月姫
温かな午睡(秋葉・トゥルーエンド)
TYPE-MOON
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乾有彦《いぬいありひこ》
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●『オープニング』
―――――――ふと、目が覚めた。
暗い夜。
家の中にみんなはいない。
一人きりはこわいから
みんなにあいたくて庭にでた。
屋敷の庭はすごく広くて
まわりは深い深い森に囲まれて。
森の木々はくろく・くろく
大きなカーテンのようだった。
それは まるでどこかの劇場みたい。
ざあ と木々のカーテンが開いて、
すぐに演劇が始まるのかとわくわくした。
遠くでいろんな音がしてる。
くろい木々のカーテンの奥。
森の中で みんなが楽しそうに騒いでる。
幕はまだ開かない。
がまんできずに 森の中へと入っていった。
すごく、くらい。
森はふかくて ツメタイヒカリも届かない。
ただ 寒い。
眼球の奥がしびれてしまうぐらいの 寒い冬。
自分の名前をよばれた気がして
もっと奥へと歩いていく。
木々のヴェールを抜けたあと。
森の広場にはみんなそろって待っていた。
みんなふぞろいのかっこう。
みんなばらばらのてあし。
一面 まっかになってる森のひろば。
───わからない。
バラバラにするために見知らぬ人がやってくる。
───よく わからない。
けれど誰かが前にやってきて
かわりにバラバラにされてくれた。
───ボクは子供だから よく わからない。
びしゃりと。
暖かいものが顔にかかった。
あかい。
トマトみたいに あかい水。
バラバラになった人。
その おかあさん という人は
それっきりボクの名前を呼ばなくなった。
―――――ほんとうに よくわからないけれど。
ただ寒くて。
意味もなく 泣いてしまいそうだった。
目にあたたかい緋色が混ざってくる。
眼球の奥に染みこんでくる。
だけどぜんぜん気にならない。
夜空には、ただ一人きりの月がある。
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すごく不思議。
どうしていままで気がつかなかったんだろう。
───なんて、ツメタイ───わるい、ユメ。
ああ───気がつかなかった。
こんやはこんなにも
つきが、きれい───────だ─────
[#改ページ]
気がつくと病院のベッドにいた。
カーテンがゆらゆらとゆれている。
外はとてもいい天気で、
かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
「はじめまして遠野志貴くん。回復おめでとう」
初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めてきた。
にこやかな笑顔と、四角いメガネがとても似合っている。
清潔そうな白い服も、このおじさんにはぴったりだった。
「志貴くん。先生の言っている事がわかるかい?」
「……いえ。僕はどうして病院なんかにいるんですか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるような傷じゃなかったんだよ」
白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なにか、お医者さんらしくない事を言う。
――――――ひどく。
気分が、悪くなった。
「……眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。今は無理をせず、体の回復につとめるのがいい」
お医者さんは笑顔のままだ。
はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴くん」
「どうして、そんなに体じゅうラクガキなんかしているんですか。この部屋もところどころヒビだらけで、いまにも崩れちゃいそうですけど」
お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩したけれど、すぐにまたニコニコとした笑顔に戻って、カツカツと歩いていってしまった。
「―――やはり脳に異状があるようだ。脳外科の芦家先生に連絡をいれなさい。それと眼球にも損傷の疑いがあるな。午後は眼の検査に回すように」
お医者さんは、僕に聞こえないように、こっそりと看護婦さんに話しかけた。
「………ヘンなの。みんな体中にラクガキしてる」
くろい、ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうに走ってる。
意味はよくわからないけど、見ているだけでとても気持ちがわるい。
「……なんだろう、コレ」
ベッドにもラクガキがある。
指で触ってみたら、つぷり、と指先が沈み込んだ。
「―――あ」
もっと細い物で触れたら奥まで沈みそうなので、棚におかれた果物ナイフでラクガキをなぞってみた。
何の力もいれてないのに、ナイフは根元までベッドに沈み込む。
面白かったから、そのままラクガキどおりにナイフを引いた。
ごとん。
重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまった。
「きゃあああああ!」
となりのベッドにいる女の子が悲鳴をあげる。
看護婦さんたちが走ってきて、果物ナイフを取りあげられた。
「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」
お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、その方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。ねえ、どうしてこの病院はヒビだらけなの?」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんてないんだ。
それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒らないから教えてくれないかな」
「―――だから、その線をなぞっただけなんだ」
「……わかった。このお話はまた明日にしよう」
お医者さんは去っていく。
けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはくれなかった。
あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうとキレイに切れた。
力なんていらない。
紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることができた。
ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。
……試したことはないけれど、たぶん、きっと、にんげんも。
ラクガキはみんなには見えてないみたいだ。
なぜか自分だけに見える黒い線。
それがなんであるか、子供の自分にもなんとなく分かってきた。
アレはきっと、ツギハギなんだ。
手術をして傷口を縫ったあとのところみたいに、とても脆くなっているところだとおもう。
だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れるはずなんてない。
――――ああ、今まで知らなかった。
セカイはこんなにもツギハギだらけで、とても壊れやすいトコロだったなんて。
みんなには見えてない。
だから平気。
でも僕には見えている。
こわくて、こわくて、歩けない。
まるで、僕だけおかしくなってしまったみたいだ。
だからだろうか。
あれから二週間も経つのに、誰も僕の話を信じてくれない。
あれから二週間も経つのに、誰も、僕に会いに来てくれない。
あれから二週間も経つのに。
ずっと、僕だけがツギハギだらけのセカイに生きている――――
病室にはいたくない。
ラクガキだらけのトコロにいたくない。
だからココから逃げ出して、誰もいない遠い場所に行くことにした。
でも胸の傷が痛くて、少ししか走れなかった。
気がつけば。
自分がいるのは街の外れにある野原で、ちっとも遠い場所になんて行けなかった。
「……ごほっ」
胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみこんでせきこんだ。
ごほっ、ごほっ。
誰もいない。
夏の終わりの、草むらの海のなか。
このまま、消えてしまいそうだった。
けれど、その前に。
「君、そんなところでしゃがんでると危ないわよ」
[#挿絵(img/シエル 26.jpg)入る]
後ろから、女の人の声がした。
「え………?」
「え、じゃないでしょ。君、ただでさえちっこいんだから草むらの中でうずくまってると見えないのよね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるところだったんだから」
ふきげんそうに女の人は僕を指差した。
……なんか、ちょっとあたまにきた。
僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に?」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相手になってくれない? 私は蒼崎青子っていうんだけど、君は?」
まるでずっと知りあいだった友達のような気軽さで、女の人は手を差し伸べてきた。
断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と自分の名前をいって、女の人の冷たい手のひらを握り返した。
女の人とのおしゃべりは、とても楽しかった。
この人は僕の言うことを『子供だから』といって無視しない。
ちゃんと一人の友達として、僕の話を聞いてくれた。
色々なことを話した。
僕の家のこと。歴史のある旧い家柄で、とても行儀作法にうるさくって、お父さんが厳しい人だということ。
あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、いつも僕のあとを付いてきていたということ。
広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきはと一緒に友達と遊んだこと。
―――熱にうかされたように、色々なことを話した。
「ああ、もうこんな時間。
悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるからお話はここまでにしましょう」
女の人は立ち去っていく。
……また一人になるのかと思うと、寂しかった。
「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。君もちゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守るんだぞ」
「あ―――」
女の人は、まるでそれが当たり前だ、というように去っていった。
「……また、明日」
また明日、今日みたいな話ができる。
嬉しい。
事故から目覚めて。初めて、人間らしい感情が戻ってきた。
そうして、午後になると野原に行くのが日課になった。
女の人は青子って呼ぶとおこる。
自分の名前が嫌いなんだそうだ。
考えたあげく、なんとなく偉そうな人だから『先生』と呼ぶことにした。
先生はなんでも真面目に聞いてくれて、僕の悩みを一言で片付けてくれる。
……事故のせいで暗くなっていた僕は、少しずつ、先生のおかげでもとの自分に戻っていけた。
あんなに怖かったラクガキのコトも、先生と話しているとあまり恐くは感じなくなっていた。
だから、どこの誰だか知らないけど、もしかしたら先生は本当に学校の先生なのかもしれない。
でも、そんなコトはどうでもいいことだと思う。
先生といると楽しい。
大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。
「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」
ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物ナイフを使って、野原に生えていた木を切った。
あのラクガキみたいな線をなぞって、根元からキレイに切断した。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの他の誰にもできないよね」
「志貴―――!」
ぱん、と頬を叩かれた。
「先……生?」
「――――君は今、とても軽率な事をしたわ」
先生はすごく真剣な目をして見つめてくる。
……理由はわからなかったけれど。
僕は、いま自分がした事が、とてもいけないコトなんだって思い知った。
厳しい先生の顔と、叩かれた頬の痛みで。
とても、とても悲しい気持ちになった。
「……ごめん、なさい」
気がつくと、泣いていた。
「―――――志貴」
ふわり、とした感覚。
「―――謝る必要はないわ。
たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、それは決して志貴が悪いってわけじゃないんだから」
先生はしゃがみこんで、僕を抱きしめていた。
「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。
だから私は謝らない。そのかわり、志貴は私のことを嫌ってもいいわ」
「……ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。……私が君に出会ったのは一つの縁だったみたい」
先生はそうして、僕が見ているラクガキについて聞いてきた。
この目に見えている黒い線のことを話すと、先生はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「……志貴、君が見ているのは本来視えてはいけないものよ。
『モノ』にはね、壊れやすい個所というものがあるの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完全じゃない。
君の目は、そういった『モノ』の末路……言い代えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「……未来を……みてる、の?」
「そうよ。死が視えてしまっている。
――それ以上のことは知らなくていい。
もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるなら、必然としてそれなりの理屈を知る事になるでしょうから」
「……先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメよ。
ただ一つだけ知っておいてほしいのは、決してその線をいたずらに切ってはいけないということ。
―――君の目は、『モノ』の命を軽くしすぎてしまうから」
「―――うん。先生が言うならしない。それに、なんだか胸がいたいんだ。……ごめんね先生。もう、二度とあんなことはしないから」
「……よかった。志貴、いまの気持ちを絶対に忘れないで。そうしていれば、君はかならず幸せになれるんだから」
そうして、先生は僕からはなれた。
「でも先生。このラクガキが見えていると不安なんだ。
だって、この線を引けばそこが切れちゃうんでしょう? なら、僕のまわりはいつバラバラになってもおかしくないじゃないか」
「そうね。その問題は私がなんとかするわ。――どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
はあ、とため息をついてから、先生はニコリと笑った。
「志貴、明日は君にとっておきのプレゼントをあげる。私が君を以前の、普通の生活に戻してあげるわ」
次の日。
ちょうど先生と出会ってから七日目の野原で、先生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば妙なラクガキは見えなくなるわよ」
先生がくれたものはメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。別に度は入ってないんだから」
先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
とたん―――
「うわあ! すごい、すごいよ先生! ラクガキがちっとも見えない!」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを奪ってまで作った蒼崎青子渾身の逸品なんだから。粗末にあつかったらただじゃおかないからね、志貴」
「うん、大事にする! けど、先生ってすごいね! あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、なんだか魔法みたいだ、コレ!」
「それも当然。だって私、魔法使いだもん」
得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えたわけじゃないわ。ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、線はまた見えてしまう」
「―――そ、そうなの?」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ。志貴、君はその目となんとか折り合いをつけて生きていくしかないの」
「………やだ。こんな恐い目、いらない。またあの線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる」
「ああ、もう二度と線をひかないっていうアレか。ばかね、あんな約束気軽に破っていいわよ」
「……そうなの? だって、すごくいけないコトだって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事ね。
けどそれは君個人の力なのよ、志貴。だからそれを使おうとするのも君の自由なの。君以外の他の誰も、志貴を責める事はできないわ。
君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な能力を持ってしまった。
けど、それが君に有るという事は、なにかしらの意味が有るという事なの。
かみさまは何の意味もなく力を分けない。
君の未来にはその力が必要となる時があるからこそ、その直死の眼があるとも言える。
だから、志貴の全てを否定するわけにはいかないわ」
先生はしゃがんで、僕の視線と同じ高さの視線をする。
[#挿絵(img/シエル 29.jpg)入る]
「でもね、だからこそ忘れないで。
志貴、君はとてもまっすぐな心をしてる。
いまの君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。
君は君が正しいと思う大人になればいい。
いけないっていう事を素直に受けとめられて、ごめんなさいと言える君なら、十年後にはきっと素敵な男の子になってるわ」
そう言って。
先生は立ちあがると、トランクに手を伸ばした。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネを外しちゃだめだからね。
特別な力は特別な力を呼ぶものなの。
どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人がよく考えて力を行使なさい。
その力自体は決して悪いものじゃない。結果をいいものにするか悪いものにするかは、あくまで志貴、君の判断しだいなんだから」
トランクが持ちあがる。
―――先生は何も言わないけれど。
僕は、先生とお別れになるんだとわかってしまった。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃわからない。
ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかったんだ。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたんじゃないか。
……だめなんだ。
先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだめに決まってるじゃないか……!」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も騙せないような嘘は、聞いている方を不快にさせるわ」
先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と僕の額を指ではじいた。
「―――自分でもわかってるんでしょう?
君はもう大丈夫だって。ならそんなつまらないコトをいって、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけないわ」
先生はくるり、と背を向けた。
「それじゃあお別れね。
志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし穴だらけなのよ。
君は人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい」
先生は行ってしまう。
とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、シャンとして見送る事にした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来よ志貴。その意気でいつまでも元気でいなさい。
いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト。
大丈夫、君なら一人でもちゃんとやっていけるから」
先生は嬉しそうに笑う。
ざあ、と風が吹いた。
草むらが一斉に揺らぐ。
先生の姿はもうなかった。
「……ばいばい、先生」
言って、もう会えないんだな、と実感できた。
残ったものはたくさんの言葉と、この不思議なメガネだけ。
たった七日だけの時間だったけれど、なにより大事なコトを教えてくれた。
ぼんやりと佇んでたら、目に涙がたまった。
―――ああ、なんてバカなんだろう。
僕はさよならばっかりで。
ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった。
僕の退院は、それからすぐだった。
退院したあと、僕は遠野の家ではなく、親戚の家に預けられる事になった。
けど大丈夫。
遠野志貴は一人でもちゃんとやっていける。
新しい生活を、新しい家族と過ごす。
遠野志貴の九歳の夏はそうして終わった。
新しい秋がやってきて、僕は少しだけ、大人になったんだと思う――――
[#改ページ]
●『1/反転衝動T』
● 1days/October 21(Thur.)
―――――秋。
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
自分こと遠野志貴は、八年ぶりに長く離れていた実家に戻る事になった。
「志貴、早くしなさい。いつもの登校時間を過ぎていますよ」
台所から啓子さんの声が聞こえてくる。
「はい、いま出ますからー!」
大声で返して、それまで自分の部屋だった有間家の一室に手を合わせる。
「それじゃ行くよ。八年間、お世話になりました」
ぱんぱん、と柏手をうった後。
鞄一つだけ持って、慣れ親しんだ部屋を後にした。
玄関を出て、有間の屋敷を振りかえる。
「志貴」
玄関口まで見送りにきた啓子さんは、淋しそうな目で俺の名前を口にした。
「行ってきます。母さんも元気で」
もう帰ってくる事はないのに行ってきます、というのはおかしかった。
もうこの先、家族としてこの家の敷居をまたぐ事はないんだから。
「今までお世話になりました。父さんにもよろしく言っておいてください」
啓子さんはただうなずくだけだった。
八年間────俺の母親であった人は、ひどく悲しげな目をしていた。
この人のそんな顔、今まで見たことはなかったと思う。
「遠野の屋敷の生活はたいへんでしょうけど、しっかりね。あなたは体が弱いのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ」
「大丈夫、八年もたてば人並みに健康な体に戻ります。こう見えてもワリと頑丈なんです、俺の体」
「ええ、そうだったわね。けど遠野の方達はみなどこか違っている人達ですから、志貴が圧倒されないかと心配で」
啓子さんの言いたい事はなんとなくわかる。
今日から俺が住む事になる家は、お屋敷ともいえる時代錯誤な建物なのだ。
住んでる家も立派なら家柄も立派という名家で、実際いくつかの会社の株主でもあるらしい。
くわえて言うのなら、八年前に長男である俺―――遠野志貴を親戚である有間の家に預けた、自分にとって本当の家でもある。
「でも、もう決めた事ですから」
そう、もう決めた事だった。
「……それじゃあ行ってきます。今までお世話になりました」
最後にもう一度だけそう言って、八年間馴れしたんだ有間の家を後にした。
「――――はあ」
有間の家から離れて、いつもの通学路に出たとたん、気が重くなった。
―――八年前。
普通なら即死、という重症から回復した俺は、親元である遠野の家から分家筋である有間の家に預けられた。
俺は九歳までは実の両親の家である遠野の屋敷で暮らしていて、その後の八年間、高校二年生である今までを親戚である有間の家で暮らしていた、というコトになる。
なかば養子という形で有間の家に預けられてからの生活は、いたってノーマルなものだった。
あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事はまったくおこらなかったし、自分も先生のくれたメガネをかけているかぎり『線』を見る事がない。
遠野志貴の生活は、本当に平凡に。
とても穏やかなままで、ゆるやかに流れていた。
……つい先日。
今まで勘当同然に放っておかれた自分に、
『今日までに遠野の屋敷に戻って来い』
なんていう遠野家当主からのお言葉がくるまでは。
「はあ────」
またため息がでる。
実のところ、交通事故に巻き込まれて入院する以前から、俺は遠野の家とは折り合いが悪かった。
行儀作法にうるさい屋敷の生活が子供心にはつまらないモノに思えてしまったせいだろう。
だから有間の家に預ける、と実の父親に言われた時は、さして抵抗もなく養子に出た。
結果は、とても良好だったと思う。
有間の家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である文臣さんとも親子のように接してきた。
もともと一般的な温かい家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で本当の子供のように暮らしてきた。
そこに後悔のたぐいはまったくなかった。
……ただ一つ。
一歳年下の妹を遠野の屋敷に残してきてしまった、ということ以外は。
「……秋葉のやつ、俺のことを恨んでるんだろうな」
というか、恨まれて当然のような気がする。
あの、やたら広い屋敷に一人きりになって、頭の硬い父親とつきっきりで暮らしていたんだ。
秋葉がさっさと外に逃げ出してしまった俺のことをどう思っているかは容易に想像できる。
「…………はあ」
ため息をついても仕方がない。
あとはもうなるようになれだ。
今日、学校が終わったら八年ぶりに実家に帰る。そこで何が待っているかは神のみぞ知るというところだろう。
「そうだよな。それに今はもっと切迫した問題があるし」
腕時計は七時四十五分をさしている。
うちの高校は八時きっかりに朝のホームルームが始まるため、八時までに教室にいないと遅刻が確定してしまう。
鞄を抱えて、学校までダッシュする事にした。
「ハア、ハア、ハア――――」
着いた。
家から学校まで実に十分弱。
陸上部がスカウトにこないのが不思議なぐらいの好タイムをたたき出して、裏門から校庭に入る。
「……そっか。裏門から入るのも今日で最後か」
位置的に有間の家と遠野の家は学校を挟んで正反対の場所にある。
有間の家は学校の裏側に、遠野の屋敷は学校の正門方向。
自然、明日からの登校口は裏門ではなく正門からになるだろう。
「ここの寂しい雰囲気、わりと好きだったんだけどな」
なぜかうちの高校の裏門は不人気で、利用しているのは自分をふくめて十人たらずしかいない。
そのせいか、裏庭は朝夕問わずに静かな、人気のない場所になっている。
かーん、かか、かーん。
……だからだろうか。
小鳥のさえずりに混ざって、トンカチの音まで確かに聞き取れてしまうのは。
「トンカチの音か―――って、え……?」
かーん、か、かかーん、かっこん。
半端にリズミカルなとんかちの音がする。方角からして中庭のあたりからだろうか。
「………………」
なんだろう。
ホームルームまであと十分ない。
寄り道はできないのだが、なんだか気になる。
ここは――ホームルームまであと数分。今は教室に直行するべきだ。
◇◇◇
いつもより何分か余裕をもって教室に到着した。
「―――ふう」
軽く深呼吸をして、窓際にある自分の机へと歩いていく。
と。
「おはよう遠野くん」
なんて、聞きなれない声で挨拶をされてしまった。
「―――え?」
戸惑いながら振りかえる。
「遠野くん、さっき先生が捜してたよ。なんかお家のことで話があるとか言ってたけど」
「……ふうん。家の事って、引っ越しについてかな」
……住所移転の手続きは昨日すませたはずだけど、なにか不備でもあったんだろうか。
「―――――」
クラスメイトの女生徒は立ち去るわけでもなく、じっとこっちの顔を見つめてくる。
「えっと……おはよう、弓塚」
「うん、おはよう遠野くん。わたしの名前、ちゃんと覚えていてくれたんだね」
ホッとしたように吐息をもらして、彼女―――弓塚さつきは淡く微笑んだ。
「クラスメイトの名前ぐらいは覚えているよ。その、弓塚さんとはあんまり話をしたことはなかったけど」
「そうだよね。うん、だからわたし、遠野くんに話しかけるのはちょっと不安だったんだ」
言って、また弓塚は笑った。
なんだかひどく喜んでいるような、そんな素振りをしている。
「………………」
何か他に用件があるのか、弓塚はじっとこちらを見つめている。
……正直に言って、俺は彼女とはあまり親しくない。二年になって同じクラスになったものの、今までかわした言葉なんて数える程度のものだ。
ただ、弓塚さつきはクラスの中でも中心的な生徒だった。
クラスの男子のほとんどは弓塚に熱をあげているという話だし、女子の間でも悪い噂が流れないっていう、典型的なアイドルだ。
自然、弓塚のまわりにはいつも人だかりができてしまって、あまり社交性をもっていない俺はとは正反対の生徒だと思う。
こっちが『弓塚さつき』という名前を覚えている事はあっても、弓塚のほうは『遠野志貴』なんていうクラスメイトの名前を覚えているはずがないんだけど、どうも今日は厄介な偶然が働いたらしい。
「遠野くん。その、ちょっと聞いていいかな」
「はあ、俺に答えられる事ならいくらでもどうぞ」
「うん……その、こみいったコトならごめんね。その、いま引っ越しって言ったけど、遠野くんどこかに引っ越しちゃうの……?」
言いにくそうに弓塚は語尾を濁らせる。
重ねられた両手も、モジモジとせわしなく動いていたりする。
「急な話だけど、もしかして転校とか、するの?」
「ああ、違う違う。住所が変わるだけで学校は変わらないよ。引っ越し先もこの街だし、そんなに大した事じゃないんだ」
「そう――――よかった」
ほう、と弓塚は胸を撫で下ろす。
「……?」
不思議だ。どうして彼女が俺の引っ越し一つでそんなリアクションをするんだろう……?
「でも遠野くん、お家が変わるっていう事は、もしかして有間さんのお家から出ることになったの?」
「ああ、名残は惜しいけどいつまでもお世話になってるわけにもいかないし―――」
……あれ?
どうして弓塚がそんなコトを知ってるんだろう? 遠野志貴が有間さんの家に世話になっているという事は、この高校じゃアイツ以外誰も知らないと思ったけど―――
「いよぉう、遠野!」
と。突然、教室のドアから世間体を気にしない大声が聞こえてきた。
タイムリーな事に、中学時代からの友人であるアイツがやってきたみたいだ。
「おっ、弓塚じゃんか。珍しいな、オマエと遠野が話してるなんて」
「……おはよう、乾くん」
元気のない声で言って、弓塚はそのまま俯いてしまった。
……まあ、こいつに真っ向から話しかけられて元気に返事ができるキャラクターじゃないな、弓塚は。
「にしても、朝っぱらから女ひっかけてるなんてどういう風の吹き回しだよ。遠野、女にあんまり興味ないんじゃなかったっけ?」
有彦は大声で、中々に愉快なコトを発言してくれる。
「バカ、あんまり人聞きの悪いこと言うな。俺はいたって普通の、ちゃんと女の子に興味もある男の子だよ」
「そっかそっか、そりゃあよかった! ま、今どきはノーマルな性癖よりアブノーマルな性癖のほうが女どもにはウケるんだけどな。
もっともウケるだけでその後には続かねえけどさ!」
あはははは、と朝っぱらから底抜けに陽気な笑い声が教室に響きわたる。
……はあ。
毎回思うんだけど、どうして俺はこいつと知り合いだったりするんだろう。
オレンジ色に染めた髪、耳元のピアス。
いつでもだれでもケンカ上等、といった目付きの悪さと反社会的な服装。
進学校であるうちの高校の中、ただ一人とんがっている自由気ままなアウトロー。
それがこの男、乾有彦《いぬいありひこ》くんである。
「ったく、朝っぱらからうるさいヤツだなオマエは。こっちは色々と込みいっててブルー入ってるんだから、今日一日は近寄らないでくれ」
しっしっ、と手をふって有彦を追い払う。
「ブルー入ってるって、どした遠野。あの日か?」
「―――いや、言い間違えた。今日一日といわず、この先一生近寄らないでくれ。おまえといると掛け算で憂鬱が増していきそうだ」
有彦を無視して自分の机に移動する。
鞄を置いて、椅子に座って、はあ、と大きく背伸びをした。
「あのな、遠野。あんまし人のこと無視しちゃいけないぞ。無関心は時に人のココロを傷つけるのだ」
「へえ、そりゃあ初耳。じゃあさ、傷つけるなんて言わず、いっそ即死させられる方法ってないか? 教えてくれたらお礼にその場で試してみるから」
「……ひどいな遠野。なんかいつになくキツイんじゃない、今朝は?」
「ブルー入ってるって言ったろ。他のヤツにはともかく、オマエにだけは優しくしてやる余裕がないんだ」
「……はあ。どうしてかな、遠野ってばオレにだけ冷たいよな。他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平だ」
「なんだ、わかってるじゃないか有彦。世の中、公平な事ってあんまりないよ」
「……やっぱり遠野はオレにだけ冷たいよなあ」
大げさにため息をつく有彦。
別段こっちとしても有彦に冷たくあたっているわけではなくて、なんというか、コイツとはこういう関係になってしまうのだ。
「―――で、有彦。普段は二時限目から出席する夜型人間のおまえがホームルームに顔を出すなんて、どんな風の吹き回しだ。ちょっと、いやかなり普通じゃないぞ」
「あはは、俺だってそう思う。たまに早起きしたからって門限守って来るもんじゃないよな、学校ってヤツは」
「……おまえの趣味には口を出さないから同意はしないよ。俺が聞きたいのはおまえが早起きしてる理由だけだから」
「早起きの理由……? そうだな、最近はなにかと物騒だから夜遊びできないじゃん? だから必然的に夜中に眠ってしまうワケですよ。
遠野だって知ってるだろ、ここんところ連続している通り魔事件の話」
「―――そっか。そういえばそんな話もあったっけ」
有彦に言われて思い出した。
少し反省。
ここ二三日、遠野の家に戻る戻らないで悩んでいたため、世間のニュースにはまったく疎くなっていた。
「なんだっけ、すごく低俗な売り文句だったよな。連続猟奇殺人事件、とか」
「それだけじゃないぜ。被害者はみんな若い女で、二日前に八人目の被害者がでてる。かつ、その全員が―――なんだっけ?」
うむ?と首をかしげる有彦。
「………………」
コイツに聞いた自分が浅はかだったみたいだ。
「ああ、思い出した! 被害者全員がバラバラ死体で、アソートを作れるんだとかどうとか!」
「……違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、でしょう?」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見出しだったもんな、アレ」
「ふうん。詳しいんだね、弓塚さん」
「そんなコトないよ。この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」
……そうだったのか。
たしか隣の街で起きてる事件だと思ったけど、いつのまにかこの街に移り変わっていたんだ。
「――とまあ、そういうコトだよ遠野。いくらオレでもね、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びはしない。そういうわけで最近はまじめに朝七時に目を覚ましているのだ」
「……なんだ、そんな理由だったのか。まともすぎてつまらないな」
「なんだよ、つれないな。さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか?」
「いや、今朝はまだ大丈夫。心配してくれるのはありがたいんだけどね、そう四六時中貧血を起こしてたら体がもたないよ」
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫だっていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
―――と。
朝のお喋りをさえぎるように予鈴が鳴り響いた。
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻れ」
あいよ、と返事をして有彦は自分の席に戻っていく。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ―――うん、弓塚さんも、付き合わせて悪かったね」
たったった、と軽い足取りで弓塚さんも席に戻っていった。
◇◇◇
二時限目の授業が終わった。
担任でもある数学の教師は、
「遠野、書類の書き漏らしがあるそうだから事務室に行ってきなさい」
と去り際に伝えてきた。
すぐに済むらしいので、三時限目が始まる前に事務室に行ってしまおう。
事務室は一階にある。
三階である二年の教室から離れているが、ダッシュで行けば三時限目が始まるまでに戻って来れるだろう。
―――走る。
―――走る。
―――はし――
……!!??
ドン、という衝撃をうけて、床に尻餅をついた。頭から何かにぶつかったのか、目がクラクラして周りがよく見えない。
「あ―――いたたた」
……すぐ近くから声が聞こえる。
聞いた事のない女性の声だ。
どうも、思いっきり誰かと正面衝突してしまったらしい。
「―――すみません、大丈夫ですか」
まだ満足に周りが見えてないけど、とにかくぶつかってしまった人に謝った。
「はい、わたしは大丈夫ですけど……そっちこそケガ、ないですか?」
丁寧な口調には、こっちを非難してくるような響きはまったくない。
この誰だか知らない相手は、本気でこっちの心配をしてくれているみたいだ。
「あ―――うん、俺も大丈夫だけど」
ふるふると頭をふって立ちあがる。
と、ようやくものがまともに見えるようになった。
「ほんとに大丈夫ですか? おでこなんか、ぷくっと腫れちゃってますけど」
「え―――?」
手で触れてみると、ずきん、と痛みが走った。
……この人の言うとおり、みごとに大きなたんこぶができているみたいだ。
「ごめんなさい、わたしがぼうっとしていたからぶつかってしまって。おでこ、痛いでしょう?」
申し訳なさそうに、女生徒は俺の顔を覗きこんでくる。
丁寧な口調だから一年生かなって思ったんだけど、リボンの色からするとこの人は三年生――つまり先輩だ。
「いえ―――いいんです、悪いのは俺のほうなんですから。こっちこそ先輩にぶつかってしまって、すみませんでした」
ぺこり、と頭をさげる。
「あ、そういえばそうですね。もうっ、ダメですよ廊下を走っちゃ。わたしみたいにぼーっと中庭を眺めていたりする人がいたりするんですから」
「はい、以後気をつけます。……それで先輩のほうは、その、ケガとかありませんか?」
「はい、おかげさまで転んじゃっただけです。遠野くん、わたしを避けようとして壁にぶつかってくれましたから」
「―――そうなのか。どうりでこう、いつまでたってもお星さまが飛んでるなって思った」
……というか、あの勢いで壁に頭をぶつけて、たんこぶぐらいですんだのはむしろラッキーだろう。
「……どうも、すみませんでした。でも、先輩も廊下でぼんやりしてちゃ危ないですよ」
「はい。これからは気をつけますね」
にっこり、と先輩は笑顔でうなずく。
「…………………」
なんていうか、すごくまっすぐな笑顔をする人だ。
「……えっと、それじゃあ、俺はこれで」
ズボンの埃をはたきながら、事務室へ歩き出そうとする。
けれどメガネの上級生はじーっと俺を見つめてきた。
「………………」
はて。そういえば、この先輩は誰だろう。
ぶつかってしまった事で混乱していたけど、冷静になってみるとこの人は美人だと思う。
これほどの美人なら、男子生徒の間で『三年にメガネの似合う美人がいる』なんて話が流れてきそうなものだけど。
「あの───俺、行きますから。先輩も教室に戻ったほうがいいと思いますよ。
あ、もし体がどっか痛むようだったらうちの教室にきてください。二年三組の遠野って言います。その、ケガの責任ぐらいはとりますから」
はい、と彼女は素直にうなずく。
……年上なのに、なんだか後輩を相手にしているみたいだった。
「それじゃあ、もし何かあるようでしたらお昼休みに教室にお邪魔しますね。けど志貴くん、急いでるからって廊下を走っちゃダメですよ」
「はい、わかりました。けど先輩も廊下でぼんやりしてちゃダメですよ」
そう返答して、手をあげて立ち去る。
────って、待った。
志貴くんって、俺は名前まで教えてない。
それに―――さっき、この先輩は俺の名前を当然のように口にしなかったっけ……?
「……あれ? 俺、先輩と前に会ったことあったっけ?」
先輩はええ!と驚いてから、ちょっといじけたように顔を曇らせる。
「ひどいですっ! 遠野くん、わたしのこと覚えてないんですね!」
「────?」
覚えてないって、いや、そんなコトはないと思う。これだけの美人と何かあったら、忘れるほうがどうかしてると思うんだけど……。
「………えっと………」
彼女はうらめしそうに下から覗き込んでくる。
その瞳には、たしかに覚えがあった……よう……、な。
……そういえば一度か二度、どこかで挨拶をかわした事があった……っけ?
「────シエル先輩、だっけ?」
恐る恐る彼女の名前を口にした。
「はい、覚えていてくれてよかった。遠野くん、ぽーっとしてて忘れてそうだったから」
……ぽーっとしているつもりはないけど、事実忘れていたんだから仕方がない。
「それじゃあまた。お昼休みにまた会いましょう」
シエル先輩はもう一度ペコリとおじぎをする。
それをぼんやりと眺めてから、どこか合点のいかない心持ちで廊下を歩きだした。
◇◇◇
昼休みになった。
さて、どこで昼食をとろうか。
教室に残って食事をとる。
昼休みになって、教室は騒々と活性化する。
食堂に向かって飛び出していく男子、机をくっつけてテーブルを作る女子のグループ、弁当を手にしてゆったりと教室を出ていく生徒。
そんな光景を眺めながら、自分の机に購買で買ってきた三角パンと牛乳を置く。
「ったく、相変わらず小食だな遠野は」
……目の前にこの男がいるのは、もはや日常なのでいまさら文句を言っても始まらない。
「しっかしさあ、大の男が二人きりで顔合わせて昼飯っていうのもナンだよな。食事に華がないのはどうかと思うんよ、オレ」
「そう。華がないならあっちのグループに入れてもらえば? 別に止めないよ、俺は」
「ばかもの、華っていうのは可憐なのが一輪咲いているからいいんじゃねえか。ああゆうふうに徒党をくんでるのは駄目だね。美しくないどころかありふれて毒に見える」
……女子のグループに聞かれていたら石でも投げられかねない発言をする有彦。
幸い、今のところコイツの毒舌がクラスの女子に聞かれたコトはない。
「……ひどい言いようだね、有彦。おまえは前からひどいヤツだったけど、最近特にひどくなってないか? ひどいというより外道いって感じ」
「仕方ないだろ。実際に美しい華が学校にいるんだから、鑑識眼も厳しくなるってもんだ」
「……はあ。美しい華って、誰さ」
「それは秘密ということで。あんまりライヴァルを増やしたくないんでね」
ふふふ、と野心に満ちた笑みをこぼす有彦。
こいつの剥き出しの感情表現は、自分にはないものでちょっと感心したりする。
――――と。
教室のドアから、ついさっき出会った人がこっちに向かってやってきた。
「…………あ」
お弁当片手にやってくるその姿は、見間違えるハズもなく――
「こんにちは遠野くん。お邪魔しにきちゃいましたけど、いいですか?」
「え―――あ、もちろんいいですけど―――」
……シエル先輩は笑顔のまま、当たり前のように椅子を持ってきて座ってしまった。
「あの……先輩、やっぱりケガしてたんですか?」
「いいえ、ケガなんかしてませんけど?」
笑顔でそんな返答されても、困る。
「わたし、遠野くんにお昼休みにおいでって言われましたから、こないとまずいかなって」
「う……確かにそうは言ったけど」
……俺としては、もしケガでもしてたら責任をとるから来てくれって意味だった筈だ。
「せ、せ、先輩っっっっつ!」
ダン! と音をたてて立ちあがる有彦。
「あ、乾くん。あれ、もしかして遠野くんとお知り合いだったんですか?」
「ええ、知り合いも知り合いッスよ! 遠野とはガキの頃からの友人ですから! な、遠野! オレたちゃあ、むしろマブと呼び合ってもおかしくない友情ぶりだよな!」
「―――――――」
ぐぐっ、と握りこぶしをして力説する有彦。
そこには同意の言葉も反論の言葉も差し入れる隙間がない。
「へえ、そうだったんですか。遠野くんと乾くんが友人同士なんて、偶然ってあるんですね」
「そうッスね! まったく、このヤロウは大人しい顔してやがって、いつのまに先輩と仲良くなってたんだろうなー、とか純粋に疑問に思いますよオレは!」
ははは、と先輩に笑いかけながら、ぎろりと俺を睨みつけてくる有彦。
こういうのも八面六臂の大活躍って言うのかな、とぼんやりと思ってみる。
―――結局、有彦の力技でシエル先輩と昼食をとることになった。
……まあ、お弁当を持ってきていたあたり、先輩も初めからそのつもりだったんだろう。
「へえ。乾くん、一人暮しなんですか?」
「いんや、オレは姉貴と二人。両親が留守だから自然に自炊ができるようになっただけッス」
有彦はシエル先輩と親しいみたいだ。
まだ数回しか会ったコトのない俺に比べて、気軽に先輩と話をしている。
「ところで先輩、さっき遠野に呼ばれて来たって言ってたけど、なにかあったんスか?」
「はい、休み時間に遠野くんとぶつかってしまったんです。わたしはケガをしなかったんですけど、遠野くんは頭をぶつけてしまいまして」
「ふうん。それが心配になって見に来たってコト?」
「はい、そんなトコロです」
先輩の口調はテキパキしていて、聞いていて気持ちがいい。
話しているよりこうして聞いているほうが面白いので黙っていると、有彦がこっちに矛先を向けてきた。
「どうしたんだよ遠野。誰かにぶつかるなんて、もしかしてまた貧血でも起こしたのか?」
有彦の声は真剣にこっちの体を気遣っている。
「……いや、違うよ。引っ越しの手続きでさ、事務室まで走ったんだ。その時にどっかーん、と先輩にぶつかったワケ」
「―――そうか。まあ、なんにせよおまえの不注意ってコトか」
納得いった、とばかりに有彦は腕を組んでうなずく。
「遠野くん、転校するんですか!?」
と、いきなり先輩はすっとんきょうな発言をしてきた。
……ほんと、どうしてみんな引っ越しって聞くと転校に結びつくんだろう?
「あのですね、俺は転校なんかしませんよ。ただ今日から住むところが変わるから、住所変更の書類を出していただけなんです」
「え………っと、つまり、一人暮しをするんですか?」
「それも違いますよ、単に自分の家に戻るだけだから。坂の上にある仰々しいところで、いまいち実感が湧かないんだけど」
「……はあ。それってもしかして、遠野さんのお屋敷の事ですか?」
先輩は恐る恐る、遠慮するように聞いてきた。
街の人達からすれば、坂の上にある遠野の洋館はなにか特別なものとして映っているのだろう。
こっちだってこの八年間戻っていないけど、記憶の中にある遠野の屋敷はバカみたいに大きかった。
「まあそういうこと。自分でも場違いだとは思ってるんだけどね、引っ越しちまったものはしょうがないから」
「───ふぅん。その様子じゃあんまり乗り気じゃなかったのか、おまえ」
「さあ、良くも悪くもないっていうのが本当のところだよ。自分でもよく分かってないんだ」
「ま、自分の家っていっても八年ぶりなんだろ? 落ち着かないのもわかるぜ。しばらくは他人の家みたいに感じるんだろうさ」
「……どうだろうね。まだ帰ってないからよくはわからないよ。まあ、俺にはおまえの家っていう避難場所があるから気は楽だけど」
「むっ。おまえね、何かイヤなコトがあるたびにオレん家に泊まりに来るのは感心しねーぞ。遠野の昼行灯な性格は気に入ってるけどな、その遠慮しすぎる性根は気に食わねえんだ、昔っから!」
だん、と机を叩く有彦。
「……………」
なんていうか、実に有彦の言うとおりなんで、こっちとしては反論のしようがない。
「乾くん、遠野くんってそんなに頻繁に乾くんの家に泊まりにくるんですか?」
「ええ、そうですよ。遠野のヤロウは両親に遠慮して、長い休みになると家に居づらいってんで逃げてくるんです。このヤロウ、預けられたってことで有間の家の人たちに遠慮してたんだ。
で、体よく部屋が空いてるオレのところに転がり込んでくるってワケ。こいつは外見がいいから姉貴にも気に入られちまってさ、厚かましくも手ぶらで泊まりにくるんだぜ!」
許せん、と有彦は握りこぶしを震わせる。
「……預けられたって、遠野くんがですか?」
「あっ――――」
ハッとして自分の口を押さえる有彦。
「わりい。無闇に口にするコトじゃなかった」
「いや、いいよ。別に悪いことじゃないんだから」
有彦の顔を見ずに、パンを食べながらそう言った。
「そっか。ま、そーだよな。アレで文句を言ったらバチが当たるってもんか」
うん、と納得する有彦。
こいつのこういう、突き抜けたような楽観性は本当にうらやましい。
「遠野くん。その、前のご家族とはうまくいってなかったんですか……?」
「いや、そんなコトはないっスよ。こいつ、有間の親御さんとは何の問題もないもんな。
あ、有間っていうのがこいつが預けられてた家の人達なんだけど、これがすっごくいい人達でさ、オレから見れば幸せな家庭だった。
だっていうのにこいつは養子にならないかって話も断って、休みになればオレんところに逃げてきやがるんだ。ったく、ホントに何が不満なんだおまえは」
「不満なんかあるわけないだろ。よくしてもらってるから、これ以上負担をかけたくないだけじゃないか」
ふん、と顔を背ける。
と……いつのまにか俺たちの近くに弓塚がいる事に気がついた。
「……………」
弓塚は何か言いたそうな目をして、なんとなくこっちの輪に入れないでいるみたいだ。
「弓塚さん、どうしたの?」
有彦と先輩から離れて、弓塚に声をかける。
「あ……うん、遠野くんに話があるんだけど、今いいかな?」
「いいよ。ここでしていい話?」
「……えっと……」
ちらり、と弓塚の視線が有彦に向けられる。
……やっぱり弓塚は有彦が苦手らしい。
「廊下のほうで話したいんだけど、いい?」
「かまわないよ。それじゃちょっと席を外すぜ、有彦」
有彦と先輩に片手をあげて、弓塚と廊下に出る事になった。
「それで、聞きたい事ってなに?」
「うん、間違いだったらゴメンね。遠野くん、このごろ夜になると繁華街のほうを歩いてない?」
「は―――?」
繁華街……?
そんなの夜といわず、昼間だってあんまり出歩かない。
弓塚の質問はあんまりに覚えがなさすぎて、逆に興味をそそられた。
「……ふーん。夜中って、どのくらいの時間?」
「わたしが聞いた話だと、零時を過ぎてるっていうんだけど」
……零時だなんて、それこそもう可能性がない。
たまに買い物で夜のうちに繁華街に出かける事ぐらいあるけど、深夜に街に出かけたコトなんて今まで一度だってない。
「それ、間違いなく俺じゃないよ。俺んとこは古い家だからさ、門限は夜の七時なんだ。それを過ぎると泣いても中にいれてもらえなくてね。野宿だけはしたくないんで、親が死んでも七時には帰る事にしてるんだ」
弓塚の質問を、真正面から否定する。
と、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「うん、知ってる。有間さんの家ってなんとか流の茶道の家元だもんね。そっか、遠野くんにも厳しくしてるんだ」
「厳しいっていうより、あれはいじめて楽しんでるんだ……って、弓塚さん、よくそんなこと知ってるね。もしかしてうちの門下生なの?」
「ううん。わたし、茶道っててんでわからないもの。友達が通ってて、その子からすっごく厳しいって聞いただけだよ」
「そっか……けど弓塚さん、なんで俺が有間さんの家に住んでるって知ってるんだ? 俺、高校になってから誰にも話してないんだけど」
「遠野くん、わたしと中学校が同じだったって忘れてるでしょ」
くすり、と笑って弓塚は言った。
「え――――?」
……中学校が一緒だった……?
俺には覚えがないから何とも言えないけど、それなら確かに―――俺が有間の家に預けられているっていう事を知っていてもおかしくはない。
「弓塚さん、もしかして、その―――」
「遠野くんじゃなければいいんだ。お食事中、邪魔してゴメンね」
こっちの言葉をさえぎるように言って、弓塚さつきは教室の中に戻ってしまった。
「よう。話、終わったか?」
「……ああ、ただの人違いだったみたいだけど……なあ、有彦」
「ああ。弓塚とオレたちは同じ中学だぜ。ついでにいうと、中二の時と中三の時、んで高二の今を含めて三年間もクラスメイトだったりする」
「――――な」
こっちの質問が解りきっていたのか、有彦は呆れながら返答した。
「な、なんで俺の聞きたいコトがわかるんだよ、おまえ」
「そういう顔してたからさ。
しっかしまあ、遠野は弓塚のこと無視してるのかなって思ってたけど、まさか本当に気がついてなかっただけとはね。
……弓塚も我慢強いっていうか、物好きっていうか。ナンギなマネしてるワケか」
有彦は難しい顔をして肩をすくめる。
「あ、やっぱり。今の子、遠野くんの彼女なんですね」
「なっ―――なにをバカなコト言ってるんですか、先輩は! そんな訳ないでしょう、俺と弓塚さんはマトモに話した事だってないのに!」
「いえいえ、隠してもダメです。すごく仲が良さそうで、ちょっぴり羨ましかったです」
なにが嬉しいのか、頬を上気させて先輩は流し目をしてくる。
「せ、先輩! 有彦、おまえからもこの勘違いしてる人になんか言ってくれ!」
「べっつにー。オレ、遠野と弓塚がなにしてるかなんて知らねえもん。知ってる事っていえば、今日の朝も二人で楽しげに話してたってコトぐらいか」
「きゃー、朝から学校で密会なんて、ダイタンなんですね遠野くん!」
……先輩はますますワケのワカラナイ方向に舞い上がっていく。
「……………」
……まあ、いいけど。先輩がどう誤解しようが、俺にはあんまり関係のない話だし。
「でも遠野くん、あんまり彼女に素っ気無くしちゃダメですよ。弓塚さん、なんか寂しそうじゃないですか。もっとかまってあげなくちゃいけません」
「……先輩。そろそろ昼休みが終わるけど」
「はい。それじゃ遠野くん、乾くん、また今度!」
先輩は笑顔でうちの教室から出ていった。
「……はあ」
なんか、どっと疲れた。
「遠野。弓塚はやめとけよ」
ぽつりと。
いつになく真剣な顔つきで、有彦はそんな事を言ってくる。
「やめとけって、なんで」
「ああ。弓塚な、ああ見えても内気で一途なんだよ。おまえみたいにぼんやりしてるヤツとは相性が悪すぎる。あの手の女は深入りすると危ないってコトだよ」
有彦は自分の席に戻っていく。
「……なに言ってるんだ。別に俺は、弓塚さんをどうこうしようって思ってないぞ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、自分の椅子に座り込んだ。
◇◇◇
一日の授業がすべて終わって、放課後になった。
すぐさま屋敷に帰る気になれず、ぼんやりと窓越しに校庭を眺める。
教室は夕焼けのオレンジ色で染め上げられている。
水彩の赤絵の具に濡れたような色をしていて、目に痛い。
……朱色は苦手だ。
眼球の奥に染み込んできそうで、吐き気がする。
どうも、自分は血を連想させる物に弱い体質であるらしい。
いや、正確には血に弱い体質になってしまった、というべきかもしれない。
八年前、遠野志貴は死ぬような目にあったという。
それはものすごい大事故で、偶然いあわせた自分は胸に傷をおってしまい、何日か生死の境をさまよったとの事だ。
本来なら即死していてもおかしくない傷だったらしいのだけど、医師の対応がよかったのか奇跡的に命を取り留めたという。
当人である俺自身は、その時の傷があんまりにも重すぎてよく覚えてはいない。
八年前の、子供のころ。
俺は突然胸のまんなかをドン、と貫かれて、そのまま意識を失った。
あとはただ苦しくて寒いだけの記憶しかなくて、気がつけば病院のベッドで目を覚ましたんだっけ。
事故のことはよく覚えてないけれど、今でも胸にはその時の傷跡が残っている。
なんでもガラスの破片が体に突きささってしまったとかで、胸の真ん中と背中には火傷の跡のような傷がある。
……ほんと、自分でもよく助かったもんだと呆れてしまう。
以来、俺は頻繁に貧血に似た眩暈をおこしては倒れこんでしまって、まわりに迷惑をかけまくってしまった。
……父親が遠野家の跡取りとして不適合だ、と自分を分家筋の家に預けたのはそれが理由なのかもしれない。
「……胸の、傷、か」
制服に隠れて見えない、胸の真ん中にある大きな傷跡。
考えてみれば、あの事故の後に自分はあの『線』が見えてしまう体質になってしまった。
今では先生がくれたメガネのおかげで忘れてしまえるけれど、先生と出会えなかったらとうの昔に、この頭はイカレてしまっていたと思う。
啓子さん―――今まで母親だった人は、別れ際に遠野の屋敷はマトモじゃないと言っていた。
「……なんてことはないよな。俺のほうこそマトモじゃないんだから」
ズレかけたメガネを直して、鞄を手に取る。
いつまでも教室に残っているわけにもいかない。
さて――いいかげん覚悟をきめて、屋敷に帰ることにしよう。
やる事もないし、早々に学校を後にする。
……考えてみれば、こうやって正門から下校するのなんて入学式以来だ。
「これからはここから屋敷に帰る道が通学路になるワケか……」
正門から出て住宅地に通じる交差点に出る。
ここから街に出るか、屋敷のある住宅地に出るかに別れるのだが―――
「あれ、遠野くんだ」
ばったり、弓塚に出会ってしまった。
「あ……やあ、弓塚さん」
……シエル先輩に茶化されたせいか、なんとなく気恥ずかしい。
弓塚は目を白黒させて俺を見ている。
「えーっと、弓塚さん? 俺の顔に何かついてる?」
「だって、どうして遠野くんがここにいるのかなって。遠野くんの家、反対方向だよ?」
「あ……まあ、昨日まではそうだったけど、今日からは別だよ。これからはあっちの住宅地の奥にある、坂の上の家に住む事になったから」
「あ、朝に言ってたのはその事だったんだ」
ぽん、と手を叩いて納得する弓塚。
……まあ、お世辞抜きにして、そういう仕草は愛らしいと思う。
「……そういう事。弓塚さんは知ってるから隠しても仕方ないよな。俺さ、預けられていた有間の家から今日づけで実家に戻ることになったんだよ」
「実家って、その……遠野さんのお屋敷に?」
「ああ。自分でも似合わないって思うんだけど」
「そっか、遠野くんってば本当は丘の上の王子さまなんだもんね。わたしと乾くんぐらいしか知らない秘密だったのに、これじゃすぐみんなにバレちゃうかなあ」
ふふ、と淡い笑顔をうかべて、弓塚は遠くに視線を投げた。
空の向こう。
遠くの坂の上にある、遠野の屋敷を見つめるように。
「でも大丈夫? 自分のお家だって言っても、もう八年も離れているんでしょう? その、恐いなー、とか不安だなー、とか思わない?」
「そうだね、実際不安ではあるよ。もとから俺はあの屋敷が好きじゃなかったし、今じゃ他人の家みたいに感じるしね。けど、それでも―――」
……妹である秋葉を一人残したまま、自分だけのんびりと暮らしていくことなんてできない。
どんなに不安でも、俺は屋敷に戻らないといけないんだ。
「―――やっぱり自分の家なわけだから。そこに戻るのが一番自然な形だと思うんだ」
「……そっか。あ、呼び止めちゃってゴメンなさい。遠野くん、急ぐんでしょ?」
「いや、別に用事はないよ。のんびり散歩がてらに帰ろうとしてただけだから」
「あ―――そう、なんだ」
どうしてか、弓塚はうつむいたまま黙ってしまう。
「……弓塚さん? どうしたの、気分でも悪いの?」
声をかける。
それでも彼女は中々顔を上げずに、じっと下を向いていた。
「………………」
放っておくわけにもいかず、こっちもじっと彼女の様子をうかがう。
―――、と。
「あ、あのね!」
「うん、なに」
「あの、そのね、わたしの家と遠野くんの家って、坂に行くまで帰る道が一緒、なんだ、けど……」
「そうなんだ。それじゃ途中まで一緒に行こっか」
「――――え?」
目をきょとん、とさせる弓塚。
そのまましばらく固まったあと、
「う、うん―――そうだよね、帰る道が一緒なんだから、途中まで一緒でもおかしくないよね!」
と、やけに弾んだ声をあげてこっちの横にやってきた。
「丁度よかった。俺、このあたりの道に不慣れだからさ、弓塚さん案内してくれないか」
「うん、それじゃあこっちの道に行こっ。坂道までの裏道があるんだ」
―――弓塚と話をしながら帰り道を歩いていく。
弓塚との会話は、これといって特徴こそないものの穏やかで楽しいものだった。
……有彦はあんなことを言っていたけど、弓塚さつきはとても柔らかな雰囲気をしていて、一緒にいると安心できるタイプだと思う。
「―――ふふ」
と。会話のおり、突然思い出したように弓塚は笑みをこぼした。
「なに、いきなり。なにかおかしなこと言った、俺?」
「ううん。単にね、わたしと遠野くんは明日から同じ通学路になるんだなあって」
本当に嬉しそうに、彼女は笑った。
その笑顔は飾ったところがなくて、見ているこっちまで嬉しくなる。
……その、今まで気がつかなかったけど。
容姿や仕草がどうこう言う前に、弓塚さつきは可愛いと思う。
前からクラスの男子たちが弓塚さつきにお熱だった理由が、ちょっとだけ理解できた。
会話が途切れた。
弓塚の笑顔に見惚れてしまった俺と、弓塚が黙ってしまったからだ。
二人とも無言で、夕暮れの住宅地を歩いていく。
不意に――――
[#挿絵(img/秋葉 29.jpg)入る]
「ね。中学二年生の冬休みこと、覚えてる?」
そう、弓塚は呟いた。
「――――?」
首をかしげる。
中学二年生の冬休みっていったら、有間の家に居づらいんでわざと補習をうけたり学校に残ったりしていたころだ。
覚えているかと言われれば覚えているけど、どうしてそんなことを聞かれるのかてんで理由がわからない。
「やっぱりなあ。遠野くんの事だから、絶対に覚えてなんかないと思った」
がっくりと肩をおとす弓塚。
「ほら、わたしたちの中学校って体育倉庫が二つあったでしょ? 一つはおっきな運動部が使う新しい倉庫、もう一つはバドミントン部とか小さな運動部が使っていた古い倉庫。
で、この古い倉庫っていうのが問題でね、いつも扉の建て付けが悪くて、開かなくなる事が何回もあったの」
古い倉庫……体育館裏にあったコンクリート製の小さな建物……?
「ああ、あの倉庫か。一度生徒が中に閉じ込められてから使われなくなったっていう」
「そうそう。その生徒っていうのが当時のバドミントン部の二年生」
「――――ああ」
そう、確かにそんなコトがあった。
あれは新年になったばかりの、冬の寒い日だった。
三が日があけて、有間の家に居づらくなった俺は自分から補習を受けたり、学校に残れるような手伝いを申し出ていた。
けど、それも夕方の五時頃までだ。
あたりも暗くなってしまい、学校にいた教師たちも帰るという事で俺は教室から追い出された。
冬も最中。
夕方の五時過ぎといえば、あたりは本当に暗くなっている。
その日はたしか雪が降ると予報された日で、寒さも一段と厳しかった。
そんなわけで今日ぐらいはまっすぐ家に帰ろうとした時、校舎裏の旧倉庫からガンガンという音が聞こえてきて、様子を見に行ったんだっけ。
―――中に誰かいるの?
そう問いかけてみたら、倉庫の中から数人の女生徒の声が返ってきた。
部活の片づけをしている最中、風が入ってきて寒いので扉を閉めたら開かなくなってしまって、もう二時間も閉じ込められている、という事だった。
どうやっても扉は開かないらしく、できれば先生を呼んで助けてほしい、という。
……けど、教師たちは全員帰ってしまったし、今から電話で呼びつけても一時間はこのままだろう。
この日の寒さは、本当にひどかった。
雪が降ってこないのがおかしいぐらいの寒さの中、体操服のままで二時間も倉庫に閉じ込められていた中の子たちに、もう一時間も待たせるのは酷だと思った。
少し迷ったあと、周囲を見渡してあたりに誰もいない事を確認し、メガネを外して倉庫の扉に見える『線』を切った。
そうして扉は開いて、中から五人ほどの、涙で目を真っ赤にした女生徒たちが飛び出してきたんだっけ――――
「……そういえば、そんな事もあったな。
でもそんな話をよく知ってるね。あれ、閉じ込められてたバドミントン部の主将が“部の存続にかかわるからこの事は秘密にしなさい”って、俺に脅しをかけてきたぐらいなんだけど」
「もうっ。遠野くんってば中に誰が閉じ込められてたか、まったく興味がなかったんだね。いい? わたしはそのころバドミントン部の部員だったんだよ」
拗ねるような、弓塚の声。
えっと―――つまり、それは。
「――わたし、ちゃんと憶えてるよ。
今にして思えばただ倉庫に閉じ込められただけだったんだけど、あの時は寒くて暗くて、すごく不安だった。
このままここで凍死しちゃうんだーって、みんな本気で思ってたんだから。おなかだってぐうぐうに減ってたし、ほんとーにダウン寸前だったんだ」
「はあ。それは、タイヘンだったね」
いまいち実感が湧かず、気の無い返答をしてしまう。
弓塚は気にせず、昔の出来事を鮮明に思い出すように語り続けた。
「そうしてみんなが震えてる時にね、遠野くんがやってきたの。いつもの、自然で気負ったところのない口調で“中に誰かいるの?”って。見てわからないのかーっ、て主将がカンシャクをおこしたの、覚えてる?」
「ああ、それは覚えてる。ドガンって扉にバットを投げつけた音だろ。アレ、びっくりしたよ」
そうそう、と弓塚は笑った。
「でも、先生方はみんな帰ってるって聞いて、わたしたち本当に絶望したんだから。あと一分だって耐えられないのに、もしかしたら明日までここに閉じ込められるかもしれないって思って。
そうしてわたしたちが世をはかなんでいる時にね、コンコンって扉がノックされて、遠野くんはこう言ったんだ。『内緒にするなら開けられないこともないよ』って」
「ああ。そこでまたドガンって音がしたっけ。
“かんたんに開けられるなら苦労しないわーっ!”って、すごい剣幕だった」
「あはは。うん、主将はわたしたちが閉じ込められて責任を感じていたから、ちょっと余裕がなかったんだ。でもね、そしたらすぐに扉が開いたんだよ。
みんな主将のバットが効いたって喜んで外に飛び出したけど、わたしは扉の横でぼんやりと立ってた遠野くんをちゃんと見てたよ」
弓塚は暖かい眼差しを向けてくる。
……けど、そんな目を向けられても、困る。
あんなこと、こっちにとってはなんでもない事なので、あまり感謝される実感がない。
「その時ね、わたし、すごく泣いてたの。まぶたなんか腫れに腫れちゃって、もうクシャクシャ。そんなわたしを見て、遠野くんはなんて言ったと思う?」
「わからないな。なんて言ったの?」
……本当に覚えていないので、他人事のように聞いてみる。
だっていうのに、弓塚はやっぱり嬉しそうに笑って俺を見た。
「それがね、わたしの頭にぽんって手をのっけて、“早く家に帰って、お雑煮でも食べたら”って。わたし、よっぽど寒そうに震えていたんだなって恥ずかしくなっちゃった」
「……………」
むむ、と眉をよせる。
自分の事ながら、言動の意味が解らない。
「きっとね、遠野くんはお雑煮を食べれば体が温まるよって言いたかったんだと思う」
「……そっか。正月の後だったからね」
……それは、たしかに俺の言いそうな間の抜けたセリフだ。
こうして言われてみると、もうちょっとマシなセリフがあったんじゃないかって後悔してしまうぐらい。
「わたしね、あの時に思ったんだ。
学校には頼れる人はいっぱいいるけど、いざという時に助けてくれる人っていうのは遠野くんみたいな人なんだって」
「まさか、それは買い被りすぎだよ。ほら、ひよこが初めて見た人間を親と思うのと一緒。たまたま俺が助けられただけっていう話じゃないか」
「そんな事ない……! わたし、あの時から遠野くんならどんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてるんだから」
そうして、彼女は思い立ったように顔をあげた。
「弓塚さん、それ過大評価だよ。俺はそんなに頼れるヤツじゃないんだけど」
「いいの。わたしがそう信じてるんだから、そう信じさせて」
まっすぐに見つめられて断言されると、こっちとしては気恥ずかしくて反論ができない。
「――まあ、それは弓塚さんのかってだけど」
「でしょ? だからまたわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?」
弓塚は笑顔で告げてくる。
……それは、正直困る。
俺は弓塚が思っているほどなんでも出来るヤツっていうワケじゃない。
ワケじゃないけど……こんな笑顔を向けられているのに、その信頼を台無しにする事なんて、したくなかった。
「そうだね。俺に出来る範囲なら、手を貸すよ」
「うん。ありがとう、遠野くん。随分と遅れちゃったけど、あの時の遠野くんの言葉、嬉しかった」
言って、弓塚の足がぴたりと止まった。
つられてこっちの足も止まる。
「わたし、遠野くんとこうして話せたらいいなって、ずっと思ってた」
それは、どこか思いつめたような声だった。
夕焼けの赤色のせいか、弓塚はどことなく寂しそうに、見える。
「……なにいってるんだ。話なんていつでもできるよ」
「だめだよ。遠野くんには乾くんがいるから。それに、わたしは遠野くんみたいになれないもの」
遠慮がちに返答して、弓塚は俺から離れていく。
「それじゃあ、わたしの家はこっちだから。また明日、学校で会おうね」
ばいばい、と笑顔で手をふって弓塚は別の道へ歩いていった。
[#挿絵(img/31.jpg)入る]
いつもとは違う帰り道を歩く。
見知らぬ道を通り抜けて、段々と遠野の屋敷へ近付いていく。
まわりの風景は、知らない風景ではなかった。
少なくとも自分は八年前───九歳まで遠野の屋敷で暮らしていたから、屋敷へ帰る道は初めてというわけでもないのだ。
……少しだけ気持ちは複雑だ。
この帰り道は懐かしくて、新鮮でもある。
さっきまで遠野の家に戻るのは気が進まなかったっていうのに、今はそれほどイヤでもなくなっている。
……遠野志貴が九歳まで暮らしていた家。
そこにあるのは日本じゃ場違いな洋館で、今は妹の秋葉が残っているという話だ。
俺を嫌っていた父親───遠野家の当主である遠野槙久は、先日他界したという。
母親は秋葉が生まれた時に病死してしまっていたから、遠野の人間は自分と、妹である秋葉の二人きりになってしまった。
本来なら長男である自分───遠野志貴が遠野家の跡取りになるのだろうけれど、自分にはそんな権利はない。
遠野家の跡取りになる、という事はがんじがらめの教育を受けるという事だ。
それがイヤで自由に暮らしていて、父親から何度小言を言われたかわからない。
そんな折、俺は事故に巻き込まれて病弱な体になってしまい、父親はこれ幸いにと俺を切り捨てた。父親曰く『たとえ長男であろうと、いつ死ぬかわからない者を後継者にはできん』とかなんとか。
あいにく父親の予想を裏切って回復してしまったけれど、その頃には遠野家の跡取りは妹の秋葉に決められていた。
それまで遠野の娘に相応しいように、と厳格に育てられていた秋葉は、それからよけい厳しく育てられたらしい。
昔───事故に巻き込まれるまでは一緒に屋敷の庭で遊んだ秋葉とは、あれからまったく会っていない。
……八年前に棄てた屋敷の生活。
八年間という歳月は長くて、あの頃の記憶は大部分が薄れてしまっている。
それでも。
ある事柄だけは、今でも強く心に焼き付いている。
それは――――妹の秋葉の事だ。
有間の家に預けられた当初、秋葉は何度か訪ねにきてくれたらしい。
あいにくとこっちは病院通いの毎日で会う事もできず、秋葉が全寮制のお嬢様学校に進学してからはまったく連絡をとっていなかった。
自分は秋葉とは違い、本家から外れた人間だ。
だからこうして自由気ままな生活を送れている。高校もあくまで平均的な進学校で、ここ八年ばかり妹との接点は皆無といってよかった。
父親が死んで、俺は屋敷に戻ってこいと連絡を受けた。
はっきりいって、いまさら遠野の家に戻るつもりなんて全然なかったんだ。
ただ、遠野の屋敷には秋葉がいる。
[#挿絵(img/秋葉 11.jpg)入る]
子供の頃。
秋葉は大人しくて、いつも何かを我慢しているように怯えていて、トコトコと足音をたてて俺の後についてきた。
長い黒髪と豪華な洋服のせいか、秋葉は本当にフランス人形のように儚げな少女だったっけ。
あの広い館で父親をなくして一人きりの秋葉が心配だったし、なにより────全ての責任をあいつに押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目もある。
今回の話を了承して屋敷に戻る事にしたのは、そんな秋葉に対する謝罪の意味もあったのかもしれない。
遠野の屋敷は不必要なまでに大きい。
鉄柵で囲まれた敷地の広さは異常とさえいっていい。なにしろ小学校ぐらいならグラウンドごと中に入ってしまうぐらいなんだから。
木々に囲まれた庭は、すでに庭というより森に近い。その森の中心に洋館があり、離れにはまだいくつかの屋敷がある。
子供のころは何も感じなかったけれど、八年間ほど一般家庭で暮らしてきた自分にとって、この大きさはすでに犯罪じみている。
門に鍵はかかっていない。
力任せに押しあけて、屋敷の玄関へと向かっていった。
屋敷の玄関は重苦しくそびえ、訪れる者を威圧している。
鉄でできた両開きの扉の横には、不釣り合いな呼び鈴があった。
「…………よし」
緊張を振り払って呼び鈴を押す。
ぴんぽーん、なんていう親しみのある音はしない。
重苦しい静寂が続くこと数秒。
扉の奥でぱたぱた、という慌ただしい人の気配がした。
「お待ちしておりました」
がちゃり、と扉が開く。
開いた先にあるのは見覚えのあるロビーと、割烹着を着た少女の姿だった。
「よかった。あんまりに遅いから迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ。日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかなって思ってたんですから」
割烹着なんていうアナクロなものを着込んだ少女はにこにこと笑っている。
「あ、いや───それは、その」
こちらはというと、少女のあまりに時代錯誤なカッコウに面食らってしまって、まともな言葉が口にできない。
おどおどとしたこっちの口調を不審に思ったのか、少女はかすかに首をかしげた。
「志貴さま、ですよね?」
「え───ああ。さまっていうのは、その、余計だけど」
「ですよね? もう、脅かさないでくださいっ。わたし、また間違えちゃったかなって恐くなったじゃないですか」
少女はめっ、と母親が子供をしかるような仕草をした。
だっていうのに顔は微笑んでいて、少女はともかく暖かい雰囲気を崩さない。
……着物に割烹着。
客を出迎えにきて、俺なんかのことを『さま』づけで呼ぶ。
ということは、この子は────
「えっと、その───君、もしかしてここのお手伝いさん?」
こちらの質問に少女は微笑みだけで答えた。
「さ、お疲れでしょう? 遠慮せずにあがってくださいな。居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから」
少女はさっさとロビーを横切って居間へと歩いていく。
と、思い出したようにくるりと振り返ると、満面の笑みをうかべてお辞儀をした。
「お帰りなさい志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
少女の挨拶は、本当に華のような笑顔だった。
それに何ひとつ気のきいた言葉も返せず、おずおずと彼女の後についていった。
少女に案内されて居間へ移動する。
───居間は、初めて見るような気がした。
八年前の事で覚えていないのか、それともあれから内装を変えでもしたのか。
とにかく他人の家のようで落ち着かない。
きょろきょろと居間の様子を見回していると、割烹着のお手伝いさんがペコリと頭をさげていた。
「志貴さまをお連れしました」
「ごくろうさま。厨房に戻っていいわよ、琥珀」
「はい」
お手伝いさんはコハク、という名前らしい。
琥珀さんはそれでは、とこっちにも小さくおじぎをして居間から出ていく。
残されたのは自分と───見覚えのない、二人の少女だけだった。
「お久しぶりですね、兄さん」
長い黒髪の少女は凛とした眼差しのまま、そんな言葉を口にした。
……はっきりいって、思考は完っ全に停止してしまっている。
真っ白な頭はろくに挨拶もできず、ああ、とうなずく事しかできない。
……だって、そりゃあ仕方ないと思う。
八年ぶりに見た秋葉は、こちらの記憶にある秋葉ではなく、まるっきり良家のお嬢様と化していたんだから。
「兄さん?」
黒髪の少女はかすかに首をかしげる。
「あ────いや」
情けないことに間の抜けた言葉しか言えない。
こっちは目前の少女を秋葉と認識するために頭脳をフル回転させてるっていうのに、秋葉のほうはとっくに俺を兄と認識出来てしまっているようだ。
「なにか気分が悪そうですね。お話の前にお休みになりますか?」
秋葉はじろりとした視線を向けてくる。
……なんだか、すごく不機嫌そうに見えるのは気のせいなんだろうか。
「……いや、別に気分は悪くない。ただその、秋葉があんまりにも変わってたんで、びっくりしただけなんだ」
「八年も経てば変わります。ただでさえ私たちは成長期だったんですから。
――――それともいつまでも以前のままだと思っていたんですか、兄さんは」
……なんだろう。秋葉の言葉は、なんとなく棘があるような気がする。
「いや、それにしたって秋葉は変わったよ。昔より格段に美人になった」
お世辞ではなく素直に感想をもらす。
────と。
「ええ。ですが、兄さんは以前とあまり変わりませんね」
なんて、瞳を閉じたまま秋葉は冷たく言い切った。
「………………」
……まあ、それなりに覚悟はしていたけど。
やはり秋葉は俺の事をよく思っていてはくれなかったみたいだ。
「体調がいいなら話をすませましょうか。兄さん、詳しい事情は聞いてないんでしょう?」
「詳しい事情もなにも、突然屋敷に帰ってこいって事だけしか聞いてない。親父が亡くなったっていうのは新聞で知ったけど」
……一企業のトップに立っていた人物が亡くなれば、それぐらい経済新聞で取りあげられる。
遠野槙久の訃報は、彼の葬式が終わった後に新聞づてで息子である遠野志貴に届けられた。
親戚から報せなんてなくても、勘当された息子は一部百円のペーパーで親の死亡を知ることができた。
皮肉な話だけれど、本当に便利な世の中になったもんだ。
「……申し訳ありません。お父さまの事を兄さんに報せなかったのはこちらの失策でした」
秋葉は静かに頭をさげる。
「いいよ。どのみち俺が行ったって死人が生き返るわけでもないし。秋葉が気にする事じゃない」
「……ごめんなさい。そういってもらえると少しは気が楽になるわ」
秋葉は深刻な顔をするけど、そんなのは本当にどうでもいい話だった。
葬式というものは故人に対して感情を断ち切れない人達が、その感情を断ち切るために行う儀式だ。とうの昔に感情を断ってきた自分とあの父親の場合、葬式の必要はないと思う。
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の意向です。いつまでも遠野の長男が有間の家に預けられているのはおかしいでしょう?
お父さまが亡くなられた以上、遠野の血筋は私と兄さんだけです。お父さまがどのようなお考えで兄さんを有間の家に預けたかは分かりませんが、そのお父さまもすでに他界なさった身。
ですからこれ以上兄さんが有間の家に預けられる必要はなくなったので、こちらに戻ってもらう事にしたんです」
「……まあいいけど、そんなんでよく親戚の連中が納得したな。俺を有間の家に預けろって言い出したの、たしか親戚の人たちじゃなかったっけ?」
「そうですね。けれど今の遠野の当主は私です。親戚の方達の進言はすべて却下しました。
兄さんにはこれからここで暮らしてもらいたいのですけど、ここにはここの規律があります。今までのような無作法はさけていただきますから、そのつもりで」
「はは、そりゃあ無理だよ秋葉。いまさら俺がお行儀いい人間に戻れるわけないし、戻ろうって気もないんだから」
「できる範囲でけっこうですから努力してください。それとも───私にできた事が兄さんにはできない、とおっしゃるんですか?」
じろり、と秋葉は冷たい視線を向けてくる。
なんだか無言で、八年間もここに置き去りにしてきた恨みをぶつけられている気がする。
「……オーケー、わかった。なんとか努力はしてみる」
秋葉はじーっ、と信用できなさそうに睨んでくる。
「努力する必要はありません。結果を出していただければそれで結構です」
凛、とした姿勢のまま、秋葉は容赦のない言葉を繰り出してくる。
「話を戻しますね。
現在、遠野の家には兄さんと私しか住んでいません。わずらわしいのはイヤなので人払いをしたんです」
「え? ちょっと待てよ秋葉、人払いっておまえ───」
「兄さんだって親戚の人達と屋敷の中で会うのはイヤでしょう? 使用人も大部分に暇をだしましたけど、私と兄さん付きの者は残してありますから問題はありません」
「いや、問題ないって秋葉。そんな勝手な事しちゃ親戚会議でたたかれるじゃないか!」
「もう、つべこべ言わないでください。兄さんだって屋敷の中に人が溢れかえっているより、私たちしかいないほうが気分は楽でしょう?」
……う。
まあ、それは本当に気が楽になるんだけど。
「だけど当主になったばかりの秋葉が、その、そんな暴君みたいなワガママを通したら親戚の連中が黙っていないんじゃないか? 親父だって親戚の意見には逆らわなかったじゃないか」
「そうですね。だからお父さまは兄さんを有間の家に預けたんです。けど私、子供の頃からあの人達が大っ嫌いでしたから。これ以上あの方達の小言を聞くのは御免です」
「ゴメンですって、秋葉───」
「ああもう、いいから私の心配なんかしなくていいの! 兄さんはこれからのご自分の生活を気に病んでください。色々大変になるって目に見えてるんだから」
秋葉は少しだけ俺から視線をそらして、不機嫌そうにそう言った。
「それじゃあ、これからは分からない事があったらこの子にいいつけて。────翡翠」
秋葉は傍らに立っていた少女にめくばせする。
ひすい、と呼ばれた少女は無表情のままペコリとお辞儀をした。
「この子は翡翠。これから兄さん付きの侍女にしますけど、よろしいですね?」
────────え?
「ちょっ、侍女って、つまり、その」
「分かりやすくいうと召使い、という事です」
秋葉は当たり前のように、きっぱりと言い切った。
……信じられない。
洋館に相応しく、メイド服を着込んだ少女は秋葉同様、そうしているのが当然のように立っていた。
「───ちょっと待ってくれ。子供じゃあるまいし侍女なんて必要ないよ。自分のことぐらい自分で面倒みれるから」
「食事の支度や着物の洗濯も、ですか?」
うっ。
秋葉の指摘は、カナリ鋭い。
「ともかくこの屋敷に戻ってこられた以上は私の指示に従ってもらいます。有間の家ではどう暮らしていたかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすんです。それ相応の待遇は当然と受け入れてください」
「う………」
言葉もなく、翡翠に視線を泳がす。
翡翠はやはり無表情で、ただ人形のようにこちらを見つめ返してくるだけだった。
「それじゃ翡翠、兄さんを部屋に案内してあげて」
「はい、お嬢さま」
翡翠は影のような気配のなさでこっちへ歩いてくる。
「それではお部屋にご案内します、志貴さま」
翡翠はロビーへ向かう。
「……はあ」
ため息をつきながら、こっちもロビーへ歩きだした。
ロビーに出た。
この洋館はロビーを中心にして東館と西館に分かれている。
ロビーが鳥の胴体、東と西の館が鳥の翼のように斜めに伸びていて、片翼───つまり一方の館の大きさは小さな病院なみだ。
作りは左右対称で、東館も西館も同じ間取りをしていたと記憶している。
「志貴さまのお部屋はこちらです」
翡翠は階段をあがっていく。
どうやら遠野志貴の部屋は二階にあるみたいだ。
……そういえば、使用人の部屋は一階の西館にあったはずだから、翡翠と琥珀さんの部屋は一階にあるのだろう。
外はすでに日が落ちている。
ぼんやりと電灯の点った長い廊下を、メイド服の女の子が無言で歩いている。
「……なんか、おとぎの国みたいだ」
思わずそんな感想を洩らす。
「志貴さま、何かおっしゃられましたか?」
立ち止まって振りかえる翡翠。
「いや、ただの独り言だから気にしないでくれ」
「……………」
翡翠はじっとこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。
「………………」
言葉を失う、というのはこういうコトだろうか。
翡翠に案内された部屋は、とても一介の高校生が住む部屋の作りをしていなかった。
「……俺の部屋って、ここ?」
「はい。ご不満がおありでしたら違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その――」
ちょっと、いやかなり立派すぎるかなって。
「志貴さま?」
「―――いいんだ、なんでもない。喜んでこの部屋を使わせてもらうよ」
「はい。お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合はないと思います」
「―――?」
翡翠の言い方は、ちょっとヘンだ。
それじゃあまるで、ここが俺の部屋だったみたいな言い方じゃないか。
「……ねえ。ここって、もしかして俺の部屋だったの?」
「そう伺っておりますが、違うのですか?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
……安心した。
この娘にも、それなりに感情表現というものがあるみたいだ。
「……まあ、言われてみればそうかもしれない。少しは覚えがあるし、きっとそうだったんだろう」
親近感はまったく湧かないけど、八年間も離れていればそんなものなのかもしれない。
「けど、やっぱり落ち着かないな。今朝まで六畳半の部屋で暮らしてたからさ、なんだか高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちはわかりますが、どうかお慣れください。志貴さまは今日から遠野家のご長男なのですから」
「そうだね。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ」
トン、と机に鞄を置いて背筋を伸ばす。
―――色々と神経がまいりそうだけど、たしかに今日から慣れていくしかないだろう。
「志貴さまのお荷物はすべて運び込みましたが、何か足りないものはありますか?」
「―――いや、別にないけど。どうしてそんな事を聞くの?」
「……いえ、荷物が少なすぎるようですから。必要なものがおありでしたら用意いたしますから、どうかお聞かせください」
「……そっか。いや、とりあえず足りないものなんてないよ。もともと荷物は少ないんだ。自分の荷物っていったら、その鞄とこのメガネと……」
鞄の中に入っている教科書とか、誰のものとも知らない白いリボンとか、それだけだ。
「ともかく、荷物のことは気にしないでいい。こんな立派な部屋だけで十分だよ、俺は」
「……かしこまりました。では、一時間後にお呼びにまいります」
「一時間後って、もしかして夕食?」
「はい。それまで、どうぞおくつろぎください」
翡翠はやっぱり無表情で言ってくる。
……しかし。おくつろぎくださいって言われても、ここでどうおくろつぎすればいいんだろう?
時計は夕方の六時をまわったあたり。
いつもなら居間にいってテレビでも見てる時間だけど、この屋敷にそんなものがあるかどうか真剣に疑わしい。
「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。この屋敷にテレビってあるの?」
「テレビ……ですか?」
翡翠はかすかに目を細める。
……なんていうか、自分で言っておいてなんだけど、ひどく頭が痛くなる質問だ。
これだけ贅沢な洋館において、テレビがあるかないかを訊ねるなんてどこか間違ってる気がする。
翡翠はめずらしく困ったような顔をして、視線を宙に泳がした。
「……居間にはありません。ご逗留の方々はご使用になってらっしゃいましたが、出立される時に荷物はすべてお持ち帰りいただきましたので残ってはいないと思います」
「ちょっと待った。逗留って、誰がどのくらいしてたんだ?」
「分家筋である久我峰さまのご長男のご家族、刀崎さまのご三女とその婚約者、軋間さまのご長男がご逗留なさっていました。期間は三年ほどです」
「……三年、か。翡翠、そういうのって逗留っていうんじゃなくて居候って言うんじゃない?」
翡翠は答えない。
居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
まあ、ともかく逗留していた親戚筋の連中は自分たちの荷物を持ちかえらされたという事らしい。
となると、あの現代的な文化ってモノを俗物的と毛嫌いしていた父親がテレビなんて観るはずもない。
父親のもとで八年間も躾けられた秋葉も同じだろう。
「───ま、ないからって別に死ぬわけでもないか」
翡翠は黙っている。
……使用人の鑑というか、翡翠は聞かれた事以外は何も喋らない。
当然、こっちとしては気が滅入る。
なんとかしてこの無表情な顔を笑わせてみたいと思うのだけど、どうも生半可な努力では不可能そうではある。
「いいや、たしか一階の西館のほうに書庫があったよね。暇なときはそこから何かみつくろう事にするよ」
翡翠は答えない。
ただ部屋の入り口に突っ立ったまま、どこを見ているんだかわからない眼差しをしている。
「───翡翠?」
翡翠はうんとも言わない。
と、突然まっすぐにこちらを見据えてきた。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は?」
いやもう、ワケがわからない。
「……えーっと。あるって、何が」
「ですからテレビです。以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がありますから」
翡翠はまるで数年前の出来事を思い出すように言った。
「ちょっと待って。姉さんって、もしかして琥珀さんのこと?」
「はい。現在、このお屋敷で働かせていただいている者はわたしと姉さんの二人きりです」
……言われてみればよく似てる。琥珀さんがニコニコしていて、翡翠が無表情だからなんとなく姉妹だって結びつかなかった。
「そっか。琥珀さんならたしかにバラエティー番組を観てそうなキャラクターだ」
しかし、かといって『テレビ観せてくれい』と琥珀さんの部屋に遊びに行くのも気がひける。
「ごめん、この話はなかった事にしてくれ。これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
それにテレビなんてものを観ていたら、秋葉にどんな皮肉を言われるかわかったもんじゃない。
ここは遠野家の人間に相応しい、勤勉な学生になりきろう。
「それじゃ夕食まで部屋にいるから、時間になったら呼びにきてくれ。翡翠だって他にやる事あるだろ?」
翡翠ははい、とうなずいて背中を向ける。
きい、と静かにドアが開かれて、翡翠は部屋から退室していった。
◇◇◇
夕食は秋葉と顔を合わせてのものだった。
当然といえば当然の話なのだけど、翡翠と琥珀さんは俺たちの背後に立って世話をするだけで、一緒に夕食を食べる事はなかった。
……自分としては四人で食べるのが当たり前と思っていたので、この、なんともいえない緊張感がある夕食はまさに不意打ちだったといっていい。
言っておくと、遠野志貴は完っっ全にテーブルマナーなんてものは忘れていた。
いや、いちおう断片的には覚えていたから素人というわけではなかったけど、人間というものは使用しない記憶は徹底的に脳内の隅においやってしまう。
こっちの一挙一動のたびに向かい側に座った秋葉の眉がつりあがっていく様は、なかなかに緊張感があってスリリングだった。
……正直、これが毎日繰り返されるかと思うと、本当に気が重い。
夕食を終えて、自室に戻ってきた。
時刻はまだ夜の八時過ぎ。
眠るには早すぎるし、どうしようか。
居間に行って秋葉と話をしよう。
居間にやってくると、そこには秋葉が一人でくつろいでいた。
琥珀さんと翡翠の姿はない。
テーブルにはティーカップが二つあって、一つは秋葉が使っている。
「あら、兄さんも食後のお茶ですか?」
「いや――そうゆうんじゃなくて、たんに秋葉と話がしたいなって思ったんだけど」
邪魔なら戻るよ、と視線で意思表示をする。
「それでしたら立っていないで座ってください。飲み物は紅茶でよろしいですか?」
「……ああ、おいしいものならなんでも」
ホントは日本茶がいいんだけど、そんな我が侭はとりあえず黙っておく。
秋葉はティーポットをもって、もう一つのティーカップに透き通る紅色の紅茶をそそいでくれた。
「それじゃ、いただきます」
ソファーに座って、ティーカップを口に運ぶ。
……目の前には凛と姿勢を正した秋葉がいて、ちょっと戸惑ってしまう。
秋葉に会いに来たのはいいけど、こうして面と向かうと何を話していいものかわからない。
「兄さん? どうしました、黙ってしまって。私に話しがあるんじゃないんですか?」
じっ、と見つめてくる秋葉。
その姿は妹というより見知らぬお嬢さまといった感じで、気軽に話しかけられる雰囲気じゃない。
「えっと……秋葉はこの八年間、なにをしていたのかなって、思ってる」
「そんな事は言うまでもないでしょう。兄さんがいなくなった分、お父様の目が私一人に絞られただけの話です」
キッ、といかにも文句を言いたそうな目でこっちを見る秋葉。
……やっぱりこの八年間の事を尋ねるのはタブーになってしまっているみたいだ。
「そういう兄さんこそ、この八年間はどうだったんですか。私、何度か手紙を送ったはずですけど、返事は一つもきませんでしたね」
「………う」
思わず息がつまる。
たしかに秋葉からの手紙は何通か届けられた。
けど返事らしい返事を出したは一度もない。
筆不精という事もあったけど、やっぱり心の底で遠野の屋敷と縁を切りたくて、秋葉への返信を送ることがためらわれたせいだ。
「まあ、手紙のことはいいです。兄さんが返信をしても、お父様のところで止められていただけでしょうから。
それより八年ぶりに屋敷に帰ってきた感想はどうです? 少し前に老朽化のために改装をしましたけど、大きくは変わっていないでしょう?」
「―――――」
秋葉はそう言うけど、こっちとしてはまるっきり見知らぬ屋敷だ。
八年前っていえば、俺はまだ小学生だった。
屋敷のことはおぼろげに覚えてはいたものの、こうして中に入ってみると他人の家のようでひどく落ち着かない。
「兄さん?」
「あ―――いや、ちょっと考えごとをしてた。
その、さ。秋葉は変わってないっていうけど、俺にとってみるとこの屋敷はやっぱり落ち着かないよ。この居間とかロビーは見覚えがあるんだけど、廊下とか部屋とかはいまいち思い出せない」
「……そうですか。八年間は、長いですからね」
まあ、そういうことだろう。
なにしろ今までの人生の約半分だ。鮮明に覚えているほうがどうかしてる。
「ま、八年ぶりだからな。なんかしっくりこないけど、そのうち馴れると思う。そんなわけなんで、しばらくは無作法も大目に見てくれるとありがたい」
「馬鹿言わないでください。これ以上兄さんの無作法を大目に見れるほど、私の瞳孔は開いてくれません」
「ぶっ………!」
うっ……危ない危ない、思わず飲んでいた紅茶を吐き出しそうになってしまった。
さっきの夕食、ナイフを持つ順番が違っただけで秋葉の矢のような視線が向けられて冷や汗をかいたんだけど。
「……そっか。あれでも大目に見ててくれたのか、秋葉は」
「ええ、できるかぎりの譲歩はしてるんです。兄さんはあれから有間のおばさまに育てられましたから。
おばさまは分家筋の中でもとびきりの放任主義ですから、兄さんがどれほど甘やかされて育ったかはさっきの夕食で思い知りました」
「仕方ないだろ。俺だっておばさんだって、まさかこっちに戻ってくる事になるなんて思ってなかったんだから」
「……そうですか。なんだか戻ってきたくなかったような口振りをするんですね、兄さんは」
「ばか、そんなわけないだろ。そりゃあ俺だって迷ったけど、ここには秋葉が一人きりしかいないじゃないか。兄貴として、そんなのはほっとけないだろ」
そう、俺が戻ってきたのはそれが第一の理由なんだ。
秋葉がいなかったら、いまさらこんな屋敷に誰が戻ってくるもんか───
「八年間も音信不通だったから今更だとは思うんだけど、これでも秋葉が一人でも大丈夫なのかずっと気になってた。
俺が屋敷に戻ろうって思ったのは、秋葉のことが心配だったからだよ」
わずかに秋葉から視線をそらして、正直に自分の気持ちを言葉にする。
「あ───うん、その……ありが」
「けどそんなのは杞憂だったな。この八年間で秋葉はものすっごく頑丈に育ったみたいだ。安心できたけど、その分ちょっとは落胆したかな」
いや、ちょっとなんて生易しいものじゃない。
子供のころの大人しい秋葉のイメージしかなかった分、今の凛とした秋葉はまるで別人みたいでどきまぎしてしまうぐらいだ。
「───そうですか。兄さんの期待に応えられない、不出来な妹でもうしわけありません」
秋葉の目がこわい。
……まずい、また余計なことを言ってしまったみたいだ。
「それで兄さん。有間の家での生活はどうだったんですか?」
こわい顔のまま秋葉は話しかけてくる。
……なんていうか、妹と話しているだけだっていうのに、すごい緊張感だ。
「兄さん。私の話、聞いていますか?」
「聞いてるよ。有間の家での生活だろ? いたって普通、とりわけ問題はなかったよ。俺としてはこっちの生活より有間の家での生活のほうが性にあってたみたいだし」
「そうじゃなくて、体のほうはどうだったの?
慢性的な貧血でいつも倒れていたって聞いてましたけど」
「ああ、たしかに退院してからの一年はしょっちゅう倒れてたけど、今はもう大丈夫だよ。
……そりゃあ今でもときおり貧血は起こすけど、まあ月に一度ぐらいだし。おまえに心配してもらうほどやわな体してないさ」
トン、と傷口のある胸をたたいて強がってみせる。
秋葉はそう、と真剣な顔でうなずいた。
「けど兄さん、前は眼鏡なんてかけてませんでしたよね? その、入院してから視力でも落ちてしまったんですか?」
「――――――」
……そうか。秋葉は俺がメガネをした事も、している理由もしらないんだ。
けど物の壊れやすい『線』が見えるとか、このメガネがそれを見えなくしているとか、とてもじゃないけど説明できない。
「……いや、ちょっとね。事故の後遺症ってヤツで少しだけ眼がおかしくなったんだ。けど視力が落ちたってわけじゃないから、そう大した問題じゃない」
「───そうですか。その、さっき会った時は驚いたわ。兄さんが眼鏡をしてるなんて知らなかったから」
「そうか? そのわりにはすっごく冷静だったじゃないか、秋葉は」
「――当たり前です。八年ぶりに兄さんと再会する時に、無様なところなんて見せられないじゃないですか」
ふん、と秋葉は不機嫌そうに眉をよせる。
「秋葉さま、入浴の支度ができましたけど、どうしましょうか?」
「そう? ごくろうさま琥珀。すぐに行くから先にいっていて」
「あれ、いいんですか? せっかく志貴さまとくつろいでるんじゃないですか。志貴さまは逃げますけど、お風呂は逃げませんよ。もう少しごゆっくりしてくださいな」
「いいんです。別段たいした話をしてませんでしたから」
秋葉はスッと立ち上がると、琥珀さんを追い越してたったかとロビーへと向かっていった。
琥珀さんはしずしずと秋葉の後を追っていく。
一人居間に残されて、ぼんやりと残された紅茶を飲み干してみる。
秋葉と琥珀さんは浴場に向かったみたいだし、こっちも部屋に戻るとしようか。
「───って、待て。もしかして秋葉のヤツ、琥珀さんと一緒に風呂に入るつもりなのか……?」
いや、つもりもなにも間違いなく一緒だろう。
そうなると琥珀さんに背中を流してもらうんだろうか。
いや、そりゃあ女同士だから問題なんてないんだろうけど、その……。
「───まあ、別に何を想像するかは兄さんの自由ですけど」
「────!」
す、すごいタイミングで、秋葉が戻ってきた。
「間違っても翡翠につまらない事を強制しないでくださいね。あの子は琥珀と違って冗談が通じないんですから」
秋葉はこっちのよこしまな考えを見透かすように非難の眼差しを向けてくる。
……にしても驚いた。
もしかして盗聴器でも仕掛けてあるのか、この屋敷。
「───って、なんで戻ってきたんだおまえ。琥珀さんと風呂に入るんじゃなかったのか」
「一つ、浴場について言い忘れていたんです。あのね、兄さん。昔使っていた大浴場は使っていないんです。琥珀と翡翠だけでは管理が大変なので、とりあえず封鎖しておきました」
「……大浴場?」
って、なんだっけそれ?
「……むむむ?」
思い出せない、と首をかしげる。
秋葉はあきれたふうに眉をよせた。
「中庭に露天式の浴場があったでしょう? そんなことも覚えてないんですか、兄さんは」
……まあ、言われてみればあったようななかったような。
「―――にしても、ここ洋館だろ? 旅館じゃあるまいし、なんだってそんな場違いなモンがあるんだよ」
「お父様は半端に和風びいきでしたから。離れの屋敷が和風なのもその影響でしょう」
「そういうわけですから、湯浴みをするのでしたらご自分の浴場をお使いください。ロビーの裏手にある第二浴場が兄さんのものですから」
では、と秋葉は立ち去っていった。
「…………さて」
秋葉もいなくなったし、居間に残っていても仕方がない。
こっちも風呂に入って、部屋に戻ることにしよう。
「あ―――――」
部屋に戻ってくると、ベッドメイクが済んでいた。……俺が留守の間に翡翠が済ませてくれたのだろう。
「嬉しいんだけど、なんか身に余るよな、こういうのって」
ぽりぽりと頬を掻く。
――――――――と。
「志貴さま、いらっしゃいますか?」
ノックと一緒に翡翠の声が聞こえてくる。
「いるよ。どうぞ、中にはいって」
「はい、それでは失礼します」
「こんばんは。ありがとう翡翠、ベッドメイクしておいてくれたんだろ」
はい、と静かにうなずく翡翠。
「…………う」
やっぱり、自分にはこういうのは似合わない。
「……えっと、何かな。他に伝言でもある?」
「いいえ、わたしからは何も。ですが秋葉さまから、もし志貴さまから何かあるようでしたらお答えするように、と」
「……そっか。 確かに聞きたい事だらけだけど、そんなのは暮らしていくうちに覚えていくもんだしな……」
うん。今すぐ、寝る前に知っておきたい事っていったら、それは――
「それじゃ聞くけど、ここの門限が七時っていうのは本当?」
「はい。
正確には七時に正門を施錠して、八時に屋敷の出入り口をすべて施錠いたします。
午後十時を過ぎたあとは屋敷内の移動も控えていただくのが規則です」
「屋敷の中も出歩くなっていうのか? ……まあ文句はないけど、それって厳しすぎないか? 俺も秋葉も子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいと思うけど」
「……はい。ですが志貴さま、規則ですからこればかりはお守りください。近頃の夜は物騒だと志貴さまもご存知ではないのですか?」
……ああ、有彦がいっていた例の吸血鬼騒ぎか。
たしかにこの街で連続殺人が起きている以上、用心にこした事はないんだろう。
「あとは……そうだな、あまり関係ない話なんだけど、いいかい?」
「はい、なんでしょう」
「翡翠と琥珀さんがここでどんな仕事をしてるのか知りたいんだけど、どうかな」
「わたしが志貴さま付きで、姉の琥珀は秋葉お嬢さまのお世話をさせていただいています。
お二人が留守の間は屋敷の管理を任されていますが、それがなにか?」
「……お世話って、やっぱりそういうコトか」
がっくりと肩が重くなる。
秋葉は当然のように言っていたけど、こっちはあくまで普通の高校生だ。
同い年ぐらいの女の子に世話をしてもらうなんて趣味は、今のところありはしない。
「……志貴さま付きって事は、俺専用の使用人ってこと?」
「はい。なんなりと申し付けてください」
「……まあ、それはわかったよ。秋葉のあの言いぶりじゃ君を解雇させてくれそうにないし、大人しく世話してもらうけど───」
「何か、特別なご要望でもあるのですか?」
「特別ってわけじゃない。ただ、その志貴さまっていうのを止めてくれないか。正直いって、聞いてると背筋が寒くなる」
「ですが、志貴さまはわたしの主人です」
「だからそれがイヤなんだって言ってるんだ。俺は昨日まで普通に生きてた身なんだ。いまさら同い年ぐらいの女の子に様づけで呼ばれる生活なんてまっぴらだよ」
はあ、と翡翠は気のない返事をする。
「俺の事は志貴でいい。そのかわりに俺も翡翠って呼び捨てにするからさ。それと堅苦しいのもなしにしよう。もっと気軽に、気楽に行こうよ」
翡翠は無表情ながらも眉を下げて、なんだか困っているような素振りをする。
「ですが、あなたはわたしの雇い主ですから」
「俺が雇ってるわけじゃないだろ。翡翠は俺にできない事をやってくれるんだから、そっちのほうが偉いんだぞ」
はあ、と翡翠はまたも気のない返事をする。
……どうも一朝一夕でこの子に言い含めるのは無理のようだ。
「―――ともかくそういう事だから、俺に対してあんまりかたっくるしいのはナシにしてくれ。お姉さんの琥珀さんにも伝えてくれるとありがたい」
「はい。志貴さまがそうおっしゃるなら」
翡翠は無表情で頭をさげる。
ものの見事に、全然わかってない。
「それでは失礼します。今夜はこのままお休みください」
翡翠は一礼してドアのノブに手をかける。
────と、一つ聞き忘れていた。
「あ、ちょっと待った」
ドアに走り寄って、立ち去ろうとする翡翠の肩に手を置いた。
瞬間────翡翠の腕が、物凄い勢いで俺の腕を払った。
バシ、と音をたてて手がはたかれて、翡翠は逃げるように後退する。
「え────」
あんまりに突然のことで、そんな言葉しかだせない。
翡翠は無表情のまま、けれどたしかに、仇を見るような激しさでこちらを睨んでいる────
「えっと―――俺、なにかわるいことしちゃったかな」
「あ……」
「……申し訳、ございません……」
緊張のまじった翡翠の声。
「……体を触れられるのには、慣れていないのです。どうか、お許しください」
翡翠の肩はかすかに震えている。
なんだか、ものすごく悪いことをしてしまったような気がする。
「あ───うん、ごめん」
思わず謝った。
自分でもよくわからない。ただ翡翠が可哀相に思えて、ペコリと頭をさげていた。
「──────」
翡翠は何も言わない。
ただ、心なし視線が穏やかなものになった気がする。
「───志貴さまが謝られる事はありません。非があるのはわたしのほうです」
「いや、まあそうみたいなんだけど、なんとなく」
ぽりぽりと頭をかく。
翡翠はじっと俺の顔を見つめてから、一瞬だけ目を伏せた。
「その……ご用件はなんでしょうか、志貴さま」
そうだった。
部屋を立ち去る翡翠を呼び止めたのは聞きたい事があったからだ。
「いや、秋葉はどうしてるのか気になってさ。あいつ、全寮制の学校に行ってたんじゃなかったっけ?」
「志貴さま、それは中学校までの話です。秋葉さまは今年から特例として自宅からの登校を許可されていらっしゃいます」
「……えっと、つまりこの家から学校に行ってるってコト?」
「はい。ですが、今日のように夕方に帰られる事は稀です。秋葉さまは夕食の時間まで習い事がありますから、お帰りになられるのは決まって七時前です」
「習い事って―――それ、なに?」
「今日は木曜日ですのでヴァイオリンの稽古でした」
「────え」
「平日は夕食前には戻られますから、秋葉さまにお話があるのでしたら夕食後に姉さんに申し付けてください」
では、と翡翠は頭をさげてから部屋を出ていった。
「ヴァイオリンの、稽古」
なんだろう、それは。
どこかのお嬢様じゃあるまいし、なんだってそんな面倒なことを――
「……って、どこかのお嬢様だったんだ、あいつ」
そう、そういえば遠野志貴の妹は遠野秋葉という、生粋のお嬢様だったっけ。
こっちの記憶の中じゃ秋葉は大人しくて、いつも不安げな瞳で俺のあとをついてくる一歳年下の妹だった。
子供の頃の秋葉は無口で、自分のやりたい事も口にだせないほど弱気で、いつも父親である遠野槙久に叱られないかっておどおどしていた線の細い女の子だったのに。
「───そうだよな。八年も経てば人間だってガラリと変わる」
自分が八年間で今の遠野志貴になったように、
秋葉もこの八年間で今の遠野秋葉になったんだろう。
―――八年間は、長い。
今までの人生の半分。
それも子供から大人になろうと成長しようとする一番大切な時期に、俺はこの屋敷にいなかった。
「……ごめんな、秋葉」
その八年間を一緒にいてやれたらどんなに良かったろう、と思えて。
知らず、そんな謝罪の言葉を呟いた。
ひとり残されて、ベッドに横になった。
八年ぶりの家。
八年ぶりの肉親。
なんだか、他人の家のように感じる自分。
「……はあ。これからどうなるんだろ、俺」
誰に聞かせるわけでもなくぼやいて、そのまま眠りへと落ちていった。
オーーーーーーーーーン。
―――波の音のように、何かの声が聞こえてくる。
オーーーーーーーーーン。
―――なにかの遠吠え。野犬にしては細く高い。
オーーーーーーーーーン。
―――鼓膜に響く。月にでも吠えているのか。
オーーーーーーーーーン。
―――厭なにおい。この獣の咆哮は、頭痛を招く。
オーーーーーーーーーン。
―――音はやまない。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン――――――――
「……ああ、やかましいっ!」
目が覚めた。
窓の外からはワンワンと犬の鳴き声が聞こえてくる。
時計は夜の十一時になったばかり。
近所迷惑どころの話じゃない。
「くそ、こんなんじゃ眠れやしないじゃないか」
犬の遠吠えは屋敷の塀の近くから聞こえてくる。
……このままじゃ眠れそうにない。
犬の遠吠えはまだ続いている。
このままじゃはっきりいって眠れない。
……眠れないけど、まあ、それは常人の神経のレヴェルの話だ。
「………………眠いので、パス」
シーツをかぶって、ベッドに横になる。
犬の遠吠えなんて、道を走る自動車の音だと思えばいい。
「………はあ」
今日はなんだか長い一日だった。
慣れない屋敷での夕食や秋葉たちとの会話で精神も疲れきっている。その前には犬の遠吠えなんて、ただの雑音に他ならない。
目を閉じてしまえば、あとはゆるやかに眠りの中へと落ちていけた。
「――――ん」
なにか、物音が聞こえた気がした。
ねぼけまなこで時計を見てみると、時刻は午前二時になったばかりだ。
……さっきの野犬の騒ぎから、二時間ほど経っている。
野犬の鳴き声はとっくにやんでいた。
屋敷の夜は時計の秒針の音が響くぐらい、静かだ。
「――――――?」
また物音が聞こえた。
……屋敷の中……ロビーのほうだろうか。
「―――――まさか、泥棒?」
ありえない話じゃない。
この屋敷は金目のものでしか構成されていないとんでもない屋敷だ。くわえて、今は俺と秋葉、琥珀さんと翡翠しかいないっていう無用心ぶりである。
「……………」
ベッドから出て、足音を立てないように部屋を出る。
……もし泥棒だったら秋葉たちが危ないし、こればっかりは見過ごしておけない。
二階からロビーの様子を眺めるだけなら、こっちにも危険はないと思う。
……ロビーには異状はない。
「……………!」
いや、誰かいる。
玄関から入ってきて、ふらふらとおぼつかない足取りでロビーを横切っていく姿は――
「あき……は?」
秋葉は二階の自分の部屋にではなく、一階の西館へ歩いていく。
その先にあるものは琥珀さんの部屋と、親父の部屋ぐらいのものだ。
「……なにしてたんだ、アイツ。こんな夜更けに……」
呟いてみても答えはない。
しばらくロビーの様子を眺めてから、大人しく自分の部屋に戻ることにした。
……まあ、何か用事があったのか、それとも琥珀さんに会いにいったのかもしれない。
こっちもこっそり盗み見ていたという負い目もあるし、あれこれ詮索するのも気が引ける。
「……寝よ寝よ。明日も学校だ」
ベッドにもぐりこんで、目を閉じる。
―――眠りに落ちる途中。
ロビーで見かけた、うつろな瞳をした秋葉の姿が、なにかよくない物のように、何度も何度も思い返されていた。
[#改ページ]
●『2/反転衝動U』
● 2days/October 22(Fri.)
その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
深い森のような庭。
高い城のような家。
何日かかっても探険しきれない閉じた箱庭の世界で、ボクたちは遊びまわった。
毎日は楽しかった。
年をとるなんて事もしらなかったし、
朝と夜はおんなじように繰り返されるんだって疑いもしなかった。
それは、ただ、子犬のようにはしゃぎまわった幼年期。
ボクらはとても気が合って、最高の遊び仲間だった。
振り向けばいつもあきはがいて、手を振ると恥ずかしがって隠れてしまう。
うん、そんなのもいつもどおり。
その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
深い森のような庭。
高い城のような家。
何日かかっても探険しきれない箱庭の閉じた世界で、ボクたちは遊びまわった。
「―――おはようございます」
……聞き慣れない声がする。
見ていた夢が急速に失われていった後に残るのは、目覚めようとするけだるい体の感覚だけだ。
「朝です。お目覚めの時間です、志貴さま」
聞き慣れない声がする。
……だから、志貴さまはやめてくれないか。
そう言われると背筋が寒くなるって、昨日ちゃんと言ったっていうのに────
―――――目が覚めた。
翡翠はベッドから離れたところで、なにかの彫像のように立ち尽くしている。
「…………」
ここは、ドコだっけ。
「おはようございます、志貴さま」
メイド服の少女がおじぎをする。
「……ああ、そうだ。俺は、自分の家に戻ってきたんだっけ」
体を起こして部屋の様子を流し見る。
「おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれて、ありがとう」
「そのようなお言葉は必要ありません。志貴さまをお起こしするのはわたしの責務ですから」
翡翠は淡々と、まったくの無表情で返答する。
「そ、そうか。なら、いいんだけど」
……ひいき目に見なくても、翡翠はきれいな顔立ちをしていると思う。
そういう子に起こされるのは喜ぶべきことなんだろうけど、翡翠にこうも感情がないとあまり嬉しい、という感じはしない。
……もったいない。
翡翠も琥珀さんの半分ぐらい明るければ、ものすごく可愛いと思うんだけど。
「―――なにかご用ですか?」
こっちの視線に気づいたのか、翡翠はまっすぐに見つめ返してくる。
「いや、なんでもない。目が覚めてまっさきに翡翠の顔を見て、ここが遠野の屋敷なんだなって実感しただけだよ」
さて、とベッドから起きて、うーんと大きく両手を伸ばす。
「志貴さま、お時間があまりございません。お屋敷から志貴さまの学校まで三十分ほどかかりますから、あと二十分ほどで朝食を召し上がっていただかないと」
「え―――うわあ、もう七時をすぎてるじゃないか!」
時計を見て愕然とした。
……昨日の夜、何度も目を覚ましたせいで体内時計が狂ったみたいだ。
「学校の制服はそちらにたたんであります。着替えが済みしだい居間においでください」
「くそ、どうせ起こしてくれるならもっと早く起こしてくれればいいのに……!」
自分勝手な独り言をいいながら、たたまれた学生服に手を伸ばす。
学校の制服はきちんとたたまれていて、シャツにはアイロンまでかけられている。
袖に腕を通すと、なんだか新品みたいに気持ちがよかった。
居間には秋葉と琥珀さんがくつろいでいた。
秋葉の制服は浅上女学院、という有名なお嬢様学園の物だろう。
二人はとっくに朝食をすませたのか、優雅に紅茶なんぞを飲んでいた。
「やっ。おはよう秋葉」
「―――おはようございます、兄さん」
「おはようございます志貴さん。朝食の支度でしたら食堂のほうにできていますから、どうぞ召し上がってください」
冷たい秋葉とは対照的に、ニコニコとした笑顔で挨拶をしてくれる琥珀さん。
「あ、どうもありがとうございます。……けど、秋葉はもう済ませたのか? 見たところ食後のお茶みたいだけど」
「当然です。兄さんがどんな時間に起床しようとかまいませんが、せめて朝食ぐらいは余裕をもってください。七時をすぎて朝食をとるなんて、たるんでいる証拠です」
「……いや、七時ごろに朝食をとるのは普通だと思うけど。そういう秋葉は何時に起きたんだよ」
「朝の五時には起床しますけど、なにか?」
「………………」
……さすがだ。そんな早くに起きて何をするかはわからないが、もう反論のしようもないほど完璧な起床時間である。
「だいたい、兄さんの学校はここから徒歩で三十分ほどなんでしょう? そんなに近いところに学校があるのに遅刻なんかしないでくださいね。恥ずかしいですから」
「…………う」
秋葉の言葉には、いちいち棘があってチクチクする。
けどまったくの正論なので、反論をする余地がまるでない。
「秋葉さま、そろそろお時間のほうも限界ですけど、よろしいんですか?」
「……わかってます。もうっ、初日からこれじゃ先が思いやられるじゃない」
ぶつぶつ、と文句らしきものを呟いて秋葉はソファーから立ちあがる。
「それでは、私は時間ですのでお先に失礼します。兄さんもお気をつけて勉学に励んでください」
秋葉はそのまま居間を後にした。
秋葉を玄関まで送るのか、琥珀さんも居間を後にする。
「勉学に励めって、秋葉」
……やっぱり親父の下で八年間もしつけられたからだろうか、細かいところで古くさいというか、礼儀ただしいというか。
「……まあ、言われなくても学校には行くけどさ」
ぽりぽり、と頬をかく。
去り際にみせた秋葉の顔はどうしてか胸をついて、朝から色々と注意されたことなんてどうでもよくなってしまった。
「そっか――――」
ぽん、と手を叩く。
さっきの秋葉の顔は、昔の秋葉にすごく似ていたから、俺はわけもなく目を奪われてしまったのだろう―――
琥珀さんが用意してくれた朝食を食べたあと、ロビーに出る。
と、ロビーには翡翠が鞄を持って待っていた。
「志貴さま、お時間はよろしいのですか?」
「ああ、こっから学校まで走れば二十分ないからね。いま七時半だろ、寄り道をしても間に合うよ」
こっちの説明に満足したのか、こくん、と翡翠は頷く。
「それでは、外までお見送りいたします」
「え―――あ、うん、どうも」
……やっぱり、自分付きの使用人というのはひどく照れくさい。
「あ、志貴さん! ちょっと待ってください!」
たたたっ、と琥珀さんが二階から降りてきた。
「……………………」
翡翠は琥珀さんがやってくると、すい、と身を引いて黙ってしまう。
「あれ、琥珀さんは秋葉と一緒じゃなかったの?」
「秋葉お嬢様はお車で学校に向かわれますから。今朝は志貴さんにお届け物があるので屋敷に残らさせていただいたんです」
「お届け物って、俺に?」
「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」
ニッコリと琥珀さんは笑顔をうかべる。
「え───? いや、俺は自分の荷物は全部持ってきたよ。もともとむこうで使ってたのは有間の家のものだったから、自分の物なんて着てる服ぐらいのものなんだけど……」
「そうなんですか? こちらが届けられたお荷物ですけど」
琥珀さんは二十センチほどの、細い木箱を手渡してくる。
重量はあまりない。
「───琥珀さん、俺はこんなの見た事もないんだけど」
「はあ。なんでも志貴さまのお父さまの遺品だそうですけど。志貴さんに譲られるようにって遺言があったとか」
「……あの親父が俺に?」
……それこそ実感がわかない。
八年前、俺をこの屋敷から追い出した親父がどうして俺に形見分けをするんだろう?
「まあいいや。琥珀さん、これ部屋に置いておいて」
「─────」
琥珀さんはじーっ、と興味深そうに木箱を見つめている。
なんだか玩具をほしがる子供みたいな仕草だ。
「じーーーーっ」
いや、子供そのものだ。
「……わかりました。中身が気になるんですね、琥珀さんは」
「いえ、そんなことないです。ただちょっと気になるなって」
………だから、十分気になってるじゃないか。
「なら開けてみましょう。せーのっ、はい」
スッ、と乾いた音をたてて木箱を開ける。
中には────十センチほどの、細い鉄の棒が入っていた。
「………鉄の棒………だ」
何の飾り気もない、使い込まれて手垢のついた鉄の棒。
……こんなガラクタが俺に対する形見分けとは、親父はよっぽど俺が気に食わなかったとみえる。
「───違います志貴さん。これ、果物ナイフですよ」
琥珀さんは鉄の棒を箱から取り出す。
「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じみたいです。せーの、はいっ」
パチン、と音がして棒から十センチほどの刃が飛び出す。
……なるほど、たしかにこれはナイフだ。
「ずいぶんと古いものみたいですけど、作りはしっかりしてますよ。裏に年号がかかれてます」
琥珀さんは刃をしまってからナイフを手渡してくる。
たしかに握りの下のほうに数字が刻まれていた。
七という漢字と、その後には夜という漢字。
「姉さん、これは年号じゃないわ。七つ夜って書かれているだけよ」
「っ!」
びっくりして振り返る。
と、今まで黙っていた翡翠が後ろからナイフを覗きこんでいた。
「び、びっくりしたあ……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくても、見たければ見せてあげるのに」
「あ―――――」
とたん、翡翠の頬がかすかに赤くなる。
「し、失礼しました。あの―――その短刀があまりにキレイでしたから、つい」
「キレイ? これ、キレイっていうかなあ。どっちかっていうとオンボロな感じだけど」
「――――そんな事はありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」
「……そうなの? 俺にはガラクタにしか見えないけど……」
翡翠があんまりにも強く断言するもんだから、こっちもその気になってきた。
……うん。これはこれで、形見としては悪くないのかもしれない。
「七つ夜……ですか。その果物ナイフの名前でしょうかね?」
「そうかもね。ナイフに名前を付けるなんてヤツはそういないと思うけど」
なんにせよ年代物という事ははっきりしている。
「ま、もらえる物はもらっとくのが俺の信条だし」
刃を収めて、ズボンのポケットにナイフを仕舞う。
「志貴さま。お時間はよろしいのですか……?」
「まずい、そろそろ行かないと間にあわないか。それじゃ琥珀さん、届け物ありがとうね」
いえいえ、と琥珀さんは笑顔で手をふった。
庭を抜けて門に出る。
翡翠は無言でしずしずと付いてきた。
「……翡翠。もしかして俺の見送り?」
はい、と 翡翠は無表情でうなずく。
「志貴さま。お帰りはいつごろでしょうか」
……翡翠はあくまで俺の名前にさまを付けたいらしい。
ここで話し込んで学校に遅刻するわけにもいかない。『さま』づけ論争に関しては時間がある時にするべきだろう。
「志貴さま?」
「あ、えーと、そうだな。四時あたりには帰ってこれると思うよ。俺は部活やってないから」
有彦と遊びにでかけなければ、まあ大体夕方には帰ってこれる。
こっちのいい加減な目算に翡翠は深々と頭をさげた。
「わかりました。では、行ってらっしゃいませ。どうか、道々お気をつけて」
……何をお気をつけてなのかは不明だけど、おそらくはこっちの体を気遣ってくれてるんだろう。
「ああ、サンキュ。翡翠も気をつけてな」
好意には好意で返すのは当たり前。
軽く手をあげて、翡翠に元気よく手をふってから屋敷の門を後にした。
───坂道を下っていく。
今まで有間の家から高校に通っていたから、この道順での登校は初めてだった。
「────あんまりいないな、うちの学生」
この周辺の家庭にはうちの高校に通っている人間は少ないようだ。
朝の七時半。
道を小走りで進んでいく学生服姿は自分しか見あたらない。
ちらほらと学生服をきた人影がまざってくる。
ここのあたりにくるとうちの学校の通学路になるのだろう。
「……弓塚さんは……ま、都合よくいないよな」
昨日、ここで『家がこっちだから』と別れたクラスメイトの笑顔を思い出す。
教室に行けば弓塚さつきがいると思ったとたん、心なしか足の進みが速くなった。
住宅地を抜けて交差点につく。
校門が閉まるまであと十分ほど。
遅刻しないようにとアスファルトの路面を駆け出した。
――――――到着。
屋敷から徒歩で三十分、というより二十分程度か。途中で何度か走ったから、ゆっくりしたいのなら七時すぎに屋敷を出る必要があるだろう。
「――――?」
教室に入るなり、空気がどこかあわだたしい事に気がついた。
朝の教室はいつも騒がしいけど、今日の騒がしさはどこか毛色が違う気がする。
窓際の自分の机まで歩いていく。
そこには仏頂面をした有彦が待っていた。
「有彦、なにかあったのか?」
「……さあね。別にたいした事じゃない。たんにうちのクラスの誰かが家出したってだけの話だ」
「そっか、どうりで騒がしいはずだ」
自分の机に座って、ふう、と一呼吸つく。
「―――って、そりゃ大事じゃないか! 誰が家出したんだよ、誰が!」
「そんなの俺が知るか。朝のホームルームが始まればイヤでもわかるだろ。家出したヤツは学校には来ないだろうから、空いてる席が家出をしたヤツだ」
「ああ、そりゃ納得」
納得だけど、有彦の態度はいつになくドライだ。
……クラスメイトが家出したっていうのに、まるで他人事みたいに無関心なのは問題があると思う。
「有彦。おまえ、ひどく無関心じゃないか。クラスメイトが家出したんだぞ。心配にならないか?」
「あ? ばっか、そんなの本気で心配してんのはオマエぐらいなもんだよ。クラスの連中が騒いでるのは、わりかし珍しい話題だからだ。
オレやおまえが家出したわけじゃないんだし、関心なんてあるわけないだろ」
……そういえば、こいつは身内以外にはひどく冷たいところがあるヤツだった。
「……でもまあ、違った意味で心配はしてるけどな。こんな時に家出をするなんて、よっぽど度胸があるのかよっぽどのアレかだし」
「……? こんな時って、どんな時?」
「昨日言っただろ、遠野。いま街じゃ通り魔殺人が流行ってるんだって。どこに家出したかしらないが、そこらへんで野宿してたらバッサリと通り魔に襲われても文句は言えないだろ」
「まさか――――いくらなんでも、そんなことはないだろ」
「遠野、おまえはちゃんとテレビを見なさい。今までで犠牲者が八人だぞ? それも全員無差別に殺されてるんだ。自分だけは安心、なんていう考えは捨てちまえ。
最近の夜の街はさ、それは静かなもんなんだぜ。出歩いているのは危機感が麻痺してる酔っ払いと警官だけでね、おかげで退屈で退屈で仕方がない」
有彦の声はいたって真面目だ。
……それを聞かされると、こっちも不安になってしまう。
「―――おっ、国藤が来たぜ。お待ちかねのホームルームだ」
有彦は自分の席に戻っていく。
しばらくして、全員が席についた。
生徒が座っていない席は一つしかない。
その席は、間違いなく弓塚さつきの机だった。
[#挿絵(img/31.jpg)入る]
「それじゃあわたしは家がこっちだから。
ばいばい、また明日学校でね」
「………」
……昨日の別れ際、弓塚は確かにそう言っていた。家で何があったか知らないけど、あの笑顔はとても家出する直前には見えなかった。
「弓塚は欠席だな」
教壇に立つ担任は、ただ弓塚さつきを欠席扱いにして出席をとっていく。
……何事もなかったように、ホームルームは進んでいく。
俺は―――
―――――昨日の弓塚の笑顔を知っている。
あんな顔をしてばいばい、なんて言えるヤツが家出をするなんて、とても思えない。
「―――先生」
「なんだ遠野。質問か?」
「はい。うちのクラスで家出をした生徒がいると聞きましたけど、それは本当なんですか?」
「む―――――」
ぴたり、と教室中の空気が固まった。
担任は難しい顔をしたあと、言いにくそうに顔をしかめてうなずいた。
「……たしかに弓塚さつきのご両親から、そういった報せは届いている。弓塚は昨夜から家に帰ってきていないそうだが、捜索願いが出されているのだからすでに見付かっているだろう」
そうして、担任は教室を後にした。
教室はざわざわと騒がしくなる。
なにか、イヤな予感がする。
……重苦しい。椅子に体が縛り付けられているみたいに重苦しい、イヤな予感だった。
◇◇◇
昼休みになっても、気分は晴れない。
弓塚さつきが家出している、という話はショッキングではあったけれど、いつまでも残る話題ではなかったみたいだ。
教室はいつも通りで、俺だけがクラスメイトの行方を気に病んでいるようにさえ思えた。
「遠野、飯にしようぜ」
「いい。なんかそんな気分じゃない」
「ふーん……ま、仕方ねえか。関係のない苦労を背負うのもほどほどにしとけよ」
「………………」
関係のない苦労、か。
有彦のセリフは、いちいち的を射すぎている。
「あれ? 今日は乾くんと一緒じゃないんですか?」
「……先輩。どうしたの、うちの教室になんか来て」
「はい、遠野くんたちとお昼ごはんを食べようと思ったんですけど……遠野くん、お昼は食べないんですか?」
机に座り込んだ俺の顔を、心配そうに覗きこんでくる先輩。
「いや、そういうわけじゃないけど、なんとなく食欲がなくてさ」
「はあ。気分でも悪いんですか?」
「……そんなトコかな。いいから、俺のことは放っておいて食堂に行ってください。有彦なら食堂にいますから」
「もう、元気ないですね遠野くんは。何があったかは知りませんけど、お昼ごはんを食べないとますます気分が悪くなっちゃいますよ」
「―――それは、そうだけど」
食欲が湧かないんだから、こればっかりはどうしようもない。
「わかりました、それじゃ落ち着ける場所に行きましょう。ほんとは秘密なんですけど、遠野くんは特別です」
ぐい、と腕を掴んで、先輩は強引に俺を椅子から立ち上がらせた。
シエル先輩は校舎の端にある、誰も使っていない教室まで俺を連れてきた。
「あれ……ここって和室、だよね」
「はい、ここなら誰もいませんし、気分も落ち着きますから」
「いや、それはそうだろうけど……先輩、ここ鍵がかかってるんじゃないか?」
「そうですよ。普段は茶道部の部員しか中に入りませんから、普通の生徒さんは中に入れません」
言いつつ、ポケットから鍵を取り出す先輩。
「なんだ、先輩茶道部の人だったの?」
「はい。といっても、茶道部の部員はわたしだけなんですけどねー」
あはは、と笑顔で言って、先輩は和室の中に入っていった。
……和室の中は、ここが学校とは思えないぐらい、特別な空間だった。
畳の感触と、窓からさしこんでくる陽射しがシン……と気持ちを落ちつかせてくれる。
「さっきも言いましたけど、茶道部っていっても部員はわたししかいないんです。そのおかげで放課後とか休み時間とか、こんなふうに自由に使っちゃってるわけなんです、はい」
笑いながら先輩はざぶとんを敷いてくれた。
「今お茶を淹れますから、遠野くんはそこで待っててください」
……先輩は流しのほうでお茶の支度をしてくれている。
立っていても所在ないので、大人しくざぶとんに正座した。
「……………」
和室の魔力だろうか。
あれだけ胸の中でぐるぐると渦巻いていた弓塚の事を、落ちついて考えられるようになっている。
「はい、お待たせしました。それじゃあお昼ごはんにしましょう。実はですね、遠野くんに聞きたい事がありましたから、茶道室でお昼ごはんをとるのは丁度いいです」
「はい。話、ですか」
戸惑いながら出されたお茶を飲む。
和室に入ると条件反射で姿勢が正しくなって、気持ちが静謐になってくれる。
……自分はけっして関わらなかったけれど、有間の家は茶道の家元をしていたりする。そんな家で育ったせいか、洋室より和室のほうが落ちつくのだ。
先輩はなんだか困ったような顔で俺を見つめている。
「どうしたんですか先輩。なにかうかない顔してますけど」
「え? あ、その、なんだか遠野くんのほうが落ち着いてるなって、ちょっと驚いてました」
「そうですか? うちはもともと厳しい家だったから、こういうのに慣れてるだけなんです。それより先輩、話があるんじゃないんですか?」
「あ、そうでした。話というのはですね、昨日のお昼の続きなんです」
「……昼の話の続きって、その、家のこと?」
はい、と先輩はうなずく。
「遠野くんがイヤじゃなければ、もう少し話を聞きたいなって。昨日は中途半端に終わっちゃったから気になっちゃって」
「……イヤってわけじゃないけど、うちの家の話なんて聞いたってつまらないですよ。それこそ時間の無駄です」
「つまらなくてもいいですよ。わたしがただ聞きたいだけなんですから」
「……はあ。物好きだね、先輩は」
そうかもしれませんね、と先輩は笑った。
「ねえ遠野くん。遠野くんは自分の家に引っ越したって言ってましたけど、それってどういう意味なんですか?」
先輩は興味深そうに質問してくる。
……まあ、たしかに何の事情も知らない先輩にとって、昨日の会話はあまりに断片的すぎたんだろう。
「───そうですね。ようするに、俺は実家から勘当された男の子なんですよ、これが。
九歳の頃に交通事故に巻き込まれたとかで、ひどい傷をおってしまいまして。
傷そのものはなんとか治ったんですけど、それからはすぐ貧血で倒れるは食べたものは戻すわで、しばらく養生させるって事で親戚の有間って家に預けられる事になったわけなんです」
「ええっと、つまりその有間っていう方々が遠野くんの九歳からの育ての親、という事になるんですね?」
「そうですね。俺は自分の父親になんでか嫌われてまして、有間の家に預けられた時から二度と自分の家……遠野の屋敷に戻ることはないって解ってたんです。
だからまあ、自分としては有間の家の子供として暮らしていこうってずっと思ってた。
思ってたんですけど、つい最近その父親が他界したんです。
……そうなると屋敷には妹一人しかいませんから。長い間放っておいてしまったこともあるし、いまさらですけど屋敷に戻ることにしたんです」
―――以上、遠野志貴の家庭の事情でした。
なんて話を切りあげる。
シエル先輩は無言でこくん、と小さくうなずいた。
「……一つ、聞いていいですか?」
「うん? まあ、俺に答えられることだったらどうぞ遠慮なく」
「それじゃあ聞きますけど。遠野くんは、やっぱり前のご家族が嫌いだったんですか?」
前のご家族───育ての親である有間の両親の事か。
本当の両親ではない父親と母親。
他人の家であるはずの見知らぬ建物。
けど、そんな事はぜんぜん関係なく───
「いや、好きでしたよ。血が繋がってないことなんて気にも留めない人たちで、自分が一人で落ち込んでいるのが申し訳なくなってくるぐらい、温かかった。
そういう盲目的な愛情を信じられる自分っていうのも、悪くないと思ってましたから」
───この人たちは自分を愛してくれている。
だから早く、一日でも早く、
ボクは本当の家族にならなくちゃ───
そんな言葉を、幼いころからずっと自分に言い聞かせてきた。
……ほんとうに、ずっと昔から。
気がとおくなるぐらい、ずっとずっと繰り返し誓ってきた───
「……えっと、たしかに有彦のいうとおり、有間の家に不満なんか一つもなかったんです。
あの人たちは良くしてくれたし、自分もその愛情に応えてきたと思う。
そりゃあお互い、こんなのは家族ごっこだって分かってましたけど、芝居じみたそれでさえ、苦痛ではなかったんです」
いや、むしろ幸せだっただろう。
ある意味。有間の両親と俺は、理想の親子だったと思う。
「───でも、だめだったんですね」
「……そう。それでも、一線をこえられなかった。自分は本当の家族じゃない、という言葉がどうしても頭から離れてくれなくて。
そんなこと無視するべきだと分かってるんだけど、どうしてもダメだった。
幼児体験だかなんだか知らないけど、こうなるとすでに呪いかな。なんだか、どこにいっても家族とはずっと他人のような気がするぐらいの」
先輩は黙っている。
視線をそらして、申し訳なさそうに肩をすぼめていた。
「ほら、つまらない話だったでしょ。だから時間の無駄になるって言ったのに」
「いえ、そんなことないです。すごく有意義なお話でした」
言って、先輩は自分のお弁当を食べ始めた。
こっちもそれに倣うように、買ってきたパンを口に運ぶ。
……先輩と話をしたおかげか、多少は食欲が戻ってきた。
といっても、結局は買ってきたパンを半分も食べきれなかったのだが。
「それで遠野くん。なにか悩みごとでもあるんですか?」
「え―――なんですかいきなり。別に悩みなんてないですよ、俺は」
「ふうん。それじゃあたんに体調が悪くて食欲がないだけなんですね、遠野くんは」
じっ、と先輩は俺の顔を見つめてくる。
……なんていうか、深い眼差しだ。
見つめられていると黙っているのが難しい。
「……別に悩みなんてないですけど……先輩、最近の通り魔事件について、どう思います?」
昨日から家に帰っていないというクラスメイトの話が頭から離れなくて、ついそんな事を訊ねてしまった。
「通り魔事件っていうと、例の吸血鬼騒ぎですね」
「―――うん。もう犠牲者が八人も出てるんだろ。俺、最近ニュースを見てないからよく知らないんだけど、先輩は詳しい?」
「さあ、人並みには知ってますけど、詳しいっていうほど知ってません。
ただ……そうですね、吸血鬼っていう単語にはゾッとしますけど」
「ああ、なんでも殺されてしまった人の体から血液が抜かれてるっていうヤツだったね。ヘンな話だけど、それって何の意味があるのかな」
「さあ、そんなコトをする人の考えは理解できませんから。けど遠野くん、どうして吸血鬼っていうあだ名がつくんでしょうか」
「……?」
先輩はおかしな事を聞いてくる。
「どうしても何も、体中の血を抜かれているんでしょう? それなら吸血鬼っていうあだ名がつくのは当然じゃないですか」
「遠野くんは、吸血鬼の俗説を知ってますか?」
いきなり笑顔になって、先輩はさらにおかしな質問をしてくる。
「……吸血鬼の俗説って……吸血鬼に吸われた人間は、同じように吸血鬼になるっていうのですか?」
「はい。ほら、それなら死体なんか残らないでしょう。吸血鬼が犯人なら、死体なんていうものは残らないんですよ、遠野くん」
「―――なるほど、それはそうだけど……吸血鬼っていうのはあくまであだ名じゃないですか。先輩、吸血鬼がいるだなんて、本気で信じてるんですか?」
「そんなことはありません。だって、死体が残ってしまうということは吸血鬼じゃないでしょう?」
笑顔のまま、先輩はどこかピントの外れた事を言う。
「けどこういうふうにも考えられませんか?
発見されている死体の方たちは、吸血鬼になれなかったから死んでしまったんです。
吸血鬼にはなれる人となれない人とがいて、なれる人は吸血鬼に襲われても死体は発見されないんです。今も、どこかで生きているから。
けどなれない人はそのまま死んでしまって、結果として死体として発見されるんだって」
「いや―――――それは」
……先輩は笑顔のままだ。
だからそんなコト、ただの冗談だってわかっているのに、なぜか笑い飛ばすコトができない。
「なーんて、冗談ですよ。そんなコトがあったらホラーですからね。わたし、あんまり恐い話は好きじゃないですから、あんまりイヤなコト聞かないでください」
「……なんだよそれ。先輩のほうこそノリノリだったくせに」
「はい、恐い話は好きじゃないですけど、遠野くんを恐がらせるのは好きなんです」
「………………」
……なんか、俺はこの人の恨みを買うようなマネをしたんだろうか?
「でも遠野くん。冗談はさておき、最近の夜の街は危ないです。
いくら遠野くんが元気な男の子だからって、あんまり出歩いちゃだめですよ」
どこまで本気なのか、先輩は冗談っぽく忠告してきた。
◇◇◇
昼休みが終わって五時限目の授業が始まった。
古文の授業の内容は、まったくといっていいほど耳に入ってこない。
[#挿絵(img/秋葉 29.jpg)入る]
―――それじゃあ、わたしの家はこっちだから。
―――ばいばい。また明日、学校で会おうね。
弓塚は確かにそう言った。
そんなコトを言った彼女が、そのまま家出するなんてありえない。
「――――――」
イヤな予感だけがする。
夜の街に徘徊する通り魔。
夜は危ないから出歩いちゃダメだという、先輩の言葉。
「――――」
別れ際のイメージが赤だからだろうか。
ふと。
真っ赤な血に染まった、弓塚さつきの姿がまぶたに浮かんだ。
「ぐ―――――」
それは唐突にやってきた。
視界がだんだんと白くなって、平衡感覚がぐるぐるとおかしくなっていく。
「―――――――」
くらり、と視界がゆらぐ。
頭のうしろのほうに何かがわだかまって、意識がずん、と重くなる感覚。
「………………ま、ず」
この感覚は知っている。
突発的な眩暈は貧血の前触れだ。
脳に血管にたまった血液が、黒い塊になってクラクラと頭を揺らして、見えているものを真っ暗にしていってしまう。
例えるのなら、脳のほうから眼球の方向に闇が押し出されるような感覚。
―――まずい、な……授業中に倒れるなんて、滅多に、なかったって、いうのに―――
赤い。
血のように赤い弓塚のイメージが、あんまりにも鮮明すぎたからか。
くらり、と視界が歪んでいく。
暗くなっていく視界の中、手探りで机をつかんで寄りかかる。
それも、すぐに無駄になる。
指先に力が入らない。
あとはただ、床に向かって倒れこむだけ―――
その中で、彼女が言っていたセリフを思い出した。
『ピンチの時は助けてね、遠野くん』
―――だから、そんなお願いは無理なんだ。
俺はキミが思ってるほど、なんでもできるヤツじゃないんだからさ――――
◇◇◇
「―――わるい。つきあわせたな、有彦」
「はいはい、おまえが何の前触れもなくぶっ倒れるのには慣れてるよ。ったく、人が待ってやってるのをいいことにギリギリまで保健室で眠りやがって、ナニサマのつもりですか貴様は」
「なんだよ、それなら起こしてくれればよかったのに。なにも律儀に門限まで待つ事はないだろ」
「うるせえな、病人をたたき起こしてもな、また貧血で倒られちゃメイワクだろ。ほら、いいから帰ろうぜ。もう七時じゃねえか、たくっ」
有彦は廊下を歩いていく。
……あの後。
俺は貧血で倒れて、保健室で寝かされたとのことだ。
そのまま学校の門限である六時半になって、有彦のパンチで目を覚ます事になって、こうして誰もいない廊下を歩いている。
「ほら、なにやってんだ。急ぐぞ遠野」
「―――わるい、いま行く」
まだかすかにふらつく頭をふって、有彦の後に付いていく。
「よし、こっからは一人で帰れるだろ。んじゃ、また明日学校でな」
「……サンキュ。いつも悪いな、有彦」
「気にするな。借りは出世返しで倍返しだ」
……有彦の返答は日本語になっていない。
それに苦笑しつつ、こっちも自分の家に帰る事にした。
交差点につく。
まだ夜の七時だっていうのに、あたりには人影がない。
連日の通り魔騒ぎで夜中に出歩く人が減ったせいだろう。
とりあえず目に入る人影は、遠くのほうを歩いている女の人の背中だけだ。
「…………あ、金髪」
遠くを歩いている女性は、どうも外人らしい。
遠くからでもそれとわかる金色の髪が、歩くたびにゆれている。
[#挿絵(img/32.jpg)入る]
……ひどく、目を引く。
背中を見るだけで、あの女性が美人だという事がわかる。
――――――――どくん。
「え――――――」
唐突に、どくん、と心臓がはねあがった。
意味もなく喉がカラカラに渇いていく。
体中が冷たくなって、じくりと、汗をかいていく。
「あ―――――ぐ」
ずきりと、頭が痛む。
……昼の貧血とは違う、意識を遠くするんじゃなくて、意識をハッキリとさせるような、痛み。
「は―――――あ」
ぜいぜいと喉が乱れる。
あの―――背中。
金色の髪の女性を見ているだけで、なぜか――ズキズキと頭が痛む。
「はあ―――はあ、はあ――――」
……思考がぼう、とかすんでいく。
俺は―――このまま、あの女の後を追いかけて、それで――
「それ……で?」
なにを、しようというんだろう、一体。
女はマンションが立ち並ぶ、繁華街の奥にあるマンション群へと消えていった。
「……追わ……なく、ちゃ……」
本当に何の脈絡もなく、そう思った。
足がマンションのほうへと動く。
けど、その前に。
「―――――!」
一瞬だけ、たしかに。
弓塚さつきの姿を、視界の隅にとらえていた。
「弓塚、さん―――――?」
ぼう、としていた意識がはっきりとする。
弓塚……一瞬だけだったけど、アレはたしかに弓塚だった。
街のほうに歩いていったんだろうか?
「こんな時間になんで出歩いてるんだ……!?」
弓塚が家出中とか行方不明とか、そんなコトどうでもよくなるぐらい、頭にきた。
女の子が一人で夜の街を歩くなんて、無用心すぎる。
弓塚はふらふらとした足取りで人込みの中を歩いていく。
……遠くて、よくわからない。
見間違いかもしれないけど、とにかく追いついて呼びとめよう、と走った。
「待って、弓塚さん―――!」
追いかけながら声をかける。
[#挿絵(img/33.jpg)入る]
「――――――」
声が聞こえたのか、弓塚はちらりとこっちに振り向いた。
その顔は、なんということはない。
前を歩いている少女は間違いなく弓塚さつきだし、彼女の顔が恐ろしげな表情をつくっていたわけでもない。
「――――あ」
なのに、ぞくりとした悪寒を感じてしまった。
―――どくん、と。
心臓の鼓動が速くなる。
あたまの後ろのほうがクラクラと重くなって、喉が少しだけ熱を帯びる。
さっき金髪の女性を見かけた時みたいに、ぎり、と頭を締め付けるような痛みが走る。
「なんだろう……なんか、ヘンだ」
体中が熱い。
質の悪い熱病にうかされたみたいに、クラクラする。
そうしている間に、弓塚はまた歩き出してしまった。
「ま―――待てって、弓塚さん……!」
走りながら呼びかける。
弓塚は振り向かずに、ふらふらと歩いていく。
「こ―――の、聞こえないのか弓塚……!」
熱い体にムチを打って走る。
けど、どうやっても弓塚の背中をつかまえられない。
……いくら走っても、歩いている弓塚に追いつけない。
「――――――」
なにか、おかしい。
そう分かってはいるのに、何がおかしいのか解らなかった。
今の自分に出来ることといえば、なんの解決策もないまま弓塚さつきを追いかけていくだけだ。
――――と。
不意に弓塚の背中が消えた。
さっきまで、追いつかないまでもちゃんと見えていた弓塚さつきの背中が見当たらない。
「……くそ……なんだっていうんだ、一体……!」
立ち止まって、呼吸を整える。
はあはあ、と胸が大きく上下していた。
……今まで気がつかなかったけど、随分と長い間走っていたみたいだ。
「……いま、何時、だろ……」
両膝に手をついて、適当なショーウィンドウに視線を移す。
時刻は―――夜の十二時にさしかかっていた。
「――――うそ。そんなに走ってたのか、俺」
……そんな実感はないけど、時計に間違いはない。
見渡せば、繁華街の店もその大部分が閉まっていた。
「―――帰、ろう」
弓塚のことは気になるけど、これ以上捜しても見つけられない気がする。
……だいたい四時間近く追いかけて、何度も呼びかけたのに振り向きもしないなんて、彼女は何を考えてるんだろう。
はあ、と大きく深呼吸をして、屋敷に戻ることにした。
……このあたりにくると、人通りはまったくなかった。
繁華街のほうはまだ人通りがあったほうで、ここから屋敷に戻るまでの道は完全に人気がないだろう。
「…………」
通り魔殺人という単語が頭をよぎる。
夜の十二時。一人で街を歩いている自分は、通り魔にとって扱いやすい獲物かもしれない。
「――――!?」
物音。
建物の裏手のほうから、なにか物音がした。
人が倒れるような、そんな感じの音だったと思う。
「……路地裏のほう……?」
……物音は一度きりだった。
あたりは、不吉なぐらい、静かだ。
……イヤな予感がする。
路地裏のほうで、誰かが倒れたのか。
それとも風で荷物が倒れただけか。
……どっちにしたって、あまり関わりあいになるのは賢い選択とは言えない。
―――――けど。
さっきまで弓塚を捜していたせいか、そこに弓塚がいるような錯覚なんか持ってしまっている。
「……どう、しよう……」
あたりに人影はない。
頼れるものなんていったら、朝方琥珀さんが渡してくれたナイフだけだ。
俺は―――――
――――自分の錯覚を、無視できない。
もう何人も殺人を犯している通り魔が徘徊しているっていう夜の街で、怪しい物音がした路地裏に行こうだなんてどうかしてる。
どうかしてるけど、俺は――――昨日の弓塚の笑顔が忘れられない。
弓塚がいるはずなんてないけど。もしそこに弓塚がいて、なにか取り返しのつかないコトになっていたのなら。
……俺は、それを見逃したコトを絶対に後悔する。
「――――よし」
ポケットの中に手をいれると、かつん、という冷たい感触があった。
使うつもりはさらさらないが、とにかくこっちにも武器があると思うと気が楽になる。
……それに、いざとなれば遠野志貴にはこの『眼』があるんだ。
先生は無闇に使うなって言ってたけど、相手が殺人鬼なら許してくれるだろう。
「……音、こっちからだったな」
覚悟をきめて、路地裏へ足を運んだ。
―――どくん。
心臓が、ひときわ大きく脈をうつ。
路地裏は静かだ。
……物音は、この奥の広場から聞こえてきた。
―――どくん。
首のうしろが、痛い。
極度の緊張で痙攣でもしているのか、背骨が皮膚から飛び出しそうなぐらい、痛い。
―――どくん。
どうしてだろう。
俺は何も考えていないのに、本能がさっきから警告を鳴らしている。
―――どく、ん。
行くな。
その先には行くな。
行けば、きっと戻れない。
―――どく、ん。
けど、もう遅い。
路地裏を抜けて、俺はその広場へと足を踏み入れてしまった。
「――――え?」
ただ、そんな声しか、出せなかった。
路地裏は、一面の赤い世界だった。
ゴミやガレキにまじって手足が散乱している。
手足は犬や猫のたぐいじゃない。
その断面から赤い血と、骨と、生々しい肉を見せた、紛れもない人間の手足だった。
地面や壁には赤い血が塗りたくられている。
鼻孔をつく重い匂い。
どろり、と。
赤い霧になって体にまとわりついてきそうなほど、濃厚な血のにおい。
顔。顔。顔。
首元から断ち切られ、苦悶の表情のまま転がった顔。
木乃伊のように干からびて、真っ二つに割れてカラカラと転がっている顔。
両目を刳り抜かれて、男とも女ともとれないぐらい正体不明のまま放置された顔。
「―――――」
声も出せず、ただ、ソレらの亡骸を傍観した。
いや、人の死体というにはあまりにも遠すぎる。
出来の悪いオブジェにしたって、もうすこしはマシだろう。
死体は、四つあった。
どれもこれも食い散らかされた残飯みたいに転がっている。
「は―――――は」
愕然と死体の海を見つめる。
首のうしろがズキズキと痛んで、喉が乾いて呼吸が火のように熱い。
指先はガクガクと震えていて、口元がいびつな形にゆがんでしまう。
これは―――何だ。
いま目の前に広がっている世界は、なんだ。
「――――赤い」
そう。
目が醒めるぐらいに、攻撃的な一面の色―――
ただ、ぼうと立ち尽くす。
悲鳴も出ない。恐怖もない。
ただ、忘我して異状な光景を映画のワンシーンのように、路地裏を見つめている自分がいた。
きっと。
そうでもしていないと正気がなくなってしまうので、理性がそういった方法で俺をとどめてくれているのだろう。
がさり、と壁際の死体が動いた。
いや、違う。
そこにいるのは死体じゃない。
無造作に転がっている手足とは違う。
ちゃんと手足がある、生きている人間のようだった。
「あ…………」
なにか、意外なものを見た。
人が生きていたという事を喜ぶより、この光景の中で生きている人間がいる事が、なんだか不自然な気がして。
けど、生きているのなら。
生きているんなら、助けて、あげないと。
「あの―――もしもし?」
麻痺した感情のまま、まだ生きている人間のところに歩み寄っていく。
「――――ギ」
ずるり、と地の海から這い上がって、ソレは俺にむかって顔をあげた。
その、干からびた、シャレコウベのような顔を。
「ひ―――――!」
反射的に後ろに逃げる。
けど、そんな俺の動きなんかより、シャレコウベのほうが何倍も速い。
ひゅうひゅうという声をあげて、ソイツは俺の上にのしかかってきた。
――――ひゅう、ひゅう。
イヤな声が、目の前で聞こえた。
見れば―――シャレコウベの喉は大きな穴が開いていて、満足に発音できないらしかった。
「――――あ」
干からびた顔、干からびた腕がのしかかってくる。
骨と皮しか残っていない喉の声帯が、ぶるぶると不気味な声にあわせて振動している。
「うわあああああ!」
ただ、必死になってソイツを引き剥がそうとした。
だがソイツは不気味な声をあげて離れようとしない。
ごり、と。
ソイツの指が、肩口に突き刺さった。
「っっっっっ!」
痛みで体が跳ねる。
ソレの指は、鋭いキリのようだった。
容赦なく俺の皮をさいて肉をえぐり、そのまま神経を引きずっていく激痛――
「あ、ああ、あ――――!」
ただ痛くて、そんな声しか出せない。
悲鳴をあげながら懸命にソイツを引き剥がすが、ソイツの力は強すぎた。俺が何をしようがびくともしない。
カカ、と音をたててシャレコウベの口が開く。
肩を一口で噛み砕けるぐらいに開いた口が、死にたくない、と助けをこうように、俺の顔へと近寄ってくる。
「や――――」
やめろ、という声も通じない。
骨と皮だけのソイツは、そのまま俺の頭にかじりつこうとして――――そのまま、唐突に、崩れ落ちた。
「へ……?」
あんなに強かった力が消えていく。
かろうじて骨と皮だけが残っていた人の形をしたソイツは、残された骨と皮さえも無くして、跡形もなく消え去っていく。
さらさらと。
悪い夢みたいに、ソレは灰になって散っていった。
「………なんだよ、これ」
ずきりと、肩から痛みが走る。
「あ………つ」
背中に自分の血が流れていく。
痛みは現実。だからこれは、紛れもない現実。
ひどい、悪夢だ。
こんなコト―――悪い夢でしかないのに、夢ですら、ないなんて。
「遠野くん。それ以上そこにいると危ないよ」
「――――!」
背後からの声に振りかえる。
入ってきた路地裏の入り口に、弓塚さつきが立っていた。
「弓、塚―――?」
「こんばんは。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
まるで、街中で偶然であったように、気軽に弓塚は語りかけてきた。
「弓塚、おまえ……おまえこそ、こんな時間に何してるんだよ」
「わたしはただの散歩。でも、遠野くんこそ何をしてるの? そんなにいっぱいの人を殺しちゃうなんて、いけないんじゃないかな」
ふふ、と淡い笑顔で弓塚は言った。
「人を殺したって―――え?」
周囲を見渡す。
……それで、自分がどんな惨状の中で立ち尽くしているのかを思い出した。
一面の血の海の中。
遠野志貴は、まるで殺人犯のように、呆然と立ち尽くしている。
「ち、違う、これは俺じゃない……!」
「違うことはないでしょう。みんな死んでいて、生きてるのは遠野くんだけなら誰だってやったのは遠野くんだって思うわ」
「そんなワケないだろう! 俺だってコイツに襲われかけたんだぞ……!」
さっきまで自分を襲っていた怪物を指差す。
けど、そこにはもう何もない。
アレは骨はおろか、灰さえものこさずに風に散って消えていた。
「あ――――」
息を飲む。
弓塚はくすくすと笑っている。
「ち、ちがう―――俺じゃ、俺じゃない、んだ」
あたまがマヒして、そんな言葉しか言えない。
……わかってる。
ちゃんと何がおかしくて何がおかしくないのか解っているんだけど、思考が空回りして喋れない。
例えば、家出しているっていう弓塚がどうしてこんなところにいるのか。
例えば、こんな惨状を目の前にして、どうして弓塚はそんなふうに笑ってられるのか、とか。
「弓塚さん、俺は―――」
「うん、ほんとは解ってるんだ。遠野くんは食事中に出くわしただけなんでしょう? いじわるなこと言ってごめんね。わたし、いつも自分の気持ちと反対のことをしちゃうから、遠野くんにはいつもこんなふうにしてばっかり」
弓塚はまだ笑っている。
……それがこの惨状にあまりに不釣り合いで、ぞくりとした。
弓塚は路地裏の入り口から動かない。
不自然に組まれた両腕。まるで、何かを隠すように後ろに組んでいる。
―――注意して見れば。
彼女の肘のあたりには赤々としたモノが、まだら模様をつくっていた。
「弓塚、おまえ――――」
「どうしたの? 恐い顔して、ヘンな遠野くん」
また、クスリと笑う。
「――――――」
……違う。
彼女は、弓塚さつきなんかじゃ、ない。
「弓塚―――なんでおまえ、手を隠してるんだ」
「あ、やっぱりバレちゃった? 遠野くんってば抜けているようで鋭いんだよね。わたしね、あなたのそうゆう所が昔っからいいなあって思ってたんだ、志貴くん」
そう、わざとらしく志貴くん、と強く発音して。
弓塚は、両手を前にさし出した。
真っ赤に染まった両手。
血は乾ききっておらず、ぴちゃぴちゃと音をたてて赤い雫をこぼしている。
それを、誇るように。
弓塚さつきは、口元に笑みをうかべていた。
「弓塚、その手―――」
「うん。わたしが、その人たちを殺したの」
「な――――」
「あ、でもこれは悪いことじゃないんだよ。わたしはこの人たちが憎くて殺したんじゃないもの。生きていくためにはこの人たちの血が必要だから、仕方なく殺したんだから」
……なん、だろう。
弓塚は、なにか、よく解らないことを、言っている。
「殺したって―――ホントなのか、弓塚」
「嘘だって言っても信じてくれないでしょ? それともわたしみたいな女の子じゃこんなコトできないって思ってくれる?」
クスクス、という笑い声。
―――信じられない。
信じられないけど、間違いなく彼女は嘘なんてついていない。
この惨状は。
みんな、弓塚が起こしたものなんだ。
「どうして―――こんな、酷い事を」
「ひどくなんかないよ。さっきも言ったでしょう、わたしはこの人たちが憎くて殺したんじゃないもの。志貴くん、生きるために他の生き物を殺すことはね、悪いことじゃないんだよ」
「なにを―――! どんな理由があったって、人殺しは悪いことだろ!」
「そんなコトないけどね。あ、でも悪いことも一つだけしちゃったみたい。
わたし、今日が初めてだから加減ができなくて、血を吸う時に自分の血も送っちゃったの。そのせいで逝き残ったのが出てきて、志貴くんが襲われる事になったわ。
ごめんなさい。わたし、あやうく志貴くんを巻き込むところだった。ソイツが成りきれないで死んでくれて、本当によかった」
「なにを―――なにを言ってるんだ、弓塚」
「今は解らなくていいよ。わたしもまだ自分自身のことを把握しきれてないから、うまく説明できないわ」
「けど、何日かすればきっと志貴くんみたいになれると思う。
志貴くんみたいな、立派な――――」
言いかけて、弓塚は顔を歪ませて苦しみだした。
「はっ―――あ、う…………!!」
苦しげに喉をかきむしって。
弓塚は、ごぶりと、口から血を吐き出した。
「いた――――い。やっぱり、お腹が減ったからって無闇に吸ってもダメみたい。質のいい、キレイな血じゃないと、体に合わないのかな―――」
コホコホとせき込む。
その咳は赤く、あきらかに血を吐いていた。
「ん――――く、んああ…………!!!」
弓塚の体がガクガクと震えている。
……よくわからない。
もう、何もかもよくわからないけど、ただ、弓塚がひどく苦しんでいるという事だけは、はっきりとした事実だった。
「おい……苦しいのか、弓塚……!?」
弓塚に駆けよって、その手を取ろうとする。
「――――だめ! 近寄らないで、志貴くん!」
だが、それは弓塚の声で止められた。
「……ダメ、だよ、全然大丈夫じゃないよ、志貴くん」
はあはあと。
苦しげな呼吸が、赤い血を吐いて、届いてくる。
「弓……塚、おまえ―――」
俺には、わからない。
弓塚が苦しんでいる理由も、どうして、彼女がそんなふうになってしまっているのかも。
「どうしたんだよ、いったい。人を殺したって言ってたけど、そんなの嘘だろ、弓塚……? そんなに苦しいんならすぐに病院に行かないとだめじゃないか」
……なんて、偽善。
弓塚が本当にこの惨状を作ったんだって分かっているのに、そんな、つまらない嘘を口にした。
「弓塚―――そっちに行くけど、いいな?」
優しく話しかける。
けど弓塚はブンブンと頭をふって、さっきより激しく俺を拒絶した。
「どうして―――苦しいんなら、すぐに病院に行かないとダメだろう……!」
「……ダメなのは志貴くんのほうだよ。ほんとに、いつもいつも、わかってくれないん、だから」
「ばか―――それを言ったらさっきから何一つわからないよ、俺は―――!」
「あ……は、そっか、そうだよね……それでも、わたしに付きあってくれてるんだ―――」
よろり、と。
逃げるように、弓塚の体が後ろに引いていく。
「……痛いよ、志貴くん」
ぜいぜいと、呼吸を乱して、赤い血が、吐き出される。
「……痛くて、寒くて、すごく不安なの。
ほんとは、今すぐにでも志貴くんに助けてほしい」
―――けど、今夜はまだダメなんだ。
そう言って。
弓塚は、突然に体を持ちなおした。
「―――待っててね、すぐに一人前の吸血鬼になって、志貴くんに会いに行くから!」
「あ―――待て、弓塚!」
「――――――」
弓塚の姿はない。
俺が一歩駆け出す間に、弓塚はとっくに路地裏から走り去ってしまった。
……そのスピードは人間のものではなく、獰猛な獣のそれだ。
「―――弓塚、おまえ―――」
なにが、あったっていうんだ、本当に………!
「ぐ―――――!」
傷つけられた肩が痛む。
振りかえれば。
あれだけ人間の部品が散乱していた路地裏の広場には、赤い血しか残っていない。
顔も。臓物も。手足も。
さっきのシャレコウベのように、灰になって消えてしまった。
「く―――そ」
ただ悔しくて、壁を叩く。
「どうなってんだよ、一体―――!」
怒鳴り声だけが、虚しく路地裏に反響した。
◇◇◇
「――――――」
気がつけば屋敷の玄関までやってきていた。
ずきり、と肩の傷が痛む。
屋敷の明かりはみな消えている。
連絡もいれず、こんな夜遅くに帰ってくることになるなんて思いもしなかった。
秋葉―――秋葉はきっと、俺のことを怒っているんだろうな、なんて思いながら、玄関の重いドアに手をかけた。
……ロビーには誰もいない。
さて、どうしようか。
傷の手当てをしたいんだけど、眠っているだろう琥珀さんたちを起こすわけにはいかないし――
「……兄さん?」
「え――――秋葉?」
声がした方に顔をあげる。
……見上げれば、階段に秋葉の姿があった。
「やっぱり兄さんですね。もうっ、こんな夜遅くに帰ってくるなんて、いったい何を考えて――――」
階段を下りてくるなり、秋葉はそんな小言を口にして立ち止まった。
「兄さん、その肩―――どこで傷つけられたんです?」
「あ―――」
しまった、と傷口を隠しても、いまさら遅い。
「いや、これは、その……」
「いいですから、じっとしていてください。傷口は肩だけですね……?」
「あ――そうだけど、よく、わかるな」
「そんなに服を血に汚していれば判ります。事情は後で聞きますから、今は治療を先にしましょう。
兄さん、少し失礼します」
有無を言わせぬ迫力で秋葉は俺の肩に手を触れた。
「――――っ!」
秋葉の指が触れただけで、体がびくんと動く。
……どうやら傷口は思っている以上に深いようだった。
「あ―――すみません、痛みましたか、兄さん」
「……いや、大丈夫……って言いたいけど、ダメかな。触れられるだけで、すごく痛い」
「そうですか……これだけ深いと琥珀では無理ですね。私が手当てをしますから、居間のほうに行っていてください」
秋葉は階段を昇っていく。
「…………ふう」
居間の電気をつけて、ソファーに座る。
肩の傷はズキズキと痛んで、時間が経つごとに我慢できなくなりつつあった。
「お待たせしました。傷口を看ますから、楽にしていてください」
秋葉は手に何やら応急セットを持ってやってきた。
……そんなものでこの傷がどうにかなるとは思えないけど、消毒ぐらいはしないとまずいとは思う。
秋葉は俺の背中に回って、傷口の手当てをする。
血に濡れた服をハサミで切って、傷口を露出させて、消毒液で血を洗い流していく。
「――――ぐ!」
つぷ、と体の中に指をつっこまれたような痛み。
……けど、その後はさしたる痛みもなく、傷口の痛みも段々と薄れていった。
秋葉の手当てが上手いのか、それとも大した傷ではなかったのか。
数分経って、痛みは完全に消えてくれた。
「はい、これでおしまいです。その程度の傷口でしたら、明日の朝には塞がっているでしょうね」
テキパキと応急セットを片付ける秋葉。
……なんていうか、意外だ。
秋葉のことだからどこでケガをしたんだとか、いつまで遊び歩いているんだとか叱りつけてくると思ったのに。
「……聞かないんだな、秋葉」
「聞かないって、何をですか?」
「その、さ。俺がこんな時間に帰ってきた理由とか、こんなケガをしてる理由とか」
ぽつり、と。
まるで弱音をはくように、そんな事を言ってしまった。
弓塚との事があって、俺はすごく疲れている。
疲れているから―――そんな弱音を口にした。
「―――兄さん。私、物事の順序ぐらいはわきまえているつもりです。今の兄さんにはまず傷の手当てが必要だったから、あくまでそちらを優先させただけでしょう」
「……そっか。それは、そうだよな」
「もうっ。人のことをどう思っていたのよ、兄さんは。私、人が傷ついているのを放っておいてまで小言を口にしたりはしないわ」
「……そっか。ごめん、色々と世話になって。けど、手当てをしてもらってなんだけど―――」
「事情は話せないって言うんでしょう? そんな言い訳は聞たくありませんけど、今日は特別です。
兄さんが話したくないっていうんでしたら、私も深くは詮索しません」
「え―――その、いいのか。俺、こんな夜遅くに帰ってきたのに」
「……たしかに兄さんが何をしていたかは気になりますけど、これでも信じてますから。危ないことはしていないでしょうし、それに―――そんな顔をした人から無理やり話を聞くなんて、できないわ」
ふい、と照れくさそうに秋葉は視線を逸らした。
「…………」
そんな顔って―――今の自分はそんなにひどい顔をしているんだろうか。
「事情は兄さんが元気になったら聞きますから。一晩ぐっすり休めば顔色も良くなるでしょうし」
「――――――」
気まずくなって、秋葉から視線を逸らす。
……俺が元気になるまで話は聞かないっていうのは嬉しいんだけど、明日の朝になったって事情なんか話すことはできない。
結局、秋葉には何も話せない。
それが後ろめたくて、秋葉の顔をまっすぐに見る事ができなかった。
「……秋葉、俺は―――」
「ああもうっ、いつまでもそんな顔をしないでくださいっ! 今日だけは特別に許してさしあげますから、部屋に戻って休んだらどうですか? どうせ私には話せない事情なんでしょうから!」
話したがらないこっちの気持ちを読み取ったのか、不機嫌そうに秋葉はロビーへと歩いていく。
俺はソファーに座ったまま、秋葉の後ろ姿を見送るしかできない。
ふと、思った。
秋葉がすぐロビーにやってきたのは、帰ってこない俺をずっと待っていたからなんだろうか、なんて都合のいいことを。
「―――秋葉」
「なんですか、兄さん」
「……手当て、ありがとうな。心配かけさせて、すまない」
「え―――――」
ぴたり、と秋葉の足が止まる。
―――と思ったら、秋葉はすぐにふい、と顔を背けてしまった。
「わ、私は兄さんの心配なんてしてませんっ。そんなお世辞を言う余裕があるんでしたら、ご自分の体を大切にしてくださいっ」
バタン、と乱暴にドアが閉められた。
「―――よくわからないヤツだな、あいつも」
それでも、秋葉なりに俺のことを心配してくれているのは分かる。
「……危ない事はしていない、か」
秋葉は俺の事を信じているから、そんなことはしていないでしょう、と断言した。
だっていうのに、俺はあんなに危険な場面にでくわしてしまった。
路地裏に散乱した死体。
両手を血に染めた、弓塚の姿。
「――――――く」
思い出すだけで寒気が走る。
傷口を庇うように立ちあがって、部屋に戻ることにした。
着替えて、ベッドに倒れこんだ。
まぶたを閉じると路地裏での光景が浮かんでくる。
―――わたしが、その人たちを殺したんだよ。
なんでもない事のように、弓塚はそう言った。
―――その人たちの血が必要だったから。
だから殺したって。
まるで吸血鬼みたいな、たちの悪い、冗談。
―――待ってて。一人前の吸血鬼になって―――
……よく、思い出せない。
弓塚は最後になんて言ったんだっけ。
「ふ…………ぁ」
眠気が体に浸透してきた。
弓塚の顔が脳裏から離れないまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
……確かな事は、ただ一つだけ。
弓塚の言っていた事は全部本当で、路地裏の死体は彼女が殺してしまった人間たちということ。
だっていうのに。
俺はそんな寒気がする事実を恐怖するより、彼女がもらしたたった一言のほうに気を取られてしまっている。
―――痛い……すごく痛いよ、志貴くん―――
……どうかしている。
弓塚は人殺しなのに、彼女のその言葉が、どうしても頭から離れてくれないなんて―――
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●『3/反転衝動V』
● 3days/October 23(Sat.)
夏の、暑い日。
青い空と 大きな大きな入道雲。
じりじりとゆらぐ風景と
気が遠くなるような蝉の声。
蝉の声。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん
―――――うるさくて、死にたくなる。
広場には蝉のぬけがら。
たいようはすぐそばにあるようで、
広場はじりじりと焦げていく。
真夏のあつい日。
まるで、セカイがふらいぱんになったみたい。
[#挿絵(img/アルクェイド 28.jpg)入る]
えーん えんえん
えーん えんえん
えーん えんえん
……あきはが泣いている。
足元には子供がひとり倒れている。
子供の白いシャツはまっかに染まって、ぴくりとも動かない。
ボクは、それを見下ろしている。
両手は倒れている子供と同じように赤い。
いや、違う。
この両手は、倒れている子供の血で赤いのだ。
「秋葉─────!」
おとなたちがやってくる。
「なんて事だ─────」
おとなたちは秋葉を連れていく。
倒れた子供は死んだまま。
ボクは一人残されて、子供をコロシタ両手をおとなたちにおさえつけられた。
「おまえが殺したのか────」
おとなたちは叫んでいる。
子供をころしたボクの名前を叫んでいる。
たった二文字の言葉を、気がちがったように叫んでいる。
たった二文字。
おとなたちをそろって、両手を真っ赤に染めたボクを、シキと、呼んでいた。
「志貴さま、このままではご起床のお時間を過ぎてしまいます。どうかお目覚めください」
……自分の名前を呼ぶ声で、深い夢から目が覚めた。
「翡翠……?」
「はい。おはようございます、志貴さま」
ふかぶかと一礼をする翡翠。
窓からは秋の陽射しが差し込んでいて、ここは紛れもなく自分の部屋だ。
「――――翡、翠」
「志貴さま、ご気分が優れないのですか?」
「いや―――そういう、わけじゃなくて」
……ただ、ひどく懐かしい夢を見た。
でも内容が思い出せない。
「なんだっけ……よく、思い出せない」
「?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
……そうか、翡翠に言っても仕方がないよな。
今のは―――どんな、夢だったんだろう。
目が潰れるぐらいの眩しい白と、激しく流れ出した赤色のまだら。
―――――――なにか。
ナニカ、不吉ナ夢ヲ。
「……シ、キ……」
「はい、なんでしょう志貴さま」
「……なんでもないんだ。ごめん、起きるから先に食堂のほうに行っていてくれ」
はい、とうなずいて翡翠はドアのほうへと歩いていく。
かつ、かつ、かつ。
いつもより翡翠の足音が高い。
翡翠はドアを開けて部屋を退室していこうとして、くるりと振り向いた。
「志貴さま、つかぬ事をお伺いいたします。
志貴さまは昨夜、何時に帰ってこられたのでしょう」
「え……昨日は……その、夜遅くに」
「……夕方の四時には帰ってこられる、と志貴さまはおっしゃられた筈ですが、予定が変わったのですね」
「―――――あ」
思い出した。
そういえば昨日の朝、翡翠には夕方に帰ってくるって言ったんだっけ。
「ごめん。ちょっと事情があって、昨日は帰って来れなかったんだ。今日からはちゃんとするから、大目に見てくれ」
「……いえ、志貴さまがそのようにおっしゃられる必要はありません。主人の予定に合わせるのがわたしたちの仕事ですから。
ですが、これからはせめてご連絡の一つでもいれてください。どのような事情であれ、連絡をいれる事はできる筈です」
「―――そうだね。ごめん、今日からは必ず約束は守る」
「はい。それでは失礼します」
「……珍しく怒ってたな、翡翠」
普段から無表情だから、翡翠が怒るとすごく怒っているように感じられる。
……その、まるで俺がとんでもない悪さでもしたみたいだ。
「――――さて、起きるか」
シーツをはいで、体を起こす。
―――瞬間。
ずきり、と激しく体が痛んだ。
「ぐっ………!」
痛み―――痛みは肩の傷口からじゃない。
もっと奥のほうから、どくん、どくん、と鼓動に合わせるように、響いてくる。
「あ───ぐ───」
シーツをつかんで、なんとか痛みに耐える。
「は―――あ」
……おさまった。
突発的な発作だったのか、体に異状はない。
「……胸の……傷」
服の上から胸に触れる。
そこには大きな傷跡があって、完治した今でも、ときおり今みたいに痛むコトがある。
お医者さんが言うには、精神的な痛みが完治したはずの肉体の痛みを繰り返させる、というコトだ。
たいてい胸の傷が痛む時は、交通事故や生き物の死体を見たあとだ。
血や死のイメージが八年前の事故を思い起こさせているんだろう。
「……昨夜のせいかな」
赤い路地裏。
そこで普段通りに話しかけてきた弓塚の笑顔。
「ぐ――――!」
胸が、痛む。
弓塚のことが頭から離れない。
けど、どうすればいいのか、どうするべきなのかさえ、俺には考えつかない。
俺に出来ることといえば、遠野志貴の日常をとりあえずこなすことぐらいだ。
「く―――そ」
自分自身に悪態をついて、ベッドから起きあがる。
寝巻から学生服に着替えて、居間に向かうことにした。
居間には秋葉と翡翠の姿があった。
琥珀さんは厨房のほうで俺の朝食の支度をしてくれているんだろう。
「おはようございます、兄さん」
秋葉はソファーに座ったまま、こっちの顔色をうかがうように挨拶をしてくる。
「……ああ、おはよう。昨日はすまなかった」
挨拶を返して、そのまま食堂に向かう。
時間的に秋葉とのんびり居間で話をする余裕はないし―――俺自身にも、誰かと話をする余裕なんてなかった。
「兄さん、お話があるのですけど―――少し、よろしいですか」
「……いいよ、時間がないから手短にな」
秋葉の向かいのソファーに座る。
「昨夜の話の続きですけど。兄さん、昨日は何をしていたんですか?」
秋葉はまっすぐな目で問いただしてくる。
「別に。ただ街を歩いていただけだよ。遅くなったのは謝るけど、そう大したことじゃないだろ」
秋葉に嘘をつきたくないから、できるだけ曖昧に返答する。
「街を歩いていただけって、それは大した事でしょう。兄さんはまだ未成年なんですから、夜の街になんか行かないでください。そうでなくても最近は物騒なのに」
「あ―――――――」
物騒―――夜の街を徘徊する通り魔。
なんで。
なんで、気がつかなかったんだろう。
人を殺して血を抜き取るという殺人鬼。
そのフレーズは、昨日の弓塚にぴったり当てはまってしまうじゃないか――――
「……こんなこと、私が言うまでもないでしょうけど、兄さんの体は無茶がきかないんです。
昨夜みたいに、その……ひどく疲れた顔をして帰ってこられたら、困ります。
何か悩み事があるのでしたら打ち明けてください。大した力にはなれませんけど、私でよかったら…………」
―――考えたくないけど。
弓塚。弓塚が、この街を騒がしている殺人鬼なのかも、しれない。
「兄さん? ちゃんと話を聞いてますか?」
「あ――――いや、うん、聞い、てる」
秋葉の声が聞こえる。
けど、こっちの頭の中はただ、昨日の弓塚の姿が思い出されるだけだった。
秋葉はじっと俺を見つめてくる。
「どうしても事情は話せないっていうんですね、兄さんは」
「ああ。秋葉には、関係ないことだ」
今は弓塚のことしか考えられない。
早く一人になりたくて、そんな言葉を、返していた。
「―――兄さんはあくまで自分だけの勝手を通す、という事ですか?」
「………………」
「わかりました。では、どうぞご自由になさってください。兄さんがそうおっしゃるんでしたら、私も自分の勝手を通すだけですから」
秋葉はロビーへと立ち去っていく。
「志貴さま。よろしいのですか、それで」
「……よろしいって、なにが」
「秋葉さまは志貴さまを深く案じているんだと思います。……あの方はご自分のお気持ちを口にする方ではありませんから、志貴さまに伝わりにくいとは思いますが―――」
「ちゃんとわかってるよ。けど、今は頭がいっぱいでダメなんだ。……秋葉には、悪いと思ってる」
「………………」
翡翠はそれきり黙りこんだ。
「志貴さーん、朝ごはんですよー!」
食堂から琥珀さんの声が聞こえてくる。
席を立って、食堂に向かった。
◇◇◇
「志貴さま、今日のお帰りはいつごろになるでしょうか?」
「ああ、今日は土曜日だから……いや、夕方になると思う。ちょっと、探し物があるから」
「かしこまりました。それではどうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
ふかぶかと一礼する。
翡翠に見送られて、屋敷を後にした。
◇◇◇
―――学校に来ても、何の意味もなかった。
弓塚さつきは欠席者として扱われて、誰も、彼女のことを案じていないように見えた。
時間はそれこそいつのまにか過ぎてしまっていた。途中、有彦やシエル先輩がやってきたような気がするけど、よく覚えていない。
昼になって学校が終わった。
何のあてもない。
何のあてもないけど、弓塚を捜さないといけない。
日が沈む。
街中を走りまわっても、弓塚さつきの姿は見つけられなかった。
「…………くっ」
悔しくて歯を噛んだ。
……弓塚が見つからないのが悔しいんじゃない。
二日前。
この道で、あんな約束をした自分が、腹だたしい。
―――ピンチの時は助けてね。
そう言ってきた弓塚に、俺は気軽に返答した。
自分に出来ることなら手を貸すよ、と。
……それは、なんて無責任な返答だったんだろう。
俺にできることなんて、本当にちっぽけだ。
痛い、と。
痛くて暗くて寒い、なんて苦しんでいた弓塚の姿を見つけ出すことさえ、できない。
「――――――」
日が沈んでいく。
……認めたくないけど、夜にならないと弓塚は見つけられないのかもしれない。
「……夕方には戻るって、翡翠に言ったんだっけ」
時間が早かったのかもしれない。
いったん屋敷に戻って、冷静に考えてみよう。
◇◇◇
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「ただいま。……翡翠、秋葉はどうしてる?」
「秋葉さまは学校の手続きに行かれました。遅くなるそうですから、夕食は先にとるようにとの事です」
「………?」
学校の手続き、か。
秋葉の通っている高校は名高いお嬢様学校だから、なにかと複雑な手続きがあるのだろう。
「夕食まで部屋で休んでるから、時間になったら食堂に行くよ」
「はい。お呼びしますので、ごゆっくりお休みください」
ふかぶかとお辞儀をする翡翠に背を向けて、自分の部屋へ足を運んだ。
―――夕食が終わって、ベッドに腰をかける。
時計の針は夜の九時にさしかかろうとしている。
この屋敷は八時をすぎてからの外出は禁じられているから、もう外に出る事はできない。
「……………」
だが、そんなものはただのきまりごとだ。
その気になればいくらでも外には出れる。
―――ばいばい。また明日学校でね、遠野くん。
俺は――弓塚を探しにいく。
――――俺は……どうしても、放っておけない。
弓塚を捜すっていう事が危ないことだっていうのは解っている。
理由はどうあれ、あいつはあれだけの人間を殺したヤツだ。
けど、どうしても放っておけない。
夕暮れの帰り道。
弓塚の最後の言葉が、どうしても忘れられない。
「……行こう。考えてても始まらない」
着替えて、ナイフをポケットにいれた。
秋葉たちに見付からないように、足音をたてずに部屋を後にした。
……ロビーの明かりは消えていた。
暗くて寂しいかぎりだけど、こっそりと出ていくには丁度いい。
ぎし、ぎし。
こういう時にかぎってきしむ階段をおりて、静かに玄関へと向かっていく。
―――と。
「兄さん? こんな夜更けにお出かけですか?」
いつからロビーにいたのか、秋葉は静かな面持ちで声をかけてきた。
「秋葉―――帰ってたのか」
「ええ、ついさきほど。
それより兄さんこそどうしたんですか。着替えているところを見ると、どこかに出かけるようですけど」
じっ、と秋葉は俺を見つめてくる。
俺を責めている、というわけじゃない。
ただ不安そうな目で俺の姿を見つめてくる。
「昨夜、あんなケガを負ってきたのにまた出かけるんですね、兄さんは」
「……ごめん。友達がピンチでさ。放って、おけないんだ」
「……そうですか。どうせ止めても行かれるんでしょう、兄さんは」
「ああ。けど危ないマネはしないよ。ちょっと様子を見てくるだけだ。……家に帰ってきたばっかりだっていうのに迷惑をかけて、すまない」
言って、玄関に歩き出した。
「あ――――」
背中にかかる、小さな声。
「兄、さん」
今までの声とは違う、弱々しい秋葉の声。
……それはまるで八年前に戻ったような、不安をおびた声だった。
「秋葉……?」
[#挿絵(img/34.jpg)入る]
「ちゃんと……戻って、来ますよね……?」
「――――」
弱々しい秋葉の顔。
今までの凛としたところはまったくなくて、それは―――本当に、子供のころの泣き虫だった秋葉の顔だった。
「……なんだよ、ちょっと出かけてくるだけだって言ってるだろ。秋葉が、そんな顔するほどの事じゃないよ」
「それは―――そうでしょう、けど」
「大丈夫、すぐ帰ってくるよ。ごめんな秋葉、俺、おまえには迷惑をかけてばっかりだ」
「あ――――兄さん!」
背中にかかる秋葉の声を振り払って屋敷を出る。
……外は月の明るい夜。
不安げな秋葉の顔を見たせいだろうか。
なんだか、二度とここには戻ってこれないような、予感がした。
繁華街にきた。
弓塚がいるとしたら、おそらくはこのあたりだろう。
例の通り魔殺人の犠牲者は、繁華街を中心に発見されているからだ。
「……くそ、何考えてるんだ、俺は……!」
自分の憶測に文句を言う。
……けど、他のところを捜すよりはここを捜したほうが弓塚を見つけやすいのは確かな事だ。
意を決して、弓塚の姿を探しはじめた。
……どのくらい時間が経っただろう。
路地裏や人気のないところを走りまわっても、弓塚の姿は見つけられなかった。
「はあ―――はあ――――はあ」
走りどおしで熱くなった体を休める。
時間はじき午前零時にさしかかろうとしている。
……これ以上は、捜しても無駄かもしれない。
「どこ行っちまったんだ、あいつ―――」
立ち止まりかけている足を動かす。
まだ行っていない場所がある。
諦めるのは、本当に体が動かなくなったあとにしよう―――
……華やかな大通りを離れて、公園のほうにやってきた。
連日の殺人事件でこのあたりには人影がない。
「……………」
弓塚がいるとは思えないけど、もうここ以外、行っていない場所はなかった。
「―――――」
夜の公園に人気はない。
物音一つしない月下。
わけもなく、全身の体温が下がった気がした。
「―――つ」
首の後ろがしびれる。
体がシン……と冷えきって、指先さえかじかんでいくような、悪寒。
「はっ……はっ……」
冷めていく体とは正反対に、喉が熱かった。
カラカラに渇いている。
ポケットの中に手をいれる。
ただしきりに―――刃物を、手にしていたかった。
「なん―――だ」
ギリ………。
微かな頭痛。
低くなる体温。
氷のように冷めていく理性。
なにか、ヘンだ。
この公園。このあたりには、よくないモノが、渦巻いている気がする。
「……まだ奥があったよな、この公園」
頭痛を振り払って、奥へと足を進ませた。
あたりには誰もいない。
ひどく暗くて、寂しい待ち合わせ場所。
そこに―――誰かが蹲っていた。
はあはあという呼吸。
顔色は真っ青で、苦しそうに喉をかきむしっている姿。
それは間違いなく、弓塚さつきの姿だった。
「弓塚―――!?」
やっと会えたっていう喜びもあったんだろう。
昨夜のことなんて考えもせず、俺は弓塚へと駆け出した。
「待って―――!」
そんな俺の行動を、弓塚は声だけで止めてしまった。
「……待ってよ、志貴くん。志貴くんのほうから来てくれたのは嬉しいけど、今は近くにこられると困っちゃうんだ。お願いだから、それ以上は近寄らないで」
苦しげな呼吸で。
今にも倒れそうに体を震わせながら、弓塚はそんなことを言ってくる。
「ばか、そんな顔色をしてるヤツを放っておけるわけがないだろ……!」
「ううん、わたしは、大丈夫……志貴くんが来てくれたから、もう元気になっちゃった」
無理やりに体を起こして、弓塚は笑顔をうかべた。
それは、どうみたって空元気だ。
……近づけない。
そうまでして、弓塚は俺を近づけまいとしているんだって、分かってしまったから。
「……いったいどうしたんだよ弓塚。どうして家に帰ってないんだ。昨日のアレは一体なんだったんだ。どうして、あんな――――」
「ん? あんな、なに?」
「……くそ、俺にはわからない! ほんとうに――悔しいぐらいわからないんだ、弓塚……!」
「そうなの? 昨日のことは見たまんまよ。わたしがあの人たちを殺したって言ったでしょ?」
あっさりと返答する。
……それだけは否定したいっていう俺の気持ちを、嘲笑うみたいに。
「それじゃあ……街で起きている殺人事件は、弓塚の仕業だっていうのか……!」
「あんまし答えたくないけど。そういう事になるよ、うん」
「そういう事になるって、なんで……!?」
「そういう事はそういう事だよ。わたしはあの人たちを殺したし、きっとこれからも同じ事をしていくんだもん。嘘をついたって仕方ないでしょ?」
「弓……塚、おまえ―――」
「その呼び方、やめてくれないかな。わたしだって志貴くんって呼んでるんだから、志貴くんも名前で呼んでくれないと不公平だよ」
「なっ――――」
ごくりと息を飲む。
弓塚はやっぱり以前のままだ。
以前のままの仕草で―――ひどく恐ろしいことを、口にする。
「考えてみると、わたしってばかみたいだよね。こんなふうに志貴くんって呼ぶこともできないで、何年間もあなたのことを遠くから見てるだけだった」
「弓―――塚?」
「ずっと志貴くんのことを見てた。あの倉庫で助けられる前から、ずっと志貴くんの事を見てた。
わたし、本当は臆病なんだ。だから周りの人たちに合わせて、無理をして笑ったり話を合わせたりしてたらね、いつのまにかアイドルみたいに扱われちゃった。
だから、学校はあんまり楽しくなかったんだ。でも中学二年生になったばかりの時にね、志貴くんに話しかけられてから変わったんだ」
「え―――?」
「ううん、志貴くんは覚えてなんかないよ。なんていうのかな、あなたはいつも自然で、飾らない人だから。たぶんあの時の言葉も、志貴くんにとってなんでもない一言だったんだろうなあ」
「――――――」
なんていえばいいんだろう。
弓塚の言うとおり、俺は何も覚えていない。
弓塚と何を話したのか、いや、弓塚と話したことがあるなんていうことさえ、覚えてない。
「いいよ、そんな顔しなくても。志貴くんはあの頃から乾くんに付きっきりだったから、他のクラスメイトには興味がなさそうだったし。
けど、それでも良かったんだ。志貴くんと同じ教室にいるんだって思うだけで、すごく嬉しかった。
いつかあなたにちゃんと話しかけて、弓塚さんって呼ばれることを目標にしてたなんて、今思うとすごく損してたなって思うけど」
懐かしむように彼女は言った。
とても昔。
……とても遠い昔のことを思い出すように。
「わたし、ずっとあなたのことを見てた。
気付いてくれないって解ってたけど、ずっと見てたんだよ」
「――――――」
それは―――正直嬉しいけど。
「ね。志貴くんはわたしのこと、好き?」
今の彼女に、俺はなんて答えてあげればいいんだろう―――?
「弓塚――――俺は」
俺は―――答えられない。
自分でもひどいヤツだって思うけど、それが本当の気持ちなんだ。
弓塚さつきっていうクラスメイトの事を、今まで意識したことはない。
ここにいるのだって、二日前の帰り道があんまりにも印象的だったから、どうしても放っておけなかっただけなんだ―――
「そうだよね。志貴くん、わたしのことなんて見てなかったもの。わたしのことを好きになってくれるはずないわ」
「あ――――」
びくり、と弓塚の体が震えた。
弓塚はハァハァと苦しげに息をはいて、そのまま―――地面に膝をついてしまった。
ごふっ、という音。
地面にしゃがみこんだ弓塚は、大きく咳をして、血の塊を吐き出した。
「―――弓塚!?」
今度こそ弓塚にかけよった。
「弓塚、大丈夫か、弓塚……!」
ぜいぜいと上下する肩に手をやる。
「あ――――」
ゾッとした。
弓塚の体は、服の上からでも分かるぐらい冷たかった。
「ばかっ、こんなに体が冷えきってるじゃないか! なんでこんなんで夜出歩いてるんだよ、おまえは!」
「―――志貴、くん」
虚ろな声で俺の名前を呼んで。
そのまま、弓塚は倒れるように俺にしなだれかかってきた。
はあ、はあ、と。
熱をもった吐息が、肌にかかる。
「弓……塚?」
「志貴くんがわたしのことを好きじゃなくてもいいよ。わたしだって、今までずっと志貴くんのことがわからなかったから」
こふ、と吐き出すような咳をしながら、弓塚は声をあげる。
「いいから、もうしゃべるな……! すぐに病院に連れていってやるから……!」
「でも、今なら解るよ。志貴くんのことも、志貴くんがやりたいことも、本当によくわかるんだ。
だって――――」
「え――――?」
「だってわたしも、志貴くんと同じになれたんだから―――!」
言って、弓塚は俺の首にその歯をつきたてた。
「あ――――――」
意識。意識が、遠のく。
首筋には弓塚の牙がえぐりこんできてる。
「―――――――」
吸われていく。
なにか、体中の全てのものが、液体に変えられて吸い上げられていくよう。
力が入らなければ、何も思いつかない。
これは、意識が遠のいているんじゃなくて。
単純に、意識を破壊されているだけだ。
「―――――――あ」
何も考えつかない。
このままだと死んでしまうって解っているのに、なにも―――
だっていうのに。
俺の理性の与り知らないところで、どくん、と体中の血液が沸騰した。
「弓塚――――――!」
両腕はただ反射的に、弓塚の体を突き放した。
[#挿絵(img/秋葉 28.jpg)入る]
どすん、と地面に尻餅をつく弓塚。
「なに、を――――」
立ちあがる。
けど、それはできなかった。
体中が疲れきっていて、自分の腕一本さえも満足に動かせない。
弓塚はまるでアルコールを飲んだ後みたいに、ぼう、と座り込んでいる。
「あ――――」
弓塚の顔が、よく見えない。
意識が朦朧として、何もかも霞んでいる。
体の自由もきかない。
あるのはただ、首筋の痛みだけだ。
血がとくとくと流れている。
首筋に穿たれた、弓塚の歯形。
深く食い込まれた二つの穴から、なにか、黒いモノが体の中に注ぎ込まれてきているよう―――
血脈の中。
もう俺ではどうしようもできないところで、黒いモノが全身を犯していく。
ほんの一握りに満たない黒い塊が血管を通っていくたびに、体の中が焼かれていく。
「あ―――ぐ、ううううう!」
背骨、背骨を抜き取られるような、痛み。
「は――――あ、ぐうう……!」
ただ苦しくて、地面をひっかく。
けれどどこにも助けなんかない。
弓塚に体の中身を吸われて動けない上に、体の中に黒い蛇を注入されたような痛み。
動くこともできないで、体の中を這い回る黒いモノに好き勝手犯されていく。
「はっ――――あ、あ――――」
地面をかきむしる。
弓塚は恍惚とした瞳のまま、俺を、見つめて、いる。
「弓……塚……、おまえ、なにを………!」
「だいじょうぶ、痛いのは最初だけだから我慢して。初めは苦しいけど、血が混ざってくれればすぐに落ちつくよ。
安心して、志貴くんを殺すようなことはしないわ。ちゃんとわたしの血を流し込んでおいたから、昨日の出来そこないみたいに崩れる事もないし、わたしの事だけを見てくれるようになるよ」
弓塚は嬉しそうに囁いてくる。
「なに―――言ってる、んだ、ゆみづ、か――」
「なにって、志貴くんもわたしと同じになるっていうことだよ。普通の食べ物のかわりに人間の血を吸って、太陽の下は歩けないから夜出歩くしかなくなる、違った生き物になるの」
……なんだ、それ。
ばかげてる、それじゃあまるで―――
「うん、吸血鬼みたいだよね。わたしもどうして自分がこんなになっちゃったか解らなかった。
二日前の夜、志貴くんが夜の繁華街で歩いているっていう噂を確かめにいって、気がついたら路地裏で倒れてて。
その時はただ、暗くて、寒くて、体中が痛いって思うだけだった。
けど不思議なことにね、時間がたって、体が変わりきると色々なことが分かるようになってた。
わたしの体が痛いのはすごい勢いで崩れていっているからで、太陽の光をあびるとそれが早まっちゃうとか、体の崩壊を止めるには同じ生き物の遺伝情報っていうのが必要なんだとか。
うん、理屈はよく解らなかったけど、とにかく何をしなくちゃいけないかは簡単だったんだよ。
わたしは寒かったし、一人で寂しかった。あのまま消えちゃうのなんてイヤだったから、とりあえず適当な人の血を吸ったんだ。
そうしたらね、それがすごく美味しいの! 体のの痛みも薄れて、もうなんだって出来る気がしたんだから。
けど、あんまりにも美味しかったから、気がついたらその人の血を残らず吸っちゃてた。
その人ね、干からびてミイラみたいになっちゃて、すごく後悔したわ。わたし、体だけじゃなくて心まで怪物みたいになっちゃったのかなって。
―――でも、生きていくためにはそうしないといけなかった。
言ったでしょ、わたしは憎くて人を殺してるんじゃないわ。わたしが人から血を吸うのは志貴くんたちが他の動物を食べてるのと同じ理由よ。だから、人を殺すっていう事をあんまり深く考えないようにしたんだ」
「ば―――――」
なんだ、それは。
生きるために必要だから人間を殺してもいいっていうのか。
そんなこと、俺は―――
「でもね、これでわたしも一人前の吸血鬼になれたみたい。
今夜の食事はわりと楽しかった。今まではただ寒くて痛いから血を吸っていたけど、段々とコツがわかってきて面白くなってきたんだ。
志貴くんならわかるでしょう? あなたはわたしなんかより、もっと上質な人殺しなんだもん」
「な――――」
なに、を。
なにを言っているんだ、弓塚、は。
「わたしはずっとあなたを見てきた。だからあなたの優しいところも、恐いところもちゃんと分かってた。
わたしがあなたに話しかけられなかったのはね、志貴くんの恐いところがなんなのか解らなかったからなんだ。
でも今なら解る。あなたはわたしと同じだもん。
憎いとか好きだとかいう感情とは関係なく、誰かを殺したいって思うんでしょう?」
「ふざ―――ける、な」
そんなこと、俺は今まで一度だって思ったことはない。
「ふざけてなんかないっ! わたし、志貴くんがもってる脆い空気がなんなのか解らなかった。けど、こんな体になって理解できたんだよ。
志貴くんはね、ただそこにいるだけで死を連想させる。
世の中には稀に生まれついての殺人鬼がいるけど、その中でもあなたは生粋の殺人鬼だわ。
わたしね、昨日は嬉しかった。こんな体になって、初めてよかったなって思えた。
だって今まで解らなかった志貴くんを、ようやく理解できたんだもの。
ね、志貴くんだって同じでしょう? 誰かを見て、理由もなく心臓がどくんどくんって高鳴って、喉がカラカラに渇いたりするでしょう?」
「うそ――だ、そんなコト―――一度、だって」
[#挿絵(img/32(2).jpg)入る]
「―――――」
一度、だって………ないとは、言え、ない。
「ほら。それが感情に左右されない、純粋な殺人衝動だよ。わたしが理解したくてずっと理解できなかった志貴くんの脆いところ。
それともう一つ言い忘れてた。吸血鬼はね、血を吸った人間を吸血鬼にするっていうでしょ? あれはね、ほんとのことなんだよ。
正確にいうとね、血を吸っただけじゃその人間は死んじゃうだけなんだ。吸血鬼は血を吸う時にね、自分の血を相手の体に流し込むことで吸血鬼の分身にしてしまうの。
さっきまで志貴くんの体の中にあったのはね、わたしの血液」
立ちあがって、満足そうに、弓塚は言った。
「……そう。コレ、弓塚さんの、血、なん、だ」
……未だ体の中で毒を放ち続ける、黒いモノ。
こんな一口分にも満たない量で、狂いそうな寸前まで苦しいなんて、信じられない。
「さあ、もういいころだよね。立って、志貴くん」
……弓塚の命令が聞こえる。
痛みが薄れる。
手足の自由が戻って、俺はようやく立ちあがれた。
「―――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」
「………………」
「さあ、こっちに来て。わたしの傍にきて、わたしの手を握って、わたしを安心させて」
手を差し伸べてくる。
――――どくん。
心臓が一際高く鳴って、足が勝手に動き出す。
ただし、前ではなく後ろに動いた。
「志貴……くん?」
困惑する弓塚の声。
――――どくん。
心臓が高鳴る。
喉がはあはあと渇いていく。
神経という神経が、目の前のモノを敵と認識していってしまう。
「はあ……はあ……はあ」
その感情。
体の中でいまだ融けずに残っている弓塚の血の毒と、体中から沸きあがってくる衝動を、必死に堪えた。
「どうしたの……? ねえ、どうしてわたしの言うことをきいてくれないの……?」
どくん、と心臓が脈打つ。
それはついさっき弓塚本人が言っていた衝動というヤツなのか。
どくん、どくんと脈打つ鼓動は。
ころせ、ころせ、と自分自身に命令するように、繰り返されている。
「志貴くん、あなた―――」
「正気に戻るんだ、弓塚」
はあはあと苦しい呼吸のまま、弓塚を見据える。
「どうして―――!? どうしてわたしの血が効かないの……!?」
「……さあ。わからないけど、ほんの少しだけ、体の中に、泥が入っているような気がする」
それが弓塚の、吸血鬼の血。
こんな――たった一口分ぐらいの水だけの量で、これだけ吐き気がするというのなら。
全身がこんな血になってしまった弓塚は、どれほど苦しいのか想像もつかない。
……痛い、と。
弓塚が何度も繰り返して言っている言葉の意味が、ようやく理解できた。
「……やめよう、弓塚さん。こんなことしても何もならない。弓塚さんは、病気なんだ。だから早く病院にいって、元の体に戻らないと」
……自分のことを好きだといってくれた子を、これ以上苦しめたくない。
だっていうのに、彼女は憎しみのこもった目で俺を睨んだ。
「―――わたしの血は確かに志貴くんの血に混ざってる。それなら、あなたはもうわたしの体の一部のはずなのに……! まさか、わたしより前に誰かの支配を受けてたの……!?」
「……だから、俺にはてんでわからないんだ、弓塚。
俺にわかるのは、ただ―――暗くて寒くて独りきりだって、辛そうに言ったきみの姿だけだ。
二日前の帰り道、笑顔でピンチの時は助けてほしいって言ってた笑顔が、思い出されるだけなんだ」
……吸血鬼というものがどのようなものなのか、正直よくわからない。
それでも、生きるために人間を殺して血を吸って、それでも痛くて痛くて泣いてしまいそうだというのなら、なんとかして元に戻してあげなくっちゃ、ダメだ。
「……弓塚。きみは、苦しいって言ってた」
「そうだよ。わたし、こうしている時も苦しいんだ。まだ血管が人間の時のままだから、血が流れるだけで苦しいの。細くて弱くて、すぐに破裂しちゃう。
でもね、もっと多くの人たちの血を吸っていけば、すぐに血管も丈夫になるから平気だよ」
「……痛いって、言ってた」
「ええ、ココロが痛いわ。生きるためとはいえ、みんなの血を奪わなくちゃいけないんだもん。罪の意識とかじゃなくて、純粋にね、今までわたしだったわたしが薄れていくのが痛くて恐いんだ。けど、それも独りじゃなくなれば恐くなくなるよ」
「……寒いって、言ってた」
「うん。寒くて寒くて、指先が壊死してしまいそう。けど、それは別に辛くはないよ。ただ暖かいって感じなくなっただけだから」
「必死に―――助けてって、言ってた」
「助けてはほしいけど、もうダメだよ。わたしはもとのさつきには戻れっこないんだから」
弓塚はあの時とまったく同じ笑顔で告げる。
「どうして―――どうして、こんな、ことに」
「そんなの、わたしのほうこそ聞きたいわ。気がついたらこんな体になってて、人の血を飲まないと生けていけなくなってたんだよ? 目が覚めたら死んでたほうがずっとずっと楽だったのに。
でも、こうなったからには仕方がないよね。みんなが当然のように他の動物を食べるように、わたしもみんなを食べるしかないんだもん」
「なっ―――なんだよそれ………! そんなのはどうかしてる……! そんなの―――どうして、弓塚が、そんな事に―――」
認められなくて、ただ声をあげた。
「――――――――――」
弓塚は無言で、ふるふると首をふる。
「どうして……! 昔みたいに、普通に笑って、普通に歩いて、普通に話したりする事が、もうできないっていうのか。たった―――たった二日前の話なのに……!」
「……そうだよね。たった二日前まで、わたしも志貴くん側の生き物だったなんて、夢みたい。失ってみて初めてわかった。―――うん、ホントに夢みたいな時間だったなあ。もし戻れるのなら、わたしはどんな代償を払っても戻りたい」
「なら―――」
「でも無理だよ。わたしは元に戻れない。ずっと、この寒くて痛くて、独りっきりのままで生きていくしかない」
弓塚はうつむく。
がくがくと震えていく、冷たい体。
「―――助けて、志貴くん」
喉から搾り出すような、小さな声。
「恐いの。すごく寒くて、どこにいってもわたしは独りきりで、すごく不安なの。お願いだから、わたしを助けて」
……わかってる。
二日前の帰り道にした、なんでもない約束を、覚えている。
「―――ああ。俺に出来る事なら、何でもするよ」
……本当に。
それで、きみがもとの弓塚さつきに戻れるっていうのなら、俺は何だってしてみせる。
けれど。
彼女の返答は、俺のそれとは、大きく違っていた。
「……あは。志貴くんったら、この後におよんでまだわたしを元に戻したいって思ってるんだ。
……ほんと、うっとりするほど優しいんだね。人殺しが大好きなクセに、それ以外ではすごく優しいなんて、すごい矛盾」
クス、と楽しそうに笑う弓塚。
「無理だって言ってるのに。志貴くんのやり方じゃ、わたしを助けるなんて事はできないよ」
「なっ―――じゃあ、じゃあどうすればいいんだ……! 俺は何もできない。弓塚を助けたくても助けてやれなくて、どうしていいか解らない――!」
「そんなことないよ。志貴くんならわたしを助けてくれるもん」
言って、弓塚は歩いてくる。
―――どくん、と。
背筋が、危機感で凍った気がした。
「――俺が弓塚を助けられるって、どうやって」
「簡単だよ。志貴くんが、わたしの仲間になってくれればいいんだから……!!」
「っ――――!」
赤い眼光に見据えられて、息ができなくなった。
―――まずい。
はっきりとそう分かるのに、両足はまったく動いてくれない。
「仲間って、なにを―――」
「そうすればわたしは独りじゃなくなって、寒い思いも恐い思いもしなくなるわ。
ううん、志貴くんさえわたしのモノになってくれれば、人間だった時よりわたしはずっとずっと幸せになれるんだから―――!」
―――ドクン。
心臓が一段高く鳴動する。
弓塚はまっすぐに、迷いなく俺の首を掴まえようと腕を伸ばしてくる。
その速度は、それこそ弾丸のようだ。
なのにそれがはっきりと見えている―――ような錯覚がして、咄嗟に地面にしゃがみこんだ。
「――――ぐっ………!」
必死に首をひねって地面にしゃがみこむ。
ゴウン、と。
風切り音をともなって、弓塚の腕が頭の上を通りすぎていく。
「は―――――あ」
「―――――うそ」
襲ったモノと、躱した者。
俺たちはお互いを驚愕の瞳で見ている。
「弓塚、おまえ―――」
「志貴――――くん?」
呆然と弓塚が俺を見下ろしてくる。
俺は―――逃げなくっちゃって分かっているのに、全身が固まったままだった。
どくん。
心音は、鐘のように。
片手は麻痺している俺の理性とは関係なく、ポケットの中のモノを掴んでいく。
弓塚は動かない。
ただその目だけが、驚きから喜びへと変化していく。
「……そうなんだ。志貴くんを手に入れるのは簡単に済むと思ってたけど、これなら―――」
どくん。
「――今夜は、わりと楽しめそうだよね、志貴くん?」
血に飢えた赤い眼光。
容赦なく伸びてくる、獣のような腕。
全身の毛が逆立つ。
このまま引き裂かれてしまう前に。
俺の手は独りでにポケットのナイフを取り出していた。
どくん。
「―――――え?」
自分の声より、自分の腕の動きのほうが早い。
ナイフはざとりと音をたてて、弓塚のむき出しの太ももを縦に削り取った。
「きゃあああああああ!」
甲高い弓塚の悲鳴。
―――呆然と自分の腕を見る。
そこには、たった今彼女の片足を裂いた、血に染まったナイフがある。
「……………あ」
正気が戻る。
体が動く。
―――気がつけば。
俺は震えながら、弓塚から逃げ出していた。
「はあ、はあ、はあ、はあ―――!」
ただ走った。
「なん、で―――なんで、俺は―――」
わからない。
どうして弓塚を刺してしまったのか、自分のことだっていうのにまったく理解できない。
どくん、と心臓が高鳴って。
気がつけば、ナイフで弓塚の足を裂いていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ―――!」
ただ、ナイフには弓塚の血がこびりついて。
この腕には、弓塚の肉を裂いた感触が残っている。
「なんで―――――」
本当に、なんでこんな事になったんだろう。
俺はただ―――弓塚さつきを、助けようと思っただけなのに。
「ぐっ―――」
なのに、弓塚の顔を思い出すと心臓がどくん、とはねあがる。
恐怖と興奮。
弓塚は俺を殺そうとしている。
心臓はドクドクとその危険に呼応している。
俺では。遠野志貴では、あの生き物には太刀打ちできない。
例えるのなら果実と人間だ。食べられる側のモノが、食べる側にどうやって逆らえっていうのか。
アレは、すでにそういったモノ。
遠野志貴がトマトを口にするのに何の苦労もしないように、弓塚さつきにとって俺はトマトとなんら変わらない。
遭えば。
捕まってしまえば、あとは当然のように殺されるだけ。
だから逃げている。
逃げて、自分がまだ生きているんだと、吐きそうなぐらい実感していた。
ただ、夜を走る。
とにかく今は走っている。
――――――何のために?
そんなのは決まっている。
そうしなければ捕まってしまう。
弓塚さつきが、自分を追いかけてきている気配を感じている。
さっきまでは針の先ほどの気配が、あっというまに背中全部をのっぺりと覆うほどに大きくなってきている。
「はあ、はあ、はあ――――!」
逃げるために走ってる。
けど、誰から逃げようっていうんだろう。
[#挿絵(img/秋葉 29.jpg)入る]
……あれは、きれいな笑顔だった。
中学時代の思い出話を語った弓塚さつきの笑顔は、本当に、優しかった。
「く………そ………!」
こんなコトって、こんなコトってあるか……!
弓塚は人を殺して、人の血を吸う化け物になってしまっ――――
「――――!?」
突然、背中に何かが当たって、そのまま地面に倒れこんだ。
「あ―――ぐっ―――ぅぅ………!!」
走ったまま転んだものだから、体中が擦り傷だらけになる。
だが、今はそれ以上に背中が痛い。
背中に受けた鈍器のような衝撃で、満足に呼吸ができない。
「なん―――」
だ、といいかけて、言葉を失った。
地面に倒れ込んだ自分の真横に。
たった今、自分にぶつかってきたものが転がっている。
「にん……げん」
それは、腕や足をいびつに曲げた、見知らぬ男だった。
「――――――あ」
男の体から、血が流れてくる。
アスファルトごしに赤い血が流れてきて、こっちの体を真っ赤にそめる。
それは。
首のない、人間の体だった。
「あーあ、当てるつもりはなかったんだけどなあ。運動神経が上がったのはいいけど、狙いが正確になりすぎちゃうのってのも困りものだよね」
背後から楽しげな声が聞こえてくる。
「あ―――」
倒れたまま後ろを向く。
そこには。
生首を片手にもった、弓塚さつきが歩いてきていた。
「ごめんなさい志貴くん、痛かったでしょう? ほんとは志貴くんが走ってく先に投げつけて、ちょっとビックリしてもらおうって思っただけなんだよ」
弓塚はごめんねと舌を出すと、ぽい、と生首を後ろに投げ捨てた。
「弓塚、今の、は―――」
「うん? ああ、ソレのこと? 志貴くんを追っかけてる時にぶつかっちゃったんだ。
なんだかんだってうるさいから、口と体を引き千切ったの。ペロッて血も舐めてみたけど、お酒で肝臓がやられてる男の人の血ってすごくまずいんだ。志貴くんも相手を選ぶ時は若くて健康な体にしなくちゃダメだからね」
愉しそうにそう言って、彼女は笑顔で近づいてくる。
そこに、あの時の笑顔の面影なんか、なかった。
ばいばい、と。
手をふって別れていった彼女の面影なんて、どこにもなかった。
「人を殺して―――なんとも思わないのか、弓塚」
「思わないよ。話をする人間と食用の人間は別物だもん。志貴くんだって、友達用の人間と殺し用の人間は別なんでしょ?
そりゃあわたしだって、初めはそんなふうにわりきれなかった。昨日の夜だって、自分自身がすごく嫌いだったんだから。
でも、体中が痛くて、痛みを和らげるためには血を飲むしかなかった。だからたくさんの人を殺したわ。一人殺すたびに、カラダの痛みが和らぐかわりにココロが痛かった」
ぴたりと立ち止まって。
弓塚さつきは、ほんの一瞬だけ、悲しそうに目を伏せた。
「でも、だんだんと分かってきたんだ。今はまだチクンって痛むけど、そのうちそれもなくなっていくはずだよ。だって―――人を殺すっていう罪悪感より、命を奪うっていう優越感のほうが、何倍も気持ちいいんだから。
言ったでしょ? すぐに志貴くんと同じになるからって。安心して。わたし、志貴くんみたいに人殺しが楽しめるような、立派な吸血鬼になるから」
笑顔で弓塚は近寄ってくる。
「―――――うそ、だ」
口にして、それさえも、嘘だと悟った。
自分さえ騙せない不出来な嘘を、どうして口になんかするんだろう。
――――ダメだ。
彼女は、ダメだ。
弓塚さつきはもう救えない。
俺に残されていた理性までも、その絶望的な結論に負けて、しまった。
「――――――――」
ナイフを握り締めたまま、立ちあがった。
どのみち彼女は俺の血を吸うつもりだ。そうすればこの命はなくなってしまうだろうし、俺は吸血鬼の仲間入りをするつもりはない。
なら。
初めから、やるべき事は決まっていた。
「――――弓塚。俺は、おまえを助けられない」
「そんなことないよ。志貴くんが大人しくしてくれれば、それでわたしも志貴くんも幸せになれるんだって」
「――――――」
違う。その幸せは歪んでいるんだ、弓塚。
「けどな、それでも約束したから。―――俺は別の方法で、おまえを助けてやらなくちゃ」
言って、メガネを外した。
ずきん、と頭痛が走る。
、
、
、
、
、
俺は、本当にはじめて。
人を殺すために、この視界を受け入れた。
「――――そう。やる気なんだ、志貴くんってば。でもだめだよ。おいかけっこはもうおしまい」
「―――――!?」
「がっ――――!」
―――なに、なにが、起きたんだろ、う。
一瞬だけ弓塚の姿が消えて、気がついたら真横に弓塚の顔が見えて―――そのまま、横腹を殴られた、のか。
「はっ―――あ、ぐ…………!」
……背中が痛い。
あの、なんでもない一撃で建物の壁まで吹き飛ばされた、のか。
「く――――――!」
強くナイフを握ってなんとか立ち上がる。
「あれ、まだ動けるんだ。志貴くんってわりと頑丈なんだね。いつも貧血をおこしてるから、病弱なのかなって思ってた」
弓塚の声が近づいてくる。
「はあ―――はあ、はあ」
呼吸―――呼吸が、荒い。
なんてコトだろう。
俺は、とんでもない勘違いをしていた。
「だめだよ、そんなナイフなんかに頼っちゃ。志貴くんの動きなんて止まって見えるんだから、てっぽうを持っててもわたしには敵わないのにね」
クスクスと、愉しげに笑う声。
「――――はあ――――あ」
それが、勘違いだ。
俺はモノの壊れやすい線が見えるけど、ただそれだけの人間なんだ。
今の弓塚みたいに、俺の何倍も速く動く動物が相手なら、その線に触れる事さえままならない。
「く―――」
ようするに。
彼女の前じゃ、こんな線が見えたとしても意味なんかないんだ。
「―――もう。仕方ないな、少し荒っぽくするからね。だいじょうぶ、頭と心臓だけ生きてれば、あとはなんとかできるから……!」
「く――――」
ドン、という衝撃がして、目の前が真っ暗になった。
弓塚の手が、俺の腕を握って。
そのまま、引きずるように放り投げたらしい。
それこそサッカーボールみたいに放り投げられて、背中から地面に落下した。
「あ―――ぐ――――!」
―――見えない。
全身が痛すぎて、何も、見えない。
「ほら、そんなところで寝てるとタイヘンだよ、志貴くん……!」
「――――!」
とっさに横に転がる。
さっきまで自分がいたらしい地面を、弓塚の腕が叩いたのか。
びきっ、なんてシャレにならない亀裂音まで聞こえてくる。
「はっ―――く………!」
しびれている体を無理やりに動かす。
視界はまだ真っ暗のまま。
感じられるのは弓塚の気配だけ。
「………こ…………の」
立ちあがって、弓塚の気配がするほうに、ナイフを構える。
「もう、無駄だって言ってるのに、どうしておとなしくしてくれないのかな、志貴くんは!」
弓塚の気配が迫る。
どくん、という自分の心音。
なまじ目が見えないおかげなのか、今度は弓塚の腕をすり抜けられた。
「―――――うそ」
呆然とした、弓塚の声。
きっと、弓塚はいま背中を見せている。
けど目が見えない俺にはどうするコトもできない。
そこへ―――ぞわり、とよけい強くなった殺気が走ってくる。
「このぉ―――おとなしくしてって言ってるのに!」
弓塚の声。迫ってくる死。
それに合わせて、闇雲にナイフをふるった。
「きゃあ―――!」
びしゃり、という音。
いま、たしかに弓塚の腕を切った。
「しまっ―――弓塚、大丈夫か……!?」
思わず口にして、自分の甘さにほとほと愛想がつきた。
なんだって俺は、自分を殺そうとしている相手にそんな心配をして―――
「―――――あ」
体が、浮いた。
正面から何かに殴りつけられて、弾き飛ばされる。
「あ―――――」
視界が、戻った。
今の一撃があんまりにも強力だったおかげだろうか。
「……路地……裏」
どうも、さっきの一撃で路地裏の壁まで弾き飛ばされたみたいだ。
背中には硬い壁の感触がある。
「―――あ」
意識が遠のく。
なのに、弓塚は容赦なくやってくる。
「うそつき―――!」
恨みのこもった声をあげて、俺めがけて手を振り上げる。
「……………」
動けない。
動けないから、もう、殺されるしかなかった。
「…………………え?」
壁がゆれる。
弓塚の腕は、俺のすぐ横の壁を、ただ乱暴に叩いただけだった。
「うそつき―――! 助けてくれるって、わたしがピンチの時は助けてくれるって言ったのに!」
また、見当違いのところを彼女は壊している。
「どうして? わたしがこんなになっちゃったからダメなの? けど、そんなのしょうがないよ……! わたしだって、すきでこんな体になったんじゃないんだから……!」
どん、どん。
駄々をこねる子供みたいに、ただ、彼女は叫んでいる。
「……こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、どうして志貴くんはわたしを助けてくれないの!? 助けてくれるって約束したのに、どうして――」
どん、どん。
出口のない苦悶の声。
いつ自分の体を串刺しにされてもおかしくないこの状況で。
どうしてだろう、これから殺されるという恐怖は薄れていた。
「志貴くん―――志貴くんがわたしの傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに。どうして、どうしてあなたまでわたしの事を受け入れてくれないの……!」
……なんて、愚かさ。
繰り返される言葉は、俺に対する恨み言なんかじゃない。
弓塚さつきは、ずっと、どうしようもなくて泣いているだけだったって、いうのに――――
―――弓塚の声が聞こえなくなった。
もう指先ぐらいしか動かなくなった体で、彼女の姿を見つめる。
……どうしたんだろう。
弓塚は、ピクリとも動かなくなった俺を見て、呆然と立ち尽くしている。
……まるで。
悪い夢から覚めて、自分のしたことを、後悔する、ように。
「―――志貴くん、わたし……こんな、つもり、じゃ―――」
弓塚の声は震えている。
……冷静になってくれたらしいけど、それでもやっぱり、彼女の声は泣きそうだった。
「………いい………んだ」
―――そんなに、自分を責める必要なんて、ない。
たとえ、身も心も吸血鬼なんていうモノになってしまったとしても。
彼女はやっぱり、どうしようもないぐらい、可哀相な被害者なんだ。
どのみち、もう俺の体は動かない。
弓塚、キミがそんなに一人で、痛くて、寒いっていうんなら。
俺に出来ることは、もう一つしか残っていない。
「……いいよ、弓塚さん」
「志貴……くん?」
「俺の血でよければ吸っていいよ。
約束だもんな……キミと一緒に、いってやる」
それは、自分でもわからないぐらい、優しい声だったと思う。
彼女はためらった後、静かに俺の膝元に跪いて、俺の体をだきあげた。
「――――ほんとに、いいの?」
囁くような声には戸惑いと喜びが混ざっている。
「……なんだよ。今までそうしたくて散々追い回したんだろ。なんでここで遠慮するのかな、弓塚さんは」
「だって―――――わたし、本当にそうしたいけど、でも―――」
―――それをしたら、もう、本当にダメになってしまいそうで――
そう、彼女の唇が声にならない言葉を紡ぐ。
「…………」
……なんて皮肉だろう。
たしかに彼女は吸血鬼になってしまっている。けど、それでも一番大切な部分で、人間のココロを残しているんだ。
だからこそ、そのココロが弓塚さつきに吸血鬼である自分を“痛い”と感じさせている。
人間であること。
そうであるかぎり、彼女は、ずっと痛いままなんだ。
「―――痛いんだろ。なら、いいよ。俺はキミを助けられない。だから、弓塚さんの言う方法で助けるしかないじゃないか」
「………志貴………くん」
コクン、とうなずいて。
彼女は、俺の首筋に唇を当てた。
[#挿絵(img/秋葉 25.jpg)入る]
「あ―――――」
消えていく。
体に残った微かな熱が、急速に力を失っていく。
静かな。
とても静かな、死。
今さら彼女を引き離す力もない。
この目に見えている『線』も、じき、消えてくれるだろう。
―――これで終わり。
じき遠野志貴は消えて、それで何もかもが終わりになる。
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「―――――――ぁ」
終わり……終わって、いいん、だろう、か。
[#挿絵(img/34(2).jpg)入る]
……戻って、きますよね……?
そんなセリフを、秋葉は言った。
八年間も放っておいた自分の妹。
何一つ、兄貴らしいことなんてしてやれなかった、黒髪の少女。
―――ずっと、
あの広い屋敷で一人きりだった遠野秋葉。
「―――――――」
さっき、俺は死が救いになる事がある、と弓塚にナイフを向けた。
そうして今も、死が救いになるのならとこの命を投げ出している。
けど、それは。
はたして、誰にとっての救いになるんだろうか。
少なくとも遠野志貴という自分にとって、一番大切な人に対する救いには、決してなっていない気がする―――
「あき―――は」
……死ねない。
間違っても、今は死ねない。
「弓、塚―――」
ナイフが動く。
……彼女の胸にある『線』。
自分を信じきって、最後の救いにすがっている彼女の心臓にある線。
……そこに、ナイフは深々と突き刺さった。
「―――志貴、くん?」
さつきの唇が離れる。
その力が急速にゼロになっていく。
「―――ごめん。俺は、弓塚を助けられない」
こんな方法でしか、助けられられない。
その痛みから逃れる事ができないのなら。
せめて―――最期ぐらいは、痛みもなく逝けるようにするしか、できない。
[#挿絵(img/秋葉 27.jpg)入る]
「そっか――――やっぱり一緒には行ってくれないんだね、遠野くん」
彼女の声は、ひどく穏やかだ。
まるで、二日前の夕暮れの帰り道のように。
「でも、うれしかったよ。ほんの少しの間だったけど、遠野くんは、わたしを選んでくれたんだもん。……うん、これならこのまま死んじゃっても悪くないかな。
あれだけいっぱいあった痛みもないし、こわい気持ちも魔法みたいに消えちゃったし―――」
ざら、とした感触が足にあたる。
見れば。
弓塚の両足は、もう膝までが灰になってしまっていた。
「―――それに、今は少しだけあったかいや。
えへへ、これって遠野くんの体温かな」
嬉しそうに弓塚は言った。
―――――俺は本当に。
後悔で、死にたくなった。
―――覚悟してた。
この裏切りをした時、どんな恨み言を言われてもいいと、覚悟していたのに。
―――どうして。
どうしてそんな、穏やかな声で、嬉しそうな声で。
俺を責めることさえ、しないんだ。
「―――ごめん。俺は―――無力で、最低だ」
瞳が熱い。
脳の奥が、ぼやけて視界がぼやけてしまってる。
「あは。遠野くんったら泣いてるんだ。
……優しいなあ。わたし、ひどいこといっぱいしたのに、それでも泣いてくれるんだね。
……うん、そんなトコ、誰よりも好きだった。
中学校からずっと遠野くんだけを見てたから―――そんな誰も知らないことだって、わたしはお見通しだったんだから」
誇らしげな声と、ざらざらという感触。
彼女の体は、もう上半身しか存在していない。
「……わたし、もっと遠野くんと話したかった。ほんとうに普通に、なんでもないクラスメイトみたいに話したかった。だから、いま死んじゃうのはホントにイヤだよ」
「――――――」
何も言えない。
俺には、彼女に語りかけられる言葉がない。
―――彼女は、最後にコン、と自分の額を、俺の額にあてた。
「でも、きっとこれが一番いい方法だったんだよね。
―――だから、泣かないで遠野くん。あなたは正しい事をしてくれたんだから」
ナイフの感触が軽い。
さつきの体には、もう、心臓がなかった。
「あ、もう声を出す事ができなさそう。
それじゃあ、わたしは家がこっちだから。そろそろお別れだね」
「弓――塚………っ!」
「うん、ばいばい遠野くん。ありがとう―――それと、ごめんね」
ざ。
一握りの灰が風に飛ばされて霧散するように。
弓塚さつきは、この目の前から、完全に消滅した。
……弓塚の姿は、まるで幻だったみたいに、あっさりと消えてしまった。
「――――――」
眩暈だけが、残った。
俺は、彼女を殺した。
救いたかったのに―――最後は彼女の言うとおりの救いをしようと思ったのに―――結局は、自分の身かわいさに、殺して、しまった。
「あ――――あ」
それでも。
それでも、彼女が散り際に嘘吐きとでも言ってくれればよかった。
そうしてくれれば、俺は本当に悪いやつになりきれたのに、どうして―――
ありがとう。ごめんなさい。
感謝されるいわれはない。謝られる理由もない。
「俺が――キミを、殺したのに」
……それでも、ありがとうと、言ってくれた。
だからこそ。
本当に、彼女を、救ってあげたかったのに。
「―――――」
しびれた体が、かってに立ちあがる。
今は、何も考えられない。
心と体は別物なのか。
ざっ、ざっ、と無様に体を引きずって、路地裏を後にした――――
◇◇◇
ぎい、と音をたてて扉が開く。
傷だらけの体をひきずって、ようやく屋敷に帰ってきた。
「――――――あ」
ロビーには秋葉がいた。
あれからずっとここで待っていたんだろうか。
……今の自分には、もう、何もわからない。
「兄さん、今まで何をしていたんですか。いったい今何時だと―――
に、兄さん、その体―――」
……秋葉が驚いている。
どうして。
何に驚いているのかさえ、もう、考えたくない。
「兄さん、しっかりしてください……! いったいどうしたんですか、そんな傷だらけで、そんな……ひどい、目をして」
「……………………」
何も答えない。いや、答えられない。
秋葉が何を言っているのかも、わからない。
「――――――」
秋葉は無言で息を飲むと、つかつかとこちらに近づいてきた。
「とにかく手当てをしないと。兄さん、歩けますか?」
「………………」
ああ。生きているんだから、歩くことぐらいはできる。
「手当てをしますから居間に来てください。あ、それとお風呂――は無理ですから、お湯で体を拭かないといけませんね」
秋葉はパタパタと足音をたてて消えていった。
―――秋葉は一人で俺の怪我の手当てをしてくれた。
汚れた体もタオルで拭いて、食べ物まで作ってくれたあげく、部屋まで連れてきてくれた。
その間、俺は一言も、口にすることなんか、できなかった。
「……それでは、私は戻ります。兄さんも今夜はゆっくり眠ってください」
何も聞かず。
秋葉は最後まで何も聞かず、静かに立ち去っていこうとする。
消えていく。
俺が、殺してしまった、彼女の、ように。
――――そう思った瞬間、秋葉の腕を掴んでしまった。
[#挿絵(img/秋葉 15.jpg)入る]
「兄さん――!?」
そのまま秋葉を抱きしめる。
……強く。
ただ独りになるのが耐えられず、誰かの体温を感じたかった。
「あき―――は」
無心で抱きしめる。
……秋葉は何も言わない。
すぐに引き離してくるはずなのに、震えている俺の体を拒絶しない。
このまま―――ただ、こうしているだけで、よかったのに。
「俺は、最低だ」
そう、告白して。
自分の罪から、秋葉に逃げた。
「……助けたかった……助けたかったのに、助けてやる事が、できなかった」
ぐっ、と救いを求めるように秋葉を抱きしめる。
秋葉からの答えはない。
まるで俺の弱さを嫌うように、秋葉は俺から体を離した。
「……兄さん。貴方に何があったかは知りません。きっと、私が聞くべき事でもないと思います」
「――――」
「私には何も答えてあげることはできません。兄さんの問題は兄さんが解決すべきことです。
ですから―――こんなことで、私に甘えないでください」
……秋葉の言葉は、本当に、その通りだ。
その叱咤があまりにも的確すぎて、俺はようやく、自分の心を取り戻した。
「……すまない。今夜のことは、忘れてくれ」
「…………」
秋葉は答えずドアへ歩いていく。
そのまま出て行こうとして、ピタリ、と秋葉は立ち止まった。
「――――何があったかは聞きませんけど。
私、さっき兄さんを送り出す時、ひどく恐かったんです。なんだかこのまま兄さんは帰ってこないような気がして。八年前と同じ、そんな予感がしたんです」
「―――――――」
「でも、兄さんはちゃんと帰ってきてくれたわ。
……兄さんは誰かを救えなかったと言ったけど。少なくとも、兄さんは私をちゃんと、そんな予感から救ってくれたんです。
―――ですから、お帰りなさい兄さん。
秋葉は兄さんが帰ってきてくれただけで、ほんとはものすごく嬉しいんです。……それを、わずかでいいですから覚えておいてください」
恥ずかしそうに言って、秋葉はぺこりとおじぎをした。
「秋葉――――――」
「私からはそれだけです。
……あたまのわるい兄さんのために言い直してあげると、もう二度と可愛い妹を一人きりになんかしないでくださいって事ですから」
「は、はは―――そっか、よくわかった。けどさ、可愛いって、そうゆうのは自分で言っちゃだめだよ、秋葉」
秋葉の言葉にようやく言葉が返せた。
たったそれだけの事なのに、秋葉は誇らしげな笑顔をうかべる。
「はい。それではまた明日。いい夢を見て、新しい朝を迎えてくださいね。
明日、朝になってもそんな顔をしていたら承知しませんから」
秋葉は去っていった。
俺は―――傷だらけの自分の体を眺めて、そのままベッドに倒れこんだ。
「は―――――あ」
深く。
何かに決別するように、深くため息をつく。
「……ごめん、弓塚。やっぱり俺は―――後悔は、しちゃいけないって、思うんだ」
……彼女との事は、きっと一生許せない傷痕になった。
けど、アレは正しかったんだって信じよう。
罪だっていうのは認めるし、いずれ罰があるっていうのなら受け入れる。
けど、自分がこうして生きている事に後悔だけはしたくない。
「……ただいま、秋葉」
精一杯の感謝の念をこめて、そう呟いた。
……意識が落ちる。
疲れきった体と心が、急速に眠りにおちていく。
その狭間で、思った。
自分は、生きていてよかったんだ。
少なくとも自分には帰るべき家があって。
それを待っていてくれた、かけがえのない肉親がいるんだから、と――――
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●『4/昏い傷痕T』
● 4days/October 24(Sun.)
――――強い陽射しで目が覚めた。
「……………ん」
ベッドから起きて窓の外に視線を送る。
窓ごしに見える空は快晴で、日曜日に相応しいぐらい気持ちのいい天気だ。
……それは。
昨夜の出来事が夢のようにさえ思える、雲一つない青空だった。
「…………朝、か」
ずきりと胸が痛む。
空はこの上ないぐらいの青空で、自分はいつも通りの朝を迎えている。
そんな事が、ただ、いたたまれなかった。
彼女は。
昨日の夜、消えてしまった彼女はもう二度と、こんな朝を迎えられる事がないんだから――――
「志貴さま、お目覚めでしょうか?」
……その声で現実に引き戻された。
「……なにを、いまさら」
俺が後悔した所で、そんなものは偽善だろう。
「志貴さま? 起きていらっしゃいますか、志貴さま?」
トントン、という控えめなノックの音。
俺は自分の部屋に戻ってきている。
こうして、どんなに悔やんでもいつも通りに朝を迎えるしかない。
それが生きているかぎり、避けようのない現実だ。
それを今更、悔やんでも始まらない。
「……ああ、起きてるよ。どうぞ、入ってきて」
「失礼します」
がちゃり、と扉を開けて翡翠が入ってくる。
「おはようございます、志貴さま」
着替えを持ってきたのか、翡翠は洗濯したての洋服を持ってきてくれた。
「おはよう翡翠。えっと、秋葉たちはもう朝食を済ませたのか?」
「……志貴さま。失礼ですが、お目覚めになってから時間を確認なさいましたか?」
「え――? 時間って、まだ朝の―――」
朝の、十二時をとっくに過ぎていた。
「えぇ―――? な、なんでもう昼になってるんだ、この時計?」
「いつのまにか正午になっていたのは時計ではなく志貴さまのほうだと思います。
朝方から何回かお起こしいたしましたが、一向に目を覚ましてはいただけませんでした」
「………………」
……よっぽど深い眠りだったんだろう。
精神面だけじゃなく、体のほうも重い傷を負っていたというコトか。
「そっか、ごめん。せっかく起こしに来てくれたのに、なにやってたんだろうな、俺。
……ああ、昨日眠ったのが遅かったっていっても、起きないことの理由にはならないし」
「いえ、休日なのですからいつ起床しようと志貴さまの自由ですが―――志貴さま、まさか昨夜もお出かけになっていたのですか?」
「え―――いや、そんなコトは、その、ないんだけど……ああ、それより秋葉はどうしてるかな。
あいつも昨日は夜遅くまで起きていたと思うんだけど――――」
「秋葉さまでしたら、いつも通りに起床されておりますが」
翡翠は文句ありげな顔のまま、ちゃんとこっちのいい訳に答えてくれた。
「……そう。さすがに俺と違って規則正しいんだな、あいつは」
……昨夜、この部屋であった事が思い出された。
弓塚のことでボロボロになっていた俺を、秋葉は何も聞かずに介抱してくれたんだっけ。
そのあとのことは、その……我ながら恥ずかしいんであまり思い出したくはない。
「翡翠、秋葉は屋敷にいるのか? なにかと忙しいヤツだから、やっぱり休日も習い事をしてるとか」
「はい、秋葉さまは休日も予定が入っておりますが、今日は屋敷に残っておられます」
「………?」
予定はあるけど、屋敷には残ってる……?
「よくわからないけど……ま、とにかく着替えたら居間に行くから、先に行っていてくれ」
「はい。それでは失礼します」
翡翠はいつも通り、足音一つたてず立ち去っていく。
「あ、翡翠」
「はい? なんでしょう、志貴さま」
「うん、言い忘れてた。起こしにきてくれてありがとう。遅れたけど、おはよう翡翠」
「―――はい。どうかよい一日を、志貴さま」
「――――――――はあ」
天井を見上げて、大きく息を吐く。
弓塚さつきの事は、きっと一生忘れられない記憶になった。
だが、それに支配されてしまう訳にもいかない。
俺には帰るべき家があって、出迎えてくれた秋葉がいて、こうしていつも通りに機能する日常がある。
それを守るために彼女を裏切ったんだ。
だから―――せめて、それぐらいは守りとおさないと、全てが嘘になってしまう。
「―――――詭弁、かな」
それでも騙し騙しやっていくしかないんだろう。
さて、翡翠が待っている。
手早く着替えて、いつも通りの日常がある居間に向かわないといけない――――
居間にはソファーに座った秋葉と、その相手をしている琥珀さん、それに壁際で控えている翡翠の姿があった。
「おはようございます、志貴さん」
「うん、おはよう琥珀さん。悪いんだけど、ごはん作ってもらえるかな。ずいぶんと眠ってておなかが減っちゃってさ」
「はい、かしこまりました。いま支度をしますからしばらく待っていてくださいね」
琥珀さんはパタパタと食堂へと去っていく。
これで居間に残ったのは秋葉と、彫像のように無言を通している翡翠だけになる。
「……やっ。秋葉も、おはよう」
「……………………」
秋葉は不機嫌そうな顔で俺を一瞥するだけで、挨拶を返してこない。
「…………う」
やっぱり昨夜のことを怒っているんだろうか。
いきなり抱きついたんだから怒られてもしかたがないんだけど―――
「秋葉。昨日は、その―――」
「兄さん。いくらなんでもこんな時間に起きてくるなんて、なにを考えているんですか」
「え―――いや、その、だから、ごめん」
「……もうっ、そんなコトを怒っているんじゃありません。せっかくの休日なのにこんな時間まで眠っている、兄さんの緩みようを怒っているんです、私は!」
ふん、と顔をそむけて怒る秋葉。
……っていうか、怒っているというよりは拗ねているように見えるのは、気のせいだろうか。
「いや、だって仕方ないだろう。昨日は遅かったんだし、体だって疲れきってたんだから」
「そんなのは自業自得です。どんな事情があろうと、この屋敷で暮らしていくのでしたらきちんと規律は守ってください」
「………う」
悔しいが、こっちと同じ条件でちゃんと起きていた秋葉に言われると反論のしようがない。
「だいたいね、兄さん。朝起きるだけだったら翡翠に起こしてもらえばいいだけでしょう?
今日は、まあ昨夜のことがあるから大目に見てあげるけど、なんだっていつもいつも時間ぎりぎりで起床するのよ、兄さんは」
「……あのさ、秋葉。いちおう言っておくんだけど、俺だって好きで寝過ごしてるわけじゃないよ」
「なによ、それじゃあどうしていつも余裕のない朝を過ごしてるの? 私がいつもどんな思いで、時間ぎりぎりまで待って――――」
「秋葉さま」
「あ――――」
「…………?」
さっきまでの剣幕はどこにいったのか、秋葉は唐突に黙ってしまう。
「あのな、秋葉。言っとくけど俺が起きるのがいつも七時過ぎなのはワザとじゃないよ。
俺だって早起きはしたいけど、体が言うことをきかないんだからしょうがないだろ。
そんなに早起きさせたいんならすっごく強力な目覚まし時計を買ってくれ。それなら、まあなんとか早起きできるかもしれないから」
「……あの、兄さん? ふと疑問に思ったんですけど、兄さんは翡翠に何時に起こしてほしい、といった事は伝えてないの?」
「―――――あ」
そっか、そんな単純なことをど忘れしてた。
「そうだよな、せっかく毎朝翡翠が起こしにきてくれるんだから、翡翠に起こしてもらえばいいんだ。
そういうわけなんで翡翠、これからは朝の六時半ごろに起こしてくれると助かるんだけど……」
ちらり、と背後の翡翠に視線を投げる。
と、翡翠はじっ、と俺の顔を睨みつけた。
「お断わりします」
「え?」
「ですから、志貴さまを起こすのはお断わりします、と申しあげたのです」
「えーと、その」
なんて言っていいものか、あまりのショックで思考が働かない。
見れば秋葉もびっくりしたような顔で翡翠を呆然と見つめていた。
「な────」
「翡翠。どうして兄さんを起こすのは出来ないの」
「出来ない事はお引き受けできません。
志貴さまを私の意志で起こすのは、おそらく無理だと思います」
「───無理って、どうして」
思わず二人の会話に口を挟む。
と、またも翡翠は俺をじっと睨んできた。
「今までの三日間、すべて無理でしたから。
志貴さま、昨日はわたしが幾度お呼びしたか覚えてらっしゃいますか?」
「いや、覚えてらっしゃいますかって───俺はいつも翡翠の声で目が覚めてたんだけど……」
「それ以前のわたしの声は記憶にも留まっていない、という事ですね。───秋葉さま、つまりこういう事です」
なるほどねー、と秋葉はいじわるな眼差しを向けてくる。
……なんていうか、一瞬にして俺の立場は最悪なものになってしまった。
「ようするに翡翠がいくら起こしても、兄さんは自分の起きたい時間でなければ反応さえしてくれない───そういう事なの、翡翠?」
翡翠は無言でうなずく。
「………………」
俺も無言でうなずく。
そっかー、実は朝早くからちゃんと起こされてたのか。
自分でいうのもなんだけど、俺の熟睡ぶりもここまでくると神業の域に到達してしまっているかもしんない。
「………兄さん。どうして、そこで得意げな顔をなさるんですか」
「いや、つい。自分の大物ぶりに呆れてたとこ」
「……はあ。判りました、翡翠は今までどおり、兄さんが起きそうになったらなんとか起きてもらえるように努力してちょうだい」
はい、と翡翠はうなずく。
よし、話はまとまったようだ。
結局、俺は今までどおり自由気ままに朝を迎えるしかないってコトだろう。
「ねえ。ところで翡翠」
「はい、なんでしょうか」
「その、兄さんったら本当に起きないの? 呼びかけてもまったく反応しないの?」
「───はい。志貴さまの眠りはとても静かで、彫像のようですから分かりやすいんです」
……彫像のようって、なんだいそれ。
「へえ。兄さん、寝相いいんですね」
「いえ、そうではなくて───なんと申しますか、その、お眠りになられている志貴さまは別人のような気がします。
あのような静かな寝顔は見た事がありませんでしたから、初めて見た時はお亡くなりになられたのじゃないかと、その───
ですから起こしにくい、というのではなくて、起こすのがとても失礼な気がして、強く起こせないのです。
志貴さまがご自分でお目覚めになられる時は、白い頬に体温が戻っていって、ああ、お目覚めになられるんだな、とすぐに分かるんですが───」
翡翠は目を伏せたまま、人の寝相の感想をもらしている。
「……………」
……なんか、すごく恥ずかしい。
考えてみれば寝相っていうのは人間のもっとも無防備な姿なわけで、それをこう微にいり細にいり説明されると、裸を見られたみたいで赤面してしまう。
翡翠はそのまま黙ってしまうし、秋葉もなぜか顔をそむけて見当違いのところを見ていたりする。
「………………………」
なんか、ヘンに場が重い。
「はい、お待たせしました。志貴さん、朝食が出来ましたよー」
そこへ、明るい声で救世主が登場した。
「あ、ありがとう。それじゃあごちそうになります」
「はい、ゆっくり召し上がってくださいね」
琥珀さんの笑顔に背中をおされて、一人で食堂へ足を向けた。
昼食を済ませて戻ると、秋葉も翡翠も居間に残っていた。
二人を無視して部屋に戻るのも気まずいので、秋葉の向かい側のソファーに座ってみたりする。
「どうぞ、志貴さんはお茶のほうが好きなんですよね」
琥珀さんが食後のお茶をテーブルに置いてくれた。
「うん、ありがと。遠慮なくいただきます」
「いえいえ、遠慮なんかしないでくださいな。ここは志貴さんのお家なんですから、もっと楽にしてください」
琥珀さんは俺に気を使ってくれているのか、細かいところまで世話を焼いてくれる。
「……まいったな。俺、これでも屋敷には慣れたつもりなんだけど、まだ緊張してるように見える?」
「そうですねー、まだ両肩に力が入っている感じです。昔みたいに、とはいかないでしょうけど、もうすこしゆったりしていいと思いますよ」
「琥珀、あんまり兄さんを甘やかしちゃだめよ。
ただでさえ有間の家の暮らしで鈍っているんだから、初めは緊張しているぐらいがちょうどいいのよ、この人には」
「ふふ、秋葉さまは志貴さんにだけ厳しいんですね」
「私だって好きで厳しくしてるんじゃないわ。兄さんがあんまりにものんびりしてるから、こっちが気を配らないといけないだけだもの」
「………ふうん」
少し驚いた。
秋葉は琥珀さんと話していると、どことなくいつもの凛とした雰囲気がなくなっている。
同じ年頃だという事もあるんだろうけど、この二人はすごく仲がいいのかもしれない。
「………」
ちらり、と翡翠に視線を移す。
秋葉が何人もいた使用人を解雇して翡翠と琥珀さんを残した以上、翡翠だって秋葉に信頼されていると思う。
けど、やっぱり琥珀さんとは正反対の性格のためか、翡翠と秋葉が気軽に会話をする場面は少ない気がする。
「なんでしょうか、志貴さま」
俺が見ている事に気がついて、翡翠が用事を聞いてくる。
「いや、別に用事はないんだ。ただ翡翠は大人しいなって思っただけで」
「―――はい。そのように槙久さまにお教えいただきました」
きっぱりと返答する翡翠。
……なんていうか、きっぱりしすぎていて会話が続いてくれない。
「………………」
なんとなく気まずくなって黙り込む。
琥珀さんと秋葉はまだなにやら話しこんでいるようだ。
「―――志貴さま、一つお聞きしてよろしいでしょうか?」
「え―――ああ、いいけど、なに?」
「はい。志貴さまは昨夜もお出かけになられたようですが、深夜になると定期的に出かけるような用があるのですか?」
「あ―――いや、そんな事はないよ。ちょっとここ二日間は特別だっただけだから」
言って、秋葉の顔を盗み見る。
秋葉は黙って、ただ俺と翡翠の様子を見つめている。
……どうも、昨日の秋葉との一件は翡翠も琥珀さんも知らないらしい。
「大丈夫だよ翡翠。もう夜遅くに外出することはないから、よけいな心配はしなくていい。
それにさ、子供じゃないんだから夜出歩くぐらいそう危険なことじゃないだろ?」
「お言葉ですが、志貴さまは遠野家のご長男です。そのような無用心な行動はお控えください」
「そうそう、翡翠ちゃんの言うとおりですよ。志貴さんは貧血持ちなんですから、あんまり無理をしちゃいけないってお医者さんにも注意されてるじゃないですか」
「そうだけど、それと夜の外出は関係ないよ。一人で出歩くのがいけないんなら、俺は学校にだって行けないじゃないか」
「まあ、それはそうですけど、昼間は明るいから誰かが助けてくれるでしょう? けど夜は別です。とくに最近は吸血鬼殺人とか流行ってるんですから、貧血で倒れたところを襲われる、なんてコトがあったらどうするんですか」
「あ…………」
びくり、と思わず体が震えた。
吸血鬼殺人。夜の街を徘徊して無差別に人を殺していた殺人鬼。
……昨日の夜、この手で殺してしまったクラスメイト。
「いや、大丈夫だよ琥珀さん。夜の街に吸血鬼なんていない。……あの事件は、もう二度とおきないから」
弓塚さつきは、もうこの世にはいないんだから。
「はい? そうなんですか秋葉さま?」
「わたしに聞かれても解るわけがありません。断言しているのは兄さんなんですから、兄さんには何か根拠でもあるんでしょう。
そういえば、兄さんの高校では殺人事件の犠牲者になった方がいたらしいけど。二年三組といったら兄さんのクラスではなかったかしら」
「え……? 俺のクラスで犠牲者なんていないけど」
「あ、志貴さんは今朝のニュースを見てないんですね。なんでも一昨日の夜、弓塚さつきさんという方の血痕が大通りの路地裏で発見されたそうなんです。
血痕自体は三日ほど前についたものらしいんですけど、現場に残された出血量からして死亡しているのはまず間違いないという話ですよ」
「―――――――」
……動悸が激しい。
彼女。弓塚さつきが死亡しているなんて、そんな事は誰よりもよくわかっている。
けれど、こうはっきりと“死亡している”と言われると、“おまえが殺したんだろう”と言われている気がして――――
「―――兄さん? どうしたのよ、顔色が悪いわよ」
「―――――」
……大丈夫だって、答えられない。
彼女の死が。
自分の中のものだけじゃなくて、とうに、現実のものとして扱われてしまっている事が、ひどく、哀しかった。
「………………」
後悔はしないと決めたのに、こうして彼女のことを思うと影がさす。
――――と。
「みなさん、今夜は歓迎会をいたしましょう!」
なんて、トウトツに琥珀さんが声をあげた。
「――――はい?」
と、俺と秋葉、あまつさえ翡翠までもが首をかしげる。
「ですから志貴さんの歓迎会をしましょう! せっかくみんなそろっているんですし、志貴さんの引っ越し祝いもまだしてないじゃないですか。
ですから、今夜は志貴さんの歓迎会なんです」
ね、と琥珀さんは俺ににっこりと笑顔をむけてくる。
「…………」
……まいった。
俺は本当に元気のない顔をしていたらしい。
「秋葉さま、よろしいですか? お許しがいただければ、いまから腕によりをかけてご馳走をお作りしますけど」
「そうね、せっかく兄さんが帰ってきたのに何もしないっていうのもなんだし。わたしは賛成だけど、翡翠はどう? もちろん賛成でしょ?」
「あ―――はい、志貴さまがよろしいというのでしたら、わたしも、悪くはないと思います」
じっ、と三人の目がこっちにむけられる。
俺は――
……そうだな。
後悔はしないって決めたんだし、なにより俺を気遣ってくれた琥珀さんの気持ちを大切にしないと。
「賛成にきまってるよ。自分の歓迎会なんだから、断るはずがないだろ」
「きまりですね! それじゃあわたしはお料理の準備をしますね。翡翠ちゃんは―――今日のわたしの仕事を任せていいかな?」
「わかりました。ロビーと東館の掃除ですね」
「それじゃあ私は……どうしよっか、琥珀?」
「秋葉さまと志貴さんはお部屋でお休みくださいな。ご夕食を早めにして歓迎会を開きますから、ご用がおありでしたらそれまでに済ませてくださいね」
琥珀さんは厨房に、翡翠は中庭へ向かった。
「それじゃ私は部屋に戻ります」
さて。俺はどうしようか?
……そうだな、仕事に不慣れな自分が翡翠たちの手伝いをしても足手まといになるだけだろうし。
秋葉が家にいることなんて珍しいんだから、今日ぐらいは秋葉とゆっくり話をしてみよう。
「秋葉、いる?」
「え―――に、兄さん……!?」
ばたばた、とあわただしい音が聞こえてくる。
「ちょっと話をしたいんだけど、いいかな」
「あ―――はい、どうぞお入りください」
ドアノブに手をかける。
……考えてみたら、秋葉の部屋に入るのはこれが初めてだったりする。
「……………ん」
すこしだけ緊張しながら扉を開けた。
「う―――」
……予想はしていたけど、これはまたなんてその、予想通りの部屋なんだろう。
「どうしたんですか兄さん? 私の部屋を訪ねてくるなんて、なにか特別な用事ですか?」
「いや、そうゆうワケじゃないよ。ただ秋葉と話がしたいなって思っただけでさ。忙しいんなら出直すから、遠慮なく言ってくれ」
「……忙しいというんなら忙しいですけど、えっと、それは後にでも回せることですから、兄さんと話す時間ぐらいは作れます」
机の上に広げられたノートをわしゃわしゃと片付ける秋葉。
「なんだ、学校の課題をやってたのか。それなら後にするよ。勉強の邪魔はできないだろ」
「いえ、これから始めようって思ってたところですから、夜に回してもいいんです。
いいですから、兄さんは適当な椅子に座ってください。今お茶をいれてきますから」
「……ならいいんだけど、お茶はいらないよ。少しでもおなかをすかしておいたほうがいいだろ、今日は」
「そ、そうですね。それじゃあ、そうします」
秋葉は自分の机の椅子に座る。
こっちも適当な椅子に腰を下ろして、しずしずと秋葉の部屋を見渡した。
すごい内装だとは思うけど、やっぱり俺には性が合わない。
ベッドと机しかない自分の部屋でも落ち着かないんだから、こんな部屋をあてがわれていたらそれこそ逃げ出してたかもしれない。
「なあ、秋葉」
「はい? なんですか、あらたまって」
「いや、前から聞こうとは思ってたんだけどさ。本当にどうして、今になって秋葉は俺を呼び戻してくれたんだ? 親父が死んで、俺が長男だからって呼び戻す理由にしては弱いと思うんだけど」
「理由が弱いって、何を言い出すんですか兄さんはっ。兄さんの家はここなんですから、帰ってきてもらうのは当然のことです。
理由なんて―――それこそ必要ありません」
「まあ、それはそうだけど……秋葉は、俺のこと恨んでないのか。俺は八年間もおまえのことを放っておいたんだぞ」
「ええ、もちろん恨んでるわ。兄さんが有間の家に預けられたのはお父様のせいですからそれは仕方ありませんけど、その間に手紙の一通も送ってくれなかったコトには、本当に毎日あたまにきてましたから」
「う―――いや、それは」
「それは、なんですか? ああもう、なんなんですか兄さんは! せっかく忘れようとしていたコトをわざわざ思い出させにくるなんて、そんなに私を怒らせて楽しいんですか?」
「違う、秋葉を怒らせるつもりなんてまったくないぞっ。手紙のことだって、あれは……親父に禁じられていたから出来なかっただけで―――」
「そんなコトわかってます! 私が怒っているのは、どうして今になってそんな事を言うのかっていうことですっ」
「―――そっか。ごめん、ただ疑問に思っただけなんだ。いまのは、俺が悪かった」
「ええ、そう思っているんでしたら二度とつまらない事は言わないでください」
ふん、と顔を背ける秋葉。
……ほんと、何しているんだろう俺は。
せっかく秋葉と話をしにきたっていうのに、つまらない事を聞いてみたりして。
「ま、兄さんのことだからいつまでも気にしてるとは思ってましたけどね。
琥珀も言ってたでしょう? ここは兄さんの家なんだから、もうちょっとリラックスしていいんだって」
「ん……それはまあ、おいおい慣れていくとは思うよ。ただ――――」
「ただ、なんです?」
「いや、なんていうかあんまり懐かしいって感じがしなくてさ。屋敷の生活は覚えているんだけど、どうも昔のイメージと一致しなくて戸惑ってる。
ま、八年間も離れていたんだからそれも当然だとは思うんだけどね。
ん? なんだよ、そんな顔して。言っておくけど、俺はこの屋敷は嫌いじゃないよ。もう出ていくなんていう事はないから、安心しろって」
「あ―――うん、それは、嬉しいんですけど」
秋葉はなぜかうつむいて視線を逸らす。
「兄さん、私も一つ聞き忘れていたことがあります。……その、八年前の事故の傷のことなんですけど」
「? 事故の傷って、胸の傷のこと?」
「はい。その、琥珀の話ではまだ完全に治っていないという事ですけど、その点は安心できるんですか?」
「んー、どうだろう。傷そのものはとっくに完治してるらしいけど、それでも破損してしまった不安定な器官があるから。年数が経てぱ完治するものもあれば、不安定なまま治らないものもあるっていう話だ。
……俺がしょっちゅう貧血を起こすのはそういった不安定な器官と、事故の時の精神的なダメージが治ってないからなんだとさ」
「それは……その、痛いんですか、兄さん」
うつむいて、秋葉はそんな言葉を呟く。
「……いや、痛むことはもうないよ。ただ眩暈を起こすだけだから、そうたいした事じゃない」
まあ、冬になって寒くなると、時折痛むぐらいのものか。
「眩暈っていっても最近は減ってきてるし、あと数年もたてば慢性的な貧血もなくなるんじゃないかな。
ま、なんにせよこのぐらいの傷だったらそう気にかけるほどのものじゃないって。世の中にはな、完治したあとに二十年ぐらいかけてリハビリをする凄い人だっているんだから、俺の傷なんてまだまだ生ぬるいってこと」
秋葉はうつむいたまま、何も言わない。
「…………………」
まいったな。
なんか、一気に重い雰囲気になってしまった。
「…………………」
秋葉はぴくりとも動かない。
「………………?」
いくらなんでも、不自然な気がした。
「おい、秋葉!?」
「あ――――兄、さん?」
秋葉の顔があがる。
ぼう、とした。今まで気を失っていたような、生気のなさ。
「どうした、気分が悪いのか? 体調が悪いなら横になってくれ。俺も部屋に戻るから」
「ん―――ううん、違うの。ちょっと……兄さんの話を聞いてたら昔のことを思い出しちゃって、それで―――」
うっ、と秋葉の体がゆれた。
秋葉は椅子から床に倒れこもうとして、なんとか踏みとどまった。
「は――――あ」
「秋葉、本当におかしいぞ。無理しないで横にならないとだめだ」
「―――いえ、大丈夫です。兄さんほどではありませんけど、私も眩暈をおこしやすい体質なだけですから。
……その、今のは八年前の事故を思い出してしまって。兄さんの傷は深くて、とてもたくさん血が流れてましたから―――それで気持ちが悪くなっただけなんです」
「……そうか。それならいいけど、本当に無理はするなよ。気分が悪かったらすぐに悪いって言ってくれ」
「ええ、言われなくてもそうさせていただきます。大丈夫、私の眩暈は兄さんとは違って精神的なものにすぎませんから」
完全に持ちなおしたのか、きっぱりと秋葉は返答した。
「そろそろ時間ですね。琥珀が呼びにくるでしょうから、兄さんは部屋に戻らないと」
「ありゃ、もう五時なのか。……それじゃあ部屋に戻るけど、秋葉もあんまり我慢するなよ。辛い時ははっきり辛いって言わないと損するんだからな」
「あら。兄さんがそこまで私の心配をしてくれるなんて意外ですね。こんなことならたまには倒れたほうがいいみたい」
「ばか、今日はたまたまだよ。それじゃまた後でな」
ガチャリ、と扉をあける。
秋葉の部屋は西館の一番奥、俺の部屋は東館の一番奥だから、距離的にみると五十メートル近く離れているわけだ。
「あ―――兄さん」
「ん? なに、なにか言い忘れ?」
「いえ、そういうコトではないんだけど………」
秋葉は言いにくそうに黙っている。
ただ、俺を見つめる目が、まるで――
「……ごめんなさい。なんでも、ないんです」
―――謝っているように、見えた。
「それでは食堂で会いましょう。今日は何をしても怒りませんから、安心してください」
「ああ、それは嬉しいな。せっかく琥珀さんがご馳走を作ってくれたんだから、今日ぐらいはテーブルマナーなんて忘れたかったところなんだ」
答えて、秋葉の部屋を後にした。
◇◇◇
「それでは志貴さんが戻ってきた事を祝して、乾杯をしたいと思います。みなさん、どうかお好きなお飲み物を選んでください」
琥珀さんはまったく毒気のない笑顔で、並べられた飲み物を勧めてくる。
その大部分がジュースなどといったものではなく、れっきとしたアルコール飲料だったりした。
「……秋葉、あのさ」
「ん? なに兄さん?」
……秋葉は自分のグラスにとくとくと茶色の液体を注いで、オレンジジュースで割ったりしている。
「おま、おまえ、それウイスキーじゃ、ないんですか」
「そうだけど、何かヘンですか?」
「そうだけどって、秋葉」
その、未成年の飲酒はいけないんじゃなかったっけ……?
「兄さんの歓迎会なんですから、お酒ぐらいは飲まないとつまらないでしょう?
あ、それとも兄さん。もしかしてアルコールは弱いほう?」
秋葉はどことなく嬉しそうだ。
「あっ、翡翠ちゃん。珍しいね、今日はジュースじゃないんだ」
「…………………」
照れているのか、翡翠は無言でお酒をグラスについでいる。
「ほら兄さん、翡翠もお酒を飲むっていうんですから、まさか一人だけジュースですませようってつもりじゃないでしょう?」
「………ったく。わりとお祭り好きだったんだな、秋葉は」
「ええ。好きなお祭りは少ないですけど、今日は特別ですから」
――――はあ。
仕方ない、あんまり純度の高いアルコールは体によくないんだけど、少しぐらいなら大丈夫だろう。
テーブルに並んだ飲み物の中で一番度数の低いのは―――ワインかな。
「それではみなさん、グラスをどうぞ。
せーの、かんぱーいっ!」
キィン、とガラスとガラスの弾け合う音のあと、琥珀さんはクイッと一気に、秋葉は時間をかけてゆっくり、翡翠はチロチロと舐めるように飲み干していく。
……あーあ、どうなってもしらないからな、俺は。
―――――で。
一時間も経たないうちに翡翠は眠ってしまって、琥珀さんは笑顔のままで翡翠を部屋へと引きずっていった。
「…………」
こっちはこっちで、なれないアルコールを飲むもんだから意識が朦朧としている。
隣にいる秋葉は、まだ元気に飲んでいるから始末が悪い。
「……秋葉。おまえ、酒強かったんだな」
「そう? ストレートで飲んでいるわけじゃないんだから、このぐらいは普通だと思いますけど」
……いや、だからさ。
未成年にしちゃあ、アルコールに慣れてるなっていう意味なんだけど。
「もう、またそんな顔をして。いいから兄さんも少しは酔ってください。
せっかく琥珀が兄さんを元気づけようって準備をしてくれたのに、それじゃ意味がないじゃないですか」
「ああ、そうだったっけ。……うん、琥珀さんの気遣いには感謝してるよ。おかげで少し楽になったし」
「なに言ってるんですか。ぜんぜん楽になってませんよ、兄さんは。しらふでも元気がなくて、お酒に酔っても元気がないんじゃ、あとはもう手段がないじゃないですか」
「なんだ、ずいぶん乱暴な言い分だな。酒を飲んでも元気にならないからって、もう手段がないっていうのは間違いだよ」
「仕方ないでしょ、兄さんが何も話してくれないんですから。私だって兄さんが昨夜のことを話してくださるのなら、お酒の力なんて借りないわ」
「―――――」
そう、か。
琥珀さんと同じように、秋葉も俺のことを気遣ってくれていたのか。
「けど、私からは何も聞けないでしょう? 何も聞かないっていう約束なんですから」
「……すまない。俺は、みんなに迷惑をかけてばっかりだ」
「まあ、わかってくれてるならいいです。
―――えっと、兄さんの言うとおり酔っているみたいですから、少し外に出てきますね」
酔っている、というわりには確かな足取りで秋葉は食堂から出ていった。
秋葉に倣って、夜風をあびに中庭に出た。
時刻はまだ六時前。
外は赤い日に染まっている。
「……まだ夕方だったのか」
中庭には誰もいない。
てっきり秋葉がきているかと思ったけど、入れ違いになったみたいだ。
「……赤い夕焼け、か」
今までは夕焼けを見ると血を連想していた。
けど、今日は。
帰り道で見せた、彼女の最後の笑顔が思い出された。
……ズキリ、と胸が痛んだ。
胸の古傷が痛むのか。
それとも後悔で胸が痛いのか。
判別がつかない。
ただ胸が痛むだけ。
それこそ、血を流しているかのように。
「ぐっ――――――」
眩暈がした。
なれないアルコールと胸の痛みのせいだ。
こんな、なんでもない事で、俺は意識を失おうとしてしまっている――――
……わたしの家はこっちだから。
そういって、彼女は自分とは違う方角に去っていった。
……ありがとう。
それはたぶん、最後まで付き合った俺に対しての言葉だったと思う。
……ごめんなさい。
それはたぶん、これから悔やんでいく俺に対しての言葉だったのかもしれない。
……だから、忘れていいよ。
そんなさつきの言葉が、耳元で囁かれた気がした。
……なんて偽善だろう。
俺は、俺自身がゆめに見るゆめの中で、そんな都合のいい言葉をゆめみている。
忘れられるのなら、それはとても楽なことだろう。
けど忘れられない。
好きでもなければ嫌いでもなかったけど、
彼女の笑顔を忘れてはいけない気がする。
それになにより。
この首筋の傷痕が痛むかぎり、忘れる事などできないんだから――――
「あ―――――」
気がつくと、自分の部屋で横になっていた。
俺はベッドに眠っていて、目の前には秋葉の姿がある。
「……秋、葉?」
「気がついた? もう、なんだっていきなり貧血なんておこすんですか、兄さんは」
「そうか……やっぱり倒れたのか、俺」
「ええ。けどよかった、すぐに目を覚ましてくれて。ごめんなさい、私が無理にお酒を勧めたせいですね」
「いや、それは関係ないよ。ただ自分の都合で倒れただけだから」
言って、天井を見上げた。
頭はまだクラクラしていて、秋葉と話す気になれない。
……だっていうのに、秋葉は会話がなくとも気にならないのか、ただ静かに座ってこっちの容体を看ていた。
「……秋葉?」
「はい? なんですか兄さん」
「―――その、さ。そこにいても退屈だろ。俺は大丈夫だから、部屋に戻ってくれてもいいぞ」
「それは私は邪魔、という事ですか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、秋葉は退屈じゃないかなって」
「退屈ですが、我慢はできます。好きでしている事だから、兄さんが気に病む必要はありません」
それなら―――まあ、いいけど。
時間が流れる。
時刻は夜の十時を過ぎていた。
あれから四時間。秋葉はこうして俺の看病をしてくれてたんだろうか。
秋葉は黙って、俺の熱を測っている。
……ああ、思い出した。
あれはたしか、もう八年以上前のことだ。
風邪かなにかをこじらせた自分のところに、秋葉が見舞いにきたことがあったっけ。
あれは本当にひどい風邪で、息をするのも苦しかった。
そんな俺の枕もとに座って、じっと俺の手を握っていた黒髪の少女。
畳と障子。
ひんやりと冷たい冬の気温。
暗い座敷で泣きそうに自分を見つめていた幼いあきはの姿。
「……すこし、安心した」
「え? なにか言った、兄さん?」
「……ああ。秋葉にも少しは昔の面影が残ってるんだなって思ってさ。なんでもないことなのに、なんだか嬉しくなったんだ」
本当に自然に、自分でも驚くぐらい優しく、秋葉に微笑む。
「それはいいですけど、兄さんは昔とまったく変わりませんね。人に手間隙をかけさせるところぐらい、少しは正してください」
顔を背けて憎まれ口をたたく秋葉。
今は、それが照れ隠しだっていうことが分かってしまって、余計に嬉しくなってしまった。
「……もう、なんですかさっきからにやにや笑って。そんなに元気があるんでしたら、もう私が看ている必要はなさそうですね」
「いや、そういうんじゃなくてさ、ただ昔のことを思い出しただけだって。
畳の部屋でさ、秋葉が―――」
――――畳の、部屋?
なんだろう、それ。
秋葉に看病されているのは解るけど、どうしてそれが自分の部屋じゃなくて、畳の部屋だったりするんだろうか。
なにか。
なにか、ひどい違和感が、ある。
「秋葉。この屋敷に畳がある部屋ってあったっけ?」
「いえ。この屋敷に和室はありませんよ」
「そうだよな。いや、なんでもないんだ。ちょっと不思議に思っただけでさ、気にしないでくれ」
「はあ。和室がないと不思議なんですか、兄さんは」
「まあな。こんだけ広い屋敷だから、一つぐらいはあるかもしれないじゃないか」
「ええ、一つと言わず和風の離れはまるごと和室ですけど」
「え―――?」
―――ああ、そういえばそうだった。
庭の森の奥に、和風の屋敷があったんだっけ。
「……もう、ホントに元気になっちゃいましたね。これ以上私がいてもお邪魔みたいですから、部屋に戻ります」
椅子から立ちあがって、退室しようとする秋葉。
「ありがと、秋葉。何時間もつきあわさせて悪かった」
「どうぞお気になさらずに。明日から似たような生活サイクルになるんですから」
「………?」
なんだかよく解らないことを言って、秋葉は部屋から出ていった。
――――電気を消して、体をベッドに休める。
秋葉が看病してくれた事もあって、気持ちはとても安らいでいた。
これならすぐに、何日かぶりの安らかな夢を見られるだろう。
深く息をはいて、ゆっくりとまぶたを閉じた。
……眠りに落ちる前。
幼い秋葉に看病されている昔の自分を、鮮明に思い出した。
誰も見舞いに来てくれなかった暗い和室。
槙久の目を盗んできたのか、秋葉はこっそりとやってきて、俺の手を握って泣いていた。
ごめんなさい、と。
俺には理由が分からなかったけど、ただごめんなさいという言葉を、何度も何度も繰り返していた、黒髪の少女。
―――おぼえている。
ただ一人、自分の看病をしてくれた、儚げな遠野家の長女を。
「……………」
暗い和室の中でずっと泣き続けていた幼い少女。
熱で朦朧としながら、悔しくて舌をかんだ。
どうして泣いているんだろう、と。
俺だったら。
俺だったら、決して、あきはを泣かせたりしないのに。
……ごめんなさい。
……ごめんなさい、しきにいさん。
その涙が、ただ、綺麗で。
あの時から、あきはにとって本当の兄になろう、と誓ったんだっけ―――
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●『5/静夢』
● 5days/October 25(Mon.)
「ん―――――」
何か、ズキリとした痛みで目が覚めた。
「……朝、か」
時計は六時四十分を過ぎたあたり。
窓の外は文句のつけどころがないほどの快晴。
「いた―――」
ずきん、とまた痛みが走った。
頭でも胸でもなくて、首の横が痛んだみたいだ。
「……おかしいな……首が痛いなんて、今までなかったのに」
首筋に手をあてても出血はない。
だいたい弓塚にかまれた傷はとっくに塞がっていた。
「……熱でもあるのかな、俺」
昨日のアルコールのせいか、体はどんよりと重いし、どことなく熱っぽい。
「おはようございます、志貴さま」
「あ、おはよう翡翠。昨日はよく眠れた?」
「―――は、はい、昨日はお見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありませんでした」
「あ、そっか。翡翠は眠っちゃったんだっけ。いいよ、俺だってあのあと貧血で倒れちゃったんだから、こっちのほうが見苦しかった」
「そういっていただけると助かります。それでは、着替えがすみましたら食堂のほうにいらしてください」
よっぽど昨日のことが恥ずかしいのか、翡翠はおどおどしたままで出ていった。
「翡翠って、もしかして」
もしかすると、すごい恥ずかしがり屋なのかもしれない。
初めは無表情だなって思ったけど、よく見るとわりと怒ったり拗ねたりしているし。
「……今度、思いっきり笑わせてみようかな」
どうやって笑わすかは未定だけど、翡翠の心からの笑顔というのはきっと可愛いに違いない。
「―――って、翡翠の笑顔っていったら琥珀さんじゃないか」
……つまらない結論になった。
さっさと着替えて居間に向かおう。
「「あ」」
ばったり、ロビーで秋葉と顔を合わせた。
秋葉はもう学校に行くのか、鞄を持っている。
……どうしてか、秋葉の顔を見たとたん、ぼっと体が熱くなった気がする。
「おはよう、兄さん」
「―――あ、ああ。おはよう、あきは」
どくん、と胸が苦しくなる。
「ふふ、今日は何かあったんですか? いつもより二十分も早いなんて、兄さんらしくないですね」
「いや、ちょっと夢見が悪かっただけだよ。ただの気紛れだから、気にしないでくれ」
……自分で何を言っているのか分からない。
あんな夢をみたせいか、幼いころの秋葉の顔がちらついてしまって、まともに秋葉の顔が見れなくなってる。
「兄さん? お顔が赤いですけど、熱でもあるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど―――」
「……?」
なぜか秋葉を正視できなくて視線をそらす。
と、秋葉のヤツは不審げに眉をよせて、傍まで近寄ってきた。
「失礼します」
秋葉の手が、おでこに触れる。
「あ――――」
どくん、という胸の動悸。
―――秋葉の手の平は、昔とちっとも変わらない。
冷たく、柔らかい指先。
どくん、どくん、と。
ただ秋葉の指が触れているだけの数秒間、自分の心臓がどくどくと脈動している事が、不思議でならなかった。
視線をさげれば、すぐ近くに秋葉の顔がある。
……強い意志を思わせる、細く力強い眉。
……深く澄んだ黒い瞳と、同じように深い黒色をした長い髪。
それらは本当に、遠野秋葉という名前に関係なく、キレイだ。
―――どくん、という心音。
もう、真っ赤に赤面しているだろう自分の顔が容易に想像できる。
「秋葉―――ちょっと」
離れてくれないと、困る。
「……熱はないようですね」
指を離して、秋葉は少しだけ身を引いた。
「念のため琥珀に風邪薬を用意させますから、兄さんは居間で待っていてください」
と、秋葉は二階に上がっていってしまった。
時計の針が七時にさしかかる。
「はい、お待たせしました。風邪薬とお水をお持ちしましたから、食後に飲んでくださいね」
「あ………琥珀、さん」
ガックリと肩がおちる。
いや、琥珀さんが持ってきてくれるだけでも十分嬉しいんだけど、てっきり秋葉が持ってきてくれると思っていたから、拍子抜けしてしまった。
「ありがとう琥珀さん。それで秋葉は? まだ学校には早いと思うんだけど」
「いえ、秋葉さまは色々と手続きがありますから早めに登校なさったんです。それでですね、志貴さん?」
にまにまとした顔で琥珀さんは俺の顔を覗きこんでくる。
「な、なに? 俺、またなんかやってた?」
「はい。さっき、秋葉さまに何をしたのかなあって。あんなに嬉しそうな秋葉さまを見るのは久しぶりでしたから、気になって気になって」
「……いや、別に秋葉を喜ばすような事なんかしてないよ。……しいていうなら、こっちが嬉しかった事があったぐらいで――――」
……っていうか、今日の秋葉はえらく機嫌がよかったな。
顔を合わせた時から笑顔だったし、それに、俺の熱をはかるなんて秋葉のイメージに合わない。
熱を測るのなら琥珀さんに任せればいいのに、アレはちょっとヘンだった。
「志貴さん? なにか思い当たりました?」
「ごめん、わからない。たしかにあいつ、今日はすごく機嫌がよかったけど、それって俺のせいじゃないと思うよ。
だいたいさ、俺は今の秋葉のことはよくわからないんだ。あいつだって八年前とは違うんだから」
「そうですか。まあ、たんに志貴さんに自覚がないだけとは思いますけど、そういうコトにしておきましょう。
さて、それじゃあ志貴さんは朝ごはんを召し上がってください。食堂のほうにご用意しておきましたから」
「あ、はい。いつもすみません」
ぺこりと頭をさげて食堂に向かう。
「あ、志貴さん。先ほどの言葉ですけど、あれは間違ってますよ」
「……え? 間違ってるって、何がです?」
「秋葉さまは昔とこれっぽっちも変わっていません。秋葉さまを分からないようにしているのは、志貴さんのほうだと思います」
なんとも意味深な捨てゼリフを残して、琥珀さんはロビーのほうへ去っていってしまった。
◇◇◇
「志貴さま、今日のお帰りはいつごろになるでしょうか?」
「ん、夕方には帰ってくるよ。……もう特別な用事もないしね、やっぱり四時までには帰ってくるから」
「はい。……今日からはここでお帰りを待つ事はできませんが、お帰りしだいご用がありましたら声をおかけください」
「………?」
門で待つ事はできないって、どういう意味だろう。
「それではいってらっしゃませ、志貴さま」
「ああ、行ってくるよ」
ふかぶかとおじぎをする翡翠に手をあげて、屋敷の正門を後にした。
今日は早起きしたおかげか、登校にも余裕がある。
いつもは小走りで通りすぎる道を、ゆったりと散歩気分で歩いていく。
ゆったりと歩いて、校門が閉められる十分前に到着した。
この時間は朝の部活をしていない生徒が登校してくる時間帯だ。
進学校であるうちの高校の部活は、おもだった体育系の部活しか朝錬はしていない。
自然、校門は群がる生徒たちでごった返すことになる。
「あ、先輩」
少し前にシエル先輩がトコトコと歩いているのを発見した。
「先輩!」
声をかけて呼び止める。
「あ、おはよう遠野くん。めずらしいですね、昇降口で会うなんて」
「ああ。先輩の後ろ姿が見えたから走ってきたんだ。先輩はいつもこの時間?」
「はい、早起きが苦手なんでいつも時間ぎりぎりなんです。そうゆう遠野くんは今朝は寝坊したんですか?」
「いや、これでも早起きしたほうなんだけど。いつもはですね、門が閉められるかどうかの瀬戸際で生きているんです、俺」
「へえ、遠野くんって実はお寝坊さんだったんですね……って、あれ?」
ゴミでもついているのか、先輩はじっと俺の顔を見つめてくる。
「あの―――先輩?」
「遠野くん、休みの間に何かありましたか?」
「いえ、別にこれといってないけど、どうしたんですか先輩?」
「いえ、別になんでもないです。ちょっとからかっただけですから、忘れてください」
「?」
わけがわからなくて困惑する。
――――と。
そんなとき、昇降口のほうからすごい勢いで見知った顔が走ってきた。
「乾くんですね」
先輩は冷静な発言をする。
「うん、あれは乾だね」
こっちも冷静に言ってみた。
俺も先輩も、この時間帯にわざわざ校舎から出てきて、おまけにこっちに向かって爆走してくる有彦の奇行をおかしいとも思ってない。
というか、もう慣れた。
「遠野ーーーーーっ!」
有彦は砂煙をあげて走ってくる。
止まらない。
俺たちが目の前にいるっていうのに止まらず、有彦は俺に向かって豪快な飛び蹴りをかましてきた。
どん、がらがらがら、とたん。
「……………」
信じ、られない。
この男、人にライダーキックをかましただけでは飽き足らず、衝突したまま地面に三回も転がってくれた。
「……………」
とりあえず立ち上がって服についた砂を払う。
有彦も立ち上がって、ぱんぱんと服をはたいていた。
「有彦」
「遠野」
三秒のインターバルののち、俺たちはまっすぐに向かい合った。
せーの、
「いったい何するんだ、オマエ!」
「おまえ、妹がいるだろう!」
で、お互いに怒鳴りあった。
―――――――って、なに?
「……ちょっと待って。俺に妹がいるって、なんでそんなコト知ってるんだオマエ」
「うわああ、いるっていうのかー!」
おう、と頭を抱えて身をよじる有彦。
……なんていうか、たとえコイツに百万円ほど貸していても、他人ですと言いたくなるぐらい愉快なパフォーマンスだと思う。
「おい、やめろ有彦。っていうかやめてくれ。このままじゃ学校じゅうの笑いもんだぞ、俺たち」
「ええい、知ったコトか!」
ぎり、と有彦は睨んでくる。
「うらぎりものめっ、いまにお兄さんと呼んでやるぜ!」
わけのわからない言葉を残して有彦は走り去っていった。
その、校舎のほうではなく、校門のほうへ。
「……なんなんだ、アイツ」
ホームルーム開始まであと五分もない。
何もかも理解不能だが、とにかく今日一日は有彦と顔を合わす事はなさそうだった。
◇◇◇
二時限目が終わった休み時間、トウトツに有彦は帰ってきた。
「うむ。よく考えたら俺が帰る理由はなかったのだ」
なんて事を言って、大人しく自分の席に座ってしまう。
放っておいて、こっちもぼんやりと席に座って三時限目の開始を待つ。
に、しても───今日の教室は何かヘンだ。
休み時間になるたびに教室中の男子が大挙して教室を出ていって、シアワセそうな顔をして戻ってくる。
「?」
……なんか、気になるな。
「こんにちは遠野くん。お邪魔していいですか?」
「あれ? 先輩、休み時間だっていうのに、うちの教室になんてきていいの?」
「はい、自分の教室にいるよりこっちのほうが楽しいですから」
笑顔で嬉しいことを言ってくれる。
有彦は机に座ったままで、先輩がやってきた事に気付いていない。
実に理想的な位置関係だ。
「けど、二年生の教室も騒がしいんですね。三年生の男子生徒も騒いでましたから、今ごろ四階は大混雑してるんでしょうか」
「……はい? 三年の男子が騒いでるって、何がですか?」
「あ、余裕ですね。まあ、遠野くんは見にいく必要がないですからねー」
「……?」
……よく解らないけど、トオノくんはミにいくヒツヨウがないらしい。
「なんですかそれ。見にいくって、何を見にいくんです」
「だから、一年生にやってきた転校生のことですよ。教室の男の子、みんな代わる代わるで見にいっているじゃないですか。
彼女が転入したクラスの廊下も人が集まってるそうですし、すごい人気ですよね」
転校生……?
えっと、ようするに、うちの男子たちはさっきからその子を見に行っていたのかな。
「────はあ。その言いぶりじゃ可愛い子なんだ、その転校生って」
「わたしは知りませんけど、朝からその話で持ちきりですよ。一年に有名なお嬢様学院から転校してきた子がいるぞって」
「……ふうん。こんな時期に転校だなんてよっぽどの事情があったのかな」
「あ、やっぱりそうなんですか。でももったいないですよね、浅上女学院っていえば名門中の名門でしょう?」
「へえ、そいつは奇遇だな。たしかうちの妹もそこの一年生なんだけど───」
────って、待った。
さっきからどうも先輩と会話がかみ合わない。
先輩の口ぶりは、まるで俺がその転校生の事を知っているような感じだ。
どうぞお気になさらずに。
明日から似たような生活サイクルになるんですから。
秋葉さまは手続きがありまから、早めに登校したんですよ。
「――――――うそ」
愕然とした。
愕然としたけど、これは、もうそうとしか考えられない。
「遠野くん?」
先輩の声も聞こえない。
有彦の席を見ると、ヤツはにやりと邪悪な笑みをうかべていた。
ずかずかと有彦の席へ歩いていく。
「有彦」
「あら、なにかしらお兄さま」
「……殴るよ、それ」
「ちぇっ、冗談の通じないヤツ。で、どうした。いまさら俺のような庶民になにか誤用ですかね」
ひっひっひ、と笑いながら有彦はいう。
「ゴヨウって、まあ、そりゃあ誤用かもしんないけどさ、この場合」
「で、有彦。その転校生っていうのは、なんて名前か教えてくれないか」
「いやーん、言わなくてもわかってんだろ?
そう、彼女の名前は遠野秋葉。何を隠そうおまえの妹さんだな。
ったく、オレにまで秘密にしやがって、あんだけの上玉ならすぐにバレるっつーの。今度という今度こそ友情を疑ったね、オレは」
「……いや、もとから俺とおまえの間にはそんな幻想はなりたってなかったけど、まあ、そっか」
力なく返答して、自分の席に戻る。
「遠野くん?」
先輩がなにか言っているんだけど、返事をする気力はなかった。
「……はあ。なにかたいへんそうですから、わたしも戻りますね」
先輩はタッタカター、と軽い足取りで教室から去っていった。
秋葉が、うちの学校に転校してきてる。
「───なに考えてんだ、あいつ」
呆然と呟いて、ぱたん、と力なく自分の椅子に座り込んだ。
◇◇◇
三時限目になって、英語の授業がはじまった。
流暢な発音で流れてくる英文は、あまり頭に入ってくれない。
転校してきたという秋葉のことで頭がいっぱいなせいで、英文はなにか不快なノイズにしか聞き取れない。
「――――――」
だいたい秋葉も秋葉だ。
うちに転校してくるなら、前もって俺に言ってくれてもよかったじゃないか。
いや、そもそもあいつがうちの学校に転校してきたって、何の利点もないっていうのに――
「あ―――――」
ズキリと。
首筋に、痛みが走った。
がたん、と体が机につっぷす。
まいった。体が、うまく動かせない。
眩暈だろうか。
ならこんなのはいつもどおりだ。つまり正常。すぐに復帰。なにしろ授業中。早く回復しないと。ほら、英語の教師が苛だたしげに英文を読み上げている。黒板。チョーク。白墨の粉。英文。英文。チョークを削る音。教師。教師。大人。教壇。ギシギシと軋む教壇。机。三十六個の机。生徒。生徒。三十六人の生徒。三日前までは三十七個。窓。空。校庭。太陽。人気がない。寂しい。寒い。恐い。不安。なにか。欲しい。欲しい。欲しい――――
「遠野くん! きみ、大丈夫かね遠野くん!?」
教壇からの声で、はた、と目が覚めた。
……額にはすごい汗。
体は冷たくなっていて、呼吸だけがはあはあと荒い。
「どうしたんだ遠野くん。きみ、体の調子が悪いなら休んでいいぞ」
「あ、いえ。大丈夫です、おさまりましたから」
「……そうか。まあ、あまり無茶はしないようにね。きみの場合、成績はいいんだから少しは休んでもいいんだぞ。多少のハンデがあっても問題はないだろうからね」
……英語の教師の言い分は、少しデリカシーにかけると思う。
大丈夫です、とはっきり断言して、授業を再開させた。
◇◇◇
昼休みになって、教室中があわただしくなる。
「――――はあ」
ため息がもれる。
朝から熱っぽかったけど、本当に風邪でも引いているのか、全身がだるかった。
「なんだ遠野。まだ教室に残ってたのか」
「……ああ、今日はちょっと体調が悪くてさ。学食まで行けないから、買い物頼まれてくれないか? 購買のいつものセットでいいから」
「いや、それはかまわないけどな。いいのか、おまえの妹さん、なんだか食堂で困ってた風だったぞ」
「――――あ」
そうか、あいつは今までお嬢さま学校に通っていたから、一般の学校の『学食』っていうシステムをまったく知らないんだ。
今ごろ学食に行って、立ち往生している秋葉の姿がありありと目に浮かぶ。
―――くそ、そんなの放っておける訳がない。
「あ、遠野! 行くならオレも行くぞ!」
教室を駆け出る。
……後ろからは、妙にハッスルした有彦が付いてきた。
生徒たちで混雑した食堂の真ん中で、秋葉は呆然と立ち尽くしていた。
一人で、何をしていいものか解らない、といったふうに。
「―――ったく。なにしてるんだ、あいつは」
急いで秋葉のところに走りよる。
「秋葉」
「兄、さん」
一瞬。
秋葉の顔が泣きそうなものに見えて、胸が痛んだ。
「―――ほら、こっちにこい。おまえ、こういう人込みは嫌いだろ」
「あ――――はい」
もう、一秒だってそんな泣きそうな顔なんか見たくなくて、強引に秋葉の腕をとって食堂を後にした。
「ほら、ここなら落ちつくだろ。とりあえず昼飯は買ってきてやるから、ベンチにでも座ってろ」
「……はい。わざわざごめんなさい、兄さん」
「―――いいよ、詳しい事情はあとで聞くから。有彦、購買に行ってくるから、それまで秋葉のことよろしくな」
「げっ。な、なんだってこんな時にオレに頼るんだおまえはっ! いいって、購買ならオレが行ってくるから、遠野は妹さんの相手をしてろよ」
「……? なんだよ有彦、オレのことをお兄さんって呼ぶんじゃないのか? いっとくけどこんなチャンス、この先ぜったいにやらないぞ」
ぼそぼそ、と有彦に耳打ちする。
こっちの小声に負けじと、有彦も秘密会議に参加してくる。
「いや、そうだけどよ、いくらなんでもいきなり二人っきりはまずいだろ。そりゃあたいていの女ならそっちのがいいんだけど、おまえの妹さんはちょっとレヴェルが高すぎる」
「……なんだ、らしくないな。おまえ秋葉にびびってるのか?」
「おう。率直にいえばビビってるぞ。なにしろ今までにないタイプ故に、初戦は諜報活動に徹したい所存ナリよ」
……こいつも、どうしてこう不思議なところで面白いんだろう。
「しょうがないな、それじゃ三人分の昼飯を調達してきてくれ」
「おう、任せとけ。……って、妹さん何食べるんだ? 購買で売ってるパンなんて恐れ多くて出せないぞ、オレ」
「……そんなの知るか。うちの学校に転校してきたんだからカレーパンとコーヒー牛乳で十分だ」
「――――了解。五分で戻る」
有彦はダッシュで校舎へと戻っていった。
「今の人と随分仲がいいんですね、兄さん」
……あれ?
さっきまでの弱々しい姿はどこにいったのか、秋葉はすっかり元通りになっている。
「ああ、あいつは特別気が合うヤツだからな。……って、そんなコトより秋葉!」
「もう、そんな大声ださないでください。周りの人たちが驚いてるじゃないですか」
「なっ―――」
「それより私の質問に答えてくれませんか。今の人、兄さんのなんなんですか?」
……なんなんですかって、あいつとは中学からの腐れ縁なだけだけど―――って、そうじゃなくて。
「有彦はただのクラスメイトだよ。それより秋葉、質問なら俺のほうが先だ」
「はい。なんでしょうか、兄さん」
「なんでしょうかじゃない! おまえ、なんだってうちの高校になんて転校してきたんだ。うちみたいな二流の進学校に転校したって、何のメリットもないじゃないか!」
「お言葉ですけど兄さん。私がどこの学校に通うかは私の自由です。兄さんに答えなくちゃいけない理由なんてないわ」
「……馬鹿なこと言うな。俺はおまえの兄貴だぞ。兄貴として、おまえの為にならない事を見過ごすわけにはいかない。
はっきり言えば、うちの高校に転校してくるのはおまえにとってマイナスしかないと思う。親父ももういないんだから、せめて俺がちゃんとおまえを見てやらないといけないじゃないか……!」
「……なによ。こういう時だけそうゆう言い回しをするなんて、フェアじゃないわ」
「フェアじゃないのはそっちのほうだろ。俺に黙って転校するなんて、一体どういうつもりなんだ。
ちゃんと理由を聞くまで俺はおまえの転校なんて認めないからな!」
「あ―――――」
「つまらない理由だったらもといた学校に叩き返す。ほら、言えよ秋葉。なんで転校なんかしたんだ、おまえ」
秋葉はうつむいて黙り込む。
ほんの少しだけそうした後、秋葉は凛とした姿勢で顔をあげた。
「……兄さんが心配だから、ではいけませんか」
―――――――え?
「……ちょっ、ちょっと待った。俺が心配だからって、なんで―――」
なんでそんな理由で転校なんかしてくるんだよ、おまえは。
「だって、このところの兄さんの素行の乱れは目にあまるんだもの。遠野の名を汚さないためにも、私が近くで監督する事に決めたんです」
秋葉はきっぱりと言い切った。
「うっ―――――」
素行の乱れ、だなんて言われると、こっちとしてはうなずくしかない。
事実、ここんとこの俺の生活はメチャクチャで、秋葉たちには迷惑をかけっぱなしだったから。
「で、でも、だからって転校までする事ないだろ。今までの友達とかどうするんだ」
「そんなこと、兄さんが気に病む必要はありません。少しでも私に悪いと思うんでしたら、今日から考えを改めてくださればいいんです」
ぷい、と顔を背けて反論する秋葉。
……もう、こう言えばああいうヤツだ。
「……わかった、勝手にしろ。けどな、あとで後悔したって知らないからな」
「けっこうです。兄さんに心配してもらおうなんて思ってませんから」
ふーんだ、とばかりに胸をはって、秋葉は拗ねた。
「お待たせ、三人分買ってきたぜ……って、なに、もしかしてお邪魔ッスかオレ?」
「いえ、そんな事はありませんよ、先輩。
兄さんのお友達ですね。遠野志貴の妹で、秋葉と申します。どうぞ、これからよろしくお願いします」
スッ、と音もなくお辞儀をする秋葉。
「いやいや、こっちこそよろしくな。オレは乾有彦、遠野とは中学からの付き合いでさ、秋葉ちゃんのことは今日はじめて知ったよ」
……黙っていたことをまだ根に持っているのか、言わなくてもいいことを有彦は言う。
「いいから有彦、メシにしよう。昼休みは短いんだから、秋葉にかまってばかりいるわけにはいかないだろ」
むっ、と睨んでくる秋葉をやりすごして、有彦から昼飯をうけとる。
「ほら秋葉。カレーパンと牛乳をあげるから、ここで食べよう。あんまり時間がないからな、ゆっくりしてる暇はないぞ」
「そんなこと解ってます。子供じゃないんですから、いちいち説明しないでください」
「そうだぞ遠野、おまえ秋葉ちゃんにわざとつらくあたってないか?」
ぶーぶー、とブーイングをする有彦。
「………………」
それを無視して、自分のパンの封をあけて、牛乳にストローをさしこんだ。
もぐ。
もぐもぐ。
もぐもぐもぐ。
「―――――」
さて、昼飯も食べ終わったし、教室に戻るか。
「………あの、兄さん」
おずおずと声をかけてくる秋葉。
見ればカレーパンはまだ封さえ開いていない。
「なんだ秋葉。あんまり食欲ないのか?」
「えっと、そうじゃなくて、あの、ですね」
恥ずかしそうに上目遣いをしてくる。
「……その、食べ方、教えてくれませんか……?」
「――――――」
もじもじと見上げてくる視線。
それに―――なんていうか、俺は。
「食べ方って、なに言ってるんだよ。そんなの封を開けて食べるだけじゃん。別に難しいことでもなんでもないぜ。なあ遠野?」
「有彦、悪いけど学食にいってナプキンとか持ってきてくれないか」
「―――え? オレ?」
うん、と無言でうなずく。
「いいけどな、貸しにしとくぞ」
有彦はまたも校舎にむかってダッシュしていく。
「ほら、かして。これは袋のここをこう開けて、そのままかぶりつくんだ。……いっとくけど、味のほうは期待するなよ。琥珀さんの料理とは天と地ほどの差があるからな」
「えっと―――兄さん、ほんと?」
「嘘は言わない。それともなにか。うちの学校に転校してきたのに、うちの購買で売ってるものなんて食べられないなんて言わないでくれよ。
俺、秋葉のことを軽蔑したくない」
「ううん、そんなコトないけど……このパン、すごく大きくて、一口じゃ無理じゃないかな……」
「……誰も一口で食べろなんて言ってないよ。こうゆうパンはね、少しずつかじっていくものなんだから。そのぶん口が汚れるけど、有彦がナプキンを持ってきてくれるからそれで拭けばいいだろ?」
「……うん。ありがと、兄さん」
言って、秋葉はカレーパンをかじりはじめた。
……なんていうか、カレーパンを一口食べるのにこれだけ緊張した女の子もいないと思う。
秋葉が昼食を終えて数分後。
秋葉は有彦の風貌があまり気にならないらしく、わりあい親しげに会話を楽しんでいるようだった。
「そう。乾さんは兄さんと中学時代からの友人なんですね」
「ああ、もうかれこれ五年近くの付き合いでね。コイツは初めて会った時からなにかと手間がかかるヤツでさあ、色々と面倒みてたらいつのまにかなつかれちまったってワケ」
「……有彦、それは語弊がある。正確には俺がおまえにたかられちまった、というべきだ」
「おう。どっちにしても腐れ縁って事だな、そりゃ」
あはははは、と笑う有彦。
「ああ、もう完全に腐敗しきってドロドロだから縁が切れない。お互い厄介なヤツに掴まったもんだ」
ふん、と皮肉げに有彦に笑い返してやる。
「………………………」
……と、なぜか秋葉は気に食わなさそうに俺と有彦を見ていたりする。
「ああ、ところで秋葉ちゃん、一つ訊いていい?」
「ええ、私に答えられる事でしたら」
「あのさあ、前から気になってたんだけど、遠野って慢性的な貧血だろ? これって昔からの体質なのか?」
……有彦のすごいところは、こういう聞きにくいことをストレートに聞くところにある。
「はい、兄さんの貧血は生まれついた体質だそうです。けれど、遠野の人間は少なからずそういった特質がありますから、兄さんだけが異状、というわけではありません」
「え……? そうなのか、秋葉?」
「はい。お父様も生前は極端な躁鬱のけがありました。乖離性同一性障害、と呼ばれるものです」
「なに? かいりせいどういつせいしょうがい……?」
「俗にいう二重人格です。お父様は記憶の混濁をなさるほど重度のものではありませんでしたけど」
――――初耳だ。
けど思い返してみれば、遠野槙久は極端に優しさと強暴さが入れ替わる人物だった。
「ふうん……心の病だったんだ、親父」
そう言われてみれば、全ての物事が腑に落ちる。
俺が事故に巻き込まれる前まで、父はこちらを敬遠していた気はあるものの優しい人物だったと思う。
けれど、事故の後の槙久ははっきりとこちらの事を嫌悪していた。
それも、考えてみれば躁鬱のせいだったのかもしれない。
「やっべぇー! 昼休み終わっちゃったじゃんか、遠野!」
「俺に文句言うなよ。ほら、秋葉も自分の教室に急がないと。転校初日から五時限目に遅刻なんて恥ずかしいだろ」
「わかっています。兄さんも、お気をつけて」
予鈴が鳴り響く中、俺たちはそれぞれの教室に向かった。
◇◇◇
波乱に満ちた一日が終わった。
さて、これからどうするか――
……昼休みの件もあるし、秋葉のことが気にかかる。
一人で帰れない、なんて事はないだろうけど、念のため様子を見に行ってみるか。
すっかり日が暮れた廊下を歩く。
秋葉のクラスは一年一組だったっけ。
教室は静まりかえっていた。
人気のない赤い教室の中、一人の女生徒が佇んでいる。
「―――――――」
……少し。眩暈がした。
まっかな夕焼けに染まった教室。
かすかに赤い長髪の女生徒が、一人で帰り支度をしている。
それは、どう見ても秋葉に違いない。
なのにどうしてか、俺には初めて見るような、見知らぬ女生徒のように、思えてしまった。
「兄さん?」
「――――――」
呼びかけられて眩暈がおさまった。
「おまえ―――秋葉、だよな」
「? 兄さん、また気分でも悪いんですか?」
秋葉はいつもの調子で話しかけてくる。
……見れば秋葉は黒髪だし、この少女は紛れもなく自分の妹である遠野秋葉だ。
「……いや、なんでもない。それより秋葉、これから帰るんだろ。用がないんなら一緒に帰らないか?」
「ええ、そうですね。兄さんがよろしいのでしたら、一緒に帰りましょう」
どういう風の吹き回しか、秋葉はすごく優しく微笑んだ。
……どくん、と心臓が動く。
さっきの眩暈のせいなのか、それとも自分の学校に秋葉がいるっていう事自体が異常なことなのか。
ともかく、なんだか必要以上に、胸の動悸が激しくなってしまっていた。
秋葉と一緒に校舎を出る。
昇降口をすぎて校門に着いたとたん、俺に手をふる先輩の姿が見えた。
「あっ、やっと来ましたね遠野くん」
「あれ、先輩。どうしたんですか、こんなところでぼけっとして」
「もう、ぼけっとしていたんじゃないです。遠野くんが来ると思って待っていたんですけど―――」
先輩は俺の横にいる秋葉に視線を送る。
先輩は一目で俺と秋葉が一緒に帰っている、という事実を看破したらしい。
「遠野くん、そちらが妹さんなんですか?」
秋葉をちらりと流し目に見る先輩。
「………………………」
秋葉は何も言わない。
言わないけど、先輩も秋葉も『そのコを紹介してほしい』と視線で語ってくる。
────はあ。
なんか、すごく疲れる事になりそうだ。
「先輩、こいつは俺の妹で秋葉っていうんだ。今日うちの学校に転校してきたらしい」
よろしく、と秋葉は先輩に頭をさげる。
「そうなんですか。こんにちは、遠野くんのおともだちのシエルです」
……なんだろう。
先輩と秋葉は、互いを見つめあったまま何も話さない。
「先輩、俺を待ってたような口ぶりだったけど、何かあったんですか?」
「はい、ちょっと遠野くんに付き合ってもらいたいところがあったんですけど―――
―――今日はもう遅くなっちゃいましたから、また今度にしますね。さよなら遠野くん。秋葉さんもまた明日お会いしましょう」
それじゃあ、と先輩は反対方向へ歩いていってしまった。
「───あ」
止める間もなく、先輩はトコトコと去っていく。
「帰りましょう兄さん。もう日が暮れてしまうわ」
秋葉は何事もなかったように、極めてクールにそんな事を言った。
秋葉と屋敷に向かって歩いていく。
「…………」
はっきりいって、複雑だ。
ふと隣に視線を向ければ長い髪をなびかせて秋葉が歩いている。
秋葉は黙っている分には楚々としていて、非の打ち所のないお嬢様だったりする。
「…………」
どうしてか、会話がうかばない。
秋葉とは家で毎日顔を合わせているっていうのにひどく緊張したままで、屋敷に向かって足を進ませていた。
屋敷に着いた。
秋葉は門を開けようと前に出て、思い出したように俺へと振り返った。
「……一つ、聞きますけど。兄さんはシエルという人とどれくらい親しいんですか?」
唐突に、突拍子もない質問をしてくる。
「いや、別に親しいっていうほどじゃないけど。シエル先輩とは先輩と後輩の間柄だよ。なんていうか、話してると落ち着く友達って感じだけど」
そうですか、と秋葉は目を背けて玄関に向かっていった。
庭を通り過ぎて玄関に着く。
翡翠が門で待っていたり、庭で琥珀さんがホウキを手にして掃除していたりする事はなく、今日は申し合わせたように二人の姿は見当たらなかった。
「あ」
「はい? 何か言いましたか兄さん」
「いや、ちょっとした事なんだけど。あのさ、秋葉が言っていた例の和風の離れに入ってみたいんだけど、いいかな」
「――――離れに、ですか?」
呟いて、秋葉は難しそうに眉をよせた。
「やめてください。あそこはもう何年も前に封鎖したところです。兄さんといえど、あそこ立ち入ることは許しません」
きっぱりと言って、秋葉は屋敷の中に入っていってしまった。
時刻は夕方の五時すぎ。
夕食まではあと一時間ほど余裕がある。
このまま夕食まで部屋で過ごすべきか、それとも――
……どうも、さっきの秋葉の言いぶりが気にかかる。
離れの屋敷には絶対に入るな、と秋葉は言った。
そう言われると余計気になるし、第一―――この屋敷に和室がそこにしかないというのなら、行ってみたいという気もする。
「……見付からなければオッケーだよな」
心の中で秋葉に謝って、そろそろと忍び足で出口に向かう事にした。
―――すっかり日が沈んで、あたりは真夜中のように暗い。
林というよりもはや森に近い庭を歩いていく。
……いまいちどこにあるのか覚えてなかったけど、森に入るなり足がかってに離れの屋敷を目指し出した。
頭のほうで忘れかけていても、体が覚えていたということだろうか。
ともかく、少しも迷わずに離れの屋敷に到着できた。
「―――――――」
使われなくなってどれほどの年月が経っているのか、離れの屋敷はところどころが老朽化している。
玄関に手をかけると、鍵はかかっていなかった。
中は当然のように暗い。
畳や障子の匂いがして、まったく何も見えない闇だというのに安心できた。
「―――――あ」
その和室に入ったとたん、ぞくりと、背中が震えた。
「―――――ここ、知ってる」
子供のころ、本館のほうにはない和室が珍しくて遊びにきたんだろう。
「――――――」
けど、ヘンだ。
屋敷に帰ってきて、自分の部屋に案内された時に感じていた違和感と似たものを、肌が感じ取っている。
「……有間の家が和室だったからかな」
なんだか、ずっとここで暮らしてきたような気がする。
いや、それとも―――
そういえば、昔
庭で遊んでいる時にいたのは、
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
自分と、秋葉、だけではなかったような、
「痛っ――――」
ズキリ、と首筋が痛んだ。
貧血の前触れか、体も鉛のように重く感じる。
「……まずいな……部屋に戻らないと」
頭を軽くふって、本当に倒れてしまう前に部屋に戻ることにした時。
「あら、志貴さんじゃないですか。何をしているんですか、こんなところで」
いきなり、琥珀さんが入ってきた。
「―――――っ!」
ど、どうしようとあたりを見渡す。
……隠れる場所なんてないし、そもそもとっくに見付かってしまっているじゃないか、俺。
「もう、ダメですよココに入っちゃ。秋葉さまから志貴さんだけはここに入れてはいけないって言われてるんですから」
「……ああ、今日言われた。言われたんだけど、その―――」
「気になってしまったんですね。わかりました、今回だけは大目に見ますから、今後はココには来ないでください。この屋敷、もともと古いものですからちょっと危ないんです」
……もともと古い建物だから危ない、か。
なんかヘンな理由だけど、一応スジは通っている。
「……ごめん。けど琥珀さん、ここっていったい何に使ってた建物なんだ? 今は使ってないっていうけど、昔は使ってたのか?」
「ええ、ここはもともと使用人の住居だったんです。志貴さんが有間の家に預けられる前まで、屋敷には十数人の使用人がおりました。
それだけの数の人間をお屋敷のほうに住まわせる事はできなかったので、槙久さまがこの離れをお作りになられたんです」
「そう。使用人の住居だったのか」
言われてみれば納得できる。
たしかにこれほどの大屋敷になるとそれぐらいのものは必要になってくるだろう。
だけど、どうして。
秋葉は俺をここに入らせないようにしているんだろう―――?
「志貴さん、そろそろお屋敷のほうに戻らないと秋葉さまに気付かれてしまいます」
「あ―――そうだね、悪かった」
かすかな疑問を振り払って、琥珀さんと一緒に屋敷に戻る事にした。
◇◇◇
夕食はいつもどおり、俺と秋葉だけの静かなものだった。
琥珀さんは秋葉の後ろに、翡翠は俺の後ろに立って、一言も話さないというお決まりのディナー。
「……………」
ただ、いつもと違って秋葉の様子はおかしかった。
今までは俺が食器の音をたてるたびにじろりと睨んできたっていうのに、今日は秋葉本人もカチャカチャと耳障りな音をたてる。
しまいには、
「―――部屋に戻ります。夕食はさげてください」
なんて言って、途中で食堂を後にしてしまった。
「……どうしたんだろう、あいつ。一緒に帰ってくる時まではあんなんじゃなかったのに」
「………………」
翡翠は黙ったまま、何も言わない。
琥珀さんはいつも通りに笑顔で食器を片付けている。
――――と。
ロビーのほうから、何かが倒れる音がした。
「―――秋葉!?」
ただそんな予感だけがして、ロビーへと駆け出した。
「―――――!」
そこには、階段にもたれかかった秋葉の姿があった。
秋葉の呼吸は乱れていて、離れていてもぜいぜいという音が聞こえてくる。
顔色は真っ青で、額や腕に玉のような汗が浮かんでいた。
……その姿は、一目見ただけで尋常ではないと判る。
「おい、秋葉!」
「近寄らないで……!」
「っ!」
足を止める。
秋葉は、階段にもたれかかったままで、激しく俺を拒絶した。
「なっ―――近寄らないでって、なに言ってるんだよ。何があったか知らないけど、そんな苦しそうなヤツを放っておけるわけないだろ」
「―――いいから、兄さんだけは、近寄らない、で」
はあはあ、という声。
「な――――」
どくん、と心臓が跳ねる。
ただ、苦しげに息をはく秋葉の姿。
……どうかしている。
それが弓塚さつきの姿にひどく似ていると、一瞬だけでも思ってしまったなんて。
「秋、葉―――」
「いいから来ないでくださいっ。いま近くにこられたら、私はきっとダメになる。……だから、こないで。わたしは兄さんなんかいなくたって、大丈夫なんだから―――」
ずるり、と。
階段にもたれかかっていた秋葉の体が倒れこむ。
「秋葉さま?」
と、俺の横をすり抜けて琥珀さんが秋葉にかけよる。
琥珀さんは秋葉と何やら小さな声で話し合うと、秋葉に肩をかして立ちあがらせた。
そのまま、秋葉は琥珀さんに助けられて、自分の部屋へと戻って行ってしまった。
「な――――なんだよ、それ」
わけがわからない。
苦しそうな秋葉の容体といい、俺に近寄るなって言っておきながら、琥珀さんには安心して肩を貸してもらうなんて。
「―――志貴さま」
「翡翠……今のは、なんだ。秋葉があんなになるなんて、どうして」
「……はい。秋葉さまは突発的な呼吸困難におちいる事があるのです。志貴さまが貧血ぎみであるように、秋葉さまも、遠野家の人間ですから」
「あ――――」
―――遠野の人間にはそういった特色がありますから。
昼休み、秋葉はたしかにそう言っていた。
「……そんな。けど、秋葉はいつも元気そうだったじゃないか」
「秋葉さまは志貴さまにはくれぐれも内密にするように、と気を配っておられましたから。わたしたちも志貴さまには黙っているように命じられておりました」
「――――――――」
言葉がない。
俺は呆然と、秋葉が去っていった階段を見上げることしかできなかった。
「それではおやすみなさいませ。……秋葉さまのことでしたら、姉さんにまかせてあげてください。
姉さんは何年も前から槙久さまのお体を任されていましたから、医学の心得もあるのです」
「そうだね。秋葉も琥珀さんを信頼しきっているみたいだったし、琥珀さんに任せてあげて大丈夫だろう」
……だいたい俺がついていても何もできないんだから、琥珀さんに任せるしかないだろう。
「志貴さま、秋葉さまがあのようなご容体になるのは稀なんです。それも、きちんと薬で持ちなおせるものですから心配はいらないと思います。
……秋葉さまは原因と治療方法が判っているご自分のことより、志貴さまのお体のほうを気にかけているのです」
「―――わかってる。くそ、こんなんじゃ兄貴失格だな。俺は本当に、何もわかってなかったみたいだ」
「何も―――わかっては、いないのですか」
翡翠はうつむいて、そんな事を呟いた。
「……翡翠? どうしたんだ、まさかきみまで体調が悪いとか言わないでくれよ」
「―――いえ。ただ、志貴さまは本当に、あの離れの屋敷を思い出せないのですか?」
「―――――え?」
……思い出せないって、何、を。
「……翡翠、それって―――」
「―――志貴さまは、本当に遠野志貴になられてしまったのですね」
「翡翠?」
「……あの離れが使われなくなったのは、志貴さまが有間の家に預けられてすぐです。槙久さまは取り壊すと決定されましたが、秋葉さまがひどく嫌がったのでああして今も残っているのです。
―――ですから、志貴さまが本当に秋葉さまのことを思うのなら、あの離れに近づかないでください」
言って、翡翠は走り去るように部屋から出ていった。
十時を過ぎて、屋敷じゅうの電気が消えた。
「………………」
目が冴えて眠れない。
秋葉のこと。
秋葉が秘密にしたがっている離れの屋敷のこと。
―――って、ちょっと待った。
翡翠の言葉は気になるけど、離れならさっき行ったじゃないか。
あそこには何もないってわかっている。
今夜はこのまま、大人しく眠る事にしよう。
――――熱い。
――――熱い。
――――熱い。
――――喉が、カラカラに渇いて、熱い。
――――――このままでは眠れない。
起きて、水を飲みに行こう。
夜の街に出たようだ。
目を血走らせて誰か通りかからないか待っているのか。
――――――熱かった。
ふと、窓ガラスに映った顔が見えた。
目は血走っていて、とても正気には見えなかった。
――――――ただ、熱かった。
獲物を見つけたようだ。
背後から首をしめて、それで終わり。
見知らぬ女性はそれで死んでしまったみたいだった。
―――俺は、ただ、熱かった。
死体を連れこんで、喉元に食らいついたのか。
じゅるじゅる、という音が聞こえる。
喉もとから、肉ごとかみ切るように血を飲んで、喉の渇きを癒している。
―――わからない。
はあはあという呼吸音。
よほど。
よほどその行為は興奮するのか。
死体の胸に指をつきいれた。
肉を潰していく音、骨を崩していく音。
心臓を素手でえぐりだす、音。
―――見ているだけで、頭が真っ白になる。
その、究極の略奪。
頂点に位置する背徳性。
それが、見ているものさえ熱くさせる。
たとえそれがマイナスの快楽にしたって、熱くなるということには、かわりはないらしい。
―――俺には、わからない。
熱い血液を口からたらして、恍惚とした目で、夜空を見上げていた。
長い髪が乱れる。
頭上には螺旋の空。
なんてキレイな、銀色の月。
―――だから、わからない。
俺は、ただ、熱かっただけなのに――――
[#改ページ]
●『6/沈夢』
● 6days/October 26(Tue.)
「――――――!」
たまらず、ベッドから跳ね起きた。
「はあ―――はあ、はあ――――」
口元に込み上げる吐き気を手の平で押さえて、はあはあと呼吸を整える。
「な――――――」
なんだ、今のは。
夢。夢を見てた。けど、今のはなんだ。
あんな酷い、人を殺して血を吸う夢を見るなんて、どうかしてる。
「はあ……はあ……はあ」
喉元の渇き。
肉をかみきる感触。
人を殺した時の、脳髄が焼き切れそうな快感。
……それらの単語が、なんてリアルに思えるんだろう。
音をたてて心臓をつかみ出した時の感触さえ、たしかに思い出せる。
「は、あ――――――」
あれが『快感』だったのかはてんでわからない。
ただ、弾丸のように凝縮された興奮が、耳元からトリガーをひいて脳髄に叩き込まれたような衝撃だけがあった。
「ぐ―――っ」
思い出しただけで息が止まる。
なら―――あの衝撃は、やはり『快感』と呼べるものだったのかもしれない。
「俺は―――なんて、夢を」
自らの両手を見る。
当然、自分の手は真っ白で血の赤色なんて微塵もない。
俺はベッドで眠っていて、窓からはさわやかな朝の陽射しが差し込んできている。
……あの時。吸血鬼になってしまった弓塚と初めて出会った路地裏の光景が、まだ脳裏に残っているのか。
だからあんな、凄惨な夢を見てしまうんだ。
「いた――――」
ズキリ、と弓塚にかまれた首筋が痛む。
―――吸血鬼にかまれた者は、同じように吸血鬼になる。
そんな有名すぎる俗説を、無闇にも思い出してしまった。
「……まさか。考えすぎだ、そんなの」
失礼します、と翡翠が部屋に入ってくる。
いつも通りの姿で、いつも通りの声をして。
「おはようございます、志貴さま」
丁寧な翡翠の口調。
いつからか、翡翠がやってくれば平穏な朝を迎えられるような、そんな日課が出来上がっている。
そう思えた途端、さっきまで頭に渦巻いていた悪い夢は簡単に掻き消えてくれた。
「……志貴さま? お体の具合がよろしくないのですか?」
「―――ああ、違う違う。ちょっと見惚れていただけだって。……うん、おはよう翡翠。今朝もいつも通りだね」
「あ―――はい、変わり映えがなく申し訳ありません」
「そういう意味じゃないんだ。ただ、翡翠がいつも通りだからさ。今日もいつも通り穏やかな朝だなって、実感できた」
よし、と勢いよくベッドから起きあがる。
「着替えたら居間に行くから。翡翠は先に行ってていいよ」
「はい。それでは失礼します」
翡翠は静かにドアを閉めて去っていく。
「さて―――ばかなコト考えてないで学校に行くか」
気を取りなおして、大きく深呼吸をしてみたりする。
時刻は七時十分前。
昨日と同様、今日もそう急がなくてよさそうだけど――
――そうだな、夢見が悪かったせいで胸がムカムカしているし、すぐに朝食は食べられない。
あと十分ぐらいぼんやりしてから居間に行こう。
「あ、おはようございます志貴さん。朝ごはんの支度でしたら出来ていますよ」
琥珀さんは俺の顔を見て、すぐに笑顔で挨拶をしてくれる。
「うん、おはよう。いつもすみません」
と挨拶を返して、ちらりとソファーに視線を移す。
と、そこにはいかにも文句がありそうな秋葉の姿があった。
「おはよう秋葉。その、今日も早いな」
「おはようごさいます。兄さんは今日も遅いですね」
「……そっか。秋葉もすっかり元気になったみたいで、安心したよ」
その、心身ともに本当に回復してるみたいで。
「あら、心配してくれてたんですか。そのわりにはただの一度も様子を見にきてくれなかったようですけど?」
「あのな秋葉。俺だって見舞いぐらいはしたかったけど、おまえのほうが俺に近寄るなって言ったの、覚えてないのか?」
「そんなの状況次第です。私の発作なんてすぐに納まるんですから、あんまり言葉を鵜呑みにしないでください」
……秋葉の言い分はムチャクチャだ。
どうも今朝は機嫌が悪いらしく、なんでもいいから俺に文句を言いたいだけなのかもしれない。
「志貴さま。朝食を済ませていただかないと、学校に遅れてしまいますが」
やばい、そういえば時間ギリギリだったんだ。
朝食をすませて居間に戻ると、秋葉はまだ優雅にお茶なんかを飲んでいた。
……俺を待っていた……っていうのは、都合のいい解釈なんだろうか。
「秋葉、もしかして学校までは車で行くのか?」
「あのですね。兄さんの高校に自動車で登校したら厭味になるでしょう。私でもそれぐらいは分かりますっ」
そっか。それじゃあ、やっぱりそういうコトなのか。
「それじゃ行こうか。この時間だと少し走るけど、仕方ないよな」
「え……兄さん?」
「だから、一緒に学校に行くぞって言ってるんだ。学校までの近道教えてやるからこいよ。……ま、俺と行くのがイヤだっていうんなら、別にいいけど」
「―――兄さんがそう言うのでしたら、私は、いいです、けど」
「きまりだな。ほら、支度はできてるんだろ? 急がないと遅刻するぞ」
ソファーに座っている秋葉の手を取って、立ちあがらせる。
「あ――――」
「翡翠、玄関までの見送りはいらないよ。今日も夕方に帰ってくるから、よろしく」
―――というわけで、屋敷から出て坂道を一気に駆け下りて、そのまま学校まで駆けてきた。
秋葉のスピードに合わせていたからいつもよりは遅れたけど、それでも十五分たらずで到着できた。
「よし、到着。これならなんとかホームルームに間に合うぞ、秋葉」
「ええ、十分すぎるぐらい間に合うわ、こんなに走りどおしできたんですから!」
―――あ。
なんか、秋葉が怒ってる。
「どうしたんだ秋葉、そんなに怒っちゃって。……その、やっぱり車で来たほうがよかったとか?」
「―――あのですね、そんなわけないでしょう。私が怒っているのは、もっと単純な理由です」
はあはあ、と肩で息をしながら秋葉はこちらを睨んでくる。
「もしかして走るスピードが速かった、とか?」
「ええ、それも理由の一つだけど、正解じゃないわ」
「それじゃあアレか。二人で走っているところを登校中のやつらに見られて、指差されたりしたこととか?」
「そうね、おかげでものすごく恥ずかしかったけど、そんなのはどうでもいいわ」
――――?
……わからないな、秋葉なんでこんなに怒っているんだろう。
別に疲れたから怒っているんでもないし、ちゃんと時間には間に合ったし。
「いいんです、私がかってに舞い上がっていただけですから。考えてみれば、兄さんが早起きなんかするわけないんですよね。……ほんと、私なにを期待してたんだろ」
はあ、とうなだれる秋葉。
……よくわからないけど、秋葉はもっとゆっくり登校したかったっていう事なんだろうか。
「けど、少し意外でした。私、足は速いほうですけど兄さんには追いつけなかった。……部活動をしないわりには速いんですね、兄さんは」
「……まあ、やたらめったら運動できない体だから部活には入れないけど、体はちゃんと動かしてるから。これでも運動神経はいいほうなんだ」
「ええ。翡翠から聞いてはいましたけど、これほどだとは思っていませんでした。
まあ、だからといって毎朝こんなペースで学校にいくのは遠慮したいですけど」
正門を抜けて昇降口に向かう。
秋葉とはここで別れて、秋葉は四階、俺は三階の教室に向かう事になる。
「……それじゃあ兄さん、私は一年の教室ですから。放課後まで、お別れですね」
「なに言ってるんだ、その前に昼休みがあるだろ。中庭で待ってるから、早めにこいよ」
「あ―――――はい、お待ちしています」
ぺこり、と柄にもなくかわいらしいお辞儀をして、秋葉は昇降口に駆けていく。
―――と。
思い出したように立ち止まって、秋葉は振り向いた。
「兄さん、今朝の追いかけっこは楽しかったわ。毎日はお断りだけど、たまにはああゆうのも悪くはありませんね!」
息を弾ませて、今度こそ秋葉は昇降口へと消えていった。
「――――――」
……なんだ、かわいいとこあるじゃないか、あいつ。
「いいなあ、仲がいいんですね二人とも」
!?
「し、シエル先輩! いきなり後ろから声をかけないでください……!」
「はい、これからは気をつけます」
にっこりと笑って、先輩は楽しそうにこちらを見つめてくる。
「……なんだよ先輩。言いたい事があるんだったら、はっきり言ってくれ」
「いえいえ、わたしがいまさら言う必要もないみたいです。遠野くん、すごく幸せそうな顔してますから」
「―――なっ」
「そんな顔のままで教室にいったら乾くんにからかわれますよ。それじゃ遠野くん、またお昼休みにお邪魔しますね」
先輩はクスクスと笑いながら昇降口へと歩いていく。
「――――――」
ふに、と自分の頬をつねってみた。
「……そんなににやけてたかな、俺」
……まあ、にやけてたんだろう。
秋葉のあんな笑顔一つで、なんだか幸せな気分になってたりしたんだから。
◇◇◇
―――四時限目の授業が終わった。
昼休みになって、学校中がざわざわと騒がしくなる。
「――――さて」
秋葉と中庭で待ち合わせだったっけ。
……あいつの事だから琥珀さんにお弁当でも作ってもらったんだろうけど、一応、適当に購買で買っていくとするか。
――――で。
「いょぉう遠野、遅かったな」
「ほんと、遅かったですね兄さん」
―――どうゆうわけなのか、有彦は俺より先に中庭にやってきていて、秋葉の相手をしていたみたいだ。
「……朝から姿が見えないと思ったら、こんなところにいたのか有彦」
「おう! 四時間目からここではってた甲斐があったってもんだぜ!」
誇らしげに胸をはって豪語する有彦。
……ここまで幸せなヤツだと、文句のもの字もうかばない。
「で、秋葉。今日の昼食はどうなってるんだ? 琥珀さんにお弁当でも作ってもらったのか?」
「え……オベントウ、ですか?」
「……いや、いい。そんな一般的なことを尋ねた俺が間違いだった」
買ってきたパンのなかから、比較的まともなサンドウィッチといちご牛乳を差し出す。
「ほら、今日の昼食。昨日のよりはマシだから、安心して食べられるぞ」
「……うん、わかった」
おずおずとサンドウィッチといちご牛乳を手に取る秋葉。
……この先、秋葉がうちの学校に昼食に慣れる時がくるのか、少しだけ不安になる。
「あー、いいないいなー。なあ遠野、オレっちにはないの?」
「……うん。まあ、なぜか、買ってある」
ほら、とソーセージパンと適当な飲み物を手渡した。
「うっわー、なんだよそれ! ゴーヤドリンクなんて哺乳類の飲むモンじゃねーだろうが!」
「しょうがないだろ、他のはもうなかったんだから。ま、サボテンミキサーならいくらでも余ってたけど、いくらなんでもアレはね、すでに飲み物じゃないから」
「………むっ。まだおまえにも人の情けというものがあったんですか、遠野」
「おまえ以外にはいくらでもあるよ。ほら、昨日の借りはこれでチャラだからな」
ちぇっ、と舌打ちしながらも有彦は楽しげに飲み物パックにストローを挿している。
「ナプキンももらってきたから、秋葉も―――
――――!」
びっ、びっくりした。
なんて顔してるんだ、秋葉のヤツ。
「ど、どうした秋葉。毛虫でもいたのか?」
「……別になんでもありません。ただ、兄さんと乾さんって本当に仲がいいんだなあって思っただけです」
「あははは! 秋葉ちゃん、そりゃあいくらなんでも持ち上げすぎだって。オレと遠野は友人は友人でも仇敵と書いてトモと呼ぶ友人なんだからな!」
がははは、と愉快そうに笑う有彦の横で、秋葉は何か言いたそうな視線を向けてくる。
――――と。
「あ、こんなところにいたんですね、遠野くんたち」
お弁当を片手に、先輩がやってきた。
「あっ、シエル先輩じゃん! やった、今日はスリーセブンだぞ遠野!」
「…………」
……悪いけど有彦、俺はそこまで素直に喜べない。
だって、その――
秋葉が、とっても恐い顔をしているんだ。
「みなさん、わたしもお昼をご一緒していいですか?」
うんうん、とうなずく有彦。
俺だってそれには賛成だけど――
「嫌です」
なんて、秋葉はきっぱりと断言した。
……中庭の空気が寒い。
十月も末だから、そりゃあ暖かいとは言えないけど、とにかく寒い。
秋葉のお嬢さまなところしか知らなかった有彦なんて、『あ』と口を開けたまま固まっている。
「…………はあ」
が、兄として秋葉の今の発言は注意してやらないといけないだろう。
「秋葉、なんてコト言うんだ。たとえ冗談にしたって、今のは失礼だぞ」
「兄さん。私、冗談は口にしません。今のは偽りのない私の本心です」
「な―――なんて事を言うんだおまえ! 秋葉は先輩とまだ会ったばっかりじゃないか! だっていうのにいきなり嫌ですって、それはどういう了見だ!」
「嫌なものは嫌なんですっ。私、その人とは絶対的に相性が悪いんです。
あなただってそうでしょう? 私とは相容れないってわかってるんじゃない、先輩?」
「いえいえ、そんなコトはありませんよ。たしかにお互い苦手なタイプみたいですけど、わたしはなんとか我慢できますから」
「「――――っ」」
ザザッ、と有彦といっしょに身を引いた。
……すごい。
はっきりとケンカを売っている秋葉も秋葉だけど、それを笑顔で受け流す先輩も先輩だ。
「ふうん……それって、つまりお互いのことは相殺しあいましょう、っていう提案なのかしら」
「てっとり早く言うとそうですね。わたしが用があるのは秋葉さんじゃなくて遠野くんや乾くんですから」
ばちばちばち、と二人の間で火花が散っている。
古い言い方でいうと龍虎相搏つ、というヤツかもしれない。
……結局、もう破滅的に(自称)相性が悪いシエル先輩と秋葉を囲んで、昼食がはじまってしまった。
「でも、遠野くんにこんな歳の近い妹さんがいるなんて知りませんでした。わたし、てっきり遠野くんって一人っ子だと思ってましたから」
「……あれ? 俺、前に先輩には妹がいるって話さなかったっけ」
「ええ、聞きましたよ。遠野のお屋敷には妹さんが一人残っている、っていう話でしたよね」
……?
なんだ、やっぱり先輩は秋葉のことを前から知ってたんじゃないか。
「私も兄さんにこんな知り合いがいるとは思いませんでした。シエル先輩はいつからこの学園にいらっしゃるんですか?」
「ん? 秋葉ちゃん、先輩は三年だからずっと前からいるぜ。今年で卒業なのは残念だけどな」
「そうですか。あまり制服慣れしていなさそうでしたので、私と同じように転校してきたのかと思いました」
「そうですねー、わたしもホントは秋葉さんみたいな制服が着たかったかなあ。秋葉さん、その制服は前の学校のものですか?」
「ええ、こちらの学校の制服は好みじゃありませんから、前の学校のものを着ているんです」
さらりと、秋葉はとんでもないコトを言ってのける。
……そっか、てっきりまだ制服が出来てないのかなって思ったけど、初めっからうちの学校の制服を着る気はなかったんだ。
「はあ。秋葉さん、どうも活発そうですからこっちのほうが似合うとは思いますよ。ね、遠野くんはどう思います?」
「え? な、なにがですか?」
「ですから、秋葉さんの制服の話です。どっちの制服が似合うかなって」
「……どっちの制服が似合うか、か……」
そうだな、俺は――
「……どうだろう。俺は今のままの秋葉がいいと思うけど。秋葉の髪ってキレイだからさ、あんまり明るい色彩の服には合わないと思うんだ」
「へえー、珍しいね、遠野が女のコの容姿を誉めるなんて。っていうか、初めてじゃないか、それ」
「うるさいな、たんにそう思っただけだよ。秋葉にはセーラー服のが似合うから、ブレザーはイヤだって言ってるだけだろ」
ふーん、とにやにや笑いをする有彦。
「――――あ」
……しまった。有彦に、のせられた。
ちらりと秋葉を見ると、秋葉もなんだかそっぽを向いて黙っている。
「なるほどねー、遠野に女っけがないワケだ。そりゃあ秋葉ちゃんを毎日見てれば、うちの学校の女どもになんか目もくれないもんな――――って、げふぅうう!?」
「あ、ごめんなさい乾くん。手、滑っちゃいました」
有彦の横腹に肘鉄を鋭角に叩きこんで、シエル先輩はニコリと笑った。
…………はあ。
こんな胃に穴があきそうな時間を、あと十分近く過ごさないといけないのか…………。
◇◇◇
放課後になった。
秋葉を迎えに一年の教室に行こう。
……と、廊下に出たとたん、秋葉とバッタリ会った。
「あれ、兄さん。どこかに行かれるんですか?」
「いや、これから秋葉を迎えに行こうと思ってたところだ。そっちこそどこか寄っていくのか?」
「いえ、私は兄さんと帰ろうかなって、こっちに来てみたんですけど……」
「そうか、行き違わないでよかった。それじゃ行こうか、琥珀さんたちが待ってる」
「そうですね。家に帰りましょう、兄さん」
「そうだ、秋葉に聞こうと思ったことがあった」
「私に聞きたいこと、ですか……?」
「ああ。秋葉ってさ、どうして先輩のことをあんなに毛嫌いしてるんだよ。もしかして顔見知りだったのか?」
「いえ、あの人とは昨日が初めてです。私があの人を好きになれないのは生理的なものですから、兄さんには関係ありません」
「……生理的って、なんだいそれ」
「自分の感情では制御できない、という事です。兄さんがお父様を嫌っていたのと同じようなものですから、あまり気にしないでください」
「―――あのな、秋葉。俺は親父が苦手だっただけで、別に嫌ってはいなかったよ」
「私だってあの人のことが嫌いってわけじゃありません。……まあ、今日のはたしかに言いすぎでした。自分でも反省しているんですから、昼間の一件は大目に見てください」
「……そっか。それならいいんだけど」
……まあ、そうゆうことなら問題はないかな。
昼休みはシエル先輩が来る方が多いんだから、秋葉とシエル先輩の仲が悪いままでは困る。
秋葉もこう言っているし、明日からは俺も有彦も横でハラハラしなくてすみそうだ―――
◇◇◇
「――――ふう」
鞄を机に放り投げて、ベッドに腰を下ろす。
さて、どうしようか。
秋葉は習い事があるそうで、帰ってくるなり車でどこかに出かけてしまった。
……そういえば、琥珀さんも翡翠もなにやら忙しそうに屋敷の庭を歩いていたな。
――――そうだな。
いつもお世話になっているんだし、翡翠の手伝いをしにいこう。
「ただいま翡翠。忙しそうだけど何してるの?」
「あ―――お帰りなさいませ、志貴さま。私でしたら、これから槙久さまのお部屋の整理をさせていただきます」
翡翠の足元には何十という本が置かれている。
本っていうのは、一冊一冊は軽いんだけどこれが十冊単位になるととたんに重くなる。
翡翠の足元にある本は五十冊を優に超えている。
とてもじゃないけど、翡翠の細腕でどうにかできるものとは思えない。
「親父の部屋の整理、か―――たしか西館の一階だったよな」
よっ、と本の束を抱える。
「いけません、志貴さま。そのようなことは私が行いますから、どうかお部屋でお休みください」
「いいっていいって。部屋にいても体が鈍るだけだしさ、こんなんじゃいつも世話してくれるお礼にもならないけど手伝わせてよ」
「ですが――――」
「……しっかし、重いなコレ。秋葉のヤツも翡翠にこんな力仕事をまかせるなんて、何考えてるんだろうね」
「あ―――――」
「翡翠は先に親父の部屋に行っててよ。本を持っていくからさ、翡翠は中の整理に専念してくれ。適材適所っていうワケだし、それならいいだろ?」
「―――はい、それではお願いします、志貴さま」
翡翠は申し訳なさそうに階段を昇っていく。
―――さて。
こっちはこっちで、この本の山を二階に運ばなくちゃいけない。
「へえ―――これが親父の部屋、か。翡翠、ちょっと本とか見ていいかな」
「はい、鍵のかかっていないものならかまわないと思います」
翡翠は運んできた本を本棚に入れていっている。
ジャンル別に整頓しているのか、忙しく部屋の中を往復していた。
「……鍵のかかってないものって、机に鍵でもかかっているのかな」
親父の机の引き出しに手をかける。
引くと、がつん、と引っかかる感触。
「ほんとだ、鍵がかかってる」
親父が死んだ後だっていうのに、一体なにを守っているんだろう。
「―――――」
翡翠はこっちを見ていない。
親父の机の上にはペーパーナイフが一つ。
都合よく道具はそろっていたりした。
「…………………」
少しだけメガネを下にズラして、机を視る。
「―――――そこ」
音もなく鍵を切った。
「―――なんだ、紙しか入ってないじゃないか」
引き出しの中にあるのは古びた紙の束だった。
どれ、と一枚だけ手にとって見てみる。
「あれ―――これ、うちの家系図だ」
間違いない。
遠野マキヒサの後には遠野シキ、遠野アキハという名前がある。
あるけど―――
「……うそ。親父のヤツ、十年前に養子をとってる。……あ、けどすぐに病死しちゃってるな」
十年前っていえば、俺が小学一年生の頃だ。
そんな大昔のことなら、覚えていないのも当然か。
「……けどうちの当主って、わりと短命なんだな。親父も五十前に病死してるし、その前は三十歳の時に事故死してる。……うわっ、その前なんか十八歳で自殺してるじゃないか」
――――いや、待て。
いくらなんでも、これは、おかしい。
しっかりと家系図に目を通すと、遠野家の人間はみな異状な死に方をしていた。
発狂死。事故死。他殺。行方不明。死産。
……誰一人として、寿命で静かに他界したものがいない。
「な…………」
その一連の記録は、呪われているとしか言いようがない。
とくにその大半の死は発狂死。自らの命を断つことで他界してしまっている。
「あ――――」
視界から光が薄れていく。
後頭部にぐらぐらと血液が溜まっていくような感じ。
手足に力が入らなくなって、息が、できなくなるような、錯覚。
「志貴さま……!」
翡翠……翡翠がかけよってきた。
―――なんとか本棚に手をかけて、体を持ちなおす。
「志貴さま! お気を確かに、志貴さま……!」
心配そうな、翡翠の声。
けど彼女の手は、決して俺の体には触れてこない。
「大丈夫―――ちょっと、吐き気がしただけだから」
「志貴さま、無理はしないでください……! どうぞ、椅子に座ってください。そのように青い顔をなさっているのに、無理をして立っている必要なんかないでしょう……!?」
……珍しい、な。
翡翠が必死になって、俺に呼びかけてきてる。
「……うん……大丈夫、だから―――」
なんとか意識を整える。
それでも眩暈は納まらない。
赤と黒が明滅する視界のなか。
白い。
ひどく温かそうな、翡翠のうなじが見えた。
「―――――あ」
なんて艶めかしい。
この体がちゃんと動くんなら、俺は今すぐにでも翡翠の体を押さえつけて―――
さっきまで貧血で暗くなっていた視界が、一転して真っ赤に染まる。
翡翠の、白い首筋。
真っ赤だった、昨夜の夢。
―――殺人の夜の。
心臓が飛び出しそうなほどの、痛い快感。
「くっ―――――!」
たまらなくなって、翡翠から逃げ出した。
「志貴さま……?」
「いや―――大丈夫―――大丈夫だから、一人にしてくれ」
「お断りします。志貴さまは今のご自分の体をわかっていらっしゃいません。そんな―――そんなお体の方を、一人にはできません」
そうして、翡翠は近寄ってくる。
―――まずい。
それは、恐い。
そんな手の届く範囲にこられたら、自分がなにをしてしまうか解らなくて、恐い。
「いいから放っておいてくれ、翡翠……!」
「聞けません。志貴さま、どうか落ちついてください」
……だから、やめてくれ。
近づいたら危ないのに。
近づくなっていってるのに。
どうして。
どうして俺の言う事を聞かないんだ、この女。
―――なんで俺の邪魔をする。
なんで俺の思い通りにならないんだ……!
「うるさい……! 近寄るなって言っているのがわからないのか、翡翠!」
「あ―――」
だん、という鈍い音。
翡翠は本棚に弾かれて、苦しそうに顔をゆがませている。
「あ―――」
……その顔で、正気に戻れた。
眩暈も急速に薄れていく。
残ったのは眩暈でもなんでもなく、ただの罪悪感だけだ。
「――すまない。俺は、何を――」
「―――――――――――――」
翡翠はうつむいたまま、顔をあげない。
「―――翡翠、俺は―――すまない、自分でも、どうしてこんなコトをしたのか―――」
「申し訳ありません。志貴さまの言いつけを守れず、志貴さまを不快にさせてしまいました」
「……違う、謝るのは俺のほうだ。俺は翡翠に、ひどいことを、したんだから」
「……志貴さま、どうかお部屋にお戻りください。志貴さまはお疲れなんです。体を休めれば、すぐに元通りになると思います」
「――――――」
翡翠は顔をあげない。
「……わかった、部屋に戻るよ。すまなかった、翡翠」
返答はない。
自己嫌悪で押しつぶされそうになりながら、部屋を後にした。
◇◇◇
―――夕食をすませて、部屋に戻ってくる。
ベッドに倒れこんで翡翠の顔を思い出す。
「――――」
わからない。
なんであんな気分になって、あんな事をしてしまったのか。
あの時。
俺は、翡翠の首筋を見て、欲情した。
まるで昨日の夢のように、翡翠の首筋にかじりつきたいと思っていた。
けど、今はそんな考えはこれっぽっちも浮かんでこない。
昨夜の夢と、さっきの自分。
自分の中に、自分でない自分がいるような、そんな感覚。
「――――」
首筋に手を当てる。
吸血鬼にかまれた者は吸血鬼になる、という話。
「……そんな馬鹿な。だって昼間でも歩いてられるじゃないか、俺」
……そう、それは本当にありえない。
あれは、たんに眩暈に襲われて、朦朧とした意識が見せた錯覚だ。
弓塚との出来事が脳裏に焼き付いていて、それが貧血の時に思い出されるだけだと思う。
「翡翠の言うとおり、疲れてるのかな、俺」
……そうかもしれない。
さっさとぐっすり眠って、疲れた体を休めるとしよう。
――――熱い。
――――熱い。
――――熱い。
――――一度昂ぶった体は、
眠りなどでは治まらない。
――――さあ。
今夜も、この渇きを癒しにいこう。
夜の街に出たようだ。
目を血走らせて、誰か通りかからないか待っているらしい。
――――また。
ふと、窓ガラスに映った顔が見えた。
目は血走っていて、とても正気には見えなかった。
――――また、この夢。
獲物を見つけたようだ。
獲物が悲鳴をあげる間もなく、死んだという事さえ気付かせずに、仕留めてしまう。
――――またこの悪夢を、見せられる。
死体を連れこんで、喉元に食らいつく音。
じゅるじゅる、という音が聞こえる。
喉もとから、肉ごとかみ切るように血を飲んで、喉の渇きを癒している。
――――昨日と同じ出来事。
血だけではあきたらず、死体の手の指を、一本一本噛み千切っていく。
――――昨日と同じ出来事。
指だけではあきたらず、死体の手足を、一本一本噛み千切っていく。
――――昨日と同じ出来事。
と。
邪魔が、入った。
死体を捨てて跳びあがる。
誰か。誰かが見ているようだ。
――――昨日とは、違うのか。
なにか巨大な釘のようなモノが飛んでいる。
それをかわすために跳びあがる。
ビルの側面をかけあがって、屋上から屋上へ。
――――黒い人影が、吸血鬼を追っていく。
屋根から屋根へ。
闇から闇へ。
人影は追ってくる。
――――仕方ない。
仕方あるまい、と呟いて。
今夜の食事は終わりを告げた。
[#改ページ]
●『7/昏い傷痕U』
● 7days/October 27(Wed.)
「志貴さま――――?」
────声がする。
「お気をたしかに。お飲み物を持ってまいりますから……!」
────たたっ、と駆けていく足音。
「あ――――」
暗い夢から、目が覚めた。
「……自分の部屋、だ」
俺は紛れもなく自分の部屋にいる。
ベッドで横になって、こうして朝を迎えている。
……また、あの夢を見た。
誰かの血を吸う夢。
夢だって分かっているのに、ひどくリアルな夢。
手には肉を引き千切る感触が残っていて、鼻にはまだ生臭い血の匂いが残留している―――
「―――どうなってるんだ、俺は」
そっと首もとに触れてみた。
……弓塚に噛まれた傷はとうに塞がっている。
俺はまっとうな人間なままだ。
誰かの血を飲みたいなんて思った事ないし、太陽の陽射しを疎ましいとも思わない。
「――――あ」
違う。昨日、俺は。
翡翠の首筋を見て、なんて、思っただろう。
―――白い首筋。
そこから流れる赤い血を、俺は心の底から欲しいと――――
「――――なにを、ばかな」
違う、ただ疲れているだけだ。
弓塚とのことがまだ忘れられないだけだ。
俺は吸血鬼になんかなっていない。まだまっとうな人間のままのはずだ。
だが、毎夜血を求めてさまよっている自分がいる。
なら、もしかすれば。
俺だけ気がついていないだけで、実際は、もう戻れない所まで――――
「翡翠―――?」
翡翠はやけに切迫した面持ちで入ってきた。
「―――失礼いたしました。お目覚めでいらしたんですね、志貴さま」
スッ、と静かにおじぎをする翡翠。
……その姿はさっきまでの夢とは正反対に清らかで、見ているだけで胸の不安を薄れさせてくれた。
「いや、いま起きたばっかりだっから気にしないで。……その、おはよう翡翠。今日も起こしに来てくれてありがとう」
「……はい、おはようございます」
ぺこり、ともう一度おじぎをして翡翠はベッドに近付いてくる。
「お飲み物をお持ちいたしました。ご気分がすぐれないようでしたらお飲みください」
翡翠は銀のトレイに飲み物を用意していた。トレイには薬らしきものまである。
「……? どうしたんだ、翡翠。薬をもってくるなんて今までなかったのに」
「……志貴さま、ご気分はよろしいのですか? 先ほどまでひどくうなされていて、顔色が優れないようでしたのでお薬をお持ちしたのですが」
「――――うなされていたって、俺が?」
「はい。見た限りではお体も熱をもっているようでしたから、姉さんに解熱剤を処方してもらったのですが、その必要はなかったでしょうか?」
「まさか、そんなことはないよ。気を使ってくれてありがとう」
差し出された薬と水を飲み下す。
薬はともかく、水はありがたかった。
翡翠の言うとおり体全体が熱っぽくて、喉がカラカラに渇いていたせいだろう。
ただの水なのに、このうえなく美味しく感じられた。
「体調がよろしければ食堂においでください。お体のほうが優れないようでしたら、今日はお休みくださいませ」
「いや、学校は休まないよ。こんなコトで休んでいたらそれこそキリがないからね」
「……ですが、まだ志貴さまの顔色はよくはありません」
「大丈夫だって。それにさ、うちの学校は明日休みなんだ。明日休めるんだから、今日は無理してもいいだろう?」
「……………」
翡翠は何か言いたそうにうつむいてしまう。
そんなに顔色が悪いんだろうか、今の自分は。
「翡翠。一つ聞くけど、そんなにうなされてたのか、俺」
「―――はい。いつお帰りになられたかは存じませんが、ひどく疲れたようにお眠りになられていました。
朝は失礼して志貴さまのお部屋のカーテンを開けにくるのですが、その時から苦しそうに呼吸を荒だたせていましたが」
……そうか。あんな夢を見ていたんだから、そりゃあ苦しくもなる……って、ちょっと、待った。
「―――翡翠。今、なんて言った」
「ですから朝方から志貴さまの体調が崩れていたようです、と」
「違う、その前! 俺が帰ってきたって、どこから!?」
「―――存じません。ただ姉さんが屋敷の見回りをしていた時、志貴さまが外に出ていったところを見かけただけですから」
「外にって、俺が……?」
「はい。わたしと姉さんは三時間ごとに屋敷の見回りを任されています。昨日の深夜は姉さんの見回りで、その時に志貴さまがお屋敷を出ていくところを見たそうです」
「な―――」
「志貴さまも朝には戻られたようですから、姉さんも秋葉さまには報せておりません。
……姉さんは志貴さまに甘いですから、きっと内密にしているのでしょう」
「―――――――」
な―――なんだ、それ。
俺が外に出ていっていたって?
そんなハズないじゃないか。俺はちゃんとここで眠っていて、夢だって見てる。
あんな生々しい夢を―――みて、る。
「あ――――――」
けど、不思議だ。
夢なんてものは目覚めた瞬間に忘れていくものなのに、どうして俺は、いつまでも夢の内容を明確に覚えていたりするんだろう―――
「志貴さま―――? やはりお顔の色が優れないようですが、いかがいたしましょう」
「……あ、ああ、大丈夫。大丈夫だから、翡翠は先に行っていてくれ。……大丈夫、すぐに行くから」
「かしこまりました。それでは食堂でお待ちしております」
ドアを閉めて、翡翠が退室していく。
「……そう、大丈夫だ。……なにも問題なんかない。俺は、大丈夫なんだから―――」
自分に言い聞かせるように、そんな言葉を繰り返していた。
食堂に行くためには、どうしても居間を通らないといけない。
……気が重い。正直、今は誰とも顔を合わせたくないっていうのに。
翡翠や琥珀さん、それに―――秋葉に、普段どおり振る舞える自信がない。
俺は―――
それでも、朝の挨拶ぐらいはしておかないと。
こんな事で秋葉を避けるなんて、それこそ自分がどうかしてるって認めることになるじゃないか。
「おはようございます、兄さん」
「あ―――」
居間に入るなり、秋葉は笑顔で挨拶をしてきてくれた。
「……ああ。おはよう秋葉」
「おはよう秋葉……って、どうしたんです兄さん? なんだかすごく元気がなさそうですけど」
「ちょっと夢見が悪かっただけだよ。それにしても今日は上機嫌じゃないか。なにかいいことでもあったのか?」
「ええ、ほんの少しだけ。兄さんが早く起きてくれたから、今日はゆっくり登校できるでしょう?
余裕のある朝が迎えられるんですから、機嫌だってよくなります」
「――――そう。それはよかったな、秋葉」
答えて、ずきりと胸が痛んだ。
俺は。
そんなふうに笑いかけてもらえるような人間じゃ、ないかもしれないんだから。
「それなら先に行けよ。俺を待ってると走るはめになるぞ」
「はい? なにか言いましたか、兄さん?」
「だから、余裕のある朝が好きなんだろ。なら先に行けって言ったんだよ。
俺に付き合ってると余裕なんかないし、こっちは秋葉に合わせるほど暇じゃないからな。準備が出来てるならさっさと行ったほうがいい」
「え―――えっと、それはそうですけど、私は―――」
「それともなにか、一人じゃ学校に行けないっていうのか秋葉は。やめてくれよな、子供じゃあるまいし。いいかげんそんな歳でもないだろ」
「――――――」
がたん、とソファーから立ちあがる秋葉。
「兄さん。それは、本気で言っているんですか」
「……別に。ただそう思っただけだよ」
ぎり、という音。
秋葉はうつむいたまま、わなわなと肩を震わせている。
「秋葉。本当にそろそろ行かないと遅刻するぞ」
「ええ、わかってます! 私だって兄さんに付き合って遅刻なんかしたくありませんからっ!」
「だろ。じゃあ先に行ってろよ。……あんまり人の相手をできる状態じゃないんだ、俺」
「――――っ」
秋葉は早足で出ていった。
「――――――」
……何してるんだ、俺は。こんなつもりじゃなかったのに、どうして――――
「志貴さん、いまのはひどいです!」
「―――琥珀、さん?」
「もうっ、わたし志貴さんのこと見損ないましたっ! どうして秋葉さまにあんなコト言ったんですか!?」
「……わかってるよ。俺だって、あんなふうに秋葉をつっぱねるつもりなんか、なかったんだ」
「いえ、ぜんぜんわかってませんっ! 志貴さんは秋葉さまがどんな思いで今まで待っていたか知らないんですっ」
「?―――待ってたって、今日の朝のこと?」
「そんなんじゃないですっ。秋葉さまには黙っているように言われてましたけど、もうがまんできませんっ。
いいですか、志貴さん。今でこそ秋葉さまは志貴さんと同じように朝食をとっていますけど、転校する前はタイヘンだったんですよ。
志貴さん、秋葉さまの行っていた学校がどこにあるか知っていますか?」
……秋葉の行っていた女学院は、たしかとなりの県にあったと思ったけど。
「―――となりの、県……?」
ちょっと待った。
それって、距離的に車で一時間以上かかるんじゃないのか。
「やっと気がついてくれましたね。
そもそも秋葉さまは朝の六時にここを出ないと学校には間に合わない方だったんです。なのに秋葉さまは無理をして、志貴さんと朝ごはんを食べるのを楽しみにしていたんです」
「……楽しみにしてたって、どうして。だってあいつ、俺の顔をみるたびに文句を言ってたじゃないか」
「ですから、秋葉さまは素直じゃないんです。志貴さんが一度でもちゃんと早起きしてくれたなら秋葉さまも文句なんて言わなかったと思います。
なのに志貴さんったら寝坊してばっかりで、一度も朝をご一緒してくださらなかった。秋葉さまは『朝に兄さんの顔を見れればいい』なんて言って、志貴さんを起こすようなコトはしなかったんです」
「な――――――」
「―――これで少しはわかってくれました? なら、せめて秋葉さまにさっきの事ぐらい謝ってあげてくださいね」
「――――――」
…………それは、初めからそのつもりだけど。
「……わからないな。琥珀さんは、俺にどうしろっていうんだよ」
「いえいえ、難しく考えないでくださいな。
志貴さんは今までどおりでいいんですよ。ただ秋葉さまは素直じゃありませんから、少しぐらいは志貴さんに気を遣ってほしかっただけなんです」
「……………」
今までどおりって、それが一番難しいと思うんだけど。
「あ、それとこのお話はないしょですからね。わたしがお話ししたことがばれたら、秋葉さまに叱られちゃいますから」
琥珀さんは笑顔のまま食堂に移動していく。
「……………」
「ほら志貴さん、早く食べないと本当に遅刻してしまいますよー」
食堂から琥珀さんの声が聞こえてくる。
ボッと赤くなっている顔を手で隠しながら、食堂に向かった。
◇◇◇
時間ぎりぎりに校門に到着した。
屋敷から走ってきて、結局遅刻は免れた。
――――と。
ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
「おはようございます。今日は時間ぎりぎりなんですね、遠野くん」
「………先輩」
「それに秋葉さんも一緒じゃなさそうですし。今日は寝過ごしちゃったんですか?」
「……ん、そんなところ。つまんない事で秋葉とケンカらしきものをしちまったんだ」
「はあ、ダメですよ兄妹でケンカなんかしちゃ。遠野くんはお兄さんなんですから、あとで謝りに行かないと」
「……そうだね。同じ学校なんだし、昼休み前には謝りにいくよ。もとから一方的に俺が悪かったんだし」
はあ、とため息をつく。
たしかに秋葉のことも大事だけど、今は自分の事をどうにかしないと。
昨日の夢。
俺は眠っていたつもりなのに、夜に出かけていたっていう自分。
「……遠野くん? どうしました、そんなにうかない顔をして。なにか悩み事でもあるんですか?」
じっ、と心配そうに先輩は見つめてくる。
心配してもらえるのは嬉しいけど、こればっかりは先輩に頼るわけにはいかない。
「え―――ああ、ちょっと悩んでる。けど自分だけの問題だからさ、一人でなんとかするよ。……どうも、心配してくれてありがとう先輩」
「……そうですか。けど一人でなんとかできなくなったら、いつでも相談してくださいね。わたしでよかったら力になりますよ」
「ああ、ホントに困ったら先輩に相談するよ」
……と、話しているうちに朝の予鈴が鳴り始めた。
「―――まずい。それじゃ先輩、また後で!」
「はい。またお昼にお邪魔しますね」
予鈴が鳴っているのにのんびりと構えている先輩をおいて、昇降口へ駆け出した。
◇◇◇
二時限目の授業が終わった。
……秋葉に朝のことを謝りに行くとしたら今がちょうどいいだろう。
……四階に上がってきた。
秋葉の教室は一年一組。廊下に出てきた生徒に声をかけて、秋葉を呼びつけてもらう。
「遠野さーん、お兄さんが来たよー!」
……偶然呼びとめた女の子は、とても解りやすい方法で秋葉を呼んでくれた。
「なにかご用ですか、兄さん」
秋葉はむっとした顔をして出てきた。
「―――――――」
さて、困った。
琥珀さんは謝れって言ってたけど、あんな話を聞いたあとだとヘンに意識してしまって、困る。
「用件がないんでしたら、教室に戻らせてもらいますね」
「―――いや、用件はあるんだ。その、なんて言うか…………」
「なんて言うか、なんです? 休み時間は短いんですから、言いたい事があるんなら早く言ってください」
「……いや、それがな……」
―――って、ええい! ここまできて恥ずかしがってる場合じゃないっ!
「その、朝のことはごめんな……!」
「え―――に、兄さん……?」
「だから、今朝は俺が悪かったって言いに来たんだ! ちゃんと、明日からちゃんとするから、今日のことは許してくれないか秋葉―――!」
「べ……べつに許すもなにも、私はそんなコト気にしてなんか―――」
「いいんだ、とにかく謝りたかっただけなんだからっ。それじゃあな、手間とらせて悪かった!」
「―――あ、ちょっと兄さん!」
背中に秋葉の声がかかる。
けどいまさら立ち止まるのも振りかえるのも恥ずかしくて、そのまま自分の教室目指して走りぬけた。
◇◇◇
……昼休みになった。
秋葉に謝りに行く、なんてことをしたばっかりであいつと昼食を一緒にするのは余計照れくさい。
だが。
「おう、遠野。早く中庭に行こうぜ、秋葉ちゃんが待ってるぞ」
……なんていう男もいるし、秋葉を一人にしてはおけない。
「……………はあ」
重いため息をついて、有彦と教室を後にした。
秋葉はまだ来ていない。
どうせシエル先輩も来るんだから、今日はベンチより芝生に陣取るとしよう。
「お邪魔しまーす。って、秋葉さんはまだ来てないんですね」
「そうッスね、そろそろ来てもいいころだと思うんだけど―――おい遠野、おまえ秋葉ちゃんとなんかあったのか?」
ごつん、と人の横腹を肘でつついてくる有彦。
……こいつはどうしてこう、どうでもいい時に勘が働くんだろう。
「あ、来た来た。秋葉ちゃん、こっちー!」
ぶんぶん、と手を振る有彦。
秋葉は戸惑いながら芝生を踏みしめてやってきた。
「すみません、遅れてしまいました。クラスの子たちの誘いを受けてしまって、断るのに時間がかかってしまって」
「いいっていいって、俺たちも来たばっかりだからさ。ほら、ここに座って座って」
ばんばん、と芝生を叩く有彦。
秋葉は少しだけためらったあと、俺のとなりに腰を下ろした。
「…………………」
秋葉は何も言わない。
「―――――――」
俺もなんて言っていいのか解らず、つい黙ってしまう。
「どうしたんですか二人とも。せっかくのお昼ごはんなのに黙っちゃって、ヘンですよ」
「う――――――」
それはわかってるんだけど、何て言っていいものか。
「…………………」
秋葉はじっと黙り込んでこっちを見ている。
―――と。
「……………お昼ですね、兄さん」
なんて、ものすごく当たり前のコトを口にした。
「そうだな、お昼だな。お昼だから何か食べないとまずいよな」
がさごそ、とビニール袋から購買のパンを取り出す。
「昨日と同じパンだけど、いいか?」
「はい、いただきます」
秋葉にサンドウィッチを手渡して、自分もサンドウィッチをかじりはじめる。
「………………」
くそ、なんだか秋葉の一挙一動が気になって、うまく体が動いてくれない。
「おっ、先輩ったら今日は豪勢っスね。なんかおめでたい事でもあったんスか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけどねー。色々と佳境に入ってきましたから、いっぱい食べて力をつけておかないとダウンしちゃうんです」
「なるほど、食欲の秋ってワケ。先輩のばあい、食べても栄養が胸にいきそうでいいッスね」
……こっちが秋葉と気まずい食事を送っているっていうのに、有彦と先輩はやけに陽気な食事を楽しんでいる。
「………………」
もぐ。
もぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐ。
「あの……兄さん?」
「ん? なに、秋葉」
「その……今日は飲み物はないんですか? 少し、喉が渇いてしまったんですけど……」
「―――――あ」
忘れてた。
せっかく買っておいたいちご牛乳がビニール袋の中で眠っている。
「わるい、忘れてた。ほら、これでいいだろ」
牛乳のパックを差し出す。
パックを受け取る秋葉。
「あ――――」
パックが小さすぎたせいか、秋葉の指と自分の指が重なった。
―――どくん。
ただ、それだけ。
たったそれだけのコトなのに、どうしてか指先が熱くなった。
すぐに手を離せばいいのに、手が離れない。
見れば秋葉も、俺と同じように固まったままだった。
「あれ? 遠野くん、なにやってるんですか?」
「―――――!」
バッ、と秋葉の手から自分の手を離す。
「い、いえ、たんに秋葉に飲み物を渡してただけです」
「そうだったんですか。なんか二人とも止まってましたから、飲み物を奪い合っているように見えちゃいました」
「あっ、先輩もそう見えた? オレもさ、遠野が一個しかないジュースを必死に渡すまいと死守しているみたいに見えた。
秋葉ちゃんがのど渇いたっていうんだからあげればいいのに、人間なってねーなーって」
……まあ、そうゆうふうに見えないコトも、なかったか。
「いや、そういう訳じゃないんだ。ちょっとぼんやりしてただけだから。な、そうだろ秋葉?」
「……………」
秋葉はぼんやりとするだけだ。
その顔があんまりにも、その……俺の知っている秋葉とは違っていて、どきりとした。
「ふーん……な、遠野。前から思ってたんだけど、おまえと秋葉ちゃんってさ」
「―――なんだよ。つまんない事言ったら怒るぞ」
「いや、あんまり似てないなって」
「……そんなの当たり前だろ。いくら兄妹でも男と女なんだから、そう似てたまるもんか」
「あー、そういうコトじゃなくてさ、なんてゆーのかな、雰囲気ってヤツが違うなって」
「そうですね。秋葉さんは近づきがたい雰囲気がありますけど、遠野くんはその逆ですから。
遠野くんが水なら秋葉さんは油っていうところでしょうか」
「……まあ、たしかに秋葉はとっつきにくいところがあるかな。もうちょっと優しいと文句はないんだけど」
「そなの? 秋葉ちゃん、十分に優しいじゃんか」
「ああ、外面はいいんだこいつ。けど家ん中じゃまったく別人でさ、厳しいの厳しくないのって。夕食の時なんて生きたここちがしないぐらい俺のことを叱って―――
―――まあ、こんな話はよそう。もっとこう、世間的な話をしようぜ有彦」
「あら、お話の途中でしたのにやめてしまうんですか? 私、きちんと最後まで兄さんの意見を聞いてみたいのに」
「う………………」
秋葉の視線がいたい。
……どうも、さっきの秋葉は一時の気の迷いだったみたいだ。
「世間的な話ねえ―――って、そういえば遠野。おまえん家、今日の朝のニュースに出てたたけどなんかあったの?」
「え―――? 朝のニュースって、うち?」
「ええ、通り魔殺人の被害者が遠野くんの家の近くで出たじゃないですか。あの監獄みたいにずーっと並んでる塀って、秋葉さんのお屋敷の塀ですよね?」
「――さあ、どうでしょう。朝のニュースは観ていませんから、私からはなにも言えませんけど」
秋葉は他人事のように、あっさりと受け流す。
けど俺は、秋葉のように無関心ではいられなかった。
だって、例の通り魔事件はもう起きないはずなんだ。
人の血を吸わなくちゃ生きていけなかった弓塚はもういない。
だから犠牲者はもう出ないハズだ。
俺の。
俺のあの夢さえ、夢のままでいてくれるなら。
「―――先輩。それ本当ですか。通り魔殺人って、あの吸血鬼殺人のことだろ」
「はい、昨夜で十人目の犠牲者だそうです。やっぱり体中の血液が抜かれてしまっていたそうなんですけど、今回のは体のほうも色々となくなっているそうですよ」
先輩はいつもの調子で説明してくれる。
けど、俺は。
自分がいる世界がぐらりと傾くような、大きな眩暈に襲われていた。
「遺体には手足がなかったそうなんですけど、これが人の口で食いちぎられたんじゃないかっていう話なんです。でもおかしいですよね、人間の口じゃ」
「人間の体を食いちぎる事は不可能です。人間のアゴの筋力では人間の手足を食いちぎれませんし、歯のほうも耐えられないでしょう。
……そうですね、柔らかい軟骨に歯をたてるのなら骨を削ることぐらいはできるかもしれませんが」
「はい、その通りです。ですけど遺体には人間のモノとしか思えない歯形がついていたそうですから、こうなると人間の姿をした人間じゃない生き物が犯人っていう事になりますよね。そうなると吸血鬼が犯人っていうのも、わりかし的をいているんじゃないでしょうか」
――――吐き気が、する。
先輩、先輩は知らないからそんな笑顔で言えるけど、それは―――
「くす」
「秋葉さん。わたし、なにかおかしなコト言いましたか」
「ええ、とても愉快なコトを言われているものですから、つい笑ってしまいました」
「もうっ、笑い事じゃないですっ! 昨夜の犠牲者は秋葉さんの家の近くで発見されたのに!」
「失礼でしたら謝ります、先輩。けれど先輩がそんなに夢見がちな人だとは思いませんでした。
ついでですから、先輩が想像している吸血鬼像を聞かせていただけます?」
「えっと、それは童話でいうところの吸血鬼のことですか?」
「いえ、その通り魔殺人というものの犯人像としての吸血鬼です」
うーん、とシエル先輩は考え込む。
俺は―――そんなもの先輩の口から聞きたくないと思う反面、ひどく、興味をひかれていた。
「やっぱり、犯人は人間ですよ。ただちょっとわたしたちとは違う価値観とか素質とかを持っているんだと思います。
そういった常識では判断されない性質を、わたしたちは吸血鬼といって判断しようとするんじゃないでしょうか」
「……つまり精神に異常をきたした人間、本来なら禁忌である事を禁忌とは感じなくなっている精神異常者を『吸血鬼』だと言っているんですね、先輩は」
「はい。呼び方は『吸血鬼』でなくても結構ですけど。社会の決まりごとから外れてしまった人間は、その性質が理解できないという理由だけで社会に属する人々から人間と扱われなくなります。
それが世間一般の常識の防衛機能でしょう、秋葉さん」
「たいへん参考になりました先輩。……けれど難しいですね。先輩の考えでは『吸血鬼』は罪を犯している訳ではなくなってしまいます。
だって、『吸血鬼』は自分の行為が悪いことだと微塵も思っていないんでしょう? なら、罪ではないものを罰することはできないわ」
「はい。ですからそういった外れた人たちを罰するのは、社会に属する人達にはできません。
罪を罪と認識していない物を罰するためには、個人の倫理観ではなくその種族全体の原則で罰しないといけないんです」
「……種全体の原則……ですか?」
「はい。自種を他種より繁栄させる、という一番初めの原則ですよ。種にとって、これを妨害するものはそれだけで罪ですから。
たとえ吸血鬼さんが殺人を罪と感じていなくても、人間全体にとっては殺人行為ではなくその吸血鬼さんの存在そのものが罪なんです」
――――――その、存在自体が罪。
……なんだろう。
おかしな事を聞く秋葉も秋葉だけど、それに答える先輩も先輩だ。
それに。
なんだか二人の会話は、他の誰でもない自分自身に向かってのものに思える。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
「――すみません、つまらない話をしてしまって」
「あー、いいよいいよー。オレ、秋葉ちゃんの声が聞けるだけで満足だから」
「それじゃあ解散ですね。みなさん、急がないと間に合いませんよ」
先輩は食堂のほうに走っていく。
先輩の教室はそっちのほうから校舎に入ったほうが近いんだろう。
――――先輩が行ってしまう。
あの人が通り魔殺人について詳しいからなのか、それともさっきの話がひっかかるのか。
……何の根拠もない。
なのに、ただ漠然と、あの人なら俺の悩みを解決してくれるかもしれないと思った。
「―――――」
迷っている暇はない。
自分一人でこんなモノを抱えることには、これ以上耐えられない。
「悪い、先に戻っていてくれ有彦!」
「ああ? 先に戻ってろって、どこ行くんだよ遠野!」
……とにかく、もう怒られても仕方がないぐらいの強引さで、先輩を校舎裏に連れてきてしまった。
五時限目はとっくに始まってしまっている。
「もう、いきなりこんなところに連れて来て、なんなんですか遠野くん」
……先輩は怒っているというより呆れている。
「ごめん先輩。けど、さっきの話をもう少し詳しく聞きたいんだ」
「さっきの話って、通り魔殺人の話ですか?」
「そう。その、罪を罪と感じないっていうヤツ。それって、ようするに無自覚で人殺しをしているっていう事なのかな」
……例えば。
自分は眠っているつもりでも、外に出て人殺しをしてしまっている、といったふうな。
「ちょっ、いたいです遠野くん。ちゃんと話は聞きますから、手を離してください」
「あ―――ごめん」
先輩から手を離す。
……よっぽど俺は慌てていたらしい。
「はい、けっこうです。えっと、通り魔殺人の犯人さんが無自覚で殺人を起こしているかどうか、というコトでしたね」
「うん―――どうしてもそれが聞きたいんだ」
「そんなの知りませんよ。わたし、犯人さんじゃないんですから」
「な―――そ、それはそうだけど、先輩!」
「はい、冗談です。遠野くんがあんまりにも真剣だから、ちょっとからかっちゃおうかなって」
「……先輩、勘弁してくれ。こっちは本当に大真面目なんだから」
「ええ、そうみたいですね。だけどどうしたんです? 通り魔事件の犯人のことなんて、遠野くんには関係ないじゃないですか」
「それは――――」
「それは、なんですか」
……それは。
「俺が―――その犯人だっていったら、どうする?」
意を決して、そう言った。
だっていうのに。
先輩は、できのいい冗談を聞いたような顔をして、くすくすと笑い出した。
「先輩、冗談じゃないんだ。俺は―――」
「ええ、遠野くんが本気だっていうことは分かってます。けど、だからなんだかおかしくて。だって自分が殺人鬼なんだって相談にくる殺人鬼なんて、普通いないじゃないですか」
「先輩―――――」
「それじゃわたしから聞きますけど、遠野くんはなんだってそんなふうに思うんです?」
「それは―――その、最近の俺、おかしいんだ。……原因は判ってる。たぶん、俺は吸血鬼に噛まれたんだ」
……何かの比喩のように、そう言った。
「―――どうぞ。まだ続きがあるんでしょう?」
「……それ以来、なんかヘンなんだ。突然自分が自分じゃないみたいになったり、人を殺してしまう夢を見たりする。
昨日なんて、俺は眠っているつもりだったのに外に出歩いていたらしいんだ。……その時見ていた夢も人を殺して、血を吸う夢だった」
「――――――」
先輩は何も言わず、ただ俺の目を見ている。
「……俺の親父は二重人格だったそうだし、もしかしすると俺本人が気がついていないだけで、人殺しの俺がいるのかもしれない。でもそれを確かめるコトができなくて、俺は―――」
「それで遠野くんは犯人は無自覚なのか、なんて聞いてきたんですね」
はあ、と先輩は呆れた。
「あのですね、もし遠野くんがその殺人鬼さんだとしたら、無自覚なんかじゃありませんよ。夢として殺人の行為を見ている時点で、それは無自覚ではありませんから。
けど、そんなことよりですね。はっきり言ってしまうと、そんなのはただの夢です。遠野くんがなにを不安がってるかは知りませんけど、遠野くんは遠野くんです」
「―――――」
……そう言ってくれるのは、嬉しいけど。
俺には先輩の言葉を鵜呑みできるものが、何一つだってありはしない。
「はあ。よっぽど不安なんですね、遠野くん」
言って。
先輩はぽんぽん、と俺の頭をなでた。
「―――大丈夫ですよ。遠野くんは何の問題もありません。他でもないわたしが保証するんですから、絶対に大丈夫です」
「あ――――はい」
……自然に、心からうなずいていた。
ただこうしている間だけだって分かっていても、心が休まる。
こっちの不安を包み込むような、先輩の手の平が優しかった。
◇◇◇
放課後になった。
秋葉の事や自分の事で混乱しながら、とりあえず一日が終わろうとしている。
「……帰るか」
秋葉を迎えにいって、屋敷に帰ろう。
秋葉と一緒に帰路につく。
……昼休みの時と同じように、二人きりになるとお互い会話が途絶えてしまった。
―――秋葉と話したいと思う反面、秋葉の顔を見るのが照れくさい。
「……まったく、中学生じゃあるまいし」
「……? 何か言いましたか、兄さん?」
「あ―――いや、なんでもない。ただの独り言」
……はあ。
ほんと、一体何をしているんだろう遠野志貴は。
長い坂道につく。
ここを登りきれば屋敷は目の前だ。
「兄さん。屋敷に戻る前に、一つお聞きしたい事があります」
ぴたり、と足を止めて、秋葉はまっすぐに俺を見据えてきた。
「―――――」
そこにはさっきまでの、じれったいような沈黙はない。
秋葉は真剣な眼差しで俺を見ている。
「いいよ。聞きたい事ってなに?」
「……その、以前も聞きましたけど、兄さんはシエルをどう思っているんですか?」
「――――なんだ、なにかと思ったらまたそれか。どう思ってるかも何も、先輩は先輩だよ。なんでも相談できる頼りがいのある先輩だけど」
「……そうですね。兄さんはなにか悩みごとがあるようでしたから。今日の朝のことも、それが原因だったんでしょう?」
「―――――」
……驚いた。
秋葉は、俺が一人で悩んでいたことに気付いてたのか。
「秋葉……おまえ、気付いてたのか」
「あたりまえです。私たちは兄妹なんですから、兄さんが落ち込んでいる事ぐらい感じ取れるわ。
だっていうのに、どうして兄さんは私に相談してくれないんですか。私よりあんな人のほうが信頼できるんですか、兄さんは」
「お―――おまえ、俺が先輩に相談するとこ、見てたのか……!?」
「ええ。本当にあの時は我が目を疑ったわ。兄さん、あの人の前ではすごく素直なんですから!」
ふん、と顔を背ける秋葉。
「……違う。俺が秋葉や琥珀さんに相談しなかったのは、その―――」
今の自分の体を打ち明けて、嫌われたくなかったからなのに。
「その、なんですか。言いたい事があるんでしたらはっきり言ってください」
「ばか、言えたらこんなに悩んだりするもんか! 俺は、秋葉たちのことが大事だから先輩に相談したんだ。別におまえの事を信頼してなかったとか、そういう事じゃない」
「そんな言い訳、聞きたくないわ」
「この際ですからはっきり言います。
あの人と兄さんは釣り合いません。……ですから、これ以上はあの人と親しくしないでください。それは兄さんの為になりません」
「な────」
あまりに唐突な言葉に声が出ない。
「秋葉。それは、一般家庭の人間は遠野家には相応しくないっていう意味で言ってるのか」
「………………」
秋葉は答えない。
沈黙は、すなわちイエスだ。
「───そうか。そうだよな、そりゃあ秋葉は遠野家の当主だもんな。親父と同じで家柄や血筋が大事だっていうんだろ?」
「……兄さん、それは」
「いいよ、別に文句を言ってるわけじゃない。秋葉を一人残して家を出たのは俺のほうだ。本来ならさ、そういうふうに育てられたのは俺の方だったんだ。だから、秋葉を悪く言ってるんじゃないんだ」
「…………………」
「でもな、今のは聞き流せない。先輩のことを何もしらないクセに、相応しくないなんて、そんなコト言わないでくれ」
秋葉はうつむいたままで何も言わない。
しばらく、俺たちの間に言葉はなかった。
「…………のクセに」
「え───?」
「兄さんだって遠野家の事を何も知らないクセに、勝手な事を言わないで――!」
苦しげに叫んで、秋葉は俺の前から離れた。
「───とにかく、あの人とは親しくしないで。あの人は違う人です。親しくすればするほど、兄さんが苦しくなるだけだわ」
秋葉は坂道を駆け上がっていく。
「───なんだよ、それ」
俺は呆然と、秋葉の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
屋敷に戻ってきた。
いつもなら何も考えずにロビーに入るのだが、今は中に入りづらい。
……この屋敷に戻ってきて、俺はさんざん秋葉を怒らせてきたと思う。
けど、さっきのは本物だ。
俺は初めて、秋葉を本気で怒らせて、あんな苦しそうな声をあげさせてしまった。
「………………」
さっきのはどっちが悪い、という問題じゃないと思う。
ちゃんと時間が経てば秋葉も冷静になって、どうしてシエル先輩をあんなに嫌うのかを説明してくれるはずだ。
「……庭でも回るか」
屋敷の中に入ると秋葉と顔を合わせるかもしれないし、しばらく庭を散歩しよう。
「あれ、琥珀さん……?」
そこにいたのは琥珀さんだった。
……こっちには気がついていないみたいだけど、林のほうへ行こうとしている。
琥珀さんはこちらに気づいていない。
何をしにいくんだろう、琥珀さんは森の中に入っていく。
「?」
興味をひかれて、少しだけ後についていった。
琥珀さんが歩いていった先には、ちょっとした広場があるようだった。
「……? あんなところに広場なんて……」
首をかしげて思い出そうとしてみるが、どうも記憶はあいまいだ。
屋敷の森の中、木々をきりとったような広場が見える。
――――いや、見えるというのは正しくない。
普通に歩いている分には決して見えなかったはずだ。
琥珀さんがあそこに歩いて行かなければ、屋敷に住んでいながら一生気づかなかったぐらい隠れた、木々に囲まれた小さな広場。
「……あんな広場、あったかな……あったならかっこうの遊び場になってたはずなんだけど……」
少なくとも森の中の広場で秋葉と遊んだ記憶はない。
――――ない、ような、気が、する。
「…………」
少しだけ思案してから、その広場に入ってみることにした。
……広場には特別なにもない。
先に入っていった琥珀さんの姿もない。
「なんだ―――ただの空き地じゃないか」
広場の真ん中へ歩いていく。
広場は本当に、なんていうことはない空き地だった。
きれいにまったいらにされた土の地面と、
まわりを囲む深い森の木々。
蝉の声と。
溶けるような、強い、夏の陽射し―――――
「え…………?」
夏の、陽射し―――?
「い――――痛ぅ…………」
胸の傷が痛む。
まるで/ざくりと。
包丁で胸を刺された/ような/この痛み。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん――――
――――どこかで、蝉の声がしている。
今はもう、秋なのに。
――――白く溶けてしまいそうな夏の陽射し。
遠くのそらには入道雲。
見えるのは空蝉のこえ。
足元には蝉のぬけがら。
ぬけがら。誰かの、ぬけがら。
「――――………」
三人目。
三人目の子供の脱け殻。
もう、思い出すコトもできない三人目のこども。
[#挿絵(img/アルクェイド 28.jpg)入る]
……うずくまる誰かの影法師。
近寄ってくる幼いあきはの足音。
遠くの空には入道雲。空蝉の青いそら。
ただ、夢中だった。
あのままじゃあきはがころされてしまう。
ほんとうに、それだけしかわからなかった。
ただ、走っていた。
そんなことしかわからなかった。
自分のほうがあぶないなんて、
そんなコトどうでもよかった。
あきはをまもりたくて、
あきはのかわりになっただけ。
とおくで。
セミの なき声。
―――その後。
胸を貫かれて殺されている俺の体と。
俺の死体を呆然と見下ろす、
三人目の姿があった。
「あ――――ぐ」
胸がいたい。
吐き気がする。
胸の傷はとうのむかしに塞がっているはずなのに、どうしてこんなにも痛むのか。
胸が 壊れてる。
古傷が開いて セキショクの染みが流れ出す。
――――なんてこと。
俺の傷は、ぜんぜん癒えてなんかいない。
イタイ。
コワイ。
――――眩暈がする。
コレガ、
死トイウ衝動カ。
意識が沈む。
傷が痛む。
どさり と、自身の体が地面に倒れこむ音をきいた。
◇◇◇
……話し声が聞こえてくる。
「秋葉さま、お医者さまをお呼びしないのですか?」
「馬鹿なことを言わないで翡翠。呼べるわけないでしょう、兄さんの傷は普通の傷じゃないんだから……!」
……あきは と ひすい が話している。
ここは シキの 部屋だ。
どうやら ベッドの上で 眠っている らしい。
やあ、と声をあげて起きようとしたけれど、体が思うように動かない。
胸の痛みはもうないくせに、体は鉛のように重い。
満足に動くのは、目と口だけのようだった。
「一体どういうつもりなの翡翠。兄さんをあそこに近づけてはいけないって、あなたも知っているでしょうに……!」
「もうしわけ…………ありません」
「謝って済む問題じゃないわ。あなたを兄さん付きの使用人にしたのは、こういう事態を避けさせるためでしょう? それを忘れて、あなたは何をやっていたっていうのよ……!」
秋葉は普段からでは考えられないぐらい、感情を剥き出しにして怒っている。
叱られている翡翠はうつむいたままずっと黙っていた。
……俺には、二人がどうしてこうなっているのか全然わからない。
わからないけれど、翡翠が俺のせいで怒られている、という事ぐらいは読み取れた。
「答えなさい翡翠。どうして兄さんはあの場所に行ってしまったの?」
秋葉の質問に翡翠は答えない。
二人の間の空気は段々と重苦しくなってくる。
ぎゅっ、と唇をかみしめて、秋葉が翡翠に一歩だけ近寄る。
……秋葉が、翡翠に手を上げようとしているのは、俺からでも読み取れた。
翡翠も解っているだろうに、うつむいたままそれを黙って受け入れようとしている。
「―――ちょっと待て秋葉」
「兄さん――気がついたんですか!?」
「ああ、秋葉があんまりにうるさいんで、いま目がさめた」
「あ…………」
秋葉は気まずそうに視線をそらす。
「あのさ、あんまり翡翠にあたるなよ。事情はしらないけど、ようするに俺が倒れたことでもめてるんだろ? なら翡翠に責任なんかないよ。こんなの俺がかってに倒れただけなんだから」
よっ、と腕に力をこめて、なんとか上半身だけベッドから起こした。
今は、それだけでもう指一本だって動かせそうにない。
けれど翡翠が落ち込んでいる手前、無理をしてでも元気なフリをしなくちゃいけない。
「……まったく、おまえも俺のコトなんかでケンカなんかするな。大人びたように見えてまだ子供なんだな」
「でも――――兄さんはずっと気を失っていたんですよ? 五時間以上も昏睡しているなんて、今までなかったはずです。もし―――もし兄さんがあのまま目が覚めなかったら、私はどうすればいいんですか……!」
「ばか、縁起でもないこというなよ。こんなのはただの貧血じゃないか。……って、なんだ。もう夜の十時をまわってるのか」
「……ええ。兄さんは夕方から今まで、ずっと気を失っていたんです」
遠慮がちに秋葉は語る。
「――――――」
どっ、と体から力が抜けた。
「……まいったな。そんなに長く気絶してたなんて、小学校以来だ。ああ、あの時は頻繁に倒れてたっけ。有間の家になれなくってさ、神経がまいってたんだ」
貧血の後遺症か、なんだかまだユメを見ているようだ。
「……おぼえてる。有間の家の人たちはいい人ばかりで、俺を本当の子供みたいに扱ってくれた。
―――啓子さんは厳しいけど思いやりがある人で、俺を本当の子供なんだって自分に言い聞かせてた。
……だから、俺も――本当の子供にならなくっちゃって、思ってたんだ」
「兄さん、無理はしないで。ここは遠野の屋敷です。兄さんがそんなコトを自分に言い聞かせる必要なんて、もうないんです……!」
「――――わかってる。
けど、昔から、そう思ってた。物心ついた時から、ずっと思ってたんだ。
……有間の人たちも秋葉たちもいい人ばっかりで、だから、すごく、つらかった―――」
……何を言っているんだろう、俺は。
ぼんやりと天井をみながら、自分でも思い出せないぐらい昔の出来事を思い返して。
「……無理はなさらないで。兄さんがここに帰ってきてまだ一週間です。ですから、色々と疲れがたまっているんです」
「――そうかな。……まあ、疲れは溜まっている、けど」
「でしょう? ですから、今日はもうこのままお休みください。兄さんは人より体が不安定なんですから、たまには一日ゆっくり休まないと今日のように倒れてしまうんです」
秋葉は真剣な眼差しで見つめてくる。
「………………」
……たしかに、秋葉の言うとおりだ。
何もかも忘れて。
吸血鬼のことも自分のことも考えないで休まないと、本当に参ってしまう。
「……そうだね。秋葉の言うとおり、今日はおとなしく横になっているよ」
言って、ベッドに体を横たえた。
「ほんとう……? あとになって部屋を抜け出したりするのもナシですよ?」
「なんだよそれ。俺、そんなに信用ないのかな」
……ああ、ないか。
今まで散々、秋葉を放っておいたんだから。
「翡翠、琥珀に兄さんが目を覚ました事を伝えにいって。兄さん、夕食はどうしますか?」
「……そっか。いや、琥珀さんには悪いけど、食べられそうにない」
「……わかりました。じゃあ翡翠、そう琥珀に伝えてきて」
翡翠はうつむいたままコクン、とうなずいて部屋から出て行く。
「さあ兄さん。今夜はもうお休みになってください」
すごく優しい声で秋葉は言う。
けど、眠るのは。
眠って、またあんな悪夢を見るのは恐い。
「いや、俺は―――」
「……お願いします、兄さん。今日だけは私の言うことを聞いてくれるっていったでしょう……?」
懇願するような、秋葉の目。
……本当に心の底から、秋葉は俺のことを案じてくれている。
「わかった。大人しく眠るよ」
「……はい。ありがとうございます」
「ばか、なんでそこで礼なんか言うんだよ。お礼を言いたいのはこっちのほうだ」
……俺を。
八年間もおまえを放っておいた俺を、この屋敷に呼び戻してくれたのはそっちのほうなんだから。
「―――秋葉。その、いろいろごめんな。たしかに俺は身勝手で、秋葉のことを考えてやれなかった。けど、これからは―――」
「いいんです。兄さんは今までどおり兄さんのままでいてください。
それに、謝らなくちゃいけないのは私のほうなんです。……兄さんは私に謝らないでください。そんなことをされたら、私は本当にいやな女になってしまいます」
瞳に涙をためて、秋葉はじっと俺の手を握っている。
……わからない。
どうして秋葉がそんな事を言うのか。
どうしてそんな―――ごめんなさいって、繰り返すのか。
「……眠くなってきた。少し、眠る」
「―――はい。おやすみなさい、兄さん」
……胸の古傷が痛む。
三人目のこども。
……それはきっと、十年前に養子にとられて、すぐに死んでしまったこどもだ。
暑い夏の日。
血だらけのこどものすがた。
不吉なことばかり積み重なっていく、遠野志貴の世界。
―――とくん。
だっていうのに、静かだ。
―――とくん。
気持ちが安らぐ。
―――とくん。
すぐ近くに、あきはの鼓動。
―――とくん。
本当に、静かだ。
――とく、ん。
そうして何日かぶりに、悪い夢を見ない穏やかな眠りに落ちていけた。
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●『8/午睡の夢』
● 8days/October 28(Thur.)
淡い朝の光で目が覚めた。
昨日の貧血の後遺症か、体はまだ少し重かったが気分は晴れやかだった。
……何日ぶりだろう。
こんな、なにも不安なことのない朝を迎えられたのは。
くわえて今日は創立記念日で学校が休みときている。
いつものようにあわただしく学校の準備をする必要もなく、ゆったりと朝を満喫できる。
「あ―――」
そこで、ようやく気がついた。
何か人の気配がすると思ったら、誰かがベッドに体をあずけて眠っている。
「秋葉……?」
一晩中看病してくれていたのか、秋葉は椅子に座ったまま、上半身をベッドにあずけて眠ってしまっていた。
[#挿絵(img/秋葉 17.jpg)入る]
すう、という小さな寝息。
長い黒髪はベッドに広がっていて、なんていうか、それだけでもひどく綺麗だった。
「秋葉、おい秋葉ってば」
小声で呼びかけてみたが、目を覚ます気配はまったくない。
……まあ、よく眠っていていることだし無理に起こすこともないだろう。
「……………ん」
かすかな寝返りをうつ秋葉。
こうして眠っている分には普段の気丈さはかけらもない。
無防備な秋葉の寝顔は、子供のころの秋葉と何一つ変わっていなかった。そのせいか、目を閉じればあの頃の秋葉の姿が鮮明に思い出せた。
[#挿絵(img/秋葉 12.jpg)入る]
……八年前。
ふたりで遊んでいる時、きまって後ろをついてきた黒髪の少女。
無口な子だったけれど、秋葉はずっと自分たちについてきた。
滅多に笑うことがなくて、時々見せる笑顔はどこか哀しそうで、儚かった。
―――何も知らなかった子供の頃。
俺は本当に、秋葉に嬉しそうに笑ってほしくて、何度も何度も屋敷から庭に連れ出していたんだっけ。
「ん……兄……さん……」
どんな夢を見ているのか、秋葉はむにゃむにゃと声をもらす。
「――――――」
どうしてか、ただ自然な気持ちで、眠っている秋葉の髪を手にとった。
秋葉の寝顔を見ていると、心が深く静かになっていく。
……出来るのなら、ずっとこうして見守っていたいと思うぐらいに。
「……秋葉」
……覚えている。
子供のころ、いつも思ってた。
誰よりもこの少女を大切にしようと誓った日々。
泣きながら自分に抱き付いてきたあきはのことを。
「……でも、まいったよな。もうあの頃の面影は薄れてて、今じゃ立派な女の子なんだもんな」
秋葉の綺麗な寝顔を見つめながら、そんな事を呟いた。
「――――ん」
さらり、と長い黒髪が流れていく。
「……ごめん……なさい」
苦しそうに眉をよせて、秋葉は寝言をもらす。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、兄さん……」
「――――秋葉?」
秋葉の呼吸が乱れる。
長い黒髪がざあ、とベッドから滑り落ちて、秋葉はゆっくりと体を起こした。
「あ―――兄さん、だ。どうして……兄さんが、いるんですか」
「……そりゃあいるよ。だってここ、俺の部屋だから」
「え―――!?」
びしっ! と背中を叩かれたように背筋を伸ばして、秋葉はさっと周囲を見渡す。
「おはようございます兄さん。昨夜はよく眠れましたか?」
……ここで眠ってしまっていた事をまるっきり無視して挨拶をしてくるとは、さすが秋葉。
度胸の良さというか、開き直り方が尋常のレベルじゃない。
「ああ、おはよう。秋葉のおかげでよく眠れたよ。こんなにいい朝を迎えたのは久しぶりだ」
「そうですか。それじゃあ体のほうも持ちなおしたんですね」
「いや、そっちのほうはまだ少しだるいかな。どうせ今日は休みだし、一日大人しくしているよ」
「珍しいですね、兄さんがそんなことを言うなんて。いつもだったらいつのまにかどこかに消えているっていうのに」
「それはいわないでくれ。これからはちゃんと家にいるから、秋葉に心配はかけさせないよ」
「はいはい、話し半分に聞いておきますね」
秋葉は楽しげな笑顔をうかべて、俺の顔を流し見る。
……こう間近でそんな顔をされると、困る。
秋葉はただでさえ綺麗な顔立ちをしているっていうのに、そんな明るい笑顔を向けられたらどうかしてしまう。
「それじゃ兄さん、またお昼になったら様子を見に来ますから。それまで無理をして外に出たりしないでくださいね」
「わかってるよ。……けど情けないな。この家に戻ってきてから秋葉には看病されてばっかりだ。これじゃあ兄貴失格だ」
「――――兄さん」
なにげない感想だったのに、秋葉はとたんに顔を曇らせてしまった。
ほんのわずかだけ俯いた後、秋葉は椅子から立ちあがって顔をあげた。
「―――馬鹿な事は言わないでください。
兄さんは私の兄さんよ。たとえ失格していようとも、それだけは変わらないわ」
「……いや、それはそうだけど、秋葉?」
「……なんでもありません。けど、それだけは本当の事ですから。兄さんの看病なんて毎日だって苦痛ではないんですから、そんな事は気にしないでください」
秋葉は早足でドアまで歩いていく。
「それでは失礼します。午前中は家を留守にしますから、何かあるのでしたら翡翠を使ってください」
そうして、秋葉は部屋から退室していった。
◇◇◇
時刻は十時になったばかり。
体を休めるのもいいけど、こう一日中ベッドに横になっているっていうのも退屈だ。
「……ふわあぁあ」
……だっていうのに、俺の体はまだ眠り足りないらしい。
体もだるい事だし、下手に歩きまわって昨日みたいな事になったら秋葉に怒られる。
「……あと二時間もすれば秋葉も帰ってくるし。今日一日は秋葉の言うとおりにしようって昨日約束したじゃないか」
そう自分に言い聞かせて、ばふっと勢いよくシーツをかぶりなおした。
よっぽど今まで疲れていたのか、気を抜くとすぐに眠気がやってきた。
……こうして耳をすませていると、自分の鼓動がよく聞こえる。
「あ………つ」
そういえば、昨日からあまり水分をとっていない。
喉がカラカラに渇いているし、頭もぼーっとかすんできた。
少しぐらい。
ただ食堂にいって水を飲むぐらいなら、外に出てもいいだろう。
廊下には誰もいない。
昔。
思い出せないぐらい昔か、それとも思い出す必要がない昔に見た、映画に出てくる廃墟みたいに、静かだった。
暑い。
陽射しが暑い。
やはり体がまだ本調子ではないのか。
あまり長くは陽の光を浴びてはいられないようだ。
……離れは強い陽射しにかすみそうだった。
まるで、ここだけ砂漠にでもなったように暑くて、白くて、目がかすむ。
……ごと、と物音がした。
……離れの中からだ。
……誰か。
……中に、いるのだろうか。
縁側から障子を少しだけあけて、中を覗いた。
そこには秋葉と琥珀の姿があった。
二人の様子はどこかおかしい。
しゅるり、という、帯の外れる音。
―――――なに、を。
無言のまま、琥珀は着物をはだけさせて、その胸をさらけだした。
[#挿絵(img/秋葉 46.jpg)入る]
裸体をさらけだした琥珀は、頬を赤くして、ぴくりとも動かない。
その、白い胸のふくらみに、秋葉は唇を押し当てる。
きり、という、緊張感。
胸をはだけて俯いている琥珀と、その胸元にうずくまるように顔をうずめている秋葉。
琥珀の胸元から、ぽたり、ぽたりと紅い雫がこぼれている。
ごくり、と秋葉の喉がなにかを嚥下する。
なにを―――なにを飲んでいるのか、そんな事はいうまでもない。理解するまでもない。
秋葉は、琥珀の血を、飲んでいる――――
――――――――――夢
夢―――――――――
これは、夢だ。
夢なら―――早く、覚めないと。
「――――え」
……自分の部屋。
ちゃんと、自分の部屋に、いる。
「秋葉……と、琥珀さん、が」
秋葉が。秋葉が琥珀さんの血を飲んでるのを、たしかに見ていたのに。
「夢でも見てたのか、俺」
……そうかもしれない。
いや、あんなコト絶対に夢のはずだ。
あんなコトが現実でいい筈がない。
「……けど……生々し、すぎた」
夢のはずなのに。
俺は和室の畳の匂いも、微かに乱れた二人の息遣いも、秋葉の喉がごくりと鳴った音も、確かに聞いてしまった。
「――――――――」
ベッドから起きあがる。
……眩暈がした。
だがそんな事はどうでもいい。
離れの屋敷。
離れの屋敷に行ってみれば、アレが夢であったかどうかがはっきりする―――
「――――!」
物音を聞いて咄嗟に身を隠す。
「琥珀……さん」
離れの屋敷がある方から琥珀さんが歩いてきて、そのまま屋敷へ去っていった。
……屋敷は静まりかえっている。
いないとは思う。
秋葉は、こんなところにはいない。
だって午前中は出かけるって言っていたんだ。
秋葉がこんなところで、琥珀さんと一緒にいるなんていう事はありえない。
「…………」
ごくり、と喉がなる。
大きく深呼吸をして、中に足を踏み入れた。
「……兄……さん……?」
和室には、秋葉の姿があった。
秋葉は呆然とした顔をして、入ってきた俺を眺めている。
「………秋葉」
「はい……なんでしょう、兄さん」
俺がやってきた事を不思議にも思っていないのか。
秋葉はけだるい面持ちで反応した。
「……なんでしょう、じゃないだろ。おまえ、こんなところで何をしていたんだ」
「なにって、取り壊す前にもう一度見ておこうと思っただけですけど」
「―――いや、そういうんじゃなくて」
じっと秋葉の体を見る。
あれ―――そういえば、秋葉は制服を着ている。
さっきまではたしかに普段着だったけど……?
「秋葉、おまえ着替えたのか」
「ええ、午前中は学校のほうに行っていましたから。兄さんの部屋から出た後に着替えて、先ほど帰ってきたんです」
「……そう、か。そうだよな、こんなところであんな事をしてるわけないもんな」
――そう、やっぱりあんな光景は夢だったんだ。
……けど、なにか、おかしい。
おかしいけど、それはどっちがおかしいのか。
秋葉がおかしいのか、それとも俺がおかしいのか。
さっき見た光景。あの時の秋葉は普段着だった。
アレからすぐに着替えるなんていうのはおかしいし、なにより―――秋葉の話は、どこもおかしなところがない。
なら―――あんな夢を見てしまう俺のほうが、圧倒的におかしいのか。
「……兄さん? どうしたんですか、顔色が悪いようですよ。それに午前中は休んでいてくれるって言ったのに、どうしてこんなところにいるんです」
「いや、ちょっと体を動かそうと思って」
「……そうですか。それはかまいませんけど、ここは立ち入り禁止だと言ったでしょう。私との約束を守れないんですか、兄さんは」
じろり、という秋葉の視線。
自分の心の底まで見透かされているようで、どくん、と心臓が跳ねあがる。
「……悪かった。これからは気をつける」
「この離れは老朽化が進んでいますから、万が一ということもあるんです。どうか、兄さんはもう近づかないでください」
―――気のせいだろうか。
やっぱり、秋葉の態度はどこかおかしい気がする。
そもそも、どうしてそんな危険な所に秋葉は一人でいたんだろうか……?
「それではお帰りください。兄さん、顔色が優れませんよ」
俺の横を通りすぎて、秋葉は和室から出ていこうとする。
「ちょっと待ってくれ秋葉。昨日聞き忘れていた事があるんだ」
「聞き忘れていたこと、ですか?」
「ああ。俺が倒れた中庭があるだろ。昔さ、あそこで秋葉と遊んだけど、その時もう一人、他に誰かがいたような気がするんだ。秋葉は覚えてないか?」
「―――そんな子はいませんでした。それは、兄さんの勘違いです」
きっぱりと返答して、秋葉は離れを後にした。
「……だけど秋葉、三人目の子供はいたんだ。十年前に養子にとられていた子供のことを、おまえは知らないっていうのか」
和室に残されて、一人、呟く。
秋葉は三人目の養子のことを隠しているのか、それとも本当に覚えていないのか。
――――俺には、判別がつかなかった。
◇◇◇
――――夜。
あれから部屋に戻ってぼんやりとしているうちに、一日はあっけなく終わってしまった。
……考える事、考えなくてはいけない事が多すぎるせいだろう。
弓塚がいなくなって、もう起こらないハズの通り魔殺人がまだ続いている。
それと同じように人を殺して血を吸う夢を見る自分。
八年前。
俺が瀕死の大怪我を負った事故と、それ以前にいたはずの子供。
中庭で思い出されたモノは、紛れもなく八年前の記憶だ。
人殺しの夢を見るようになったけど、なんていう事はない。俺はもうとっくの昔に、似たような出来事を目の当たりにしていたらしい。
「―――――」
……あれから秋葉とは顔を合わせていない。
夕食も琥珀さんに食事を部屋まで運んでもらったし、秋葉が見舞いにきてくれる事はなかった。
「まあ、もう十分元気だから見舞いにくる必要はないんだろうけど」
……秋葉とは気まずいままだ。
このまま夜が明けて朝になって、またいつも通り『おはよう』って言いあえば、さっきの気まずいモノもなくなってくれるだろう。
「……そうだな。今日はもう眠ろう」
電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。
だが、秋葉が傍にいない。
このまま眠ってしまえば、また。
俺は夢を、人を殺しに行くことになるのかもしれない――――
「く―――そ」
……だめだ、とてもじゃないけど眠れない。
昨日は秋葉が傍にいてくれたから、あんなに安らかに眠れたんだ。
一人で眠れば、またあの夢を見るかもしれない。
そうして血を吸う夢を見て、また新しい通り魔殺人の犠牲者がでた時。
その時こそ俺は、自分自身を弁解する余地さえなく、自身が殺人鬼である事を受け入れるしかない。
「―――――っ」
ベッドから出る。
……眠らない。
今夜は眠らないで、ずっと起きていよう。
窓から入ってくる月光も明るいし、こうやって月を眺めていれば時間なんてすぐに――
「あれ―――中庭に誰かいる」
じっと目を凝らす。
「秋葉じゃないか……なにしてるんだろ、中庭の真ん中でぼうっとして」
秋葉はひときわ大きい木の下にぼう、と佇んでいる。
「……散歩かな。もう十一時を過ぎてるっていうのに、あいつも無用心なヤツ」
そういえば、屋敷に帰ってきた初日も秋葉は夜中に出歩いていたっけ。
………どうせ、こうしていても眠れないのなら。
昨日のように秋葉が側にいてくれれば、悪夢を見なくてすむかもしれない―――
月明かりの下を歩く。
屋敷の木々は見事な紅葉で、はらはらと葉が散っていくさまはひどく幻想的だ。
その中に秋葉の姿があった。
長い黒髪と細い背中を見せて、舞い散る紅葉を見つめている。
はらり、はらり、と。
木の葉と同じように揺れる黒髪と、脆そうなその体のせいか。
秋葉の姿は、蜃気楼のようだった。
「……秋葉。なにしてるんだ、こんな時間に」
「なにって、月見ですよ。兄さんといっしょです」
俺がやってきた事をさして驚いたふうもなく、秋葉はそう答えて振り返った。
[#挿絵(img/秋葉 16.jpg)入る]
「こんばんは、兄さん。病人なのにこんな時間まで出歩くなんて、困った患者さんですね」
「まあな。部屋から月を見てたんだけど、不良娘が外にいたからさ。兄貴としては放っておけなくて出てきたんだ」
「ふふ、それは申し訳ありませんでした」
「あ――――まあ、屋敷の中だから別にいいんだけど、最近なにかと物騒だろ。秋葉は女の子なんだから、あんまり夜は外に出ちゃだめだぞ」
「はい。兄さんがそう言うのでしたら、すぐに部屋に戻りますね」
「ばっ、今はいいんだ。……その、俺も眠れなかったところだからさ、少し付き合ってくれると助かる」
「ええ、兄さんがそう言われるのでしたら、ぜひ」
まぶたを閉じて、静かに頷く。
……秋葉のその頷きは、まるで何かに祈っているかのように静かで、清らかだった。
「……驚いたな。なんだか、今夜はやけに優しいじゃないか。なんかいい事でもあったのか?」
「いいことなんてないですけど。まあ、兄さんとここで話ができるのは、いいことかもしれませんね」
くすり、と冗談っぽく笑う秋葉。
「―――――」
その仕草に、どくん、と胸が鳴った。
「兄さん? どうしました、顔が赤いですよ。まだ体の調子が悪いのでしたら、中庭のテラスに移動しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。もう少し見ていたいから、ここにいる」
「そうですね、今日は本当にきれいな夜ですもの。私、この屋敷でここの風景が一番好きです」
秋葉はまた淡く微笑んだ。
……その仕草に、どきりとする。
秋葉の雰囲気はひどく穏やかで、優しすぎるせいだろうか。
赤い落ち葉の中。
遠野秋葉は、いつもの何倍も可愛く見えてしまっていた。
「ねえ兄さん。この場所を、覚えてますか」
「この場所って、この大きな木のこと?」
「はい。まだ私たちが子供のころ、ここが待ち合わせ場所だったじゃないですか。
私が部屋で習い事をしている時、コンって窓に石をなげてくれて。
私はそのあと、なんとかして家庭教師のじいやをやり過ごしてここまで走ってくるんです」
――――ああ、言われてみればそうだった。
秋葉はいつも屋敷の中で習い事をしていて、親父は秋葉を外に出そうとしなかった。
「屋敷の人たちはお父様を恐がって、私に話しかける事さえしてくれなかった。
……けど、それは当然でした。
私自身もお父様以外の人間と話をするのはいけない事だって信じていたんです。
あんなに大勢のひとたちがいたのに、私はみんなより遠野の家訓のほうが大事だった。だから一人でも平気でしたし、お父様の教えにも耐えていられたんでしょうね」
「……そうか。思い出したよ、俺がいてもいなくても、親父のやつは秋葉に厳しかったもんな。ずっと部屋に閉じ込めて、一日中習い事をさせていただろ。俺は、アレがすごくイヤだった」
「ええ。私も、本当は大っ嫌いでした」
……それは、もう過去の思い出として整理できているのか。
秋葉はくすりと、懐しむように笑った。
「けど、それを気付かせてくれたのは兄さんなんですよ。
……兄さんにとっては当たり前の事だったから覚えてないでしょうけど、兄さんは私が中庭で先生を待っている時に突然やってきて、いきなり私の手を掴んで走り出したんです。
なにするのって聞いたら、一人じゃ鬼ごっこができないから鬼になれって。
……ほんと、思い返してみるとものすごく強引な人ですね、兄さんは」
くすくすと秋葉は笑う。
「……まあ子供のする事だからな。そのあたりの無作法は大目に見てくれると助かる」
「そうですね。それで結局、私と兄さんはお父様に叱られて、よけい会う事が難しくなったんですけど―――」
「―――ああ、こっちも意地になってたからな。一日一回は秋葉と遊ぶんだって、あの手この手で秋葉を連れ出したんだっけ。
けどさ、最後のほうには秋葉のほうから抜け出してきたじゃないか。そのくせ遠くから見てるだけで、なかなかこっちにはこなかったけど」
「いいんです、私はそれだけで楽しかったんですから。
―――そう、本当に楽しかったわ。
私を当然のように遊びに連れていってくれて、そのたびにお父様に叱られて。
お父様の叱りようは日に日に厳しくなったでしょう? だから私、その度に思ってました。今日はもう来ない、今日こそもうだめね、今日は来てくれるはずなんかない、って。
けど、兄さんはそんな私の予想をいつも裏切ってくれた。……ほんとうに、あれだけ叱られたらもう絶対に来てくれないのに、兄さんはいつも通りの笑顔でやってくるんです。
お父様には叱られてなんかないから平気だよって、ものすごく下手な嘘をついて」
「……そっか。こっちは完全に秋葉を騙してるって思ってたんだけど、バレバレだったのか」
「もちろんです。おかげで私、よけいに兄さんに申し訳なくって大変でした。
毎日いつもの時間になると、兄さんったら今日も来ちゃうのかなって、すっごくはらはらして待ってたんですから。
……けど、そんな事が、一番嬉しかった。
兄さんがいなくなって、私の生活はまた元の生活に戻ってしまったけど、辛くはありませんでした。
だって、どんなに辛い事より兄さんとの思い出のほうが強かったんです。
……兄さんは私を放っておいたって言いますけど、それは違います。私―――私のほうこそ、ずっと兄さんに助けられていました。
兄さんとの思い出があるから、私はまだ遠野秋葉のままでいられるんです」
そうして、本当に幻のように、秋葉はわらった。
「―――本当にどうかしていますね。子供じゃあるまいし、いつまでも兄さん兄さんと頼っているようでは遠野家の当主失格です」
「……ばか。そんなの関係ないだろ。頼りたくなったら頼ればいいんだ。俺たちは兄妹なんだから」
「いいえ、そんな事ができるのは子供の時だけです。私は遠野家の跡継ぎで、それはすでに決定された事です。ですから誰にも頼らず、一人で生きていかなければいけません」
「……なんだよそれ。遠野の跡取りになったからって、そんなふうに我を張ることはないだろ」
「いえ、遠野家の跡取りになるという事はそういう事なんです。もう何年も前から、私はそういう風に教育されてきました。
―――けど、私もまだまだ修行が足りませんね。こんなふうに弱さを見せてしまうなんて、どうかしています」
言って。
たん、と軽い足取りで秋葉は跳ねた。
まるで踊るように、舞い散る紅葉の中を歩いていく。
「秋―――葉」
……胸がいたい。
俺はどうかしてしまったのか、この瞬間、目の前にいる秋葉を無性に抱きしめたくなった。
……月の光には魔力があるのか。
たとえ妹でも―――いや、妹だからこそ、俺は、この少女を守りたいっていう衝動にかられている。
「冷えてきましたね。そろそろ戻りましょうか、兄さん」
「……そうだな、戻ろう。いつまでもこうしているとどうにかしそ―――」
「……兄さん?」
「―――――」
秋葉の声が聞こえる。
けど、何を言っているのか聞き取れない。
本当に、俺はどうかしている。
黒い筈の秋葉の髪が。
血のように、真っ赤な色に、見えるなんて。
―――――いらない。
それは、いらない。
――――いらない。
それはいらないもの。
――――いらない。
赤い髪。血のようなイメージ。血を吸う鬼。
――――それは、人間ではないもの、故に。
排除しなくては、いけない、もの。
「―――兄さん? ちょっと、大丈夫ですか兄さん……!?」
「ぐっ………あ、っ………!」
胸が絞まる。
心臓が暴れまわる。
血液は静脈動脈を拡大させ、
脳髄がころせころせと繰り返す。
―――――いや、コロスまでもない。
その前にこの女の体を楽しもう。
か細い腕。美しい髪。小さな胸。
人形のように素晴らしく均整のとれたその体を、犯してしまえ。
―――喉が熱い。
まるで。
夢の中で人を殺した時のように、熱い。
「兄さん、しっかりしてください。肩をかしますから、屋敷に戻りましょう」
声。秋葉の声しか聞こえない。否、顔を見てはいけない。見ればきっと、俺はそのまま―――
「―――いい。あきはの体には、触れ、ない」
違う、触れたくない。
触れれば―――なにをしてしまうか、解らない。
「……先に戻る。おまえもちゃんと戻れよ、秋、葉」
かろうじて残っている理性を総動員して、秋葉の前から駆け出した。
なんとか自力で戻ってこれた。
「はっ―――あ、はあ、あ――――」
そのままベッドに倒れこむ。
「く――――そ、ぅ………!」
自己嫌悪で死にたくなる。
俺は夢の中だけじゃ飽き足らず、現実でまであんな衝動を覚えてしまった。
それも他の誰でもなく、秋葉に対してあんな淫らな―――
「オレ―――俺、は」
もう、自分で自分がわからない。
八年前の思い出。
血まみれの少年と秋葉。
今見ている現実とも夢ともとれない出来事。
―――――殺人鬼のような遠野志貴。
「――知ってるよ。志貴くんの脆いところを」
……彼女。弓塚が誇らしげに言っていた言葉。
「志貴くんもわたしと同じだよ。
わたしと同じ、人殺しが好きで好きでたまらないヒトなんだって―――!」
「――――」
否定、できない。
そもそも遠野の人間はみんなどこか異状なんだ。
狂死。変死。行方不明。精神異常。
琥珀の血を飲んでいた秋葉。
殺人の夢をみる自分。
「―――――く」
思って、あまりの馬鹿らしさに苦笑いをした。
なんで秋葉がおかしくなければいけないのか。
秋葉は正常で、あれは俺が見た破綻した妄想じゃないか。
そう、狂っているのはオレだけだ。
オレだけがこうして―――今夜も、ヒトの血を求めて、いる――――
―――――熱い。
―――――熱い。
―――――熱い。
―――――一度昂ぶった体は、眠りなどでは治まらない。
―――――さあ。
今夜も、この渇きを癒しにいこう。
また夜の街に出たようだ。
また目を血走らせて、
また誰か通りかからないか待っているらしい。
――――いつのまに眠ってしまったのか。
長い髪をざあ、とゆらして。
夜の街を徘徊していっている。
――――また、殺人の夢を見てる。
新しい獲物を見つけたようだ。
今夜はもう誰でもいいのか。
見知らぬ男性を殺して、路地裏に引きずっていく。
その死体の喉元に食らいつく音。
じゅるじゅる、という音が聞こえる。
喉もとから、肉ごとかみ切るように血を飲んで、喉の渇きを癒している。
――――また、同じ出来事。
と。
邪魔が、入った。
死体を捨てて跳びあがる。
誰か。誰かが見ているようだ。
――――黒い人影がやってきた。
髪を振り乱して、頭上の月を見上げている。
[#挿絵(img/シエル 16.jpg)入る]
――――その人影は、俺のよく知っている人だった。
屋根から屋根へ。
闇から闇へ。
人影は追ってくる。
――――シエル先輩にそっくりの人影は、化け物みたいな殺人鬼を、同じように化け物みたいな速さで追っていく。
――――動きが止まった。
昂ぶっていたためだろう。
戦う気らしかった。
逃げるのは飽きたらしい。
おそらくは、『遊んでやる』気になったのか。
――――シエル先輩が、やってくる。
……その後は早かった。
シエル先輩はとても強かったけど、偶然通行人がやってきてしまって、それで終わってしまったみたいだ。
通行人を庇おうとして、シエル先輩はその通行人ごと鉄パイプらしきもので串刺しにされてしまった。
――――むごすぎる光景。
両手を重ねられて、そこも鉄パイプで貫かれてしまう。
ちょうど張りつけにされるようになって、シエル先輩は裸にされてしまったのか。
――――……笑っているのが、わかる。
シエル先輩の胸に舌を這わせて、笑っている。
シエル先輩は何もせずに睨んできていた。
――――火のような青い瞳。
それと俺の目があった。
――――映像が途絶える。
――――organが壊れた。
――――夢は、カサブタを引き剥がすように、
覚めた。
[#改ページ]
●『9/血を吸う鬼』
● 9days/October 29(Fri.)
「――――!」
ベッドから跳ね起きる。
時計は朝の六時前。
「先輩まで―――どうして」
……いや、あの神父のような服装をした人影が先輩と決まったわけじゃない。
それに、さっきの先輩は普通じゃなかった。
夢の中の自分も異状だったけど、先輩の異状さはその上をいっていた。
屋根から屋根へ跳び移るなんていうのは当たり前で、手に持った剣を弾丸みたいに投げつけてきていた。
見ようによっては、殺人鬼なんかより先輩のほうがよっぽど怪物じみていたと思う。
―――だから、あれは夢のハズだ。
その証拠に目が覚めたら、自分はベッドに眠っていたんだから。
「―――あれが夢だっていうのか、俺は」
はは、と笑ってしまった。
あれが夢かどうかは問題じゃない。
俺が覚えてなかろうと、俺に人殺しをするつもりがなかったとしても、そんなものは何の意味も持ちえない。
―――確かな事は、まだこの体が興奮しているという事だけだ。
見知らぬ男性の首を折る時の感触も、
シエル先輩の両腕を串刺しにして、その体に舌を這わせた生々しさも。
……間近で感じた先輩の吐息の熱さも、まだ感覚として残っている。
だから、アレが夢であろうと現実であろうと、何も変わらない。
俺が人を殺して、先輩を犯そうとした事には変わりはないんだから。
「失礼します」
学生服を持って翡翠が入ってくる。
「おはようございます、志貴さま」
「……ああ、おはよう翡翠」
胸に残る血の手触りと、先輩の肌の温かさを振り払うように声をかける。
……けど、そんな事は無駄だった。
翡翠がやってきて朝を告げてくれたっていうのに、俺の気分はどうしようもないぐらいに沈みこんだままだ。
「志貴さま……? お顔の色が優れないようですが、まだお体の調子が優れないのですか?」
「……いいや、そんな事はないよ。寝起きに体調が悪いのはいつもの事だから」
ベッドから立ちあがる。
……頭痛がしたが、それは無視した。
「すぐに居間に行くよ。秋葉のやつ、待ってるんだろ?」
「いえ、秋葉さまも今朝はお体のほうが優れないらしく、学校をお休みになられるそうです」
「え―――だってあいつ、昨日の夜はあんなに元気だったのに」
「わたしからは何もお答えできません。姉さんから聞いただけですので、詳しく知らされてはいないのです」
「―――そうか。その、前と同じような発作なのかな」
「姉さんが居間におりますから、詳しい話は姉さんに聞いてください」
それでは、と翡翠は部屋から出ていった。
「あら、おはようございます志貴さん。今日はお早いんですね」
「おはよう琥珀さん。……って、そんなことより秋葉の容体が悪いって、どうしてなんですか」
「え――? あ、翡翠ちゃんから聞いたんですね。秋葉さまは少し熱があるようですので今日はお休みになられるそうです」
「熱があるって―――だから、どうして」
「そうですねー、志貴さんが帰っていらしてからずっとお忙しかったでしょう? 親戚の方たちとのお話とか、転校の手続きとか。それで疲れがたまってしまっただけです」
「……疲れがたまっただけって、ほんとですか?」
「もちろんです。ふふ、志貴さんったらそんなに血相を変えてしまって、やっぱり秋葉さまの事が大切なんですねー」
くすくすと嬉しそうに笑う琥珀さん。
言われて、自分がどれくらい切迫していたかに気がついた。
「あ……いや、別に秋葉が大切っていうわけじゃなくて、その―――」
「その、なんですか志貴さん」
じっ、とまっすぐに見つめてくる瞳。
下手なウソなんてすぐ見ぬかれそうだし、なにより自分の気持ちにウソを言うのは間違ってる。
「―――いや、違います。……琥珀さんの言うとおり、俺にとって秋葉は大切だから心配にもなるんです」
……自分でも恥ずかしいけど、琥珀さんの前では本当の気持ちを口にする事にした。
「志貴さん、今日は素直なんですね。そういう事は、ぜひ秋葉さまがいる時に言ってあげてください」
無邪気な笑顔でとんでもない事を言ってくる。
「……あのですね。秋葉本人にこんな事を言っても仕方がないでしょう。
それより琥珀さん、秋葉はまだ眠っているんですか?」
「はい、先ほどお薬を飲んでお眠りになりました。『見舞いになんてこなくていいから兄さんは学校に行ってください』だそうです」
「……そっか。なら、少し安心した」
ふう、とソファーに腰を下ろす。
……とりあえず、これで悩み事が一つ減ってくれた。
「あっ、志貴さん。昨夜のことですけど、秋葉さまとお庭のほうで話していたというのは本当ですか?」
「本当だよ。昨日は寝つけなくて、庭を眺めてたら秋葉がいたもんだから少し話しこんだんだけど、それがどうかしたの?」
「いえ、翡翠ちゃんがそんな事を言ってたから気になっただけです。
けど志貴さん、夜中に出歩くのはあんまり感心できることじゃありませんよ。最近はとても物騒なんですから」
「……例の通り魔殺人のことだろ。そんな事なら誰よりもわかってるつもりだよ」
「それでしたらいいんですけど、本当に気をつけてくださいね。昨日の夜も街のほうで男の人が殺されてしまったらしいですから」
「―――――――」
がたん、とソファー立ちあがった。
「琥珀さん、いまの話、ほんとう?」
「ええ、朝のニュースでやってましたから。今まで女性しか被害者がいなかった所に男の人の犠牲者が出たという事で、色々と騒がしくなってたみたいです」
「―――――」
男。男の、被害者。
夢の中で殺してしまった、見知らぬ男性。
「志貴さん―――?」
……琥珀さんが何か言っている。
「あ―――いや。なんでも、ないんだ」
そんな言葉しか返せないまま、いつまでも呆然と立ち尽くした。
◇◇◇
――――学校に着いた。
時間は七時五十分過ぎ。
ずいぶんと早く屋敷を出たはずなのに、結局いつものようにギリギリの時間に登校するはめになっている。
理由は言うまでもない。
自分が殺人鬼かもしれないという恐れが、足の進みを遅くしていただけだ。
校門をくぐる。
周りには自分と同じように教室に向かう生徒たちの姿がある。
「―――――――」
……彼らの姿を見るたびに足が止まる。
彼らは人殺しなんて考えもしない普通の人間だ。その中に自分のような人間が混ざって、一緒に授業なんて受けていいはずがない。
「……弓塚。やっと、キミの気持ちが分かった」
いや、彼女に比べれば俺の不安なんて小さいものだろうけど、でもようやく、弓塚さつきが失ってしまったものがなんだったのかが実感できた。
……今の遠野志貴は、ここには居てはいけないと思う。
もう何人も人を殺してきている。
それが夢であるか現実であるかは別にして、たしかにそういった嗜好を持ってしまっているのなら、ここに居てはいけないハズだ。
「…………は」
苦笑してしまう。
ほんの数日前までは、こんな事で悩むなんて考えもしなかったのに。
「ほら、そこの少年。のんびりしてたら遅刻しちゃいますよ」
「え?」
ぽん、と肩を叩かれた。
「おはようございます遠野くん。今朝も一緒の時間ですね」
「――――――」
あんまりに咄嗟のことで、喉がつまった。
「あれ、どうかしました? 遠野くん、顔が赤いですけど」
「――――――」
忘れていた。
俺は自分の事ばっかりで、先輩の事を忘れていた。
[#挿絵(img/シエル 16(2).jpg)入る]
―――――昨日の夜。
人を殺していた俺の前にやってきた黒い人影。
血を吸う殺人鬼を追いかけて、あと少しで殺人鬼を仕留められるという所で捕まってしまって、逆にその体を串刺しにされた誰か。
―――――そうして、その後。
俺が、犯そうとしてしまった、体。
「……先輩、その―――」
なんて言っていいのか解らない。
昨日の夜のことを謝らなくっちゃいけないけど、あれが夢なのか現実なのかまだ俺自身判っていない。
それに、何より―――
「はい、なんですか遠野くん?」
「いえ、その……先輩はいつも通りだなって、思って」
―――何より、先輩はいつも通りだ。
だから昨日の夜の出来事はやっぱり夢なのか、それともあの人影は先輩じゃない誰かっていう事になる。
昨日の夜、体を鉄パイプで串刺しにされた人がこうして元気に学校にいるわけはないし……シエル先輩が昨日の人影なら、殺人鬼である俺を目の前にしてこんなふうに笑いかけてくれるはずがない。
「遠野くん? どうしちゃってるんですか、さっきから顔を赤くしたり青くしたり。気分悪そうですけど、もしかして秋風邪ですか?」
「いや、そういうワケじゃないんだけど、その―――」
……昨夜の夢がまだ体に残っていて、先輩の顔を直視できない。
艶かしい素肌の色とか、柔らかい手触りとか。
張りがあって、そのくせ強く握ると柔らかく指が食いこんでいく乳房と、その上にイレズミみたいに流れた赤い血の鮮やかさ。
「―――――う」
……まずい。余計なことをリアルに思い出してしまった。
「遠野くん? ほんとうにさっきからヘンですよ。教室に行く前に保健室でお薬をもらったほうがいいんじゃないですか?」
こっちの様子が気になるのか、先輩は下から覗き込んでくる。
「う―――ちょっと、先輩」
そんなに近くにこられると、昨日の夢を思い出してしまう。
……シエル先輩の顔を目の前にして、カア、と自分の頬が赤くなるのがわかった。
「はあ、重症みたいですね」
呆れたふうに肩をおとして、先輩は腕を伸ばした。
スッ、と先輩の手が額に触れてくる。
柔らかな感触と彼女の体温が、よけい鮮明に感じられた。
「ちょっ、先輩―――嬉しいけど、今はそうゆうの、困るんですけど―――」
「うーん、思ったほど熱はないみたいですね」
先輩はこっちの言い分なんて無視して、俺の額に手を当てている。
――――と。
熱を測る先輩の服の袖から、白い包帯が巻かれているのが見えた。
「――――え?」
……手の平の付け根よりやや下に巻かれた包帯。
そこは、間違いない。
昨夜、夢の中で先輩が貫かれた部分だった。
熱が急速に冷めていく。
現実が、本当に崩れていくような感覚。
「……先輩。その腕の包帯、どうしたんだ」
「あ、これ? 恥ずかしながら、油断してしまった代償なんです。……その、とっくに治っているんですけど、なんとなく気になって包帯ぐらい巻いておこうかなって。たいした事はないですから気にしないでください」
先輩はなんでもないように言った。
……どうしてだろう。
だからこそ、それが嘘だと解ってしまった。
「―――違う。たいした事、あるだろ。昨日の夜に鉄パイプで腕を貫かれたんだから、まだ痛いにきまってる」
「――――――」
とたん、先輩から笑顔が消えた。
「あ――――」
――――どくん。
夢の中の空気が蘇る。
ほんの一瞬だけ、俺のまわりの空気が凍りついた。
「遠野くん、ちょっといいですか?」
言って、先輩は俺の腕を掴んだ。
「―――――――」
……今の自分に返す言葉はない。
シエル先輩は何をいうのでもなく、かといって無言というわけでもなく、俺を校舎裏まで引っ張っていった。
「授業、さぼらせちゃいましたね」
どうゆうつもりなのか、先輩はいつも通りの仕草でそんな事を口にした。
「……………」
俺は何も言えない。
無様にも、まだ一縷の望みにすがろうとしている。
この後、先輩が『ところで昨日の夜って何のことですか、遠野くん』なんて言ってくれることを。
あの夢はやっぱり夢で、先輩はただの先輩だっていうユメを、まだ期待している。
「……先輩、俺は」
「そうですね。その前にコレを見せないといけませんね」
俺の言葉をさえぎって、シエル先輩は服の袖をまくって両腕を見せた。
……包帯にまかれた、痛々しい両腕。
「遠野くんの言うとおり、これは昨夜やられたものです」
「――――――」
誰に、とは聞けない。
それは他ならぬ俺自身によるものなんだから。
ただ、これではっきりとした。
アレは現実で、俺はもう何人も人を殺している殺人鬼だっていう事が。
「……まいった。あれは本当に―――本当にあった事、だったなんて」
「――――――」
先輩は何も言わず、ただじっと俺を見つめている。
俺が。
遠野志貴が殺人鬼だって知っているのに、どうして―――
「――――――――なんで」
この人は、どうして。
「なんで今まで黙ってたんだよ、先輩……! 先輩は俺が人殺しだってわかってたんだろう? ならどうして、今まであんな―――」
平凡な高校生の、先輩と後輩の関係を続けていてくれたのか、俺にはまったく理解できない。
「俺は人殺しだ。昨日の夜だって先輩にあんな事をしたのに、どうしてそんな顔してられるんだよ、先輩は……!」
「そんな顔もなにも、わたしと遠野くんは普通の先輩と後輩なんですから当たり前じゃないですか。言っておきますけど、わたしは遠野くんと夜に会ったことなんてありませんよ」
胸をはって、キッパリと先輩は言った。
「――――はい?」
……夜に出会った事がないって―――昨日、出会うどころか殺し合いまでしたっていうのに……?
「―――何を言ってるんだ、先輩! 今まで、今まで二回も、シエル先輩は俺の殺人を邪魔してるじゃないか……!」
「そうですけど、わたしは遠野くんに剣を向けたことなんかないです」
「な―――向けた事がないって、現に今まで何度も投げつけてきたじゃないか! 俺は確かに見たんだ。それともあの人影は先輩じゃないって、いまさらシラをきるっていうのか……!?」
「まあ、できればシラはきりたいですけど、そこまで見られてしまっては言い訳はきかないでしょ」
先輩の態度はまったく変わらない。
なんていうか、先輩の言葉はいまいち要領をえない。……いや、きっとわざとそういうふうに喋ってる。
――――冷静になってみれば。
こっちだって人の事は言えないけど、普通じゃないっていったら先輩だって普通じゃなかったんだ。
だからこんなふうに、はぐらかすような態度をとっているんだろうか―――?
「先輩、真面目に答えてくれ。俺には解らない事だらけでどうかしそうだ。シエル先輩、あなたはどうしてあんな真似をしているんだ」
「やだ。遠野くん、なんか恐いです」
……どこまで本気なのか、先輩は身を引いた。
なんか、完全にはぐらかされている。
「……先輩、頼むから真面目に答えてくれ。
昨日の夜といいその前といい、先輩はいったいなんなんだ。あんなの、普通の人間にできることじゃないだろ」
「はあ。あんなのって、どういうのですか」
「だから……! こっちのデタラメな動きに平気でついてきて、何本も剣を投げつけてきたじゃないか……! 俺が見てただけでも二十本近くはあったけど、どこにあんな沢山の剣を持ってたっていうんだ! それに―――昨日は」
「はい、昨日はどうしたんでしょうか」
「昨日は……俺に、体を鉄パイプで貫かれた。なのにどうして、今もそんな平気な顔をしてられるんだよ。どう考えても普通じゃないだろ。先輩、ほんとうに人間か……!?」
瞬間。
先輩はひどく哀しそうな顔をして、俯いてしまった。
「……さあ。実をいうと、わたしにも自信はないです。
わたしはただシエルという名前がある、吸血鬼専門のエクソシストですから。遠野くんや他のみなさんのように、常識の中にいられる人間じゃない事ぐらいはわかってます」
「え……吸血鬼って、先輩……?」
「いいです、どうせわたしはよそ者ですから。遠野くんに白い目で見られてもしかたないって覚悟ぐらいしてますよーだ」
そっぽを向いて、先輩はわけのわからない事を言う。
「ちょっと待って。エクソシストってなに言ってんだよ、先輩は!」
「エクソシストはエクソシストです。悪魔祓いの知識を学んだ修道士がなるものなんですけど、遠野くん知らないんですか? よく使われる言葉だから知ってると思ったんですけど。
まあ、わたしは祓うというより退治ですから厳密に言うとエクソシストとは外れています。
そうですね、解りやすく言うと魔法使いです。これまた厳密にいうと大はずれっていうか、正反対の俗称ですけど、遠野くんにはそのほうが解りやすいんじゃないですか?」
「ま、魔法使いって、そんな―――」
バカな、とは言えなかった。
実際、俺はこの人の人間ばなれしたところを目の当たりにしていたから。
……けど、それでも信じられない。
それとも信じたくないんだろうか。
この人があんまりにも優しい先輩だったから、俺は、シエルという人物には先輩のままでいてほしいのか。
「―――うそ、だろ」
……知らず、そんな言葉を口にしていた。
「はい、実はうそなんです。全部でたらめなことなんだから、信じないでください」
……この人は何も語ってくれない。
それこそ、すべて作り話のようにすまそうとするだけで。
「―――違う。アレは、でたらめなんかじゃない」
……俺だって認めたくないけど、認めないといけない。
「…………………」
……どうしてだろう。
先輩は、悲しそうに目を細める。
「……俺だってどうなっているのかわからない。
けど、俺は実際に人を殺そうとして、いつも先輩に助けられてた。何がなんだかわからないけど、それだけは真実なんだ」
「そんなのは夢じゃないですか。遠野くんは平凡な一学生です。わたしが保証します」
「平凡なもんか……! たとえ夢でも――毎夜人殺しを楽しんでいるヤツが日常生活に紛れ込んでるんだぜ? そんなの、俺だってゾッとする……!」
―――そう、人を殺したがっている。
夢の中だけでなく、俺は実際に殺人衝動をもってしまった。
それも見知らぬ他人相手じゃなくて、俺は一番身近な人間である秋葉に対して―――
「……殺人鬼、か。ああ、口にしてやっとわかった。毎夜、先輩が俺のところにやってくるのは当然の事なんだ。こんな危ないヤツは放っておけないもんな。
だから―――だから先輩は俺を殺そうとしてたんだろ……!」
「……………………」
「なんで黙ってるんだ。何か言ってくれよ、先輩!」
「あ―――」
包帯にまかれた先輩の腕を掴んで、強引に引き寄せた。
先輩は俯いたまま、何も言ってくれない。
「……解らない。何一つ解らないんだ、先輩。
俺は自分がどうなっちまっているのか本当に解らない。……だから、頼む。先輩が何か知っているなら教えてくれ……!」
「……………遠野くん。あなたは、本当に自分が殺人鬼だなんて思っているんですか」
「思っているも何も、それ以外ないじゃないか。
……だから、もう楽になりたいんだ。俺自身で解らないから―――先輩の口からはっきりと言ってほしい。
そうすれば、もう―――」
もう、殺されても仕方がない事だって、覚悟ぐらいはできるだろうから。
「……どうして」
「先輩……?」
「どうして……どうしていつもみたいに、そんな馬鹿なって陽気に笑いとばしてくれないんですか。そうすれば、ずっとこのままで過ごせたかもしれないのに。
でも、もうダメなんですね。魔法は、簡単にとけちゃいました」
―――そう言って。
先輩は俺の腕から逃れて、遠く、離れてしまった。
「遠野くん。わたしが知っている事でいいのなら教えてさしあげます。貴方がどんな人間なのか。……今まで、何人の人間を殺してきたのか」
「あ―――――」
少しだけ、眩暈がした。
あれほど覚悟しているって言ったのに、こうはっきりと『殺した』って言われると、胸が痛くなる。
「……いいぜ。教えてくれ、先輩」
「いえ、ここではだめです。今夜、わたしは学校にいます。……その先のことは、遠野くんが決めてください」
……それは、最後の決定権を俺に委ねるという事か。
夜の学校に俺が行けばそれでおしまい。
けど俺が行かなければ、このままいつもの先輩と後輩っていう関係に戻れるっていう、最後の選択―――
「……………」
はっきりと行くと言えず、口を閉ざす。
「……それでは、夜の学校で待っています。
ただ、一つだけ約束してください。この事は妹さんには内緒にする、と」
「え……秋葉に、ですか?」
いや、こっちだって秋葉を巻き込むつもりはないから言われるまでもない。
ない、けど。
どうして先輩は、真剣な顔でそんな事を言ってくるんだろう。
それこそ、先輩にとっての敵は俺なんかじゃなく、秋葉だとでも言うように。
「……先輩。秋葉は、関係ないだろ」
「――遠野くん。彼女には、気をつけてください」
ひどく恐い声でそんな警告を残して、先輩は俺の前から立ち去っていった。
◇◇◇
―――授業が終わって、教室から人気が失せていく。
……今夜、学校でシエル先輩と会うにしても会わないにしても、一度屋敷には戻らないとまずいだろう。
結局、朝の先輩との会話で判った事なんて、あの夢が現実のものだったという事だけだ。
問題は何一つとして解決していないし、俺が殺人鬼なのかさえ、分からない。
「――――――はあ」
深くため息をついて、教室を後にした。
◇◇◇
屋敷の門の前には翡翠の姿があった。
「あれ、翡翠。なにしてるんだ、こんなところで」
「はい、志貴さまのお帰りをお待ちしておりました」
「え……それは嬉しいけど、どうして? もう出迎えはできないって言ってたじゃないか」
「それは秋葉さまと志貴さまがご一緒の時のお話です。……その、姉さんからの提案で、お二人がご一緒の時は見送りも出迎えも控えましょう、と」
「―――――――」
そっか、たしかに秋葉と二人でいる時、翡翠に出迎えられたりするのは気まずいかもしれない。
「琥珀さんもヘンなところで気を回すんだな。
ま、俺としては翡翠に出迎えてもらえるのならそっちのほうが嬉しいんだけど。
ともかくただいま。わざわざありがとう、翡翠」
「はい。お帰りなさいませ、志貴さま」
ふかぶかとおじぎをしてくる翡翠。
……冷静に考えてみると、屋敷の前でメイドさんにおじぎをされるというのは、ものすごく時代錯誤なことなのかもしれない。
「あ。そういえば秋葉のヤツはもういいのか?」
「はい、お昼には体調も戻られたようです。なんでしたら秋葉さまのお部屋に行かれてはいかがですか?」
「そうだな、一度ぐらいは―――」
―――彼女には、気をつけてください。
「――――いや、やっぱりよそう。ちょっと、今はうまく会えない」
……秋葉をどうこう思っているんじゃない。
ただ、シエル先輩があんな事をいうから、今は秋葉と会いづらいだけだ。
「志貴さま、お部屋に戻られないのですか?」
「あ、そうだった。それじゃ中に入ろうか」
胸中の不安を悟られないように明るく振る舞って、屋敷の門をくぐり抜けた。
◇◇◇
……夜になった。
秋葉とは夕食の時に少し話をしただけで、すぐ自分の部屋に戻ってきた。
秋葉の様子は今までとそう変わったふうじゃなく、やっぱり先輩の警告は見当違いのものだろう。
「……行くとしたらそろそろか」
夜の学校で話をする、と先輩は言った。
行けば、俺と先輩の今までの関係はそれでおしまいになる。
けど行かなければ、明日からはまた以前と同じ関係のままでやっていける。
その選択権を、先輩は俺に預けたんだ。
俺は――
「――これ以上、曖昧なままにしてはおけない」
あの夢が本当に現実なのか。
自分は人の血を吸う殺人鬼になってしまったのか。
……それらの問題は、もう曖昧のまま済ませられるものじゃない。
「一応、念のために持っていくか」
弓塚との一件以来、机にしまっていたナイフをポケットにいれる。
翡翠や琥珀さんに見付からないように、そっとロビーまで下りてきた。
あとは音をたてないように玄関を開けるだけなのだが――
俺が玄関を開けるより先に、ぎい、と音をたてて玄関の扉が開いた。
「兄さん? どうしたんです、そんなトコで固まってしまって」
「あ―――秋葉、おまえ」
なんでそこに、と指さす。
「少し庭を散歩していただけですけど、兄さんこそどうしたんですか。まるで今から出かけるような格好じゃないですか」
「……ああ、学校に忘れ物をしたんでとりに行くところだよ」
……秋葉には嘘はつきたくない。
だから最低限の事実だけを口にした。
「ふぅーん、忘れ物ですか」
じーっ、と俺の目を見つめる秋葉。
「まあ、いいですけど。まだ八時前ですし、九時には戻ってこれるわよね、兄さん」
「……そうだな。一時間もあれば戻ってくる」
「わかりました。玄関の鍵は開けておきますから、どうぞ気をつけて行ってきてください」
秋葉は居間のほうに歩いていった。
……おかしいな。ちょっと前までだったらもっと疑われたんだけど、今の秋葉は俺のことを全面的に信頼しているみたいだった。
……その、やっぱり昨日の中庭での出来事の影響だろうか。
秋葉が俺の事を信頼してくれるように、俺も秋葉に信頼されていると思うと、すごく嬉しい。
―――彼女には気をつけてください。
「―――――っ」
先輩の言葉が、呪いのように思い出される。
「……とにかく学校に行って、早く戻ってこよう」
それも先輩に会えばはっきりする筈だ。
よし、と覚悟をきめて玄関の扉に手をかけた。
◇◇◇
――――校舎は静まりかえっている。
うちの学校の下校時刻は六時半で、夜の見まわりをするような教師も用務員もいない。
この時間、校舎は完全に無人の領域になっている。
……あたりは、本当に静かだ。
物音一つしなくて、自分の心臓の鼓動が、このあたりで唯一の音だった。
「……先輩、校舎の中かな……」
そういえば学校で待つって言われたけど、どこで待っているかは聞いていなかった。
……いや、先輩が意図的に口にしなかったというのが正しいだろう。
「……しょうがないな。てきとうな窓の鍵を切って中に入るか」
メガネを外す。
「……く」
軽い頭痛をともなって、視界に『線』が浮かび上がる。
物の壊れやすい『線』。
そこを通すだけでモノを切断してしまうもの。
「……弓塚の時は、ただ必死だったけど……」
こうして冷静になってメガネを外すと、自分の眼の異常さを再認識してしまう。
「……さて、線が鍵にある窓は、と……」
何でも切断できるといっても、切ることができるのは『線』が視えているところだけだ。
壁や窓そのものを切ってしまうと明日になって大事になる。切るものは最小限にとどめておかないといけない。
「おっ、ちょうどあった。これで……よし、と」
スッ、とバターを切るような滑らかさで鍵を断って、廊下の窓を開けた。
―――――どくん。
窓から廊下に入ったとたん、胸が苦しくなった。
「う………………」
なんだろう。
ひどく。
――――どくん。
ひどく、不吉な、空気がある。
「……先輩……どこにいるんだ、ろう」
呟く事さえ、難しい。
どくん、という心音。
一際大きく、まるで血液を逆流させているような激しさで太鼓を打つ。
「あ………れ?」
見れば自分の指先が震えている。
喉元には吐き気。
メガネを外しているからとはいえ、頭痛は秒刻みで強さを増していっている。
「なんだ……なにか、おかしい」
わからない。
ただ校舎の中の空気は、外の空気とは違いすぎる。
しいて言うのなら、活気がない。
外の生々しい現実感に比べて、廊下の中の空気は悲しいほど衰弱してしまっている。
「………けど、知ってる………」
こんな厭な空気、初めて吸うのに、知っている。
だって見てた。
毎夜、夢の中で。
俺が人を殺して血を吸う時の空気は、いつも―――こんな、死臭で満ちていたから。
「え――――?」
音。背後で、何かが倒れる音がした。
「先輩……?」
振りかえる。
そこに、 いたのは。
見覚えのない男性だった。
「うっ………!」
吐きそうになって、口元を手で押さえた。
男性……見覚えのない男の体中に、『線』が走っている。
まるで体中の血管が浮かび上がっているような奇怪さ。
「―――――ギ」
男はゆっくりと、それこそスローモーションのように、こっちへと歩いてくる。
「あの――――もしもし?」
意を決して話しかけた。
……たしかに奇怪だけど、それは俺の眼のほうが奇怪なんだ。
あんな、体中に『線』をもった人間は初めて見たけど、ともかく線さえなければまともな人間なんだから。
「―――ギ―――ギギ」
男は何か言っている。
けど、それは声にも音にもなっていなくて、よく聞き取れない。
男は歩み寄ってくる。
―――ぞくりと、する。
どうしてか、この人が一歩近づくたびに寒気が走る。
これは――
「ギ――――」
男が、もう目の前にいる。
「ちょっ、ちょっと待って、あなた一体だ――」
誰ですか、なんていう暇はなかった。
「あっ――――!」
だん、という衝撃。
男は近寄ってくるやいなや、片手でなぎ払うように俺の体を弾き飛ばした。
「あ――――ぐ」
背中。弾き飛ばされて、背中を壁に打ちつけた。
あんまりに突然の事と、激しい痛みで目がクラクラする。
「痛っ……なにするんですか、いきなり……!」
立ちあがって男を睨む。
「――――――」
声が、止まった。
アレ。アレは、なんだ。
今目の前にいるのは、なんだ。
さっきまでの男か。これが生きている人間か。
いや、肝心なのはそんな瑣末な事じゃなくて―――
視力が回復して、男の姿がもとに戻る。
……そう、元に戻った。
俺の目はモノの『死』を見るのだと、先生は言った。
ああ、まったくその通りだ。
だって、なぜなら―――
「おまえ、は―――」
「ギ―――ギギ、ギギギ」
男が何かを口にする。
言葉にならないのは当たり前だ。だって喉が半分以上なかった。鋭い牙で食いちぎられていた。だから、まともに喋れるはずがない。
「どうして―――昨日、殺したはず、なのに」
「ギ―――ギギギギギ」
肩をふるわせて、男は笑っているふうに見えた。
けど、間違いはない。
いま目の前にいる死体は、昨日、夢の中で、俺が殺した男だった。
「あ――――」
男がゆっくりと近寄ってくる。
「あ――――」
何も考えられない。ただ、死の塊が近寄ってくる。
「あ――――あ」
ずきり、という痛み。
それで気がついた。さっき男に弾かれた時、胸の側面を殴られたんだ。
ずきり、ずきり。
体が痛い。筋肉が痛いとかいうレベルじゃなくて、骨そのものが軋んでいるような感じ。
今ので、確実にあばら骨がどうかしてしまった。
「ギ―――ギギギギギギ…………!」
男が腕を振り上げてくる。
それで、麻痺した頭がようやく理解してくれた。
―――間違いない。
コイツは、俺を殺したがっているらしい。
「ひ―――!」
振り下ろされてくる男の腕を避けた。
べき、というイヤな音。
男の腕が壁に突き刺さる。……コンクリートの壁に、本当に突き刺さっている。
よほど手加減というものをしなかったらしい。
コンクリートの壁を崩す、なんていう代償に自分の骨を折ってしまっているんだから。
「あ―――ああ」
それは、酷く滑稽で、信じがたい世界だった。
夢なら。夢なら、ここで覚めてほしいって思うぐらい。
「ギ―――」
男が俺に振り向く。
「あああ、あ―――」
べき、という音。
男は腕を壁に突き刺さしたまま、俺に近寄ってくる。
腕は。壁に突き刺さったまま、体からべき、と千切れた。
「ギ、ギギ、ギ」
笑いながら、やってくる。
「あ―――ああああぁあ!」
足が動く。
もう、一秒だってこの場所にはいられなかった。
「はあ、はあ、はあ………!」
がくん、と膝から床に崩れ落ちる。
男……あの死体は追ってこない。あの速度なら、とうてい追いついてはこれない、はずだ。
「はあ、はあ、はあ………!」
胸が痛む。
呼吸をするたびにあばら骨が砕けそうだ。
「はあ……はあ……は……あ」
なんとか呼吸を整える。
なんとか。
なんとかまともに戻ろうと、必死に気持ちを落ちつかせる。
考えろ。よく見て、そのあとに考えろって先生に教わったはずだ。
だからよく考えないと。
たとえアレが死体で。
俺が殺してしまった相手だとしても。
「は―――考えられるか、そんなのモノ……!」
あばらの痛みも無視して、ただそう叫んだ。
わからない。
わかるはずがない。
自分が殺した相手が、今こうして自分を殺そうとしている。
自分が殺したはずの相手が、生き返って復讐をしにきている。
―――そんなものは、ただの悪夢だ。
現実ではありえない、常識から外れている悪夢。
けど、いまさら何を。
俺はとっくの昔に、その悪夢にどっぷりと叩きこまれているじゃないか―――
「く―――そ」
なんとか、なんとか呼吸を整えて、逃げないと。
この校舎から外に出て、屋敷に戻って、秋葉にただいまって言わないと―――
「え――――?」
背後から音がした。
「―――まさか」
追いつかれた―――? いや、そんなハズはない。あんなゆっくりしたヤツがそう簡単に追いついてくるはずがない。
階段を覗きこむ。
……あがってくる人影はない。
さっきの物音は気のせい―――
「あ―――っう――――」
また、やられた。
こっちが階段で振り向いた時、アレはもう二階にあがっていたらしい。
「逃げ―――ないと」
痛む体にムチをうって立ちあがる。
「つっ―――!?」
がくん、とそのまま倒れこんだ。
弾き飛ばされて足を打ってしまったらしい。
右足にまったく力が入らない。
立ちあがる事も、逃げることも、できない。
「あ――――」
足音が近づいてくる。
―――どくん。
かつん、かつん、という、感情のない渇いた音。
―――どくん。
漂ってくるのは、死臭だろうか。
―――どくん。
心臓の音が高い。理性は、とっくにどうかしている。
―――どくん。
近寄ってくる。
俺を殺そうと、死体がやってくる。
「あ――――あ」
ただ、恐ろしかった。
「ギ………」
やってくる。
穴だらけの体で、俺を殺そうとやってくる。
あと一歩。
それで、さっき壁を刺したように、俺の胸を貫いておしまいになる。
「あ――――は」
その極限で、ふと、疑問に思った。
俺は何を恐れているのか、と。
殺した相手が生きていることが恐ろしいのか。
いや、違う。
ならば今から殺されようとしていることが恐ろしいのか。
それも、違う。
思い出されるのは、ただ一つ。
夢の中、愉悦のみでヒトを殺す時の熱さだけ。
……その罪が、恐ろしい。
俺は人を殺そうとする自分自身の罪が恐い。
「く――――はは、は」
なんだ、それなら問題なんてなにもなかった。
この相手はすでに死んでいる。なら、恐れる事など一つもない。
死者を死者に戻すことには何の罪悪もないハズだ。
なら。
もう一度殺す事に、一体なにをためらう必要があるのだろう―――?
「ギ―――!」
死体が腕を振り上げる。
俺はポケットからナイフを取り出す。
―――そのあとは、本当にあっけなかった。
夢の中で何度も凶行を重ねたおかげか、それともやはりあの凶行は自分の手によるものなのか。
俺の腕は嘘みたいに的確に動き、本物の殺人鬼のように鮮やかに死者を仕留めた。
どさり、どさり、どさり。
たった今八つに解体した肉片が、廊下に転がっていく。
「あ――――は」
ぞくりと、した。
肉を断つ感触。命を絶つ陥落。
返り血はない。
ただ、ナイフに赤い血がこびりついているだけで、俺自身には何もない。
「――――――」
ぞくりと、してる。
背中を這う感覚は痛みと寒さ。
得る物などない。
ただ、ナイフに赤い血がこびりついているだけで、得たものなんて、何一つ――――
「―――――は」
ただ、吐き気がする。
気がふれてしまったのか。
目の前に散らばる残骸を見て、切開してしまいそうなほど、胸がいたかった。
夜の校舎。
月明かりの下で、嗤った。
「……は、」
「……ははは、」
「…………あはははははははははははは!」
いつまでも笑い続ける。
おかしいんじゃない。
こみ上げてくるものは後悔しかない。
殺した。どんなに理由があうと、俺は、また殺して、しまった。
――――彼に罪があったわけではないのに。
この人にも、自分の人生というものがあったハズなのに。
「はは、ははは、はははははははは…………!」
耳障りな笑い声。
聞き届ける自分の耳か、笑い続ける自分の喉を殺したかった。
けど笑い続けるしかない。
せめて、笑わないと。
何か一つでも人間らしいコトをしていないと、壊れてしまう。
「はは、は、はは、は――――」
おかしくて笑っているんじゃない。
かろうじて正気を保つため、笑っていた。
そうでもして自分を卑下しなければならないほど、自分の理性が保てなかった。
「は―――ははは、は…………は」
……いっそ、泣いてしまえばよかった。
だがそんな偽善は許されまい。
なにが―――死者を殺す事は罪じゃない、だ。
「は―――は――――あ」
……変わらない。
生きていようが死んでいようが、その人を殺そうとする意思にかわりはない。
死者であるからって、その活動している命を絶つ感触が鈍くなるなんて事さえない。
「――――は」
自分の浅はかさに怒りすら湧いてこない。
たとえ死人であろうと、人を殺す、という事はそれだけで罪なんだ。
俺が、遠野志貴がまっとうな人間であろうとすればするほど、その罪が背負いきれなくなるほどに。
……弓塚との事を思い出す。
彼女はあれが一番正しいといったけど、それでもやっぱり、彼女は生きていたかったはずだ。
死が救いになるなんて事、生きている側の勝手な願いだ。
死は。
ただそれだけで、こんなにも、痛い。
――――誰かがやってくる。
今度こそ先輩だろう。
「―――――く」
壁によりかかりながら、なんとか立ちあがった。
どくん、どくん。
心臓はまだ激しく活動している。
俺の心は半ば死んでいるっていうのに、体はその限界まで生きようと活動する。
……なんて、生き汚さだろう。
こんなに死は辛いものだって、八年前も、弓塚の時も、この瞬間も思い知らされたっていうのに。
遠野志貴の体は、それでも生きようと努力している。
「……なんて、無様――――」
けど、無様なのはどちらなのか。
自分が殺人鬼と判ってしまったから死ぬべきだと思う心か。
それとも、たとえ他者を殺してでも自分が生き延びようとする体の方か。
……おそらくは心だろう。
善悪はともかく、俺の心は、こんなも脆かったんだから。
「――――来た」
呼吸を整えて、ナイフをしっかりと握る。
打ちつけた右足がかすかに痛む。
痛覚が回復したっていう事は動くっていう事だ。
これで戦うコトぐらいは出来る。
そうして、シエル先輩が月明かりの下に現れた。
「……驚いたな。夢の中でも、そんな物騒な格好はしてなかったのに」
「はい。これは、吸血鬼を殺す時の武装ですから」
――――ぞくりとする。
先輩の目と、その声を聞いただけで理解できた。
この人は、一切の迷いもなく俺を殺すつもりなんだって。
「……そうか。俺を殺すつもりでこの場所に呼んだんだ、先輩は」
「―――――――――」
先輩は答えない。
……きっと、答えるまでもない事だからだろう。
「ひどいな。俺は殺人鬼じゃないって言ってくれたのに、心の中では俺がそうだって判ってたんだ」
「―――はい。この街に巣くっている吸血鬼は遠野志貴だという事は、初めから解っていましたから」
「初めから、わかってた……?」
「ええ。だからわたしはこの学校にやってきました。初めから、貴方を監視するために」
言って、彼女は短刀を抜いた。
俺のナイフの二倍近い刀身と幅をした、確実に人を殺すための凶器を。
「―――先輩、あなたがなんなのか俺には解らない。知っても、俺には関わりのない事なんだろ」
「そうですね。貴方には関わりのない出来事です、これは」
「……そう。でもさ、悪いけど俺は殺されないぜ。考えてみたら、俺は死にたくないから、弓塚を殺したんだ。
なら―――もう簡単には死ねない。あなたが俺を殺すっていうんなら、俺も―――」
「結構です。お互い同意の上での殺し合いでしたら、罪はありますが罰はありません。貴方がその気になってくれていて、助かりました」
ざ、という音。
いつのまにか、先輩の体がすぐ間近に迫っていた。
「それでは遠野くん。昨夜の続きを始めましょう」
瞬間。
飛び散る火花を思わせるスピードで、シエル先輩が突進してきた。
先輩の行動は、すごくシンプルだった。
俺の目の前まで踏みこんできて、ただ、短刀を横一線に薙いだだけ。
「っ………!」
とっさに防ぎに入ったナイフごと、体が弾かれる。
「っ――――!」
よろめく体。
後ろに倒れそうになる体を必死に堪えて、とにかく先輩の姿を――――
「な―――――」
瞬間、思考が凍った。
廊下に先輩の姿はない。
たった一瞬。
俺のナイフと先輩の短刀がぶつかっただけなのに、先輩の姿は忽然と消えてしまっ―――
「え―――――?」
―――それは、ただの偶然だったと思う。
何の予兆もなく、ただ真横から風を感じて、視線を動かした。
窓ガラスから差し込む青い月光を明かりに。
階段を駆け上がるように壁を駆けていた、先輩のシルエットが見えた。
「―――――上!?」
そう知覚するのと、身を屈めるのは同時だった。
「―――――――!」
犬のように四つんばいになって前に逃げる。
振りかえった先には、ちょうど天井から落下している先輩の姿が見えた。
……俺に短刀を振るった後、そのまま壁を駆けあがって天井から俺の頭を狙ったのか。その、ジェットコースターのループじみた無茶な運動は、惚れ惚れするぐらい美しかった。
例えそれが、俺の後頭部を串刺しにしようとした一撃であったとしても。
「――――――」
先ほどの閃光のような動きが嘘のように、先輩は動きを止めた。
今の一撃を俺がかわした事が意外だったのか。
青い眼が遠野志貴という生き物の性能を確認する。
その、機械のように感情のない目。
かちり、と。
次の行動のためにゼンマイを巻くような、緊張感。
「―――――――」
息をする事さえ忘れてしまう。
あの目に睨まれていると、動くことができない。
そんな余分な隙を見せた途端、あの短刀が俺の胸に突き刺さるだろう――――
「―――――――――っ」
どくん、どくん、という心音だけが響く。
俺は自分から動くことができず、先輩はただ俺を凝視しているだけだ。
……まずい。
このままだと、いずれ緊張に耐えきれなくなって自分から何かをするハメになる。
そんな事になれば、先輩は確実に俺を仕留めてしまう。
「――――――――」
何もできず、ただナイフを強く握り締める。
その時。
機械のようだった先輩が、唐突に口を開けた。
「――――驚きました。
確かに貴方は殺し合いに長けている。相手の気配にではなく、自身の死の気配に反応するなんて突き抜けている。
貴方本人が記憶していなくとも、貴方はそういった訓練をしていたのかもしれませんね」
眉一つ動かさず、先輩は言葉を紡ぐ。
「殺される、という防衛本能が予知にまで達している相手には暗殺の類は通じない。
遠野くん相手に死角からの奇襲なんて、無意味でした」
はあ、と。
まるで哀れむように、先輩は吐息を漏らす。
「――――――?」
「可哀想に。痛みを感じる前に意識を断つ事ができないなら、あとは力任せに殺すだけです。
例え死を予知できたとしても、遠野くんの運動能力ならどうという事はありません」
ぎしり。
「――――顔色が悪いですね、遠野くん」
どくん。
「さっきから感じているんでしょう? 心臓を鷲掴みにされているような嘔吐感を」
ぞくん。
「遠野くんは敏感なんですね。つまりそれが」
ぞくり。
「自分が殺される、という、あらゆる生物が持つ本能的な衝動です」
言って。
彼女は、真正面から切りかかってきた。
「くっ…………!!」
先輩の短刀をナイフで防ぐ。
ドン、という衝撃。
無造作に踏みこんできた先輩の一撃は、まるで大きなハンマーを撲ちつけてきたような衝撃だった。
ギィィィン、とナイフが悲鳴をあげる。
「っっっっ…………!」
指先が痺れる。
だが、そんな事を気にしている余裕なぞない。
ダン、という足音。
「は、ぐっ…………!?」
口から酸素が漏れる。
先輩は俺の足の隙間に踏み込んできた。
体と体が衝突するほどの距離。その勢いのまま、先輩は肩を俺の胸へと叩きつけた。
よろめく体。
ナイフを持つ力が弱まる。
そこへ、間髪入れずに二撃目がやってきた。
下から掬い上げるような短刀の軌跡。
なんとかナイフで防いだものの、勢いは殺しきれなかった。
ざく、と。
イヤな音が、した。
「あ――――――――」
熱い。どこかを切られた。ざっくりと落ちた肉と、血の熱さ。
それを感じる間さえなく。
三撃目が、入ってきた。
心臓を狙ったのか。
咄嗟に体を捻ったおかげで、短刀はアバラの骨と、そのあたりの肉を削いだ。
「がっ、あぁあああああ………!!!!」
悲鳴。
殺されかけたという寒気より。
ただ、痛みによる怖れだけが走った。
そこへ。
容赦のない四撃目が迫ってきた。
――――アバラをやられた。
ナイフを持つ腕には片腕分しか力が入らない。
それでは先輩の短刀を弾くのは不可能だ。
「くっ――――――!」
よろめく足で、なんとか後ろに跳ぶ。
離れる間合い。
先輩はくるり、と背中を見せて――
ザン、と。
槍のような回し蹴りを、俺の腹に叩きこんだ。
「は――――アッ………!!!!!」
背中から廊下に倒れる。
痛がっている暇なんてない。
すぐに立ちあがらないと殺される。
だが遅い。
体を起こした瞬間、目の前に先輩の姿があった。
その短刀が俺の心臓に打ち下ろされる。
「――――――!」
ただ、夢中だった。
夢中で、その一撃に対抗するように、ナイフを先輩の首元に構える。
―――とたん。
ぴたりと、先輩の短刀は停止した。
「はっ―――」
呼吸。呼吸が、荒い。
「はっ、はっ、はっ、は――――」
自分の喉元に短刀をつきつけられている。
先輩が少し腕に力をこめれば、間違いなく即死するこの距離。
「は―――あ」
その事実。
それだけで、気がふれそうに、なる。
「―――終わりです。たとえ貴方がそのナイフをわたしの首に刺しても、わたしは死にません」
「な―――なに、を―――」
「貴方も見たと言ったでしょう。鉄パイプで体を刺されても、わたしの体はすぐに傷を治してしまう。 ……たしかに首を貫かれればしばらくは死んでいますが、その前に貴方を殺します」
「―――――な」
彼女の言葉に嘘はない。
……そんなつまらない嘘をつける状況じゃない。
つまり。
こうしてお互いの命を握って牽制しあっている状況には、なんの意味もないっていう事か。
「死なない―――だって―――?」
……ああ、それは本当かもしれない。
現にあれだけの傷を受けておいて、先輩は平気な顔をして学校に来ていた。
「―――く」
けど、そんなモノ、知ったことか。
先輩の体には『死』が視える。
ひどく他の人間とは違うけれど、先輩の死はたしかに視える。
なら、殺すことは容易い。
この『線』に例外などありえない。
「信じられないのでしたら、どうぞナイフを動かしてけっこうです。……まあどのみち、わたしを殺す以外に貴方に助かる道はありません。ここで試してみるのもいいんじゃないですか?」
「――――――」
……挑発してる。
殺せるものなら殺してみろ、と挑発している。
けど先輩、その挑発は命取りなんだ。
他のヤツならともかく、俺は―――本当に、あなたを殺す事ができるんだから。
――――どくん、という鼓動。
視線をさげれば、胸には短刀がつきつけられている。
……殺す、しかない。
死にたくないんだから。
もう簡単に死ぬわけにはいかないって解ったんだから、ここで、殺されるわけにはいかない。
いや、そもそも単純に。
俺は、死にたくなんか、ない。
――――どくん、という鼓動。
なら答えは一つしかない。
殺せ。
そのナイフでシエルの首筋に見える『線』を切断して、殺せ。
生きたいのなら殺せ。
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ――
はぁ はぁ はぁ。
うまく呼吸ができない。
俺の生き死にになんら興味がなさそうな先輩の目。
ピタリと心臓の前で停止した短刀。
一秒後には確実に殺されてしまう状態。
「おかしいですね。もう何人も殺してきたクセに、自分が殺されるのは恐いなんて。死にたくないのなら、そのナイフを突き出せば助かるかもしれないのに」
「――――――――」
先輩の吐息が瞳に触れた。
くらりと。
その言葉に眩暈がする。
「さよなら。遠野くんがやらないのなら、わたしが先にやるだけです」
言って。
先輩の腕に力が篭った。
「―――――――――」
それで終わる。
遠野志貴はこれで死ぬ。
それがイヤなら。
先輩より早く、このナイフを突き刺すだけ―――!
「ぐっ――――!」
指先に力が篭る。
けど、それだけだった。
どうしても腕が動いてくれない。
……死にたくはない。自分が殺人鬼だからって殺されてもいい、なんて事もない。
けどシエル先輩を殺さなければ俺が殺される。
だから今は、殺したくないとしても、やらなければいけないって解っている。
なのにどうして。
俺の腕は、ぴくりとも動いてくれないのか――――
[#挿絵(img/秋葉 27(2).jpg)入る]
不意に。
わたし、もっと遠野くんと話したかった。
だから、いま死んじゃうのはホントにイヤだよ。
そんな、ことを。
でも、きっとこれが一番いい方法だったんだよね。
―――だから、泣かないで遠野くん。あなたは正しい事をしてくれたんだから。
身勝手に、思い、出した。
うん、ばいばい遠野くん。
ありがとう―――それと、ごめんね。
―――――ああ。
そういう、ことか。
「どうして抵抗しないんですか」
先輩の声が聞こえる。
短刀は胸に突きつけられたままで、ずっ、と服を裂いて肉に食い込んでくる。
「このままだと死にますよ。なのにどうして、そのナイフを動かさないんですか」
そんなコトは。
「………俺には、できない」
「どうして。今まで、何人も殺してきたのに?」
もう、絶対に。
「………俺には、できない」
「たった今、そこの死体を殺したじゃないですか。一度してしまえば二度目も三度目もかわりません。やらなければ―――わたしは、このまま貴方を殺します」
……彼女は本気だ。
きっと一秒後には遠野志貴という殺人鬼を殺すだろう。
それが恐くないワケがない。
ああ、それでも―――
「俺には、人は、殺せない―――」
言って、涙が流れた。
何が悲しいというわけでも、誰が哀しいというわけでもなく。
ただ、頬を伝う涙が止まらなかった。
どのくらいの時間が経ったのか。
ただ虚ろになっていた意識は、
「―――ふう。ようやく解ってくれましたね、遠野くん」
なんていう、間の抜けた先輩の声で戻ってきた。
「え―――先、輩………?」
「ほら、これで納得がいったでしょう? 貴方は殺人鬼なんかじゃありません。今の言葉が遠野くんの真実じゃないですか。
だから、こんなことは夢なんです。遠野くんは遠野くん。とても自然で、思いやりがあって、こんなことで泣いてしまうぐらい優しいひと。わたしが憧れた、どこにでもいるようなふつうの男の子なんですから」
言いながら、先輩は短剣をしまった。
さっきまでの殺気はどこにいったのか、先輩は本当にいつもの優しい先輩に戻っていた。
「どうして……? 俺を殺すためにきたんじゃないんですか、先輩は」
「ええ、遠野くんのそういった自暴自棄な心を殺すためにきたんです。貴方は殺人鬼なんかじゃない。けどわたしがいくら言っても信じてくれないようでしたから、ちょっと追い詰めて体で解らせてあげようかなって」
「な―――体で解らせるって、それじゃあ、さっきまでのは全部芝居だったっていうのか……!?」
「いえ、わたしは本気でしたよ。遠野くんが殺人鬼だっていう可能性も否定はできませんでしたから手は抜きませんでしたし、思いっきりやったほうがわたしも楽しいですから。
ほら、好きな子ほどいじめたくなるっていうアレですね」
先輩は笑顔でとんでもないことを言う。
「は――――」
―――それで、気が抜けた。
さっきまで色々と思いつめていた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「はは、は――――」
なんだかおかしくて、笑ってしまった。
先輩の言うとおり、あれほど自分が殺人鬼なんじゃないのかって恐れてた不安が消えている。
「……ああ、そうだね。たしかにようやく目が覚めた気がする。けどひどいな先輩。今日のは、いくらなんでも厳しすぎる」
「はい。今まで甘やかしてたぶん、帳尻を合わせたんです」
微笑んで、先輩は手を差し出してきた。
先輩の手を握り返す。
よっ、と声をかけて先輩は俺の体を立ちあがらせてくれた。
校舎からグラウンドに出る。
先輩につけられた傷は、先輩が治療してくれた。 ……どんなカラクリなのか、塗り薬らしきものを塗られた後、先輩が手を当てるだけで傷が塞がってくれたのだ。
「さて、それじゃあわたしの知っている事を教えてあげる約束でしたね。さ、何が聞きたいんですか、遠野くんは」
「なにって―――そりゃあ決まってるだろ。俺が夢で見てることの全てだよ。どうして俺が人を殺す夢なんか見るのか、いったい先輩はどんな人なのか、わからない事だらけだから」
「はあ、そういう事ですか。それじゃあまず遠野くんが見ているという夢のことから話しましょう。
簡単に言ってしまうとですね、遠野くんが見ている夢は遠野くんの夢ではないと思います。
遠野くん、人殺しの夢を見るって言ってましたけど、その夢って『誰かが人を殺している所』を見ているだけの夢なんじゃないですか?」
「……そりゃあそうだよ。夢の中の事を自分でどうにかできたら、人を殺したりするもんか」
「ほら、だからそういう事なんです。遠野くんはですね、眠ってしまうと殺人鬼の意識に同化してしまうんですよ。あ、同化っていうよりは取りこまれている、というのが正しいんでしょうか。
ですから遠野くんの視点は殺人鬼の物と同じでありながら、どこかその光景を遠くから眺めているような感覚じゃなかったですか?」
「………………」
それは―――その通りだ。
今まで何度も殺人の夢を見てきたけど、俺は結局、そういった『場面』を見てきたにすぎなかった。
「けど、どうしてそんなヤツと俺の意識とやらが一緒になるんだ。それ、なにか原因でもあるんですか」
「……ええ、理由ははっきりしています。けど、それはもう少し後で説明させてください。その前に遠野くんが殺人鬼と呼んでいるモノがなんなのかを話さないといけませんから。
たしかに、アレは殺人鬼ではあります。けどその性質は吸血鬼と呼ばれるものです」
「……そりゃあまあ、たしかに吸血鬼っていうほうがいいんだろうね、アレは」
夢の中での光景を思い出す。
アレは殺人を愉しんでいたのと同時に、やはり人の血肉を食らっていたんだから。
「はい。わたしはその吸血鬼を処理するためにこの街にきた人間です。
……詳しくは話せませんが、世界には様々な防衛機能が存在します。法律を破る犯罪者を捕えるために警察機構があるように、人間の枠から外れた異端者を処理する組織も多く存在するんです。
……わたしは、そういった組織の一人だと思ってください」
「……吸血鬼を、処理するために……?」
「そうです。自らの肉体を維持するために同じ生物の血液を搾取して生き続けるモノ。そうやって存在しているかぎりは不老である停止した生命。
そういった異端者を掃討するのがわたしの役割ですから。
わたしが毎夜、遠野くんが見ていた夢の中で吸血鬼と戦っていたのはそういった理由からです」
「――――――」
言葉がない。
正直、俺にはとうてい理解できない世界の話だったから。
「……あれ。先輩はその吸血鬼と何度か戦っているんだよな?」
「今まで二回ほどです。一度目は逃げられて、二回目は痛みわけという所でしたけど」
「だろ? ならその吸血鬼ってヤツの顔を見ているんじゃないか。それなら初めから俺が吸血鬼じゃないって分かってたはずじゃないのか?」
「……いえ。残念ながら、それでは確証がとれないんです。吸血種の中には体格を自在に変化させられる者もいますから、外見だけでは特定はできません」
「……そうなのか。厄介な話だね、それは。
けど、これではっきりしたよ。随分と回り道をしたけど、その吸血鬼っていうヤツが通り魔殺人をしているやつなんだな?」
「はい。通り魔殺人の犠牲者として報道されている遺体は、ただの食べ残しにすぎません。
実際は血肉を全て奪われたか、それとも血を吸われて同じように吸血鬼になってしまったかしていますから、遺体なんてそもそも残らないんです」
「……ちょっと待って。血を吸われて吸血鬼になる人間なんていたら、そんなの倍々ゲームじゃないか」
「いえ、血を吸われ、殺されても死なずに『残れる』人間というのは限られているんです。大抵の人間は肉体から魂を剥離できず、肉体の死とともに魂も死滅してしまいますから。
死なずに『残れる』人間というのは百人に一人いるかどうかの確率です。
……例えば、貴方の知っている弓塚さつきのように」
「な―――先輩、先輩は弓塚のことを知ってたのか」
「いえ、わたしが駆けつけた時には、もう貴方が彼女を消滅させている所でしたから。
……ごめんなさい。あの時、遠野くんが傷ついているって分かっていたのに助けてあげられなかった」
「――――いや、そんな事はいいんだ。弓塚との事は、あれで一番よかったって思いたい。
……けど、そうか。弓塚だって初めから吸血鬼だったわけじゃないんだもんな。あいつはその吸血鬼に襲われて、あんな体になっちまったんだ―――」
「そうでしょうね。
ただ、弓塚さんのような人は他にはいないと思います。吸血鬼として活動できるようになるには、長い年月が必要なんです。
彼女がすぐに活動できたところを見ると、弓塚さつきは生まれつき霊的な想念が優れていたのでしょう」
「へ……? 霊的な想念って、なに?」
「人間が胎児として形成される時に定められる脳の機能範囲―――とも言われています。遠野くんのような『能力者』は、一般では覚醒しない脳の器官を使っているんです。
弓塚さつきも同様です。彼女は生まれつき『適していた』んでしょう。だから親元である吸血鬼の支配は受けないで、独立した吸血種として活動できた」
俺には先輩の説明はわからない。
ただ、ひっかかる事が一つあっただけだ。
「先輩。俺が能力者とか言ってたけど、先輩は俺の目の事を知ってるのか……?」
「目、ですか? いえ、遠野くんがどんな目をしているかは知りませんけど、貴方が特異な能力を持っている事はわかってますよ。
遠野くんの血筋は特別な血筋ですから。わたしのように修練をして身につけた魔術ではなく、貴方は生まれ持って『能力』を身につけている。
そういうのを『超能力』っていうんです。一般の人間は脳の回線が一つしか開いてないんですけど、遠野くんはその他にもう一つ、わたしたちでは見る事のできない回線が開いているんでしょうね」
「……特別な血筋って、それは遠野の血筋が特別っていう事……?」
「そうですね、遠野の血筋も旧いものですから。
ですが、過去の記録をみると遠野の人間の特異能力はみんなバラバラなんです。単純な感応能力しかない者や、人間としてのカタチを保てないで殺人を犯してしまう者、能力こそあるものの一生目覚めることなく過ごせる者。
……それも代を重ねるごとに薄れているようですから、今代ではそう大した能力者はでてこないでしょう」
「――――」
呆然とする。
先輩の言うことが本当だとしたら、俺だけじゃなくて秋葉にも、俺の目みたいに『壊れた』部分があるっていうんだろうか……?
「話を戻しましょうか。
遠野くん、さっき言ってましたよね。どうして自分の意識が吸血鬼のものと混濁してしまうのかって」
「あ……ああ、たしかに訊いたけど」
「それも遠野くんの能力に関係しているんだと思います。
貴方の脳は他の人間より回線が広いんです。貴方はその回線の広さゆえに、眠りにおちて自我が薄れてしまうと、自分と関わりのあるモノ、繋がりやすい脳を持つ吸血鬼の意識に吸い寄せられてしまっているんだと思います」
「は……? 先輩、繋がりやすい脳ってなんなんだ。その、作りが似てるとかそういったワケじゃないんだろ?」
「いえ、その通りの意味ですよ。
遠野くんは双子が同一体験をする、という話を聞いた事がありませんか?」
「双子の同一体験……?」
「ほら、兄のほうが傷を負うと、遠く離れた所にいる弟も同じ痛みを感じる、という話です。遠野くんの夢はこれと似ているんだと思います。
もともと、一卵性の双生児というものは一つの遺伝子情報から作られる二つの人間の肉体です。
彼らはまったく同じ規格で作られた肉体のパーツですから、片一方の脳が感じた痛みを、もう片一方の脳が受信する、というのはありえない話ではありません。
脳は受信と送信をつかさどる器官です。私たちは一人一人が違った設計図で作られた脳を持つから、他人に自分の感覚を伝えるためには言葉で送信しなくてはいけません。けれどまったく同じ規格の脳であるのなら、言葉にしなくとも意思は伝わってしまう。
さきほどの表現でいうのなら、脳の回線があっているから電波を受信してしまうんです。
遠野くんの場合、人より優れた脳があるから、自分に近い肉体に繋がってしまうんですね」
「……まさか。俺には双子なんて、いない」
「ええ、解っています。けど遠野くんの場合は双子である必要なんてない。
意識が意識に飲まれる、同化する、という事はより近い脳の規格をしているという事でしょう。遠野くんの場合、脳の回線が多いんですから一卵性の双子である必要なんかないんです。
単純に同じルーツ、似たような身体をしていれば、おそらくはその相手に取りこまれてしまう。
それは同じ母親と父親をもつ兄弟でもかまいません。……まあ、特例として他人同士でも臓器移植をしてお互いの『肉体』を分け合っていると引きずられてしまうかもしれませんけど」
―――血の繋がっている者であるのならかまわない……?
それは―――そんな事は、ない。
だって俺の肉親なんて、今じゃもう秋葉しか残っていない。
秋葉しか。
秋葉しか、いないって、いうのか。
「――――うそだ。そんなのは、違う」
……先輩は何も言わない。
俺の脳裏には。
琥珀さんの血を吸う、秋葉の姿が。
「そんなコトあるもんか。……やっぱり、あれは夢なんかじゃないんだ。人を殺して血を吸っているのは俺のほうなんだ。
だって、そうじゃないと――――」
あらゆる事で、辻褄が、あってしまう。
「……わたしも初めは遠野くんを疑っていました。けれど接していくうちに、遠野くんではないって思ったんです。
けど、それはわたしの身勝手な願望かもしれなかった。だから、今夜のことはわたしにとっても賭けだった。
貴方がためらわずにわたしを殺そうとするのなら、遠野くんが吸血鬼なんだって認めるしかなかった。……けど、やっぱり遠野くんは違ってくれました」
「―――違う。さっきのは、その―――」
「遠野くん。遠野家の血族はその全員が『人でない者』の血が混ざっています。中にはまったく害のない者もいたようですが、そういった者は一代に一人ほどしかいないという話です。
過去に遡れば、遠野の血族の中で人の血を吸う者も少なくはありません。
けど、遠野くんは人の血を吸う意思もなければその必要もない。なら―――」
「そんなの―――先輩に解るもんか」
「……遠野くん。遠野の家には吸血鬼が生まれる可能性があるんです。けど貴方がそうでないのなら、もう――――」
「―――――――っ」
違う、と必死に首をふった。
―――俺は、先輩の言葉を認めない。
認めることなんか、できない。
……けど、思い出してしまった。
離れの屋敷で琥珀さんの血を吸う、遠野秋葉の横顔を。
「……秋葉は違う。そんなヘンな力があるのは、俺のほうだ」
「――そうかもしれませんね。わたしから見ても、秋葉さんは覚醒しているとは思えません。汚染規定で言うのならまだ『戻れる』レベルです」
「……違う。秋葉は、違う……! そんな、そんなふうに異状なのは俺だけなんだ。
だって、秋葉は何年も俺のことを待っててくれて、今日だって、ちゃんと見送ってくれたんだから……!」
「わたしは吸血鬼を狩るだけです。それが誰であろうと、見逃すわけにはいきません」
「―――――っ」
何もいえず、ただ唇を噛んだ。
……わからない。
もし……秋葉がそうであった場合、自分はどうすればいいんだろうか。
見て見ぬふりをするのか、それとも秋葉を助けるために先輩と戦うのか。
……駄目だ。
いくら考えても、答えなんて、出る筈がない。
「―――わかりました。遠野くんにとって秋葉さんはとても大事な人なんですね。たぶん、貴方自身よりずっと」
「……当たり前だろ。妹を大事に思わない兄貴なんていない」
「わたしたち、戦うことになるかもしれませんね」
「………」
言葉がない。
……ほんとうに、まいる。
先輩は、言いたくない事でもはっきり口にするから。
……校門にきた。
先輩の中では結論が出たのか、もう何一つとして話してはくれなかった。
「―――これから遠野くんがどうするかは聞きません。わたしたち、ここでお別れですから」
感情のない目をして、先輩は片手をさしだした。
「………………」
言葉もなく、その手を握り返す。
ほんの少しの間だけ。
俺と先輩は、虚ろな握手をかわした。
さよなら、とだけ告げて、先輩は去っていった。
……秋葉の待つ屋敷に帰る。
先輩との会話で、俺の見ていたものは夢とわかった。
けど、根本的な問題が解決してくれたわけじゃない。
吸血鬼――夜な夜な人を殺していくモノの正体。
それが本当に秋葉だとしたら、俺は何ができて、何をするべきなのか。
「くっ…………!」
わからない。
ただ悔しくて、唇をかみ締める事しかできなかった。
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●『10/熱帯夜』
● 10days/October 30(Sat.)
……あれは、もう何年前のことだろう。
ここにやってきて、ずっと部屋に閉じこもっていたあと。
使用人の女の子と仲良くなって、ようやく外で遊ぶようになったあとだったろうか。
―――ごめんなさい、兄さん。
誰もいない庭で、あきははとうとつに泣き始めた。
何を謝っているのか問いただしても、秋葉はただごめんなさいと繰り返すだけだった。
―――わたしたちが、兄さんからみんなうばってしまったから。
秋葉の泣いている理由は、そのときの自分にはもう終わってしまった出来事にすぎなかった。
……恨んでいないといえば嘘になる。
けど、それはまだ六歳ぐらいの女の子が責任を感じて、必死に謝ってくるような事ではないはずだ。 第一、 秋葉は何も悪くはなかった。
―――ごめんなさい。ごめんなさい、兄さん。
……どうして気がつかなかったんだろう。
秋葉は初めて会った時から、いつも俺に謝っていた。
この広い屋敷の中で、ただ一人自分のために泣いてくれた少女。
―――ありがとう。けど、もういいんだ。
笑って、秋葉の頭をなでた。
秋葉はきょとんとした顔でこっちを見上げる。
その時に、初めて、強く思った。
―――泣かなくていいよ、あきは。
これからは、ボクらは兄妹なんだから。
……嬉しそうに笑った秋葉の顔を覚えている。
その時に誓った。
本当の家族になると。
自分はお兄ちゃんなんだから、どんなことがあっても秋葉を守ると誓った。
そんな思いを。
夢見るように、抱き続けた頃が、あった。
「ん…………」
朝の光で目が覚めた。
自分が殺人鬼ではないとはっきり解ったおかげか、昨夜は殺人の夢は見なかった。
「……けど、なんか……」
懐かしい夢を見たような気がする。
まだ俺も秋葉も幼くて、自分たちがどんな関係なのか解っていなかったころの夢―――
「失礼します。お目覚めでしょうか、志貴さま」
「ああ、おはよう翡翠。今朝も早いね」
翡翠はおじぎをして入ってくる。
いつも通り、着替えの学生服を置いておはようございますと挨拶をしてきてくれる。
「志貴さま、昨夜はいつの間に戻られたのですか? 秋葉さまが居間でお待ちしていたのですが」
「…………ああ、昨日は疲れててさ。秋葉が居間にいるっていうのは解ってたんだけど、そのまま自分の部屋に戻ったんだ」
そう答えて、自分に対する嫌悪感で気が滅入った。
……昨日の夜。
シエル先輩と別れた後、屋敷に戻ってきた俺は秋葉から逃げるように自分の部屋に戻ってしまった。
先輩には違うって連呼していたくせに、俺自身、秋葉に問いただすのが恐かった。
『おまえが吸血鬼なのか』なんて事を秋葉に聞けるわけがないし、もしその答えが最悪なものだったら、どうしていいか分からない。
そんな事を思っている以上、秋葉と顔を合わせてまともに会話ができるはずがなかった。
「翡翠。秋葉はもう居間にいるのか?」
「はい、先ほどから志貴さまをお待ちになってらっしゃいます」
「……そうか。まいったな、それは」
今は、あいつと二人きりで今まで通りに過ごせる自信がない。何気ない挨拶でさえうまくできないような気がする。
「翡翠、悪いんだけど今日は一緒にいてくれないか。うちを出るまででいいから、傍にいてほしい」
「――――――――」
表情こそ変わらないものの、翡翠は息をのんで俺を見る。
「―――かしこまりました。それでは、志貴さまがお出かけになられるまでご一緒させていただきます」
ふかぶかとおじぎをして、翡翠は俺の頼みを聞き入れてくれた。
居間には秋葉と琥珀さんが揃ってお茶を飲んでいた。
「やあ。二人とも、おはよう」
なんとか自然に挨拶をする。
「…………………」
昨夜、秋葉のいた居間に顔をださず部屋に戻ってしまった事を怒っているのか、秋葉はこっちをチラリと見るだけで何も言わない。
「はい、おはようございます志貴さん。めずらしいですね、翡翠ちゃんと一緒に来るなんて」
「……ん、今日は少し体調が悪くて付き添ってもらったんだ。階段で眩暈でも起こしたら危ないからさ」
「へええ、それはそれは。翡翠ちゃんったら頼りにされてるんですねー」
「……………」
翡翠はやっぱり無言で俺の横にいてくれる。
「それでは朝食の支度をしてきますから、秋葉さまとお待ちになっていてくださいね」
琥珀さんは厨房に向かっていった。
「………………」
秋葉は何も言わない。
気まずい雰囲気のまま、ソファーに腰を下ろす。
……。
…………。
………………………。
気まずい沈黙が居間を支配する。
「兄さん」
「ん―――なんだよ、秋葉」
「体の具合が悪いって言ってましたけど、気分はいいんですか……?」
「いや、そう大した事じゃないから。秋葉に心配してもらうほどの事じゃないよ」
「……そうですか。それなら、別にいいんですけど」
気まずそうに視線を逸らす秋葉。
「……?」
秋葉の態度は、どこかおかしい。
昨夜のことを気にしているのは明白なんだけど、どうもいつもとは勝手が違う。
秋葉のことだから『どうして声をかけてくれなかったの』ぐらいは言ってくるはずなのに、妙にそわそわしていて落ちつきがない。
「その、秋葉?」
「えっと、兄さん?」
――――二人して、同時に声をかけたりする。
「あ、はい。なんでしょうか、兄さん」
「いや、秋葉のほうこそなんなんだよ」
「………いえ、私はただ呼んでみただけなんだけど―――」
「………?」
ますますワケがわからない。
「秋葉さま、志貴さーん! 朝ごはんの支度が出来ましたよー!」
琥珀さんの声が食堂から聞こえてくる。
「だってさ。行こうか、秋葉」
「―――はい、行きましょう兄さん」
なんだか今朝の秋葉はやけにしおらしい。
……なんか、ますます自己嫌悪してしまう。
さっきまで秋葉に会いづらい、なんて言っておきながら、こんな大人しい秋葉とならもう少し話していたかった、なんて思っているんだから。
「それでは志貴さま、秋葉さま、行ってらっしゃませ」
俺の言葉をきちんと守って、翡翠は正門まで付いてきてくれた。
「今日は土曜だから早めに帰ってくるよ。……あ、でもここで待ってなくていいからな。もしかするとそのまま遊びに行くかもしれないから、屋敷のほうでのんびり待っててくれ」
かしこまりました、とおじぎをする翡翠に手をふって、屋敷の正門を後にした。
「………………」
さて。問題はここから学校までの距離である。
「………………」
となりにいる秋葉は黙ってついてくる。
……その、黙っていてくれる分にはありがたいんだけど、それはそれで居心地が悪い。
学校に着いた。
時間は七時半を過ぎたあたり。
この時間、登校している生徒の数はごく少数だ。
「………………」
秋葉はまだ黙っている。
……さすがに朝からまったく言葉を交わしていないと気まずい。
「……なあ、秋葉」
「あ―――は、はい。なんですか、兄さん」
「なんですかって、その……なんだか今朝はおかしくないか、おまえ。昨日の夜の事も怒らないし、ずっとぼんやりしてるみたいだし」
「え―――そう見えますか、私?」
「……ああ、見える。もしかしてまだ気分が悪いのか? それならちゃん休んでないと―――」
―――あ。
ふと、気がついた。
秋葉は昨日、学校を休んだ。
昨日のシエル先輩は腕に包帯を巻いていて、吸血鬼とは痛み分けになったと言った。
「………………」
「……あの。兄さんのほうこそ、お顔の色が優れないようですけど」
「あ――――いや、それは」
ぶんぶん、と頭をふってイヤな想像を振り払う。
……どうかしている。
秋葉は俺と同じように突発的な体の障害を持っているんだから、そりゃあ学校を休む時ぐらいいくらでもあるんだ。
秋葉を信じなくちゃいけないのに、なにを不吉な想像をしてしまっているんだろう、俺は。
「俺のことはいいんだ。それより本当にどうしたんだ。今朝の秋葉はすごく女の子っぽくて、なんだか秋葉らしくないぞ」
「……。今ものすごいことを言ってくれましたね、兄さん」
「おっ。そうそう、少しは調子が戻ってきたな。秋葉はやっぱりそうじゃないと落ち着かない。……まあ、大人しいんならそれにこしたコトはないんだろうけどさ」
「……もう。私、普段はそんなに大人しくないんですか」
「あ……いや、秋葉は大人しいよ。礼儀正しいし、ちゃんとしてるし。……あれ、おかしいな、それだけ条件がそろってるのにどうしてこう……」
どうしてこう、秋葉は大人しいっていうイメージが薄いんだろう?
「……まあいいか。秋葉の体調が悪いっていうんじゃなければ何も聞かない。ほら、校舎に入ろうぜ」
「……………………」
秋葉は何か言いたそうな顔のまま、俺の後に続いて校門をくぐった。
「それじゃあな。今日は昼で学校が終わるから、昼食は屋敷で食べられるぞ」
「あ―――兄さん」
「うん? なんだ、やっぱり具合が悪いのか? それなら保健室まで連れていくけど」
「いえ、体の調子はいいんです。それに気分も悪くはありません。ただ、その……今朝の私がこんなふうに気が抜けてしまっているのはワケがあるんです」
「……? 気が抜けてるって、なんで?」
「その……兄さん、子供のころの約束を覚えていますか?」
唐突に。
頬を赤くさせて、秋葉はじっと俺の目を見つめてきた。
「―――子供のころの約束って、なに?」
「……もう。やっぱり覚えてなんかないですよね。
いいんです、何でもありませんからっ。始めから期待なんてしてないし、どうせ兄さんにとってはどうでもいい事だったんでしょうし!」
ふん、と秋葉は顔を背ける。
「なんだよいきなり。子供のころのことなんて、もう八年以上も前の事じゃないか。それに約束って言ったって、おまえとした約束ってそれこそ数え切れないほどあるだろ。
そんなふうに言われても、なんの事だか見当がつかないぞ」
「それは……そうなんだけど、それでも覚えていてほしい事ってあるでしょう? ……その、昨日は子供のころの夢をみてしまって、兄さんは覚えているかなって」
「秋葉。子供のころの夢を見ただけでいちいち昔のことをひっぱりだすのか、おまえは」
「……だって、懐かしかったんです。覚えていませんか、あの木の下で兄さんが私の名前を初めて呼んでくれて、私の頭を撫でてくれた時のこと。
私、あの頃はすぐに泣いてしまう子だったでしょう? みんなは私が泣くと困ったようにあやしてくるんですけど、兄さんだけは一緒になって悲しんでくれたわ。だからよけいに泣きやめなかったんだけど、その後は本当に、もう悲しいことなんてないんだって思えた。
あの時から私は―――兄さん? どうしました、気分が悪いんですか……?」
「―――秋葉。その、昨日見た夢って、もしかして誰もいない庭でおまえがずっと泣いてた時のことか……?」
「あ………うん、私もよく思い出せないけど、そういった感じの夢だったかな―――」
「――――――」
ぞくり、と背中に冷たいモノが走る。
その夢。
その夢は、俺も見た。
……先輩は言っていた。
俺は吸血鬼の意識に引きずられるって。
「兄さん? 本当に大丈夫なんですか……?」
「――――なんでもない。それじゃあ、俺はこっちだから」
吐き気をこらえながら、秋葉から離れる。
……どうして。
どうしてこう、望まない結果ばっかり出てくるんだろう。
眠ってしまうと吸血鬼の意識に引きこまれる自分。
昨日の夜。
殺人の夢をみるかわりに、秋葉と同じ夢を見ていたなんて、そんなこと、知りたくはなかったのに。
……教室には数えるほどしか人がいない。
窓際の自分の席に移動して、鞄を置く。
「……………」
椅子に座って、そのままホームルームが始まるのを待った。
「おう、早いな遠野。今朝はまた随分と顔色が悪いけど、どしたん」
「有彦か。……まったく、秋葉にしろおまえにしろ同じような事ばっかり言いやがって。俺、そんなに顔色悪いのか」
「あ? ……いや、そうだな、言われて見れば普通だよな。なんでかね、遠野がすっごく落ち込んで見えるせいかね」
「…………落ち込んでる、か」
確かに気持ちは落ち込んでいる。
これで先輩がやってきて、
『やっぱりそうだったでしょう?』
なんて言ってきたら、もう反論のしようがないぐらいだ。
「―――有彦。おまえ、今日は先輩見た?」
「あ? 先輩ってどこのだれ先輩だよ」
「どこのって……俺とおまえの共通の先輩っていえば、シエル先輩以外いないだろ」
「だれそれ、しえるって。うちの学校に留学生なんかいたっけ?」
――――愕然と、口を開けた。
「……有彦、おまえ」
途切れ途切れで、なんとかそこまで声をあげる。 けれど、そのあとは中々続いてくれなかった。
「なんだよ遠野。言いたい事があったらはっきり言えって。金の問題以外ならなんでも聞くぞ」
有彦の様子はいつもと変わらない。
いつもと変わらない様子で、あっさりと、先輩のことをまるっきり覚えていない。
「本当に、先輩のことを覚えてないのか」
「だーかーらー、先輩ってどこの誰先輩だって聞いてるじゃんか」
「――――――」
そんな事、もういまさら答えられない。
俺は、ようやく。
昨日の夜、あの人が言ったさよならの意味が、のみこめた。
「おっ、そろそろ国藤のヤロウが来やがるな。んじゃまあ、また後でな」
有彦は自分の席に戻っていく。
そうして教室に担任が入ってきて、ホームルームが始まって、そのまま一時限目の物理の授業が始まった。
――――それを、ぼんやりと眺めていた。
先輩は、本当に消えてしまった。
俺の前からいなくなったんじゃなくて、シエル先輩っていう存在が痕跡一つ残さず消えてしまった。
―――魔法は、簡単にとけちゃいました。
……どこか悲しそうな顔で、あの人はそう言っていたんだっけ。
有彦は覚えていない。……きっと、他の誰も覚えていない。
あの人はこの学校の生徒じゃなかった。
俺という人間を監視するために紛れこんでいた人だったんだ。
だから俺に正体がばれれば、あとはもういなくなるしかない人だった。
「――――――」
胸がいたい。
俺を殺人鬼なんかじゃないと証明してくれたかわりに、シエル先輩は蜃気楼のように掻き消えてしまったのか―――。
◇◇◇
お昼になって、授業はすべて終了した。
せっかくの土曜日をフルに活用しようと、クラスメイトたちは我先にと教室を飛び出していく。
「お? なんだよ遠野、帰らないのか?」
「ああ、まだ残ってる。ちょっと人を待とうかなって思って」
「ふぅーん……それって秋葉ちゃんのことか?」
「まさか。秋葉だったらこっちから迎えにいくよ。俺が待ってるのは来るアテのない人だから、会えるかどうかはわからない」
「そっか。んじゃお先」
「ああ、あんまり夜遊びするんじゃないぞ」
「うひゃひゃ、遠野に心配されちゃおしまいだな」
有彦が教室を出て言って、他の生徒たちの姿もなくなっていく。
一人教室に残って、ただシエル先輩を待ちつづけた。
かちり、と時計の針が午後一時を指す。
グラウンドから陸上部の掛け声が聞こえ始めた時、がらり、と教室の扉が開いた。
「――――――」
やってきたのは秋葉だった。
秋葉は窓際の椅子に座った俺のところまでやってくる。
「兄さん、帰らないんですか?」
「……いや、帰るよ。ただ今日一日先輩と顔を合わせていなくてさ。ここで待ってれば、やってくると思うんだけど」
……いや、違う。
やってきてほしいって思っているだけだ。
だが、あの人が俺の前に現れてくれる事はもうないだろう。
「―――そうですか。それなら私もお付き合いします」
秋葉は隣の椅子に座った。
「……別にいいけど。物好きなんだな、おまえ」
「はい。なにしろ兄さんの妹ですから」
……なにが嬉しいのか、秋葉は笑顔で椅子に座っている。
……まあ、追い出す理由もない。
先輩と秋葉を会わせるのはまずいけど、どのみち先輩はやってこない。
俺はただ、一日を棒にふってるだけなんだから。
夕方になった。
秋葉は文句一つ言わず、ただ俺のとなりに座っている。
……思えば、屋敷に帰ってからこんなに長い間、秋葉と二人きりになったのは初めてかもしれない。
なまじ会話がない分、いつもより深く秋葉のことを意識してしまう。
幼い頃、いつも泣いていた秋葉。
それから八年間、ずっと俺を待っていてくれた秋葉。
こうして今も、ただ静かに俺に付き添っている秋葉。
……その秋葉が吸血鬼かもしれないと聞かされて、俺はただ否定するしかできなかった。
理由はいうまでもない。
俺にとって秋葉は大切な妹だから、そんな事は認めたくなかっただけだ。
……守ろうと誓った少女。
俺が遠野の屋敷に戻った理由。
八年ぶりに会って、美しく成長した秋葉を見た時の驚き。
秋葉は大切な存在だ。
それは愛情だと思う。
けど、その愛情の種類がどんなものなのか、はっきりと口にできない。
兄妹として暮らしてきた時はわずか二年だけ。
その間も、どうしてか肉親の情よりも、ただ守っていたいっていう感情のほうが優先していた。
「………………」
わからない。
ときおり、自分でもわからないぐらい、秋葉に見惚れてしまう時もある。
妹だから大切なのかと言われれば、違う。
俺にとって、秋葉はただ大切な存在なんだろう。
だから。
たとえ秋葉が吸血鬼だとしても、俺は―――
「秋葉。そろそろ帰ろうか」
「それはかまいませんけど……いいんですか、兄さん。まだ先輩が来ていないでしょう?」
「いや、初めから来ないって解ってた。だから、もういい」
「…………………」
秋葉は何も聞いてこない。
……ふと、疑問に思った。
有彦や他の生徒―――教師たちさえ先輩の事を覚えていなかったけど、秋葉は覚えているのかどうか、と。
「秋葉。おまえ、先輩の事をどう思う?」
「……先輩だけでは誰の事を指しているかわかりませんけど、兄さんが指している人物はシエルさんのことでしょう? それでしたら、私の言葉は変わりません。あの人とは付き合ってほしくないだけです」
「な――――――」
声がつまる。
秋葉は先輩のことを覚えていた。
誰もが忘れていた先輩の事を、どうして――
「秋葉、おまえ――――」
「兄さん? どうしました、そんなに恐い顔をして」
「……どうして? どうして覚えてるんだ、秋葉。先輩の事はみんな忘れているっていうのに、どうしておまえは覚えてるんだ……!?」
「え――――」
秋葉の表情が凍りつく。
そうして、秋葉はごまかすように俺から視線を逸らした。
「秋葉。おまえ、もしかして……初めから先輩の正体がわかってたのか……?」
「――――――――」
秋葉は答えない。
……その沈黙は、すなわちイエスだ。
「秋葉……! 黙ってないで答えてくれ、おまえは初めから先輩が吸血鬼を退治するためにいる人だって知ってたから、ずっと先輩のことを毛嫌いしてたっていうのか……!」
「吸血鬼って、兄さん――――」
呆然と俺を見る秋葉。
……その顔は吸血鬼という単語に驚いているというより、俺が吸血鬼なんて言葉を口にする事に驚いているようだった。
「……秋葉。黙ってないで答えてくれ。そうしないと俺は、おまえを―――」
信じることが、できなくなる。
「……そうよ、兄さん。私にはあの人が最初から違うひとだと解っていました。あの人が初対面の人間に暗示をかけている事に気がついたから、あの人のことは信用できなかったんです」
「……? 初対面の人に暗示をかけてるって、先輩が……?」
「ええ。だからみなさん、シエルなんていう名前にさえ違和感を覚えなかったでしょう? 私は暗示にはかからなかったから、あの人がどこか異状な人だと気がついてたんです」
弁解するように秋葉は言う。
けど、秋葉は肝心なことを言ってくれない。
誰もがかかっていたというシエル先輩の暗示とやらに、どうして秋葉はかからなかったのかという事を。
「あの人の暗示にかかっていた人は、その暗示が解けた時点でシエルという人間のことを忘れてしまう。私は初めから暗示にはかかっていませんでしたから、暗示が解けた今もあの人の事を覚えているんです」
「……それはわかった。けど秋葉。どうしておまえは、その暗示にはかからなかったんだ」
「―――それは、その―――」
「……そうだよな。遠野の人間は普通じゃないもんな。普通じゃないから、先輩の暗示なんかにはかからなかったんだろ」
「兄さん、どうしてそれを」
「……当たり前だろ。俺だって、普通じゃないから」
言って、椅子から立ちあがる。
秋葉は愕然とした顔をしたあと、覚悟したような面持ちで椅子から立ちあがった。
―――無人の教室。
赤く染まった教室で、俺たちは互いの顔を見つめ合う。
「……先輩から聞いた。遠野の人間はみんな特別な力を持ってるんだって。……その中には自分でも自分をおさえられないで、人を殺してしまうヤツもいたって、教えてもらった」
「……………………」
「けど、俺は信じられない。信じたくなんか、ないんだ」
「……………………」
「答えてくれ、秋葉。おまえは―――吸血鬼なんかじゃないよな?」
秋葉は答えない。ただつらそうに目を細めるだけだった。
――――なんで。
どうして秋葉は、嘘でもいいから、そんな事はないって、言ってくれないんだろう――
「―――なんとか言えよ。なんで黙っているんだ秋葉……!」
沈黙が苦しくて、そう怒鳴りつけていた。
……ほんの少しの静寂のあと。
秋葉は、何事もなかったかのような優雅さで、窓際まで歩き出した。
長い髪が赤い夕焼けに透けている。
赤い、髪をなびかせて、秋葉はくるりと振り返った。
[#挿絵(img/秋葉 18.jpg)入る]
「それじゃあ聞くけど。兄さんは私が吸血鬼だとしたら、どうするんですか?」
ずい、と。
視線という刃が、俺の喉元に突き刺さるような、迫力。
「――――それは」
秋葉の視線が鋭く刺さる。
離れている。
秋葉と俺は離れているっていうのに、まるで目の前に秋葉がいるような、緊迫した空気。
「答えて兄さん。私が血を吸う鬼だったとしたら、貴方はどうするっていうんです」
「―――秋葉、それは――――」
「もし私がそれを認めたら、秋葉は自分を押し殺す必要がなくなります。わかってるの、兄さん?
私、もうつまらない意地をはるのはやめて、自分に素直になれるんですよ?」
鬼気迫るような迫力と、どこか愉しむような残忍さを含んだ瞳で、秋葉は下から見つめてくる。
その視線に、ぞくりとした。
秋葉は俺を見上げているのに、こっちが見下されていると思うぐらい、冷たい静の迫力がある。
「な――――」
息を飲むばかりで何も言えない。
離れているのに。
……俺たちは今にもくちづけを交わすような姿勢と錯覚のまま、ただ見つめ合うだけだった。
秋葉の目は別人のように冷たい。
「秋葉、おまえ―――」
喉はそこで停止する。
どうしても―――どうしても、俺にはその先が言えない。
「冗談よ、兄さん。私は誰かの血なんて飲まないもの」
言いよどむ俺の様子を愉しむように笑って、秋葉は刃のようだった視線を止めた。
「シエルの言うとおり、たしかに遠野の家の人間には『違うもの』の血が混ざっています。
けれどそれは発現すれば一目でわかるものだって、兄さんだって知っているじゃないですか」
くすり、と。
秋葉はからかうように笑った。
「俺が、知っている……?」
「ええ。ですから、兄さんの質問は無意味です。私は兄さんが思っているようなモノじゃないから。
それで、話はそれだけですか? なら、私は先に帰らせてもらいます」
秋葉は立ち去ろうとする。
けど、だめだ。
……もう、今を逃したらチャンスはない気がする。
ここまできたら、もう何もかも問い詰めるしか、出口がない。
「……いや、まだ聞きたい事がある。俺とおまえが子供の頃にいた、もう一人の男の子のことだ」
「案外しつこいんですね、兄さんは。そんな子はいなかったって言ったはずです」
「そんなハズはないだろ。十年前に親父が養子をとったんだから」
「――――――――」
秋葉はキッと眉をつりあげる。
それは今までのように後ろめたいものを隠す反応ではなく、怒りに近い反応だった。
「……そう。翡翠にも困ったものね。兄さんに知られないように、あれほど注意なさいって言ったのに」
はあ、とため息をつく秋葉。
「……秋葉。三人目の子供はいたんだ。俺だっておぼろげに覚えてる。もう教えてくれてもいいだろう。あいつは……どうして、死んでしまったんだ」
「いいえ。その人は、死んでなんていません」
「―――え?」
「でも殺されたんです。――兄さん、あなた自身の手によって」
「な―――俺が、殺した―――?」
口にして。
ぐらりと、眩暈がした。
――――そう、殺した。
八年前の事故。
幼いころの自分。
あの中庭で。
暑い、悪夢のように暑い夏の日。
血にまみれた秋葉と少年。
入道雲と、どこまでも鳴り響く蝉の音。
――――そこで、俺はあの子供を、殺した、のか。
ぐらりと、眩暈がした。
「くっ―――――」
遠くなっていく意識をなんとか踏みとどまらせる。
「ちが――――俺、は」
はぁはぁと呼吸が歪む。
俺。俺は、そんなこと――――
「ほら兄さん。人には、誰だって秘密にしておかなければならない事があるでしょう?」
「秋葉―――おまえ」
「だからもう、つまらない事を考えるのはやめてください。兄さんは遠野志貴として、あの屋敷にいればそれでいいんですから」
―――秋葉が去っていく。
俺には、それを止める言葉がない。
夕暮れの教室。
俺は一人残されたまま、何もできずに立ち尽くすだけだった――――
◇◇◇
――――――――夜になった。
屋敷に帰る気にもなれず、公園のベンチに座って、ただ考える。
「………………」
……駄目なのか。
秋葉が『違うもの』だという事は疑いようがないし、三人目の子供がいて、それが死んでしまったのだという事もはっきりしている。
秋葉は、俺が三人目の子供を殺したと言う。
そして俺自身、血にそまった子供をあの中庭で見た記憶がある。
「…………く」
琥珀さんの血を吸っていた秋葉。
遠野の者は人間じゃないと言った秋葉。
……兄妹であるのなら、眠っている時に意識が同化してもおかしくないといっていた先輩。
「―――――っ」
なら、もう疑う要素はなにもない。
認めたくないけど、これが真実だ。
せめて。
せめて秋葉が琥珀さんの血を吸っている所さえ見てなければ――――
「――――あれ」
……ちょっと、待った。
俺が秋葉と琥珀さんを見たのは、夢の中だったハズだ。
夢の中で、俺は秋葉と琥珀さんを見た。
それはつまり―――秋葉に同化していては、秋葉本人を見る事はできない、ということ。
「……じゃああの夢を見ていたのは―――」
見られていた秋葉のハズがない。
秋葉が吸血鬼なら、あんな映像は絶対に見るはずがないんだ。
「――そうだよ。秋葉が殺人鬼のはずがないじゃないか!」
言って、ベンチから立ちあがった。
あとはもう、自分でも恥ずかしいとは思うんだけど、公園中を駆けまわった。
「は、はは、ははははは――――!」
まわりの視線なんてどうでもいい。
ただ嬉しくて、笑いながら駆けまわる。
だって、これで―――俺は秋葉のことをずっと守っていられるんだ。
俺と意識が同化してしまう吸血鬼にも、今回ばかりは感謝してやる。
あいつが秋葉のことを覗いていなかったら、俺はとんでもない勘違いをしたまま―――
「―――――」
いや、ちょっと待て。
「秋葉を―――見ていた?」
殺人鬼は、秋葉を見ていた。
屋敷の中で。
獲物を狙う陰湿さで、物陰からじっくりと。
まるで、次の獲物を秋葉に定めたかのように。
「な―――――」
背筋が凍った。
けど、今は立ち止まっている時じゃない。
「秋葉――――!」
叫んで、全力で屋敷へと走り出した。
はあ―――
はあ―――
はあ―――
はあ―――
「はあ、はあ、はあ……!」
―――おかしい。
まだ七時になったばっかりなのに、屋敷の明かりがついていない。
「はあ……はあ、はあ――――」
走りどおしで喘ぐ呼吸を抑えつけて、屋敷の中へ駆けこんだ。
……屋敷は静まりかえっている。
あたりは、ひどく暑い。
秋の夜だっていうのに、今夜はひどく熱い。
「はあ……はあ……はあ……」
呼吸が乱れているのは、決して走ってきたからだけじゃない。
ひどい熱帯夜だ。額から流れた汗が、ぽたぽたと頬を伝って落ちていく。
「…………く」
額の汗をぬぐう。
蒸せるような夜気の中、屋敷の玄関に手をかけた。
「くっ――――!」
眩暈がした。
ギッ、と体中の骨が軋むような悪寒は、意識を細く細く絞り込もうとしている。
「――――――」
眩暈は、眩暈とは違っていた。
意識は遠ざからない。むしろより鮮明に、余分な部分を削ぎ落として細く強く、刃物のように研ぎ澄まされていく。
―――ギリ、という音。
わけもなく憎しみが湧いてくる。
眩暈は止まらず、頭痛は激しくなる一方なのに、体には活力が漲っていく。
「秋葉………!」
叫んでも返事はない。
屋敷はすべて電気が途絶えている。
人の気配はまったくしない。
「翡翠、琥珀さん……! 誰かいないのか!?」
返事はない。
あるのはうだるような熱さと、針のように肌にささってくる静寂だけだ。
「――――秋葉」
厭な気配だけがする。
他のことを考える余裕はない。
秋葉。秋葉の部屋は、たしか―――
―――――二階の東館の一番奥。
そこが秋葉の部屋だ。
……階段をあがっていく。
高い気温と厭な予感が、夜の闇をガラスのようにはりつめさせている。
―――はあ、はあ、はあ。
荒い息遣いのまま階段をのぼりきって、廊下を歩く。
……背筋が痛い。
厭な空気は、秋葉の部屋に近づくたびに重くなっていく。
――――秋葉の部屋についた。
眩暈は耐えきれないほど強くなっている。
ポケットに手をいれる。
かろうじて幸運だったのか、ナイフはきちんと入っていた。
「――――――」
眩暈をかみ殺して、ナイフを片手に扉を開けた。
―――――闇。
窓からさしこむ月光だけが、かろうじて部屋の様子を明らかにしている。
その青い闇の中、倒れこんでいる秋葉の姿があった。
「秋葉――――!」
かけつけて抱き起こす。
「…………………」
秋葉は気を失っているのか、ぴくりとも動かない。ただ、その小ぶりな胸がかすかに上下していて、息がある事だけが読み取れた。
いや、そんな事よりもっとおかしな所がある。
秋葉の長い黒髪。それが、今では血のような赤に染まっていた。
「秋葉―――ほんとに秋葉……だよな?」
……闇の中で赤色に見える髪。
けれど、それでも秋葉は間違いなく秋葉だった。
「秋葉、おい、しっかりしろ……! いったいなにがあっ―――」
がさり、という音がした。
「――――――!」
振り返る。
物音がした方角―――月の明かりがさしこむ窓際に、何か、異質なモノが立っていた。
……それは、全身を包帯で覆った人間のようだった。
「―――――誰だ」
人影は答えない。
……背骨にたれながされる、極度の悪寒。
神経の中枢である脊髄をつたって、脳髄に知らされる死の気配。
……人影は、ただそこにいるだけで、壊れていた。
明らかに常軌を逸した、ぎょろりと浮かび上がっている目。
けれどそこには確かな知性が存在していて、包帯の人物は狂気と理性を同時に兼ね備えているように見える。
どくん、とはねあがる心臓。
心拍数は限界をこえてあがっていく。
反面、理性は死者のように冷めていく。
この空気。
空気を汚染し衰弱させていくこの死臭を知っている。
―――間違いない。
今この部屋にあるのは、何度も夢でみた殺人の世界だった。
「―――誰だと、聞いてる」
ナイフを強く握って、人影を睨む。
包帯の男はにやりと笑ったように見えた。
「さみしいな、志貴。おまえは自分が殺した相手もおぼえていないのか」
音をたてて、一歩だけ近づいてくる。
「――――っ!」
秋葉を片手で抱きかかえて、引いた。
「わからないのか志貴。オレは、おまえに殺された男だよ」
「なにを――――」
男の声は、ただ聞いているだけで癇に障る。
憎い。……屋敷に入った時から感じていた憎しみが凝縮されて、この男に対して灌がれているように、憎い。
この憎しみ。排除しなくてはいけないという本能が、殺人衝動というものなのか。
どぐん、という鼓動。
俺の知らないところで、俺の体が叫んでいる。
この男。この存在は、殺すべき対象なのだと叫んでいる。
「―――そうか。おまえが、吸血鬼か」
秋葉を片手で抱きかかえたまま、もう片手でナイフを構えた。
ははは、と。
男は声を押し殺して、心底楽しそうに笑った。
「やめておけ。オレはおまえだ。誰にも自身を殺すことは、できない」
「な―――なんだと……?」
「秋葉は返してもらうぞ。本来、それはオレのものなんだからな」
さらに一歩。
男はこちらに近づいてくる。
「止まれ―――!」
「止まるものか。オレはおまえから取り返しにきたんだからな。名前も、立場も、その力も、すべてはオレだったものだ」
男はゆっくりと両手を広げて、誇らしげに声をあげる。
「……なにを言ってる。おまえ―――おまえは、何だ」
「……まだ分からないのか。まったく、ほんとうに薄情なヤツだ。八年前。俺とおまえは、あんなに仲が良かったのにな」
「え―――」
八年前?
あんなに、仲が、良かった―――?
「……まあ、覚えていないのは仕方がないか。あの親父のことだ、おまえに全てを忘れさせるための暗示は念をいれたものだったろうし。
おまえ自身も―――忌まわしい記憶は忘れ去りたかったんだろうしなあ、志貴」
男が笑う。
視界が揺れる。
八年前。八年前。八年前――――
それは俺が事故に巻き込まれて病院に運ばれた頃。
それは遠野の屋敷で、三人で遊ぶことが最後になった頃。
それは――――あの中庭で、血にまみれた少年の姿があった時間――――
「だがそれも終わりだ。今まで苦しかっただろう、志貴? 待っていろ、すぐに楽にしてやる」
男は、顔の包帯をゆっくりと解いていった。
その中にある素顔、それは――――
「お……まえ」
[#挿絵(img/35.jpg)入る]
「久しぶりだな、遠野志貴。いや、それは本当のおまえの名前じゃなかったか」
包帯の下から出てきた素顔。
それは――――血にまみれたあの少年ではなく。
「遠野―――シキ」
そうだ。どうして忘れていたんだろう。
むかし秋葉と一緒にいた彼。三人目の子供は、たしかにそんな名前だった。
「そうだ。本当に久しぶりだな、七夜志貴。ようやく―――自分がニセモノだっていう事を思い出してくれたらしい」
男―――シキは口元をつりあげて、心底から嬉しそうに笑った。
「あ―――――」
頭痛。頭痛がする。
フタが開く。
頑丈に閉じられた、(誰に?)
見てはいけない、(何を?)
忘却が録音された箱が。
――――その全てを忘れろと、命じられた。
遠野槙久。
俺を独りきりにしたその人物に、七夜志貴は養子にむかえられた。
単に俺の名前と彼の息子の名前が同じだったという偶然が、彼には愉快に感じられたからだろう。
あれは、もう十年も過去の話。
養子にとられた自分。
連れてこられた見知らぬ屋敷。
いつも、いつも他人だった家族たち。
はなれの屋敷での生活。
そこで知り合った少年と少女。
三人で遊びまわった広い庭。
夏の暑い日。
恐ろしい影に襲われるあきは。
ただ、助ける事しか考え付かなくて、自らの体を盾にしたあの瞬間――――
――――その全てを、忘れろと命じられた。
遠野槙久に。
自分の父親に。
今から自分は七夜志貴としてではなく、遠野志貴として暮らしていくのだと命じられて―――
「――――、…………っ!」
眩暈、吐き気。
混濁する記憶が、脳髄の中を跳ねまわる。
どさり、という音。
自分の体がいうことをきかない。
せっかく抱き上げた秋葉を床に放って、俺は、はあはあと情けない声をあげて、ナイフを抱きしめるように握っていた。
「―――ショックか? ああ、そりゃあショックだろうな。今まで遠野志貴だって思い込んでいたぶん、自分がニセモノだって解った時の衝撃は格別だろう……!」
あはは、と笑うシキ。
「だがな、そんなものはオレに比べれば生易しい。
オレはな、志貴。親友だと思っていたおまえに殺され、遠野志貴という名前さえ横取りされ、秋葉まで―――オレの秋葉までおまえに奪われてしまった……! その屈辱がおまえに解るか!」
「殺、した―――? 俺が、おまえを―――」
「そうだ。まあ、先に殺したのはオレのほうだが、結果としておまえはオレを殺したんだよ。
まだ思い出せないのか志貴。八年前のあの日、オレは自分の血に負けておまえを殺した。その胸の傷痕を見ろよ。この腕でさあ、おまえの胸を串刺しにしてやっただろう?」
「胸の、傷――――」
それは、事故で。
何かの事故に巻き込まれたものだって、教えられてきたモノ―――――。
「そうだ。もっとも、その後でオレは親父に殺されかけたがな。
ようやく遠野寄りの血に覚醒したっていうのに、あとはそのまま地下牢に幽閉されて、八年間も闇の中にいたわけだ。
―――あのクソ親父、遠野寄りになった体を人間に戻せたら外に出してやるなんて言いやがって……! それまで遠野志貴が不在じゃ面倒だろうとな、オレの代わりに養子であるおまえを遠野志貴にしたてあげたんだ、アイツは」
「――――――――」
……つまり。
十年前にいた養子っていうのは、他でもない俺の事だったのか。
「わかるか志貴。オレはおまえに殺されたんだ。
オレはこうしてここに生きている。なのに遠野志貴としてのおまえがいる。
オレにはな、もう帰る場所が存在しないんだ。
遠野志貴という名前も、立場も、最愛の妹さえも、自分の存在意義さえも貴様に奪われた。
オレという遠野シキはな、おまえという遠野志貴によって殺されたんだ」
一歩。
光るような殺意のこもった眼をして、シキはこちらに近づいてくる。
「さあ―――これで話はおしまいだ。志貴、おまえは本来なら八年前に死んでいたんだ。ならばもう十分だろう。そろそろ、本来の関係に戻ろうじゃないか」
「――――本来の、関係、だと――――?」
「そうだ。オレは遠野志貴に戻り、おまえは―――もとの死者に戻れっていう事だ!」
だん、という衝撃。
シキの一撃で廊下まで弾き飛ばされた。
「あ――――」
背中を壁に打ちつけた。
息がうまく出来ない。
頭もまだ―――混乱したままで、動いてくれない。
「く―――――」
気配が近づく。
秋葉の部屋から、シキの体が飛び出してくる。
「チィ―――!」
シキの声が聞こえる。
ヤツの武器もナイフなのか、咄嗟に繰り出したこちらのナイフとヤツのナイフがつばぜり合った。
「はっ、はっ、はっ―――」
息があがる。
吐き気が止まらない。
それでも、迷っている暇なんて、ない。
俺は――
―――自分の事を考えるのなんて、二の次だ。
確かな事はコイツがすべての元凶だという事。
街で何人も人を殺して血を吸っているのも。
先輩を傷つけて、その体を犯そうとしたのも。
……弓塚を。
弓塚を吸血鬼にして、あんな苦しみを背負わせたのも。
全部。全部、この『敵』の仕業に他ならないのなら―――
「――――」
ぎり、と歯を噛んで、憎しみを押さえ付ける。
できるだけ冷静になろうと努めて、メガネを外した。
――――始めよう。
幸い、命のやりとりはこれで三度目。
いい加減、どう動けばいいのかはイヤというほど解っていた―――
「はあ―――はあ―――はあ――――」
ぽたり、ぽたりと汗が落ちる。
体のいたるところにナイフを振るわれたが、幸い、致命傷は負ってはいない。
吐く息が荒いのは、ただ、限界以上に体を動かしている代償だ。
「解せん――――」
……目の前の敵は、忌々しげに息をはく。
「なぜだ―――どうしてただの人間のおまえを殺せない……? なぜおまえに、ここまでの殺傷能力が備わっているのだ、志貴!」
敵の目には怒りがある。
おそらく、簡単に仕留められるとふんでいた獲物に抵抗された苛立ちだろう。
「はあ―――はあ――――はあ――――」
心臓が、苦しい。
いくらアイツの手口を夢で見ていたといっても、そもそも体の能力が違う。
ナイフでアイツのナイフを防ぐのが精一杯で、ヤツの『線』を引くのは難しい。
―――もっとも。
相討ちでいいのなら、それこそたやすくアイツの息の根を止められるのだが。
「―――よかろう、遊びは終わりだ。おまえと同じナイフで仕留めてやろうとしたんだがな、やはりなれないエモノは使うものじゃなかった」
敵はナイフを床に捨てる。
ぎらり、と。
闇の中で光る、ケモノじみた鋭い爪。
「結局はこれか。八年前と同じというのは、あまりに芸がないんだがな」
笑って、敵は構えをといた。
――――どくん、という音。
本気になったヤツの動きにはついていけない、と体が理解してる。
ヤツが襲いかかってくる姿は、おそらく視認さえできないだろう。
気がついた時には、こっちの体に穴が空いている。
――――どくん。
死の気配が増してくる。
このままでは確実に殺されるという危機感。
だが、恐怖はまったくなかった。
増していく危機感に比例して、体中の軋みが強くなっていく。
「はあ――――はあ―――――はあ―――――」
熱い痛み。
それは限界まで弦をひく弓に等しい。
自分自身にもどうしようもなく押さえられない殺人衝動。
おそらく―――それは次の瞬間に放たれて、確実にシキを殺す。
「じゃあな志貴。秋葉は俺のものだ。今度はおまえが、果てることのない闇に落ちろ―――!」
敵の体が消える。
張り詰められた弓の弦が引かれる。
―――だが、その直前。
俺とシキの間に、割って入ってくる人影があった。
「―――――――」
……それは、赤い髪をなびかせた秋葉だった。
秋葉は俺を庇うようにシキの前に立ちはだかる。
「……秋葉。なんのつもりだ」
秋葉は答えない。
――――その背中。
秋葉の赤い髪を前にして、俺の中の血はざわざわと騒ぎ始める。
「……どくんだ、秋葉。おまえの本当の兄はオレだ。そんなニセモノにかまってやる必要はない」
秋葉は答えない。
――――その背中。
秋葉の赤い髪を前にして、俺の中の血はざわざわと騒ぎ始める。
「……秋葉、あんまりオレを悲しませないでくれ。オレは、おまえだけを大切に思っているんだ」
「……いやです。どきません」
秋葉は首をふって、はっきりとシキを拒絶した。
「……秋葉!」
「さがりなさい。あなたが兄さんを殺すというのなら、その前に私があなたを殺す。
遠野の当主の役割は、あなたのようなモノを消去する事ですから」
「なにを―――何を言っているんだ秋葉!
おまえはあんなにオレを待っていたじゃないか。いつも、いつも見ていたぞ。兄であるオレを待ち続けるおまえの姿があったから、オレはここに帰ってきたんだ。
あのクソ親父を殺してようやく自由になったのは全ておまえの為なんだぞ。
だっていうのに、どうしてそんなニセモノを庇うんだ、おまえは!」
「……たしかに、私は兄さんを待っていました。けどそれはあなたなんかじゃない。遠野の血に負けて、ただの殺人鬼になったあなたは八年前に死ぬべきだったんです」
「あ―――秋葉、おまえは実の兄に死ねっていうのか? 違うんだ、そいつは違うんだ。騙されるな、おまえの兄はオレだけなんだ。いいか、そこの男はただの―――」
「黙りなさい……! それ以上兄さんを侮辱するのは許さないわ。あなたに―――あなたなんかに、もう二度と兄さんは殺させない……!」
「あき―――は」
シキの体がよろめく。
「やめろ―――そいつはただのニセモノじゃないか。そんなヤツを庇って―――オレを、これ以上裏切らないでくれ、秋葉」
「―――――――」
秋葉は答えない。
ただ激しい敵意をシキに向けるだけで。
「あきは―――おまえまで、オレを裏切るのか、あきは――――」
じり、という音。
血走った目でシキは俺と―――秋葉を敵視する。
「……これが最後だ。どけ、秋葉。おまえは兄の言うことが聞けないのか!」
「―――どきません。私の兄さんは、あなたなんかじゃないんだから……!」
ああああああ、という絶叫。
奇声をあげてシキは跳んだ。
秋葉にではなく、その背後にいる俺に対して。
「―――――」
だが、それはこちらも覚悟していた。
ナイフを構えて疾走してくる敵を迎え撃つ。
だが、こちらのナイフより、シキの爪のほうが幾分早い。
結果はやはり相討ちか。
だがそれなら、確実にコイツの『線』を切断して、バラバラに解体できる―――
―――シキの爪は、俺には届かなかった。
「あ―――」
魂が抜け落ちたような、シキの声。
「あき、は―――」
シキの爪は、秋葉の背中を、バッサリと切り裂いていた。
シキが狙ったのではない。
ただ、秋葉が俺に抱きついてきただけの、話だった。
「―――――」
だが、俺は何も感じなかった。
今は意識が凍っている。
何も感じないまま、自身の殺人衝動に突き動かされる。
秋葉の体が崩れ落ちる。
その間隙。
シキが忘我しているその刹那、ヤツの『線』を、一閃した。
……むせ返る血の匂い。
自分でも頭にくるぐらい、そんなものしか感じられなかった。
あんまりに酷い眩暈のせいで、俺の五感のほとんどは麻痺してしまったらしい。
何も、今は感じない。
目の前に血にまみれた秋葉の姿があって、その横にシキの死体が転がっているっていうのに。
俺は何も感じられないまま、ただ、呆然と立ちつくすだけだった。
電気がついた。
人工の明かりが目にしみて、呆然としていた意識が戻った。
「――――――」
周囲を見渡す。
目の前の絨毯には、ただ赤い血の跡があるだけだ。
倒れた秋葉の体もなければ、『線』を切断したシキの死体もない。
「え―――――」
俺の手にはまだナイフが握られている。
さっきまでの出来事が夢でないのは確かな事。
その証拠に絨毯にはべったりと血がついている。
「秋葉―――俺を、かばって」
思い出して、吐きそうになった。
そんなコト、そんな事をしてほしかったんじゃない。
俺は秋葉を守りたかっただけなのに、どうして逆に、あんなコトに―――
「志貴さま」
背後から呼びかけられた。
「屋敷の電源を予備のものに切り替えました。秋葉さまの傷は浅いそうですから、どうかお気を確かにしてください」
「翡翠―――今まで、どこに」
「それは先ほどお話しいたしました。わたしと姉さんが駆けつけた時には志貴さまと、傷ついた秋葉さまが倒れていたと。
……志貴さまを何度かお呼びしたのですが、志貴さまはお話ができる状態ではありませんでした」
……つまり、俺は傷ついた秋葉を前にしてぼけっと突っ立っていたってことか。
「秋葉さまにはすぐにでも応急処置が必要でしたので、わたしと姉さんで秋葉さまの手当てをして、屋敷の電源を回復させたのですが―――やはり志貴さまの指示を待つべきだったでしょうか?」
「―――いや。翡翠たちは、正しい。俺は何も言わずに立っていただけなんだろう?」
「はい。わたしたちが駆けつけてから一時間ほど経ちますが、志貴さまはただ立ち尽くしているだけでした」
「……そう、か」
傷ついた秋葉を前にして何もしなかったなんて、最低だ。
これじゃ守るどころか、逆に傷つけているのと変わらない。
「翡翠。秋葉は、大丈夫なのか」
「はい、そう深い傷ではないそうです。……ですが数日で治る傷でもないという事で、今はお部屋のほうでお休みになられています。
―――志貴さま、いったい何があったのですか。気づいた時には屋敷の電気が消えていて、わたしは姉さんの部屋で倒れていました。
わたしと姉さんは薬で眠らされていたようなのですが、そうしてロビーに向かったところに志貴さまと秋葉さまの姿がありました。
姉さんは秋葉さまの傷は大きな動物の爪による裂傷だって言っていましたけど、アレは――」
「え――?」
おかしい。それじゃあ数が足りない。
「翡翠、シキはいなかったのか!?」
「いえ、志貴さまでしたら秋葉さまの前で立っておられましたが……?」
「いや、俺じゃなくて、その―――」
言いかけて口を閉ざした。
翡翠はシキのことを知らない。
秋葉が傷を負った理由も、俺が殺されかけた事もしらない。
「……翡翠。ロビーには俺と秋葉しかいなかったんだな……?」
翡翠は小さく頷く。
「―――アイツ―――!」
生きてる。
確かに肩口から袈裟切りに『線』を切断したのに、致命傷には至らなかったのか。
それとも、吸血鬼っていうのは人より死ににくいものなのか。
どちらにせよ、アイツがまだ生きていて、ここから逃げ出したのは間違いない。
「……いや、今はそんな事どうでもいいんだ。そんなことより、秋葉を――――」
「お待ちください志貴さま。秋葉さまの寝室に行かれるのですか?」
「当たり前だろ、俺は秋葉に謝って、話をしないと――」
「……今は姉さんが手当てをしている最中です。志貴さまが行かれても、秋葉さまは喜ばれないと思いますが」
「そ……それは、そうかもしれないけど……」
「志貴さまはお部屋にお戻りください。秋葉さまの手当てが終わり、秋葉さまご自身が志貴さまをお呼びになられたら、わたしが呼びに参りますから」
言って、翡翠は階段をあがっていく。
琥珀さんを手伝うために秋葉の寝室に向かったのだろう。
「…………」
たしかに、男である俺が秋葉の手当てを出来るはずがない。
張り裂けそうな胸を抱えたまま、翡翠が呼びに来るのを部屋で待つことしかできなかった。
――部屋に戻って、気持ちを落ちつかせる。
冷静になって物事を考えないといけない。
秋葉のこと。
自分のこと。
シキという男のこと。
……シキは俺が養子で、シキの代わりに遠野志貴として扱われた、と言っていた。
それを否定する気はないし、むしろ納得できる。
俺がこの屋敷の中にあまり見覚えがなかったのも、この部屋を自分の部屋だったと言われても実感が湧かなかったのも。
……俺が有間の家に預けられたっていう事も、八年前の事故の時、誰も見舞いになんかこなかった事も。
……十年前に養子になって、事故に遭うまでの二年間。
俺と秋葉とシキは兄弟として育てられた。
シキは初めから俺が養子だと知っているような口ぶりだった。
けど、秋葉はどうなんだろう。
『私の兄さんは、あなたなんかじゃないんだから―――』
秋葉はシキにそう叫んで、俺をかばって傷を負った。
……秋葉は俺が養子だという事は知らないのかもしれない。
だから身を呈してまで俺を助けてくれた。
兄妹でなければ、あんな事はできないだろう。
だから―――秋葉は俺の事を本当の兄だと信じているハズだ。
「志貴さん? ちょっといいですか?」
「琥珀さん。秋葉のことはもうんいいですか?」
「はい、とりあえずの手当ては終わりました。絶対安静ですから数週間は満足に歩けないでしょうけど、とりあえず命に別状はありません」
「そうか―――よかった」
はあ、と大きく胸を撫で下ろした。
俺をかばって受けた傷で大事があったら、俺は秋葉にどんな顔をしていいか分からない。
「志貴さん。翡翠ちゃんから聞いたんですけど、秋葉さまとお話がしたいそうですね?」
「……ああ。秋葉の具合が悪いんならやめるけど、できれば会って話がしたい」
「それでしたら、どうぞ行ってきてください。ですけどあまり込み入ったお話はしないでくださいね。秋葉さまはだいぶご無理をされていますから、精神的な負担はかけないでほしいんです」
「……わかってる。ただ秋葉の顔を見て、ありがとうって言うだけだから」
「はい、けっこうです。それじゃあわたしもしばらく休ませていただきますから、秋葉さまの看病をお願いします」
秋葉の手当てで疲れたのか、琥珀さんはおぼつかない足取りで部屋を出ていった。
「………………」
……さあ。秋葉の無事を確かめにいかないと。
コンコン、とノックをする。
「秋葉。俺だけど、中に入っていいか?」
しばしの静寂のあと。
「……はい。どうぞお入りください、兄さん」
消え入るような弱さで、秋葉の声が返ってきた。
秋葉の寝室に入る。
今まで横になっていたのか、秋葉はゆっくりと体をベッドから起こした。
「―――――――」
……まいった。
こうして顔を合わせると、何も言葉がうかばない。
秋葉の寝室にいるっていう事でも緊張してるっていうのに、秋葉の雰囲気は本当に弱々しくて、胸がつまる。
「―――――――」
俺たちは互いに無言で、ただ見つめ合うだけだった。
……。
…………。
……………………。
…………………………………不意に。
「兄さん、座らないんですか?」
「あ―――そうだな、いつまでも立ったままじゃ落ち着かないよな」
椅子に座る。
けど秋葉と視線の高さが同じになって、ますます俺には言葉が浮かんでこなくなる。
[#挿絵(img/秋葉 19.jpg)入る]
「……何も聞かないんですね、兄さんは。私、これでも覚悟していたんですけど」
穏やかな声で、秋葉は言った。
「……そうだな。たしかに聞きたい事は色々あるよ。けど、それは秋葉が元気になったら聞くから。今はただ、秋葉の顔を見に来ただけなんだ」
「そう。けど、私は兄さんに聞きたい事があるわ。私ね、解らない事があると怒りっぽくなるんです。だから兄さんから話を聞かないと、安心して眠れないわ」
「……そっか。いいよ、秋葉はいま病人だからな。特別サービスで、なんだって答えてやる」
「ごめんなさい。私は隠し事ばかりしてるのに、兄さんには隠し事をしてほしくないなんて。
……ほんと。勝手ですね、私」
「……だからいいって。秋葉のそういうところも好きなんだから、勘弁してやる。ほら、聞きたい事ってなんだよ、秋葉」
秋葉につられているんだろうか。
俺は、自分でも驚くぐらい、とても優しい声で秋葉と話をしている。
「……それじゃあ聞きますね。
兄さんは吸血鬼っていう言葉を使っていたでしょう? それはシエルから教えられた事なんですか? それとも兄さん本人から出た言葉なんですか?」
「……両方、かな。俺さ、どうしてか眠ると人を殺して血を吸う夢を見てたんだ。
それでてっきり自分が殺人鬼なのかなって思ってたんだけど、シエル先輩が誤解をといてくれた」
「……そう。兄さんはシキの意識と同調してしまうんですね。だから―――学校であんな事を聞いてきたんですか」
「え―――秋葉、おまえ俺とあの吸血鬼が同調するって、わかるのか……?」
「いえ、そういう可能性もあるだろうって。兄さんは覚えていないでしょうけど、あのシキという人は私たちの……」
「ああ、兄貴だっていうんだろ。俺もついさっきまで忘れてた。けどおぼろげには覚えてたんだ。だってさ、庭で遊ぶとき、いつも俺たちの後ろに秋葉がついてきていたんだ。俺たちっていう事は俺一人じゃないっていう事だもんな」
そう、思い返せば子供のころの記憶にはそういった矛盾点があったんだ。
それに気がつかなかったのは、やっぱり親父が俺に暗示とやらをかけたせいだろう。
「…………………」
秋葉は押し黙ったまま、何も言わない。
……やっばり秋葉は俺が養子だという事を知らないらしい。
なら、ここでそんな事を口にして、秋葉を動揺させたくはない。
嘘を通せるのなら、今は通さないといけない。
「……兄さん。貴方は八年前、シキに殺されかけたんです。シキは遠野の血が濃いという方ではなかったのですけど、本当に突然、遠野寄りのモノになってしまった。
遠野の血は旧い生き物の血で、理性より本能を優先させてしまいます。その血が全身にめぐってしまったシキは、その場に居あわせた兄さんに襲いかかってしまったんです」
……それはシキから聞いた。
この胸の傷は事故なんかじゃなくて、アイツにつけられた物なんだと。
「遠野の人間の能力はみな異なります。シキのように人食いであるモノがいれば、お父様のように精神だけに異常をきたす者もいる。
……シキは兄さんを襲って、その血や命を奪ってしまった。シキはお父様に処罰されましたけど、兄さんの命を奪っていたために一命を取りとめたんです」
「……わからないな。俺はアイツに命を奪われたって、どういう事なんだ……?」
「この場合、魂といったほうがいいのかもしれません。私はシキではありませんから、その原理はわからない。
ただ、シキは兄さんの命でかろうじて生き延びていたんです。兄さんとシキは同じ心臓で活動している別人のようなものなんだと思います。
だから―――兄さんとシキの意識は同調しやすい。……その原理でいうのでしたら私とも同調してしまうとは思いますけど、兄さんとシキはとても仲が良かったから。きっと、お互い惹かれ合うものがあったんでしょう」
「やめてくれ。あんなヤツと―――秋葉を傷つけるようなヤツと、惹かれ合うものなんてないよ」
「………………」
秋葉はどこか辛そうな顔をしたまま、じっと俺の顔を見つめてくる。
……細い体。
血の気が失せている白い肌。
流れる黒髪にはかすかに赤い色が見え隠れしていて、ひどく危ういイメージがする―――
「そうだ。秋葉、おまえその髪どうしたんだよ。さっきは真っ赤だったのに、今は黒に戻ってる。それ、どういうことなんだ」
「……ですから、これが遠野の血なんです。私はシキのように体の変調はありませんけど、遠野の血が昂ぶると髪が本来の色に戻ってしまうそうです。
今は落ちつきましたから、なんとか黒髪に戻ってくれましたけど」
「……そうか。良かった、秋葉には黒髪が似合ってるからな。赤い髪になんかなられたら、困る」
……そんな、遠野の血なんていうワケの解らないものになんて、染まってほしくはない。
「……ええ、私も赤い髪は嫌いです。たとえ色だけだといっても、体が変調するという事ですから。私は、シキのようには―――」
言いかけて、秋葉はベッドに倒れこんだ。
「秋葉―――!?」
ベッドに倒れこんだ秋葉の肩を押さえる。
「く―――あ……つっ………!」
秋葉の体が震えている。
まるで心臓そのものがなくなってしまったみたいな呼吸の乱れ。
苦しそうに歯をくいしばる表情。
苦痛に耐えきれないように、体中からにじみでる汗。
「秋葉……! どうした、傷が痛むのか!?」
「ア―――は、にい、さ――――」
苦しそうにシーツを握り締める秋葉。
「っ……! 待ってろ、すぐ琥珀さんを呼んでくるから……!」
「だ、だめ―――どうせ、誰にも、治せ……ないんだから……!」
はあはあと胸を弾ませて、秋葉は俺の腕を握ってくる。
細い指。
柔らかな手の平が、ただ、必死に俺の手を握ってくる。
「わかった―――ここにいる。ここにいるから、秋葉」
「―――――――」
秋葉の声は、掠れてよく聞こえない。
ベッドの上で暴れる秋葉。
乱れる長い髪は、いつのまにか赤く赤く染まっていた。
「秋葉、おまえ髪が―――」
「だい――じょうぶ、です―――こんなの、すぐに―――おさまり、ますから―――」
苦しむ秋葉。
秋葉の手を握り返す事しかできないまま、ただ、時間だけが流れていった。
……長く感じられた時間が終わった。
実際には数分たらずだった時間は、それこそ何時間にも感じられた。
「――――」
秋葉の呼吸は落ちついている。
髪の色は赤いままだけど、さっきに比べれば薄い色になりつつあった。
「―――ごめんなさい。見苦しいところを見せてしまって」
体を起こす秋葉。……無理をしているのは、もう十分すぎるほど分かってしまった。
「……いい。横になっていていいから、無理はしないでくれ。まだ体の傷が痛むんだろ? 俺なんかに合わせる必要なんかない」
「いえ、大丈夫です。背中の傷は関係ありません。こんな発作は、いつものことなんですから」
―――背中の傷は、関係、ない?
「……なんだよ、それ。いつものことってどういう事なんだ。今みたいな状態は珍しくないっていう事なのか」
「………………」
秋葉は答えない。
それはイエスという事だ。
……信じられない。さっきみたいな、それこそ血を吐くような苦しみが、いつも起きてるっていうのか、おまえは――――
「……どうして? おかしいだろそれは。そんなの、そんなのは―――普通じゃ、ない」
秋葉は答えない。
ただ、本当に寂しそうに、静かに頷いた。
「……兄さんの言うとおりよ。私は普通じゃないんです。この発作は兄さんの貧血とは違います。これは遠野の人間が持つ、遺伝的な苦しみなんです。この苦しみに耐えきれなくなった者は、シキのように遠野寄りのモノになるんです」
「―――な」
「遠野の人間は異状だと言ったでしょう? 私はその中でもとくに血が濃いの。体が大きくなって、その傾向は日に日に強くなってきた。
……もう、自分自身でもどうにもならないところまで来てる。だから、夜はいつもこうなんです」
別に何を恨むのでもなく、秋葉は淡々と語る。
俺は―――それなりに秋葉の言っている事が理解できていながら、そんなことを認めたくはなかった。
「……なんだよ、それ。言ってる意味が、わからない」
「……もう。ほんとうに、兄さんはあたまが悪いんですから」
くすり、と。
困ったように、秋葉は笑った。
「私の身体は普通の人より熱の消費が激しいの。
だから普通の方法では栄養の供給が間にあわなくて、最後には直接他人から熱を搾取しないといけなくなる。
……兄さんの言うとおりね。私は吸血鬼じみたコトをして、壊れそうになる自分を抑えてきました。けどそんな方法をとればとるほど、私は普通じゃない、遠野寄りの人間になってしまう。……けれどそうする以外、私には自分を保つ方法がないんです」
「秋葉――――――」
「わかる? 何か生きているものから熱を奪わないと生きていけない、不出来な生命。それが遠野秋葉という存在なのよ、兄さん」
―――喉がつまる。
けど、それでも無理やりに言葉を探した。
ここで黙ってしまうのは、秋葉を傷つけるだけだ。
「……そうか。それで琥珀さんの血を」
「え―――兄さん、知ってたんですか……? 私が、琥珀から血を分けてもらっているって」
「ああ。黙ってて、すまない」
かあ、と頬を赤くして、秋葉はかすかにうつむいた。
「……あれは最後の手段です。別に奪うものは血である必要なんかない。体温でも意思でも、とにかく熱を持つものなら力になるから。血は、その中で一番栄養があるだけ」
「……じゃあ、秋葉はシキとは違うんだ。あいつみたいに、本当に吸血鬼ってワケじゃないんだ」
「……ええ。私はシキと違って仲間を作るような事はできません。私は、ただ奪うだけの存在ですから」
目を伏せる秋葉。
けど、俺にとってはそのほうが救いだ。
だってそんなの―――少しだけ食べ物が違うっていうだけの話なんだから。
「……安心した。さっきから異状だ異状だって言ってたけど、秋葉は普通だよ。シキなんかとは違う、普通の人間だ。
今の発作だって、ちゃんと誰かから血を貰っていれば起きないんだろ? それなら―――」
「……確かに定期的に人から血を奪っていれば発作は起きません。
けど、だからといって無闇に血を吸うことなんて、できない。そんな事に慣れてしまったら、私はシキと同じになってしまいます。
……どんなに苦しくても、それが痛いだけの苦しみなら耐えていける。
夜はとくに遠野の血が騒ぎだすから苦しいけど、朝になれば収まるんです。
だから、こんなことはいつもの事なんです。兄さんがそんな顔をする必要なんて、ない」
「……ばか。そんなに苦しいのなら、血ぐらいくれてやるのに」
本当に、素直にそう思った。
秋葉が毎夜こんなに苦しむっていうのんなら、俺の血ぐらい幾らでもくれてやる。
「いやです。誰かの血なんて、飲みたくない。琥珀の血だって、本当は飲みたくはないんだから」
「どうして……? それで発作がなくなるなら、それでいいじゃないか」
「それは………そうです、けど」
秋葉は言葉を濁してうつむくと、恥じ入るように、弱々しい声で言った。
「……だって。私は兄さんに吸血鬼なんて言われたくないんです。秋葉は、兄さんと同じ人間でいたいんだから」
「――――――あ」
自分の浅はかさが、今度こそ本当に恨めしい。
……俺は、秋葉の気持ちをまったく考えていなかった。
秋葉がどれだけ遠野の血を忌まわしく思っているかという事も、俺のことを大切に思ってくれているなんていう事も。
「……秋葉。なにか、俺にできるようなことはないか」
「そうですね、どうかご自分の部屋で休んでください。兄さんも疲れているでしょう?」
「…………ばか」
……そんな言葉しか、返せない。
「いいから横になってくれ。秋葉が眠るまで傍にいるから」
「……わかりました。兄さんがそう言うのでしたら、甘えさせていただきますね」
……言って、秋葉はベッドに横になった。
砂が落ちていくような時間のあと。
秋葉は静かに、ゆっくりと眠りに落ちていった。
安らかな秋葉の寝顔。
それを、飽きる事なく、ただ見守り続けた。
「志貴さん、起きてらっしゃいますか?」
……琥珀さんの声が聞こえる。
時計を見ると、もう午前三時になっていた。
「起きてます。秋葉の看病ですか、琥珀さん?」
「はい、熱を測ろうと思いまして。志貴さん、申し訳ありませんけど……」
「あ、すみません。すぐに席を外します」
椅子から立ちあがる。
部屋を出る前に、もう一度だけ秋葉の寝顔を見届けた。
「……ありがとう。ごめんな、秋葉」
小さく呟いて、秋葉の寝室を後にした。
……琥珀さんに秋葉の事をまかせて、廊下を歩く。
これでしばらくは安心のハズなのに、不安の翳りは消えてくれなかった。
シキがまだ生きている、なんていう事はどうでもいい問題だ。
気にかかるのは一つだけ。
……ずっと秋葉の寝顔を見つめていたけど。
あいつの髪の色は、何時間経っても、もとの黒に戻ってはくれなかった。
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●『11/望遠鏡』
● 11days/October 31(Sun.)
秋葉の事を琥珀さんに任せて、一階におりてきた。
俺には秋葉の手当てをする事はできない。
だから何か別のことで、秋葉の力になってやりたかった。
親父の部屋でなら、秋葉をどうにか助けられる方法が見付かるかもしれない。
なにしろ遠野家の当主だったんだ。
遠野の血とやらの対処法も少しは記録しているだろう。
「くそ―――さすがに都合よくは見付からないか」
はあ、と息をついて椅子に座る。
親父の蔵書はとにかく多すぎて、一冊一冊見ているだけで時間がかかる。
くわえて、たいていは学術書ばっかりで遠野の家についての資料なんてそう見当たらない。
見付かったものといえば、親父の日記らしきものだけだった。
「…………ふーん。俺が有間の家に預けられてからの手記みたいだな、これ」
パラパラとページをめくっていく。
――――と。
秋葉という単語を見つけて、ページを戻した。
「なになに……秋葉の発作の原因についてって―――これ、もしかして」
食い入るように手記の内容を読む。
……親父の見解によると、秋葉が遠野よりの血になってしまったのは俺がいなくなってすぐだという事だった。
秋葉は生きていくために、人より多く熱量を必要とする。
その必要とする熱量を十とすると、秋葉が食事で摂取できる熱量は六や七程度のもので、あとの足りない分が秋葉の体に負担をかけさせているらしい。
問題は、どうしてそんなに熱量を必要とするかという事だった。
……親父はそれをハッキリさせるのにしばらく時間がかかったようだ。
何年かたって、ようやくその原因が書かれている。
「半分の命……?」
……よく、意味がわからない。
なんでも秋葉は自分でもっている十の力のうち、その半分の力しか使っていないというコトだった。
わかりやすく言うんなら、体の半分しか使っていないのに人並みに動いている、という事らしい。
だけど当然、そんな事じゃ人並みに動けるはずがない。
そのために、秋葉の体は足りない分の力を外界からの熱量で補おうとしている。
けどそんな行為は人間にはできない、超常の力だ。故に外界から熱量を必要とすればするほど、人間よりではなく遠野よりの血が活性化するらしい。
「………………」
そのあとに続くのは、秋葉の成長記録みたいなものだった。
それもしばらく読み進めたが、何の役にもたたないっていう事が判明した。
ばさり、と手記を机に投げる。
「―――はあ。原因がわかっても解決方法が載ってないんじゃどうしようもないだろ、バカ親父」
……それとも、親父でも解決方法は見付つけられなかったのか。
「……けど半分だけの力ってことは、あとの半分はどうしているんだろうな……」
ようするに、秋葉は自分の力とやらを全部使えれば他人から熱を奪う必要はないんだ。
「―――――――」
……ここにいても、これ以上得るものはなさそ
うだ。
少し外に出て頭をきりかえてみよう―――
……秋葉の事が気がかりで、いつのまにか離れの屋敷にまでやってきていた。
自分の部屋に戻る気にはなれなかったし、屋敷の中にいるよりは、自然に足がここに向かった。
部屋にあがる。
ささくれだった畳に腰をおろして、ぼんやりと天井を眺めた。
「―――――――はあ」
大きく息を吐く。
……ここにいると、気分が落ちついていってくれる。
幼い頃、まだ自分が養子だったころ、ここが自分の部屋だった。
「……そういえば、風邪をひいて秋葉がきてくれたのも、この部屋だったっけ」
そう思うと、少しずつ記憶が戻ってくる気がした。
十年前、遠野の屋敷に引き取られた自分。
この和室で暮らして、秋葉やシキと遊んだ日々。
「……アイツはナナヤ、とか言っていたな」
ナナヤ。七夜と書くんだろうか。
俺の本当の苗字なんだろうけど、今になってみればどうという事もない。
七夜志貴という子供は、八年前に消されてしまった。その戸籍も、名前も、記憶さえも。
両親の顔さえ思い出せない。
そんな昔の事を、思い出したいとも思わない。
「……ああ、そっか。このナイフは親父の遺品じゃなくて、俺の―――」
ポケットからナイフを取り出す。
柄に七夜と刻まれた骨董品。
そういった意味では、これは本当に親父の遺品だったんだろう。
遠野槙久にも人並みの感情はあったらしい。
七夜志貴の痕跡になるものは全部処分しなくちゃいけなかったろうに、このナイフだけは残して、俺に形見わけしてくれたんだから。
―――と。
ぽたり、と手の平に水が落ちた。
「――――あれ」
頬に指をあてる。
……不思議だ。悲しくもないし嬉しくもないのに。
「おかしいな―――なんで、泣いてるんだろう、俺」
理由もない。
ただ、それが中々止まってはくれなかったという事が、悲しいといえば、悲しかった。
……どのくらいの時間が経過したのか。
深夜を過ぎて、もうじき明け方を迎えるだろう。
「……そっか。今日は日曜だったっけ」
まあ、平日であっても学校は休んで秋葉の傍にいようとしただろうけど、日曜日であるのならそれにこしたことはない。
「絶対安静って言ってたもんな、琥珀さん」
……気が重い。
秋葉がもとの元気な体に戻るまで、何週間かかるか想像もつかない。
「―――それまでに、俺に出来る事―――」
そんなの、考えるまでもない。
なんとかしてアイツを捜し出して、今度こそ引導を渡すだけだ。
アイツはもう人間じゃない。……いや、たとえ人間であろうとも。人殺しだと罰せられても、シキという吸血鬼はこのままにはしておけない―――
「……?」
玄関に誰かやってきた。
琥珀さん……だろうか。
女性らしい小さな足音が近づいてきて、襖が開いた。
――――目が点になる。
やってきたのは秋葉だった。
「秋葉、おまえ……傷はいいのか?」
「……はい。傷は、もう塞がりました」
塞がった……?
そんなバカな、あの傷は一夜で治るようなものじゃないし、琥珀さんだって完治には何週間もかかると言っていたじゃないか。
そんな、傷がすぐ治るなんていうのは人間技じゃ――
「―――――あ」
そこで気付いた。
……いや、気がつかなければ、良かった。
秋葉の髪が、まだ赤いままだっていう事に。
「……兄さんの思っているとおりよ。傷は塞がってしまったんです。ふつうの人なら、決して治療しない傷だったのに」
朝日に透かされる秋葉の髪は赤い。
―――でもそんなコト、俺にはどうだってよかった。
「――なに言ってるんだよ秋葉。傷が、傷が治ったんならさ、それでいいじゃないか。
遠野の血なんて言って嫌ってたけどさ、こういうふうに役立ってくれるなら、よかっ、た――」
「……いいんです、そんなに無理はしないでください。私は兄さんを困らせるために来たんじゃない。まだ私が私でいられるうちに話さなくちゃいけない事があるから来たんです」
「な―――」
私が私でいられるうちって、そんな―――
「聞いてください、兄さん。私は、ずいぶんと長いあいだ貴方を欺いてきました。その償いはどんなことをしてもできないけど、せめて本当の話だけはしないと、私はこのまま消えられない―――」
秋葉の目は泣きそうなぐらい、悲しげだった。
……そんな目で見られたら、秋葉を止めることなんて、とうていできなかった。
「……わかった、聞くよ。
けど秋葉、俺は何を聞いても遠野志貴のままだよ。……おまえが話したがっている本当の話なんていうのは、言う必要のないものかもしれない。
それでも―――話したいっていうのか、おまえは」
「兄さん、貴方………知って、るんですか?」
「……シキのヤツはお喋りでさ。秋葉が気絶している時に、だいたいの事は聞いたよ。
けど、おまえが言いたいっていうんなら聞く。
俺も―――誰よりおまえの口から聞かされるのなら、本当に納得がいくと思うから」
秋葉は呆然としたあと、キッと唇をかんで俺を見据えた。
「兄さん。貴方は十年前、七夜という家から引き取られた養子です。
……お父様がなぜ貴方を養子にしたかはわかりません。けどお父様は貴方を新しい家族として私たちに紹介しました」
秋葉は辛そうに目を細めて、片手で胸をかきむしるように話を続ける。
「七夜という家柄は、私たちとは対極にあった血筋だと聞いています。
……遠野の家のように人間以外のヒトの血との混血や、その『人間以外』そのものであるモノを魔や妖というのなら、そういったモノたちを敵視する事を生業とする人々がいるんです。
兄さんだって自分たちの学校に豹やライオンがいたらイヤでしょう? 私たち人間は自分たちと違うモノ、自分たちより動物としての能力が優れたものがいるとそれを排除しようとする。
……きっと、理由は簡単な事なんでしょうね。『違うモノ』を忌むから、彼らは魔を狩ろうとするのではないんです。『違うモノ』が私たちの社会に混ざっている、という事実が自身の命を危うくしてしまうから、退魔を成す組織がある。
―――七夜の家は退魔を謳う家柄の中でも特種な家柄で、魔術や法術を一切使用しない、自らの能力だけで魔を狩っていた家系でした。
……人間ではないモノの血を取り入れた事で特別になった遠野と、人間の血だけで自身を特別なものにまで鍛えあげた七夜。
遠野と七夜は敵同士でありながら、そういった意味では背中合わせをしている血統でした。
ですから、兄さんが特別な力を持っているとしたら、それは遠野の血によるものではなく七夜の退魔の血によるものなんです。
兄さんの血には、無意識下で『人間以外のモノを退治する』という命令が刻まれている。
……兄さん、一度だけ私を見て走り去ってしまった時があったでしょう? あの時に気付いたんです。兄さんの七夜の血は今もちゃんと機能していて、遠野秋葉という『魔』に反応したんだなって」
――――それは、あの夜の事か。
たしかにあの時、秋葉の髪が赤く見えたとたんに殺人衝動を覚えてしまった。
アレで俺は自分が殺人鬼なんだって思ったけど、それはつまり――――
「ええ。兄さんが血の昂ぶりを覚えるのは、私やシキのような『外れているモノ』にだけです。
けど、それだけに私たちのような旧い血族に対しては死神のような存在でした。
……たとえ七夜の人達が何代も前から退魔をやめてしまった今でも、七夜の血筋はあるだけで脅威だったんだと思います」
「…………………」
なんだろう。
唐突に、どくん、と心臓が高鳴った。
厭な予感がする。
秋葉にはその先の言葉を言わせてはいけない。
……いや、そんな事を、秋葉の口から聞きたくはないだけなのか。
「もういい。……その先は言わなくていい。俺がどうして養子にとられたかなんて事は、もう終わってしまった事だろう。
……だから、いいんだ。そんな事は俺にも秋葉にも、まったく関係ないことだ」
「兄さん、でも―――」
「七夜なんて知らない家の事なんてどうでもいい。秋葉、おまえが遠野家の当主だっていうんなら、話すべき事は遠野家の事だけのはずだろう」
「―――――――」
秋葉は謝るように下を向いて、はい、と頷いた。
「……話を私たちの事に戻します。
兄さんと私、それにシキ。私たちは本当の兄妹として育てられました。
兄さんとシキはとても仲がよくて、わたしも幼心に嫉妬するぐらい、仲が良かった。
けど、シキがあんなコトになってしまった時にすべてが狂ってしまったんです」
「……八年前、シキが遠野よりのモノになっちまったんだろ。それでアイツはそこに居あわせた俺を殺した」
「……はい。
けど兄さんは一命を取りとめてくれました。
ですが、事はそう簡単に終わってはくれなかった。
狂ってしまったシキは内々に処理したけれど、遠野家の長男を殺してしまうわけにはいかない。
遠野家は社会的にも地位のある家柄でしょう? だから……簡単に後継ぎである長男が居なくなりました、なんて事は周りに報せられなかった。
そこで父は思いついたんです。
シキに殺されかけた兄さんを本当の遠野志貴として扱い、反転して人間でなくなってしまったシキを事故で死亡してしまった養子として扱えばいい、と」
秋葉は唇を噛みながら、ここにいない遠野槙久を呪うような激しさでそう言った。
―――つまりはそういうコトだ。
俺とシキはそこで入れ替わった。
殺された側である俺が生き残って、殺した側であるシキが死んでしまった。
それが俺とシキの関係という事か。
「……ごめんなさい。兄さんは―――志貴という名前をしていた子供は、もうドコにもいないんです。
志貴という子供は八年前に死んでしまった。
それは命としての死ではなく、存在としての死です。戸籍も過去も家も、その記憶も、もうどこにも残ってはいない。
兄さんが遠野シキの代わりになった八年前に、全部……父が、処分してしまいましたから。
だから兄さんは有間の家に預けられたんです。
世間体のために、とりあえず遠野家の長男は生きていなくてはいけない。けれど本当は血が繋がってはいないから、後継ぎにはさせられない。
お父様は事故で体が弱っているという理由をつけて、兄さんを有間の家に追放したんです。
……私は納得できなかった。体が弱いなんて、そんな理由で兄さんを有間の家に預けたお父様を憎みさえしたわ。
何度も何度もお父様に兄さんを呼び戻してほしいって繰り返したせいでしょうね。お父様は耐えきれなくなって、私に兄さんが養子だったっていう事を教えてきました。
そうして、兄さんを二度と遠野の家に立ち入らせないようにって私に言いつけたんです。
……ご自分がどんなに兄さんに酷いことをしてきたかも考えずに、そんな恥知らずな事を、あの人は最後まで私に言いつけて亡くなりました」
秋葉の話は、そこで終わった。
長い間隠していたためだろうか、秋葉の告白は何かの懺悔のように感じられた。
「……私の話はこれで全てです。わかったでしょう兄さん。貴方は私の兄ではありません。
貴方は―――こんな穢れた家の人間なんかじゃ、ないんです」
泣きそうに。
本当に泣きそうな声で、秋葉は言った。
「……そうか。悪かったな、秋葉。兄貴でもないのに、今まで兄貴面しておまえを困らせてた」
「え……兄、さん……?」
「でも、俺はもうここの人間だよ。俺は秋葉の兄貴じゃないけど、それでもここにいるわけにはいかないかな。俺は、もう秋葉を一人にしておきたくはないんだ」
「あ――――――」
秋葉は口元に手をあてて、言葉を飲みこんだ。
長い、沈黙のあと。
秋葉は悲しそうに、首を横にふった。
「……そっか。そうだよな、今更こんな事言っても仕方ないか。俺はとっくに兄貴失格だったもんな」
「ちが―――違う……! そんなコト、そんなコトありませんっ……!」
―――信じ、られない。
秋葉―――秋葉が、ぽろぽろと、顔をくしゃくしゃにして、泣いてる、なんて。
「兄さんは―――私の兄さんは貴方だけです……! ちいさかったころから、ずっと秋葉は貴方を見てきたんですから……!」
「……嬉しいけど、それは秋葉が知らなかったからだ。俺は、秋葉の兄貴にはなれなかった」
「そんなの、そんなの初めから知ってました……! 兄さんが養子にとられたっていうコトも、私の兄じゃないってコトも、それぐらい分かってた……! けど、それでも良かったんです。貴方が初めて私の名前を呼んでくれた時から、私は―――」
どん、という音。
顔を涙で濡らしたまま、秋葉は、俺の胸に倒れこんできた。
「秋――――葉」
細い両肩に手をおく。
どくん、という鼓動はどっちのものだろう。
こんなにも近く。
腕を回せば抱きしめられるぐらい近くに、秋葉の体が存在している―――
「……知ってた、のか」
子供のころから。
あんな子供のころから、俺が本当の兄じゃないって、知っていたのか。
「……なら、どうして。どうしてそれを言わなかったんだ秋葉。俺は、おまえの兄貴じゃないのに」
……少しの静寂。
意を決したように、秋葉は顔をあげた。
「……一緒に、いたかったから。
そうすれば……兄妹だっていうことにしておけば、一緒にいられるわ。私は人間じゃないから、兄さんとは違い過ぎるから、側にいることはできないでしょう……!?」
悔しそうな声で言って、秋葉はだん、と俺の胸を手で叩いた。
「でも―――それでも兄妹なら一緒にいられるって思ってた。どんなに兄さんに嫌われても、私になんか気付いてもらえなくても、それでもずっと一緒にいられるならって……!」
だん。
悔しそうに、俺の胸を叩くおと。
「おかしいでしょう……? こんな大きな家に生まれても、私には何一つわがままは許されなかった。
私は違うから、他の人達とは違うからって屋敷に閉じ込められて、誰とも関わらない一生を送るんだって覚悟していた。けど、それを貴方が壊したんです」
まるで今まで堪えていたものを吐き出すように、何度も何度も、秋葉は俺の胸を叩く。
「兄さんさえ―――兄さんさえいなければ、私はあのままで暮らしていけたのに……!
私は弱くなって、うそつきになってしまった。
兄さんに嘘をついて、自分にも嘘をついて。
ずっと、ずっと兄妹だって嘘をついていれば、それ以外には何も―――何も、いらないって――」
――――胸が痛い。
そんな些細な嘘を。そんな小さな嘘を守るために、こんなに泣いてしまうぐらい、秋葉は色々なものに耐えてきたのか。
「秋、葉―――俺は」
「ずっと、ずっと、私にとって兄さんは貴方だけだった。貴方以外の人を兄と認めることも、愛することも、できない。自分でもどうすることもできないぐらい、できないんです……!」
だん、という音。
一際強く俺の胸を叩いて、秋葉は押し黙った。
長い沈黙。
その中で、ごめんなさいと、秋葉は呟いた。
「――――――」
その言葉に、胸がつまる。
……秋葉は、今までずっと一人で苦しんでいたんだ。
俺が養子だっていう事も、そのあとで遠野志貴として育てられた事も、全部知っていて苦しんでいた。
……幼いころ、泣きながら自分に謝っていた黒髪の少女の姿が重なる。
―――思えば。
秋葉はずっと、俺に対してごめんなさいを繰り返していた。
些細な、秋葉にとって本当に些細な幸せを守るためについていた作り話。
その作り話そのものが秋葉の望みを押しとどめる壁だったけれど、そんな関係だけで、秋葉にとっては幸せなことだった、なんて。
「秋葉―――俺は」
「……いいんです。ごめんなさい、勝手な事ばかりいって。けど、これで最後だから安心してください」
言って、秋葉は俺から離れた。
さっきまでの泣き顔も消えて、いつもの気丈な秋葉がそこにいた。
「これで最後って―――秋葉?」
「……ほら、見て兄さん。私の髪、もう元に戻らないんです」
悲しむわけでもなく、もう避けえない終焉を受け入れるように、秋葉は静かに俺を見る。
……赤く変色した髪が戻らない。
それはつまり、秋葉もシキのように遠野よりのモノになってしまったという事だ。
「な―――そんなの、そんなのは一時のことじゃないか……! それにそのままでも秋葉は秋葉だ。問題なんか、ない」
「いいんです。自分の体のことだから、もう戻れないってことはわかっています。
だから私の嘘もこれで終わり。私みたいな怪物から離れて、兄さんは七夜志貴として生きてください」
秋葉はうつむいて、一歩だけ後ろに引いた。
……七夜志貴なんて、知らない。
今更、そんな名前に未練はない。
いや、どんなに未練が残っていたって、そんなもの―――秋葉以上に手放せないものなんて、どこにもない。
「―――この、おおばか」
秋葉の手を取る。
「あ―――に、兄さん……」
ためらいがちの声。
気丈なくせに淋しがり屋な秋葉。
……捕まった。
考えてみれば、俺はもうとっくの昔にこいつに捕まっていたんだった。
「いいか秋葉。まわりが何て言おうと、俺はおまえの兄貴だ。ずっと、なにがあったって、血なんか繋がっていなくたって、本当の兄貴なんだ」
「……ありがとう兄さん。……けど私は……」
「でもな! そんなことがなくったって、俺は秋葉の側にいるぞ。妹でなくったって、俺にとって秋葉は大切な女の子だ。他の誰にも、傷つけさせない」
そうして、秋葉の腕を引いて、その体を抱き寄せた。
「…………あ」
「俺だって、妹としておまえを愛してる」
抱きしめる。
「でもな。女として、それ以上におまえを愛してる。それだけで―――傍にいちゃいけないのか」
「―――――――」
息を飲む気配。
止まった呼吸。
……どくん、という胸の鼓動。
互いの体温が、冷えた指先を温めていく。
――――それが、トドメだった。
凍りついた時間の中で、ただそうするのが自然のように、そのまま唇を重ね合った―――
[#挿絵(img/秋葉 33.jpg)入る]
「あ―――――」
初めは拒むように。
「ん、あ――――――」
そのまま、体を預けてくる。
ただ重ね合うだけのキスは、決してそれ以上深くは交わらなかった。
それでも、何も考えられなくなるぐらい、意識がとんだ。
秋葉の唇は冷たく、柔らかだった。
戸惑いがちに重ねていた唇が、強く、離れがたいぐらいにとけあっていく感覚。
押し殺す吐息の熱さが、お互いの思考を麻痺させる。
―――色々理由はつけられる。
けどただ、今は単純に秋葉が欲しいと思った。
今も俺の腕の中で震えている秋葉を抱きしめて、全てを自分のものにしたいと、心から思ってしまう―――
長い静謐のあと、お互いの唇が離れた。
秋葉は俯いたまま、俺に体をあずけている。
「……うれしい」
小さな声が聞こえた。
ただ唇を重ねただけなのに、秋葉は本当に、幸せそうに瞳を潤ませていた。
「秋葉―――」
その肩に手をかける。
……何かを考えたわけじゃない。
ただ自然に、優しく撫でるように、秋葉の首筋に口付けした。
「…………ん」
秋葉の体が震える。
けれど、決していやがっているという反応じゃない。
……秋葉も俺と同じ気持ちなんだろうか。
ただ秋葉に触れたいと俺が思うように、秋葉も、こうしていることを自然だと思ってくれているみたいだ。
「秋葉―――このまま、する?」
耳元で囁く。
もう少し言いようがあるだろうけど、今は飾り立てた言葉なんて言いたくなかった。
「…………………………はい」
こくん、と頷く秋葉。
その仕草が初々しくて、よけいに気持ちが高まってくる。
「……けど、兄さん。その前にお願いがあるんだけど……」
「お願い……?」
「その……このままだと、あんまりだなって」
秋葉はちらちらと畳に視線を送る。
「そっか、たしかに畳の上じゃ痛いもんな。……けど、どうしようか」
……今から屋敷のほうの部屋に戻るなんて、我慢できない。
出来るのならここで、この部屋で、俺は秋葉と愛し合いたい。
「……兄さん、そこに布団が入ってるんだけど……」
秋葉は遠慮がちに押し入れを指差す。
「……その、琥珀に血を分けてもらう時に使っているものですから、ちゃんとした布団です」
「なんだ、そういう事なら早く言ってくれればよかったのに。ちょっと待ってて、いま布団を敷くから」
秋葉から離れて、押し入れから布団を取り出す。 部屋の真ん中に布団を敷いて、もう一度秋葉と向かい合う。
――――と。
秋葉は布団の前に正座して、畳にきれいに指をついて、ふかぶかと頭をさげた。
「……それでは、どうぞよろしくお願いします、兄さん」
赤くなっている顔を、それでもキリリと引き締めて秋葉はそんな古風な言葉を言ってくる。
「――――秋葉」
秋葉に近寄って、肩に手をおく。
……細い肩。
白く滑らかな流線を描くその肌を、じかに見て、触れたい。
「……服、脱がしていいな」
肩から背中に腕をまわす。
と。
「んっ―――――!」
ぞくん、と体を震わせて、秋葉は俺を見上げてきた。
「……いい、です。自分で、できるから……」
秋葉の声は震えている。
人前で肌をあらわにする、という事が恥ずかしいんだろう。
秋葉は立ちあがると、俺から離れて洋服に手をかける。
「………………兄さん、その………………」
言いにくそうに、顔を赤くして視線を逸らす秋葉。
「……笑わないで、くださいね」
消え入りそうな声で言って、秋葉はたどたどしい手つきでシャツを脱いだ。
下着姿になった秋葉は、とにかく恥ずかしそうに視線を逸らす。
その理由が俺にはよくわからない。
笑わないでくださいね、なんて言っていたけど、秋葉の体は綺麗で見惚れてしまうぐらいなのに。
「恥ずかしくなんかない。秋葉は、すごく綺麗だ」
素直に思ったことを口にする。
それでよけいに恥ずかしくなったのか、秋葉はますます身を硬くしてしまった。
「秋葉……? やっぱり、兄妹でするのは嫌?」
「……いえ、そんな事はないんですけど……その、私……」
俯いたまま、両手で胸を隠しながら、
「……胸が小さいから……兄さんにがっかりされるのが、恐くて」
羞恥で耳まで真っ赤にして、秋葉はそんな事を言った。
「――――っ」
……まいった。
気位の高い秋葉がそんな事を口にするなんて、それこそものすごい抵抗があっただろう。
なのに、消え入りそうな声で必死に言葉にして、俺の様子をうかがっている。
「そっか。秋葉、胸が小さいんだ」
できるだけ明るく言う。
「……………」
秋葉は答えないで、ただ胸を両手で隠すだけだ。
「でもそれじゃ判らないな。両手をさげて、下着も脱いでくれないとなんとも言えない」
「下着を脱ぐって……はだかになれってことですか、兄さん……?」
「裸にならないとできないだろ。ほら、俺も脱ぐから秋葉も裸になれよ。今のままでも秋葉はキレイだけど、俺はもっとキレイな秋葉が見たい」
「………………」
秋葉はためらっている。
これから愛し合うことは望んでいても、裸身をさらす事は抵抗があるみたいだ。
……そのあたり、女心というものはよくわからない。
「まあ、そのままでもできない事はないけど……秋葉は俺に裸を見せるのはイヤか?」
「あ――――ちがう、ただ恥ずかしいだけで、その……イヤっていう訳じゃ、ないんです」
秋葉はたどたどしく返答してくる。
その仕草が弱々しくて、つい、いじめたくなってしまう。
「ふーん……まあ、別にいいけど。秋葉がそのままだっていうんなら、ちょっと問題があるぞ。下着のままで抱き合うと色々と汚れちゃうから、あとで琥珀さんにバレちゃうだろ」
「あ――――」
そこまで考える余裕なんてなかったのか、秋葉はハッと声をあげる。
「後ろめたいことなんてないけど、俺たちは兄妹だからさ。抱き合ったって琥珀さんに知られたら、この先なんだか気まずくなるじゃないか」
「それは、えっと……どうしよっか、兄さん?」
本当に困った、とばかりに秋葉は動揺している。
それでも、琥珀さんにバレてしまうより、今ここで俺と体を重ねることを望んでいる事ははっきりと伝わってきた。
「だから、できるだけバレないようにするしかないだろ。そのためにはお互い裸にならないとまずいと思う」
「う―――結局それですか、兄さんは」
「当然だよ。秋葉はキレイだって言っただろう。何も恥ずかしがることなんてない。
それにさ、琥珀さんのことなんて本当はどうでもいいんだ。俺は秋葉の体が見たい。見せてくんなくっちゃ、このまま帰っちゃうからな」
「帰るって、そんな―――」
秋葉は困ったようにうつむいて、はあ、とため息をついた。
「……もう。ヘンなところで子供みたいなんですから、兄さんは」
「ああ、子供だからね。欲しいものは欲しいってはっきり言うんだ。けど、俺が欲しがる物って滅多にないんだよ。……うん。こんなに誰かを欲しいって思ったことは、これが初めてかもしれない、秋葉」
「―――――」
秋葉は何も言わない。
ただ、観念したように、静かに下着に手をかけた。
[#挿絵(img/秋葉 34.jpg)入る]
はらり、という音。
肌を覆っていた下着は畳の上に落ちて、秋葉の白い裸身があらわになる。
「これでいいですか、兄さん」
あくまで視線をそらして、秋葉は両手を下げる。
「――――――」
俺は、何も言葉がうかばなかった。
白いからだ。
俺の、男の体とはもう骨格からして異なる造形美がそこにあった。
肌は白く、それでいて羞恥で上気しているのかほんのりと赤みがかかっている。
なめらかな曲線は腰だけじゃなく足にまでおよんでいて、それだけでこっちの理性がパンクしそうになる。
「……兄さん、あんまりジロジロ見ないでくれませんか」
「……………」
そんな言葉、聞けるはずがない。
たしかに秋葉が言うように、秋葉の胸は小ぶりだ。けどそれが秋葉には惚れ惚れするぐらい似合っている。
人形のような美しい肢体。
一分の隙もないこの完璧さには、大きな胸なんて不必要だ。
どくん、という鼓動。
秋葉の心臓も大きく波打っているだろうけど、きっと俺の鼓動には敵うまい。
「―――――あ」
はあ、と喉があえぐ。
白い肌、細い首筋からたれる黒髪。……赤みがまじっているとはいえ、その瑞々しさは少しも損なわれていない。
長い眉は恥じらいでかすかにふるえていて、閉じられたまぶたもドキドキとゆれている。
赤く染まってしまっている頬も、羞恥に耐えるように閉じられた唇も。
胸元からおちこむ腹部の生々しさ。くぼんだヘソの可愛さ。
……なにより、太ももの間にある秋葉のモノがはっきりと見えてしまって、カアッと意識が熱くなる。
「秋葉――――その、なんて言ったらいいのかわからないけど――――」
すごく、綺麗だ。
俺はそんな破壊衝動なんてもってないけど、秋葉の裸身はあんまりにキレイすぎて、このまま抱き潰してしまいたくなるぐらい、美しかった。
「……あ」
ボッ、と顔を赤くして秋葉は口元に手をやった。
今までの恥ずかしがりようとは違った、照れるような恥ずかしがり方。
「なに? どうかした、秋葉?」
「…………………」
秋葉は答えず、ただ俺のほうを見るだけだ。
「?」
つい、と秋葉の視線の先を見る。
―――と。
秋葉と同じように裸になっていた俺の体を秋葉は見ている。
……それも、秋葉の体を見ていきり立ってしまった俺自身を。
「―――あ」
……少しまいる。
別に恥ずかしいってわけじゃないんだけど、コトが始まってもいないっていうのにこんなにいきり勃っている所を見られると、なんだか自分だけがサカっているようで気まずい。
「………………」
秋葉は少しずつこちらに近寄りながら、屹立した俺自身を見つめている。
……キレイな秋葉の体に比べれば、そそりたった肉の棒はさぞグロテスクに見える事だろう。
「いや、秋葉、これはだな、その―――」
「……はい、わかってます。男の人の性器を見るのは初めてで驚いてしまったけど……」
口元を手で隠しながら、秋葉は興味津々といったふうに俺の股間を覗きこむ。
「……これが兄さんのなんだなって思うと、なんだか不思議とかわいいかな、って……おかしいですね、私」
ぼそぼそと独り言のように呟く秋葉。
―――それで、俺の我慢も終わってしまった。
「秋葉―――」
「きゃっ――!?」
秋葉の腕を引いて、そのまま正面から抱き寄せた。
お互い裸のままで抱き合う。
男根はぴったりと秋葉のおなかに当たった。
腕と腕、胸と胸。
俺の性器と秋葉の腹部が密着しあう。
「んっ………ぁ」
くっ、と秋葉の体がゆれた。
秋葉の腹部にあてられた俺の性器が、秋葉の体温を感じてびくびくと膨張したせいだろう。
「秋葉―――」
力をこめる。
自分のペニスが秋葉のおなかにぴったりと密着しているという事が、麻薬のように理性を切り崩していった。
「んっ……兄さんの、すごく、熱いんです、ね」
たったこれだけの事なのに、秋葉ははあはあと呼吸を乱している。
……俺がこの体勢に興奮しているように、秋葉も自分のおなかに俺の性器が触れている、という事に興奮しているらしかった。
「秋葉―――今からおまえを抱く」
こくん、とうなずく秋葉。
「あ……けど兄さん……私、その、初めてだから……」
どうしていいか、よくわからない。
そんな言葉をごにょごにょと恥ずかしそうに呟く秋葉。
「―――ばか、俺だって似たようなものだよ。だいじょうぶ、秋葉が痛そうだったら優しくするから。……だから、初めは俺にまかせていい」
はい、と消え入りそうな声で答える秋葉。
―――秋葉の肌の熱があがる。
抱き合ったまま布団の上に座って、ゆっくりと秋葉の肌に触れ始めた。
正面から後ろにまわって、秋葉の耳たぶを噛む。
力をいれず、唇の肉だけで挟みこむだけの、前戯のうちにも入らない前戯。
「っ―――――!」
と。
それだけで、秋葉の吐息が漏れてしまった。
「秋葉……?」
「はっ―――あ、んくっ……!」
俺の囁きは秋葉の耳には届いていない。
ただ耳たぶを噛んだだけでこんなに反応するなんて、秋葉は耳が弱いんだろうか?
「秋葉、耳が感じるの……?」
「え―――いえ、そんなコトは、ないんです、けど」
びく、とまた秋葉の体がゆれる。
……ちょっと、おかしい。
ただ後ろから触れているだけなのに、秋葉の反応は過剰すぎる。やっぱり、初めてという事で緊張しているんだろうか?
「秋葉、もっと楽にして。いまからそんなんじゃこの先もたないぞ」
「ん――――わかって、ます―――気にしないで、好きにしてください、兄さん―――」
はあはあと熱っぽい吐息をあげながら秋葉はこちらに体を預けてくる。
[#挿絵(img/秋葉 35.jpg)入る]
「んンっ―――!」
秋葉の背中が反りかえる。
その小ぶりな胸に手の平を置いただけで、秋葉は逃れるように反応した。
「……へえ。ほんとに小さいんだ、秋葉の胸」
「あ………」
「けど膨らみもあるし、弾力だってたしかにあるじゃないか。ほら、たとえばこんなふうにしても、ちゃんと指が戻ってくる」
ぐっ、と指に力をこめる。
あるかないかという胸のふくらみを強く握り締めた。
「ふぁあああぁあ…………!」
泣くような秋葉の声。
こっちの指に吸いついてくるような秋葉の肌と、胸のかすかな弾力。
「んっ、あっ……兄さん、んくっ、あんまり、強く―――しないで、くださ―――」
秋葉の声はそれだけで熱かった。
触れ合う肌もとっくの昔に上気していて、それだけで熱い。
「―――秋葉の胸はかわいいよ。だから、かわいくていじめたくなる」
つう、と後ろから胸に舌を這わせる。
「ふぁうっ………!」
ぎゅっ、と手を握り締める秋葉の反応が初々しい。
「あっ、ふぁ―――にい、さん、なんで……そんなに、胸に、こだわるん、ですか―――」
びくびくとふるえる秋葉の体。
ただ片一方の胸を愛撫しているだけなのに、秋葉は全身が発汗していて火のようだった。
「は―――なんか、すごく熱いな、この部屋」
……俺自身はまだそう昂ぶってはいないのに、ひどく熱く感じられる。
きっと、それぐらい秋葉が激しく昂ぶっているせいだろう。
「にいさん、そこは、もうやめてください。そこ、女の子らしくないから、イヤ、なんです」
はあはあと喘ぎながら、秋葉は胸に触れる俺を止めようとする。
「………………」
もちろん、まだやめるつもりなんてない。
手の平で簡単に収めることのできる秋葉の乳房を、ひときわ強く握り締める。
「――――んくっ、ふぁ、はうぁあああああ……!」
びくん、と反りかえる胸。
小ぶりな胸はそれでいくらか強調されて、よけい強く握ることができた。
「はっ、あっ、ああ、あう、うあうっ……!」
秋葉の胸にはぷにぷにとした柔らかさがないかわりに、ふにふにとした中途半端な硬さがある。
……秋葉の言うとおり、その硬さは女の子らいしというより、少女らしい幼さと可憐さがあって、ゾクリとした。
「んっ―――兄さん、もう―――」
「ほら秋葉、小さくっても立派に感じてるじゃないか。乳首だってこんなに硬くなって、こりこりしてる」
胸を揉みながら、ピンク色の突起を指で挟む。
「ンあああぁ…………!」
顔を真っ赤にしてふるえる秋葉。
恥ずかしさと快楽という二重の衝撃が秋葉の体を責めあげている。
コリ。
微かに硬い乳首を指で挟んで、いじる。
「あン―――は、あ、あ、あ――――」
カリ。
硬くなった乳首を、少しだけ強めに口でかじる。
「んく―――!」
どん、と俺の胸に倒れてくる秋葉。
それでもしつこく乳首を噛んだ。
「あうっ―――は、はあ、はあ、は、ぁ―――」
コリコリとした感触を何度も味わう。
「……はあ……にい、さん―――やめ、て―――あ、んああああああ………!」
そのまま、耐えきれなくなって強く噛んだ。
赤い髪が乱れる。
ただでさえ熱かった秋葉の肌が、さらに熱くなっていく。
―――見れば。
秋葉の下の布団は、とっくにぐしょぐしょに濡れていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――あ、ん、ふぁ―――――」
……俺はただ触れているだけなのに、秋葉はまるで最中の時のように感じてしまっている。
「……秋葉。もしかして、すごく気持ちいい?」
「えっ―――いえ、そんな―――あ、はう、っ――――」
……秋葉の呼吸は乱れている、というより苦しげだった。
まさかとは思うんだけど、もしかして―――
「そっか。胸で気持ちよくならないんなら、ちょっと場所をかえよう」
「え―――ぁ、兄さん、何か、言いました、か」
「言った。胸じゃなくて、今度はこっちを責めるぞって」
そうして、つつ、と秋葉の白い背中を舐めあげる。
―――と。
「ふあああああ―――――!」
それこそ跳びあがるような勢いで、秋葉は体をくの字に曲げる。
「あ―――は、はあ、あ―――兄さん、いきなり、なにを―――!」
「なにをって、背中を舐めただけだよ。それとも秋葉、背中はイヤか?」
「……うん。なんか、くすぐったくて、恐いから」
秋葉から腕を離す。
「―――――」
……言葉がない。
どうりで耳だけであんなに声をあげたはずだ。
もしかしてとは思ったけど、秋葉はものすごく、それこそ人の何倍も感じやすい体質みたいだ。
「秋葉、正直に答えて。……その、もしかしてすごく感じてる?」
「―――――」
ぼっ、と秋葉の顔が耳まで赤くなる。
……その反応で、答えは聞くまでもなかった。
「……まいったな……秋葉がこんなに感じやすいなんて知らなかった。その、普段からこんなに敏感なのか、秋葉は」
「え―――えっと、……よくわからないけど、今日は特別みたいです。兄さんに触れられてるって思うだけで、なんだかすごくドキドキして、体がすごく熱くなってしまって―――」
―――う。
それはものすごく、それこそもう秋葉の体の事を無視して押し倒したくなるぐらい、可愛らしい。
けど秋葉は病み上がりなんだ。
ここで無理なんかさせるわけにはいかない。
「……秋葉。今日は、ここまでにしないか」
「え………兄、さん?」
愕然とする秋葉。
「……兄さん、私とじゃ、やっぱり―――」
「ばか、そんなワケないだろ! ホントは俺だっていますぐ抱きたいんだっ! けど秋葉は感じすぎてる。この先にいったらこんなんじゃすまないんだから、そうなった時の秋葉が俺には想像できない。
秋葉は初めてだっていうし、このままだと本当に秋葉を壊してしまいそうで、俺は―――」
―――言葉は、そこでさえぎられた。
秋葉の唇が、俺の唇の上に重なってきたから。
「兄さん」
「あき―――は」
「大丈夫だと言ってくれたのは兄さんでしょう。なら、最後まで私を愛してください」
「秋葉―――けど、俺は」
「……お願いします。私を壊してしまいそうだっていうんなら―――それこそ、いっそ壊してください。兄さんにつけられる痛みなら、私は必ず耐えてみせますから」
俺の胸に体を預けて、真下から見上げてくる瞳。
……それで、こっちも覚悟が決まった。
「……いいんだな。どんなに秋葉が痛がっても、俺は一度始めたら止められる自信がない。……それぐらい、秋葉にまいってるんだぞ」
「――――かまいません。……私は、兄さんが欲しいんです」
涙するような眼差しで、秋葉はそう言いきった。
「秋葉――――」
そこまで言われて。
もう、ためらう事なんて出来るハズがなかった。
秋葉の体に覆い被さる。
「あ――――」
声をあげて、秋葉は布団の上に倒れた。
……上気した肌。
汗ばむ体の手触りは、それこそ餅のように俺の指に吸いついてくる。
「……なんだ、もうココはぐしょぐしょなんだ。これなら慰める必要なんかない、かな」
「兄さん、どうして――――そう、恥ずかしいことばっかり口にするんですか」
秋葉は顔を赤くして拗ねる。
……秋葉のその顔が見たくて声に出してるって事が、秋葉にはわかってないみたいだ。
「ん―――けど、ちょっと確かめなくっちゃな。秋葉、足開いて。そのままじゃできないだろ」
行儀良く閉じられた秋葉の足をつかむ。
「ちょっ―――兄さん、そんな―――」
「いまさら待ったはなし。ほら、こうやって足を開くの」
「きゃっ―――!?」
秋葉の両足首をつかんで、大股開きにさせる。
「ひっ――やだ、見ないで兄さん………!」
秋葉がバタバタと両足を動かすけど、こっちはそれをがっしりと押さえつける。
とろり、と透明の粘液をこぼしているピンク色の股間に顔を近づけて、くんくんと鼻をならす。
「っっっっ! な、なにしてるんですか兄さんっ!」
「なにって、秋葉の匂いをかいでるんだけど。秋葉、イヤ?」
「イヤって、そんなのイヤに決まってるじゃない……! だいたい男の人が女の人を抱くっていうのは、その……兄さんのソレで、私のを、その……」
なにやらごにょごにょと文句を言う秋葉。
どうも、秋葉の性交の知識は必要最低限のものしかないらしい。
「……ふーん。それはたしかにそうなんだけどさ、その前に色々とやっておかないと痛いんだって」
……まあ、これだけ蜜が溢れているんなら必要はないだろうけど。
「ほら、多少は刺激に慣れさせておかないとまずいだろ。たとえばこんなふうに―――」
つぷ、とひくつく大陰唇を掻き分けるように、舌の先を差し入れた。
「ふぁう―――!?」
びくん、と秋葉の体がバウンドする。
「ん―――すごいな、なかもトロトロしてる」
「に、にいさん、そんな―――きた、ない――」
「汚くなんかないよ。秋葉のここ、すごくあったかくて、あまい感じがする」
じゅっ。
溢れてくる蜜を優しく吸い上げる。
「っあ―――ん、んあ、ふぁ……あ、あ、う――――!」
柔肉の襞をわって、舌を中につき入れる。
「んあ――――は、ハア、あァあああ…………!」
……たくましい男根とは違って、舌はそう強くはない。
小さくて秋葉の膣を満たすことができないかわりに、その小ささを利用して膣の中をかきまわす。
[#挿絵(img/秋葉 43.jpg)入る]
「はっ――――ん、やめ、兄さん、そんな、やめ――――んはァ……!」
反りかえる秋葉の体。
そのたびに赤い髪がなびいて、ひどく、官能的だった。
秋葉の恥毛は、髪の毛に比べればかすかに薄い。
そのしげみと秘裂の間にぷっくりと膨らんだ突起は、赤く充血して触れられるのを待っているように見える。
「……ん」
つう、とその突起を舐め上げる。
女性にとってのペニスといわれるそこは、他の部分以上に感じやすい性感帯だ。
「――――――――!」
ぐっ、と秋葉の両足の力が強くなる。
「ン―――――あ、はあ、あ―――ン」
揺れる体。
こっちの舌先一つで秋葉の美しい肢体が踊る。
「ふわぁ―――に、い、さん―――わた、し―――」
何も考えられないぐらい気持ちいいのか、秋葉は俺の姿を見なくなった。
「…………」
これ以上引き延ばしても意味がないし、なにより俺自身がもう限界だった。
「秋葉―――挿れるぞ」
腰を沈めて、ぴたりと亀頭を秋葉の秘裂に当てる。
「っんく―――!」
まだ挿れてない。
ただ亀頭を当てただけなのに、秋葉は体をのけぞらせる。
……このまま挿れてしまったら、どうなるか解らない。
けど、こっちだって秋葉の体がほしくてたまらないんだ。
「――――――」
ただ、できるだけ優しく。
ゆっくりと、腰を秋葉へと突き入れた。
[#挿絵(img/秋葉 36.jpg)入る]
「ふあぁあう……………っ!!!!」
ギッ、という反応。
亀頭を入れたとたん、秋葉の呼吸が変わった。
「ん、あ、あ、あ――――ああ、あ…………!」
ぎゅっ、とシーツをかきむしる指。
歯を食いしばって痛みにたえる表情。
「秋葉、痛い、のか」
「は―――はい、まだ、がまん、できる、から―――」
途切れ途切れの声で秋葉は答える。
「―――――つ」
声が途切れているのはこっちも同じか。
……秋葉のなかは、ものすごく、きつい。
亀頭をいれただけで苦しむ秋葉と同じように、こっちも秋葉のなかの力強さに歯を食いしばる。
じゅるり。
そう、たしかに秋葉の中はぬかるんでいるっていうのに、奥に進むのが難しい。
絡みついてくる襞という襞は、俺の進入を拒もうと外へ外へと押し返そうとする。
その感覚。
柔らかく包み込んでくるくせに、万力のように強く締めあげてくる肉の群れの感覚に、意識がトびそうになる。
「……こ、の……」
さっきまで秋葉を悦ばせるばっかりで、俺自身はあまり昂ぶってはいなかったのに。
ただ挿れただけで、とたんに根元から精液を吐き出しそうになってしまっている。
「くっ――――」
まだだ。まだ、こんな入り口で果てるわけにはいかない。
アナルをひきしめて、少しずつ、秋葉の膣に自分自身をつき入れていく。
「んく………! い、痛、い、兄さん、そんなの、大き、すぎる―――!」
秋葉の胸が反りかえる。
ぎちぎちと音をたてて、無理やりに秘裂を広げていく肉棒。
こっちは出来るだけ優しくしているんだけど、それでも秋葉には耐えがたい激痛なんだろう。
削岩機のようなその荒々しさに、秋葉の体が跳ねあがる。
「あ―――ふあ、ああう、んああああああああああああ!」
びしっという音。
まったく未開発だった秋葉自身を開拓していく、肉の柱。
「んんっ―――は、んあ、あううううううううううううう!」
秋葉の声は、もう悲鳴に近い。
秋葉の苦痛が増すと、逆にこっちの快楽が増してくる。
それぐらい、秋葉のなかは敏感だった。
ず。ず、ぷ。
ゆっくりと、熱くたぎった肉棒をつき入れる。
「んくっ……はあ、あ、ハ―――兄さん、それ、あつい……!」
「くっ――まだこれからだぞ、秋葉……!」
熱いのはこっちだって同じだ。
秋葉の膣はとろけそうなぐらい火照っていて、こっちのペニスが融かされそうなぐらいなんだから。
「秋葉、いく、からな―――!」
くっ、と少しだけ腰をつきいれる。
何重にも塞がっている襞とは別の、押し広げる事のできない何かに、亀頭が触れた。
「や――――――」
ぎしり、と締め上げてくる秋葉。
「はっ、あ――――にい、さん―――」
これから来る痛みにそなえるように、秋葉は歯を食いしばる。
「……秋葉。俺で、いいんだな?」
「――――はい。兄さんでなければ、イヤです」
……それで、あとは何もいらなかった。
痛みを一瞬のものにするために、ただ、腰をつきいれた。
「――――――――――――!」
爆ぜる体。
秋葉の腰があがって、少しでも痛みから逃れようとする。
[#挿絵(img/秋葉 37.jpg)入る]
「ん――あ、んくっ、は、あ―――――!」
どろりとした感触。
秋葉のなかからもれてくる液体に、赤いものがまじってくる。
それでも、腰を少しずつ動かしつづける。
じゅ。ずぷ。ずず、ず。
「っ――――! あ、あ、あああああ―――!」
秋葉の腹部がもりあがる。
つき入れる肉の棒が、秋葉の生殖器からつきあがっている証拠。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ―――」
ぬちゃ、ずちゃ、と淫らな音をたてて、腰を前後させる。
「あ―――つあ、あううううううう!」
秋葉の声もとどかない。
処女膜を破っても、まだ痛みは続いているんだろう。
秋葉のなかでは、まだ快楽より痛覚の方が勝っている。
「はあ、はあ、はあ、はあ――――」
……けど、こっちはその逆だ。
秋葉の痛みが増せば増すほど、締めつけ具合は強くなっていく。
いまさら。
もう、自分自身を止められない。
「んン………っ! にい、さん―――!」
ずちゃ、ず、ずちゃり。
「やめ―――兄さん、いた、い―――――!」
ずっ、ずず、ずずずずず…………!
柔らかな秋葉のなか。
熱くて、きつくて、今にも根元から、たぎった精液がこみあげてきそうだ。
「あ、ンあ―――ああああ、ああ―――!」
秋葉の声が聞こえる。
……そこで、ようやく気がついた。
秋葉の目から、一筋の涙がこぼれていることに。
「くっ――――――!」
それでも、俺の感情は止まってはくれなかった。ごっ、と一際強くつき入れる。
それで―――
「んくっ……! は、ふぁ、にい、さん―――わた、私、もう――――!」
秋葉の背中が弓のように反りかえる。
ペニスを押しつぶそうとばかりに締め上げてくる秋葉の膣。
「っ―――く、あ…………!」
限界はこっちも同じ。
秋葉の体が倒れこむのと同時に、俺自身も堪えきれなかった。
ぎゅっ、と締め上げてくる秋葉の秘裂から急いでペニスを引き出す。
どく、と。
尿道から吐き出すように精液が飛び出す。
白濁液は秋葉の中に注ぎ込まれるかわりに、秋葉の体にどぷどぷと弾けていった。
「は……あ、あ――――」
秋葉の体から力が抜ける。
ぐったりと布団に体を預ける秋葉。
赤みの混じった黒髪がざあ、と畳に広がって、何か美しい生き物を見ているみたいだ。
「はあ――――はあ――――はあ――――」
秋葉ほどではないけど、乱れた呼吸をなんとか整える。
秋葉は―――体を横にしたまま、まだ顔を赤くして、涙を残していた。
[#挿絵(img/秋葉 38.jpg)入る]
……初めての性交による痛みのせいだろうか。
秋葉の涙ははっきりと残っている。
「……兄さん。外に、出したんですね」
呆然と、夢見るような口調で秋葉はそんな事を呟く。
秋葉の体には俺の精液が飛び散ってしまっている。
秋葉はそれを気にしている風でもなく、ただぐったりと体を布団に投げ出していた。
「秋葉……まだ、痛い?」
「あ――――うん、まだ少し痛いけど、もう大丈夫です」
「……そっか。ごめんな、優しくするって言ったのに、秋葉が可愛くて、つい―――」
乱暴に、自分の都合で果てまでいってしまって。
「……いえ、いいんです。痛かったけど、それ以上に嬉しかった。私、これで―――もう、思い残すことなんて、ない」
「な―――縁起でもないこと言うなっ………! 秋葉は秋葉だって言っただろ。
たとえ……その髪が戻らなくても俺はかまわない。血が欲しいっていうんならいくらでもやるし、秋葉が苦しい時は傍にいたいんだ。
……それに、さ。俺、こんなんじゃ全然たらない。これからはもっと、秋葉のことを愛したい。だからそんなこと口にするな。俺たち、これからずっと一緒じゃないか」
「兄さん―――――」
秋葉は何も言わない。
……束の間。
俺と秋葉のあいだにあるものは、火照ったお互いの体温だけだった。
不意に。
「ねえ兄さん。一つ、可愛い妹のお願いを聞いてくれます?」
なんて、明るい口調で秋葉が言ってきた。
「ああ、いいよ。今日はサービスする。俺に出来る範囲でなら、何でも聞くよ」
「よかった。なら約束してください。もし私が変わってしまったら、貴方の手で殺してくれるって」
すらりと。
まるで何でもない事のように、秋葉は言った。
「な――――」
声がつまる。
なんで―――今、こんな話をしなくちゃいけないのか、わからない。
「……なんだよそれ。そんなの、俺が聞くと思ってるのか」
「ええ。だって、もう兄さんは私の大切な人ですから。自分の死に目は、一番大切な人に看取ってもらうのは当然の事でしょう?
それとも、兄さんは私のお葬式には出てくれないんですか?」
「な―――それとこれとは、話が違う」
「違いませんよ。
……ねえ兄さん。確かに私の髪はもう戻ってくれないかもしれない。けど、それだけならまだ問題なんてないんです。
……私が恐れているのは、シキのように理性を無くしてしまう事です。お父様は四十歳を境に精神に異状をきたしました。だから私も、長く生きるとそうなってしまうかもしれません」
「……そんなこと、ない。いや、あったにしてもそんなのは先の事だろ。それに―――たとえそうなっても、俺は―――」
「……ありがとう。けど、そうなった遠野の者は死ななくてはいけないんです。
自分が遠野よりの存在になってしまったら速やかに自決する。……遠野の者はみなそうやって生きてきました。
完全に変わってしまった者は死にでもしないかぎり元に戻ることができなくなります。
そうして変貌した肉体には、正常な心が働かない。私は私自身さえわからなくなって、目に映るものに害をふりまく。
……恐ろしいのは、そうなってしまったら自決する事さえできなくなってしまうという事なんです。
―――だから、兄さん。
私が一番大切な貴方に、こんな事を頼むんです。貴方を誰よりも信頼しているから、私には貴方しかいないから、貴方にしか自分の事をたくせない。
私は私の知らないところで、何の関わりもない人たちを殺してしまうなんてイヤなんです。そんな事をしてしまったら、それまで遠野秋葉だった私が台無しになってしまうでしょう?」
「秋葉―――それは」
「……だから、殺して。
いつか、私が変わり果ててしまった時、それまで私の事を愛していてくれたのなら、私のために殺してください。
私が罪を犯すまえに。変わってしまった後も、私が私自身のままでいられるように。……私が、遠野志貴の妹でいられるうちに」
「―――――――」
……ぎり、と歯をかみ締めた。
秋葉の涙は、そういう事だったんだ。
こうして抱き合っている今が幸せだから泣いているんじゃない。
いつか。
いつか遠い未来、この幸せがなくなってしまうってわかっているから、それが悲しくて泣いている。
「ば―――――」
……許せない。
こんな事を言う秋葉も。
「ばか―――――」
こんな運命を持っている遠野の血も。
「なんで、そんな―――――」
たとえ嘘でも、秋葉の願いを聞き届けてやれない自分自身も――――
[#挿絵(img/秋葉 39.jpg)入る]
「ん――――っ!?」
強引に秋葉の唇を奪った。
三回目のキスは、愛し合うためのものじゃない。
ただ秋葉を黙らせるだけの、荒々しい口付けだった。
「秋葉―――――――!」
今までの口付けとは違う、秋葉を深く求めるような鬩ぎ合い。
「は―――――ん――――――」
不意の口付けにためらいがちだった秋葉の舌が、俺の舌に絡みついてくる。
お互いの口内でとろけあう舌と唾液。
濡れた蛇のように交じり合う触覚が、くだらない理性を全て払拭してくれる。
……溶け合う舌と舌。
その舌でさえ邪魔だと思うほど、秋葉と溶け合う感覚は素晴らしかった。
皮膚も、理性も、ヒトであるコトさえ癇に障る。
「んっ…………にい、さ………ん」
それは秋葉も同じなのか、秋葉は俺の唾液を嚥下して、自らの唾液を俺の中へと流しこんでくる。
ごくり、と。
溶け合えないかわりに、互いの体液を混じり合わせる。
秋葉は自分の感情をぶつけてくるような激しさで、きつく、俺の唇を吸う。
「はっ――ン、く――――」
息があがる。
さっきまで喘いでいた秋葉みたいに、こっちの頭が真っ白になっていく。
……ああ、本当に。
今の秋葉の言葉は、許せない。
「んっ……は、ぁ…………」
秋葉から唇を離す。
はあ、と。大きく息を吸う秋葉。
「……兄さん……? どうしたんですか、まだ話の途中だった、のに」
「知らない。俺は、頭にきた」
そのまま、秋葉の体を抱き起こす。
「兄さん―――? 頭にきたって、なににですか?」
「秋葉のそういう悲観的なところとか、それを笑い飛ばせない自分の弱さとかいろいろだよ。
けどまあ、一番頭にきたのはこっちは必死だったっていうのに、秋葉はそんな事を考えてたのかなってこと」
「え―――?」
「秋葉、ぜんぜん気持ち良くなかったんだな。なんか悔しいから、これからすっごく気持ち良くしてやる」
そうして、秋葉の無防備な胸元に顔をうずめる。
あるかどうかもあやしい胸の谷間。
そこに唇をあてて、強く吸い上げた。
「んっ―――――!」
びくん、と反りかえる細い背中。
「に、兄さん―――気持ちいいって、さっきも十分気持ち良かった―――んぁっ!?」
腰のまわりをなで上げる。
敏感な秋葉はそれだけで顔をそらした。
「あ―――、兄さん、まだ、やるん、ですか―――?」
「やるよ。秋葉もなれた事だろうし、次はもっと気持ちよくなれる。……おまえがつまんない事を考えられないぐらい、激しく責めるからな」
「え……それ本当なの、兄さん……?」
「ああ。あたまにきてるから、思いっきりやる」
「そうじゃなくて……その、さっきより、もっと気持ちよくなるの……?」
……さっきまでの暗さはどこにいったのか、頬を赤くして秋葉はそんな事を尋ねてくる。
「―――なんだ、さっきは痛かったんじゃなかったのか。あんなに苦しんだから悲観的な事を言ってくるのかと思ったけど、違うんだ」
「え………その、たしかに痛かったけど、すごく気持ち良かったから我慢できたんです。……私、男女の性行為ってああいうものなんだなって思ったんだけど―――」
違うの? と視線で問いかけてくる秋葉。
その仕草が可愛くて、つい苦笑してしまった。
「痛いのは最初だけだよ。あとはもう痛みはなくて気持ち良さだけがあるものなの。例えばさ、こんなふうに―――」
「っ―――――!」
秋葉の片足を持ち上げて、腰に手をそえる。
そのまま―――秋葉のおしりを、自分の座った膝の上に下ろした。
「に、兄さん――――?」
「……秋葉。俺はおまえのこと、愛してる」
同じ視線で、そう告げた。
「だからおまえの望みならなんだって聞く。けど、さっきみたいのは勘弁してくれ。俺は、生きてる秋葉と一緒にいたいんだから」
「あ…………」
「……いくぞ。もう二度とあんな事が言えなくなるぐらい、秋葉を壊してやる」
「兄、さん――――」
そのまま。
あらわになっている秋葉の股間に、自分のモノをつき入れた。
もう手加減をする必要なんかない。
抱き上げた秋葉の体ごと、男根を秋葉のなかに突き上げた。
[#挿絵(img/秋葉 41.jpg)入る]
「んあ――――――!?」
激しく秋葉の背中が反りかえる。
さっきまでみたいな、そろそろと中に入っていくようなマネはしない。
ただ、力任せに一気に奥までつき入れた。
「はっ――――あ、兄さん、いた―――い!」
すがるように俺の肩に腕をまわしてくる秋葉。
かまわず、一度奥まで挿れたモノを中ほどまで抜いて、また突き上げる。
「―――――!」
がくん、という動作。
ぎちぎちと音をたてて、膨張したペニスが秋葉の膣を押し広げていく。
「んっ―――あ、はあ、ん、あ――――」
この姿勢はよほど奥まで入るのか、秋葉の体はがくがくと震えている。
「に、にい、さん――――うそ、つき……!!」
はあはあと息をあげて、秋葉は必死に声をあげる。
「もう、いたくないって、いった、のに―――」
拒むようなセリフ。
反面、秋葉の膣は前回以上に熱くて、もうドロドロに愛液をあふれだしている。
「そうかな、俺は嘘なんてついてないんじゃないか? 実際、さっきより気持ちいいだろ秋葉」
「んあ―――――!」
ごっ、と腰をつきあげる。
お互いの恥骨がぶつかり合うぐらい激しく。
「……はっ……ん、あ、ん―――」
肩にからまった秋葉の腕に力がこもる。
挿れただけで動きを止めたから、秋葉もそう乱れていない。
ただ自分の中にある異物の感覚に、はあはあと息をもらしているだけだ。
「兄、さん―――この態勢、さっきより―――」
「ああ、すっごく恥ずかしいかっこうをしてる。秋葉、いま自分がどうなふうになってるか、ちゃんとわかってるか?」
「――――――――」
秋葉の顔が真っ赤になる。
「に、兄さん……! わかってるなら下ろしてください……!」
俺の体を突き放そうとする秋葉。
けど、こっちにはそんな気はまったくない。
「……秋葉、このままいくからな。倒れないようにしっかり掴まってないと、よけい痛いぞ……!」
「え―――んくっ!?」
秋葉の腰を抱き寄せる。
片手で、足をより高く持ち上げる。
反りかえるのは体だけじゃなく、秋葉の陰部も突き上げやすいようにあらわになる。
「んっ、ああああああ――――!」
この体勢だとただ入っているだけで感じるのか、秋葉はぎゅっと抱きついてくる。
「秋葉―――――!」
それが合図になった。
挿れていただけのモノを引いて、突き上げる。
「いた、い――! 兄さん、やめ、やめて、ください―――!」
いっそう高い秋葉の声。
動きはやめない。
ぐじゅり、ぐじゅり、と。
ねばつく音をたてて、休みなく腰を動かす。
「ひ―――ふあ、あ、あう、はうぅぅぅぅぅ!」
しまってくる秋葉のなか。
「あ―――にいさ、んくっ、わた、し―――!」
つきあげるたびに
「こんな―――うそ、ふっ、ん、ああぁあああ…………!」
返ってくる秋葉の熱さ。
じゅく、ぐちゃ、ずぷ。
こすれるたびにこぼれてくる秋葉の蜜。
「いた、い――――いたい、のに、どう、して―――」
ぎゅっ、と。
絡みついてくる秋葉の腕と、なか。
「はっ、ふぁ、あ、あ―――――!」
奥に当てる。
ごっ、と音がするたびに身をよじる秋葉。
「に、にいさ、ん――――すご、い」
どんな感情によるものか。
秋葉の瞳から涙が流れる。
「……さっきとは、ん、ぜん、ぜん、ちが、う―――!」
声をあげながら、秋葉は懸命に抱きついてくる。
「、はあ、はあ、は、あ―――」
秋葉につられて、こっちもつい息がもれた。
全然違うのは当たり前だ。
こっちは本気でやっているんだし、秋葉のなかだって、さっきとは全然違う。
「んっ―――秋葉、もっと、強く―――!」
ずんずんと腰を突き上げながら、なお深い快楽を求めた。
秋葉の中はもう十二分にきつい。
何度も出し入れを繰り返しているシャフトに絡みつく襞は、それこそ無数のヒルのようだ。
[#挿絵(img/秋葉 42.jpg)入る]
「んっ―――にいさん、わた、し―――!」
「―――っ…………!」
躍動する快感。
秋葉の体は熱くて、触れているだけで意識がしびれる。
秋葉も―――こうして触れ合っているだけで刺激を受けているんだろうか。
「――――――――」
無意識に、腰にまわした指をはわせた。
柔らかな弾力をもつ臀部の谷間をすり抜けるように、秋葉の後ろに指をいれる。
「ひゃっ――――!?」
びくん、と後ろではなく真上に跳ねあがる秋葉。
「に、にいさん、そんな――――とこ―――!」
……きゅっとすぼまった肛門に、無理やり中指を押しこんでいく。
「ん、んんんんんんん!」
しまってくる全て。
第一関節までいれた中指を、それこそ折ろうとするぐらいに。
「い、いや、にいさん、やめ―――ん、くっ………!」
言葉とは裏腹に、秋葉の膣はいっそう淫らになっていく。
「は――――ん、あ、あン、あ、ふぁ―――!」
あんまりに濡れすぎているためだろう。
秋葉の痛みも、いまでは完全に快楽の前に敗退してしまったようだ。
「ぐっ―――!」
それでも、まだ腰を動かす。
何度も何度も、それこそ、秋葉という的を拳銃で射ぬくように、執拗に果てしなく――
「あ、んあ、あ、は――――!」
がくがくとゆれる体。
苦しげにしがみついてくる細い腕。
「ん、つあ、はあ、はあ、はあ――――!」
長い髪がゆれる。
ピン、と勃った可愛い乳首に歯をたてる。
「はっ――――あ、ああ、にい、さん―――!」
休みなく膣を刺激され、乳首も責めたてられて、秋葉の意識はなくなってしまったようだ。
はらり、と。
抱きついてきていた腕がはがれて、秋葉は布団の上に倒れこんだ。
[#挿絵(img/秋葉 45.jpg)入る]
「っ―――」
つられてこっちも正上位に戻ってしまう。
さっきまでの突き上げるような感覚のかわりに、ぴったりと重なり合える一番自然なカタチに戻った。
「んっ――――あき、は―――――」
長い髪を布団におしつけて、まだ秋葉のなかの男根を前後させる。
秋葉がそうであるように、こっちもとっくに意識がない。
ただ快楽に支配されて、その果てを目指すだけだった。
「んっ、ふぁ、あ、あ――――――!」
休むことなく責め続けられる秋葉。
その目も口も、涙やら唾液やらで乱れてしまっている。
「にいさん、わた、わたし、だめ――――!」
懇願するように抱きついてくる両腕。
正直、こっちもとっくに限界を突破していた。
「あき、は―――いく、ぞ………!」
「ん、ん、んんんんんんん………!」
秋葉には聞こえていない。
押し寄せる快楽の波の前に、秋葉の意識はなくなっている。
「はっ、あ、ああ、あああああああ……!」
「んっ―――ぐっ!」
ずん、と。
残った力をすべて集めて、秋葉そのものを、貫く。
「ふあ、あ、あ、ああああああ――――!」
反りかえる秋葉の体。
「はっ――――あ」
どくん。
生殖器の根元にたまっていた熱い塊が脈動する。 限界まで堪えていた精液が、今にも秋葉のなかに撃ち出されようとする――――
「くっ、あ―――」
さっきと同じように、急いで体を引く。
―――と。
[#挿絵(img/秋葉 44.jpg)入る]
「にい、さん――――!」
それを拒むように、秋葉が抱きついてきた。
「このまま―――このままで、いて………!」
「あき、は――――」
秋葉の腕が背中にまわる。
それを拒むことなんて、できない。
「っ―――出すぞ、秋葉!」
「―――はい―――わたしの、なかに………!」
―――せりあがる快感。
尿道という細い道を駆け抜けて、ドロドロにたぎったモノが迸る。
「っ――――!」
「ん、ああああああ……!」
どくん、どくん。
吐き出される熱さと、そのたびにズレる秋葉の腰。
しゃにむに。
ただ抱きついてくる秋葉の腕が、愛しかった。
「あ―――――あ、あ」
力尽きて、そのまま重なるように秋葉の上に倒れこんだ。
「はっ……はあ、はあ、はあ――――」
耳元には秋葉の吐息が聞こえる。
「あき―――――は」
呟いて、秋葉を抱きしめた。
お互い汗まみれで、汚れに汚れてしまったけど、そんなことはもうどうでもよかった。
「…………気持ち、よかった?」
「―――――――――」
耳元で、はい、という微かな空気。
……それで、本当に力尽きた。
ばたん、と布団の上にあお向けに倒れこんでまぶたを閉じる。
……昨日から休みなしで動き回っていたせいだろうか。
とにかく、猛烈に眠かった。
「……兄さん……?」
秋葉の声が聞こえる。
けど、もう返事をする体力さえない。
「……眠るんですか? ねえ、兄さんってば」
……だから、返事ができないんだって。
悪いけどこのまま眠らせてくれないか、秋葉。
「……それはかまいませんけど……私、一緒に寝ていいですか……?」
……かまわないけど、秋葉は体を洗わなくていいのかな。
俺はともかく、秋葉はシャワーぐらい浴びたいと思うんだけど。
「……それじゃあ体を洗ってくればいいんですね? わかりました、ちょっと行ってきます。この離れ、浴室とこの部屋だけは生きてるんです」
……秋葉の体温が離れていく。
そのまま、深い眠りに落ちていく。
「……兄さん、約束を忘れないで」
声が、聞こえる。
「……死よりも辛いという事は、確かにあるんです。だから―――貴方だけは、約束を守ってください」
眠っているのに、声が聞こえる。
「ごめんなさい……こんなことを言ってしまって。けど、死が救いになることだってあるわ」
なら、これはありえない夢のはなし。
「私は、ただひとり大切な貴方以外には、体を預けたくはないんです。
それを、どうか―――どんなに苦しくても忘れないでくださいね」
……厭な夢。
言われなくたって、忘れることなんて出来ない。
出来るのなら。
そんな事、忘れたいって願うぐらいに―――
◇◇◇
「兄さん、起きてください、兄さん」
―――秋葉の声が聞こえる。
「兄さん、兄さんってば。本当にいいかげん起きないと体に悪いわよ。もう日が暮れるっていうのに、いつまで寝ているんですかー」
―――不思議だ。
耳元で、秋葉の声が聞こえる。
「……もうっ。こんなに呼んでるのに、どうしてそんなシアワセそうな顔で眠っていられるんですか、兄さんはっ!」
―――ぎゅっ、という音。
とたん、まどろみから目が覚めた。
「いたたたたたっ…………!」
腕に激痛を感じて跳ね起きる。
―――と。
「あ……おはよう、秋葉」
「……………………」
秋葉は口を尖らせて、いかにも文句がありそうな顔している。
……ちなみに、ついさっきの激痛は秋葉が俺の腕をつねったものらしい。
「秋葉。俺の腕、こんなに腫れているんだけど何したの」
「別に。兄さんが起きてくださらないから軽くつねっただけです」
「いや、起きてくれないって声をかけてくれれば起きるよ、俺は」
あ……なんか、秋葉の視線が冷たく感じる。
「ホント、翡翠の言うとおりだったのね。いくら声をかけても、それさえ覚えていてくれないなんて」
「え―――なに、何度も起こしてくれたのか秋葉?」
「ええ、それこそ数えきれないぐらい兄さんの耳元で騒ぎましたけど、兄さんは覚えてらっしゃらないんでしょう?」
「あ……うん、悪いけど全然覚えがない」
「わかりました。今度からは遠回りな事はやめて、直接打撃をくわえる事にしますから。それがイヤなら、少しは早起きするよう心がけてください」
……どうも、ずいぶんと秋葉を残して眠ってしまっていたらしい。
秋葉のプリプリようからいって、一時間以上は先に秋葉は目が覚めてしまったんだろう。
「……ったく、しょうがないだろ。昨日は色々あって疲れきってたんだから。学校では秋葉に脅されて、帰って来たらシキのヤツとやりあって、秋葉を寝ずに看てやって、最後にアレだろ?
普通、まる一日寝ていてもおかしくない労働量だぞ、これ」
「最後のアレって、兄さん―――――――」
自分で言って思い出したのか、秋葉は顔を真っ赤にして俯いた。
……初々しくて可愛いすぎる。
普段が気丈なだけに、こういう所をみるといじめたくなるのは仕方がないってものだろう。
「なんだよ、さっきまではあんなに抱きついてきてくれたのに。もしかして秋葉、男女で愛し合うのは嫌いになった……?」
「え―――あ、えっと―――その」
うつむいたまま、ごにょごにょと言葉を濁らす。
「いいよ、秋葉が嫌いだっていうんなら俺もこれからはしないから。よし、これからはプラトニックな関係でいような秋葉!」
「あぅ………兄さん、私は、その――――」
「なんだよ、はっきり言ってくれないと解らないぞ」
……いかん、つい口元がにやりと笑ってしまう。
にやける顔を必死におさえて、できるだけ冷たい顔で秋葉を見る。
「その……私は嫌いでは、ないです、けど」
「好きでもないっていう事か。わかった、これからは控えるよ」
「あ―――いえ、どちらかというと、スキ、なのかもしれません、けど―――」
秋葉は視線をそらして、なかなか面白い返答をしてくれる。
「ふーん。けどばっかりだな、秋葉は」
「し、しかたないじゃないですかっ。さっきは頭の中が真っ白になってしまって、いいものなのか悪いものなのかよく解らなかったんですっ」
「そっか。それじゃもう一回やろっか。今度は俺、自分で秋葉の服を脱がせたい」
「あ―――――――」
秋葉は顔を真っ赤にして俺を見つめる。
……秋葉はぼーっとした後、何かに気がついたように顔をぶんぶんと横にふった。
「……兄さん、とりあえず服を着てください。もう日も暮れますし、屋敷のほうに戻らないと」
「別にいいじゃないか、ここだって屋敷なんだから。俺、今日は一日中秋葉といたいけど、秋葉はイヤなのか?」
「そんなの、私だって同じですっ。……けど、ここじゃちょっと痛いから、ちゃんとしたベッドでしたいなって、その―――」
拗ねるような顔と声で、秋葉は下手な駄々をこねてくる。
けど、なんていうか、それはズドンと胸にきた。
「―――賛成。実をいうとさ、さっき秋葉を看ていた時に思ったんだ。あのふかふかのベッドで秋葉と眠りたいって」
「………………」
こくん、と頷く秋葉。
―――よし、こうなったら善は急げだ。
素早く服を着て、屋敷に戻るとしよう。
離れを出て庭に出る。
秋葉の言うとおり、もう日は没しようとしていて、庭は一面の朱に包まれていた。
「―――なあ秋葉。琥珀さんたち、どうしているかな」
「……そうですね、琥珀は……その、気がついているかもしれません。あの子、普段は不器用なんですけど時々すごく勘がいいから―――」
「…………むむ」
……別に恥ずかしい事をしたっていう気はないんだけど、やっぱり後ろめたい。
琥珀さんの事だから『おめでとうございます!』なんてハッピーなリアクションをしてくれるだろうけど、もし翡翠に気付かれたらどんな顔をされるのか想像もつかない。
「―――あれ」
今、軽く。
頭痛がした気が、する。
「く…………」
立ち止まる。
秋葉はスタスタと先に行ってしまう。
「秋葉、ちょっと、待って――――」
声をかける。
秋葉が振り返る。
その顔。
気がつく前に。
体が、地面に倒れこんだ。
「兄さん――――!」
駆け寄ってくる秋葉。
けど、秋葉は俺のところまでは来れない。
その途中で、アイツに羽交い締めにされてしまったから。
「シキ――! あなた、兄さんに、よくも……!」
アイツに羽交い締めにされながら秋葉は暴れる。
アイツ……シキは血走った目のまま、秋葉の首を握り絞めた。
「ぁ――――――」
がくり、と秋葉の頭が下がる。
シキは気を失った秋葉の体を抱いて、憎しみのこもった目で俺を見下ろした。
「……やってくれたな。ほんとうに、おまえはオレからすべてを奪ってくれた」
呪いというものがカタチになったのなら、それはこんな声になるだろう。
シキはギリ、と歯を鳴らしながら俺を見下ろす。
……動けない。
背中から、力が抜けていく。
かすかな痛みと、このまま消えてしまうんじゃないかっていう脱力感。
自分の体が、自分の血で濡れていく感覚。
俺の背中に。
羽根のように刺さった、ナイフ。
「シ………キ」
「だが勘違いするなよ志貴。秋葉はおまえを愛しているんじゃない。秋葉が愛しているのは兄という存在なんだ。
ああ―――その点だけはおまえに感謝するよ。
そうだろう秋葉? 臆病だった兄を許してくれ。おまえがそこまでオレを思っていてくれたなんて、気づいてやれなかった。
俺がもう少し賢明だったのなら、こんなヤツにおまえの純潔を横取りされるなんてコトは、なかったのに」
……シキは秋葉の体に顔をよせた。
秋葉は意識を失っていて、抵抗さえできない。
「……そうだ。兄妹であることなんて関係ない。オレは、誰よりもおまえを愛している」
シキは秋葉を抱いたまま、倒れた俺の体に近づいてくる。
「今度こそ―――今度こそ二度と帰ってこれないように殺してやるよ志貴。おまえを生かしているから、秋葉は体に負担をかけているんだからな」
「……体に……ふた、ん……?」
「フン、しらなかったのか。秋葉はな、あの時に死んだおまえを、自分の命を分け与えることで生かしてやっていたんだ。
今まで疑問に思わなかったのか? 胸に大穴を空けられて生きている人間なんているハズがないだろう。
八年前のあの日。
死んでいるおまえを、秋葉は自分の命を分けることで蘇生させたんだよ。オレがおまえから奪った分の命を、秋葉は自分の命で補っているんだ。そうでもなければ、おまえが生きている道理なんてないだろうに」
―――命を、分け与えて、いる?
「だから秋葉は自分の体が保てない。おまえなんかのためにずっと苦しんで、おまえが生きているかぎり、これからも苦しんでいくんだ。
―――それを、今、解放してやる」
シキが歩いてくる。
オレの体は動かないまま、意識が遠のいていく。
―――半分の、命。
……音。剣が地面に刺さる音。
罵るような、シキの罵声。
―――親父の手記にあった、秋葉の発作の原因。
「―――遠野くん、いま傷を塞ぎますから、気を確かにしていてください……!」
―――本来なら死んでいた俺の体。
……体が抱きかかえられる。
そのまま、どこかに運ばれていく。
……けど、そんな事は、どうでもよかった。
―――なんて事。結局は、俺が。
何から何まで、秋葉を苦しめていた原因だった、のか――――
[#改ページ]
●『12/或る終劇』
● 12days/November 1(Mon.)
―――夢を見た。
いや、夢という自分のモノではないゆめを、見た。
あの日。
泣きながらこのカラダにすがりついて、自分のココロをわけてくれた、少女のゆめを見た。
私たちは独りで生きて、独りで死ぬんだよ、秋葉。
それが、わたしが父に教えられた最初の言葉だった。
意味なんて解るはずがない。
ただそう語る父の瞳が硝子細工のように無機質で、ひどく不安になったコトだけを覚えている。
この人はとても淋しい人で。
自分もいつか、そうなってしまうと解ってしまったからだろう―――――
―――遠野家の娘として生まれたわたしには、年上の兄がいた。
わたしは、その兄とはどうしても仲良くなれなかった。
両親はその少年を兄というけれど、わたしには何か別のモノに見えて仕方がなかったから。
遠野の血筋のものは、すべからく異なる血を混ざらせる。
だから兄は人間でないモノに見えるのだろうけど、わたしから見た兄は、『それ』でさえない気がした。
わたしは、どうしても兄を心から受け入れる事ができなかった。
そうしてわたしが六歳になったころ。
もう一人の兄として、見知らぬ少年がわたしたちの生活に加わった。
少年の、兄と同じ響きをした名前が、はじめはとても苦手だった。
兄よりいくぶん年下の少年は、けれど大人びていて、誰にでも優しかった。
厳格な家訓に縛られていたわたしを、少年は当然のように色々な遊びに連れまわす。
無言でその後をついていくうちに、わたしは言葉にはしないものの、この新しい兄に興味を持ちはじめた。
うるさくて、おちつかなくて、らんぼうだけど。
どうしてか、このひとは何があってもわたしを大事にしてくれているってわかったから。
遠野の嫡子であるわたしは、兄や少年とは離れた部屋で生活していた。
遠野という特別な血のために、わたしにはまっとうな生活は許されないと父は言う。
体や心を削るだけの学習としつけの時間を、わたしは受け入れる事でやりすごした。
……父は憎くてこんな事をしているんじゃない。
わたしを、秋葉をアイシテイルから、とてもとても厳しくわたしを叱るんだ、と自分に言い聞かせて。
わたしの心は磨耗していく。
もとからあったココロというものがすり減って、削られて、どんどんどんどん小さくなっていく。
けれど、耐えていける気がしてた。
たとえほんのわずかな時間だけでも。勉強が終われば、外に出てみんなと遊べる自由があるんだからと。
わたしたちは三人で遊ぶことが多くなった。
少年と兄はさすがにおとこのこ同士、とても仲がいい。
わたしはいつも黙って、ふたりの背中をおいかける。
兄も、少年と自分たちが違うモノである事は解っているみたいだった。
普通のひととこうして、子犬みたいにはしゃぎまわれる時間がすぐに過ぎてしまうことも解っている。
解っているからこそ、この時間を大事にしたかった。
いつか成人して、この檻みたいな屋敷の中で独りきりになったとき。
この思い出さえあれば、泣かないで、寂しいときも穏やかでいられますようにと。
―――思い出は数えきれない。
特別な日々の中でも、いっそう特別だった時もあった。
それは、ただ一度きり、少年ととおくに旅に出た夜。
暗い夜 木々深い 野の原にふたりで
――それはほんとうに、夢のような時間だった。
まるで毎日がパレードのような温かさ。
けれど。
それは、あっけなく終わってしまった。
夏の、暑い日。
中庭で兄の姿を見かけて、わたしは歩みよった。
兄は苦しそうにはあはあと息をはいて、地面にうずくまっている。
なにか、厭な風がしていた。
蝉の声が耳について、ぐらりと地面が傾いていく。
平衡感覚がゆらゆらになっていく気分に酔いながら、わたしは兄に声をかけた。
振り向いた兄は、兄ではなかった。
何か醜いケモノに変わってしまった兄を見て、わたしは何もできなくなってしまった。
いつか。いつか自分もああなってしまうだろうかという嫌悪に、体が凍りついてしまって。
血に飢えたケモノはわたしに襲いかかってくる。
わたしは逃げることができない。
その時、手がひかれた。
振り向いた先にいたのは、少年だった。
彼は手をひいてわたしを走らせる。
……恐くないのだろうか。
あんな醜いケモノを前にして、少年は、わたしをかばうようにケモノの前に立ちはだかった。
けれど、ケモノはわたししか見ていなかった。
逃げるわたしに襲いかかってくるケモノと、その間に割ってはいる少年。
ぴしゃりと。
自分の頬に熱い血がとびちった瞬間の涙を、覚えている。
……少年はわたしの体を抱いて、ケモノから妹を守ってくれた。
体を貫かれて、血だらけになっても、彼はわたしの体を抱きしめたままだった。わたしの小さな体を守って、決して手を離さない。
見上げれば、彼は泣いていた。
それは痛みからではなく、後悔で涙するような、とても悲しい泣き顔だった。
―――ごめん、と少年は言った。
死にいたる直前。せめて自分が死んでしまった後も、自分の体がわたしをかばってくれますようにと、強く抱きしめて。
ごめん、と少年は繰り返す。
ぼくがほんとうの家族だったら、きっと、あきはをまもれるのに。
くやしいな―――ぼくは、あきはの兄ちゃんに、なれなかった。
何よりも―――誰よりも大切にするって、誓ったのに。
……そんな呟きを懺悔のように残して、彼は逝った。
自らの命が尽きたあとも、わたしの身を案じつづけてくれた、実の兄よりも兄であろうとしてくれた少年。
……その言葉だけで、十分だった。
もう、それ以上のものなんて何も望めない。
ああ―――このひとは裏切らないひとなんだ、とわたしは泣いた。
不謹慎かも知れないけど、自分をかばって死んだ兄の体を抱き返して、嬉しくて泣いていた。
この先なにがあっても、自分にはこの相手しかいないんだって思えることが、なによりも幸せに思えて。
その後のことを、わたしはしらない。
気がつけば兄であったケモノの遺体が引きずられていって、少年の小さな体が屋敷に運び込まれたことしか記憶にない。
そうして、父に言い聞かされた。
あの事故で死亡したのは養子の子のほうで、生き残ったのが遠野の嫡子、わたしの実の兄なんだと。
……そんなことがただの世間体だという事は解っていた。けれどそんな事はどうでもいい。
彼が生きていてくれたんだ。それ以上望めば、それこそバチが当たってしまうだろう。
……たとえ少年が戸籍上でも本当の兄になってしまっても、少年本人もそう信じこんでしまったとしても。
妹として傍にいられるのならそれでいいと、わたしは自分に言い聞かせた。
……そうして八年がたって、父が他界した。
家の全権を預かる事になった私は、周囲の反対をおしきって彼を屋敷に呼び戻そうと考えた。
遠野の跡取りになった私に自由はない。けれどたった一度ぐらいなら、わがままも許されるかもしれない。
それなら―――その一度きりの願いを、私は伝わることのない恋慕のために使いたい。
それだけで、よかった。
私はあのひとから何もかも奪ってしまった。
だから、これ以上は何も望めない。
―――あの時。
ただ星を見上げた時のような幸福は、もうありえはしないだろうけど。
傍にいられるのなら、それでいい。
兄さんが帰ってきてくれるなら。
―――暗い夜 木々高い 野の原に ふたりで
それはなんて
幸せで、自分勝手な、夢のカタチ―――
――――ズキリ、と。
胸の痛みで、目が覚めた。
「………………は」
見知らぬ部屋。
自分はベッドに横になっていて、上半身は裸だった。
洋服のかわりに、白い包帯がぐるぐると胸に巻かれている。
「――――――」
記憶が混濁している。
何がどうなったのか、今どうなっているのか、ぐちゃぐちゃに融け合って、うまく整理できない。
「っ…………」
確かな事はこの胸の傷の痛みだけだ。
……胸の傷。
後ろから刺された自分。
誰に? そんなの思い出すまでもない。
俺はたった今、シキに刺されて秋葉を―――
「秋葉……!」
ベッドから起きあがる。
「ぐっ――――!?」
とたん、体の動きが止まった。
胸の傷がうずいて、全身の筋肉が固まってしまう。
「あ―――――、っ――――」
息をするだけでも苦しい。
こんなんじゃとてもじゃないけど立ちあがる事なんて――――
「あ、気がついたんですか遠野くん。驚いたなあ、すぐに目がさめるような傷じゃないんですけどね」
「え―――先、輩……?」
「はい、わたしです。ついでに言うとここはわたしの部屋ですから、安心していいですよ。いくらあの吸血鬼が遠野くんを狙っていても、わざわざわたしのところになんて来ないでしょうから」
「わたしですって……先輩、もう俺の前には出てきてくれないんじゃなかったのか……!?」
「そのつもりだったんですけど、あんな事になってしまったんじゃ助けないわけにはいかないじゃないですか」
言って、先輩はベッドまでやってきた。
「ほら、無理に動いたりするから傷口が開いちゃいました。包帯、新しいのに替えますね」
先輩は手際良く俺の体に巻かれた包帯をほどくと、真新しい包帯を締めなおしてくれた。
ぎゅっ、と強く体を締め上げる包帯。
「……って……先輩、その、手当てしてもらって悪いんだけど、きつい」
「ええ、きっつくしてるんです。ちょっとぐらい動いても大丈夫なぐらいにしてるんですから、ちょっと黙っていてください」
「あ……はい、すみません」
なんとなく謝って、ぐるりと部屋の様子を眺めた。
ここはシエル先輩の部屋らしい。
どうやら俺はシキに刺されて、その後先輩に助けられたらしい。
けど―――それじゃあ秋葉はどうなったのか。
「先輩、秋葉は!? 秋葉はどこにいるんですか!」
「……………………」
ぴたり、と先輩の腕が止まる。
「先輩――――!」
「……わたしが助けられるのは、あの状況では一人だけでした。
わたしでは二人分の人間を抱えてあの吸血鬼の圏内から離脱することはできません。
ですから―――わたしは、まだ助かる見込みのある遠野くんの救助を優先しました」
「秋葉を――――秋葉を見捨てたっていうのか、先輩……ッ!」
「……はい。どのみち秋葉さんは助からない命です。そんな彼女を助けるために遠野くんの命まで危険にさらす事はできませんでした」
「な――――」
なにを―――この人は、言っている、んだ。
「どうして……! なんで、なんで俺なんかを助けたんだ……! 先輩は吸血鬼を倒すためにいるんだろ!? なら俺になんかかまわず、あそこでシキのヤツを倒してくれればそれで良かったじゃないか……!」
「……確かにその選択もありましたが、それでは遠野くんが死んでしまっていたでしょう。
遠野くんはすぐに手当てをしないと死んでしまうほどの傷でした。わたしにはあの吸血鬼を短時間で仕留められる確信がありませんでしたから、遠野くんを連れてあの屋敷から逃げ出す、という一番確実な選択をしただけです」
「―――それで秋葉を見捨てたっていうのか!? そんなの―――そんなの、余計なお世話だ! 俺のことなんて放っておいてシキを倒してくれたなら、秋葉は助かったんじゃないのか……!」
「……それは否定しません。ですが遠野くん、秋葉さんは殺されてはいませんよ。あの吸血鬼の目的は遠野秋葉という存在を自分よりにする事です。
秋葉さんは殺されません。あの場で殺されるのは貴方だけだったんです、遠野くん。それは貴方だって解っているんじゃないですか?」
「――――――」
……言葉をつまらせる。
先輩の言うとおりだ。
俺は、なにを―――助けてくれたこの人に、自分の無力さを叩きつけているんだろう。
「……すまない。でも俺は―――アイツが秋葉を殺さないなんて、信じられない。アイツは殺人鬼だ。そんなこと、誰よりも俺が知り尽くしているんだから……!」
「……遠野くん。秋葉さんは殺されません。ですが、秋葉さんのことは諦めてください。
彼女は―――もう、戻れません」
「そんなこと知ってる……! けどそんなの、たかだか髪の色程度の話じゃないか。秋葉は、シキなんかとは違うんだ」
「違うんです遠野くん。あの吸血鬼の目的は秋葉さんを手に入れる事なんです。
遠野シキ―――秋葉さんの本当の兄である彼は、すでに人間ではありません。ですから、彼が望む遠野秋葉というのは自分と同じものでなくてはならない。
―――わかるでしょう、遠野くん。
あの吸血鬼は人間である秋葉さんは必要としていない。だから昨日の夜も秋葉さんを襲っておいて、命を奪うような事はしなかった。
どんな方法かは知りませんけど、遠野シキというモノは遠野の血筋に混ざった異種の血を活性化させる事ができるんでしょう」
「―――――」
言われて、思い出した。
秋葉の髪が赤くなって、そのまま戻らなくなったのは。
アイツが、秋葉を気絶させていた時からだっていう事に。
「先輩――――どうして、そんな事まで―――」
「遠野くんが眠っている時に、遠野くん自身の口から聞かせていただきました。
……無断で遠野くんの記憶を引き出した事は謝りますけど、助けた代償だと思ってください」
「―――――――」
そんなコトどうでもいい。
先輩に謝ってもらっても意味なんかない。
それより。
そんなコトより、今は秋葉を―――
「くっ………!」
ベッドから立ちあがる。
ざくり、という痛み。
刃物で神経をえぐりだされるような痛みが、全身の至るところ、十指の先にまで伝わってくる。
「あ――――ぐっ…………!」
けど、体は動く。
動くなら――――こんなところで寝ているわけにはいかない。
「――――先輩。俺のナイフ、あるだろ。返してくれ」
「屋敷に戻るんですか、遠野くん」
答えるまでもない。
先輩はナイフを手に抱えて、ずい、と俺の前に立ちふさがった。
「たしかにあの吸血鬼も秋葉さんも、遠野の屋敷に残っています」
「―――――」
「ですが、あれからもう六時間以上経過しています。……おそらく、秋葉さんは手遅れです」
「だから……! そんなことは関係ないんだ、先輩。秋葉がどんな姿になってもかまわない。
俺はあいつと一緒にいるって決めたんだ。
……ずっと昔。本当の兄貴になるんだって、本当の家族になるんだって、誓ったんだ」
口にして、どうしようもなくこみ上げた。
……もう、何年も前の出来事。
俺自身も忘れていた遠い誓い。
いつも、いつも他人だった家族たち。
それでも―――本当の家族になろうって努力していた自分と、ただひとり、本当の家族以上に俺を思っていてくれた少女。
そんなもの、初めから嘘だってわかっていた。
けど、その作り事を守ろうとしていた自分たち。……本当に、知らなければよかった。
それはなんて脆くて、ガラスのように、とおといゆめだったんだろう。
「……遠野くん。たしかに貴方なら秋葉さんがどんな姿になっていても、以前と変わらずに彼女を遠野秋葉と認める事ができるかもしれません。
ですが、それは貴方の勝手な解釈です。
秋葉さん本人は、変わり果てた自分の存在を認めないでしょう」
「……秋葉本人が、認めない……?」
……それと同じようなセリフを言っていたのは誰だったか。
「いいですか遠野くん。遠野よりのモノになってしまった秋葉さんは、その時点で自我をなくしてしまっています。
本能の前に敗退した理性は底に押し込められて、彼女は遠野シキのように意味のない殺人を繰り返すようになる。
彼女本人が望んでいない、遠野秋葉の意思でない殺人。それを、秋葉さん本人は知覚する事さえできない。
変わってしまった彼女には、もう自分なんていうものはないんです。そこにあるのはただの殺人鬼という現象にすぎません」
「――――――」
「わかりますか、遠野くん。変わってしまった遠野秋葉を誰よりも許せないのは、彼女に殺されてしまう人々ではなく、そうやって意味もなく殺人を犯してしまう彼女自身なんです。
けど、変わってしまった彼女にはそれを思うココロさえない。
―――死ななければ。
目覚めてしまった血を鎮めるには、全てを初期化するしかない。初期化する、という事は消す、という事です。
彼女が変わってしまったのなら、もうそこに秋葉さんはいません。秋葉さんは死ぬことで、ようやく遠野秋葉に戻れるんです」
……ああ、思い出した。
先輩と同じようなセリフを言っていたのは、他ならぬ秋葉自身だった。
―――殺してください。
そんな、本当につまらないことを、秋葉は泪をこぼして、言っていた。
「――――――」
声が出ない。
血。血が、沸騰するかと、思った。
「か――――」
「つらいでしょうが、諦めて―――」
「勝手な、事を――――!」
「きゃっ!?」
先輩の襟元を掴んで、壁に叩きつける。
この怒りはこの人に対するものじゃない。
けど、これ以上、秋葉のことを軽々しく口にされるのは許せなかった。
「俺に―――俺に、秋葉を殺せっていうのか、あんたは……!」
「――――はい。秋葉さんがそう望んだのなら、その役目は貴方に譲ります」
「ふざ―――ふざけるな………! 俺は殺せない。たとえなんであれ、二度と人は殺さないって、そうしちゃいけないって教えてくれたのは、先輩、なのに………!」
「遠野、くん――――――」
無表情だった先輩の顔が崩れる。
……わかってる。
先輩だって、好きでこんな冷たい事を言っているワケじゃないって事ぐらい。
「……遠野くん。死よりも辛い事だってあるんです。秋葉さんにとって、それがなんであるかわかっているでしょう」
「――――」
「……それに、もし変わっているとしたら、彼女はもう人ではありません。自分を知覚できないモノは、生命とは呼べるものですが人間とは呼べません」
言って。
先輩は、ナイフを俺に手渡した。
「―――遠野くん。吸血鬼退治はわたしの仕事です。あの吸血鬼はわたしが引きうけますから、貴方は―――」
「……いい。悪いけど、先輩はここにいてくれ」
「え……遠野くん?」
「……アイツとは古い付き合いなんだ。これは俺たちの問題だから……正直、先輩に入ってほしくない」
「――――――」
「けど、もし俺がどうにかなっちまったら、その時は全部任せるよ。……ずいぶん勝手な言い分だけど、それでいいかな、シエル先輩」
「――――――」
先輩はかすかに目を細める。
まるで幻でも見ているかのような、儚い視線。
「……はい。たしかに勝手な言い分ですけど、遠野くんに任せます。
けど、わたしには解りません。貴方はどうしてそこまでするんですか? そんな体で、貴方は遠野家の人間でもないのに、どうして」
――――どうして、か。
そんなコト、もう分かりきっている。
「先輩が言ったんじゃないか。遠野志貴はさ、自分以上に遠野秋葉のコトが大切なんだって。
……けど、秋葉が思っているほど、俺はあいつを思ってやれなかった。だから、いかないと」
―――いままでずっと。
秋葉は、たった一人で苦しんでいた。
それに比べればこの程度の痛みなんて、それこそ顧みる価値さえない。
「それじゃ行くよ。今までありがとう。それと、さよなら、先輩」
傷の痛みをこらえて、歩き出す。
「――――はい。さよなら、遠野くん」
去り際。
先輩の声が、遠く聞こえた。
◇◇◇
屋敷についた。
頭痛がする。
視界は靄がかかったように空ろ。
「は………あ」
視界が歪む。
呼吸がうまくできなくて、空気を吸いこむなんていうコトだけで眩暈がした。
ずっ、と踏み出す一歩が、何百メートルにも感じられる。
体は。
疲れきり磨耗し尽くし、とっくに感覚を無くしていた。
「は…………あ」
ずっ、と引きずるように足を動かす。
体はとっくに限界を迎えていて、自分が人形になってしまった気がするぐらい、うまく動いてくれない。
こんな体では何も出来はしないだろう、と理性は悲観的なコトばかりを考える。
「―――――――――」
だが、血のめぐりの熱さがそれらを全て否定する。
どくん、どくん、という心音。
鼓動だけが高い。
月の下、神経が研ぎ澄まされていく。
―――ただ、自然にここに来た。
間違いはない。
どくん、と膨張する心臓。
喉が熱い。
肉体は疲れきって、ただ生きているというコトを維持するだけに全ての機能を費やしている。
こんな体で戦う、なんて行為は自殺と同意か。
だが怖れは感じない。
手に持ったナイフの重みに指が痺れる。
神経が剥き出しになったような、この感覚。
―――懐かしい。
この感覚には覚えがある。
以前、何度か味わった感覚。
夢の中でアイツが人を殺す時に味わった血の昂ぶりと、はるかむかしに、こんな、コトがあった気がする―――
「ぐっ――――」
長くはもたない。
離れの中に足を進ませた。
―――不思議と。
その光景を見ても、心は何も感じなかった。
「―――――シキ」
「貴様――――か」
ゆらりと、シキが体を起こす。
そこにあるのは、二つの人影だけだ。
一つはシキという名の吸血鬼。
もう一つは、血のように赤い髪をした、一人の少女。
「――――よく来たな。もう来ないものかと思ったぞ、志貴」
「――――――」
心が動かない。
シキの背後には、秋葉がいる。
ぼんやりと、死んだような目をして、壁にぐったりと背中をあずけている。
シキに着せられたのか、秋葉は着物姿だった。
そのカタチ。
まるで意思のない人形のような、秋葉。
はあ、と大きく息をもらした。
不思議と、何も感じない。
あんなふうになってしまっている秋葉と同じように、俺も人形になってしまったみたいに、何も感じない。
「―――だが遅かったな。秋葉は確かに返してもらったぞ」
シキが歩み寄ってくる。
「シキ。おまえ、何をしたいんだ」
ナイフを構えて、そう問うた。
シキは愉快そうに笑いをかみ殺す。
「さあな。オレにだってそんなことはわからない。シキっていうオレの目的は秋葉だけだ。汚らしい雑種どもの血を吸うのなんて、オレの趣味じゃない」
「……そうか。そのわりには見境なしだったじゃないか、おまえは」
「ああ、まったくその通りだ。だが仕方あるまい? アレはオレの意思じゃないんだから。
……響いてくるんだよ、志貴。
際限なく、殺し、奪い、壊し尽くせっていう考えがな。オレはそれに従っているだけさ。理由なんて解らない」
「……ひどいな。もうよくは思い出せないけど、昔のおまえはそんなヤツじゃなかったよ、シキ」
「ああ。八年前のあの日から、オレはいかれちまったのさ。このあたまの中にはもう一人、おかしな同居人がいる。そいつが言うんだ。全てを、殺せと」
言って、シキは笑った。
ぎしぎしは音をたてて回転する歯車のように、際限なく笑い続ける。
―――そこに。
人間らしい翳りなんていうものは、微塵も存在していない。
「……最後に聞くけど。おまえは、今の自分が痛くないのか」
「痛い……? まさか、オレは完全だ。こうしている自分を愛しているよ。
まあ、しいていうのなら退屈だっていう事が不満だったが、それもこれで解決したよ。
今までは雑種どもを食う、なんていう愉しみしかなかったが、そんなものはこれまでだ。秋葉が戻ってきた以上、もう雑種で遊ぶ暇なんてなくなったからな」
シキは満足そうに喉をならす。
―――聞くだけ無駄だった。
けど、それでも聞いておきたかった。
弓塚が――――彼女が、コイツのように自分の意思とは無関係に吸血鬼になんてモノになってしまった彼女が、最後まで苦しんでいた『人間』としての痛みを、コイツは持っているのかっていう事を。
「そうか。なら―――おまえはもう人じゃない」
言葉に殺意が滲む。
シキは、ぴたりと動きを止めた。
「わからんヤツだな。こうしてわざわざ殺されにきた事も不可解なら、今の質問も不可解だ。
なあ志貴。おまえさ、いったい何をしにやってきたんだ?」
「おまえを殺して、秋葉を取り返しにきた」
そう言葉にした瞬間。
ドクン、と全身の血流が加速した。
「はっ、正気か志貴! おまえに、ただの人間であるおまえに、このオレが殺せるっていうのか!?」
「…………………」
答える必要はない。
視線を細めて。
ただ、ヤツの『線』を直死する―――
「思い上がるな……! これはオレのものだ。おまえなぞにはやらん……!」
なにか不吉なものでも感じ取ったのか。
シキは恐れるように後退する。
「いいか、秋葉はオレの妹なんだ……! こいつと血が繋がっているのは俺だけだ。おまえなんぞに出番はない……!」
血走った目でこちらを睨む。
―――もう、これ以上かわす言葉はない。
ナイフを構えて、一歩前に出た。
「ああ、その通りだシキ。秋葉は俺にとって妹じゃない」
「なに………?」
「秋葉は、俺の女だからな」
「き――――!」
一歩、踏みこむ。
オレの言葉に逆上したのか、シキは一直線に襲いかかってくる。
それが俺にとってもヤツにとっても、最後になるだろう殺し合いの合図になった。
―――時間をかける事はできない。
俺の体は限界だし、秋葉を少しでも早くここから連れ出したかった。
だから、やる事は一つだけだ。
一直線にやってくるシキの腕をかわして、ヤツの胸に視えている『線』を裂く。
一度だけなら。まだ体が動く今なら、ヤツの腕をかわす事はできるだろう。
ヤツが襲いかかってくる。
素手であるシキの間合いと俺の間合いは同じだ。
俺たちは公平に、お互いがお互いの必殺の間合いで殺し合う――――
―――――否。
それは、こちらだけの幻想だった。
「はっ……!」
嘲笑うような声をあげて、シキはソレをふるった。
「―――――――!?」
ソレをナイフで受け止める。
―――余分な事など思考する暇はない。
ギィン、と固い音をたてて、シキの持つソレと、俺のナイフが弾け合う。
「チッ、ナイフごと真っ二つにしてやろうと思ったんだがな―――骨董品にしては頑丈じゃないか、志貴!」
ぶん、と風切り音をあげて、シキはソレを振り上げる。
「――――――」
どくん、と全身が脈打つ。
シキが持っているものは俺のナイフより十倍近い長さがある『剣らしきモノ』だった。
「―――――」
不理解だ。
確かにヤツは、さっきまで素手だったのに、そんなものをいつのまに―――――
「だが二度目はない……!」
振り下ろされる赤い剣。
こんな室内で、そんなものを振りまわしても天井や壁にぶつかるだけなのに―――
「――――――――!?」
咄嗟に避けた。
シキの持つ赤い剣は、天井にぶつかる事なく振り下ろされた。
その過程。
確かに天井にめり込んでいたのに、まるで天井を透過するように、ヤツの凶器は振り下ろされた。
どこかで。
ぴちゃり、という音が、する。
「しつこい――――――!」
ブン、という風切り音をたてて、シキが剣を構えなおす。
「―――――――――」
思考が停止する。
視界にはシキと、部屋の奥に佇む秋葉の姿。
秋葉はぼんやりと俺とシキを眺めている。
人形のような秋葉。
秋葉。秋葉をこんな場所に残すわけにはいかない。
だが、今は―――
「く――――!」
舌を噛んで、離れた。
庭に通じている障子を突き破る。
あの剣が壁にぶつからないというのなら、室内ではこちらが不利すぎる。
離れの外は森だ。
暗い夜、木々高い森の中でなら、少しはこちらにも分があるだろう――――
「あ―――――ぐ」
唐突に眩暈がした。
足がもつれて倒れそうになる。
今はそんな時じゃないのに、背中の傷が開いて、血が滲み出してしまっている。
「う―――――つ」
呼吸がもれる。
足元がふらついて、そのまま、近くの木によりかかった。
「っ…………」
ここで倒れるワケにはいかない。
遠くからは草をかきわける音が聞こえる。
シキは確実に俺を追いかけてきている。
なら、もう少し。
せめてこっちの身が隠せて、ヤツの背後から仕掛けられるような場所まで行かないと――――
「――――――――」
と。
寄りかかっていた木に、剣のようなものが、突き刺さった。
「―――――――!」
咄嗟に横に跳ぶ。
二撃目。
飛んできた剣は、たやすく木を貫通する。
「―――――――っ!」
考えるより先に体が動いた。
木々から木々に身を隠していく。
それを追いかけてくる剣。
投げつけられてくる剣に限りはないのか、次から次へと、弾丸のように放たれてくる。
「な―――――――」
キリがない。
逃げれば逃げるほど、剣は数を増して投げつけられてくる。
そうして、気がつけば。
暗い森は串刺しにされた木々で溢れかえり、その光景は、どこか異国の処刑場のように、思えた。
「―――――ん? なんだ、逃げるのは止めたのかよ志貴。まさかココでならオレを殺せる、なんて素敵なコトを考えているんじゃないだろうな……!」
ヤツの声が高く聞こえる。
剣は投げつけられてこない。
こちらからヤツの姿が見えないように、ヤツも俺の姿を見つけられない……なんてコトは、ないか。
「は…………あ」
呼吸を整えて、一際大きな木に背中を預けた。この大木ならヤツの剣が貫通する事はないだろう。
「おいおい、さっきまでの威勢はどうしたんだ!
オレを殺すっていうんならさ、もっと積極的になってくれなくっちゃつまらないぞ……!」
声は反響して、依然としてヤツの位置は掴めない。
目を閉じて、少しでも聴覚を敏感にした。
…………。
……………………。
…………………………………。
……………………………………………………。
……ヤツの呼吸も、気配も聞こえない。
当然と言えば当然か。
こっちはヤツのように五感が獣じみているワケではないんだから。
「――――――――?」
ぴちゃり、という音が、した。
……なんだろう。
この近くには池なんて、なかったハズだ。
「ったく、この臆病者め。いいぜ、おまえがそういうつもりならオレが舞台を盛り上げてやる。
おまえはそこで、好きなだけ隠れていればいい」
……声が聞こえる。
だが依然としてヤツの位置はつかめない。
「……さて。そうなると少し趣向をこらさないとな。ただおまえを殺すだけじゃ芸がない。このまま串刺しにするのは容易いんだが、それじゃあ秋葉も喜ぶまい」
……ぴちゃり、という音。
今度は近い。
すぐ目の前の木から音がしている。
見ると、それは。
木を貫通した赤い剣から、水のようなものが垂れている音だった。
「そうだな、手足を潰して秋葉のオモチャにするのもいいかもな……! 人形遊びなら秋葉だって喜ぶだろうし、今の秋葉には丁度いい」
……樹液ではなさそうだ。
あんな細い、それこそ厚さが存在しない剣から液体のようなものが垂れている。
よくみれば、それは氷が溶けて水になるような、そんな感じだった。
「そうそう、まだおまえには話してなかったよな志貴。今の秋葉はさぁ、正直オレの手にもあまるんだ。あんまりにも嬉しくてオレはやりすぎちまったらしい。昔の秋葉に戻ったのはいいけどよ、誰彼かまわず噛みついてくるのは困りものだろ?」
……ぽたり、ぽたりと零れていく。
赤い剣は、剣というよりは刃そのものだった。
カッターの刃を剣のようにした、極めて単純な凶器。
シキが投げつけてきたものの正体がコレか。
真っ赤な、卒塔婆のような長い刃物。
しかし何故、それが赤い水をこぼし続けているのか。
赤い。
赤い。
あか……い?
「あぁそうか、秋葉のオモチャにするっていうのは却下しよう。何十っていう剣で串刺しにしたおまえは最高の贈り物になりそうだが、秋葉のヤツ、遊ぶ前に食いつきそうだからな。秋葉にそんな悪いモノを食べさせるわけには――――」
「――――――――」
うる、さい。
赤い。
ひとが、いま。
朱い。
だいじな、ことに。
紅い。
気がつきそう、だっていうのに。
「……いや、待てよ。そうか、そりゃあいい! 秋葉をオレと同じ人食いにするっていうのは悪くない……!」
「―――――――――血」
そう、か。
血だ。
アレは、血だ。
だからこんなにも周囲には剣が突き刺さっている。
木々には何百という剣の卒塔婆。
バラバラに散乱した人間の手足。
暗い夜。
硝子の月。
一面、血だらけになっている森の広場――――
「よし、よしよしよしよしよし! いいぞ、一番初めの食い物がおまえだっていうのは最高じゃないか……!
――――決まりだ。あぁ、早く秋葉をオレと同じにしてやらなくちゃいけなくなっちまった」
ぴちゃり、と。
また、新しい血が流れる音。
「じゃあな志貴。名残りはつきないが、遊びはここでおしまいだ――――――!」
それで、ヤツがどこに居るかは聞き取れた。
寄りかかっていた大木から離れる。
そのまま振りかえって、木に走る『線』を切断した。
ずるり、と。
大木はあっけなく倒れようとする。
「な――――――――!?」
声は頭上から聞こえた。
つまり、アイツは。さっきから俺の真上で、くだらない世迷い事を口走っていたワケだ。
「きさ、ま―――――!!」
シキが落ちてくる。
その手には赤い、血で出来た剣がある。
だがそれを振るうより早く――
俺のナイフが、ヤツの片腕を一閃した。
飛び散る鮮血。
……シキの片腕が地面に落ちる。
切断された断面から噴出した血液が、黒い染みのように地面を濡らしていく。
それは下にいた俺も同じ事だ。
普通の人間となんら変わりのない赤い血液が、びしゃりと、この胸にこびりつく。
「はっ、ぐっ―――――!」
地面に転がり落ちたシキは、そのまま――――猿のような身軽さで、大きく後ろに跳んでいた。
「はっ―――はは、は」
口元を歪めて、シキは俺を見ている。
「なんだよ、やれば出来るんじゃねえか……!
安心したぜ志貴、あのままいい子ちゃんのままで殺されるなんておまえには似合わないもんなぁ……!」
「―――――――――――」
何か言おうとして、止めた。
今の自分にそんな余裕はない。
コロセ。
コロセ。
コロセ。
コロセ。
喉を動かす体力があるのなら、それを全てあの生き物の排除に使用しろと。
カラダが、リセイをシハイしている。
「おい、なに黙ってやがるんだよおまえは……! くそ、一人で善人面しやがって、おまえのほうがオレなんかよりよっぽど化け物じゃねえか……!」
「――――――――」
ナイフを強く握って、吠えているシキへ歩き出す。
「ハッ、オレなんかとは話す気もないってか。ああ、まったく同感だね。オレだって今のおまえと話すのなんて願い下げだ。オレは確かに人食いだがな、おまえみたいに機械っていうワケじゃないからな……!」
「―――――――――」
草を踏みしめて、歩いていく。
「いいか、オレにだってまだ判断基準っていうヤツは残っている。自分がやっている事がおまえたちにとって悪だって理解してる。それを覚悟した上でオレたちは存在しているんだよ……!
だがな、それさえも持たないで血なんていうものに命令されているおまえはなんだ? 自分の意思さえ持たないでモノを殺そうとするおまえはなんなんだって聞いてるんだ、七夜志貴……!!!」
「―――――――――」
歩く。あいつを、ころす、ために――――
「ふざけやがって……! 今のおまえがどんな目をしているのか解っているのか? おまえは生き物なんかじゃない。意思のない機械と同じで、人間外のものなら無条件で殺そうとする人形じゃねえか!
ああ、親父が七夜の人間を皆殺しにしたのは当然だぜ。だっておまえのほうこそさあ、感情がない殺人鬼そのものなんだからな……!」
「――――――――」
最後の一歩。
これで、確実に。
この化け物を、殺すコトができる――――
「―――ほら、おまえはそういうヤツなんだよ志貴! 人間じゃないヤツが相手なら、相手がどれだけ人間と酷似していても殺すだけなんだろう?
なら。おまえはオレを仕留めた後、秋葉も同じように殺すっていうんだな?」
「――――――、」
なに、を。
そんな、こと、は―――――――
「ない、と言いきれるのか? 言っておくけどな、秋葉はオレなんかより数段化け物じみているんだぜ? そんなモノを前にして、おまえの理性が衝動を抑えきれる筈がないんだ。
……ほら、まだおまえに七夜志貴としてではなく、遠野志貴としての理性が残っているんなら解るだろう。
おまえはここでオレに殺されるか、それとも――――自分で自分を始末したほうが救われるんだっていうコトがな――――!!」
「――――――――――!」
消えた。
いや、逃げたのか。
ガサガサと草を掻き分ける音がする。
ヤツは森の奥に逃げていく。
「――――――――――あ」
……逃がしてしまった。
今なら確実に仕留められたのに、逃がしてしまった。
どうしてだろう。
それに怒りを覚えている自分と、どこか―――良かった、と思う自分が、いるなんて。
「……逃がすわけには、いかない」
……草むらに血の跡が続いている。
片腕を切断したのだ。
血の跡は明確に、ヤツの居場所を教えてくれる。
だが、急がなければ見失ってしまうかもしれない。
「――――――――」
大きく、息をついた。
「はぁ……はぁ……、あ」
呼吸が戻ってくる。
さっきまで朱に染まっていた視界がマトモに戻っていく。
「は――――――あ」
シキの言うコトを認めるつもりはない。
俺は秋葉を殺すコトなんて絶対にしないし、相手が人間じゃないから、無条件で殺すなんていうコトは、ないんだ。
[#挿絵(img/秋葉 16(2).jpg)入る]
「……………っ」
違う。
あの時は、違う。
俺はシキとは違う。
ちゃんと自分の意思で、自分の行動を抑えられる。
ただ、こう血の匂いが強いと。
何か、思い出してはいけない、ずっと昔の出来事が蘇ってきそうで、恐いだけ。
「く――――――そ」
右手はナイフを持ったまま。
素手のままの左腕で、胸についた返り血をぬぐう。
―――それで、少しは血の匂いが薄れてくれた。
「―――――シキ」
闇の中、誘蛾灯のように赤い血の跡が続いている。
もう一度大きく呼吸をして、シキの後を追った。
ここが、終着だった。
「――――――――」
……これは偶然か、それとも意図的なものか。
八年前。
俺がシキに殺されかけた場所で、もう一度殺し合いをしなくてはいけないらしい。
「……チッ。やっぱり追いかけてきやがったか」
広場の奥で、シキはうずくまっている。
そんな事さえもあの時と同じだ。
「……………」
ナイフを強く握って歩き始める。
足元にはぬるりとした感触。
シキの出血は止まっていない。流れ出る血の跡はシキへと続いている。
ぴちゃり、ぴちゃり。
歩くたびにヤツの血が足の裏で音をたてる。
……これだけの出血でよく生きているものだ。
血の跡は、それこそ水たまりのようだった。
「く……………っ」
だが限界なのはこっちだって同じ事だ。
長引けば不利になる。
ヤツが傷を負っている今しか殺せるチャンスはないだろう。
「――――――、っ」
一歩を踏み出す。
「―――――待て! まだ話していない事があるんだ。少しでいいからそこで大人しくしていてくれないか、志貴」
「――――――――」
「そんな顔するなよ。これはおまえにとってもいい話なんだぜ? なにしろ、秋葉を元に戻す方法があるかもしれないってヤツだからな」
「な―――――――」
瞬間。
理性が足を止めてしまった。
だが体は今すぐに走り出して、ヤツの息の根を止めなければと訴えている。
俺は―――
「………………」
足を止めた。
ぬらりとした地面を踏みしめながら、うずくまっているシキを睨む。
「は――――はは、あはははははははは!」
愉快そうにシキは笑っている。
……解っている。ここで俺が止まっていれば、ヤツは先ほどのダメージから回復してしまうだろう。
俺は最後のチャンスを棒に振ってしまったんだって、理解している。
だが、それでも――――秋葉を、もとの秋葉に戻せる方法があるというのなら、それを聞かないわけにはいかなかった。
「……本当、に」
「ん? なんだよ志貴。声が小さくて聞こえないぜ」
「……本当、なんだろうな、シキ」
「ああ、オレはお喋りだがな、嘘だけは口にしないのがポリシーなんだ。だからおまえがもう少しそこで立ち止まっていてくれればなんだって話してやるし――――おまえの出方次第によっちゃあ、オレの手で秋葉を助けてやってもいいぐらいだ」
「……………秋葉を、助ける…………?」
その言葉に何か、不吉なモノが混じっていたのか。
びくん、と体が震えて、そのまま転びそうになった。
足元がぬかるんでいるせいで地面が滑りやすくなっているせい――――
「滑り――――――やすい?」
―――――待て。
今、俺は。
「なあに、秋葉を助ける方法なんて解りきってるだろう。あいつはな、人間として生きていく力がないから、遠野よりの血の力で生きていくしかない。
そうして遠野よりの力を使っちまっているから、結果として人間より遠野よりの生き物になっちまってるだけだろう?」
赤い血で出来た、ヤツの凶器。
「だからさ。あいつが自分だけで生きていけるような状態に戻してやれば、遠野の血になんか頼らなくてよくなるんだ。
ほら、簡単だろ? 秋葉を戻したかったら、秋葉をそんな状態にしている原因を排除すればいいだけなんだ」
その血の跡に、俺は立っている――――
「ようするにさ、志貴。おまえさえ死ねば、何もかも解決するっていうコトだろう―――――!」
「っ―――――――!」
その声と同時に。
あらんかぎりの力で、俺は真横に跳んでいた。
「―――――――」
一瞬の差だった。
シキの体から流れていた血の川。
それが一斉に、一瞬にして針の山と化した。
なんて不覚。
あの赤い剣がヤツの血で出来ているものならば、流れ出た血液をそのまま剣と成す事さえ容易だったのだ。
「は、あ――――あ」
血の跡から横に跳んで、地面に転がり落ちる。
……だが完全に逃げ切れた、というワケじゃなかった。
左腕が、終わっていた。
左腕はあの針の山に貫かれたんじゃない。腕は内側から外に向けて裂かれている。
……ようするに。
さっき、左腕で胸の返り血をぬぐった。あの血が結晶化して、爆発する花火みたいに左腕を切りさいただけだった。
「あ――――ぐ…………!」
地面に転がって、なんとか痛みを堪える。
不幸中の幸いだ。もしあの時胸の血をぬぐっていなかったら、俺は背中から剣を生やして即死していた。
「チッ――――――!」
声が聞こえる。
ザッ、と。草をかきわけて走り寄ってくる音。
「往生際が悪いぜ、頼むから今ので死にやがれってんだ―――――!!」
迫ってくる。
地面に倒れている自分に、シキを迎え撃つ事はできない。
迫ってくる。
刃物のように鋭利な爪を生やした腕を突き出して、俺の、心臓を抉り取ろうと迫ってくる。
それは、まるでサーカスみたい。
暗い森。いつ幕があがるのかと、わくわくした。
とおくには蝉の声。
あおいそら と たかいたかい入道雲。
そうして。
また、森の中で殺されるっていうのか。
それは頭にくる。
そう何度も。
何度も何度も、同じように殺されるのか。
――――目を覚ませよ遠野志貴。
そんなことは、いいかげん。
もう、見飽きてしまっているだろう―――?
「え―――――――――?」
声をあげたのは、シキのほうだった。
シキの腕は俺の胸ではなく、地面を抉っている。
……別に、なんという事はない。
何度も何度も同じ殺され方をしたものだから、たんに体のほうが慣れていただけ。
遠野志貴は、自分の胸を貫こうとした敵の腕をかわして、そのまま敵の腹部に走っていた『線』を切断していた。
「う―――そだろ?」
ずるり、と。
シキの体が横にズレる。
それを必死に腕で支えて、シキは離れた。
「なんで――――なんで、なんで、なんで? なあ志貴、おかしいよ。この傷、どうして――――簡単に、くっついて、くれないんだ?」
ひきつった笑みをうかべて、シキはよろよろと後退していく。
少しずつズレていく上半身と下半身。
それを片腕で、必死に押さえつけているシキの姿は、サーカスの道化のようだった。
「いた――――いた、い。なんだ、やだよコレ。気が遠く、なる。血が止まらない。体が別れる。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。いた――――」
言って。
ずるり、とシキは倒れこんだ。
足はまだ立ったまま。
上半身だけが、何かの冗談のように地面に落ちた。
「――――――」
生き、てる。
あんな上半身だけの、出来そこないのクモのようなカタチになっても、あいつは生きている。
「ぐっ……………」
痺れる体にムチをうって、なんとか立ちあがる。
あいつは、生きてる。
なら――――殺さ、ないと。
「ひ―――――!?」
ずるずると片腕で逃げようとするソレの前にひざまずいた。
ナイフを頭上に振りかぶる。
あとは、これを落とすだけ。
ソレの中心、心臓のやや隣にある『点』のような線にナイフを落とせば、それで終わる。
「あ―――――ひ、ひ?」
……終わる。
なにもかも。
八年前から続いていたくだらない因縁も、それだけで終わるんだ。
「ひゃ――――ひぃいいぃぃい!?」
死を拒むシキの声。
……別に、ソレに同情をしたわけじゃない。
今になって恐くなったわけでもない。
怒りが。薄れてしまったわけでも、ない、のに。
「……なん、で」
なんで。
俺は、このナイフを落とすなんていう、簡単なコトさえできないんだろう……?
「ひ―――ひひ、ひひひひひひひひ……!!!」
笑って、ずるずるとソレは草むらの中に消えていった。
「――――――――」
呆然と眺めて、血に染まったナイフを見つめた。
……俺は、殺さなかった。
それとも殺せなかっただけなのか。
ひひ、ひひひ、ひひひひひひひ。
耳障りな笑い声が聞こえる。
それは離れの屋敷のほう。秋葉が残されている屋敷に向かっているように、聞こえた。
「―――――――!」
立ちあがる。
なんて甘さだ。あいつが最後に秋葉のところに逃げ込むなんて、そんなのは考えればすぐに解る事だったのに……!
「くっ―――――!」
満足に動きやしない両足を動かして、離れの屋敷へ走り出した。
血の跡は一直線に離れへと伸びている。
赤い道のはしばしには、臓物らしきものが散らばっていた。
……これではあの場でトドメを刺すまでもなく、シキはいずれ息絶えていただろう。だがその前に、あいつは最後の力で秋葉の元に向かっている。
「く―――――」
倒れそうになる体を支えて走る。
血の跡を辿って離れに着く。
血は。そのまま、屋敷の中へと侵入していた。
―――間に合った。
和室の中は、さっきとなんら変わっていない。
壁際には呆然と座りこんだ秋葉がいる。
畳の上には血の跡があって、そこには。
「あ―――あ、ああ、あ―――」
ずるり、と。
上半身しかない男が、必死に畳の上を這っていた。
「あ―――あ、あき、は―――!」
ずるずると。
ナメクジのように跡を残して、シキは壁によりかかった秋葉へと這っていく。
「たす、け―――あき、は―――」
助けを請うように伸ばされる腕。
血にまみれた指が、呆然と座り込んでいる秋葉に伸びる。
「――――――――」
そんな事はさせない。
その前に、歩み寄ってヤツの息の根を止めないと―――
「え―――――?」
驚きは、俺とシキの口から、同時にもれた。
ふ、ふふ。
無邪気な笑い声が、した。
「ギィ―――あ、ひぃあ、あ、ああああああ!」
心臓をもぎ取られて、シキが叫ぶ。
あはは、は。
子供みたいな、笑い声。
「ひ、ひゃああああああああああああああ!」
シキの叫び。
ビュッと飛び散る血。
畳や障子を紅に切り裂いていく、血の筋。
あは、あはは、あははは
楽しくて仕方がないという、笑い声。
「や、やめ、やめて、あき、秋葉ぁああああああ!」
シキの叫びは、そこで終わった。
声をあげるべき器官である喉を潰され、頭ごと、首を引き千切られたから。
「あき――――は」
俺の呟きに、秋葉は反応しない。
……おそらく、自分がそんな名前だったなんていう事が、わかっていない。
秋葉は赤い髪を振り乱して、あはははは、と童女のように笑うだけだ。
「秋―――――葉」
答えはない。
理性というものが抜け落ちた秋葉を前にして、俺は―――ただ、そんな事しか、言えなかった。
くすくす。
秋葉の笑い声が響く。
シキの体をしばらくいじっていた彼女は、動かない玩具にもう飽きてしまったらしい。
きょろきょろと部屋中を見渡したあと、唐突に、障子を破って外へと駆け出していった。
その両手を、生々しい血で濡らしたまま。
「ま――――――」
待て、とは言えない。
……わかってる。
もう、何もかも手遅れなんだって解っている。
子供のような秋葉。
無邪気な、物の善悪さえ知らないまま、あんなふうに人を殺すしかない生き物。
―――殺して、ください。
だから。
いま、俺が秋葉を追いかけるという事は。
彼女を、殺すという、事だ。
―――答えなんて出ない。
だが、秋葉を放っておけないことだけは確かだ。
「――――――っ」
こみ上げてくる感情を押し殺す。
何も考えられないまま、秋葉の後を追いかけた。
――意外なことに、秋葉は外に出ていなかった。
月明かりの下。
いつか一緒に話をした紅葉の木の下で。
秋葉は、ぼんやりと立ち尽くしていた。
[#挿絵(img/秋葉 22.jpg)入る]
静かに、ぽつりと佇んでいる。
何をするでもない。
子供のように純真に、散っていく紅葉を眺めている。
「―――――――」
それを―――どうする事が、できるだろう。
理性もなく、知性もない。ただそこにいるだけの少女。
そこに罪なんてない。
秋葉は、何も、悪くない、のに。
―――――殺してください。
その言葉が思い出される。
―――貴方の手で、殺してください。
なんて残酷な、願い。
そんな事しか―――助けてほしいとさえ、言えなかったのか。
そう言ってくれれば―――俺は何を敵にしたって、最後まで、おまえのことを守り続けるのに。
―――貴方だけは、約束を守ってください。
……ひどい仕打ちだ。
そりゃあ八年間も放っておいたけど。こんな報復をされるなんて、思ってもいなかった。
「――――――――」
秋葉は言った。
自分が誰かも解らず、ただ本能に従って人を殺してしまうモノになってしまうのなら、それは死より恐ろしい事なんだって。
先輩は言った。
自分が誰かも解らず、ただ本能に従って人を殺してしまうモノになってしまうのなら、死なせてやるほうが救いなんだと。
「―――――――」
ナイフを握る。
不思議と、哀しいとも感じない。
ココロがガランドウになってしまったみたいに、何も、感じたくはなかった。
「秋葉――――」
落ち葉を踏みしめて秋葉へと歩いていく。
気づいて、秋葉は笑顔で俺を迎えた。
「―――――せめて」
ナイフを強く握る。
秋葉は、笑った。
あはははは、と楽しそうに笑って、自らを殺そうとする俺を、迎えている。
「―――――っ」
決心が鈍る。
けど、もう歩き出してしまった。
―――死が、救いになることもある。
歩く。
秋葉は逃げ出さないで、楽しそうに、俺を待っている。
―――殺して、ください
散りゆく紅葉。
―――それが、おまえの最後の望みだったから。
秋葉は笑っている。
もう、これ以上近寄れる距離がない。
あとはこの腕を突き出すだけで、よかった。
―――俺は、どんなに辛くても
「おまえを、殺さないといけない」
告げて。
不意に、涙があふれた。
―――そうして。
正面から、秋葉の体を抱きしめた。
―――殺せるはずが、ない。
「……生きていてほしいんだ」
不思議そうに首をかしげる秋葉。
「どんな姿になっても―――俺はおまえに生きていてほしいんだ、秋葉」
涙は止まってくれない。
秋葉は嬉しそうに抱き返して―――俺の首筋に、がちりと歯をつきつけた。
「っ―――――」
痛い。
それは、血を吸うためのものじゃない。
ただ噛みきるだけの、原始的な行為。
「あ―――あき、は」
秋葉はただ、一心不乱に噛みついてくる。
がり、と肉が裂かれて骨が削られる。
秋葉に理性はない。
抱きしめている相手が誰であるかも、抱きしめるという行為の意味さえもわからない。
秋葉は、ヒトのカタチをしたケモノと変わらない。
けど、それでも――――
「―――それでも……生きていて、ほしいんだ」
……そう願うことはいけないのか。
たとえ秋葉が人を殺してまわるようなモノになってしまっても、それでも生きていてほしいと思うのは罪なのか。
秋葉が。そんな自分には耐えられないといっても、俺は、それに耐えて欲しい。
――――その罪を。
俺が背負うと思う事が、ただの、自分勝手な欺瞞だとしても。
「……俺が、助ける」
強く。
ただ一心に、秋葉の体を抱きしめた。
「う、うぅう、うー!」
腕の中で暴れる秋葉を抱きとめる。
がっ、と。
噛みつかれた肩の骨が、噛み砕かれた。
「っ―――――あ、あき、は―――――」
肩が噛み砕かれて、それでも片手で秋葉を抱きしめた。
「うー! うう、ん…………!!」
バタバタと暴れる秋葉。
それをずっと受け止めていた。
……これが最後の抱擁になるかもしれないからだろうか。
こんなに強く、相手の体温も鼓動も覚えようと抱きしめた事はなかった。
「うー……ん、ん……」
……俺が何もしないとわかって安心したのか、秋葉は暴れる事をしなくなった。
さらさらと降りしきる紅葉の中、どのくらいそうしていたのか。
いつしか秋葉は、俺に体を預けたまま眠ってしまっていた。
「………………」
できるだけ優しく、秋葉を地面に寝かす。
秋葉の髪の色は赤いままだ。
シキの言葉が確かならば。
或る方法以外では、ずっと元の黒髪に戻る事はないだろう。
「………………」
たとえどんな結果になろうとも、助けると誓った。
秋葉を助ける方法は簡単だ。
秋葉が遠野よりのモノになってしまっている原因。
彼女がその命の半分を分け与えている人間がいなくなれば、彼女は元の『遠野秋葉』に戻れる。
だがそれは――――俺の、遠野志貴の死を意味している。
一体何が幸福で、何が救いになるのかは解らない。
死が救いになる、なんて言葉は知らない。
けど、今は何が正しいのか判別がつかない。
俺は―――
―――死が、救いになるなんて事はない。
それは八年前、死にかけてから蘇生した自分にとって、当たり前になっていた答えだった。
どんなに苦しくても、どんなに辛くても、ただ生きているだけで幸せだと実感していた。
だから、それに従うのなら自殺するような真似はできない。
秋葉だって死んでしまったわけじゃないんだ。
生きているのなら、なんとか看病していって、いつか元に戻ってくれる日がくるかもしれない。
簡単に命を投げ出すなんていうのは、死は尊いのだという幻想に酔っているコトだって、わかってる。
「―――――――それでも」
それでも、秋葉には幸せでいてほしいんだ。
自分の事より、もっともっと何倍も、秋葉には幸せになってほしいだけなんだ。
それに、元々。
俺は八年前に死んでいて、ずっと、秋葉にユメを見させてもらっていたにすぎない。
だから、これは本来の持ち主に返すだけの話。
悲しむべき事もなければ、惜しむ事もない。
全てはもとのカタチに納まるだけの終わりだろう。
紅葉が散っていく。
赤い地面。そこに、秋葉は横になっている。
地面に広がる髪は赤。鮮やかに、赤い葉っぱの中に融けるように流れている。
その顔は穏やかで、とても、幸せな夢を見ているように見えた。
「……まったく。こんな所で寝て、風邪引くなよ」
出来るだけ普段通りに呟いて、自分の体を見下ろした。
体中に走る『線』。
どこを通せば、体に負担をかけずに死に至れるかを探してみる。
「……ずっと、預かっていたものを返さないと。長く借りすぎちまったけど、今ならまだ間に合うよな、あきは」
……この体が、秋葉の命によって生かされているっていうんなら。
俺というものが止まれば、その命は本来の持ち主に還るはずだ。
ナイフを体にあてる。
どくん、と心臓が悲鳴をあげる。
やっぱりソレは恐い。
恐いから、穏やかに消えられるように、秋葉の寝顔だけを見つめた。
「だめだな―――俺は、秋葉との約束を破ってばかりだ」
死に至る、馴染んだ感触。
一番死にやすそうな『線』にナイフが通る。
瞬間。
手足を操る糸が切れたように、体中の歯車が止まってしまった。
ばたり、と秋葉の体に重なるように倒れ込む。
薄れていく意識の底で、紅葉が降り積もっていくのを眺めた。
雪のように降り積もる。
それが、あんまりにもキレイだったおかげだろうか。
眠るように、意識が白くなっていけた。
とおい月。
白い夏の日。
みーん、と。
せみのなき声が、聞こえた。
[#改ページ]
●『温かな午睡』
●『an epilogue』
―――――暖かな陽射し。
窓から差し込んでくる白い光にまぶたを刺されて、ゆっくりと目を開けた。
「…………ん」
まどろんでいた意識が醒める。
窓ごしの青空は澄みきっていて、今日が気持ちのいい一日になるだろう事を告げていた。
「ふぁ―――――ぁ」
……慣れないベッドで眠ったせいか、なんだか体が重い。
んー、と背伸びをして体をほぐして、ベッドから起き上がった。
コンコン、とドアを叩く音がした。
「失礼します」
一礼して翡翠が入ってきた。
翡翠は慣れた様子で扉を閉める。
「あ―――――――」
……静かな朝。
この部屋に訪れる事が当たり前のように振舞う彼女の姿を見て、少しだけ―――私は自分がこの部屋の主になった錯覚を覚えてしまった。
「おはようございます秋葉さま。昨夜はよく眠れたでしょうか?」
「ええ、ちゃんと眠れたわ。ごめんね翡翠、兄さんの部屋で眠りたい、なんてわがままを言って」
「……いえ、そのような事はありません。志貴さまも……秋葉さまに使っていただいて、嬉しいと思います」
途切れ途切れに翡翠は言う。
「ふうん。翡翠は諦めが悪いんだ。そんな風に思ってもらえるなんて、兄さんは幸せ者かもね」
「あ―――秋葉さま……!」
「ホントのコトでしょう。それじゃ着替えてから居間に行くから、琥珀に声をかけておいて」
「………………はい。失礼します、秋葉さま」
翡翠は静かに退室していった。
部屋はとたんに寂しくなる。
……兄さんは自分の荷物というものを持っていなくて、ここにはベッドと机ぐらいしかない。
「…………ほんと。こんな殺風景な部屋でよく眠れたわね、兄さんは」
呆れてしまう。
欲しいものがあったのならすぐに用意してあげたのに、兄さんは何も言わなかった。
……私に遠慮してた、という事もあるんだろうけど、基本的にあの人は物欲が皆無なんだ。
子供の頃からそうだった。
自分は何もいらないって、あきはたちがいればそれでいいんだよって、キレイな笑顔でそう言っていた。
それが私には不安だったっけ。
あの人は何も残さないで、何にも縛られていなかった。
そうして自由であるという事は、何よりも孤独である事を幼い私に思い知らせてくれたのだ。
「――――――――ふん」
窓を見る。
いつも兄さんが見ていた景色。
森の翠は、空の蒼に照らされていた。
―――あの後。私はゆっくりと目を覚ました。
落ち葉が敷き詰められた庭。
そこで倒れたまま、ゆっくりと体を起こした。
……私は生きていた。髪も元に戻っていたし、血の昂ぶりも感じていなかった。
体調はむしろ良好で、いつも体にあった脱力感も無くなってしまったと言っていいぐらい薄れていた。
そう、子供のころ。
大好きだった兄を助けたくて願った時からあった体の重さが、まるで無かった事のようになくなっていた。
……あの重さは辛くはあったけど、同時に安心できる重さだったのに。
自分の体は半分の力しかなくて、いつも体が重かったけど、嬉しかった。
だってその重さが兄さんの重さで、私はずっとそうしているかぎりずっと、兄さんを感じていられたんだから。
けれど、今はその重さが手の平ほどしか感じられない。
庭を見渡す。
落ち葉散る夜に、遠野志貴の姿はどこにもなかった。
それで理解してしまった。
自分はどうして生き帰れたのか。
遠野秋葉は、どうして元の遠野秋葉に戻れたのか、という事の意味を。
「……………………」
外はいい天気だし、いつまでもこんな事をしていられない。
早く着替えて、朝食を済ませて学校に行かないと。
居間に下りて朝食を済ませる。
時刻は六時を過ぎたばかり。これならあと数分はゆっくりできるだろう。
「秋葉さま」
「ん? なに、翡翠。あなたも一服する?」
「………………」
翡翠はいかつい顔で見つめてくる。……というより、アレは睨んできているのかもしれない。
大人しい翡翠にしては珍しい事だ。
「……朝のお茶に付き合ってくれる……ってわけじゃなさそうね。なにか言いたい事でもあるの?」
「……はい。失礼を承知で意見させていただきます。秋葉さまは、なぜまた転校をなさったのですか」
――――なるほど、その事か。
兄さんが死んでしまった、という事実を認めようとしない翡翠にしてみれば、私がもとの浅上女学院に戻ってしまった事は何かの符号のように感じられるのだろう。
「何故も何もないでしょう。私があの学校に転校したのは兄さんがいたからです。その目的がなくなったんだから、もとの場所に戻るのは当たり前でしょう?」
「…………………………」
翡翠は納得がいかないようだ。
「それともなに? 翡翠は兄さんがいなくてもあの学校に残るべきだっていうの?」
「…………はい。志貴さまはお亡くなりになられた訳ではないのですから、秋葉さまがそのような事をなされると志貴さまは悲しまれます」
「まさか。もういない人がどう悲しむっていうのよ、翡翠」
ソファーから立ちあがる。
……時間は早いが、学校に行く事にしよう。
「翡翠、琥珀に準備をするように言って。
ああ、あとこれから私は学園の寮で生活するようになるだろうから、屋敷の管理は引き続き任せるわ。
引継ぎは今週中に済ませるから、詳しいことは帰ってきてからね」
「―――――――秋葉さま!」
「なに? まだ何かあるの、翡翠」
「……秋葉さまは……もう、志貴さまの事を忘れてしまうおつもりなのですか」
「別に。ただ、いもしない人間の事を考えても時間の無駄なだけよ」
居間を出る。
背中に翡翠の視線を感じながら、ロビーへと歩いていった。
「それでは行ってらっしゃいませ、秋葉さま」
門まで見送りにきて、琥珀は一礼する。
「行ってくるわ。夕方には戻ってくるから、話はその時にしましょう」
「はい。けど残念です。こうして秋葉さまを見送る事も、もうなくなってしまうんですから」
「……もう、琥珀までそんなコトを言うなんてね。
こんなの、兄さんが帰ってくる前に戻っただけでしょう? 私はもともと土日しか屋敷には帰ってこなかったんだし」
「そうですね。けど槙久さまが亡くなられた今、秋葉さまがお屋敷に帰ってくる理由はありません。
秋葉さま、これからは長期のお休みにしか帰ってこられないのでしょう?」
「―――――ん。たぶん、そうなるかな」
うなずいて、琥珀には隠し事はできないなあと実感した。
私が遠野の屋敷に帰ってきていた理由は、一重に父がうるさかったからだ。
その父も亡くなり、父の後継者としての責務も卒業するまで代理を立てられた今、私が好き好んでこの屋敷に帰ってくる理由はない。
なにしろ卒業してしまえば、あとはずっとこの屋敷で過ごすのだ。
最後の自由時間である三年間をみすみす放棄するのは馬鹿げている。
「けど屋敷に新しいし使用人は雇わないわよ。大変だろうけど二人で頑張ってね、琥珀」
「はい。秋葉さまも月に一度はお帰りになってくださいましね」
「―――オッケー、善処する」
と、時間になった。
車の運転手がコンコン、とノックで時間を知らせてくれる。
「……秋葉さま? 本当にいいんですか?」
「いいって、なにが。あなたまで翡翠と同じコトを言うつもりじゃないでしょうね、琥珀」
「―――いえ、それならいいんです。それでは行ってらっしゃいませ、秋葉お嬢さま」
ぺこり、とお辞儀をする琥珀。
彼女を門の前に残して、車は坂道を下り始めた。
――――流れていく風景を眺める。
秋葉さまは忘れてしまわれるのですか?
そう翡翠が責めたてた時、私は何も言わなかった。
だってそんなのは個人の自由だ。
翡翠が兄さんの死を受け入れようが信じまいが私には関係がない。
翡翠は兄さんが生きている、なんてそれこそフルカウントでの満塁逆転ホームランを望んでいる。
……それを無意味だと思って、私は自分自身に対して笑ってしまった。
だって、その望みは私自身の望みでもあったからだ。
―――志貴さまを忘れてしまわれるですか。
そんなコト、ありえないと言い返せば良かったのだろうか。
兄さんが生きている筈はない。
だって兄さんが命を投げ出す事が、私がこうして戻れる唯一つの方法だったからだ。
それを誰よりも解っているクセに―――私は、翡翠たちと同じように信じてしまっている。
「……だって、まだ残ってる」
ぼんやりと空を見上げる。
……幼い頃、兄さんに命を分けた時からあった胸の鼓動。
自分以外の、もう一人誰かの心臓が胸にあったような重さ。
とくん、とくんと鼓動していた感覚が、いまだ胸に残っている。
……それは、もう本当に微かで希薄なモノになってしまったけど、まだ残っている。
鼓動もしなくなってしまって、ただの石の欠片のようになってしまったけど、まだ残っている事だけは確かだった。
だから自分自身で否定しながらも、翡翠よりも琥珀よりも、世界中の誰よりも兄さんが生きていているんだって信じてる。
あの人はいつかちゃんと帰ってくる。
なら問題なんてないんだから、私は元の生活に戻らないといけない――――
◇◇◇
――――屋敷に帰ってきた。
こうして帰ってくる事も、あと数回ほどでなくなってしまうだろう。
「……思ったより早く着いちゃったな」
ぼんやりと呟いて、少しだけ感傷に浸る事にした。
森にやってきた。
あの夜以来、一度も足を踏み入れなかった場所。
……ここには思い出がありすぎる。
子供の頃、兄さんと遊びまわった庭。
いつか、屋敷を抜け出して二人きりで星を見に行った夜。
帰ってきた兄さんと話をした木々の囲み。
―――そうして、反転してしまった私が目覚めた森。
「……ほんと、バカみたい。あれだけ私を殺してくれって言ったのに、結局――――」
兄さんは自分を犠牲にする方法を選んだ。
あの人ならそうしてしまうって解っていた。
だからあれだけ強く約束したのに、兄さんは私の言うコトなんて何一つ聞いてくれなかったのだ。
「そーそー、そういえば子供の頃からそうだったっけ。兄さんは結局、自分が正しいって思ったコトしかやらない人だった。……だっていうのにいつも、他人のために自分を犠牲にしてたのよね」
――――そう。
私や翡翠がお父様に叱られる時も、兄さんは庇ってくれた。
私がシキに殺されようとした時も、身を呈して庇ってくれた。
そうして、私が戻れなくなってしまった時も。
頼みもしないのに、勝手に――――
[#挿絵(img/秋葉 23.jpg)入る]
「………………っ」
漏れそうな嗚咽を押し留めた。
私は悲しんでなんかない。
むしろ怒ってるんだ。
今度という今度は頭にきた。
あの人は自分の事ばかりで、残された私の事なんてこれっぽっちも考えてくれなかったんだから。
「……本当に。ぜったいに許さないんだから」
けど、その相手が目の前にいない場合。
この諸々の感情は、一体どこに放せばいいんだろうか。
兄さんはいない。
帰ってくる予感もしない。
胸に残る温かさは消えて、今では死んでしまったような、ただの重さが残るだけで―――
「―――――確かなものが、それだけ、なんて」
そう思うと不安になる。
どんなに強がっても本当はもうダメなんだって、負けそうになる。
―――兄さんが何処かで生きてるって信じてる。
胸に残る兄さんの重さはとても希薄になってしまったけど、確かに残っている。
だから生きているんだって、信じたい。
信じたい、けど―――
「―――でも兄さん。こんなに静かだと、いつか、本当に忘れてしまうじゃないかって、私――――」
……兄さんを待ってる。
けど、信じ続けるコトが難しい。
胸にいまだ残っている残滓。
それは兄さんが生きているんだって信じられると同時に、もう生きていないんだっていう証拠になってしまいそうで、恐い。
「……あーあ。こんな所を人に見られたらいい笑い者じゃない」
はあ、と息をはいて屋敷に戻る事にする。
――――と。
こつん、とつま先に何か当たった。
「……………あれ?」
落ち葉に隠れて見えなかったけど、何か落ちている。
「…………………む」
キラリ、と夕日に反射する金属片。
……カマか何かだろう。
琥珀も清掃道具を放りっぱなしにしておくなんて、危ないったら――
「――――――――――――」
いや、違う。
気づいて、息をする事さえ忘れて、それを拾い上げた。
―――――――――どくん。
そう、ただ一度だけ。
そのナイフを握り締めた時、化石になっていたモノが生き返った。
……それは、どんな繋がりだったんだろう。
このナイフと持ち主の間には、目に見えない特別な繋がりでもあったのか。
ただ、本当に一瞬だけ。
胸の奥に、以前と同じ、いやもっと強く、あの人の鼓動が感じられた。
[#挿絵(img/秋葉 24.jpg)入る]
「――――――――――ぁ」
つう、と頬に熱いものが流れる。
それが涙だと気づいても、拭う事はしなかった。
―――――――生きてる。
それだけで、何も考えられない。
何処にいるかなんて解らない。
どうしているかなんて教えてくれない。
けど、解った。
兄さんは生きてる。たった一度だけだったけど、私は確かに兄さんの温もりを感じて、抱きしめる事ができた。
「―――――――――はあ」
大きく息をついて、言葉を飲みこんだ。
……信じられる。
もう、今の鼓動だけで十分だった。
この先何があっても私は信じて、兄さんの帰りを待つ事ができると思えた。
――――それが、すごく嬉しい。
「………はい。とりあえず預かっておきますからね、兄さん」
七つ夜と刻まれたナイフを仕舞って、思い出の森に背を向けた。
森は赤一色。
数え切れないほどの思い出をつめた森に、しばしのさよならを告げる。
だって、思い出はこれからまだたくさんできるし、私にはやるべき事がある。
感傷にふけるなんていうのはここまでだ。
――――――さあ。
私はいつも通りの私のまま日々に戻る。
そうして、それが何年かかっても。
きっと帰ってくるって信じて、いつまでもあの人を待ち続けるんだから―――――
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Fin