。
「失礼します。……志貴さま? お目覚めになられていたのですか?」
「ああ。ちょっと夢見が悪くて、ついさっき目が醒めた。……ちょうど良かった。すごく汗をかいたから、早く着替えたいって思ってたんだ」
翡翠はいつも通り、学生服を用意してくれている。
それを受け取る為に翡翠へ近づこうとして、
くらりと、眩暈がした。
「志貴さま!?」
……翡翠の声が聞こえる。駆け寄ってくる気配がして、手をあげてそれを止めた。
「ぁ――――大丈夫。ちょっとした眩暈だから、すぐに持ちなおすよ」
深呼吸をして、自分の中でトントン、というリズムをとる。
そうして頭の奥にわだかまった血が薄れていくのを待った。
「ほら。すぐに治っただろ」
こんな事で翡翠を心配させたくないから、できるだけ明るく笑いかける。
「…………う」
が、今回は失敗してしまったみたいだ。
「……志貴さま、無理をなさらないでください。そのようなお顔のまま笑われると、困ります」
翡翠は辛そうな表情で、そんな事を言った。
「え――――」
そんなふうに感情を露にした翡翠を見るのは初めてのような、気がする。
……いや、そんな事はないか。
よく思い返してみれば、翡翠は無表情に見えるだけで、わりと感情表現はストレートだ。
八年前の、いつも窓際にいた頃の彼女に比べると違和感を覚えるぐらい、思っている事が顔にでている気がする。
「……志貴さま? やはりお体の具合が―――」
「いや、違うんだ翡翠。ただちょっと意外に思っただけなんだ。翡翠は昔に比べると変わったじゃないか。いつも俺たちを見ていた頃に比べると元気になってくれた気がする」
「―――――そう、でしょうか。それは志貴さまの思い違いだと思います」
翡翠は言いにくそうに視線を逸らす。
……うん。やっぱり昔の、人形みたいに静かだった翡翠とはイメージが違っている。
「それよりも志貴さま。本当にお体のほうはよろしいのですか?」
「ああ、大丈夫だよ。翡翠と話してたら元気になった」
「……わかりました。ですが志貴さま、次の休日にはお医者さまに診ていただくべきです。
志貴さまはこのお屋敷に帰ってきてから、明らかに体調を崩していますから」
「…………う」
それは、確かにその通りだ。
「なんだ、翡翠まで琥珀さんと同じような事を言うんだな。それじゃあさ、まるでこの屋敷に帰ってこなかったほうがいいみたいだ」
それは、軽い冗談のつもりだった。
「はい。わたしも姉さんと同意見です」
「な―――――――」
瞬間。目の前が、くらりと歪んだ。
「――――――――」
言葉さえ喉を通らない。
俺は八年前の約束を守るために帰ってきた。
なのに、それを。
あのリボンを手渡してくれた翡翠本人が、否定するのか。
「……翡翠。きみが、それを言うのか。俺が一体誰のために帰ってきたと―――」
「……違います。志貴さまは志貴さまの為にこの屋敷に帰ってきたのです。
ですから―――昔の約束になど縛られる必要はありません。……今ならまだ間にあいます。志貴さまは志貴さまの意思でやってこられた。
だからいつだって、志貴さまはご自分の意思で自由になる事ができるんです」
翡翠は学生服を机に置くと、足音も立てず扉へと歩いていく。
「……失礼しました。どうか、ご無礼をお許しください」
…………翡翠は去っていった。
「…………………」
一人残されて、なぜか胸が痛んだ。
……翡翠に対する怒りはない。いや、逆に申し訳ないような、そんな感情しか湧いてこない。
――――昔の約束に縛られる必要はない。
翡翠にとってはどうでもいい約束。
俺にとっては大切だった約束。
その違いをこうハッキリと言われても、怒りが湧いてこない。
理由はわかりきっている。
「……なんで。そんな、泣きそうな顔をするんだ、翡翠」
それが、ただ申し訳なくて、彼女を責める事なんて、できなかった。
居間には誰もいなかった。
いつもは当然のように朝食を済ませている秋葉も、彫像のように壁際に立っている翡翠の姿もない。
「あ、おはようございます志貴さん。今朝はまた早いんですね」
「……ああ、おはよう琥珀さん」
挨拶をして居間を見渡す。
居間は秋葉と翡翠がいないだけで、ひどく味気ない。
「琥珀さん。秋葉はあれからよくなった?」
「はい。もう体調も戻られて、大事はありませんでした。ですがまだご気分が優れないようなので、今日はお休みになられるそうです」
「……そうか。大事がなくて良かった」
「はい。なんでしたら声をかけてきたらどうですか? 秋葉さま、きっと寝起きの顔を見られたくなくて枕を投げてきますから」
琥珀さんは遠まわしに、秋葉とケンカをして来いと言っている。
確かに枕を投げつけてくるぐらい慌てる秋葉を見るのは楽しそうだ。
「――――――あ」
けど、あんな夢を見てしまった自分が、普段通りに秋葉と話せる自信なんか、なかった。
「……いや、止めておくよ。今朝は気分が悪いから、秋葉と言い合う体力がない」
「そうですね。秋葉さまも気を使わなくていい、と申されていましたから、志貴さんはいつも通り学校に行ってください。
それと、志貴さん? 翡翠ちゃんに何かしましたか?」
じっ、と。
琥珀さんは笑顔のまま、なんかとんでもない事を聞いてきた。
「翡翠ちゃん、今朝は志貴さんに合わせる顔がないからって部屋に引きこもってしまったんです。
あの翡翠ちゃんが仕事を休みたがるなんてよっぽどの事だと思いませんか、志貴さん」
ふふふ、とどこか怖い笑いをこぼす琥珀さん。
……間違いなく、俺が翡翠に酷い事をしたと思いこんでいる顔だった。
「―――な、何かしたかって、別に何もしてませんっ……! どっちかっていえば、俺のほうがきつく叱られたようなものなんですっ」
「翡翠ちゃんが志貴さんを叱ったんですか?」
「あ―――いえ、そういう訳じゃないんだけど、なんて言うか……いつまでもつまらない事に執着するなって、そういう事です」
「ふーん……翡翠ちゃんもよく解らない事をするんですね。
けど安心しました。もしかしたら志貴さん、槙久さまに似ているのかなって心配したんですよ」
「はい? 親父と似てるって、なにが?」
「あ………」
しまった、と琥珀さんは視線を逸らす。
「いえ、何でもないんです。些細な事ですから、どうかお気になさらないでくださいな」
「……あのね、琥珀さん。そういうふうに言われると余計気になるんですけど」
さっきの仕返し、とばかりに琥珀さんをじっと見つめる。
……。
…………。
………………。
………………………。
「……はあ、わかりました。けど秋葉さまや翡翠ちゃんには内緒ですよ。槙久さまのお話は、あまりしていいものではありませんから」
「? 親父の事って、別に隠すような事じゃないだろ」
「そうですけど、あまりいい話ではありませんから。
ほら志貴さん、覚えていませんか? 槙久さまに躁鬱の気があった事を」
「躁鬱……?」
躁鬱というのは、ようするに気分が極端に明るかったり極端に暗かったり、と頻繁に変わる事を言う。
「……ああ、そういえば親父はそういう所があったっけ。優しい時はすごく優しいんだけど、機嫌が悪い時は些細な事で怒ってたな」
「ええ。それもまだ志貴さんがいらした頃は良かったんです。ですが志貴さんが有間のお家に預けられた頃から、槙久さまはご気分を害される事が多くなりました。
意味もなく秋葉さまを叱ったり、翡翠ちゃんに手を上げる事が多くなったんです」
「な――――ちょっと待って。確かに親父は厳しい人だったけど、そんな理不尽な真似は―――」
「……ですから、志貴さんが行かれた後の話です。
槙久さまの躁鬱は、日に日に悪化していきました。それは躁鬱と呼べるものではなく、すでに二つの違う人格がある段階にまでなってしまったんです。
槙久さまは些細な事で感情を昂ぶらせるのですが、気分が落ち着かれると以前ご自分が何をしていたか覚えていない、というのです。
その頃からわたしは槙久さまのお体を看させていただいていたんですが、槙久さまはわたしにだけおっしゃいました」
―――自分の中には狂暴な自分がいる。
こうしている普段の自分にはソレを抑える事はできなくて、ソレが現れると自分は眠ってしまう。
理由もなく、目に映る物全てを壊したくなる。
その時の自分は、悪い夢を見ているようだ―――
「……槙久さまはご病気で亡くなられましたが、病状を悪化させたのは槙久さまの心の病による所が大きかったんです。
……人間の精神面での病は難しいものです。
ですから志貴さんも、もしかしたら槙久さまの体質が遺伝しているのかもしれない、と心配したんです。遠野家の人たちは何らかの疾患を遺伝するそうですから。
けど、志貴さんに関してはわたしの杞憂でしたね。だって志貴さんの疾患は貧血でしょう? 槙久さまのように、ご自分のお心が自由にならないという訳ではないんですもの」
良かった、と安心するように、琥珀さんは笑いかけてきた。
俺は。
「―――――」
俺は。
「――――――――違う」
俺は、そんなふうに。
安心して、笑う事なんて、出来ない。
昨夜の夢。
秋葉に対して欲情していた自分。
殺人の夢を当然のように見る、正気ではない遠野志貴。
「あ、もうこんな時間ですね。それでは朝食の支度をしてきます」
琥珀さんは食堂へ去っていく。
その後ろ姿を、ただ呆然と眺める事しかできなかった。
朝食はあまり味がしなかった。
琥珀さんが話してくれた親父の事がグルグルと頭の中で渦巻いて、気がつくと屋敷の門までやってきていた。
「志貴さん、忘れ物はありませんか?」
翡翠ちゃんが部屋に引きこもっているから、と琥珀さんが見送りにきてくれている。
「もう、志貴さんっ! 今日はこんなにいいお天気なんですから、もっと元気をださないとダメですっ。
そんな顔をされたままだと、送り出す事ができないじゃないですかっ」
「あ―――うん。……そう、だね。ごめん、ちょっと考え事をしていたんだ」
軽く頭をふって、頭の中にわだかまった影を振り払う。
「あ、少しはいつもの志貴さんに戻ってくれましたね。はい、これなら安心です」
……不思議だ。
こう、まっすぐに笑顔を向けられると、本当に元気になれるような気がする。
「いってらっしゃい志貴さん。お帰り、お待ちしておりますね」
ぺこり、とお辞儀をする琥珀さん。
それで、さっきまで自分を支配していた暗い感情は消えてくれた。
「――サンキュ、琥珀さん。おかげで元気が出た」
「はい。志貴さんにはやっぱり、明るいお顔が似合っていますから」
「……ありがとう。それじゃ行ってきます、琥珀さん」
心からのお礼を言って、学校に向かって走り出した。
いつもより余裕をもって教室に着いた。
有彦は今日も遅刻らしく、おかげで静かにホームルームを迎えられる。
かすかに騒がしい教室の中、席に座って担任がくるのを待つ事にした。
―――何のトラブルもなく一日が終わった。
旅にでも出ているのか、有彦は欠席だった。
旅、とは比喩表現でもなんでもなく、あいつは突発的に旅行に出かける、という奇癖をもっている。
それもバイクに乗って気ままに放浪する、という格好のいいものではない。平日のツアーパックは安いんだ、とご年配の方々にまぎれての観光旅行らしい。
……まったく。小学校からの付き合いになるが、あいつの趣味はいまいち掴めない。
――――屋敷に帰ってきた。
学校にいる間は考えないようにしていた事が脳裏をよぎる。
朝、琥珀さんが話してくれた親父の二面性。
遠野家の人間が持つという、遺伝的な疾患。
……翡翠の言うとおり、屋敷に帰ってきてからの俺はどこかおかしい。
なにか、自分でも解らない所で記憶が曖昧になっている気がする。
……琥珀さんの言っていたように、自分があの親父と同じとは思えない。
だが事実として、この屋敷に帰ってきてから、俺は遠野志貴という自分に自信が持てなくなりつつある。
「本当に―――親父はおかしかったのか」
確かにそんな記憶もあるが、はっきりとは断定できない。
こんな事を気にするなんて自分でも馬鹿げていると解っている。
だが、それでも―――遠野志貴は、遠野家というものについて知っておくべきなのかもしれない。
「ただいま―――」
声をあげてみるが、とりあえず返事はなかった。
秋葉はまだ自室で休んでいるんだろう。
琥珀さんと翡翠もそれぞれ仕事についているんだと思う。
「………………さて」
考えてみると、これはいい機会かもしれない。
俺は――
琥珀さんに会いに行く。
琥珀さんに話を聞こう。
朝の様子からいって、琥珀さんはもっと詳しい事情を知っているようだった。
秋葉がこの手の話をしてくれるとは思えないし、親父の部屋を調べるのも時間がかかる。琥珀さんに直接問いただした方が、なにより効率的だろう。
「琥珀さん、この時間なら庭の掃除だよな」
中庭に出てみる。
「あれ……?」
中庭に琥珀さんの姿は見当たらない。
きょろきょろとあたりを見渡す。
―――と。
一瞬だけ、森のほうで琥珀さんの着物の色がちらついた。
「……? あの方角に掃除するような場所、あったっけ?」
あの方角には何もない。
子供の頃はあの森で遊んでいたんだから、それに間違いはないんだ。
とくにあの方角は自分にとって庭のような物だったから、あそこには―――
「―――――え?」
……なんだ、ろう。
あそこには何もない筈だ。
けどそれもおかしな話。
何もないような場所が、どうして。
子供の頃の遠野志貴にとって、庭のような特別性を持っているのか。
「…………い、た………」
こめかみに軽い頭痛。
……少し迷ったあと、琥珀さんの後を追う事にした。
「―――――――――」
森の奥には、ちょっとした大きさの屋敷があった。
……離れ、というヤツだろうか。
本館である屋敷からは木々に隠れて見えないような作りをしている。
「―――――――うそ」
どくん、と心臓が痙攣する。
初めて見る筈の離れは、ひどく―――懐かしい気がして、眩暈がする。
「…………………………」
……琥珀さんはこの中に入っていった。
この離れが何なのかは思い出せない。
ただ不吉な予感がして、足を踏み入れたくないだけだ。
それでも、ここまできて戻るのも馬鹿らしいので、思いきって中に入る事にした。
……離れの中を歩く。
もう何年も使われていないのだろう、建物は所々痛んでいた。
それでも手入れはされているのか、汚いという事はない。
「……琥珀さんがいるとしたら奥の和室かな」
ぼんやりとそんな事を思って、自然に足が和室に向かった。
―――そこは懐かしい。
畳の匂いがする、小さな部屋だった。
「あれ、志貴さん? どうしたんですか、こんな所までやってきて」
琥珀さんはちょっと意外そうに首をかしげる。
俺は――・
「いえ、琥珀さんに聞きたい事があったから、追いかけてきたんです」
―――自分でも不思議なぐらい、落ち着いた気分でそう返答していた。
「わたしにお話、ですか?」
「うん。朝の事で、もうちょっと話を聞きたいんです。……えっと、ここじゃなんですから中庭のほうに行きませんか?」
ちらり、と部屋の天井に視線をおくる。
外はじき日没で、すぐに暗くなってしまう。
この部屋には電灯なんかつかないだろうし、早めに明かりのある所に移動したほうがいいだろう。
「志貴さん、そのお話でしたらここでしたほうがいいと思いますよ。屋敷に戻ると秋葉さまがいらっしゃいますから、槙久さまのお話はできません」
「あ―――そうか。秋葉がやってくる事だってあるもんな。……けど琥珀さん、別に俺は秋葉に内緒で話を聞くつもりはないんだけど」
「うーん、それはちょっと難しいですね。秋葉さまは槙久さまのお話をしたくないんです。
ですから、志貴さんが朝のお話の続きを聞きたい、というのでしたら、それは秋葉さまの目の届かない所でないといけません」
「………琥珀さん。それってつまり、秋葉には秘密にしなくちゃいけないってコト、ですか」
「はい。秋葉さまにも翡翠ちゃんにも知られちゃいけない、志貴さんとわたしだけの秘密です」
なぜか楽しそうに琥珀さんは笑う。
……まあ。
なんていうか、琥珀さんと二人きりの秘密、という単語には確かにドキドキするものがあるんだけど……。
「けど琥珀さん。もうじき日が落ちるんだし、ここじゃ話はできないだろ」
「いえ、そんなコトはありませんよ。この離れはですね、一応はまだ人が住める環境を保っているんです。電源も生きてますし、お布団だって用意してありますから」
「へえ、そうなんだ。……けどここ、随分前から使ってないんだろ? なんだってそんなふうにしてあるんだろう」
「そうですね、きっと秋葉さまも未練が残っているのかもしれません。ここは昔、槙久さまが養子にとった子供の住居でもありますから」
――――は?
槙久……親父が昔、養子にとっていた、子供?
「……ちょっと待って琥珀さん。その、親父が養子をとったって、どういうこと?」
「あら、憶えてないんですか? 十年ほど前に槙久さまが引き取られた子供がいたじゃないですか。両親を事故で亡くしてしまったとかで、槙久さまが養子になさったんです」
「そんな―――こと、あった、っけ」
「はい。もっとも二年ほどで亡くなられてしまったんです。些細な事故だったらしいんですけど、お屋敷に勤めていた使用人の人たちはやっぱり遠野の家は呪われてるんだとか、よく口にしていましたから」
―――――ちょっと、待って。
なにか……琥珀さんの言葉は、恐い。
聞いているだけで視界がぐにゃりと歪む。
まるでこの和室が飴で出来ているみたいに、どろどろと溶けていくような、不安定さ。
「こ、琥珀、さん」
十年前にとられた養子。二年後に事故死したという養子。
つまり、それは。
八年前――――俺が事故にあって、入院した年じゃない、のか。
―――事故。
それはどんな事故だ。
俺が大怪我をするぐらいの事故。
その養子とやらが、死んでしまうぐらいの、事故。
夏の暑い日。
―――よく思い出せない。
ただあの時、俺の腕は、赤い血にまみれていたような――――
「琥珀、さん。呪われてるって、どういう、こと」
「いえ、別にそう大した事じゃないんですよ。ただ遠野家の方々は、代々早くにお亡くなりになっているんです。
それが事故死であったり自殺であったり病死であったり、みなさん天寿をまっとうするようなカタチではないので呪われている、と噂されてしまったんですね」
「―――自殺って……なに、それ」
「ですから遠野家の方―――槙久さまもそうであったように、幼いころから精神を病んでしまって、成人してから自殺なさってしまった方が十人以上いるそうなんです。
あくまで噂話なんですけど、戦前には殺人の罪を犯してしまった方もいらっしゃったとか」
……精神を病んでいる?
……殺人の、罪?
……例えば、人を殺すユメを見たり、
……例えば、自分の記憶が曖昧だったり?
「琥珀さん、それは―――」
「あ、申し訳ありません。こんな、遠野の家をおとしめるような噂話なんかしちゃって」
「……いや、いいんだ。もとからその話が聞きたくて来たんだから。……かまわないから、もう少し詳しい話をしてくれないか、琥珀さん」
「―――槙久さまのお話、をですか?」
琥珀さんは声のトーンを落としてそう言った。
「………………ん」
無言で頷く。
琥珀さんはわずかだけ目を伏せて、それでは、とまっすぐに俺を見つめた。
「志貴さん。朝にもお話しましたが、槙久さまがお亡くなりになる二年前から、わたしは槙久さまの容体を管理させていただいていたんです。
……志貴さんを有間の家に預けた頃から槙久さまはひどく落ち込むようになってしまわれて、精神を安定させるお薬を服用しなければならなかったんです」
「……ちょっと待って琥珀さん。朝にもそんな事を言ってたけど、精神を安定させる薬を使うほど親父はひどかったんですか」
「―――はい。夜になると屋敷の庭を出歩くようになって、その日に買ってきた犬や猫を殺してしまわれたり、ご自分のお体を傷つけたりするのは珍しい事ではなかったほどです。
そうして、そういった夜が明けた朝には決まって何も覚えていらっしゃらなくて、血に塗れたご自分の手を不思議そうに眺めてらっしゃいました」
――――な。
なんだ、それは。
それじゃほとんど狂ってる。
ユメのなかの俺みたいに、正気じゃない。
……いや、それとも。
俺のほうが、親父みたいに、正気じゃないのか。
quakey 1,300
「志貴さん……!?」
……琥珀さんの声が聞こえる。
俺は―――いつのまにか、畳に膝をついていた。
「志貴さん、顔が真っ青じゃないですか! 体調が悪いのでしたらお部屋で休んでないとダメです……!」
言いながら、琥珀さんは肩をかしてくれる。
それに助けられて立ちあがれた。
「……うん……大丈夫、だから―――」
なんとか意識を整える。
それでも眩暈は納まらない。
乱舞する赤と黒。
視界は血と夜の色に明暗する。
さっきまで貧血で暗くなっていた視界が、一転して真っ赤に染まる。
血を想起させるその色彩。
無造作に死体の首筋に噛みついた、昨夜の夢。
―――喉に滑り落ちる。
熱い、粘液のような、血の味わい。
「――――――――――ぁ」
ばたん、という音。
それが自分の倒れた音だという事は、なんとなく理解できた。
「志貴さん――――!?」
駆け寄ってくる琥珀さん。
「志貴さん、苦しいんですか、志貴さん……!?」
……いや。そう苦しくはない、と言おうとして、意識が途絶えかけた。
「……………………」
声が出せない。
指先も動かない。
なにか余分な事をすれば、それだけで意識が刈り取られてしまいそうだった。
畳に倒れたまま、明暗する意識を必死に支える。
「―――無理はしないで。このまま、少し横になっていてください」
琥珀さんの声がする。
そのままスウ、と。
琥珀さんの手が俺の頭を抱いて、とん、と枕らしき物の上に乗せてくれた。
「……どうぞ、このままでいてください。こうしていれば血の気が引いてくれるでしょう?」
「…………………ん」
琥珀さんの声は、すごく近くから聞こえた。
それで、なんとなく。
自分が琥珀さんに膝枕をしてもらっている事が解ってしまった。
……静かに時間が流れていく。
お互いなにも会話はない。
その沈黙が、今の自分には心地良かった。
「……静かだな。こうしていると、なんだか……ひどく懐かしい、気分になる」
横になったまま、ぼんやりと畳を見つめる。
琥珀さんは頷いたあと、投げ出された俺の手の脈を診た。
「うーん、ちょっとまずいですね。志貴さん、体温が下がったまま戻らないようですから、お薬をとってきます」
「いや、別に大丈夫。こういうのならもう慣れっこだからさ、もうすぐ血の巡りがよくなるってわかるんだ。今回はいつもより辛かったけど、もうじきに良くなってくれる。……だから、このままでいてくれないか。そのほうが安心できる」
まだこうしていたくて、そんな事を口にした。
そういう事でしたら、と琥珀さんは留まってくれた。
――――――――――そうして。
「志貴さんは恐くはないんですか?」
そう、琥珀さんが問うてきた。
「……え? 恐いって、なにが?」
「志貴さんのお体の事です。わたし、志貴さんがお屋敷に帰ってくる二日ほど前、主治医の方から志貴さんの診断書を受け取ったんです。その時は驚いたというより、騙されているのかなあって思いました」
「? 騙されてるって、どうして」
「どうしても何もないです。志貴さんは再生不良性貧血に極めて近い症状なのに、普通の人と同じように生活しているんですもの。本来ならずっと病院のベッドの上なんですよ、志貴さんは」
それは心配というより、何か、こう……怒っているような、そんな声だったと思う。
「志貴さんは普通の人とは違います。眠ったら、次の日の朝に当たり前のように目覚める、なんて断言できない体なんです。なのに普通に暮らしていて、そんな自分を恐れてもいない。
……それが、わたしには解らない。
聞かせてください。どうして、志貴さんは怖くはないんですか」
「…………………」
その質問は、うまく答えられない。
死にやすい体。
いつも身近にある死。
……死が視えるという現実。
その事実に、ただ、俺は麻痺しているだけなのかもしれない。
「さあ。きっと実感がわかないだけなんじゃないかな、俺は」
「……解りません。志貴さんは死というものを感じていないんですか。
それともいつ死んでしまってもおかしくない体だから、生きているという事にさえ、関心がないんですか」
「……どうだろうね。ただ確かに、他の人より死という事柄について、俺は不感症なのかもしれない。
なまじ敏感でそれなりに視えてしまうと、それも日常になってしまうんだ。だから、俺は開き直っているだけなのかもしれない」
「……それでも確かに言える事はね、琥珀さん。
俺はいつも死と隣り合わせだから、以前より強く生を実感しているんだ。生きている、という事はそれだけで幸運なんだって解ってる。
琥珀さんの言うとおり、俺の体はあんまり俺の自由になってくれない。……けど、そんな人形のような体だからこそ、こんなふうに話ができる今が素晴らしい事だって信じたいんだ」
……そう。
自分の体をどうこう思うより、こうしていられる事を大事にしたい。
いつ死ぬかなんて恐れる暇があるんなら、少しでも、こうしていられる事を大切にするべきなんだろうから。
「……そう。自由なんですね、志貴さんの心は」
静かに、歌うような呟きのあと。
琥珀さんの指が、優しく俺の髪を撫でた。
「―――――琥珀さん?」
視線を上げる。
そこには――・
―――とても穏やかな、彼女の笑顔があった。
見慣れているはずの琥珀さんの笑顔。
なのに、初めて。
この人の笑顔を、見ている気がする。
「…………………」
……ただ時間だけが流れていく。
軽く髪を撫でる彼女の指先。
膝から伝わってくる確かな体温。
懐かしい畳の匂い。
その全てがあまりにも心地よくて、目蓋がゆっくりと落ちていく。
……温かな琥珀の眼差し。
それを受けたまま眠れるのなら、それはどんなに―――
「……なんだか―――」
本当に、このまま。
「……初めて、琥珀さんの笑顔を見たような、気がする」
眠りに、落ちてしまいそう。
「そうですか? 志貴さん、寝ぼけてらっしゃいますね」
「……いいよ。それで琥珀さんが喜んでくれるなら、それで――――」
それでこの人が笑ってくれるのなら、いくらでもこうしていたい。
……仄暗い和室の中。
ただ、もっと近くに琥珀さんを感じたくて手を伸ばす。
「……志貴さん……?」
指が触れた。
彼女の頬をなぞるように指を当てる。
きめ細かな肌に触れた指は、そのまま琥珀の髪に絡まって、そのまま―――!w3000
「―――琥珀、先に来てるの?」
勢いよく障子が開いて、秋葉が和室に入ってきた。
「な――――――――」
ビクン、と。
琥珀さんの指が、凍った。
「――――何をしてるの、あなたたち」
感情のない秋葉の声。
「あ、秋葉……!? ちが、これは誤解だって……!」
慌てて立ちあがって、待てよ、と落ち着いた。
別に誤解も破戒も奇奇怪怪もないんだ。
俺と琥珀さんはやましい事なんてしていないんだし、琥珀さんは倒れた俺を看病していただけなんだから。
「ちょっと待った秋葉。今のは単に、俺が倒れたもんだから琥珀さんが―――」
と、俺が言いきる前に。
秋葉は琥珀さんを睨みつけ、和室に足を踏み入れた。
そのあと。
パン、と乾いた音が、響いた。
「なっ…………」
止める間も、なかった。
秋葉は琥珀さんに歩み寄ると、そのまま、ためらわずに琥珀さんの頬に平手打ちをしたのだ。
よほど力がこもっていたのか、琥珀さんは数歩よろめいている。
「秋葉、おまえ――――!」
「兄さん、ここは立ち入り禁止です。お体がよくなったのならすぐに屋敷に戻ってください」
「っ……! そんな事どうでもいいっ! おまえ、なんで琥珀さんに手を上げたんだ!」
「当然でしょう。ここは老朽化が進んでいる建物です。そんな所で兄さんを休ませるなんて何を考えているんだか」
「そ、そんな事ぐらいで手を上げるのかおまえは! 琥珀さんは俺の事を気遣ってくれただけじゃないか!」
「―――そんな事? そんな事ってどんな事ですか、兄さん。
この建物はいつ崩れてもおかしくない物です。もし兄さんが休まれていた時、大きな地震が起きていたら天井が崩れていたかもしれない。そんな危険な場所で遠野家の長男を介抱するなんて、使用人としての気遣いが足りない証拠です」
「秋葉……! おまえ、言っていい事と悪い事があるぞ。琥珀さんは何も悪くない。
ここだって、俺のほうから琥珀さんを呼んだんだから!」
「―――そう。そんなに琥珀を庇うっていうんですか、兄さんは」
秋葉の視線が鋭くなる。
「―――――――――」
それは、あの夢に出てきた秋葉に、似ていた。
悪意や憎悪に近い視線。
そんなものを―――現実として秋葉に向けられている、悪夢。
「え――――――――?」
ギリ、と血脈が搾られた。
目の錯覚か。一瞬、秋葉の周りに、何か―――よくないモノが、視えた気がした。
「――――わかりました。兄さんがそうおっしゃるのでしたら、私からは何も言いません。
ですが兄さん。今後は決してここには近づかないでください。それさえ守れないようでしたら、私にも考えがありますから」
―――やはり目の錯覚だったのか、秋葉に異常らしきものはない。
ただ、どうしてか、今の秋葉を見ていると危うい感じがして、不安になる。
「戻るわよ琥珀。兄さんもすぐに部屋に戻ることね」
……そうして、秋葉は立ち去った。
「琥珀さん」
……秋葉に叩かれて、俯いたままの琥珀さんに声をかける。
「琥珀さん……? あの、大丈夫……?」
「はい? 大丈夫って、なにがですか?」
けろりと。
いつもの笑顔で、琥珀さんは顔をあげた。
……それは強がりとか、空元気といった笑顔じゃない。
この人は本当に笑っている。
秋葉に叩かれた事が、まるでなかった事のように。
「……いや、何って、その―――」
「それでは志貴さん、お屋敷に戻りましょうか。秋葉さまにも見つかってしまいましたし、もうこの離れに来ちゃダメですよ。
秋葉さま、本気で志貴さんを矯正しかねませんからねー」
あはは、と冗談を言って、琥珀さんは和室を後にする。
「―――――――――」
秋葉も秋葉なら、琥珀さんも琥珀さんでどこか普通じゃなかったせいだろうか。
俺は二人のように、すぐには屋敷に戻る事ができなかった。
食堂で一人で夕食を済ませて部屋に戻ってきた。
秋葉はまだ体調が悪いらしく、部屋で夕食を摂った。
……琥珀さんは、やっぱりいつも通りの明るさで俺の夕食を作ってくれて、秋葉の世話をしているみたいだ。
「………琥珀さん、気まずくないのかな」
少なくとも琥珀さんは秋葉に不満はないようだった。
翡翠は朝の一件から気を取り直したのか、とりあえず俺の世話をしてくれていた。
……翡翠は気を取り直すのに半日かかったわけだから、琥珀さんは翡翠より精神面で強い人なのかもしれない。
「――――――――」
ベッドに横になって、はあ、と大きくため息をした。
……疲れているんだろうか。
最近は夜になると、すぐにベッドに倒れこんでしまう。
色々と考えなくてはいけない事がある筈なのに、そんな事は自分には関係のない事のような気がして、すぐに眠ろうとしてしまう。
「……おかしいな。こんなに集中力がなかったっけ、俺――――」
天井を眺めながら、ぼんやりと口にする。
うっすらと目蓋が閉じていく。
結局、今夜も何一つ疑問に思う事なく、深い眠りに落ちていった――――
――――灼い。
――――灼い。
――――灼い。
――――肌が、チリチリと焦げて、灼い。
――――このままでは眠れない。
起きて、水を飲みに行かないと。
夜の街。
はぁはぁと熱っぽい吐息を繰り返して、通りを歩いていく人たちを見る。
今夜にかぎって二人や三人といった人しかいない。
できれば、一人きりの、自分と同い年の女の子がほしかった。
―――あつ。
ふと、窓ガラスに映った顔が見えた。
呼吸は乱れて、まるで四十度ぐらいの熱病にうなされているみたい。
―――あつ――こんなに灼いと、堪えきれない。
……いた。
こちらから近づく必要なんかない。
後ろから少女を引き寄せて、そのまま気を失わせた。
ずるり、と音をたてて、少女の体を運んでくる。
―――なんか、笑ってしまう。
ちゃんと、今まで我慢してきたのに、それもこれでおしまいになってしまったんだから。
……結局、ここですることにした。
理由は簡単。
だって、ここが殺人鬼の根城だったから。
―――灼い。
はあはあという呼吸音。
もうすぐ。
もうすぐ、この子を口にできる。
そうして、食事を始めた。
首筋に口をつけて、血液を吸い上げる。
―――なんて、甘い。
その感覚は本当に恐ろしかった。
こんなに甘くて、こんなに気持ちがいいのなら。
きっと、自分はあの殺人鬼のかわりに、この感覚の虜になると予感してしまったからだ。
―――夜が深い。頭上には罪を咎める銀の瞳。
熱い血液で唇をぬらして、恍惚とした目で、夜空を見上げていた。
髪が乱れる。
頭上には螺旋の空。
なんてキレイな、銀色の月。
―――蛇の如く。血を吸う鬼を、見つめている。
●『7/逢魔ヶ辻T』
● 7days/October 27(Wed.)
「――――――!」
たまらず、ベッドから跳ね起きた。
「あ―――はあ、は――――あ」
込み上げてくる吐き気を堪えてケモノのような息吹をあげる。
「な――――――」
なんだ、今のは。
夢。夢を見てた。けど、今のはなんだ。
二日前に見たおかしな夢とは違う。
夜の街を歩く感覚。
鼻腔に残る血の匂い。
ずるずると。自分と同い年の女の子を引きずっていた音。
―――その全てが、はっきりと記憶として残っている。
「は、あ――――――」
あれは快感と呼ばれるモノだったのだろうか。
弾丸のように凝縮された興奮が、耳元からトリガーをひいて脳髄に叩き込まれたような衝撃だけがあった。
「ぐ―――っ」
思い出しただけで息が止まる。
なら―――あの衝撃は、やはり『快感』と呼べるものだったのかもしれない。
「俺は―――なんて、夢を」
自らの両手を見る。
当然、自分の手は真っ白で血の赤色なんて微塵もない。
なのに一瞬だけ。
自分の両手が、真っ赤に染まっているように、見えた。
―――なんだ、おまえは同類か。
……あれ。
―――自分以外の殺人鬼なんて、初めて見たぜ。
……ああ、確かにそんな話をした。
―――同じ街に殺人鬼は二人はいらない。
ここは、おまえに譲ってやるよ
……ただ、それは、いつのコトだったろうか。
「……なんで……思い、出せない――――?」
確かに、俺は誰かとそんな話をした気がする。
けどまったく思い出せない。
それが現実の事だったのか、それともやっぱり空ろな夢だったのか。
ただはっきりと、殺人鬼っていうヤツが、俺の事を同類と呼んでいた事だけが思い出せる。
「―――おかしいぞ、おい……なんでこう……頭の中が、ぐちゃぐちゃに、なってるんだ――――」
必死に昨夜の夢を思い出そうとする。
「がっ――――!?」
ガン、と音がしそうなぐらいの頭痛。
「はっ―――ぁ、はっ…………!」
思い、出せない。
無理に昨日の事を思い出そうとすると、吐き気がする。
怖い。
思い出せないという事は、怖い。
なんだかそれは。
俺の知らない遠野志貴が人殺しをして、その事実を隠すために、俺という遠野志貴を、騙している、よう。
――――と。
廊下のほうで、人の気配を感じ取った。
「誰だ――――!?」
声をかける。
コンコン、というノックの音がした。
失礼します、と翡翠が部屋に入ってくる。
それはいつも通りの、なんていう事はない朝の光景だった。
「あ―――――――――」
翡翠の姿があまりにも自然だったからなのか。
ドクドクとリズムを乱していた心臓は、あっけないぐらい静かになってくれた。
「おはようございます、志貴さま」
「………ひす、い?」
「はい、お時間ですので着替えをご用意いたしました。……あの、志貴さま? お体の具合がよろしくないのですか?」
「いや、そんな事はないよ。俺はいつも通りだし、何もおかしな所なんて、ない」
自分に言い聞かせるように言って、ベッドから起きあがった。
「おはよう翡翠。着替えたら居間に行くから、翡翠は先に行ってていいよ」
「はい。それでは失礼します」
翡翠は静かにドアを閉めて去っていく。
それを見送ってから、はあ、と大きく深呼吸をした。
「なにを弱気になってるんだろうな、俺は」
昨日、親父の病気の事を知ったせいだろう。
今の自分と遠野槙久の病状が少しだけ似ている、というだけで被害妄想ぎみになっているのかもしれない。
「……だよな。たんに帰ってきたばっかりで、俺は疲れてるだけなんだし。あんな夢、気にする必要なんてない」
―――さて。
時刻は七時になろうとしている。
昨日と同様、今日もゆっくりとした朝が迎えられそうだ。
――――と。
何も考えずに居間に足を踏み入れて、大事な事を忘れている事に気がついた。
「しまっ―――――」
た、という声をなんとか飲みこむ。
居間には秋葉と翡翠、琥珀さんの姿があった。
いつもならどうって事はないこの光景も、昨日の一件の後だと実に気まずいシーンとなる。
秋葉と琥珀さんは和解していたようだけど、あいにく俺はまだ秋葉と話すらしていない。
昨日の秋葉の様子からして、まだ俺に対して怒っているであろう事は明白だった。
「おはようございます、兄さん。昨夜はよく眠れましたか?」
「――――――――はい?」
と。
秋葉は、これ以上にないっていうぐらい、さわやかな笑顔で挨拶をしてきてくれた。
「あ…………う?」
あまりの出来事に思考が石化した。
呆、と立ち尽くす俺に、秋葉はやっぱりにこやかな視線を向けてきている。
……こいつ、何か企んでいるんじゃないだろうな……なんて邪推してしまうぐらい、秋葉は上機嫌すぎる。
「志貴さま、お座りになられないのですか?」
「あ……うん、座れと言われれば、座るけど」
恐る恐る秋葉の向かいのソファーに腰を下ろす。
「おはよう秋葉。今朝は、その、えらく機嫌がいいんだな」
「そうですか? 確かに今朝は体調がいいから、顔色はいいかもしれませんね」
……いや、顔色がいいとか、そういったレベルの話ではないと思う。
「それより兄さん、この前はお世話になりました。本当なら昨日のうちにお礼を言いたかったんだけど、昨日は私おかしかったから機会がなくて」
秋葉はまっすぐに俺の目を見つめてくる。
そこには昨日見せた冷たさらしきものがまったく存在しない。
……あの、どことなく“危うい”と思わせるような雰囲気も、どこかに行ってしまったみたいだ。
「お礼って、別に秋葉に感謝されるようなコトはしてないよ、俺は」
「そんなコトありません。兄さんは倒れた私を看病してくれて、ずっと傍にいてくれたじゃないですか。
兄さんが抱きしめてくれたから、私は決心がついたんです。あの夜は、本当に嬉しかった」
「っ――――――!」
目の前でトンデモナイ事を言われて咳き込みそうになった。
――――と。
背後から、なにやら重いプレッシャーを感じる。
ちらりと後ろを向く。
……そこにはどう見ても普段通りなのに、どう見ても普段通りとは思えない、琥珀さんと翡翠の視線があった。
「―――秋葉。あんまり誤解を招くような表現はやめよう。あの夜は秋葉が苦しそうだったから、体を支えてあげただけだろ」
「あら。私の背中に両腕まわして、そのままでいる事は支えるというんですか?」
クスクスと秋葉は笑う。
じーーーーーっ、と。
背中には二人分の視線が加重してくる。明かに過重気味だ。
「―――あのな。おまえ、なんかヘンだぞ。そんなふうに俺をからかって楽しいのかよ」
「ええ、とっても。兄さんの困った顔を見るのも悪くはありませんね」
「………………」
おかしすぎる。秋葉ってこんなキャラクターしてたっけ?
「悪趣味なヤツだな。朝から兄貴を困らせるわ、昨日は昨日で叱りつけてくるわ。
……まあ、まず間違いなくそうだとは思うんだけど、おまえ俺に恨みでもあるんだろ」
ため息まじりに切り返す。
と、秋葉は突然、気まずそうに視線を逸らしてしまった。
「……ごめんなさい。昨日のことは悪かったって反省してるわ。昨日はその、具合が悪くてどうかしてたんだって、琥珀にも謝ったし―――」
「琥珀さんに謝ったって、秋葉が!?」
いや、秋葉が謝ってくる事も意外なら、琥珀さんに謝るなんていう事も意外すぎて、思わず声をあげてしまう。
「―――むっ。兄さん、私のことをなんだと思っているんですか。自分に非があるんだから琥珀に謝るのは当然でしょう」
……いや、なんだと言われると、使用人に厳しい女主人とかそういったモンを、こう漠然と。
「兄さん。今良からぬ事を考えたでしょう」
……鋭い。上機嫌でハイになっていても、秋葉の勘の良さは鈍っていないようだ。
「志貴さん、お楽しみのところ申し訳ありませんが、朝ごはんはどうなさいますか? そろそろ時間ですから、支度をしようと思いますけど」
「そっか、忘れてた。……けどあんまり食欲はないんだ。喉は乾いているんだけど、なんかお腹がいっぱいでさ」
「あ、ダメですよ志貴さんっ。昨日もお倒れになったんですから、朝ごはんを摂らないとまたお体を悪くしますっ。
ここは多少食欲がなくても、キチンと食事をなさっていただきますからね」
「うっ……」
琥珀さんの言う事はもっともなんだけど、こればっかりはどうしようもない。
そもそもあんな夢を見た後で、まともな食事なんて摂れる筈がなかった。
「……姉さん。志貴さまは朝からご気分が優れないようでしたから、あまり無理を言うのもどうかと思います」
「もう、翡翠ちゃんは志貴さんに甘いんですから――――って、あれ?」
「志貴さん、今朝もご気分が優れないんですか?」
じっ、と琥珀さんが見つめてくる。
それに釣られてなのか、翡翠と秋葉もまじまじと見つめてきた。
……なんていうか、あんまりその場しのぎの誤魔化しが通じる雰囲気じゃない。
「―――実をいうと、あまりいい気分じゃないんだ。朝食は食べるけど、できれば流動食にしてもらえないかな。ここんところ体調も悪くて、あまり味を感じられないぐらいだし」
本当の事を告白すると、琥珀さんはそうですか、と残念そうに俯いてしまった。
……料理担当として、きっと思うところがあるんだろう。
「……あの、志貴さま? 志貴さまの体調不良は、生活環境が変わったからだと思います。
ですからその、お屋敷の生活が合わないようでしたら、しばらく有間の家に戻って養生なされてはどうでしょう……?」
「………………」
翡翠の意見は、純粋に俺の体を心配しての事だった。
……確かにこの屋敷に帰ってきてから、遠野志貴の日常はおかしくなってきている。
それに八年前の約束が消えてしまった事もあるし、無理をして残るよりは数日だけでも有間の家に戻って、体の調子を元通りにしたほうがいいのかもしれない。
「……そうだね。それもいいかもしれない。
まだ一週間しかたってないけど、このまま合わないようだったらしばらく家を離れて、体調を戻してくるよ」
まぁそれもまだ先の話だけど、と付け足す。
―――と。
唐突に、秋葉がソファーから立ちあがった。
「あら、だめよ兄さん。やっと帰ってきたんですから、もう二度とこの屋敷から外には行かないでください。
それでもまた出ていくというのでしたら、私、兄さんを殺しちゃうんだから」
にこり、と冗談を言って秋葉はロビーへと去っていった。
「翡翠ちゃん。秋葉さまは登校の時間ですから、付いていてあげて。わたしは志貴さんの朝ごはんの支度をするから」
はい、と返事をして翡翠は秋葉を追いかけていく。
「それじゃ朝ごはんは食べやすいものにしますから、もうちょっとだけ待ってください」
琥珀さんは早足で厨房へ移動していく。
「―――――――」
俺はと言うと、ソファーに座ったまま呆然としたままだった。
―――兄さんを殺しちゃうんだから。
……その言葉が頭から離れない。
冗談のハズなのに、どうしても、それが冗談には聞き取れなかったせいだろう。
―――昼休みになった。
有彦はいつものように学校を休んでいる。
「学食にいくか」
一人で昼飯を食べてもつまらない。
にぎやかな食堂に行けば、一人きりの昼食も少しは味がでるだろう。
予想通り、食堂は派手に賑わっていた。
何十人という行列に並んで、手堅いA定食を買ってテーブルにつく。
生徒たちの話し声を聞きながら昼食を食べる。
――――と。
一瞬、なにかイヤな映像が見えた。
「……? テレビの映像かな」
食堂の奥にでーん、と鎮座する大型テレビを眺める。
うちの学校はその日の朝のニュースを録画しておいて、昼休みに食堂で流すという紙一重のサービスを実施している。
今日も今日とて数時間遅れのニュースを映し出しているテレビをぼんやりと眺める。
「――――うそ」
そのニュースを見て、愕然とした。
テレビに映し出されているのは、昨日、夢で見た少女の顔だった。
ニュースキャスターが喋っている。
画面には大きく、吸血鬼殺人・新しい犠牲者、なんていう血文字のテロップ。
……少女は、とりあえず命を取り留めたらしい。
体の血液を搾取された少女は病院で治療を受けているという。
意識は不明。回復の見込みも不明。
……誰が少女を襲い、その血を奪ったのかも不明。
画面に映し出された少女の写真は、間違いなく昨夜の少女だ。
―――なら、不明ではない事が一つだけある。
彼女を襲った犯人は、紛れもなく――――
「――――――」
気が、遠くなったような。
「なん………で?」
アレは夢だ。間違いなく夢だった。
なのに実際夢と同じ人間が、同じように、血を吸われてしまっている。
「吸血鬼は、もう、いないのに」
弓塚は俺がこの手で殺した。
吸血鬼事件なんていうものは、もう二度と起こらないはずじゃないのか。
「俺が――――殺した?」
そう、殺した。
弓塚をこの手で刺した時のように。
はあはあと息をあげて、昨日の夜も見知らぬ少女を―――
だから言ったでしょう志貴くん?
我慢したって、無駄なんだって。
何をとぼけてやがる。
オマエは俺以上の殺人鬼じゃないか。
「うっ―――」
吐き気を堪えて席を立つ。
教室には戻れない。
そのまま街へと走り出していた。
―――夢で見た場所にやってきた。
まわりには警察官が何人かいて、路地裏へは立ち入り禁止のテープがはられていた。
「―――同じだ」
たしかに夢の中でここを通った。
―――いや、アレは夢じゃない。
もう、夢だって誤魔化すことなんてできない。
「…………」
ここに長くいても警察の人たちに睨まれるだけだ。
……今さら学校には戻れない。このまま、屋敷に戻るしかなかった。
まだ午後二時になったばかりのためか、ロビーには誰も待ってはいなかった。
「………………」
都合がいいといえば都合がいい。今は誰にも会いたくない。
ふと、窓ガラスに視線を移す。
そこにいるのは青ざめた顔をした、別人のような遠野志貴だった。
別人のような自分。
別人のようなユメ。
意識には表れない、
記憶にだけ残る殺人の跡。
くらりと。
目の前が、闇に変わっていく。
「違う――――! 俺は親父と同じなんかじゃないっ……………!!!」
必死に眩暈をこらえて、倒れそうになる体を立て直した。
「――――――親父だ」
親父の部屋に行って、親父がどんな病状だったのか調べてみればいい。
そうすれば俺は遠野槙久とは違う事がはっきりするし、もし同じなら――――何か、解決策のようなものが残っているかもしれない。
……遠野槙久の部屋は一階の西館、琥珀さんの部屋の隣にある。
学校を抜け出してきた事が幸いした。
この時間、琥珀さんも翡翠も秋葉の姿もない。
ナイフを取り出して、メガネを外す。
扉の鍵を『切断』しようとして、メガネを戻した。
部屋に、鍵はかかっていなかった。
親父の部屋は当時のままだ。
並べられた書籍はその大部分が学術書で、これといって興味を引くものはない。
今の自分がほしいものは親父の日記や手記だ。
几帳面だった親父のことだから、まず間違いなくそういった類のものを遺しているハズ―――
「……くそ。さすがに目の届く場所には見あたらないか」
あるとしたら鍵のかかった所だろう。
机の引き出しあたりを、とりあえず見てみよう。
なりふりかまっている場合じゃない。
メガネを外して『線』を視る。
ナイフを使って、引き出しの鍵の『線』を切った。
机の中には紙を紐で束ねた古い記録書と、手記らしい本があった。
まず古い記録書に目を通す。
「……これ、うちの家系図かな」
間違いない。
遠野マキヒサの後には遠野シキ、遠野アキハという名前がある。
そのすぐ後ろに、ナナヤという単語があった。
「……親父のヤツ、十年前に養子をとってる。……けど、それもすぐに病死してるのか」
十年前っていえば、俺が小学一年生の頃だ。
そんな大昔のことなら、覚えていないのも当然か。
「……しかし、うちの当主ってのは本当に短命なんだな。親父も五十前に病死してるし、その前は三十歳の時に事故死、か。……その前は十八歳で自殺している―――」
――――いや、待て。
いくらなんでも、これは、おかしい。
しっかりと家系図に目を通すと、遠野家の人間はみな異常な死に方をしていた。
発狂死。事故死。他殺。行方不明。死産。
……誰一人として、寿命で静かに他界した者がいない。
「な…………」
その一連の記録は、呪われてるとしかいいようのない。
とくに、その大半の死因は発狂。遠野の人間は、その大部分が自らの命を断つことで他界してしまっている。
「おかしい―――おかしいぞ、これ」
だが、一体なにがおかしいのかが解らない。
「……あとは……親父の手記か」
わりと新しい装丁をした手記を手にとる。
――――どくん。
鼓動が響く。
この中身を見てはいけないと、心のどこかで悟っている。
だが、今さら戻れない。
ごくりと唾を飲みこんで、親父の手記を開いた。
―――遠野の血筋には魔が宿る。
書き出し文は、そういった類のものだった。
それは、比喩ではない。
遠野の祖先は本当に『人間でないモノ』との混血で、子孫にあたる自分たちにも、その『人間でないモノ』の血が混ざっている、という事だった。
血は。
濃い者と薄い者に分かれる。
血が薄い者なら普通の人間として問題なく暮らしていけるが、濃い者であるのなら、人間として生きていく事はできない。
遠野の血が濃い者は特別な力を身体に宿して生まれてくる。
それは死ににくい体であったり、
手を使わず物を動かす力であったり、
他人から体液を搾取する牙であったりした。
この血。
この血が濃く現れだした遠野の人間は、段々と理性を失っていく。
そうして理性を失ってしまった遠野の人間はその大部分が人を食う悪鬼に成り果てる。
故に、遠野の当主は、そうなってしまった同族を処罰する責任があるという。
「――――――――」
……どうかしてる。
親父は、なにを。夢物語みたいなことを、こんなに真面目に書き記しているんだろうか。
――――手記は、いつのまにか親父の語りに移り変わっていた。
日付はおよそ九年前。
手記には乱れた文字が続いている。
ついに、自分の血の昂ぶりが押さえられなくなってきた。
共感者の一族の孤児を手に入れ、自らの意志を強化したところで、それもいずれ効かなくなるだろう。
私が私でいられる時間は、あとわずかなものかもしれない。
……恐ろしくなる。
気がつけば、一日の半分がまったく記憶にない。
私は、私の知らないところで、自身の反転している衝動をあの子供に押し付けてしまっている。
このままでは。
いずれ完全に理性をなくして、ただのケモノに成り果てるだろう。
私が私としていられる時間はあとどれほど残っているのか。
いや、あの感応者の子供がいればあと数年は保つだろう。
だがあの子供のほうは私の行為に耐えきれまい。 おそらく、あの子供が壊れた後、私は自らの手で自分の命を絶たなければなるまい。
……皮肉なものだ。
自身を守るために多くの障害を排除してきた私は、結局は自身の手で命を絶たなければならないらしい。
それとも、これは七夜の呪いなのか。
戯れでヤツの息子を飼ってみたが、その程度ではヤツの怨念は断ち切れなかったという事か。
だが、今更過去の行為を贖う事などできない。無様な死が待つというのならば潔く受け入れよう。
だがそれまでは―――私は子供たちを守らなければならない。
アキハの血は薄い。アキハは自分から望まないかぎり、私のようにはならないだろう。
問題はシキだ。あの子は、私にひどく近い。せめてあの子だけには、私と同じ苦しみを味あわせたくはない。
……遠野の血が異常な血だというのなら、あの子を遠野という名前から遠ざけて、様子を見るしかないだろう―――――
「は――――――あ」
まだ途中である手記から目を逸らして、肺に沈澱した厭な空気を吐き出した。
……気分が悪くなる。
親父の手記の内容は、あまりに非現実すぎていて、気味が悪い。
親父は躁鬱が激しかったわけじゃない。
ただ、自分でも解らないうちに凶暴になっていただけだ。
今の―――遠野志貴と同じように。
「――――おかしい」
だが、気になったのはその事ではなかった。
親父はシキとアキハ、とおかしな表記をしている。
気になって先ほどの家系図を見返すと、アキハは秋葉となっているがシキは、四季、なんていうふうに記されていた。
「四季……たしかにシキって読む、けど」
これ以上考えるのはまずいと直感したが、思考の奔流は止まらない。
「……この感応者って何のコトだろう。養子にとった子供の事……なのかな」
それもどこか違う気がする。
ともかく、手記はまだ半分だ。
最後まで目を通せばこの疑問も解決するだろう。
だがそれは―――本当に、解決していい疑問なのか。
「……………」
―――吐き気がする。
とてもじゃないけど立っていられない。
早く。
早く部屋に戻って眠らないと、頭がどうにかしてしまいそうだった。
それでも、手記のページをめくる事にした。
―――手記の残りは、何かの記録だった。
日付は八年前の夏の日から始まって、その後は少しずつ月日が経過しているようだ。
「…………」
意味が解らないまでも、とりあえず目を通してみることにする。
〇月〇日。
息子のシキが遠野の血に傾斜する。
シキ、その場に居あわせた養子を殺害。
(養子は七夜の跡取り息子である。琥珀、翡翠といった感応者の一族ではないのは不幸中の幸いだった)
シキは反転が酷い。よって処罰するしかないと判断した。遠野の当主の役割といえ、我が子を殺すのは辛い。
遠野の血は、アキハよりシキのほうが濃い。
潜在的なレヴェルではアキハにより旧い起源を感じるが、血の濃さではシキが上回っていた。
そのために、シキは成人する前に反転してしまったのだろう。
シキの能力は『不死』と『共融』である。
シキは蘇った自己の能力を持て余し、結果として近くにいた七夜の養子を殺害し、その命を奪い取った。
初めての能力行使にしては素晴らしいと言わざるをえまい。
〇月×日
シキ、養子、ともに一命を取りとめる。
〇月〇日
社会的な処理が残る。
シキは七夜の養子を殺害してしまった。
事実は隠蔽したが、シキは表に出せる状態ではない。まだ私がつけた傷も癒えていおらず、姿カタチも変貌してしまっている。
とても遠野シキとして人前に出せる状態……人間として表現できる生命ではない。
七夜の養子はまだ生きている。
アレが存命している間、まだ役にたってもらう事にした。
反対意見があるのなら返答を願う。
補足。
七夜の血筋は、ある種殺人鬼を輩出する一族である。
もしあの養子が生き残ってしまった場合、命を共有して繋がっているシキに悪影響を及ぼすだろう。 折角理性を取り戻したシキが、七夜の養子に引きずられて『殺人鬼』になってしまう可能性も否定できない。
そのような事態が起きないよう、養子は目の届く範囲で飼わなければならない。だが遠野の屋敷に近づける事も許されない。
管理に適切な分家筋を選んでほしい。
〇月×日。
……遠野の血に目覚めてしまったシキ。
一度臨死体験をしたためか、今では以前のような理性が戻ってくれた。
だが、いつ何かの拍子で反転してしまうかはわからない。不本意ではあるが、シキも遠野の屋敷に近づける事はできない。
シキの世話は信頼できる使用人に一任する。
〇月×日。
七夜の息子を分家筋に預ける。
アキハが私を嫌う。
アキハにしてみれば二人の兄を同時に失った事になる。私が嫌われるのは当然かもしれない。
○月×日。
アキハを次期当主として教育する。
一族を管理する当主として必要な能力に関しては、アキハは十分すぎるほど才能があった。
シキが“不死”であるのならば、
アキハは“略奪”である。
(兄妹故、共融能力は共に備えている)
悔やまれる。アキハが十年早く生まれていれば、軋間の手など借りずに七夜を始末できただろうに。
だが注意せねばならない。
略奪は諸刃だ。相手の熱を奪うおり、その想念さえも摂り込みかねない。
私のように―――殺した相手の呪いを招き寄せるような事がないよう、教育しなければならないだろう。
○月×日。
アキハが有間の家に行こうとした。
アキハと七夜の息子を会わせる訳にはいかない。
アキハは全寮制の学校に転入させ、行動を制限させる。
○月×日。
近頃、体の具合がおかしくなってきた。
感応者の娘だけでは限界になったのだろうか。
○月×日。
……久しぶりに自分に戻れた。
こうして筆を持つのは何ヶ月ぶりか。おそらく次はないだろう。筆はここで止める事にする。
私の死後、これはアキハに渡すよう娘に言いつけた。
アキハがこれを読むかどうかは解らない。だが一度でも目を通したのなら、必ず処分する事。
それが私、遠野槙久が我が娘にあてる、ただ一つの遺言である。
「―――――――なんだ、これ」
十年前に引き取られた養子。
そんな大昔のこと、俺はまるっきり覚えていない。
……そいつを、俺が殺した?
八年前の夏の日、あの傷がつけられた時。
……そいつが、俺を殺した?
八年前の夏の日、この傷がつけられた時。!w3000
「―――――」
吐きそうだ。
気持ちが悪い。
今まで忘れていた記憶が、グチャグチャになって頭の中で跳ねまわっている。
「―――――くっ」
……解っている。
ここまで決定的に書かれていたら、潔く認めざるをえないじゃないか。
そもそも、それなら辻褄は合うんだ。
俺が有間の家に預けられた理由。
跡取りである長男を勘当したワケ。
なんて事はない。
ようするに、俺は―――志貴という名前をした、シキという人間の代わりでしかなかったワケだ。
「はっ―――なんて、無様」
自己を呪う呟きをこぼして、手記を投げ捨てた。
……もう、これ以上知るべきものなんてない。
ここにいても、ただ時間を無駄にするだけだろう。
―――日が落ちる。
ベッドに倒れこんだまま、あることを考え続けている。
……冷静になって考えてみると、あの手記から解った事は二つだけだ。
俺が遠野家の人間ではないこと。
七夜という家系が殺人鬼を輩出しているということ。
俺は遠野槙久とは血の繋がりを持っていない。
殺人の夢を見るのはあくまで自分だけが原因だった。
なら、もうするべき事ははっきりとしている。
――――ロビーの方で話し声がした。
「……秋葉、帰ってきたのか」
ベッドから立ちあがる。
最後に秋葉の口から真実が聞きたかった。
「―――――」
意を決して扉を叩く。
「秋葉、話がある」
「えっ、兄さんですか? どうぞ、お入りになってください」
秋葉の声は明るい。
それに決心が鈍りながらも、一息でドアを開けた。
「めずらしいですね。兄さんが私の部屋を訪ねにきてくれるなんて」
朝と同じように、秋葉は笑顔をうかべている。
それを見ていると、このまま無言で立ち去りたくなってしまう。
……なんだかんだって、俺は。
遠野志貴である自分も、遠野秋葉っていう妹も、離れがたいほど大切なものだって感じていたのか。
――――それでも。
問いたださなければいけない事がある。
「秋葉――――」
「はい、なんでしょうか兄さん」
秋葉は何か、楽しい会話を期待するように見つめてくる。
「―――――っ」
ギリ、と歯を軋ませて、秋葉の目だけを真剣に見返した。
「七夜っていう家の事を教えてくれ。俺には、その権利があると思う」
「――――――――」
瞬間。まるでゼンマイの切れた人形のように、秋葉は全ての動きを止めた。
「―――――――」
秋葉は無言で俺を見つめてくる。
「答えないのか。それじゃあ質問を変えるよ。
親父―――遠野槙久は二重人格だったんだろ。それも親父だけじゃない。遠野家の人間の多くは体になんらかの疾患を抱えている。……だから俺も自分の体がそうなんだって思ってた。
けど、それは違う。俺の貧血は八年前の事故が原因にすぎない。だって、俺は」
「知ってるわ。遠野家に養子にとられた子供だから、でしょう?」
言って。
一体なんのつもりなのか、秋葉はくすりと笑った。
「秋葉―――?」
秋葉はゆっくりと、芝居がかったような優雅さで窓際まで歩いていく。
さあ、とカーテンが風になびく。
秋葉は窓に手をかけて、くるりと振り返った。
「兄さんは遠野家に引き取られた養子で、本当の名前は七夜志貴と言います。
兄さんの言うとおり、貴方の体が不安定なのも八年前の事故が原因。……ふぅん。その様子だと、遠野の人間がみんな人とは違うという事も知ってしまわれたみたいですね」
秋葉ははっきりと、一番聞きにくかった事実を口にした。
「……秋葉。それは――――」
「いいのよ。どうせいつかは知られてしまう事だし、回りくどい事は嫌いだもの。兄さんが知ってしまったのなら隠す事なんてしない。
……いいえ、むしろ初めからこうするべきだったんでしょうね。だって、そうすれば我慢する必要なんてなくなんだもの」
ね、そうでしょう、兄さん。
と。秋葉は自信に満ちた声で、言った。
「秋葉。それじゃあやっぱり、俺は―――」
「はい。十年前にお父様によって引き取られた養子です。けど兄さんはその事を覚えていない。
兄さん、私たちにはシキというもう一人の遊び仲間がいた事を覚えていますか?」
「――――――いや。思い出せない」
「でしょうね。それはお父様が兄さんに暗示をかけたからです」
「……シキは、遠野家の血に耐えられなかった人でした。兄さんは覚えていないでしょうけど、八年前のあの日、兄さんはシキから私を守ってくれたんですよ。あの、血に飢えた人殺しになったシキから、身を呈して守ってくれたんです。
それで兄さんはシキに殺されて、シキもお父様に処分された。“外れて”しまった一族の者を処分するのは遠野家の当主の義務ですから」
「……? 殺されたって言うけど、俺は生きてるじゃないか」
「―――はい。兄さんは奇跡的に一命をとりとめました。その後の事は覚えているでしょう? 兄さんは病院に運ばれて、屋敷に帰ってきたその日に有間の家へ預けられた。
その時にお父様は兄さんに暗示をかけたんでしょう。兄さんはまだ傷も治りきっていなくて、心身ともに不安定な状態だった。だから簡単に、本当に根深くお父様の暗示を信じてしまったんだわ」
「……そうか。なら、もういい。秋葉が解っているなら、こんな話をする必要なんかない。
俺は遠野家の人間じゃないんだろ?
なら、もう―――無理をして、俺の事を兄だなんて、呼ばなくていい」
すぐに。
他人である俺は、この家から出て行くから。
「……誤解しないで兄さん。
私は世間体のために貴方を兄さん、と呼んでいたんじゃないわ。
覚えてないの? 私、兄さんがシキに殺される前から貴方の事を兄さんと呼んでいた。だから貴方が養子であろうと何であろうと関係ないんです。
私は初めから兄さんが実の兄でない事は知っていました。
兄さんもそれを受け入れてくれた。
だから―――兄さんがどんなに否定しようと、兄さんはもう遠野志貴なんです。ですからずっと、貴方はこの屋敷にいてください」
秋葉の言葉は純粋に嬉しかった。
けど、俺には解らない。
どうして秋葉はそんなに、他人である俺を受け入れてくれるのか。
「―――なんで。俺は秋葉にとって、本当の兄貴じゃないのに」
「……もう。ここまで言っているのに、兄さんはまだ解ってくださらないんですね。
私にとって兄と呼べる人は貴方だけなんだし、たとえ兄さんがそれを認められなくても、ただ傍にいてほしいんです。
私は、兄さんの事を愛していますから」
「な―――――――」
さらりと、秋葉は凄い事を言ってくる。
秋葉が俺を、兄として好いてくれるのは嬉しい。
だが、そうであればあるほど――――俺は、この屋敷にはいられない。
「……違う。俺は秋葉が思っているような人間じゃないんだ。秋葉はシキを人殺しというけど、俺だって―――シキと同じような、人殺しかもしれないんだ」
「人殺しって、それはどういう事ですか?」
「………………」
ここまできた以上、隠しとおす事はできない。
俺は今までの出来事――――昨夜の殺人の夢や自分に覚えのない血の跡の事、そして、秋葉に殺される夢を見た事。
「……俺は、自分に自信が持てない。どうしてもアレが夢だとは思えないんだ。
親父は七夜の人間は殺人鬼を輩出していると言っていた。だから俺もシキのようになって、いつか秋葉に迷惑をかける事になる」
心臓を絞るような思いで、全てを告白した。
だっていうのに、秋葉のヤツは目を白黒させたあと、可笑しそうに笑いをかみ殺した。
「な、なにがおかしいんだよ。これは冗談なんかじゃないんだ。……信じられないだろうけど、俺は確かに人の血を吸う夢を見たんだ……!」
秋葉はまだくすくすと笑っている。
……なんだか。
そうされると、一人で悩んでいた自分がバカみたいに思えてくる。
「ああ、おかしい。いい? 兄さんは決して吸血鬼なんかじゃないのよ。兄さんは七夜という、あくまで人として優れた血を持つだけなんだから。
それに七夜の方たちは殺人鬼なんかじゃないわ。
……確かにお父様から見れば殺人鬼でしょうけど、七夜の方たちが殺人衝動を覚えるのは人間外のヒトにだけなんです。
だから、兄さんが見ているのは只の夢にすぎない。その夢だって、シキという殺人鬼から流れてしまった想念みたいなものだから、兄さん本人の嗜好じゃない」
……シキから流れてきた想念?
そういえば親父の手記にもそんな事が書かれていたっけ。
シキは俺の命とやらを奪って、それを共融しているから、俺たちは互いに影響しあうとかなんとか。
「……そうか。けどそれじゃあ誰が街で人を殺しているんだ。俺の見ているものが夢だとしても、実際に街で犠牲者が出ているんだから―――」
―――殺人鬼は実在する。
俺はそいつと会った事がある気がする。
アレも夢の中の出来事だったのか。
いや、その真偽は別にしても、もしこの街に殺人鬼がいるとしたら、それは―――
「……シキが、生きている……?」
「え?」
今までクスクスと忍び笑いをこぼしていた秋葉も、流石に深刻な顔をした。
「秋葉。親父の手記だと、シキは生きていたって書かれてた。それってつまり―――」
「お父様の手記……?」
はて、と不思議そうに首をかしげる秋葉。
「親父は俺とシキは繋がっていると言ってた。なら俺が見ている夢っていうのはシキの夢なのかもしれない」
……いや、というよりシキが行っている殺人行為そのものか。
「……確かにその可能性はあります。お父様の死因も不審な点が多々ありましたし、屋敷の地下牢には誰かを匿っていた跡がありましたから」
「……ちょっと秋葉。屋敷の地下牢って、この家ってそんな物騒なものがあるのか」
「あら、それは当然でしょう? 遠野家の人間の多くは精神に異常をきたすんですもの。外の世界に害を及ぼさないよう、そういった結界は用意してあります。
まあ、用途はそれだけじゃありませんけど。私も子供の頃、お父様の言いつけを破った時はよく閉じ込められましたし」
なぜか楽しそうに、秋葉はこちらを流し見てくる。
……なんか、背筋がぶるっときた。
「……わかった。地下牢の話はいいから、今はシキの事をなんとかしないと。
もし本当にシキが街で人殺しを繰り返しているんなら、なんとか止めないといけないだろ」
「そうですか? シキがなんであれ、私たちが関わる必要はないでしょう? 警察という組織があるのですから、殺人鬼なんていう輩は彼らに任せておくべきじゃない?」
「な―――――秋葉、何をいうんだ。いくら人殺しになったからって、シキはおまえの兄さんだろ。そりゃ罪は償わないといけないけど、それでも―――」
「……はぁ。もう、兄さんはどこまで人がいいのかしら」
呆れたふうにため息をこぼすと、秋葉は髪をかきあげた。
「私にとって肉親は兄さんだけです。シキの事なんて知らないし、兄さんが心を痛める必要もありません」
「ばか、そういうわけにはいかないだろ。今まで警察に捕まらなかったヤツが、そう簡単に捕まるもんか。その間にもまた新しい被害者が出たらどうするんだ」
「どうもしません。そんなの、私たちの責任じゃありませんから」
言って、秋葉は俺の目を見つめてくる。
「ね、もうこんな話はよしません? 人殺しとか殺人鬼とか、そんな話はつまらないわ」
「な――――――」
けどこれは俺たちの身内の問題だ、と言おうとして、言えなかった。
……深い、こちらの心まで見透かすような秋葉の目。
そんな目をされると、なぜか秋葉には敵わないような気がして、気合がそがれてしまう。
「分かってくれたみたいですね。それじゃそろそろお部屋に戻ってもらえますか? 学校から帰ってきたばかりですから、やらなくちゃいけない事があるんです」
「―――――」
……秋葉の言う通り、とりあえず、これ以上話をする事がない。
納得がいかないまま頷いて、秋葉に背中を向けた。
秋葉の部屋から立ち去ろうとする。
――――と。
後ろから、呼び止める声がした。
「……なんだ。もう話すことはないんだろ、秋葉」
「―――――――」
秋葉は黙って、じっと俺の目を見つめてくる。
「―――兄さん。私にとって、一番大切なものは貴方です。この八年間、兄さんとの思い出がなければ私は私でなくなっていた。
……兄さんがいてくれたから、秋葉は秋葉のままでいられたんです。私にとって兄さんは自分以上に大切な人だから、ずっと、私を好きでいてほしかった」
真摯に。
視界には俺しかいないようなひたむきさで、秋葉は俺を見つめている。
「けどそれは私の自分勝手な願いでしょう? 兄さんにとっては遠野の家も私も、重荷でしかないんですから。
ですから兄さんは私を疎んじているんだろうって、ずっと恐れていました。
けど、それは杞憂だったんですよね? だって兄さんはこの屋敷に戻ってきてくれた。他の誰でもない、私のために戻ってきてくれたんだから」
そう、嬉しそうに秋葉は笑う。
……その笑顔を見て、胸が痛んだ。
「……そうだ。俺は秋葉を放っておけなくて戻ってきた。それは、今でも間違いじゃないって思ってる」
その、どこか危うい今の秋葉を見守るためにも、戻ってきた事は間違いじゃない。
けど、違うんだ。
秋葉の目があまりにも真摯だから、嘘はつけない。
「けど秋葉。俺が戻ってきた理由それだけじゃないんだ。俺は―――」
八年前のあの子との約束を果たす為に戻ってきた。
それは秋葉に対する愛情より大切な、偽れないモノだと思う。
「やめて。そんな話は聞きたくありません。兄さんは戻ってきてくれた。事実はそれだけでしょう?
なら、それ以外の事なんて―――兄さんの事情なんて、私には不必要です」
秋葉の視線が外れる。
視線をそらした秋葉は、どこか―――意味もなく、危うい物を感じさせる。
「部屋に戻って。そんな顔のまま、私の前に立たないでください、兄さん」
「………………」
返す言葉が見つからず、無言で秋葉の部屋を後にした。
夜もふけて、もうじき午前零時になろうとしていた。
いつもの就寝時間はとっくに過ぎている。
ベッドに横たわったまま、窓ごしの月を見上げる。
「……………」
眠れずに夜を過ごす。
また殺人の夢を見るのが怖い、という訳ではない。
街を徘徊しているシキという殺人鬼。
どこか崩れてしまいそうな、危うい雰囲気がある秋葉。
そういった事が気になって、いつまでも眠れずに月を見上げているだけだった。
「…………喉、乾いたな」
最後に水を飲んだのが夕食時から、かれこれ四時間が経っている。
我慢するのもなんだし、台所にいって水を飲む事にした。
コップに水を汲んで、一息で飲みほした。
どうしてか、妙においしい。
「……おかしいな。ただ喉が乾いているだけなのに」
昨夜の夢の中の自分のように、喉を通っていく液体の感覚が心地よかった。
「ん……? 誰かやってくる」
カツン、カツン、という足音が近づいてくる。
とても小さな足音で、深夜でなければ聞き取れないぐらいの静かさだ。
「……志貴さま? こんな時間に何をしてらっしゃるんですか?」
「翡翠か。いや、喉が乾いたから水を飲みにきただけだよ」
「志貴さま。そのような事でしたら、お呼びしてくだされば用意いたします。どうか、夜はお部屋でお休みください。……夜にこの屋敷を歩かれるのは、あまりいい事ではありません」
淡々と翡翠は言う。
「……?」
けど、その言葉はどこかおかしい。
夜に屋敷を歩くのはいい事ではない、という言葉は、裏を返せば部屋から出るな、という事になる。
……いや、そんな事より。
翡翠と琥珀さんは子供の頃からこの屋敷で働いている。
なら―――俺が遠野家の養子という事を知っていてもおかしくはない。
「……翡翠。聞きたい事があるんだけど、いいかな」
「はい。それでしたら志貴さまのお部屋に戻りましょう。ここはお話をするような場所ではありません」
「いや、ここでいい。ちょっとした事を聞くだけだから」
「―――――?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
「…………」
はぁ、と深呼吸をする。
翡翠が知らなかった場合、聞いてしまう時点で秘密をばらしてしまう事になる。
だが、今更この事を隠そう、なんていうつもりもない。
「手短に聞くけど。翡翠は、俺が養子だっていう事を知ってたのか」
「――――――――」
びくん、と翡翠の肩が震える。
……それで、翡翠も知っていたという事が解ってしまった。
「……そっか。翡翠が知ってるっていう事は琥珀さんも知ってるっていう事だよな。
なんだ。こんなの、別に秘密でもなんでもないじゃないか」
「志貴さま、それは―――」
翡翠はそこで言葉をきって、目を伏せた。
「……申し訳、ありません。ですが志貴さま、志貴さまは養子であっても紛れもなく遠野家のご長男です。秋葉さまが志貴さまを肉親と受け入れているように、わたしや姉さんにとっても志貴さまはわたしたちの主です」
「……ありがとう。そう言ってくれると、この屋敷に残っていいんだなって信じられる」
「志貴さま……どうか、そのような事はおっしゃらないでください。志貴さまにとって、このお屋敷は本当の家なのですから」
「わかってる。俺だってそのつもりだよ。短かったけど、子供の頃にここで過ごした時間は大切なものだ。それを捨てる事なんてできないだろ」
翡翠は安心したように胸をなでおろす。
「……けど、それでも知りたいんだ。
俺がこの家に来る前、えっと……ナナヤ、だっけ。そういった頃、どんな子供だったのかっていう事を。翡翠がそれを知っているなら教えてほしい」「……申し訳ありません。志貴さまは七夜という、旧い家系のご長男だという事以外、わたしは知らされておりません。全ては槙・
さまが処分してしまいましたから」
……そうか。まあ、俺を遠野志貴として偽るのなら、七夜志貴だった頃の記録なんて全て処分してしまっているだろう。
「ですが志貴さま。姉さんなら何か知っているかもしれません」
「え……? 翡翠、どうして琥珀さんなら知っているんだ?」
「姉さんは子供の頃から槙久さまのお世話をしていましたから。遠野という家の事情でしたら、ある意味秋葉さま以上に教え込まれているはずです」
「……………?」
そういうば琥珀さんも、自分が槙久付きの使用人だったとか話していた。
けどそれは、たまに槙久の健康を看るだけの事だって思ってたけど……そんな子供の頃から槙久付きだったとは知らなかった。
「……あの琥珀さんがねぇ……あんなに毎日俺と遊んでたから、親父の傍にいたっていうイメージはないんだけど――――」
……どちらかといえば、槙久付きの使用人は翡翠のほうがイメージに合う。
いつも屋敷の中にいて、俺と秋葉と琥珀さんが遊んでいる所を眺めていたって、いう。
「……そうなのか。けどおかしいよ翡翠。秋葉にだって伝えなかった事を、親父はどうして琥珀さんに伝えたんだろう」
「いえ、伝えた、という訳ではないと思います。姉さんはこの屋敷に引き取られてからずっと槙久さまの傍におりましたから、槙久さまの独り言を聞く事も多かったのでしょう」
「―――――――ずっと、親父の傍にいた?」
だから。
それはいつも屋敷の中にいた翡翠の方―――
「待って。琥珀さんは、子供の頃から親父の傍にいたっていうのか」
「あ――――」
視線を逸らす翡翠。
―――今、何かズレた。
今まではただの違和感にすぎなかった物が、カチリと音をたててはまり直した。
琥珀さんは翡翠しか知らない筈の約束を知っていた。
翡翠は八年前の約束を忘れていた。
けどそれは、単に。
二人の位置付けが、そのまま逆になっていただけなんじゃないのか。
だとしたら――――
「……翡翠。もう一度訊くけど、八年前の事は覚えてる?」
「―――はい。リボンを志貴さまにお渡しした、という事ですね」
「……そうだ。俺が自分の部屋を出たあと、玄関で呼び止めて餞別にリボンをくれた。ところでリボンの色が何色だったか覚えてる?」
「白でしたが、なにか」
翡翠の返答は淀みがない。
けど、それはすでに間違えてしまっている。
「――――――」
がたん、と。
膝の力が抜けて、倒れるように椅子に座る。
「―――――なんて」
なんて間違いを、今までしていたんだろう、俺は。
「志貴さま……?」
「―――違うんだ翡翠。俺は庭の木の下でリボンを手渡されたんだ。玄関じゃない」
「―――――――――」
翡翠は息を飲んで、それきり黙り込んでしまった。
「なんで――――」
解らない。
どうして琥珀さんは俺を騙すような事ばかりしていたのか。
どうして―――はっきりと、あの約束の相手は自分だと言ってくれなかったのか。
「志貴さま―――どうか姉さんにはこの事は黙っていてあげてください。志貴さまが知られたと知れば、姉さんは行き場をなくしてしまいます」
不意に。
翡翠は、そんな事を言ってきた。
「知られたって、琥珀さんと翡翠が入れ替わっていたっていう事、をか」
無言で翡翠は頷く。
「……それじゃやっぱり、翡翠が俺たちと遊んでいた子で、琥珀さんのほうが―――屋敷の中にいた子だっていうのか、翡翠」
無言で翡翠は頷く。
「どうして……? どうしてそんな入れ替わるような真似をしてるんだ、翡翠たちは。そんな事したって、何の意味もないじゃないか。それとも俺をからかっていたっていうんじゃないだろうな」
「志貴さまを欺こうとした訳ではありません。わたしたちも、どうしてこんな事になってしまったのかはっきりと説明はできないんです」
「……八年前の話です。志貴さまが有間の家にいかれた後、わたしは以前に比べて大人しくなったんだと思います。
姉さんはそんなわたしを励まそうと明るく振る舞うようになって、いつのまにか、わたしたちはそっくり立場が入れ替わっていただけなんです」
「それが解らない。翡翠、キミはあんなに元気な子だったじゃないか」
「……違います。わたしはもともと、あまり活動的な子供ではありませんでした。ただ志貴さまがいらしたから、精一杯駆け足で志貴さまを追いかけていただけなんです」
「――――――――――」
……ああ、覚えている。
いつも元気で、笑顔をたやさなかった少女。
俺たちの誰よりも自由で、危なっかしくて、なのに一番しっかりしていた、琥珀さんの子供時代のような少女の姿を。
「……そうかな。翡翠は俺がいなくても、やっぱり元気だったと思うよ。アレはさ、間違いなく地だったからね。さんざん翡翠に振り回された俺が言うんだから間違いないって」
「……はい。あの頃はとても楽しかった。志貴さまがいらした二年間は、わたしにとって一番いい季節だったと思います」
「ですが、志貴さまがいなくなってから何かが崩れてしまったんです。
秋葉さまは槙久様を嫌うようになって、槙久様は姉さんにきつくあたるようになりました。
楽しかったお屋敷の生活は、そこで終わってしまったんです。わたしは段々と無口になっていって、仕事ができない状態になってしまいました」
「そうして、姉さんは仕事ができなくなってしまったわたしの代わりに働くようになったんです。
以前のわたしのように笑って、以前のわたしのように振る舞う。その代わりに、わたしは以前の姉さんの役割を受け入れました。
……わたしにはそれが一番楽でした。同時に、それがただ一つきりの姉さんの望みだったんです」
「……琥珀さんの望み……?」
翡翠の言う事は俺には解らない。
ただ、翡翠は本当に琥珀さんの事を案じている。
それだけは、こんな自分にもはっきりと感じ取れた。
「翡翠。琥珀さんが望んだって、どういう事なんだ」
「……姉さんは、ずっと翡翠になりたかったんです。けどわたしのためにそれをずっと我慢してきました。
姉さんにとって、わたしの代わりに働く事はただの芝居にすぎないのだと思います。
姉さんは昔の翡翠に成りきって、姉さん自身の意思を殺している。姉さんは自分の意思ではなく、あくまで“昔の翡翠”として日々を過ごしているだけの、人形なんです」
「……わたし、そんな姉さんが怖かった。姉さんには自分というものがもう無くなっていて、ただ誰かになりきって過ごしているだけなんだって気づいてしまったんです。
……姉さんはきっと、わたしが以前の翡翠に戻ればすぐに以前の、本当の姉さんに戻ってくれると思います。
……わたしと姉さんが初めて入れ替わった時、姉さんはこう言いました」
大丈夫よ、翡翠ちゃん。
翡翠ちゃんが元気になるまで、わたしが代わりになってあげるから。
だからいつでも、翡翠ちゃんが元気になったら翡翠は返してあげるからね。
「――――その言葉が怖くて、わたしは少しでも早く元の自分に戻ろうって自分に言い聞かせました。
……でも、そんな時に偶然、庭を楽しそうに歩いている姉さんを見かけたんです。
姉さんは本当に嬉しそうだった。……昔の自分がそんな笑顔で庭を歩いているなんて知らなかったぐらい、姉さんは嬉しそうだったんです。姉さんはただ独りきりで、庭を歩いているだけだったのに」
「姉さんの行為は、すべて“翡翠”という役割を演じているだけだって解っています。けれど、その芝居はあまりにも幸せそうだったんです。
だから―――姉さん自身が気がついていないだけで、今の琥珀は姉さんがずっと憧れてきた夢なんだって、解ってしまった。
それを崩すことなんて、わたしにはできませんでした」
……そうして、翡翠は唇を噛んで、涙を堪えるように黙り込んだ。
「……志貴さま。姉さんは今の姉さんのままでいさせてあげてください。……そうでなければ、姉さんは自分の居場所を失ってしまうんです」
……翡翠の言葉に頷くしかない。
だけどそれは、決して正しい選択じゃない。
琥珀さんはいつまでも昔の翡翠を演じて、翡翠はそれを守るために、昔の琥珀を演じなくてはいけないのか。
―――そんな、偽りしか知らない琥珀さんを見て、翡翠はずっと傍にいるという。
それは―――とても辛い事の筈だ。
「志貴さま。どうか約束してください。姉さんには何も言わないと」
「……わかった。けど翡翠。君はそれでいいのか」
「…………………」
翡翠は答えない。
……行き場のない感情を飲みこんで椅子から立ち上がる。
俯いたままの翡翠を残して、台所を後にする事しか、できなかった。
「―――――――?」
部屋に戻ろうとして、玄関の扉がわずかに開いている事に気がついた。
「……誰か外に出たのか?」
……翡翠はまだ台所にいる筈だ。
だとしたら琥珀さんか秋葉が外に出た、という事になる。
「………………」
正直、今はもう眠りたい。
体も心も疲れきっていて、すぐに眠らなければ倒れてしまいそうだ。
今夜だけは。このまま静かに眠らないと、遠野志貴は壊れてしまう。
ここは―――
大人しく部屋に戻る。
――――部屋に戻ろう。
翡翠が語ったコトバが、頭の中で渦を巻いてしまっている。
ただでさえ重い体は、目に見えない言霊の鎖でよけいギクシャクと稼動する。
「………………………っ」
階段を上ろうとして、体が軋んだ。
……足があがらない。歩くことしか、できそうにない。
「……………………どうしたんだ、これ」
……仕方がない。台所に戻って、翡翠に肩を貸してもらって――――
quakey 2,300
「あ――――――れ」
台所に戻ろうとして、絨毯に倒れこんだ。
「―――――ちょっ、と」
声もあげられない。
ずるずると腕だけで這って、すぐに力尽きた。
カツカツ、という足音が聞こえてくる。
台所から翡翠がやってくる。
……助かった。ともかく、これで翡翠に肩を貸してもらえ――・
カツカツ、カツカツ、カツ。
「……………………うそ」
階段から這って進んだ事が裏目に出たのか。
ちょうど俺は物陰に入ってしまって、翡翠は気がつかずに階段を上がっていってしまった。
「……………………なんか、すごく間抜けじゃないのか、俺」
ぼんやりと呟いた瞬間、ぞくり、と。
近くに、自分以外の気配を感じた。
「―――――――――――!」
倒れたまま視線を後に向ける。
そこには。
幽霊のような、人影が。
「――――――――――」
そこで、ようやく今の自分の状態を悟った。
動かない体。
あげられない声。
明かりのない暗い洋館。
……そして、エモノをじっと凝視する誰か。
これだけお膳立てが揃っていたら、まず殺されてしかるべきだ。
そこいらのホラー映画なみの状況に、吐き気というより笑いがこみ上げた。
「………………は、はは」
“誰か”は足音一つ立てずにやってくる。
殺される、という緊迫感のためか、眩暈はさらに加速していく。
「―――――――――」
気配が止まった。
“誰か”は倒れた俺を見下ろして、そのまま、無防備な背中に向けて―――
志貴さん、こんな所で寝てると風邪ひいちゃいますよー」
―――なんて、この上なく陽気なコトバを、投げかけてきた。
「………………………琥珀、さん?」
「はい、わたしですけど何ですか?」
………………どっと力が抜けた。
「志貴さん? ホントにどうしたんですか、こんなところで横になって」
……あくまで陽気な声が聞こえる。
それで安心してしまったのか、そのまま――
眩暈に揺れていた意識は、完全に途絶えてしまった。
●『8/逢魔ヶ辻U』
● 8days/October 28(Thur.)
強い陽射しを感じて目蓋を開けると、そこは自分の部屋だった。
俺はきちんと寝巻に着替えて、ベッドに横になっている。
「―――――――――そうか、昨日」
昨日の夜、ロビーで倒れてしまったんだ。
翡翠は俺に気がつかずに行ってしまって、琥珀さんが物音を聞いてやってきてくれた。
「……ってコトは、出ていったのは秋葉のヤツか」
……おそらく。責任感の強い秋葉の事だから、夜の街にシキを捜しに行ったんだろう。
「……あいつ。シキの事は俺に任せろって言ったのに……」
「失礼します」
ノックの音がして、扉が開く。
やってきたのは洗面器やらタオルやらを持った琥珀さんだった。
「あ、おはようございます志貴さん。お体の具合はどうですか?」
いつもと変わらない笑顔で琥珀さんは近寄ってきた。
「―――――――」
昨夜の翡翠との会話が思い出される。
それをなんとか思考の隅においやって、出来るだけいつも通りに笑ってみせた。
「おはよう琥珀さん。あの―――昨日の夜、あれから琥珀さんが運んできてくれたんですか?」
「あれ、志貴さん覚えてないんですか? 志貴さんロビーで横になっていて、お声をかけたら一人で立ちあがって。いや、よく寝た、とか言って歩き出したんですよー。肩をお貸ししましたけど、志貴さんはご自分でここまで戻ってきたんです」
「………そう。なんか、まったく記憶にないんだけど。ここんところ疲れてるのかな。自分が何をしていたのか、よく思い出せなくなるんだ」
「はあ。それじゃ昨夜の事も覚えていないんですか?」
「……多分。俺の記憶は台所で―――――」
……翡翠と、琥珀さんの関係を、聞かされたんだ。
「あはは、それは残念ですねー。志貴さん、ずっとわたしに謝っていたんですよ。
どうして謝るんですかって尋ねるんですけど、俺はばかだ、とうへんぼくだ、としか答えてくださらないんです。
志貴さん、とうへんぼくなんですか?」
「いや。いちおう人間のつもりだけど」
……まあ、それでもそろそろ本気で朴念仁だの甲斐性なしだのと、石を投げられるような気はする。
「……ともかく助かった。あのままロビーで寝てたら風邪を引いてたし、学校だって―――」
あれ? 目の錯覚が、時計は午前十時を余裕で過ぎてしまっている。
「あ―――! こ、琥珀さん、学校っ!」
「はい。志貴さんの学校でしたら、今日は創立記念日でお休みですね」
「――――――――」
そう、か。そういえば、そんな日もあったっけ。
ここんところ学校に行っても上の空だったから、そんな事さえ忘れていた。
「ま、ともかく起きないと。こんな時間まで寝てたら秋葉になんて言われるか―――」
ベッドから体を起こす。
quakey 2,300
「あれ――――うまく、体が」
動いてくれない。
腕をたてて体を起こそうとするんだけど、その腕に力が入らない。
「どうやらまだお体の具合が悪いみたいですね。今朝は三十八度ほど熱がありましたし、まだ顔色が優れてませんし。退屈でしょうけど、今日はベッドの上でお休みしてくださいね、志貴さん」
琥珀さんは冷たい水で絞ったタオルを俺のおでこに乗せてくる。
……冷たくて、気持ちがいい。
「んー、とりあえず熱は下がっていますねー。汗はだいぶ引いてくれたようですし、お顔の色もよくなってきてるから、夜には元気になってますよ」
琥珀さんは体温計や氷枕をテキパキと繰り出してくる。
……最後には口をあけさせられて、舌の具合まで確かめられてしまった。
「それではすぐにお粥を持ってまいりますね。志貴さん、今日は大人しくしてないとダメですよ」
「あ―――琥珀さん」
「はい? なんですか志貴さん?」
……琥珀さんはやっぱり琥珀さんだ。
見ているとこっちまで元気が出てきそうなその笑顔に変わりはない。
俺には―――この人が、ただ笑顔を演じているだけだなんて思えない。
「……いや、なんでもないんだ。お粥、楽しみにしてます」
「はい、それでは失礼しますね」
琥珀さんはパタパタと足音をたてて廊下へ去っていく。
その後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
正午になった。
琥珀さんはお粥を持ってきた後、屋敷の仕事に戻っていった。
「…………………はぁ」
こうして一人になると、今の自分が置かれた状況の異常さにため息が出てしまう。
……養子だった自分。
……それでも構わないと言ってくれた秋葉。
……翡翠と琥珀さん。
……そして、いまだ野放しになっている殺人鬼。
琥珀さんに尋ねた所、今朝のニュースで新しい死者が出た、というものはなかったそうだ。
それでもシキが野放しになっている以上、犠牲者はまた出てきてしまうだろう。
「……この体がもう少し思い通りになってくれれば、俺が―――」
シキを止める、と言いかけて、枕に頭をうずめた。
あんな夢を見続けた影響だろうか。俺もシキに負けず劣らず物騒な思考をしている。
「……何をするにしても、とにかく体を治さないとダメだよな」
目蓋を閉じる。
よっぽど今まで疲れていたのか、気を抜くとすぐに眠気がやってきた。
……耳をすませていると、自分の鼓動がよく聞こえる。
どくん、どくん、どくん、どくん。
体の内側から響いてくる音がうるさくて、まどろみから現に戻る。
「あ………つ」
また、喉が乾いている。
喉がカラカラに渇いて、頭がぼーっとかすんできた。
目を覚ます。
体はまだ鈍い。少し熱がぶり返してきた。
それでも、食堂にいって水を飲むぐらいなら、体を動かしてもいいだろう。
廊下には誰もいない。
昔。
思い出せないぐらい昔か、それとも思い出す必要がない昔に見た、映画に出てくる廃墟みたいに、静かだった。
暑い。
陽射しが暑い。
ただ水を飲みたいだけなのに、どうして。
何かに引き寄せられるように足が動く。
……離れは強い陽射しにかすみそうだった。
まるで、ここだけ砂漠にでもなったように暑くて、白くて、目がかすむ。
……ごと、と物音がした。
……離れの中からだ。
……誰か。
……中に、いるのだろうか。
縁側から障子を少しだけあけて、中を覗いた。
そこには秋葉と琥珀の姿があった。
二人の様子はどこかおかしい。
しゅるり、という、帯の外れる音。
―――――なに、を。
無言のまま、琥珀は着物をはだけさせて、その胸をさらけだした。
裸体をさらけだした琥珀は、頬を赤くして、ぴくりとも動かない。
その、白い胸のふくらみに、秋葉は唇を押し当てる。
きり、という、緊張感。
胸をはだけて俯いている琥珀と、その胸元にうずくまるように顔をうずめている秋葉。
琥珀の胸元から、ぽたり、ぽたりと紅い雫がこぼれている。
ごくり、と秋葉の喉がなにかを嚥下する。
なにを―――なにを飲んでいるのか、そんな事は解りきっていた
秋葉は、琥珀さんの血を、飲んでいる――――
「―――――――」
時間が停滞する。
全身の血管骨格筋肉鼓動が裏返る。
心臓の音さえしない。
ガチャリ、ガチャリ、と機械が変形するように。
全身の細胞が、急速に変貌していく。
―――体の機能は、澄みきった湖のように静謐。
なのにまだ頭だけがカカシのままで、遠野志貴は動き出せないでいる。
秋葉。
秋葉まで血を吸う鬼なのかと、困惑したままでいる。
「……秋葉、さま」
唇を震わせながら、琥珀が口をあける。
「……どうか、お止めください。これ以上の摂取はお体に障ります。薬もとりすぎれば毒になるように、あまり血に慣れすぎてしまうと――――」
「シキのようになる、と言いたいの? おかしいわね琥珀。あなたは私にそうなって欲しいんじゃなくて?」
愉しむ様な秋葉の瞳。
「……………」
琥珀は答えない。
「いいのよ、私もお父様の事は軽蔑しているから。
あの人は醜悪だった。あの人が実の父親だと思うと、私だって殺したくなる。
そうでしょう? ご自分の中の血に抗いきれず、まだ子供だったあなたを欲情の捌け口にして、毎日毎日、飽きる事なく陵辱していたんですものね。
だからね、琥珀。本当はあなたが私やシキを恨んでいる事ぐらい解ってるわ」
「……どうしてでしょう。秋葉さまはそれを承知で、わたしの血をお飲みになられるのですか」
「そうよ。あなたが私たちを恨むのは仕方がないことだけど、私はあなたのことが好きなの。だからあなたが何をしようが許してあげる。
……ただ一つ、あなたが私の大切なものに手を出さなければの話だけど」
ぞくり、と。
肩を震わせて、琥珀は唇をかみ殺す。
「……だめ、です、秋葉さま……そんな、いつもより多く吸われては、本当に―――」
「心配は無用よ。私は兄さんのようにはならない。私にとって吸血行為はただの娯楽と同じだもの。シキのように自分の身を滅ぼすような事にはならないわ。
尤も―――あなたにとっては、そうなったほうが嬉しいんでしょうけどね」
「………………」
琥珀は答えない。
ただ瞳を細めて、肯定も否定もしない。
秋葉の赤い舌が、琥珀の白い肌に滑っていく。
なだらかな乳房に、秋葉の爪が突き立てられる。
つぷり。
爪は皮膚を破り、玉のように血の雫を露にする。
―――――――――――、――――――――。
チキチキ。チキチキ。
心臓が鳴動する。
俺の意思とは遠い所で。
どくん、どくん、と。
ころせ、ころせ、と、命令する。
「……秋葉さま。どうして、シキ様はあんなに多くの血を求めるのでしょう。生きていく為だけなら、こうしてわたしのモノだけでいいはずなのに」
「ええ、生きていく為だけなら琥珀の血だけで十分でしょうね。感応者であるあなたの血は他の人間より上質でおいしいもの。
けど、生殖行為と吸血行為は違うわ。
血はね、量だけあればいい、というものではないの。人間の血は一人一人味が異なる。一度でも吸血に慣れてしまったモノは、前に吸ったものとは違う味を求めて吸血行為を繰り返すのよ」
「際限は―――ない、のですか」
「ええ。けどこれは趣味みたいなものだから、本人の意思が強ければ止められるわ。おいしい血を求めるだけならいつだって手に入る。
……本当はね、シキも私も一人の血さえあればいいんだもの」
――――魅入られているのか。
血を啜る秋葉を見ていると、呼吸が、できなくなる。
チキチキ。チキチキ。
苦しい。
こんなに苦しいと、間違えて。
この真空から解放されたくて、ころし、て、しまいそうに、なる。
「……一人の血さえあれば、いいのですか」
「そうよ。シキにとって、それは私だったのかも知れない。だからあの人はそう簡単に私の所にはこなかった。……来てしまえば、あの人にとって楽しいゲームが終わってしまうから」
「そう、終わってしまうのよ琥珀。自分にとって最高の血を飲んでしまえば、その先は何もない。
私は一番愛する人を手にかけて、きっと命まで吸い尽くしてしまう。その後に残るものは虚無だけでしょう」
秋葉の指が琥珀の体を締め付ける。
びくりと。琥珀は目を閉じて、秋葉の行為に堪えようとする。
「……だから決して、私は一番欲しいモノには手を出さない。
出す時があるとすれば、それは」!w750
―――ソレが、決して自分のモノになってくれないと解った後でしょうね。!w750
秋葉が倒れる。琥珀が倒される。
ざあ、と。
赤い髪が滝のように、古い和室を蹂躙した。
「は―――――あ」
吐き気を殺して、血走った目のまま逃げた。
くらくらと眩暈がする。
何を―――何を言っていたんだろう、今のは。
チキ。
血を吸うという事。
シキと同じように、ただ戯れで琥珀の血を口にしていた秋葉。
赤い髪。
琥珀。琥珀。琥珀さん。槙久に、陵辱されていたって、どういうコト。
チキチキ。
ドクドクと頭痛がする。
まだ心臓は狂ったまま。
秋葉。琥珀の血を飲んでいた秋葉を見て、美しいと思ってしまった。
チキチキチキチキ。
真っ赤な髪。
蜘蛛の糸めいた朱の繭。
変種で真紅に染まった、毒蛾の羽のような、極彩色の禍禍しさ。
あまりに美しすぎて、毒々しい。
故に―――酷く異質な感情に支配されていた。
太陽の下、森を歩いていく。
チキチキ。チキチキ。チキチキ。
「―――うる、さい――――」
耳障りな音が止まない。
チキチキという音。
鳴き声とも、蠢く音ともとれる奇音。
それは俺の背骨から聞こえてきている。
チキチキ。チキチキ。チキチキ。
虫だ。
何か黒い昆虫が、俺の背中にたかっている。
……琥珀さんが俺のコトをトウヘンボクとか言うからだ。
虫どもは俺の背骨を木と勘違いして、蜜を求めてたかっている。
チキチキ。チキチキ。チキチキ。チキチキ。チキチキチキチキ。チキチキチキチキチキチキ。チキチキチキチキチキチキチキチキチキ。チキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキ・
キチキチキチキチキチキチキチキチキチ……………………!!!!!!
背骨にたかった昆虫は、ずぶずぶと、首のあたりから脳内に入ってくる。
何十という昆虫が爪をたてて、キィキィと鳴いて、背中にたかっている。
その虫が入るたびに――――いいようのない衝動に支配されかける。
コロセ、と。
遠野秋葉を殺し尽くせと、頭の中で繰り返される。
その昆虫の名は、殺意というモノに違いなかった。
「うる、さい―――うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……………!!!!!」
うなじを手で抑えた。
そうでもしなければ狂いそうだ。
血を啜っていた秋葉に対する憎悪なんてない。
ただ、秋葉を殺せと繰り返す自分自身に対する、憎悪しか、存在しない――――
「はぁ………はっ、あ、はあ―――――」
首筋にたかる虫どもを振り払って、自分の部屋に逃げ込んだ。
「――――あ――――は、あ―――――」
壁に背中を預けて、途切れそうになる息を継いだ。
俺は自分自身の行動を抑制できない。
こんなもの、シキという殺人鬼と一体どこが違うというのか。
……いや。
そんなコト、本当はどうだっていい。
俺は、どうして―――解って、あげられなかったんだろう。
「―――――――琥珀、さん―――――」
……槙久の手記にあった言葉。
感応者という単語。養子としてではなく、ただの道具として扱われる為に引き取られた琥珀と翡翠。
その意味。
槙久付きという事の意味を、俺はまったく理解していなかった。理解、しようとさえしなかった。
―――毎日毎日、飽きる事なく――・
秋葉はそう言った。
槙久が何をしていたか、俺には考えるまでもない。
槙久が俺と同じように暴力的な衝動に支配される人間なら、琥珀に何をしたかなんて、わかりきってる。
―――いつも。いつも窓際にいた少女。
外に出る事も、助けを求める事も、知らなかった。
まだ幼い琥珀に対して、槙久は情けなんてもたなかった。
あの手記に書かれていた事だ。
槙久は、琥珀を道具としか見ていなかった。
ただ、子供のように。自分の欲情を、少女に叩きつけていただけだった。
―――ずっと、ただ庭で遊ぶ自分たちを眺めているだけだった少女。
槙久の事を責められない。
俺だって。槙久以上に、彼女に責め苦を負わせていた。
翡翠は言った。
琥珀さんは、ずっと翡翠になりたかったんだと。
「―――――――――」
俺には想像すらできない。
子供の頃から、ずっと屋敷に閉じ込められていた少女。
たった一枚の窓を隔てて遊んでいた俺たちを眺めるだけの毎日。
それなのに。
屋敷を離れる俺に、大事なものを預けてくれた。
その後。
働けなくなった妹の為に妹の役割を演じた彼女は、その芝居の中で笑った。
――――ひどい、道化だ。
……そんな、自分で作り物と解っている芝居の中でしか、彼女は笑えなかったのか。
「――――――なんて」
なんていう仕打ちを、俺はしてしまったのか。
……俺は琥珀さんが翡翠だと思いこんで、琥珀さん相手に、あの頃の思い話なんかをしてた。
歓迎会の日。
琥珀さんと料理をしながら、俺は幸せそうに翡翠との思い出話を語っていた。
―――傷ついた指を、彼女は痛くないと言った。
「――――愚か、な」
……胸がつまる。
呼吸ができない。
秋葉を殺したくなる自分。
こんなにも無神経な自分。
「ごめん――――ごめん、琥珀さん―――――」
意識がゆらぐ。
そのまま体は昏睡する。
俺は、初めて。
自分のこの力で、自分自身を、殺したいと思った。
「……秋葉さま、お医者さまをお呼びしないのですか?」
「無駄よ。兄さんの体は病気という訳ではないんだもの。原因を解決しないかぎり治ってくれるものじゃないわ」
……あきは と ひすい が話している。
ここは シキの 部屋だ。
どうやらベッドの上で 眠っている らしい。
あきは、と声をあげて起きようとしたが、体が思うように動かない。
体は鉛のように重い。満足に動くのは目と口だけ。
一瞬。
まだ、夢のなかにいるのかと、思った。
「失態ね、翡翠。今日一日は兄さんをいたわってあげて、と言ったでしょう? こんな事じゃ兄さんを任せる事はできないわよ」
「もうしわけ…………ありません」
「謝るのなら兄さんに謝って頂戴。私に謝られても不愉快なだけよ」
……俺には、二人がどうしてこうなっているのか全然わからない。
わからないけれど、翡翠が俺のせいで怒られている、という事ぐらいは読み取れた。
「……秋葉さま。わたしでは志貴さまがお倒れになった時、咄嗟にお助けする事ができません。どうか姉さんと役割を替えていただけないでしょうか」
「……だめよ。しばらく琥珀は兄さんには近づけさせません。翡翠もそのつもりでいて。琥珀を呼ぶ時は貴方も同伴して、兄さんと琥珀を二人きりにしないこと」
「ですが秋葉さま。志貴さまの容体は日に日に悪くなってきています。姉さんに薬を処方してもらわないと、志貴さまは立ち上がる事もできなくなるのではないですか?」
「……そうね。けど、それはそれで都合がいいわ」
小さく呟いて、秋葉は思案する。
「翡翠、兄さんが起きたらしばらくは学校を休むように言って。ここ数日元気がなかったみたいだし、顔色が良くなるまで部屋から出してはダメよ。
学校には私のほうから連絡を入れておきます」
……秋葉の姿が見えなくなった。
部屋には、押し黙ったままの翡翠だけが、いる。
「……志貴さま。お目覚めでいらっしゃいますか?」
……驚いた。
秋葉は気がついていなかったようだけど、翡翠は俺が起きている事に気がついていたらしい。
「……ああ、ちょっと前から目が醒めてた。……すまない。俺のせいで秋葉に怒られてたんだろ」
「いえ、秋葉さまがお怒りになられるのは当然の事です。志貴さまがお倒れにになっていたのに、わたしは気がつかないでいたのですから」
「―――ったく。そんなのもう慣れっこだろ。秋葉もなんだって、こんな事ぐらいで学校を休めなんていうんだ。
こんなの朝になればすぐに治るんだから、あんなに過保護になる必要なんかないのに」
「……志貴さま。その件ですが、どうか秋葉さまのおっしゃる通りにしていただけないでしょうか」
「は? 秋葉の言う通りって、明日から学校を休めっていう事?」
はい、と頷く翡翠。
その目は秋葉に叱られる事ではなく、本当に俺の体を案じている眼差しだった。
「う――――――――」
そんな目をされたら嫌だ、なんてとても言えない。
「…………わかったよ。とりあえず明日ぐらいは学校を休む。それでいい?」
翡翠は申し訳なさそうに、微かに笑顔をうかべる。
「……それでは失礼します。何かありましたら、すぐにお呼びください」
―――翡翠は一礼して立ち去っていった。
一人になった途端、急速に眠気が襲ってきた。
「っ――――」
深刻な話、俺の体はどうかしてしまっているらしい。
起きていようと努力しているのに、まったく抑えがきかない。
俺は天井の模様を睨みつけながら、それでも呆気なく眠りに落ちてしまっ――――
●『9/折紙。』
● 9days/October 29(Fri.)
――――どうしてこんなにも悲しいのか。
その理由が解らない。
別に、誰がどうなろうとそれはその個人の運命だ。
他人である自分に分け与えられる物ではない。
痛みも喜びも、感情も肉体も、別に。
なにが、悲しいというわけじゃない。
―――なのにどうして、こんなにも悔しいのか。
あの少女の事を何も知らなかったくせに。
今の彼女の事しか見ていなかったくせに。
自分にとって、二つの事柄には繋がりなんてありはしない。
なのにどうして。
今まで見もしなかった過去を思うと、胸が張り裂けそうになるのか。
―――なあ。一番悲惨なヤツってどんなのかな。
月の夜。
偶然街で出会った殺人鬼は、ふとそんな事を尋ねてきた。
それはとりとめのなかった、意味などない会話の中のヒトコマだ。
……それに、自分はどう答えただろう。
悲しい事は簡単に目に付くし、倖せは難しすぎて解らない。
悲惨な状況といったらそれこそ限りなく下を見るしかない。
この上なく悲しい思い、耐えられないほど辛い生き方を強制される事が悲惨だというのなら、生まれてこなければいい事になる。
―――自分にとっては。
その、生まれえないという事が、一番悲しい事だと思った。
そう言うと、殺人鬼だと名乗っていた男は笑った。
のけぞるぐらいに笑って、おまえはいいヤツだな、とかノタマッタ後。!w1000
―――なにが悲惨かって、そりゃあさ。
その悲惨なヤツ本人が自分が悲惨だって気がついていないで、自分が幸せなんだって思ってる事なんじゃないか。
なるほど、と頷いた記憶がある。
確かにそれはどうしようもない。
自分が悲しいのだと思う事もできない。
唯一、権利として与えられる同情でさえその本人には意味がない。
彼女は自身が幸福だという幻想を信じたまま、誰が見ても滑稽な生を送る。
苦痛を分け合えない他人として。
悲惨といえば、きっとそういう在り方が、一番悲しいのだろう、と同意した。
「―――――――」
何に起こされる訳でもなく、ゆっくりと目が醒めた。
窓から入ってくる陽の光も、肌をさらう冷たい風も心地良い。
外は、この上ないぐらいの晴天ぶりだ。
いつまでも横になっていられる天気じゃない。
上半身だけでも体を起こして背伸びをしよう、と力をいれる。
「ありゃ――――やっぱりだめか」
腕の感覚がまだ鈍い。
一人で立ち上がれない、という程ではないが、歩きまわるには無理があるという感じだ。
トントン、という聞きなれたリズムのノックがした。
「失礼します、志貴さま。お体の具合はよろしいですか?」
「ああ、調子はいいよ。この分なら夜には動けるようになってる」
……なんか昨日もそんなセリフを口にした気がするけど、今度こそ大丈夫だろう。
「……志貴さま。一つ、お聞きしていいでしょうか?」
「ん? なに?」
「志貴さまは有間の家で暮らしていた頃も、今回のようにお倒れになった事があるのですか?」
翡翠の声は弱々しい。
……この屋敷に帰ってきてから俺の体調が崩れたのでは、と心配しているみたいだ。
「翡翠が責任を感じる事なんてないよ。有間の家でもこういう事は何度かあったんだ。……まあ、中学にあがってからは年に一回ぐらいになって、高校になってからは無かったからな。
くるとしたらそろそろかなって、それなりに覚悟はしてた」
「では、その時もすぐに治られたのですか?」
「一日二日で治ったよ。だからあんまり大事にとらないでくれ。そんな顔をされると、なんだか俺まで重病なんだって勘違いするじゃないか」
「………………志貴さまは、重症だと思います。
貧血を起こす、とは聞いていましたが、そのようにお倒れになるとは聞いていませんでした。
志貴さまはご自分のお体がおかしい、と思われた事はないのですか?」
「あはは。キミの体はデタラメだね、とは主治医によく言われるぞ。考えてみればこうして倒れてもすぐに回復するあたり、人より驚異的な体力といえるかもしんない」
「………………………」
……あ。笑って茶化したら、翡翠が怒った。
「志貴さま。人より優れた体力を持つ方は、夜のうちに何度も熱をだしたりはいたしません。昨夜、志貴さまが何度発熱したのか覚えておられますか?」
「え―――俺、なんかしたのか」
「……昨夜の話です。志貴さまがお眠りになられた後、すぐに熱を出されました。発汗もひどく、頻繁にお体を拭いて、一時間ごとに様子を見にきたほどです」
――――我ながら、それは凄い。
凄いんだけど、こうも翡翠に迷惑をかけていると少しはしっかりしなくては、と恥じいってしまいそうだ。
「……あれ? そういえば寝巻が昨日とは違うな。翡翠……は無理だから、琥珀さんが着替えさせてくれたのか?」
「いえ、それは秋葉さまです。昨夜はわたしと秋葉さまが交代で志貴さまの看ていました。
朝方になって志貴さまが落ち着かれたので、秋葉さまもお部屋にお戻りになられましたが」
「―――――秋葉が?」
口にして、昨日の光景が頭に浮かんだ。
―――琥珀さんの血を吸っていた秋葉。
翡翠に辛くあたっていた秋葉。
「志貴さま……?」
翡翠が声をかけてくる。
知らず、俺の顔は強張っていたのかもしれない。
「いや―――なんでもない。……そっか、秋葉が看ててくれたのか」
「はい。一時間ごとに志貴さまのお部屋の前にやってきて、志貴さまの看病をなさってくださいました。
……その、志貴さまのお体に触れるような事は不得手ですので、秋葉さまが来てくれて助かりました」
「―――――――」
……なんて馬鹿。
秋葉がそんなに心配していてくれたのに、俺はなんて事を思ってたんだろう。
「……ありがとう翡翠。秋葉にもお礼を言っておいてくれ」
「はい。それでは志貴さま、朝食をお持ちいたしますので、お待ちください」
翡翠が退室して、今度こそ体を起こした。
壁に背を預けて、はあ、と大きく深呼吸をする。
……体の具合はそれなりに良くなっているし、外はこんなにもいい天気だ。
加えて、一晩中秋葉と翡翠が看ていてくれた事は純粋に嬉しい。
だっていうのに、気分は曇ったままで晴れ渡らない。
「……昨日から琥珀さんに会ってないな」
顔を会わせれば、きっと今までのように話せなくて困るって解ってる。
それでも、今は琥珀さんの顔が見たかった。
正午を過ぎて、太陽もその頂点を下り始めた。
体の調子は相変わらずで、良くなる事はないかわりに悪くなる事もない。
半端に不自由な体を持て余しながら、窓の外の空を眺める。
「―――――――」
こうして何も考えないようにしても、頭にうかぶのは一人だけ。
シキという殺人鬼をどうにかしなくちゃいけないっていうのに、俺は琥珀さんの事ばかりを考えてしまっている―――
硬いノック音がした。
「兄さん。私ですけど、中に入っていいですか?」
―――声は秋葉のものだ。
別に秋葉を避ける事はない。
……確かに昨日の事は気になる。
けど琥珀さんが嫌がっていた訳ではなさそうだったし、アレは秋葉にとって必要な事なのかもしれない。
遠野という血族は感応者と呼ばれる者を必要としている。
……秋葉は親父のように琥珀さんを苦しめている訳ではないんだから、今は、あの出来事は自分の胸の中にしまっておくべきだ。
「俺に断る必要なんかないだろ。立ってないで早く入れよ」
「はい。失礼します、兄さん」
部屋に入ってくる秋葉。
「秋葉、学校は? まだ一時になったばかりだろ」
「そんなものは休みました。兄さんが苦しんでいる時に外になんか出ていられないでしょ?」
秋葉は笑顔のまま、ベッドまで近寄ってくる。
「それじゃ体温を測るから、これを口にくわえて。終わったらシーツを替えるけど、少しぐらいなら立っていられるでしょ?」
はい、と秋葉は体温計を差し出してくる。
……どうやら翡翠のかわりに軽い診察をしにきたらしい。
秋葉は体温を測った後、シーツを替えたり新しい寝巻を用意したりとテキパキと動いていた。
……そういえば琥珀さんも無駄のない行動をする人だったけど、秋葉のように素早い、という印象はなかった。
琥珀さん自体はいつも穏やかだけど、やるべき事を順序だてているから無駄がないんだろう。
「兄さん、終わったから横になっていいですよ」
立ったついでに、ちらりと中庭を見てみた。
「―――――――ぁ」
琥珀さんが、ホウキをざっざっと動かして落ち葉を集めている。
ここからなら声をかけられるし、挨拶をしてみようか――・
「兄さん。新しいシーツに替え終わったんですけど」
「え……? あ、そうか。ごめん、ぼけっとしてた」
だるい手足を動かしてベッドに横になる。
秋葉は椅子に腰をかけると、慣れない手つきでリンゴの皮むきを始めていた。
難しい顔つきでナイフを扱うのだが、時折勢いあまってベッドにナイフが突き刺さりそうになる。
……花嫁修行だろうか。
そういう危ない事は、できれば台所でやってほしい。
「……秋葉。あんまり無理しなくていいぞ」
控えめに、慣れない事はするなと言ってみた。
「……………」
秋葉は不満そうな顔で、しぶしぶとナイフとリンゴを床に置いた。
持ってきた盆には皿やフォークがあった所を見ると、やっぱり慣れない事をするつもりだったらしい。
「………………く」
結果はどうあれ、秋葉の気持ちは嬉しい。
というか、妙におかしくてつい笑ってしまった。
「……むっ。何がおかしいんですか兄さん。私、兄さんを笑わせるような事はしていないでしょう」
「いや、昔と変わらないなって。子供の頃に一度、俺が風邪を引いた時があったじゃないか。その時も不器用な看病をしてたなあって」
……ああ、思い出した。
まだ俺が養子として暮らしていた頃の話だ。
親父の目を盗んで秋葉と遊んでいた時、いきなり熱をだしてダウンしてしまった。
俺はそのまま離れの和室で養生していたんだけど、秋葉は屋敷を抜け出して看病に来た事があった。
「…………懐かしいな。初めは手を握っているだけだったのに、段々と看病の真似事をし始めてさ。
おまえ、最後には屋敷から注射器を持ち出して、空のまま俺に射とうとしてただろ」
「うっ……悔しいけど、否定できない事実ですね」
「ふざけろ。時南さんが気がついて止めなかったら、俺はとっくにお亡くなりになってたんだからなっ」
ちなみに時南さんは当時遠野家の専属医をしていた医者の助手だった人だ。今ではその頃の縁で、俺の主治医をやってくれている。
「時南先生ですか。そういえば医者嫌いの兄さんもあの人には根負けしていましたね」
「……そりゃそうだろ。あの人はマッドがつくほうの医者だからな。下手に逆らうと倍返ししてくるんだぞ。医者の倍返しがどれくらい怖いか解るか?」
さあ、と秋葉は笑う。
他人事だと思って、実に可愛くない。
「あ、医者っていえば琥珀さんっていつ薬剤師の資格をとったんだ? 琥珀さん、年齢的に俺たちとわりと近いだろ。アレって年齢制限とかないの?」
「……そうですね、それに関しては少々お父様が無理をしました。
琥珀と翡翠は正確な生年月日が解らないんです。ですからお父様は琥珀の戸籍に少しばかり細工をして、書類上での琥珀の年齢を引き上げたそうです」
「―――――げ」
流石金持ち。やる事がイリーガルだ。
「けど、翡翠は兄さんと同い年だと思いますよ。翡翠と琥珀は双子なんですから、当然琥珀も兄さんと同い年という事になりますね」
「―――――うそ」
……同い年って、琥珀さんと俺が……?
いや、そりゃあ確かに考えない事もなかったけど、どうしてか琥珀さんは年上のような気がしていた。
……まあ、確かに『年上の人』っていうイメージは無かったんだけど、それでも同い年とは思えない。
だって、それだと……琥珀さんは八歳か九歳の頃から遠野槙久に―――
ぎしりと。
体にヒビが入ったような、錯覚。
「兄さん……? どうしました、体の具合が悪いんですか……?」
「―――いや、なんでもない。俺の体なんて、別に、どうでもいい」
所詮こんなものは、瞬間的な痛みにすぎない。
「どうでもいい事はないでしょう。そんなに汗をかいて、今にも倒れそうじゃないですか……!」
「――――そんなの―――――琥珀さんに、比べれば――――」
「――――――――――」
比べれば、いくらでも耐えられる痛みだ。
俺はやっぱり琥珀さんに会いたい。
会って何を言っていいか解らないけど、会って、何かをしなくちゃいけない。
八年前の約束だってまだ果たしていないんだ。
俺は、こんな所でいつまでも休んでいる訳にはいかな―――
―――と。
突然、眩暈は止まってくれた。
「どう? 少しは落ち着きました?」
額に秋葉の手の平が置かれている。
冷たい指。
その冷たい感触が、俺の眩暈を止めてくれたらしい。
「―――兄さん。体の具合はどうですか?」
「?」
どうって、そんなのはさっきも言ったけど。
秋葉の目は真剣だ。……何か、もっと違う事を尋ねてきているような、そんな視線。
「……いいわ。私の方で調べてみるから、少しじっとしていて」
言って、秋葉は額に当てた手の平を下にずらした。
ペタペタと、寝巻の上から手の平を当ててくる。
「……特別おかしな所はないようね。なのに体温が一定しないのは私がまだ慣れていないせいなのかな……」
秋葉はそう呟いて手の平を離した。
「兄さんはどちらかというと健康な体をしていますよね。なのにこうして、突発的に貧血を起こしてしまうのはおかしいと思わない?」
「……ああ。そりゃあ医者からさんざん言われた事だよ。でも、それがどうしたっていうんだ」
「当然ですね。医学では兄さんの貧血の原因はわからない。
……ねえ兄さん。その理由を、知りたくはありませんか?」
「え――――――?」
どくん、と心臓が躍動した。
俺が長年知ろうとして知りえなかった事。
この不安定な自分の体。
その原因を秋葉が知っている……?
「冗談……じゃなさそうだな」
「ええ。兄さんが知りたい、というのでしたら教えてさしあげます。これは元々、私の肉親が犯した罪です。ですから兄さんには知る権利があるわ」
秋葉の言葉にはどこか―――危ういものを感じる。
けれどそこまで言われて、首を横にふる事はできなかった。
「……知りたい。知っているのなら教えてくれ、秋葉」
「解りました、それでは教えてさしあげますね。
といっても、だいたいの事は兄さんだって知っている事よ。兄さんは八年前の事故からそうなってしまったでしょう? なら、原因は全てそこにあるのは当然の事だもの」
「八年前―――つまり、俺がシキに殺されかけたっていう事?」
「そうよ。その時に兄さんは、シキに命の大半を奪われてしまったんです。
シキはお父様に処断された後、地下牢で生き延びていたのでしょう? なら、シキは無くしてしまった自分の命の代わりに、兄さんの命を使って存在しているのよ。
だから兄さんは、自分の命で自分の体を補う事ができず、結果として今みたいに死に直面してしまう。
ようするにシキが生きているかぎり、兄さんはずっとそのままなんです。もう、元には戻れない」
「なっ……死に直面してるって、そんな事ないだろ。こんなのはただの―――」
ただの貧血、のハズはない。
自分の体の自由がきかず、頻繁に意識を失うなんてものは貧血とは呼べない。
なら、秋葉の言うとおり。
これは死に至る過程と大差はない。
「……なんで? それでも今までやってこれたじゃないか。八年間もこうしていられたんだから、これからだって―――」
「違うわ。今まではシキが地下牢に閉じ込められていたから、兄さんはなんとかやってこれただけよ。
けどシキは外に出て、本来兄さんが自分に使うべき命を使って、好きなように徘徊している。
その分の負荷が全て兄さんだけにやってきているんだから、兄さんはもう以前のように生活はできない」
「―――――――」
どくん、という鼓動。
秋葉の言葉は遠慮がない。
それが真実であるが故に、よけい鋭い刃になって心臓に突き刺さる。
「兄さん。恨むのでしたらシキと、シキを外に出した誰かを恨んで。
たとえシキが生きていても、シキが大人しくしているままだったら兄さんはこんな体にはならなかったんだから」
言って、ぎり、と秋葉は唇を噛んだ。
……俺の命を奪っているというシキに対する怒りなのか、唇に血が滲むほど強く。
「…………秋葉」
秋葉の視線は俺には向いていない。
見えるはずのない敵を睨むように、秋葉は虚空を凝視している。
「けれど安心して。どんな事をしても、兄さんは私が守ってさしあげます。……兄さんがいつも笑顔でいられるよう、私が―――」
―――シキを殺す、というのか。
……親父の手記を思い出す。
遠野家の当主は外れてしまったモノを処罰しなくてはいけない、という記述。
「―――――――あ」
いつかの夜。
俺に抱きついて、必死に涙を堪えていた秋葉。
あの時、秋葉は確かに言っていた。
自分の手で兄を殺さなくてはいけないのか、と。
……秋葉は、俺に打ち明ける事もできず、泣いていたのか―――
「……いい。秋葉が責任を感じる必要なんて、ない」
「いいえ……私は遠野家の当主です。ですから遠野の者が犯した罪は、私が必ず―――」
「……ばか。そう辛そうな顔するなよ秋葉。大丈夫、こんなのは以前にもあったんだ。シキが何をしようと、このぐらいなら明日には治ってる。
だから、おまえは何も心配するな」
「兄さん、だけどそれでは繰り返すだけじゃないですか。私は兄さんにそんな、いつ死んでしまうか解らない体でいてほしくなんかない……!
だから、そのために私は―――」
「何も心配するなって言ってるだろ。
シキの事は―――俺がなんとかするから。秋葉は何もしなくていいんだ」
「……………兄、さん」
……ああ。
秋葉に兄殺しなんかさせられない。
それにこれは俺とシキの問題だ。
遠野の血が忌まわしいもので、八年前からそれに踊らされていたのなら。
それなら全て―――自分自身の手で、八年前の決着をつけてやる。
琥珀さんも秋葉も、これ以上―――遠野の血なんかで、苦しませてたまるものか。
「――――兄さん」
安心したのか、秋葉はようやく肩の力を抜いてくれた。
「……よかった。兄さんは、やっぱり私の兄さんなんですね。八年前のあの時と同じ、私の事だけを守ってくれる」
秋葉は濡れた瞳で、まっすぐにこちらを見つめてくる。
…………なんていうか。
すごく、いい雰囲気になりつつ、ある。
――――、と。
そんな雰囲気を台無しにするように、ぐー、と秋葉のおなかが鳴った。
「――――――――」
「……………………」
……そういえば、秋葉が昨夜から寝ずに俺の看病をしていてくれたんだっけ。
さっきの思いつめた表情といい、俺が倒れたのは自分のせいだって思いこんで、食事もとっていないのかもしれない。
「そういえば、おなか減ったな」
と、とりあえずフォローをいれてみる。
「……もう。安心したら気が抜けてしまいました」
秋葉は恥ずかしそうに弁明する。
ま、こっちはそれで助けられたかもしれない。
あのままだったら、雰囲気に流されて何をしていたか解らないし。
「秋葉、俺はしばらく大丈夫だから、秋葉も少しは休んでくれないか。昨日の夜、ずっと看ててくれたんだろ?」
「あ――――うん。大した事はできなくて、兄さんを助ける事はできなかったけど、私に出来る事はそれぐらいだけですから」
「それで十分だって。翡翠にその事を聞いて、純粋に嬉しかった。いい妹をもったなってさ」
「……はい。それじゃ少しだけ休みますね。夕食後にまた来ますから、兄さんもゆっくり休んでください」
椅子から立ちあがって秋葉は部屋を出ていった。
軽やかなノック音がして扉が開く。
「お待たせしましたー。志貴さん、ご夕食の時間ですよー」
「―――――――え?」
意外な事に、やってきたのは琥珀さんだった。
「あれ、琥珀さん……?」
「はい?」
と琥珀さんは首をかしげる。
「だって、秋葉はしばらく琥珀さんを近寄せないって言ってたのに」
あんまりに不意打ちだったせいか、思っている事が口に出てしまった。
「はい、わたしもそう仰せつかっていますよ。けどさすがに点滴だけは秋葉さまにも翡翠ちゃんにも出来ないですから。
志貴さん、ごはんを食べ終わったらお注射ですからねー」
琥珀さんはいつも通りの笑顔でそう言って、ガラガラと荷台のようなものを部屋に入れて、ぱたんと扉を閉めた。
……琥珀さんの持ってきた荷台の一番上には夕食。下の台には注射器と点滴の準備が整っていたりする。
「あの、琥珀さん」
「えーと、まずはご夕食ですね」
どうぞ、と食事をトレイに乗せて差し出してくる。
琥珀さんの笑顔は、満ち足りている。
……それを無くす事なんて、どうしてできるだろう。
―――今まで通りに接してあげてください。
翡翠の言葉が思い出される。
俺だって、琥珀さんにはいつも笑っていてほしい。
こんなふうに、幸せそうに笑っていてほしいんだ。
それを―――壊すことなんて、できない。
「……それじゃ、いただきます」
「はい。よく噛んで食べてくださいね」
琥珀さんから目を逸らして、ただ箸を動かした。
……すぐ隣には琥珀さんの笑顔がある。
それが無性に悲しくて、正視する事ができなかった。
かちゃかちゃと、食器の音だけが響く。
隣で幸せそうに笑顔でいる彼女を見ていると、他の誰でもない自分を、殺したくなってくる。
……どうして悲しいんだろう、俺は。
すぐ近くに琥珀さんがいる。
昨日から会いたかった人が傍にいるんだから、悲しい事なんて何も無いはずだ。
―――悲しい事は簡単に目に付くし、
倖せは、難しすぎて解らない。
例えばそれは、
幼いころからずっと屋敷に閉じ込められていた少女だったり。
それでも去り際に、遠野志貴にリボンを渡してくれた彼女だったり。
……何も知らずに。琥珀さんに、楽しかった屋敷の生活を語っていた俺だったり。
……そんな事が、痛かった。
かちゃかちゃという食器の音。
ごちそうさま、と両手を合わせる。
おかわりを二杯した事が嬉しかったのか、琥珀さんは喜びながら食器を下げる。
……その喜びが芝居ではなく本当の事だったら、俺はどんなに嬉しいんだろう。
「―――――なんだ、簡単な事じゃないか」
悲しい理由を探してみて、ようやく思い知った。
こんな事が解らなかったなんて、本当にどうかしてる。
遠野志貴は、単にこの人が好きなだけだ。
この人の傷ついた姿を想像するのが耐えられないぐらい、俺は彼女の事を愛しているだけなんだと。
そんな単純なコトに、俺は、今さらながら、ようやく気がついてくれたらしい――――
「それでは点滴の前に注射ですね。志貴さん、シャツの袖をめくっていただけますか?」
「…………………」
肘まで袖をめくる。
「あまり痛くない注射ですから安心してください。槙久さまも時折体調を崩しましたから。
わたし、こういうのには慣れているんですよー」
アルコールで濡らした脱脂綿で腕を拭く。
……どうかしそうだ。
琥珀さんは遠野槙久の名前を、なんでもない事のように口にする。
そんなに完璧に―――芝居をする必要なんて、どこにあるっていうんだろう。
「あ、そういえば志貴さんも子供の頃は怪我ばかりなさっていましたね。槙久さまのお叱りなんか気にしないで、庭を元気に走り回ってました」
懐かしそうに言う。
「――――――――っ」
その笑顔を、直視できない。
一瞬だけ彼女の笑顔は普段と違っていた。
にこやかな笑みではなく、夢を語るような遠い笑顔。
それでも今の彼女を守るためには、騙されていなければならなかった。
「…………そう、だったな。
でも、琥珀、さんも――――楽しそう、だった」
「はい、志貴さんと一緒に走り回りました。
……ええ、本当に楽しかったですね。日が落ちるまでずっとあの庭ではしゃぎまわって。
けど遊び終わるといつも泥だらけで、志貴さんは家長さんにいつも怒られていましたっけ」
――――それも芝居。
そんな笑顔は、本当は存在しない。
「っ………………!」
夢を語る彼女が、ただ耐えられなくて、その体を抱き寄せた。
―――強く抱きしめる事さえできない。
「あっ………えっと、志貴さん?」
どこか間の抜けた琥珀の声。
何も言わず、ただ体を寄せて髪を梳いた。
「………………」
顔を見られないようにしないといけない。
俺はたぶん、ひどい顔をしている。
そんな顔を見せたら、勘のいい琥珀さんの事だ。
きっと、俺が知ってしまったって、悟ってしまう。
「…………………っ」
それでも。
堪えていたはずなのに、どうしようもなくて、歯を噛んだ。
「志貴さん……? 痛いんですか、志貴さん?」
「…………………いや。そんな事は、ないんだ」
このままで、指先にだけ力をいれた。
強く抱きしめる事はできなくても、こうして少しでも、この人を抱きとめていたかった。
「……もう。だめですよ、志貴さん。男の子なんですから、痛くてもがまんしないと」
言って、彼女の腕が俺の髪をさすった。
琥珀は静かに、そっと頭をなでてくる。
それが。俺にとってのトドメになった。
「―――――――いい」
「志貴さん? 何かおっしゃいました?」
問い返してくる琥珀。
それに、止めろと自身に叫びながら、それでも言葉が口に出た。
「―――もう、笑わなくて、いい」
「え?」
「―――もう、無理に笑わなくて、いいんだ」
唇を噛み締めて、血を吐くような思いで言った。
「―――――――――」
なでていた手が止まる。
琥珀さんはピタリと、呼吸さえ止めて固まっている。
――――カタ。
という、何かの音。
「っ………………!」
琥珀さんの体が離れる。
「困りましたね。点滴がこぼれてしまいました」
いつもの笑顔。
「あいにくと替えの物は明日にならないと届きませんから、今日は点滴はやめましょう。
それでは志貴さん、何かありましたら呼んでくださいね」
何事もなかったように琥珀さんは荷台を押していく。
彼女はドアも開けずに部屋から出て行った。
「っ――――」
何をしているんだろう、俺は。
翡翠との約束も破って、あんな真似をして。
これじゃ槙久と変わらない。
俺は自分の気持ちさえ抑えられないのか。
開けられたままのドアは俺の愚かさを嘲笑うようにユラユラと揺れている。
―――待て。
琥珀さんはドアを開けずに退室していった…?
「……それはおかしい。確かに琥珀さんはドアを閉めていたはずだ」
なのにドアは開いていた。
それはつまり、琥珀さんと抱き合っていた時、誰かがドアを開けた、という事ではないのか。
―――夕食後にもう一度来ますね、兄さん。
……そう、秋葉は俺に言っていた。
「秋葉に、見られたのか――――――――」
一人呟く。
それはどうという事のない事実の筈だ。
なのにどうしてか―――何か取り返しのつかない事をしてしまったような、そんな不安だけが胸に渦巻いていた。
――――日付が変わった。
日中に晴れていた空には黒い天蓋。
雨雲は群れをなして空を蹂躙して、月の明かりは皆無といっていい。
はあ、と大きく息を吸って、ベッドから起きあがった。
「……ほらな。夜になれば治るっていっただろ」
体の調子は、まあ八分という所。それでも走り回る事に支障はない。
……引き出しをあけてナイフを取り出す。
それをポケットにしまって、よし、と気合をいれた。
……問題は山積みになっている。
それでも出来る事と、やらなければならない事を間違える事はしない。
街を騒がしている殺人鬼。
おそらくは今夜も徘徊しているであろうシキを止める。
「……これぐらいしか兄貴として出来る事はないからな」
秋葉に実の兄であるシキと争わせるなんて、そんな惨い事はさせられない。
この体がまだ動くうちに、シキをなんとか止めなければいけないだろう。
闇雲に街を歩いてもシキの姿は見つけられなかった。
「……チッ。見通しが甘かったか」
なんとなく夜の街に出れば、シキとはそれだけで出会えると心のどこかで思っていた。
まだ実際に出会った事がないくせに、シキとは磁石の両端が引き合うように、望まなくても出会える予感はあったんだが――――
「……無闇に動き回るより、どこかで張っていた方が効率的か」
……見張るのなら路地裏だろうか。
夢の中であそこは何度も殺害現場になっている。
かなりの確率で今夜もシキが現れるだろう。
―――――さて。
物陰に隠れて息を潜める。
いつ襲われてもいいよう、ナイフはすでに握り締めていた。
………。
………………。
…………………………。
………………………………………。
……………………………………………………。
「――――――っ」
心臓がやけに速い。
……不謹慎だとは思うのだが、心はそう乱れていなかった。
俺はこれからシキと戦う。
それは殺し合いに極めて近い。
俺に殺すつもりがなくとも、結果としてそうなってしまう可能性の方が大きいだろう。
「――――――く」
だっていうのに、心はまったく乱れていない。
あんな夢を見続けたせいで、こと殺人という一点にのみ、俺の感情が壊れてしまったのか。
……正常なのは心臓だけだ。
正しく活動し、殺人という行為に緊張し、どくどくと早鐘をうつ心臓だけが、七夜志貴にとっての正常か。
「――――――く、う」
はあ、と大きく息を吐く。
心臓はいまだに過熱している。
「―――――――」
おかしい。
感情は乱れていないのに、どうしてこう―――俺は、血を昂ぶらせて吸血鬼を待っているのか。
どくん
どくん!w1000
どくん
どくん!w1000
どくん
どく!w750
どく!w750
どく!w500
どく!w500
どく!w250
どく!w250
どく!w250
――――以前。
こんなふうに、誰かを、探していた気がする。
「―――――――――」
気配を感じて、咄嗟に身を隠した。
……足音が気配がやってくる。
脈拍はさらに高く。
訪れた相手が、自分が倒すべき『敵』だと確実に照合した。
―――足音が近づいてくる。
あと数歩。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩――――――――!
そのまま、敵へと走った。
敵が突然の襲撃者に振り向く。
とっさに後ろに逃げようとするが、こちらのほうが何倍も迅い。
躊躇わず、ナイフを敵の喉へと振る――――
「「!?」」
――――寸前、紙一重で軌跡をズラした。
ざん、とナイフが秋葉の髪を切る。
俺たちは互いに大きく吐息をこぼしたあと、同時に指差しあう。
「兄さん、どうしてこんな所に!?」
「秋葉、なんで所にいるんだよ!?」
………………まあ、それでなんとなく自分たちが同じ目的で、同じようにここに来た事が解ってしまった。
「…………………」
秋葉は何か、すっごく文句がありそうな目で俺を見ている。
……琥珀さんを抱きしめていた事を怒っているんだろうが、今ばっかりはそんな事に怯んではいられない。
「秋葉。おまえ、こんな時間に何をしているんだ」
「決まっているでしょう。遠野家の当主として、シキを捜しているんです」
「……………」
悪びれた様子もなく、きっぱりと秋葉は答えてくる。
「―――秋葉。シキの事は俺がなんとかするって言っただろ。いくら決まりだからって、おまえがこんな危険な真似をする事はないんだ。おまえだってそれは解ってくれたんじゃないのか」
「そうですけど、気が変わったんです。
兄さんは何かと忙しいようですから、代わりに私がやるしかないでしょう」
ふん、と視線を逸らす秋葉。
「……秋葉。おまえが何に怒っているかは聞かないけど、それとシキの問題は別だろう?
これはシキと俺の問題だ。秋葉を―――こんな、命にかかわる争いに巻き込む事はできない」
「あきれた。まだそんな悠長な事を言っているなんて、兄さんは甘いのよ。
いい? こうしている間にも兄さんの体は衰弱していってしまう。
……だから私は、どんな事をしてでも兄さんを元気にしてさしあげなくちゃいけないんです。それを止めろ、なんて言われても聞けません」
……秋葉はまっすぐに俺の目を睨んでくる。
それは引く事を知らない、真剣な眼差しだ。
「……秋葉の言う事は正しいよ。俺の体を気遣ってくれる気持ちも嬉しい。
けど、それは辛いだけだろう。シキはおまえにとって、その……」
「兄さん。私にとって兄と呼べるのは兄さんだけです。……たしかにこれは辛い役割ですが、誰かがしなくてはいけない事でしょう? 私は物心ついた時から、遠野家の当主として教育されてきました。だから、こんな事は覚悟の上なんです」
「そんな事より! 兄さん、そんな体で何をしているんですかっ。兄さんのほうこそ、シキに襲われでもしたらどうするんです!?」
「うっ―――――」
秋葉はすごい剣幕でずかずかと歩いてくると、ツン、と指で俺の喉元をつついた。
あまりの迫力におされて、思わず数歩よろめいてしまう。
「ほら、私なんかに怒鳴られたぐらいで気合負けしてるじゃない。いい? 兄さんは普通の人なんですから、シキのような怪物に敵うわけがないんです。
ほら、今夜は送ってさしあげますから、明日からはご自愛してくださいね」
ぐい、と俺の腕を掴んで歩き出す秋葉。
「ちょっ―――ちょっと秋葉、待てってば……!」
「やかましいわね、深夜なんだから騒ぐと警察が来ちゃうじゃない……!」
「―――――――う」
またも気合負けして黙り込む。
……仕方がない。
まだ体も本調子じゃないし、ここは秋葉の言う通り屋敷に戻る事にしよう――――
「それじゃ兄さん、大人しく部屋にいてくださいね。私も今日はもう戻りますから」
不機嫌なままで秋葉は背中を向ける。
―――ざあ、と流れる黒髪。
理由もなく。
秋葉を見て、唐突に不安になった。
「……秋葉」
「はい? なんですか、兄さん?」
「……信じても、いいよな」
……?
何を信じるのか自分でも解らないまま、そんな言葉を口にする。
秋葉は呆然としてから、
「はい、兄さんが気に病むような事は決してありませんから、どうかお休みになってください」
なんて、曇りのない笑顔で言った。
「…………………」
秋葉の姿が遠くなっていく。
俺の部屋は二階の西奥。秋葉の部屋は東奥。
同じ屋根の下にいながら、遠く離れた距離が不安にさせるのか。
結局、胸の不安は消えないまま、何が不安なのか定まらないまま、自分の部屋のドアを開けた。
●『10/檻髪。』
● 10days/October 30(Sat.)
――――葦切りの声が聞こえた。
遠い月。
夜は暗く、木々のヴェールは世界を覆い。
地面はギザギザにとがって、ノコギリのように連なっている。
人影はなく。
大きな葦切りの声だけが、叢から聞こえてくる。
黒い、野原だった。
本能が郷愁する。子供の頃、ずっと子供の頃、この森を駆け回った。
外に出る時は決まって真夜中。
両親やその兄妹たちはヒトメにつく事が苦手で、日中に出歩く事は滅多に無かったのだ。
だから、その日も当然夜だった。
一人きりで庭に出て、黒い森の中で、見知らぬ他人と遭遇した。
黒い野原は、その日に限ってのみ一層黒い。
尋常の暗色ではなかった。
どちらかというと鈍く燈るような暗み。
鮮血の絨毯は、蛇苺の実に類似する。
やけに熱かった。
空気を吸いこむと、火を呑んだように肺がビリビリと爛れる。
ここは真夏のように熱い。
だからだろうか。
今夜はこんなにも凍えるのに、葦切りの鳴き声が聞こえるのは。
蛇苺の実でしきつめられた野原。
その中で、一際アカイ目があった。
見知らぬ他人が野原に立っている。
そいつは一つ目だった。
目は赤く光っている。
空に虚が孔いたかと思うほど、まわりのモノとは異質すぎる存在色。
独眼であるが故に、その色は倍化するのか。
そいつの目に比べれば、野原の鮮血は気の抜けた山吹にすぎないだろう。
赤より緋い赤。
七夜では紅赤朱と口伝される。
くれないせきしゅ。
一言にいえば極めて旧い、先祖還りを起こした混血の事を指す。
小我としてのリセイが大我としてのリセイに飲まれて正気ではなくなってしまった者の事だ。
赤い凶眼は、憑かれたモノの証だという。
そいつの背には蜃気楼のように何かが煙っている。
そいつは狂ったようにワラッテいた。
楽しい事があったわけではないだろう。
葦切りの声に、そいつの姿が霞んでいく。
そいつは叢に食われるように消えていった。
……遠くで呼ぶ声がする。
一人きりは怖いから、もっと奥の森に行かなくてはいけない。
木々のヴェールの向こうでは、がちゃがちゃ・ばきばき・どんどん・ぐちゃり、と、祭りめいた騒ぎが繰り返されている。
七夜志貴は、森の奥へと歩いていく。
野原を通り過ぎた時、さっきの赤色について考えた。
可哀相に。
アイツは背中でゆらめいていた蜃気楼に憑かれて、いつか疲れて、あんなふうになってしまったのだろう。
アイツは強そうだったけど、同時にとても危うく見えた。
アレでは長く生きられないな、と結論を出して、森の奥へと進んでいった。
窓から差しこんでくる朝日で目が覚めた。
「―――――――あつ」
寝ている時にまた熱でも出したのか、寝巻が濡れている。
……それにしてもおかしな眠りだった。
大昔に作られた音のない喜劇……よく知らないけど、黒い山高帽をかぶった髭の役者がアレコレと酷い目に会う、あんな感じの映画を見せられたような夢だった。
「……そういえば、有間の家にいたころは夢なんかみなかったっけ」
というか、子供の頃から夢というものには無縁だった気がする。
俺の眠りは深すぎて夢を見る深度じゃない、と主治医は言っていた。
なら、この屋敷に帰ってきてから続けてみる夢は、夢というより記憶の断片なのかもしれない。
「……って。それを夢っていうんじゃなかったけ」
ま、そういった小難しい事を考察するのは学者さんに任せて、一学生である遠野志貴は学校に行くべきだろう。
「―――よし、起きるか」
ベッドから体を起こす。
「―――――え」
体が動かない。
「なっ……動かないって、どうして!?」
歯を食いしばって体に力をこめる。
力みすぎて頭に血が上って、軽い眩暈が起きるぐらいまで努力して、ようやく上半身を起こせた。
「ぁ………あ、つ…………」
体中が熱い。
「くそ……昨日より、悪くなってる……」
昨日はただ全身が重いだけだった。なのに今は、腕を動かすなんて事さえ辛い。
「――――っ、く――――」
片腕を垂直に上げてみる。
……。
…………。
………………。
「――――はっ……あ」
ようやく上がった。
たったそれだけの事をするのに、体中の力をつかって、一分近くかかってしまっている。
「……どうなってるんだ、これ」
これじゃ死体だ。
それとも動力のきれたロボットか。
ともかく体が動かない。
けど、そのわりには意識ははっきりしているし、痛みはまったく感じない。
「琥珀さん―――――」
そう、彼女を呼ぼうとして思いとどまった。
昨日、俺は琥珀さんを抱きよせて、あんな事を言ってしまった。
琥珀さんがどう思ったかは知らない。
……琥珀さんと翡翠の入れ替わりを俺が知っている、という事までは気がついていないとは思うけど、それでも今は会いにくい。
「翡翠―――秋葉、ちょっと―――」
来てくれ、と言おうとして止まった。
声は出せるけど、大声をあげようとすると眩暈がする。
……大声をあげるにも筋力を使うから、その負荷で脳に血がたまっていくような感覚。
「はっ―――――」
軽く息を吐く。
こうなったら翡翠が起こしに来てくれるまで、こうして待っているしかないだろう。
―――結局、俺は今日も学校を休んだ。
俺を起こしに来た翡翠は顔を蒼白にして秋葉を呼びにいった。
話を聞きつけた秋葉が駆けつけてきて、これは秋葉や琥珀さんでも対処できないと判断したのか、わざわざ医者を呼んで検査をしてもらった。
検査結果はいつも通り原因不明。
あとはお決まりの、ベッドで一日休むべし、という秋葉のご命令が下された。
……日が沈む。
ベッドに横たわったまま、何もできずに窓の外を眺める。
「………………くそ」
こんな事になるのなら、やはり昨夜のうちにシキと決着をつけておくんだった。
こうしている間にも吸血鬼の犠牲者は増えていく。……いや、昨夜だって俺と秋葉が屋敷に戻った後、シキは誰かの血を吸っていたかもしれない。
「―――――――」
俺は判断を間違えたのか。
昨日の夜。秋葉がなんて言おうと、俺はあのまま路地裏に残ってシキを待ち伏せるべきではなかったのか。
「………今夜こそ、やらないと」
体が動かない、なんて泣き言は言っていられない。
今は一刻も早くシキを止める事だ。
そのために、夜に備えて少しでも体力を蓄えておかないといけない。
「志貴さん、起きていらっしゃいますか?」
扉が開いて、琥珀さんが入ってきた。
「琥珀――――さん」
「はい。一日ぶりですね、志貴さん」
笑顔で言って、琥珀さんは扉を閉める。
「……そっか。そういえば、そうだよね」
気まずくて視線を逸らす。
今は琥珀さんとまっすぐに話をする事ができない。シキの事で余裕がないっていう事もあるけど、俺は昨日のポカを誤魔化すための言い訳を思いついていなかった。
「志貴さん? どうしたんです、うつむいたりして? やっぱりまだ元気が出ないんですか?」
「っ……………!」
ひょい、と俺の顔を覗き込んでくる。
「――――いや、そんな事はない、けど」
赤面しながら、なんとか平静を保って返答した。
……まずい。
会いにくいとか言っておいて、琥珀さんの顔を見ると高揚している自分がいる。
一日会えなかった分、こうして琥珀さんが傍にいてくれるだけで、シキの事を忘れてしまうぐらい、嬉しい。
「……琥珀さん、どうしたの。点滴ならさっき終わったけど」
……それでも、彼女とは距離をとらないといけなかった。
俺は翡翠との約束を破って、琥珀さんを抱き寄せた。琥珀さんが昨日の事をどう思っているは解らない。けどこっちは、昨日で自分の気持ちを思い知らされたんだ。
こうして傍にいられると、今度は何をするか自分でも解らない――――
「用がないなら出ていってくれ。秋葉がやってきたら、琥珀さんが叱られる」
「用ならありますよ。夕食の献立を決めるんですけど、志貴さん食べたいものがありますか?」
「食べたいものって……今はこんなだから、消化のいいものがほしいけど」
「ふふ、それがですねー、志貴さんは細かい事を気にしなくていいんですよ。
なんと、お医者さまから食事は自由にとっていい、と許可がおりたんです。ですから今夜は、志貴さんの好きなものを作ってさしあげられます」
……俺の好きなものって、そりゃあたいていの物は好きだけど、今は味より栄養がほしかった。
「―――そうだな、栄養がつくものがいい。
少しでも体力をつけて、今夜こそシキを止めないといけないから―――」
「はい? 志貴さんを止めるんですか?」
琥珀さんは不思議そうに首をかしげた。
「あ―――――」
まずい、つい思っていた事が口に出てしまった。
……って、ちょっと待った。そういえば琥珀さんはシキの事を知っている筈だ。秋葉が琥珀さんの血を啜っている時、確かに二人はシキの話をしていたんだから。
……それに翡翠だって、俺が養子だという事を知っていた。なら琥珀さんがシキの事を知らない筈がない。
「―――そうか。琥珀さんも、知っているのか」
「はあ。知っているって何をですか?」
「……だから俺が養子で、秋葉にはシキっていう人殺しの兄貴がいる事だよ」
笑顔が凍る。
「……そうですか。志貴さん、知ってしまわれたんですね」
でも、それは一瞬だけ。
“昔の翡翠”という役割を演じる琥珀は、この程度では崩れない。
「ですがシキ様はもう他界されています。
今の遠野家の長男は志貴さんだけなんですから、その事はお忘れになったほうがいいと思いますけど」
琥珀さんは笑顔だった。
それはさっきの、夕飯の献立をどうしようか、という時と同じ笑顔だ。
「……俺だって忘れたいよ。けど、今は忘れるわけにはいかない。遠野の血ってヤツがしでかした事が、俺には許せないんだ」
親父が。
君を、笑うだけの人形にしてしまった事が。
「……それにシキの事は放っておけない。
アイツが街で吸血鬼騒ぎを起こしているかぎり、俺は秋葉の兄貴にもなれないし、」
あの少女に、約束のリボンを返す事も、できない。
―――俺には、そんな事しかできない。
この人をどうすれば救えるのか、どうすれば遠野槙久の罪を贖えるのかは解らない。
ただ今は、シキという殺人鬼を止めて、遠野の血というモノを消すしかできない。
「……だから、俺の手でなんとかしたいんだ。
俺はシキを放っておけないけど、それ以上に、その―――琥珀さんを、助けたくて」
……ばか。また俺は、ワケの解らない事を口にしてる。
かってに思いこんで、かってに、琥珀を助けられるんだって、そんな自分勝手な事を――・
「……はは、何言ってるんだろ、俺。
けどまあ、ともかくそういう事なんだ。これは遠野の問題だから、俺だけで決着をつける。琥珀さんと翡翠は何も心配しなくていいんだ」
琥珀さんは何も言わない。
あの笑顔も途絶えている。
「琥珀さん? 俺、また何か気に障る事でも言っちゃった?」
「―――違うんです。あの、志貴さんは本当に、そう思われているんですか?」
―――――――?
そう思われてるって、何が……?
「志貴さん。秋葉さまが毎晩お屋敷を抜け出している事は知っていますか」
「知ってるよ。秋葉は遠野家の当主としてシキを捜しているんだろ。止めろって言ってるんだけど、秋葉のヤツは俺の言う事なんて聞きやしないんだ」
「うそです。志貴さんは秋葉さまから何も聞いていないんですか!?」
「……待ってくれ琥珀さん。聞いてないって、何が」
「………………」
琥珀さんは答えない。
……ただ、琥珀さんの様子は普通じゃない。鈍感な俺にだって解る。
どくん、と。
落ち着いていた心臓が拍子をあげた。
「秋葉さまは、志貴さんに嘘を言っておられます。
……元々シキ様は血を吸う鬼ではないんです。
他者の体温。
血という温もりを必要としているのは」
どくん、どくん。
脈拍が乱れていく。
琥珀さんの真剣な目と、ふと、ある事実が重なって、厭なコトを、想像してしまった。
―――ちょっと待った。
頼むから、ちょっと待ってほしい。
それは。
俺が無意識に、考える事を避けていた事じゃないか。
「……待ってくれ。……いい。今は、そんな話、言わなくていいんだ」
「――――志貴さん。遠野シキと呼ばれていた人は、すでに他界しているんです。
確かにシキ様は血を吸う鬼となって、街を騒がしていた殺人鬼でした。
でもそれも終わりました。
……五日前。他ならぬ秋葉さまの手で、シキ様は処罰されたんです」
―――あの夢。
秋葉に殺される殺人鬼の夢。
アレは俺が見たものではなく、
シキが見ていた、最後の光景。
「人を殺して血を吸っていたシキという者はもういないんです。
ですから……今街で起こっている事件は、全て―――」
―――シキはもういない。
とっくの昔に退場していた。
残っているのは。
毎夜屋敷を抜け出して街を徘徊している、
遠野秋葉という血を吸う鬼だけだった。
「志貴さん――――!?」
呼びとめる琥珀さんの声を振り切って、部屋から飛び出した。
――――走る。
体が痛んだが、そんな事はどうでもいい。
何も考えられない。
これ以上は考えたくない。
秋葉の口から本当の事を聞くまでは、もう何も。
走る。
東館の奥、秋葉のいる部屋へと走る。
息を乱して、半狂乱になって、ノックもせずに重い両開きの扉を開けた。
「はぁ――――はあ、は――――」
部屋を見渡す。
秋葉は――――俺を見るなり、優雅に椅子から腰をあげた。
「どうしたんですか兄さん。ノックもしないで部屋に入ってくるなんて失礼ですよ」
「は――――――あ」
乱れた呼吸を整えて秋葉を凝視する。
いや、自分でも意識していないが俺は秋葉を睨んでいるんだろう。
害意をこめた視線を受けて、秋葉は何かを察したようだった。
「兄さん………? 何かあったんですか?」
「――――――――」
一度だけ深呼吸をして、乱れた呼吸を正した。
胸の動悸を抑えて、秋葉を睨んだまま、口を開けた。
「――――秋葉。どういう、事だ」
秋葉の顔がこわばる。
……その言葉だけで俺が何を聞きたいのか悟ったのか。
秋葉は無言で俺を見つめた後、くるりと、何事もなかったように窓際まで歩き出した。
外は深空。
茜に染まった陽射しが、空とこの部屋を燃え上がらせる。
その中で、三日前の夕暮れと同じように、秋葉は紅の空を背にして振り返った。
「そんな聞き方じゃ何の事だが解らないわ、兄さん。もう少し具体的に言ってくれない?」
「――――――」
刹那、眩暈がした。
目の錯覚なのか、秋葉のまわりに靄のようなモノが見えた。
―――危うい、と感じさせる空気。
背後にあんな、燃えるような空があるせいだ。
秋葉の髪が真紅に見えて、ギシリと、全身の機構が軋む。
「兄さん? 黙ったままじゃどうしようもないでしょう。それとも今更―――何もなかった事にして、お部屋に戻ってくれるのかしら」
クスクスと秋葉は笑う。
それで本当に。秋葉が俺を騙していたのだと、解ってしまった。
「秋葉、なんで―――」
「なんでシキを殺したのかなら、理由は解っているでしょう。
私は遠野家の当主です。その役目は遠野よりのモノになってしまった一族の処理が第一だもの。
私がシキを殺すのは一族の総意だし、兄さんだってシキを殺したがっていたじゃない」
ぞわり、と全身が総毛立つ。
―――なんだ。
今、目の前にいるのは誰だ。
この、見ているだけで息が止まりそうな重圧は誰のものだ。
「違う―――俺が言いたいのは、そんな事じゃない」
「ふうん。それじゃ問題なんかないじゃない。ヒトでないものを処理した所で罪じゃないでしょう?
たとえ飼い犬だって、人を噛んでしまったら殺さなくてはいけない。私がした事は、それと同じレベルの話よ」
「違うって言ってるだろ……! 俺が言いたいのは、どうして俺にその事を隠していたのかって事だ……!」
「ああ、そのコトなんだ。つまらないなあ、そんな解りきった事を聞かれるなんて。
ねえ兄さん、ご自分でも気がついている事を尋ねるのは質問ではなく確認よ。そういう事なら、私は頷くしかないんだけど」
秋葉の周囲がゆらぐ。
蜃気楼のようにゆれるカーテン。
赤い、夕暮れに染まった長い髪。
ギシリ、と。
今にも秋葉をコロソウとするこの躯。
「―――シキを殺したのは、五日前だな」
はい、と秋葉は頷く。
五日前―――その夜、秋葉が倒れた日。
泣きながら抱きついた秋葉は、何かを必死に拒んで、涙を流していた。
「なら、その後に起こった吸血鬼騒動はシキの仕業じゃない。アレは、おまえがやった事なのか」
はい、と秋葉は頷く。
森の中の離れの屋敷。
そこで琥珀さんの血を啜ってた秋葉。
あの時に、もう――シキは消えていて、秋葉は吸血鬼じみた行為を繰り返していた。
琥珀さんが言っていたじゃないか。どうして自分の血だけで満足してくれないのか、と。
「―――どうして。
シキはともかく、おまえは―――何も、おかしな所なんてないじゃないか」
「ええ、私はまだシキのように外れてはいません。そうならないように琥珀から血を貰っていたんだから、そんなのは当然でしょう?」
「……なら! どうして琥珀さんだけで満足しなかったんだ!? 今までそうしていたって言うんなら、どうして今になってあんな―――」
シキと同じ、吸血鬼じみた事をしてしまったんだ、おまえは……………!!
「それはシキの影響です。これは私にとっても失敗だったんです、兄さん。
……私の力は単に物を排除するモノではなくて、対象を壊すのではなく、対象から奪う、という類の力だった。
私はシキからシキの命を奪いました。けどその時に、何かよくないモノまで摂りこんでしまったみたい」
「―――――?」
何かよくないモノ?
以前の秋葉にはなくて、今の秋葉にはあるもの。
それは、あの―――
「……なんていうのかな、シキを殺して以来、私は自分の感情がうまく抑制できないんです。
ヘンに強気になったり、普段なら心に留めておくだけの欲望をカタチにしてしまう。
だから今まで耐えてきた欲求に素直になってしまったんでしょうね。
琥珀の血は私の体を維持する為に必要なものだけど、もう何年も口にしている味だから飽きてたのよ」
「―――ええ、こんなコト兄さんに話しても判ってもらえないだろうけど、初めて琥珀以外の血を飲んだ時は凄かったんだから。あんまりにもおいしくて、そのまま気がふれてしまうかと思ったぐらい」
秋葉は心から嬉しそうに笑った。
ゆらぐ蜃気楼。
秋葉に対して危うさを感じたのは、確か、俺……いや、アレはシキだったのか。シキが、秋葉に殺される夢を見た翌日からだった。
「――――秋葉、おまえ――――」
「そんな目で見ないで。私が奪っているのは血液だけよ。シキのように命まで奪っているわけではないんですから、そう目くじらをたてる事ではないでしょう、兄さん」
「……血液だけ、だと……?」
秋葉は一点たりとも負い目を持っていないし、開き直っているというわけでもない。
ただ当たり前のように話をして、微笑みをうかべて俺を見つめてくる。
「―――――――っ」
……呼吸が、うまくできない。
秋葉は愉しんでいる。
俺が直接秋葉を問いただした所で、秋葉にとっては退屈しのぎにすぎないようだ。
―――なんて事。
これじゃまるで、本当に狂気を楽しんでいる、殺人鬼のようじゃないか―――
「ふざけるな……! なんで―――そんな。どうしたっていうんだよ秋葉。おまえ、なんかおかしいぞ……!!」
秋葉の視線をなんとか振り払って、一歩詰め寄る。
「ぁ………………」
俺が詰め寄ろうとした事が効いたのか、秋葉は一瞬だけ言葉を飲んだ。
「おまえだって解ってるんだろ。そんな言い分、正しいワケがないじゃないか……!」
もう一歩、さらに詰め寄る。
秋葉は拗ねたように視線を逸らした後、唇を噛んで俺を睨んだ。
「……おかしくなんかないわ。私が他人の血を吸うのは、みんな兄さんの為なんだから」
「え―――――」
足が止まる。
秋葉は唇を強く噛んだあと、なにか、捨て鉢になったように肩の力を抜いた。
「……前にも言ったでしょう。兄さんは八年前にシキに殺されている。けど、遠野という『混血』ならまだしも、兄さんは普通の人なのよ。シキに命の大半を奪われてしまった兄さんには、蘇生する力なんてどこにも残っていなかった」
「……けど、私はそんな事は許せなかった。兄さんはね、私を庇ってシキに殺されたんです。本当なら死ぬのは私のほうだった。
私は血塗れの兄さんに守られて、兄さんはもう死んでいるのに、それでもシキから私を守ってくれました。……その後の事は私もよく覚えていない。ただ兄さんの代わりに自分が死ねばいいんだって思っただけです」
「―――その願いは叶えられました。
ほら、おとぎ話でよくあるじゃないですか。死んでしまった鳥や犬に自分の血を与えて生きかえらせる、というのが。
本来の私の力とは正反対だけど、私はそんな呪いを兄さんにかけたんでしょうね。
そうして兄さんは奇跡的に蘇生して、私はその日から体に重い枷を持つようになった。……考えてみれば当然よ。本来自分が使うべき命の半分を兄さんに差し上げたんですもの」
「―――――――――」
目の前が暗くなる。
それじゃ俺がこうしていられるのは秋葉のおかげで、同時に俺を助けたから―――秋葉は体に疾患を持つようになった、のか。
「……秋葉。あの時の発作も、全部―――俺の、せいなのか」
「……そうよ。私は兄さんを生かしているかぎり、遠野という異系の血を使い続ける。そうしているとね、人としての血が薄くなってしまうんです。
それが過度になるとシキのように人から外れたモノになってしまう。
それを防ぐには遠野の血が流れるのを最小限に抑えないといけない。けどそうすると兄さんに力を分けるのが精一杯で、自分の体を維持できないんです」
「……その結果として、ああやって発作めいた反動がやってくる。体が危険を感じて、兄さんに力を分けるのを止めるか、遠野よりのモノになってしまえって強制してくるんです。
それでも今まで耐えてこられたのは琥珀のおかげよ。感応者である琥珀は、個人の意志を補強してくれる。私は定期的に琥珀の血を飲む事で、人としての遠野秋葉を留めていた―――というワケね」
知らず、体がよろめいた。
秋葉。秋葉が血を飲むのは、結局。
誰のせいでもなく、俺の責任。
俺がこうして生きているかぎり、秋葉は遠野よりの生き方をするしかない、という事なのか―――
「けど、それもシキを処罰すれば解決すると思ってた。シキが死ねば兄さんの命を横から使う邪魔者がいなくなるんだから」
「―――――あ」
……そうだ。
シキがもういないのなら、俺の命は俺一人が使うんだから、もう貧血を起こす事はなくなる筈だ。
「ふふ。それがね、おかしいのよ兄さん。私以外の誰かがシキを処理していれば、兄さんは元通りになれたのに。
言ったでしょう? 私、シキから全てを奪ってしまったって。私は琥珀のように他人と感応する力なんてない。奪ったモノを、誰かに与えるなんて事もできない」
秋葉は心底おかしそうに、自分自身を卑下するように、微笑をうかべた。
「シキを殺してから、私は体の重みから解放された。毎夜やってきていた発作も起きなくなって、気分がとてもいいんです。
……理由は言うまでもないでしょう? 結局、私はシキを通じて兄さんの命を奪ってしまったの。
けど、それは奪っただけで兄さんに返す事ができない。シキと違って、私には誰かと共融する術もありませんから」
「……そう、兄さんとシキは共融していたんです。確かに兄さんはシキから大半の命を奪われていたけど、シキが眠っている時は逆にシキからの供給があったんです。
それも今ではなくなってしまった。兄さんの体が動かないのはその為です。だから私は、今まで以上に兄さんに力を分け与えないといけない。
……その為には、人の血を摂取して力を蓄える必要がありました」
言って。秋葉は赤く染まる窓際から身を離した。
「兄さん。たしかに私は血を吸う鬼かもしれない。けどそれはすべて兄さんの為だった。
それでも兄さんは私を許せないというの? 遠野志貴としてではなく、七夜志貴として私を殺しますか?」
「――――――――――――」
返答が浮かばない。
秋葉に言われるまでもなく、俺は遠野志貴という人間だ。
今更、そんな記憶にも残っていない七夜なんていう人間にはならない。
だが、体は違うのか。
今の秋葉を見ていると、全身の力を蓄えるようにギリギリとゼンマイが巻かれていくようだ。
それは今にも。遠野秋葉という人とはかけ離れたモノを、どうにかしようという勢いで。
「……違う。遠野も七夜もない。俺は、おまえに……秋葉に血を吸うなんて事を、してほしくないだけだ。おまえに―――そんな、シキみたいな事だけはさせられない」
「兄さん。私は兄さんのために血を吸っているんです。どうしてそれが解ってくれないんですか?
あの時だって―――私はちゃんと兄さんに自分の気持ちを伝えたのに、兄さんは何も言ってくれなかった。
私は兄さんを愛しているって伝えたのに、どうして私以外の女を見ようとするんですか……!」
「ばっ―――愛してるって、そんなのは兄妹としてだろう……! たとえ血が繋がっていなくても、俺たちは兄妹なんだぞ!? なにバカなことを言ってるんだよ、おまえは………!」
「バカな事なんかじゃないっ…………!! 兄妹だから―――妹だから好きになってはいけないっていうんですか!?」
秋葉の声が部屋に響く。
……そんな大声を出したのは初めてだったのか。
秋葉ははぁはぁと肩を上下させて、悔しそうに唇を噛み締めていた。
「―――――――秋、葉」
「……兄さん。私はこのまま、人間でないものになってしまってもかまわない。それで兄さんが生きていてくれるなら、どうなってもかまわないんです。
だから―――兄さんも私だけを見てください。秋葉はずっと兄さんを待っていたんです。せっかくこうして帰ってきてくれたのに、今更……私を、裏切らないで」
―――指を震わせて、秋葉はそう言った。
秋葉は唇を閉ざして、ただ答えを待っている。
自分だけを見てほしい、という告白。
……プライドの高い秋葉がそんな言葉を口にするなんて、思わなかった。
――――けど、違うんだ、秋葉。
確かに秋葉は大切な存在だ。
……今まで秋葉は俺を救ってくれていた。なら出来るかぎり秋葉の望みに応えたいと思う。
けど、それでも―――秋葉は妹なんだ。
そこにそれ以上の愛情は持てない。
俺が一番に思っている相手は秋葉ではなくなっているんだから―――
「…………秋葉。俺は、おまえの気持ちには応えられない。俺にとって大切な人は、別にいるんだ」
……秋葉は、初めから解っていたように冷静だった。
静かに瞼を閉じると、俺の前から離れていく。
かつかつ、という足音。
秋葉は窓際まで歩いていく。
ざあ、と。
風が、秋葉の長い髪を吹き流した。
「……そう。だけど兄さん? 貴方には、自由なんてないんですよ」
―――冷たい流し目。
その直後、
quakey 1,500
ガクン、と、俺の体は突然地面にひざをついた。
「あ――――、ぐっ……………!?」
息。息が、できない。
さっきまでのような、息苦しいというレベルじゃない。
ほんと、うに息ができなく、て、手足が、動か、な――――
「どうですか兄さん? 八年前の状態に戻られた感想は」
秋葉、の―――忍び笑い、が、聞こえ、る。
「あ…………あき、は――――?」
なんとか視線をあげる。
そこには今にも崩れそうな危うさを纏った、秋葉の、愉しむような、瞳があった。
「言ったでしょう、兄さんの体は私が生かしてあげているんだって。
わかる? 私が少しでもそう思えば死んでしまう体。それが遠野志貴という命なのよ、兄さん」
耳元で、囁くように、秋葉は言う。
「―――――、っ、――――――!」
熱が冷めていく。
急速に死に転がっていく錯覚。
体中の感覚が消えていって、気を抜けば一秒あとにも消えてしまいそうな、怖さ。
……秋葉の言っている事は本当だ。
こうしている今も、秋葉に、心臓を鷲づかみにされているような、気がする――――
「兄さんの意思は強いのね。私、このまま気絶させるつもりで力の供給を断ったのに」
……秋葉の指が下りてくる。
つう、と。
背中をなぞっていく、白い指。
「あ――――痛っ……………!」
その爪が、背中の傷跡を抉っていく。
「……素敵。私がつけた傷が、まだ残ってる」
あの夜。
泣きながら抱きついてきた秋葉が掻き毟った、背中の傷跡を。
「―――さあ、もう一度訊くわ兄さん。兄さんにとって一番大切なのは私ですよね?」
耳元で囁かれる声。
体の感覚は、もう完全になくなろうとしている。
このまま答えなければ、そのまま―――俺は、死んでしまうのかも、しれない。
「答えて。私、いつまでも優しくしてあげるつもりはありませんよ?」
…………冗談じゃ、ない。
こんな力ずくの方法になんか、従えない……!
「――――もう。本当に強情ね、兄さんは」
秋葉の指が離れる。
「わかりました。明日まで時間をさしあげますから、少しは冷静になって考えてください」
秋葉は倒れた俺から離れて、受話器のような物を手に取った。
「琥珀、私の部屋にきて。運んでほしいものがあるから」
秋葉の声は弾んでいる。
「――――――――――」
……よく、思考がまとまらない。
ただ琥珀さんがここに来る、という事ぐらいしか、消えそうな意識は理解できな、かった。
扉が開いて、琥珀さんがやってきた。
「志貴――――さん?」
倒れている、俺に気がついたのか。
琥珀さんが走り、よってきた。
「志貴さん……!? しっかりしてください、志貴さん……!」
……本当に、意識が朦朧としてる、らしい。
琥珀さんが。こんな、声を荒立てているなんて、信じられ、ない。
「秋葉さま、一体何をなさったのですか」
「別に。ただ兄さんに現実を教えてあげただけよ。体に直接教えてさしあげないと解ってくれないみたいだから」
「けれどここでこうしてもらうのもなんでしょう? だからね、琥珀。兄さんを部屋まで連れていってあげて頂戴。お可哀相に、明日の夜まではずっとその調子でしょうから」
秋葉が背中をむける。……寝室に行くらしい。その背中でゆらめく、蜃気楼のような熱気が、気にかかる。
「…………志貴さん、立てますか?」
………立てる、と口にしたが、言葉にはならなかった。
琥珀さん、が肩を貸してくれる。
……自分で歩いている、という感触も、自分が生きているのだという感覚さえ希薄。
遠野志貴という人間を動かすケーブルが、断線している。
途切れ途切れの映像を見つめながら、俺は秋葉の部屋から、廊下に出た、ようだった――――
――――夜になった。
遠野志貴の体はベッドに横たわっている。
ぜーぜーという呼吸音が、時計の秒針を隠している。
体は、関節という関節が火花を散らしているように痛い。
意識は断片的。おそらくは秒単位で気絶と覚醒を繰り返している。
―――そのせいだろう。
今がどのくらいの時間なのかは知らない。
秋葉の部屋から自分の部屋に戻ってから、もう一週間ぐらい経過したような気がする。
……それがただの錯覚だという事は、八の数字で止まった時計が教えてくれた。
「――――、――――――、―――――」
呼吸が、止まりそうだ。
四十度近い熱を出した時も、ここまでひどくはなかった。
体は動かない。
なのに心臓だけが、さっきから暴走している。
どくん。どくん。どくん。どくん。
……秋葉が意図的にそうしているんだろう、俺の体は動く事がない。
まるで鉄の杭で、手足がベッドに磔にされているような感覚だ。
だっていうのに、その気になれば体を動かす事ぐらいはできそうだった。
どくん。どくん。どくん。どくん。
猛り狂った心臓が、秋葉の呪縛さえ上回っている。
手足が杭によって封じられているのなら。
封じられた部分だけを引き剥がして、心臓だけが外に出てしまいそうなほどの血の巡り。
どくん。どくん。どくん。どくん。
何を興奮しているのか。
―――赤い髪の秋葉。
それを思うだけで、動かないはずの手足が痙攣する。
きっと、ある事をする為なら、この体はなんとか動いてくれるだろう。
どくん。どくん。どくん。どくん。
……頭の中にあるのはなんだろう。
さっきの、ひどく愉しげだった秋葉の事か。
アレはおかしかった。
確かに秋葉はああいう所があったかもしれないけど、アレはいきすぎだ。
何か、秋葉本人でさえ気がついていないようなモノが、秋葉に獲り憑いているとしか思えない。
どくん。どくん。どくん。どくん。
秋葉はシキの狂気を飲んだのか。
シキが狂ってしまった原因があるとしたら、その原因を、秋葉は知らずに摂り込んでしまったのかもしれない。
だとしたら。
アレは、遠野槙久と同じ、ただの――――
ころせ。ころせ。ころせ。ころせ。
「うる、さい―――――」
猛り狂う心臓を抑えこむ。
まったく、さっきから何を興奮していやがるんだ。
そう休む事なく繰り返されると、俺だってその気になってしまうじゃないか。
ころせ。ころせ。ころせ。ころせ。
「はっ――――ぁ、はぁ、は――――――」
喉が苦しい。
体が軋む。
わかっているのか、この考え無し。
こんな体で今の秋葉に逆らっても、勝ち目なんて一つもない。
殺してほしかったら。
アレを殺せというのなら、もう少し黙っていろ。
そうすれば言われなくても、この血にかけてあの魔を踏み潰してや、る―――
「違うっ…………! 何を、その気になってるんだ、俺は…………!!!」
どくん。どくん。どくん。どくん。
狂った鼓動は続く。
俺は、朦朧と。気絶と覚醒を繰り返す、夢とも現ともとれない時間に投げこまれている。
―――これじゃあ明日を待つまでもない。
こんなものが一晩中続くというのなら、俺は零時を待たずして発狂するに違いなかった―――
発汗していた体から、汗が引いていく。
肉が焼けるかもしれないぐらいに熱くなった肌が、ひんやりと冷えていく。
額には濡れたタオルの感触。
体をわずかに起こされて、唇にコップをつけられた。
こくり。
少しだけ冷えた水が、喉を滑り落ちていく快感。
――――――。
すぐ近くには人の気配。
それで、誰かに看病されているのだと、気がついた。
「こんばんは。お体の具合はどうですか、志貴さん」
いつもの笑顔で、彼女はそう言った。
「あ……琥珀、さん」
千切れた呼吸を束ねて、なんとか声をあげた。
「あ、喋らないでいいですよ。今の志貴さんがどんな状態なのかは、きっと志貴さんより解っていますから」
琥珀さんは笑顔のまま、俺の額に乗ったタオルを外した。
―――やっぱり、さっきのは幻だったのか。
琥珀さんはいつも通りだ。こんな時でも笑顔のままで、翡翠のふりを続けている。
……それを。
俺は琥珀さんからその仮面を剥がす事もできず、ここで終わってしまうんだろうか。
「事情は秋葉さまから聞きました。秋葉さまは明日まで待つ、とおっしゃっていましたが、それでは間にあいません。
秋葉さまも冷静な判断力を失っているんですね。
このままだと志貴さんは今夜を越す事はできませんから」
「―――――――――」
ぜーぜーと喉が喘ぐ。
琥珀さんの言葉は、容赦がなかった。
「志貴さん、わたし呆れてしまいました。
志貴さんはご自分の体がどれほど危ういのか、理解していないんですか? 今の志貴さんは秋葉さまがそう思うだけで死んでしまわれる体です。
それなのに秋葉さまに逆らうなんて、そんな希望のない事をしても仕方がないのに」
「―――――――――琥珀、さん」
……驚いた。
琥珀さんの声は、今までとは違う。
「……わかってる。俺はきっと、このままだと今夜を越えるコトは出来ないって、理解してる」
「では、志貴さんは死が怖くないんですね。秋葉さまを受け入れれば今すぐにでも良くなるのに、それをしないなんてどうかしています」
「……そうかもしれない。けど、それでいいって思ってる。俺はこういう自分が好きだし、そんな自分を好いてくれた秋葉が好きなんだ。
……ああ、それに、さ。こうして琥珀さんと話が出来るような、なんでもない事も好きなんだ。
……だけど自分に嘘をついたら、そういうのが楽しくなくなりそうで、こわ、い――――」
激しく咳き込んだ。
……無理をして琥珀さんと話をしているからだろう。
今の俺の体は、そんな余分な事さえ許されない。
「……志貴さん。どうして秋葉さまを好きだと言わなかったんですか?」
同じ質問が繰り返された。
ただ、今の質問は以前のものとは違っている。
琥珀さんの声は、どこか―――悲しそうに、聞こえた。
「秋葉さまの言う通りにすれば志貴さんは生きていられます。たとえ口先だけの方便でも、今はそうなさらないと死んでしまうじゃないですか。
志貴さんが何を思っているか知りませんけど、秋葉さまのお気持ちに応えてあげればいいんですよ」
―――そんな事。
出来るんだったら、とっくにやってる。
「―――嫌だ。確かに俺は秋葉を愛している。けどそれは兄妹の感情であって、それ以外のものじゃないんだよ。
……俺が好きなのは秋葉じゃないだ、琥珀さん。
俺は、一番好きな相手を偽る事だけは、したくない」
荒い呼吸のまま、確かな口調で言った。
かちり、と。
秒針が一度落ちるだけの、短い沈黙のあと。
「もうっ。だめですね、志貴さんは。今だけの、口先だけの方便も出来ないんですか?」
「……できない。体が自由にならないのなら、せめて心ぐらいは自由でいたいんだ。
一度自分に嘘をついたら、その嘘をつき続けるしかなくなっちゃうだろ。
嘘を嘘で固めていってしまったら、いつかみんなガランドウになってしまう。
そうなってしまったら俺は―――」
……ただ一人逃げ場もなく、そうなってしまったあの少女を、
「――――一番好きな人を、このまま助けられなくなる」
そうして、ただ琥珀さんだけを見つめた。
彼女は笑顔に戻る事をせず、視線を逸らす。
「……駄目ですよ、そんな事じゃ。それじゃあ秋葉さまが可哀相じゃないですか」
「秋葉が、可哀相……?」
「……はい。秋葉さまは今夜も街に出かけて、誰かの血を吸うでしょう。
秋葉さまはシキ様と違って血を吸った相手を同じ物にする力はありませんが、逆に相手から何かを奪う力があるんです」
「秋葉さまも自覚しているはずです。
いたずらに血を吸えば吸うほど、秋葉さまの力は人間とはかけ離れていく。けれど秋葉さまははその行為をお止めにならない。
……秋葉さまの力だけでは志貴さんを存命させられない。だから―――自身が変貌していくと自覚していても、志貴さんを生かす為に秋葉さまは血を吸う鬼となり続ける」
「あ―――――――」
「そこまで志貴さんを必要としている秋葉さまを拒むのですか? この八年間、秋葉さまは志貴さんだけを待ち続けていたというのに」
「――――――――」
……そんな事、答えられない。
そもそも、いま自分が死にかけているのは秋葉の仕業だ。
けど今まで俺が生きてこれたのだって秋葉のおかげだった。
俺は、秋葉に――――返す事なんてできないほど、大きな負債を持っている。
「―――――――――っ」
何が正しいのか、何が間違っているのか断言できない。
それでも譲れないものがあって、どうしても許せないことがある。
……だから、やるべき事は決まっていた。
「――――そう。秋葉は今夜も、血を吸いに行くのか」
体を起こす。
脳髄には電流のような痛み。
それを堪えて、なんとかベッドから立ちあがった。
「な……志貴さん、何を」
「……だめだ。遠野秋葉に、血を吸うのをやめさせないと」
なんとか一歩踏み出す。
倒れそうだけどなんとか前にでれる。
これなら……秋葉の部屋ぐらいには、行けるだろう。
「お待ちください」
立ちはだかるように。
琥珀さんは、俺の視線の前に出た。
「秋葉さまを止める、と言いましたね。それは七夜としての血ですか」
「……そんなものは知らない。ただ秋葉には、今の秋葉のままで、いて、ほしいんだ。それは遠野志貴としての、当然の、気持ち、だろ」
「…………いけません。そんなお気持ちのままでは、秋葉さまは志貴さんをお許しにはならないでしょう。志貴さんも解っているはずです。今の秋葉さまは以前の秋葉さまではないと」
……そんな事は承知の上だ。
秋葉の背中にゆらぐ蜃気楼。アレが秋葉を追い詰めて、秋葉を秋葉で無くしている。
今の秋葉にとって、秋葉を受け入れない俺はもういらないモノになっているんだろう。
「それでも―――止めないと。俺は、あいつの、兄貴なんだから」
「………………………」
琥珀さんは何も言わない。
押しのけて、机まで歩く。
そこには有間の家から持ってきた、数える程度の持ち物が入っている。
引き出しからナイフを取り出す。
……そうして。まだ、返していないモノを、見つけた。
「琥珀さん」
最後の名残に強く握り締めて、歩く。
「……………」
琥珀さんはただ立ち尽くすだけだ。
「……最後になるかもしれないから、これ」
手を差し出して、白いリボンを見せた。
「遅くなったけど、返すよ。ごめんな。せっかく借りたのに、結局、一度も使わなかった」
……気持ちが言葉に出来たかどうかは解らない。 ぽん、と出来るだけ優しく。
少女の手に、約束のリボンを置いた。
「―――――――――――」
息を飲む音。
琥珀さんは人形のように立ち尽くして、呆然と、自分の手の平に納まったリボンを見つめている。
「………気づいていたんですか、志貴さん」
「……すぐには気がつかなかった。解ったのは本当に最近なんだ。……本当なら帰ってきたあの時に気がつかなくちゃいけなかったのに」
そう。屋敷に帰ってきた自分を迎えてくれた琥珀さんがお帰りなさい、といってくれた時に、俺は気がつかなくちゃいけなかった。
それでもこの人は、昔ここにいた子か、と問いかけた俺に、微笑みを向けてくれた。
「……だから、今更俺にはそんな資格はないけど、ありがとう。琥珀さんがこの家で待っていてくれて、嬉しかった」
……それがこの八年間。
遠野志貴がずっと言いたかった、言葉だった。
涙。
彼女の頬。嬉しくも悲しくもない顔に、一筋だけ涙が流れた。
……その涙がどういったものか俺には解らない。
ただ、儚くて。
いつかのように、彼女の体を抱きしめていた。
……琥珀さんの体温を感じる。
昂ぶった心臓は、それで、不思議と鎮まってくれた。
「……琥珀さん。秋葉は俺が止めるから、琥珀さんは翡翠と一緒にここから離れるんだ。……そうしたら、そのまま帰ってこなくていい。
……十年もこの屋敷に囚われていたんだ。琥珀さんは自由になっていいし、もう―――無理に笑う必要なんて、ない、から―――」
「志貴さん、あなたは、全部」
知っているんですね、と、琥珀さんの唇が動く。
それを言わせたくなくて、自然に、自分の唇で、彼女の口を閉ざした。
―――それはほんの一瞬。
触れるだけの、けれど支配を交す口付けのように、忘れがたい時間だった。
顔をあげる。
抱きとめた両腕を離す。
人形のような彼女のかわりに、精一杯の笑顔をうかべた。
「それじゃ。短い間だったけど、琥珀さんと居れて楽しかった。
――――うん。俺、琥珀さんが一番好きだよ」
―――さあ行こう。
あとは、秋葉を止めるだけだ。
「………………だめ、です」
ドアを開けようとした時、後ろからそんな声が聞こえた。
「………………だめです、志貴さん。そのままでは秋葉さまを止める事なんて、できません」
「……え?」
振り返ると、そこには――・
「志貴さんには―――秋葉さまを止めていただかないと、いけないんです」
笑顔ではなく、本当に悲しそうな顔の、琥珀さんがいた。
「琥珀さん―――なんで」
そんな、泣きそうな顔をしているんだろう。
「志貴さん。今の、本当ですか?」
琥珀さんはまっすぐに俺を見つめていた。
それは、琥珀さんが好きだと言った事の真偽を確かめる瞳だ。
「――――――――」
無言でうなずく。
琥珀さんはトコトコと歩いてくると、ぎゅっと俺の手を握った。
……そのままでどのくらいの時間が流れただろう。
琥珀さんは何も言わない。ただ子供のように手を握った後、いつもの笑顔に戻って俺の手を胸の真ん中に置いた。
「志貴さんは知らないでしょうけど、わたしたちは感応者と呼ばれる人間なんです。
簡単に言ってしまうと、自分以外の誰かに自分を投影して、その人の力を向上させる事ができます。
ですがそれができるのは対になる人……ようするに異性だけなんです。秋葉さまは女性ですから、わたしとは感応できなかった。だから秋葉さまはわたしの血を飲んで、仮の契りをしていただけなんです」
「―――――――――」
どくん、と体温が上昇する。
今までのような心臓の猛りではなく、その……遠野志貴本人の感情の昂ぶりというか、そんな事で。
「……で、でも、そんなのは、なんか―――」
「志貴さんは秋葉さまの願いには応えられないのでしょう? なら、あとはこの方法しかありません。 そうすれば秋葉さまからの助けがなくても、志貴さんは人並みの体に戻れるんですよ」
「うっ…………」
……それは、きっと願ってもない事だ。
秋葉に負担をかけないようになれば、秋葉だって血を吸う事がなくなる。
それに俺だって、本音を言えば、琥珀さんを自分のものに、したいんだ。
「――――――――」
でもそれは。
何か、やっぱり違う気がする。
「志貴さん、わたしを好きだと言ってくれたのは嘘ですか?」
そんな―――笑顔で言われると、自分が抑えきれなくなる。
「―――嘘のわけがないだろ。俺は、ずっと琥珀さんを――――」
「では、どうかわたしを志貴さんのお力にさせてください。そうでなければ志貴さんは死んでしまわれるし、秋葉さまをお止めする事もできないでしょう」
言って。
いっそう強く、彼女は俺の手を胸に抱いた。
柔らかな弾力。女性の胸の感触に、頭がクラクラする。
「―――――――――」
……解っている。
琥珀さんの芝居は続いている。俺は、この人に利用されているだけだって、解っている。
それでも―――俺にとっては、とても大切な事なんだ。
「…………いいのか。琥珀さんは、俺なんかに体を預けて」
「はい。わたしも志貴さんを愛していますから」
―――その笑顔が、作り物だって解ってはいた。
それでも、その言葉を信じた。
ただ、信じたいと、思った。
●『11/七つ夜』
● 11days/October 31(Sun.)
ベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
すぐ隣には琥珀さんの体がある。
……疲れて眠ってしまったのだろう。静かな吐息だけが聞こえてくる。
「――――――」
片手をあげて、手の平を握ってみた。
「――――よし」
痛みもないし、鈍いという感覚もない。
……彼女の体温がそのまま自分の体を包んでいるような感覚。
まだ全身に行き渡ってはいないが、段々と自分の体に活力が満ちてくるのが分かる。これならすぐに動けるようになるだろう。
それまでは急いで秋葉の部屋に行っても仕方がない事だし、今はこうして―――琥珀さんとの余韻を、静かに感じていたかった。
「―――――志貴さん」
……すぐ隣で。
琥珀さんの、声がした。
「……あ、返事はしないでください。少しだけお話がしたくなっただけなんです。わたしの勝手な独り言ですから、黙って聞いていてくれないと困ります」
琥珀さんの声は、すごく穏やかだった。
「……………」
ん、と頷いて、ただ天井だけを見つめる。
真横からは、体を寄せている琥珀さんの視線を感じていた。
「……わたしは、志貴さんが思ってくれているような女の子ではないんですよ。わたしには自分というものがなくて、こうしている今も、なにかの演技をしているだけなのかもしれない」
「……………………」
「わたし、昔はとても無口だったんです。みんなが笑ったり悲しんだりする意味が解らなかったし、そういうふうにする事に意味を見出せなかった。
……でも、それでも自分というものはあった気がします。このお屋敷に引き取られるまでは、わたしは確かに居たんです」
「……わたしはここにきて、耐えられない痛みを知ってしまいました。きっとそれで、自分というものが壊れてしまったのだと思います。
わたしはただそこにいるだけの人形になりました。その方が楽だったし、そうしなければ生きていられなかったからです」
「けれど、そんな事をしてもなんの解決にもならなかった。だから――自分で目的を探して、それを果たすための役割を演じるようになったんです。
わたしは自分というものがない人形でしたから、見せかけだけの洋服を着れば、どんな人にだってなりきれました。
……でも、どんなに違う人になりきれても、それは芝居でしかなかったんです。
笑う事も泣く事もできました。けど、それが本当に楽しいのか、本当に悲しいのかは解らないままだったんです」
「……おかしいですよね。自分を守るために自分を捨てて人形になったのに。
そうすればするほど、わたしは以前より壊れていくんです。
芝居がうまくなって、嘘も上手になって、笑顔で人を欺けるようになって。そうして目的を果たそうとすればするほど、自分が守ろうとした自分がなくなっていってしまった。
嬉しいってなんだろう。
悲しいってどんな事だったろう。
……痛いって、どんな意味だったろうって、思い出す事さえできなくなっていました」
「それでも、ある事を思い出すと心がザワザワとしたんですよ。
八年前に消えてしまった、あの男の子の事を思い出すと、よく解らない感情があったんです。
ずっと庭で遊んでいて、わたしの事を知りもしないくせに下りて来いって誘っていた子です。
わたし、彼の事が好きでも嫌いでもなかった。ただ、怖かっただけです。
……せっかく人形になって痛いことが我慢できるようになったのに、その子を見ていると、そんなのはただの思いこみなんだって、気づいてしまいそうで」
「……その子が庭で命を落とした時、わたしは窓からずっと見ていました。
男の子は、血の繋がっていない女の子を守って死んでしまったんです。
わたしは、それから目が離せなかった。窓に映った自分の顔は、とても怖い顔をしていました。
……わたし、その時に初めて人を憎んだんですよ。
だって、本当に悔しかった。
他の誰でもない、その男の子が憎くて憎くて、涙をこぼしたぐらいです。
「……槙久さまは憎くはありません。あの人に対する感情はまったくなかった。……あの男の子を殺してしまったシキ様も、男の子に庇われて助かった秋葉さまも、別にどうでもよかったんです」
「―――きっと、八つ当たりだったんです。
だって、どうしてあの男の子がそんな事をしたのかが、私にはぜんぜんわからなかったから。
血だらけになって庭に棄てられたような男の子の亡骸を、わたしはずっと見つめていました。
……あの子は自分の事より誰かの事が大切だっていうのかな。だからあんなふうに、秋葉さまを助けてあげられたんだ。
けど……ならどうして、それだけの事ができるのに、あの子はわたしをタスケテくれないんだろう。
どうして――――わたしのまわりの人は、あの子みたいに優しくはなかったんだろうって」
「……それがどんな感情なのかは解りません。
けど、無感動なわたしの日々の中で、あの男の子だけが輝いていたんです」
そうして。ゆっくりと、彼女は体を起こした。
「けれど、それだけなんですよ。
わたしにはこの感情がどんなものか解りません。
今はとても幸せだけど、もしかしたらそれだってただのお芝居なのかもしれないでしょ?
ね、いいんですか志貴さん。
こんな、志貴さんがわたしを愛してくれているように志貴さんを愛せているのか解らないわたしなんかを信用してしまって」
「言ったでしょう? わたし、自分がどんな人間なのかもわからないんです。わたしは人形だから、望めばどんな琥珀にもなれちゃいます。
だから志貴さんが好きだといってくれた琥珀は、わたしじゃなくて、ただの――――」
芝居をしていた方の琥珀なのかもしれない、と。
満ち足りた笑顔のまま、震える声で、彼女はそう言った。
――――けど。
そんなコトは、絶対にない。
「……違うよ。芝居とか作り物とか、そんな事は関係ない。琥珀さんは琥珀さんだ。
……誰かに優しくできない人はね、どう芝居をしても優しくはなれないんだ。だから振る舞いがどんなに変わっても、琥珀さんの中身はおんなじだったんだよ」
……そう。
たとえ芝居でも、琥珀さんはあんなにも楽しそうだった。
ならそれは、その役割を楽しんでいるという事。 琥珀さん自身がそうなりたいって思っていた、本当に、望めばすぐに叶う夢だったんだ。
「……ああ。もし今までの琥珀さんが全部嘘でも、俺は新しい琥珀さんだって好きになれる。きっとだ」
「――――――――――」
琥珀さんは何も言わず、ただ嬉しそうに頷いた。
「そうですね。志貴さんなら、そう言ってくれると思ってました」
近づいてくる唇。
「え―――――」
不意打ちぎみに、琥珀さんが唇を重ねてきた。
琥珀さんの舌が入ってくる。
カリッ、と何か硬いものの感触がしたあと。
「う――――ごっくん」
と、喉が何かを嚥下してしまった。
「ちょっ―――琥珀さん、今なんか口移しで飲ませたでしょ――――」
…………あれ。
なんか、すごく……気持ちがいい。
ずっと体が痛かった事もあって、なんだかこのまま眠ってしまい、そうな―――
「ねえ志貴さん。最後に聞かせてください。あなたは、どの『琥珀』が好きだったのか」
すぐ近くなのに、とても遠く、声が聞こえた。
「ん―――――」
気が遠くなる。
それでも、ちゃんと……琥珀さんの言葉に、答えないと。
「……そんなの、わからない。……けど、俺は今の琥珀さんが好きだよ」
夢うつつで、ぼんやりと口にする。
彼女は呆然と俺を見たあと。
「はい。わたしも、この琥珀が一番好きでした」
そう、これ以上ないっていうぐらいの笑顔を残して、静かに立ちあがった。
しゅる、という着物を着る音。
ベッドから出て服を着ているらしい。
「それじゃ志貴さん。自分でしでかした事の責任をとってきますね」
彼女は笑顔で―――今までのものとは違う、本当の笑顔でそう告げて、この部屋から出ていく。
「―――何しようって、いうんだ、琥珀――――」
意識が、途切れ途切れになっている。
……なんて、コト。
せっかく体が治ったっていうのに、今度は意識のほうが、段々と薄く、なって――――
「なんてコト、じゃねえ…………!」
眠りかけた意識を起こす。
―――琥珀。
彼女は、最後になんて言った!?
“自分のしでかした事の責任をとってきます”
「……ふざけてる……! なんで、こう――」
自分一人だけでなんとかしようとするんだ、あの人は……!
もう隠す事も、芝居をする必要もない。
俺は琥珀さんの為だったらなんでもするのに、どうして―――また一人で行こうとするんだ。
俺を眠らせて、それで―――俺の身を案じたつもりでいるっていうのかっ……………!?
「いいかげん―――あたまに、きた、ぞ―――」
ベッドから起きあがる。
……机までが、とても遠い。
「……くそ……なんて薬、飲ませる、んだ……一度、琥珀さんの、部屋―――」
部屋を徹底的に掃除して、こういったクスリは全部没収しないとダメ、かな―――
「はっ…………あ、あ――――」
なんとか歩いて、机に倒れこむ。
机の上にはナイフがある。
さっき引き出しから出して、そのあとにここに置いた、もの――――
「………………」
いけない。また、眠ってしまった。
……なんなんだ、この凶悪な眠気は。
どうがんばったって意志の力でどうにかなるもんじゃないぞ。
「…………くそ…………琥珀さん、あとで倍返しにしてやる、からな――――」
ナイフを手に取る。
パチン、と刃が飛び出してくる。
それを――
あぁ、すっごく痛いんだろうなあ。
―――なんて思いながら、中指の、爪の隙間に刺し入れた。
「ぎっ――――――――――――!」
その、鋭角的で金属的な痛みが直接脳髄に叩きこまれる。
「はっ―――この、ざまあみやがれってんだ」
爪からナイフの先端を引きぬく。
ずきん、と中指が痛むたびに眠気は撤退していく。
適当なハンカチで中指を巻いて、出血を止めた。
「っ…………まあ、これぐらいなら」
ナイフを握るのに支障はない。……そもそも俺はナイフを持っているだけでいいんだ。モノを断ち切るための腕力なんて、遠野志貴には必要ない。
「くそ、早まった真似はするんじゃないぞ、琥珀――!」
ナイフをポケットに仕舞って部屋から飛び出す。
琥珀さんを秋葉に会わせるわけにはいかない。
なんとしてもその前に止めないと、きっと取り返しのつかない事になってしまう―――
扉を開ける。
「琥珀さん…………!」
……部屋には人気というものがなかった。
琥珀さんの姿もなければ秋葉の姿もない。
「――――――隣か!?」
寝室の様子を見たが、そこにも二人の姿はなかった。
「そんな――――二人とも、何処に」
時計に視線を走らせる。
時刻は―――午前零時をすぎて、もう翌日に切り替わっていた。
「―――――うそ」
いつのまにそんな時間になっていたのか。
時間の感覚が麻痺していたが、それでもまだ夜になったばかりだと思っていたのに。
「この時間なら、秋葉はもう――――」
夜の街に、人の血を吸いに行ってしまっている。
屋敷の外に出る。
余分な事をしている時間はない。
琥珀さんは秋葉を止めに行った。
だが秋葉が琥珀さんの言う事を聞くとは思えない。
……今の秋葉は普通じゃない。最悪、止めに来た琥珀さんを邪魔者として排除しかねないだろう。
「まさか――――学校、か……?」
シキが秋葉に殺された後、一度だけ人の血を吸う夢を見た。
どんな原理でそんな事になったかは解らないが、アレが秋葉の見ていた現実なら、秋葉はシキと同じように夜の学校を『食事の場所』にしていたという事になる。
なら―――この時間、血を吸う鬼となっている秋葉がいる場所は、学校以外ありえない―――
―――そうして、この場所に帰ってきた。
静かだった。
月光を浴びて佇む巨大な建物は、数百人の生徒を収容する場とは思えない。
―――永く。
遠い昔に棄てられ、誰の記憶からも忘却され、地図からさえ消去されたような、呪われた墓標に見える。
「―――――――」
こめかみには軽い頭痛。
それを堪えて、正門をくぐり抜けた。
中に入った途端、頭痛が倍化した。
視界が歪む。心の臓が覚醒する。指先が、戦いの予感に打ち震える。
「――――――いる」
なんという穢れ。
校舎には血の匂いしかしない。
漂う大気は熱をおびて、チリチリと肌を焦がしている。
風は亡く。停滞した空気は腐敗し、変貌し、ここに魔となって赤色の檻をカタチ作る。
両眼はメガネ越しにでも夥しい赤い髪を幻視していた。
赤い髪は校舎はおろか校庭にまで侵食して、一千年を生きた蜘蛛の巣のように、エモノを逃がす隙間というものがない。
「秋葉―――おまえ」
すでにここは異界だ。
人が踏み入れていい世界ではない。
「ここまで、終わっているのか」
頭痛は止まらない。
ずきん、と爪を剥がした指先が痛む。
どくん、と心臓は歓喜の嗚咽をあげている。
メガネを外して、ナイフを握った。
……こうして『線』と向かい合うのは何年ぶりだろう。
先生に貰ったこのメガネを自分から外す時が来ると、思った事なんてなかった。
それが―――自分の妹と対峙するためだなんて、夢にも。
「―――――――」
嘆いている暇はない。
準備は整った。
あとは。この、赤い檻髪を切り裂くだけだ。
―――灼い。
中に入ると、気温はさらに上昇した。
―――――灼い。
この熱さは知っている。
夢で見た。見知らぬ少女を襲った吸血鬼は、校舎に入って、その後――――
――――――――灼い。
ずるずると少女の体をひきずって、その場所に入っていった。
かつてシキという殺人鬼が使っていた密室。
銀の月が蛇の如く咎人を見つめる、
――――――――――灼い。
この、教室に。
「……………秋葉」
足を踏み入れた瞬間、眩暈がした。
机と机の間には少女の体が倒れている。
一人、二人………三人。
見知らぬ彼女たちは全員気を失っている。
首筋には赤い跡。
その中で、赤い髪の“妖”が笑っていた。
「あら、どうしたの兄さん。明日が待てなくなって、もう来てしまったんですか?」
悪びれた様子もなく、秋葉は俺を迎えた
―――ドクン。
その姿を見ていると、ある衝動に突き動かされそうになる。
それを全力で、誰と争うよりも必死になって押し殺した。
「―――――」
秋葉は窓際で月光を浴びている。
―――どくん。
俺は教室に入った所から、一歩も前には踏み出していない。
……まずい、と本能とは別のモノが警告をしている。
アレは、予想以上だ。
シキを処理した時の秋葉とは比べ物にならない。
「驚いたな。兄さんは動ける体じゃなかったのに、それでも無理を押して私に会いに来てくれたんですね。
……良かった。兄さんもやっと、私の気持ちが解ってくれたんだわ」
嬉しそうに秋葉は言う。
――――ドク、ン。
深い所にある理性が言う。
遠野志貴はアレには勝てない、と。
故にアレを怒らせてはいけない。アレを敵に回してはならない。そうなれば、間違いなく消え去るのは自分のほうだ、と。
――――どく、ん。
それでも―――今更、逃げ出すわけにはいかなかった。
「―――秋葉。琥珀さんは、どうした」
空気が凝縮するような威圧感。
秋葉は不愉快そうに、歯を鳴らした。
「琥珀ならそこよ。何を思ったのか私に手をあげてきたから、少しだけ罰を与えている所です」
秋葉は俺の横……廊下に面した壁を流し見る。
「――――?」
視線を横に動かす。
そこには―――壁に磔にされた、琥珀さんの姿があった。
「なっ―――――」
琥珀さんの体は宙に浮いていた。
いや、傍目に見ればそうとしかとれないだろう。
だが――――
――――ドク、ン。
俺の眼には、彼女を縛っているモノが視えた。
琥珀さんの体は赤い髪の毛のようなモノで壁に磔にされているだけだ。
髪はぎしぎしと音をたてて、琥珀さんの手足を締めつけている。
……意識を失っているのか。琥珀さんはぐったりと首をさげていて、本当に―――蜘蛛の糸に囚われた、哀れな揚羽に見えた。
「不思議でしょう? 琥珀ったら一人で壁に張り付いているなんて、すごい特技だと思わない?」
くすくすと秋葉は笑っている。
「けど安心して兄さん。私、一回噛みつかれたぐらいじゃ飼い猫は殺さないわ。琥珀にはちょっとした罰を与えるだけで、すぐに許してあげますから」
「な―――――――」
――――どく、ん。
目の前が霞む。
苦しげに頭をたれた琥珀の姿と、赤い秋葉の姿が重なって、理性が溶けかけてしまっている―――
「だけど気をつけてくださいね。私、一度噛みついてきたペットには興味がないの。きっと心の中で自分のモノでなくなってしまうんでしょうね。
だから二度目なんかない。私のモノでなくなってしまったモノなんかいらない。
……ねえ兄さん? 私、自分を裏切った相手にはいくらでも残酷になれるんですよ」
ぎしり、と。
琥珀さんの体を縛る赤い髪が、手足を引き千切らんばかりの勢いで締められる。
「秋葉。おまえ――――!」
壁にかけよる。
琥珀さんを縛っている髪は、当然のように触れる事ができなかった。
……これはあくまで秋葉の髪の延長、秋葉本人が思い描いているイメージにすぎない。
秋葉は琥珀さんを視界にいれる事で、その意志の力で琥珀さんを壁に封じているだけ。
――――ど、く、ん。
……その力の流れが赤い髪のように視える。
それは秋葉本人にも視る事のできないイメージ。
不意に思った。
俺の眼は、もとからこういった事のために用意されたモノだったのではないか。
それが何度も何度も死に接した事によって『死』という概念を識ってしまっただけなんじゃないかと――――
「くっ――――――!」
うるさい、今はそんな事どうでもいい。
視えているのなら、俺に『切断』できないモノはないんだ。
こんな赤い髪なんかに、いつまでも琥珀さんをいいようにさせてたまるか……………!
――――ナイフを振るう。
心臓のリズムが速い為か。
自分でも驚くぐらい、ナイフの扱いが卓絶していた。
それは刃物を振るう、という感覚じゃなかった。
大気を滑るナイフは、赤い髪ではなく大気そのものを刈り取るように繊細で迅速すぎた。
気がつけば。
俺は一息で、琥珀さんの体を縛る全ての髪を解体していた。
琥珀さんの体が落ちる。
「―――――――っ」
受け止めて頬に触れた。
体温は確かにある。呼吸も弱々しいけど止まっていない。……彼女の体に、忌々しい『線』は数えるほどしか視えていない。
「は――――――あ」
安堵して琥珀さんを床に下ろす。
―――良かった。本当に……琥珀さんの身に万が一なんて事がなくて、良かった。
「兄さん――――今、何を――――」
……秋葉の声は震えていた。
ナイフを片手に握ったまま振り返る。
「―――――――――」
俺を見て、秋葉は息を呑んだ。
信じられないものを見たように口元に手をあてて、じっと、俺の眼を見つめている。
「――――なんて、綺麗な――――蒼い、眼」
「……………?」
「どうして―――? 兄さんには、そんな体力は残っていない筈なのに――――」
呆然とそう呟いたあと。
「ま……さか」
秋葉は、その唇をわなわなと震わせた。
「兄さん、貴方――――琥珀と、契約を、したんですか」
秋葉の声は震えている。
それは憎悪というより、どこか悲哀に近い、声のように聞こえた。
「……………」
「……うそ。それじゃあ兄さんは、私を―――」
がくん、と秋葉の体がよろめく。
秋葉は愕然とした瞳のまま窓によりかかる。
その顔は蒼白で、今にも吐きそう―――
「うっ………あ、え―――――ぐ」
―――いや、耐えきれずに吐き出した。
「あ――――っ、ぐ……………………!」
秋葉は泣くように嘔吐をする。
赤い髪を揺らして、秋葉は苦しげに顔を隠して、ただ吐いた。口元までせりあがった悲鳴を吐き出すかのように。
「―――泥棒猫。殺しておけば良かった」
そう、倒れた琥珀さんを睨んだあと。
秋葉は、心底おかしそうに笑った。
「そう。そういうつもりなんだ、兄さん。
兄さんは私を裏切ったくせに、さらに追い討ちをかけにきたってワケなんだ。
……すごいなあ。私を一度裏切っただけじゃ飽き足らず、わざわざ琥珀の助けまで借りて遠野秋葉を殺しにくるなんて、徹底してるわ」
秋葉の笑い声が教室に満ちていく。
それに応じて温度が上がっていた。
――――ド、ク、ン。
心臓が猛る反面、理性が警告をかき鳴らす。
コロセ、という命令さえ、ニゲロ、という命令にかき消される。
「ばっ―――そんなわけないだろう……! 俺は秋葉を殺しにきた訳じゃない……!」
「嘘ね。だって兄さんは琥珀と寝たんでしょう?
ならもう私の助けなんていらないわよね。なのにここに来たっていう事は、そういう事なんでしょう?」
「だから……! 俺はおまえと殺し合いなんかをしにきたんじゃなくて、おまえに血を吸うのを止めさせる為に来たんだ…………!
俺を助けようとしなければ、秋葉は血を吸わずにすむんだろう? なら、秋葉はもう苦しまなくていい。……俺の体なら大丈夫だよ。俺は琥珀さんがいてくれれば、それで――――」
「つまり私はもう用済みっていうコト?
アハ……ほんと、私ってバカみたいですね。あんなに大切にしていたのに、こんなに兄さんの事を愛していたのに――――兄さんは結局、私に振り向いてさえくれなかった」
「用済みだなんて、そんなバカな事口にするな!
……俺だって秋葉の事を大切に思ってる。おまえが―――おまえが望むなら、なんだって―――」
してやる、とは言えなかった。
秋葉の望みがなんであるかは解っている。
だが、それは聞けない。俺はもう、二度と琥珀さんを裏切るような事だけは、出来ないんだから。
「―――嘘吐き。そんな人は、もういりません」
ギッ、と教室が悲鳴をあげる。
空気が焦げていく。秋葉の赤い髪が際限なく広がっていく。
それは。圧倒的なまでの、力の差だった。
「ぁ――――――――」
体がよろめく。
無意識に足が後ろに下がる。
―――どくん。
「言ったわよね、兄さん。私、一度噛みついた飼い犬なんていらないの」
―――どくん。どくん。
「……兄さん。秋葉にとって、兄さんは本当に一番大切な人だった。けどそれも終わったわ。
だって、どんなに焦がれていても、それが手に入らないなら目障りなだけでしょう?」
―――どくん。どくん。どくん。
「―――だから、殺してあげますね兄さん。
一番大切なモノだったから、貴方は他の誰にも傷つけさせません」
―――どくん。どくんどくんどくんどくん……!
「あ―――あき、は」
息が、できない。
教室の大気は焔のようで、吸いこむと肺が焼けた。
秋葉の周囲にはユラユラと揺らめく蜃気楼。
心臓は。今すぐにでも、逃げるか殺すかを択一しろと繰り返す。
「もう、どうしたのよ兄さん。私、これでも気を遣ってあげてるのよ。こっちが本気になったらすぐに終わってしまうから、少しは兄さんに華を持たせてあげないといけないでしょう?
ほら、さっき琥珀を助けたみたいに、私に切りかかってこないんですか?」
「っ………………!」
秋葉の笑みはなくならない。
その、吐き気がするぐらいの殺気。
秋葉はもう、完全に――――
「……そう。弱いのね、兄さんは。こうなってしまったのにまだ私を殺す気になれないなんて。
けど私は違うわ。早く、兄さんを殺したくて仕方がないんです。
……だって、今までずっと我慢してた。
その血も肉体も、体温も輪郭も、全部私だけのものにして兄さんを所有できるコトを夢見てたんだから」
秋葉は震えながら、自分のコトバに身を震わしながら、愉しそうに笑う。
―――心臓が狂いそうだ。
目の前にいるアレは、もう完全に―――以前の遠野秋葉とは違っている。
頭痛がする。
頭が割れそうだ。
それはあまりに痛すぎて、物事を考える事ができなくなる。
―――理性が狂いそうだ。
頭。あたまがこんなにもイタイと、俺まで。
気が狂って、秋葉と、殺し合いをする気に、なってしまう――――
「さあ、殺し合いましょう兄さん。遠野と七夜はもとからそういった関係ですもの。今更ためらう必要なんてないでしょう?」
かつん、と秋葉が近づいてくる。
ザワザワと床に敷き詰められた、赤い髪が脈動する。
「それでも出来ないというのなら構わない。
兄さんみたいな嘘吐きは、ここで死んじゃえ」
言って。
シキを殺した時のように、秋葉は俺の姿を凝視した。
「――――――――!」
地面が跳ねあがる。
目には視えない筈のモノ、熱気じみた赤いモノが俺を飲み込もうと覆い被さってきた。
「―――――――」
タン、と着地する音が廊下に響いた。
「―――――――ハ」
……どうかしている。
あの熱気に包まれようとした瞬間、危険を察して体が跳んでいた。
後ろに大きく跳んで、着地してからもう一度だけ地面を蹴った。
それだけで、ここまで引いた。
「ハ…………、ア」
息があがる。
今のスピードは尋常じゃない。
なにしろ一瞬にして、秋葉の視界から消え去ったぐらいの速さだ。
そうでなければ、あの熱気から逃げられる道理がない。
あの夢の中で、秋葉はシキの体を睨みだけで奪っていった。
……俺とシキはまったく同じだ。
見るだけでいい秋葉と、近づかなければいけない俺とでは戦力が違いすぎる。
「違う―――! 殺し合う気なんてないって言ってるだろ…………!」
――――ズキン。
だが頭痛が倍化していく。
頭が割れて羽が生えてきそうだ。
教室の扉からは赤い熱気が漏れてくる。
秋葉は周囲の空気を真紅に変えて、廊下へと俺を追ってきた。
距離にして教室一つ分、俺と秋葉は離れている。
「呆れた。一体どんな体をしてるのよ、兄さんは」
ゆらゆらと揺れる赤い髪。
廊下の気温は際限なく上昇していく。
「いくら夜だからって、いきなり視界から消えるなんてどうかしてるわ。……本当に驚嘆すべき逃げ足ね。遮蔽物に身を隠した訳でもなく、ただ速さだけでこっちの動体視力を上回るんだもの」
ざくざくと軋むこめかみ。
遠野志貴の頭痛は際限なく倍化していく。
「でも、それも終わりよ。今度はもう油断しないし、ここなら兄さんを見失う事もないわ」
―――確かに、ここは教室より不利だ。
後ろに逃げても、階段までは距離がありすぎる。
どんなに速く走った所で、その背中を秋葉に睨まれれば赤い熱気に捕われる。
かといって手近な教室に入ってしまえば、もう袋の鼠になってしまう。
秋葉は虫の手足をもぎ取るように、少しずつ俺の手足を消していくだろう。
「まずは―――そうね。その素晴らしい逃げ足を無くしてあげる……!」
秋葉の瞳が俺の足を捉える。
ゆらり、と大気が焦げる匂い。
「――――――」
後ろに跳ぶ。遠野志貴の周囲の空気が熱気に変わって、そのまま両足を包み込む
ナイフを握る。視界は良好。右脳を切り取られるような頭痛。
切断・
大気ごと。赤い髪を、切り殺した。
「くっ――――――――!」
呻いて、秋葉は憎々しげに俺を見つめる。
「――――――――――」
だが苦しいのはこっちも同じだった。
すぐに切断したとはいえ、両足は火傷したように激しく疼いている。
頭痛はその疼きよりさらに激しく、本当に頭を割りそうなぐらい、鋭すぎた。
「また―――どうして、そんなコトができるっていうのよ、貴方は…………!!」
たどたどしい足取りで秋葉は歩いてくる。
距離が遠くて俺の姿がよく見えないから効かない、と判断したのだろう。
……おそらく、それは正しい。
秋葉の能力は瞳に見えている映像の鮮明さに比例する。
今が深夜で建物の中だから、俺を捕えようとする熱気の動きが遅い。
これが日中で光があるのなら、秋葉の視線と熱気の速度はほぼ同一になるだろう。
そうなればいくら視えていても切り殺す事で防ぐ、なんて事さえ間に合わない。
「くっ…………!」
火傷だらけの足で後ろに引く。
秋葉は追ってくる。
お互い警戒しあっている為か、ただ間合いを維持したまま、俺たちは廊下を移動していく。
――――――その時。
さっきまで俺たちがいた教室から、人影が、出てきた。
「―――――――」
意識が止まる。
頭痛も心音もしなくなった。
―――いけない。
どうして出てくる。どうしてあのまま気を失ったままで、教室にいてくれなかったのか。
「―――――秋葉、さま」
背後からの声に秋葉が振り向く。
―――最悪だ、と直感した。
「もう、お止めください。こんな事をしても、秋葉さまが苦しむだけです。……人の血を吸い続けて、シキ様のように狂われても楽になれる事なんて、ないんです」
よろよろと。
今にも倒れそうな足取りで、琥珀さんは、秋葉へと歩いていく。
「――――――止めろ」
呟きは届かない。
琥珀さんの元に行くためには、秋葉をすり抜けなくてはいけない。
そんな事―――どうやって、やれというんだ。
「……まだ秋葉さまは間に合います。けれど志貴さんを手にかけてしまえば、本当に―――遠野よりの、鬼になってしまうんです」
「……………………………」
秋葉は俺と琥珀さんを見比べる。
そうして――・
「もう遅いわ。私は血を吸う鬼なんだし、貴方の言葉にはもう踊らされない。
楽にならない、ですって? この感覚を知らないくせに知った口をきかないでよ琥珀。
私ね、今とても愉しいのよ。シキの気持ちも解るわ。こんなに自由で愉快なのは生まれて初めて。
だから、今さら戻る事なんてできっこない」
「違います……! 秋葉さまはそう信じこもうとしているだけです。シキ様を手にかけてしまわれて、志貴さんに全てを知られてしまって、それをなかった事にしたいのでしょう……?
けど、それは出来ない事です。どんなに狂われたフリをしても、秋葉さまは――――」
「うるさい…………! あなたなんかに、私と兄さんを殺しあわせようとしたあなたなんかに、そんな善人ぶった言葉を吐く資格なんかない……!」
秋葉の髪が舞う。
それは、俺に向けられた熱気とは質の違う、本当に質量をもった髪だった。
「ええ、満足でしょう琥珀。あなたの思惑どおり私と兄さんは殺しあってしまっている。あなたの復讐はこれで完成、というわけね」
「あ――――――――」
琥珀さんの言葉が途切れる。
「そっか、兄さんは知らないのよね。琥珀が兄さんをいいように操って、兄さんがご自分に自信を持てなくなるようにしたってコトを」
秋葉は勝ち誇ったように、俺に視線を向けてくる。
「兄さんもおかしいとは思わなかった? 毎晩すぐに眠くなって、自分の記憶が曖昧になったのは全部琥珀の仕業よ。
琥珀はね、薬と偽って兄さんに麻薬めいた物を服用させていたの。そうしてせん妄状態になった兄さんの耳元で囁いたんでしょうね。
『貴方は街で人を殺している殺人鬼です』って」
「そうして琥珀は兄さんを殺人鬼にしたてあげて、私を殺させようとした。
いえ、兄さんが殺人鬼になんかならなくても、兄さんが夜の街に出歩くようになるだけでも良かったのよ。
どうなったって私と兄さんが殺しあってしまうような手の込んだ筋書きを作って、琥珀は笑顔でそれを実行していった。
遠野家の人間に復讐するために、私だけでなく関係のない兄さんをも騙して、琥珀はこの状況を完成させたんだから」
「…………………」
―――ああ、なるほど。
だからいつも、琥珀さんはいいタイミングで現れては、俺の知りたい事を教えてくれて、眠れない俺に薬を持ってきてくれたのか。
でも、それは。
「琥珀にとって、私も兄さんもお芝居を完成させる為の駒にすぎなかった。
わかるでしょ? 琥珀にとっては兄さんだって、ただの道具にすぎなかった………!
それでも、それでも兄さんは琥珀を選ぶって言うんですか……!」
……そう。
泣くような激しさで、秋葉は言った。
―――でも、それは。
「…………知ってる。そんなコトは、前から解っていたんだ、秋葉」
「――――え?」
不思議そうな声。
それは果たして、誰があげたものだっただろう。
「琥珀さんが俺を利用しているって、そんな事はとっくに知っていた。……けど、そんな事は関係ないんだ。
俺は琥珀さんを愛してる。
だから琥珀さんが何をしようと―――俺は、琥珀さんを信じていただけなんだから」
「―――――――――」
息を飲む音。
彼女は、本当に呆然と。
遠くから、届かない故郷を眺めるような目で、俺を見た。
「――は。あはは、は」
乾いた、人形のような秋葉の笑い声。
「……なによ、それじゃ私はとんだ道化じゃない。
私はどんなものより欲しかった人に拒絶されて、その欲しかった人は愛した相手に道具扱いされている。
それでも――――それでも兄さんを手に入れられるなんて、ふざけないでよ琥珀……っ!!!!」
「秋葉―――――――!」
秋葉の髪がたなびく。
―――走った。
秋葉に近づけば殺されるとか、間に合いっこないとか、そんな余分な事は排除して、走って、手を伸ばした。
だが、それでも残酷に把握できていた。
彼女が、あの教室から出てきてしまった時点で。
俺の手は、絶対に、届くことがないのだと。
とす、という音。
秋葉の髪は刃物のような鋭さで、彼女の胸を貫いた。
呆然と。いや、それとも受け入れるように、彼女は避ける事さえしなかった。
倒れる。
着物がゆれている。なんていうスローモーション。
それを認めたくない思考が、時間の流れを遅くしているのか。
―――八つ当たり、だったんです。
ふと、そんな言葉を思い出した。
―――どうしてあの男の子はそんな事をしたんだろう。自分の事より誰かの事が大切だっていうのかな。
彼女は、その、大切な誰かに、ずっと成りたかった。
だがそれは叶わず、結局は独りで生きて。
その果てに、こんな結末しか、受け入れられないとでも言うように。
―――それだけの事ができるのに、どうしてあの子はわたしをタスケテくれないんだろう。
……………その罪は。
八年前だけじゃなく、この瞬間にさえ、繰り返された。
―――だから、不思議に思ったんです。
どうして―――どうしてわたしのまわりの人は、あの子みたいに優しくはなかったのかなって―――
崩れ落ちる体。
その間際に。
最期まで虚ろな瞳をしたまま、それでも―――琥珀は、俺を見て微笑んだように、見えた。
「―――――――――――」
足が止まる。
声もなく、呼吸もない。
刺すような、頭痛があるだけ。
「――――ふん。泥棒猫には相応しい最期ね」
秋葉が笑う。
刺すような頭痛。
「私はもう戻れない。シキを手にかけて、兄さんにだって拒絶された。なら、もう行きつく所まで行くだけじゃない。私は自由になったんだから、苦しいワケなんて、ない」
秋葉の体がこちらに向く。
大気が焦げる。赤い髪は蛇のように鎌首をもたげていく。まるでそれ単体が意志を持つような邪悪さ。
刺すような頭痛。頭痛。
「――――俺を殺すんじゃ、なかったのか」
ような頭痛。頭痛。頭痛。頭痛。
「琥珀さんじゃなくて―――俺を殺すんじゃなかったのか、秋葉」
頭痛。頭痛。頭痛。頭痛。頭痛。頭痛。
頭にくる。頭にくる。頭にくる。
彼女を救えなかった自分。
のうのうと生きている自分。
彼女を救えなかった秋葉。
のうのうと生きている秋葉。
「なに、兄さんったらすぐに殺してほしかったの? まあ謝ったって許してあげないけど、どのみちね、琥珀は殺すつもりだったわ。
だってあんなの、生きていても意味なんかないじゃない。とっくの昔に壊れてたんだから、早めに棄てちゃったほうが本人のためでしょう?」
―――――そうか。
壊れたのなら、棄てたほうが本人のためなのか。
なら―――――――
「…………おまえは、秋葉じゃない」
もう、俺の知っている秋葉じゃない。
俺だけが認めようとしなかっただけで、とっくの昔に、あの蜃気楼に獲り憑かれている。
「いいよ、秋葉。おまえの望み通りにする」
八年前の昔。二人で、庭を駆け回った時のように。
「さあ――――本気で、殺し合いを始めよう」
頭痛が、止まった。
遠野志貴は死に。俺は夜に逍遥していた頃の、七夜志貴に切り替わった。
自身と敵との間合いを目測する。
距離にして十メートル。ナイフが届く範囲に跳びこむだけなら二足。確実に仕留めるのなら三足が必要になる間合いだ。
廊下には遮蔽物もなく、大きく動いて身を隠すほどの広さもない。壁と天井を足場にした所で、秋葉の視界から外れる事は難しい。
こちらが二足で踏み込んだところで、秋葉がこちらを視認するのが一息。
状況は以上だ。このまま間合いを詰めた所で、一呼吸の差でこちらが先に死ぬ事になる。
「―――そう。ようやくその気になったっていうワケね、兄さん」
一歩、秋葉が歩みよる。
いかに闇夜といっても、その距離ならこちらの姿を正確に見つけられる。
あと一歩。秋葉が一度歩み寄れば、それが合図になる。
殺すか、引くか。
判断を誤れば、あの夢の時と同じようにシキという人体が秋葉の髪に呑まれるだけだ。
――――かつん、という足音。
「――――――」
――――ひとまず引く。
―――結果を出すにはまだ早い。
確実に殺すには、敵をハダカにする必要がある。
「間違えたわね兄さん。今のが私を仕留める最後のチャンスだったのに」
敵の足が止まる。
自信に満ちた視線と呼吸のリズム。
「――――――――」
つまり、この距離が闇夜における遠野秋葉の最大射程という事だ。
「さっきの兄さんの速さなら、もしかしたらこんな狭い廊下でも見失っていたかもしれない。
でも、この距離ならもう有り得ない。だって、兄さんの瞳の色が見えるぐらい、貴方の姿を確かめられるんですから」
「―――――――――」
こっちが走りだした所で、秋葉に近づく前に始末できるという事か。
だが―――それは、あくまでこちらが接近した場合の話だろうに。
「……………」
秋葉の目が細まる。
すでに命を握った相手が、未だ冷静な事が気に食わないのか。……それとも、たったそれだけの事で躊躇したのか。
どちらにしても―――シキの思っていた通り、アレはまだ殺し合いというものを解っていない。
「―――なにか企んでいるみたいね、兄さん」
当然の事を訊く。
答える義務はない。
「――――――――馬鹿か、あいつは」
呟いてナイフを持つ手を変えた。
利き腕で持っていたナイフを、左手に移し替える。
秋葉の間合いはこれで掴んだ。
あとは―――
「―――無様だな。今になって何を怖がっているんだ、おまえ」
「わ――――私は怖がってなんかない……! なによ、そこで震えて動けないのは兄さんのほうじゃないっ!」
「……いいけど。おまえ、俺を殺せるんだろう? ならさっさと始めたほうがいい。このまま何もしないのなら、次におまえが瞬きをした間に殺すよ。
―――いいかげん、おまえの顔にも見飽きたところだ」
「―――――――――!」
秋葉の周囲がゆらぐ。
ざあ、と。秋葉の殺意が、赤い髪を具現化させる。
秋葉の凝視と、周囲の空気が赤い髪になって両腕に絡み付いてくるのは、ほぼ同時だった。
「――――――」
後ろに跳ぶ。
何よりも優先して、利き腕に絡みついた髪の束を、絡みつくより速く切断した。
「くっ――――――!」
短い秋葉の声。
すぐさま自由になった利き腕にナイフを移す。
左腕に絡まった髪を切る。……こちらを自由にするのに一息ほどかかった。
「チィ―――――」
左腕の感覚が絶無だ。
腕そのものに外傷は見られないが、反応、感覚、ともにない。
「なるほど――――そういう絡操りか」
さらに後ろに跳ぶ。
―――赤い髪は追ってくる。
さきほどの即効性はないが、ぴたりとこちらの四肢に絡みついてくる。
……いや、追ってくる、という表現は正確ではあるまい。
この赤い髪から逃れる事はできない。
秋葉に見られる、という事ですでに絡みついているモノだ。かわすとか避けるとか、そういった行為をイメージするのは間違っている。
有れば有るのだし、無ければ無いだけの話。
肌に触れている空気のように、赤い髪はすでにこちらに絡みついている。
故に、あの攻撃から逃れる事はできない。
出来る事があるとすれば、それは―――秋葉がこちらから何かを奪う前に、そのパイプライン……赤い髪を切断するしかない。
秋葉が直接対象の姿を見ている時は、奪うという行為そのものは一瞬だろう。
だが対象が視界に不鮮明な場合、奪う行為に若干のタイムラグが存在する。その間、何かを決定的に奪われる前に、なんとか赤い髪を切って致命傷を避けている。
こちらがしているのは、ただそれだけの事だ。
いくら秋葉にさえ見えていない“赤い髪”というイメージの延長を視認できた所で、アレが圧倒的な能力であるという事に変化はない。
―――余裕のつもりか、秋葉は走ろうとせず早足で追ってくる。
「――――――――」
手や足、胴体に絡まる髪を絶え間なく切断する。
試しのために犠牲にした左腕はまったく動かない。
痛みもない。出血もない。だが、服の上からでも肉が一回り、火傷によってごっそりと無くなっているのが分かる。
「――――――――チ」
なにが不快かというと、剥き出しになった肉の側面から、吐き気がするぐらいの冷気が体内に侵入してくる事だ。
おかげで逃げる事に完全に意識を集中できない。
秋葉を見据えたまま後ろに引く足取りは段々と遅くなっていって、やがて、止まってしまった。
―――そうして、秋葉の間合いになった。
「――――ふん。なによ、結局逃げ回る事しかできないんじゃない。焼かれるだけの獲物のくせに、よくも言ってくれたものね」
追い詰めた、という確信があるのだろう。
秋葉は足を止めてこちらを睨む。
「これで終わりよ、兄さん。楽しみでしょう? これから貴方は、遺さず零さず私に嬲り殺されるんだから―――!」
――――だから。
そんな口を利くのが余分な事だっていうんだ、秋葉。
――――――だん、と。
一息で階段まで跳んで、そのまま、足場を使わずに階下に落ちた。
「うそ―――!?」
……上から秋葉の声が聞こえてくる。
今まで直線的に後ろにばかり跳んでいた為、秋葉は突然の真横への移動に反応できなかったのだろう。
……まあ、こちらもじき階段に辿りつく、という事を考慮にいれて秋葉を誘ったのだから偶然というワケでもない。
「こ、の…………! さっきからちょこまかと………!」
秋葉は階段から身を乗り出して下の階に落ちた俺を見つけようとする。
「―――――さて」
その前に、さらに下の階へ跳び降りた。
「っ………」
二回も一気に下の階まで落ちると、膝が悲鳴をあげる。
それを無視して廊下へと急ぐ。
カンカン、という階段を駆け下りてくる秋葉の足音も聞こえてくる。
「――――――窓」
ここは二階だ。ここからなら窓から地上に飛び降りる事ぐらいはできる。
「――――――」
だが、それではシキの二の舞だ。
ここまであの夢とほぼ同じ状況を再現しているんだから、細部にいたるまでシキを真似る事はない。
廊下に出る。
二階の廊下にも、赤い髪があらゆる所に敷かれている。……まるで動脈か何かのようだ。
quakey 2,50
「―――――!?」
足の感覚が消えて、床に倒れこんだ。
「しまっ―――――」
左足に髪が絡みついている。
―――階段を降りる時に足だけ見られたのか。
今は秋葉の視界外にいる分、即死という痛みではないが――――
「くそ……予想よりやらしいじゃないか、アイツ」
髪を切断する。
左足は―――左腕とほぼ同じ状態になってしまった。
「――――――」
足音が近づいてくる。
秋葉が廊下に下りてくる前に、教室に跳び込んだ。
「――――――、―――――――、――――」
息を殺して、廊下に面した壁にもたれかかる。
……なんて事だ。
これで半身はほぼ死に体。
自分で解っていながら、あの夢をここまで再現するとは思わなかった。
……かつん、かつん、かつん、かつん。
足音が近づいてくる。
「――――――――」
夢の中では、確かこの後にシキは殺されていた。
……シキの判断は間違ってはいなかった。ただ、ヤツは秋葉という敵の能力を正確に把握していなかっただけの話。
焦げた大気の匂い。
真夏じみた灼熱の気温。
そうして、燃えるような熱さをともなって消滅させられる体。
その事実で、シキは秋葉が敵を“発火”させているのだと思いこんだ。
だが実際はその逆だ。
秋葉は赤い髪に絡みつかせた対象から“熱”を奪い、一瞬にして凍結、気化し、結果として消滅したように見えるだけだ。
発火ならば、一度火をつけられてしまえばこちらはどうしようもない。いくら赤い髪を切った所で、発火した自分の体を切断する訳にはいかない。
だが―――アレは吸収しているだけの略奪だ。
故に、もしこの全身を赤い髪に包まれたとしても、奪い尽くされる前に髪を切断し、秋葉本体を仕留めてしまえば問題はない。
秋葉は秋葉本人が生きている間は対象を炎焼させる。だがその炎は秋葉が死んでしまえば消え去る幻だ。
……かつん、かつん、かつん、かつん。
「――――――」
もともと、左腕は燃やされる事を覚悟して差し出したものだった。左腕が燃えたあと、肩から腕を切る準備までしたが、その必要はなかった。
秋葉の能力は、本体さえ停止させればこちらが死ぬような事はない。
秋葉の正体が真の火炎使いでない以上、相打ち狙いの奇襲は、相手の絶命がこちらより早ければ相打ちにはなりえない。
「――――――――」
かつん、と。
秋葉の足音が、背中ごしに聞こえた。
間違いなく―――秋葉はこちらに気がつかず、この教室を通り過ぎようとしている。
……気づかれる前に仕留める。
ここで終わりだ。
シキの夢をなぞるつもりはない。
遠野秋葉は、ここで完璧に解体し尽くしてやる。
「――――――――――」
壁に走る『線』を凝視する。
……壁の向こうでは、かつん、という足音。
もっと強く。脳髄が焼けるほど、強く壁を直死した。
……足音は直前にきた。
この薄い壁の向こうには、無防備に歩いている秋葉の姿がある。
「――――――――」
……巧くすれば、直接手をかける必要もない。
遠野秋葉は壁の下敷きになって死亡する。……いや、窓際の壁は薄い。そんな事では死ぬ事はないだろう。
「――――――――」
なら、やはり。
あの長い髪を切断し、彼女の肉体をバラバラにするのは自分の役目だ。
秋葉を。殺す。
もう人でなくなった秋葉は。殺しても、いい相手。
……………………………もう人でなくなった。
だが、それでも。
秋葉は、遠野志貴の、妹、なのに。
それを。
人でなくなっただけで、おまえは。
―――――――ズキン
「くっ――――――――あ」
頭痛。止まったはずの頭痛が、どうして。
―――――――ズキン ズキン ズキン
頭痛。眼球が飛び出しそうな痛み。
……壁の線を無理に見出そうとしたせいだ。
頭が、痛い。
……ああ。こんなにもイタイと、さっきまでの自分が、納まってしまう。
―――――――ズキン ズキン ズキン ズキン
「ぁ―――――――――――あ」
考えるな。
頭痛ぐらい無視しろ。
ここで考えれば、俺はきっと―――自分の間違いに気がついてしまう。
そうなる前に―――遠野志貴に戻る前に、秋葉を殺さなければ逆に殺されてしまう。
「―――――――――――!」
自身を殺す勢いで、ナイフを振るった。
キィン、という乾いた音。
たった一度だけ大きく振るったナイフは円を描いて、バターのように、壁をキレイに切り取った。
あとは。
廊下に向けて、切断した壁を蹴り押した。
「――――――――――――え?」
間の抜けた秋葉の声が聞こえる。
……それも当然か。
突然壁が円形に切り取られて、それがまるごと自分にむかってスライドしてきたのだ。驚かないハズがない。
そして、それが終わりだった。
壁に開いた穴から廊下に跳び出る。
こちらの―――俺の姿は切り取られた壁が障壁となって秋葉には見えない。
「――――――――」
秋葉に向かって倒れようとする壁。
それを秋葉の赤い髪が包む。
……無機物からでさえも熱を奪えるのか、壁は急速に結合を失っていく。
だが。
秋葉がそれを分解する前に、俺のナイフが解体した。
バラバラと。
大小様々な塊になった壁が落ちていく。
―――――――――――――ズキン
それは一瞬。
一瞬だけの、光景だった。
秋葉の髪が逆立つ。
そのまま俺の体を包み込む。
だが―――遅い。
秋葉の周囲の熱気ごと壁を切断した。
新しい熱は瞬間には放出されないだろうし、たとえそうでなくとも。
秋葉を押し倒して、馬乗りになった俺のナイフのほうが、秋葉の髪よりわずかに速かった。
「あ――――――――」
秋葉の、声。
持ち上げたナイフ。あとは、それを秋葉の左鎖骨から右肺に走る『線』へ通すだけ。
だが、秋葉の髪も俺の腕に絡まっている。
首にも体にも髪は流れて、躊躇すれば次の瞬間に自分の体が気化させられると理解している。
――――――――――――――――ズキン
でも、頭痛がする。
頭痛がするんだ、秋葉。
あんなに頭の中でコロセと繰り返していたのに、
あんなにおまえが憎かったのに、
それでも――――――――
……どうして。
どうして目が醒めてしまったのか。
どうして秋葉の姿が、一瞬でも元の秋葉に見えてしまったのか。
それさえなければ、すぐにこのナイフを落としていたのに。
それでも――――――――
……肌が焼けている。
体に絡みついた髪が、熱を奪っている。
視界が薄くなる。
秋葉を押さえつける体に力が入らない。
ふう、と。
秋葉に息を吹きかけられれば、それだけで倒れてしまいそうなぐらい、体が軽い。
だが―――まだ腕は生きている。
まだ間に合う。即死していないのなら、俺の勝ちだ。秋葉さえ仕留めれば、これ以上熱を奪われる事はない。
それでも―――――――――
「――――――――――――――っ」
なのに、どうしても、ナイフを落とせなかった。
なんて、甘さだろう。
秋葉は躊躇うことなく俺を消し去る。
そんな事、本当に解っている。
秋葉はもう、以前の秋葉じゃないんだから。
――――――それでも。
それでも、そんな事は。
できる筈が、なかった。
―――――――――――――――――ズキン
……頭痛。
散々これには悩まされたけど、今だけは感謝しないと。
……間違えてた。
秋葉が人間でなくなったから、秋葉は以前の秋葉じゃないから、殺していいと思うなんて、どうかしてた。
たとえどんなに変わってしまっても、秋葉は秋葉だ。
俺を助けてくれて、ずっと待っていてくれた、大切な、妹なんだ。
――――それを。
どうして、傷つける事が、できるだろう。
……………………………………………ズキ、ン
頭痛が消える。
体の力も消えていく。
ただナイフだけは秋葉に落ちないように、薄れていく意識の中で、必死に腕に力を込めた。
「どうして……殺さない、んですか」
秋葉の声。
「私は血を吸う鬼なんでしょう……? 夜になれば人の血を啜る怪物で、今も兄さんを殺すし、琥珀だってこの手にかけてしまった。
なのにどうして――――そんな、哀しそうな顔をするん、ですか」
奪われていく熱。
……俺と違って、秋葉は本当に容赦がない。
もう。俺の体は、とっくに死んでいると思うぐらい、冷たく、なっていた。
「……やめてよ。そんな顔で死ぬなんて、卑怯じゃない。……私は悪いヤツなんだから、兄さんは最後まで秋葉を憎んで、よくも琥珀を殺したなって恨み言を言わないとおかしいでしょう?
琥珀だって私が憎かった筈よ。私は遠野槙久の娘で、琥珀の気持ちを知っていながら琥珀を屋敷に留めていたんだもの」
「……だから琥珀にならいいと思ってた。
あの子が遠野の家に復讐するっていうんなら、それに踊らされようって。琥珀の血を飲んで、私がヒトでなくなってしまっても―――琥珀は私が憎いんだから、それは仕方がない事、なんだって」
―――そうか。
秋葉も、俺と同じだったのか。
知っていながら。琥珀さんが俺たちを破滅させようって知っていながら、それでも―――
「だって仕方がないじゃない。それぐらいしか、私は琥珀に償う方法がないんだもの。
……琥珀が望んだなら、せめて私ぐらいは遠野の血族の中で、あの子の味方になってあげようって」
「……………………………違う」
思いを口にして、驚いた。
俺はまだ―――生きている、みたいだ。
「……なに? 兄さん、よく聞こえない」
「……違う、秋葉。琥珀さんは誰も憎んでなんかいない。琥珀さんは、好きでこんなコトを望んだんじゃない」
―――そう。
ただ、そんな事しか目的がみつからなかったから、それを必死にこなしていただけなんだ。
……あの人は、ただそれしか出来なかった。
自分は生きる目的がある人間なんだと、自分自身を一生懸命に騙すような事しか、できなかった。
「秋葉。俺はきっと、秋葉や琥珀さんに比べると、すごく、幸せだったと、思う。
……だから、ごめんな。俺には解らないんだ。遠野の家に縛られた秋葉の苦しみも、何も憎んでいないのに、こんなコトをするしかなかった琥珀さんの苦しみも」
なんて、皮肉。
「……誰が。誰が悪かったわけでもないんだ。俺も、秋葉も、シキも、琥珀さんも。……誰が悪かったワケでもない、のに――――」
どうして俺たちは、こんな。
互いを傷つける結果を、選んでしまったのか。
「……兄さん。まだ、間に合うんじゃ、ないかな」
組み伏された秋葉は、ぼんやりと俺を見上げながら言った。
「……兄さんはもうすぐ死ぬわ。けど私を殺せばまだ間に合うと思う。……まあ、琥珀がいないから確実とは言えないんだけど」
真剣な瞳をして、秋葉は俺を見上げている。
「……ね? だから早く、そのナイフを落としてください。それで兄さんは助かるんです」
秋葉は不機嫌そうに、とんでもない事を言ってくる。
「…………………」
……まったく。それができたら、とっくにやっているんだって、言ってるのに。
「……もうっ、それが出来ないのなら私が生き残るだけよ。
いいの? 私、調子にのって明日からこの街を阿鼻叫喚の地獄絵図に変えちゃいますからね。翡翠だけじゃなくて、兄さんの大事なお友達とかもひどい目に合わせちゃうんだから」
……秋葉がかなり本気だという事は、それなりに伝わってきた。
「…………ばか。そんな事したらよそから怖い人がやってきてタイヘンだぞ。……きっとさ、吸血鬼専門の殺し屋とかがいて、秋葉はそういった連中と日夜戦い続けるハメになる」
……だからまあ、地獄絵図にするのは止めなさい。
出来る事なら、秋葉は―――苦しいだろうけど血を吸うのを我慢して、今まで通りに、暮らしていってほしいんだから。
「――――どうして。
どうしてそんな顔するんですか、兄さんは。
……私はもう以前の秋葉じゃないんです。こうしている今だって、兄さんの首筋に噛みつきたいって思ってる。
私はシキと同じで、狂気に取り憑かれたただの怪物でしょ? ならさっきの兄さんに戻って、サクッと気持ち良く始末したほうがいいじゃない」
秋葉は拗ねながら、まるで俺が悪いように責めたてる。
……始末した方がいい、と秋葉は言う。
それは確かにさっきまで自分を支配していた言葉だ。
だが、そんなもの。少しだって、よくはない。
「――――できない。俺には、秋葉は殺せない」
「以前の秋葉は、でしょう。今の私は違うの。兄さんの知ってる遠野秋葉じゃないんだってば」
「―――違う、そんなの関係ない。
たとえおまえに憑き物がとり憑いていて、そいつを消すためだとしても―――遠野志貴は、遠野秋葉を傷つけることなんてできない」
……この八年間、ずっと俺を許してくれていた黒髪の少女を、愛している。
それが兄妹としての感情で、秋葉の感情とは違うとしても。
「秋葉は、俺にとって大切な人なんだよ。その相手を―――傷つける事なんて、できない」
「―――――――――――」
秋葉は目を見開いたあと。
はあ、と肩をすくめて息を吐いた。
「……もうっ、なに言っているのよ。私は兄さんには傷つけられてばかりだったわ。そんな事にも気がついてくださらないなんて、本当に鈍感なのね」
秋葉は優しい声で囁いた。
その後。止まったままの俺の手の平に、そっと、両手を重ねてきた。
「――――――――――あ」
それだけで、秋葉が何をするつもりなのか読み取れた。
腕を離そうとしたが、腕には力が入らない。
……秋葉の言うとおり。俺の体は、とっくに俺の自由になるものでは、なくなっていた。
「やめ――――――やめろ、秋葉…………!」
必死に声をあげた。
秋葉は聞こえないふりをして、ニコリと笑った。
「……まったく。だからこんな時まで、私は自分でしなくちゃいけないんです」
そう、どこか嬉しげで、ひどく悲しそうな笑顔で。
秋葉は、その両手に力を込めた。
―――――――ナイフが落ちる。
そこは線のある場所じゃない。
ただの心臓。刺されば激痛をともなう、ただの致死傷。
「あ―――――――あき、は……………!」
腕は止まらない。
俺には、秋葉の行為を止められない。
こんな――――――こんな事って、あるか。
俺は、結局。
大切な二人を救おうとして、その二人を。
自分の目の前で、失おうとしているなんて―――
「だめぇ――――――――!」
―――――――――?
なんだ、ろう。
腕が止まって、いる。
俺の手に重なった秋葉の両手。それを抱きかかえるように、誰かが覆い被さっていた。
秋葉は信じられないものを見るように、その人影を見つめている。
俺は―――そう、きっと秋葉と同じぐらい、真っ白い貌をしていただろう。
「琥――――珀?」
「はい……! わたしです秋葉さま……! わたしですから、どうか―――この手をお放しください……!」
琥珀さんは泣きそうな顔で、秋葉が握ったナイフを引き剥がした。
「…………………琥、珀」
秋葉はぼんやりと。まるで憑き物が落ちたみたいに呆然と琥珀さんを見つめている。
「………………そっか。生きてたんだ、琥珀」
「――――はい。秋葉さまはわたしの意識を落としてしまわれただけです。
秋葉さまは最後の瞬間に、人を殺してしまわれる事をためらったんです」
「―――――――――」
秋葉の瞳が悲しげに揺らいだ。
……狂暴な想念に取り憑かれていた秋葉の無意識にあった、人間らしい最後の感情。
それが―――琥珀さんと、秋葉を救ったものだった。
ほう、と。
大きく吐息を吐いて、秋葉は目蓋を閉じた。
「―――まいったなあ。これじゃあ結局あなたの全勝って事じゃない。琥珀は生きていて、遠野家の最後の血筋はここまでってコトでしょ?
……でもまあ、それもいいかな。私も正直、そろそろ休みたいって思ってたんだ」
言って、秋葉は力なく両手をさげた。
「さ、いいよ琥珀。……兄さんは殺してくれなかったけど、琥珀ならやってくれるでしょ? 私は琥珀を殺そうとしたんだし、あなたが嫌いな遠野槙久の娘なんだもの」
「…………………」
琥珀さんはナイフを握ったまま、じっと秋葉を見つめて、当然のように、首を横にふった。
――――すごく、静か。
張り詰めていた氷が溶けていくように、ゆったりと、時間が流れていく。!w2000
「……………………不思議ね。どうして琥珀まで、私を殺してくれないのかな」
瞼を閉じたまま。まるで眠っているかのように、秋葉は呟いた。
「決まっています。わたしは、秋葉さまが好きですから」
からん、と。
琥珀さんの手からナイフが落ちた。
「どんなに秋葉さまがわたしをお嫌いになられても、琥珀は、秋葉さまにずっとお仕えしたいんです。
ですから秋葉さま―――どうかわたしを哀れと思うのなら、死なないでください。このまま秋葉さまに死なれては、わたしは―――もとの琥珀に、戻ってしまいます」
「……………もう。無茶なこと、言ってくれるんだから」
はあ、という大きなため息。
そうして、秋葉は拗ねるように視線をそらした。
「けど仕方ないか。琥珀にはさっきの借りがあるし、今はおとなしくしてあげる。
……兄さんもね。しょうがないけど、兄妹として愛してくれるならそれでいいかなぁって、思ってさしあげます」
――――秋葉の髪が流れていく。
体に絡みついたモノは消えて、俺はそのまま、後ろに倒れこんだ。
いつのまにか、天は高く澄んでいた。
銀色の月。
青白い廊下には、もう赤い熱気は存在しない。
秋葉の髪は赤いままだったが、秋葉本人が背負っていた蜃気楼はとうに失われていた。
今は―――琥珀さんがついていてくれるから、秋葉もきっと大丈夫だ。
「―――――――――」
意識が遠退く。
冷めきった体が眠りに至ろうとする。
その前に。
今は安らかな月光を見て、ぼんやりと思った。
月日がたって、遠野志貴が屋敷の生活に慣れた後も。
きっと今のままで、幸せに過ごせているんだろうなんて、そんな都合のいいユメを――――
●『日向の夢』
●『an epilogue』
「志貴さま、どうかお目覚めください、志貴さま」
……声が聞こえる。
もう、何度も何度も聞きなれた翡翠の声。
「もうお時間を過ぎています。これ以上お眠りになられるのはどうかと存じますが」
……控えめな翡翠の声。
だが、そんな事では昨夜、嬉しくて中々眠れなかった俺を起こす事はできないのだ。
「―――志貴さま。いいかげんに起きてくださいませんと、秋葉さまにまたいじめられるだけだと思いますが」
―――刹那。
まどろんでいた意識が、その一言で覚醒した。
「――――――っ!」
ベットから跳ね起きる。
翡翠は傍らでじっと、俺の慌てぶりを観察していた。
外からはみーん、というセミの声が聞こえてくる。
朝だっていうのに陽射しは強くて、寝巻は汗で濡れている。
まあ、それは。これ以上はないっていうぐらい、典型的な夏の朝だった。
「あ――――おはよう、翡翠」
「おはようございます、志貴さま」
丁寧にお辞儀をする翡翠。……その冷静ぶりが、逆に厭な予感をかきたてる。
「翡翠。もしかして秋葉のヤツ、まだ出かけていないのか……?」
「はい。志貴さまのお顔を見るまでは、と居間のほうでお待ちしております。……そうですね、そろそろ一時間ほど経過すると思いますが」
「――――――――――!」
時計を見る。
時刻は午前十時を過ぎたあたり。
「くそ―――なんで今日にかぎってこんな時間まで残ってるんだよ、秋葉のヤツ……!」
「志貴さまがご旅行に出かける朝ですから。秋葉さまがお見送りをしようとするのは当然の事だと思いますが」
「……………………う」
なんだか翡翠の視線が痛い。
……あの事は秘密の筈なんだけど、やっぱり翡翠と秋葉にはバレてしまっているんだろうか。
「……わかった。とにかくすぐに居間に行くから。翡翠は先に行っていてくれ」
「かしこまりました。それでは失礼します」
……翡翠は慇懃に退室していった。
昨夜から用意してあった服に着替えた後、ショルダーバッグを肩にかけて部屋を後にした。
―――居間には。ご機嫌ななめどころか垂直になりつつある秋葉の姿があった。
「よっ。おはよう、秋葉」
「おはよう兄さん。ご旅行の朝にしては、またずいぶんとゆっくりした起床ですね」
秋葉はねっとりとした視線を向けてくる。
「……悪かったな。昨日は眠れなくて朝方まで起きてたんだ。これでも早起きしたほうだぞ、俺」
「ふーん。旅行が楽しみで前日に眠れないなんて、ずいぶんと可愛い事をおっしゃるんですね。
兄さん、そんなに乾さんと遊びに行く事が嬉しいんですか?」
「なんだよその言い方。旅行は楽しみなものに決まってるだろ」
「そうですね。兄さんの喜びようっていったらお酒を飲んだ栗鼠のようですから。夏休みに入ってからというもの、ずっとこの日を待っていたんでしょう? 乾さんと何処に行くかは知りませんけど、よっぽど旅行先にいいコトでも待っているんでしょうね」
「秋葉さま。その言い回しはおかしいと思います。いいコトは有るもので、待っているものではありません」
「あ、そっか。待ってるっていう形容詞は人に対して使うものだものね。兄さんに一時間も待たされたものだから、私ったらどうかしてるみたい」
「………………………………」
……この二人。最近、すごく息があってる。
「それで兄さん。旅行は何日でしたっけ」
「……七日間だけど。それが、なに」
「へえ、短いんですね。たまにしか会えないんだから、私はてっきり休みの間はずっとあちらに居ると思ってたのに。
兄さん。そんなんじゃ琥珀、可哀相なんじゃない?」
「な―――なな、なにを言ってんだおまえ! 俺は乾とアテのない旅に出るんであって、決して琥珀さんの所になんか行かないぞ……っ! だいたいな、琥珀さんとならすぐに会えるじゃないか。今だって土日はこっちに来てくれるんだから、別に、俺から会いにいく必要なんて…・
………」
「――――――――――――――」
「…………必要なんて、ないけど……やっぱり寂しいかなっ、と………」
視線に耐えきれなくなって、床を見つめてみたりする。
―――くそ、いいじゃんか。
夏休みなんだから、琥珀さんの所に泊まりに行くぐらい、見てみぬふりをしてくれても。
「―――と、もうこんな時間か。これ以上先方をお待たせするワケにはいかないし、今日はここで許してさしあげますね、兄さん」
秋葉は楽しげに言ってソファーから立ちあがる。
「それじゃ翡翠、あとはよろしくね。今日は夕方には帰ってくるから、二人で仲良く陰口でも叩きましょう」
「はい。それは、是非」
……だから。
秋葉はともかく、翡翠まで性格が変わってきたのはどういう事なのか。
「行ってきます。兄さんも行ってらっしゃい。お土産は期待してませんから、どうぞごゆっくり」
秋葉はロビーへと去っていく。
と。
「あーあ、私も早くいい男みつけたいなー」
なんて、大声で最後のアテツケを残していった。
「………アイツ、日増しに元気になっていくな」
ほんと、まさかこんなふうに事が運ぶとは思わなかった。
……あの事件から、もう一年ほど経っている。
変わった事は沢山あるけど、その中でも特筆すべきなのは秋葉と琥珀さんの事だろう。
ぶっちゃけて言うと、秋葉は以前のままである。
髪は赤いままで、普段は黒く染めているらしい。……いや、薬品によるモノではなく、本人の意思で変えられるのだそうだ。擬態かもしれない。
……吸血衝動もそれなりにあるらしくて、たまに輸血用のパックをちゅーちゅー吸っている。これも擬態かもしれない。
秋葉はシキから、何かの悪霊じみたモノを受け継いでしまった。
それが原因で秋葉は暴走してしまったワケだけど、あの一件の後、秋葉はソレの手綱を握ってしまったらしい。
簡単に言うと、ソレは秋葉に移った時点でとても薄くなっていて、秋葉の性格が少し強気になる程度の影響で収まった、というのだ。
……強気というよりはいじわるになった、というのが正しいと思うのだが、本人に言うと怒るのでやめておく。
ソレは秋葉の性格をちょっと素直にさせただけではなく、どうも秋葉の力そのものも強くさせた。
秋葉一人では抑えきれなかった遠野という『血』を、ソレのおかげで秋葉はうまくコントロールできてしまっている。髪の色を隠せるのもそれのおかげだろう。
……結論から言えば敵無し状態で、お兄ちゃんとしてはタイヘン扱いに困っている。
―――一方琥珀さんはと言うと、年が明けた頃に独立してしまった。
秋葉が一人でも大丈夫になった事と、何か思う所があったのか、琥珀さんは長野の山奥にある遠野の分家の屋敷で働く事になった。
……それでも週の終わりにはここに帰ってきて、四人で以前のように過ごしている。
以前、どうしてそんな事をするんだと問いただしたら、なんでも向こうで調べたい事があるから、それが終わるまで我が侭を聞いてください、と返されてしまった。
そう言われると惚れた弱みで、こっちとしては待つしかない。
以来、俺と琥珀さんは週の終わりに再会するんだけど、屋敷では秋葉や翡翠がいるので二人きりにはなりにくかった。
ついでに言うと、琥珀さんと秋葉の中は良好だ。
琥珀さんは秋葉の事を好いているし、秋葉も琥珀さんの事を気に入っている。
……俺と琥珀さんの事は、秋葉も認めている、と公言はしていた。公言はしているんだけど、
「いいわよ、別に。兄さんは兄さんの勝手にするんだから、私だって私の勝手にするだけだもの」
なんて、どうとっていいか解らない発言を付け足していた。
「…………………はあ」
という訳で、色々と込み入っている現状の中、琥珀さんから手紙がきた。
俺に見せたいものがあるから夏休みを利用して長野まで出てきてほしい、という手紙を見て、すぐに今回の狂言旅行を計画したわけである。
一応、俺はこれから有彦と一週間旅行をする事になっている。
だっていうのに、秋葉と翡翠はよからぬ疑いをかけてくる。……まったく。二人とも、人の事をなんだと思っているんだろう。
「志貴さま」
「うわあ!」
……心臓に、悪い。
翡翠も、後ろから気配を殺して声をかけるのは止めてほしい。
「志貴さま、急がないと電車の時間に間に合わないのではないですか?」
「あ―――まず、そういえばのんびりしてる場合じゃなかった」
用意のいい琥珀さんは、長野までの交通手段をきっかりと準備してくれていた。
電車は指定席なので、時間を逃すと自腹で電車に乗らないといけなくなる。……バイトもさせてもらえない貧乏学生には、それは切腹と同意語だ。
「わるい、俺もそろそろ行くよ。ごめんな、朝っぱらから慌ただしくしちゃって………!」
バッグを持って居間を後にする。
その背中に、
「はい。それでは、姉さんによろしく言っておいてください」
なんていう、柔らかな翡翠の声がかけられた。
―――――――汽車は走る。
白く消え去ってしまいそうな陽射しの中、山間の田園を駆けていく。
あまりに田舎だからだろうか、車両には自分しかいなかった。
窓際に座って、流れていく景色を眺める。
暑い陽射しが視界を眩ませて、風の心地よさだけが頬に触れていた。
「――――――――」
手紙に視線を落とす。
手紙には写真が同封されていて、あとは待ち合わせるべき場所の住所しかない。
……住所といっても、それは『この街からこれこれこういった道順で行けます』といった、住所なんてない場所の標だ。
同封された写真は、きっとその場所のものなのだろう。
「――――――帰るべき場所、か」
そこがどこであるのか、言われなくても予感はしていた。
……琥珀さんは、きっと覚えていたんだろう。
遠野槙久が口にしていた些細な言葉。それを頼りにして、あの森を見つけ出したのかもしれない。
黒い森。
誰の目にもつかない、山奥にひっそりとあった古い屋敷。
昔。
七夜志貴という子供が暮らしていた、その場所を。
「――――――――――」
……目的地までにはあとしばらくかかる。
陽射しがあんまりにも強すぎたせいだろう。
目を閉じて椅子に背中を預けて、そのまま――
―――そのまま、夢に落ちた。
白く霞むような太陽。
人の手垢に汚れていない空気の匂い。
空はどこまでも澄んで、ゆらめく陽炎が風を弾く。
春は野草。秋は星空。冬は冷たい土だけの故郷。
あと、夏は、たしか―――目を奪うような、明るい花。
―――そこに、彼女が待っている。
一面の花畑。
むせ返る夏の匂い。
明るい向日葵に負けないぐらいの華やかな笑顔。
焦げるほどの熱さの中で、彼女は出迎えてくれる。
――――――おかえりなさい、と。
今度こそ、本当に。
子供の頃の約束を叶えるように。
fin.....