月姫
月姫(アルクェイド・トゥルーエンド)
TYPE-MOON
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)乾有彦《いぬいありひこ》
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●『オープニング』
―――――――ふと、目が覚めた。
暗い夜。
家の中にみんなはいない。
一人きりはこわいから
みんなにあいたくて庭にでた。
屋敷の庭はすごく広くて
まわりは深い深い森に囲まれて。
森の木々はくろく・くろく
大きなカーテンのようだった。
それは まるでどこかの劇場みたい。
ざあ と木々のカーテンが開いて、
すぐに演劇が始まるのかとわくわくした。
遠くでいろんな音がしてる。
くろい木々のカーテンの奥。
森の中で みんなが楽しそうに騒いでる。
幕はまだ開かない。
がまんできずに 森の中へと入っていった。
すごく、くらい。
森はふかくて ツメタイヒカリも届かない。
ただ 寒い。
眼球の奥がしびれてしまうぐらいの 寒い冬。
自分の名前をよばれた気がして
もっと奥へと歩いていく。
木々のヴェールを抜けたあと。
森の広場にはみんなそろって待っていた。
みんなふぞろいのかっこう。
みんなばらばらのてあし。
一面 まっかになってる森のひろば。
───わからない。
バラバラにするために見知らぬ人がやってくる。
───よく わからない。
けれど誰かが前にやってきて
かわりにバラバラにされてくれた。
───ボクは子供だから よく わからない。
びしゃりと。
暖かいものが顔にかかった。
あかい。
トマトみたいに あかい水。
バラバラになった人。
その おかあさん という人は
それっきりボクの名前を呼ばなくなった。
―――――ほんとうに よくわからないけれど。
ただ寒くて。
意味もなく 泣いてしまいそうだった。
目にあたたかい緋色が混ざってくる。
眼球の奥に染みこんでくる。
だけどぜんぜん気にならない。
夜空には、ただ一人きりの月がある。
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すごく不思議。
どうしていままで気がつかなかったんだろう。
───なんて、ツメタイ───わるい、ユメ。
ああ───気がつかなかった。
こんやはこんなにも
つきが、きれい───────だ─────
[#改ページ]
気がつくと病院のベッドにいた。
カーテンがゆらゆらとゆれている。
外はとてもいい天気で、
かわいた風が、夏の終わりを告げていた。
「はじめまして遠野志貴くん。回復おめでとう」
初めて見るおじさんは、そう言って握手を求めてきた。
にこやかな笑顔と、四角いメガネがとても似合っている。
清潔そうな白い服も、このおじさんにはぴったりだった。
「志貴くん。先生の言っている事がわかるかい?」
「……いえ。僕はどうして病院なんかにいるんですか」
「覚えていないんだね。君は道を歩いている時、自動車の交通事故に巻き込まれたんだ。
胸にガラスの破片が刺さってね、とても助かるような傷じゃなかったんだよ」
白いおじさんはニコニコとした笑顔のまま、なにか、お医者さんらしくない事を言う。
――――――ひどく。
気分が、悪くなった。
「……眠いです。眠っていいですか」
「ああ、そうしなさい。今は無理をせず、体の回復につとめるのがいい」
お医者さんは笑顔のままだ。
はっきりいって、とても見ていられない。
「先生、一つ聞いていいですか」
「何かな、志貴くん」
「どうして、そんなに体じゅうラクガキなんかしているんですか。この部屋もところどころヒビだらけで、いまにも崩れちゃいそうですけど」
お医者さんはほんの一瞬だけ笑顔を崩したけれど、すぐにまたニコニコとした笑顔に戻って、カツカツと歩いていってしまった。
「―――やはり脳に異状があるようだ。脳外科の芦家先生に連絡をいれなさい。それと眼球にも損傷の疑いがあるな。午後は眼の検査に回すように」
お医者さんは、僕に聞こえないように、こっそりと看護婦さんに話しかけた。
「………ヘンなの。みんな体中にラクガキしてる」
くろい、ぐちゃぐちゃした線が、病院じゅうに走ってる。
意味はよくわからないけど、見ているだけでとても気持ちがわるい。
「……なんだろう、コレ」
ベッドにもラクガキがある。
指で触ってみたら、つぷり、と指先が沈み込んだ。
「―――あ」
もっと細い物で触れたら奥まで沈みそうなので、棚におかれた果物ナイフでラクガキをなぞってみた。
何の力もいれてないのに、ナイフは根元までベッドに沈み込む。
面白かったから、そのままラクガキどおりにナイフを引いた。
ごとん。
重い音をたてて、ベッドはキレイに裂けてしまった。
「きゃあああああ!」
となりのベッドにいる女の子が悲鳴をあげる。
看護婦さんたちが走ってきて、果物ナイフを取りあげられた。
「どうやってベッドを壊したんだね、志貴くん」
お医者さんはベッドを壊した理由じゃなくて、その方法をしつこく聞いてきた。
「その線をなぞったら切れたんだよ。ねえ、どうしてこの病院はヒビだらけなの?」
「いいかげんにしないか志貴くん。そんな線なんてないんだ。
それで、どうやってベッドを壊したんだい。怒らないから教えてくれないかな」
「―――だから、その線をなぞっただけなんだ」
「……わかった。このお話はまた明日にしよう」
お医者さんは去っていく。
けっきょく、誰ひとりとして僕の話を信じてはくれなかった。
あのラクガキをナイフで切ると、それがなんであろうとキレイに切れた。
力なんていらない。
紙をハサミで切るみたいに、簡単に切ることができた。
ベッドも。イスも。机も。壁も。床も。
……試したことはないけれど、たぶん、きっと、にんげんも。
ラクガキはみんなには見えてないみたいだ。
なぜか自分だけに見える黒い線。
それがなんであるか、子供の自分にもなんとなく分かってきた。
アレはきっと、ツギハギなんだ。
手術をして傷口を縫ったあとのところみたいに、とても脆くなっているところだとおもう。
だって、そうでもなければ子供の力で壁が切れるはずなんてない。
――――ああ、今まで知らなかった。
セカイはこんなにもツギハギだらけで、とても壊れやすいトコロだったなんて。
みんなには見えてない。
だから平気。
でも僕には見えている。
こわくて、こわくて、歩けない。
まるで、僕だけおかしくなってしまったみたいだ。
だからだろうか。
あれから二週間も経つのに、誰も僕の話を信じてくれない。
あれから二週間も経つのに、誰も、僕に会いに来てくれない。
あれから二週間も経つのに。
ずっと、僕だけがツギハギだらけのセカイに生きている――――
病室にはいたくない。
ラクガキだらけのトコロにいたくない。
だからココから逃げ出して、誰もいない遠い場所に行くことにした。
でも胸の傷が痛くて、少ししか走れなかった。
気がつけば。
自分がいるのは街の外れにある野原で、ちっとも遠い場所になんて行けなかった。
「……ごほっ」
胸が痛くて、すごく悲しくて、地面にしゃがみこんでせきこんだ。
ごほっ、ごほっ。
誰もいない。
夏の終わりの、草むらの海のなか。
このまま、消えてしまいそうだった。
けれど、その前に。
「君、そんなところでしゃがんでると危ないわよ」
[#挿絵(img/シエル 26.jpg)入る]
後ろから、女の人の声がした。
「え………?」
「え、じゃないでしょ。君、ただでさえちっこいんだから草むらの中でうずくまってると見えないのよね。気をつけなさい、あやうく蹴り飛ばされるところだったんだから」
ふきげんそうに女の人は僕を指差した。
……なんか、ちょっとあたまにきた。
僕はクラスでも前から四番目なんだから、そう背が低いほうではないとおもう。
「けりとばされるって、誰に?」
「ばかね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」
女の人は腕を組んで、自信たっぷりにそう言った。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だし、少し話し相手になってくれない? 私は蒼崎青子っていうんだけど、君は?」
まるでずっと知りあいだった友達のような気軽さで、女の人は手を差し伸べてきた。
断る理由も見当たらなくて、僕は遠野志貴と自分の名前をいって、女の人の冷たい手のひらを握り返した。
女の人とのおしゃべりは、とても楽しかった。
この人は僕の言うことを『子供だから』といって無視しない。
ちゃんと一人の友達として、僕の話を聞いてくれた。
色々なことを話した。
僕の家のこと。歴史のある旧い家柄で、とても行儀作法にうるさくって、お父さんが厳しい人だということ。
あきはという妹がいて、とてもおとなしくて、いつも僕のあとを付いてきていたということ。
広い屋敷だから、森のような庭で、いつもあきはと一緒に友達と遊んだこと。
―――熱にうかされたように、色々なことを話した。
「ああ、もうこんな時間。
悪いわね志貴。私、ちょっと用事があるからお話はここまでにしましょう」
女の人は立ち去っていく。
……また一人になるのかと思うと、寂しかった。
「じゃあまた明日、ここで待ってるからね。君もちゃんと病室に帰って、きちんと医者の言いつけを守るんだぞ」
「あ―――」
女の人は、まるでそれが当たり前だ、というように去っていった。
「……また、明日」
また明日、今日みたいな話ができる。
嬉しい。
事故から目覚めて。初めて、人間らしい感情が戻ってきた。
そうして、午後になると野原に行くのが日課になった。
女の人は青子って呼ぶとおこる。
自分の名前が嫌いなんだそうだ。
考えたあげく、なんとなく偉そうな人だから『先生』と呼ぶことにした。
先生はなんでも真面目に聞いてくれて、僕の悩みを一言で片付けてくれる。
……事故のせいで暗くなっていた僕は、少しずつ、先生のおかげでもとの自分に戻っていけた。
あんなに怖かったラクガキのコトも、先生と話しているとあまり恐くは感じなくなっていた。
だから、どこの誰だか知らないけど、もしかしたら先生は本当に学校の先生なのかもしれない。
でも、そんなコトはどうでもいいことだと思う。
先生といると楽しい。
大事なのは、きっとそんな単純なことなんだ。
「ねえ先生。僕、こんなコトができるよ」
ちょっと驚かせたくて、病院から持ち出した果物ナイフを使って、野原に生えていた木を切った。
あのラクガキみたいな線をなぞって、根元からキレイに切断した。
「すごいでしょ。ラクガキが見えてるところなら、どこだって簡単に切れるんだよ。こんなの他の誰にもできないよね」
「志貴―――!」
ぱん、と頬を叩かれた。
「先……生?」
「――――君は今、とても軽率な事をしたわ」
先生はすごく真剣な目をして見つめてくる。
……理由はわからなかったけれど。
僕は、いま自分がした事が、とてもいけないコトなんだって思い知った。
厳しい先生の顔と、叩かれた頬の痛みで。
とても、とても悲しい気持ちになった。
「……ごめん、なさい」
気がつくと、泣いていた。
「―――――志貴」
ふわり、とした感覚。
「―――謝る必要はないわ。
たしかに志貴は怒られるような事をしたけど、それは決して志貴が悪いってわけじゃないんだから」
先生はしゃがみこんで、僕を抱きしめていた。
「でもね、志貴。今誰かが君を叱っておかないと、きっと取り返しのつかない事になる。
だから私は謝らない。そのかわり、志貴は私のことを嫌ってもいいわ」
「……ううん。先生のこと、嫌いじゃないよ」
「―――そう。本当に、よかった。……私が君に出会ったのは一つの縁だったみたい」
先生はそうして、僕が見ているラクガキについて聞いてきた。
この目に見えている黒い線のことを話すと、先生はいっそう強く、抱きしめる腕に力をこめた。
「……志貴、君が見ているのは本来視えてはいけないものよ。
『モノ』にはね、壊れやすい個所というものがあるの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完全じゃない。
君の目は、そういった『モノ』の末路……言い代えれば未来を視てしまっているんでしょう」
「……未来を……みてる、の?」
「そうよ。死が視えてしまっている。
――それ以上のことは知らなくていい。
もし君がそういう流れに沿ってしまう時がくるなら、必然としてそれなりの理屈を知る事になるでしょうから」
「……先生。なんのことだか、よくわからない」
「ええ、わかっちゃダメよ。
ただ一つだけ知っておいてほしいのは、決してその線をいたずらに切ってはいけないということ。
―――君の目は、『モノ』の命を軽くしすぎてしまうから」
「―――うん。先生が言うならしない。それに、なんだか胸がいたいんだ。……ごめんね先生。もう、二度とあんなことはしないから」
「……よかった。志貴、いまの気持ちを絶対に忘れないで。そうしていれば、君はかならず幸せになれるんだから」
そうして、先生は僕からはなれた。
「でも先生。このラクガキが見えていると不安なんだ。
だって、この線を引けばそこが切れちゃうんでしょう? なら、僕のまわりはいつバラバラになってもおかしくないじゃないか」
「そうね。その問題は私がなんとかするわ。――どうやらそれが、私がここにきた理由のようだし」
はあ、とため息をついてから、先生はニコリと笑った。
「志貴、明日は君にとっておきのプレゼントをあげる。私が君を以前の、普通の生活に戻してあげるわ」
次の日。
ちょうど先生と出会ってから七日目の野原で、先生は大きなトランクを片手にさげてやってきた。
「はい。これをかけていれば妙なラクガキは見えなくなるわよ」
先生がくれたものはメガネだった。
「僕、目は悪くないよ」
「いいからかけなさい。別に度は入ってないんだから」
先生は強引にメガネを僕にかけさせた。
とたん―――
「うわあ! すごい、すごいよ先生! ラクガキがちっとも見えない!」
「あったりまえよ。わざわざ姉貴の所の魔眼殺しを奪ってまで作った蒼崎青子渾身の逸品なんだから。粗末にあつかったらただじゃおかないからね、志貴」
「うん、大事にする! けど、先生ってすごいね! あれだけイヤだった線がみんな消えちゃって、なんだか魔法みたいだ、コレ!」
「それも当然。だって私、魔法使いだもん」
得意げににんまりと笑って、先生はトランクを地面に置いた。
「でもね、志貴。その線は消えたわけじゃないわ。ただ見えなくしているだけ。そのメガネを外せば、線はまた見えてしまう」
「―――そ、そうなの?」
「ええ。そればっかりはもう治しようがないコトよ。志貴、君はその目となんとか折り合いをつけて生きていくしかないの」
「………やだ。こんな恐い目、いらない。またあの線を切っちゃったら、先生との約束が守れなくなる」
「ああ、もう二度と線をひかないっていうアレか。ばかね、あんな約束気軽に破っていいわよ」
「……そうなの? だって、すごくいけないコトだって言ったじゃないか」
「ええ、いけない事ね。
けどそれは君個人の力なのよ、志貴。だからそれを使おうとするのも君の自由なの。君以外の他の誰も、志貴を責める事はできないわ。
君は個人が保有する能力の中でも、ひどく特異な能力を持ってしまった。
けど、それが君に有るという事は、なにかしらの意味が有るという事なの。
かみさまは何の意味もなく力を分けない。
君の未来にはその力が必要となる時があるからこそ、その直死の眼があるとも言える。
だから、志貴の全てを否定するわけにはいかないわ」
先生はしゃがんで、僕の視線と同じ高さの視線をする。
[#挿絵(img/シエル 29.jpg)入る]
「でもね、だからこそ忘れないで。
志貴、君はとてもまっすぐな心をしてる。
いまの君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう」
「聖人になれ、なんて事は言わない。
君は君が正しいと思う大人になればいい。
いけないっていう事を素直に受けとめられて、ごめんなさいと言える君なら、十年後にはきっと素敵な男の子になってるわ」
そう言って。
先生は立ちあがると、トランクに手を伸ばした。
「あ、でもよっぽどの事がないかぎりメガネを外しちゃだめだからね。
特別な力は特別な力を呼ぶものなの。
どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人がよく考えて力を行使なさい。
その力自体は決して悪いものじゃない。結果をいいものにするか悪いものにするかは、あくまで志貴、君の判断しだいなんだから」
トランクが持ちあがる。
―――先生は何も言わないけれど。
僕は、先生とお別れになるんだとわかってしまった。
「―――無理だよ先生。僕だけじゃわからない。
ほんとは先生に会うまで恐くてたまらなかったんだ。けど先生がいてくれたから、僕は僕に戻れたんじゃないか。
……だめなんだ。
先生がいなくちゃ、こんなメガネがあったってだめに決まってるじゃないか……!」
「志貴、心にもない事は言わないこと。自分自身も騙せないような嘘は、聞いている方を不快にさせるわ」
先生は不機嫌そうに眉を八の字にして、ぴん、と僕の額を指ではじいた。
「―――自分でもわかってるんでしょう?
君はもう大丈夫だって。ならそんなつまらないコトをいって、せっかく掴んだ自分を捨ててはいけないわ」
先生はくるり、と背を向けた。
「それじゃあお別れね。
志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし穴だらけなのよ。
君は人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなさい」
先生は行ってしまう。
とても悲しかったけど、僕は先生の友達だから、シャンとして見送る事にした。
「―――うん。さよなら、先生」
「よし、上出来よ志貴。その意気でいつまでも元気でいなさい。
いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト。
大丈夫、君なら一人でもちゃんとやっていけるから」
先生は嬉しそうに笑う。
ざあ、と風が吹いた。
草むらが一斉に揺らぐ。
先生の姿はもうなかった。
「……ばいばい、先生」
言って、もう会えないんだな、と実感できた。
残ったものはたくさんの言葉と、この不思議なメガネだけ。
たった七日だけの時間だったけれど、なにより大事なコトを教えてくれた。
ぼんやりと佇んでたら、目に涙がたまった。
―――ああ、なんてバカなんだろう。
僕はさよならばっかりで。
ありがとうの一言も、あの人に伝えていなかった。
僕の退院は、それからすぐだった。
退院したあと、僕は遠野の家ではなく、親戚の家に預けられる事になった。
けど大丈夫。
遠野志貴は一人でもちゃんとやっていける。
新しい生活を、新しい家族と過ごす。
遠野志貴の九歳の夏はそうして終わった。
新しい秋がやってきて、僕は少しだけ、大人になったんだと思う――――
[#改ページ]
●『1/反転衝動T』
● 1days/October 21(Thur.)
―――――秋。
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
自分こと遠野志貴は、八年ぶりに長く離れていた実家に戻る事になった。
「志貴、早くしなさい。いつもの登校時間を過ぎていますよ」
台所から啓子さんの声が聞こえてくる。
「はい、いま出ますからー!」
大声で返して、それまで自分の部屋だった有間家の一室に手を合わせる。
「それじゃ行くよ。八年間、お世話になりました」
ぱんぱん、と柏手をうった後。
鞄一つだけ持って、慣れ親しんだ部屋を後にした。
玄関を出て、有間の屋敷を振りかえる。
「志貴」
玄関口まで見送りにきた啓子さんは、淋しそうな目で俺の名前を口にした。
「行ってきます。母さんも元気で」
もう帰ってくる事はないのに行ってきます、というのはおかしかった。
もうこの先、家族としてこの家の敷居をまたぐ事はないんだから。
「今までお世話になりました。父さんにもよろしく言っておいてください」
啓子さんはただうなずくだけだった。
八年間────俺の母親であった人は、ひどく悲しげな目をしていた。
この人のそんな顔、今まで見たことはなかったと思う。
「遠野の屋敷の生活はたいへんでしょうけど、しっかりね。あなたは体が弱いのだから、あまり無茶をしてはいけませんよ」
「大丈夫、八年もたてば人並みに健康な体に戻ります。こう見えてもワリと頑丈なんです、俺の体」
「ええ、そうだったわね。けど遠野の方達はみなどこか違っている人達ですから、志貴が圧倒されないかと心配で」
啓子さんの言いたい事はなんとなくわかる。
今日から俺が住む事になる家は、お屋敷ともいえる時代錯誤な建物なのだ。
住んでる家も立派なら家柄も立派という名家で、実際いくつかの会社の株主でもあるらしい。
くわえて言うのなら、八年前に長男である俺―――遠野志貴を親戚である有間の家に預けた、自分にとって本当の家でもある。
「でも、もう決めた事ですから」
そう、もう決めた事だった。
「……それじゃあ行ってきます。今までお世話になりました」
最後にもう一度だけそう言って、八年間馴れしたんだ有間の家を後にした。
「――――はあ」
有間の家から離れて、いつもの通学路に出たとたん、気が重くなった。
―――八年前。
普通なら即死、という重症から回復した俺は、親元である遠野の家から分家筋である有間の家に預けられた。
俺は九歳までは実の両親の家である遠野の屋敷で暮らしていて、その後の八年間、高校二年生である今までを親戚である有間の家で暮らしていた、というコトになる。
なかば養子という形で有間の家に預けられてからの生活は、いたってノーマルなものだった。
あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事はまったくおこらなかったし、自分も先生のくれたメガネをかけているかぎり『線』を見る事がない。
遠野志貴の生活は、本当に平凡に。
とても穏やかなままで、ゆるやかに流れていた。
……つい先日。
今まで勘当同然に放っておかれた自分に、
『今日までに遠野の屋敷に戻って来い』
なんていう遠野家当主からのお言葉がくるまでは。
「はあ────」
またため息がでる。
実のところ、交通事故に巻き込まれて入院する以前から、俺は遠野の家とは折り合いが悪かった。
行儀作法にうるさい屋敷の生活が子供心にはつまらないモノに思えてしまったせいだろう。
だから有間の家に預ける、と実の父親に言われた時は、さして抵抗もなく養子に出た。
結果は、とても良好だったと思う。
有間の家の人たちとは上手くやっていけたし、義理の母親である啓子さんとも、義理の父親である文臣さんとも親子のように接してきた。
もともと一般的な温かい家庭に憧れていたところもあって、遠野志貴は有間の家で本当の子供のように暮らしてきた。
そこに後悔のたぐいはまったくなかった。
……ただ一つ。
一歳年下の妹を遠野の屋敷に残してきてしまった、ということ以外は。
「……秋葉のやつ、俺のことを恨んでるんだろうな」
というか、恨まれて当然のような気がする。
あの、やたら広い屋敷に一人きりになって、頭の硬い父親とつきっきりで暮らしていたんだ。
秋葉がさっさと外に逃げ出してしまった俺のことをどう思っているかは容易に想像できる。
「…………はあ」
ため息をついても仕方がない。
あとはもうなるようになれだ。
今日、学校が終わったら八年ぶりに実家に帰る。そこで何が待っているかは神のみぞ知るというところだろう。
「そうだよな。それに今はもっと切迫した問題があるし」
腕時計は七時四十五分をさしている。
うちの高校は八時きっかりに朝のホームルームが始まるため、八時までに教室にいないと遅刻が確定してしまう。
鞄を抱えて、学校までダッシュする事にした。
「ハア、ハア、ハア――――」
着いた。
家から学校まで実に十分弱。
陸上部がスカウトにこないのが不思議なぐらいの好タイムをたたき出して、裏門から校庭に入る。
「……そっか。裏門から入るのも今日で最後か」
位置的に有間の家と遠野の家は学校を挟んで正反対の場所にある。
有間の家は学校の裏側に、遠野の屋敷は学校の正門方向。
自然、明日からの登校口は裏門ではなく正門からになるだろう。
「ここの寂しい雰囲気、わりと好きだったんだけどな」
なぜかうちの高校の裏門は不人気で、利用しているのは自分をふくめて十人たらずしかいない。
そのせいか、裏庭は朝夕問わずに静かな、人気のない場所になっている。
かーん、かか、かーん。
……だからだろうか。
小鳥のさえずりに混ざって、トンカチの音まで確かに聞き取れてしまうのは。
「トンカチの音か―――って、え……?」
かーん、か、かかーん、かっこん。
半端にリズミカルなとんかちの音がする。方角からして中庭のあたりからだろうか。
「………………」
なんだろう。
ホームルームまであと十分ない。
寄り道はできないのだが、なんだか気になる。
ここは――……なんだか気になる。様子を見にいこう。
中庭にむかって歩いていくと、音の正体はすぐに判明した。
中庭にある並木道の途中。
トンカチやらクギやらをもって、一人の女生徒がうずくまって作業をしている。
「…………」
ホームルームまであと数分もないっていうのに、あの女生徒はなにをしているんだろう。
「――もしかして、時計持ってないのかな」
一応、今の段階ではそんな推測しか成り立たない。
……見かけてしまった以上、無視するのは人道に反すると思う。
驚かさないように、そっと近寄って話しかける事にした。
[#挿絵(img/シエル 11.jpg)入る]
「もしもし、もうすぐホームルームだけど」
「はい?」
うずくまった女生徒が顔をあげる。制服には三年生を示す色のリボンがあった。
「……………」
上級生の女生徒は、トンカチを手に持ったままじーっとこちらを眺めている。
「あ───その」
メガネごしの女生徒の瞳は、引き込まれるぐらいに真っすぐだ。
なんて言うか、話しかけたのが申し訳なくなってくるぐらいの真剣な瞳。
見れば彼女が向かっている添え木はボロボロに腐食していて、使い物にならなくなっている。
……そういえばうちの学校の裏庭の手入れはひどいものだった。
添え木はまったく手入れもせず、花壇もずっと放置されたまま。
教師たちは年末の大掃除に生徒たちに片付けさせるつもりらしく、夏ごろから業者による修理もまったくされていなかったんだっけ。
―――なら、状況は一目見れば明らかだ。
彼女はトンカチとクギをもって、キレイな制服が汚れるのも気にしないで、壊された添え木の修理をしていたのだろう。
見知らぬ上級生の額は汗ばんでいて、いかに真剣にトンカチを振るっていたかが見て取れる。
……ただ知るかぎり、この学校にはこういった公共物を修理するなんていう係はなかった筈だ。
「あの、なんでしょうか?」
ズレかけたメガネをかけなおして上級生は聞いてくる。
「いや、たいした事じゃないんだ。ただ何をしてるのかなって思っただけだから」
「えっと、見てのとおり添え木を直している最中です」
うん、それは見れば分かる。
「いや、そうじゃなくてさ。どうしてそんな事をしてるのかなって。こんなのほっとけば業者が直しにくるじゃないか」
言われて、メガネの上級生はアハハ、と照れ隠しに笑った。
「わたし、こうゆうふうにちらかってるのを見ると我慢できなくなっちゃう人なんです。なんていうか、その、ほおっておけなくて」
ほおっておけないから自分から直しているらしい。
「……………」
なんというか、変わった先輩だ。
「だからって自分で直すのはどうかと思うよ。散らかっているのが気になるなら中庭に来なければいいじゃないか」
「そうなんですけど、わたしの教室ってあそこなんです」
ぴっ、と先輩は中庭に面した二階の教室を指差した。
「しかも窓際の席ですから、中庭の様子がすぐわかっちゃうんです。……まあ、いつもはなんとか我慢していたんですけど、今朝席についたらびっくりしました。なんとですね、このあたりの添え木がみんなそろって折られていたんです」
ひどい話ですよね、と先輩は顔を曇らせる。
……怒っているらしいのだが、なんというか、あまり真剣に怒っているようには見えなかった。
「それでですね、少し迷ったんですけど、善は急げという事で事務のおじさんから道具をお借りして直してしまおうって決めたんです」
以上、説明終わりです。
そんな間の抜けたお辞儀をして、先輩はまたもトンテンカンとトンカチを叩き始める。
「……話はわかったけど、とりあえずそこまでにしたらどう? 朝のホームルームまであと五分もないんだし、ここまで壊れてれば学校のほうですぐに直してくれると思うよ」
「まさか!」
ぐっ、とトンカチを握り締めて、メガネの上級生はブンブンと首をふった。
「このまま授業が始まっても、きっと気になって集中できません。授業の内容なんてちんぷんかんぷんになっちゃって、先生方に『こらそこ、なによそ見をしておるかっ』て怒られちゃうに決まってるじゃないですかっ」
先輩はトンカチを握り締めたまま力説する。
「……まあ、たしかによそ見をしてたら怒られるね、そりゃあ」
「でしょう? ですから今のうちにやっちゃうしかないんです」
言って、先輩はなれない手つきで修理作業を再開した。
カンカン、とトンカチが木を叩く音が響く。
……見れば、壊れている添え木の数は一つや二つではなかった。
このほんわかした上級生一人きりでは、全部を直し終わるまで何時間かかるか予測もできない。
くわえて、トドメとばかりに予鈴が鳴り響いた。
「……一時限目が始まったか」
ああ、こうなったらもうヤケだ。
無言で座り込むと、添え木の修理作業を手伝いはじめた。
いざ手伝ってみれば、修理はそう大変なものでもなかった。
メガネの上級生は慣れないながらも器用な人で、コツを掴むとてきぱきと作業をこなしたからだ。
先輩は体の動きもシャキシャキとしていて、見ているこっちが気持ち良くなってしまうぐらい、なんていうか小気味よい人だった。
……そうして気がつけば、直すべき添え木はあと一つだけになっている。
あれから三十分ほど経っている。
これ以上の寄り道はできないし、あと一つだけなら先輩だけでも問題はないだろう。
「それじゃあ、俺はこれで」
立ち上がってズボンの埃をはたく。
メガネの上級生は俺と同じように立ちあがると、さっきのようにじーっ、とこっちを見つめてきた。
「…………?」
はて。そういえば、この先輩は誰だろう。
あんまりにおかしな行動をとっているから考えもしなかったけど、冷静になってみるとこの人は美人だと思う。
これほどの美人なら、男子生徒の間で『三年にメガネの似合う美人がいる』なんて話が流れてきそうなものだけど。
「あの───俺、行きますから。先輩もほどほどにしておいたほうがいいと思うよ」
はい、と彼女は素直にうなずく。
……そっちのが年上なのに、なんだか後輩を相手にしているみたいだった。
「ありがとうございました。手伝ってくれて、嬉しかったです」
ぺこり、と彼女はおじぎをする。
「それじゃ休み時間にご挨拶に行きますね。あ、ちゃんと手を洗って行くんですよ、遠野くん」
「先輩もな」
手をあげて立ち去る。
────って、待った。
「……あれ? 俺、先輩と前に会ったことあったっけ?」
呆然とした表情で、俺はメガネの上級生を指差した。先輩はええ!と驚いてから、ちょっといじけたように顔を曇らせた。
「遠野くん、わたしのこと覚えてないんですね」
「────?」
覚えてないって、いや、そんなコトはないと思う。
これだけの美人と何かあったら、忘れるほうがどうかしてると思うんだけど……。
「………えっと………」
彼女はうらめしそうに下から覗き込んでくる。
その瞳には、たしかに覚えがあった……よう……、な。
……そういえば一度か二度、どこかで挨拶をかわした事があった……っけ?
「────シエル先輩、だっけ?」
恐る恐る彼女の名前を口にする。
「はい、覚えていてくれてよかった。
遠野くん、ぽーっとしてて忘れてそうだったから」
……ぽーっとしているつもりはないけど、事実忘れていたんだから仕方がない。
「それじゃあまた。寄り道させてごめんなさいでした」
シエル先輩はもう一度ペコリとおじぎをする。
それをぼんやりと眺めてから、どこか合点のいかない心持ちで校舎へと歩きだした。
……教室に着く頃には、一時限目が終わって休み時間になっていた。
ざわざわと教室が込み合っているスキをついて中に入る。
俺の机は窓際の一番後ろなので、こそこそと歩いていけば誰の目にもとまらない。
こうして抜き足で入っていけば、二時限目の出席をとる時に『ああ、遠野がいつのまにかいる!』
という、退屈な授業にちょっとだけエキセントリックな風を吹かす事ができる。
―――が、その作戦は今回は見送りらしい。
「よう、さぼり魔。らしくないな、時間に正確なおまえさんが遅刻してくるなんて」
「……………」
はあ、とため息が出た。
せっかく先輩と微笑ましい時間を共有した後だっていうのに、なんだか一気に自分の現実をたたきつけられたような感じだ。
「なんだよ、相変わらずシケた顔しやがって。人がたまに朝から来てやれば遅刻しやがるとはどういう了見だ、おまえ」
「……あのな。どういう了見もなにも、俺はおまえのために学校に来てるわけじゃないぞ」
「なにい!? バカ言うなよ、オレは遠野のために学校に来てるんだぞ! そんなの不公平じゃんか!」
「…………」
言葉がない。
……毎回思うんだけど、どうして俺はこいつと知り合いだったりするんだろう。
オレンジに染めた髪、耳元のピアス。
いつでもだれでもケンカ上等、といった目付きの悪さと反社会的な服装。
進学校であるうちの高校の中、ただ一人とんがっている自由気ままなアウトロー。
それがこの男、乾有彦《いぬいありひこ》くんである。
「そもそもな、オレとおまえは中学時代からの仇敵だろ? ライヴァルを前にしてそんなのんびりした顔してるとさっそく猫に寝首をかかれるんだぞ!」
有彦はともかく騒がしい。
気がつけば教室中の視線がこちらに集中していて、みんなが『よっ、おはよう遠野』なんて挨拶をしてきてくれる。
「……有彦、うるさい。こっそり教室に入ってさりげなく次の授業を受けようっていうこっちの意向を台無しにしやがって。
そもそもなんで俺とおまえがライバルなんだ。ケンカに強いのなら他にいっぱいいるんだから、あんまりかまわないでくれ」
……まあ、たしかに中学からこっち、総額一万円近い金額を貸してはいるから敵と呼べない事もないけど。
「どうしてかな、遠野ってばオレにだけ冷たいよな。他のヤツラには聖人君子みたいなヤツなのに、不公平だ」
「なんだ、わかってるじゃないか。世の中、公平なコトはあんまりないよ」
「……はあ。やっぱり遠野はオレにだけ冷たいよなあ」
大げさにため息をつく有彦。
別段こっちとしても有彦に冷たくあたっているわけではなくて、なんというか、コイツとはこういう関係になってしまうのだ。
「それより有彦。普段は二時限目から出席する夜型人間のおまえが朝から出席してるなんて、どんな風の吹き回しだ。ちょっと、いやかなり普通じゃないぞ」
「まあな、オレだってそう思う。たまに早起きしたからって一時限目から来るもんじゃないよな、学校ってヤツは」
「……まあ、おまえの趣味には口を出さないよ。俺が聞きたいのはおまえが早起きしてる理由だけだから」
「そりゃあ最近はなにかと物騒だから夜は大人しく眠るコトにしているんだよ。遠野だって知ってるだろ、ここんところ連続している通り魔事件の話」
……連続している通り魔殺人……?
「―――そっか。そういえばそんな話もあったっけ」
有彦に言われて思い出した。
少し反省する。ここ二三日、遠野の家に戻る戻らないで悩んでいたため、世間のニュースにはまったく疎くなっていたらしい。
「なんだっけ、すごく低俗な売り文句だったよな。連続猟奇殺人事件、とか」
「それだけじゃない。被害者はみんな若い女で、二日前の事件でやられちまったのは八人目。かつ、その全員が―――なんだっけ?」
うむ?と首をかしげる有彦。
「………………」
コイツに聞いた自分が浅はかだったみたいだ。
「ああ、思い出した! 被害者全員が喉元にバツの字の傷跡があるんだっけ」
「違うよ、乾くん。殺されちゃった人はみんな、体内の血液が著しく失われている、だよ」
「ああ、そうだったそうだった。現代の吸血鬼かっていう見出しだったもんな、アレ」
「ふうん。詳しいんだね、弓塚さん」
「そんなコトないよ。この街で起きている事件なんだもん、ニュースを見てればイヤでも覚えちゃうことだと思う」
……そうだったのか。
たしか隣の街で起きている事件だと思ったけど、いつのまにかこの街に移り変わっていたんだ。
「――とまあ、そういうコトだよ遠野。
いくらオレでもね、夜中に殺人犯が出歩いているうちは夜遊びはしない。そういうわけで最近はまじめに朝七時に目を覚ましているのだ」
「……なんだ、そんな理由だったのか。まともすぎてつまらないな」
有彦をあしらいながら席に座る。
「なんだよ、つれないな。さてはアレか、朝から貧血でぶっ倒れたのか?」
「いや、今朝はまだ大丈夫。心配してくれるのはありがたいんだけどな、そう四六時中貧血を起こしてたら体がもたないよ」
「ああ、そりゃもっともだ。遠野が大丈夫だっていうんなら、まあ大丈夫なんだろうよ」
と、話しこんでいるうちに予鈴が鳴った。
「ほら、授業が始まるぞ。早く席に戻れ」
「あいよ。……っと、そうそう。今日の昼メシな、屋上じゃなくて食堂でするからな。本日は特別ゲストをお呼びしているので、楽しみにしているコト」
きしし、と何か企んでいそうな笑い声をあげて、有彦は自分の席に戻っていった。
「それじゃあね、遠野くん」
「あ―――うん、弓塚さんも、付き合わせて悪かったね」
たったった、と軽い足取りで弓塚も席に戻る。
……しかし。
クラスメイトというだけの彼女が、どうして俺たちの会話に入ってきたのかは謎だった。
◇◇◇
昼休みになった。
さて、どこで昼食をとろうか。
教室に残る。
ちなみに、遠野志貴の昼食は毎日気分で変動する。
お弁当を作ってもらう事もあれば、うどんが恋しくなって学食に移動する事もあり、食事が面倒くさくなったら購買にいってパンと牛乳を買ったりもする。
今日はお弁当は作ってもらっていない。もう有間の家には帰らないんだから、お弁当を作ってもらうのは辞退したのだ。
よって、こうして教室に残っていても食べるものなんて何もない。
「気は乗らないけど食堂に行くか」
結局それか、と呆れながら教室を後にした。
食堂はいつも通り混雑していて、注文待ちに十分の行列ができている。
列に並んで、力うどんを購入する。
きょろきょろと食堂を見渡すと、奥のほうのテーブルに見知った顔を見つけた。
「おぉい、こっちだ遠野!」
なんて、ぶんぶんと手をふってくる有彦。
「………………」
あたま、いたい。
けど他にあいている席もなし、仕方なく手を振ってくる友人のテーブルへと歩いていった。
「ったく、遅いぞ遠野。今日は特別ゲストが来るっていったんだから、もっと早く来てくれよな」
そういうわりには有彦は一人きりである。
「で、有彦。特別ゲストって誰なんだ?」
「いやぁー、それがふられちった。今日は用があるからまた今度にしましょう、だってさー」
「ふぅん。ふられたって、もしかしてゲストって女子?」
「おう、最近アタックかけてる先輩。ま、色々と人気のある人だから仕方ないやね」
きっぱりと言って、ぞぞ、とカレーうどんをすする有彦。
しつこいようでさっぱりしているのがこの男の気持ちのいいところではある。
「でさ。本当のところ、どうなんだよ」
「んー? どうってなにが?」
「今日おまえが朝から教室にいた理由。早起きしたからって学校に来るほどロマンチストじゃないだろ、有彦くんは」
力うどんを食べながら、横に座っている有彦に問いかける。
有彦はうむ、とつまらなそうに答えて、カレーうどんの汁をすすった。
「遠野は今日から実家に戻るのか?」
「そうだけど……あれ、その話したっけ?」
「してない。オレは担任から、きいただけ」
こっちの目を見ようともしないで、有彦はカレーうどんを食べ続けている。
「それで、だな。遠野がブルー入ってないか、ちょっと確認しようと思った」
「……そうか。それで成果は?」
「早起きするほど面白い見せ物ではなかったんで、がっかりしたかな、と」
「まったく。有彦はひま人だな」
言い捨てて、力うどんの肝ともいえる白いお餅を噛み切った。
……つまり、有彦はこういうヤツなのである。
俺は今日から預けられていた親戚の家から、実の両親の家に戻る事になっている。
その話をどこからか聞き付けた有彦は、俺がまいっているんじゃないかと心配になって、朝早くから学校に来ていたのだろう。
「……有彦、君は外見で損をしてると思うぞ。実際ナイーヴでセンチメンタルなヤツだよ、君」
「ひひひ、いつもメランコリックな遠野に言われたらオレも本物か」
ぞぞ、と音をたててうどんの麺をすする有彦。
「―――で。遠野はどうなのよ、実際」
「どうってなにが」
「おまえ、小学校から有間の家に預けられてたんだろ? どんな理由でか知らないが、それから八年も経つんだ。なんで今になって勘当してた息子を呼び戻すんだろうかな、キミの父親は」
「勘当されてたわけじゃないよ。なんとなく屋敷から追い出されただけなんだ」
「遠野くん。なんとなくで子供を家から追い出すような家庭があったら、それはすでに悲劇ではなく笑い話だ。オー、イッツパーティージョーク。しかし寒すぎて笑え、ナイ」
有彦は大げさに両手を広げて肩をすくめる。
どんな時でも深刻にならないのが有彦のわかりやすい特徴だ。
「……そうだな。たしかになんとなくで家から追い出されたら、そりゃあ笑うしかないだろうね」
「だろう? おまけに二度と敷居は跨ぐなっていう決め台詞まで言われたんだろう? 世間さまではそーゆーのは勘当というんだぞ。
今まで聞かなかったけどな、おまえはどうして勘当されたんだ」
「……………」
……………さあ。
そんな事、こっちが聞きたいぐらいだ。
「ま、話したくないなら、いい」
有彦はどんぶりを両手でもって、ぐびぐびと熱いカレースープを飲み干していく。
休み時間は短い。
有彦の早食いを見習って、こっちもぐびぐびと力うどんを平らげる事にした。
◇◇◇
一日の授業がすべて終わって、放課後になった。
すぐさま屋敷に帰る気になれず、ぼんやりと窓越しに校庭を眺める。
教室は夕焼けのオレンジ色で染め上げられている。
水彩の赤絵の具に濡れたような色をしていて、目に痛い。
……朱色は苦手だ。
眼球の奥に染み込んできそうで、吐き気がする。
どうも、自分は血を連想させる物に弱い体質であるらしい。
いや、正確には血に弱い体質になってしまった、というべきかもしれない。
八年前、遠野志貴は死ぬような目にあったという。
それはものすごい大事故で、偶然いあわせた自分は胸に傷をおってしまい、何日か生死の境をさまよったとの事だ。
本来なら即死していてもおかしくない傷だったらしいのだけど、医師の対応がよかったのか奇跡的に命を取り留めたという。
当人である俺自身は、その時の傷があんまりにも重すぎてよく覚えてはいない。
八年前の、子供のころ。
俺は突然胸のまんなかをドン、と貫かれて、そのまま意識を失った。
あとはただ苦しくて寒いだけの記憶しかなくて、気がつけば病院のベッドで目を覚ましたんだっけ。
事故のことはよく覚えてないけれど、今でも胸にはその時の傷跡が残っている。
なんでもガラスの破片が体に突きささってしまったとかで、胸の真ん中と背中には火傷の跡のような傷がある。
……ほんと、自分でもよく助かったもんだと呆れてしまう。
以来、俺は頻繁に貧血に似た眩暈をおこしては倒れこんでしまって、まわりに迷惑をかけまくってしまった。
……父親が遠野家の跡取りとして不適合だ、と自分を分家筋の家に預けたのはそれが理由なのかもしれない。
「……胸の、傷、か」
制服に隠れて見えない、胸の真ん中にある大きな傷跡。
考えてみれば、あの事故の後に自分はあの『線』が見えてしまう体質になってしまった。
今では先生がくれたメガネのおかげで忘れてしまえるけれど、先生と出会えなかったらとうの昔に、この頭はイカレてしまっていたと思う。
啓子さん―――今まで母親だった人は、別れ際に遠野の屋敷はマトモじゃないと言っていた。
「……なんてことはないよな。俺のほうこそマトモじゃないんだから」
ズレかけたメガネを直して、鞄を手に取る。
いつまでも教室に残っているわけにもいかない。
さて――いいかげん覚悟をきめて、屋敷に帰ることにしよう。
いつもとは違う帰り道を歩く。
見知らぬ道を通り抜けて、段々と遠野の屋敷へ近付いていく。
まわりの風景は、知らない風景ではなかった。
少なくとも自分は八年前───九歳まで遠野の屋敷で暮らしていたから、屋敷へ帰る道は初めてというわけでもないのだ。
……少しだけ気持ちは複雑だ。
この帰り道は懐かしくて、新鮮でもある。
さっきまで遠野の家に戻るのは気が進まなかったっていうのに、今はそれほどイヤでもなくなっている。
……遠野志貴が九歳まで暮らしていた家。
そこにあるのは日本じゃ場違いな洋館で、今は妹の秋葉が残っているという話だ。
俺を嫌っていた父親───遠野家の当主である遠野槙久は、先日他界したという。
母親は秋葉が生まれた時に病死してしまっていたから、遠野の人間は自分と、妹である秋葉の二人きりになってしまった。
本来なら長男である自分───遠野志貴が遠野家の跡取りになるのだろうけれど、自分にはそんな権利はない。
遠野家の跡取りになる、という事はがんじがらめの教育を受けるという事だ。
それがイヤで自由に暮らしていて、父親から何度小言を言われたかわからない。
そんな折、俺は事故に巻き込まれて病弱な体になってしまい、父親はこれ幸いにと俺を切り捨てた。 父親曰く『たとえ長男であろうと、いつ死ぬかわからない者を後継者にはできん』とかなんとか。
あいにく父親の予想を裏切って回復してしまったけれど、その頃には遠野家の跡取りは妹の秋葉に決められていた。
それまで遠野の娘に相応しいように、と厳格に育てられていた秋葉は、それからよけい厳しく育てられたらしい。
昔───事故に巻き込まれるまでは一緒に屋敷の庭で遊んだ秋葉とは、あれからまったく会っていない。
有間の家に預けられた当初、秋葉は何度か訪ねにきてくれたらしい。
あいにくとこっちは病院通いの毎日で会う事もできず、秋葉が全寮制のお嬢様学校に進学してからはまったく連絡をとっていなかった。
自分は秋葉とは違い、本家から外れた人間だ。
だからこうして自由気ままな生活を送れている。高校もあくまで平均的な進学校で、ここ八年ばかり妹との接点は皆無といってよかった。
父親が死んで、俺は屋敷に戻ってこいと連絡を受けた。
はっきりいって、いまさら遠野の家に戻るつもりなんて全然なかったんだ。
ただ、遠野の屋敷には秋葉がいる。
[#挿絵(img/秋葉 11.jpg)入る]
―――子供の頃。
秋葉は大人しくて、いつも何かを我慢しているように怯えていて、トコトコと足音をたてて俺の後についてきた。
長い黒髪と豪華な洋服のせいか、秋葉は本当にフランス人形のように儚げな少女だったっけ。
あの広い館で父親をなくして一人きりの秋葉が心配だったし、なにより────全ての責任をあいつに押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目もある。
今回の話を了承して屋敷に戻る事にしたのは、そんな秋葉に対する謝罪の意味もあったのかもしれない。
遠野の屋敷は不必要なまでに大きい。
鉄柵で囲まれた敷地の広さは異常とさえいっていい。なにしろ小学校ぐらいならグラウンドごと中に入ってしまうぐらいなんだから。
木々に囲まれた庭は、すでに庭というより森に近い。その森の中心に洋館があり、離れにはまだいくつかの屋敷がある。
子供のころは何も感じなかったけれど、八年間ほど一般家庭で暮らしてきた自分にとって、この大きさはすでに犯罪じみている。
門に鍵はかかっていない。
力任せに押しあけて、屋敷の玄関へと向かっていった。
屋敷の玄関は重苦しくそびえ、訪れる者を威圧している。
鉄でできた両開きの扉の横には、不釣り合いな呼び鈴があった。
「…………よし」
緊張を振り払って呼び鈴を押す。
ぴんぽーん、なんていう親しみのある音はしない。
重苦しい静寂が続くこと数秒。
扉の奥でぱたぱた、という慌ただしい人の気配がした。
「お待ちしておりました」
がちゃり、と扉が開く。
開いた先にあるのは見覚えのあるロビーと、割烹着を着た少女の姿だった。
「よかった。あんまりに遅いから迷っているのかなって心配しちゃってたんですよ。日が落ちてもいらっしゃらなかったらお迎えに行こうかなって思ってたんですから」
割烹着なんていうアナクロなものを着込んだ少女はにこにこと笑っている。
「あ、いや───それは、その」
こちらはというと、少女のあまりに時代錯誤なカッコウに面食らってしまって、まともな言葉が口にできない。
おどおどとしたこっちの口調を不審に思ったのか、少女はかすかに首をかしげた。
「志貴さま、ですよね?」
「え───ああ。さまっていうのは、その、余計だけど」
「ですよね? もう、脅かさないでくださいっ。わたし、また間違えちゃったかなって恐くなったじゃないですか」
少女はめっ、と母親が子供をしかるような仕草をした。
だっていうのに顔は微笑んでいて、少女はともかく暖かい雰囲気を崩さない。
……着物に割烹着。
客を出迎えにきて、俺なんかのことを『さま』づけで呼ぶ。
ということは、この子は────
「えっと、その───君、もしかしてここのお手伝いさん?」
こちらの質問に少女は微笑みだけで答えた。
「さ、お疲れでしょう? 遠慮せずにあがってくださいな。居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから」
少女はさっさとロビーを横切って居間へと歩いていく。
と、思い出したようにくるりと振り返ると、満面の笑みをうかべてお辞儀をした。
「お帰りなさい志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
少女の挨拶は、本当に華のような笑顔だった。
それに何ひとつ気のきいた言葉も返せず、おずおずと彼女の後についていった。
少女に案内されて居間へ移動する。
───居間は、初めて見るような気がした。
八年前の事で覚えていないのか、それともあれから内装を変えでもしたのか。
とにかく他人の家のようで落ち着かない。
きょろきょろと居間の様子を見回していると、割烹着のお手伝いさんがペコリと頭をさげていた。
「志貴さまをお連れしました」
「ごくろうさま。厨房に戻っていいわよ、琥珀」
「はい」
お手伝いさんはコハク、という名前らしい。
琥珀さんはそれでは、とこっちにも小さくおじぎをして居間から出ていく。
残されたのは自分と───見覚えのない、二人の少女だけだった。
「お久しぶりですね、兄さん」
長い黒髪の少女は凛とした眼差しのまま、そんな言葉を口にした。
……はっきりいって、思考は完っ全に停止してしまっている。
真っ白な頭はろくに挨拶もできず、ああ、とうなずく事しかできない。
……だって、そりゃあ仕方ないと思う。
八年ぶりに見た秋葉は、こちらの記憶にある秋葉ではなく、まるっきり良家のお嬢様と化していたんだから。
「兄さん?」
黒髪の少女はかすかに首をかしげる。
「あ────いや」
情けないことに間の抜けた言葉しか言えない。
こっちは目前の少女を秋葉と認識するために頭脳をフル回転させてるっていうのに、秋葉のほうはとっくに俺を兄と認識出来てしまっているようだ。
「なにか気分が悪そうですね。お話の前にお休みになりますか?」
秋葉はじろりとした視線を向けてくる。
……なんだか、すごく不機嫌そうに見えるのは気のせいなんだろうか。
「……いや、別に気分は悪くない。ただその、秋葉があんまりにも変わってたんで、びっくりしただけなんだ」
「八年も経てば変わります。ただでさえ私たちは成長期だったんですから。
――――それともいつまでも以前のままだと思っていたんですか、兄さんは」
……なんだろう。秋葉の言葉は、なんとなく棘があるような気がする。
「いや、それにしたって秋葉は変わったよ。昔より格段に美人になった」
お世辞ではなく素直に感想をもらす。
────と。
「ええ。ですが、兄さんは以前とあまり変わりませんね」
なんて、瞳を閉じたまま秋葉は冷たく言い切った。
「………………」
……まあ、それなりに覚悟はしていたけど。
やはり秋葉は俺の事をよく思っていてはくれなかったみたいだ。
「体調がいいなら話をすませましょうか。兄さん、詳しい事情は聞いてないんでしょう?」
「詳しい事情もなにも、突然屋敷に帰ってこいって事だけしか聞いてない。親父が亡くなったっていうのは新聞で知ったけど」
……一企業のトップに立っていた人物が亡くなれば、それぐらい経済新聞で取りあげられる。
遠野槙久の訃報は、彼の葬式が終わった後に新聞づてで息子である遠野志貴に届けられた。
親戚から報せなんてなくても、勘当された息子は一部百円のペーパーで親の死亡を知ることができた。
皮肉な話だけれど、本当に便利な世の中になったもんだ。
「……申し訳ありません。お父さまの事を兄さんに報せなかったのはこちらの失策でした」
秋葉は静かに頭をさげる。
「いいよ。どのみち俺が行ったって死人が生き返るわけでもないし。秋葉が気にする事じゃない」
「……ごめんなさい。そういってもらえると少しは気が楽になるわ」
秋葉は深刻な顔をするけど、そんなのは本当にどうでもいい話だった。
葬式というものは故人に対して感情を断ち切れない人達が、その感情を断ち切るために行う儀式だ。とうの昔に感情を断ってきた自分とあの父親の場合、葬式の必要はないと思う。
「兄さんをこちらに呼び戻したのは私の意向です。いつまでも遠野の長男が有間の家に預けられているのはおかしいでしょう?
お父さまが亡くなられた以上、遠野の血筋は私と兄さんだけです。お父さまがどのようなお考えで兄さんを有間の家に預けたかは分かりませんが、そのお父さまもすでに他界なさった身。
ですからこれ以上兄さんが有間の家に預けられる必要はなくなったので、こちらに戻ってもらう事にしたんです」
「……まあいいけど、そんなんでよく親戚の連中が納得したな。俺を有間の家に預けろって言い出したの、たしか親戚の人たちじゃなかったっけ?」
「そうですね。けれど今の遠野の当主は私です。親戚の方達の進言はすべて却下しました。
兄さんにはこれからここで暮らしてもらいたいのですけど、ここにはここの規律があります。今までのような無作法はさけていただきますから、そのつもりで」
「はは、そりゃあ無理だよ秋葉。いまさら俺がお行儀いい人間に戻れるわけないし、戻ろうって気もないんだから」
「できる範囲でけっこうですから努力してください。それとも───私にできた事が兄さんにはできない、とおっしゃるんですか?」
じろり、と秋葉は冷たい視線を向けてくる。
なんだか無言で、八年間もここに置き去りにしてきた恨みをぶつけられている気がする。
「……オーケー、わかった。なんとか努力はしてみる」
秋葉はじーっ、と信用できなさそうに睨んでくる。
「努力する必要はありません。結果を出していただければそれで結構です」
凛、とした姿勢のまま、秋葉は容赦のない言葉を繰り出してくる。
「話を戻しますね。
現在、遠野の家には兄さんと私しか住んでいません。わずらわしいのはイヤなので人払いをしたんです」
「え? ちょっと待てよ秋葉、人払いっておまえ───」
「兄さんだって親戚の人達と屋敷の中で会うのはイヤでしょう? 使用人も大部分に暇をだしましたけど、私と兄さん付きの者は残してありますから問題はありません」
「いや、問題ないって秋葉。そんな勝手な事しちゃ親戚会議でたたかれるじゃないか!」
「もう、つべこべ言わないでください。兄さんだって屋敷の中に人が溢れかえっているより、私たちしかいないほうが気分は楽でしょう?」
……う。
まあ、それは本当に気が楽になるんだけど。
「だけど当主になったばかりの秋葉が、その、そんな暴君みたいなワガママを通したら親戚の連中が黙っていないんじゃないか? 親父だって親戚の意見には逆らわなかったじゃないか」
「そうですね。だからお父さまは兄さんを有間の家に預けたんです。けど私、子供の頃からあの人達が大っ嫌いでしたから。これ以上あの方達の小言を聞くのは御免です」
「ゴメンですって、秋葉───」
「ああもう、いいから私の心配なんかしなくていいの! 兄さんはこれからのご自分の生活を気に病んでください。色々大変になるって目に見えてるんだから」
秋葉は少しだけ俺から視線をそらして、不機嫌そうにそう言った。
「それじゃあ、これからは分からない事があったらこの子にいいつけて。────翡翠」
秋葉は傍らに立っていた少女にめくばせする。
ひすい、と呼ばれた少女は無表情のままペコリとお辞儀をした。
「この子は翡翠。これから兄さん付きの侍女にしますけど、よろしいですね?」
────────え?
「ちょっ、侍女って、つまり、その」
「分かりやすくいうと召使い、という事です」
秋葉は当たり前のように、きっぱりと言い切った。
……信じられない。
洋館に相応しく、メイド服を着込んだ少女は秋葉同様、そうしているのが当然のように立っていた。
「───ちょっと待ってくれ。子供じゃあるまいし侍女なんて必要ないよ。自分のことぐらい自分で面倒みれるから」
「食事の支度や着物の洗濯も、ですか?」
うっ。
秋葉の指摘は、カナリ鋭い。
「ともかくこの屋敷に戻ってこられた以上は私の指示に従ってもらいます。有間の家ではどう暮らしていたかは知りませんが、これから兄さんは遠野の家で暮らすんです。それ相応の待遇は当然と受け入れてください」
「う………」
言葉もなく、翡翠に視線を泳がす。
翡翠はやはり無表情で、ただ人形のようにこちらを見つめ返してくるだけだった。
「それじゃ翡翠、兄さんを部屋に案内してあげて」
「はい、お嬢さま」
翡翠は影のような気配のなさでこっちへ歩いてくる。
「それではお部屋にご案内します、志貴さま」
翡翠はロビーへ向かう。
「……はあ」
ため息をつきながら、こっちもロビーへ歩きだした。
ロビーに出た。
この洋館はロビーを中心にして東館と西館に分かれている。
ロビーが鳥の胴体、東と西の館が鳥の翼のように斜めに伸びていて、片翼───つまり一方の館の大きさは小さな病院なみだ。
作りは左右対称で、東館も西館も同じ間取りをしていたと記憶している。
「志貴さまのお部屋はこちらです」
翡翠は階段をあがっていく。
どうやら遠野志貴の部屋は二階にあるみたいだ。
……そういえば、使用人の部屋は一階の西館にあったはずだから、翡翠と琥珀さんの部屋は一階にあるのだろう。
外はすでに日が落ちている。
ぼんやりと電灯の点った長い廊下を、メイド服の女の子が無言で歩いている。
「……なんか、おとぎの国みたいだ」
思わずそんな感想を洩らす。
「志貴さま、何かおっしゃられましたか?」
立ち止まって振りかえる翡翠。
「いや、ただの独り言だから気にしないでくれ」
「……………」
翡翠はじっとこちらを見つめたあと、それでは、と一礼して歩き出した。
「………………」
言葉を失う、というのはこういうコトだろうか。
翡翠に案内された部屋は、とても一介の高校生が住む部屋の作りをしていなかった。
「……俺の部屋って、ここ?」
「はい。ご不満がおありでしたら違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その――」
ちょっと、いやかなり立派すぎるかなって。
「志貴さま?」
「―――いいんだ、なんでもない。喜んでこの部屋を使わせてもらうよ」
「はい。お部屋は八年前から手を加えていませんので、不具合はないと思います」
「―――?」
翡翠の言い方は、ちょっとヘンだ。
それじゃあまるで、ここが俺の部屋だったみたいな言い方じゃないか。
「……ねえ。ここって、もしかして俺の部屋だったの?」
「そう伺っておりますが、違うのですか?」
翡翠はかすかに首をかしげる。
……安心した。
この娘にも、それなりに感情表現というものがあるみたいだ。
「……まあ、言われてみればそうかもしれない。少しは覚えがあるし、きっとそうだったんだろう」
親近感はまったく湧かないけど、八年間も離れていればそんなものなのかもしれない。
「けど、やっぱり落ち着かないな。今朝まで六畳半の部屋で暮らしてたからさ、なんだか高級ホテルに泊まりに来たみたいだ」
「お気持ちはわかりますが、どうかお慣れください。志貴さまは今日から遠野家のご長男なのですから」
「そうだね。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ」
トン、と机に鞄を置いて背筋を伸ばす。
―――色々と神経がまいりそうだけど、たしかに今日から慣れていくしかないだろう。
「志貴さまのお荷物はすべて運び込みましたが、何か足りないものはありますか?」
「―――いや、別にないけど。どうしてそんな事を聞くの?」
「……いえ、荷物が少なすぎるようですから。必要なものがおありでしたら用意いたしますから、どうかお聞かせください」
「……そっか。いや、とりあえず足りないものなんてないよ。もともと荷物は少ないんだ。自分の荷物っていったら、その鞄とこのメガネと……」
鞄の中に入っている教科書とか、誰のものとも知らない白いリボンとか、それだけだ。
「ともかく、荷物のことは気にしないでいい。こんな立派な部屋だけで十分だよ、俺は」
「……かしこまりました。では、一時間後にお呼びにまいります」
「一時間後って、もしかして夕食?」
「はい。それまで、どうぞおくつろぎください」
翡翠はやっぱり無表情で言ってくる。
……しかし。おくつろぎくださいって言われても、ここでどうおくろつぎすればいいんだろう?
時計は夕方の六時をまわったあたり。
いつもなら居間にいってテレビでも見てる時間だけど、この屋敷にそんなものがあるかどうか真剣に疑わしい。
「翡翠、つまらない事を聞くけどさ。この屋敷にテレビってあるの?」
「テレビ……ですか?」
翡翠はかすかに目を細める。
……なんていうか、自分で言っておいてなんだけど、ひどく頭が痛くなる質問だ。
これだけ贅沢な洋館において、テレビがあるかないかを訊ねるなんてどこか間違ってる気がする。
翡翠はめずらしく困ったような顔をして、視線を宙に泳がした。
「……居間にはありません。ご逗留の方々はご使用になってらっしゃいましたが、出立される時に荷物はすべてお持ち帰りいただきましたので残ってはいないと思います」
「ちょっと待った。逗留って、誰がどのくらいしてたんだ?」
「分家筋である久我峰さまのご長男のご家族、刀崎さまのご三女とその婚約者、軋間さまのご長男がご逗留なさっていました。期間は三年ほどです」
「……三年、か。翡翠、そういうのって逗留っていうんじゃなくて居候って言うんじゃない?」
翡翠は答えない。
居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
まあ、ともかく逗留していた親戚筋の連中は自分たちの荷物を持ちかえらされたという事らしい。
となると、あの現代的な文化ってモノを俗物的と毛嫌いしていた父親がテレビなんて観るはずもない。
父親のもとで八年間も躾けられた秋葉も同じだろう。
「───ま、ないからって別に死ぬわけでもないか」
翡翠は黙っている。
……使用人の鑑というか、翡翠は聞かれた事以外は何も喋らない。
当然、こっちとしては気が滅入る。
なんとかしてこの無表情な顔を笑わせてみたいと思うのだけど、どうも生半可な努力では不可能そうではある。
「いいや、たしか一階の西館のほうに書庫があったよね。暇なときはそこから何かみつくろう事にするよ」
翡翠は答えない。
ただ部屋の入り口に突っ立ったまま、どこを見ているんだかわからない眼差しをしている。
「───翡翠?」
翡翠はうんとも言わない。
と、突然まっすぐにこちらを見据えてきた。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は?」
いやもう、ワケがわからない。
「……えーっと。あるって、何が」
「ですからテレビです。以前、姉さんの部屋で見かけた記憶がありますから」
翡翠はまるで数年前の出来事を思い出すように言った。
「ちょっと待って。姉さんって、もしかして琥珀さんのこと?」
「はい。現在、このお屋敷で働かせていただいている者はわたしと姉さんの二人きりです」
……言われてみればよく似てる。琥珀さんがニコニコしていて、翡翠が無表情だからなんとなく姉妹だって結びつかなかった。
「そっか。琥珀さんならたしかにバラエティー番組を観てそうなキャラクターだ」
しかし、かといって『テレビ観せてくれい』と琥珀さんの部屋に遊びに行くのも気がひける。
「ごめん、この話はなかった事にしてくれ。これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
それにテレビなんてものを観ていたら、秋葉にどんな皮肉を言われるかわかったもんじゃない。
ここは遠野家の人間に相応しい、勤勉な学生になりきろう。
「それじゃ夕食まで部屋にいるから、時間になったら呼びにきてくれ。翡翠だって他にやる事あるだろ?」
翡翠ははい、とうなずいて背中を向ける。
きい、と静かにドアが開かれて、翡翠は部屋から退室していった。
◇◇◇
夕食は秋葉と顔を合わせてのものだった。
当然といえば当然の話なのだけど、翡翠と琥珀さんは俺たちの背後に立って世話をするだけで、一緒に夕食を食べる事はなかった。
……自分としては四人で食べるのが当たり前と思っていたので、この、なんともいえない緊張感がある夕食はまさに不意打ちだったといっていい。
言っておくと、遠野志貴は完っっ全にテーブルマナーなんてものは忘れていた。
いや、いちおう断片的には覚えていたから素人というわけではなかったけど、人間というものは使用しない記憶は徹底的に脳内の隅においやってしまう。
こっちの一挙一動のたびに向かい側に座った秋葉の眉がつりあがっていく様は、なかなかに緊張感があってスリリングだった。
……正直、これが毎日繰り返されるかと思うと、本当に気が重い。
夕食を終えて、自室に戻ってきた。
時刻はまだ夜の八時過ぎ。
眠るには早すぎるし、どうしようか。
居間に行って秋葉と話をしよう。
居間にやってくると、そこには秋葉が一人でくつろいでいた。
琥珀さんと翡翠の姿はない。
テーブルにはティーカップが二つあって、一つは秋葉が使っている。
「あら、兄さんも食後のお茶ですか?」
「いや――そうゆうんじゃなくて、たんに秋葉と話がしたいなって思ったんだけど」
邪魔なら戻るよ、と視線で意思表示をする。
「それでしたら立っていないで座ってください。飲み物は紅茶でよろしいですか?」
「……ああ、おいしいものならなんでも」
ホントは日本茶がいいんだけど、そんな我が侭はとりあえず黙っておく。
秋葉はティーポットをもって、もう一つのティーカップに透き通る紅色の紅茶をそそいでくれた。
「それじゃ、いただきます」
ソファーに座って、ティーカップを口に運ぶ。
……目の前には凛と姿勢を正した秋葉がいて、ちょっと戸惑ってしまう。
秋葉に会いに来たのはいいけど、こうして面と向かうと何を話していいものかわからない。
「兄さん? どうしました、黙ってしまって。私に話しがあるんじゃないんですか?」
じっ、と見つめてくる秋葉。
その姿は妹というより見知らぬお嬢さまといった感じで、気軽に話しかけられる雰囲気じゃない。
「えっと……秋葉はこの八年間、なにをしていたのかなって、思ってる」
「そんな事は言うまでもないでしょう。兄さんがいなくなった分、お父様の目が私一人に絞られただけの話です」
キッ、といかにも文句を言いたそうな目でこっちを見る秋葉。
……やっぱりこの八年間の事を尋ねるのはタブーになってしまっているみたいだ。
「そういう兄さんこそ、この八年間はどうだったんですか。私、何度か手紙を送ったはずですけど、返事は一つもきませんでしたね」
「………う」
思わず息がつまる。
たしかに秋葉からの手紙は何通か届けられた。
けど返事らしい返事を出したは一度もない。
筆不精という事もあったけど、やっぱり心の底で遠野の屋敷と縁を切りたくて、秋葉への返信を送ることがためらわれたせいだ。
「まあ、手紙のことはいいです。兄さんが返信をしても、お父様のところで止められていただけでしょうから。
それより八年ぶりに屋敷に帰ってきた感想はどうです? 少し前に老朽化のために改装をしましたけど、大きくは変わっていないでしょう?」
「―――――」
秋葉はそう言うけど、こっちとしてはまるっきり見知らぬ屋敷だ。
八年前っていえば、俺はまだ小学生だった。
屋敷のことはおぼろげに覚えてはいたものの、こうして中に入ってみると他人の家のようでひどく落ち着かない。
「兄さん?」
「あ―――いや、ちょっと考えごとをしてた。
その、さ。秋葉は変わってないっていうけど、俺にとってみるとこの屋敷はやっぱり落ち着かないよ。この居間とかロビーは見覚えがあるんだけど、廊下とか部屋とかはいまいち思い出せない」
「……そうですか。八年間は、長いですからね」
まあ、そういうことだろう。
なにしろ今までの人生の約半分だ。鮮明に覚えているほうがどうかしてる。
「ま、八年ぶりだからな。なんかしっくりこないけど、そのうち馴れると思う。そんなわけなんで、しばらくは無作法も大目に見てくれるとありがたい」
「馬鹿言わないでください。これ以上兄さんの無作法を大目に見れるほど、私の瞳孔は開いてくれません」
「ぶっ………!」
うっ……危ない危ない、思わず飲んでいた紅茶を吐き出しそうになってしまった。
さっきの夕食、ナイフを持つ順番が違っただけで秋葉の矢のような視線が向けられて冷や汗をかいたんだけど。
「……そっか。あれでも大目に見ててくれたのか、秋葉は」
「ええ、できるかぎりの譲歩はしてるんです。兄さんはあれから有間のおばさまに育てられましたから。
おばさまは分家筋の中でもとびきりの放任主義ですから、兄さんがどれほど甘やかされて育ったかはさっきの夕食で思い知りました」
「仕方ないだろ。俺だっておばさんだって、まさかこっちに戻ってくる事になるなんて思ってなかったんだから」
「……そうですか。なんだか戻ってきたくなかったような口振りをするんですね、兄さんは」
「ばか、そんなわけないだろ。そりゃあ俺だって迷ったけど、ここには秋葉が一人きりしかいないじゃないか。兄貴として、そんなのはほっとけないだろ」
そう、俺が戻ってきたのはそれが第一の理由なんだ。
秋葉がいなかったら、いまさらこんな屋敷に誰が戻ってくるもんか───
「八年間も音信不通だったから今更だとは思うんだけど、これでも秋葉が一人でも大丈夫なのかずっと気になってた。
俺が屋敷に戻ろうって思ったのは、秋葉のことが心配だったからだよ」
わずかに秋葉から視線をそらして、正直に自分の気持ちを言葉にする。
「あ───うん、その……ありが」
「けどそんなのは杞憂だったな。この八年間で秋葉はものすっごく頑丈に育ったみたいだ。安心できたけど、その分ちょっとは落胆したかな」
いや、ちょっとなんて生易しいものじゃない。
子供のころの大人しい秋葉のイメージしかなかった分、今の凛とした秋葉はまるで別人みたいでどきまぎしてしまうぐらいだ。
「───そうですか。兄さんの期待に応えられない、不出来な妹でもうしわけありません」
秋葉の目がこわい。
……まずい、また余計なことを言ってしまったみたいだ。
「それで兄さん。有間の家での生活はどうだったんですか?」
こわい顔のまま秋葉は話しかけてくる。
……なんていうか、妹と話しているだけだっていうのに、すごい緊張感だ。
「兄さん。私の話、聞いていますか?」
「聞いてるよ。有間の家での生活だろ? いたって普通、とりわけ問題はなかったよ。俺としてはこっちの生活より有間の家での生活のほうが性にあってたみたいだし」
「そうじゃなくて、体のほうはどうだったの?
慢性的な貧血でいつも倒れていたって聞いてましたけど」
「ああ、たしかに退院してからの一年はしょっちゅう倒れてたけど、今はもう大丈夫だよ。
……そりゃあ今でもときおり貧血は起こすけど、まあ月に一度ぐらいだし。おまえに心配してもらうほどやわな体してないさ」
トン、と傷口のある胸をたたいて強がってみせる。
秋葉はそう、と真剣な顔でうなずいた。
「けど兄さん、前は眼鏡なんてかけてませんでしたよね? その、入院してから視力でも落ちてしまったんですか?」
「――――――」
……そうか。秋葉は俺がメガネをした事も、している理由もしらないんだ。
けど物の壊れやすい『線』が見えるとか、このメガネがそれを見えなくしているとか、とてもじゃないけど説明できない。
「……いや、ちょっとね。事故の後遺症ってヤツで少しだけ眼がおかしくなったんだ。けど視力が落ちたってわけじゃないから、そう大した問題じゃない」
「───そうですか。その、さっき会った時は驚いたわ。兄さんが眼鏡をしてるなんて知らなかったから」
「そうか? そのわりにはすっごく冷静だったじゃないか、秋葉は」
「――当たり前です。八年ぶりに兄さんと再会する時に、無様なところなんて見せられないじゃないですか」
ふん、と秋葉は不機嫌そうに眉をよせる。
「秋葉さま、入浴の支度ができましたけど、どうしましょうか?」
「そう? ごくろうさま琥珀。すぐに行くから先にいっていて」
「あれ、いいんですか? せっかく志貴さまとくつろいでるんじゃないですか。志貴さまは逃げますけど、お風呂は逃げませんよ。もう少しごゆっくりしてくださいな」
「いいんです。別段たいした話をしてませんでしたから」
秋葉はスッと立ち上がると、琥珀さんを追い越してたったかとロビーへと向かっていった。
琥珀さんはしずしずと秋葉の後を追っていく。
一人居間に残されて、ぼんやりと残された紅茶を飲み干してみる。
秋葉と琥珀さんは浴場に向かったみたいだし、こっちも部屋に戻るとしようか。
「───って、待て。もしかして秋葉のヤツ、琥珀さんと一緒に風呂に入るつもりなのか……?」
いや、つもりもなにも間違いなく一緒だろう。
そうなると琥珀さんに背中を流してもらうんだろうか。
いや、そりゃあ女同士だから問題なんてないんだろうけど、その……。
「───まあ、別に何を想像するかは兄さんの自由ですけど」
「────!」
す、すごいタイミングで、秋葉が戻ってきた。
「間違っても翡翠につまらない事を強制しないでくださいね。あの子は琥珀と違って冗談が通じないんですから」
秋葉はこっちのよこしまな考えを見透かすように非難の眼差しを向けてくる。
……にしても驚いた。
もしかして盗聴器でも仕掛けてあるのか、この屋敷。
「───って、なんで戻ってきたんだおまえ。琥珀さんと風呂に入るんじゃなかったのか」
「一つ、浴場について言い忘れていたんです。あのね、兄さん。昔使っていた大浴場は使っていないんです。琥珀と翡翠だけでは管理が大変なので、とりあえず封鎖しておきました」
「……大浴場?」
って、なんだっけそれ?
「……むむむ?」
思い出せない、と首をかしげる。
秋葉はあきれたふうに眉をよせた。
「中庭に露天式の浴場があったでしょう? そんなことも覚えてないんですか、兄さんは」
……まあ、言われてみればあったようななかったような。
「―――にしても、ここ洋館だろ? 旅館じゃあるまいし、なんだってそんな場違いなモンがあるんだよ」
「お父様は半端に和風びいきでしたから。離れの屋敷が和風なのもその影響でしょう」
「そういうわけですから、湯浴みをするのでしたらご自分の浴場をお使いください。ロビーの裏手にある第二浴場が兄さんのものですから」
では、と秋葉は立ち去っていった。
「…………さて」
秋葉もいなくなったし、居間に残っていても仕方がない。
こっちも風呂に入って、部屋に戻ることにしよう。
「あ―――――」
部屋に戻ってくると、ベッドメイクが済んでいた。……俺が留守の間に翡翠が済ませてくれたのだろう。
「嬉しいんだけど、なんか身に余るよな、こういうのって」
ぽりぽりと頬を掻く。
――――――――と。
「志貴さま、いらっしゃいますか?」
ノックと一緒に翡翠の声が聞こえてくる。
「いるよ。どうぞ、中にはいって」
「はい、それでは失礼します」
「こんばんは。ありがとう翡翠、ベッドメイクしておいてくれたんだろ」
はい、と静かにうなずく翡翠。
「…………う」
やっぱり、自分にはこういうのは似合わない。
「……えっと、何かな。他に伝言でもある?」
「いいえ、わたしからは何も。ですが秋葉さまから、もし志貴さまから何かあるようでしたらお答えするように、と」
「……そっか。 確かに聞きたい事だらけだけど、そんなのは暮らしていくうちに覚えていくもんだしな……」
うん。今すぐ、寝る前に知っておきたい事っていったら、それは――
「それじゃ聞くけど、ここの門限が七時っていうのは本当?」
「はい。
正確には七時に正門を施錠して、八時に屋敷の出入り口をすべて施錠いたします。
午後十時を過ぎたあとは屋敷内の移動も控えていただくのが規則です」
「屋敷の中も出歩くなっていうのか? ……まあ文句はないけど、それって厳しすぎないか? 俺も秋葉も子供じゃないんだから、そこまでしなくてもいいと思うけど」
「……はい。ですが志貴さま、規則ですからこればかりはお守りください。近頃の夜は物騒だと志貴さまもご存知ではないのですか?」
……ああ、有彦がいっていた例の吸血鬼騒ぎか。
たしかにこの街で連続殺人が起きている以上、用心にこした事はないんだろう。
「あとは……そうだな、あまり関係ない話なんだけど、いいかい?」
「はい、なんでしょう」
「翡翠と琥珀さんがここでどんな仕事をしてるのか知りたいんだけど、どうかな」
「わたしが志貴さま付きで、姉の琥珀は秋葉お嬢さまのお世話をさせていただいています。
お二人が留守の間は屋敷の管理を任されていますが、それがなにか?」
「……お世話って、やっぱりそういうコトか」
がっくりと肩が重くなる。
秋葉は当然のように言っていたけど、こっちはあくまで普通の高校生だ。
同い年ぐらいの女の子に世話をしてもらうなんて趣味は、今のところありはしない。
「……志貴さま付きって事は、俺専用の使用人ってこと?」
「はい。なんなりと申し付けてください」
「……まあ、それはわかったよ。秋葉のあの言いぶりじゃ君を解雇させてくれそうにないし、大人しく世話してもらうけど───」
「何か、特別なご要望でもあるのですか?」
「特別ってわけじゃない。ただ、その志貴さまっていうのを止めてくれないか。正直いって、聞いてると背筋が寒くなる」
「ですが、志貴さまはわたしの主人です」
「だからそれがイヤなんだって言ってるんだ。俺は昨日まで普通に生きてた身なんだ。いまさら同い年ぐらいの女の子に様づけで呼ばれる生活なんてまっぴらだよ」
はあ、と翡翠は気のない返事をする。
「俺の事は志貴でいい。そのかわりに俺も翡翠って呼び捨てにするからさ。それと堅苦しいのもなしにしよう。もっと気軽に、気楽に行こうよ」
翡翠は無表情ながらも眉を下げて、なんだか困っているような素振りをする。
「ですが、あなたはわたしの雇い主ですから」
「俺が雇ってるわけじゃないだろ。翡翠は俺にできない事をやってくれるんだから、そっちのほうが偉いんだぞ」
はあ、と翡翠はまたも気のない返事をする。
……どうも一朝一夕でこの子に言い含めるのは無理のようだ。
「―――ともかくそういう事だから、俺に対してあんまりかたっくるしいのはナシにしてくれ。お姉さんの琥珀さんにも伝えてくれるとありがたい」
「はい。志貴さまがそうおっしゃるなら」
翡翠は無表情で頭をさげる。
ものの見事に、全然わかってない。
「それでは失礼します。今夜はこのままお休みください」
翡翠は一礼してドアのノブに手をかける。
────と、一つ聞き忘れていた。
「あ、ちょっと待った」
ドアに走り寄って、立ち去ろうとする翡翠の肩に手を置いた。
瞬間────翡翠の腕が、物凄い勢いで俺の腕を払った。
バシ、と音をたてて手がはたかれて、翡翠は逃げるように後退する。
「え────」
あんまりに突然のことで、そんな言葉しかだせない。
翡翠は無表情のまま、けれどたしかに、仇を見るような激しさでこちらを睨んでいる────
「えっと―――俺、なにかわるいことしちゃったかな」
「あ……」
「……申し訳、ございません……」
緊張のまじった翡翠の声。
「……体を触れられるのには、慣れていないのです。どうか、お許しください」
翡翠の肩はかすかに震えている。
なんだか、ものすごく悪いことをしてしまったような気がする。
「あ───うん、ごめん」
思わず謝った。
自分でもよくわからない。ただ翡翠が可哀相に思えて、ペコリと頭をさげていた。
「──────」
翡翠は何も言わない。
ただ、心なし視線が穏やかなものになった気がする。
「───志貴さまが謝られる事はありません。非があるのはわたしのほうです」
「いや、まあそうみたいなんだけど、なんとなく」
ぽりぽりと頭をかく。
翡翠はじっと俺の顔を見つめてから、一瞬だけ目を伏せた。
「その……ご用件はなんでしょうか、志貴さま」
そうだった。
部屋を立ち去る翡翠を呼び止めたのは聞きたい事があったからだ。
「いや、秋葉はどうしてるのか気になってさ。あいつ、全寮制の学校に行ってたんじゃなかったっけ?」
「志貴さま、それは中学校までの話です。秋葉さまは今年から特例として自宅からの登校を許可されていらっしゃいます」
「……えっと、つまりこの家から学校に行ってるってコト?」
「はい。ですが、今日のように夕方に帰られる事は稀です。秋葉さまは夕食の時間まで習い事がありますから、お帰りになられるのは決まって七時前です」
「習い事って―――それ、なに?」
「今日は木曜日ですのでヴァイオリンの稽古でした」
「────え」
「平日は夕食前には戻られますから、秋葉さまにお話があるのでしたら夕食後に姉さんに申し付けてください」
では、と翡翠は頭をさげてから部屋を出ていった。
「ヴァイオリンの、稽古」
なんだろう、それは。
どこかのお嬢様じゃあるまいし、なんだってそんな面倒なことを――
「……って、どこかのお嬢様だったんだ、あいつ」
そう、そういえば遠野志貴の妹は遠野秋葉という、生粋のお嬢様だったっけ。
こっちの記憶の中じゃ秋葉は大人しくて、いつも不安げな瞳で俺のあとをついてくる一歳年下の妹だった。
子供の頃の秋葉は無口で、自分のやりたい事も口にだせないほど弱気で、いつも父親である遠野槙久に叱られないかっておどおどしていた線の細い女の子だったのに。
「───そうだよな。八年も経てば人間だってガラリと変わる」
自分が八年間で今の遠野志貴になったように、
秋葉もこの八年間で今の遠野秋葉になったんだろう。
―――八年間は、長い。
今までの人生の半分。
それも子供から大人になろうと成長しようとする一番大切な時期に、俺はこの屋敷にいなかった。
「……ごめんな、秋葉」
その八年間を一緒にいてやれたらどんなに良かったろう、と思えて。
知らず、そんな謝罪の言葉を呟いた。
ひとり残されて、ベッドに横になった。
八年ぶりの家。
八年ぶりの肉親。
なんだか、他人の家のように感じる自分。
「……はあ。これからどうなるんだろ、俺」
誰に聞かせるわけでもなくぼやいて、そのまま眠りへと落ちていった。
オーーーーーーーーーン。
―――波の音のように、何かの声が聞こえてくる。
オーーーーーーーーーン。
―――なにかの遠吠え。野犬にしては細く高い。
オーーーーーーーーーン。
―――鼓膜に響く。月にでも吠えているのか。
オーーーーーーーーーン。
―――厭なにおい。この獣の咆哮は、頭痛を招く。
オーーーーーーーーーン。
―――音はやまない。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン。
オーーーーーーーーーン――――――――
「……ああ、やかましいっ!」
目が覚めた。
窓の外からはワンワンと犬の鳴き声が聞こえてくる。
時計は夜の十一時になったばかり。
近所迷惑どころの話じゃない。
「くそ、こんなんじゃ眠れやしないじゃないか」
犬の遠吠えは屋敷の塀の近くから聞こえてくる。
……このままじゃ眠れそうにない。
こんなにうるさくては秋葉たちも眠れずに悩んでいるだろう。
屋敷にいる男手は自分だけだし、ここは様子を見にいくしかないと思う。
「……屋敷の右手のほう、かな」
カーテンを開けて、外の様子を確かめる。
――――と。
部屋の外の大きな木。
その枝に、一羽の青い鴉が止まっていた。
闇夜の中。
黒としか見えないのに、はっきりと鴉は蒼く見えた。
「………………」
青い鴉なんて、見たことも聞いた事もない。
ぎょろり。
意志のない、機械のレンズのような鴉の目が、こっちを睨んだ気がした。
くあう。
あくびのような鳴き声をあげたあと、鴉は羽音もたてずに飛び去っていった。
「……なんだ、今の」
……かすかに背筋が寒い。
犬の遠吠えはさらに大きくなっている。
オーーーーーーーン。
オーーーーーーーン。
オーーーーーーーン。
「……………」
なんだか、この音は癇に障る。
うるさいという以前に、聞いているだけで心臓がどくどくと活性化するような、生理的な嫌悪感だ。
「うる―――さい」
寝巻から制服に着替えて、部屋を後にした。
オーーーーーーーーン。
遠吠えは夜に響く。
音は、間違いなく屋敷の右手側のほうから聞こえてくる。
「………………」
なぜか喉が乾いている。
屋敷の周り、高い壁が延々と続く夜道。
喉をならしながら、犬たちが集まっている場所へ歩いていった。
鳴き声がしている場所にきた。
「……あれ?」
オーーーーーーーーーン。
鳴き声は依然としてやまない。
なのに、そこに犬の姿なんてなかった。
あるのは―――人影だけだ。
ぽつん、と闇をきりとったような街灯の明かりの下、黒いコートの男が立っている。
遠吠えは、男の側から聞こえている。
―――――だが、犬の姿などどこにもない。
コートの男はかなりの長身だ。
がっしりとした体格をした男は、こちらに背を向けて立ち尽くしている。
「――――――」
喉が、乾く。
オーーーーン、という犬の声が鼓膜に響く。
夜の空気が、じっとりと肌に絡み付く。
なにがどうというワケでもないのに。
海の底にいるみたいに、呼吸も身動きもひどく重苦しく感じられる――――
くわあ。
頭上から声がした。
ばさん、という羽音とともに、蒼い鴉が男の肩に降りてくる。
―――と。
鴉は、唐突にその姿を消してしまった。
「…………え?」
目の錯覚だろうか。
鴉は、黒いコートの中に消えたように見えた。
「―――――」
黒いコートが振りかえる。
[#挿絵(img/11.jpg)入る]
白い街灯の下、人影はまさしく影そのものだった。
黒い塊。
その中で、凶器みたいな理性をもった目だけが、爛々と輝いている――――
「…………あ」
呼吸ができない。
けれど、幸いに。
男の目は、こちらのことなどまるで見えていないようだった。
「ここでは、なかったか」
黒いコートが立ち去っていく。
人影が完全に見えなくなって、ようやくまともに呼吸ができるようになった。
「は――――はあ、あ」
ホッと息をつく。
気が付けば、犬の遠吠えは止んでいた。
部屋に戻ってきた。
秋葉たちは起きている気配がなく、あの犬の遠吠えに我慢できなかったのは自分だけだったらしい。
「―――――ぐ」
なんだろう。
まだ、頭が痛い。
「あれ……なんで震えてるんだろ、俺」
見れば指が震えている。
全身も小刻みにガタついていて、背筋がやけに冷たい。
例えるなら、そう。
脊髄をひきぬかれて、代わりに氷の柱を刺し込まれたみたい。
「―――――」
くらり、と眩暈がした。
……いつもの貧血だろうか。
意識が地面に落ちていく感覚。
その途中で、イヤなものを、見てしまった。
「なっ―――――」
メガネをしてるのに、あの『線』が視える。
「うっ………」
ここのところまったく視ていなかったせいか、反動が大きい。
気持ち悪い。
貧血の眩暈とあいまって、今にも胃の中のモノを吐き出してしまいそうだ。
「……どうなってんだよ、これ」
よく、わからない。
ただ、目を開けているかぎりあのラクガキが視界に飛び込んできてしまう。
―――悪い、夢だ。
なんとかベッドに倒れこむ。
……そう、眠ってしまえばいい。見えている物を否定するには、それが一番てっとり早い方法だ。
体も思うように動かない。
このまま、死体のように。
ベッドの上に倒れこんで、泥のように眠ってしまえばいいだけだ――――
[#改ページ]
●『2/反転衝動U』
● 2days/October 22(Fri.)
先生は言った。
この目が見てしまうモノは、物の壊れやすい個所なのだと。
それは人間でいうのなら急所、という事だろうか。
そこを刃物で通せば、何の力も要らずにモノを切断できてしまう線。
鉄みたいな硬いものでも、あの『線』は等しく切断できてしまう。
「つまりね、志貴。
あらゆるモノは“壊れてしまう”という運命を内包しているのよ。カタチがある以上、こればっかりは逃れようが無い条件だからね」
先生はそう言った。
子供のころ。
その意味がようやく理解できて、とても恐くなった記憶がある。
それはつまり、セカイはツギハギだらけでいつ壊れてもおかしくないという事だ。
地面にもラクガキが走っているのなら。
そこを歩いていたら、とうとつに地面が砕けてしまうという可能性があるというコト。
―――その意味に気がついた時、心底先生のくれたメガネに感謝した。
こんな線がいつも見えてしまっていたら、とてもじゃないけど生きていけない。
モノの壊れやすい個所。
そんなものが見えても、得になるコトなんて何ひとつないんだから―――――
◇◇◇
「―――おはようございます」
……聞き慣れない声がする。
「朝です。お目覚めの時間です、志貴さま」
……だから、志貴さまはやめてくれないか。
そう言われると背筋が寒くなるって、昨日ちゃんと言ったっていうのに────
―――目が覚めた。
翡翠はベッドから離れたところで、なにかの彫像のように立ち尽くしている。
「…………」
ここは、ドコだっけ。
「おはようございます、志貴さま」
メイド服の少女がおじぎをする。
「……ああ、そうだ。俺は、自分の家に戻ってきたんだっけ」
体を起こして部屋の様子を流し見る。
とたん―――
―――ズキリと、こめかみに痛みがはしった。
「あれ―――」
「眼鏡、でしょうか?」
翡翠は丁寧な動作でメガネを渡してくれた。
「――――ふう」
……一息つけた。
昨日の夜―――眠る前に、メガネをかけていたのに『線』が見えた気がしたけど、どうやら気のせいであってくれたらしい。
「つ……」
慣れない部屋で眠ったせいだろうか、意識は靄がかかっているように空ろだ。
「志貴さま……?」
翡翠が声をかけてくる。
ブンブンと頭をふって、寝ぼけたままの頭を覚醒させた。
「おはよう翡翠。わざわざ起こしてくれて、ありがとう」
「そのようなお言葉は必要ありません。志貴さまをお起こしするのはわたしの責務ですから」
翡翠は淡々と、まったくの無表情で返答する。
……ひいき目に見ても、翡翠はきれいな顔立ちをしていると思う。
そういう子に起こされるのは喜ぶべきことなんだろうけど、翡翠にこうも感情がないとあまり嬉しい、という感じはしない。
……もったいない。
翡翠も琥珀さんの半分ぐらい明るければ、ものすごく可愛いと思うんだけど。
「―――なにかご用ですか?」
こっちの視線に気づいたのか、翡翠はまっすぐに見つめ返してくる。
「いや、なんでもない。目が覚めてまっさきに翡翠の顔を見て、ここが遠野の屋敷なんだなって実感しただけだよ」
さて、とベッドから起きて、うーんと大きく両手を伸ばす。
と、そこで自分がキチンと寝巻に着替えている事に気がついた。
―――えーっと、たしか昨日は……
「ありゃ? 俺、昨日制服のまま眠ったと思うんだけど」
「はい。あのままではお体に悪いので、姉さんが志貴さまを着替えさせたあと、ベッドに寝かし付けたのです」
翡翠は当然のように事情を説明してくれた。
そっか、着替えさせてくれたのか。たしかにあのまま眠っていたら風邪をひいていたかもしれない。
さすがメイドさん、行き届いてるな―――って、ちょっと待った……!
「な─────っ」
ばっ、とズボンとパンツを確認する。
ズボンは真新しい寝巻で、パンツもまっさらな新品だった。
「なっ、なっ、なっ」
なんてコトをするんだ、と言いかけて、なんとか言葉を飲み込む。
とりあえず落ち着いて考えよう。
……えっと、まず悪いのは半分ぐらい自分自身だ。
それに着替えさせたのは翡翠じゃなくてお姉さんの琥珀さん。
なら翡翠に文句を言うのはお門違いじゃないか。
「────翡翠」
「はい、なんでしょう」
「これからは、そういう余計な事はしなくていい。どうしてもって時は起こしてくれないか。着替えぐらい自分でできるから、自分でやりたいんだ」
顔を真っ赤にしながら言うと、翡翠ははい、と素直にうなずいた。
「学校の制服はそちらにたたんであります。着替えが済みしだい居間においでください」
「………………」
くそ、なんて不覚。
昨夜、あのままベッドで眠ってしまった事も不注意なら、着替えさせられてる時に目を覚まさなかったのも無神経すぎる。
「ふつう気がつくもんだけど……よっぽど疲れてたのかな、俺」
自分自身にグチってみても、起きてしまった事は変わらない。いつまでもバカな独り言をしてないで、さっさと着替えて朝食にしよう。
学校の制服はきちんとたたまれていて、シャツにはアイロンまでかけられている。
袖に腕を通すと、なんだか新品みたいに気持ちがよかった。
「…………いや、別にハダカぐらいいいんだけどね、うん」
いいんだけど、あのニコニコ笑顔の琥珀さんに着替えさせられた、という事実はどうしようもなく気恥ずかしい。
おまけに鏡に映った自分の顔は赤くなっているくせに、何度か嬉しそうにニヤついたりする。
……大丈夫なのか、遠野志貴。
こんなんじゃここで暮らしていけるのか不安になってくるじゃないか、未熟者め。
居間には秋葉と琥珀さんがくつろいでいた。
秋葉の制服は浅上女学院、という有名なお嬢様学園の物だろう。
二人はとっくに朝食をすませたのか、優雅に紅茶なんぞを飲んでいた。
俺は―――二人に挨拶をする。
「二人とも、おはよう」
「おはようございます、志貴さん」
琥珀さんは白い割烹着に相応しい、これ以上ないっていうぐらいの笑顔で挨拶をかえしてくれた。
一方秋葉はというと、ちらりとこちらを一瞥するなり、
「おはようございます。朝はずいぶんとゆっくりなんですね、兄さん」
なんて最高に気の利いた嫌味をこぼしてくれる。
「ゆっくりって、まだ七時を過ぎたばっかりじゃないか。ここからうちの高校まで徒歩三十分ちょいなんだ、今日は早起きしたほうだよ」
「つまり朝食にかける時間は十分だけですか。おなかをすかせた犬じゃないんですから、朝食はゆっくりとってください」
「─────」
秋葉の言葉には、やっぱり棘がある。
「犬じゃないんですからって、秋葉―――」
と、思い出した。
犬っていえば、昨日の夜のことがあったのだ。
「なあ。昨日の夜のコトだけど、ここって毎晩あんななのか?」
「―――はい?」
こちらの質問に、秋葉は首をかしげて応える。
……どうも、こちらの質問の意図がまったく伝わってくれてないみたいだ。
「だから、昨日の夜の話だよ。ワンワンワンワンってうるさかったじゃないか。アレじゃ秋葉たちだって眠れなかっただろ」
「―――兄さん? それ、なんの話です?」
「なんの話かって、昨日の夜の話に決まってるだろ。夜の十一時ごろ、野犬が吠えっぱなしだったじゃないか」
秋葉と琥珀さんは顔を見合わせたあと、そろり、と二人そろってこっちの顔をうかがう。
……人をキチ〇イか何かだと思っているような態度、許すまじ。
「いい、秋葉には聞かない。琥珀さん、昨日の夜はうるさかったよね?」
「―――ええっと、どうなんでしょうか。たしかに昨夜は風が強かったと思いますけど……深夜の見まわりで発見した異状は、志貴さんが制服のままベッドの上で眠っていらしたことぐらいですよ」
「……ああ、ソレですか。これからは、その、気をつけます」
「なに? なにかあったの、琥珀?」
「いえ、別になにもありませんでしたよー。ちょっと志貴さんの寝相が悪かった、というだけですから」
琥珀さんは笑顔で、秋葉の質問をサラリと流す。
……そう言えば、琥珀さんは志貴さん、と呼んでくれている。
昨夜の伝言を翡翠はちゃんと伝えてくれたみたいだ。
「……ホントに二人とも気がつかなかったのか? 昨日の夜、三十分ぐらい外で野犬が吠えてたのに。ワンワンワンワンって、そりゃうるさいったらありゃしなかった」
「ははあ。それはワンワンパニックですね」
……琥珀さんは、なんだかどこかズレてる気がする。
「……まあ、わかりやすく言うと、そういうコト」
「ふーん―――私はそんな覚えはないけど。琥珀もないでしょう?」
「そうですねー。志貴さんには申し訳ないんですが、昨夜はとくにそのような事はなかったと思います」
「決まりね。あと考えられるケースっていったら、兄さんが犬に吠えられる夢でも見てたんじゃないかってコトですか」
「…………う」
そりゃあたしかに、夢だったんじゃないか、と言われればそうだったかもしれないけど。
「―――兄さんはまだ屋敷に慣れていないから、そんな質の悪い夢を見たんでしょう。
そうですね、今夜も野犬に吠えられるようでしたら、とびっきり獰猛な番犬でも飼う事にしましょうか」
くすり、と底意地の悪い笑みをこぼす秋葉。
「私は時間ですのでお先に失礼します。兄さん、登校中に犬に襲われないよう気を付けてくださいね」
秋葉はそのまま居間を後にした。
秋葉を玄関まで送るのか、琥珀さんも居間を後にする。
「…………」
さて、そろそろ結論を出してもいいころだ。
昨夜から今までの経過を思い起せば考えるまでもないんだろうけど、
どうやら俺は、
秋葉にとてつもなく嫌われているらしい。
琥珀さんが用意してくれた朝食を食べたあと、ロビーに出る。
と、ロビーには翡翠が鞄を持って待っていた。
「志貴さま、お時間はよろしいのですか?」
「ああ、こっから学校まで走れば二十分ないからね。いま七時半だろ、寄り道をしても間に合うよ」
こっちの説明に満足したのか、こくん、と翡翠は頷く。
「それでは、外までお見送りいたします」
「え―――あ、うん、どうも」
……やっぱり、自分付きの使用人というのはひどく照れくさい。
「あ、志貴さん! ちょっと待ってください!」
たたたっ、と琥珀さんが二階から降りてきた。
「……………………」
翡翠は琥珀さんがやってくると、すい、と身を引いて黙ってしまう。
「あれ、琥珀さんは秋葉と一緒じゃなかったの?」
「秋葉お嬢様はお車で学校に向かわれますから。今朝は志貴さんにお届け物があるので屋敷に残らさせていただいたんです」
「お届け物って、俺に?」
「はい。昨日、有間家のほうから荷物が届いたんですよ」
ニッコリと琥珀さんは笑顔をうかべる。
「え───? いや、俺は自分の荷物は全部持ってきたよ。もともとむこうで使ってたのは有間の家のものだったから、自分の物なんて着てる服ぐらいのものなんだけど……」
「そうなんですか? こちらが届けられたお荷物ですけど」
琥珀さんは二十センチほどの、細い木箱を手渡してくる。
重量はあまりない。
「───琥珀さん、俺はこんなの見た事もないんだけど」
「はあ。なんでも志貴さまのお父さまの遺品だそうですけど。志貴さんに譲られるようにって遺言があったとか」
「……あの親父が俺に?」
……それこそ実感がわかない。
八年前、俺をこの屋敷から追い出した親父がどうして俺に形見分けをするんだろう?
「まあいいや。琥珀さん、これ部屋に置いておいて」
「─────」
琥珀さんはじーっ、と興味深そうに木箱を見つめている。
なんだか玩具をほしがる子供みたいな仕草だ。
「じーーーーっ」
いや、子供そのものだ。
「……わかりました。中身が気になるんですね、琥珀さんは」
「いえ、そんなことないです。ただちょっと気になるなって」
………だから、十分気になってるじゃないか。
「なら開けてみましょう。せーのっ、はい」
スッ、と乾いた音をたてて木箱を開ける。
中には────十センチほどの、細い鉄の棒が入っていた。
「………鉄の棒………だ」
何の飾り気もない、使い込まれて手垢のついた鉄の棒。
……こんなガラクタが俺に対する形見分けとは、親父はよっぽど俺が気に食わなかったとみえる。
「───違います志貴さん。これ、果物ナイフですよ」
琥珀さんは鉄の棒を箱から取り出す。
「ほら、飛び出しナイフってあるじゃないですか。あれと同じみたいです。せーの、はいっ」
パチン、と音がして棒から十センチほどの刃が飛び出す。
……なるほど、たしかにこれはナイフだ。
「ずいぶんと古いものみたいですけど、作りはしっかりしてますよ。裏に年号がかかれてます」
琥珀さんは刃をしまってからナイフを手渡してくる。
たしかに握りの下のほうに数字が刻まれていた。
七という漢字と、その後には夜という漢字。
「姉さん、これは年号じゃないわ。七つ夜って書かれているだけよ」
「っ!」
びっくりして振り返る。
と、今まで黙っていた翡翠が後ろからナイフを覗きこんでいた。
「び、びっくりしたあ……翡翠、人が悪いぞ。そんな後ろから覗かなくても、見たければ見せてあげるのに」
「あ―――――」
とたん、翡翠の頬がかすかに赤くなる。
「し、失礼しました。あの―――その短刀があまりにキレイでしたから、つい」
「キレイ? これ、キレイっていうかなあ。どっちかっていうとオンボロな感じだけど」
「――――そんな事はありません。見事な刃文をした、由緒正しい古刀だと思います」
「……そうなの? 俺にはガラクタにしか見えないけど……」
翡翠があんまりにも強く断言するもんだから、こっちもその気になってきた。
……うん。これはこれで、形見としては悪くないのかもしれない。
「七つ夜……ですか。その果物ナイフの名前でしょうかね?」
「そうかもね。ナイフに名前を付けるなんてヤツはそういないと思うけど」
なんにせよ年代物という事ははっきりしている。
「ま、もらえる物はもらっとくのが俺の信条だし」
刃を収めて、ズボンのポケットにナイフを仕舞う。
「志貴さま。お時間はよろしいのですか……?」
「まずい、そろそろ行かないと間にあわないか。それじゃ琥珀さん、届け物ありがとうね」
いえいえ、と琥珀さんは笑顔で手をふった。
玄関を出て、中庭を抜ける。
屋敷の門に出ると、なにやら騒がしい事に気がついた。
「……なんだろ。なんか屋敷の右手のほう、騒がしくないか?」
「それが、今朝方屋敷の東の路面で血痕が発見されたそうです」
「―――血痕……? それって、ようするに血のあとってこと?」
「はい。屋敷の塀にも血の跡がありました。志貴さまがお眠りになられている間、警察の方々が昨夜の様子を尋ねにもまいられましたが」
「……それって、まさか人が死んでたっていうことなのか……?」
「いえ、発見されたのは血の跡だけだそうです」
「――――――」
屋敷の東側―――それは昨日の夜、黒いコートの男がいたあたりだ。
血の跡……血のあと。
血の跡―――赤いあと。
そういえば、たしかに。
なにか、赤い色を見た気がしたけれど――――。
「志貴さま?」
「え………? い、いや、なんでもないよ」
ぶんぶん、と頭をふって不吉なイメージを振り払う。
「それじゃ行ってくる。見送りありがとう、翡翠」
「行ってらっしゃいませ。どうか、道々お気をつけて」
深々とおじぎをする翡翠。
……何をお気をつけてなのかは不明だけど、おそらくはこっちの体を気遣ってくれてるんだろう。
「ああ、サンキュ。翡翠も気をつけて」
好意には好意で返すのは当たり前。翡翠に元気よく手をふって、屋敷の門を後にした。
───見慣れない道を歩く。
今まで有間の家から高校に通っていたから、この道順での登校は初めてだった。
単に道が変わっただけなのに、まるで転校生みたいに新鮮な気持ちになる。
「────あんまりいないな、うちの学生」
この周辺の家庭にはうちの高校に通っている人間は少ないようだ。
朝の七時半。
道を小走りで進んでいく学生服姿は自分しか見あたらない。
オフィス街は通勤ラッシュで混雑している。
いつも通り、スーツ服姿の会社員たちが今日もお仕事に励もうと戦闘準備をしている光景。
いや、いつも通りというのは正しくない。
ここ数日の街の雰囲気は少し重い。
おそらくは例の連続通り魔の影響だろう。ここ数日は夕方になると街の人通りも少なくなっているとの事だ。
「───夜遊びはほどほどにって事だぞ、有彦」
街の雰囲気など気にせず夜遊びをする悪友の顔がうかぶ。
ま、言ったところでアイツが聞くわけもないんだけど。
道にちらほらと制服姿が人込みにまざってきた。
校門が閉まるまであと十分ほど。
遅刻しないようにとアスファルトの路面を駆ける。
───到着。
屋敷から徒歩で三十分、というより二十分程度か。途中で何度か走ったから、ゆっくりしたいのなら七時すぎに屋敷を出る必要があるだろう。
ホームルーム数分前の教室はざわざわとこうるさい。
担任がやってくるまで話し込んでいるクラスメイト達は無秩序に教室に散らばっていて、たった数分ながらもお祭りのような騒がしさをかもしだしている。
その中をゆったりと歩いて、窓際の自分の席に到着する。
────と。
「いょぉう。遅いぞ、遠野」
この微笑ましい朝の教室に相応しくない人物が一人、ニヤニヤ笑いをうかべて待っていた。
しかも───
「あ、おはようございます遠野くん」
───とんでもなく予想外な人物と一緒に、だ。
「先輩───なんでうちの教室にいるのさ」
呆然と、それこそお化けでも見るようにシエル先輩を指差す。
「あれ、そんなに珍しいことですか? わたし、遠野くんが教室にいるかなってちょっと寄ってみただけですけど」
「珍しいコトって―――普通、上級生が下級生のクラスには来ないよ。色々問題はあるけど、なにより場所が離れすぎてる」
なるほど、と先輩は生真面目に頷いたりする。
「でもその点は大丈夫ですよ。わたし、こう見えても走るのは速いんです。下の階の自分のクラスまで、一分もかかりません」
えっへん、と先輩は力説する。
「…………」
どうも、この人に世間体というものを問いただすのはあまり意味がないみたいだ。
「おまえも口やかましいな遠野。いいじゃんか、先輩が好きで来てるんだからさー」
有彦は有彦で、人の机にどっかりと腰をおろして先輩と楽しげに話をしている。
「………いいけど。ホームルームが始まる二分前になったら自分のクラスに帰らないとダメだよ、先輩」
なんだかどっと疲れてしまって、ため息まじりに椅子に座った。
「……乾くん、どうも遠野くんはご機嫌ななめみたいですね」
「……ああ、たぶん引っ越し先の生活が性に合わなくて、カンシャクおこしてるんだろうな。遠野はたいていのコトは気にしないんだけど、なんかよく解らない事があると暴れ出す悪癖があるからな」
「……そうなんですか? 遠野くん、あんまり怒りそうにないですけど」
「……いやあ、そんなコトはないぜ。遠野はねー、普段大人しい分、自分で理解できない事に出遭うとプッツーンとイっちまうヤロウなんだって」
「……はあ。ぷっつーん、ですか」
「……そうそう。一度キレると見境がなくなるから、先輩もこいつを信用しちゃダメだぜ」
……二人はひそひそと内緒話をしている。
「……あのさ。内緒話なら廊下でしてくれないか?人の机でそういうコトされても、全部聞こえてくるから意味がないぞ」
「なに、聞こえていたのか遠野!?」
大げさに驚く有彦。……ここまで芝居をうたれると、怒る前に気が滅入ってくる。
先輩はといえば、どこまで本気なのかハッとして口元を手で隠している。
……この人のことだから、きっと本気で内緒話をしているつもりだったのかもしれない。
「ひどいぞ遠野! オレと先輩のラブラブな内緒話を盗み聞くなんて、趣味が悪すぎだオマエ!」
ガガガッ、なんて効果音を出しながら有彦はこちらを指差す。
「―――有彦。おまえ、もしかして俺に喧嘩を売ってるのか?」
……ていうか、ぜひ売ってくれ。今ならどんな値段でも買ってやるから。
ぶるぶる、と有彦は首をふる。
「そんなワケないだろ、オレと遠野は親友じゃないか。オレは親とだって殴り合いはするがね、親友とだけは戦わないってポリシーがあるんだ。侠に生きる漢なんだよ、基本的に」
……凄いな、それは。
侠っていうのは肉親に手をあげていいものだったんだ、こいつの内面世界においては。
「なるほど―――腐ってるね、おまえのポリシーは」
「ははははは! なんだ、元気がないようなフリしやがって、根はいつも通りの遠野じゃないか! ったく、心配して損したぜ!」
バンバン、と背中を叩く有彦。
「……有彦。おまえ、もしかして今のは気を使ってくれたのか?」
「ばっか、そんなつまんないコト聞くなっての。
こういうのはさりげなくやるのが美徳じゃないのサ!」
ばんばんばん、とさらに背中を叩かれる。
……長い付き合いだけど、コイツの性格だけはいまだによく掴めない。
「それで、新しい家はどうなんだ? 見たところ、けっこうヘヴィにストレス溜まってそうじゃんか」
「さあ、どうだろう。とりあえず昨日はイヤな夢を見て、家の人達に白い目で見られたけど」
「―――むう。そうか、それは災難だな」
有彦は難しい顔をしてうんうんと頷く。
「…………………」
―――と。
黙っているかと思ったら、先輩は俺と有彦のくだらないやりとりをじーっと見つめていた。
「先輩?」
「遠野くん、やっぱり乾くんと仲がいいんですね」
「本気ですか先輩。今のを見てそう言えるなんて、そのメガネは度があってないですね」
「そんなコトないです。遠野くん、乾くんの前だとすごく気を抜いてるじゃないですか。ものすごく無防備で、乾くんを信頼しきってます」
なぜか先輩は嬉しそうに笑った。
「?」
有彦と顔を合わせて首をかしげる。
「羨ましいなあ。そうやって何の気負いもしないで分かり合える友人がいるのって、憧れます」
ほう、と感心する先輩。
「「そうかあ?」」
有彦と顔を合わせて眉をよせる。
「そうですよ。二人とも気がついていないだけです。あ、でも気がついたら終わってしまうのかもしれません。……そっか、そうなると遠野くんと乾くんは今のままでいいんでしょうね。うん、すごく絶妙なバランスです」
「まあ、絶妙といえば絶妙なタイトロープだけどね、俺とこいつの関係は」
同感だ、と頷く有彦。こういう所だけは阿吽の呼吸で意見が合う。
「あ、そろそろ時間ですね。それじゃあわたしは戻りますけど、遠野くん今朝のニュース見ましたか?」
「―――いや。引っ越した家にはテレビがなくてさ。朝のニュースは見れないんだ」
「そうですか。それじゃあ率直に聞きますけど、今朝のニュースで大きなお屋敷が映っていたんです。あれって遠野くんのお家ですか?」
「―――――え?」
今朝のニュース?
……そういえば警察が事情聴取にきたって翡翠が言っていたっけ。
「ああ、それはきっと家のコトだよ。今朝、警察が話を聞きに来たって言ってたし」
「―――そうですか。遠野くん、あんまり夜遊びしちゃダメですよ」
先輩は早足で立ち去っていく。
その後ろ姿を、俺たちは無言で見送った。
――――と。
「────遠野」
「なんだよ。つまんない事なら聞かないからな」
「つまらなくはないぞ。大きな疑問として、オマエはいつのまにあっちのほうから会いに来るぐらい先輩と親しくなってたんだろうな」
じっ、と有彦は真剣な眼差しをしてくる。
「さあ、俺に聞かれたってしるもんか。話をするようになったのはここ最近だし、今日だって単なる気まぐれなんじゃないか? 第一、そういうおまえだってえらく親しそうだったじゃないか」
「そうでもない。オレは七日もかけてやっと名前を覚えてもらったレベルだよ」
「へえ、めずらしいな。一日でなびかない女はめんどくさいから相手にしないっていうの、おまえのポリシーだったじゃないか」
「並みの女はそうだけど、先輩は別。秘密にしていたんだけど、実はオレはな────」
「メガネが似合う上級生が好みだっていうんだろ」
うっ、と有彦は頬を赤らめる。
「わかりましたか、親友」
「わかるよ。俺たちは親友だからさ。気が合うし、なにより趣味が似通ってるんだ」
「そうかそうか、遠野も先輩の良さがわかるのか────って、まて」
「ああ、俺たちは趣味が似てるんだろ? だから好きな女の子の好みも一緒なんじゃない?」
有彦はなるほど、と納得すると自分の席に向かっていく。
「短い友情だったな、遠野」
「ああ、まったくだ」
ひらひらと手を振って有彦を送り出す。
それとほぼ同時に、教室に担任が入ってきた。
◇◇◇
午前の授業が終わって、昼休みになった。
有彦は一足先に食堂に行っている。
さて、どこで昼食をとろうか。
学食でパンを買ってきて、教室でゆっくり昼食をとる事にした。
……教室に残っているのは数名の男子と、女子の仲良しグループさんたちだ。
「………あれ?」
今さら気がついた。
女子の中で一番目立つ存在である弓塚さつきの姿が見えない。
「……欠席、か」
クラスメイトの一人が休んでいた事を昼休みになって気がつくなんて、我ながら抜けていると思う。
◇◇◇
五時限目。
古文の授業に眠気を誘われつつ、窓の外に視線を移す。
――――と。
教室のベランダに、鴉がとまっていた。
「―――――」
昨夜の青い鴉じゃなくて、ただの黒い鴉だ。
鴉は黒一色の目で、ガラスごしに教室の中を見つめている。
たしかに鴉がとまっているのは珍しいけれど、別段、どうという事はない出来事だった。
「あ――――」
それは唐突にやってきた。
視界がだんだんと白くなって、平衡感覚がぐるぐるとおかしくなっていく。
「―――」
くらり、と視界がゆらぐ。
頭のうしろのほうに何かがわだかまって、意識がずん、と重くなる感覚。
「……まず」
この感覚は知っている。突発的な眩暈は貧血の前触れだ。
脳の血管にたまった血液が、黒い塊になってクラクラと頭を揺らして、見えているものを真っ暗にしていってしまう。
例えるのなら、脳のほうから眼球の方向に闇が押し出されるような感覚。
―――まずいなあ……授業中に倒れるなんて、滅多に、なかったって、いうのに―――
暗くなっていく視界の中、手探りで机をつかんで寄りかかる。
それも、すぐに無駄になる。
指先に力が入らない。
あとはただ、床に向かって倒れこむだけ―――
「先生、ちょっといいっすか」
―――と。
どん、と乱暴に背中を叩かれた。
「遠野のヤツ、調子が悪そうなんで保健室に連れていきたいんですけど」
「――――有彦」
いつのまにか有彦がやってきている。
「遠野、本当に具合が悪いのか?」
教壇から教師の声が聞こえてくる。
「いえ、なんとか大丈夫―――」
「あー、ぜんっぜんダメだそうです。こりゃあ早退させた方がいいんじゃないっすか?」
……有彦は大声で、なんだかとんでもない事を言っている。
「そうか。乾がそう言うんじゃ間違いないな。先生も遠野の体のことは国藤先生から聞いている。
遠野。体調が優れないなら保健室で休むか早退していいんだぞ」
……まったく、人がいいのかなんなのか。
古典の教師は有彦の言い分を全面的に信じているみたいだ。
「ほら、帰っていいとよ。そんな青い顔しやがって、まずいと思ったらすぐにまずいって言わねえとわからねえだろうが」
有彦は不機嫌そうに人の背中を叩く。
「……それじゃあ早退させてもらいます、先生」
うむ、と古典の教師は重々しく頷く。
「……悪い、有彦。いらない心配をかけさせた」
「気にすんな。中学からの腐れ縁だからな、おまえが貧血でぶっ倒れそうな雰囲気ってのはすぐにわかんだよ」
有彦は自分の席に戻っていく。
さんきゅ、と目で礼を言って、まだ重苦しい体を動かして教室を後にした。
―――学校を出た。
本来なら保健室で横になったほうがいいのだが、この時間からだと起きる頃には放課後になってしまっている。
それなら多少無理をして、屋敷に戻って横になったほうが無駄がないと判断したのだ。
「……ふう。ちょっとは楽になってきたかな」
外の空気を吸っているうちに気分も持ちなおしてきた。
……まったく、自分の体の事ながらまいってしまう。
八年前。
命に関わる重症から回復した代償なのか、それからというもの遠野志貴は慢性的な貧血を起こす体質になってしまった。
病院から退院した当時は一日に一回は貧血で倒れてしまって、眩暈をおこしてしまうなんていうのは日常茶飯事になってしまっていたのだ。
あれからずいぶんと月日がたって、体も成長しきったおかげか突発的な眩暈や貧血を起こしにくくなった。
けれど、ときおり何かの弾みで眩暈を起こして、そのまま意識を失ってしまう事だけはなくならない。
今日は有彦が途中で声をかけてくれたから良かったものの、いつもならあのまま地面に倒れていたところだ。
「――――はあ」
ゆっくりと深呼吸をして、新鮮な空気を肺に送り込む。
頭の芯に沈澱した血のめぐりをなんとか堪えながら、学校を後にした。
大通りに出る。
ここを抜けて住宅街に出てしまえば、遠野の屋敷まで一直線だ。
「――――う」
……いけない。
まだ気分が晴れていないみたいだ。
額に手を当ててみれば、普段より熱をもっている。
「…………」
このまま無理をして道端で倒れこんでは元も子もない。
「―――しょうがないな、ほんと」
自分自身にあきれながらガードレールに腰をかける。
気分が落ち着くまで少し休む事にしよう。
……やることもないので、ぼんやりと大通りの様子を眺める。
平日の午後を過ぎたばかりだというのに、大通りは行き交う人々で賑わっていた。
歩いていく大勢の人たち。
名前も素性も知らない彼らは、すぐ隣で歩いている誰かに視線をなげかける事なく前へ前へと歩いていく。
同じ場所に、これだけ大勢の人間がいるというのに、誰も彼も視界は一つきりだ。
自分が自分の主役であるように、彼らは彼らが主役の一日を過ごしている。
そして、それぞれの一日はたいていは誰かと交わる事なく、やっぱり自分だけの一日で終わってしまう。
───それは、ある意味。
孤独といえば、ひどく孤独なことだと言えた。
「……………」
微熱のせいか、感傷的な考え事をしてしまう。
「―――帰ろ」
気分も落ち着いてきたし、ここにこうしていても意味のない事を考え込む一方だし。
さっさと屋敷に帰って休むためにガードレールから腰をあげた。
─────その女を、見てしまうまでは。
[#挿絵(img/アルクェイド 11.jpg)入る]
なにげなく。
本当になにげなく、人込みに視線をなげただけだったのに、視界が凍った。
───ドクン。
金の髪と赤い瞳。
白い、彼女の像を象徴するかのような白い服装。
───どくん。
脈拍がはねあがる。
静脈と動脈が活性化する。
神経は次々と破裂していって、脊髄が首の後ろに飛び出してしまいそうなほど、体の中身が暴れだしてる。
───ドクン。
人込みの中で歩いている女性は、ただ、美しかった。
「――――――――」
遠くなっていた眩暈が戻ってくる。
くらり、と意識が落ちかける。
―――――どくん。
息ができない。
指先は震えて、血液が届いてない。
全身のいたるところが寒くて、凍死してしまいそうだ。
―――――ドクン。
心臓が急いで、早く早くと命令してくる。
「あ―――――あ」
耐えきれなくなって、喉から喘ぎ声をもらした。
────考えられない。
ある一つの単語しか、俺の脳味噌は生み出してくれてない。
―――――ド、ク、ン。
そうして、繰り返される言葉はただ一つ。
彼女を。
あの女を。
オレは、このまま─────
『ぜー、ぜー、ぜー』
吐き気がする。
呼吸ができない。
息がくるしい。
正しい息の仕方を、どうしても思い出せない。
『ぜー、ぜー、ぜー』
喉がアツイ。
眼球が砕けそうだ。
手のひらはぐしょぐしょに濡れている。
体中が寒いのに────こんなにも、汗をかいてしまっている。
「はあ────はあ─────はあ────」
……追わないと。
あの女を追わないと。
追って、追いかけて、話をしよう。
凍った足を動かして、
ケモノのように呼吸を荒くして、
白い女を追いかけた。
「はあ────はあ────はあ────」
女はゆっくりと歩いている。
尾行しているこっちには気がついていない。
「は―――――あ」
ここからなら走れば話しかけられる。
話しかけて、名前を聞こう。
「は―――――はは、は」
―――名前を聞く?
冗談じゃない。
オレはそんな事をしたいんじゃないって、自分でよくわかってる。
……よくわかっているつもりなのに、よくわからない。
オレは他のコトがしたいみたいなのに。
どうしても、その『やりたいコト』とやらがはっきりと言葉にできない。
頭の中に、雨雲みたいな霧がある。
「―――――――」
ノドがアツイ。
さっきから全然イキがデキナイ。
だが、それがどうした。
そんなのは当然だろう? あれだけの女を目の前にしたんだ、興奮しないほうが失礼ってもんじゃないか?
呼び止めて名前を聞く?
ハッ、ガキじゃあるまいし止してくれ。
よくわからないけど。オレがやるべき事は、それこそただ一つだけだろう。
ポケットに手をいれて歩く。
かつん、と指先には鉄の手触り。
「く──────ク」
なんて幸運。
道具は、まさにそろってる。
……女は歩いていく。
十分に距離をとろう。
気付かれないように、周囲の連中に不審に思われないように。
オレとあの女は赤の他人だ。
だから出来るだけ自然に、あの女の後をつけなくてはいけない。
……女がマンションに入っていく。
まだ中には入らず、外から様子を眺めた。
女はエレベーターに乗って、上の階へとあがっていく。
エレベーターは六階で止まった。
一階にある共通のポストを調べる。
六階のポストは五つ。そのうちの一つに触れて、ぞくりときた。
匂いをかぐ。
間違いない。
六階の三号室が、彼女の部屋だ。
エレベーターに入って、六階のボタンを押した。
わくわくする。
エレベーターという狭い密室の中で、ポケットの中のナイフを握り締めた。
すぐそばにあの女がいる。
あともうすこしであの女を できる。
ああ、そう考えるだけでひどい快感────
体中が、絶頂を控えた生殖器にでもなった気分。
エレベーターから出る。
六階の廊下に人影はない。
ますます好都合だ。
早く────早く、ヤリタイ。
────三号室の前についた。
呼び鈴を押そうとして、止めた。
メガネは邪魔だ。
こんなものをしていては出来る事も出来やしない。
―――約束よ、志貴。
決して、軽はずみな気持ちでモノを視ちゃダメだからね――
「………」
遠い昔に、そう言ってくれた女の人がいた。
でも、今は名前も顔も思い出せない。
ゆっくりとメガネを外した。
黒い線が、視える。
それだけじゃない。
この両目までどうかしてしまったのか。
視界には、忌まわしい線ばかりか黒い穴のような『点』が、無数に見えてしまっていた。
自分でもワカラナイ。
自分は何をしようとしているのか。
自分はなんだってこんな事をしているのか。
遠野志貴は────さっきの女を、どうしたいのか。
ワカラナイ。
ワカラナイママ、チャイムヲ押シタ。
「はい───」
扉ごしに声がして、扉がかすかに開く。
瞬間────そのわずかな隙間から部屋の中に滑り込んだ。
「え────」
女の声があがる。
否、あがろうとした。
女の声があがりきる事は永遠にない。
その前に、オレは彼女をバラしていたから。
ドアから中に入った瞬間。
一秒もかけず、女の体じゅうに走っていた線をナイフでなぞった。
刺し、
切り、
通し、
走らせ、
ざっくざっくに切断し。
完膚なきまでに、「殺した」。
女の体にある計十七個の黒い線、
首、後頭部、右目から唇まで、右腕上腕、右腕下部、右手薬指、左腕肘、左手親指、中指、左乳房、肋骨部分より心臓まで、胃部より腹部まで同二ヶ所、左足股、左足腿、左足脛、左足指その全て。
すれ違いざまに、
一秒の時間さえかけず。
真実 瞬く間に ことごとく。
彼女を、十七個の肉片に『解体』した。
『―――え?』
すごく間の抜けた声が聞こえた。
それが自分の喉から出た音だというコトに実感がわかなかった。
くらり、と眩暈がおこる。
目の前にはバラバラに散らばった女の体。
フローリングの床には、バケツの水を引っくり返したように赤い血が広がっていっている。
むせかえる血の匂い。
切断面はとてもキレイで、臓物はこぼれていない。
ただ赤い色だけが、地面を侵食していっている。
不思議なはなし。
部屋には何もなくて、ただ、バラバラになった女の手足と、自分だけが、呆然と立っている。
『───なに、を───』
フローリングの床に広がっていく赤い血の海。
自分の手には凶器のナイフが握られている。
『死ん───でる』
当たり前だ。
これで生きていたら人間じゃない。
『なん───で?』
なんでもなにもない。
たった今、自分の手で。
遠野志貴の手で、あっさりと、一瞬にして、見知らぬ女をバラバラにしてしまったんじゃないか。
『俺が────殺した?』
そう間違いなく。
それとも違うのだろうか。
自分には、そんなことをする理由がない。
だから違う、違うはずだ。
けど理由なんてものは初めからなかった。
だから違う、違うはずだ。
―――フローリングの床に、赤い血が広がっていく。
ぬらり、と。
足元に、赤い血が伝わってくる。
『………………あ』
驚いて靴をあげるけれど、間にあわない。
女の赤い血は、コールタールのように、ねっとりと足と床に糸を引いた。
『―――――――』
ああ……あかい、ち、だ
オレがバラバラにしてしまったから、いまも、だらだらとだらしなく流れ続けている厭な色。
「―――俺じゃ、ない」
ソウ、違ウハズ。
違う。違う。きっと違う、ぜったいに違う。
これは。
これは、これは、これは、これは、これはこれはこれはこれは――――――
……こんなのは、悪いユメだ。
けど、なんだってこう、血の匂いだけがひどくリアルなんだろう。
『……違、う』
そう。
違う 違う 違う 違う。
違う 違う 違う 違う。
だが。
自分が殺したというコトが違うのか。
それとも、自分が殺していないという事が違うのか。
『……だって、理由が、ない』
いや、理由ならはっきりしてる。
彼女を見た時、一つの事しか考えられなくなっていたから。
『俺は────』
そう、俺は───
遠野志貴は あの女を 殺したい、と。
それが、あの時の俺の意志だったハズだ。
ただ、頭の中がドロドロとしていて、あえて、そのイメージを言葉にしようとしなかっただけで。
『ちが─────う 』
血の匂いに、吐き気がする。
『あ―――ぐ』
胃の中のものが、戻ってくる。
『あ―――あ』
眼球に、赤い朱色がしみ込んでくる。
くらり、と眩暈がして。
そのまま、赤い血の海にひざまずいた。
「あ―――ぐっ…………!」
胃液が逆流する。
胃の中のものを残らず吐いた。
食い物も、胃液も、泣きながら吐き出した。
胃の中には何もない。
なのに起きてしまった出来事をなかった事に、もとの日常に戻そうとするかのように、体は嘔吐を強制する。
ご――――ぶ。
痛い。
内蔵が焼けてるみたいに、痛い。
涙は止まらなくて、体はゴミのように地面に崩れ落ちた。
広がっていく赤い水たまりに、膝が沈む。
べちゃりと、体が赤く染まる。
痛くて赤くて、ユメを見ているみたいだ。
「あ―――――あ………!」
涙が止まらない。
人を殺したというコトが、ひどく悲しかった。
……いや、それは違う。
人形でもバラすみたいにあっさりと、何の意味もなく、容赦なく殺してしまったコトが、悲しかった。
───よくわからない。
どうしてこんな気分になっているのか、
どうしてわけもなく殺してしまったのか、
その理由が解らない。
『────うそだ』
現実感がまるでないから。
だからこれは、いつもみたいに眩暈がして、その間に見ていたユメなんだ────
『────うそだ』
だいたい、どうしてナイフ一本で人間をあそこまでバラバラにできるっていうんだ。
本で読んだ事がある。
人間一人をバラバラにするのは、ノコギリを使ったって丸一日かかる重労働なんだって。
だから、こんなナイフ一本であんな事ができるはずがない。
あの『線』なんて初めからなくって、自分がかってにそう思い込んでいるだけの妄想なんだ――――
『────うそだ』
ご───ふ。
胃液が唇からもれる。
口はおろか、あごから下は胃液でベトベトだ。
胃液には朱色が交ざっている。
吐き出すものもないくせに胃が蠕動するもんだから、のどが傷ついて出血してるのか。
『い……た────』
痛い。
だからきっと。
これはユメなんかじゃなく、俺は、自分にうそをついている。
『───全部、うそだ』
そう、ほんとは理解してる。
欲情してた。あの女性を見て興奮してた。
バラす時なんて、射精しそうなほど刺激的だった。
この目だってそうだ。
あの『線』が紙を切るみたいにモノを切断してしまう『線』だってわかっていたのなら。
遠野志貴は、さっきのように人間だって簡単にバラしてしまうって理解していたはずなのに。
俺は、そんなことを考えもしないで、ただ普通に暮らしてしまっていた。
―――自分が、簡単に何かを殺してしまえるような危険な人間なら。
俺はこの目を潰すか、誰とも会わないような生活をするべきだったのに。
『……ごめん、先生』
―――ほんとうに、ごめんなさい。
そんな簡単な事さえ、
遠野志貴は守れなかった────
「俺は────狂って、いるのか」
わからない。
さっきまで湧きあがっていた衝動は、もう微塵も残っていないけれど。
あの時、耐えるとか堪えるとか、そういった意思すら働かなかった。
我慢する、という考えさえうかばない。
『この女を殺す』
そんなコトを当たり前のように考えて実行してしまった。
なら答えは簡単だ。
俺は、きっと狂ってる。
おそらくは八年前。
死亡確定といわれた事故から、奇跡的に蘇生したその時から―――――――
……どこからか、雨の音が聞こえてくる。
ザア――――、という雨だれ。
「―――――」
もうろうとしてる。
息を吸うと喉が痛んだ。
「い………た」
声があがる。
「――――志貴さま?」
とたん、すぐ近くで誰かの声と気配がした―――
◇◇◇
「自分の―――部屋だ」
いつのまにか自分の部屋で横になっている。
「おはようございます、志貴さま」
「翡翠……?」
「はい。お体の具合はいかかでしょうか?」
「………?」
翡翠はおかしなコトを聞いてくる。
お体の具合って、別に悪いところなんて一つもなかったけど――
「なん―――で」
そう、なんで。
俺は、こんなところで眠っているんだ――
「俺は―――ひとを、ころし――」
ころしたのに、と言いかけて口を塞ぐ。
その言葉だけは、口にしてはいけないと理性が歯止めをかけてくる。
「翡翠、俺―――どうして、ここに」
「……覚えてらっしゃらないのですか? 学校のほうから志貴さまが早退した、というお電話がありました。ですが夕方になっても帰ってこられず、姉が探しに行ったところ、公園でお休みになっていたそうです」
「―――公園って―――近くの公園?」
「はい。姉が志貴さまを見つけた時には、公園のベンチで休まれていたそうです。その後志貴さま本人の足で屋敷まで戻られました」
「……うそだろ。そんな覚え、まったくないんだけど」
「志貴さまの記憶が定かではないのは、そうおかしな事ではないと思います。姉に連れてこられた時の志貴さまは、言いにくい事ですが呆、としておられましたから」
「………………」
……まったく記憶がない。
けど、翡翠の言葉には疑う余地がない。
「……ああ、もう夜の九時なんだ。……ぜんぜん記憶にないや」
「はい。お屋敷に戻られた志貴さまが言った言葉は、『眠りたい』というものでした。姉はお医者様をお呼びしようとしたのですが、志貴さまは『いつものことだから』、と」
「―――そうか。たしかに貧血で倒れるのはいつものコトだけど―――」
……今回はかってが違う。
俺はひとを殺してしまったんだから―――って、あれ?
「翡翠。俺、どんな格好をしてたんだ?」
「―――は?」
「だから服装。俺の制服、その、血で―――」
ベッタベタに、汚れていたから。
「志貴さまの制服でしたら、汚れてしまっていたので洗濯をしておりますが」
「洗濯って―――あんな血だらけの服を……!?」
「……たしかに泥にまみれてはおりましたが、血液らしきものはありませんでした」
「え……? だって、あんなに―――」
血の海にひざまずいて、足も腕も真っ赤になっていたっていうのに……?
「志貴さま、なにかよくない夢でも見られていたのですか? さきほどまでひどくうなされていたようですし、今もお顔の色が優れません」
翡翠はじっとこちらの顔を見つめてくる。
「夢って――――アレが?」
夢だったっていうのか。
あの感覚が。
あの血の匂いが。
あの、悪夢みたいにキレイだった白い女が。
「いや―――そうだよな。あんなのは、悪いユメだ」
ほう、と長い息がもれる。
――――そうだ。
あんなものは、悪い夢だ。
意味もなく理由もなく、幼いころに交わした先生との約束まで破って、俺があんなコトをするわけがなかったんだ。
「ああ――――目が、覚めた」
「はい。志貴さまのご気分さえよろしければ夕食の支度をいたします」
「夕食、か」
……ユメだとわかっているのに、まだあの血の色と匂いが脳裏から離れない。
「―――いや、いいよ。今晩はこのまま眠る事にする。それより翡翠」
「はい、なんでしょうか志貴さま」
「その、さ。俺、夕方に帰ってきたらしいけど、秋葉はなんて言ってた?」
「秋葉さまなら、その時間はまだお帰りになられていませんでした。二時間ほど前にお帰りになられたおり、姉のほうから志貴さまのご容体をお伝えしておきましたが」
それがなにか? と翡翠は無言で聞き返してくる。
「いや、別になんでもないんだ。たださ、帰ってきて二日目だっていうのに迷惑をかけたから、呆れてるだろうなって」
「……たしかに秋葉さまはご気分を害されてらっしゃいましたが、呆れているというわけではなさそうでした」
言って、翡翠は一歩後ろに下がった。
「それでは失礼します。何かご用がおありでしたらお呼びください」
「ああ、ありがとう。―――と、もう一つ聞き忘れてた」
「はい、なんでしょう志貴さま」
「外、雨が降ってるんだね。いつから降りはじめたのかな、コレ」
「志貴さまがお帰りになられる前からです。姉が志貴さまを見つけた時、志貴さまは雨に濡れていたんです」
「……………」
そうか。そんなコトさえ、記憶にはない。どうやらよっぽど重い貧血だったみたいだ。
……こんなコトなら、無理をせずに学校で休んでいればよかった。
「おやすみ。今日は本当にすまない。琥珀さんにもお礼を言っておいてくれ」
「かしこまりました。―――それではおやすみなさいませ」
「――――夢、か」
まるで実感がわかない。
あの夢の内容も実感がわかなければ、
アレが夢なのだという実感も。
外では、ざああ、という雨の音。
頭はまだかすかに重い。
ふと自分の胸を見る。
……八年前の古傷は、いまも火傷の痕のようにくっきりと残っている。
「あ―――」
部屋の机の上には、父親からの形見分けであるナイフが置かれている。
あの、白い女性を十七個に解体した、旧い刃物が。
「―――――」
……あれは夢だ。
夢以外の何物でもないじゃないか。
自分自身を誤魔化すようにそう繰り返して眠りにつくことにした。
……子供のころ。
自分自身さえも騙せない嘘はつくな、と誰かが言っていた気がするけれど。
[#改ページ]
●『3/黒い獣T』
● 3days/October 23(Sat.)
―――気がつくと朝になっていた。
雨は止んだらしく、ざあ、という雨だれの音は聞こえない。
外は曇っているようで、窓ごしの陽射しはそう明るくはなかった。
「は――――あ」
長くため息をついて、ベッドから起きあがる。
……昨夜は深く眠れなかった。
うつらうつらと眠って、そのたびにあの光景が脳裏に蘇ってすぐに目を覚ましてしまう、といった繰り返しのためだ。
「……真っ赤な床とバラバラの手足、か……」
理性や記憶はこういう時に不便だと思う。
忘れたいコトばかり、逆に思い出させようとするんだから。
「ただのユメだったのに―――なにをいつまでうなされてるんだろう、俺は」
……そう、ただの夢なんだから。
早く、一刻も早く忘れてしまえ。
コンコン。
扉がノックされる。
時計は朝の六時すぎ。
……こんな早くから誰だろう、一体?
「―――失礼します。
志貴―――さま。お目覚めでいらしたんですか」
「うん、昨日の夕方から寝てたから早くから目を覚ましたんだ。で、翡翠のほうこそどうしたの? こんな早くから何かあるのか?」
「……………」
翡翠は黙ってしまう。
と、よく見れば翡翠の手にはうちの学校の制服がある。
「そっか。着替えを持ってきてくれたんだ」
「……はい。申し訳ありません。お見苦しい所をお見せしました」
「?」
翡翠は押し黙ってしまう。
……どのあたりがお見苦しい所なのか、こっちにはてんでわからない。
「……よくわからないけど、とにかくサンキュ。着替え、そこに置いておいて。すぐに着替えて居間に行くから」
はい、とうなずく翡翠。
「それでは失礼します」
音もなく歩いていく翡翠。
と、トウトツに彼女は振り向いた。
「志貴さま。……その、お時間があるのでしたら入浴の用意もいたしますが」
「……入浴って、朝から?」
「はい。志貴さまはひどく汚れています。学校に行く前にお体を洗われたほうがよろしいのではないでしょうか」
翡翠はいつも通りの無表情さで、淡々とそんな事を言ってくる。
……言われてみれば、体は汚れている。
昨日、貧血で公園に倒れていたそうだから、それも当然といえば当然か。
「───そうだね、悪いけど用意してくれる? この時間なら学校にも十分間に合うし」
「かしこまりました。では二十分ほど経ちましたら浴場においでください」
翡翠は制服を置いて部屋から出ていった。
時刻はまだ朝の六時。
何をするでもなく、二十分間ぼんやりと部屋の天井を見上げ続けた。
風呂に入って頭から水をかぶると、少しだけ気分はスッキリとしてくれた。冷たい水に髪を濡らしながら、はあ、と深呼吸をする。
……しかし、厭な夢だった。
あんなキレイな、見ず知らずの女の子を殺す夢を見るなんて、どうかしてる。
なれない屋敷の生活でどうかしていたからって、たった一日であんな夢を見ているようじゃこの先が思いやられるってものだ。
「……はあ。気を引き締めなくっちゃな、実際」
もう一度冷たい水をかぶって頭をスッキリさせて、体を洗う。
「痛っ………」
タオルが喉に触れただけでズキリと痛んだ。
「……なんだ、これ」
鏡で自分の首筋を見る。
……なぜだろう。
喉は赤く腫れあがっていた。
まるで、何度も何度も嘔吐して痛めつけたように。
部屋に戻って制服に着替える。
時刻は七時をまわったばかり。
風呂あがりでスッキリした自分に呆れながら、鞄をもって部屋を後にした。
階段を下りると、ちょうど琥珀さんが居間から出てきたところだった。
「おはようございます志貴さん。今朝は早いんですね」
琥珀さんは笑顔のままおじぎをしてくる。
「それになんだかサッパリしてらっしゃいます。もしかしてお風呂あがりなんですか?」
「うん、さっきまで入ってたんだ。すごいな琥珀さん。そういうの、わかるものなの?」
「あは、こんなの一目瞭然ですよ。志貴さん、髪が乾ききってませんから。お風呂あがりだと志貴さんは可愛らしくなるんですね」
にっこりと屈託のない笑顔を向けられて、ちょっとだけ視線をそらした。
その、なんていうか、気恥ずかしくて。
「ちょっと待っててくださいね。朝ごはん、これから支度をしますから」
「え―――?」
……朝、ごはん。
えっと、つまり、何か食べるっていうことか。
些細な言葉で血の色を思い出す。
今は、あまり食欲がない。
「昨日と同じで朝ごはんは洋風でいいですよね、志貴さん」
「――ああ、うん。基本的にどっちでもいいけど。そっか、朝ご飯か。あんまりにもお風呂が気持ち良かったから忘れてた」
「そうなんですか? 志貴さんは昨夜も食べていませんから、おなかの音で目を覚ましたのかなって翡翠ちゃんと話してたんですけど」
「あはは、残念ながらそれはバツ。子供のころから小食でね、一食二食抜くのはよくあるコトだったんだ」
「ははあ。言われてみると、志貴さんって贅肉のないいい体してますものね。もしかして菜食主義者さんですか?」
「さあ、どうだろう。言われてみれば有間の家では野菜ばっかり食べてた気がするけど」
……まあ、それは医者からの退院後の食生活の指示だったわけだけど。
「好き嫌いはないんですね。それなら安心してお食事を作れます。さ、すぐにお作りしますから居間で待っていてくださいな」
琥珀さんは忙しそうに居間へ踵を返す。
―――けれど、今はあまり食欲がなかった。
「あ、いいんだ琥珀さん。今日は食欲がないからこのまま学校に行くよ。秋葉にもそう伝えておいてくれ」
それじゃあ、と玄関へと歩いていく。
と、唐突に、がしっと腕を掴まれた。
「志貴さん!」
「───え?」
……信じられない。
琥珀さんが、怒ってる。
「なんてこと言い出すんですかっ。志貴さん、今朝は鏡をご覧になってないんですか!?」
「……あ、いや、鏡なら風呂場で見たけど……」
「うそですっ。ご自分の顔を一度でも見ているんなら、そんなコト言えません!」
琥珀さんは真剣に怒ってる。
……そういえば風呂場で見た自分の顔は、青を通り越して土気色っぽかった気がするけど。
「大丈夫だって。俺、もともと血の気がないから人より顔色が悪く見えるだけなんだ」
「だめです、朝ごはんを食べないと大きくなれないんですから! 食欲がないようでしたら病人食にいたしますから、どうぞ食堂にいらしてください」
琥珀さんは俺の腕を掴んだまま、強引に居間へと歩いていく。
……仕方ない。
本当に気乗りはしないけど、ここは琥珀さんの好意に従うとしよう。
「おはようございます、兄さん。お体の具合はよろしいのですか?」
秋葉は遠慮がちに挨拶をしてくる。
昨日の気丈さがないのは、一応こっちの体を心配してくれているからだろう。
「ああ、おはよう。体のほうは、まあ、それなりに調子はいいよ」
挨拶を返して食堂に向かう。
「あっ、志貴さんはここでお待ちになっててください。出来ましたらお呼びしますから」
琥珀さんは一人食堂に消えていく。
居間には自分と元気のない秋葉、それに壁際に無表情で立っている翡翠の三人だけになる。
「……………」
……なんだか、気まずい。
「兄さん、昨夜の事ですけど。公園で倒れていたというのは本当なんですか?」
「そうみたいだな。自分でもいまいち覚えてないんだけど、琥珀さんと翡翠がそう言うんならそうなんじゃないか?」
「もうっ、他人事のようにおっしゃらないでください。兄さんは体が弱いんですから、危ないと察したら屋敷のほうに連絡をいれてください。すぐに迎えの者を行かせますから」
「……あのな。小学生じゃないんだから、そんなのは必要ないよ。どんなに気分が悪くたって自分一人で帰ってこれる」
「それでは兄さんはまだ子供なんですね。昨日は一人では帰ってこれなかったじゃないですか」
「―――む」
悔しいが、秋葉の言うとおりだ。
「……昨日は特別。あんなコトは滅多にないよ。だいたいな、俺は慢性的な貧血持ちなだけで体が弱いわけじゃないだろ。いちいち秋葉に心配される筋合いはないよ。
昨日は単にちょっと、なんていうかさ、致命的にタイミングが悪かっただけなんだ」
「致命的って、罵伽なことは言わないでください! 屋敷に帰られたばかりだっていうのに、兄さんに死なれたら私はどうすればいいんです……!」
秋葉は真剣に怒っている。
「まったく、兄さんは軽率すぎます。もう少しご自分の体のことをいたわってあげてください」
「そんなコト言われてもなあ。俺だってあんまり無理はしてないよ。部活だってやってないし、医者の言うことは全部守ってるし。……そうだな、これ以上いたわれっていうんなら、どっかのサナトリウムにでも入るしかないんじゃないか?」
「ええ、出来ることならそうしてやりたいぐらいです」
むっと視線をそらして、秋葉はなんだかとんでもなく恐いことを言う。
言いたい事を言ったからだろうか、秋葉はすっきりした様子で優雅に紅茶を飲み始めた。
翡翠はというと、壁際に彫像のように立ち尽くしているだけだ。
「…………」
なんというか、会話に困ってしまう。食事が出来るまでまだ時間がありそうだし、ここは――屋敷について話をする。
「そうだ秋葉。うちの屋敷って、今はどうなっているんだ?」
「どうなっている、とはどういう意味ですか? その、所有権の問題でしたらいずれ私が相続するカタチになっていますけど」
「いや、そういう事じゃないんだ。いま屋敷にいるのは俺と秋葉、琥珀さんと翡翠だけなんだろ?
使ってる部屋とか、そういうのはどうなっているのかなって」
「どうなっているもなにも、私たちの部屋以外は原則として鍵を閉めていますね。
兄さんの部屋は西館二階の奥、私の部屋は東館二階の奥です。
翡翠の部屋は西館二階の、階段手前の部屋で、琥珀の部屋は西館一階の手前です。
お父様のお部屋は琥珀の部屋の隣で、一応ここは開けてあります」
ちなみに居間はロビーからすぐ右に曲がったところにある。秋葉のように言うなら東館一階ロビー手前、というところか。
「この居間のとなりにある遊戯室と客間は閉めてありますけど、兄さんがお友達をお連れになられるのでしたら開放します。
書庫は、その……よくない噂がたってしまったので現在は立ち入り禁止にしてあります」
「なるほどね。オッケー、わかった」
その、立ち入り禁止の書庫というのはなんだか全然関係ないところで怪しい気がするけど、とりあえず俺にはまったく関係のない事だろう。
「志貴さーん、ご用意できましたー」
食堂から琥珀さんの声が聞こえてくる。
「んじゃ、そういうわけでメシ食ってくる」
「兄さん。その乱暴な言葉づかいはやめてください」
きりっ、と秋葉は視線を鋭くする。
「なんだ、すっかりもとの調子に戻っちゃったな。俺の心配をしてくれてたほうが大人しくて良かったのに」
「私、兄さんの心配なんてしてませんっ」
秋葉はぷい、と顔を背ける。
それを微笑ましく眺めながら、食堂に移動した。
◇◇◇
翡翠に見送られて外に出る。
「いってらっしゃいませ」
と、翡翠はいつもどおりの台詞をいった後、じっと視線を向けてきた。
「志貴さま、昨日はどうなされたのですか」
「昨夜って、別に何もないよ。学校で気分が悪くなって、早退して、帰ってくる途中で―――」
―――途中で?
「公園でダウンしただけだから。まあ、たしかに秋葉の言うとおり軽率ではあったかな。……うん、これからは気をつけるよ」
「責めているのではありません。ただ、今朝の志貴さまはひどく無理をしているように見えます。どうか道々、お気をつけくださいませ」
翡翠は深々とおじぎをして送り出してくれた。
学校に近付くにつれ、学生服姿の生徒たちを多く見かけるようになってくる。
今日は土曜日ということもあって、たいていの生徒は笑顔で道を歩いていっている。
この交差点を抜けてしばらくすれば正門だ。
時刻はまだ七時半ごろ。
今日は余裕をもって登校できそうだ。
信号器が赤になって、横断歩道の前で立ち止まる。
この歩道の向こうはすでに学校の塀がある。
通学路だから歩道はガードレールに守られていて、今も我先にと生徒たちが校門へと向かっていた。
この時間、向かいの歩道にはうちの学校の生徒しかいない。
しかいない筈だ。
なのに、車がせわしなく走っていく合間に、白い人影を見た気がした。
[#挿絵(img/アルクェイド 12.jpg)入る]
「─────な」
そこにいたのは、彼女だった。
肩口までの金の髪に白い服。
細く長い眉と赤い瞳。
たった一度しか見てはいないけれど、俺がその姿を見間違えるはずがない。
「──────」
けど、そんな筈はないんだ。
だって彼女は、昨日俺の手によって、バラバラに殺されたんだから。
「な────」
いや、それさえ嘘だ。
だってアレは夢の中の出来事だったって、翡翠が言ってくれ――――
「―――――」
言ってくれてなんか、ない。
それは。自分自身で、そう思い込みたかっただけの話だ。
だからアレは夢なんかじゃなくてホントの話。
けど、それなら。
どうして、どうしてアレが、あんなところで、現実として存在しているんだろう―――?
信号が青にかわる。
まわりの生徒たちは向こう側へと歩いていく。
その中で、自分だけが立ち止まったまま呆然としていた。
彼女はガードレールに腰をかけて、足をぶらぶらとゆらしている。
まるで何か、誰かを待っているような様子。
どれくらい待っているのかは見当もつかないけれど、彼女の表情に険しいものはない。
───誰を待っているのだろう。
まるで恋人と待ち合わせをしているふうに、彼女はそわそわして落ち着いていない。
───イヤな、予感がする。
「あ―――――」
白い女がこっちを見た。
たぶん、そんなのはただの偶然。
アレはただ似ているだけの他人で、彼女は別の誰かを待っているに決まってる。
そうでなければ、この瞬間こそ悪い夢だ。
だって、彼女はこの手で、完膚なきまでに殺したはずなんだから――――
けれど、女はこっちを見て笑っていた。
『やっと来たわね』と自分を殺した相手を見付けて、心の底から満足そうに―――
女は親しげに手をあげて笑みをむけると、ガードレールから腰をあげた。
さらり、と髪をなびかせてこっちに向かってくる。
「───────来る、な」
悪い、夢だ。
信号が赤になる。
「―――――――来るな、よ」
彼女は気にした風もなく、車が行き交う道路を一直線に横断してくる。
あと、ほんの数メートルも距離はない。
「……来るなって言ってるのに――――!!!」
大声をあげても目の前の現実は変わらない。
そのまま、俺は自分でもよくわからない声をあげて、白い女から逃げ出していた。
走った。
全力で走った。
恥も外聞もなく、通り過ぎる人達を弾きとばしながら、アスファルトの上を全力疾走した。
「はっ、はっ、はっ、はっ─────!」
呼吸が乱れて、心臓がばくばくと悲鳴をあげる。
それでも走った。
走らないと気が狂いそうだった。
後ろを見る。
白い服の女が歩いてくる。
間違いなく俺を追ってきている。
俺が殺した女が、俺を追いかけてきている。
走る理由は、それだけで十分すぎた。
「はっ、はっ、はあ──────!」
爆発しそうな心臓を無視して走り続ける。
振り返るとあの女の姿がある。
とことこと軽い足取りで逃げる俺を追ってきている。
「はっ、はっ、はっ、はっ─────!」
顎があがる。
両腕がだるい。
足はとっくに千切れそうだ。
だっていうのに、
こんなにも全力で走っているのに、どうして歩いているだけの相手をふりきれないんだ──!
「はっ、はっ、はっ、はっ────」
息があがる。
もう何キロ全力で走ったろうか。
それでも振り返ればあいつが歩いてやってきている。
自然に、散歩するような足取りでピッタリとくっついてきている。
「………はっ、はっ、はっ、はは、はははは」
おかしくもないのに笑って、笑いながらまだ走った。
「はは、ははは、あははははははは!」
笑いが止まらない。
それでも走って、これ以上走れば死んでしまうって体が訴えているのに、まだ走った。
走る理由は簡単だ。
だってあいつに追い付かれたら、俺は間違いなく殺される。
何を根拠に、と自分自身でそんな妄想を笑い飛ばしても、そんなのが気休めだってのはやっぱり自分自身が一番よくわかっていた。
理由も根拠も証拠もない。
ただもう真実として、遠野志貴は、あの女に追い付かれたら殺されるって理解している─────
「あっ───」
無様に地面に倒れこんだ。
足がもつれてではなく、もう一歩も体が動かなくなって、前のめりに倒れこんだ。
「ぐっ───は、あ」
倒れたまま這いずって、なんとか壁ぎわに辿り着く。
「────」
壁に手をかけて立ち上がろうとしたけれど、ダメだった。
立ち上がったとたん膝から力を失って、ドスンと尻餅をつく。
そのまま、体はもう動いてくれなかった。
「はあ────はあ、はあ────」
顔をあげて息を吸う。
────苦しい。
まったく酸素がぜんぜん足りない。
おかげで頭がまともに動きやしない。
自分がなにをしているのかもちんぷんかんぷん。
どうしてこんなコトをしているのかわからない。
どうして、なんで、なんで殺した女が生きているのかもわからない。
間違いなく完璧に、およそ考えられる最終的なカタチで俺はあいつを殺した。
なのになんで、
あいつは学校の前で俺を待って、あんなふうに楽しげに笑いかけたり出来るんだろう──?
「……確かに、殺したのに」
―――そうだ。
たしかに殺したのに、
たしかに殺したのに、
たしかにころしたのに、
たしかにコロシタノニ、
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで──────!?
「あれ、追い掛けっこはもう終わり?」
カツン。
路地裏に軽やかな足取りでやってきた女は、残念そうに肩をすくめた。
「こんにちは。昨日は本当にお世話になったわ」
女はにこりと笑顔をうかべて、かつん、と音をたてて路地裏に入ってくる。
――――逃げなくちゃ。
そう思って後に退こうとして、がつん、とコンクリートの壁に頭をぶつけた。
「追い駆けっこは終わりなんでしょ? だってここ袋小路だもん。くわえて人気もないから、他に邪魔が入る心配もないし」
よっぽど嬉しいのか、女は笑顔のままだった。
あわてて周囲を見渡す。
路地裏に人気はなくて、自分のバカさかげんに本当に愛想がつきた。
こんなところに逃げ込むなんて───自分から殺してくださいと言っているようなものじゃないか。
「長かったなぁ。あれから十八時間、ようやく標的をつかまえた」
かつん、とさらにもう一歩、女は路地裏に入ってくる。
「お、おまえ────」
「なに?」
「おまえは、たしかに────」
「ええ。昨日貴方に殺された女よ。覚えていてくれて嬉しいわ」
「ばっ───」
嘘だ、そんなバカな話があるもんか……!
「ふざけるな、死んだ人間が生きてるハズがないだろう!」
「そうだけど、そう驚く必要はないんじゃない? たんに生き返っただけなんだから」
あっさりと答えて、女はかつん、と音をたてる。
女との距離は、段々と狭くなっていく。
「……生き……返った?」
呆然と女の台詞を繰り返す。
生き返ったって事は、あのあと医者にでもかかって手術のすえに回復したのだろうか……?
「―――って、罵迦にすんなっ! あんなに手足をバラバラにされて生き返る人間なんているはずがないだろ───!」
「うん。だってわたし、人間じゃないもの」
「─────は?」
女の言葉の意味は、その、あんまりに簡単すぎて違う解釈ができない。
わたしは人間じゃない。
たしかに、目の前の女はそう言い切った。
「……人間じゃ、ない……?」
「もう、そんなの当たり前でしょ。手足をバラバラにされて、ひとりでに再生できる人間がいると思う?」
「───────」
そんな人間、いるわけがない。
そんなのは人間に似ているだけのまったく違う怪物だろう。
殺しても蘇る。
息の根を止めてもおかまいなし。
ばらばらにしても、すぐに元通りになって動きはじめる人間とは呼べないもの。
「う────そ」
それが、今自分の目の前にいる女の正体らしい。
笑おうとして声をあげたけれど、喉は乾いてうまく笑えなかった。
「……なんだよ、それ」
笑い話にしてはあんまりに出来が悪い。
加えて、笑い話にできない材料がとりあえず揃っている。
だって、確かに。
この女が人間じゃないのなら、殺したはずなのに生きているってコトに、道理が通るかもしれないじゃないか。
―――頭の芯が落ち着いていく。
とりあえずよく見て。
そのあとで色々と考えなくっちゃいけない状況だ、これは。
「……人間じゃないって言ったな。それじゃあナンなんだ、おまえ」
「わたし? わたしは吸血鬼って呼ばれてるけど。あなたたち流に言えば人間の血を吸って生きてる怪物かな」
……良かった。
なにが良かったかって、吸血鬼っていう単語は、それなりに解りやすかったから。
「そう、吸血鬼なんだ───」
ええ、と女は満足そうに笑った。
……なんて、ふざけた返答なんだろう。
吸血鬼って昼間は歩けないっていうのが通説なんじゃないのか。
まあ、今はそんなコトなんて些細な問題かもしれないが。
「……で。その怪物が俺なんかに何の用だっていうんだ」
なぜか、女はびっくりして身をひいた。
と、それも束の間で、すぐに両手を腰にあてて、むっとした眼差しを向けてくる。
「貴方、昨日わたしに何をしたか忘れたの? あなたは見ず知らずのわたしを、会った瞬間にバラバラに殺してくれたのよ。それなのに何の用だ、なんてよっぽど手慣れてるみたいね」
怒っている、いうより呆れているみたいだ。
でも、今はこっちだってそんな気分をしている。
なにしろ自分が殺した女に、よくも殺してくれたわねって恨み言を言われているんだから。
「ちょっと。聞いてるの、殺人狂」
「……ああ、聞いてる。我ながらものすごい悪運持ちだなって、いま噛み締めてるところなんだ。悪いけど、ちょっと黙っててくれないか」
───ったく、ほんとになんて悪い運なんだろう。
理由もなく、突然殺したくなった女がいて、そのまま勢いにまかせて殺してしまった。
そのあとの記憶が曖昧で、それは夢だったのかと安心していたらそれはやっぱりホントのことで。
くわえて、実は殺した相手が人間じゃなかったときた。
「――――――は、はは」
つい笑ってしまう。
……けど、そう悲観したことばかりじゃない。
だって殺した相手が生き返ってるんだから、俺は誰も殺してない事になるじゃないか。
そりゃあ『殺した』っていう行為は残るけど、彼女はちゃんと生きている。
―――それだけは。
正直、喜ぶべきことだと思う―――
ああ、これならとりあえず生活は元通り。
遠野志貴は今までどおりのスクールライフを送れると思う。
……まあ、そのかわりになんかとんでもないヤツにこうしてライブで追い詰められてるってワケなんだけど、人殺しになるよりは遥かにラッキーだって言えるかもしれない。
「……オーケー、落ち着いた。言いたい事があったら聞いてやるよ。文句でも恨み言でも思う存分言ってくれ」
「そりゃあ言いたいコトはいっぱいあるけど……貴方、変わった人ね」
「開きなおってるだけだ。これでも突飛なことにはそれなりに耐性がついていてね」
まあ、それでもこんなケースにはついていけないけど。
「ふーん………」
女はじろじろと眺めてくる。
その視線には敵意というものがない。
……おかしいな。やられたらやり返すっていうのは、きっと世界で共通の法則だと思う。
そうなるとこの女は俺を殺そうとしているはずなんだけど―――
「――なに人のことをじろじろ見てるんだ。おまえは俺に復讐しにきたってワケなんだろ。なら――」
「ええ、たしかに殺したら殺し返すっていうのはセオリーよね。
それがお望みならしてあげるけど、とりあえず今はパスかな。それ、効率が悪いから」
女はじっ、と真っ正面から俺を見据えてくる。
「ねっ、反省してる?」
「――――え?」
一瞬、目が点になった。
この相手が、なにか―――ひどく場違いな声を出したから。
「わたしを殺しちゃったことを反省してるかって聞いてるの。
それでね、もし貴方が反省してるっていうんなら許してあげようかなって。
貴方、人間にしては嘘が下手そうな感じだし」
「反省って―――俺が?」
「うん。貴方がわたしにごめんなさいって言ってくれれば、わたしとしてはそれでいいよ」
―――信じ、られない。
なにが信じられないかって、それは。
自分を殺した相手を許すとか許さないとかじゃなくて、その―――この相手の声が、ひどく優しく聞こえてしまった事が。
「もうっ。人が真面目に聞いてるんだから、ちゃんと答えるのが筋ってものでしょ。ほら、早く答えて答えて。貴方が反省してるのかしてないのか、はっきりさせないと先に進めないんだから」
女はぷんぷんと怒っている。
―――反省しているか、だって?
そんなの、言われるまでもなく―――
「……そりゃあ後悔してる。何であれ、俺は、人を殺してしまったんだから」
容赦なく、なんの理由もなく、ただ自分のためだけに殺してしまった。
「……殺したって事も後悔してるけど。なにより、俺はあんたを手にかけた。だから―――」
……ああ、生き返っているから問題ない、とかいうのは嘘だ。
遠野志貴は、目前の女性を殺してしまった。
それは究極の略奪というか、これ以上ないっていうぐらいの暴力だと思う。
「だから―――あんたは、俺に復讐していいんだって――こうして俺に復讐に来たんだなって、当たり前のように、思ってた」
……俯いたまま。
誰に告白するのでもなく、そんな言葉を呟いた。
「―――そっか。うん、いい人なんだね、あなた」
女は、笑った。
自分のことを吸血鬼だなんて言うクセに、すごくまっすぐで、これ以上ないっていうぐらいの顔で。
「決めた。やっぱり貴方にはわたしの手伝いをしてもらうわ」
「え―――――?」
手伝いって、何を言っているんだろう、コイツは。
「……おい。手伝いってなんだ」
「簡単よ。この街に根付いている吸血鬼の始末を貴方に手伝ってもらおうかなってこと」
「――――?」
……ちょっと、ますますわからない。
「吸血鬼の始末って、だっておまえは―――」
「ああ、ちがうちがう。確かにわたしも吸血鬼だけど、この街に根付いている吸血鬼はまた別物よ。
貴方、この街に住んでいる人でしょ? なら最近起きている殺人事件も知ってるわよね」
「ああ、もう何人も殺されてる事件だろ……って、ちょっと待った」
……思い出した。
そういえば、あの通り魔殺人の犠牲者は、その全てが血液を搾取されていたとかいなかったとか。
「まさか、それって――――」
「まさかもなにも、ちゃんとニュースで『吸血鬼のしわざかっ』って言ってるじゃない。
おかしな話よね、ちゃんと犯人が何であるかわかってるのに誰も吸血鬼退治をしないんだもの。だから代わりにわたしがやってあげるしかないじゃない」
「いや、だって―――吸血鬼なんて存在しないだろ」
「むっ」
女は不機嫌そうに眉をよせる。
……そうだった。
いま自分の目の前にいるのは、自分から吸血鬼を名乗っている正体不明の存在だったっけ。
「―――よく、わからないけど。つまり、おまえは街で人を殺している吸血鬼を退治するって言いたいのか……?」
「そうなんだけど、その前になぜか見も知らずの殺人鬼に襲われて、いきなり殺されちゃったのよ。
うん、アレにはまいったなあ。もうかんっぺきな不意打ちで、反撃する間もなく十七つに切断されたんだから」
「う――――」
そうか。その殺人鬼って、ようするに俺のことを指しているのか。
「そうよ。わたしね、こうして復元するまでは本当に貴方を殺すつもりだったわ。あんな屈辱を受けたのは初めてだったし、復元しきるのに八割以上の力を消費してしまったわけだし」
「けど、それよりなによりほんっっっとうにもの凄く痛かったんだから。
あんまりにも痛いから気がふれそうになるんだけど、やっぱりあんまりにも痛くて正気に戻るの。
そんな繰り返しを一晩体験したわたしの気持ち、わかる?」
「……………」
わからない。
というか、わかりたくない。
「それでね、もう憎くて憎くて貴方を捜したわ。目的である吸血鬼のコトも放っておいたぐらい、ただそれだけに熱中したのよ。
それで貴方があの学校の学生だってわかって、それじゃあってあそこで待つコトにしたの」
「……わからないな。そこまで憎かったのに、どうして俺のことを許すなんて言うんだ、おまえ」
「―――そうね、簡単に言えば時間がたって冷静になったのかな。
わたしのほうも力を消費しちゃったコトだし、ここは貴方を殺すより盾になってもらったほうが効率的だなって考えたの」
「……ちょっと待て。いま、なにかよからぬ事を口にしなかったか、おまえ」
「え? そんなこと言った、わたし?」
「人のことを盾にするって、言った」
「そんなの当然じゃない。わたしは貴方のことを許したけど、それはわたし個人の感情に整理をつけただけだもの。貴方が犯した『殺害』っていう行為そのものは、やっぱり気持ちじゃなくて行為で贖うしかないでしょ?」
「―――いや、でしょって言われても」
「なによ、素直なんだかいじわるなんだかわからないひとね。繰り返すけど、わたしは貴方に殺されたのよ。
想像できないでしょうけど、一度死んでから蘇生するのにはそれなりに力を消費するんだから。
まあ単純に殺されただけならどうってコトないんだけど、貴方の方法は今まで見た事もない切断方式で、傷口が繋がらないから体を作り直すしかなかったの。
その結果、わたしは生き返るのにほとんどの力を使ってしまったわけなんだけど─── 」
ぷんぷん、という擬音が似合いそうなほど、女は腹を立てている。
……というか、今まで忘れていたけれど、話にした事でその時の怒りを思い出してしまったらしい。
「とにかく、今のわたしは弱ってるの! 二晩も経てば回復すると思うんだけど、その前に『敵』に襲われたら危ないじゃない。
だからその間、貴方にはわたしの盾になってもらうからね」
「いや、もらうからねって―――なに勝手に決めてるんだよ、おまえ」
「なによ。貴方のせいでこうなったんだから、それぐらいはして当然でしょう?
それとも、やっぱり反省なんかしてないっていうの?」
じっ、とまっすぐな目で女は見つめてくる。
「……………う」
それは、卑怯だ。
反省とかそういうコト以前に、そんな目をされるのは、卑怯だ。
……自分のことを吸血鬼だなんて言ってるクセにそんな純粋な目をするのは、反則だと思う――
「俺は、その―――」
返答に困って、なんとなく視線を上げた。
「……あれ?」
……なんだろう。
ビルとビルの切れ間に、なにかおかしなモノがある。
「ちょっと待った。アレ、なんだろう」
立ちあがって歩く。
路地裏の真ん中あたりまで歩いて、ようやくビルとビルの切れ間にいるモノがなんであるかわかった。
そこにいたのは、蒼い鳥だった。
正確にいうのなら鴉、というべきだろう。
……蒼い、カラス。
それは、二日前の夜に見た、不吉なモノではなかったか―――
「―――まいったな」
ぽつり、と女が呟く。
鴉はじぃ、と自分たちの様子を見つめている。
「もうっ。貴方がいつまでもぐずぐずしてるから見つかっちゃったじゃない」
女は路地裏の入り口を見ている。
「見つかったって、なにが」
路地裏の入り口に視線を送る。
―――――、と。
「―――――!」
びくっ、と思わず体が一歩引いてしまった。
いつのまにか、路地裏の入り口である細い道に一匹の犬がいた。
どこか歪つフォルムをした強靭な四肢と、ピン、とはりつめた鉄骨のような首。
人間とは大きくかけはなれた、『獲物を狩る』ことだけを追求したそのフォルム。
……そこに、言葉による威嚇など必要ない。
たいていの人間は、この種の『狩猟』動物を見ただけで緊張してしまう。
その、同じ生物として、絶望的なまでに優れた運動能力への畏敬として。
「……黒い、犬……?」
―――びくん、と体が震える。
……こっちを見ているあの黒犬は野犬と言い捨てられる大きさじゃない。
シェパードとかドーベルマンほどの大きさをした黒犬は、ただそこにいるだけでこちらを威圧しているようだった。
「…………」
彼女は何も言わず、つまらなそうな目をして黒犬を見つめている。
と。
唐突に、黒犬は跳んだ。
いや、走ってきた。ただそのスピードが速すぎて、跳んだとしか認識できない。
「――――――え?」
何もできない。
黒い犬は、その予備動作さえ感じさせないまま俺の喉元へと飛びついてくる。
見えているのに。
黒い肢体がやってくるのが見えているのに、自分は避ける事も、避けようという考えもうかばなかった。
ドン、という衝撃が体に走る。
「ぐっ―――――!」
いきなり横殴りに弾き飛ばされた。
黒犬に食いつかれた事による衝撃じゃない。
俺の体は、黒い犬に首を噛み砕かれる前に、いきなり女に弾き飛ばされたらしい。
その、まるでボールでも投げるような無造作な動作で、女は俺を片手で壁際まですっとばした。
「っ―――――!」
ダン、と派手な音をたてて、俺は尻餅をついてしまっている。
「こ……のぉ! おまえ、いきなり何するんだ!」
「いいから前!」
女が叫ぶ。
見れば―――俺という標的を失った黒犬は、そのまま壁まで跳躍していた。
ぴたり、と黒犬はトカゲのように壁に張り付いて、また跳んだ。
タン、と壁からこちらに向かって反射してくる。
黒犬の軌跡は、さながら黒い稲妻のようだった。
「―――!」
あまりに速すぎて反応できない。
黒犬は牙と唾液にまみれた口をあけて、今度こそ、俺の喉笛へと食らいつく―――
「くっ………!」
思わず目を閉じる。
喉に、黒犬の牙が食い込む。
が、その瞬間。
きゃん、と鳴き声をあげて、黒犬の牙は俺の喉元から離れていった。
「え―――?」
―――そんな、バカな。
黒い犬は、鳴き声をあげて真上に跳ね上がっている。
何もないのに、独りでに空高く舞い上がってしまっている。
そのまま――――何メートルも空中に跳ね上げられた黒犬は、きゃん、とやけに可愛い鳴き声をあげて、そのままコンクリートの上に落下した。
いや、正しくは。
コンクリートの上に、激しく叩きつけられた。
「――――なんだ、いまの」
「―――もう。また無駄な力を使っちゃったじゃない」
女は静かに黒犬へと近寄っていく。
黒い犬はコンクリートの上で押し花のようにペシャンコになっている。
「―――とんでもなく雑種の使い魔ね。……ようするに偵察役っていうことかしら」
黒い犬は、そのままコールタールみたいな黒い液体になって、コンクリートに吸いこまれていった。
「……溶けた……ううん、今のってもしかして融けたのかな。――――まさかね。こんなところに混沌があるわけないか」
ふう、と女は長い息をはいて、俺のほうへとやってくる。
「ふうん。とりあえず傷はないようだし、問題はないわね」
……女は何かぶつぶつと言っている。
俺は―――たった今、自分の喉元に食いついていた犬の牙の感触に、今更になってゾクリとしたモノを感じていた。
「おい―――今のは、なんだよ」
「敵の吸血鬼の使い魔よ。貴方がはっきりしてくれないから見つかっちゃったわ」
「見つかったって―――えっと、さっきおまえが言ってた敵の吸血鬼っていうヤツにか……?」
「ええ、ちょっとまずい展開になってきた。こうなったら本当に貴方には盾になってもらわないといけないみたいね」
さらり、と。
とんでもない事を、こいつは笑顔で言ってくる。
「ばっ―――バカなこと言うなよ、このばかっ! 今の見てたろ、俺に何ができるっていうんだ! 俺なんかよりおまえ一人のほうがよっぽどマシなんじゃないのか……!」
「そうでもないわ。だって、いま貴方を守るために力を使っちゃって、本当にカラッポになっちゃったから」
「なっ―――」
なんだよ、それ。
そりゃあとっさに庇ってくれて助かったけど、それにしたって―――
「……無理だ。無理だよ、俺にはあんなのを追い払う力はない。悪いけどさ、盾にだってなりゃしない」
「――――嘘よ。貴方はわたしを殺したのよ。その貴方がどうしてそんな嘘を言うの?」
「殺したって、アレは―――」
自分でも、自分がわかっていなかった時の話じゃないか。
「―――ダメだ。とにかく無理だ。俺は普通の人間なんだ。おまえの手伝いなんて、できない」
「……ふうん。それじゃあわたしが眠っているあいだ、まわりを見張ってくれてるだけでいい。それぐらいなら問題ないでしょう?」
「それは―――」
女はじっと、まっすぐに見つめてくる。
……その目をされると、なぜか弱い。
俺は――
「俺は―――」
……できない、とどうしても言いきれない。
だって、俺はコイツを殺してしまって。
そのせいでコイツは弱っていて、誰かの助けを求めているんだ。
―――責任は、たしかに自分にある。
それに本当に少しの間だけだったけど、コイツはそう悪いヤツじゃないって思える。
「ねえ、どうなの? やっぱり人間の貴方としては、吸血鬼であるわたしに協力はできない?」
「――――まあ、それは当然の答えだけど」
「――――」
ああ、だからそういう目をするなっていうんだ。
……なんでか。罪悪感に負けて、断りきれなくなってしまうから。
「けど、乗りかかった船だしな。ここで知らんふりするのも目覚めが悪いし」
―――ああ、もう。絶対に後悔するんだろうな、俺は。
「……だから、いいよ。それぐらいなら俺にもできそうだし、なにより相手は街で通り魔殺人なんかをやってるヤツなんだろ。
ならさ、この街に住んでる人間として、おまえの手助けぐらいしないとバチがあたりそうだ」
「え――? それって、つまり―――」
「盾になるのはお断りだけど、見張りぐらいはしてやるってコト」
そう口にした途端、自分のバカさ加減に本当に愛想がつきた。
いや、愛想が尽きた、んだけど――――
「――――――」
その、こいつの。心底驚いたような顔を見たとたん、なんていうか―――
「うわあ、本当にいいの!? わたし、本当に吸血鬼なんだよ!?」
「……あのな。散々人を脅しておいて、今さら何を言ってるんだよ、おまえは」
「あ……うん、それはそうなんだけど―――
―――ま、いっか! 協力してくれるんだから、感謝しないといけないよね!」
……やけに嬉しそうな顔をして、女は壁際で尻餅をついている俺に近寄ってきた。
「それじゃあこれで契約は成立、と」
女はしゃがみこんでいる俺に手を差し伸べてくる。
「これでやっと自己紹介ができるわね。
わたしはアルクェイド───うん、長い名前だからアルクェイドだけでいいわ。真祖って区分けされる吸血鬼だけど、貴方はなんていう人?」
今までお目にかかった事もない自己紹介をされて、重苦しいため息をついた。
……諦めのため息というか、つまり、このデタラメな状況を受け入れてしまった証というか。
「遠野志貴。あいにくただの学生だよ。……前もって言っておくけど、本当に何の役にもたたないからな」
女───アルクェイドの手を握って立ち上がる。
彼女はまじまじとこちらを眺めた後、改めて握手を求めてきた。
「それじゃあよろしくね、志貴。
わたしを殺した責任、ちゃんととってもらうんだから」
ニッコリと左手を差し出すアルクェイド。
「……はあ」
……世の中にはいろんな責任ってのがあると思うけど、殺した相手を手助けする責任を負うのは、たぶん俺が最初で最後なんじゃないだろうか。
「……くそ、ほんとにどうかしてる」
けど、これじゃ他にどうしようもないじゃないか。
嫌々ながら左手を差し出して、俺は、吸血鬼だという白い女と握手をした。
◇◇◇
「うん、わりといい部屋ね。これなら一晩過ごしても文句ないかな」
楽しそうにホテルの部屋を見渡すアルクェイド。
「――――」
こっちとしては、とりあえず言葉がない。
「わたしの部屋はもうバレてるだろうから、今夜はここに隠れましょ。あ、お金のことは気にしなくていいよ。わたしお金持ちだから、おごってあげる」
陽気に言いつつ、アルクェイドは窓のカーテンを閉める。
ついでに部屋の電気も消してしまって、部屋の中は夜中のような暗さになった。
はあ、とため息がもれる。
「……アルクェイド。おまえ、なに考えてるんだ」
「なにって、別に色々考えてるけど」
「いや、そういうコトじゃなくて―――」
どうしてホテルの、それも安っぽいホテルじゃなくて高級ホテルの、あまつさえ最上階を全部貸しきりにするような真似をするのかっていうコトだ。
「……………」
そう言いかけて、やめた。
今の自分の役割は、この自称吸血鬼の見張りをする事だけなんだ。余分なことを聞くのはやめておこう。
「―――いや、いい。好きにしてくれ」
「ヘンな志貴。いきなり怒ったり黙ったりして、予測がつかないね」
何が楽しいのかニコニコ顔のままアルクェイドはベッドに横になった。
「日が沈むまで眠るわ。志貴もいまのうちに休んでおいたほうがいいわよ。
吸血鬼は昼間には活動できないから、本格的に見張りをしてもらうのは夜になるんだし」
「……おまえね。いま、自分自身の存在を全面否定するようなコトを言ったってわかってるか?」
「わたしはいいの。―――っと、そろそろ限界みたい。それじゃおやすみなさい、志貴。日が沈んだら起こしてよね」
「お、おい」
「―――――――」
アルクェイドは電池がきれた機械のように、唐突に眠ってしまった。
「は―――――」
なんていう、その、無防備さだろう。
「……逃げちゃってもいいってコトだぞ、それ」
もともと無理やり連れてこられたようなものなんだし、いまなら楽勝で逃げられる。
……それに、こっちにはもうそんな衝動は起きないけれど。
「仮にも―――俺は一度、おまえを殺してるっていうのに」
なのに、どうしていきなり眠ってしまえるんだろうか、この女は。
「…………………」
ベッドで眠るアルクェイドの顔を見つめる。
……ふくよかな胸が上下しているところをみると、呼吸はしているようだ。
その反面、体はぴくりとも動かない。
アルクェイドの周囲の空気だけが止まってしまったいるかのような、見ているこっちまで停止してしまいそうな静謐。
―――なんて、安らかな眠り。
まだ知りあって間もない俺のことを信頼しきっているような無防備さ。
「―――――ばかだな、こいつ」
……うん、ちょっと心配になるぐらい、ばか正直だと思う。
ともあれ、ここは基点だ。
自分が―――遠野志貴がまだ引き返せる最後のラインかもしれない。
俺は―――……それでも、コイツを放っておけない。
「……約束、したからな」
たとえそれがどんなモノでも、自分からは、決して破ってはいけないと思う。
……アルクェイドは眠っている。
その顔色は白くて、なんだか病人のようだった。
アルクェイドは自分が弱っている、と言った。
さっきも限界だって言っていたから、ホントのところは俺がこの後どうするか、なんてコトを考える余裕はなかったのかもしれない。
部屋は静かだ。
ホテルの最上階である十一階には、他に客はいない。このフロアを全てアルクェイドが借りきってしまったせいだろう。
部屋には、アルクェイドの呼吸の音しかない。
こうして見ると―――アルクェイドは、やっぱり悪夢みたいに綺麗だ。
白くて滑らかな肌とか、さらさらと軽そうな金の髪とか。
柔らかな身体のラインとか、シュッと墨を引いたような長いまつげとか。
細部に至るまでここまで完璧な造形というものを、俺は今まで見たことがない。
いや、正しくは。
たぶん、一生見ることなんてないと思ってた。
「―――――」
吸血鬼だとか人間じゃないとかはともかく、アルクェイドは女の子だ。
それが糸を切ったように眠ってしまうぐらいまで弱っていて、その責任が俺にあるというのなら。
「……自分でしでかしたコトの責任は、自分で取らないとな」
……幼い頃の教えが、こんなところにも顔を出す。
先生が言ってたっけ。
俺の目はおかしなモノだから、おかしなモノを呼び寄せるって。
なら、いいかげん覚悟をきめよう。
とりあえず約束をした今夜ぐらいは、自分なりに、コイツを守ってやらないと――――
◇◇◇
―――白。
目の醒めるような白。
そのいろは、懐かしい記憶を呼び起こす。
夏の、暑い日。
青い空と 大きな大きな入道雲。
じりじりとゆらぐ風景と
気が遠くなるような蝉の声。
蝉の声。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん
広場には蝉のぬけがら。
たいようはすぐそばにあるようで、
広場はじりじりと焦げていく。
真夏のあつい日。
まるで、セカイがふらいぱんになったみたい。
えーん えんえん
えーん えんえん
えーん えんえん
秋葉が泣いている。
おとなしくて、いつもボクの後についてきていた秋葉が、ぽろぽろと泣いている。
[#挿絵(img/アルクェイド 28(2).jpg)入る]
秋葉の足元には子供がひとり倒れている。
血にまみれた、殺されてしまった、自分と同い年ぐらいの子供の死体がある。
蝉の、ぬけがら。
この両手は、
倒れている子供の
血で、赤いのか。
「シキ─────!」
おとなたちがやってくる。
倒れた子供は死んだまま。
おとなたちはさけんでいる。
おまえがコロシタのかとさけんでる――――
――――そんな、
夢の中でさえ忘れていた、ゆめを。
思い出したような、気がした。
「志貴。ほら、目を覚まして。もう日が落ちちゃってるじゃない」
ゆさゆさ、と体がゆすられる。
……あまり聞き覚えのない声と、肩にふれる冷たい手の感触。
「――――ん」
「――あれ?」
目の前にはアルクェイドがいる。
彼女はすでに目を覚ましていて、窓の外は真っ暗だ。時計に目をやると、時刻はすでに夜の八時をまわってしまっていた。
「――――え?」
「え、じゃないわ。日が沈んだら起こしてって言ったのに、志貴ったら眠ってるんだもん」
「……ありゃ。悪い、ぼけっとしてた」
……自分自身でいつ眠ってしまったのか覚えてないけれど、たしかアルクェイドの寝顔をずっと見ていて、そのまま眠ってしまったんだと思う。
「もう。そんなんじゃ護衛失格よ。二人とも眠ってたなんて、もし敵に襲われてたらわたしも志貴も死んでたかもしれないのに」
「―――だから悪いって言ってるだろ。それに昼間は安全だって言ったのはおまえじゃないか」
「絶対とは言いきれないわ。朝みたいに使い魔がやってくるコトだってあるんだから」
アルクェイドは怒っている。
……まあ、それも当然か。見張り役の俺がアルクェイドと一緒に眠ってたんじゃお話にならない。
「それにね、わたしって吸血鬼なんだよ、志貴。
なのにどうして、身の危険とかを感じずに眠っちゃったりできるのかなあ。
そりゃあわたしだって無闇に恐がられるのはイヤだけど、少しは緊張して眠れないとか、そういう反応してもいいんじゃない?」
「――――」
前言撤回。
アルクェイドは見張り役をしてなかったという事ではなく、たんにこっちが眠っていた事が気に食わないようだ。
「体も少しは動くようになって目を覚ましてみれば、志貴ったら幸せそうに眠ってるじゃない。あんまりに無防備だから、わたしって吸血種として威厳がないのかなって本気で不安になったんだから」
「…………」
まあ、威厳は、あまりないと思う。
「無防備なのはそっちだって同じだろ。俺だって一度はおまえを殺してるんだぞ。今回だってそうしなかったとは限らないじゃないか」
「あ――――」
アルクェイドはいま気がついた、とばかりに目を白黒させる。
「そういえばそうよね。―――なんでだろう。なんとなくね、路地裏で志貴と話しているうちに信頼しきってたみたい」
「……………」
……まあ、悪い気はしない、けど。
「オーケー、信頼されてるからにはそれなりに努力はする。で、あとはこれからずっと見張ってればいいのか?」
「ええ、とりあえず朝日が昇るまでの間ね。わたしは部屋から出ないから、志貴は誰かがこのフロアにやってきたようだったら用心して」
……用心してって、朝のような黒犬とかがやってきたら用心のしようもないんだけど。
「……はあ」
ため息がもれる。やっぱり、これは俺には重すぎる役割だ。
「……聞いておくけど。朝の時に襲ってきた黒犬っていうのは、おまえの敵が差し向けたヤツなのか?」
「差し向けた、っていうより街を監視するのがアイツの役割だったんだと思うわ。アイツの巡回ルートでわたしと志貴が話しこんでいて、結果的にわたしが居るっていう事がバレちゃったみたい」
「バレちゃったって、おまえの敵に?」
「そうね。体調が万全ならむしろ手間が省けるんだけど、今のわたしじゃ襲われたら逆に消滅させられかねないわ。とりあえず、力が戻るまでこうして身を隠すしかないっていうわけ」
……アルクェイドの敵、というのは街を騒がしている連続殺人犯―――つまり吸血鬼だ。
「……アルクェイド。俺、おまえに聞きたい事がある。俺の質問に答えてくれるか?」
「話をするぶんにはかまわないけど、どうしたのよ、急にかしこまっちゃって」
「―――ああ、大事なことをまだまったく聞いてなかったからさ。その、結局のところ、おまえの目的ってなんなんだ?」
「わたし? わたしは吸血鬼を追ってるだけよ。吸血鬼殺しがわたしの役割だから」
「ああ、たしかにそんな事をさっきから言ってる。けどアルクェイド、おまえは吸血鬼なんだろ?」
「なに、志貴ったらまだわたしのこと信じてないの?」
「いやっていうほど信じてるから安心しろ。
俺が言いたいのはそういう事じゃなくて、どうして吸血鬼であるおまえが吸血鬼を殺す、なんて物騒なことを言うのかってことだよ」
「あら、志貴は同族同士で殺し合うのは嫌いなんだ?」
……嫌いもなにも、殺し合い自体好きな部類には入らない。でも確かに、吸血鬼が吸血鬼を殺す、なんていうのはしっくりこないんだ。
「いや、なんか想像できなくて。吸血鬼っていうのは人間の血を吸うんだろ? なら殺す対象は人間であって、同じ吸血鬼じゃないじゃないか」
「血を吸う事と殺そうとする事は別物よ。
ま、それでも志貴の言いたい事はわかるわ。同じ種族同士助けあうべきだっていうんでしょ?
けどね、吸血鬼は同類でありながらそれぞれが異なる生命種みたいなものなの。だから人間でいうところの仲間意識は希薄なのよ」
「……? じゃあその、おまえが追ってる吸血鬼っていうのはおまえとどこか違うっていうのか?」
「そうよ。わたしが追いかけているのは人間の吸血鬼だから、あなたたちの伝承に残っているものとほぼイメージは一緒ね。
人間の血を吸って、吸い殺した者を死者として使役して勢力を増やしていく―――わたしが追いかけているのはそういった吸血鬼よ。
この街に潜んでいるのは、そういった旧いタイプの吸血鬼なの」
───そういった吸血鬼って、吸血鬼にも種類があるらしい。
「……まさかとは思うけど。そいつをやっつけるから俺に盾になれ、だなんて事を言ってやがったのか、おまえ」
「───そうね、初めはそのつもりだった。けど、志貴と話をしているうちに気が変わったわ。
わたしはね、志貴。てっきり貴方が教会の人間だって思ってたの。
それなら敵の居場所をもう掴んでるんだろうなって期待してたんだけど、志貴ったらまるっきりふつうの人なんだもん。
敵の棺の場所はおろか、吸血鬼のことをまるで知らないし。
……うん、そもそもあの連中がこんな極東の無神論者の国にエクソシストを派遣するわけないものね。浅はかだったのはわたしのほうかな」
ぶつぶつと独り言を言うアルクェイド。
話が脱線してしまって、こっちはいい感じで置いてけぼりだ。
「アルクェイド、話が全然見えないんだけど」
「あ、ちょっと待って。……ええっと、どう説明しようかな……」
うーん、とアルクェイドは視線を泳がす。
……こいつ、どうにもあんまり会話慣れしてないみたいだ。
「いいから、今の状況を片っ端から口にすれば? 俺もわけがわからないけど、それなりになんとか話の筋を見極めるから」
「そう? ありがと、志貴」
「お礼はいいから、続けてくれ」
うん、とアルクェイドは素直に頷く。
「つまりね、この街にいる吸血鬼は旧いタイプの吸血鬼なの。自分は城主として君臨して、配下にした死者たちを街に放って、少しずつ勢力を増やしていくタイプ。
人間の血を吸って、吸った人間を自分と同じ吸血鬼にしてしまうっていう、普遍的な吸血種よ。
今はまだ分身である死者たちの数が少ないから能力はたいした事がないんだけど、犠牲者が増えれば増えた分だけ本体である吸血鬼の力が増すわ。
その前に本体を斃してしまえばいいんだけど、わたしはまだ敵の寝床を見付けてないのよ。
今回はよっぽど巧妙に隠れてるのか、あいつの気配さえ感じなかった。
それでも見付けさえすれば片付けるのは簡単なんだ。だけどまったく手がかりがない状態だから、仕方なく昼間も街を歩いて調べてたんだけどねー。
なんでかなあ、いきなり通りすがりの殺人鬼に襲われちゃって、今じゃ一時的にしろ『敵』である吸血鬼より能力が劣っちゃってる始末なのよね」
ちらり、と冷たい眼差しを向けてくるアルクェイド。たぶん、通りすがりの殺人鬼である俺へのあてつけなんだろう。
「……なるほど、とりあえず話は見えてきたよ。ようするにこの街には質の悪い化け物が巣くっていて、アルクェイドはそれを退治しにきた、と。
けどそいつの居場所がわからないから捜している時に、その―――俺にやられて、いまは弱ってるから回復するまで隠れてる……そういうコト?」
「わかりやすく言うと、そうだと思う」
「―――じゃあ次、本題。
アルクェイドは気軽に吸血鬼って言うけど、俺にはまだピンとこないんだ。
……そりゃあたしかにおまえは人間じゃない。それだけはわかるんだけど、だからって吸血鬼なんだって言われても実感がわかないんだ」
「そういえばそうね。志貴たちの知ってる吸血鬼像とわたしはちょっと違うわ」
「だろうね。俺は吸血鬼っていうのがホントにいるっていうことより、その吸血鬼がこんなヤツだなんて想像もしなかったし。
で、その違いっていうのはどんなものなんだ?」
んー、とアルクェイドは考え込む。
「そうね、少しぐらいは教えておいてあげたほうがいいのかもしれない。
いいわ、それじゃあ一時限目の授業は吸血鬼(1)についてにしましょう」
「……いいけどさ。なんだよ、その(1)っていうのは」
「志貴は素人だから基本的な知識から入らないといけないでしょ? だからまず初歩から教えてあげるっていうことよ」
「―――まあ、どうでもいいけど。とりあえず手短に頼むよ」
「ええっと、努力はするわ」
……アルクェイドは本当に話をする、というコトに慣れていないらしい。
まあ、時間はいくらでもあるからとりあえず文句もいわず、アルクェイドの話に耳をかたむける事にしよう。
「一般に吸血鬼というけど、わたしたちは大きく二つのモノに分けられるわ。
もとから吸血鬼であるモノと、吸血鬼になったモノ。
前者を真祖といって、後者を死徒と呼ぶの。
あなた達が吸血鬼って呼んでるほうは死徒のほうね。人間の血を吸い、下僕にして、太陽の光に弱く、洗礼儀式の前に敗退する。
わたしたちの敵も死徒に区別される吸血鬼よ」
いつのまにか『わたしの敵』から『わたしたちの敵』になっている。
……まあ、こうなっちゃ間違いはないから別にいいんだけど。
「……ふぅん。そのシトっていうのは初めから吸血鬼じゃないって言ったけどさ、それはどういうコト?」
「死徒はもともと人間だった者達よ。魔術の果てに不老になったモノか、真祖に血を吸われて下僕となったモノがいる。
どっちにしたって、吸血鬼となったモノたちは不完全ながらも不老不死の肉体を手に入れるわ」
「…………」
初めから吸血鬼だったものと、人間から吸血鬼になったものとがいる、ということか。
……なんだろう。
この話にはなにかひどい矛盾というか、構造的に大きな欠落があるような気がする。
「ねえ志貴。 志貴は吸血鬼にまつわる伝承をどのくらい知ってるの?」
「そうだな……ありきたりのイメージしかないよ。処女の血を吸ったり、睨むだけで人を金縛りにしたり、霧になったり、狼になったりするっていうのは、まあ一般的に聞くけど」
「うん、だいたいは当たってるかな。
処女の血を吸うっていうのは、まだ他の人間と体液の交換をしていない純粋な細胞と血液が、劣化していく自己の遺伝子を補うには最も都合がいいからよ。
死徒―――二次的に吸血鬼になった吸血種は、不完全な不老不死なの。
たしかに不老に成ったから寿命では死にはしない。けど、その分のエネルギーをつねに補充しないと消えてしまう。どんな生物だって栄養をとらないと活動できないでしょう? それと同じよ。
ただ吸血種は、栄養さえ取りつづけていれば寿命がない、という事だけなの。
死徒である吸血鬼はね、自分が生きていくのに必要だから血を吸うの。
もともとは人間だったから、不老不死の肉体というのは無理があるのよ。
彼らの肉体を構成する遺伝子は、違う器……吸血種になった時からもの凄い勢いで劣化していってしまう。
だからそれを補うために他人の血液を吸って、その遺伝情報を取り込むことで自身の肉体を固定してる。吸血鬼にとって血を吸うコトは食事ではなくて、存在のための最低限必要な行為なんでしょうね」
「…………」
難しい。それに、長い。
こっちの理解も追いついていないっていうのに、アルクェイドはかまわず話を続けていく。
「で、次。
睨むだけで金縛りにする、というのは魔眼の一種よ。目は言葉と並ぶ代表的な魔術回路だから、魔眼をもつ吸血種は多いわ。
わたしたちが持つのはたいてい魅惑の魔眼ね。
わたしたちが見た相手を魅惑するんじゃなくて、わたしたちの目を見てしまった相手を魅惑するの。強力な吸血鬼の魔眼は眼球から相手の脳に自らの意志を叩きつけて、完全に思考を掌握するんだけど、死徒の魔眼にはそれだけの力はないかな。
霧になったりするのは予め分身を作っておいて、それに意識を乗せている場合ね。用が済んだら分身の体を操る魔力をカットするから、自動的に塵に還るだけの話。
狼───他の動物に変わるっていうのは、破損した肉体を使い魔で補っている産物よ。
長い年代を生きた吸血鬼ほど、自らの破損した肉体の補修は通常の命では間に合わない。
人間は動物としては基礎能力が低い生物だから、肉体の補修には人間より種として優れている野生の獣を取り込んだほうが効率がいいの。
自らの肉体を獣で補っている吸血鬼は、必要な時にその獣をもとに姿に戻して使い魔として使役する。
えっと、聞いた話じゃ一千年クラスの吸血鬼で体中がぜんぶ使い魔っていうヤツがいるらしいわ。そいつが体内に内包してるケモノの数は六百六十六匹だとか」
「―――――」
アルクェイドの話は、ちょっと、いきすぎてると思う。
正直、俺なんかがついていける世界じゃない。
「えっと、こんなところかな。ざっと概要だけを説明したけど、これで吸血鬼がどんなものかわかってもらえた?」
「言葉の上でだけならなんとか」
というか、余計にアルクェイドが吸血鬼、という事実にピンとこなくなってしまった気がする。
「さて。それじゃあ次はわたしの番ね。実をいうと、わたしも志貴に大事なことを聞き忘れてたんだ」
「? なんだよ、俺に聞くようなことなんて何もないだろ。俺は吸血鬼でもなんでもない、ただの学生なんだから」
「ふーん。それじゃあ聞くけど志貴。貴方、どうやってわたしを殺したの?」
「は?」
「だから、どんな手段を使ったのかって聞いてるの。ルーンやカバラあたりの秘術には抗体耐性が出来てるからわたしには効かないし、抗体耐性が出来てないモノ───わたしがまだ経験したことのない魔術っていえばこの国の古神道と南米の秘宝ぐらいなものよ。
いえ、それだってあそこまでわたしを“殺して”おく事はできないわ。
答えて志貴。貴方、どんな年代物の神秘でわたしをあそこまで再起不能にしてくれたの?」
「年代物の神秘って……なにそれ?」
「歴史と想念を蓄えた触媒のこと! もう、この国にも神器ってあるんでしょう? たいていは法杖や剣、宝石や仮面を使用する対自然用概念武装のことだけど──ねえ志貴、貴方本当にそっちの方面の人じゃないの?」
「そっち方面もなにも、俺はただの学生だって言ったじゃないか。知ってる事なんてなにもないよ」
「うそよ。魔術師でもない人間がわたしを傷つける事なんてできないわ。……志貴、わたしに隠してることがあるでしょ?」
アルクェイドはむーっ、と怒った猫のように俺を睨む。……けど、そんな目をされてもこっちには隠し事なんて────ああ、あった。
「実をいうと一つある………けど関係あるのかな、これ」
むっー、とアルクェイドはまだ睨んでいる。
……どうも、このまま黙っている、というワケにはいかなさそうだ。
「それじゃあ言うけど……なんて言ったらいいのかな、俺さ、モノの切れる線が見えるんだよ」
「え?」
あ、呆れてる。
だろうな、こんな話ふつうは信じてくれないと思う。
「……それ、どういう意味?」
が、アルクェイドは真剣に問い返してきた。
さすがはふつうじゃないヤツ、こっちの期待をいい意味で裏切ってくれる。
「だからモノの切れる線が視えるんだよ、俺。
生き物とか地面とか、とりあえず触れられるものなら全部。
黒い線みたいでさ、それに刃物を通すとキレイに切断できるんだけど……これ、意味ある?
鉄をナイフで切れるっていうのは便利な事だけど、別に好きなところが切れるわけじゃないんだ。
線が視えてるところしか切れないし、おまえを切った時だって───その、ナイフなら女の肌ぐらい切れるだろ?」
「──────」
アルクェイドの目が真剣に───一度だけ俺に見せた、あの凶った瞳になっていく。
じろり、と。
見つめるだけでこっちの呼吸を止めてしまいそうな視線。
「────そう。直死の魔眼なんて童話の中だけの話だと思ってたけど、いるところにはいるものね。貴方みたいな、突然変異の化け物が」
「なっ――なんだよそれ。俺は吸血鬼に化け物だなんて言われる筋合いはないぞ!」
「化け物は化け物でしょう。『モノの死を視る』魔眼なんて、わたしたちでさえ保有している者はいないんだから」
「……? モノの、死をみる……?」
ええ、とアルクェイドは敵を見るような目つきのまま頷いた。
「志貴。貴方の目はね、きっと回線が開いちゃってるのよ。その目は生まれついてのものなの?」
「いや、こういうふうになったのは昔からだけど、生まれついてのものってわけじゃない」
「……ふぅん。それじゃあ以前に一度ぐらい死んでみたことがあるでしょう?」
「な────」
たしかに、八年前に死ぬような事故にあっているけど。
「やっぱり。潜在的な能力もあったんだろうけど、きっかけはそれでしょうね。……直死の魔眼、か。たしかにそれなら、間違いなくわたしだって殺せるわ」
ふう、と小さく息をはいて、アルクェイドはあの目をしなくなった。
「アルクェイド……おまえ、この線がなんだか知ってるのか?」
「貴方ほどじゃないけど、知識としてはわかるわ。貴方が見ているものはね、万物の結果、物の死に易い箇所なのよ。もっと解りやすく言うならあらゆる存在の死期……“死”そのものよ」
「――――」
……思い出した。
たしかにあの時。
このメガネをくれた先生も、アルクェイドと同じようなコトを教えてくれたんだっけ。
けど、先生の言葉とアルクェイドの言葉は微妙に違う。
俺が見ているものはただの線であって、そんな、死なんていう物騒なものじゃない。
「なにいってんだ。俺が見てる線ってのはさ、ただそこが切れるだけのものじゃないか」
「だからその線が『死』なの。
いい、志貴? ありとあらゆるものには終わりがある。それがいつになるかは個別差があるけど、とにかく果てというものはあるの。
死は到来するものではなく、誕生した瞬間に内包していて、いつか発現するものよ。
それが原因と結果。因果律って言葉、聞いた事あるでしょう?
発生している以上、あらゆるものには終わりがある。その終わりは初めから『いつになるか』は定められているのよ。それが物の『死期』というやつね。
で、それは初めから在るわけだから、『死期』という概念を理解できる機能、それと回線が合っている脳髄と眼球があるのなら目で視る事は不可能じゃない。
それが貴方の視ている『線』の正体よ。
あくまで概念でしかないけど、あえてあなたたちふうに理論づけるのなら分子と分子の結合のもっとも弱い部分、という所かしらね。
それともその個体の死因を発現させる、遺伝子に用意された崩壊のスイッチかな。
あっ、でもそれじゃちょっと理屈が合わないか。……うん、わたしは見えないから断言はできないけど、志貴が視てしまってるものは『線』だけじゃないんじゃない? 『線』よりは『点』なんだと思うけど」
「―――あ」
そうだ。
初めてアルクェイドを見た時。
自分が自分でないような、あの時。
メガネを外した俺の目は、いつものラクガキと―――ラクガキが流れ出している原因みたいな、黒い点が見えていた。
「……あった。あの時だけだけど―――たしかに、黒い点が視えてた。おまえの体に何個もあって、黒い線は点と点を結ぶように流れてた」
例えるのなら、それは血管のように。
「……なるほどね。『モノの死にやすい線』と『その死』か。よくそんな状態で今まで生きてこれたものだわ。よっぽど貴方はココロが穏やかなんでしょうね、志貴」
アルクェイドは淡々と語る。
俺は、彼女の言っている事がそれなりに把握できていたけど、はっきりいって何一つ認めたくなかった。
「───なんだよそれ。そんなものあるわけないし、ましてや視えるわけがないじゃないか……!」
「貴方は視えてるじゃない。
普通、生物は首を切ったら死ぬわ。これは切断したから停止した、という事よね。
逆にいえば、首が切断できない生物は死なないという事になる。あ、これはわたしのことだから例外と考えておいて。
で、貴方の場合はその原因を無視できるのよ。あらゆる外的要因を無効化するモノが相手でも、まず殺す。殺された相手はその後で『死んだ』状態になるんでしょうね。
切断したから停止した、ではなく、貴方の場合はモノを停止させて、その結果として対象が切断されるのよ。
ほら、これが化け物でなくてなんていうの?
ただ物が切れるだけの線って言うけど、その両目は今まで存在してきたどんな超常保有者よりも特異なものよ。
貴方はね、志貴。
あらゆるものを殺してしまう、死神みたいな目をもっているんだから」
「―――――――」
言葉がない。
アルクェイドの言うとおり、この目がそういうモノを視る目だというのなら。
俺が視ていたあの黒い線は、あらゆるものの、死期そのものだったっていうのか。
……なら、俺の周りは。
あんなにも、死で充満していたっていうのか。
「……じゃあ、なにか。おまえの言うとおりだっていうんなら、俺はおまえだって殺せるって事になるぞ」
「そう? じゃあ試しにやってみよっか」
アルクェイドは窓のカーテンを開ける。
電気のない部屋の中。
窓越しの月明かりだけが、かすかな明かりだった。
「ほら、いいから本気になってみて。あ、もしかしてそのメガネで視えないようにしてるの?」
「─────いいんだな」
もちろん、ただ視るだけのつもりでメガネをとった。
同時に、部屋じゅうに黒い線がのたくっていく。
窓の外には白い月。
昼間は強い陽射しのおかげで視えにくいけれど、微弱な月の明かりの下では、『線』は光ってさえ視えてしまう。
その中で。
アルクェイドの体にある『線』は、ひどくか細く、意識を集中しなくては視えないぐらいだった。
「あ―――」
「……志貴にやられてなければきっと完全に視えないでしょうけど、今はたぶん視えてると思う。
わたしね、夜は『死期』がないんだけど、昼間は多少できてしまうのよ。
志貴がわたしを殺せたのは昼間だったからだけど、その後の蘇生で力を失ってしまっているから、今は夜でも『死期』ができてしまってる。
―――ようするに不老不死でなくなったわけだけど、志貴、わたしの体の線が切れる?」
「――――」
……どうだろう。
たしかに線があるんだから切れるとは思うけど、あの時のように鮮やかに、一秒もかけずに切断するのは出来そうに無い。
「……やりにくいと思う。線が視えたり視えなかったりするから、アルクェイドが眠ってでもいないかぎり、できない」
「でしょう? それが貴方の最大の欠点ね。どんなに『死』が見えていようとも、その『線』を引くのは志貴自身の腕じゃないといけない。
いくらわたしが弱ってるからって、志貴に掴まるほど運動能力は低下してないもの」
……そっか。
言われてみれば、俺はすばしっこく動く動物を捕まえることが出来ない。
捕まえられない、ということは体に触れられないというコト。
つまり、こんな『線』が見えていても動くモノを殺す事は出来ないってコトか。
「―――痛」
ずきり、と頭痛が走った。
『線』を見ていると頭痛がおこるのは子供のころから同じだ。
メガネをかけて視界をもとに戻す。
「……………」
アルクェイドはじーっ、とこちらの様子を見つめている。
「……なんだよ。まだ何かあるのか」
「ううん、そうじゃなくて。志貴はそのメガネをかけていれば『線』が見えないの?」
「まあ、そうだけど。昔、俺の目がこうなったときに出会ったひとがくれたんだ。今じゃレンズだけしか使ってないけど、これのおかげでなんとか普通に生活が送れてるんだよ」
「そっか。そうだよね、どんなに強いココロがあったって、死とずっと向き合ってたら発狂するか目を潰すしかないものね」
言いつつ、アルクェイドは近寄ってくる。
「ね。それ、見せて」
「―――ヤだ。これは大事なものだから、渡さない」
「別に壊したりしないって。本当に見るだけだからいいでしょ?」
アルクェイドは力ずくで奪いかねないぐらい、じりじりと近寄ってくる。
ここは―――
……あやしい。
自分から『壊したりしない』なんていう所が、すっごく怪しい。
「―――見るだけでもダメ。路地裏の時におまえのばか力は思い知らされたからな。何かのはずみで握り潰されたりしたらどうしようもない」
「むっ。なによ、そのばか力って。言っておくけど、通常時の筋力だったら志貴のほうが上なのよ。わたし、そう無闇に物を壊したりはしないんだから」
言いつつ、力ずくでメガネを取ろうと手を伸ばしてくるアルクェイド。
……その態度がますます怪しい。
とっ、とベッドの上を転がってアルクェイドから離れる。
「あっ、逃げた」
「そりゃあ逃げるよ。言っとくけどな、このメガネだけは渡さないからな。万が一にも壊されたりしたら代えがないんだ。
だいたいな、このメガネがないと正気じゃいられないって言ったのはおまえだろ。それとも俺にそうなれって言いたいのかよ、おまえは」
「え―――? う、ううん、別にそんなことはないけど」
……露骨に俺から視線を逸らすアルクェイド。
「―――あのな、アルクェイド。
何企んでいるかは知らないけど、メガネがなくなったら俺はおまえに協力するどころの話じゃなくなるんだぞ。四六時中線が見えてたら、気が狂う前に頭痛で頭がパンクしちまうんだから」
「ふーん。『死』が視えてると脳に負担がかかるのかしらね。……うん、志貴の目にはなにかと原因がありそうだけど、とりあえずわたしが教えてあげられるのはこれぐらいかな。機会があったらもう少し詳しく教えてあげるわ」
「けっこうだよ。あいにく長話は嫌いでね」
「そうなんだ。わたしは誰かと話すのって好きだけどな」
アルクェイドは屈託なく笑った。
それこそ本当に、ただ話しているだけで楽しいんだよ、というように。
夜はふけていく。
アルクェイドはベッドに座り込んでいて、俺も同じようにベッドの上でぼんやりと時計を眺めていた。
時刻は午前四時すぎ。
夜明けまであと一時間ばかりというところだ。
「あと一時間、か」
今までこれといった異状はなかったし、アルクェイド本人は緊張している素振りさえない。
とにかく、あたりはまったくの平和だった。
なんとなくだけど、今夜はこのまま終わるのだろうという確信があったりする。
「ね、志貴」
アルクェイドから、これで何度目かの呼びかけがした。
「なんだよ。もう話すような内容なんてないからな、こっちは」
「そうなの? せっかくこうしてるのにもったいないね」
「……あのな。さっきから何時間おまえの意味のないお喋りにつきあってやってると思ってるんだ。六時間だぞ、六時間。なにが疲れたかって、見張りなんかよりそっちのほうが疲れたよ、俺は」
むっ、とアルクェイドは不満そうにこちらを睨む。
―――そうなのだ。
どういったワケなのか、この六時間アルクェイドはしきりに俺に話しかけてきていた。
弱っているのなら眠ればいいものを、「話しているほうが楽しいから」なんて言って、結局こうして二人で向かい合ってしまっている。
「………はあ」
ホントに、コイツの考えているコトは俺にはわからない。
―――ぐうううう。
おまけにハラも減ってきた。
考えてみれば今朝の朝食からこっち、もうじきまる一日何も食べていないことになる。
「おなかが減ってるならなにか食べたら? せっかくいいホテルに泊まってるんだから、ルームサービスを使えばいいのに」
「いいよ、ハラがいっぱいになると緊張感が和らぐからさ。それより、そういうおまえこそ何か食べたほうがいいんじゃないか? 弱ってるクセに眠りもしないんだから、せめて食事ぐらいしろよ」
「志貴がしないならわたしもやめとく。普通の食事もそれなりに意味はあるけど、一人で食べてもつまらないもの」
「普通の食事って、食事に普通も特別も―――」
……ああ、そうだったっけ。
アルクェイドは吸血鬼なんだ。そうなると、こいつだって人間の血を吸うコトが『食事』っていうコトになるのか。
「―――あるのか、おまえには。吸血鬼だもんな、血以外のものはあんまり口にしないんだ」
とてもそうは見えないけど、アルクェイドは吸血鬼なんだ。
吸血鬼は生きるために人間の血を必要とする、とアルクェイドは言った。
なら────こいつは今まで誰の血を吸って、何人の人間を殺してきたのだろう?
「────」
ちらり、とアルクェイドの顔を盗み見る。
……想像できない。
コイツだって吸血鬼だと解ってるのに、どうしてか、俺はこいつが人の血を吸っているところが想像できないでいる────
「なに? わたしの顔になんかついてる?」
「……!」
視線が合ってしまって、あわてて目をそらす。
アルクェイドはじーっ、と俺の顔を見つめてから、ふふん、と意味ありげな笑みをもらした。
「気になる?」
「な、なにが」
「わたしがどのくらいの人間から血を吸ったのか、気になる?」
「う─────」
……完全にこっちの考えが見抜かれてる。
アルクェイドの笑みは余裕に満ちていて、なんだかとにかく気にくわない。
なんだかとにかく気にくわないけど───それ以上に、アルクェイドが今までどれほどの人間を殺してきたのか、気になる。
「……そりゃあ気になるよ。俺はおまえと協力しあってるんだ。ならそれぐらい知っとかないと、いつおまえが心変わりして襲いかかってくるか予測がつかないじゃないか」
それは、本当に困る。
なるほどねー、とアルクェイドは納得する。
「それじゃあ問題。わたしは今まで何人の血を吸ってきたでしょう?」
タン、と軽やかにベッドから跳ねて、アルクェイドは窓の近くまで歩いていく。
「何人のって、それは―――」
アルクェイドはにまにまと笑って、黙り込む俺を愉快そうに眺めている。
……くそ、あきらかに挑発してる。
いいだろう、なら答えてやる。
そうだな────きっと、
「じゃあ百単位、かな」
「ざんねん、はずれです」
「なら千単位」
「はい、それもはずれです」
くすくすとアルクェイドはおかしそうに笑う。
……なんだか、すごく悔しい。
「くそ、それじゃあ、そんな事はないと思うけど、まさか十人単位か?」
「それもはずれ。もう、十だの百だの千だのって、志貴はわたしのことそういうふうに見てたわけね。ひどいなぁ、それじゃわたし見境なしじゃない」
「違うのか? 吸血鬼ってのは見境なしなんだろ。人間だって生きてるだけで腹が減るんだ。おまえたちだって生きてくためには血を吸わなくちゃいけないなら、見境なんてないじゃないか」
「そうね。それはそうなんだけど」
「わたしは何かの血なんて、この八百年一度も口にしたことないかな。ふつうの人間を殺した事だって、一度もないよ」
――――え?
「待てよ────おまえ、それ本当なのか」
「本当よ。だってわたし、血を吸うのが恐いんだもの」
───はあ?
血を吸うのが、恐いだって?
「嘘だろ? 血を吸うのが恐いって───おまえ吸血鬼なのに、どうして」
「……きっと臆病なのよ、わたしは。だからいつまでたっても、吸血種として半人前なんだ」
窓から夜空を見上げながら、アルクェイドはぼやく。
彼女はそのまま、長く空を見上げたままだった。
白い後ろ姿はおぼろげで、幻のように霞んでいる。
「……そっか。半人前、なんだ」
呟いて、俺は胸を撫で下ろした。
……なんだか、俺は喜んでる。
安堵するのは当たり前。
だって目の前の相手がそう凶悪な存在じゃないと解ったんだ。
とりあえず彼女の言葉を信じるのなら、俺は無闇に殺されるような事はないだろう。
だから安全。……安全なんだけど、俺はそんな事なんかよりもっと違うことでホッとしていた。
───まったく、どうかしてる。
例えばアルクェイドが半人前である事が嬉しいような、そんな的外れな安堵の仕方をしてるなんて。
「あ――――」
くらり、と微かに眩暈がした。
「志貴? どうしたのよ、そんなに額に汗をうかべちゃって」
「いや、あたまの奥でズキッて痛みが―――」
アルクェイドに答えて、愕然とした。
アルクェイドの背中の窓。
そのガラスの向こう、まだ夜の闇に沈んだ街並のただ中に。
蒼い鴉が、こちらを見つめていた。
「あいつは――――」
ぼんやりと窓の向こうを見つめるしかできない。
アルクェイドも窓に振り向く。
「……ネロ?」
『イカニモ。ヨウヤク見ツケタゾ、真祖ノ姫ヨ』
どこからか。
そんな意味合いの意思が、部屋の中に流れ込んだ。
アルクェイドの目が敵意に満ちる。
窓の外の鴉はクワア、と甲高く鳴いた。
『コレマデダ。イマスグ、其処ニ行クゾ』
蒼い鴉は飛び去っていく。
あとには、ただ夜の闇と白い月だけが残った。
――――――とたん。
ゴン、という重苦しい音とともに、部屋が激しくゆさぶられた。
いや、正しく言うのなら。
今の振動は、ホテル全体を揺らしたのだ。
「なんだあ―――!?」
ベッドから立ちあがる。
アルクェイドは黙ったまま、口惜しそうに唇を噛んでいるだけだ。
「アルクェイド、今の―――」
「――――――」
アルクェイドは答えてくれない。
「……なんか言ってくれよ。いまのは地震なんかじゃないよな」
―――例えばそう、ホテルのロビーに大きなダンプカーが全速で突進してきたような、そんな衝撃だったと思う。
「……アルクェイド!」
アルクェイドは、答えない。
耳をすませば、下の階のほうから音が聞こえてきていた。
……アルクェイドは深刻な顔をしている。
今の自分には何の力もない、とアルクェイドは語っていた。
だから、何も話そうとしないのだろうか。
「―――――」
ただ時間だけが過ぎていく。
二分。
さっきの衝撃から二分ほどたっているのに、ホテルはやけに静かだ。
アルクェイドはじっと黙っている。
唇をかみ締めて、何かに耐えるように。
見れば、彼女の唇からは赤い血が一筋、ゆっくりと流れ出していた。
「――――アルクェイド――――」
不安からか、それとも悔しさからなのか。
彼女は自分で自分を抱くようにして、じっと、何かを堪えている。
彼女はこの部屋から出ない、といった。
なら。
俺は、何のためにここにいるのか。
―――俺が、外の様子を見にいくべきだ。
「――――――よし」
やる事なんて、初めから決まっている。
ポケットからナイフを出して、部屋の扉まで歩いていく。
「――――志貴?」
「様子を見てくる。俺が帰ってくるまで、部屋から出るな」
何か言いたげなアルクェイドの視線を振りきって、廊下へ出た。
廊下に人影はない。
……部屋の中では聞こえなかったけれど、廊下はがやがやと騒がしかった。
このフロアが騒がしい、のではない。
騒音は足元から。
下の階はごちゃごちゃと騒がしくて、なにやら何人もの人の話し声が響いてきている。
おそらく、さっきのゆれで泊まっていた客たちが目を覚まして、ホテル側に苦情でも言っているのだろう。
「…………異状は、ないよな」
廊下を歩いていく。
下の階からのざわめきは、海の波の音に似ている。
騒がしいのに―――ひどく孤独だと感じる、閑散とした騒音。
「―――――つ」
ナイフを持つ指先がかじかむ。
ぶるりと首のうしろが寒い。
なにか、こめかみのあたり。
眼球の奥から、痛みがやってきているよう。
堪えながら、さざなみのする廊下を歩いていく。
「――――――」
いた、い。
目が、いたい。
あたまが重くなって、そのまま倒れてしまいそうな浮遊感。
ああ、知ってる。これは間違いなく貧血で倒れる直前の感覚だ。
「はあ―――――あ」
いたい。
いたいから、耐えきれなくなって、メガネを外した。
エレベーターが見えてきた。
長い廊下だ。
ここからエレベーターまで、あと十メートル以上はあるかもしれない。
――――と。
キンコン、と音をたててエレベーターが十一階にあがってきた。
「―――――」
エレベーターの扉に『線』が見える。
いや、それは。
濃密すぎて、もう真っ黒と思えるぐらい。
扉が開く。
狭い、鉄の箱が開く。
箱の中には。
あふれかえるほどの、人の肉が。
エレベーターという鉄の箱。
人間の赤い肉が圧縮されて押し込まれている。
その中で、二匹の黒犬がガツガツと何かを貪り食っている。
「な――――――」
呼吸が止まった。脳が思考を拒否するように、肺もその活動を拒絶した。
息が出来ない。けど、そんなことはどうでもいい。
視界が、真っ赤になる。
ごぽ、と音をたててエレベーターから血があふれだす。
血と、人と、腕と、足と、骨と、脳と、指と、臓物の海のなか。
二匹の黒い犬だけが、生きている生命だった。
「――――――」
理性が、この光景を受け入れる事を拒んでいる。
廊下の先、エレベーターの中では二匹の黒犬が人の体をあさっている。
耳をすませば、まだ下の階から音がしていた。
それは、よく聞いてみれば。
ゴリゴリという肉を咀嚼される音とか、タスケテといった悲鳴とか、もう人語でさえない人間の断末魔とかだったりした。
……なんてコトだろう。
見えてもいないのに、俺の目には。
何十匹という獣たちに生きたまま食べられる、ホテル中の人々の姿がイメージできた。
廊下を走ってにげる男性。でも天井から落ちてきた豹の爪が、鼻から後頭部までをゼリーみたいに切りとってしまったり。
部屋に閉じこもって泣き崩れる女の子。でも部屋の扉はライオンにしてみれば紙より脆くて、それこそ数秒とかからずにワケノワカラナイ形にされてしまったり。
我先にとエレベーターに駆け寄った人たち。でもエレベーターの中には何十匹という黒犬がつまっていて、エレベーターが開いた瞬間に全員が首をなくしてしまったり。
とにかく、誰一人として例外はない。
この足の下の、ホテルという大きな箱の中。
そこが、肌で感じ取れるほど身近な地獄絵図だった。
「ぐ――――」
吐き気がする。
だが吐くわけにはいかない。
そんな事をしていたら―――自分もあの赤い海の一つになると解っている。
「は―――ア。は。ア。は、」
止まっていた呼吸を再開させる。
ギリ、と強く歯と歯を噛んだ
エレベーターの中の犬たちがこちらに気づく。
気が付けば、下の階からの音は止んでいた。
「…………は」
つまり。
もう、生きている者は誰もいないということか。
グルウウウウウ……
二匹の黒犬が走りはじめる。
当然、最後の獲物である俺に向かって。
「は―――――あ」
黒犬が向かってくる。
その体には無数の線と、その額には死の点が視えている。
――――だっていうのに。
麻痺した頭は、戦うことも逃げることも、この体に指示を送ってはくれなかった。
一匹目の黒犬が跳ねる。
カレらの速さは人間の比ではない。
十メートル程度の廊下なんて、それこそ二秒とかからなかった。
黒犬の口が開く。
俺が持っているナイフなんかより何倍も鋭い牙をノコギリみたいにそろえた口が、的確に喉元へと向かってくる。
確実かつ迅速。
カレらが迫ってくる、と認識できた瞬間。
黒犬の牙は、ガギリ、と音をたてて俺の喉に食いついた。
遠野志貴は、死んだ。
だが、それは間違っている。
こんなコトぐらいでは殺されないし、死んでもやらない。
オレは、ヒトが死んでいるぐらいではためらわない。
――――夏の、暑い日。
ずっと昔、それとも八年も前の昔。
オレは、もっとひどいコトを、目の当たりにしていたはずじゃないか――――
ざく。
首筋に噛みついた黒犬の額に、ナイフを突きたてた。
黒犬が俺の首に噛みついて、そのまま噛み切ろうとするよりわずかだけ先に、腕が動いてくれたのだ。
自分でもほれぼれする。
まるでモノを斬る機能しかない機械みたいに、無駄なく目の前にある犬の眉間にナイフを刺した。
そこが一匹目の犬の『点』だったからだ。
普通、脳が破損しても筋肉というものは脳の下した命令を実行しようとする。
頭を貫いたところで、黒犬の口は俺の首を噛みきるだろう。
ああ、まあ―――その、普通なら。
だが、黒犬は『死』んでいる。
死は停止だ。こいつは俺に殺された時点で、あらゆる効力を失った。
一匹目の犬が地面に落ちる。
入れ替わりに――――二匹が、今度は俺の顔めがけて跳んできた。
「――――――」
開かれた口の中にナイフを突きたてる。
が、それは間違いだった。
コイツの『点』は顔ではなく胸にある。
口を刺したところで、すぐに死んでなどはくれない。
ナイフは黒犬の口内から後頭部まで通過した。
自然、ナイフを持った手は黒犬の口の中に納まってしまう。
「――――――あ」
黒犬はまだ生きている。
アゴがしめられる。
ナイフを持った手と腕の間、軟骨という柔らかいジョイント部分が、そのまま噛み千切られようとする。
その痛みで、ようやく、まともな思考が戻ってくれた。
「あ―――あ―――!」
―――冗談じゃない!
なんだって――――なんだって犬の口にナイフを突き刺したら、自分の腕を食いちぎられようとしてるんだ、俺は!
「こ――――の………!」
なんとか腕を引きぬこうとする。
犬の牙は腕に食い込んで、まず取れそうにない。
いや、そんなコトより――――黒犬は、頭を貫かれているというのに、いまだエネルギーに満ち溢れていた。
俺に口から頭まで貫かれて浮いているっていうのに。黒犬は、体をゆらして強引に俺の上にのしかかってきた。
「ぐっ……!」
だん、と床に倒れこむ。
それでも腕は抜けない。
黒犬はナイフに貫かれたまま、なおアゴに力をいれてくる。
「っっっっっっっっ!」
う、うでが食いちぎられる――――!
信じられない、犬っていうのはこういう状態で物を噛める生き物じゃないはずなのに……!
「っ、こ、こいつ……!」
ぬらりとした感触。
見れば黒犬の口から、ボタボタと血がこぼれだしている。
頭をナイフで貫かれた黒犬の血か。
それとも、食いちぎられようとしている俺の腕から流れている血か。
―――正直、そんなコト。
痛みなんかより頭が混乱していて、
どうでもいい問題だった。
「はな―――せ」
黒犬から逃げようとするのだが、黒犬は自分の腕に食いついているのだ。
逃げるコトはできない。
逃げられない。
逃げたいのなら――――コイツを、『殺す』しかない。
「――――――っ………!」
でも、どうやって。
片腕は食いちぎられようとしていて、ナイフだってそっちの腕が握ってる。
俺は押し倒されていて、もしこのまま腕を引きぬけたとしても、次の瞬間には自由になった黒犬の牙がこっちの首を噛み砕く――――
「は――――――あ」
――――大丈夫だ、落ち着け志貴。
まずよく見て、そのあとによく考える。
そんな教えを、今までずっと守ってきたじゃないか。
なら――――なんとかなる。
例えば、こいつの頭のうしろには十分すぎるほど『線』が見えている。
黒い『点』は、こいつの胸に見えている。
生きのびるための方法はひどくシンプル。
……けれど、それを実行するのはためらいがある。
どんなに強暴で、どんなに悪い生き物でも。
こんな間近で、はあはあと、息苦しいぐらい生きている動物を殺すなんて―――とてもじゃないけどできやしない。
「ぐっ――――!」
腕にかかる力がいっそう強くなる。
このまま片腕を食いきられるっていうのに。
どうしても、俺には、そんな残酷な真似はできそうにない―――
ぼたり、と赤い血が顔に落ちてくる。
赤い血が額にたれて、どろりと、目の中に入ってくる。
―――眼球の奥に、朱色の闇が、染みこんでくる。
「あか――――い」
くらりと。意識が、とんだ。
……それでも俺には、生きているモノを、殺すことなんて出来ない。
―――なんて偽善。
そういうおまえは、そんな犬畜生なんぞよりよっぽど大きな動物を殺しているじゃないか。
……ああ、そうだったけ。
でもあの時は違う。
アルクェイドの時の遠野志貴は正気じゃなかった。
さっき黒犬を仕留めた時も、本当に、自分の意思とは無関係の出来事だった。
けど、今は確実に俺自身の意思なんだ。
……先生が言ってたじゃないか、志貴。
この力は、他の誰でもない、遠野志貴自身の意思で行使なさいって。
だから。
自分が自分である今は、決して、命を粗末にしてはいけないんだ。
―――それも偽善。
なぜなら、おまえはとうのむかしに。
「あ――――――――」
……それは、こどものころの悪いユメ。
―――ほら、何をためらう。
……あれは暑い、夏の日だった。
―――殺さなければ殺されるのだし
……目の前には、血にまみれた少年の影。
―――おまえは、すでに
……俺の手には、熱い熱い赤い血が。
――――一度、人を殺しているじゃないか―――!
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
「あああああああああああああ!!!!!」
刺した。
引き抜くのではなく、なお、黒犬の頭を刺した。
ギィギギギギ、なんていううめき声が、目の前から聞こえてくる。
黒犬の叫びだと思う。
口の中に腕をつっこまれて、まともに哭けないくせに泣いている。
きっと、それぐらい痛いんだろう。
かまわない。
噛まれている腕ごと、ナイフをより深く突き刺した。
音もたてず、ナイフの刃が黒犬の後頭部から出てくる。
まるで角の生えた犬みたいだ。
頭蓋を割って、皮をたやすく切断して。
トロトロと血とか脳みそを撒き散らして、ナイフは完全に黒犬の後頭部から突き出てきた。
ついでに言うと、ナイフを握った遠野志貴の腕も、もう完全に頭を突き破って出てきている。
「は――――は、あ」
それでも黒犬は生きている。
ならやる事は一つだけだ。
もう片方の腕を伸ばす。
血だらけの指からナイフを引き剥がして、自由になっている腕でナイフを持ちなおす。
そのまま、黒犬の胸の『点』を貫いた。
「は――――あ」
黒犬はそれで死んだ。
アゴにかかっていた力もなくなって、腕はあっけなく引きぬけた。
「なんだ―――全然食い込んでないじゃないか」
血だらけの腕を見る。
たしかに牙の形に傷はあるけれど、肉はまったくといっていいほど無傷だ。
この血は頭を貫かれた黒犬のものだろう。
噛まれている時の痛みなんて些細なもので、こちらの恐怖が痛みを何倍にも感じさせていただけだ。
「は―――あ」
地面に横になったまま、天井を見上げる。
あたまが、いたい。
世界はツギハギだらけになって、そこかしこに黒い死の点も視えてしまって。
体中は冷え切っているのに、ただ理性だけが熱病にうなされている。
「―――く」
すぐ近くには二匹の黒犬の死体。
片腕は血にまみれていて、もう片腕には赤いナイフ。
……ついでに言うのなら、床の下の階層には数え切れないほどの人の死体。
「――――は、はは、ははは」
笑うしかない。
だって、こんなのは現実じゃない。
こんなのが現実であるはずがない。
俺はいつから、瞳をあけたままで、悪い夢なんかを観てしまっているんだろう―――?
キンコーン。
「え――――?」
ひどく場違いな明るい音がした。
「くそ、なんだこの頭痛―――」
刃物で突き刺されるような頭痛を堪えながら立ちあがる。
「エレ……ベーター……?」
今のはもう一つのエレベーターが上がってきた音らしい。
扉が開く。
その中には、黒いコートを着た男が一人。
頭痛が、一段と強くなる。
「あいつ――――」
そう、見たことがある。
たしかに、自分はあの男を見たコトがあったはずだ。
「―――――――」
男は無言で向かってくる。
「おまえ―――!」
ナイフを構えて男を睨んだ。
「―――――――」
けれど、男はまったく反応しないで歩いてくる。
こちらのことなど、まるっきり眼中にないというふうに。
距離が迫る。
あと少し―――ほんのあと一メートル、というところまで近づいて、ようやく男はこちらに気がついたようだった。
その、血走った目。
人間の持つ目とは逸脱したその目を見た瞬間、俺の体の自由は、まるっきりきかなくなった。
「皆殺しにしたはずだが、まだ残っていたか」
男はぐるり、と廊下に転がる二匹の黒犬の死体を見た。
「――塵どもめ。肉片ひとつ片づけられぬのでは、我が肉体である資格はない」
不快げに呟いて、男はざあ、と片腕をあげた。
コートがマントのように持ちあがる。
―――壊れてる。
黒い犬たちは、びゅるん、と音をたてて、液体になって男のコートの中に消えてしまった。
「あ―――――」
叫び声さえ、あげられない。
男のコートの下は真っ黒で、輪郭というものしか存在しなかった。
そこにあるのは、ただ、泥のような闇だった。
「やば―――――――」
やばい。
ともかく、コイツはやばすぎる―――
そう本能が危険信号をかき鳴らしているっていうのに、指先一つまともには動いてくれない。
黒いコートは近づいてくる。
「――――――!」
このまま、ここにいては、やばい。
さっきから止まない頭痛が、耐えきれないぐらい強くなって、ここが危険だと訴えつづける。
どんな手段、どんな方法を用いても、すぐさまここから離れなくては命が亡いと。
―――――だが、とうに遅い。
目の前には男がいる。
その瞳はまったくこちらを見ていない。
「食え」
スラリ、とコートの片腕があがる。
その下の混沌とした闇。
そこから、何か巨大なモノが現れた。
ごう、と。
二つの風切り音が閉じられる。
男のコートの下から現れたソレは、人間を軽く丸呑みできそうなワニの口だった。
「あ―――――――」
死ぬ。
ここで、紙くずを丸めるように、一瞬にして潰される。
そう確信した矢先、俺の体は誰かの手によって後ろに引っ張られた。
ぞぶり、という音。
「なっ―――」
信じ、られない。
ワニのアギトは俺ではなく、俺の体をひっぱってくれたアルクェイドの腹に食らいついた。
「つ――――!」
アルクェイドの顔が苦痛に歪む。
彼女はワニの口に完全に食いつかれる前に後ろに引き下がった。
「…………」
男は無言でアルクェイドを凝視する。
アルクェイドは腹を真っ赤に染めたまま、苦しげに男を睨み返していた。
「―――信じられない。混沌とも名づけられた吸血種が、こんなくだらないゲームにのってくるなんて。なんだか出来の悪い夢みたいだわ、ネロ・カオス」
「同感だな。私も、真祖の生き残りを捕らえるなど、そのような無謀な祭りの執行者にしたてあげられるとは夢にも思わなかった。私にとっても、これは悪夢だ」
ネロ、とか呼ばれた男は静かに腕をさげる。
コートはもとに戻って、ワニの口もその下に消えてしまった。
男はアルクェイドだけを視界に収めている。
彼女に守られて、その後ろでナイフを構えている俺のことなんてまったく見えていないみたいに。
「しかし、これはどういう事だ? 私の前の執行者は貴様に傷一つ付けられなかったという話だが、それはどのような間違いなのだ。
今の貴様の存在規模は脆弱すぎる。一介の亡者にも劣るその衰退―――私が来る前に教会の者たちに襲われたか、アルクェイド・ブリュンスタッド」
「………………」
アルクェイドは何も言わない。
男は、感情のない目でアルクェイドを凝視する。
「……解せぬな。貴様を害せるほどの概念武装は限られている。アレを保有しているのは教会の殺し屋どもだけだ。このような極東の地に、埋葬機関が派遣されるとは思えぬが」
男はかすかに瞳を細めると、くるりと背を向けた。
「だが、どちらにせよ私にとっては僥倖だ。貴様がそこまで弱っている是非は問わぬ。勝機があるうちに、その首を貰い受けるのみだ」
「っ……!」
ナイフを構えて男の攻撃に備える。
―――が。
その首を貰いうける、なんてコトを言っておきながら、男はエレベーターへと去っていく。
男は急いだ様子もなく、悠然とエレベーターに乗って、そのままこの廊下から退場してしまった。
「――――――へ?」
もう、これっぽっちもワケがわからない!
さっきの男のことも、俺を襲った二匹の犬のことも、このホテルを襲った悪夢みたいな現実も!
「志――――貴」
どん、とアルクェイドが寄りかかってきた。
「あ――――」
ひどい傷だ。
腹からの出血は止まっているものの、彼女の顔は苦痛にゆがんでいる。
―――それは、たった数秒前。
俺を、あの男から庇ってできた傷だった。
「おまえ――――なんで」
「……うん、ちょっと甘く見てた。あれぐらいなら志貴を助けて、わたしも軽くかわせると思ったんだけど―――さすがだね、志貴。志貴にやられた傷、そんなに甘くなかったみたい」
アルクェイドは苦痛にゆがんだ顔で、にこりと、冗談みたいに微笑んだ。
「ばっ――――」
―――見て、いられない。
そんな―――俺を庇って出来た傷で、くわえてその原因も俺にあるっていうのに―――そんな馬鹿な笑顔、うかべられたら立場がない。
アルクェイドは俺に体を預けて、うっすらと目を閉じようとしている。
「……ちょっと待て、なに目を閉じてるんだばかっ! しっかりしろ、おまえは夜なら死なない吸血鬼なんだろ……!」
「……そうなんだけどね。わたし、なんだか限界みたい」
「なっ――――」
「わるいんだけど、部屋まで連れてかえっておいて」
がくん、とアルクェイドの体重がかかってくる。
「―――ちょっと待ってくれ、そんな―――」
勝手に死なれたら、俺は―――
「おい――――!」
静かに目を閉じたアルクェイドに呼びかける。
と。
「……くー」
なんて、とても幸せそうな寝息が聞こえてきた。
「…………」
……はあ、心配して損した。アルクェイドは眠っているだけらしい。
「……部屋まで連れてけって、また勝手なコト言いやがって―――」
本当に勝手なコトだけど、この場合は仕方ない。
それにこれ以上このホテルに居ると、何かとまずい事になりそうな気もする。
「…………ぐっ」
頭痛はやまない。
なんだかんだと、こっちも休まないとまいってしまいそうだった。
「……アルクェイドの部屋って―――ああ、あそこか」
一度しか行ったことはないが、場所は確実に覚えていた。
―――なら長居は無用だ。
俺はアルクェイドを抱きかかえて、早々にホテルを後にする事にした。
街はかすかに明るい。
まだ誰も起きていない早朝という事が幸いして、アルクェイドの部屋に行くまで誰にも見られずにすんだ。
「……そうか、そういうコトか」
そこでようやく、あの男が立ち去った理由を理解した。
街にはうっすらと茜がかかりはじめている。
いつのまにか、夜はとうに明けていてくれたらしい―――
[#改ページ]
●『4/黒い獣U』
● 4days/October 24(Sun.)
アルクェイドの部屋は吸血鬼にあるまじき内装をしていた。
……あの時はアルクェイドに夢中で部屋のことまで頭が回らなかったけど、こうして見ると実にまともな一般人っぽい部屋をしている。
「……新聞もちゃんととってるみたいだし。なんなんだろうな、コイツ」
ぼやきながらアルクェイドをベッドに寝かせた。
「は―――あ」
床に腰を下ろして、大きく深呼吸をする。
時刻はじき朝の六時になろうとしている。
窓の外は明るくなってはいるものの、空模様はどんよりと曇っていた。
「……そっか。カーテン、閉めてあげないと」
けだるい体に鞭をうって立ちあがる。
部屋じゅうのカーテンを閉めて、もう一度床に腰を下ろす。
どすん。
座ろうとした途中、膝から力が抜けて床に倒れこんだ。
「―――ありゃ。俺も疲れてるみたいだ」
情けないことに、起きあがることができない。
そういえば昨夜はずっとアルクェイドと話をしていたし、まともな食事を一日以上摂っていない。
くわえて―――メガネをしていても頭痛は消えてくれなくて、脳の神経はさっきからスプーンを投げまくっている状況だった。
「……アルクェイド……傷、大丈夫かな……」
出血は止まっていたし、バラバラにされても勝手に生き返るヤツなんだから、そんな心配なんて無用かもしれないけど。
「……なんで、かな」
こうしているいまも、疲れで倒れてしまいそうだっていうのに。
今は、自分のことよりアルクェイドの容体が気にかかってしまっている――――
『―――この衝突事故は被害者である高田陽一さんのオートバイのブレーキペダルが何らかの異常をきたしており、ブレーキがきかない状態で急な坂道を下りてしまったことが原因とされています。
負傷者は二名、幸い死者はおりませんでした』
……どこででも聴けるような、あまり特徴のない男性の声に起こされた。
「ん―――寝ちゃったのか、俺」
気がつくと床に横になっていて、体にはシーツがかぶせられている。
時刻はお昼をすぎたあたり。
ベッドの上にアルクェイドの姿はなく、ただつけっぱなしのテレビがつまらないニュースをたれ流していた。
「……アルクェイド、どこに行ったんだろ」
と、台所で人の気配がする。
「あの馬鹿。あんな体でなに動きまわってるんだ」
シーツをはらって立ちあがる。
すぐ台所に行って、あいつの傷を確かめなくっちゃいけない。
『次のニュースです。本日未明、南社木市にあるホテルで大規模な行方不明者が出るという事件が発生しました』
「―――――」
ぴたり、と足が止まる。
目が、テレビのブラウン管に映るニュースキャスターにくぎ付けになった。
『ホテルに宿泊していた百三名の姿はいまだ発見されていません。また、ホテル内のいたる所に血痕が見られる事から、警察では何らかの犯罪に巻き込まれたという見解を強めています』
「なに―――言ってるんだ。血痕って、アレは―――そんな可愛いものじゃなかったのに」
ニュースキャスターは淡々と情報を読み上げていく。画面は一点して、さっきまで自分がいたホテルの外観と、行方不明になったとされる百三名の宿泊客の名前を一覧した。
―――俺とアルクェイドの名前は、当然のようにない。
『また、ホテル内からは野生動物の体毛が大量に検出されたとのことです。宿泊客の行方不明に関わっている犯人の手によるものでしょうか、犬や狼、はては熊らしきものの体毛まで検出された模様です。
検出された動物の体毛は何十種類とあるとのことで、何の冗談でしょうかサメの歯形まで検出――――』
ぱちん、とテレビのスウィッチを切った。
「――――」
百人。百人近くの人間が、あの時間、たった三十分の間に一方的に殺されたっていうのか。
血痕――――?
行方不明―――?
なんでそこまで解っていて、はっきりと口にしない。
わかりきってる。
あのホテルに泊まっていた人間はみんな、あのワケのわからない獣たちに、肉片ひとつ残さず食われちまったっていうコトを。
「ぐっ――――」
吐き気を堪える。
いちいち昨夜のことを思い出して嘔吐するなんてコト、俺にはできない。
そんな脆弱な同情、豚にも劣る。
あのホテルにいたのに自分だけ死んでいない俺には、その元凶を憎むこと以外は許されまい。
百人だ。
百人の人間が、人間の原形なんて留めないで、ただ血の跡だけを残して殺された。
黒いコートの男の顔が思い浮かぶ。
あいつが何者なのかは知らない。
ただ、ヤツがあの出来事の元凶であることは間違いない。
―――心が、まだ麻痺しているのか。
恐怖や嫌悪より、今は憎しみが勝っている。
それとも―――この胸の中で渦巻いている感情さえも、恐怖というものの一種なのか。
「ふざけ―――やがって」
ギリ、と歯を鳴らす。
悔しいのか恐ろしいのか、それともおぞましくて不快なのか。
俺は、あの黒いコートの男の顔を思いうかべるだけで、何かを壊したくなるぐらい、苛立ちを覚えている――――
「気がついたの、志貴?」
アルクェイドが台所から顔を出す。
「――――あ」
「なに? 恐い顔しちゃって、なにかあったの?」
アルクェイドはまるで何も起きていなかったみたいに、気軽に話しかけてきた。
「…………」
さっきまで昂ぶっていた気持ちは、それでとうとつに消えてしまった。
「アルクェイド―――その、傷はいいのか」
「ええ、とりあえずはね」
ふふ、と余裕ありげにアルクェイドは笑った。
なんだかすっかり元どおりになったようで、下手をすると沈み込んでいるこっちより元気があるかもしれない。
「……そうか。それなら、良かった―――」
せめて。自分の身近な人間だけでも、無事でいてくれて。
「……ん?」
って、待った。
アルクェイドは人間じゃなかった。
そんな大前提を忘れてしまうなんて、まわりの連中が言うように遠野志貴はぽーっとしすぎだな、ほんと。
「……でもまあ、とにかく良かったよ。アルクェイドの傷が大したことがなくて」
「へえ、どうしたのよ志貴。ちょっと前まではわたしのことを化け物呼ばわりしてたくせに」
「ばか、ちょっと前までじゃなくて、今でもそう思ってるよ。でも、それとこれとは別問題だろ。助けてもらったら感謝ぐらいはするさ」
「え? 助けたって、わたしが志貴を?」
アルクェイドは意外そうに目を見張る。
どうにもアルクェイド本人にはまったく自覚がないみたいだ。
「そう、おまえが俺を助けてくれたの。だから、今更だけど、庇ってくれてありがとうな。おまえにひっぱられなかったら、今ごろ俺も百三名の仲間入りしていたところだった」
「ありがとう、って―――べつにいいよ、そんなコト考えなくて。志貴がネロと出会った原因はわたしにあるんだし、志貴に感謝されるいわれはないもの」
「それはそうだけど、助けられたのは事実じゃないか。アルクェイドは俺を助けてくれたんだから、その点だけは本当に感謝してる」
「―――でも、志貴はわたしの見張りを引きうけなかったらあんな目には遭わなかったわ。志貴の生活に毒素を混ぜたのはわたしよ。
だから、貴方はわたしを憎みこそすれ感謝するいわれはないと思うけど?」
「……そりゃあ、たしかにおまえのコトは厄介だって思ってるよ。けどさ、俺は自分の行動は結局自分で責任を持つしかないって思ってるんだ。
……ずっと昔にそういう事を教えてくれた人がいてさ。まわりがどうあれ、自分の意思でした事は自分で決着をつけなさいって。
当たり前の事だけど、俺もその考えには賛成なんだ」
だから、アルクェイドのことを憎んでるとか、そういう気持ちはない。
ただまあ、なんだか厄介な出来事に巻きこまれてしまったなあ、と思うぐらいで。
「―――そっか。言われてみれば、盾が必要だって思ったのは志貴に殺されたからだもの。なら志貴を巻き込んだことを謝る必要なんてないってことだね」
「そういうこと。自業自得なんだよ、今の俺は」
「自業自得かあ。うん、志貴ってばある意味で運が悪いわ。人を殺すにしたって、わたし以外の子にしておけばこんなコトにはならなかっただろうし」
「…………あのな」
そもそもアルクェイド以外の誰かを殺したかもしれない、なんていう仮定は成りたたないだろうに。
あんな気持ちになって、そのまま尾行して殺してしまったなんていう相手は、いまのところアルクェイドしかいないんだから。
……というか、コイツ以外にはいないって思いたい。
「―――あ」
「なに? 忘れ物でも思い出したの?」
「いや、そういうわけじゃなくてさ。……今まで考えたこともなかったんだけど、どうして俺はおまえを殺そうなんて思ったんだろうって」
アルクェイドは顔をしかめて俺を見る。
……まあ、当然の反応だと思う。
殺した本人であるこっちが、アルクェイドを殺した理由にまったく見当がつかないっていうんだから。
「理由なんてないんじゃない? だって、志貴って根っからの殺人鬼なんだから」
「――――――え?」
ちょっとマテ。
イマ、この女は、俺に対して、なんてコトを言ってくれやがったんだ―――?
「わたしを襲った時なんてすごく手慣れてたものね。チャイムを押して、扉が開いた瞬間に手を差し込んできて、有無を言わさず中に押し入る。
こっちが驚いている間に初撃で確実に生命活動を停止させて、あとはざっくざくに切り裂いてバラバラにする――――うん、あの不意打ちは完璧だった。
どのくらい完璧だったかっていうと、あの時の志貴をそのまま絵に閉じ込めれば、これ以上ないっていうぐらいの芸術品になるぐらい完璧だったわ」
「そ―――」
「けど、せっかく卓絶した殺人の超絶技巧をもっていても今回は殺した相手が悪かったわね。
志貴が今まで何人殺してきたかは知らないけど、獲物にわたしを選んだ時点で年貢の納め時だったんじゃない?」
「そ、そそ」
「『そそそ』って、なによさっきから恐い顔して。言いたいコトがあるならはっきり言えばいいのに。わたしと貴方の間で、いまさら我慢するコトなんてないでしょ?」
―――ああ、それもそうかも。
こくん、と頷いてから、ちょいちょい、とアルクェイドを手招いた。
「なに? 内緒話?」
わくわくしたふうにアルクェイドはよってくる。 その片耳に口を近づけて、言いたいコトをはっきりと口にすることにした。
「……あのな、アルクェイド」
「うん、なに?」
せーのっ!
「そんなワケないだろ、このばか女―――っ!」
ばかおんなー、おんなー、んなー、なー………
部屋の中、叫び声が反響する。
容赦なしで、ふるぱわーでありったけの音量をアルクェイドの鼓膜に叩きつけてやった。
「いっ……たあ………」
アルクェイドは大げさに耳をおさえる。
「もう、あったまきた! 突然なにするのよ志貴!」
「怒りたいのはこっちのほうだ! なんか微妙にめちゃくちゃな注文をしてくるかなって思ってたら、おまえ、そういうコトだったのか!」
「え―――? そういうコトって、なに……?」
「おまえが俺のことをいかれた殺人鬼だって思いこんで、化け物相手に盾になれとか見張りをやれとか言ってたコトだよ!
……まったく、とんでもない勘違いをしやがって。どおりで俺のことをやけに買ってるかと思ったら、つまりはそういうコトだったんだな。
いいか、このさい言っておくけど、俺は殺人鬼でも殺人狂でもないんだぞ。
人を―――人を殺したなんて、おまえがはじめてだったんだから」
ぽかん、と口をあけるアルクェイド。
……くそ、よっぽど今の発言が意外だったみたいだ。
「―――うそ。あんなに手慣れてて、あれが初めてだっていうの志貴……!?」
「……そうだよ。たしかにこんなおかしな目をもってるけど、それでも俺はそれなりに真面目に生きてきたんだ。この『線』を使って人を殺したい、なんて思った事は一度もない」
「だって――それじゃあどうして見ず知らずのわたしを殺したりしたのよ」
「それが俺にもわからないんだ。
アルクェイドを街で見かけたとたん、なんだかすごく気になって――気がついたら、俺はキミを、バラバラにしてしまってた――――」
この部屋で。
何の理由も、目的もなく。
「―――――そう、か」
……ああ、そうだった。
俺が、アルクェイドを怒れる資格なんて、なかったんだ。
たとえ相手が生きていて、それが人間じゃないっていっても。
俺は実際に、彼女をこの手で殺しているんだから。
「なによ、またいきなり黙っちゃって。そうかって、なにがそうかなの、志貴?」
「…………だから、ごめん、って……言わなくっちゃ、いけない……」
俺は――――なんて大事なことを、自分の都合のいいように忘れてしまっていたんだろう。
「――ごめん。ごめんな、アルクェイド。遠野志貴は、キミをここで殺した。俺は何よりそのことを、一番最初に謝らなければいけなかったのに―――」
……本当に、どうかしてる。
アルクェイドが俺を殺人鬼と勘違いするのは当たり前だ。
だって、俺本人でさえあの時の衝動が理解できない。
なら、もしかして。
遠野志貴は、
本当に殺人鬼かもしれないんだから―――――。
「―――殺したのは事実なんだ。だから―――俺は罪も罰も受けないといけない。
こんな人殺し、みんなの社会に混ぜるわけには、いかないだろ」
―――今さら、そんな大事なことに気がつくなんて、卑怯すぎる。
たとえアルクェイドが何者であれ――遠野志貴は、理由もなく人を殺してしまう人間なんだから。
「―――そう。志貴は本当に、自分でも理由がわからないのね」
……無言で頷く。
「つまり楽しいとも感じなかったってコトでしょ?……うん。たしかに殺人鬼の中には呼吸をするみたいに殺人を行うヤツもいるけど、志貴は普段はまともっぽいよね」
「……そうだな。一応、そのつもりだけど」
「いえ、すごくまともよ貴方は。それで殺したくなったのはわたしだけなの?」
「……ああ。アルクェイド以外には、そんな気持ちにはならなかった」
「なーんだ、なら問題ないじゃない。志貴は殺人鬼なんかじゃないよ」
実にあっさりと、なかば投げやりにアルクェイドは言いきった。
「それに何の罰も受けなくていいと思う。
たまたま志貴が殺したいって思った相手がわたしで、厄介なことに志貴にはこれ以上ないっていうぐらい殺人の技巧が備わっていた。
けど都合のいいことにわたしが吸血鬼だったんだから、誰も死んでないでしょう? だから志貴がそんなに悩む必要なんかないわ。
人間たちの社会の道徳なんてものも気にしなくていいと思う」
「……わかってる。それでも俺は、人殺しをしてしまった。だから、そんな危険な人間は、野放しにしちゃいけないだろ」
「そんなの関係ないわ。だって今のところこの世界で志貴を責めていいのは、被害者であるわたしと当事者である志貴本人だけなんだから」
「―――それはそうだけど。おまえを殺したっていう事実だけは、決して、変わらないじゃないか」
そう。
罰はないかもしれないけど、罪だけは、永遠に消え去らない。
「それは当然よ。わたしだってまだ根に持ってるんだから、そう簡単に忘れられちゃ困るわ。
だけどね、志貴。ちゃんと貴方本人がそう思えて、ずっと後悔していくんなら問題はないんじゃない?」
―――だが、それは詭弁だ。
「志貴。人間の中にはね、どんなに世の中を恨んでいても悪魔に魂を売れない人が本当にいるわ。
例えば吸血鬼相手にごめんなさい、なんて言える正直者とかね。
だからきっと大丈夫。誰がなんていったって、志貴本人がそうじゃないって言いきったって―――志貴は、まだそっち側の世界にいられるよ」
「な―――――」
……言葉がない。
よくもまあ―――自分を殺した相手に対して、こんな台詞を笑顔で言えるんだろう、コイツは。
「アル……クェイド―――」
「ほら、そんな事よりわたしたちにはもっと厄介な問題があるでしょ。志貴も目が覚めたことだし、今後のことを話し合いたいんだけど――」
と言いかけて、アルクェイドはばたりと床に崩れ落ちた。
「アルクェイド―――!?」
倒れた彼女に駆け寄る。
アルクェイドは額に汗をうかべて、苦しげに吐息をはいた。
「……まいったなあ、やっぱりまだ無理みたい」
見れば。
白い洋服の腹のあたりが、じんわりと赤く染まりつつある。
「おまえ、その傷―――」
「あ、これ? 志貴にやられた後遺症が凄くて、傷の復元もできなくなってるのよ。
とりあえず傷口だけはふさいでおいたんだけど、あんまり効果はなかったみたい」
アルクェイドの口調は明るい。
けれど、その端々にかすかな苦しみがあるコトに、ようやく俺は気がついた。
「ふさいでおいたって、何で塞いだんだアルクェイド……!」
「えーっと、それ」
と、アルクはフローリングの床にころがっている小さなモノを指差した。
茶色い。
一見してドーナツかバームクーヘンに見えない事はないが、どう見ても、それはただのガムテープだった。
「―――ば、ばかものかおまえ! ガムテープで傷口を縛るヤツがどこにいるってんだ……!」
「……もう。あんまり人のことばかばかって連呼しないでよ。なんだか本当にそうなのかなって考えちゃうじゃない」
「うるさい、いいから傷口を見せろ……!」
アルクェイドの服に手を伸ばす。
と、ごろん、と音をたててアルクェイドは床を転がって逃げた。
「ふざけるな、傷口が開いたらどうするつもりだ!」
「いいよ、こんなの放っておいたって。志貴こそ馬鹿な真似はやめてよね。女の子の服を剥ごうなんて、ネロよりたちが悪いわよ」
「―――あのな。俺はおまえを人間として見てないんだから、男も女もないだろ。ほら、いいから大人しくしてろ。
俺を庇ってできた傷で死なれたら、俺はおまえに一生負い目が出来ちまうじゃないか……!」
むっ、とアルクェイドは不満そうに俺を睨んで、ごろん、と今度はこっちに転がってきた。
「……………」
アルクェイドは堅く口を閉ざしている。
……拗ねているようだけど、とりあえず傷口を見ていい、ということらしい。
服をたくしあげて、アルクェイドの腹部をあらわにする。
アルクェイドのおなかは、ガムテープでぐるぐる巻きになっている。
本当に乱雑な巻きかたで、良く見ればうっすらと血がにじんでいた。
「――――」
呆れた。
というより、あたまにきた。
服を元に戻して、アルクェイドを抱きかかえる。
「ちょっ――何するのよ、志貴!」
「ベッドに寝かすんだよ。病院に連れて行きたいのは山々だけど、そういうワケにもいかないだろ」
そのまま、できるだけゆっくりとベッドに寝かしつける。
「いいか、俺が戻ってくるまで絶対に動き回るな。さっきみたいに歩きまわったら、金輪際おまえのコトなんて忘れてやるから、覚悟しとけ」
部屋の中を見渡す。
思ったとおり、救護セットとか、手当てができそうな物はありそうにない。
「アルクェイド、おまえお金持ちだって言ったよな」
「え――? う、うん、お金には不自由してないけど、それがなによ」
「出せ。手当てに必要な物を買いこんでくるから。 ……おまえに効果があるかどうかはわからないけど、とりあえず怪我をした人間が必要とする手当てぐらいはしないといけない」
「いいけど、無駄かもしれないよ?」
「―――無駄でもやるんだ。そのまま放ってなんておけるもんか」
「……わかった。わたしも体の作りそのものは志貴たちと同じなんだし、それなりに意味はあるかもしれない」
「いいから金。おまえは黙って横になってろ。あ、でも眠っちゃだめだからな。横になってもちゃんと起きてるんだぞ」
「むっ……志貴、すごく無茶な注文してるよ、それ」
「無茶だけどやるのっ。眠ると体の機能が低下するって聞いた事があるんだ。
傷が塞がっていない状態で眠ると身体の抵抗力が落ちてしまって、傷がますます悪化するっていうコトだと思う。
睡眠が回復してくれるのは疲れだけで、傷や病気は治してくれないだろ。だから、とりあえず手当てをするまでは眠らないようにするんだ」
「―――へえ。うん、それってその通りよ志貴」
アルクェイドは嬉しそうに笑う。
……やっぱりこいつの思考回路は理解しがたい。
「……あのさ。なんで笑うんだよ、そこで」
「だって、志貴が頼りになるんだもん」
「―――――」
無言で手を出す。
アルクェイドはスカートから財布を取り出して、はい、と手渡してきた。
「―――行って来る」
アルクェイドに背中を向けて、部屋を出た。
外に出ようとして、台所にあるものに目が向いた。
「―――メシだ」
テーブルには、その、食事というよりはメシ、メシというよりは食料、という表現がぴったりな『食い物らしきもの』が用意されていた。
……アルクェイドが台所にいたのは、ようするにコレのためか。
「………………ばか」
アルクェイドは、普通の食事をとらないといった。
ならこれが誰のために用意されたものかなんて、考えるまでもない。
「くそ―――なんなんだ、あいつ」
ひどく、イライラする。
あんまりにイライラするものだから、せめて一秒でも早く、応急手当が出来そうなモノを買ってこようと走り出した。
でも、応急手当といっても俺に思いつくものといえば、傷口を塞ぐガーゼとか、それを押さえるための包帯とか、鎮痛剤とかしか思いつかない。
それでも無いよりはあったほうがいいに決まっている。
たとえ些細なものでも、有るのならそれはゼロじゃないんだ。
そう信じて、自分で思いつく範囲のものを買いあさった。
◇◇◇
「ちょっと、そこ、くすぐったい」
「……………」
アルクェイドの声を無視して、出来るだけ繊細にガーゼをあてがう。
アルクェイドの腹部の傷は、そう大きなものではなかった。アルクェイド曰く、外見だけはソコソコに治ってくれた、とのコトだ。
それでもワニの牙は黒い穴のように穿たれていて、都合四箇所もゴルフボールほどの大きさの穴が開いてしまっている。
ここまで大きな傷口だと逆効果かもしれないが、やっぱり黴菌による二次災害(っていうんだろうか、こういうのって)を考慮して、消毒薬をぬっておく。
そのあとに傷口にガーゼを貼って、包帯を丁寧に巻いていった。
「あははは、ちょっとやめてって、志貴ってばうますぎー」
アルクェイドは陽気に笑っている。
「…………」
無視して包帯をピンで留める。
傷口はややきつく縛ると止血できるというので、最後はきゅっと力をいれた。
「――――いたっ。もうっ、いまのは減点だよ、志貴」
「……………」
ふう。とりあえず、俺に出来る事はこれで終わりだ。
「―――さて。いちおうカッコだけはつけてみたけど、どうかな。動けるか、アルクェイド?」
「ええ、動く分には邪魔になりそうにないわ。
中身がまだぐちゃぐちゃのままだから、満足には動けないでしょうけど」
「そうか。ま、それはそっちのほうでなんとかしてくれ。俺は切るのが専門で治すのは出来ないからさ」
ベッドの上のアルクェイドから離れて、壁ぎわに腰を下ろす。
「寝ていいぜ。眠って力を回復させれば、そんな傷すぐに治るんだろ? 見張っててやるから、大人しく寝てくれ」
「ううん、寝てもあまり力は回復しないわ。志貴も言ったでしょ、睡眠で回復できるのは疲れだけだって。
わたしの場合ね、力は純粋な時間経過で回復するものなの。明日になれば、とりあえず普通に動けるぐらいには回復するわ」
「―――いいから眠ってくれ。今のおまえ、話しているだけで辛そうにしているじゃないか」
「そうだけど、せっかく志貴が起きてるんだもの。眠るのがもったいないなって」
アルクェイドはベッドに横になって、上半身だけ起こして明るく話しかけてくる。
「―――ったく」
仕方ない。
こっちも聞いておきたい事があるし、もう少しアルクェイドに付き合ってもいいだろう。
「アルクェイド。昨日のホテルのこと、聞いていいか」
「……そうね。やっぱりそういう会話になるわよね、わたしと志貴の場合」
「ああ。聞きたいことは一つだけだ。昨日のあいつ―――おまえはネロって言ってたけど、あいつは一体なんなんだ。
こっちは真面目に聞いてるんだから、くれぐれも体からワニを出せる手品師だ、なんてつまんないコトは言わないでくれ」
「言わないわよ、そんなこと。
志貴もわかってると思うけど、あいつも吸血鬼よ。わたしたちの間ではネロっていう名称で呼ばれてる、かなりの変種。
……実を言うと、こんなふうに気軽に話せるような相手じゃないわ」
「……………」
やっぱりあいつは吸血鬼だったのか。
けど、なんとなく―――目の前にいるアルクェイドがそうは思えないように、あいつも吸血鬼というイメージにはそぐわない。
「そのさ、あのネロっていうやつはどんなヤツなんだ。アルクェイドは知り合いだったみたいだけど」
「まさか。わたし、吸血鬼に知り合いはいないわ。知り合ったっていうコトは次の瞬間に殺しているっていう事だもの。今回みたいに顔を合わせたのに別れた、なんていうのは初めてよ」
「でも色々と話をしてたじゃないか」
「だからって知り合いっていうのは早計ね。
ネロはそれなりに有名な吸血鬼だし、わたしも彼らの間じゃ名前が通っているから自己紹介の必要がなかっただけよ。
歴史を重ね、特異な能力を保有する吸血鬼ほど名前が知れ渡るのは当然でしょう?
ネロはね、その中でもさらに特別。
古参の吸血鬼の一人なのに、城も領地も持たないでさまよってる変わり者。
教会の連中からはなんでかカオスっていう二つ名をつけられているんだけど」
「……かおす? なに、それ」
「混沌って意味。ぐちゃぐちゃしてるってことよ。
原初の地球みたいに色々なモノが混ざり合って何が飛び出してくるか解らない……っていう意味かもしれないわね、昨夜の様子からしてみると」
「何が飛び出してくるかわからない……?」
「もうっ。志貴も見たでしょう、あいつの体の中身を。前に話したと思うけど、長く生きた吸血鬼ほど自分の肉体が破損すると中々修復できなくなるの。
すでに何百年と存在してきた器を修復するには、人間ぐらいの命ではレベルが足りない。
だから単純に、生命としてより優れた素材をもつ猛獣や魔獣をとりこんで、自分の肉体として作り変える。
……ネロは吸血鬼の中でも最古参の一人らしいから、体の代わりにして獲りこんでいるケモノの数が桁違いに多いのかも」
「けた違いに多いって―――あの黒犬とかもネロってヤツの体の一部だっていうこと?」
「そうよ。でもヒトの器には限りがあるから、せいぜい自身の肉体として制御できるのは三十匹ぐらいかな。
魔獣、幻獣と区別される幻想種をとり込んでしまうと一匹以上では容量がパンクする。
それを考えればネロの使い魔たちは現存する生物たちだと思う。
……うん、その点はラッキーかも」
……最後のあたりはよく解らないけど、とりあえずあの黒犬が三十匹もいるっていうことか。
「……いや、違う。ホテルで暴れていたのは黒犬だけじゃなかった。ライオンとか豹とかもいると思う」
「でしょうね。……同種のケモノたちなら三十匹ぐらい統括できるけど、異なるケモノたちを体内で統括するあたり、確かにネロの意思の強さは桁が外れてる。
……まあ、それだけの意思力を持つのに野生の動物ばかりを体にしているっていうのはおかしな話かな。
アイツだったらかなり上等な魔獣を抑えつけるだけの意思力はあると思うんだけど――――」
うーん、とアルクェイドは何やら考え込む。
「ま、いっか。とにかくあいつの武装は二十から三十ぐらいの使い魔だってわかったんだから。
……ついでに言うとネロっていうあだ名の由来も少しはわかったかな」
「え……? アイツ、ネロっていうのは本当の名前じゃないのか?」
「うん、長く生きた死徒たちは大抵が人間だったころの名前を使わなくなるのよ。
かといって自分で名前をつけないものだから、教会側がかってに名称をつけてしまう。
それも新しい特色が判明した時点で付け足していくから、中には呪文みたいに長い名前のヤツもいるわ。
……ま、アイツが初めにネロって名づけられたのは、よっぽど教会側に嫌われたからでしょうね。
だいたい、ホテルなんていう限定された狩猟場ならたかだか人間百人、ライオン一匹で事足りるでしょう? なのに体中の全てのケモノを解放して、わざわざあんな方法で食事をとるなんて無駄好きにもほどがあるわ」
「………………」
……ネロという吸血鬼の中にいる、三十匹ものケモノ。
たったそれだけで、わずか三十分のうちに、ホテルで逃げ惑った百人もの人間は残らず食い殺されたのか。
「――――信じられない。それじゃあ、まるっきり化け物じゃないか」
「そうね。ネロはこれ以上ないっていうぐらい最悪の相手よ。できれば出会いたくない部類に入る。
けど、なにより最悪なのはそんなヤツにわたしたちの居場所を見つけられたっていうこと。
こうしている間も、ここは間違いなくネロの使い魔たちに監視されてるわ」
「な――――」
「当然でしょう? さっきは太陽が昇ってくれたから助かったけど、今夜はそんな助けはないわ。こっちの場所がわかっているんだから、午前零時っていう最高のタイミングでわたしを殺しに来るでしょうね」
「殺しにくるって、今夜……?」
「ええ、アイツ自身がそう言ってたじゃない」
――――なんだ、それ。
あいつが―――あの黒いコートの男が、今夜やってくるっていうのか。
「――――――」
何を言うべきか、わからない。
逃げるべきだっていうのが、とりあえず一番賢い選択だってのはわかっている。
けど、アルクェイドはこんな体だ。
たとえ逃げても、あんな化け物相手に逃げきれるとは思えない。
いや、アルクェイドのことより自分のことだ。
ここにいたら―――アルクェイドに関わっていたら、間違いなくアイツと出会う。
アイツは、やばい。
はっきりいってマトモじゃない。
体の中に動物がたくさん入っているとか以前に、あの目は、まるで機械のそれだった。
感情というものが一切ない。
ただ決められた事だけを当然のようにこなす、本当の殺人鬼の目だった。
間違っても関わってはいけない相手だっていうのは、一度殺されかけた俺自身が実感してる。
「―――――」
けど、だからってアルクェイドを置いて一人だけ逃げるのか?
こいつが何であれ、俺を庇ったせいで満足に動けもしないヤツに、それじゃあ頑張れよ、なんて言って帰ることができるのか―――
「アルクェイド、俺は――――」
「でも安心ね。だって、志貴ならネロなんて問題じゃないんだもの。貴方は相手が何であれ一撃で殺せるんだから」
「―――――――へ?」
なにか、とんでもない事を。
当然のように、アルクェイドは言った。
「ちょっ―――おまえ、なに言ってるんだ、いったい」
「なにって、わたしと一緒に戦ってくれるんでしょ志貴?」
アルクェイドはまっすぐに俺を見つめてくる。
もう、完全に俺を信用しきった眼差し。
だが冗談じゃない。
俺は――――
―――断る。
あんな化け物とやりあう事はできない。
盾になれ、とか眠っているところを見張っていてほしいとか言われたけど、それだって結局は満足にこなせなかった。
そんな俺がアルクェイドと一緒に戦っても、結局は足手まといになるだけだろうし。
「アルクェイド。悪いけど、俺にはできない。アイツは違いすぎる。俺なんかが戦っても、アイツに傷一つだってつけられないだろ」
「えぇ〜、そうかなあ」
……どこにそんな根拠があるのか、アルクェイドは首をかしげる。
「……おまえが俺のことを買ってくれるのは嬉しいけど、俺にはできない。そもそも約束は一晩眠りの番をするだけだっただろ。これ以上、俺はあんな怪物には関われない」
「あ、それは無理じゃないかな。志貴はネロと会っちゃったもの。わたしと一緒にいなくても、ネロは志貴のことを放っておかないと思う」
他人事のようにあっさりと言いきるアルクェイド。
「なっ―――――」
思わず声をあげて、自分でもその事実に納得した。
あのネロっていう吸血鬼は、街で人間を殺してまわっている殺人鬼なんだ。そんなヤツが自分の顔を見た俺を、いつまでも放っておくわけがない。
「けどネロよりわたしのほうが早いかな。昼間は動けないネロと、こうして志貴の目の前にいるわたしとじゃ、圧倒的にわたしのが有利だもの」
「っ……おまえ、それどういう意味だよ」
「どういう意味もなにも、志貴がこのまま逃げるっていうんなら、ここでわたしが殺しちゃおっかなって」
冗談とも本気ともとれない事を笑顔で言ってくるアルクェイド。
「う…………、く」
アルクェイドは笑顔を崩さない。
……どうも、アレは俺を脅しているつもりみたいだ。
「…………この、あくま」
……はまった。
逃げても残ってもネロに狙われるのなら、アルクェイドに協力する以外ないじゃないか。
はあ、天井を見上げて、大きく息を吸いこむ。
幸い、覚悟はそれで少しは固まってくれた。
「オッケー、諦めがついたよ。……考えてみれば初めておまえと会った時から逃げ道なんてなかったんだ。ここまできたら、最後までおまえに付きあうしかないみたいだ」
「それじゃあ決まりね。大丈夫、志貴の腕ならきっとあっけないぐらい簡単に殺せるから」
アルクェイドは穏やかな顔をして、ひどく物騒なことを言う。
……まあ、そう上手くはいかないとは思うけど、こうなったらやるしかない。
「問題はどう行動するか、だろ。ホテルではあいつの目を見ただけで動けなかったんだから、あいつに見つからないように後ろから近づいて、なんとか追い返すのが精一杯だと思うけど」
「ああ、アレね。あれは志貴の意思が弱かったのよ。ネロの魔眼は大したことがないんだから、ちゃんと迷いを断っていれば真正面から目を見てもあいつの魔眼なんて弾き返せるわ」
「…………」
アルクェイドはこともなげに言うけど、こっちとしてはやっぱり不安だ。
「……いや、経験してないコトを目算にいれるのはやめよう。やっぱりさ、俺がなんとか背後から近づいて、あいつの手足の『線』を切るよ。
そうすれば、とりあえず自由を奪うことになるんだから―――」
「―――志貴。それじゃ、貴方は死ぬわ」
「え―――?」
「問題はどう行動するか。志貴はそう言ったけど、それは違う。どう行動するかじゃなくて、どう殺すかの間違いでしょう」
「―――それは―――そうだけど」
「志貴、貴方はこれから吸血鬼っていう怪物を相手にするのよ。なら、今夜だけでも人間の道徳観念は捨てなさい。そんな荷物を持っていると、いざという時に体が重くなるだけだから」
「――それぐらいわかってるよ。相手が化け物だから、俺だって手伝う気になったんだ」
「いえ、志貴はわかってない。手足を切る? やめてよ、そんな自殺行為。手足を切る暇があるのなら、まず命を切りなさい。
他の者ならともかく、貴方だけはそれが出来るのよ。いい? 絶対にネロに反撃の機会を与えないこと。
ただでさえ攻撃能力に差がありすぎるんだから、初撃を外したら志貴に勝ち目は一つもないんだから」
アルクェイドの目が、俺に否定を許さない。
―――たしかに。
彼女の言う通り、まず手足を切る、なんて悠長な真似をしている間、こっちの頭はワニの口に食われているかもしれないのだ―――
「志貴。ネロは深夜になればやってくる。その時にわたしたち―――いえ、わたしと志貴であいつをこれ以上ないっていうカタチで『殺す』の。
どう行動するかじゃない。
どう『殺す』のか、それだけを考えなさい」
アルクェイドは凶った眼で、まっすぐにこちらを見据える。
彼女は―――本当に、怒っている。
俺が、遠野志貴が、まだどこかで甘い考えを持っているということを。
「―――わかった。俺はためらわない。
一撃でヤツの『死の点』を断つ。それでいいんだろう、アルクェイド」
「……………」
アルクェイドは答えない。
何も言ってこないという事は、一応は納得してくれたみたいだ。
「―――でも、どこで待ちうけようか。このマンションで待ったら、またホテルの時みたいに関係のない人たちが殺されるだろ。場所、変えたほうがいいんじゃないか」
「―――そうね。公園あたりでいいと思う。深夜になれば人通りはないんだし―――それでも通りかかってしまう人がいたのなら、それはその人に純粋に運がなかったっていう事だしね」
言って、アルクェイドは背中を向けた。
「なんだよ。言いたいことがあるなら言ってくれ。手伝うって決めたんだから、多少の無茶はやってみるよ」
「……無理よ。結局、志貴は一度も『殺す』っていう単語を口にしてくれない。このままだと、最後の瞬間で貴方はきっとためらうわ。それで、あっけなく殺される」
「―――そんなコトはない。相手は百人以上人間を食い殺した化け物だ。殺すコトにためらいなんて、あるはずがないだろう」
「―――――――」
小さく、アルクェイドはため息をついた。
「―――志貴を魅了してしまえば確実にネロを仕留められるのにね。
どうしてかなあ、初めてそういう気になったっていうのに、初めてそうするのがイヤになっちゃった。なんか、すごい矛盾」
……よく解らない事を呟いて、くるり、とアルクェイドは振り向いた。
「志貴を信じるわ。二人でネロを追い返しましょう」
アルクェイドは笑顔をうかべる。
それは、ひどく不安げな笑顔だった。
計画自体は、これ以上ないっていうぐらいシンプルだ。
深夜になる少し前、アルクェイドが先に部屋を出て公園に向かう。
ネロの使い魔―――アルクェイドが言うには蒼い鴉らしい―――がアルクェイドに付いていくだろうから、しばらく経ったら俺も部屋を出て、公園に行く。
あとはアルクェイドが見える茂みに隠れてネロがやってくるのを待って、アルクェイドがネロを引きつけている間に背後から近寄って、ネロの『死の線』を切断すればいいだけだ――――。
◇◇◇
―――公園の真ん中で、アルクェイドはぼんやりと立ち尽くしている。
こちらはというと、アルクェイドからニ十メートルほど離れた茂みに身を隠していた。
「………………」
公園に人気はない。
時刻は午前零時十分前。
アルクェイドはかすかに顔をあげて、頭上の青い月だけを見つめている。
「………………」
ナイフを強く握る。
ネロは必ずやってくる、とアルクェイドは言った。
俺がやるべき事は、やってきたネロの背後にまわって、できるだけ足音をたてずに近づき、一息で、ヤツの『線』を切るだけだ。
「は―――――あ」
深呼吸をしてみる。
体は、とりあえずきちんと動いている。
ただ、ナイフを持つ指先だけが自分の肉体ではないみたいに、ガッチリと固まって動かない。
「――――――」
緊張しているんだろうか、俺は。
ネロという吸血鬼が現れることを。
あの怪物とまた、出会わなければいけないということを。
「――――――」
それとも。
これからそいつを殺さなければいけない、という事実を。
「は――――ア」
呼吸が速まる。
心臓が、この体とは違うパーツみたいに、どくんどくんと浮き足立ってる。
「落ち着け―――まだやってきてもいないじゃないか、志貴」
そう、まだ標的はやってきてもいない。
こんな調子じゃネロが現れた時、ちゃんと足が動くか不安になってしまう。
「アルクェイド……おまえは、恐くないのか」
ただ、ぼんやりと月を見上げている白い女を見つめる。
彼女はまったく不安がっている様子はない。
月を見上げるその顔が、つい、と地上に視線を戻しただけで。
それと同時に。
「―――待たせたな、真祖の姫君」
重い、錆びた鉄のような声がした。
「―――――!」
アルクェイドが視線を移した理由はそれか。
彼女からは五メートル以上。
こちらからは十メートル以上離れたその場所に、黒いコートの男が亡霊のように現れていた―――
「そうね。随分と待たされたわ、ネロ・カオス。
それともフォアブロ・ロワインと呼んだほうがいいのかしら? そのほうが品があっていいのだけどね、わたしとしては」
アルクェイドの声が、風に乗って届いてくる。
「―――よもや、な。私がいまだ人の身であった頃の名を聞く事になろうとは夢想だにしなかった。
さすがは我らの処刑役。現存する死徒二十七祖の経歴なぞ、とうに知り尽くしているというわけか」
返答するネロの言葉も、はっきりと聞こえてくる。
「―――――は」
呼吸が、大きくなる。
アルクェイドがネロの注意を引きつけている。
チャンスは今しかない。
自分の意思で、メガネを外した。
「っ――――――」
ナイフを握った右手を胸にそえる。
……白い凶器。
これから、これで。
俺は、あの人食いの化け物を『解体』する―
……いや、まだ早い。
ネロはやってきたばかりだ。
もう少し―――アルクェイドに集中してもらわないと、奇襲ができない。
「間違わないでネロ。現存している死徒は二十七祖じゃなくて二十八でしょう。貴方たちは『蛇』を同胞と認めていないの?」
「無論だ。ヤツの思想は我々とは大きく異なる。ヤツは吸血種である意味をもたない吸血種だ。よって、多くの死徒はアレを同胞と認めていない」
「―――もっとも、私はヤツとは旧知の関係でもある。他の死徒たちよりはアレを深く理解はしているつもりだが」
「……そう。考えてみれば貴方も『蛇』同様、他の吸血種とは趣が異なるものね。異端同士、趣味が合うというわけかしら」
「真逆。異端は孤立するが故に異端だ。群から外れているからといって、異端同士が分かり合える道理はない」
「そう? わたしを追ってこんな国までやってくるあたり、貴方たちは似ていると思うけどね」
「ほざくな。ならば貴様こそ酔狂がすぎよう。
現存する死徒たちを処刑するはずの貴様が、なぜ執拗にアカシャの蛇を追う。『蛇』は真祖の姫君が固執するほどの毒ではありえまい」
……ネロの声が、わずかだけ大きくなる。
アルクェイドの挑発が効いているのか、ネロは一心に自らの敵である白い女性しか見ていない。
―――どうする?
ネロはアルクェイドしか見ていない。
チャンスはこの一瞬だけ。
ナイフを構えて、身を低くして。
一息で、俺はネロへと走り出した。
ネロは全神経をアルクェイドに向けている。
無関係である自分にもわかるぐらいに、ネロは前しか見ていない。
背後から走りこんでくる俺に、あと数秒で解体されるなんて夢にも思っていない、無防備すぎるその背中。
―――行ける。
直感。
間違いなく、このまま殺せる。
「――――」
走りこむ。
ネロの背中は、あと数歩でナイフの届く距離にある。
背中。
無防備な背中。
間違いなく、俺のことに気がついていない。
「――――」
あと一歩。
それで終わり。
「――――――え?」
足が、止まった。
なんだ。
なんだ、コイツの体―――――!?
「な――――い」
ない。
ない、ない、ないないないないない……!
一本たりとも死の『線』がない!
そんな馬鹿な、そんな『命』があるはずが―――
――――ずき、ん。
頭痛が走る。
ナイフを持った指が震える。
ぎり、という頭が潰されるような痛みのあと。
ネロの背中に、一つだけ黒い『点』が視えた。
「――――――!」
――――それだ。
それがコイツの急所、死に易い個所に違いない。
……線じゃなくて点だというのが何か違和感があるけど、とにかく――――そこを、ナイフで貫く!
一歩、踏み込む。
右手のナイフが、ネロの『点』へと走っていく。
「――――――え?」
その直前。
ネロの背中の点が、急速な勢いで増えていった。
一つ。二つ。三つ。四つ。五つ、八つ、九つ、十、二十――――
八十、百、二百、三百、四百―――――!
「―――――!?」
……なにか、違う。
これはヤツの『死』じゃない気がする。
これはもっと異質なものの集合体だ。
コイツは――――コイツの体は、いったい何がどうなって―――
「――――志貴!」
……アルクェイドの、声。
ああ、迷っている暇なんてない。
もうネロの背中は目の前なんだ。とにかく、どれでもいいからこの『点』を衝けば終わる。
「――――そこ!」
声をあげて、ナイフを落とす。
けれど、その前に。
ネロの背中が風船のように盛り上がった。
ぼこり。
まるで黒い海から這い出してくるみたいに、ネロの背中から、一匹の黒犬が現れた。
「なっ―――」
黒犬は、それこそミサイルのように飛び出してきた。
「―――!」
黒犬の体の『線』をナイフで切断する。
けれど、それはあくまで『線』にすぎなかった。
切れたものは、黒犬の両足だけ。
黒い犬の突進は止まらない。
「ごっ――――」
どぶ、と。
黒い犬は頭から、こちらの腹めがけて額をぶつけてきた。
「―――――ぐっ!」
なんて力。
軽く何メートルも吹き飛ばされて、俺は地面に押し倒された。
黒い犬は、そのまま俺の首筋に牙を食い込ませようとしてくる。
「ハッ………ア―――!」
トン、と犬の左腹にナイフを刺しこむ。
『死の点』は空気みたいな柔らかさで、ナイフを黒い犬の体に招き入れてくれた。
黒い犬の動きが止まる。
とたん―――その体は黒い液体になって、俺の体に降り注いだ。
「――――!?」
体が黒い液体にまみれて、立ちあがれない。
「こ―――の」
剥がれない。
地面に縫い付けてしまったみたいに、動けない。
「―――ふむ。背後で何か起きたようだ」
ネロの声が聞こえる。
地面に張りつけにされたまま、ネロとアルクェイドへ視線を向けた。
「貴様の使い魔か。だが、残念だったな。私の領域に入ったものは、私が気づかずとも私たちのいずれかが発見し、これを迎撃する。もとより、私に奇襲は通用しない」
「……そうみたいね。わたし以外のモノを一切見てなかったっていうのに、背後の危険に反応できるなんて。それが群体の強み、というところかしらね、ネロ・カオス」
アルクェイドは微かに目を細めた後、ゆらりと、ネロにむかって歩き出した。
「―――面白い。空想具現化も出来ぬほど衰退している貴様が、そのままで私に挑むというのか?」
「いらない。たかだか死徒相手に世界と同化しても仕方ないわ。
あなた程度―――この爪だけで十分よ、ネロ・カオス」
ク、と鴉のような、短い笑い声があがる。
「―――たわけ。その身を痴れ、アルクェイド・ブリュンスタッド―――!」
ネロの片腕があがる。
コートはマントのようにはためいて、そこから、無数の生物が飛び出していく。
ゴンゴンゴン。
轟音をあげて、弾丸のような速度で、アルクェイドめがけて三匹の獣が走る。
黒い犬、なんかじゃない。
そのいずれも本体であるネロ自身より巨大な、悪魔みたいに凶悪なシルエットをした、三匹の豹だった。
「――――――」
アルクェイドは動けない。
三匹の豹は、ただ、地面を駆けて行くだけでレンガ作りの地面にヒビをいれていく。
逃げようとするアルクェイドより、豹たちのほうが何倍も速い。
―――三匹の猛獣がアルクェイドにむしゃぶりつく。
あっさりと、終わった。
一瞬にして。
三匹の豹は、そのどれもが胴体から真っ二つに裂かれて、地面に転がった。
「―――な、に?」
ネロの声が響く。
アルクェイドは何も言わない。
そのまま、ネロ本体へと一息で襲いかかる。
「――――!」
ネロの体から獣が出る。
獅子は、出た瞬間にアルクェイドに顔をつかまれ、胴体から引きぬかれた。
豹は、襲いかかった瞬間、眉間をこぶしで突き破られて絶命した。
虎は、粘土細工みたいに胴体そのものを引き裂かれた。
そのあとに続くものは、みな同じ運命をたどった。
空を飛ぶ鷲も、見上げるほど巨大な灰色熊も。
地面を泳ぐけったいな鮫も、
冗談としか思えない、ショベルカーみたいな巨大な象も。
結局は、アルクェイドを止める事さえできず、一瞬にして黒い粘液に戻っていった。
「――――な」
ネロが逃げる。
アルクェイドが爪を振るう。
――――ざん、という音のあと。
ネロの体は首筋から二つに分かれた。
「ギィイイイイィィィィィィィ!!」
苦悶の叫び声をあげながら、弾けるようにアルクェイドから跳び退くネロ。
その体は、首から腰あたりにかけて、半分以上が失われていた。
どさり、と。
アルクェイドの足元に、たった今引き裂かれたネロの半身が落ちる。
「―――――――」
勝負に、なってない。
……アルクェイドのヤツ、なにが動くだけで精一杯だ。
ネロが体から出した獣は決して弱いものじゃない。
ライオンも虎も、一頭だけで自動車をまたたくまにスクラップにできるほどの動物なんだ。
おまけに灰色熊っていったら、戦車だってひっくり返されてスクラップにされかねないほどの『暴力』のかたまりなのに。
そんな猛獣たちが、なす術もなくアルクェイド一人に引き裂かれ、ネロ本人もすでに瀕死になっている。
「は―――――――」
なんだかバカみたいだ。
これなら、俺なんて初めからいなかったほうが良かったんじゃないだろうか――
「ガ……ア、あああ、あ……!」
ネロはアルクェイドから逃げるように後退していた。
疲れているのか、アルクェイドは走らずにゆっくりネロへと近寄っていく。
「はあ――――はあ――――はあ」
荒い呼吸音が聞こえる。
……アルクェイドの呼吸音だ。
「はあ――――はあ――――はあ」
なんで、だろう。
半身を裂かれているネロ以上に、アルクェイドの呼吸は苦しげだった。
「――まさか、な。それほどの衰退をして、なおその戦闘能力か。さすがは真祖たちが用意した処刑人。
……曰く、白い吸血姫には関わるな―――か。どうやら同胞たちの忠告は正しかったとみえる」
ネロの声には、いささかの曇りもない。
――――なにか。
ひどく、絶望的な予感がする。
「はあ――――は、あ」
呼吸を整えながら、アルクェイドはゆっくりとネロへと近づいていく。
「だが私とて、もとより十や二十程度の私で貴様を仕留めようなどとは思っていない」
「―――強がりはそこまでよ。あなたが使役する使い魔では何匹かかろうとわたしを殺せないし、その半身もすでに断った。どうやってもあなたに勝ち目なんかない」
「フン―――私の使い魔はことごとく殺されたがね。一つ、貴様は思い違いをしているようだ」
「――――?」
「私は使い魔など持っていないし、使役などもしていない。今おまえの相手をしたのは、あくまで私自身なのだよ。
……破損した肉体を他の生物で補おう、などとする他の雑種どもと同一視されるのは不愉快だ。
本来の貴様ならば一目で気がついたろうに。その金色の魔眼をこらしてよく見るがいい。視えるだろう? 我が体内に内包された、六百六十六素の“ケモノ”たちの混沌が―――」
びゅるん、と。
視界のはじっこで、何かが動いた。
「あ―――――」
アルクェイドの背後。
たったいまアルクェイドに裂かれ、地面に朽ち倒れたネロの半身が震えている。
ぶるん、と大きな塊になって、アルクェイドへと鎌首をもたげて―――。
「アルクェイド、後ろ―――!」
「志貴――――?」
アルクェイドが背後に振り向く。
けれど、とうてい間に合わない。
地面に横たわったネロの半身は無数の大蛇となって、アルクェイドの背後から襲いかかった。
「しまっ―――」
アルクェイドは大蛇に纏わりつかれ、蛇たちはそのままもとの黒い濁流に戻っていく。
今の俺と同じように、正確には俺の何百倍という質量に圧迫されて、アルクェイドは地面にくぎ付けにされてしまった。
「こ、これ―――そんな……!?」
黒い粘液に押しつけられながら、アルクェイドはなんとか逃げようともがいている。
「無駄だ。それがどのようなモノなのか、貴様ならば理解できるだろう、真祖の姫」
「っ…………!」
アルクェイドの顔に苦痛と―――驚愕がうかんでいる。
ネロは半身のまま、ただ、高らかに吠えるように声をあげた。
「―――思慮のあるものは獣の数字をとくがいい。それは人間を表す数字、すなわち666である―――くく、我が体内の混沌は気にいったか、アルクェイド・ブリュンスタッド」
「正気なの、あなた……!? ヒトの体に……ヒトの形なんていう狭量で密閉された空間に、三百以上の数の因子を圧縮して内包してるなんて、これじゃまるで―――」
「いかにも。これでは原初の海と何らかわりはない。
私はな、他の動物どもを我が肉体としているのではない。『動物』という因子を肉体とし、混濁させているのみだ。
私に使い魔などいない。いるのは六百六十六ものケモノたち―――それと同等の数を持つ命たちだ。
この身の半身を断とうが、この首を潰そうが意味はない。私は一にして666。私を滅ぼすつもりであるのならば、一瞬にして六百六十六の命を滅ぼすつもりでなくてはな」
「……うそ……カオス……混沌って、そういう意味……!?」
「無論だ。―――よって、我が分身たちはその存在が一定しない。
我が領地であるこの肉体から外界に放たれた時、初めて何らかの『種』としてカタチをなす。
もとよりカタチのないモノたちだ。外で殺されたところで、私の中に戻れば再び混沌の一つとして蘇生する。
……もっとも、外に出る時に何になるのかは私自身にも予測がつかぬがね。この乱れた系統樹を把握し、操作する事が私の永遠の命題だよ」
半身しかない吸血鬼は、誇らしげに、くぐもった笑い声をあげる。
「そんなの不可能だわ……! 魂を――――何の着色もすんでいない存在概念なんかを内包したら、あなた自身が消えてしまう……!」
「いかにも。故に、ここにいるのは個人ではない。すでにネロなどという人格は存在せん。我らは個体ではなく限りなく群体に近い。
……たしかに。そうなった生命になど存在の意義はない。永久機関ともいえる生命種ならばすでに深海に棲息している。この身もいずれ、彼らと同じように知性を失いただの『標本』になりさがろう。
だが、素晴らしいとは思わないか。
私の中には『何になるか解らないもの』が渦巻いている。それは原初のこの世界そのものともいえる小世界だ。
どのような生き物が生まれるか予測がつかない混沌とした空間。
現存するこの星の系統樹と同じでありながら、なお劇的な変化の可能性を持つ混沌の闇。
その果てになにが待つのか、私は私が消える前に知りたい。
故に教会の者たちは私をこう名づけた。
――――ネロ・カオス。
体内に六百六十六匹ものケモノを武装した、すでに吸血鬼ではなく混沌とした空間でしかない、禁忌にふれた異端者とな」
「――――――!」
アルクェイドの声が押し殺された。
黒い液体はぞぶぞぶと蠢いている。
もう、アルクェイドの顔さえ、半分ぐらいしか見えなくなっている――――。
「……以上だ。いかな貴様といえど、その檻からは抜けられぬ。我が分身のうち五百もの結束で練り上げた“創世の土”。
たとえ貴様が万全であったとしても、それを破壊することは叶わぬ。―――大陸を一つ、破壊するようなものだからな」
半身しかないネロは、ゆっくりとアルクェイドへと近寄っていく。
「貴様が現れてから何人の同胞が葬られ、何人の先達たちが貴様を破ろうとし、その逆の運命を打ち付けられたか。
――――だが、それも終わりだ。
今まで誰もなしえなかった偉業を、このネロ・カオスが成し遂げた」
「――ネロ。貴方、この固有結界を誰に―――」
「知れたこと。貴様の仇敵である“蛇”がな、わざわざ自分から私に教授に来たのだよ。といっても今代のヤツではない。巴里でヤツが貴様に殺される前に、私にこの“檻”の作り方を遺したのだ」
「―――――」
アルクェイドの声が聞こえない。
見れば、もう口まで黒い粘液に飲み込まれている。
「しかし“蛇”も無惨なものよ。吸血種と成る前は教会の司祭だった男が、貴様のような死神に狙われたばかりに生き延びられんとは。
ヤツが生きておれば、我が体内の混沌も今ごろは法則性が作られていただろう。……それほどの魔道の冴えを持ちながら発揮できずに滅ぼされるなど、さぞ無念であったろうよ」
「“蛇”とは盟友であった。なぜ貴様がヤツばかりを執拗に敵視していたかは興味が尽きぬが―――もはや口も利けぬようだな」
黒い粘液はぞぶぞぶと音をたてて、アルクェイドの体という体を束縛していく。
もう、あそこに倒れているのはアルクェイドという女性の体ではなく、ただカタチのない泥だった。
「―――このまま私の一人になってもらうぞ、アルクェイド・ブリュンスタッド。
貴様ほどの意識を飲みこむのは骨が折れそうだが、なに、その暁には私は最高位の吸血種となる。多少の苦痛などむしろ誕生の祝いだ。
そうなれば―――忌まわしい埋葬機関の殺し屋どもとて恐るるに足らん。カビの生えた教会なぞ、関わった者すべて根絶やしにしてくれる」
ず、と音をたててアルクェイドの顔が沈んでいく。
さっきまではかろうじて見えていたアルクェイドの体のラインも、今では見えなくなっている。
――――このまま。
ほうっておけば、アルクェイドはあの黒い液体に飲みこまれてしまうっていうのか―――
「こ―――のぉ……!」
自分の体をおおう液体を『視』る。
黒い死の線は、たしかにある。
「くっ―――!」
ずきり、と頭に走る痛みをこらえてナイフを走らせる。
黒い液体は、線を切られてそのままただの水のようなものになってしまった。
「よし………!」
荒い呼吸のまま立ち上がる。
―――助けないと。
あの怪物からアルクェイドを助けないと。
でも、一体どうやって?
俺にはネロに近づく事さえできない。
アルクェイドだって―――あれだけ凄まじかったっていうのに、ネロを追い詰めることはできなかった。
なら、俺なんかが立ち向かったところで、一瞬にして殺されてしまうのがオチじゃないのか。
黒犬一匹を殺すのに必死な俺が、それ以上の獣であるライオンや豹の相手なんて、一秒だってできっこない。
それに。
ヤツの背中に視えた、何百という死の『点』。
ネロとアルクェイドの話はよく理解できなかったけど、ようするにあのケモノ一つ一つがあいつなんだ。
だから。
ネロという吸血鬼を倒したいのなら、あの『点』を持つケモノたちを全て殺さなくてはいけないというコトになる――――
「く――――」
踏み出せない。
いくらなんでも―――人間では、あんな化け物相手には踏み込めない。
「く―――そ」
俺は、結局。
また、見殺しにして、自分だけ助かろうとしていやがる――――
「―――ほう」
声がした。
ネロの、喜びを押し隠したような声。
いや、違う。
あいつの声じゃない。
なにか、足音みたいな音が聞こえてくる。
「まさ―――か」
音は遠くから聞こえてきている。
けれど確実に、スキップするような軽い足取りで近づいてきている。
―――アルクェイドは言った。
夜の公園に人通りはないんだし―――それでも通りかかってしまう人がいたのなら、それは、その人に純粋に運がなかったという事だ、と。
遠くに、小さく人影が見えた。
歳のころは俺と同い年ぐらいの、顔もしらない女の子が。
「――――」
まずい。なにがまずいって、こんなところに来たら、それは――
「逃げろォーーーーっ!」
叫んだ。
ネロにまだ自分がいる事を気づかれてしまうとか襲われるとか、そんな事を忘れて叫んだ。
なのに通行人は止まってくれない。
何も知らないまま、本当に気軽にこの広場にやってこようとしている。
黒いコートを着た、体が半分しかない吸血鬼は、ほう、と吐息をもらした。
「……体を裂かれたばかりだ。養分がまるで足りていない」
ぞぞ、と半分しかない黒いコートが、生き物のように蠢いていく。
「よい頃合で、栄養分が現れてくれたようだ」
ネロの体から黒い獣が飛び出していく。
「やめ―――――!」
制止の声も届かない。
ここからずっと離れたところにいる人影にむかって、黒い風のような獣が走っていく。
事は、あっけないほど一瞬だった。
ひい、という短い悲鳴と、人間の倒れる音。
離れていても漂ってくる血のにおい。
黒い虎は、そのまま倒れた人間を咥えて戻ってきた。
……女の子の顔は、顔がなかった。
たぶん、虎の爪でゼリーでも削るように、顔をそっくりえぐられたのだ。
―――無慈悲、すぎる。
なんて一方的な、おぞましいほどの、暴力。
「が―――――!」
あたまが、いたい。
喉がカラカラと乾いていく。
意識が収束していって、もう、目の前の敵しか見えなくなる―――
虎は蛇のようにズゾゾゾ、と蛇行してネロ本体へと戻った。
おかしなことに。
虎が口にくわえていた女の子の死体は、そのまま忽然と掻き消えてしまった。
なのに。
―――――ごり。がき。ぐしゃり。
姿はないのに、音がする。
―――――ぎぎ。ぞぶり。ごくり。
あの、ネロという男の体の中で、音がしている。
肉を溶かし、骨を砕き、ゆっくりと人間を咀嚼している音がしている――――
「て―――――」
間違いない。
アイツは、体の中で、人間をまるごと食っている。
ニヤリと、ネロの口元が笑いに歪んだ。
――――それで。
頭の奥のほうで、カチリ、と何かがはまる音がした。
「てめえ――――!!!!」
何も考えられない。
ただ、ネロへと走りだした。
―――眼球に、朱が染まる。
「―――食え」
ネロの体から黒い豹が飛び出してくる。
その速さ、獰猛さは黒犬の何倍だろうか。
「―――――」
だが、そんなコトは知らない。
要は生き物。
生きているのなら、この俺の敵じゃない。
「邪魔だよ、おまえ」
立ち止まって、足元に転がる死体に吐き捨てる。
黒豹は、四つのパーツにわかれて俺の足元に転がっていた。
「―――そうか。さきほど私を背後から襲ったのは、おまえか」
ここにきて初めて、ネロは遠野志貴という人間に気がついたらしい。
感情のない目が向けられる。
―――ああ、アルクェイドの言うとおりだ。
迷いさえなければ、こんなヤツに睨まれたところで何ひとつ変わらない。
「……アルクェイドを離せ、化け物」
「―――――」
「離せっていってんだよ。オマエの相手はこの俺だ。そんな半分だけの体じゃ話にならねえだろう」
「―――――」
無言。
無言のまま、黒いコート姿の吸血鬼は、俺とアルクェイドを見比べた。
「おまえが、私の相手をする、だと?」
「そうだ。だから、アルクェイドを離してさっさと元の体に戻れって言ってるんだ」
「―――――、――――、―――――」
ネロの首が上下に動く。
ヤツは、笑っている、らしかった。
「興がそがれた。責任をとってもらうぞ、人間」
ネロは変わらない。
あくまでアルクェイドを包み込んだ半身をそのままにして、そんな半分だけの体でいるらしい。
「契約しよう。おまえは生きたまま、少しずつ、高熱で熔かすように咀嚼すると」
ざあ、と。
残された半身の腕があげられた。
「―――その劣悪な思考回路。私の相手をするといったおまえの思いあがりは、万死に値する」
ごう。
生暖かい風を吐き出して。
ネロの半身から、何十という獣たちが吐き出された。
「―――」
ネロから吐き出された獣の数は、十や二十ではすまなかった。
そのどれもが取るに足らない獣だとしても、その数が百近いとしたら一個の人間など、蟻にたかられる角砂糖のようなものだった。
「なっ―――」
目前に迫った黒犬の首筋にナイフをつきたてる。
『死』を裂かれた黒犬は、そこで絶命した。
瞬間、頭の上で鳥の羽音。
がっ、と骨をけずる音がして、こめかみの肉が、骨に至るまで持っていかれた。
「つぅ―――!」
痛みに嘆いている暇などない。
鳥の羽音と同時に、左右から、何匹かの黒犬に腕と腹を食いつかれていた。
「こい、つ、ら―――!」
ざん、ざん。
視えている範囲で、二匹の犬の『死』を穿つ。
けれど全然間に合わない。
一匹殺している間に、十匹以上の獣が、俺の体をついばんでいく。
「あ―――――あ」
見えない。
何も、見えない。
目の前が真っ暗だ。
目がおかしくなったんじゃない。
俺のまわりは―――黒い獣たちで、真っ黒になっていた。
「―――――!!!!!」
このままじゃダメだ。
死ぬ。あと五秒も保ちそうにない。
ぞぶり、と足首を噛まれた。血が出る。体が倒れそうになる。倒れたら、それこそ終わる。
倒れこんだ俺の体を、コイツらはさも貪欲にガツガツと貪っていくに違いない。
「ヤ―――」
厭だ。
それは、痛いというより、きっと恐い。
―――目の前は真っ暗だ。
何も見えない。何も出来ない。
けど、だからこそ考えなくっちゃいけない。
……今は耐える……!
闇雲にネロに突進してもこのケモノたちに阻まれるのがオチだ。
ここは耐えて、なんとか隙を――――
「ぐっ―――――!」
後から背中を強打された。
黒犬が頭からぶつかってきたのか。
ともかく、背中が軋んで―――息が、できない。
「あっ――――つ」
両足のふとももに、ざくりと犬の牙がうちたてられる。
「はっ――――あ……!」
ざん、ざん、と音をたてて犬のこめかみをナイフで貫く。
二匹の犬は泥のように溶けて、あとは燃えるような痛みだけが、両足に残った。
――――ケモノたちは無統制では、ない。
その気になれば一瞬にして俺をついばむ事ができるっていうのに、連中は俺を囲んで、一匹ずつ確実に俺を『食い』にきている。
そこに。
隙なんて、ある筈がなかった。
「あ……………っ」
体が、倒れる。
呼吸も満足にできず、両足の痛みで立っている事さえできず。
あおむけに、地面に倒れこんだ。
「私は人間であるのならえり好みはしない主義でな。安心しろ、細胞一つたりとも残さんよ」
声が聞こえた。
同時に、黒いドームが覆い被さってきた。
「あ―――――」
黒い傘みたいな天井。
それらは全て目を輝かせたケモノだ。
じゅっ。皮が裂かれる。
――――死ね。
ざくっ。肉を食んでいく。
――――死ネ。
ごりっ。骨を削っていく。
――――シネ。
何かを考えようとする理性は、もう働かない。
ただ、必死に腕で顔だけを庇った。
右手はガッチガチに固まって、ナイフをずっと握ったまま。
―――シネ。
がつがつと、食われていく。
おかしな話―――これだけのケモノに襲われたら、一分で骨さえ残らないっていうのに、コイツらは少しずつ俺の体を食べていく。
―――シネ。
血が、流れすぎてる。
体ジュウ、もう血と、コイツらの唾液でべとべとだ。
すごく――――気持ち、ワルイ。
―――シネ。
外が見えない。
ただ、ひたすらに、黒い。
―――シネ。
何十という目が言っている。
本当に少しずつ肉をついばみながら、言っている。
喋れないかわりに、ランランと輝く目だけで、コイツらは呟いている。
―――シネ。
いいかげん死んでしまえ、と。
黒いドームを作るケモノが、みな、その言葉を合唱している。
「―――――!」
悲鳴がもれた。
けど誰も助けてなどくれない。
―――殺される。
自分も、さっきの誰かのように生きたまま咀嚼される。
「あ―――ぁ、あ」
――――イヤだ。
そんなのは、イヤだ。
生きたまま死ぬなんて、イヤだ。
意識があるのに食われるなんて、イヤだ。
このまま殺されるのなんて、イヤだ。
恐い。それは恐い。とても恐い。
恐い、恐い、怖い、怖い、怖い恐い恐い恐い恐い恐い――――
「ころ――され、る」
そう、殺される。
逃げ場なんて、ない。
「このまま、ころされ、る」
それこそすぐにバラバラにされて、何十という獣たちの食事になろうとしている。
もう、やることもないので。
朱に染まった目で、そんな自分をぼんやりと見つめた。
「は。ははは、は。」
なぜかわらいがこみあげてきた。
だって、俺は自分が殺される理由がわからない。
それでも―――遠野志貴は、殺されるのか。
「強情だな。壊れてしまえば楽になるものを」
ク、クク、ク。
とおくでアイツがわらっている。
俺をゆっくりと貪ってわらっている。
ああ―――全身が、融けていくよう。
「―――――――」
……酷い。酷すぎる。こんなのは、酷すぎる。
傷が痛い。それは痛い。とても痛い。
死が怖い。それは怖い。とても怖い。
とおくでアイツはわらっている。
俺の死に様を見てわらっている。
耳をすませば。
まだ、アイツの体の中から、ゴリゴリと骨を砕く音がしていた。
昨日、あれだけの人間を食い散らかしただけじゃなく。
いま、何もしらない誰かを食べただけじゃなく。
アイツは、ここで俺まで食い散らかそうとしてやがる――――
「ガ――――」
ドン、と爪らしきものが胸に食い込んだ。
そこは昔、大怪我をしたところだ。
すごく痛くて、怖くて、ひたすらに憎かったところ。
―――八年前の―――あの夏の日。
ああ、ひたすらに憎かった。
怖いとか痛いとか、そんな余分なものなんてなかったぐらいに。
そうだ。俺は、ただ、ひたすらに憎かった。
ならばやる事は決まっている。
―――オマエが、オレを、殺すというのなら。
全身はとうに麻痺している。
残ったものは、未だナイフを離さない右手の感触だけ。
殺される―――殺される?
誰が。
何に?
「はは、は―――――――」
笑いが零れる。
ああ、たしかにその通りだ。
絶対に逃げられない。
絶対に逃がさない。
やるべき事は、ただひとつだけなんだから。
殺される。
殺される。
きっと、間違いなく殺される。
他の何にでもなく、
他の誰にでもなく。
――――――ヤツは、この俺に、殺される。
「あははははははははは!」
裂帛の気合のかわりに、白痴のごとき笑い声をあげた。
おかしい。
おかしくて、笑いがとまらない。
ザンザンザンザンザン、と音をたててケモノたちは次々と死んでいく。
脳髄が痛い。
体じゅうの神経血管細胞血液、全てがどうかしちまった。
―――黒いドームはなくなった。
この身をついばんでいた雑種どものうち七十匹ばかりを、とりあえずブチ殺した。
「な―――――に?」
ネロの声が聞こえる。
さあ―――立ちあがらないと、これ以上は殺せない。
立ちあがる。
「――――」
問題ない。
傷ついていない個所なんてないけれど、とりあえずこれならしばらくは動き回れる。
「貴様―――なにを」
「―――ああ、おまえの気持ちはよくわかったよ、吸血鬼」
脳髄には火の感触。
似てる―――アルクェイドを殺した時と同じで、まともに呼吸ができやしない。
イッちまいそうなほどの頭痛と熱と引き換えに、
吐き気がするほど、
セカイに死が満ちている―――。
「俺を殺したいんだな、化け物」
なら、俺たちは似たもの同士だ。
「いいだろう。―――殺しあおうぜ、ネロ・カオス……!」
あれだけ硬かった右手が自由に動く。
くるん、とナイフをまわして逆手に構えて、ネロに向かって走り出した。
ネロの体から、一際大きいケモノが現れる。
ようやくアルクェイドに出していた大物を出してきてくれたらしい。
「――――――」
だが、あまり長くは保たなかった。
どんなに巨大で迅速で強暴でも、連中は基本的に直接触れなければ俺を殺せない。
直接こちらに触れようとするのなら。
その触れようとする部分を切断する。
結局は、黒犬もライオンもトラもあまり変わらなかった。
二匹の大物が倒れて、黒い水に変わっていく。
ネロまでは――まだいくらか距離が開いているか。
「―――馬鹿な。姫君でさえ消滅させられなかった私たちが―――ことごとく、無に帰している」
なにか、言ってる。
「―――不理解だ。貴様、何をした」
ネロの体を凝視する。
何十という無数の点。
―――生き残りたいのなら。
アイツを殺したいのなら、アレを、全て殺さなければいけない。
「…………」
流石にそれは不可能だろう。
それでも―――このままじゃ終われない。
黒い粘液に飲まれたアルクェイド。
殺されてしまった何百という人たち。
―――そして、殺されかけたこの体。
「……………!」
ギリ、と歯を噛んだ。
恨み言を口にする余裕はない。
あいにく動くだけで精一杯なんだ。ネロの口上に付き合っている余裕はない。
―――否
そんな余裕があるのなら、一秒でも早く――
「―――よかろう。おまえを、我が障害と認識する」
―――このケモノ臭い化け物の息の根を止めたほうが、幾分はましだろう。
ごっ、と黒いコートが大きくはだけた。
品のないケモノの臭い。
危機感は、今までの比ではない。
コートの中から、どこか、子供のころに一度は見た覚えがあるようなケモノが飛び出してくる。
額に角のある馬だの、翼の生えた大きなトカゲだの。
それらは、たしかに厄介だった。
とても簡単には殺せない。
なにしろ『死に易い部分』がとても少ない。
だから―――よけい、真剣になる。
殺す、と言葉にしたせいだろうか。
血の流れが痛い。
神経がグラインドする。
体中のあらゆるものが、あの障害を排除するために連結していく。
角の生えた馬は、その角ごと、真っ二つにした。
トカゲは、背中から右下腹部にかけて切り取った。
「――――あり得ん」
障害の声が聞こえる。
あいにく、こっちはもうまともに視界が働かない。
視えているのは、ただ黒い点と線だけ。
「おのれ―――なぜ私が、たかだか人間風情に渾身でかからねばならぬのだ―――!」
びゅるん、という音。
半分しかなかったネロの体が、ヒトとしての完全な形に戻る。
―――ようやくアルクェイドを捕まえていた半身を、自分の体に戻したらしい。
「―――殺す。我が内なる系統樹には、貴様らの域を凌駕する生命が有ると知れ―――」
ネロの両腕が、自らの胸を掻きむしる。
闇を裂くように。
ヤツは、自分の胸を自らの腕で裂いた。
ネロの胸に空いた穴から。
何か、奇怪なモノが這い出てくる―――
一言で表現するなら、蟹のような蜘蛛。
大きさ的には、アルクェイドが仕留めた巨象よりやや大きめ。
「―――――」
視界が赤くてよく見えない。ただ、奇怪なシルエットと『死』だけがみえる。
指先が冷たい。
血を流しすぎたのか、体中が冷えきっている。
それでも―――まだ体は悲鳴をあげてない。
そんな余力があるのなら、一秒でも早くアイツを殺せと命令してくる。
―――背骨がいたい。
体がさむい。
指先が凍てついていく。
なのに、脳髄だけが火のように熱く。
蜘蛛とも蟹とも取れないケモノは次々とネロの体から這い出てくる。
ネロまではあともう少し。
ヤツの近づくためには、この生き物たちは邪魔だった。
とりあえず三匹。
出てきた分の邪魔者は、ことごとく殺した。
「――――有り得ん」
ネロは眩暈でもおこしたように、よろりと後ずさる。
「―――私のあらゆる殺害方法が殺されるなど、そのような事実が有り得るはずがない……!
私たちは不死身だ。
私が存命しているかぎり死しても混沌となりて我に戻り転輪す不死のケモノたちが―――なぜ、貴様に刺されただけで、元の無に戻ってしまうのだ―――!」
叫んでいる敵に歩み寄る。
ネロは後ろに引こうとして、かろうじて、後退することを押しとめた。
「―――無様」
機械のようだった目に、赤い憎しみの感情が、ようやく燈った。
ヤツのココロは理解できる。
―――おそらく。
殺人鬼としてのネロは己に撤退を命じている。
しかし吸血鬼としてのヤツは、自らがただの人間に敗退することを認めない。
理解しない。
撤退することさえ許さない。
だから、それ以上後退することを可能としない。
その精神、自身が無力だと悟るも認めぬ頑なさ。
さらに一歩。
これで、あとは跳びかかればナイフでヤツの体を裂けるところにきた。
「―――否、断じて否―――!
我が名はネロ、朽ちずうごめく吸血種の中において、なお不死身と称された混沌だ! それがこのような無様を見せるなぞ、断じてありえぬ……!」
―――ネロの体が、カタチをもっていく。
今まで闇でしかなかった体は、明らかに個として化肉していく。
「この身は不死身だ。
死など、とうの昔に超越した―――!」
ネロの体が跳ねる。
ケモノたちではない。
ヤツは、残っているケモノたちを極限まで凝縮し、自らを最高のケモノと成して、こちらの息の根を止めに来た。
その速度、アルクェイドにも劣らない。
触れればその場で首を粉砕されかねない腕が伸びてくる。
それをかわして、すれ違いざまにヤツの腕にある『線』を断った。
ざざざ、という音。
速すぎる速度が制御できないのか、ネロはすぐに止まれずに通りすぎていく。
―――また、距離が開いてしまった。
―――眩暈がする。
震えが、とまらない。
「―――――なんだ、これは」
切られた腕を見て、ネロは愕然としている。
「なんなのだ、これは―――! 何故――何故切られた個所が再生しない!? こんなたわけた話があるものか……! アレは魔術師でもなければ埋葬者でもないというのに、何故、ただ切られただけで私が滅びねばならんのだ―――!?」
「―――馬鹿ね。そんなつまらない体面を気にしてると殺されるわよ、ネロ・カオス」
ネロの傍らから、聞きなれた声がした。
「貴様―――!」
ネロは血走った目を、傍らで優雅に佇んでいるアルクェイドに向ける。
―――ああ、そうか。
ネロが半身じゃなくなった時点で、彼女も自由になっていたのか。
「ああ、わたしのことは気にしなくていいわ。あなたの始末は志貴がする。邪魔をしたらわたしまで殺しかねないものね、今の彼は」
クスクスという笑い声。
「苦しませて殺そうだなんて思うからこういう目にあうのよ。
敵は初撃で、反撃の機会を与えずに倒すものでしょう? あなたはね、そこを間違えたのよ」
「―――黙れ。私に間違いなどない。現に私には未だ五百六十もの命がある。
……待っていろ、ヤツをくびり殺した後、もう一度貴様を捕らえる」
「そう? 期待しないで待ってるわ」
アルクェイドはネロには近寄らない。
ネロはもうこちらしか見ていない。
―――やってくる。
左手を右手にそえて、ナイフを両手で握った。
ネロの体が低くなる。
それは、獲物に跳びかかる時の、狩猟動物の予備動作。
「そうそう、ひとつ言い忘れていたわ、ネロ」
その前に、風のような彼女の声が流れた。
「今さら遅いかもしれないけど。彼はね、一度わたしを殺しているのよ」
「な―――に?」
今度こそ、本当に。
愕然とするあまり、ネロは自身を見失った。
その間隙。
忘我するヤツの思考が、それこそ呪いのように、俺の意識に流れてくる。
―――それは、悪夢か。
アルクェイド・ブリュンスタッドを殺す?
この、不死身などという言葉さえ生ぬるい怪物を、あの人間は殺したというのか?
いや、それこそ否だ。
だがもし。仮釈、それが真実だとするならば。
―――果たして。
思いあがっていたのは、一体どちらだったのか。
「そういうコト。思いあがっていたのはあなたのほうだったみたいね、ネロ・カオス」
「く――――ふふ、はははははははは!」
憎悪と混乱の果てに。
ネロ・カオスは、心底愉快そうに、声をあげて嗤った。
―――もう待てない。
動かない標的に向かって走り始める。
「そうか、私を殺すのか、人間――――!」
―――ケモノが吠える。
片腕で、
一直線に俺の心臓を貫こうと疾走してくる。
[#挿絵(img/アルクェイド 27.jpg)入る]
その速さは文句のつけようがないほど、
単純で、
余分なものがない、
この俺を殺そうとするだけの、
綺麗すぎる活動だった。
「―――――」
伸ばされた腕を切る。
ヤツの体には、何百という『死の点』が存在する。
けれど、そんなモノより。
ヤツの深いところ、中心の最中にある『極点』が、確かに視えた。
――――何百という命を持とうが、関係ない。
俺が殺すのは、ネロ・カオスという『存在』のみだ。
だから、ネロを殺すのではない。
この男が内包したと言う、その混沌。
一つの世界を抹殺する――――――
正面からぶつかりあう。
トン、という軽い音。
――――ナイフは、確実にヤツの最中を貫通する。
にやりと口の端をつりあげて、吸血鬼は声も無く笑った。
「まさか、な」
じくり、と。
指先からバラバラと一つ一つに崩れていく黒い黒いケモノの躯。
「―――――おまえが、私の死か」
体温が、急速に霧散していく。
終わりは幕を引くように一瞬だった。
この一撃のもと。
残る五百六十の獣とともに、ネロ・カオスは死滅した。
「つか―――れた」
がくん、と地面に崩れ落ちる。
尻餅をついて、両手で倒れようとする体を支える。
「―――さむ」
とにかく寒い。
痛みはとうに麻痺していて、むしろ心地いい。
体のふしぶしには犬の歯形だの鳥のくちばしがつけたえぐり傷だの、盛大にやられたもんだ。
―――まあ、間違いなく。このまま死んでしまうとは、思うんだけど。
「―――――」
はあ、と大きく息を吐く。
あごが上がってしまって、ちょうど空を見上げる形になった。
「―――――月」
夜空には、ただキレイな月がある。
……なんだろう。
ひどく懐かしい。これと似たようなコトを、前にも一度ぐらい、夢に見た気がする。
「志貴、大丈夫?」
何事もなかったように歩み寄ってくるアルクェイド。
「……この、バカヤロウ……これで大丈夫だったら、人間じゃない」
息も絶え絶えで返答した。
声を出すのも辛いんだから、返事なんかするんじゃなかったかもしれない。
「く――――――あ」
意識が、途絶えていく。
と。
ぱかん、とアルクェイドに頭をたたかれて、強引に意識を戻された。
「……なんの、つもりだ」
「だめよ。そんな傷で眠っちゃったら、間違いなく生命活動が停止するわ。眠るのは傷を塞いでからにしなさい」
―――そりゃあまったくの正論だ。
あんまりに正論すぎて、あたまにきた。
「……アルクェイド。前から思っていた事、言っていいか」
「ん、なに?」
「―――あんまり無茶いうな、このばか女」
ばたん、と地面に倒れこんだ。
―――意識が遠のく。
アルクェイドが何事か騒いでいるけど、もう目を開ける力もない。
ひどく―――寒い。
「ちょっと志貴、本当に死んじゃうわよ……!」
……だから、眠いんだって。
死ぬ前に眠るから、朝になったらちゃんと起きるよ。
「志貴、眠っちゃだめだって―――! せめて傷口を塞いで、血ぐらい補っておかないと目覚められないわよ……!」
―――ああ、うるさいな。
俺は眠るから、やりたかったらすきにしてくれ。
「え、いいのわたしが治しちゃって? なんだ、そういうコトなら早く言ってくれれば良かったのに」
明るい声が聞こえたあと。
冷たい、今の自分の体より冷たい指先が、いたわるように肌に触れていくのを感じた。
「ま、他人の使い魔を受け入れるのはイヤだけど、この際仕方ないかな」
……なにかを塗られているような感触。
わけがわからないけれど、
ただ、ひどく心地いい―
「さすがは原初の海ともいわれた吸血鬼ね。大元であるネロが消滅しても、使い魔たちは蘇生可能域にまだ残ってる。……うん、これならわたしが後押しするだけでなんとかなるかな。
まずこっちに寄生させて―――元気になったら志貴に移せば、と――――」
指先が、離れていく。
「こんな所かな。どう? 方向性のない命の種だから、すでに人間として形をもってる志貴の体にすんなり寄生してくれてるでしょう?
って、眠っちゃった、志貴―――?」
―――ああ、眠ってる。
「しょうがないなあ。志貴の家って坂の上の屋敷でしょ? なんとか送り届けてあげる」
―――眠ったまま、ただ、白い月だけを見てる。
「……おつかれさま志貴。それとありがと。今夜は貴方のおかげで助かっちゃった」
……なんだかこれっぽっちも重みが感じられない感謝の言葉。
……声はそれきり聞こえない。
今度こそ誰にも邪魔はされずに、遠野志貴の意識は深い眠りに落ちていった。
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●『5/蒼い咎跡』
● 5days/October 25(Mon.)
朝の光を感じる。
まぶたを閉じて眠りに落ちていても、柔らかな陽射しは混濁する意識を目覚めさせようとする。
―――意識が、だんだんと自分を取り戻す。
静かな雰囲気。
空気はほどよく冷たく、それでいて優しい。
どうやら、今日はこれ以上ないっていうぐらいいい天気みたいだ。
―――なら、起きて学校に行かなくちゃ―
そう、学校に行かないと。
なにしろこの二日間、自分が学生なんだって忘れるぐらいにメチャクチャな生活を送っていたんだから――――
「…………」
目が覚めた。
体はベッドに横たわっていて、枕元にはメガネがある。何の思考もしないままにメガネをかけて、視線を泳がせる。
さあ、という音が聞こえてきそうなほど、窓からさしこんでくる陽射しは清らかだ。
「――――」
はあ、と静かに呼吸をする。
肺が新鮮な空気をとりこんで、胸の中が洗浄されていくよう。
時計の針はカッチコッチと音をたてて、
外の林からは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
自分は暖かなベッドに横になっていて、何をするのでもなく緩やかな時間を感じている。
―――――ああ、戻ってきた。
なんていうことのない朝なのに。
今はなんて―――こんなにも、聖なるものに感じている。
「―――良かった」
本当に良かった。
自分が生きている事とか、あの黒いコートの吸血鬼をどうにか出来た事とかじゃなくて。
自分はあんな世界にいたにも拘わらず、ちゃんとこの日常に戻ってこれて、この朝をちゃんと幸福に感じられて。
―――と。
「おはようございます、志貴さま」
「うわああああ!」
思わずベッドから上半身を跳ね起こす。
見れば、ベッドの足元のほうに翡翠が静かに立っていた。
「ひ、ひひ、翡翠―――」
「……申し訳ありません。志貴さまが中々お気づきになられませんので、こちらからお声をおかけしました」
「あ―――うん、いや、こっちこそ、ゴメン」
翡翠はうやうやしく一礼する。
―――び、びっくりした。
まだ心臓がばくんばくんって驚いている。
「―――あれ? まだ七時前だよね、翡翠」
「はい。志貴さまがお目覚めになられるには、少しばかり早い時間です」
「そうなんだけど―――それじゃあ翡翠はなにしにきたんだ?」
「志貴さまを起こしにまいりました。秋葉さまがここ二日間のお話をしたいので志貴さまをテコを使ってでも連れて来るように、との事です」
「―――――あ」
……忘れていた。
そういえば俺は土曜は学校を休んで、その次の日曜日はアルクェイドにつきっきりだったんだ。
「……もしかして、秋葉のヤツ怒ってる……?」
「さあ、どうでしょうか。それは志貴さまがじかにお会いしてお確かめください」
―――翡翠の声は、ものすっごく冷たい。
「……ちょっと待った。それ以前に、なんで俺、自分の部屋で眠ってるんだ……?」
「志貴さまは昨夜の午前二時過ぎにお帰りになられました。玄関口で眠っているのを姉さんが気づいて、お部屋にお連れした、とのことです」
「な――――――――」
……開いた口が塞がらない。
まずいぞ―――二日間も音信不通にしておいて、しかも夜中に帰ってきて、玄関で眠ってたなんて、まるっきり酔っ払いじゃないか!
「―――あいつ―――人のことを猫か何かと一緒にしやがって―――」
アルクェイドの顔が浮かぶ。
……けど、玄関口まで運んでくれただけでも感謝するべきなのかもしれない。
「―――わかった。すぐに行くから、秋葉には、その……できるだけ落ち着くように言っておいてくれると、嬉しいかな」
「―――お断りします」
きっぱりと翡翠は答える。
……もしかして。翡翠も、俺のことを怒っているのかもしんない。
「―――」
うう、一難さってまた一難か。
この屋敷の主は秋葉なんだから、秋葉が怒っているという事はこっちに味方はいないってコトなのかな、コレ。
まあ、ともかく起きよう。
いつまでもベッドに眠っていても始まらない。
「っ…………!」
い―――たい。
立ちあがったとたん、全身がキリキリと軋んだように、痛みが走った。
「―――昨日の――怪我か」
……そうか、何を驚くべきかっていったら、俺は自分が生きているっていうコトを驚くべきだったんだ。
あれだけの傷と出血をしたっていうのに、こうしてなにげなく朝を迎えられる事自体が不自然だっていうのに。
「志貴さま、それは───」
……めずらしい。
翡翠が、目を見開いてこっちを見ている。
「なに、なんかおかしなコトでも―――」
自分の体を見る。
と――
「な、なんだこれ……!?」
寝巻のいたるところに、赤いまだら模様が出来ている。
もちろん初めからそういうデザインというわけじゃなくて、俺の体のいたるところから血が滲んでしまっているのだ。
「―――――」
翡翠は声を押し殺している。
――ありがたい。
そのおかげでこっちも冷静になれる。
……血が出ている理由は明らかだ。
けれどそれを話すことなんて出来ないから、ここは嘘も方便でごまかすしかないだろう。
「志貴さま、お体が―――」
「……大丈夫、痛みはないから。ほら、昨日の夜遅くに帰ってきたろ? 実はケンカしててさ、おかげであんな時間に帰ってくる事になったんだ。
この傷もその時のものなんだけど、ただのかすり傷だから騒ぐほどのものじゃない」
「――――――」
翡翠の目は『嘘を言わないでください』と訴えてきている。
けれど翡翠の立場からいって、俺の嘘を追及することはできないんだろう。
……申し訳ないけど、ここはこの見え見えの嘘を通させてもらうしかない。
「えっと、そんなわけなんで秋葉には黙っててもらえないか? あいつ、ケンカなんかしてたら怒りそうだからさ」
「───はい、かしこまりました。秋葉さまには、決して」
こくん、と翡翠は頷く。
「ありがと。ああ、ありがとうついでにお願いするけど、消毒薬とかある? 体じゅう擦り剥いちまってさ、軽く手当てしておきたいんだ」
「あ─────はい、急いでお持ちいたします」
「……?」
なんだろう。
今、翡翠がすごく気まずい顔をしていたような気がする。
ともあれ、傷薬を持ってきてもらえるのはありがたい。薬箱さえ持ってきてもらえば、あとは一人でなんとかできるだろう。
痛みは微かなものなんだから、出血を隠せるようなものならなんでもいいんだ。
「お待たせしましたー」
ドアを開けてやってきたのは翡翠ではなく琥珀さんだった。琥珀さんは手に赤い十字のマークがはいった木箱を持っている。
「あれ、琥珀さん───?」
「はい、事情は翡翠ちゃんから聞きました。志貴さん、外でケンカしたんですってね」
「あ……いや、そうじゃないんだけど───」
それ以外に説明のしようがない。
「もう、だめですよそんな事しちゃ。わんぱくなのはいいと思いますけど、暴力はだめですっ。手をあげられたほうも、手をあげてしまったほうも痛いだけじゃないですか」
殴ったほうも、殴られたほうも痛いだけ、か。
琥珀さんの言葉は、ただそれだけなのにひどく胸に落ちる。
「……うん。それは、そうだな。痛いだけだよな、殴りあいなんて、さ」
「でしょう? なのにそんな怪我までしてがっかりです。どんな事情があったにせよ、そんなコトしてると志貴さんのこと見損なっちゃうんだから」
琥珀さんの言葉は、なんだかすごく胸にしみる。
―――心の中で、謝りたくなった。
ごめん、琥珀さん。
俺はきっと―――琥珀さんに見損なわれるようなことを、数え切れないぐらいやってきてしまった。
「――――ああ、俺もバカだったって反省してる。二度とこんなことはしないよ」
「はい、わかってくださったのなら結構です。それじゃあ傷の具合を診ますから、服を脱いでください」
「────え?」
琥珀さんはトコトコと近付いてきて、ぐい、と俺が着ているシャツを掴む。
彼女は、ここで俺に裸になれ、と言っている。
「ちょっ、ちょっと待った! そこまでしなくていいよ、たんに擦り剥いたところを消毒するだけなんだから!」
「なに言ってるんですっ。擦り剥き傷だなんて言ってますけど、そんな生易しい傷じゃないですよ、これ」
「いや、でも大丈夫なんだって。一人でやるからいいんだって」
「だめです。背中にだってこんな―――」
背中の傷を見て、琥珀さんは息を飲んだ。
「―――ひどい。志貴さんのケンカ相手ってドーベルマンだったんですか?」
「……うん。まあ、似たようなもの」
「―――――――」
琥珀さんは呆れたようにため息をついた。
「もう、なおさら志貴さんにはお任せできませんっ。ほら、服を脱いでくださいな。お洋服を着たままじゃ手当てなんてできないじゃないですかっ」
「いや、だからそんなのは自分で出来るんだって! そうたいした傷じゃないんだから、裸になる必要なんかないだろ……!」
「───ははあ。照れてるんですね、志貴さん」
琥珀さんはにんまりと笑うと、かまわず寝巻を脱がしにかかる。
「志貴さんのお体なんて見慣れてます。いいからお洋服を脱いでください」
「……見慣れてるって、琥珀さん?」
「一度志貴さんの着替えをさせていただきましたから。背中のほくろの位置までばっちりです」
「っな、っなな、っな」
「ほら、時間がありませんよ。あんまり時間をかけると秋葉さまに気付かれてしまいます」
───うっ。
それを言われると弱い。
弱いけど、琥珀さんの前で裸になるっていうのは、ちょっと………
「……仕方ありませんね。それじゃあわたしが診るのは上半身だけにしましょう。それなら恥ずかしいコトはないでしょう?」
それでも十分気恥ずかしいが、それが精一杯の譲歩だろう。
「………そう、だね。じゃあ、お願いします」
ちょこん、とベッドに腰をおろしてシャツを脱ぐ。
琥珀さんは慣れた様子で傷の手当てを始めた。
腕や肩は言うにおよばす、背中の傷まで丁寧に看てくれる。
消毒薬は傷にしみた。
しみたが、時折おこる貧血や古傷の痛みに比べればどうって事はない。
消毒薬をぬるたびに
「わあ、男の子なんですねー」
なんて琥珀さんは喜んでくれたから、余計痛みを我慢できたのかもしれないが。
「ここは湿布を貼っておきますね。剥がれるかもしれませんから包帯を巻いておきましょうか」
痣になっている胸の部分に湿布をはって、くるくると流れるように包帯を巻く。
「はい、これでおしまいです。両足の手当て、本当にしなくていいんですか?」
「ああ、それぐらいは自分でやるよ。……ありがと、琥珀さん。忙しいのに時間をとっちゃって」
「いえいえ、そんなのは気にしないでください。それじゃあ厨房に戻りますから、手当てが終わりしだい食堂にきてくださいね」
琥珀さんはドアへ歩いていく。
「あっ、琥珀さん」
「はい?」
「その───ごめん。琥珀さんの言うとおり、殴りあいなんて馬鹿げてた。迷惑をかけてばっかりでさ、いい事なんて一つもないし」
「─────」
琥珀さんは驚いたように俺を見ると、突然嬉しそうに笑いだした。
「はい、わかりました。今日のことは大目にみてさしあげますね」
本当に楽しそうにそう言って、琥珀さんは部屋から静かに退室していった。
―――さて、やってきてしまった。
ここから扉一枚隔てて、秋葉が待っているという居間がある。
どんな事情があったにしても、学校を無断欠席して、あまつさえ二日も家に帰ってこなかった事実は弁解のしようがない。
ここは――
―――本当の事を話してみよう。
秋葉に嘘をつくのが嫌だし、誠心誠意をこめて説明すれば秋葉も分かってくれるかもしれない。
……まあ、宝くじに当たるか当たらないかぐらいの確率で。
「―――よし、行くぞ」
大きく深呼吸をして、居間に通じる扉を開けた。
居間には秋葉がソファーに、翡翠が壁際に立って待っていた。
「―――おはよう兄さん」
じろり、と秋葉はいかにも『私、怒ってます』なんていう視線を向けてくる。
「やっ。おはよう秋葉」
開き直った人間は強い。
いじめっ子のような秋葉の視線に負けじと明るい挨拶を返せた。
「――――」
こっちの陽気さに面食らったのか、秋葉はじっと見つめてくる。
「兄さん、挨拶はいいですからそこに座ってください。話したいことがあるんです」
「わかった。できるだけ手短にな」
しずしずと、大人しく秋葉の前にあるソファーに腰を下ろす。
「それでは兄さん。早速ですけど、一昨日と昨日のお話を聞かせてくれませんか?」
「―――――ん」
……やっぱりそうきたか。
二日間も家を留守にしてしまった以上、どんな言い訳もきかない。
正直に、アルクェイドと過ごした二日間を打ち明けよう。
「それなんだけどな、秋葉」
「はい、なんですか兄さん」
「この二日間、俺は吸血鬼を退治していたんだ。この街に連続殺人事件が起きているのは知ってるだろう? その犯人が吸血鬼だっていうんで、ちょこっと知りあった『いい吸血鬼』に手をかして、『悪い吸血鬼』と戦ったんだよ」
―――――とまあ、実に簡潔に説明した。
「なっ―――――――」
秋葉は物の見事に固まってしまっている。
……まあ、まずは順当な反応といえるかもしれない。
秋葉の中では今、俺に馬鹿にされているという考えが渦巻いていて、次の瞬間にも
「バカにしてるんですか、兄さんはっ!!!!」
なんて、怒鳴ってくるに決まって――
「…………………」
………あれ?
怒っていることは怒っているみたいだけど、秋葉は何も言ってこない。
「あの……秋葉?」
「……兄さん。今のは、質の悪い冗談ですか」
「――――――う」
秋葉は静かに、こっちの心を見通しかねない眼差しを向けてくる。
「いや……その、なんていうか」
「冗談、でしょう?」
「……まあ、そうとられても仕方がない、けど」
「―――いえ、冗談に決まっています。ですから、今後はたとえ冗談だとしても、そのような事は口にしないでください」
じっ、と怒っている、というよりは不安そうな目で秋葉は俺を見つめてくる。
その眼差しがあんまりにも真摯だったから、
「……………ん」
と、曖昧に頷く事しか、できなかった。
「わかりました。今回のことはこれ以上はお聞きしません。けれど、今後はこのような事は控えてください。兄さんは遠野家の長男なんですから、もう少しご自分の立場というものを理解していただかないと困ります」
「―――む。なんだよ、それは関係ないだろ。だいたい遠野の跡取りは秋葉に決まったんだから、俺がなにをしようがいいじゃないか。家の事を思うなら、遠野の家に相応しい婿養子でも見つければいいのに」
「―――――」
……?
なぜか秋葉は黙り込む。
「どうした? 気分でも悪いのか、秋葉」
「――なんでもありません。私のことを気遣う余裕があるのでしたら、ご自分の体調を気にしてください。慢性的な貧血持ちなんですから、兄さんは」
「………む」
……そりゃあたしかに、こっちは頻繁に貧血で倒れたりするけど。
「ともかく、あまりお一人で屋敷を出ないでください。それでなくとも近頃の街は物騒なんですから。
兄さんみたいにぼう、としている人は通り魔に襲ってください、と言っているようなものです」
「通り魔って―――ああ、例の連続殺人か」
たしか九人ぐらいの犠牲者が出ている、という連続殺人事件。
死体はすべて血液を搾取されているところから現代の吸血鬼か、なんて言われていたけど――
「ああ、それなら大丈夫。あんな事件、二度と起きないから」
「――――は?」
「吸血鬼はいないっていうことだよ。その犯人は、もう捕まったんだ」
「そうなんですか……? 兄さん、よくそんなことを知っていますね」
「ま、たまたま見ただけだけど、たしかに、もうあんな事件は起きないんだ」
……そう、少なくともこれ以上ネロに殺される人はいない。
アルクェイドと過ごした二日間は、そりゃあ色々ありすぎて何が正しくて何が悪かったか、なんて言えない。
けど、その事実だけは―――胸を張って良かったって言える事だと思う。
「兄さん―――? どうしたんです、急に嬉しそうな顔をして」
秋葉は不思議そうにこちらの顔を覗いてくる。
「べつになんでもない。ただ、終わったんだなって、ようやく実感できただけだから」
知らずに笑顔で、俺はそんな返答をしていた。
時刻は七時半になった。
秋葉は俺より二十分も先に(しかも車で!)登校している。
琥珀さんの作ってくれた朝食をおいしくいただいて、学校に向かう事にした。
翡翠は鞄を持って門まで付き添ってくる。
「それじゃ行ってきます。見送りありがとうな、翡翠」
翡翠は無言で鞄を手渡してくれる。
「志貴さま、お帰りは何時ごろでしょうか?」
「俺も信用がないんだな。大丈夫、今日はちゃんと夕方までには帰ってくるから」
「―――かしこまりました。それでは行ってらっしゃいませ」
翡翠はふかぶかとおじぎをする。
それに照れくさいものを感じつつ、屋敷の門を後にした。
交差点にはうちの高校の生徒たちしかいない。
あの時のように、ガードレールに腰を下ろして誰かを待っている女性の姿はない。
「―――ま、当たり前か」
あいつとはもう会う事はないだろう。
そもそもあいつの目的は吸血鬼を退治する事だったらしいから、ネロが消えた今この街に残っている理由がない。
―――少し、胸に残ってる。
後悔とか、未練とか、そういったものが。
そりゃああいつは厄介ごとしか持ち出さないヤツだったけど、それでも少しは……まあ、一緒にいれて楽しかったんだ。
「……って、バカか俺は」
一度殺されかけたっていうのに、何が未練なんだか。
昨夜の傷は体をキリキリと痛ませている。
……ネロのケモノたちのエサになりかけた時のことを思い出せ。遠野志貴は、もう二度とあんな目にあうのはゴメンな筈だ。
学校の予鈴が鳴り響く。
「―――やばっ、遅刻する」
つまらない雑念を振り払って、正門に向かって走り出した。
教室に駆け込む。
ホームルーム五分前、教室の中は未だにがやがやと騒がしい。
「―――ふう」
一息をついて机に向かう。
この分なら、別段走る必要はなかったかもしれない。
「いょぉう、さぼり魔」
「…………」
背後から、聞きなれたあまりよろしくない声がかけられた。
「どうしたんだよ遠野。おまえが学校をさぼるなんて聞いてないぞオレ。こまるじゃんか、ちゃんと今日はさぼって遊びに行くぞって報告してくれなくちゃ!」
やけに嬉しそうな顔で、有彦はたわけた言葉を吐き出してくる。
「……あのさ。なんで俺が学校を休むってことをいちいちおまえに報告しなくちゃいけないんだ」
「あったりまえだろ。遠野が来ないってコトは先輩もうちの教室にやってこないんだから、事前に手をうっておかないとまずいじゃねえか」
……だから、一体何がまずいんだろうか、この男は。
「しっかしさ、ホントのところはどうなんだよ。おまえは中学からこっち、貧血持ちのくせに学校だけは休まなかっただろ。まあ、そりゃあ登校した瞬間に帰るっていう離れ技は何度かあったけどな」
「それと似たようなものだよ。交差点あたりまでは登校したんだけど、そこで気分が悪くなって帰ったんだ」
「ふーん。弓塚といいおまえといい、最近素行が悪いんじゃないか?」
「――まあ、素行が悪いっていうのは否定しないけど……弓塚さん、どうかしたの?」
「うん? ああ、ここんとこずっと欠席。あいつもずっと優等生してたからさ、いいかげんテンパッてたんじゃないか? だけどフリテンだから上がれないんだぜ、きっと」
「……………」
有彦の例え話は、なんというか独特だ。
と、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。
「おっと、んじゃオレはこれで。土曜日さぼった分、まじめに勉学に励むんだぞ」
有彦はいそいそと教室を出ていった。
つまり、今日はあいつが学校をさぼるという事らしい。
◇◇◇
午前の部、終了。
昼休みを告げる予鈴とともに、教室の人口は半分ほどに減ってしまった。
「……さて、どうしようかな」
有彦もいないし、今日はゆっくり昼飯をとることにしよう。
「あれ? 遠野くん一人なんですか?」
「そうだけど―――先輩、もしかして昼飯食べにきたの?」
「はい、みんなで食べようと思って急いでやってきたんですけど―――」
じっ、と。
なんの前触れもなく、先輩は俺の顔を真剣に見つめてきた。
何を思ったのか、先輩はそのまま俺にぴたりと寄り添ってくる。
「ちょっ――せ、先輩……?」
すぐ近くに先輩の体がある。
ほとんど抱き合っているような身近さ。
これじゃあ心臓がドキドキしないほうがどうかしてる。
「―――――」
先輩は何も言わない。
ただ俺の体に寄り添って―――くんくん、と匂いをかいでいたりする。
「――――はい?」
……なにしてるんだろ、この人は。
先輩はそのまま、ぱっと俺から離れる。
「……あの、先輩?」
「遠野くん、なにかありました?」
じっ、と真剣な眼差しで尋ねられる。
はっきりいって、これっぽっちもワケがわからない。
「何かって……その、何が?」
「わかりません。わからないから聞いているんです」
先輩は上目遣いで、なんだか怒っているようにも見えた。
「別に――俺はいつも通りだけど。なに、なにかおかしいの、今日の俺って?」
「うーん、それがわたしにもよくわかりません。なんとなく思っただけですから、気のせいなのかもしれませんね」
「………?」
はて、と首をかしげる。
「さ、お昼ごはんにしましょうか。遠野くん、今日は学食でしょう? 早く行かないと席が埋まっちゃいますよ」
「ああ、そっか。そういう先輩も、今日は学食?」
「はい、今日はおいしいものが食べたくなる日なんです」
先輩はにこやかに答えて、こっちの手を引いて歩き出した。
結局、昼食は先輩と二週間後の体育祭と、その後にある文化祭の事を話して終わった。
……実をいうと、そんな事より『おいしいものを食べたい』、なんて言っておきながらカレーを注文していた先輩のことのほうが、ひどく印象に残っていたりする。
◇◇◇
今日一日の授業が終わって、放課後になった。
さて、これからどうしようか――
「…………はあ」
そのまま屋敷に帰る気になれなくて、教室でぼんやりと時間をつぶす。
外は夕暮れ。
グラウンドからの部活動の掛け声が聞こえてきて、こうして椅子に座っているだけで平和だ、という気分になれる。
それはきっと、昨日と一昨日が異常すぎる世界だったためだろう。
―――と。
「よかった。遠野くん、まだ教室に残っていたんですね」
突然、ぴょこん、と先輩が顔を出してきた。
「あれ、先輩……? どうしたの、二年の教室になんてきて。何か特別な用事ですか?」
「ええ、遠野くんがまだ残ってるかなって、ちょっと様子を見にきたんです」
笑顔で、先輩は嬉しくなるような事を言ってくれる。
「ええ、まだ残ってますけど、なんですか?」
「昼休みに言い忘れてしまった事があったんですよ。明日でも良かったんですけど、やっぱりできるだけ早いほうがいいかなって」
「……はあ。言い忘れたこと、ですか」
「はい。遠野くん、最近夜に出歩いているみたいですから、注意しておこうと思って。最近の街は物騒なんですから、あんまり夜更かしはしちゃダメですよ」
「あ――――えっと、その……」
……? 先輩はなんでそんな事を知っているんだろう。寝不足で顔色が悪いからとか、俺が夜出歩いているところを見かけたりしたんだろうか……?
「それじゃ遠野くん、ちゃんと伝えましたからね。あんまり危ないことしちゃだめですよ」
唐突に現れた先輩は、風のように立ち去っていった。
一時間ほど教室でぼんやりしてから帰路につく事にした。
時刻は夕方の五時すぎ。
あんまり遅いと翡翠が心配するだろうし、いいかげん帰らないとまずいだろう――――
◇◇◇
坂道を上がりきって、屋敷のまわりを歩いていく。
しばらく歩いて屋敷の正門に回りこむと、そこに翡翠が一人で立っているのが見えた。
「……? なにしてるんだろ、翡翠」
首をかしげながら正門に向かう。
と、翡翠はこちらに気がついて、ペコリと頭をさげてきた。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
「―――あ、うん―――ただいま、翡翠」
うやうやしく出迎えをされて、戸惑いながらもなんとか返答する。
「あの―――もしかして、俺が帰ってくるのを待っててくれたの?」
「はい。主人の出迎えをするのは使用人の務めですから」
さも当然のように、翡翠は眉ひとつ動かさずに言ってくる。
「いや、あのさ翡翠。出迎えてくれるのは正直嬉しいんだけど、わざわざ外で待ってなくていいよ。
俺は勝手に帰ってくるから、帰ってきたなって気づいた時だけ声をかけてくれればいいから」
「―――――」
翡翠はわずかに顔をくもらせる。
……もしかすると。
土曜日も日曜日も、翡翠はこうしてずっと俺の帰りを待っていたのかもしれない。
「――翡翠、あのさ――」
「わかりました。明日からはロビーで志貴さまのお帰りをお待ちいたします」
ぺこり、と頭をさげて翡翠は屋敷の門を開けた。
翡翠は門に手をかけたまま、こちらに背中を向けている。
「…………はあ」
なんだか、話しかけられる雰囲気じゃない。
屋敷の門をくぐると、翡翠は門を閉めて玄関まで歩いていき、やっぱり無言で扉を開けて俺をロビーまで先導した。
自室に帰ってきた。
秋葉は習い事から帰っておらず、琥珀さんは夕食の支度、翡翠は屋敷の掃除があるとのことだ。
「―――まいったな、やることがない」
いや、学生なんだから勉強とか復習とか暗記とかやらなくちゃいけない事はたくさんある。
ただ、なんとなくなーんにもやる気にならない。
ちらり、とアルクェイドの顔を思い浮かべた。
良きにつけ悪きにつけ、忙しい二日間だったことの反動だろうか。
しばらくは、何かをするよりぼんやりとしていたほうが、心が休まるような気がしていた。
◇◇◇
だだっ広い食堂で一人の夕食を終えた後、琥珀さんに傷口の手当てをしてもらって自室に戻ってきた。
夕食時になっても秋葉は帰ってこなかった。習い事が長引いているので、外食をすることになったらしい。
時計の針は夜の十時を大きく回っている。
少し早いが体の疲れもあることだし、今夜は早めに眠るとしよう―――
………体は疲れている。
なのに、深い眠りにつけないでいる。
体のふしぶしにある傷がズキズキと痛んで、熟睡しようとすると意識が半端に起きてしまうためだ。
ベッドの中から時計を見る。
午前三時過ぎ―――もう五時間近く、眠りとまどろみの境界の中にいる。
「……くそ、眠れない」
眠りたくても眠れない、というのは拷問に近いと思う。
チッ、チッ、チッ、と時を刻む秒針の静けさが癇に障る。
チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、ギイ、チッ、チッ、チッ、チッ―――
「え――?」
今、時計の秒針の音にまぎれて、物音がした気がする。
扉が開く音に似ていたけど、こんな時間に誰がやってくるっていうんだろう?
カツ、カツ、カツ。
いや、間違いない。
誰か部屋に入ってきて、こっちに近づいてきている。
「―――――」
誰だろう……こんな夜遅くにやってくるっていったら、それは―――
……俺の部屋にやってくる者がいるとすれば、それは琥珀さんか翡翠、それか秋葉の三人ぐらいなものだろう。
翡翠や琥珀さんだったらノックをして入ってくるだろうから、消去法であとは秋葉だけだと思うんだけど……。
「…………秋葉?」
ベッドから体を起こして声をかける。
月明かりは弱々しく、部屋の隅は暗がりになってよく見えない。
目を凝らして様子を見てみたが、人影らしきものはなかった。
「……気のせい、かな……」
眠れないものだから神経が過敏になっているのか。
はあ、と大きく息を吐いてから、ベッドに横になろうとする。
スタンドライトが勝手に灯った。
「―――――え?」
いきなりの事でドキリと胸が鳴る。
「……おかしいな。スイッチを押した覚えはないんだけど……」
とりあえず電気を消した。
明日は学校なんだから、いいかげん眠らないとまずいだろう。
「だめよ兄さん。電気はそのままにしてくれないと」
唐突に。
背後から、落ちついた声が聞こえた。
「―――――!」
振りかえる。
と、そこには―――
秋葉と、
琥珀さんの姿があった。
「秋葉……? なんだよこんな夜更けに。琥珀さんも一緒っていう事は何かあったのか?」
ベッドから体を起こして問い掛ける。
二人は軽く目配せをした後、おかしそうに微笑した。
「もう、志貴さんったらぼんやりしすぎですよ。秋葉さまとわたしは何かあるからこうしてやってきているんじゃないですか」
クスクスと琥珀さんは笑っている。
「……?」
何がそんなにおかしいのか、俺にはよく解らない。
「琥珀、そんなに笑っては兄さんに失礼でしょう。気持ちは解るけど、あまり兄さんを脅かしてはダメよ。愉しみは後にとっておくものだっていうでしょう?」
「あ、すみません秋葉さま。志貴さんがあんまりにも解ってらっしゃらないから、可愛くて、つい」
「……そうね。確かに兄さんは間延びしすぎてるかな。こんな夜更けに私たちが訪れた事の意味にも気がつかないし、ご自分の立場も解っていないようですし。
そう、まるで悪意を知らない小動物みたい。純粋で可愛いらしいけど、その分ひどく滑稽だわ」
なにか、冷たい笑みをうかべて秋葉はこちらを流し見る。
「秋、葉…………?」
それで、ようやく二人の態度がおかしい事に気がついた。
……なんていうんだろう。悪意は感じられないんだけど、何か企んでいそうな不信感、というんだろうか。
「秋葉。何か言いたい事があるなら聞くから、早く用件を済ませてくれないか。明日は学校だし、お互い早く眠らないとまずいだろ」
とにかく冷静になろう、と落ちついた声で秋葉に話しかける。
「………………」
何が気に食わないのか、秋葉は黙って俺を睨んできた。
いや、そればかりか、
「……はあ。もう少し兄さんが慌ててくれると思ったのですけど、一向にその気になってくださらないなんてショックだわ」
なんて、俺がここに居るっていう事を無視しているみたいな独り言をぼやいている。
「――――? あの、秋葉。さっきから何を言いたいのかよく解らないんだけど……」
「もう。兄さんは有間の家でどんな教育を受けていたんですか。
いい? 仮にも夜中に異性が部屋にやってきているのよ? 年頃の殿方ならそれだけで気を昂ぶらせるのに、兄さんったらいつも通りなんですもの。女としてショックを受けるのは当然でしょう」
じろり、と睨みつけてくる。
「……あのな、秋葉。そりゃあ俺だって女の子が部屋にいたら意識するけど、おまえや琥珀さんは別だろ。俺たちは兄妹なんだから別にこんなのは特別なことじゃないし、琥珀さんだって毎晩見回りに来るじゃないか」
そう、だからこんなコトは驚くべきことじゃない。
秋葉は妹なんだし、琥珀さんは使用人だ。
二人が俺の部屋にやってくる事なんて特別なコトじゃないんだから、別に俺は――――
「つまり兄さんにとって、私や琥珀は異性である前に家族だというんですね。
…………そう。本当にそう思っていただけているのなら、いいんですけど」
微笑をしながら秋葉は俺を流し見る。
その、心まで見透かすような静かな視線。
「――――――――っ」
どくん、と心臓が高鳴った。
……なにか、おかしい。
秋葉に見つめられていると、心の深い所で不安らしき影が広がっていく。
……例えば、それは。
あんまりにも昔と違ってしまった秋葉を、まだ妹として受け入れられていない自分の本心とか。
自分の世話をしてくれる琥珀さんや翡翠に使用人以上の好意を持ち始めている自分の本音とか。
そんな、隠している自分の心が見透かれているようで、後ろめたくなってしまう。
「あら、どうしたんですか兄さん? 急に視線を逸らすなんて、まるで隠し事があるみたい」
「なっ――――」
カッ、と頬が赤くなるのがわかる。
「そ、そんなコトあるわけないだろ……! いいから早く用件を言えよ。そろそろ眠らないと明日が辛くなるじゃないか」
秋葉の視線に負けないように、気をしっかり持ち直して見つめ返す。
と。
どうしてか、秋葉はつまらなそうにため息をついた。
「がっかりね。兄さんがどきまぎする顔を楽しみにしていたのに、これじゃつまらないわ。
まあ、その分余計に兄さんの痴態を鑑賞する事で良しとしましょうか、琥珀」
「は―――――?」
思わずベッドから立ちあがった。
ちょっと待て。
今、秋葉はなんかとんでもないコトを、口にした気がするんだけど――――
「秋葉、ちょっとおまえ―――」
「あら、そんな体で立ち上がっていいの?
兄さんはいつも貧血気味なんですから、夜は大人しくしていないといけないわ。
今だって寝不足のようですし、ここ数日はお疲れだったんでしょう? ほら、ちゃんとご自分の身体の事を意識してあげなさい。兄さんの体はとても弱いんです。
なら、そんな無理をしていると今すぐ倒れてしまうんじゃない?」
「な―――――――」
―――――どくん、と。
なんでもない秋葉の言葉に、暗りとした。
「―――なに言っているんだ。いくら俺でも、こんな事ぐらいで、そんな―――」
「そう? そのわりにはひどく辛そうなお顔をしていますね。
例えば……そうね。呼吸は段々と乱れていって、血の巡りがおかしくなる。ほら、兄さんは手足の先から少しずつ冷たくなっていくんです」
―――――どくん。
「ちょっと――――止めて、くれ。そう言われると、なんだか――――」
本当に、そんな気がして、眩暈がする―――
「いいえ、それは気のせいではありません。先程から兄さんの体はおかしかった。ただ兄さんがそれに気がついていないだけ。
いい? 琥珀が笑っていたのはそれを兄さんが気付いていなかったからよ。
兄さんは今にも倒れてしまいそうなほど弱っているクセに、ご自分の体の事をまったく考慮にいれていないんだもの。
気付いていないのは本人だけなんて、まるでカカシね。
ボロボロの服を着て、竹で出来た手足をつけて。遠くから見れば人間だけど、近くで見れば作り物にすぎない人型みたい」
「な――――――」
なにを、いきなり。ワケのわからないコトを、言い出すんだ、秋葉は――――
「もう、まだ気がついてくださらないんですか?
兄さんはさっきから顔色が真っ青で、思考も磨耗しきっているのよ。
だっていうのにそれを認めようとしてくれないなんて、本当にカカシみたい。琥珀もそう思うでしょう? 兄さんなんて、いつ壊れてもおかしくない飾り物なんだって」
「ばっ……そんな、コト――――」
ない。ない、ハズなのに。
どうして―――本当にくらくらと意識が、途切れて―――
「ほら、もう限界なのよ。
無理はしないでベッドに倒れる。
でも意識だけは残ったまま。
兄さんは手足の自由は利かないけど、意識だけはキチンと残っているの」
「ば―――やめ………、ろって―――」
ふらり、と体が倒れる。
その先にはベッドがあって、俺は秋葉の言葉通りに、そのまま――――
「――――、」
違う。俺の体はおかしくなんかない。
少なくとも今夜は貧血になるような兆候はなかったんだから―――
「だから、そんな事は関係ないわ。兄さんの体はいつだって不自由じゃない。
だから今夜も兄さんの自由になるなんてコトはない。
――――だって。
兄さんは、元々私の人形なんですから」
「な――――――」
どさり、とベッドに倒れこむ。
……結局秋葉の言葉が正しかったのか。
俺は眩暈に襲われた時のように、そのまま意識を失ってしまった―――
「あ――――れ」
……いや、違う。
確かに体は痺れたままで動かないけど、意識だけは残っている。
ぼう、として物事がよく考えられないけど、確かに俺は起きている。
「いつも、の、貧血と、違う……」
ぼんやりと天井を見上げる。
「秋葉さま? あの、少しやりすぎたのではないですか……? 志貴さん、本当に貧血ぎみになってしまっていますけど……」
……琥珀さん、の声。
「なに言ってるのよ琥珀。夕食にあなたがクスリなんて混ぜるから、兄さんが前後不覚に陥っているんじゃない。
私は少しだけ眠らせようと思っただけです。それだけだったら私一人で十分ですもの」
……秋葉の声はどこか不満そうだ。
「……ちょっと、二人、とも」
横になったまま声をあげる。
手足は動いてくれない。なんとか首をまげて、秋葉と琥珀さんを見る。
「はあ。志貴さんは純真ですから暗示にかかりやすかったんですねー。まあ、そこが志貴さんのいいところなんでしょうけど」
……俺の声は無視されたみたいだ。
「そうね。けど琥珀、あんまりに純真すぎるものって、こう、嗜虐心をかきたてられない?」
……ちらり、と秋葉の目がこちらに向いた。
[#挿絵(img/秋葉 31.jpg)入る]
「―――――」
目が合った瞬間、ぞくりと、冷たい感覚が背中に走った。
肌の下、肉の中、背骨の中心を冷たいモノが駆けあがる。
脳髄が痺れたのか。
秋葉のあの瞳に見つめられていると、時間が止まって、空間が凍死してしまったみたいに、全身が締めつけられる。
「あ――――秋、葉?」
「………………………」
秋葉は何も言わない。
……どくん、と心臓が痙攣する。
秋葉は無表情なのに、どうして―――あんな、獲物を狙うような冷たい目をしているように見えるのか―――――
「うーん、嗜虐心、ですか。わたしは志貴さんの困ったお顔も嬉しがってくださるお顔も大好きですから、秋葉さまのおっしゃられるコトは分かりかねますねー」
……秋葉の横で首をかしげる琥珀さん。
秋葉は琥珀さんを見る事さえせず、こっちを見つめたまま頷いていた。
「そうね、例えるなら絵画かな。
ねえ琥珀、素晴らしい、というわけではないけど、よく出来た作品があるとするでしょう? その絵はよく出来ているから不満はないのだけど、よく出来ているだけで面白みも何もないから好きになれない。
そういう場合、どうしたらそれを自分の中で特別なモノにできるか、わかる?」
「うーん、そうですね……ちょっと、わたしには分かりません」
「簡単よ。そのよく出来た絵の上に絵の具を塗りたくって台無しにしてしまえばいい。
結果、そのよく出来た絵は失われてただのガラクタになるでしょう。けどその過程、自分のものであった『よく出来た作品』が壊れていく時間は素晴らしいものなんじゃないかしら。
―――考えてみるだけでも美的じゃない?
私にはその絵に対する愛着も後悔もある。
その絵が醜くなっていく事への苦痛も、そうしてしまっている自分への怒りも、もう元に戻りえないという焦燥も、何よりそれを壊してしまえるのは自分だけという絶対性があるわ。
所有する喜び、かしら。ただ一つの物だからこそ、つけられていく傷痕が自分の爪痕だからこそ、壊していくたびによけい愛着が湧いてくるのよ。
だって、決して消えない爪痕を残せば残すほど、それは自分のモノになっていくんだもの」
――――眉一つ。
呼吸さえせず、能面のような無機質さで、秋葉は笑った。
「ね、琥珀。アレを壊してみたくならない?
それは、きっと愉しいわ」
「なっ――――ちょっと、秋葉…………!」
声をあげる。
けれど秋葉は答えないし、琥珀さんは笑顔のまま、
「はい。かしこまりました、秋葉さま」
なんて、とんでもない返答をしていた。
「っっっっっ!」
全身に力をいれる。
感覚のない手足にムチをいれて、なんとか立ちあがろうと努力した。
「っ、ん〜〜〜〜〜…………!!!!!」
力をこめる。
必死の努力が通じたのか、手足は少しずつ自由に動き出してくれ―――
「もう、だめですよ志貴さん。貧血ぎみなんですから、体に無理をさせちゃいけません」
いつも通りの笑顔でそんな事を言って、琥珀さんはベッドのわきにしゃがみこんだ。
「琥珀さん、なにを――――」
「なにって、志貴さんが暴れないように縛るんです。だいじょうぶ、手首と足首だけですからあんまり痛くないですよ」
「縛るって、なに考えて――――いっつぅ……!」
突然の痛みにアゴがあがる。
琥珀さんは慣れた手つきで、ベッドの足にロープのようなものを巻きつけて、俺の手足を拘束してしまった。
「っ………………!」
チリ、と頭の奥が熱くなった。
秋葉と琥珀さんが何を考えているのかは知らない。
ただそんな事以外に、自分のベッドに手足を縛られて拘束されているなんて、そんな姿を想像するだけで頭がクラクラした。
そんな情けない姿をして、それを秋葉と琥珀さんに見られているだけで、恥ずかしくて死にたくなる――――
「琥珀さんっ……! いいかげん悪ふざけはやめてください……!」
「あら、志貴さんったら顔が真っ赤ですよ。そんなに喘ぐなんて、縛られるの初めてだったんですね」
「っ…………! そ、そんなの初めてに決まってるでしょう! いいから、すぐに外してくださいっ!」
「秋葉さま、志貴さんはそうおっしゃっていますよ。ここまでされているのにご自分のお立場がわかっていないようですから、もう少し乱暴に扱ってもいいんじゃないでしょうか?」
「え―――――琥珀、さん」
琥珀さんは笑顔のまま、ベッドに縛られている俺を見下ろす。
それは秋葉の鋭い眼差しよりも、得体の知れない恐さのある視線だった。
子供ゆえの残酷さというんだろうか、秋葉以上に琥珀さんは、この状況を楽しんでいるように見えた。
「だめよ琥珀。兄さんが自分からあなたを望んだなら好きにしていいけど、今回は違うでしょう?
この夜だけは兄さんの所有権は私にあるわ。あなたの役目は兄さんに奉仕する事だけよ」
「わかりました。それでは失礼しますね、志貴さん」
言って。
琥珀さんは、俺の寝巻を脱がし始めた。
琥珀さんは馬乗りになるカタチで覆い被さってくる。
そのままシャツのボタンを一つずつゆっくりと外していった。
ボタンを外してシャツをはだけさせたままで、琥珀さんの指はズボンまで下がっていく。
「なっ、なっ、なっ…………!」
バタバタと暴れても効果はない。
チキ、という硬い音。
秒を刻むようなじれったい速度で、琥珀さんの指がジッパーをスライドさせていく。
「っ―――――な、なに、し、て…………!」
うまく声が出てくれない。
なんで、どうしてこんなコトになっているのか理解できない。
どうして俺はベッドになんか縛られていて、琥珀さんが俺の服を脱がしているのかが、現実として把握できない。
「志貴さん? まだ何もしていませんけど、これだけで気持ちいいんですか……?」
下着に手をかけて、琥珀さんはとんでもない事を口にする。
「そ、そんなんじゃなくて、琥珀さん―――!」
「そうですか。それじゃあ失礼して、志貴さんを見せていただきますね」
「っっっっっっ!」
ずる、と下着が下げられる。
「――――――――――」
とたん、意識が真っ白になった。
向きだしの下半身。
自分の、醜い雄器官が、隠しようもなく露になってしまっている。
「あはっ、志貴さんったらこんなに小さくなって、かわいいです」
楽しむような琥珀さんの声が、股間にかかる。
手足を縛られて、秋葉の冷たい視線に見つめられて、俺のモノは縮こまってしまっていた。
「っ―――――――!」
ぎしり、と縄が軋んだ。
とにかく恥ずかしくて、両手で股間を隠したかった。
けど手足は縛られていて、隠すことなんて出来るはずがない。
「………………」
その様子を、秋葉は無言で見つめている。
それが余計に恥ずかしくて、頭にかぁ、と血がのぼった。
「あ――――くっ」
ギリ、と歯を噛む。
「大丈夫ですよ志貴さん。すぐに元気にしてさしあげますから、安心してくださいね」
こっちの気持ちも知らず、琥珀、さん、の指が這ってきた。
「っ、ん―――――!」
ぞくり、と背中がねじれる。
琥珀、さんの指が太ももから、クモのように、股間に向かってせりあがって、くる。
指の一本一本がじとりと、少しずつ、繊細に侵食してくる感覚。
じれったくなるスピード。他人の指に触れられているという違和感。……そして、それがじき自分の一番恥ずかしいところまで到着するという予感が、混乱している頭をよけいグチャグチャにしていってしまう。
「ん―――志貴さん、ここだけでそんなに感じるなんて、いけない男の子ですね」
トン、と。
まるで鍵盤を叩くように、琥珀、さんの指が内股をなぞっていく。
「―――――、っ…………!」
漏れそうになる吐息を堪える。
琥珀さんの顔を見ないように目をつぶる。それでも刺すような視線を感じた。
……言うまでもない。
それは、俺の姿を見つめている秋葉の視線だ。
それがあるかぎり―――俺は、間違っても声なんて、あげられない。
……琥珀、さんの行為は止まらない。
腿に触れていた細い指は、そのまま―――縮こまっている生殖器に、触れてきた。
「――――、っ―――――!」
ぞくん、という感覚。
触れるか触れないかの指遣いで、琥珀さ、琥珀、の指が、局部全体を、いじって、くる。
「は――――、く――――」
―――よく、わからない。
他人の指はそれだけで敏感に感じるのか、それとも琥珀の指先が特別なのか。
包み込むような琥珀の指が、さわさわと触れてくるだけで血がたぎってしまう。
どくん、どくん、と。
俺の心情とは裏腹に、膨張しようとする男性自身。
「ん……志貴さん、ちゃんと声をだしてくれないとだめ、です―――」
「っ――――、ん――――!?」
ぎしり、とベッドが軋む。
今、なにか―――陰嚢を、ぬめった物でなぞられたような感覚が走った。
「ちょっ――――琥珀、さん―――!」
首をあげて自分の体を見る。
「な――――――」
予想していたとはいえ。
その光景を目の当たりにして、俺の意識はよけいドロドロに蕩けてしまった。
[#挿絵(img/琥珀 31.jpg)入る]
「琥珀、さん―――今、なに、を―――」
「なにって、志貴さんにご奉仕させていただいているんですよ」
当たり前のように琥珀は答える。
けど、今のは―――その、俺の袋に舌を―
「だ、だめだって……! そんなの汚いことするなんて、どうかしてるって思わないのか……!」
「思いません。だって秋葉さまのご命令ですから、わたしには考える余地なんてありませんもの」
秋葉の命令って、そんな、バカな。
「あ、ああ、秋葉………………!!!」
「はい? そんな大きな声をあげてなんですか、兄さん」
「なんでしょうって……お、おまえ何考えてるんだ……! こんな真似をして、後でどうなるか分かってるのか……!?」
「……もう。兄さんのほうこそご自分の立場が解っていらっしゃらないようですね。そんな反抗的な態度をされたら、優しくしてあげる事なんてできないじゃない」
不機嫌そうに眉をよせて、秋葉はじとりとこちらを睨んでくる。
……独りきりで八年間も遠野家に残されたせいだろうか。秋葉の視線は刃物じみた気品があって、有無を言わせない迫力がある。
「あ―――秋、葉……おまえ、何考えてるん、だ―――」
問い詰める声が、いつのまにか小声になっていた。
秋葉はふん、と鼻を鳴らしてベッドに縛り付けられた俺を流し見る。
「なにを考えているか、ですって? そんなのは言うまでもないでしょう。私は、ただ兄さんにお返しをしてさしあげているだけよ」
「? お返し……?」
意味不明の単語を言われて、思わず鸚鵡返しをしてしまう。
――――と。
秋葉は本当に、心底おかしそうにくすり、と笑った。
「そう、お返し。全てを私に押し付けて遠野家から逃げ出した兄さんには、色々とお返ししなくてはいけないコトがあるんです。
この八年間―――私がどれだけ辛い思いをしたのか、少しでも理解していただきたくて」
「あ―――――」
……それを言われたら、俺は何も言えなくなってしまう。
秋葉を一人置いて有間の家に行ってしまったのは本当の事だし、有間の家の子供になって、遠野家の事を忘れようとしていたのも本当の事なんだから。
「……それは、わかってる。秋葉が俺を恨むのは当然の事だ。けど、それとこんな事にどんな関係があるっていうんだ……!」
「あら、解りませんか? 兄さんは遠野家の人間としての教育がなっていないでしょう?
だからこうして、私が躾をしてさしあげようかなって。お父様は兄さんぐらいの歳で色々と嗜んでいらしたようですし、兄さんも少しは女性というものを知っておかないと困るでしょう」
「な――――教育って何の教育だ、このバカっ! いくら親父と暮らしていたからって、考え方まで親父と一緒になっちまったっていうのかよ!」
頭にきて立ちあがろうとする。
だが。縄に縛られた手足は動く事はなく、ぎしりと肉に食い込むだけだった。
「そう、あくまで私の事を軽んじる、というのね兄さんは。……残念。ほんとは脅かすだけで許してあげようと思ってたけど、今ので気が変っちゃった」
秋葉の目が細まる。
……それは睨んでいるんだろうけど、なぜだか一瞬だけ、ひどく愉しげなものに見えた。
「バカな兄さん。今の貴方はお皿の上に乗せられた魚となんら変らない。それをどう口に運ぶかは私の指先一つなのに、最後までそれに気がついてくださらなかったんですもの」
言って。
本当に食事を口に運んだ後のように、秋葉はその唇を舐めた。
「―――いいわ琥珀。兄さんに、自分が厭らしい牡だっていう事を教えてあげて」
「はい、かしこまりました。……けど秋葉さま、本当にわたしが志貴さんのお世話をしていいんですね」
琥珀さんの声は感情がない。
秋葉は黙って、
「――――当然よ。私とその人は兄妹です。
たとえ遊びだとしても愛情は持てないし、第一、そんな人に触れるなんてできっこないわ。……私は、兄さんなんて好きじゃないんだから」
かすかに、俺から視線を逸らした。
「―――――――」
……どうしてか胸が痛む。
こんな事をされて俺は秋葉に怒っているハズなのに、どうして―――今の言葉は、こんなにも胸に重いのか。
「……やめよう、秋葉。償えるかどうかは分からないけど、今までの事はちゃんと謝る。だからこんなコトはよすんだ。
こんなのどう考えたって普通じゃない。秋葉はどう思っているか知らないけど、俺にとって秋葉は大切な妹なんだ。だから、こんな――――」
「妹――、ですか」
呟いた声には、落胆した響きしかない。
「そんな言葉、聞きたくないわ。
それにね兄さん。口ではなんて言おうが、兄さんの体は私の躾に悦んでいる。さっきからもっとしてほしいって、いやらしく哀願しているじゃないですか」
「え――――――」
言われて、体中が熱くなった。
秋葉の言うとおり、俺の雄器官は琥珀さんにいじられて体積を増していた。
口では拒むような事を言っているクセに、体はかってに盛っている、なんて。
「わかった? 元々これは兄さんが望んだ事なんですから、逃げることなんてできないの」
「そ……」
そんな事はない、と。
「―――琥珀、続けて」
反論しようとした瞬間、琥珀、さんの指が男根に触れた。
今では完全に充血し、怒張した肉の塊。
血管の浮き出た汗ばむソレに、琥珀さ、んの、可憐な指が絡みついて、くる。
「っ―――――くっ…………!」
その感触より、琥珀、の指を想像するだけで、頭の中が真っ白になっていく。
触れてくる琥珀の指。
柔らかな刺激を受けて、急速な勢いで生殖器は膨張していく。
「あ……志貴さん、だんだん男の人になって……こんなに元気になって、すごい」
熱のこもった琥珀、さんの声。
「……けどまだまだですよ。ほら、秋葉さまが見てらっしゃるんですから、もうちょっと大きくしないとだめじゃないですか」
直後。
絡みついていただけの指が、動いた。
ぐっ、と反りかえる肉貌に食いこんだ指が、そのまま下から上へとしごかれる。
「ッ――――、っっっっっっ…………!」
声が漏れる。
いきなりの刺激に、背中がびくりと跳ねあがった。
「ん……ほんとに元気ですね。まだ大きくなるなんて、信じられない」
本当に感心しているのか、琥珀の指は二本から三本になって、お気に入りのオモチャをいじるように、男根をしごいていく。
「あ――――、琥珀さ、や、め――――」
それはしごく、というより絞る、という行為に近かった。
よほど面白いのか、琥珀はクスクスと忍び笑いをこぼしながら、俺のモノを刺激していく。
「ほら、だめじゃないですか志貴さん。せっかく秋葉さまが見ていらっしゃるんですから、秋葉さまに聞こえるようにしてくれないと」
愉しむように、琥珀、さんの指が動く。
充血しつつある生殖器は、もう確かな硬さを持っているハズなのに―――まるで粘土をほぐすように、琥珀、さんの指が肉棒に食い込んでくる。
「あっ―――――、く――――――」
それはまるで、本当に粘土になってしまったみたい。
琥珀さんの華奢な指が、ぐねぐねと肉棒の表面から内面へと潜り込んでくる。
捻り。穿ち。絞り。伸ばす。
白魚のような細い指に翻弄される。
俺の意思とは無関係に、琥珀さんの思いのままに、生殖器が変形させられていく。
「――――――っ、あ………………!!!!」
なんていう、指の動き。
琥珀、の十本の指は淫らで繊細な機械になって、俺の分身を、支配してしまっていた―――
[#挿絵(img/琥珀 31(2).jpg)入る]
「……ん、志貴さんったらそんなに歯を食いしばって、大変そう。もうっ、そんな顔をされるともっとご奉仕してさしあげたくなるじゃないですか」
「っ――――琥珀、さん――――」
「だめですよ、わたしの名前なんか口にしちゃ。志貴さんは秋葉さまのモノなんですから、秋葉さまのお名前を呼んであげてくださいな。ね、そうですよね秋葉さま」
……壁際にいる秋葉に声をかける琥珀。
「…………………………そう、ね。兄さんは、私の……ん……もの、なんだ、から――――――」
秋葉の声は、すごく細くて、聞き取れない。
「ふふ、そういう事です。志貴さん、わかりました? これからはどんな事をされても秋葉さまを意識しないといけませんからね」
言って。
今まで優しかった琥珀さんの指が変化した。
ほんの一瞬。
片手で屹立しようとする男根を鷲掴みにすると、親指で亀頭の表を押し、上げ、た――――
「はっ、あ――――、っ…………!」
かみ殺していた声が漏れる。
琥珀、の指はまた、もとの優しい愛撫に戻って、くれた。
「あはっ。やっと声を出してくれましたね志貴さん。けど、今のそんなに気持ち良かったですか? わたしにいやらしいところをいじられて、秋葉さまが見ていらっしゃるっていうのに、それでも我慢できないぐらい気持ち良かったんですね?」
「っ―――――――」
いたずらな琥珀の声。
「ち、ちが――――」
「違いませんよ。志貴さんは秋葉さまに見られているのに、気持ちが良くて声をあげたんです。志貴さんはお兄さんなのに、妹である秋葉さまの前で我慢できなかったんです」
「――――――――――」
恥ずかしさと悔しさが入り混じって、よけいに神経が暴走したのか。屹立していた俺自身は、まとわりつく琥珀の指を振りほどくように激しく反りかえった。
「きゃっ―――!」
小さな琥珀の声。
ぶるん、と完全に勃起したペニスは琥珀の指から一時的に解放された。……というか、その指を弾き飛ばした。
「うわあ……志貴さん、すごい……」
感心したような琥珀の声。
「…………、ぁ…………」
それに隠れて、壁際から息を飲む音が、聞こえた。
「こんなに反りかえって、どくどくと脈打ってるなんて、すごくえっちです」
「な――――――」
琥珀、さんの言葉が恥ずかしくて、思わず目を背ける。
ん…………ぁ…………、は……………
――――なん、だろう。
視線を背けた先で。
なにか、かみ殺すような吐息が、聞こえたような――――
「んふ―――けどこのえっちな志貴さん、志貴さんに似てキレイですね。
まだ何のクセもなくて、お肌も張りがあって。男の方のココって大抵は醜いんですけど、志貴さんのはなんだか別のものみたい」
嬉しそうに言って、琥珀は唇をすぼめて吐息を吐きかけてきた。
ふーっ、という風が熱く火照った股間を薙いでいく。
「っ――――――」
耐えきれなくなって目を閉じた。
琥珀の声に反論することさえできない。なんて言われようと俺は手足を縛られて、秋葉の前で自分自身を勃起させてしまっている。
それは――――直視できないぐらい、恥ずかしい事に変りはない。
「ね、秋葉さまもそう思うでしょう? 志貴さんのココ、こんなに逞しくてまるで牡鹿の角みたいって」
「え………ぁ、そう……ね……そんなものが兄さんなんて……信じられない」
途切れ途切れの秋葉の声に混じって、なにか息を飲むような気配が伝わって、くる。
「秋葉さま? もしかして男の人を見るのは初めてなんですか?」
「そ……そんなの当たり前でしょう……!
わ、私はそんな……もの、見たコトなんて、一度も―――」
「そうなんですか。あ、それじゃ勘違いしないでくださいね。志貴さんのは本当にキレイなんですよ。他の男の方のものはもっとこう、ドロッとしたものですから」
「え……? そう、なの? ……その、兄さんのは、特別なの……?」
「はい、カタチもキレイだし、サイズも人より大きいと思います。けどあんまりそういうのは関係ないんですよ。ほら、見えますか秋葉さま。大事なことは、これが志貴さんだっていうコトなんです」
「うん……それが……兄、さん――――」
「いえいえ、まだ志貴さんは我慢してるんです。ですから秋葉さまのお言葉通り、これから志貴さんをいやらしい牡に変えてさしあげます」
『それじゃごめんなさい、志貴さん』
なんて、これっぽっちも謝っていない声と笑顔のまま、琥珀は俺の股間に顔をうずめた。
途端―――背中に、灼熱の稲妻が走った。
ぬらり、と。
熱く枯渇した肉棒に、ぬめったモノが滑っていく―――
「え――――え――――!?」
思わず顔をあげて、その瞬間、かろうじて残っていた理性がロストした。
膨張した遠野志貴自身を、琥珀の口が舐めている。
あ…………………………
「ん……志貴さんの、あっつい、です」
「っ………、っ…………」
琥珀、の、囁く吐息が亀頭をくすぐって、理性を削ぎ取っていく。
どくどくと膨張していく器官に血液を奪われているのか、脳に血液が循環しない。
……………………は…………………
「……む……ん、んん、あ……ん……」
琥珀の指は、屹立した俺を大事そうにくるんで、その赤い、赤い赤いネトつく舌で責めている。
「あ―――ん……志貴、さん―――」
……それは、ひどく丁寧で熱心な動きだった。
……はぁ………ん………兄さん、なんて……いや、らしい……
竿をなぞる舌の背中。
雁の裏側を突くように反りあげてくる舌の先端。
濡れ出している亀頭を接吻する小さな唇。
まるでそれ自体に味がついているかのように、ぴちゃりぴちゃりと舐めあげられていく。
琥珀の小さな舌が、丹念に、わずかな隙間さえ残さないようにと、亀頭のすべてをテロテロと舐めている。
その感覚。
指でしごかれていた時に比べれば刺激のない接触。
なのに、こんな――――舌を噛みきりたくなるぐらい、どくどくと、心臓が高鳴っている、なんて。
…………あ…………ん、んっ…………………
「志貴さん……どう、ですか? 気持ち、いい、でしょう……?」
上目遣いで見つめてくる琥珀。
その間も彼女の愛撫は止まらない。
…………ぁ、…………んっ、んぁ――――!
「気持ちいい、ですよね……? 志貴さんが悦んでくれるから、わたしも、なんだか―――」
「ぁ――――、は、く――――…………!」
生殖器の根元から這いあがってくる熱さに堪える為に、シーツを強く握り締めた。
………ん………んン、はぁ、あ―――――
細い。可憐な琥珀の指が俺自身を駆りたてる。
じゅっ、じゅっ、という、淫らなおと。
陰嚢から亀頭まで、琥珀の指は勢いよく、反りかえったシャフトを濡らした水滴を弾いていく。
「ほら志貴さん、こうすると、もっと―――!」
ズッ、と一際強くしごかれる。
「――――っ、ん――――!」
…………っ。んぁ…………!
その、どうかしそうなぐらいの快感は、自分だけのものじゃなかった。
「え――――あき、は…………?」
虚ろになった視界を動かす。
はぁはぁという荒い吐息。
それは俺だけのものではなく―――
あ……んんっ、兄、さん…………!
[#挿絵(img/秋葉 32.jpg)入る]
―――囁きぐらいに小さな、秋葉の吐息だった。
「なっ…………」
……意識が朦朧としていて、よく意味がわからない。
見えるのは秋葉の痴態だけだ。
恥知らずにも椅子の上に立てられた白い足。まるで男性自身を受け入れる時のように開かれた股。
「はっ……ぁ……にいさん、なんて―――」
ぴちゃり、ぴちゃりという音が聞こえてくる。
あられもなく露になった白い下着は濡れそぼって、ぴったりと肌に吸いついていた。
「あぁ、んっ……汚らしい……にいさん、あんな……かお、して、んっ―――!」
下着の上から、ぷっくりと膨れ上がった陰部をなぞる指。
秋葉の細く長い、芸術品のような中指が、自らの秘裂を割るように、こすりあげている。
「あ―――はぁ、ぁ――――――あ………!!」
荒い吐息のまま、何も見えていないように秋葉は指を動かす。
下着からこぼれてくる蜜が椅子を汚していくなか、自らを慰める秋葉の指は一本から二本に増えていた。
「あっ……、んっ………! はっ、だめ―――兄さん、もっと、つよ、く――――!」
びくびくと小刻みに震える体。
下着も、椅子も、指も性器から分泌される蜜でトロトロに汚して、なお秋葉の自慰は過熱していく。
「あっ、はっ……ぁ、にい、さん―――志貴兄さん、が――わかって、くれない、から―――!」
何か熱いモノを吐き出すように、秋葉は呼吸を繰り返す。
再現なく激しくなっていく秋葉の熱は、不思議と―――俺の呼吸と、一致しているような、気がする。
「あ――――あき、は――――」
「ふぁ、はあ………は、こんなに好き、なのに―――どうし、て……………!」
秋葉の顔が苦痛に歪む。
……声を押し殺そうと小指を口に噛んで、理性を取り戻そうとしている、みたい―――
「もう、だめですよ志貴さん。余所見なんかしちゃう子にはおしおきです」
―――琥珀の声。
同時に生殖器から流れてくる刃物のような感覚。
「っ―――、あ、はっ………!」
それがどんな愛撫によるものかなんて、もうわからない。
体は琥珀に。心は秋葉に囚われていて、自分がどこにいるかさえ探し出せない。
「っ―――は、くっ…………!」
どくん、という感覚に腰があがる。
……知らないうちに、もう何度か果てているのか。
貯まりに貯まった塊はとっくに放出されている。
なのに肉欲は勃起したままで、今も琥珀に弄ばれている。
―――いや、それは違うのか。
「んっ―――兄さん、もっと声をあげて―――わたしに、聞こえるぐらいに、し、き――――!」
壊れてしまいそうなほど乱れていく秋葉。
その姿が、この脳髄を汚染している。
「あっ―――ふぁ、あ、あ―――兄さん……兄さん、兄さん兄さん兄さん……!! こんなに、こんなに好きなのに、兄さん―――!」
一途に俺を呼ぶ秋葉の声。
羞恥しながら止める事もできず、子供のように俺を求めている秋葉の指先。
はぁ、と。
触れれば火傷をしてしまいそうなぐらい熱そうな秋葉の吐息。
「っ……あ……あき、は……そん、なに―――」
「……は、はぁ―――ア……く、んン……!!」
反り返る秋葉の背中。
……秋葉には俺が見えていないし、俺の声も聞こえていない。
いや、それを言うのなら。
本当は俺にだって、秋葉の姿も声も、届いてはいないんだろう。
「俺は―――秋葉、おまえ、を――――」
「にい、さん―――もっと、みだれ、て―――」
理性がドロドロになる。
愛撫されてなおそそり立つペニスは、誰に愛されているのかさえ不明だった。
おそらくは琥珀の口。だが事実は秋葉の声だけが確か。
「あきは―――オレだって、おまえ、を―――」
「んあ……! あ、んぁ、兄、さん――――!」
……声が聞こえる。
秋葉もとうに限界に上り詰めていたみたいだ。
はぁはぁと乱れた呼吸を合わせる。
それだけで、秋葉と愛し合っているような気がして、気が触れた。
あらゆる禁忌とか常識とか、さっきまで羞恥で死にたがっていた自分なんか、どうでもよくなってくる。
「っ――――――あ、あき、は――――」
「はい――――きて、きてください、兄さん…………!!」
壊れた鼓動。
撥ねて、もう限界を突破していたペニスから最後の悲鳴が迸る。
「んっ―――志貴、わたしの、志貴………!!」
どくん、という衝撃に合わせて、そんな声が聞こえた。
「あ―――――きは」
がくん、と力尽きる体。
どぷどぷと。
ゼラチンじみた白濁液が生殖器とベッドを汚していく。
………………………………。
秋葉の声は、もう聞こえない。
「は――――あ、あ――――――」
それで、激しく活動していた心臓が、どくん、と沈静化した。
静まっていく。
何もかも、今まで耐えきっていたもの、秋葉の兄という自分自身も、ぐらぐらに崩れて、そのまま消え去っていくようだった――――
[#改ページ]
●『6/直死の眼T』
● 6days/October 26(Tue.)
………、………………、………………………。
「―――あ――さ」
ぼんやりとしていた意識が目を覚ます。
窓からは太陽の陽射しが差し込んできていて、部屋は暖かな雰囲気に包まれている。
「――――――――」
じっと、自分の両手を見る。
両手にはかすかな発汗。体中に汗をかいていて、なんだか熱帯夜の中にいたみたいだ。
くわえて、呼吸はなんだかぜいぜいと乱れている。
「あ―――――――」
もぞもぞと両手を動かす。
「……ちゃんと、動く……」
手首には縄で縛られた跡もない。
ベッドは汚れてなんかいないし、秋葉が座っていた椅子も、琥珀さんの姿もない。
「あ――――――れ?」
秋葉と、琥珀さん……?
「あ――――秋葉っ!」
ベッドから跳ね起きる。
慌てて部屋を見渡す。
そこには――
「………誰も、いない………」
そう、誰もいない。
ベッドは乱れた様子もないし、あんな―――冷たい秋葉がいるわけでもない。
「夢――――か」
そうとわかった途端、ほう、と安堵の息がもれた。呼吸を平静に整えて、目を閉じる。
ここは自分の部屋。
時間は朝の七時前。
部屋にいるのは自分だけだし、秋葉と琥珀さんの姿なんか当然のようにない。
「は…………ぁ」
そう、わかっている。
夢だってわかっている。冷静になってみれば、そもそも秋葉があんなコトをしにくるはずがないんだ。
その時点で、昨日の出来事は破綻している。
「は――――あ」
ほう、と胸の中にたまった空気を吐き出した。
……それでもたしかに、脳裏には昨夜の光景が残っている。
夢だってわかってるのに―――感覚がリアルすぎて、なんだか現実のように思えてしまう。
……それでも、今のは間違いなく夢なんだ。
それが、かろうじて救いといえば救いといえる。
「―――なんで―――」
あんな夢を見たんだろう。
……そりゃあ確かに秋葉は厳しいし、遠野家の当主だからここで一番偉い人間だ。
けど秋葉があんな真似をしてくる筈がない。
俺にとって秋葉はたしかに大切な妹だけど、あんな夢をみるぐらい、その――秋葉を女として見ているんだろうか、俺は。
「――――――う」
思い出して、氷のようだった秋葉の視線を思い出す。
これが現実なんだ、と確かめるために自分の腕を抱く。
「くそ―――なに考えてるんだ、俺は!」
実の妹に欲情するなんて、本当にどうかしてる。
……そりゃあ八年ぶりに会った秋葉はまるっきり別人で、妹っていうよりは見知らぬお嬢様みたいな印象のが強いけど――
「……けど……かわい、かったよな」
―――思い出すと赤面してしまう。
あれこそ夢の中で見た夢だったかもしれないけど、一心不乱に俺の名前を呼んで自分を慰めていた秋葉。
本当はこんな事はいけないんだろうけど、俺はむにゃむにゃと夢の内容を思い出して呆、としてしまった。
そこへ。
「志貴さま」
「うわあああああ!」
ばたばた、と逃げるようにベッドから転がり落ちた。
いや、実際逃げようとしたんだけど、結果的にはシーツごと床に転げ落ちただけだった。
「ひ、ひひ、翡翠……っ!? い、いったいいつからそこに!?」
「志貴さまがお目覚めになられる前からですが」
いつも通りの無表情さで翡翠は即答する。
床の上、シーツにくるまったまま、立ちあがる事もできずに翡翠の顔を見上げる。
「……俺が起きる前、から……」
―――ということは、もしかして。
俺は、あんな夢を見ている時の寝顔を、翡翠に見られてたっていうんだろうか――
ぼっ、と自分でも自分の顔が真っ赤になったのがわかった。
翡翠は相変わらず無表情で、自分からは何も話しかけてこようとしない。
「その……俺、なんかヘンだった……?」
「それは、わたしの口からご説明するのははばかられます」
「あ―――う」
……やっぱり、なんかすごい寝姿をしていたみたいだ。
「それでも、志貴さまがどうしてもとおっしゃられるのなら、出来るだけ緻密にご説明いたしますが?」
「……いい。説明しなくていいです、はい……」
顔を赤くして、消え入りそうな声で答えた。
「あの、翡翠さん?」
コホン、と咳払いをして場を切り返す、
……『さん』がついているのは、動物が自分のおなかを見せるのと同意語だ。
「なんでしょうか、志貴さま」
「その、着替えるから外に出てもらえない?」
―――というか、とにかく気恥ずかしいので外に出てもらいたい。
っていうのに、今日にかぎって翡翠はこっちの言い分を聞いてくれない。
「志貴さまが起き上がられるのを見届けましたら退室させていただきますが」
「……!」
じょっ、じょじょじょ冗談じゃない!
なんだって俺がベッドから転げ落ちてもシーツなんかで体を包んでると思ってるんだ!
それもこれも、まだいきり立っている股間のモノを隠してるからじゃないか!
「い、いいから外に出て。ちゃんと一人で起きれるし、二度寝したりはしないから。翡翠が外に出たらすぐに着替えて居間に行くよ」
「志貴さま―――お体を打たれてお立ちになれないのですか……?」
翡翠は心配そうに近寄ってくる。
「いや、そんなコトはない。十分に立ってる、じゃなくて立てるから、気にしないでいい」
ずりずり、とナメクジみたいにシーツを引きずって、四つんばいの資性で翡翠から離れていく。
ベッドをバリゲードにして、翡翠と十分に距離をとった。
「……では、失礼します。食堂で朝食の準備をいたしますので、着替えてからおいでください」
かなり疑問に思っただろうが、翡翠は一礼して部屋から出ていく。
「――――はあ」
ああ、びっくりした。
夢の内容にも驚きだったけど、翡翠に寝顔をその時の見られていたっていうのも心臓に悪い。
……これというのも、秋葉に対してあんな夢を見た自分がいけないのか。
「……自業自得だ。妹相手になんて夢を見てるんだよ、俺は」
はあ、と自己嫌悪のため息をつく。
自分のためと秋葉の名誉のため、今夜の夢は早々に忘れないといけないだろう。
気持ちを十分に落ち着かせて居間に移動する。
居間では、やっぱりすでに秋葉がソファーに座って紅茶を優雅にすすっていた。
「あら、おはよう兄さん。今朝は早いんですね」
そんなにこっちが早起きしたことが嬉しいのか、秋葉は笑顔で声をかけてくる。
「ああ、おはよう。今朝は、まあ色々とあってさ」
言って―――昨夜の冷たい視線を思い出してしまった。
「うっ―――」
まずい。自分でもどうしようもないぐらい、顔が赤くなっていくのがわかる。
……秋葉の前で痴態をさらしてしまった自分。
それをずっと見つめていた秋葉の姿。
「兄さん―――?」
がた、という物音。
「どうしたの? 顔が赤いけど、熱でもあるんですか?」
「―――――!」
すぐ間近にやってきて、秋葉は下から俺の顔を覗きこむ。
だから、そう真剣に見つめられると、俺は――
「―――はあ、本当に熱があるみたいですね。
琥珀、ちょっと来て。兄さん、体の具合がよくないみたいなの」
秋葉は食堂に向かって声をあげる。
厨房では琥珀さんが俺の朝食を作っている最中なんだろう。
「いい―――! た、ただの風邪だから、そんなに気にしなくていい!」
「風邪ならなおさら放っておけませんっ。些細な病気でも兄さんには大事でしょう。免疫や抵抗力が人より低いんですから」
秋葉は呆れながら、スッ、と自分の手を俺のひたいに当てた。
ひやりと冷たい、華奢な手の平の感触。
白くて、細い指。
男の指なんかじゃとうてい及ばない、繊細で、キレイな、白い指―――――
「っっっっっっっっ!」
まずい。
まずいので、秋葉の手を払って、ロビーへと走り出した。
どたたたたたたたた。
「志貴さま? 朝食はもうお済みになられたのですか?」
「いや、そうじゃないけど―――ええっと、俺の鞄は?」
「こちらですが、もう登校されるのですか?」
こくん、と頷いて翡翠の手から鞄を奪い取る。
「それじゃ行ってくる。見送りはいいから!」
「兄さん、さっきからヘンです。熱があるっていうのに何をしてるんですかっ」
「ああもう、なんでもないんだって! なんでもないんだから、俺はこのまま学校に行く! 朝飯はかってになんとかするからほっといてくれ!」
「ほっとけって―――ちょっと、兄さん!?」
どたたたたたたたた。
「はあ―――――」
いくら秋葉でも、ここまできてしまえば追いかけてくるなんてコトはありえまい。
子供じゃないんだから、登校するといった人間を捕まえにくることなんてしないはずだ。
「――――ふう」
大きく息をはいて、ようやく落ち着いた。
「………って、なんで逃げてるんだ、俺」
落ち着いたら冷静になった。
別段悪いことなんかしてないんだから、逃げるように出てくる必要なんて、なかった。
「―――信じられない。まるっきりバカみたいじゃないか、これじゃ」
かといって、いまさら屋敷に戻って朝ごはんをいただくというのは、もっと間が抜けていると思う。
「―――学校に行くか」
はあ、とため息をついて、住宅街に続く坂道を下り始めた。
◇◇◇
―――いつもより三十分は早く到着した。
正門に生徒の姿はまばらで、こんな半端な時間に登校するのは俺だけらしい
グランドでは運動系の部活が朝練をしている。
……今はどこの部活にも入っていないけれど、実際、体を動かすことは好きな部類に入ると思う。
運動神経もそれなりに、ちょっとは誇れるぐらいにはあると自負もしている。
けれど部活に入ることはできなかった。
俺の体は慢性的な貧血持ちだから、ここぞという時にまわりに迷惑をかけてしまうし―――頻繁に運動はしてはいけない、と医者からも堅く念をおされていた。
中学のころから部活に入らないか、と誘われたのは一回や二回じゃない。
それを『ガラじゃないですから』と、何度断ったか数えきれない。
断るたびに、なにか―――言いようのない隔たりを感じる事があった。
あれは結局。
どうやったってあっち側の仲間には混ざれないのだという、無意識下の壁だったのかもしれない。
「……………」
ああ、やめやめ。こんなの、それこそガラじゃない。つまらない感傷を切り上げて、さっさと教室に向かう事にした。
「ありゃ―――」
一番乗りだと思っていたのに、教室にはすでに何人かのクラスメイトがやってきていた。
「よっ、早いな遠野」
「おはよう。わりと暇人が多かったんだ、このクラス」
「わけないだろ。俺たちは朝練が終わったばっかりだよ。部活もやってないのにこんな時間にくるのは日直だけだろ、普通」
なるほど、言われてみればその通りだ。
教室にいる連中に軽く挨拶をして、自分の席に座る。
ホームルームまであと三十分。
こうして教室に少しずつクラスメイトが集まっていくのを眺めるのも、そう悪くはない趣向だろう。
教室がざわざわとした喧騒に包まれだした午前七時五十分。
「―――あれ?」
廊下に、先輩の姿がちらりと見えた気がした。
「また一年の廊下にやってきて―――何してるんだ、あの人は」
もしかして俺に用があるんだろうか。
それなら――いや、自分には関係ないかもしれないので教室で様子をみてみる。
廊下で誰かを探しているのか、先輩はうろうろと歩きまわっている。
……冷静に観察してみると、どうもうちの教室に用があってきたわけじゃなさそうだ。
「……相変わらずわかんない人だな。なにしてんだろ、あんなとこで」
椅子に座って先輩の行動を観察してみる。
先輩は廊下を歩いていく生徒たちをじーっと、見つめたり、腕を組んで物思いにふけったりしている。
「落とし物でもしたのかな、先輩」
……三年生である先輩が二年の廊下で落とし物をする、というのもヘンな話ではあるけど、校内を自由に闊歩しているあの人ならありえない話でもないだろう。
――――あれ?
なんか、先輩がうちの教室に入ってきた。
先輩はズンズンとこっちに向かって歩いてくる。
「遠野くん!」
「!」
と、いきなり怒鳴られた。
「な、なんですか先輩。俺、先輩に目をつけられる悪さなんかしてないですけど」
「いいわけ無用ですっ。いいから、ちょっと来てくださいっ」
ぐい、と腕を引っ張られて、強引に廊下に連れ出されてしまった。
「ちょっ、ちょっと先輩、いきなりなんなんだよ。何か捜し物があったんじゃないの!?」
「いいですから、そこでじっとしていてくださいっ!」
「……っ」
先輩の勢いにつられて、びしっと姿勢をただす。 と、先輩は昨日と同じようにくんくん、とこちらの匂いをかいだりする。
「……あの、先輩……?」
「遠野くん、昨日はよく眠れました?」
「え?」
先輩はまっすぐな目をして、そんなことを聞いてくる。
……よく眠れたかなんて、そんな事言うまでもない。昨夜は寝つけなかったし、なにより―――
「うっ……」
鮮明に昨夜の記憶が思い出されて、顔が赤くなっていくのがわかる。
そんな俺を、先輩は上目遣いでじーーっと見つめる。
「先輩、その―――」
「遠野くんのえっち」
「はい?」
何か文句がありそうな眼差しをして、先輩はとことこと俺の前から去っていってしまった。
◇◇◇
昼休みになったとたん、今まで授業に一時間も出てなかった男がやってきた。
「よう! メシ食おうぜ、メシ!」
何が嬉しいのか、有彦はとにかく威勢がいい。
「そりゃあメシは当然のように食べるけど、えらく機嫌がいいじゃないか。なにかあったのか、有彦」
「おう。ついさっきそこで先輩に昼メシいっしょにどうっすかって声をかけたらさ、断られたんだ」
「………………」
不思議だ。
先輩っていうとシエル先輩のことだろうけど、誘いを断られると嬉しいらしい、この友人は。
「あのさ。有彦、そういう趣味だったっけ」
「いやいや、話は最後まで聞けって。でな、先輩にどうしてダメなんだよう、って聞いたら『遠野くんが一緒だと、イヤです』だってさ! うわははははははははは! 愉快だろう、遠野!」
「………………」
不思議だ。
どうして、俺はこうゆう友達甲斐のない男と、中学時代から友人だったりするんだろう?
「いやあ、嫌われたもんだな遠野! ライバルが減って嬉しいので、今日の昼メシはオレがおごってやろう!」
ばんばん、とオレの背中を楽しそうに叩く有彦。
「……そっか。先輩、まだ朝のこと怒ってるのか」
どうして怒られるのかまったく覚えはないのだけど、たしかに先輩は怒っていたように見えた。
「ほら、行くぞ遠野。食堂の席は利用客の半分しかないんだからな」
ずるずる、と有彦は人の腕を強引に引きずっていく。
有彦と席を並べて昼食をとる。
うちの学校の食堂にはテレビが置かれていて、その日の朝のニュースをビデオで流す、という教育にいいんだか悪いんだか紙一重のことをやっている。
とりあえず、いま流れているニュースはコンビニエンスストアで酔っ払い客が店員を刺殺した、という、とりあえずむこう三日間ぐらいはコンビニに行きたくなくなるような内容だった。
「ぶっそうな世の中だねえ。無差別に人を殺してる通り魔はいるわ、酔っ払いは人を刺すわ。こんなんじゃ安心して夜遊びもできねえってもんだよな、ほんと」
有彦は、わりと真剣にニュースを見ているようだった。
「……まあ、たしかに物騒だけど。とりあえず通り魔事件はもう起きないんだから、いつも通りっていうことじゃないのか」
「そなの? 通り魔って捕まったんだ?」
「いや、捕まってはいないだろうけど」
―――とりあえず、もうこの世にはいないのだ。
だから現代の吸血鬼なんていう俗な見出しがテレビに映ることもないし、もう、意味もなく殺される『誰か』がでることもない。
「ともかく、もうあんなふざけた事件は起きないし、犠牲者もでないってこと。この街もようやく元に戻ったんだよ」
「いや―――犠牲者は出ると思うぜ、遠野」
「―――む。なんで断言できるんだよ、有彦」
「だって、ほら。今朝で十人目の死体が発見されたって、いまニュースで流れてるもん」
―――――え?
「うわっ、マジかよ……。いつも行ってる映画館の裏じゃんか、あそこ」
「ちょっ――――ちょっと、待て」
有彦を押しのけてテレビを見る。
そこには、たしかに。
昨夜、通り魔殺人による十人目の犠牲者が出た、というニュースがたれ流されていた。
「そんな―――ばかな」
あいつは。ネロは、たしかに死んだ。
なのにどうして―――体内の血液が大量に搾取されている死体、なんてものが出てくるっていうんだ。
「現代の吸血鬼ねえ。どんなもんか知らないけど、相手が美人のお姉さんだっていうんなら吸われてやってもいいかもな、うむ」
「―――――」
美人のお姉さんなら、吸われてやってもいい。
有彦のくだらない戯言は、たしかに―――まあ、的を射ているのかもしれない。
「―――まさか」
考えたくはないけれど。
ネロがいなくなっても、吸血鬼は、まだ一人残っているじゃないか、志貴――――。
◇◇◇
授業が終わって、放課後になった。
いや、いつのまにか放課後になっていた、というのが正しいだろう。
悪い考えばかりが頭の中をかけまわって、気がつけばまわりには誰もいなくなっていたんだから。
「―――通り魔殺人は、まだ続いている」
それがどういう意味なのか、解らない。
答えを知っているのは、きっとアルクェイド本人だけだ。
わからない。
もう、あんな事件は遠野志貴とは無関係だ。
俺はネロと決着をつけた時点でこっち側に戻ってきた。
なら―――自分から好き好んで、あんな異常な世界に足を踏み入れるなんて気が狂っているとしか思えない。
「もう――――関わるべきじゃない」
そんな事、口に出すまでもなく理解している。
たぶんそれが最後から二番目ぐらいに正しい選択だ。
けれど、遠野志貴は一番目の選択を、ずっとむかしに教えられている。
―――志貴、どんな人間だって人生っていうのは落とし穴だらけなのよ。
君は人よりそれをなんとかできる力があるんだから、もっとシャンとしなくちゃね―――
「――――」
だから、見て見ぬふりだけは出来ない。
事件はまだ終わっていない。
一度関わってしまった以上、遠野志貴は最後までこの厄介ごとに付き合わなくちゃいけないらしい――
学校を出た。
とりあえず、アルクェイドのマンションに行ってみよう。
マンションの部屋はそのままだったけれど、アルクェイドの姿はなかった。
……まあ、簡単にあいつが掴まるとは思っていない。街に出て、手当たりしだいに捜すしかないだろう。
◇◇◇
日が沈んで、街はそろそろ本格的に夜を迎えようとしている。
街の主だったところを探し回ってはみたものの、アルクェイドの姿は片鱗さえ見つからなかった。
「―――くそ。どうでもいい時はひょこひょこ歩いてたくせに、どうしてこういう時に見つからないんだ、あいつは」
……どうするか。
夜はまだ始まったばかりだし、ここは――一度屋敷に戻る。
屋敷の門は静まり返っている。
時刻は夜の七時。
そろそろ秋葉も帰ってきて、居間で紅茶でも飲んでいる頃だろう。
「…………はぁ」
のんびり夕食なんて食べている気分じゃないけど、また屋敷に帰らずにいたら秋葉たちを心配させてしまう。
アルクェイドを捜すのは夕食が終わって、秋葉たちが寝静まった後にしよう。
―――秋葉との夕食が終わって、部屋に戻ってきた。
食後に琥珀さんたちと居間でお茶も飲んでいたが、あいにくと何をしていたのかは記憶にない。
「―――どこにいってるんだろう、アイツは」
頭の中にあるのは金髪の吸血鬼のことだけだったからだ。
◇◇◇
十時になって、屋敷の電気が落ちた。
就寝時間になってみんなが部屋に引きこんだあと、見付からないように屋敷を抜け出した。
「……いるとしたら街、か」
……考えたくないが、吸血鬼事件の犠牲者はたいてい路地裏で発見される。
アルクェイドを―――まだ続いている吸血鬼殺人の犯人を捜すのなら、街を中心に探しまわるしかないだろう。
「――――――はあ」
どさり、とガードレールに腰を下ろす。
あれから数時間。
あてもなく探しまわってみたはいいが、アルクェイドの姿は影も形も見当たらない。
「…………くそ」
すごく、悔しい。
そりゃあ街の中でなんのアテもなく人を見つけ出すのがどれだけ困難かわかってはいたけど、アイツにかぎってはあっさりと見付かるって、心のどこかで楽観していた。
「どこいったんだよ、アイツ……」
……どうしてだろう。
別にアイツには吸血鬼殺人の話を聞くだけなのに、会えないとわかると、ひどく―――
「ああ、やめやめ。こんなのはもう止めだ」
ガードレールから立ちあがって歩き出す。
いいかげん時刻も午前零時になろうとしている。これ以上はアルクェイドを捜す、なんていう無駄な事はやっていられない。
「……………」
でもまあ、ここまできたらもう少しだけ。
最後にもう一箇所だけ様子を見てみて、それで見付からなかったら屋敷に帰ろう。
……人気のない公園。
あの夜、アルクェイドに協力して、ネロという吸血鬼を倒した場所にやってきた。
街を捜してばかりいたから、今夜はここには立ち寄っていない。
「……まあ、見付かりっこないんだけど……」
ぼやいて、公園の中へ足を踏み入れる。
夜の十二時。
さすがにこの時間になると、公園に人気はない。ここまで誰もいないと、逆にさっぱりとするぐらいだ。
「……そうだよな。そう都合よく見付かるはずなんてなかった」
はあ、と両肩を落とす。
「………バカだな。なにがっかりしてるんだろ、俺」
自分でもわからない。
ただ、もう一度ぐらい―――アイツの笑顔とか、見ておきたかったのかも、しれない。
「あ、いたいた。こんばんは、志貴」
……そう、こんなふうに、吸血鬼なんて信じられないぐらいの気軽さで話しかけてくるアイツの顔を―――
「ア、 アルクェイド―――!?」
思わず。そのまま、アルクェイドの両肩を掴まえていた。
「えっ―――」
びくっ、と驚くアルクェイド。
掴まえたアルクェイドの肩は確かに現実で、あわてて両手を離す。
「お、おまえ、なんで――――」
ずっと捜していた相手が目の前にいるっていうのに、混乱した俺の頭はそんな事しか喋らせてくれない。
「なんでって、おかしいかな。志貴のことを捜してたんだから、こうして会うのは偶然じゃないと思うけど」
「え―――俺を捜してたって、なんで?」
「なんでって―――別に理由なんてないけど」
きっぱりと、理由のない事を堂々と言いきるアルクェイド。
「……………」
……忘れてた。コイツは、そういう猫みたいなヤツだったんだっけ。
「……まあ、ちょうど良かった。実をいうとさ、俺もアルクェイドに会いたかったんだ。ここで会えて、その――――」
本当に嬉しい、なんて言いそうになって、慌てて言葉を飲む。
「―――ともかくだ、真剣に話たいことがある。ここじゃ落ち着かないから場所を変えたいんだけど、いいか?」
「いいけど―――話ってなによ」
「すぐにわかる。……もう少し奥のほうに移動しよう」
行くよ、と声をかけて歩き始める。
アルクェイドは首をかしげながら、大人しくこちらの後についてくる。
「それで話ってなんなの、志貴?」
「吸血鬼のこと。おまえ、前に言ったよな。巷を騒がしている通り魔殺人は吸血鬼の仕業だって」
ええ、とアルクェイドは頷く。
「それじゃあ、今朝のニュースでまた新しい犠牲者が出たっていうのは知ってるか? 昨日の夜に通り魔に殺されて、血を抜かれたらしいんだけど」
「―――――」
……アルクェイドの瞳が細まる。
なにか。
背筋が凍えるような、緊迫感。
「ふぅん、それで?」
「それでって―――おまえ」
ごくり、と唾を飲みこむ。
アルクェイドの視線は、まっすぐに俺を捉えている。
まるで―――こっちが少しでも動けば、即座に襲いかかってきそうな、そんな視線。
「お―――おかしいじゃないか、アルクェイド。
ネロは死んだはずだろ。なのに、どうしてまだ吸血鬼騒ぎがおこっているんだ。まさかとは思うけど、あれは、おまえが―――」
「そんなワケないでしょ。それはわたしじゃなくて、他の吸血種の仕業よ」
あっさりと緊張を解いて、呆れたようにアルクェイドは即答した。
けれどこっちは納得がいかない。
「なんだよそれ。他の吸血種の仕業って、そう次から次へと吸血鬼が出てくるっていうのか」
「まさか。あの連続殺人事件っていうのは初めから一人の吸血種の仕業だもの。新しい吸血種なんてのはやってこないし、ネロだってあの事件にはまったく関係がないわ」
――――え?
ネロだって、関係ない……?
「な―――それ、どういう意味だよ」
「言ったとおりの意味だけど。……もう、志貴ってキレるようでいてどこか抜けてるのね。いい? たしかにネロは吸血種だったけど、あいつは人の血を吸っていた?」
「吸っていたかって、あいつは人間をバリバリと頭から食ってただろ―――って、あ」
そう、か。
なんでそんな単純な間違いに気がつかなかったっていうんだろう。
通り魔殺人の被害者たちは、血を抜かれた遺体として発見されている。
けれどネロは違う。
あいつは一切死体を残さない。血を吸うどころか肉さえ食らって、その痕跡を無くしてしまう。
現に、ホテルでアイツに食われてしまった人たちは殺人事件としてではなく、行方不明者として扱われていた。
なら―――それは、明らかに巷で起こっている事件とは違うものだ。
「まってくれ。それじゃあ今起きている殺人事件はなんなんだ。いったいどこの誰があんな真似をしているっていうんだよ」
「だから、あの事件はネロと別の吸血種の仕業なのよ。正確にいうとソイツがいるからわたしがこの街にやってきて、ネロはわたしを追いかけてこの街にやってきた、っていう相関図かな」
「―――な。そ、それじゃあおまえが追っている敵っていうのはネロじゃなかったのか!?」
「ええ。わたし、初めから自分の標的がネロだなんて言わなかったでしょ?
ネロにとっての標的はわたしだったけど、わたしにとっての標的はネロじゃなくて、この街で通り魔って言われている吸血鬼だけよ。
……志貴。まさかとは思うけど、もしかしてすごく単純な勘違いしてたとか?」
「な―――――」
愕然と息を飲む。
けど―――たしかにアルクェイドの言うとおりだ。
アルクェイドの目的が吸血鬼殺しだというから、俺は完全に早とちりして、こいつはネロを倒すためにいるんだってばかり思ってた―――
「……それじゃあ何か? あの夜ネロと殺しあったのは、実はまったく無意味なことだったっていうのか………!?」
「無意味じゃないわ。志貴はわたしの代わりに戦ってくれたんじゃない。ま、もっとも志貴さえわたしを殺さなかったら、あんな事にはならなかったでしょうけどね」
「――――――」
くらり、と目眩がする。
「……つまり、ネロは吸血鬼殺人にはまったく関係なくて、ここ一ヶ月街を騒がしているのは別の吸血鬼の仕業ってこと……?」
「うん、そうゆうこと。でも、これはわたしが済ませる問題だから志貴は気にしないでいいよ。そんなコトより、ねえ」
やけに楽しそうな笑顔をうかべて、アルクェイドは呆然としている俺を見上げてくる。
「昨夜はどうだった? 誰が出てきた?」
―――そんなコト、死んでも言えない。
「アルクェイドには関係ないだろ。いいからほっといてくれ」
アルクェイドから目を逸らして、つっぱねる。
だっていうのに、ねーねー、とアルクェイドはしつこく聞いてくる。
「ね、教えてよ。志貴がどんな夢を見たかぐらい、教えてくれてもいいじゃない」
アルクェイドは興味本位の子供みたいに問いただしてくる。
いくら視線をそらしてもすぐに視線の先に回りこんできて、ねーねーと声をあげる。
「……頼むから、かんべんしてくれ。あの夢はどうかしてたんだ。……いまだって、あんな―――」
あんな夢を見た理由がわからない。
アルクェイドは俺の願望だっていうけど、アレが自分の願望だなんて思いたくない。
「あ、それとももしかして悪夢になっちゃったとか。あの子、相手のことを気にいると勝手に脚色しちゃうのよね。まだ半人前だから仕方ないかもしれないけど」
ぶつぶつとアルクェイドは呟く。
「……? かってに脚色するって、どういうこと」
「対象の願望を自己流に解釈するのよ。志貴に送った夢魔はまだ子供だから、いたずら好きなんでしょうね」
「――――そう、か」
……安心した。
そうだよな、いくらなんでもあんな夢―――自分から見るはずがないんだから。
ホッと胸を撫で下ろす。
これで俺の潔白はそれなりに証明されたわけだけど――
「アルクェイド。おまえ、どうしてそんな物騒なヤツを送りつけたんだ。嫌がらせにしてもホドがあるぞ、アレ」
「むっ。嫌がらせなんかしないわ。
志貴に夢魔を送ったのは、ネロを倒してくれたお礼じゃない。貴方には感謝してるから、喜んでくれたらいいなって思ったのに!」
「お礼って―――いや、感謝してもらえるのは嬉しいけど、その」
いくらなんでも、ああいうお礼はお断りしたい。
「なによ。人の好意を受け取れないっていうの、志貴は」
「……あのね。人じゃなくて吸血鬼だろ、アルクェイドは」
「……それは……そうだけど」
しゅん、とアルクェイドは肩をすくめる。
……なんていうか、アルクェイドの感情表現はストレートだ。
喜んだり怒ったり反省したり、ともかくくるくると表情が変わって―――その、すごく魅力的だと思う。
……口では吸血鬼だろ、なんて言っておきながら。
俺自身、そんな事実を忘れてしまうぐらい、アルクェイドは人間らしい。
「……だいたいな。夢魔だかなんだかしらないけど、なんだってそんな事しやがったんだ。もしかして、まだ俺に殺されたことを恨んでるってわけか?」
「そんなわけないでしょ。夢魔を送ったのはネロを倒してくれたお礼よ。志貴には感謝してるから、喜んでくれたらいいなって」
「お礼って―――あんなお礼はお断りだよ。悪趣味な真似をして、いったい何考えてんだ、吸血鬼っていう連中は」
呆れて肩をすくめる。
と、アルクェイドはなにが不満なのか、ますます不機嫌そうにこっちを睨みつけた。
「なによ、志貴のいじわる。どうせわたしは人間じゃないですよーだ」
ぷん、とそっぽを向くと、スタスタと歩き始める。
「おい、ちょっと待て。どこ行く気だよ」
「志貴には関係ないわ。ついてこないで」
本当にご立腹なのか、アルクェイドは振り返りもせずに歩いていってしまった。
「…………」
あいつ、どこに行くつもりなんだろう。
「…………」
ちょっと、今のは言いすぎたかな。
結果や手段はどうあれ、アルクェイドは善意でお礼をしてきたんだから、その気持ちはちゃんと喜んで受け取るべきなんじゃないかな、なんて今更ながら罪悪感がわいてくる。
「―――――」
くそ、なんでこんなに放っておけないんだろう、あのアルクェイドっていうヤツは……!
「ああもう―――ちょっと待てって言ってるだろ!」
アルクェイドは夜の街を歩いていく。
ただ前だけを見て、金の髪をなびかせる白い影。
その姿は、初めて彼女を見た時のイメージとひどく一致している。
いや、それとも。
夜の公園で、ネロと対峙していた時のアルクェイドそのものかもしれない。
……なにか、厭な予感がする。
「おい、アルクェイド」
「――――――」
アルクェイドは振り向きもしないで歩いていく。
「話を聞けって。なにをしているかぐらい教えてくれてもいいだろう」
「――――――」
アルクェイドはやっぱり振り向かずに歩いていく。
……ここで引き下がるのも情けない。
情けないけど、とりあえず無言で後を付いていくことにした。
カツカツカツカツ、と足音を響かせて無言の散歩が続く。
―――と。
ピタリ、と立ち止まってアルクェイドは振り向いた。
「ついてこないで。後ろに貴方みたいな普通の人にいられると迷惑だって、わからない?」
「―――だから、なにをしてるのか教えてくれたら帰るって」
「……志貴には関係ないから、ほっといて」
ぷい、とアルクェイドは前を向いて歩き始める。
……まいったな。
また無言の徘徊が始まるみたいだ。
大通りにさしかかった時、アルクェイドはぴたりと足を止めた。
「―――見つけた」
「え………?」
アルクェイドの声が、別人のように冷たい。
「――――あ」
……背筋が震える。
背中ごしにも、今のアルクェイドがどれくらいの敵意を帯びているのかが、はっきりと感じ取れる。
「アルクェイド―――おまえ、なにを――」
するつもりだ、とは言えない。
だって彼女が何をしようとしているのか、言葉にするまでもなく解りきっている。
アルクェイドの体から放たれているのは紛れもない、一点の濁りもない『殺意』に他ならないんだから。
「おい―――なに考えてるんだ、おまえ……!」
「――――」
アルクェイドは答えない。
その視線の先には、なんでもない、背広姿の男性が歩いているだけだった。
「志貴。メガネを外してあの人間を見てみなさい」
「あの人間って―――あのサラリーマンのこと?」
「早く。わたしが何をしているか知りたいのなら、質問はあとよ」
「――――わかった。あんまり街中で視たくはないんだけど―――」
メガネを外す。
「………く」
こめかみには軽い頭痛。
その痛みと引き換えに、うっすらと、地面や壁に『線』が視える。
「聞いておくけど。志貴、貴方が普通の状態で『点』を視れるのは生物だけでしょ」
「え―――? ああ、そういえばそうみたいだ。建物には線しか見えない」
……ホテルの時は視えていたけど、アレは気絶しそうな程の頭痛を伴なった結果だったし。
「でしょうね。貴方は生物だから、鉱物の死を理解できないのよ。
だから鉱物の死を『視る』ためには、まず彼らと同じ指向性を持つための回線に繋がらないといけない。『視る』ためには『理解』しないといけないから」
「それじゃあついでに聞くけど、今の志貴からみて、あの人間はどんな感じ?」
「――――?」
そんなの、いつもと変わらないと思うけど――
「――――!?」
思わず、足が後ろに引いてしまった。
……なんだ、アレ。
たしかに、どんな人間だって『線』はある。
けどそれは数えられる程度の数で、ある意味幾何学模様みたいなものなんだ。
なのに―――アレは、なんだ。
体中に『線』が走っている。『線』は静脈動脈のように浮き出ていて、『線』に塗りつぶされてあの男性がどんな風貌をしているのかさえ、見えない。
「――――ぐっ」
吐きそうになる。
その、黒い『線』―――ラクガキがヒトの形をしたモノのいたるところに、血を流しているような『黒い点』が視えている―――
「志貴にはどう見える? わたしとしては、志貴には普通の人間に見えていてほしいんだけど」
「――――――」
アルクェイドの言葉に答えられない。
今は―――吐き気を堪えるだけで精一杯だ。
「―――そう。残念ね、志貴はアレにも死を視てしまっているなんて」
「ああ……なんか普通、とは違う、けど……線は、視え、てる……」
「やっぱり───死者さえ殺せるのね、貴方は。命が有る無しの問題さえ無関係。動いているもの、破壊できるものなら例外なく停止させる───なによ、ほんとの化け物は貴方のほうじゃない」
「え─────」
「見たとおり、アレはもう人間とは呼べないわ。自らの死という負債を、他人の血を吸い上げることで誤魔化し続ける吸血鬼だから」
アルクェイドは歩を速める。
一直線に、どこにでもいるような男性に向かって。
「おい、アルクェイド―――」
「志貴はそこにいて」
男性はアルクェイドに気がついたのか、逃げるように路地裏へ走っていく。
アルクェイドはゆらり、と足音もたてずに歩いていく。
月明かりの下、彼女の体は路地裏へと消えていった。
―――どくん。
心臓の音が、やけに近くで聞こえた。
まだ夜も深くないという時間。
賑やかな繁華街のただ中にいるのに、自分以外の人の気配が、まったく感じられなくなった。
―――ドクン。
メガネ―――メガネを早くかけなくっちゃ。
そうしないと、厭なものを見てしまう。
今まで視えていたものなんて入り口にすぎないぐらいの闇を、見ることになってしまう。
―――ど、く、ん。
でも体が動かない。
ツギハギだらけのセカイを視る裸眼は、魅了されたように、アルクェイドが入っていった路地裏を、壁越しに見つめている。
「───────」
唐突に、音が消えた。
人の気配も、
風の音も、
土の匂いも。
すべて、ピタリと凍りついた。
──────ギ
絶対零度の月の下。
壁のむこうで、何か、異質な音がしている。
──────ゴ。
見えるはずがないし、
音なんて聞こえてこない。
──────ず、ぶ
なのに、視えた。
死と死が衝突する音を、この眼が確かに視た。
「ぐ――――」
視界が朱い。
なんで―――見えないはずのものの、『死』を視てしまっているんだ、この目は。
「――――」
メガネ。メガネをかけないと、頭がどうにかなってしまう。
喉元までせりあがった嘔吐感をこらえながら、震える手でメガネをかけなおした。
音と光が戻る。
気をしっかりと持ってあたりを見渡せば、繁華街に異状はない。
雑多な喧騒と、まわりを歩いていく人々の姿。
飾り付けられた店のショーウィンドウの明るさや、道路を走る自動車のエンジン音が溢れている。
「はあ――はあ、はあ―――」
呼吸がうまく出来い。
メガネをかけていても、どこか視界のすみにさっきの『死』が残っていそうで、気持ち悪い。
「アル――クェイド……?」
路地裏から出てきたアルクェイドは、俺以上に息をきらして、おぼつかない足取りだった。
「―――志貴……そっか、まだ残ってたんだ」
はあはあ、と肩で息をしながら、ゆらりと、アルクェイドは俺の横をすり抜けていく。
体をかすかにゆらして、まるで病人のように、弱々しく歩いていく。
―――正直、こっちだって吐き気が止まっていない。
けど、あんなに苦しげなアルクェイドを前にして、そんな生易しいコトはいってられない。
「待てよ、一体どうしたんだおまえ……!」
「大丈夫よ。すこし疲れただけだから、かまわないで。―――志貴には、ぜんぜん関係がないんだから」
「ばか、疲れているなら休め! そんな青い顔して、ぜんぜん大丈夫そうじゃないじゃないか!」
ハア、とまだうまく出来ない呼吸を押さえつけながら、アルクェイドの腕を掴む。
「……なによ。そういう志貴だって、今にも倒れそうな顔してる」
「俺のはただの貧血だよ。人のことを気にしてる余裕があるなら、自分の体を気遣ってやれよ」
「―――いいのよ。どうせ気遣っても無駄なんだから」
アルクェイドの呼吸は、本当に、切ないぐらいに弱々しい。
「まさか―――おまえ、あの時の傷―――」
治ってないのか、とは聞けなかった。
それは、俺を庇って出来た傷だからだ。
「―――――」
アルクェイドは俯いたまま答えない。
それは、否定ではなく肯定の意味合いだ。
「ばっ――――そんな体で何してるんだよ! 傷が治るまで大人しくしてないとダメじゃないか!
「大人しく、してるつもり、なんだけどな」
「全然してないだろっ! いくらおまえが人間離れしてるからって、そんな体でさっきは何をしてたっていうんだよ、一体―――」
……放っておけない。
やっぱり、俺はこのどうしようもなく手のかかるヤツを、放っておけない。
「黙ってないで答えろ。おまえが話してくれるまで、俺はおまえから離れないからな……!」
ぐっ、とアルクェイドの両肩を強く掴む。
アルクェイドは俯いたまま、こくん、とかすかに頷いたように見えた。
「……もう。わりとしつこいのね、貴方って。いいわ、それじゃ場所を変えましょう」
アルクェイドはこちらの腕を払って、ゆるやかに歩き始めた。
◇◇◇
公園に戻ってきた。
アルクェイドは歩いているうちに体力が回復したのか、すっかり元気な顔になってしまってる。
「さて。それじゃあ志貴のお望み通り、なんでも話してあげようじゃない」
さっきまでの弱々しさはどこに行ったのか、アルクェイドはとても偉そうだ。
「……それじゃ聞くけど、さっきのヤツはなんだったんだ。おまえは吸血鬼って言ってたけど、アレがおまえの標的だったのか?」
「違うわ。たしかにアレも処刑する対象だけど、あんな死者を塵に還すことが目的じゃない。アレはわたしの『敵』の下僕だから始末しただけ。
あんなのでもね、ほっとくと人を殺して力を蓄えられてしまうから」
「……アルクェイド。その、もっと俺にも分かるように説明してくれないか。俺にはさっきの、あのおかしなヤツが人間なのかどうかもわからないんだ」
「そっか。志貴にはまともに吸血鬼について話した事がなかったものね。ネロは吸血鬼の中でも特異すぎた吸血種だから、説明する必要がなかったんだけど」
「……? まともな吸血鬼って、なにさ」
「だから、あなた達が想像しているような吸血鬼のことよ。不老不死で、人間の血を吸って、吸った者も吸血鬼にして使役し、太陽の光の前に敗退するっていうごく当たり前の吸血鬼。
わたしの『敵』はね、そういう旧いタイプの吸血鬼なの」
「……えっと、つまりその『敵』っていうのが街で通り魔殺人をおこしてるヤツの事だよな」
「……どうかしらね。実際に人を殺して血を吸っているのは、さっき始末したような『死者』の仕事かもしれない。
志貴、ネロが体内に山ほどの使い魔を装備していたのは覚えてるでしょ?」
「―――ああ。そう簡単に忘れられることじゃないよ、あれは」
「さっきの死者はそれと同じよ。
いい? 吸血鬼に血を吸われて、その時に吸血鬼に血を送られるとその人間は死んでいるにも拘わらず現世に残ってしまうの。
これを死者といって、吸血鬼の一般的な使い魔とされるわ。
あ、志貴にはゾンビっていったほうがわかりやすいかな。アレは死体に寄生するハイチの白蛇のことだけど、動く死体っていったらゾンビが有名なんでしょ?」
―――まあ、そう言われたほうがしゃっきりとイメージはできる。
「わかった、つまりさっきの男はとっくの昔に吸血鬼に殺されていて、そのあとでゾンビにされてこき使われてるってコトなんだな?」
そうそう、と満足そうに頷くアルクェイド。
「―――わかんないな。吸血鬼ってのはどうしてそんなコトするんだよ。
殺した人間を―――殺しちまった人間をさ、そのまま生きかえらせてアゴで使うなんて、趣味が悪すぎる」
「そうね。吸血鬼が悪趣味なのは認めるわ。でもそれは死徒に限った話よ。初めから吸血種だったものはあまりそういうコトはしないもの」
「――――?」
初めから、吸血鬼だったもの……?
「―――思い出した。そういえば言ってたな、吸血鬼には二種類あるって。初めから吸血鬼だったのと、人間から吸血鬼になった吸血鬼。
……前に聞いた時、その話がひっかかってたんだ。なんかおかしいなって。そもそもさ、初めから吸血鬼じゃないって、それはどういうコトなんだ?」
「どういうコトもなにも、死徒はもともと人間だった者達よ。魔術の果てに不老になったものと、真祖に血を吸われて下僕となったものとがいるわ。
……志貴、貴方はさっき殺した人間を使役するのが悪趣味だと言ったけど、それでもまだマシなほうなのよ。中にはもっと理解不能な遊びを考案する吸血鬼もいるんだから」
「―――遊びって―――なんだよ、それ。おまえたちは遊びで人間を殺して、その死体を玩具にしてるっていうのか……!」
「……否定はしないわ。
吸血鬼にとって『娯楽』は呼吸と同じことなのよ。人間という連環種でありながら、不完全ながらも不老不死に近付いた彼らにとって最大の敵は“退屈”だったの。
もともとわたし達と違って目的がないくせに“不老不死”になった彼らは、不老不死を手にいれた瞬間にあらゆる物欲がなくなってしまったのよ。
目的が不老不死だったんだから、まあ仕方がないっていえば仕方がないんだろうけど」
「───退屈だから遊びたい、なんてふざけた事は言わないでくれよ。だいたいさ、歳もとらないで死にもしないっていうんなら、もうそれで十分じゃないか。他の楽しみなんていらないだろ」
「だから、それで十分になってしまったのよ、彼らは。
けれどそれでは存在の意味がない。自らを無価値と―――停止してしまったのだと認識した生命は、そこで存在している価値がなくなってしまう。不老不死というのはね、死の別名でもあるのよ。
だから彼らは段々と磨耗していって、自分たちから娯楽を作る事にした。生きているんだって、自分たちはまだ楽しみがあるんだって自らを弁護するように。
―――それが、貴族の発端よ。
彼らは人間の真似ごとをして、自分を城主にみたてて自らの勢力を広げるゲームを始めたわ。
ありていに言ってしまえば死者の王国ね。思いの外、それは彼らにとって刺激的だったみたい」
……他人ごとのようにアルクェイドは言う。
そういうアルクェイドだってその一人のはずなのに、どうも彼女にはそういった趣味はないみたいだ。
「さて、ここで話は前後するけど、死徒というものは元は人間なの。
魔術を究めてその果てに吸血鬼となった稀なケースもあるけど、大部分は血を吸われた人間が死徒になる。
死徒はたしかに不老不死だけれど、彼らは永久機関じゃないわ。だからたえず他者から命を吸い上げないと不老不死ではいられない。
前に、彼らは不完全な不老不死だと言ったでしょ? 死徒は結局、人間という捕食対象がいないと“不老不死”ではいられない」
「……ちょっと待った。それ、おかしいよ。
そうなると死徒っていうのは不老不死でいるために人間から血を吸うけど、そのたびに新しい死徒ってのを生み出してるって事になるじゃないか」
「そうなんだけど、ここからが複雑でね。
血を吸われた人間は死んでしまう。けどこの時、死徒が自らの血をその死体に残しておくと、殺された人間は死にきれなくなる。
この死にきれない遺体が墓場の中で数年たって、脳が腐敗して魂が肉体に完全に“固定”した状態になると屍食鬼《グール》になるの。
グールになれるのは百人に一人ぐらいの割合だから、なにも全ての人間が“残れる”わけではないわ。
……まあ、中には生まれた時から上位種へステップアップできる資格をもっている人間がいて、そういう人たちは即座に新種の吸血種になるんだけど、それは本当に稀だから論外ね。
で、グールになったモノは死体であった頃の数年の歳月によって腐敗した自分の肉体を補うため、他の遺体の肉を食べる。
そうして腐敗した肉体を元に戻して、ようやくゾンビ……生きる《リビング》死体《デッド》の仲間入りができるのよ」
「───ふうん。じゃあそのリビングデッドっていうのが、さっきの『死者』ってヤツなんだ」
「まさか。『死者』はただの人形よ。リビングデッドは死者よりは格段に弱いけど、ちゃんと自分の意思と魂をもって活動する一人前の吸血種だもの。操り死体にすぎない『死者』とはレベルが違うわ。
で、リビングデッドからさらに数年たって、人間としての知識を取り戻した者が吸血鬼、ヴァンパイヤと呼ばれる者達。
ここまで残れる人間は一万人に一人ぐらい。さっきもちらりと言ったけど、もって生まれた肉体に宿るポテンシャルが高いほど残れる確率は高くなるわ。
このヴァンパイヤ達の生みの親となった一族の大本のヴァンパイヤをね、わたしたちは死徒と呼ぶの」
「……やっぱりおかしいじゃないか。そんな倍々ゲームじゃ化け物は増える一方だろ。それじゃ今ごろ俺たちのまわりは吸血鬼で溢れてることになる」
「そうでもないわ。死徒はね、自ら生み出したヴァンパイヤにいずれ討たれてしまうのよ。
言ったでしょう? 彼らは人間の真似事をしてるって。死徒は娯楽のために、自らが吸い殺した人間に自らの血を分け与える。
分け与えられた遺体は何万分の一という確率をくぐりぬけてヴァンパイヤに成長して、いずれ親である死徒を殺して、自らが新しい死徒になる。
騎士が武勲をたてて君主となり、やがて王を墜とすように────彼らもそういうゲームでもしなければ存在してられないの。
……うん、理由はよくわからないけど、そうしないと退屈で死んじゃうんだって。
悪魔的なるものの存在の軽さ、かな。たとえ不老不死だとしても、存在意義がなければ空気と変わらないんだもの」
バカみたいね、とアルクェイドは肩をすくめる。
「……そっか。じゃあ、さっきアルクェイドが、その……始末した死者っていうのは死徒っていうヤツの兵士っていうわけなのか?」
「兵士というよりは人形ね。本来なら血を吸われた人間が自力で吸血種として蘇生する過程を無視して、完全に死徒の分身として操られているものを死者と呼ぶの。
死者は親である死徒と繋がっているわ。
死者だって自らが生存するためのエネルギーを必要とするから人間を襲い、肉をすする。けど、その半分以上は親元である死徒に流れていくのよ。
ようするに女王蜂を養う働き蜂みたいなものね。 死者を操る死徒は、自分の棺の中で眠っているだけで力を蓄えてしまえるのよ。
……わたしの『敵』が簡単には見つからないのは、『敵』が死者を多く使っているから。
あいつが自分の手を汚すのは一回だけ。
あとは死者にした人間を操って、自分は眠っているだけで領地を広げていく。
―――通り魔殺人による遺体が何体も発見されてるって言うけど、あんなのは偽造に失敗しただけのものよ。
実際、この街の犠牲者は百人をこえているわ。
ひっそりと人知れずいなくなってしまっている人達の一部分が、あなたたちが騒いでいる犠牲者っていうことね」
「な――――」
百人単位―――?
その、吸血鬼に血を吸われて殺された人間がそんなにいるっていうのか?
しかも、血を吸われた人間も同じように血を吸う化け物になって、さっきみたいに何気なく街を徘徊してるなんて―――
「………ふざけ、てる」
三日前。
ホテルに泊まっていた人々が、それこそ何の意味もなく殺され尽くしたのを、思い出す。
俺はあのホテルにいたけれど、その場面を見ていない。だから言葉の上でしか想像できず、ソレがどんなに憎むべき暴力であったかを肌で感じ取れなかった。
今だってそれは同じだ。
人間の血を吸う吸血鬼がいて、そいつが少しずつ自分の領地を広げているなんて聞いても、実感はわかない。
―――ただ。
何の理由も、どんな前触れもなく、例えば自分のもっとも身近な人間がそんなふうに殺されたら、俺はどうなってしまうだろうか。
想像したくもないのに、ほんのわずかだけ。
血を吸われて、それこそゴミのようにうち捨てられている秋葉の姿を想像する。
「くっ――――」
あたまにくるのは―――そんな最悪な出来事がもう今にだって起きえるのだというこの街の状況と、それに気がつきもしなかった自分自身の平和さだ。
「やっぱり怒ったわね、志貴。
……わたしがあんまり話したくなかったのは、これは捕食される側――あなたたちにとっては一切の言い訳も許さない『悪』そのものだからよ。
志貴たちにしてみれば、吸血鬼の行為は許せないものでしょうから」
「……それはそうだろう。そんなのは、ふざけてる。
たとえ顔も知らない人でも、その人にはそれまで生きてきた過去とか、生きてきた分と同じぐらいに夢見てる未来とかがあるんだ。
俺だって―――そんな、ただ遊び気分で殺されたくない。そんなのは悔しすぎる。そんなのは無意味すぎる。
そんなのは―――無念すぎるじゃないか」
――そうだ。
ネロに殺された人たちだって、恐怖や混乱の中で死んでしまっただろうけど。
その最後にくるものは、ただ無念だという、どうしようもないぐらいの悲しさじゃなかったのか。
あの時、夜の公園で。
ただ偶然、あの場所に居合わせただけでネロに殺されてしまった少女。
あの子は、自分が殺されるのだという事さえ気づかずに絶命した。
その無意味さ。
唐突に終わってしまった時間。
誰にも見届けられることのない死。
その理不尽さに、あの時の自分は壊れた。
ネロに対する恐怖もなくなって、ただ、そんな真似をしたネロが憎かった。
「……そんなの認めない。どんな理由があったって、そんなのは認められない」
ぎり、と歯を噛む。
「志貴、それに理由なんてないのよ。彼らにとって、これは遊びにすぎないんだから」
「―――だからふざけるなっていうんだ。おまえたちにとってはただの遊びだって……? ネロといいそいつといい、人の命を一体何だと思ってやがる……!」
「何とも思っていないからこんなゲームを考え付くのよ。
わたしだって彼らの考えは理解できないし、理解するつもりもないわ。
けど、どちらが悪かと問われるのなら、それは力の無いほうでしょう? 結局は殺される側が悪いのよ。自分の身も自分で守れない生命なら、殺されてしまうのは自然の摂理でしょう」
「なっ――――」
「でもね、志貴。そういった点で言うのなら、人間という生命種は例えようもなく強いわ。
種として劣っている部分を自分たち以外のモノで補う、なんていうのはある意味『最強』の証よ。
きっと、世界という最大の生物を殺してしまえるのは人間という種だけでしょうね。
けど人間は種としては優れている反面、一個の生命として考えると弱すぎる。
自分たち以外のあらゆるものを犠牲にしなければ生きていけないなんていう弱さは、絶対的な『悪』に他ならないわ。
知性の有無の違い、生態としての違いはあれ、あなたたちは何かを捕食することで生きている生物でしょう?
なら―――殺す側の行為はいつだって正しいのよ。罪があるとすれば、それはそのルールの中で生きているくせに自分を守れないあなた達のほうでしょう」
「そんなの―――そんなのは、強いヤツの理屈じゃないか。人間はおまえたちみたいに強くはないんだ。
自分の身だって満足に守れないから、こうやって集まって、助けあって生きているのに―――そこにおまえたちみたいなのに紛れ込まれたら、どうしていいかわからない―――!」
「そうね。それがあなたたちの防衛手段。
群れの中に入られたら自分たちを守れないから、人間以上の種が群れの中に入れないようなルールを作り上げた。
……ええ、志貴の言うとおりではあるわ。
だから、本来ならこの街みたいなケースは起こらないのよ。
志貴は知らないだろうけど、人間という種はとても強いの。あなたたちは自分たちを超越する種に対する防衛手段をきちんと作ってある。
それがちゃんと機能していれば、八年間もこの街が吸血種の住処になっていた、なんてコトはなかったのに」
「防衛……手段?」
「そう。吸血鬼たちが死体を隠したり派手に動いたりしないのはね、人間たちに自分の存在を知られたくないからじゃないわ。
彼らは自らの命を守るために、自分という存在を隠蔽して領地を増やしていく。
吸血鬼がいる、なんてことを知られたくないのよ。派手に動くと防衛手段がやってくるから。
ま、今回みたいに『現代の吸血鬼か』なんてニュースが報道されたにも拘わらず連中がやってこないのは、ここが無神論者の国だからだろうけど」
「…………?」
アルクェイドの言うことは、あまりにも特殊すぎて、いまいちよく把握できない。
「でも安心していいよ、志貴。
吸血鬼たちの天敵はこの国にはいないみたいだけど、今はわたしがちゃんといるんだから。
言ったでしょ、わたしの目的は吸血鬼を退治するこことだって」
さっきまでの淡々とした雰囲気はどこにいったのか、アルクェイドは一変して明るくなった。
「ああ、それは聞いてる。……けど、アルクェイドだって吸血鬼なんだろ。どうしてそんな、人間の味方みたいなことをしてるんだ」
「わたし、別に人間の味方をしてるわけじゃないよ。ただ、それ以外にやる事がないからやってるだけだもの」
「――――?」
それ以外にやる事がないって、ますますアルクェイドがわからない。
「ま、そんなコトをやっているから死徒たちに狙われているんだけど、その追っ手であるネロも志貴が倒してくれたでしょう?
だから、あとは当初の予定どおりこの街に潜んでいる『敵』を見つけて、なんとか始末してみせるわ。
だから志貴は今までどおり普通の生活に戻って、わたしたちなんかに関わらなくていいんだよ」
何が嬉しいのか、アルクェイドはまっすぐな笑顔を向けて、そんな事を言った。
「ああ――うん。そりゃあ嬉しい、けど――」
けど―――おまえは、一人でいいのか?
そんな言葉が脳裏に浮かんで、ぶんぶんと頭をふった。
……どうかしてる。こいつ一人で危険な真似をさせるのが後ろめたく感じるなんて、どうかしてる。
「……………」
「志貴? なによ、また難しい顔しちゃって」
「そりゃあ難しい顔ぐらいする。だって、これは俺たちの住んでいる街の問題なんだから」
「だから気にしなくていいんだって。二三日じゅうになんとかするから、もうこれ以上は犠牲者は出させないわ」
ああ、正直こっちだって関わり合いになんかなりたくない。
―――でも、その台詞は。
この街を守るようなその台詞は、アルクェイドではなくこの街に住んでいる俺が、言わなくちゃいけないコトじゃないんだろうか。
「……アルクェイド。その、一つ聞くけど。おまえの言ってる『敵』っていうのは強いのか?」
「さっきの死者よりは格段に優れているでしょうね。今回はまだ出会っていないからわからないけど、八年間も潜んでいたんだから第五階級ぐらいにはなってるんじゃないかな」
「―――さっきの死者より格段に強いって、おまえ」
その死者を一人相手にするだけであんなに苦しんでいたっていうのに、なにを気軽に言うんだ、こいつは。
「第五階級って、よくわからないけど。もしかしてネロより強いのか、そいつ」
「まさか。ネロは別格よ。あいつは私がまともな時でも倒しきれない最高純度の吸血種だもの。
それに比べれば、わたしの敵はいくぶん格が落ちるわ」
「――――はあ。そうか、ならおまえがやられるっていう事はないんだな」
安堵のためか、はあ、と大きく息をはいた。
「さあ、どうでしょうね。ちょっと前までのわたしなら問題なかったと思うけど、今のわたしは病み上がりだもの。アイツのほうが力をつけている可能性は高いわ」
「……病み上がりって、風邪でもひいたのかアルクェイド」
「うん、どうにも志貴に殺された後遺症がぬけきらなくて。このぶんじゃあと何日かはダメみたい」
「――――あ」
そうか――アルクェイドが弱っているのは、他の誰でもなく、この俺の責任だった。
アルクェイドは自分の腹部に軽く触れる。
「いつもならすぐに復元する傷も治ってくれないしね。外はなんとかなったけど、中身はまだ出来てないんだ」
―――その傷も。
俺を庇って受けてしまった、余分な傷だ。
「う―――――」
言葉がない。
アルクェイドをこんな状況にしてしまったのは、紛れもなくこっちの責任だ。
だっていうのに。
どうしてコイツは恨み言さえ言わず、俺に対して、こんな無防備な笑みを向けるんだろう―――
「……やめろよ。せめて傷が治るまで、どっかで休んでればいいじゃないか。いまさら一日や二日休んだって変わらないだろ。なら―――」
「だめよ。ネロが来たせいで、『敵』もわたしが来てるって気づいているはずだもの。休んでたりしたら、それこそわたしが弱ってるって知らせるようなものだわ」
「だからって、今夜みたいな真似を続けていくっていうのか」
「ええ。『敵』の居場所がわからない以上、あいつに血を送っている死者を片っ端から潰していくしかないわ。
血の供給源を断てば、本体が直に血を吸いに街に出てくるしかなくなるもの」
「―――アルクェイド。それがもし明日だったらどうするんだ。そんな体じゃ逆に殺されるようなものなんだろ……! なら―――」
そんなコトはやめろ、と言いかけて、止めた。
アルクェイドの言うとおり――そんな弱みを見せたら、『敵』とやらのほうからアルクェイドを殺しにくるかもしれないし。
なにより俺は、この四日間で思い知ってる。
アルクェイドが自分で決めた事をとり止めるような半端なヤツじゃないって、痛いぐらいに。
「く――――」
アルクェイドは止まらない。
放っておけば―――こうして話をすることもできなくなるだろう。
彼女は、自分の死を、頭にくるぐらい、恐れていない。
「――――そ」
……なんで、笑顔なんかうかべるんだ。
そんな顔さえしなければ―――コイツが、本当にもっと吸血鬼っぽかったら、こんな気持ちには、ならないのに。
「どうしたの志貴? 体ふるわせちゃって、もしかしてトイレ?」
「――おまえってヤツは、どうしてそう――」
無意味に、緊張感がないんだ。
「……く………そ」
……失いたくない。
これがどんな感情なのかは知らない。
ただ、コイツと過ごした四日間は、そう忘れられることじゃない。
だから―――いまここで別れて、明日の夜には死なれてるかもしれないなんて何度も何度も何度も何度も後悔するのは―――きっと、とても辛いことだ。
「……かんべんしてくれ。ただでさえ両目が壊れてるっていうのに、心まで壊れかけてる」
アルクェイドは吸血鬼だし、自分はもうあんな出来事には関わりたくない。
ネロとの一戦を思い出す。
それだけで背筋に悪寒が走るほど、殺される一歩手前の恐怖は残っている。
それと同じだ。
きっと、今度の相手だってまともじゃない。
俺が関わる必要はまったくない。
アルクェイドがなんとかするって言ってるんだから、それにまかせておけばいい。
だっていうのに、そこまでわかっているっていうのに。
……それでも、俺は、こいつをほおっておけそうにない。
「―――くそ、どうかしちまったのか俺は!」
だん、と地面をけった。
どんな理屈も、どんな理由も受け入れられない自分自身にハラがたつ。
「な、なに? どうしたの志貴、いきなり怒り出しちゃって」
「ああ、自分の馬鹿さ加減に頭にきてるところ。なんだって俺は、あんな目にあったっていうのにこんな事を口にしようとしているのかってさ!」
ああもう、口にしたら余計クラクラしてきた。
こんな馬鹿みたいな自分―――鏡があったら間違いなく叩き割ってる。
「ねえ、ほんとうにどうしたの志貴―――? ちょっと普通じゃないわよ」
「ああ、じゃないさ! 普通だったらこんな事、とても口にはできないだろ……!」
くそ、と忌々しげに唾をはいた。
認めたくないけど、こりゃあもう決定だ。
だって今、自分自身の口で認めてしまったんだから。
「ああもう、ぜんぜんわかんない! どうしたのよ志貴、さっきからこんな事こんな事って言ってるけど、なにがこんな事だっていうの!?」
「ばか、そんなの決まってるだろ!
おまえの体が治りきるまで手伝ってやるって、そう言いたいらしいんだよ、この遠野志貴の大馬鹿ヤロウは!」
「―――――え?」
アルクェイドは呆然と俺の顔を見る。
こっちはと言うと、ついに、というかやっと、というか、とにかく言いたい事をはっきりと口にして気分がようやく落ち着いてくれた。
「志貴。今の、ほんとう?」
「…………」
むむー、とうなる。
「わたし、ちょっと聞きそこねちゃった。お願いだから、もう一度言って」
「………………」
むむむー、とうなる。
後悔しても、いまさら後の祭りなんだ。
自分の気持ちを言葉にしてしまった時点で―――もう、俺は自分に対して嘘をつくことなんて、できない。
「早く。わたし、今の台詞もう一回聞きたい」
静かにねだってくるアルクェイド。
あさっての方向を見ながら、できるだけ不機嫌そうな声を出す。
「……仕方ないだろ。アルクェイドが弱ってるのは俺の責任だし、街にはびこってる化け物をほおっておけないし。
弱っているおまえ一人じゃ頼りないから、俺でよかったら手伝ってやるって言ったんだ」
「志貴――――!」
アルクェイドは、ぱあ、と目を輝かした。
そのまま、嬉しそうにこっちの手を握って、ぶんぶんと握手をしたりする。
「……まあ、俺じゃたいして役にはたたないだろうけど。こんなんでもいないよりはマシだろ」
「うん……! 志貴が手伝ってくれるなら、恐いものなんて何もないんだから!」
ぶんぶん、とアルクェイドはまだ握手した手を離さない。
……なんていうか。
彼女は、本当に嬉しそうだった。
「けどさ、これからどうするんだ。またさっきみたいに街を歩いて死者を探すのか?」
「そうね、今はそれぐらいしか手はないかな。
さっきので十二人目だから、そろそろ死者も打ち止めだと思う。
この街にいる死者を全員潰してしまえば親元の吸血鬼が出てこざるをえなくなるから、それまでは残りの死者を探すって方針だけど」
それでもいい? とアルクェイドは視線で問いただしてくる。
「いいもなにも、俺はアルクェイドに付き合うだけだよ。アルクェイドがそうするっていうんなら、大人しくしたがうさ。
――じゃ、もう一度街に行くか」
「あ、今夜はもういいの。効率よく死者を操るためにはね、それなりの活動ルートを定めているもので、一晩に複数の死者は活動させないと思う。
ただでさえ数が減ってきているんだから、むこうも無闇に活動させないでしょうし」
「―――そうなの? でも、それじゃあアルクェイドから死者を隠そうとするんじゃないのか、その『敵』ってヤツは」
「基本的にはね。けど、『敵』が吸血鬼である以上、どうしても他者から血や精を搾取しないと存在してられないのよ。
だから、むこうはわたしに狙われてるってわかっていても、最低限の食料を得るために死者を出すしかないっていうわけ」
―――はあ。で、その最低限の死者がさっきの男だったわけか。
「そういうこと。だから今夜は、これ以上探し回っても無駄だと思う」
「……まあ、俺はどうでもいいけど。なんだかまだるっこしいな、それ」
「ええ。もともと吸血鬼退治は面倒なものなの。この街のどこかにある『敵』の棺を探しあてるんだから、そう簡単には終わらないわ」
アルクェイドは俺から手を離すと、タン、という軽い足取りでうしろに跳んだ。
「アルクェイド……?」
「今夜はここでお別れにしましょう。どうせ、またすぐ明日に会えるんだから」
アルクェイドは踊るようなステップで、こっちを見たまま遠ざかっていく。
「明日って―――ちょっと待て、待ち合わせ場所とかどうするんだよ、おい!」
「ここでいいよ。時間は―――そうね、十時ごろがちょうどいいかな」
笑顔で、実にかってに約束をする。
「おやすみなさい、志貴。また明日、ここでね!」
と。
手をふって、アルクェイドは去っていった。
◇◇◇
―――屋敷に帰ってきた。
深夜ということもあって、屋敷の明かりは完全に消え去っている。
「………まずい、かな」
屋敷の門に手をかける。
がちん、という音。
門には頑丈そうな錠が内側からかけられていた。
「―――まいったな。切るわけにもいかないし」
少し悩む。
悩んでから、門を自力でよじのぼる事にした。
……疲れた。
ドロボウさんよろしくで門をよじ登って、玄関にたどり着く。
門は鍵がかかっていたが、玄関の扉は開いていた。
「……翡翠、ちゃんと開けててくれたんだ」
ほう、と感謝の吐息がもれる。
秋葉や琥珀さんたちを起こさないように、抜き足で屋敷の中へと入っていった。
「――――――ふう」
一息ついて、ベッドに腰をかける。
「………………」
アルクェイドとの約束。
なんの因果か、また厄介なコトに足を踏み入れた遠野志貴。
「――――仕方ないじゃないか。だってさ、放っておけなかったんだから」
それとも、放っておきたくなかったのか。
「そりゃあ……まあ、綺麗だと思うけど」
自分の気持ちがよく解らない。
善悪定まらない、というのはこういうコトなんだろうか。
ともかく、明日からまたアルクェイドの手伝いをする事になったんだ。
今は余計なことは考えず、ゆっくりと体を休めて明日にそなえるとしよう――――
[#改ページ]
●『7/直死の眼U』
● 7days/October 27(Wed.)
その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
深い森のような庭。
高い城のような家。
何日かかっても探険しきれない閉じた箱庭の世界で、ボクたちは遊びまわった。
毎日は楽しかった。
おとなになるなんてこともしらなかったし、
朝と夜はおんなじようにくりかえされるんだってうたがいもしなかった。
それは、ただ、子犬のようにはしゃぎまわった幼年期。
ボクらはとても気が合って、最高の遊び仲間だった。
ふりむけばいつもあきはがいて、手をふるとはずかしがって隠れてしまう。
うん、そんなのもいつもどおり。
その頃、屋敷は大きな遊び場だった。
深い森のような庭。
高い城のような家。
何日かかっても探険しきれない箱庭の閉じた世界で、ボクたちは遊びまわった。
うっすらと意識が覚醒する。
朝の光が体を包んで、眠りが少しずつ覚めていく。
その中で。
なにか、懐かしい夢をみた気がしていた。
「―――――――」
目を覚ましたとたん、厭なモノが視界に入ってくる。
ずきり、とこめかみには銃創のような頭痛。
「く――――」
急いで枕もとのメガネをかける。
「は―――――あ」
深く深呼吸をして、なんとか気分を落ち着けた。
「なんだって―――朝から、こんな」
こんな、はっきりと線を見てしまったのか。
建物の死の線は見えにくい。見えていてもそれはうっすらとしているし、今のようにはっきりと見える事は稀だったのに。
「…………」
くわえて、今は『点』まで見えてしまっていた。 なんだか頭痛も鋭くなっている気がする。
先生は、この目がよくないものを呼び寄せる、と言っていた。
アルクェイドや吸血鬼といったものは、確かによくないものだと思う。
なら、相乗効果というヤツでこの両目も力を増していってしまっているのかもしれない。
「――――まさか」
たぶん、ただ疲れているだけだろう。
「失礼します」
ふかぶかとおじぎをして翡翠が入ってくる。
「あ、おはよう翡翠」
「はい、おはようございます志貴さま」
……翡翠はいつもの調子で俺の着替えを用意してくれる。
けど、なんだろう。
心なしか、翡翠の態度がどことなくピリピリしているように思えた。
「翡翠、今朝はなにかあったのか? なんか、機嫌が悪そうだけど」
「………………」
翡翠は何か言いたそうな顔をして、無言でドアまで歩いていく。
「それでは失礼します。朝食の支度をするよう姉さんに伝えますので、早めに居間に下りてきてください」
「ああ、そのつもりだけど……」
どうして翡翠が怒っているのか、ちょっと気になる。
「一つ、言い忘れておりました。昨夜、志貴さまが無断外出した事について、秋葉さまがお話があるとの事です。志貴さま、早めに居間に下りてきてくださいませ」
ばたん、と無情に扉は閉められた。
「ま―――――」
まずい。昨日、秋葉たちの目を盗んで外に出て、人知れず自分の部屋に戻ってきたことが、バレてる。
「……居間におりてこいって、ようするにそこに秋葉が待ってるわけか……」
はあ……どうしてこう、悪いことっていうのは隠し通せないんだろう、ほんと。
居間には秋葉の姿しかない。
厨房からは琥珀さんの、調子のはずれた鼻歌が響いてきてる。
「……………」
秋葉は俺を見ても何も言わず、無言で紅茶を飲んでいる。
「やあ。おはよう、秋葉」
できるだけ自然に挨拶なんかをしてみたりする。秋葉はぴくっ、と眉を上下させてからティーカップをテーブルに置いて、ゆっくりと俺に視線を向けてきた。
「おはようございます兄さん。昨夜はずいぶんと遅いお帰りだったようですね」
「……いや、そんなことないんじゃないかな。
たかだか夜の一時過ぎ、健康な高校生男子ならじゅうぶんに起きてる時間だよ」
「そうね。私も就寝は日が変わってからだから、その時間は起きてるわ。もっとも家に帰ってくる時間はもっと早いんですけど」
「ああ、俺だって昨日は早くから家にいたじゃないか。……ただちょっと、たまたま夜中に用事が出来たから外に出たわけだけど―――」
「無断で、ですか。何か後ろめたいことをしに行くとしか思えない行動ですね」
「うっ………」
秋葉の視線は、ものすっごく冷たい。
……こうして注意されるのは二回目だから、冷静そうに見えて秋葉は本当に呆れているのかもしれない。
「――兄さん。
有間の家ではどうだったかしらないけど、ここでの門限は午後八時までです。これは絶対に守ってもらう規則なんです。
それ以降は屋敷の門を閉めますから、昨夜のようによじのぼって侵入するなんて事はしないでください」
「うっ───知ってたのか、おまえ」
「……あのですね、知っていたもなにも、監視カメラにきっかり映っていました。
琥珀があわてて警報機を切ったからよかったものの、もし兄さんだって気がつかなかったら今頃留置所の中にいるでしょうね、遠野志貴は」
「……そうか。そりゃあ琥珀さんに感謝しないといけないな。
その、秋葉もごめん。昨日は黙ってでかけて悪かった」
「……わかっていただければいいんです。これにこりたら門限は厳守してくださいね。今までのことは大目にみてあげますから」
「……それなんだけど、秋葉」
「なんですか?」
「……その、言いにくいんだけどさ。俺、今日も夜に用事があるんだ。帰りも何時になるかわからないんだけど、決して悪いことをしてるわけじゃなくて―――」
「─────────」
秋葉の視線がツメタイ。
「琥珀!」
突然、秋葉は立ち上がった。
名前を呼ばれて琥珀さんが厨房からやってくる。
「はい、なんでしょうか秋葉さま」
「学校に行きます。支度をなさい」
「はあ、ですが志貴さんの朝食の支度がまだできてませんよ」
「こんな人の朝食なんてほっといていいです。ご自分でなんでも出来るそうですから!」
秋葉はずかずかとロビーへと行進していく。
「はあ……志貴さん、あんまり秋葉さまを怒らせちゃだめですよ。お兄さんなんですから、ちゃんとかまってあげてくださいね」
そんな事を言いつつ、琥珀さんは秋葉の後を追いかけていく。
居間にはまだ、湯気をたててるティーカップが一つきり。
「───まあ、ようするに」
一人残されて、冷静に状況を判断する。
「今日は朝メシ抜きっていうことかな」
うん、間違いない。
……行きがけにコンビニにでもよって、パンでも買っていくことにしよう。
◇◇◇
四時限目の授業は現代社会だ。
昼休み前ということで教室の雰囲気はどこか浮き足だっている。
今日は水曜日だから、授業はいつもより一時間少ない。
昼休みが終わったあとの授業はホームルームで、一時間かけて文化祭の出し物を決める、とのことだ。
くわえて明日は学校の創立記念日で休みなものだから、この四時限目が終われば、あとは休みに突入したも同然なのである。
クラスの連中が今か今かと終了のベルを待っているのは当然といえた。
「――――ねむ」
ふぁう、とあくびを押しとめる。
授業は何の変化もなく、一日は何の異状もなく進んでいる。
考えてみると、あれだけ異常な出来事を体験してきたっていうのに、のんびりと授業をうけている自分はおかしいのかもしれない。
実際、学校が終わって夜になれば、今夜からまたアルクェイドと一緒に行動する。
それを考えたら、こんなのんびりと授業を受けている余裕なんて本当はないんだろうし。
窓ガラスの映った自分の顔を見る。
遠野志貴は、なぜか楽しそうに顔をほころばせていたりした。
「――――む」
キッ、と口元をひきしめる。
アルクェイドと夜の街を徘徊するのが楽しいってワケでもあるまいし、なにをわくわくしているっていうんだろ、自分は。
「……アルクェイド……」
本当に、どうかしてる。
窓越しに見下ろせる裏庭に、やっほーっ、なんて手をふっているあいつの幻が見えるなんて。
――――って、ちょっと待て……!
[#挿絵(img/アルクェイド 17.jpg)入る]
「なっ、なっ、なっ――――」
ひしっ、と窓ガラスに張りついて裏庭を見下ろす。
うちの教室からでは裏庭の端っこのほうにチラリとしか見えないが、
そこには、たしかに。
いつもの格好のままで学校に入ってきている、アルクェイドの姿があった。
「っっっっ!」
きょろきょろと教室を見渡す。
―――幸い、うちのクラスには中庭に立って、こっちに向かって手をふっている正体不明の外人さんに気がついている生徒はいない。
「あいつ、なに考えてるんだ……!」
頭を抱えて、そんな恨み言を呟く。
が、呟いたところでおそらくは何も解決はしないだろう。
……昼休みまで、あと二十分弱。
どうするんだ志貴、アイツを放っておいたら何をしでかすかまったく解らないぞ……!?
―――かといって授業中に堂々と早退するなんてできない。
「………頼む」
あと二十分、授業が終わるのでアイツが何かおもしろおかしいトラブルを起こさないようにと、両手を合わせて祈ってみた。
授業が終わった。
昼休みという事で騒ぎ出した教室をダッシュで抜け出す。
にわかに混雑しだした廊下を駆けぬける。
……アルクェイドは裏庭にいる。
昼休みなんだから、生徒の一人や二人は裏庭にだって行くだろう。
その前に、なんとかアルクェイドを掴まえて学校の外に追い返さないといけない……!
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――――」
食堂に通じる渡り廊下から中庭に出る。
幸い、まだ外に出てきている生徒はいない。
あとは裏庭にいたアルクェイドを掴まえるだけ、なんだ、けど。
「……最悪」
裏庭について、思わずそんなグチを呟いてしまった。
裏庭には、遠目からでもやけに殺気だって見えるアルクェイドと、不幸にもアルクェイドに因縁をつけられているシエル先輩がいたりした。
裏庭に現れた正体不明の外人を注意しにきたのか、先輩はアルクェイドに睨まれてしまっている。
「アルクェイド……!」
声をかけて、二人を振り向かせる。
「志貴」
「―――――――」
……よかった。話しかけた事で、アルクェイドの殺気が薄れていっている。
先輩はというと、ちらりとアルクェイドを見たあと、俺がやって来た方とは別方向に立ち去って行ってしまった。
「あ……先輩」
アルクェイドに睨まれて、よっぽど不快な思いをしたんだろう。
あの先輩が何も言わずに立ち去るなんて、ちょっとただ事じゃない。
「アルクェイド、おまえ……!」
アルクェイドに駆け寄る。
「もう、志貴ったらおそいっ!」
と、駆け寄るなり怒鳴られた。
「おまえ……遅いって、あのな」
「だってそうでしょう!? ちゃんとわたしと目があったのに、志貴ったら全然下りてこないんだもの。志貴がもっと早く来てくれたら、あんなヤツに見つかることもなかったのに!」
……あんなヤツ、とは先輩の事だろうか。
「仕方ないだろ、こっちにだって都合があるんだ。俺はアルクェイドと違って普通の学生なんだぞ。だいたいな、一体うちの学校に何の用なんだよ、おまえ」
「ちょっとね、このあたりに気配を感じたから。それであたりを歩いているうちに志貴の匂いがして、ここが志貴の通ってる学校なんだって気がついたの」
「……はあ。それで思わず、何の用もなくやってきたっていうわけか?」
犬か君は、と顔をしかめる。
「失礼ね、ちゃんと確証があったからやってきたのよ。他の場所に比べて、ここはあんまりにも死者の気配がないんだもの。どんなものかなって、実際に見てみようって思ったんだから」
「そうなの? けど、死者の気配っていうのがないんなら関係ないってことじゃないのか? 実際、学校は夜になると誰もいないんだから、死者が獲物を欲しがるとしたら学校なんかじゃなくて街に出るだろうし」
「………まあ、そう言えばそうだけど」
「ここに異状なんかないよ。死者の気配なんてものは俺にはわからないけど、俺だってこれでも死を視る目を持ってるんだ。
死者が歩いてればメガネをつけていても異状だって気がつくよ」
「わかった。志貴がそう言うんなら、ここに異状はないかもしれない」
「ないかもしれない、じゃなくてないんだって、実際」
アルクェイドは納得のいかない顔をしたままだ。
「とにかく、これ以上ここにいられると他の連中に見つかるだろ。
ちゃんと約束は守るから、おまえは早く帰って体を休めておくこと。今日の夜にも大本の『敵』とやらに出会うかもしれないんだから」
「ふぅーん。なんだかわたしをここから追い出したいみたいな口ぶりをするのね、志貴」
いかにも不満そうにアルクェイドは視線を泳がせる。
「ああ、それは気のせいだって。気のせいだから、早く外に出てくれ。このままじゃますます複雑な立場に追い込まれるだろ」
ほらほら、とアルクェイドの背中を押す。
「………………」
アルクェイドは特に何も言わず、最後まで何か言いたそうな目をして立ち去っていった。
「……はあ。先輩に会ったら、アルクェイドの事を謝らないといけないな」
独りごちて、こっちも裏庭を後にした。
◇◇◇
……文化祭の出し物を決めるホームルームは、予想に反して難航した。
様々な意見が飛びかい、教室中の全生徒の意見が対立した結果、決定は来週に延期になった。
終わってみれば時計はとっくに夕方になっていて、みな疲れ果てた様子で教室を後にしていく。
「――――さて」
教室でぼんやりとしていても仕方がない。
夜にそなえて屋敷に戻るとしよう―――
久しぶりに寄り道をせず、まっすぐ屋敷に帰ってきた。
日もまだ沈みきっていないし、秋葉はまだ帰ってきていないだろう。
「秋葉のやつ、まだ今朝のまま怒ってるのかな……」
……まあ、こればっかりは仕方がない。
秋葉に本当のことを話すわけにはいかないんだから、しばらくはだらしのない兄貴として憎まれ役をするしかないだろう。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
屋敷に入るなり、翡翠はふかぶかとおじぎをしてきた。
「……ああ、ただいま翡翠。出迎えてくれて、どうも」
―――こっちに帰ってきてから一週間ばかり経つっていうのに、やっぱりこういうのには慣れない。
「えーっと、秋葉はまだ帰ってきてない?」
「はい。今夜は特別遅くなる、とのことですので、ご夕食は志貴さま一人で済ませるように、と言付かっています」
……やっぱり朝のことをまだ怒っているんだろうな、秋葉。
「――――はあ」
がっくり、と両肩に重いものを感じて自分の部屋に戻ろうとする。
―――と。
「志貴さま」
翡翠はちらり、とロビーを見渡してから改まって声をかけてきた。
「つかぬことをお伺いいたしますが、志貴さまは今夜もお出かけになるのでしょうか?」
「え――――?」
翡翠は感情のない目で、まっすぐに俺を見据えてくる。
あくまで使用人として、俺の帰ってくる時間を知りたがっているのだと思うんだけど、翡翠に知らせるということは秋葉に知られる、というコトだ。
ここは――それでも、翡翠には正直に話しておこう。
――そうだな。
どんなに誤魔化しても、屋敷の管理を任されている翡翠と琥珀さんに隠し通す事はできない。
なら、せめてこれから何日か夜は留守にするって伝えておこう。
「……うん、実はこれから何日か夜に出掛ける事になるんだ。でも誓って悪い遊びをしてるわけじゃない。秋葉には嫌われる一方だろうけど、今更やめるわけにはいかなくなった」
そう、この街に得体の知れない吸血鬼がいて、何人もの人達が犠牲になってしまっているなら。
知ってしまった以上、俺は同じ街に住む者として見過ごすわけにはいかない。
「───翡翠にも迷惑をかけるけど、しばらくは見過ごしてくれると助かる。出掛けたら勝手に帰ってくるから、屋敷の門だけ開けといてくれ」
「志貴さまはわたしたちに理由は話せない、というのですね」
「……ああ、ごめんな翡翠。だらしないヤツだって思ってくれていいからさ、今は何も聞かないでくれ。きっと、何を言っても嘘になる」
「……いえ。志貴さまはわたしの主人です。主人をだらしない方と蔑む使用人はおりません」
無表情で、淡々と翡翠は語る。
それきり会話はなくなって、自分の部屋に戻ろうと階段を昇っていった。
「お待ちください」
「……その、差し出がましい事なのですが」
翡翠は一度言葉をきってから、ぐっ、と両手を握り締めてこちらに視線を向けてきた。
「志貴さまさえよろしければ、夜に出掛ける事を秋葉さまにお隠しする事ができます」
「え? それって、つまり───口裏を合わせてくれるってこと?」
「───はい。夕食後、秋葉さまはお部屋からお出になる事は稀です。就寝前の見回りはわたしと姉さんがしておりますから、その報告に虚言をまぜてしまえば志貴さまが出掛けられた事は知られません」
「いや、そりゃあ助かる。助かるけど……その、いいの? 秋葉は二人の雇い主じゃないか」
「わたしの主人は志貴さまだと申しあげたはずですが」
───う……なんか、嬉しい。
普段は『さま』づけなんてやめてくれ、なんて言っておきながら、こういう時にラッキーと思う自分が後ろめたいけど、嬉しいことは嬉しいのだ。
「うん―――助かる、ぜひそうしてくれ」
「それでは今夜からは裏口をご利用ください。屋敷の正門は施錠いたしますが、裏手の使用人用の扉はカギがあれば気付かれずに出入りできます」
「へえ、使用人用の出入口なんてあったんだ。どうりで翡翠が門から出掛けるのを見ないと思った」
「いえ、そちらを利用しているのは姉さんだけです。鍵は姉さんが持っていますので、後程お届けにまいります」
では、と一礼して翡翠は立ち去っていく。
「─────やった」
思わぬところで救いの手が入ってくれた。
これでこの先、秋葉に心配をかけることなくアルクェイドとの約束を守ることができそうだ。
◇◇◇
夕食が終わって、部屋に閉じこもる。
時刻はそろそろ夜の十時。
夕食をとっている間、翡翠は俺の机の上に裏手の扉のカギを置いておいてくれた。
「よし―――行くか」
ポケットにナイフをしまいこんで、できるだけ物音を立てないように部屋を後にした。
通り魔事件の影響だろう、夜も十時ごろになれば公園はまったくの無人となる。
誰もいない夜の公園。
そこに、ぽつんと白い女のシルエットが立っていた。
「志貴!」
顔を合わせるなり、アルクェイドは人を怒鳴りつけてくる。
「もう、何時だと思ってるのよ。約束の時間を二十分もすぎちゃってるじゃない!」
「…………」
どうも、アルクェイドは時間ぴったりに来ていたようだ。
「ああ、悪かったよ。こっちもちゃんと十時に家を出たんだけどさ、秋葉に気づかれないようにこっそり出てきたから時間がかかったんだ。
次からはちゃんと時間を厳守するから、今回は大目に見てくれ」
「―――もう。これから殺し合いに行くっていう自覚がないみたいね、貴方には」
ぷんぷん、という擬音が似合いそうなぐらい、アルクェイドはご機嫌ななめだ。
もしかして、約束の時間よりもっと前から待っていたんだろうか?
「アルクェイド。おまえさ、何時からここで待ってたんだ?」
「わたし? わたしは起きてからすぐここに来たから、ええっと――――」
ふむ、と考え込むアルクェイド。
「―――七時ぐらいから居たみたい」
「七時って、それじゃあ三時間以上も待ってたっていうのか、おまえ」
っていうか、約束の時間より三時間も前にやってきてどういうつもりなんだろう。
「なんか、わたしおかしいみたい」
自分でも呆れているのか、アルクェイドはそんな独り言をもらす。
「―――まあ、遅れた俺も悪いけど、そっちにだって問題はあるぞ。約束の時間より先に来て、かってに待たれても困る」
「む―――それとこれとは別問題でしょ。志貴が遅れたっていうコトには変わらないんだから」
「……まあ、それはそうなんだけど。しっかし、なんだって三時間も待ってたんだ。それだけ時間があれば部屋に戻っていても良かったじゃないか」
「そんなの、わたしにだって分からないわ。なんとなく楽しかったから、このまま志貴を待っていてもいいかなって思ってたら、いつのまにか十時になってただけなんだから」
「? 楽しかったって、なんで?」
「さあ。自分にだって分からないって言ったでしょ。……志貴に殺されたせいかしらね。わたし、体のどこかが壊れて治ってないみたい。自分でおかしいって思うんだけど、どこが、どうしておかしいのかてんで分からないんだもの」
「…………う」
そう言われると、返答に困る。
アルクェイドを十七個に解体してしまった手前、身体に異状があるといわれたら、こっちはもう平謝りするしかないじゃないか。
「―――ま、いいわ。時間もなくなっちゃったし、無駄話をしている暇なんてないものね」
うん、そう言ってもらえると実に助かる。
「でも、もし次も遅れるようなコトになったら、その時は直接志貴の家に迎えに行くからね。約束を守れないのは志貴のほうなんだから、その時は文句はないでしょ?」
「ばっ―――それはダメ! 約束はちゃんと守るけど、今日みたいに不測の事態っていうのはいつでも起きえるんだ。時間に遅れる、なんてのはその最たるもんじゃないか!
いいか、まかり間違ってもうちに来るんじゃないぞ。――ただでさえ秋葉には誤解されたままなんだから、これ以上俺の立場をややこしくしないでくれ」
「ふーん……あきはって、志貴に全然似てない妹さんのコト?」
「似てないっていうのは余計だけど、そうだよ」
「そうなんだ。志貴はそんなに妹さんが恐いの?」
「───うるさいな、妹には余計な心配をさせたくないだけだ。……ただでさえあいつには迷惑をかけてんだから、これ以上疲れさせられないだろ」
「ふーん。妹さんには優しいのね、志貴は」
「基本的に俺は誰にでも優しいんです。ただ最近になって例外が一人できてしまいましたが」
「あはは、それってわたしのことだー」
「……わかんないヤツだな。いまのは皮肉で言ったんだ。誉めたんじゃなくて悪口を言ったんだぞ、俺」
「そんなことないよ。わたしは志貴の例外ってことでしょ? わたしね、そうゆうの嫌いじゃないんだ」
まだアルクェイドは笑っている。
子供みたいに屈託のない、明るい笑顔。
「…………」
なんか、これ以上見ているとこっちの毒気が抜かれてしまいそうだ。
「―――いいや、なんか疲れた。
いいかげん吸血鬼探しを始めよう、アルクェイド」
「そうね、時間的にも頃合だし。それじゃこれから街を歩きまわってみるんだけど―――」
「志貴。貴方にはメガネを外して付いてきてほしいんだけど、いいかしら?」
「メガネを外してって……なんで?」
「わたしだけじゃ見つけにくいからよ。
人間と人間じゃないものの気配は分かるけど、それだけじゃいつまでたっても本体である吸血鬼は見つけ出せない。
わたしが分かるのは気配だけ。けど、志貴なら目で見て生者か死者かを判別できる。それを利用しないのは勿体ないでしょう?」
「―――――」
……アルクェイドの言っているコトは、まあそれなりに納得できる。
けど、メガネを外して行動するのは―――
「わかってる。ここ数日、志貴の目が強くなってるのはわたしだって感じてるわ。だからここでそんなことをしたら、志貴の体に大きく負担をかける事になるでしょうね。
わたしはそれを承知で言ってるのよ。けど、あくまで決定権は志貴にあるから強制はしない。志貴が大丈夫だって判断するのなら、メガネを外してついてきて」
……メガネを外して街を歩く、か。
そんなコト、このメガネをもらってからの八年間、一度もやったことがない。
そもそもメガネを外してモノを見るだけで頭痛が走るっていうのに、その状態で街を歩いたらどうなるのかは容易に想像できる。
それでも。
傷が塞がっていないのにこうしているアルクェイドのように、遠野志貴も何らかの負債を払わなければいけないというのなら――――
「アルクェイド、俺は―――」
―――大丈夫、たかだか頭痛じゃないか。
体の痛みを堪えているアルクェイドに比べれば、その程度は大した問題にはならないだろう。
「いいよ、メガネを外してついていく。それでカタがつくっていうんなら安いもんだろ」
「―――そう。なら行きましょう、志貴」
アルクェイドは背中を向けて歩き始める。
メガネを外して、アルクェイドの後に付いていく。
……アルクェイドの後をついていく。
こうしてラクガキだらけの風景を歩くのなんて、入院していた時以来だ。
「――――」
不思議と頭痛はしていない。
ただ視るだけならそう頭痛はしないらしい。
ただ、建物にある薄い線ではなく、道を歩いていく人間の『線』を見るたびに気分が悪くなる。
以前はただ、アレが切れやすい線だと思っていた。
けれど今はアレがモノの『死』なのだと知ってしまった。
だから、嫌悪感が先にくる。
体中にラクガキがある人の姿が気色悪いんじゃない。
そんなにも―――人間というのはそんなにも死に易い生き物なのかと知らされているようで、ただ、吐き気がするだけだ。
……夜の街を歩く。
アルクェイドは何も言わずに、何か目的でもあるように迷うことなく歩いていく。
数時間かけて、街じゅうを歩きまわって。
結局、ただの一つも、異状な『死』を内包した人間を見つける事はできなかった。
「志貴、メガネをつけていいわ。どうやら今夜は探し回っても無駄みたい」
はあ、とため息をついて、アルクェイドは結論を下した。
メガネをかける。
視界が健全なものに戻って、ホッと胸を撫で下ろした。
「今夜は無駄みたいって、そんな簡単に見きりをつけていいのかよ。まだ一回しか街を見まわってないじゃないか」
「ううん、一回見まわれば十分よ。気配っていうのはね、多少はその場所に残留するものなの。今夜は死者の気配がどこにもなかったから、活動している死者はいないわ。
……敵もほとんどの死者を倒されて警戒してるんでしょうね。
まったく、どこまで小心者なんだか。てっきり今晩あたりにでも決着をつけにくるって予想してたのに、まだ隠れんぼを続けたいみたい」
アルクェイドは不満そうに唇を噛む。
「不機嫌そうだな、アルクェイド」
「当然でしょう。せっかく志貴が手伝ってくれてるのに、これじゃ意味がないじゃない」
「――まあ、俺はかまわないんだけどさ。そんなにご不満なら、もう一度街を見てまわってもかまわないよ。俺も今度は意識を集中して視るからさ、もしかしたら何か見つけられるかもしれない」
「ダメよ。これ以上志貴に無理はさせられない」
「無理って、別に俺は無理なんかしてないけど?」
「してるのよ。志貴本人は気がついてないでしょうけど、これ以上脳を酷使したら廃人になりかねないわ」
「……? 廃人って、誰が?」
「貴方がよ。―――そっか、志貴は自分の目がどうゆうふうに働いているものだか知らないんだっけ。
いい? 志貴は生物の死は視やすくて、鉱物の死は視にくいって言ってたでしょ?
それはね、結局は貴方の脳の回線の問題なの。
モノの死。その因果を視る、ということは、実際は見ているではなく読んでいる、という意味合いに近いわ。
……物事には大本になった原因、絶対の一があるの。ええーと、ドイツの学者さんがアカシックレコードとか名づけたものと同じね。
ようするに、事象の中心には『全てを記録したモノ』がある。記録、というよりは『有る』ものだから、情報っていうわけじゃない。ただ『有る』だけ。それ自体に意思はないし、方向性もありえない。
ただ原因を垂れ流しているだけの、根源の渦みたいなものね。
この世界にあるものは、その渦から流れ、派生して、今のカタチを保っている。わたしも志貴も、吸血種も人間も、もとはそこから始まったものなの。
……もう複雑に離れすぎてしまって、原因である始まりに戻ることはできないけど、とにかくそういった“一”があるのは分かるでしょう?
でもね、たとえどんなに大本からかけ離れたカタチになってしまったとしても、そこから派生した存在である以上、とても細い線だけど糸はつながっているのよ。
全ての根源、全ての始まりと終わりを記録したレコード。それと繋がっているものは、物事の終わりを『識っている』ことになる。
もともと脳っていうのは受信と送信をつかさどる機能なんだけど、たいていの人間はみんなその回線が自分に対してのみで閉じてしまっている。
けど、中には潜在的に回線が開けてしまっている人間がいるわ。なんの魔術回路も利用せず、超越種でさえないのに超常現象を可能とする人間。
これをね、魔術師たちは超能力者って区分している。人間でありながら、生まれついて何らかの魔術回路そのものという突然変異体。
―――例えば何の神秘も学んでいないのに『物の死』を視てしまう人間とか、ね」
「――――――」
……いや、申し訳ないんだけど、アルクェイド。
せっかくのお話を、どうも俺の脳みそはまったく理解してくれてなさそうだ。
「いいわよ、志貴は理解なんかしなくて。
ただ言っておきたいのは、あんまり視えにくいモノを自分から視ようとしちゃダメっていうこと。
たぶん、志貴はその気になれば鉱物の『死』を確実に視るコトができる。
けどそのために脳が生物という範疇から鉱物の範疇に回線を開いて、鉱物の死を識ろうとしてしまう。
―――それは、本来ありえない運動よ。
だから脳が過負荷をおこして、志貴は間違いなく使い物にならなくなる」
「使い物にならなくなるって―――その、この目が死を視なくなってくれるっていう事?」
「―――まさか。ねえ志貴、無理をしてオーバーブロウしたエンジンっていうのはどうなるかしら」
「そりゃあジャンク行きだろ。一度でも壊れたエンジンは二度と使い物にならな――――」
ああ、そういうコト。
つまりは、死を見ている時の頭痛は、スピードをあげすぎて悲鳴をあげているエンジンと同じだったのか。
「――――――」
「わかった? ただ視えているだけなら問題はないでしょうけど、視えないモノを視ようとするのだけは止めて。脳内の血管が破裂して、それこそ取り返しのつかない事になるから」
……言葉がない。
そんな大変なことを知らずに、俺は今まで生きてきたっていうんだ。
「そのメガネを作ってくれた魔術師には感謝しないとね。たいていの超能力者は、自分の力がどんなに危険なものか知らずに使用して、自分から廃人になってしまう。
……まあ、人間でありながら人間たちの社会にはいきられない存在不適合者だから、そのほうが幸せなのかもしれないけど」
「―――――」
―――それが、私がここにきた理由のようだし。
あなたを元の普通の生活に戻してあげる。
先生はそう言って、このメガネを作ってくれた。
……感謝すべきことが多すぎて、胸がつまる。
あの人は、本当に色んな意味で、あの時に今の遠野志貴を救っていてくれたんだ―――
「あ、れ―――?」
ずきり、と何か感触がした。
痛みではなく、どちらかといえば痒みのような、おかしな感触。
「志貴?」
「いや―――なんだ、これ」
ほんの一瞬だけの感触は、胸に起きた物のようだ。
「ん―――?」
わけもわからず、首元からシャツの中に手をいれた。
―――ぬるり。
何か。
胸には、絵の具のようなものが、付着している。
「なんだろ……なんか、濡れてる」
シャツの中から手を引っ張り出す。
開いた手の平には。
真っ赤な血が、べったり、と。
「え―――――」
ちくん。
またおかしな感触がする。
それが胸の古傷からしているものなのだと理解するのに、ひどく時間がかかってしまった。
「志貴、それ――――」
「ああ……ヘンだな、痛くもないし傷も開いてないのに―――胸から血がにじんでる」
なんて、赤い。
綺麗で、濁りのない、目を奪うセキショク。
「ま、痛みはないんだしとりあえずは大丈夫かな。血もこれしか滲んでないみたいだし、気にする必要は―――」
アルクェイドは呆然と俺の手を見ている。
いや、正しくは。
俺の手にべったりと付着した、赤い血を見つめている。
「―――アルクェイド?」
「――――――――」
アルクェイドは答えない。
ただ、その呼吸が荒々しく乱れ出している。
はあ、はあ、と痛みを堪えるように、乱れている。
「おい、アルクェイド……! どうしたんだ、また傷が痛んでるのか……!?」
アルクェイドの肩を掴む。
――――と。
彼女は、逃げるように俺の腕から跳びすさった。
「――――」
ぎろり、と敵を睨むように俺を凝視する。
「……アル……クェイド?」
「志―――――貴?」
短く。敵意さえ含んだ声が、そう言った。
「わたし――――そんなコト、思ってない」
……?
アルクェイドは気まずそうに視線を逸らす。
「どうしたんだよ、ヘンだぞおまえ。体、まだ回復してないんじゃないのか?」
「……そうね。ちょっと無理しすぎたみたい。だから、わたし帰るね」
「―――あ、うん。どうせ今夜はこれでおしまいだって言ってたもんな」
「……うん。また明日、ここで待ってる」
アルクェイドはこっちの目をまともに見ないまま、早足で去っていった。
◇◇◇
……住宅街の坂を昇りきって、屋敷の外周にたどり着いた。
時刻は午前二時をまわったあたり。
流石に眠気が襲ってくる。
「……あいつ、あんなんで大丈夫なのかな」
別れ際のアルクェイドの様子が気にかかる。
あれは、傷が痛むとかそういったものではない気がするけど―――
「ん?」
なんだろう。
街灯の明かりが届かない暗がりに、誰か立っているような気がする。
―――どく、ん。
心臓が、呼吸を停止させる。
体中の血流が何倍にも速くなって循環していく、この感覚――――
たしかに、誰か立っている。
人影はこちらに段々と近づいてくる。
かつ、かつ、かつ。
乾いた足音が聞こえてくる。
――――どく、ん。
厭な予感。
背筋には、なにか、ムカデがはっているような悪寒。
「――――」
人影が、すぐそこまでやってきた。
とたん――――街灯がパリン、と音をたてて割れた。
月も雲に隠れている。
世界は、唐突に闇になった。
「!」
どく、ん………!
死を告げるように、心臓がはねあがる。
わけもわからず後ろに跳び退いた。
闇に走る刃物。
かわしきれず、刃物はメガネを掠っていく。
からん、とメガネが地面に落ちた。
「おま―――え」
誰だ、と言おうとした瞬間。
雲の隙間から一瞬だけ月が覗いて、人影の姿が顕になった。
[#挿絵(img/12.jpg)入る]
「な――――」
全身を包帯で巻いた男は、その手にナイフを握っている。
包帯の男は襲いかかってくる。
とっさにナイフを構えて、男のナイフをやり過ごす。
ギン、ギン、と音をたてて弾きあう二つの光芒。
「――――!」
思考が、冷静になってくれない。
自分が襲われているというコトが混乱を呼んでいる。
ギン、ギン、とナイフとナイフが闇の中で火花を散らす。
「くっ―――」
思考が、まだ冷静になれないでいる。
原因は自分が襲われているというコトではなく。
ギィン―――。
鋭角的に繰り出されるナイフを、ほぼ同じ角度のスウィングで相殺する。
「なんで――――」
驚くべきことは。
この闇の中で、休む暇もなくナイフを振るわれているというのに、その全てを的確に止めている自分自身の体だった。
「かってに、体が―――」
いや、違う。
メガネが外れて、この闇の中で。
たんに裸眼で視えている線と点を、この腕が追っているだけ。
見えるものはそれだけだから、ただその線に対して闇雲にナイフを振るっている。
その結果、包帯の男のナイフがかってに俺のナイフを受け止めているだけだ。
つまり。
これは俺が防いでいるのではなく、この男が防いでいるということ。
――――勝てる……!
ドコの誰だか知らないが、間違いない。
今は、自分が圧している。
ぞくりと、と血が圧倒的に有利な立場に高揚している。
勝てる。俺は、こいつより強い。
こいつより強いから。殺されかけたら、殺し返すだけじゃないか――――!
ギィン、ギィン。
鋼をうつような音を響かせて、男を屋敷の塀に追い込んだ。
「――――!」
とった。
その胸に視える『線』めがけて、ナイフを牙のように打ち付ける。
[#挿絵(img/アルクェイド 28(2).jpg)入る]
――――刹那。
血にまみれた少年と、泣いている秋葉の顔が、見えた気がした――――
「っっっっっ!」
すんでのところでナイフを引いた。
―――俺は、なにを――自分から、人を殺そうとするなんて、どうして―――
あたま。
あたまがいたい。
足元はおぼつかなくなって、よろよろと後ろにさがる。
そのまま。
胃の中のものを、吐き出した。
じくりと。胸が、痒い。
頭がいたい。胸の古傷が熱い。
目が、眼孔からこぼれそうで――――
「はあ――――あ、ああ―――!」
嘔吐がとまらない。
びしゃびしゃと吐瀉物をアスファルトに撒き散らす。
そこへ。
包帯の男が、ナイフを構えて迫ってきた。
「―――――!」
ギィン、という衝撃。
男のナイフをナイフで弾く。
今度は、本当に自分で防いだ。
敵が狙ってくる個所がわかる。わかるから、次もギィン、と音をたてて弾けた。
ギィンギィンギィン。
何度も俺なんかの動体視力では捕らえられないほど速いナイフを弾く。
防げる理由は簡単だ。
だって、あいつの狙っている個所は俺の体の『線』なんだ。
だからどこを狙ってくるかは自ずとわかるし、そこを斬られては即死すると解っているので防ぎにまわるしかない。
いや、待て。
……線を―――狙われて、いる?
「――――――あ」
さっきとまったく反対だ。
という事は。
こいつは、まさか。
――――ク。
闇の中で、包帯の男が笑った。
―――ど、く、ん。
一際心臓が高く動悸する。
言いようのない恐怖を感じて、逃げるように後ろに下がった。
包帯の男は追ってこない。ただ、にやりと笑っている。
ぎょろりと血走ったその瞳が『ようやく気が付いたのか』と、俺をあざ笑っている。
「視えて――――るのか」
そう。
こいつも、『線』が見えているのだ――――
なら。
俺なんか、それこそ一撃で殺されてしまうじゃないか―――
――――ク。
男が笑う。
笑いながら近づいてくる。
俺は―――ナイフを握る指さえ、がくがくと震えているだけだった。
ザンザンザン、と肉に刃物が突き刺さる音が三回。
その後に、ドン、と体が壁に叩きつけられる音。
「え―――?」
―――事態が、まったく掴めない。
包帯の男は、突然飛んできた三つの槍みたいなパイプに体を貫かれていた。
槍は男を貫いただけでなく、そのまま男を壁に突き刺したのだ。
採集した昆虫を、ピンで串刺しにするように。
「―――ジャマ、ヲ」
男の声は、しわがれている。
同時に―――三つの槍は蝋燭みたいに燃え上がり、包帯の男を炎で包み込んでしまった。
「アアアァアアアアアアぁぁぁアぁあああ!」
苦悶の声と、ごうごうと渦巻く炎。
闇の中。その光景は無惨というより、むしろ美しいとさえ感じた。
「アアアアアアアアアア!」
包帯の男―――いや、今ではもう包帯はすべて燃えて、剥き出しの肌がある。
男は、炎に包まれながら、俺を見ていた。
血走った、殺意だけしかない瞳。
遠野志貴だけを呪っているような、凶器みたいな黒い瞳。
「―――――な」
ただ、呆然とするしかない。
男は炎に包まれながら走り去っていく。
―――月が出てきた。
あれだけの炎がたって、あんなに禍禍しい叫び声があがったっていうのに、周囲は何事もなかったように静まり返っている。
「――――」
がくん、と膝から力を失って、塀にもたれかかった。
空を見上げる。
あの槍の飛んできた方向。高く遠いところに、誰かが立っている。
[#挿絵(img/シエル 16.jpg)入る]
「―――――」
はるか遠く。
街灯の上に悠然と、見覚えのある人影が立っていた。
「……え?」
外国の神父のような服装。
手に携えた、大きな釘めいた刃。
感情がない、青い青い蒼穹の目。
「……先……輩?」
月明かりの下、シルエットしか見えないのに。
俺には、それが先輩に似て見えた。
「――――――」
視線が合う。
街灯の上に立った人影は、幽霊のように、唐突に姿を消してしまった。
「あ―――――」
どさり、と地面に腰が落ちる。
頭痛が薄れていく心地よさと、緊張が弛緩していくけだるさのせいなのか。
俺は塀に背中を預けたまま、うっすらと眠りに落ちていく自分自身を見つめていた―――――。
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●『8/死。』
● 8days/October 28(Thur.)
―――白。
白い色は、なつかしい記憶を呼び起こす。
忘れていたもの。
忘れなくてはいけなかったもの。
父に、忘れろと命じられたもの。
夏の、暑い日。
青い空と 大きな大きな入道雲。
じりじりとゆらぐ風景と
気が遠くなるような蝉の声。
蝉の声。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん
――――うるさくて死にたくなる。
広場には蝉のぬけがら。
たいようはすぐそばにあるようで、
広場はじりじりと焦げていく。
真夏のあつい日。
まるで、セカイがふらいぱんになったみたい。
えーん えんえん
えーん えんえん
えーん えんえん
秋葉が泣いている。
おとなしくて、いつもボクの後についてきていた秋葉が、ぽろぽろと泣いている。
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
秋葉の足元には子供がひとり倒れている。
白いシャツが真っ赤に染まって、ぴくりとも動かない。
ボクは、それを見下ろしている。
両手は倒れている子供と同じように赤い。
いや、違う。
この両手は、倒れている子供の血で赤いのだ。
「秋葉─────!」
おとなたちがやってくる。
この惨状を見つけだして、血相を変えてやってくる。
「なんて事だ─────」
おとなたちは秋葉を連れていく。
倒れた子供は死んだまま。
遠くのそらには、白い白い入道雲。
ボクは一人残されて、ぼんやりと夏の空を見上げている。
「おまえが殺したのか────」
おとなたちは叫んでいる。
子供をころしたボクの名前を叫んでいる。
たった二文字の言葉を、気がちがったように叫んでいる。
たった二文字。
おとなたちはそろって、両手を真っ赤に染めたボクを、シキと、呼んでいた。
懐かしいユメを、見ていたような気がして。
眠りから、目覚めた。
「……………」
自分の部屋にいる。
あの後―――屋敷の周りの塀で意識を失ったあと、自分はどうにかしてこの部屋に戻ってきたようだ。
まだあたまがよく働いてくれない。
昨夜の事がぐちゃぐちゃになって思い出される。
体のそこかしこに包帯で巻いた男。
そいつは自分と同じように『線』が視えている、ということ。
そいつは剣で全身を貫かれたあと、体中を燃やされて、断末魔の声をあげながら消えてしまった。
「――――」
そのあとの光景は、本当におぼろげにしか思い出せない。
街灯の上にいた人影。
自分を助けてくれた人影は、シエル先輩に似ていたような気がする―――
「……ばかげてる。そんなコト、あるはずないのに」
意識がようやく覚醒してくれた。
メガネをかけて、ベッドから体を起こす。
時計は午前八時過ぎ。
いつもならとっくに朝食を済ましている時間だけど、今日はうちの学校は創立記念日で休校だった。
「翡翠は……いないか」
いつもなら影のように扉の前で控えている翡翠はいない。
おそらく朝から何度も起こしに来ていたんだろうけど、こっちが目覚めないもんだからその度に諦めて、今は他の仕事にいっているんだろう。
「…………はあ」
深く息を吐く。
―――昨夜、アルクェイドと別れたあとに起きた出来事は、俺の理解の範疇を超えている。
あの包帯の男のことも、そいつから助けてくれた人影のことも、自分があれこれ考えたところで何が解るというわけでもない。
「どのみち今日の夜もアルクェイドに会うんだし。あいつなら、きっと答えてくれるはずだ」
異常な出来事はアルクェイドに相談するとして、せめて休みの日ぐらいは自分の日常に戻らないとどうにかしてしまう。
「――よし。なんにせよ、まずは朝飯だな」
人間、とりあえず何かを食べなくちゃ始まらない。
起きたばかりのねぼけた頭と体を動かして、居間に向かう事にした。
「ん……?」
二階の東館の廊下に、黒い洋服が見えた。
「翡翠……かな」
翡翠は秋葉の部屋から出てきたようだ。
どうせ後で顔を合わすことになるだろうから、ここで朝の挨拶をしても問題はないだろう。
「おーい、翡翠―!」
声をあげて呼びかける。
翡翠は俺に気がついたのか、トツトツと静かな足取りでやってきた。
「おはようございます、志貴さま」
「うん、おはよう。わるいね、自分かってな時間に起きちゃって」
「こちらこそ、お目覚めの時におそばにいられず、申し訳ございません」
翡翠はスッ、と音もなく頭をさげる。
……ここで謝られると、夜中は街に出歩いて、深夜に自分でも解らないまま帰ってきてベッドにもぐりこむ、なんていう自分がひどく極悪人に感じられる。
「翡翠が謝る必要なんかないよ。決まった時間に起きないこっちが悪いんだから、翡翠は文句の一つでも言ってくれればいいんだ。そのほうが俺も調子が出る」
「……文句の一つ、ですか……?」
「ああ。友人が言うには俺って根は怠け者なんだって。だからバン、と多少強引にでも背中を叩かれたほうがまっとうな人間になれるんだってさ」
「………………」
翡翠は黙り込んで、じっとこちらの目を見詰めてくる。
そのまま待つこと一分弱。
翡翠は眉ひとつ動かさず、ただ俺を見ているだけだ。
……やっぱり生半可な事じゃ翡翠に人並みのセリフを言わせるのは無理のようだ。
「いいよ、今のは忘れてくれ。それより朝飯にしたいんだけど、朝食の準備って出来てる?」
「……姉さんは外に出ています。志貴さまの朝食でしたら、食堂のほうにすでに用意されておりますが」
「そっか。んじゃちょっと食べてくる。仕事中呼び止めて悪かったね」
それじゃまた後で、と声をかけて一階へと降りていった。
◇◇◇
朝食を食べ終わって居間に戻ると、翡翠がぽつんと一人で立っていた。
「あ、ごちそうさま。毎朝ありがとう、おいしい朝飯を作ってくれて」
感謝感謝、と手をあわせて黙祷する。
「食事の支度は姉さんの仕事です。お誉めの言葉でしたら、わたしではなく姉にお伝えください」
「それはそうなんだけど―――翡翠と琥珀さんの仕事って完全に分かれているの? 例えばさ、今日みたいに俺だけ休日っていう時は琥珀さんじゃなくて翡翠が朝ごはんを作ってくれるとか」
「志貴さま、今朝の朝食はお口に合わなかったのですか?」
「――――へ?」
翡翠の返答は、その、突飛すぎて困る。
彼女は今朝の食事がまずかったから、琥珀さんの代わりに翡翠が作れ、と俺が言っているんだと思ったんだろうか?
「そんなコトないよ。冷めていても琥珀さんのごはんはおいしいです。
……ただ、やっぱり食べるならあったかいごはんがいいなって。でもって、それが翡翠の作ってくれたものならなお嬉しいかな、と」
「―――それは出来ません。志貴さまのために料理をすることはお断りします」
キッ、と翡翠は挑むような瞳で見据えてくる。
「そ、そっか。うん、嫌なことは頼めないよな。身の回りの世話をしてくれてるだけで十分すぎるほど有りがたいんだから」
「……………」
翡翠は黙ったまま、何かいいたげな視線を向けてきている。
……なんだろう?
なにか言いにくい事でもあるんだろうか。
「どうかした翡翠。俺、自分で気がつかないうちにまた悪いことでもやっちゃった?」
いえ、と首をふる翡翠。
翡翠はやっぱり黙ったままで、しばらく待ってもなんら変化はない。
「……それじゃあ、いったん部屋に戻るから。何か用があったら呼んでくれ」
じゃ、と居間から出ようと歩き出す。
と―――その前に翡翠がロビーへと歩き出した。
「―――志貴さま」
「ん?」
「失礼とは思いますが、できるかぎり志貴さまのご要望に応えます」
「……はい?」
翡翠はじっとまっすぐに見つめてくる。
「今朝は、今までで一番自分自身の無力さを思い知らされた日でした」
「え―――う?」
「七回です。七回も呼びかけてご返事ひとつ返されないのは、いかがなものでしょうか」
「七回って、その、なにが?」
いまいち翡翠の言っている事が理解できない。
と、翡翠はロビーにむかって踵を返す。
「率直に言わしていただきますと、志貴さまは愚鈍だと思います」
かつかつ、と足音をたてて翡翠はロビーへと消えていく。
「…………はい?」
一人残されて、間の抜けた声をあげてみる。
しばらく考えたすえ、ようやく今のが自分に対する文句だという事に気がついた。
―――いいから文句の一つも言ってくれ。
そんなセリフを、自分はさっき言ったんだっけ。
「―――俺の要望って、アレか」
ああ、それに間違いはないだろう。
翡翠は二階で考えこんだあげく、それを言うために居間で俺を待っていたのかもしんない。
「………いや、そりゃまあ文句を言えっていったけどさ」
言ったけど、いくらなんでも愚鈍です、はストレートすぎると思う。
……その、あんまり考えたくはないんだが。
やっぱり俺は、翡翠に嫌われてるんだろうか?
自室に戻ってはみたが、とりあえずやるべき事がない。
何をしたものかとしばらく考えこんだあげく、八年ぶりに屋敷の中を散歩する事にした。
ロビーにおりてきた。
思い返してみれば、子供の頃はよく屋敷の中を探険して怒られたものだ。
今は屋敷を探険しようなんて子供じゃなくなって、口うるさい父親もいなくなってしまっている。
昔は屋敷の廊下を歩くだけでどきどきしたっていうのに、今の自分にそんな感動は皆無だ。
なんとなく、子供の頃の思い出を確かめるために、のんびりと屋敷の中を歩き始めた。
廊下は長く延びている。
子供のころは、この廊下がどこまでも続いているんだって信じて疑わなかった。
屋敷は城のように広くて、毎日少しずつ歩き回っては壁や柱、床に自分の名前を刻み付けた。
当時、秋葉との遊びで陣地取りみたいなゲームが流行ったせいだ。
名前を刻んだところが自分の領地だ、なんていって二人で屋敷じゅう歩き回っては、自分の名前を刻んでいったんだっけ。
「お、あったあった」
階段の手すりにシキ、という名前が刻まれている。
父親が屋敷の中で遊ぶのを禁じたのは、案外この遊びのせいかもしれない。
ともかく注意深くして見れば、そこかしこに自分と秋葉の名前が刻まれている。
広い屋敷。
子供のころ、お城のように思えたこの屋敷も、今ではちょっとしたお化け屋敷ていどの広さしか感じなくなっている。
時間がたって、大人になって。
俺と秋葉は、幼かったころの遠野志貴と遠野秋葉ではなくなってきている。
外に出る。
―――そういえば、秋葉と遊ぶのはたいていが庭でだったっけ。
秋葉は俺と違って親父の言いつけを守っていたから、一日に三十分ぐらいしか遊ぶ事ができなかった。
だっていうのにやる事といったら俺たちの後ろについてきて、じっと言うことを聞いているだけだった。
それでも、いざ遊び出せば元気に走り回って、何をするにしても俺と勝ち負けを競りあってたんだっけ。
「……なんだ。あいつ、昔っから今の性格の下地はあったんじゃないか」
親父の手前、猫を五、六匹かぶっていたのかもしれない。
ま、それにしたって今の秋葉は変わりすぎだ。八年間という歳月は、こっちが思っている以上に長いものだったのかもしれない。
―――中庭に出る。
屋敷の壁にはまた名前が刻まれていた。
シキ、志貴、秋葉、シキ、秋葉、シキ、秋葉、志貴、志貴、シキ、志貴。
割合的にはこんなところで、さすがにシキという名前のほうが多い。
なんだかんだいっても秋葉は女の子で、男の子であるこっちの行動範囲には敵わなかったということだろう。
「まったく。手加減ぐらいしてやればよかったのに」
子供のころの自分をごちてみても、落書きの数は変わらない。
この様子では、負けず嫌いの秋葉にどれくらい悔し涙を流させたことだろう。
「そうか。あんがい子供のころの恨みを今になって晴らしてるのかもな、あいつ」
……まあ、秋葉にかぎってそんな事はないと思うけれど、あったらあったでそれも可愛らしいかもしれない。
「なんか、俺もとことんバカ兄貴だな」
うむ、本当にばか兄貴なのだ。
「――――さて」
なんとなく懐かしい、平和な心持ちになって中庭を散歩していく。
「翡翠……?」
裏庭にやってくると、ちょうど翡翠の後ろ姿が目に入った。
翡翠はこちらに気づいていない。
何をしにいくのか、翡翠は森の中に入っていく。
「?」
興味をひかれて、少しだけ後についていく。
――――と。
翡翠が歩いていった先には、ちょっとした広場があるようだった。
「………あれ? あんなところに広場なんてあったっけ?」
首をかしげて思い出そうとしてみるが、どうも記憶はあいまいだ。
屋敷の森の中、木々をきりとったような広場が見える。
―――いや、見えるというのは正しくない。
普通に歩いている分には決して見えなかったはずだ。
翡翠があそこに歩いて行かなければ、屋敷に住んでいながら一生気づかなかったぐらい隠れた、木々に囲まれた小さな広場。
「……? あんなところ、あったかな。あったならかっこうの遊び場になってたはずなんだけど」
少なくとも森の中の広場で秋葉と遊んだ記憶はない。
―――――――ない、ような、気が、する。
「…………」
少しだけ思案してから、その広場に入ってみることにした。
……広場には特別なにもない。
先に入っていった翡翠の姿もない。
「なんだ―――ただの空き地じゃないか」
とことこと広場の真ん中へ歩いていく。
広場は本当に、なんていうことはない空き地だった。
きれいにまったいらにされた土の地面と、
まわりを囲む深い森の木々。
蝉の声と。
溶けるような、強い、夏の陽射し――――――
「え…………?」
夏の、陽射し―――?
「い――――痛ぅ…………」
胸の傷が痛む。
まるで/ざくりと。
包丁で胸を刺された/ような/この痛み。
みーん みんみん
みーん みんみん
みーん みんみん――――
なんだ。
――――どこかで、蝉の声がしている。
今はもう、秋なのに。
――――白く溶けてしまいそうな夏の陽射し。
遠くのそらには入道雲。
見えるのは空蝉のこえ。
足元には蝉のぬけがら。
ぬけがら。誰かの、ぬけがら。
「――――………」
傷が開く。
胸が真っ赤に染まって、この両手まで赤黒く赫灼と。
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
……うずくまる誰かの影法師。
近寄ってくる幼い少女の足音。
遠くの空には入道雲。空蝉の青いそら。
気がつけば、
目の前には血まみれの秋葉の泣き顔。
みーん、みんみん。
みーん、みんみん。
―――ああ。鼓膜を突き破ろうとする、
針みたいな蝉の声。
「あ――――ぐ」
胸がいたい。
吐き気がする。
傷はとうのむかしに塞がっているはずなのに、どうしてこんなにも痛むのか。
胸が 壊れてる。
古傷が開いて セキショクの染みが流れ出す。
―――なんてこと。
俺の傷は、ぜんぜん癒えてなんかいない。
イタイ。
コワイ。
コレガ、
死トイウ衝動カ。
意識が沈む。
傷が痛む。
どさり と、自身の体が地面に倒れこむ音をきいた。
◇◇◇
……話し声が聞こえてくる。
「秋葉さま、お医者さまをお呼びしないのですか?」
「馬鹿なことは言わないで翡翠。
呼べるわけないでしょう、兄さんの傷は普通の傷じゃないんだから……!」
……あきは と ひすい が話している。
ここは シキの 部屋だ。
どうやら ベッドの上で 眠っている らしい。
よお、と声をあげて起きようとしたけれど、体が思うように動かない。
胸の痛みはもうないくせに、体は鉛のように重い。
満足に動くのは、目と口だけのようだった。
「一体どういうつもりなの翡翠。兄さんをあそこに近づけてはいけないって、あなたも知っているでしょうに……!」
「もうしわけ…………ありません」
「謝って済む問題じゃないわ。あなたを兄さん付きの使用人にしたのは、こういう事態を避けさせるためでしょう? それを忘れて、あなたは何をやっていたっていうのよ……!」
秋葉は普段からでは考えられないぐらい、感情を剥き出しにして怒っている。
対して、叱られている翡翠はうつむいたままずっと黙っていた。
……俺には、二人がどうしてこうなっているのか全然わからない。
わからないけれど、翡翠が俺のせいで怒られている、という事ぐらいは読み取れた。
「答えなさい翡翠。あなたは、今日一日何処で何をしていたっていうの?」
秋葉の質問に翡翠は答えない。
二人の間の空気は段々と重苦しくなってくる。
ぎゅっ、と唇をかみしめて、秋葉が翡翠に一歩だけ近寄る。
……秋葉が、翡翠に手を上げようとしているのは、俺の目から見てもよくわかった。
翡翠もわかっているだろうに、うつむいたままそれを黙って受け入れようとしている。
「―――ちょっと待て秋葉」
「兄さん――気がついたんですか!?」
「ああ、秋葉があんまりにうるさいんで、いま目がさめた」
「あ…………」
秋葉は気まずそうに視線をそらす。
翡翠はやっぱりうつむいたまま、俺のほうを見ようともしなかった。
「あのさ、あんまり翡翠にあたるなよ。事情はしらないけど、ようするに俺が倒れた事でもめてるんだろ? なら翡翠に責任なんかないよ。こんなの俺がかってに倒れただけなんだから」
よっ、と腕に力をこめて、なんとか上半身だけベッドから起こした。
今は、それだけでもう指一本だって動かせそうにない。
けれど翡翠が落ち込んでいる手前、無理をしてでも元気なフリをしなくちゃいけない。
「まったく、おまえも俺のコトなんかでケンカなんかするな。大人びたように見えてまだ子供なんだな」
「でも――――兄さんはあれからずっと気を失っていたんですよ? 十時間以上も昏睡しているなんて、今までなかったはずです。
もし―――兄さんがあのまま目が覚めなかったら、私はどうすればいいんですか……!」
「ばか、縁起でもないこというなよ。こんなのはただの貧血じゃないか。……って、なんだぁ!? もう夜の十時をまわってるじゃないか!」
「ですから、兄さんはお昼から今までずっと気を失っていたんです」
遠慮がちに秋葉は語る。
が、こっちの心配事は自分の体のことなんかじゃなくて、夜の十時に公園で待ち合わせ、というアルクェイドとの約束だった。
「やばい、行かなくっちゃ。秋葉、俺は出かけるから後のことはよろしくな。あんまり翡翠をいじめるなよ」
「ば、ばかなことを言わないでください……!
私、兄さんが毎夜どこに行くかなんてコトはもう聞きません。聞きませんから、どうか今夜ぐらいはご自分の体を大事にしてあげてください……!」
「はは、大丈夫だって。こんなのはしょっちゅうなんだぞ。中学のころなんて日に二回は倒れてたって、知ってるだろ秋葉?」
「だから余計に心配なんです。―――兄さん。お願いだから、今日ぐらいは私の言うコトを聞いてください」
秋葉は真剣な眼差しで俺の目を見つめてくる。
俺は――――……秋葉の言う通りにする。
「………………」
……仕方ない。
これ以上秋葉に逆らうと、なんだか泣かしてしまいそうで怖い。
「……わかった、今日はおとなしく眠るコトにするよ」
言って、ベッドに体を横たえた。
「ほんとう……? あとになって部屋を抜け出したりするのもナシですよ?」
「ああ、わかってる。実をいうとさ、どのみち体がまだ重いんだ。秋葉の目を盗んで外に出ることはできそうにないよ」
「――――よかった」
ほう、と肩をおとして秋葉は息をはく。
「翡翠、琥珀に兄さんが目を覚ました事を伝えにいって。兄さん、夕食はどうしますか?」
「……そっか。いや、琥珀さんには悪いけど、食べられそうにない。今夜はこのまま眠ることにするよ」
「……わかりました。じゃあ翡翠、そう琥珀に伝えてきて」
翡翠はうつむいたままコクン、とうなずいて部屋から出て行く。
……さて。
ベッドに体を預けたら、また眠気がやってきた。
このままならあと一分もかからずに眠れるに違いない。
―――と、その前に。
「秋葉。うちの庭に、あんな場所あったっけ?」
「ええ。私たちが子供のころ、よく遊んだ場所です」
「そっか。なんだか、よく覚えてないな」
……ああ。本当に、忘れてしまってた。
「それともう一つ。……ヘンな事を聞くんだけど、子供のころさ、俺と秋葉と―――もう一人ぐらい、子供がいたとかいう話はしらないか?」
「は?」
秋葉は見当もつかない、と首をかしげる。
……そうだよな。そんな子供、いるはずがない。
でも―――そうじゃないとおかしいんだ。
ユメで見た光景と、
あの広場で見たユメ。
この二つが同じだっていうんなら―――
もう一人、殺されてしまった子供がいないと話があわない―――。
「いや、なんでもない。ただのユメの話だ」
「そうですか。ではおやすみなさい、兄さん。今日はゆっくり休んでくださいね」
「ああ、そうする」
秋葉の声にそう答えたとたん。
いつもの貧血のように、とうとつに眠りに落ちていっていた。
[#改ページ]
●『9/朱の紅月T』
● 9days/October 29(Fri.)
チチ、チチチ、チチチチチ
……窓が開けっぱなしになっているんだろうか。
庭のほうから小鳥の鳴き声が聞こえてきている。
ひんやりと冷たい風が頬にあたる。
目蓋には淡い陽の光。
静かで、ゆるやかな周囲の色合い。
柔らかな朝の訪れ。
朝、か。
昨夜、秋葉に看病されたまま眠って、そのまま朝を迎えてしまったらしい。
体はベッドに横になったままで、体のふしぶしが微かに重かった。
それでも昨夜よりは体は回復している。
目を開けて、体を起こす事にした。
と――――
[#挿絵(img/アルクェイド 14.jpg)入る]
「あ。やっと起きたな、こいつめ」
――――目の前には、アルクェイドの顔があった。
「――――――!?」
あまりの出来事に、頭は真っ白になってろくに働いてくれない。
口はぱくぱくと正体不明の声を出している。
―――本気で、事態がどうなっているのかわからない。
ただ目前にはアルクェイドがいて、
ここは自分の部屋で、
時刻はちょうど朝の九時すぎで、
おまけにアルクェイドは土足であがりこんでいるって事ぐらいしか分からない。
「お、お、お、ま、え」
「うそつき。また明日って約束したのに」
かなりご機嫌ななめなのか、アルクェイドの赤い瞳は本来の美しさを損ねている。
―――いや、損ねてなんかいないか。
こんなに間近で見てしまっている分、むしろ普段より鮮明に、美しいと感じられる。
じぃぃい、とアルクェイドは横になったままの俺をにらんでいる。
「―――ちょっ、ちょっと待てアルクェイド。どうして、どうしておまえが朝から俺の部屋にいるんだ……!」
怒鳴ろうとして、声を極力小さくした。
ここで大声を出して翡翠が部屋にやってきたら、それこそ終わりだ。
―――状況は依然として混沌としたままだけど、それぐらいの理性はちゃんと働いてくれている。
「と、とにかくどいてくれ……! 人の部屋にかってにあがって、眠ってる人間を脅かすなんてサイテーだってわかってるのか……!?」
「なによ、その態度。わたしがこんなところにやってきたのは、志貴が約束を破ったからでしょ。人のことを待たせておいて自分はずっと眠ってるなんて、いったいどういうつもりなのよ」
むーっ、と不機嫌そうにアルクェイドは俺を睨む。
……ちょっと、冷静に考えてみる。
っと、そうか。昨夜のアルクェイドとの待ち合わせを、俺は破ってしまったんだっけ。
「――――む」
ようやく事情が飲み込めた。
アルクェイドが怒っている理由はわかった。
わかったけど、それにしたって―――土足で人の部屋にやってくるのはどういう了見なんだろうか、こいつはっ。
窓が開けっぱなしというところを見ると、どうにもそこから忍び込んできたみたいだし。
「……そうか、約束を破ったんだから、そりゃあ確かにこっちが悪い。けど、そんな事でひとんちに侵入するのはやりすぎだぞ」
「ここ、志貴の家じゃないわ」
アルクェイドはきっぱりと言い返してくる。
「それにね、ほんとはわたし、もっと怒ってたんだから。何時間も待ち惚けで、約束を反古にされたんだって気づいた時は自分でも驚くぐらいに頭に血がのぼったわ。
もう、絶対にこのままじゃすまさない、乗り込んでいって志貴の首根っこぐらい引き千切ってやるって思ったぐらい」
むっとした瞳のまま、アルクェイドは淡々と語る。
「わかる、志貴? ああいう気持ちってね、たまらないのよ。自分でも冷静になろうって思うんだけど、思えば思うほど頭にきちゃうような泥沼なんだから」
今でもそういう気分なのか、アルクェイドの赤い瞳は俺に対して非難の色を示している。
「ああ―――たしかにたまらないな、それは」
自分の首が無事なのをかみさまに感謝しながら、そんな相づちをうった。
「でしょ? そうしてここに忍び込んだんだけど、志貴が眠ってるから待ってあげる事にしたのよ。言い訳ぐらいは聞いてみたかったから。
で、やる事もなかったし、しばらく貴方の寝顔を見てた。……うん、志貴の寝顔はね、恐いくらい、静かだった。
死んでいるみたいに眠っていて、もう起き上がる事はないんじゃないかって不安になったぐらい」
「……はあ。不安だったら起こしてくれればよかったのに。こっちはおまえに横にいられるほうがよっぽど不安だ」
「けど、起こすのももったいなくって。
……わたし、自分の眠っている姿はしらないけど、志貴みたいに眠れるのなら幸せかもしれないなって。
どうして志貴はこんなに穏やかなんだろうって、ずっと考えながら見つめてた。
そうしていたらね、あれだけ怒っていた気持ちも収まっていて、そのあとに志貴が目を覚ましたの」
「……それじゃあ夜から今までの間、ずっとそこにいたっていうのか、おまえ」
「うん。何度か家の人がやってきたけど、見つからないようにしておいたから大丈夫よ。
さっきも志貴のことを起こしに女の人が来たんだけど、気に食わないから追い返しちゃった」
あはは、とアルクェイドは能天気に笑う。
「待て、追い返したってなにを―――」
「手荒なまねはしてないわ。ほら、前に吸血鬼には魅了の魔眼があるって言ったでしょ? あの女の人には『志貴はもう学校に行った』って暗示をかけて追い返しただけだから、わたしの事も記憶に残ってないよ」
「記憶に残ってないよって、おまえね……」
ほんと、なんてはた迷惑なヤツなんだ。
……まあ、それでもはた迷惑なヤツははた迷惑なヤツなりに、こっちの家庭環境に対して気を使ってくれてるみたいだけど。
はあ、と額を押さえてため息をつく。
「わかった。昨日の事はすまなかったよ、アルクェイド。そのかわりって言っちゃなんだけど、俺は二度とおまえとの約束は破らない。うん、約束する」
はっきりとアルクェイドの顔を見つめながら断言する。
「反省してる?」
「反省してる。……なにしろあとの報復が恐ろしいって、いま思い知った」
ベッドに横になったまま、降参します、と両手をあげるジェスチャーをする。
と、さっきまでの不機嫌そうな素振りはどこにいったのか、よろしい、と満足そうにアルクェイドは頷いた。
ようやくアルクェイドはベッドから離れてくれた。
「……まったく、無断で人のベッドに乗っかるなんて。シーツに足跡でもついたら洗濯が大変だな、とか思わないのかな」
文句を言いつつ、ベッドから体を起こす。
アルクェイドは部屋の真ん中で、のそのそとベッドから出る俺を眺めている。
「……あのさ。おまえ、何してるの」
「なにって、志貴が着替えるのを待ってるんだけど。まさかその格好のまま出かけるわけにはいかないでしょ?」
「そりゃあ寝巻のままで外を歩くほどのんびりしてないけど―――って、アルクェイド?」
「うん、今日は一日志貴と行動しようと思って。約束を破った埋め合わせ、してくれるんでしょ?」
アルクェイドはさも当然のように言ってくる。
「今日一日って―――なに言ってるんだ、こっちには学校がある―――」
「なによ。反省してるって言ったのに、わたしより学校のほうをとるの、貴方は」
「―――う」
それを言われると弱い。
俺は――
「――――」
ちらり、と時計を見る。
時刻は午前九時をまわってしまっている。
今から学校に言っても遅刻だし―――正直に言ってしまえば、学校に行くよりアルクェイドに付き合ったほうが楽しいだろうし………。
「わかった、今日一日は付き合うけどさ。昼間に街に出ても、死者たちも出歩いてないんじゃないか?」
「そんなのかまわないよ。街を散歩するだけなら昼でも関係ないじゃない」
「……? なんだよ、昨日の夜できなかった分、これから吸血鬼探しをするんじゃないのか?」
「ええ、もちろん夜になったら街を調べるわ。けど一日じゅう志貴に手伝ってもらうのも大変でしょうから、お昼ぐらいは休んでもいいと思うの」
「そりゃあ俺だってそのほうが楽だけどさ。でも、ただ二人で街を歩くなんて、それって……」
世間一般ではデート、とか言うものじゃないんだろうか。
……吸血鬼であるアルクェイドにそんな考えはないだろうから、ようするに遊びに連れて行け、と言っているんだろうけど。
俺としては、その―――ちょっとした心構えが、必要なわけで。
「……? どうしたの志貴。顔、赤いわよ?」
「―――――う」
あわてて顔を手で隠して、アルクェイドから視線を逸らす。
……そりゃあ、今まで何度もこいつとは二人きりになった。
けど、あれは緊急時のことで、男と女である前に協力者同士っていう枠組みがあったんだ。
だから―――アルクェイドをどんなにキレイだなって思っても、意識することを避けていた。
けれど、もし。
何の危険も何の目的もなしでこいつと二人きりでいたら、気づいてはいけないものに気づいてしまう気がして、何かためらってしまう――――
「志貴? ね、やっぱり学校に行くの……?」
「……わけないだろ。オッケーしたんだから付き合うよ。どんな気まぐれか知らないけど、街を散歩するぐらいなら問題ないだろうし」
「決まりね。それじゃさっさく行きましょう」
アルクェイドは忍び込んできたであろう窓へ歩いていく。
「ちょっと待った。すぐに着替えるから、そこで外でも見てろ」
「なに、呼んだ?」
「あー、呼んだけど呼んでない! いいから大人しく外に出ててくれ。すぐに行くから」
「うん、屋敷の外で待ってる。今までさんざん待ったんだから、これ以上待たせないでね、志貴」
タン、と猫みたいな身軽さでアルクェイドは窓から出て行った。
とん、とん、と庭の木々がしなっていく。
あいつは庭の地面ではなく、庭の木の枝を足場に外に出ていってしまった。
……まあ、あの身のこなしならこの部屋に忍び込むのなんて造作もなかったことだろう。
「……感心してる場合じゃないか。俺も翡翠に見つからないように外に出なくちゃな」
寝巻から普段着に着替える。
ドアを少しだけ開けて、廊下に誰もいないことを確認してから、早足で裏口から外に出た。
運良く誰にも見つからずに外に出れた。
アルクェイドはこちらに背を向けて、なにやらぶつぶつと独り言を繰り返している。
「お待たせ。ほら、とりあえず行こうぜアルクェイド。いつまでも屋敷の周りにいると琥珀さんに見つかっちまう」
「え? あ、うん、行くなら早く行こっか」
さっきまでのはっきりした様子と違って、アルクェイドの返事は上の空だ。
「なんだよ、らしくないな。俺を待ってる間にまた何かあったのか?」
「……ううん、別に何もなかったけど」
また、という部分を力強く発音しておいたのだが、やっぱりアルクェイドの返事は上の空だ。
―――なんか、何かたくらんでいそうでこわい。
「……もしかして昼間だから体調が悪いのか? 別に無理をしてまで街を出歩く必要なんてないんだから、苦しいんならやめにしよう」
「んー、別に体調は良好なんだけどね。ちょっとこの塀を見てたら昨日のこと思い出しちゃって」
「……? 昨日のことって、公園で俺をずっと待ってたってこと?」
そう、とアルクェイドは神妙な顔でうなずく。
「わたし、昨日の夜はここを全力で飛び越えて、そのまま志貴の部屋に忍び込んだんだけど……今にして思うと不思議だなって。
どうしてわたし、あの時あんなに怒ってたんだろ。約束のひとつぐらい、今まで何度も果たせなかったっていうのに」
わかんないなぁ、とアルクェイドは両手を組んで考え込む。
「あ、そうだ。志貴ならわかるかな? いつもわたしのことをばかばかって言い伏せるんだから、これぐらいわかるでしょ?」
「あのね……」
アルクェイド本人に分からないものが、他人である俺に分かるはずもない。
わかるはずもないけど、あえて答えろうというんなら―――
「単にアルクェイドは怒りやすいだけなんじゃないか? 基本的にわがままな性格しているからな」
きっぱりと、思ったままの意見を告げた。
「そっかー、言われてみればそうかもね。わたし、志貴に殺されてからすっごく感情的になってるみたいだし」
うんうんと満足そうにアルクェイドはうなずく。
……まあ、事の真偽はどうあれアルクェイドが納得したのなら問題は解決だ。
「疑問は氷解しましたか。ならさっさと行こう……って、アルクェイド。おまえ、何処か行きたいところがあるのか?」
「んー、わからないから志貴にまかせる。どこか適当なところに連れていって」
……自分から散歩するだなんて言っておいてそれか。
仕方ないな――俺もアルクェイドが喜ぶような場所なんて見当がつかないけど、とりあえず遊び場と呼ばれる場所に連れて行くか。
さて、それじゃあ―
天気もいい事だし、公園に連れ出す事にした。
とりあえず公園でのんびりとしてから、街に戻って適当な遊び場に行くのが適切だろう。
公園に入る。
平日の午前中だっていうのに、なぜかあたりには俺たちと同年輩の若者がちらほらと歩いていたりする。
「ふうん、昼間だと人が多いんだ。志貴とは何度も来てるところだけど、なんだか別の場所みたい」
アルクェイドはわりと上機嫌だ。
公園を散歩するだけ、というコースに不満はないらしい。
「あ、あんなところにお店が開いてる。志貴、あれは何を売ってるところ?」
興味深そうに露店を指差すアルクェイド。
噴水から離れた道には、車で移動できるアイスクリームの露店があった。
「あれは季節はずれのアイスクリーム屋さん。冷たいものは体に悪いので、とりあえず我慢してくれ」
物欲しげなアルクェイドを、ぴしゃりと先に封じておく。
いかにも不満そうな顔をされても、秋空の下でアイスクリームを食べても美味しくはないと思う。
――――しかし、なんだろうこの違和感は。
歩いているだけでぎくしゃくするっていうか、周りから視線を感じるっていうか……
「ねえ志貴、ここの人たちって志貴の知り合い?」
「いや、平日に学校をさぼって遊びまわるような知り合いは一人しかいないけど、どうして?」
「んー、なんていうかみんなわたしたちを見てるから、志貴の知り合いなのかなって」
「……なるほど。違和感の正体はそれか」
納得した。
適当に座れる芝生を探して歩きまわっていたんだけど、それだけで周りの連中がチラチラと俺たちを盗み見てくる。
連中の目的は言うまでもないだろうけど、俺じゃなくてアルクェイドだ。
俺はできるだけ意識しないように努力しているけど、アルクェイドはとんでもない美人である。そりゃあ、こうして公園を歩いていれば人目も引くっていうものだ。
公園で暇を潰している男たちの視線がアルクェイドに集まっている。
……なんか、理由もなくカチンときた。
「アルクェイド、場所を変えよう」
アルクェイドの手を握って、半ば強引に公園の奥へと歩き出した。
待ち合わせ場所に利用される休憩所は、噴水前にくらべると人気がない。
……まあ、ここならさっきよりは幾分ましだろう。
「しばらくここで時間を潰そう。飲み物がほしいなら何か買ってくるけど、リクエストはある?」
繋いでいた手を離して、アルクェイドに振りかえる。
「え……えっと、水が飲みたいけど、いい?」
「あいよ。それじゃあそこらへんのベンチに座っててくれ。……と、そこいらのヤツに声をかけられたら適当に聞き流すようにな」
言って、近くの自動販売機まで走り出した。
正午すぎになっても、俺たちは公園から移動する事はなかった。
……なんでか知らないけど、ここに来てからアルクェイドはぽーっと黙り込んでいる。
せっかく買ってきたミネラルウォーターだって一口も飲んでいないし、何をするでもなく公園の様子を眺めている。
俺たちの視線の先にあるのは、大群で道を歩いている鳩と、母親に連れられて無邪気に走りまわっている子供たちの姿だった。
「ね、志貴」
「ん? ぼうっとしてるのは飽きた? なら街に戻ってメシでも食べようか」
「ううん、別にそういうんじゃないけど……さっきの、一体なんなのかなって思って」
「……?」
さっきのって……何の事を言ってるんだろう、アルクェイドは。
「わからないな。さっきのって何のこと?」
「だから、志貴がわたしの手を握ったでしょ。そりゃあ志貴には何度か触れられてるけど、それは理由があっての事でしょう? けどさっきのは理由がなかったから、何だったのかなって」
「何だったのかなって―――別に理由なんて、なかったけど」
言って、自分でも首をひねってしまった。
……そういえば、さっきはごく自然に、何の理由もなくアルクェイドを引っ張った。
言われてみると、どうしてあんな事をしたのか自分でもわからない。
「ま、どうでもいいじゃないか。手を握るなんていまさら大した事じゃないだろ。ああゆう、突発的なことってわりとあるんだよ、人間っていうのは」
「そうなんだ。理由がないっていう事がわりと多いなんて、志貴って無駄が多いんだね」
感心しているような、呆れているような相づちをうつアルクェイド。
「ねえ志貴。関係のない事を聞くけど、志貴にもああゆう時があったの?」
本当に、まったく関係のない事を聞いてくる。
アルクェイドの視線の先には遊んでいる子供たちがいるから、彼女の聞きたい事はそうゆう事なんだろう。
「……さあ、どうかな。たしかに子供のころは遊びまわってたけど、それは屋敷の中だけの話でさ。こういう公園で遊んだ事は少なかったな」
……そう、遊び仲間といったら秋葉たちで、あの子供たちのように見知らぬ誰かと遊ぶような事はなかった。
俺は、どちらかというと。
わりと無菌室のような環境で育てられた子供だったのかもしれない。
「そういうアルクェイドはどうなんだよ。……その、言いにくかったらいわなくていいけど」
……その、吸血鬼に子供時代っていうものがなかったら、アルクェイドに聞くのは失礼だから。
「そうね。志貴が考えている通り、わたしには幼年期はなかったわ。個体として弱い時代は眠って過ごして、わたしという生命が一番優れている今しか活動しなかったから。
だから、ちょっと不思議に思ったんだ。幼年期や老年期なんていう無駄な時間を、どうしてあなたたちは過ごせるんだろうって」
その言葉は、俺に対する問いというよりアルクェイド本人に対する問いのように聞こえた。
「………アルクェイド?」
「なんでもない。こんなふうに無為に時間を浪費するのなんて初めてだから、思考が誤作動しちゃったみたい」
言って、アルクェイドはベンチから立ちあがった。
つられてこっちも立ちあがる。
……まあ、二時間近く日向ぼっこをしていたんだから、そろそろ街のほうに移動する頃だ。
「―――なんだ、退屈だったんなら退屈だって言ってくれればよかったのに」
「んー、確かに退屈だったけど、つまらなくはなかったから。
こういう退屈だったらまたしてもいいかなって思ってるけど、志貴はそうじゃなかったの?」
「え………」
……そうだな、確かに退屈ではあったけど、それがつまらなかったというワケでもなかった。
考えてみればアルクェイドと日向ぼっこをするなんて、滅多にない事なんだし。
「―――そうだな、たまにはこういうのも悪くない。でもま、今はメシにしようぜ。朝から何も食べてなくてさ、いいかげん腹ペコなんだ」
言って、公園から歩き出す。
「ん―――――」
ほんの一瞬、アルクェイドの手を握ろうかと思って、すぐに止めた。
さっきのは理由がなかったから、ただそれだけの行為がすごく自然だった。
けど理由が出来てしまった今は、手を握るという行為はひどく無粋な気がした。
……無粋というのは、そんな事に気がつく理性というか思考が純粋ではないということ。
「理屈ばっかりだな、俺」
まったく。アルクェイドの言う通り、どうやら俺には無駄なものが多すぎるみたいだ。
時間も午後二時をすぎて、いいかげん腹が減ってきたので手ごろなファーストフード店に入った。
……アルクェイドがこういったものを食べるのかどうかは疑問だったのだが、アルクェイドはむー、とメニューとにらめっこしたあと、結局俺と同じセットメニューを注文した。
「…………」
席に座って、アルクェイドと向かい合う。
アルクェイドのやつはきょろきょろと周囲を見渡したあと、慣れたかんじでフライドポテトを口に運んだ。
「……へえ、慣れてるんだな。俺はてっきり、こういうところは初めてだと思ってた」
「ええ、こうゆう所は初めてよ。前からどういった所から知っていたけど、それは知識だけのものだしね」
「知識だけって……そっか、ニュースを見るんだから、雑誌ぐらいは目を通すってわけか」
「んー、そういうわけでもないけど、時代に即した常識は必要でしょう? だから起きた時はその時代の情報を覚えてから行動するの。
ま、たいていは一日や二日で決着がつくから無駄になるんだけどね」
「……?」
アルクェイドは時々、こういった分かり難い事を言う。
「ふーん……無駄になるって、どうして?」
「だから、すぐに眠るからでしょ。次の目覚めが何年先になるか分からないんだから、覚えた知識を使ってる余分なんてないわ。事が済めば眠るだけだもの。
……ん、でもそれって損をしてたみたい。
わたしはね、今まで知識でしか世界を知らなかった。こういう人間たちの集まりがあるって知っていても、それを経験する事はしなかったのよ」
「なるほど……けど知ってるんならそれでいいんじゃないのか? 現にさっきだって、慣れたふうにメニューを見て注文していたじゃないか」
「それは当然よ。そういうふうに対応できるように知識を得ているんだから。
でも、それはただそれだけのことなのよね。経験は理論を凌駕するわ。何億っていう単語を覚えていても、実際にやってみないと何も手に入らないんだなって」
はあ、と切なそうにアルクェイドはため息をつく。
「そんなものかなあ……理論は経験を補う、っていう逆もあるとは思うけど」
「それは理論だけしか知らない人の言葉でしょう。……それ、ちょっと前までのわたしそのものだけど」
ますますアルクェイドの顔は暗くなっていく。
はっきりとした理由はないのに、アルクェイドのそういった顔を見るのはイヤだった。
「そんなものかな。たんにさ、理論だけで経験を補えるヤツと、経験で理論を覆せるヤツっていうのがいるだけだと思うけど? いろんなヤツがいるんだからさ、誰もが自分と同じじゃないだろ」
「うわあ、志貴がマジメな言葉を喋ってる」
「あのねえ、アルクェイドさん。そっちがマジメな話をしたから、こっちもそれに付き合ってるんじゃないか。話のコシを折らないでくれ」
その、せっかくおまえが珍しく自分の話をしてくれているんだから、さ。
「うん、しってる。志貴ってわたしの話したいコトを、話したいときにちゃんと付き合ってくれるって。いつもはわたしに怒鳴り散らすけど、深刻な時はこういうふうに話をしてくれるんだ」
あははー、とアルクェイドは陽気に笑う。
……ふん。
そんなの、そっちの勝手な思い違いだろうけど。
やっぱりこいつには、こういった純粋な笑顔が似合っていると思う。
「でもさっきの志貴の話、ちょっと考えさせられた。わたしって視野が狭いんだ。自分がこう、と決めたらそれ以外のものは見えなくなるのよ。
自分だけしかいらないって。
自分だけが正しいんだって、そんなふうにしかわたしは考えられない。
―――そうよね。いろんなココロがあるんだから、わたしに出来ない事を当たり前のようにやってしまえる人だって、世の中にはたくさんいるんだわ」
なんでか、優しい口調でアルクェイドは反省してみたりする。
「あ、でも、反省したところでわたしの性格は変わりはしないんだけどね。
わたし、今の自分が一番好きだし、やっぱり正しいんだって信じてるから」
笑顔で勇ましい事を言うと、またもきょろきょろと周囲を見渡してから、ぱくり、とハンバーガーを食べる。
ぱくり、ぱくり。
吸血鬼のイメージを払拭するように、ジャンクフードを食べていくアルクェイド。
「…………」
なんでだろう。
ハンバーガーを食べる、なんていう、どう繕ったって上品には見えない行為なのに、アルクェイドがやると、ひどく綺麗なことのように見えるのは。
「なに……? 人のことじろじろ見て。あ、これってこういうふうに食べるものじゃないの……!?」
慌ててハンバーガーをトレイに戻すアルクェイド。
紙のナプキンで口もとを拭くのだが、なんというか、そんな単純な仕草がこのうえなくしなやかで、気品がある。
「……いや、それで合ってる。合ってるけど、なんかヘンだ、おまえの場合。似合わないから食べるな」
ぱくり、とハンバーガーをハンバーガーらしく食べながら、自分でもわけのわからない文句を言った。
「なによそれ。似合わないってどういう意味?」
「イメージの問題だよ。おまえみたいに口が小さいヤツはファーストフードには向かない。大人しくポテトをかじってる分には問題ないから、俺の分もやる」
アルクェイドのトレイに自分のフライドポテトを置く。
……その、なんていうか自分でもよく分からない行動だった。
「いらないっ。そんなものばっかりじゃモノを食べてるって気がしないもの」
むー、とうなって、アルクェイドはハンバーガーに口をつけた。
……今度は俺の目を気にしているのか、さっきよりは普通っぽくて、まあ我慢できる範囲だ。
……しっかし、ハンバーガーを食べる吸血鬼っていうのはなんなんだろう。
何かを食べて、活動するのに必要となる栄養がなければ生き物は生きていけない。
以前、アルクェイドは血を吸わない、と断言した。
なら、アルクェイドの栄養源は俺たちと同じ、人並みの食事なんだろうか……?
「……なあ、アルクェイド」
「なによ、いじわる」
「いや、もう文句は言わないって。聞きたいことが出来たんだけど、いいか?」
「いいけど―――なに?」
「あのさ、おまえは吸血鬼だろ? なら食事って呼べるものは血液だけじゃないのかなって、そう疑問に思った」
アルクェイドは目を見開いて俺を見る。
……やっぱり、これはぶしつけな質問だったみたいだ。
ほら、アルクェイドだってみるまに表情を強ばらせて……ない。
「あのね、志貴。基本的にわたしは食事をとらないんだ。
たしかにこういうふうにモノを口にすれば自分の力だけで動けるけど、それは気分の問題なの。
わたしは食事をとる、つまり栄養分を補充するっていう方法が志貴とは違う。
たしかに食欲はあるけど、それは性欲と同じかな。
食べないとイライラするけど、わたしはあんまり食事に重きをおいていないから、反転衝動に襲われることは少ないよ」
あっさりと、アルクェイドは血液食事説を否定した。
ああ、つまりはアレだ。
本当に、アルクェイドは血を飲まなくてもいいらしい。
「そうか――――」
良かった。アルクェイドが人間を食事のために殺してしまうようなヤツじゃなくて、本当に良かった。
……まったく。アルクェイドも初めから『自分は血を吸わない吸血鬼だよ』って言ってくれたのなら、俺だって初めから素直に協力してやってたの……に………
「……って、ちょっと待った! おまえ、そりゃあ吸血鬼って言わないぞ!」
「言うわよ。志貴だって一日食事を抜いたら耐えられなくなるでしょう?
真祖である吸血種――わたしの場合は、その欲求を満たしてくれる最上級の食べ物が血液なの。
だから『活動する』『欲求を満たす』という事であるのなら、こういうものでなんとか代用はきくわけ。
これが死徒――人間から吸血種になった吸血鬼になると別問題になるわ。彼らは自己が存在するためにどうしても他者の血液が必要になるから」
「……? ええっと、つまりおまえにとっては空腹を満たすのに一番適したものが血液って事か。
……けどアルクェイドは血を吸うのは嫌いだって言ったよな。
もしかして人間に食べ物の好き嫌いがあるように、アルクェイドも血の味が嫌いだっていうコト?」
長いこと解けなかった問題が解けたような、とにかく会心の気分で言い当てる。
しかし。
そんなものは、こっちのかってな思い込みだったみたいだ。
「……わからない。血の味なんて、わたし知らないもの」
「―――へ?」
「わたしは吸血種としては半人前だって言ったでしょう。血の味は知らない。それがどんなものなのか、まだわからない。
ただわかるのは―――血を吸うという事は、その相手を人と認識しなくなるっていう事だけ」
アルクェイドは視線をそらして、俺のほうを見ようともしない。
「ねえ志貴。もしもよ。もしも鳥や魚に貴方と同じぐらいの知性と寿命があったら、あなたは食べられる? どんなに知性があったって食べ物は食べ物だからって、わりきって食べられる?」
「――――――いや、それは」
食べられる―――んだろうか?
わからない。わからないけど、それだったらとりあえず、知性をもっていない、違う食べ物を食べるだろう。
「ほら、そういうコト。わたしが血を嫌っているのはそういう理由なんだ。……まあ、志貴のいうとおり好き嫌いはあるのかもしれない。
わたし、できることなら血は見たくないもの。
だけど―――そうね、もしも人間に自分と同格の知性や価値観がなかったら、ためらうことなく血を吸ってしまってるかもしれないなあ。
だって生きるために他の生命を奪うコトは、自然界じゃ当然の摂理なんだし」
でしょ?とアルクェイドは賛同なんかを求めてきた。
そんなことを――他の誰でもない、アルクェイドから聞かれても俺は否定するしかない。
……肯定なんか、したくない。
「たしかにそうかもしれないけど、とりあえず人間とおまえは似たようなモンじゃないか。……だから、そういう例え話はやめてくれ。もしもの話はあんまり好きじゃないんだ」
「そう? わたしはイフって好きだけどな。どんな結果になるか分からないけど、とりあえずその時は救いがあるような気がするじゃない」
イフ……もしも、か。
じゃあ、もしも―――コイツが他の吸血鬼のように血を吸うようなヤツだったら、俺はこうして向かい合って話なんかしていただろうか。
「どうしたの志貴、いきなり暗い顔しちゃって。あ、もしかしてトイレとか?」
「……あのな。人がまじめに悩んでるっていうのに、よりにもよってソレですか、きみは」
はあ、とため息をつく。
こっちがいくら深刻に考えてみたところで、血を吸うか吸わないかはアルクェイドにとってどうでもいい問題みたいだ。
「そうだよな―――俺には、関係ない話じゃないか」
「もう、さっきから一人でぶつぶつ言っちゃって。隠しごとは男らしくないわよ、志貴!」
むー、とまたも猫のようにうなるアルクェイド。
「別に隠し事なんかしてない。そもそも隠し事だらけなのはそっちのほうだろ。いつも俺には解らない話をして面白がってるんだから」
「面白がってるって――そんなコト、ないけど」
さっきまでの不機嫌さはどこにいったのか、一変して大人しくなるアルクェイド。
ホントのことを言い当てられて怯むような、そんな目をしてる。
「……なんだ、本当にこっちが頭を抱えてる姿を面白がってたのか。いたずら好きっていうか、秘密主義っていうか。
ま、どうせ俺はおまえとは違う生き物だから、どうでもいいけど」
「そ、そんなコトない……! わたし、ちゃんと志貴には話してあげてるよ。隠し事が多いように見えるのは、志貴があんまり聞いてこないだけなんじゃないかな……?」
「ふうん―――聞けば教えてくれるんだ、なんでも」
「ええ。わたしたち、協力しあってるチームだもの」
よし。
それならお望みどおり、いまいちはっきりしない疑問点を聞いてやろうじゃないか。
……そうだな。
こうしてアルクェイドに手伝って彼女の『敵』とやらを探しているけど、俺はそいつがどんなヤツなのかさえ、未だ教えてもらっていなかった。
「それじゃあ質問。アルクェイド、おまえの言う『敵』って、結局どんな吸血鬼なんだ? ここまで追ってきたっていうコトは、それなりに面識はあるんだろ?」
「それは―――その―――」
アルクェイドは視線を逸らす。
「なんだよ。俺には隠し事はしないんだって、さっき言ったばかりじゃないか」
「そうなんだけど、怒らないで聞いてね。
この街に吸血鬼が潜んでるっていうのが解ったのはつい最近のことなの。この国のこの街に『敵』がいるって判明してすぐにやってきたんだけど、まだ本体には出会っていないのよ。
そういった事情で、正直わたしにも今回の『敵』がどんなヤツなのかぜんぜん解らないんだ」
「わからないって―――ネロの時はあの鴉を見ただけで解ってたような素振りだったのに?」
「ネロは有名だし、その有り方もずっと変化してないからね。
けど、わたしの追っている『敵』はそう強力な吸血鬼じゃないし、今回はなにが得意でどんな人間になっているか見当もつかないぐらい、幅が広いヤツなの。
志貴には悪いんだけど―――本当に、わたしにはこんなコトぐらいしか言えないわ」
……アルクェイドが嘘を言ってはいないことはわかる。わかるけど、やっぱり、なにか核になるような事を隠しているような気がする。
例えば、それは―――
「いいよ、アルクェイドにも解らないんなら仕方がないだろ。
けど―――いくらなんでも、その『敵』ってヤツの名前ぐらいは知ってるはずだろ」
「名―――前」
「そう、名前」
アルクェイドは俯いて黙り込んでしまった。
なにか事情があって俺に名前を教えるコトができず、困っている。
そう、思っていた。
「――――アイツの、名前」
ぞくり、と。
急激に、この店のすべてが凍結してしまったような、そんな悪寒が、した。
「アイツの名前はね、志貴」
アルクェイドは、困ってなんかいない。
「……あいつの名前はミハイル。ミハイル・ロア・バルダムヨォン。
ウロボロスって呼ばれてる、人間から吸血鬼になった死徒の一人よ」
俯いたまま、アルクェイドの唇が動く。
そこにあるのは、ただ、血を吐くような憎悪だけだった。
「アルクェイド、おまえ―――」
「―――――」
アルクェイドの肩は震えている。
今にも暴れ出したい感情をなんとか自分の中だけで堪えようとしている。
「……わるい。つまんないコトを聞いて、悪かった。いいから、今のは忘れてくれ」
アルクェイドは微かに、ふるふると首を横にふった。
忘れるコトなんてできない、と言うかのように。
しばらく、無言のまま時間が経った。
「―――――ごめん」
ぽつりと、俯いたままのアルクェイドから声が聞こえてきた。
「―――ん」
それに自然に頷いたあと、やっぱりごく自然に、俺たちはファーストフード店の椅子から立ちあがった。
食事を終えて適当に大通りをひやかしたあと、俺たちはなぜか学校にむかっていた。
じき日も沈むっていうこの時間。
何を思ったか、アルクェイドが『志貴の通っている学校に行こう』なんて言い出して、それを俺が言い伏せられなかったせいである。
「言っとくけど、中には入れないからな。俺は今日ずる休みしちまったし、アルクェイドは部外者なんだから」
「わかってるって。志貴に迷惑はかけないから、安心して」
ちらちらと校門から中の様子をうかがうアルクェイド。
「あれ………?」
アルクェイドが首をかしげる。
「どうした、なにかあったのか」
アルクェイドの後ろから校庭の様子を眺める。
「あ……れ?」
今度は俺が首をかしげてしまった。
校庭に人影はない。
時刻はまだ夕方の六時前だ。
この時間ならまだ運動系の部活がグラウンドにいるはずなのに―――
「志貴、誰もいないみたいだけど」
ああ、どういうワケだか生徒の姿がまったくない。
グランドばかりか、校舎のほうにだって生徒の姿は見られない。
「志貴、中には誰もいないんだよ?」
アルクェイドはじっっと上目遣いで見つめてくる。
……なんとなく、アルクェイドの言いたいコトがわかってしまった。
「イヤです」
きっぱりと断言した。
が、アルクェイドはこれっぽっちも聞いちゃいない。
「人がいないんならわたしが中に入っても怒られないわよね。ふふ、いいタイミングで来たんだ、わたしたち」
「だから、金輪際イヤなんだって」
「へえ、思ったより中は広いんだ。校舎も大きいし、これなら十分使えそうね」
……不思議だ。
アルクェイドの声が近くからではなく、校庭のほうから聞こえてくる。
「志貴ー、このドア開かないんだけど、壊しちゃっていいかなー?」
なんていう高速移動っぷり。
アルクェイドはすでに校舎の昇降口の前でガラス戸を破壊しようと腕まくりをしていたりする。
「こ……の、なんで人の話を聞かないんだ、おまえはーー!」
全速力で、昇降口を破壊しようとするおおばかものへ駆け出した。
「あっ、来た」
何が楽しいのか、アルクェイドは笑顔をうかべている。
「……おまえな。俺の高校に来て何が楽しいんだ? 遊び場なら他にも沢山あるだろ、適当に連れていってやるからここはよそう」
「そうでもないんじゃない? 志貴の通ってるココは、それなりに楽しそうなんだけど」
ふふ、と意味ありげな笑みをうかべるアルクェイド。
「志貴、わたし校舎の中に入ってみたい。そこの入り口のカギ、殺してくれない?」
「こ、殺してくれないって、おまえな―――」
「わたしがやるより志貴のほうがキレイでしょう? 志貴の切り口はどんな刃物でも出来ない切断面だもの。後になって誰かが見つけても、自然に切れたものだって思うわ」
ほらほら、と廊下の窓ガラスを指差される。
「……まったく、ヘンに子供みたいなんだから、おまえは」
つい、とメガネを半分だけずらす。
……さて、ちょうどクレセント錠のところに『線』が視える窓ガラスは、と……
「……ちぇっ、都合よくあるんだもんな」
ポケットからナイフを取り出して、スッ、とカギを切り落とす。
……いや、切り落とすではなく『殺し切る』、か。
「いいよ。ここから中に入ろう」
窓ガラスを開けて、土足のまま校舎の中へ入った。
「………………はあ」
まあ、予測どおりというかお約束というか。
アルクェイドが真っ先に案内しろ、と言い出したのは俺の教室だった。
「ねえ。志貴はここで何を習ってるの?」
「なにって―――世間一般の学生が習うことだよ。 歴史のお勉強から自分の国の文化への深い造詣。ついでに物の在り方の理解度を深めるための物理や数学。ああ、いずれ諸外国に旅立つっていう事を仮定して英語なんかも勉強してる」
「そうなんだ。志貴のことだから、効率のいい人体解剖術とか刃物の扱い方とかを習ってるのかと思った」
しれっと、なかなか愉快なことをアルクェイドは言ってくれる。
「アルクェイド。おまえ、初めっからここがどういう所だか分かって言ってるだろ」
「あはは、おおあたりー」
ぱちぱちぱち、と拍手までついてくる。
……いつだってアルクェイドが何を考えているかは分かり難いけど、今回は際立っている。
こんなところにわざわざやってくるなんて、一体なんのつもりなんだろう?
「志貴」
「なんだよ、急にまじめな顔して。やっぱりここに連れこんだのはワケありなのか?」
「いえ、ここに来たことにさして理由はないの。わたしはただ、ここでの事を聞きたいだけ」
「……ここでのことって、学校のことか?」
「そう。志貴はここで一日の半分を費やしているのよね。そうまでした知識や経験は、全て使いきることがあるの? 貴方は、自分には不必要なことを学ぶために時間を浪費していたりするんじゃないの?」
「はい―――?」
アルクェイドの質問は、今までで一番意図が掴めない。
「例えば、ここで習った技術は一度も使われないこともあるのよね。そういうのって無駄じゃないの?」
「……まあ、確かに無駄かな。数学を習ってはいるけれど、実際生きていくうちで使うのは算数までのレベルだし。国の歴史や英語を習ったところで、それをこの先使うかどうかはまったくわからない」
「なんだ、志貴は気づいてたんだ。でも……なら、どうしてそんな無駄なことをするの? あなたたちの時間は短いんだから、そんなコトをしている暇なんてないはずなのに」
「暇はないって、まあ、はっきりとした目的が今はないからね。それまではこうやって無駄に生きているわけだけど」
「信じられないな。無駄ってわかっていながらそれを日々の枷にしているなんて。
……うん、わたしには、信じられない」
アルクェイドの声は、ひどく落ち込んでしまっている。
その理由は、やっぱり俺には解りかねる。
「……日々の枷、か。たしかにそうかもしれない。けどさ、無駄ってそんなに悪いコトかな」
「――――え?」
「いいじゃないか、余分なことって。
ここで習ったコトがここでしか使われなくっても、それはそれで日々の名残になるだろ。
いつか歳をとって、ただぼんやりと過ごしている時にさ。ああ、そんなこともあったなって、苦笑しながら思い出せる出来事なら、それはそれで意味があるよ」
「……わからない。その思い出自体が無駄なことなのに、それを楽しく思い出せるっていうの、志貴は?」
「ああ、そのあたりは大丈夫。自分にとって都合の悪いことは思い出せないように出来てるんだよ、人間って。
そもそもさ、人生なんて無駄なことだらけだし、突き詰めて考えると生きてるコト自体が無駄じゃないか。
だから、俺はあんまり深刻にならない。無意味なことなんだって気がつかないように、ごまかしごまかしやっていくのが当たり前の生き方ってヤツだと思うからさ」
「無駄なコトってわかってるのに、志貴はそれをこなすんだ。……わからないな、わたしは無駄なコトはできない。今までだって、必要なこと以外はやってこなかったから」
「なに言ってんだい。それなら今日一日のコトなんて無駄だらけじゃないか。アルクェイドの目的は吸血鬼を見つける事だろ? なら俺と街を歩く必要なんてないはずじゃないか」
「……そうよね。それが、わたしにもよくわからなくて。無駄しかないような志貴に質問してみたんだけど、よけいわからなくなっちゃった」
――――むっ。
「はいはい、わるうございましたね、どうせ俺は無駄しかない人間ですよーだ」
「…………あ―――うん」
「ごめんね、志貴の言いたい事はわかるんだ。
人間っていうのは群体だから、価値基準は個人ではなく全体で持てるのよ。だから個の間違いも、全体が正しければ許してもらえる。
けどわたしたちは個体だから、自身の間違いは決して許されない。自分以外の意思を、決して自身に反映させてはいけない。
だから―――余分なコトは、しちゃいけないんだなって、ずっと教えられてきた」
……静かに。
まるで懺悔するように、アルクェイドは言葉を紡ぐ。
「―――でも、わからなくなっちゃった。たった少し、本当にたったの七日間だけなのに。
……わたしは正しいのかなって。
だって、すごく楽しいんだもの。こうしてるのが、生きているっていうのが、ただそれだけで嬉しいなんて、今まで考えたこともなかった」
「アル……クェイド?」
「わたし、壊れちゃったのかな。
今までこんなに長く起きていたことがないから―――本当は、もうとっくに眠ってしまってて、自分勝手なユメを見てしまっているだけなのかな」
……アルクェイドは静かに、虚ろな瞳をして、そんな事を呟いた。
「な―――――」
声をかけられない。
アルクェイドの姿は、映写機が映している幻みたいに、ぼやけている。
「……壊れてるって、なにが。おまえは、普通に見えるけど」
「外見はそうだろうけど、中身が違っちゃってるんだ。……楽しいとか辛いとか、そんな余分な感情が、今はとても大きくなってる。以前は無視できたものが無視できなくなっているなら、それは壊れてるということでしょう。
それにね、わたしは普通じゃないよ。志貴とは違う、吸血鬼なんだから」
言って、アルクェイドは笑ったように見えた。
どうしようもなく儚げに、夕焼けの赤色に隠れるように。
「―――――――ら」
それは、おかしい。
こんなのは、ヘンだ。
夕焼けの教室。
赤い日を浴びて、頼りなげにうつむく少女。
そんなのが、目の前にいるなんて。
「らしく――ないぜ」
そう、らしくない。
おまえは吸血鬼なんだから―――そんな、普通の女の子みたいな、頼りない側面なんか見せないでくれ。
「無視できないとか、無駄なことをしてるとか、誰にも迷惑をかけないんなら―――そんなの、ほっといていいじゃないか。
自分のことを真剣に考えるなって言っただろ。
何を迷ってるか知らないけどな、おまえは問題なんかないんだ。
誰にも―――迷惑なんてかけてない」
「そうかな。わたし、志貴によく怒鳴られるけど、あれは違うの?」
「―――俺は例外。遠野志貴はアルクェイドを殺してしまったっていう罪があるんだから、おまえにひっぱりまわされるのは自業自得なわけなんです。
いいんだ、俺は好きでやってるんだから、俺にかける迷惑なんて考えないでくれ」
「………………」
アルクェイドの視線は暗いままだ。
……そんな顔をされると、本当に、こまる。
弱々しくて。このまま、抱きしめてしまいたくなるから。
「……頼むから、もっとシャンとしてくれアルクェイド。
そりゃあおまえはワガママだわ人の話を聞かないだわで問題だらけだ。
けど、それ以外の部分はわりとまともだよ。壊れてなんかいなし、普通の女の子と変わらない。
―――だから、笑えよ。おまえにそんな顔をされると、こっちの気持ちが悪くなるじゃないか」
「……ひどい言いようね。わたし、そんなに我が侭かな」
ぽつり、とこっちの顔色をうかがうようにアルクェイドは呟く。
ちょっと気が緩んだ。
自分のことをわがままだって自覚してなかったらしい、このお姫さまは。
「――――く、あはははは! なに言ってるんだ、おまえからわがままって単語をとったら骨しか残らないぞ、骨しか!」
なんか言ってるコトが矛盾している気もしないでもないが、なんとなく大笑いしてしまった。
――だって、アルクェイドが照れながら自分のコトを恥ずかしがってるなんて、夢にも思わなかったから。
「……………………!!」
あ、怒った。
「志貴のばかっ! 人が真剣に相談してるっていうのに、なによこの薄情者っっ!!」
「だーかーらー、俺はおまえ以外には優しいって言ったじゃないか。薄情なのは今にはじまったことじゃないよ」
くく、と笑いをかみ殺しながらアルクェイドを正面から見返す。
さっきまでの翳りはどこにもなくて、すごく、こいつらしい純粋な顔をしてる。
「でもまあ、やっぱりおまえは元気なほうがいいな。俺もなんだかホッとした」
「え……? な、なんで志貴がホッとするの? わたしに対しては薄情なんでしょ、貴方って」
「あ―――そういえば、そうだっけ」
はて、と首をかしげる。
……おかしいな、自分でもホッとした理由がわからない。
……さっきは、ただアルクェイドの落ち込む姿が見ていられなくて、こいつを守ってやらなくちゃって思ったんだけど――
「…………」
そんなバカな。
たしかにこいつはキレイだし、いいヤツだって解っている。一緒にいると退屈しないって思ってる。
……けど、そんなバカなことあるもんか。
しっかりしろ志貴、こいつは吸血鬼なんだぞ。
「もう、はっきりしない人ね。自分で自分のコトもわからないっていうの?」
「……うるさいな、いいんだよ俺はわからなくて。はじめっから自分がおかしいって自覚してる。いつも記憶が曖昧なのはそのせいなんだ」
「そっか。だから志貴はいつもぼーっとしてるんだ」
うんうん、と心底納得したように頷くアルクェイド。
「……………」
その場しのぎの言い訳をそこまで信じられると、怒る前にホントにそうなのかな、と考え込んでしまう。
「―――さて」
いつまでも教室にいるわけにもいかない。
いいかげん外に出ないと、学校に残っている教師に見つかってしまう。
「ほら、そろそろ出るぞ。もう用事はないんだろ?」
「うん、用事はないんだけど……志貴?」
ん? と視線を投げる。
アルクェイドはわずかに言葉を飲み込んでから、おかしなコトを聞いてきた。
「志貴はさ、楽しいことってある?」
「……今日は熱でもあるのかな、きみは」
「茶化さないで。わたし、少しは志貴の体のことを知ってるわ。志貴だってわかってるんでしょ?
自分の体が、いつ死んでもおかしくないってことぐらい」
「な――――――」
―――どくん、と。
胸の古傷が、じくりと蠢動したような気がした。
「おまえ―――そりゃあ、人間はいつか死ぬ」
「貴方の場合、他人より早いでしょうけどね」
……アルクェイドの目は真剣だ。
けど、誰の体にだって死の線はあるんだから、死に易い部分は沢山ある。
俺だけが―――そんな、死に易い体をしているわけじゃない。
「答えて。そんな不安定な命で楽しいって思える時があるの、志貴?」
「―――――ほんとにばかだな、おまえは。
そんなの、俺に分かるはずがないじゃないか」
……ただ、はっきりしているコトといえば。
俺は八年前に死にかけて、ほんの少しのあいだ。
たぶん病院の手術室で手当てを受けている間だろうけど、真っ暗なところにいた気がする。
夢かといえばそうだろう。
ただあの時、俺は自分が死んだなって実感してたし、ソコが死なんだって思ってた。
そうして奇跡的に助かったあと、先生に出会って、普段通りの生活に戻れたことがすごく嬉しかった。
一度死ぬまで、気がつかなかったコトだけど。
世界はこんなにも平和で、こんなにも楽しいものだったんだ。
楽しいことなんて見つからない、というけれど、人間は、生きているだけで楽しいんだと思う。
だから―――こうして、何もかも無駄だって知っていながら生きている。
……だから。
楽しいかと聞かれたら、それが本当に許せないこと以外なら、俺は楽しいと答えるだろう。
どんな絶望でも、在るというコトは満ち足りている。
死という無より、それは確かなコト。
誰に教えられるまでもなく、それだけは気がついている。
ただこうしていられるだけで、それは、本当にとても素晴らしいことなんだっていうコトを――――
「―――たださ、生きてるだけで楽しいんじゃないかな。今までが楽しかったから、これからもやっていこうって気になるんだ、きっと。
……ま、おまえの質問に答えるとしたらこんなところか」
そりゃあ、たかだか十七年しか生きていない遠野志貴だから、偉そうな事は言えないんだけど。
「そっか、それが志貴のココロなんだ。……そうしているだけで楽しい、か。そうよね、余分なことだってわかっていても、楽しいんだからそれを切り捨てるコトはできないもの。
……わたしはそれが恐くてつまんないコト訊いたんだけど、今はそれが答えでいいかな」
「―――なんだ。さっきのコト、まだ引きずってたのか」
「そうだけど、とりあえずわだかまりは消えてくれたわ。だから、この街に巣くっている吸血鬼を倒すまでは迷わない。それまで志貴と一緒に戦うよ」
ねっ、とうなずいてアルクェイドは笑った。
「――――」
吸血鬼を倒すまで、か。
「……そうだったな。俺とおまえって、そういう関係だったっけ」
今日一日があんまりにも普通だったから。
そんな当たり前の大前提、完全に忘れてしまってた。
「――――なあ、アルクェイド」
ただ、何を思ったわけでもなく。
「全部終わったあと―――吸血鬼を倒し終わったらさ。別れる前に、もう一回だけこうして遊ばないか?」
本当に自然に、そんな言葉を口にした。
「え―――? それ、どういうこと?」
「アルクェイドの目的が済んだら、もう一回ぐらい無駄なことをしようって言ったんだよ。
俺とおまえは結局、協力しあっているからこうして一緒にいるじゃないか。
だから―――本当に、何の義務もなくなったあとでさ、ただ意味もなく会えたらどうなるかなって、そう思っただけ」
―――そうじゃなくて。
ただ気が合う友人同士として、本当になにげなく、吸血鬼のことなんか考えずに。
ただ当たり前の思い出を作ってやったら、きっとアルクェイドは喜ぶって思えてしまっただけだった。
「―――おまえが忙しいっていうんなら別にいいけど。俺もたんに思いついただけだからさ」
心とは正反対のことを言う。
アルクェイドは呆然と目を見開かせたあと、こくん、と頷いた。
「うん―――! ぜんぶ終わったら、またここに来ようね志貴! なんの意味もないけど、それはきっと、きっとすごく楽しいよ―――」
夕焼けの教室の中。
アルクェイドは、まっすぐな笑顔をして、俺とそう約束した。
……結局、外に出るころには陽は沈みきっていた。
時刻は七時半をすぎたあたり。
少し時間は早いけれど、他にやる事もないんだし吸血鬼探しを開始することにしよう。
「さて。それじゃあそろそろ始めようか、アルクェイド」
背後に付いてきているアルクェイドに振り向く。
「なに、もう行くの? まだ陽が落ちたばっかりだと思うけど」
「そうだけど、早い分には悪いことなんてないだろ。昼間は十分に遊んだんだから、夜ぐらいはきちんとやらないとだめじゃないか。
アルクェイド、決めたことはちゃんと守ろうぜ」
「志貴ってヘンに生真面目だよね。そんなに真面目なのに、どうして昨日は約束を破ったりしたのかしら」
「あのな。仕方ないだろ、昨日は体が動かなかったんだから。本当に直前までは公園に行くつもりだったんだ」
そう、秋葉が止めなければあんな体のままで公園に駆けつけていただろう。
「ふーん、そうなんだ。じゃ、そうしよっか」
どこか上の空、といった顔つきのまま、アルクェイドはまたもよくわからないことを言う。
「そうしよっか、って、なにを?」
「だから、志貴は公園に行くつもりだったんでしょ? まだ時間はあるんだし、昨日できなかったことなら今やりなおせばいいじゃない」
アルクェイドはタタッ、と軽い足取りで走り出す。
どうにも、本気で公園に向かっているようだった。
「――ちょっと、待てってば、おい……!」
駆けていくアルクェイドを見失わないように、こっちも全力で走り始めた。
「ほら、なんだかんだ言ってちゃんと付いてくるんだよね、志貴って」
あははー、とアルクェイドは笑っている。
「……ばか、おまえを、一人にすると、人様に、迷惑が、かかるから、だろ……」
はあ、はあ、とここまで走ってきて乱れた呼吸を整える。
「やっぱりこの時間だと人は多いのね。そこかしらかに人の気配がして、ちょっと落ち着かないかな」
「……だから。どうして、こっちの話を聞かない、んだ、おまえって、ヤツは……」
「そう? わたし、志貴の声はちゃんと聞いているつもりだけど?」
「……そうか。聞こえていて、無視しているとなると、余計に質が、悪い」
「無視もしてないわよ。ただ、志貴の小言に返答するときまって『ばか』って言われるから、黙ってるだけなんだけど」
「……そうか。それは、こっちにも、問題があったかもしれない、か」
はあ、はあ、と呼吸を整えていく。
学校前から公園まで、ざっと六キロ。
小走りだったとはいえ、それだけの距離を走った心臓は、なかなか落ち着いてはくれなかった。
……別段、アルクェイドが速く走ったわけじゃない。いや、どっちかっていうとアルクェイドにしては遅いほうだったと思う。
ただ昨日の貧血の後遺症なのか、俺の体が本調子でなかっただけだ。
「大丈夫、志貴? 無理しないでベンチで休んだら?」
「……そうする。体が休まったら、街のほうに行くからな、アルクェイド」
「もう。志貴がやる気になってるのは嬉しいけど、まだ時間が早すぎるのよ。
ネロの時もそうだったけど、吸血鬼は自分たちの時間でなければ無闇に活動はしないものなの。
彼らはもっと夜の気配が濃くなってないと活動しないんだから、もうしばらくここで時間を潰さないとね」
「――――」
そうゆうことは、もっと先に言ってほしかった。
―――ベンチに座って、やる事もなく時計を眺める。
公園の時計は九時をすぎたあたり。
まわりからは段々と人影がなくなっていって、段々と夜が深まっていく。
アルクェイドはどうしてかベンチに座らず、退屈そうにそこいらを歩きまわっていた。
時間だけがすぎていく。
静かな夜。
今夜は二日前の夜とは違って、空には雲ひとつない。
晧晧とした月明かりが夜の公園と、白いアルクェイドを照らしている。
「……月明かり、か……」
あの時もこれだけ明るかったら、あの包帯の男の顔も見えたかもしれない……って、
「あーーーーーーーー!」
がばっ、とベンチから立ちあがる。
「志貴!? どうしたの、死者でも見つけちゃった?」
アルクェイドが駆け寄ってくる。
「いや、そういうわけじゃなくて―――とんでもないことを忘れてた」
ほんとうに、すごい神経をしてると思う。
自分が襲われたっていうのに、それを今まですっかり失念していたっていうんだから。
「アルクェイド。俺、二日前の夜に、ヘンにヤツに襲われた」
「え? ヘンなヤツって、どんなヤツ?」
「えっと、それが――――」
気を落ち着かせて、できるだけ克明に、二日前の夜に起こった出来事をアルクェイドに説明する。
「……と、いうわけなんだけど―――――」
ひとしきり説明を終えて、アルクェイドの顔色をうかがう。
話が始まってからこっち、アルクェイドの目は鋭いままで和らぐことがなかった。
「どうなんだよアルクェイド。その包帯の男と、神父みたいな服を着たヤツっていうのはおまえの敵なのか?」
「……そうね。両方ともわたしの『敵』よ。その包帯の男は何者だか知らないけど、カソックを着た女のことなら見当はつく」
アルクェイドは不機嫌そうに目を細める。
いや、不機嫌というより神経質そうにいらだっているみたいだ。
「志貴を助けたやつはわたしとは顔見知りかもしれない。……まいったわね。たしかにあの女ならわたしより先に『敵』を見つけ出せる」
きっ、とアルクェイドは悔しそうに唇を噛む。
「ちょっと待った。俺、別にその人が女だって言った覚えはないんだけど?」
「いえ、間違いないわ。異端狩りを単独で行う権限をもっていて、火葬式典と鉄甲作用を複合させた黒鍵を使う代行者はあの女だけだもの」
アルクェイドの苛立ちは、ほとんど敵意に近いものだ。
ネロのことを話していた時だって、アルクェイドがここまで感情を露にしたことはなかったっていうのに。
「……アルクェイド。あの、俺を助けてくれた人も吸血鬼なのか……?」
「いえ、そういうワケじゃないんだけど―――そうね、志貴にはもう一つだけ、大事なことを教えてあげていなかったわ」
「前に説明したと思うけど、この街に巣くっている吸血鬼みたいに人間を自分の下僕にして領地を増やしていく吸血鬼はね、極力自己の存在を隠蔽しようとするの。
犠牲者を出しても、周囲がそれを異状だと気がつかないように様々な魔術を働かせる。
これ、どうしてだか解る?」
「……そりゃあ、人間だってバカじゃないからな。自分たちの住んでいるところにそんな化け物がいるってわかれば反撃するだろ。いくら人間が弱いっていったって、警察とかがあるんだから自分たちでなんとかできるかもしれないし」
「―――まあ、たしかにそれもあるけど、警察は人間に対する法律組織でしょう。わたしたちはそんなのは考慮にいれない。
けどまあ、自己保身のために自らの痕跡を隠蔽する、というのは正しいわ。
志貴、吸血鬼には天敵がいるのよ。それも今ではパワーバランスはあっちのほうが上っていう、殺し屋みたいな集団がね。
……他の超越種たちもそうだけど、とくに吸血種は自らの存在を明かしては命とりになる。
たとえ小さな、文明社会から隔離された山村一つを支配して秘密の王国を作っても、犠牲者が増えればかならず彼らが嗅ぎ付けるから。
吸血鬼たちが秘密裏に人間を搾取するのは何のためでもない、ただ自己保身のためだけよ。彼らは社会的な風聞ではなく、その天敵に嗅ぎ付けられる事を嫌って自然に死体を隠蔽するの」
「……はあ。吸血鬼たちの天敵って、またわけのわからない化け物が出てきたな」
普通の人間のこっちとしては、これ以上常識はずれのモノが乱入してくるのはやめてほしいんだけど。
「何いってるのよ。その天敵っていうのはあなたたち人間の事じゃない」
「────? 天敵って、俺たちが?」
「そう。もうずっと昔、人間は様々な魔術、神秘学、式典儀礼をもとに組織体系を作り、人間以外の霊長類を排除しはじめたの。
その最たる物が基督教───法王庁が誇るエクソシストの集団よ。旧教《カトリック》は昔っから『人間でないモノ』を徹底的に淘汰してきたけど、その中でも吸血鬼に対する敵視はどうかしてるわ。
世界中のどんな宗教をみたって、カトリック以上に吸血鬼を敵視している宗教はない。
あれはね、すでに憑かれてる。病的すぎてわたしでさえ彼らには関わりたくないぐらいだもの」
はあ、とアルクェイドはため息をつく。
「志貴を助けたのはその中でも異端狩りを専門としている連中の一員よ。
埋葬機関っていう、キリスト教の矛盾点を法ではなく力で処理していく連中でね。決して表には出てこない、殺し屋みたいなエクソシスト」
「…………」
吸血鬼を退治する神父さん、か。
なんていうか、あんまりにもはまりすぎてて言葉がない。
「でもさ、それってつまり仲間ってことじゃないのか? その埋葬機関っていう連中も吸血鬼退治が目的なら、一緒に吸血鬼を探せるかもしれない」
「―――だめよ。連中は吸血鬼であるのならなんでもいいの。彼らにとって、ヒトではない霊長類はそれだけで『悪』なのよ。人間の血を吸おうが吸うまいが関係ない。
そのエクソシストだって、この街に巣くった吸血鬼じゃなくてわたしを封印するためにきたのかもしれないわ」
苛だたしげに言って、アルクェイドはまたそこいらを歩き始めた。
「……………」
なんだか、色々とこみいってきた。
アルクェイドは仲間である吸血鬼に狙われて、吸血鬼を敵視する連中にも狙われている。
「……なんだよ。それじゃ一人きりじゃないか、あいつ」
呟いて、くるくると歩きまわっているアルクェイドの姿を眺める。
白い月光の下。
アルクェイドは、一人きりでワルツを踊っているように見えた。
こつこつと時計の針が進んでいく。
公園にきてから、いつのまにか二時間近く経過しようとしていた。
「――――ふう」
体はとっくに落ち着いているし、あたりには人の姿もなくなった。
夜はしだいに深まりつつある。
「アルクェイド、そろそろいいんじゃないか?」
「そうね、そろそろいいと思う」
こっちの意見に同意しつつも、アルクェイドはまだ乗り気ではなさそうだ。
「さっきからおかしいぞアルクェイド。なにかイヤなことでもあるっていうのか?」
「―――そういうワケじゃないけど。志貴が話してくれた包帯の男っていうのがちょっとひっかかってね」
考え事してるんだ、とアルクェイドはため息をつく。
「あっ、そういえばね志貴。わたし、昨日ここでナンパされたんだ」
「――――はい?」
「だーかーら、ここで男の人に声をかけられたって言ってるの」
「……いや、重複しなくてもわかるけど。包帯の男について考えごとしてるんじゃなかったのか、おまえ」
「してたわよ。だから思い出したの。志貴が襲われたみたいに、わたしも男の人に声をかけられたなって」
「……なるほど。そりゃあ、良かった。たしかに外見だけならおまえは美人だからな、一人で待ち惚けしていれば、まっとうな神経をもった男なら声の一つぐらいかけるさ」
呆れながらもキチンと感想をもらす。
時折、自分のこういった律儀さが憎い。
「やっぱり? わたしも最初は敵かなって思ったんだけど、志貴がいつか言ってたじゃない。わたしはいるだけで目立つって。だからしばらく相手の出方をうかがってたら、ただの人間だってわかったわ」
「……ちょっと待った。おまえ、まさかとは思うがナンパしにきたヤロウをどうにかしたわけじゃないだろうな」
「ううん、わたしは何もしなかったよ。ちょっとだけ話して、わたしのコトを忘れてもらっただけだから。……その、志貴の言葉を思い出さなかったら、どうにかしてたかもしれないけど」
「そうか、偉いぞアルクェイド。おまえにも分別ってものがあったんだ」
「当然でしょう。わたしを怒らせるなんて志貴ぐらいなものだもの」
なぜだかアルクェイドは楽しげにそんな事を言う。
……そりゃあまあ、誰だって『殺されれば』あたまにくるだろうけど。
はあ、とため息をついて公園を見渡す。
……一ヶ月前。
この街に連続殺人なんて事件さえ起きなければ、この時間でもここには若いカップルだの、夜遊びから帰る途中の学生やらの姿があったのに。
今では、こうして話してしているのは自分とアルクェイドだけだ。
ふと、冷静に自分の置かれた位置というヤツを省みる。
一体いつから、遠野志貴は、こんな日常に足を踏み入れてしまってたんだろう―――?
「あ。ねえ、ほら」
唐突にアルクェイドは俺に呼びかける。
「なに、なにかあった?」
「うん。ほら、あの時計。これでちょうど時間になったね」
満面の笑みをうかべて、アルクェイドは公園の時計を指差す。
見れば―――たしかに、時計は夜の十時になっていた。
約束の時間。
夜の十時にここで会おうっていう、口だけの約束。
……昨日の夜。
俺が守れなかった、待ち合わせの時間。
「―――――――」
なぜか言葉がつまる。
なんで、こんな些細な事で俺は胸を打たれていて。
なんで、こんな些細な事で、こいつはこんなにも嬉しそうにするんだろう。
……本当に、わからない。
今日一日、こいつと街を歩いてみて。
アルクェイドが、本当に吸血鬼なんていうモノなのか、ぜんぜん実感できなくて。
「……一つ、聞くけど」
――――やめろよ、志貴。
「ん、なに?」
「……その、おまえってさ」
――――そんなつまらないことは、やめろ。
「うん、わたしがなに?」
「……本当に、吸血鬼なのかなって」
――――どんな答えを期待してるんだ、おまえは。
「吸血鬼なのかって――志貴、いまさら何いってるの?」
「いまさらじゃない。今になってそう思っただけだ」
視線をそらして、そう言った。
「はあ。志貴ってあたまが柔らかいんだか硬いんだか。わたしは気にしないけど、それってひどい侮辱よ。なにを根拠にそんなこというのか、聞かせて」
根拠なんてない。
けど―――それと同じくらい、おまえが吸血鬼だっていう証拠がないんだ。
だから―――
「……だって、おまえは血を見るのもイヤなんだろ。そんな吸血鬼がいるもんか。自分で半人前だって言ってたけど、血を吸ったことのない吸血鬼なんて半人前以下だと思う」
―――そうじゃなくて。
たんに。こいつに、吸血鬼でなんか、いてほしくないんじゃないのか、遠野志貴の本心は。
「志貴。ちょっと立って」
アルクェイドがベンチによってくる。
言われるままに、立ちあがった。
「――――」
アルクェイドと視線が合う。
ちょうど距離にして二メートルぐらい、俺とアルクェイドは離れている。
はあ、とアルクェイドは大きくため息をつくと、いきなりにこりと微笑んだ。
「そうだよねー。わたしもホントはそう思ってたんだ。アルクェイド・ブリュンスタッドはほんとうに吸血鬼なのでしょうか? って」
あはは、とアルクェイドは笑う。
……ホッとした。
なにか、この質問はアルクェイドを傷つけるんじゃないかと―――そう思っていたから、アルクェイドが冗談のように受け止めてくれて、助かった。
「―――だよな。アルクェイドはどう見ても吸血鬼らしくない」
あはは、とアルクェイドは笑う。
「じゃ、試してみよっか」
笑いながら、アルクェイドはそんな言葉を口にした。
「試すって―――え?」
「わたしがホントに血を吸えるのかどうか、試そっか。もし出来たらなにかご褒美くれる、志貴?」
「な――――」
アルクェイドは笑顔のまま、一歩ずつ俺の方へと歩いてきた。
かつんかつん、と。
アルクェイドは足音をたてて近寄ってくる。
冗談だっていうコトは、お互いに解っている。
解っているのに――――体が、まったく、動かなかった。
「ま――――」
て、と言おうとして、言えなかった。
アルクェイドの力じゃなくて―――俺自身、その言葉を飲み込んでいた。
アルクェイドは近づいてくる。
一歩。また一歩。
うつむいたまま、少しずつ。
俺は――――指一本も動かせないまま、彼女の唇を、見つめている――――
「志貴は、わたしのことを半人前だって言ったけど」
頭の後ろに響くような、甘い声。
かつん、と足音が間近で止まる。
―――ほんとはね。血を吸うのなんて、簡単だよ。
そんな声が、耳元で、聞こえた。
[#挿絵(img/アルクェイド 18.jpg)入る]
がたん、と。
アルクェイドの体重が首元にかかる。
「―――――――」
喉が凍り付いて、言葉が出ない。
ただ、首元には、彼女の吐息だけがかかる。
―――それが、火のように熱いだけ。
「アル―――――」
名前を呼ぼうとして、やめた。
自分の意思で、止めた。
アルクェイドの名前を呼んでしまえば、彼女がすぐに離れるとわかっていたから。
「――――――」
アルクェイドの吐息が、こんなにも近い。
肩をつかむ白い指が、カタカタと震えている。
―――恐がって、いる。
俺の思考はまっさらで、恐怖も何もない。
ただ、アルクェイドだけがカタカタと震えていた。
顔は見えない。
首筋にかかる吐息だけが、彼女の体の震えに重なっていく。
はあ、という弱さから、はあはあ、という荒々しさに。
「アル―――クェイド?」
「冗談―――――なのに」
アルクェイドの声が震えている。
俺の肩をつかむ指は、もう震えていない。
そのかわりに―――鳥の爪のように、肩口に深く食い込んだ。
「っ――――!」
痛みに声があがる。
アルクェイドの爪はそれでも弱まらない。
離れようとする俺の体を逃がすまいと、万力のように食い込んでくる。
「アルク―――ごめん、悪ふざけがすぎた。からかって……悪かったから。―――離れて、くれないか」
「志――――貴」
アルクェイドの指が離れない。
―――まずいと。
理性が警鐘を鳴らして、両腕に力がこもった。
アルクェイドの体を押しのけようと腕が動く。
その前に。
ぐっ、と、両肩に痛みが走った。
「…………っっっ!!」
両腕が動かない。
両肩に食い込んだアルクェイドの指が、一層強く肩を掴んで腕が痺れてしまった。
「―――、―――、―――――――」
……首筋にかかるアルクェイドの吐息が乱れている。
狂しい。
アルクェイドの歯が、首筋に触れようとする。
「だ――――め……!」
ぎり、と肩をつかむ白い指に力がこもった後。
悲鳴のような呼吸をして、アルクェイドは俺から飛びのいた。
はあ―――はあ―――はあ――
切なげな呼吸が公園に響く。
荒々しい呼吸は俺と―――目の前でがくがくと体を震わせているアルクェイドのものだった。
「志――――貴」
全身を震わせて、まるで空気が吸えないみたいにはあはあと息をはいて、アルクェイドは呆然と自分の両手を見つめている。
白い指先は、俺の血で濡れていた。
赤い血が、指先を伝って手の平に、そうして腕へと滴っていく。
「あ――――」
それを苦しそうに、今にも倒れそうな体でアルクェイドは見つめている。
「……アルクェイド、今のは、その―――」
声をかける。
アルクェイドは手の平に伝う血の筋から視線をあげて、俺を見た。
「志―――貴?」
「……ああ、ここにいる。今のは、その―――冗談にしては、度がすぎてた、よな」
本当にただの悪ふざけという事にしておきたくて、そんな言葉を口にした。
けれどそれは逆効果だったらしい。
「志貴―――わたし、すごく――――」
アルクェイドの目が焦点を失っていく。
「喉が―――乾いてて――――」
体の震えはいっそう大きくなっていて、アルクェイドは今にも―――崩れてしまいそうなほど、不安定に見えた。
「お願い―――今夜は、志貴は帰って」
「おい、アルクェイド……!?」
そのまま、アルクェイドは走り出した。
あっというまに遠くなっていく。
さっきのように俺のことを気にしての速度じゃない。
俺なんかが全力で走っても追いつけないスピードで、アルクェイドは夜の街へ消えていった。
「――――な」
帰ってって、あんなものを見せられたあとでそう簡単に帰れるもんか。
「あいつ―――あんな苦しそうな体でどこ行くっていうんだ、ばか………!」
このまま家に帰ることなんて、できない。
見つけられるアテなんてないってわかっていながら、俺も夜の街へと走り出した。
―――アルクェイドの姿は見当たらない。
街は広すぎて、何の手がかりもなしで一人の人間を捜し当てるのなんて、不可能に近い。
こうして闇雲に捜すよりは、あいつの行き先を予想してヤマをかけたほうが幾分見つけられる可能性は高まるだろう。
それなら――
―――繁華街に的をしぼろう。
アルクェイドはあんなに苦しそうだったけど、苦しいからって休むようなヤツじゃない。
あいつは、志貴は帰って、と言った。逆に言えば自分は帰らない、ということだろう。
アルクェイドは一人で吸血鬼探しを行うつもりだと思う。
それなら―――繁華街に行って、こっちから先に吸血鬼だろうが死者だろうが見つけてやる。
アルクェイドは見つけられないけど、メガネさえ外せば死者を見分けることはできる。
「―――――よし」
メガネを外して、軽い頭痛に耐えながら、繁華街へと走り出した。
「うっ――――」
ずきり、とこめかみに痛みが走る。
……別段、意識して『線』を視ているわけではないけど、裸眼のまま街を歩くだけで、やはり脳に負担がかかるみたいだ。
「くそ―――だっていうのに、影も形も見あたらない」
……繁華街を歩いていく人達は、みな普通の『線』をしている。
以前に見た、全身がラクガキで塗りつぶされたような人影はどこにも見当たらない。
「……痛ぅ」
こめかみを指で押さえる。
メガネを外している限り、頭痛は強まっていく一方だろう。
それでも――そう簡単に諦めるわけにはいかない。
大きく深呼吸をしてから、もう一度繁華街を走りまわることにした。
「はあ―――はあ、はあ――――」
走り回った疲れと、頭の痛みで吐き気がする。
何度走り回っても、死者はおろか異状なものさえ見つからない。
額に手をやると、異常なぐらいに熱を帯びていた。
質の悪い風邪にかかって、四十度近い熱を出しているみたいだ。
「……くそ、まだまだ――――」
自分に言い聞かせて巡回を再開する。
――――と。
「……………あ」
ここじゃなくて、もっと離れたところ。
ビルとビルの狭間にある狭い路地裏で、なにか、バチバチと火花が散っているのが視えた。
いや、正確には。
死の『点』がパチンと弾けて、そのまま消えていくような感じ。
「――――あれは」
……間違いない。
以前、アルクェイドが死者を倒した時と同じモノだ。
あいつ―――あんな体だっていうのに、やっぱり一人で戦ってやがった……!
「―――見つけた………!」
疲れも頭痛も忘れて、路地裏へと走り出した。
路地裏の入り口。
ビルとビルの間にある細い道を走っていく。
『死』は、パチンパチンと弾けては消えていく。
……よっぽど多くの死者と戦っているのか、この量は異常だ。
「――――――くっ」
耐えられないのは。
路地裏に近づくたびに、ぎっ、ぎっ、と音をたてる背骨の軋みだった。
「はっ―――――あ」
まるで、ノコギリで少しずつ骨を切断されていくよう。
それは自分自身が出している痛みだ。
本能が叫んでいる。
この先に行くのは危険だから今すぐひき返せ、と。
「うる―――さい」
でも、そんなコトは言われなくてもわかっている。
この死の量は尋常じゃない。
この奥。路地裏で、なにか、ヤバイ事が起きているのはわかっている。
けど、今更引き返せない。
アルクェイドを放っておけない。
もし―――ここで自分が逃げ帰ったら、あいつは勝手に死んでしまう。
そんな予感がどうしても消えてくれなくて、自分から死が充満する路地裏へ足を踏み入れた。
「な――――――」
意識が、凍りついた。
そこに広がっている光景は、マトモじゃなかった。
地面に転がっている、何人ものヒトの形。
顔がなく、腕も潰され、はらわたを引き裂かれ、全身を真っ赤な色に染めた死体たち。
壁も、床も、ともすれば頭上の月さえも。
ここでは、ただ、赤かった。
ずしゃ、という鈍い音。
最後の一人だったのか、全身をラクガキに塗りつぶされたヒトガタは、彼女の手によって絶命した。
片手で。
死者の頭を壁に叩きつけて、トマトみたいに潰してしまう。
それでも飽き足らないのか、彼女は頭のない死体の体を縦に引き裂いて、そのまま路面に打ち付けた。
「アル―――クェイド」
月の明かりと赤だけの世界。
その中心にアルクェイドがいた。
彼女はこちらに気がついていない。
ただ月を見上げて―――恍惚と、荒い呼吸をくり返している。
「―――――」
声が、かけられない。
背骨の軋みは頂点に達している。
ノコギリは、もう骨を切断してしまったみたいだ。
――――ぎ、ぎ。
意識が悲鳴をあげている。
ココにいてはまずいと。自分はまだ死にたくない、と叫んでいる。
その時。
ぎょろり、とアルクェイドの瞳が動いた。
アルクェイドの目は、赤ではなく金色だった。
目が合ったわけではない。
ただ、俺が、その『眼』を見てしまったというだけ。
ド、クン。
体中の血が高ぶって、意識がトンだ。
―――番初めに感じたものは、圧倒的なまでの危機感か。
ここにいてはいけない。
アレの前にいてはいけない。
コロサレル。
カナイッコナイ。
あの『生き物』はレヴェルが違う。
レヴェルが高い低いというのではなく、レヴェルという判断基準そのものが自分たちとは違いすぎる。
アレの前では、ただ――――そこにいるだけで間違いなく殺される。
ドク、ン。
全ての血管が膨張する。
初めは恐怖。
その次に来たものは、完全なまでの殺意。
なぜなら、アレはいてはいけないものだ。
だから殺せ。はやく殺せ。ここで殺せ。すぐに殺せ。
この血の脈動にかけて、
アレを、
この場で破壊しろ―――――
心臓が跳ね上がる。
敵いっこないとわかっているのに、殺せと全身が鳴動している。
なんて矛盾―――殺されるとわかっているのに殺せというのか。
死にたくないから殺せというのに、この場にとどまって殺されろというのか。
「ガ――――、ア」
……だめだ。自分が、ここにはいない。
あの目―――あの金色の目を見てはいけない。
そう解っているのに、アルクェイドの目から逃れられない。
どくん、どくん、と血液が沸騰する。
抗いがたい血の躍動。
だが、それ以上に理性の殻を破ろうとするものがある。
「く――――はア、あ―――」
殺したいのは何のためだ?
死にたくないから、殺される前に殺すのか?
いや、そんな理由はぜんぜん違う。
殺意に理由は必要ない。
いいかげん素直になれよ、遠野志貴。
とっくの昔に―――おまえは、あの女を。
「だま―――れ」
いや、黙るのはこの理性のほうだ。
確かにその通り。
俺はただ、あいつが、アルクェイドが欲しいだけだ。思い出せ、あの時の感覚を。
初めて見た時から、そんなことはわかりきっていただろうに。
あの生き物をこの手で殺めて、殺人者としての童貞を失ったあの時から――――!
「ア―――――あ」
そう、全てが欲しい。
心も体も、
涙も唾液も、
血も肉も罪も罰も欲望も焦燥も――――――
「は―――あ………!」
呼吸が狂しい。
意識が保てない。
アルクェイドの目に、食われていく。
昏くゆらぐ金の瞳。
それは、
殺しても殺したりないほどの。
「―――志貴!?」
アルクェイドが、オレに気がついた。
彼女はオレがその目に見惚れていると気がついて、すぐに瞳を赤色に戻す。
けれど、いまさら。
そんなことは遅すぎる。
ナイフを手にして、アルクェイドを押し倒した。
アルクェイドの体には力がなくて、押さえつけるのはとてもたやすい。
馬乗りになって。
片腕を女の首に、ナイフを持ったもう片腕を高々と 振りかざす。
あとは。
その胸の谷間に、この一撃を落とすだけ。
「落ち着いて―――! それは貴方の意思じゃないでしょう、志貴……!」
アルクェイドの声が聞こえる。
あたまの芯が、ぐつぐつと煮えたぎってる。
「だまれ―――――!」
首をしめる腕に力が入った。
アルクェイドは苦しげにアゴをあげる。
……信じられない。
あんなにも強靭な命が、今はこの腕一本さえ振り解けずにいる。
「志―――貴」
苦しげな呼吸のまま、アルクェイドはそう喘いだ。
どくん、と。
心臓が、血の高ぶりで脈動する。
「はあ―――はあ――――はあ――――」
呼吸が乱れる。
まともに視界が働かない。
体が熱くて―――いますぐに、解放されたい。
「はあ―――はあ――――はあ――――−」
体をずらす。
女のハラに乗っていた腰をスライドさせる。
アルクェイドの両足を開かせて、その間に体を沈める。
「なっ……」
不安そうに見つめてくる。
その視線が、よけいにこっちのあたまをどうにかしやがる。
「はあ――――はあ――――はあ――――」
充血する。
生殖器は痛いぐらいに勃起して、オレは、いますぐこの女を犯さなければ気が狂いそうだった。
朱のかかった頬。
柔らかな首筋。
オレの下になった、これ以上ないっていうぐらいの、女の躯。
「はあ―――はあ―――はあ―――」
躍動が伝わってくる。
「はあ―――はあ―――はあ―――!」
金色の。魂さえも吸いこまれそうだった、瞳。
首から腕が離れる。
そのまま女の胸に触れた。
体に触れた。足に触れた。
服の下の白い腹に指を這わせて、その、冷たい体温を感じ取った。
「だめだってば―――こんなの、志貴らしく、ない………!」
熱を帯びた声。
懇願するような赤い瞳。
それで、オレの意識は完全にタガが外れた。
[#挿絵(img/アルクェイド 33.jpg)入る]
「ん………!」
羞恥を押し殺すような、そんな声が聞こえた。
アルクェイドは、必死に両手でオレを突き放そうとする。
その腕を両方とも掴んで、動けないように地面に押さえつける。
釘でもあれば良かったか。
オレに両手を押さえつけられたアルクェイドは、ちょうど十字架にはりつけにされたような格好でオレを憎々しげに見つめていた。
「―――――く」
その姿が、よけいに艶かしい。
こっちも両腕は使えない。放せばアルクェイドは間違いなくオレの首を削ぐだろう。
その緊張感。犯すというよりは殺しあっているような力の拮抗ぐあいが、ケモノじみた性欲に拍車をかける。
「―――やめ、て―――やめないと、後かい、する―――」
そんなありきたりの台詞、最後まで言わせない。
オレは唯一自由になる口で、アルクェイドの服を剥いでいく。
はあはあと乱れた口で、粗暴に剥いでいく。
「……んっ、志貴、落ちつい、て―――!」
体をかすかに、ビクビクと痙攣させながら、まだそんな抵抗をしている。
――――ハ、ア、と。
乱れきった俺の吐息が、アルクェイドの腹をなぞった。
「あ――――ん…………!」
よほど敏感なのか、それだけで彼女は身をよじらせた。
……ぞくぞくする。
服をずらしながら、白い肌に舌を這わせた。
「志貴、だめ―――!」
アルクェイドの腕に力が入るが、今はオレのほうが強い。
抵抗なんてさせない。
そのまま服をずらしていく。
途中、胸の隆起でつっかえたが、強引に上着を上げた。
ぶるん、と二つの胸が上下する。
カタチのいい、確かな女の証がそこにある。
そのまま、片方の胸に歯を立てた。
「んあ――――!」
アルクェイドの声があがる。
びくっ、と体が弓反りになってはねあがる。
かまわない。
食いちぎる寸前まで歯をたてて、味わうように舌を這わせる。
「志……貴………、やめ………!」
アルクェイドの声がわずかに熱くなった。
ピンク色の乳首が固くなっていく。
牡の勃起と同じなのか、アルクェイドの乳首は触れれば触れた分だけ、理性とは無関係に、固く固く起っていく。
「ん―――――――!」
それが恥ずかしいのか、アルクェイドは必死に声を殺している。
「志貴――――こんなコトして、後で―――」
アルクェイドの声を無視して、その胸に舌を這わせた。
「ん……あ―――!」
ガクン、とアルクェイドの顔がゆれた。
力を入れれば入れた分だけ弾いてくる胸の感触。
白い胸は段々と高揚していって、じれったくなるような赤みを帯びていく。
しゃぶりつくように胸に吸い付いた。
「……っ……んん……ぁ、ん――――」
熱っぽい声。
汗ばんでいく女の体。
くん、とゆれうごく顔は、そのたびに苦しげな吐息をあげる。
柔らかい乳房を、舌だけで蹂躙していく。
意味などない。
あるのは、ただ、舐めて、濡らして、責めてみたいという欲求だけ。
胸に顔をうずめる。
白い乳房は唾液にまみれて、てらてらと鈍く光っているように見えた。
「……はっ……やめ、て………ぜったい……、こんなの、許さない……か、ら……!」
歯を食いしばるような声が聞こえる。
まだ羞恥を捨てきれない、半端な声は勘に障る。
乳首をかんだ。
「んっ、くっ――――!!」
ビクッ、ともう一度アルクェイドの体がはねる。 今度はもっと高く。
胸を強調するように、跳ねたというより爆ぜたという感じ。
丹念な愛撫をするつもりなんかない。
そのまま顔を動かす。
「や、やめ……志貴、おねが、い―――」
舌を乳首から胸の間に。
「そこ、さわられたら、わたし、だめに―――」
白い肌に消えない跡をつけるように、強く、素肌を吸い続けた。
「ふぁ―――!」
アルクェイドの両腕が暴れる。
それを押さえつけながら、舌を這わせた。
胸元から鎖骨へ、そこから首筋へと濡らしていく。
「ちがうよ……しき……は、わたしのコト、すき、じゃ、ない……のに……!」
知らない。
そんな事は聞こえない。
汗ばむアルクェイドの体は、理性を完全に消していく。
ただでさえ美しい肢体は、汗にまみれてよけいに際立って見える。
―――どくん。
血の流れが痛い。
男根は、いますぐにでもアルクェイドの中に入りたがっている。
「ハァ、ハァ、ハ―――ァ」
我慢する必要なんてない。
やりたいのならやればいい。
アルクェイドの首筋から離れて、下腹部の茂みまで口を動かした。
「っ…………!!!」
一際強くアルクェイドの体が暴れる。
このままでは両腕も解かれそうだ。
その前に。
へそのくぼみよりさらに下。
金色の茂みのただなか、
ピンク色にひくつくところ、淡く盛り上がった肉の襞に舌を這わした。
二枚の襞を割るように舌を刺し入れて、上部にある丸い隆起を軽くはむ。
「あ―――だ、め――――!」
びくん、と背中を反りかえらせるアルクェイド。
女性の性感帯の中で最も強い部分を噛まれたのだ。
こんな、ただ全身を舌で舐められていただけの感覚とは、それこそ快感の次元が違う。
見れば。
アルクェイドの中は、粘膜と粘膜の間からじくりと水気を帯び始めている。
熟れすぎた果実がその瑞々しさをほこるような、水滴めいた蜜の匂い。
まだ異物を挿入するには潤滑油は足りていないが、かまわない。
別にこの女をまともに抱こうだなんて考えは、この頭には微塵もない。
オレはただ―――この女の体が欲しいだけだ。
「―――――志、貴」
これから何をされるのか悟ったのか、アルクェイドの声は弱々しい。
抵抗する気をなくしたのか、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
「―――――」
潤んだ、瞳。
それは。
泣いている、というコトなのだろうか。
「ぐっ…………!」
頭痛が走る。
走り続けろ、と本能が叫んでいる。
ここで止まれば命はない。
ここでこの女を組み伏しておかなければ、後々になって必ず寝首をかかれるだろうと―――心臓が猛っている。
「――――――」
泣いている。
なんで―――泣いてるんだろう。
俺だったら、決して、泣かせたりしないのに。
頭痛が走る。
走れと叫ぶ。
――――迷うなんて、どうかしてる。
やることなんて決まってる。
俺は、アルクェイドが――――
―――できない。
アルクェイドがイヤがるような真似は、二度とできない。
俺は一度、この頭痛にうなされて彼女を殺してしまった。
だから、もう二度と。
自分に負けてアルクェイドを泣かせるようなことだけは、たとえ頭痛でこの頭が破裂しようとも、やってはいけないコトじゃないのか―――
「は――――あ!」
アルクェイドから離れた。
頭痛も消えて、心臓も普通に戻っている。
さっきまでの凶暴なココロは消えて、俺はようやく、今まで自分が何をしていたかを振りかえれた。
「―――なんて―――こと、を」
自分でも信じられない。
けれど、はっきりと記憶に残っている。
アルクェイドを押し倒したこと。
その首をしめてナイフで刺そうとしたコト。
……そして、そのあとの陵辱行為を。
「―――――」
言葉がない。
アルクェイドは服を正して立ちあがっている。
俺は―――なんて謝罪すればいいんだろう。
すまなかった、なんて、そんな言葉で許されるようなコトじゃ、ない。
「―――アルクェイド、俺は――――」
「気にしないでいいわ。……謝らなくちゃいけないのはわたしのほうなんだから」
アルクェイドは気まずそうに視線を逸らして、そう言った。
「なっ――なに言ってるんだ、悪いのは俺のほうだ。俺が―――もっとしっかりしていれば、こんなコトには、ならなかった」
「無駄よ。志貴の力じゃ抑えることはできなかったと思う。志貴はわたしの『魔眼』を見てしまったんだから」
「え―――? 魔眼って、ネロみたいな、あの目のことか……?」
「……そうよ。わたし、さっきは正気じゃなかったの。どうしようもなく乾いてて、自分じゃ解決できなかった。
だから―――死者たちを見つけて、ある衝動を破壊衝動に置き換えて、なんとか持ちこたえようとしたの。
その時、わたしは自分を抑えていなかったから―――やってきた志貴が、わたしの魔眼を見てしまったのよ」
「……たしかに俺がおかしくなったのもアルクェイドの金の瞳を見てからだけど―――けど、やっぱりそれだけじゃないか。俺は、自分で――」
「それが違うのよ。
志貴、わたしの魔眼は魅了の魔眼っていって、見たものを自分の虜にするものなの。……志貴がわたしに性的欲求を感じたのも、きっとそのせいなんだと思う」
「――それは―――違うと、思うけど」
だって、アルクェイドに操られていなくても。
俺はこいつのことを、好きかも、しれないんだから。
「とにかく、今回の事はわたしの不注意だったわ。……ごめんなさい、志貴。貴方の心とは関係なく、貴方の体を操ってしまって」
アルクェイドは目を反らしながら言う。
……そんなふうに謝られると、胸が痛い。
だって俺には操られていた意識なんかまったくなかった。
むしろ―――それをよしとして、自分から欲望に従ったようなものだったのに。
「アルクェイド、俺は――――」
「謝らないで。……志貴、これは事故よ。わたしも忘れるから、貴方も忘れて。そうしたほうが、きっとお互いのためになるわ」
アルクェイドはそう言うと、静かに歩き出した。
「……アルクェイド……?」
「―――今夜はこれで終わりにしましょう。これで死者たちはみんな殺してしまったから、これ以上歩きまわるのは無意味だわ」
「……それはいいけど、この死体の山はどうするんだよ。人に見られたら大変だぞ」
「心配する必要はないわ。一度吸血種になったモノの遺体は残らない。土に還ることを拒んだ彼らは、消滅すれば灰になって空に散るだけよ。しばらくすれば独りでに塵に還ってくれるから」
アルクェイドは振りかえらず、どこか弱々しい足取りで路地裏から立ち去っていった。
「………………」
それを引き止めることなんて、今の自分にはできない。
両手には、まだアルクェイドの感触が残ってしまっている。
「―――ばか。なんて大馬鹿野郎なんだ、俺は」
一人、そう呟いて。
惨劇の舞台となった路地裏で、懺悔するように月だけを見上げていた。
[#改ページ]
●『10/朱の紅月U』
● 10days/October 30(Sat.)
―――朝になった。
目が覚めて、枕元のメガネをかける。
窓越しに見える空は、雲一つない青空だった。
「………………」
非の打ち所のない朝を迎えたっていうのに、気分は暗く沈んでいる。
理由は考えるまでもない。
昨夜のアルクェイドとの一件が脳裏から離れてくれず、そのたびに罪悪感にさいなまれてしまうせいだ。
「……お互い忘れましょうって―――忘れられるわけないだろ、あれが」
じっと両手を見つめる。
この指はまだアルクェイドの体を覚えている。
今もあいつの肌の手触りとか、冷たく滑るような体温を思い出せる。
あの時は何も考えられなかったけれど、こうして振り返ってみればはっきりとわかる。
あんなコトをしておいて。
アルクェイドは忘れましょうと、無かったコトにしてくれたっていうのに、俺はそれを悔いると同時に、これっぽっちも忘れられないでいる。
悔いることがあるとすれば、あの時どうして自分はまともな理性を持てなかったのか、という事だけだ。
あんな動物みたいに触れるんじゃなくて、もっと人間として触れていれば、それはどんなに―――
―――わかってた。
俺はアルクェイドの金色の目を見て我を失ったんじゃない。
ただ自分自身で気がつかなかっただけで、もうずっと以前から、遠野志貴はあいつ自身にいかれていたんだ。
そんな単純なことを、俺は今になって気がつくなんて――――
屋敷の朝の光景はいつもと変わらない。
翡翠が起こしにきてくれて、居間に行くと秋葉と琥珀さんがいて、学校に行く前に軽い挨拶をかわす。
いつもと何も変わらない。
なのに気分はどうしようもなく空っぽで、誰に話しかけられてもまともに返事をする事もできず、上の空で屋敷を後にした。
正門をくぐる生徒たちはみな陽気そうだった。
「そっか。今日は土曜日だったっけ」
ここ数日間、アルクェイドに振りまわされていたせいでまるっきり曜日の感覚がなくなっている。
曜日といえば、初めてあいつと出会ったのは金曜日だったけど。
あいつは一週間前の朝、学校の前の交差点で俺を待っていたんだっけ。
「……あいつ、笑ってたよな、たしか」
そういえば、たしかに笑っていた。
自分を殺した相手を待ち伏せしていたっていうのに、楽しそうに目を輝かせて遠野志貴っていう殺人者を待っていた。
「……なんでだろうな。もし今夜あいつが来るなら、理由ぐらいは聞いてみようか」
呟いて、よけい気が重くなった。
たぶんアルクェイドは公園にはやってこない。
思い返せば思い返すほど、昨日の夜は最後の夜だったんだと実感する。
こんなにも気が重くて、何もかもが上の空なのはそういうコトだ。
俺はもうアルクェイドには出会えないかもしれない。そんな後悔が、重い鎖のように体に纏わりついてしまっている―――
自分の机に座る。
ホームルームまであとほんの五分ほど。
何をするでもなく、ただぼんやりと校庭を眺めていた。
「このさぼり魔。昨日も学校を休むなんて、いったい何をしているんだろうね、遠野くんは」
「…………」
はあ、と重苦しいため息をもらす。
いつもなら相手をしてもいいんだけど、今日にかぎっては有彦の相手をするほど元気がない。
「……なんだよ、またえらく元気がないな。昨日は学校にはこない、来たら来たでヌケガラとはね。やだやだ、遠野がそんなんだと学校にきても面白くもなんともない」
有彦は大げさに肩をすくめる。
「―――有彦。悪いけど今日は一人にしてくれ。いいだろ、俺なんかがいなくてもおまえには先輩がいるんだから。いや、むしろ俺がいないほうがラッキーなんじゃないか?」
「は―――? 先輩って、オレ三年に知り合いなんかいねえけど?」
「……なに言ってるんだおまえ。シエル先輩は二年生じゃなくて三年生だぞ。……そりゃあまあ、時々あの人は下級生なんじゃないかって思う時もあるけど、基本的に先輩は先輩だよ」
「しえる先輩って……誰それ? うちの学校に留学生なんかいたっけか?」
有彦は真剣に首をかしげている。
「なに言ってるんだ、先輩はれっきとした日本人……」
いや、待て。
あの人が日本人だなんて、誰も言ってない。
「……そりゃあ誰も言ってないけど、でも、みんな当たり前にあの人のことをシエル先輩って呼んでたじゃないか」
「だーかーらー、誰だよそのらるく先輩って。どうしたんだ遠野、病み上がりであたまイッちまってるのか?」
有彦の軽口も、よく聞こえない。
「な……………」
そうだ。どうしてそんな明白な違和感に気がつかなかったんだろう。
シエルなんていう名前、どう考えたって日本人じゃないじゃないか。
俺はあの人と知り合いだったのに、フルネームさえ知らない。それどころかあの人が何年何組の先輩なのかって事さえ知らない。
そもそも。
俺はあの人と初めて出会った時、どうして昔っからの知り合いだなんて思い込んだんだろう……?
「――――――!」
ガタン、と音をたてて椅子から立ちあがる。
「? どうした遠野、おまえさっきから愉快すぎるぞ」
「ちょっと職員室に行ってくる。わるいけど担任にはうまく言っておいてくれ」
首をかしげる有彦に背を向けて、教室から駆け出した。
職員室にいって三年生の名簿を調べてみれば、やはりシエルなんていう生徒は存在していなかった。
念のため職員室にいる教師にも聞いてみたが、シエル先輩の事を覚えている教師は一人としていなかった。
◇◇◇
放課後。
土曜日という事もあって、ホームルームが終わるやいなや、クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように教室から出ていった。
「――――」
せっかくの土曜日だっていうのに、何もやる気が起きない。
それこそ死者のような生気のなさで、一人屋敷への帰路についた。
「お帰りなさいませ、志貴さま」
屋敷に帰ってくるなり、翡翠が出迎えてくれる。
わざわざ待っていてくれたっていうのに、そんな翡翠に空返事しかできず、自分の部屋に引きこもった。
―――夕食が済ませて、部屋に戻る。
アルクェイドとの約束の時間まで、あと少し。
「……そろそろ行くか」
あいつが来るかどうかは分からない。
それでも、もう二度と約束は破らないと誓った以上、自分から約束を破棄するわけにはいかなかった。
十時より少し前に公園に着いた。
あたりに人影はまったくない。
ベンチに座って、時計の秒針を数えるように、ただアルクェイドが来るのを待った。
十一時になった。
……公園は凍りついたように停止している。
新しい空気の流れ、やってくる人の気配なんて皆無だ。
アルクェイドがやってくるような気配はない。
時間だけが、ただ無為に過ぎていく。
俺は―――……まだ待ってみる。
――――時計の針は二つとも頂点に差し掛かろうとしている。
ここにきてから二時間。アルクェイドがやってくるような気配はない。
俺は―――……まだ待ってみる。
…………公園の時計は十二時を指している。
約束の十時から二時間が経ってしまった。
「―――ふう」
ベンチにうなだれて、ため息なんかをついてみる。
「……やっぱり来ないのかな、あいつ」
分からない。
分からないけど、このまま帰る気にはなれない。
「―――ああ、こうなったら朝になるまで待ってやろうじゃないか、くそ」
ほとんど自棄になってベンチに踏ん反りかえる。
――――と。
「………あれ?」
ちょっと待った。
休憩所の裏手に、いま、白い影がチラッと見えた気がする。
……あまつさえ、こっちと目が合った瞬間に引っこんだような、そんな動き。
「―――――」
ベンチから立ちあがって、ずかずかと休憩所まで歩いていく。
……隠れきれない、と判断したのか、白い影はひょっこり顔を出してきた。
「あははー、見つかっちゃったー」
もう、これ以上ないっていうぐらいの陽気さで、アルクェイドは現れた。
「アルクェイド、おまえ―――」
「ん? なに?」
「―――ほんとに、来たのか」
まだ信じられなくて、そんなコトを言ってしまった。
「来たのかって、約束なんだから来るわよ。それも志貴より十分ぐらい早く来てたんだから」
ふーんだ、とアルクェイドはそっぽを向く。
「……十分早くって、その、俺は―――」
十時前に来てたんだけど、それより先に来てたっていうことなのか?
「なんで……? 俺より先に来てたなら、どうして声もかけずにそんなところで待ってたんだよ」
「なにって、隠れて志貴の様子を見てたに決まってるでしょ」
「―――――」
……そうか。
いつもと変わらないような素振りをしているけど、アルクェイドも昨日の事を気にしているんだ。
だから―――顔を合わせづらくて、そんなところで隠れていたのかもしれない。
「……ごめん。そうだよな、やっぱりそう簡単には―――」
「ほんとよ。志貴ったらこっちにぜんぜん気がついてくれないんだもの。
わたし、いつ見つかるかなってどきどきして待ってたのよ。
たまには違った趣向で待ち合わせをしてあげたっていうのに、志貴がぼんやりしているおかげで台無しになっちゃったわ」
「――――え?」
台無しって、なにが。
「アルクェイド―――おまえ、気まずいから隠れてたんじゃないのか……?」
「なんで? たんに退屈だから志貴で遊ぼうって思っただけよ、わたし」
本当にあっさりと、こっちの焦燥なんて微塵も知らずにアルクェイドは言いきった。
「……俺で遊ぼうって、おまえ―――」
会えた、という嬉しさは一瞬にして消え去った。
会えた後どうしようか、なんてコトを悩む雰囲気でもない。
……っていうか、こいつは相変わらず、こっちの気持ちなんてわからないで自分勝手に飛びまわる極楽とんぼだ。
「―――――は」
夜空をあおいで、大きく胸に息を吸い込む。
あたまにきたっていうより、呆れた。
あんまりにアルクェイドがいつも通りなんで、安心したのかもしれない。
その証拠に、あれだけ重く濁っていた心がすっきりと洗浄されてしまったみたいだ。
「……まいった。おまえには、敵わない」
「そう? たんに志貴がぼんやりしてただけなんだけどな」
「いや、隠れんぼのことじゃなくて」
……まあ、口にしても仕方がないか。
「それより、会えてよかった。正直に言うと、もう会えないかなって思ってたから」
「―――え? 志貴ったら、たった二時間待たされただけなのにそんなコト思ってたの?」
「……違う。昨日、あんなコトがあったから。俺は、もう会えないってずっと思ってたんだ」
「――――」
「……だめだよ、志貴。あのコトは忘れましょうって、言ったのに」
アルクェイドの声は弱々しい。
「あ―――――」
……バカ。
もう、これ以上ないっていうぐらい、俺は馬鹿だ。
アルクェイドがいつも通りだなんて、勝手に、自分の都合のいいように思っていた。
けど、それは違う。
アルクェイドはアルクェイドなりに、俺の事を気遣っていつもと変わらないように接してくれていたのに。
「……悪い。俺が馬鹿だった。これじゃおまえのことを怒鳴る資格なんかないよな」
「もういいって言ってるのに。責任があるとしたらそれはわたしのほうなのよ。だから忘れて。そのほうがお互いに都合がいいでしょ?」
アルクェイドは明るい口調でごまかそうとする。
昨夜の事とか、それを気にしている自分とかを。
けれど。
そんな顔をして忘れろ、と言われても、よけいに忘れられるはずがない。
「―――違う。俺が悪いって言ってるのは、昨夜のことじゃない。俺が俺自身を馬鹿だっていっているのは、忘れるべきことをどうしても忘れられないからだ」
「え―――志貴?」
「今日だって朝からずっとおまえのことを考えてた。おまえに会えたらなんて謝って、なんて言ったらいいだろうって、ずっと考えてたんだ。
それを、いまさら―――忘れることなんて、できるわけないだろ」
「――――」
アルクェイドは俺から視線を逸らす。
俺も―――彼女を正面から見ることはできなかった。言ってはいけない事を言ってしまった気がして、彼女と目が合わせられない。
アルクェイドからの返答はない。
お互い、相手の次の台詞を待って、結果として、長い沈黙が訪れた。
―――どのくらいの時間、そうして二人きりで立ち尽くしていたのかわからない。
ただ、アルクェイドはかすかに頷いた。
「……うん、ほんとうのことを言えばね。
「わたしだって忘れられなかったよ、志貴」
頬を赤らめて、言いにくそうにアルクェイドはそう言った。
「アルクェイド――――」
その姿がどうしようもなく、可愛い。
そう思えた瞬間―――アルクェイドはザッとまわりを見渡した。
いつのまにか周囲には何人もの人影が集まっていて、こちらを取り囲むように、じっと息を殺している。
「な………!」
突然のことで思考が働かない。
「囲まれてるわ。志貴、準備をして。戦わなければ殺されるだけよ」
「戦うって、それじゃあこいつら―――」
「志貴もメガネを外せば解るでしょう。彼らは、指の一本にだって正常な血が流れていない“死者”の群れよ」
「…………!」
急いでナイフを取り出して、メガネを外す。
たしかに。
俺とアルクェイドを取り囲む五人ほどの人間は、人のカタチをしたラクガキの線だった。
「なんで―――! 死者はもう打ち止めだって昨日言ったじゃないか、アルクェイド!」
「―――ええ。このヒトガタたちは昨日の夜、わたしが滅ぼした死者たちよ」
アルクェイドは目を細めてまわりの死者たちを睨む。
じり、と緩慢な動作で死者たちは近寄ってくる。
「昨日って、それじゃあ死んだふりをしてたっていうのか……!?」
「まさか。わたし、そんな事を見逃すほど弱ってないわ。……けど、気が抜けてるのは弁解のしようがないかな。こいつらが灰になって消え去るのを見届けなかったんだから」
じり。
さらに包囲網を縮めてくる死者たち。
ナイフを構える自分の指が、かすかに震えている。
はっきりいって、ここにいるどの死者からも重圧は感じない。
ネロっていう怪物に比べれば、こんな連中はカカシと言ってさえいい。
―――けれど、五人。
俺は、こんな多くの死者を―――もともとは人間だったモノを、相手にすることが出来るのか。
「――志貴、ためらえば死ぬのよ。こいつらはもう生き物じゃない。吸血鬼に血を吸われ、死者となったあとにわたしに二度目の生も無に帰されて――それでも無くなる事を許されずに使役される、ただの人形。これを殺すことは罪ではないわ」
背中越しにアルクェイドの声が聞こえる。
いつのまにか、無防備な俺の背中にまわりこんでくれていたらしい。
「ちょっと待ってくれ。どういう事だよ、それ」
「……世界には亡骸を操る魔術は多いっていうこと。人間の死体っていうのは動物や無形のものより魔力を込めやすいから便利に使われるものなんだけど―――ざんねん、詳しく説明する余裕はないみたい。
来るわよ、こいつら」
アルクェイドの気配が離れる。
同時に、死者たちが襲いかかってきた。
死のカタチが、襲いかかってくる。
両手をあげて、ただ無造作に飛びかかってくる。
「――――くっ!」
大きく横に跳んで、死者の突進をやりすごす。
と、背後にイヤな気配を感じた。
「こ―――の………!」
全力で振り向く。
そこには同じように、無造作に殴りかかってこようとする死者がいた。
――――死者の体には、『線』がない個所がないぐらいに死が満ちている。
故に、どこを狙ってもナイフはたやすく彼らの肉体を切断するだろう。
しかも死者の動きは緩慢だ。
ネロが出してきた、どんなケモノよりも劣っている。
「――――――」
死者が襲いかかってくる。
彼らは、簡単に、殺せる。
振り上げられた腕をかわして、その無防備な左下腹部。
『線』という血管が蠢く中にある、
『点』という心臓を直視する―――
「く―――そぉ………!!!!」
ざくん、という音。
ナイフは、死者の左下腹部ではなく、振り上げられた腕だけを切断した。
片腕になった死者は、なんら躊躇うことなく襲いかかってくる。
もう一人の死者も、恐れることなくやってくる。
片腕の死者が襲いかかってくる。
それをやり過ごした隙をついて、もう一人の死者が後ろから覆い被さってきた。
「あ――――」
ごりっ。
後ろから、こちらにおんぶをする姿勢になって。
死者は、俺の首筋に噛みついてきた。
血を吸うとか、そういった行為じゃない。
これは動物が獲物を即死させるために、首を噛みきろうとする行為と同じだ。
「ぐっ――――!」
人間の口で首筋を噛みきれるものなのだろうか。
食い込んだ死者の口は浅い。奥歯ではなく前歯で噛みついてきている。
結果、ぱきっと音をたてて、死者の歯のほうが折れた。
それでも―――まったいらになった口で、死者はこちらの首を噛みきろうとしてくる。
痛みはあまりない。
ただ、おぞましかった。
「あ……あ、あ―――」
前からは片腕の死者が歩いてくる。
とにかく、後ろからしがみついた死者を殺さなければ、殺されてしまう。
方法はたやすい。
いまだ噛みきろうと無駄な行為を続けている死者の顔を、さっくりとナイフで切断すればいいだけの話だから。
「――――――」
でも―――それは、人を殺すということだ。
わかってる。
彼らはもう人間じゃないって、生きてさえいないんだってわかってるのに―――それは、いけない気がするんだ。
―――なんて甘さ。
たとえ死人だとしても。
人のカタチをしたもの、そうやって動いているものを。
同じ人間である俺が殺してしまうのは、何か、決定的に間違っている気がして――――
「志貴―――!?」
遠くで、死者たち三人を相手にしているアルクェイドの声がした。
思わず、もう目の前に死者がいるっていうのに、声の方向に視線を移す。
―――と。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
「―――――」
アルクェイドが、傷を負ってる。
あんな緩慢な動きの、あいつだったらそれこそ一秒とかからずに仕留めてしまうような死者たち相手に、アルクェイドが追いこまれている。
彼女の呼吸は荒い。
足取りもおぼつかなくて、あんな―――俺でさえ簡単にやりすごせる死者の一撃を、まともにくらっている。
どん、と死者の腕がアルクェイドの腕を引き裂く。
アルクェィドの反撃。
彼女は傷つけられた反動で死者の体を頭から腰まで、強引に二つに裂いた。
地面に二つになって崩れ落ちる死者。
同時に―――死者にわだかまっていた黒い死の波が、アルクェイドに乗り移っていく。
「ア―――」
がたり、とアルクェイドはひざまずいた。
ここからでも解るぐらい、はあはあと呼吸を荒だたせて。
そこへ―――二人の死者が襲いかかった。
ひざまずいて動けないアルクェイドの顔を蹴りつけて、地面に倒れこませる。
「や―――」
そのあとに、連中は。
表情がないくせに、下卑た笑いをうかべて、アルクェイドの体にのしかかった。
「やめ―――」
……十字架に張りつけるみたいに。
昨日の夜、俺が、そうして彼女を陵辱した時みたいに。
「やめろ、てめえら―――!」
トスン。
後ろから噛みついてきていた死者の顔を切断する。
俺の目の前でなぜか停止していた死者の左下腹部を突く。
そこが死者の『死』だ。
ざあ、と音をたてて崩れ落ちる死者を見る事もせず、振り返って顔のない死者も、殺した。
走る。
彼女にのしかかった死者たちが、こちらに気がついて立ちあがる。襲いかかってくる。
「―――――」
問題は、とりあえずなかった。
襲ってきた順に、死の『点』を切断した。
「は―――――あ」
全て終わって。
ようやく、呼吸が戻ってきた。
「は―――あ」
目の前には灰になっていく人型が四体。
アルクェイドが仕留めたものをいれれば五体か。
「は――あ」
殺した。躊躇いもせずに、息の根を止めた。
「は、あ」
あたまが、うまく思考してくれない。後悔とか自戒とか、まあそういったモノが自分を責めたてているせいだろう。
「はあ―――はあ―――はあ」
それでも、いい。
アルクェイドが傷つくよりは、ずっといい。
俺は初めて。
間違いなく自分の意思で、ちゃんと遠野志貴っていう理性を保ったままで―――誰かのために、この力を使ったんだ。
「はあ―――はあ―――はあ」
呼吸が定まらない。
その荒い呼吸に、かすかな喘ぎ声がまざってくる。
「………アルクェイド」
振りかえれば、アルクェイドはまだ苦しそうにひざまずいたままだった。
「大丈夫か、アルクェイド……!」
アルクェイドに駆け寄る。
彼女は背中をまるめて、はあはあと、まるでそれだけしか知らない生き物のように苦しんでいる。
「どうしたんだよ、体中に汗をかいてるじゃないか。体の傷、開いちまったのか……?」
しゃがみこんで、アルクェイドの顔色を見ようとした。
「志――――き」
けれど、アルクェイドは片手で顔を覆ってしまっている。
顔色が見えない。
見えるのは―――指の隙間にある、赤く血走った瞳だけだった。
「―――」
アルクェイドの苦しみようは普通じゃない。
はあはあと、途切れ途切れにもらす呼吸は喘ぎにも似て、どこか妖しい。
飢えた呼吸。
血走った目。
切なげに乱れた金の髪。
「アル―――ク」
――――ぞくん。
なにか言いようのない危機感を覚えて体が後ろに下がる。
けれどそんな俺の動きより、俺の血を吸おうとする彼女の牙のほうが、何倍も速かった。
[#挿絵(img/アルクェイド 19.jpg)入る]
アルクェイドの腕がのびる。
そのまま俺の体を押さえつける。
「アル―――」
名前を言おうとして、呼吸が止まった。
血走った目。
ケモノの歯のように鋭くとがった歯。
意思の疎通などできようのない、圧倒的なまでの重圧感。
いま、目の前で俺の首筋に牙をたてようとしているモノは、遠野志貴の知っている彼女じゃなかった。
何もできない。
指先さえ動かない。
食われる、とは。
ただ捕食される立場というのは、こういうことか。
じくり、と首筋に牙が刺さる。
あたまのなかにあるのは、ただ、恐怖だけだった。
「ひ――――!」
悲鳴をあがる。
自分で、自分の声を聞いて情けないな、と思った瞬間。
ほんとうに、気のせいかもしれないけれど。
アルクェイドの動きは、そこでピタリと止まってくれたような気がした。
が、それを確かめるより前に。
ドン! と目の前で激しい炸裂音が響いて、俺に襲いかかってきたアルクェイドの体が横なぐりに吹っ飛ばされた。
「な――――」
まるで真横から車にでもはねられたように、アルクェイドは何メートルも吹き飛ばされた。
それでも傷ひとつないのか、アルクェイドはすぐさま起きあがる。
「わた………し」
アルクェイドは呆然としている。
俺も―――何をするべきなのか、考えることさえできない。
そこへ。
「彼の血を吸おうとしたんですよ、貴女は」
叩きつけるような、冷たい声がかけられた。
「それが貴女の本性です、アルクェイド・ブリュンスタッド」
容赦のない声は、頭上から聞こえてきていた。
[#挿絵(img/シエル 16.jpg)入る]
月を見上げる。
そこには―――いつかの夜を焼き直すかのように、法衣姿の人影があった。
「先、輩――――」
間違いない。
どう見ても、あの人影はシエル先輩本人だ。
先輩は足元にいる俺を見ようともせず、遠くでひざまずいているアルクェイドを睨んでいた。
「同族である吸血鬼を滅ぼして回ろうが、貴女が吸血種である事に変わりはありません。
……何のつもりで彼を引き入れたかは知りませんが、いずれこのような結果になると考えなかったのですか、貴女は」
先輩の声は、いつもとはまるで違う。
厳しくもなく優しくもない。
何の感情もない声は、ひどく―――人間味というものが欠けていた。
微かな足音もたてず、先輩は街灯の上から地面に降り立った。
「本来ならわたしの与かり知らぬ事ですが、一般人が貴女に殺されるのを見過ごすわけにはいきません。
貴女と争うのは予定外ですが―――必要とあらば、ここでお互いの私怨を晴らしましょう」
「――ふざけないで。貴女なんかに関わってあげるつもりはないわ。それに―――」
アルクェイドは憎しみのこもった瞳で先輩を睨む。
「わたしは、志貴を殺そうだなんて、思ってない」
「―――説得力が皆無ですね。先ほど貴女が何をしたか。彼が貴女を見てどんな声をあげたのか、認識できなかったわけではないでしょう?」
「―――――」
「わたしを憎むのはかまいません。けど、その凶眼を貴女は彼に向けたんです。その時の感想を彼本人に聞いてみましょうか?」
ちらり、と。
初めて、先輩がこっちに視線を向ける。
「―――――――」
アルクェイドは辛そうに視線を逸らした。
沈黙が夜の公園を支配する。
かつん、と。
一歩だけ、法衣姿の先輩が俺のほうに歩みよってきた。
「下がりなさい吸血鬼。貴女が彼の傍にいる資格なんて、初めからないんです」
「なっ――――」
そんなこと、絶対にない。
先輩が何者だとか、さっきのアルクェイドがどうしてしまったのか、まるっきり状況がわからないけど、それだけは断言できる。
だって――――俺自身が、あいつの傍にいたいって思ってるんだから―――
「違う……! なんだよ先輩、いきなり出てきて、わけわかんない格好して、おまけに全部わかってるような事を言って……!
確かにアルクェイドは吸血鬼だけど、血を吸った事なんて一度もないんだ! さっきのだって何かの冗談だろうし、先輩が言うような資格なんて、そんなもの――――」
「遠野くんは黙っていてください。一度も血を吸った事がない、ですって? ええ、たしかに彼女はここ八百年ほど犠牲者を出したという記録はありません。ですが―――」
「うるさい! そんなワケがわからない話なんてどうでもいい……!
いいか、アルクェイドの邪魔をするっていうんなら、先輩が相手でも許さないからな。
だいたい俺が―――俺本人が好きでアルクェイドの手伝いをしているんだから、先輩にとやかくいわれる筋合いなんかないじゃないか――!」
「―――遠野くん、あなたは―――」
先輩の声に、微かな感情がこもる。
「―――わかりました。遠野くん本人がそう言うのでしたら、わたしから資格云々を責める事はできませんね。
けれど―――」
先輩の視線がアルクェイドに向けられる。
アルクェイドは―――俯いて、先輩のほうも、俺のほうも、見ていなかった。
「…………………」
「聞いたとおりです、アルクェイド・ブリュンスタッド。あなたはこれでも、彼の傍にいようというのですか」
アルクェイドは答えない。
ただ一度、俺のほうを見ようと顔をあげようとして、そのまま―――夜の闇に消え去るように、この場から走り去った。
「なっ―――なんだよ、なんで逃げるんだ、アルクェイド……!」
アルクェイドを追いかけようと走り出す。
がくん。
「――――!?」
足が地面から離れない。
先輩はゆっくりとこっちに歩み寄ってくる。
「彼女の後は追わせません。遠野くんをむざむざ殺させるわけにはいかないですから」
先輩の手には、細い棒みたいな刃物が握られている。
そのうちの一本が、俺の足元の地面―――遠野志貴の影にざくん、と突き刺さっている。
「言っておきますと、それを外さないかぎり動けません。遠野くん本人がどう頑張っても、遠野くんの影のほうが離れちゃだめだって頑張ってますから」
「―――ふざけないでくれ、アルクェイドを見失うじゃないか!」
足元に刺さった刃物を掴む。
が、どうやっても抜けてくれない。
「言い忘れていましたけど、それを抜けるのもわたしだけですから諦めてください」
言って、先輩は俺の目の前で立ち止まった。
「――――」
じろり、と先輩を睨みつける。
先輩はそれを真正面から受け止めて―――はあ、と呆れるようにため息をついた。
「もう、ほんとに―――なんでこうゆう無茶をするんでしょうね、遠野くんは」
「―――え……その、先輩?」
「わかってます。わたしだって彼女が憎いわけじゃありません。でも今はこうしたほうがお互いのためなんです。もうちょっとしたら抜いて差し上げますから、しばらくはわたしの話を聞いてください」
遠慮がちに先輩は見上げてくる。
その姿は、学校で何気なく出会っていた先輩と何ひとつ違わない。
―――そのせいだろうか。
依然として状況はまったく掴めないけど、気分だけは冷静になってくれた。
「……突然のことですから遠野くんがわたしのことを敵視するのは覚悟しています。けど、どうしても話さなくちゃいけない事があるんです。
その、こんなふうに拘束してしまって、ごめんなさい」
先輩はふかぶかと頭をさげる。
……おかしな格好をして物騒な物を持っているけど、先輩はやっぱり先輩のままだ。
「―――いいよ。怒ってないからそんな謝らないでくれ。先輩には一度助けられてるし、こっちだって聞きたい事があるんだから」
「―――そう言ってもらえると助かります。……けど、遠野くんがわたしに聞きたいことってなんですか?」
「……あのね。そんなの決まってるだろ、先輩はいったいどんな人なのかなってコト。
そんな格好してるし、アルクェイドをふっ飛ばしてけろりとしてるし、学校で先輩のことを覚えてるのは俺だけだし」
はあ、と先輩は拍子ぬけしたような返事をする。
「それじゃあ聞きますけど、遠野くんはわたしの事をどう思ってるんですか?」
「……うん。俺もアルクェイドから聞いただけでよくは知らないんだけど、教会っていうところのひとじゃないかなって」
「そうですね。遠野くんの思っているとおり、わたしは教会のエクソシストで吸血鬼専門のお仕事についています。
それ以上のことは答えられませんけど、遠野くんにとってはそれだけで十分だと思います」
「十分って――その、どうしてそんな人がうちの学校に通っていたりしたんだよ。吸血鬼の退治が専門なら、アルクェイドみたいに街を歩きまわったほうがいいじゃないか」
「いえ、わたしが遠野くんの学校に通っていたのは意味があっちゃったりするんです。えっと……そうですね、ちょうどわたしのしたい話と重なるので、ここからはわたしが質問をしましょうか。
遠野くんは彼女に協力しているようですけど、彼女が何を追いかけているのかは知ってますか?」
「ああ。……その、人の血を吸って領地を広げていくっていう、旧いタイプの吸血鬼だって聞いてるけど」
「吸血鬼は大きく二種類に分けられる、という事は知ってるんですね。なら彼らが不完全な不老不死だっていう事は聞いてると思うんですけど―――」
「聞いてるよ。人間の血を吸わなくちゃ体が保てないって。けど、逆に人間の血を吸っている分にはずっと老いずに生きていられるんだろ?」
「はい。けど、それって結局“不老不死”とはいえないじゃないですか。それにですね、彼らの中でも血を吸っているだけでは体を保てないモノもいますし、わたしたちに処理されるモノもいます。
こんなふうに『死んで』しまうモノは、不老不死とは呼べません」
「―――まあ、たしかに―――死ぬ以上は不死というわけではないけど」
俺には、先輩が何を話したいのかまったくぜんぜん解らない。
「その話、先輩が学校に通ってたことと関係あるの?」
「ありますよ。もうっ、まだ話の入り口なんですから黙って聞いててください」
「……うん、いいけど―――その、できるだけ手短に、要約してくれると嬉しいかなって」
「……そうですか? まあ、遠野くんがそういうのならすっきりしゃっきり説明しますね」
どことなく、先輩はざんねんそうだ。
「それでは、できるだけ簡素に説明します。えっとですね、とにかく死徒と区別される吸血鬼の不老不死というのは、とかく不安定なものなんです。
彼らの場合、単純に寿命が人間の数倍になった、という事だけですから」
「……質問。あいつら、寿命だけじゃなくて力とかも人間離れしてるけど、それは関係ないの?」
「基本的には無関係です。死徒の固有能力は彼らが人間だったころに手に入れたモノを、そのまま何百年と成長させたものですから。
彼らは自身が学んだものを吸血鬼になっても学び続けていて、結果としてそれが超越した現象に昇華されているんです。
死徒たちはそれぞれがまったく別の目的で活動しています。今いった『学んでいたもの』が一人一人違うのもそのためです。
それで、ですね。そんな死徒たちの中に、真剣に不老不死を学んでいたモノがいたんです」
「……? 不老不死になったのに不老不死を研究してたっていうこと?」
「はい。死徒たちは吸血鬼になった時点で、それがヒトの身での不老不死の頂点だと自覚します。
けれど、カレはそれをむしろ退化だと感じたんです。こんな不完全なものはいらない、自分はもっと完全な不老不死を作り上げるって」
「……………」
なんか、先輩がのってきた。
「ですが、こうしてカタチがある以上滅びは必然です。時間の圧迫はいかなる存在にも例外はありません。
吸血鬼たちは、その圧迫に耐えられる強度が人間より大きく設定されている、というだけなんです。生命は、生まれでた時点で死を内包しています。自分がここに存る以上、たとえ歳をとらない肉体をもってしまっても、その死から逃れる事はできない。
死から逃れる、という事は死ぬ、ということ。
この絶対の矛盾は、どうしても解決できない問題です」
「―――そうだね。死は誰にだってある。ないヤツがいるとしたら、それは―――」
初めから存在しない、というヤツだろう。
アルクェイドだって昼間には死があるんだ。
本当に死なないヤツなんて、この世にいるはずがない。
「そういったわけなんですけど、そのカレはそれじゃあ死んだ後も自己が存在し続けていれば不老不死なんじゃないかって行きついたんです。
……わたしたちの教義にはありませんけど、輪廻転生というヤツですね。
今の自分が死んでも、自分を保存できたままで新しい人間としてやり直す事ができれば、それは死を先駆けていますから。
……まあ、もっとも消滅していない時点で死ではないので死の先を行く、というわけではありませんけど」
「輪廻転生って―――ようするに、死んだらまた赤ん坊からやり直すっていうこと?」
「そうです。存命している間に、次の自分の肉体をあらかじめ決めておいて、その赤子が誕生した時点で“自分”の全情報を移植する。
カレの情報はその赤子が成人、ないし自己としての知性を持つまで影を潜めています。
“自分”を引き継ぐに相応しい知性をもった段階で、その赤子はカレという吸血鬼になってしまうんです」
「―――ちょっと待って。それってなに? まさか赤ん坊が母親の中にいる時に手術とかをするっていうこと?」
「いいえ、医学的な手段ではないんです。だって、カレが滅ぼされた瞬間に、カレはあらかじめ『次はこの母体にしよう』と決めておいたモノに転生するんですから。
さきほどは“全情報”といいましたけど、解りやすく言えば魂ですね。
魂が大気を伝搬して他者に乗り移る、なんていうのは実感が湧かないでしょうけど、ようするに電波と同じなんです。この場合、電波を発信するのも受信するのも人間の脳。
カレの優れたところは、魂なんていう計測不能にして、肉体という器から離れたら霧散してしまうモノを、伝達可能なモノとして加工したことでしょう」
「……わるいんだけどさ、先輩。その話が先輩が学校に来てたのかってコトに結びつくとは思えないんだけど」
「結びつきますよ。ようするに、その『転生をする吸血鬼』っていうのが遠野くんの学校にいるんです」
「――――――はあ!?」
「わたしが追っている吸血鬼と、アルクェイドが追っている吸血鬼は同じなんです。
……おそらく、彼女は遠野くんにはただ『敵』としか言ってはいなかったと思いますけど」
「…………」
無言でうなずく。
たしかにアルクェイドは『敵』という単語を口にするだけで、そいつがどんな吸血鬼なのかはまったく教えてくれなかった。
「彼女はもともと吸血鬼を殺すための役割でしたけど、カレが現れてからはカレだけを執拗に追いかけるようになったんです。
カレが今まで転生した回数は十七回。
そのことごとくを、彼女は消滅させています」
「……ことごとく消滅させてるって……でも、そいつは結局死んでもまた生まれてくるんだろ? なら意味なんかないじゃないか」
「――――そうですね。
カレは彼女に殺され、そのたびに転生し、また彼女に殺される。そんな繰り返しをもうずっとしてきたんです。
彼女……アルクェイドに、相手の肉体ではなくその意味を消滅させられるような力があれば、こんなコトにはなっていないんでしょうけど」
先輩はかすかにうつむいて、ぎり、と歯を噛んだようだった。
……理由はわからないけど。
アルクェイドと同じように、先輩もその『敵』とやらになんらかの恨みをもっているみたいだ。
「……先輩。そのカレっていう吸血鬼はどんなヤツなの」
「いちおう男性ですが、転生先の肉体によって性別は変化します。
この死徒の厄介なところは、その発見が極めて困難という共通点があるんです。
なにしろちゃんとした人間の赤子として生まれて、両親がいるんです。カレが吸血鬼として肉体と意識を変貌させるのは、カレが満足に活動できる歳になってからです。
ですからその人間は、それまでは吸血鬼としての片鱗をまったく見せません。そのくせ一度カレとして目覚めたら、今まで培った人間関係を利用して完全に社会に融け込むんです。
教会の方々がカレに気がついた時には、たいていが一つの街がそのまま死都になった後だったと聞いています」
「ちょっと待って。その、さ。そいつに転生された赤ん坊っていうのは、そいつが目覚めるまで自分がそうだって気がつかないの?」
「……はい。けど、一つの肉体に二つの人格が共存しているっていうワケじゃなくて、人間としての赤子も、やっぱりカレなんです。
ただ生まれた環境によって、それがいい人格だったり悪い人格だったりするだけ。……それも大本であるカレが覚醒した時点でなくなってしまいますけど。
えっと、ようするにですね、カレは死んだら次の肉体に生まれ変わって、その肉体が知性を持つに至った時点で前世の自分の人格を取り戻し、吸血鬼としての自分に成ってしまうんです」
「――――――――」
なんだろう。
その話は、ひどく―――聞いているのが、恐い、気がする。
「……おかしいよ、それ。よくわからないけど、その話はおかしい。
だって吸血鬼っていうのは、吸血鬼になったから化け物になるっていうワケじゃないんだろ?
なら、いくら前世の人格とやらが目覚めても、体は人間のままなんじゃないか……?」
「いいえ、転生するのは人格ではなく魂ですから。一度真祖に血を吸われた人間は、その肉体のみならず魂まで汚染されます。
カレは魂という情報すべてを“次の自分”に引き継がせるわけですから、とりあえずカレが目覚めた時点で肉体も吸血鬼のそれになるんですけど――」
「ですけど、なに」
「遠野くんの言うとおり、それでは弱いんです。
ですからカレは次の転生先を生きているうちに決定します。
転生先に選ばれる家柄は二つの条件があって、一つは富豪であること。
社会的地位も高く、財産も豊かな家の子供として生まれれば、そのあとに街すべてを吸血鬼化させるのに便利ですから。
それともう一つ、これが大事なんですけど、わたしたちのような普通の人間の中にも、中には特別な力を持つ人たちがいるんです。
魔術と呼ばれる、学べば修得できるという神秘ではなく、生まれついてその肉体が持ってしまう特異能力。―――一般に超能力者とか鬼子と差別される人たちです。
特異能力というのは肉体的なものですから、もちろん家系―――血筋で遺伝します。カレは、自分の新しい肉体にそういった『人間ではないもの』の家系を選ぶんです。
富と名声があり、その裏で人間外の力をもつ家系。それがカレが転生先に選ぶ条件なんですよ、遠野志貴くん」
「―――――――」
なにか、ヘンだ。
その話は、ヘンだと思う。
なにがヘンだって―――どうしてそんな話を俺なんかに聞かせるかっていうコトが、そもそもおかしいじゃないか、先輩――――
「……そいつの名前」
「はい? 何かいいましたか?」
「そいつの名前……! 敵とかカレとか、そんなんじゃわからないだろ! 名前を教えてくれよ、そいつの名前を……!」
自分でもわからないぐらいにカッとして、先輩に怒鳴りつけた。
先輩は慌てた風もない。
ただ―――まるで同情するように、俺のことを見つめてくるだけだ。
「いいですよ。カレは死徒の間ではアカシャの蛇って呼ばれてます。
蛇は無限や循環のシンボルですからね。脱皮して新しい体になるっていうのは、カレにはぴったりの俗称だったんでしょう。
反面、教会では“転生無限者”と記録しています。人間だったころの名前はミハイル・ロア・バルダムヨォン。呼称する時は単純に“ロア”とだけ呼んでいますが」
「ロ、ア―――」
聞いたこともない。……当たり前か。そんなヤツ、今まで出会ったこともないんだから。
「……ようするに、先輩はうちの学校にそのロアってヤツがいるって解ったからやってきたってコト?」
「ええ、まあ実に大雑把な感覚でしたけど、とにかくこの一帯にロアの転生体がいるんだというコトはわかりました。
わたし、ロアに関してはアルクェイドより感覚が鋭いんです。だから彼女より早くこの街に来ていましたし、実はもう誰が転生先なのかつきとめました」
――――――。
なぜか、声が止まった。
先輩はさっきと同じ、どこか同情するような瞳をする。
「……さきほども説明しましたけど、ロアは優れた肉体とすぐれた家柄を次の転生先に決定します。
ですから、ロアがこの街にいると解った時点でその条件に合う一族を調べ上げれば、答えはおのずと出るんです」
「――――――」
「この一帯で、ロアの条件に見合う旧い家柄は一つしかありません。その先は、言わなくても解るでしょう、遠野―――志貴くん」
―――だから。
その話は、ヘンだって、言ってるのに。
「は」
「は」
「ははは、は」
乾いた笑い声は、俺があげているものだった。
「……なに言ってるんだよ先輩。そんなコト、あるわけないじゃないか」
先輩は返答しない。
まるで。
この俺が、そのロアとかいうヤツの転生先だとでも言うように。
「……でも、それは確かな事なんです。遠野の人間には“違うもの”の血が混ざっています。
権力もあって、ロアが必要とする人間以上の潜在能力もある。
さっき死者たちを倒した遠野くんの力は、人間外のものじゃないですか。
ですから―――今代のロアの転生先は、遠野志貴に間違いはありません」
―――わからない。
先輩の言っている事は、なに一つわからない。
「……なんで。なんでそれを断言できるんだ、先輩は」
「なんでもなにも、それを決めたのはわたしですから」
きっぱりと、今度こそ理解不能なことをこの人は言いきった。
「は、はいぃぃ!?」
「……でも、違うんです。殺されたのは貴方なんです。けど生き残ったのも貴方。
殺された方が生き延びて、殺した方が死んでしまった。すべての間違いは、そこから始まってるんだと思います」
なにか、思いつめたようにそう言って。
先輩は、俺の足元に刺さっていた“剣”を引きぬいた。
「あ―――」
「わたしから聞かせたかった話はそれだけです。あとは遠野くんの判断にお任せします」
「お任せしますって、先輩の話だと俺は―――」
「……ほんとのことを言ってしまうと、わたしにもわかりません。遠野くんはすごく平凡で、どこにでもいるような学生さんです。だからきっと、わたしの勘はおおはずれしてますよ。
だって―――遠野くんは、わたしみたいな所にいちゃいけない人なんだから」
どこか悲しそうな笑顔で、先輩はぴょこん、と俺から大きく距離をとった。
まるでこの先はもう他人ですよって告げているみたいな、手の届かない、遠い距離。
「―――――」
俺は―――やっぱり、アルクェイドを放っておけない。
今からでも走ってあいつを追いかけないと、本当にもう二度と、あいつとは出会えない気がする。
「彼女を追いかけるんですか、遠野くん」
先輩の声は、アルクェイドを追い詰めていた時のものに戻っている。
抑揚のない、感情が希薄な声に。
「―――うん。先輩が教会っていうところの人で、アルクェイドが敵なんだっていうのはわかるけど。
今は色々あって、俺とあいつは協力しあってるんだ。だから、探さないと。あいつを一人にしておくと何しでかすかわからないしね」
冗談っぽく笑って、それじゃあと先輩に背を向けた。
「―――待ってください。彼女を追ってもあなたは殺されるだけです。アルクェイド・ブリュンスタッドとは、もうこれ以上会ってはいけません」
「殺されるだけって―――まあ、先輩は信じてくれないかもしれないけど、アルクェイドは本当に血を吸わないんだ。あいつ、わりといいヤツなんだって」
「……知っています。たしかに彼女は人間の血を吸う事はなかったでしょう。けれど、それももうおしまいです。一度吸血衝動に負けた真祖は、堕ちていくだけなんですから」
ぴたり、と足が止まる。
「……先輩? 真祖って――吸血衝動って、どういうこと?」
「……ですから、血を吸いたいという欲求です。
遠野くん。死徒と呼ばれる吸血鬼は、その大半が吸血鬼に血を吸われて吸血鬼となったものです。彼らは自らの劣化していく肉体を補うために、人間の血を必要とします。
いわば、彼らの吸血行為は生きるためにはどうしても避けられないものです。
ですが初めから吸血鬼だったモノ達は違います。
……死徒は、たとえ吸血鬼だとしても元々はわたしたちと同じ人間だったもの。言うなればまだヒトと呼べるかもしれません。
けれど、生まれた時から吸血種として生まれたモノは、はたしてヒトと呼べるんでしょうか?」
「な―――なにを、言ってるんだよ先輩。俺が聞いているのはアルクェイドのことじゃないか」
「ですから、これは彼女のことです。
考えたことがない、とは言わせません。
死徒が吸血鬼によって吸血鬼化するのなら。
その根源、大本にあたる“初めから吸血鬼だった存在”がいるということを。
この、そもそも生命としての系統樹がわたしたちと一致しない吸血種を真祖といいます。
人間の血なんて必要なく、死徒たちと同等、いえそれ以上の超越能力をもつモノたち。
彼女はその真祖と呼ばれる一族の王族なんです。……彼らには身分階級がありませんから王族、というのは正しくはありませんけど」
「―――だからそれがどうしたっていうんだ先輩。そんな話―――俺にはぜんぜん関係ないっ……!」
「ありますよ。真祖と呼ばれる吸血種には、その下僕たる死徒たちよりはるかに業の深い吸血衝動があるんですから」
先輩の目には何の感情もない。
そこには、ただ鏡のように、ひどく動揺した俺の顔だけが映っていた。
「いいですか、遠野くん。真祖たちはもともと人間の血がなくても生存できるんです。
けれど、その進化の過程でどんな間違いが起こったのか、それとも完璧な存在なんて無いという事からなのか、ともかく彼らにはただ当たり前のように人間の血が欲しくなる時期があります。
……彼らに血を吸われた人間は、その時点で人間でなくなります。
真祖と人間では生命としてのスケールが違いすぎるんです。真祖という強大な生命と血を触れ合わせてしまった時点で、そのあまりの格差の前に人間は人間でいられなくなる。
小さな波が触れるだけで大きな波に飲みこまれるように、人間はその真祖の分身――平たくいえば人形になってしまうんです。
問題は、彼らの吸血衝動に理由がない、という事なんです。
理由がないから止めようがない。
真祖という完璧な生命が内包した欠点。死に至る病、とでも言いましょうか。
とにかく彼らは自らの“血を吸いたい”という衝動を抑えて生きています。
それは理性で我慢をする、といったレベルの話ではありません。
彼らは自身のあらゆる力を自分自身の欲望に対して使用して、力ずくで自身を封印しているんです。
……自らの強大な力を自分自身に向けて使うことで、彼らは吸血衝動を抑えている。
けれどもし――なんらかの外的要因でその真祖の能力が低下してしまった場合、抑えていた吸血衝動がどうなるかわかりますか?」
……なんらかの外的要因で、自身の能力が低下した場合……?
例えば、深い傷をうけてその治療に力を使ったり、一度、これ以上ないっていうぐらいにまで殺されて、蘇生するのに力を使ったりした、場合―――
……アルクェイドには十の力があるとしよう。
そのうちの七つぐらいを、彼女はずっと自分自身の血を吸いたい、という欲求の抑制に使っていたとする。
けどもし―――何かの要因で十の力のうち五の力を失ってしまったら、たとえ残った力全てを使っても、彼女は自分自身に対して五の力しか使えない。
なら、足りない分の数は。
そのまま、彼女自身から何を引いていくのだろうか―――
「……それで。その衝動っていうのを抑えられなくなった真祖っていうのはどうなるんだよ、先輩」
「もちろん人の血を吸います。そのあとには何もありません。一度衝動に負けた真祖は、あとは堕ちていくだけです。
一度血の味を知った真祖は、その衝動による痛みも倍化すると聞きます。結果として、もう二度と吸血衝動を堪えることができなくなる。
そうして、そうなってしまった真祖は魔王と呼ばれ恐れられるんです。
真祖たちは確かに極めて優れた種ですが、自分の吸血衝動は自身の能力で抑えなくてはいけない、という枷があるために全力を出せません。
けれど堕ちてしまった真祖は、もう自らを束縛する必要がない。あとはただ、自らの快楽のために人の血を吸う魔物になるんです」
……さっきのアルクェイドの姿がうかぶ。
血走った目。
荒い呼吸。
首筋にかかる、ただ叩きつけるだけの吐息。
「……うそだ」
それは、うそだ。
だってあいつは、
血を吸うのが恐いって、たしかに――
「あ」
……そう、恐いんだ。
一度吸ってしまったら、もう歯止めがきかないって自分自身で解っているから。
「……ただ、かろうじて救いがあるとしたら、衝動は突発的なものだという事です。
真祖たちはただ一人だけ、自分でも耐えきれなくなった時のために自分用の下僕を用意しておきます。それが死徒と呼ばれるモノたちの始まりですね。
カレらはすでに死でいる使徒。
真祖たちにおける、苦しい時の痛み止めとして生かされている吸血鬼。それがこの街に巣くっているような吸血鬼の正体です。
けれど、彼女にはそれがない。……いえ、今まで必要がなかった。
真祖の中でも特別だった彼女は、自らの意思だけで吸血衝動を抑えられていたんですから」
「―――なら、やっぱり問題なんてないよ。あいつの傷さえ治れば、あいつがもとの体に戻りさえすれば、その吸血衝動っていうのも抑えられるんだろ、先輩……?」
「……いいえ。それでも限界は来るんです、遠野くん。
吸血衝動に果てはありませんし、消えることもないんです。何度も何度も抑えてきた衝動という沈澱物は、そのうち器から溢れてしまう。
彼らは長く生きれば生きるほど、自らに抱えた吸血衝動を肥大化させていってしまう。
そうして自分の力で自身の衝動を抑えきれなくなった時―――自らの衝動が自らの能力を超えてしまった時、彼らは仲間の手によって命を絶たれます。
それが寿命のない彼らにとっての寿命なんです」
「――でも、アルクェイドは大丈夫なんだよ。いまは俺のせいで力が弱ってるけど、何日かたてば、きっと―――」
「……そうかもしれません。けれど、もともと彼女は限界なんです。
いくら実際の活動時間が数年に満たないと言っても、彼女の存在時間そのものは変わらない。
長く彼女の中にわだかまった衝動は、じき彼女自身を食い破ります。その時がこの瞬間ではないと断言できるモノは何一つないんです。
彼女は―――アルクェイドは、もう助からない命なんです」
―――どくん、と。
初めて。自分の貧血なんかじゃなくて、誰かの言葉で。
目の前が無くなってしまうような、眩暈を覚えた。
「―――――」
つまり、なんだ。
あいつは自分自身がもうダメだってわかっているのに、こんなところで吸血鬼退治なんかをやってるっていうのか。
―――それは、ヘンだ。
そんなの―――どう考えたって、ヘンだ。
「……先輩の話は嘘ばっかりだ。
だってさ、もう自分がダメだってわかってるヤツが、俺たちのためなんかに吸血鬼を退治に来るわけがないじゃないか」
「彼女が吸血鬼を処理するのはわたしたちのためじゃありません。それが彼女の役割だからです」
「役割って―――そんなの、誰が決めたんだよ」
「彼女以外の真祖たちでしょうね。彼女が生まれた十二世紀は、もっとも死徒と堕ちた真祖が多くはびこった時代です。
真祖たちは堕ちた真祖も、その真祖が徒に増やしていく死徒も放ってはおけなかった。
だから、ただ殺すためだけの。
それ以外の事を何も必要としない、もっとも純粋な真祖を誕生させて処刑役にした。
それがアルクェイドという真祖なんです。
彼女は意思のない核ミサイルみたいなもので、ひとたび城から放てば標的になった吸血鬼は確実に滅び去ったという話です」
―――どくん。
また、眩暈がした。
……そんな言い方はやめてくれ。
あいつはれっきとした人間だ。そんな、兵器みたいな言い方は、あたまにくる。
「いえ、兵器なんですよ。もともと彼女はそういった意味合いでのみ存在を許されていた。
……ですから、さきほどの彼女はどうかしていたんでしょうね。
あんなに話をする彼女を見たのは初めてです。もともと彼女は言葉を話すコトがないんですから」
―――――は?
ちょっと、待ってくれ。
言葉を話さないって―――そんなの、おかしい。
「だって彼女は余分な事はしないんです。
昔から―――もう何百年も昔から、彼女はそうやって生きてきた。あの山間の古城に生を受けた時から、ずっと永遠に変わることなく」
―――どくん。
心臓の音と、暗い眩暈。
……どういう事だろう。
知らないはずの景色、見えないはずの記憶が、くらりと視界に広がっていく。
[#挿絵(img/アルクェイド 22.jpg)入る]
広い、城の中庭。
ただあるものは飾り気のない野原だけという、一人きりの城のなか。
白い彼女は、ただぼんやりと空を見上げている。
「彼女には余分な知識も、目的以外のことを許された自由もありませんでした。
倒すべき対象が決定された時だけ、彼女は外に出されるんです。
その時の相手に応じた知識を教え込まれて、確実に敵を処刑できるように」
誰もいない。
話すべき相手もいない。
顔を合わせる相手もいない。
「定められた吸血鬼を殺して城に帰ってきた彼女は、教え込まれた知識を全て洗い流されて眠りにつかされます。
何もしらないまま、吸血鬼を殺すという事以外は知らないままで」
何もない。
誰かと話をするという楽しみとか。
誰かと顔をあわせておはようって言いあうことの大切さとか。
そんなものは、彼女の存在から排除されつくしていた。
「彼女の力は堕ちた真祖たちさえ滅ぼせるほど強力だった。……けど、皮肉ですよね。あまりに強大すぎる能力が災いして、彼女は真祖の間でも疎まれていたんです。
姫とたたえていながら、誰も彼女には近寄らなかった。
城を与えられていながら、彼女の世界は薄暗い地下室だけだった。
だから、彼女に感情を与えてくれるモノは他のどこにもいなかった」
それは。
むしろ生きている事が哀れに思えるぐらい。
滑稽な、生の在りかた。
「彼女には自分の言葉も、自由になる時間もなかったそうです。――真祖たちは兵器の手入れをするような気持ちで彼女を扱っていたんでしょうね。
兵器には余分な機能は必要ないですから。パンを焼く機能も、洗濯物を洗ってくれる機能もいりません。
そんな余分なものを付属させるなら、もっと兵器らしい機能を付属させるでしょう?」
――余分なコトはしちゃいけないんだなって、ずっと教えられてきたの。
あいつは、そう、歌うように言っていた。
今まで自分だけで全てを決めてきたと、空虚な目をしていた理由。
だから、他者はいらなかったのか。
いや、単に知らなかっただけなのか。
「真祖たちが彼女に求めたものは、ただ性能のいい殺傷能力だけだったんです。
だから、彼女は何も知らない。生きている意味とは何か、なんて大きなものじゃなくて、生きてるっていうことの当たり前の楽しさを知ることができない」
あいつは、いつもあんなに陽気で。
些細なことでも嬉しそうに笑っていた。
だからもとからああいうヤツなんだと思ってた。
……なんて残酷な勘違いだったんだろう。
あいつは、ただ―――そんな当たり前のことが、本当に楽しくて。
自分でもその、わからないぐらいに楽しかったに違いない。
―――だって、すごく楽しいんだもの。
生きているっていうのがただそれだけで嬉しいなんて、今まで考えたこともなかったよ。
それが理解できない不安のように。
控えめな声で相談してきた、夕暮れの教室。
「アルクェイドは長く長く存在しているくせに、生きるという意味合いをわたしたちより知り得ていない。
彼女が行動を許されていたのは、活動時間に換算すると驚くほど短いんです。
彼女の生涯は、ほぼ全てが睡眠だった。
それもおそらくは、闇のような眠りだったんだと思います」
―――そう? わたしは話してるだけで楽しいんだけどなあ。
「堕ちた真祖たちを全て処断したあと、彼女は城から出る事がなくなりました。いちおうの目的が済んだわけですから、真祖たちも彼女をまともに教育しようとしたんです。
けれど、彼女は自由にはなれなかった。本当に些細な間違いで、城に残った真祖たちを、彼女はすべて殺してしまったんです」
吸血鬼殺しだけを教えられたモノは、律儀に、きちんと命令通りに、最後まで仕事を果たしてしまったのかもしれない。
一人残って、結局、あいつは。
「真祖たちを一人のこらず処刑したあとで、彼女は自分から城に閉じこもりました。もう誰もいなくなった真祖たちの城の真ん中で、城壁から伸びた千の鎖に繋がれて。
ロアという吸血鬼が転生するたびに、眠りから覚めてわずかな間だけ活動する」
その定められた世界の中で。
ただの一言も、言葉を口にすることがなかったんだ。
「だから、彼女は根っからの処刑人なんです。
自分を縛っていた真祖たちがいなくなったっていうのに、まだ吸血鬼殺しだけを目的にして徘徊してる。
きっと、彼女にはそれ以外の楽しみがないんでしょうね」
それは、うそだ。
あいつが喜んでいたのは、そんなコトじゃないんだから。
「――――」
俺は、何も見てなかった。
「――――だ」
あいつの言葉とか、喜ぶ顔とか。
もっとよく見ていてやれば―――わかったのに。
「―――――そ、だ」
あいつが今までどんなに独りだったか、気づけなかった。
俺たちが当たり前みたいに感じてること。
気の合う友人と何の価値もないばか話をして、なんとなく時間を忘れる程度の楽しさとか。
一日の終わり、ばたんとベッドに横になって、ただのんびりとした時間を過ごす時のあんまり大事に思えないような安らぎとか。
そんなどうでもいいことが、あいつにとっては、本当にかけがえのない倖せだったなんて。
「―――――うそ、だ」
なにが悲惨かって―――それは、あいつ自身が、自分がどんなに哀れなのかっていうコトを、これっぽっちも感じてないっていうこと。
そんな酷い――そんな道化みたいな孤独が、あってたまるか。
「―――――全部、うそだ」
……もう、難しいことなんてどうでもいい。
ただ、あいつが当たり前のことを、倖せなんだって感じずに。
そんなもの、いつだって手に入る当たり前のことなんだって、感じられるようにしてやれたのなら、それはどんなに――――
「遠野くん――――?」
先輩の声で、視界がはっきりとした。
「どうしたんですか? 急にぼんやりしちゃって、わたしの話聞いてました?」
「いや―――ごめん、記憶にない。先輩が話してたようにも聞こえたし、他の誰かが話してるようにも聞こえてた」
はあ、と先輩は納得いかなそうに頷く。
「えっと、つまりですね、彼女は――――」
「いいよ。アルクェイドが何をしていようが、どんなヤツであろうがどうでもいい。
これ以上あいつを一人にしておけないから、そろそろ行くよ」
先輩に背を向けて、夜の街に向かって歩き出す。
「―――遠野くん。一度吸血衝動を抑えられなかった真祖は、絶対に立ち直れない。もし彼女が貴方の前に現れたとしたら、それは貴方の血を吸いに来た、というコトです」
先輩の台詞は、きっと、彼女にとっての真実だと思う。
けど、それは俺のとは違う真実だ。
「そんなコトないよ。だって、アルクェイドはまだ血を吸ってないんだから」
「いいえ。わたしが止めていなければ、遠野くんは吸われていました」
「……違う。だって、止まったんだ。アルクェイドは大丈夫だったんだよ。だから――先輩があいつを弾き飛ばさなくても、結果は変わりはしなかったんだ」
そう、たしかに。
ちゃんと、アルクェイドの牙は止まっていた。
「……あくまで彼女の味方をする、というんですね、志貴くん」
「ああ。先輩には悪いけど」
先輩は答えない。
ただ、ため息だけが聞こえた気がした。
「―――わたしたち、争うことになるかもしれませんね」
「そうだね。けど、俺は謝らないからな、先輩」
「……………」
先輩からの返答はない。ただ、気配が遠くなっていく。
去っていく足音。それに振り向かず、そのまま夜の街へ走り出した。
―――大通りに人影はない。
アルクェイドの姿はおろか、道を行く人々の姿さえ見られない。
「く――――――」
これじゃ昨日の夜とまったく同じだ。
俺にはアルクェイドを見つけ出す手段がない。
いま、こんなにもあいつに会いたいっていうのに、俺にはなんの手段もない。
―――あいつが。
あいつが、あんなにも苦しそうだったっていうのに、俺には、何の手助けも、できない――――
「――――くそぉ!」
心が苛立ってどうにかしてしまいそうだ。
なんとかして―――なんとかしてあいつを探し出さないと、もう、遠野志貴は一歩だって前に進めない――
「はあ……はあ……はあ……」
街中を走り回っても、アルクェイドの姿はない。
体は疲れきって、呼吸も満足に定まらない。
「はあ……はあ……はあ―――」
胸の傷が、どくんどくんと心臓に負担をかける。
今ほど―――このポンコツみたいな体が恨めしいと思ったことはない。
「はあ……はあ……は……あ」
………見つからない。
ただ闇雲に走り回るだけじゃ、あいつを見つけることなんて出来ない。
「……は………あ」
もし。もしあいつを見つけられるとしたら、それは――
―――アルクェイドの部屋に行こう。
先輩が言うようにアルクェイドが弱っているのなら、自分の部屋に戻って体を休めるか何かするはずだ。
「―――――は」
ここまで全力で走ってきた足が止まった。
はぁ、はぁ、という乱れに乱れた自分の呼吸をなんとか整えながら、マンションの中に入っていく。
……ドアのノブに手をかける。
ドアに鍵はかかっていない。
ためらわずにノブを回してドアを開けた。
……鍵がかかっていなかったのに、部屋の中には誰もいなかった。
「アルクェイド……いないのか?」
返事はない。
もとから鍵をかける習慣のないヤツなのか、アルクェイドが部屋に戻ってきた痕跡はなかった。
「くっ……それじゃまだ街にいるっていうのか、アイツは……!」
だん、と壁を叩く。
だがそんな八つ当たりをしたところでアルクェイドが出てきてくれるハズもない。
「……どこに……どこに行ってるんだよ、アルクェイド……!」
―――本当に、神様がいるんだったらすがりたい気分だ。
アルクェイドはここにはいない。
だからって街を闇雲に捜してもアルクェイドを見つける事なんてできない。
俺は、このまま――――二度と、アルクェイドには会えないのか。
「―――――――っ」
いや、まだだ。
まだ俺はアルクェイドと約束を果たしていない。 吸血鬼を倒す手伝いをするっていう事も、今夜も、二人で待ち合わせて戦おうっていう約束も。
「……約……束……」
……そうか。まだ、約束が残っている。
ここで途方にくれているのなら、俺は―――俺だけでも、約束を守らないと。
公園に戻ってきた。
ここにはまだ約束が残っている。
果たされてない今夜の約束が残っている。
―――だから。
俺にとってこの約束が反古できないもので、アルクェイドもそれを大事に思っていてくれるなら。
あいつはここに帰ってくる。
それを信じて、今はもう待ち続けることしかできない。
時間が過ぎていく。
時計の針は正確に、意思などなく、丁寧に秒を刻む。
「―――――――」
こんな時間、息がつまる。
体はたったの一分だって待っていられない。
ボウ、と白痴のように佇んでいるだけなら、今すぐに走り出して、あいつを探しださなくっちゃ。
「―――――――」
なのに、心は落ち着いている。
一分だって待っていられないぐらい体は急いているのに、気持ちは落ち着いている。
夜の中、月だけを見つめて待ち続ける。
―――ひどく、静かだ。
どんな音もない、なにもかもが凍ったような夜。
まるで世界に自分とアルクェイド以外は誰もいなくなったような静けさ。
そんな中で待ち続けられるのなら、いつまでも、何時間だって苦痛じゃない。
だから、こんな時間。
幸福で、息がつまる。
時間だけが過ぎていく。
夜明けまではあと二時間ぐらい。
夜が明けてしまったら、アルクェイドも今の自分も、二度とは訪れはしないだろう。
そうして時間だけが過ぎていって。
それこそ雪原で白いうさぎに出会うように、
彼女はひょっこりと公園にやってきた。
「…………………」
アルクェイドは何も言わない。
目を伏せたまま、決してこちらに近寄ろうとしない。
「――――アルクェイド」
声をかける。
アルクェイドは返事はおろか、俺を見ようともしない。
「………………」
言葉がかけられない。
なんて言えばあいつをまた笑顔に戻せるのか、俺にはわからない。
今は。なにを口にしても、あいつをよけい悲しませるだけになりそうで。
………。
…………………。
………………………………。
錯覚には永遠にも感じられる時間。
実際ではおそらく千に満たない秒針が動いて。
アルクェイドは、何か眩しいものを見るような仕草で顔をあげた。
「志貴、いつまでも帰らないんだもの。放っておけなくて来ちゃったわ。……ほんとは、このまま部屋に帰ろうって思ってたのに」
口調は、ところどころつぎはぎだらけだったけど、とりあえず普段の彼女と同じ明るさだった。
「……そりゃあ帰らないよ。おまえとの約束は破らないって言っただろ。今夜はまだ、おまえの手助けをしてないじゃないか」
「―――いいよ。もう、そんなのはいいの」
「いいって――なにがいいんだ、アルクェイド……!」
「言うまでもないでしょう。やっぱりわたしは吸血鬼で、志貴は人間だっていうことよ。
わたしは志貴に助けてもらう資格なんてなかった。そんなことも解らないで、もうすこしで志貴を台無しにしてしまうところだった。
だから―――」
もういいの、と彼女は呟いた。
―――なにを、いまさら。
そんなこと、こっちはおまえに協力するって言った時から覚悟していた。
おまえが吸血鬼だっていうことは、おまえ以上にちゃんとわかってる。
わかっている上で、おまえの手助けをするって言ったのに。
こんなの―――俺には、何一つだってよくはない……!
「……アルクェイド。さっきの事なら気にする必要なんかないだろ。おまえは体が弱ってて、ただ、疲れただけなんだ。
俺はバカだからさ、おまえの嘘に気づいてやれなかった。
おまえを苦しめてたのは体の傷なんかじゃなくて、吸血衝動っていうヤツだったんだろ。
……全部、先輩に教えてもらった」
「……あの女。埋葬機関はいつからそんなにお喋りになったのかしらね」
憎たらしい、というよりは疲れた、という顔をして、アルクェイドはため息をもらす。
「……先輩に全部聞いた。全部聞いた上で、はっきり言ってやる。
おまえには問題なんてないよ、アルクェイド。
今は苦しいけど、何日かすれば元に戻るんだろう? それなら気にする必要なんかない。
それにさっきだって―――あんなに苦しそうだったのに、ちゃんと我慢できたじゃないか。
だから大丈夫だよ。これからも今までみたいにやっていこう」
「………………」
アルクェイドは辛そうに、弱々しく、笑った。
「……志貴はぜんぜんわかってない。無理なのよ、こうなっちゃったら。わたしは今でも、志貴の血が欲しいって思ってるんだから」
「―――思ってるだけだろ。なら気合いれて我慢しろ。……今までだって、そうやって頑張ってきたんじゃないのか、おまえは」
「……そうよね、今までそうやって自分を抑えてきた。いえ、抑えてこれた。
けど、もうダメみたい。わたしは浅はかで、吸血鬼殺しだけがわたしの意味なのに、余分なことをたくさんしちゃった。
何も知らなければ、何かを欲しいだなんて思うこともなかった。志貴なんかに頼らず、自分だけで敵を追っていれば良かったのよ」
「―――――」
一人でやっていけば良かった……?
本気で? 本気で、そんなことを口走ってやがるのか、コイツは?
そんな悲しそうな顔で?
泣くような声で?
今にも崩れそうな、その孤独なカタチで?
「―――ああ、もうあったまくる! いいかげんにしろってんだ、このばかおんなっ……!」
「なっ………」
「ふざけんな……!
何が自分だけで敵を追ってれば良かった、だ! 一人じゃ無理だから―――一人じゃできない事があるってやっと気がついたから、俺に手を貸せって言い出したんだろう!?
なら最後まで頼れよ……! 俺が助ける。なにがあっても俺が助けてやるから――――」
そんな、顔を。
「―――二度と……もういいなんて、言うな」
……やっと。
やっと、生きていることが楽しいって、思えたんなら。
その当たり前の倖せを、簡単に手放すなんてコトだけは、しないでくれ。
「志貴―――あなた、泣いてるの……?」
「わけないだろ……! なんで俺が、おまえのために泣かなくちゃいけないんだ……!」
ただ、アルクェイドがあんまりにもバカにコトを言い出すから。
あったまにきて、感情がどうかしてしまったのかもしれないけど。
「ああもう、とにかく吸血鬼探しは続けるからなっ! その、ロアとかいうヤツをさっさとこの街から追い出せばおまえだって休めるんだ。そうすれば万事解決だろ、問題なんて一つもない……!」
アルクェイドは静かに、ひどく穏やかな目をして、そうね、とうなずいた。
「でも―――やっぱりだめなんだ、志貴。
志貴はわたしがさっき我慢できたって言ってくれたけど、わたしは我慢できなかった。
さっきね。わたしが一瞬だけ止まったのは、志貴がわたしのことを怖がったからよ。
わたし、今まで何人もの人間たちに化け物って怖がられてきた。だから自分に向けられる嫌悪の念なんていうのには、もう何も感じなくなってた。
……なのに、おかしいよね。志貴がわたしを化け物みたいに見るのだけは、すごくイヤだったんだ。わたしはどうやったって志貴にとって化け物なのにね」
あはは、と。
乾いた笑いを、彼女は無理やりこぼしていた。
「……そんな―――アレは、いきなりのことだったから、驚いて―――」
……嘘だ。
それは、自分さえ騙せない嘘だ。
アルクェイドは辛そうに目をふせる。
……先生が、言っていたのに。
自分さえ騙せない嘘は、相手を傷つけるだけだっていうことを。
「……わたしが一瞬だけ止まったのは、そのせい。志貴にそんな目で見られるのが怖かった。この先も、あんな目で見られたらわたしはきっと壊れてしまう。
だから―――志貴とは、もう会わない」
「な―――――――」
「ここでお別れにしましよう、志貴。
わたしたちね、きっと馴れ合いすぎちゃったんだ」
くるり、と背中を向けて。
俺の顔を見ないようにして、アルクェイドはそう言った。
……馴れ合いすぎた、か。
それは、たしかにそのとおりだ。
俺もアルクェイドも。
こうやってお互いのことを深く知らずにいたら、こんなコトにはならなかった。
俺はあっさりとアルクェイドから手をきって日常に戻って、アルクェイドはまた一人でやっていけただろう。
「……そうだな。たしかに馴れ合いすぎた。
けど、俺はそれでいいと思うよ。だってさ、いつまでも一人きりっていうのは淋しいだろ」
「――――」
アルクェイドは答えない。
あいつの背中は、ひどく弱々しくて。
このまま、抱きしめて支えてやりたくなるぐらい、切なかった。
「それにな、正直に言うとここ数日は楽しかったんだ。死ぬような目にもあったけど、イヤなことばっかりだったわけじゃない。
……だから、最後まで協力させろよ。このまま放っておかれたら気になって眠れそうにないじゃないか」
「……ううん、その点は心配しないでいいよ。
わたしは絶対にロアを殺す。相討ちになっても必ず仕留める。……だから志貴はもういいの。この街はすぐにもとのカタチに戻って、心配するようなことはなくなるから」
背中ごしの声には、いつもの明るさはまったくない。
……もう、耐えられない。
これ以上、おとなしくしているのは、やめた。
「……馬鹿。俺が心配してんのはそんなことじゃない」
言って、アルクェイドに詰め寄っていく。
「あ――――」
逃げようとするアルクェイド。
その腕を後ろからつかんで、強引に振り向かせた。
「志―――貴」
「はっきり言わなくちゃわからないんなら口にする。
……いいか、俺が手助けするって言ったのは、街を騒がしている吸血鬼を倒すためじゃない。自分が住んでいる街を守るとか、そんなご大層な理由なんて、ホントはなかったんだ」
そう、口ではそう言ってごまかして、自分自身にもそう言い聞かせていたけど、そんな理由なんて大義名分にすぎない。
俺は、ただ。
「ただ単純に、おまえが好きだから。おまえの力になりたかったから、協力するって言ったんだ。
それを今さら―――無かったことになんて、できるわけないだろ」
はっきりと告げて。
正面から、アルクェイドを抱きしめた。
「あ――――」
アルクェイドの声は、抵抗の意思がない。
ただ呆然と立ち尽くしたまま、抱きしめる俺を受け止めている。
とくん。
「おまえが、俺の血を欲しいって思っていることなら、何も悪くなんかない」
とくん。
「……志貴、いたい―――腕、いたいよ―――」
とくん。
「そんなものおあいこだ。だって、それなら―――」
とくん。
「俺だって、ずっと、おまえが欲しいって思ってた。こうしている今も―――アルクェイドの心音をきいて、気が狂いそうなぐらい、欲情してる」
とくん、と。
抱きしめた腕から、重なり合った体から、
アルクェイドの鼓動が、感じられる。
「……ちがうよ、志貴。それは……ただこの瞬間だけ、わたしに、気がふれてる、だけだもの……」
とくん、とくん。
その音だけで、こんなにも―――抱き殺してしまいたいほど、どうかしてるっていうのに。
「―――それでもいい。今、アルクェイドを愛してるなら、それが遠野志貴の真実だ。そのあとのことなんて、知らない」
とく、ん。
「それとも―――俺のこと、嫌いか」
とく、ん。
心音が、乱れて止まった。
「……だめ。その質問には、答えられない」
心音が、途絶える。
その代償に。
そっと、降りかかる雨のように、アルクェイドの両腕が俺の背中にまわってきた。
はじめは優しく。
あとは、ただ応えるように激しく。
アルクェイドの両腕が、ぎゅっと、俺の体を引き寄せていた。
抱擁は一瞬だった。
どちらから離れたのかは、自分でもよくわからない。
ただ申し合わせたように、俺たちは互いの腕を解きあった。
「…………………」
アルクェイドはうつむいたまま、ただ頬を赤らめている。
「――――――」
夜明けまで、あと一時間ほどしかない。
夜は明ける。アルクェイドの時間が終わる。
けど―――俺はもう、このままアルクェイドと別れるなんて耐えられない。
許されるのなら、この場で彼女を――――
「―――わたしの部屋」
「え?」
「……その、わたしの部屋に、行かない……? わたしを守ってくれるっていうんなら―――今日は、帰ってほしく、ない」
途切れ途切れに繰り出される声。
……いくら俺でも、アルクェイドの言葉の意味は理解できる。
無言でうなずいて、あとはもう熱にうかされたような状態のまま、アルクェイドの部屋へと歩き出した。
◇◇◇
先に部屋にあがった。
……背中には、アルクェイドの気配だけを感じている。
振り向けば、もうそのままどうにかしてしまいそうなほど、感情が昂ぶっている。
だっていうのに、驚くぐらい思考は冷静だった。
よく、俺にはわからないけれど。
何かを愛するっていうコトは、狂っていながら正気だっていう、矛盾した衝動のことを言うのかもしれない。
「――――アルクェイド」
後ろに振り返ろうとする。
その矢先―――とん、と軽く、アルクェイドの手が背中に触れた。
「振り向かないで。……しばらく、このままで、いて」
……アルクェイドの声は落ち着いている。
背中に触れた手は、何かを確かめるようにじっとして動かない。
「……ねえ志貴。わたしが、初めて貴方を待っていた時のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。自分が殺した相手がニコニコ顔で待ち伏せてたんだ。忘れられるわけがないだろ」
「うん―――あの時ね。わたし、貴方のことがすごく憎かった」
言葉とは裏腹に、アルクェイドの声はとても優しい。
「……アルクェイド?」
「――もう自分でも吸血衝動は抑えられないってわかってて。きっと、これが最後のチャンスだって覚悟してロアを追いかけて。
ようやく見つけたって思った時に、見ず知らずの誰かに殺されて、何もかも台無しにされてしまった。
その時のわたしの感情は、ただ、憎しみしかなかった。
そうして、自分を殺した誰かを探し出して、貴方が来るのをね、あの道でずっと待っていたの。
早く、早く来なさい。わたしに気がついた瞬間に、寸分たがわず同じ目にあわせてあげるからって。
……本当に、貴方のことが憎かった。憎くて憎くて、胸が張り裂けそうになるぐらい、ずっと待ちつづけてた」
ぐっ、と背中にかかる手に力がこもる。
「……アル……クェイド……?」
「でもね、わたしをあんなふうに殺した相手なんて、今までいなかった。少しだけ、どんなヤツなんだろうって興味もあった。
それに―――あんなふうに、誰かを強く思うなんてコト、今までなかった。
初めは、ただ憎しみしかなかった。けど貴方がどんな人間なのかなって思った時、くるって反転したんだ。
ともかく、どんな人間なのか会ってみたくなったわ。わたしをあんなふうに殺したヤツ、わたしが初めて、自分を見失うぐらいに―――ずっと、思い続けている誰かに。
―――志貴、さっき言ったよね。一人は寂しいだろうって。
わたし、そんなコトはないと思ってた。
けど―――あんなにも狂おしく誰かのことを思って、貴方を今か今かと待ち続けた時の気持ちは、すごく幸せだった。
本当は今すぐにでも会いに行きたかったけど、我慢して、貴方がやって来るのを待っていて、良かった。
あの時間は楽しかったよ。すごくドキドキして、志貴がどんな人なんだろうって、かってに想像したりもした」
……アルクェイドの手が、背中から離れる。
俺は―――
「―――思えばね。その時からわたしは誰かを必要としてしまって、自分が一人だっていうのが物足りなく感じてしまった。
志貴はわたしの事を好きだって言ってくれたけど。
……わたしは、志貴に会う前から、あなた自身に恋をしてたんだなって―――」
アルクェイドの声は、ただ、いとおしい。
……もうためらう必要なんてない。
振り返って、そのままアルクェイドを抱き寄せた。
[#挿絵(img/アルクェイド 35.jpg)入る]
「ん………」
自然に、唇が重なり合った。
どちらかが求めたわけでもないし、どちらもが求めたのかもしれない。
ただ、本当に優しく。
互いの存在をより近くに感じあおうとして、唇を重ねあった。
――――は………あ。
呼吸をとめて、アルクェイドを実感する。
やわらかな唇。決して触れ合うことのない肌が、こうして触れ合っている。
そう思うだけで頭の中がはじけそうなのに、実際の彼女の感触は温かくて、ホッとする。
アルクェイドの体は微かに震えている。
けれど脅えているような様子はまったくない。
閉じられたまぶた、上気した桜色の頬がたまらなくかわいらしい。
……本当に、信じられない。
あんなに愛しかったアルクェイドが。
ただこうするだけで、もっともっと、何倍も愛しく感じられるなんて、想像もできなかった―――
そっと、離れる。
体は抱き合ったまま、気恥ずかしそうに、お互いを見つめ合った。
「……いまの、キス、だったね……」
頬を赤く染めて、恥ずかしそうに、彼女は言った。
上目遣いに見つめてくる赤い瞳。
目の前でさらりとゆれる金色の髪。
「アルクェイド……こういうの、イヤか」
「―――ううん。わたし、すごくどきどきしてる」
どくん、と。
たしかに、彼女の心音はとても大きくなってきている。
それとも―――それは、俺の心音だったのか。
アルクェイドはまっすぐに俺の目を見つめてくる。
「でも、ちょっと困っちゃった。……わたし、いいのかなって」
「いいのかなって、なにが?」
「だってね、志貴。唇を重ねあったりする吸血鬼なんて、いないよ」
頬を赤らめて。
照れくさそうに、彼女は笑った。
「――――――――」
その仕草が、もう完全に王手だった。
メガネを外して、もう一度アルクェイドを抱きしめた。
[#挿絵(img/アルクェイド 36.jpg)入る]
――――もう一度。
さっきみたいな互いを感じ合うキスではなく。
ただもう、奪い、求め合うだけの口付けをした。
「ん――――」
アルクェイドの息を飲む声。
かまわない。
もう、何もかもたまらなくて。
深く、深く唇を重ね合った。
「ん、む………!」
はあ、と息を吸おうとするアルクェイド。
その呼吸さえも奪いつづける。
アゴをあげさせて、頭を押さえつけて。
唇を唇で覆って、舌を、舌で絡ませて。
ただもう、一つに溶け合いたかった。
「はっ――あ、ん―――」
口を離そうとするアルクェイドを押さえつけて、舌を這わせる。
彼女の口内に、唾液にまみれた舌をねじ込む。
ぬちゃり、と。
その音、その感触だけで、二つの舌が絡み合っている光景がたやすく想像できる。
拒もうとするアルクェイドの舌に、こちらの舌を巻きつかせる。
とろけあい、絡みあい、吸い付き合う。
舌の先端の感覚は、くすぐったくなる程度。
けれど、舌の根元を吸い取ろうとする感覚は、それこそ零度の震えに相当する。
「ん……あ、ん……」
呼吸ができず、喉だけが蠕動する。
アルクェイドの白い喉が、酸素を求めて苦しげに活動する。
そのたびに―――彼女の口内は俺の舌を巻き取って、よけいに唇が吸い付き合う。
舌を動かしながら、唇はより強くアルクェイドの唇を奪っていく。
はあ、はあ、はあ。
ぐちゅ、ちゅ、ぢゅる、る。
……お互いの口のなか。
殺された呼吸と、舌と、体液の濁音が繰り返される。
まったく終わらない。
それは、気が遠くなるぐらいの快感。
口、舌は脳髄に近いからだろうか。
生殖器による性的興奮より、こうして絡み合ったほうが、直接脳に白いブランクが飛び込んでくる。
快感と――意識のヒューズがぱきんと割れそうなほどの衝撃を撃ち出してくる。
「あっ……ん、んっ………!」
切なげな呼吸。
いつからか、酸素を求めていたアルクェイドの口が、今では自分から俺の舌に巻き付いてくる。
こちらの舌と絡み合いながら、俺の口内に侵入してくる。
「はっ……あ」
気がつけば、それは俺の声だった。
信じられない。
他人の舌―――他人の舌が自分の口の中に入ってくる。
その感触。異物にまさぐられる微妙な嫌悪感。それを何千倍と上回る、死んでしまいそうなぐらいの快感―――――。
「は……ん、ん、んあ……!」
呼吸を求め合いながら、お互いの唇をむさぼる。
「ふっ……あ、んん―――――」
舌は、舌を相手にする時のみ、毒薬めいた性感帯となる。
ただ、触れ合うだけで呼吸が荒ぶる。
吸われ、かまれる。
それだけで、もう自分というものが消え去って、ただ、目の前の相手のことしか考えられなくなる。
「ん―――」
何かを堪えるように瞳を閉じて、俺以上にアルクェイドが応えてくる。
さっきの、優しいキスとは全てが違う。
ここにあるのは、交尾中の雄と雌とそう違ったモノじゃない。
お互い、口の中はもうグチャグチャだった。
あふれて口元からこぼれる唾液。
相手の口に、こちらの口に注ぎ込まれる、相手の体液。
そのどれもが―――汚らしいものではなく、極上の媚薬のように思考をざくざくと削り落としていく。
もう、そのまま。
舌先だけでなく、何もかも溶け合いたくて、アルクェイドの唇から離れた。
「はあ……はあ……はあ……」
心臓が苦しい。
本当にどのくらい、ああしてせめぎ合っていたのか、わからない。
呼吸はまったく収まらない。
それでも、そんなことよりも、今はアルクェイドの体に触れたかった。
「……志貴?」
俺の体を気遣って、アルクェイドが顔を覗き込んでくる。
その、朱に染まった、切なげな顔。
「アル……クェイド……」
歯止めがきかない。
そのままアルクェイドを抱きしめる。
「俺―――おまえを、抱きたい。本当に、ただ男と女として、純粋におまえが欲しい―――」
「………………」
アルクェイドからの答えはない。
ただ、うつむくように。
顔全体を真っ赤にして、こくん、とアルクェイドはうなずいた。
自然に、まるで帽子を取るような静かさで、アルクェイドは服を脱いだ。
それは脱皮というより羽化に近い、息を飲んでしまうぐらいしなやかな動作だったと思う。
白い服は音もなく消えて、胸を覆う下着、彼女の女性部分を隠す下着も、流水のように美しく排除された。
……裸体になったアルクェイドの姿を見て、あれだけ猛っていた理性はストップした。
冷静になった、というのではない。
ただあまりにキレイすぎて―――考えることも暴走することも、全て忘れ去ってしまった。
「―――」
言葉がない。
アルクェイドは気恥ずかしそうにベッドの上で、ぺたん、と腰をおろして座っている。
「志貴……?」
どうしたの? と、その視線が問い掛けてくる。
「あ―――いや―――」
……白い体は、微妙に紅を帯びている。
その艶めいた色合いは、くらくらと理性を点滅させてくれる。
「あの……志貴、やっぱりわたしじゃ―――」
「そんなわけない。ただあんまりにキレイだから、見惚れていただけなんだ」
「う……うん」
恥ずかしそうな目をして、アルクェイドは裸体をさらす。
両手で股間の秘部を隠しているため、その豊かな胸があらわになっている。
「――――ほんとにキレイだ。とくに、その胸なんて俺をどうにかしたいとしか思えない」
そっと、アルクェイドの胸に指をあてがった。
[#挿絵(img/アルクェイド 37.jpg)入る]
「――――っ」
びくん、と体を震わせるアルクェイド。
「志貴、ちょっと―――」
「何いってるんだ。俺はおまえを抱くって決めたんだからな。こんなのは序の口だぞ」
「う、うん―――それは、わかってる、けど」
まだ恥ずかしいのか、アルクェイドは不安そうな目を向けてくる。
「……恥ずかしがることなんてないだろ。こんなに大きな胸をして、こんなに体を熱くして、さ」
「っ―――!?」
ぞくん、とアルクェイドの体がズレる。
彼女の胸に触れた指に力をいれた結果だった。
きゅっ、と胸の隆起をもむ。
果実のようにまんまるとした、やわらかで弾力のある肉を包み込むように掴む。
「あ――――」
アルクェイドの頬が、いっそう赤く染まっていく。
こういった感覚にまったく慣れていないのか、彼女は戸惑うように自分の胸と、それを包み込む男の指を見つめた。
「……ほんと、おっきな胸だな。服の上からじゃわからなかったよ。アルクェイドが、こんなえっちな体してるなんて、さ」
「――――ん」
アルクェイドは答えない。
ただ、ゆっくりと胸をもみしだく俺の指の動きにあわせて、小さく、吐息をもらしている。
ん、あ、ん―――
声とも呼べない、小さな吐息が、リズムカルにもれていく。
「ん……志貴、ちょっと、待って―――」
アルクェイドの声は聞こえない。
初めは弱く。
あとは、段々と。
アルクェイドさえ気がつかないぐらい、少しずつ強くしていく。
乳首は触れない。いきなりそこにいくと、きっとアルクェイドは逃げてしまうだろう。
だから、ゆっくりと。
彼女が気づかないように、気づいた時にはもう戻れないところにいるように。
その、豊かでカタチのいい胸を愛撫していく。
「あ……ん、んっ―――」
アルクェイドの息が熱っぽくなっていく。
気付かないふりをして、柔らかなふくらみを揉んでいく。
……まだ俺自身は冷静なつもりなんだけど、この弾力に触れているというだけで、こっちも気が昂ぶってきてしまう。
「ん―――、志貴、なんか―――」
アルクェイドの吐息に熱がこもる。
声が、もどかしそうに震えている。
「あ……んっ、わたし―――なんか、熱、い」
はあ、と切なげな吐息をもらして、アルクェイドはそんなことを言った。
「そりゃあ熱いだろ。こんなに体が汗をかいてる。胸をもまれてるだけなのに体中を熱くしてるなんてヘンだぜ、アルクェイド」
「だって志貴が、そんな、ふう、に、する、か、ら―――!?」
ぐっとひときわ強く胸をもみしだく。
びくっ、と怯えるようにアルクェイドの顔がこわばった。
「はっ―――は、なんだ、俺もアルクェイドのことは、言えないか。こんな程度のことで―――あたまが、どうかしちまいそうだ」
はあ、と長く息をはいて、アルクェイドの胸を強くもみしだいていく。
「あ………ん」
甘い吐息。
責められているアルクェイドが体を熱くするのは当たり前だ。
なのに、どういうことだろう。
ただ、胸に指を触れさせているだけなのに。
指と指のあいだからはみ出す胸の感触が、こっちの理性をかたっぱしから無力化していく。
―――なにか、アルクェイドの体は、ヘンだ。
こうして、ただ愛しているだけで。
彼女自身の興奮が、何倍にもなってこっちに返ってくるような、そんな気持ち。
「ハッ――ハッ、ハッ―――」
気がつけば。
俺のほうが呼吸を乱して、アルクェイドの体に溺れてしまっている。
アルクェイドの体は、もう十分に熱い。
乳房は熱を帯びて、そのピンク色の乳首だって、ぴくん、と立ってしまっている。
「は――――あ」
胸に口を近づける。
「あ――――」
顔をそむけるアルクェイド。
かまわず、獲物を狙う蛇の鎌首のように、舌を伸ばした。
ぞろり、と。
たしかな硬さをもつ乳首を舐めあげる。
「ん、くっ……」
アルクェイドの声が聞こえる。
乳首は余計に硬くなって、今では舌でこりこりと転がせるぐらい。
「ハッ―――く」
なんだか、頭が痛い。
あんまりに感覚が鋭角すぎてどうかしている。
それでもかまわず、舌を這わせたあと、胸の先端を口でほおばった。
「―――ん、あ―――!」
アルクェイドの胸が盛り上がる。
そのまま思いっきり乳房に吸いついたあと、崩れ落ちるように、口を下腹部へとスライドさせていく。
「ぁ――――し、」
ぬらり。
白い体に、汚らしい、雄の唾液が線を引いていく。
「、――き……」
アルクェイドの声は、あまり言語になっていない。
体に舌を這わせて、指先はずっと胸を責めつづけて。
アルクェイドの呼吸は乱れて、体はびくびくと震えている。
「まっ………、て―――」
肌や汗の匂いとは別のものが、ある。
温かい感じ。
見れば、両腕に隠された彼女の秘部は、とっくに水気を帯びている。
じゅくり、と。
粘つく愛液を絡ませた、アルクェイドの細い指。
「……なんだ……胸だけで……感じてるなんて……思ったより、敏感なの、かな、アル……クェイド、は」
……ああ、アルクェイドのことは言えないか。
なんだか俺も、うまく言語を操れない。
「し、き―――お願いが、ある、の」
「―――? なに、お願いっ、て」
「だから……あの時みたいに、乱暴にするのは、やめて……ほしくて」
……あの時。
路地裏でアルクェイドを押し倒してしまった時のことか。
でも、なんでそんな事を言うんだろう。そんなコト、言われなくてもしないのに。
「……なんで? 乱暴なのは、嫌い?」
「うん……その……わたし、初めて、だから」
頬を赤らめて、はあはあと乱れた息を堪えながら。
アルクェイドは、なにか、すごくかわいらしいことを、言った。
「―――――え?」
「……ほんとはね、いまもすごく怖いんだ……だからね、志貴。その、今だけは……わたしに、やさしくして、ほしく、て――――」
――――――――壊れた。
完全に、今ので壊れた。
「どうして、おまえは―――」
アルクェイドの腕を掴む。
思考も理性も知性も消えて。今は、呼吸さえ止まっている。
「志貴――? どうしたの、おかしいよ……? そんなこわい顔して―――おかしい……よ」
ああ、そりゃあおかしくなってるだろう。
なにしろ、もうマトモにあたまが働いてくれない。
けど、そうさせたのは他ならぬアルクェイド自身だ。
「いたっ………!」
アルクェイドを掴む腕が、強引に彼女をベッドに押し付ける。
「志貴、いたい―――! わたし、まだ―――」
「うるさいっ!」
叫んで、彼女の上にのしかかる。
唇で、唇を塞ぐ。
……どくん、と心臓が跳ね上がる。
ぱんぱんに膨張した生殖器が、ぴちゃりと、アルクェイドの秘裂の上に着地する。
竿の部分が、不細工な剣のようにアルクェイドの股間にかぶさる。
「ん………っ!」
恥じらいと期待が入り混じっていた、あのどうにかしたくなるような愛らしい表情が消えた。
「―――だめっ……! わたし、まだ―――」
心の準備とか体の準備とかが出来てないんだろう。
そんなこと、俺だってわかってる。
けど、もうどうしようもないんだ。
遠野志貴は、さっきの言葉でイカレちまったんだから。
「はあ、はあ、はあ――――」
呼吸が暴走する。
ああ、ほんとうにもう。
どうして、おまえは―――
「―――いつもいつも、俺を凶暴にさせるようなことを言うんだ、アルクェイド―――!」
あとはもう。
激情のまま、アルクェイドを貫いた。
[#挿絵(img/アルクェイド 38.jpg)入る]
「いっ………!」
アルクェイドの体がこわばる。
倒された体がふるえる。
「はあ、はあ、はあ………!」
かまわず男根をアルクェイドの秘部に差し入れた。
―――ぢゅっ、ず。
すでにとろりと愛液を分泌させていた生殖器は、それなりにスムーズに異物を迎え入れる。
けれど、そんなのはほんの初めだけだった。
アルクェイドの中は、とてもきつい。
たとえ彼女の蜜で濡れていて、俺のペニスが腺液でぬめっているとしても。
滑らかに内部に入れたのは亀頭の先だけで、それ以降は突き入れなければ挿ってくれない。
「いたっ――――痛い、痛いよ志貴―――!」
アルクェイドの声は、すでに悲鳴に近い。
「―――我慢するんだ。そうしてると、舌、噛むぞ」
ずず。
体をよじって逃げようとするアルクェイドを押さえつけて、男根を挿入していく。
「ん―――あ、ああぁあ…………!」
アルクェイドの声は、痛みしかない。
「は―――くっ」
こっちの声は、それとは違う。
まだ、男根は亀頭が入ったばかりというところ。
だっていうのに、この締め付け具合はどうかしてる。
まだ十分に感じさせていなかったせいか、アルクェイドの中は水気が足りない。
あるのは、ただ熱を帯びた肌の感触と、ぎしぎしとペニスを締め上げてくる何十という肉の襞だけ。
「く――――っ……!」
それが、ちょっと、おかしい。
こっちの神経がどうかしているのか、それともアルクェイドの中が気持ち良すぎるのか。
秘部の中の襞の一枚一枚に触れられるだけで、ヘソのあたりから、何か力が吸い上げられる。
たった数秒。ただ先っぽだけを挿れただけで、何十回と射精してしまいそうなほどの、この快感。
「ぐっ――――う……………!」
必死に、舌をかんで堪える。
腕はかってに動いて、アルクェイドの胸を、横腹を、その首筋を、丹念に愛撫していく。
白い躯。
触れればじんわりと熱く、強く力をこめれば融けてしまいそうなほど柔らかい、肢体。
触れているだけで。
ただ触れているだけであたまのなかが真っ白になる。
「アル―――クェイド…………っっっ!!」
苦悶する彼女とは裏腹に、俺の意識はとっくにトンでる。
これ以上中に入れば、
これ以上触れていれば、二度と理性は戻らないかもしれないっていうぐらい、限界が見えない快楽の入り口。
「くっ―――っ!」
とにかく、まずい。
これ以上はまずいとまだ考えられる。
だから腰を引いて、彼女の中から出ようとした。
「ん――――っ!」
ただ、わずかに後ろに引いただけでこすれ合う生殖器。
それだけでこっちには麻薬のような快楽と、
アルクェイドには悲鳴をあげるぐらいの痛みが走っている。
「志……貴―――!」
アルクェイドは、ただ俺の名前を呼ぶ。
見れば―――彼女の両腕はベッドに押し付けられていて、きつく、何かを耐えるようにシーツを握り締めている。
「……アルクェイド、おまえ―――」
……堪えている。
こんなふうに自分かってにどうかしてしまった俺にも、初めてという痛みにも。
そういったことを全部堪えて、彼女は、俺の望むことを赦してくれている。
「―――――」
いまさら何をためらっているんだ、俺は。
好きだから―――愛しているから、アルクェイドが欲しいんだろ。
なら―――自分がどうなろうが、あとはもう、アルクェイドと一つになるだけじゃないか―――
「……アルクェイド。痛いけど、我慢できるな……?」
「――――――」
ん、と小さくアルクェイドは頷いた。
「それじゃあ行くぞ。力を抜いて、痛かったら痛いって口にするんだ。……それで、少しは楽になれる」
ぐっ、と体を低くする。
あとはもう、彼女の中に自分自身を埋没させるだけだった。
[#挿絵(img/アルクェイド 41.jpg)入る]
「――――んくっ!」
ぎっ、とベッドが軋む。
アルクェイドの体が弓ぞりに跳ねあがる。
硬く膨張したペニスが、彼女の膣を突破していく。
ブツ、と。何か、紙のようなものを裂いたような感覚。
アルクェイドの顔には辱めによる赤い紅と、痛みに耐えるための涙がこぼれだしていた。
「はっ―――ア………!!!!!」
なんて、痛み。
深く入れば深く入るほど、感覚はズタズタにされていく。
この快楽。痛みさえ超越した、脳にかけあがる快楽の波。
ともすれば、脊髄を焼きつかせかねない、理解不能の攻撃思考。
「はっ―――、つっ」
アルクェイドの中は、容赦というものがない。
挿入したペニスは、その全ての面を包まれ、まもれ、圧迫され、愛撫されて、圧縮される。
ぞぞ、と男根にある神経が、しまる。
「くっ―――あ、あ――」
それでも中に挿れていく。
失神しそうなぐらいの快感の波。
それを恐れる反面、本能が、より深い快楽を求めて進む。
「んっ――――あ、ん……!」
アルクェイドの顔がのけぞって、白い喉があらわになる。
痛みでアルクェイドの体がよじれる。
そうすればするほど、膣の中の圧迫は強くなって、こっちの意識もトビそうになる。
「いたっ―――志貴、そこ、痛い………!」
「―――大丈夫―――あとはもう、のぼりつめるだけだから……!」
さらに腰をつきいれる。
ず、ず、ず。
肌と肌のこすれあう音。
ぬちゃ、ぬちゃ、ぬちゃ。
体液と体液の混ざり合う音。
ごぷっ、と腰が上下するたびにはみ出してくる、どろりとした半透明の蜜。
「あっ、く、んん……!」
アルクェイドの声は、まだ痛みを帯びていた。
その反面。
さっきまで痛みから逃れようとするだけだった体は、少しずつその痛みを受諾しようとしている。
それは、痛みと。
次第にではあるが、悦びを感じ始めているという証拠だった。
「―――くっ!」
ひときわ強く、腰をアルクェイドに突き入れた。
「し……き――!」
体がはねる。
アルクェイドの胸がゆれる。
あんなに形のいい眉が、苦痛に歪んでしまっている。
締め付けは厳しくなる一方だ。
アルクェイドの中は果てがなくて。
ただ、快楽だけが次から次へと叩き込まれる。
[#挿絵(img/アルクェイド 39.jpg)入る]
「あ――くっ、んん、んあ………!」
アルクェイドの声が乱れる。
ただ、何度も突き入れる。
アルクェイドの痛みも、俺の痛みも、すべてが同じになるぐらいまで、腰を突き動かした。
「い――んっ、そこ、奥に、あたって、いた……い!」
答えてやる余裕がない。
彼女の中ではまだ、悦びより痛みの方が強い。
それが逆転するまでは自分の限界を堪えないと、意味がない。
「くっ、ん―――しき、もっ、と――つよ、く――!」
涙しながら、アルクェイドが求めてくる。
まだ痛みはある。けれど、彼女の理性が無くなったのか。
アルクェイドは、もう俺自身を拒んでいない。
「――――行く、ぞ―――」
満身の力をこめて、腰を動かす。
何度も何度も。
こっちの意識が続くかぎり、アルクェイドの理性が壊れるまで、ただ動かした。
「んっ、ふぁ、あ、あ――――!」
ゆれる体に合わせて、アルクェイドの吐息がはねる。
上気した肌。
痛みと悦びでクシャクシャに乱れた顔。
ただ触れるだけで、こっちの理性を根こそぎ奪っていく体。
「し、き―――しき、シキ………!」
何も見えていないように、ただ俺の名前を呼ぶ。
それに応えて、いっそう強く突き入れる。
「んっ……! だいじょうぶ、だから―――もっと、ふか、く……!」
「――――ぐっ………!」
根元まで入ったペニスは、アルクェイドの中で融けそうになる。
彼女の中の感覚は、射精どころの話じゃない。
精はおろか内臓、精神まで放出してしまいそうなぐらい、気持ちがいい。
それに今まで耐えてこれたのは、たぶん奇跡だったろう。
でも、それもそろそろ限界だ。
快楽は果てがない。アルクェイドの体がこの痛みに慣れれば慣れるほど、快楽の上限はあがっていく。
「ふっ――う、くっ―――!」
ハラのあたりに力がこもる。
熱い塊が、男根の中にたまっていく。
それが、俺の限界だった。
渾身の力をこめて、最後に腰を突き入れた。
「っっっ………!」
びくん、と反り返るアルクェイド。
「―――んんっ、ああぁあああ――――!!」
どくん。
アルクェイドの内にたたきつけられる、硬くすらある精液。
どくん、どくん。
「ん―――、あ、はぁ、ん――――」
アルクェイドの呼吸が乱れる。
今まで堪えていた分、迸りは一度や二度では止まってくれなかった。
どくん、どくん、どくん。
熱い、マグマめいた塊が、アルクェイドの中を満たしていく。
自分でもわからなくなるほどの迸りのあと。
ぐったりと、アルクェイドはベッドの上に横たわった。
「はあ―――はあ―――は―――あ」
自分の呼吸だけが、月明かりの部屋に響いていく。
アルクェイドは汗ばんだ体を休めるように横になっている。その太ももには一条の赤い線が引いていた。
「はあ―――はあ――――あ」
処女膜を破られたことによる出血だろう。
初めての性行為の後だからか、アルクェイドは本当にぐったりとしてしまっている。
「はあ―――はあ――――」
なのに、俺は。
あれだけ出して、本当に体力だって限界のはずなのに、全然足りていない。
快楽は十分すぎた。
けど、俺はもっとアルクェイドの体に触れたがっている。
本来ならとっくに萎えているはずの生殖器も、まるで本番はこれからだとでも言うかのように、びくびくと屹立してしまっている。
「は―――――あ」
アルクェイドは限界だろう。
初体験であんなに、手加減なしで動かし続けたんだ。
痛みと快楽の後遺症で、もう足腰だって立たないに決まっている。
無防備な背中。
アルクェイドの背中は、染み一つない。
なだらかな腰まわりの曲線。
やわらかそうな二つの丸みと、ぬらり、と。
俺がたたきだした白濁液にまみれた秘裂。
………………。
ぞくん、と首筋が総毛立つ。
だめだ―――こんなんじゃ全然足りない。
「………志貴?」
アルクェイドの声がする。
「アルクェイド―――」
名前を呼んで、後ろから彼女の腰に手をかけた。
「ひゃっ―――!?」
なんとも表現できない可愛い声をあげるアルクェイド。
「ちょっ、ちょっと志貴―――!?」
アルクェイドは驚いてこちらに振り向く。
「あ――――」
頬を赤らめて、彼女は俺の股間を見つめた。
彼女も、当然のように俺が果てたと思っていたに違いない。
けれど依然として勃起したペニスを目の当たりにして、目を白黒させてしまっている。
「志貴………なんか、元気、だね」
「……自分でも驚いてる。本当ならとっくに限界なんだろうけど―――体が、まだアルクェイドを欲しがってるみたいだ」
だから、まだ終わりたくない。
そう目だけで言って、アルクェイドの秘部に顔をうずめた。
「し、志貴……!」
「……これで終わりじゃもったいないだろ。せっかくアルクェイドも慣れてきたんだ。今度は俺だけじゃなくて、アルクェイドを悦ばせないと」
「え―――えぇ!?」
アルクェイドの困惑の声は、あえて無視した。
ぴちゃり、と。
赤い、ただれた果実のようなアルクェイドの秘部を舌で舐めあげた。
「やだ、なにするのよ志貴……!」
「なにって、次の準備。アルクェイドのここ、少しでもキレイにしておかないと」
「あ――――う、うん……けど、きたなく、ない?」
顔を真っ赤にして、恐る恐るといったふうに振り向いてくるアルクェイド。
その顔は、羞恥と快感で真っ赤に染まっていた。
―――それが、もう殺人的に可愛すぎる。
「……やめた。こんなまだるっこしいコト、してらんない」
アルクェイドの秘部から口を離して、その、カタチのいい尻に手を置く。
「え? 志貴、ちょっと……!」
「―――――――」
返事はしない。
彼女の腰に手をおいて、さっきから膨張しっぱなしの生殖器を後ろから押し当てる。
「ま、待って志貴。わたし、もう―――」
「限界だっていうの?
俺はさっきからずっと―――アルクェイドの中で、いじめられてたっていうのに」
凛然とそそり立った男根を、後ろから、彼女の秘裂へと差し入れる。
「ん――――!」
くん、とアルクェイドの顔があがる。
両腕は背後からの衝撃に耐えるようにベッドに肘をたてた。
[#挿絵(img/アルクェイド 42.jpg)入る]
「あ―――ん、んんっ………!」
アルクェイドの声には、もう痛みらしき影はなかった。
ずず、と中に押し入れる。
アルクェイドの中の感覚は、一度目の時とはまるで違う。
まだ俺の精液が残っているのか、秘裂は肉棒を潤滑に挿入していく。
だっていうのに中の心地よさは変わらない。いや、むしろさっきより気持ちいいぐらいだ。
きつく、一ミリの隙間さえなく締め付けてくる柔軟な肉の壁。
熱湯をかけられたみたいに熱いのに、それが痛みにさえ感じない、感覚そのものを焼ききりそうな灼熱感。
「や―――だめ、そんな、後ろからなんて――」
ヤだ、と言う前に、より深く男根を突き入れた。
「んぁああ――!!」
アルクェイドの反応は初々しい。
腰を突き入れただけで、こっちの動きの倍ぐらいの感度で、快感を返してくれる。
「……だいたいさ、アルクェイドはまだイッてないじゃないか。俺だけ何度も達してたなんて不公平だから、大人しくしてなさい」
「おとなしくって―――志貴がそう言うんなら、わたしはかまわない、けど……」
「けど、なに?」
「……それなら、その、ちゃんとさっきみたいに……」
してほしい、とアルクェイドは声を濁らす。
……その仕草が、たまらなく可愛い。
ほんとうに、何度も何度も。
アルクェイドは、俺の理性を粉々に壊してくれる。
「―――――」
さらに深く、勃起した自分自身を突き入れた。
「んっ…………!」
びくん、とエビのようにアルクェイドの背中が跳ねあがる。
後ろから、という事もあるのか、アルクェイドはさして痛みを感じていないようだった。
それとも治癒能力というか、順応能力が人間離れしているのか。
今の彼女にあるのは、後ろから襲われているという羞恥心と、確かにカタチになっている快楽だけみたいだ。
「―――行く、ぞ……!」
後ろから、アルクェイドの奥に突き刺す。
「あ――――ん、くっ………!」
こちらの動きに合わせて、アルクェイドの声があがる。
一度落ち着きはじめた呼吸と体温が、また急激に加速していく。
「あっ―――ん、ん、んっ………!!」
はあ、はあ、と急かされるようにはねるアルクェイドの吐息。
さっきより何倍も敏感に反応する体と、愛液を満たし続けていく肉の割れ目。
「あ……し……き………すごく、あつ、い……」
アルクェイドの声は、ひどく切ない。
俺を求めてくる声。
俺が求めている声。
「アル……クェイド……!」
荒い呼吸のまま、彼女の名前を口にする。
そのたびに―――ゾッ、と彼女の中は締め付けられた。
「こ―――の………!」
なぜか意地になって、後ろから恥骨が当たるぐらい、強く腰をつき入れた。
「っっ……………!!!!」
びくん、とアルクェイドの白い体がゆれる。
「はあっ……ん、しき、そこ、もっと……!!」
「ハァ―――ハァ、ァ……!」
応じるように腰を動かす。
……熱くて。
気が、どうにかしそうなぐらい熱くて、それでもアルクェイドの肌を、感じていたかった。
―――止まらない。
「んっ―――あ、ふぁ、あ……!」
アルクェイドの声が、段々と高くなっていく。
―――それに誘われるように。
「ん―――はあ、あ、んっ……」
俺の動きも際限なく激しくなる。
それは。
「んっ、んんっ、あは、ああ、あ……!」
一種破滅的な、行為だったかも、しれない。
「あ、んっ―――んん、あ………!! しき、わた、し、もっとしきが―――しきが、ほし、い………!!!!」
声に急かされるように、ただアルクェイドの体を愛した。
自分自身を彼女の内に埋没させて。
両腕で彼女の体を抱きしめて。
この口で、その背中を深く味わった。
「くっ――――!」
そのたびに、愛しくなる。
こんな動物みたいに混ざり合ってるだけなのに、どうして―――こんなにも、アルクェイドが愛しくなるのか。
わからない。
わからないまま、ただ、彼女を愛し続ける。
こっちの感覚は、もうすでに無いも同然だ。
今度は耐えることなんかできない。
腰を引いて、突き入れるたびに、ぞくん、と熱い迸りが尿道を駆け抜けていく。
[#挿絵(img/アルクェイド 43.jpg)入る]
「ふっ…………!」
それでも、体が動かなくなるまで体を動かす。
アルクェイドの望みに応じるように態勢を変えながら、何度も、何度も、それこそ数えることさえ無意味に思えるぐらい、吼えた。
「んっ、――――しき、の―――わたしのなかで、はね、てる――――」
はあ、と呼吸を乱しながら、アルクェイドは滴りきった恥丘に指を這わせた。
ぐっ、と。
俺と彼女が接合しあっているところを、もっと挿りやすくするように指で広げていく。
「あ―――は、んっ――――!」
痛みか、それとも快楽に耐え切れなくなったのか、アルクェイドは涙を流しながら、自らの生殖器を指で愛していく。
「ふぁ……あ、ああぁ、ん、くっ……!」
アルクェイドの指が濡れていく。
俺の精液と、彼女のなかから溢れ出してくる愛液とで、ぐちゃぐちゃに濡れていく。
「アルクェイド―――そこじゃなくて、それ、いじって」
腰を突き入れながら声をかける。
「んっ……それって、これ……?」
アルクェイドの指が、ためらうように、彼女の最も敏感なところに触れた。
「え―――――んっ!?」
びくん、と跳ね上がる背中。
陰核……秘部の上、今ではぷっくりと充血して赤く熟れたクリトリスに触れて、アルクェイドは息を止めた。
ある意味膣より敏感だというソコに触れて、アルクェイドははぁはぁと息を乱していく。
「あ――――うそ、こん、な――――!」
喉をあげて、いっそう瞳を涙に濡らしてアルクェイドは自らを慰める。
なかを俺のモノで衝き上げられながら、
そとを自らの指で愛撫していく。
その快楽の前に、アルクェイドの肌はいっそう赤く染まっていく。
「んっ、あ―――しき、すご、い――――!」
ガクン、ガクン、とアルクェイドの体がはねる。
「っ―――、こ、の…………!」
そのたびに、こっちは頭の中が真っ白になってしまう。
アルクェイドと繋がっているからなのか。
彼女が感じている快楽が、そのまま俺の中にも伝わってくる。
「ん、んあ、は……あ、ん……!」
高まっていく体温と、ぐちゃぐちゃに汚れていく体。
汗で、ぬらりと、アルクェイドの体が滑る。
「あっ、は―――しき―――、もっ、と……」
どろどろ と。
まるで亜熱帯の密林にいるような、熱さ。
「わたし、の……わたしに、入って、きて――!」
「くっ―――!」
とろけて。
そのまま無くなってしまいそうなぐらい。
このまま死んでもいい、いや―――ここで死ねるのならどんなに気持ちがいいだろうって思ってしまうぐらいの感覚を、堪える。
「はっ……はぁ、はぁ、はぁ……!」
挿れる。
アルクェイドの体に果てがないのなら、もう俺が果てる所まで行くだけだ。
「アル……クェイド…………!」
―――ただ、突き上げる。
俺の快楽は、とっくの昔に麻痺していた。
「シ………き――――!」
アルクェイドの声は、もうさっきから二つの音しか口にしていない。
俺が、とうに自分も快楽も無くしてしまったように。
彼女も、果てにのぼりつめる手前まできていたようだ。
ずっ。ずずずっ。ずずずずずっ………!!!
「はっ―――んん、あぁあああ――――!」
強く強く、アルクェイドがどんなに泣き叫ぼうと強く。
彼女の理性も知性も壊れてしまうぐらい、強く。
「はっ、はっ、はっ、はあ…………」
ただ、アルクェイドを犯し続ける。
「あ―――ふあ、あ―――し、き―――!」
震える体。
しゃにむにしがみついてくる両腕。
「わたし、わたし、もう――――」
瞳をうるませて、何かを懇願するように声をあげる。
かまわず腰を突き上げる。
きぃぃぃぃん、と張り詰める体。
アルクェイドの背筋が伸びる。
それと同じく。
こっちもいいかげん体力の終わりが近づいてきた。
今度こそ本当に、最後の最後になる射精の前兆を感じている。
「―――っ!」
「し――――き――――――!」
最後の力をこめて、アルクェイドの体を突き上げる。
どくん、と迸る熱い塊。
[#挿絵(img/アルクェイド 44.jpg)入る]
「ん、くっ…………!」
――――どくん。
「あ――――ぁ…………!」
アルクェイドの吐息が途絶える。
びゅくり、びゅくりと熱い塊を打ち出していく感覚。
「ぁ――――志、貴―――――」
それを受け止めて、ぎゅっと、抱きついてくる腕に彼女は力をこめてきた――――
「は――――あ―――――」
アルクェイドの体が落ちる。
俺の最後の迸りを体に受けて、びくびくと体を震わせて。
恍惚とした表情のまま、彼女はベッドに倒れこんだ。
……瞳は閉じられている。
涙を流したまま、何かに満足したような満ち足りた顔で、アルクェイドは眠りについた。
「………つか……れたぁ……」
はあ、と深呼吸をして、ベッドの上のアルクェイドに視線をやる。
彼女は安らかな寝息をたてて眠っている。
「…………ん」
なんか、振り返ってみると気恥ずかしい。
アルクェイドを抱いたことに、それこそ一片の後悔もない。
ただ、もう少し。
もう少しちゃんと理性を働かせて、アルクェイドの肌の感触とか、恥じらう時の表情とかを噛み締めたかった。
「……まだ無理かな。今はついていくのが精一杯だし」
……っていうか、この先アルクェイドの体に冷静でいられる時がくるのかどうかさえ疑問だ。
今日だって、結局は自分でどんなことをしたのかまったく記憶にない。
ただ、もう例えようもなく気持ちが良かったということだけしか覚えていない。
どれくらい気持ちが良かったかっていうと、実はもう一歩だって動けないぐらい、体力を消耗してしまってる。
「――――ふぁ」
あくびをかみ殺して、ただ、アルクェイドの寝顔を眺めた。
……俺は、確かにこいつを愛してる。
一方的なその感情に、アルクェイドは応えてくれた。
俺が愛しているカタチとは違うかもしれないけど、アルクェイドも俺のことを必要としてくれている。
それだけで。
それだけで、今はとても嬉しい。
自分が求められていることじゃない。
コイツが―――今までずっと一人きりだったアルクェイドが、自分以外のヤツを必要だと思っただけで、嬉しいんだ。
「―――そうすれば、さ。おまえは、もう一人きりじゃなくなるんだから」
くらり、と意識が薄れる。
……どうも、こっちもそろそろダウンみたいだ。
アルクェイドが眠っているベッドに背中を預けて、はあ、と大きく息をはいて。
そのまま、沈むように眠りへと落ちていった。
深い眠りの中。
アルクェイドが先に目を覚まして、なにか、よくない事をしている夢を見た。
アルクェイドは一人でこそこそやっている。
何をしているんだ、と聞いてみる。
「あれ? 志貴ったら起きてたの?」
いや……起きてるっていうより、ぼんやりとしてる。アルクェイドのおかげで、まだ体が言うコトをきかないからさ。
「――――そっか。
嬉しいけど、なんか恥ずかしいね」
……アルクェイドは少女のように笑った。
目をつむっているっていうのに彼女の仕草が分かるのはおかしいと思うんだけど、あんまりに幸せそうな顔をするもんだから、そんなコトは些細なコトだとキリすてる。
「ねえ、志貴?」
なんだよ、あらたまって。おまえも疲れてるんだから、夜になるまで眠ってればいいのに。
「もしもよ。もしわたしが本当の吸血鬼になったら、志貴はどうするかな」
……ヘンなことを聞いてくる。
けど、それは起きえないコトだ。
だっておまえは血を吸うのが恐いんだろ。
「―――だから、もしもの話。
生きるために他の生命を奪うコトは、自然界じゃ当然の摂理でしょう。だから―――もしも、わたしがそうなってしまった場合の話」
……やめてくれ。
そんなコトありえないし―――もしもの話は好きじゃないって、前にもたしか言っただろ。
「そう? わたしはイフって好きよ。どんな結果になるか分からないけど、とりあえずその時は、救いがあるような気がするから」
……ああ、そう言えば、前にもそんなコトを言っていたっけな、アルクェイドは。
「うん。だから……志貴がもっとひどいヤツだったら、わたしはどうしてたかなって」
……アル……クェイド……?
「―――大好きよ、志貴。
こんな気持ちを持たせてくれて、それを言葉にして伝えさせてくれるなんて、本当に優しかった」
……なんで。
アルクェイドは、泣いているんだろ、う。
「それじゃあ、志貴が目を覚ます前に行くね。
……面とむかってさよならが言えないから、これでゆるして」
……ガチャリ、という扉の音。
眠ったまま。
ぼんやりと、その音を聞いていた。
「―――――――ん」
目が覚めた。
カーテンごしに入ってくる陽射しはまだ明るい。
時計を見ると時刻は午後になったばかりだった。
「やばっ、学校……!」
体を起こす。
……と、考えてみれば今日は日曜日だ。
学校に行く必要はないし、気に病むコトがあるとすれば、それはまたも家に連絡もいれずアルクェイドの部屋に泊まった、というコトぐらい。
「―――――」
そういえば、おかしな夢を見た気がする。
なにやらアルクェイドと話をして、最後に、あいつがキスをしてくる夢。
「……はあ。なんかゆるみきってるな、俺」
ベッドにはアルクェイドがまだ眠っているっていうのに、そんな都合のいい夢を見るなんて幸せな証拠かもしれないけど。
「そう思うだろ、アルク――――」
ベッドに振りかえる。
声は、そこで途絶えた。
「―――アル……クェイド?」
呆然とベッドを眺めた。
ベッドの上には何もない。
アルクェイドの姿は、どこにもありはしなかった。
―――これで、行くね。
夢の中で。
彼女は、そんなコトを、言っていた。
「ちょっと、待て」
部屋中を探しまわる。
アルクェイドの姿は当然のようにない。
ただ、見つかったものといえば。
テーブルの上にある、一枚の紙きれだけだった。
「―――な」
……何の冗談か、どこの国の言葉なのか。
紙きれには、ただ、ばいばい、としか、書かれていなかった。
「―――なん、で」
信じたくない。
けれどそれ以上に―――アルクェイドがどうしてしまったかが、理解できてしまう。
「――――なんで、だ」
……ふざけてる。
ばいばい、だなんて、簡単すぎる。
ちゃんと、約束したのに。
一緒にいるって約束したのに、あいつに最後まで協力してやるって言ったのに。
どうして――――どうして、また一人に戻っちまうっていうんだ、おまえは――――
「なんでなんだ、アルクェイド―――!!」
力のかぎり叫んで、紙きれを握り潰した。
―――そのあと、気がふれたように。
部屋を飛び出して、街中を走りまわった。
……アルクェイドは見つからない。
わかってる。
もう絶対にあいつは俺の前に現れないって、わかってる。
―――それでも、諦めきれない。
このままじゃ気が狂う。
あいつを捜して、ばかやろうって怒鳴りつけなくちゃどうにかしてしまうのに、やっぱりアルクェイドは見つからない。
もう、絶対に、出会えない。
「―――――――」
なにかが、絶望的に、終わった。
あいつは一人きりでロアとかいう吸血鬼と決着をつけて、消え去るだろう。
……いや、もうそんなコトは済ませてしまって、とっくにこの街にはいないと思う。
「―――――――」
気が狂う前に、何も考えられなくなった。
……みーん、と。耳の奥で、蝉の声が聞こえる。
蝉の、ぬけがら。
自分の体が軽くて、中には何も入っていなくて、考えることさえ出来なくなった。
魂が抜けるというのはこういうコトか。
涙さえ湧いてこない。
ぬけがらのまま、足が動く。
動物の帰省本能、というヤツだろう。
何も残っていないクセに、自分は自分の家にむかって歩き出していた――――。
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●『11/凶つ夜』
● 11days/October 31(Sun.)
翡翠の声で目が覚めた。
あれから―――屋敷に帰ってきたあと、自分の部屋に引き込んで眠ったのだろう。
「志貴さま、なにかご気分がすぐれないのですか?」
「――――いや。別に、何も」
返答して、ベッドから起きあがる。
……自分でも、呆れるぐらい。
何も口にしたくないのに、体はいつも通りに生活をしようとする。
「朝食だろ。すぐに行くよ」
「………はい。それではお待ちしております」
何か言いたそうな顔をして翡翠は退室する。
着替えて、居間にむかった。
居間には秋葉と琥珀がいた。
「おはよう」
いつも通りの挨拶をして、食堂に向かう。
朝食を口にして、居間に戻る。
そのままソファーに座って、ぼんやりと時計を眺めた。
「……兄さん? その、今日は学校があるってわかってますよね?」
「うん―――? ああ、そっか。学校には、行かないといけないよな」
忘れていた。
なにもやる事がなくなったから、あとはこのまま、ずっとヌケガラのまま生きていくんだって、ぼんやりと思っていたけど。
「……俺には遠野志貴の生活があるもんな。何もやる事がないなら、学校に行くのも悪くない」
「兄さん……?」
秋葉が不審げな眼差しを向けてくる。
……何か言いつくろうのも面倒くさい。
何も言わず、登校することにした。
何の異状もなく時間は流れていく。
こうして何時間めかの授業を、何の目的もなく受けている。
かつかつ、というチョークの音。
黒板にせわしなく書かれていく数式を、無意識にノートに書き写していく。
ふと、窓の外から裏庭を見た。
当然のように、そこには誰もいない。
「――――――」
―――何をしているんだろう、俺は。
こんなところで、おとなしく授業なんか受けたりして。
あいつを探しもしないで、普通の学生に戻ってしまって。
「―――――」
けど、俺にはアルクェイドを捜す方法も手段もない。
あいつが自分から消えた以上、あいつを探し出せる可能性は皆無だろう。
だから、本当に。
俺は、アルクェイドを失ったんだ―――。
ばき。
「…………」
自分の机の上で音がした。
……ああ、なんていうことはない。
ただ、シャープペンを強くにぎりすぎて、また折ってしまっただけの話だ。
授業が終わった。
ざわざわと教室が騒がしくなる中、俺だけが授業中と変わらずに机に座っている。
「遠野、ちょっと来なさい」
教壇から数学の教師が声をかけてくる。
「―――はい、なんですか」
返事をして教壇に向かった。
「遠野、おまえ最近素行が乱れてるらしいじゃないか。おまえがな、夜遅くに街に出歩いているという報告が届いている。どうだ、覚えはあるか?」
「……あります。ここ数日、深夜の街に用がありましたから」
「―――そうか」
数学の教師―――まあ、うちの担任なのだが―――は難しい顔をしたあと、すまなさそうな顔をした。
「遠野が夜遊びするような生徒じゃないとはわかっているんだが、職員会議で多少問題にあがってな。生徒指導部の先生方が遠野と話がしたいそうだ。
そういった理由だから、放課後は生徒指導室に行ってくれ。運が悪かったと思って我慢しなさい」
じゃあな、と教師は教室から去っていった。
◇◇◇
放課後。
生徒指導室に顔を出すと、指導部の教師はまだ来ていなかった。
……思い出してみれば、指導部の教師たちはそろって体育系の部活の顧問たちだ。
もしかすると自分たちの部活が終わるまでやってこないつもりかもしれない。
「―――――」
椅子に座って、律儀に待つコトにした。
「………くっ」
ぎり、と唇を噛む。
こんなコトをしている場合じゃないってわかってる。
わかっているけど、俺にはこんなコトしかする事がない。
窓越しの景色は、夕焼けの朱に染まっている。
校庭からは部活動に励む生徒たちのかけ声や、下校していく生徒たちのざわめきがさざなみのように聞こえてくる。
その中で、この教室だけが切り取られたように静かだった。
……あたまに、くる。
なんだって自分はこんなところで、こんなコトをしているんだろう。
何もできない。
自分の無力さにどうしようもなく腹がたつ。
けれどそれを解決する手段がないから、結局はぬけがらみたいに言われたことをこなすしかない。
「……なにやってるんだろ、俺」
答えはない。
そのまま、ずっと、無人の教室で放課後の音だけを聞いていた。
かちん。
長い秒針が音をたてて、夜の七時になったことを告げてくる。
生徒指導室には誰もやってこない。
学校の閉鎖時間は六時、教師たちが帰るのが六時半だというから、校舎には誰も残っていないという事になる。
「……忘れられたかな」
椅子から立ちあがる。
一人でずっと考えていたせいか、少しはあたまがマトモに戻ってくれたみたいだ。
ずっと、考えていた。
自分はどうするべきか、何を優先すべきかっていうコトを。
俺は、これから――
―――ロアっていう吸血鬼を探す。
アルクェイドは俺の前に出てこない。こっちからアイツを探し出すのはほぼ不可能だ。
だから、その逆をとる。
アルクェイドは絶対にロアを倒すといった。アルクェイドの目的がロアであるのなら、俺もロアを探し当てる。
アルクェイドは自分からロアの元へとやってくる。その時にまで俺がロアを探し出せていればそれでいい。
それに、それだったら。
最後の瞬間に、アルクェイドの手助けもできる。
「――――よし」
ふんぎりはついた。
そうと決まればこんなところで時間を無駄にはできない。
一刻も早く街に出て、藁にすがってでも吸血鬼を探し出さないと――――
当然のように、廊下には人影がない。
電灯の明かりも途絶えて、窓からさしこんでくる月光だけが、青白く廊下を照らしあげている。
「―――――」
廊下から夜空を見上げて気がついた。
今夜はこれ以上ないっていうぐらい、真円の月をしている。
「…………」
一瞬、我を忘れて月を見上げた。
銀色の月。
ガラス細工じみた美しさは、手を触れてしまえば崩れてしまいそうなほどに脆く感じられる。
そんな月を。
こどものころ。昏睡の際で。見つめていた。きがする。
――――ぞくん。
「ぐっ…………!?」
突然、胸の古傷が痛んだ。
――――どくん。
心臓が一際跳ねる。
体中の血管が活性化して、呼吸が一定しなくなる。
――――ぞく、ん。
胸に手を触れてみれば。
じくり、と制服は真っ赤に染まっていた。
傷が開いて、出血している。
――――どく、ん。
「は―――ア、ハア―――ハッ――――」
呼吸が乱れる。
背筋は寒くて、背骨がそのまま皮膚を破って外に飛び出しそうなほど、痛い。
―――ぞく、ん。
―――どく、ん。
―――ぞ、く
―――ど、く
――――――かつ、ん。
心音にまぎれて、何か、硬い音がした。
「あ――――――」
誰かが、やってくる。
廊下の奥から、こちらに向かって歩いてきている。
かつん、という音は足音だ。
――――なにか、まずい。
今までみたいな命にかかわる危険を感じて、体が脈打っているのではない。
ずきり、と頭痛が走る。
この痛み。この危機感は、自分自身に対するものだ。
俺は―――遠野志貴は、あの人影にだけは、会ってはいけない気がしている―――――。
「ハア……ハア……」
定まらない息遣いのまま、メガネを外した。
ナイフは―――ポケットの中に入っている。
人影がやってくる。
月明かりの下、人影はどうやら男性のようだった。
死の『点』は、カレの体の中心に心臓のように脈動している。
体内には、機械のコードのように張り巡らされた、数え切れないほどの死の『線』。
「―――――――――――――――――――」
呼吸が止まった。
……あたまが、どうにしかしている。
あんな人影、自分は知らない。
知らないのに―――誰かに似ているような気がしてならない。
かつん、かつん。
男は近づいてくる。
もうすぐ、その顔がはっきりと見て取れる。
「―――――――――――――――――――」
誰に似ているのか。
誰に似ているのか。
誰に似ているのか。
誰に似ているのか。
自分は、誰を忘れているのか――――――
―――血走った目。
体中に在る、死。
大気を凍らすような、異質なまでの静けさ。
間違いなく、コイツは人間じゃない。
かつん、とさらに近寄ってくる。
男はまっすぐに俺だけを凝視して、にやり、と声もなく笑った。
「――――――――――――――――――!」
ナイフを構える。
パチン、と音をたてて刃が出る。
男は歩み寄ってくる。
考えている時間も、躊躇している余裕もなかった。
白い月の下。
まるでスローモーションのように、目の前の男に向けてナイフを構えた。
男は止まらない。
ゆっくりと。
まるで、俺の時間だけが止まってしまったみたいに。
男はこちらの腕からナイフをあっさりと奪い取って、くるん、とナイフを逆手に持った。
「な―――――」
体が――――動か、ない――――
「……志貴。死を視れるのは、なにもおまえだけの特権じゃあない」
男は、そう言って腕を動かした。
――――ぞく、ん。
背筋が凍る。
脳髄が凍結する。
以前、同じことをされた体が、その痛みを覚えている。
「―――――――――――あ」
ずざ、と肉を裂く音がして。
男に奪われた俺のナイフは、俺自身の胸に、深々と突き刺さった―――――
体が倒れこむ。全身から力が抜けて、床に崩れおちていく。
はらり、と。
白い布のようなものが落ちていく。
―――刺される寸前に、男の体に寄りかかった為だろう。
俺の手は、倒れながら、男の体に巻きついた包帯を解いてしまっていた。
「そうか。俺の素顔が見たいのか、志貴」
言って。
男は、自分から包帯をはがしていく。
[#挿絵(img/13.jpg)入る]
「――――――」
目の前が真っ暗になる。
男の顔。この男の顔を、俺はたしかに知っている。
―――似ているはずだ。
だって、こいつの顔は―――
あの暑い夏の日に、俺の前で、血にまみれていた少年に似すぎている――――。
だん、と床に倒れこんだ。
ナイフは胸に刺さったまま。
不思議と痛みも出血もない。
ただ、体温が下がっていく。意識が段々と薄れていく。
体の自由が、何もかもが消え去っていく。
「おまえに殺された借り、たしかに返したぞ」
男は、俺を見下ろしてそう言った。
見上げる顔。男の姿には見覚えがある。
―――いや、あって当然のはずだった。
[#挿絵(img/アルクェイド 28(3).jpg)入る]
ああ―――どうして今まで忘れていたんだろう。
こどもの頃。
遠野の屋敷で遊んだ、自分と、秋葉と、もう一人のこどものことを。
いつだって―――いつだって自分たちは一緒だった。
秋葉と遊ぶときだって、いつも自分はカレと一緒になって秋葉を迎え入れたっていうのに、どうして――――俺は今まで、カレの名前を忘れていたんだろう……?
「シ――――キ」
「そうだよ志貴。ほんとうに、久しぶりだ」
男―――シキは、満足そうに口元をつり上げた。
シキ。志貴。秋葉。シキ。シキ。秋葉。志貴。
そんな、意味のない、落書きの痕。
「そんな――――バカな」
「悪いな志貴。おまえにはもう少し恨み言を聞いてもらわなくちゃいけないんでね、少しだけ『点』を外させてもらった。
即死でない分、あとしばらくは意識が保てるだろう。そう簡単に消えてくれるな」
厭な笑い声と、ネロとの戦いのおりに厭というほど感じた不快感。
薄れゆく意識の中で、悟った。
コイツが―――アルクェイドの“敵”なのだ、と。
「さて―――そのナイフは貰っておこうか。じきに消え去るおまえには不必要なものだからな」
男の腕が、胸に突き刺さったナイフに伸びる。
ぐっ、とナイフの柄を握られる。
それを抜かれれば、間違いなくその瞬間に自分は死ぬだろう。
けれどどうしようもない。
体は、もう瞼を閉じる事さえできないほど、まったく動いてはくれなかった。
「ぬっ―――!?」
飛んだ。
突然、シキの体が車に撥ねられたように、後ろに飛んだ。
それと同時に、黒い法衣を着込んだ人影が現れる。
ここは三階だっていうのに、廊下の窓ガラスを破って、彼女は派手な登場をした。
「くっ――――――!」
何メートルも吹き飛んだあと。
シキはゆっくりと体を立てなおして、床に倒れこんだ俺と――――俺を庇うように立ち尽くすシエル先輩を凝視する。
「貴様―――一度ならず二度までも邪魔をしたな」
「………………」
先輩は何も言わず、ただシキを睨んでいる。
シキは先輩に襲いかかろうと腰をおとす。
――――と。
何かに気がついたのか、突然、シキは笑い始めた。
「ふふ、ははは、あははははははは!
そうか、そういうことか女! まさかとは思ったが本当にそうとはな! おもしろいぞ、このような事態は八百年の繰り返しの中でも初めてだ……!
これならばたしかに、今回は今までと違う展開が待っているだろう……!」
心底可笑しそうに、シキは笑い続ける。
……先輩は、ただ無言で目前の吸血鬼を睨んでいた。
「どうした? 私を殺すためにやってきたのだろう? それともなにか? やはり脱け殻には何もできないという事なのかい?」
「――――――」
先輩は答えない。
ただ、吸血鬼から視線をそらして、倒れこんでいる俺の体を抱き上げてくれた。
「ほう。私との因果を断つより、そのニセモノのほうが大事ということか。
だが、それは無駄だぞ。そいつはもう助からない。今まで遠野志貴が好き放題やってきた事を、そのまま返してやったのだからな。
死線を裂かれたモノにはどのような治療も無意味だ。あの姫君でさえ、蘇生するのに八百年の歳月と引き換えにするしかなかった。
―――そいつのようなただの人間に、“死”から逃れる術はない」
嘲笑う声だけが、聞こえる。
先輩は何も答えない。
結局、ただの一言も発せず。
先輩は俺を抱えたまま、吸血鬼に背を向けて三階の窓ガラスから外に飛び降りた。
三階分の高さなんて、先輩にはあまり意味のないモノだったらしい。
タン、と軽い足取りで地面に降り立つと、先輩は振り返らずに学校から出ようと走り出す。
―――その最中。
俺は虚ろになっていく目で、夜の校舎だけを眺めていた。
さっきまで自分がいた三階の廊下。
勝ち誇った笑みをうかべて俺たちを見逃す、長い黒髪の吸血鬼の姿を、ぼんやりと、虚ろになっていく意識で見つめていた――――。
[#改ページ]
●『12/月世界』
● 11days/October 31(Sun.)
先輩は俺を抱えたまま、一直線に遠野の屋敷にやってきた。
……なんのつもりか知らないけど、ちょっと、それは困る。
俺の胸にはまだナイフが刺さったままっていう凄い状況で、間違いなく死にかけている。
そんなところを秋葉に見せたら、心配させるどころの話じゃなくなるんだから―――――
「――――――」
……くそ、声が出ない。
やめてくれって言いたいんだけど、喉はかろうじて息をするのがやっとだった。
「遠野くんは黙っていてください。……大丈夫、遠野くんの妹さんなら、きっと遠野くんを助けることができるはずです」
「――――――」
……助けるって、そりゃあ無理だよ先輩。
胸をナイフで刺されて、もう体の自由もきかない。
……そんな死にかけた人間を助けられるヤツなんて、どこにもいないんだから。
「いいえ、できます。そうでなければ理屈が合いません……! いいですか、遠野くんの妹さんが遠野くんを助けられないと、そもそも遠野くんは八年前に死んでいるはずなんです。
だから―――きっと、今回もまだ間に合うはずなんです……!」
……先輩の言葉は、遠野くんだらけでちょっとわかりづらいと、おもう。
「――――――」
……先輩、それはどういう―――
「もう、いいから黙っていてくださいっ! これ以上喋ると、遠野くん本当に保たないじゃないですかっ!」
今まで見たこともないほどの真剣な顔で怒られた。
……なにか、とても悪い気がしたので目を閉じることにした。
…………まあ、どのみち。
……………………いいかげん。
起きているのが。
辛くはあった。
から
◇◇◇
――――ずっと、家族とは他人なんだ。
そんな言葉を、幼いころからもっていた。
遠野の家から有間の家に預けられた時から。
いや、正確にはもっと昔から、ずっと、家族とは他人だった。
どうしてなんだろう、なんて考えたこともない。
気がつけば一人で。まわりには両親らしき人たちがいたから、そこの子でいようと自分なりに頑張っただけ。
古い座敷のある家が一番はじめの家だったと思う。
そこから、何かの事故で大きな洋館に引き取られた。
……そこには同い年ぐらいの兄妹がいて、自分とは、とても仲がよかったと、思う。
けれどその兄妹の父親とはずっと壁があったままだった。
……それでもお互いが本当の家族になろうって、努力はしていた。
血の繋がりなんかなくても、自分たちは親子なんだって信じようとしてはいたのに。
それも、あっけなく終わった。
大きな事故があって、病院に運ばれて。
誰も見舞いに来なくて、自分の目がおかしくなって。
それまでも一人で、けっきょくは一人で。
もう、そのまま消えてしまおうかと思っていた。
あの、澄んだ青空みたいにキレイだった、魔法使いに出会うまでは。
………………………………………………………………………………………………………懐かしい、夢。
「生き――――てる」
ぼんやりと、そんな声が出た。
体は相変わらず指一本だって動きそうにないけど、声だけはちゃんと出てくれる。
意識もはっきりとしてきて、ここが自分の部屋だというコトも把握できていた。
「……兄さん? 気がついたんですね?」
「あきは―――なんだ、そこにいたのか」
秋葉は枕元に立って、看病をしてくれていたみたいだ。
「秋葉、おまえ―――」
いまいち状況がわからず秋葉を見つめる。
秋葉はどこか気まずそうに視線を逸らす。
「……その……この傷は、さ」
あいつに―――シキにやられたんだ、とは言えない。
そもそも、こんな傷を負った俺を、秋葉はどうして受け入れてくれたんだろう。
胸にナイフが刺さったままだなんて、普通は病院送りにして家にはあげないと思うんだけど……
「秋葉、えっと――――」
「……いいんです。だいたいの事情はあの人に聞きましたから」
「……あの人って……先輩のこと?」
こくん、と伏し目がちに秋葉は頷く。
「……………」
……なんか、よけいに混乱してきた。
だいたいの事情って、先輩は秋葉にどんな事情を説明したっていうんだろう……?
「……………む」
こまった。先輩が秋葉にどう言い含めたか解らない以上、下手なことは聞けないじゃないか。
「えっ……と、秋葉。先輩は、どうしたの?」
「あの人でしたら居間のほうでお休みいただいています。……本来ならあのような人は屋敷には立ち入らせませんけれど、仮にも兄さんを助けてくれた方ですから。無碍に扱うわけにはいきません」
―――キッ、と。
秋葉の表情は段々と厳しいものになっていく。
「兄さん。その胸の傷は、シキに負わされたものですね」
きっぱりと。
秋葉は、その事実を尋ねてきた。
「あ、秋葉、おまえ―――」
「言ったでしょう。あの人から大体の事情は聞いたんです。……もっとも、聞かなくても兄さんの容体を見れば一目ですべて解りましたけれど」
「――――」
喉が、動かない。
秋葉は―――まるで、初めからシキのことを知っていたような口ぶりだ。
「秋葉、おまえ……シキのことを―――」
「……ええ、知っています。私は初めからすべて承知した上で、兄さんを屋敷に呼び戻したんですから」
くらん、とあたまをトンカチで叩かれたような眩暈が起きた。
「……ちょっ、ちょっと待ってくれ。すべてを承知した上でって、どういうコトだよそれ。俺はまだ……正直、ワケが解らないんだ。
たしかに子供のころ俺と秋葉のほかにもう一人子供がいたっていうのは確かだ。けど、それを聞いたらおまえは――――」
三人目のこどもなんて、いないって言ったじゃないか。
「……ごめんなさい。私、兄さんには嘘ばかりついていました。……今回のことも……こうなることが解っていたのに、ずっと、嘘をついてごまかしていたんです」
「ごまかしてたって……じゃあやっぱり、三人目のこどもはいたんだな。けどどうして、アイツはいきなりいなくなったりしたんだ」
……そう、本当に記憶にない。
三人目の子供……自分と同い年ぐらいの少年がいて、いつも二人で遊びまわっていた事は覚えている。
俺たちは、そうして時おり父親の目を盗んで外に出てきた秋葉と遊んだんだ。
けど、どうしても記憶にない。
アイツがいなくなった理由とか。
アイツの名前が、俺と同じシキだったという事とか。
そう、何もかも―――綺麗さっぱり忘れてしまっている。
「……わからない。覚えていることって言えば、それは――――」
あの中庭で見た光景。
この屋敷に帰ってきてから、何かの白昼夢のように脳裏に浮かんだ、あの暑い夏の日の光景だけ。
あきはがいて、自分がいて。
目の前には、血にまみれたもう一人の少年の死体があって。
「――――――あ」
そう、確かにシキは言っていた。
“おまえに殺された借り、たしかに返したぞ”、と。
それは、つまり――――
「あの夢は―――俺は、本当に、あいつを――」
殺してしまったのか。
だからアイツはいきなりいなくなって、俺は自分にとって都合の悪い思い出を忘れていたっていうのか。
「秋葉、俺は――――」
「いいえ、違います。兄さんは誰も殺してなんかいません。そう思い込むように遠野槙久……わたしたちのお父様に言いつけられたんです」
「親父……に?」
……そんなの、よけいにワケがわからない。
どうして親父が、俺にそんな事を言いつけるっていうんだ。
「……秋葉。おまえ、すべてを了承したままで俺を呼んだって言ったな。
それ、どういう事だ。おまえは―――おまえは八年前のことも、あのシキのことも、全部知っているっていうことなのか」
「……はい。シキの事は、兄さんには思い出してほしくなかった。出来ることなら、ずっと忘れたままでいてほしかった。
……けど、それもおしまいですね。
初めから―――隠し通すことなんて無理な話だったんです」
そう言って、どこか自嘲ぎみに笑って。
秋葉はまっすぐに俺の目を見て話を始めた。
「……兄さん。遠野の家が特別な血族だという事はあの人に聞いたでしょう? 信じられないでしょうけど、遠野の血は人間以外の血が混ざっているんです。……少なくとも、私は幼い頃から父にそう教えられて育ってきました。
もちろん、それをまっとうに信じてきたわけではありません。けど、信じざるをえない出来事が起きてしまった。
……それが八年前の、兄さんがシキに殺された事故なんです」
「……殺されたって……俺が、シキに……?」
秋葉は無言で頷く。
……けど、それはおかしい。
それでは逆だ。
血まみれで倒れていたのはシキのほうだし……あいつはたしかに、『おまえに殺された借りを返した』と言ったじゃないか……!?
「……遠野の人間は、個人差はあれど歳をとるごとに自分の中の“異なる血”が増えていきます。
この血は、あまりいいものではないんです。
遠野の血筋に混ざっている異種は、ただのケモノなのかもしれないと思うほど、自己の本能を肥大化させてしまう。
人間らしい部分を理性とするのなら、ケモノじみた部分である本能が理性を駆逐してしまうんです」
「……………秋葉、それは」
「……わかってます。にわかには信じられない話でしょうから、今は黙って聞いてください」
―――いや。
それと同じようなヤツを、俺はよく知っているんだ。
今だって、シキになんか出会わずに、この体さえ確かに動くのなら、あいつを探しに飛び出しているハズなんだから。
「けれど、遠野の血筋の者たちがヒトとして終わってしまうのは年老いてからなんです。
……私の兄のように……シキのように子供のころに“反転”してしまう例なんて、今までなかった。
遠野の人間がそれぞれどんな異種の血を混濁させているかは個人差があるそうです。
外見がまったく変わらないモノもいれば、本当に体の形が変わってしまうモノもいる。
―――シキは、典型的な後者でした」
「後者って……体の形が変わるっていうこと……?」
「……はい。シキがどうして、あんな幼いころに狂ってしまったかは解りません。
ただ、何の前触れもなく反転してしまった。その時、シキが襲いかかったのが兄さん……貴方なんです」
「シキが……俺に、襲いかかった……?」
ズキリ、と。
胸の古傷がうずいた気がした。
「その時の場所があの中庭なんです。兄さんはシキに胸を貫かれて、もう瀕死の状態でした。そこに父が駆けつけて、シキを止めたんです。
……理性を失っていたシキを止めるには、息の根を止めるしかない。
遠野家の当主には、そうやって反転してしまった一族の者を処理する義務があるんです。
ですから―――兄さんが見た血まみれのシキというのは、父に処理されたあとのシキではないでしょうか」
「―――――――」
よく、思い出せない。
その時、もっと何か。とても大切なコトがあった気がするのだけど、思い出せない。
「……そのあと、兄さんは奇跡的に一命を取り留めました。あとは兄さんの記憶にあるとおり、遠野志貴は事故に巻き込まれた、という偽証をして病院に運ばれたんです」
「――――」
「……私が次女でありながら当主として育てられたのもそれが原因でした。
一度でも“反転”した者を当主として迎えるわけにはいきませんから、シキは後継ぎではなくなって、唯一血を継いでいる私が後継ぎになったんです」
……そうか。
そういった経緯で秋葉が当主なんていう大きな責任を背負わされたのか……って、アレ?
「秋葉。それ、おかしい。だってさ、その、反転しちまったっていうのはシキのほうだろ。
俺は―――その、まともじゃないのか」
「……驚いた。兄さん、こんな話を信じてくれるんですか……?」
「―――あのな。おまえがこんな嘘をつくわけがないし、その……まあ、こういう話には慣れてるんだ。
っと、そんなコトより! その話はおかしいんじゃないかって聞いてるんだけど、秋葉」
「そうでしたね。……でも兄さん、この話はおかしくないんです。おかしくありませんから、これ以上の事情は、聞かないわけにはいきませんか……?」
「―――ダメだ、秋葉。
悪いけど、シキの話は俺にとって大事なものなんだ。あいつは俺にとっても、アイツにとっても共通の敵だ。無視することはできない。
だから―――正体を知っておかないと。そのためには疑問点なんて残しておけないんだ。
どうして親父に殺されたハズのあいつが生きているのか、どうして―――俺が、そんな大事なことを忘れていたのか。
頼む。教えてくれ、秋葉」
「……簡単です。兄さんには、どうしても遠野家を継げない訳があった。
本当にそんな事さえ忘れていてくれたんですね、兄さんは。
……その蜃気楼が、ずっと続いていてくれたら良かったのに」
「……秋葉……?」
「………兄さんは、遠野家の人間ではないんです。ただ父の気まぐれで、私の兄であるシキと同じ志貴という名前だったというコトだけで養子にとられた子供だったんです」
――――――――――――、え?
「……兄さんと私、それにシキ。私たちは本当の兄妹として育てられました。
兄さんとシキはとても仲がよくて、わたしも幼心に嫉妬するぐらい、仲が良かった。
けど、シキがあんなコトになってしまった時に全てが狂ったんです。
シキは内々に処理したけれど、遠野家の長男を殺してしまうわけにはいかない。
遠野家は社会的にも地位のある家柄でしょう? だから……簡単に後継ぎである長男が居なくなりました、なんて事は周りに報せられなかった。
そこで父は思いついたんです。
シキに殺されかけた兄さんを本当の遠野志貴として扱い、反転して人間でなくなってしまったシキを事故で死亡してしまった養子として扱えばいい、と。
―――つまり、兄さんはシキと入れ替わったんです。
殺された側が生き残って、殺した側が死んでしまった。それが兄さんとシキの関係なんです」
は――――――――――――は。
「……じゃあ、なんだ。俺は秋葉の兄なんかじゃなくて、遠野の人間でもなくて――――」
もちろん、有間の家の人間でもなくて。
俺は―――どこの誰だって、言うんだ。
「……ごめんなさい……もう、誰もそれには答えられません。
兄さんは―――志貴という名前をしていた子供は、もうドコにもいないんです。
志貴という子供は八年前に死んでしまった。
それは命としての死ではなく、存在としての死です。戸籍も過去も家も、その記憶も、もうどこにも残ってはいない。
兄さんが遠野シキの代わりになった八年前に、全部……父が、処分してしまいましたから」
―――――――――――は。
「だから……兄さんは有間の家に預けられたんです。
世間体のために、とりあえず遠野家の長男は生きていなくてはいけない。
けれど本当は血が繋がってはいないから、後継ぎにはさせられない。
父は事故で体が弱っているという理由をつけて、兄さんを有間の家に追放したんです。……二度と、遠野の家に立ち入らせないようにって私に言いつけて」
………秋葉の声は、どこか震えている。
俯いて、何かを堪えているような仕草をしている。
……秋葉はきっと、俺に対してものすごい罪悪感を抱いている。
―――俺はそんなもの、責めるつもりなんかない。
逆に秋葉がそう思ってくれるだけで少しは救われるんだろうけど、それでも―――今は聞かなくちゃいけないコトがある。
「……ダメだ。疑問点がまだ二つもある。話を続けてくれ秋葉。物事が、まだちゃんと解決してないよ、それじゃ」
「――――兄、さん?」
「まず一つ目。
俺が遠野の人間じゃないのはわかった。けど、それじゃ疑問点が出てきてしまうんだ。
……遠野の人間は特別な人間だっていうけど。実はさ、俺も少しだけおかしな体質をしてるんだ。
先輩は俺が遠野家の人間だからそういう力があるって言ってて、俺もそれに納得した。けど、俺は遠野家の人間じゃないんだろう?
なら、これはどういうコトなんだろう」
「……わかりません。たしかに父は気紛れで養子をとるような人ではありませんでしたから―――兄さんを養子にとったのも何かしら意味があっての事だったのかもしれません」
「そうか……まあ、このさい自分が何者かなんてコトは、本当にどうでもいいんだ。だから秋葉もそんなに気にする必要はないぜ。
その、さ。俺、生きてるだけでラッキーだって思うんだ。本当なら死んでいたような傷だったんだろ? ならこうしていられるだけで幸運だよ」
そう。そんなコトより、問題は――――
「で、二つ目。シキは、どうして生きてるの」
じろり、と。
無意識のうちに、俺は秋葉に敵意をこめた視線を向けてしまっていた。
「……兄さん……それは……」
「おかしいだろ、あいつが生きているのは。
シキは遠野の血に負けて、反転とやらをしたんだろう? そうして俺を殺して、親父に息の根を止められた。
なら―――ああして生きているハズがない」
「―――――それは―――――その」
「可能性があるとしたら一つだけだ。俺が一命をとりとめたように、あいつも一命を取り留めた。
……いや、もしかすると親父はシキの息の根を止めなかったのかもしれないな。
だって、どんなに狂ってしまったっていっても血をわけた自分の息子なんだ。だから殺さず、人目につかないところで養生させてたんじゃないのか。俺が病院に担ぎ込まれたみたいにさ」
秋葉は答えない。
……どうも、今の発言に間違いはなかったみたいだ。
「……そうか。それでシキがマトモに戻ったら遠野志貴として屋敷に呼び戻すつもりだったんだろうな、あの親父のことだから」
「そんな……そんなことは――――」
ない、とは言いきれないか。
秋葉は俯いて黙ってしまう。
「……いいんだ。秋葉が悪いわけでもないし、親父が悪いわけでもない。もちろんシキが悪いわけでもない。
原因はさ、本当にたまたまなんだ。たまたま運が悪くて、よその国のイカレたヤツがシキに入ってただけなんだ。
秋葉はすべてが狂ったっていうけど。ただ、それだけのことなんだよ」
秋葉は俯いたまま、何も言わない。
――――少し疲れた。
正直に言えば、自分のことなんて知りたくはなかった。
今はそんなコトより、早くアルクェイドに会わなくちゃいけないから。
「……秋葉。少し疲れた。眠るから、外に出てくれないか」
「…………はい。兄さんがそう言うんでしたら」
秋葉がドアへと去っていく。
「――――秋葉」
聞きたい事がもう一つ残っていて、秋葉を呼びとめた。
「なんですか、兄さん」
「ああ。……秋葉は、どうして俺をこの屋敷に呼んだんだ。俺は本当の兄貴じゃないのに」
「……そんな罵迦なこと、言わないでください。
私にとって兄さんは貴方だけです。
今も昔も、兄さんは忘れてしまっただろうけど、子供のころからずっと。―――遠野秋葉にとって、兄さんは貴方だけなんです、志貴」
がちゃり、とドアの開く音がして、秋葉は部屋から出ていった。
「………………」
秋葉が去って、ようやく自分の置かれた状況というものが飲みこめた。
時計は夜の十時をまわったばかり。
シキ―――いや、ロアに学校で襲われてからまだ三時間ばかりしか経っていない。
自分の体はというと、これが完全に動かない。
まるで自分の体がリモコンで動くロボットになったような気分だ。
意思ははっきりとしていて、体にはどこも痛みがないっていうのに、腕や足は動いてくれない。
「―――――はあ」
大きく息を吐いて、気分を落ち着かせる。
腕や足みたいな大きな部分を動かそうとするから動かないんだ。
まずは凄く小さいところ。
たとえば右手の小指を動かすことに神経を集中させる。
「―――――――ぐっ」
体中のあらゆる力を小指にこめる。
全身が汗だくになるまで力をこめる。
数分たって、ようやく小指がぴくりと動いてくれた。
小指だけにしろ、体が動くという感覚は頼りになる。
神経の感覚がどんなものかを思い出すように、小指から薬指、手の平、肘、腕、肩、と動く場所を増やしていく。
「はあ―――はあ――――はあ――――」
動ける個所が増えれば増えるほど、痛みが多くともなってくる。
なるほど―――痛みを感じなかったのは、ようするに全身が麻痺していたためか。
こうやって少しずつ神経を取り戻していけば、同時に痛みも取り戻すというコトらしい。
「ぐっ………う……!」
額にあぶら汗がうかぶ。
刃物で体を刺されるような痛みが全身に走る。
だけど、こうして体の自由を取り戻さないと部屋から出れない。
部屋から出て、街に出て、学校に行って。
アルクェイドを捜すことが、できない。
「がっ―――――ぐっ………!」
吐き気をこらえて上半身を起こす。
……これじゃあ歩くことが精一杯だろうけど、かまわない。
だいたいロアに胸の点を衝かれて生きているほうが奇跡だ。これ以上のものを望むのはバチがあたるっていうものだろう。
ナイフで刺された胸の傷を見る。
―――と。
自分の胸には、死の点と思われるモノはどこにもなかった。
「…………?」
ふと冷静になった。
考えてみれば―――死の点をつかれたら、そのまま問答無用で死んでしまう。
あのネロっていう不死身の化け物だって、それは例外ではなかったんだ。
なら俺程度が、死の点を衝かれて生きていられるはずがない。
「―――視えているものが、違うのかも」
ふと、そんなことを思った時。
コンコン、と軽いノックの音がして、先輩が部屋に入ってきた。
「―――と、遠野くん!? 絶対安静だって言われたでしょう、なんで起き上がろうなんてしてるんですか、貴方はっ……!」
先輩はずかずかとベッドまで歩み寄ってくる。
「…………………」
とりあえず、無言でそんな先輩の様子を見つめる。
「……? なんですか遠野くん、わたしの顔になにかついてます?」
「いや。メガネをしてないなって」
「ええ、ちょっと残念ですね。せっかく今まで遠野くんとおそろいだったのに」
……ここで笑顔をうかべるあたり、やっぱり先輩は先輩だ。
神父さんみたいな服をきて、ロアとまともにやりあえるような人でも、先輩は俺の知っている先輩のままだった。
「……ありがとう。また先輩に助けられた」
「ええ、これで三回目です。いいかげん次は見捨てますから覚悟していてくださいね」
「……そっか。わかった、覚悟しとくよ。次はかならず、やられる前にやるコトにする」
言って、先輩をまっすぐに見据えた。
「遠野くん……もしかして、まだ懲りてないんですか?」
「……あのね。懲りてないもなにも、俺は被害者だよ。あっちから問答無用でやってきたんだ。懲りるも何もないだろう」
「それはそうですけど……遠野くん、やる気まんまんじゃないですか」
「……………………」
先輩の言葉を無言でやり過ごす。
自分が先輩の言う通りやる気まんまんなのかは解らない。
ただ――――こんなところでジッとしているワケにはいかないだけだ。
「―――先輩。一つ聞いていい?」
「……嫌です、と言っても遠野くんには通じないようですね。
いいですよ、それで遠野くんが大人しくしてくれるなら安いものです。しばらくお喋りにお付き合いしちゃいます」
先輩はさっきまで秋葉が座っていた椅子に腰を下ろす。
……てっきり止められると思っていたけど、この人の真意はやっぱりよく解らない。
「じゃあ聞くけど。さっきのヤツがロアなんだな、先輩」
「……はい。アレが今代のロアの転生体です。八年前に遠野くんの命を略奪した遠野シキ。……そのあたりの事情は秋葉さんに聞きました?」
「ああ、聞いた。……なんだ先輩、秋葉と仲良くなったの? あいつ、先輩のこと嫌ってるみたいだったけど」
「ええ、嫌われてますよ。秋葉さんは異端狩りっていうわたしの仕事も嫌いなら、わたし自身のことも気に食わないそうです。ええっとですね、並大抵の嫌われようじゃありません」
……なんかものすごいコトを先輩は笑顔で言う。
「―――そっか。まあ、それはそれで置いておいて。
話はロアに戻るんだけど、あいつの住処ってもしかしてうちの学校なのか?」
「……厳密に言うと間違いですが、あの校舎を根城にしているのは間違いないようですね。アルクェイドがロアの死者たちを残らず排除したので自分から動き出したんだと思います」
「………………」
つまり、まだアルクェイドはロアを見つけていない、というコトか。
それなら――――まだ、あいつを掴まえるチャンスはある。
「遠野くん?」
「あ―――いや、こっちの話。けどさ、どうしてロアはうちの学校なんかを住み家にしてるんだ?
……いや、そもそも。アイツはロアっていうよりシキのような気がするんだ。なんか吸血鬼っていう感じがまったくしなかった。アレは、いったいどういうコトなんだろう」
「どういうコトもなにも、カレの人格ソースはシキという人物ですから。吸血鬼らしくない、というのも当然の話なんです」
「……? ちょっと待ってよ。シキはロアってヤツの転生体なんだろ。なら性格はロアなんだから、シキっていう人間の、人間らしさっていうのは無くなるんじゃないのか……?」
「……いいえ、そんな事はありません。
いいですか遠野くん。ロアが転生先に選んだ肉体は、ロアとは別の人格・人間として育つんです。ロアの意識が浮上するまで一個の人間として成長しなければ、せっかくのロアとしての知性を活用する事がてきないからです。
ですからロアとして覚醒したあとも、その代のロアの行動原理はその時の転生先の肉体にそうものなんです」
「じゃあアイツは間違いなくシキで、ロアなんていう人格はまったくないっていう事なのか?」
「……はい。ある意味、ロア、などという人物はもう存在しないんです。あそこにいるのはただ永遠という事柄、不老不死を求める強迫観念にすぎません。
厄介なのはその脅迫概念に意思と歴史、積み重ねた魔道の知識があるという事です。
ロアとしては、ただ不老不死という命題さえ求め続けられるのなら、それ以外では自分が何をしようとかまわないんです。
ロアは死者たちを増やしていく。けれどそれは『子供を増やす』という種としての本能と似たようなものなんです。シキ本人の意思、カレのやりたいと思う事はそれとは別のものになります」
「……シキ本人の、やりたい事……」
「はい。おそらくカレの目的はアルクェイドを懐柔することより、遠野くん、貴方の殺害を第一としているはずです」
「――――――は?」
先輩の結論は、俺には理解できそうにない。
「シキの目的が俺の殺害って、どうして」
「……そうですね。言いにくい事ですが、シキにとって貴方は自分を殺した人だからだと思います」
「なんだよそれ。殺されたのはこっちのほうだ。あべこべだよ、それ」
「でも遠野くんは生きている。そしてシキは殺されてしまった。その結果、貴方は遠野志貴になってしまったでしょう?
シキは遠野の身内たちの手によって処罰されたあと、遠野くんのように奇跡的に蘇生しました。
けれど、その後に自分の家に戻っても彼の居場所はなくなっていたんです。
だって遠野志貴はきちんと生きていて、妹の秋葉さんと暮らしていたんですから。
ある意味―――貴方は、遠野シキという人物を殺してしまったんです。
彼の帰る場所を、貴方がすべて奪ってしまった。
遠野槙久によってどこかに幽閉されていたシキが、自分として暮らしていた遠野くんにどんな感情を抱くかはわかりすぎるぐらいです」
「……シキにとって、俺は自分の名前を使って遠野シキになりすましているニセモノなわけか」
「はい。シキは、何よりも貴方を憎んでいるんだと思います、遠野くん」
そんなの―――こっちだって好きでした事じゃない。
けれどそんな事はシキにとってどうでもいいのか。
アイツにとって、俺はすべてを奪った憎むべきニセモノになったんだから。
自分の居場所を他人に奪われた男。
その恨み言は増すことはあれ薄れる事もなく、八年間も蓄え続けられた。
……なるほど、それなら確かにまず俺を殺そうとするだろう。
「――でもさ。殺されたのは俺のほうなんだ、先輩」
「遠野……くん?」
そう、奪われたのはこっちだって同じこと。
八年前っていうコトは九歳のころか。
その時まで生きていた志貴っていう人間は、綺麗さっぱり消されてしまった。
過去の記憶もよく思い出せない。
本当の両親に会いたいなんて気はないけど、それでもおそらくは大切であったろう思い出もなくなって。
ただの志貴という人間は、もうどこにもいなくなってしまっている―――
「遠野くん。憎しみで戦おうとするのは、いけないコトです」
……俺の呟きに何か危ういものを感じたのか、先輩はそんな事を言ってくる。
まさか、と首をふった。
「別にそんなんじゃないよ。俺がロアをなんとかしようって思うのは別の理由だ」
「憎しみは、ないんですか……?」
「無いといったら嘘になるけど、そんなのはどうでもいい。ただ、ロアは放っておけない。ほっとくとお姫さまが一人で無茶をするからな。
だから助けてやらないと。最後まで手伝うんだって、あいつと約束したんだから」
―――そうだ。
だからこんなところで、一人でのうのうと休んでいるワケにはいかない。
あいつはずっと―――この程度の痛みなんか堪えて、俺に明るい姿を見せてくれてたんだろうから。
「……わかりません。どうしてそこまで彼女に肩入れするんですか。アルクェイドは吸血鬼です。遠野くんとは違うモノじゃないですか」
「―――そんなのは知らない。ただ俺はアイツを愛してる。肩入れする理由なんて、それだけで十分だろ」
先輩の目を見返して、はっきりとそう告げた。
先輩ははあ、と感心したように口に手をあてて、なぜだか頬を赤らめたりしている。
「―――わかりました。あくまで彼女に協力するっていうんですね、遠野くんは」
「ああ。こんなところでグズグズしている暇はない。ロアが学校に居るっていうんなら、今すぐにでも行かないと――――」
アルクェイドがロアを見つけて戦ってしまうかもしれない。
そうした時、あいつが無事でいられる保証はまったくないんだ。
だから、手を貸してやらないと。
いまの自分が何の役にたつかは疑問だけど、それでもアルクェイド一人よりずっとましなハズだ。
「―――無理ですね。たとえ遠野くんが満足に動けたところで、今の彼女の能力ではロアには対抗できません」
「抵抗できないって……どうしてそんなコトが先輩にわかるっていうんだ」
「単純な足し算ですから。
彼女は一度決壊した吸血衝動を抑えて活動している。そのために能力はさらに低下していて、ロアの半分にも満たないでしょう。
遠野くんの力はロアの半分もありませんから、遠野くんが協力したところでロアには太刀打ちできません。
……そもそも彼女は死にかかっています。能力が弱っているというのに、その弱った能力でさらに自分の衝動を抑えつけている。
わたしたちで言うのなら、肺が潰れているのに動き回っているようなものですよ」
「なっ―――――」
なんだ、それは。
死にかかってるって、なんで。
たしかにあいつは苦しんでいたけど、死にかかっているなんて様子はまったくなかったっていうのに……!?
「もちろん、それは吸血衝動を抑えなければなんとかなるものです。楽になりたいのなら人間の血を吸えばいい。
けれどアルクェイドは二度と人の血は吸わないでしょう。だからロアを追いかけ続けるかぎり、彼女は限りなく死に近づいているんです」
「ふざ……ふざけるな、そんなのっ……!」
ベッドから立ちあがる。
とたん、床に倒れこんだ。
受身もとれずに、ダン、とゴミみたいに絨毯の上に打ち付けられた。
「はっ―――くっ……!」
なんて――――なんて、弱い。
アルクェイドがそんな状況にあるっていうのに、俺は―――一人で、満足に歩けないぐらい、弱い。
「無茶はしないでください遠野くん。
遠野くんの傷自体は有って無いようなものですけど、今は遠野くんを動かしている生命力は空っぽなんです。
ロアの今代の転生体、シキの能力でしょう。
遠野くんはナイフで刺されただけで、ごっそりと“命”そのものを削り取られたんです」
「……いの……ち……?」
「平たく言えばエネルギーですね。遠野くんを生かしているもののことです。これは無限ではありますが、無尽蔵ではありません。
生きているかぎり生命力は作り出されますけど、その蓄積量は個人差があるんです。
ですから、一人の体から取り出せる生命力は無尽蔵ではなく、限りがある。
わたしたちは蓄えた力を全て使い切る前に、最後の力を使用して無限である命から命を蓄えます。
ですから蓄積している生命力を一瞬にして奪われたら、いくら無限だといってもその無限から生命力を引き出す為の力が無いワケですから、その個体は生命活動を停止するんです」
……命。
命を、活かしている、命。
「……それは……モノを、活かしているという、こと……?」
「そうですね、厳密に言うと死ではありません。ガソリンがきれてしまったから動かなくなる、というコトですから」
言って、先輩は倒れている俺を立ちあがらせて、そのままベッドに寝かしつけようとした。
「……いい。もう、横にはならない」
「もうっ。自分一人じゃ立ってられないようなひとが何を言ってるんですか。横になるのがイヤでしたら、こうしてください」
先輩は強引に俺の体を押して、ベッドの上に座らせた。
「……は……あ」
ベッドの上で腰を下ろすだけで、息があがっている。
「――く―――そ」
こんなんじゃ、とてもじゃないけど学校になんていけない。
もしアルクェイドに出会えたにしても、これじゃあ足手まといになるだけじゃないか……っ!
「いいんですよ、遠野くんはもう戦わなくて。ロアの事ならあと数日もあれば決着がつきますから」
「―――? けっ……ちゃくって、どういう……」
「ロアの転生体が特定できましたから、法王庁……えっと、わたしたちの本拠地ですけど、そこに要請が通ります。
七日もすれば法王猊下直属の埋葬機関が送りこまれますから、ロアはそれでおしまいです。
……結局、また同じ事の繰り返しになりますけど、とりあえずそれで今代のロアは処理できます」
……七日。
七日、だって………?
「……だめだ。そんなもの、待ってられない。今夜にでもアルクェイドはロアと決着をつけるかもしれないんだ。
だったら―――そんなもの、何の意味もないじゃないか……!」
両足に力を入れる。
乱れていく呼吸をなんとか誤魔化しながら、ベッドから立ちあがった。
「……先輩。俺のナイフ、どこだ」
「わたしが預かってますけど―――遠野くんに渡すと思いますか?」
「……思わない。けど、人のものをがめちゃいけないよ、先輩。落とし物は持ち主に返すのが常識だろ」
そうですね、と答えて、先輩はごそごそとポケットからナイフを取り出した。
「この短刀は遠野くんのですからお返ししますけど。やっぱり学校に戻るつもりなんですか、遠野くんは」
「―――ああ。アルクェイドがロアを見つける前に、俺が―――」
ヤツを、しとめる。
どのみちシキの目的が俺だというのなら、お互い殺し合うのは避けて通れない。
それなら―――アルクェイドを守るために、自分からアイツを殺しにいってやる。
「そんな体で、ですか。
……やっぱりわかりません。遠野くんがそこまで彼女にこだわる理由、聞かせてください。
それを聞かせてくれるのなら、わたしはもう止めませんから」
……先輩はさっきと同じ質問をしてくる。
その視線は穏やかで、真摯だ。
先輩は本当に答えを求めている。
「――――俺は――――」
俺が、あいつを助けたい理由。
アルクェイドが好きだから、か。
あいつといると楽しかったから、か。
……ああ、それは当然のようにある大前提だ。
けど、もっと深いところで。
どうしても譲れないものがある。
「……あいつ、一人だからさ。なんか、ほっとけないんだ。たぶん、理由はそんなものだよ」
「――――嘘です。そんなことで、自分の命を蔑ろになんかできません。真面目に答えてください遠野くん。……そんな理由じゃ、わたしは納得できません」
「いや、本当に理由はそんなことなんだ。
……あいつは今まで一人で、楽しいっていう事がいっぱいあるって事も知らなくて。
ずっと、馬鹿みたいに、独りだった。
そんなのは寂しすぎるだろ。そんな意味のない人生、俺は許せない。だから―――」
だから、ただ、知らせたかった。
世の中には沢山の出来事があって、その大半は無意味で無駄なことだけど。
それを知ることができるのが生きてるってコトの楽しみなんだって、子供でも知っているようなことを―――
「……ただ、教えてやりたかった。
あいつはあんなに楽しそうに笑うけど、そんなのは誰にでも手に入れられるものなんだって、教えてやりたかった。
世の中にはもっと―――もっと、それこそつまらない悩みなんて消しとぶぐらい楽しい事があるんだって、何回でも連れまわしたかった。
当たり前のことを、当たり前のように感じられるように―――あいつを、幸せにしてやりたかった」
いつでも、本当に笑っていられるように。
アルクェイドの笑顔が、好きだったから。
「だってそうだろう。
あいつは今まで救われなかった分、その何倍も何倍も幸せにならなくちゃいけない。
帳尻は合わせないと嘘だ。だいたい、あいつが独りでなくなる方法なんてすっごく簡単なんだから」
……そう、すごく簡単だ。
たんに誰かと話して、自分のやりたい事をやるだけでいいんだから。
「……きっとさ、それは誰にだってしてやれるコトなんだ。他の誰でもあいつを幸せにしてやれることはできる。
だから―――たしかに、俺がこんなみっともない体で、こんなふうに躍起になる必要はないんだろう。
他の誰にだって、あいつを独りでなくすことができるんだから」
……わかってる。
そんなコトはわかってるけど、理屈じゃない。
「―――けど、ダメなんだ。
他の誰かになんてまかせられないし、このままあいつと別れることなんてできない。
……俺には、もうあいつ以外にいないんだ」
だって。
俺が幸せにしてやりたいって思うのは、この世でただ一人、アルクェイドだけなんだから。
「……アルクェイドを愛してる」
男として、何もかも愛している。
「でもそれ以上に、俺は、自分の手で、あいつを幸せにしてやりたいんだ。
そのためだったら俺の命なんてどうでもいい。このままであいつに死んでほしくない。
―――いまはただ、それだけなんだ、先輩」
……そう、それだけだ。
自分のことなんかより、今はただ、アルクェイドのほうが大切だから――――
「……ばかなこと言わないでください。他の誰にも、そんな事はできませんよ。
だって、そんなコトを言えるのは世界中で遠野くんだけみたいですから」
大きくため息をついて、先輩は両肩をすくめる。
「―――先輩」
「……はあ、ちょっとあたまにきちゃいました。彼女、もう十分幸せじゃないですか」
なにか、諦めるように。
先輩は優しい声で、そんなことを呟いた。
―――と。
窓の外でガサ、と木の枝がズレる音がした。
「……!?」
「あ、驚かないでいいですよ。彼女が立ち去っただけですから。さっきからおかしな違和感があるなって思ってたんですけど、やっぱりそうだったんですね」
ちらり、と先輩は窓の外に視線を投げる。
「ロアより遠野くんのほうを優先して来てたなんて彼女らしくないけど。―――まあ、これでロアのほうを優先しているようでしたらバチあたりです」
「…………え?」
それは、つまり。
さっきまで窓の外にアルクェイドがいたって、いうコト、なのか?
「なんで―――アルクェイドが、俺の部屋なんかに来るんだよ、先輩………!」
「遠野くんがロアにやられたから、心配で看にきたんでしょう。わたしと遠野くんの話に聞き耳をたてていて、たった今ロアのところに行っちゃいましたけど」
―――つまりそれは。
ロアと決着をつけに行った、というコトか。
「なっ―――行ったって、どうして……!?」
「当たり前じゃないですか。あんな事聞いちゃったらわたしだって同じ行動をとりますよ。……うん、羨ましいけど、同じぐらいかわいそう」
「―――だから、どうして―――」
「遠野くんは彼女を助けたい。けど彼女は遠野くんを巻き込みたくない。
なら―――答えは一つでしょう」
まるでこうなる事がわかっていたように、先輩は冷静だ。
「遠野くんもこれで諦めがついたでしょう。遠野くんがどう頑張ったところで彼女には追いつきません。ですから後はわたしたちに任せて、ゆっくり体を……」
「―――ふざけるな!」
激情のまま、先輩の襟元に掴みかかった。
それだけで眩暈がしたが、そんなコトは気にもならない。
「こうなるって分かっていて俺に理由を聞いたのか、先輩――――!」
「……いいえ。わたし、遠野くんが彼女をそういうふうに見てたなんて知りませんでした。……たしかに、これはわたしの失策です」
それでも先輩の表情は動かない。
穏やかな瞳のまま、襟元を掴む俺を見つめている。
「―――――――――」
……こんなコトをしていても、始まらない。
アルクェイドは行ってしまった。
俺がやるべきコトは先輩を責めることなんかじゃない。
「―――彼女のあとを追う。連れていけ」
「そんな体のひとの言うことを聞くと思っているんですか?」
ああ、もちろん思ってない。
「言うことをきかないなら、ここでメチャクチャに犯してやる」
「――――」
先輩の表情が崩れる。
ギラリ、とこっちの心まで射ぬくような視線。
だが、今更。そんなものに怯むコトなんて、できない。
「―――――――――」
そのあと。
先輩ははあ、ともう何度目になるか解らないため息をこぼした。
「その提案は魅力的ですけど、仕方ありません。わたしの失策でもありますし、乗りかかった船ですから。こうなったら終着までお付き合いします」
先輩は襟元をつかむ俺の手を離すと、トコトコと横にまわりこんでくる。
「それじゃあ連れていってあげますから、大人しくしててください」
「え―――?」
こっちが驚く間もない。
先輩はよっと声をあげて俺の体を抱きかかえる。
「秋葉さんに見つかると止められますから、彼女と同じ方法で行きましょうか」
「え―――え!?」
タン、という軽い音。
そのまま、先輩は俺を抱きかかえたまま、窓から外へと飛び出していた。
◇◇◇
……学校に着いた。
先輩は俺を抱えているっていうのに息切れ一つせず、一人で走るみたいに全力疾走でここまでやってきてくれた。
「遠野くん、歩けますか?」
「―――なんとか。これからロアと殺しあいに行くっていうのに、このままじゃ話にならないだろ」
「そうですね。それじゃあここからは自分の足で歩いてください」
先輩は俺を地面に下ろす。
「―――――」
校舎は、不気味に静まり返っている。
この中に入れば、もうあとはヤツと殺し合うだけだ。
はあ、と深呼吸をしたあと、メガネを外した。
頭痛が走る。
満足に動かない体とあいまって、気分は叫び出したくなるぐらい、不快だ。
「………まずいですね」
先輩は深刻な顔をして夜空を見上げる。
月は満月。
煌々とそそぐ月の明かりが、夜の校舎を照らしあげている。
「……まずいって、なにが?」
「……はい。もともと真祖は月の民と呼ばれているだけあって、月齢の影響を強くうけるんです。
それは真祖直属の死徒であるロア本人も同じことですから、今夜のロアは限りなく不死身に近いと思います。
……今のわたしの装備では殺しきれないかもしれません」
ぎり、と歯を鳴らす。
―――限りなく不死身に近い、か。
けど、それは俺には関係がない。
近づければ。次の瞬間にこの胸を貫かれてもいいから、近づければ、それで―――俺は、ヤツの『死』を貫いてやる。
「―――それにしても今夜は明るいですね。これじゃあ闇に紛れて忍び込むのも難しいです。
……月の明るい夜は好きなんですけど、今日だけは別ものですね」
はあ、とため息をつく先輩。
……月光冴え凍る青い夜。
光ってさえ視える、死の線。
「そう。俺は月の明るい夜は、嫌いだ」
「遠野くん……?」
ずきりと。
脳髄を軋ませる。
「……太陽じゃなくてさ、月の弱い明かりだとよけいにはっきり視えちまう。線をかき消すぐらいの強い太陽の陽射しか、本当の暗闇のほうが、好きなんだ」
ずきりと。
痛みではなくその事実が軋ませる。
「ああ―――今夜はとくに狂いそうだ。
なにもかも死に易そうで、まるで月の荒野にいるみたい」
―――けれど、これなら。
万が一にも、ロアの『死』を見逃すコトはないだろう。
メガネをかける。
ナイフを手の平に握って、校舎へ向かって歩き出した。
正門をくぐる。
満足に歩くことが難しい。
校舎までの距離は、ひどく遠く感じられた。
「遠野くん、ここでお別れです」
唐突に、先輩はそう語りかけてきた。
「ここから先は一人で行ってください。わたしは別行動をしますから」
「……別行動って―――先輩、なにかするの?」
「あのですね。わたしだってロアを処理するのが目的なんですよ。ただ、今回のロアは今までの転生体より強力のようですから、真正面から挑むことはしません。
遠野くんとアルクェイドがロアに殺された時、その隙をついてロアを処断します」
真顔で、きっぱりと先輩はそんな事を言った。
「……本気、みたいだね、先輩」
「はい。仕事に私情を挟むのはここまでです。
遠野くんは彼女のために戦うのでしょう? それと同じように、わたしにも自分なりの理由があるんです。ですから―――これ以上貴方たちを助ける事はできません」
「そっか…………うん、ありがとう先輩。
もしかしたらこれでお別れかもしれないから言っとくけど、俺、先輩のこと好きだったよ。先輩と有彦と三人でさ、ばかみたいな話をしてるのは楽しかった」
「――――はい。わたしも、夢みたいでした」
先輩は黒い影みたいに、そのまま校舎へと消えていった。
「さあ―――――行くか」
歩くたびに眩暈がする体に鞭をうって、校舎の中へと走り出した。
……校舎の中は傷だらけだ。
まるで小型の台風が荒れ狂って、そのまま上へ上へと移動しているようですらある。
アルクェイドとロアの戦いは、もう始まっているらしい。
「……上の階か……!」
吐き捨てて、階段を駆け上がった。
「はあ―――はあ―――はあ―――――」
四階にたどり着いた。
壁という壁に走っている傷跡は、そのまま廊下の先―――校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下へと続いている。
「く―――――そ!」
よろける足をなんとか動かして、渡り廊下へと走り出した。
廊下を走って抜けて、渡り廊下へ続く曲がり角にたどり着く。
―――そこが、終着だった。
渡り廊下のただ中。
二つの人影が、距離を保って睨み合っていた。
渡り廊下の終わり、向こう側の校舎の廊下の手前には、余裕ありげに立ち尽くしているシキと。
渡り廊下の真ん中には、荒い息遣いのまま、床に膝をついているアルクェイドの姿がある―――
「アルクェイド――――!」
駆け寄ろうと走り出す。
けれど、その前に。
ぎらり、と。
ひざまずいたまま、アルクェイドはやってきた俺を睨みつけた。
「………………!?」
体が動かない……!?
アルクェイドの目を見た瞬間に、体が――――石になってしまったみたいに、まったく動こうとしてくれない……!
「―――ひどいな。せっかくやってきた仲間を魔眼で束縛するとはね。一緒に死んでくれるという彼の好意ぐらい、受けてやってもいいだろうに」
くっくっく、と。
愉快げに、シキ―――いや、ロアは笑った。
「魔眼って――――なんで」
なんで、アルクェイドが俺にそんなモノを向けるんだろう。
せっかく。
せっかく、こうして間に合ったっていうのに―――
「―――なんで。
なんでだよアルクェイドっ……!!」
アルクェイドは俺から目をそらして、ロアへと向き直った。
……何も、言わない。
アルクェイドは何も、俺に言わない。
ただ目前の敵を、苦しげに凝視するだけだった。
「なんで――――なん、で――――」
声をあげる事さえ、できなくなる。
アルクェイドの魔眼とやらのせいじゃない。
ここまで来たのに。なにもできない自分が悔しくて、今まで無理やり動かしていた体が、熱を失っていっている。
そんな俺とアルクェイドを見据えて、ロアは大声で笑い出した。
「―――なるほど、ようやく覚悟を決めたというわけか、姫君!」
ロアは少しずつアルクェイドへと歩き始める。
アルクェイドはひざまずいたまま動かない。
「いやいや、たいしたものだよ志貴。姫君はおまえを逃がすためにここで私と差しちがえる事にしたらしい。
だがね、かつての姫君なら恐ろしくもあったが、今の君はただの吸血鬼だ。真祖としての力もありえない。
―――まったく。欲望のままに堕ちていれば良かったものを」
「黙れ!」
アルクェイドの声が廊下に響く。
―――なんだろう、あれは。
目の錯覚でなければ―――アルクェイドの周囲の景色が、ぐらぐらと揺らいでいる。
「ぬっ―――」
歩み寄るロアの足が止まる。
「―――空想具現化か。まだそれだけの能力があるとは、さすがは真祖の王族」
じり、と。
ロアは、恐れで後退した。
「だが、君では私には勝てない。私にあって君にはないものがあるからだ」
「――――――」
アルクェイドの呼吸は、止まっていた。
まるで今の自分の全ての活動を放棄して、力を溜めているような、そんな危うさ。
「わかるだろう? そう、それは死の実体験だ。
私は死を知っているが、君は知らない。それが私たちの決定的な差だ。
……まあ、生きているかぎり生物は死を体験できない。それを知り得るのは転生無限者たる私のみだろうがね」
……アルクェイドの周囲の揺らぎは、段々と大きくなっていく。
「ヒトは未知を本能的に恐れる生物だ。それは超越者である真祖であろうと変わらない。いかに神秘を学ぼうと、どれほど長寿の生物がいようと、死を体験することはできない。
おまえたちは死を拒む事でその強大な力を得るが、同時に弱さをも作り上げた。
死を避ける君と、死を受け入れた私。それがアルクェイド・ブリュンスタッドと、ミハイル・ロア・バルダムヨォンの質の違いだ。
私は今も人として人の時代に生きている。時代から外れた亡霊にすぎぬ君に、私を罰する権利はない」
ぱりん、と。
渡り廊下の窓ガラスが砕けていく。
「―――私は知っている。死を。あの闇を。何十回とくぐり抜けたあの虚無を―――!
故に、私にとってこの場の死などただの通過儀礼にすぎぬ。
仮にこの場でこの肉体が死滅しようと、ロアはまた人の世に孵ってくる。この場で私と差しちがえるコトは無意味だと、なぜ解らないのだ君は」
たかだかと両手を広げるロア。
アルクェイドは答えない。
「―――まあ仕方あるまい。それでも私に挑むというのなら止めはしない。その時こそ、君は千年の代償を受ける事になるだろう」
両手を下げて、ロアは腰を低くする。
アルクェイドの周囲の揺らぎは、今すぐにでも弾けそうだ。
「あ―――――」
声が、出ない。
まずいと。
このままじゃまずいって、頭の中で警告が鳴り響いているのに。
理由もわからないし、確証さえない。
ただ、今まで多くの死を視てきた自分にはわかるんだ。
ロアとアルクェイド。そのどちらが、より死に近いかっていう危うさが。
「や――――め」
……声が出ない。出て、くれない。
――――ドン、と。
大気を割るような音がした。
アルクェイドの周囲にあった歪みが、廊下全体に侵食する。
どくどくと、廊下全体が脈をうつ。
窓ガラスも壁も、アルクェイドの前にある廊下や校舎そのものが。
まるで野菜を千切りにするように何十、何百、何千と、それこそ数え切れないぐらいの数の断層になって、波のようにうねっていった。
「ギ――――――!」
ロアの体が一瞬にして無くなっていく。
歪曲して、切断されて、圧縮されて。
それこそ残ったものは足首だけになった。
廊下のズレはすぐに消えた。
今のは瞬間的なズレだったらしい。
渡り廊下は元のままだ。
ただ、そこにロアの足首だけが残っている。
けれど、それで終わってはくれなかった。
「あ―――――」
足首が動く。
カツカツと足首がアルクェイドへと走っていく。
その過程。
一歩進むたびに足首から腿が、腰が、もう一本の足が、胴が、両腕が、生えていった。
「―――――」
アルクェイドは床にひざまずいたまま動かない。
その彼女の前で。
ロアの顔が、首からぞぶりと生えてきた。
「アル――――――」
呼びかける声は届かない。
完全に元通りに蘇生したロアは、そのまま、アルクェイドの腹を切った。
『線』を切るようにあっさりと、肉を裂く事もなく、血を流すこともなく。
「―――危ない危ない。やはり今夜を選んでおいて正解だったな。月が欠けている状態だったのなら、さすがに足首からの蘇生など出来はしない」
「―――――――」
「そして姫君。君はこの傷からの蘇生はできない。私の爪は、そこにいる男と同じ能力だからな」
どさり、と。
アルクェイドは床に崩れ落ちる。
「―――これが死を体験した末に得た力だ。
皮肉な話だが、私自身もこれの使い道はわからなかった。教授してくれたのは彼でね。死を見てきた私にとって、モノの死をカタチにする事はそう難しい事ではなかった」
誇らしげに語ると、ロアはアルクェイドの体を蹴りつけた。
ざざ、とこちらに向かって弾き飛ばされてくる。
「アルクェイド……!」
体が動く。
―――それは、アルクェイドの魔眼の力が無くなったということ。
……アルクェイドの力が、もう、働いていないということ。
「――――く!」
そんな思考を振り払って、アルクェイドの体を抱きとめた。
―――抱きとめた瞬間、ぞっとした。
アルクェイドの体は、ひどく冷たい。
かろうじて残っている熱は、蝋燭の火に似ている。
目の前にはまだロアがいる。
けれど、そんなコトどうでもよかった。
今はただ―――アルクェイドを、助けたかった。
[#挿絵(img/アルクェイド 23.jpg)入る]
「アルクェイド――――!」
呼びかける。
閉じられた目蓋は、眠りから覚めた時みたいに、元気よく開かれた。
「あは―――かっこわるいとこ、見せちゃっ、た」
ツギハギだらけの明るさで。
アルクェイドは、うっとりとした笑顔をうかべた。
「この……なにばかなこと言ってるんだ、おまえ。どうして―――どうして、こんな―――」
……言葉がうかばない。
もっと、もっといい言葉を言ってやりたいのに、あたまがどうかしてしまっている。
だって、とても冷静じゃいられない。
抱いているアルクェイドの体温は、もう絶望的だ。
今メガネを外せば―――もっと絶望的なモノが、見えてしまうに違いない。
―――そんなのは。
そんなのは、絶対に視たくない。
「どうして―――どうして、どうして―――」
そんな言葉しか言えない。
自分自身に苛だたしくなって、ぐっ、と。
今までで一番強く、アルクェイドを抱きしめた。
……抱き返してくる力はない。
アルクェイドの体には、もうどんな力だって残ってない。
彼女はただ、嬉しそうに、笑みをうかべるだけだった。
「うそだ―――――!」
そう。こんなのは、うそだ。
「―――どうして―――どうしてこんな―――どうして一人で、コトするんだよ……! 俺たちは仲間だろ、協力するって―――最後まで助けてやるって、ちゃんと言ったのに……!」
「……そっか……そういえば、そうだったね。なんか……忘れちゃった」
「忘れるなよそんなコト……! これじゃ――これじゃ俺は最低じゃないか。おまえを助けるって、言ったのに。ちゃんと助けるって言ったのに―――ただの少しも、助けて、やれなかった」
「……ううん、そんなコトないよ志貴。わたし、貴方にいっぱい助けてもらったもの。……だから助けてもらうのは……もう、いい、んだ」
こふ、と。
唇から血をこぼして、彼女は苦しげに笑った。
「……だから、お礼に、これぐらいは、しなくちゃって。最後に、ロアから志貴を守れて、良かった」
「―――――――」
息を飲んだ。
……アルクェイドの目は、何も見てない。
自分の傷口のことも、ロアがまだ生きているということも。
……彼女の時間は。
さっきの一撃を行った時点で、もう終わりを告げていたんだ。
「あ―――あ、あ。ありがと、う。助かっ、た、」
なんてコト。
そんな嘘さえ、俺は、うまく言えない。
……アルクェイドの目の色が薄れていく。
体温が、段々とゼロになっていく。
―――失う。
このまま彼女を喪うのか。
「……アル、クェイド」
「―――な、に?」
「……俺の血を飲め。そうすれば力が戻るんだろう、おまえは……!」
……何も考えず。ただ、そんな事を叫んでいた。
「…………」
アルクェイドは答えない。
ただ、見落としてしまいそうなほど微かに。
首を、横にふった。
「―――なんで!?
まさか、まだ恐いとか言ってるのか!? いいか、よく聞けよ。前に言ってたよな、もしも鳥や魚に自分と同じぐらいの知性があったら食べられるかって。
俺は食うぞ。食わなきゃ生きていけないからな。生きるために何かを奪うことは、自然界じゃ当たり前のことなんだろう……!」
それは、アルクェイド自身が言った言葉。
なのに。
彼女は哀しい目をして、首をふった。
「わたし、もしもの話って、好きじゃ、ない」
拒絶の台詞。
それは―――俺の、口癖だったのに。
アルクェイドは言ってたのに。
イフは。もしもの話は好きだって。そこに、救いがあるような気がするからって。
「―――そう、か? おれ、俺は好きだぞ。
たとえ詭弁っぽくてもさ。それなりに、どこか――救いがあるような、気が」
するじゃないか、と、言いたかった。
けど、喉がふるえて。
うまく発音することが、できなかった。
「……そうだったね……けど、今はそれより、もっと欲しいものが、あるんだ」
なんだ、とふるえる声で尋ねた。
「うん……志貴にね、キスして、ほしい」
―――なんだ。
そんな簡単なことで、いいのか。
唇を重ねる。
それは、いつかのように甘いものでもなかったし、優しいものでもなかった。
ただ。
冷たい唇に、自分の唇を合わせただけの、何の温かみもない、口づけ。
そのあとに。
本当に嬉しそうに、彼女はわらった。
「……よかった。憧れてたから、こうゆうの」
「……そっか。ヘンなものに憧れてたんだな、おまえ」
「……うん、なんだか嬉しい。たったそれだけのことなのに、すごく気持ち良かった。ずっと長く生きてきたけど、今ぐらい幸せに時間はなかったよ」
――――だから
「このまま消えてなくなっても、いいかなって、思えちゃった」
そんなコトを、呟いて。
それきり、彼女の体温はなくなった。
「アル……クェイド……?」
返事はない。
体は、あるのに。
まだこんなにも柔らかいのに。
鼓膜は、ちゃんとアルクェイドの声を覚えているのに。
―――もう、二度と。
それらが、繰り返されるコトがなくなったのか。
「あ―――――――――」
何をしていたんだろう、俺は。
……こいつを、幸せにしてやりたかったのに。
色々なことを教えてやりたかったのに。
色々な場所に連れまわしたかったのに。
ずっと、一緒にいたかったのに。
それは、永遠に叶わない。
「―――――――――」
やられた。
いくらなんでも、今のはない。
唐突に、何の気の利いた言葉も言えずに、ひとりで勝手に逝かれてしまった。
こんなんじゃ―――――一生、自分は忘れられない。
この死を。
気が狂ってしまったのかもしれないぐらいの、この静かな気持ちを。
俺は、一生忘れられない。
かつん、と。
今まで静観していた男の足音が聞こえた。
「終わったかい、志貴?」
「ああ、終わっちまった」
――――答えて。
俺は、自らの敵へと振りかえった。
月明かりの廊下で、俺たちは向かい合った。
ロアはさっきまで彼女がいた場所から動きもしない。
今まで黙って見ていたのも、ヤツのほうが圧倒的に優れている余裕の表れか。
「まさか、生きているとはね」
何事もなかったように、ロアは語りかけてくる。
―――メガネを外して、ナイフを構えた。
「死が視える人間というのは死から逃れる術に長けているらしい。生命力の強い弱いの問題ではなくね。
―――だが。そういうのを、一般には往生際が悪いというんだぞ」
「……生き汚いのはお互いさまだ。俺もおまえも、一度は死にぞこなったんだからな」
その通りだ、とロアはおかしそうに笑う。
「死から帰ってきたものは死というものを理解できる。私とおまえは、その中でもさらに特別な能力があったケースだ。
私はここに到達するのに十七回もの死を体験してきたが―――おまえはただの一度だけか。正直、才能の違いだろうな。もしおまえに転生していたらどれほどの能力になったのか、興味深くはある」
―――余裕に満ちた、耳障りな声。
聞いているだけで頭が痛む。
「……二つだけ聞くことがあって、一つだけ教えてやることがある」
痛みでいっぱいになりつつある頭で、そんな事を口にした。
「―――ほう。よかろう、言ってみろ」
絶対的な優位からの余裕だろう。
ロアは、楽しそうにそう返答した。
「……一つ目に聞くことが一番大事なんだけどさ。
おまえ―――なんで、アルクェイドを殺した」
「何故も何もあるまい。自分の命が狙われているんだ。殺し返すのは当然だろう?
もっとも―――私が欲しかったのはそんな弱りきった姫君ではなかったがね。
今回の私なら、間違いなく姫君を生きたまま解体できたろう。だというのに、そんな一介の吸血鬼と変わらぬ真祖をとりこんでも意味がない。
よってとりこむ価値がないと判断し、そのまま始末をつける事にした。こんな結果に終わったのは、私だって残念だよ」
くく、と。
口元をゆがめて、『敵』は笑った。
―――頭が、痛い。
早く―――一刻も早く、息の根を止める。
こいつが一秒でも長く『存る』ことが、我慢できない。
「さて。それで、これからどうするつもりなんだ? まさかその体で私とやりあおうというハラでもあるまい。抵抗は無意味だぞ、志貴」
……そんなコト、自分が一番わかっている。
くらり、と眩暈がして、床にひざまずいた。
それでも―――もう起きあがる力さえないっていうのに、凝視する。
「よせよせ。いくら私の『死』を視たところで、触れられなければ意味はない。
私はな、志貴。おまえの能力を高く買っているんだ。
……ふむ、どうもシキとしての人格は消えつつあるらしい。おまえへの恨みを晴らしたものだから、今の私はシキよりではなくロアよりというコトか。
ま、瑣末なことはどうでもいいがね」
ロアが、かつん、と近づいてくる。
「この力は素晴らしいだろう、志貴。
喜んでいい、直死の魔眼を持っているのは世界でも私とおまえぐらいなものだ。その稀少能力を無くしてしまうのは惜しいし、なにより私達は同じものだ。誰よりも互いを理解できるだろう。
パートナーとして、これほど心強いモノはいまい」
「……仲間になれ、っていいたいのか」
「いや。仲間になれ、と言っているのではない。私の仲間にしてやるんだ、この私がな。おまえの意思なぞ知らんよ。むしろそんなものは邪魔だろう。
安心したまえ―――その血を吸い上げ、魂まで略奪したあと。おまえが何のためらいもなく、自分のの力を行使できる存在に昇げてやる」
―――ぎ、り。
「……そう。それじゃあもう一つ聞くけど。
おまえが見ているものは、線か点のどっちだ。いや、もっと簡単に聞く。おまえが視えるモノは生き物だけだろ。それ以外には視えないハズだ」
「……ん? 当然だろう、生物でなければ命はない。命の源である“個所”は、生き物にしかありえまい」
「――――やっぱり。合点がいったよ、吸血鬼」
ナイフを握る。
頭痛は頭の中を支配してしまって、もう、視えているものは一つだけ。
「……腑に落ちんな、生きているうちの最後の言葉にしてはおまえの発言は不相応だが……まあいい、お喋りはおしまいだ。どこぞに隠れている教会の女の始末もある。
―――喜べよ志貴。私の下僕にしたあとの最初の相手は、おまえが頼りにしているあの女だ」
ロアが、やってくる。
ゆがむ視界はロアの姿を捉えていない。
「――俺とおまえが視ているものは違うよ、シキ」
頭の奥で。
かちり、とスウィッチが入った。
「おまえは、ただ命を視ているだけだ。死を理解なんかしていない。だから俺も殺せず、弱りきった女しか殺せない」
脳髄が、白熱する。
「―――な、に?」
「死が視えているのなら、正気でなんかいられない。おまえに解るのは物を生かしている部分だけなんだよ。
死が視えるのなら―――とても、立ってなんていられない」
―――例えるのなら、それは月世界。
なにもかもが死に絶えた荒野に似ている。
目に見えるものすべてに存る死の綻び。
触れれば消え去ってしまう世界の事象。
「おまえ―――なにを」
「……物事の『死』が視えるという事は、この世界すべてがあやふやで脆いという事実に投げ込まれることだ。
地面なんて無いに等しいし、空なんて今にも落ちてきそう」
「なにを―――何の事を言っているんだ、おまえ」
ロアの声が、動揺している。
……それはそうだろう。
だって、俺が言っていることを、あいつは一ミリだって理解できない。
それはつまり―――ヤツと俺の目は、よく似ているだけでまったくの別物だという事だから。
「―――やめろ。その目で―――その目で私を見るな」
ロアの声に恐れが交じる。
いみじくもヤツ自身が言っていた。
ヒトは、未知なるものを本能的に恐れる生き物だって。
「……一秒先にも世界すべてが死んでしまいそうな錯覚を、おまえは知らない。
―――それが、死を視るという事なんだ。
この目はさ、おまえみたいに得意げに語れる力なんかじゃない」
そう、歩くことさえ、恐ろしかったあの頃。
俺だって―――あの人に出会っていなければ、とうの昔にどうかしていた。
「それがおまえの勘違いだ、吸血鬼。
命と死は背中合わせでいるだけで、永遠に、顔を合わせることはないものだろ」
「だから―――その目で私を見るなと言っているだろう……!」
走ってくる足音。
けど、俺のほうが何倍も早い。
「―――教えてやる。
これが、モノを殺すっていうことだ」
告げて。
たん、と廊下の『点』を突き刺した。
瞬間――――渡り廊下に張り巡らされていた線が、瞬時にうねる。
「な―――――!」
ロアの叫び声も、崩れていくガレキの音にかき消される。
渡り廊下は、文字通り殺された。
意味をなくした塊は、瞬時に瓦解して崩れ去っていく。
ロアにとってみれば、完全な不意打ちだったのか。
廊下の崩壊にまきこまれ、瓦礫に潰されながら、ロアは地上へと落下していった。
「……………」
目の前からすべて、渡り廊下は崩れ落ちた。
痛む頭と、硝る体をこらえて、階段に向かう。
「……………」
アルクェイドの亡骸を通りすぎて、中庭に急いだ。
……月明かりの下。
渡り廊下のあった中庭は、一面の瓦礫の海と化していた。
その中心に、ガラガラと動くモノがある。
「……………」
ほんとうに、生き汚い。
倒れこむ一歩手前の体を引きずって、そこへ移動した。
……たいしたものだ。
ロアの下半身は、まるで存在していない。
だというのに瓦礫から這い出てきたロアの上半身は、そんな事とか無関係に活動している。
その生命力には、純粋に敬意を表するべきかもしれない。
「―――なんだ、今のは」
震えながら、ロアはそんなことを呟く。
瓦礫の上を歩いて、ロアの目の前へと歩いていく。
「―――志貴」
ロアは顔をあげてこちらを見上げてくる。
その目には、眼球から溢れ出しそうなほど、憎しみが満ちていた。
「―――化け物、め」
憎々しげな怨嗟の声。
「どっちが」
返答して、ロアの前に立った。
ロアの『死』は心臓のやや右よりにある。
ナイフでとん、と突き刺す。
紙を貫くような感覚。その感触こそが『死』だ。
あ
、とロアは短い声をあげた。
……彼も死を体験してきた男だ。その感触をよく知っているんだろう。
「……恐ろしくはないだろう? おまえにとっては馴染んだ道だ。違うところがあるとすれば、それは一つだけ」
「―――今度は、帰ってこれない」
ナイフを抜いて、ロアに背を向けた。
ロアはまだ死に至っていない。
アルクェイド同様、長く生きた分死に至る過程が多少長いのだろう。
「は…………あ」
意識が眩む。
体も限界なら、頭はもっと限界だ。
……アルクェイドが言っていたっけ。
鉱物の死は、無理をして見てはいけないって。そうすれば脳の血管が焼き切れるとかなんとか。
「………………」
―――そんなの、どうでもいい。
こんなコトで良かったのなら。
俺が廃人になるぐらいのコトでよかったのなら、もっと早く、ロアを仕留めておくんだった。
それなら、おまえだって、あんなコトには、ならなかったのに――――
「………!?」
倒れた。地面に、自分が倒れている。
足首には痛み。
振りかえれば、そこには―――
上半身だけで這いずってきている、ロアの姿があった。
「キッ、キキ、キサ、マ―――――」
血走った目で、ずるずると、倒れた俺の体にのしかかってくる。
「消絵、消江る、ワタ、、、シが、キエ、留――――」
血にまみれた両腕を、俺の首にまきつけてくる。
「ナにヲ、ナニヲ、シタ―――キエル、ナゼ、ドウ、ヤッ、テ、ワタ死を、殺シ、シシ死死し死し死、たた、たた、たたたたタたたタたた――――」
のこぎりの刃めいた口をあけて、俺の喉へと噛みつこうとする。
「消エ・ナイ、ワタしとオマエは、繋ガッて、いい、ル。オマ、エニ、移レバ、マ、ダ、存在ノ鎖ハ、切れナイ………!」
―――牙が。
喉に突き刺さる。
「あ―――――」
消えた。
ロアの体は、一瞬にしてバラバラに断ち切られた。
「―――はい。これで、この人を殺したのはわたしです」
剣を手にして、息を弾ませて、先輩がそこにいる―――。
「……え?」
ちょっと、よく、先輩の意図がわからない。
「ですから、ロアを殺したのはわたしです。
……相手がどんなものであれ、人殺しはいけません。あなたは、こっち側に来ちゃいけない人です。 だから、殺したのはわたしなんです」
両手を腰にあてて、とても偉そうに、先輩はそう言いきった。
「……先輩。それ、詭弁だよ」
「詭弁、かな。でも優しい嘘なら、それもいいと思います。たとえ偽善でも、なんとなく救いがありそうじゃないですか」
「――――――」
その言葉は、似ている。
もしもの話なんてするなって言った時に、あいつが答えていた台詞に、似てる。
「……そう、だね。……なんとなく―――どこか救いが、残っているのかも、しれないなら」
それは、どんなに幸せなことだろう。
「って、そんな事はどうでもいいですよね。大丈夫ですか遠野くん、噛まれませんでした!?」
倒れこんだ俺を先輩は看病してくれる。
「――――――」
意識が遠のく。
もうこれ以上は活動したくない、と脳が休みたがっている。
「……くん……志貴…………ってば……!」
……段々と遠くなる。
目を開けたまま。
ガラス細工のような月を頭上に、
意識は完全に途絶えてしまった。
直前に。
パチン、とテレビのスウィッチを切った時にそっくりだな、なんてことを思いながら。
[#改ページ]
●『月姫』
●『an epilogue』
「志貴さま、朝です。お目覚めください」
……聞きなれた声がする。
「志貴さま……どうかお目覚めください。昨日に引き続き遅刻をなされると、秋葉さまとのお約束を破ることになってしまいます」
……切迫しているのか落ち着いているのか、なかなかに判別がつきにくい声がする。
「志貴さま。よろしいのですね、今朝も秋葉さまにお叱りをうけるということで」
……そんなの、よろしいハズがない。
「……起きる。起きるから、ちょっと待って」
シーツをかぶったままその返答をして、ゆっくりと目を覚ますことにした。
「おはようございます、志貴さま」
「あい、おはよう」
ねぼけた頭で挨拶を返して、メガネをかける。
時刻は朝の七時すぎ。
いつも通りの時間に翡翠が起こしにきて、めずらしく目を覚ました自分がいる。
「それでは朝食の支度をいたします。着替えがすみしだい、食堂にいらしてください」
一礼をして、翡翠は部屋から立ち去っていった。
「は――――あ」
大きく伸びをして、ベッドから置きあがる。
制服に着替えて、ふと、机の上に視線を投げた。
……机の上には、あれ以来使われる事のないナイフが置かれている。
ふわり、とカーテンがゆらいだ。
翡翠が開けていったのだろう、窓越しの空は気持ちいいぐらいに晴れあがっている。
ただ、吹き込む風が肌寒い。
窓を閉めようと、窓ガラスに近づいた。
―――結局。
あの後、俺が目を覚ましたのは自分の部屋だった。
先輩が運んでくれたらしく、幸いにも秋葉たちには俺が部屋を出ていったという事は知られていなかった。
あの夜から一週間。
遠野志貴の生活は、以前とまったく変わりがない。
秋葉との関係は、多少、なんとなく気まずいものがあるものの、やっぱり兄と妹なわけで。
学校のほうは渡り廊下を修理中という事を除けば以前と何一つ変わっていない。
……いや、変わったか。
学校には、シエルなんていう名前の先輩はどこにもいないし、誰も覚えてさえいない。
街を騒がしていた通り魔事件もあれから一件だって起きていない。犯人が捕まったわけではないので相変わらず夜の街は寂しいけれど、あと一ヶ月もすればもとの夜に戻るだろう。
俺は、結局。
胸の中に埋めようのない穴を持ったまま、それでも以前のようにやっていけている。
……というか、耐えていけている。
時折、何の拍子もなく思い出してしまうとそれこそどうしようもなくなるけど、まだ気が触れる事はなさそうだ。
いつか。
この思いに耐えきれなくなってどうにかなってしまうのか、それともそれにさえ慣れて、普通に暮らしていけるようになるのか。
まあ、確率は半分半分だと思う。
―――ただ、それまでは。
女々しいだろうけど、あいつとの最後の約束を毎日のように守っている自分がいたりするわけだ。
「――――秋も、じき終わりかな」
外は、息がつまりそうなほど蒼い空。
一度だけ大きく深呼吸をして、窓ガラスをぱたんと閉めた。
◇◇◇
授業が終わって、教室に誰も居なくなっても、日が落ちるまでは屋敷には帰らない。
赤い教室。
窓の向こうには燃えるような夕暮れが広がっている。
深空に沈むように、真っ赤な太陽がとけていく。
「―――――」
ずっと、こうして待っている。
彼女との約束を覚えていて、それを忘れられないかぎり、ずっとここで待ち続ける。
一つだけ、果たせなかった約束がある。
「全部終わったあと―――吸血鬼を倒し終わったらさ。別れる前に、もう一回だけこうして遊ばないか?」
彼女は、不思議そうに首をかしげていたっけ。
「だからさ―――本当に、何の義務もなくなったあとでさ、ただ意味もなく会えたらどうなるかなって、そう思っただけ」
……言葉では、そんな事を口にして。
心の中では、ただ、彼女のことだけを考えていた。
「おまえが忙しいっていうんなら別にいいけど。俺もたんに思いついただけだからさ」
……ただ。
協力しあう者同士とかいうんじゃなくて。
気が合う友人同士として、本当になにげなく、
ただ当たり前の思い出を作ってやれたら。
きっと、彼女は喜ぶって思えたあの時。
うん―――! ぜんぶ終わったら、またここに来ようね志貴!
なんの意味もないけど、それはきっと、きっとすごく楽しいよ――
呆然と目を見開かせたあと、こくん、と頷いて。
夕焼けの教室の中。
彼女は、まっすぐな笑顔をしてそう約束した。
―――その約束を、覚えている。
―――その笑顔を、覚えている。
―――なにもかも、覚えている。
忘れられない。
忘れてなんかやらない。
燃えるような教室の中、ここにまた来ようって約束したのを、ずっとずっと覚えている―――
「………………」
深く沈んでいく。
この朱色が消え去るまでの数時間。
真紅の空気がなくなるまでの静かな時間。
永遠にも一瞬にも感じられる、止まった世界。
もしかすると、とっくに自分は気が触れているのかもしれない。
来るはずのない相手を待っているっていうのに、心はひどく落ち着いている。
―――カタン。
何かが机に触れる音。
視線を移す。
窓ガラスが開いている。
気がつけば。
赤い陽射しに染まった、彼女が窓際に立っていた。
[#挿絵(img/アルクェイド 24.jpg)入る]
彼女は、決して窓際から動こうとはせず、そこにいた。
ちゃんと目の前にいるのに、
幻なんかじゃないのに、
絶対に手が届くことがない隔たりを感じさせて。
「―――――――」
声が出ない。
けど、気持ちはひどく落ち着いている。
「……まいったなあ。本当はそっと消えるつもりだったんだけど、志貴、いつまでも待ってるんだもん。放っておけないから、出てきちゃった」
照れたように、彼女ははにかんだ笑顔をする。
「……まあな。言っただろ、おまえとの約束は二度と破らないって」
「そうだったね。ありがと、約束を守ってくれて」
「でも、ごめんね。今度はわたしのほうが約束を守れない」
「……なんで?」
……自分でも驚く。
怒るのでもなく縋るのでもなく、本当に優しい声で、彼女にそう問いただせた。
「……うん。志貴にはわたしがロアを追いかけている理由を話してなかったよね。
その、実はね。わたし、ずっと昔に一度だけ人間の血を吸ったことがあったの。その時に自分の力の一部をその人間に奪られてしまって、そいつはすごく強力な死徒になって。
結局、わたし以外の真祖はみんなそいつに殺されちゃった」
―――それは、つまり。
「……それが、ロア?」
「そう。その時まで、わたしは吸血衝動っていうものを知らなかった。他の真祖たちも、わたしにだけは無いんだって信じてたみたい。
けど、わたしは単に来るのが遅かっただけ。その時まで―――わたし、自分が吸血種だなんてことを知らなかった。
だから―――アレが、いけないコトなんだっていうことも、わからなかった」
……そうか。
何一つ余分なことを教えられなかった彼女は、自分が殺してまわる相手と同じものだということさえ、教えられなかったんだ。
「たった一度の過ちで、わたしはみんな壊してしまった。……だから二度と人の血は吸わない。
けど一度でも血を吸ってしまった真祖は、人の血を吸わないと正気でいられなくなってしまう」
「――――」
「……わたしがこうしていられるのはね、志貴がロアを完全に『殺』してくれたから。
今までわたしが何度あいつを消滅させても、消えるのは肉体だけで魂までは殺せなかった。
けど、志貴はあいつの存在そのものを殺してくれた。だから―――あいつに奪われていた力が戻ってきて、なんとか蘇生することができたんだ」
「―――そ――――な、コト」
「でも、それが精一杯。わたしの中の吸血衝動は、もう抑えきれないところにまでやってきちゃった。 だから――――」
「―――そんなコト―――どうでも、いい」
「……志貴とは、もう会えない。約束、破っちゃって、ごめん」
……そんなコトは、どうでもいいんだ。
ただ俺は―――おまえに、傍にいてほしいだけで。
「……約束、守れるよ」
「志貴……?」
「俺の血を吸え。そうすれば――おまえは約束を守れる」
ただ、時間だけが流れる。
お互い、何も言えない。
本当にどうかしてしまいそうな沈黙のあと。
「―――そっか。けど、やっぱりいいや。志貴の血はいらないよ」
「なんで。俺の血じゃだめなのか。俺の血を吸えない理由なんか、あるのか」
うん、と頷いて。
[#挿絵(img/アルクェイド 25.jpg)入る]
「好きだから、吸わない」
そう、彼女は咲き誇る花のような笑顔で告げた。
「…………………っ」
大きく息を吸いこんで。
ただ、気持ちだけを抑えつけた。
止めたかった。
止めたかった。
止めたかった。
止めたかった。
――――例え殺してでも、止めたかった。
けど、その笑顔があまりにも華やかすぎて。
俺のわがままな思いで、汚すことだけはできなかった。
「――さよなら。今まで本当にありがとう、志貴」
「………………」
喉がふるえて、声が出ない。
それでも―――お別れを、言わないと。
「……俺は、嘘つきだ」
「どうして? 志貴は約束を守ってくれたよ」
「―――どうしようもない嘘つきだ。
おまえを……幸せにするって、言ったのに」
そう、誓ったのに。
「……ううん、そんなコトない。
わたしはこれから眠り続けるけど、その間に志貴の夢を見る。貴方と過ごした時間はすごく楽しかった。だから、その時の夢をずっと見るの」
「――――――」
「なんの意味もないけど、それはきっと、きっとすごく楽しいよ。
だからね、志貴。わたしは幸せだよ。志貴はちゃんと、わたしに幸せをくれたんだから」
「く………………っ!」
喉がつまる。
そんなもの―――そんなものを、俺は。
「……優しいね、志貴。うん、やっぱり最後にお別れを言いに来てよかった。
わたし、志貴のことを愛してる。正直で、ぼんやりしてて、わたしにだけうるさくて、前向きだった貴方を愛してる。
だから、お願い。これからもずっと、そのままで生きていってね」
ほんの一瞬。
哀しそうに、彼女は笑って。
ばいばいと手をふって、夕暮れに融けるように、俺の前から消え去った。
「…………………っ」
必死に歯を噛んで、堪えた。
彼女が最後まで笑顔だったから、せめて、涙を流すことなんて、したくなかった。
―――教室には誰も居ない。
「………そっか。約束、守ったじゃないか、おまえ」
この教室で。
夕暮れの教室でまた会おうっていう約束は、ちゃんと守られた。
……失ったものがあるけれど、これで、終わったんだ。
あいつと知りあって、駆けぬけるような時間が、ここできちんと幕を下ろした。
考えてみれば、別れはいつだってある。
俺とあいつの場合、それが早かったということだけ。
そう思えば、これは満足のいく別れだった。
あいつは生きていたんだし、幸せだと、言ってくれた、の、だ、し。
「……うそだ……! そんなんじゃない、そんなモノを―――俺は、望んだんじゃない………!」
―――そう。
もっと――
もっと、一緒にいたかった。
もっと話をしたかった。
もっと体温を感じたかった。
もっと――――もっと、あの笑顔を、見ていたかった。
ずっと。
今なんかよりずっと――――彼女を、幸せに、してやりたかったのに。
なのに、あいつは。
最後まで笑顔で、俺に、生きていけだなんて、残していった。
「……ばか……やろう……」
それが彼女の最後の望みだった。
どんなに辛くても―――今は誤魔化して誤魔化して、いつか思い出と振りかえれる時まで、前向きに生きていってと、笑顔で残した。
「っ……………!」
そんな事、できるはずがない。
俺には―――そうやって生きていく自信なんて、これっぽっちもないっていうのに。
「――――――」
それでも彼女が幸せな夢を見ていられるように。
せめて、それぐらいは叶えてやらなくちゃ、いけないのか。
「…………あ」
気がつけば、とっくに日は沈んでいる。
真紅だった空気は消えて、空は青く青く染まっていた。
暗い夜空。
螺旋を描くような雲と、ただ白く輝く月。
―――残ったものはそれだけ。
けど、とても美しい、記憶。
「―――――――」
はあ、と。
長く、祈るように、大きく息をはいた。
もう彼女はいないけれど。
言い忘れていた事を、口にしないといけない。
「じゃあな。……俺も、すごく、楽しかった」
随分と遅れた別れの言葉が教室に残響する。
[#挿絵(img/01.jpg)入る]
夜空には、ガラスのような月だけがある。
遠い、触れれば壊れそうな蒼い月。
それをいつまでも―――夜が明けるまで、いつまでも見上げていた。
[#改ページ]
Fin