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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
例 衛宮切嗣《えみやきりつぐ》
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「Fate/stay night」(present by TYPE-MOON)
Heavens Feel TrueEnd
-春に帰る-
―――――気が付けば、焼け野原にいた。
大きな火事が起きたのだろう。
見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。
―――それも、長くは続かない。
夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。
あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。
……その中で、原型を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。
この周辺で、生きているのは自分だけ。
よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。
どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。
生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。
いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。
まわりに転がっている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。
……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより。
もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。
それでも、希望なんて持たなかった。
ここまで生きていた事が不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。
まず助からない。
何をしたって、この赤い世界から出られまい。
幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。
そうして倒れた。
酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能がすでに失われていたのか。
とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。
まわりには黒こげになって、ずいぶん縮んでしまった人たちの姿がある。
暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。
……それならいい。雨がふれば火事も終わる。
最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。
息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。
もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。
――――それが十年前の話だ。
その後、俺は奇跡的に助けられた。
体はそうして生き延びた。
けれど他の部分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまったのだと思う。
両親とか家とか、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。
だから体以外はゼロになった。
要約すれば単純な話だと思う。
つまり、体を生き延びらせた代償に。
心の方が、死んだのだ。
―――――――――夢を見ている。
「――――っ」
はじめての白い光に目を細めた。
まぶしい、と思った。
目を覚まして光が目に入ってきただけだったが、そんな状況に馴れていなかった。
きっと眩しいという事がなんなのか、そもそも解っていなかったのだ。
「ぁ――――え?」
目が慣れてびっくりした。
見たこともない部屋で、見たこともないベッドに寝かされていた。
それには心底驚いたけど、その部屋は白くて、清浄な感じがして安心できた。
「……どこだろ、ここ」
ぼんやりと周りを見る。
部屋は広く、ベッドがいくつも並んでいる。
どのベッドにも人がいて、みんなケガをしているようだった。
ただ、この部屋には不吉な影はない。
ケガをしているみんなは、もう助かった人たちだ。
「――――」
気が抜けて、ぼんやりと視線を泳がす。
――――窓の外。
晴れ渡った青空が、たまらなくキレイだった。
それから何日か経って、ようやく物事が飲み込めた。
ここ数日なにがあったのか問題なく思い出せた。
それでも、この時の自分は生まれたばかりの赤ん坊と変わらなかった。
それは揶揄ではなく、わりと真実に近い。
とにかく、ひどい火事だったのだ。
火事場から助け出されて、気が付いたら病室にいて、両親は消えていて、体中は包帯だらけ。
状況は判らなかったが、自分が独りになったんだ、という事だけは漠然と分かった。
納得するのは早かったと思う。
……その、周りには似たような子供しかいなかったから、受け入れる事しか出来なかっただけなのだが。
―――で、そのあと。
子供心にこれからどうなるのかな、なんて不安に思っていた時に、そいつはひょっこりやってきた。
包帯がとれて自分でご飯が食べられるようになった日に、その男はやってきた。
しわくちゃの背広にボサボサの頭。
病院の先生よりちょっとだけ若そうなそいつは、お父さんというよりお兄さんという感じだった。
「こんにちは。君が士郎くんだね」
白い陽射しにとけ込むような笑顔。
それはたまらなく胡散臭くて、とんでもなく優しい声だったと思う。
「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」
そいつは自分を引き取ってもいい、と言う。
親戚なのか、と訊いてみれば、紛れもなく赤の他人だよ、なんて返答した。
……それは、とにかくうだつのあがらない、頼りなさそうなヤツだった。
けど孤児院とそいつ、どっちも知らないコトに変わりはない。
それなら、とそいつのところに行こうと決めた。
「そうか、良かった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く馴れなくっちゃいけないからね」
そいつは慌ただしく荷物をまとめだす。
その手際は、子供だった自分から見てもいいものじゃなかった。
で、さんざん散らかして荷物をまとめた後。
「おっと、大切なコトを言い忘れた。
うちに来る前に、一つだけ教えなくちゃいけないコトがある」
いいかな、と。
これから何処に行く? なんて気軽さで振り向いて、「――――うん。
初めに言っておくとね、僕は魔法使いなのだ」
ホントに本気で、仰々しくそいつは言った。
一瞬のコトである。
今にして思うと自分も子供だったのだ。
俺はその、冗談とも本気ともとれない言葉を当たり前のように信じて、
「――――うわ、爺さんすごいな」
目を輝かせて、そんな言葉を返したらしい。
以来、俺はそいつの子供になった。
その時のやりとりなんて、実はよく覚えていない。
ただ事あるごとに、親父はその思い出を口にしていた。
照れた素振りで何度も何度も繰り返した。
だから父親―――衛宮切嗣《えみやきりつぐ》という人間にとって、そんなコトが、人生で一番嬉しかった事なのかも知れなかった。
……で。
事故で両親と家を失った子供に、自分は魔法使いなんだ、なんて言葉を投げかけた切嗣《オヤジ》も切嗣《オヤジ》だけど、
それが羨ましくって目を輝かせた俺も俺だと思う。
そうして俺は親父の養子になって、衛宮の名字を貰った。
衛宮士郎《えみやしろう》。
そう自分の名前を口にした時、切嗣と同じ名字だという事が、たまらなく誇らしかった。
………夢を見ている。
幼い頃の話。
ちょうど親父を言い負かして弟子にしてもらった頃だから、今から八年ぐらい前だろう。
俺が一人で留守番できるようになると、切嗣は頻繁に家を空けるようになった。
切嗣はいつもの調子で「今日から世界中を冒険するのだ」なんて子供みたいな事を言い、本当に実行しだしたのだ。
それからはずっとその調子だった。
一ヶ月いないなんてコトはザラで、酷い時は半年に一度しか帰ってこなかったコトもある。
衛宮の家は広い武家屋敷で、住んでいたのは自分と切嗣だけだ。
子供だった自分には衛宮の屋敷は広すぎて、途方にくれた事もある。
それでも、その生活が好きだった。
旅に出ては帰ってきて、子供のように自慢話をする衛宮切嗣。
その話を楽しみに待っていた、彼と同じ苗字の子供。
いつも屋敷で一人きりだったが、そんな寂しさは切嗣の土産話で帳消しだった。
―――いつまでも少年のように夢を追っていた父親。
呆れていたけど、その姿はずっと眩しかったのだ。
だから自分も、いつかはそうなりたいと願ったのかもしれない。
………まあついでに言うと。
あんまりにも夢見がちな父親に、こりゃあ自分がしっかりしなくちゃいけないな、なんて、子供心に思った訳だが――――
……音がした。
古い、たてつけが悪くて蝶番《つがい》も錆びて無闇に重い、扉が開く音がした。
暗かった土蔵に光が差し込んでくる。
「――――っ」
眠りから目覚めようとする意識が、
「先輩、起きてますか?」
近づいてくる足音と、冬の外気を感じ取った。
「……ん。おはよう、桜」
「はい。おはようございます、先輩」
こんな事には馴れているのか、桜はおかしそうに笑って頷く。
「先輩、朝ですよ。まだ時間はありますけど、ここで眠っていたら藤村先生に怒られます」
「と……そうだな。よく起こしに来てくれた。いつもすまない」
「そんな事ありません。先輩、いつも朝は早いですから。
こんなふうに起こしに来れるなんて、たまにしかありません」
……?
何が嬉しいのか、桜はいつもより元気がある。
「……そうかな。けっこう桜には起こされてるぞ、俺。
けど藤ねえにはたたき起こされるから、桜の方が助かる。……うん、これに懲りずに次は頑張る」
……寝起きの頭で返答する。
あんまり頭を使っていないもんで、自分でも何を言っているか判らなかった。
「はい、わかりました。でも頑張ってもらわない方が嬉しいです、わたし」
桜はクスクスと笑っている。
……いけない。まだ寝ぼけていて、マトモな台詞を口にしなかったようだ。
「―――ちょっと待ってくれ。すぐ起きるから」
深呼吸をして頭を切り換える。
冬の冷たい空気は、こういう時に役に立つ。
寒気は寝不足で呆っとした思考を、容赦なくたたき起こしてくれた。
……目の前には後輩である間桐桜《まとうさくら》がいる。
ここは家の土蔵で、時刻は午前六時になったばかり、というところ。
「……先輩?」
「ああ、目が覚めた。ごめんな桜、またやっちまった。
朝の支度、手伝わないといけないのに」
「そんなのいいんです。先輩、昨夜も遅かったんでしょう? なら朝はゆっくりしてください。朝食の支度はわたしがしておきますから」
弾むような声で桜は言う。
……珍しい。本当に、今朝の桜は元気があって嬉しそうだ。
「ばか、そういう訳にいくか。今起きるから、一緒にキッチンに行こう」
「よし、準備完了。それじゃ行こう、桜」
「あ……いえ、その、先輩」
「? なんだよ、他に何かあるのか」
「いえ、そういうコトではないんですけど……その、先輩。家に戻る前に着替えた方がいいと思います」
「――――あ」
言われて、自分の格好を見下ろした。
昨日は作業中に眠ったもんだから、体はツナギのままだった。
作業着であるツナギは所々汚れている。こんな格好のまま家に入ったら、それこそ藤ねえになんて言われるか。
「う……まだ目が覚めてないみたいだ。なんか普段にまして抜けてるな、俺」
「ええ、そうかもしれませんね。ですから朝食の支度はわたしに任せて、先輩はもう少しゆっくりしていてください。それにほら、ここを散らかしっぱなしにしていたら藤村先生に怒られるでしょう?」
「……そうだな。それじゃ着替えてから行くから、桜は先に戻っていてくれ」
「はい。お待ちしてますね、先輩」
桜は早足で立ち去っていった。
さて。
まずは制服に着替えて、散乱している部品を集めなくては。
この土蔵は庭の隅に建てられた、見ての通り、ガラクタを押し込んでいる倉庫である。
といっても、子供の頃から物いじりが好きだった自分にとって、ここは宝の倉そのものだ。
親父は土蔵に入る事を禁じていたが、俺は言いつけを破って毎日のように忍び込み、結果として自分の基地にしてしまった。
俺―――衛宮士郎にとっては、この場所こそが自分の部屋と言えるかもしれない。
だだっ広い衛宮の屋敷は性に合わないし、なにより、こういうガラクタに囲まれた空間はひどく落ち着く。
「……そもそも勿体ないじゃないか。ガラクタって言ってもまだ使えるし」
土蔵に仕舞われたモノは、大半が使えなくなった日用品だ。
この場所が気に入ったからガラクタを持ち込んだのか、ガラクタが山ほどあるからここが気に入ったのか。
ともかく毎日のように土蔵に忍び込んでいた俺は、ここにあるような故障品の修理が趣味になった。
特別、物に愛着を持つ性格ではない。
ただ使える物を使わないのが納得いかないというか、気になってしまうだけだと思う。
そんなこんなで、昨夜は一晩中壊れたストーブを修理していた。
「……完成は明日か。途中で寝るなんて、集中力が足りない証拠だ」
軽い自己嫌悪を振り払う。
とりあえずストーブの部品を集めて、修理待ち用の棚にしまった。
修理待ち用の棚に空きはない。このストーブを直したら、次は時代遅れのビデオデッキが待っている。
……そのどちらも藤ねえによって破壊された、という事実はこの際無視する事にしよう。
「……よっと」
作業着から制服に着替える。
土蔵は自分の部屋みたいなものなので、着替えも生活用具も揃っていた。
あとはそう、所々に打て捨てられた書き殴りの設計図と、修練の失敗作ともいえるガラクタが大半だ。
もともとは何かの祭壇だったのか、土蔵の床には何やら紋様が刻まれていたりもする。
「―――さて。今日も一日、頑張って精進しよう」
ぱん、と土蔵に手を合わせ、屋敷へと足を向けた。
土蔵から屋敷に向かう。
この衛宮邸は、町外れにある武家屋敷だ。
切嗣《オヤジ》は町の名士だった訳でもないのに、こんな広い家を持っていやがった。
それだけでも謎だっていうのに、衛宮切嗣には日本に親戚がいないらしい。
だから親父が死んだ後、この広い屋敷は誰に譲られる事もなく、なし崩し的に養子である自分の物になってしまった。
だがまあ、実際の話、俺にそんな管理能力はない。
相続税とか資産税だとか、そういった難しい話は全て藤村の爺さんが受け持ってくれている。
藤村の爺さんは近所に住んでいる大地主だ。
切嗣《オヤジ》曰く、“極道の親分みたいなじじい”。
無論偏見だ。
藤村の爺さんは極道の親分みたいな人ではなく、ずばり極道の親分なんだから。
「…………」
それはそれで多大に問題があるが、あえて追求しない方針でいきたい。
それに藤村の爺さんは怖い人っていうか、元気な人である事は間違いないのだが、悪い人ではなかったりする。
爺さんが趣味で乗り回しているバイクをチューンナップすると、とんでもない額の小遣いをくれるので助かるし。
ともかく、そんな訳でこの広い屋敷に住んでいるのは自分だけだ。
切嗣《オヤジ》が死んでからもう五年。
月日が経つのは本当に早い。
その五年の間、自分がどれだけ成長できたのか考えるとため息が出る。
切嗣のようになるのだと日々修練してきたけど、現実はうまくいかない。
初めから素質がなかったから当然と言えば当然なのだが、それでも五年間まったく進歩がない、というのは考え物だろう。
現状を一言でいえば、理想だけが高すぎてスタート地点にさえ立てていない、といったところ。
「―――――――」
いや、焦ってもいい事はないか。
とりあえず、今は出来る事を確実にこなしていくだけだ。
さて。
とりあえず、今やるべき事といったら――――
―――そうだな、桜の手伝いをしないと。
後輩に頼りっきりというのは決まりが悪いし、こんな早くから来てくれている桜に申し訳がない。
が、時すでに遅し。
朝食はもう出来上がっているようだ。
桜らしい、上品な朝餉《あさげ》の匂いがキッチンから伝わってくる。
桜は調理を終えて、あとはテーブルに並べるだけと食器棚を覗いていた。
「面目ない。せめて食器の用意ぐらいはやるから、桜は座っててくれ」
「え……? あ、もう来ちゃったんですか先輩?」
「もうじゃないぞ。六時十分っていったら朝飯を食ってる時間じゃないか。完全に寝坊だよ」
「そんな事はないと思いますよ。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」
「部活は関係ない。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのも問題じゃないか」
「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」
「ああ、それは何度も聞いた。だから俺も部活に関係なく早起きしてるんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」
自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。
もっとも、それも一年半前からの習慣にすぎないのだが。
「ともかく桜は休んでろよ。あとは並べるだけなんだから、それぐらい俺にやらせてくれ」
桜の横に並んで、棚から食器を取り出す。
桜は妙に意固地な所があって、こういう時は強引にやらないと休んでくれないのだ。
「あ、ならわたしもお手伝いします。お皿にはわたしが盛りますから、先輩はお茶碗を出してください」
「いや、だから全部こっちでやるからいいってば」
「いけませんっ。先輩はおうちの主人なんですから、朝ぐらいはどーんと構えていてください」
「どーんと構えろって、桜一人に働かせてのんびりしてる主人なんて家主失格だぞ。いいから、桜は居間に行ってろって」
「はい、ぜひ失格してください。これ、いつもおいしいご飯を食べさせて貰っているお返しなんです。だから出来れば、先輩にはゆっくりしていてほしいです」
「む。食費だったら折半なんだから、桜が気にする事じゃない。感謝なんて言ったら俺がしたいぐらいだ。桜が来てくれるようになってから、メシが豪勢になったからな」
「やっぱり。先輩、分かってなかったんですね。先輩のおうちのご飯がおいしいのは、そういうコトじゃないんです」
「? そういうコトじゃないって、どういうコトだ」
「いえ、なんでもありません。けど責任とってくださいね。わたし、先輩の家じゃないとご飯をおいしくいただけなくなっちゃったんですから」
にこり、と頬を染めて嬉しげに微笑む桜。
「ば―――ばか、おかしなコト言うなっ。
藤ねえに聞かれたらどうするんだ、あの人には冗談なんて通じないんだから」
「そうですね。藤村先生に聞かれたらタイヘンです」
「まったくだ。あんまりおかしなコト言うな」
「はい、言いません。言いませんからお手伝いしていいですよね、先輩?」
「…………」
桜はあくまで自然に、慌てた風もなくこっちを見上げている。
「いいよ、好きにしろ。そんなにやりたきゃ桜に任せる」
「はい。好きにします、わたし」
「……まったく。ホントに最近言うこと聞かなくなったよな、桜」
「ですね。藤村先生に似てきたのかもしれません」
柔らかに言って、桜はとなりの棚に手を伸ばした。
さらり、と落ちる黒髪と、滑らかそうな体が目に付く。
「――――っ」
……なんていうか、困る。
成長期なのか、ここ最近の桜は妙に女っぽい。
なにげない仕草や、こういった横顔がキレイに見えてつい顔を逸らしてしまう。
「先輩? どうかしましたか?」
「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」
「?」
……ほんと、まいる。
友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。
そもそも桜はそういうんじゃない。
桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。
そもそも、間桐桜と自分の関係はあくまで先輩と後輩にすぎない。
桜は親しくしていた友人の妹だったが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。
それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。
俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのまま、こんな感じになってしまった気がする。
……俺のケガが治るまで、とお互い決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。
ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。
こうして朝も早くから手伝いに来てくれてとても助かるんだが、最近はちょっと微妙だ。
問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。
「――――」
素直に言えば、桜は美人だ。
一年生の中じゃダントツだし、付き合いたいってチェックしている連中も多いだろう。
とくに最近は出るところも出てきて、なんでもない仕草にハッとさせられる事も多い。
……微妙な問題とはそういう事だ。
友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。
普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……?
◇◇◇
テーブルに朝食が並んでいく。
鶏ささみと三つ葉のサラダ、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたし、大根とにんじんのみそ汁、ついでにとろろ汁まで完備、という文句なしの献立だ。
桜と二人、きちんと座っておじぎをして、静かに食事を始める。
カチャカチャと箸の音だけが響く。
基本的に桜はお喋りではないし、こっちもメシ時に話をするほど多芸じゃない。
自然、食事時は静かになる。
普段はもうちょっと喧《やかま》しいのだが、今朝に限ってその喧しい人は、
昨夜スパイ映画でも見たのか、新聞紙で顔を隠しながら、俺たちの様子を窺っていた。
「藤村先生、ご飯時に新聞は見ない方がいいと思いますよ?」
「…………………」
遠慮がちに話しかける桜を無視する藤ねえ。
あまりにも怪しいが、朝の食卓で藤ねえが挙動不審なのはいつものコトだ。
桜も馴れているのか、とりわけ気にした風もなくご飯を食べている。
桜は、どちらかというと洋風の食事を作る。
和風の料理を覚えたのはうちに手伝いに来てからだ。
俺と藤ねえがとことん和風な舌だったから、桜もせめて朝ぐらいは、と軽い和風料理を覚えてくれたのだ。
今では師匠である俺を上回るほど桜の腕前は上がっている。
とくに鮭の照り焼きの焼き加減は神域に入っているっぽい。
みそ汁の味も上品だし、最近では山芋を擦ってとろろ汁を作るまでの余裕を見せている。
というか、とろろ汁は今日が初出ではなかろうか。
「わるい。桜、醤油とって」
「はい―――って、大変です先輩。先輩のお醤油は昨日で切れてます」
「んじゃ藤ねえのでいいや。とって」
「藤村先生、いいですか?」
ん、と頷く藤ねえ。
ガサリ、と新聞紙が揺れる。
「はいどうぞ。とろろ汁に使うんですか?」
「ああ。とろろには醤油だろ、普通」
つー、と白いとろろに醤油をかける。
ぐりぐりとかき回した後、ごはんにかけて一口。
うむ、このすり下ろされた山芋の粘つき加減と、自己主張の激し過ぎる強烈な醤油の辛さがまた――――
「ごぶっ……! うわまず、これソースだぞソース! しかもオイスター!」
たまらずごはんを戻しかける。
そこへ。
「くく、あはははははは!」
ばさり、と勢いよく新聞紙を投げ捨てる藤ねえ。
「どうだ、朝のうちにソースとお醤油のラベルを取り替えておく作戦なのだー!」
わーい、と手をあげて喜ぶ謎の女スパイ。
「あ、朝っぱらから何考えてんだアンタはっ! 今年で二十五のクセにいつまでたっても藤ねえは藤ねえだな!」
「ふふーんだ、昨日の恨み思い知ったかっ。
みんなと一緒になってお姉ちゃんをいじめるヤツには、当然の天罰ってところかしら?」
「天罰ってのは人為的なモンじゃないだろ! なんか大人しいと思ったら昨日からこんなコト考えてやがったのか、この暇人っ!」
「そうだよー。おかげでこれから急いでテストの採点しなくちゃいけないんだから。うん、そーゆーワケで急がないとヤバイのだ」
しゅた、と座り直すなり、ガババー、と凄い勢いで朝食を平らげる藤ねえ。
「はい、ごちそうさま。朝ごはん、今日もおいしかったよ桜ちゃん」
「ぁ……はい。おそまつさまでした、先生」
「それじゃあ先に行くわね。二人とも、遅刻したら怒るわよー」
んでもって、だだだだだー、と走り去っていく。
……アレでうちの学校の教師だっていうんだから、世の中ほんと間違っている。
「……あの、先輩?」
「すまない。せっかくの朝食だっていうのに、藤ねえのヤツろくに味わいもしないで」
「いえ、そういうのではなくて……あの、昨日藤村先生に何かしたんですか? 食べ物に細工するなんて、藤村先生にしてはやりすぎですから」
「ん……いや、それがさ。昨日、ついアダ名で呼んじまった」
「それじゃあ仕方ありませんね。先輩、藤村先生に謝らなかったんでしょう?」
「面目ない。いつものコトなんで忘れてた」
「だめですよ。藤村先生、先輩にあだ名を言われるのだけは嫌がるんですから。また泣かせちゃったんでしょう」
「……泣かした上に脱兎の如く走り去らせた。おかげで昨日の英語は自習だった」
そして俺はみんなからルーズリーフで作られた学生名誉賞を受賞したが、そんなものは当然ゴミ箱に捨てた。
「もう。それじゃ今朝のは先輩が悪いです」
桜にとっても藤ねえは姉貴みたいなもんだから、基本的に藤ねえの味方なのだ。
それはそれで嬉しいのだが、藤ねえの相手を四六時中しているこっちの身にもなってほしい。
もともと藤ねえは切嗣《オヤジ》の知り合いで、俺が養子に貰われた頃からこの家に入り浸っていた人だ。
親父が他界してからも頻繁に顔を出すようになって、今では朝飯と晩飯をうちで食べていく、という見事なまでの居候ぶりを示している。
―――いや。
そんな藤ねえがいたから、親父が死んでからも一人でやってこれたのかもしれない。
今では俺と藤ねえと桜、この三人が衛宮家の住人だった。
……とは言っても、親父が魔術師だったのを知っているのは俺だけだ。
曰く、魔術師はその正体を隠すもの。
だから親父に弟子入りした俺も、魔術を学んでいる事は隠している。
ただ、学んでいると言っても満足な魔術《モノ》は何一つも使えない半人前だ。
そんな俺が魔術を隠そうが隠すまいが大差はないだろうが、一応遺言でもあるし、こうして隠しながら日々鍛練を続けてきた訳である。
朝食を済ませて、登校の支度をする。
テレビから流れるニュースを聞きながら、桜と一緒に食器を片づける。
「―――」
桜はぼんやりとテレビを眺めていた。
画面には“ガス漏れ事故、連続”と大げさなテロップが打ち出されている。
隣町である新都《しんと》で大きな事故が起きたようだ。
現場はオフィス街のビルで、フロアにいた人間が全員酸欠になり、意識不明の重体に陥ってしまったらしい。
ガス漏れによる事故とされているが、同じような事故がここのところ頻発している。
「今のニュース、気になるのか桜」
「え――いえ、別に。ただ事故が新都で起きているなら近いなあって。……先輩、新都の方でアルバイトしてますよね?」
「してるけど、別にそんな大きな店じゃないよ。今のニュースみたいな事故は起きないと思う」
……とは言っても、あまり他人事ではない事件だった。
ガス漏れならどんな建物でも起きるものだし、なにより数百人もの人間が被害にあっている、というのは胸に痛い。
同じような事故が頻発しているのは、新都を急開発した時に欠陥工事をしたからだ、なんて話もあがっているとか。
真偽はどうであれ、これ以上の犠牲者は出てほしくないというのが正直な気持ちだが―――
「……物騒な話だ。俺たちも気をつけないと」
「あ、それならご心配なく先輩。ガスの元栓はいつも二回チェックしてますから安心です」
えっへん、と胸をはる桜。
「いや、そういう話でなくて」
……うん。前から思っていたけど、桜も微妙にズレてるな。
「先輩、裏手の戸締まりはしました?」
「したよ。閂かけたけど、問題あるか?」
「ありません。それじゃあ鍵、かけますね。先輩、今日のお帰りは何時ですか?」
「少し遅くなると思う。桜は?」
「わたしはいつも通りです。たぶんわたしの方が早いと思いますから、夕食の下準備は済ませておきますね」
「……ん、助かる。俺も出来るだけ早く帰るよ」
がちゃり、と門に鍵をかける。
桜と藤ねえはうちの合い鍵を持っていて、戸締りは最後に出る人間がする決まりだ。
「行こうか。急がないと朝練に間に合わない」
「はい。それじゃ少しだけ急ぎましょうか、先輩」
桜と一緒に町へ歩き出す。
長い塀を抜けて下り坂に出れば、あとは人気《ひとけ》の多い住宅地に出るだけだ。
衛宮の家は坂の上にあって、町の中心地とは離れている。
こうして坂を下りていけば住宅地に出て、さらに下りていくと、
町の中心地である交差点に出る。
ここから隣町に通じる大橋、
柳洞寺に続く坂道、
うちとは反対側にある住宅地、
いつも桜と自分がお世話になってる商店街、
最後にこれから向かう学校と、様々な分岐がある。
寄り道をせず学校へ向かう。
とりわけ会話もなく桜と坂道を上っていく。
まだ七時になったばかり、という事で通学路に人気はない。
自分たちの他には、朝の部活動をする生徒たちがのんびりと歩いているぐらいだった。
「それじゃまたな。部活、がんばれよ」
校門で桜と別れるのもいつも通り。
桜は弓道部に所属しているので、朝はここで別れる事になる。
「………………」
というのに。
今朝にかぎって、桜は弓道場へ向かおうとはしなかった。
「桜? 体の調子、悪いのか」
「……いえ、そういう事じゃなくて……その、先輩。たまには道場の方に寄っていきませんか?」
「いや、別に道場に用はないぞ。それに今日は一成《いっせい》に頼まれてるから、生徒会室に行かないとまずい」
「……そ、そうですよね。ごめんなさい、余計なことを言っちゃって」
ぺこり、と頭をさげる桜。
「?」
「それじゃあ失礼します。晩ご飯、楽しみにしていてくださいね」
桜は申し訳なさそうに道場へ走り去っていった。
「……?」
はて。今のは一体どんな意味があったんだろう……?
◇◇◇
「一成《いっせい》、いるか?」
「いるぞ。今朝は少し遅かったな、衛宮」
予習でもしていたのか、ペーパーらしきものに目を通していた男子生徒が顔をあげる。
「一成だけか。他の連中はどうしたんだ。この時間なら登校しててもおかしくないだろ」
「いや、生憎とうちのメンバーはビジネスライクでね。
働く時間帯はきっかり決まっていて、早出と残業はしたくないのだそうだ」
「それで生徒会長自らが雑用か。ここはここで大変そうだな」
「なに、好きでしている苦労だ。衛宮《えみや》に同情してもらうのは筋が違う」
「? いや、一成に同情なんてしてないぞ?」
「うむ、それはそれで無念だが聞き流すとしよう。情が移っているという事では同じだからな」
トントン、と読んでいたペーパーを整える一成は、この生徒会室の大ボスだ。
緩みきっている生徒会を根本から改革しようと躍起になっているヤツで、自分とは一年の頃からの友人である。
フルネームを柳洞一成《りゅうどういっせい》。
古くさい名前とは裏腹に優雅な顔立ちをしていて、実際女生徒に絶大な人気がある。
しかも生徒会長だっていうんだから、まさに鬼に金棒、虎に翼といったところなのだが、
「うむ、やはり朝は舌がしびれる程の熱湯がよい」
なんて言いながら番茶をすすっているもんだから、いまいち締まらない。
この通り、一成はとことん地味な性格だ。
誤解されやすいのだが、本人は色恋沙汰には手を出さないし、学生らしい遊びもしない。
なにしろコイツはお山にある柳洞寺《りゅうどうじ》の跡取り息子だ。
本人も寺を継ぐのを良しとしているので、卒業したら潔く丸坊主にする可能性も大である。
「それで。今日は何をするんだ」
「ん? ああ、まあともかく座って一服―――と言いたいのだが時間がないな。移動がてら説明をする故、いつもの道具を持って付いてきてくれ」
「率直に言うとな。うちの学校、金のバランスが極端なんだよ」
「知ってる。運動系が贔屓《ひいき》されてるもんで、他に予算がいかないんだろ」
「うむ。結果、文化系の部員はたえず不遇の扱いでな。
今年から文化系に予算がいくよう尽力しているのだが、予算の流れが不鮮明でうまく回っていない。おかげで未だ文化系の部室は不遇でな。
とくに冬のストーブ不足に関しては打開策がまるでない」
「そうか。―――あ、マイナスドライバーくれ。一番おっきいヤツな。あと導線も。……うん、これぐらいならなんとか」
「導線? ……えっと、これか? すまん、よく判らん。
間違っていたら叱ってくれ」
「あたってるからいいよ。で、ストーブ不足がどうしたって? ここ以外にも故障してんのがあんのか」
「ある。第二視聴覚室と美術部の暖房器具が怪しいそうだ。新品購入願いの嘆願書が刻一刻と増えている」
「けど予算にそんな余裕はない、と。……やっぱり劣化してるだけだな。中がイカレてなくて助かった」
「……ふむ。直りそうか、衛宮?」
「直るよ。こういう時、古いヤツは判りやすくていい。
配線系のショートだから新しいのに代えれば、とりあえず今年いっぱいは頑張ってくれる」
「そうか! やるな衛宮、おまえが頼りになると極めて嬉しいぞ」
「おかしな日本語使うね、一成。
……っと、もう少しで済むから、ちょっと外に出ててくれ」
「うむ、衛宮の邪魔はせん」
静かに教室から出ていく一成。
……どうも、ここから先はデリケートな作業だと勘違いしたみたいだ。
「……いや、デリケートと言えばデリケートなんだけど……」
古びた電気ストーブに手を触れる。
普通、いくらこの手の修理に馴れているからって、見た程度で故障箇所は判断しにくい。
それが判るという事は、俺のやっている事は普通じゃないってことだ。
視覚を閉じて、触覚でストーブの中身を視る。
―――途端。
頭の中に沸き上がってくる一つのイメージ。
「……電熱線が断線しかかってるのが二つと……電熱管はまだ保つな……電源コードの方は絶縁テープでなんとかなる……」
……良かった、手持ちの工具だけで修理できる破損内容だ。
電熱管がイカレていたら素人の手には負えない。
その時は素人じゃない方法で“強化”しなくてはいけなかったが、これなら内部を視るだけで十分だ。
それが切嗣に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。
「――――よし、始めるか」
カバーを外して内部線の修理に取りかかる。
破損箇所はもう判っているんだから、あとの作業は簡単だ。
「……はあ。これだけは得意なんだけどな、俺」
そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。
その代わりといってはなんだが、物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに巧いと思う。
実際、設計図を連想して再現した時なんて、親父は目を丸くして驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。
俺の得意分野は、あまり意味のある才能ではないそうだ。
親父曰く、物の構造を視覚で捉えている時点で無駄が多い。
本来の魔術師なら、先ほどのようにわざわざ隅々まで構造を把握する、なんていう必要はない。
物事の核である中心を即座に読みとり、誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと言う。
だから設計図なんてものを読みとるのは無駄な手間だし、読みとったところで出来る事といったら魔力の通りやすい箇所が判る程度の話。
そんなこんなで、自分のもっとも得意な分野はこういった故障品の修理だったりする訳だ。
なにしろ解体して患部を探し出す必要がない。
すみやかに故障箇所を探し出せるなら、あとは直す技術を持っていれば大抵の物は直せるだろう。
ま、それもこういった『ちょっとした素人知識』で直せてしまうガラクタに限るのだが。
「―――よし終わり。次に行くか」
使った導線をしまって、ドライバーとスパナを手にして廊下に出る。
「一成、修理終わったぞ」
――――と。
廊下には、一成の他にもう一人、女生徒の姿があった。
「――――」
少しだけ驚いた。
一成と話していたのは2年A組の遠坂凛《とおさかりん》だ。
坂の上にある一際大きな洋館に住んでいるというお嬢様で、これでもかっていうぐらいの優等生。
美人で成績優秀、運動神経も抜群で欠点知らず。
性格は理知的で礼儀正しく、美人だという事を鼻にかけない、まさに男の理想みたいなヤツなんだとか。
そんなヤツだから、言うまでもなく男子生徒にとってはアイドル扱いだ。
ただ遠坂の場合、あまりにも出来すぎていて高嶺の花になっている。
遠坂と話が出来るのは一成と先生たちぐらいなもの、というのが男どもの通説だ。
……まあ、正直に言えば、俺だって男だし。
ご多分に漏れず、衛宮士郎も遠坂凛に憧れている男子生徒の一人である。
「……………」
遠坂は不機嫌そうに俺たちを見ている。
一成と遠坂の仲が悪い、というのはどうやら本当らしい。
「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、衛宮に任せきりにしてしまった。許せ」
おお。
あの遠坂をまるっきり無視して話し始めるあたり、一成は大物だ。
「そんなコト気にするな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」
「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」
「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」
「……そうなんだが、一応見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」
「そうか。なら試そう」
朝のホームルームまであと三十分ほどしかない。
直すのなら急がないと間に合わないだろう。
一成に促されて視聴覚室に向かう。
ただ、顔を合わせたのにまるっきり無視する、というのは失礼だ。
ぼう、と立ったままの遠坂に振り返る。
「朝早いんだな、遠坂」
素直な感想を口にして、一成の後に付いていった。
「ギリギリ間にあったか。すまんな衛宮、また苦労をかけた。頼み事をした上に遅刻させては友人失格だ」
「別に気にするな。俺が遅刻する分には大した事じゃないだろ。まあ、一成が遅刻するのは問題だけど」
「もっともだ。いや、間に合ってよかった」
一成はほう、と胸を撫でおろして自分の席に向かう。
時刻は八時ジャスト。
ホームルーム開始前の予鈴が鳴ったから、あと五分もすれば藤ねえがやってくる。
「―――ふう」
視聴覚室から走ってきたんで、少し息があがっている。
軽く深呼吸をしてから自分の席に向かう。
「朝から騒がしいね衛宮。部活を辞めてから何をしてるかと思えば柳洞《りゅうどう》の太鼓持ち? 僕には関係ないけどさ、うちの評判を落とすような事はしないでよね。君、なんていうか節操ないからさ」
と。
席の前には、中学時代からの友人である間桐慎二《まとうしんじ》が立っていた。
間桐、という姓で判る通り、桜の一つ上の兄貴である。
「よ。弓道部は落ち着いてるか、慎二」
「と、当然だろう……! 部外者に話してもしょうがないけど、目立ちたがり屋が一人減ったんで平和になったんだ。次の大会だっていいところまで行くさ!」
「そうか。美綴も頑張ってるんだな」
「はあ? なに見当違いなコト言ってんの? 弓道部が記録を伸ばしてるのは僕がいるからに決まってるじゃんか。衛宮さ、とっくに部外者なんだから、知ったような口をたたくと恥をかくよ?」
「そうか、気をつけよう。もっとも弓道部に用はないから関わるコトはないけどな」
鞄を机に置いて椅子を引く。
「なにそれ。僕の弓道部には興味がないってコト?」
「興味じゃなくて用だよ。部外者なんだからおいそれと道場に行くの、ヘンだろ。
けど何かあったら言ってくれ。手伝える事があったら手伝う。弦張りとか弓の直し、慎二は苦手だったろ」
「そう、サンキュ。何か雑用があったら声をかけるよ。
ま、そんなコトはないだろうけどさ」
「ああ、それがいい。雑用を残しているようなヤツは主将失格だからな。あんまり藤村先生を困らせるなよ。あの人、怒ると本気で怖いぞ」
「っ……! ふん、余計なお世話だ。ともかく、おまえはもう部外者なんだから道場に近づくなよ!」
慎二はいつもの調子で自分の席に戻っていく。
……はて。今日はとくにカリカリしてたな、あいつ。
「ふざけたヤツだ。自分から衛宮を追い出しておいて、よくもあんな口がきける」
「なんだ一成、居たのか」
「なんだとはなんだ! 気を利かして聞き耳を立てていた友人に向かって、なんと冷淡な男だオマエは!」
「? なんで気を利かすのさ。俺、一成に心配されるような事してないぞ」
「たわけ、心配もするわ。衛宮はカッとなりやすいからな。慎二に殴りかかれば皆は喝采を送るが、女どもからは非難の嵐だ。友人をそんな微妙な立場に置くのはよろしくない」
「そっか。うん、言われてみればそうだ。ありがとう一成。そんなコトにはならないだろうけど、今の心配はありがたい」
「うむ、分かればよろしい。……だが意外だったぞ。衛宮は怒りやすいクセに、間桐には寛大なんだな」
「ああ、アレは慎二の味だからな。つきあいが長いと馴れてくる」
「ふむ、そんな物か」
「そんな物です。ほら、納得したら席に戻れよ。そろそろ藤村先生がスッ飛んでくるぞ」
「ははは。あの方は飛んでくるというより浮いてくるという感じだがな」
ホームルーム開始の鐘が鳴る。
通常、クラス担任は五分前に来るものだが、このクラスの担任はそういう人ではない。
2年C組にとってホームルームの開始は今のベルから一分ほど経過したあと、つまり「遅刻、遅刻、遅刻、遅刻〜〜〜!」
なんて叫びながら、ダダダダダー、と突進してくる藤ねえを迎え入れる所から始まるのだ。
「よし間に合ったーあ! みんな、おは――――」
ぎごん、と。
生物的にヤバイ音をたてて、藤ねえはスッ転んだ。
「――――――――」
さっきまでの慌ただしさから一転、教室はなんともいえない静寂に包まれる。
この唐突なまでの場面転換。
さすが藤ねえ、人間ジェットコースターの名は伊達じゃない。
……にしても、今のはシャレにならない角度だった。
藤ねえは教壇に頭をぶつけたまま倒れている。
俯せになって顔が見えないところがまた、否応無しに嫌な想像をかき立てる。
「……おい、前の席のヤツ、先生起こしてやれよ」
「……えー、やだよー……近づいた途端、パクッって食べられたら怖いもん……」
「……ミミックじゃあるまいし、さすがに藤村でもそこまでやらねえだろ」
「アンタね、そういうんなら自分で起こしてあげなさいよ」
「うわ、俺パス。こういうの苦手」
「あたしだって苦手よ! だいたいなんで女の子にやらせるわけ!? 男子やりなさいよね、男子!」
最前列はなにやら荒れ始めている。
席が真ん中あたりにある我々としては、いまいち藤ねえがどんな惨状になっているか判らない。
判らないんで、みんなで席を立ってのぞき込む。
「ちょっと、先生動いてないぞ。気絶してんじゃないのか」
もっともな意見を誰かが言った。
ただ問題は、その場合どうやって藤ねえを保健室まで連れて行くかだ。
みんなも、ここ一年藤ねえとつき合ってきた猛者たちだ。
いい加減、担任を保健室に連れて行く、なんて慣習は打破したいと思っているのではなかろうか。
「ふじむらセンセー……? あのー、大丈夫ですかー?」
勇気ある女生徒が声をかける。
藤ねえはピクリとも動かない。
動揺はますます広がっていく。
「……まずいって今の転び方。こう頭から直角に教壇に突っ込んだじゃないか。アレで無傷だったら藤村無敵っぽいって」
「んー、いっそのこと野球部にスカウトするのはどうだろう」
「や、やめろよなそういう脅しは……! タイガーが顧問になった日にゃ、オレたち甲子園いっちまうぞ!?」
「藤村センセ、藤村センセー……! だめ、なんか反応ないよぅ……!」
「おい、おまえ目の前なんだから起こしてやれよ」
「ええ!? イヤだよオレ、もし死んでたら殺されかねねえ!」
「でもぉ、だからってほっといたら後が怖いと思うしぃ」
「でも誰も近づきたくない、と」
「……仕方ねえなあ。こうなったらアレしかないか」
「うん、アレだね」
「せーのっ」
みんなの心が一つになる。
……ああ、例外として俺と慎二だけは、そんな恐ろしいコトはできないので黙っていた。
「せーのっ、起きろー、タイガー」
全員が声を合わせたわりには、呟くような大きさだった。
とくに『タイガー』の発音は聞こえないぐらい小さい。
だというのに。
……ぴくっ。
と、沈黙していた藤ねえの体が反応する。
「うお、動いた!? 効き目ありだぞみんな!」
「よし続けろ! ガコロウトンの計じゃ!」
期末試験が迫ってきているんで、みんなてんぱっていたんだろう。
よせばいいのに、ブンブンと腕を振り回して藤ねえのあだ名を連呼する。
「起きろータイガー。朝だぞー」
「先生、起きないとタイガーです!」
「負けるなタイガー! 立ち上がれタイガー!」
「よーし、起きろ先生! それでこそタイガーだぜ!」
「ターイーガー! ターイーガー!」
「がぁ―――!
タイガーって言うな―――っ!」
轟雷一閃。
あれほどの打撃をうけてノーダメージだったのか、雄々しく大地に立つ藤ねえ。
「……あれ? みんな何してるの? だめよ、ホームルーム中に席を立っちゃ。ほらほら、始めるから座りなさい」
藤ねえはいつもの調子で教壇に立つ。
……どうも、教室に飛び込んできてから立ち上がるまでの記憶が、ポッカリ抜け落ちているようだ。
「……おい、タイガー覚えてないみたいだぞ」
「……ラッキー、朝からついてるな、俺たち」
「……いや、ついてるっていうのかな、こういうの……」
ガヤガヤとそれぞれの席に戻る生徒たち。
「むっ。いま誰か、先生のことバカにしなかった?」
「いえ、してないっすよ。気のせいじゃないっすか」
「そっか、ならよし。じゃあ今朝のホームルームをはじめるから、みんな大人しく聞くように」
藤ねえはのんびりとホームルームを始める。
ちょっとした連絡事項の合間合間に雑談をするもんだからちっとも進まない。
「そういう訳だから、みんなも下校時刻を守るように。
門限は六時だから、部活の子たちも長居しちゃだめよ」
「えー、六時っていったらすぐじゃんかー。大河センセー、それって運動系は免除されないの?」
「されませんっ。それと後藤くん、先生のことは藤村先生って言わなくちゃダメなんだから。次に名前で呼んだら怒るからね?」
「はーい、以後注意しまーす」
後藤くんは全然注意しないよーな素振りで着席した。
……なんて甘い。
藤ねえは怒るといったら怒る人だ。相手が生徒だろうが自分が教師だろうが関係ない。
今のは限りなく本気に近い最後通牒なんだって、後藤のヤツ気づいていない。
「それじゃ今日のホームルームはここまで。みんな、三時限目の英語で会おうねー!」
手のひらをヒラヒラさせて去っていく藤ねえ。
2年C組担任、藤村大河《ふじむらたいが》。
あだ名はタイガー。
いやもう本気かってあだ名だけど、本当なんだから仕方がない。
女の子なのに大河なんて名前がついているからそう親しまれているのだが、藤ねえ本人はタイガーというあだ名を嫌がっている。
藤ねえ曰く、女の子らしくない、とかなんとか。
けど本人がああいう人なんで、あだ名が女の子らしくないのは当然というか自業自得だろう。
「授業を始める。日直、礼を」
そうして、藤ねえと入れ違いで一時限目の先生が入ってくる。
藤ねえが時間ギリギリまでホームルームをするせいで、うちのクラスの朝はいつもこんな感じだった。
そうして、いつも通り一日の授業が終了した。
部活動にいそしむ生徒、早足で帰宅する生徒、用もなく教室に残る生徒、そのあり方は様々だ。
自分はと言うと、その三つのどれにも該当しそうにない。
「すまない、ちょっといいか衛宮。今朝の続きなんだが、今日は時間あるか?」
「いや、予定はあると言えばあるけど」
俺だって遊んでいる訳じゃない。
そもそも弓道部を辞めた一番の理由は、アルバイトを優先したからだ。
親父が他界した後、生活費ぐらいは自分で出すとアルバイトを始めてもう五年。
それだけ色んな仕事をしていると、断れない付き合いというのも出てきてしまう。
とくに今日のはそういう物だ。
飲み屋の棚卸《たなお》しで、とにかく男手は多いほどいいから手伝いに来られるのなら来てほしい、という物だった。
ただ、自分が行かなければいけない、という手伝いでないのも確か。アレは単に、仕事が終わった後で騒ぎたいから知り合いを集めている類だし。
「――――」
選択肢は二つ。
俺は――――
一成には悪いが、やはりバイトを優先しよう。
顔を出すと確約した訳じゃないが、出来るかぎり善処すると言ったからには守らないと。
「いや、悪い一成。先約があるんで、今朝の続きはまたにしてくれないか」
「先約……? ああ、例のアルバイトか。そうか、それは困らせたな。こちらは今日明日で進退が決まるものでもない。俺の頼みなど気にせず労働に励んでくれ」
「すまん。明日の朝一で続きをするから、それでチャラにしてくれ」
「ん? そこまで深刻な話でもないと言っただろう。急を要していた物は今朝で片付いた。残った修理品は衛宮の手が空いた時で構わんさ」
「そっか。じゃ、バイトの休みが取れたら続きをするってコトでいいかな?」
「仔細ない。その時はまた頼りにするぞ、衛宮」
ではな、と堅苦しい挨拶をして教室を後にする一成。
「――――さて」
こっちもグズグズしてはいられない。
時間指定こそないものの、バイトに行くと決めたのなら急いで隣町に行かないと。
「……まいったな。ほんの手伝いのつもりだったのに、三万円も貰ってしまった」
棚から牡丹餅というか、瓢箪から駒というか。
今日のバイト先のコペンハーゲンは飲み屋兼お酒のスーパーマーケットみたいな所で、棚卸しには何人もの人手が必要になる。
少なくとも五人、あとはいればいるだけ楽になるという一大作業だ。
だと言うのにおやじさんはいつもの調子で、
『手伝える人は手伝ってねーん』 なんて、バイト全員に声をかけて安心しきっていたらしい。
で、フタを開けてみれば手伝いにきたアルバイトは俺一人で、あとは店長《おやじ》さんと娘のネコさんだけという地獄ぶりだった。
「バカだねアンタ、そりゃ誰も来るわけないじゃん」
おやじさんをなじるネコさんだったのだが、その予想に反して顔を出した生贄一人。
“おおー”と二人は緊張感のない拍手をして俺を迎えてくれて、仕方ないから出来る範囲で倉庫を整理しよう、という運びになった。
――――で。
気が付けば二時間後、棚卸しは予定通り終わっていた。
「驚いたなあ。士郎くんはアレかな、ブラウニーか何かかな?」
作業後の一服、こげ茶色のケーキを食べながらおやじさんは感心していた。
「違いますっ。力仕事には慣れてるし、ここのバイトも長いし、倉庫の何処に何があるかぐらいは把握してるからですっ! 伊達にガキの頃からここで働かせてもらってません!」
「そっかー。あれ、士郎くんってもう五年だっけ?」
「そのぐらいですね。切嗣《オヤジ》が亡くなってからすぐに雇ってくれたの、おやじさんのトコだけだったし」
「ありゃりゃ。うわー、ボクも歳を取るワケだ」
もむもむとラム酒入りのケーキを頬ばるおやじさん。
ネコさんはとなりで熱燗をやっている。
ここの一家は店長が甘党で娘さん辛党という、バランスのいい嗜好をしていらっしゃる。
で。
「んー、けど助かったわー。こんだけやってもらって、お駄賃が現物支《ケーキ》給だけっていうのもアレだし、はい、これボクからの気持ち」
ピラピラと渡されたのが万札三枚。
一週間フルに働いても届かない、三時間程度の労働には見合わない報酬だった。
「あ、ども」
さすがに戸惑ったが、貰えるからには貰っておいた。
そうしてコペンハーゲンを後にしようとしたおり、
「……んー、ちょい待ち。エミヤん、今日の話誰から聞いた?」
疲れたー、とストーブの前で丸まっていたネコさんに呼び止められた。
「えーと、たしか古海さんですけど」
「……はあ、学生に自分の仕事おしつけるんじゃないってのよ、あのバカ。まあそれはいいとして……なに、じゃあ今日の棚卸し、また聞きだったのに来たんだ」
「あー……まあ、暇だったら手伝ってくれって感じで」
「――――古海もバカだけど、エミヤんもお馬鹿さん?
まあいいけど。キミさあ、人の頼みを断ったコトないでしょ。前にアタシと父が風邪で寝込んだ時も店番してくれたし」
「? 別にそんな事はないですけど。俺、無理な注文は受けませんもん。自分で出来る事で、出来る場合だけ引き受けますから」
「……ふうん。あん時、キミも風邪引いてたんだけどね。
まあいいけど。えーと、アタシが何を言いたいかって言うとですね、エミヤんはいいヤツで、ちょっとバカで、そのあたりアタシは心配なので今度藤村にちょっとは顔出せやコラと伝えておいてほしいのです」
くい、と熱燗を飲みながらネコさんはクルクルと指を回す。
俺をトンボか何かと勘違いしているっぽい。
「はあ。……えーと、とにかく藤ねえに伝言?」
「そ。じゃね、あんまし頑張りすぎんなよ少年」
「……と、いつのまにか橋越えてら」
隣り町の新都から深山町まで、ぼんやりしているうちに着いてしまっていた。
◇◇◇
夜の町並みを行く。
冬の星空を見上げながら坂道を上っていると、あたりに人影がない事に気が付いた。
時刻は七時半頃だろう。
この時間ならぽつぽつと人通りがあってもいいのに、外には人気《ひとけ》というものがなかった。
「……そういえば、たしか」
つい先日、この深山町の方でも何か事件が起きたんだったっけ。
押し入り強盗による殺人事件、だったろうか。
人通りが無いのも、学校の下校時刻が六時になったのも、そのあたりが原因か。
「……ガス漏れに強盗か。物騒な事になってきたな」
これじゃあ夜に出歩こう、なんて人が減るのも当然だ。
桜を一人で帰らせるのも危なくなってきた。
藤ねえはともかく、桜の家は反対側の住宅地にある。
今日からでも夜は送っていかなくては―――
「……ん?」
一瞬、我が目を疑った。
人気がない、と言ったばかりの坂道に人影がある。
坂の途中、上っているこっちを見下ろすように、その人影は立ち止まっていた。
「―――――――」
知らず息を呑む。
銀の髪をした少女はニコリと笑うと、足音もたてず坂道を下りてくる。
その、途中。
「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」
おかしな言葉を、口にしていた。
坂を上がりきって我が家に到着する。
家の明かりが点いているのを見ると、桜と藤ねえはもう帰ってきているようだ。
居間に入るなり、旨そうなメシの匂い。
テーブルには夕食中の桜と藤ねえの姿がある。
今晩の主菜はチキンのクリーム煮らしく、ホワイトソース系が大好きな藤ねえはご機嫌のようだ。
「お帰りなさい先輩。お先に失礼していますね」
「ただいま。遅くなってごめんな。もうちょっと早く帰って来ればよかったんだけど」
「いいです、ちゃんと間に合いましたから。ちょっと待っててくださいね、すぐ用意しますから」
「うん、頼む。手を洗ってくるから、人のおかずを食べないように藤ねえを見張っといてくれ」
「はい、きちんと見張っています」
自分の部屋に戻る。
土蔵に比べればあんまりにも物がない部屋だが、そもそも趣味がないからこれでも飾ってある方だ。
大半は藤ねえがポイポイと置いていった用途不明の品物ばっかりなんだけど。
手を洗い、着替えを済ませて戻ってくると、テーブルには夕食が用意されていた。
「いただきます」
「はい、お口にあえばいいんですけど……」
桜はあくまで奥ゆかしい。
ここ一年で桜の料理の腕は飛躍的に向上している。
洋風では完敗、和風ならまだなんとか勝てそう、中華はお互いノータッチ、という状況だ。
教え子が上達するのは嬉しいのだが、弟子に上回られる師匠っていうのもなんとなく寂しい。
「――――む」
やはり巧い。
鶏肉はじっくり煮込めば煮込むほど硬くなってしまう。
故に、面倒でも煮る前に表面をこんがりと焼いておくと旨味を損なわずジューシーな仕上がりになる。
そのあたりの加減が絶妙で、不器用な藤ねえには決して真似できない匠の技だ。
「どうでしょうか先輩……? その、今日のはうまくいったと思うんですけど……」
「文句なし。ホワイトソースも絶妙だ。もう洋物じゃ桜には敵わないな」
「うんうん、桜ちゃんがご飯作ってくれるようになってから、お肉関係がおいしくなった」
と。
今までもぐもぐと食事に専念していた藤ねえが顔を上げた。
「あ。だめよー、士郎。学生がこんな夜更けに帰って来ちゃいけないんだからっ」
……あちゃ。
桜の夕食でご機嫌かと思われていたが、俺の顔を見たとたんご機嫌ななめになった模様。
「もう、また誰かの手伝いをしてたんでしょ。それはそれでいい事だけど、こんな時ぐらいは早く帰ってきなさい。最近物騒だぞってホームルームで言ったじゃない。
アレ、士郎に対して言ったんだからね」
「……あのさ。わざわざホームルームで言わなくても、うちで言えばいいんじゃないの?」
「ここで言っても聞かないもの。学校でがつーんと言った方が士郎には効果的なんだもん」
「……先生、それは職権乱用というか、公私混同だと思います」
「ううん、それぐらいしないと士郎はダメなのよ。
いつも人の手伝いばっかりして損してるからさ。たまにはまっすぐ帰ってきてのんびりしててもいいじゃない、ばかちん」
「むっ。バカチンとはなんだよバカチンとは。いいじゃないか、誰かの手伝いをして、それでその人が助かるなら損なんかしてないぞ」
「……はあ、切嗣さんに似たのかなぁ。士郎がそんなんじゃお姉ちゃん心配だよ」
どのあたりが心配なのか、もぐもぐと元気よくご飯を食べる藤ねえ。
「……あの、藤村先生。今の話からすると、先輩って昔からそうなんですか?」
「うん、昔からそうなの。なんか困ってる人がいたら自分から手を出しちゃうタイプ。けどお節介ってわけじゃなくて、士郎はね、単におませさんなのだ」
ふふふ、となにやら不穏な笑みをこぼす藤ねえ。
「藤ねえ。余計なコト言ったら怒るぞ。桜もつまんないこと訊くなよな」
じろり、と二人を睨む。
藤ねえはちぇっ、と舌打ちして引っ込んでくれたが、「藤村先生、お話を続けてください」
むん、とマジメに授業を受ける桜がいた。
「じゃあ話しちゃおう。これがねー、士郎は困った人を放っておけない性格なのよ。弱きを助け強きをくじくってヤツ。子供の頃の作文なんてね、ボクの夢は正義の味方になる事です、だったんだから」
「――――」
……また昔の話をするな、藤ねえも。
けど全部本当の事なので口は挟まない。
そもそも、正義の味方になるって事は今でも破っちゃいけない目標だ。
「うわあ。すごい子供だったんですね、先輩」
「うん、すごかったよー。うーんと年上の男の子にいじめられてる女の子がいたら助けに入ってくれたし、切嗣さんが無精だったから家事だって一生懸命こなしてたし」
「あーあ、あの頃は可愛くて純真だったのに、それがどうしてこんな捻くれた子になっちゃったんだろうなー」
「そりゃあ藤ねえがいたからだろ。ダメな大人を見てると子供は色々考えるんだよ。悔しかったらちゃんと自分でメシ作ってみろ」
「――――――な」
がーん、と打ち崩れる藤ねえ。
そのままうなだれて反省するかと思えば、
「うう、お姉ちゃんは悲しいよう。桜ちゃん、おかわり」
ずい、と三杯目のお茶碗を差し出していた。
◇◇◇
夕食を終えてのんびりしていると、時計は九時にさしかかろうとしていた。
「さて、何をしたもんか」
夜の鍛錬まで時間がある。
ここは――――
夕食を作ってもらったお礼もまだだし、桜に挨拶してこよう。
「そうだな。夜も遅いし、家まで送っていってやらないと」
居間では後片づけを済ませ、帰り支度をしている桜がいた。
「あれ、先輩。お風呂に入ってたんじゃないんですか?」
「いや、風呂は後回し。桜を送ってから入る」
「え……送るって、わたしをですか?」
「ああ。最近物騒だから家まで送る。桜ん家、けっこう遠いだろう。わざわざ来て貰ってるんだから、それぐらいはさせてくれ」
「………………」
桜は気まずそうに口を閉ざす。
……なにかまずい事でも口にしたんだろうか、俺。
「……ごめんなさい。気持ちは嬉しいんですけど、先輩は休んでいてください。家までだったら馴れてますし、一人でも大丈夫ですから」
「いや、それはそうだろうけど、今日は特別だ。しばらくは家まで送っていくよ」
「……でも、その……兄さんに見つかると、先輩にまで迷惑がかかります」
「む――――」
そうだった。
桜の兄貴である慎二は、桜がうちに来ている事をよく思っていない。
表向きは藤ねえの家に行っている、と言ってあるので慎二は強くでられないが、ここで俺が送って行ったりしたら何かと問題になる。
問題になるが、それがどうした。
慎二がなんと言おうが、こんな物騒な時に桜を一人で帰らせる方が問題じゃないか。
「俺にかかる迷惑なんていい。ともかく最近は物騒なんだから送ってく」
「あの、でも、やっぱり先輩に悪いですから、その」
「悪くない。日頃世話になってるんだから、送るぐらいさせてくれ。それとも一人で帰りたいのか桜は」
「え……いえ、そういうコトではなくて、ですね」
「ならいいだろ。これでも腕には自信があるんだ。たいていの暴漢は返り討ちに出来るから、こんな時ぐらいは使ってやってくれ。なんか出てきてもちゃんと桜を守るから」
ほら、と視線で桜を廊下へ促す。
「先輩……? ホントにいいんですか? また兄さんとケンカ、しちゃうかもしれませんよ」
「構わないよ。男同士でケンカしないほうがヘンだし、慎二とはそれぐらい素直に言いあった方がいいんだ。
あいつ、ああ見えて隠し事とか嫌いだから。文句があるならすっぱり言い合った方がスッキリする」
と。
なぜか、桜は驚いた顔をする。
「どした? なんかヘンなコト言ったか、俺」
「いえ、言ってませんよ。先輩が兄さんと仲良くしてくれるのが嬉しいだけです」
「? いや、仲良くってのは難しいぞ。スッキリするのは俺だけで、慎二は逆かもしれないし」
「そうですね。けど兄さん、何度ケンカしても先輩に話しかけるでしょう? 兄さん、きっと先輩が苦手なんです。けど他の人よりずっと好きだから、いつも先輩を気にしてるんですよ。素直じゃない人だから、嫌いな人が好きなんです、兄さん」
「……えっと。それは、返答に困る意見だな」
「はい。先輩が羨ましかったから、少しだけ困らせてみました」
にっこりと笑う桜。
「ぁ――――ぅ」
その笑顔に、知らず息を呑んでいた。
満面の笑顔というのか。
あんなふうに桜が笑うの、初めて見た気がする。
「と、とにかく送っていくからな。慎二に見つかったら見つかったでいい。妹を送り届けたんだから、あいつだって文句は言わないだろ」
「そうですね。隠すよりはそうした方がいいかもしれません。それじゃお言葉に甘えていいですか、先輩」
「あいよ。たまには先輩らしいトコ見せてやる」
とん、と胸を叩く。
任せとけ、という意思表示に、桜は温かそうな笑顔で頷いていた。
坂道を下りて、交差点に到着する。
あたりに人影はなく、見慣れた住宅地はひどく寂しく感じられた。
「――――――――」
まだ十時前だというのに、町は完全に眠りについている。
……その静けさは、どこか異常だ。
物騒な事件が続いているとは言え、夜というものはここまで活気を奪うものだったか。
「先輩……? あの、わたしの家こっちですけど」
「え? ああ、悪い、ちょっとぼうっとしてた。桜の家はあっち側の一番上だもんな」
「いえ、一番上にあるのは遠坂先輩のお家ですよ。間桐の家も高いところにありますけど、一番上じゃないんです」
「あれ、そうだったか? ……って、遠坂ってあの遠坂……?」
「はい、二年生の遠坂凛さんです。先輩、苦手なんですか?」
こっちの心情を察したのか、桜は的確なつっこみをする。
むむ……そんなに苦い顔してたのか、俺。
「いや、苦手ってワケじゃない。話した事もないし、よく知らない相手だ。ただ有名な優等生だろ、あいつ。何処にいても目立つから、人並みに知ってるだけ」
「………………」
「そういう桜は? 同じ洋館だし、もしかして近所づきあいとかあるのか?」
「ないですよ。たしかに近所ではありますけど、遠坂先輩のお家は坂の上ですから。
けど、遠坂先輩のお家が洋館だって知ってるんですね、先輩」
ぼそり、とした声で桜は言う。
「ああ、ちょっと小耳に挟んだんだ。遠坂んところは幽霊屋敷だとかなんとか。幽霊屋敷っていったら洋館と相場が決まってるだろ」
「そうですね。遠坂先輩はご本人も、そのお家も一人が好きみたいですから。わたしも子供の頃、坂の上には怖い魔法使いが住んでるって言われてました」
「へえ、怖い魔法使いか。俺もそんなふうな噂は聞いたな。まあ、それ言ったら洋館側《あっち》の家はみんな魔法使いが住んでそうだけど。で、桜は信じたのか、その話?」
「信じました。だって子供だったんです。だから、坂の上には行っちゃいけないって、いつも思ってました」
と。
面白半分で聞いたコトに、桜は真剣な顔で答えていた。
坂道を上っていく。
うちの方とは正反対の住宅地だが、その在り方は変わらない。
坂道は上って行けば行くほど建物が少なくなり、人の手が入っていない雑木林が多くなる。
町としての機能は坂の下に集まっているのだから、上に行けば行くほど家が少なくなるのは自明の理だ。
その中で、頂上に近い位置にある数少ない建物が桜の家、間桐邸だ。
「あ」
不意に桜が立ち止まった。
「ん? なんだ、忘れ物か?」
「ぁ……いえ、忘れ物じゃないんですけど……先輩、うちの近くに誰かいませんか?」
不安そうにあたりの様子を窺う桜。
「?」
あたりを見回すが、俺たち以外の人影はなかった。
「別に誰もいないけど、何かあったのか」
「あ……いえ、いないならいいんです。なんか最近、家の近くで見慣れない人をよく見かけるから、今日もいるのかなって」
「――――なんだそれ。なんか危なくないか、そいつ。
どんなヤツなんだよ」
「えっと……あの、金髪の、カッコイイ人でした。モデルさんみたいだから、先輩も見たらびっくりすると思います」
思い出して照れているのか、桜は気恥ずかしそうに言う。
「…………」
……桜。
それ、俺が心配していいコトなのか、どうなのか。
「なんだ。不審な奴ってワケじゃないんだ」
「……判りません。ただ、最近は引っ越してきた人なんていないから、おかしいなって」
「……ふぅん。ま、とにかく怪しいって言えば怪しいよな。よし、もしまた家のあたりをうろついているようだったら、俺か慎二に言ってくれ。捕まえて何してるのか白状させるから」
「はい、頼りにしてます。けど手荒なことはしないでくださいね。わたし、先輩にケンカされると困ります」
言って、桜はまっすぐに微笑んできた。
「……う。だ、大丈夫だよ。ちゃんと話し合いから始めるから、桜が心配するコトない」
桜の笑顔から視線を逸らして、締まらない返答をする。
「…………」
……まいったな。
なんか最近、桜の仕草に目を奪われる事が多くなった。
ちょっと前まではなんでもなかったのに、自分でもどうかしてると思う。
桜が成長したからなのか、自分が今更になって気付いたからなのか。
……その、桜は本当に美人になったと思う。
それは喜ばしいんだけど、こうして目のやり場に困るのは、先輩としてカッコがつかないと思うのだ。
「それじゃあおやすみなさい先輩。送ってもらえて嬉しかったです」
「ば、ばか、礼なんて言うな。晩飯作ってもらってるんだから、お礼を言うのはこっちの方だ」
桜は満足げに微笑むだけだ。
「……ったく。こんなんでいいんなら明日から日課にするからな」
「はい。先輩の気が向いた時、たまにでいいですから送ってください。兄さんに怒られるけど、わたしはやっぱり、先輩と一緒がいいです」
「先輩、また明日ですね! 今日はありがとうございましたー!」
元気いっぱいに言って、桜は間桐邸に消えていく。
「―――――さて」
俺も帰るか。
藤ねえに留守を任せてきたけど、それも正直心配だし。
「…………あれ?」
なんか、いま聞こえなかったか?
……聞こえる。
キイキイという、ブランコが軋む音。
それが虫の鳴き声だと気付くのに、わりと時間がかかったと思う。
「……どんな虫かな。なんにせよ、季節外れもいいところだ」
冬の寒空の中、闇に潜むカミキリ虫を想像する。
――――と。
「………あれ。明かりが三つある。」
いま明かりがついた部屋は桜の部屋だ。
……一階の明かりは慎二の部屋だから、そうなると……あの、三つ目の部屋の明かりはなんだろう?
「……? 慎二んとこは桜と慎二しかいない筈だけど……」
お客さんか、それとも単に慎二があの部屋にいるだけなのか。
ともあれ、今まで何度か間桐邸には足を運んだが、あの部屋に明かりが点いているのは初めて見た。
「………………………」
まあ、あれだけ広い家だ。
どこに明かりがつこうと不思議じゃない。
不思議じゃないんだが、こう、
「…………なんだろう。なんか、胸がざわつくな」
厭《いや》な予感というか、気配がした。
シン、と凍りつく夜空に、季節外れの音がする。
虫の報せ、というものがあるのなら。
草場の陰に潜む虫は、三戸《ふくちゅう》の虫めいた不吉さがあった。
◇◇◇
そうして一日が終わる。
深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。
「――――――――」
結跏趺坐《けっかふざ》に姿勢をとり、呼吸を整える。
頭の中はできるだけ白紙に。
外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。
否、それは本当に自己暗示にすぎない。
魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪文は自分を変革させる為だけの物だ。
……本来、人間の体に魔力を通す神経《ライン》はない。
それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神経全てを統括しうる集中力が必要になる。
魔術は自己との戦いだ。
例えば、この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。
その鉄の棒こそ、たった一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。
これを体の奥まで通し、他の神経と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。
それは比喩ではない。
実際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノ”が、ズブズブと差し込まれている。
――――僕は魔法使いなのだ。
そう言った衛宮切嗣は、本当に魔術師だった。
数々の神秘を学び、世界の構造とやらに肉薄し、奇跡を実行する生粋の魔術師。
その切嗣に憧れて、とにかく魔術を教えてくれとねだった幼い自分。
だが、魔術師というのはなろうとしてなれる物ではない。持って生まれた才能が必要だし、相応の知識も必要になってくる。
で、もちろん俺には持って生まれた才能なんてないし、切嗣は魔道の知識なんて教えてはくれなかった。
なんでも、そんなモノは君には必要ない、とかなんとか。
今でもその言葉の意味は判らない。
それでも、子供だった自分にはどうでも良かったのだろう。
ともかく魔術さえ使えれば、切嗣のようになれると思ったのだ。
しかし、持って生まれた才能―――魔術回路とやらの多さも、代々積み重ねてきた魔術の業も俺にはなかった。
切嗣の持っていた魔術の業……衛宮の家に伝わっていた魔術刻印とやらは、肉親にしか移植できないモノなのだそうだ。
魔術師の証である魔術刻印は、血の繋がっていない人間には拒否反応が出る。
だから養子である俺には、衛宮家の刻印は受け取れなかった。
いやまあ。
実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。
で、そうなるとあとはもう出たトコ勝負。
魔術師になりたいのなら、俺自身が持っている特質に応じた魔術を習うしかない。
魔術とは、極端に言って魔力を放出する技術なのだという。
魔力とは生命力と言い換えてもいい。
魔力《それ》は世界に満ちている大源《マナ》と、生物の中で生成される小源《オド》に分かれる。
大源、小源というからには、小より大のが優れているのは言うまでもない。
人間一人が作る魔力である小源《オド》と、世界に満ちている魔力である大源《マナ》では力の度合いが段違いだ。
どのような魔術であれ、大源《マナ》をもちいる魔術は個人で行う魔術をたやすく凌駕する。
そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力を汲み上げる術に長けている。
それは濾過器《ろかき》のイメージに近い。
魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から魔力《マナ》を汲み上げて人間でも使えるモノ、にするのだ。
この変換回路を、魔術師は魔術回路《マジックサーキット》と呼ぶ。
これこそが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっている。
一般の人間に魔術回路はほとんどない。
それは本来少ないモノなのだ。
だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に適した肉体にする。
いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれてくる子供の魔術回路を増やすのだとか。
……まあ、そんな訳で普通の家庭に育った俺には、多くの魔術回路を望むべくもなかった。
そうなると残された手段は一つ。
切嗣曰く、どんな人間にも一つぐらいは適性のある魔術系統があるらしい。
その人間の“起源”に従って魔力を引き出す、と言っていたけど、そのあたりの話はちんぷんかんぷんだ。
確かな事は、俺みたいなヤツでも一つぐらいは使える魔術があって、それを鍛えていけば、いつか切嗣のようになれるかもしれない、という事だけだった。
だから、ただその魔術だけを教わった。
それが八年前の話。
切嗣はさんざん迷った後、厳しい顔で俺を弟子と認めてくれた。
―――いいかい士郎。魔術を習う、という事は常識からかけ離れるという事だ。死ぬ時は死に、殺す時は殺す。
僕たちの本質は生ではなく死だからね。魔術とは、自らを滅ぼす道に他ならない―――
幼い心は恐れを知らなかったのだろう。
強く頷く衛宮士郎の頭に、切嗣は仕方なげに手を置いて苦笑していた。
―――君に教えるのは、そういった争いを呼ぶ類の物だ。
だから人前で使ってはいけないし、難しい物だから鍛錬を怠ってもいけない。
でもまあ、それは破ったって構わない。
一番大事な事はね、魔術は自分の為じゃなくて他人の為にだけ使う、という事だよ。そうすれば士郎は魔術使いではあるけど、魔術師ではなくなるからね―――
……切嗣は、衛宮士郎に魔術師になってほしくなかったのだろう。
それは構わないと思う。
俺が憧れていたのは切嗣であって魔術師じゃない。
ただ切嗣のように、あの赤い日のように、誰かの為になれるなら、それは――――
「――――――――っ」
……雑念が入った。
ぎしり、と、背骨に突き刺さった鉄の棒が、入ってはいけないところにズレていく感覚。
「っ、ぐ、う――――!」
ここで呼吸を乱せば、それこそ取り返しがつかない。
擬似的に作られた魔術回《しんけい》路は肉体を浸食し、体内をズタズタにする。
そうなれば終わりだ。
衛宮士郎は、こんな初歩の手法に失敗して命を落とした半人前という事になる―――「―――、――――、――――――――――――」
かみ砕きかねないほど歯を食いしばり、接続を再開する。
針の山を歩く鬩《せめ》ぎ合いの末、鉄の棒は身体の奥まで到達し、ようやく肉体の一部として融解した。 ……ここまでで、一時間弱。
それだけの時間をかけ、ようやく一本だけ擬似神経を作り、自らを、魔力を生成する回路と成す。
「――――基本骨子、解明」
あとはただ、自然に魔力を流すだけの作業となる。
衛宮士郎は魔術師じゃない。
こうやって体内で魔力を生成できて、それをモノに流す事だけしかできない魔術使いだ。
だからその魔術もたった一つの事しかできない。
それが――――
「――――構成材質、解明」
物体の強化。
対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。
「――――、基本骨子、変更」
目前にあるのは折れた鉄パイプ。
これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。
そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させるに等しい。
衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。異なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。
それを防ぎ、毒物を薬物とする為には対象の構造を正確に把握し、“空いている透き間”に魔力を通さなければならない。
「――、――っ、構成材質、補強」
……熟練した魔術師ならば容易いのだろうが、魔力の生成さえ満足にいかない自分にとって、それは何百メートル先の標的を射抜くぐらいの難易度だ。
ちなみに弓道における一射は二十七メートル。
その何十倍という難易度と言えば、それがどのくらい困難であるかは言うまでもない――――
「っ、くっ……!」
体内の熱が急速に冷めていく。
背骨に通っていた火の柱が消え、限界まで絞られていた肺が、貪欲に酸素を求める。
「は―――ぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あ――――!」
そのまま気を失いかねない目眩に、体をくの字に曲げて耐えた。
「ぁ――――あ、くそ、また失敗、か――――」
鉄パイプに変化はない。通した魔力は外に霧散してしまったようだ。
「……元からカタチが有る物に手を加えるのは、きつい」
俺がやっている事は、完成した芸術品に筆を加える事に似ている。
完成している物に手を加える、という事は完成度をおとしめる、という危険性をも孕んでいる。
補強する筈の筆が、芸術品そのものの価値を下げる事もある、という事だ。
だから“強化”の魔術というのは単純でありながら難易度が高く、好んで使用する魔術師は少ないらしい。
……いや、俺だって好んでいるワケじゃないけど、これしか能がないんだから仕方がない。
いっそ形のない粘土をこねて代用品を作っていいなら楽なんだが、そうやってカタチだけ再現した代用品は、外見ばっかりで中身がともなわない。
まわりに転がっているガラクタがそうだ。
強化の魔術に失敗すると、練習がてらに代用品を作って気を落ち着けるのだが、これがそろいもそろって中身がない。
物の設計図を明確にイメージできるが故に、外見だけはそっくりに再現できるのだが中身は空洞、もちろん機能もまったくない。
「――――――――」
びちゃり、と汗ばんだ額をぬぐう。
気が付けば全身、水をかけられたように汗まみれだ。
……だが、この程度で済んだのは僥倖《ぎょうこう》だ。
さっきのは本当にまずかった。
持ち直すのが一呼吸遅れていたら、内臓をほとんど壊していただろう。
「……死にかけた分上達するんなら、まだ見込みがあるんだけどな」
そんな都合のいい話はない。
もっとも、死を怖がっていては魔術の上達がないのも道理だ。
魔術を学ぶ以上、死は常に身近にある。
毎日のようにこなしているなんでもない魔術でも、ほんの少しのミスで暴発し、術者の命を奪う。
魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認する事だ。
―――切嗣はそれを悲しげに言っていた。
それは、俺にはそんな覚悟なんてしないでほしい、という意味だったのかもしれない。
「……誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ、か……」
切嗣みたいになるよ、と言った子供の俺に、切嗣はそんな言葉を繰り返していた。
その意味は知らない。
ただ、衛宮士郎は、衛宮切嗣のように誰かを助けて回る、正義の味方にならなくてはいけないだけ。
「……その割に、こんな初歩がうまくいかないんだもんな。なんでいざって時に雑念が入るんだ、ばか」
物の構造を視覚で捉えているようでは甘い。
優れた魔術師は患部だけを捉え、無駄なく魔力を流し込む。
――――ボクの夢は正義の味方になる事です。
夕食の時、藤ねえが言った台詞を思い出す。
それを恥ずかしいとも、無理だとも思わない。
それは絶対に決まっている事だ。衛宮士郎は衛宮切嗣の後を継ぐと。
だから未熟なままでも、出来るかぎりの事をしてきた。
正義の味方っていうのが何者なのかは分からない。
分からないから、今はただ自分の出来る範囲で、誰かの為になる事でしか近づけない。
そうして五年間、ずっと前だけを見てきたつもりだけど、こう上手くいかないと迷ってしまう。
「……ああもう、てんで分からないよ切嗣《オヤジ》。
一体さ、何をすれば正義の味方になれるんだ」
窓ごしに空を見る。
闇雲に、誰かの為になればいいってワケでもない。
人助けと正義の味方っていうのは違うと思う。
それが分かっているのに、どうすれば違ったモノになれるのか、と。
その肝心な部分が、この五年間、ずっと掴めないままだった。
◇◇◇ ◇◇◇
……目覚めは暗い。
夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。
……イメージするものは常に剣《つるぎ》。
何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。
そこに意味はなく、さしたる理由もない。
ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。
見る夢などない。
眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。
たとえば魔術師について。
半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。
―――一言で言って、魔術師というのは文明社会とは相反する例外者だ。
だが例外者と言えど、群《むれ》を成さねば存在していられない。
切嗣《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。
……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。
魔術協会、と呼ばれるその組織は、魔術《しんぴ》を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。
ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。
切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。
ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。
彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。
ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。
ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。
たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。
故に、そんな一般社会に害をなすような研究は魔術協会が許しはしない。
かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。
魔術師が自身を隠そうとするのは、偏《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。
……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。
なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。
そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。
管理者《セカンドオーナー》、と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。
同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。
……その点で言うと、衛宮《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。
切嗣《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。
管理者《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師だって事を知らないし、切嗣だって管理者《オーナー》が誰なのかなんて知らなかった。
そういった事もあって、衛宮《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。
真っ当な魔術師であった切嗣《オヤジ》は他界し、
その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。
……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。
いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。
―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。
魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。
……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。
それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが――――
「…………、ん」
窓から差し込む陽射しで目が覚めた。
日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ仄《ほの》かに薄暗い。
「……さむ。さすがに朝は辛いな」
朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。
時刻は五時半。
どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。
目覚まし時計はなんとなく堕落している気がするので子供の頃から使っていない。
「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」
昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。
桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。
ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。
昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。
同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。
主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。
「よし、こんなんでいいか」
そろそろ六時。
思ったより早く終わったんで時間を持て余してしまった。
さて、余った時間で何をしたものか。
◇◇◇
「そうだな。時間もあるし、箸休めになんか作っとこう」
ばこん、と冷蔵庫を開ける。
余っているのはキュウリとジャガイモぐらいか。
「……うーん。キュウリをスティック状に切って塩漬けにしてもいいし、ジャガイモを千切りにして酢の物にしてもいいんだけど……」
どっちにしても数分足らずで片づいてしまう小物で、この手の一品は新鮮な方が美味しい。
藤ねえと桜がやってくるまであと三十分。どうせなら直前でサラッと仕上げた方がいいだろう。
「…………む」
そうなると、なんとも扱いの難しい空き時間になってしまった。
あと三十分で出来るものといったら、
「夕飯用に鶏のささ身があったから、えーと」
野菜を肉で巻いた一口サイズの焼き物とか、その辺か。
鶏肉を観音開きに切って、肉たたきで平らにする。
この肉たたきはパッと見、とんでもなく極悪だ。ようするにトンカチなのだが、叩く面積は四角く広く、表面にはトゲじみた突起物がびっしりと突き出ている。
これでサイズが大きければ、間違いなく拷問道具として活躍できるだろう。
そんな物騒なモンでささ身を平らにして、ニンジンとさやインゲンを乗せて、巻いて、表面をフライパンで焼いて、酒をいれて蒸し焼きにする。
「――――はっ!? ちょっと待て、なにしてんだ俺……!?」
そこまで進めて、はた、と正気に返った。
作ろうとしたのは箸休めになる一品で、メインにはとっくに秋刀魚《さんま》さまが鎮座ましましている。
だっていうのにささ身の野菜巻き焼きなんて作って、主役クラスを二品も用意するなんて……!
「……なんてこった。暇つぶしで余計な料理をするなんて、気が抜けてる」
「え? 暇つぶしで作ってたんですか、先輩?」
「うん。でも誤解のないよう説明すると、ホントは惣菜を追加しようとしたんだ。それが気が付いたら包丁を持ってた。いや、習慣っていうのは怖い。もちろんただの言い訳だけど」
「でもいいと思いますよ? 朝ごはんにしては豪勢ですけど、先輩の料理なら余らないと思います」
「そうかな。いや、そういう問題じゃないだろ、これは。
一つの空に二つの太陽は要らないんだ。どっちかにはご退場を願わなくちゃいけない」
「ええ!? 先輩、せっかく作ったのに食べないんですか?」
「食べる。予定にはなかったけど、今日の昼は弁当にする。そうすれば余った方も無駄にはならないだろ」
「うわ。先輩、今からお弁当作るんですか?」
「ギリギリかな。まあ、俺一人分ぐらいなら飯もなんとか――――」
と。
そこで、ようやく背後の人物に気がいった。
「おはようございます先輩。今日もお邪魔しますね」
笑顔で挨拶をする桜。
この時間、桜が台所にやってくるのは不思議な事じゃない。
桜はいつもチャイムを鳴らして入ってくるが、今朝のようにぼんやりして気が付かない時もある。
「お、おはよう桜。朝飯の支度はできてるから居間で休んでていいぞ。お茶の用意してあるから」
フライパンの番をしながら声を返す。
テーブルにはお湯を入れたポットと急須、お茶受け等が用意されている。
「あ、はい。今朝も完璧ですねっ、先輩」
何が嬉しいのか、桜の声は弾んでいる。
……と。
桜は上機嫌なまま、テーブルではなく台所にやってきた。
「先輩、お弁当作るんですよね」
「ん? ああ、そういう流れになった。ちょうど弁当向きだし、もう少しおかずを用意しようかなって」
「あの、それならわたしもいいですか? 自分の分はちゃんと自分で作りますから」
「いや、待った。おかず、俺と同じのでいいなら分けられるけど」
「―――はい。さっきから見ていて、先輩の焼き物が食べたいなって思ってたんです」
「了解。んじゃ桜はご飯炊いてくれ。二人分の弁当となると飯が足りなくなる。そっちに早炊きができる炊飯ジャー、あるだろ」
「はい、任されました。それじゃお手伝いさせていただきますね」
パタパタという足音と、きゅっとエプロンの紐を縛る音。
「せんぱーい。ご飯は二合でいいですよねー」
「んー、十分なんじゃないかな」
慌てず急がず、それでいてテキパキとした動きで、桜は厨房に参戦してきた。
「おはよー! 今朝もいい匂いさせてて結構結構!」
六時半をちょっと過ぎたころ。
桜に遅れること三十分、いつも通り藤ねえがやってきた。
「おはようございます先生。朝ご飯、もうちょっと待ってくださいね」
「うん待つ待つ。……って、あれ? 桜ちゃん、士郎といっしょに朝ご飯作ってるの?」
「いえ、朝食の支度は先輩が一人でやっつけちゃってました。今は先輩とお弁当を作ってるんです」
桜の声は妙に弾んでいる。
別段面白いコトをやってるわけでもなし、何が楽しいのかは分からない。
「そっかそっか、そりゃあ朝からご機嫌にもなるか。お料理と士郎、楽しいことだらけだもんね。よしよし、時間は余裕ないけどゆっくりしてていいわよー」
あははは、と笑いながらテーブルに陣取ってお茶を淹れる藤ねえ。
「……ったく、朝から寝ぼけやがって。学校前に台所に立つコトのどこが楽しいってんだ」
フライパンを棚に戻す。
弁当のおかずも作り終わったし、あとは弁当箱に詰めるだけだ。
「悪いな桜。部活前だっていうのに無駄な体力使わせて。
昨日世話になった分、今朝はゆっくりしてもらおうと思ってたんだが」
「え? いえ、そんなコトありませんよ? 藤村先生の言う通り、こうして台所に立つのは楽しいです」
にっこりと笑う。
そりゃ桜が料理好きなのは知ってるけど、それにしたって朝五時に起きて弁当を作るのは辛かろう。
しかも、桜には頻繁に夕食を作ってもらっている。
だっていうのに朝まで料理づけにしてしまっては、桜の自由時間がなくなりかねない。
「……ふう。手伝ってくれるのは助かるけど、もう少し楽にしろよ桜。朝はもちっと眠ったり、放課後だって遊びにいくもんだろ。何も好き好んでうちの手伝いをしなくていいんだ」
「はい、ですから楽にしています。今日も先輩に朝ご飯を作ってもらいました。お弁当のおかずだって、先輩に分けてもらいましたし」
にっこりと笑う。
…………はあ。
桜が手伝ってくれるようになってから早一年半、今じゃあ何を言ってもこんな風に返されてしまう。
「それとこれは別だろ。桜だって自分の生活があるんだから、俺や藤ねえの世話にかまけてたら大変だぞ。俺を甘やかしてると、そのうち自分の好きなコトができなくなるんだからな」
「あはは、それも大丈夫です。わたし、趣味はお料理と弓だけですから。ちなみに将来の目標は先輩の味を超えるコトで、もうすぐ射程距離だったりします」
えっへん、と胸を張る桜。
……く。
悔しいが、それは紛れもない事実で狙われているのか俺。
「ですから気にしないでください。わたし、ここでお料理するのが嬉しいし、上手くなるのが楽しいんです。
この楽しさを教えてくれた先輩への恩返しと、自分の実益をちゃんと兼ねてお手伝いをしているのです」
「……む。それはつまり、日々俺の技術を盗んでいるというコトなのか、桜」
「はい。先輩のお手伝いをするだけで、好きなコトがメキメキ上達しちゃいます。ですから覚悟しててくださいね。いまに先輩にまいったって言ってもらうんですから」
うわ。
信じられねえ、いま言い切ったぞ桜のヤツ!
「……はあ。まったく、こんなことなら料理なんて教えなければ良かった。うちにくるまでサラダ油の存在さえ知らなかったクセに、今じゃ虎視眈々と師の首を狙ってやがる。なんだってそんなに目の仇にすんだよ、ほんと。
飯なんて普通に作れればいいじゃんか」
「そんなの目の仇にしますっ。先輩の方がおいしいなんてダメなんですから」
「……?」
何がダメなのかは不明だが、それはともかく、そろそろ朝食を並べないとまずかろう。
「よっ」
火にかけていた秋刀魚の様子を見る。
いい色に焼けた腹に箸をあてて、焼き加減を確認する。
「上出来かな。ほい桜、パス。先に食卓に持っていってくれ」
「はい、お疲れさまです先輩」
秋刀魚を乗せた皿を桜に手渡す。
……と。
何か重大な事でも思い出したように、桜は動きを止めていた。
「桜? どうした、忘れ物か?」
桜はしっかりしているようでよく物忘れをする。
こんな風に突然思い出してハッとする、というのはそう珍しい事じゃない。
が―――どうも、今朝のはそんな類の事ではないみたいだ。
「……桜?」
「…………………………」
桜は答えない。
ただ呆然と俺の手を見つめて、桜本人も意識していないという素振りで、
「先輩。その手の痣、なんですか」
なんて、おかしなコトを訊いてきた。
「は?」
言われて手を引っ込める。
「あれ……? ほんとだ、手の甲に痣ができてる。おかしいな、ぶつけた覚えはないんだけど」
どうしたことか、左手の甲に大きな痣が出来ている。
痣は切り傷のようで、派手なミミズ腫れを残していた。
自分の手ながら、正直かなり気味が悪い。
気分が優れないのか、桜は押し黙っている。
「わるい、あと任せた。湿布か何か貼ってくる」
桜に台所を任せて道場に向かう。
寝ている時に傷つけたのかは知らないが、ともかく手当てぐらいはしておかないと。
「――――――――」
ただ、どうしてか。
台所を後にする時、気まずそうに俯いていた桜の姿が気にかかった。
「それじゃ先に行ってますね」
「桜、ほんとにいいのか。体調が悪いなら部活ぐらい休んでいいんだぞ?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと頭痛がするだけですから心配にはおよびません。体調が悪そうに見えるのは先輩の気のせいですよ。わたし、すごく元気です」
はい、と笑顔で切り返してくる。
……が、それが強がりである事は誰にだって判るだろう。
「―――すごく元気、か。朝飯、一口も食べられなかったのにか?」
「ぁ…………」
気まずそうに視線を逸らす。
結局、桜は視線をあげず、
「……失礼します。先輩のほうこそ、休んでください」
そんな言葉を残して玄関を後にした。
食卓はキレイに片付いている。
が、台所にあげられた食器にはまるまる一人分の朝飯が残っていた。
「まったく。いきなりどうしたんだよ、桜のヤツ」
俺の傷を見てからというもの、あれだけ上機嫌だった桜はとたんに無口になり、やることなすこと失敗だらけになった。
お茶は淹れすぎる、卵焼きは醤油で真っ黒にする、エプロンを着たまま食卓につく。
んで、あげくの果てに朝食は一口も喉を通らず、青い顔のまま登校していったのだ。
「風邪でも引いたのかな、桜」
後片付けをしながらぼやく。
ともあれ、あんな桜を見るのは初めてだ。
桜と知り合ったのは四年前の夏ごろで、うちに家事手伝いをしにきてくれるようになったのは一年半ほど前。
その間、あれだけ体調の悪そうな桜を見たことはない。
「――――――――」
……弓道場には藤ねえがいるし、大事はないと思うが、放課後あたりに様子を見に行くべきだろう。
◇◇◇
時刻は七時半になろうとしている。
桜と藤ねえはとっくに家を出た。
昨日は一成に呼ばれていたから早めに登校したが、今朝は普通の時間に家を出た。
交差点まで下りてくると、見慣れない光景に出くわした。
一軒家の前に数台のパトカーが止まっている。
なにか騒ぎでもあったのか、周囲の雰囲気は慌ただしく、集まった人だかりは十人や二十人ではきかないようだ。
「?」
興味はあったが、人だかりが邪魔で何が起きたのか判らない。
時間もないし、今は学校を優先すべきだろう。
予鈴の十分ほど前に到着。
いつも通り余裕を持って正門をくぐると、
「や、おはよう衛宮」
見知った女生徒とバッタリ会った。
「なんだ、まだ着替えてないのか美綴。もうすぐホームルームだぞ。俺に挨拶なんかしてる場合じゃないだろ」
「あはははは! いや、ごもっとも。相変わらずつれない野郎だねぇ、衛宮は!」
何が楽しいのか、人目も気にせず豪快に笑う。
美綴綾子《みつづりあやこ》。
一年生の頃クラスメイトだったヤツで、今は弓道部の主将をしている。
学生とは思えないほど達観したヤツで、一年の頃から次期主将を期待されていた女丈夫だ。
……まあ、要するに実年齢よりいくぶん精神年齢が上で、一年の頃からみんなに頼りにされていたお姉さんタイプである。
もっとも、本人はそれを言われると怒る。あたしはそんなに老けてないっ! というのが本人の弁だ。
「あん? 今アンタ、よからぬ感想を漏らさなかったかもし?」
「そんな物は漏らさない。あくまで客観的な事実を連想しただけだ。それで気を悪くするのは美綴の勝手だが」
「お、言うじゃん。いいね、正直に答えるくせに、何をどう考えてたかは口にしないんだもの。 衛宮、慎二と違って隙がないな」
「慎二? なんでそこに慎二が出てくるんだ?」
「なんでもなにも、アンタと慎二って友人じゃない。
慎二の男友達ってアンタだけでしょ? それにお忘れでしょうが、あたしこれでも弓道部の主将なの。うちの問題児と、辞めちまった問題児をくっつけるのは自然な流れだと思わない?」
「ああ、たしかに自然だ。弓道部ってのは関係ないけど、俺とアイツは腐れ縁だからな」
「あ、カチンと来た。アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるでしょ。
いいご身分よね、慎二をほっぽっといて自分はさっさと退場しちゃうんだから。後に残されたあたしとか桜の気持ちとか、少しは考えてくれてもいいんじゃない?」
「む。慎二のヤツ、またなんかやったのか」
「アイツが何もやらない日なんてないけど。
……ま、それにしても昨日のはちょっとやりすぎか。
一年の男子が一人辞めたぐらいだから」
はあ、と深刻そうにため息をつく美綴。
こいつがそんな顔をするのも珍しいけど、それ以上に今の話は聞き捨てならない。
「なんだよそれ。部員が辞めたって、なんで」
「慎二のヤツが八つ当たりしたのよ。わざわざ女子を集めてね、弓を持ったばかりの子に射をさせて、的中するまで笑い物にしたとか」
「はあ!? おまえ、そんなバカげた事を見過ごしてたってのか!?」
「見過ごすかっ! けどさ、主将ってのは色々と忙しいんだ。いつも道場にいる訳じゃないって、衛宮だって知ってるでしょ」
「……それは、そうだが。にしても、なに考えてんだ慎二のヤツ。必要以上に厳しく教える事はあっても、素人を見せ物にするようなヤツじゃないだろ」
「――――呆れた。衛宮ってば、ほんとにアレだ」
「む。アレってなんだ。いまおまえ、よからぬ感想を漏らさなかったか?」
「あーら、あたしはあくまで客観的な事実を連想しただけさ。それで気を悪くするのは衛宮の勝手だね」
「……この、ついさっき聞いたような返答をしやがって。
いいよ、それより慎二はどうしたんだよ。なんだってそんな真似をしたんだ」
「んー、聞いた話じゃ遠坂にこっぴどくふられたとかなんとか」
「え……遠坂って、あの遠坂か?」
「うちの学校にアレ以外の遠坂なんていないでしょ。
2年A組の優等生、ミスパーフェクトこと遠坂凛よ」
「……いや、そんなあだ名は初めて聞いたけど」
聞いたけど、それなら、と納得できてしまった。
相手が遠坂凛なら、慎二が振られる事もあるだろうし、なにより―――
あの遠坂なら、交際を断る時も容赦ない台詞を口にしそうだし。
「ともかく、慎二のヤツは昨日からずっとその調子よ。
おかげであたしもこんな時間まで道場で目を光らせてたって訳」
「……慎二のヤツは癇癪《かんしゃく》持ちだからな。美綴、たいへんだろうけど頑張ってくれ」
「はいはい。けどねー、慎二って懲りないでしょ? また遠坂に声をかけて振られた日には、今度こそ遠坂本人に何かしそうでさー」
「いや、いくら慎二でも振られた相手には近寄らないだろ。アイツ、そのあたりはちゃんとしてるぞ」
「けど相手が近寄ってくるんだからしょうがないじゃない。遠坂さ、なんか知らないけどうちの道場をよく見学に来るのよ。衛宮は辞めちゃったから知らないだろうけどね」
「?」
それは初耳だ。
遠坂凛は家の事情だとかで、一切部活動はやっていない。生徒会も同じ理由で推薦を拒否したぐらいだから、放課後はすんなりと帰宅していると思っていた。
「ま、たまにはそれもいいか。アイツお高くとまってるし、一度ぐらいは痛い目にあうのもいいかもねー。お気の毒さまっていうか、ご愁傷さまっていうか」
なにやら物騒な事を口にする美綴。
……そういえば、遠坂凛はああ見えて敵が多いというけど、美綴もその一人なんだろうか?
「おい美綴、いくらなんでもそれは」
「あ、そろそろ時間だ。じゃあね衛宮、今度あたしの弓の調子見に来てよ」
慌ただしく走っていく美綴。
「―――相変わらずだな、あいつ」
けど、アイツのああいうスッパリしたところは昔から気に入ってる。
なんとなく穏やかな気持ちになって、教室へ足を向けた。
昼休み。
うちの学校には立派な食堂があり、たいていの生徒は食堂でランチをとる。
が、中には弁当持参という古くさい連中もいて、その中の一人が自分と、目の前にいる生徒会長だった。
「衛宮、その唐揚げを一つくれないか。俺の弁当には圧倒的に肉分が不足している」
「……いいけど。なんだっておまえの弁当ってそう質素なんだ一成。いくら寺だからって、酒も肉も摂らない、なんて教えがあるわけでもないだろう」
「何を時代錯誤なことを。これは単に親父殿の趣味だ。
小坊主に食わす贅沢はない、悔しいのなら己でなんとかせよ、などと言う。いっそ今からでも典座《てんぞ》になるか、俺も考えどころだ」
「あー、あの爺さんなら確かに」
一成の親父は柳洞寺の住職で、藤ねえの爺さんとは旧知の仲という豪傑だ。
藤村の爺さんと気が合う、という時点でまともな人格を期待してはいけない。
「それはそれは。んじゃ、いつか恩返しを期待して一つ」
ほい、と弁当箱を差し出す。
「やや、ありがたく。これも托鉢の修行なり」
深々とおじぎをする一成。
……なんていうか、こんなコトで一成がお寺の息子なのだと再認識させられるのはどうかと思う。
「ああ、そういえば衛宮。朝方、二丁目の方で騒ぎがあったのを知っているか? ちょうど衛宮と別れるあたりの交差点だが」
「交差点……?」
朝方の交差点と言えば、パトカーが何台も止まっていた騒ぎだろうか。
「なんでもな、殺人があったそうだ。詳細は知らないが、一家四人中、助かったのは子供だけらしい。両親と姉は刺殺されたというが、その凶器が包丁やナイフではなく長物《ながもの》だというのが普通じゃない」
「――――――――」
長物? つまり日本刀、というコトだろうか。
殺人事件という事は、それに両親と姉を殺されたという事か。
……想像をしてしまう。
深夜、押し入ってきた誰か。不当な暴力。交通事故めいた一方通行の略奪。斬り殺される両親。訳も分からず次の犠牲になった姉。その陰で、家族の血に濡れた子供の姿。
「一成。それ、犯人は捕まったのか」
「捕まってはいないようだな。新都の方では欠陥工事による事故、こちらでは辻斬りめいた殺人事件だ。学校の門限が早まるのも当然―――どうした衛宮? 喉にメシでもつまったか?」
「? 別に何もないけど、なんだよいきなり」
「いや……衛宮が厳しい顔をしていたのでな、少し驚いた。すまん、食事時の話ではなかったな」
一成はすまなそうに場を和ます。
……いや、本当にどうというコトもなかったのだが、そんなに厳しい顔をしていたんだろうか、俺。
と、静かに生徒会室のドアがノックされた。
「失礼。柳洞はいるか」
「え? あ、はい。なんですか先生」
一成はやってきた葛木《くずき》となにやら話し込む。
生徒会の簡単な打ち合わせなのだろうが、一成はわりと力を抜いているようだ。
「………へえ」
それは、ちょっとお目にかかれない光景だ。
ああ見えて、一成は人見知りが激しい。クラスメイトにも教師にも線を引くあの男が、生徒会顧問の葛木に対しては気を許している。
「……真面目なところで気が合うのかも」
2年A組の担任である葛木宗一郎《くずきそういちろう》は、とにかく真面目で堅物だ。
おそらく、そのあたりが規律を重んじる一成と波長があうのだろう。
「――――――――」
二人の話し合いは続いていく。
それを眺めながら、なぜか、先ほど聞いた殺人事件のことが頭から離れなかった。
◇◇◇
……桜の事が気になる。
俺が心配したところでどうなる訳でもないが、元気になったかどうか、様子を見るぐらいはいいだろう―――
四階、一年の廊下を歩く。
廊下に生徒の姿はなく、教室に残っている生徒も少なかった。
一年はみんな部活か、早々に下校したあとのようだ。
「……失敗したな。これじゃ桜も部活に行ってる」
まあ、それでもここまで来たのだ。
桜のクラスを覗いて、誰もいない事を確認したらバイトに向かえばいい。
「どれ」
ひょい、と一年B組の教室を覗く。
赤い陽射しに染め上げられた教室は静まり返っていて、人の気配を感じさせない。
教室には誰もいない。
生徒たちはみな、それぞれ望む場所へと出払ったあとだ。
「――――――――」
そんな赤い教室に、一人、取り残された影があった。
「桜」
赤い世界に踏み入って声をかける。
「……先輩?」
長い髪に隠れた顔は、朝より一段と元気がなかった。
「どうしたんですか? うちのクラスに何か用事でも」
「いや、桜のクラスに用事はない。単に桜の様子が気になっただけだ。朝から体調悪そうだったから」
「…………」
桜はますます顔を暗くする。
明らかに元気がない。
「桜、気分が悪いなら帰らないか。交差点までなら送れるから、いっしょに帰ろう」
「……いえ、いいです。わたしどこも悪くありません。
いつもどおり部活に出て、終わったら先輩のところで夕飯をご馳走になるんです。
……悪くなんてないんです。だから気にしないでください」
鞄を手にとって、逃げるように歩き出す。
「ばか、そんな顔でなに言ってんだ。いいから部活は休め。だいたいな、そんなんで弓を引いても返ってくるもんなんかないだろ」
通り過ぎようとする桜の手を掴む。
「――――あ」
がたん、という音。
俺に手を掴まれただけで桜は倒れそうになった。
「ちょっ……!」
あわてて桜の腕を引く。
力任せに引いた桜の体は、驚くぐらい軽かった。
「び、びっくりしたあ……桜、ほんとに大丈夫か?
足、ぜんぜんふんばりきいてないじゃないか」
「……………………」
桜は申し訳なさそうに視線を逸らす。
まったく、今日に限ってどうしたってんだ、桜は。
「とにかく部活は休みだ。俺もバイト休むから、今日はおとなしく家に帰ろう」
「……………………」
桜は押し黙ったまま答えない。
俺の手を解きもしないが、おとなしく帰ってくれる様子でもない。
「どうしたんだよ桜。そんなんじゃ部活に出ても意味ないって分かってるだろ」
「……それは、先輩の言うとおりです。けど、兄さんが呼んでるから」
だから行かないと、と桜は小さく呟いた。
「――――――――」
……っ。
そんな顔でそんな風に言われたら、言い返す事もできなくなる。
間桐家の事情は複雑らしく、慎二と桜の関係に口出しすることはできない。
……どんなに桜を家族だと思っても、桜の本当の家族は間桐家の人間だ。
他人である俺がどうこう言ったところで、部外者の無責任な言葉にすぎないんだから。
「……部活には顔を出すだけか、桜」
「え……? あ、はい。わたしだって今は弓を引けないって判ってます」
「そうか。ようするに慎二の顔をたてるだけって事だな」
がたん、と椅子を引いて座る。
続いてすぐ隣の机からも椅子を引く。
「あの…………先輩?」
「いいから座れ。部活に行くのはもう止めない。そのかわりもうちょっと休んでいけ。慎二には俺から誘われて、断るのに時間がかかったって言えばいい」
「そ、そんなコト言えません……! そんなコト言ったら、兄さん、また先輩に、その」
「慎二がちょっかい出してくるのはいつものコトだよ。
いいじゃんか、毎日会話のネタがあってあいつも楽だろ。
それに、この話は嘘でもなんでもない真っ白な真実なんだから、後ろめたい事もない」
ほら、と桜に着席を促す。
「…………」
桜はしずしずと椅子に座った。
「よしよし。んじゃちょっと待っててくれ。生徒会室からお茶くすねてくるからな。俺が戻ってくるまで席を立つのは禁止だぞ」
「え……? 先輩、お茶をくすねてくるって、そんなコトしたら怒られるんじゃ……」
「先生に見つかったらな。なに、この手のコトには慣れてる。廊下でばったり会わないかぎり問題ないから、桜は椅子でふんぞり返っててくれ」
「で、できませんっ。先輩が危ないコトしてるときに休んでるなんてもってのほかですっ。先輩、わたしお茶なんていいですから――――」
「だから危なくないって。いいから座ってろよ。教室で茶を飲むってのも一度ぐらいはいいもんだ」
「あ」
廊下に飛び出る。
生徒会室はそう遠くない。
ササッとお茶一式を拝借して、桜をびっくりさせてやろう。
……時間が過ぎる。
桜と二人、教室でお茶を飲む、なんて間の抜けたコトをしながら、何をするでもなく外を眺めた。
窓の外は一面の夕暮れで、少し目に痛い。
「……………………」
桜はぼんやりと夕焼けを見つめていた。
俺も話すコトはないし、桜に倣って口を閉ざした。
―――会話がない為か、時間はゆるやかに過ぎていく。
桜はお喋りな方じゃないし、こうして風景を眺めている事も多い。
一人の方が落ち着くんだろう。
思えば、桜はよく一人になりたがる。
雑踏から外れる、というのではなく、周りに人がいる中で孤立したがるというか、こうやって中ではなく外を眺める事が多いのだ。
教室に一人で残っていたのもそれだろう。
桜は積極的に人と関わろうとしない。
俺や藤ねえは特例だ。
その俺だって慎二と知り合っていなければ、桜が衛宮士郎という先輩を持つ事もなかった訳だし。
「――――――――」
桜の横顔を盗み見る。
四年前、慎二から紹介された時はまだ少女というより女の子の趣が強かった桜。
それがいつのまにか後輩になって、家に家事手伝いをしにきてくれる事になって、幼い面影もなくなろうとしている。
桜は綺麗になった。
……いや、前々から美人だったけど、ここんところは異性として綺麗になりすぎだと思う。
くわえてよく気が利いて、性格も穏やかだ。
それだけ美点があれば、一年生でありながら遠坂凛と並び称される美人っていうのも頷ける。
「………………………」
けど、それがおかしいというか、腑に落ちない。
桜は一人でいる事が多い。
弓道部でも友人はいないようだし、教室に一人で残っていた事からして、クラスにも友人はいないのかもしれない。
……考えてみれば、俺は弓道部にいる桜と、うちにいる桜しか知らない。
学校にいる時の桜、間桐邸での桜がどう過ごしているのかを、俺はまったく知らない。
「……………………」
そんな事を今更になって、赤い空を見ながら思った時。
「――――先輩、覚えてますか?」
窓の外を見つめたまま、桜は言った。
「……? 覚えてるかって、なにを」
「ずっと昔の話です。わたしがまだ、先輩を知らなかったころの話」
「えっと、つまり桜と知り合う前の話か……?」
「はい。四年前、わたしが進学したばかりの頃です。
まだ新しい学校に慣れてなくて、あてもなく廊下を歩いている時、わたし、不思議なものを見たんですよ?」
「……うん。あれはいったいどういう経緯だったんでしょうね。
もう放課後で、グランドには陸上部の人もいないっていうのに、誰かが一人だけで走ってたんです。何をしているのかなって見てみると、その人、一人で走り高跳びをしてました」
くすり、という音。
それは微笑ましい記憶なのか、桜は幸せそうに笑っていた。
「真っ赤な夕焼けだったんです。校庭も廊下もみんな真っ赤で、キレイだけど寂しかった。
そんな中でですね、一人でずっと走ってるんです。走って、跳んで、棒を落として、また繰り返して。まわりには誰もいなくて、その高さは超えられないって判ってるのに、ずっと試し続けてました」
「頑張ればなんとかなるって問題じゃないんですよ? だってその棒、その人の身長よりずっと高かったんです。
わたしから見ても無理だって判るんだから、その人だってとっくに飛べないって判ってたと思うんです」
「……?」
話はわかったけど、それがどうしたっていうんだろうか。
放課後、居残りでしごかれるヤツなんて珍しくもないと思うんだが。
「わたし、その時よくない子だったんです。イヤなことがあって、誰かに八つ当たりしたかった。失敗しちゃえ、諦めちゃえって、その人が挫《くじ》ける瞬間が見たくなって、ずっと見てたんです。
けど、なかなか諦めてくれないんですよ、その人。
何度も何度も、見ているこっちが怖くなるぐらいできっこないコトを繰り返して、ぜんぜん泣き言を言わなかったんです」
「……はあ。そりゃよっぽど切羽詰ってたんじゃないのか? 明日がレギュラー選定で、その高さを跳べないと選ばれないとか」
「いいえ、それは違います。だってその人、陸上部でもなんでもない人でしたから」
ありゃ、そうなのか。
……それはいいけど、なんでそこで笑うんだ、桜は。
「それでですね。わたし、見てるうちに気が付いたんです。その人、別になんでもいいんだなって。今日たまたま自分の出来ない事にぶつかって、なら負けないぞって意地を張ってただけなんです。
そうして日が落ちて、その人は一人で片付けをして帰っちゃいました。すごく疲れてるのに、なんでもなかったみたいに平然とどっか行っちゃったんです」
「……わかんないヤツだな。けどやめたってコトは跳べたんだろ、そいつ。それ、何メートルぐらいの高さだったんだ?」
「あはは。これがですね、結局跳べなかったんです。その人、三時間もずーっと走って、どうやっても自分じゃ跳べないって納得しただけなんです」
「うわ。オチてないな、その話」
「はい。あんまりにも真っ直ぐすぎて、その人の心配をしちゃったぐらいです。
その人はきっと、すごく頼りがいのある人なんです。
けどそこが不安で、寂しかった」
そう呟く桜の声こそが寂しそうで、教室の赤色に飲み込まれそうだった。
「……はあ、話は分かったけど。それがなんだってんだよ、桜」
「いえ、分からないのならいいんです。わたしにはそう見えただけで、その人自身にとっては日常茶飯事だったということで」
さっきの暗さとは一転して、桜は柔らかな笑みを浮かべる。
「…………」
……と。
いくら鈍感な俺でも、そこまで言われれば判る。
俺自身そんな記憶はないけど、まあ、四年前っていったら親父が亡くなってからそう日が経っていない時だ。
毎日無茶なコトをやってた時期だし、そういうコトもあったんだろう。
「……あー、桜。つまり、それは」
「はい、いまわたしの前にいる上級生さんでした。
あの頃は小柄だったから、同じ学年かなって勘違いしちゃったんです」
……う。
昔の背に関しては言わないでほしい。
そりゃ今だって高い方じゃないけど、おもいっきり成長したんだぞ、これでも。
「そういうコトです。わたし、その時から先輩のことは知ってたんですよ」
「そ、そっか。それは、初耳」
つまんないモン見られたなあ、と目を逸らす。
と。
「はい。わたしたち、おなじものを見てたんです」
祈るような仕草で、おかしなコトを桜は言った。
「え……?」
気にかかって声をかける。
が、それを遮るように、聞きなれた鐘の音が校庭に鳴り響いた。
「――――あ。鐘、なっちまったな」
桜を引き止めてから三十分。時計は四時半を指していた。
「さすがにこれ以上の遅刻はやばいよな。片付けはやっとくから、桜は先に行っていいぞ。体、少しは良くなっただろ?」
「はい、おかげさまで元気いっぱいです。今日の夕飯は楽しみにしててください」
席を立つ桜。
強がりにも見えないし、本当に体調は良さそうだ。
「ああ……って、わるい桜。俺、これからバイトだ。今日は遅くなるから、無理してうちに来なくていい」
「はい、わかりました。ならお夕飯だけ作って置いていきますね」
桜はぺこりとお辞儀をして去っていった。
「――――ま、いっか」
家には藤ねえがいるし、桜が帰る時は藤ねえが送ってくれるだろう。
こっちも生活がかかってるコトだし、さっさとバイトに行くとしよう――――
◇◇◇
深山町に帰ってくる。
新都とは違い、こっちは深夜と間違えるほど静かだった。
「……桜、大丈夫かな」
体調は良くなっていたようだが、あれからうちで夕飯を作って帰ったかと思うと、また無理をさせてしまったな、と反省する。
「……ちょっと、様子見てくるか」
いまから間桐邸に行ってどうなるわけでもないけど、何もしないよりは安心できるか。
間桐の家に異状はない。
桜が言っていたような“不審な外国人”の姿はないし、電気だっていつも通り、桜の部屋と慎二の部屋にしか点いていない。
「――――え?」
……と、ちょっと待った。
となると、昨夜の明かりはなんだったんだろう。
桜でも慎二でもない第三者が間桐の家にいたんだろうか……?
「もし。なにか、この家に用があるのかね」
「……!?」
咄嗟に振り返る。
……夜の暗がり。
虫の鳴き声に紛れるように、その人物は立っていた。
それは、見慣れない老人だった。
よほどの高齢だろうに凛とした眼と、小さな体には不釣合いな威圧感。
生きてきた年月の差なのか、こうして向き合っているだけで気圧される威厳がある。
「どうした若いの、なぜ答えん。答えねばこちらで極め付けてしまうぞ? ふむ、では桜が言っておった不審なよそ者がおまえさんだ、という事でよいかな」
桜……?
……ってコトは、この人、もしかして――――
「まいったのう。孫の頼みだ、見過ごしておく訳にもいくまい。見ず知らずのおまえさんには申し訳ないが、少し痛い目にあってもらわねばならん。
念の為聞いておくが、潔く公僕の厄介になる気はないか?」
正体不明の老人は快活に、物騒なコトを言ってくる。
―――ま、間違いない。
初めて会うけど、この人、桜の――――
「ぁ……いや、違いますっ……! 俺は慎二の同級生で、桜とは知り合いで散歩がてらに様子を見にきた衛宮士郎という者です……!」
「ほう。そうか、慎二と桜の知り合いか。それは邪魔をしたな。どれ、二人を呼んでこよう。それとも夕飯を馳走されるかね」
「い、いえ、ちょっと寄っただけですから、すぐ帰ります。それよりお爺さん、桜はもうちゃんと帰ってきてますか?」
「臓硯《ぞうけん》じゃ」
と。
老人は、不愉快そうに意味不明な単語を口にした。
「え?」
「間桐臓硯《まとうぞうけん》。おまえさんが名乗ったというのに、ワシが名乗らぬままではおかしかろう」
間桐臓硯氏はそれだけ言うと、玄関に向かって歩き出した。
俺の事など興味はない、といった風である。
「………………」
なんというか、圧倒されて言葉もなく見送ってみる。
―――と。
「桜ならば帰ってきておる。
それより衛宮士郎。アインツベルンの娘は壮健かね?」
「……は? アインツ、なんですか?」
「とぼけるでない。アインツベルンの娘が衛宮を訪ねるは道理。此度の座の出来はどうか、と問うておる」
「?????」
あー、ますます分からない。
……失礼だけど、桜。
おまえのお爺ちゃんは、なかなかの難物だ。
「……………ふむ。どうやら本当に知らぬらしいな、これは」
ため息をつく臓硯氏。
なんというか、ものすごくガッカリしているように見えて申し訳なくなる。
「……はあ。よく分かりませんけど、すみません」
「いやいや、おぬしが気に病む事はない。ワシの勘違いじゃ、つまらぬ事を言ってすまなかった。
そら、孫たちに用があるのなら遠慮する事はない。年寄りは隠居しておるでな、気兼ねなく訪ねるがよい」
「あ、いや、今日は本当に寄っただけです。……けど、その。お爺さん、この家に住んでいるんですか?」
「住んでおるとも。もっとも見ての通りの老体でな。日がな一日、奥座敷でくたびれておる」
「………………」
……そうなのか。
一年前までは何度か間桐邸に上がっていたけど、慎二と桜以外の人間がいるようには思えなかったが。
「では失礼するぞ、衛宮士郎君。うちの孫たちと善くしてやってくれ」
見かけとは裏腹に、軽い足取りで老人は去っていった。
間桐邸に変化はない。
虫の鳴き声だけが、唐突に止んでいた。
……一日が終わる。
騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。
あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。
それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。
午前一時。
一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。
◇◇◇ ◇◇◇
炎の中にいた。
崩れ落ちる家と焼けこげていく人たち。
走っても走っても風景はみな赤色《せきしょく》。
これは十年前の光景だ。
長く、思い出す事がなかった過去の記憶。
その中を、再現するように走った。
悪い夢だと知りながら出口はない。
走って走って、どこまでも走って。
行き着く先は結局、力尽きて助けられる、幼い頃の自分だった。
「――――――――」
嫌な気分のまま目が覚めた。
胸の中に鉛がつまっているような感覚。
額に触れると、冬だと言うのにひどく汗をかいていた。
「……ああ、もうこんな時間か」
時計は六時を過ぎていた。
耳を澄ませば、台所からはトントンと包丁の音が聞こえてくる。
「桜、今朝も早いな」
感心している場合じゃない。
こっちもさっさと支度をして、朝食の手伝いをしなければ。
「士郎、今日どうするのよ。土曜日だから午後はアルバイト?」
「いや、バイトは入ってないよ。一成のところでなんかやってると思うけど、それがどうかしたか?」
「んー、べつに。暇だったら道場の方に遊びにきてくんないかなーって。わたし、今月ピンチなのだ」
「? ピンチって、何がさ」
「お財布事情がピンチなの。誰かがお弁当作ってくれると嬉しいんだけどなー」
「断る。自業自得だ、たまには一食ぐらい抜いたほうがいい」
「ふーんだ、士郎には期待してないもん。わたしが頼りにしてるのは桜ちゃんだけなんだから。ね、桜ちゃん?」
「はい。わたしと同じ物でよろしければ用意しておきますね、先生」
「うん、おっけーおっけー。じゃあ今日は一緒にお昼を食べましょう」
いつも通りに朝食は進んでいく。
今朝のメニューは定番の他、主菜でレンコンとこんにゃくのいり鶏が用意されていた。
朝っぱらからこんな手の込んだ物を作らなくとも、と思うのだが、きっと大量に作って昼の弁当に使うのだろう。
桜は弓道部員だし、藤ねえは弓道部の顧問だ。
二人が弁当で結ばれるのも至極当然の流れと言える。
「そう言えば士郎。今朝は遅かったけど、何かあった?」
みそ汁を飲みながらこっちに視線を向ける藤ねえ。
……ったく。普段は抜けているクセに、こういう時だけ鋭いんだからな、藤ねえは。
「昔の夢を見た。寝覚めがすっげー悪かっただけで、あとはなんともない」
「なんだ、いつもの事か。なら安心かな」
とりわけ興味なさそうに会話を切る藤ねえ。
こっちもホントに気にしていないので、ムキになる話でもない。
十年前。
まだあの火事の記憶を忘れられない頃は、頻繁に夢にうなされていた。
それも月日が経つごとになくなって、今では夢を見てもさらりと流せるぐらいに立ち直れている。
……ただ、当時はわりと酷かったらしく、その時からうちにいた藤ねえは、俺のそういった変化には敏感なのだ。
「士郎、食欲はある? 今朝にかぎってないとかない?」
「ない。なんともないんだから、人の夢にかこつけてメシを横取りなんてするなよな」
「ちぇっ。士郎が強くなってくれて嬉しいけど、もちょっと繊細でいてくれたほうがいいな、お姉ちゃんは」
「そりゃこっちの台詞だ。もちっと可憐になってくれたほうがいいぞ、弟分としては」
ふん、とお互い視線を交わさないで罵りあう。
それが元気な証拠となって、藤ねえは安心したように笑った。
「――――ふん」
正直、その心遣いは嬉しい。
ま、感謝すると付け上がるので、いつも通り不満そうに鼻を鳴らす。
「??」
そんな俺たちを見て、事情を知らない桜が不思議そうに首をかしげていた。
◇◇◇
藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。
「……………………」
「桜? なんだよ、元気がないな。もしかしてまた体調が悪くなったのか?」
「え……? あ、いえ、体の調子はいいです。先輩の方こそ大事はありませんか? 今朝もどこか気分が悪そうでしたし、その、昨日の傷も悪化してるかもしれません」
昨日の傷……?
ああ、左手の痣《あざ》の事か。
「いや、痣はあれっきりだけどな。ただの腫れだからしばらくすれば治るだろ」
「………………」
何が心配なのか、桜はじっとこっちを見つめてくる。
「あー……いや、ほんとに大丈夫だって。たいした事ないぞ、ほんと」
「……………………」
「なんだよ、昨日からおかしいぞ桜。こんなのただの痣だろ。それとも何か、俺が寝てる間に桜が踏んづけて出来た痣とかで、罪悪感に襲われてるとか」
「せせ先輩っ、わたしそんなに重くありませんっ! わたしはただ、その」
「ただ、その?」
「…………その。間違いだったら、いいって」
「???」
桜の言動はどうも判り辛い。
桜は無口だけど、言うべき事ははっきりと言う子だ。
こんなふうに、奥歯に物が挟まったような口調じゃないんだけど。
「……先輩。お願いがあるんですけど、いいですか」
「うん? ああ、出来る範囲でなら聞くけど、なんだ」
「……はい。わたし、明日の夜までお手伝いに来られないんです。その間、出来るだけ家の中にいて貰えませんか?」
「……? それ、日曜のバイトは休めって事か?」
「はい。出来る限り家にいてほしいんです。あの、わたしも用事が終わればお手伝いに来ますから」
「ふーん……まあ、一日ぐらい休んでもいいか。
よし、んじゃ休日は家でのんびりしてる。それでいいか、桜」
「はい。そうしてもらえると助かります」
たまにはぼんやり休日を過ごすのもいい。
ここ最近バイトづけで生活費にも余裕があるし、今週の土日はたまったガラクタを片付けてしまおう。
◇◇◇
藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。
「……………………」
「桜? なんだよ、元気がないな。もしかしてまた体調が悪くなったのか?」
「え……? あ、いえ、体の調子はいいです。先輩の方こそ大事はありませんか? 今朝もどこか気分が悪そうでしたし、その、昨日の傷も悪化してるかもしれません」
昨日の傷……?
ああ、左手の痣《あざ》の事か。
「いや、痣はあれっきりだけどな。ただの腫れだからしばらくすれば治るだろ」
「………………」
何が心配なのか、桜はじっとこっちを見つめてくる。
「あー……いや、ほんとに大丈夫だって。たいした事ないぞ、ほんと」
「……………………」
「なんだよ、昨日からおかしいぞ桜。こんなのただの痣だろ。それとも何か、俺が寝てる間に桜が踏んづけて出来た痣とかで、罪悪感に襲われてるとか」
「せせ先輩っ、わたしそんなに重くありませんっ! わたしはただ、その」
「ただ、その?」
「…………その。間違いだったら、いいって」
「???」
桜の言動はどうも判り辛い。
桜は無口だけど、言うべき事ははっきりと言う子だ。
こんなふうに、奥歯に物が挟まったような口調じゃないんだけど。
「……先輩。お願いがあるんですけど、いいですか」
「うん? ああ、出来る範囲でなら聞くけど、なんだ」
「……はい。わたし、明日の夜までお手伝いに来られないんです。その間、出来るだけ家の中にいて貰えませんか?」
「……? それ、日曜のバイトは休めって事か?」
「はい。出来る限り家にいてほしいんです。あの、わたしも用事が終わればお手伝いに来ますから」
「ふーん……まあ、一日ぐらい休んでもいいか。
よし、んじゃ休日は家でのんびりしてる。それでいいか、桜」
「はい。そうしてもらえると助かります」
たまにはぼんやり休日を過ごすのもいい。
ここ最近バイトづけで生活費にも余裕があるし、今週の土日はたまったガラクタを片付けてしまおう。
◇◇◇
部活がある桜と別れて校舎に向かう。
校庭には走り込みをしている運動部の部員たちがいて、朝から活気が溢れている。
「…………」
にも関わらず、酷い違和感があった。
学校はいつも通りだ。
朝練に励む生徒たちは生気に溢れ、真新しい校舎には汚れ一つない。
「……気のせいか、これ」
なのに、目を閉じると雰囲気が一変する。
校舎には粘膜のような汚れが張り付き、校庭を走る生徒たちはどこか虚ろな人形みたいに感じられる。
「……疲れてるのかな、俺」
軽く頭をふって、思考をクリアにする。
そうして、どことなく元気がないように感じられる校舎へ足を向けた。
土曜日の学校は早く終わる。
午前中で授業は終わり、その後で一成の手伝いを終えた頃には、日は地平線に没しかけていた。
「さて、そろそろ帰るか」
荷物をまとめて教室を後にする。
と。
「なんだ。まだ学校にいたんだ、衛宮」
ばったりと慎二と顔を合わせた。
慎二の後ろには何人かの女生徒がいて、なにやら騒がしい。
「やる事もないクセにまだ残ってたの? ああそうか、また生徒会にごますってたワケね。いいねえ衛宮は、部活なんてやんなくても内申稼げるんだからさ」
「生徒会の手伝いじゃないぞ。学校の備品を直すのは生徒として当たり前だろ。使ってるのは俺たちなんだから」
「ハ、よく言うよ。衛宮に言わせれば何だって当たり前だからね。そういういい子ぶりが癇に触るって前に言わなかったっけ?」
「む? ……すまん、よく覚えていない。それ、慎二の口癖だと思ってたから、どうも聞き流してたみたいだ」
「っ――――!
フン、そうかい。それじゃ学校にある物ならなんでも直してくれるんだ、衛宮は」
「何でも直すなんて無理だ。せいぜい面倒見るぐらいだが」
「よし、なら頼まれてくれよ。うちの弓道場さ、今わりと散らかってるんだよね。弦も巻いてないのが溜まってるし、安土《あづち》の掃除もできてない。
暇ならさ、そっちの方もよろしくやってくれないかな。
元弓道部員だろ? 生徒会になんか尻尾ふってないで、たまには僕たちの役にたってくれ」
「えー? ちょっとせんぱーい、それって先輩が藤村先生に言われてたコトじゃなかったー?」
「そうですよう、ちゃんとやっておかないと明日怒られますよー?」
「でもさー、今から片づけしてたら店閉まるじゃん。そこの人がやってくれるんならそれでいいんじゃないの?」
「悪いよー。それに部外者に後片づけなんか出来るワケないし……」
「そうでもないんじゃない? あの人、元弓道部員だって慎二が言ってるしさぁ、任せちゃえばいいのよ」
なんか、慎二の後ろが騒がしい。
弓道部員みたいだが、見知った顔がないという事は最近慎二が勧誘しているという部員たちだろうか。
「じゃ、あとはよろしく。鍵の場所は変わってないから、かってにやっといてよ。文句ないよね、衛宮?」
「ああ、かまわないよ。どうせ暇だったから、たまにはこういうのも悪くない」
「はは、サンキュ! それじゃ行こうぜみんな、つまんない雑用はアイツがやっといてくれるってさ!」
「あ、待ってよせんぱーい! あ、じゃ後はよろしくお願いしますねぇ、先輩」
勝手知ったるなんとやら、弓道場の整理は苦もなく終わった。
これだけ広いと時間がかかったが、一年半前まで使っていた道場を綺麗にするのは楽しかった。
途中、一度ぐらいならいいかな、と弓を手に取ったが、人の弓に弦を張るのも失礼なので止めておいた。
弓が引きたくなったのなら、自分の弓を持ってお邪魔すればいいだけの話だし。
「……にしても、カーボン製の弓が多くなったな。一年前までは一つしかなかったのに」
カーボン製の弓はプラスチックや木の物と違って、色々な面で便利な弓だ。
ただ値段が高い事が最大のネックで、とても部費で買えるものじゃなかった。
当時は使っているのは慎二ぐらいだったが、新しく入ってきた部員たちはわりとお金持ちなんだろうか?
「……もったいない。木の弓の方が色々と手を加えられるのに」
ま、そのあたりは個人の好き好きか。
時計を見れば、とうに門限は過ぎている。
時刻は七時を過ぎたあたり。この分じゃ校門は閉められてるだろうから、無理して早く帰る必要はなくなってしまった。
……それにしても。
この道場ってこんなに汚れていたっけ。弓置きの裏とか部室とか、細かいところに汚れが目立つ。
「……ま、ここまできたら一時間も二時間も変わらないか」
乗りかかった船だ。どうせだからとことん掃除してしまおう―――
風が出ていた。
あまりの冷たさに頬がかじかむ。
……冬でもそう寒くない冬木の夜は、今日に限って冷え込んでいた。
「――――――――」
はあ、とこぼした吐息が白く残留している。
指先まで凍るような大気の冷たさに、体を縮めて耐える。
「……なんだ。暗いと思ったら月が隠れてるのか」
見上げた空に白い光はない。
強い風のせいか、空には雲が流れている。
門限が過ぎ、人気の絶えた学校には熱気というものがない。
物音一つしないこの敷地は、町のどの場所より冷気に覆われているようだ。
「…………?」
何か、いま。
物音が、聞こえたような。
「―――確かに聞こえる。校庭の方か……?」
この夜。
凍てついた空の下、静寂を破る音が気になったのか。
真偽を確かめる為に、俺は、その場所へと向かってしまった。
―――校庭にまわる。
「…………人?」
初め、遠くから見た時はそうとしか見えなかった。
暗い夜、明かりのない闇の中だ。
それ以上の事を知りたければ、とにかく校庭に近づくしかない。
音は大きく、より勢いを増して聞こえてきた。
これは鉄と鉄がぶつかり合う音だ。
となれば、あそこでは何者かが刃物で斬り合っている、という事だろう。
「……馬鹿馬鹿しい。なに考えてるんだ、俺……」
頭の中に浮かんだイメージを苦笑で否定して、さらに足を進めていく。
―――この時。
本能が危険を察知していたのか、隠れながら進んでいた事が、ついていたのかそうでないのか。
ともかく身を隠せる程度の木によりそって、より近くから音の発信源を見――――
そこで、意識が完全に凍り付いた。
「――――――――な」
何か、よく分からないモノがいた。
赤い男と青い男。
時代錯誤を通り越し、もはや冗談とすら思えないほど物々しい武装をした両者は、不吉なイメージ通り、本当《・・》に斬り合っていた《・・・・・・・・》。
理解できない。
視覚で追えない。
あまりにも現実感のない動きに、脳が正常に働かない。
ただ凶器の弾けあう音だけが、あの二人は殺し合っているのだと、否応なしに知らせてくる。
「――――――――」
ただ、見た瞬間に判った。
アレは人間ではない。おそらくは人間に似た別の何かだ。
自分が魔術を習っているから判ったんじゃない。
あんなの、誰が見たってヒトじゃないって判るだろう。
そもそも人間はあんな風に動ける生物ではない。
だからアレは、関わってはいけないモノだ。「――――――――」
離れていても伝わってくる殺気。
……死ぬ。
ここにいては間違いなく生きてはいられないと、心より先に体の方が理解していた。
鼓動が激しいのもそういう事だ。
同じ生き物として、アレは殺す為だけの生き物なのだと感じている。「――――――――」
……ソレらは包丁やナイフなんて足下にも及ばない、確実に人を殺す為の凶器を繰り出している。
ふと、昨日の殺人事件が頭をよぎった。
犠牲になった家族は、刀のような凶器で惨殺されたという。「っ―――――――」
これ以上直視していてはダメだ。
だというのに体はピクリとも動かず、呼吸をする事もできない。
逃げなければと思う心と、
逃げ出せばそれだけで見つかるという判断。 ……その鬩《せめ》ぎ合い以上に、手足が麻痺して動かない。
あの二人から四十メートルは離れているというのに、真後ろからあの槍を突きつけられているような気がして、満足に息も出来ない。「――――――――」
音が止まった。
二つのソレは、距離をとって向かい合ったまま立ち止まる。
それで殺し合いが終わったのかと安堵した瞬間、いっそう強い殺気が伝わってきた。
「っ………………!」
心臓が萎縮する。
手足の痺れは痙攣に変わって、歯を食いしばって、震えだしたくなる体を押さえつけた。
「うそだ――――なんだ、アイツ――――!?」
青い方のソレに、吐き気がするほどの魔力が流れていく。
周囲から魔力を吸い上げる、という行為は切嗣に見せてもらった事がある。
それは半人前の俺から見ても感心させられる、一種美しさを伴った魔術だった。
だがアレは違う。
水を飲む、という単純な行為も、度を過ぎれば醜悪に見えるように。
ヤツがしている事は、魔力を持つ者なら嫌悪を覚えるほど暴食で、絶大だった。
「――――――――」
殺される。
あの赤いヤツは殺される。
あれだけの魔力を使って放たれる一撃だ。それが防げる筈がない。
死ぬ。
ヒトではないけれど、ヒトの形をしたモノが死ぬ。
それは。
それは。
それは、見過ごして、いい事なのか。
その迷いのおかげで、意識がソレから外れてくれた。
金縛りが解け、はあ、と大きく呼吸をした瞬間。
「誰だ――――!」
青い男が、じろりと、隠れている俺を凝視した。
「………っっ!!」
青い男の体が沈む。
それだけで、ソレの標的は自分に切り替わったと理解できた。
「あ――――あ…………!」
足が勝手に走り出す。
それが死を回避する行為なのだとようやく気づいて、体の全てを、逃走する事に注ぎ込んだ。
どこをどう走ったのか、気が付けば校舎の中に逃げ込んでいた。
「何を――――バカな」
はあはあと喘ぎながら、自分の行動に舌打ちする。
逃げるなら町中だ。
こんな、自分から人気のない場所に逃げるなんてどうかしてる。
それも学校。同じ隠れるのでも、もっと隠れやすい場所があるんじゃないのか。
そもそもなんだって俺はこんな、走らなければ殺されるなんて、物騒な錯覚に捕らわれてしまっている―――
「ハァ――――ハァ、ハァ、ハ――――ァ」
限界以上に走りづめだった心臓が軋《きし》む。
振り向けば、追いかけてくる気配はない。
カンカンと響く足音は自分だけの物だ。
「ァ――――ハァ、ハァ、ハァ」
なら、これでようやく止まれる。
もう一歩だって動かない足を止めて、壊れそうな心臓に酸素を送って、はあ、と大きくあごをあげて、助かったのだと実感できた。
「……ハァ……ぁ……なんだったんだ、今の……」
乱れた呼吸を整えながら、先ほどの光景を思い返す。
とにかく、見てはいけないモノだったのは確かな事だ。
夜の校庭で人間に似たモノ同士が争っていた。
思い返せるのはそれだけだ。
ただ、もう一つ視界の隅にあったのは、
「……もう一人、誰かいた気がするけど……」
それがどんな姿をしていたかまでは思い出せない。
正直、あの二人以外に意識をさいている余裕などなかった。
「けど、これでともかく――――」
「追いかけっこは終わり、だろ」
その声は、目の前から、した。
「よぅ。わりと遠くまで走ったな、オマエ」
そいつは、親しげに、そんな言葉を口にした。
「――――」
息ができない。
思考が止まり、何も考えられないというのに。
――――漠然と、これで死ぬのだな、と実感した。
「逃げられないってのは、オマエ自身が誰よりも判ってたんだろ? なに、やられる側ってのは得てしてそういうもんだ。別に恥じ入る事じゃない」
フッ、と。
無造作に槍が持ち上げられ、そのまま。
「運がなかったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」
容赦も情緒もなく、男の槍は、衛宮士郎の心臓を貫いた。
よける間などなかった。
今まで鍛えてきた成果なんて一片も通じなかった。
殺されると。
槍で貫かれると判っていながら、動く事さえできなかった。
「ぁ――――ぁ」
世界が歪む。
体が冷めていく。
指先、末端から感覚が消えていく。
「こ――――ふ」
一度だけ、口から血を吐き出した。
本来ならなお零《こぼ》れるはずの吐血は、ただ一度きりだった。
男の槍は特別製だったのかもしれない。
血液はゆっくりと淀んでいて、壊れて血をまき散らす筈の心臓《ポンプ》は、ただの一刺しで綺麗に活動を停止していた。
「――――――――」
よく見えない。
感覚がない。
暗い夜の海に浮かんでいる海月《クラゲ》のよう。
痛みすらとうに感じない。
世界は白く、自分だけが黒い。
だから自分が死んだというより、
まわりの全てがなくなったような感じ。
知っている。
十年前にも一度味わった。
これが、死んでいく人間の感覚だ。
「死人に口なしってな。弱いヤツがくたばるのは当然と言えば当然だが―――」
意識が視力にいかない。
「―――まったく嫌な仕事をさせてくれる。この様で英雄とは笑いぐさだ」
ただ、声だけが聞こえてくる。
「解っている、文句はないさ。女のサーヴァントは見たんだ。大人しく戻ってやるよ」
苛立ちを含んだ声。
その後に、廊下を駆けてくる足音が。
「―――アーチャーか。ケリをつけておきたいところだが、マスターの方針を破る訳にもいくまい。……まったく、いけすかねえマスターだこと」
唐突に声は消えた。
窓から飛び降りたのだろう。
その後に。
やってきた足音が止まった。
その、奇妙な間。
……また足音。
もう、よく聞き取れ、ない。
「追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと」
……それは誰の声だったか。
かすんでいく意識を総動員して思い出そうとしたが、やはり、何も考えつかなかった。
今はただ、呼吸だけがうるさい。
肺はまだ生きているのか。
ひゅーひゅーと口から漏れる音が、台風みたいに、喧しかった。
「そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」
覗き込まれる気配。
そいつも俺の呼吸がうるさかったのか、この口を閉じようと指を伸ばして――――
「……やめてよね。なんだって、アンタが」
ぎり、と。
悔しげに歯を噛む音が聞こえた途端、そいつは、ためらう事なく、血に濡れた俺に触れてきた。
「……破損した臓器を偽造して代用、その間に心臓一つまるまる修復か……こんなの、成功したら時計塔に一発合格ってレベルじゃない……」
苦しげな声。
それを境に、薄れていくだけの意識がピタリと止まった。
「――――――――」
体に感覚が戻ってくる。
ゆっくりと、少しずつ、葉についた水滴が零《こぼ》れるぐらいゆっくりと、体の機能が戻っていく。
「――――――――」
……ぽたり、ぽたり。
何をしているのか。
寄り添ったそいつは額から汗を流して、一心不乱に、俺の胸に手を当てている。
「――――――――」
気が付けば、手のひらを置かれた箇所が酷く熱い。
きっと、それが死んでいた体を驚かせるぐらい熱かったから、凍っていた血潮が流れだしてくれたのだ。
「――――――――ふぅ」
大きく息を吐いて座り込む気配。
「っかれたぁ……」
カラン、と何かが落ちる音。
「……ま、仕方ないか。ごめんなさい父さん。貴方の娘は、とんでもなく薄情者です」
それが最後。
自嘲ぎみに呟いて、誰かの気配はあっさりと遠ざかっていった。
「――――――――」
心臓が活動を再開する。
そうして、今度こそ意識が途切れた。
……それは死に行く為の眠りではなく。
再び目覚める為に必要な、休息の眠りだった。
◇◇◇
「あ…………つ」
呆然と目が覚めた。
のど元には吐き気。体はところどころがズキズキと痛んで、心臓が鼓動する度に、刺すような頭痛がする。
「何が――――起きた?」
頭痛が激しくて思い出せない。
長いこと廊下で眠っていたせいか、震えがくるほど体は冷え切っている。
唯一確かな事は、胸の部分が破れた制服と、べったりと廊下に染みついた自分の血だけ。
「…………っ」
朦朧とする頭を抱えて立ち上がった。
自分が倒れていた場所は、殺人現場のように酷い有様だ。
「……くそ、ほんとに……」
――――この胸を、貫かれたのか。
「……はぁ……はぁ……ぐ……」
こみ上げてくる物を堪えながら、手近な教室に入る。
おぼつかない足取りのままロッカーを開けて、雑巾とバケツを取り出した。
「……あれ……なにしてんだろ、俺……」
まだ頭がパニックしてる。
とんでもないモノに出会って、いきなり殺されたっていうのに、なんだってこんな時まで、後片づけをしなくちゃいけないなんて思ってるんだ、馬鹿。
「……はぁ……はぁ……くそ、落ちない……」
……雑巾で床を拭く。
手足に力が入らないまま、なんとかこびりついた血を拭き取って、床に落ちていたゴミを拾い集めてポケットに入れた。
……証拠隠滅、というヤツかもしれない。
朦朧とした頭だからこそ、そんなバカな事をしたのだろう。
「……あ……はぁ……はぁ……はぁ……」
雑巾とバケツを片づけて、ゾンビのような足取りで学校を後にした。
……歩く度に体の熱が上がる。
外はこんなにも冷たいのに、自分の体だけ、燃えているようだった。
……家に帰る頃には、とうに日付が変わっていた。
屋敷には誰もいない。
桜はもとより、藤ねえもとっくに帰った後だ。
「……あ……はあ、はあ、は―――あ」
どすん、と床に腰を下ろした。
そのまま床に寝転がって、ようやく気持ちが落ち着いてくれた。
「……………………」
深く息を吸い込む。
大きく胸を膨らますと、罅《ひび》が入るかのように心臓が痛んだ。
……いや、それは逆だ。
実際ひび割れていたどころじゃない。
穴が開いていた心臓が塞がれて、治ったばかりだから、膨張させると傷が開きかけるのだ。
「……殺されかけたのは本当か」
それも違う。
殺されかけたのではなく、殺された。
それがこうして生きているのは、誰かが助けてくれたからだ。
「……誰だったんだ、アレ。礼ぐらい言わせてほしいもんだけど」
あの場に居合わせた、という事はアイツらの関係者かもしれない。
それでも助けてくれた事に変わりはない。いつか、ちゃんと礼を言わなくては。
「あ……ぐ……!」
気を抜いた途端、痛みが戻ってきた。
同時にせり上がってくる嘔吐感。「あ……は、ぐっ……!」
体を起こして、なんとか吐き気を堪える。
「っ……ふ、っ……」
制服の破れた箇所、むき出しになっている胸に手を触れた。
助けられたとはいえ、胸に穴が開いたのだ。 あの感覚。
あんな、包丁みたいな槍の穂先がずっぷりと胸に刺さった不快感は、ちょっとやそっとじゃ忘れられない。「……くそ。しばらく夢に見るぞ、これ」
目を瞑れば、まだ胸に槍が刺さっている気がする。
そんな錯覚を振り払って、ともかく冷静になろうと気を静めた。「……よし。落ち着いてきた」
毎晩の鍛錬の賜物。
深呼吸を数回するだけで思考はクリアになり、体の熱も嘔吐感も下がっていく。
「それで、アレの事だけど」
青い男と赤い男。
見た目は人間だったが、アレは人ではないと思う。
幽霊の類だろうか。
だが実体を持ち、生きている人間に直接干渉できる幽霊なんて聞いたことがない。
しかもアレは喋っていた。自分の意志もあるって事は、ますます幽霊とは思いにくい。
……それに肉を持つ霊は精霊の類だけと聞くが、精霊っていうのは人の形をしていないんじゃなかったっけ……?
「……いや。問題はそんなじゃなくて」
他に、もっと根本的な問題がある筈だ。
……殺し合いをしていた二人。
……近所の家に押し入ったという強盗殺人。
……何かと不吉な事件が続く冬木の町。
「………………」
それだけ考えて、判ったのは自分の手には負えない、という事だけだ。
「……こんな時、親父が生きてれば」
胸の傷があまりに生々しかったからか、口にするべきじゃない弱音を吐いていた。
「―――間抜け。判らなくても、自分に出来る事をやるって決めてるじゃないか」
弱音を吐くのはその後だ。
まずは、そう―――関わるのか関わらないのか、その選択をしなくては―――
「――――!?」
屋敷の天井につけられていた鐘が鳴る。
ここは腐っても魔術師の家だ。
敷地に見知らぬ人間が入ってくれば警鐘が鳴る、ぐらいの結界は張ってある。
「こんな時に泥棒か――――」
呟いて、自らの愚かさに舌を打つ。
そんな筈はない。
このタイミング、あの異常な出来事の後で、そんな筈はない。
侵入者は確かにいる。
それは泥棒なんかじゃなく、物ではなく命を奪りにきた暗殺者だ。
だって、あの男は言っていたじゃないか。
『見られたからには殺すだけだ』、と。
「―――――」
屋敷は静まりかえっている。
物音一つしない闇の中、確かに―――あの校庭で感じた殺気が、少しずつ近づいてくる。
「――――っ」
ごくり、と喉が鳴った。
背中には針のような悪寒。
幻でもなんでもなく、この部屋から出れば、即座に串刺しにされる。
「っ――――」
漏れだしそうな悲鳴を懸命に抑えた。
そんな物をこぼした瞬間、暗殺者は歓喜のていで俺を殺しに飛び込んでくるだろう。
……そうなれば、あとは先ほどの繰り返しだ。
何の準備もできていない自分は、またあの槍に貫かれる。
「――――ぁ――――はぁ、ぁ――――」
そう思った途端、呼吸が無様に乱れ出した。
頭にくる。
恐怖を感じている自分と、助けてもらった命を簡単に放棄しようとしている自分が、情けない。
「っ――――く」
歯をかみ合わせ、貫かれた胸を掻きむしって、つまらない自分を抑えつける。
いい加減、慣れるべきだ。
これで二度目。
殺されようとしているのはこれで二度目。
それだけでもさっきのような無様は見せられないっていうのに、衛宮士郎は魔術師ではないのか。
なら、こんな時に自分さえ守れなくて、この八年何を学んできたという―――!
「……いいぜ。やってやろうじゃないか」
難しい事を悩むのは止めだ。
今はただ、来たヤツを叩き出すだけ。
「……まずは、武器をどうにかしないと」
魔術師といっても、俺に出来る事は武器になりそうな物を“強化”する事だけだ。
戦うには武器がいる。
土蔵なら武器になりそうな物は山ほどあるが、ここから土蔵までは遠い。
このまま居間を出た時に襲われるとしたら、丸腰ではさっきの繰り返しになる。
……難しいが、武器はここで調達しなければならない。
出来れば細長い棒状の物が望ましい。相手の得物は槍だ。ナイフや包丁では話にならない。
木刀なんてものがあれば言うことはないのだが、そんなものは当然ない。
この居間で武器になりそうな物と言えば――――
「うわ……藤ねえが置いていったポスターしかねえ……」
がくり、と肩の力が抜ける。
が、この絶対的にどうしようもない状況に、むしろ腹が据わった。
ここまで最悪の状況なら、これ以下に落ちる事はない。
なら―――後はもう、力尽きるまで前進するだけだ。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ程度のポスターに魔力を通す。
あの槍をどうにかしようというモノに仕上げるのだから、ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては使えないだろう。
「――――構成材質、解明」
意識を細く。
皮膚ごしに、自らの血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。
「――――構成材質、補強」
こん、と底に当たる感触。
ポスターの隅々まで魔力が行き渡り、溢れる直前、
「――――全工程《トレース》、完了《オフ》」
ザン、とポスターと自身の接触を断ち、成功の感触に身震いした。
ポスターの硬度は、今では鉄並になっている。
それでいて軽さは元のままで、急造の剣としては文句なしの出来栄えだ。
「巧く、いった―――」
強化の魔術が成功したのは何年ぶりだろう。
切嗣が亡くなってから一度も形にならなかった魔術が、こんな状況で巧くいくなんて皮肉な話だ。
「ともあれ、これで――――」
なんとかなるかもしれない。
剣を扱う事なら、こっちだってそれなりに心得はある。
両手でポスターを握り締め、居間のただ中に立った。
どのみちここに留まっても殺されるし、屋敷から出たところで逃げきれるとも思えない。
なら、あとは一直線に土蔵に向かって、もっと強い武器を作るだけだ――――
「――――――ふう」
来るなら来やがれ、さっきのようにはいくもんか、と身構えた瞬間。
「―――――――!」
ぞくん、と背筋が総毛立った。
何時の間にやってきていたのか。
天井から現れたソレは、一直線に俺へと落下した。
「な………え――――?」
頭上から滑り落ちてくる銀光。
天井から透けて来たとしか思えないソイツは、脳天から俺を串刺しにせんと降下し―――
「こ――――のぉ……!!」
ただ夢中で、転がるように前へと身を躱した。
たん、という軽い着地音と、ごろごろとだらしなく転がる自分。
それもすぐさま止めて、急造の剣を持ったまま立ち上がる。
「――――」
ソイツは退屈そうな素振りで、ゆらりと俺へと振り返る。
「……余計な手間を。見えていれば痛かろうと、オレなりの配慮だったのだがな」
ソイツは気だるそうに槍を持ちかえる。
「――――」
どういう事情かは知らないが、今のアイツには校庭にいた時ほどの覇気がない。
それなら、本当に―――このまま、なんとか出し抜く事ができる……!
「……まったく、一日に同じ人間を二度殺すハメになるとはな。いつになろうと、人の世は血生臭いという事か」
男はこちらの事など眼中にない、という素振りで悪態をついている。
「――――」
じり、と少しずつ後ろに下がる。
窓まであと三メートルほど。
そこまで走り、庭に出てしまえば後は土蔵まで二十メートルあるかないかだ。
それなら、今すぐにでも――――
「じゃあな。今度こそ迷うなよ、坊主」
ぼんやりと。
ため息をつくように、男は言った。
「っぁ――――!?」
右腕に痛みが走る。
「……?」
それは一瞬の出来事だった。
あまりに無造作に、反応する間もなく男の槍が突き出された。
……本来なら、それで俺は二度目の死を迎えていただろう。
それを阻んだのは、身構えていた急造の剣である。
アイツはただの紙だとでも思ったのだろう。
ポスターなど無いかのように突き出された槍は、その紙の剣に弾かれ、こちらの右腕を掠めるに留まったのだ。
「……ほう。変わった芸風だな、おい」
男の顔から表情が消えた。
先ほどまでの油断は微塵と消え、獣じみた眼光で、こちらの動きを観察している。
「ぁ――――」
しくじった。なんとかなる、なんて度し難い慢心だった。
―――今目の前にいるのは、常識から外れた悪鬼だ。
そいつを前にして少しでも気を緩ませた自分の愚かさを痛感する。
……そう。
本当に死に物狂いだったのなら、頭上からの一撃を奇跡的にやりすごせた後、脇目も振らずに窓へ走っておくべきだったのだ……!
「ただの坊主かと思ったが、なるほど……微弱だが魔力を感じる。心臓を穿たれて生きている、ってのはそういう事か」
槍の穂先がこちらに向けられる。
「――――――――」
防げない。
あんな、閃光めいた一撃は防げない。
この男の得物がせめて剣なら、どんなに早くても身構える程度はできただろう。
だがアレは槍だ。
軌跡が線である剣と、点である槍。
初動さえ見切れない点の一撃を、どう防げというのか。
「いいぜ―――少しは楽しめそうじゃないか」
男の体が沈み込む。
刹那――――
正面からではなく、横殴りに槍が振るわれた。
顔の側面へと振るわれた槍を、条件反射だけで受け止める。
「ぐっ――――!?」
「いい子だ、ほら次行くぞ……!」
ブン、という旋風。
この狭い室内でどんな扱いをしているのか、槍は壁につかえる事もなく美しい弧を描き、
「っ……!!!!!」
今度は逆側から、フルスイングでこちらの胴を払いに来る……!
「がっ――――!!!??」
止めに入った急造の剣が折れ曲がる。
化け物―――アイツが持ってんのはハンマーか!
くそ、構えていた両腕の骨がひしゃげたんじゃないのかこの痺れ―――!
「ぐ、この――――!」
「ふん?」
反射的に剣を振るう。
こちらを舐めているのだろう、未だ戻しに入っていない槍の柄《え》を剣で弾きあげる―――!
「ぐっ……!」
叩きにいった両腕が痺れる。
急造の剣はますます折れ曲がり、男の槍はわずかだけ軌道を逸らした。
「……使えねえな。機会をくれてやったのに無駄な真似しやがって。まあ、魔術師に斬り合いを望んでも仕方ねえんだろうが―――」
男の今の行動はただの遊びだ。
二つ受けたらご褒美に打ち込んでこさせてやる、という余裕。
……その唯一にして絶対の機会を、俺はその場しのぎに使ってしまった。
故に―――この男は、俺に斬り合うだけの価値を見いださない。
「―――拍子抜けだ。やはりすぐに死ねよ、坊主」
男は打ち上げられた槍を構え直す。
「勝手に――――」
その、あるかないかの余分な動作《スキ》に。
「言ってろ間抜け――――!」
後ろも見ず、背中から窓へと飛び退いた……!
「はっ、はぁ、は――――」
背中で窓をブチ割って庭へと転がり出る。
そのまま、数回転がった後、立ち上がりざま――――「は、あ――――!」
何の確証もなく、
体ごとひねって背後へと一撃する―――!
「ぬ――――!」
突きだした槍を弾かれ、わずかに躊躇する男。
―――予想通りだ。
窓から飛び出せば、アイツは必ず追撃してくる。
それもこっちが起きあがる前に追いついて、確実に殺しにかかる。
だからこそ―――必殺の一撃がくると信じて、満身の力で剣を横に払った。
少しでも遅ければ即死、早くても空振りした隙に殺されかねない無謀な策だが、ヤツとの実力差を見てこちらが早すぎる、なんて事はない。
だからこっちがする事は、全身全霊の力で一刻も早く起き上がり、背後へと一撃する事だけだったのだ。
結果はドンピシャ、賭けそのものだった一撃は見事に男の槍をはじき返した……!
「は、っ……!」
即座に態勢を立て直す。
あとは男が怯んでいる隙に、なんとか土蔵まで走り抜ければ―――!
「――――飛べ」
「え……?」
槍を弾かれた筈の男は、槍など持たず、空手のまま俺へと肉薄し、
くるりと背中を向けて、回し蹴りを放ってきた。
「――――――――」
景色が流れていく。
蹴り上げられた胸が痺れ、呼吸ができない。
いや、それより驚くべき事は、自分が空を飛んでいるという事だ。
ただの回し蹴りで、自分の体がボールみたいに蹴り飛ばされるなんて、夢にも思――――
「ぐっ――――!」
背中から地面に落ちた。
壁にぶつかり、背中が折れる程の衝撃を受けて、ずるりと地面に落ちたのだ。
「ごほ――――っ、あ…………!」
息ができない。
視界が霞む。
壁―――目的地だった土蔵の壁に手をついて、なんとか体を奮い立たせる。
「は――――はあ、は」
霞む視界で男を追った。
……本当に、二十メートル近く蹴り飛ばされたのか。
男は槍を持ち直して、一直線に突進してくる。
「ぐ――――!」
殺される。
間違いなく殺される。
男はすぐさまやってくるだろう。
それまで―――死にたくないのなら、立ち上がって、迎え撃た、なけれ、ば――――
「――――」
迸《ほとばし》る槍の穂先。
男に振り返る事もできず、崩れ落ちそうだった体が槍を迎える。
「チィ、男だったらシャンと立ってろ……!」
なんて悪運。
体を支えきれず、膝を折ったのが幸いした。
槍は俺の頭上、土蔵の扉を強打し、重い扉を弾き開けた。
「あ――――」
だから、それが最後のチャンス。
土蔵の中に入れば、何か―――武器になるようなもの、が。
「ぐっ――――!」
四つん這いになって土蔵へ滑り込む。
そこへ――――
「そら、これで終いだ―――!」
避けようのない、必殺の槍が放たれた。
「こ――――のぉぉおおおおお!」
それを防いだ。
棒状だったポスターを広げ、一度きりの盾にする。
「ぬ……!?」
ゴン、という衝撃。
広げきったポスターでは強度もままならなかったのか。
槍こそ防いだが、ポスターは貫通され、途端に元の紙へと戻っていく。
「あ、ぐっ……!」
突き出された槍の衝撃に吹き飛ばされ、壁まで弾き飛ばされる。
「ぁ――――、づ――――」
床に尻餅をついて、止まりそうな心臓に喝を入れる。
そうして、武器になりそうな物を掴もうと顔を上げた時。
「詰めだ。今のはわりと驚かされたぜ、坊主」
目前には、槍を突きだした男の姿があった。
「―――――――――――」
もはや、この先などない。
男の槍はぴったりと心臓に向けられている。
それは知ってる。
つい数時間前に味わった痛み、容赦なく押しつけられた死の匂いだ。
「……しかし、分からねえな。機転は利くくせに魔術はからっきしときた。筋はいいようだが、まだ若すぎたか」
……男の声は聞こえない。
意識はただ、目の前の凶器に収束してしまっている。
当然だ。
だって、アレが突き出されれば自分は死ぬ。
だから他の事など余計なこと。事此処《ことここ》にいたり、今更他の何が考えられる。
「もしやとは思うが、おまえが七人目だったのかもな。
ま、だとしてもこれで終わりなんだが」
男の腕が動いた。
今まで一度も見えなかったその動きが、今はスローモーションのように見える。
走る銀光。
俺の心臓に吸い込まれるように進む穂先。
一秒後には血が出るだろう。
それを知っている。
体に埋まる鉄の感触も、
喉にせり上がってくる血の味も、
世界が消えていく感覚も、
つい先ほど味わった。
……それをもう一度? 本当に?
理解できない。なんでそんな目に遭わなくてはいけないのか。
……ふざけてる。
そんなのは認められない。こんな所で意味もなく死ぬ訳にはいかない。
助けて貰ったのだ。なら、助けてもらったからには簡単には死ねない。
俺は生きて義務を果さなければいけないのに、死んでは義務が果たせない。
それでも、槍が胸に刺さる。
穂先は肉を裂き、そのまま肋《あばら》を破り心臓を穿つだろう。
「――――」
頭に来た。
そんな簡単に人を殺すなんてふざけてる。
そんな簡単に俺が死ぬなんてふざけてる。
一日に二度も殺されるなんて、そんなバカな話もふざけてる。
ああもう、本当に何もかもふざけていて、大人しく怯えてさえいられず、
「ふざけるな、俺は――――」
こんなところで意味もなく、
おまえみたいなヤツに、
殺されてやるものか――――!!!!!!
「え―――――?」
それは、本当に。
「なに………!?」
魔法のように、現れた。
目映い光の中、それは、俺の背後から現れた。
思考が停止している。
現れたそれが、少女の姿をしている事しか判らない。
ぎいいいん、という音。
それは現れるなり、俺の胸を貫こうとした槍を打ち弾き、躊躇う事なく男へと踏み込んだ。
「―――本気か、七人目のサーヴァントだと……!?」
弾かれた槍を構える男と、手にした“何か”を一閃する少女。
二度火花が散った。
剛剣一閃。
現れた少女の一撃を受けて、たたらをふむ槍の男。
「く――――!」
不利と悟ったのか、男は獣のような俊敏さで土蔵の外へ飛び出し―――
退避する男を体で威嚇しながら、それは静かに、こちらへ振り返った。
風の強い日だ。
雲が流れ、わずかな時間だけ月が出ていた。
土蔵に差し込む銀色の月光が、騎士の姿をした少女を照らしあげる。
「――――」
声が出ない。
突然の出来事に混乱していた訳でもない。
ただ、目前の少女の姿があまりにも綺麗すぎて、言葉を失った。
「――――――――」
少女は宝石のような瞳で、何の感情もなく俺を見据えた後。
「―――問おう。貴方が、私のマスターか」
凛とした声で、そう言った。
「え……マス……ター……?」
問われた言葉を口にするだけ。
彼女が何を言っているのか、何者なのかも判らない。
今の自分に判る事と言えば―――この小さな、華奢な体をした少女も、外の男と同じ存在という事だけ。
「……………………」
少女は何も言わず、静かに俺を見つめてくる。
―――その姿を、なんと言えばいいのか。
この状況、外ではあの男が隙あらば襲いかかってくる状況を忘れてしまうほど、目の前の相手は特別だった。
自分だけ時間が止まったかのよう。
先ほどまで体を占めていた死の恐怖はどこぞに消え、今はただ、目前の少女だけが視界にある―――
「サーヴァント・セイバー、召喚に従い参上した。
マスター、指示を」
二度目の声。
その、マスターという言葉と、セイバーという響きを耳にした瞬間、
「――――っ」
左手に痛みが走った。
熱い、焼きごてを押されたような、そんな痛み。
思わず左手の甲を押さえつける。
それが合図だったのか、少女は静かに、可憐な顔を頷かせた。
「―――これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。
――――ここに、契約は完了した」
「な、契約って、なんの――――!?」
俺だって魔術師の端くれだ。その言葉がどんな物かは理解できる。
だが少女は俺の問いになど答えず、頷いた時と同じ優雅さで顔を背けた。
――――向いた先は外への扉。
その奥には、未だ槍を構えた男の姿がある。
◇◇◇
「――――」
まさか、と思うより早かった。
騎士風の少女は、ためらう事なく土蔵の外へと身を躍らせる。
「!」
体の痛みも忘れ、立ち上がって少女の後を追った。
あの娘があの男に敵う筈がない。
いくらあんな物騒な格好をしていようと、少女は俺より小さな女の子なんだ。
「やめ――――!」
ろ、と叫ぼうとした声は、その音で封じられた。
「な――――」
我が目を疑う。
今度こそ、何も考えられないぐらい頭の中が空っぽになる。
「なんだ、あいつ――――」
響く剣戟《けんげき》。
月は雲に隠れ、庭はもとの闇に戻っている。
その中で火花を散らす鋼と鋼。
土蔵から飛び出した少女に、槍の男は無言で襲いかかった。
少女は槍を一撃で払いのけ、更に繰り出される槍を弾き返し、その度《つど》、男は後退を余儀なくされる。
「――――」
信じ、られない セイバーと名乗った少女は、間違いなくあの男を圧倒していた。
―――戦いが、始まった。
先ほどの俺と男のやりとりは戦闘ではない。
戦闘とは、互いを仕留める事ができる能力者同士の争いである。
それがどのような戦力差であろうとも、相手を打倒しうる術があるのなら、それは戦闘と呼べるだろう。
そういった意味でも、二人の争いは戦闘だった。
俺では視認する事さえ出来なかった男の槍は、さらに勢いを増して少女へと繰り出される。
それを、
手にした“何か”で確実に弾き逸らし、間髪いれずに間合いへと踏み込む少女。
「チィ――――!」
憎々しげに舌打ちをこぼし、男は僅かに後退する。
手にした槍を縦に構え、狙われたであろう脇腹を防ぎに入る――――!
「ぐっ……!」
一瞬、男の槍に光が灯った。
爆薬を叩き付けるような一撃は、真実その通りなのだろう。
少女が振るう“何か”を受けた瞬間、男の槍は感電したかのように光を帯びる。
それがなんであるか、男はおろか俺にだって見て取れた。
アレは、視覚できる程の魔力の猛りだ。
少女の何気ない一撃一撃には、とんでもない程の魔力が籠もっている。
そのあまりにも強い魔力が、触れ合っただけで相手の武具に浸透しているのだ。
あんなもの、受けるだけでも相当な衝撃だろう。
男の槍が正確無比な狙撃銃だとしたら、少女の一撃は火力に物を言わせた散弾銃だ。
少女の一撃が振るわれる度に、庭は閃光に包まれる。
だが。
男が圧倒されているのは、そんな二次的な事ではない。
「卑怯者め、自らの武器を隠すとは何事か……!」
少女の猛攻を捌きながら、男は呪いじみた悪態をつく。
「――――――――」
少女は答えず、更に手にした“何か”を打ち込む……!
「テメェ……!」
男は反撃もままならず後退する。
それも当然だろう。
なにしろ少女が持つ武器は視《み》えないのだ。
相手の間合いが判らない以上、無闇に攻め込むのは迂闊すぎる。
そう、見えない。
少女は確かに“何か”を持っている。
だがそれがどのような形状なのか、どれほどの長さなのか判明しないのでは、一切が不可視のままだ。
もとから透明なのか、少女の振るう武器は火花を散らせようと形が浮かび上がらない。
「チ――――」
よほど戦いづらいのか、男には先ほどまでの切れがない。
「――――」
それに、初めて少女は声を漏らした。
手にした“何か”を振るう腕が激しさを増す。
絶え間ない、豪雨じみた剣の舞。
飛び散る火花は鍛冶場の錬鉄を思わせる。
―――それを舌打ちしながら防ぎきる槍の男。
正直、殺されかけた相手だとしても感嘆せずにはいられない。
槍の男は見えない武器を相手に、少女の腕の動きと足運びだけを頼りに確実に防いでいく―――!
「ふ――――っ!」
だがそれもそこまで。
守りに回った相手は、斬り伏せるのではなく叩き伏せるのみ。そう言わんばかりに少女はより深く男へと踏み込み、
叩き降ろすように、渾身の一撃を食らわせる……!!
「調子に乗るな、たわけ――――!」
ここが勝機と読んだか、男は消えた。
否、消えるように後ろに跳んだ。
ゴウン、と空を切って地面を砕き、土塊を巻き上げる少女の一撃。
槍の男を追い詰め、トドメとばかりに振るわれた一撃はあっけなく躱《かわ》された――――!
「バカ、なにやってんだアイツ……!」
遠くから見ても判る。
今までのような無駄のない一撃ならいざ知らず、勝負を決めにかかった大振りでは男を捉える事はできない。
男とて、何度も少女の猛攻を受けて体が軋んでいただろう。
それを圧して、この一瞬の為に両足に鞭をうって跳んだのだ。
今の一撃こそ、勝敗を決する隙と読み取って――――!
「ハ――――!」
数メートルも跳び退いた男は、着地と同時に弾けた。
三角飛びとでもいうのか、自らの跳躍を巻き戻すように少女へと跳びかかる。
対して―――少女は、地面に剣を打ち付けてしまったまま。
「――――!」
その隙は、もはや取り返しがつかない。
一秒とかからず舞い戻ってくる赤い槍と、
ぐるん、と。
地面に剣を下ろしたまま、コマのように体を反転させる少女。
「!」
故に、その攻防は一秒以内だ。
己の失態に気が付き踏みとどまろうとする男と、
一秒もかけず、体ごとなぎ払う少女の一撃――――!
「ぐっ――――!!」
「――――――――」
弾き飛ばされた男と、弾き飛ばした少女は互いに不満の色を表した。
それも当然。
お互いがお互いを仕留めようと放った必殺の手だ。
たとえ窮地を凌《しの》いだとしても、そんな物には一片の価値もあるまい。
間合いは大きく離れた。
今の攻防は互いに負担が大きかったのか、両者は静かに睨み合っている。
「―――どうしたランサー。
止まっていては槍兵の名が泣こう。そちらが来ないのなら、私が行くが」
「……は、わざわざ死にに来るか。それは構わんが、その前に一つだけ訊かせろ。
貴様の宝具――――それは剣か?」
ぎらり、と。
相手の心を射抜く視線を向ける。
「―――さあどうかな。
戦斧かも知れぬし、槍剣かも知れぬ。いや、もしや弓という事もあるかも知れんぞ、ランサー?」「く、ぬかせ剣使《セイバー》い」
それが本当におかしかったのか。
男……ランサーと呼ばれた男は槍を僅かに下げた。
それは戦闘を止める意思表示のようでもある。「?」
少女はランサーの態度に戸惑っている。
だが―――俺は、あの構えを知っている。
数時間前、夜の校庭で行われた戦い。
その最後を飾る筈だった、必殺の一撃を。
「……ついでにもう一つ訊くがな。お互い初見だしよ、ここらで分けって気はないか?」
「――――――――」
「悪い話じゃないだろう? そら、あそこで惚けているオマエのマスターは使い物にならんし、オレのマスターとて姿をさらせねえ大腑抜けときた。
ここはお互い、万全の状態になるまで勝負を持ち越した方が好ましいんだが――――」
「―――断る。貴方はここで倒れろ、ランサー」
「そうかよ。ったく、こっちは元々様子見が目的だったんだぜ? サーヴァントが出たとあっちゃ長居する気は無かったんだが――――」
ぐらり、と。
二人の周囲が、歪んで見えた。
ランサーの姿勢が低くなる。
同時に巻き起こる冷気。
―――あの時と同じだ。あの槍を中心に、魔力が渦となって鳴動している――――
「宝具――――!」
少女は剣らしき物を構え、目前の敵を見据える。
俺が口を出すまでもない。
敵がどれほど危険なのかなど、対峙している彼女がより感じ取っている。
「……じゃあな。その心臓、貰い受ける――――!」
獣が地を蹴る。
まるでコマ送り、ランサーはそれこそ瞬間移動のように少女の目前に現れ、
その槍を、彼女の足下めがけて繰り出した。
「――――」
それは、俺から見てもあまりに下策だった。
あからさまに下段に下げた槍で、さらに足下を狙うなど少女に通じる筈がない。
事実、彼女はそれを飛び越えながらランサーを斬り伏せようと前に踏み出す。
その、瞬間。
「“――――刺し穿《ゲイ》つ”」
それ自体が強力な魔力を帯びる言葉と共に、
「“――――死棘《ボルク》の槍――――!”」
下段に放たれた槍は、少女の心臓に迸っていた。
「――――!?」
浮く体。
少女は槍によって弾き飛ばされ、大きく放物線を描いて地面へと落下――――いや、着地した。
「は―――っ、く……!」
……血が流れている。
今まで掠り傷一つ負わなかった少女は、その胸を貫かれ、夥《おびただ》しいまでの血を流していた。
「呪詛……いや、今のは因果の逆転か――――!」
苦しげに声を漏らす。
……驚きはこちらも同じだ。
いや、遠くから見ていた分、彼女以上に今の一撃が奇怪な物だったと判る。
槍は、確かに少女の足下を狙っていた。
それが突如軌道を変え、あり得ない形、あり得ない方向に伸び、少女の心臓を貫いた。
だが槍自体は伸びてもいないし方向を変えてもいない。
その有様は、まるで初めから少女の胸に槍が突き刺さっていたと錯覚するほど、あまりにも自然で、それ故に奇怪だった。
軌跡を変えて心臓を貫く、などと生易しい物ではない。
槍は軌跡を変えたのではなく、そうなるように過程《じじつ》を変えたのだ。
……あの名称《ことば》と共に放たれた槍は、大前提として既に“心臓を貫いている”という“結果”を持ってしまう。
つまり、過程と結果が逆という事。
心臓を貫いている、という結果がある以上、槍の軌跡は事実を立証する為の後付でしかない。
あらゆる防御を突破する魔の棘。
狙われた時点で運命を決定付ける、使えば『必ず心臓を貫く』槍。
そんな出鱈目な一撃、誰に防ぐ事が出来よう。
敵がどのような回避行動をとろうと、槍は必ず心臓に到達する。
―――故に必殺。
解き放たれれば、確実に敵を貫く呪いの槍―――
が。
それを、少女は紙一重で躱《かわ》していた。
貫かれはしたものの、致命傷は避けている。
ある意味、槍の一撃より少女の行動は不可思議だった。
彼女は槍が放たれた瞬間、まるでこうなる事を知ったかのように体を反転させ、全力で後退したのだ。
よほどの幸運か、槍の呪いを緩和するだけの加護があったのか。
とにかく少女は致命傷を避け、必殺の名を地に落としたのだが――――
「は――――ぁ、は――――」
少女は乱れた呼吸を整えている。
あれだけ流れていた血は止まって、穿たれた傷口さえ塞がっていく―――
「――――」
桁違いとはああいうモノか。
彼女が普通じゃないのは判っていたが、それにしても並外れている。
ランサーと斬り合う技量といい、一撃ごとに叩きつけられる膨大な魔力量といい、こうしてひとりでに傷を治してしまう体といい、少女は明らかにランサーを上回っている。
……しかし、それも先ほどまでの話。
再生中といえど、少女の傷は深い。
ここでランサーに攻め込まれれば、それこそ防ぐ事も出来ず倒されるだろう。
だが。
圧倒的に有利な状況にあって、ランサーは動かなかった。
ぎり、と。
ここまで聞こえるほどの歯ぎしりを立てて少女を睨む。
「―――躱したなセイバー。我が必殺の一撃《ゲイ・ボルク》を」
地の底から響く声。
「っ……!? ゲイ・ボルク……御身はアイルランドの光の御子か――!」
ランサーの顔が曇る。
先ほどまでの敵意は薄れ、ランサーは忌々しげに舌打ちをした。
「……ドジったぜ。こいつを出すからには必殺でなけりゃヤバイってのにな。まったく、有名すぎるのも考え物だ」
重圧が薄れていく。
ランサーは傷ついた少女に追い打ちをかける事もせず、あっさりと背中を見せ、庭の隅へ移動した。
「己の正体を知られた以上、どちらかが消えるまでやりあうのがサーヴァントのセオリーだが……あいにくうちの雇い主は臆病者でな。槍が躱《かわ》されたのなら帰ってこい、なんてぬかしてやがる」
「――逃げるのか、ランサー」
「ああ。追って来るのなら構わんぞセイバー。
ただし―――その時は、決死の覚悟を抱いて来い」
トン、という跳躍。
どこまで身が軽いのか、ランサーは苦もなく塀を飛び越え、止める間もなく消え去った。
「待て、ランサー……!」
胸に傷を負った少女は、逃げた敵を追おうとして走り出す。
「バ、バカかアイツ……!」
全力で庭を横断する。
急いで止めなければ少女は飛び出していってしまいそうだったからだ。
……が、その必要はなかった。
塀を飛び越えようとした少女は、跳ぼうと腰を落とした途端、苦しげに胸を押さえて立ち止まった。
「く――――」
傍らまで走り寄って、その姿を観察する。
いや、声をかけようと近寄ったのだが、そんな事は彼女に近づいた途端に忘れた。
「――――――――」
……とにかく、何もかもが嘘みたいなヤツだった。
銀の光沢を放つ防具は、間近で見ると紛れもなく重い鎧なのだと判る。
時代がかった服も見たことがないぐらい滑らかで鮮やかな青色。
……いや、そんな事で見とれているんじゃない。
俺より何歳か年下のような少女は、その―――とんでもない美人だった。
月光に照らされた金の髪は、砂金をこぼしたようにきめ細かく。
まだあどけなさを残した顔は気品があり、白い肌は目に見えて柔らかそうだった。
「――――――――」
声をかけられないのは、そんな相手の美しさに息を呑んでいるのともう一つ。
「――――なんで」
この少女が戦って傷を負っているのかが、ひどく癇に触ったからだ。
どんなに強くて鎧で身を守っていようと、女の子が戦わなくちゃいけないなんていうのは、なにか間違っていると思う。
俺がぼんやりと少女に見とれていた間、少女はただ黙って胸に手を当てていた。
それもすぐに終わった。
痛みが引いたのか、少女は胸から手を離して顔を上げる。
まっすぐにこちらを見据える瞳。
それになんて答えるべきか、と戸惑って、彼女の姿に気が付いた。
「……傷が、なくなってる……?」
心臓を外したとはいえ、あの槍で胸を貫かれたというのに、まったく外傷がない。
……治療の魔術がある、とは聞いているけど、魔術が行われた気配はなかった。
つまりコイツは、傷を受けようが勝手に治るという事か――――
「――――っ」
それで頭が切り替わった。
見とれている場合じゃない、コイツは何かとんでもないヤツだ。正体が判らないまま気を許していい相手じゃない。
「―――おまえ、何者だ」
半歩だけ後ろに下がって問う。
「? 何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。
……貴方が私を呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう」
静かな声で、眉一つ動かさず少女は言った。
「セイバーのサーヴァント……?」
「はい。ですから私の事はセイバーと」
さらりと言う。
その口調は慇懃《いんぎん》なくせに穏やかで、なんていうか、耳にするだけで頭ん中が白く―――
「――――っ」
……って、なにを動揺してんだ俺は……!
「そ、そうか。ヘンな名前だな」
熱くなっている頬を手で隠して、なにかとんでもなくバカな返答をした。けどそれ以外なんて言えばいいのか。
そんなの俺に判る筈もないし、そもそも俺が何者かって訊いたんだから名前を言うのは普通だよな―――ってならいつまでも黙ったままなのは失礼なのではないかとか。
「……俺は士郎。衛宮士郎っていって、この家の人間だ」
―――どうかしてる。
なんか、さらに間抜けな返答をしてないか俺。
いやでも、名前を言われたんだからともかく名乗り返さないといけない。
我ながら混乱しているのは分かっているが、どんな相手にだって筋は通さないとダメなのだ。
「――――――――」
少女……セイバーは変わらず、やっぱり眉一つ動かさないで、混乱している俺を見つめている。
「いや、違う。今のはナシだ、訊きたいのはそういう事でなくて、つまりだな」
「解っています。貴方は正規のマスターではないのですね」
「え……?」
「しかし、それでも貴方は私のマスターです。契約を交わした以上、貴方を裏切りはしない。そのように警戒する必要はありません」
「う……?」
やばい。
彼女が何を言っているのか聞き取れているクセにちんぷんかんぷんだ。
判っているのは、彼女が俺の事を主人《マスター》なんて、とんでもない言葉で呼んでいる事ぐらい。
「それは違う。俺、マスターなんて名前じゃないぞ」
「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」
「っ…………!」
彼女にシロウと口にされた途端、顔から火が出るかと思った。
だって初対面の相手なら名前じゃなくて名字で呼ばないかフツー……!?
「ちょっと待て、なんだってそっちの方を――――」
「痛っ……!」
突然、左手に痺れが走った。
「あ、熱っ……!」
手の甲が熱い。
まるで発火しているかのような熱さをもった左手には、 入れ墨のような、おかしな紋様が刻まれていた。
「な――――」
「それは令呪と呼ばれるものですシロウ。
私たちサーヴァントを律する三つの命令権であり、マスターとしての命でもある。無闇な使用は避けるように」
「お、おまえ――――」
一体なんだ、と今度こそ問いつめようとした矢先、彼女の雰囲気が一変した。
「―――シロウ、傷の治療を」
冷たい声で言う。
その意識は俺にではなく、遠く―――塀の向こうに向けられているようだった。
けど治療って、俺にしろっていうのか……?
「待て、まさか俺に言ってるのか? 悪いけどそんな難しい魔術は知らないし、それにもう治ってるじゃないか、それ」
セイバーは僅かに眉を寄せる。
……なんか、とんでもない間違いを口にした気がする。
「……ではこのままで臨みます。自動修復は外面を覆っただけですが、あと一度の戦闘ならば支障はないでしょう」
「……? あと一度って、何を」
「外の敵は二人。この程度の重圧なら、数秒で倒しうる相手です」
言って、セイバーは軽やかに跳躍した。
ランサーと同じ、塀を飛び越えて外に出る。
あとに残ったのは、庭に取り残された俺だけだった。
「……外に、敵?」
口にした途端、それがどんな事なのか理解した。
「ちょっと待て、まだ戦うっていうのかおまえ……!」
体が動く。
後先考えず、全力で門へと走り出した。
「はっ、はっ、は――――!」
門まで走って、慌てる指で閂を外して飛び出る。
「セイバー、何処だ……!?」
闇夜に目を凝らす。
こんな時に限って月は隠れ、あたりは闇に閉ざされている。
だが――――
すぐ近くで物音がした。
「そこか……!」
人気のない小道に走り寄る。
―――それは、一瞬の出来事だった。
見覚えのある赤い男とセイバーが対峙している。
セイバーはためらう事なく赤い男へと突進し、一撃で相手の態勢を崩して―――
たやすく赤い男を斬り伏せた。
トドメとばかりに腕を振り上げるセイバー。
が、赤い男は首を刎ねられる前、強力な魔術の発動と共に消失した。
セイバーは止まらない。
そのまま、男の奥にいた相手へと疾走し、
そして―――敵が放った大魔術を、事もなげに消滅させた。
「な――――」
強いとは知っていたが、圧倒的すぎる。
今の魔術は、俺なんかじゃ足下にも及ばないほどの干渉魔術だ。
威力だけなら切嗣《オヤジ》だって負けてはいないが、あれだけの自然干渉をノータイムで行うなど、一流の魔術師でも可能かどうか。
だが、そんな達人クラスの魔術でさえ、セイバーはあっけなく無効化させた。
敵は魔術師なのか、それで勝負はついた。
魔術師の攻撃はセイバーには通用せず、セイバーは容赦なく魔術師に襲いかかる。
どん、と尻餅をつく音。
奇跡的にセイバーの一撃を躱したものの、敵はそれで動けなくなった。
セイバーは敵を追いつめ、その視えない剣を突きつける。
「――――」
意識が凍る。
一瞬、月が出てくれたからだろう。
セイバーが追いつめている相手が人間なのだと見てとれた。
それが誰であるかまでは判らないが、人を殺して返り血を浴びているセイバーの姿だけが、咄嗟《とっさ》に脳裏に描かれた。
「――――」
セイバーの体が動く。
その手にした“何か”で、相手の喉を貫こうと―――
「止めろセイバーーーーーーーー!!!!!!」
精一杯、力の限り叫んだ。
ピタリと止まる剣。
……視えないという事は、精神的に良かったのかもしれない。
彼女の視えない剣の切っ先は、未だ相手の血で濡れてはいなかった。
「……止めろ。頼むから止めてくれ、セイバー」
セイバーを睨みつけながら言った。
彼女を止めるのなら全力で挑まなければ止められまい、と覚悟して。
「何故止めるのですシロウ。彼女はアーチャーのマスターです。ここで仕留めておかなければ」
違う、セイバーはやっぱり止める気なんてない。
俺が言っているから止めているだけで、すぐにでも剣を振るおうとしている……!
「だ、だから待てって言ってるだろう! 俺のことをマスターだとかなんとか言ってるけど、こっちはてんで解らないんだ。俺の事をマスターなんて呼ぶんなら、少しは説明するのが筋ってもんだろう……!」
「………」
セイバーは答えない。
静かに俺を見据えて佇むだけだ。
「順番が違うだろ、セイバー。俺はまだおまえがなんなのか知らない。けど話してくれるなら聞くから、そんな事は止めてくれ」
「…………」
セイバーは黙っている。
倒れ込んだ相手に剣を突きつけたまま、納得いかなげに俺を見据える。
「そんな事、とはどのような事か。
貴方は無闇に人を傷つけるな、などという理想論をあげるのですか」
「え……?」
無闇に人を傷つけるなって……?
いや、そりゃあ出来るかぎり争いは避けるべきだけど、襲ってきた相手に情を移すほどお人好しじゃないぞ、俺。
「つまり貴方は、敵であれ命を絶つなと言いたいのでしょう? そのような言葉には従いません。敵は倒すものです。それでも止めろと言うのであれば、令呪を以って私を律しなさい」
「? いや、そんな事っていうのはおまえの事だ。女の子が剣なんて振り回すもんじゃない。怪我をしてるなら尚更だろ。
……って、そっか、ホントに剣を持ってるかどうかは判らないんだっけ―――ああいや、とにかく女の子なんだから、そういうのはダメだっ!」
「――――――――」
途端。毒気を抜かれたように、ぽかんとセイバーは口を開けた。
そんな状態のまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。
「………で? 何時になったら剣を下げてくれるのかしらね、セイバーさんは」
不意に、尻餅をついていた誰かが言った。
「――――!」
とっさに元に戻って、剣に力を込めるセイバー。
「諦めなさい。敵を前にして下げる剣は有りません」
「貴女のマスターは下げろって言っているのに?
へえ、セイバーともあろうサーヴァントが主に逆らうっていうんだ」
「――――――――」
ぎり、と歯を噛んだ後。
セイバーは剣を下げ、手の平から力を抜いた。
それで剣は仕舞われたのか、セイバーから殺気が消える。
「そ。なら立ってもいいのよね、わたし」
尻餅をついていた誰かが立ち上がる。
ぱんぱん、とお尻を叩いているあたり、なんていうかふてぶてしい。
……って、ちょっと、待て。
あーあ、とばかりにふてくされているのは、その、間違いなく、ええぇーーーーー!?
「お、おまえ遠坂……!?」
「ええ。こんばんは、衛宮くん」
にっこり、と極上の笑みで返してくる遠坂凛。
「あ――――う?」
それは、参った。
そんな何げなく挨拶をされたら、今までの異常な出来事が嘘みたいな気がして、ああいや、だからその、すでに頭がパンクしそうというか、いっそパンクしたらどんなに楽か――――!
「ああ、いや、だから、ええっとつまり、さっきの魔術は遠坂が使ったって事だから、つまり――――」
「魔術師って事でしょ? ま、お互い似たようなもんだし隠す必要もないわよね」
「ぐ――――」
だから、そうもはっきり言われると訊いてるこっちが間抜けみたいじゃないか―――
「いいから話は中でしましょ。どうせ何も解ってないんでしょ、衛宮くんは」
さらりと言って、遠坂はずんずん門へと歩いていく。
「え―――待て遠坂、なに考えてんだおまえ……!」
と―――
振り向いた遠坂の顔は、さっきまでの笑顔とは別物だった。
「バカね、いろいろ考えてるわよ。だから話をしようって言ってるんじゃない。
衛宮くん、突然の事態に驚くのもいいけど、素直に認めないと命取りって時もあるのよ。ちなみに今がその時だとわかって?」
じろり、と敵意を込めて睨まれる。
「――――っ」
「分かればよろしい。それじゃ行こっか、衛宮くんのおうちにね」
遠坂は衛宮の門をくぐっていく。
「……なんかすげえ怒ってるぞ、あいつ……」
いや、考えてみれば当然だ。
なにしろついさっきまで剣を突きつけられ、命を奪われるところだったんだから。
「いや、それにしたって」
なんか、学校の遠坂とはイメージが百八十度違うのは気のせいなんだろうか……。
で、なんでか不思議な状況になってしまった。
目の前にはずんずんと歩いていく学校のアイドル、一応憧れていたりした遠坂凛がいて、
背後には無言で付いてくる金髪の少女、自らをサーヴァントと名乗るセイバーがいる。
「………………」
あ。
なんか、廊下が異次元空間のような気がしてきた。
が、いつまでも腑抜けのままではいられない。
俺だって半人前と言えど魔術師だ。
同じく魔術師であるらしい遠坂がここまで堂々としているのだから、俺だってしっかりしなければ馬鹿にされる。
……と言っても、俺に考えつくのは僅かな事だ。
まず、後ろに付いてきているセイバー。
彼女が俺をマスターと呼び、契約したというからには使い魔の類であるのは間違いない。
使い魔とは、魔術師を助けるお手伝い的なモノだと聞く。
たいていは魔術師の体の一部を他者に移植し、分身として使役されるモノを言うのだとか。
このおり、分身とする他者は小動物が基本とされる。
単純に、猫や犬ならば意識を支配するのが容易い為だ。
中には人間を使い魔とする魔術師もいるが、その為には人間一人を絶えず束縛するだけの魔力を持たなければならない。
が、人間一人を支配する魔力なんて常時使っていたら、その魔術師は魔力の大半を使い魔の維持に費やす事になる。
それでは本末転倒である。
使い魔とは魔術師の助けとなるモノ。
できるだけ魔術師に負担をかけないよう、使役するのにあまり力を使わない小動物が適任とされる。
……確かにそう教わりはしたけど、しかし。
「? 何かあるのですか、シロウ」
「……ああいや、なんでもない」
……セイバーはどう見ても人間だ。しかも明らかに主である俺より優れている。
そんな相手を縛り付ける魔力なんて俺にはないし、そもそも使い魔を使役するだけの魔術回路もない。
「…………」
だから、きっとセイバーは使い魔とは似て非なるモノの筈だ。
彼女は自分をサーヴァントと言っていた。
それがどんなモノかは知らないが、あのランサーという男も、遠坂が連れていた赤い男も同じモノなのだと思う。
となると、遠坂もマスターと呼ばれる者の筈だ。
あいつの魔術の冴えは先ほど垣間見た。
俺が半人前だとしたら、遠坂は三人前……というか、そもそも強化の魔術しか使えない俺と他の魔術師を比べても仕方がない。
ともかく、遠坂凛はとんでもない魔術師だ。
霊的に優れた土地には、その土地を管理する魔術師の家系がある。
衛宮家は切嗣の代からこの町にやってきたから、いうなれば他所者《よそもの》だ。
だから遠坂が魔術師だと知らなかったし、遠坂の方も俺が魔術を習っている、なんて知らなかったに違いない。
……この町には、俺の知らない魔術師が複数いる。
ランサーとやらも他の魔術師の使い魔だとしたら、俺はつまり、魔術師同士の争いに足を突っ込んだという事だろうか――――
「へえ、けっこう広いのね。和風っていうのも新鮮だなぁ。
あ、衛宮くん、そこが居間?」
なんて言いながら居間に入っていく遠坂。
「………………」
考えるのはここまでだ。
とにかく遠坂に話を聞こう。
電気をつける。
時計は午前一時を回っていた。
「うわ寒っ! なによ、窓ガラス全壊してるじゃない」
「仕方ないだろ、ランサーってヤツに襲われたんだ。なりふり構ってられなかったんだよ」
「あ、そういう事。じゃあセイバーを呼び出すまで、一人でアイツとやり合ってたの?」
「やりあってなんかない。ただ一方的にやられただけだ」
「ふうん、ヘンな見栄はらないんだ。……そっかそっか、ホント見た目通りなんだ、衛宮くんって」
何が嬉しいのか、遠坂は割れた窓ガラスまで歩いていく。
「?」
遠坂はガラスの破片を手に取ると、ほんの少しだけまじまじと観察し―――
「――――Minuten vor Schweien」
ぷつり、と指先を切って、窓ガラスに血を零した。
「!?」
それはどんな魔術か。
粉々に砕けていた窓ガラスはひとりでに組み合わさり、数秒とかからず元通りになってしまった。
「遠坂、今の――――」
「ちょっとしたデモンストレーションよ。助けて貰ったお礼にはならないけど、一応筋は通しておかないとね」
「……ま、わたしがやらなくともそっちで直したんだろうけど、こんなの魔力の無駄遣いでしょ? ホントなら窓ガラスなんて取り替えれば済むけど、こんな寒い中で話すのもなんだし」
当たり前のように言う。
が、言うまでもなく、彼女の腕前は俺の理解の外だった。
「―――いや、凄いぞ遠坂。俺はそんな事できないからな。直してくれて感謝してる」
「? 出来ないって、そんな事ないでしょ?
ガラスの扱いなんて初歩の初歩だもの。たった数分前に割れたガラスの修復なんて、どこの学派でも入門試験みたいなものでしょ?」
「そうなのか。俺は親父にしか教わった事がないから、そういう基本とか初歩とか知らないんだ」
「――――はあ?」
ピタリ、と動きを止める遠坂。
……しまった。なんか、言ってはいけない事を口にしたようだ。
「……ちょっと待って。じゃあなに、衛宮くんは自分の工房の管理もできない半人前ってこと?」
「……? いや、工房なんて持ってないぞ俺」
……あー、まあ鍛練場所として土蔵があるが、アレを工房なんて言ったら遠坂のヤツ本気で怒りそうだし。
「…………まさかとは思うけど、確認しとく。もしかして貴方、五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」
おう、と素直に頷いた。
「………………」
うわ、こわっ。
なまじ美人なだけに黙り込むともの凄く迫力あるぞ、こいつ。
「なに。じゃあ貴方、素人?」
「そんな事ないぞ。一応、強化の魔術ぐらいは使える」
「強化って……また、なんとも半端なのを扱うのね。で、それ以外はからっきしってワケ?」
じろり、と睨んでくる遠坂。
「……まあ、端的に言えば、たぶん」
さすがに視線が痛くて、なんとも煮え切らない返答をしてしまった。
「――――はあ。なんだってこんなヤツにセイバーが呼び出されるのよ、まったく」
がっかり、とため息をつく。
「…………む」
なんか、腹が立つ。
俺だって遊んでたワケじゃない。
こっちが未熟なのは事実だけど、それとこれとは話が別だと思う。
「ま、いいわ。もう決まった事に不平をこぼしても始まらない。そんな事より、今は借りを返さないと」
ふう、と一息つく遠坂。
「それじゃ話を始めるけど。
衛宮くん、自分がどんな立場にあるのか判ってないでしょ」
「――――」
こくん、と頷く。
「やっぱり。ま、一目で判ったけど、一応確認しとかないとね。知ってる相手に説明するなんて心の贅肉だし」
「?」
なんか、今ヘンな言い回しを聞いた気がするけど、ここで茶々を入れたら殴られそうなので黙った。
「率直に言うと、衛宮くんはマスターに選ばれたの。
どっちかの手に聖痕があるでしょ? 手の甲とか腕とか、個人差はあるけど三つの令呪《れいじゅ》が刻まれている筈。それがマスターとしての証よ」
「手の甲って……ああ、これか」
「そ。それはサーヴァントを律する呪文でもあるから大切にね。令呪っていうんだけど、それがある限りはサーヴァントを従えていられるわ」
「……? ある限りって、どういう事だよ」
「令呪は絶対命令権なの。サーヴァントには自由意思があるって気づいていると思うけど、それをねじ曲げて絶対に言いつけを守らせる呪文がその刻印」
「発動に呪文は必要なくて、貴方が令呪を使用するって思えば発動するから。
ただし一回使う度に一つずつ減っていくから、使うのなら二回だけに留めなさい。
で、その令呪がなくなったら衛宮くんは殺されるだろうから、せいぜい注意して」
「え……俺が、殺される――――?」
「そうよ。マスターが他のマスターを倒すのが聖杯《せいはい》戦争の基本だから。そうして他の六人を倒したマスターには、望みを叶える聖杯が与えられるの」
「な――――に?」
ちょっ、ちょっと待て。
遠坂のヤツが何を言っているのかまったく理解できない。
マスターはマスターを倒す、とか。
そうして最後には聖杯が手に入るとか……って、聖杯って、そもそもあの聖杯の事か……!?
「まだ解らない? ようするにね、貴方はあるゲームに巻き込まれたのよ。
聖杯戦争っていう、七人のマスターの生存競争。他のマスターを一人残らず倒すまで終わらない、魔術師同士の殺し合いに」
それがなんでもない事のように、遠坂凛は言い切った。
「――――――――」
頭の中で、聞いたばかりの単語が回る。
マスターに選ばれた自分。
マスターだという遠坂。
サーヴァントという使い魔。
―――それと。
聖杯戦争という、他の魔術師との殺し合い――――
「待て。なんだそれ、いきなり何言ってんだおまえ」
「気持ちは解るけど、わたしは事実を口にするだけよ。
……それに貴方だって、心の底では理解してるんじゃない? 一度ならず二度までもサーヴァントに殺されかけて、自分はもう逃げられない立場なんだって」
「――――――――」
それは。
確かに、俺はランサーとかいうヤツに殺されかけた、けど。
「あ、違うわね。殺されかけたんじゃなくて殺されたんだっけ。よく生き返ったわね、衛宮くん」
「――――」
遠坂の追い打ちは、ある意味トドメだった。
……確かにその通りだ。
アイツは俺を殺し、俺は確かに殺された。
そこには何のいいわけも話し合いも通じず、俺はただ殺されるだけの存在だったのだ。
だから。
その、訳のわからない殺し合いを否定したところで、 他の連中が手を引いてくれるなんて事はない。
「――――」
「納得した? ならもう少しだけ話をしてあげる。
聖杯戦争というのが何であるかわたしもよくは知らない。
ただ何十年に一度、七人のマスターが選ばれ、マスターにはそれぞれサーヴァントが与えられるって事だけは確かよ」
「わたしもマスターに選ばれた一人。だからサーヴァントと契約したし、貴方だってセイバーと契約した。
サーヴァントは聖杯戦争を勝ち残る為に聖杯が与えた使い魔と考えなさい。
で、マスターであるわたしたちは自分のサーヴァントと協力して、他のマスターを始末していくわけね」
「…………」
遠坂の説明は簡潔すぎて、実感を得るには遠すぎた。
それでも一つだけ、先ほどから疑問に思っていた事がある。
「……ちょっと待ってくれ。遠坂はセイバーを使い魔だっていうけど、俺にはそうは思えない。
だって使い魔っていうのは猫とか鳥だろ。そりゃ人の幽霊を扱うヤツもいるって言うけど、セイバーはちゃんと体がある。それに、その―――とても、使い魔なんかに見えない」
ちらりとセイバーを盗み見る。
セイバーは俺と遠坂の会話を、ただ黙って聞いていた。
……その姿は人間そのものだ。
正体は判らないが、自分とそう歳の違わない女の子。
そんな子が近くにいるだけで冷静じゃいられないのに、それが使い魔だなんて言われても実感が湧かないし、なにより、心臓がばっくんばっくん言って困る。
「使い魔ね―――ま、サーヴァントはその分類ではあるけど、位置づけは段違いよ。何しろそこにいる彼女はね、使い魔としては最強とされるゴーストライナーなんだから」
「ゴーストライナー……? じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」
とうの昔に死んでいる人間の霊。
死した後もこの世に姿を残す、卓越した能力者の残留思念。
だが、それはおかしい。
幽霊は体を持たない。霊が傷つけられるのは霊だけだ。
故に、肉を持つ人間である俺が、霊に直接殺されるなんてあり得ない。
「幽霊……似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。
サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」
「――――はあ? 受肉した過去の英雄?」
「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄をこう引っ張ってきてね、実体化させるのよ」
「ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。
魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ」
「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」
セイバーを見る。
なら彼女も英雄だった人間なのか。
いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって―――
「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない」
「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない」
「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……?」
「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の枠から外されて、一段階上に昇華するって話、聞いたことない?
英霊っていうのはそういう連中よ。
ようするに崇《あが》め奉《たてまつ》られて、擬似的な神さまになったモノたちなんでしょうね」
「降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な“霊を扱う魔術”は英霊《かれら》の力の一部を借り受けて奇蹟を起こすでしょ。
けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。
だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ」
「……む。その、霊体と実体を使い分けられるって事か。
……遠坂のサーヴァントは姿が見えないけど、今は霊体って事か?」
「いえ、アイツはうちの召喚陣で傷を癒してる最中よ。
さっきセイバーにやられたでしょ。あれだって、あと少し強制撤去が遅かったら首を刎ねられて消滅してたわ」
「いい、サーヴァントを倒せるのは同じ霊体であるサーヴァントだけ。そりゃあ相手が実体化していればこっちの攻撃も当たるから、うまくすれば倒せるかもしれない。
けど、サーヴァントはみんな怪物じみてるでしょ? だから怪物の相手は怪物に任せて、マスターは後方支援をするっていうのがセオリーね」
「…………む」
遠坂の説明は、なんか癇に触る。
怪物怪物って、他のサーヴァントがどうだかは知らないけど、セイバーにはそんな形容を当て嵌《は》めてほしくない。
「とにかくマスターになった人間は、召喚したサーヴァントを使って他のマスターを倒さなければならない。
そのあたりは理解できた?」
「……言葉の上でなら。けど、納得なんていってないぞ。
そもそもそんな悪趣味な事を誰が、何の為に始めたんだ」
「それはわたしが知るべき事でもないし、答えてあげる事でもない。そのあたりはいずれ、ちゃんと聖杯戦争を監督しているヤツに聞きなさい。
わたしが教えてあげられるのはね、貴方はもう戦うしかなくて、サーヴァントは強力な使い魔だからうまく使えって事だけよ」
遠坂はそれだけ言うと、今度はセイバーへ視線を向ける。
「さて。衛宮くんから話を聞いた限りじゃ貴女は不完全な状態みたいね、セイバー。マスターとしての心得がない魔術師見習いに呼び出されたんだから」
「……ええ。貴方の言う通り、私は万全ではありません。
シロウには私を実体化させるだけの魔力がない為、霊体に戻る事も、魔力の回復も難しいでしょう」
「……驚いたわ。そこまで酷かった事もだけど、貴女が正直に話してくれるなんて思わなかった。どうやって弱みを聞き出そうかなって程度だったのに」
「敵に弱点を見抜かれるのは不本意ですが、貴女の目は欺けそうにない。こちらの手札を隠しても意味はないでしょう。
それならば貴方に知ってもらう事で、シロウにより深く現状を理解してもらった方がいい」
「正解。風格も十分、と。……ああもう、ますます惜しいっ。わたしがセイバーのマスターだったら、こんな戦い勝ったも同然だったのに!」
悔しそうに拳を握る遠坂。
「む。遠坂、それ俺が相応しくないって事か」
「当然でしょ、へっぽこ」
うわ。心ある人なら言いにくいコトを平然といったぞ、今。
「なに? まだなんか質問があるの?」
しかも自覚なし。
学校での優等生然としたイメージがガラガラと崩れていく。
……さすがだ一成。たしかに遠坂は、鬼みたいに容赦がない。
「さて。話がまとまったところでそろそろ行きましょうか」
と。
遠坂はいきなり、ワケの分らないコトを言いだした。
「? 行くって何処へ?」
「だから、貴方が巻き込まれたこのゲーム……“聖杯戦争”をよく知ってるヤツに会いに行くの。衛宮くん、聖杯戦争の理由について知りたいんでしょ?」
「―――それは当然だ。けどそれって何処だよ。もうこんな時間なんだし、あんまり遠いのは」
「大丈夫、隣町だから急げば夜明けまでには帰ってこれるわ。それに明日は日曜なんだから、別に夜更かししてもいいじゃない」
「いや、そういう問題じゃなくて」
単に今日は色々あって疲れてるから、少し休んでから物事を整理したいだけなのだが。
「なに、行かないの? ……まあ衛宮くんがそう言うんならいいけど、セイバーは?」
なぜかセイバーに意見を求める遠坂。
「ちょっと待て、セイバーは関係ないだろ。あんまり無理強いするな」
「おっ、もうマスターとしての自覚はあるんだ。わたしがセイバーと話すのはイヤ?」
「そ、そんなコトあるかっ! ただ遠坂の言うのがホントなら、セイバーは昔の英雄なんだろ。ならこんな現代に呼び出されて右も左も分からない筈だ。
だから―――」
「シロウ、それは違う。サーヴァントは人間の世であるのなら、あらゆる時代に適応します。ですからこの時代の事もよく知っている」
「え――――知ってるって、ほんとに?」
「勿論。この時代に呼び出されたのも一度ではありませんから」
「な――――」
「うそ、どんな確率よそれ……!?」
あ、遠坂も驚いてる。
……という事は、セイバーの言ってる事はとんでもない事なのか。
「シロウ、私は彼女に賛成です。貴方はマスターとして知識がなさすぎる。貴方と契約したサーヴァントとして、シロウには強くなってもらわなければ困ります」
セイバーは静かに見据えてくる。
……それはセイバー自身ではなく、俺の身を案じている、穏やかな視線だった。
「……分かった。行けばいいんだろ、行けば。
で、それって何処なんだ遠坂。ちゃんと帰ってこれる場所なんだろうな」
「もちろん。行き先は隣町の言峰教会。そこがこの戦いを監督してる、エセ神父の居所よ」
にやり、と意地の悪い笑みをこぼす遠坂。
アレは何も知らない俺を振り回して楽しいんでいる顔だ。
「………………」
偏見だけど。
あいつの性格、どこか問題ある気がしてきたぞ……。
◇◇◇
夜の町を歩く。
深夜一時過ぎ、外に出ている人影は皆無だ。
家々の明かりも消えて、今は街灯だけが寝静まった町を照らしている。
「なあ遠坂。つかぬ事を訊くけど、歩いて隣町まで行く気なのか」
「そうよ? だって電車もバスも終わってるでしょ。いいんじゃない、たまには夜の散歩っていうのも」
「そうか。一応訊くけど、隣町までどのくらいかかるか知ってるか?」
「えっと、歩いてだと一時間ぐらいかしらね。ま、遅くなったなら帰りはタクシーでも拾えばいいでしょ」
「そんな余分な金は使わないし、俺が言いたいのは女の子が夜出歩くのはどうかって事だ。最近物騒なのは知ってるだろ。もしもの事があったら責任持てないぞ、俺」
「安心しなさい、相手がどんなヤツだろうとちょっかいなんて出してこないわ。衛宮くんは忘れてるみたいだけど、そこにいるセイバーはとんでもなくお強いんだから」
「あ」
そう言えばそうだ。
通り魔だろうがなんだろうが、セイバーに手を出したらそれこそ返り討ちだろう。
「凛。シロウは今なにを言いたかったのでしょう。私には理解できなかったのですが」
「え? いえ、大した勘違いっぷりって言うか、大間抜けっていうか。なんでもわたしたちが痴漢に襲われたら衛宮くんが助けてくれるんだって」
「そんな、シロウは私のマスターだ。それでは立場が逆ではないですか」
「そういうの考えてないんじゃない? 魔術師とかサーヴァントとかどうでもいいって感じ。あいつの頭の中、一度見てみたくなったわねー」
「………………」
遠坂とセイバーは知らぬ間に話をするぐらいの仲になっている。
セイバーはと言えば、出かける時にあの姿のままで出ようとしたのを止めた時から無言だ。
どうしても鎧は脱がない、というので仕方なく雨合羽を着せたら、ますます無言になってしまった。
今ではツカツカと俺の後を付いてきて、遠坂とだけ話をしている。
「あれ? どっちに行くのよ衛宮くん。そっち、道が違うんじゃない?」
「橋に出ればいいんだろ。ならこっちのが近道だ」
二人と肩を並べて歩くのは非常に抵抗があったので、早足で横道に入った。
二人は文句一つなく付いてくる。
川縁の公園に出た。
あの橋を渡って、隣町である新都へ行くのだが―――
「へえ、こんな道あったんだ。そっか、橋には公園からでも行けるんだから、公園を目指せばいいのね」
声を弾ませて橋を見上げる遠坂。
夜の公園、という場所のせいだろうか。
橋を見上げる遠坂の横顔は、学校で見かける時よりキレイに見えて、まいる。
「いいから行くぞ。別に遊びに来たわけじゃないんだから」
公園で立ち止まっている遠坂を促して階段を上る。
橋の横の歩道にさえ辿り着けば、あとは新都まで一直線だ。
歩道橋に人影はない。
それも当然、昼間でさえここを使う人は少ないのだ。
隣町まではバスか電車で行くのが普通で、この歩道橋はあまり使われない。
なにしろ距離があまりにも長いし、どうも作りが頑丈でないというか、いつ崩れてもおかしくないような杞憂をさせるというか。
ロケーション的には文句無しなのにデートコースに使われないのも、そのあたりが原因だろう。
「……馬鹿らしい。なに考えてんだ、俺」
無言で後を付いてくるセイバーと、すぐ横で肩を並べている遠坂。
その二人を意識しないようにと努めて、とにかく少しでも早く橋を渡ろうと歩を速めた。
橋を渡ると、遠坂は郊外へ案内しだした。
新都と言えば駅前のオフィス街しか頭に浮かばないが、駅から外れれば昔ながらの街並みが残っている。
郊外はその中でも最たるものだ。
なだらかに続く坂道と、海を望む高台。
坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、丘の斜面に建てられた外人墓地が目に入ってくる。
「この上が教会よ。衛宮くんも一度ぐらいは行った事があるんじゃない?」
「いや、ない。あそこが孤児院だったって事ぐらいは知ってるけど」
「そう、なら今日が初めてか。じゃ、少し気を引き締めた方がいいわ。あそこの神父は一筋縄じゃいかないから」
遠坂は先だって坂を上がっていく。
……見上げれば、坂の上には建物らしき影が見えた。
高台の教会。
今まで寄りつきもしなかった神の家に、こんな目的で足を運ぶ事になろうとは。
「うわ―――すごいな、これ」
教会はとんでもない豪勢さだった。
高台のほとんどを敷地にしているのか、坂を上がりきった途端、まったいらな広場が出迎えてくれる。
その奥に建てられた教会は、そう大きくはないというのに、聳《そび》えるように来た者を威圧していた。
「シロウ、私はここに残ります」
「え? なんでだよ、ここまで来たのにセイバーだけ置いてけぼりなんて出来ないだろ」
「私は教会に来たのではなく、シロウを守る為についてきたのです。シロウの目的地が教会であるのなら、これ以上遠くには行かないでしょう。ですから、ここで帰りを持つ事にします」
きっぱりと言うセイバー。
どうもテコでも動きそうにないので、ここは彼女の意思を尊重することにした。
「分かった。それじゃ行ってくる」
「はい。誰であろうと気を許さないように、マスター」
広い、荘厳な礼拝堂だった。
これだけの席があるという事は、日中に訪れる人も多いという事だろう。
これほどの教会を任されているのだから、ここの神父はよほどの人格者と見える。
「遠坂。ここの神父さんっていうのはどんな人なんだ」
「どんな人かって、説明するのは難しいわね。十年来の知人だけど、わたしだって未だにアイツの性格は掴めないもの」
「十年来の知人……? それはまた、随分と年期が入った関係だな。もしかして親戚か何かか?」
「親戚じゃないけど、わたしの後見人よ。ついでに言うと兄弟子にして第二の師っていうところ」
「え……兄弟子って、魔術師としての兄弟子!?」
「そうだけど。なんで驚くのよ、そこで」
「だって神父さんなんだろ!? 神父さんが魔術なんて、そんなの御法度じゃないか!」
そう、魔術師と教会は本来相容れないものだ。
魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、
一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。
この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが、隙あらばいつでも殺し合いをする物騒な関係だ。
教会は異端を嫌う。
人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。
教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが取得するもの。それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。
それは教会に属する人間であろうと例外ではない。
教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。
こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが――――
「……いや。そもそもここの神父さんってこっち側の人だったのか」
「ええ。聖杯戦争の監督役を任されたヤツだもの、バリッバリの代行者よ。……ま、もっとも神のご加護があるかどうかは疑問だけど」
かつん、かつん、と足音をたてて祭壇へと歩いていく遠坂。
神父さんがいないというのにお邪魔するのもなんだが、そもそもこんな夜更けなのだ。
礼拝堂にいる訳もなし、訪ねるのなら奥にあるであろう私室だろう。
「……ふうん。で、その神父さんはなんていうんだ? さっきは言峰《ことみね》とかなんとか言ってたけど」
「名前は言峰綺礼《ことみねきれい》。父さんの教え子でね、もう十年以上顔を合わせてる腐れ縁よ。……ま、できれば知り合いたくなかったけど」
「―――同感だ。私も、師を敬わぬ弟子など持ちたくはなかった」
かつん、という足音。
俺たちが来た事に気が付いていたのか、その人物は祭壇の裏側からゆっくりと現れた。
「再三の呼び出しにも応じぬと思えば、変わった客を連れてきたな。……ふむ、彼が七人目という訳か、凛」
「そう。一応魔術師だけど、中身はてんで素人だから見てられなくって。
……たしかマスターになった者はここに届けを出すのが決まりだったわよね。アンタたちが勝手に決めたルールだけど、今回は守ってあげる」
「それは結構。なるほど、ではその少年には感謝しなくてはな」
言峰という名の神父は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
「――――」
……知らず、足が退いていた。
……何が恐ろしい訳でもない。
……言峰という男に敵意を感じる訳でもない。
だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。
「私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。
君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」
「―――衛宮士郎。けど、俺はまだマスターなんて物になった覚えはないからな」
腹に力をいれて、重圧に負けまいと神父を睨む。
「衛宮――――――士郎」
「え――――」
背中の重圧が悪寒に変わる。
神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。
――――その笑みが。
俺には、例えようもなく――――
「礼を言う、衛宮。よく凛を連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここには訪れなかったろう」
神父が祭壇へと歩み寄る。
遠坂は退屈そうな顔つきで祭壇から離れ、俺の横まで下がってきた。
「では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」
「それは違う。確かに俺はセイバーと契約した。けどマスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても俺にはてんで判らない。
マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他にマスターを選び直した方がいい」
「……なるほど、これは重傷だ。彼は本当に何も知らないのか、凛」
「だから素人だって言ったじゃない。そのあたり一からしつけてあげて。……そういう追い込み得意でしょ、アンタ」
遠坂は気が乗らない素振りで神父を促す。
「――――ほう。これはこれは、そういう事か。
よかろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。
衛宮士郎には感謝をしてもし足りないな」
くくく、と愉快そうに笑う言峰神父。
なんていうか、聞いてるこっちがますます不安になっていくような会話だ。
「まず君の勘違いを正そう。
いいか衛宮士郎。マスターという物は他人に譲れる物ではないし、なってしまった以上辞められる物でもない。
その腕に令呪を刻まれた者は、たとえ何者であろうとマスターを辞める事はできん。まずはその事実を受け入れろ」
「っ―――辞める事はできないって、どうしてだよ」
「令呪とは聖痕《せいこん》でもある。マスターとは与えられた試練だ。都合が悪いからといって放棄する事はできん。
その痛みからは、聖杯を手に入れるまでは解放されない」
「おまえがマスターを辞めたいと言うのであれば、聖杯を手に入れ己が望みを叶えるより他はあるまい。そうなれば何もかもが元通りだぞ、衛宮士郎。
おまえの望み、その裡《うち》に溜まった泥を全て掻き出す事もできる。―――そうだ、初めからやり直す事とて可能だろうよ」
「故に望むがいい。
もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その、目に見えぬ火傷の跡を消したいのならば、聖痕を受け入れるだけでいい」
「な――――」
目眩がした。
神父の言葉はまるで要領を得ない。
聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。
……にも関わらず、コイツの言葉は厭《イヤ》に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り着く―――
「綺礼、回りくどい真似はしないで。わたしは彼にルールを説明してあげてって言ったのよ。誰も傷を開けなんて言ってない」
神父の言葉を遮る声。
「――――と、遠坂?」
それで、混乱しかけた頭がハッキリとしてくれた。
「そうか。こういった手合いには何を言っても無駄だからな、せめて勘違いしたまま道徳をぬぐい去ってやろうと思ったのだが。
……ふん、情けは人のため為らず、とはよく言ったものだ。つい、私自身も楽しんでしまったか」
「なによ。彼を助けるといい事あるっていうの、アンタに」
「あるとも。人を助けるという事は、いずれ自身を救うという事だからな。……と、今更おまえに説いても始まるまい」
「では本題に戻ろうか、衛宮士郎。
君が巻き込まれたこの戦いは『聖杯《せいはい》戦争』と呼ばれるものだ。
七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦―――という事ぐらいは凛から聞いているか?」
「……聞いてる。七人のマスターで殺し合うっていう、ふざけた話だろ」
「そうだ。だが我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。
全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。
なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」
……何が試練だ。
賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。
「待てよ。さっきから聖杯聖杯って繰り返してるけど、それって一体なんなんだ。まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」
聖杯。
聖者の血を受けたという杯。
数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇蹟を行うという。
その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。
……もっとも、そんなのは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。
確かに、“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。
だがそれだけだ。
実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。
「どうなんだ言峰綺礼。アンタの言う聖杯は、本当に聖杯なのか」
「勿論だとも。この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇蹟が起きているだろう」
「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇蹟は魔法と言える。
これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の真贋《しんがん》など、その事実の前には無価値だ」
「――――――――」
つまり。
偽物であろうが本物以上の力があれば、真偽など問わないと言いたいのか。
「……いいぜ。仮に聖杯があるとする。けど、ならなんだって聖杯戦争なんてものをさせるんだ。聖杯があるんなら殺し合う事なんてない。それだけ凄い物なら、みんなで分ければいいだろう」
「もっともな意見だが、そんな自由は我々にはない。
聖杯を手にする者はただ一人。
それは私たちが決めたのではなく、聖杯自体が決めた事だ」
「七人のマスターを選ぶのも、七人のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。
これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。
それが聖杯戦争―――聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式という訳だ」
「――――――――」
淡々と神父は語る。
反論する言葉もなく、左手に視線を落とす。
……そこにあるのは連中が令呪と呼ぶ刻印だ。
この刻印がある以上、マスターを放棄する事はできないとでも言いたいのか。
「……納得いかないな。一人だけしか選ばれないにしたって、他のマスターを殺すしかないっていうのは、気にくわない」
「? ちょっと待って。殺すしかない、っていうのは誤解よ衛宮くん。別にマスターを殺す必要はないんだから」
「はあ? だって殺し合いだって言ったじゃないか。言峰もそう言ってたぞ」
「殺し合いだ」
「綺礼は黙ってて。あのね、この町に伝わる聖杯っていうのは霊体なの。だから物として有る訳じゃなくて、特別な儀式で呼び出す―――つまり降霊するしかないって訳」
「で、呼び出す事はわたしたち魔術師だけでも出来るんだけど、これが霊体である以上わたしたちには触れられない。この意味、分かる?」
「分かる。霊体には霊体しか触れられないんだろ。
―――ああ、だからサーヴァントが必要なのか……!」
「そういう事。ぶっちゃけた話、聖杯戦争っていうのは自分のサーヴァント以外のサーヴァントを撤去させるってコトよ。だからマスターを殺さなければならない、という決まりはないの」
「――――――――」
なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに!
まったく、遠坂もこの神父も人が悪いったらありゃしない。
……とにかく、それで安心した。
それなら聖杯戦争に参加しても、遠坂が死ぬような事はないんだから。
「なるほど、そういう考えもできるか。
では衛宮士郎、一つ訊ねるが君は自分のサーヴァントを倒せると思うか?」
「?」
セイバーを倒す?
そんなの無理に決まってるじゃないか。
そもそもアイツに魔術は通用しないし、剣術だってデタラメに強いんだから。
「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ問いだが、君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」
「??」
なに言ってるんだ、こいつ。
俺はセイバーを倒せないんだから、俺がセイバーより優れてるなんて事ありえない。
今の質問はどっちにしたって、マスターである俺の方がサーヴァントより弱いって答え、に――――
「――――あ」
「そういう事だ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。ならばどうするか。
そら、実に単純な話だろう? サーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。いかにサーヴァントが強力であろうが、マスターが潰されればそのサーヴァントも消滅する。ならば」
そう、それはしごく当然の行為。
誰もわざわざ困難な道は選ばない。
確実に勝ち残りたいのなら、サーヴァントではなくマスターを殺す事が、サーヴァントを殺す最も効率的な手段となる――――
「……ああ、サーヴァントを消す為にはマスターを倒した方が早いってのは解った。
けど、それじゃあ逆にサーヴァントが先にやられたら、マスターはマスターでなくなるのか? 聖杯に触れられるのはサーヴァントだけなんだろ。なら、サーヴァントを失ったマスターには価値がない」
「いや、令呪がある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約できる魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約できる」
「マスターを失ったサーヴァントはすぐに消える訳ではない。彼らは体内の魔力が尽きるまでは現世にとどまれる。そういった、“マスターを失ったサーヴァント”がいれば、“サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能となる。戦線復帰が出来るという事だ。
だからこそマスターはマスターを殺すのだ。下手に生かしておけば、新たな障害になる可能性があるからな」
「……じゃあ令呪を使い切ったら? そうすれば他のサーヴァントと契約できないし、自由になったサーヴァントも他のマスターとくっつくだろ」
「待って、それは――――」
「ふむ、それはその通りだ。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターの責務からは解放されるな」
「……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う、などという魔術師がいるとは思えないが。
いたとしたらそいつは半人前どころか、ただの腑抜けという事だろう?」
ふふ、とこっちの考えを見透かしたように神父は笑う。
「…………っ」
なんか、癪だ。
あの神父、さっきから俺を挑発してるとしか思えないほど、人を小馬鹿にしてやがる。
「納得がいったか。ならばルールの説明はここまでだ。
―――さて、それでは始めに戻ろう衛宮士郎。
君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今でも同じなのか」
「マスターを放棄するというのなら、それもよかろう。
君が今考えた通り、令呪を使い切ってセイバーとの契約を断てばよい。その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は私が保証する」
「……? ちょっと待った。なんだってアンタに安全を保証されなくちゃいけないんだ。自分の身ぐらい自分で守る」
「私とておまえに構うほど暇ではない。だがこれも決まりでな。
私は繰り返される聖杯戦争を監督する為に派遣された。
故に、聖杯戦争による犠牲は最小限にとどめなくてはならないのだ。
マスターでなくなった魔術師を保護するのは、監督役として最優先事項なのだよ」
「――――繰り返される聖杯戦争……?」
ちょっと待て。
そんな言葉、初めて聞いたぞ。
繰り返されるって、つまりこんな戦いが今まで何度もあったってのか……?
「それ、どういう事だよ。聖杯戦争っていうのは今に始まった事じゃないのか」
「無論だ。でなければ監督役、などという者が派遣されると思うか?
この教会は聖遺物を回収する任を帯びる、特務局の末端でな。本来は正十字の調査、回収を旨とするが、ここでは“聖杯”の査定の任を帯びている。
極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、これが正しいモノであるのなら回収し、そうでなければ否定しろ、とな」
「七百二十六って……聖杯ってのはそんなに沢山あるものなのかよ」
「さあ? 少なくとも、らしき物ならばそれだけの数があったという事だろう」
「そしてその中の一つがこの町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。
記録では二百年ほど前が一度目の戦いになっている。
以後、約六十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されている。
聖杯戦争はこれで五度目。前回が十年前であるから、今までで最短のサイクルという事になるが」
「な―――正気かおまえら、こんな事を今まで四度も続けてきたって……!?」
「まったく同感だ。おまえの言うとおり、連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。
―――そう。
過去、繰り返された聖杯戦争はことごとく苛烈を極めてきた。マスターたちは己が欲望に突き動かされ、魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺し合いを行った」
「君も知っていると思うが、魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。
だが、過去のマスターたちはそれを破った。
魔術協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが、それが間に合ったのは三度目の聖杯戦争でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが、納得がいったか少年」
「……ああ、監督役が必要な理由は分かった。
けど今の話からすると、この聖杯戦争っていうのはとんでもなく性質《たち》が悪いモノなんじゃないのか」
「ほう。性質《たち》が悪いとはどのあたりだ」
「だって以前のマスターたちは魔術師のルールを破るような奴らだったんだろ。
なら、仮に聖杯があるとして、最後まで勝ち残ったヤツが、聖杯を私利私欲で使うようなヤツだったらどうする。平気で人を殺すようなヤツにそんなモノが渡ったらまずいだろう。
魔術師を監視するのが協会の仕事なら、アンタはそういうヤツを罰するべきじゃないのか」
微かな期待をこめて問う。
だが言峰綺礼は、予想通り、慇懃な仕草でおかしそうに笑った。
「まさか。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりだけだ。その後の事など知らん。どのような人格が聖杯を手に入れようが、協会は関与しない」
「そんなバカな……! じゃあ聖杯を手に入れたマスターが最悪なヤツだったらどうするんだよ!」
「困るな。だが私たちではどうしようもない。持ち主を選ぶのは聖杯だ。そして聖杯に選ばれたマスターを止める力など私たちにはない。
なにしろ望みを叶える杯だ。手に入れた者はやりたい放題だろうさ。
―――しかし、それが嫌だというのならおまえが勝ち残ればいい。他人を当てにするよりは、その方が何よりも確実だろう?」
言峰は笑いをかみ殺している。
マスターである事を受け入れられない俺の無様さを愉しむように。
「どうした少年。今のはいいアイデアだと思うのだが、参考にする気はないのかな」
「……そんなの余計なお世話だ。第一、俺には戦う理由がない。聖杯なんて物に興味はないし、マスターなんて言われても実感が湧かない」
「ほう。では聖杯を手に入れた人間が何をするか、それによって災厄が起きたとしても興味はないのだな」
「それは――――」
……それを言われると反論できない。
くそ、こいつの言葉は暴力みたいだ。
こっちの心情などおかまいなし、ただ事実だけを容赦なく押しつけてくる―――
「理由がないのならそれも結構。ならば十年前の出来事にも、おまえは関心を持たないのだな?」
「――――十年、前……?」
「そうだ。前回の聖杯戦争の最後にな、相応しくないマスターが聖杯に触れた。そのマスターが何を望んでいたかは知らん。我々に判るのは、その時に残された災害の爪痕だけだ」
「――――――――」
一瞬。
あの地獄が、脳裏に浮かんだ。
「―――待ってくれ。まさか、それは」
「そうだ、この街に住む者なら誰もが知っている出来事だよ衛宮士郎。
死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以て原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」
「――――――――」
――――吐き気がする。
視界がぼやける。
焦点を失って、視点が定まらなくなる。
ぐらりと体が崩れ落ちる。
だが、その前にしっかりと踏みとどまった。
歯を噛みしめて意識を保つ。
倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。
「衛宮くん? どうしたのよ、いきなり顔面真っ白にしちゃって。……そりゃああんまり気持ちのいい話じゃなかったけど、その―――ほら、なんなら少し休んだりする?」
よほど蒼い顔をしていたのだろう。
なんていうか、遠坂がこういった心配をしてくれるなんて、とんでもなくレアな気がした。
「心配無用だ。遠坂のヘンな顔を見たら治った」
「……ちょっと。それ、どういう意味よ」
「いや、他意はないんだ。言葉通りの意味だから気にするな」
「ならいいけど……って、余計に悪いじゃないこの唐変木っ!」
すかん、容赦なく頭をはたく学園一の優等生・遠坂凛。
それがトドメ。
本当にそれだけで、さっきまでの吐き気も怒りも、キレイさっぱり消えてくれた。
「……サンキュ。本当に助かったから、あんまりいじめないでくれ遠坂。今はもう少し、訊かなくちゃいけない事がある」
むっ、と叩きたりない顔のまま、遠坂は一応場を譲ってくれる。
「ほう、まだ質問があるのか。いいぞ、言いたい事は全て言ってしまえ」
俺が訊きたい事なんて見抜いているだろうに、神父は愉快そうに促してくる。
上等だ。
衛宮士郎は、おまえになんて負けるものか。
「じゃあ訊く。アンタ、聖杯戦争は今回が五回目だって言ったな。なら、今まで聖杯を手に入れたヤツはいるのか」
「当然だろう。そう毎回全滅などという憂き目は起きん」
「じゃあ―――」
「早まるな。手に入れるだけならば簡単だ。なにしろ聖杯自体はこの教会で管理している。手に取るだけならば私は毎日触れているぞ」
「え――――?」
せ、聖杯がこの教会にある――――?
「もっとも、それは器だけだ。中身が空なのだよ。先ほど凛が言っただろう、聖杯とは霊体だと。
この教会に保管してあるのは、極めて精巧に作られた聖杯のレプリカだ。これを触媒にして本物の聖杯を降霊させ、願いを叶える杯にする。そうだな、マスターとサーヴァントの関係に近いか。……ああ。そうやって一時的に本物となった聖杯を手にした男は、確かにいた」
「じゃあ聖杯は本物だったのか。いや、手にしたっていうそいつは一体どうなったんだ」
「どうもならん。その聖杯は完成には至らなかった。馬鹿な男が、つまらぬ感傷に流された結果だよ」
……?
先ほどまでの高圧的な態度はどこにいったのか、神父は悔いるように視線を細めている。
「……どういう事だ。聖杯は現れたんじゃないのか」
「聖杯を現すだけならば簡単だ。七人のサーヴァントが揃い、時間が経てば聖杯は現れる。凛の言う通り、確かに他のマスターを殺める必要などないのだ。
だが、それでは聖杯は完成しない。アレは自らを得るに相応しい持ち主を選ぶ。故に、戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」
「ふん。ようするに、他のマスターと決着を付けずに聖杯を手に入れても無意味って事でしょ。
前回、一番はじめに聖杯を手に入れたマスターは甘ちゃんだったのよ。敵のマスターとは戦いたくない、なんて言って聖杯から逃げたんだから」
吐き捨てるように言って、遠坂は言峰から視線を逸らす。
「――――うそ」
それはつまり、言峰は前回のマスターの一人で、聖杯を手に入れたものの、戦いを拒否して脱落したって事なのか……!?
「……言峰。あんた、戦わなかったのか」
「途中まで戦いはした。だが判断を間違えた。結果として私はカラの聖杯を手にしただけだ。
もっとも、私ではそれが限界だったろう。なにしろ他のマスターたちはどいつもこいつも化け物揃いだったからな。わたしは真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護されたよ」
「……思えば、監督役の息子がマスターに選ばれるなど、その時点であってはならぬ事だったのだ。
父はその折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会で聖杯を守っている」
そう言って、言峰綺礼という名の神父は背中を向けた。
その視線の先には、礼拝されるべき象徴が聳えている。
「話はここまでだ。
聖杯を手にする資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君たち七人が最後の一人となった時、聖杯は自ずと勝者の元に現れよう。
その戦い―――聖杯戦争に参加するかの意思をここで決めよ」
高みから見下ろして、神父は最後の決断を問う。
「――――――――」
言葉がつまる。
戦う理由がなかったのはさっきまでの話だ。
今は確実に戦う理由も意思も生まれている。
けれどそれは、本当に、認めていいものなのかどうか。
「まだ迷っているのか。
いいか、マスターというものはなろうとしてなれる物ではない。そこにいる凛は長く魔術師として修練してきたが、だからといってマスターとなるのが決定されていた訳ではないのだ。
決定されていた物があるとすれば、それは心構えが出来ていたかいないかだけだろう」
「マスターに選ばれるのは魔術師だけだ。魔術師ならばとうに覚悟などできていよう。
それが無い、というのならば仕方があるまい。
おまえも、おまえを育てた師も出来損ないだ。そんな魔術師に戦われても迷惑だからな、今ここで令呪を消してしまえ」
「――――――!」
言われるまでもない。
俺は――――
俺は逃げない。
正直、マスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても実感なんてまるで湧かない。
それでも、戦うか逃げるかしかないのなら、逃げる事だけはしない。
神父は言った。
魔術師ならば覚悟は出来ている筈だと。
だから決めないと。
たとえ半人前でも、衛宮士郎は魔術師なんだ。
憧れ続けた衛宮切嗣の後を追って、必ず正義の味方になると決めたのなら――――
「―――マスターとして戦う。
十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺は、あんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」
俺の答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべる。
「――――」
深く呼吸をする。
迷いは断ち切った。
男が一度、戦うと口にしたんだ。
なら、ここから先はその言葉に恥じないよう、胸を張って進むだけだ。
「それでは君をセイバーのマスターと認めよう。
この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。
―――これよりマスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」
重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に響いた。
その宣言に意味などあるまい。
神父の言葉を聞き届けたのは自分と遠坂だけだ。
この男はただ、この教会の神父として始まりの鐘を鳴らしたにすぎない。
「決まりね。それじゃ帰るけど、わたしも一つぐらい質問していい綺礼?」
「かまわんよ。これが最後かもしれんのだ、大抵の疑問には答えよう」
「それじゃ遠慮なく。綺礼、あんた見届け役なんだから、他のマスターの情報ぐらいは知ってるんでしょ。こっちは協会のルールに従ってあげたんだから、それぐらい教えなさい」
「それは困ったな。教えてやりたいのは山々だが、私も詳しくは知らんのだ。
衛宮士郎も含め、今回は正規の魔術師が少ない。私が知りうるマスターは二人だけだ。衛宮士郎を加えれば三人か」
「あ、そう。なら呼び出された順番なら判るでしょう。
仮にも監視役なんだから」
「……ふむ。一番手はバーサーカー。二番手はキャスターだな。あとはそう大差はない。先日にアーチャー、そして数時間前にセイバーが呼び出された」
「―――そう。それじゃこれで」
「正式に聖杯戦争が開始されたという事だ。
凛。聖杯戦争が終わるまで、この教会に足を運ぶ事は許されない。許されるとしたら、それは」
「自分のサーヴァントを失って保護を願う場合のみ、でしょ。それ以外にアンタを頼ったら減点ってコトね」
「そうだ。おそらくは君が勝者になるだろうが、減点が付いては教会が黙っていない。連中はつまらない論議の末、君から聖杯を奪い取るだろう。私としては最悪の展開だ」
「エセ神父。教会の人間が魔術協会の肩を持つのね」
「私は神に仕える身だ。教会に仕えている訳ではない」
「よく言うわ。だからエセなのよ、アンタは」
そうして、遠坂は言峰神父に背を向ける。
あとはそのまま、別れの挨拶もなしにズカズカと出口へと歩き出した。
「おい、そんなんでいいのか遠坂。あいつ、おまえの兄弟子なんだろ。なら―――」
もっとこう、ちゃんとした言葉を交わしておくべきではないのだろうか。
「いいわよそんなの。むしろ縁が切れて清々するぐらいだもの。そんな事より貴方も外に出なさい。もうこの教会に用はないから」
遠坂は立ち止まる事なく礼拝堂を横切り、本当に出ていってしまった。
はあ、とため息をもらして遠坂の後に続く。
と。
「っ――――!」
背後に気配を感じて、たまらずに振り返った。
いつのまに背後にいたのか、神父は何を言うのでもなく俺を見下ろしていた。
「な、なんだよ。まだなんかあるっていうのか」
言いつつ、足は勝手に後ずさる。
……やはり、こいつは苦手だ。
相性が悪いというか、肌に合わないというか、ともかく好きになれそうにない。
「話がないなら帰るからなっ!」
神父の視線を振り払おうと出口に向かう。
その途中。
「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」
そう、神託を下すように神父は言った。
その言葉は。
自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。
「―――なにを、いきなり」
「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には倒すべき悪が必要だ」
「っ――――――――」
目の前が、真っ暗になりそう、だった。
神父は言う。
衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。
……そう。何かを守ろうという願いは、
同時に、何かを犯そうとするモノを、望む事に他ならない――――
「―――おま、え」
けど、そんな事を望む筈がない。
望んだ覚えなんてない。
あまりにも不安定なその願望は、
ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。
だというのに神父は言う。
この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。
「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」
「っ――――――」
神父の言葉を振り払って、出口へと歩き出す。
「さらばだ衛宮士郎。
最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。
これより君の世界は一変する。
君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだからな」
◇◇◇
外に出た途端、肩に圧し掛かっていた重圧が消え去った。
あの神父から離れた、という事もあるが、
遠くからでも目立つ制服の遠坂と、
雨合羽を着込んだ金髪の少女がつかず離れずで立っている、なんて光景が妙に味があって気が抜けたらしい。
「――――――――」
セイバーは相変わらず無言だ。
じっとこっちを見ているあたり、俺がどんな選択をしたのか気になっているようだ。
「行きましょう。町に戻るまでは一緒でしょ、わたしたち」
言うだけ言ってさっさと歩き出す遠坂。
その後に続いて、俺たちも教会を後にする。
三人で坂を下りていく。
来た時もそう話した方じゃないが、帰りは一段と会話がない。
その理由ぐらい、鈍感な俺でも分かっていた。
教会での一件で、俺は本当にマスターになったのだ。
遠坂が俺とセイバーから離れて歩いているのは、きっとそういう理由だろう。
「――――」
それは理解してる。
理解しているけど、そんなふうに遠坂を区別するのは嫌だった。
「遠坂。おまえのサーヴァント、大丈夫なのか」
「え……?」
「あ、うん。アーチャーなら無事よ。……ま、貴方のセイバーにやられたダメージは簡単に消えそうにないから、しばらく実体化はさせられないだろうけど」
「じゃあ側にはいないのか」
「ええ、わたしの家で匿ってる状態。いま他のサーヴァントに襲われたら不利だから、傷が治るまでは有利な場所で敵に備えさせてるの」
なるほど。
うちはともかく、遠坂の家なら外敵に対する備えは万全なんだろう。
魔術師にとって自分の家は要塞のような物だ。そこにいる限り、まず負ける事などない。
逆を言えば、ホームグランドにいる限り、敵は簡単には襲いかかってこないという事か。
……うむ。
うちの結界は侵入者に対する警報だけだが、それだけでも有ると無いとでは大違いだし。
「そういえば遠坂。さっきヤツ、聖杯戦争の監督役って言ってたけどさ。アイツ、おまえのサーヴァントを知ってるのか」
「知らない筈よ。わたし、教えてないもの」
「そうなのか。おまえとアイツ、仲がいいからそうだと思ってたけど」
「……あのね衛宮くん。忠告しておくけど、自分のサーヴァントの正体は誰にも教えちゃ駄目よ。たとえ信用できる相手でも黙っておきなさい。そうでないと早々に消える事になるから」
「……? セイバーの正体って、なにさ」
「だから、サーヴァントが何処の英雄かって言う事よ。
いくら強いからって戦力を明かしてちゃ、いつか寝首をかかれるに決まってるでしょ。……いいから、後でセイバーから真名を教えてもらいなさい。
そうすればわたしの言ってる事が判る……けど、ちょっとたんま。衛宮くんはアレだから、いっそ教えてもらわない方がいいわね」
「なんでさ」
「衛宮くん、隠し事できないもの。なら知らない方が秘密にできるじゃない」
「……あのな、人をなんだと思ってるんだ。それぐらいの駆け引きはできるぞ、俺」
「そう? じゃあわたしに隠している事とかある?」
「え……遠坂に隠してる事って、それは」
そう口にして、ぼっと顔が熱くなった。
別に後ろめたい事なんてないけど、その、なんとなく憧れていた、なんて事は隠し事に入るんだろうか……?
「ほら見なさい。何を隠してるか知らないけど、動揺が顔に出るようじゃ向いてないわ。
貴方は他にいいところがあるんだから、駆け引きなんて考えるのは止めなさい」
「……む。それじゃ遠坂はどうなんだよ。あの神父にも黙ってるって事は、アイツも信用してないって事か?」
「綺礼? まさか。私、アイツを信用するほどおめでたくないわ。アイツはね、教会から魔術協会に鞍替えしたくせに、まだ教会に在籍している食わせ者なのよ。人の情報を他のマスターに売るぐらいはやりかねないわ」
ふんだ、と忌々しげに言い捨てる遠坂。
遠坂は本気であの神父を信用してないようだ。
それはそれでホッとしたけど、それでも、なんとなく今の台詞には、神父への親しみが含まれている気がした。
―――そうして橋を渡る。
もうお互いに会話はない。
冷たい冬の空気と、吐きだされる白い吐息。
水の流れる小さな音と、橋を照らす目映い街灯。
そういった様々なものが、今はひどく記憶に残る。
不思議と、隣りを歩く遠坂の顔を見ようとは思わなかった。
今は遠坂の顔を見るより、こうして一緒に夜の橋を歩く事の方が得難いと思う。
俺と、遠坂と、まだ何も知らないセイバーという少女。
この三人で、何をするでもなく、帰るべき場所へと歩いていく。
交差点に着いた。
それぞれの家に続く坂道の交差点、衛宮士郎と遠坂凛が別れる場所。
「ここでお別れね。義理は果たしたし、これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ。きっぱり別れて、明日からは敵同士にならないと」
今までの曖昧な位置づけに区切りをつける為だろう。
遠坂は何の前置きもなく喋りだして、唐突に話を切った。
それで分かった。
彼女は義務感から俺にルールを説明したんじゃない。
あくまで公平に、何も知らない衛宮士郎の立場になって肩入れしただけなのだ。
だから説明さえ終われば元通り。
あとはマスターとして、争うだけの対象になる。
「……む?」
けど、だとしたら今のはヘンだろう。
遠坂は感情移入をすると戦いにくくなる、と言いたかったに違いない。
遠坂から見れば今夜の事は全て余分。
“これ以上一緒にいると何かと面倒” そんな台詞を口にするのなら、遠坂は初めから一緒になんていなければ良かったのだ。
聡明な遠坂の事だから、それは判りきっている筈。
それでも損得勘定を秤にもかけないで、遠坂凛は衛宮士郎の手を取った。
だから今夜の件は何の思惑もない、本当にただの善意。
目の前にいる遠坂は、学校で見る彼女とはあまりにも違う。
控えめにいっても性格はきついし、ツンケンしていて近寄りがたいし、学校での振る舞いはなんなんだー、と言いたくなるぐらいの変わり様だ。
いやもう、こんなのほとんどサギだと思う。
……だが、まあそれでも。
遠坂凛は、みんなが思っていた通りの彼女でもあったのだ。
「なんだ。遠坂っていいヤツなんだな」
「は? なによ突然。おだてたって手は抜かないわよ」
そんな事は判ってる。
コイツは手を抜かないからこそ、情が移ると面倒だって言い切ったんだから。
「知ってる。けど出来れば敵同士にはなりたくない。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」
「な――――」
何故か、それきり遠坂は黙ってしまった。
遠坂の家は俺とは反対方向にある、洋風の住宅地だって聞いている。
一応ここまで面倒を見てくれたんだから、こっちは遠坂を見送ってから戻りたいんだが。
「と、とにかく、サーヴァントがやられたら迷わずさっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば命だけは助かるんだから」
「それは気が引けるけど、一応聞いておく。けどそんな事にはならないだろ。どう考えてもセイバーより俺のほうが短命だ」
冷静に現状を述べる。
「――――ふう」
またもや謎のリアクションを見せる遠坂。
彼女は呆れた風に溜息をこぼした後、ちらり、とセイバーを流し見た。
「いいわ、これ以上の忠告は本当に感情移入になっちゃうから言わない。
せいぜい気を付けなさい。いくらセイバーが優れているからって、マスターである貴方がやられちゃったらそれまでなんだから」
くるり、と背を向けて歩き出す遠坂。
「――――」
だが。
幽霊でも見たかのような唐突さで、彼女の足はピタリと止まった。
「遠坂?」
そう声をかけた時、左手がズキリと痛んだ。
「――――ねえ、お話は終わり?」
幼い声が夜に響く。
歌うようなそれは、紛れもなく少女の物だ。
視線が坂の上に引き寄せられる。
いつのまに雲は去ったのか、空には煌々と輝く月。
――――そこには。
伸びる影。
仄暗く青ざめた影絵の町に、それは、在ってはならない異形だった。
「―――バーサーカー」
聞き慣れない言葉を漏らす遠坂。
……追究する必要などない。
アレは紛れもなくサーヴァントであり、
同時に―――十年前の火事をなお上回る、圧倒的なまでの死の気配だった。
「こんばんはお兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」
微笑みながら少女は言った。
その無邪気さに、背筋が寒くなる。
「――――――――」
いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。
体はおろか意識まで完全に凍っている。
アレは、化け物だ。
視線さえ合っていないのに、ただ、そこに在るだけで身動きがとれなくなる。
少しでも動けばその瞬間に死んでいるだろう、と当然のように納得できた。
むき出しの腹に、ピタリと包丁を押し当てられている感覚。
……だというのに、何も、何も感じない。
あまりにも助かるという希望がない為だろう。
恐怖も焦りも、すべて絶望で覆われて、何も感じない。
「――――やば。あいつ、桁違いだ」
麻痺している俺とは違い、遠坂には身構えるだけの余裕がある。
……しかし、それも僅かな物だろう。
背中越しだというのに、彼女が抱いている絶望を感じ取れるんだから。「あれ? なんだ、あなたのサーヴァントはお休みなんだ。つまんないなぁ、二匹いっしょに潰してあげようって思ったのに」 坂の上、俺たちを見下ろしながら、少女は不満そうに言う。
……ますますやばい。
あの少女には、遠坂のサーヴァントが不在だという事も見抜かれている。 ―――と。
少女は行儀良くスカートの裾を持ち上げて、とんでもなくこの場に不釣り合いなお辞儀をした。「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」
「アインツベルン――――」
その名前に聞き覚えでもあるのか、遠坂の体がかすかに揺れた。 そんな遠坂の反応が気に入ったのか、少女は嬉しそうに笑みをこぼし、
「じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」
歌うように、背後の異形に命令した。 巨体が飛ぶ。
バーサーカーと呼ばれたモノが、坂の上からここまで、何十メートルという距離を一息で落下してくる――――!「――――シロウ、下がって……!」
セイバーが駆ける。雨合羽がほどけ、一瞬、視界が閉ざされた。 バーサーカーの落下地点まで駆けるセイバーと、
旋風を伴って落下してきたバーサーカーとは、まったくの同時だった。「っ…………!」
空気が震える。
岩塊《がんかい》そのものとも言えるバーサーカーの大剣を、セイバーは視えない剣で受け止めていた。「っ――――」
口元を歪めるセイバー。
そこへ 旋風じみた、バーサーカーの大剣が一閃する―――! 轟音。
大気を裂きかねない鋼と鋼のぶつかり合いは、セイバーの敗北で終わった。 ざざざざ、という音。
バーサーカーの大剣を受けたものの、セイバーは受け止めた剣ごと押し戻される。「くっ……」
セイバーの姿勢が崩れる。
追撃する鉛色のサーヴァント。
灰色の異形は、それしか知らぬかのように大剣を叩きつける。 避ける間もなく剣で受けるセイバー。
彼女の剣が見えなかろうと関係ない。
バーサーカーの一撃は全身で受け止めなければ防ぎきれない即死の風だ。 故に、セイバーは受けに回るしかない。
彼女にとって、勝機とはバーサーカーの剣戟《けんげき》の合間に活路を見いだす事。
だが。
それも、バーサーカーに隙があればの話。 黒い岩盤の剣は、それこそ嵐のようだった。
あれほどの巨体。
あれほどの大剣を以ってして、バーサーカーの速度はセイバーを上回っている。 繰り出される剣戟は、ただ叩きつけるだけの、何の工夫もない駄剣だ。 だがそれで十分。
圧倒的なまでの力と速度が有るのなら、技の介入する余地などない。
技巧とは、人間が欠点を補うために編み出すもの。
そんな弱点《もの》、あの巨獣には存在しない。「――――逃げろ」
凍り付いた体で、ただ、そう呟いた。
アレには勝てない。
このままではセイバーが殺される。
だからセイバーは逃げるべきだ。
彼女だけなら簡単に逃げられる。
そんな事、他でもない彼女自身がよく判ってるだろうに…………!「あ――――」
あれは、まずい。
体は麻痺しているクセに、頭だけは冷静に働くのか。
絶え間なく繰り出される死の嵐。
捌《さば》ききれず後退したセイバーに、今度こそ、
防ぎ切れぬ、終りの一撃が繰り出された。
セイバーの体が浮く。
バーサーカーの大剣を、無理な体勢ながらもセイバーは防ぎきる。
それは致命傷を避けるだけの行為だ。
満足に踏み込めなかったため大剣を殺しきれず、衝撃はそのままセイバーを吹き飛ばす。
―――大きく弧を描いて落ちていく。
背中から地面に叩きつけられる前に、セイバーは身を翻して着地する。
「……ぅ、っ……!」
なんとか持ち直すセイバー。
だが。その胸には、赤い血が滲んでいた。「――――あれ、は」
……なんて、バカだ。
俺は大事な事を失念していた。
サーヴァントが一日にどれくらい戦えるかは知らないが、セイバーはこれで三戦目だ。
加えて彼女の胸には、ランサーによって穿たれた傷がある――――「つ、う――――」
胸をかばうように構えるセイバー。
バーサーカーは暴風のように、傷ついたセイバーへと斬りかかり――――
その背中に、幾条もの衝撃を受けていた。「―――Vier Stil Erschieung……!」
いかなる魔術か、遠坂の呪文と共にバーサーカーの体が弾ける。
迸《ほとばし》る魔力量から、バーサーカーに直撃しているのは大口径の拳銃に近い衝撃だろう。 だがそれも無意味。
バーサーカーの体には傷一つ付かない。
セイバーのように魔力を無効化しているのではない。
あれは、ただ純粋に効いていないだけ。「っ……!? く、なんてデタラメな体してんのよ、こいつ……!」
それでも遠坂は手を緩めず、
バーサーカーも、遠坂の魔術を意に介さずセイバーへ突進する。「…………っ」
苦しげに顔をあげるセイバー。
彼女はまだ戦おうと剣を構える。
―――それで、固まっていた体は解けた。
「だめだ、逃げろセイバー……!」
満身の力で叫ぶ。
それを聞いて 彼女は、敵うはずのない敵へと立ち向かった。 バーサーカーの剣戟に終わりはない。
一合受ける度にセイバーの体は沈み、刻一刻と最後の瞬間を迎えようとする。
―――それでも、あんな小さな体の、どこにそんな力があったのか。 セイバーは決して後退しない。
怒濤と繰り出される大剣を全て受け止め、気力でバーサーカーを押し返そうとする。
勝ち目などない。
そのまま戦えば敗れると判っていながら踏み止まる彼女の姿は、どこか異常だった。 その姿に何を感じたのか。
「――――!」
絶えず無言だった異形が吠えた。 防ぎようのない剣戟。
完璧に防ぎに入ったセイバーもろともなぎ払う一撃は、今度こそ彼女を吹き飛ばした。
だん、と。
遠くに、何かが落ちる音。 ……鮮血が散っていく。
その中で、もはや立ち上がる事など出来ない体で。
「っ、あ…………」
彼女は、意識などないまま立ち上がった。
……まるで。
そうしなければ、残された俺が、殺されるのだと言うかのように――――「――――――――――――――――――――――――」
それで。
自分がどれほど愚かな選択をしたか、思い知った。 セイバーを斬り伏せたバーサーカーは、そこで動きを止めた。
立ちつくす俺と遠坂に目もくれず、坂の上にいる主の命令を待つ。「あは、勝てるわけないじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシャ最大の英雄なんだから」
「……!? ギリシャ最大の英雄って、まさか――――」「そうよ。そこにいるのはヘラクレスっていう魔物。
あなたたち程度が使役できる英雄とは格が違う、最凶の怪物なんだから」 イリヤと名乗った少女は、愉しげに瞳を細める。
それは敵にトドメを刺そうとする愉悦の目だ。 ―――倒されるのが誰かは言うまでもない。
彼女はここで殺される。
ならどうするというのか。
彼女に代わってあの怪物と戦えというのか。
それは出来ない。
半端な覚悟でアレに近づけば、それだけで心臓が止まるだろう。 俺は――――
俺は―――倒れている誰かを、見捨てる事はできない。
衛宮士郎はそういう生き方を選んだ筈だし、
なにより―――自分を守る為に戦ってくれたあの少女を、あんな姿にしておけない。
「いいわよバーサーカー。そいつ、再生するから首をはねてから犯しなさい」
バーサーカーの活動が再開する。
俺は――――
「こ―――のぉおお…………!!」
全力で駆けだしていた。
あの怪物をどうにかできる筈がない。
だからせめて、倒れているセイバーを突き飛ばして、バーサーカーの一撃から助け――――
「――――え?」
どたん、と倒れた。
なんで……?
俺はセイバーを突き飛ばして、バーサーカーからセイバーを引き離して、その後はその後で何か考えようって思ったのに、なんで。
「が――――は」
なんで、こんな。
地面に倒れて。息が、できなくなっているのか。
「!?」
……驚く声が聞こえた。
まず、もう目の前にいるセイバー。
ついでに遠くで愕然としている遠坂。
それとなぜか、呆然と俺を見下ろしている、イリヤという少女から。
「……あ、れ」
腹がない。
地面に倒れている。
アスファルトに、傷の割には少ない血液とか柔らかそうな臓物とか焚き木のように折れた無数の骨とか痛そうだなオイまあそういったモノがこぼれている。
「……そうか。なんて、間抜け」
ようするに、間に合わなかったのだ。
だからそう―――突き飛ばすのは無理だから、そのまま盾になってみたのか。
そうしてあの鉈のお化けみたいな剣で、ごっそりと腹をもっていかれてしまった。
「――――こふっ」
ああもう、こんな時まで失敗するなんて呆れてしまう。
正義の味方になるんだって頑張ってきたけど、こういう大一番にかぎってドジばっかりだ。
「――――なんで?」
ぼんやりと、銀髪の少女が呟く。
少女はしばらく呆然とした後、
「……もういい。こんなの、つまんない」
セイバーにトドメをささず、バーサーカーを呼び戻した。
「―――リン。次に会ったら殺すから」
立ち去っていく少女。
それを見届けた後、視界が完全に失われた。
意識が途絶える。
今度ばかりは取り返しがつかない。
ランサーに殺された時は知らないうちに助かったが、仏の顔も三度までだ。
こんな、腹をごっそりなくした人間を助ける魔術なんてないだろう。
「……あ、あんた何考えてるのよ! わかってるの、もう助けるなんて出来ないっていうのに……!」
叱咤する声が聞こえた。
……きっと遠坂だ。なんだか本気で怒っているようで、申し訳ない気がする。
でも仕方ないだろ。
俺は遠坂みたいに何でもできる訳じゃないし、自由に出来るのはこの体ぐらいなもんだ。
……だから、そう。
こうやって体を張る事ぐらいしか、俺には、出来る事がなかったんだから――――
◇◇◇ ◇◇◇
それは、五年前の冬の話。
月の綺麗な夜だった。
自分は何をするでもなく、父である衛宮切嗣と月見をしている。
冬だというのに、気温はそう低くはなかった。
縁側はわずかに肌寒いだけで、月を肴にするにはいい夜だった。
この頃、切嗣は外出が少なくなっていた。
あまり外に出ず、家にこもってのんびりとしている事が多くなった。
……今でも、思い出せば後悔する。
それが死期を悟った動物に似ていたのだと、どうして気が付かなかったのか。
「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
ふと。
自分から見たら正義の味方そのものの父は、懐かしむように、そんな事を呟いた。
「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」
むっとして言い返す。
切嗣はすまなそうに笑って、遠い月を仰いだ。
「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」
言われて納得した。
なんでそうなのかは分からなかったが、切嗣の言うことだから間違いないと思ったのだ。
「そっか。それじゃしょうがないな」
「そうだね。本当に、しょうがない」
相づちをうつ切嗣。
だから当然、俺の台詞なんて決まっていた。
「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。
爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」
“――――俺が、ちゃんと形にしてやっから”
そう言い切る前に、父は微笑《わら》った。
続きなんて聞くまでもないっていう顔だった。
衛宮切嗣はそうか、と長く息を吸って、
「ああ――――安心した」
静かに目蓋を閉じて、その人生を終えていた。
それが、朝になれば目覚めるような穏やかさだったから、幼い自分は騒ぎ立てなかった。
死というものを見慣れていた事もあったのだろう。
何をするでもなく、冬の月と、長い眠りに入った、父親だった人を見上げていた。
庭には虫の声もなく、あたりはただ静かだった。
明るい夜《やみ》の中、両目だけが熱かったのを覚えている。
泣き声もあげず、悲しいと思う事もない。
月が落ちるまで、ただ、涙だけが止まらなかった。
それが五年前の冬の話。
むこう十年分ぐらい泣いたおかげか、その後はサッパリしたものだった。
藤ねえの親父さんに葬儀の段取りをしてもらって、衛宮の屋敷に一人で住むようになった。
切嗣がいなくなっても変わらない。
衛宮士郎は切嗣《オヤジ》のような正義の味方になるのだから、のんびりしている暇などありはしない。
――――そう。
口にはしなかったけど、ちゃんと覚えていたんだ。
十年前、火事場に残されていた自分を救い出してくれた男の姿を。
意識もなく、全身に火傷を負って死にかけていた子供を抱き上げて、目に涙をためるぐらい喜んで、外に連れ出してくれた。
その時から、彼は俺の憧れになった。
誰も助けてくれなかった。
誰も助けてやれなかった。
その中でただ一人助けられた自分と、ただ一人助けてくれた人がいた。
―――だから、そういう人間になろうと思ったのだ。
彼のように誰かを助けて、誰も死なせないようにする正義の味方に。
その彼こそが“そういうモノ”に成りたかったと遺して、自分の前で穏やかに幕を閉じた。
子が父の跡を継ぐのは当然のこと。
衛宮士郎は正義の味方になって、かつての自分のような誰かを助けなくてはいけない。
幼い頃にそう誓った。
誰よりも憧れたあの男の代わりに、彼の夢を果たすのだと。
……だが、正直よく分からない。
切嗣の言っていた正義の味方ってどんなモノなのかとか、早く一人前になる方法とか、切嗣の口癖だったみんなが幸せでいられればいい、なんて魔法みたいな夢の実現方法とか、それと、マスターなんてモノになっちまって、一緒に付いてきた金髪の女の子とか頭んなかがゴチャゴチャだ、ホント――――
「……………………っ」
目を覚ますと見慣れた部屋にいた。
「なんだ。ここ、俺の部屋じゃないか」
声をだした途端、気分がとんでもなく悪くなった。
「……う……口ん中、まずい……」
濁った血の味がする。
口内に血が溜まっていたのか、呼吸をするだけでどろっとした空気が流れ込んできた。
「――――」
なんでこんな事になっているのか、いまいち不明。
ただ猛烈な吐き気がするんで、ともかく洗面所に行って顔を洗いたかった。
「――――よっと」
体を起こす。
目眩がした。
思わず倒れそうになって、なんとか壁に手を突く。
「……う」
動くと吐き気が増す。
……いや、吐き気というよりは苦痛だ。
体は重いし、動く度に腹ん中がぐるんぐるんと回るよう。きっと胃に焼けた鉛を流し込んだら、こんな気分になるのではあるまいか。
「……あつ……ヘンな想像したら熱でてきた」
額に滲んだ汗を拭って、よたよたと壁づたいに部屋を出る。
「……よし、少しは落ち着いた」
顔を洗って、ついでに汗ばんでいた体を拭く。
「……?」
なぜか腹には包帯が巻かれていた。
思い当たる節がないので、とりあえず保留にしておく。
「……ハラ減ったな。なんか作り置きでもあったっけ……」
胃の中は相変わらずぐるんぐるんに気持ち悪いのに、体は栄養を欲しているようだ。
「くっ……」
ええい、と気合いをいれて壁づたいに歩き出す。
目眩は相変わらず起きるし、なにより体が鈍い。
「いた―――いたたた――――」
情けない声を出しながら前進する。
……ほんと、寝る前に何をしたんだろう、俺。
こんな、体中が筋肉痛になるような鍛錬なんてした覚えはないんだけどな。
居間に到着。
桜も藤ねえも今日は学校なのだろう。
居間には朝食の支度もなければ、騒がしい藤ねえの暴れっぷりもない。
静かな居間は、いつもの日曜日といった風景―――
「おはよう。勝手にあがらせてもらってるわ、衛宮くん」
―――なんかじゃねえ。
「な、え――――!?」
座布団に座っているのは遠坂凛だ。
その落ち着きようといったら、まるでこっちがお客さまなのでは、と勘違いさせられるほど。
うん、そういう意味でも二度びっくり。
「……………」
なんと返答していいか分からず、とりあえず座布団に座る。
で、深呼吸をして一言。
「遠坂、おまえどうして」
「待った。その前に謝ってくれない? 昨夜の一件についての謝罪を聞かないと落ち着けないわ」
“うちに居るんでしょうか?”なんて言う暇もない。
遠坂はいかにも怒ってます、という視線でこっちを睨んでいる。
どうも昨夜の一件とやらに腹を立てているらしいが、昨夜の一件って一体――――
「――――待て」
思い出した。
そうだ、何をのんびり朝の空気に浸っているのか。
俺はセイバーを助けようとして、それで―――バーサーカーに、腹を切り捨てられたのだ。
「……う」
……吐き気が戻ってくる。
あの、体がぽっかりとなくなった感覚を思い出して寒気がした。
腹の中のモノがどろり、と胎動する。
それはこの上なく気持ち悪い。
この上なく気持ち悪いけど、同時に生きているという確かな証だ。
って、おかしいぞこれ。
俺、ほぼ即死だった筈じゃないか?
「―――ヘンだ。なんだって生きてるんだ、俺」
「思い出した? 昨夜、自分がどんなバカをしでかしたかって。なら少しは反省しなさい」
ふん、と鼻を鳴らして非難してくる遠坂。
……むっ、なんかカチンときた。
遠坂がうちにいる不思議さで固まっていた頭に、ようやくエンジンがかかる。
「なに言ってんだ、あの時はあれ以外する事なんてなかっただろっ! あ……いや、そりゃあ結果だけ見ればバカだったけど、本当はもっと上手くやるつもりだったんだ。
だから、アレは間違いなんかじゃない」
バカじゃないぞ、と視線で抗議する。
「……む」
な、なんだよ。
はあ、なんて、これ見よがしに疲れた溜息なんてこぼしやがって。
「マスターが死んだらサーヴァントは消えるって言ったでしょう? だっていうのにサーヴァントを庇うなんてどうかしてるわ」
「いい、貴方が死んでしまえばセイバーだって消えてしまう。セイバーを救いたかったのなら、もっと安全な場所からできる手段を考えなさい。
……まったく、身を挺してサーヴァントを守る、なんて行為は無駄以外の何物でもないって解ってるの?」
「庇った訳じゃない。助けようとしたらああなっちまっただけだ。俺だってあんな目にあうなんて思わなかった」
あんな怪物に近寄れば死ぬだろうな、ぐらいは考えてはいたが、それはそれだ。
「……そう。勘違いしているみたいね、貴方」
そんなこっちの考えを見抜いたのか、遠坂はますます不機嫌になっていく。
「あのね衛宮くん。きっちりと言っておくけど、教会まで連れて行ったのは貴方に勝たせる為じゃないわ。
あれはね、何も知らない貴方が一人でも生き残れるようにって考えた結果なの。どうも、そのあたりを解ってなかったみたいね」
「俺が生き残れるように……?」
「そうよ。負ける事がそのまま死に繋がるって知れば、そう簡単に博打は打たなくなる。衛宮くん、こういう状況でも一人で夜出歩きそうだから。
脅しをかけておけば火中の栗を拾うこともなし、上手くいけば最後までやり過ごせるかもって思ったの」
「そうか。それは気づかなかった」
だからそれに気が付かず、自分からバーサーカーに向かっていった俺に文句を言っていたのか。
「……? けどどうして遠坂が怒るんだよ。俺がヘマをやらかしたのは遠坂には関係ないだろ」
「関係あるわよ、このわたしを一晩も心配させたんだから!」
ああもう、と癇癪を起こす遠坂。
……けど、そうか。
心配してくれたのは素直に嬉しい。
この分からすると、手当をしてくれたのも遠坂のようだ。
「そうか。遠坂には世話になったんだな。ありがとう」
感謝と謝罪をこめて頭をさげる。
「――――」
「ふん、分かればいいのよ。これに懲りたら、次はもっと頭のいい行動をしてよね」
ぷい、と視線を逸らす遠坂。
仕草そのものは刺々しいままだが、なんとなく機嫌は良くなったような気がする。
「じゃあこれで昨日の事はおしまいね。
本題に入るけど、真面目な話と昨日の話、どっちにする?」
「?」
遠坂は当たり前のように話をふってくる。
そのスッパリさ加減に面を食らったが、考えてみれば話があるから遠坂はここにいるのだ。
衛宮士郎に用がなければ、遠坂凛はとっくに自分の棲家に帰っているだろう。
敵である遠坂が、敵の陣地に居座ってまで話したがる本題とは何なのか。
その思惑にも興味はあるし、昨日あれからどうなったかも知りたい。
聞かない訳にもいかないだろうし、ここは――――
「まずは昨日の話からのがいい」
「そうね。まずは状況を知るのが先。なんだ、まともに頭が働くじゃない、貴方」
満足げに微笑んで、遠坂は手短に昨夜の事を説明した。
なんでも俺が気を失った後、バーサーカーは立ち去ってしまったらしい。
その後、よく見れば俺の体は勝手に治りはじめ、十分もしたら外見は元通りになった。
傷は治ったものの意識が戻らない俺をここまで運んで、あとは今に至るという訳だとか。
「ここで重要なのは、貴方は貴方一人で生ききったっていう事実よ。確かにわたしは手助けしたけど、あの傷を完治させたのは貴方自身の力だった。そこ、勘違いしないでよね」
「話を聞くとそうみたいだけど。なんだ、遠坂が治してくれたんじゃないのか?」
「まさか。死にかけてる人間を蘇生させる、なんて芸当は、もうわたしには出来ない。衛宮士郎は自分でぶっ飛んだ中身をどうにかしたのよ」
「――――む」
そんな事を言われてもどうしろと。
確かに俺の腹は元通りになっているけど、正直遠坂の話には半信半疑だ。
俺には蘇生はおろか治療の魔術さえ使えないんだから。
「そうなると原因はサーヴァントね。
貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召喚の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね」
「ライン? ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」
「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。
なら話は早いわ。ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト」
「見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。
普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ」
「……む。簡単に言って、川の水が下から上に流れているようなもんか?」
「上手い喩えね。本来ならあり得ないだろうけど、セイバーの魔力ってのは川の流れを変えるほど膨大なんでしょう。そうでなければあの体格でバーサーカーとまともに打ち合うなんて考えられない」
「本来ならあり得ない……じゃあ遠坂とアーチャーは普通の魔術師と使い魔の関係なのか」
「そうよ。人の言うことぜんっぜん聞かないヤツだけど、一応そういう関係」
「マスターとサーヴァントの繋がりなんて、ガソリンとエンジンみたいなものだもの。こっちが魔力を提供して、あっちがそれを食べるだけ。
……まあ中には肉体面でもサーヴァントと共融して擬似的な“不死”を得たマスターもいたそうよ。サーヴァントが死なない限り自分も死なない、なんていうヤツなんだけど……衛宮くん、人の話聞いてる?」
「え……? ああ、聞いてる。
じゃあ遠坂、俺の体って多少の傷はほっといても治るって事か?」
「貴方のサーヴァントの魔力を消費してね。理屈は解らないけど、原因がセイバーの実体化にある事は間違いないわ。貴方が自然治癒の呪いなんて修得している筈はないから」
「当たり前だ。そんな難しいこと、親父から教えて貰った事ないからな」
「そうじゃなくて、そうだったらわたしが悩む必要はなかったっていう事よ。いいわ、貴方には関係のない話だから」
「……?」
なんだろう。
遠坂の言葉は婉曲で分かりづらいと思う。
「まあいいわ。とにかくあまり無茶はしない事。
今回は助かったからいいけど、次にあんな傷を負ったらまず助からない筈だから。多少の傷なら治る、なんていう甘い考えは捨てた方がいいでしょうね」
「分かってる。俺がかってにケガして、それでセイバーから何かを貰ってる、なんていうのは申し訳ない」
「バカね、そんな理由じゃないわよ。断言してもいいけど、貴方の傷を治すと減るのはセイバーの魔力だけじゃない。
―――貴方、それ絶対なんか使ってるわ。
寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから」
ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。
それには確かに同感なのだが。
「遠坂。預金残高は関係ないのでは」
「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!
そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!」
ガアー! と私怨の炎を噴き上げる遠坂凛。
不思議だ。
話せば話すほど、こっちの遠坂が地で、学校での遠坂がよそ行きだと判ってしまう。
……ああ、いやまあ、そんなのは昨日の段階で判りきっていた事だったか。
「……まあ、お金の話は置いとくとして。
次は真面目な話だけど、いいかしら衛宮くん」
「遠坂がここに残った本題ってヤツだろ。いいよ、聞こう」
「じゃあ率直に訊くけど。衛宮くん、貴方これからどうするつもり?」
本当に率直に、遠坂は一番訊いてほしくないコトを訊いてくる。
……いや、それは違うか。
訊いてほしくないんじゃなくて、ただ考えがおよばないだけ。
これからどうするかなんて、それこそこっちが訊きたい問題だ。
「……正直、判らない。聖杯を競い合うって言うけど、魔術師同士の戦いなんてした事がない。
第一、俺は――――」
殺し合いは出来れば避けたいし、何より―――
「聖杯なんていう得体の知れないモノに興味はないんだ。
欲しくないモノの為に命を張るのは、どうかと思う」
「言うと思った。貴方ね、そんなこと言ったらサーヴァントに殺されるわよ」
「な……殺されるって、どうして!?」
「サーヴァントの目的も聖杯だから。
彼等は聖杯を手に入れる、という条件だからこそ人間《マスター》の召喚に応じているのよ」
「サーヴァントにとって最も重要なのは聖杯なの。
彼らは聖杯を手に入れる可能性があるからマスターに従い、時にマスターの為に命を落とす。
だっていうのに聖杯なんていらないよ、なんて言ってみなさい。裏切り者、と斬り殺されても文句は言えないでしょ」
「……なんだそれ。おかしいじゃないか、サーヴァントっていうのはマスターが呼び出した者なんだろ。
なら――――」
「サーヴァントが無償で人間に従うなんて思ってたの?
聖杯は手に入れた者の望みを叶える。それはマスターの守護者であるサーヴァントも例外じゃない。
サーヴァントたちにもね、それぞれ何らかの欲望があるのよ。だからこそ彼等は本来有り得ない召喚に応じている」
「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。
聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼びだしに応じるのよ」
「――――――――」
サーヴァントにも欲望がある……?
ならあのセイバーも、聖杯を手に入れて叶えようとする願いがある、という事なのか。
「だからサーヴァントはマスターが命令しなくとも他のマスターを消しにかかる。聖杯を手に入れるのは一人だけ。自分のマスター以外に聖杯が渡るのは彼らだって承知できないのよ。
マスターと違って、サーヴァントには令呪を奪う、なんてコトはできない。彼らが他のマスターを無力化するには殺す以外に方法がない」
「だからね、たとえマスター本人に戦う意思がないとしても戦いは避けられないのよ。
サーヴァントに襲われたマスターは、自分のサーヴァントでこれを撃退する。それが聖杯戦争なんだって、綺礼から嫌っていうほど聞かされたでしょう?」
「――――ああ。それは昨日の夜教えられた。
けど――――」
それはつまり、サーヴァントとサーヴァントを殺し合わせる、という事だ。
マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、サーヴァントが聖杯を求めて召喚に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、それじゃあ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。
……なら。
自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡って争い、殺し、殺される立場だというのか。
「……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流してた」
「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ」
「いや、だから。それは」
たとえ仮初めの死だとしても。
この世界で、人の姿をしたモノが息絶えるという事に変わりはない。
「なに、人殺しだっていうの? 魔術師のクセにまだそんな正義感振り回してるわけ、貴方?」
「――――――――」
遠坂の言うことはもっともだ。
魔術師である以上、死は身近に存在する。
そんな事はとっくに覚悟しているし、理解している。
それでも俺は―――人の生き死にに善悪を計れるほど強くはない。
「―――当然だろう。相手を殺すための戦いなんて、俺は付き合わない」
「へえ。それじゃあみすみす殺されるのを待つだけなんだ。で、勝ちを他のマスターに譲るのね」
「そうじゃない。要は最後まで残っていればいいんだろう。自分から殺し合いをする気はないけど、身を守るための戦いなら容赦はしないさ。
……人を殺しに来る相手なら、逆に殺されても文句は言えないだろ」
「ふーん、受けに回るんだ。それじゃあ他のマスターが何をしようが傍観するのね。例えば昨日のアイツが暴れ回って、町の人間を皆殺しにしても無視するってワケ」
昨日のアイツ……?
それは、あの人とも思えぬ異形の鬼の事か。
「――――――――」
一撃で家の一軒や二軒、優に崩す怪力。
……たしかにアレがその気になれば、こんな小さな町なんて一晩で壊滅する。
くわえて、なにより厄介なのはサーヴァントというのは基本的に霊体だという事だ。
霊感のない人間には姿さえ観測できない。
にも関わらず実体を持つかのように現世に干渉できるという時点で、サーヴァントは最強の兵器と言えるだろう。
なにしろ今の科学では、霊体に効果のある兵器など存在しない。
こちらの攻撃は通じず、あちらの攻撃は通じる。
これではワンサイドゲームどころの話じゃない。
サーヴァントによる殺害は、一般人から見れば自然災害のようなものなのだ。
姿のない殺戮者に襲われた人間の死は、事故死か自殺としか扱われまい。
「なんだよそれ。サーヴァント―――いや、マスターとサーヴァントは、他のマスターしか襲わないんじゃないのか。町の人たちは無関係だろう」
「ええ、そうだったらどんなに平和な事か。けど、それなら見届け役の綺礼なんていらないでしょ?」
「一つ言い忘れていたけど、サーヴァントっていうのは霊なの。彼等はもう完成したものだから、今以上の成長はない。
けど燃料である魔力だけは別よ。
蓄えた魔力が多ければ多いほど、サーヴァントは生前の特殊能力を自由に行使できるわ。
そのあたりはわたしたち魔術師と一緒なんだけど……貴方、この意味解る?」
「解る。魔術を連発できるって事だろ」
魔力というのは弾丸に籠める火薬で、魔術師というのは銃と見ればいい。
銃の種類は短銃、ライフル銃、マシンガン、ショットガンと、魔術師ごとに性能が異なる。
その例で言えば、サーヴァントって連中は銃ではなく大砲だ。
火薬を大量に消費することで、巨大な弾を撃ち放つ。
「そうよ。けどサーヴァント達は私たちみたいに自然から魔力《マナ》を提供されてる訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。
それを補助するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの」
「けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?
その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。
サーヴァントは霊体だから。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと」
「――――む?」
同じモノを食べれば栄養になる……?
「同じモノって、霊体のコトか? けどなんの霊を食べるっていうんだよ」
「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。
なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?」
「――――あ」
簡単な話だ。
俺たちが肉を食べるように、人の霊である彼らはつまり――――
「ご名答。まあ魔力の補充なんて、聖杯に補助されたマスターからの提供だけで、大抵は事足りる。
けど一人より大勢の方が大量摂取できるのは当然でしょ?
はっきり言ってしまえばね、実力のないマスターは、サーヴァントに人を食わせるのよ」
「――――」
「サーヴァントは人間の原感情や魂を魔力に変換する。
自分のサーヴァントを強くしたいのならそれが一番効率がいい。人間を殺してサーヴァントへの贄にするマスターは、けっして少なくないわ」
「贄にするって……それじゃ手段を選ばないヤツがマスターなら、サーヴァントを強くする為に人を殺しまくるってコトなのか」
「そうね。けど頭のいいヤツならそんな無駄な事はしないんじゃないかな」
「いい、サーヴァントがいくら強力でも、魔力の器そのものには限界がある。能力値以上の魔力の貯蔵はできないんだから、殺して回るにしても限度があるわ。
それにあからさまに殺人を犯せば協会が黙ってないし、なによりその死因からサーヴァントの能力と正体が、他のマスターたちにバレかねない。もちろんマスター自身の正体もね。
聖杯戦争は自分の正体を隠していた方が圧倒的に有利だから、普通のマスターならサーヴァントを出し惜しみする筈よ」
……そうか。
確かに自分がマスターである事を知られなければ、他のマスターに襲われる事はない。
逆に誰がマスターかを知っていれば、確実に奇襲ができる。
その理論でいけば、サーヴァントに人を襲わせて自分たちの正体を暴露させてしまう、なんてヤツはそう出てこない事になる―――
「……良かった。なら問題はないじゃないか。マスターが命令しなければ、サーヴァントは無差別に人を襲わないんだから」
「でしょうね。仮にも英雄だもの、自分から人を殺してまわるイカレ野郎は、そもそも英雄だなんて呼ばれないだろうけど―――ま、断言はできないか。
殺戮者だからこそ英雄になった例なんて幾らでもあるんだし」
「――――――」
さらりと不吉なコトを言う遠坂。
それが嫌味でも皮肉でもなく本心っぽいあたり、かすかな性格の歪みを表しているのではなかろーか。
「話を戻しましょうか。で、どうするの。
人殺しはしないっていう衛宮くんは、他のマスターが何をしようが傍観するんでしたっけ?」
……前言撤回。
こいつ、かすかじゃなくてはっきりと性格が歪曲してる。ここまで人を追いつめておいて、笑顔でそんなコトを言うあたり、とんでもなくいじめっこだ。
「そうなったら止めるだけだ。サーヴァントさえ倒せば、マスターだって大人しくなるんだろう」
「呆れた。自分からマスターは倒さない、けど他のマスターが悪事を働いたら倒すっていうんだ。
衛宮くん、自分が矛盾してるって解ってる?」
「ああ、都合がいいのは分かってる。けど、それ以外の方針は考えつかない。こればっかりはどんなに論破されても変えないからな」
「ふーん。問題点が一つあるけど、言っていいかしら」
企んでる。あの顔は絶対なにか企んでる。
が、男が断言した以上、聞かない訳にもいかないのだ。
「い、いいけど、なんだよ」
「昨日のマスターを覚えてる? 衛宮くんとわたしを簡単に殺せ、とか言ってた子だけど」
「――――」
忘れるもんか。帰り道、問答無用で襲いかかってきた相手なんだから。
「あの子、必ずわたしたちを殺しに来る。それは衛宮くんにも判ってると思うけど」
「――――」
そう、か。
あの娘だってマスターなんだ。
俺と遠坂がマスターだって知ってるんだから、いつかは襲いかかってくるだろう。
今日か明日かは判らないが、それが死刑宣告である事は間違いない。
少なくとも、俺ではあんな怪物を止められない。
「あの子のサーヴァント、バーサーカーは桁違いよ。
マスターとして未熟な貴方にアレは撃退できない。自分からは何もしないで身を守るって言うけど、貴方は身を守る事さえ出来ないわ」
「―――悪かったな。けど、そういう遠坂だってアイツには勝てないんじゃないのか」
「正面からじゃ勝てないでしょうね。白兵戦ならアレは最強のサーヴァントよ。きっと歴代のサーヴァントの中でも、アレと並ぶヤツはいないと思う。わたしもバーサーカーに襲われたら逃げ延びる手段はないわ」
「……それは俺だって同じだ。今度襲われたら、きっと次はないと思う」
無意識に腹に手を当てた。
今は塞がっている腹の傷。
いや、傷なんて言えるレベルじゃなかった、即死に近い大剣の跡。
アレをまた味わうかと思うと、逃れようのない吐き気が戻ってくる。
「そういうこと。解った? 何もしないままで聖杯戦争の終わりを待つ、なんて選択肢はないってコトが」
「……ああ、それは解った。けど遠坂。おまえ、さっきから何を言いたいんだよ。ちょっと理解不能だぞ。
死刑宣告された俺を見るのが楽しいってワケでもないだろ……って、もしかして楽しいのか?」
「そこまで悪趣味じゃないっ。
もう、ここまで言ってるのに分からない? ようするに、わたしと手を組まないかって言ってるの」
「?」
む? むむむむ、む?
それ、額面通りに受け取ると、その。
「―――て、手を組むって、俺と遠坂が!?」
「そう。わたしのアーチャーは致命傷を受けて目下治療中。完全に回復するまで時間がかかるけど、それでも半人前ぐらいの活躍はできる筈よ。
で、そっちはサーヴァントは申し分ないけど、マスターが足ひっぱってやっぱり半人前。ほら、合わせれば丁度いいわ」
「むっ。俺、そこまで半人前なんかじゃないぞ」
「わたしが知る限りでもう三回も死にそうになったっていうのに? 一日で三回も殺されかける人間なんて初めて見たけど?」
「ぐ――――けど、それは」
「同盟の代価ぐらいは払うわ。アーチャーを倒されたコトはチャラにしてあげて、マスターとしての知識も教えてあげる。ああ、あと暇があれば衛宮くんの魔術の腕を見てあげてもいいけど、どう?」
……う。
それは、確かに魅力的な提案だと思う。
右も左も分からない俺にとって、遠坂は頼りになる先輩だ。
それに出来る事なら、遠坂とは争いたくない。
学校で憧れていた女の子だから、じゃない。
むしろ知らないままなら、ここまで抵抗は感じなかっただろう。
……目の前にいる遠坂凛は、学校で言われている優等生のイメージとはかなり異なる。
けど、こうして話しているとやっぱり遠坂は遠坂というか、見た目通りというか、
その―――ああもうつまり、なんでこんなコト自分に言い聞かせなくちゃいけないのかっていうぐらい、こっちの方が魅力的だと思うのだ―――
「衛宮くん? 答え、聞かせてほしいんだけど?」
返答を急かされる。
俺は――――
「…………………………………………」
本来なら悩むまでもない問題だ。
俺は素人で、遠坂は魔術師としてもマスターとしても一人前。
昨夜の事もあるし、ここは遠坂と手を組む方が賢明だろう。
「――――――」
……斬られた腹に手をやる。
腹部は包帯で補強されたものの、触れるだけで激痛と吐き気を呼び起こす。
……当然だ。
俺は腹を斬られたのではなく、体を分断されかけた。
それでも生きているのは遠坂とセイバーのおかげであり、バーサーカーに狙われているかぎり、次こそは跡形もなく殺される。
「………………」
だというのに、何かが頭にひっかかっていた。
バーサーカーという黒い巨人。
最強のサーヴァントを従える白い少女。
無邪気で気まぐれで、あまりにも残酷だったあの娘はイリヤスフィールと名乗った。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
―――その名前は、確か、慎二の爺さんが口にしたものだ。
「衛宮くん。返事、聞きたいんだけど」
「え――――あ、すまん。イリヤって子の事を考えてた。
遠坂と手を組むって事は、あの子と戦うって事だよな」
「ええ。あっちがその気なんだから応えるまでよ。
どの道マスターは全員倒すべき相手だもの。イリヤスフィールがその気なら、こっちだって殺す気でやる」
「………………」
遠坂の意思は固い。
こいつの中では、あの少女は倒す対象でしかない。
だが――――
自分でもどうかしてると判っているんだが、俺は、あの子とは戦いたくはない。
「衛宮くん? まさかとは思うけど、イリヤスフィールの外見に騙されてるんじゃないでしょうね」
じろり、と遠坂は睨んでくる。
「――――――――」
実に鋭い。
自分ではそんな気はしないが、躊躇っている時点であの子の外見に影響されているんだから。
……あの子はバーサーカーのマスターだ。
あれだけのサーヴァントを従えるマスターなら、さぞ卓越した魔術師だろう。となると、見かけの肉体年齢はあまり当てに出来るものじゃない。
当てに出来るものじゃないんだが――――
「――――すまん、遠坂。
心配してくれるのはありがたいけど、いい返事はできない。事が事だからな。簡単に方針を決めちゃいけない気がする」
まっすぐに見返して返答する。
遠坂は少しだけ目を細めて、そう、と感情のない声で頷いた。
「それじゃ交渉は決裂ね。……ま、確かに衛宮くんの言い分も正しいわ。本当に勝つ気があるなら誰も信用できないもの」
「そんな事ないぞ。俺、遠坂は信用してる。ただ一人で決められる事じゃないだけだ。俺がセイバーのマスターなら、あいつに無断で約束はできない」
「なるほど、確かにそうね。貴方はもう歴《れっき》としたマスターなんだから」
納得したように頷いて、遠坂はあっさりと背を向けた。
長い髪をなびかせて去っていく。
そうして、味方になるかも知れなかった少女は一度だけ振り返って、
「それじゃあね。次に出会ったら敵同士だから」
あのイリヤという少女と同じように、冷たい警告を残していった。
◇◇◇
「――――さて」
軽く息を吸って、状況を把握する。
昨夜の事件―――夜の学校でランサーとアーチャーの戦いを目撃してからこっち、まともに考える時間がなかった為だ。
「……あ。そうか、ならあの時にいた人影って遠坂だったワケだ」
ぽん、と今更ながら気がつく。
その後、俺はランサーに胸を貫かれ、なんでか助かって家に戻り、再びランサーに襲われ――――
「セイバーに助けられて、マスターになった」
教会で聞いた事。
聖杯戦争という殺し合い。
勝者に与えられる、あらゆる望みを叶えるという聖杯。
そんな大事《おおごと》まったく実感が持てないが、俺はもう三度も敵に襲われている。
なら、いつまでも戸惑ってはいられない。
俺はこの戦いが放っておけないから戦うと口にした。
何も知らず、無関係に傷つく人間は出させない。
十年前のあの日から、正義の味方になろうと魔術を鍛えてきた。
その成果がこんな形で試されるとは思ってもいなかったが、決めたからには後には引かない。
迷いは捨てる。
考えてみれば、これはチャンスでもある。
ずっと目指していたもの、衛宮切嗣のように『誰かの為』になれる機会。
「………………」
ただ、僅かに引っかかるものがあるとすれば、
―――喜べ衛宮士郎。
その、願ってはならないサカシマな願望が、
―――君の望みは、ようやく叶う。
正義の味方として、ひどく歪なのではないかと。
「――――そんな事はない。聖杯戦争なんて、俺が望んだものじゃない」
……迷うことはない。
あの日からの修練、十年間守り続けた誓いに間違いはない。
衛宮士郎は正義の味方に。
不当に命を奪われる“誰か”の為に魔術を鍛えてきたんだから。
「――――よし。まずはセイバーに話を聞かないと」
脳裏にこびりついている神父の言葉を振り払って、廊下へと足を向けた。
屋敷をまわる。
人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったが、セイバーの姿はなかった。
「おかしいな……あの格好なんだ、いればすぐに判りそうもんだけど」
そうは言いつつも、屋敷のどこにもセイバーの鎧姿は見あたらなかった。
サーヴァントは霊体になれるらしいが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。
いや、そもそも――――
「マスターだなんて言うけど、俺、あいつの事なんにも知らないんだよな」
セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで判らない。
ただ判る事と言えば、それは。
どんなに優れた存在であろうと、戦えば傷を負い、斬られれば血を流すという事だった。
「――――あ」
静まりかえった道場にセイバーはいた。
その姿は昨日までの彼女とは違う。
板張りの床に正座したセイバーは、鎧を纏ってはいなかった。
セイバーは彼女らしい上品な洋服に着替えていて、無言で床に座していた。
「――――――――」
……その姿に、言葉を忘れた。
凛と背筋を伸ばし、目を閉じて正座をするセイバーは、綺麗だった。
静寂に溶け込む彼女の有り様は、清らかな水を思わせる。
「――――――――」
それで、最後に残っていた棘が取れた。
サーヴァントだろうとなんだろうと、彼女は聖なるものだと思う。
なら―――この先、自分が間違った道を進む事はないだろう。
「セイバー」
声をかける。
セイバーは慌てた風もなく目蓋を開けて、ゆっくりと視線を返す。
「目が覚めたのですね、シロウ」
落ち着いた声。
染みいるように響く彼女の声は、ひどくこの道場にあっていた。
「―――ああ。ついさっき目が覚めた。セイバーはここで何を?」
「体を休めていました。私にはシロウの手当ては出来ませんから、今はせめて自身を万全にしておこうと思いまして」
「っ――――」
まっすぐにこっちを見ながら、淡々とセイバーは言う。
……それは、その。
遠坂とはまた違った緊張があるというか。
「シロウ? どうしました、やはり体がまだ……?」
「っ――――い、いやこっちも問題ない……! かってに戸惑ってるだけだから気にしないでくれ……!」
ばっと一歩引いて、ぶるぶると首を振る。
「?」
不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。
「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」
ふう、と深呼吸を一度する。
……けど、なんともすぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。
「……ああもう、なんだって着替えてるんだよあいつ……」
思わずごちる。
セイバーの服装はあまりにも現実感がありすぎて、否応なしに異性を意識してしまうのだ。
……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。
それは昨日で知っていたつもりだったけど、今はさらに思い知らされた。
鎧姿、という出で立ちがあまりにも非現実的だったので、昨夜はそう気にならなかったのだろう。
こうして、ああいう女の子らしい格好をされると、健全な男子としてとにかく困る。
「シロウ」
目があった途端、緊張する。
かといって、黙り込むために彼女を捜していた訳じゃない。彼女は苦手だが、だからといって黙っていたら一生このままだ。
「―――よし。
いいかなセイバー。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」
意を決して話しかける。
――――と。
「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」
さっきまでの穏やかさが嘘みたいな不機嫌さで、俺の言葉を遮った。
「―――? いいけど、なんだよ話って」
「ですから昨夜の件です。
シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困る。戦闘は私の領分なのですから、シロウは自分の役割に徹してください。自分から無駄死にをされては、私でも守りようがない」
きっぱりと言うセイバー。
―――それで、さっきまでの緊張はキレイさっぱりなくなった。
「な、なんだよそれ! あの時はああでもしなけりゃおまえが斬られてたじゃないか!」
「その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。
繰り返しますが、今後あのような行動はしないように。
マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」
淡々と語る少女。
その姿があんまりにも事務的だったからだろう。
「な―――バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんているもんか……!」
知らず、そんな条件反射をしてしまった。
怒鳴られて驚いたのか、セイバーは意表を突かれたように固まったあと。
まじまじと、なんともいえない威厳でこっちを見つめてくる。
「うっ……」
真面目に見つめられて、わずかに後退する。
なんか、自分がすごく場違いな台詞を言ったな、と思い知らされて恥ずかしくなってしまった。
「と、ともかくうちまで運んでくれたのは助かった。それに関しては礼を言う」
ありがとうな、とそっぽを向きながら礼を言った。
……ただでさえ礼を言うのなんて気恥ずかしいのに、この状況じゃなおさら気まずい。
それでもやっぱり、助けられた礼はまっさきに口にしないと。
「それはどうも。サーヴァントがマスターを守護するのは当たり前ですが、感謝をされるのは嬉しい。シロウは礼儀正しいのですね」
「いや。別に礼儀正しくなんかないぞ、俺」
だから、今はそんな事よりはっきりさせなくちゃいけない事がある。
本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。
彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、
本当に―――この戦いに参加するのかという事を。
「話を戻すぞセイバー。
……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」
「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」
セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。
彼女の意思には疑問を挟む余地などない。
「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つためにか」
「? シロウはその為に私を呼び出したのではないのですか」
「違う。俺がおまえを呼び出したのはただの偶然だ。
セイバーも知ってる通り、俺は半人前の魔術師だからな。セイバーには悪いが、俺にはマスターとしての知識も力もない。
けど、戦うと決めたからには戦う。未熟なマスターだけど、セイバーはそれでいいのか」
「もちろん。私のマスターは貴方です、シロウ。
これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」
「――――――――」
……そうなのか。
なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに応えるしかない。
「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」
「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。
貴方に勝算がなければ私が作る。可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います。
私たちサーヴァントは無償で貴方たちマスターに仕えるのではない。私たちも聖杯を欲するが故に、貴方たちに仕えるのです」
「――――え。ちょっと待った、聖杯が欲しいって、セイバーもそうなのか……!?」
「当然でしょう。もとより、霊体である聖杯に触れられるのは同じ霊格を持つサーヴァントだけです。
聖杯戦争に勝利したマスターは、サーヴァントを介して聖杯を手に入れる。その後、勝利したマスターに仕えたサーヴァントは見返りとして望みを叶える。
―――それがサーヴァントとマスターの関係です、シロウ」
「――――――――」
……そうか。
言われてみれば、“英霊”なんてとんでもない連中が人間の言うことなんか聞く筈がないんだ。
彼らにも目的があるから、交換条件としてマスターに仕えている。
……そうなるとセイバーにも“叶えるべき願い”があるって事だ。
だからこそセイバーには迷いがない。
けど、それは。
「……待ってくれセイバー。可能である全ての手段って言ったな。それは勝つ為には手段を選ばないって事か。
たとえば――――」
あの神父が言ったように。
マスターでもない無関係の人間を巻き込んで、十年前のあの日のような惨状を起こすような――――
「シロウ、それは可能である手段ではありません。
私は私が許す行為しか出来ない。自分を裏切る事は、私には不可能です。剣を持たぬ人間に傷を負わせる事など、騎士の誓いに反します」
「ですが、マスターが命じるのであれば従うしかありません。その場合、私に踏みいる代償として、その刻印を一つ頂く事になりますが」
怒りさえ込もった声に圧倒される。
「――――――――」
それでも、嬉しくて胸をなで下ろした。
あまりの強さと迷いのなさに機械のようなイメージがあったけど、セイバーは冷酷な殺人者ではないと判って。
「―――ああ、そんな事は絶対にさせない。
セイバーの言う通り、俺たちは出来る範囲でなんとかするしかないからな。……本当にすまなかった。知らずに、おまえを侮辱しちまった」
「ぁ……いえ、私もマスターの意図が掴めずに早合点してしまいました。シロウは悪くないのですから、顔をあげてくれませんか……?」
「え? ああ、思わず謝ってた」
顔をあげる。
「――――――――」
セイバーは何がおかしかったのか、わずかに口元を緩めていた。
「?」
まあ、笑ってくれるのは嬉しいんで追求するのはやめておこう。
「それじゃあもう一つ訊いていいか。マスターっていうのはサーヴァントを召喚する魔術師の事だよな。
それはいいんだけど、セイバーたちの事が俺にはまだよく判らない。セイバーとかランサーとか、どうも本名じゃないのは分かるんだが」
「ええ、私たちの呼び名は役割毎につけられた呼称にすぎません。……そうですね、この際ですから大まかに説明してしまいましょう」
「私たちサーヴァントは英霊です。
それぞれが“自分の生きた時代”で名を馳せたか、或いは人の身に余る偉業を成し遂げた者たち。
どのような手段であれ、一個人の力だけで神域まで上り詰めた存在です」
言われるまでもない。
英霊とは、生前に卓越した能力を持った英雄が死後に祭り上げられ、幽霊ではなく精霊の域に昇格したモノを言う。
「ですが、それは同時に短所でもあります。私たちは英霊であるが故に、その弱点を記録に残している。
名を明かす―――正体を明かすという事は、その弱点をさらけ出す事になります。
敵が下位の精霊ならば問題になりませんが、私たちはお互いが必殺の力を持つ英霊です。弱点を知られれば、まず間違いなくそこを突かれ、敗北する」
「……そうか。英雄ってのはたいてい、なんらかの苦手な相手があるもんな。だからセイバー、なんて呼び名で本当の名前を隠しているのか」
「はい。もっとも、私がセイバーと呼ばれるのはその為だけではありません。
聖杯に招かれたサーヴァントは七人いますが、その全てがそれぞれ“役割《クラス》”に応じて選ばれているのです」
「クラス……? その、剣士《セイバー》とか弓兵《アーチャー》とか?」
「そうです。もとより英霊をまるごと召喚する、という事自体が奇蹟に近い。それを七人分、というのは聖杯でも手に余る。
その解決の為、聖杯は予め七つの器を用意し、その器に適合する英霊だけを呼び寄せた。この世界に我々が存在できる依り代を用意したのです。
それが七つの役割、
セイバー、
ランサー、
アーチャー、
ライダー、
キャスター、
アサシン、
バーサーカー。
「聖杯は役割に該当する能力を持った英霊を、あらゆる時代から招き寄せる。
そうして役割《クラス》という殻を被ったモノが、サーヴァントと呼ばれるのです」
「……なるほど。じゃあセイバーは剣に優れた英霊だから、セイバーとして呼ばれたって事か」
「はい。属性を複数持つ英霊もいますが、こと剣に関しては私の右に出る者はいない、と自負しています」
「もっとも、それがセイバーの欠点でもある。
私は魔術師ではありませんから、マスターの剣となって敵を討つ事しかできない」
「権謀術数には向かないって事だな。いや、それは欠点じゃないと思うけど。セイバーはあんなに強いんだから、もうそれだけで十分だろ」
「シロウ、戦闘で強いだけではこの戦いは勝ち抜けません。
例えばの話ですが、敵が自身より白兵戦で優れている場合、貴方ならどうしますか?」
「え? いや、そうだな……正面から戦っても勝てないって判ってるなら、戦わずになんとかするしかな――――」
そこまで口にして、そうか、と納得した。
相手が強いのなら、まっとうな戦いなんて仕掛けない。
なにも剣でうち倒すだけが戦いじゃないんだ。
剣で敵わない相手なら、剣以外で敵の息の根を断つだけの話じゃないか。
「そういう事です。白兵戦で優れている、と相手に知られた場合、相手はまず白兵戦など仕掛けてこないでしょう。……そういった意味で言うと、能力に劣ったサーヴァントはあらゆる手を尽くしてくる」
「アサシンのサーヴァントは能力こそ低いですが気配を隠すという特殊能力がありますし、キャスターのサーヴァントはこの時代にはない魔術に精通している。
単純な戦力差だけで楽観はできません。加えて、私たちには“宝具”がある。どのようなサーヴァントであれ、英霊である以上は必殺の機会を持っているのです」
「宝具――――?」
それも聞き慣れない単語だ。
いやまあ、ニュアンス的になんとなく意味は判るんだけど。
「宝具とは、サーヴァントが持つ特別な武具の事です。
ランサーの槍や、アーチャーの弓、それに私の剣などが該当します。
英雄とは、それ単体で英雄とは呼ばれません。彼らはシンボルとなる武具を持つが故に、英雄《ヒーロー》として特化している」
「英雄とその武装は一つなのです。故に、英霊となった者たちはそれぞれが強力な武具を携えています。
それが“宝具”――――サーヴァントたちの切り札であり、私たちが最も警戒すべき物です」
「――――――――」
……宝具とは、その英霊が生前に持っていた武具だとセイバーは言う。
あの青い騎士の槍を思い出す。
大気中の魔力を吸い上げ、あり得ない軌跡でセイバーの胸を貫いたあの槍。
あれは、確かに人の手におえる物ではない。
あの槍自体も強い呪いを帯びていたが、あの時ランサーが発した言葉にも桁違いの魔力を感じた。
なら、もしかしてそれは。
「セイバー。宝具ってのは魔術なのか?
たしかにランサーの槍は曰くありげな槍だったけど、それ自体は槍っていう領域から出てなかっただろ。
けどあいつの言葉で、あの槍は武器の領域から逸脱した。それって魔術の類じゃないのか?」
「ええ、確かに宝具は魔術に近い。
たとえばランサーの槍ですが、彼の槍はそれ自体が宝具ではありますが、その真価を発揮するのは彼が魔力を注ぎ込み、その真名を口にした時だけです」
「宝具とは、ある意味カタチになった神秘ですから。
魔術の発現に詠唱が必要なように、宝具の発動にも詠唱―――真名《しんめい》による覚醒が必要になる。
ですが、これにも危険はあります。宝具の真名を口にすれば、そのサーヴァントの正体が判ってしまう」
「……そっか。英雄と武器はセットだもんな。持ってる武器の名前が判れば、おのずと持ち主の正体も知れる」
こくん、と無言で頷くセイバー。
だからこそ宝具は切り札なんだ。
正体を明かすかわりに、避けきれぬ必殺の一撃を炸裂させる。
だがそれが不発に終わった時――――そのサーヴァントは、自らの欠点をもさらけ出す事になる。
「それじゃあセイバー。おまえの宝具は、あの視えない剣なのか?」
「……そうですね。ですが、あれはまだ正体を明かしていません。今の状態で私の真名を知るサーヴァントはいないでしょう」
言って、一瞬だけセイバーは気まずそうに目を伏せた。
「シロウ。その件についてお願いがあります」
「え? お願いって、どんな」
「私の真名の事です。本来、サーヴァントはマスターにのみ真名を明かし、今後の対策を練ります。
ですがシロウは魔術師として未熟です。
優れた魔術師ならば、シロウの思考を読む事も可能でしょう。ですから――――」
「ああ、名前は明かせないって事か。……そうだな、たしかにその通りだ。催眠とか暗示とか、いないとは思うけど他のマスターに魔眼持ちがいたらベラベラ秘密を喋りかねないし。
―――よし、そうしよう。セイバーの“宝具”の使いどころは、セイバー自身の判断に任せる」
「ぁ――――その、本当に、そんなにあっさりと?」
「あっさりじゃないぞ。ちゃんと考えて納得したんだ。
考えた末の合意だから、気にすんな」
「――――――――」
……さて。
だいたいの話は判ったものの、状況は未だに掴めない。
考えてみればおかしな話だ。
戦うと決めたものの、判っている相手は遠坂だけで、俺はあいつとドンパチやる気はまったくない。
……ああいや、向こうはやる気満々だから、そうも言ってはいられないだろうが。
「なあセイバー。マスターやサーヴァントって何か目印はないのか? このままじゃどうも勝手が分からないんだが」
「いいえ。残念ながら、明確な判別方法はありません。
ただ、近くにいるのならサーヴァントはサーヴァントの気配を察知できます。それが実体化しているのなら尚更です。サーヴァントはそれ自体が強力な魔力ですから。
シロウもバーサーカーの気配は感じ取れたでしょう?」
「う―――それはそうだけどな。襲われて初めて判る、なんていうのはまずいだろう。せめて近づかれる前に気づかないと対応できない」
「では、マスターの気配を辿るのはどうですか。マスターとて魔術師です。魔術を生業とする以上、魔力は必ず漏れています。それを探れば、この町にいるマスターは特定できるのでは」
「……悪い。生憎、そんな器用な真似はできない」
そもそも同じ学校にいた遠坂の正体にも気づかなかったんだぞ、俺は。
二年間も同じ建物にいて、あまつさえ何度も見かけているっていうのにだ。
「――――参ったな。これじゃ確かに半人前ってバカにされるワケだ。マスターとしての証も令呪だけだし、前途は多難か」
はあ、と肩で息をつく。
―――と。
「シロウ。少し目を閉じて貰えますか」
真剣な面もちで、セイバーはそんな事を言ってきた。
「……? 目を閉じるって、なんで」
「貴方がマスターだと証明する為です。いいですから、目を閉じて呼吸を整えてください」
「…………………………」
……目を閉じる。
ついで、額に触れる微かな感触。
――――って、妙にチクチクするけど、これってまさか刃物の先か――――!?
「――――セイバー? ちょっと待て、なんかヘンな事してないか、おまえ?」
「……。マスター、黙って私の指先に意識を集中してください。貴方も魔術師なら、それでこちらの魔力を感じ取れるでしょう」
「――――む」
そうか、触れてるのはセイバーの指か。
それでは、と気を取り直して意識を静める。
――――と。
なんだ、これ。
「セイバー、今の、なんだ?」
「なんだ、ではありません。貴方と私は契約によって繋がっているのですから、私の状態は把握できて当然です」
「――――把握って、今のが?」
「どのようなカタチで把握したのかは知りません。サーヴァントの能力を測るのは、あくまでシロウが見る基準です。単純に色で識別するマスターもいれば、獣に喩えて見分けるマスターもいます」
「つまり、個人差はあれど本人にとって最も判別しやすい捉え方をする、という事です。
これはマスターとしての基本ですから、今後は頻繁に確かめてください。私と同様、一度見た相手ならばその詳細が理解出来ている筈ですから」
……そうか。
いきなりで驚かされたが、これなら少しはマスターとして振る舞えるかもしれない。
◇◇◇
「―――マスター。簡略しましたが、私にできる説明は以上です」
「ああ。駆け足だけど合点がいった。すまなかったな、セイバー」
「……すまなかった、ではありません。
状況が判ったのなら、これからどうするのかを決めるべきではないですか」
ずい、と身を乗り出して問いただしてくる。
……そうか。
セイバーも遠坂と同じで、やられる前にやるタイプなのか。
それはいいんだが、行動を起こすも何も、まず何をするべきかが判らない以上、そう簡単に決められない。
「うーん……しばらく様子を見る……って場合でもないよな。他のマスターがどんな奴らかはまだ判らないし、イリヤって子の事も気になる。……犠牲者を出さない為にも、他のマスターを捜すぐらいはするべきなんだろうが――――」
あてもなく街中を歩き回るのも危険な気がする。
……まいったな。
こうなると、やっぱり遠坂と手を組んだ方が良かったんだろうか。
「イリヤ……? バーサーカーのマスターがどうかしたのですか、シロウは」
「え……? ああ、いや。どうして俺たちの事を狙うのかなって気になったんだ。
それに、あの子とは昨日が初対面じゃなかった。前にすれ違った事もあるし、その、アインツベルンって名前にも覚えがあるんだよ」
「………………」
と。
アインツベルンと聞いて、セイバーは難しそうな顔でこっちを見据えてきた。
「セイバー? なんだ、おまえもアインツベルンって名前を知ってるのか?」
「……知っています。逆に問いますが、シロウはその名に覚えがないのですか」
「いや、覚えっていうか、ただ聞かれただけなんだ。あの子に会う前に、アインツベルンの娘は健在か、なんて、全然関係ないヤツに」
「…………そうですか。では、シロウは何も聞かされていないのですね」
目蓋を閉じて、セイバーは何事かを思案する。
「……これも何かの因縁でしょう。アインツベルンを知りたいのなら、もう一度教会に赴くべきです。
あの神父ならシロウの疑問にも、これから取るべき道にも示唆を与えてくれる筈ですから」
「教会……? 教会って昨日の教会か? けど、もう教会には行っちゃいけないって言われたぞ。あの神父、マスターを放棄する時以外は来るなって」
「それは方便にすぎません。あの神父が敷いているルールは魔術師同士の戦いを律する為に作られた、協会《あちら》側の建前です。シロウが魔術協会に属しているのなら従う価値もありますが、所属していないのならば何の価値もありません」
「む……」
……まあ、確かにそうだ。
遠坂は魔術協会の人間だろうけど、衛宮の家は協会に属さないアウトローだ。
協会が決めた規則に従ったところで何か貰える訳でもなし、切嗣《オヤジ》同様無視してもかまわない。
「判りましたか。シロウにとって、あの教会は最終的な避難場所にすぎない。彼らの規則に従う義務はないのです」
「……そうだな。けど、それでも出来れば避けたい。……あの神父には、あまり会わないほうがいい気がする」
言峰綺礼。
あの神父はどこか違う気がする。
危険だとか信用できないとか、そういう敵対意識からじゃない。
……あの男には、会ってはならない。
会えば会うほど今まで築き上げてきた自分が崩れてしまいそうで、怖いのだ。
「シロウの気持ちは分かる。私とて同感です。出来る事なら、あの神父には関わりたくない」
凛とした瞳のまま断言するセイバー。
「?」
なんというか、それは意外だった。
英霊であるセイバーが人間相手に苦手意識を持つとは思えなかったし、なにより――――
「俺はともかく、どうしてセイバーまで苦手なんだ?
そもそもあの神父とは顔を合わせてないだろ、セイバー」
「――――――――」
言葉に詰まるセイバー。
彼女は悩ましげに眉間を寄せたあと、迷いを断つようにキッパリと視線をあげた。
「彼は前回の聖杯戦争に参加した人物です。
どのサーヴァントのマスターだったかは判りませんが、切嗣はあの神父を最後まで重視していた」
「――――え?」
それは知っている。
それは知っているけど、セイバー、いまなんて、言ったんだ。
「セイ、バー。なんでおまえが、切嗣《オヤジ》の名前を」
「私が切嗣のサーヴァントだった、と言ったのです。
前回の聖杯戦争のおり、衛宮切嗣はマスターの一人でした。私は彼と協力して聖杯戦争に挑み、最後まで勝ち残りました。
その中で――――衛宮切嗣は、あの神父を最大の敵として捉えていました。私たちを破る者がいるとすれば、それはあの男以外ないと」
「――――――――」
待て。
それじゃあ何か。
切嗣《オヤジ》は前回の聖杯戦争のマスターで、その時にセイバーと共に戦って、そして――――
あの地獄を巻き起こした一人でも、あったというのか。
「――――嘘だ。そんな事あるもんか。それならどうして言峰は黙ってたんだ。どうして切嗣《オヤジ》は、俺に何も言わなかったんだ」
「それは私の知るところではありません。切嗣が何を考えていたかなど、私には最後まで判らなかった。
ですがあの神父が黙っていたというのなら、それはシロウが訊かなかったからでしょう。あの男は問われれば応える人間です。シロウ自身が問うのならば、必ず真実を語ります」
「――――――――」
セイバーは口を閉ざしたまま、じっと俺を見据えている。
マスターとしての意義。
衛宮切嗣の真実を知りたければ、自分の意志で教会に向かえと、碧の瞳が告げていた。
「………………」
教会に足を運ぶ。
俺を護衛してくれているのか、セイバーはあの服装のまま付いてきていた。
「………………」
振り返る事なく教会を見上げる。
……セイバーに促されここまで来たものの、まだ心の準備が出来ていないのか。
あの扉を押し開け、神父に十年前の出来事を尋ねる気概が生まれない。
「マスター」
声をかけられ、背後の少女に振り返る。
「私はここで待機します。神父には貴方一人で向き合ってください」
「……わかってる。ここまで来たんだ、いまさら帰るなんて事はしない」
「神父には私が召喚された事は秘してください。
同じ英霊が二度召喚された、というのは話すべき事ではありませんから」
「ああ。あいつには切嗣の事だけ問いただす。すぐ戻るから、ちょっと我慢しててくれ」
「……はい。シロウも注意を。危険が迫った時はすぐに私を呼んでください。あの神父はどこか不吉だ。少しでも気を抜けば、貴方の身に何が起こるか判らない」
「同感だ。大丈夫、何か起きたらすぐに逃げ出すし、セイバーを呼ぶよ」
階段に足をかける。
冬の寒空の下、セイバーを一人残して教会へ踏み入った。
礼拝堂に神父の姿はなかった。
その代わりといってはなんだが、椅子には一つだけ人影があった。
後ろから覗ける髪は金色。
おそらく礼拝をしにきた外国人さんだろう。
「すみません。言峰神父はいらっしゃいますか」
とりあえずダメもとで声をかけた。
「――――――――」
ゆらり、と立ち上がる。
瞬間。
その動作だけで、筋肉という筋肉が硬直した。
歩み寄ってくる。
何の変哲もないその動作は、あまりにも不可解だった。
男はごく普通に、何をするでもなく近づいてくる。
それだけだというのに、何故―――俺はこの男に、ここで殺されると覚悟したのか。
「あ――――」
男の腕があがる。
それは、ぼんやりと立ち尽くす俺の首に伸び―――― ぴたりと、空中で止まっていた。
「――――ほう。よくないモノに魅入られているな、おまえ」
男は離れていく。
そう、それが当然だ。
異常だったというのなら、ただ近寄られただけで殺される、と思ったこっちがどうかしていた。
「そこで待っていろ。言峰に用があるのだろう」
男は祭壇の奥に消えていった。
「………………」
そうして数分ほど待たされたあと。
「驚いたな。まさか半日たらずでリタイヤかね、衛宮士郎」
相変わらず癇に障る口調で、言峰神父は現れた。
「―――そんな訳ないだろ。単に聞きたい事があるから来ただけだ。そうでもなけりゃ、頼まれたっておまえの所になんて来るもんか」
「それは結構。私も暇ではないのでね、簡単に懐かれても困る」
硬い足音をたてて、言峰は歩み寄ってくる。
……目に見えない重圧、というのか。
この男は、ただ立っているだけで己の弱さを意識させるような、厳格な雰囲気を持っている。
神父として十分な資質なのだろうが、同時にそれは、神父として致命的な欠陥ではないのか。
「どうした? 質問があるのなら口にしろ。挨拶などする仲でもあるまい」
「――――――――」
……その通りだ。
この男と交友を深める必要なんてない。
俺はただ、セイバーの言葉を確かめる為に来た。
ならそれだけ聞いて、こんな所からはさっさとおさらばしなければ。
「訊く事は一つだけだ。どうして黙ってたんだ、アンタは」
「さて。黙っていた、とは何の事だ」
「――――切嗣《オヤジ》の事だ。衛宮切嗣がマスターで、前回の聖杯戦争で戦ったって事を、どうして黙っていた」
ヤツは愉快げに眉を揺らす。
悪びれた様子はない。……この男は純粋に、俺の口から切嗣の名が出た事を楽しんでいる。
「答えろよ。アンタが聖杯戦争の監督役なら知ってて当然だよな。なら、なんでそれを黙っていた」
「何故も何もなかろう。おまえの父が前回のマスターであった事が、おまえにとってなんの益になる。衛宮切嗣の功績は衛宮士郎には無関係だ」
淡々とした口調は、反論を差し込む余地がない。
言峰の返答は間違っていない。
仮に、切嗣《オヤジ》が優れたマスターだったとしても、それが俺に何を与えてくれる訳でもないからだ。
だが――――
「……いや、関係はある。俺がマスターになったのは、切嗣の息子だからか」
切嗣の息子として育って、弟子として魔術を鍛えてきた。
そうして切嗣《オヤジ》のようにマスターになり、まったく同じ英霊であるセイバーと契約したのには何か意味があるとしか思えない。
「アンタは俺に、偶然マスターになったって言っただろ。
そんな説明より切嗣の事を言えば、俺はアンタの思い通り戦うと決めた筈だ。それを、どうして口にしなかった」
「それこそ私の知り得る事ではない。
遺伝によるマスターの継承など知らぬし、そもそもおまえは切嗣の息子ではあるまい。
何の用意もなく、何の覚悟もなかった人間がマスターに選ばれる事は稀なのだ」
「本来、いかに魔術師であろうと聖杯を知らぬ者に令呪は宿らん。その例外であるおまえが選ばれた理由など、私の知るところではない」
「……それじゃあ、本当に切嗣《オヤジ》は関係ないんだな?
俺がマスターになったのはただの偶然で、あの時切嗣《オヤジ》が俺を助けたのも、ただの――――」
ただ、純粋な善意で、死のうとしていた子供を助けただけだった、と。
「私が知る限りではな。だが聖杯の思惑となると、私には計り知れん。衛宮士郎がマスターに選ばれた事は偶然と切り捨てたいところだが、少なからず因果を感じる。
聖杯は、聖杯を否定した衛宮切嗣の息子に贖罪を求めているのやもしれん」
「な……切嗣《オヤジ》が、聖杯を否定した――――?」
「そうだ。おまえの父は、もとより聖杯を手に入れる為だけにこの町に訪れた男だ。
あの男の目的は聖杯だけだった。その純粋な願いに聖杯は応え、あの男にならば自らを渡してもよい、と想ったのかもしれん」
「だが、衛宮切嗣は聖杯を裏切った。
ヤツは最後の最後で聖杯を破壊した。聖杯戦争そのものを終わらせる為に、ヤツに期待を寄せた聖杯と、その宿願を裏切ったのだ」
「聖杯を――――破壊、した……?」
それが本当なら、たしかに聖杯は切嗣《オヤジ》を認めはしないだろう。
けど、それは間違いなんかじゃない。
あらゆる願いを叶える聖杯。
それを求めて殺しあう魔術師たち。
……言ってしまえば、聖杯は争いの原因だ。
それを破壊した切嗣《オヤジ》は、裏切ってなんかいない。
切嗣《オヤジ》は切嗣《オヤジ》のまま、俺が憧れ続けた正義の味方として聖杯戦争を終わらせたんだ。
「……裏切ってなんかない。切嗣は聖杯を不要だと考えたから破壊したんだろう。切嗣は何も裏切ってなんかない」
「ふむ。そうだな、おまえはそれ以前の切嗣を知らないのだったな。
―――いいだろう。無駄な話だが、衛宮切嗣の正体を教えてやる」
神父の口元がつりあがる。
密かな愉しみに酔うような、それは、不吉な笑みだった。
「衛宮切嗣。
あの男は聖杯戦争とは無関係な位置に立つ魔術師だった。ヤツは己が欲望、己が目的の為に生き、その結論として聖杯を求めた。
自身の力では叶わない奇跡。
人間の力では実現できない理想。
本来諦めざるを得ないそんな子供じみたユメを捨て切れなかったが故に、あの男は“願望機”である聖杯に望みを賭けたのだろう」
「―――ヤツが何処でこの土地の聖杯戦争を聞きつけたかは知らない。
或いは、ヤツではない外部の者がヤツの適合性に目をつけたのかも知れん。そのあたりはどうでもいい話だ」
「結論として、衛宮切嗣はマスターとして雇われた。
アインツベルン―――聖杯戦争の原因とも言える魔術師の血族に、最高のマスターとして迎えられたのだ」
「過去三度に渡る戦いの末、アインツベルンは戦闘能力に特化したマスターを求めた。
実際、アインツベルンの魔術は戦闘向きではない。彼らは戦いには不向きな一族だ。それ故に、殺し合いに長け、魔術協会に属さなかった切嗣に望みを託した」
「異端である切嗣に聖杯の知識を与え、マスターとしての力を与え、アインツベルンの血と交わる事で、より戦闘向きの後継者を産み出しもした。
聖杯を手に入れた暁には、衛宮切嗣は正式にアインツベルンの人間として迎えられた筈だ。何処の出とも判らない雑種を貴族に迎え入れるようなものでな。
アインツベルンにおける切嗣の扱いは破格であり、それ故に、どれほど切嗣を信頼していたかは容易に想像できる」
「そうして、衛宮切嗣は期待に応えた。
前回の聖杯戦争において、切嗣は多くのマスターを倒した。ヤツと戦い、一命を取り留めた者は私一人だ。残りは確実に殺された。
ヤツは的確であり、周到であり、蛮勇であり、無情だった。敵にかける情けなどない。殺すと決めればただ殺した。サーヴァントを屠《ほふ》り、助けを請うマスターを這わせ、逃げようとする頭蓋に銃口を当てて引き金を引いた。殺した後の感慨もない。強さを誇る優越も、消えた弱者への罪悪もない」
「一言で言ってしまえば、アレは機械だった。
もとから感情がないのだ。ならば、喜怒哀楽が入り込む余地などなかろう」
「な――――切嗣《オヤジ》が、機械……?」
「そうだ、ヤツは殺したぞ?
おまえのように無関係な人間を巻き込まない、などという考えもなかった。相手の弱みを徹底的に叩き、反撃の余地など与えなかった。敵の肉親を盾にし、敵の友人を足枷にして速やかに勝ち残っていった」
「そうだな。もし今回の戦いに切嗣がいるのなら、おまえが最も嫌悪するマスターになっただろう。非情だという事が悪になるのなら、前回の戦いで最も判りやすい悪は、あの男をおいて他になかったのだから」
「――――――――」
「どうした、納得がいかないか?
判っている。無論、衛宮切嗣は機械などではない。
ヤツは目的の為に私情を切り捨てただけだ。それが魔術による自己暗示ではなく、あくまで自分の意志だけだったというところが、ヤツの強さでもあり弱さでもあった。
“冷徹である”という異なる人格さえ用意すれば容易《たやす》いものを、そんな人間では聖杯に届かない、届く価値がないと信じたのだろう」
「だが、そこまでして結局――――その弱さが、ヤツに全てを裏切らせた。
切嗣に一族の宿願をかけたアインツベルン。
五人ものマスターが倒され、所有者の前に現れた聖杯。
衛宮切嗣自身が望んでいた、人の手では絶対に叶わない願い」
「その全てを、ヤツは土壇場で切り捨てた。
それが前回の戦いの結末――――おまえが父と記憶している、一人の魔術師の正体だ」
「そうして聖杯は消え、聖杯戦争は幕を閉じた。
切嗣に裏切られたアインツベルンは撤退し、次の聖杯の用意に十年を費やした」
「……ふむ。今にして思えば、アインツベルンは今回の聖杯戦争を予期していたのだろうな。
前回の戦いは“結果が出ないうちに終わった”戦いだ。
使われきれなかった魔力は次の戦いに持ち越される。仕切り直しは驚くほど早い、と判っていたのだろう」
「………………」
言峰の話は、正直、実感が持てなかった。
冷徹なマスターであったという切嗣。
アインツベルンという、切嗣《オヤジ》とつながりのあった魔道の名門。
そんな事を言われても受け止められる筈がない。
……判るのは今の話に何一つ嘘がなかった事と―――「―――言峰。あんた、切嗣を嫌っていたのか」
この、あらゆる出来事に無関心な男が、切嗣《オヤジ》にだけは、怒りらしき感情を抱いているという事だった。
「当然だ。ヤツと私は両極に位置していた。私とあの男は生まれついての仇敵だ。マキリやアインツベルンには同類として映ったらしいが、私たちは共に、互いを天敵だと認識していた」
「……天敵? 切嗣《オヤジ》がアンタを警戒していたように、アンタも切嗣《オヤジ》を警戒してたのか」
「警戒ではない。互いに無視しても無視しきれぬ存在だっただけの話だ」
「アレはな、度し難いほどの聖人だった。
人死にを許さぬくせに、人を助ける為に自らの手で人を殺す。十の命を生かす為に一の犠牲が必要とされるなら、速やかに自らの手で事を成した」
「皆が笑えるのならいい、という心中の理想郷を体現する為に、最低限の生贄を常に用意した。
――――その矛盾。
破綻した理想は私と同じくするものであり、だが、致命的に同朋《どうほう》ではなかったのだ」
「ヤツは自らの理想に生きた。その理想は私の知りうる限り、聖杯を破壊するまで守られた筈だ。
だからこそ自身に誇りを持ち、疑う余地なく冷徹な機械であり続けられたのだろう」
「それが私とヤツの類似であり相違だ。
いかなる葛藤にも動じなかった鉄の意志。
それ故にヤツは一つも傷を負わず、そして―――アレには、初めから傷しか存在しなかった。
ヤツは作為的な人でなしであり、私は作為的な聖職者だった」
「………………」
初めから傷しかなかった。
それはつまり、信じた前提そのものが、既に間違えていたという事か。
「……じゃあ、アンタは違うのか。傷を負わないのでもなく、傷しかないのでもない。斬られれば傷を負う、まっとうな人間だって。アンタは神父だから、そこが切嗣とは違うと……?」
「さて。そうであれば衛宮切嗣と同類などと思われまい。
連中が私と衛宮切嗣を同視したのは別のところだ。
……そうだな、人間的に似ているというのなら、おまえこそ切嗣に似た部分がある」
「幼いままの願望を持つもの。
綺麗事を信じ、その為に汚れ役を引き受けるもの。
自らを強大な悪として、有象無象の小さな悪を打ち消すもの。
おまえや切嗣は、反英雄と呼ばれる“救い手”の在り方だ」
「……? 反英雄って、なんだよそれ」
「字の如しだが? 英雄の反対、度し難い殺人者という意味だ」
「あのな、それってただの悪党だろう。おまえ、俺のコト馬鹿にしてないか?」
「なんと。誤解があるようだが、私はおまえを歓迎しているぞ? なにしろ切嗣の息子だ。仇敵の息子に頼りにされてみろ。喜ぶべきか悲しむべきか、複雑すぎて心が定まらん」
神父は声もなく笑う。
……真意は判らないが、少なくとも退屈はしていなさそうだ。
「さて、反英雄の話だったな。
言ってしまえば、存在そのものが悪とされるもの。そうでありながら、その悪行が人間《ぜんたい》にとって善行となるもの。本人の意思とは裏腹に、周囲の人間が救い手と祭り上げたもの」
「そういったものが反英雄と呼ばれる英霊だ。端的に言えば人柱や生贄がこれにあたる」
「たとえ極悪人であろうと、その人間を生贄にする事で村人全員が助かるのなら、それは間違いなく英雄だろう?
英雄と称される生贄が食い殺されようと地中に埋められようと知った事ではない。
貧乏クジを引かされた者、一方的に押し付けられた汚れ役が人々を救う偉業を成し遂げたのなら、それは罪人ではなく、英雄に昇華されるのだ」
「……。それ、戦死したら恩赦で階級があがるとか、そういう話か?」
「――――大きく違う。
大事なのは祭り上げる側の意識だ。
敬意や感謝、罪悪感から生まれるのはまっとうな英雄だろう。そんな感謝の心、罪悪感などで祭り上げられては反英雄になどなれん。
……まあ、自らの醜ささえ忘れ喜劇を悲劇にすり替えるのが人間だ。悪として葬られた英雄も、時が経てば被害者として扱われ純粋悪ではなくなってしまう」
「……純粋悪ではなくなってしまう……?」
「そうだ。反英雄は被害者でありながら究極的な加害者でなくてはならない。
……人が生み出したモノでありながら、決して人の手が混ざらず成長するモノ。その矛盾こそがあらゆる抑止の圧力を免除される“世界の敵”である」
「……もっとも、純粋な反英雄などそうはいない。
アレは存在しないモノだ。そういうものがいてくれたらいい、という人間の願望にすぎない」
「それは原罪を否定する為の生贄、人間の生み出した一つの終末《理想》。
平穏と同義とされる、叶う事のない願いの一つが、反英雄と呼ばれるモノと覚えておけばいい」
「……?」
「……ふん。ようするに叶う事のない綺麗事だ。
おまえも切嗣も正義の味方を目指しているのだろう?
ならば立派な反英雄という事だ。どうだ? 聖杯を手に入れた時の望みは、いっそ英雄になるというのは」
「……あのな。なにがどうだ、だ。
英雄と正義の味方は違うだろ。アンタが何を言いたいのかこれっぽっちも判らないが、そんな奸計《かんけい》にひっかかるか」
「ほう。違うとはどのあたりが違うのだ」
「そ、そんなの知るかっ! とにかく違うものは違うんだ。それにな、英雄なんてのはなるものじゃなくて、終わった後になってるもんだろ。聖杯が用意できるもんなんて、結局分不相応の力だけじゃないのか」
「―――なるほどな。血は繋がっておらずとも親子は親子か。切嗣といいおまえといい、筋金が入っている」
嫌味のつもりか、神父は慇懃に笑った。
「む…………」
……こいつは切嗣《オヤジ》を嫌っている。
だっていうのに、さっきから頭にこないのはそれだ。
こいつは、その。
色々言ってるけど、切嗣《オヤジ》を一度もけなしていない。
「アンタさ。もしかして、ホントは切嗣《オヤジ》と気があったんじゃないのか」
気がつけば浮かんだ疑問を口にしていた。
「ほう。なぜそう思う」
「……別に。なんとなく、そう思っただけだ」
「では間違いだな。私は衛宮切嗣を嫌っているし、そもそも話した事もない。ヤツとは一度殺しあっただけだ。
言っただろう、私たちは両極だと。
ヤツの疑問《ねがい》と私の疑問《ねがい》は、それこそ種別が違う。持たざる者の疑問など、もとより持ち得る者の中にはあるまい」
故に絶対に相容れない、と神父の目が告げる。
「……? 持たざる者って、切嗣にあってアンタにないモノがあったっていうのか」
「そうだ。私は衛宮切嗣のように、信じる物の為に意思を変える、などという事はできなかった。まあ目的が違うのだから比べるべくもないのだが」
「?」
信じる物の為に意思を変える。
それはさっき言っていた、十人を救う為に一人を見捨てる、という類のものか。
「判らずともいい。ただ衛宮切嗣の願いは“平和”だった。実にシンプルだろう。シンプルすぎるが故に、複雑な世の中ではパーツが余ってしまう。その完璧な形に入りきれない余分《ぎせい》は処分《むし》するしかない」
「―――ヤツは、それが許容できなかった。
完璧な形を求めながら、零れ落ちる余分を救いたがったのだ。
……だが、それは人の手に余る奇跡だ。
“争いのない世界”は地上《ここ》には存在しない。ヤツはそれを否定する為に聖杯を求めた」
「理想を探し求め、手に入らないと結論を突きつけられたヤツには、もう聖杯以外に道はなかった。
自らの理想に追い詰められた者の末路だ。
衛宮切嗣という男の夢は、聖杯という“あり得ないもの”でしか叶わない、叶う筈のない魔法だった」
「――――――――」
争いのない世界。
そんなものを本気で信じていたのか、切嗣《オヤジ》は。
その為に強くなろうと努力して、成長すればするほど現実との齟齬《そご》に追い詰められて、それでも信じ続けて、そして―――奇跡を叶えるという聖杯に行き着いた。
その時にはもう、衛宮切嗣という人間は多くの挫折を知った筈だ。
そもそも聖杯を求めるという事は、自分の手ではその願いは叶わないと知る事でもある。
磨耗しきり、自らが自らの理想とかけ離れた人間になった。
それでも―――切嗣《オヤジ》は聖杯を求めたのか。
自分では叶えられなかった理想、その、多くのモノを犠牲にして、夢見続けた物の為に。
「……でも結局、切嗣《オヤジ》は聖杯を壊した。願いは叶えられなかったんだろう」
「そうだ。ヤツ自身が、最後に自分自身を裏切ったのだ。
……ヤツに憤怒を覚えたといえば、まさしくあの瞬間だったろう。
正直に言えばな、私はそれでもよいと思ったのだ。一人の人間が望んだ“平穏”とはどのような形になるのか、興味深くはあったからな」
「アンタはそうじゃないのか。神父なんだろ、一応」
勿論、と神父は頷く。
争いのない世界、苦しみのない世界こそが万人の求めるものだと。
「だが、その願いは私の物ではない。そもそも、私には人並みの願いなどない」
「? 人並みの願いがない……?」
「そうだ。願いとは即ち、その人間がもっとも心地よいと感じる在り方だろう。衛宮切嗣にとって、それが争いのない世界だっただけの話でな。私とは、初めから基準が違う」
「?」
「簡単な話だ。人が幸福と感じる事実が、私にはなかった。人を信じる事も、人に信じられる事も、どうという事はない。おまえたちが幸福と呼ぶものでは、私に喜びを与えなかった」
感情のない呟き。
それは俺に宛てたものではなく、ここにはいない誰かに宛てたような、そんな独白だった。
「―――さて、話はここまでだな。
衛宮切嗣がマスターだったかどうか。その質問には十分に答えただろう」
「う―――いや、ちょっと待った。聞きたいは切嗣《オヤジ》の事だけじゃない。その、えっと」
マスターとしての心構えとか、これからどうやって戦っていけばいいのか。
……そんな間の抜けた事をコイツに聞いたら、間違いなく嫌味と皮肉と嘲笑で返される。
それは避けたい。
というか、絶対に避ける。
「他に質問があるのなら手短に済まそう。今の話は、思いの外《ほか》時間をとったからな」
「――――っ」
……いや、他に確かめておくべき事があった筈だ。
マスターとしての立ち振る舞いではなく、ある疑問を晴らす為に、来たくもない教会《ここ》を訪れたのではなかったか。
「アインツベルンの事はいいのか。
彼らにとって、切嗣の息子であるおまえは抹殺対象だと思うのだが」
「っ……! そうだっ、その話……! そもそもアインツベルンってなんなんだ。さっき、アンタは聖杯戦争の原因とか言ってたけど」
「ああ、原因だとも。聖杯戦争が魔術儀式だという事は話しただろう。儀式である以上、それを仕組んだ者がいるのは道理だ」
「二百年前、この地の霊脈に歪があると知った魔術師たちがいてな。彼らは互いに秘術を提供しあい、聖杯を起動させる陣をこの地の深くに作り上げた。
それが聖杯戦争の発端だ。この起動式の作成に関わった三つの家系こそが、聖杯の正統な所有者でもある」
「聖杯を作り上げたもの。英霊を酷使する令呪を考案したもの。土地を提供し、世界に孔《みち》をうがつ秘術を提供したもの」
「アインツベルン、マキリ、遠坂。
始まりの御三家、私やおまえでは太刀打ちできぬ歴史と血筋を誇る者たちがそれだ。この中で土着の者は遠坂だけだが、遠坂とて大師父はかの時の翁《シュバインオーグ》だ。尤も、遠坂の大師父が伝え聞く通りの人物ならば、人種分けなど滑稽だが」
「……む。つまりアインツベルンってのは、聖杯戦争の一番偉いヤツって事か?」
「過去ではな。だが聖杯召喚が失敗し、今のように聖杯の所有権が曖昧になってからは参加者にすぎなくなった。
今では聖杯の器を作り上げるだけの役割だ。
マキリと遠坂もそれは同じだ。彼らはただ、マスターに選ばれやすい、という権利を持つだけの家系だな」
「……といっても、もともとこの聖杯はアインツベルンが考案したものだ。彼の一族の歴史は一千年。分家も持たず、他の魔術師と交わらずに一千の年月を重ねた家系は少ない」
「解るか衛宮士郎。アインツベルンはな、一千年もの間、ただ聖杯の成就だけを追い求めてきた。
一千年だぞ? 聖地奪還という使命を盾に殺して殺して殺し尽くすなどという異次元の蛮行がまかり通った昔、中世より連綿と続いた、人の領域など逸脱した狂気の沙汰だ。
彼らは熱狂的ではなく偏執的ではなく狂信的でもなく、絶望的な十字架のみを胸に“無意味《未到達》”さを貫き通してきた」
「故にアインツベルンの魔術師は魔の領域さえ突破している。十年単位ですら忘却され消耗する集団の意思を、その何倍も繰り返したあげくただの一度も道を誤らなかった怪物ども。
それが自分たち以外の魔術師を招き入れる屈辱と挫折など、我々に想像できるものではない」
「しかし、それでも彼らは聖杯の成就を優先した。
過ちを繰り返し五百年。自分たちだけでは手に入らぬと受け入れるのに三百年。
そして―――やはり自分たちの力でなければ手に入らぬと改めるまでさらに二百年」
「アインツベルンは文字通り、自らを殺す気概で下賎《マキリと》の者《遠坂》たちと協力した。
その結果が聖杯の所有権を奪われ、一参加者として競争しあうという体たらくだ。その屈辱に耐え、守り通した血の結束を破ってまで外来の魔術師を引き入れたというのに、その男《衛宮切嗣》は聖杯を前にして、あろうことか聖杯《アインツベルン》を裏切った」
「それが彼の一族と衛宮切嗣の関係だ。
おまえとアインツベルンは、そういう因縁の元にある」
「―――――――」
……そうか。
あの子が真っ先に俺を狙いに来たのは当然だ。
裏切り者の息子がマスターになったのなら、そんなヤツは許しておけるものじゃない。
「理解したかな。マスターになる者は皆何らかの業を背負っているが、中でもマキリとアインツベルンの執念は言葉に表せるものではない。マキリが五百年ならば、アインツベルンは一千年だ。
――――正当な権利を主張するのならば、聖杯はどちらかの手に渡らねば救われぬだろうな」
「………………」
言葉がない。
何百年もの間続く執念なんて、それは人が対峙できるものではないからだ。
「そう落ち込むな。衛宮切嗣はアインツベルンを裏切ったが、それを非道となじる事はない。
逆に言えば、ヤツは一千年の怨霊を向こうに回してまで、己が願いの成就に懸けたのだ。
それこそ自身の裡《うち》に沈むあらゆる物を捨て去ってな。
それは十分に誇れる事ではないかね?」
「――――――――」
……自分を迎え入れた者たち。
一千年の歴史を向こうに回して張り通したもの。
……神父の言葉を鵜呑みにする訳じゃないが、もし本当にそうだというのなら――――
―――俺が切嗣《オヤジ》の息子を名乗るなら、切嗣《オヤジ》と同じように、自分の信じる道を行かなくては――――
「どうした。一千年と聞いて戦意が削がれたのかね、衛宮士郎」
「―――削がれてなんかない。理由はどうあれ、俺は戦うと決めたんだ。他のマスターが何を考えようが、十年前のような事は起こさせない」
それだけだ、と顔をあげる。
神父は満足したかのように、大仰に頷いた。
「十分だ。それがおまえの戦う意義ならば、死を賭して戦うがいい。長引けばそれだけ犠牲者は出る。切嗣と同じよう、夜毎《よごと》己が命を秤にかけて標的を誘き寄せろ」
「……人事だと思って言いたい放題だな。ようするに撒き餌になれってことだろ、それ」
「他に賭けるものがないのだから仕方あるまい。
なに、それほど絶望的な策でもないぞ。おまえにはマスターを感知する能力はないが、サーヴァントはサーヴァントの気配を感じ取れる。おまえのサーヴァントが優れているのならば、あとは座して待つのみだろう」
「――――」
神父に背を向ける。
聞くべき事はもうない。
もうずいぶんとセイバーを待たせているし、いいかげん戻らないと。
「待て。一応訊いておくが、おまえは治癒の魔術を習得しているか?」
「―――してない。それがどうした」
「いや。ならば、負傷者が出たのなら連れてくるがいい。
犠牲者を出すのは教会としても見過ごせないのでな。間に合うのなら、こちらで治療は引き受けよう」
「――――」
ぴたり、と出口に向かっていた足が止まる。
「……驚いたな。アンタ治療魔術なんてできるのか。教会じゃご法度だろ、それ」
「本来は管轄外だが、覚えた。
昔、目の前で死病つきに死なれてな。それを機に手を染めてみたのだが、思いの外相性が良かったようだ」
「ああ、ただしおまえ本人の治療には見返りを要求するぞ。監督役として平等でなくてはならないからな」
「―――お断りだ。死んでもおまえの世話になんかなるもんか」
ふん、と顔を背けて、今度こそ外に向かって突き進んだ。
◇◇◇
――――夜を待って街に出る。
セイバーとの話し合いの末、とりあえず出た結論がそれだった。
言峰の言う通り、俺はマスターを感知できない。
敵の気配を察知できるのはセイバーだけで、そのセイバーも他のサーヴァントを感知できるのは近づいた時だけだという。
となると、方針は自然、足を使って街を巡回する事になる。
偶然に期待するようなものだが、セイバー曰く『危険ではあるが確実』な手なのだそうだ。
マスターは隠れ家に閉じこもっている訳ではない。
聖杯戦争が他のマスターとの競争であるのなら、優位に立つ為に何らかの手段を用いなければならない。
その為にサーヴァントは敵マスターの隠れ家を探し、マスターは魔術を用いて罠を張る。
その行動そのものが付け入る隙だ。
サーヴァントかマスター、どちらかが動けば大きな魔力が働く。魔術師を感知する事は出来ずとも、使われた魔力の残り香ぐらいは嗅ぎ取れる。
それを頼りに街を巡回していれば、他のマスターの手がかりぐらいは得られるだろう。
……もちろん、それは自分を撒き餌にして得る情報だ。
言峰神父の言う通り、俺には自分を囮にする以外に手段がない。
巡回は今夜から行う。
セイバーは一人で街に出るから俺は家に残っていろ、と言い張ったが、それはこっちも一緒に戦うと言い張った。
長く、どこか不毛だった意地の張り合いの末、
『……判りました。では、必ず私と共に行動すると約束してください。夜中、一人では決して外に出る事はしないと誓えますか?』 セイバーは最後に、こっちの言い分を飲んでくれた。
さて。
方針は決まったのだが、解決しなくてはならない問題があと二つほどあったりする。
「シロウ。先ほども説明しましたが、私は余分な魔力は使えません。今夜出陣を控えているのなら尚更です」
「ああ、出来る限り眠って魔力の消費を抑えるんだろ。
俺からの魔力提供がないセイバーは自分だけで肉体を維持しなくちゃいけない。
セイバーの一日の魔力回復量が8だとすると、一日の肉体維持に必要な魔力は6。んで、余剰の2が一日で貯められる貯金になる。
通常の戦闘で消費する魔力は、えーと、うまく温存すれば10ぐらいだっけ?」
「こちらが一度も傷を負わず、鎧を破損しない限りはそうです。ですが同格の英霊相手ではそのような事はあり得ません。
シロウ風に言うのなら、ランサーとの戦いに五十、バーサーカーとの戦いにいたっては二百ほど魔力を消費しました」
ランサーには胸を穿たれ、バーサーカーには腹を裂かれた。
あれだけの傷を治療したのだから魔力を大量に失うのは当然だと思う。
思うのだが、
「肉体の治癒にはそう魔力を使いません。むしろ破壊された鎧の修復の方が大きい。私の魔力は、その大半を守りに固定していますから」
なのだそうだ。
「鎧も体の一部なんだっけ。肉体の維持と鎧の維持は同位なワケだ。鎧を脱いでいるのは魔力の維持の為なんだよな」
「はい。ですが、他のサーヴァントにその必要はないでしょう。私は霊体になれないので武装を解除するしかありませんが、ランサーやアーチャーは非戦闘時に霊体になる事でマスターへの負担を減らしている筈です」
「なるほどなるほど。……っと、下ごしらえはこんなんでいいかな」
「シロウ。食事を用意してもらえるのは助かりますが、少々緊張感に欠けるとは思いませんか?」
「え? いや、そんな事はないけど」
そんな事はないのだが、実際、危機感というものが薄れたのも事実だ。
家に帰って、作戦会議の後にセイバーの状態を聞かされた時は驚いた。
俺からの魔力提供がないセイバーは、それこそ日々『ここにいる』だけで精一杯なのだ。
そんな状態で戦える筈がない、と方針を変えようとしたのだが。
「なあセイバー。もう一度訊くけど、おまえの今の魔力量って、いくらだっけ」
「シロウ風に言うのなら、一千ほどですが」
―――なんてデタラメぶりである。
バーサーカーとの戦いで二百だのなんだの言っておいて、セイバーにはまだそれだけの魔力が温存されている。
しかも不十分。まっとうな魔術師をマスターにしたセイバーがどれほどの魔力量を誇るのか、考えるだに恐ろしい。
その許容量は人間のレベルじゃないし、俺の何倍あるかなんて比べるのも馬鹿らしいんで止めた。
遠坂がセイバーを“最も優れたサーヴァント”と評していた意味が、俺にもやっと判ったというか、なんというか。
「……そりゃ緊張感もなくなる。敵は六人しかいないってのに、そんだけの魔力があれば怖いものなしじゃないか」
「――――それはただ戦うだけの場合です。
先ほども言いましたが、宝具の使用には莫大な魔力を必要とします。今の私では宝具の使用は厳しい。その為に、少しでも魔力を温存しなくてはならないのです」
セイバーは怒っている。
それがマスターとしてセイバーに負担をかけている俺になのか、
それとも睡眠をとるというセイバーをここに押し止めている俺に対してなのか、どうも判別がつかない。
「魔力の温存は判ったよ。けど人間食事も大切だろ。昼は余りもので済ませちまったから、夕飯はちゃんと食べてくれ。寝るのはその後でいいじゃないか」
「…………。いいでしょう、もとより私も容易く宝具を使う気はありません。この話は貴方がもう少し、サーヴァントというものを実感してからにします」
不満げにこぼして、セイバーは行儀よくテーブルの前に正座する。
うん、よしよし。
セイバーのヤツ、なんだかんだとこっちの言い分を聞いてくれるから助かる。
とりあえず、『魔力維持の問題について』はこれで決着だ。
もとより俺たちではどうしようもない問題だし、解決策は現状を把握するぐらいしかない。
で。
「しかしシロウ。先ほど問題が二つあると言いましたが、あと一つはなんなのですか?」
「ん? ああ、もうすぐ来る。口裏はさっき合わせた通りにやってくれ」
大根をドッカドカにぶった斬って、ドバーっと鍋に投入する。
「?」
首をかしげるセイバー。
そこへ、
「ただいまー! 士郎、晩ご飯作ってるかなー!」
「お邪魔します、先輩」
なんて、いつも通りの声が玄関から響いてきた。
「………………」
「………………」
「………………」
沈黙が痛い。
当然と言えば当然、予想通り藤ねえと桜は面食らってこっちをじーーーーーっと見つめてくる。
『今日から家に下宿する事になったセイバーだ。よろしくしてやってくれ』 と説明してからはや十分。
何も反論がない、というのは結構きく。
お茶を飲もうにも湯飲みの音さえ響きそうで飲めず、熱い緑茶はとっくに冷めきっていた。
が、いつまでもこのままでは進展しない。
ここは勇気を持って前進あるのみである。
「とにかく切嗣《オヤジ》を訊ねてきたんだから、帰ってもらうわけにはいかないだろ。観光に来ただけだからそう長くは滞在しないっていうし、離れを使ってもらうから問題ないと思うし」
「………………」
「………………」
「………………」
……沈黙は続く。
ところで。
藤ねえと桜が黙り込むのは判るのだが、なんでおまえまでそんな意外そうな顔してるんだ、セイバー。
「――――ふう。まあ、切嗣さんの知り合いなら仕方ないか。外国に親戚がいるとか言ってたし、えっと、セイバーさん? もしっかりしてるようだし、私は反対できないかな」
「……あの。藤村先生、それは」
「ごめんね。桜ちゃんの気持ちはわかるけど、ここは切嗣さんの家だから。それにさ、外国からここを頼りにしてきた子を放っぽりだしたら日本の恥でしょ? そうでなくとも最近は物騒なんだから、こんな可愛い子を追い出せないわよ」
「…………それは、そうですけど。先輩は、それでいいんですか?」
「ああ、元からそのつもりだ。セイバーにはしばらく家にいてもらう。桜はセイバーが下宿するのは反対か?」
「……いえ、お知り合いの方が住むのはいいと思います、けど――――その、セイバー、って」
「ん? ああ、変わった名前だろ。名前通り無愛想だけど、いいヤツなのは保証する。あんまり日本になれてないんでおかしなところもあるけど、桜が教えてくれると助かる」
「…………はい。先輩がそう言うなら、いいです」
外国人であるセイバーに苦手意識を持ったのか。
セイバーから目を逸らしたまま、桜は小さく頷いてくれた。
そんなワケで、夕食である。
セイバーの歓迎と昼飯のリベンジをかねて夕食は力をいれた。
かつおのたたきサラダ風から始まって、ピリリと辛いねぎソースをかけた鶏肉揚げ、定番といわんばかりの肉じゃがと、トドメとばかりにえび天を筆頭に天ぷら各種を用意する。
奮発したというか、もはや節操のない献立となった夕食は、しかし。
主賓と弟子には不評のようだ。
「うわ、なにこの天ぷら!? 中がほくほくで美味しいとかいう話じゃないよぅ! どうしてくれるのよ士郎わたしフツーのエビさん見直しちゃったー!」
「……………………」
いや、まあ。
その分、藤ねえが四人分喜んでくれたんでいいけど。
藤ねえのおかげか、夕食はつつがなく終わった。
どういう訳か、あの藤ねえがセイバーにおかずをあげる、という珍事まで発生したおまけ付きだ。
藤ねえは藤ねえなりに、寡黙なセイバーを気に入ったと見るべきだろう。
「………………」
藤ねえとセイバーは、セイバーの部屋を準備するため離れに出向いている。
残った俺たちは夕飯の後片付け。
実にいつも通りの役割分担なので、何がどうという事もない。
「食器は俺が洗うから桜はテーブル周りを頼む。
と、天ぷら油はまだ捨てなくていい。フタして奥に仕舞ってくれ。重いけど、大丈夫か?」
「え……? あ、はい、大丈夫ですよ。わたし、こう見えても力持ちなんですから」
よいしょ、と油の張った鍋を持ち上げる。
よしよし、弓を引いてるんだから気にするまでもなかったか。
「ま、弓だって力だけで引くわけじゃないけどな」
ざぶざぶ、と音をたてて食器を洗う。
と。
「あれ? 先輩、タオルが減ってますよ? ペーパータオルも空っぽだし、いつもと食器の置き場所が違ってます」
「え? どれどれ……って、ほんとだ。なんだろ、泥棒でも入ったのか」
「うーん。タオル専門の窃盗犯、というのは難しいですね」
「だな。そんな泥棒は泥棒じゃない」
普段とは違う食器の位置。
空っぽになったペーパータオル。
何枚か持ち出されているタオル。
このあたりの事実から導き出される結論はと言うと、「――――あ。そうか、遠坂がいたんだ」
ぽん、と手を叩く。
バーサーカーとの一件のあと、倒れた俺を看病してくれたのは遠坂だ。
ペーパータオルやら何やらは、俺の手当てに使ったと見るのが妥当だろう。
「先輩。遠坂って、遠坂先輩のコトですか?」
「ああ。ちょっとした縁で家にあがってもらったんだ。
その、つまんないドジでケガしちまってさ。偶然通りがかった遠坂が親切にも手当てしてくれたんだよ。さすが我が校の誇る優等生。慈愛に満ちてるってもんだ」
勿論、後半は断じて本気ではない。
我が校の誇る優等生は昨夜死んだ。
まことに遺憾だが、優等生遠坂凛は俺の中から消え去ってしまったのだこんちくしょう。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、遠坂先輩がここに来るんですか。そんなのおかしいです。だって全然関係ない。ここにいるのはわたしで、先輩とあの人はぜんぜん関係ないのに、どうして」
俯いたまま、桜はじっと体を押さえる。
「………………」
突然の事に、かける言葉が見当たらない。
桜は何かよくない不安に耐えるように、強く自身を抱いていた。
◇◇◇
明かりが消える。
午後十一時。町が眠りについたのを見計らって、セイバーと共に外に出る。
「ではシロウ。とりあえずこの町の中心に向かうのですか?」
「………………」
……結局、夕食の片付けから桜の様子は変わらなかった。
いや、むしろ悪化したと見るべきだろう。
元気がなくなって、熱病にかかったようにぼんやりとしていた。
そのくせ俺に家まで送られるのは嫌がって、藤ねえに連れられて帰っていったのだ。
「それともあちらの街に行ってみますか? 他のマスターが潜んでいる可能性はあちらの方が高そうですが」
「………………」
思えば二日前の桜も様子が変だった。
妙に元気がないというか、どこか怯えているような、そんな感じ。
「シロウ? もし、聞いているのですかシロウ」
「………………」
「シロウ! 今夜の方針を訊いているのです!」
「え!?」
驚いて顔をあげる。
と、目の前にむっとしたセイバーの顔があった。
「――――すまん、気が緩んでた。これからどうするかだな、セイバー」
「判っているのなら繰り返す必要はありませんね。
―――どちらの町にも言える事ですが、地脈の流れに僅かな支障が起きています。他のマスターが行動を起こしているのは間違いないでしょう。選択次第では、今夜中に一人減らせる」
「いきなりマスターと戦うかもしれない……って事か。
……けど、もし相手があの子だったらどうするんだ。
バーサーカーには勝てないんじゃないのか」
「――――マスター。今の私は万全です。魔力提供がないとは言え、五体満足ならばおいそれと敗れることはありません。
……まあ、相手がイリヤスフィールの場合のみ撤退する事になるでしょう。バーサーカーの宝具が何であるか、それを見極めるまでこちらも宝具は使えませんから」
「――――――――」
セイバーが警戒しているのはバーサーカーだけだ。
他の可能性―――もし遠坂と出会った時の話を彼女はしない。
セイバーにとって、遠坂は倒すべき敵の一人にすぎない。
だが俺にとって、マスターは止めるものであって倒すものじゃない。
「セイバー。確認するが、マスターとサーヴァントが降伏した時は戦いを止める。俺の方針は令呪を使い切らせてマスターでなくす事だ。 ……本当に、それでいいな?」
「……判っています。ですがシロウ。敵がこちらの申し出を受け入れないのであれば、その時は」
「……ああ。その時は聖杯戦争のルールに従う。マスターとして戦う以上、その終わりは受け入れている筈だ」
坂道を降り始める。
―――深山町《こっち》を巡回するか、新都を巡回するか。
今夜は――――
「今夜は深山町《こっち》を見て回る。ここのところ様子がおかしいし、足元を掬われる前に調べてみよう」
「同感です。目に見えて判るような異状はないでしょうが、丁寧に見回れば手がかりは得られるはずです」
……そうだな、まずはこっち側の住宅地を見て回ろう。
その後は交差点に降りて、洋館《あちら》側の住宅地を巡回する。
それで異状が見られなければ新都に移動して、手がかりを見つけだせばいい――――
住宅地を一通り回って交差点に降りる。
うちの側《ほう》に異状はなかった。
あとは洋館側の丘と、手を広げるのなら柳洞寺にまで足を運んで――――
「――――え?」
背中から湧き上がってくる悪寒。
「セイバー、これ……!?」
俺より正確に感じ取ったのか、セイバーは新都の方角に視線を向ける。
……感じ取れた気配が薄れていく。
だが、今のは間違いなく誰かの悲鳴であり、強い魔力の余波だった。
「――――――――」
判っていた。
始めからこうなる事を望んで外に出たのだ。
だっていうのに、どうして頭が麻痺しているのか。
「――――っ」
戦う覚悟はあった。
躊躇いは死にかけた時に消えている。
なのに体は動かず、頭は次の行動を命じてくれない。
――――きっと早すぎる。
だって、幾らなんでも一日目で当たりを引くなんて思わなかった。
だから動けない。襲われる事には慣れても、自分から襲う事に慣れていない。
なんて間抜け。
自分が殺される事はいいってのに、自分が殺す事を考えてもいな――――
「悲鳴が止みました。感じ取れる気配も消えかけています。何が起きたかは判りませんが、このままでは襲われた者は助からないでしょう」
「――――――――」
それで消えた。
固まっていた頭、手足の痺れが解ける。
殺し合いをするのだ、という畏れは、
誰かを見殺しにするのだ、という恐れにかき消された。
「すまん、セイバー……!」
自分の不甲斐なさを詫びて、全力で走り出す。
悲鳴の元、不吉な魔力が残る殺し合いの場へ。
覚悟は出来ていない。
走り出す足は震えている。
――――それは正しい。
戦う意思、聖杯を欲する欲望がないのなら、この畏れは必ずついて回る。
「―――なんて間抜けだ、大馬鹿野郎が……!」
そう。
故に、戦うと決めた理由があるのなら、まずそれを抱かなければならなかった。
相手が“聖杯が欲しい”という願望で心を武装するのなら。
衛宮士郎は、“戦いを止める”という願望で、この畏れを打ち消していくしかないのだと――――!
◇◇◇
「は、ぁ――――!」
脇目もふらず公園に駆け込む。
漏れている魔力は強大で、この上なく不吉だった。
清流の中に重油が流れているようなもの。
これだけの濃い魔力ならば、俺にだって感じ取れる。
セイバーの足が止まる。
彼女の目は俺より早く、何が起きているのかを把握したのだ。
「な――――」
体が震える。
逆上する頭には不快感と嫌悪しかない。
……伝説に言う吸血鬼を見るようだった。
黒い装束の女が、気を失った女性の首筋に口をあてている。
つう、と。
滴《したた》り落ちる血の筋が、余りにも生々しい。
……それは、人を食っていた。
外見、肉としての話じゃない。
あの黒い女は人間の中身――――精神とか記憶とか、そういったモノを根こそぎ吸い上げている。
襲われた女性はピクリとも動かない。
死蝋じみた肌の女性は、それこそ、生きながらにして人形に変えられたかのようだ。
「――――――――」
喉がうまく動かない。
吸血鬼じみたアレがサーヴァントだという事に驚いているんじゃない。
俺の目はその後ろ―――黒い女を見守る、間違いようのない人影を凝視していた。
「――――へえ。誰かと思えば衛宮じゃないか。凄いな、おまえの間の悪さもここまで来ると長所だね」
「慎二、おまえ――――」
頭が麻痺している。
現状が把握できない。
正確な判断が下せない。
なんであいつがここにいるのか。
その手に持った本はなんなのか。
どうして死にかけた女がいるのに笑えるのか。
どうして、どうしてこんな馬鹿げたコトが目の前で起こっているのか――――!
「どうした、なに固まってるんだ衛宮。サーヴァントの気配を嗅ぎ付けてやって来たんだろ? ならもっとシャンとしろよ。一応さ、馬鹿なおまえにも判りやすいように演出してやったんだぜ?」
「――――――――」
聞き慣れた慎二の声が、いつも通り聞こえない。
それは妙に甲高く。
耳にするのが、ひどく不快に感じられた。
「――――殺したのか、おまえ」
手を握り締める。
慎二の前にいるサーヴァントは目に入らない。
気が狂ったとしか思えない。
俺よりずっと強い存在《モノ》、全力で逃げなくてはいけないサーヴァントが目の前にいるっていうのに、まったく脅威を感じない。
感じる理性が、とびかけている。
「はあ? 殺したのかってバカだねおまえ! サーヴァントの餌は人間だろ。なら結果は一つじゃないか」
「――――――――」
「ま、僕もどうかと思うけど仕方ないだろ? こいつらは生しか口に合わないってんだ。サーヴァントを維持するには魔力を与え続けるしかない。おまえだって手ごろな獲物を探してたんじゃないの?」
何がおかしいのか、慎二は愉快そうに笑う。
黒いサーヴァントは動かない。
その姿は訓練された軍用犬のようだ。
アレは自らの意思では動かない。
主人―――マスターからの命令がなければ何もしない人形。
だが、命令さえ下れば躊躇わず人を殺す悪鬼の類。
「――――退《ど》け」
その猟犬を前にして言った。
時間がない。
急げばあの女性は助かるかもしれない。
「はあ? 退けってなにさ。それ、もしかして僕に言ってるのかい衛宮!?
は、お断りだね。食い残しがほしいんなら手を出せよ。
それはおまえの使い魔だろ?」
「――――慎二」
「ほら、なら戦わせてみようぜ衛宮。僕はサーヴァント同士の戦いが見たくて人を呼んだんだ。おまえだってマスターだろ? なのにぶるぶる震えてさ、そんなんじゃそこの女と変わらないじゃないか!」
「――――退く気はないんだな、慎二」
「しつこいな。退かしたかったら力ずくでやれよ。
ま、もっとも――――
震えてる分には構わないぜ? どのみち、おまえにはここで痛い目にあってもらうんだからね」
慎二の目に敵意がともる。
それを命令と取ったのか、黒いサーヴァントの体が沈み――――
「――――出ます! シロウは後ろに!」
黒い跳躍に応じるように、セイバーは戦いに踏み込んでいた。
二つの影がぶつかり合う。
セイバーは瞬時に武装し、不可視の剣で黒いサーヴァントを迎え打つ。
響く剣戟。
地にしっかりと構えたセイバーと、めまぐるしく地面を駆ける黒いサーヴァントは対照的だった。
セイバーは敵のスピードについていけず、ただ足を止めて守りを固めている。
敵は長い髪をなびかせ、鈍重な獲物を追い詰めるように畳み掛けてくる。
「は、なんだ、ただの木偶の坊じゃないか! マスターが三流ならサーヴァントも三流だったな!」
俺と同じく戦いの場から離れて、慎二は笑う。
……どうしてあいつがマスターになったのかは知らないが、魔術師としての力はないようだ。
慎二はサーヴァントの援護をしない。
となると、あいつも俺と同じで偶然マスターに選ばれただけなのか――――
「――――――――」
何度目かの短剣を受け、セイバーの足が止まる。
その顔は苦しげだ。
セイバーは高速で襲いかかってくる敵に、苛立ちに似た視線を向ける。
「いいよ、かまわないから決めちゃえライダー!
爺さんの言いつけは守ったんだ、衛宮のサーヴァントを始末するぐらい不可抗力さ!」
――――黒い影の速度が速まる。
黒いサーヴァント――――ライダーは主の命に従いセイバーの首を刈らんと加速し、
一撃のもとに、その体を両断された。
―――勝負は一瞬で付いた。
セイバーの剣はライダーの体を叩き斬り、黒いサーヴァントは成す術もなく吹き飛ばされた。
その豪快さは、バットでサンドバッグをかっ飛ばすかのようだった。
無論バッターはセイバーで、吹っ飛ばされたサンドバッグがライダーである。
「……………え?」
空気が変わる。
慎二は呆然と傷ついたライダーを見つめ、
「――――嘘だろ」
俺は愕然と、つまらなそうに剣を収めたセイバーを見つめてしまった。
「な―――なんだよ、なにやってんだよおまえ……!」
罵倒する声。
腹を裂かれ、出血するライダーに駆け寄ることなく慎二が叫ぶ。
「誰がやられていいなんて言ったんだ! 信じられない、こんなの命令違反だ! この僕がマスターになってやったのに、衛宮のサーヴァントなんかにやられやがって……!」
「っ――――。っ、ぁ――――」
自らの血だまりの中、ライダーは懸命に体を起こす。
……だが立ち上がれない。
ライダーの傷は致命的だ。すぐに治療しなければサーヴァントといえど命はない。
「この、さっさと立って戦え死人……! どうせ生きてないんだ、傷なんてどうでもいいんだろう!? ああもう、なにグスグズしてるんだよこのグズ……! 恥かかせやがって、これじゃ僕の方が弱いみたいじゃないか!」
ライダーを罵倒する慎二。
それを見かねたのか、
「ライダーを責める前に自身を責めるがいい。いかに優れた英霊であろうと、主に恵まれなければ真価を発揮できないのだからな」
「っ……! ば、ばばばバカ、早く立てって言ってるだろう! マスターを守るのがおまえたちの役割なんだ、勝てないんなら体を張って食い止めろよな!」
「…………言っておくが、それも無駄だ。令呪を使ったところで貴様にライダーは治せない。死にかけのライダーを令呪で酷使したところで、私を防ぐ盾にもなるまい。
ここまでだライダーのマスター。
我が主の言葉に従い、訊きたくはないが降伏の意思を訊ねる。令呪を破棄し、敗北を認めるか」
「う、うるさい、化け物が偉そうに命令するな……! 立てライダー、おまえの主人は僕だろう! 犬のクセに主人の言いつけが聞けないってのか……!」
「っ――――。――――、――――」
火花が散っている。
慎二の命令を守れない罰なのか、ライダーは青白い電荷に苛《さいな》まれる。
……なんて悪循環。
ライダーはもう戦える体じゃない。
なのに、慎二の命令が立ち上がれないライダーを責めている。傷は更に深まり、ライダーは急速にその命を失いつつあった。
「――――――――」
セイバーの手が慎二に伸びる。
「ひ――――! 立て、動けライダー……! どうせ死ぬんならこいつを道連れにして消えやがれ……!」
慎二の命令にライダーが反応する。
――――死を前提とした命令に、ライダーの体が動く。
そこへ、
「そこまでだ。どうやらおまえでは宝の持ち腐れだったようじゃな、慎二」
しわがれた、老人の声が割って入った。
「え?」
ぼう、という音。
「え、え……!? 本、本が燃える……!」
慎二の持つ本が燃えていく。
「なんで……!? くそ、消えろ、消えろってば、なんで燃えてんだよコイツ!?」
必死に炎をはたくが間に合わない。
本は跡形もなく焼失し、同時に ライダーの姿も、跡形もなく消え去った。
「……やれやれ。見込みはないと思っていたが、よもやこれほどとはな。孫可愛さで目をかけてやったが、これでは見切らざるを得ぬわ」
今まで何処に潜んでいたのか。
老人―――間桐臓硯《ぞうけん》は、夜の闇から滲み出るように現れていた。
「お、お爺《じい》、さま? いまのは、まさか」
「ワシ以外に誰がおるのだ馬鹿者。折角のサーヴァントを殺しかけおって。それでも我が血脈の後継者か」
「……! な、ならなんで邪魔したんだよ! 勝てばいいんだろ勝てば! 僕は間桐の後継ぎなんだ、こんな奴等に負けるなんて許されないって判ってたのに……!」
慎二は縋るように老人に駆け寄る。
ライダーを失い、セイバーに迫られた慎二には、あの老人しか頼るものがないのだろう。
だが。
「……痴れ者め。おまえのような出来そこないに勝利など求めておらぬわ。その身に求めたモノはな、無力でありながらも挑む我らの誇りじゃ。
にも関わらずこの体たらく。間桐《マキリ》の名に泥を塗りおって。まったく、親子共々一門の面汚しよな」
「な――――僕が、親父と同じ、だと――――」
「たわけ、それ以下じゃ。無能であったおぬしの父は、更に救いのない不良品を産みおった。
……それでも構わぬと一縷の望みを抱いておったが、それもここまで。血筋ばかりか精神まで腐らせおって。
間桐の血は、おまえで終わりだ」
老人は慎二を無視して歩き出す。
……老人に不吉なものを感じたのか、セイバーはかすかに後じさる。
「……ふむ。なるほど、これではライダーが敗れるのも道理。さぞ名のある英霊とお見受けした。これほどのサーヴァント、過去の戦いにおいても一人現れたかどうか」
「………………」
「さて、となるとワシは死ななくてはなるまい。あのようなものでも血縁でな、この身に代えても命だけは救わねばならん。カカ、まっこと肉親の情とは命取りよ」
……驚いた。
老人が前に出たのは慎二を逃がす為らしい。
間桐臓硯《ぞうけん》はその為にセイバーと対峙し、怯えて這っている慎二を守っているのか――――
「そら、早々に立ち去れい。契約の書も燃え、マスターでなくなったのだ。ここを生き延びればこやつ等もおぬしを襲うまい。父親同様、無意味な余生を送るがよい」
「っ――――――――」
老人を睨みながら、慎二はセイバーの目から逃れていく。
「――――――――」
セイバーは追わない。
マスターでなくなった慎二を追う必要はない、と考えてくれたのだろう。
慎二は這ったまま離れていく。
そうして公園の出口まで辿り着き、
一度だけ振り返り、狂ったように走り去った。
胸焼けがする。
どこからか、肉の腐った匂いがしていた。
「ほ、みすみす見逃したか。……なるほどなるほど。あのような小物、手にかけたところで剣が汚《けが》れるだけの話であったな」
「………………」
セイバーは老人と対峙したまま動かない。
……それはあの老人の視線から、俺を守っているかのようだった。
「―――セイバー、下がってくれ。その爺さんとは顔見知りだ。少し話がしたい」
「いけません。この男は人間ではない。話す事などなく、聞く事もない筈です」
「……判ってる。それでも聞いておかなくちゃいけない事があるんだ。頼む、すぐに済ませる。戦うかどうかはその後でセイバーが決めていい」
「………………」
わずかに体を引くセイバー。
道は譲らないが、老人と向き合うだけの機会をくれた、という事だろう。
「――――すまん。
……それで。どう説明してくれるんだ、アンタは」
「さて。ただ説明しろ、とは不躾《ぶしつけ》な男よ。
質問は構わぬが、何を問うておるのか分からぬのでは応えようがないぞ?」
「……慎二の事だ。なんだってあいつがマスターになってたんだ。さっきの様子じゃアンタが担ぎ上げたように見えたが、どういう事だ」
「ほ、何を訊ねるかと思えば。そのような事、答えるまでもない。今おぬしが口にした通り、慎二をマスターに選んだのはワシだ。見ての通り現役から退いて久しいのでな。
戦えぬワシは、孫に桧《ひのき》舞台を譲ったというわけだ」
「マスターを譲った――――それは、つまり」
「うむ。おぬしと同じだ、衛宮の後継ぎよ。
聖杯が現れると知り、ワシではなく孫にサーヴァントと契約させたのだ。おぬしとて魔道を究める血の末席。
己では叶わぬ夢を、弟子に託す心情は理解できよう」
「――――――――」
……じゃあ何か。
原則として、マスターとは魔術師がなるものだ。
なら慎二は魔術を学んでいて、その家が魔道であるって言いたいのか、この爺さんは。
「魔術師――――間桐の家も、魔術師の家系だっていうのか」
「知らなんだか? この土地には遠坂と間桐、両家が根を張っておる。
とは言え、とうに我が血族は廃れておる。
この土地の権利は名実ともに遠坂のもの。間桐はかつての権利に縋って細々と生きているにすぎんがのう」
「遠坂……? じゃ、じゃあ遠坂もアンタの事は知ってるのか。間桐の家が魔術師の家系だって……!?」
「当然であろう。我らと遠坂はかつての同朋じゃ。儀式が争いに変貌してからは袂《たもと》を分ったが、ともに大願を抱いた同士。聖杯戦争に絡まぬところでは交友は続いておった。
おお、たしか彼奴《きゃつ》から小娘に代替わりしたのであったな。
ここ十年ばかり留守にしておった故、彼奴の弟子がどれほどの器かは見知らぬが」
呵々《カカ》、という笑い声。
遠坂の家にどんな感情を抱いているのか、間桐臓硯は愉快そうに哄笑する。
「……遠坂とかつての同朋だと言ったな。じゃあ間桐の家は、一番初めの聖杯戦争からここにいるのか」
「うむ。元々はマキリという。
間桐と名を偽りこの国に根を下ろしたのだが、どうもそれが間違いだったようじゃ。この国の土は我らには合わん。この二百年で血は薄れ、今ではあのような出来損ないが後継者という始末じゃよ」
「――――間桐」
マキリという名前を変換しただけのもの。
じゃあ、慎二が魔術師の家系だとしたら、桜、は。
「む? いやなに、ただの言葉遊びじゃよ。正体を隠す為だが、名というものは軽視できんのでな。偽りの名と言えど、真名に通じていなくてはならん」
「――――――」
そんな事はどうでもいい。
大事なのは、訊かなければいけない事は一つだけだ。
「――――じゃあ。桜は―――桜も、慎二と同じようにマスターなのか」
「これは異な事を。桜がマスターだと? そのような事はあり得まいに。どうやらおぬしの父親は、まともな教育をしなかったようじゃな」
「あり得ない……? 桜に魔術師としての素養がないって事か?」
「それ以前の問題じゃ。
そも、魔術師の家系は一子相伝が基本。よほどの大家でなければ後継者以外に魔術を伝える事などあり得ぬよ。
兄妹など最たるものだ。後継ぎは二人もいらぬ。間桐の名が廃れていなければ養子にでも出したのだが、魔術回路がないのでは貰い手などおるまい」
「――――じゃあ桜は」
「慎二がマスターである以上、答えは明白であろう。後継者に選ばれなかった片割れは、間桐《おのれ》の家が魔道である事も知らぬわ。
……まあ、兄が使い物にならなければ妹を、とも思っておったが、既に勝敗は決した。今更、何も知らぬ孫を聖杯戦争に駆り出す事もなかろうよ」
「――――――――」
ほう、と胸を撫で下ろす。
……良かった。
間桐が魔術師の家系だった事には驚いたし、慎二がマスターだった事は問題だ。
それでも、桜がこんな殺し合いに関わらなくていいのだと思うと、今は素直に安堵できる。
「―――勝敗は決したと言ったな。それじゃもう慎二は戦わないんだな。アンタも現役じゃなくて、桜だって聖杯戦争に関係はないんだな」
「うむ。だが慎二がどうでるかはワシにも保証はできんぞ?
アレは魔術師というものに執念を抱いておる。
身内の恥じゃが、間桐の血はこの国に根付いてから薄れていった。その最後の後継者がアレじゃ。もはや間桐の子供には魔術回路などない」
「……まったく、だというのに何処で秘伝を紐解いたのか。アレは選ばれた人間などという驕《おご》りを持ちながら、同時に生まれつき劣っているという強迫観念を持って育ちおった。
放任が祟ったのだろうが、性根というものは中々に矯正できぬ。このような明確な敗北を受けても諦められぬのでは、手の施しようがない」
老人の体が縮む。
いや、足音もたてずに後ろに引いたため、そう錯覚させられただけだ。
「ともあれ、慎二は敗れた。此度の戦いは早々に我らの敗退となったが―――それでもこの老体を斬るかね、セイバーのサーヴァントよ」
「その言葉が真実ならば、無益な戦いはしない。
だが、もし偽りなら次はない。それは貴殿の跡取も同じ事。懲りずに我が主を狙うのならば、その時こそ容赦なく斬り捨てよう」
「うむ、しかと」
老人の姿が消えていく。
……どのような穏行《おんぎょう》なのか。
間桐臓硯は現れた時と同じように、俺たちの目の前で夜の闇に溶けていく。
「――――――――」
後に残ったものは腐臭だけだ。
胸にわだかまる不快感を堪えながら、倒れている女性を担ぎ上げる。
「教会に行くぞセイバー。まだ間に合う。あいつならなんとか出来るはずだ」
「――――承知しています。女性は私が」
「?――――って、そうか。すまん、頼むセイバー」
女性をセイバーに預けて走り出す。
事は急を要する。俺より小さいとはいえ、力ではセイバーの方が上なんだ。ヘンな見栄を張ってないで、ここは彼女に任せた方がいい。
「先行します。離れずに付いて来てください」
セイバーの体が流れる。
その速さに引き離されぬよう、こっちも全力で走り出した。
◇◇◇
真夜中だというのに、教会には明かりがついていた。
教会前でセイバーから女性を預かり、一人で礼拝堂に入る。
大声で言峰を呼ぶと、あいつは衰弱した女性の姿を見るなり、女性を抱きかかえて奥に引っ込んでしまった。
なんでも、治療室に使えそうな部屋は言峰の私室ぐらいしかないのだそうだ。
「――――はあ」
並べられた椅子に座る。
……とりあえず、これでやれるだけの事はした。
あの女の人が助かるかどうかは言峰次第だ。
今は言峰を信じて、こうして結果を待ち続けるしかない。
「――――――――」
……時間が過ぎていく。
外で待っているセイバーも気がかりだが、今はここを離れる訳にはいかない。
それに――――少し、一人で考えたかった。
魔術師の家系だった間桐の家。
マスターとなってサーヴァントを従えていた慎二。
魔術師としての力を失いながらも、後継者を聖杯戦争に参加させた間桐臓硯。
「……………………」
聖杯に執着があるのはアインツベルンだけじゃない。
マキリと遠坂。
いや、もとより“聖杯”なんてものに縋《すが》るしかない人間がマスターになる。
……それはセイバーだって例外じゃない。
アインツベルンは一千年もの間、聖杯を求め続けた。
その執念は俺がどうこうできるものじゃない。
聖杯でなければ救われないモノ、聖杯でなければ癒されないモノがいる。
切嗣《オヤジ》はそれを敵に回して、聖杯を破壊した。
けど俺は―――そこまで、強く自分の願望を貫く事が出来るのか。
アインツベルンやマキリのように、
何百年も前から求め続けた連中と、肩を並べて争う権利があるのかどうか―――
「まさかな。負傷者をつれて来いとは言ったが、その日のうちに連れてくるとは思わなかったぞ」
「言峰――――」
顔を上げる。
神父の表情に暗いものはない。
なら、治療は上手くいったという事だろうか。
「言峰。あの女の人は、どうなった」
「持ち直しはした。後は本人次第だ。ここに連れてくるのが半時ほど遅ければ、今ごろは本職に戻らねばならなかったが」
「―――そうか。すまない、世話をかけちまった。
……その、アンタが起きていてくれて、助かった」
「どうした、私に礼を言うとは熱でもあるのか? 悩み事なら相談に乗るぞ」
「……どうだか。悩み事なんて山ほどある。それを増やしたのは他ならぬアンタだろ。これ以上、アンタの長話なんか聞くもんか」
「なんだ、昼の話は迷惑だったか。……ふむ。後押ししてやったつもりなのだが、迷いを増やしただけとは。私も反省せねばならんな」
どこまで本気なのか、神父は悔いるように口を閉ざす。
「……………………」
別に、その雰囲気に負けた訳じゃないけど。
「…………その、さ。
知ってるヤツが、マスターだったんだ」
自分ひとりでは耐え切れず、そう、泣き言を呟いていた。
神父は何も言わない。
ただ一言、そうか、と頷いただけだ。
「当然倒したのだろうな、衛宮士郎」
短い質問に、こっちも頷きだけで答える。
「ならば悔いるな。人間には過去を変える事はできん。
我々に出来る事は、常に自身の行いを是とする事だけだ。
それでも罪を背負いたいのならば、これからの自身の行いに問うがいい。既に起きた惨事をどう捉えるかはおまえ次第だ」
「………………」
神父の言葉はもっともだ。
……慎二がマスターなこと、間桐の家が遠坂と同じく魔術士の家系なこと、アインツベルンが聖杯に執念を持つことが問題なんじゃない。
大事なのは、これから自分がどうするのか、という決断だけ。
「――――帰る。あの人の事、よろしく頼む」
椅子から立ち上がって、礼拝堂を後にする。
外ではセイバーが待っているんだ。
女性の無事が確かめられた以上、ここに留まっている理由はない。
「待て衛宮士郎。一つ助言をしてやろう」
「……なんだよ。長話は聞かないって言っただろ」
「なに、すぐに済む。こんな夜更けに治療をしてやったのだ。治療代として話に付き合え」
「………………」
そう言われては反論できない。
渋々と振り返ると、神父は俺のすぐ目の前に立っていた。
「昼に言い忘れた事だ。
アインツベルンの望み―――一千年の願いを叶える為に彼らは生き続けてきた。なるほど、口にしてみれば大《おお》事《ごと》だ。気圧されるのも当然だろう」
「………………」
……これだからこいつは苦手だ。
何も言ってないってのに、こっちの迷いを的確に言い当てやがる。
「……うるさいな。またむし返そうってのか、おまえ」
「そうではない。私はな、そう意識するほどの事でもないと言っているのだ。
そう、特別視する必要などない。この戦いはよくある出来事にすぎないのだよ。
日々の営み、人々の幸福が結晶化したものが聖杯戦争だ。参加する事、殺しあう事に罪悪などない」
「あらゆる人間は自分だけの望みを持ち、それを果たす為に奪い合う。人間の一生とはそれだけのものだ。大小はあれ、その指向性だけは共通する事項だろう。
望みを叶えようとしない人間はいない。
無論、成否は別だ。人間は己が望みを叶える為に生き、その全てが、目的に届かず終わるのだから」
「物事には順序がある。願いを叶える為には相応の努力と蓄積が必要だ。そうして積み重ねる徒労を、我々は人生と呼ぶ。
―――聖杯とは、単にその徒労を無くすだけのもの。
人間の生き方をより純化《シンプル》にしたものが聖杯戦争という殺し合いだ」
「つまり、何も特別な事などない。
七人のマスターは、己が人生を以って果たすべき長い過程を、聖杯という近道で短縮しようとしているだけの事。
それ以外は何も変わらん。他者の願いを自己の願いで塗り潰していくのが人の営みだ。
聖杯戦争もおまえの人生も変わらない。
おまえはおまえの望むまま、気負うことなく勝ち抜くがいい」
「………………」
神父は楽しげに語る。
崇高な願いも下劣な願いも変わらない。
願望の質など問わん。
ただ己が心のまま、他者の願いを蹂躙しろ――――
それが皮肉なのかどうかは分からない。
ただ、この神父は本気で、マスターとして中途半端な俺でも、戦う価値があるのだと告げていた。
「……らしくないな。アンタが人の心配をするなんて、どんな風の吹き回しだ」
「なに、しなくともよい話をしたからな。悩みを解きに来た者に、さらなる迷いを与えては神父失格だ」
……まったく。
遠坂が聞いたら、アンタなんか初めっから神父失格よ、なんて言うに決まってる。
「余計なお世話だ。じゃあな、エセ神父」
「ああ。これに懲りなければまた来るがいい」
ふん、と鼻を鳴らして出口に向かう。
カンカンと乱暴に足音をたてて、今度こそ礼拝堂を後にした。
教会から出ると、外にはセイバーが待っていた。
……なんというか、昼間もこんな感じだったな。
冬の寒空の下、セイバーは文句一つなく待っていてくれる。
マスターとサーヴァントの関係はそういうものかもしれないけど、セイバーは俺の身を案じて傍にいてくれる。
その気持ちには、やっぱり素直な心で返さなくてならないと思うのだ。
「―――あの人、助かったよ。セイバーのおかげだ」
「礼には及びません。あの女性を助けようとしたのはシロウです。私は貴方の方針に従っただけですから」
「っ――――」
そういうセイバーの顔は、びっくりするほど優しかった。
「あ……いや、そんなコトないぞ。あの人を助けたのはセイバーだ。俺だけじゃきっと間に合わなかったし、それに――――」
セイバーはあの人を助ける為に、間桐臓硯を見逃したのだと思う。
あそこであの老人を止めていたら、間違いなく戦いになった。そうなればあの女性は確実に衰弱死していた。
セイバーはそれを考慮して、間桐臓硯を見逃したんだ。
「な、なんですかシロウ。その、理由もなく頬がゆるんでいるように見えますが」
「え? いや、理由はあるよ。セイバーが思っていた通りのやつで良かった。ありがとうなセイバー。俺の無茶な方針に従ってくれて、嬉しかった」
「な、何を言うのです。私は別に、シロウの指示が無茶だとは思ってなど――――」
「そうかぁ? さんざん甘いだの手温いだの戦いをなんだと思ってるのですかー、なんて言ってたじゃないか。
セイバー、努力はするけど状況次第で方針は変えるって顔、してたぞ」
「そ、そんな顔はしていませんっ! マスターの身に危険が迫った時は私の判断を優先する、と言っただけではないですかっ。それをそうかぁ? などとよく言えたものですね、シロウは」
むー、と不満そうにうなるセイバー。
「――――」
そんな姿も、さっきまでの姿と似ても似つかなくて頬が緩んでしまう。
「シロウ。どうやら貴方には一度、礼節とはどういうものか教えこまなければならないようですね」
「ああ、機会があったら頼む。けどセイバー。今はそれより、この戦いを終わらせよう」
「え、シロウ……?」
「俺はセイバーみたいに聖杯が必要って訳じゃなかった。
戦いを終わらせて、最後まで残れたら聖杯はセイバーに貰ってほしい、なんて思ってた。そんな半端な自分で、セイバーは本当にいいのかって迷いがあった」
「―――そうですか。では、今はどうなのです? 貴方は今夜、自分の意思での戦いを経験した。貴方の考えは変わりましたか?」
「いや、これが全然。まだ聖杯戦争には納得できてない。
―――けど、必ず最後まで戦う。
俺には他の連中みたいに、聖杯で叶える願いはない。
……けどさ、誰かを守る事、正義の味方になるコトが俺の目標だったんだ。
それが他の連中に劣っているとは思えない。なら相手が五百年だろうが一千年だろうが、向こうに回して戦わなくちゃいけないと思うんだ」
「―――なるほど。確かに、それは筋が通っている」
「では私も今一度誓いましょう。
貴方が私の主として相応しい限り、この身は貴方の剣となる。シロウがシロウである限り―――その期待を、決して裏切る事はありません」
「あ―――うん。精一杯努力する、セイバー」
まっすぐな微笑がくすぐったくて、つい視線を空に泳がす。
冬の星空は冷たく張り詰めて、だからこそ綺麗だった。
―――決して、裏切ることはない。
地上とはかけ離れた場所、今夜の出来事とは切り離された夜空を見上げる。
この寒空の下、当然のように待っていてくれた彼女はそう言ってくれた。
ならこっちも精一杯胸を張ろう。
彼女が信じてくれた自分を最後まで張り通せるよう。
せめて自分が通った道を、悔いる事なく振り返れるように。
◇◇◇
教会を後にする。
物陰で待機していたのか、俺が出てくるなりセイバーは姿を現した。
「話は済みましたか、シロウ」
「ああ。切嗣《オヤジ》がどんなマスターだったかも、アインツベルンとどんな関係だったかも聞いた。ついでに身の振り方も忠告されたよ。あいつ、見かけのわりにはお喋りだ。
なんだかんだって世話やかれちまった」
「は……? あ、あの神父が貴方に協力的だったのですか?」
何がおかしいのか、セイバーは目を白黒させている。
「――――――――」
「シ、シロウ? どうしました、やはり何か代償を求められたのですか? く、どうして私を呼ばなかったのです、危険が迫った時は呼んでほしいとあれほど言ったではないですか……!」
俺の顔がよほどおかしかったのか、セイバーは詰め寄ってこっちの顔を覗いてくる。
「――――――――」
「それで、何をされたのですかシロウ……! 貴方の傷はまだ完治してはいない。少しの油断で昨夜の繰り返しになるのだと、貴方自身も判っている筈です……!」
ずい、とセイバーはさらに詰め寄ってくる。
「――――――――」
「傷を見せてくださいシロウっ。昨夜の傷は私にも責任がある。その責を返さないまま貴方を死なせる訳にはいかない。私はまだサーヴァントとして一度も貴方の助けになっていないのです、こんな事で契約を破棄する事など許容できない……!」
ぐい、と剥ぎ取らんばかりに人の服に手をかけるセイバー。
その姿は、鬼気迫るというより、その。
「――――――――く」
あ。やば、我慢してたのに笑っちまった。
「………………シロウ?」
ぴたり、とセイバーの手が止まる。
こっちが何を堪えていたかを悟ったのか、セイバーは一転して睨みつけてくる。
「――――シロウ。他者の動揺を愉しむのは、よくない趣味だ」
「――――――――っ」
そう抗議する顔すら新鮮で、つい頬が緩んでしまう。
「シロウっ」
「く――――いや、悪い。セイバーがあんまりにも慌てるもんだからびっくりしちまった。その、嬉しい誤算というか、俺も間抜けだったっていうか」
「……嬉しい誤算、ですか。何か含むものを感じますが、当然納得のいく説明をしてくれるのでしょうね」
よっぽど癇に触ったのか、セイバーはますます感情的になっていく。
ようするに委員長気質なんだ、セイバーは。
こっちが間の抜けた事をすると本気で叱ってくるんだけど、本気だから地の感情が出てくるというか。
「なにをニヤニヤと笑っているのです……! 私が貴方の容態を見誤った事がそんなに楽しいのですか!」
「すまん、正直に言うと嬉しい。今のセイバー、妙に元気だからな」
「? はい。私の体調に異状はありませんが、それが何か?」
「いや、そういう事じゃないんだ。なんというか、初めてセイバーの素顔を見たっていうか、セイバーがちゃんと女の子なんだって実感できて、良かった」
「な――――」
ざざ、と後ろに飛び退くセイバー。
「な、なにを言うのです。サーヴァントに性別など関係ありません。私たちは敵を討つだけの存在なのですから、そのような事で喜ばれては困る」
怒っているのか呆れているのか、セイバーは辛辣な眼差しを向けてくる。
「――――――――」
が、不思議と不快じゃないというか、やっぱり気分はにやけたままだった。
サーヴァントなんて言っても、セイバーは外見通りの人間だ。
他のサーヴァントがどんなヤツかは知らないが、俺と契約してくれた彼女は、戦うだけの使い魔なんかじゃない。
まだ一度も貴方の助けになっていない、と彼女は言った。
ランサーから俺を助けてくれた事、バーサーカーを前にして俺を逃がそうとしてくれた事。
二度も命を救っておいて、彼女はそれを助けと考えない。
「――――お人好しなんだか、完璧主義なんだかな」
「な、なんですかその目は。マスターといえど度を過ぎる言動は無視できません。シロウがそれ以上おかしな事を言うのなら、私にも考えがありますが」
「わかったわかった。わかったからそんなに怒らないでくれ。単に、俺と契約してくれたサーヴァントがセイバーで良かったってだけの話」
「な、何を言うのです。私は貴方に呼ばれただけだ。
私の意思で貴方と契約した訳ではありません。私を選んだのは他ならぬ貴方ではないですか」
「ただの偶然だけどな。……うん。だからまあ、今はそれが悔しい。初めから、ちゃんと自分の意志でセイバーの手を取りたかった」
右手を差し出す。
最初に出来なかったこと。
交わすべきだった約束を、ここできちんと果たさないと。
「シロウ……?」
「随分遅れちまったけど、いいかな。俺はこういうやり方しか知らない」
セイバーは無言で歩み寄って、躊躇わずに手のひらを重ねてくれた。
細い指。
自分の物ではない、彼女の確かな感触が伝わってくる。
「これから一緒に戦ってくれるか。俺にはセイバーの助けが必要だ」
「私の誓いは変わりません。貴方の剣となる為にこの身は召喚されたのです」
「―――それに助けが必要なのはお互い様です。
聖杯を手に入れる為に、私は貴方の力を借りる。貴方が信頼してくれるのなら、私はその心に見合う力を振いましょう」
握り返される感触が温かい。
「――――――――」
胸に残っていた戸惑いは跡形もなく消え去った。
始まりの夜から半日過ぎた今。
俺はようやく、彼女が共に戦ってくれる“協力者”なのだと実感できていた。
◇◇◇
一際、甲高い響きがあった。
白刃は玲瓏《れいろう》たる月光を受け、光を散りばめながら転がり落ちていく。
「――――――――、ふ」
唇には血糊。
石段に膝をついた男は、闇に落ちていく自らの長刀に別れを告げた。
両腕が落ちた。
陣羽織は血に塗れ、布地の雅《みやび》さと相まって壮絶な朱《あけ》の華となる。
「――――なんと。よもや、蛇蠍魔蠍《だかつまかつ》の類とは」
鮮血に染まった腹とは裏腹に、男の唇は白蝋《はくろう》である。
喉元よりせりあがる臓腑の戻しも既にない。
男―――佐々木小次郎の内臓《なかみ》は、もはや別のモノとして機能している。
山門は、静かだった。
門番たるサーヴァントも、
現れた影も、
ともに動くことはない。
―――戦いは、既に終わっている。
石段をヒタヒタと登ってきた“何者か”に、山門を守るアサシンは敗れた。
刃を交える機会、敵を敵と認識する時間さえなかった。
もとより、現れた“何者か”は、次元の違うモノだったのだ。
門番《アサシン》の体が裂ける。
腹を裂かれ、両腕を断たれ、長刀を失ったアサシンには自決さえ許されない。
ヒタヒタと歩く。
影は愛しそうに、或いは蔑むように、アサシンと呼ばれたサーヴァントの頬を撫でる。
裂かれた腹中より出《いず》る、蜘蛛の如き奇形の腕《かいな》。
骨が絡む。
肉が裂ける。
五臓六腑、自分のモノであったモノが、まったく別の何者かの内臓《なかみ》に変わっていく感覚。
「ず―――!」
逆流する血堰《けっせき》を押し留める。
剣士は押し出される血液を飲み下し、涼やかな唇のまま笑みを浮かべた。
「……よかろう、好きにするがいい。所詮は我が腹より這い出るもの、ろくな性根ではなかろうよ――――」
自決を許されず、その血肉を蝕まれてなお微笑む。
壮絶と言えば。
その笑みこそが、この異形の出産を上回る凄絶さ。
そうして、ソレは召喚された。
偽りのサーヴァントを血肉とし、その臓腑《にくたい》よりこの世に現れたモノは、紛れもない“暗殺者”のサーヴァント。
「キ――――キキ、キキキキキ――――――――」
産声は蟲に似ている。
剣士の腹ワタより這い出た黒虫は、足りぬとばかりに、苗床であった肉体を貪り尽くす。
ケラケラと肉を裂いていく。
ゲラゲラと骨を噛み砕く。
その都度《つど》に黒虫は人のカタチを成し、空白の脳漿《のうしょう》に人のチエが与えられる。
そうして半刻。
肉も血も綺麗に啜り上げ、石段には跡形もなく、“暗殺者”は自らの誕生を祝福した。
見届けるは草陰で合唱する蟲の群と、浩々《こうこう》と輝く月輪のみ。
甲高い産声は溶けるように高みへ消えていく。
――――吉《よ》くない月。
黒焦げの空に、白い髑髏《どくろ》が嗤《わら》っていた。
◇◇◇
――――光が差し込む。
閉じた目蓋ごしに感じる光は、朝の到来を告げるものだ。
布団にもぐった体に寝返りをうたせて、陽光から顔を背ける。
「ん――――」
まだ眠気が残っている。
外の冷たさからいって、時刻は五時半頃だろう。
「――――――――」
昨夜は寝付くのが遅かった。
教会からセイバーと帰ってきて、セイバーを離れの部屋に押し込めてから床についたのが午前三時過ぎ。
……実質二時間ほどしか睡眠時間がないのはどうかと思う。
それでなくとも昨日はドタバタして疲れたんだ。
今日ぐらいはあと三十分眠ってもバチは当たら―――
「――――あれ?」
いま、ぼんやりと何か見えた気がする。
布団の横。
つまり俺のすぐとなりに、控えめに言って信楽焼の狸ぐらいのものがドーンと鎮座していたような。
「…………………」
……そういえば、心なしか人の気配がする。
じーっと誰かに見られていて落ち着かないというか、ええっと、つまり――――
「セイバー…………っ!」
「はい。なんでしょうか、シロウ」
「な、なんで俺の部屋にいるんだおまえ、ちゃんと離れの部屋に案内しただろ昨日―――!?」
がばっと跳ね起きて布団から出よう―――として、起こすのは上半身だけにとどめた。
下は、その、朝なんでセイバーには見せられないのだ。
「それなのですが、やはり問題があります。部屋には案内されましたが、あそこはシロウの部屋から離れすぎています。貴方の身を守るには、常に傍に控えているのが適切です」
「ちょっ、ちょっと待った、とりあえず離れろっ……!
いいから離れろ、頼むから離れろ、ええいセイバーが離れないんなら俺が離れるっ……!」
ごろんごろん、と布団を巻きつけたまま間合いを離す。
「?」
不思議そうに眺めるセイバー。
―――ああもう、年頃の健康男子をなんだと思ってんだあいつっ。
ただでさえ近づかれると緊張するってのに、こんな朝っぱらから真横に正座なんてされたらショックで脳細胞が死ぬ。しかも不意打ち、フツーなら理性《だいいち》小隊が全滅するところだぞ、ほんと。
「シロウ。話の続きですが」
「う……続きって、部屋のことか?」
「はい。万全を期すため、私たちは同室で休むべきです。
この屋敷の結界は優秀ですが、あくまで警告を発するだけのもの。攻め込まれた場合、貴方を守る盾にはなりません」
「……………………」
セイバーの言い分はもっともなんだが、こっちの精神安定も考えて欲しい。
セイバーと同じ部屋で寝たりしたら、敵の襲来の前にこっちの精神が崩壊してしまう。
いや、そもそもセイバーといつも一緒にいられる訳はないんだから、そのあたりの距離感ってものを――――
「――――あ」
って、忘れてた。
一緒も何も、今日から学校じゃないか……!
「シロウ? どうしました、突然顔を青くして。貴方がそのような顔をする時は、決まってよくない提案をすると把握していますが」
「――――――――」
鋭い。
さっきまでの忠義はどっかいって、セイバーは不信そうな瞳で牽制してくる。
「いや、その。言い忘れていた事があるんだが」
こっちも正座をして向き合う。
……さて。
どうやって話せば、学校のことを納得してもらえるだろうかな、と。
◇◇◇
「………………」
「………………」
背中越しの視線が痛い。
タトン、タトン、と豆腐を切るなか、行儀よく正座したセイバーは、
ずーっとあんな顔でこっちを見据えていたりする。
『今まで通り学校には行く』。
そう切り出した後、セイバーとの口論はずっと平行線だった。
セイバーは勿論反対。
マスターをひとりにするのは危険だ、という。
しかし、こっちにだって生活がある。
学校を休んだら藤ねえが不審がるし、ずっと家に篭っていたら外で何が起きているか判らない。
それに、セイバーと外に出るという事は、他のマスターを警戒させる事であるのだ。
一人で外の様子を見る、というのもそれなりに成果はありそうだし、なにより。
「マスター同士の戦いは人目を避けるんだろ。なら日中は安全だ。よほど人気のないところに出向かない限り、仕掛けられる事はない」
セイバーはそれでも安心できないと反論した。
……正直、そこまで過保護にされるとカチンときちまって、こっちも意地になって“学校行く案”を主張し続けて、その結果がこれである。
「……………………」
セイバーの視線が痛いのは、言うまでもなくセイバーが怒っているからだ。
今日の教訓。
あいつは怒らせるとかなり根に持つ。しかも感情的になるんで手におえない。
つまり、今後は意地の張り合いにならないよう気をつけよう。
「……ったく。融通きかない頑固もの」
「なにか言いましたかシロウ」
「いや、独り言。この豆腐、硬くて」
「――――――――」
……しかも地獄耳だし。冷戦したくないタイプだな、あれ。
「ん? あれ、もうそんな時間か」
呼び鈴のあと、玄関の開く音がする。
ついで、聞きなれた「お邪魔します」という桜の声。
「そっか。セイバーと長話してたもんだから、いつもより三十分ロスしたわけだ」
いやまあ、それでも朝食はほとんど出来ている。
セイバーが喜ぶようにパン食にしようかと思ったが、ご機嫌をうかがっているようで嫌なんで止めた。
日本人は米だ。
さっきから向けられてる視線の暴力に対抗して、郷に入れば郷に従えと無言の圧力をかけてやる。
「おはようございます先輩。今朝はもうやっつけちゃったんですか?」
「ああ、だいたい片付けた。おはよう桜。藤ねえもそろそろだろうから、盛り付け手伝ってくれ」
「はいっ。それじゃお手伝いしちゃいますね」
桜は居間に鞄を置いて、セイバーに挨拶をする。
「おはようございます、セイバーさん。昨日はよく眠れましたか?」
「はい。慣れない部屋でしたが、この屋敷には慣れていましたので問題はありません」
……お、二人が話してる。
昨日はろくに話さなかったけど、一晩明けて桜も納得してくれたみたいだ。
「お待たせしました。先輩、どこから仕上げるんですか?」
「ん、大皿一枚と人数分の皿四枚。サラダは出来上がってるんで、適当に盛り付けてくれ」
「はい。うわ、今朝のサラダはジャーマンポテトですか?
朝から洋食風なんて凝ってますね先輩」
驚きながら、桜は大量に作ったジャーマンポテトを大皿に盛り付ける。
断っておくと、洋食風なのはサラダだけだ。
……重ねて断っておくと、セイバーの迫力に負けたワケではない。単に少し日和《ひよ》っただけである。
「あ、なんかいい匂い。先輩、ちょっと味見いいですか?」
「いいけど熱いぞ。あと甘いかもしれない」
「?」
菜箸で炒めたジャガイモを摘む桜。
「んー……あ、ほんとに甘い。これ、たまねぎの甘さじゃないですよね?」
桜はぺろり、と唇をなめてレシピを思案する。
「――――――――」
その仕草に、なんでか、驚いた。
桜の味見なんて見慣れている筈なのに、その、こんだけ近いと妙に艶かしいというか。
「うん、美味しいです先輩! この味つけ気に入っちゃいましたー!」
よほど気に入ったのか、桜はご機嫌な体で大皿にポテトを移していく。
その仕草はいつもの桜だ。
さっき感じた驚きが薄れてくれて、ほっと胸を撫で下ろす。
「―――――と、ちょっと待て桜」
「はい? なんですか先輩?」
桜はいつも通りだ。
昨日と何も変わらない。
慎二がマスターで、間桐の家が魔術師の家系だとしても、それは桜には関係のない話。
桜が争いごとに巻き込まれる事はない。
そんな事はあってはならないのに、
「桜。右の頬、見せてみろ」
桜の右頬―――髪に隠れて見えなかったが、たしかに、殴られたような痣があった。
「あ……違うんです先輩。これは、その、階段で転んじゃって、それで」
「――――――――」
……桜がこうやって誤魔化す相手は一人しかいない。
昔からそうだった。
妙に元気があったり落ち込んでいたり、桜は不自然に躁鬱なときがある。
それが慎二になじられての事だと気付いて、あいつを殴りつけた事もあった。
……それでも、今までこんな事はなかった。
半年ほど前、桜は腕に痣をつけてやってきた。
それが慎二によるものと気づいて、カッとなって慎二に手を上げたのだが、あの時だってこんな―――女の子の顔を殴るなんて、そんな事はしなかったのに―――!
「――――あいつ」
「せ、先輩――――」
バキ、という音。
手にしていた菜箸が折れたらしい。
「いい加減あたまにきた。二度と妹に手を上げるなって言ったのに、そんな当たり前の事も守れなかったのかあいつは……!」
「違います先輩。本当にそんなじゃないんです。これ、わたしが倒れただけなんです。……兄さんがわたしにぶつかっただけで、わたしが勝手に倒れたんです」
「――――桜」
「本当にそれだけなんです先輩。
……それより、今は兄さんに関わらないでください。
兄さん、昨日の夜からおかしいんです。気が立っているようだから、先輩にもおかしな事を言ってしまうかもしれない」
「――――――――」
桜は慎二を庇っている。
殴られた桜がそう言う以上、俺が文句を言うことはできない。
……それに、慎二がおかしい理由を俺は知っている。
昨夜の慎二は常軌を逸していた。
マスターでなくなり、祖父である間桐臓硯に罵倒されたんだ。
あの後間桐邸に戻った慎二は、家にいた桜に八つ当たりをして憤りを静めたのか。
「――――――――く」
桜は何も知らない。
兄貴である慎二の事、間桐家の秘密を知らない。
なら―――あんな状態にある慎二と暮らす事は安全なのか。
慎二は諦めていない。
その凶行が、妹である桜に及ぶことだって十分あり得てしまう。
「……あの、先輩? ごめんなさい、朝から迷惑かけてしまって」
「――――ばか。迷惑なんて、そんなこと言うな」
……迷惑をかけたとしたらこっちだ。
昨夜、慎二とやりあった時点でこれぐらい予想しておくべきだった。
桜が今まで通りに過ごせる方法。
今まで通りに笑顔でいられる方法を、きちんと考え出さないと――――
朝食は暗い雰囲気のまま終わった。
何かあったのか藤ねえは顔を出さず、桜は終始無言。
セイバーはもともと寡黙だし、俺だってお喋りな方じゃない。
朝食はすぐに済んでしまい、桜は朝練に出るため四十分ほど早く登校する。
「……あの。それじゃ失礼しますね、先輩」
無理に笑って、桜は靴を履く。
「ああ。部活、あんまり張り切るなよ。この前だって体調が悪いっていうのに無理しようとしただろ。朝練は適度に流して奥で茶でも飲んでろ。美綴がなんか言ったらな、俺に貸し一でいいって言い返せ」
「――――はい。それなら主将も喜びます」
ガラガラ、と音をたてて玄関が開かれる。
桜はペコリとおじぎをして、玄関を後にし――――
豪快に、扉にぶつかった。
「さ、桜――――!?」
「あ、っ〜〜〜〜〜」
うーん、と正面衝突した鼻を押さえる。
「だだ、大丈夫か桜!? 鼻血、出てないか!?」
「――――はい、だいじょうぶ、です。せんひゃいにはなぢなんてみられたら、しんじゃいます――――」
ふらふらと立ち上がる桜。
……どうも、今の激突は桜の不注意……というわけじゃなさそうだ。
「……ほんとに体はいいのか桜。いまの、ぶつかったっていうより倒れたように見えたぞ。立ち眩みだったら、今日は」
「え……? おかしいな、そんなコトないんですよ? 今のはわたしの不注意で、その、恥ずかしいです」
「…………」
「それじゃ改めて、お先に失礼しますね先輩。藤村先生には、今朝も先輩のご飯は美味しかったってお伝えします」
こっちの心配を振り払うように、今度こそ桜は玄関を後にした。
「――――――――」
確かに元気はいいみたいだ。
もし疲れてるとしたら、それは体ではなく心の方だろう。
「……慎二の事もある。このまま放っておけないよな……」
そうは言うものの、明確な手段がない。
セイバーに相談する訳にはいかないし、桜に真相を打ち明ける事もできない。もちろん藤ねえは論外である。
「――――――――」
……くそ。俺たちと同じように学校に通っていて、聖杯戦争にも通じているようなヤツがいれば相談する事が出来るんだが―――
「……はあ。そんな都合のいいヤツ、ひょこひょこ歩いてる筈ないよなぁ……」
◇◇◇
階段を上る。
セイバーに留守を任せて学校に来たものの、あたまの中はどんよりと曇ったままだ。
「……え、衛宮くん!?」
「――――あ」
――――いた。
なんでも相談できる嘘みたいに都合のいいヤツがひょこひょこと歩いていた。
「――――そう。
わたしのコト、甘く見てるってこと」
あっちもこっちに話があるのか、足を止めて声をかけてきた。
なんて幸運、まさに渡りに船!
ここは――――
慎二の事を相談できるヤツなんて遠坂しかいない。
いや、問題は今朝の桜の怪我の事なんだが、それは転じて慎二の問題でもあって――――
「いいわ。そっちがその気ならここで決着をつけてあげる。サーヴァントを連れずに学校に来るなんて――――」
「すまん!…… 後生だ遠坂、相談に乗ってくれ!」
遠坂に詰め寄って、そのまま壁際まで押し付ける。
話が話だ、まわりにいる生徒には聞かせられない。
「ちょっ、ちょっと何考えてるのよアンタ……! ここで決着つけるってのはあくまで喩えで、まだ周りにみんながいるじゃない……!」
「頼む、頼れるのはおまえしかいないんだ。桜が聖杯戦争に巻き込まれそうでどうしていいか分からない。おまえなら色々知ってるし、なんとか知られないまま守れる方法ってないか―――!?」
「――――」
遠坂はぽかん、と口をあけたまま見つめてくる。
「あ……す、すまん。あんまりにもいいタイミングだったからつい取り乱しちまった。
……その、桜ってのは俺の後輩なんだけど、そいつが聖杯戦争に関わっちまいそうなんだ。なんとかしたいんだけど、うまい方法が思いつかなくて、それで」
「――――言い訳は結構。それより早く退いてくれない?
ホームルーム、始まっちゃうでしょ」
「っ……! わ、わるい、気がつかなかった……!」
慌てて遠坂から離れる。
……遅れて、いまさら頬がカアっと熱くなった。
あの遠坂を壁に押し付けるなんて、なに考えてんだ俺は……!
「……すまん。謝ってばっかりだけど、とにかく話を聞いてくれ。俺は――――」
「……相談事があるんでしょ。いいわ、聞いてあげる」
「え―――ほ、ほんとか遠坂!?」
「……あのね。聞いてあげないと死にそうな顔して、本当かはないでしょ。昼休みに屋上。話ならそこで聞くわ」
ふい、と顔を逸らして遠坂は階段を上っていく。
それを呆然と見上げていると、
「――――ばか。急がないと遅刻するわよ」
どこか拗ねたような口調で、そんな言葉を残していった。
◇◇◇
教室に急ぐ。
ホームルーム開始三分前、藤ねえはまだやってきていない。
慎二の机はカラだ。
昨日の今日で顔を合わせるのは辛かったが、話はつけておきたかった。
……それも欠席ではどうしようもない。
間桐の家に行ったところで慎二を刺激するだけだろうし、しばらくは顔を合わせない方がいいのだろうか。
「……って、あれ?」
空《から》の机がもう一つある。
あれは一成の机だ。
「珍しいな。あいつでも学校を休むんだ」
自分の机に鞄を置いて、来るべきホームルームに備える。
「お待たせー! どう、今日は朝から新記録でしょ?」
珍しくホームルーム開始のベルより早く到着する藤ねえ。
……ふん。
朝に顔を出さなかったんで寝坊したもんだと思ってたけど、いつもより元気あるじゃないか、まったく。
――――昼休みを告げる鐘が鳴る。
教室を飛び出し、一階の購買でうぐいすパンと日本茶を手に取り、そのまま最短で階段へ駆け込んだ。
「ハッ、ハッ、ハ――――!」
一階に下りていく生徒たちに逆走して屋上へ。
心臓はドクドクと脈打っている。
一時限目が終わって二時限目が終わって、三時限目が終わって四時限目が始まって、胸の動悸はおさまるどころかテンポをあげる一方だった。
「……ッ、ハッ、あ――――、と」
そう、白状すれば緊張している。
相談に乗ってくれた事がありがたい、って事もあるが、そんなのはオマケみたいなもんだ。
冷静に考えてみれば、あの遠坂凛と待ち合わせをするなんてどうかしてるとしか思えない。
あいつは学校のアイドルで、非の打ち所のない優等生で、その、一年の頃から憧れていた女の子なんだこんちくしょー!
「ああもう、落ち着けバカ――――!」
階段を駆け上がりながら、乱れている呼吸を整える。
……とにかく、これは一大イベントだ。
マスター同士になったからって遠坂は遠坂だし、待ち合わせに遅れるなんて失態は見せられない。
こっちが頼んだ手前もある。
ならあいつより早く屋上について余裕を見せないと、カッコつかないってもんなのだ。
が。
「と、遠坂?」
「―――――遅かったわね、衛宮くん」
その、凡人にはどんなに頑張っても越えられない壁があったみたいだ。
「話があるんでしょ。立ち話もなんだから座りましょ」
こっちの返事を待たず、遠坂は給水塔の影に移動する。
なるほど。
あそこなら屋上に誰かが来ても見つからないし、風避けにもなる。
「じゃ、詳しい話を聞かせて。桜っていう後輩がどうしたのか、昨日なにがあったのかを」
「え―――あ、ああ。少し長くなるけど、いいか」
「なるべく手短にね。昼休み、そう長くないんだから」
……っ。
場所が狭いとはいえ、こんな近くに座られるとますます緊張してしまう。
が、今はそんな場合じゃない。
せっかく遠坂が相談に乗ってくれるんだ、桜のことを話さないと。
「じゃ、じゃあ簡単に言うぞ。
間桐桜って子は後輩で、昔からの知り合いなんだ。
桜の兄貴は間桐慎二っていって、これまた長い付き合いだ。
―――で、簡単に言うと、昨日の夜ほかのマスターと戦った。そのマスターが慎二だったんだ」
「!? 慎二がマスターだったって、本当!?」
「ああ。あいつの爺さん……間桐臓硯ってヤツも言ってたから間違いない。で、間桐の家はもともと魔術師の家系らしいんだが―――遠坂は、知ってたのか」
「……当然でしょう。わたしが知らなかったこの街の魔術師は貴方だけよ。けど、それは絶対にないって思ってた。だって、慎二は」
「魔術師じゃない。魔術使いとしての最低条件である魔術回路がないんだってな。間桐臓硯もそう言ってた。
……けど、それはあくまで魔術師としての話だろう。
マスターになる条件は別だと思う。俺だって慎二と似たようなもんなんだ。この際、魔術師じゃないとマスターになれない、なんて考えは止めた方がいい」
「…………そう。で、慎二は? 倒したの、貴方」
「ああ。あいつのサーヴァント―――ライダーはセイバーにやられたよ。慎二の本《れいじゅ》も燃えちまって、あいつはマスターでなくなった。
……けど、あいつは諦めてないと思う。それだけでも危なっかしいってのに、その、あいつの家には桜がいるんだ」
「臓硯に聞いたけど、魔術ってのは後継者にしか教えないんだろう。桜は何も知らされずに育てられた。だから慎二が何をしているかは知らない。 このまま知らずにいてくれれば、桜はマスター同士の戦いになんか巻き込まれないで済む」
「…………そうね。なのにどうして桜が危ないって思うのよ、貴方は」
「言っただろう、いまの慎二は危ないんだ。一緒に住んでる桜に八つ当たりをして、それがエスカレートしていけばどうなるか分からない。
だから、その」
「慎二が桜を巻き込む前に決着をつけたい、って言うのね。―――それは正しいけど、貴方じゃ無理よ。柳洞寺の件もあるし、他の連中はどうもきな臭い。今回の聖杯戦争は、思ったより長引くわ」
「――――――――」
……そうか。
一番いいのは慎二がマスターを諦めて戦いから降りる事だが、それは現実的じゃない。
となると、あとは桜本人を慎二から引き離すしかないのだが――――
「なら後は一つだけでしょ。その桜って子を巻き込みたくないんなら、貴方が保護すればいいのよ」
「む―――それは当然考えた。けど俺だってマスターだぞ。家にいたら危険だし、慎二だって良く思わない。それに桜だって、今日から泊まれなんて言われたら嫌がるに決まってる」
「……ふう。ほんとう、鈍感なのね衛宮くんは」
「え?」
「なんでもないわ。―――とにかくダメもとで訊いてみなさい。慎二から桜を守るのも、貴方が他のマスターから桜を守るのも変わらないでしょ。
なら、自分で努力してどうにかなる方を選ぶべきじゃないの? ……その、桜って子が貴方にとって大切な人間だって言うんならさ」
「――――――――」
遠坂の言葉は、なんというか直に効いた。
がつん、と頭を殴られたような感じ。
「―――そう、だな。確かに、それはそうだ。俺が勝手に桜の気持ちを気にする前に、桜本人に訊かなくちゃダメだった」
「そうよ。だいたいね、嫌いなヤツのとこに毎日ごはん作りに行くかっていうの。貴方は桜に頼りにされてるんだから、もっと強気で桜を振り回しなさい」
「……? 俺、そんなコト言ったっけ? 桜がメシ作りに来てくれてるって」
「っ……! い、言ったわよ、一番始めに言った! ちゃんと言った、きっと言った、必ず言った! 言ったんだから細かいコトは気にしないのっ!」
一気にまくしたて、こっちの反論を打ち消す遠坂。
「………………」
まあ、いいけど。
こいつが学校では猫被ってたなんて、あの夜に嫌っていうほど思い知らされてたし。
「―――わかった。とにかくサンキュ、助かったよ遠坂。
俺一人じゃヘンに気を使って、決めるのがもっと遅れていた」
「あら。妙に素直かと思ったら強気じゃない。結局一人でも結論は同じだったなんて、もしかしてのろけ?」
遠坂はにんまりと笑う。
「――――――――」
それは、その―――不意打ちの、笑顔だった。
「あ、いや、そういうワケじゃない、けど。明日も桜が落ち込んでたら、うちに泊めようって思うだろ、ふつう」
「へえー、顔を真っ赤にしちゃって、ほんと嘘がつけないんだ。衛宮くん、いつもすましてるけど中身は純情だったってオチ?」
「っ……! そ、そういうおまえこそ何者だっ! 優等生のクセに人をからかって楽しいのか!」
「失礼ね、相手ぐらい選んでるんだけど? わたし、からかって楽しい相手しか手を出さないもの」
「ほらほら。寒いんだからもっと場所詰めてよ。あんまり離れると風が冷たいじゃない」
「!!!!!! ばばばばばばばかかおまえこれ以上くっついたらすごいぞタイヘンだぞ、ケンカうってんなら買うからはなれろこのあくまっっっ!」
ぐっ、と背をエビ反りにして遠坂から顔を離す。
っ――――。
と、とにかくまずい。
ただでさえ近くて緊張してたのに、今のは、ある種致命的だった。
遠坂のコトを知って、こうして話をするようになって、憧れの相手は油断ならない知人になった。
……それならそれで良かったっていうのに、今のはあんまりだ。
綺麗な髪も、整った顔立ちも、女らしいふくよかな体も、こんなに身近に迫られたら無視できない。
―――ドクドクと脈打っていた心臓が、今ではバクバクと爆発している。
……悔しいけど、遠坂はキレイだ。
本性《ほんにん》を知って、思っていたものとは違っていても、憧れであるコトには変わりがない。
「と、とにかく世話になった。俺からの話はこれだけだ。
あとは遠坂の話を聞く」
「え? わたしの話って、別にそんなのないわよ?」
「あれ? だって朝、なんか言ってなかったか?
……いや、俺はどうかしてたんで聞いてなかったけど、遠坂不機嫌そうだったじゃないか」
「ああ、あれね。あれはもういいわ。用件があったのは本当だけど、今はそんな気分じゃなくなったし。……正直、毒気が抜かれたわよ」
「??? 毒気が抜かれたって、なんのさ」
「だから、貴方のそうゆうところによ。
……まあいいわ。物のついでだし、一ついい事を教えてあげる。
最近、町で原因不明の昏睡事件って起きてるでしょ?
アレはマスターの仕業だけど、そいつは柳洞寺にいるマスターよ」
「む。そういえばさっき、柳洞寺がどうだの言ってたな。
……柳洞寺って、あの柳洞寺か?」
「ええ。厄介な相手だから手を出すのなら気をつけなさい。あいつら、命まではとってないけど無差別に人を襲ってるわ。日に日に強くなっていくから早目に潰したいんだけど、わたしのアーチャーは誰かさんにやられた傷が治ってないしね。
ま、どんなに魔力を蓄えたところで、一度に使える魔力の最大量なんてタカが知れてるし、しばらくは傍観するけど」
「――――――――」
……柳洞寺にいるマスター、か。
遠坂、アーチャーがまだ不完全なのにマスターとして手を尽くしているんだな。
「さて。それじゃあ、衛宮くんはわたしから借り一《イチ》ね?
知らない情報を教えてもらったんだから」
にやり、と不敵に笑う優等生。
その不吉さは、カエルを前にしたヘビじみてイヤだ。
「な―――なんだよそれ、俺だって慎二のコト教えただろ。情報交換なら貸し借りなしだ」
「あら、慎二のコトは桜のコトで相殺でしょ? それともぉ、さっきのお礼はカタチだけだったのかしら」
「う――――」
こ、こいつ悪魔! ほんとに悪魔! みんな騙されるな、学校の平和は遠坂に狙われてるぞー!
「さーて、それじゃあ何を貰おうかな。魔術師同士の取引は等価交換ってのが基本よね」
くっ……そういえば、切嗣《オヤジ》もそんなコト言ってたような。
「むむむむむ」
じっと手を見る。
今の俺にある物といったら、それこそこんな物しかない。
「納得いった? 貴方には返すべき情報がないんだから、こうなったらセイバーの正――――」
「……仕方ない。遠坂、昼飯まだだろ。半分やる」
うぐいすパンを取り出して半分に割る。
……まことに残念だが、誠意を見せるという事でお茶は缶ごと差し出した。
「え――――ちょっ、ちょっと衛宮くん」
「ほら、食べろよ。今からじゃ食堂も購買も終わってるだろうし、少ないけど腹の足しにはなるぞ」
遠坂の手にパンを置く。
「――――――――」
うぐいすパンが好みではないのか、遠坂は呆然と俺を見て、それから「――――ありがと。じゃ、遠慮なくいただくわ」
と、ほんとに遠慮なくうぐいすパンを口にした。
◇◇◇
放課後になって、校舎はとたんに静かになった。
生徒たちは部活組と帰宅組に別れ、教室に残ることなくそれぞれの帰路につく。そのさまは蜘蛛の子を散らすが如しだ。
「……よし。こっちも一足先に帰って準備しなくちゃな」
桜を泊まらせるにしても、心の準備が必要だ。
先に夕飯の買出しを済ませ、桜が部活から帰ってきた後、折を見て切り出すべきだろう。
「―――さて。今日の夜は何にしたもんか」
スーパートヨエツを前に、腕を組んで考え込む。
桜を泊める、という事は桜と藤ねえを説得する、という事だ。
となると、献立は自然ふたりが喜ぶようなものにしなくてはならないのだが――――
「……昨日も派手にやったからな……バイトもしばらく休むし、食い扶持も一人増えたし、あんまり余裕ないんだけど」
ま、今月は特例だ。
貯金だってあるし、生活費まで気にしだしたら聖杯戦争なんて出来たもんじゃない。
それに普段世話になっている分、こうゆうところで桜にお返ししなければ。
「よっ……と」
ビニールいっぱいの食材を手に、スーパートヨエツを後にする。
いささか買いすぎたきらいはあるが結果は上々。
上等な鱈も手に入ったし、いっそ今夜は鍋物にしてもいいのではなかろうか。
「よしよし、これで藤ねえ対策は万全――――?」
意気揚揚と帰還しかけた足が止まる。
「?」
なんか、くいくいと後ろから服を引っ張られてる。
「なにごと……?」
はて、と後ろに振り返る。
そこには。
銀色の髪をした、幼い少女の姿があった。
「な、ええ―――!?」
ザッ、と咄嗟に跳び退いた。
咄嗟に身構える俺と、にこやかにこちらを見つめる少女。
「……?」
少女からは殺気というか、敵意がまったく感じられない。
あまつさえ少女は、
「よかった。生きてたんだね、お兄ちゃん」
そんな、本当に嬉しそうな笑顔で俺を見た。
「な――――」
……間違いない。この少女はバーサーカーのマスターだ。
あの夜、俺を一刀のもとに斬り伏せた怪物の主。
切嗣《オヤジ》が裏切った、聖杯戦争の発端を担った古い魔道の家系の少女。
その少女がどうしてこんな、日中の商店街でひょっこり現れたのか――――
……言峰神父の話が生々しかったからだろう。俺にとって、この少女は見知らぬ他人ではなくなっていた。
だから知らず、
「――――イリ、ヤ?」
「――――え?」
それがどんな意味を持つのかも知らないまま、少女の名を口にしてしまっていた。
「あ―――いや、違った……!
イリヤス―――そう、イリヤスフィールだった……!
ま、間違えてごめんっ……!」
反射的に頭を下げる。
この子がバーサーカーのマスターだろうがアインツベルンの娘だろうが、そんな事は関係ない。
ただ、その。
今にも泣きそうな顔が、放っておけなかっただけ。
「……………………」
名前を短縮されたコトが気に食わないのか、少女はむーっと睨んでくる。
「あ―――いや、悪気はなかったんだ。ただその、つい、口にしちまったっていうか」
「………………名前、教えて」
「え?」
「お兄ちゃんの名前、教えて。わたしだけ知らないの、不公平」
「――――――――」
ああ、そう言えばそうだ。
イリヤスフィールはちゃんと名乗ったけど、俺はまだ自分の名前も口にしていない。
「俺は士郎。衛宮士郎っていう」
「エミヤシロ? 不思議な発音するんだね、お兄ちゃんは」
「違うぞ。今の発音だと『笑み社《やしろ》』じゃないか。衛宮が苗字で士郎が名前なんだ。言いにくかったら士郎ってだけ覚えてくれ」
少女の発音があまりにもキテレツだった為、ついつっこみを入れてしまった。
「――――――――」
ぴた、と鼻先に指を突きつけられ、少女はまたも目を白黒させる。
「――――」
しまった、と思ったところで遅い。
少女はまた、さっきのように泣きそうな顔になって、「……シロウ、シロウ、かあ―――うん、気に入ったわ。
単純だけど響きがキレイだし、シロウにあってるもの。
これならさっきのも許してあげる!」
問答無用で、俺の腕に抱きついてきた――――
「ちょっ――――!? ままま待てイリヤスフィール、なにすんだよおまえ……!」
「ううん、さっきみたいにイリヤでいいよシロウ! わたしもシロウって言うんだから、これでおあいこだよね!」
「な―――いや、それは言いやすくて助かるんだけど、とにかく待てーーーーー!」
ぶんぶん、と腕を振り回すもイリヤはきゃーきゃーと喜ぶばかりだ。
「っ……!」
いかん、このままじゃご近所のおばさまたちから良からぬ噂を立てられかねない。
「くそ、おまえ何が目的だ……! こんなまっ昼間からやりあおうってハラか……!?」
だあー、と力ずくで引き剥がす。
「――――――――」
……あ。
どうも、イリヤは見るからに不満そうだ。
「な、なんだよ。そんな顔してもダメだぞ。なんのつもりか知らないが、俺だってマスターだ。そう簡単にやられる訳には――――」
スーパーのビニール袋を手に、キッとイリヤを睨みつける。
……だっていうのに、イリヤは不思議そうにこっちを見つめてくるだけだった。
「…………えっと、イリヤ?」
「うん、なにシロウ!」
「――――――――う」
なんか、この前とイメージ違うぞ。
……いや、あの時だって笑っていたけど、笑顔の質が違うというか、その、もしかして本当に――――
「……イリヤ。おまえ、戦いに来たんじゃないのか……?」
恐る恐る口にする。
「なに? シロウはわたしに殺されたいの?」
「っ――――」
その視線だけで、正直背筋が総毛だった。
どんなに幼かろうと、この少女は最強のマスターだ。
無邪気に笑ったかと思えば、一転して冷酷なマスターの貌《かお》になる。
「……ふぅん。よくわかんないけど、シロウがそういうんならわたしはいいよ。予定がちょっと早まるだけだもん。セイバーといっしょにここで死ぬ?」
「っ……ふざけるな、そんなわけあるかっ。俺だって殺されるのは嫌だし、こんなところで戦うのもご免だ」
「でしょ? マスターはね、明るいうちは戦っちゃダメなんだよ。シロウもセイバーを連れていないし、わたしだってバーサーカーを連れてないでしょ?」
「……それは、そうだけど。じゃあ何しに来たんだよおまえ。俺に会ったのはただの偶然か?」
「偶然じゃないよ。セラの目を盗んで、わざわざシロウに会いに来てあげたんだから。コウエイに思ってよね」
ふふん、と得意げにイリヤは笑う。
「――――」
なんか、目眩がする。
冷酷なマスターになったかと思えば、すぐに無邪気な少女に戻ってしまう。
そのどちらがイリヤという少女のホントなのか、とてもじゃないが把握できない。
「……わかった。とにかく、イリヤは俺に会いに来た。
けど戦うつもりはない……これでいいのか?」
「うん。わたしはシロウとお話をしにきたの。今までずっと待ってたんだから、それぐらいいいでしょう?」
「――――――――」
何が“それぐらい”なのかわからないが、とにかく、イリヤは俺と話をしに来ただけらしい。
「それともシロウはわたしと話すのはイヤ? ……うん、シロウがイヤなら帰るよ。ほんとはイヤだけど、したくないコトさせたら嫌われちゃうから」
イリヤはまっすぐに俺の顔を見上げてくる。
「――――――――っ」
……マスターとして、イリヤとこれ以上いるのは危険だ。セイバーがこの場にいたら全力でイリヤの申し出を拒否するだろう。
「――――――――」
……けど、あんな顔をされたら放っておけない。
無謀で無策で無考だろうけど、ここは――――
「いや、イリヤと話すのはイヤじゃない。ほんと言うと、俺もイリヤとは会って話がしたかった」
「やった、じゃああっちに行こっ! さっきね、ちっちゃな公園見つけたんだ――――!」
言うや否や、イリヤは舞うように走り出す。
「ほら、早く早く! 急がないとおいていっちゃうからね、シロウ――――!」
くるくるとはしゃぎながら走っていく。
「――――ま、なるようになるよな」
観念してイリヤの後を追いかける。
イリヤは俺をシロウと呼んだんだ。
ならこっちもあの子を、マスターとしてではなく、一人の少女として向き合わないと。
公園には誰もいなかった。
砂場で遊ぶ子供もいなければ、ブランコに揺られている子供もいない。
それに寂しさを覚えながら、イリヤと一緒にベンチに座ってみたりする。
……なんというか、傍目から見たらおかしな組み合わせだと思う。
イリヤは外国人だから兄妹に見えるわけでもないし、友達にしては年が離れすぎている。
「……と。話をしようって、なにを話せばいいんだよイリヤ。おまえから来たってコトは、何か訊きたいコトとかあったのか?」
「なんで? べつにわたし、シロウに訊きたいコトなんてないよ?」
「――――――――」
さて。
この理解不能のお嬢さんに、はたしてどうつっこむべきか。
「……イリヤ。話がしたいっていったのはおまえだよな。
なのになんで用件がないんだよ。用がないんなら来ないだろ、普通」
「え、そ、そうなの? ヨウがないとお話ってできないの……?」
「ああー……いや、そういう訳じゃない。今のは言い方が悪かった。用がなくても話はできる。むしろ用のない話って方がいいコトかもしれない。
……けど、まいったな。俺はイリヤをよく知らないから、なにを話していいか分からない。イリヤの好き嫌いが判らないからな。イリヤだってそうだろ? いきなり訊かれたくないコト訊かれたらイヤじゃないか?」
「う……うん、それはそうだけど……じゃあ何を訊けばいいのかな。シロウ、なに訊いても怒らない?」
「ああ、なんとか。俺のがお兄ちゃんなんだから、大人な対応を努力する」
「そっか。じゃあシロウ、わたしのこと好き?」
「ぶっ――――!」
な、ななななな何を言い出すんだこのコはーーー!?
「あ、嘘つきだっ。シロウ、怒らないって言ったのに怒った!」
「ばか、誰だって呆れるぞ今のは! おま、おまえな、人をぶった斬っておいて好きか嫌いかもないだろう!」
「なによ、あれは違うもん! シロウがよわっちいクセに飛び出してくるからじゃないっ! わ、わたしは悪くなんてないんだから!」
「悪くないワケあるかー! だいたい初めから殺る気まんまんだっただろうイリヤはっ! それがどうしてこう、突拍子もなく好き嫌いの話になるんだっての!」
びくり、と肩を震わせてイリヤは黙り込む。
「……あ」
……しまった。
マスター同士ってコトは忘れるって決めたのに、いきなりポカやっちまった。
「……あー、イリヤ?」
「っ…………なるもん。なによ、シロウのバカ。わたしが止めてあげなくちゃ死んでたクセに、口だけは達者なんだから」
物騒なコトを言いつつも、イリヤは下を向いたまま肩を震わせている。
「…………はあ」
……まあ、仕方ないよな。
マスターとしての話を持ち出したのはこっちだし、俺は年上な訳だし、イリヤは女の子な訳だし。
「――――こほん。あー、そのな、イリヤ」
よし、と覚悟を決めて口にする。
俺は――――
「―――済んだ事だし、もう気にしてないぞ。傷も治ったし、イリヤは見逃してくれたしな。
……えっと、それでもイリヤが気にしてるなら、今後いっさい口にしない。それでいいかな」
「ぁ……うん。じゃあ、シロウは怒ってない……?」
「ああ。自分でもどうかと思うけど、怒ってない。
それより今は、もっとイリヤと話したい」
泣く一歩手前だった顔が、一転して笑顔になる。
「――――――――」
その顔を見て、こっちまで嬉しくなった。
今のイリヤには敵意がない。
なら無理にマスターである必要はない。
こうして捕まってしまった以上、イリヤが望むようにのんびり話でもするとしよう――――
◇◇◇
イリヤとの話は、それこそ一時間ほど続いたと思う。
なんの意味もない話、ありきたりの出来事を、イリヤは喜んで聞いていた。
……それが痛ましく思えてしまったのはいつからだろうか。
イリヤは、本当に無邪気な女の子だ。
そのイリヤがマスターである事、マスターである自分を躊躇わない事。
戦いに赴く自分に恐れを感じていない事が、ひどく、哀しい事だと思ってしまった。
「――――――――」
アインツベルンという魔道の家系。
千年の執念の果てに、最高のマスターとして送り出された幼い少女。
それがイリヤの目的なら、俺は「――――イリヤ。一つ訊くけど」
「ん、なに?」
「衛宮切嗣って名前に、聞き覚えはないのか」
この問いだけは、口にしなければならなかった。
「――――――――」
時間が止まる。
それは今までの時間が消え去ってしまうほどの、無感情な沈黙だった。
「知らない。そんなヤツ、わたし知らない」
……銀色の髪が揺れる。
イリヤはベンチから立ち上がり、くるり、とそれこそ妖精のように振り返る。
「そろそろ夕暮れだね。夜になったらバーサーカーが起きちゃうから、そろそろ帰らないと」
「――――――――」
イリヤは無邪気な少女のまま、ばいばい、と別れを告げる。
「そっか。そうだな、俺もそろそろ帰らないと」
ベンチから立ち上がる。
休憩はここまでだ。
日が落ちたのなら、俺たちは敵として戦わなければならない。
だっていうのに、
「また会えるかな、イリヤ」
本当に自然に、そんな言葉を口にしていた。
「―――え、えっと、どうしよっかな。わたしはそうでもないんだけど、シロウは会いたい?」
「ああ。会いたくなきゃ言わないぞ、こんなの」
「…………! うん、じゃあ、明日も気が向いたら来てあげる。期待しないで待っててね」
公園の外へ駆けていく。
……が。
白い少女は不意に足を止めて、
「さっきのはウソだよ。本当はね、知ってる人だった」
「イリヤ――――?」
「……そう、わたしが生まれた理由は聖杯戦争に勝つことだけど。イリヤ《わたし》の目的は、キリツグとシロウを殺す事なんだから」
去っていく足音。
それきりイリヤは振り返る事なく去っていき、
俺は―――その後姿を、最後まで見送っていた。
◇◇◇
「ただいまー……って、あれ? 藤ねえのやつ、もう帰って来てやんの」
靴を脱いで廊下にあがる。
まだ六時前だってのに、なんで弓道部顧問がこんなに早く帰宅してるんだろ。
「お帰りなさい、シロウ」
「……む、帰ってきたかひょうろく玉」
セイバーは行儀よく正座を、藤ねえは行儀悪くテーブルに顔を乗せ、それぞれ出迎えてくれた。
「――――――――」
藤ねえの目は、打ちひしがれた負け犬の目だった。
……その原因は気になるが、まあ、例によってそう大したコトではあるまい。
「ただいま。遅くなったけど、何か変わった事はなかったかセイバー?」
「はい。これといって異状はありませんでした。そう言うシロウの方はどうでした。学校に見るべきものはありましたか?」
「いや、異状らしきものはなかったよ。慎二も来てなかったし、学校はいつも通りだ。とりあえず、見て回るべき対象から外していいとは思うんだが――――」
藤ねえの手前、微妙な言い回しでセイバーに“学校にマスターはいない”と報告する。
「……む、なんか匂う。この甘酸っぱくて雨上がり、給料日に隠したまま思い出せなくなった一万円のような気配は、間違いなく秘密の匂い」
くんくん、と鼻を鳴らすルーズドッグ。
「士郎から足枷の錆びた匂いがする。怪しい。怪しいぞ。
お姉ちゃんになんか隠してるのかにゃあ〜?」
「うわあ」
信じられねえ。
なんか昼間っから出来上がってるよこの人。
「……セイバー。藤ねえとなんかあったのか。このトラをここまでダメにすんのは並大抵のコトじゃないぞ」
「え……いえ、私は何も。大河に元気がないのは空腹だからではないでしょうか」
的確に、かつさりげなく酷いコトを言うセイバー。
「うそだー! 大河の腕前が知りたい、なんていって人をボロボロにしたのはセイバーちゃんじゃないのよぅ!」
だんだん、とテーブルを叩く藤ねえ。
……よっぽど悔しかったのか怖かったのか、藤ねえは抗議しつつ俺の背後にまわり、セイバーにブーイングを繰り出した。
あとセイバーさんからセイバーちゃんに変わっているのも謎。
「……セイバー。もしかして、藤ねえと手合わせしたのか?」
「あ……いえ、大河の時間が空《あ》いているのなら体を動かそう、と提案したのです。竹刀による模擬戦ならば大事は起きませんから、大河も承諾したのですが――――」
「騙されちゃダメよ士郎。セイバーちゃん、確実に殺る気だったわ。わたし判るもん。てっぽう知ってるもん。
あれは殺る気。もうぜぇ〜たい殺る気。うう、隙を見せたらバターにされるぅ〜」
ガタガタと震える藤ねえ。
「……セイバー。まさか、その、」
本気で、藤ねえと打ち合ってしまったのだろうか……?
「え……まあ、つい気を緩めてしまったというか。
シロウの帰りが遅い事への反感と、大河の技量が思いのほか高かったことで、咄嗟に反応してしまったというか――――」
……うわあ、そりゃ怖い。
藤ねえだってこの若さで剣道五段っていう腕前だけど、セイバーとは質が違う。
「と、とにかく命が惜しかったら夜這いとか禁止禁止!
セイバーちゃんを襲ったりしたら地獄開幕、死して屍拾うものなしなんだからっ!」
「………………う」
……そうだった。
俺にはまだそーゆー問題も残っていた。
同じ部屋で寝る、と言ってきかないセイバーをどうするか。
俺だって年頃の男なんだ、セイバーみたいな子と同じ部屋で寝たらどうなるか――――
「その心配は無用です大河。シロウが何をしようと、それが命令ならば従うのみです。私からシロウに手を上げる事は、決して」
「むむむ? セイバーちゃん、なんかいまスゴイこと言わなかった?」
「とりわけ何も。それより大河、今晩よりシロウと同室で眠りますが、どうか誤解なきようお願いします」
当然のように断言するセイバー。
「――――――――」
ぴたり、と藤ねえの動きが停止する。
「………………」
あー、くるな。
この位置関係、三人の強さのバランスを考慮すると、間違いなくくる。
「藤ねえ。実は、昨日から秘密にしていたんだが」
背後の藤ねえに声をかける。
「よいしょっと」
うわ。人の言い分を完全に無視して、電話帳を重ねて台にするような物音が。
「よく聞いてくれ。
――――セイバーは、日本語がわからない」
「せーの」
あ、やっぱり。
こう、背後から首をスリーパーされてる感じ。
いっておくと藤ねえは手加減を知らない人なので、首を締められると本気で危な――――
「って、そんな場合じゃねー! ふ、藤ねえ、はいってる! きまってる、から、あう、本気で落ちる……!」
ぎしぎし。
藤ねえの返答はグラップル、骨と肉の軋みだけという豪気っぷり。
「うわ、ぎぶぎぶ……! やめろって、そこから投げにもってくのなしー!」
かすれていく意識のなか、かろうじて藤ねえの手にタップする。
が。
「ええい、うるさい落ちちゃえこのドラ息子っ! お姉ちゃんは士郎をそんなふうに育てた覚えなんかないんだからうわーん!!!!!」
――――あ、落ちた。
……ああもう……なんだってこう、次から次へと問題がやってくるんだよう……。
「――――ったく、酷い目にあった」
ゴキゴキと首を鳴らす。
ほぼ直角に落とされながら打ち身で済んだのは、日頃の鍛錬のおかげである。
「う、面目ない……。こう、ひねってからは手を離して受身可能にしようと思ったんだけど、士郎ったら思ったより重くて投げるだけで精一杯でさ」
「あったりまえだ、いつまでも子供じゃないぞ。藤ねえの細腕でジャーマンなんかやんなよな。下手したら藤ねえも自爆してたんだから」
「……はい、反省してます」
「セイバーもセイバーだ。同室っていっても隣の部屋だろ。厳密に言うと一緒の部屋じゃないぞ」
「う……ですが、私はシロウの身を守る為にですね」
「十分守ってもらえてる。……だいたいな、同じ部屋になんて寝られたらこっちが先にまいっちまう。セイバーには悪いけどアレが最大の譲歩だ。それ以上は徹底抗戦だからな」
「むう…………難しいものですね」
「二人とも判ったんならよし。……さて、んじゃ夕飯の支度でも始めるか」
首をぐるんぐるんならしながら立ち上がる。
「あ、そうだ藤ねえ。
今日から桜を泊めようと思うんだけど、どうかな。昨日セイバーに使ってもらった離れに」
「桜ちゃんを泊める? 別にいいけど、いきなりどんな心境の変化よ。士郎、ここんところ妙にヘンよ?」
「……いや、その。桜、最近調子悪そうだし。慎二は家を空けてばっかりだから、しばらく周りに人がいた方がいいかなって」
「ふーん……まあいいけど、その旨は桜ちゃんに伝えてあるの? 部活の時、桜ちゃんいつも通りだったけど」
「いや、それはこれから―――って、藤ねえこそ部活どうしたんだよ。こんなに早く帰ってきて」
「ん? うん、ちょっと怪我人がでちゃってね。後は美綴さんに任せて、体調悪い子たちを家まで送って直帰したのよ」
……そんなことがあったのか。
弓道部で怪我人、と聞くと物騒だが、本当に物騒なら藤ねえはここにはいまい。
突き指とか貧血とか、まあそのあたりのコトだろう。
「――――」
ともあれ、これはチャンスだ。
俺にとって桜が家族みたいなように、藤ねえも桜を家族だと思ってる。
なら――――
「――――――――」
いや、これは大事なコトだ。
自分で決めたからには人任せには出来ないし、桜に伝えるのは俺でないと不誠実だと思う。
……と。
タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴った。
「お邪魔しまーす」
玄関から桜の声がする。
こういうのは早い方がいいし、さっそく桜に切り出そう。
「あ、先輩。お邪魔しますね、夕食の支度はこれからですか?」
「ああ、これからだ。今日は俺が一人でやるから桜はのんびりしてていいぞ。そのかわり藤ねえの相手でもしてやってくれ。セイバーに負かされて自信喪失してるんで、オセロか何かで追い討ちを頼む」
「あ、先輩ひどいんだ。藤村先生、今日タイヘンだったんですよ?」
「……あー、そんなコト言ってたな……じゃあ路線変更して、将棋あたりでなんとか」
「将棋ですね。はい、それなら藤村先生の独壇場です。
わたしじゃ飛車抜きのハンデもらってもこてんぱんだから、丁度いいと思います」
桜は上機嫌だ。
顔の腫れもひいているようだし、朝の暗い翳《かげ》りはまったくない。
うん、話を切り出すにはちょうどいい。
「で、桜。唐突だけど、今日からうちに泊まってけ」
「え――――泊まれって、先輩……?」
「しばらく間桐の家には帰るなってコトだ。期間は、そうだな……出来れば一週間ぐらいいてほしい。あ、藤ねえには許可とってあるからな」
「………………」
……桜の顔がこわばる。
桜は俺の顔ではなく、心を探るように、静かな眼差しを向けてきた。
「―――無理を言っているのはわかってる。けど、桜にはどうしても泊まって貰う。どう思われようといいから、しばらく家《うち》で暮らしてくれ」
「――――――――」
桜は答えない。
じっと俺を見つめたまま、微かに唇をかみ締めた後、「――――どうしてですか?」
静かに、そんな疑問を口にした。
「………………」
理由は言えない。
慎二がマスターだから、なんて死んでも言えないし、他の言葉は全て嘘になる。
生きてる以上、隠し事は必ずある。
俺だって男だし、桜と藤ねえに言えないコトなんて、それこそ山ほどある。
……どんなに大切な相手でも、口に出来ない事はあるのだ。
だからこそ、嘘だけはつけなかった。
桜が大切な家族なら、言葉で偽るような真似だけはしちゃいけない。
「………………」
空気が冷めていく。
このまま永遠に続くかのような沈黙と、気まずそうに目を伏せる桜。
そんな桜にどう応えるべきか、出来の悪い頭で必死に考える。
「桜。理由は言わなくちゃダメか」
桜は答えない。
ただ、自分ではなく、まるで俺を案ずるような目をして、
「……わたしが心配だからですか?」
そう、はっきりと口にした。
「―――うん、桜が心配だ。だから、桜がここにいてくれると助かる」
……長い黒髪が揺れる。
桜は俺の足りない答えに頷いて、
言葉ではなく、その笑顔で応えてくれた。
◇◇◇
言うまでもない常識だが。
夕食が終わると、あとは風呂に入って寝るだけである。
何も問題はない。
こんなの、ほんっとーに当たり前すぎて何も問題なんかないのである。
が。
「……あの、藤村先生。少し相談があるんですが」
「ん? なになに、いってみそ?」
「……あのですね。……その、…………」
「あ、そっか。着替えの問題があったわね。……んー、制服ならうちにあるかな。普段着はわたしのでいいならあげるよ。あ、それとも家に着替えとって来る?」
「……いえ、うちに帰ったら戻ってこれなくなりますから、出来れば帰りたくないんです。兄さんには、その」
「ん、それは大丈夫。さっきおうちに電話して、桜ちゃんのお爺さんに許可とったから。先生の家なら安心だ、ご指導よろしくお願いしますだって」
「そ、そうですか! ならホントにわたし、ここに泊まっていいんですね!」
「そだよ。で、着替えの話だけど、寝巻きはわたしのでいいよね。下着もわたしのでいいかな」
「あ……いえ、その……先生のだと、胸がきついと思うんですけど……」
「むっ。そっか、桜ちゃん胸おっきいもんねー。
………………………………その肉をワケロ」
「きゃっーーーー! せ、先生なにするんですかー!」
「あははははは、じょうだんじょうだん。……けど困ったわね、さすがに桜ちゃんサイズのブラなんて持ってないし、桜ちゃんつけて寝る派?」
「え……あ、はい、いちおうは、その」
「だよねー、おっきい人はそういう人多いよねー。けど苦しくないの、と素朴な疑問を投げてみる」
「…………く、くるしいですけど、そういうときはですね……ごにょごにょごにょ」
「なるほどなるほど、若いっていいなー! んじゃ、明日の朝までにはうちの若いのに揃えさせておくから。そーゆーワケでぇ、桜ちゃんも遠慮なくお風呂はいってらっしゃい」
「…………」
「――――――――っ」
だ、だからそういう話を目の前ですんなってんだバカ藤ねえっ!
俺だって男だぞ、そんな話をされたら意識してないのに意識しちまって、桜をまともに見られなくなるじゃんかー!
「あれー? 士郎、顔赤いけどどうしたのかなー? なに、やっぱり桜ちゃんの話、気になる?」
「っ――――! ふ、ふん、なに言ってんだか。そっちの内緒話だろ。俺は聞こえてなんかないし、気になんかなってないっ」
「あれー、そうなんだ。じゃ、あたしからいいコト教えてあげる。桜ちゃん、85なんだってさー。Eカップなんだよー。すごいよねー、去年から実に十三センチもおっきくなってるんだよ?
士郎もそのあたり気付いてたでしょ。最近、桜の体はえっちいなー、とか、抱きしめたいなー、とか」
「ばっ、ば――――!」
「ふ、藤村先生――――!
先輩に聞かれたくないから内緒話にしたのに、どうしてそうゆうコトするんですかーーーーー!」
「え? え? きゃーーーーーーー!?」
「ば――――か言ってんじゃないぞ、藤ねえー、とか」
ぼそり、と小声で続けてみる。
藤ねえは桜の逆襲にあって倒れた。
桜は顔を真っ赤にして、必死に藤ねえの口を抑えている。
……桜。
藤ねえの言動を封じたい気持ちはわかるが、それでは生命活動をも封じかねないと気付いてくれ。
「は、はっ、はっ―――あー、びっくりした。桜ちゃん、見かけによらず武闘派なのね。いきなり呼吸を止めにくるなんて先生びっくりよ」
「知りませんっ。藤村先生は少し反省してくださいっ」
ぷい、と藤ねえから離れる桜。
――――と。
そうなると、必然こっちと顔を合わせることになる。
「あ」
「――――あ、いや。バスタオルは、風呂場にある」
「は、はいっ……! あの、それじゃ失礼しますね、先輩……!」
ばたたたー、とあわただしく廊下に向かう桜。
「あ――――」
いや、その突進だと、その「あ、う…………はな、ぶつけちゃいましたぁ……」
転ぶから気をつけろ、と注意したかったのだが。
結果は、こっちの予想を上回る柱への衝突だった。
「桜、大丈夫か!?」
というか、廊下に出ようとして柱にぶつかるほど慌ててたのか。
「はい、大丈夫です〜。大丈夫なんで、お風呂入ってきます〜」
ふらふらと廊下に消えていく桜。
「――――ふう」
桜が風呂に行ってくれて、ホッと一息つく。
……なんというか、さっきのテンションで居間にいられたら、こっちが恥ずかしくて逃げ出しかねなかった。
「――――ふふん」
「……なんだよ。言いたい事あんならハッキリ言え、不良教師」
「べっつにー。ただ桜ちゃんもタイヘンだなって。顔を真っ赤にした士郎、いつもより意地っぱりで可愛いし。
そーゆー士郎の前だと、桜ちゃんもよけい恥ずかしかったんじゃないかなー」
「あ、赤くなんかなってないっ! あのな、桜は家族みたいなもんだぞ!? ずっと飯を作ってもらってきて、一緒に食べてきた後輩じゃんか! そ、そういう後輩に照れてたら先輩失格だ!」
「ふーん。じゃあ士郎は失格したくないんだ」
「あったりまえだ。桜は慎二の妹だぞ。友人の妹を預かってんだから、ちゃんと監督しないとダメだろう」
「え……? あ、そういう事かー。士郎、気がついてないだけかと思ったら、そんなコトまで気にしてたんだ」
これみよがしに溜息をつく藤ねえ。
なんか、すっごくよろしくない。
「前途多難ね。桜ちゃんもタイヘンだ」
「む? どこ行くんだよ藤ねえ」
「どこって、脱衣場。桜ちゃんに着替え用意してあげないと。士郎は離れの部屋の準備でもしてなさい。シーツとか、ちゃんと新しいの出してあげるのよ」
言いたい放題言って、藤ねえは居間から消えていく。
「……ふん。ちょっと客間の準備してくるから、セイバーはここにいてくれ」
こくん、と無言で頷くセイバーを残してこっちも居間を後にした。
ベッドメイクをして、客間の備品のチェックをする。
桜にはセイバーに使ってもらった部屋とは別の、長年使っていなかった客間を使ってもらう事にした。
こっちの方が桜向きだし、なにより鍵がかけられる。
……その、桜だって女の子だし、鍵をかけられる部屋の方が安心できると思ったのだ。
「……別に藤ねえの言葉に踊らされたワケじゃないけど」
ぱんぱん、とシーツを広げる。
今まで使われなかったベッド。
今夜、ここに桜が横になるんだ、と思った瞬間、
“――――士郎もそのあたり気付いてたでしょ?”
「っ――――」
とんでもない邪念が頭によぎった。
「ば、ばか言うなっ。そんなコト、いまさら―――」
……今更、言われるまでもなかった。
成長期になって、桜がどんどんキレイになっていくのを間近で見ていた。
それを我が事のように喜んで、同時に、決して意識しないように言い聞かせてきた。
桜は慎二の妹で、その、慎二がしたコトの後ろめたさから、俺の世話をしてくれるようになっただけなのだと。
「……あれからもう一年半か。別に、桜が気にする事でもないのに」
俺が弓道部を辞めるきっかけになった事故。
バイト先で肩を痛めて、火傷の跡がどうこうという話になって、まあ、いい機会だからと弓道部を退部した。
……その後、たしか桜の方から怪我が治るまでお手伝いします、なんて言いだしたんだっけ。
あの頃はまだ幼さが残っていて、とにかく一生懸命な子だった。
うちの前で俺の帰りをずっと待っていて、顔を合わしたら合わしたでこれまたずっと黙り込んでしまって、手伝いをしたい、って一言が出るまで二時間もかかったぐらいだ。
「―――あの引っ込み思案な桜が、いまじゃ弓道部の期待の星だもんな。人間、変われば変わるもんだ」
実際、桜は明るくなった。
初めて会ったのは四年前だ。慎二と知り合って、あいつの家に遊びにいった時だったっけ。
桜は無口で、顔を髪で隠すクセがあった。
……それは今でも残っているけど、当時の桜は本当に元気がなかった。いつも暗い目をして、ぼんやりと佇んでいるだけだったのだ。
それを思うと、今の桜を見るのは純粋に嬉しい。
元気のない顔で地面を見つめていた女の子が、楽しそうに笑っているだけでホッとする。
“そう思う事はないの? 桜の体はえっちいなー、とか、抱きしめたいなー、とか”
「――――――――」
……自分でもよく分からない。
少なくてもつい最近まで、桜は純粋に後輩だった。
それが微妙に崩れ始めたのはつい最近だ。
……変化はここ最近からなのか、気付かないだけでずっと前からそうだったのか。
―――それとも。
気付く必要なんてないぐらい、身近な存在だったのか。
「……くそ。今まで平穏にやってきたってのに、どうして、こう」
桜が泊まるって事だけで胸がおかしくなるのか。
こんなんじゃ桜にも失礼だ。
さっさと部屋の掃除を済ませて、通り桜を部屋に案内しよう――――
「あれ? セイバー、桜は?」
「さあ。こちらには来ていませんから、まだ入浴しているのではないですか?」
「……? 入浴中って、もう一時間は経ってるよな」
……まあ、桜は風呂が長いのかもしれない。
俺とは違って洗うところも多そうだし、カラスの行水ってワケにもいかな――――
「っ―――ああもう止め止め……! ヘンな想像しない!」
頭をふってテーブルに陣取る。
で、じゃーとお茶を煎れて、ざーっと喉に流し込んだ。
「――――ふう」
妄想を振り払って一息つく。
……と。
「シロウ。桜は目が悪いのですか?」
なんて、おかしなコトを言ってきた。
「? いや、別にそんなコトないけど。桜は視力いいぞ。
両目あわせて1.5はあるんじゃないかな」
「そうですか。頻繁に壁や柱に体をぶつけていますから、視力に障害があるのでは、と危惧してしまいました」
「あ、なるほど。……うん、その心配はありがたい。けど桜はいたって健康だよ。その、最近は疲れてるから危なっかしいだけで、普段は俺よりしっかりしてる」
「それならばいいのですが……仮にそうだとしても、入り口と壁を見まちがえるほど疲労が溜まっているのは問題です。私見《しけん》ですが、先ほどの衝突は疲れからではなく、純粋に目測を誤ったものと感じましたが」
「――――――――」
セイバーの意見はもっともだ。
いくら疲れてるからって、壁にぶつかるのはいきすぎだ。
「………………」
そう言えば、桜は何処だろう。
本当に風呂に入っているとしたら、やっぱり一時間は長すぎる。
ここは――――
――――様子を見に行くべきだろう。
もしセイバーの言う通りなら、恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。
「桜」
扉越しに声をかける。
脱衣場から返事はない。
いや、返事どころか人の気配さえしなかった。
「桜……? おーい、桜、はいってるかー?」
トントン、と扉をノックする。
……ノックは段々と軽い音から重い音に、ドンドンと乱暴なものに変わっていった。
「桜……! おい、ちょっとでいいから返事しろ……!」
不安が確信に変わっていく。
……なにか、まずい。
俺じゃ中に入れないし、こうなったら藤ねえかセイバーを連れてきて中の様子を見てもらうしか――――
「え? あ、あれ、先輩? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「さ、桜……!? ……あ、いや、なんでもない。少し時間がかかってるみたいだから、何かあったのかなって」
「時間……? おかしいな、わたしそんなに長く入ってましたか?」
「……?」
桜の声はなんとなくぼやけている。
力がないというか、ふわふわしているというか、寝て起きたばっかりというか。
「……桜。もしかしてとは思うんだけど」
「…………はい。その、気持ち良かったんで、ちょっと寝ちゃいました…………」
「は――――ばか、脅かすなよ、ほんと」
ずるずると廊下に膝をつく。
「……すみません。あの、すぐにあがりますね」
「そうしてくれ。……まったく、風呂で寝たりしたら風邪引くぞ」
ふう、と壁に背をあずける。
……心配したのが馬鹿らしいが、とにかく、何もなくてよかった。
風呂に入って、一晩ぐっすり寝れば桜の体調も良くなるだろう。
「――――ごと?」
重いものが倒れる音。
それは間違いなく、扉の向こうから聞こえてきた。
「――――桜!?」
返事はない。
扉の向こうは、さっきと同じように気配というものがない。
「っ……! 入るぞ、桜!」
脱衣場に飛び込む。
そこには、力なく倒れた桜の姿があった。
「桜、桜……!」
倒れた体を抱き上げる。
指にふれる感触は柔らかで、驚くほど熱い。
「ぁ――――ん、っ――――」
意識がないのか、桜は苦しげに吐息をあげる。
手は肌に張り付いたモノを剥がしたがるように、胸の中心を掴んでいた。
「はっ………ぁ、ぁ――――」
苦しげに漏れる呼吸。
……目の毒なんてもんじゃない。
抱き上げた体の柔らかさと、乱れた黒髪。
シャツ一枚という事もあいまって、桜は俺の知っている桜じゃなかった。
ぴったりと張り付いたシャツは胸の豊満さを強調していて、どうしても目が離せない。
はあ、と熱い吐息がもれる度に胸が上下し、白い首筋が露になる。
「――――――――」
どくん、と心臓が口元まで迫りあがる。
不意打ちで惚れ薬を飲まされても、ここまで頭が茹だるコトはない。
口内には唾がたまって、ぐびり、と飲み込むのにとんでもない決意を必要とした。
「ぁ…………っ、ん…………」
苦しげに酸素を求める唇に、クラクラする。
抱きあげた体は熱くて柔らかくて、このまま食いつけばとんでもなく美味そうな気さえした。
――――頭の中が真っ白になる。
腕に抱いているのは少女の体じゃなくて、十分すぎるほど熟れた女のものだった。
それは、俺の知ってる桜じゃない。
なら―――このまま、目眩に任せて抱きしめてしまっても―――
「っ……! ええい、なにしてんだ俺は……!」
頭を振る。
今はそんな場合じゃない。
桜の熱は異常だ。風呂上りだっていってもここまで熱いのはおかしい。
なにより、その―――苦しげに胸を掻きむしる指が、ただの貧血じゃないと告げている。
「桜! おい、しっかりしろ桜……!」
耳元で怒鳴りあげる。
「ぁ――――ふ、ぁ…………」
……額に張り付いていた髪が落ちる。
桜はゆっくりと目蓋を開けて、ぼんやりと、俺の顔を覗き込んだ。
「あれ、先輩……? どうして、いるんですか……?」
「馬鹿、どうしてじゃないだろっ……! 熱があるんならあるって言え!」
「え……? 熱って、わたし―――ですか?」
「おまえ以外に誰がいる……! いいから自分でおでこ触ってみろ、すごく熱いぞ!」
「え……けど、そんなに熱くないですよ、わたし?」
まだ寝ぼけているのか、桜はどこか夢うつつだ。
「いい、いいから大人しくしてろっ。すぐにベッドに連れてくから……!」
「きゃっ……!? 先輩、どうしたんですか……!?」
「部屋まで連れてく。いっとくけど暴れるなよ。俺だって、これ以上は自信がない」
桜を抱きかかえたまま廊下に出る。
「わっ……! せ、せせ先輩、わたし抱っこされてますか!?」
びっくりしたのか、桜は首っ玉に抱きついてくる。
「っ――――」
胸、胸にこう、とんでもなく弾力があるのが当たってるんだが今はとにかく無視するのみ……!
「ああもう、日課の鍛錬よりきついぞコレ……!」
こうなったらスピードの勝負だ。
こっちの理性がどうにかなる前に、全速力で桜を客間まで運ばないと……!
「―――と。熱は三十七度ちょいか。……なんだ、思ったより低かったな」
体温計を振って、ベッドで横になる桜の顔を見る。
「……すみません……なんか、緊張してお風呂に入ったら、のぼせたみたいです」
桜は申し訳なさそうに顔を布団で隠す。
「―――まあ、ひいちまったもんは仕方がない。この程度の風邪なら薬飲んで一晩寝てれば治るから、今夜は大人しくしていること。
手に取りやすいよう椅子の上に水も置いておくから、出来るだけ離れからは出ないようにな。外に出ると体を冷やすから」
念のため、もう一枚毛布をかけて電気を消す。
「じゃあな。明日の朝起こしに来るから、それまでゆっくりしてろ」
ぽんぽん、と桜の頭をたたいて扉に向かう。
――――と。
くい、と後ろに引っ張られた。
「?」
振り返ると、服の袖が握られている。
「桜……? すまん、握られてると出られないんだが」
「え?」
言われて気がついたのか、桜はびっくりして手を離した。
「す、すみません先輩……! わた、わたし、熱でぼうっとしちゃってて、それで……!」
布団から飛び起きて、バタバタと弁解する桜。
その顔は、電気を消していてもわかるぐらい真っ赤だった。
「桜、もしかして怖いのか?」
「…………はい。知らないところで一人で眠るのは、怖くて」
長い髪が顔を隠して、桜の表情はわからない。
……ただその横顔は、初めて見かけた時の、引っ込み思案な少女のものだった。
「―――そっか。初めて使う部屋で風邪っぴきってのも不安だよな」
床に腰を下ろす。
んで、背中はベッドに預けてしまう。
さすがに今の桜とは向き合えないんで、これで丁度いい。
「あ、あの、先輩……?」
「もうちょいここにいる。しばらくすれば桜も部屋に慣れるだろうし、それより先に桜が寝付いたら出ていくよ。
正直言うと桜が無理しないか心配だしな。あと三十分は監視してるから、おとなしく横になってろ」
振り向かず、片手をヒラヒラとあげて話しかける。
「―――はい。それじゃ、もうちょっとだけお付き合いくださいね、先輩」
ふわり、とそよ風が頬を撫でる。
桜が布団をかぶりなおした風圧《もの》だろう。
……ま、これで桜が落ち着けるなら安いもんだ。
こんなの、いつも桜がしてくれてた事に比べたら利息にもならないし。
「――――――――」
「――――――――」
暗闇に秒針だけが響く。
背中を向けているからか、それともさっきの桜の横顔が効いたのか。
抱き上げた時にこみ上げた感情はなりを潜めて、今はただ静かに時計を眺める。
……そうして、お互いが眠ってしまったかと思うぐらい沈黙が続いたあと。
「――――先輩、起きてます?」
穏やかな声が、静かな闇に点った。
「ん」
頷きだけで返答する。
それで満足だったのか、桜は静かに息を漏らして「……はい。今日はありがとうございました」
ゆっくりと、穏やかな眠りに落ちていった。
◇◇◇
屋敷の明かりが消える。
午後十一時を過ぎ、町は完全に眠りについた。
「―――では柳洞寺にマスターがいると?」
「遠坂の話じゃな。厄介な相手だから手は出すなと言ってたけど、町の昏睡事件はそいつの仕業らしい。……その真偽は定かじゃないけど、どっちみち確かめなくちゃいけないだろ」
「……そうですね。確かに柳洞寺に至る霊脈に作為的なものを感じます。あの山にマスターがいる事に間違いはないでしょう」
「? どうしたセイバー、乗り気じゃないのか? 昨日に比べてどこか覇気がないけど」
「―――はい。あの山はサーヴァントにとって鬼門です。
軽はずみな侵攻は避けたい」
「……む。じゃあ今夜は巡回に留めて、柳洞寺はもう少し情報を得てから探りを入れるか? 確かに、相手がどのサーヴァントのマスターかも知らないうちに攻め込むのは無謀だし」
「いえ、その必要はありません。柳洞寺に居を構えるようなマスターならば、おいそれと正体を明かさないでしょう。早々に決着をつけるのならば、正面から力で打ち破るのみです」
きっぱりと断言する。
……セイバーがそう言う以上は勝算があるんだろうし、柳洞寺のマスターが昏睡事件を起こしているのなら一日でも早く止めなくてはいけない。
「―――よし、柳洞寺に行こう。
けどセイバー、今回の目的はあくまで調査だからな。
相手のマスターの正体と、どのサーヴァントを連れているかが判ったら一旦退こう。……情けないが、俺にはセイバーの援護ができない。その分慎重にいきたいんだ」
バーサーカーの時のように、セイバーだけを傷つける事はできない。
俺がセイバーの力になれないのなら、違う方法でセイバーを守らないと。
「…………判りました。最終的な判断はシロウに委ねます。戦闘か退却かは貴方が決めてください」
「……む。それはそれで嬉しいんだが、怖いな。万一倒せる相手が出てきても、臆病風に吹かれて逃げだしかねないぞ、俺」
「なるほど。そういった場合も考えられますね。シロウは戦闘経験が少ないですから」
「ああ、そればっかりは事実だからな。自分から地雷原につっこむような真似は避けたいし、そういう時は注意してくれると助かる」
「はい。では、シロウが判断を誤った時は私から忠告を。
勿論、それではシロウの為になりませんから、シロウの判断が間違えていた場合、なんらかのペナルティを負ってもらう事にしましょうか」
「……む。何らかのペナルティって、具体的に言うとどんなさ」
「さあ、それを口にしてはつまらない。数少ない楽しみですから、私だけの秘密としましょう」
……う。
藤ねえの影響なのか、セイバーにあるまじき冗談を聞いた気がする。
というか冗談でないと困る。
「しかしシロウ。私たちはともかく、桜は大丈夫なのですか? あの苦しみようは尋常ではありませんでしたが」
「ああ、俺もそう思ったんだけど、熱を計ってみたら大した事なかった。とりあえず一晩ゆっくり休んでもらって様子を見る」
「そうですか。では迷いなく戦いに赴けますね」
ああ、と頷いて離れに視線を投げる。
桜の部屋は離れの二階だ。
桜に気付かれないよう家を出て、何事もなかったように帰ってこないといけない。
「――――行くぞセイバー。ここからはマスターとしての時間だ。他の事は考えない」
セイバーと共に屋敷を出る。
月は高く、夜の闇はなお密度を増していく。
――――風があるのか、上空の雲が早い。
白々とした月が見え隠れする中、俺たちはマスターの潜む敵地へと走り出した。
◇◇◇
石段を登る。
セイバーは既に武装していた。
「――――――――」
「――――――――」
お互い、敵の攻撃に備えて神経を張り詰めている。
山門に至る階段は長く、吹く風は山頂付近だというのに生温かい。
セイバー曰く、この山にはサーヴァントを拒む結界があるのだそうだ。
サーヴァントは山門以外から柳洞寺に入ろうとすれば魔力を削がれ、大きな痛手を負うという。
その為、柳洞寺への侵入経路はこの階段しかないのだが――――
「……てっきり待ち伏せてると思ったんだが。サーヴァントの気配、しないよなセイバー」
「ありません。
この石段には私以外のサーヴァントは――――」
と、セイバーは足を止めて視線を下げる。
「セイバー……? 何かあったのか?」
「……いえ、私の気のせいでしょう。カタナらしき物が見えた気がしましたが、そのような物は何処にもない。
―――この山門に守り手はいません。境内に向かいましょう」
セイバーは早足で石畳を上がっていく。
「?」
それに首をかしげながら、こっちも遅れずに走り始めた。
……境内は静まり返っていた。
風が強い。
影が深い。
月は出ているというのに、周囲は恐ろしく暗い。
「――――――――」
頭上を仰ぐ。
月は確かに出ている。
月光はさえざえと白く、灯火のない境内を照らしている。
それでも、境内は影に沈んでいた。
「セイバー」
「ええ、様子がおかしい。ここまで踏み込んで反応がないなどあり得ません。それに―――これは、静かすぎる」
「……中を調べよう。柳洞寺は五十人近い大所帯なんだ。
こんなに静かなんて事があるもんか」
セイバーと共に寺の中へ進む。
―――周囲に人影はない。
俺とセイバーは境内が無人なのを確認してから、寺の中へ侵入した。
―――寺の人間は、その全てが眠っていた。
寝返り一つうたない。
俺が間近で倒れようと、抱き上げようと反応はない。
五十人もの僧侶は、例外なく衰弱しきっていた。
起こしたところで目を覚ます者はおらず、穏やかな夢でも見ているのか、規則正しい呼吸だけを繰り返す。
その一団の中には、当然クラスメイトの姿もあった。
柳洞一成は生徒会室で時おり見せるような、のんびりとした寝顔のまま昏睡していた。
「――――――――」
板張りの廊下を早足で移動する。
……セイバーが気配を感じたからだ。
セイバーが指差した方角は奥の本堂。
寺の中心部と言えるそこに、この惨状の原因《マスター》が潜んでいる。
お堂に踏み入る。
途端、目に付いたのは床に広がっていく赤い血だった。
「っ……!?」
お堂の中心に、赤い華が咲いている。
倒れ伏した男がいる。
胸を貫かれたのか、男は床に倒れたまま、板張りの床を赤く赤く染めていた。
傷は致命傷であり、出血はとうに生命限界を越えている。
男は既に死体だった。
それは見覚えのある人物であり、傍らに立ち尽くすモノの主《マスター》であったモノらしい。
そのサーヴァントは、奇怪な短刀を手にしたまま死体《マスター》を見下ろしている。
「っ……」
頭痛と、警告めいた胸騒ぎがした。
目の前の凄惨な光景恐れた訳ではない。
アレは――――
あの短刀は、よくないモノだ。
セイバーは何も感じていないようだが、あの短刀にはよくない力が備わっているような――――
「キャスター……!」
身構えるセイバー。
紫のローブのサーヴァント―――キャスターはぴくりとも反応しない。
それを好機と取ったのか、侮辱と取ったのか。
セイバーは微かに身を落とし、一息でキャスターへと踏み込もうと――――
「だめだ、待てセイバー……!」
「シロウ……!? 何故止めるのです、今をおいてキャスターを討つ機会は――――」
「そうじゃない、あの短刀には触れるな……! アレは魔術破りだ。もしかすると、マスターとサーヴァントの契約だって断つかもしれない」
「では―――キャスターは、自らのマスターを」
「………………」
手にかけたかどうかは判らない。
ただ、キャスターが持つ短刀が、桁違いの解呪能力を持っている事だけは確かだ。
「キャスター―――貴様、主に手をかけたな……!!」
怒号と共にセイバーが突進する。
……振り返るキャスター。
生気のない姿は英霊というより幽鬼そのものだ。
一閃する刃。
セイバーの剣はローブを裂き、キャスターは衣を裂かれながらも後方に跳んで躱す。
「―――セイ、バー……?
そう、止めを刺しに来たという訳ね。誰の筋書きだか知らないけど周到なこと」
「黙れ。主を裏切った者の言葉など聞きたくもない。自らの行いを恥じ、ここで裁かれるがいい」
「は―――私がマスターを殺した? 宗一郎様を私が?
ふ―――はは、あはははははははは! それは愉快ね、ええ、こんな事になるのなら本当にそうしてしまえばよかった……!」
狂ったように笑う。
黒い魔術師は歪な短刀をローブに戻し、その片腕をセイバーへ突き出す。
「―――目障りよセイバー。主もろとも消え去りなさい」
「――――――――」
言葉を返すまでもない。
セイバーはキャスターを見据えたまま、躊躇うことなくその剣を振りかぶった。
……キャスターが消滅していく。
セイバーとキャスターの戦いは戦闘と呼べるものではなかった。
キャスターの魔術は卓絶したものだったが、高い対魔力を持つセイバーには何一つ通用しなかった。
セイバーは繰り出される数多の魔術を無効化し、一撃でキャスターを下したのだ。
「キャスターは倒しました。マスター、指示を」
「え―――あ、ああ。……そうだな、これ以上ここにいても何もできない。病院……の前に言峰に連絡して後を任そう。昏睡してる人たちはそれで助けられる筈だ」
……だが目の前の死体だけは助けられまい。
キャスターは消え、そのマスターはこうして屍をさらしている。
……この人物の死は闇に葬られるだろう。
彼は今夜を限りに消息を絶ち、生死不明のまま、いつか人々の記憶から消えていくのだ。
「シロウ」
「……判ってる。マスターはあと四人もいるんだ。立ち止まっている余裕はない」
「賢明です。気持ちは解りますが、感傷は押し止めてください」
セイバーはお堂に背を向ける。
「――――――――」
せめて、倒れ伏した亡骸を記憶に留めて、セイバーの後に続く。
「――――え?」
と。
何か、いま。
「シロウ? どうしたのです、足を止めて」
「え……あ、いや。いま、なんか視線を感じたっていうか、誰かに見られてる気がしたっていうか……セイバーは感じなかったか?」
「いえ、何も感じませんでした。この周囲に人がいない事は確認した筈です。シロウの気のせいではないですか?」
「う……そう、かな。セイバーが言うんなら間違いない、か。うん、きっと俺の勘違いだ」
「では急ぎましょう。キャスターが倒れた今、昏睡していた人々も目を覚まします。私たちの姿を見られては面倒だ」
……そうだな。
後味は悪いが、とにかくこれで町で起きていた昏睡事件はなくなったんだ。
今はそれだけで良しとするべきだろう。
「分かった。すぐに山を降りて言峰に連絡。あとは家に戻って、今夜は休もう」
満足げに頷いてセイバーはお堂を後にした。
「――――――――」
後ろ髪を引かれる感覚を振り払ってセイバーに続く。
……静まり返ったお堂には、マスターだった男の亡骸だけが残っていた。
◇◇◇
時計は午前二時を回っていた。
日頃から体を鍛えているとはいえ、さすがに柳洞寺までの往復はこたえる。
「……あ、そうだ。セイバー、先に部屋に戻っていてくれ」
「? 何処に行くのですシロウ。今夜はもう休むのではないのですか?」
「ん、ちょっとな。すぐに戻るから心配すんな。俺だって疲れてるし、早く休みたい」
「―――なるほど。桜の容態が気になるのですね」
「うっ。その、水を替えないとまずいだろ。……セイバーこそちゃんと隣の部屋で寝てくれよ。襖も閉めて、ちゃんとしないとダメなんだからなっ」
「ああ、そうでしたね。同室でなければ意味がないのですが、シロウが強情を張るのでは仕方がありません。言われた通り、隣の部屋で待機しましょう」
つーん、といかにも不満そうな目をするセイバー。
……ふん。
強情張ってんのはお互いさまじゃないか。
「あ……う」
自己嫌悪に苛まれながら自室に戻る。
「……午前三時……一時間も何やってたんだ、俺」
はあ、と大きく溜息をつく。
遅れた理由は一つだけだ。
その、桜は思いのほか寝苦しそうで、布団のかけ直しやら水の取り替えやらで時間をとってしまった。
それだけの作業がとにかく苦しくて、手間取って、とんでもなく困難だったのだ。
それというのも、その。
寝みだれた桜の姿が、あんまりにも蟲惑《こわく》的だったからである。
「――――目隠しでもあればよかった」
それなら問題はなかった筈だ。
……いや、実際さっきまで目を瞑って作業していたから大差はないけど、目隠しなら誘惑に負けて目蓋を開けることもないし!
「ああもう、こんなに節操なかったのか俺は―――!」
いや、こんなのもう妄想だ。
桜の体が発育しすぎてるのがいけないんだ。
ちょっと前までぜんぜんだったクセに、なんだって一年ぐらいであんなにおっきくなるんだよぅ……!
「―――ああもう、寝る! 寝よう、寝ちまえ、寝ちゃうからな!」
ばふり、と布団を頭から被って雑念を払う。
「――――――――」
とにかく目を瞑って頭の中を真っ白にする。
そして俺は覚めない夢の中にいる――――
◇◇◇
主演は立ち去った。
舞台に残されたものは物言わぬ屍のみ。
それを、
何かが、飲み込んでいた。
死体は残らない。
板張りの床は底なしの沼となって、ずぶずぶと、男の死体と粘つく血液を平らげていく。
それは男だけでなく、男に従ったモノさえ飲み込んだ。
サーヴァント―――キャスターを象っていた魂とも言えるものが、黒い影に落下していく。
それは正統な流れではない。
敗北し、消滅したサーヴァントの行き着く先は聖杯のみ。
その法則を妨げるというのなら、いかなモノと言えど自滅自虐は避けられまい。
「――――――――」
音もなく泣く。
ソレは苦しげに悶え、咽《むせ》び、暴《あば》かれながら、ようやく一人目を飲み込んだ。
――――タリナイ
ヒタヒタと歩く。
声をあげる事もできないソレは、全身でそのイタミを表現する。
――――タリナイ
それは言葉でもなければ感情でもない。
もとよりそんな機能は付属していない。
――――タリナイ
だというのにソレは嘆《な》いた。
自らの存在。
自らが存在するという事に、いま、初めて気がついた“何か”のように。
◇◇◇ ◇◇◇
――――――――熱い。
どうしてそんなコトになったのか。
フトンをかぶって、目をとじて、ちゃんとおやすみなさいって言ったのに、つぎにやってきたのはマッカなけしきだけだった。
――――――――熱い。
うるさくて目をさます前に、お母さんがおこしてくれた。
よるなのにとても明るい。
お父さんがだき上げてくれて、ごうごうともえるロウカを走っていく。
――――――――苦しい。
うしろからお母さんのこえがした。
お父さんはひとりでいけるな、といった。
外でまっていなさい、とあたまをなでた。
うなずいて、いうとおりにした。
――――――――痛い。
外もうちのなかと変わらなかった。
みんなまっ赤で目がいたかった。
だから目をつむってはしった。あつくないところに行きたかった。
ふりかえるとうちはなくなっていた。
いいつけを守らなかったから、バチがあたってしまったんだ。
――――――――目が、痛い。
なきながら歩いた。
うちに帰ってまっていなくちゃいけなかった。
けど、うちがどこにあったのか、もうわからなくなっていた。
手でかくしていた顔をあげる。
そこで―――初めて、その光景と正面から対峙した。
遠くで町が燃えている。
もう消すことのできない炎は、変えられない出来事だ。
それは十年も前の話。
遠くで燃えている炎は、距離ではなく時間として遠すぎる。
「あ―――――、つ―――――――」
肌が痛い。
息をすると喉が焼ける。
生きていると肌が軋む。
逃げようと動かした足首には、重いモノが足枷となってまとわりつく。
それが生きている俺を仲間にしたがる死の気配だと、子供心に分かっている。
「あ――――、れ――――」
……それにしても、熱い。
喉を掻き毟《むし》る爪が変色している。
吸う息が焼けた食道を突き刺していく。
眼球は正常な役割を放棄して、脳みそは頭蓋骨の中で蒸し焼きだ。
「な――――、ん、で――――」
―――熱い。
熱い、熱い。熱い、熱い、熱い。熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い…………!!!!
「は――――――――あ」
思い出した。
ここは熱い―――酷く熱い。
なのに寒い―――恐く寒い。
沸点を越えたらぐるりと回って凍結温度。
燃える血はすぐに固まって止まってしまい、目に映るものはあべこべだ。
それで熱い。
だから寒い。
以って、おかしくなるほど熱かった。
……だが。
それは、果たして何が原因だったのか。
「――――――――」
空には、黒い太陽があった。
夜なのに太陽があることも、太陽が黒いことも、特別不思議に感じなかった。
だって何もかもあべこべだったのだ。
だからそれぐらい、逆になっていて当然だ。
「あ――――あ…………!」
なのに逃げ出した。
コわくなって逃げダした。
まわりの火なんてぜんぜんこわくなかった。
あのくろい影にくらべれば、やけしぬのはニンゲンらしくてただしいとおもった。
だからニげた。
アレにつかまったら、もっとこわいところにツれていかれるにきまっていたからだ。
――――ぼんやりと空を見る。
いずれ雨が降ると知って、伸ばした手はゆっくりと地面に落ちて――――
「――――っ、あ」
ゆっくりと目蓋を開ける。
目覚めたばかりの頭で、ぼんやりと自分の部屋を見渡した。
「――――夢、か」
横になったまま、ほう、と胸を撫で下ろす。
夢から覚めてホッとするなんて何年ぶりだろう。
「……けど……はっきりとした夢、だったな」
額に熱さを感じながら、ぼんやりと呟く。
昔はこの夢を見て何度もうなされたものだ。
……それは十年も前の話。
あの頃は記憶が鮮明で、眠る度に炎の中を彷徨った。
忘れる日が来るなんて、それこそ夢にも思えなかった。
あの日の空も、焼けた空気の匂いも、出口のない炎の壁も、眠りに落ちれば現実となって在り続けた。
「――――――――」
それは今だって変わらないと思う。
けど、それにだって鮮度はある。
傷は癒えるものだし、記憶は色褪せるものだ。
ここ数年、あの火災を夢に見ても繰り返すのは一面の赤色だけだった。
あんな、爆ぜる空気の匂いまで実感するような夢なんて、なんで今更――――
「――――――――」
それに、あれはなんだったのか。
あんなもの、俺は知らないし覚えていない。
いや、そもそも見てもいない。
「っ―――――――」
……吐き気がする。
考えようとすると目眩がする。
そんなコトは考えるな、と体についたブレイカーが落ちかける。
「――――起きよう。顔を洗ってすっきりしないと」
あんな夢を見たせいか、体は汗だくだ。
寝巻きは汗を吸って気持ち悪いし、頭もなんだかフワフワする。
「あ……れ?」
……腕がだるい。
というか、力が入らなくて、立ち上がれない。
「ちょっ――――どうなってんだ、これ」
くそ、喋るのが辛い。
ゆるゆると手を額にあてると、それなりに熱かった。
「……うわ。もしかして風邪ひいたのか、俺……?」
ちょっとびっくり。
風邪なんて引いたの初めてだ。
こっちにきてから生傷は絶えなかったものの、風邪だけは引かなかったのだが。
「……だからあんな夢を見たのかな。体が熱いから、夢の中も熱かったんだ」
ああ、それなら納得がいく。
頭もぼんやりしてるし、これならおかしな夢の一つや二つ――――
「――――、あ」
ちょっ、ちょっちょっちょっと待った何くつろいでんだよ俺はーーーーーー!!!???
「っ、なんで、どうして、どのように!?」
ガバリと起きる。
んで、布団の中を確認する。
体がだるいとか腕に力が入らないとか言ってる場合じゃない。
たとえ石化していようとこれだけは確かめる。
んでなんかあったら朝からお風呂に入って秘密裏に証拠を隠滅、すみやかに漂白・脱水しなくては今後の発言権に支障をきたす。
率直に言えば、衛宮邸における士郎株がだいぼうらくだ。
「―――って。別に、そーゆーコトは、ないようです」
……良かった。
その、布団内部に侵入者はいないし、こっちの体にだって異状はない。
「……夢、だよな。そうだ。だって、あんなの夢だし」
……眠っている間に学校になんて行ってないし、遠坂のヤツが、俺と、その、あーゆーコトをしたがるとは思えない。
ならアレは俺が身勝手に見た夢だ。
寝巻きは寝たときのままだし、そもそも隣りの部屋にはセイバーがいたワケだし!
「……そうだよな。俺が出歩いてたら、セイバーが気付かない筈がない」
――――ふう、と思いっきり息をつく。
とたんに力が抜けて、ばふり、と派手に背中から倒れこんだ。
「シロウ……? どうしました、いま音がしたようですが」
襖《ふすま》ごしにセイバーの声がする。
……ほら見ろ。
これだけでセイバーが気付くんだ、ならアレは夢。もう夢、ぜぇっっっったい夢。そうでもなけりゃどの面《ツラ》さげて遠坂に会えというのだこの俺は。
「シロウ?」
セイバーが入ってくる。
「―――よ、よう。おはようセイバー」
平静を装って声をかける。
「どうしたのですシロウ。横になったまま挨拶をするなど、貴方らしくもない」
「いや、ちょっと不測の事態が起きて」
不思議そうに首をかしげるセイバー。
さて。
アレが夢だったのはほんっとーに助かったけど、一難去ってまた一難というか。
体はだるいし立つコトもできないし、どうやって朝飯を作ったもんか――――
「三十七度六分。ふーん、士郎が風邪引くなんて珍しいわね」
体温計を片手に、実にあっさりと診断を下す。
……ま、こっちもそうだろうなって思ってたから意外じゃないんだが、風邪っていうのはここまで体が重くなるもんだったんだ。
「それで痛いとこは他にある? 喉が痛いとか、あたま痛いとか」
「? いや、別にそうゆうのはないよ。体が重くて熱っぽいだけなんだけど、おかしいかな」
「んー、痛いところがないんならそのほうがいいかな。
あ、けど士郎は我慢しちゃう子だから気付いてないだけかもしれないか。……うん、念のため他の薬も用意しとく」
救急箱から風邪薬だの喉飴だのを取り出す藤ねえ。
切り傷の手当てならお手の物だが、こういう病気の手当てには慣れていないようだ。
「さんきゅ藤ねえ。それとごめん。朝メシ、作れそうにない」
「バカなこと言ってないの。士郎と朝ご飯、どっちが大切だと思ってんのよ。セイバーちゃんが呼んでくれたから良かったものの、いつも通りご飯作ってたらほんとにカミナリ落としてたんだから」
むっ、と本気で怒ったりする。
……そうだな。そんなの、口にするまでもなかった。
「それとご飯なら心配いらないからね。桜ちゃんがおかゆ作ってくれたから、お腹が減ったら食べなさい」
「え……? 桜がおかゆ……?」
……ってことは、桜の体調はもういいんだ。
「桜、体の方はいいのか? 俺より辛そうだったじゃないか」
「はい、ちゃんと熱は引きましたから心配はいりません。
夜も恐くなかったし、ぐっすり眠れちゃいました。これも先輩が看てくれたおかげです」
……そっか、良かった。
しばらくかかると思っていたけど、一晩で治ってくれたんなら安心だ。
「そっかー、忘れてた忘れてた。昨日は桜ちゃんが風邪ひいてたんだっけ」
「え……? そうだけど、なんだよ。……その顔、すごく邪まな感じがするんでやめてくれ」
「ふっふーん。もしかして士郎、桜ちゃんの風邪が移るような真似しちゃったの?」
「は? 桜の風邪が移るって、どうしてさ」
「あれ、わからない? 桜ちゃんの熱は下がってるんでしょ? なら士郎がなんかしたんじゃないの? むかしっから、風邪は人に移すと治るっていうし」
「……?」
わけがわからず桜に視線を向ける。
「――――あ」
それで、藤ねえのヤツがなに口走ってんのかがようやくわかった。
「ば、ばばばばばバカかアンタっ! き、昨日は熱計って薬出しただけだっ……! じょ、冗談でもそうゆうの禁止だ藤ねえ、泊まってくれた桜に失礼じゃんかっ……!」
カア、と顔が真っ赤になるのがわかる。
三十七度の熱は、間違いなく三十八度の大台にのってしまった。
「なーんてね、わかってるわよそんなの。士郎にはそんな甲斐性ないもんねー」
「っ……なんか、それはそれでムカツクけど、誤解がとけたんなら、それでいい」
「よしよし。それじゃ欠席届は出しとくから、今日はゆっくり休んでること。セイバーちゃん、士郎をよろしくね。
この子、ほっとくとなんでもしちゃうから布団に縛りつけておいて」
「もとよりそのつもりです。シロウが起きださぬよう監視をし、食事を与えればいいのですね?」
「うわ、なんか物騒な言い回しだけど、間違ってないからいっか。セイバーちゃん、そのとおりにお願い」
無言で頷くセイバー。
……なんか、得も言えぬ危機感が走ったのは気のせいか。
「じゃ、セイバーちゃんのいう事ちゃんときいて、わたしたちが帰ってくるまで大人しくしてるのよ。夕ごはんは精のつくもの買ってきてあげるから、それまでに体を治しておくこと」
うんうん、と笑顔で無理難題を言いつける藤ねえ。
「……?」
その後ろで、何か言いたそうに俯いている桜が気にかかった。
「いってきまーす。おみやげ期待しててねー!」
ヒラヒラと手を振って、藤ねえは出勤していった。
「…………ふう」
藤ねえを見送って布団に戻る。
部屋から縁側に出ただけだっていうのに、手足は休息を欲しがってすぐに倒れてしまう。
……熱はそう高くないのだが、体が疲れきっているらしい。
藤ねえの言う通り、しばらく横になって体力を戻さないと何もできない。
と。
もう七時半を過ぎたっていうのに、桜が部屋にやってきた。
「桜? どうした、もう七時半だぞ。そろそろ登校しないと間に合わないんじゃないか?」
「……………………」
桜は気まずそうに目を伏せる。
それがさっきの、何か言いたげな表情と同じだと気付いたころ、
「あの、先輩。わたし、ここに残っちゃいけませんか?」
顔をあげて、そんなコトを言ってきた。
「?」
残るって事は、学校を休むって事だよな。
「……あ。もしかして、桜もまだ熱があるのか?」
「…………いえ、熱はもう引いてます。ただ、その」
言いにくそうに言葉を濁す。
……ふむ。
たしかにまだ顔色は悪いし、あれだけ具合が悪そうだったものが一晩ですっかり良くなるってのも無茶な話だ。
「そっか、桜も風邪気味だったもんな。けど大丈夫か?
欠席届とか出さないで」
「……はい。あの、ずる、しちゃおうかなって」
「?」
ずるって、ずる休みのずる?
「なんでさ。桜は風邪引いてるんだから、別にずる休みってわけじゃないだろ。熱があるなら部屋で寝てないといけないんだから」
「……う。えっと、ですから、わたしの体はいいんです」
桜はますます俯いてしまう。
「???」
こっちもますます分からない。
桜、なにが言いたいんだろう?
「そ、そのですね。先輩が風邪を引いたのって、わたしのせいだと思うんです」
「なんだ、藤ねえのたわごと真に受けてんのか? 大丈夫、そんな事はないって。俺、最近は夜になると散歩しててさ。それで勝手に風邪引いたんだよ」
「そ、それでもいいんですっ。……その、わたしは元気で、昨日のお礼というか、先輩の看病がしたいので、ずるしちゃいたいんです……!」
こう、指で突つくとカッチーンって響きそうなぐらい体をカチカチにして、桜は言った。
「――――む」
どうも、桜は俺の風邪引きに責任を感じているようだ。
正直、桜が傍にいてくれるなら安心できる。
セイバーだって眠っていなけりゃいけないし、桜が薬の用意とかしてくれるなら有り難い。
「あの、先輩……?」
「うん。それじゃ頼む、桜」
「そ、そうですよね。先輩にはセイバーさんがいるし、わたしが残っても、何も――――
って、先輩?」
「うん。だから看病を頼むよ、桜」
「えっと――――――わたし、ですよね?」
「そうだよ。セイバーも時差ぼけでさ、昼間は眠ってるんだ。情けないんだが、桜が昼飯とか作ってくれると助かる」
「は、はいっ!
わ、わたし、せいいっぱい頑張りますね、先輩っ!」
さっきまでの緊張はなくなったのか、一変して笑顔で応える桜。
……うん。
やっぱり、桜にはこういう笑顔が似合っている。
◇◇◇
んで、いくぶん時間が経った午前十時。
桜お手製のお粥を食べて、体はすっかり元気になった。
朝方にあった手足のだるさはもうなくなっている。
動くだけなら何の支障もなく、その気になれば今からでも学校に行けるだろう。
が。
これは風邪っていうより極度に栄養が足りなくなってただけなんじゃなかろーか、と訝しみながら布団から出ようとした矢先、
「あ、ダメですっ! 先輩、熱が下がるまでぜったい安静ですからね」
と、駆けつけた桜に念を押されてしまったのだ。
「――――ふう」
で。
桜はなんだかやる気満々だし、朝飯を作ってもらったコトもあるし、確かに体はまだだるいしで、結局今も横になっている。
桜は俺にお粥を食べさせた後、やるコトがあると席を外した。
セイバーは居間で休んでもらっている。
さっきまで部屋の片隅で正座していたのだが、こっちが落ち着かないので居間に移動してもらったのだ。
もちろん反論されたが、今日だけ警護場所を変更する、という事で納得してもらった。
「失礼します。お体の調子はどうですか、先輩」
「おかげさまで良くなってるよ。体のだるさはまだあるけど、熱はもう下がってる」
「よかった、それじゃもうお薬はいりませんね。あとは美味しいものを食べて、ゆっくり休んでいれば安心です」
桜は隣りの部屋に足を運ぶと、新しい布団を持ち出した。
「? 桜、なにしてんだ?」
「なにって、新しいお布団ですよ? 先輩はずっと汗をかいてたんですから、そろそろ替えないといけないかなって」
ぽんぽん、と慣れた手つきで俺の隣りに布団を敷く。
驚くべき事に、ホコリはまったくたたなかった。
「はい、用意できました。どうぞ先輩、こちらに移ってください。……あ、その前に着替えですね。わたしはお布団を干してきますから、新しい寝巻きに着替えておいてください」
布団に続き、ササッと寝巻き一式を用意する桜。
「――――――――」
な、なんて完璧な看護ぶりなのかっ。
これは手馴れてるとか気が利くとか、そういうレベルの話じゃない。
「遺伝子だ。きっと遺伝子にそういうスキルが備わってるんだ」
「? 先輩、なにか言いました?」
「言った。不謹慎だけど桜が休んでくれてよかったって。
正直、桜のことを見直しちまった」
「とうぜんですよー。もうじき一年半ですからね、先輩のおうちのコトはちゃーんと解っているんです」
ふふーん、と得意げに胸を張る桜。
自信満々な顔には、なんか見ているこっちまでにやけてしまった。
「そっか。んじゃ布団は任せた。ここは好意に甘えて、病人らしく言うこと聞いてる」
「はい、まかせてください。布団を干し終わったらリンゴ剥いてきますから、期待して待っていてくださいね」
今まで俺が寝ていた布団を抱えて、桜は廊下へと出て行った。
「――――うわ。一気に全部持っていったな、桜」
そのハリキリぶりに驚きつつ、用意してもらった寝巻きを手にとる。
―――さて。
それじゃタオルで体を拭いて、新しい寝巻きに着替えて、おとなしく布団に入って桜を待つとしよう。
そうして、どれくらいの時間が流れたのか。
桜は宣言通りリンゴを剥いて持ってきて、俺はそれをおいしくいただいて、
「もう。無理は禁物ですよ、先輩」
桜に叱られて、もう元気だっていうのに横になっている。
「で、セイバーが手伝ってくれたのか?」
「はい。何もしていないのも疲れるからって。おかげで客間のお掃除もできて助かりました」
「そっか。雑巾をしぼるセイバーってのも見たかったな。
こう、だだーっと客間の廊下を雑巾がけしたのか?」
「はい、二人でいっしょに頑張りました。セイバーさん、これはこれで参考になる、なんてコト言ってましたけど」
ちょっとだけ困ったふうに微笑む桜。
慣れたとはいえ、セイバーへの苦手意識はまだ取れていないようだ。
「……うん、ともあれご苦労様。けどあんまり無理するなよ。桜だって病み上がりなんだ。俺の世話だけでも大変なんだから、掃除までするコトないぞ」
「そんなコトありません。ここで朝を過ごして、夕方もご飯を食べさせてもらってるんです。ならお掃除をするのは当然ですよ。わたしだって、その」
―――この家の一員なんですから、と。
遠慮がちに、そうなったらいいなと願うように、桜はごにょごにょと呟いた。
「―――そうだった。俺も桜も藤ねえも、家族みたいなもんだった」
「え……先輩?」
「遠慮して悪かった。家族なら看病ぐらい当然だもんな。
俺だって桜が倒れたら、どんなに嫌がられても看病する。
だから、遠慮なんてする方がバカだったんだ」
すまん、と反省する。
「――――――――」
会話が止まる。
桜は、僅かに驚きで呼吸を止めたあと。
「――――はい。わかってもらえたのならいいです。先輩はちょっと、人のコトを大切にしすぎだと思います」
幸せそうに微笑って、乱れた布団をかけなおしてくれた。
「――――――――」
そんな事で、今更ながら思い知った。
この家がいつもキレイだったこと。
使わない部屋も気がつけば手入れされていて、まるで切嗣《オヤジ》がいた頃みたいに活気があって、生活の匂いがしていた理由。
学校の後輩。友人の妹。
そんなきっかけで知り合った桜こそが、俺以上に、この家を守ってくれていた。
この一年半、日々は本当に穏やかだった。
……その、あんまりにも当たり前すぎて気がつかなかったけれど。
藤ねえと俺だけじゃ得られなかったものを、桜は持ってきてくれていたんだ。
「――――――――」
ぼんやりと桜を見上げる。
……僅かに残った熱のせいか、幸せそうに看病をしてくれる桜のせいか。
桜の笑顔を見てると、ぼーっと胸があったかくなって眠くなる。
「――――、ん…………」
というか、眠い。
……なんか気持ちいいし、桜には悪いけど昼まで眠ってしまおう、と目蓋を閉じて、
「―――けど先輩? わたしは、先輩のそういうところが大好きです」
「え――――?」
なんか、心拍数があがるようなコトを、言われた気がする。
「さ、桜?」
「っせ、先輩……!?
お、起きてたんですかっ……!?」
だだ、と慌てて体を引く桜。
そう派手に驚かれると、こっちも顔が赤くなるというか、熱がぶり返してしまって、困る。
「あ、う、その、桜」
「な、なにも言ってません! わたし、なにも言ってませんから! その、顔を覗き込んだのはですね、その、えっと、熱! そう、熱を計ろうって思ったんですっ!」
あたふたと体温計を取り出し、がばっと覆い被さってくる桜。
「先輩、体温計です! ね、熱を計りますからくわえてくださーい!」
慌てているのか、桜は片手に体温計を持って、片手でこっちの体を押さえにかかる。
「え――――?」
ふにゃ、という感覚。
……その、かすかに触れているのは、桜の胸、みたいだった。
「――――――――」
脳が沸騰する。
思い出してはいけない事、あんまりにもリアルな女の実感に、理性がトビかける。
「うわ――――!
ま、待て桜、ちょっとたんまーーー!」
「きゃっ――――!?」
もう全力、まったなしで布団から転がり出る。
ゴロゴロと布団からスライドし、とにかく最優先で桜の胸――――じゃなくて、桜から離れなくてはっ!
「せ、先輩……? あの、お熱を、計りたいんですけど」
「い、いい! それぐらい自分でやるから、桜はそこでストップ!」
「……? 先輩がそう言うのでしたら、いいですけど。
はい、それじゃあ体温計」
「だめーーーーー!
今はダメ、頼むから落ち着かせてくれ! いま近づかれると昨日の夢がぶり返して死んじまう!」
顔を真っ赤にしてストップサインを出す。
――――と。
「昨日の夢、ですか?」
よっぽど俺の態度がおかしかったのか、桜は怪訝そうにこっちを見た。
「あ……う。……その、性質の悪い夢を見たんだ。
出来れば思い出したくないんで、今はそっとしといてくれ。い、言っとくけど桜が悪いワケじゃないぞ。俺が修行不足なだけだ」
「――――はあ。修行不足、ですか……?」
桜はぽかんとしたまま俺を見る。
……あったりまえだ、こんなコト言い出されたらそりゃ呆れる。
「あの、先輩。その夢、いったいどんな夢だったんですか?」
「う――――」
と、とてもじゃないけど言えるかあんなのっ……!
「べ、別にそう大した夢じゃない。ただ、性質が悪かっただけだ」
「先輩」
……う。俺の身を案じているからか、桜の目は真剣だ。
……嘘は言えない。けど本当の事も言えない。
ここは――――
正直なのも時と場合による。
あんな夢、思い返すだけで赤面するのに口にしたらそれこそ熱でぶっ倒れるっ。
「先輩、誰が出てきたんですか?」
「誰って、別に誰も出てきてないっ。ほら、夢なんてのは目が覚めた途端に忘れるものなんだから、いつまでも覚えてないっていうか」
「そうなんですか? なら、覚えてる範囲でいいですから、知りたいです」
「ばっ……!」
い、いつのまに踏み込んできたのか、布団から退避した俺に詰め寄ってくる桜。
「だ、だからいま近寄るのはダメーーーー! 頼むから勘弁してくれ、この話は禁止禁止禁止―――――!」
ぶんぶんと手を振りながら、さらに畳を転がっていく。
くそ、ホントに修行不足だ。
いつもは意識しないでいられるのに、あの夢のせいで、桜の一挙一動が気になって仕方ないっ……!
「い、いいからしばらく一人にさせてくれ。びょ、病人の願いは聞くべきなんじゃないかっ!?」
部屋の隅に陣取って桜に抗議する。
「…………ふう。わかりました、無理には聞きません。
ほんとは聞きたいですけど、これ以上無理させたら熱が上がっちゃいますから」
桜は残念そうに後退する。
「面目ない。心中察してくれて、助かる」
で、いそいそと布団に戻る俺。
「それじゃ先輩、お昼の支度がありますから失礼します。
支度が済んだら呼びにきますから、それまで安静にしててくださいね」
「あ、うん。お昼、よろしく頼む」
「はい。おかしなコト訊いて、すみませんでした。お昼はあったかいおうどんにしますね」
ぱたり、と障子が閉まる。
いつもの柔らかい笑顔を残して、桜は居間へ去っていった。
◇◇◇
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
二人そろって一礼する。
「おそまつさまでした。先輩もセイバーさんも、きれいに食べてくれましたねー」
後片付けを始める桜。
食卓には土鍋と三人分のどんぶり、うどん用の薬味各種が並んでいる。
「あ、後片付けは俺がやる。熱も下がったし、それぐらいしないと」
「そうですか? それじゃ体力検査という事でお願いしちゃいますね。洗い物はわたしがやりますから、先輩は食器運びとテーブル周りの後片付けをやっちゃってください」
桜はエプロンをつけながら台所に移動する。
さて、こっちも土鍋とどんぶりを運ぶとするか。
「シロウ、体は大丈夫なのですか? 熱は下がったと聞きましたが、顔色はまだ悪いではないですか」
「え? なに、顔青いのか俺?」
「……む。いえ、青いと言うのではなく、悪いのです。
マスター―――魔術師にとって生命線とも言える魔力が不足している。昨夜の戦闘ではシロウに負担をかけた覚えはありませんが、あの境内そのものに魔力を吸い上げる仕掛けがあったのかもしれません」
「――――むむ」
……言われてみれば、柳洞寺の雰囲気はどこかおかしかった。
中にいた人たちも衰弱していたし、キャスターは入った人間から生命力を奪う結界でも張っていたのか。
「ま、体は元気になったから問題ないさ。魔力だって栄養をとれば戻る。俺の魔力量なんてタカが知れてるんだから、ちゃんと夕飯を食べれば戻るだろ」
「ふう。当事者である貴方がそう言うのならこれ以上追究しませんが。……まったく、桜の言う通りです。シロウはどうも、自分のコトを蔑ろにしている節がある」
なんて言いながら、セイバーは三つのどんぶりを重ね出した。
「桜に渡せばいいのですね? そちらの鍋も私が運びますから、シロウはテーブルを拭いてください」
こっちの返事も待たず、セイバーは台所へ行ってしまった。
「桜、食器はここに?」
「あれ、セイバーさん? あ、はい、洗い物はそこに置いといてください」
「なるほど。それと桜、先ほどの昼食は美味でした。朝に続いて感謝します」
「あはは、わたしなんてまだまだです。お粥とおうどんは、まだ先輩の独壇場ですからねー」
「………………」
台所から和気藹々とした話し声。
「なんだ。桜のヤツ、セイバーと仲いいじゃんか」
朝のうちに一緒に掃除をした、というのが決め手になったのか。
ともあれ、二人の仲が良いのはいいコトだ。
「んじゃ、食後のお茶の準備でもしてるかな」
急須とお茶っ葉を食卓に置く。
時刻はじき午後一時。
昼休みとしてはちょうどいい時間だが――――さて。
◇◇◇
「あ。そうだ、確か」
以前の買出しの時、気まぐれで買っておいたどら焼きがあった筈だ。
藤ねえに見つからないよう念入りに隠した為、俺自身すっかり忘れてしまってたけど。
「先輩? 冷蔵庫開けて、何するんですか?」
「ん、ちょっとな。桜に少しだけお返ししようと思って」
冷蔵庫の一番下、野菜入れの奥をあさる。
長年の藤ねえ対策のおかげか、この手の隠し物は賞味期限が切れる前に発見できるよう隠してあるのだ。
「え……あれ? 先輩、どうして野菜入れから江戸前屋さんの紙袋が出てくるんですか?」
で、発掘された紙袋を驚き半分、期待半分で見詰める桜。
ちなみに、江戸前屋とは商店街に出没する屋台さんで、たい焼き、どら焼き、たこ焼きの三種の神器を扱うお店だ。
子供に優しい値段設定と、サービス精神にあふれた餡子の量でうちの生徒たちから絶大な支持を得ている。
加えて言うと、桜はここのたい焼きにすごく弱い。
「い、いっぱい入ってますね。てっきりジャガイモを補充したのかなって思ってましたけど」
「ああ、そういう風にカモフラージュしたんだよ。隠した俺も忘れそうだったんで、人参使い切ったら出てくるようにセットしといた」
よっ、と藤ねえ限定の時限爆弾を取り出す。
「そんなワケで、食後のお茶請けは江戸前屋のどら焼きにしよう。あ、それとも三時の間食にした方がいいかな。
昼食べたばっかりだし、桜もセイバーもしばらく食欲ないだろ?」
とりあえず忘れないよう、どら焼きの入った紙袋を盆に載せる。
「え……せ、先輩はおなかいっぱいなんですか?」
「いっぱいだよ。昼メシ美味かったから二食分は食べたし。ちょっと、しばらくは腹減らないかな」
「そ、そうですよね、わたしもそうだと思ってました!
じゃ、じゃあ、お楽しみは後にとっておくというコトで――――」
「後にするのですか? 私は十分余力を残していますが」
「お。なんだ、セイバーはまだ食欲あるんだ。桜と同じぐらい食べたのに凄いな」
「食欲というよりは興味です。糖分は判りやすい活力源ですし、ドラヤキという和菓子は初めて聞く物ですから」
……なるほど。
洋風なセイバーにとって、どら焼きとか羊羹《ようかん》は珍しいデザートなんだろう。
「そっか。じゃあお茶請けとして出すよ。セイバー一人で食べきれる量じゃなし、余った分を三時のおやつに回せばいい」
「ぁ―――先輩、つかぬコトをお聞きするんですけど、買ってきたどら焼きは何個くらいなんでしょうか……?」
「ん? たしか五つだったかな。一人一個が基本で、残ったのは半分にして分けるか、余裕のあるヤツに食べてもらう気でいたけど」
「なるほど。その計算では、最大で三つ食してもよいと」
「ああ。けどこんな甘いモン、三つも食ったら胸ヤケするぞ? ……ま、セイバーなら三つぐらい食べられるだろうけど」
お盆を持って居間に戻る。
台所で洗い物をしてくれる二人をねぎらう為、紙袋からどら焼きを出してお茶の準備をする。
「終わりました。それがドラヤキですねシロウ」
「え?」
と。
既に食べる気まんまんなのか、セイバーは座布団に正座してお盆を見据える。
桜も洗い物を終わらせて、しずしずと座布団に正座する。
「桜? どうした、何かあったのか?」
「何もないです。わたし、先輩といっしょでおなかいっぱいですから」
「……?」
よく分からないが、とりあえず三人分のお茶を淹れた。
「それではいただきます」
軽くお辞儀をしてどら焼きに手を伸ばすセイバー。
―――勝負は一瞬だった。
はむ、と躊躇いがちに一口した後、セイバーは無言で二口三口とどら焼きを食べあげた。
甘い餡子も意に介さず、飽きるコトなく止まるコトなく、あっさりと一つめを完食する。
「―――なるほど。単純な料理ですが、お茶に合う味ですね」
で、これまた上品にお茶を一口したのち、躊躇うことなく二つめに手を伸ばす。
それをハラハラと見守る桜。
「…………」
……待った。
桜が妙にそわそわしているのは、もしかして、その。
「ふむ。確かに、これは食後の口休めとはいきませんね」
ぺろりと二つめを平らげ、三つめに手をかけるセイバー。
「待ったセイバー。やっぱり食べるのは二つで止めといてくれ」
「? はい、もとより余る分を受け持っただけですから、それは構わないのですが……残りはシロウが食べるのですか?」
「ん、俺と桜で食べるよ。俺が一個、桜が一個で、最後の一つは」
三つめのどら焼きを半分に割って、それぞれ一個半分にし、
「こうして分けようかなと。桜、これぐらい食べられるだろ?」
「は、はい、もちろんです、今すぐにでも食べられます!」
やっぱり。
桜のヤツ、ヘンな遠慮してたんだな。
どら焼きの一つや二つ、いくら食べても構わないってのに。
「んじゃ俺たちも食べようか。セイバーの食べっぷりを見てたら食欲出てきた」
「は、はい賛成です! これぐらい簡単に片付けちゃいますね!」
むん、と気合をいれてどら焼きに手を伸ばす桜。
たい焼き程ではないが、桜はどら焼きも大好きだ。
「…………けど」
それはまあ、買ってきた立場としては嬉しいのだが。
桜のヤツ、後で体重計の前で落ち込んだりしないだろうな……。
食後の一服を終えた頃、体はほとんど回復していた。
熱は疲労からきたものらしく、半日休んで元通りになったのだ。
◇◇◇
「――――あ、そう言えば――――」
朝からのゴタゴタですっかり失念していたが、イリヤとの約束があったんだ。
……いや、約束ってほどのものでもないけど、こっちから会えるかなって言った手前、公園で待っていないと不義理すぎる。
「……セイバーと桜は……」
二人は仲良く洗い物をしている。
ちょっと外に出てくる、なんて言ったら止められるか付いて来てしまうだろう。
イリヤとは、出来れば一人で会うべきだ。
セイバーと桜には悪いが、ここは書き置きを残して抜け出すとしよう――――
「――――ほ」
なんとか気付かれずに外に出れた。
『夕飯のおかずを買ってくる、一時間で戻る』と書き置きしといたので、二人もそう驚かないだろう。
「とっ……やっぱりいないか」
公園には誰もいない。
まわりを団地でかこまれた小さな公園は寂しく、ここだけ雪でも降ってきそうなほど冷え込んでいた。
「………ま。イリヤがいたところでなに話していいかわからないんだけどさ」
ベンチに座る。
手にしたビニール袋を地面に置いて、曇った空を仰いだ。
……商店街で買ってきたちょっとしたお土産は、どうも無駄になってしまったようだ。
「――――――――」
ぼんやりと空を見上げる。
建物に囲まれているせいだろう。
ここから見上げる空は四角く切り取られ、いつもより遠くに感じられた。
「―――――――さむ」
吐く息が白い。
冷たく乾燥した空気は張り詰めていて、この分だと雪が降り出してもおかしくなかった。
「――――さて、帰るか」
ビニール袋を手にしてベンチから立ち上がる。
時刻は二時過ぎ。
そろそろ戻らないと嘘つきさんになってしまう。
「え――――?」
前に出した足が、凍りつく。
動かない。
どんなに力をこめても足は動かず、そのまま――――
「――――」
視界が歪む。
いや、歪んだなんてもんじゃない。
視覚が壊れた。
眼球が頭蓋骨の中に落ち込んで、自分と周りの距離感が把握できない。
「っ――――、ぁ――――――――」
それが、最悪の事態である事は理解できた。
体は中身そのものが石になったかのよう。
神経は断線し、視覚さえ“世界”と切り離されていく。
カメラ越しに世界を見るような感覚は、自分自身が、コントローラーで操るゲームの主人公になったようで、吐き気がする。
「セイ、バー――――」
殺される。
一人で外に出た事が間違いだったのか。
俺は、何の抵抗も出来ず、相手の顔さえ見れずにここで――――
「なーんて、びっくりした?
シロウったらスキだらけなんだもん。面白いから、ちょっとからかっちゃった」
―――その、いたずらっ子のオモチャにされていたワケか?
「あ、戻っちゃった。さすがに視線だけの接触じゃ弾かれちゃうか」
「イ――――」
ぴょこり、と後ろから現れる。
いかにも数分前から公園にいて、面白そうだから俺の後ろをとって様子を見ていた、というにんまりぶり。
「けど内界《じぶん》だけで解呪できないんじゃまだまだなんだから。外部からの影響がないと自分に戻れないようじゃ、この先が思いやられるわ」
ふふーん、と偉そうに講義する。
が、そんな戯言《たわごと》はもちろん耳に入ってこない。
「イリヤ――――! おまえ、いきなり何するんだ! いくらマスター同士だからって、後ろから不意打ちは卑怯だろう!」
「む。不意打ちじゃないよ。さっきからちゃんと隣りにいたもん。なのに最後まで気がつかないし、おまけにそのまま帰ろうとするし。今のはシロウの自業自得よ」
「!? と、隣りにいたって、イリヤが?」
「うん、隠れてた。けど、それにしたってシロウは油断しすぎよ。わたしの気配にも気付かないし、魔力をぶつけただけの呪縛に囚われちゃうし。マスターなんだから、もっと周囲に気を配りなさい」
まったく、と呆れた風にイリヤは注意してくる。
「あ――――うん。それは、そうか」
それがなんとなく先生っぽくて、つい素直に頷いてしまった。
「うん、わかればよろしい。
―――で、今日はどうしたの? シロウ、体の中からっぽだし、その割にはセイバーも連れてないし。休むんなら家で休んだ方が安全でしょ?」
「え? いや、別に休むために公園に来たんじゃない。
……まあ、セイバーを連れてないのは、確かに軽率だけど」
「でしょ? あんまり様子がヘンだから放っておけなかったんだ。わたしから話しかけていいのは昨日でおしまいだったからダメだったんだけど、今日は特別」
「?」
おかしなコトをイリヤは言う。
だいたい俺が公園に来たのは、その。
「それで、どうしてこんなところで座ってたの?
わたしがマスターとして来てたら、シロウは今ごろ死んじゃってるよ?」
「どうしてって、イリヤに会いに来ただけなんだけど。
昨日、また会ってもいいって言ったじゃないか」
「――――――――え?」
あ、驚いている。
……まあ、そりゃあ確かな約束じゃなかったから仕方がないが。
「なんで……? わたし、シロウを殺すんだって言ったのに、シロウはわたしに会いに来たの……?」
「それはイリヤの事情だろ。こっちは違う。俺はマスターじゃないイリヤと話したいだけだし、何より――――」
俺を殺すと言ったイリヤは、そのチャンスを放棄した。
さっきの呪縛がそのまま続けば、俺は本当に殺されていただろう。
イリヤがそれをしなかった以上、俺はやっぱり、この子とは戦いたくない。
「――――ま、昼間戦わないのがマスターなんだろ。
なら今はそういうのは抜きにしよう。俺はイリヤに会いに来ただけだ。イリヤは俺と話すより殺し合いの方が好きなのか?」
「えっ―――そ、そんなの言われても困るっ。わたし、どっちもいっぱいだもの。シロウと話せるのは楽しいけど、やっぱり許してなんてあげないんだから、どっちかを取るなんてできない」
イリヤは俯いたまま言葉を濁す。
その顔は真剣で、悩んでいるというより苦しんでいるように見えた。
「……そっか。ならどっちでもいいよ。どっちかを選べなんて言わない」
「あ……け、けど、わたし」
「ああ。けど、今はせっかく会ったんだから話をしよう。
お土産もあるし、戦うのはまた今度な」
ビニール袋からたい焼きの入った紙袋を取り出す。
イリヤを待っている間に冷えてしまったが、それでもほのかに温かい。
「ほら、献上品。今回はそれで見逃してくれ」
たい焼きを押し付ける。
「あ――――」
イリヤは躊躇ったまま、それでも黙ってたい焼きを手にとって、うん、と小さく頷いてくれた。
それから、どんな話をしたのかは曖昧だった。
好きな食べ物、嫌いな食べ物。
鳥が好きで猫が嫌いで、雪が好きで寒いのは嫌いで、遊びたいのに遊べなくて、口うるさいお目付け役のメイドは嫌いだけど好きになってあげてもいい、なんて他愛もない話をした。
イリヤは、ただ話しているだけで嬉しそうだ。
ちょっとだけ温かいたい焼きをほおばりながら、足をブラブラと揺らしてベンチに座る。
……それは、父親の帰りを待っている子供のような、そんな姿を想像させた。
「―――ふうん。イリヤは一人でこの町に来たんじゃなかったのか」
「ええ、セラとリーゼリットと一緒。わたしにはお目付け役なんていらないけど、身の回りの世話をする人は必要でしょ?」
……イリヤはメイドを二人連れて日本まで来た訳だ。
それはわかったけど、じゃあ、メイドさんを連れたままホテルかどこかに泊まっているんだろうか?
「ん? 気になる? わたしが何処に住んでるか」
「え……ああ、そりゃ気になる。イリヤは神出鬼没だからな。居場所ぐらい知っておかないと、もしもの時困る」
もしイリヤが怪我をして助けに呼ばれても、場所が判らないのでは駆けつけられない。
せめて住所ぐらい教えて貰えたら、こっちも少しは安心できるんだけど――――
「――――うん。いいわ、シロウは特別。そんなに知りたいんなら教えてあげる」
と。
ふわりとベンチから立ち上がって、イリヤは俺の額に手を置いた。
「と――――ちょっ、イリヤ」
「いいから黙って。あんまり抵抗すると違うものに入っちゃうんだから。そうなったら元に戻すのタイヘンでしょ」
キッ、と当惑する俺を睨む。
「ぁ――――は、はい」
その迫力の前に、つい頷いてしまう。
「いい子ね。じゃあ目を閉じて。あと、あんまりきょろきょろ周りを見ちゃダメよ。いくら移すって言っても他人の視点なんだから、シロウがここにいるかぎり乗り物酔いをしかねないわ」
「っ――――!」
こつん、とイリヤの額がこっちの額に当てられる。
驚きで目蓋を閉じる。
――――途端。
物凄い勢いで視界が加速し、拡大した。
いや、それは意識の拡大だったのか。
ともかく俺は、見たこともない景色を、さも当然のように、高いところから俯瞰《ふかん》している――――
“どう、見える? いま、シロウの視覚だけをわたしの森に繋げたんだけど”
イリヤの声が響く。
返事はできないし、頷くコトもできない。
今の俺にあるのは、この“視覚”だけだった。
俺は木になって、広い森を眺めている。
体が動く筈がない。
俺は一瞬にして、物言わぬ木になってしまったんだから。
“道順は覚えた? それじゃ、次は城の壁に移すわね”
映像が切り替わる。
自分という容器《からだ》の感覚が途絶えたまま、視覚だけが生きている。
―――自分は自分として今まで通りにあるのに、自分が感じられない。
木の次は壁だった。
俺には手足の感覚が依然としてあるのに、動かすべき手足がなく、自由になる体はあるのに、自由に動けるという実感がない。
「リーゼリット。イリヤスフィール様の姿が見あたりませんが、心当たりはありますか?」
「…………さあ。イリヤなら、何処かに、いるでしょう」
「リーゼリット。お嬢様の名をそのように語るのはおやめなさい。イリヤスフィール様は私たちとは違うお方です。お館様より賜った使命を忘れたのですか」
「…………セラはイリヤの教育係。わたしは、三番目《ヘブンズフィール》のドレスを、イリヤに着せる、役」
「そうです。物覚えの悪い貴女でも、それだけは覚えているようですね」
「…………忘れてない、けど。……イリヤ、あれを着せると、嫌がる、から。あまり、着せたくない」
「……それは私も承知しています。ですが、時が来れば嫌でも着ていただかなくてはなりません。私たちはその為に作られた。
お嬢様とて、既に覚悟はできている筈です」
「…………セラ」
「なんですか、リーゼリット」
「…………貴女、疲れない?」
「まったく疲れませんっ!」
……同じ顔、同じ姿をしたメイドの会話だけが聞こえる。
それがイリヤの言っていた世話係の二人なのだと気がついた時、
ようやく、体が元に戻ってくれた。
「ごくろうさま。どう、ちょっとした変身魔術だったでしょ、今の」
「あ――――う」
……口元を抑えて、なんとか吐き気に耐える。
唐突に“自分”に戻った映像が、今は妙にリアルに感じられて、気持ち悪い。
「イリ、ヤ……今の、なんだ?」
「意識の転移よ。シロウの視覚だけを他のモノに移したの」
「眼球から脳に繋がる神経があるでしょ? それをね、眼球からじゃなくて『違うもの』から脳に繋げたの。
さっきの間だけ、シロウの視界はエミヤシロウの眼球から得られる情報じゃなくて、わたしの森の木々から見た情報を観てたってコト」
「…………む。つまり、俺が木になったんじゃなくて、木の視界を俺が受信しちまって、自分自身が木なんだって、勘違いしちまったってコトか?」
「あら、物分り悪そうで鋭いのね。
ええ、今のはそういうこと。人間っていう機材はそのままにして、入力先だけを移し変える魔術。
人間を木に変える、なんて事は大事《おおごと》だけど、人間の意識だけを木に繋げる、ならまだ魔術の域でしょ? 遠見とか憑依はこの魔術の応用ね」
「…………なるほど。けど、それはそれでとんでもないぞ。さっきみたいに木に視覚を移されただけで、俺は何もできなくなった。転移は相手を無力化する攻撃としても使えるんじゃないか?」
「ええ、わたしたちの特性は力の流動、転移だもの。
例えば、遠坂の魔術師は魔力を宝石に移し変えて、かつ、いつまでも純度を保っていられる。その応用で、他人の意識を力技で転移する事もできるわ。
封じ込めたいって思った敵がいた場合、そいつの意識の入力先を宝石の中とか、身動きできない人形の中に替えてしまえばそいつは無力化する」
「でも“他人の意識にかける転移”は成功率が低すぎて、転移を得意とするわたしや遠坂の魔術師でさえ、攻撃になんて使わないかな」
「さっきシロウにかけたのは特別。シロウは抵抗しなかったし、あの森はわたしのだもん。ホントはもっと繋げにくいものなんだよ」
「それに、意識が転移先に移っている最中に“意識の本体”に刺激が与えられれば、意識は強制的に戻ってしまう。
たとえ移された『意識』が『本体』の危機を察していなくても、肉体が危険を感じて“離れている”意識を呼び戻すの」
「さっきのシロウだってそうだよ。
シロウの意識は木を被ってる間は自分からは何もできなかったけど、シロウの体を揺すっただけで、体の方が魂《シロウ》を呼び戻した」
「……む。それって、要するに夢みたいなもんか?」
夢を見ている時、自分じゃどうあっても目を覚ます事はできない。
夢から覚めるのは、大抵は朝の到来―――つまり、
肉体による習慣的な機能によるんだから。
「んー、ちょっと違うかな。夢からはちゃんと理性で目覚められるし。
そんな訳だから、転移は攻撃には向いてない。自分にかける自己保身のための魔術なの」
「『自分の意識』の転移先を『使い魔』や『身動きできる人形』にしてしまえば、その体を動かして、安全に魔道の探求を行えるでしょ」
「……。つまり、敵にリモコンロボットである使い魔を倒されたところで、自分の意識は本体に戻るだけって事か?」
「ええ。意識を転移させる、なんて事をする魔術師は、自分《ほんたい》を絶対安全な場所に隠すものよ。
この場合、注意すべきは『使い魔』の中でも『魂のある使い魔』への転移の場合ね」
「ちゃんとした命令系統―――理性を持っているモノに意識を転移すると、主導権は完全にあっち側、“魂のある使い魔の意識”にいってしまうの」
「だから人間とか動物に意識の転移をしても、わたしたちはその脳のはじっこで、彼が見ている映像を一緒に見ているだけになる。リモコンロボットじゃなく、カメラでしかないわ」
「既に生物として生きている『魂のある使い魔』に『自分の意識』を移して支配するのは、転移ではなく転生の域の魔術だもの。
それはそれで一つの大魔術だから、並大抵の魔術師には真似できないわ」
……転生。
自身が死した後、自らの魂を受け継いだ子を生み出すという魔術。
一部の術者が成功させたらしいが、これはこれで魂の再現が難しいらしい。
いかに赤子からやり直したところで、生前の能力が百パーセント引き継がれないのであらば、それは『転生』ではなく複製にすぎない。
複製《コピー》は劣化するからこそ複製だ。
その時点で、赤子として生まれ変わった魔術師は過去の自分より劣ってしまう。
「転移先を生物に拘るのなら、心―――魂のない使い魔を作って、その殻を操るっていう手もあるわ。
ただ、現代の魔術士の作れる『魂のない使い魔』ってあんまり強くないの。中身がワタの人形を、遠くから魔力で操ってるだけだもの。
そんなの、術者の“代弁者《メッセンジャー》”としてしか使い道がないわ」
「それに、いくら『使い魔』や『身動きできる人形』に意識を移しても、本体が老いて死ねば転移させた自分の意識も消えてしまう。
術者が不老不死になれるわけではないわ」
「物質界において永劫不滅なのは魂だけよ。
けど魂を単体でこの世に留めておく事は誰にも出来ない。魂は肉体がないとこの世に留まれなくて、肉体を得た時点で“有限《にくたい》の死”を宿命付けられてしまう。
ま、アインツベルンや遠坂には、今みたいな魔術が限界だったってこと」
―――と。
不意に、時報らしき物が鳴り響いた。
公園の時計は三時を指している。
いつのまにか一時間も経ってしまったらしい。
「あ。……わたし、そろそろいかないと。シロウも家に帰るの?」
「ん? ああ、そろそろ帰らないとまずいかな」
そう、と頷いて、イリヤは公園の真ん中まで歩いていく。
「……うん。ホントは、こんなコト言っちゃダメなんだけど」
そうして、断られるコトが判っているような素振りで、「シロウは、明日も会いに来てくれる?」
小さく、白い少女は問い掛けてきた。
「――――――――」
……ばか。
そんなの、答えるまでもないじゃないか。
「―――明日も来るよ。今日はイリヤの家を教えてもらったから、次は俺の番だしな」
「うん! それじゃ約束、明日はぜったいわたしから話しかけるからね!」
走り去っていくイリヤ。
灰色の空の下。
白い髪の少女は、それこそ妖精のようだった。
◇◇◇
「ただいまー」
「何処に行っていたのですかシロウ!」
「何処に行っていたんですか先輩っ!」
「う、うえ――――!?」
思わず飛び退いて、がちゃん、と玄関を背中で強打する。
「うえ、ではありませんっ! 一人で外に出るなとあれほど言ったではないですか! それもそのように体調が悪い時に、私たちの目を盗んで出かけるとは……!」
「セイバーさんの言う通りです!
二時に戻ってくるって書き置きだったのに、いま何時だか判っていますか!? 先輩、二時間も何処であぶらを売ってたんですっ!」
「あ――――いや、待った。わかる。二人が怒っているのはわかる。わかるので、少し」
冷静になってくれると、少しは言い訳らしきモノも出来るのですが。
「わかってなどいません……! 昨日は学校に向かうという貴方の意見に従いましたが、今回は見逃す訳にはいきません。それほど元気だというのなら結構です。これから夕食まで、たっぷりと鍛えてさしあげましょう!」
ずい、と桜を押しのけて一歩踏み込んでくるセイバー。
「はい、道場の掃除なら済んでいますから気兼ねなくセイバーさんと剣道の試合をしてくださいっ。藤村先生からセイバーさんの腕前は聞いていますから、先輩もきっとご満足いただけると思います!」
さらにずい、とセイバーを押しのけて怒る桜。
「あ――――う」
……ダメだ、下手に事情を説明したら火に油ネコにコバン、セイバーなんて本気で契約解除をしかねない。
「シロウ、返事は!?」
「先輩、返事は!?」
「――――――う。反省、してる」
ガチャガチャガチャ。
後退させてくれない、背後の玄関が恨めしい。
「それでは早速行きましょうか。桜、救急箱の用意を」
「はい。どーぞ、ぞんぶんにお灸をすえてあげてください」
ずんずんと廊下を引き上げていく、妙に息の合った二人。
「…………うわ。今日の夕飯食えるのかな、俺」
さりとて、ここで行かなければどんな反撃が待っているかわからない。
……反省の意を込めて、二人の言う通り道場でしごかれるしかないみたいだ……。
◇◇◇
―――稽古を始めて数時間。
セイバーとの打ち合いは、剣道と呼べるものではなかった。
そもそもセイバーは剣道家じゃないし、剣を手にして戦う技法を教えてくれる気もなかったようだ。
セイバーが俺に叩き込もうとしているのは、“戦う”という事の実感だけだ。
マスターとの戦い―――命の奪い合いになった時、きちんと平常心と運動能力を発揮できるよう、戦いに慣れさせる。
それがセイバーの考えであり、俺にとっても有り難い教えだった。
一日二日で有効な剣術が得られる筈がない。
衛宮士郎が頼りにするのは、今まで鍛えてきた肉体だけ。
なら、あとは窮地に反応できる経験を得る事が、何より確かな剣になる――――
「――――そこ!」
「いつ……!」
――――と。
余分な雑念を抱いた瞬間、容赦なくセイバーの竹刀が胸を突いた。
「シロウ。射程外に退避した事で気が緩むようでは話になりません。今の貴方の実力では間合いの外も内もない。
今のように気を緩めるのは、この家にいる時だけにしなければ」
「っ――――すまん、確かに油断した」
ごほ、と咳き込む胸を押さえて立ち上がる。
「……ふう。シロウは驚くほど鋭い時もあれば、呆れるほど隙だらけの時もある。その揺らぎを上手く制御できれば――――」
きょろり、とセイバーの視線が外に向けられる。
「どうしたセイバー? 何かあったのか?」
「いえ。縁側で桜が手を振っています。……どうやらシロウを呼んでいるようですが」
「お、俺を……?」
……なんだろう。
桜はなんだかんだ言ってセイバーに打ちのめされる俺を見ていられなくなって、訓練を止めるように言ってきた。
それを俺が断ると、所在なげに居間に戻っていったのだが……。
「……ちょっと居間に行ってくるけど、いいかなセイバー」
「はい。鍛錬を始めて二時間ですから、少し休憩をいれましょう」
「助かる。じゃ、ついでに茶でも淹れてくるよ」
「あ、先輩」
早足で居間に行くと、桜が電話の前で立ち尽くしていた。
「……その、お電話です。さっきから待っていますから、どうぞ」
電話の前から離れる桜。
「電話……? こんな時間にか?」
藤ねえだろうか……? 忘れ物したんで持ってこいとか、唐突に思いついた小噺を聞かせようとか。
「どれ。はい、お電話替わりました。
衛宮ですが――――」
「衛宮ですが、じゃない!
アンタ、なに無断で学校休んでんのよっっっ!!!」
受話器が吼える。
つーか、こんな小さなスピーカーで、部屋中に響き渡るほどの音量を出すのはいかなる魔術か。
「っ〜〜〜〜、きいたぁ――――」
キーン、と耳鳴りがあたまをシェイクする。
「ちょっと、聞いてる!? 衛宮くん、本当に無事なんでしょうね!?」
で、こっちの状況もおかまいなしで続けるストレンジャー、遠坂凛。
「……聞いてる。聞いてるから、もちっと声を小さくしてくれ。あと一回続いたら鼓膜が破れる」
「……。ふん、相変わらずっていうか、ズレてるっていうか。とにかくその様子じゃ何もなかったみたいね。
あーあ、心配して損したわ」
「………………」
受話器の向こうで憎まれ口を叩く。
相変わらずってのは、こっちの台詞だぞ遠坂。
「そりゃご苦労さまだったな。……で、用件はなんだよ。
いきなり電話してきて、なんかあったのか」
「なんかあったのはそっちでしょ? アンタ、昨日あれだけ忠告したのに柳洞寺に行ったでしょ」
「―――う。なんでそんなコト知ってんだよ、おまえ」
「見張り役を置いといたからよ。……ま、その様子じゃ何もなかったみたいね。学校にいなかったから、その、ちょっとよくない想像したっていうか」
「はあ。つまり俺がやられちまったと?」
「そうよ。ズタズタにされて裏山に埋められたのかと思った」
「………………」
いや。
それは、“ちょっとよくない”想像ではないと思う。
「―――おあいにくさま、こっちはピンシャン……じゃなくて、今にも死にそうだが、なんとかやってる。
で、用件はなんだよ遠坂」
「え……? だから、それは」
「腹の探りあいはいいって。
あ、用件って柳洞寺のマスターのコトだろ。それなら倒した―――いや、もういなかった。
柳洞寺のマスターは自分のサーヴァント……キャスターに裏切られてたんだ。
で、その後は――――」
……と、これ以上つっこんだ発言はできない。
聞こえないよう小声で話しているとはいえ、後ろには桜がいるんだ。
死んだだの死なないだの、そんな物騒なコトは言えない。
「とにかく、柳洞寺にはもうマスターもサーヴァントもいない。聞きたいコトってそれだろ?」
「………そ、そうよ。わかってるじゃない」
「じゃ、切るぞ。いま特訓中でな、とにかく体中が痛い」
じゃあな、と話を切る。
「ちょっ、ちょっと待ったー!」
「? なんだよ、もう用はないだろ」
「あ、あるわよっ……! いいから明日は学校に来なさいよね。大事な話があるんだから」
ガチャン、ツーツー。
電話は乱暴に切られた。いや、実に遠坂らしい。
「……まったく。昨日は行ったら怒ったクセに、今日は来いだなんて、勝手なヤツだ」
受話器を戻す。
んじゃ、手早くお茶の用意をしようと居間に振り返る。
……と。
なぜか、桜は俯いていた。
「桜? どうした、気分悪いのか?」
「いえ、熱なんてありません。ただ……先輩、すごく嬉しそうだから、どうしたのかなって」
「え?」
嬉しそうって、俺が?
遠坂の電話で嬉しそうだって言うのか?
「まさか。俺、怒ってるんだけど」
「……だから、です。先輩、自分で気付いてない」
桜は気まずそうに視線を逸らす。
「……む?」
それに首をかしげながら、とりあえず三人分のお茶の支度にとりかかった。
鍛錬が終わった頃、外はすっかり茜色に染まっていた。
「先輩、鰤《ぶり》の下ごしらえ終わりました。あとはかぼちゃとトマトですね?」
「あ、そっちは片付けた。これからソースの味付けで、終わったら焼きに入る。……っと、今日は茶わん蒸しも作るから大鉢出してくれ。なんか、昨日藤ねえが奮発してカニ買ってきてくれたんだ、これが」
「あ、カニ風味かまぼこ五目ですね。あれ、美味しくてキレイだから大好きです」
よっ、と両手で大鉢を取り出し、調理台に置く桜。
朝と昼のお礼をかねて、夕食は俺が作ることになっている。
桜にはセイバーともども居間でゆっくりしていてほしいのだが、例によって例の如く手伝うと言ってきかないのだ。
「?」
と。
この忙しい時に呼び鈴が鳴った。
桜は隣りにいるし、呼び鈴が鳴ったという事は来客か。
「あ、わたしが行ってきます。新聞の勧誘ならお断りしますね」
「桜――――?」
止める間もなく、桜は玄関へ向かってしまった。
「――――――――」
……なにか胸騒ぎがする。
摩り下ろしていた大根を置いて、玄関の様子を見に行った。
呼び鈴は止まらない。
どこかヒステリックなものを思わせるチャイムの連打。
桜はやってきた客人に声をかけ、カチャリ、と玄関の鍵をあけた。
――――瞬間。
「なんで帰ってこないんだよ、おまえは!」
罵倒する声とともに、何か、鈍い音が耳に届いた。
それは、一瞬の出来事だった。
鳴り止まない呼び鈴。
「はい、どちらさまですか?」
声をかけながら鍵を開ける桜。
「――――っ」
乱暴に玄関を開けて身を乗り出してくる慎二。
「兄さん……!?」
「この―――なんで帰ってこないんだよ、おまえ!」
そうして、萎縮《いしゅく》する桜を見るなり慎二は腕を振り上げ、
平手ではなく握り締めた拳で、桜の頬を殴りつけた。
「――――な」
走る。
桜は壁まで弾かれ、尻餅をついてしまう。
慎二は崩れ落ちた桜に駆け寄ろうと、拳を振り上げたまま近寄り――――
「なにしてんだ、慎二……!」
「―――ふん。妹をどうしようと僕の勝手だろう。兄貴の許しもなく外泊するようなヤツは殴られて当然だ」
「―――当然、だと?」
「はあ? 言いつけをきかないグズは殴られて当たり前だって言ってんだよ。
だいたいさあ、人の妹を唆してるのはおまえじゃないか衛宮。おまえも僕と変わらないんだぜ? お互い桜をいいように使って、いいように愉しんでるんだろ?」
「――――――――」
言葉がない。
俺は、本気で、
「あ、それとも何かい? 昨日の今日で手を出しちまって、まだやりたりないから手放したくないっての? そうだよな、桜は――――」
「――――――――」
慎二に、殺意を持った。
「―――あ? なにその顔。おまえバカじゃねえの?」
「慎二」
「ハ、いいじゃん今の声! いいぜ、この前の続きをやってやるよ衛宮」
拳を握り締める。
冷静になるコトなんて、出来ない。
俺は――――
―――怒りで白熱した思考を、全力で押し留めた。
ここで手を上げてどうする。
慎二との戦いはとうに終わっている。
ここで慎二に殴りかかっても意味はないし、なにより、桜の前で、慎二《あにき》とケンカするなんてところを見せるワケには――――
◇◇◇
「やめて兄さん……!
お願いだから、ここでだけはやめてください―――!」
泣き叫ぶような桜の声で、我に返った。
「――――桜」
「驚いたな。おまえが僕にそんな口きくの、もしかして初めてじゃないか?」
慎二の声は、聞いたこともないほど愉しげだった。
桜は俯いたままで、小さく体を震わせている。
「で? もう一度言ってみろよ。いまの、よく聞こえなかったからさ」
「…………はい。なんでも言う事をきくから、先輩の前でだけは、やめてください。帰れっていうのなら、帰ります、から」
「へえ。なんでも言う事を聞くんだな、桜?」
「………………」
無言で頷く桜。
「そうか。そこまで言われちゃ桜を連れ戻すのはやめておくよ。ボクは兄貴だからね、妹のやりたい事をさせてやらなきゃ。な、そうだろ衛宮?」
「――――慎二」
「はは、そんな恐い顔で見るなよ。さっきのはただの冗談、場の雰囲気に合わせたジョークじゃんか。いつまでも根に持ってると陰湿なヤツだと思われるぜ?」
慎二は玄関へ戻っていく。
「じゃあな。桜をよろしく頼むよ衛宮。
―――けど桜。今の言葉、絶対に忘れるなよ?」
手を振って去っていく。
慎二は桜を連れ戻さず、一人で衛宮邸を後にした。
夕食の支度が再開される。
「……………………」
言うべき言葉が見当たらず、ただかぼちゃとトマトを切っていく。
トントン、というまな板を叩く音だけが響く台所は、ひどく気まずい。
「先輩、ご飯炊けましたよ。藤村先生はまだですけど、そろそろご飯にしちゃいます?」
「ぁ―――ああ、そうだな、ちょっと早いけどそうしようか」
「はい。それじゃさっそく準備しますね」
桜はキビキビと動いて、何事もなかったように手伝いをしてくれる。
……それは、明らかに無理をしている顔だった。
桜は平気なふりをして、俺に気を遣わせないようにしている。
「………………」
桜がそうする以上、俺もそう振舞うしかない。
傷を負ったのは桜の方だ。
その桜が、たとえ強がりでも笑顔でいるのなら、俺だって笑顔で返さない、と……?
「桜?」
茶碗の落ちる音に振り返る。
「――――――――」
桜の足元には、割れた茶碗の欠片が散らばっている。
「――――――――」
「っ……!」
桜の体が、唐突に倒れた。
とすん、と膝から力をなくして座り込み、そのまま体が後ろに倒れる――――
「桜―――!」
急いで抱き起こす。
「熱っ……!?」
と。
抱きかかえた桜の体は、制服の上からでも判るほど熱をもっていた。
「桜……おい、しっかりしろ桜……!」
「え――――先、輩……? あれ、わたし、どうしたん、ですか……?」
声に力はない。
桜はぼんやりとした意識のまま、せいいっぱい気を張って、まともな言葉を口にしようとする。
「どうした、じゃないっ……! 桜、まだ風邪治ってないじゃないか……!」
「あ……いえ、けど、これぐらい、だいじょうぶ、ですよ?」
「馬鹿っ……! 大丈夫なヤツがいきなり倒れるか!」
―――くそ、本当に馬鹿だ。
桜が風邪ぎみだって判っていたのに、深く考えもせず一日中無理をさせた。
あげくにさっきのアレだ。心身ともに疲れた桜が倒れるのは当然じゃないか――――!
「それより先輩。お茶わん割っちゃって、ごめんなさい。
すぐに片付けますか―――きゃっ!?」
桜を抱き上げる。
「せ、先輩っ!?」
「夕食は後だ。いますぐベッドに放り込んで寝かしつける。文句があるなら治ってからにしろ」
桜を抱いたまま離れに向かう。
途中、桜が何か言っていたが全て無視した。
正直、頭にキちまっていて話なんて出来そうにない。
「――――――――」
桜もそれで観念したのか、客間に着く頃にはすっかり大人しくなってくれた。
俯いたまま、大人しく指示に従ってくれる。
顔は熱で上気したままだったが、熱自体はそう上がってはいなさそうだ。
客間を後にする。
晩飯のメニューは変更だ。
今から急いで、朝のお粥のお返しを作らないといけない。
十時前。
夕食を終え、巡回の支度を始める時間になった。
「………………」
桜は客間で眠っている。
夕食はセイバーと二人だけで済ませた。
藤ねえは何か用事があったのか顔を出さなかった。
「シロウ。そろそろ時間ですが」
「………………」
セイバーが出発を促してくる。
今夜は――――
――――今夜は、桜を放っておけない。
俺がいたところで何をしてやれる訳じゃないが、それでも家に残って、いつでも駆けつけられるようにしたいんだ。
「すまん、セイバー。今夜の巡回はなしにする。今は、桜が心配だ」
「――――わかりました。マスターの指示に従います」
「え?」
お、驚いた。
セイバーは反対すると思ったのだが、あっさりとこっちの提案を受け入れてくれるなんて。
「勘違いはしないように。体調が優れないのは桜だけではありません。シロウも同様に疲労しているから、今夜は休息するのです。
貴方の魔力はいまだ満たされていない。桜同様、今夜は無理をせず休む事です」
「―――。ありがとう、セイバー」
「れ、礼は不要です。私はシロウのサーヴァント、主の体を第一に考えるのは当然です」
言って、セイバーは居間に座って湯飲みに手を伸ばした。
「で、シロウ? 理解ある家臣に与える褒美とか、そういったものはないのですか?」
む、と拗ねたような、期待しているような、とにかく可愛らしい要求をするセイバー。
「あ――――そっか、待ってろセイバー」
それが『お茶うけをください』という意思表示なのだと判って、苦笑しながら藤ねえがセイバー用に買ってきてくれたクッキーに手を伸ばした。
「――――――――」
魔術回路を閉じる。
背骨に差し込まれた炎の鞭が抜けきったあと、ほう、と大きく息を吐いた。
ここのところ疎《おろそ》かにしていた日課は、驚くほどスムーズに終わってしまった。
セイバーと契約した事がきっかけなのか、あれほど上手くいかなかった魔術回路の形成が、今は容易になっている。
「―――けど、作るのに一分かかっているようじゃ使い物にならない」
今の自分には、“強化”によって武器を用意しておく事しかできない。
不意に襲われた時、咄嗟に反撃する術がないのは命取りだ。
せめてあと半分、三十秒程度に短縮できれば活路も見えてくるのだろうが――――
「今度、遠坂に相談してみるかな。あいつなら効率のいい魔術回路の作り方を知ってそうだ」
ま、見返りに何を要求されるか分かったもんじゃないんで、おいそれとは試せないが。
「ん……?」
土を踏む音がする。
ゆったりとした足音だ。
……深夜零時。
月明かりを頼りにやってきた人影は、
「先輩……? まだ起きてますか?」
ほのかに顔色の良くなった桜だった。
「――――――――」
しばし、頭の中が真っ白になった。
……桜は、俺の知らない格好をしていた。
正体不明のダメージ。
藤ねえが用意した着替えなんだろうが、その―――制服じゃない桜の姿に、頭がぐらぐらと揺れている―――
「……あの、先輩?」
「あ―――ああ、起きてる。桜の方はいいのか。外、寒かっただろ」
「はい、熱はほとんど下がりました。気分転換に外に出たらこっちで物音がしたから、先輩かなって」
「そっか。じゃあ、あとはあったかくして、ちゃんと寝るだけだな。うん、良かった良かった」
直したばかりのストーブに火を入れる。
よし、ついてる。
これなら少しはあったかくなる。
「ほら。ここも冷えるけど、外よりマシだ。
……その、寝てばっかりで目が冴えてるんなら話し相手になるぞ」
「――――はい。それじゃお邪魔しますね、先輩」
桜はたしかな足取りでやってくる。
……うん、本当によくなってくれたみたいで、安心した。
「あったかい。ちゃんと直ったんですね、これ」
「なんとかな。直し始めの頃はあんまりにもオンボロなんで、さすがに無理だあー、ってサジ投げてたけど」
「そうですね。『あんなの直すぐらいなら藤ねえが真っ二つにしたビデオデッキを直すぞ』って怒ってましたもん、先輩。
けど結局、捨てられずに持ち帰ったんですよね?」
「……いや、それはその、往生際が悪いのはコイツだけじゃなかったというか」
壊れたストーブだったけど、まだ直る見込みが見えてしまって、見えた以上はこっちも無視できなかったというか。
「先輩、一度言ったらきかないから。物分りがいいようですっごく頑固なんですよ。気付いてました?」
「……む。頑固かな、俺」
「頑固ですよー。それにすっごく強引なんです。
さっきだって、わたしの話をぜんぜん聞いてくれませんでしたから」
?
非難めいたコトを言っているのに、なぜか桜は上機嫌だ。
……いや、桜が元気なのは嬉しいから、別にいいんだけど。
「……悪い。さっきはカッとして、考えが回らなかった」
「そうですね。先輩、わたしと自分に怒ってて恐い顔してました。……うん。先輩には迷惑をかけてばかりですけど、さっきのは、ほんとに悪いコトをしたんだなあって反省したんですよ?」
「………………」
桜は、すごく穏やかだ。
病み上がりという事もあるんだろうけど、なんていうか、いつもの『頑張ろう』って気を張っている桜じゃない、ほんとうの桜のような気がする。
「それで、少し子供の頃を思い出しちゃいました。
わたし、子供の頃は家にこもってばかりで、言いたい事も言えなかった。わたしがホントの気持ちを言わなければみんな上手くいくって思いこんで、ずっと黙ってたんです」
「……けど、それじゃダメですよね。わたしは心配かけたくなくて黙っていたけど、それがもっとお父さんや兄さんを心配させてたんです」
「……そっか。けど、桜が親父さんや慎二を大切に思ってたのはホントなんだから、桜の気持ちだってちゃんと伝わってたんじゃないか。口にしなくても伝わるコトってあるだろ」
「そうですね。そうだといいです。
……それで、先輩はどうだったんですか? わたし、先輩が子供の頃の話、あんまり聞いたことないんです」
「え、俺……? うーん、別に今と変わらないんじゃないかな。昼間は町じゅう走り回って、切嗣《オヤジ》のメシを作って、夜はここでガラクタいじってた」
照れ隠しに頬を掻く。
……その、子供の頃とまったく変わっていないというのは、男としてどうかと思ったのだ。
「うわ。町じゅうを走り回ってたんですか?」
「んー……その、パトロールの真似事。弱きを助け強きをくじくってのに、憧れてたんだ」
おもに戦場は公園だった。
あそこで同い年の連中と一緒に、わずかに年上の連中とケンカしたりするのは日常茶飯事だった気がする。
……いやまあ、中には同い年のクセに智謀に長けた、あくまのような強敵がいたよーないなかったよーな。
「なるほど、いじめっこから町を守ってたんですね。先輩、昔からそういう人だったんだ」
「桜。笑顔で言われると、さすがに我が身を振り返っちまうから止めてくれ。わりと恥ずかしい」
「恥ずかしくなんかないです。わたし、子供のころに先輩と会ってたら、きっと子分にしてもらってました。
わたしみたいな引っ込み思案には、手を取って外に連れ出してくれる人がいないとダメなんです」
「……子分って、桜な」
……あ。いやまあ、たしかに子供の頃に桜がいたら、それこそ毎日特訓してたかも。
元気だせー、って、いっしょに川原を走ったり道場で正座したりしていた可能性が高い。
つまり、それは傍から見ると子分そのものだ。
そして俺によって鍛えられた桜はたくましく成長し、 これとか、
これみたいに女の子の皮を被ったあくまになるのだ。
「――――う」
ぶるっと寒気がする。
良かった。とにかく、桜がおしとやかでいてくれて本当に良かった。
「あの、先輩?」
「ん? ああ、ちょっとあたまがトンでた。独り言なんで、気にしないでくれ」
「……はい。それはいいんですけど、その……訊きにくいコトを、訊いてしまっていいですか?」
「? いいけど、なんだよ」
「……藤村先生から聞いたんですけど。先輩、衛宮の家に引き取られた養子だって、ほんとですか?」
「―――ん? あれ、言ってなかったっけ? 藤ねえの言う通り、切嗣《オヤジ》の養子だぞ、俺」
「あ、あの、先輩? それって、その」
「いや、別に隠し事じゃないし、その通りだし。桜こそどうしたんだよ、そんなコト訊いて」
「え……その、先輩は気にしてないんですか? 知らない家に貰われて、その、いっぱいイヤなコトとかあったんじゃないんですか?」
「あー、そりゃ藤ねえの入れ知恵だな。
……ま、初めの一年はそう見えたかもしんないけど、アレはアレで辛くはなかったし、イヤなコトなんてなかったと思う」
「じゃ、じゃあ楽しかったんですか、先輩は?」
――――む。
楽しかったか、なんて訊かれたのは初めてだ。
あの火事の後。
切嗣との初めの一年間は、ただ傷が癒えるのに耐え続けた一年だったと思う。
……その後。
その後から今まで、ひたすら体を動かすだけの年月だった。
魔術を習うために切嗣を追い駆け続けて、
一人だけ助かった意味を探して、町じゅうを走り回った。
その日々が。
楽しかったかどうかなど、考える余裕がなかっただけだ。
「うーん、どうだろう。楽しかったかどうかは分からない。ただ、俺は切嗣《オヤジ》みたいになりたかった」
「それは、藤村先生が言っていたような正義の味方にですか?」
恐る恐る桜は言う。
それに、
「――――うん。おかしいかな」
頬を掻きながら、気持ちのまま断言した。
「いいえ、先輩は間違ってません。まっすぐで、かっこいいです」
「―――――」
落ち着いた言葉。
いつもなら恥ずかしくて目を逸らすだろうそれは、素直にありがとうと言い返したくなるぐらい、胸に届いた。
「じゃあもう一つ訊きますね先輩。もしわたしが悪い人になったら許せませんか?」
「え……?」
唐突な質問に真っ白になる。
……ただ、それを本当に真剣に考えるのなら、
「ああ。桜が悪いコトをしたら怒る。きっと、他のヤツより何倍も怒ると思う」
俺は、何よりも優先して桜を叱り付けるだろう。
「――――良かった。先輩になら、いいです」
安心したように桜は頷く。
「……?」
その笑顔を見て、以前にもこんなコトがあったような気がして首をかしげる。
「部屋に戻りますね。おやすみなさい、先輩」
桜は部屋に戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、それがなんなのか思い出せないことに小首を傾げた。
部屋に戻る。
セイバーを起こさないように布団にもぐりこみ、目蓋を閉じようとした時。
「――――思い出した」
ひっかかっていたものが取れた。
アレは、そう――――
――――あの時も、土蔵だった。
二年前……いや、正確には一年半前か。
一昨年の夏の話だ。
うちに手伝いにきたいと言った桜に、俺は何度も断った。
それでも桜は諦めず、それまで知っていた桜からは想像もつかないほど、強情にうちに通い続けた。
それに折れて―――正直、桜の一生懸命さに負けたのだが、とにかく土蔵に呼びつけて、降参宣言をした。
『桜には負けた。負けたから、これやる』 古い鍵。
土蔵に仕舞っておいた、切嗣が使っていた家の鍵を、そこで桜に手渡したのだ。
桜は驚いて、恐縮して断った。
自分は他人だから合鍵なんてものは貰えない、なんてすっとんきょうなコトを言ったんだっけ。
『あのな。毎日手伝いに来るくせに他人も何もあるか。
これからは好きにうちを使ってくれ。……その、その方が、俺も助かる』
そんなコトを言って強引に鍵を押し付けた。
その時に見たんだ。
「……はい。ありがとうございます、先輩。大切な人から物を貰ったのは、これで二度目です」
幸せそうに頷いた、桜の顔を。
「ああ――――そうか」
ひっかかっていたのはソレだ。
桜は一生懸命で、いつも柔らかく微笑むけど。
あんなふうに満ち足りた笑顔を浮かべたのは、あれっきりだったんだ――――
◇◇◇
……部屋に戻る。
午前二時。夜も更けたが、日課の鍛練をこなすだけの時間はある。
「―――っ……くそ、治ったと思ったんだけどな」
部屋に戻って気が緩んだのか、眠気にも似た虚脱感が襲ってきた。
……セイバーも休めと言っていたし、今夜は鍛練を休んで、体力の回復に努めるべきか。
「……だよな。無理して疲れを引きずるより、ちゃんと休息をとらないと」
……けだるい体で布団を敷いて、ばふ、と倒れこむ。
布団は日向の匂いがした。
日中、桜が干してくれたおかげだ。
「……桜……熱、下がってるかな……」
ぼんやりと口にする。
……気持ちがいい。
予想以上に疲れていたのか、布団に包まれた途端、体の力みがほぐれていく。
「……ん……明日、すぐにお礼を言わない、と……」
目蓋が落ちる。
陽射しの中で眠るような穏やかさのなか、深い眠りに落ちていった。
◇◇◇
柳洞寺。
キャスター亡き後、この土地に人気《ひとけ》はない。
原因不明の病で倒れた僧たちは山を降り、本殿はもぬけの空となっている。
門は堅く閉ざされ、参拝者はおろか関係者ですら入る事は許されない。
「―――チ、ひどい匂いだ。鼻が曲がるどころの話じゃねえな」
その、無人の筈の境内に声が響く。
月下に映えるのは青い痩身《そうしん》。
無駄のない屈強な肉体、長い真紅の槍を携えたソレは、ランサーと呼ばれるサーヴァントだ。
「おうおう。主人《キャスター》がくたばったってのに結界は健在か。
……いや、醜悪さは以前より五割増、これに比べればキャスターは上品だったな」
無造作に境内を見回るランサー。
手には朱色の槍が握られたままである。
彼は諜報、監視を主目的としたサーヴァントだ。
本人はいたって不本意だが、マスターがそう命じたのならば仕方がない。
命じられた指示には従うし、注文通りの結果を出すのが彼の方針だ。
故に、今まで幾人ものサーヴァントたちと戦い、引き分けてきた。
ランサーは今のマスターと契約している以上、自ら戦闘を行わない。
今回の指令もその例に漏れず、柳洞寺の偵察だった。
ならば槍を持つ必要はない。
宝具である彼の槍は必要に応じて召《よ》び出せる。
目前に敵などいないこの状況で、彼が槍を装備する必要性はまったくない。
「キイキイキイキイうるせえこと。キャスターは風使いと読んでたんだが、水気《すいき》の女だったのかね。蜘蛛だの蛭だの陰湿な輩が多いが――――」
境内を歩く。
その歩みはあまりにも無防備で、サーヴァントにあるまじきものだった。
仮に―――もし仮に、この場にもう一人サーヴァントがいるとすれば、有無を言わさず襲撃され絶命するほどの隙の多さ。
「――――ああ、頭をすげ替えられたって線もあるな。
ここには腐った小蟲しかいない。持ち主不在の廃屋に巣食うのは、おまえたちの常套手段だ」
ランサーの悪態は止まらない。
青い槍兵は、この場にいない誰かに言い聞かせるように演説する。
「にしても、一匹でかいのがいるな。
何処の生まれか知らないが、山奥で獣と暮らしていた面《ツラ》ァしてやがる。おまけになんだこりゃ、砂の匂いか?
ハ、大蜘蛛かと思えばこ汚い砂虫とはな。
ああやだやだ、なんだってこんなしけたヤロウの偵察なんかしなきゃならねえのか、なっ――――と!」
――――銀光が弾かれる。
闇の中―――無明より放たれた三条の凶器が、ランサーの一薙ぎによって払われたのだ。
槍に弾かれ、地に刺さった凶器は短剣だった。
切りつけるものではなく、狙い撃つ事を主として作られた投擲短《ダーク》剣。
それらはランサーの両目と喉笛を標的に、寸分の狂いもなく高速で投げられたものだ。
「――――いい腕だ。が、二度とはするなよ砂虫。
挨拶もなしで命を獲られるのは趣味じゃねえし、何よりおまえにとっちゃ命取りだ」
青い痩身が闇に対峙する。
ランサーの正面――――暗い堂の中には、うっすらと、 白い、月のような髑髏《どくろ》が笑っていた。
――――戦いは、何の口上もなく始まった。
白い髑髏は人語を知らぬのか、奇声のみをあげてランサーへと襲いかかり、
ランサーは眉一つ動かさず、敵の奇襲を迎え撃った。
髑髏の放つ短剣は、それこそアーチャーの弓に匹敵する。
それを至近距離より、闇に飛び交いながら放った数は実に三十。
その全てを、ランサーは事も無げに弾き返した。
「キ――――?」
髑髏が止まる。
それは異常だ。
いかにランサーが優れた槍兵であろうと、針の穴さえ通す髑髏の短剣を防ぎきれる訳がない。
しかも相手は長柄の武器。
切り返す槍の隙間、確実に相手の急所《しかく》に放つ短剣が、何故悉《ことごと》く弾かれるのか?
「おい。まさかとは思うが、おまえの芸はそれだけか?」
ランサーの気配が変わる。
足を止め、髑髏の様子を伺っていただけの敵意が、確実に殺すものへと切り替わっていく。
「ならこれで終いだ。
おまえが何者かは知らんが―――まあ、その仮面ぐらいは剥がすとするか」
―――短剣が闇に迸《はし》る。
髑髏へと踏み込もうとしたランサーに合わせた、迎撃《カウンター》となる高速掃射―――!
それも防ぐ。
軽く、ほんの僅か槍の穂先を揺らしただけで、ランサーは視認さえ出来ぬ投剣を無効化する。
「――――――――」
震えたのは髑髏の面だ。
人語を発さぬソレは、くぐもった悲鳴を飲み込み、自らの首を突きにくる槍兵《てき》を凝視し――――
「――――、キ――――!」
わずかに揺れた槍の隙をつき、ランサーの喉元へ短剣を撃ち放つ……!
「キ……!」
髑髏の面が振動《ふる》える。
投剣を防いだ槍はそのままランサーの手元で反転し、くるん、と見事な円を描いて、襲いかかる髑髏の顎を打ち上げたのだ。
防御と反撃。
動作は一呼吸、まったくの同時に行われた。
それを、自分から飛びかかった髑髏に防げる筈がない。
――――白面が落ちる。
ランサーは追い討ちをかけない。
彼に与えられた指令は、ただ敵を観察する事のみ。
いかにこれが必殺の機会であろうと、彼には手を出す権限がない。
「―――馬鹿が。言っただろう、俺に飛び道具は上手くないと。忠告を聞かなかったのはそっちの方だぜ」
槍の穂先を向け直し、ランサーは素顔を隠す“敵”を観察する。
黒い体。
包帯で封じられた右腕。
白い髑髏の面で隠した顔は―――闇に隠れて、未だ明確には見えなかった。
否。
その顔は無貌と言えるほど、凹凸《おうとつ》のない造りではなかったか。
「ギ――――ワタシのメンを、ミた、な、ラン、さー」
「そりゃこれからだ。サーヴァントには違いないようだしな。どこの英雄かハッキリさせるとするか」
「―――ク。ナルほド、ヨブンなシバりがあったのカ。ドウリで、殺サナイ、ワケダ」
影に覆われたサーヴァントが後退する。
その手には短剣《ダーク》が握られ、殺意は欠ける事なくランサーに向けられていた。
「止めとけ。生まれつきでな、目に見えている相手からの飛び道具なんざ通じねえんだ。よっぽどの宝具《もの》じゃないかぎり、その距離からの投擲はきかねえぞ」
「!―――ソウカ、流レ矢の加護、カ。……クク、サスガは名付きの英霊、私ナドとはモノガ違ウ」
影が揺らぐ。
黒いサーヴァントは蜘蛛のように地に伏した瞬間、
短剣を放ちながら、大きく虚空に跳びあがった。
地上から大きく離れる跳躍力が鹿ならば、その歩法は蜘蛛か蛇、それとも蠍《さそり》の類だったか。
面を隠したまま逃走するサーヴァントは、逃げ足のみランサーと互角だった。
ランサーとて瞬発力では他の追随を許さない。
その彼が敵を追い詰めるのに分の刻を要するなど、あってはならない事だった。
「チ―――たしかに喉を潰したんだが、しぶといな。治ってるってワケじゃねえし、ありゃあ薬でブットンでやがるか――――」
水蜘蛛のように水面を滑る敵と、それを追尾するランサー。
激しい水飛沫《みずしぶき》は敵とは対照的だが、その速度は水蜘蛛《アサシン》などの及ぶところではない。
「……チ、痛みで止まらねえんなら付け根でも切りつければよかったか。他の連中には通じねえ手だからな、つい後回しにしちまったが――――」
手足の付け根、大動脈を切りつければ、人体にとってそれだけで致命傷になる。
大動脈からの出血は激しく、実戦で切られる事は死に等しい。
もっとも、それは通常戦闘の話である。
サーヴァント―――英霊相手に出血多量による死など望めない。
血液ではなく魔力を主動力とする彼らには、大動脈の切断は効果の薄い二次的な手段である。
これが四肢の切断になると話は別だが、易々と手足を刈り取られるサーヴァントはおるまい。
手を一本獲った瞬間、こちらの首が刎ねられている―――という結末がオチだろう。
「……ハッシか。薬に頼るような英霊に治癒能力もあるまい。次の打ち込みでケリをつけるか――――」
疾風じみた水飛沫《みずしぶき》が走る。
その、次の打ち込みまであと二秒。
足を止め、逃げる水蜘蛛の左足大腿部を一閃しかけ―――
「――――!」
咄嗟に、ランサーは水面から飛び退いた。
――――水面《みなも》が跳ねる。
いや、水面に潜んでいたモノが牙をむく。
黒い、うすっぺらな何かは、虚空に跳び退くランサーを追っていく。
水面、という事もあるからか。
その様は、深海に棲むという古代の海獣を連想させた。
「―――――――これ、は」
ランサーに逃げ場はない。
咄嗟に槍で水面を抉り、所有する全てのルーンを湖底に刻む事で結界を張ったが、それさえも容易く侵食されていく。
周囲を黒い足に囲まれ、彼に残された陣地は刻一刻と縮んでいく。
上級宝具の一撃さえ凌ぐ全ルーンの守りが、足止めにさえならない。
それを――――
「ドウした、ラんサー。動かねば、呑まれルぞ」
水面に浮かぶ蜘蛛《アサシン》が嘲笑《あざわら》った。
しかし、その嘲笑《わら》う水蜘蛛とて例外ではない。
この黒い足は誰であろうと侵食するのか、水蜘蛛は決して黒水に近寄ろうとはしない。
近寄れば―――この黒い足は、即座に新しい獲物に関心を持つと知っているのだ。
「ダガそうはイかん。オマエを仕留メるのは私ダ。イマだ経験ガ足りナいノデな。オマエヲ打倒シ、タリナい知能ヲ、補ワネバ」
水蜘蛛の短剣が煌く。
動けぬランサーに向けて放つ凶器は、しかし投擲にすぎない。
それでは無意味だ。
いかに周囲が奇っ怪な妖手に囲まれようと、ランサーに投擲武器は通用しない。
「―――懲りないヤツだ。まあ、強気になるのは分かるんだが」
ランサーは周囲の妖手を観察する。
誘われて随分奥まで来てしまったが、対岸までは三十メートル。
この程度なら―――容易く、一息で跳躍できる……!
「そこで動かなかったオマエの負けだ。様子見も済んだ、ここらで引き上げさせてもらおうか」
ランサーの体が沈み、その槍が大きくたわむ。
槍を支えにして一気に跳躍するランサー。
そこへ。
「な――――に?」
シンプルと言えば、実にシンプルな“一撃”が放たれた。
ランサーの胸から、偽りの心臓がつかみ出される。
あり得ない間合い、遠く離れた水面から、アサシンは直接、
槍兵の胸を抉《えぐ》り出した。
最も純粋な魔術、最も単純化された呪い。
人を呪う、という事においてのみ特化した、中東魔術の“呪いの手”。
――――アサシンの宝具、“妄想心音《ザバーニーヤ》”。
それは確実にランサーの心臓を破壊し、そのまま―――力を失った槍兵の体は、黒い水面に落ちていく。
水面が踊る。
それはせわしなく、獰猛であり、はしたなかった。
飢えきった猛獣の檻に肉を投げ入れたとしても、これほど凄惨な食事はあり得まい。
―――無数の、黒い手足だけのモノが、ヒトのカタチをした英霊を消していく。
それを愉快げに眺めながら、ぐびり、と。
黒い湖面に浮かぶ無貌のサーヴァントは、抉り出した獲物の心臓を、満足げに飲み込んだ。
◇◇◇ ◇◇◇
白い陽射しに目を覚ました時、体はすっかり調子を取り戻していた。
熱は平熱で、手足に重みも感じない。
「――――六時前か。桜、起きてるかな」
起きていたら朝食の支度をしている筈だ。
急いで着替えて台所に向かわないと、桜一人に任せっきりになってしまう。
「セイバー、先に行ってるぞ。しばらくしたら居間に来てくれ」
襖を開けるほどの勇気はないんで、声だけかけて退散する。
下手に襖を開けて、セイバーが寝てるところを見たら朝から色々タイヘンなのだ。
「それでねー、お父さん倒れちゃってさー。
実の親父が寝込んどるんだから少しは落ち着こうと思わんのかドラ娘、なんて言うのよ?
失礼しちゃうわよねー、それじゃわたしがはぐれ雲みたいに聞こえるじゃない」
ぷんすか、と不平不満をこぼしつつご飯を食べる藤ねえ。
どうも、昨夜これなかったのは藤ねえのお父さんが倒れてしまったかららしい。
「? 先輩、はぐれ雲ってなんですか?」
「うん、藤ねえの事。ふわふわ浮いてて正体が掴めないヤツを指す」
即答。
「ちがうー。はぐれ雲は遊び人っ!
日がな一日、何をするでもなく町の人たちをひやかして面白おかしく暮らす人の事を言うのよ」
納得する桜とセイバー。
二人がどのあたりに納得したのかは言うまでもない。
「けど先生、それじゃあお父さんの体、芳しくないんですか?」
「まさか。うちの家系は風邪とか引かないって有名なんだから。お父さんはね、年甲斐もなく若い子と相撲して腰やっちゃったの」
「スモウ……? スモウとはなんですか、大河」
「ええ? んー、ちょっと言葉で説明するのは難しいなあ。とにかく押す、引かば押す、押せば押すっていう格闘技よ。武器なしなんだけど拳骨《げんこつ》はダメ。蹴るのもダメ。
基本的に相手の体とガッシリ組み合って、どりゃーって地面に叩き伏せれば勝ちなんだ」
「……む。それは純粋な力比べ、という事でしょうか?」
「そうね。あと服もなし。自分も相手もほとんど裸でぶつかり合うんだよ」
「は、裸でですか……!?」
「うん。まわしをつけてるから急所は隠してるけど。あ、まわしってのは褌《ふんどし》の事ね。わからなかったら士郎に訊いてみて。わたしより詳しいから」
ずずー、とあさりのみそ汁をすすりながらトンデモナイ事を言う藤ねえ。
「なるほど。で、シロウ。フンドシとはなんですか?」
「――――――――」
説明するのは容易いのだが、口にするのは憚《はばか》られる。
相手はセイバーだし、今は朝飯時だ。
何が悲しくてフンドシの話なんかしなきゃならないのか。
「……知らない。相撲は専門外だから、他をあたってくれ」
「うっそだー。士郎、まわし持ってるくせにー」
「も、持ってるかそんなもん! 相撲は藤ねえの爺さんにやらされただけで、まわしだって借り物だっただろ!
だいたいな、何年前の話してんだよ藤ねえはっ!」
「あははは、そっかそうだ。士郎、子供の頃はちっちゃかったから相撲は負け続きだったもんねー。お爺さまが違う競技にしなさいって言って、勝つまでやめたがらない士郎に弓持たせたんだっけ」
「……………………」
藤ねえは楽しそうに笑っている。
……なんだかなあ。
今朝の藤ねえは妙にハイで、いつもより二割増で騒がしい。
「なあ藤ねえ。時間、そろそろやばいぞ。七時前にはここを出ないと遅刻じゃないのか?」
「ん? あ、今日は大丈夫。昨日から朝の部活は禁止されたから。……ま、それでも今日は職員会議があるから早目に出ないとまずいんだけど」
「え? 先生、弓道部も朝練中止なんですか?」
「そだよ。って、そっか。桜ちゃんには連絡いってなかったか。昨日、ちょっと事故があってね。陸上部の子なんだけど、部活中にケガしちゃって。保健の笠間先生に言わせれば寝不足だとかで、朝練はしばらく中止になったのよ」
「……ふうん。けど怪我人が一人でただけで中止にするもんなのか?
それも寝不足だって、そんなの本人の―――」
自己管理能力の不足だけど、もしかして。
「藤ねえ。その怪我人って、何人出たんだ?」
「……んー、十人以上二十人未満、かな」
「そ、そんなになんですか?
先生、弓道部のみんなは――――」
「それがねー、うちには出てないけど、昨日の部活でも疲れた顔の子が何人かいたのよ。
……ほら、最近色々と物騒じゃない? そのあたりの精神的な疲れも無視できないから、できるだけ生徒には負担をかけない方針でいくみたい。部活が負担になるってワケじゃないけど、肉体的に疲労するのは否定できないしねー」
やれやれ、と肩をすくめてお茶わんを差し出す藤ねえ。
「桜ちゃん、おかわり。ごはん半分でお願いねー」
「はいどうぞ。今朝は小食ですね、先生」
「そうなのよぅ。学校いっても仕事がたまってるのかと思うと胃が痛くて痛くて、食欲がないんだよう」
よよよ、と泣き崩れる。
うむ。
どうやらうちに住み着いた虎は、ご飯二杯半程度では全力ではないと言いたいらしい。
「そういう桜ちゃんは元気だよね。ごはん、大盛りで二杯目だもん」
「育ち盛りですから。最近はすぐお腹へっちゃうし、多少無理でも食べておかないとタイヘンです」
えっへん、と胸を張る桜。
……いや。
すでにその量は育ち盛りとかいう問題ではないと思うのだが、身近に大食漢がいると釣られて食べてしまうのかもしれない。
「なるほど。桜には弓使いとしては腕力が足りません。栄養を取るのはいいことです」
もくもくとご飯を食べながらセイバーは頷いてるし。
……なんか、噛み合っているようで微妙にズレているのは気のせいなんだろうか。
◇◇◇
七時過ぎ。
藤ねえが先に学校に行って、俺たちは後片付けにとりかかった。
今日は桜も余裕があるので、のんびりと洗い物をする。
二人でとりかかった事もあり、朝の片付けはサクっと終わった。
……さりげなく桜の様子を見たが、体は本当に大丈夫のようだ。
熱はないようだし、体からは元気が溢れている。
「あ、あの先輩っ……!
す、少しお話があるんです、けど、お時間よろしいでしょうかっ!?」
と。
まるで今から討ち入りに行くような緊張ぶりで、唐突に桜は言い出した。
「よろしいよ。時間、まだ余裕あるし」
「は、はいっ。……あ、あの、そのですね。お弁当をですね、作ってみたんです、けど」
俯いたまま、どうぞ、と桜はお弁当を渡してくれた。
ときたま俺が使う弁当箱とは違う、桜が用意した弁当箱のようだ。
無骨な俺の弁当箱と違って容器の形はかわいらしく、包みも爽やかな色をしている。
桜の弁当なら味は保証付きだし、なにより作ってくれた事は文句なしに有り難い。
「ん、サンキュ。……って、もしかして桜、朝は早くから弁当作ってくれてたのか?」
起きてすぐに居間に行くと、桜は朝食の支度を済ませてくれていた。
その時点で随分早起きだなあ、と関心したのだが、実際はもっと早起きだったみたいだ。
「あ、はい、その、早くに目が覚めちゃって、やる事もないからお弁当作ろうかなって、……えっと、それでご相談が、あるんですけど――――」
「? なんだよ改まって。相談ってよっぽどのことか?」
「い、いえ、そんなコトないですっ……!
ないん、ですけど…………えっと、そうだ! せ、先輩って、あんまりお弁当作りませんよね。先輩お料理好きなのにどうしてなのかなって!」
「……桜。俺、別に料理好きってワケじゃないんだが」
というか、男のクセに料理が趣味っていうのはいただけないんで、あくまで料理が出来る、というレベルに留めておいてほしいな、と。
ああいや、それはともかく弁当作らないのはどうしてかって話だっけ。
「それがな。俺だって弁当のが安上がりだって判ってるけど、持っていくとクラスの男どもがたかってくるんだよ。結果、気がつくとおかずが半分になってるんだ」
はあ、と頷く桜。
……もっと詳しく言うと、おかずを奪っていく割合はむしろ女子のが多いのだが、情けないので黙っておく。
「うん。そういうワケなんで、生徒会室が使える日しか弁当は作らないんだ。あそこなら一成と二人で食べられるだろ」
「……あ、あの、先輩? それなら弓道場で昼食をとるのはどうでしょう?
お昼なら道場も空いてますし、お茶も淹れられますし、その、誰もいないから静かだし――――」
?
ああなるほど、その手があったか。
昼なら弓道場の鍵も開いてるし、部員だってめったに寄り付かない。
いるとしたら美綴だろうけど、アイツは人の弁当に手を出すほど非道じゃないし。
「……うん、そうだな、それもありかな」
「そ、そうです!
そーゆーのももちろんありです先輩っ! それじゃ、その――――」
「けど部外者が入るってのもなんだな。一応美綴に許可もらっておかないとダメだろ」
「そ、そんなの大丈夫ですっ! 弓道場は学校の建物なんですから、部活動以外は生徒の自由でおっけーなのではないでしょうかっ!」
珍しく力説する桜。
「……んー、そうだな。迷惑でなければいいかもな」
うん、と納得する。
と。
桜はなぜか、とんでもなく嬉しそうな顔でガッツポーズをとっていた。
「……?」
……うーむ。今朝の藤ねえのハイテンションぶりが伝染したのかな、あれ。
◇◇◇
坂道を登る。
朝練がない為か、通学する生徒の数がいつもより多い。
「時間はまだまだ大丈夫ですね。こんなゆっくりした朝は久しぶりです」
隣りには桜が嬉しそうに歩いている。
なんでか不明なのだが、桜はずっと機嫌がいい。
「俺はいつも通りなんだけど……まあ、桜と一緒に登校するのは珍しいか」
「はい。弓道部の朝練は休みなしですから」
「そうだけど、朝練は自由参加だろ。たいていのヤツは二日に一遍ぐらいの割合なんだから、桜だって休めばいいのに」
「え? あ、あの、それじゃ先輩、わたしが休んだら一緒に学校に行ってくれますか?」
「? そんなの当たり前だろ。同じ所に行くんだから、桜が嫌がっても一緒になる」
「あ、そ、それじゃ―――
って、やっぱり無理でした。わたし下手だから、一日でも休むと腕が下がっちゃいます」
駄目ですね、なんて自分自身に舌を出す桜。
「? そんなもんかな。あんまり比べるのも悪《あし》だけど、桜の腕は一年じゃダントツだぞ。形も成ってるから、一日二日間を置いても問題ない筈なんだが」
「いいえ、わたしはまだ未熟です。今だって気を緩めると邪念が入るし、的が見えないなんてしょっちゅうだし。
根が怠け者だから、毎日ピッシリやってないとズルズルダメになっちゃう性質なんです」
……ふむ。
まあ、本人がそう言うんなら口を出す問題でもないか。
桜と別れる。
二年《こっち》は三階、一年である桜の教室は四階である。
「それじゃ先輩、また後で」
「ああ。授業中、居眠りしたりするなよ。人間腹いっぱいだと眠くなるからな」
「あはは、それなら心配無用です。もうとっくにお腹八分目になってますから」
階段を上っていく桜。
それに軽く手を振って、自分の教室に向かっていった。
昼休みになった。
―――慎二は欠席、一成も同じく欠席だった。
……一成は柳洞寺の事件の後、病院で療養しているらしい。
見れば欠席者は二人だけではなく、他にも何人かの病欠者がいた。
「――――――――」
……が、欠席者はこれ以上増える事はない。
街の人間から生気を奪っていたサーヴァント、キャスターは消えた。
町を騒がしていた原因不明の昏睡事件はもう起きないのだ。
「―――そうだな。キャスターの被害にあった人たちも、すぐに元気になって戻ってくる」
さて、と気を取り直す。
残るマスターはあと四人。
遠坂とイリヤはいいとして、未だ姿を現さない残る二人がどんなマスターなのか判らない以上、安心するのは早すぎる。
「「あ」」
声がハモる。
廊下に出た途端、不意打ちぎみに遠坂と顔を合わせてしまった。
「ちょっと。あって何よ、あって。人の顔を見るなり失礼なんじゃない? それとも何か、わたしに後ろめたいコトでもあるのかしらね、衛宮くんは」
「あのな、驚いたのはそっちもだろ。今の台詞はそっくりそのまま返してやる。
……それに昨日の電話、いったい何なんだよ。来るなって言ったり来いって言ったり、随分勝手じゃないか遠坂」
「む……き、昨日のは特例よ。柳洞寺のマスターが消えた後、貴方が学校休んでれば何かあったって思うでしょ。
……その、柳洞寺の件を教えたのはわたしなんだから、衛宮くんに何かあったら困るじゃない」
「――――――――」
……驚いた。
遠坂のヤツ、もしかしてあんなコトぐらいで責任を感じてたってのか?
「そっか。サンキュ遠坂。心配してくれたんだな」
「そ、そんなコトないわよっ! わたしはただ、情報提供者として事の顛末が知りたいだけなんだから!」
「うん? それなら昨日電話で言っただろ。キャスターとそのマスターは倒した。柳洞寺にはもう何もないぞ」
あれ?
なんだ、遠坂のヤツいきなりまじめな顔になりやがったぞ?
「なんだよ遠坂。俺、なんかおかしなコト言ったか?」
「―――ええ。衛宮くんを信じてない訳じゃないけど、もう一度だけ確認するわ。貴方、本当にキャスターを倒したの?」
「……む。いくら俺でも勝敗ぐらい判る。
セイバーは完全にキャスターを消滅させた。……キャスターのマスターだって、もう――――」
俺たちが駆けつけた頃には、死んでいたんだ。
「……わかったわ。なら、その事で話があるの。ちょっと屋上まで付き合って」
◇◇◇
「な――――キャスターが、消えてない?」
「ええ。衛宮くんがキャスターを倒したのが二日前でしょ。
なのに昨日も例の昏睡事件は起きた。
……それも、魔力を奪われた人たちは今までより重い衰弱状態にあったわ」
「そんな馬鹿な。俺たちは、確かに」
「判ってる。貴方が嘘を言うわけないし、勘違いしてるとも思えない。……けど、実際にわたしとアーチャーはキャスターらしき影を見たのよ。昨日の夜、被害のあった現場に駆けつけた時にね」
「…………そうか。じゃあ、本当にキャスターは生きていて、まだ町じゅうから魔力を集めてるっていうのか」
「……断言できないけど、そういう事ね。けど柳洞寺の雰囲気が変わったって事だけは判る。
貴方たちはキャスターを倒した。けどキャスターはいまだ存在する。いま確かなのはそれだけよ」
不機嫌そうに遠坂は言う。
……昨日までの遠坂とは微妙に雰囲気が違うのはそれが原因らしい。
恐らく、遠坂はこの戦いに疑問をもち始めたのだ。
マスターが倒されればサーヴァントは消滅する。
サーヴァントとて、完全に撃破されればこの世界での死は免れない。
その両方のペナルティを負って未だ存在しているらしいキャスター。
それは聖杯戦争のルールを根底から覆す“違反”だからだ。
「―――そうか。で、遠坂はどう思ってるんだ」
「え? わたし?」
「ああ。おかしいって思ってるんだろ。
おまえが聖杯戦争を降りるとは思えない。けど今は聖杯の奪い合いより、キャスターの事をはっきりさせたいんじゃないのか? 他のマスターとの戦いは後回しにしてでもさ」
「衛宮くんの思ってる通りよ。
今回の聖杯戦争はどうもきな臭いわ。父さんに聞いていたものとは違う気がするのよね。なんていうか、わたしたちの知らないところで違う事が行われてる気がするの」
……違う事、か。
俺にとっちゃ聖杯戦争そのものが理解の範疇外だからそこまで考える余裕はない。
けど、れっきとしたマスターである遠坂がそう感じているのなら、間違いはないんだろう。
「じゃあ遠坂は、その」
「ええ、自分で納得がいくまで聖杯戦争のルールには従わない。誰かに利用されるのは仕方ないけど、利用された自分が、誰にどんな危害をくわえるのか判らないのは気に食わない。
そういうのイヤでしょ? だからハッキリさせるまで、他のマスターといがみ合うのは止めるつもり」
キッパリと言う。
遠坂の目には迷いがなく、同時に、俺の選択を問うているように見えた。
「そうか。それは休戦宣言ってコトでいいのかな、遠坂」
「衛宮くんが受けてくれるならね。この件が片付くまで貴方がわたしと敵対しないのなら、わたしも貴方に危害は加えないわ」
どう? と視線で訊ねる遠坂。
そんなもの、はじめから答えは決まっている。
「それはこっちの台詞だよ。遠坂が手を出してこない限り、俺も遠坂とは戦わない。
……それに、もし戦う時がきたとしても、それは正々堂々とだ。その時がくるまでは――――」
俺は遠坂と、こんなふうな協力関係でありたかった。
「決まりね。判ってたけど、いい返事がもらえて嬉しいわ」
「え……?」
遠坂は右手を差し出してくる。
それが握手を求めてのことだと気付いて、
「あ、ああ。よ、よろしく遠坂」
急速に赤くなりつつある頬を堪えて、右手を差し出した。
「よし、契約成立ね。少しの間だろうけどよろしく頼むわ、衛宮くん」
……遠坂はしっかりと握り返してくる。
その感触は柔らかくて、俺の手なんかよりずっと華奢で、かすかに冷たかった。
「っ――――――――!」
バ、バカ、こんな時になに考えてんだ俺の節操なしーーーーーーっ!!!!
「? どうしたの衛宮くん。急に汗かいたりして。……なんか、心拍数もあがってるけど」
「っ!? い、いや、なんでもない、ただの風邪だ、メシ食えば治る! メシ食えば治るんで、そろそろ昼メシにしよう!」
バッ、と強引に手を離す。
と。
遠坂の顔が、なんかとても邪悪に変貌していった。
「ははあん。この前相談された時にもしかしてって思ったけど、やっぱりそうなんだ。慣れてるような印象だけど、ホントはそうでもなかったワケね。
意外っていうか、外見《イメージ》通りって言うか。
……ふーん。ふーん。ふーーーん」
じろじろ、にやにやと人を上から下まで値踏みする遠坂凛。
「な、なんだよ、言いたいコトあんならハッキリ言えよな。だ、黙ってるのはよくないんだぞっ」
「べっつにー。衛宮くんのコトが少し判っただけだから気にしないで。あ、口にするつもりはないから怯えなくていいわよ?」
「っ! お、怯えてなんてないっ! 言いたきゃ勝手に言えばいいだろっ」
「あら、言っていいの?」
にんまりと笑う。
ああ―――こんな邪まな笑顔がこの世に存在しようとは。
「……言うな」
「なに、小さくて聞こえないんだけど?」
「……すまん、口にしないでくれ。言われたらひどくショックを受けそうだ。特に、おまえの口から聞かされると二倍や三倍じゃすまない気がする」
「そ? なら黙ってあげてもいいけど――――」
ふふん、なんて勝利者の笑みをこぼして引き下がる遠坂。
それにほう、ととりあえず心の平安を取り戻した瞬間。
「衛宮くん、好きな子夢見るタイプでしょ?」
「って、言ってんじゃねえかこの悪魔っっっっっ!」
◇◇◇
「だからね。人間ってのは、本当のコトを言われると怒ると思うのよ」
なにやら思案げな風で、人の弁当をつつく遠坂。
遠坂は今日も手ぶらで屋上に来ていた。
つまり昼飯の用意などしていなかったのだ。
となると、唯一の食料である俺の弁当が狙われるのも、これまた必然と言えた。
「いいから食べろ。……ったく、弁当持ってないクセにさ、どうして箸だけは完備してんだよ。おまえ、箸いつも持ち歩いてんのか?」
「? これは教室出る時にもってきただけよ? 衛宮くん、この前もお昼ご飯持ってたから、今日も分けてもらえばいいかなって。で、もしお弁当だった時を考えて、事前に箸を用意したんだけど?」
「……あのさ。その用意周到さは、どこか論点がズレてると思うんだが」
というか、そこまで判っているなら箸の前に食料《モノ》を持ってこい、モノを。
「こまかいコトは気にしない気にしない。衛宮くんだって二人分のお弁当を持ってきてたんだから、結果オーライじゃない」
「………………」
いや、別に二人分の弁当ってワケじゃないんだぞ、これ。
単に桜が用意したおかずの量が多すぎただけだ。
「……まあいいか。俺一人じゃ食いきれなかったのも確かだしな。あ、遠坂。さっきから野菜ばっかり食うなよな。肉も食え、肉も。俺ばっかり肉食ってたら胃にもたれるだろ」
「えー? そのから揚げ、味付け甘いから苦手なのよ。
だいたい女の子にお肉なんか勧めないでよね。ちゃんと自分で分量計ってるんだから、食べないってコトはストップサインなの」
「うそつけ。おまえ、焼肉で遠慮しないタイプだろ。もうそう。ぜぇ〜〜〜ったいそう。俺がちまちま塩辛つまんでる時に、わんこ蕎麦を食すが如きに霜降りカルビを食べるんだ。
その量、その勢いたるや俺の財布の中身などお構いなしで、むしろ破産させる気に違いない。そうして、ひとしきり満足した後にはこう言うんだ。ふ、今回は手加減してあげたわ」
ふん、とさっきの仕返し、負け惜しみのつもりで軽口を叩く。
「……言うじゃない衛宮くん。あながち否定できないところが恐ろしいわ」
「―――――――――」
……いや。
恐ろしいのはおまえだ、遠坂。
「けどおかしなお弁当よね。量はすっごく多いのに、盛り付けとかラッピングとか女の子っぽいじゃない? 衛宮くん、もしかして料理好き?」
なんたる偶然。
そんなようなコトを、朝方も言われた気がする。
「……まあ嫌いじゃないけど、今日の弁当は俺じゃなくて桜が作ってくれたもんだ。
あ、桜っていうのは――――」
「……遠坂? どうした、砂糖の固まりでも噛んだか?」
「……あっちゃー……やっちゃったか」
遠坂は溜息をついて、自分の箸を片付けてしまった。
「ごちそうさま。あとは衛宮くん一人で食べて」
気まずそうに弁当から離れる遠坂。
「?」
まあ、お腹いっぱいならいいけど。
こっちも遠坂と肩をつきあわせて食事をとる、という事に緊張していたから、これでゆっくり食べられるってもんだ。
屋上から教室に戻る。
五時限目まであと数分、廊下は自分の教室に戻る生徒たちで混雑していた。
反面、階段は静かなものだ。
昼休み、違う学年に赴く生徒は少ないので、階段にはちらほらとしか人影はない。
そこで、
ばったり、桜と顔を合わせた。
桜は俺たちを見るなり、気まずそうに視線を逸らす。
「……?」
……どうしたんだろう。
朝はあんなに元気だったのに、今の桜はまるっきり元気がない。
「桜――――」
声をかける。
と、そんな俺より早く、
「ごめん桜。間が悪かったわ」
一歩前に出て、遠坂はそんなコトを口にした。
「え……い、いえ、間が悪いなんてコト、ないです。先輩と遠坂先輩が一緒にいても、わたしは別に――――」
「だから違うんだって。ちょっとね、用があってわたしから衛宮くんを呼びつけたの。ついでに言うと、衛宮くんも貴方との約束をすっぽかしたワケじゃないわ。こいつ、単にわかってなかっただけだから」
「……むむむ? なんだよそれ。桜との約束って、別に何かあったわけじゃ――――」
「馬鹿。お弁当を作ったってコトは、アンタと一緒に食べたいってコトじゃない。桜が怒るのも当たり前よ」
「――――え?」
ちょ、ちょっと待った。
一緒にお昼を食べようだなんて、そんな約束は―――
「……あ、あの、先輩? それなら弓道場で昼食をとるのはどうでしょう?
お昼なら道場も空いてますし、お茶も淹れられますし、その、誰もいないから静かだし――――」
そうして。
見れば、桜はまだ封を開けていない弁当箱を持っていた。
「――――――――」
……そう、だ。
なにを聞いてたんだ俺はっ! これじゃ遠坂に馬鹿だのコイツ呼ばわりされるのも当たり前じゃないか……!
「ご、ごめん桜っ! 俺、間抜けにも程がある……!」
「い、いえ、いいんです先輩っ。だってほら、ちゃんと約束したわけじゃないし、わたしもそうなったらいいなって思っただけで――――」
「よくないっ! 行くぞ桜、今からでも間に合うっ!
道場でてっとり早く済ませれば――――」
桜の手を取って走り出す。
が。
「間に合うわけないでしょ。あと三分で何が出来るって言うのよ」
「っ――――」
遠坂の冷静なつっこみに止められてしまった。
……桜との約束を破った申し訳なさで動転していたが、そりゃあ、遠坂の指摘は100パーセント正しい。
「いいんです先輩。遠坂先輩の言うとおり、教室に戻らないとダメですよ」
「う……けど、桜」
「いいえ、気にしないでください。わたし、いまので十分嬉しかったです。ありがとうございました」
「――――――――」
そんな顔でそんなコトを言われたら、返す言葉が見当たらない。
「それじゃ失礼しますね。先輩たちも早く戻らないと遅刻しちゃいますよ」
弁当箱を手にして、桜は階段を上がっていった。
「じゃ、わたしも行くけど。
学校が終わったら、すぐに商店街にある中華飯店に行っておいて。そこで待ってるから」
と。
そんな謎の言い付けを残して、遠坂も教室に戻っていった。
五時限目の授業が終わり、教室は見る間に人影が減っていく。
時刻はまだ二時前。
「……ふう。気は進まないけど、遠坂に言われたしな」
校舎に残ってもやる事はないし、当たって砕けろの精神で商店街に向かうとしよう。
◇◇◇
この商店街に中華飯店は一つしかない。
紅洲宴歳館《こうしゅうえんさいかん》、泰山《たいざん》。
昼なお締め切った窓ガラスは客の出入りを不明にし、一見さんはことごとく逃げ帰るという商店街の魔窟だ。
町内会からはちびっこ店長と親しまれる謎の中国人・魃《ばつ》さんの振るう十字鍋は、ありとあらゆる食材を唐辛子まみれにする。
つまり辛い。
すごく辛い。
舌を楊枝《ようじ》で千本刺しにされて塩ぶっかけられたぐらい辛い。
俺が中華料理に苦手意識を持つのも、偏にこの店の味付けが地獄的だったからである。
あと、店長がこれ見よがしにアルアルを語尾につけるのもいただけない。
「………………」
で、今からその魔窟に突入するワケだ。
店長に目をつけられたら高速でメニューが差し出される。
そうなったら終わりだ。
せめて注文を甘酢あんかけ系にして難を逃れなくてはならない。
チンジャオとかホイコーローとか頼んだ日には目も当てられないし、麻婆豆腐なんてもってのほかだ。アレはやばい。舌が溶ける。地獄じゃ閻魔が舌抜くっていうが、きっとその類の地獄料理だ。店の名前も泰山だし、修行して帰ってきたっていう店長は獄卒に違いない。
「――――ふう」
時計を見ると、じき二時半になろうとしている。
学校が終わったらすぐに来い、との事だったので、これ以上躊躇している余裕はない。
「――――よし、行くぞっ!」
なんでたかだか飯屋に入るだけでこんな気合をいれなくちゃいけないのかって思うのだが、ともかくここはそういう店だ。
なんのつもりか知らないが、遠坂だってここを待ち合わせ場所に選んだ事を、今ライブで後悔している事だろう――――
――――て。
「む? 来たか衛宮。時間があったのでな、先に食事を進めていた」
なんか、神父がマーボー食ってる。
「――――――――」
言葉がない。
なんでこの場所に言峰がいるのか。
なんであんな煮立った釜みたいな麻婆豆腐を食っているのか。
それもすごい勢いで。
額に汗を滲ませて、水などいらぬ、一度手を止めれば二度とさじが動かぬわ、という修羅の如き気迫。
というか意地になってないかあいつ、食べるスピードが尋常じゃないぞ。
もしかして美味いのか。あのラー油と唐辛子を百年間ぐらい煮込んで合体事故のあげくオレ外道マーボー今後トモヨロシクみたいな料理が美味いというのか。
だとしたらまずい、言峰もまずいがこの店もまずい。
アレ、絶対やばげな量の芥子《スパイス》が入ってる。そうでなくちゃ説明できない。
「どうした、立っていては話にならんだろう。座ったらどうだ」
食べながら神父は言う。
「………………」
用心しながら……いや、もう何に用心しているのか自分でもわからないが……ともかく用心しながら対面に座る。
「――――――――」
じっと神父の動きを観察する。
……凄い。マーボー、残るは二口分のみだ。
こいつ、ホントにアレを完食する気か……と、喉を鳴らした時、不意に言峰の手が止まった。「――――――――」
「――――――――」
視線が合う。
言峰はいつもの重苦しい目で俺を眺めて、
「食うか――――?」
「食うか――――!」
全力で返答する。
神父はわずかに眉を寄せて、さっくりと麻婆豆腐を片付けてしまった。
……って。
もしかして言峰のヤツ、俺の返答にがっかりしたんだろうか?
……俺を待っていた人物は、間違いなく言峰神父だった。
遠坂は言峰に頼まれて、俺をここに呼ぶように言われていたらしい。
「……で、一体何の用だよ。アンタが自分から出向くなんて珍しいんじゃないのか」
「なに、おまえがすでに二体のサーヴァントを倒したと聞いてな。大したものだと労《ねぎら》いにきたのだ」
……よく言う。
仮にホントだとしたら、次は違う店に呼んでくれってんだ。
「そうかよ。悪いが、そういうのは気持ちだけで結構だ。
別にアンタのために戦ってるわけじゃない。誉められる謂れはない」
「ふむ、つまらぬ世辞は余計だったか。
―――では、望み通り本題に入るとしよう。凛からキャスターが生きている、という話は聞いたな?」「……ああ。キャスターはまだ現界していて、町の人間から魔力を集めてるっていうんだろう」「そうだ。その件と関係があるかは判らんが、おまえがキャスターを倒した夜、柳洞寺にはもう一体サーヴァントがいてな。
風貌、戦闘スタイルからいってアサシンだと思われるが、断言はできない」「アサシン……キャスターの他にもアサシンが柳洞寺にいたっていうのか? でもセイバーは、」
「感知できなかったのだろう? アサシンはそう強力な英霊ではないが、特性として気配の遮断がある。隠密はアサシンの得意分野だからな。いかなセイバーとて、アサシンが完全に引きこもってしまえば見つけようがないだろう」
「…………」
じゃあキャスターを倒したあの夜、柳洞寺にはアサシンがいたって事か。
キャスターを倒して安堵していた俺たちのすぐ近くで、息を潜めて俺たちを倒す機会を窺っていたと――――?
「……それは分かった。けど、なんだって俺にそんな事を教えるんだ。一人のマスターに肩入れはしないんじゃないのか、監督役《アンタ》は」
「なに、これは情報交換にすぎん。私の知る事はそれだけだ。その代価として、ここ数日おまえが体験した出来事を教えろ。……今回の聖杯戦争はどうも気配が違う。
前回とは違うモノが動いている気がしてならんのだ」
「――――――――」
「教えたくないのならそれでも構わん。今のは忠告として聞いた、と思えばいい」
「……そんな事するか。教えてもらったからには代償ぐらい払う。一方的に話された事だけど、必要な事だったからな」
「―――ふ。相変わらず義理堅い事だな、衛宮士郎」
神父は愉快げに口元を吊り上げる。
……ふん。こっちの出方なんてお見通しって顔だ。
けど、こっちだって簡単には思い通りになるもんか。
「話はする。けどその前に訊いておくぞ。
言峰、アンタなんでそんな事を知ってるんだ。
柳洞寺にアサシンがいるなんて、サーヴァントでもいない限り判らない事だろう」
いや、サーヴァントがいても判らない筈だ。
現にセイバーも、アーチャーを有する遠坂も、柳洞寺の事は知らなかったんだから。
「なに、単純な話だ。私のランサーが柳洞寺でアサシンに敗れた。ヤツが消滅する寸前の映像を、マスターである私が回収したにすぎん」
と。
実にあっけなく、おかしなコトを神父は言った。「――――え?」
「私もマスターだ、と言った。おまえも口にしたではないか。サーヴァントでもいない限り判らない、と。
いや、実にその通りだったな」「え――――え――――!?」
「だがそれも昨日までの話だ。ランサーは消滅し、私は今回の聖杯戦争におけるマスターではなくなった。おまえたちの敵ではなくなったという事だ。
さて、話はそれだけか? ではおまえの番だ。ここ数日、何と出会い何を見た」
たった一息で、場の空気が重くなる。
……こっちの質問など許さない。
ただ明確な回答だけを、言峰神父は求めている。
「………………」
……言いたい事は山ほどあるが、今は答えるのが先だ。
俺は四日前―――セイバーと契約し、この神父と出会った後に起きた出来事を、できるだけ詳細に説明した。
……話は三十分ほどで終わった。
マスターとして行った事なんてそう多くはない。
言峰にとってはあまり意味のない情報。
その中で、間桐臓硯という老人にのみ、神父は強い関心を持った。
「間桐臓硯―――とうに老衰したかと思っていたが、いまだ現役とはな。人の血を啜《すす》る妖怪というのは本当だったか」
「え……あの爺さんが、人の血を啜る妖怪……?」
「そうだ。間桐の魔術は吸収でな。六代前の魔術師であった間桐臓硯は、際立った虫使いだったと聞く」
……?
虫を使うって、使い魔が虫……ってコトじゃないよな、やっぱり。
となると、他に虫を使う魔術って言ったら――――
「待ってくれ。虫使いって……その、虫を媒体にして毒を使うヤツの事か? 何百匹もの毒虫を壺にいれて、最後まで生き残った虫で式《のろい》を撃つっていう……?」
「いや、蠱毒《こどく》の類ではない。もとより呪詛はマキリの専門外だ。
彼らが行う魔術は、必ず自らの肉体に成果が返るもの。
呪いなど行っては相手と共倒れになるだろう」
「……じゃあ、読んで字の如く、虫を使い魔にしてるってコトか?」
「ああ。間桐臓硯は他人の血を吸うだけの妖怪だ。
人の血を吸う事で若さを保ち、肉体を変貌させ、数百年を生き抜いたというが―――さて。
凛の父親の話では既に死に体、白日の下には出られないという事だったが」
「……日の下に出られない? ……そういえば、会った時はどっちも夜だったけど――――」
人の血を吸って、寿命を延ばす。
そしてその肉体は日の下に出られない、なんて、それじゃあまるで――――
「……言峰。間桐臓硯は吸血鬼なのか?」
「ふん。アレは吸血鬼というよりは吸血虫だよ。性質も性格も、陰湿な蛞蝓《なめくじ》だ」
一言で切って捨てる。
言峰はあの老人を本気で嫌っているらしい。
「……数百年も生きてるって言ったな。じゃああの爺さんもマスターだった事があるのか?」
「いや、間桐臓硯がマスターだった事はない。ヤツは間桐家の相談役のようなものだが―――なにぶん数百年と生きた妖怪だ。なにか、私たちが知らない方法でマスターになる、という策を凝らしたのかもしれん」
「……じゃあ、マスターのいなくなったキャスターと契約してるのは、もしかして」
「さあな。だが気を許していい相手ではない。
ヤツが表舞台に出てきた以上、確かな勝算があっての事だろう。今回の間桐のマスターは、マキリにおける最悪の魔術翁の援護を受けているという事だ」
「――――――――」
慎二はまだ諦めていない、と言った。
その慎二には間桐臓硯の後ろ盾がある。
慎二は令呪を失ったが、あの老人なら新しいサーヴァントを慎二に与える事ができるのかもしれない――――
「参考になった。マキリのご老人が動いているのならば、この異常事態も頷ける。監督役として被害の拡大に備えるとしよう」
ふむ、と自分一人で納得して、言峰は肩の力を抜く。「監督役、ね。昨日まで俺たちに隠れてマスターだった男が何を」「そう言うな。もとより私に望みなどない。ランサーを得たのも、より良い“願望者”に聖杯を与えたかっただけだ。
それもここまでだがな。後はマスター同士で決める事だ。
まあ、私的な意見を言わせて貰えば、おまえか凛、そのどちらかに聖杯が与えられればいい、と思っている」「――――――――」
……思わず顔をしかめた。
今の言葉、神父は本気で言っていた。
自分は聖杯などいらない。
おまえか凛、どちらかが必ず手に入れろ―――そう、はっきり言ったのだ。
「……なんでだよ。アンタだってマスターになったからには聖杯が欲しかったんだろ。叶えるべき願いってのがあったんじゃないのか」
「そうだな。望みはないが目的はあった。だがそれは聖杯で叶えるべき事ではない。私の目的はそれほど真剣なものではないし、私本人が叶えても意味のないものだ」
「……?」
自分で叶えても、意味のない目的……?
「なんだよそれ。謎かけなら他所でやってくれ」
「老婆心のつもりなのだがな。私とおまえは同じだ。明確な望みがない者同士、救いなど求めてはいない。
故に―――少しでも早く気がつけば、楽になれると思ったのだが」
「え――――?」
どくん、と心臓を鷲づかみにされる感覚。
神父の言葉は、何故か、呪いのように胸中に蟠《わだか》まった。
「言峰、おまえ――――」
揺らぎそうな両目を懸命に絞って、神父を睨む。
そうして――――
「アイ、マーボードーフおまたせアルー!」
―――ごとんごととん、と第二第三の麻婆豆腐がテーブルに置かれていた。
「――――――――ふむ」
かしゃん、と新たにレンゲを手にとる言峰。
間違いない。
あいつ、初めから御代わりを頼んでいたのだ。
「――――――――」
「――――――――」
……視線が合う。 言峰はやはり重苦しい目で俺を眺めて、
「――――食うのか?」
「――――食べない」
真顔で、力の限り返答した。
宴歳館・泰山を後にする。
……言峰はもう話をする気はなく、もくもくとマーボーを食い始めたからだ。
神父は胸焼けを押さえつつ外に出る俺に、
「―――衛宮。私は戦いから降りた身だが、おまえと凛は未だマスターだ。臓硯は陰湿だぞ。せいぜい気をつける事だ」
なんて、ホントに他人事のように忠告しやがった。
◇◇◇
「………………」
中華飯店から出た時、時計は午後四時になろうとしていた。
商店街に用事もなく、あとは家に帰るだけだ。
「――――、――――」
……それにしても、言峰の話は無視できるものじゃなかった。
まだ生きているキャスター。
依然として続いている、町の人々の昏睡事件。
それに――――
「っ! ――――、――――!」
自分がマスターだと告げた言峰に対して、そうショックを受けなかった事が意外だった。
……思えば、初めからあの男とは馬が合わなかった。
心の何処か―――いや、もっと元始的なところで、あの男とは相容れてはいけないと直感していたからかもしれない。
「、ら――――!」
……ともあれ、油断ならなかった言峰はサーヴァントを失った。
残るマスターは三人。
柳洞寺に潜むというアサシンのマスターと、アーチャーのマスターである遠坂。
それと、
「こらーーーーー!
なにボウっとしてるのよシロウーーーーっ!!!!!」
「うわあっっっっっっ!?」
ば、バーサーカーのマスターである、目の前の少女だけなんだけど――――!?
「イ、イリヤ……!? なな、なんだよいきなり飛びかかってきて、びっくりするだろっ……!?」
「なによ、いきなりじゃないもん! さっきからずーっと呼んでるのに、シロウが気付かなかっただけじゃないっ」
「え……?」
……あ。
そういえば、さっきから耳鳴りらしきものがしてたけど、まさか。
「……うわ。その、もしかして商店街からずっとか?」
「そうだよ。シロウ、難しい顔して歩いてるんだもん。
邪魔しないように後ろから呼びかけたのに、無視してドンドン進んでいっちゃうんだから」
「あ、いや、それは考え事をしてたからであって、イリヤを無視したわけじゃ……」
「それに公園にだって来なかったわ。わたし、ずっと待ってたのに」
あ……そ、そうだった。
午後になったらあの公園で待ち合わせるのは、もう暗黙の了解になっていた筈だ。
いくら言峰と話があったからって、そんな事を忘れるなんて――――!
「……すまん、忘れてた。ごめんイリヤ」
「ふーんだ。そう簡単に許してあげないんだから。わたしホントに怒ってるんだからね」
むー、と睨んでくるイリヤ。
……うう、どうしたものか。
約束をすっぽかして待ちぼうけさせてたんだ、イリヤが怒るのも当然だろう。
ここは精一杯の誠意を見せて許してもらうしかないのだが、となると――――
◇◇◇
約束を破ってしまった以上、どんな弁明も言い訳にすぎない。
俺は俺に出来る事でイリヤに許してもらうしかないんだが、何をすればイリヤが喜んでくれるか分からない。
なら―――マスターらしく、令呪でイリヤの望みに応えるのはどうだろう。
「なによ、急に黙り込んで。そんな顔したって誤魔化されないわ。シロウが謝らないんなら、わたしだって謝らないんだから。シロウがわたしを嫌いだって言うなら、わたしだって今すぐ――――」
「―――決めた。イリヤ、サーヴァントだ。約束を破った代償として、一回だけイリヤのサーヴァントになるっていうのはダメかな」
「シロウを人形に……って、サーヴァント!?」
「そうだ。もうどうやったって今日の約束は守れないだろ。だから、その代わりに一回だけイリヤの言うコトを聞く。それならイリヤだって、少しは気が晴れるんじゃないのか」
「――――――――――――――――――――――
―――ううん、そんなのウソ! シロウは公園に来なかったもの。口でした約束なんてすぐ終わっちゃうんだから、シロウの言葉なんて信用しないわ」
「分かってる。だから一回分の令呪として、イリヤの言う事を聞くんだ。一度きりだけど、その代わり絶対に破らない約束だ。それなら信用してくれるか」
「し、信用って……けど、わたしシロウに対する令呪なんて持ってない、し……」
「ああ。けど必ず守る。契約もないし実際令呪を使うワケじゃないけど、ちゃんと令呪として受け止める。
イリヤはマスターで、俺もマスターだ。自分の刻印に誓って、令呪と認めた言葉は裏切らない」
背をかがめて、まっすぐにイリヤを見て誓う。
銀の髪の少女は静かに息を呑んで、
「……ほんとに、何でも聞いてくれるの?」
そう、不安そうに視線を返した。
「もちろん。だって令呪だぞ? それが俺に出来る範囲の事なら、なんだって言うコト聞くぞ」
不安げな視線を、心からの笑顔で受け止める。
「……………………」
長い沈黙。
イリヤは目を逸らして、ぎゅっと両手を握り締める。
「…………わかった。それじゃあ、……に、連れていって」
「え……?」
聞き違い、だろうか。
令呪扱いであるはずの言葉は、なにか、とても小さな願いだった。
「イリヤ……? ちょっと待った、令呪だぞ? 絶対言うこと聞くんだぞ? なのに、ホントにそんなコトでいいのか?」
「……………………」
「他になんかないのか? 幾らなんでもそんなの簡単すぎる。ほら、遠慮なんかしなくていいんだから、もっとマシな――――」
「え、遠慮なんてしてないもん! シロウのウソつき、なんだって聞いてくれるって言ったじゃない!」
「あ、いや、聞くけど! けど、今のでホントにいいのかイリヤ……!? だってそんなの、ほら」
令呪じゃなくても、言ってくれれば幾らでも付き合ってやれる事、なのに。
「……そんなコト、じゃないよ。わたし、ずっとそういうのに憧れてたわ。だからそれが、一番シロウにしてほしいコトなんだもの」
顔を真っ赤にして、断られる事を恐れて、身を震わせながらイリヤは言う。
「――――――イリヤ」
そのありったけの勇気に、つまらない疑問なんて挟める筈がない。
どんなに些細な事でも、それはイリヤの一番の願いだった。
なら―――俺はイリヤの騎士として、精一杯彼女を守らないといけない。
「分かった。バカなこと言ってごめんな。
―――それじゃ行こうイリヤ。小さな商店街だけど、二人でまわれば楽しくなる」
自分の言い回しが照れくさくて、つい顔が熱くなる。
赤面する自分の顔。
それを隠さないで、まっすぐイリヤに手を差し出した。
イリヤの願いは、本当に些細なコトだった。
“買い物に連れて行って” 特別な願いなんかじゃない。
望めば幾らでも叶う、ただの日常をこそイリヤは望んだ。
……それにどれほどの意味が込められていたのか、俺には分からない。
ただイリヤがそう望んだ通り、敵も味方もなく、マスターとしてでもなく、兄妹のように商店街を歩いた。
俺には見慣れた店、見飽きた景色を、イリヤは目を輝かせて駆けていく。
イリヤのはしゃぎようは、見ているこっちまで楽しくなるほどだ。
屈託のない笑顔のまま商店街を歩くイリヤ。
あんまりにも楽しそうなその姿は、いつまでもこの時間が続けばいいのにと思わせる。
―――なのに、気付いてしまった。
一瞬たりとも笑顔を崩さず、踊るように駆けていく後ろ姿。
そこに幸福などない。
少女は悲しいから―――ユメから覚めたくないから、ただ必死に笑顔でいるだけなのだと。
「シロウ、こっちこっちー! ほら、コーヒー冷めちゃうよー!」
あったかい缶ジュースが珍しいのか、イリヤは二人分のジュースを持って公園へ駆けていく。
いつまでも続いてほしいと思おうが、もう無理をしなくていいと唇を噛もうが、終わりは当然のようにやってくる。
深山町の商店街は狭い。
どんなにゆっくり回っても、一時間ですべて回ってしまえるのだ。
「はい、とうちゃーく! わたしとシロウは最果ての駅につきました。
はい、そんなワケでシロウは休憩です。今までお疲れさまでした」
クルッとベンチの前で振り返るイリヤ。
座って休みたいんだろう、と促されたベンチに腰を下ろす。
……と。
自分で誘ったクセに、イリヤはベンチに座らない。
「イリヤ? なんだ、座らないのか?」
「うん。はい、シロウのジュース。シロウはコーヒーで、わたしはお汁粉なんだよね」
イリヤは俺の分だけポケットから出して、しっかりと俺に手渡した。
……彼女が買ってとせがんだ只一つの買い物は、コートのポケットに仕舞われたままだ。
「けどイリヤ、よくお汁粉なんて知ってたな。向こうじゃそんな飲み物ないだろ」
「そうね。わたしも見るのは初めて。すっごく甘いからわたしには無理だよって、昔教えてもらったの」
にっこりと笑って、タン、とイリヤはステップを踏んだ。
くるくると踊るように、公園の真ん中へ足を運んでいく。
「イリヤ……?」
「令呪はここでおしまいにするね。ちょっとの間だったけど、ありがとうシロウ」
一点の曇りもない声。
何の未練もない笑顔で、唐突に、イリヤはユメの終わりを告げた。
「な――――ありがとうって、どうして。まだ一時間も経ってないじゃないか。商店街が飽きたなら新都に行けばいい。あそこならここよりもっと、」
「いいの。だってここが終点だもの。楽しかったけど買い物はここで終わり。もうじき日が沈むから、そうしたらもとの関係に戻りましょう。
わたしはシロウを殺しにきたマスターで、シロウは自分のためにわたしと戦うマスターなの。そんなの、出会う前からちゃんと分かっていたんだから」
迷いのない笑顔に、どんな言葉を返せるだろう。
イリヤは俺以上に日常を望みながら、俺以上に、その幻想を切り捨てる。
「―――そうか。じゃあ、この公園を出たら」
「ええ、わたしとシロウは敵同士よ。いつか夜に出会ったら、あの時の続きをするしかないもの。
だからぁ、わたしに殺されたくないなら、先にわたしを殺さなきゃダメだよシロウ」
僅かに息を殺して空を仰ぐ。
―――頭上は一面の灰色だ。
幸福な時間はすぐに終わって、町は重い天蓋《てんがい》に包まれる。
ずっと続いてほしいと思いながら、それがイリヤにとって辛い事でしかないと気付いてしまった時に、こうなる事は分かっていた。
ここが終点だと少女は言った。
最果ての駅。
行き先もなく、後戻りも出来ない場所で、イリヤは無邪気に笑い続ける。
「―――うわあ! シロウ、雪だよ雪!」
弾む声に意識を取られる。
公園に視線を戻せば、そこには遠い景色があった。
一瞬、幻かと目を疑う。
降り始めた雪にではなく、目の前でステップを踏むイリヤの姿が、有りえないものに見えて。
「――――――――」
雪は一時的なものだろう。
粉雪は弱々しく、すぐに止んでしまうように見える。
……その中で、不確かな冬の中で、イリヤの周りだけがあんなにも白い。
銀の髪の少女は、冬に愛されているかのように、一時《いっとき》の雪景色と戯《たわむ》れている。
「あは、この町の雪はあったかいね。わたし、普通の雪って初めて見たわ」
それが何より嬉しいのか、イリヤはクルクルと回り続ける。
「元気だな。イリヤは雪が好きなのか?」
「ええ。冷たいのは嫌いだけど雪は好きよ。優しくてお母さまに似ているもの。この髪もね、白くて女の子らしいって誉めてくれたの」
弾むような笑顔。
それが誰に言われた言葉なのか、理由もなく、判ってしまった。
「キレイな雪。キリツグが住んでた土地にも、ちゃんと雪は降ってたのね」
屈託のない笑顔は、俺に向けられたものじゃない。
……イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
切嗣《オヤジ》を殺しに来たという白い少女。
彼女が切嗣を狙う理由、彼女が俺を殺そうとする理由。
……そんなもの、本当はとっくに気がついている。
アインツベルンを裏切った男。
全てを捨ててこの町で暮らし始めた切嗣。
切嗣の息子として、その背中を追い続けた無縁の子供。
―――それが、どんな犠牲の上になりたっていたか、俺はマスターになるまで知らなかった。
雪はイリヤを隠すように降り続ける。
遠い異国から来た少女は、笑顔のまま別れを告げた。
「じゃあねシロウ。また一人で出歩いてるのを見つけたら、その時も遊んであげる!」
無邪気な笑顔のまま、白い少女は公園から消えていった。
冬の象徴が去り、雪は命を断たれたように弱まっていく。
一時の幻。
積もる事のなかった結晶を払って、最果ての駅を後にした。
◇◇◇
「ん?」
玄関には桜の靴があった。
時間も時間だし、部活が終わって帰って来てるんだろう。
「ただいまー……って、なんだ。桜、寝ちゃってるじゃないか」
部活で疲れたのか、桜は居間で眠っていた。
テーブルに突っ伏して、ではなく畳であお向けになっているあたり、疲労困憊というところだろう。
「……だよな。風邪ぎみだっていうのに学校と部活、おまけにうちの手伝いだもんな。桜、頑張りすぎだ」
桜を起こさないように居間を横切る。
で、
部屋から毛布を持ってきた。
「ほら。毛布もかけないで寝たらまた風邪ひくぞ」
静かに、寝た子を起こさないように毛布をかける。
――――と。
「ん……先、輩……」
寝ぼけているのか、心ここにあらずという目で、桜が俺を見上げてきた。
「っ――――」
その仕草は、なんか、違った。
俺の知ってる、エプロンをして台所で笑っている桜じゃないっていうか、その―――今まで見たこともないぐらい、色っぽい仕草だった。
「さ、桜、毛布もってきた、けど――――――」
ひどく落ち着かなくなって言い訳をする。
途端――――
ふわりと、白いものが首に巻きついてきた。
「――――――――」
桜の吐息が近い。
首に伸ばされた指と、もう目の前にある女の体が、否応なしに視界に飛び込んでくる。
「ば――――桜、ちょっと――――」
うまく息ができなくて、声が出ない。
桜は寝ぼけている。
とろんとした目で俺を見ているのが何よりの証拠だ。
だから、こんなのはすぐに振りほどいて、桜から離れなくちゃいけないってのに――――
「ぁ――――う」
目が、桜の体から離れない。
……はらり、と首筋から流れる髪。
悩ましげに吐息を漏らす唇と、大きく張り詰めた胸元。
知らないうちに成長した体は十分に大人で、間近にいるだけで、正直目眩がした。
「――――先、輩」
首にかけられた手に、僅かな力が篭る。
……顔が近づく。
艶やかな唇に誘われて、逆らえなくなる。
「――――――――」
理性が停止している。
今まで禁じていたこと、これからも気付いてはいけないこと、そんなつまらない良識が、壊れていく。
「――――さく、ら」
胸の動悸が激しい。
痛いとさえ思える心音が鼓膜に響くなか、もう何も考えられなくなって、そのまま――――
「シロウ、帰ってきたのですか?」
「うわわわわわーーーーーーーー!」
跳び退く。
スパン、とかつてない速度と機転をみせ、油断なくテーブルの上に着地する……!
「素晴らしい動きです。しかしシロウ、テーブルの上に乗るのはどうかと思うのですが」
「――――――そうだな。ちょっと、気が動転してた」
のそのそとテーブルから降りる。
桜は――――
「ん……うう、ん……」
伸ばしていた両手をぱたんと床に落として、居眠り続行中だった。
「シロウ? 顔が真っ赤ですが何かあったのですか? 視線も落ち着かないようですし、気にかかる事でも?」
「べ、別になんでもないっ。それより道場に場所を変えよう。桜を寝かせといてやりたいし、夕飯まで手合わせしたい」
「ふむ、いい心がけですシロウ。昨日の休息で私の体調も万全ですし、今夜の戦いに備えるとしましょうか」
こっちの挙動不審を疑問に思う事もなく、セイバーは道場に向かっていった。
「――――はあ」
と、とにかく助かったぁ。
セイバーに見られなかった事もだが、あのまま勢いに任せてどうにかならないで、本当に良かった。
……その、寝ぼけてる桜に何かしてしまったら、申し訳なくて腹を切ってたところだぞ、ほんと……
◇◇◇
「けど先輩。稽古もいいですけど、ほどほどにしないとダメですっ。突き指でもタイヘンなのに、指の骨が折れかかるなんて普通じゃないと思います」
「いつ……! さ、桜、もうちょっとゆっくり包帯巻いてくれ、たのむ」
「痛いのは当たり前です。こんな怪我してるのに放っておいたら腫れるに決まってるじゃないですかっ。これも天罰と思って諦めてください」
「っ……!」
ぐるぐるぐる、と中指をテーピングしてくれる桜。
突き指の手当ては弓道部でなれているのか、実に手際いい。
手際いいんだけど、桜にしてはかなり荒っぽいのではなかろうか。
「それにセイバーさんもセイバーさんです。
先輩より上手ならもう少しやりようがあるんじゃないですか? 先輩、体のところどころが腫れあがってて、これじゃお風呂にも入れません」
「桜。言葉を返しますが、それはシロウが望んだ事です。
私はシロウの要求に応えたにすぎない。
それに今夜の怪我はシロウにも責任がある。自分から手合わせを願ったというのに、集中力がまったくなかったのですから」
じろり、と不満げにこっちを見るセイバー。
「う――――」
それを言われると、申し訳なくて押し黙るしかない。
「え……先輩、気分でも悪かったんですか?
……その、不確かな気持ちのまま道場に入るなんて、先輩らしくないですよね……?」
「まったくです。一体何に気を取られていたのですかシロウは。竹刀を握っても見ているのは空ばかりで、気迫がまったく感じられなかった」
「……いや。それは、その」
原因は目の前にいる桜なのだが、そんなこと言えるワケがない。そればかりか、思い出すとまた心臓がおかしくなりそ――――
「先輩?
……あの、まだ痛いところがあるんですか……?」
桜は心配そうに覗き込んでくる。
「っ……! い、いや、もう大丈夫だっ! 食いすぎで胃がもたれただけだから、お茶でも淹れてくれれば助かる!」
咄嗟に桜から顔を離す。
「そうですね。それじゃ食後のお茶、淹れてきます」
桜はお茶の支度をしに台所に立つ。
「……はあ」
……ほんと、心臓に悪い。
さっきの寝姿が脳裏に焼きついてしまっていて、傍に来られると否応なしに意識してしまう。
「セイバーさん、お茶でいいですかー?」
「はい。温《ぬる》めでお願いします」
桜はテキパキとお茶を淹れる。
……その後ろ姿は、随分と見慣れていたものの筈なのに、初めて見るような新鮮さがあった。
「っ……」
ああもう、なんだってこう思い出しちまうのか。
セイバーに指摘されたように、さっきから俺はどうかしてる。
桜を見るだけで、その、以前の寝みだれた姿とか、さっきの柔らかそうだった唇を連想してしまう。
……こんなの、劣情だ。
俺にとって桜は家族で、大事な後輩なんだ。
それを―――なんで今になって、こんな風に意識してしまっているのか。
「――――――――」
………………くそ。
分かってる、ホントはちゃんと分かってる。
桜はキレイだ。そんな事、ずっと前から気付いてた。
けど、それに気付いていても、桜にだけは先輩として接してきた。
桜の事は好きだ。
……自分でも知らないうちに桜がいてくれる事を当たり前だと思っていて、それに安堵している自分がいる。
けれど、好意の意味合いが違う。
俺は桜を抱きしめたいと思った事はない。
女の子だってちゃんと分かっていながら、異性だと意識した事はなかったのだ。
ただ、それは。
思った事がないのではなく。
……今まで、思わないようにしていただけではなかったのか。
「先輩?」
「どうぞ、お茶はいりました」
「あ――――ああ、さんきゅ、桜」
「どういたしまして。先輩も夕食ごくろうさまでした」
嬉しそうに桜は笑う。
……ん。そんな顔をされると、こっちも嬉しくなってしまう。
夕食の豚つくね焼き野菜添えは随分気に入ってもらえたようだ。
桜はセイバーにもお茶を淹れて、自分の定位置に戻っていった。
食後のお茶が嬉しいのか、満足そうに緑茶を受け取るセイバー。
「いただきます。……しかし大河はどうしたのでしょうね。ここのところ彼女の姿をあまり見ませんが」
「え? ああ、藤ねえならさっき連絡があって、今夜は来れないって。詳しくは聞けなかったけど、病院を回るとかなんとか言ってた」
「そうですか。大河はシロウの癖に詳しいですから、もう少し話が聞きたかったのですが。
……仕方ありません、シロウの強化は次の機会にするとしましょう」
「―――む。もしかして、昨日と今日の稽古はまだ序の口だったのかなセイバー」
「当然です。今までの鍛錬は、単に“今のシロウができる事”を体で知ってもらっただけですから。
シロウの特性を生かした生存方法を考慮するのはこれからです」
「――――そうか。ハードっぽいな、それ」
「厳しい、というのであれば厳しいですが。そもそも、今までの鍛錬は準備運動にすぎません」
「うわ」
そ、そうなのですか。
こりゃ今晩やってこない藤ねえには感謝するべきなのか、しないべきなのかフクザツなところだ。
「なんですか今の溜息は。シロウ、これは貴方の為になる事であって――――桜?」
セイバーの視線が桜に向けられる。
「え?」
釣られて桜を見る。
と――――
「――――――――」
正座したまま、桜は苦しげに呼吸を乱していた。
「桜……!」
駆け寄って肩を揺さぶる。
「え……え、せ、先輩、なんでしょーか……!?」
「バカ、なんでしょうか、じゃないだろ! おまえ、また俺たちに黙って無理を――――」
……して、なかった。
桜の肩は熱くないし、桜本人もいたって元気で、不思議そうに俺を見上げていたりする。
「あれ―――いま、その。桜が、苦しそうにしてたから」
「あ。いえ、違いますよー。わたし、ちょっと寝ちゃってただけです」
あはは、なんて照れ笑いをする桜。
「……脅かすな。昨日の今日なんだ、風邪がぶり返したと思っただろ」
「すみません。今日は一日中眠くて、気を抜くと目蓋が落ちちゃうんです」
「そっか。ま、夕方も寝てたしな。疲れてるならもう休んでいいんだぞ。後片付けは俺がやっとくから」
「ぁ……は、はい、そうですね。それじゃお言葉に甘えて、先に失礼させてもらいます」
ぺこり、と一礼して桜は居間を後にする。
足取りはしっかりしているし、本人の言う通り寝不足なだけなんだろう。
◇◇◇
月が陰《かげ》る。
強い風に煽られた雲が、白い月を隠している。
桜に気付かれないよう外に出る。
時刻は午後十時―――早い時間に巡回を始めたのは、昨夜の遅れを取り戻す為だった。
キャスターを倒し、安心した油断をついて新たな被害が拡がったのだ。
キャスターが生きていて、今夜もその手を伸ばすというのなら、今度こそ決着をつけなくてはならない。
坂道を下りて交差点に着く。
問題はこれから何処に向かうかなのだが――――
「――――シロウ。サーヴァントの気配です」
「……! それ、近いのかセイバー」
「距離的には問題ありません。シロウの足を考慮しても、全力で追跡すれば五分ほどで追いつけます。
――――マスター、指示を」
追うか様子を見るか、その選択をセイバーは求めている。
が、そんなの考えるまでもない。
「行くぞ。先導してくれセイバー」
走り出すセイバー。
その方角は東―――深山町と新都を繋ぐ大橋に向かっているようだった。
「っ…………!」
公園に踏み入った瞬間、異様な気配に吐き気がした。
空気が濁っている。
鼻をつく異臭は、何かが腐り落ちる時のものだ。
「う……、つ」
此処にいるだけで胃液が逆流する。
軽い目眩と、喉元の不快感に意識が割れかける。
「シロウ、アレを――――!」
「っ……!」
嘔吐感をかみ殺して公園を見据える。
そこには――――
「え、衛宮くん……!?」
「……セイバー」
俺たちに背を向けた状態でいる遠坂たちと、
「ぬ? どうやら新手がきたようじゃな」
あの老人―――間桐臓硯の姿があった。
「――――――――」
状況は一目で理解できた。
遠坂と間桐臓硯は戦っている。
遠坂の足元には何か、小さくて判別できないモノが何十匹と散らばっている。
遠坂のサーヴァント―――アーチャーの周囲にはその数倍だ。
アレは間桐臓硯が、何らかの魔術を用いて二人に仕掛けたと見るべきだろう。
「ほう。誰かと思えばセイバーのマスターか。
いやはや、これはしたり。助っ人を用意しておくとは、遠坂の娘にしては頭が回る」
「そんなワケないでしょう。アンタを押さえつけて白状させるのなんて、わたしとアーチャーだけで十分よ。
あそこにいるのはただの観客、わたしとは関係ないんだから」
遠坂は俺たちに振り返らず、ただ間桐臓硯のみを凝視する。
……が、その背中で、
「アンタなにやってんのよ、こんな時にやってくるなんて死にたいの!?」
なんて文句をバリバリ言っていた。
「シロウ」
「……わかってる。今は遠坂たちと争ってる場合じゃない」
遠坂が間桐臓硯から目を離さないように、俺もあの老人から危険を感じていた。
……人の血を吸う事で生き延びてきたという怪物。
慎二をマスターにして、聖杯を得ようとしたマキリの末裔。
そんなヤツが、大人しくこの戦いを傍観する訳がないんだから。
「ふむ。隠しておきたかったが仕方あるまい。ワシとて、サーヴァントを二体敵にまわしては生き残れんからのう」
手にした杖を鳴らす。
奇怪な杖がカツン、とレンガ作りの地面を打ち付けた瞬間、
倒したはずのモノが、老人を守るように出現した。
「キャスター……! くそ、本当にまだ残っていやがったのか……!」
「シロウ、下がって。あれはキャスターですが、キャスターではありません。……外装、能力はそのままですが、意思である魂を感じない。
アレは―――キャスターの死骸を別のもので補っただけの模造品です」
前に出るセイバー。
その手には不可視の剣が握られている。
「ほう? さすがはセイバー、一目でワシのカラクリを見抜きおったか。いやはや、これでは慎二程度のライダーが敵わぬのも道理。
キャスターも成す術《すべ》無くおぬしに敗れたように、そこなアーチャーとておぬしの敵ではあるまい」
「―――口上はそれだけか。
我らを謀った罪だけではない。
敵同士とはいえ、キャスターとてサーヴァントに選ばれた英霊だ。その亡骸を弄《もてあそ》ぶからには、相応の覚悟があるのだろうな」
「さて。ワシは使われなくなったモノを拾っただけよ。
それを外道と言うのなら構わぬがなセイバー、それではおぬしの行く末は畜生にも劣ってしまうぞ?
なにしろその身は最高のサーヴァント。
ならば―――このような死骸より、おぬしを隷奴にするが最上じゃ。その体、生きたまま我が蟲どもに食わせ、そこな死骸と同じ命運を辿らせよう」
「貴様」
「カカカ、何を憤《いきどお》る! 所詮サーヴァントなど主の道具、どのように使役するかなど問題ではあるまい! 令呪で縛られるも死骸となって使われるも同じ、ならば心ない人形と化すがうぬらの為であろう!」
―――二人のサーヴァントが地を蹴る。
セイバーとアーチャーは申し合わせたように、呵々《カカ》と哄笑《わら》う妖怪へ突進した。
二つの剣風がキャスターを断つ。
勝負など初めからついていた。
キャスターではセイバーに勝てない。
間桐臓硯に操られている、というキャスターであっても、その相性だけは変わらない。
キャスターの魔術はセイバーには届かず、セイバーは今一度、かつて倒した相手にとどめを刺す。
キャスターの外装《からだ》が崩れていく。
セイバーはキャスターの傍らに立ち、その様を最後まで見届けていた。
今度こそ完全に帰還《きえ》るように。
地上の魔術師に、その亡骸を冒涜される事などないようにと。
「アーチャー……!」
遠坂の声。
見れば間桐臓硯の姿は消えていた。
ヤツはキャスターを捨石にしてこの場から逃れたのだ。
だが――――
「ぬ――――!?」
その為に、セイバーはキャスターを受け持った。
アーチャーは初めからキャスターには目もくれず、
ただ操り手のみを追い、
「そこまでだ」
躊躇うことなく、間桐臓硯の体を横一文字に両断した。
「ぬ――――」
ずるり、と臓硯の上半身が地に落ちる。
「ぬ、う、なん、と――――!」
ずるずるという音。
腰から下がなくなった老人は、内臓と血液、それ以外の何か異質なモノを零しながら、それでもまだ生きていた。
生きて、両手だけで体を動かし、アーチャーから逃れようと地面を這う。
「終わりだ魔術師。過去からの経験でな、おまえのような妖物は早めに処理する事にしている」
這いずる臓硯に短剣を振り上げるアーチャー。
それで終わりだ。
間桐臓硯がどれほどの不死身性を持っていようと、頭を潰されれば息絶えるだろうし―――既に、ヤツは死にかけていた。
サーヴァントのように自然治癒能力があるでもなし、巨大すぎる傷口は刻一刻と間桐臓硯の死期を早めている。
それでも万全を期して、アーチャーは短剣をもって魔術師の命運を断つ。
「――――え――――?」
否、断とうとして、その動きを停止した。
「――――――――」
それを感じたのはアーチャーだけじゃない。
この場にいた全員。
遠坂とセイバー。
俺とアーチャー。
それだけでなく、死にゆく間桐臓硯さえ、ソレの登場に、愕然と体を震わせた。
――――公園が闇に染まる。
湿っていた空気が一瞬にして凍りつく。
心臓は高く響きながらも、心拍数を下げていた。
何か、よくないモノが近くにいる。
だから逃げなくてはいけない。
それとは関わってはいけない。
そう、頭よりも体が理解しているというのに、逃げようという命令を体が拒否している。
逃げても無駄だ、と。
出会ってしまったからには決して逃れられないと、逃走を拒否している。
「――――」
震える体、麻痺した首を動かす。
公園の入り口に視線を向ける。
――――そこに。
その“影”は立っていた。
「――――――――」
空間が歪んでいる。
それが自分だけの錯覚、極度の緊張からくる平衡感覚の乱れなのだと信じたい。
それは、見たこともない何かだった。
影がそのまま直立したような立体感のなさ。
吹けば飛びそうなほど軽い存在感。
だがこの場で何よりも空間を支配するもの。
知性もなく理性もなく、おそらく生物でさえあり得まい。
“黒い影”はその場に留まり、蜃気楼のように立ち続ける。
その光景を、
なぜ、懐かしいとさえ、思ってしまったのか。
「あり得ぬ―――」
しわがれた老人の声がする。
この場において、声を出せるのは死にゆくその老人だけだった。
「あり得ぬ、あり得ぬ、あり得ぬわ――――!」
悲鳴をあげて這いずっていく。
アーチャーの剣から逃れ、間桐臓硯はいち早く公園から離脱した。
……臓硯にそれだけの余力があった訳じゃない。
ヤツは、ただ。
不吉な影を恐れる一心で、死にゆく体に鞭を打っただけだった。
「――――――――」
誰も動けない。
俺と遠坂は戦慄から。
セイバーとアーチャーは魅入られたように動かない。
――――深海に棲む魔物。
何もかも停止し、静まり返った世界に、あの影だけが揺らいでいる。
それが、
初めて、意思らしきモノを見せた。
「あ――――」
アレには目がなく、手足がなく、体がない。
だというのに、その足元には影が落ちていた。
月の光を受け、長く長く伸びる影。
影はゆらりと、獲物を見つけた蛇のようにその切っ先を遠坂に向け――――
「――――――――」
遠坂は動かない。影の異変に気付いていない。
セイバーは遠く。アーチャーは走り始めているが、遠すぎて間に合わない。
「と――――」
影が伸びる。
予兆もなく唐突に、影は一瞬で数十メートルもの地面を覆い、
「――――おさか、危ないっ…………!!!!!」
夢中で、遠坂を弾き飛ばしていた。
「 くん……!?」
声が聞こえない。
遠坂を突き飛ばした瞬間、得体の知れないモノに飲み込まれた。
ざぱん、という音と、体を押し潰そうとする感覚。
「――――、――――あ」
なら、予感は間違っていなかった。
ダンプカーみたいにつっこんできたのは水流で、それに頭から飲み込まれた自分は、いま深海にいるんだから。
だが熱い。
海にしては、この海水は熱すぎる。
煮えたぎったコールタール。
肌に纏わりつき、生命活動を根こそぎ遮断させていくそれは、海の中にいるというより
「あ――――ヴ」
吐《キミガ》き気《ワルイ。》がする。
吐《キミガ》き気《ワルイ。》がする吐《キミガ》き気《ワルイ。》がするハ《キミガワルイ》ハハハハ吐《キミガワルイ》き気がする《キミガワルイ》吐き気が吐《キミガワルイ》き気吐き気《キミガワルイ》ハキハキ《キミガワルイ》ハキハキ《キミガワルイ》破棄破棄《キミガワルイ》破棄破棄《キミガワルイ》気持ち悪《キミガワルイ》い気持ち《キミガワルイ》悪いキキ《キミガワルイ》キキ気持《キキキキキ》ち悪い気《キミガワルイ》持ち悪い《キミガワルイ》日持ち悪い気味が悪い気味が悪い黄身が割るい《キミガワルイキミガワルイキミガワルイキミガワルイキミガワルイキミガワルイ……!!》 ウサギの死体。片目がない。腐って柔らかく瑞々しい口にねじこまれる。食道をぬちゃぬちゃと塗りたくっていくウサギの死体。生命を食べているという明確な感覚腐っていようと命は命。リアルだ。調理したモノでは味わえない。気持ちが良い。美味い不味いの前に味がしない。それでも目の前にある限りは食べさせられる。評判の店。行列になっている。触れ込みはウサギを食べてあげる店。店員は一人だけ。もちろん行列はみんなウサギ並ぶ並ぶ。並んだはしから腐っていく。蛆が湧いている腐肉になっているのはどちらなのか。蛆が湧いているのはどちらなのか。生きているのはどちらなのか、食べているのはどちらなのか――――
――――体が溶ける。
心が融ける。
魂が解けていく。
「あ――――、」
巻きついてくる黒い指。
夥しく貪欲に、一部の隙もなく網羅しようと捕食する。
「ぁ――――、」
体は黒い泥に落ちる。
海面は遠く、際限なく沈んでいく。
悉く丁寧に、一部の開きもなく抱擁しようと補強する。
「――――――――」
手足が消えた。
俺は真っ黒になって、そいつの一部になったまま、深い終着に落ちていった。
「……くん、衛宮くん……!」
「あ……、つ」
その声で、目が覚めた。 ……体が熱い。
吐き気は治まらず、頭はグラグラで、一人で立つ事さえできなかったが。「目が覚めた!? 大丈夫、わたしがわかる……!?」
ぱんぱん、と両頬を叩かれる感覚。
「……わかる。こんな時に人を平手打ちすんのは、間違いなく遠坂だ」
「――――よかった。減らず口を言えるなら大丈夫ね」
……いや、今のは減らず口じゃなくて、素直な感想なんだけど、な。
「馬鹿、なに笑ってるのよ。……言っとくけど、礼は言わないわよ。あんな真似は二度としないで。助けてもらった相手に死なれたら、借りを返す事もできなくなる」
……キッと見据えてくる。
が、そう言う遠坂は片手でずっと俺の背中をさすりつつ、もう片手で体温を確かめるように手のひらを握っていた。
「……遠坂。あの、ヘンなのはどうした」
「消えたわ。衛宮くんが影の上に立って、倒れたと思ったらもういなかった。……アレ自身はあっちの方からやってきたみたいだけど」
遠坂は南の空―――南西の方角に視線を向けて、ぎり、と歯を噛む。
「……そうか。けど俺、随分と長く、ヘンなのに絡まってた気がするん、だけど」
「……ほんと? 貴方がわたしを突き飛ばしてから今まで、十秒経ってないわよ。その証拠に、ほら」
「シロウ……!」
セイバーが駆けつけてくる。
「また貴方は無茶な真似をして……!」
セイバーは倒れた俺に肩を貸して、遠坂から引き離した。
「離れなさい、アーチャーのマスター。それ以上我がマスターに近寄るのなら、敵対行為とみなします」
「え、なに? もしかしてわたしも敵?」
「当然でしょう。貴方はマスターであり、アーチャーを連れている。
何のつもりでシロウが貴方を庇ったかは知りませんが、みすみす我が主に近づかせる事はできない」
遠坂を睨むセイバー。
……しまった。そう言えば、セイバーには事情を説明して、いなかった。
「……いや、違うんだセイバー。遠坂とは、いま休戦中で、キャスターを、倒すまで――――」
「シロウ!? しっかり、気を落ち着けて……!」
「……だから、遠坂は敵じゃない。そういう、約束なんだ」
「…………っ。わかりました、貴方がそう言うのなら彼女とは争いません。ですから」
「……ああ、悪い。正直、もう喋れ、ない」
吐き気と悪寒で途絶えそうになる意識を、必死に持ち堪える。
……倒れるのは帰ってからだ。
それまではなんとか、意識だけでも保っていないと。
「助かったか。まあ本体に触れた訳でもなし、実体のあるモノなら瘧《おこり》を移された程度だろう」
アーチャーがやってくる。
臓硯を逃がしたというのにアーチャーは無表情で、この中で唯一平静を保っていた。
「……アーチャー。貴方は、今の影が何者か知っているのですか」
「―――さてな。だがこれで一つはっきりした。キャスター亡き後、町の人間から魔力を吸い上げているのは今の影だろうよ」
……関心なさげに答える。
そうしてアーチャーは、他の誰でもない、地に伏した俺に視線を向けた。
「どうやら、私怨を優先できる状況ではなくなったようだ。そうだろう、衛宮士郎」
「……え?」
「アレがなんであるかは、おまえの直感が正しい。
……ふん。サーヴァントとして召喚されたというのに、結局はアレの相手をさせられるというワケだ」
「アーチャー……? 貴方は、一体」
「そうか。君はまだ守護者ではなかったな。ではあの手の類と対峙した事はなかろう。……まったく。何処《いづこ》にいようとやる事に変わりがないとはな」
……遠坂を促し、赤い騎士は俺たちの前から去っていく。
ただ、その寸前。
「……いや、そう悲観したものではないか。
―――まだ事は起きていない。後始末に留まるか、その前にカタをつけるのか。今回は摘み取れる可能性が、まだ残されているのだから」
頭上の星を見上げて、アイツはそんな言葉を呟いていた。
……点滅を繰り返す。
熱は体中に浸透して、自分が歩いているという感覚がない。
瘧のようだ、と誰かが言ったせいか。
熱病を持った蚊が体内に発生して、それが、今ではビッシリと指先まで埋まっている、気がする。
「せ、先輩……!?」
……ぼうっとして、夢と現実の区別がつかない。
本当はもう眠っていて、夢の中で、必死に部屋に帰ろうとしている、ような。
「桜……? 睡眠中ではなかったのですか?」
「――――退いてください。そんな支え方じゃ、先輩が辛くなる」
「いえ、これは私が任された事です。
それに何らかの病《やまい》だとしたら、貴方にまで移ってしまう」
「……そんな事を言ってるんじゃありません。
セイバーさん。先輩と貴方が何をしているのかは知りません。訊いても答えてもらえない事だってわかっていますから、問いただす事もしませんでした」
「けど、貴方が来てから先輩は毎日辛そうでした。
……それだけならよかったのに、今夜は怪我をして帰ってきたんです」
「桜、それは」
「―――セイバーさんの事情は知りません。けど、もう少しうまいやり方があるんじゃないですか。
それが出来ないっていうなら―――せめて、先輩を巻き込むのはやめてください」
……部屋に戻ってくる。
誰かが隣りにいて、寝かしつけて、くれているような気がする。
「――――、――――」
耳元で囁かれた言葉がなんであったのか、聞き取れなかった。
自分の不注意だ、と謝ったのか。
ごめんなさい、と謝ったのか。
ともかく、それが最後に聞いたコトだ。
意識は横になった事で途切れ――――
最後までその光景が、蟲のように蠢動《しゅんどう》していた。
◇◇◇
湿った密室に風が入る。
開かれた扉からは足音が二つ。
音は慌ただしく床を蹴るものと、引きずられて連れてこられたものだ。
「――――ほら、始めろよ」
だん、と。
暗い密室に重い音が響く。
慌ただしく登場した男―――間桐慎二が連れてきた、もう一つの人影を部屋に投げ入れた音だ。
密室の床は、ずるずると蠢《うごめ》いていた。
蟲たちの活動期だったのか、床という床に蛭めいた虫がのたくっている。
間桐慎二は虫《それ》がなんであるか知っている。
彼の祖父である間桐臓硯が飼っている淫虫《いんちゅう》―――人間の血液、精液、骨髄を好む魔物どもだ。
ひとたびこの淫虫に集《たか》られれば、男ならば背骨を砕かれ脳を吸われ廃人となる。
女ならば―――虫どもは神経のみを侵すよう変態し、人体の隅々までその触手を伸ばし、ひたすらに精を貪り尽くす。
淫虫は女の肌をその粘液で刺し、濡らし、肉ではなく精神、快楽中枢を高揚、崩壊させる事で飢えを満たす。
くわえて淫虫の本能か、虫どもは女の子宮が好物らしい。女の肉は食いたがらないくせに胎《なか》の臓器だけは欲しがるのだ。
理性の果て、脳の神経を焼ききるほどのオルガズムを与えながら、同時に体内に侵入し胎盤を食い尽くす。
人の肉を好まない淫虫が子宮に至る方法は一つだけだ。
結果、この虫どもに集られた女は心と体、その二つを完全に犯され破壊される。
淫虫という呼び名は、偏にその特性から付けられたものだろう。
―――その淫虫のプールに、間桐慎二は引きずってきた何者かを投げ捨てた。
「ほら、始めろよ」
階段の上から声をあげる。
男であろうと女であろうと、これほどの淫虫の群れに投げ込まれては生きてはいられない。
だが、この相手だけは例外だった。
投げ込まれた人影から蟲たちが離れていく。
恐れているのか、それともこの人間には飽きているのか。
蟲たちは決して、自分から人影には寄り付かない。
ただその周囲で、ざわざわと赤黒い粘体を光らせるだけである。
「“本”を作れ。まだ二個残ってるはずだ」
間桐慎二の声に、蟲だけが反応する。
キイキイと。
その命令が気に入ったように、四隅の闇が波打っている。
「言う通りにすればすぐ帰してやる。おまえだってその方が楽だろう」
返答はない。
密室に響くのは蟲たちの耳障りな鳴き声だけだ。
「っ……。いいか、どのみち戦うしかないんだ。これ以上僕に逆らうっていうんなら――――!」
全てを明かしてやる、と間桐慎二は罵倒した。
投げ捨てられた人影の体が震える。
そんな事は出来ない。
間桐慎二が師と仰ぐ老人は、それを許してはいない筈だ。
だが―――間桐慎二が師の言いつけを守る人間ではない事を、人影は知っていた。
今の彼は錯乱している。
邪魔をするモノは誰であろうと敵とみなすだろう。
老人は彼の身を案じて戦いから遠ざけたというのに、その気遣いこそが、間桐慎二にとっては許しがたい侮辱になるのだ。
「―――――――――」
長い沈黙の後、密室に変化が生じた。
光と共に人影が現れる。
蟲は波が引くように部屋の隅に消えていった。
知能のない蟲どもでさえ、現れた女性《モノ》を強大な魔と感じ恐れた故。
「―――ふん、もったいつけやがって」
床に届くほどの長髪と、細くしなやかな長身。
黒衣に身を包んだソレは、ライダーと呼ばれたサーヴァントだった。
「――――いま一度訊きましょう、シンジ。
私を使役するのは、自らの身を守る為だけですね」
密室の底。
蟲たちの生け簀から頭上を見上げ、黒いサーヴァントが問う。
「―――ああ。なにかと物騒だからさ、頼りになる護衛が欲しかったんだ」
再びマスターとなった間桐慎二は悦びを隠しもせず、そう、誠実なまでに、嘘だけで固めた言葉を吐き出した。
◇◇◇
「んじゃ、まったねー。明日こそ遅刻しないでよー」
怪しい呂律のまま、彼女は友人を見送った。
あたりに人影はなく、ロータリーは完全に休止している。
友人たちを乗せたタクシーが最後の一台だったのか、それとも単に出払っているだけなのか。
人に満ち光に溢れて息づいていた駅前パークは、血の通わぬ作り物に還っていた。
「んー――――ま、こんな日もあるか」
ほろ酔いのまま帰路につく。
タクシーがなかろうが電車が最終をすぎていようがかまわない。
彼女のマンションはすぐ近くだ。
三駅離れた町に住む友人たちを送り出し、一人さみしく帰るのもいつものこと。
まだ零時前だというのに静まり返ったロータリーの真ん中を歩いて、彼女は揚々と家路についた。
「―――――――」
だが。
それが“いつものこと”でなくなったのは、どのあたりからだったのか。
無人の街並み。
光の届かない路地裏。
暗い物陰から感じる寒気。
そういったカタチのない不安が、彼女の神経を削っていく。
「――――ちょっと。誰かいるの?」
振り返る。ついてきているモノは、無口で愛想のない影法師。
「――――」
歩を速めた。
とにかく、ここにいては危ないなんて思ってしまった。
考えすぎとは思えなかった。
誰かがついてきている感じなどない。そもそも彼女には、誰かにつけられても“危ない”なんて気付ける勘の良さなどない。
彼女はいたって普通の、善良な一般市民なのだから。
「――――ちょっと、なによ、これ」
だというのに、漠然と体が震えていた。
イヤな気配だけが強まっていく。
……これはそう、子供のころ、夜中に目を覚まして動けなくなった時と同じだ。
部屋の隅に誰かが蹲《うずくま》っている気がしてトイレにも行けず、朝が来るまで眠ったフリをしていた、あの、世界そのものから拒絶されているような不安に似ている。
「…………ん…………は…………、は…………っ」
気がつけば小走りになっていた。
いつもの家路とは違う。
目の前の道は危ない。
いつもの道はそのどれもが真っ暗だ。
彼女は“危ない”と感じるのと同じ、“安全”と思える直感だけを頼りに、気がつけばつんのめるように走っていた。
「は――――は、は――――!」
……それで、いつから小走りは全力走になったのだろうか。
見えもしない何かを恐がる自分を滑稽だと理解しながらも、もう止まる事はできなかった。
ただ犬のように走り回る。
喉はカラカラに渇いているのに、汗をまったくかいていないのも不思議だった。
―――夜の街。
連続する原因不明の事故。
その中に通り魔なんて項目はなかった筈だ、と彼女は自分に言い聞かせる。
周囲に人影はない。
今夜にかぎって誰もいない。
それで――――こんなにも、他人事のようなのか。
見慣れたはずの街は、誰も彼女を見つけてくれない、鏡の中の模造品じみていた。
「あ――――れ」
そうして終着についてしまった。
「――――おかしいな、どうして」
こんな場所に、自分から来てしまったのか。
「……あは。なにしてんだろ、わたし」
なんだか無性におかしい。
「はは。……あははは。あはははは」
おかしいので、喉が他人の物のように笑っている。
彼女はただ走っていただけだ。
いつもの道は、そっちに行くと取り返しがつかなくなると思った。
だから安全な方、安全な方へと道を変えて、ついに、「は。あははは、あはははははははははははははは!」
―――ようやく。
初めから、逃げ場なんてなかったと気付いてしまった。
蟲。蟲。蟲。蟲。
草の陰から飛び出してくるモノがあれば、
木の枝から降ってくるモノもある。
それは最初に、ボタリ、と彼女の右目に落ちて、
彼女の眼球より大きい吻《フン》で、彼女の眼孔へと潜り込んだ。
「…………!!!!」
悲鳴が聞こえない。
体が背中から地面に倒れる。
足首に激痛が走った。冗談みたいに痛い。まるで斧でカカトから先を分断されたみたいに痛い。
「」
そんなハズはないので指先を動かそうとしたら、感覚そのものがなかった。
そのかわり、ブッた斬られた足首の断面から、ずふずぶと新しいモノが入ってくる。
それが何なのか、血に塗れた残る左目で確認する。
なんであるか、彼女にはもう見えなかった。
ただ、ワケのわからないものが自分の体に集《たか》っているだけ。
「――――――あは、食べてる」
それが何を食《は》んでいるかは、なぜか目に入ってこなかった。
蟲はじぶじぶと潜っていく。
子供のころ、お風呂場のスポンジに虫《うじ》が集ったのを見たことがある。
そっくりだ。
もっと近いイメージで言うと、リンゴに穴をあけて踊る尺取虫。
「ひ―――――あは、けど、ヘンじゃない」
その、わりかし現実的な連想と今の風景がよく結びつかない。
なにしろこんなハズがないのだ。
こんな事、自分に起きるハズがない。
もう零時になる。
わたしはすぐに部屋に戻ってお風呂を沸かして、いた、今日一日の疲れを笑い飛ばして、いたい、それで、髪が乾くまでの間、いたいの、たまったビデオを消化して、部屋に戻って戻って戻って、ぎゃっ、戻りたい、戻りたい。戻して戻してわたしを戻して、そうして、お願いやめて結局いつも通りギギギ三時過ぎまで夜更かホントウに痛いんだってばしししししして、七時のなんでもしますから戻らないとアイアイやめてください目
覚まし時計で戻りたい起こされてひぎ、もどら、ひぎ、会社に行く、ひぎ、ために部屋に戻らないと戻らないと。
あ――――だから会社に、こんなのは夢で、部屋に戻りたい、夢でなくちゃいけなくて、部屋に戻りたい戻りたい戻りたいのにわたしの足もうとっくに骨だけでこれじゃ歩いて帰れないじゃないあああああああああああああああああああ!!!!!!
死ね、どっかいけ、違うって言ってるでしょ、やめて、やめてよ、おねが、お願いします、わたし、わたしを部屋に戻してください、おねが、おねがいいいぃぃイイイやあああ、アンタたち、もうやだ、なに、なにかってにわたしのおっぱい食べてるのよう…………!!!!」
――――食事は五分とかからずに終わった。
食事と言うには凄惨な光景だったか、栄養を摂る事が食事というのなら、それはまさしく食事だったのだ。
「む――――ぬ」
倒れ伏していたモノが起き上がる。
先ほどまで女性だったソレは、今では干からびた老人の体になっていた。
「ぐ――――う、む。首の《コ》挿げ替《レ》えばかりは、いつになっても慣れぬものだ、な」
しわがれた声が響く。
集っていた蟲の姿はない。
それらは食事を終えて自らの巣、老人の体に戻っていった。
つまり―――かつて女性だったモノの内部、自らが食い散らかした肉の代わりとなったのだ。
その光景を、一部始終観察していたモノがいる。
木々の狭間。
交差する枝の影に不釣合いな白い面が浮かんでいる。
人の頭骨で作られた面は、道化のような笑みを浮かべている。
仮面の主は言うまでもない。
第七のサーヴァント―――偽りのサーヴァントより生じ、ランサーを破った主不在の英霊、アサシンである。
「―――器用なものだ。先ほどの体も、もとより借り物だったという事か」
「……ほぅ? 見ておったのかアサシン。そうよ、ワシの肉体はとうの昔に滅び去っておる。こうして既に出来上がっている体に寄生するだけのおいぼれでな、他の者どものように、日の下に出られる体ではない」
呵々と笑う姿は、紛れもなく間桐臓硯のものだ。
女を襲い、その体を己が物にするのに数分。
いかに卓越した魔術師といえど、その速さは異常と言える。
「……そうか。女《もと》の体などどうでもよい。単に一人分の肉が必要なだけなのだな。そうして得た肉を好みのカタチに作り上げるワケか。
どのみち中身は蟲どもなのだ。人間としての機能は蟲どもが果たす。……まさに擬態よな」
「ほほう。わずか一日で饒舌になったではないかアサシン。その様では、己が望みを思い出したか?」
「―――無論。我は同じ望みを持つ召喚者にのみ呼び出される。魔術師殿の“不死”への渇望がこの身を招いたのだ。故に、私が望むは永遠のみ。
だが――――」
黒い影が揺らぐ。
表情などない髑髏《どくろ》の面が、老魔術師を凝視する。
「いささか疑問が生じた。魔術師殿は既に不死。その年月も五百を越えよう。ならば、望みはとうに叶っているのではないか」
「――――ほ」
老魔術師は肩を震わせて声をあげた。
それが笑い―――悦びによるものではなく、憤怒によるものだとは誰が知ろう。
―――そう、確かに間桐臓硯は不死に近い。
今のように苗床となる肉体があり、本体である彼の魂《よ》器《うき》が潰されないかぎり生き続ける。
だが―――そこにあるのは苦痛だけだ。
間桐臓硯とて好き好んで老人の体を作っているのではない。
自らを人でないモノに変貌させ、人の擬態をする。
その魔術には限界があった。
機械と同じだ。理論上は永久に動くとしても、理論を実践する部品は年月と共に錆びていく。
部品は錆びる。歯車はズレていく。思考《プログラム》は、進化し続ける時代に追いつけなくなっていく。
「―――いやいや、ワシは不死ではないぞアサシン。
ワシの体は腐る。何度新しい肉体を得ようと腐る。何をしようと腐っていくのだ。
この新しい肉体とて既に腐敗が始まっている。
生きたまま自身が腐っていくこの不快と屈辱―――自らが人ではなく蟲なのだと受け入れる絶望、と言えば解ってもらえるかな」
「何故腐る。蟲どもではまっとうな肉体を作れないのか」
「呵々、そのような事はないぞ。蟲どもは活きがよいからな。肉体面では何の問題もない。もとより老いる体を憂いて寄生体となった身だ。肉体面の防備にぬかりはなかった。
ワシは永遠に生き続ける方法、人間として留まれる方式として、この延命法を選んだつもりじゃ」
「……ますます判らぬな。完全な肉体維持を選んでおいてその始末なのか。そもそも何故、外見を老人に模す。
肉を粘土のようにこねるのなら、如何様にも姿は変えられよう」
「よい質問じゃ。では問うが、もとの肉体を完全に失ったモノが、自らの力だけでかつての肉体《じぶん》を復元するとしよう。
その場合―――肉体を元の形に戻すものはなんだと思う?」
「―――肉体は己の肉体を記録している。肌が削げ、肉が落ちようとかつての姿に戻るのは、肉体そのものに遺《せっ》伝子《けいず》があるからだ」
「うむ。遺伝子に記録された構成図じゃな。だがワシの場合は違う。そも、自身の構成を記録していた遺伝子《にくたい》そのものを失ったのだ。肉体《せっけいず》を以って肉体を復元する事はできぬ。
その場合―――自己を覚え、元通りの“カタチ”にするモノはなんだと思うね?」
「――――――――」
答えるまでもない。
それは魂だ。
肉体が所属する物質界の法則ではなく、その上にあるもの、星幽界という概念に所属する物体の記録、世界そのものの記憶体。
……そう、魂が健在ならば、肉体や遺伝子、細胞を失ったところで、かつての自分を復元できるだろう。
では、この老魔術師は、つまり。
「―――なるほど。自身の魂だけを生かし、肉体は生きているモノたちから摂取する―――それが魔術師殿の不死の正体か。
故に他の姿にはなれない。魔術師殿が存命させているモノは肉体ではなく魂。
故に、マトウゾウ《たましい》ケン以外の姿は形作れない、と?」
「当然であろう。ワシとて好き好んで老人の体を得ているワケではないわ。
……よいか、ワシはこの姿しか作れぬのだ。それも定期的に替えねば腐り落ちる不出来なモノよ。かつては一度の取り替えで五十余年活動したワシが、今では数ヶ月に一度取り替えねば存命できぬ。
……その矮小さ、腐敗する苦しみが誰に理解できようか。間違えるな今代のアサシンよ。そのようなモノを、二度と不死と称するでない――――」
老魔術師の声には苛立ちが含まれている。
召喚より三日目。
ようやく暗殺者は、己が召喚者の正体を目の当たりにした。
「……納得がいった。つまり、腐っているのは肉体ではなく」
「……そう、魂が腐っておる《・・・・・・・》。
時間の蓄積は幽体にさえ影響を及ぼすのだ。故にワシの体は腐る。構成図である魂が腐っていては、肉体が腐り落ちるのも当然であろう」
「ふむ―――故に聖杯を求めるか。
……憤る訳よな。その永遠、なまじ永久を知らぬ者より辛かろう」
「そうだとも。
……ワシの体は腐る、腐るのだ。その苦しみ、骨の髄まで侵す時間《どく》から解放されねばならん……!
その為の聖杯、その為の死なない体よ」
「……そうだ。ワシは死にたくない、まだ存《い》在きていたい、この世から消えてなくなるなど考えるだに恐ろしい……!
ソレから逃れる為に何百年と生き、腐敗から逃れる為に何千という肉を食らい続けた……! 解るか山の主よ、ワシはこの蟲と化した自身が恨めしい、ワシだけが腐ることが恨めしい、人として当然のように、正しい肉体を授かる人間《むしども》が恨めしいのだ―――!」
「――――――――」
白い面は、じくじくと腐る老人を静かに見下ろす。
……安穏と生きる人間が恨めしい、とはよく言ったものだ。
その安穏から逃れる為に用いた術が、自身を苦しめているだけの話。
この魔術師の苦しみ、生きている限り肌を溶《と》かし肉を爛《ただ》れさせ骨を侵《おか》す“腐敗”は自業自得だ。
だが、その苦しみはもはや“誰が悪い”などという次元で済ませられる問題ではない。
善悪の所在、原因などどうでもよいのだろう。
何しろ―――これは憶測ではあるのだが、間桐臓硯はとうに狂っているのだから。
自身の体が腐る、などという苦痛と恐怖は、常人ならば一時間と耐えられまい。
どれほど屈強な精神を持っていようと耐えられまい。
なにしろ死ぬ。
一時間も腐れば肉体が死ぬ。
それを二百年。
絶えず自身を腐らせてきた“人間”の精神がどれほど腐っているかなど、この老魔術師以外に理解できよう筈がない。
間桐臓硯は狂っている。
地上のどの人間からもその心境が計れぬ時点で、いかに正気であろうと、ソレは狂っていると評すべきだ。
「数百年の妄念か。私には理解できぬが――――」
その代わり、老魔術師の独白はたった一言に要約できる。
――――死にたくない。
――――死にたくない。
――――要は、この男は死にたくないのだ。
ただそれだけの、誰もが持ちえる妄念が明確になっているだけ。
その単純で愚かな希望に縋り、多くの人間を犠牲にしてきた。
聖杯を得る為にいくつもの種を蒔き、犠牲者を増やしてきた。
否。
そもそもこの老魔術師の存在自体が、第三者の犠牲の上に成り立っている。
それは――――仮面の暗殺者にとって、何よりも忠《しん》じるに足る“理由”であった。
「理解できぬが―――魔術師殿は、この私のマスターに相応しい。
よかろう。人として扱われなかったモノ同士、共に永遠を目指すとしよう――――」
髑髏がかしずく。
黒衣のサーヴァントは礼を以って、いまも惨たらしく腐敗をさらす老魔術師に、白い髑髏の頭をたれた。
◇◇◇ ◇◇◇
……朝だ。
時刻は七時を過ぎている。
陽射しは白く、外は気持ちのいい快晴らしい。
「ん――――よっと」
体を起こして背筋を伸ばす。
体調はいたって良好。
手足は自由に動くし、頭痛だって微塵もない。
昨夜の悪寒が嘘のように、今朝は寝起きから全快である。
「……って事は、ただの胸焼けだったんだなアレ」
はあ、と溜息をついて反省する。
……いくら十年前の光景を思い出したからって、前後不覚になるなんて修行不足だ。
公園で倒れてからの記憶はあやふやではあるが、セイバーに肩を貸してもらって、寝かしつけてもらった事だけは覚えている。
「――――そうか。セイバーに、お礼を言わないと」
布団から出て、手早く制服に着替える。
セイバーはまだ眠っているだろうから、朝メシの時にしよう。
もう七時だし、とりあえず居間にいるだろう桜に挨拶をしておこう。
「せ、先輩」
居間には、鞄を手にした桜の姿があった。
朝食の支度が出来ている。
テーブルも綺麗に拭かれているし、今すぐにでも朝食に出来る状態だった。
「あれ? 朝飯、もう支度できてるんだ」
「あ、はい。時間があったので、先輩とセイバーさんの分を作っておきました」
「? 俺とセイバーの分って、桜のは?」
「え……その、わたしはいいです。先に学校に行ってますから、お二人で朝食をとってください」
「……?
どうしたんだよ桜。俺たちの朝メシ作っておいて、自分だけ食べないなんてヘンだぞ。……もしかして、昨日何かあったのか?」
……図星らしい。
けど、昨日っていっても何もなかったよな。
夕食後に桜が部屋に戻って、俺とはそれっきりだ。
その後は、確か―――何かあった気はするのだが、吐き気が酷くてよく覚えていない。
「……あ。そういえば、ここで桜とセイバーがなんか話してた気がする。……よく聞こえなかったんだけど、そん時なにかあったのか?」
「……わたし、酷いことを言っちゃったんです。先輩が倒れかけてるのを見て、ついカッとなっちゃって」
「ひどいことって、セイバーに……?」
「……はい。けど、わたしにだって、そんなこと言える資格なんてなかった。それなのにセイバーさんだけ悪者にしてしまったんです。
……だから、今はセイバーさんに会わせる顔がなくて、それで」
二人分の朝食を作って、セイバーが起きる前に家を出ようとしたのか。
「……すみません先輩。あの後、すぐ自分の馬鹿さかげんに気付いて、セイバーさんに謝ったんです。そうしたらセイバーさん、わたしに謝ってくるんです。わたしが悪いのに、自分の不注意だったって」
しゅん、と肩を狭めて俯く。
……そうか。
謝りにいって、その相手に謝られちゃあ余計自己嫌悪するってもんだ。
「……まったく、馬鹿だな二人とも。一番悪いのは怪我をした俺だろ。桜もセイバーも、そんなことでケンカするコトなかったんだ」
「でも先輩。わたし、セイバーさんに」
「いいんだって。言っとくけどな、あいつは相手に非があったら絶対に折れないぞ。桜の言い分が無茶苦茶だったら怒鳴り返してくる。そのあいつが謝るってコトは、桜の言い分を認めてるってコトだ。
セイバーは口にしないだろうけど、桜のコトきっと好きだぞ。基本的に、一生懸命やってるヤツを大切にするんだよ、あいつは」
「―――はい。けど、なら尚のこと今朝は遠慮します。
セイバーさんが怒ってくれなかった分、ちゃんと自分で叱らないと調子に乗っちゃいますから」
照れ隠しのように笑って、桜はぺこりとお辞儀をした。
一足先に学校に行く、という考えは変わらないようだ。
「……ふう。桜がそう言うんなら無理には止めないけど、こんな早く学校にいってどうするんだ。朝練、禁止されてるだろ」
「大丈夫、道場のお掃除をするだけですから。セイバーさんにあんなこと言っちゃったんですから、罰として弓道場の床を雑巾がけするんです」
それじゃ行ってきます、と告げて、桜は居間を後にした。
「道場の掃除って―――冬場の雑巾がけはきついぞ、桜」
……いやまあ、それを知っているからこそするんだろうけど。
誰もが嫌がる道場の雑巾がけを自分に課すなんて、桜、いったいどんな口上でセイバーにケンカを売ったんだろう?
◇◇◇
「わたしと桜がケンカ、ですか?」
「え? いや、したんじゃないのか? 桜、セイバーに悪かったって言ってたけど」
「……言われてみれば、たしかにそのように見えたかもしれませんが、しかしあれは桜が正しいのであって、口論というよりは私の不徳を注意してもらったという方が……」
「――――」
うわ。
なんか、セイバーがぶつぶつと考え込んでいる。
それだけならまだしも、考え込みながらご飯を食べるもんだから箸が進むこと進むこと。
「あ、いや、ヘンなこと言って悪かった。桜がすごく気にしてたから、こっちも気になっただけなんだ。なんでもないんなら忘れてくれ」
「……はあ。桜といいシロウといい、昨夜から同じ事を言うのですね。実は二人そろって、私をからかっているのではありませんか?」
「ば、そんな手の込んだ冗談するかっ! んなコトして俺と桜に何の得があるってんだよ」
というか、セイバーをからかったりしたらバレた時が恐ろしい。
「それはそうですね。では、単に二人とも互いを気遣っての行為だった訳ですか」
ふむ、と納得して卵焼きを口に運ぶセイバー。
朝から健啖《けんたん》なのはいいコトだ、うむ。
「けど、なんて言ったんだよ桜は。生半可な事じゃあそこまで落ち込まないし、そのあたり聞いてもいいかなセイバー」
「そ、それは、単に私のサーヴァントとしての力不足についてです。要約すれば、シロウを守りきれなかったのは私の未熟さだった、と」
「……セイバーは十分すぎるぐらいやってくれてる。
昨夜だって俺が勝手に倒れただけだろう。セイバーが気に病むコトじゃない」
「それはそうなのですが……とにかく、桜の忠告は正しかった。問題は、それに頷く事のできない私自身です。
桜になんと言われようと私は―――貴方というマスターを、これからも戦いに赴かせるのですから」
気まずそうに視線を逸らす。
「?」
おかしいといえばおかしい。
そんな、とっくに二人して納得した事を、なんだって今更気にしたりするんだろうか、セイバーは。
『……がなく、不審に感じた住民が周囲の住宅の調査を要請したところ――――』
ニュースが流れる。
食事中、気まぐれにつけたテレビでは、昨夜起きたらしい事故が報道されていた。
『……発見された体調不良者は三十名におよび、ただちに病院に運ばれました。
今月に入ってから七件目の昏睡事件ですが、診察の結果はやはり何らかの食中毒に近いと――――』
朝食を終えて、登校の支度をする。
学校に行くのは遠坂に会う為だ。
昨夜の出来事―――間桐臓硯とあの黒い影について、あいつと話し合わなくてはならない。
『……警察では深山南四丁目一帯に被害が拡大した事から、何らかの薬物が散布された可能性が高いと――――』
深山南四丁目。
それは昨夜、遠坂が睨みつけていた方角だ。
……昏睡事件を起こしているのはあの影だとアーチャーは言った。
……三十名に及ぶ意識不明者。
その昏睡がどのようなモノなのか、俺は自分の体で味わった。
あの影はキャスターと同じように、夜の闇に紛れて、町の人間から魔力を吸い上げているのだ。
「――――――――」
いや、吸い上げる、とかいうレベルの話じゃない。
アレに比べればキャスターは丁寧だった。
キャスターは人々に傷《いた》みがないよう、何度でも繰り返し魔力を得られるよう巧妙に手を尽くしていた。
喩えるなら、注射器で採血していたようなものだ。
……だがあれは違う。
キャスターの採血に比べれば、昨夜のアレは“食事”そのものだ。
あの黒い影は何の容赦も考えもなく、意識ごと、人々から魔力を食らっていたとしか思えない―――
「―――セイバー。学校に行く前に話がある」
「はい。なんでしょうかシロウ」
セイバーも今のニュースを聞いていた。
なら俺の言い分なんて判っているだろうに、セイバーはいつも通り、静かに続きを促してくれた。
「ああ、今後の方針の事だ。セイバーも昨夜のアレを見ただろう」
「――――はい。どのような幻想種にも該当しない、見た事のないモノでした」
「……うん。アレがなんであるかは判らない。
ただ、あいつはあいつで俺たちの敵だ。マスターにもサーヴァントにも見えなかったけど、意図的に俺や遠坂を狙ってきたし、町の住人からも魔力を集めている。
なら――――」
「……当面はあの影の探索を優先する、という事ですか?
マスターともサーヴァントとも取れぬ、私たちには関わりのないモノの相手をすると?」
セイバーの視線が痛い。
……彼女の目的は聖杯の入手だ。
にも関わらず、俺は目的から外れた事にセイバーの助けを求めている。
彼女が反対するのは当然だ。
それでも――――
「ああ、あの影を放っておけない。これは聖杯戦争より優先すべき事だと思う」
「――――――――」
セイバーは無言で見つめてくる。
その、あまりの静けさにこっちの息が続かなくなった時。
「……はあ。まったく、そうくると思っていました。私としては、あの影には関わりたくないのですが」
「え、セイバー……? その、ほんとにいいのか……?」
「いいも悪いも、私が断ったところでシロウは一人で行動するではないですか。
そうなった時、貴方を守りきれねば本末転倒です。貴方に死なれては、私はこの時《よ》代に留まれません。
ですからたとえ反対であったとしても、シロウの方針に従うしかないのです」
「う、それは、そうだけど」
「それに、貴方を一人にしては昨夜のような無茶をいつしでかすか。あれで二度目ですからね、三度目だって必ずあります。そんな事になったら、私はまた桜に謝らねばならなくなる」
「じゃあ」
「まことに不本意ですが、サーヴァントは主の命に従うもの。マスターであるシロウがそう判断したのなら剣は預けます」
「――――セイバー」
「ですがシロウ、あの影は尋常な相手ではない。アレに比べれば、バーサーカーとて御しやすい相手でしょう」
「う……ああ、それは肌で感じた。
あいつは、その……強いとか弱いとかいう次元の話じゃなくて、ただ不吉だった。殴れば倒せるって相手でもないと思う」
「それが判っているのなら、私からは何もありません。
……ただ、シロウ。アレの相手をするという事は、最も困難な道を行くということ。それを、今から胸に刻んでおいてください」
「……? いや、そりゃ用心はするけど……なんだよ、ヘンなコト言って。セイバーもアーチャーみたいに、あの影を知ってるのか?」
「……いえ、私もシロウと同じです。あの影が何者なのかは判らない」
視線を逸らす。
セイバーは、まるで自身に湧いた暗い予知を吐露するように、
「ただ、漠然と感じたのです。アレは良くない星そのものだと。それこそ関わったもの全てに破滅をもたらす、逃れようのない呪《いばら》いのような」
そんな事を、言っていた。
◇◇◇
「それじゃホームルーム始めるわよー。
日直よろしく……って、相川くんは休みで、四十物さんも休み? んー、じゃはりきって先生がやっちゃおっかな。みんな、きりーつ」
……ホームルームが始まる。
欠席者は昨日より増えていて、教室には活気がない。
いや、活気がないのは教室ではなく校舎全体だろう。
藤ねえは飄々とホームルームを進めていくが、その藤ねえだっていつもの元気が見られない。
「んじゃ、そういう訳で放課後の部活動は禁止ね。
んー、連絡事項は以上。ちなみに一時限目の葛木先生はお休みだから自習。プリントは持ってきてあげたから、みんなはこのまま教室でカンヅメってなさい」
やったー、という満場一致の意見のもと、みなガタゴトと机を移動させていく。
プリント自習は各自好き勝手やっていいのが藤ねえの方針なんで、教室から出なければ何をやっても良しなのである、が――――
「士郎、ちょいちょい」
……なんであの人はこう、あからさまに怪しく廊下で手招きしてるんだろうか。
「なんだよ藤ねえ。授業中だぞ、今」
「そうなんだけどね。ほら、朝、そっちに顔出せなかったでしょ? それで不安になっちゃって、士郎は元気かなーって」
「? なんだよいきなり。不安って何が不安なんだ?」
「んー、それがよく分からない。虫の報せっていうの?
昔っからさ、こうチクチクくる時があったんだけど、その後って決まって士郎が車に轢かれたり橋から落ちたりしたの。だから、士郎元気かなって」
「――――はあ。そんなの全然普通じゃんか。それで危ないってんなら、今までずっと危なかったよ俺は」
「ん、そうなんだけどね。なんか気になるんだ。
こう、一緒に乗らなくちゃいけない電車があるのに、士郎だけホームに残っちゃって、ばいばーいって手を振ってるみたいな、そんな感じ」
「ふーん。具体的な喩えだけど、そこで目が覚めたってコト?」
「あ、わかっちゃった? お姉ちゃん、おかげで寝坊しちゃったんだよぅ」
「………………」
なんだ、呆れた。
今朝来なかったのはただの寝坊で、他には何もなかったんだな。
……うん。それならまあ、藤ねえらしいから、許す。
「心配無用、こっちはいつも通りだよ。藤ねえこそ目にクマできてるぞ。寝不足なの、夢の中だけじゃないんじゃないか?」
「え? ……ん、まあね。昨日も忙しくて、今日も忙しくなりそうよ。しばらく残業続きになりそうだから、士郎のところには行けなくなると思う。悔しいけど、わたしのご飯は作らなくていいや」
「え……?」
「話はそれだけ。プリントちゃんとやっときなさい。士郎、現代社会の成績悪いんだから。気合いれないと赤点とっちゃうわよ」
じゃあね、なんて気軽に手を振って藤ねえは去っていった。
「……飯はいいって。まあ、助かるけど」
張り合いがないというか、拍子抜けしたというか。
なんか、当たり前の日常がなくなってしまったような、そんな空虚さを感じてしまった。
◇◇◇
「そうね。衛宮くんの意見には賛成する。
わたしもあの影は見過ごせない。どこの魔術師だか知らないけど、わたしの土地で好き放題やってくれてるんだから」
「じゃあ休戦条約はまだ続けていいって事か?」
「当然でしょ。あの影を排除するまで余裕なんてないんじゃない、お互い」
―――と、話は思いっきり簡潔に済んでしまった。
昼休み、今日はこっちから遠坂のいるA組に行って、屋上に連れ出した。
そうして、まず“黒い影”をなんとかしたいと切り出したのだが、遠坂の答えは俺以上にキッパリしていたのだ。
「それじゃどうする? 今夜から一緒に巡回するとか、手分けして探すとかしてみるか?」
「そうね……役割分担には賛成するわ。
貴方は夜の巡回を続けて。魔術師として怪しいと思ったところ、セイバーが怪しいって感じたところを徹底的に調べること。
で、衛宮くんがそうして表立って動いてくれてる間、わたしは臓硯を追うから」
「……間桐臓硯? あいつ、あの影に関係あるのか?」
「さあ。臓硯もあの影を恐がってたから望みは薄だと思うけど、どこかひっかかるのよ。
……ま、あの影を抜きにしたって臓硯は放っておけないでしょ。キャスターの死体を操ったり、魔術師でもない慎二をけしかけてマスターにしたり、きな臭いったらありゃしない」
「―――そうか。そうだな、言われてみればそもそもキャスターの事で手を組んだんだもんな、俺たち。あの爺さんだって無視できないってコトか」
「ええ。あの影の相手はまわりを綺麗に片付けてからにしましょ。だからもし黒い影《あいて》を見つけても、すぐにしかけないで偵察にとどめておいて。あの黒い影と戦うのはもっと足場を固めてからにしないとダメよ」
「オーケー。けど遠坂はどうするんだ? 臓硯を追うって、あいつの居場所判るのか?」
「え……? あ、うん、居場所は判らないけど、直接間桐邸に乗り込むわ。遠坂《うち》は間桐家と縁があるから、貴方よりわたしのが適任でしょ」
あっさりと言う遠坂。
が、その内容はあっさり言っていいもんじゃない。
「ば、乗り込むって間桐邸にか!? おまえ、それ敵の本拠地につっこむってコトだぞ!?」
「そうだけど、なに驚いてるのよ。別に戦いに行くわけでもないし、ただ相手の陣地を調べるだけじゃない」
「な―――バカ、臓硯が待ち伏せしてたらどうするんだ!
そんなの遠坂一人で行かせられない。俺も一緒に行くから、早まった真似するなっ」
「馬鹿、早まってるのはそっちの方よ。
言ったでしょ、わたしは間桐とは縁があるの。間桐の魔術は知っているし、臓硯の力量だって昨日ので計れたわ。はっきり言って臓硯は敵じゃない。
あの老魔術師は魔力のほとんどを体の維持にあてているから、直接的な攻撃手段がないのよ」
「そんなワケだから、臓硯が直接対決してくれるならむしろ願ったりだし、慎二だってもうマスターじゃないんなら無害でしょ。
古臭い魔術師同士の争いはわたしに任せて、衛宮くんは体で情報を稼いでちょうだい」
「―――――――む」
そこまで言い切られると反論しようがない。
……そりゃ遠坂にはアーチャーがついているし、そこまで過保護になる事はないんだろうけど。
「……わかった。間桐臓硯の事は遠坂に任せた。俺とセイバーはあの影を探してみる」
「ええ、よろしくね。……それと、衛宮くん。訊くけど、桜はちゃんと貴方の家にいるのよね?」
「? ああ、家に泊めてるけど、それがどうした?」
「ううん、なんでもない。それを聞いて安心しただけよ。
間桐邸に乗り込んだ時、何も知らない桜がいたらやりづらいでしょ」
「あ、そうか。…………驚いたな。遠坂、おまえってすごく気が利く」
「な、なによその意外なものを見たって目は。貴方ね、人のコトどんな風に思ってたのよ」
「いや、どんなふうって、そりゃ」
こう、ガガーンときてババーンと去っていくような、ある意味台風みたいなヤツだなー、とか。
「……ふん。衛宮くんが何を考えようと勝手だけど。
とにかく、間桐の問題はわたしが解決するから。貴方は夜まで大人しくしてなさいよね」
「了解。ここは遠坂に甘えて、セイバーと鍛錬でもしてる。夜まで時間もあることだしな」
さて、と腰をあげて出口に向かう。
昼休みもじき終わるし、そろそろ教室に戻らないと。
「じゃあな遠坂。また明日、ここで落ち合おう」
「ええ、お互いの成果を交換しあうって事で。
あ、けど衛宮くん?」
ふっ、と口元を歪める遠坂。
「――――」
……あいつがああいう風に笑うのは、よくない。
とても嫌な予感がする、と急いで出口を目指すのだが、
「鍛錬、ていうのはどうかと思うわよ?
時間がいっぱいあるなら他にすることあるんじゃない?
たとえばぁ、同じ屋根の下にいる女の子をかまってあげるとか」
すでに、あいつの射程距離内だったりした。
「な、なに言ってんだバカっっっ……!!
さ、桜はそんなんじゃなくて、俺は慎二がテンパってる間だけうちに泊めて様子を見ようって――――」
「あら、わたしはセイバーを少しは休ませてあげなさいって言ったんだけど? 意外ねー。衛宮くん、女の子って言ったら桜が一番にあがるんだ」
にやりと笑う。
「あ――――、つ、う――――」
顔が熱い。
ピー、と耳から音がしそうなほど頭ん中が沸騰している気がする。
「なんてね、冗談よ。さっきのお返し、気に入った?」
「…………おまえな。こんなの気に入るヤツがいたら、神経どうかしてる」
肩の力が抜ける。
なんか、自分がマリオネットになって、操り糸をブツンブツンと切られたぐらい、力が抜けた。
「そっか、衛宮くんの弱点だもんね。冗談にしてはタチ悪かったか」
「ふん、タチが悪いのは遠坂本人だっ。先に戻るからな」
「はいはい、どうぞ先に行ってて。わたしはもうちょっと笑ってるから」
「っ……! この、また明日な遠坂っ!」
扉を思いっきり閉めて、屋上を後にする。
……くそ。
遠坂のヤツ、俺をからかって遊ぶようになってきやがった。
なにが気に入ったかー、だ。
だいたいなんだ。
あんなお返しをされるようなコト、したおぼえはないぞこっちは。
◇◇◇
学校が終わって、早々に家路につく。
今日から放課後の部活動もすべて禁止され、校門には多くの生徒たちの姿があった。
軽く見回してみたが、遠坂らしき影はない。
あいつのコトだから、とっくに間桐邸に向かったのだろう。
「先輩? 誰か探しているんですか?」
「ん? いや、単に学校を見てただけだよ。こんなふうに、生徒全員が下校するって珍しいだろ」
「そうですね。けど、そのおかげで今日は一緒に帰れます。帰りは商店街に寄っていきますか?」
「ん、晩飯のおかずを買って帰ろう。しばらく藤ねえは来れないらしいから、俺と桜とセイバーの三人分」
買い物のあと、回り道をして公園に寄る。
公園には誰もいない。
はしゃぎまわる子供たちの姿も、寒そうにコートを羽織った銀髪の少女もない。
「……公園、誰もいませんね。ここ、あんまり使われていないんですか?」
「最近はそうみたいだ。俺が子供の頃は日が落ちるまで誰かいたもんだけど、今は休みの日でもないかぎりこんなもんらしい」
「そうですか。なんだか淋しいですね」
そうだな、と頷いて空を見上げる。
夕暮れの空。
鳥の姿がない茜色は、小さな公園と同じように淋しげだった。
「戻るか。せっかくの休みだし、たまにはゆっくりしないとな」
公園を後にする。
桜は元気よく返事をして、弾む足取りで俺の後についてきた。
◇◇◇
そうして彼女―――遠坂凛は目的の場所に到着した。
間桐邸。
二百年前この町に移り住んできた、古い魔術師の家系の工房。
協力者としてこの土地を譲ったものの、決して交友を持たなかった異分子たる同朋。
遠坂と間桐は互いに不可侵であり、無闇に関わってはならぬと盟約によって縛られている。
「―――――――」
それがどうした、と彼女は歩を進めた。
互いに関わってはならないのが盟約ならば、そんなモノは十一年前に破られている。
だいたい盟約を取りかわした者は遥か昔の当主たちだ。
その内容も、理由すらも定かではない決まり事に従うこと二百年。
その間、遠坂も間桐も目的である聖杯を手に入れていない。
もとより両家の盟約は、“聖杯”を手に入れる事のみで固められたもの。
それが今まで叶わなかった以上、こんな古臭い決まりに従う道理はない。
呼び鈴も押さず、玄関から押し入る。
彼女は客として来訪したのではない。
あくまで一人のマスターとして、聖杯戦争を汚す外敵を排除しに来たにすぎない。
「……そう、なんだけどさ」
苦虫を噛み潰す表情で、凛は間桐邸を探索していく。
……来訪の原因は聖杯戦争によるものだ。
故に遠坂と間桐の盟約に縛られる必要はない。
―――そう自分に言い聞かせたものの、長年培った体質は変わらない。
「……そっか。父さんの言いつけを破ったのって、これが初めてなんだ」
ぼんやりと呟く。
別段、それはどうという事ではなかった。
父の教えを破った事で、大切な何かが壊れた訳でもないのだから。
ただ、悔いる事があるとすれば、それは「……馬鹿ね。どうせ破るのなら、もっと早くに押しかければ良かったのに」
十年以上も我慢し続けた、誰かに対する後悔だった。
「―――凛。屋敷の間取りだが、空白部分が二つある」
「え? どこよそれ、一階?」
「二階からだ。階段にしては狭いが、おそらく地下に通じている」
「……オーケー。ところでアーチャー、気付いてる?」
「当然だ。だが害はあるまい。凛が無視するかぎりは私も気にかけん。我々の目的はあの臓硯《ようかい》だからな」
傍らの声に頷いて、彼女は二階の隠し通路へ移動する。
―――姿こそ見えないが、凛には赤い騎士が付き従っている。
戦闘に備えて連れてきたのだが、彼女のサーヴァントは細かい事に気が回る性質のようだ。
屋敷を一回りしただけで設計図を思い描き、本来なければおかしい部屋《くうかん》がない事を指摘する。
凛も薄々気がついてはいたが、アーチャーは物の設計、構造を把握する能力に、騎士とは思えないほど特化しているらしい。
「……前から思ってたけど。貴方のそれって、弓の騎士《アーチャー》としてどうかと思う長所よね」
「減らず口はあとだ。そら、開いたぞ。暗いから気をつけ―――」
会話が止まる。
開けた壁。
ぱっくりと口をあけた地下への通路から、湿った空気が漏れてくる。
それは実体化していないアーチャーにも感じ取れるほど、耐えがたい腐臭だった。
湿った石畳に下りる。
周囲は緑色の闇だった。
無数に開いた穴は死者を埋葬する為の物だろう。
石の棺に納められた遺体は腐り、風化し、穴はがらんどうのまま、次なる亡骸を求めている。
その有り方は地上の埋葬と酷似している。
ただ、その腐り落ちる過程が決定的に異なるだけだ。
ここでは遺体を分解する役割は土ではなく、無数に蠢く蟲たちに与えられていた。
「ここが間桐――――マキリの修練場――――」
呟いて、目眩がした。
嫌悪や悪寒からではない。
彼女を戦慄させ、後悔させ、嘔吐させたのは怒りだった。
これが修練場。
こんなものが修練場。
この、腐った水気と立ち込める死臭と有象無象の蠢く蟲たちしかいない空間が、間桐の後継者に与えられた“部屋”だった。
「――――――――っ」
こんなもの―――こんな所で何を学ぶというのか。
ここにあるのは、ただ飼育するものだけだ。
蟲を飼う。蟲を増やす。蟲を鍛える。
それと同じように、間桐の人間はこの蟲たちによって後継ぎを仕込み、後継ぎを鞭打ち、後継ぎを飼育して――――
―――それは、自分とどれほど異なる世界だったのか。
冷徹な教え、課題の困難さ、刻まれた魔術刻印の痛み。
そういった“後継者”としての厳しさを比べているのではない。
そも、背負った苦悩、超えねばならなかった壁で言うのなら、彼女が乗り越えてきた障害とて他に類を見ない。
乗り越えてきた厳しさと困難さでは、間違いなく遠坂凛に分があるだろう。
それ故の五大元素使《アベレージ・ワン》い、魔術協会が特待生として迎え入れようとするほどの若き魔術師《てんさい》だ。
この部屋に巣食う蟲どもを統率しろ、と言われれば、彼女なら半年でより優れた術式を組み上げられる。
間桐の後継者が十年かけてまだ習得できない魔術を、凛ならば半年で書き換える事ができるのだ。
だが―――その愚鈍な学習方法。
術者を蟲どもへの慰みものにするという方式に耐えられたかと問われれば、彼女は言葉を飲むしかない。
ここで行われる魔術の継承は、学習ではなく拷問だ。
頭脳ではなく肉体そのものに直接教え込む魔術。
それがマキリの継承法であり、間桐臓硯という老魔術師の嗜好なのだ。
故に。
間桐の後継者に選ばれるという事は、終わりのない責め苦を負わされるという事である――――
「――――凛」
「……判ってる。ここに臓硯はいないわ。わたしが来たから逃げたのか、他に本拠地があるのか。……どっちにしろこれといった手がかりもないし、長居は無用ね」
叫びだしたい衝動を抑えて、彼女は石室を後にする。
遠ざかる少女の足音。
……その後。
不快さ故に彼女が戻したものに、びちゃびちゃと蟲たちが集っていた。
地上に戻る。
用を済ませた彼女は外に出ようとし――――
「慎二。そこにいるんでしょ、隠れても無駄よ」
部屋の奥、もう一つの隠し通路に潜んだ人物に声をかけた。
「っ――――遠坂、おまえ」
「……ふん。さっきまで無視して帰るつもりだったけど気が変わったわ。少し話をしましょ、間桐くん」
「――――――――っ」
憎々しげに凛を睨みながら、間桐慎二は彼女の声に従った。
……姿を現した間桐慎二は、明らかに彼女を恐れていた。
それはサーヴァントを連れたマスターに対する脅威ではなく、純粋に、遠坂凛という少女が放つ殺意に対してだ。
「ふ、ふざけんなよおまえ。僕は話なんてない。だいたいな、遠坂は間桐に口出ししない決まりだろ。なに勝手にやってきてんだよ、おまえは」
「あら。わたしたち、同じ学校の生徒でしょう。遊びに来てもおかしくないと思うけど」
「ハ、笑わせるな。鍵を壊して入ってきて、さんざんうちを荒らしたクセに遊びにきたって? ……ふん。父親が死んでから礼儀も何もなくなったって聞いてたけど本当だな。頭悪いよね、いつから強盗の真似事を始めたんだい遠坂の人間は」
「そう見えた? ……ふーん、ならそれも悪くないわね。
盗む物なんてここにはないけど、強盗ってアレでしょ?
盗みに入ったとき、見つかったら暴れまわるから強盗って言うのよね。
―――ええ。それなら本当に真似をしてもいい気分よ、わたし」
それは紛れもなく冗談だった。
にも関わらず、彼女の口元は笑っていない。
遠坂凛は冷めきった視線のまま、壁に背をつけた間桐慎二を見据えている。
「……! バ、バカ、違うぞ、僕は関係ない、臓硯とは関係ないっ……! あの爺《じじい》が何をしてるかなんて、僕は今まで知らなかったんだ……!」
「――――どうだか。ならなんでマスターになんてなったのよ、アンタは」
「っ……それは、だから――――」
ギリ、という音。
間桐慎二は遠坂凛の視線に追い立てられながらも、必死に言葉を飲み込んでいる。
これが臓硯に関する事ならば、彼は即座に漏らしていただろう。
今の遠坂凛は危険である。下手に言い淀めば何をしてくるか判らない。
―――最悪。
本当に、遠坂凛は怒りから自分を殺しかねない程だ。
「それは?」
「っ――――それ、は」
だが言えない。
彼にとって、マスターになった理由を明かす事は死に等しい。
たとえそれが
「なら言ってあげる。単に魔術師の真似事をしたかっただけなのよ、アンタは。自分は落ちこぼれだから、魔術師にはなれないから、聖杯の力で魔術師になりたかった。
それ以外に目的なんてない。アンタは無力な自分を隠す為に、欲しくもない証を欲しがっただけの臆病者よ」
他人にとって、取るに足らない事実だとしても。
「っ…………! 遠坂、おまえ……!」
「違う? 間桐の家に生まれながら、貴方には魔術回路がなかった。けどそれは貴方のせいじゃないわ。もともと間桐の血は薄れていた。この土地に根を張った時から、探求者としての間桐の責務は薄れていたのよ。
だっていうのに、貴方はソレに固執した。
特別である事が特別だ、なんて勘違いをして、しなくてもいい無いものねだりをした。そんな事で魔術回路を得たところで魔術師にはなれないっていうのに、見苦しく“自分に与えられるべきだった特権”に縋ったのよ」
「し、知ったようなクチを叩くな……! ふざけんなよ、僕が魔術師になれないだと……!? そんな事、おまえにどうして判るって言うんだ――――!」
「判るわよ。断言してもいいけど、聖杯を得たところで貴方は魔術師にはなれない。
だって才能がないもの。そのあたりが衛宮くんとは違うところ」
「え……?」
ぽかんと口をあける。
間桐慎二にとって、その名前は予想外だった。
遠坂凛がマスターとして自分に敵対するのはいい。それぐらいは予想していた。
だが、彼女の口から衛宮士郎の名が出る事はあり得ない。
ヤツはただの素人だ。
魔術師の家系でもないし、マスターとして相応しくない雑種ではないか。
その男がセイバーを連れているだけでも度し難いというのに、どうして、よりにもよって、他でもない遠坂凛の口から、ヤツの名前などこぼれるのか――――!
「は――――は。なんだよ。やめろよな遠坂。なんで、なんだっておまえが、衛宮のコトなんて口にするんだよ!」
「彼が貴方より強いから。それに魔術師としての素質もある。間桐慎二にはないものを、衛宮士郎は持っている。
……ええ。貴方と同じように、衛宮くんにも魔術師としての才能はないわ。けど、彼には魔術師としてやっていける絶対的な素質がある。それだけは他の誰にも負けない、彼が一番たり得るところよ」
「一番だって!? あいつが!? ハ、笑わせるな遠坂……!
あいつにあって僕にない物なんてない、何もないのはあいつの方だ! あいつなんて、ただ運良くセイバーと契約できただけの野良犬じゃないか……!」
衛宮士郎への憎悪が恐怖を打ち消したのか、間桐慎二は真正面から遠坂凛を凝視する。
その、偏執しきった視線を前にして、遠坂凛ははあ、と両肩で嘆息した。
「……そう。これだけ言っても判らないようじゃ本当に処置なしね。少しは責任を取らせようと思ったけど、貴方にはその価値さえない。ここで見逃してあげるから、衛宮くんにやられる前に教会にでも逃げ込みなさい」
瞳を苛立たせたまま、遠坂凛は間桐慎二に背を向けた。
もうここに用はない、と。
間桐慎二というマスターを敵とすら見ず、彼女は間桐邸を後にする。
「僕が――――衛宮に劣る、だって……?」
繰り返す言葉には憎悪しかなかった。
だが、間桐慎二は壁に張り付いたまま、去っていく遠坂凛を見つめる事しかできない。
ここで襲いかかれば、確実に殺される。
その事実、その力関係だけは、間桐慎二でさえ感じ取れていたからだ。
「遠坂――――おまえ、おまえ…………!」
際限のない怨嗟の声。
「――――――もう、しょうがないな」
それに彼女は足を止め、振り向かずに間桐の後継ぎだった少年に別れを告げる。
「いいわ、最後に教えてあげる。
自分以外の為に先を目指すもの。自己よりも他者を顧みるもの。……そして、誰よりも自分を嫌いなもの。
これが魔術師としての素質ってヤツよ。どんなに魔術《さい》回路《のう》があったところで、ソレがない者には到達できない所がある。
……ふん。わたしだって、そんな条件を満たしているヤツがいるなんて思ってもみなかった。こればっかりは、生まれつき壊れてないと持てない矛盾だから」
「慎二。アンタは他人を蔑む事で、同時に抱かなくてもいい劣等感を抱いた典型よ。自分が好きなあまり周りを下に見たものの、見下す相手が上にいるものだから、つまらない劣等感に囚われただけ。
……貴方の中身は空っぽよ。詰まっているように思えるのは本人だけで、正体は風船と一緒。まわりの風向き次第で、行き着く先なんてくるくる変わる」
「ぅ――――――、ぐ」
「理解した? そんな男に魔術師なんて勤まらないし、サーヴァントだって従わないわ。
ここから先は貴方には関係のない世界よ。間桐慎二がどんなに自分をマスターだと言い張っても、貴方は絶対にマスターにはなれないんだから」
―――去っていく足音。
遠坂凛は一度も振り返らず、間桐慎二を暗い部屋に残していった。
「――――は。はは、ははは」
ずるり、と壁から落ちる。
間桐慎二は糸の切れた人形のように床に崩れ落ち、ひきつった顔で笑い続ける。
「なんだ。そうか、そういうことか」
唾液にまみれた舌が、乾いた唇を舐め上げる。
ガツン、という音。
少年は乱暴に、骨を砕くかの勢いで壁に後頭部を打ち付け、
「――――ようするにさ。
あいつがいなくなればいいって言うんだろ、遠坂?」
くつくつと、空っぽの哄笑を上げ続けた。
◇◇◇
「じゃ行くぞ桜。せーの、じゃんけん、」
「えいっ!」
ぽん、と堅く握りしめた手を突き出す。
対する桜の手は平手打ち。
こっちはぐー、桜はぱーだった。
「う」
「やった、わたしの勝ちですね!」
突き出した手をじっと見る。
……またやってしまった。どうしてこう、じゃんけんになると一手目がグーになってしまうのか。
「それじゃ夕食の支度はわたしというコトで。先輩はのんびりテレビでも見ててください」
夕食の支度を一人でできるのが嬉しいのか、桜はタンタンと軽い足取りで台所に移動する。
「……はあ。仕方ないか、勝ったほうが飯を作る約束だもんな」
つけていたエプロンを外して座り込む。
他がどうなのかは知らないが、うちでは夕食の支度は娯楽の一つであるらしい。
……俺はそうではないのだが、桜がとにかく一人で作りたがるのだ。
それはそれで有り難いのだが、先輩として桜ひとりに甘える訳にもいかない。
よって、今日のようにお互いが暇な時は、何らかの勝負事で夕食の調理権を争う事になる。
「……やる事ないし。お茶飲も」
お茶を淹れてぼんやりとテーブルに陣取る。
セイバーは俺の部屋で睡眠中、藤ねえは残業とやらで帰ってこない。
居間にいるのは俺と桜だけで、桜は上機嫌で台所に立っている。
「――――――――」
……他にやる事がなかったからか、それとも、無意識に目が追ってしまうのか。
桜はテキパキと動いて、傍から見ても楽しそうだった。
見慣れた長い髪と濃い紅色のリボン。
食器を手にとる仕草。重そうながらもしっかりと包丁を持って、キャベツをまな板に置く。
「んっ――――!」
えい、と気合をこめて入刀する。
包丁をいれる時、桜はどんな物でもそんなふうに緊張して、あとは慣れた手つきで調理していくのだ。
「――――――――」
それをぼんやりと眺めていた。
夕暮れの居間。
桜がいて、こんなふうにゆっくりと時間が過ぎていく日常。
唐突に、それが得がたいものなのだと気がついた。
……夜になれば戦いに行くからだろう。
この時間が自分にとってどれほど大きなものなのか、今更になって気付いた気がする。
「……うん。桜を、守らないと」
間桐臓硯が何を企んでいるかは判らないが、桜には手出しをさせない。
ここ数日桜に触れる機会が多すぎて、桜の体の成長《へんか》に戸惑ってばかりいた。
……俺は正直、女の子としての桜に動揺して、参り始めているのだと思っていた。
けどそれは違う。
俺が参っているとしたら、それはもっと前からだ。
台所からは、緩やかな鼻歌が聞こえてくる。
……大事なのは、そんな些細な事だと思う。
ぼんやりとした頭で三杯目のお茶を淹れて、夕暮れの風景を眺めている。
お茶にアルコールでも入っていたのか、時間は緩やかで、ひどく柔らかい感じがした。
◇◇◇
―――町が眠りにつく。
時刻は午後十時を過ぎたばかりだというのに、夜の深さは丑三つ時のそれだった。
連続する昏睡事件の影響だろう。
夜の帳《とばり》が落ちた町には明かりがなく、外には人影さえ見られまい。
「あの影を探し出し、調査する―――アーチャーのマスターも無茶を言ってくれますね」
「ああ。けどやるしかないだろ。セイバーは反対か?」
「……私の考えは朝に告げた通りです。
それでシロウ、何か手がかりはあるのですか。闇雲に町を巡回するのでは、逆に的にされかねない」
……手がかり、か。
確証はないけど、それなら――――
「もう一度、柳洞寺に行ってみよう。
……今にして思うと、あの時のキャスターはどこかヘンだった。あそこにはまだ何かある気がする」
「……そうですね。あの山には不吉な気配が満ちています。この町で最も霊的な手が加えられているのはあの土地ですから。あの影とは別に、一度調べてみる価値はある」
「なら決まりだ。さっそく行こう」
中庭から門へ向かう。
柳洞寺まで急いで一時間。行くのなら早い方がいいん、だけど――――
「セイバー?」
セイバーは離れを見上げていた。
彼女の視線の先には、もう眠りについた桜の部屋がある。
「……シロウ。戦いに赴く前に話があります。その、朝の続きなのですが」
「? 朝って、桜のことか?」
「はい。桜は自責の念が強すぎる。起きてしまった事、犯してしまった間違いを、彼女は未来ではなく現在で償おうとするきらいがあります」
……それは昨日の口ゲンカの事だろう。
セイバーは、桜は正しい事を言ったのだから気にする必要はないと言い、
桜は、それでも自分が悪かったとセイバーに謝りに行き、逆にセイバーに謝られた。
桜とセイバー。
二人の物の捉え方の違いを、セイバーは心配しているのか。
「……それは、どういう?」
「……桜は自分を責めすぎるのです。過ちを正す事より、悔いる事を強要している。だから汚名を返上しようとするのではなく、汚名を刻み付けようとしてしまう。良くも悪くも、彼女は自分を重くしている」
……苦々しく語る。
それは桜ではなく、セイバー自身に対しての言葉のようにも思えた。
「……昨夜、私はそれを強く感じました。シロウと共にいる時の彼女が特別で、普段はもっと別のものではないのかと。桜は、貴方といる時だけ自責の念から解放されている」
だからそれが心配だ、と彼女は言った。
桜はもっと、自分ひとりでも胸を張れるようにならなければいけないと。
「……そうか。たしかに桜は内気すぎるからな。俺も気をつけてみる」
言われてみれば、年頃の女の子が家事手伝いばかりに奔走しているのはよくない。
桜は『ここにいたほうが楽しい』と言うけど、それでも外に遊びに行くぐらいはしないとダメだ。
「……ありがとうセイバー、桜を心配してくれて。
聖杯戦争に関係ない桜を気にかけてくれたのは、すごく嬉しい」
「……いえ。自責にかられる彼女の気持ちは私にもあったものです。ですから、他人事には思えなかったのでしょう」
「あ―――待てよセイバー、一緒に行こう」
肩を並べて門へ向かう。
静寂に支配された夜の中、桜を起こさないように外へ向かった。
◇◇◇
立ち入り禁止の柵を越えて境内に入る。
キャスターとの一件以来、柳洞寺は昏睡事件の重要参考物件として扱われ、人の出入りが禁止されていた。
「………………」
肌に纏わりつく夜気は変わらない。
空気は生温かく、熟れた果物の匂いがした。
「……中に入るぞ、セイバー」
「はい。……シロウも気をつけて」
「わかってる。危険を察知したらすぐに教えてくれ」
……境内を抜け、内部に通じる渡り廊下によじ登る。
板張りの廊下は暗く、歩くたびにキシキシと音をたてた。
「……とりわけ変わったものはないか。セイバー、どうだ?」
「……私も同じです。ですがこの一帯が異常なのは確かです。この山に踏み入った時から、私たちは異なる常識に取り込まれている。
……これだけ魔力が満ちていながら異常を感じない事こそが異状と言えるでしょう」
「……そうだな。よし、もう少し調べてみよう。この寺、裏側に池があるんだ。あっちの方にもいくつか建物がある」
……裏の池には竜が棲むという。
古くから神聖な場所とされていたあそこなら、何か手がかりがあるかもしれない。
廊下に出て寺の裏側に向かう。
その、瞬間。
「シロウ!」
「っ、セイバー……!?」
瞬間、廊下からお堂に弾き飛ばされていた。
それがセイバーによるものだと気付き、すぐさま廊下に駆け戻ろうとした目の前で セイバー自身の手によって、堅く出口が閉ざされた。
「セイバー!? おい、なんのつもりだバカ……!」
扉を叩く。
どんな魔術なのか、セイバーに閉められた扉は鉄のように堅くなっている。
「この、なにやってんだ、開けろセイバー……!」
叩いても殴っても扉は開かない。体当たりしたところでビクともしない。
その、鉄と化した扉の向こうで、
「そこで身を守っていてくださいシロウ……! この相手は、確実に貴方だけを狙ってくる……!」
「な――――敵ってなんだ!? あの影か!?」
「違います! ですがマスターにとって天敵といえるサーヴァントです! 申し訳ありませんが、貴方が戦場にいては守りきれない。
あのサーヴァント―――アサシンには一騎打ちで望まなければ、先にマスターを叩かれてしまう……!」
「アサシンだって……!?」
そんな気配はなかった。
いくら柳洞寺の空気がおかしいとは言え、サーヴァントの気配は別物だ。
近くにサーヴァントが実体化したのなら、その濃密な魔力は必ず伝わってくる。
気配を隠したにせよ、俺はともかくセイバーに感づかれない筈はないのに――――!
「一撃で決着をつけます。それまでそこを離れないでください――――!」
セイバーの気配が遠ざかる。
足音は高く、セイバーはアサシンの攻撃を弾きながら敵の間合いへと踏み込んでいったのか。
「くそ、こうなったら――――」
周囲を見渡す。
木刀ほどの警策《ぼう》を手にとって、即座に“強化”を開始する。
「、――――早、く」
この警策を剣にして、扉を叩き割らないと。
嫌な予感、得体の知れない焦燥が思考を占めていく。
―――この場所。
この山で、セイバーを一人にしては取り返しのつかない事になる気がして、早く――――
「――――!?」
明かりが落ちた。
否、明かりなんて初めからない。
暗いお堂を照らしていた月光が遮られたのだ。
「――――っ」
……異臭がする。
腐った肉の匂いと、耳障りな虫の羽音。
「――――間桐臓硯」
目前の闇を睨む。
「―――ク。飛んで火にいる、とはまさにおぬしよな衛宮の小倅」
呵々、という笑い声。
何処かに潜むソレは、紛れもなく老魔術師の妖気だ。
「…………セイバー」
手にした警策《ぶき》を構える。
数百年を生きた妖怪を前にして恐れはない。
頭を占めるものは、ここにはいないセイバーの安否だけだった。
◇◇◇
廊下を駆け、髑髏の面を追い詰める。
十間は離れていた間合いが、今ではわずか三間《五メートル》。
彼女―――セイバーならば一足で踏み込み、髑髏の面ごと敵を両断しうる距離である。
だが、それは敵とて承知。
接近されては勝負にならぬと踏んだからこその投擲、接近されまいとするからこその後退だ。
髑髏はセイバーの全力疾走には及ばないものの、地を駆ける獣の如き速度で後退する。
狭い廊下を滑るように、直角の曲がり角さえ減速せず移動していく。
背面に目があるのか、それともセイバーと対峙しているこの面こそが背面なのか。
髑髏面のサーヴァント―――アサシンはセイバーから追われつつも、離れすぎず近づきすぎず、逃げ水の如く間合いを維持していた。
――――火花が咲く。
ノーモーション、取り出す仕草さえ見せずに放った三条の短剣は、しかしセイバーには通じない。
ランサー同様、セイバーにも射的武器に対する耐性がついている。
ランサーが風切り音と敵の殺気から軌道を読むのに対し、
セイバーは風切り音と自らの直感で軌道を読む。
英霊にとって“視認できない攻撃”はそう脅威ではない。
彼らはその先を行くもの、“理解していても防げない攻撃”こそが、互いを仕留める極め手となるからだ。
その点で言えば、ランサーの槍は英霊の宝具と呼ぶに相応しい。
“必ず心臓を貫く”などという武器は、その正体が判ったところで防ぎようがあるまい。
あの魔槍に対抗する手段があるとしたら、
槍の魔力を上回る純粋な防壁を用意するか、
槍によって決定された運命を曲げるほどの強運か、
そも槍を使わせないか、のいずれかしかあるまい。
それに比べればアサシンの短剣《ダーク》は御しやすい。
急所に刺されば死ぬが、弾けば防げるモノならば礫《つぶて》と何ら変わらないからだ。
「チ――――」
放った短剣《ダーク》はすでに四十を超えた。
黒衣に忍ばせた短剣を全て使いきり、アサシンはようやく足を止める。
「ぬ――――」
追撃するセイバーも、たたらを踏んで停止した。
……接近させまいとしていた敵が、自ら足を止めたのだ。
何かあるのは間違いなく、アサシンの周囲に不吉な気配を感じる。
ここは、そう易々と踏み込める状況ではない。「―――観念したのか、アサシン」
このまま斬り捨てる事が最善と判っていながら、セイバーはわずかに後退する。
これ以上進んではいけない、と。
長く彼女が培い、永く彼女を生かしてきた直感。
それが最大限に警告を発している。
この先に進むな。
これ以上、あの昏い闇《・・・・・》に近づくな、と。
「……ああ、観念したともセイバー。こちらは弾切れだ。
こうなっては一撃で下されると覚悟したのだが、なぜ近寄らぬのかな」
「――――――――」
セイバーは応えず、切っ先をわずかに上げる。
剣は敵に。
間合いは四間《七メートル》、一刀するには二の踏み込みを必要とする。
剣士であるセイバーでは踏み込むしかない間合い。
されど彼女には一撃のみ、
間合いの有無に囚われぬ秘剣がある――――
アサシンの黒衣がはためく。
にわかに吹き始めた風がどこから生じるものなのか、アサシンには知る由もない。
「ふん、私などに語る口は持たぬか。まあいい、語るは自由だ。思う通りに語らせてもらおうか」
アサシンの声は、外見とは裏腹に透き通っていた。
それが誰かの声音……以前戦った槍兵に似ていると、セイバーは瞳を細める。
「しかし、よくもまあ弾いたものだ。私の短剣、見せないつもりで撃っていたのだが、おまえには見えていたのか?」
「実像は見えてはいないが、軌跡ならば読み取れる。見えないものを恐れるようなら、このような剣は持たん」
なるほど、と髑髏は笑った。
不可視の剣を持つ者に黒塗りの短剣を投げつけたところで何ができよう。
英霊としての格の違い、手にした宝具の性能差を見せつけられ、アサシンは笑い続ける。
「そうか、私など初めから敵ではなかったのだな。
所詮アサシン、まっとうな英霊に太刀打ちできる筈もない。もとより暗殺者《われら》は影に潜むもの。そのような役割に選ばれる英霊など、初めから存在しない」
「――――――――なに?」
「故に、我らが役割は暗殺のみ。英霊《サーヴァント》ではなく人間《マスター》を殺すしか能のない英霊《なりそこない》もどきがアサシンなのだ。
―――さて。となると、私の標的はただ一人だけだ。
理解できるかねセイバー? 私の行動は、全て君の主を仕留める為だけのものだと」
「――――シロウ」
「左様。おまえの主は、我が雇い主がもてなしている。
私を引き離したところで、急がねば蟲どもの餌食だぞ」
「っ……!」
セイバーの剣に光が点る。
否、本来黄金である彼女の剣が、その姿を垣間見せる。
「――――ほう! 風の呪《まじな》いで刀身を隠していたか。なるほど、その風圧ならばその場からでも私を断てる。わざわざ死地に踏み込む事もないという訳か」
黒衣が沈む。
誘いこむ筈の獲物は、まさかの飛び道具を持っていた。
こうなっては思惑も策略もない。
セイバーが近づかずアサシンを断つというのなら、アサシンは近づいてセイバーを捉えるのみ。
「立場が逆になったなアサシン。この風王結界、見事踏み込んでみせるか」
「ひどい女だ。蝗《イナゴ》の群に飛び込めと言う。さりとて、このままでは竜の咆哮が放たれる。……これは、進退窮まったか」
髑髏の面が地面に這う。
廊下に伏せたアサシンは、壁に這う蜘蛛に似ていた。
圧縮された大気は真空の渦となって、今まさにアサシンへと放たれようとしている。
正気ではない。
必殺の旋風を前にして、まさか伏せてやり過ごせるなどと思おうとは。
「さて。どう見てもこれで最後になろう。その前に語らせてもらおうかセイバー。
―――おまえは、一対一ならば私に勝つと言ったな」
セイバーの剣が上がる。
会話に乗じて離脱しようとする事も許さない。
セイバーの眼は確実にアサシンを捉えている。
たとえ空間転移を以ってしても、転移する前にアサシンを断ち決着をつけるだろう。
「だからこそ私をマスターから引き離した。主を守るというその判断は正しい」
剣は頂点。
もはや振り下ろすだけの一撃を前にして、アサシンは更に深く身を屈める。
「だが、そこにはおまえ自身を守る《・・・・・・・・》、という事が含まれていたのかな」
問い掛ける声。
それに、
「―――先を急ぐ。さらばだアサシン」
セイバーは一刀を以って返答した。 決着はついた。
暴風は擬神化された龍の如く、廊下と髑髏の面を飲み込もうと、その蛇体を螺旋《おど》らせる。
防ぐ事も躱す事もできない。
これはランサーの槍と同じ、純粋にセイバーの風王結界を上回る魔力がなくては防げない一撃だ。
アサシンの魔力はセイバーに及ぶべくもない。
彼がこの一撃から生き延びるには“打たせない事”しか手段はなかった。
だがそれも遅く、旋風は放たれた。
剣が振り下ろされてから一秒の後、黒衣はズタズタに引き裂かれるだろう。
渦を巻いて迫り来る死の断層。
その真空の波へ、
「!」
歓喜の声と笑みを以って、アサシンは突進した。
「――――ぐ………!」
首筋に迸《はし》る一撃。
それを咄嗟にセイバーは弾き、黒衣は彼女の真上をすり抜けて背後に着地する。
「おのれ――――!」
神速で振り返り、背後を一刀するセイバー。
だがそこにアサシンの姿はなく、黒衣はとうに間合外へ跳んでいた。
同時に、
「――――――――な」
先ほどから感じていた“不吉な気配”が、彼女の足元を覆っていた。
「―――さて。二つほど運がなかったな、セイバー」
影が広がる。
泥のような汚濁が彼女の銀を侵していく。
「一つは相性。暴風《ジン》避けの呪《まじな》いは砂漠を行く者には必須でな。私が知る唯一の魔術が、風避けの御名であり――――」
廊下は闇に。
白い月光を以ってしても明かされぬ影。
それを――――
彼女は、薄れていく意識の中で視認した。
「アサ、シン――――貴様、は――――」
「そうだセイバー。もう一つは、この場所を戦いの場に選んだ事だ。ここには良くないモノが棲むと、おまえは気付いていた筈なのだがな」
「っ――――、――――あ」
アサシンの声すら聞こえない。
このままではあと数秒で消える。
この影は自分《サーヴァント》を呑むものだ。
薄れていく思考より、体がそれを嫌悪した。
「は――――あ、あああああああ――――!」
なりふりなど構わない。
残った魔力、その全てを使い切っても脱出しなければならない。
―――影はまだ足元だけ。
このまま、最大出力で振り払えばまだ間に合う。
魔力の大部分と、たとえ両腿《りょうあし》を失ったとしても、今はこの影から逃れるだけ。
だが。
「―――そうはいかん。おまえはここで消えるぞ、セイバー」
彼女の敵は、この影だけではない。
対岸の火事の如く、影に飲まれていくセイバーを眺める髑髏こそが、彼女に死《とどめ》を刺す死神だった。
「く――――初め、から」
「一対一ならば勝てると言ったなセイバー。そう、それが間違いだ。おまえは一人、こちらは二つ。私はただ、おまえの注意を削ぐだけでよかった」
影が侵《すす》む。
「っん…………! あ―――つぅ、あ――――」
足元から、存在が腐っていく。
つま先の感覚、両腿の感覚がまるでない。
彼女の両足は、既にこの世にあってこの世にないモノになっていた。
「サーヴァントはその真夜《アルヤル》に抗えん。おまえがまっとうな英霊ならば尚更だ。比較的近い私でさえ、触れれば魔力を奪われる。純正であるおまえでは、触れられただけで正気を失おう。
……だが、それは惜しい。むざむざおまえを消滅させては、私の目的は果たせない。おまえの心臓は、私が貰う」
「な――――おまえが、私を?」
「おかしいか? 短剣は底をつき、私とて影には近づけぬ。その私がおまえを仕留めるのは不可能だと?」
髑髏に殺気が点る。
今まで微弱にしか感じられなかった魔力が、アサシンの右腕に集中する。
……アサシンの右腕は、棒だった。
手の平のない奇形の腕は、腕として用をなさない。
それでは短剣は握れず、相手を殴りつける事さえできまい。
それが曲がった。
骨を砕き、曲げて、髑髏の腕が奇形の翼を羽撃《はばた》かせる。
奇形だった。
なんという長腕か。
暗殺者の右腕は、拳と思われた先端こそが“肘”だった。
ソレは―――肘から折り畳まれ、その掌を肩に置いた状態で縫い付けられていた腕なのだ。
「――――――――」
セイバーの思考が凍る。
届く。
あの腕ならば届く。
届いて確実に自身の心臓を抉り出す。
その戦慄が身に走るより早く、彼《か》の腕は羽撃き――――
呪腕は槍のように彼女に突き出された。
肉を断つ音と、噴出される鮮血。
赤い血は地面を濡らし、黒い影を斑《まだら》に染める。
「――――――――キ」
髑髏の面から狂気が漏れる。
一直線に突き出された腕は真紅。
それは事を成し、速やかにアサシンへと折り畳まれ、「キ、キキキキキキキキキキ――――!!!!」
その、奇形である肘から上を、完全に断たれていた。
「オ、オノレ、キサマ、死ニ損ナイノ分際デ――――!」
「はぁ――――は、あ――――」
……振り上げた剣が落ちる。
アサシンの呪腕はセイバーには届かなかった。
その腕が鏡像の心臓を抉り出すより速く、セイバーの剣が呪腕を断ったのだ。
いかな窮地と言えど、アサシンの宝具ではセイバーは倒れない。
否。
因果を逆転させるランサーの槍を防いだ以上、このような呪腕に倒される事など、セイバーには許されない。
「ぁ――――、つ」
だが、それが最後の抵抗だった。
影から脱出する為に溜めていた力を、今の迎撃に使ってしまった。
もはや振り解《ほど》く力はなく、仮に振り解《ほど》けたところで間に合わない。
彼女が感じていた不吉な気配は、既に彼女自身から発しているのだ。
足元を侵食し、腰まで伸びた影。
月光すら呑むこの闇は、既に彼女自身でもある。
ならば――――もう、何もかも手遅れだった。
……影が這い上がってくる。
銀の剣士は霞んでいく視界の中、
「すまない――――シロ、ウ」
酸素を求めるようにそう漏らして、昏い泥中に沈んでいった。
◇◇◇
……間桐臓硯は、以前と変わらぬ姿で立っていた。
アーチャーに断たれた半身も健在だ。
死を待つだけだった老魔術師は、あの夜の出来事が幻だったかのように笑っている。
その理由《まじゅつ》は不明だが、本当にあの状態から持ち直したというのなら、それは治癒ではなく復元の域だ。
傷を治す、というレベルの話じゃない。
無くなった肉体、失われた肉体を元に戻す大魔術だ。
なら―――それは、不死身と呼ばれるものではないのか。
「さて。そのような棒切れ一本で何をしようというのかな、小僧」
「――――――――」
“強化”した警策を臓硯に向けたまま立ち尽くす。
臓硯に踏み込む為の前進も、セイバーを追いかける為の後退もできない。
……臓硯が不死身だとしたら、確かに、こんな棒切れ一本でどうにかできる相手じゃない――――
「ワシを仕留めるか、サーヴァントの後を追うか。どちらにせよ、足を動かさねば始まるまいて」
そう語る老魔術師の周囲には、キイキイと蠢くものがある。
いや、蠢いているのは臓硯の周りだけではない。
暗い影、月光を遮断する闇そのものが移動している。
「――――虫」
見えなくとも判る。
闇の正体は細かく、おぞましいほど密集した虫の群だ。
このお堂の四隅、壁という壁に、闇より黒いモノが敷き詰められている。
この空間は、ガサガサと壁を這う虫の音と、肉の腐った匂いで支配されていた。
「どうした、なにを躊躇う? 先日、ワシの腹を断ってくれたのはおぬしたちであろう。遠坂の小娘と組んで、ワシを始末する腹ではなかったのか?」
……蟲遣《ぞうけん》いは明らかに愉しんでいる。
警策一本で、部屋中に集まった何万という虫を払う事などできない。
臓硯が号令を下せば、何をやっても虫の波に飲まれるだろう。
―――いや、それとも。
全力で外に逃げ出せば窮地は脱せるかもしれない。
多いといっても所詮は虫だ。
そんな、秒単位で人間一人をどうにかできるとは思えない。
「よいぞ、ワシは幾らでも待とう。
セイバーの帰還を信じて待ち続けるか、その武器でワシを仕留めるか、それとも我が蟲どもを振り払い外に出るか。好きな死に方を選ぶがよい」
……ふん。
どうしたってここから逃がす気はないらしい。
ここで睨み合っていても、周りの虫が増えていくだけだ。
なら――――
「――――――――」
……いや。
それでも下手に動く事はできない。
セイバーは心配だ。今すぐにでも駆けつけて無事を確かめたい。
だが、その為には臓硯に背を向ける事になる。
増えていく虫より、その行為こそが致命的だ。
―――そこで身を守っていてください、シロウ。
セイバーはそう言った。
ならギリギリまで、俺はここで持ち堪えるだけだ。
「―――ほう。なるほどなるほど、よい信頼関係を持ったものじゃ」
……臓硯の言葉には惑わされない。
警策をしっかりと握り直し、いつ仕掛けられても対応できるように神経を集中する。
「よかろう。では根競べじゃ。おぬしの判断が正しかったかどうか、答えを待つがよい」
臓硯から殺気が消える。
老魔術師は一歩後退し、虫たちの闇に溶けるように薄れていった。
「――――――――」
消えかけた気配。
目前にいるであろう蟲遣《ぞうけん》いを睨む。
…………。
…………………。
……………………………。
………………………………………。
……………………………………そうして、一分の後。
「え―――――――?」
遠くで風鳴りが聞こえた後、じくり、と左手が痛んだ。
左手の甲が痺れる。
血を流すように、令呪が痛んでいた。
「セイバー……?」
嫌な予感がする。
嫌な予感がする。
嫌な予感がする。
左手の痛み。
止まった風鳴り。
気配―――目に見えるほどの殺気を伴って笑う、蟲遣いの老魔術師。
「どうやら片付いたようじゃな。おぬしもマスターならば判ろう? 己がサーヴァントが、この世から消滅した事実がな!」
「――――――――」
思考が止まる。
視界が凍る。
コイツは――――一体、何を言ってやがるのか。
「何を呆けておる。セイバーは死んだ。格下と侮ったアサシンに破れた。そんな事も判らぬのか小僧?」
「な――――――――に、を」
馬鹿な事を言っているのか。
左手は痛い。
確かに左手は痛い。
だが令呪は消えていない。
今にも消えそうに、段々と薄れていっているがまだ消えていない。
なら――――セイバーならきっと、今すぐにでもここにやってくる筈だ――――!
「セイバー、来い……!」
左手の痛みをかき消すように叫ぶ。
ありったけの魔力を左手に注ぎ込む。
令呪の使い方など知らない。
ただ、これがマスターの願いに応えるというのであらば、今すぐここにセイバーを――――
「くっ――――!」
反応がない。
令呪は一度、確かに起動しようとしたのに止まってしまった。
令呪に問題はない。
問題があるとしたら、それは令呪に応えるべきセイバーが、既に――――
「無駄な事を。令呪と言えど、失われたサーヴァントを蘇らせる事は出来ぬ。
さて、巡りの悪いおぬしでも理解できたろう? セイバーはとうに、我がサーヴァントによって死に絶えたわ」
「寝、言――――」
「では終いにするか。遠坂の小娘はまだ使い道があるがな、おまえはこれで用済みよ、小僧。セイバーともども、我が聖地で死に絶えるがいい」
「――――言ってんじゃねえぞ、テメェ――――!」
走った。
左手の痛み、嫌な予感を振り切ろうと、ただ目の前の敵へと走った。
◇◇◇
「っ――――、は!」
臓硯へ踏み込み、全力で警策を振り下ろす。
脳天から股下、縦一文字に叩き下ろした一撃は、
何かに阻まれ、間髪いれず、俺は体ごと弾き飛ばされていた。
「ぁ――――、っ――――!」
壁に叩きつけられ、背中を強打する。
腹を殴られたのか呼吸ができない。
叩きつけられた背中は、火で炙《あぶ》られたように痺れている。
耳元には虫の音。
壁に張り付いていた虫たちは、弾かれた俺に潰されないようにと離れていった。
……その、ガサガサという音さえ、俺を間抜けと嘲笑っている。
「間に合ったかアサシン。では小僧の始末もおぬしに任せよう。セイバーに比べれば楽な作業、ゆるりと愉しむがよい」
臓硯の姿が消える。
その後、老魔術師が佇んでいた闇に、
白い、髑髏の面が笑っていた。
……アレが、アサシンのサーヴァント。
白い面を被った、間桐臓硯に相応しい黒衣の暗殺者。
「――――――――」
殺される。
左手の痛み。
麻痺した思考。
直後の死を認めた心臓が、一際高く動悸し。
眉間と喉、心臓と腹部へと放たれる凶器を、なす術もなく受け入れた。 放たれた凶器を弾く銀の光。
俺の命を奪おうとした四つの短剣は、悉く同じ剣によって防がれていた。
「――――」
そんな事をするのは一人しかいない。
左手はまだ痛む。
令呪はまだ消えていない。
なら――――
「セイバー……!」
「馬鹿め、しくじりおったのか……!?」
顔をあげる。
目の前―――俺を白い髑髏のサーヴァントから守るように現れたその姿は、
「え……?」
「ぬ……?」
アサシンと同じ、黒衣に身を包んだサーヴァントだった。
「ライ、ダー……?」
「――――――――」
間違いない。
こいつは慎二のサーヴァント、ライダーだ。
それがどうしてこんな所にいて、俺を助けてくれたのか――――
「おのれ、ワシに逆らうか……! ええい、かまわぬわアサシン! 邪魔をするのならそやつも始末せい!」
臓硯の叫びに髑髏が応える。
たなびく長髪。
ライダーは無言でアサシンへと向き直り、
その、雨のように撃ち出される短剣に向かっていった。
―――短剣は、肉眼で追えるものではなかった。
髑髏の面はお堂狭しと跳ね回る。
壁にいたかと思えば天井に張り付き、天井から床に張り付いて短剣を連射する。
前後左右、絶え間なく放たれる短剣は防ぐ事も躱す事も許されないだろう。
矢継ぎ早に繰り出される短剣は、瞬く間に床を串刺しにしていく。
ライダーに対処できるものではない。
セイバーとの戦いでライダーの実力は判っている。
セイバーでさえ防ぎきれるか、というアサシンの猛攻だ。
セイバーに一撃で倒されたライダーに太刀打ちできる道理はない。
白い髑髏は容赦なく己が凶器を掃射する。
―――それは。
どこか、苛立ちを含んだ猛攻に見えた。
「――――な」
異常に気付いたのは、既に優劣が確定した後だった。
……当たっていない。
闇に撃たれた幾条もの短剣は、一本たりともライダーには当たっていない。
「キ、サマ――――」
天井から声が漏れる。
短剣が尽きたのか、アサシンは憎々しげに眼下の敵を見据える。
そこに、
――――一匹の、巨大な蛇がいた。
「――――――――」
……信じられない。
あれだけの数。
あれだけの短剣を、ライダーは全て速度だけで躱しきった。
俺を助けた時とは違う。
自分ひとりなら弾く必要などないと、ライダーは地に這ったままアサシンの猛攻を躱したのか。
「何を遊んでおるアサシン……! 我が孫のサーヴァントと言えど容赦は要らぬ、早々に片付けんか……!」
「ソレハデキナイ―――コヤツ、以前トハ違ウ」
天井に張り付いたまま、アサシンはライダーを凝視する。
今のライダーは以前のライダーとは違う。
その体に秘められた魔力も、敵を威圧する迫力も段違いだ。
セイバーには届かないにしても、これなら―――ライダーは、確実にアサシンを上回っている。
「ク――――キサマ、何故」
「――――――――」
ライダーは答えない。
ただ、その体が一際深く沈んだ。
それが獲物を狙う猛獣の仕草なのだと読み取った時、
天井へ飛ぶライダーの短剣と、地面に跳ぶアサシンの短剣が交差した。
「ッキ――――!」
「――――――――」
衝突し、互いに背を向けて着地する。
ライダーは無傷。
対して、アサシンの肩にはライダーの短剣が突き刺さっていた。
「ク――――抜ケ、ヌ――――!?」
肩口に刺さった短剣を引き抜こうとするアサシン。
「――――――――」
そこへ。
じゃらん、と鎖の音をたて、ライダーはあろうことか、「え――――ええーーーーーー!?」
鎖を使って、アサシンを振り回し始めやがった……!
「ガ、ギィィィィィイ――――!」
髑髏の面が苦悶をあげる。
ライダーは無言で、まさに容赦なくアサシンをぶん回す。
まるで鉄球だ。
鎖につながれたアサシンはなす術もなくライダーに振り回され、壁という壁に激突し、その度《たび》に腕や足をあらぬ方向に曲げていく。
「うわ、危なっ……!」
ごう、と旋風をともなって振り飛ばされてくるアサシンを伏せて避ける。
「ガ、カガ、ガ――――!」
怪力とか乱暴とか、もうそういう次元の話じゃない。
ライダーは思う存分鉄球《アサシン》を振り回した後、その遠心力を生かして手を放した。
まさにハンマー投げである。
体中の骨を砕かれたアサシンは、無惨にも最後には頭から壁に投げ飛ばされ、
「……あ」
……飛んでいく。
髑髏面のサーヴァントはゴミのように境内に落下し、血を撒き散らしながらバウンドし、あまつさえ山門から転がり落ちていった。
「あ……うわあ……」
……むごい。
今ので消滅するほどサーヴァントはヤワではないだろうが、それにしたってあれでは戦闘不能だろう。
「愚か者が――――」
臓硯の気配が消える。
老魔術師は不利と悟ったのか、ライダーを罵倒して姿を消し、
ライダーの暴挙で隅に逃げていた虫たちも、主に倣うように消えていった。
◇◇◇
「ぐ――――っ」
アサシンに殴られた腹の痛みで正気に戻る。
……お堂にはもう、俺とライダーしかいない。
深呼吸をして気を落ち着ける。
―――そこで。
体の痛みが、背中と腹にしかない事に気がついた。
「セイ――――」
それがどういう事なのか、本当は、もう考えなくても判っていた。
「バー――――」
目眩を堪えて廊下に向かう。
「―――待ちなさい。一人で行動するのは危険です」
「…………おまえ」
ライダーに殺気はない。
ライダーは本気で、俺を助けただけのようだった。
「……おまえ、どうして」
俺を助けてくれたのか、なんて疑問は、どうでもよかった。
今はそんな事より早く――――
「……おまえは慎二のサーヴァントだろう。なのにどうして俺を助けてくれたんだ」
―――そこに、行きたいのに。
どうしてこんな、寄り道をしているのか。
「貴方を死なせてはいけない、と命じられています。私は主の命に従っただけです」
……そうか。
それならいい。納得できないし信じられないが、答えが返ってきたのならいい。
今はそれより――――早く、行かないと。
「………………」
「――――――――」
その場所がそうなのだと、一目で判った。
廊下は静まり返っている。
暴風でも通ったのか。廊下は所々がヤスリをかけたように削がれ、半壊している。
その中。唯一無事な床に本当に少しだけ、赤い染みが残っていた。
手の平よりも小さな血痕は、誰の物かも判らない。
それでも―――それを見た瞬間、膝から力が抜けて、廊下に跪《ひざまず》いていた。
「――――――――」
赤い染みに触れる。
血は乾いていて、指に残ることもない。
この血痕が告げるものは、ただ、彼女がここで消えたという事実だけだ。
“――――私の役割は貴方を守る事です、シロウ”
「――――――――」
その言葉を、何度聞いただろう。
それは頼もしくもあり、不安でもあったんだ。
……あいつは、本当に俺のことばっかりで。
肝心の自分を守るって事を、一度も口にしなかった。
「――――――――」
血の跡を掻く。
セイバーはここで戦い、ここで倒れた。
戦うとはそういう事だ。
これが死を前提にした争いなのだと、彼女と契約する前から思い知らされていた。
それを承知で俺は彼女の手を取り、彼女もそれに応えてくれていた、だけ――――
「セイ、バー――――」
俺より小さな体で、俺を守ってくれた少女。
聖杯より黒い影を優先すると言った時、彼女は終わりの予感を堪えて、俺の意見に頷いてくれた。
……その結果が、これだ。
俺は彼女を失い、マスターでなくなって、元の半人前に戻った。
戦う手段を無くして、一人になって、それで―――
――――やるべき事を、やり通さなければ。
「――――――なら、行かないと」
最後に長く、血の跡に指を這わせた。
それでお終い。
頭を下げる事も礼を言う事もせず、指を離した。
一際強く左手が痛み、消えた。
セイバーの死を認め、別れを告げた時。
左手の令呪は、跡形も無く消え去っていった。
……サーヴァントを失ったからといって、令呪が失われる事はない。
令呪が消滅する時は、その魔術師がマスターとしての資格を失った時だけだ。
「―――――そうか。つまり、俺は」
この夜、ここで何が起きたのか、俺には知るよしもない。
確かな事は一つだけだ。
俺はセイバーを失い、マスターとしての資格を、この瞬間になくしたのだ。
……柳洞寺を後にする。
殴られた腹と背中は大きな傷のようだが、今は、体の痛みは気にならなかった。
「送ります。敵がいなくなったとはいえ、夜道の一人歩きは危険ですから」
「……え?」
思わず足を止めてしまった。
ライダーの言動はさっきから予想外すぎる。
「わからないな。それもおまえのマスターの命令か?」
「―――いえ、そのような命令は受けてはいません。これは私個人の感情です。ただそう思っただけですので、他意はありません」
「……そっか。それなら信じるけど、見送りはいい。俺たちは敵同士だろ。なら、そこまで世話にはなれない」
「敵同士―――では、貴方はまだ私たちと戦うつもりですか。セイバーを失った、魔術師でもない貴方が」
「――――――――」
返答はしない。
まだ戦うつもりも何も、降りるなんて言った覚えはないからだ。
「そう―――わかりました。せいぜい、道中気をつけなさい」
長い髪がはためく。
ライダーは先に山門へと向かっていく。
その背中が、俺でも呆れるほど無防備だったからか。
「……さんきゅ」
つい、言い忘れていた事を口にしていた。
「え?」
振り返った顔は、明らかに驚いていた。
「う……」
そういう顔をされるとこっちも気恥ずかしいが、ちゃんとお礼は言わなくてはいけない。
「貴方は今、なんと言いました?」
……まじめに聞いてくるし。
まっすぐ向き合うのも気まずいので、わずかに視線を逸らす。
「だ、だから、ありがとうって言ったんだ。おまえに助けてもらわなかったら死んでただろう。
……見ての通り、今は何も返せない。だから、せめて礼ぐらい言っとかないとおまえに悪い」
「―――お気になさらず。私は主の命に従ったまでです。
主の命が変われば、すぐにでも貴方を殺します」
感情のない声で告げて、ライダーは山門に消えていった。
「―――だろうな。だから世話にはならないって言ったんだ」
独り、ライダーの姿が見えなくなってから歩き出す。
ライダーがどうして俺を助けたのかを考えるのは後回しだ。
……うちに帰るまで一時間。
そのたった一時間で、俺は、いなくなった彼女の面影を振り払わなくてはいけないのだから。
◇◇◇
屋敷に帰り着いた。
時刻は午前一時をとうに過ぎている。
「っ――――ごほ」
咳き込む口に手を当てると、わずかに血が付いていた。
アサシンに殴られた腹はまだ痛むし、壁に叩きつけられた背中もヒリヒリする。
腹部《なか》の損傷は判らないが、背中の傷は擦り傷だろう。
以前ならすぐさま治っていた掠り傷が、今は一向に治らない。
「――――そうか。以前に戻ったんだよな、そりゃ」
セイバーと契約してから今まで、傷という傷は全てひとりでに治療されていた。
それもなくなった。
これからは些細な傷でも致命傷になる。
「先輩」
と。
屋敷に入るなり、桜が廊下に立っていた。
「……あれ、桜? どうしたんだ、こんな夜更けに。もしかして起こしちゃったか」
「いえ、寝付けなくて夜更かししていたんです。そうしたら先輩の靴がなかったから、何処かに出かけたのかなって」
「ああ、ちょっと出歩いてた」
……あ、そういえば帰ってきた時、玄関の明かりが点いてたっけ。
となると、桜はずっと玄関でこうしていたんだろうか?
「桜。ずっと玄関で待ってたのか?」
「え―――? い、いえ、そんなコトないですっ。
ちょ、ちょっとおトイレに寄っただけで、たまたま玄関にいただけですよ?」
「…………」
待ってたんだな、これは。
俺とセイバーが屋敷を発ってから三時間弱。
もしかしたら桜はすぐに俺の不在に気付いて、ずっと玄関で待っていたのかもしれない。
「そ、それより先輩、お茶にしませんか!?
こんな時間ですけど、あったかいお茶を飲んでゆっくりすれば元気がでますからっ!」
「――――――――」
目が点になる。
桜はいつになく強引で、唐突だ。
……つまり、桜がそんな風に気を遣うぐらい、今の俺はまいっているんだろう。
「――――ああ、頼む。それとただいま。桜に声をかけずに出歩いてすまなかった」
靴を脱いで廊下に上がる。
ズキン、と鈍く痛む腹を押さえて居間に向かう。
そんな俺を前にして、
「……はい。おかえりなさい、先輩」
どこかホッとしたように、桜は言葉を返していた。
「いつっ」
座布団に陣取った腰が跳ねる。
背中に塗りつけられた消毒薬の一撃だ。
こう、じゅうじゅうと音をたてているあたり、火で炙られているのと変わらない気がする。
「桜、痛い。消毒薬はもういいから、傷口を拭いてガーゼでも貼っといてくれ」
「だめですっ。背中一面真っ赤なんですから、ちゃんと消毒しないといけませんっ! それに痛いのは当たり前です。こんな大怪我して帰ってきたんですから、少しは我慢してください」
「あいたっ」
……う。怪我人に容赦がないのは弓道部仕込みなのか、藤ねえ仕込みなのか。
「先輩、他に痛むところはありますか?」
「ん……? いや、怪我したのは腹と背中だけだ。他はなんともない」
「そうですか。なら、あとはガーゼをあててテーピングするだけですね」
慣れた手つきで救急箱を扱う桜。
その横顔は真剣で、口をはさむ余地がない。
「――――――――ふう」
さて。
どうしてこんな事になったかというと、桜に淹れてもらったお茶が腹に染みて、不覚にも吐き出してしまったためである。
隠し通すつもりだったのだが、桜にはそれでバレてしまった。
で、むー、と拗ね顔で問い詰められた結果、実は怪我をしていると自白させられ、こうして桜に手当てされている。
もっとも、初めはこんなふうに鬼ではなかった。
「え―――け、怪我ってお腹ですか……!?」
なんて驚く桜に腹を見せると、
顔を真っ赤にして手当てどころの話ではなかったし。
「桜、ほんとにいいのか? 手当てなら自分で出来るし、無理しなくていいぞ。それに、背中はもっと酷い」
「だ、だいじょうぶですっ! やります、やらせてください!」
なんて慌てぶりだったんで、背中の傷なんて見たら卒倒するんじゃないかと心配したもんだ。
「せ、せせ先輩。その、お洋服、脱いでください」
が、頑張ってる桜を止めるのも悪いし、背中は自分では手当てできない。
そんなこんなでシャツを脱いで、桜に背中を任せた訳である。
背中は擦り傷だらけで、しばらく桜は何も出来なかった。
にらみ合いは何分か続いて、桜は「い、いきます」と喉を鳴らして手当てを始めてくれた。
「――――――――」
それが二十分ほど前の事だ。
時刻は午前二時過ぎ。
丁寧な桜の手当ては、じき終わろうとしている。
「―――はい、終わりました。新しいシャツを用意しましたからこっちを着てください」
「え……? あ、もう終わったのか。さんきゅ、桜」
「いえ。先輩もお疲れさまでした」
真新しいシャツを着て、軽く深呼吸をする。
……腹の打ち身だけはどうしようもないが、背中の痛みは幾らか和らいでくれた。
今日はうつぶせに寝て、明日になればもっと良くなっているだろう。
「さて。それじゃあ寝るか。こんな夜更けに起こしてすまなかったな、桜」
「え―――い、いえ、そんなコトはないんです、けど」
俯く桜。
何か言いたい事があるのに言えない、そんな素振りだ。
「桜? 俺がいない間に何かあったのか?」
「…………いえ、その。先輩、セイバーさんは帰られたんですか?」
「――――――――」
一瞬、目眩がした。
“セイバーさんは帰られたんですか?” そう自分以外の人間に言われて、最後の『もしかしたら』が、完全に打ち消された。
「――――ああ。急な話だけど、あいつは帰った。もう戻ってこない」
目眩を堪えて、呼吸を整えて、平然と返答する。
……桜の疑問は当然だ。
たった四時間前までいたセイバーがいないのなら、何かあったと思うだろう。
だから、ここは誰よりも俺が落ち着いて、なんでもない事のように振舞わないといけない。
「セイバー、最後に桜のコトを言ってたよ。桜は思いつめるタイプだから、もっと気楽にいけってさ」
「……そうですか。セイバーさんとは仲直りしたばかりだったのに、お別れを言えなかったのは残念です」
―――そうだな、と頷く事はできなかった。
別れを言う事も出来ず、セイバーはいなくなった。
……それが、吐きそうなほど胸に重い。
たった六日だけの協力者。
たった六日しか一緒にいられなかった相棒。
たった六日――――俺の剣であってくれたあいつに、俺は何をもって応えるべきなのか。
「でも良かった。あの人が来てから、先輩怪我してばかりだったから。これで今までどおりですね、先輩」
「え?」
「そうですよね? 何をしていたかは訊きませんけど、先輩はセイバーさんの為に出歩いていたんでしょう?
けど、そのセイバーさんも帰ってしまったんですから、先輩が危ない目にあう事もないじゃないですか」
「いや。セイバーがいなくなっても、夜に出歩くのは続けるけどな。……その、セイバーに付き合ってたんじゃなくて、俺がセイバーをつき合わせてたんだから」
腰を上げる。
手当てが済んで、緊張も解れたんだろう。
なんか、急激に眠くなってきた。
「え――――先、輩」
「おやすみ桜。
それと今の話な。明日からもっと家を留守にするだろうけど、桜は今まで通りここを使ってくれ。
今夜みたいに帰りが遅くなる時もあるけど、気にせずちゃんと眠ること。さっきみたいにずっと玄関で待ってる、ってのはなしだぞ」
「………………はい。おやすみなさい、先輩」
体を休める。
……実感はなかったが、体は本当に疲れきっていた。
うつぶせに横になっただけで、体も心も今すぐ眠りに落ちたがっている。
「――――――――」
その前に、覚悟を決めようと闇を睨んだ。
セイバーが何に敗れたのか、自分が戦うべきモノがなんなのか。
それをキチンと、ここで受け入れなければならない。
「――――――――」
……アレを思い出すと胸が軋む。
体は小刻みに震えて、怒りとも恐れともつかない焦燥に、心が折れそうになる。
「――――俺が、戦うべき相手」
それがあの影だ。
無差別に街の人間を襲う“何か”。
セイバーとアーチャーでさえ恐れていた黒い影。
……見てはいないが、確信めいたものがある。
セイバーはヤツに敗れた。
アサシンではセイバーを倒せない。
なら、あの場で彼女を打ち破れるモノがいたとすれば、それはあの影だけだろう。
「―――――――」
セイバーを倒したソレを倒す。
敵はそれだけじゃなく、間桐臓硯やアサシンとも争わなければならない。
マスターでなくなった俺を用済みだと臓硯は言った。
だが俺が聖杯戦争と“黒い影”を追い続ける限り、臓硯は必ず現れる。
「――――――――」
……体が震える。
もうセイバーはいない。
傷を癒してくれる奇跡もなければ、武器になるのは半人前の魔術だけだ。
自分でもこれが無謀な、自殺行為だと理解している。
「――――でも、戦うと決めた。正義の味方になるって言ったんだ」
その為にセイバーを失った。
その為にあの火事から今まで、切嗣の後を追ってきた。
俺に許された事は、二度とあんな惨状を繰り返させないよう、戦いを止める事だけ。
……だから、震えるのはこの夜だけにしないと。
朝になって傷が癒えた時。
いなくなってしまった彼女に胸を張れるよう、強い自分になっていなくちゃいけないんだから――――
◇◇◇
部屋に戻ってくる。
少女は重い足取りでベッドまで歩き、とすん、と力なく腰を下ろした。
「……先輩。あんな怪我をしたのに、まだ」
何があったのかは知らない。
ただ、少年はたった数時間で絶食したかのようにやつれ、体中に傷を負っていた。
数日前、突然この家に現れた金髪の少女も帰ってこない。
考えてみれば、その状況だけで何か取り返しのつかない事が起きたのは明白だ。
少年は何かを隠し、金髪の少女はその結果帰ってこなくなった。
「………………」
が、そんな事はどうでもいい。
彼女にとって、そんな事はどうでもいいのだ。
何が起きたかは知らないが、少年さえ無事でいるのならそれでいい。
彼女にとっては、衛宮士郎が帰って来てくれる事に勝る喜びはないのだから。
「……あれ……今日は冷えるのかな……」
寒気を覚えて額に手をあてる。
……熱い。
体は熱を帯びて、気をしっかり持っていないと倒れてしまいそうだ。
軽い風邪だろう。
流行り病にはかからない少女にしては珍しいが、なにしろ三時間近く廊下で待ち続けていたのだ。体調を崩すのは当然である。
「…………、ん……」
だるい体にムチをうって電気を消す。
着替えるだけの余力はなく、少女はぼすん、とベッドに倒れこんだ。
「……大丈夫。こんなの、先輩に比べたらぜんぜんだし―――」
うつ伏せになったまま、少女は数分前の光景を思い返す。
……おろし金をかけられたような背中の傷。
……重い鈍器で叩かれ、真っ黒に腫れたお腹の痣。
……身心ともに傷ついていたのに、やっぱり少しも曇っていなかった強い眼差し。
「………ぁ……ん、ふ――――」
思い返した瞬間、どくん、と体温が上がってしまった。
それが昂揚ではなく憎しみによるものだと、少女は気付かないフリをする。
「……いったい、誰があんな」
……そう。
誰かは知らないが、彼をあそこまで傷つけた人が許せなかった。
憎いとか嫌いとか、そういう一時的な感情ではない。
あの人はずっと傷ついてきたのに、今まで綺麗《むきず》なままここにいてくれた。
その、自分なんかとは違う大切な存在を傷つける者は、誰であろうと許さない。
「ん……けど……先輩の背中、すごかったな……」
横になったまま、ぼんやりと手を伸ばす。
……あんな身近で、少年の素肌を見たのは久しぶりだった。
初めて会った時は男の子にしては小柄で、自分とあまり背が変わらなかった。
それがここ二年で急速に『男の人』になりつつある。
「………………、ん――――」
わずかにシーツが乱れる。
体とベッドにはさまれた腕が行き場を求めて、ゆっくりと秘所へ伸びていく。
少年が風邪で倒れた時とは違う。
あの時はただの風邪だ。
今夜の、傷ついた男の体とは別である。
「――――先輩」
思い返すとあたまがぼうっとする。
一日も手を抜いていないのだろう、鍛えられた筋肉は無駄がなく、素肌を晒すとびっくりするぐらい逞《たくま》しかった。
しなやかな体つきは、動物に例えるならカモシカだろう。外見からでは計れない、小振りなクセに絶壁を駆け上るような美しさがあった。
「うん……胸だって広かったし―――すごく、男の人、だった」
伸ばした指が、ここにはない胸板をなぞる。
指は無意識に、水滴のように彼の体を滑っていく。
胸板から鳩尾へ。
ぱたん、とシーツに落ちた指は、臍からもっと下に落ちてしまって、
「――――――――あ」
カア、と顔中が真っ赤になった。
「ば、ばばばばばか……! ご、ごめんなさい先輩っ……!」
あわてて腕を引っ込める。
顔だけではなく耳まで真っ赤にして、少女はベッドの上にまるまった。
ここまで赤くなるコトではなかったが、今は指先の記憶が鮮明すぎる。
さっきまで少年に触れていた指は、いつも以上に確かな想像を掻きたててしまったのだ。
「――――え――――?」
だが。
それが、体の熱を高めたのか。
「あ――――、ん、ふ…………――――」
唐突に、少女の心拍数が上昇した。
「っ、ん…………あ、や――――」
しまった、と思った時には遅かった。
……体が熱い。
思考がぼんやりとして、あるコトしか考えられなくなる。
手足はひどくだるく、糸で操られる人形になった錯覚がする。「は……ん、ぁ……あ、んっ……ふ――――」
……吐く息が、信じられないぐらい熱い。
体の熱が外に出ているからか。
体内の熱に侵されて、あたまは急速に記憶とか知性とか理性とか道徳とかを薄めて、一つのコトしか、いや、一つノコトを、考えていいように変わっていく。「や、は……せんぱ、い……ん、っ……」
熱に侵された躯、自由にならない手足。
にも関わらず、体の芯から、汚《きたな》らしい欲情がこみ上げてくる。「あ――――はあ、あ、ん、――――っ!」
止まらない。
少女は救いを求めるように、想像の胸板に触れていた指を、自らの秘部に重ねていく。「……せんぱい……せんぱい、せんぱい、せんぱ、いっ……!」
……乱れた吐息に合わせるように、慰《なぐさ》める指遣いも激しくなっていく。
水気を帯びた音は次第に高く、くちゃくちゃと卑猥《ひわい》なものに変化していく。「あ―――ん……だめ―――っあ、こんなコト、しちゃいけない、のに――――」
少年に対する戸惑い、罪悪感が余計に少女を昂《たか》めていく。
傷ついた少年の体。背中についた血の跡を思うだけで目眩がする。
もう帰ってこない少女。奪い返したという事実。様々な嘘。
普段の自分からは想像も出来ない暗い感情が、少女をより屈折した情欲に貶めていく。「は、はあ、は、んっ……! せ……んぱ、いっ……いっ、わたし、ん、せんぱい、を―――や……んっ、だ、め……!」
けれど、そんなものは些細なものだ。
本当に嬉しいのは、こんなにも悦《うれし》いのは、少年が自分のもとに帰ってきてくれたコトだけ。「んああ……! は、はあ、あ、せんぱいの、ゆび―――なら、もっと―――ううん、戻ってきてくれた、んっ、それだけで、いい、の、に……っ!」
……でも足りない。
今度のコトで分かってしまった。
あの人はわたしを気遣ってくれるけど、同時に、わたしを遠ざける事で守ろうとしているのだと。「あ、んあ、は、あっ……! だめですせんぱい、わたし――――もっとせんぱいに、傍にいて、ほしく、て……!」
それが強欲な願いだとは分かっている。
言葉にしてはいけない願い、叶えられない願いだからこそ、少女の情欲は悪化していく。「ん―――うふ、あ、んぁ……! ごめん、なさい―――ごめんなさいせんぱい、ごめん、なさい……!」
―――熱を帯びた慰め。
繰り返される懺悔だけが、少女から一時の狂想を冷ましていった。「……ん……あ……はあ……あ――――」
ぼんやりと天井を見つめる。
達したあと、自己嫌悪で潰れそうになるのもいつも通りだ。
けれど今夜はもっと重い煩悶《はんもん》がある。
……傷ついた体。
あんな目にあったというのに、彼はまだ戦うという。
「……どうすればいいんだろう。先輩、このままだともっと大きなケガをしちゃう……」
汗ばんだ体で思い悩む。
もとより答えなど出ない悩み、少女には解決しようのない問題だ。
このまま夜が明けるまで考え抜いたところで、少女には少年を止める術など思いつけない。
けれど。
「――――なんだ。外に、出さなければいいんだ」
ほっとした声で、ごく単純な答えに少女はいきあたった。
少女は突然の天啓に顔を綻《ほころ》ばせ、心の底から安堵するように、
「うん。歩けなくなるぐらいの怪我をしちゃえば、もう危ない目に遭うことはないですよね、先輩――――」
そう、語りかけるように呟いた。
◇◇◇
石の匂いがする部屋だった。
明かりは人工のものではなく天然のもの。
揺らぐランプの火は男の背中を照らし、その手元に敷かれた羊皮紙を浮き彫りにする。
「―――協会とやらへの報告書か? おまえも忙しい男だな、言峰」
声は気配もなく、背後からかけられた。
それに驚いた風もなく、椅子に腰をかけた男……言峰綺礼は二つ目の仕事に取り掛かる。
「ほう、例の簒奪者についてだな。
どれ、被害者は既に五十七人、うち死亡者は五名ときたか。監督役としてこれは多い方なのか、言峰」
「―――この段階ではなんとも言えん。これほど大規模な意識不明事件は初めてだが、それで留まるのなら問題はない。どちらの組織《きょうかい》もこの程度の後処理は承知の上だ。
だが――――」
「それも今のままのペースなら、か。……ふん、何処の誰だか知らんが派手にやってくれる。
気付いているのか言峰。このまま放っておけば、この街は無人になるぞ」
言峰は答えない。
背後に現れた青年の言い分など、彼とて承知している。
街に現れた謎の影。
今はまだ生命力だけを吸い上げているが、その量も日に日に増えてきている。
二日前から始まったこの異常搾取は、あと数日ほどで規定量を越える。
今はまだ呼吸困難程度の病状に留まるが、いずれは健康な成人男性でさえ、夜を越える事は出来ぬようになるだろう。
「だがその心配は無用だ。素人ではあるまいし、際限を知らぬという訳でもあるまい」
「そうかな。あの蟲使いはそうでもなさそうだが。あの手の輩は早目に潰さねば祟るぞ? 我《オレ》とて、おめおめと街の人間を殺されるのは性にあわぬ」
言峰にとっては、その発言こそが驚きに値する。
この、自分以外は何者も要らぬという男が、街の人間の安否を気遣うとは。
「驚いたな。どういう風の吹き回しだ、ギルガメッシュ」
「驚くことはあるまい。我《オレ》は、我《オレ》以外の者が人を殺める事を善しとせん。 人が人を降せばつまらぬ罪罰で迷おう。その手の苦しみは楽しくもないからな」
「……なるほど。おまえはおまえでやはり英霊だな。
生の苦より救うために死を遣う。ならば、おまえの望みはやはり死か」
「当然だ。現代《ここ》は無意味で無価値な者ばかりだからな。一掃するが正義というものだろう」
蔑む声は、絶対的な余裕と威厳に満ちていた。
神父はそれを聞きながら、手を休める事なく業務をこなしている。
「―――なるほど。
そう望むのなら、聖杯はおまえが使うがいい。おまえを打倒する者が現れない限り、聖杯はおまえのものだ」
「フン? 言峰、おまえには望みがないのか」
「明確な願いなどない。私にあるものは、明確な快楽を欲する己のみだ」
「ハ―――ハハハ、そうか、おまえには快楽のみか――――!」
簡潔な答えに青年は笑い出す。
心底楽しいと、自らのパートナーを誇るように。
「よいぞ。我《オレ》はおぞましいから殺し、おまえは楽しいから殺す。理由は違えど聖杯に求めるものは同じ、なればこそ我《オレ》をここまで繋ぎとめたという訳だな!」
「――――――――」
神父は答えない。
彼はただ、淡々と己が役割をこなしていく。
「ふん―――おまえが動かぬのならばそれでもよい。せいぜい好きにさせてもらうぞ」
青年の気配が消える。
静寂を取り戻した石室で、神父は出口を一瞥した。
「狂っているように見えて芯は正気のままか。あの泥も、アレの魂までは汚染できなかったと見える」
英雄王ギルガメッシュ。
黄金のサーヴァントは、この時点で最強の存在である。
それは自他ともに認めるもので、ゲームマスターである言峰自身それを疑っていない。
しかし――――
「無価値な物はあるが、無意味な物などない。
……注意するのだな英雄王。おまえに敗北を与えるモノがあるとすれば、それはその一点のみだろう」
独白は誰にも届かない。
赤い明かりに照らされた神父は、未来を見据える予言者のようでもあった。
◇◇◇ ◇◇◇
朝。
障子ごしの陽射しで目を覚ますと、首のあたりが妙に重かった。
「ん――――、と…………」
首が重いのは肩が凝っているからだ。
うつぶせになって眠った為、首の筋が張ってしまったんだろう。
その分、背中の傷は随分と良くなっていた。
痛みはないし、これなら生活に支障はない。
「―――まず。もう七時過ぎてる」
「っ、あいた」
途端、ずくんと腹が痛んだ。
大人しくしている分にはどうってことないが、急激に動くと殴られた個所が疼く。
「―――痣になってるんだし。しばらくは悩まされるか」
それだって我慢すればどうって事のないものだ。
痛みで動けない程じゃなし、こっちも実生活に支障はないだろう。
着替えを済ませて部屋を出る。
居間から朝餉《あさげ》の匂いがしてくるから、桜が準備をしてくれているんだろう。
「おはよう。悪い、寝過ごしちまった。まだ手伝える事あるか?」
「おはようございます先輩。先輩が寝過ごすのも珍しいですね」
「う、面目ない。なんか、気がついたら朝だった」
「ケガをしてるんだから仕方ないですよ。ちょっと前に起こしにいったんですけど、先輩ぜんぜん起きてくれなかったですから。疲れも溜まってるんだと思います」
うわ。
桜が起こしに来てくれた、なんて記憶にない。
肩が凝っているばかりか、頭の方もまだ寝ぼけているみたいだ。
「すまん。ちょっと顔洗ってくる。すぐ戻るから待っててくれ」
「いえ、先輩こそごゆっくり。今朝はわたし一人で準備しますから、のんびり顔を洗ってきてください」
桜は実に元気がいい。
「………………?」
まあ、桜がそう言うんなら止めるのも野暮だし、別にいいけど。
「じゃあお言葉に甘えて、洗面所行ってくる」
「はい。今朝のお味噌汁は自信作ですから、期待しててください」
うん、と頷いて、とりあえず居間を通り過ぎて廊下に向かった。
「―――――って、ちょっと待った」
なんかヘンだ。
元気が良かったんでつい通り過ぎちまったけど、いくらなんでも、今のは何処か―――
「…………!」
何かが倒れる音。
ここ数日で聞き慣れた為か、それが人の倒れる音だと判断できた。
「桜――――!」
居間に駆け戻る。
……床に倒れていたのか、桜はけだるい仕草でゆっくりと体を起こしていた。
「桜」
ふらつく体を手で支える。
「…………っ」
支えた桜の体は、いつかと同じように熱かった。
乱れた息遣いと汗に濡れたワイシャツが、桜の病状を物語っている。
「ぁ――――先、輩」
支えられてようやく気がついたのか。
桜はぼんやりと、焦点の定まらない目で俺を見た。
「もう。ゆっくりって言ったのに、すぐきちゃったんですね。……えっと、待っててください。すぐ朝ご飯の支度をしますから」
にこやかに言って手をほどく。
「――――桜、おまえ」
それは無理をしているというより、桜自身、自分の熱に気がついていないような素振りだった。
「待てって。朝飯の支度はいい。それより部屋に戻って横になるんだ。桜、すごい熱だぞ」
「え……? 熱って、わたしがですか?」
「ああ。……くそ、自分で気付いていないんじゃホントに重傷じゃないかっ! なんだって、こんな――――」
こんな事にも気がつかなかったのか、俺は。
いくらセイバーの事で参っていたからって、身近にいる桜の容体に気を配れないなんて、どうかしてた。
「あの、先輩……? わたし、本当に大丈夫です。今のはちょっと転んだだけで、別に目眩とかそういうんじゃ……」
「馬鹿言うな、こんなに熱があるんだぞ!? こんなの体温計使わなくっても判る!」
「あ――――」
手を引いて客間に向かう。
とにかく今は桜を休ませないと。
学校には欠席届けを出して、朝食も消化しやすい病人食を用意して、昼は―――そうだ、藤村の爺さんにお願いして、藤村邸の家政婦さんに来て貰おう。
「あ、あの……先輩、何処に行くんですか? 学校に行く前に、ちゃんと朝ご飯を食べないとダメですよ?」
桜はまだ状況がわかっていない。
朝のテンションの高さは、熱でぼーっとしていた物だったのか。
「学校は休みだ。桜は今日一日、部屋でじっとしていること。学校へは俺が連絡をいれておく。どうせ教室で藤ねえに会うんだから、そん時に言えばいい」
「え――――学校を休むって、わたしがですか?」
「そうだよ。桜以外誰がいるんだ。俺は……そりゃケガしてるけど元気だからな。休む理由がないだろ」
「――――――――」
……いや、こっちだって無理をして学校に行く理由はない。セイバーを失った今、俺には学校に行く余裕なんかないからだ。
それでも、今日だけは外せない用がある。
昨夜の事―――間桐臓硯とアサシンの事を遠坂に報せるまでは、うちに引き篭もる事は出来ない。
「とにかく、桜は今日は休み。いつも頑張ってるんだから、たまには派手に休んでもいいだろ。俺も用が済んだらすぐに帰ってくるから」
「ぁ―――い、いいえ、わたし本当に大丈夫です……!
だから朝ご飯を食べて、学校に行きましょう。そうすればこんな熱、すぐに良くなってくれますから……!」
「ばか、そんなコトあるか。なんかメチャクチャだぞ、桜」
「め、めちゃくちゃなんかじゃないですっ!
無茶なのは先輩の方で、わたしは元気だし、熱なんてないし、先輩はケガしてるじゃないですか! なのにわたしだけ休んじゃうなんて、そんな、の――――」
「え……うわ、桜っ!」
「あ――――れ? おかしいです先輩。なんかわたし、息、くるし、くて――――」
床に倒れかけたまま、桜はハアハアと喘いでいた。
……支えた体は、異様なまでに重い。
桜には立つ力がないのか、こんなにも体が重くなったから立てなくなったのか。
どちらにせよ、桜は一人では歩けないほど熱があって、元気だと思い込んでいるのは本人だけだった。
「……ばか。いいか、何があっても今日は休ませるからな。嫌がるのは勝手だけど、そんな無駄に体力使ったら明日も休むことになるぞ」
「…………でも、先輩。わたしは、学校に、行かないと」
乱れた呼吸で、うわごとのように桜は言う。
「――――――――」
それを無視して、桜を抱きかかえて客間に向かった。
客間に連れてきた時、桜は既に眠っていた。
が、眠っているといっても半分意識がある状態なんだろう。
呼吸は苦しげで、一度だけ、抱えた俺の腕をしっかりと握ってきた。
「――――――――」
とりあえずベッドに寝かせる。
「ぁ……先、輩……?」
ぼんやりとした声。
桜の目は天井を見たままで、俺を見てはいなかった。
「――――――――桜」
乱れた吐息と朱に染まった頬と、じっとりと汗を含んで粘つく服と―――呼吸の度に突き出される大きな胸。
「っ――――――」
その姿があまりにも煽情的で、慌てて目を逸らす。
桜は熱に魘されているっていうのに、どうしてこう不謹慎なんだ俺は――――!
「……まいった。やっぱり家政婦さんにお願いしないとダメだ」
……俺じゃ桜に着替えなんてさせられないし、体を拭いてやる事もできない。
幸い横にしたら呼吸は落ち着きだしたし、この分なら熱冷ましだけで持ち直すだろう。
そうして一人で歩けるようになったら、一緒に病院にいって風邪薬でも処方してもらえばいい。
「桜。すぐに人を呼ぶから、それまで寝ててくれ。藤ねえんところの家政婦さんなら馴染みだよな」
「――――――――」
返答はない。
まだ呼吸は苦しげだが、とりあえず眠ってくれたようだ。
「―――ふう。まったくヘンに強情なんだから桜は。なんだってさ、そんなに学校に行きたがるんだよ」
質問は独り言だ。
桜は寝入ったし、返事はないと分かっている。
「じゃあな。学校行ってくる」
ベッドから離れてドアに向かう。
―――と。
「……先輩と一緒に、学校に行きたいんです」
そんな返事が、耳に入った。
「桜……?」
振り返る。
桜は眠ったままで、悩ましげに目蓋を閉じていた。
「……なんだ。ただのうわ言か」
今度こそ客間を後にする。
その途中。
「………だって。わたしが、先輩を守らないと」
熱にうかされた声で、そんなコトを口にした。
学校に行く途中、藤ねえの家に寄って家政婦さんの手配をしてもらった。
藤ねえがあんまり着飾らない性格なんで時折忘れてしまうが、藤村の家はこっちの住宅地では一、二を争う富豪だったりする。
なにしろ会社でもないのに、社員と称する強面のお兄さんが何十人といる。
その大部分は藤村邸の離れに住んでいるもんだから、とにかく大所帯なのだ。
必然お手伝いさんも増員される訳で、お願いすれば手の空いた家政婦さんを回してくれたりもする。
―――で。
桜がうちに来るまでに何度か世話になった事のある、緊急時のヘルパーさんを回してもらえる事になった。
桜とは顔見知りの家政婦さんだし、十分安心して任せられると思う。
◇◇◇
そうして昼休み。
暗黙の了解になりつつある屋上で合流して、とりあえず昨夜の出来事を話してみた。
――――で、その結果が。
「じゃあなに!?
間桐臓硯はアサシンのマスターで、セイバーじゃなく衛宮くんを殺そうとしたの!?」
こう、いつになく怒り出した遠坂だった。
「そ、そうだけど、なんだいきなり」
「いきなりじゃないっ!
聞いた限りじゃ臓硯のヤツ、セイバーが倒されてから衛宮くんを殺そうとしたんでしょ? そんなのヘンよ、どう考えても手順が違う!」
くわ、と身を乗り出して睨んでくる遠坂。
その、気合っていうより敵意に近い迫力に思わず数センチだけ後退するが、場所はもう定番になった給水塔の裏側である。
「ちょっと。人の話聞いてる衛宮くん? 今の話、貴方はなんとも思わなかったの?」
じろり、と不平不満を込めた一瞥をくれる遠坂凛。
「う」
……その迫力だけでも手に余るっていうのに、こう目の前にまで近づかれると気が気でない。
たたでさえ狭いここに、後退するスペースなどないのだ。
時はまさに袋のねずみ、うう人類に逃げ場なし。
「えーと…………その、どのあたりが違うんだ?」
「優先度の問題よ。貴方と二人きりになったのに、臓硯は貴方を殺そうとしなかった。
アサシンが勝てたから良かったものの、負ける可能性だってあったんだから、臓硯はセイバーのマスターである貴方を早く倒そうとするはずでしょう」
「……いや、それはそうだけど。
臓硯は、アサシンがセイバーを必ず倒せるって自信があったんじゃないか?」
「まさか。アサシンがセイバーより弱いっていうのは衛宮くんでも判ったんでしょ? なら、あいつはそんな賭けはしないわよ。
……そうしなかったのは理由があったからでしょうね。
ま、考えられるのは二つぐらいだけど」
「二つ……? んーと、それは」
◇◇◇
「……それは、あの場で俺を殺したくなかったからか?」
「……ま、それが一番納得のいく理由よね。
となると、臓硯はセイバーを消したくなかったと見るしかない。衛宮くんが死ぬ事によるマイナスなんて、セイバーが消える事だけだものね」
「そりゃあな。うん、俺の扱いなんてそんなもんだ」
「ちょっ、なに拗ねてるのよ。あ、あくまで臓硯にとっての話ってコトなんだから、軽く聞き流しなさいよね」
「? いや、別に拗ねてないけど。事実だし。けど、なんだってそんなコトで怒るんだよ遠坂は」
「! ――――べ、別にわたしだって怒ってないわ。
衛宮くんの勘違いでしょ」
「とにかく、臓硯はセイバー自身に用があった。
マスターとして衛宮くんには生きていてほしかったんでしょうね。けど、それとは別のところで臓硯には衛宮くんを殺す理由があった。
……もう一度訊くけど。あいつ、確かにもう用済みって言ったのね?」
「――――――――」
……昨夜の出来事を思い出す。
「遠坂の娘にはまだ利用価値があるがな。
小僧、おまえは用済みよ――――」
「……ああ。遠坂にはまだ利用価値があるとも言ってた」
「そう。……そっちの方はてんで予想がつかないけど、わたしから逃げ回ってるのはそういうワケか。
会ってしまえばどちらかが死ぬしかない。けど、臓硯は自分もわたしもまだ生かしたがってるから、今は会わないように隠れてる――――」
ふむ、と遠坂は考え込む。
「……………………」
―――さて。
伝えるべき事は伝えた。
他に言うべき事があるとすれば、それは――――
――――これからの事を決めなければならない。
俺は戦い続ける事を選んだ。
間桐臓硯とアサシン。
町を徘徊する黒い影。
聖杯を巡るマスター同士の戦い。
セイバーを失ってもそれを止めると決めた。
なら、なりふり構っている場合じゃない。
これ以上犠牲者を出さない為には、遠坂の助けが必要だ。
「―――遠坂。
俺はセイバーを失って、令呪もなくなった。なら、もうマスターじゃなくなったんだよな」
「……そうね。肝心な事を忘れてた。衛宮くんはもうマスターじゃない。聖杯戦争に関わる必要はなくなって、他のマスターに狙われる危険も薄れたわ」
「そうだな。俺が聖杯を欲しがったのは、セイバーが必要だと言ったからだ。……セイバーがいなくなった今、聖杯に興味はない」
「そう。それじゃ、貴方はもう戦わない?」
遠坂の目に感情はない。
あくまで平等に、自分の意志を混ぜず、マスターとして問いかけた言葉。
「――――――――」
それは問いではなく忠告だった。
これが最後のチャンスだ。
戻るのならまだ間に合うと、身を引いて帰り道を用意してくれている。
「――――――いや」
だが答えは決まっている。
今はその心遣いだけを、忘れないように覚えていよう。
「そんな訳ないだろう。マスターでなくなっても戦いからは降りない。俺は、戦いを止める為に戦うって決めたんだから」
「―――そう。ならわたしたちの関係も続行って事ね。
お互い敵同士だけど、とりあえずあの“影”を倒すまで休戦状態ってことで」
「?」
なんの前触れもなく遠坂は笑った。
何かいいことでもあったのか、さっきの無表情さが嘘のように親しげに感じられる。
……まあ、それは俺の知るところじゃないからいいんだけど――――
「―――ちょっと待った。敵同士ってどうしてだよ。
俺はもうマスターじゃないんだぞ。遠坂といがみ合う理由はないだろ」
「なに言ってるのよ。サーヴァントと令呪がなくなったからって、貴方がセイバーのマスターだった事に変わりはないでしょ。
まがりなりにも聖杯に選ばれた衛宮くんには、最後まで聖杯を手に入れる資格がある。無力化したところで競争相手である事に変わりはないわ」
「そうなのか? 俺に聖杯を手に入れる気がないとしても?」
「そんなの状況次第でしょ。もし聖杯が手に入る状況になって、衛宮くんもどうしても聖杯が必要になってしまって、仕方なく聖杯を使うって事もあり得ない話じゃないわ。
無欲な人間ってのはね、無欲だからこそ自分以外のものに引きずられるんだし」
「む。遠坂、それは考えすぎだ。仮に聖杯が必要になったとしても、俺が聖杯を手に入れられるワケないじゃないか」
「だからもしもの話。けど可能性はゼロじゃないわ。
だから、そういうコトを踏まえて敵同士だって言ってるの。マスターでなくなった魔術師が教会に逃げ込むのだってその為よ。
サーヴァントを失ったからって、他のマスターにとってみれば目障りな邪魔者なんだから。そのあたり、衛宮くんも気をつけて行動なさい。貴方を殺したがってるのは臓硯だけじゃないんだから」
「む………その忠告は、有り難く受けとっとくけど」
その、まだ遠坂と敵同士、というのは嬉しくない。
「? なによ難しそうな顔しちゃって。わたしと敵同士なんて今まで通りでしょ? なのに困るコトなんてあるの?」
「ある。それじゃ遠坂の力を借りられないじゃないか」
「は?」
ぴたり、と。
遠坂はお化けをみるような目で、まじまじと俺を見た。
「わたしの力を借りるって、なんで……?」
「なんでも何も、俺一人じゃ無理なんだ。聖杯戦争を止めるって事は、他のマスターを倒すって事だろう。けど俺にはそれだけの力がない」
「……情けないのはわかってる。けどなりふり構っていられない。俺に出来る事は少なくて、その中で一番いい方法がこれなんだと思う。
だから遠坂と敵同士にはなれない。
―――遠坂とは休戦するんじゃなくて、協力者として助力してほしいんだ」
「……ちょっと。正気、衛宮くん?」
「正気だよ。俺は協力者としては力不足で、おまえの足手まといになるかもしれない。
おまえには俺と手を組むメリットがないし、俺にだって、おまえに返すものがない。
……そうだな。普通、こんな協力関係は成り立たない」
「ふ、ふん。なんだ、分かってるじゃない。
貴方の言う通り、魔術の基本は等価交換よ。元手が無いヤツに物を貸すことは出来ないし、釣りあわない技術者に手を貸す事も出来ない。そんなの、本人の為にもならないって貴方でも知ってるでしょ」
「今までは休戦状態だったから相談に乗ってたけど、協力関係となると話は別よ。協力しあうって事は仲間って事で、そうなったら報酬だって山分けにしなくちゃならないんだから」
「ああ。けど、それを承知で頼む。
―――俺に手を貸してくれ、遠坂。この借りは、生きている限り必ず返す」
「生きてる限りって、貴方ね――――」
遠坂は視線を逸らして言葉を濁す。
……迷惑だって事は百も承知だ。
それでも、俺が知る限り一番頼りになるのは遠坂で、聖杯を得るのが遠坂なら、何の間違いも起きないと信じられる。
だから協力する相手、勝利するマスターは遠坂しか考えられない。
「遠坂。答えを聞かせてくれ」
真正面から遠坂を見据える。
「……そ、そんなの決まってるじゃない。マスターじゃないヤツと組んでも、わたしは」
「遠坂」
「だから、そんなふうに言われても手助けなんて出来ないし、そもそも」
「遠坂」
「……それじゃまるで、ちゃんとした契約、みたいじゃない」
と。
遠坂は一度、大きく俯いて「―――ああもう、わかったわよ! それじゃ交換条件!」
キッ、と真っ直ぐにこっちを見返してきた。
「? 交換条件って、どんな?」
「交換条件は交換条件よっ!
……その、これは立派な契約だもの。
だから、今から言うコトを守れるなら、考えてあげないコトもないわ」
「??? 遠坂。さっきも言ったけど、俺、いま遠坂に返せるものは何もないぞ?」
「いいから聞く!」
「っ……! わ、わかった、とりあえず聞く」
「よし。じゃあ一つ目。協力関係になるのはいいけど、その場合、わたしの言う事はちゃんと守る?
戦いになった時、どんな指示でも文句言わない?」
「断る。絶対っていうのはたぶん無理だ」
「……あのね。一問目でいきなりそうくるなんて、何様よアンタ」
「だってそうだろう。あくまで例えばの話だけど、どう見ても無茶な作戦とか提示されたら困る」
「そんなヘマはしないわよ。そう見えたとしたら、それは衛宮くんの理解が足りないのっ。
……まあいいわ。じゃあ、納得できる作戦なら従うってコトね」
「ああ。それなら守れる」
「それじゃ二つ目。わたしが信頼した分、わたしを信用できる? どんな事になっても、どんな酷いことになっても裏切らない?」
「む……裏切らないのは当然だが、最後のは頷けない。
どんな酷いコトになってもって、どんな酷いコトだよ?」
「そんなの決まってるじゃない。死ぬか、死ぬ一歩手前のコトよ。衛宮くんは元手がないんだから、それぐらいの覚悟は必要でしょ。
それともなに? 空手《からて》でわたしと取り引きしよう、なんて都合のいいコト言うの?」
「う、ぐ。痛いところをつくな、遠坂」
「当然でしょ。こっちだって遊びじゃないんだから、それぐらいの覚悟を見せてもらわないと割が合わないわ」
「……オッケー、わかった。なんとか善処する」
「そう。それじゃ衛宮くんは、これからわたしに絶対服従ってコトでいいわけね?」
「――――む」
意地悪な笑みを浮かべて、物騒なコトを言う遠坂。
最後の質問っぽいけど、さすがにそれは――――
「――――て、いいワケあるかっ……! 魔術師として遠坂の指示が優れてるのは認める。けど、たまには失敗することだってあるだろ。
もし遠坂がおかしなコトを言い出したら、簡単に頷くことなんて出来ない。おまえが間違ってるって思ったら、その時はちゃんと反対する。きちんと協力するってそういうコトだろ」
「もちろん。そうでなくっちゃ協力なんて出来ないわ。
わたしは独走しがちなところがあるし、ブレーキ役がいなくちゃ危ないって思ってたの。
ええ、貴方がその役になってくれるなら助かるわ」
「え――――――――」
……ちょっと、拍子抜けした。
文句を言われる覚悟で反論したのだが、遠坂は満足そうに頷いている。
「じゃあ最後の質問ね。
たとえば衛宮くんに出来ない事があって、それがわたしに出来る事なら幾らでも手を貸すわ。
けど……その逆になった時、貴方も同じコトができる?」
「? 俺に出来て遠坂に出来ない事……?」
そんなのあるんだろーか。
遠坂のヤツ、実はこう見えて料理ベタだとか?
「ちょっと。一番大事な質問なんだから答えてよ。イエスかノーか、早く」
「……いや。その、具体例でいってくれると助かるんだが」
「ああもうっ……! つまり、わたしを勝たせてくれるかってコト!」
「――――――――」
頬を赤くして、拗ねるように遠坂は言った。
それは子供の我がままに似ていて、今までの遠坂のイメージとはかけ離れている。
だっていうのに、その――――
「………ああ。
協力するからには、きっと遠坂を勝たせる。約束だ」
それを本気で、可愛いと思えてしまった。
「それじゃ学校が終わったら正門で待ち合わせね。
今日からしばらく、衛宮くんにはわたしの家で部活動をしてもらうから」
「む――――部活動って、遠坂の家で?」
「そ。手を組んだ以上、貴方を一人でも戦えるように教え込まなくちゃいけないでしょ?
……ま、衛宮くんが素人だって事はあの夜で判ってるから、連日居残ってもらう事になるけどね」
「いや、それは構わないし、むしろ助かるんだが―――その、今日から?」
「あったり前よ。まず衛宮くんの力量を把握して、今夜からの方針を決めないといけないもの。
帰りはかなり遅くなるだろうけど、衛宮くんは一人暮らしだから問題ないわよね?」
「え? いや、その通りだけど。……なんでそんなコト知ってるんだ、遠坂」
「! だ、だって前に衛宮くんの手当てをした時、家に誰もいなかったから、そうだろうなって。
と、ともかくそういうコトだから、衛宮くんは正門で待ってればいいのっ」
「――――――――」
じゃあね、と軽く手を振って遠坂は走り去っていった。
今日は金曜……授業は六時限目まであるから、帰りは三時過ぎになる。
「……まいったな。桜には早く帰るって言ったけど、さすがに初日からキャンセルするワケにはいかないか」
家で養生している桜には悪いが、今日は遠坂に付き合おう。
……まあ、遠坂だって鬼じゃないし。
桜のことを話せば、今日だけは早く帰らせてくれる可能性だってある……よな、きっと。
◇◇◇
遠坂による魔術診断は、わりあいあっさりと終わった。
お香を焚いてタロットカードじみた占いをして、いくつかの性格判断じみた質問に答えただけ。
遠坂は、
「―――該当なし。これ以上は無駄ね」
なんて言って、早々に衛宮士郎という魔術回路判断を放棄したのだ。
「うわ。それって判らないってことか?」
と、つい反射的に言い返せば、
「失礼ね。衛宮くんが五大元素に関わってないってコトは判ったわよ。そこから先の聖別はわたしの専門外だから、これ以上調べるのは無駄でしょ。
あとは衛宮くんが使える魔術を見せてもらって、そこから推測するだけよ」
……とのコトだった。
そうして、遠坂が用意した水粘土を相手に“強化”の魔術を復習した。
粘土はエーテル塊といって、いくら手を加えても元の固まりに戻る妙なもので、えらく魔力の通りがいい。
簡単に強化が働くので元に戻るか不安になったのだが、
「視肉《しにく》みたいなものだから気にしないで。よっぽど強い魔力でくくっても、一日で復元しちゃう材質だから」
とかなんとか。
ちなみに視肉っていうのは、中国に伝わる幾ら食べても減らない肉、だったっけか。
……とまあ、ともかくひたすら粘土相手に“強化”を試した。
遠坂の手前失敗する訳にはいかなかったのだが、成功したのは十回中二回のみ。
セイバーがいる時はあれだけすんなりいった魔術回路の発現も、今回はえらく手間取ってしまった。
“強化”の魔術中、何度か遠坂に質問された。
その呪文は自己流なのかとか、強化以外に使える魔術はないのかとか、師匠《きりつぐ》はどんな教え方をしていたのかとか、それと―――一番イメージしやすいものは何かとか。
で。
質問の度に遠坂は顔を曇らせていって、最後には黙り込んでしまった。
何が気に食わないのか、こんな近くでそーゆー顔をされるとすごく居づらい。
「遠坂? ……その、当然だとは思うんだが、あまりの未熟っぷりに呆れて協力関係になったのを後悔してるとか?」
一番ありえそうな不安を訊いてみる。
「え……? うん、後悔はしてるけど……未熟って言っても、貴方の場合は教え方が間違えられていたっていうか、よくもそんなやり方で今まで命があったっていうか」
遠坂は一人で考え込んでいる。
「? おーい、遠坂ー。話が見えないぞー」
「……………………」
なんでそこで睨むのか、おまえは。
「……いいわ。とにかく根本から直さないとダメみたいね。それとさっきの話だけど、衛宮くんの工房には“投影”した物がまだ残ってるって本当?」
「残ってるよ。だって壊さないかぎり残るだろ、普通」
“強化”の息抜き、魔術が上手くいかない時の試しで行う“投影”については、さっきの質問で答えた。
遠坂はそれに拘《こだわ》っているようで、一度だけ、水粘土を使って投影しろと言ってきた。
お題は土瓶《どびん》。途中まで上手くいったものの、それも結局は失敗した。
「―――ふん。とりあえず衛宮くんにはスイッチの入《オン・》れ方《オフ》を仕込んであげる。
実際に体内にスイッチを作った方が手っ取り早いから、今夜はうちに泊まっていきなさい。荒療治になるから一晩寝込むことになるし」
「え――――一晩寝込むって、ここでか?」
「なによその顔。安心なさい、別にメスいれるってワケじゃなくて、ちょっと薬を飲んでもらうだけだから。ま、効果が強すぎるんでしばらくは動けなくなるけどね」
「あ……いや、荒療治が嫌だって話じゃなくてだな」
……時計を見る。
時刻はもう五時前だ。
今日は曇っているから気がつかなかったが、もう夕暮れ時になっていた。
遠坂は戦友として、魔術師としての俺を面倒みてくれている。
それは嬉しいし、俺も助かるのだが、家に残してきた桜も心配だ。
ここは――――
……やっぱり桜が心配だ。
遠坂には悪いが、はっきりと言うべきだろう。
「遠坂。それ、うちでやってもかまわないか」
「え? うちって、衛宮くんの家?」
「ああ。桜が風邪で寝込んでるんで、様子を見ておきたいんだ。一晩寝込む事になるなら、うちに帰って桜の様子を見ておかないと安心できない」
「しま―――そういえば、そうだった」
……呆れてる。
そうだよな、俺から協力してくれって言い出して、今日は都合が悪いからもう帰るなんて言ったら誰だって腹をたて――――
「馬鹿っ! もっと早く言ってくれたら、ここまで引き止めなかったのに……!」
「…………え?」
怒鳴るなり立ち上がって部屋を横断、ハンガーにかけてあったコートを羽織る。
「行くわよ。うちでやる事は済ませたし、あとは衛宮くんの家でも出来るわ。桜の看病が終わったら続きをするから、急いで戻りましょう」
「え――――あ、ああ。そうしてもらえると助かる」
「……ふん。それと、思い出すのも癪だからいまのうちに教えといてあげる。
―――貴方の本分は“強化”じゃなくて“投影”よ。
何処でどう間違えて、何をどう勘違いしているかは知らないけど、貴方は本来“作る側”に属する魔術師なんだから」
遠坂はずんずんと廊下を歩いていく。
「?」
それに首をかしげながら、ともかく遠坂の後を追って、歴史のある遠坂邸を後にした。
◇◇◇
秒針の音がやけに大きく感じて、壁にかけられた時計を見上げた。
時刻は四時過ぎ。
学校はとうに終わっていて、帰りに商店街によったとしても、とっくに帰って来れる時間である。
「……どうしたんだろう。先輩、遅いなぁ」
壁によりかかって、彼女はぼんやりと呟いた。
「――――あ、れ」
鈍く、熱を伴《ともな》った目眩がする。
口にした声の小ささに驚いた。
秒針は耳障りなまでに大きく聴こえるのに、自分の声はよく聴こえない。
耳朶《じだ》に響くのは簡単な音だけだ。
チックタック、と狂いなくリズムを刻む時計と、
とくんとくん、と苦しそうに血を送る心臓。
その二つの音が、耳をふさいでも頭に入ってきて、彼女の目眩はよけい強くなっていく。
「おかしいなあ……風邪、ほんとに治ってるのに」
だから家政婦さんには帰ってもらった。
熱を計ったら平熱だったし、お昼ご飯だって自分で作れた。
昼過ぎにはもういつもの自分に戻っていて、この屋敷の本当の住人が帰ってくるのを心待ちにしていたのだ。
「――――熱い――――」
なのに、今は体中が熱かった。
熱源は自分にはなく、自分以外の何かだと思う。
血管と血管の間、入り込む隙間なんてない筈の筋肉の重なり。
その中に自分以外のモノが入り込んでいて、自動車のエンジンみたいに回っている。
―――そんな想像をしてしまうほど彼女の熱は高く、際限がなく、前例がないほど異常だった。
その感覚は奇怪といえば奇怪だったし、不快といえば不快だった。
苦しそうなのは自分だけではない。
体のなか、血管とか神経とかの間を這っていくモノたちもタイヘンそうだ。
たとえるなら、みっちりと肉の詰まった缶詰の中で、出口を探している子犬みたい。
熱の元凶……体の中で蠢く子犬《それら》は一生懸命で、与えられた役割を全力でこなしている。
それを思うとなんとなく愛らしい気がして、彼女はその感覚を憎む事ができなかった。
「……時計の音、大きい……」
ぼんやりと時計を見上げる。
時刻は四時半。
あと少し。あと三十分も経てば、きっと帰ってくる。
その時までにちゃんと体を落ち着かせて、体の中で走り回っているものを静めなくてはいけない。
「……だいじょうぶ……こんなの、何度もあったんだから……」
そう、この行為には慣れている。
子供の頃から何度も躾《しつけ》られ、矯正された。
だから今回も簡単に静まると思って―――熱は下がらず、体の中のものは速度を増す一方だった。
「……やだ……なんかおかしいです、先、輩」
体が落ち着かない。
今まで出来たコトが出来ない。
何が足りないのか、何が必要なのか、何が変わってしまったのか。
それを必死に考えようとしても、時計の針が邪魔をして思考はちっとも定まらない。
「――――あれ……? この、音」
それが時計の音ではなく、この屋敷自体が発する警告音だとようやく気付いた時。
「なんだ、衛宮はいないのか。そりゃ都合がいい」
土足のまま、彼女の良く知る人物が現れた。
「兄、さん」
「ふん? なんだ、衛宮がいないと思ったら一人でさかってたのか。爺さんの言う通り、ライダーを使いすぎた反動かな」
男は居間にあがり、壁にもたれかかった少女に歩み寄る。
「ぁ――――」
逃げようとする体に力が入らない。
否、もとより逃げる気力もない。
ここで逃れたところで、どうせ―――自分には、逃げ切る事などできないのだから。
「最後の出番だぜ、桜。言ったよな、なんでもするって」
彼女を見下ろす顔には、ひきつった笑いしかない。
「――――兄、さん」
「ほら行くぞ、衛宮とカタをつけるんだ。おまえもあいつの泣き顔が見たいだろうからさ、特等席で見せてやるよ」
男は少女の腕を引いて立ち上がらせる。
「ゃ――――いや、です、わたし……!」
つかまれた腕を解こうとするが、彼女にそれだけの力はなかった。
男は嫌がる彼女を引き寄せ、手荒く首を掴む。
「そう逆らうなよ桜。思わず殺したくなっちゃうじゃないか。おまえはさ、ただ僕のいうコトを聞いとけばいいんだから」
「やだ――――違う、約束が違う兄さん……! 先輩には、もう手出ししないって言ったのに……!」
髪を振り乱して抗う。
それを、男は足で止めた。
抱き寄せた少女を放し、無造作に腹につま先を叩き込んだのだ。
「ぅ――――ぐ…………ぇ……」
床にうずくまった少女から嗚咽があがる。
「優しいな僕は。爺さんから預かった薬もあるっていうのに、使わないでやったんだから」
男はうずくまる少女を無理やり立たせる。
「ぁ……あはっ、う――――」
咳きこむ少女を抱き寄せ、男はもう一度首を掴んだ。
「安心しろ、約束は守るさ。衛宮は殺さないし、今までの事は黙っていてやる。ただちょっと、あいつには痛い目にあってもらわないと気がすまないんだよ、こっちは」
少女の頬に触れるほど口を近づけ、男は愉しげに言った。
「っ――――、ぅ――――」
首を掴まれ、少女は悔しげに口を閉ざす。
どうあってもこうなるのだと、もう何度も思い知っている事実を受け入れるように。
「そう、おまえはそれでいいんだ。それじゃあ一足先に行っていようぜ桜。ここは衛宮の陣地だしな、遊ぶなら僕の作った陣地でないと。ライダー、その女を連れてこい」
乱暴に少女を突き放し、男は居間を後にする。
「――――ライ、ダー」
倒れ伏した少女が顔をあげる。
そこには長い、床につくほどの髪を流した、サーヴァントの姿があった。
「ただいまー!」
声をあげて玄関に入る。
「――――――――」
瞬間。
何か、嫌な違和感に襲われた。
「衛宮くん、廊下」
「――――――――」
言われるまでもない。
廊下には足跡らしきものがあった。
靴は桜のものだけ。
頼んでおいた家政婦さんの靴はなく、屋敷は静まり返っている。
「桜」
客間に入る。
部屋には誰もいない。
嫌な違和感は、不吉な確信に変わっていく。
居間に戻る。
ここにも桜はいない。
廊下から続く足跡は居間で終わっている。
土足のままあがった何者かは、ここで何かをして、また外に出て行ったらしい。
「……衛宮くん。そこの床見て。
小さいけど血の跡があ――――」
「わかってる。ここに桜がいた」
そう、わかってる。
桜は居間にいて、一人で俺の帰りを待っていて、今はいない。
廊下には見知らぬ足跡がある。
話はそれだけだ。
結論が出ない方がおかしい。
少し考えれば答えははっきりと出る。
冷静に。
冷静に。
冷静に。
冷静になって考えれば、何が起きたのか読み取れる。
だっていうのに、どうして――――
「――――――――、っ」
この頭は、少しも働いてはくれないのか。
「ちょっ、ちょっと衛宮くん……!?」
「――――――――」
もっと早く帰るべきだった。
もっと真剣に考えるべきだった。
俺はこうなる事を恐れて、桜をうちに預かったのではなかったか。
桜は無関係だと間桐臓硯は言った。
そんな言葉をどうして信じたのか。
桜が間桐の人間である限り、無関係なんて事はない。
なのに、どうして。
どうしてそんな、俺にだけ都合のいい話を、簡単に鵜呑みにした――――!
「―――――」
電話の呼び鈴が鳴り響く。
黙り込む遠坂に頷いて、ゆっくりと受話器を取った。
『もしもし? やっと帰ってきたの、衛宮?』 電話の主は慎二だ。
間違えようがないし、こんな事だろうと判っていた。
「桜をどうした」
『あ? どうしたって、返してもらったに決まってるだろ。あいつは僕のなんだから、いつまでも他人の家には置いとけないしさ』
「慎二」
『はは! いいね、カッカきてるじゃんか衛宮! 桜を取られて悔しいってワケだ!』 慎二の声が聞こえているのか、遠坂は身を乗り出してくる。
それを片手で制して、話の続きを促した。
「回りくどいのはいい。手っ取り早く用件を言え」
『へ―――わかってるだろ。いいかげんカタをつけようぜ衛宮。おまえだって、この間の一件で済んだなんて思ってないよな?』「いや、思ってる。おまえは逃げただろう。カタなんて、それでついているんじゃないのか」
『ついていないっ……! アレはサーヴァントの差だ、おまえの力じゃない! セイバーさえいなければ僕が逃げるなんて事はなかった! 今だって、セイバーさえ出てこなければ僕が負ける筈がない……!』
セイバーさえ出てこなければ……?
……そうか。
慎二は俺がセイバーを失った事を知らないらしい。
ああ―――だから桜を攫ったのか。
つまり、この電話は。
「慎二。桜をどうする気だ」
『どうもしないさ。けどそれもおまえの出方次第だぜ?
おまえが一人で僕のところに来るなら桜には何もしない。この意味、当然解かるよな?』「っ――――!」
遠坂を止める。
ここに遠坂が割って入ったら、慎二が何をするか分からない。
「つまり、セイバー抜きで戦えって事か」
『いいね、肝心のところで物分りがいいから助かるよ。
―――場所は学校だ。いいか、くれぐれも一人で来いよ。ここにはライダーが結界を張ってるからね。セイバーを連れてくればすぐに判る。
そうなった時―――こいつがどうなるか、ちょっと保証はできないな』
「っ、あぅ……!」
受話器越しに、何かを蹴るような音がした。
「すぐに行くから待ってろ。それと一応訊いておく。おまえはマスターか、それとも桜の兄貴か」
『はっ……! 冗談、なんで僕がこんなグズの兄貴なワケさ。ま、おまえをおびき出すのに役に立つんだから、まるっきり無能ってワケじゃないけどな』
「――――わかった。
マスターとして戦いにいくぞ、慎二」
『ああ。戦いになればの話だけどね』 受話器を置く。
そのまま、踵を返して廊下に向かった。
「待ちなさい……!
本当に一人で行く気なの、アンタ!?」
「そういう指定だ。遠坂、話は後にしてくれ」
「後にしろって、それはこっちの台詞よ。
慎二が桜を連れて行ったのは人質のつもりでしょう。
貴方、そのまま行けば殺されるわよ。そんなの見せられたら桜だってたまんないわ。ここは様子を見て、作戦を立てるべきよ」
わかってる。
でも時間がない。
受話器越しのうめき声が、まだ耳に残っている。
「――――そうか。桜の前で殺すかな、慎二」
「ん……それはわからないけど、桜を人質に使うなら可能性は高いわね。……って、衛宮くん大丈夫? 貴方、冷静そうに見えるけどもしかして逆上してる?」
逆上してる?
それはつまり、今すぐ学校に駆けつけて慎二をブン殴るってコトしか頭に浮かんでない事か。
ああ、それなら――――
「逆上してる。ほかの事が考えられない。今まで兄妹の事だからって口出ししなかった自分にも逆上してる。
あいつは兄貴じゃないって言った。―――そんなヤツに、桜を取られた」
「奪《と》られたから奪《と》り返してくる。遠坂は手出ししないでくれ」
外に出る。
見上げた空は暗く、じき日が沈もうとしていた。
今夜はきっと雨になる。
その前に、桜と一緒にここに戻ってこないといけない。
◇◇◇
「待ちなさいってば……! 貴方一人じゃ助けられるヤツも助けられないから、わたしと手を組むって言ったんじゃないの……!?」
「――――――――」
足を止める。
その言葉は、沸騰していた頭に冷水をぶっかけてくれた。
「――――すまん。けど桜が危ない。一人じゃ自殺行為だって判ってるけど、こうするしかない」
「……でしょうね。慎二が桜を押さえている以上、わたしもおいそれと手は貸せない。
けど衛宮くん。貴方がなんとかして慎二から桜を取り返してくれたのなら、後はわたしがなんとかする」
「――――なんとかするって、慎二をか?」
「慎二じゃなくてライダーよ。サーヴァントの相手はサーヴァントがするものでしょう。
わたしは出来るだけ近くで身を隠しているから、とにかく桜を助けてあげて。そうしたら、たとえ一秒後に殺されるって状況でも、絶対に貴方を助けるから」
自分に言い聞かせるように遠坂は言う。
……それは、確実に遠坂に負担をかける事だろう。
俺はそれを承知で遠坂の力を借りて、遠坂もそれを守ろうとしてくれている。
それで、怒りに走っていた心に覚悟が入った。
俺は遠坂を頼る。
その代わりに、必ず―――桜を無傷で取り返すのだ。
「わかった。後のフォローは任せる、遠坂」
「ええ。けどそれには、貴方がちゃんと無事で、きちんと桜を守ってあげてるって条件付きよ。
いくらアーチャーでもライダーの相手をしながら桜を守る、なんて出来ない。自分の身と引き換えに桜を助けても、そんなの全然意味がないんだから」
校舎には人気《ひとけ》がない。
昏睡事件の多発が下校時刻を早めた為だ。
六時前、生徒はおろか教師さえ残ってはいないだろう。
「――――慎二の居場所は判るか、遠坂」
「……あいつの性格から言って校舎の中でしょ。高いところで、かつ馴染んだ場所に陣取ってるに決まってるわ」
なら該当する場所は一つだけだ。
三階の教室に慎二はいる。
「先に行く。遠坂は後から来てくれ」
「……ええ。十分経ったらわたしも正門を潜《くぐ》るわ。
まだ話してなかったけど、ここには結界が張られている。気配を隠したところで見つかっちゃうから、そうならないようにライダーと慎二の注意を引きつけて」
こくん、と頷いて走り出す。
――――背中には熱い鉄が入っている。
魔術回路はとっくに成っている。
俺に許されたただ一つの“強化《ぶき》”は、敵を倒す為ではなく桜を守る為に使うのだと、焦る心に言い聞かせた。
「!」
足を止める。
三階の廊下には黒いサーヴァントと、桜に刃物をあてている慎二がいた。
「おまえ――――!」
思考が弾ける。
止まっていた足が再び地を蹴る。
そこに―――黒いサーヴァント、ライダーが立ち塞がった。
「止まりなさい。それ以上前に出れば、マスターは彼女を傷つけます」
「っ……!」
前に出ようとする体を押しとどめる。
口が痛い。
強く噛み締めた歯が、ギリギリと悲鳴をあげている。
「慎二――――!」
「よう。思った通り飛んできたな衛宮。おまえのことだからさ、ああ言えばホントに一人で来ると思ったよ」
「っ――――」
冷静になりかけていた頭が白熱する。
目の前のサーヴァント、ライダーが目に入らないぐらい、頭がクラクラしている。
「……なんだよ、それ」
なんでそんなコトをしているのか。
桜は慎二の妹だ。
兄貴なら妹は守るべきものだろう。
肉親なら助け合って、一緒に笑いあうものだろう。
なのにどうして分からないんだ。
俺が助けられなかったものを、
兄貴にナイフをつきつけられる妹《さくら》の気持ちが、どうして――――!
「おまえ、本気でそんなコトやってんのか慎二――――」
「当然だろ。本気だから最後の切り札を使ってるんじゃないか。この期におよんでなに寝ぼけてんだよ、おまえ」
「っ……!」
体が前に出る。
今すぐにあそこまで走って、桜を引き離さないと気がすまない。
「――――――――」
それにはこいつが邪魔だ。
ライダーは慎二を守るように、俺の行く手を塞いでいる。
「……わからない人ですね。貴方は何をしに来たのです。
この場に訪れたという事は、マスターの意に従うという事。戦う気があるのなら、一人で来るべきではなかったでしょう?」
「っ――――」
……ライダーの言い分はもっともだ。
……冷静にならないと。
慎二の言う通りにした以上、俺は慎二を倒すのではなく、桜を助ける事だけを考えなければ。
「―――――――ふう」
深呼吸をして、乗り出した体を下げる。
慎二は桜を抱き寄せたまま、俺の狼狽を愉しんでいた。
……桜はうつむいたまま顔を上げる様子がない。
気を失っている―――なんて事はないだろう。
桜は自分の足で立っている。
うつむいているのは、ただ、顔をあげる事ができないからだ。
「―――慎二。おまえ、桜に聖杯戦争《オレたち》の事を話したのか」
怒りを隠しきれず慎二を睨む。
「は?」
「――――そうか。ああ、そういうコトか!
ああ、安心しろよ衛宮。おまえが黙ってるもんだからさ、ちゃんと一から十まで話してやったよ! 僕たちがマスターで、今まで殺し合いをしてきたってさ!」
「っ――――」
「隠しておきたかったのかい? バーカ、そんなのバレるに決まってるじゃんか! こいつさ、おまえが何か隠してるって気付いてたらしいぜ。けど自分はただの後輩だから訊けなかった、だとさ!」
「ぅ…………!」
桜の頬にナイフがあてられる。
桜は顔を背け、それでも顔を上げることはできないと、懸命に歯を食いしばっていた。
「さ、遠慮せずに訊けよ桜。いまの衛宮は隠し事なんてできないぜ? ほら、念願かなったりだろうが!」
「――――――――」
桜は口を閉ざしている。
……その、うつむいた姿が、
「ああ? なに黙ってるんだよおまえ。
いいから訊けって言ってるだろ? 衛宮がおまえのコトをどう思ってるか、おまえが薄汚い間桐の女って知って嫌われたかどうか、ちゃんと自分の口で訊けって言ってるんだよ!」
「慎二――――!」
俺に謝っているように見えて、これ以上は耐えられなかった。
「もういいだろう。約束通り来たんだ、桜を放せ」
「はあ? 約束なんてしてないよ? したのは命令さ。
一人で来れば桜には手出しをしないって、ただ言っただけじゃないか」
「――――――――」
「そう睨むなよ衛宮。僕だって鬼じゃない。妹を助けたいっていうおまえの気持ちは嬉しいからね。おまえが誠意を見せるなら僕も応えるよ。事が終われば、桜はこのまま家に帰してやってもいい」
「そうか―――それは約束だな、慎二」
「ああ。おまえが僕の言う通りにするんなら桜は放す。
これは約束だ。必ず守る」
「わかった。で、おまえの用件ってのはなんだ。ここで土下座でもしろっていうのか」
「そんなの要らないよ。男に頭を下げられて何が嬉しいっていうんだ。僕は戦う為におまえを呼び出したんだ。言っただろ、いいかげんカタをつけようってさ」
……ライダーが一歩前に出る。
そこには殺気も敵意もない。
マスターの命に従って、ライダーは俺へと歩を進めてくる。
「けど、ただやりあうのもつまらないだろ? 僕は魔術師じゃないから不公平だし、ただのケンカじゃ僕が勝つのは判りきってるしさ。
だからここは公平を期して、そいつの相手をしてもらう事にしたんだ」
「――――――――っ」
……言ってくれる。
生身でライダーと戦え、か。
そんなの死ねと言っているようなもんじゃないか。
「なに、命までは取らないさ。ライダーには手加減するように言ってある。
ま、これからうろちょろされるのも目障りだから、両手両足ぐらいはきっかり潰させてもらうけど」
……ライダーの手には短刀がない。
たしかに、手加減らしきものはする気のようだ。
「簡単だろ? ただ馬鹿みたいに殴られてればいいんだ。
ああ、けど簡単には倒れるなよ衛宮? 僕が満足する前に気絶なんかしたら、足りない分は桜に払ってもらうからね」
「――――――――」
……ライダーが近づいてくる。
あと三歩。
たったそれだけで、ライダーの手がこちらに届く。
「……ふん。抵抗はするな、けど簡単に倒れるな、か。
矛盾してるぞ慎二。おまえ、何がしたいんだ」
「は、そんなの決まってるじゃないか……!
僕はさ、単におまえをぶちのめしたいだけなんだよ……っ!!」
ライダーの体が跳ねる。
「――――」
両手を上げて打撃に備える。
瞬間――――
根元《かた》から骨ごと吹き飛ばしそうな衝撃が、右腕を貫いた。
「っ、ぐ――――!」
顔を防ぎに入った腕そのものを狙われた。
右腕は付いている。吹き飛ばされてなどいない。
ただ、完全に麻痺して感覚がなくなっただけ。
「は…………!」
全速で意識を編み上げる。
素手じゃ話にならない。
守りになるようなものを片っ端から“強化”しなければ手足を吹っ飛ばされる。
薄い学生服を鉄に、無防備な体を少しでも硬くしなければ、次の一撃で終わってしまう――――!
「っっ――――!」
顔を守る左腕がブレる。
玄翁《げんのう》じみた一撃は強化した服を貫通し、容赦なく左腕を壊しにかかる。「は――――こ、の――――!」
両腕はたった一息のうちに使い物にならなくされた。
―――いや、動くには動くが感覚がまったくない。
こんな鈍い反応じゃ、もう腕でライダーの拳を防ぐ事などできない。
顔―――顔を狙われたら、それこそ一撃で意識を刈り取られる……!
ライダーに容赦はない。
ヤツは慎二の命令通り、一切の無駄なく拳を繰り出してくる。
その無機質さは、どこか、腕を振るうだけの機械を連想させた。
「あ、ぐっ…………!」
満足に動かない両腕で、とにかく顔だけはガッチリとガードする。
もとよりライダーの拳を“見て防ぐ”事など出来ないのだ。
意識だけは奪われないように、頭を守る事に専念しなければ。
「つ、くっ――――!」
それを、ライダーはどう取ったのか。
隙間だらけの両腕の守りを、ライダーは狙ってこない。
ライダーはがら空きの腹と胸だけを強打してくる。
……それはそれで悶絶しかねない一撃だったが、両腕を麻痺させた程の強さはなかった。
「―――――――、――――」
……おかしい。
柳洞寺で見せたライダーの怪力なら、一撃で俺の胃袋ぐらい破裂させる。
……慎二の言う通り手加減をしているのか。
いや、俺を倒れさせないように顔を狙ってこないのは手加減になるのだろうが、それを差し引いてもこのライダーはおかしかった。
「――――――、っ」
言ってしまえば、迫力が段違いだった。
サーヴァントの威圧感は、肌で感じ取れる魔力量に比例する。
柳洞寺で見たライダーは強力なサーヴァントだった。
が、目の前にいるライダーは以前の、公園でセイバーに敗れた時のライダーだ。
どういう経緯かは知らないが、これなら―――まだ、慎二を出し抜く好機《チャンス》はある―――!
「ご、ぶ…………!」
前に倒れこむ。
サンドバッグ相手のスパーリングに飽きたのか、ライダーは深く踏み込んで腹を一撃する。「――――」
杭打ちめいた一撃に、腹の中身を抉られた。
……今のは、効いた。
治りきっていない昨夜の腹の傷が悲鳴をあげる。
胃液が口まで逆流して、足は膝から崩れ落ちようとする。
「どうした、それで終わりかい衛宮? 桜の前なんだからしっかりしろよ。そんなんじゃぜんぜん格好つかないじゃないか!」
……前のめりに倒れこむ。
「――――――――」
ライダーはわずかに身を引いて、俺の倒壊を見届けようとする。
そこへ、
「っ――――あ…………!」
ライダーの腕を掴んで、強引に体を持ち堪えさせた。
「――――! いいぞ衛宮、ゴキブリなみのしぶとさだ!
あはは、おまえ本当におもしろいぜ!」
あ……つ。
くそ、今のは効いたぞ、頭を殴られたわけでもないのに頭がクラクラしてやがる―――
「あー、けどまあ、やっぱり見世物としちゃ三流だったな。このまま続けても同じ事の繰り返しだ。そろそろ飽きてきたし、あとは豪快なKOシーンで締めくくろうか」
――――同じ?
馬鹿、どこが同じだって言うんだ。
さっきとは立ち位置が違う。
ライダーによりかかった時、彼女の腕を引いて、あからさまに立ち位置を逆にした事をどうとも思わないのかアイツは。
「――――距離は五メートルほどです。我慢強い貴方の勝ちですね」
「え……?」
顔をあげる。
今、ライダーのヤツ、なんて。
「休憩は終わりだ。第二ラウンドだぜ、衛宮」
ライダーが俺の手を振り払う。
黒いサーヴァントは、やはり機械を連想させる無機質さで攻撃を再開する。
―――後ろに押されていく。
ライダーの一撃一撃は俺にとどめを刺さないよう、急所以外を狙っていた。
「――――――――」
体は麻痺している。
殴られた個所は痣になって血流を濁らせ、もう痛みさえ感じない。
殴られる痛みより、体中に残っている痛みの方が強い為だ。
肉体を壊す、という点において、ライダーは容赦なく俺を攻めている。
「――――――お覚悟を」
感情のない声と共に、黒いサーヴァントが間合いを詰める。
それで、完全に思い知った。
これは慎二の意思じゃない。
俺の顔を狙わなかったのも、
俺がギリギリでまだ体を動かせるのも、
慎二に手加減を命じられたからではなく――――
「いいぞ、もう手加減はなしだ! 殺せライダー!」
「っ……!? 兄さん、やめ…………!」
ライダーは長い髪をなびかせて一歩踏み込み、
今までとは比較にならない一撃で、この胸を突き上げた。
「ご――――――――」
息が出来ない。
地面の感覚がない。
あまりの一撃で、判っていても意識が掠れかける。
「先輩…………!」
ライダーに吹き飛ばされ、宙に浮いている一瞬、くぐもった悲鳴と歓喜の声を聴いた。
……桜の声が、今までよりずっと近い。
―――落下する。
普通ならこのまま、背中から落ちて死ぬ。
落下の衝撃など要らない。
そもそも、人間を軽々と吹き飛ばすほどの一撃だ。
受けた時点で胸に風穴が開いてもおかしくない。
「…………、は」
だが生きている。
あれだけタイミングを合わせられれば、誰だって後ろに跳べる。
今のは殺す為の一撃じゃない。
顔を狙わず、なんとか体が動く程度に攻撃を留めたのは慎二の命令ではなく――――あくまで、ライダーの意思だったんだから。
「――――せーの、」
間合いは万全。
床に落ちる直前に体を反転させ、ノータイムで姿勢を正し
「え?」
目の前にあるナイフの刃を、左手で掴み取った。
ナイフの刃を手の平で包む。
ざっくりと肉に食い込む感覚は、麻痺していたおかげで気にならない。
「え、え――――!?」
残った右腕を振り上げる。
手の平が切れる事など考えもせず、
強く握り締めた右拳で、慎二の顔面を殴りぬいた。
◇◇◇
「っ――――あ」
ナイフを捨てる。
べったりと付着した血を見ないようにして、とにかく桜に駆け寄った。
「桜……!」
「……先、輩――――」
桜は顔をあげず、力なく床に座り込んでいる。
……桜は俺との会話を避けている。
それは慎二との事が原因なのか、今までの隠し事が原因なのかは判らない。
判るのはただ、桜の体が朝よりずっと熱を持っているという事だけだ。
「……いい。話は後にしよう。
今は家に帰って、それで――――」
「!」
「そこまでよ。勝負あったわね、慎二」
……と。
俺たちの背後には、いつのまにか遠坂がやってきていた。
ライダーはアーチャーに斬り伏せられ、床に蹲《うずくま》っている。
ライダーの服は血で滲んでいて、即死ではないものの戦闘は不可能だろう。
「と、遠坂……!?
卑怯者、約束を破りやがったな衛宮……! 一人で来いって言ったのに!」
「そうね。けど、アレは約束じゃなくて命令だったんでしょ? なら衛宮くんを卑怯者呼ばわりするのは筋違いだわ」
「そ―――そんなの詭弁だ! 衛宮は一人で来るって言ったんだ、なら一人で来るのは当然じゃないか!」
「……いいけどね。
たしかにわたしと衛宮くんは一緒だったけど、何も衛宮くんが助けを求めたワケじゃないわ。ここに来たのは、あくまでわたしが来たかったからよ」
「嘘つけ……! 呼びもしないおまえがどうして来る!
衛宮のヤツ、馬鹿正直なフリして僕を騙したんだろうが!」
「ああそれ? そんなの単純よ。あの電話の時ね、隣りにわたしもいたの。間桐くん、声大きいんだもの。衛宮くんが隠してても聴こえちゃった」
「満足いった? 桜が攫《さら》われた以上、わたしが大人しくしてるワケないでしょう。アンタは衛宮くんを誘《おび》き寄せる代わりに、完全にわたしを敵に回したって事よ」
「く―――なんだよ、おまえも桜かよ。
……桜。桜、桜、桜、桜桜桜桜桜……!
信じられない、おまえもまだそんなコトに拘ってるのかよ! そんなヤツ、ただ黙っていじけてるだけのグズじゃないか! よく見ろ、僕はマスターになったんだ!
おまえが気にかけるのはそんなヤツらじゃなく、僕だけだって決まってるんだよ……!!」
「そう。じゃあ自慢のサーヴァントに戦わせたら?
アーチャーは腹を裂いただけよ。具現化の核たる心臓と首は壊していない。貴方が一人前のマスターなら、いますぐにでもライダーを治してあげなさい」
「くっ――――この、言わせておけば……!」
慎二は俺たちから離れつつ、一冊の本を取り出した。
「あれは――――」
公園で燃え尽きた筈の、慎二の令呪《コマンドスペル》。
それがまだ残っていたのか……!?
「立てライダー! マスターの命令だ、立ってアーチャーを倒せ……!」
「――――――――」
返事はない。
ライダーは蹲ったまま動かない。
ライダーの足元は真紅に染まっていて、血はまだ流れ続けている。
いま助けが必要なのは慎二ではなくライダーだ。
そのライダーに戦えというのは、死期を早めるだけの命令でしかない。
「この……! おまえは僕のサーヴァントだろう、なら死ぬまで戦えよ間抜け……!」
慎二は強く本を握り締める。
それがあいつにとっての令呪の使用法なのか、ライダーはガクガクと体を震わせ、なんとか立ち上がろうとする。
「やめろ―――もう無理だ、諦めろ慎二……! それ以上はライダーが死ぬ……!」
「ハ! こいつらが簡単に死ぬタマか! おまえは黙ってそのグズの面倒でも見てればいい……!」
慎二は命令を緩めない。
「っ……!」
桜から手を離して、もう一度慎二へと走り出す。
―――その、瞬間。
「……だめ……! もう、それ以上、は……!」
「――――桜?」
足を止めて桜に振り返る。
桜は腹を押さえ、魘《うな》されるように声をあげ
「なっ――――!?」
あの夜と同じように、慎二の本はひとりでに燃え尽きていた。
「――――な」
締め切られた廊下に風が吹く。
それは倒れていた筈のライダーと―――蹲ったままの、桜の体から吹いていた。
「――――嘘。これがライダー……?」
身構える遠坂と、立ち上がった敵を無言で見据えるアーチャー。
ライダーは完全に治癒していた。
その体から発する威圧は、柳洞寺で見せたものとまったく同じ。
「――――?」
と。
唐突に、その姿が掻き消えた。
ライダーの姿は忽然と俺の視界から消え、
「衛宮くん、伏せて――――!」
「!」
咄嗟にしゃがみこんだ俺の真上を、長い髪が通過していった。
「桜……!」
一瞬の間に、ライダーは桜を抱いて跳んでいた。
桜を抱えたライダーは俺と遠坂とは反対方向―――慎二のいる場所より少し前、俺たちと慎二の中間に着地する。
「え……なんだよ、おまえ。誰が桜を連れて来いなんて、言ったんだ」
「いえ、そのような命令はありません。私はサーヴァントとして、主の身を守っただけです」
抱えていた桜を下ろし、ライダーは慎二を一瞥する。
……皮のベルトで覆われているというのに、その視線はぞっとするほど冷たかった。
「ば、馬鹿言うな。おまえの主は僕だ。僕を守らないで何を勝手に――――」
「シンジ。令呪《コマンドスペル》はマスターの身体に現れるもの。私はその身に聖痕を持たないモノを、マスターと認めた事は一度もありません」
「な―――んだと、おまえ」
「貴方は偽者です。偽臣《ぎしん》の書が失われた以上、貴方には付き合えない」
そうして、ライダーは慎二に背を向けた。
その背中は、二度と振り向く事はないと告げている。
「―――そう。そういう事だったのね、ライダー」
「推測通りです、アーチャーのマスター。
ですが貴女なら、とうに気付いていたのではないですか」
「……ええ。おかしいとは思ってたわ。
間桐の人間からマスターが出る筈はない。間桐の血はもう廃れてしまって、魔術を扱える人間は輩出されないから」
「だから間桐の人間である慎二は、絶対にマスターにはなれない筈だった。なのにライダーは召喚され、間桐の人間がマスターに選ばれた」
「……そうね。わたしは間桐臓硯が貴女を召喚して、慎二に預けているのかと思ってた。
けど話はもっと簡単なのよ。臓硯は手を下すまでもない。だって、今の間桐家において、もっともマスターに相応しい人間は―――」
遠坂はライダーを見ていない。
あいつの視線は、ただ、
「―――間桐の正統な後継者。
今代の魔術師である貴女だものね、桜」
「………………」
まっすぐに、桜だけを見つめていた。
「――――――――は?」
喉がうまく動かない。
遠坂と桜。
二人を交互に見て、今の言葉の意味を把握する事しかできない。
……左手が痛む。
弛緩した意識が、今になってようやく、ナイフを掴んだ手の痛みを告げてくる。
「――――――――」
そうか。
俺は弛緩、しているらしい。
遠坂の言葉に聴覚を奪われ、桜の左手の令呪に視覚を奪われて、それでも―――心は、さして驚いていなかった。
ただ、何故、と。
どうしてそんな事になっているのか、それだけしか考えられない――――
「……………………」
桜は俯いたまま、ただ体を小さくしている。
その仕草は、俺にだけは知られたくなかったと、謝罪しているようだった。
「……令呪の譲渡。“間桐慎二の指示に従う”っていう令呪か。
それによってライダーは慎二のサーヴァントになって、その間、貴女はマスターとしての権限を失い、ただの魔術師になる。……一番初めに貴女に腕を見せてもらった時、もう慎二に令呪を譲ってたワケね、桜」
「…………………………」
桜は答えず、唇をかみ締めている。
そこへ「くそ、もう一度だ桜! もう一度僕に支配権を譲れ!」
慎二が、すがるように駆けつけた。
「…………………」
「おい、なに黙ってんだよ……! おまえは戦う気はないんだろう? マスターになるのは嫌だってさんざん言ったから、僕が代わりに引き受けてやったんじゃないか!
それを今更、なにいい子ぶってんだよおまえは……!」
拳を振り上げる慎二。
……それを止める必要もない。
「ラ、ライダー、おまえ―――僕に逆らうのか」
「貴方は私のマスターではありません、シンジ。サクラに手を上げるのならば、排除されるだけの存在です」
手を離すライダー。
慎二はライダーに掴まれた腕を押さえながら、よろよろと後退する。
「は、はは――――そうかよ、後悔するぞライダー。おまえがなんと言おうと、桜が本を作れば元通りだ。
おまえが僕のサーヴァントに戻った時、どうなるかわかって――――」
「無駄よ慎二。他人に、しかも魔術師でもない人間にサーヴァントを預ける事は不可能に近いわ。それを可能にしていたのが令呪《コマンドスペル》による譲渡だった」
「わ、わかってるじゃないか。令呪はあと一つあるんだ。
桜は僕に逆らえないんだから、それで」
「だからもう終わりなのよ。桜の刻印はあと一つしかない。それを使ってしまったら、ライダーを止める手段がなくなってしまう。
そうなったライダーは自由よ。令呪で作った偽物の命令権なんかじゃサーヴァントは縛れない。ライダーに命令したところで、さっきみたいに本が燃えておしまいよ」
「な――――それじゃ、僕は」
「ええ。貴方がマスターになるチャンスはなくなったわ。
いえ。借り物の令呪でライダーを操っていた貴方は、初めからマスターなんかじゃなかったのよ」
……亀裂が走る。
ピシリと音をたてて、間桐慎二という存在が罅《ひび》割れる。
「は――――は。そうか、初めから無理だったのか。そうだよな、僕には魔術の才能はない。爺《じじい》からは失敗作扱いされて、そんなグズには同情される始末だった。
……そうだよ、当然だ。わかってた。わかってたわかってたわかってたわかってた……! こんなの、初めから勤まりっこないってわかってたさ!」
「――――兄さん」
「いいさ、気にするなよ桜。こんなのは遊びだ。僕に才能がないって事はわかってた。間桐の後継ぎはおまえだもんな、僕がしゃしゃり出る事はなかったんだ」
「兄さん、もう」
「ああ、わかってる、わかってるさ。
だから桜――――この続きは、おまえがやれよ」
「え……?」
「だからさ! 僕のかわりにこいつらを叩きのめせって言ってんだよ! いいか、衛宮も遠坂も敵だ! おまえは間桐の後継者なんだろ、なら少しはそれらしく振るまいやがれ……!」
「慎二、アンタ―――ここまで言ってもわからないの。
桜は戦わないし、アンタにもう芽はない。ライダーがいない以上、わたしたちもアンタには手は出さない。後は大人しく、聖杯戦争が終わるまで隠れてなさい」
「おまえには聞いてない。―――さあ桜。僕の言うことだ、いつも通り従うよな?」
「………………」
返事はない。
桜はぎゅっと片腕を握り締め、慎二に背中を向けて、「……嫌です。もう止めましょう、兄さん」
はっきりと、慎二の言い分を拒絶した。
「――――桜。おまえ、今なんて言った?」
「……嫌です。兄さんは約束を破りました。先輩は殺さないって言ったのに、その約束を破ったんです。
だから、もう――――」
「――――――――」
桜は慎二に振り向かない。
それを他人のように眺めて、慎二は笑った。
「――――――――」
それに、この上ない悪寒を感じた瞬間。
「―――いいよ。それじゃ死んじゃえよ、おまえ」
パキン、と、硝子の割れる音がした。
「ぁ、っ――――!」
桜が倒れる。
足元から力をなくして床に蹲る。
「は、じゃあな桜! 恨むなら僕じゃなく、そんな体にした爺を恨めよ。なに、どうせいつかはそうなってたんだ、いま楽になった方が幸せってもんさ――――!」
慎二は逃げるように走り去っていく。
「ぁ――――は、あ――――!」
苦しげに胸を掻《か》き毟《むし》る。
―――耳に付けられていた飾りが砕け、そこから何か、薬品めいた液体がこぼれている。
「あ――――、い――――や………………!」
膝をついたまま痙攣する。
いや、それは痙攣なんてものじゃない。
桜の震えは激しく、地震で倒壊する建物のように、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
「桜……!」
何がどうなっているのか判らない。
ただ桜の身を案じて走り出す。
「たわけ――――! この状況が判らんのか貴様!」
「っ」
体が止まる。
いつのまに後ろにいたのか、アーチャーは俺の肩を掴み、そのまま
「ここから離れろ。下手に魔力《かて》を与えては戻せなくなる」
俺を後ろに突き飛ばして、アーチャーはおかしな事を言う。
「糧……? なんだよそれ、おまえ一体――――」
何を言っているのか、なんて問いはすぐに消えた。
「――――――――」
廊下が赤く染まっていく。
たちこめる空気は霧状になって肌を濡らし、壁という壁は、蜜のような汗を浮かべだした。
「痛っ、ぐ――――!?」
……肌が焼ける。
この空気。
この赤い世界は魔術によって括られた異界だ。
枠組みの中、この敷地内にいるモノを溶かす、得体の知れない“結界”に違いない。
「遠坂、こ、れ――――」
息が出来ない。
いや、呼吸をすると霧が喉につまって、内側から焼かれてしまう。
「……慎二が学校に仕掛けてた結界ね。
もっとも、慎二から桜にマスターが変わって威力が段違いになってるけど」
「な――――――」
視線を戻す。
……赤黒く変色した通路の奥には、蹲《うずくま》って胸を掻き毟っている桜と、
桜を守るようにアーチャーと対峙する、ライダーの姿があった。
「――――そこを退けライダー。おまえの主は暴走している。他人の魔力の味を知る前に止めねばクセになるぞ」
「お断りします。私の役目はマスターの守護です。貴方がサクラを殺そうとする以上、ここを通す訳にはいかない」
「……ほう。みすみす主を死なせるのか。おまえのマスターは著しく魔力を消費していっている。放っておけば確実に死ぬと判っているのか?」
「いいえ。失う魔力より多くの魔力を摂取すれば自滅は避けられる。
幸い、ここには魔術師が二人いる。シンジは逃がしましたが、彼らはもう逃げられない。サクラが虫に食われる前に、貴方のマスターを私が貰い受けましょう」
「ふん―――主が代わったところで性根は変わらんか。
他人の命より自分が可愛いと見える」
「それは貴方もでしょう。私のマスターより自身のマスターを守ろうとしている」
「なるほど―――ではお互い、気兼ねをする必要はないワケだ―――!」
アーチャーが疾走する。
……この胃袋みたいな結界を意にも介さず、赤い騎士は蹲《うずくま》る桜へと走り出し、
立ちはだかるライダーと衝突した。
「ちょっ―――遠坂、いいのか!? あいつ、ライダーと戦いだしたぞ……!?」
「……そりゃ戦うしかないでしょう。このままだとわたしも貴方も保たないもの。……それに同じ魔術師として、桜が外道に落ちるのは、なんとしても止めないと」
「え――――?」
外道に落ちる……?
それって協会の規則を破って魔術を悪用するヤツとか、魔術回路が止められなくなって自滅するヤツの事か……?
「――――待て。なんだよそれ。なんで桜が」
「だから暴走してるのよ、あの子。この結界はライダーが作ったものだけど、動かしてるのは桜ってコト。慎二が何をしたかは知らないけど、今の桜は見境なしよ」
「……きっと桜もわたしたちと一緒なんでしょうね。ただ苦しいから酸素が欲しくて、他人の魔力《さんそ》を吸いたがってる。―――そんなの。冬木の管理者として放っておけない」
「な――――放っておけないって、おまえ桜をどうする気だ!?」
「……それはアーチャーに聞いて。わたしには、ああなった魔術師を止める方法は一つしかない。けどアーチャーなら、何か他の方法があるのかもしれない」
「……ま、どちらにせよその前にライダーをなんとかしないとね。見たところアーチャーの方が強いんだけど、アーチャーのヤツ、なんか出力が落ちてるみたい」
「……出力が落ちてる?」
廊下に視線を戻す。
両者の戦いは、俺が見てもアーチャーが圧倒していた。
もとより力では勝るアーチャーだ。ライダーが押し止められるはずもない。
「――――――――」
だが。
たしかに、それにしては妙だった。
ライダーの武器はその敏捷性にある。
故に今のように桜を守る、という戦いは不得手の筈だ。
ライダーの本領は疾風の如き襲撃で、防衛戦には向いていない。
ならアーチャーはとっくにライダーを撃破し、桜の元に辿り着いていなければおかしい。
それが未だ成っていない、という事は―――まさかアーチャーのヤツ、ライダーに圧されている……?
「フ――――!」
アーチャーの剣が空を切る。
ライダーは長い髪を靡《なび》かせながら仰け反って剣を躱し、同時に踏み込んでアーチャーに斬りかかる。
だが、回避と攻撃が両立しているのはライダーだけではない。
アーチャーは残る右剣でライダーの短剣を弾き、踏み込んできたライダーを押し返す。
――――一進一退。
両者の攻防はほぼ互角であり、アーチャーは押し進めず、ライダーは押し返せずに剣戟を響かせあう。
「く――――」
焦りがあるのはアーチャーだ。
実力に劣る相手を撃退できず、張り巡らされた結界は徐々に体力を奪っていく。
加えて、俺と遠坂はもう限界だ。
息を止めているだけでも苦しいのに、この廊下にいるだけでザクザクと意識が削られていく。
このままでは、アーチャーがライダーを倒す前に俺たちが倒れてしまう。
「チ――――」
憎々しげに舌を打つアーチャー。
そこへ「―――貴方の力は判った。
残念ですが、今の貴方では私を倒せない」
後悔するような声音で告げて、ライダーは立ち止まった。
「なに……?」
「貴方では勝てない、と言ったのです。貴方は宝具を使わない。貴方のマスターが使用を禁止しているのか、貴方自身がサクラを気遣っているのかは知りません。
ただ、使わない以上はここで終わりです。貴方は私には勝てないでしょう」
唯一の武器である足を止め、ライダーはアーチャーと対峙する。
……その姿は無防備で、アーチャーが斬り込むだけで勝敗がつきそうだった。
「……ふん。おまえの主を気遣ったつもりはない。単に使う必要がないだけだ。
おまえとて宝具は使えまい。先ほどまで間桐慎二がマスターだったおまえでは、宝具を使うだけの魔力が溜まっていないからな」
「そうですね。シンジという主では私に魔力を与えられなかった。その為、現在私の宝具は使えません」
「……そういう事だ。使わぬ相手に対して魔力を消費する事もない。次でおまえを斬り伏せ、あの娘を斬り伏せればそれで終わる」
「ええ。ではそういう事にしておきましょうアーチャー。
私としても、その方が気兼ねなく手を下せる」
答えるライダーの口調はあくまで穏やかだった。
―――何をするつもりなのか。
ライダーはただ、短剣を構える事なくアーチャーと向き合い、
「……だめ、ライダー……!」
背後からの声で、わずかに動きを止めていた。
「サクラ。貴女はそこで耐えていてください。後の事は、全て私が解決します」
「やめて―――もうやめて、ライダー。わたし、こんなコトがしたくて、貴女を呼んだんじゃ、ない」
「……その命令は聞けません。私は何より貴女の命を優先する」
ライダーの腕が上がる。
アーチャーとの間合いは四メートル。
それだけの距離を保ったまま、黒いサーヴァントは自らの顔に手をかけ、
「―――それに。
これは貴方が望んだことでしょう、サクラ」
その、黒い封印を排除した。
――――瞬間、全てが凝固した。 ライダーの裸眼。
それは数ある魔眼の中でも最高位に属する、ヒトならざる“眼《まなこ》”だった。「――――――――」
灰色の眼。
水晶細工とさえ取れるソレは、眼球というには異質すぎた。 光を宿さない角膜。
四角く外界を繋ぐ瞳孔。
虹彩は凝固し、眼を閉ざす事を許さず。
視覚情報を伝える網膜の細胞は、億にいたるその悉くが第六架空要《エーテル》素で出来ている。 ―――神が愛でた芸術か、神が妬《のろ》った天性か。
ライダーの灰色の眼はこの上なく異質で、同時に、人が持つにはあまりにも美しすぎた。「っ――――!」
アーチャーは固まっている。
……あの距離で、正面からライダーの眼を見た為か。
目を閉じようにも既に目蓋は凝固し、顔を隠す腕も動かない。
前進してライダーを討とうとするも、その両足は、すでに膝まで石化《・・》していた。
「うそ、石化の魔眼……!?」
悲鳴に似た遠坂の声。
……隣りにいる遠坂がどんな顔をしているかも判らない。
俺の目もライダーの魔眼に囚われていて、視線を逸らす事ができない。
血液が固まっていく。
流動が固体化され、感覚が途絶えていく。
――――魔眼。
魔術師が持つ、一工程《シングルアクション》の魔術行使。
本来、外界からの情報を得る受動機能である眼球を、自身から外界に働きかける能動機能に変えたもの。
言ってしまえば視界にいるものに問答無用で魔術をかける代物で、標的にされた対象が魔眼を見てしまえば、効力は飛躍的に増大する。
要するに見てはいけないモノ、見るだけで相手の術中に嵌るという恐ろしい魔術特性だ。
その隠匿性と能力から、魔術師の間で魔眼は一流の証とされる。
自身の目を魔術回路に作り変える技法は、魔術刻印と呼ばれるものに近い。
もっとも、人工的な魔眼では魅惑《チャーム》や暗示《ウィスパー》程度の力しか持ち得ない。
強力な魔眼保持者は、決まって“生まれつき持っていたもの”に限られる。
束縛。強制。契約。炎焼。幻覚。凶運。
そういった他者の運命そのものに介入する魔眼は特例《ノウブルカラー》とされ、その中でも最高位とされるものが“石化”の魔眼だ。
現代の魔術師にこの魔眼を持つモノはいない。
石化の魔術だけでも可能とする魔術師は少ないのだ。
それを問答無用、“見る”だけで可能とする事がどれほどの神秘なのか。
……自己封印《ブレーカー》・暗黒神殿《ゴルゴーン》。
それは神域の力によって封じられた神の呪い。
神代の魔獣、聖霊しか持ち得なかったとされる魔の瞳。
視線だけで人を石にする、英霊メドゥーサの証《シンボル》たる魔術宝具――――!
「っ―――凛、離れろ! 本命が来る……!」
既に腰まで石と化したまま、アーチャーは声をあげる。
……その向こう。
魔眼を解放したライダーの奥から、なにか、赤黒い波が広がりつつあった。
「ば………そんなコト、言われて、も………!」
遠坂の動きが鈍い。
よくないモノが廊下の向こうから流れてくる。
波は槍のように尖って、一直線に遠坂をめがけていた。
「――――――――」
死ぬ。
俺より強く魔眼に魅入られたのか、遠坂は一歩も動けない。
このまま躱す事もできず、遠坂は槍に胸を貫かれる。
その、あと数秒後の光景を目の当たりにして、
◇◇◇
考えている時間はない。
足は動き、腕はまだ生きてる。
なら、あとは前に出て遠坂を引っ張るだけ――――
「遠坂――――っ!」
「え?」
遠坂の腕を引いても、遠坂はビクともしなかった。
どうやら見た目以上に重いらしい。
「く、重いなおまえ――――!」
両手で引いても動かない。
なら、後はもう、
「この、いいから退けって――――!」
肩から体当たりして、遠坂を弾き飛ばす……!
「――――て」
どす、と鈍い音を聞いた。
「ば―――な、なにしてんのよアンタはーーーー!?」
「――――と」
遠坂の声が、よく聞こえない。
……体が熱い。
ひどい熱病に感染したように、視界がぐにゃぐにゃに曲がっていく。「――――先輩?」 ……遠くで、聞き慣れた声がしたような。
現実感が失われていく。
白くぼやけた頭と、左腕からの出血が絵の具のように混ざり合っていく。「――――いや」 胸を掻き毟ったまま、床に転がった俺を呆然と見つめて、「いやぁーーーーああああ………!!!」 糸の切れた人形のように、倒れ伏す桜を見た。「どう? 気分、少しは落ち着いた?」
「―――――――――」
教会の長椅子に背を預けたまま、無言で頷く。
「そう。なら治療の必要はないわね。あとは体力と一緒に回復するだろうから、大人しくしてなさい」
言って、少し離れた椅子に遠坂は座った。
……お互いの心の距離は、その何倍も遠い。
俺たちはなんの無駄話もせず、こうして礼拝堂で言峰を待っている。
「―――――――っ」
左手を握り締めると、ズキンと肉が痺れた。
痛みの質は、手の平に釘を刺されたものと変わらない。
ライダーに強打された体より、桜に刺された左腕より、ナイフを握った左手の方が痛かった。
暗雲に阻まれ、夜空は見えない。
雨雲らしいそれは、じき雨を降らすと告げている。
「………………」
……遠坂を襲った槍のようなものは、桜の魔術だったらしい。
間桐家が伝える魔術特性は“吸収”。
あれは魔力不足で苦しんでいた桜が、無意識に放った魔術だった。
遠坂を狙ったのは、あの場ではあいつが一番魔力を持っていたからだろう。
遠坂を突き飛ばした俺に伸びたソレは、遠坂の代わりに俺の左腕に巻きつき、根こそぎ魔力を奪っていったのだ。
魔力とは生命力だ。
それを奪われたのだから、倒れるのも道理である。
ライダーとの戦いで体力を消耗していた俺はあっさりと気を失い、その後、遠坂の手によって教会に運ばれた。
……桜は俺が倒れたのと同時に気を失ったという。
「―――あの子、自分に攻撃したのよ」
遠坂はそう呟いて、今は教会の奥で治療をうけている、と説明した。
◇◇◇
桜は危険な状態らしい。
耳飾りからこぼれた液体は毒薬で、今はその洗浄を言峰がやってくれているのだそうだ。
遠坂は何も語らない。
アーチャーはおらず、ライダーも姿を消している。
教会には俺と遠坂二人だけが、言峰の登場を待っていた。
「――――遠坂」
座ったまま声をかける。
「なに」
「訊きたい事がある」
「…………でしょうね。いいわ、話してあげる。隠していても仕方がないし、もうその意味もなくなったし。
訊きたいのは桜のコト?」
ああ、と頷いて答える。
遠坂は小さく深呼吸をしてから、いつもの調子で話し始めた。
「―――発端は随分前よ。間桐の血が薄れだして、生まれてくる子供に魔力……魔術回路が少なくなっていたの。
元々間桐は他所の魔術師だから、日本の土が合わなかったんでしょう。
この町に根を下ろしてから間桐の衰退が始まって、今代の後継者である慎二になって、ついに魔術回路そのものが消えうせた」
「……間桐の歴史はそれで終わったのよ。
間桐が追い求めたものを継承するだけなら、弟子でもなんでもとればよかった。けど間桐は名門だし、外部からの受け入れを拒否し続けた」
「結果、生まれてくる後継ぎの魔力は落ちていって、最後には完全に魔力が尽きてしまった。
……そうなってから弟子をとろうとしたけど、落ちぶれた名門に来る魔術師はいなかったわ。何百年も続いたっていう間桐……マキリの歴史はそこで終わる筈だった」
「けど、それで諦められるような人たちじゃなかったのね。慎二のお父さんは外から養子をとって、その子に間桐の魔術を伝えたのよ」
「―――で。
衛宮くんのところは特殊だから知らないだろうけど、魔術師の家系は一子相伝なの。後継ぎにするって決めた子供以外には、決して魔術は教えない。これは臓硯も言ってたでしょ?
もし兄妹だったらどちらかを後継者にして、どちらかは普通に育てるか養子に出すって」
「――――――――」
後継者は二人要らない。
もし兄妹……いや、姉妹《・・》だった場合、要らない方はどうするのか。
魔術を伝える家系である事を隠して育てる者もいるだろう。
だが、それは困難だし効率的じゃない。
何代も血を重ねて魔術回路を育ててきたのなら、たとえ後継者ではないとしても、その優秀な遺伝子を眠らせておくのは意に反する。
なら――――
「遠坂」
「そ。わたし、一つ下の妹がいたの。
……衰退した間桐には養子を取るアテなんかないでしょ。
そうなった間桐が、古くから盟約を結んでいた遠坂を頼りにするのは道理よね」
「父さんがどっちを後継者にするつもりだったかは判らない。ただわたしは遠坂に残って、あの子は間桐にもらわれていった。
それが十一年前の話。
それ以来、あの子とはまともに会えなかった。間桐との取り決めでね、もうあの子は間桐の後継者だから、無闇に会うなって言われてたの」
「そうか。それじゃあ遠坂と桜は」
「実の姉妹よ。……ま、一度もそんなふうに呼び合った事はないけどね」
……簡素な言葉に、どれだけの感情が込められていたかは分からない。
ただ、それで納得がいった。
いつも桜の事を訊いてきた訳。
アーチャーに宝具を使わせなかった、その理由を。
「……良かった。遠坂、桜の味方なんだ」
淀んでいた胸にかすかな光が射す。
……これから桜がどうなって、どうするのかなんて考えもつかない。
だが、その暗い予感だけの道行きに、遠坂が桜を思ってくれているだけで、希望があると思えた。
「いいえ。わたし、あの子の味方でもなんでもないわ」
―――だというのに。
こっちの心を見透かしたように、遠坂はそう断言した。
「味方じゃ、ない……?」
「ええ。このまま桜が治らないのなら狂ったマスターとして処理するだけよ。無差別に人を襲う魔術師なんて放っておける訳がないでしょう。綺礼が桜を治療できなかったら、その時はわたしが処理する」
「な―――なに言ってやがるおまえ……! 桜はおまえの妹だろう!? 殺すなんて、そんなコト間違っても口にするな……!」
「桜は間桐の娘よ。十一年前からとっくにわたしの妹じゃない」
「遠坂、おまえ――――」
「……ふん。仮に、貴方の言う通り肉親としての関係があるとしても結果は変わらない。それこそ、他人《あなた》が口出しできる話じゃないわ」
当然のように遠坂は言う。
「―――――それじゃ、慎二と」
変わらないじゃないか、と。
そう、最低の事を、口端に乗せかかった時。
「何をしている。手術は済んだが、患者は未だ危険な状態だ。騒ぐのなら外でするがいい」
教会の奥から、言峰綺礼が現れた。
「言峰、桜は………!?」
「綺礼、桜は―――!?」
「……まったく。いがみ合っているのか息が合っているのか。おまえたちは判らんな」
「あ――――」
「――――ふ、ふん。そんなのアンタの勘違いよ」
「そうか。では座れ。間桐桜の容体を説明する」
「――――――――」
「――――――――」
俺たちは離れた席で、同じぐらい真剣に、神父の言葉に耳を傾けた。
「簡単に説明すれば、間桐桜の体内には毒物《むし》が混入している。この毒物《むし》は刻印虫と呼ばれるものだ。人為的に作られた三戸《さんし》のようなものだが、聞き覚えはあるか?」
……首を振る。
三戸―――人間の体に棲み、寄生した人間の悪行を地獄の閻魔に伝えるという虫。
それなら聞いた覚えがあるが、刻印虫というのは初耳だ。
「知らないか。まあ、本来は害の無いただの寄生虫だ。
宿主から魔力を食い、ただ活動を続けるだけの使い魔でな。宿主の存命を発信するだけの、使い魔としては最低位のものだ」
「……ふうん。魔術で作った監視装置みたいなものね。
臓硯はそれで桜を監視してるってこと?」
「おや。刻印虫の主が間桐臓硯だといつ決まったのかな」
「―――悪いけど、今はアンタの長話に付き合ってる気分じゃないの。あの爺《じじい》以外、誰が桜にそんなもの植え付けるっていうのよ」
「なるほど、それは確かに。間桐慎二では刻印虫は扱えん。となれば、使い手はあの吸血虫以外いないな」
「でしょう。いいから結論を言って。桜は助かるのか、助からないのか」
「―――気が早いな凛。おまえは彼女の容体を把握しているようだが、そこの少年は別だ。彼の為にも説明はしておくべきだろう?」
「っ……」
遠坂は気まずそうに視線を逸らす。
……その顔が、俺には桜の容体を知られたくないと告げていた。
「さて、どうする衛宮士郎。凛は結論だけを聞きたいと言っているが?」
「……いや。順序だてて説明してくれ、言峰」
……遠坂には悪いと思う。
けど俺だって譲れない。これが桜の命に関わる事なら、全て聞かなければならないんだから。
「では続きだ。
先ほど説明した刻印虫だがな、これが間桐桜の神経を蝕んでいるのだ。
十一年間、間桐桜の体内で育てられた結果だろう。刻印虫は魔術回路に似た神経となり、本来の神経と絡み合いながら全身に行き渡っている。
この刻印虫から魔術刻印と化したモノは通常は停止しており、間桐桜には何の影響も及ぼさない」
「だが一度《ひとたび》作動すれば間桐桜の神経を侵し、その魔力を糧に動き続ける。
先ほどの状態はそれだ。体内に刻印虫が徘徊し、生命力たる魔力を奪っていった」
「あの状態が半日も続けば間桐桜は死んでいただろう。
動力である魔力を吸い尽くした刻印虫は、更なる栄養として間桐桜の肉を食らう。魔力を空にされた間桐桜は、次にその肉体を体内の刻印《むし》に奪われるという事だ」
「その痛みがどれほどであるかは、魔術刻印を持つおまえならば判るだろう。
人体は爪の先ほどの異物が混入しただけで不快感を訴え、時に生命活動そのものに支障をきたす。神経のいたるところに“違う”神経が混ざり、それが動き出す不快感など、吐き気だけで死に至る程だろうな」
「……その点で言えば、先ほどまで間桐桜の意識があったのは驚きだ。
間桐桜は意思が強いのか、それとも刻印虫の発動に慣れているのか。そのあたりは本人に訊かねばわかるまい」
「――――――――」
音がする。
ギリ、という歯軋りは、自分が起こしたものだった。
その痛みがどれほどであるかは、魔術刻印を持つのなら判るだろう――――だって?
そんなの判るものか。
俺は一本の魔術回路を挿れるだけで、全身を汗だくにしていた。
桜のはその何倍もだ。
そんな痛みを――――俺なんかが、おいそれと推測していいものじゃない。
「……待って。作動すればって言ったわね。じゃあ、刻印虫は普段活動していないの?」
「うむ。かけられた薬物は刻印虫を目覚めさせるだけのものだ。
刻印虫は監視役にすぎない。
アレは宿主である間桐桜が『ある条件』を破った時のみ、制裁として食事《かつどう》を開始する」
「――――――――」
神父の言葉を、聞き続けるだけでどうかしそうだ。
神父のした事ではないと判ってはいても、それを語る言峰に手を上げそうになる。
そんな身勝手な激情を押さえて、
「それは、どんな?」
話の続き――――事の核心を促した。
「間桐桜が倒れ、凛はそれを救おうとした。だがライダーはそれを阻んだのだろう?
ならば条件は明白だ。マスターとしての戦いを放棄すること。それが刻印虫の制約だろう」
「今までは間桐慎二にライダーを預ける事で戦いに賛同していたが、それを拒否した今、刻印虫は間桐桜を責め続ける。今は落ち着いているが、時間が経てば経つだけ刻印虫はあの娘を責めるだろう。
“何をしている。
マスターならば早く殺し合え。
出来ぬのならばおまえを食い殺す――――”とな」
「――――」
思考が壊れかける。
神父の言葉だけで視界に火花が散って、ただ純粋に、あの老人を殺したくなった。
「……それが桜に課せられた条件なのか、言峰」
「そのようだな。他にそれらしい条件はない」
「なら――――! なら、マスターでなくなればいいんじゃないのか。令呪を使い切ってサーヴァントと契約を解除すれば、もうマスターじゃないんだから―――」
「それは勧められん。
言っただろう、刻印虫が発動する条件は『マスターの責務を放棄する事』だと。
自らの手でライダーとの契約を断てば、刻印虫は今度こそ間桐桜を食い尽くすぞ」
「そう。戦って生き残るか、戦わずに刻印虫に殺されるか。今の桜にある選択肢はそれだけって事ね」
「そうなるな。聖杯戦争が続く限り刻印虫は宿主を責め続ける。
この状態が続けば肉体はもちろんのこと、間桐桜の精神が保つまい。なにしろ全身に魔術刻印があるのだ。
それが正気の沙汰ではないと、おまえならば判るだろう、凛」
「……そうね。もう馴染んだ筈なのに、定期的に腕を切り落としたくなるし。
左腕だけのわたしがこれなんだから、全身に刻印なんかあったら人間としての機能が侵食される。
そんなの、魔術師じゃなくて魔術回路の塊よ。人間の脳髄《せいしん》なんて、魔力の波で書き換えられる」
「な―――じゃあ、桜は」
「今の状態が続けば危ういな。
あと何日保つかは判らんが、日が経つにつれ刻印虫の侵食は進む。それが全身にいき渡る前に排除できなければ死ぬだけだが、その前に体の方が保つまい」
「私が行った事は毒物の洗浄だけだ。
失われた魔力と精神を呼び戻す手術はこれからだが、それも成功する見込みは低い。
―――話はそれだけだ。
結論を言えば、このままでは間桐桜は助からない。それで納得はいったか、衛宮士郎」
「――――――――」
納得なんていくものか。
桜が助からない?
そんな馬鹿な話があるか。
昨日まであんなに元気だったのに、どうして今になって、そんなコトになっている…………!
「―――排除は。そうだ、刻印虫の摘出はできないのか?
中に毒が混ざってるって判ってるなら、取り除ける筈だろう!?」
「摘出は難しいな。既に刻印虫は魔術回路となり、間桐桜の一部となっている。刻印を植え付けた術者本人でさえ、ああなっては解呪などできまい。
……そうだな。それでも摘出したいというのなら、それはもう聖杯《きせき》とやらに頼るしかない」
「っ――――」
聖杯。
結局はそこに行き着くのか。
桜はマスターとして戦い続けるしかなく、
桜を助けるには聖杯の力しかないって――――?
「だいたい事情は判ったわ綺礼。とりあえず礼を言っとく」
どうもね、と感謝の素振りもなく頭を下げて、遠坂は神父に向き直る。
「けどいきなりすぎない? 刻印虫を植え付けられたのは昨日今日じゃない筈よ。なのに突然、今日に限って限界がきたっていうの?」
「何を今更。
間桐桜の体に手が加えられたのは何年も前だ。目も髪も遠坂の色《もの》でなくなるほど、初期に体をいじられたのだぞ? 変調は昨日今日始まったものではない」
「まあ、それも今回のように破滅を呼ぶものではなかったようだが。
間桐臓硯は今回の戦いで間桐桜を使う気はなかったらしい。なにしろ戦闘用に調整されていない。間桐桜をあのように扱ったのは、何か予期せぬ条件が揃ったから、と見るべきだろうな」
「予期せぬ条件、ね……それがなんだか判らないけど、昨日今日で突然、桜は臓硯のお眼鏡にかなったってコト?」
「だろうな。間桐臓硯ではなく間桐桜自身に、臓硯が予期しなかった変化が起こったと見るべきだ。
だがそれは一要因にすぎん。急激な変化の理由は他にもある。
あの娘はサーヴァントを行使する事で、魔力を常に消費するようになった。そのため刻印虫にまで魔力《エサ》が回らなくなったとしたら、飢えた虫どもはどうするのかな」
「……そうか。マスターとして戦えなんて条件がなくても、足りない魔力の分、桜の体を削っていくんだ―――。
けど、ならライダーさえ使わなければ、魔力は失われないんだから、少しは――――」
「ああ、しばらくは今まで通りの生活ができるだろう。
もっとも、あの老人がこのまま間桐桜を自由にするとは思えんが」
「……でしょうね。そうでもなければ桜に刻印虫なんて植え付けないし。
戦わなければ体の中の虫に殺されて、
戦えば魔力を消費して、やっぱりあの子の体は削られていく。
……いいえ、それだけじゃない。刻印虫を植え付けた臓硯は、その気になればいつでも桜を好きにできる」
「―――桜を、好きにできる……?」
「ええ。結局、桜の命は臓硯に握られている。だから、桜を助けたいのなら臓硯を倒すしかない。
―――けど衛宮くん。
臓硯を倒すのなら、先に桜を倒すしかないわ。あの子は臓硯の操り人形だもの。臓硯を追い詰めれば、あいつは必ず桜を盾にする」
「そういう事だ。臓硯にとって、間桐桜は都合のいい駒だからな。間桐慎二をけしかけたように、間桐桜を操るだろう。
実際、マスターとしての能力は彼女の方が上だ。アレは虫どもに急かされ、間桐慎二以上に、臓硯好みのマスターとして暴走しよう」
「―――――っ」
「……だが、私も老人の思惑通りにいくのは歯がゆい。
間桐桜の手術は引き続き行う。今はかけられた薬物を取り除き、麻酔をかけた状態だ。本格的な身体の回復と刻印虫の摘出はこれから行う」
「え……? ちょっ、綺礼、アンタ」
「絶望的だが、努力はする。このまま間桐桜を死なせる事は出来ない。神父が聖杯《きせき》にのみ頼るというのもイメージが悪かろう」
「――――――――」
遠坂の驚きはもっともだ。
知り合って間もない俺でさえ、今の言峰は意外だった。
……これは推測じゃなく確信だ。
言峰は本気で、真剣に桜を助けようとしてくれている。
神父だから当然かもしれないが、それがその、本当にとんでもないコトなのだと実感できる。
「……どういう風の吹き回し? アンタが他人にそこまで肩入れするなんて、初めて見たわ」
「気紛れではない。死なすには惜しいだけだ。
もっとも、おまえたちにとってはここで一人減った方がいいのだろうがな。」
神父は淡々と答える。
遠坂はそんな神父を無言で睨んだあと。
「―――――任せたわ。手術が済んだ頃にくるから」
そう残して、教会を後にした。
遠坂が去って、教会は元の静寂を取り戻した。
神父は黙って遠坂を見送り、俺はなす術もなく、いまだ腰をあげられずにいる。
「何をしている。おまえがここに残ったところで役には立たん。邪魔をされても困る、手術が終わるまで時間を潰してこい」
「――――邪魔なんてするか。こと手術に関してはアンタを信頼してる。以前も女の人を治療してくれただろ、アンタは」
「ふん。あの時とは手術の規模が段違いなのだがな。
間桐桜は自らを撃つ事で暴走を止めた。おそらくおまえを傷つけた事で自家中毒を起こしたのだろう。簡単に言ってしまえば、アレは自らの心を殺す事で、臓硯に操られる自身を止めたのだ」
「これから行う手術は、停止した心臓をもう一度動かす事に等しい。……もっとも、刻印虫のおかげで肉体はいまだ生きている。精神の呼び戻しだけならば、とりあえずは成功するだろう」
「だが、そこにおまえがいては迷惑だ。間桐桜の苦悶を聞きつけて押し入られては仕損じるし、第一、そのような苦悩を背負う義務もあるまい。おまえと間桐桜は他人なのだから」
「――――他人、だって?」
「間桐桜に同情するな、と言っているのだ。
おまえに出来ることなどない。凛がそうしたように、おまえも早々に立ち去るがいい」
「―――なんでだよ。何もできないなら、せめて、ここで桜の無事を祈っちゃいけないのか」
「それは罪だ。おまえに間桐桜の傷《いた》みを共有する資格はない。
解らないのか。私は、おまえがここにいては手術が失敗すると言っているのだ。今の間桐桜にとって、衛宮士郎は害敵でしかない」
「な――――」
なんで、という声が出ない。
神父の言葉は重く、俺でさえ知らない罪を指摘している。
「間桐桜はおまえに対して罪の意識を持っている。おまえが傍にいては目覚めを拒否しかねない」
「……俺に対して、罪の意識を……?」
「そうだ。罪の意識というよりは懺悔だがな。
―――アレは性的虐待を受けている。間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない。
事実だけを述べてしまえば。間桐桜は清らかな処女《おとめ》ではなく、男を知る女魔《あま》という事だ」
「――――――」
……驚きはない。
この感覚は知っている。
桜がマスターと判った時。
桜の手に令呪が点った時も、こうして、静かに事実を受け入れていた。
「あの娘はおまえにそれを知られまいとしながら、常に救いを求めていた筈だ。
魔術継承の名を借りた陵辱がどれほど続いたのかは知らん」
「だが―――身近にいながら、それに気が付けなかった者に何が出来る。
ここで祈る資格がないとはそういう事だ。それでも間桐桜を想うのなら席を外せ。今のおまえに出来る事はそれだけだ」
「――――――――」
……席を立つ。
神父《こいつ》に言い負かされたからじゃない。
これはただ、本当に―――神父の言葉が、正しかっただけの事。
本当に桜を想うなら、今はここにいてはいけない。
こんな、何も考えられない頭で、桜を想ってはいけない筈だ。
神父に背を向けて教会を後にする。
「ああ。それと、言うまでもないと思うのだが」
振り向く余裕などない。
出口を見据えたまま足を止めた。
「先ほどの話だ。間桐慎二がライダーを行使していた時、犠牲になった女がいたな。おまえの機転で助かったが、本来ならばあのまま死んでいた女だ」
「――――――――」
頭にくる。
それをこの場で口にする理由が、なんで、理解できてしまったのか。
「そうだ。あの咎《とが》がどこにあるのか、もはや言うまでもない。サーヴァントが人を襲った場合、その責任はマスターにある」
「桜が――――桜が悪いっていうのか、おまえは」
「まさか。私が言っているのは責任の所在だ。善悪を語っているのではない。事実、女はおまえのおかげで助かっている」
――――だが、もし。
あの時、俺が選択を誤っていれば、ライダーはあの女の人を殺していた。
それは――――
「そう、今後の話だ衛宮士郎。
このまま間桐桜が回復したところで結果は同じだぞ。
正気を取り戻せたとしても、いずれ同じ事が起きる。
その時、おまえはどちらを守るのだ《・・・・・・・・》?」
―――いつ、桜が同じ事をするか、判らないという事だ。
「――――――――」
返す言葉なんてない。
俺は神父の言葉から逃げるように、出口へ足を速める。
「衛宮士郎。おまえがマスターになった理由を覚えているか」
歯を噛んで歩く。
神父の言葉は、最後通牒そのものだ。
「おまえは正義の味方になると言った。
ならば決断を下しておけ。
自身の理想、その信念を守る為―――衛宮切嗣のように、自身を殺すかどうかをな」
扉を閉ざす。
神の家の扉は、科せられた十字のように重かった。
◇◇◇
―――雨の匂いがする。
広場に人影はなく、教会に訪れる者はいない。
そこに 遠坂《あるじ》の元を離れて、俺を待っている男がいた。
「―――アー、チャー」
何故ここにいるのか。
どうして俺を待っていたのか、不思議と疑問に思わなかった。
赤い騎士は無言で俺を見据え、何かと決別するように、一度だけ目蓋を閉じ。
「判っているな、衛宮士郎。
おまえが戦うもの。おまえが殺すべきものが、誰であるかという事を」
俺以上に、俺が出すべき答えをカタチにした。
「――――――――」
その言葉だけで、心臓が凍りつく。
……分かっている。
俺は戦いを止める為に、無関係な人間を巻き込むマスターを止める為に戦うと言った。
そう決断し、その為にセイバーの力を借りた。
それを覆す事はできない。
なら―――今の桜は、真っ先に止めなければならないマスターの筈だ。
「――――――――」
……承知していながら声が出ない。
「――――――――」
赤い騎士は何も言わない。
灰色の空の下、俺たちは互いを見据えたまま立ち尽くす。
「…………では好きにしろ。私の目的は変わった。アレが出てきた以上、もはや私怨で動く時ではない」
「え……?」
「……これは忠告だ。
おまえが今までの信念を守るのならそれでいい。
だが―――もし違う道を選ぶというのなら、衛宮士郎に未来などない」
「―――それは、俺が死ぬってことかよ」
「自らを閉ざす事を死というのならばな。
そうだろう? 衛宮士《おまえ》郎は今まで人々を生かす為に在り続けてきた。その誓いを曲げ、一人を生かす為に人々を切り捨てるなど、どうして出来る」
断言する声に嘲《あざけ》りはない。
アーチャーの言葉には何かの決意と、虚しさだけが込められていた。
「衛宮士郎がどの道を選ぶかなど知らん。
だがおまえが今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら―――その罪《つけ》は必ず、おまえ自身を裁くだろう」
……去っていく足音。
それを引き止める事も出来ず、迷いに縛られたまま、坂道を下り始めた。
気がつくと、公園のベンチに座っていた。
家に帰る気にもなれず、教会で待つ事もできない。
この公園は屋敷から遠く、教会にも遠い。
……桜がマスターと知ってから数時間。
未だ何一つ決められない自分には似合いの、中途半端な場所だった。
「――――――――」
答えを。
答えをださなくてはいけないというのに、頭の中はグチャグチャで何を考えるべきかも定まらない。
―――アレは性的虐待を受けている。
間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない。間桐桜は清らかな処女《おとめ》ではなく、男を知る女魔《あま》という事だ―――
「…………うる、さい」
そんなに繰り返さなくても分かっている。
俺だって魔術師のはしくれだ。
それがどんな事なのか、桜が今までどんな目にあってきたのかなんて、そんな事――――
―――あの娘はおまえに知られまいとしながら、常に救いを求めていた筈だ。それに気付かなかった男に、彼女を想う資格はない―――
「うるさい、うるさい、うるさい……! わかってる、おまえに言われるまでもなく、そんな事――――!」
………そんな、事を。
どうして、気付けなかったのか。
「っ…………」
奥歯が砕けた。
今日一日でかみ締めすぎたんだろう。そりゃあ砕けない方がおかしい。
「くそ――――くそ、くそ、くそ――――!」
剥き出しになった神経を押し潰す。
脳に直接突き刺さる痛感。
そんなもの、頭の憎悪《なか》を切り裂く事もできやしない。
「――――――――」
脳に火が点る。
その事を――――それを知って今までの時間を思い返すと、気が狂いそうになる。
桜は笑っていた。
いつも穏やかに微笑んでいた。
それがどんな痛みの上にあるものか知らず、俺は当然のように甘受していた。
……あの笑顔が本物だったのか偽物だったのかなんてどうでもいい。
ただ、あんなふうに笑っていながら痛みを隠し続けていた桜を思うと、殺したくなる。
「間桐、臓硯――――!」
あいつが許せない。
償いなんて要らない。今すぐに消し去って、桜の前から排除したい。
だって、全部あいつのせいだ。
臓硯さえいなければ桜は普通の女の子として暮らせて、体に刻印虫なんて得体のしれないモノを植え付けられる事もなかった。
臓硯さえいなければマスターになる事なんてなくて、慎二もあそこまで取り乱さず、今まで通りにやっていけた。
だから、
あいつさえいなければ、こんな事には――――!
拳をベンチに叩きつける。
左手の傷が開いて、白いベンチに赤い血がこぼれていく。
その、鮮やかな色彩に意識が移って、
「未熟者―――あいつさえいなければ、何が、どうなってたって言うんだ」
自分の馬鹿さかげんに、本当に愛想が尽きた。
「……それこそ、関係ない話だ。他人に責任を押し付けて、なにを」
楽になった気でいるのか。
間桐臓硯が桜に何をしたのか、何をやってきたのかは、もう否定しない。
それは考えるだけでおぞましいし、ちろりと動く蛇の舌のように、大事にしていたモノを奪われた嫉妬が走るだけだ。
それで俺の咎が薄れる訳じゃない。
気付かなかったのは俺だ。
臓硯が何をしていようと、気付かなかったのは俺だけの落ち度だ。
「――――違う。気付かなかったんじゃない。俺は」
ただ、気付こうとしなかっただけ。
間桐臓硯と対峙した夜。
ヤツは桜を無関係と言い、俺はそれを信じきった。
……なんて間抜け。
あの時、どうしてそんな言葉を信じたのか。
桜が間桐の人間である限り、無関係なんて事はない。
セイバーを失った夜、間桐臓硯が人の命をどうとも思わない妖怪なのだと思い知った。
あの妖怪が―――慎二にライダーを与えたのなら、桜に手を出さない筈がないのだ。
なのに、俺は。
そうであれば自分にとって都合がいいからと、簡単に鵜呑みにした。
本当は気付けていた。
少し考えればすぐに届いた推測だ。
……驚かなかった理由はそれだ。
桜がマスターと知らされた時も、桜が今まで犯されていたと知った時も、それが自明の理だと気付けていた。
それを考えまいとしていたのは、気付いては立ち行かなかったからだ。
気付けば戦わなくてはいけない。
間桐臓硯が人々にとって悪であるのなら。
正義の味方は、その者達と戦わなくてはならなくなる。
「――――――――」
……いや。
もう取るべき道は決まっている。
桜がこのまま臓硯の操り人形になって、さっきのように見境なしにライダーを使役するのなら、やるべき事は決まっている。
俺はその為に魔術を習って、
理不尽な災厄から人々を救うからと、こうして生きていられたんだから。
「っ――――」
だから決まっている。
あの赤い騎士の言う通りだ。
―――先輩。もしわたしが悪い人になったら―――
桜を傷つけたくないし、同情もしている。
だが例外はない。
どんなに大切でも、ソレがあの時のような惨事を巻き起こすのなら
―――はい。先輩になら、いいです。
「う――――、ぶっ…………!」
排除するだけ。
そんなの迷う事ではないのに、どうして。
「は――――、う、っ、ぐ――――!」
こんな、喉にまでせりあがった吐瀉物《としゃぶつ》を、必死になって抑えているんだろう……?
「あ――――はあ……はぁ、はぁ、はぁ――――」
吐き気を堪える。
……もうどれくらい経ったのか。
くだらない事に煩悶《はんもん》している時間はない。
手術が終わった頃に、遠坂は戻ると言った。
町には雨の匂いがする。
降り出す前にもう一度教会に行って、桜の容体を聞いて、それで――――
「シロウ、あそぼ!」
ドン、と。
唐突に、後ろから抱きつかれた。
「……イリヤ」
振り返らなくても判る。
この公園で出会うのは、決まってこの白い少女なんだから。
「えへへ、びっくりした? 町を歩いてたらシロウがいたから、つい声かけちゃった」
イリヤは楽しそうに笑う。
「――――――――」
その無邪気さが、今は辛い。
身勝手と判っていても、今は誰にも、目の前でなんて笑ってほしくなかった。
「あ。なによシロウ、無視しちゃって。話しかけてるのに俯いたままなんて、女の子に失礼だよ」
「…………」
……静かにしてほしい。
正直、誰かにかまっている余裕はないんだ。
「むっ。もう、シロウってば! 人の話はちゃんと聞かなくちゃダメなんだからね!」
「………イリヤ。悪いけど、いまそんな余裕ないんだ。
遊ぶのなら一人で遊んでくれ」
「ええー? せっかく会えたのに、それじゃつまんない。
あれからシロウここにきてくれなかったし。今日を逃したらまた来ないに決まってるもん」
「……別に毎日って約束したワケじゃない。それにもう夜だぞ。マスターは、夜に会ったら殺しあうんじゃないのか」
そう邪険に言った途端、吐き気が戻ってきた。
……自己嫌悪で自分を殴りつけたくなる。
俺はただ、自分が楽になりたくてイリヤを追い払っている。
「なんで? シロウはもうマスターじゃないでしょ? だから今夜は見逃してあげるけど?」
「っ――――マスターじゃないって、イリヤ」
「ふふーんだ。わたしに知らないコトなんてないんだから。シロウはセイバーを失って、リンはライダーにやられかけたのよね。けどライダーのマスターが倒れたから、残りはあと二人だけでしょ?」
楽しげにイリヤは言う。
「――――――――」
それが、桜の容体を笑っているように見えて
「もう勝敗は見えたも同然だもの。ライダーのマスターは自滅するだろうし、アーチャーだって大した事ないわ。
セイバーがいなくなった以上、わたしのバーサーカーに勝てるヤツなんていなくなったの。
ね、だから遊ぼっ! シロウはもうマスターじゃないから、特別にわたしの城に招待してあげる!」
無遠慮に抱きついてくるイリヤ。
その無邪気な笑顔に苛立って、
「うるさいっ……! そんな暇はないって言っただろう、遊びたきゃ一人で遊べ!」
「きゃっ……!?」
激情のまま、イリヤを突き飛ばしていた。
「ぁ―――――――」
―――後悔しても遅い。
イリヤは呆然と立ち尽くしている。
それがどれほどショックだったのかなんて、見なくても分かる。
……裏表のない純粋な好意を、俺は撥ね除けてしまった。
それは親が子供を拒絶する行為に近い。
俺はこれで―――今までイリヤが抱いてくれていた思いを、全て台無しにしてしまった。
「――――――――」
イリヤは無言で俺を見つめる。
「………………」
視線に耐えられず、わずかに頭を下げ―――
「ごめんね、シロウ」
小さな手が、俺の頭を撫でていた。
「……え?」
顔をあげる。
イリヤは心配そうな顔で、俺の顔を覗き込んでいた。
「……イリヤ。おまえ、怒らないのか……?」
「怒らないよ。だってシロウ泣きそうだよ? 何があったかは知らないけど、わたしまできらっちゃったらかわいそうだもん。だからわたし、シロウが何したってシロウの味方をしてあげるの」
「――――――――」
目の前が真っ白になる。
……たった一言。
それだけの言葉で、ガツンと、頭の中をキレイさっぱり洗われた。
「俺の、味方――――?」
「そうよ。好きな子のことを守るのは当たり前でしょ。
そんなの、わたしだって知ってるんだから」
誰かの味方。
何かの味方をするという事の動機を、あっさりとイリヤは言った。
「――――――――」
……それが正しいのかどうか、本当は判っている。
今まで守ってきたモノと、今守りたいもの。
そのどちらが正しくて、どちらが間違っているのか判断ぐらいはつく。
それを承知した上で、俺は――――
「――――――――」
これ以上自分に嘘をついて、前に進んでも絶対に後悔する。
責任の所在、善悪の有無。
それに追われる事よりも、桜を失う事の方が重い。
……決意なんてするまでもなかった。
俺はただ、桜を守りたいだけなんだから。
「―――ああ。好きな女の子を守るのは当たり前だ。そんなの、俺だって知ってる、イリヤ」
「でしょ? シロウがそういう子だから、わたしもシロウの味方なの」
嬉しそうにイリヤは笑う。
「――――――――」
その無邪気さに勇気づけられる。
……この選択が間違えているかどうかは分からない。
ただ、絶対に後悔はしないだろうと。
「ごめんイリヤ。俺、そろそろ行かないと」
「そうだね。そういう顔してるから許してあげる。また今度会おうね、シロウ」
「ああ。またなイリヤ。それと、ありがとう」
公園を後にする。
迷いを振り払うように、教会へ走り出した。
「――――――――」
……答えは決まった。
切嗣《オヤジ》が死んでから今まで、桜がどれだけ支えてくれていたか判らない。
ずっと後輩だと思いこんで、異性なんだと意識しないようにしていた女の子。
傍にいてほしかったから、そんな風に自分を騙し続けてきた。
だが、もうそんな誤魔化しが通じる状況じゃない。
―――衛宮士郎は、間桐桜を失いたくない。
今はそれだけ。
何も考えられないのなら、唯一確かなその気持ちを信じるだけだ。
……ただ、そう覚悟した意識の底で。
“おまえが、たった一人を生かそうというのなら――” 予言めいたアーチャーの言葉だけは、どうしても振り払えなかった。
雨が降り始めた。
冬の雨は容赦なく、走る体を撃ち抜いていく。
◇◇◇
……ずるずると音がする。
その音はよく知っている。
無数の蟲が体を引きずる音、数多の蟲が壁を這っていく音だ。
「――――――――」
この場所もよく知っている。
暗く湿った密室。
地下に作られた霊廟。
間桐に貰われてまっさきに与えられた部屋が、この緑色の闇だった。
「――――――――」
その闇の中心に、一体の人型がある。
……人と呼んでいいものか迷うところだが、外見は人間だ。
その人型は彼女を呼びつけ、間桐慎二ではなくおまえが戦え、と命じてきた。
「――――――――」
それは、覚悟していた事だった。
少なくとも二日前まではそうなるだろうと受け入れていた。
だが、今は決心などなくなっている。
彼―――衛宮士郎がマスターだと判った時から、彼女には戦う意思が欠如していたからだ。
衛宮家に通ったのは監視の為だった。
だが衛宮士郎にはマスターとしての適性はなく、聖杯戦争の知識もない。
それはすぐに判明した。故に、監視などという役割は初めからなかったに等しい。
彼女は監視という名目を言い訳にして、衛宮士郎の後輩であり続けた。
彼とは戦う必要がない、と。
いつか自分の正体が暴かれる時はあっても、互いに戦う日は絶対に来ないと楽観していた。
それが―――どうして、こんな結果になったのか。
“……お爺さま。マスターは、全員殺さなければいけないのですか”
老人の返答など分かっている。
分かっていながら、彼女はそう問うしかなかった。
だが。
「そうさな。おぬしがどうしても、というのなら一人や二人は慰みものにしてもよいぞ。サーヴァントさえ奪えればよいのだ。残ったマスターは玩具にするなり人形にするなり好きにするがよい」
老人の答えは、彼女の予想とは少しだけ違っていた。
“――――――――え……?”
「分からぬか? マスターを全て殺す必要はない、と言ったのだ。生かしておいて危険な輩は処分する。が、残したところで支障のない輩ならば見逃してやってもよい。
可愛い孫の頼みじゃからな。我らが悲願と言えど、多少の融通はきかせよう」
その言葉が、彼女の警戒を僅かだけ解いてしまった。
……この老人は時折、妙に優しい時がある。
間桐の魔術を“教育”する時は人間性などなく、それこそ獣か虫の残忍さしか持ち合わせない。
だがこうして話をする分には、好々爺《こうこうや》めいた親しさを感じさせる事があるのだ。
“………………”
だが騙されてはいけない。
これがただの気紛れなのか、計算された優しさなのかは判らないし、なにより―――ここで頷いては彼と戦う事になる。
生死は問わず、という条件になったところで、戦いが避けられない事に変わりはないのだ。
「なんじゃ、それでも不満か? ……まったく、困った娘よな。そのように臆病だから手に入るモノも手に入らぬのだ。よいか、今回の件はよい機会だぞ? 欲しいモノは力ずくで手に入れればよいのだ。
なあ桜よ。おぬし、いつまで監視役などに留まっておるのだ。欲しいモノがあるのなら奪えばよい。おまえにはその力も権利もあろうに」
“………………”
彼女は答えない。
そもそも欲しいモノなどない。
アレはただの憧れで、自分が受け入れてもらえるなど思った事さえない。
自分は穢《けが》れている。あの人には相応しくない。
だから彼の隣りに座るのは、もっと相応しい人でなくてはいけない。
自分はその時が来るまで、今のように傍にいられるだけで良かった。
それ以上の幸福など、求めては破滅する。
……それは自分だけでなく。
きっと彼自身にも、良くない終わりが訪れてしまうだろう。
“……お爺さま。わたしは戦えません。ライダーはこのまま兄さんに譲ります”
再教育を覚悟して、震える声で彼女は言う。
ここで逆らえばどんな仕打ちが待っているか、彼女はよく知っていた。
手足の感覚を断たれ、虫倉に投げ込まれる恐怖は永遠に慣れるものではない。
今まで理性を保てたのは二時間が限度。
今日はその何倍も、いや、ともすれば聖杯戦争が終わるまで、その中で耐え切らなければならないと思うと狂いだしそうだ。
“………………”
手足が震える。
再教育の恐怖で叫びだしそうになる。
……だが、恐ろしいのは決して痛みなどではない。
彼女が恐れるのは、ただ。
その痛みに耐え切れなくなって、老人の意に従ってしまうコトだけだ。
「…………ふむ。では仕方あるまい。無理強いをし、大事な後継者を失う訳にはいかぬからな。今回も傍観に徹するとしようかの」
“――――――――”
息を呑む。
老人がどこまで本気かは分からないが、彼女の言い分を受け入れてくれたのだ。
全身の震えは止まり、温かい安堵が胸に広がっていく。
―――その、無防備になった心に、
「しかし、そうなると少しばかり癪だのう。今回の依り代の中では、遠坂《きゃつ》の娘はなかなかに上級じゃ。機が味方すれば、もしやという事もありえるか」
心底残念そうな、老人の声が入りこんだ。
“――――姉さん、が?”
その時、魔が入った。
彼女は直感する。
姉さんなら確実に勝つだろう。……あの人はそういう人だ。いつだって欲しいものを全部手に入れて、それが当然だというかのように、颯爽と通り過ぎていく。
……立ち止まったままの自分に振り向きもせず、自分の欲しいものを全て持っていくのだ。
なら――――きっと、あの人は勝ってしまう。
“――――――――”
体の中が、氷になったように冷え切っていく。
……そんなのはどうでもいい。
もう慣れた。
もう慣れた。
もう慣れた。
―――そんなもの、もうとっくに慣れたんだ。
姉さんは全てを手に入れる。
わたしが耐えてきた苦しみも、憎み続けてきた輝かしい未来も、そして、ただ一つ寄りどころにしていたあの人さえ、わたしの前から消していくんだ――――
“――――――――”
……足元が歪む。
ただそれだけの言葉で目眩を覚えて、彼女は吐いた。
……胸が痛い。
彼女は、ちくり、と。
自分の胸に針が刺さったような、厭な感覚に襲われた。
……雨が降り始めていた。
冷たい冬の雨は、無遠慮に雨樋《あまどい》を撃ち濡らしている。
「―――――――」
ゆっくりと目を開ける。
……数日前の出来事を、夢で見ていたらしい。
ここは石造りの部屋で、自分は治療台に寝かされていた。
目の前には黒い―――自分と同じような、見たことのない神父が立っている。
「気がついたか。状況の説明は要るかね、間桐桜」
「………………いいえ。自分の体です、ちゃんと判っています」
簡潔に答える。
彼女は神父を見ず、壁を撃つ雨音《あまおと》だけを見つめている。
「結構。では早く着替えたまえ。隣りでは遠坂凛と衛宮士郎が待っている。彼らには君の状態を説明しなければならない。その後、裸では逃げる事もできないだろう」
「……………わたしを、逃がしてくれるんですか?」
「逃げる逃げないは君の自由だ。私は助けただけだからな。君がどうするかは私が決められる事ではない。
まあ、助けた手前死なれては骨折り損ではある。君には最後まで残っていてほしいとは思うが」
「……それは、どうしてですか」
「その方が楽しい。君が生きる事になれば、遠坂凛も衛宮士郎も苦しむだろう。苦悩する者が増えるのは、私にとっては喜ばしい」
そう答えて、神父は彼女に背を向ける。
神父は礼拝堂に。
治療台で自身を抱く少女に見向きもしない。
「さて。彼らが間桐桜を生かすか殺すか。その選択に興味があるのならここで待っているがいい。うちはこう見えて安普請《やすぶしん》でな。何故かここだけは、礼拝堂での会話が筒抜けになる造りになっている」
陰鬱な笑いをかみ殺しながら、神父は中庭に去っていく。
「…………先輩。わたし、どうしたら」
ひとり膝を抱える。
小さく漏れた嗚咽は、雨の音にかき消されていた。
◇◇◇
―――扉を開く。
とっくに来ていたらしく、遠坂は礼拝堂の隅に立っていた。
椅子に座らず、じっと壁際に立つ遠坂の姿は、ある決意を感じさせる。
それは、桜から刻印虫が取れていなければ敵とみなす、冷徹な魔術師の顔だ。
「……………………」
遠坂は俺を見ず、俺も言うべき言葉はない。
―――長く、雨の音だけが響く礼拝堂。
それがどのくらい続いたのか。
「手術は終わった。これ以上、私に出来る事はない」
息が詰まるような静寂を破って、言峰綺礼が現れた。
「え――――ちょっと綺礼。アンタ、魔術刻印、どうしたの」
「ふむ、やはり判るか。見ての通り、間桐桜の治療にすべて使った」
「―――つ、使ったって、アンタ」
絶句する遠坂。
「…………?」
こっちはいまいち意味が判らない。
どうも言峰が持っていた魔術刻印がどうにかなって、それを見抜いた遠坂が目を丸くしている……とだけは判るんだが。
「わ、わかってるの? 魔術刻印よ魔術刻印!?
代々重ねてきたものが、なんでたった数時間でなくなってるっていうのよ……!」
「仕方あるまい。私が父から受け継いだ刻印は、おまえのように恒久的な物ではない。使えば使うだけ失われる消費型だ。うちはもともと魔術師の家系ではないからな。
まあ、格の落ちる令呪と思えばいいだろう」
「――――じゃあ、本当に?」
「ああ。刻印は全て治療に使った。なにしろ十一年に渡る膿の摘出だからな。残った刻印を根こそぎ持っていかれたのも、そう意外ではないだろう」
「――――――――」
……遠坂と二人、息を呑む。
神父は桜の治療に、自身の魔術刻印を全て使ったと言った。
それがどれほど高価な代償なのかは、遠坂の顔を見れば判る。
言峰はただ運び込まれた桜の為に、自分の財産を全て売っぱらったのだ。
「……言峰。おまえ」
「なんだ? まさか迷惑だった、などと言うまいな。助けろといったのはおまえたちだ。私はそれに応えただけだが」
「あ……いや。迷惑なんて事は、ない。……その、ありが、とう」
「礼は言うな。どの道、後になって撤回するのだ」
「――――後になって、撤回する……?」
それは、つまり――――
「で、桜は? アンタがそこまでしたって事は――――」
「一命は取り留めたが、その場凌ぎにすぎん。
大部分の刻印虫は取り除けたが、深く蝕んでいるモノの摘出は不可能だ。あそこまで神経に食い込んでしまっては取り除きようがない。心臓を引き抜けば全ての刻印虫を摘出できるが、それでは間桐桜本人も死んでしまう」
「私に出来た事は神経と同化していない刻印虫を取り除き痛みを和らげ、臓硯からの圧力を弱めてやる事だけだった。今夜死ぬべき定めの者を、気紛れで延命させたにすぎん。それも、神経に根付いた虫が動き出せば無駄骨になるがな」
「な――――それじゃ、桜は」
「何も変わっていない、という事だ。
実生活には何の支障もないが、間桐臓硯の出方次第で容易く暴走する。
あの老人の思惑一つで、本人の意思に反して戦いを強制させられるだろう。要は、導火線に火がついたままの爆弾という事だな」
「――――――――」
動揺しなかったと言えば嘘になる。
だが驚きはないし、迷う事もない。
覚悟はしたのだ。
桜がどんな状態だろうと、どんな事になろうと、桜の味方をすると決めたんだから。
「そう。それじゃあとは一つだけね。刻印を使い切ってくれた綺礼には悪いけど」
壁際から歩き出す遠坂。
それが何のつもりなのか瞬時に悟って、
「この、待て遠坂……!」
遠坂の手を掴んで、前進を止めていた。
「なに? 話なら後にして」
「なに言ってやがる。おまえ、桜を殺すつもりか」
「つもりも何も、それしかないでしょう。貴方だってそれを覚悟してここに来たんじゃないの、衛宮くん」
◇◇◇
「そんな覚悟はしていない。俺は桜のために戻ってきた。
おまえが桜を手にかけるっていうんなら、ここで止める」
「っ――――」
「じゃあアンタはどうするつもり……!?
いい、桜はマスターとして戦わないと生きていけない。
マスターであるかぎり、他人《よそ》から魔力を取らないとやっていけない体じゃない……!
そんなの、どんなに手を尽くしても結果は見えてるって思わない!? ならここで殺してあげた方が桜のためよ……!」
「な……思うか馬鹿! まだしてもいない事に、なに勝手に結論出してんだよおまえは!」
「出すわよ! 桜の問題が桜だけなら、まだ希望だってあるわ。けどそうじゃないでしょ? 桜の命を握ってるのはあのくそ爺で、臓硯がいるかぎり桜は操り人形よ。
あの爺が桜を手放すなんてあると思うの?」
「――――それ、は」
「ほら、判ってるじゃない。臓硯は決して桜を楽にはしない。……なら。このまま苦しんで苦しんで、それでも結局逃げられないっていうんなら、ここで終わらせた方が犠牲がでない。桜も、桜の手にかかる人たちも救われるわ」
「わたしは貴方みたいに、一縷の希望にすがって被害を拡げる事はできない。そんな、決断を先伸ばしにする弱さが、逆にあの子を苦しめるのよ」
「――――――――」
遠坂の言い分は正しい。
死が救いになる、という事ではなく、人を救うという点で言うのなら、遠坂の決断こそが正しい。
他の考えは全て打算と妥協にまみれた失策だ。
放っておけば十の人が死ぬ。
それを、予め一人の命を絶つ事で九人を助けられるのなら、それは――――
―――それは。
衛宮士《おれ》郎がずっと否定してきて、心の奥で、受け入れていた過去《げんじつ》だ。
「――――違う。おまえは、間違ってる」
「衛宮、くん?」
「俺は犠牲なんて出させない。
おまえの方こそ―――やりもしないうちに結論を出す遠坂こそ、弱いんじゃないのか」
「ふ、ふざけないで……! それがどんなコトかわかって言ってるの!? 桜を助ける? それってどういうコトよ! あの子を助けて、あの子に殺される連中も助けるってコト!? 笑わせないでよね、そんなの、貴方一人にできるワケないじゃない……!」
「――――ああ、出来ない。けど桜を守る。その結果がどうなるかは、これから考える」
「っ―――! そう。なら貴方はわたしの敵よ。
……掴んだ手を離して。さもないと、根元から吹っ飛ばされて外まで転がり出る事になるわよ」
「――――やってみろ。けどな遠坂。そう、なんでもかんでも思い通りになると思うなよ」
……握り締めた手に力が込もる。
俺は緊張から。
遠坂は―――いや、遠坂も緊張からなのだと信じたい。
売り言葉に買い言葉でもあったのだが、俺たちは譲れない物の為に、もう後に引けない状況になって――――
「なんだ……!?」
「え、なに……!?」
礼拝堂の外。
ちょうど隣りの部屋から聞こえた物音に目を見合わせた。
「衛宮くん、今の聞いた……?」
「――――窓の割れる音だ。それに、その後のは」
「走っていく足音だったな。たしかに出口はこの礼拝堂と裏口だけだが、窓を割って外に出るとは何事か。
……いや、そうか。この教会の窓は嵌め殺しが多い。
仕方なく窓ガラスを割ったのだろうが、病み上がりにしては少々乱暴だな」
「病み上がりって――――まさか、桜!?」
「それ以外誰がいる。彼女を寝かせていた部屋は、なぜか礼拝《ここ》堂での会話が筒抜けでな。おまえが彼女を殺すだの物騒な事を言うから逃げ出したのだろう」
「な」
「許せ。構造的欠陥というヤツだ」
「嘘つけこのインチキ神父……! それ絶対ワザとでしょう!」
遠坂は俺の手を振り払って走り出す。
行き先は教会の内部ではなく、外に通じる扉だった。
「遠坂――――!」
「話は後、今は桜を捕まえる方が先……! もう、あの子ってばあんな体で何処に行こうってんだか……!」
慌ただしく扉を開け外へ飛び出していく。
遠坂は傘もささず、雨の夜へ駆けていった。
「っ――――」
俺もぐずぐずしてはいられない。
桜が何処に行ったのかは判らないが、今は一人にしておけない――――!
「待て。間桐桜を捜しに行くのはいいが、その前に伝え忘れた事がある」
「っ――――なんだよ、長話は御免だぞ。今はそんな場合じゃない……!」
「まあそう言うな。大事な話だ、伝えておかなければ私も困る。凛は聞かずに行ってしまったからな、おまえに話しておかねばならないだろう?」
「っ……それは、桜の事か?」
「そうだ。結論から言えば、間桐桜は長くない。
刻印虫はこうしている今もあの娘の身体を侵している。
引き抜く事は簡単だが、その衝撃にあの娘《むすめ》の体が耐えられない。神経の四割を生きたまま引き抜くのだ。痛みでショック死する以前に、人間として死亡する」
「だが、放っておいても同じ事だ。
アレの理性は欠乏する魔力に削られていき、じき間桐桜という自我を亡くす。そうなってしまえば、アレはただの暴走したマスターだ。
己が機能《サーヴァント》の維持の為、何人もの人間を犠牲とし、それでも最後には耐え切れずに自滅する。
―――つまり。おまえがどのような手を尽くしたところで、あの女は助けられん」
「――――――――」
一瞬、ストロボをあてられたような、目眩がした。
「壊れたものは直らず、失ったものは決して戻ってこない。あの娘を助けたかったのなら、それは十一年前に行うべき事だった。
それでも手を差し伸べるというのか衛宮士郎。
何をしようと数日後には死ぬ女だ。そのような者を助ける事になんの意味がある」
「――――――――」
息が出来ない。
神父の言葉は痛すぎて、よろめかないように踏み止まるのが精一杯だ。
「……そんなもの、俺には分からない。けどおまえは桜を助けてくれた。意味なんて、それで十分じゃないのか」
「さて。私が治療をしたのは責務からだ。助けを求めて訪れた者を、無碍にする事はできないからな」
「――――嘘つけ。責務だけで魔術刻印を使い切るもんか。理由は分からないが、おまえは桜を助けたかった。
死なせたくなかったんだ。そんなの俺だって同じだ」
神父を睨む。
……納得がいったのか、ヤツはわずかに首を傾けた。
「そうだな。ならば急げ。凛が先に見つければ、間違いなく間桐桜を手にかける。その前に、あの迷い子に屋根を与えてやるがいい」
言われるまでもない。
神父に背を向け、遠坂同様、雨の中へと走り出した。
――――吐く息が白い。
冬の雨は冷たく、肺から漏れた熱気は凍りついて、ザラザラと頬にあたるような気さえする。
「――――桜」
道に人影はない。
街灯が虚しく夜を照らす中、当てもなく走り続ける。
……桜を引き止める。
早く見つけなくては取り返しのつかない事になる、という予感だけじゃない。
今はただ、桜の手をとって、その体温を確かめたかった。
「は――――はぁ、は――――」
闇雲に走り回る。
何処に向かったのかなんて判るものか。
……今の桜に帰れる場所なんてない。
衛宮《うち》邸にも間桐の家にも居場所がない桜は、結局、この夜の中を彷徨っているしかない。
「……そう遠くには行ってない筈だ。雨の凌げる場所で、人気のない所といったら――――」
乱暴な推測だ。
だが、今は思いつきを片っ端から当たっていくしかない――――
「は、はぁ、は――――ぁ」
橋を渡る。
新都の駅前に桜の姿はなく、桜らしき女の子を見たという話もなかった。
いくら夜といっても、新都の人通りが途絶える時間じゃない。
道に人影は少なくても、何人かは出歩いていた。
それでも桜らしき女の子を見た者がいないという事は、桜は新都を避けて深山町に戻ったのかもしれない。
制服のままであろう桜は、この雨では目立つ。
桜が人目を避けるのなら深山町に向かう筈―――そう考えて、雨の中を走り抜ける途中。
「――――――――桜」
足が止まった。
橋の下。
暗い、人気の絶えたレンガの道に、桜は一人佇んでいた。
公園に下りる。
……俺に気がついているのか。
桜は俯いたまま、凍えた雨に体を晒《さら》していた。
「――――――――」
……かける言葉なんて思いつかない。
今の自分に出来る事は、桜を連れて帰る事だけだ。
「桜」
声をかけて歩み寄る。
「だめ、来ないでください……!」
それを。
今まで聞いた事のない必死さで、桜は拒絶した。
「――――――――」
足を止める。
桜は顔を上げず、ぎゅっとスカートを握り締めている。
その姿は、己を恥じる罪人のようで辛かった。
……これ以上は近づけない。
桜が自分から顔をあげるまでは、決して、近づいてはいけないと感じ取った。
「――――桜」
「……帰って、ください。
いま近づかれると、わたし――――何をするか、わからない」
声は震えている。
雨の冷たさと、罪悪感から桜は震えている。
……それを払拭する事は、俺には出来ない。
俺に出来る事は、ただ。
「―――帰ろう、桜。おまえ、風邪治りきってないだろ」
ここから、桜に手を差し伸べる事だけだった。
「……先輩」
雨を吸った桜の髪が揺れる。
桜は、わずかに唇をかみ締めた後、
「帰れません。いまさら、どこに帰れっていうんですか」
憎しみの混じった声で、はっきりと言い捨てた。
「――――――桜」
「いいんです先輩。わたしなんかに、無理に構う必要はありません」
「……だって、もう知っているんでしょう? わたしがなんなのか、わたしの体がどうなっているのか、全部聞いたんでしょう? なら――――もう、これで」
全て終わりだ、と。
声にはならない言葉を、白い吐息が告げていた。
「――――馬鹿言うな。俺が聞いた事なんてどうでもいい事だ。俺が知ってる桜は、今まで一緒にいた桜だけだ。
それがどうして、こんなコトで終わったりするんだよ」
「……だって、終わっちゃいます。
先輩。わたし、処女じゃないんですよ? 小さい頃、貰われた先で襲われて、初体験なんてとっくに終わってるんです。それだけじゃなくて、それからずっと、よくわからないものに体を触られてきました」
桜は自らの肘に爪を立てる。
……それは、体に染み付いた汚いモノを罰するような、自虐的な行為だった。
「――――――――」
「それだけじゃないです。わたしは間桐の魔術師で、先輩にそのコトをずっと隠してました。
……マスターになった時も黙っていて、先輩がセイバーさんを連れてきた時も、知らん顔して騙してたんです。
ほら。だってその方が都合がよくて、先輩に怒られないじゃないですか」
「――――桜」
「でも本当、馬鹿ですよね。そんなので誤魔化せる筈ないのに、それでも騙しとおせるって思ってたんですよ?
自分の体にお爺さまの虫が棲んでいても大丈夫だ。自分を確かに持っていれば負けないって思い込んで、あっさり負けちゃいました。
……あの時かけられたの、媚薬なんです。毒でもなんでもない、ただ感覚を鋭敏にするだけのものですよ? わたしは、そんなのをかけられただけで自分が分からなくなって、先輩を傷つけたんです」
「……遠坂先輩は正しい。わたしは臆病で、泣き虫で、卑怯者です。こうなるって判ってたのに、お爺さまに逆らう事も、自分で終わらせる事もできなかった。
痛いのがイヤで、怖いのもイヤで、みんなより自分が大切すぎて、死ぬ勇気も持てなかった……!」
……泣いている。
桜は、ただ泣いているだけだ。
泣いて、どうしたらいいのか判らなくて、よけい悲しくなっているだけ。
「――――――――」
それを感じ取って、後悔した。
―――俺は今まで、桜の泣き顔を見たことがなかった。
その意味を。
こんな、自分を責めるコトでしか泣けない意味を、どうしてもっと早く気がつけなかったのか。
「泣くな――――桜」
「だから――――全部、わたしが悪いんです。
わたしはお爺さまの操り人形で、いつさっきみたいに取り乱すかわからなくて、いつか、きっと取り返しのつかない事をします。そんなわたしが、何処に帰れるって言うんです、先輩……!!」
桜は自らを追い詰める。
……誰も桜を責めていない。
だからこそ桜は自分で自分を責めるしかない。
自分が悪人だと。悪い人間なのだと責めて、罰を与えるしかない。
「―――――だから、泣くな」
……いつか桜が言っていた。
自分は臆病だから、強引に手を引っ張ってくれる人がいい、と。
それがどういう事なのか、やっと判った。
俺が守りたいもの。
俺にとって大切なもの。
失うことさえ、思いつかなかったもの。
それをこれ以上泣かせたくないのなら。
俺は手を引いて、ちゃんと日の当たる場所に連れて行って、今からでも桜を――――
「……ごめんなさい、先輩。わたし、ずっと先輩を騙してたんです。
けど、いつも思ってました。わたしは先輩の傍にいていい人間じゃない。だからこんなのは今日限りにして、明日からは知らない人のフリをしようって。
廊下で出会ってもすれ違うだけで、放課後も他人みたいに知らんふりして、夜も、ちゃんと一人で家に帰って、今までの事は忘れようって……!」
――――ああ。
そんなコトをされてたら、こっちの方がどうかしてた。
それに気がつかなくて、ごめん。
「でも出来なかった……! そう思っただけで体が震えて、すごく怖かった。怖くて、死のうってナイフを手首にあてた時より怖くて、先輩の家に行くのを止められなかった。先輩を騙すのも、それを止めてしまうのも怖くて、まわりはみんな怖いコトだらけで、もう、一歩も動けなくなって、どうしていいかわからなかった……!」
けど、俺はこれで良かったと信じている。
桜は知られなかった方がいいと言うけど。
それだと、俺はずっと桜を泣かし続けたままだった。
「……馬鹿ですよね。こんなこと、いつか絶対判っちゃうのに。判っちゃった時はもう遅くて、わたしは二度とあの屋敷《うち》には入れない。だからそうなる前に、わたしから離れた方がいいって、毎晩毎晩思ってた。
その方が先輩の為で、わたしもきっと、これ以上は悲しくなくなるって、これ以上泣かなくていいってわかっていた、のに――――」
だから、これ以上は泣かせられない。
誰も桜を責めず、桜が自分で自分を責めるしかないのなら。
「でも―――それでも、隠していたかった……!
先輩との時間を、これからも守っていたかった……!
わたし、わたしにとってはそれだけが、意味のあることだったのに、どうして……!」
他の誰が許さなくても、俺が、桜の代わりに桜を許し続けるだけだ。
「あ――――――――」
冷え切った体を抱きとめる。
……回した腕は、ひどく頼りなかった。
強く抱きしめる事もできず、桜を抱き寄せる事もできない。
……俺には桜を救う事はできない。
ただこうして、傍にいてほしくて、傍にいてやる事しかできない。
……ぎこちなく桜を抱く腕。
今はそうする事しか出来ないとしても、決心したものだけは、揺るぎのない本物だった。
「先輩、わたし――――」
「もう泣くな。桜が悪いヤツだってコトは、よくわかったから」
「――――――――」 息を呑む音。
罪悪と後悔が混ざった桜の戸惑い。
それを否定するように、精一杯の気持ちを告げる。
「――――だから、俺が守る。どんな事になっても、桜自身が桜を殺そうとしても――――俺が、桜を守るよ」
「せん、ぱい」
「約束する。俺は、桜だけの正義の味方になる」
……抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。
今はただ触れ合うだけでも。
この誓いは、何よりも堅いものであると告げるように。
「…………」
それにどれだけの効果があったのか。
あれだけ冷たく、頑なだった桜の肩から力が抜けていた。
……桜は、桜が何を言ったって、やっぱり今までと何も変わらない桜だった。
抱きとめた感触も、肌の熱さも変わらない。
お互いの吐息は白く、降りしきる雨は、いつしかその勢いを止めていた。
その、凍えた夜の中で、
「だめです、先輩――――それじゃきっと、先輩を傷つける」
懺悔するように、桜は言った。
「――――――――」
雨が止んでいく。
夜は真冬のように冷たく、桜は抱きとめた腕を振り解かない。
……そうして。
「先輩を、傷つけるのに――――」
――――こうしていたい、と。
一筋頬を濡らして、桜は言った。
――――それで、一つの選択が終わった。
おそらく、決定的なものが終わったのだ。
これが恋というものなのか、愛というものなのかは知らない。
ただ―――この恋の終わりは、報われるものではないと。
そんな確信めいた予感が、胸の裡《うち》から離れなかった。
◇◇◇
衛宮《うち》邸に戻ってくる頃、雨は完全に止んでいた。
……桜とは公園からこっち、ずっと手を繋いだままだ。
歩いているうちに落ち着いてきて、坂道を登る頃にはお互い気恥ずかしくなってきたが、結局ほどけずにここまで来てしまった。
「あれ……? 玄関の明かりが点いてる。桜、一度うちに戻ってきたのか?」
「……えっと、わたしじゃないと思います。藤村先生じゃないでしょうか……?」
「ああ」
そっか、と桜の手を引いて門に向かう。
冷えきっていた桜の手が、いまはずっと温かい。
血の通った生命《いのち》の感触に安心させられながら、学校帰りのように門をくぐった。
「お帰りなさい。失礼だとは思ったけど、勝手にお邪魔させてもらったわ」
「と、遠坂――――」
「ね……遠坂、先輩」
「ええ。最後にはここに戻ってくると踏んではいたけど、まさか二人で戻ってくるとはね。……まあ、衛宮くんならあり得るかなとも思ってはいたけど」
「っ――――!」
咄嗟に桜を後ろに押しのけて、遠坂と正面から向かい合った。
「遠坂、おまえまだ……!」
「当たり前でしょう。遠坂の魔術師として、間桐桜は放っておけない。冬木の管理者として処罰しなければわたしが協会に目をつけられる。そうなってからじゃ遅いわ」
「そんな事情なんて知るか。桜はまだ何もしてない。それでも桜に手を上げるっていうんなら、まず俺を黙らせろよ」
「そうね。貴方は協会に属さない単体《フリー》の魔術師だし、ここで取り締まっておくのもいい。
わたしは桜を殺すわ。それを邪魔するのなら、アンタも殺す」
「……………………」
神経が鋭敏になっていく。
……遠坂の指先。
それが少しでも動いた時が始まりの合図だ。
遠坂の魔術詠唱より早く桜を連れて外に出る。
その後―――その後の事は、その場で考えるしかない。
今はここから逃れる事だけに神経を集中する。
遠坂との魔術の開き。
いるであろうアーチャーにどう対処するかなんて、とてもじゃないが思いつかない。
「――――――――」
遠坂の唇が、かすかに開く。
それが魔術の詠唱ではなく、何か言おうとしたものだと気付いた時。
「止めて、止めてください、姉さん……!」
桜が、俺たちの間に割って入った。
「――――桜」
「せ、先輩の言う通りです。わ、わたしはまだ、先輩しか傷つけていません。その先輩が許してくれるなら、わたしはまだ、罰を受ける謂れはない筈です」
「――――貴女ね。ちゃんと自分の体を把握しているの?
そんな体で、よくもそんな」
「……言え、ます。わたしはまだ大丈夫です。
それより、遠坂先輩こそ本気ですか。先輩はもうマスターじゃない。セイバーさんもいなくなって元の先輩に戻ったのに、マスターである遠坂先輩が手を上げるって言うんですか」
「――――あげるわよ。そいつが丸腰だろうと何だろうと関係ない。わたしの邪魔をするのなら、容赦なく排除するしかないでしょう」
「――――なら。それでも先輩と戦うのなら、わたしが遠坂先輩と戦います。ライダーのマスターとして、遠坂先輩には負けません」
桜は怯えながら、精一杯の勇気で遠坂と対峙する。
「――――――――」
……桜の決意に驚いたのか、ここで俺たちと戦う事を不利と取ったのか。
「そう。そこまで言うなら、マスターとして勝ち残りなさい。貴女が助かる方法はまだ一つだけあったものね。
聖杯が手に入れば、臓硯の呪縛なんて簡単に解呪できる」
「ぁ……遠坂、先輩?」
「別に見逃してあげるワケじゃない。
……聖杯を奪い合う者としての勝負なら、幾らでも戦う機会はやってくる。ただ、ここは相応の場じゃないってだけ」
すれ違う。
遠坂は敵意も殺意も見せず、こっちが驚くぐらい潔く、俺たちの横を通っていった。
「遠坂」
「……ふん。せっかくの共同戦線も一日限りになったわね。貴方が桜を庇う以上、もう協力体制なんて言ってられないでしょう」
「――――――――」
「けど忘れないで。桜はいつ暴走するか判らない。
その時に貴方が死ぬのは勝手だけど―――預かったからには、犠牲者は貴方一人に留めなさいよね」
振り返りもせずに去っていく。
「……先輩、あの。わたし」
「ばか、そんな不安そうな顔するな。いまのは遠坂流の皮肉だろ。あいつ、人をからかうのが趣味だからな」
「…………」
落ち込む桜の背中を押して、ともかく廊下に上がる。
俺も桜も冷えきってるし、早く着替えて体を暖めないと毒だ。
“……預かったからには、犠牲者は貴方一人に留めなさいよね”
それはつまり、桜に殺される時は、桜と相打ちになれ、ということ。
それを最低条件にして遠坂は立ち去った。
「―――――――」
……そんな事にはならない。
そんな事にはならない、と自分に言い聞かせながら、桜の手を引いて居間に向かう。
……繋いだ手は、本当に温かい。
桜はちゃんと生きていて、ここにいる。
今はそれだけだ。
それ以外の迷いを抱いて、桜を不安にさせる事は出来ない……のだが。
「……む?」
ちょっと。
いくらなんでも、桜の手は温かすぎると思う。
「桜。もしかして、熱がぶり返したか?」
「え……? あ、あの、どうでしょう。わたし、熱いですか?」
自分では判らないのか、桜はおかしな事を言う。
「いや、そんなに熱いわけじゃないけど、俺よりあったかいかな。なんか、触ってるとぽかぽかしてくる」
「あ――――そ、その、きっと風邪です……! ずっと雨に打たれてたから、それで風邪を引いたんだと思います」
?
どうしてか、桜は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「そっか。そうだよな。じゃあ早く着替えて体を温めないと。夕飯は俺が作るから、桜は熱を計って、風邪だったらあったかい格好で居間に来ること。夕飯は食べやすいものにしとくから」
「ぁ……い、いえ、晩ごはんは、要らないですっ。その、もう寝ますから先輩もお休みください……!」
たっ、と小走りに駆けていく桜。
「??」
……まあ、いいけど。
俺もこのままじゃ風邪を引くし、風呂にでも入って温まらないと。
◇◇◇
風呂を済ませて部屋に戻る。
濡れた服を脱いで着替えを済ませると、ようやく帰ってきた、という実感が湧いてくれた。
「―――――――はあ」
畳に腰を下ろして、凝りに凝った肩をほぐしながら息を吐く。
……今日は、本当に長い一日だった。
色々な事があって、色々な波乱があった。
その中で決別し、残ったものを整理する。
「……そうだ。桜、ライダーのマスターだったんだっけ」
今までは慎二に譲っていたらしいが、今は桜がライダーのマスターだ。
となると、この近くにライダーは潜んでいて、今も桜を守っているんだろうか。
「……そうだな。ライダーとはもう数回会っているし。
あいつが桜を守ってくれるなら、ちゃんと話しておかないと」
……外見はアレなんでとっつきにくいが、ライダーはそれなりに話が分かるヤツだと思う。
桜はいつ臓硯に襲われるか判らない状態だし、頼りになるのはライダーぐらいだ。
……まあ、言峰の話ではサーヴァントを使えば使うほど桜の体は悪くなるというから、ライダーに頼るのは最後の手段という事になるが。
「よし。明日になったら桜に紹介してもらおう。
あー……けど、セイバーにやられた事を根に持ってそうだよな、あいつ」
思わずがっくりと肩が落ちる。
……ともあれ桜がここに帰ってきた以上、ライダーだって一緒に住むんだから挨拶ぐらいはちゃんと――――
「――――誰だ!?」
「っ……!」
すぐ跳び退けられるよう腰を浮かせて、障子を睨む。
……部屋の外。
縁側に、無言で佇む影があった。
「――――――――」
……返事はない。
人影は廊下で、こちらの出方を窺っている。
「――――――――」
……くそ。
部屋には武器になるようなものがない。こうなったら素手で、仕掛けられる前に仕掛けて――――
「――――せ、先輩。あの、起きてますか……?」
「え……? なんだ、桜か」
跳び退こうとした腰を落とす。
……まったく。
用があるなら声をかければいいのに、どうしたっていうんだろう桜は。
「どうした? 風呂なら好きに使っていいぞ。着替えなら藤ねえのがあるだろ」
「……はい。お風呂はもうお借りしました。藤村先生の洋服も、借りてます」
「??」
ますます分からない。
なら、他に聞くようなコトはないと思うのだが。
「あの……先輩。入って、いいですか」
「いいけど。なんだよ、改まって」
障子が開く。
そうして、部屋に入ってきた桜は「――――――――」
私服に着替えて、どこか、おかしな桜だった。
「――――――――」
ごくん、と息を呑む音がする。
それが自分のものだと気付いて、体温がぐっと上がる。
「ぁ――――、いや」
呆然とする口を手で隠して顔を背ける。
「っ――――――――」
……なんか、まずい。
顔を逸らしたっていうのに、目は桜を見たがっている。
心臓はたった一瞬でバクバクと騒ぎ出して、頭の方も、しっかり手綱を握ってないと逃げだしそうなほど慌てている。
「――――っ」
ようするに、どうかしそうだ。
理由は分からないんだが、なんか―――今の桜は、色っぽすぎる。
「………………」
桜は入り口に立ったままだ。
その様子が、その、色っぽいだけじゃなくて、どこかおかしいとようやく気付けた。
「……桜? どうした、なんかヘンだぞ。熱はどうだったんだ? やっぱり風邪か?」
「……いえ。熱はありますけど、風邪じゃないんです。
わたしが熱いのは、病気じゃ、なくて」
言いにくそうに桜は目を伏せる。
「――――――――っ」
その仕草は、必死に握っている手綱を放させかねない。
……ここ数日、桜にはこういう時があった。
だから今まで知らなかった桜の一面、同年代の女の子なんだっていう意識には、それなりに慣れてきたつもりだった。
けど、これは、その……今までとは、比べ物にならない気が、する。
「……桜?」
「……どうしても言っておきたいことがあるんです。先輩。」
顔を真っ赤にして桜は言った。
「言いたいことって?」
「……」
やっぱり今の桜は変だ。
「先輩、その・・・ きなんです」
ぼそっと桜は伝えてきた。
顔が真っ赤になる。桜が俺に思いを伝えるなんて今まで絶対なかった。
「―――伝えておかないと、私、不安で、どうしていいか分からなく、なる」
「―――ああ、その、俺も、なんだ」
言った。思いを伝えた。
この夜、桜といろんな話をした。
そうして……凶暴な夢を見る。
熱いコールタールの海で、何か、よくない夢を見た。
◇◇◇ ◇◇◇
飼育箱で夢を見る。
卵の殻。
黒色の黄身。
愛の海の記憶はない。
胎盤にいずる。
ラインは初回からして不在。
娩出《べんしゅつ》は許されず育まれながら愛に溶ける。
堕胎の記憶はない。
ひたひたと散歩する。
ゆらゆらの頭は空っぽで、
きちきちした目的なんてうわのそら。 ぶるぶると震えてゴーゴー。
からからの手足は紙風船みたいに、
ころころ地面を転がっていく。
ふわふわ飛ぶのはきちんと大人になってから。 ごうごう。
ごうごう。
ごうごう。「おい。ちょア見ろ、アレ。なん濡れての、あいつ?」
きいきい誰かが寄ってくる。
「お、いい女じゃん。裸足? やっべえ、きまっあの女」
ぞろぞろ人が寄ってくる。
「だな。、暇つお相手やらねぇ?」 からからと笑い声。
蟲惑した覚えはありません。
怖くなったので帰りましょう。「おなに逃げだおまえ」
「待てって? あたるいかよ、こい!」
「ゃ悪いんじゃねえの? かったらはだまち歩ねえって」
「ははは! そうな、ってコトにか、俺たちで保護してやらとダメって?」
「さんせー! ボクはぁ、社会的に弱い人た守りた思いま!」 「ははは!」
「あはははは!」
「あははははははははははははは」
「あははははははははははははははははは!」 てくてく彼らは追ってきます。
きんきんうるさく響くので、
くうくうお腹がなりました。「!!!!????」
「ちょっまっ、なん、ぎ!?」
「ひ、ひや、逃げんなこら、助けてくえええ!」
「は、は、は、なんだよ、おまえら何処にいっ――――ぎぃいいいいいいいいいい!」
「いた、いたい、いやだ、ごご、ごめんなさ、い、ひあああああああああああ!!!!???」
飼育箱の夢を見る。
今夜。
虫を潰した。
◇◇◇
「――――――――」
……目蓋を開ける。
意味もなく片手を天井に伸ばして、ぼんやりと天井を眺めて、ぱたん、と伸ばした腕が布団に落ちた。
「――――なんか、重いな」
体を起こさず、放心状態で天井を見上げる。
……なんというか、全体的に体がだるい。
頭は寝ぼけたままで、体の方も休息を欲しがっている。
もう朝だっていうのに、ぜんぜん起きる気がしないのはその為だ。
「ん……なんで、こんなに疲れてるのかな」
横になったまま、これまたぼんやりと回想してみる。
――――と。
「――――――――」
とりあえず一瞬で、眠気だけは吹っ飛んだ。
「――――えっと」
ちらりと横を見る。
隣りには誰もいない。目に映るのは、だらしなく倒した自分の腕だけだ。
「なんだ。桜、もう起きてるんだ」
となると、今ごろは台所か。
桜のコトだから、俺を寝かせたまま朝の支度をしているに違いない。
「まったく。ほっとくとすぐ無理するんだから」
呆れながら体を起こす。
途端、軽い目眩がした。
「……っと。体、ホントに重いな」
疲労が溜まっているんだろうか。
たしかに昨日は色々あった。
あれぐらいで音を上げるような鍛え方はしていない。
この気だるさは眠りが浅かったせいだろう。
「……よく眠れなかったからかな。ま、動いてれば血も巡るだろうし」
そもそも、体の具合なら桜の方が何倍も悪い。
その桜が一人で頑張ってるんだから、この程度のだるさで休んでられるかって言うのだ。
よし、と気合を入れ直して布団から出る。
「――――う」
そこで、またも目眩を覚えた。
体のだるさからではない。
「…………えっと。服、着替えないと」
布団をずるずるとひっぱって箪笥《たんす》まで移動する。
……まいった。
「――――――はあ」
何度目かの深呼吸をして、縮み上がっている心臓に活をくれてやる。
「――――――――」
大丈夫、もう何回もシミュレートした。
難しいコトなんて何もない。いつもやってきた挨拶《コト》なんだから、こんな風に緊張するなんておかしいのだ。
「よし、行くぞ」
空っぽの胸にガソリンを入れる。
豪快にキーを回して、クソ重いアクセルにキックをくれて、桜のいる居間へと踏み込んだ。
「「――――あ」」
と。
台所にいると思われた桜は、もう居間で朝食を並べていた。
「ぁ――――お、おは、おはようございます、先輩」
「う――――うん。おはよ、う、桜」
お互い、ガチガチに固まった声で挨拶をする。
「あの………………えっと」
「あー………………なんだ」
気の利いた言葉を探すも、真っ白になった頭は空っぽだ。
「――――――――」
「――――――――」
―――まずい。
こんな沈黙が続いたら朝からどうかするっていうか、男なのに女の子を困らせてどうするんだ……!
「お、おはよう桜……! 朝ごはん、美味しそうだな!」
我ながら芸のない言葉を返す。
……って、さっきの挨拶となにも変わってないじゃんかばかー!
「あ、はいっ! お、おはようございます先輩!」
「――――――――」
……と。
なんか、桜の返事も、さっきとまったく同じ気がする。
それに気がついたのか、目を点にしてこっちを見る。
きっと桜から見た俺も、あんな顔をしているんだろう。
「――――――――は」
なんか、そう思うと肩の力が抜けてくれた。
俺たちはお互い、ずっと緊張しながら、それでも顔を合わせるのを待ち焦がれていたのだ。
「……ふう。三度目になるけど、おはよう桜」
話しかける頬が自然に緩む。
安堵を込めて口にした言葉。
「―――はい。おはようございます、先輩」
同じように笑って、桜は三度目の挨拶を返してくれた。
そんなこんなで、ぎこちないながらも朝食が始まったのだが。
「んじゃいただきます」
「はい、いただきます」
こう、いつも通りの作法が出来たところで、やっぱり緊張は抜けきらないのだ。
「――――――――」
落ち着かないまま箸を動かす。
……桜はさっきので慣れてしまったのか、上機嫌な体《てい》でごはんを食べている。
……なんというか、そういうところは女の子の方が強いんだろうか?
「? どうかしました? あ、お味噌汁の御代わりですか?」
「―――いや、まだ一杯目。けど美味いぞ。うん、すごく美味い」
「はい。今朝のは自信作ですから。喜んでもらえて嬉しいです」
「っ――――」
く、その笑顔は胸に詰まる。
桜はもう落ち着いてるのにこっちが赤面してるかと思うと気恥ずかしくて、とにかく照れ隠しにメシをかっ込んだ。
◇◇◇
「――――ふう」
カタン、と空になったお茶わんを置く。
が、食卓にはおかずが丸々残っている。
ご飯とみそ汁を味わうだけで精一杯で、他の料理にまで意識をさけなかったからだ。
だが仕方あるまい、許せ桜。
今はとにかく席を立って、部屋で落ち着く時間が欲しいのだ。
「…………先輩。あの、今朝のは口に合いませんか?」
「―――――――う」
戦略的撤退、失敗。
俺一人気付いていないだけで、とっくに退路はなかったらしい。
「………………」
無言でお茶わんを差し出す。
「はい、御代わりですね! いっぱい作りましたから、たくさん食べてください」
……山盛りで返ってくるお茶わんを受け取って、朝食を再開する。
「――――――」
……仕方ない。こうなったら覚悟を決めよう。
一人で顔を赤くしてるのも我慢するし、桜の一挙一動に目がいってしまうのも言い訳しない。
けど、いくらなんでもだな、
「―――桜。ちょっと、彼女は問題があるんじゃないのか」
「? 先輩、問題ってなんですか?」
不思議そうにこっちを見る。
つまり桜は、
こう、隣りに無言で座っているライダーを、不思議に思っていないらしい。
「だから、問題っていうのは」
ちらり、とライダーに視線を送る。
それでこの場での不釣合いさに気付いたのか、
「私に気を払う必要はありません。食事を続けて結構です」
桜に負けない優雅さで、そんなコトを言いやがった。
「え? 先輩、彼女のコトが気になってたんですか?」
「そのようですね。確かに、彼とは何度か争った仲です。
食事の場に仇敵がいては落ち着かないのでしょう」
「そんなことないです。先輩、ライダーを恨んでなんかいないもの」
「――――――――」
……困った。
恨んではいないが、A+がつくほど苦手な部類なんだ、桜。
「……どうでしょうか。
彼の食事が進まないのは私が在るからのようです。目に付くというのなら席を外しますが」
「だから、そんなコトないですっ。ね、そうですよね先輩。先輩はライダーがいてもかまいませんよね?」
「………………」
困った。
困ったので、ここは――――
「……分かった、本当の事を言う。
けどその前に断っておきたい。俺はお世辞もご機嫌とりもうまくできないから、そのあたり配慮してくれると助かる」
じっと、真剣にライダーを見据える。
相変わらず何を考えているか分からないヤツだが、俺が真剣だってコトは分かってくれてるようだ。
「はっきり言うぞ。俺はライダーを恨んでなんていないし、一緒にメシを食うのだって構わない。ただ苦手なだけで、ライダーの事は、かなり好きだ」
ぐっと緊張を押し殺しながら明言する。
「―――まさか。貴方は私が恐ろしくないのですか?」
「そりゃおっかない。おっかないけど今は味方だろ。
アンタには一度助けられてるし、学校の時だって桜を守る為に戦ったんだ。そんなアンタを嫌いになれるワケがない。……その、ホントに苦手なんだけどな」
「……私には理解できない。ですが嘘をついているようにも見えない。……もう一度訊ねますが、私が恐ろしくないのですか?」
「だから怖いってば。アンタがどれだけ物騒なサーヴァントなのかは身にしみてるからな。
……けどまあ、根はちゃんとしてるっていうか、どことなく桜に似てるんだよライダーは。だから信用できるし、これからも桜を守ってやってほしい。苦手だけどな」
うう……なんか、これじゃ告白してるみたいだ。
目が合ったらまた同じ質問を返されそうだし、ここはそっぽを向いて誤魔化そ――――
…………って。
しまった、桜の前でなに言ってんだ俺……!
「桜。違うぞ、今のは好きか嫌いかの話で、別にそういった話じゃ」
「知りません。先輩が浮気性で、キレイな女の人に弱いってコトは分かりましたけどっ」
「む」
すごい。
こんな、あからさまに不機嫌な桜を見るなんて初めてじゃなかろーか?
「待て桜、落ち着け。ライダーが好きだっていうのは人間として好きだってコトで、別に女の人だからってワケじゃないぞ。桜だってライダーを信頼してるんだろ。それと同じだ。
だいたいな、キレイだって言うけど俺にとっては桜の方がキレイであって、桜に比べたらライダーなんて、」
ちょっ……な、なんかいま、ライダーから凄い殺気を、感じたんですが……!
「―――その、負けないぐらい美人なワケで、どっちがキレイだとか、そういう見方はしちゃいけないと思う」
……まずい。
なにか口にすればするほど、のっぴきならない事態を招いている気がする。
「―――やめよう。こういう話はうちの食卓に相応しくない。話題の切り替えを提案する」
両手をあげて意見をアピールする。
見ようによっては万歳降参している風味。
「いいえ、話は終わっていません。いい機会ですから先輩の本心を追究したいと思います」
「サクラに賛成します。私としては小事ですが、物事は明確にするべきです」
ずい、と二人して身を乗り出してくる。
「先輩。わたしとライダー、どっちが好みなんですか?
先輩の気持ちなんですから、分からないなんてコトはない筈ですっ」
あ。
「サクラの言う通りです。私としては小事ですが、貴方の答えには興味がある」
う。
「「さあ、答えを口にしてください」」
どたん、と背中が壁に張り付いた感触。
退路はなく、口を開けた瞬間、どっちかの怒りを買うのは目に見えてる。
「う……ぐ」
が、問題はそんな刹那的なコトではない。
今回判明した事実は、この先ずっと続いていく。
……桜とライダー。
女同士の連帯感というか、この二人、ほんっとーに似たもの同士だったんだ……。
◇◇◇
朝食が終わって、時刻は午前九時になった。
学校は欠席した。
事がここまで深刻になった以上、聖杯戦争が終わるまで学校に行く気はない。
学校に行く目的の一つは遠坂との共闘だった。
それがなくなった今、昼間から外に出る意味はないし、なにより――――
桜を外に出す事は危険すぎる。
「………………」
桜は元気に振舞っているが、いつ昨日のように倒れるか判らない。
言峰の治療で持ち直しはしたが、桜は危ういバランスの上に立っている。
……臓硯がどんなつもりでいるかは知らないが、不安定な桜と臓硯を会わせる訳にはいかない。
桜の中の刻印虫を活性化させられたら、こっちに打つ手はないんだ。
慎二は薬を使った。
が、刻印虫を仕掛けた術者である臓硯なら、それこそ桜を見るだけで虫どもを動かせるだろう。
「――――――――」
……言峰は言った。
桜は長くは保たない、と。
それを知っているのは俺だけだ。
……そんなこと、桜にも遠坂にも言えない。
俺がするべき事は、桜にその事実を知られないうちに、この戦いを終わらせる事。
俺には桜を助ける力はない。
だが聖杯なら―――あらゆる願いを叶えるという聖杯なら、桜を救う事なんて容易い筈だ。
「先輩? さっきから怖い顔して、ヘンですよ? 学校は休んじゃいましたし、ゆっくりしていいと思いますけど……」
「いや、休むのは戦いが終わってからにしよう。今は戦いに勝つ事だけを考えないと」
「……先輩。戦いって、まだ続ける気なんですか?」
不安げな声は、少し意外だった。
「………………」
……薄々感じてはいたが、桜には自分から戦う気がない。
聖杯を得る事が体を治す一番の方法だと判っているだろうに、それを考えようとしていない。
……戦いへの嫌悪。
他人を傷つける事を、桜は極端に恐れている。
それは正しいし、否定する気はない。
桜はそのままでいい。
戦うのは、今まで泣かせ続けた俺の役目だ。
「―――ああ、戦いは続ける。話し合いで済めばそうするけど、そうは言ってられないだろ。臓硯が桜を解放するとは思えないし、桜には悪いけど、あいつに聖杯は渡しちゃいけないと思う。
……残ったマスターは四人。俺はこの中から桜を勝たせて、桜に聖杯を使ってもらう」
「……そう言ってもらえるのは嬉しいです、けど……先輩、遠坂先輩と戦えるん、ですか」
「あいつが邪魔をするなら戦う。……まあ、ホントは聖杯なんて物騒なもんはあいつに任せたいんだけどな。あいつならキチンと鞘に収められるし、桜を助けてくれるだろうし」
「……そう、でしょうか。あの人は、魔術師です。わたしみたいに弱い人間のコトなんて、考えてくれないと思います」
「――――――――」
そんな事はない、とは言えない。
……遠坂はいいヤツだ。それはもう判ってる。
けど、それとは別に、あいつは一人前の魔術師だった。
昨夜、あいつは桜を殺すと言った。
あの時はそれしかなかったとは言え、あいつは本気でそれを選択し、桜を手にかける覚悟を決めた。
……だから。
もし聖杯でも桜が助からないとなったら、あいつは聖杯っていうアーチャー以上の味方を得て、桜の命を止めるだろう。
「……そうだな。けど、それでも遠坂には出来ないよ。
あいつに桜は殺せない」
「え……? どうしてそう思うんですか、先輩は」
「いや。確証はないけど、あいつは根っこで凄いヤツだからな。あいつが選ぶ未来は、きっと誰も失わない、とんでもなくハッピーな世界なんだと思う。だから大丈夫。
遠坂は、最後には絶対桜を助けるよ」
「……あの。先輩は、遠坂先輩が、その」
「ん?」
「……いいえ、なんでもありません。先輩がそう言うんなら、わたしも信じてみます」
「ああ。けど、正直あいつ任せってのは情けないし、譲りたくない。桜を守るのは俺でいたいんだ」
桜の手を引いて行くと決めたんだから、その役を他のヤツには渡せない。
俺は俺のできるかぎりをして、桜を幸福にするんだから。
「……あの、先輩。気持ちは嬉しいです。だけど先輩はもう戦える状態ではないと思います。セイバーさんもいなくなって、遠坂先輩とも対立してしまった。
先輩はもう聖杯戦争に関わる必要はありません。だから今まで通り、どうか先輩の日常に戻ってください。
……わたしは、わたしのせいで先輩が傷つくのは、イヤです」
「ばか。そんなの桜のせいじゃない。俺はやりたいからやるんだし、いまさら降りられる戦いでもない。そんなの、桜だって判ってるだろ」
俺はセイバーのマスターとして戦いに参加した。
巻き込まれたからマスターになったのではなく、自分の意志でマスターになった。
なら―――ここで降りる事なんて出来ない。
一人になっても戦う。
最後まで、この戦いの決着を見届ける。
……それが俺の我が侭につき合い、命を落としたセイバーへの償いでもある。
「………………じゃあ、先輩はどうしても」
「戦いは止めない。その為に、これから今後の方針を決めようと思う。ライダーもいいか?」
「構いません。貴方の意見は正しい。サクラはどうですか?」
「………………」
桜は沈黙で肯定する。
……良かった。とりあえず納得はしてくれたみたいだ。
「よし。じゃあこれからの話なんだけど、その前に」
つい、とライダーに視線を向ける。
……朝食からこっち、少しずつ居間《ここ》にライダーが居る、という事に慣れつつあるが、やっぱりコレだけはなんとかしたい。
「なんでしょうか」
「その目。家《うち》にいる時ぐらい目隠しをとったらどうだ。
おまえの魔眼はもう知ってるんだし、無理に隠す必要ないだろ」
というか、そんな目隠ししてたら窮屈だろ、ライダー。
「……つまり、私の姿が美観を損ねる、と?」
「ああ。端的に言えばそうなる。その格好はともかく、目隠しはタイヘンだろ。せっかくキレイなんだし、暑苦しいのは取ったらどうだ」
「だそうです、マスター。貴女の意見次第では私も考えますが」
「ダメですっ!
そんなの絶対だめーーーーっ!!」
「へ?」
……と。
なんでそこで、桜が力いっぱい反対するんだ?
「なんで? 桜だって、ライダーが目隠ししてたら困るんじゃないのか?」
「こ、困りませんっ! だいたいですね、ライダーの目は魔眼なんですよ? ちょっとした弾みで魔術にかかっちゃったらどうするんですか!」
「はあ。かかるのか、ライダー?」
「かかります。私の目は魔眼というよりは邪眼ですから。
私本人が魔力をセーブしたところで、貴方を対象外にするのは難しい」
「うわ、なんだそれ。ライダー、自分の目をコントロールできないのか?」
「できませんね。それ故の称号です。
……ですが昨日ほどの効果は望めないでしょう。貴方は私の魔眼が石化だと知っている。不意打ちによる認識洗浄は弱まっていますから、体が硬直するスピードは落ちる筈です」
「そっか。じゃあ、昨日みたいにいきなり体が麻痺する……ってのはないのか?」
「状況によります。貴方が気を抜いていれば、魔眼の効果は上がるでしょう」
「ふむ。ようするに気を抜かなければいいんだな。なら問題ないじゃないか。万が一魔眼に囚われても、ライダーは味方なんだからすぐに解呪してくれるだろうし」
「そうですね。私は貴方の命は取りません。そういった意味で言えば、なんの危険もありませんが」
「だめ、だめったらだめですっ……! ライダーの眼は石化だけじゃないんだからっ!」
「そうでしたね。では、封印はこのままにしておきましょう」
ほう、と胸を撫でおろす桜。
「……?」
……はて。
事情は良く分からないが、ライダーの目隠しはあのままって事らしい。
「……そうか。気になるけど、ライダー本人がいいって言うんならいいか」
「ええ。素顔を晒すのは嫌いです。以後、この件には触れないように」
さっきまでの気軽さは何処にいったのか、冷たくライダーは言い放った。
……なんというか、掴めない性格だ。
やっぱりライダーとは相性が悪いんだろうな、俺。
◇◇◇
「話を戻そう。今後の方針だけど、とりあえず桜はうちから出ないこと。臓硯と直接会うのは危険だからな。あの爺さんとはこっちでカタをつける」
「その考えは正しい。ですが、貴方はどうやってあの魔術師を倒すのです。何か考えがあるのですか?」
「――――――――」
……そう言われると返答に困る。
手段は幾つかあるだろうが、そのどれを取るべきかはまだ考えていなかった。
「それは――――」
……きっと、この選択がこれからの命運を決める。
選択肢は複数ある。
その中で現実味があって一番確かな方法と言えば、
「――――他のマスターと協力すべきだと思う。
事情を話せば味方……とまではいかないにしても、臓硯を倒すのに手を貸してくれるかもしれない」
「他のマスターって……遠坂先輩、ですか?」
「え? いや、遠坂じゃない。俺、バーサーカーのマスターとは知り合いなんだ。イリヤって言うんだけど、あの娘なら話せばちゃんと聞いてくれる」
……それに、正直イリヤを放っておけない。
遠坂はともかく、臓硯が何をしてくるか判らない。
桜に虫を植え付けて無理やり戦わせるようなヤツだ。
直接的な実力ならバーサーカーを連れたイリヤの方が何倍も上だろうが、相手はあの妖怪である。直接敵わないからこそ、様々な手を使ってくるだろう。
となると、バーサーカーを連れたイリヤでも油断はできない。
「バーサーカー……貴方は、あの狂戦士が我々の味方になると?」
「味方とまではいかないにしろ、しばらくは見逃してもらえる。それに、協力は無理でも忠告ぐらいはしておきたい」
単身この町にやってきた少女。
マスターとして育てられ、アインツベルンの名を冠したイリヤと、俺は他人じゃないんだから。
「……そう、ですか。けど先輩、そのイリヤって人の居場所はわかるんですか?」
「ああ、前に見せられた。道順は記憶している。広い森なんで想像通りにはいかないだろうが、半日もあれば辿り着ける筈だ」
「半日……それって、今から行くって事ですよね?」
「そうだな。善は急げって言うし、今から行けば夜までには帰ってこれる」
急に選択を迫られたが、これはこれで丁度いい。
イリヤには昨日助けられたし、お礼を言いたくもあった。
……それに。
間桐臓硯の暗躍と、あの、正体不明の影についても話しておかないと、取り返しのつかない事になるだろう。
「行ってくる。できるだけ早く帰ってくるから、桜は部屋で休んでいてくれ」
「―――わかりました先輩。それなら、せめてライダーを連れて行ってください。何かあっても必ずライダーが守ってくれますから」
「あ、そうか。その方が安全だよな」
……が、それは聞けない。
危険なのは屋敷に残る桜も同じだ。
いや、臓硯に出会えば逆らえなくなる桜の方が、俺より何倍も危険だろう。
「いや、ライダーは桜を守ってやってくれ。
もし臓硯が来たら魔力を消費する戦闘は避けて、桜を抱きかかえて逃げること。ライダーの足なら追いつかれる事はないだろ」
「――――――――」
ライダーも同じ考えだったのか、素直に頷いてくれた。
「ほら。ライダーだってそう言ってる。今回、桜はお留守番だ」
「…………けど、先輩だって危険です。あの森は、いま」
「心配すんな。危ないって思ったらすぐに逃げる。それにイリヤはマスター以外に興味はないんだ。マスターじゃなくなった俺がいっても危険はない」
ぽん、と桜の肩を叩いて居間を後にする。
―――さて。
まずは土蔵に行って、武器になりそうな物を調達しなければ。
桜に見送られながら衛宮邸を後にする。
荷物は木刀を二本押し込んだ竹刀袋と、軽い食料を詰め込んだザックだけ。
地図、コンパスといった物は持ってこなかった。
もともとイリヤの魔術によって得た直感《みちゆき》である。なら、頼りになるのは見せられた記憶と、自身の直感だけだろう。
「………十時前。タクシーで一時間、森の中を歩いて四時間……」
で済むといいのだが。
とりあえず、タクシーには徐行してもらって、あの時見た森の入り口を探し出す。
入り口が見つかったらタクシーから降りて、そこから徒歩だ。
―――最短で行けば日暮れ前にイリヤの城に着ける。
その後の事は、イリヤに会ってから考えよう。
「――――シロウ」
「え?」
……と。
背にした衛宮の家から、懐かしい、響きがした。
事務的な、ともすれば冷たく聞こえる呼び方。
それでも丁寧に、不器用ながらもできる限りの親しみを込めて呼んでくれた、その響き。
「――――セイ」
あり得ない名前を口にしかける。
「待ちなさい。出立の前に話があります」
「――――ライ、ダー」
振り向いて、現実を受け止める。
目の前にいるのはライダーだ。
俺をその響きで呼んだ少女は、もうこの世界には存在しない。
「いいけど、なんだ。こっちも急いでるからな、手短に頼む」
「私の質問は一つだけです。貴方はサクラを守ると言った。その理由を私はまだ聞いてはいません、エミヤシロウ」
「それ、俺は信用できないってコトか」
「ええ。私はサクラほど貴方を知っている訳ではありませんから」
「………………」
そりゃもっともだ。
ライダーが守るのはサクラであって俺じゃない。
なら、一応味方である俺の思惑を知っていたいと思うんだろう。
「……ふう。一度しか言わないから、この手の質問はこれっきりにしてくれ。もったいぶってるんじゃなくて、人前で言うような事じゃないからな」
「………………」
「―――いいか。俺は桜が好きだ。それだけじゃない。
昨日の夜、桜を抱いた」
「……そのようですね。朝、サクラの魔力は安定していました。外部からの供給がなければ、サクラはまた熱に魘されていたでしょう。
―――それがなにか?」
「それだけだ。俺は桜が好きで、桜を抱いた。桜を守る理由はそれだけだ。自分の女を守るのは、男として当然だろ」
「――――――――」
「……では、貴方はサクラの為に戦うのですね? 目的はあくまでサクラの体を救う為。サクラに聖杯を獲らせ、自分の益とする気はないと?」
「いや、するよ。聖杯がなんであるかは知らないけど、それが桜を幸せにしてくれるんだったらいくらでも使ってやる」
「――――サクラを、幸せにする?」
「そうだよ。今まで桜一人を苦しめてきた。だからその分、どんな手を使っても幸せにしてやりたい」
ライダーは何も言わず、静かに立ち尽くしている。
……どうやら今の、人様に面と向かって言うのには気恥ずかしい理由に納得してくれたようだ。
「―――よし。ライダーの質問に答えたんだから、今度はこっちの番だ。要望があるんだけど、聞いてくれるか」
「え、ええ。私にできる範囲でなら聞き届けますが」
「ああ、簡単な事だ。さっきの呼び方だけど、シロウって発音は遠慮してくれないか。呼ぶ時は正しく士郎って言ってくれ。士郎。最後のうを小さくするんじゃなくて、全文字はっきりと」
「? ……わ、わかりました。しロウ、でいいのですか?」
「それじゃ死蝋だ。ヘンにアクセントつけなくていいんだってば」
「ええっと、し、しろう。士ろう。しろウ。しロう。し郎、城う、ではなく、士郎、士郎」
むむ、と悪戦苦闘しながらも発音を練習するライダー。
……うん。
目隠しと黒い装束で鋭利なイメージがあるが、ライダーはわりと付き合いがいい。
なんとなくではあるのだが、私生活ではドジっ子のような気もする。
「―――士郎。……ふむ。発音はこれでいいのですね、士郎」
「ああ、文句なしだ。悪いな、俺の我が侭につき合わせて」
「我が侭……? 貴方はシロウ、と呼ばれる事が不快なのでしょう? なら、私に発音を訂正させるのは正しいと思いますが」
「――――まさか。さっきの呼び方は、好きだった」
……そう。
好きだったからこそ、他のやつには使ってほしくない。
下らないこだわりと分かってはいても、あの呼び方だけは、彼女のものにしておきたかったのだ。
「悪いな、ほんとにただの我が侭なんだ。ライダーが悪いわけじゃない」
「……わかりました。貴方がそう言うのなら、私も理由は問いません」
「ああ。それじゃ行ってくる。桜のこと、よろしくなライダー!」
ライダーに手を振って走り出す。
まずは交差点まで降りて、タクシーを拾う。
あとは郊外に出て、一度見ただけの森の入り口を捜さなければ。
◇◇◇
――――そうして、彼女は残された。
もう戦う意味のない少年。
マスターでなくなった者が危険を冒し、元凶である自分が安息に浸っている。
その事実が、彼女の心を一層深く沈ませる。
「彼は森に向かいました。―――後悔しているのですか、サクラ」
従者は自らの主に問う。
彼女は頷くことなく、憂いげに瞳を細め、一度だけ首を横に振った。
「……後悔なんて出来ないでしょう、ライダー。そんなもの、今さらなんの意味もない」
「そうですね。確かに、意味のない質問でした」
「ええ。けど、辛いことだけじゃない。わたしね、不謹慎だって分かってるのに嬉しいの。先輩がわたしのために何かしてくれるのは、純粋に嬉しいから」
そう言いながらも、彼女の顔は苦悩に満ちていた。
嬉しいと呟く口は、罪の意識で縫い付けられたように重い。
「けど、それは間違ってる。お爺さまは容赦なんてしない。先輩が戦うかぎり、常に死の危険性がある。
それに、なにより――――」
これ以上戦いに参加されては困る。
それは自分にも彼にも、良くない未来を持ってくるだろう。
だからこそ戦いを止めさせ、彼には日常に戻ってほしかった。
どうせ自分は長くない。
それならせめて、彼にだけは生きていてほしい。
……だが。
そう願う反面で、希望に縋る自分がいるのだ。
彼が戦う事で、もっと一緒に居られるのなら。
いや、愛する者が自分のために傷ついてまで戦ってくれる事が、どれほど悦ばしい事か。
戦ってほしくはない。
けれど、戦ってくれる事が嬉しすぎる。
二つの願望は対立し、互いを受け入れないまま拮抗する。
「……嘘。拮抗なんて、してないくせに」
苦しげに漏らして、彼女は自らの暗部を思い知る。
そう。
本当は戦ってほしい。自分を助けてほしい。今まで振り向いてもらえなかった分、何倍も応えてほしい。
その為なら――――彼が傷ついてもいい、と。
彼女は、思ってはならない事さえ、思ってしまった。
「は、くっ…………!」
胸を押さえる。
体内の虫が、彼女の暗い情念に応えるように神経を這う。
……たった一瞬。
たった一度、傷ついた彼の姿を想像しただけで、虫たちは彼女の体を侵していく。
じくじく。
じくじく。
じくじくじく。
体内で蠢く耳鳴りがする。
血液に溶けて巡る悪寒がする。
わたしの体は醜く、こんな事で興奮するほど邪《よこしま》で、心まで淫らだ。
……血液に溶けた虫は媚薬となって、彼女の体を熱していく。
体内で生じ、意識ごと飲み込むうねり。
その、昂ぶり続ける意識の中で彼女はいつも思うのだ。
この手足はもう穢《けが》れきっていて、人のものではない。
体は性欲に溺れてすぐに倒れ、卑しく地面にすがりつく。
止まらない呼吸と指先、粘体のように切なく蠢《うごめ》く腰。
それは神経に絡みついたモノと何も変わらない。
否定しようと思えば思うほど虫たちは神経を侵し、意識はどろどろに溶かされ、そして、
――――自分が、虫になった気がする。
最後には不吉な錯覚に、全身を支配されるのだ。
「サクラ」
「……大丈夫。わたしはまだ平気です。それよりお願いライダー。どうか、先輩に付いていってあげて」
「……命令ならば従います。ですがサクラ。貴女の体とて長くはない。私を行使するという事は、貴女の余命を削る事です。それでもいいのですね?」
「……うん。どうせ長くないもの、わたし。
今はちゃんとしてるけど、気を抜くとね、自分が何をしていたか分からなくなるの。……日に日に記憶が曖昧になって、手足の感覚もない。時間の感覚だってもうバラバラで、一日が長く続いてくれないんだ。
……今朝だって。なんか、先輩を見送ってから、一週間ぐらい経ってる気がするの」
それがなんでもない事のように彼女は言った。
……彼女は死を受け入れている。
その中で希望に縋る醜さと戦いながら、彼を守ってほしいと願ったのだ。
「―――承知しました。主の命に従い、エミヤ士郎を護衛します」
「ありがとう。……ごめんねライダー。わたしがダメになったら、すぐに新しい人と契約して。先輩……はちょっとヤだけど、ライダーならいいかな」
無理やりに笑う。
それに頷きだけを返して、黒衣のサーヴァントは主に背を向けた。
「……よくない風《かぜ》です。宝具を使用する事になりますが、構いませんね」
「うん。危なくなったら先輩を連れ帰ってきて」
「わかっています。けれどサクラ。
私はあの老人ではなく、あの神父をこそ注意すべきだと思うのですが」
背を向けたままライダーは言う。
「――――――――」
それが、彼女には驚きだった。
このサーヴァントは意見を口にしない。ただ聞かれた事、命じられた事だけを実行する寡黙な性格だった。
それが今のように、自ら彼女を案じるなど今までなかった事だ。
「―――そうね。わたしも、本当はそう思うわ」
それは歌うような呟きだった。
先ほどまでの憂いは影をひそめ、その仕草に優雅ささえ漂わせ、
「―――けど安心してライダー。
だってあの人、わたしには勝てないもの」
クスリと。
花を摘む少女のように、彼女は微笑《わら》った。
◇◇◇
整備された国道から離れること数分。
初見にして見覚えのある森の入り口は、日中だというのに朝靄《あさもや》のように白ばんでいた。
立ち込める霧と木々に遮られた陽光が、森から時間の感覚を奪っている。
「……うわ。大丈夫か、これ」
今更ながら自分の無鉄砲ぶりに呆れる。
あの時はイリヤの“眼”から見ていたから迷うも何もなかったが、これはさすがに、記憶だけでどうにかできるレベルじゃない。
「―――いや、泣き言は後だ。なりふり構ってられないんだから、当たって砕けろだ」
ふん、と気合を入れ直してザックを背負う。
時刻は正午を過ぎたあたり。
イリヤの“眼”から見た時、城まではここからざっと四時間ほどだった。
この先は自分の体力と、魔術師としての記憶力《さいのう》と再現《てきせ》力《い》を問われる道行きになる――――
森を歩く。
充満した樹液の匂いが少し息苦しい。
山道ほどではないにしろ、舗装されていない地面は少しずつ体力を奪っていく。
あれから二時間、イリヤに見せられた道順通りに進めているとは思う。
ただ、一向に先が見えず、正しいかどうか確証がないのは少しこたえた。
日頃鍛えている分、この程度の獣道なら一日歩いたところで問題はないが、精神面の疲れは気付かないうちに体力を奪うものだ。
記憶では、あの城まであと二時間ほど。
その時になってまったく違う風景に出くわした場合、今と同じように森を踏破できるかは定かではない。
体力的な限界はまだ先だろうが、乱れた精神《こころ》では些細なミスも起こすだろう。
登山では水分の補給、身体のチェックは当然万全でなくてはならず、はては踏み出す足が右か左か、次に手をかける岩肌が一ミリ浅いか深いかの判断を求められる。
森の移動はそこまで困難なものではないが、ここはここで山とは違う危険がある。
方角の見失い、現在地の不詳。
そういった遭難する危険性はもとより、森に生息する動物との遭遇は、それこそ直接命に関わる。
これだけ広い森なら野生の獣は当然領地《テリトリー》を張っている。
この手の道行きで獣に襲われるのは、大抵が彼らの領地を侵犯した時だ。
無遠慮に歩き回るのは襲ってくれと言っているようなもので、一見まっすぐな獣道でも迂回しなければならない場合もある。
幸い、この森に蛇の類は生息していない。
あるのは野犬のものと思われる痕跡だけで、それもたまにしか見られない。
生き物の気配が希薄なのは、アインツベルンの魔《て》術によるものなのだろう。
それでも野犬の類は居り、下手をするとそれは野犬と呼べるものですらないかもしれない。
「―――っと、あっちはまずいか。帰りは気をつけないと」
見るからに何か潜んでいそうな茂みを迂回して、記憶通りに足を進ませる。
……君子危うきに近寄らず。
危険に遭ったら逃げるのではなく、そもそも危険な場所には近寄らないのが、こういう道行きの鉄則である。
「……にしても。この森、イリヤに見せたもらった時と様子が違う気がする」
……肌で感じる空気が違う、というか。
一歩奥に進む度に、背筋にイヤな痺れが走る。
―――この先に進むな。
―――いますぐこの森から逃げ帰れ。
―――今日だけは、何人《なんびと》たりとも生きては帰れん。
風で揺れる木々が、そう囁いている気さえする。
「―――――そういえば、この匂い」
樹液の匂いかと思ったが、微妙に違う。
……鼻につく甘ったるさは同じでも、森の瑞々しさが感じられない。
これは――――
――――たしか。
「――――――待て」
竹刀袋から木刀を取り出す。
……足を止めて意識を集中させ、数分かけて木刀に“強化”をかける。
「―――――何か、来る」
……茂みの向こうから足音がする。
耳を澄ませば枝ずれの音にまじって、キイキイという音がする。
「――――――――」
……来る。
ソレは緑の奥から、迷う事なく一直線に俺の前に現れた――――!
木刀を振り上げる。
両腕には渾身の力を、柄を握る両手にはわずかな力を込めて、木刀を上段で踏み留め「そこまでだ、動くな――――!」
「そこまでよ、動かないで――――!」
二人して、バッタリと固まってしまった。
「………………」
「………………」
………………さて。
この状況を、どう打開したらいいんだろう?
「……ちょっと。いいかげん、それ下げてくれない? お化け屋敷じゃないんだから」
……先に構えを解いたのは遠坂だった。
「あ、すまん」
釣られて木刀を下げる。
「………………ふん。珍しいところで遭ったじゃない。
一応聞いておくけど、ピクニックの下見ってワケじゃないわよね?」
「わけあるか。そういう遠坂こそなんだよ。森林浴ってガラじゃないだろ、おまえ。今度はなに企んでんだ」
「失礼ね、森林浴ぐらいするわよ。そりゃ今日は違う用件だけど」
む、と抗議する。
ここで驚くべきは、なにか企んでるってコトを否定しないところだろう、うむ。
「――――遠坂。おまえ、イリヤとやりあおうってのか」
単刀直入に切り出す。
「……だとしたらどうなの。貴方はもうマスターじゃない。なら、わたしたちの戦いに首をつっこむ資格も義理もない筈よ」
「――――ない、けど。遠坂がイリヤと戦うっていうのなら、止める」
「なんでよ。もしかしてイリヤと桜を組ませるってハラ?」
「それもあるけど。遠坂、イリヤと戦ったらただじゃ済まないぞ。始めたらどっちかが必ず傷を負う。そういうのは嫌だ。俺は、もともと」
「初めから戦いを止める為に、でしょ? なんだ、それまだ変わってなかったんだ」
刺々しい態度から一転、肩をすくめて遠坂は言う。
「…………あ」
それは俺をさんざ引っ張りまわした、桜がああなるまで身近にあった、遠坂の素顔だった。
「な、なんだよ。一度決めたコトなんだから、そう簡単に変えられるわけないだろ」
「でしょうね。ほんと。前々から思ってたんだけど」
なんのつもりか。
遠坂ははあ、と大げさに溜息をついて見せて、
「衛宮くんって、すっごいバカでしょ」
こっちがびっくりするぐらいの笑顔で、そんなコトを言いやがった。
「な――――」
「けどいいわ。こりないヤツだけど、貴方はそうでなくっちゃ張り合いがない。不器用は不器用なりに、せいぜい努力する事ね」
「な、なんだその勝ち誇った顔はっ! なんか無性にハラたつなおまえ!」
「いいからいいから。で、その格好からするに衛宮くんもイリヤスフィールに用が有るってワケね。さっきはあてずっぽうで言ったけど、ホントにイリヤスフィールと話し合いをするつもりなんだ」
こっちが怒ってるっていうのに、にやにやとまあ実に楽しげに眺めてきやがる。
「む――――」
……くそ。
こうなるとどうしてか遠坂には弱い。なに言っても言い負かされるというか、反論すればするほど追い込まれていくというか。
「? どうしたの、急に黙っちゃって。黙秘なんて衛宮くんらしくないわよ?」
「…………ふん。そうだよ、おまえの言う通りだ。俺は今からイリヤに会いに行くんだから邪魔するな。ついてきたら追っ払うからな」
「あれ? なに、もしかしてイリヤスフィールの居場所知ってるの?」
「あ」
しまった。
また口にしなくともいいコトを。
「良かった、それなら案内してもらえる?
わたしもだいたいの場所は判るんだけど、大昔の地図だから信憑性低くって。衛宮くんが知ってるなら話は早いわ」
「――――おまえな。俺はついて来るなって言ったんだぞ」
「あら。衛宮くんはイリヤスフィールと話し合いに行くのに、わたしから目を離していいの? 万が一わたしが先に到着しちゃったら、もう話し合いどころじゃないと思うけど?」
「っ! お、おまえ俺を脅迫する気か!?
だいたいな、一緒に行ったところでイリヤにケンカ売るんだろおまえは!」
「売らないわよ? イリヤスフィールと共闘できるなら、それに越した事はないもの。とりあえずやるべき事は臓硯の排除でしょ。わたしがここに来たのは、イリヤスフィールに忠告に来ただけだもの」
「っ――――忠告って、なんの?」
「間桐臓硯がなにやら企んでるから、甘く見てると痛い目にあうって。キャスターの事もあるし、バーサーカーまでああなっちゃこっちが不利でしょ。
けど、そう忠告したところで戦いになるって覚悟してたけどね。わたしとあの子じゃ話し合いなんて出来ない。
一応忠告して、それで戦いになるのなら仕方ないって思ってた。いずれ倒さないといけない相手だし、遅いか早いかの違いでしょ?」
「でも、見たところ衛宮くんには当てがありそうじゃない? なら冒険をする必要もないし、衛宮くんの努力次第で事は丸く収まるってこと」
「――――――――」
「ほら、難しい顔しないっ。貴方がイリヤスフィールを説得できるなら、わたしは大人しく帰ってあげる。
で、もし失敗したら協力してあの子を倒すか、二人して逃げられるように手を貸すわ。どう? 悪い話じゃないんじゃない?」
「………………悪い話も何も。おまえ、どうあったって俺の後をついてくる気だろ」
「まさかあ、そんなの言いがかりよう? たまたま行き先が同じってコトもあるんだし」
「………………」
……あくまめ。
けどまあ、案内をする分には、遠坂は俺を優先してくれる。
放っておけばイリヤに戦いを挑む遠坂だが、ここで連れて行くと言えば、遠坂は大人しくしてくれるのだ。
「――――言っとくけど。俺だって道に確証はないぞ。
迷っても文句言うなよ」
「それは心配無用よ。貴方が向かってる方角、地図とピッタリ一致するもの。わたしの地図と衛宮くんの案内があれば迷う事なんかないわ」
「――――――――」
はあ、と遠坂に見えるように溜息をつく。
「わかった、観念したよ。城まで一緒に行こう。そうすれば、とりあえずイリヤとは戦わないんだな?」
「ええ、貴方がイリヤスフィールと交渉している間も邪魔はしないわ。あの子、敵に回したら厄介だけど味方にできるなら頼もし――――」
「な、地震……!?」
木々が揺れる。
遠くからは爆発めいた音が響いてくる。
……違う。
これは地震なんかじゃなく、何か、台風めいたものがすぐ近くで暴れている――――
「遠坂、これ……!」
「――――バーサーカー。どうやら一歩遅かったようね、わたしたち」
「な……じゃあ、向こうで暴れてるのはバーサーカーなのか!?」
「ええ。わたしたちがここにいる以上、バーサーカーが戦う相手は一人しかいない。……どうする? わたしは行くけど、衛宮くんは残る?」
考えている暇はない。
ここは、「――――俺も行く。その為に来たんだからな」
「それじゃわたしの後ろにいて。アーチャーを先行させるから、それで出会い頭に即死……ってのだけは避けられるわ」
それだけ言って、遠坂は森の奥へ走り出した。
霊体から実体化したアーチャーは一度だけこちらに視線を向け、道を切り開くように疾走していく。
「イリヤ、無事でいろよ…………!」
木刀を強く握り締め、遅れまいと全力で二人の背中を追いかけた。
◇◇◇
黒い巨人に連れられ、少女は城から抜け出した。
それは不可解な逃走だった。
本来、身を守るのなら最高の場所である城から逃げ出し、守りの薄い森へと逃れたのだ。
――――危険が迫っている。
その、避けられない事実を感知したのは少女の方が早かった。
……“敵”がゆっくりと城に近づいてくる。
それが強大なものと感じ取れるが故に、少女は城の防壁を最大にし、現れるであろう“敵”に備えて巨人を起こした。
黒い鋼体の巨人、バーサーカー。
理性を奪われ、ただ少女の命令に従うだけの破壊の化身。
その護衛と城の守りがあれば、どのような敵だろうと恐れる事はない。
そう自分に言い聞かせて、少女は堪えきれない不安に蓋をした。
だが。
敵が間近に迫った時、傍らで巨人は告げた。
逃げろ、と。
理性を奪われ、口を閉ざした筈の狂戦士でさえ、目前に迫った“何か”には勝てないと悟ったのだ。
その瞬間、少女は走っていた。
そんな事は判っている。
そんな事は判っていたのだ。
城の外壁に手をかけたソレは、自分たちに太刀打ちできるモノではない。
不吉な影は陽光を背にして広がり続け、それこそ巨大な影になって、易々と外壁を乗り越えた。
――――負ける。
自分はともかく、バーサーカーはアレには勝てない。
戦えばきっと負けて、バーサーカーは自分のサーヴァントではなくなる。
それが不安の正体だ。
少女は敗北ではなく、自らのサーヴァントを失う事を恐れて城から逃げだした。
黒い巨人に抱えられて森を疾走《はし》る。
不安は消えず、より重さを増して背中にのしかかってくる。
―――逃げられない。
この不安、恐怖からは逃げられない、と少女は漠然と悟り―――黒い巨人は足を止めた。
「ほう。賢明じゃな、勝てぬと悟って出てきおったか」
目前には枯れ木の如く老いた魔術師。
その傍らには、白い髑髏の面をつけた暗殺者《アサシン》が控えている。
間桐臓硯。
それが故郷の城を出る時に教えられた、同朋《マキリ》の魔術師である事は一目で判った。
「―――マトウゾウケン。聖杯に選ばれてもいないモノが、マスターの真似事をしているのね」
黒い巨人から降り、少女は老人と対峙する。
その瞳に恐れはない。
少女と巨人が脅威を感じたモノは、間違っても目前の敵ではないのだから。
「ほ。聖杯に選ばれる、などとつまらぬ事を。聖杯はマスターなど選ばぬ。聖杯とは受け皿にすぎぬもの。そこに意思があり聖別をするなどと、おぬしまで教会の触れ込みに毒されたか?」
「…………………………」
愉快げに笑う老人を、少女は冷淡な瞳で見つめる。
……たしかに老人の言う通り、聖杯は選ばない。
マスターは聖杯に選ばれ、サーヴァントは聖杯の力でカタチを与えられ、マスターによって現世に留まる。
その前提《ルール》は、意図的に歪められて伝わったものだ。
聖杯《そ》戦争の目的が逆である事を少女は知っている。
聖杯はただ注がれるだけのもの。
マスターは選ばれるのではなく、ただ儀式の一端として用意されるだけのもの。
そしてサーヴァントとは、ただ門を開ける為だけのもの―――
「……ふん。貴方こそ脳を毒されたんじゃないの、ゾウケン。
器になる聖杯に意思はないけど、マスターを選び出す大聖杯には意思があるわ。もともとこの土地に原型があるからこそ、貴方たちは英霊を呼び出して聖杯を満たそうとした。
―――ま、当事者である貴方がソレを忘れるぐらいだから、マキリの血は衰退したんでしょうけど」
少女の声は冷たい。
嘲《あざけ》りでしかないそれを、老人は呵々と笑って受け止める。
「いやいや、心配には及ばぬ。マキリの衰退もここまでよ。事は成りつつあってな。予定では次の儀式で行う筈じゃったが、今回は駒に恵まれての。ワシの悲願はあと一手で叶おうとしておる」
「そう。なら勝手にすれば? わたし、貴方に興味はないわ。わたし以外の器なんて気に入らないけど、どうせ失敗するんだし。邪魔はしないから、大人しく地の底に戻ったら?」
「言われるまでもない。この老体に日の光は辛いのでな、事が済めば早々に古巣に戻る。
だが―――やはりのう、こうも上手くいきすぎると逆に不安が大きくなる。万が一のため、おぬしの体を貰い受ける。ここで聖杯《おまえ》を押さえておけば、我が悲願は磐石じゃ」
―――老人に鬼気が灯る。
白い髑髏がゆらりと立ち上がるも、老人の意思に反して動きを止めた。
「――――――――」
見れば判る。
白い面の暗殺者は、少女を守る巨人に気圧されている。
どうあっても自分では倒せない。
攻め込めば、一太刀のもとに両断される――――
そう確信したがため、暗殺者は動かずにいた。
「……ふん。主に似て臆病なサーヴァントね。そんなに死ぬのが怖いなら戦わなければいいのに。貴方といいゾウケンといい、そんなに自分の命が大事?」
「――――――――」
応えはない。
髑髏の面は言葉を発せず、代わりに、彼の主が高らかに笑い出す。
「ああ、大事だとも! 我が望みは不老不死、こやつの望みも永劫に刻まれる自身の名でな。我らは同じ目的の為、こうして邁進しておるという訳だ」
「……正気なの、貴方。聖杯にかける望みが不老不死ですって?」
少女の瞳に嫌悪が宿る。
老人の口元はさらに歪む。
その罵倒。その罵りこそを待っていた、とでも言うかのように。
「当然じゃ。見よこの肉体《からだ》を。刻一刻と腐り、腐臭を放ち、肉ばかりか骨をも溶かし、こうしている今も脳髄は劣化し蓄えた知識を失っていくのだ。
―――その痛み。生きながら腐る苦しみがおぬしにわかるか?」
「……自業自得でしょう。人の体は百年の時間に耐えられない。それを超えようというのだから、代償は必要だわ。それに耐えられないなら消えればいい。苦しいのなら、死ねば楽になるんじゃなくて?」
「――――――――カ」
老体が震える。
魔術師は咳をするように背中を震わしたあと。
「カカ、カカカカカ……! やはりそうきたかアインツベルン! 貴様らとて千年続けて同じ思想よ! 所詮人形、やはり人間には近づけなんだ!」
そう、心底おかしそうに哄笑をあげた。
「……なんですって?」
「――――たわけめ。よく聞くがよい冬の娘よ。
人の身において、死に勝る無念などない。腐敗し蛆の苗床となる肉の痛みなど、己が死に比べれば脳漿の膿に等しいわ。
自己の存続こそが苦しみから逃れる唯一の真理。死ねば楽になるなどと、それこそ生きていない証ではないか。
だからこそおぬしは人形にすぎぬのだ。その急造の体ではあと一年と稼《も》動つまい。短命に定められた作り物に、人間の煩悩は理解できぬという事だ……!」
「―――ええ、理解できないわ。貴方は人間の中でも特例だもの。そんな長く生きたクセに、自分の寿命を受け入れられないなんて、狂ってるとしか思えない。
ねえ。貴方、そんなに死にたくないの?」
「無論。ワシは死ぬ道理《ワケ》にはいかん。このまま死にたくはない。まだ世に留まり、生を続けなくてはならぬ。だがそれも既に限界。故に腐らぬ体、永劫不滅の器が欲しい。
――――その為に」
「その為に聖杯を手に入れようというの? 死が恐ろしいから、聖杯を求めるの?」
「カ、死が恐ろしくない人間がいるのかね?
よいか、いかな真理、いかな境地に辿り着こうと無駄なこと。自己の消滅、世界の終焉を克服する事は出来ぬ。
最期に知っておけ。目の前に生き延びる手段があり、手を伸ばせば届くというのなら―――何者をも、たとえ世界そのものを犠牲にしても手に入れるのが人間だとな……!」
「―――じゃあ、貴方は自分が生き続けるために、他の人間をみんな犠牲にするっていうの?」
「応よ。それで我が望みが叶うというのなら、世界中の人間を一人一人殺してまわっておるわ。
―――人の強欲は尽きぬもの。
おぬしとて木々の一本一本が寿命を延ばす妙薬とすれば、この森など瞬く間に食らいつくそう。たとえそれが、僅か一日足らずの延命だとしてもな。
己が一日の為に世界の一部を殺していく。
その願望は、この森だけでは飽き足らず世界中の木々を殺す事になろう」
「その伐採《おこない》によって世界《たにん》が滅びようと知った事ではない。
当然であろう? もとより、人間とはそのようにしてここまで広がり、育ち、増え、繁栄し肥満しきった有象無象。
そこに、もはや連鎖すべき法則など成り立たぬ。いずれ破綻するのであらば、ワシ一人が足並みを崩したところで誰にも異論は挟ませぬわ……!」
嬉々として老人は語る。
それを驚きの目で見つめたあと。
「―――あきれたわ。そこまで見失ってしまったの、マキリ」
少女は、少女の声ではない声でそう言った。
「……な、に?」
「思い出しなさい。わたしたちの悲願、奇跡に至ろうとする切望は何処からきたものなのか。
わたしたちは何の為に、人の身である事に拘《こだわ》り、人の身であるままに、人あらざる地点に到達しようとしていたのかを」
「――――――――」
哄笑が止まる。
老魔術師は、何か、遠い空を見上げるように眼を凝らし。
「―――ふん、人形風情がよくも言った。先祖《ユスティーツァ》の真似事も、すり込み済みという訳か」
醜悪に形相を歪め、白い少女を凝視した。
「――――もうよい。戯れはここまでじゃ。おぬしの体は要るが、心になど用はない。アインツベルンの聖杯、この間桐《マキリ》臓硯が貰い受ける」
「――――――――」
老人の影が地面を這う。
……それに応じて、少女に圧し掛かっていた重圧《ふあん》が増大していく。
「」
黒い巨人は、少女《あるじ》の命を待たずして出陣した。
「だめ……! 戻ってバーサーカー……!」
少女の声は届かず。
黒い巨人は旋風を伴って、圧し掛かる影を薙ぎ払ったが――――
◇◇◇
風の音がする。
木々を震わせ森を駆け抜けるソレは、どこかで聞き覚えのある風鳴りだ。
「――――――――」
段々と地響きが大きくなる。
……発信源に近づいているのだ。
おそらくはこの森の向こう。
もう目前に迫った、深く重なりあう木々の向こうで、最強を競う戦いが行われている――――
「!」
足が止まる。
木々のない、開けた広場に出ようとした瞬間、全力で足を止めて身を隠した。
「バーサーカー……!?」
遠坂も木の陰に体を隠し、広場の惨状を直視している。
―――広場は、文字通り戦場だった。
刃を交わらせるサーヴァントは三体。
一人は黒い巨人、バーサーカー。
もう一人は白い髑髏面の暗殺者、アサシン。
そしてもう一人――――もう、一人は。
「……ちょっと。アレ、まさか」
遠坂の声が震えている。
「――――――――」
……よく聞こえない。
すぐ隣りで囁かれているはずの声が、まったく耳に入ってこない。
三人目のサーヴァント。
黒い甲冑に身を包んだソレは、初めて見る相手だ。
だが、それは、
「――――そんな、事が」
同時に、俺のよく知っているヤツを連想させた。
「――――!」
黒い巨人が雄たけびを上げる。
岩山をも砕かんとする一撃は虚しく宙を切り、地面を吹き飛ばす。
「――――――――」
ソレは乱れ飛ぶ土塊に怯《ひる》みもしない。
吹き荒ぶ風の元凶はあの黒い剣士《サーヴァント》なのか、黒い甲冑はバーサーカーの大剣と土塊をすり抜け、無防備な体を一閃する。
「」
苦悶は巨人のものだ。
あらゆる攻撃を無効化しかねない鋼の肉体。
それを、黒い剣士は苦もなく切断する。
無明の闇が光を呑むように、剣はバーサーカーの横腹を黒で塗りつぶしていった。
「だめ、逃げるのバーサーカー……! そいつにやられたら戻ってこれなくなる……! もう戦わなくていいから、早く……!」
泣くようなイリヤの声。
「無駄よ無駄よ。彼奴《きゃつ》に囚われてはもはや逃れられん。
二対一ならばまだしも、三対一ではさしもの大英雄もここまでだろうて」
嘲笑う声は間桐臓硯のものか。
イリヤと臓硯―――二人のマスターは互いのサーヴァントを盾にして向かい合っている。
臓硯の前にはバーサーカーに敗れたであろうアサシン。
イリヤの前には、全身を黒いものに侵食されたバーサーカー。
……その足元は黒い沼になっていた。
地面は土ではなく、底なしの泥になってバーサーカーの動きを封じている。
そればかりではなく、沼からは黒い蔦《つた》が伸び、巨人の手足さえ拘束していた。
……知っている。
アレは間違いなくあの“黒い影”だ。
だっていうのに、一瞬「………………」
何か、よく知っているモノに見えた、気がする。
「――――!」
一際高い剣戟で目が覚める。
……状況は、絶望的だった。
バーサーカーは強い。
あの“黒い影”に飲まれようとしているのに、黒い剣士と互角に戦っているのだ。
だがそれも限界。
黒い剣士は苦もなく地面を駆け、バーサーカーを一刀する。
サーヴァントとしての実力は互角かそれ以上だとしても、バーサーカーは刻一刻と自由を奪われていく。
……なら。
その伯仲した実力《てんびん》は、秒単位で黒い剣士へと傾いていくだけだ。
「――――ふむ、勝負あったな。
後は任せたぞアサシン。これ以上ここにおっては巻き添えをくらいかねん。バーサーカーが飲まれ次第、アインツベルンの娘を捕らえ戻ってくるがよい」
臓硯の姿が霞む。
ヤツはアサシンを残してこの森から離れていく。
「……よいか。彼奴は目につくモノならば見境なく呑む。
それが魔力の塊ならば尚の事だ。アインツベルンの娘、むざむざ飲まれる事のないようにな」
……姿だけでなく、気配まで薄れていく。
臓硯は消えた。
残ったものはアサシンとバーサーカー。
そして、剣を高々と掲げた、黒い剣士の姿だった。
「――――だめ。そんなの、バーサーカーでも死んじゃう。だから、もう逃げてよ、バーサーカー」
呆然と、感情のない声でイリヤは漏らす。
「」
それをどう取ったのか。
黒い巨人は、咆哮と共に前進した。
「な――――」
その前進は、暴風としか見えなかった。
「」
バーサーカーは地面を、膝まで沈みこんだ黒い影を蹴散らしながら突進する。
それは、あり得ない行動だ。
バーサーカーを封じているのは足元の沼だけでなく、黒い影は全身に絡みついて巨人を縛している。
進めない。
黒い影に体を侵食されたバーサーカーは一歩たりとて動けない。
故に、巨人はその身を裂いた。
片手で胸を掴み、バリ、という音をたてて、黒い影を引き剥がした。
―――絡みついた肉ごと、骨が覗こうというまで、自らの肉を剥いだのだ。
巨体が迅る。
旋風を伴う一撃は、今度こそ黒い剣士を打ち砕く。
おそらくは最後の一撃。
自らの肉を剥ぎ、瀕死になりながらも放つ一刀が必殺でない筈がない。
それを。
剣士は、最強の一撃を以って迎撃する。
「やだ――――止めて、バーサーカー……!」
イリヤが走る。
巨人の足元に広がる影が見えないかのように、一心にバーサーカーへと走り出す。「イリヤ………!」
ここで出て行っても何にもならない。
あの“黒い影”にも黒い剣士にも勝てる見込みなんてない。
それでも――――
それでも――――今は、イリヤを止めないと……!
「戻れ、だめだイリヤ――――!」
木の陰から飛び出す。
バーサーカーへと駆け寄るイリヤを、真横から抱きとめる。
……緊張で麻痺した耳には、狂戦士の咆哮と、強い風鳴りと、
視覚すら覆うほどの、爆音が流れ込んだ。 イリヤを抱きかかえ、暴風に耐え切れず地面に倒れる。
視界は白のまま、立ち上がる事さえ出来ない。
……いや。
立ち上がる事さえ、忘れてしまった。
「――――――――」
……体が熱い。
衛宮士郎の中心、芯に眠るモノが、今の一閃に共鳴している。
正体は掴めず理由も定かではないが、この熱は今の宝具と共鳴したものだと感じ取れた。
「―――――――なんて」
視界が死んでいるように、呼吸も死んでいる。
今は何も出来ない。
この眼球にあの剣が焼き付いているかぎり、人間らしい機能など戻らない。
「――――――デタラメ」
魅入られている。
たった一瞬、わずかにしか見えなかったモノに、心底心を奪われた。
……数ある宝具の中でも、アレは段違いの幻想だ。
造型の細やかさ、鍛え上げられた鉄の巧みさで言えば、上回る宝具は数あろう。
だが、アレの美しさは外観ではない。
否、美しいなどという形容では、あの剣を汚すだけだ。
剣は、美しいのではなく、ひたすらに尊《とうと》かった。
人々の想念、希望のみで編まれた伝説。
神話に寄らず、人ならざる業にも属さず、ただ想いだけで鍛え上げられた結晶だからこそ―――あの剣は空想の身で、最強の座に在り続ける。
―――視力が戻る。
空は赤黒い火に照らされ、真夜中のように暗い。
森を両断した光は、その実闇そのものだったのか。
炎は音もなく燃え続けているというのに、空気は依然として冷たいまま。
アレは酸素を燃やすモノではなく、むしろ凍らせるものなのか。
暗く照らされながらも、森は更に気温を下げていく。
「――――――――」
その、黒い炎を背にして、剣士が立っていた。
片手にイリヤを抱きかかえたまま、向けられた剣を睨む。
剣士からは殺気も敵意も感じられない。
それに殺されると恐怖し、同時に、悔しくて歯を噛んだ。
―――これは違う。
これじゃあ別人だ。
殺気と敵意だけじゃない。
……彼女には。
以前あれほど感じられた気高ささえ、皆無だった。
ヘルムが砕ける。
バーサーカーの最後の一撃だろう。
素顔を現した敵は、変わり果てていようと、紛れもなく彼女だった。
「セイ、バー」
「――――――――」
応えはない。
金に変色した瞳は何事も示さず、ただ、倒れ伏した敵《おれ》を見下ろしている。
「――――シロウ」
イリヤの声は震えている。
目の前に剣を突きつけられ、セイバーの背後では、バーサーカーの亡骸らしきものが、黒い影に沈んでいた。
自らのサーヴァントの敗北と、目前に迫った死。
それで、幼い少女が怯えない筈がない。
「―――――――セイバー」
余分な感情を振り払う。
イリヤを一層強く抱きしめ、残った右腕に力を込める。
――――今は呆けている場合じゃない。
イリヤを助ける。
イリヤを助けて、衛宮の家に帰る。
なら、ここで怯えて死を待つ訳には――――!
「――――!」
セイバーの剣が切り返される。
彼女は立ち上がろうとした俺を斬り伏せようとし、瞬間―――横合いから掃射された三連の矢を弾いていた。
「アーチャー……!?」
イリヤを抱いたまま立ち上がる。
「止まるな! イリヤを連れてさっさと逃げろ!」
ぶつかり合う剣と剣。
アーチャーはセイバーを狙い撃ち、間髪入れずに斬りかかった。
「っ……………!」
「―――――――」
だが、それも気休めにすぎない。
神速の踏み込みで放ったアーチャーの両刀は、容易くセイバーに弾かれた。
「ぐっ……!」
アーチャーの様子がおかしい。
見ればあいつの足元にも、黒い影が絡まり始めていた。
「―――無様だなアーチャー。
正純の英霊では、アレの呪界層には逆らえん。今の貴様は、この森に満ちる怨霊と大差がない」
……冷淡な声は、紛れもなくセイバーのものだ。
彼女は事も無げに黒い影を踏み砕き、そのまま「ぐっ……!」
容易く、アーチャーを背後の森まで弾き飛ばした。
「な――――」
あの影に足首を掴まれていたとは言え、双剣で防ぎに入ったアーチャーを、防御の上から苦もなく斬り飛ばす、なんて。
「――――――――」
……そうして、また繰り返しだ。
セイバーは口を閉ざしたまま俺たちと対峙する。
―――その目が。
イリヤを渡さなければ殺す、と絶対の意思を告げていた。
「……シロウ」
腕に巻きついたイリヤの手が離れる。
それが―――自分を差し出していい、と言っているようで、最後のスイッチが入った。
「――――下がってろ。森まで行けば遠坂がいる。そこまで行けばなんとかなる」
イリヤを後ろに押しのけて、自由になった左手を木刀に添える。
……構えは正眼。
セイバーが踏み込んでくるのと同時に、ありったけの力と魔力を叩き込んでやる。「――――――――」
今はそれだけだ。
俺にはセイバーに言うべき言葉なんてない。
謝る事などできないし、戻って来いとも言えない。
彼女が口を閉ざしている以上、それは、口にしてはいけない事だ。 ―――セイバーは敵として目の前にいる。
なら、全力で戦う事ぐらいしか、彼女に応える術はない。「っ………………」
……狙いを定める。
相打ちなんて狙わない。そんな戦法は通用しないとセイバー自身に教わった。
自らの死を前提とする一撃は、実力が伯仲したものにのみ通じるもの。
俺とセイバーでは相打ちなんて上等なものは狙えない。 故に、狙うは一撃のみ。
兜を砕かれた、という事は頭部になんらかのダメージを負っている筈だ。
そこに渾身を試みる。
自分は生き延びて敵を倒す。
その、絶対のイメージの下で斬り合わなければ、セイバーとは勝負にもなり得ない――――!「――――――――」
来る……!
避けろ、避けろ、避けろ、避けろ……!
無様でもいい、地面を這ってもかまわない、まずこの一撃を躱せなければ、イリヤを守る事だって――――
「あ」
―――死んだ。
なまじセイバーと試合をした分、それが一本だと体で判った。
隼《はやぶさ》めいた一刀は左上段から。
稲穂を刈る鋭さで、衛宮士郎の無防備な首を薙ぎ払う。
……が。
首は、いつまでも付いたままだった。
セイバーの剣は、俺の薄皮一枚で止まっている。
「――――――――」
……何があったのか。
彼女は、やはり無言のまま剣を収め、身を翻した。
「――――!」
……まさか、セイバーが剣を止めた理由とはアレか。
地面に広がる黒い沼。
そこから、あの“影”が這い出ようとしている。
……間違いない。
アレは以前、公園で見た、
呪いの塊としか言えない、正体不明の存在だ―――
「私の役目は済んだ。後は貴公に任せる」
「有り難い。容易い仕事だ、狂人《マジュヌーン》に敗れた失点を取り返せる」
セイバーは黒い沼へ進んでいく。
……そうして。
バーサーカーと同じように、ズブズブと音を立てて、黒い影に沈んでいった。
「――――――――」
それを、最後まで見届けた。
―――何故彼女がこの世に残っているのか、どうして敵に回ったのかは、俺の知るところじゃない。
敵同士になったからには戦うだけ。
もとよりこの戦いはそういうものだった。
「――――――――」
……ただ、それでも。
あの夜、俺がもっと強かったなら―――彼女をあんな、黒く濁った姿にはしなくて済んだのだと、思ってしまった。
「衛宮くん……!」
「――――っ」
遠坂の声で我に返った。
―――目前にはヒタヒタと近寄ってくる“黒い影”と、髑髏の面を笑いに歪めたアサシンがいる。
「逃げるぞ、イリヤ……!」
イリヤの手を取って走り出す。
「――――――――」
イリヤはバーサーカーが飲まれた沼を悲しげに一瞥した後、涙を堪えて走り出した。
◇◇◇
森を走る。
前には先行する遠坂の背中。
背後には、木々をすり抜けて追ってくるアサシンの気配。
「衛宮くん、後ろ……!」
俺たちが気になるのか、とっくに逃げ出せた筈の遠坂は速度を緩めて振り向く。
「っ……!」
すぐ真後ろに敵が迫っている事は、俺にだって判っている。
だが振り払えない。
追っ手はアサシンのサーヴァントだ。
イリヤを連れた状態ではどうやって振り払――――
「――――そこまでだ。オマエは要らない」
「え……?」
すぐ耳元で、不吉な声がした。
視線を横に移すと、そこには 短剣を舐め笑う、白い髑髏の面があった。
「ズ――――!?」
白い髑髏が吹き飛ぶ。
俺たちの真横に並走していたアサシンは、そのわき腹に蹴りを食らって弾かれたのだ。
「……フン。奇襲でなければ小僧の首も落とせないのか、三流」
言いつつ、アーチャーは足を止めない。
「殿《しんがり》は任された。おまえはイリヤを連れて逃げろ。
―――急げ、アレに追いつかれたら終わりだぞ」
アーチャーの視線はアサシンと、その奥からやってくる何かに向けられている。
「――――――――」
……追ってきている。
あの影は、地面を黒く侵食しながら俺たちを追ってきている――――!
「アーチャー、あれは……!?」
「詮議は後だ。走れ小僧。イリヤの手を取ったからには、最後まで守り通せ」
アーチャーはわずかに速度を緩め、俺たちの後ろにつく。
……その一瞬。
去り行く寸前、アーチャーはひどく済まなそうな目で、イリヤを見つめていた。
鬩ぎあう剣戟を背にして森を抜ける。
背後では俺たちを追ってくるアサシンと、それを食い止めるアーチャーの打ち合いが続いていた。
「ヌ、グ――――」
攻めきれず、何度目かの後退を余儀なくされるアサシン。
アーチャーとの打ち合いは互角。
隙を見て俺に投げつける短剣も打ち落とされ、アサシンはどう見ても攻めあぐねている。
が、それはアサシンが弱いのではない。
「は、セイ――――!」
十重二十重《とえはたえ》の投剣を弾くアーチャー。
その気迫は今までの比ではない。
――――勝勢はアーチャーにある。
なんでか知らないが、今のアーチャーは鬼神めいた強さだった。
「ヌ――――貴様、何故動ける……!?」
渾身の一撃を斬り落とされ、後退しながらアサシンは声を上げる。
それを。
「知れた事。私は他の連中のようにまっとうな英雄ではない。正純ではない英霊ならばあの泥と同位。
つまり――――」
勝機と見たのか、アーチャーは逆走する形で踏み込み、
「おまえほどではないが、この身も歪《いびつ》な英霊という事だ…………!」
一刀のもと、白い髑髏を両断した。
「ギ――――!」
黒衣が四散する。
アサシンは断ち割られた面《おもて》を手で押さえながら逃走する。
それは仕切り直す為の後退ではなく、命を保つ為の逃走だ。
黒いサーヴァントはアーチャーから逃がれ、木々の闇へと姿を消す。
「上出来……! これで追いつかれる心配もなくなった……!」
「ごくろうさまアーチャー。疲れたでしょ、しばらく休んでいいから霊体に戻っていて」
安心しきった顔で遠坂は言う。
「――――凛!」
その、背後で。
「――――、とお」
木々の影から生まれるように、アレが、浮かび上がっていた。
「え、なに?」
後ろを振り向く。
同時に、黒い影はその触手を伸ばし――――
「とお、さか――――」
走っても間に合わない。
俺は、遠坂の体が黒い触手に貫かれるのを目の当たりにしようとし、
「グ――――」
遠坂を突き飛ばして串刺しにされた、アーチャーの姿を見た。
「え……?」
突き飛ばされた遠坂は、呆然とアーチャーを見上げている。
「――――――――」
アーチャーは、終わっていた。
まだ息はあるし、出血も少ない。
体を貫かれようが、それが急所でないのならいくらでも再生は可能の筈だ。
……それでも、アーチャーはもう戦えないと判ってしまった。
……アレはサーヴァントを殺すもの。
いかに強力な英霊であろうと、その身がサーヴァントとして召喚された以上、あの“黒い影”には敵わない。
それを、理由もなく漠然と理解した。
「うそ……アーチャー、なに、してんのよ」
……遠坂も感じ取ったのか。
震えた声でアーチャーに呼びかけ、おぼつかない足取りで立ち上がって、そのまま――――
「来るな……! さっさと逃げろ、たわけ……!」
アーチャーの叱咤で、びくりと体を止めていた。
―――黒い影が躍動する。
森が死ぬ。
周囲にある全ての魔力があの影に吸われていく。
「――――」
間抜けなことに、それが水風船のようだと思ってしまった。
もういっぱいではちきれそうな風船に、まだ水を注いでいる。
風船は限界以上に膨れ上がり、破裂して、その中身を外にぶちまけるような厭な予感《イメージ》が――――
「ま――――ずい」
巻き込まれる。
ここにいては完全に飲み込まれる。
……アーチャーは体に突き刺さった触手を引き抜き、遠坂へと走り出す。
なら、俺は――――
◇◇◇
イリヤを守る。
この場で二人に手を伸ばす事はできない。
遠坂にはアーチャーがいて、イリヤには誰もいない。
なら俺が、
バーサーカーの代わりを果たさなければ――――!
「イリヤ、伏せろ……!」
力ずくでイリヤを倒す。
そのまま、イリヤを隠すように覆い被さった瞬間。
視界と知覚が、黒一色に染め上げられた。
「ぁ――――」
熱い。
体が吹き飛ばされそうだ。
凝縮し、解放された魔力の波は暴風となって森を侵す。
ない。
視界はまっくろ。
こんなにハッキリ見えているのに暗いってコトは、黒い太陽でも落ちてきたのか。
体《じぶん》が、ない。
だから、きっと太陽の熱で溶かされたのだ。
体がない。
痛みより、触覚がない喪失感が気色悪い。
「は――――あ――――ぁ――――」
でもそれは困る。
体がないとイリヤを守れない。
黒い影はイリヤを連れて行こうとする。
それに、右腕で懸命に抗った。
イリヤの体を右手で抱いて、とにかく地面に張り付いたのだ。
「は――――あ」
それで、ようやく判った。
体はある。だって体がないとイリヤは守れない。
……まったく、大げさに取り乱したもんだ。
なくなったのは左腕だけ。
じゅっ、と音をたててキレイさっぱり消え去ったのは左腕だけで、体はちゃんと残っている。
……ただ、それでも喪失感は変わらない。
二本あったうちの一本がなくなっただけだというのに。
まるで体がなくなってしまったと思うほど、大きく何かが欠けてしまった。
「――――――――」
……消えていく。
今ので力を使い果たしたのか、“黒い影”は跡形もなく溶けていった。
……イリヤは、無事だった。
耳が麻痺したのか、何を言っているのか、よくわからない。
遠坂は……どうなったん、だろう。
アーチャーは……いた。
赤い外套を真っ赤にして、今にも消えそうなほど、弱っている。
……おかしいな。
なんで、ここに彼女が、いるんだろう。
「――――正気ですか。そんな事をすれば、貴方は」
「考えるまでもない。何もしなければ消えるのは二人だが、移植すれば確実に一人は助かる。
……どのみちこの体は限界だ。このまま消えるというのなら、片腕を切り落としたところで変わるまい」
アーチャーと、ライダーが、話して、いる。
……何がどうなっているのか。
あいつは、最後に、
「通常ならば死ぬ。肉《ひと》の身に霊体をつなげては助からない。だがオレとその男は特例だ。凛が目を覚ましたら、うまく処置をしてくれるだろう」
遠坂の髪を、一度だけ、愛しげに梳《す》いていた。
――――視界が暗くなっていく。
森に黒い太陽はもうない。
なら、これは。
俺の意識に、暗い闇が落ちてきたのか。
「――――ここまでか。達者でな、遠坂」
そんな俺みたいな声で、アーチャーは別離《わかれ》を告げていた。
◇◇◇
“影が”揺れる。
血に塗れた赤い騎士と、地面に腰を落としたまま呆然とする遠坂凛。
そこから五メートルほど離れた場所に、銀髪の少女と、手を繋いで立ち尽くす衛宮士郎の姿があった。
……影が揺れる。
影は枯れ木のように縮んだあと、河豚《ふぐ》のように膨れ上がった。
いや、その毒々しさはもっと醜悪な深海魚のソレだろう。
影の膨張は止まらず、恥知らずにも際限なく膨れ上がり、森を真黒《まくろ》に染めた。
――――瞬間。
赤い騎士は遠坂凛を庇って絶命し、衛宮士郎は、幸運にも助かった。
森の地面が凹凸《おうとつ》だった事が幸いしたのだ。
広がった黒い影は窪《くぼ》みにいた衛宮士郎を避けて通った。
ただ、窪みから出ていた左腕だけは、その幸運に与《あずか》れずに―――
「――――!」
夢から覚めた。
ライダーを士郎の護衛に送ってから半日。
衛宮邸からでも様子が判るようにと、サーヴァントと視界を共有していた間桐桜は、その光景で現実に引き戻された。
「は――――あ、う…………!」
吐き気がする。
サーヴァントと共有していた視覚を強引に断った為、視界は失明したかのように白濁としている。
眠っていた体は汗をかいて、少しでも息を吸うと、途端―――
「うっ……は、あ……!」
喉元まで、胃の中のモノが戻ってきた。
脱衣場に駆け込む。
口元を手で覆って、呼吸をせずに洗面台にすがりついて、
「う、っ、う…………!」
たまらず、胸の中に渦巻いたものを吐き出した。
「――――あ」
俯いたまま肩を上下させる。
長い髪はカーテンのように揺れて、鏡から顔を隠す。
「……うそ。先輩、手が」
呆然と、さっきの悪夢を思い返す。
……あの映像に間違いはない。
衛宮士郎は銀髪の少女を庇って、左腕を失った。
それも根元から、跡形もないほどに溶解された。
「――――わたし、なんて、コトを」
思ってしまったのか、と桜は自虐する。
背中には悪寒と妙な高揚感があって、何が起きたのか、何をするべきなのかも考えつかない。
分かるのは、自分が嫌いだという事だけだ。
……以前、彼女は思ってしまったコトがある。
衛宮士郎が外に出られないぐらいの怪我をすれば、もう危ない目にあわなくてすむ、と。
「違う……そんなの、違ったんだ」
そう、違った。
そんなコトはなんの解決にもならない。
外に出られないぐらいの怪我がいい、なんて、どれほど軽率な願いだったのか。
彼女の願いとは関係なく、衛宮士郎は傷を負った。
外に出られないどころか、命に関わる傷を負った。
その二つに違いなどない。
怪我をする、とはそういう事だ。
体の一部を欠損するその不幸を、どうして、いい事のように願ってしまったのか。
「うっ――――あ、う、ぁ…………!」
吐き気は治まらない。
胃の中のものを全て吐き出しても嘔吐は止まらない。
胃液と血。
切り刻まれるような腹部の痛みと喉の傷は、自らを責める罰のようだ、と彼女は思った。
……そうして数十分後。
胃液すら枯れ、ようやく吐き気が収まって、彼女は平静を取り戻した。
はぁはぁという声。
荒々しい呼吸と、苦しげに上下する肩。
何十キロと続くマラソンをやり終えた後のように、両手を洗面台につけて息を整え、
「―――でもこれで、もう先輩は戦えない」
恍惚とした声で、ありのままの気持ちを口にした。
短い呟き。
荒い息づかいのまま顔をあげる。
鏡に映った自分は、罪悪感に押し潰されている。
申し訳なさそうに俯いた顔は、衛宮士郎の安否を気遣ってのものだ。
彼女は本気で、一点の偽りもなく、衛宮士郎の無事を願う。
鏡には、口元を歪めて笑う横顔が映っていた。
◇◇◇
――――熱い。
蒸した石室に閉じ込められている。
肩の付け根から侵入する熱は、細胞を食う極小の蟲のようだ。
肩。腕があった所にはハチミツがべったりと塗りたくられ、絨毯みたいに群なした蟲《アリ》が集まってきているよう。
――――――熱い。
体が内側から焼ける。
蒸した石室というより、フタをしたフライパンだ。
じゅうじゅうと音をたてて、気を抜けばいつのまにか真っ黒焦げになっている。
――――――――――熱い。
熱は、体ではなく心を溶かす。
ジリジリとゴウゴウと。
遺伝子《さいぼう》を焼き、書き直すように、熱は強く慎重に広がっていく。
……その、悪い夢がついに終わるのか。
――――――――――――熱い。
蟲を逃がすまいと、開いていた穴にフタをされた。
――――熱い。
――――熱い。
――――熱い。
――――熱い。
――――熱い熱い熱い熱い…………!!!!!
穴とは肩だ。
どうしてかキレイさっぱりなくなった左腕が入り口になって、蟲は無遠慮に体の中に入ってきた。
その入り口――――連中を外に出すべき穴が、自分以外の肉片で塞がれた――――!
変わっていく。
得体の知れないモノに変わっていく。
入ってくる。
知るはずのない知識が入ってくる。
それはヤツの戦闘経験であり、戦闘情報でもある。
「は――――あ、が――――!」
それがあいつの宝具だった。
一対の短剣が、ではない。
干将莫耶《かんしょうばくや》。
古の名工が作り上げた宝剣を愛用するあいつは、同じく鍛冶を生業とする英霊だったのだ。
だから作る。
目に見たもの、理解したものならばいくらでも複製する。
否。
それは複製ではなく投影。
術者の創造理念《イメージ》が真作を再現する特殊な魔術。
それを―――使いこなせと、心を燃やす熱が言った。
「は――――あ、あ――――!」
冗談じゃない。無理だ。そんなものは入りきらない。 投影なんて知らない。俺はまだその域に達していない。そんな近道は必ずこの身を破滅させる。 だいたい、俺は俺だけで手一杯なんだ、そんな他所のモノを見せ付けられても覚えられないし使いこなせない。なによりそれだけの力がなくおまえと俺は赤の他人で何の接点もないんだから体が馴染む筈がない、いや、仮に馴染んだところでどうなる耐えられる筈がない、 時間を狂わせてはいけない秩序を乱してはいけないおまえが俺に手を貸すなんて、そんな事をされても俺には扱える技量がない――――「――――――――」
……ゆっくりと意識が戻る。
俺は知らない部屋で、慣れない寝台に横たわっていた。
「……あ……れ」
体を起こす。
俺は確か――――森でセイバーと出会って、遠坂と逃げて、それで、イリヤを――――
「………………」
はた、と目が合う。
イリヤは寝台のすぐ横にいて、俺を呆然と見つめていた。
「――――そうか。無事だったんだ、イリヤ」
ほう、と胸を撫で下ろす。
状況は掴めないが、イリヤが無事なのは本当に嬉しい。
「やったぁ! 目が覚めたんだね、シロウ!」
「え――――ちょっ、イリヤ……!」
イリヤはまっすぐに突っ込んでくる。
「っと」
「よかった……よかったよぅ、シロウ……!」
ばふ、と頭からこっちの胸に飛び込んできて、イリヤは“よかった”を繰り返す。
「――――――――」
……まいった。
状況は本当によく判らないけど、こんなふうに泣きつかれたら大人しくしているしかない。
「怪我は痛まない? 少しでもおかしいなって思ったら、すぐ代わりの物をつけさせるから!」
「……? ああ、別に痛いところなんてないよ。それよりイリヤ、あれからどうなったのか説明――――」
してくれ、と言いかけて、
「ぎっ――――!?」
体を、長い刃物で串刺しにされた、かと思った。
「は――――ぎ、ずっ――――!」
痛みに耐えかねて、右腕で胸を掻き毟る。
「シロウ……!? 落ち着いて、我慢するんじゃなくて左腕を抑えつけるの……!」
「ぁ――――左、腕…………?」
……よく判らない。
よく判らなかったが、とにかく今は痛みから逃げだしたかった。
「――――は――――はあ、は――――あ」
……心を落ち着かせる。
目を閉じて瞑想すれば、異常な個所はすぐに把握できた。
痛みの元、異物がなんであるか判れば多少はコントロールできる。
要は関を作って、異物が本体に混ざらないよう努めればいいだけだ。
「――――ふう。大丈夫、落ち着いたよイリヤ」
「うん、わたしにも判るよ。どうなる事かと思ったけど、とりあえず反発しあう事はないみたい」
「……?」
イリヤは今の痛みが何から来るものか知っているらしい。
「……む?」
ふと自分の姿を見ると、だぼだぼの病人服を着せられていた。
……いや、これは病人服というより拘束着だ。
その証拠に、動かせるのは右腕だけ。それ以外の個所はベルトでがっちり固定されていて、一人では脱げないようになっている。
「なんだこれ。イリヤ、なんでこんなの着てるんだ俺?」
「え……えっと、それは」
言いにくそうに視線を逸らす。
「そこから先の説明は私がしよう、衛宮士郎」
……と。
あまり会いたくない人物が現れた。
「あちらも持ち直した。こちらは事後説明だけだからな、用がなければ退室したまえ」
「……ふん、どうだか。わたしはシロウと一緒に外に出るの。アナタが本当に何もしないのなら、わたしがここにいても問題はないでしょう?」
「なるほど、たしかに問題はないな。だが説明は簡潔に済ませたい。邪魔をしないというのなら、隅で大人しく座っていろ」
「そうね。じゃ、そうさせてもらうわ」
イリヤは言峰の脇をすり抜けて壁際に歩いていく。
「――――さて。状況説明の前に、先ほどの疑問に答えておこう。あまり驚くなよ、衛宮士郎」
言峰の腕が伸びる。
神父は拘束着のベルトを解いて、あっさりと俺を裸にした。
「な――――」
そこにある腕《もの》は、衛宮士郎の腕《もの》ではなかった。
何重にも巻かれた布の上からでも判る。
……いま左腕になっているものは、自分以外の何か。
それは本来有ってはならないモノ、自然の摂理を押し曲げてまで取り付けた“異物”だった。
「言峰、これ、は」
「アーチャーの左腕だ。アーチャー本人の意思を尊重し、彼の遺体からおまえに移植した」
「アーチャーの意思を尊重……? いや、それより遺体って、あいつは」
「移植が済んだ後、消滅した。ここに運ばれた時点で死に体だったのだが、よくも終わるまで保ったものだ。アーチャーの持つ単独行動《とくしゅぎのう》故だろうがな」
「………………」
アーチャーが、消滅した。
じゃあ、これで残るサーヴァントは臓硯のアサシンと、桜のライダーと…… ……いや。
ああなってしまった彼女を、サーヴァントと呼ぶのは違う気がする。
「……待て。アーチャーは消えたんだろう。なら、あいつの腕が残っているのはおかしくないか」
「移植が終わる前に消滅したのなら、その左腕も消えていただろう。だがおまえのソレはアーチャーが現世に留まっているうちに切り離し、おまえの体に植え付けたものだ。衛宮士郎の魔術回路と繋げ、おまえ自身の魔力で現世に受肉させている英霊の肉片。
……その手術が成った時点で、ソレはおまえの肉体となった。その後ならばアーチャーが消えようと左腕は残る。その左腕は既におまえの腕なのだからな」
「じゃあ本当に……これは、あいつの腕なのか」
「そうだ。あのままではおまえもアーチャーも長くはなかった。アーチャーはこの世に留まる霊核を壊されており、おまえも片腕を失い、傷口より生命活動に必要な中身を損ねていた。
幸い、アーチャーの体に傷は少なかったからな。彼はおまえに唯一無事な肉体を提供する事で、死にゆくおまえを生かしたのだ」
「――――――――」
……溶けてしまった左腕。
精神を侵していった熱と、こうして他人のモノとしか思えない左腕。
その全てが、あの出来事が本当だったのだと告げている。
――――俺はあの森で倒れ。
その後、アーチャーに救われたのか。
「……けど。サーヴァントの体を人間に移植するなんて、できるのか」
「繋げるだけなら出来なくもないわ。霊媒の医師は肉体ではなく魂を癒すものだっていうし、そこの神父は見かけに寄らず本物だったっていう事ね」
「世辞は受け取るが、そう手放しで喜べる事ではない。
異なる霊体同士の接合は禁呪と呼ばれる。何故なら、行ったところで絶対に失敗するからだ。
霊体……魂の蘇生、復元は魔術では扱えない神秘である。故に今回も、形だけ成功した後でショック死すると思ったのだが――――」
「……シロウとアーチャーは特別よ。わたしもさっき判った。この二人なら、繋がりさえすれば持ち直すって」
「?」
イリヤは視線を逸らして、なんとなく悲しそうに視線を泳がせる。
「ほう。まあ、その理由は知らん。私に判るのはおまえたちの相性がよかった、という事だけだ。手術を始めた時は驚いたぞ。双子でもここまで瓜二つではなかろう、とな」
「――――――――」
言峰の言葉を確かめるように、左腕に力を入れてみた。
……感覚なんてまるでない。
単に痛みがないだけで、そこにあるのはただの塊だった。
何をどうやっても動かない。
血の巡りを止めて麻痺した腕と同じだ。
繋がっているのに動かない、という感覚は、肉体的な痛みではなく精神的な恐れを抱かせた。
……左腕は、ただの鉄くれになっていた。
ブリキになった人間がいるとすれば、それはこんな不自由さなのかもしれない。
「……まったく動かない。これで手術は成功したのか」
「無茶を言うな。繋げたばかりではそれが限界だ。数日経てば馴染む。先ほども言ったが、おまえたちの相性は実にいい。この分であれば、通常の生活をこなせるほどには回復しよう」
「だが注意しろ。私が言っているのは、あくまで回路が合う、というだけの話だ。
いかに相性がよかろうが、それは人間では扱えぬ英霊の腕。いや、腕というよりは兵器だな。強力ではあるが、使えばおまえとて巻き込まれよう」
「―――それは、自滅するって事か?」
「無論だ。人間である衛宮士郎が英霊《アーチャー》の腕を使えば、肉体はアーチャーの腕に侵食される。否、吹き飛ばされる、という表現の方が正しいか」
「霊格として、衛宮士郎の肉体はアーチャーの腕には到底及ばん。一度でもその腕を使えば、アーチャーの魔術回路が起動する。
そうなった時―――おまえの体はアーチャーの魔術行使に耐えられず、内側から崩壊する。
いいか、使う度に寿命が減っていく、のではない。
その腕を使えば、おまえの体に植え付けられた時限爆弾にスイッチが入るのだ」
「――――――――」
……なんだ、それ。
要するに一度でもアーチャーの真似事をすれば、俺は絶対に死ぬって事じゃないか。
「……。じゃあ、この布はその為の……?」
「ああ、その為の封印だ。それを巻いているかぎり、左腕は魔術回路を発現しない。おまえが魔術を使おうと、その左腕だけは別の物として扱われる。
だが安心はするなよ。魔術行使をせずとも、生きている限り魔力は肉体に通るものだ。その度に左腕には痛みと、起動しようとする反動が起きるだろう。
それを防ぐ為、魔力殺《マルティーン》しの聖骸布《せいがいふ》で左腕を覆っている。
その布を巻いている限り、左腕からの侵食はある程度抑えられる筈だ」
「ちょっと待て。ある程度抑えられるって、それじゃあ完全には」
「抑えられん。……そうだな、アーチャーの腕を使おうと使うまいと、結局はその腕に侵食される。
長生きがしたいのなら、腕と拮抗するほどの魔術師に成長しろ。そうなれば聖骸布を巻かずとも左腕の封印は出来る」
「なに、私の見立てでは左腕に食い潰されるまでにあと十年。それだけの猶予があるのだ。一人前になって左腕を御するか、成れずに自滅するか。そう急な話ではあるまい」
「………………」
急どころか、こんなの知らないうちに改造されたようなものだ。
……が、文句を言っても始まらない。
本来なら、俺はあの森で死んでいた。
それを生かす為の方法がアーチャーの腕の移植だったんだから、文句を言うって事は助かった命を放棄するって事になる。
「――――判った。とりあえず礼は言っとく。
……また世話になった、言峰神父。出来れば四度目がないよう祈っててくれ」
「減らず口が言えるのなら心配は要らぬな。では外に出ろ。礼拝堂で凛が待っている」
言峰は出口に向かっていく。
寝台から降り、用意されていた上着を羽織る。
左腕は動かないので、とりあえず羽織っただけだ。
「よし、気を配ってれば痛まないな。イリヤ、行こう」
「あ……うん、行く」
……外に出ると、そこは教会の中庭だった。
空は暗く、いつのまにか夜になっていた。
「言い忘れていたが、その聖骸布は解こうと思えば簡単に解ける。
選択肢は常におまえにある。アーチャーの力を使うのは自由だが、使えば命の保証はせん。
それを踏まえた上で、せいぜいうまく立ち回れ」
礼拝堂に入るなり、遠坂はじろりとこっちを睨んできた。
……あんなふうに睨まれる覚えはないが、とりあえず遠坂も無事だったと判ってホッとする。
「さて。これで全員治療は済んだ。衛宮士郎は失った片腕を移植し、凛は毒素を洗浄した。なにか、これ以上の要求はあるか?」
「……あるワケないでしょ。これ以上アンタに借りを作ったら、それこそ命を担保にされかねないじゃない」
「そうか。ではこれで解散という事になるが、一応監督役として訊いておこう。
これからどうするつもりだ凛。
事がこうなってしまっては聖杯戦争も破綻している。
残されたマスターがこうもそろってサーヴァントがいない状態では、もはや勝敗はついただろう」
む、と遠坂は黙り込む。
……言峰の言う通り、勝敗はほぼ決まっている。
サーヴァントを持つマスターは臓硯と桜だけになった。
……本来なら残った二人が戦うべきなのだが、桜は臓硯に逆らえない。そういった意味で、勝敗はもう決まっているようなものだった。
「間桐臓硯としては間桐桜を取り戻すか、始末するかのどちらかだろう。これを防ぐのは難しく、おまえたちには防ぐ義務もない。なにしろ間桐臓硯を倒したところで、おまえたちに益はないからな」
「へえ。サーヴァントがいないマスターは、聖杯を手に入れられないってヤツ?」
「そうだ。故に戦う意味はなく、これ以上の戦闘は無意味だ。このまま大人しく屋敷に立て篭もり、聖杯戦争の終わりを待つのが正しい選択だろう」
「―――ご忠告どうも。けど降りないわよ、わたし」
「―――驚いたな。聖杯を諦めきれない、という事か?」
「当然よ。サーヴァントがいなくなっても、わたしはまだマスターだもの。一人になったから戦いを降りるだろうなんて、勝手に極め付けないでよね」
「ほほう。そうか、確かにそうだな。サーヴァントを失ってものこのこ死地に赴いた男もいる。そう簡単に白旗はあげられないか」
「――――ふん、士郎は関係ないわよ。
いい、これはあくまでわたしの判断。わたしはまだ諦めてないし、臓硯を勝利者にさせる気もない。それじゃどっちにしたってあの子が助からないんだから」
「――――遠坂」
目を見張って遠坂を見る。
「な、なによ嬉しそうな顔して。い、言っとくけど、アンタの真似をしたワケじゃないからね。わたしは勝算があるからまだ降りないの。貴方みたいに、勝ち目もないのに残るワケじゃないんだから」
「―――ああ、そうだろうな。遠坂のコトだから、そうじゃないかって思ってる」
「…………なんかそれはそれでひっかかるけど、分かってるのならいいわ」
ふん、と顔を背けてそっぽを向く。
遠坂は正義感から臓硯に聖杯を渡さない、と言っているんじゃない。
臓硯が勝ったところで桜は救われない。
桜を救いたいのなら、それは桜が聖杯を手に入れるか、それとも―――桜を助ける気がある人間が聖杯を手に入れるしかない。
だから、どうせ勝つ人間が出るのなら、それは自分か桜のどちらかだと遠坂は言ったのだ。
間桐臓硯と戦うのはそれだけのこと。
もう聖杯を手に入れられない遠坂は、なんだかんだ言って妹である桜を助けたがっている。
「ふむ。ではおまえはどうだ衛宮士郎。凛と同様、まだ聖杯を諦めないというのか?」
「ああ、戦いは止めない。俺だって目的はある。このまま臓硯の好きにはさせない」
「……そうか。戦うというのなら止めはせん。絶望的な戦力差だが、間桐臓硯は小物だからな。何らかの策はあるだろう」
「………………」
「………………」
つい、お互い無言で見詰め合った。
……何らかの策、か。
俺一人じゃそんなもの見つからないが、遠坂と二人なら、臓硯を倒す方法ぐらい見つかるかもしれない―――
話は終わった。
治療は済み、保護を受けない元マスターを匿う理由はない、と言峰は退出を促してきた。
「―――言われなくても出て行くけど。なあ、イリヤは行く所あるのか?」
「? 城はまだあるし、セラもリーゼも呼べば出てくるから帰る場所はあるけど……どうしてそんなコト訊くの、シロウ?」
「いや、一人じゃ危ないだろ。イリヤさえよければ俺の家に居てもらいたいんだ。その方がなにかと便利だと思うし」
「いいけど、行かない。シロウのとこにはあの女がいるもの」
と。
イリヤは、なんかおかしな返事をした。
「?」
いいけど、行かないってどういうコトかな、と視線だけで遠坂に問いただす。
あ。いかにもこっちに振るなって顔してるな、あいつ。
「ほう。間桐桜を選んだのか、衛宮士郎」
「……言峰?」
「イリヤスフィールは私が預かっても構わないが。このまま城に戻しては臓硯に攫われるだけだからな」
「お断りだ。イリヤは俺が引き取る」
「お断りよ。イリヤはわたしが借りるんだから」
「お断りするわ。わたし、自分の居場所は自分で決められるもの」
「………………………。
それは残念だ。では、イリヤスフィールは遠坂の屋敷に滞在するのだな」
「バ、バカ言わないでっ……! アインツベルンのマスターは、遠坂の家になんていかないんだからっ!」
「あっそう。じゃあアンタ何処に行くのよ。士郎の所も嫌だ、教会もお断り、わたしの家も駄目だって言うんなら、もう城に帰るしかないわよ?」
「わかってるわ。もとからあそこがわたしの工房なんだから、他のマスターの世話になんてならない。バーサーカーがいなくたって、わたしは一人でやってくんだから」
「あーら、やっぱりそうなんだ。一度殺しかけた士郎に助けられたクセに、恩も感じずにお城に戻るワケね。
聞いた衛宮くん? あれだけ助けてあげたのに嫌われたものね。この子、貴方の家なんて狭苦しくて御免だって言ってるわよ?」
「な、なに言うのよリン!
わたしそんなコト一言も――――」
「言ってるじゃない。衛宮くんの家に行かないのは、衛宮くんが頼りにならないからでしょ? だから安心できる自分の城に戻るって言ってるんじゃない」
「……それは、そうだけど……けど、わたしが城に戻るのは、シロウから離れないといけないからで――――」
「え? あ、そうなんだ。頼りになるならないの前に、そもそも衛宮くんが嫌いだったワケね。なんだ、そういう事は早めに言ってよ」
実に冷淡にイリヤを責め立てる遠坂。
「――――あ」
まずい。
このままじゃ血で血を洗うケンカになっちまう、と危惧した時。
「そ、そんなコトないっ! わたし、シロウがイヤだなんて言ってないもん! わたしがイヤなのは、もっと別のコトなんだから……!」
「――――だってさ。大人気ね、衛宮くん」
ふふん、と穏やかに笑う遠坂と、
それを悔しげに睨むイリヤ。
「………………」
……えーと。
つまり、イリヤは誰の家に行くことになったんだ……?
◇◇◇
結局、イリヤはうちに来てくれる事になった。
遠坂とイリヤは口喧嘩をしながら礼拝堂を後にする。
あの二人の場合、あれはあれで仲がいい、と見るべきだろう。
「――――――――」
……話は済んだ。
ここからは俺たちの問題であって、言峰神父と語ることはない。
遠坂たちに遅れて礼拝堂を後にする。
その背中に、
「忘れるな衛宮士郎。おまえは戦える体ではない」
もう定番になった、神父の忠告がかけられた。
「そんな事あるもんか。左腕が使えないだけの話だ。俺はまだ戦える」
「そうか。ところで間桐桜の体調はどうだ」
「桜の体調……?」
……少し意外だ。
もっと嫌味を言ってくるかと思ったのに、なんだってここで桜の体調を知りたがるのか。
「どんな風の吹き回しだよ。今更、アンタが桜の心配をしてなんになる」
「分かっていないな。私はおまえの体の話をしているのだ。
いいかね衛宮士郎。おまえも危うい体だが、間桐桜は更に危うい爆弾を抱えている。おまえは戦わなければ無事だが、間桐桜は刻一刻と崩壊している。だからこそおまえは戦いを止められない。戦闘《それ》が、自らの死期を早めると承知した上で」
「………………」
「間桐桜を救うというのなら、衛宮士郎は戦わざるをえない。だが今のおまえには、戦いそのものが自殺行為に等しい愚行だ。
故に―――間桐桜を救うという事は、自分を殺すという事だと理解しているな?」
「…………それがどうした。そんなのもおまえの知った事じゃないだろう」
桜を助けると決めた。
自分の体がどんな状態になろうと、その誓いは変わらない。
「―――そうか。命を捧げるほどの献身は美しいがな。
あの娘は衛宮《おま》士郎《え》にとって、果たしてそれだけの価値があるのかどうか」
「なん、だと……?」
「最後の忠告だ、衛宮士郎。
生かすという事は欲望を満たすという事。
間桐桜を生かしたいというのなら―――それを、最後まで忘れぬ事だ」
「………………」
外に出る。
広場では遠坂とイリヤが待っていた。
イリヤは寒そうに空を見上げていて、遠坂は文句ありそーにこっちを睨んでいたりする。
「遅いっ。綺礼となに話してたのよ、士郎」
「いや、なにっていつもの皮肉だけど――――」
それより、さっきから微妙に気になる事があるんだが、一応訊いておくべきなんだろーか?
……遠坂。
おまえ、俺のコト名前で呼ぶようになってないか……?
「……ふん。まあいいわ、時間もないし回りくどい事は止めにしてあげる。事は深刻だし、別々にやっても勝ち目は薄いし。癪だけど、昨日の事は水に流してあげるから感謝なさい」
偉そうに胸を張りつつ、もっと偉そうに言い放つ遠坂。
……えっと。すごく分かり辛いが、つまり、遠坂が何を言いたいかというと。
「遠坂。それって、つまり」
「そうよ、協力してあげてもいいって言ってるのっ!
だいたいね、貴方だけじゃ心許ないでしょ。臓硯を倒すって目的は一緒なんだし、それまで手を組んであげてもいいってコト!」
むー、と文句ありげな視線でまくし立てる。
「――――――――」
ガン、とあたまをハンマーで叩かれた感じ。
突然の申し出は、これ以上ない程の幸運だった。
「あ―――ああ、ありがとう、恩にきる遠坂!
おまえがいてくれるならこれ以上の助けはない……!」
遠坂の手を握って、ぶんぶんと振り回す。
ほんとうに困ったもんだ。
自分でもはしゃいでるって分かっているのに、それでも嬉しい気持ちを抑えきれない。
「ちょっ、わかった、お礼はいいからちょっとタンマ……!」
だだ、と慌てて後退する遠坂。
……と。
なんでか、遠坂は俺の左腕をじろじろと見る。
「……その前に一つ聞くけど。貴方、その腕が誰のものか知ってるわよね」
「?」
そりゃ当然、と頷く。
遠坂はそれで、すう、と深く深呼吸したあと。
「じゃあ士郎、今から貴方はわたしのサーヴァントよ。
わたしのサーヴァントで助かったんだから、それぐらい当然でしょ」
なんて、とんでもないコトを言い切った。
「な―――――」
「――――え?」
ちょっと、かなり、意味が判らない。
遠坂が何を言いたがっているのか考えよう、とトンチを働かせる。
「な、なに言ってるのよあなた……っ! そんなコトで所有権を言い出すなんて馬鹿馬鹿しいにも程があるわ!」
うむ。イリヤは時にまっとうなコトを言ってくれる。
「だいたいリンの言い分は的を外れてるわ。そもそもシロウはわたしのなんだから、リンにあげられるワケないじゃない!」
……なるほど。
つっこむポイントがすでにズレていたんだな。
「む。アンタこそ大言吐くじゃない。まさか一度見逃してあげたから士郎は自分のモノだなんて思ってたの? それだったらわたしも同じよ。学校でバッタリ会った時なんてホントに頭にきて、どうしてやろうかって暴れる寸前だったんだから」
「そんなのリンが大人げないだけよ。わたしは毎日見逃してあげてたんだから、シロウの命はわたしのに決まってるわ。生かすのも殺すのもわたしなんだから、関係ないリンは引っ込んでて」
「関係ないですって……!? 甘く見ないでよね、関係なくてここまで関われるかって言うのっ……!
アーチャーのヤツが頼むって言ったんだから、責任もって生き残らせるわよ!」
ぎしぎし、と軋み音が聞こえそうなほど睨み合う二人。
「…………」
眉間に皺を寄せながら、黙って決着がつくのを待つ。
……まあ。
どっちに軍配が上がるにしろ、頭の痛い結果になるコトに変わりはないのだが。
「「で、結局どっちなの!?」」
言い合いでは決着がつかないと見たのか、二人は最後の選択をこっちに振ってきた。
「どっちかって、何が」
「だから、どっちのサーヴァントかって言うことよ。士郎の答えをまだ聞いてなかったし、ここではっきりさせた方がいいでしょ」
「そうね。シロウがイヤがってるのに気がついてないし、リンにはハッキリ言わないとダメみたい。
ほら、言ってあげてシロウ。シロウはぁ、わたしのものでいいんだよね?」
「………………」
そんなの考えるまでもない。
命令権が誰にあるかって言えば、それは――――
「―――えっと、イリヤかな」
あたまに浮かんだ名前を口にする。
「うんうん! シロウったらかほうものめー!」
ばふっ、と勢いよく抱きついてくるイリヤ。
その喜ばれようは兄貴分として無条件に嬉しいのだが、
こう、シャレにならないぐらい怒ってる遠坂で嬉しさもプラスマイナスゼロ、いやむしろマイナスに傾いているような。
「……ふん。お子様のご機嫌とりをするなんて、随分とマメなのね衛宮くんは。なに、もしかして小さい子が好きとか、そういう趣味?」
あう……ことさら嫌味に『衛宮くん』を強調する遠坂。
その目がこう、いかにも社会的弱者を責めるようで胃が痛い。
「ふふーんだ、見苦しいわよリン。フラレたからって八つ当たりなんて、レディにあるまじき行いだわ。そんなんだからぁ、リンはシロウに嫌われたのでしたぁ」
「っ……! ば、ばか言わないでよねこのマセガキ……!
わたしは世間一般の常識を口にしただけだし、第一、誰が、誰にフラレたっていうのよ……!」
があー、と吼える遠坂。
イリヤはきゃっきゃっと笑いながら、なお俺に抱きついてくる。
「ほうら、リンって怖いでしょシロウ?
けど安心して、リンが何かしてきたら、これからはわたしが守ってあげるから!」
にぱっ、とこれ以上ない笑顔で抱きついてくるイリヤ。
それは嬉しい。
さっきの二倍増しで嬉しいんだが、
……あやつの視線が、もう弁明の余地を許さないほど冷たいのをどうにかしてくれ。
「なんだよ。何か文句あるなら言えよ」
「別に。衛宮くんがどんな趣味してようとわたしには関係ないもの。文句はあるけど口にしないわ。
――――それより、なんでよ」
単刀直入に訊いてくる。
だが、しかし。
「いや。なんでって……なんでだろ?」
直感で答えたというか、自分でもイリヤを選んだ理由が判っていなかった。
「……呆れた。なに、ホントにそっちの趣味なの貴方?」
「わ、わけあるかばかものーっ! ささ、さっきのはなんとなくそう思ったから口にしただけというか、俺はイリヤの保護者になったんだからイリヤを取るのは当然だ文句あるかっ……!」
あう、我ながらメチャクチャな論理展開。
「うん! シロウはわたしのサーヴァントだもんねー!」
遠坂は呆れるわ、イリヤは跳ね回るわで大混乱だ。
「…………開き直ったわね。まあ、そこまで言うなら認めてあげてもいいけど、桜も大変ね」
「――――――――」
気になる。
何を認めようとしているのか、そのあたり凄く気になるぞ遠坂。
「けど忘れないで。たとえ使わなくても、士郎の腕はわたしの腕よ。
―――貴方にはアーチャーの代わりをする義務がある。
その体は、もう貴方一人のものじゃない」
「――――――――」
それは、その通りだ。
遠坂はアーチャーを失い、アーチャーの腕で俺は生き延びた。
……なら俺は、いなくなってしまったあいつの代わりに遠坂を助けないといけない。
「…………ああ、そうだな。サーヴァント云々は置いておくとして、今後の方針は遠坂に一任する。
俺の考えじゃ限界があるし、遠坂が知恵を出してくれるならその方が確実だ」
「そういう事よ。わたしが考える役で、士郎は実行する役。わたしたちは運命共同体なんだから、今後はしっかり働いてもらうわ」
そう。
経緯はどうあれ、俺の左腕はアーチャーによって補われた。
そのアーチャーが遠坂と契約したまま消えたのなら、あいつが果たせなかった約束を、俺が代わりに引き継がなくてはいけない。
◇◇◇
客人は去った。
礼拝堂は元の静寂に戻り、神父はただ一人偶像を見上げる。
「――――いいのか、聖杯を逃がして」
その声は背後から。
今まで何処に潜んでいたのか、金髪の青年は愉しむように神父へ問い掛ける。
「かまわん。初めから執着があった訳ではない。聖杯が彼らに就くのなら止めはしない」
「そうだったな。もとより私に望みはない――――その言《げん》が偽りでないのなら、聖杯を押し止めるのは道理に合わん」
くつくつと青年は笑う。
神父の言葉。
望みはない、と告げた言葉をからかうように。
「――――――――」
無論、それは偽りではない。
金髪の青年には理解できぬだけで、もとよりこの男に望みなどないのだ。
聖杯の力など、真実、言峰綺礼は必要としない。
彼にあるのは、ただ徹底した“追究”のみ。
聖杯は己が望みに応えるだけのもの。
自らに生じる疑問に、自らが良しとする答えしか生み出さない願望機だ。
そのような“自分が望んだ答え”になど、果たして何の意味があるのか。
「言峰。重ねて問うが、本当に聖杯に興味はないと?」
「願望機に用はない。それはおまえとて同じだろうギルガメッシュ。おまえの目的も私の目的も、その実自らの願いではない。単にそうした方が楽しいから、という快楽追求でしかない。
そのようなものは食事と同じだ。願いとは自身を叶えるもの。だが自ら願いを叶えては、人間は救われん」
神父は偶像を見上げ続ける。
――――その向こう。
もう十年以上も過去となった、まだ望みとやらを持っていた時代の事を。
男は1967年、父親が巡礼中に授かった子供だった。
綺礼という名は祈りの言葉だという。
清く美しくあれ、と父親は子に名づけた。
子はその祈り通りに成長し、幼くして道徳と良識を持ち、早熟と思われるほど見識深かった。
父は良い後継者に恵まれたと喜び、息子は父の喜びを理解していた。
息子が優れているのは、親として喜ぶ事だ。だからこの男は自分を重宝するのだろう。
―――そう理解し、少年は父の理想通りに成長していく。
そこに疑問はなかった。
父を愛せない事と、父の期待に応える事は別の問題だ。
綺礼と名づけられた少年は健やかに成長していく。
……ただ一点。
父の言う“美しいもの”がなんであるか、それだけが理解できないと首を傾げながら。
―――その齟齬《そご》に気がついたのは、ある日の朝だった。
目が覚めて体を起こし、顔をあげた時に気がついた。
どうしてその時に判ってしまったのか、理由は定かではない。
いや、寧《むし》ろどうして今まで気がつかなかったのかと悩むべきだろう。
ともかく、彼は忘れ物に気がついたのだ。
父は美しくあれと祈って、綺礼という名をつけた。
それがずっと疑問だったのだ。
父が美しいとするもの。
それを――――少年は、一度たりとも美しいと感じ得なかったのだから。
話はそれだけのことだ。
彼が美しいと思うものは蝶ではなく蛾であり、
薔薇ではなく毒草であり、
善ではなく悪だった。
人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善である事が正しいと理解していながら。
少年は、その正反対のものにしか、生まれつき興味を持てない人間だった。
その苦悩は、誰に理解できるものでもない。
綺礼本人でさえ、それが苦悩であるかどうかさえ判断がつかなかった。
ただ、努力はした。
清く美しくあれと、初めからなかった心を求め続けた。
肌をこそぎ、肉をちぎり、骨をはずし。
心の中にないのなら、体のどこかに容れるべき個所がある筈だと探した事もある。
父は十数年をかけて、茨の踵で聖地を巡礼した。
刻んだ歩みで言うのなら、その距離は月にすら届くだろう。
肉体的な苦痛を求めてではない。そも、信徒《かれら》にとって重要なものは肉体的苦痛ではなく精神的苦行である。
その功徳の中、少年は食事を断った。
自分が生まれつきの罪人ならば、その程度の罰がなければ世界と釣りあわないと、彼が信じた道徳が教えたのだ。
そうしてさらに十年。
求め続けた心は得られず、代わりに得たものは結論だった。
なんのことはない。
つまるところ、彼には生まれつき“人並みの幸福実感”がなかっただけだ。
人が幸福を実感する、善しとされる正の事柄。
博愛、信頼、栄光、安全。
そういった事柄に悦びを見いだせない、生まれついての欠陥者であっただけ。
少年が“楽しい”と思える事は他人の苦しみでしかない。
他者による殺害、他者による愛憎、他者がもつ転落。
そんな負の事柄でしか、少年は“幸福”を実感できなかった。
……彼にとっての不幸は、そんな思考回路でありながら十分すぎるほどの“道徳”を持っていた事だ。
幼い頃、どうあっても自分が常識《せかい》と噛み合っていないと悟った少年は、全霊を懸けて克服しようと努めた。
欠陥者である己を諦め、自分なりの異常快楽に走るのではなく。
人並みの事柄で幸福を得られない自分を、人並みに戻し、どうにか救おうとしたのである。
その道が信仰であり、父と同じく、神父として人生を説く事だった。
――――神は全てを赦《ゆる》すという。
ならば自分のような“生まれつき持ち得ぬ者”も救うのではないか、と考えた。
だが、結果は無惨だった。
神の教えを守り、規律に従い、質素に生きたものの、彼には“他者の苦しみ”に勝る悦びが見いだせなかった。
背徳を禁じる教会の教えを信じきってさえ、彼には背徳しかなかったのだ。
もっとも、そこに苦しみはなかった。
初めから無いものを求めたのだ。
手にしていたものが失われた訳ではなく、嘆く事などありえない。
成人し、神父となった男についてまわったものは、“なぜ”という疑問だけだ。
そう―――あらゆる人生の岐路において。
犯罪による悦。
罪を犯し、その背徳に酔うことで異常者である自身を肯定する《たのしむ》というなら解る。
悪徳による富。
己が欲の為に他者を陥れ、その益によって更なる富を得ようというのなら道理が通る。
だが。
生まれつき、その“善から悪に変わる”という選択さえ持ち得ない、とはどういう事なのか。
初めから規格外の者として生を受け、世界から断絶されたまま死に至るモノとは何か。
それは壊れたもの、世界に害を成す事を前提として生まれるモノではないのか。
良識の語《かた》り。
道徳の解《ほど》き。
正義の裁《さば》き。
それらが全て、悪《ソレ》は在ってはならぬモノと断定する。
――――だがそれはなんだ。
有ってはならぬモノならば、なぜ、そんなモノが生み出されねばならないのか。
―――そう。
初めから欠陥があるのなら、そも生まれてこなければよい。
世界は悪を憎み、間違いを排除する。
にも関わらず初めから“望まれないもの”が生み出され、
ただ死ぬ為に、ただ疎まれる為だけに在るものがある。
――――男は、その罪の所在を問い続けた。
長い苦悩、盲目な信仰の果てに得たものは救いではない。
ただ、なぜ、と。
それは苦しみではなく純粋な疑問であり、何かに対する、振り下ろしようのない怒りだった。
「では、何故マスターになどなった? 望みがないのであらば、聖杯など要らぬだろうに」
「――――――――」
青年の問いに意識を戻す。
神父―――言峰綺礼は、確かに、と自嘲するように頷いた。
「聖杯は要らなかった。ただ、その中身に関心があっただけだ。
十年前聖杯を求めたのも、聖杯《ソレ》が在ろうとしたからだ。
聖杯がなんであれ、生まれ出でようとするモノを祝福する。それが私の仕事だからな」
「ふん。それは、生まれてくるモノに微塵の関心も持たなくともか?」
「……無論だ。前回の聖杯戦争でさえ、私は聖杯にもその中身にも関心はなかった。あの時にあったものは、私と正反対の男に対する不快感だけだった」
だが、と神父は思う。
他者の苦しみにしか悦びを見出せなかった言峰綺《じぶん》礼は、此度の結末に関心を持っている。
間桐臓硯の暗躍。
生まれつつあるもう一つの聖杯。
“この世全ての悪”という、人々に生み出されながら、人々に望まれなかった何者か。
もし、本当にそんなものを受胎するというのであらば、或いはそれこそが――――
「――――善悪の所在。殻に詰め込まれながら、孵《かえ》ることのなかったモノ」
聖杯に答えは出せない。
願望機は持ち主の望みを現実化するもの。
故に、望みのない者が手にしたところで手に入る天啓などない。
だが――――
「答えを出すのではなく。答えを出せるモノを、聖杯から産み落とすとしたらどうなる」
「なに……?」
青年の目が細まる。
神父は、偶像を前にして笑っていた。
「――――――言峰」
その笑みは死に逝く女が浮かべるものだ。
何事にも無関心なこの男が、よもやそのような貌を作るとは。
「……答えは近い。仮に、この疑問が神を冒涜するというのなら」
偶像を見上げる眼は笑ってはいない。
神父は、地に落ちた織天のように、
「―――神前において。
この全霊を懸け、我が主さえ問い殺そう――――」
呪いをこめた眼で、高く遠い天《そら》を見た。
◇◇◇
「じゃ、一旦ここでお別れね。家に戻って荷物を持ってくるから、士郎は先に行ってて」
「……? 荷物を持ってくるって、もしかして遠坂、うちに来る気か?」
「当たり前でしょう。これから共同戦線を張るんだから、一緒にいなくてどうするのよ。うちはイリヤが嫌がるし、そっちには桜もいるし、どう考えても本拠地は貴方の家でしょ」
「あ。そっか、言われてみればそうだよな」
「……まったく。堂に入ってると思ったらなんか抜けてるし。ちょっと選択あやまったかなー」
大げさに溜息をつきつつ、遠坂は反対側の坂道へ向かう。
「……? イリヤ、うちはこっちだぞ? なんだって遠坂に付いていくんだ?」
「ん、ちょっとね。リンが手を貸してほしいって言うから助けてあげるの。終わったらすぐ行くから、シロウは先に帰っていて」
「?」
助けるって、イリヤが遠坂を……?
「遠坂、ほんとか?」
「本当よ。事が事だから、こっちも秘密兵器の一つや二つは必要でしょう。わたしだけじゃ開かない蓋も、アインツベルンの魔術師となら開くかもしれない。
……けど、出来れば見つけたくない。遠坂の遺産、大《キ》師父《シュア》の置き土産が想像通りのものなら、私だけじゃどうにもならないから」
「じゃ、わたしも行くね。遠坂の師《キシュア》の遺産になんて興味はないけど、魔法使いの《ゼル・シュバインオーグ》使ってた宝箱はキレイそうだし」
くるり、とスカートをなびかせてイリヤは走っていく。
「………きしゅあ? ぜる? しゅばいんおーぐ?」
はて、と首をかしげる。
聞いた事のない名称だけど、いっぱしの魔術師には有名な単語なんだろうか、今の。
◇◇◇
坂道を上がっていく。
町には活気がない。
まだ八時か九時あたりだろうに、人気もなければ、人が住んでいる熱気さえも消えていた。
「――――、っ――――」
知らず、足を止めて塀に寄りかかっていた。
左腕が熱い。
一人になって緊張が解けたのか、坂道を登り始めてから左腕が痛み出したのだ。
「っ――――そりゃ、そうか。他所の腕を無理やりつけてるんだから、痛まない筈がない」
……呼吸がなかなか整わない。
歩く度に左腕は熱を帯びて、少しずつ温度をあげていく。
それが平熱を大きく逸脱した瞬間、ズシャ、と肩口から胸に痛みが突き刺さる。
「あー……痛いのは腕じゃなくてこっち側なワケか」
塀に背を預けて、はあ、と大きく深呼吸をする。
……痛みの仕組みがどんなモノなのかはだいたい飲み込めた。
ようするに冷却しているのだ。
どういうワケか、左腕は動く度に熱を帯びていく。
それが左腕の中で溜まりきって一杯になった時、処理しきれない熱を体側《こっち》に逃がす。
「っ――――」
この痛みは、熱が体を焼いているからだ。
熱《いぶつ》の挿入感は鋭利で、加熱というより斬撃に近い。
この赤い目眩が起きるたび、肩から長い刃物を突き刺され、体ん中をギチギチとかき回される錯覚がする。
「ぐ――――はぁ、は――――、っ……!」
……正直、そう何度も耐えられるものじゃない。
バーサーカーに腹を根こそぎ持っていかれた事も、ライダーに肋《あばら》を砕かれかけた事もある。
そんなダメージを経験してさえ、自分の腕に自分の体が“貫かれる”のは寒気がした。
「大丈夫、落ち着け――――体温を上げずにおけば、腕《こいつ》だって大人しくする――――」
夜空を見上げながら呼吸を整える。
遠坂たちと別れてからもう二十分。
本来ならとっくに衛宮の屋敷に着いているのだが、こんな汗にまみれた顔を桜に見せるワケにはいかない。
……左腕の異常は俺一人の内に留めておくべきものだ。
「―――くそ。言峰のヤツ、なにが実生活に支障はない、だ。こいつに慣れるのは、一筋縄じゃいかないぞ―――」
左肩に手をおいて、赤い布でグルグル巻きにされた腕を押さえる。
左腕はぴくりとも動かず、鉄のように硬い。
……さて。
汗も引いたし呼吸も整った。
時間も遅いし、少しでも早く元気な姿で、桜にただいまを言わないと――――
「ただいまー」
深呼吸をした後、大きく声を出して玄関に入る。
「……ぁ……お帰りなさい、先、輩」
ずっと待っていたのか、玄関には桜の姿があった。
「? なんだよ元気ないな。出迎えてくれたのは嬉しいけど、そんな顔じゃ素直に喜べないぞ」
靴を脱いで廊下に上がる。
とりあえず、今は体を休めたい。
桜に今日の出来事を報告するのは居間に戻って、お茶を一杯飲んでからにしよう。
「……と、そういうワケにもいかないか。お茶の前に事情を話しておかないとな」
じき遠坂が来る。
その前に事の顛末を説明しておかないと、桜が遠坂を警戒してしまう。
「桜、今日のことなんだけど」
「……先輩。何も、おっしゃらないんですか」
……と。
たどたどしい言葉遣いで、桜はそんなコトを口にした。
「何もって、なにが」
「……………………」
桜は押し黙っている。
その視線は俺の左腕に向けられていた。
「ああ、これの事か。そうだよな、見かけがこんなんじゃふつう驚く」
なにしろ包帯とも言えない分厚い布でグルグル巻きだ。
事情を知らない桜でも、一目で何かあったと気付くってもんだ。
「うん、ちょっと怪我した。けど問題なく動くし、もうなんともない。ホントはこんな布も邪魔なだけなんだけど、言峰のヤツが外すなってうるさくてさ。
まあ治療してもらった手前もあるし、大人しくいう事はきいとくんだけど」
ぽん、と左腕を叩いて無事を報せる。
……っていうのに、桜はますます押し黙ってしまった。
「桜……? いや、ほんとに大丈夫なんだぞ? こんなのは大げさなだけで、ただの掠り傷だって。こんなのはすぐに治るし、桜が気にするような事じゃ――――」
「か、掠り傷のワケないじゃないですか……! 先輩の腕、もうなくなっちゃったんですよ!? なのにどうしてそんなコト言うんですかっ……!
いくらわたしだって、そんな見え透いた嘘になんか騙されません! それとも先輩は、わたしに話しても無駄だから黙ってるんですかっ……!?」
「――――――――」
それは、火のような反発だった。
……自分の馬鹿さかげんに言葉を失う。
今日一日、一人でこの屋敷で待ち続けた桜の気持ちを、俺は何一つ考えてはいなかった。
「―――――桜」
「あ……ご、ごめんなさい先輩。せ、責めるつもりじゃなかったんです。……わ、わたしはただ、先輩があんまりにも無茶をして、先輩自身のことを大事にしてあげないのが、あの」
「―――違う。いや、桜の言う通りだけど違う。
俺、怒鳴られて怒ったわけじゃない。……その、真剣に怒った桜を見たのは初めてだから、驚いて、反省した」
「え……反省したって、先輩、が……?」
「ああ。たしかに強がるのはよくない。それが桜なら尚更だ。……きっと、俺は桜に格好わるいところを見せたくなかったんだ。だから強がって平気なフリをした。
けど、考えてみればそっちの方が格好わるい。桜が怒るのも当たり前だ」
「ぁ……いえ、先輩が格好わるいなんて、そんなコト、絶対ないです、けど」
いや、格好わるい。
……まったく、なにが桜を不安にさせたくないから黙っていよう、だ。
俺は単に、桜に見栄を張って強がっていただけなんだから。
「―――ああ。ごめんな桜。俺、やられちまった。
腕はなんとかなったけど、桜の役には立てなかった」
「ぁ―――そ、そんなコトないですっ……! 先輩は立派でしたっ! わ、わたしは見てませんけど、すごくカッコ良かったです!」
「う……いや、これがほんっとーに情けなかったんで、そう言われると辛い。満足にイリヤも助けられなかったし、ただ逃げ帰ってくるだけだったし」
「……いいえ。それでも、ちゃんと帰ってきてくれました。先輩が約束を守ってくれたので、わたしはすごく嬉しいです」
「あ――――うん。それは、良かった」
ぽりぽりと頭を掻く。
……まあ、それでも。
桜にそう言ってもらえるのは照れ嬉しいというかなんというか。
「……そうだな。とりあえず、生きてるだけで合格点だよな」
「――――はい。先輩はかっこいいです。わたし惚れ直しちゃいました」
「――――――――っ」
な、なんか物凄く機嫌が直ったのか、桜はとんでもないコトを満面の笑顔で言う。
「あ…………う」
そうゆうコトを言われると、こっちはなんと返していいか判らなくて、つい、
「えっと、こういう時はどう返せばいいんだろう、遠坂」
「さあ? わたしの意見としては、あんまり玄関先でイチャつかないでほしいってコトぐらいね」
真後ろにいる遠坂に振ってしまった。
「「――――え?」」
思わず声がハモる。
俺と桜はババッと同時に半歩後退して、
「と、遠坂いつからそこに――――!?」
「遠坂先輩、なんでうちにいるんですか……!?」
またも同じリアクションをしてしまった。
「いつからそこに、じゃないわよ。もう話がついてるかと思えば二人して仲良くケンカしてるし。まったく、今がどんな状況なのかわかってるの士郎?」
どん、と玄関口に大きなボストンバッグを置く遠坂。
その後ろには 妙な緊迫感で押し黙ったイリヤの姿もあった。
「と、遠坂先輩。昨夜の続きなら、わたしは構いません。
先輩が守ってくれる以上、わたしだって間桐の魔術師として、全力で貴女と戦います」
桜はきゅっと手を握り締め、遠坂とにらみ合う。
……いや、にらみ合うというよりは、蛇に睨まれた蛙が必死に抵抗している、という風なのだが。
「……ふう。それもまだ聞いてなかったのね。
いい桜? とりあえず貴方の処置は保留するわ。わたしの最優先事項は臓硯を倒す事。貴女との決着はその後よ。……ま、臓硯さえ倒してしまえば貴女と戦うこともなくなるから、うまくいけば臓硯を倒すだけでコトは済むわけだけど」
「え――――それじゃあ、遠坂先輩は」
「貴女―――いえ、士郎と協力して臓硯退治をするってこと。で、そうなると離れて過ごすのは勿体ないでしょう? だから今夜からここで生活して、士郎を鍛えることにしたの。短期間で戦力になってもらうにはスパルタしかないしね」
「そういう訳だからしばらく士郎を借りるわ。荒療治になるけど問題ないわよね、二人とも」
「「な――――」」
しれっと、俺ですら聞いた事のないスケジュールを口にする遠坂凛。
「ま、待った遠坂。そんなコトいきなり――――」
「そ、そんなのダメですっ……!
ね……いえ、遠坂先輩はどんな権利があってそんなコト言うんですかっ!」
「…………言われても、さ。ほら、心の準備とか、あるじゃんか」
とつとつと抗議する。
無論、俺の意見なんてのは桜の声と遠坂の一瞥であっさり却下された。
「あら、権利さえあればいいの? ならますます問題ないわね。彼が生きているのはわたしのおかげだもの。
その借りを返すまで、士郎はわたしの言うコトを聞くしかないの。居場所を明け渡せって言えば明け渡してくれるし、ちゃんと三食付きにしてって言ったらしてくれるのよねぇ?」
「――――――――」
遠坂。その説明は、著しく誤解を招くと思うのだが。
「そんな……ほ、本当なんですか先輩……?」
「―――ああ。遠坂の発言にはところどころ反論したいんだが、言ってるコトは本当だ」
「――――」
「それに仲間は多い方がいいだろ。臓硯が桜を狙っているのは確かなんだ。遠坂がいてくれるなら、確実に桜を守れる」
……それに、遠坂は桜の姉貴なんだし。
出来れば一緒にいて、争うなんて事にはなってほしくない。
「…………わかりました。先輩がそう言うなら、納得します」
視線を逸らして桜は言う。
◇◇◇
「決まりね。それじゃあがらせてもらうわよ。ほら士郎、客間に案内して。前に上がった時、離れの客間に目をつけてたんだから。あ、イリヤはどこがいい?」
「――――――――」
「イリヤ? どうしたのよ、ぼけっとして。さっきまで士郎の家に泊まるって、ものすごく喜んでたのに」
「……知らない。わたしは別に、喜んでなんかなかったわ」
力のない声。
イリヤは俯いて、じっと廊下を見つめている。
……たった数センチの段差が、高い壁だと言うかのように。
「――――シロウ。
一つ訊くけど、その女は何処で寝てるの」
と。
さっきまでの元気のなさは何処にいったのか、イリヤは一変して桜を睨んだ。
「? いや、桜の部屋は離れの客間だけど」
「そう。なら離れにはリンだけでいって。離れ以外だったら、わたしはどこでもいいわ」
「そうなの? ならイリヤは和室ね」
もう愛称で呼ぶほど親密になったのか、遠坂とイリヤは気楽に言葉を交わしている。
◇◇◇
「あ、そうだ。桜、こっちの子がイリヤ。
バーサーカーはやられちまったけど、なんとかイリヤだけは助けられた。遠坂同様、これからうちで預かるけど仲良くしてやってくれ」
桜にイリヤを紹介しつつ、イリヤにも桜を紹介する。
「よろしくサクラ。マキリの娘だそうだけど、軽蔑はしないであげるわ。いちおうシロウの知り合いみたいだし、特別に人間扱いしてあげる」
「……そうですね。じゃあ、わたしも貴女と同じように振る舞います」
「?」
二人の挨拶はそれだけだった。
イリヤは遠坂の後に付いて居間へ歩いていく。
その背中を「――――――――」
桜は、どこか冷めた目で見つめていた。
夕食は嵐のように過ぎ去っていった。
……ああいや、嵐と言うには語弊がある。
あれはどちらかというと凪というか、無風故に時間を感じさせず亜の呼吸でいつのまにか終わっていたというか。
ともかく、恐ろしい緊張感に支配された夕食だったのだ。
「夕飯ならわたしが作りましょうか。引っ越し蕎麦のようなものだし」
遠坂はそう言って夕飯を一人で作り、その味は悔しいが惨敗であり、かろうじて桜が得意とする洋食なら互角かも、というものだった。
「――――と、遠坂先輩。お料理、上手なんですね」
ショックで打ちひしがれた桜は、それきりモクモクと料理を口に運ぶだけになった。
こっちはこっちで遠坂の手料理とか遠坂と飯を食ってるとか桜の落胆ぶりとかイリヤと桜の妙な緊張感とか、もろもろのことが気になって、余分な動きは出来なかった。
結果、あれだけ上等だった遠坂の手料理を美味いとは感じられず、ただただ遠坂凛が攻守ともに隙なしの優等生と思い知らされた一時間だったのだ。
――――で。
「じゃ、わたしは部屋の準備があるから引き上げるわ。
詳しい話は明日の朝にするから、今夜はもう休みなさい」
洗い物まで完璧に済ませ、遠坂は席を立つ。
「わたしも部屋に行ってるわ。今日森に行った人はみんな疲れてるんだから、早目に寝ないと体が持たないわよ」
……屋敷にいた桜へのあてつけなのか、イリヤは桜を見ずにそんなことを言って席を立つ。
「……はあ。なんだっていうんだ、まったく」
ある意味遠坂は予想通りだが、イリヤの態度はおかしいと思う。
イリヤの桜に対する態度は、初めて遭った時の冷酷なイリヤに近い。
「イリヤ、桜とは初対面のくせになんであんなにつっかかるんだろう。やっぱりアインツベルンとマキリって仲が悪いのかな」
言峰の話では、アインツベルンとマキリ、それに遠坂は聖杯戦争を始めた魔道の名門だ。
その中で最も大きな権利を持っていたのがアインツベルンらしいから、イリヤとしちゃあ遠坂も桜も格下扱いなんだろうけど。
「……はあ。誤解しないでくれよ桜。イリヤは気難しいからあんなコト言ってるけど、ちょっと話せばすぐに仲良くなれる。
あいつ、単に人見知りが激しいだけ……って、桜?」
桜は返事をしない。
うつらうつらと揺れる頭は、そのまま無造作に後ろに倒れかけ――――
「桜……!」
肩を抱いて桜を止める。
「……あれ、先輩? どうしたんですか、そんな怖い顔して」
……桜は気付いていない。
いま自分が倒れそうになった事も知らず、何事もなかったように見返してくる。
「――――いや。別に、大したコトじゃない」
桜の肩から手を離す。
「あ……」
それで気が付かれてしまったのか。
「……すみません。ちょっと疲れてたから、眠っちゃってました」
そんな、自分でわかってもいなかった事を、俯いて謝った。
「……そっか。昨日の今日だし、桜は安静にしてないとな。遠坂もああ言ってたし、今日はもう寝よう。無理に起きてる必要はない」
「そ、そうですね、じゃあお言葉に甘えちゃいます。今晩ぐっすり眠れば、きっと明日には元気になってますし。
今夜は遠坂先輩にご馳走してもらいましたから、明日の朝はわたしが受け持ちますね。先輩仕込みの朝食で仕返ししてあげちゃいます」
いたずらっぽく笑って、桜は席を立った。
……その足取りはしっかりしている。
ここで客間まで付いて行くのは逆効果だ。
桜が元気に振舞っているんだから、こっちはそれを信じてやらないと。
「そうだな。おごれる遠坂の鼻をへし折ってやってくれ。
桜が最後の砦だ。正直、ここで遠坂に一撃くれておかないと後がない」
「ええ、任せてください。きっとわんぱんちして見せますから」
「頼もしいな。……ん、じゃあ及ばずながら、俺もなんか手伝わせてくれ。
今夜はさっさと寝て、明日の朝六時に台所に集合ってコトでいいかな?」
「はい。お待ちしています、先輩」
ぺこり、とお辞儀をして縁側に去っていく桜。
……と。
「―――あの、先輩。さっきの事、姉さんには黙っていてください」
背中を向けたまま振り返らず、どこか張り詰めた声で桜は言った。
「ああ。ただの居眠りなんだから、遠坂に言うほどの事じゃないだろ」
「――――はい。おやすみなさい、先輩」
……障子が閉まる。
桜は振り返らず離れへ去っていった。
「――――――――」
黙っていてくれ、とはさっきの事だろう。
桜の体は、桜が思っているほど持ち直してはいない。
言峰は数日持たないと言った。
臓硯が桜をどう扱うかは別にしても、桜はそれだけで不安定だ。
だからこそ、桜は元気に振舞おうとしている。
自分は大丈夫だ。
大丈夫だから、もう俺たちに心配をかける事はないんだと主張するように。
「……姉さん、か」
桜がそう口にするのは、決まって俺と二人きりの時だけだ。
それも桜が弱気になっている時。
……助けてほしいという心の声を殺しきれない時、桜は遠坂を“姉さん”と呼ぶ。
それは複雑な二人の生い立ちが作ってしまった、姉と妹の狭間に立ちはだかる壁だ。
その壁さえ壊してしまえば、二人はただの姉妹に戻れる。
それは―――俺がしてやれる中で、一番桜のためになる事なんじゃないだろうか。
「……うん。二人ともぎくしゃくしてるけど脈はあるし」
予期せずこんな状況になってしまったが、これは案外、二人の壁を壊すいい機会なのかもしれない。
◇◇◇
「――――――――、熱」
寝苦しさで目が覚めた。
寝巻きは汗を吸って重く、掛け布団は蹴り飛ばされている。
額を拭うと、びちゃり、と雑巾をしぼったような汗があった。
「――――――――」
……うまく頭が働かない。
真夏の熱帯夜めいた暑さに脳がやられたのか。
どう理性を絞っても、今が何時《いつ》で此処《ここ》が何処《どこ》なのかさえ確認できない。「――――――――」
庭に出た。
とにかく、この火照った体を冷ましたかった。
……あの部屋が暑いのか、自分の体が熱いのか。
考えるのも面倒だし、今夜は土蔵で眠ろう。
あそこならとりあえず寒い。
暑かろうと熱かろうと関係はな
「ぐっ――――、あ――――!」
不意の痛覚に串刺しにされ、地面に膝をついた。
「――――、い、てぇ――――」
はぁはぁと乱れた呼吸のまま、しばし蹲る。
……目が覚めた。
熱と痛みの元凶である左腕をぎゅっと掴む。
聖骸布は巻かれたままだ。
がっちりと腕を拘束した赤い布。
動きはするものの、ここまできつく縛られると血の巡りが悪くなる。
それでふと、この布こそが左腕を痛ませているのではないか、と考えた。
「案外、布《これ》を取れば元通りだったりしてな」
口にした妄想は、ひどく魅力的だった。
そもそも、自分は吹き飛んだ腕も移植された腕も見ていない。
あの神父の言葉を信用していない訳じゃないが、あいつにだって間違いはあるだろうし。
ホントは俺の腕はなんともなっていなくて、この布を解けば、馴れ親しんだ自分の腕がある。
俺の腕は決して鉄なんかじゃない。
腕を動かなくしているのはこの布で、コレさえ解いてしまえば、きっと――――
―――きっと、元通りの左腕がある筈だ。
な 息ができ 神経が、神経が 痛い 生きているのに 感覚は何処に 寒い 死―――― 急げ 早く、早く戻さないと 怖い 腕 急いで巻き戻す布の下には 黒い もう、俺のものとは別の腕が――――
「俺は――――何、を」
何を、していたのか。
一瞬、思いつきのまま布を解いた。
その後に何が起こったのか、まったく理解できない。
自分がどうなってしまったのか。
自分がどうなってしまうのか。
ほんの数秒前の事なのに、それがまったく思い出せない――――
「――――ダメだ。これは、本当に」
解けば死ぬ。
神父の言葉は真実だ。
何がどうなるかは判らないが、この布の下にあるものは、俺の物ではなくなっている。
「……忘れろ。ただ腕が動かないだけだ。……これ以上考えれば、きっと」
恐怖で、切れ味が鈍くなる。
そんな醜態は許されない。
アーチャーの腕を移植してまで生き延びたのは、無様に怯える為じゃない。
「……そうだ。今は俺の腕なんかより、桜の事を考えないと」
桜は朝と変わらなかったが、いつ倒れるか判らない。
……その前に臓硯を倒して聖杯を手に入れる。
考えるべきはその方法だ。
片腕で臓硯とアサシンを倒す手段。
……いや、敵はそれだけじゃない。
俺たちの前には得体の知れない敵がいる。
「――――――――」
事情は知らない。
あの“黒い影”がなんなのか、セイバーが臓硯のサーヴァントになったのかも判らない。
判っている事は、彼女が敵になったという事だけだ。
「………………」
……本当は判っている。
勝ち目なんて何処にもないと。
腕の鈍痛がこの先どうなるか自分にも判らない。
戦力差は圧倒的で、俺は自分の事さえ不確かだ。
こんな状態で、どこまで桜を守れるのか――――
◇◇◇
「――――――!」
足音を聞いて体を立たせる。
後ろにいる相手……やってきた相手が誰なのかは振り返らなくても判っていた。
黒い装束のサーヴァントは、相変わらず無口だった。
本来なら今みたいな足音は立てないだろうに、これみよがしに立てたのは俺に気を遣ったからだろう。
「何か用か、ライダー」
「………………………」
ライダーは無言で見下ろしてくる。
……む。
まったく関係ないんだが、ライダーは背が高い。そんなコトに今更気がつくなんて、俺もどうかしてる。
「―――なにがおかしいのですか、士郎。こちらはまだ何も告げてはいませんが」
「え……? ああ、今のは違うよ。ライダー、俺より背が高いだろ? もう随分と顔を合わせてきたのに、今になって気がついてさ。我ながら間の抜けたヤツだって笑ったんだ」
「そうですか。先ほどは苦しんでいるように見えましたが、要らぬ気遣いだったようですね」
?
気のせいかもしれないが、ライダーの声はわずかに怒っているようだった。
「っと、それよりライダー。今日助けてくれたのはおまえか? 記憶にないんだけど、あの森から教会まで運んでくれたのはライダーの気がするんだけど」
「……そうですね。貴方たちを運んだのは私です。サクラは貴方を守れと言った。私はサーヴァントとして、彼女の命に従ったまでです」
「―――そうか。それは助かったけど、ライダーを使ったって事は、桜も魔力を使ったって事だよな。
じゃあ――――」
「ええ。残り少ないサクラの魔力は、さらに失われたという事です。今日のように桜が私を使えば、私は桜を食い潰してしまうでしょう」
ライダーは淡々と語る。
桜に対する憎しみも哀れみもない。
ライダーはサーヴァントとして、当然の事実を口にしているだけだ。
「ライダー。一つ訊いていいか」
「かまいません。訊ね事があるのなら先にどうぞ」
「……じゃあ訊く。ライダーは、桜が令呪をなくしたら、そのまま桜を殺すのか」
令呪を使い切ったマスターは、まず自らのサーヴァントに狙われる。
桜とライダーに信頼関係がない場合、ライダーは容赦なく桜を殺し、その肉体を再契約までの糧として存命する。
……ライダーはあくまでサーヴァントとして桜を守っている。そこに親愛の情は見られない。
だからこそ、ここでライダー本人の意思をきちんと聞いておきたかった。
「――――――――」
「どうなんだ。おまえは、桜を殺すのか」
「ええ。サクラがそれを望むのなら、私の手で楽にしようとは考えています。ですが士郎。私は、彼女の生存を望んでいる」
「!――――じゃあライダーは、令呪がなくなっても桜を襲わないんだな?」
「令呪の縛りは関係ありません。私はサクラがマスターである限り、自らの意思で彼女を守る。私は彼女が好きですから」
「え――――本当に?」
「ええ。意外ですか士郎。私が感情を持つ事が」
「ぁ……いや、すまん、勘違いしてた。そんな風には見えなかったから、つい」
「謝る必要はありません。私はサクラとまともに話した事はありませんし、サクラも私には話しかけない。
けれど士郎。サーヴァントは自分に近いモノに喚ばれるのです。貴方がセイバーを召喚したのは偶然ではなく、その魂の有り方が近いからでしょう」
「そういった意味で言えば、私とサクラは同じものです。
もともと饒舌ではないのですから、会話がないのも当然でしょう。そのような物がなくとも、私たちはお互いをよく解っています」
……そう言うライダーの声には、確かに温かい感情が流れていた。
外見からつい酷薄な性格を想像してしまったけど、ライダー、本当はすごく淑やかな性格をしてるんじゃないだろうか。
「……そっか。うん、それは良かった。ライダーが桜の味方でいてくれて、すごく嬉しい」
「そうですか。では私の番ですね。
士郎。貴方はサクラがどのような苦痛に耐えてきたか知らない。桜がマキリの家に貰われてから今まで、何に耐えてきたか解りますか?」
「――――それ、は」
……解るはずがない。
いや、言峰の口からどんなものだったかはとっくに聞いている。
「……解らない。だから、それを口にする事も、しちゃいけないと思う」
……ああ。
俺だって魔術師の端くれで、臓硯がどんなヤツなのかは知っている。
想像をするのは容易く、それは真実に近い明確さを持つだろう。
だが―――それは俺が、容易く“解る”なんて口にしてはいけない事だ。
「でしょうね。サクラは貴方に知られないように努めてきた。その貴方がここで解るなどと口にすれば、私は貴方を殺している」
「……それは、桜の為に?」
「ええ。けれどその必要はなかったようです。
貴方は未熟で不器用ですが、その芯にあるものは信用に足ります。だからこそ、サクラにとって貴方は救いだったのでしょう」
「……長い間、彼女の中には諦めしかなかった。痛いとも苦しいとも感じられず、ただ受け入れるだけの日々でした。
そこに変化が生じたのは貴方と知り合ってからです、士郎。貴方はサクラに諦め以外の、無くしていた諸々の感情を取り戻させた。
その中で最も大きかったのは痛みと苦しみですが、それでも諦めるだけだった彼女にとって、貴方は唯一確かな救いだったのです」
「………………」
ライダーが何を言っているのか、俺には読み取れない。
桜が何を思い、何に苦しんできたかを共有できない俺には、俺を好きになってくれた理由さえ判らない。
ただ、マスターである桜と感覚を共有するライダーの言葉は紛れもない真実だ。
ライダーは静かに。
まるで、桜の気持ちを代弁するかのように、
「士郎。貴方は、サクラを幸せにすると言いましたが。
サクラにとっては、この二年間こそが幸福だった」
静かな悲しみと感謝を込めてそう言った。
「私が訊ねたかったのはそれだけです。
サクラの幸福は、貴方が生きて傍にいてくれる、という事。それ以外に彼女が望むものなどない」
ライダーは目隠し越しに、俺を問い詰める。
……その意味がわかっているのか、と。
間桐桜にとって、衛宮士郎が戦うという事自体が、彼女の幸福を脅かしている。
なら、そんな体でこれ以上何をするつもりだ、と責めたててくる。
「――――けど、俺は」
……動かない左腕を握り締める。
片腕になってもまだ戦えるのなら、戦わないといけない。
俺は桜を助けると誓った。
戦いを止める為ではなく、桜の為だけに戦うと決めてしまった。
だから―――ここでそれを止めてしまったら、俺は何者でもなくなってしまう。
「―――――――――」
……沈黙が降りる。
ライダーは口を閉ざし、俺は俯いたまま答えがない。
そうして、どれだけの時間が経ったのか。
「…………貴方はサクラの味方ですか、士郎。
この先に、たとえ何があったとしても」
「――――――――」
ライダーの問いは、考えるまでもない。
衛宮士郎は間桐桜の味方になると決めた。
なら、迷いもなく頷いてライダーに応えなくてはいけない。
「――――――――」
そう解っていても、はっきりと気持ちを口に出来なかった。
“―――たとえ、何があったとしても” その言葉の意味が何を指しているのか、心の何処かで気付いてしまったから。
「……解りました。ここで無理をせずとも、答えはいずれ出ます。その時までに覚悟を決めておくのですね」
闇に溶ける様にライダーは立ち去った。
それを見送って、意味もなく空を仰いだ。
「――――――くそ」
……ああ。
答えを言えなかったのは、気付いてしまったからだ。
未だ正体の掴めない黒い影。
不安定な左腕。
もう切り捨てた筈の、今まで自分が目指していた理想。
その全てが告げているのだ。
聖杯を手に入れれば、他のどんな望みも叶う。
だが―――桜を幸福にするという願いだけは、どうあっても叶えられない幻想だと―――
◇◇◇ ◇◇◇
――――それは、赤い海にいた。
見知った風景は海水に没して、街は生け簀のようだった。
空気はなく、息をする度に濃いものが喉にからみつく。
酸素が足りなくて苦しい、と息を吸えば吸うほど、水のように重い空気が肺に流れ込んでくる。
だから、ここが海中である事に間違いはないようだった。
苦しい、とそれは喘いだ。
それは本来地上に棲むべきもの。このように海中で生きていける筈がない。
海面に出ようと上を目指し、街で一番の高みに辿りつく。
息苦しさは変わらない。
それは広がる風景を見下ろし、足りない酸素に喉を焼き、その苦しみ故に、安穏と眠る街並を憎悪した。
クルシイ。クルシイ。クルシイ。クルシイ。
ここには空気がない。
ここには痛みがない。
クルシイ。クルシイ。クルシイ。クルシイ。
ずるずると死体を引きずっている。
体は返り血で見惚れるほど滑《なめ》らかに赤《あか》らかだった。
クルシイ。クルシイ。タリナイ。クルシイ。
黒い手には何人もの死体が収まっている。
歪な手は何人もの死体を握り締めている。
タリナイ。タリナイ。タリナイ。タリナイ。
ぐちゃりと潰して全身を濡らしていく。
酸素が足りない。
酸素が苦しい。
水圧が軽々しい。
水圧に耐えられない。
赤い血を全身に塗りたくる。
おそらく、それだけがこの深海で生きる為の、耐水服だと信じるように。
歪に広がった手を伸ばす。
黒い手は月光に照らされ、巨大な影となって、街の一部分を押し潰そうと下がっていき――――
「ぁ、あ………………!」
眠りから覚める。
寝苦しさに喉が喘いでいる。
厭にリアルな夢に愕然として、熱く火照った体を抱きしめる。
途端、ぬるりと。
両手が、どろどろの血に塗れていた。
「あ、あ――――!」
目を閉じて、両手を自分から遠ざける。
……恐る恐る目を開ければ、両手はキレイなままだった。
それが錯覚なのだと気付いても、体の震えは止まらなかった。
ガクガクと震える。
壊れた機械のように震える。
カラカラと耳からボルトがこぼれそうなほど震え続ける。
そうして、このまま無様に中身《パーツ》をこぼしていって、いつか空っぽになって動かなくなる―――そんな想像をするとよけい怖くて、震えは一向に治まらない。
「――――顔。そうだ、顔を、洗わないと――――」
洗面所に向かう。
数歩も歩けない。
震える手足は言うことを聞いてくれない。
倒れようとする体を、なんとか机によりかかって持ち堪えた。
「……ぁ……あ、っ――――」
視界が霞む。
ドアまで歩けないし、ドアさえよく見えない。
自分がさっきまでどんな夢を見ていたのか、どうしてベッドから出たのかさえ思い出せない。
「……う……あ」
壊れている。
何も思い出せない。
何も考えられない。
あるのは愛欲と飢えだけだ。
欲しいのは熱い肌と吐息と手触りと肉棒と精液と優しい優しい言葉だけだ。
空っぽのクセにグチャグチャのなかみは、もっと抱いてほしいとしか訴えられない。
「ぁ――――――――ぅ」
机に伏したまま、ふるふると首を振る。
恐怖と際限のない自己嫌悪。
どうかしている。
自分はどうかしている。
どうして足りないんだろう。
ほんの数時間前、淫らな妄想どおりにあれだけ愛されたというのにまったくぜんぜんこれっぽっちも満ち足りていない。
嬉しくて気持ちよくて、もうこれ以上の幸福はないと思えたのに全然全然満ち足りていなかった。
きっと自分はとてもとても空っぽだから、彼一人では満たせないのだ。
でも彼以外の人間になんて満たしてほしくもなかったのだ。
だからもっと長くずっと長く、いつまでもあのまま彼のものになっていたかった。
その為なら時間も感情も他の人間も何もかもなくなってしまえばいいとさえ思ったのにどうしてそうしてしまわなかったのか不思議で不思議で仕方がなく、そこでごく自然に、自分にはソレが出来るコトに気がついた。
「あ――――」
目眩がする。
おかしな妄想にではない。
一瞬、本当に素直に、
それは楽しそうだな、と思ったコトが、恐ろしかった。
「ぁ――――ぅ……う……!」
机に体を預ける。
崩れそうな体を堪える。
怖いユメは日増しに明瞭になっていく。
怖いユメを日増しに怖いモノとは思えなくなっている。
だから、自分は壊れはじめている。
今までは体だけだった。
それが、今では心までおかしくなり始めている。
「……う……う、う」
かみ締めた唇から、くぐもった嗚咽が漏れる。
記憶が曖昧なのはいい。
数時間前のことを思い出せなくてもかまわない。
手足がきかなくなって、一生寝たきりでも怖くはない。
けれど、自分が自分でなくなるのはイヤだ。
悪いにんげんになっていくのはイヤだ。
こんなふうに少しずつおかしくなっていけば、最後には狂ってしまう。
そうなったら、きっと―――自分は、彼を一番苦しめる存在になってしまう。
「――――――――」
それが怖い。
自分がヘンになっていくのは怖い。今まで以上に怖い。
自分がおかしくなれば彼は触ってくれないし、自分を愛してもくれない。
一緒にいることもできなくなって、一緒にいることさえ分からなくなる。
それだけじゃない。自分がおかしくなってしまえば、違う女が彼と一緒にいるコトになる。
それがイヤだ。すごくイヤだ。
今までずっと、自分以外のもっと相応しいヒトといるべきだと思っていたクセに、もうそんなコトは許容できない。
――――だって。
彼はもう、自分のモノになったのだから。
……だから怖い。
そうなってしまった時、自分が何をするのか判らないから怖い。
「……う――――う、く――――」
けれど、そこまで判っていながら救いはなかった。
この故障を打ち明ける事はできない。
打ち明ければ今までと同じ、寒いところに戻るだけだ。
けれど温かさを知ってしまった以上、もう寒いところには戻れない。
彼女は、もっと。
この場所で、あの人に笑いかけていたかった。
だが、今の状況を続ければ何が失われるのかもよく判っている。
その願いはただの欲望。
彼女が幸せになるには、彼女が幸せになってほしいと願うただ一人の人間を、台無しにしなければならない。
それが出来ないのなら、このまま誰にも知られないうちに壊れていなくなってしまえばいい。
どうせおかしくなるなら今のうちに消えて、誰もいないところで怪物になってしまえばいい。
それがきっと、一番正しい選択だ。
けど縋ってしまう。
温かいから、幸福だから、もっと欲しいと願ってしまう。
どうして自分だけが。
そんな当たり前の欲求から、断絶されていなければならないのかと――――
「違う――――違う、違う、違う、違う……!」
自らの弱さを振り払う。
妬んでなどいない。
恨んでなどいない。
ただ、もう少し赦されていたいだけなのだと弁解する。
「違う――――こんなの、わたしじゃ、ない」
頭を振って否定する。
空っぽのあたまで昏《くら》い心にフタをする。
―――この道に、幸福な出口などないと。
その、判りきった答えから目を背ける。
「う――――うぅ、う――――」
……混濁した思考は、とうに悪夢に落ちている。
彼女は、助けてほしいという願いを押し殺して、ただ一人泣き続けた。
◇◇◇
――――目を潰す光。
強い向かい風が、体と意識を“入り口”から突き放していく。
光はあまりにも強く、正体を知覚する事が出来ない。
風に晒される体は、刻一刻と錆焦げていく。
どのくらい長く“此処”にいるのか。
一秒に満たぬ無限と、永遠に近い瞬間。
時間のない時間は、年を秒へと変えていた。
故に、永く風に晒される体は、鏡のように磨かれ曇りぼろぼろに削れていく。
「――――――――、あ」
前へ。
ここは、苦しい。
手掛かりのない無重、
大気のない真空だ。
風蝕の世界は、人の身で存《い》在ていい場所ではない。
その為に前へ進んだ。
一歩前に出る度に体積は倍化し、呼吸も前進も困難になっていく。
一歩。
二歩。
三歩目はとうに不可能。
これ以上は進めない。進めば進むだけ風は強く吹きつけ、全身を削っていく。
だが、逃れたいのなら前に進むしかない。
風はあの光の向こうから吹いてくる。
光は“入り口”であり“出口”だった。
――――ここは、苦しい。
だから、早くあの向こう側に行かなければ。
入り口を抜ければ、ここ以上に強い風が吹いている。
出口を抜ければ、この苦しみが容易《たやす》くなる。
「は――――ぁ、あ――――!」
手を伸ばす。
渾身の力を込めて手を伸ばす。
光はすぐ目の前。
だがあまりにも届かない。
極光が目を潰す。
どうしても、届かない。
苦しい。
血を吐きながら手を伸ばしても届かない。
なぜ。
わずか一メートル先の地点を目指しているのに、
どうして、
遥か彼方の、極天を目指しているような――――
「――――シロウ」
「え?」
呼ばれて、ハタと目が覚めた。
「ダメよ。苦しいからって、それ取ったら死んじゃうんだから」
「――――――――」
呆然と、目の前にいるイリヤを観察する。
「あれ、イリヤ……? なんで俺の部屋にいるんだ?」
「なんでって、わたしの部屋近くだもん。先に目が覚めちゃったから、シロウを観察していたのでしたー」
……はあ。
どうも、観察してたのはイリヤのが先だったらしい。
それはいいとして、イリヤがそんなコトをしたのは、もしかして――――
「……む。もしかして俺、魘《うな》されてたのか?」
「そうよ。シロウ、苦しそうに声をあげて左腕の布を剥ぎ取ろうとしていたわ。
まあ、きっとそうなるって思ってたから来てあげたんだけどね。シロウが眠ってる間に痛み止めしといてあげたから、今はいくぶん楽でしょ?」
「あ――――」
言われて、右手が左腕の布を掴んでいる事に気がついた。
……なんてこった。
イリヤが来てくれなかったら、寝ている間に聖骸布を剥がしてたぞ、これじゃ。
「――――そっか。朝からありがとな、イリヤ」
「お礼はいいよ、わたしとシロウの仲だもん。
それに約束したでしょ? シロウが苦しい時は、わたしが助けてあげるんだって」
「――――――――」
その笑顔に、しばし目を奪われた。
イリヤは本当に、ただ好意だけで言ってくれているのだと分かって、不覚にも胸が、
「ふふ、それにシロウの寝顔が見たかったし。苦しいのにいっしょうけんめい我慢しちゃって、シロウったら可愛いかったわ」
フルブレーキングして、動悸を抑えてくれた。
「――――イリヤ。人の部屋に黙って入るのはよくない。
とくに朝と夜なんかもっての外だ。俺も人並みの男だから、いろいろ困る」
「そうなんだ。具体的に言うとどんなふうに困るのかしら? 詳しく知りたいな、わたし」
「う―――いや、だからそういう質問こみで困る。
だいたいイリヤは女の子なんだから、朝っぱらから男の部屋になんて入っちゃダメだ。いいか、危ないぞ。ホントに危ないんだぞ。イリヤ本人もだけど、部屋の主たる思春期の少年のナイーヴな心臓とかな」
「そうなの? けどそれじゃますます分からないよシロウ。ちゃんと何が都合悪くて、どうして危ないのか言ってくれなくちゃ、止めてあげない」
銀髪の少女はそのまま、床に手をついて四つんばいの状態で、
「ほら、もっと近くに寄っちゃったよ? さ、どうして朝に来られると困ってしまうの、シロウ?」
「ば、ばばばば……っっっっ!!!!」
ごろん、と毛布を握ったまま後方にでんぐり返る。
危ない。
男には男の生理があって、それは毎朝やってくるものなのだ。
そこにあんな格好で近づかれたら、そりゃもう男として不名誉な烙印を押されかね――――
「あ」
「が――――」
で、後頭部をもろに柱に叩きつけた。
「あ、ぐ――――だから、危ないって、言ったんだ」
ヨロヨロと落ち込みながら言い訳する。
「う、うん、ごめんねシロウ。
……その、痛くなかった……?」
痛い。
星が飛ぶぐらい痛いが、今のイリヤの声を聞いたらそんな弱音は口にできない。
「いや、大丈夫だ。いい目覚ましになったから気にしないでくれ」
ぶんぶん、と頭を振って立ち上がる。
朝の生理現象は、今のショックで完全に大人しくなってくれたし。
「……よし。時間も時間だし、朝食を作りに行くか。イリヤ、朝は何がいい? 嫌いなものがあったら今のうちに言ってくれ」
「え? うそ、シロウごはん作れるの!?」
「まあ人並みには出来る。洋菓子は……そうだな、ホットケーキぐらいなら、なんとか」
ぱあ、とイリヤの顔が明るくなる。
どうも、イリヤにとって俺が料理をする、というのは喜ばしい事らしい。
「ふーん……なんなら一緒に作るか? 朝飯ができたら呼びにいこうと思ってたけど、イリヤが起きてるなら居間にいてもらったほうがいいし」
「ほんと!? うん、行く行く! シロウのエプロン姿見たい!」
「そっか。じゃあ三人で協力して遠坂をやっつけよう。
今朝は桜と一緒に作る約束だったから、イリヤが入れば三人力だ」
「――――止めた。サクラがいるなら行かない。シロウ、一人で行って」
「え……なんだよ急に。桜がいるならって、イリヤは桜が嫌いなのか」
「いいえ。どっちかっていうと好きな部類よ。ただ、あの娘はシロウには合わないから認めてあげないだけ」
「?――――合わないって、イリヤ」
「ほんとのことよ。シロウだって気付いてるクセに、必死に気付かないようにしてるでしょう。わたしがいまさら言っても始まらないわ」
言って、イリヤは廊下へ歩き出す。
「それと。どんな瞑想《トランス》状態にあったか知らないけど、無闇に先に進まないで。貴方が見ているものはアーチャーの魔術で、シロウの魔術じゃないわ。
……いずれシロウのモノになるとは言っても、今はまだ可能性があるだけ。そんな状態で投影なんてすれば、シロウの体は内側から崩壊する」
「投影なんてすれば――――?」
呆然と、イリヤの言葉を繰り返す。
瞬間。
カチン、と撃鉄が落ちた。
診療台で見た光景《ゆめ》。
それがなんであったのか、何を意味していたのかが、漠然と頭の中に入ってくる。
――――アレは、おそらく。
視認した“武装”を複製し自らの剣とする、極限《地の果て》の投影魔術――――
「……そうよ。アーチャーの宝具は彼だけが扱える“魔術”なの。
アーチャーは目にした武器なら確実に複製する錬鉄の英霊。その力は、彼の腕を受け継いだシロウにも使えるものよ。今は意識してないだろうけど、その気になればキチンとした起動呪文も思い起こせる」
「けど、使えるからって使おうなんて思わないで。あの神父の言葉は正しいわ。一度でもその布を解いて投影をすれば、シロウは絶対に助からない。
……だから、何があってもその布は外さないで。キリツグみたいに勝手に死んだら許さない。わたしが殺す前にわたしを一人にしたら、絶対に許さないんだから」
イリヤは縁側へ去っていく。
忠告には俺の体を案じる厳しさと、俺を憎む殺意が混在していた。
◇◇◇
「先輩、かぶの汚れ取り終わりました。手羽元の準備はどうですか?」
「―――ああ、アク取りは済んだ。そっちを四つ切したら煮よう」
「はあ。先輩、カレー粉なんて持って何するんですか?」
「ん、タレ作ってるんだ。いわしの蒲焼にかける。イリヤが魚嫌いでも食べられるだろ、カレー風味なら」
「なるほど、冴えてますね先輩! えっと、それじゃあ捌くのはわたしがやりますから、先輩は煮込みもののチェックお願いします」
「え? いや、いわしなら包丁使わなくても捌けるからいいよ。腹骨をこそぐ時だけ頼むから、桜はだしとしょう油でかぼちゃ煮作ってくれ。一品ぐらい甘ものがあった方がいい」
「はい、了解しました。あ、片手でキレイにお魚捌いているとお寿司屋さんみたいですよ、先輩」
弾むように言って、桜はいそいそと冷蔵庫に手をかける。
一晩ぐっすり眠って体調もいいのか、桜は朝から上機嫌だ。
「――――――――ん」
そういう自分も、こうやって桜と台所に立つのは楽しい。
桜は気が利いて、こっちのやりたいことを読み取って準備をしてくれる。
そういう相方と料理をするのは、実はすごく気持ちいい事だ。
「先輩? お寿司屋さん、止まってますけど」
「ん? ああ、ちょっとぼうっとしてた。急がないとな、そろそろ七時だ」
ふう、と桜に気付かれないように息をついて、いわしの捌きを再開する。
いわしは身が柔らかいんで、包丁より指で捌いた方がいい。左手がまだ動かない自分にとっては、かろうじて調理できる食材だ。
「けど、先輩いつのまにそんな技覚えたんですか? 右手だけでお魚を捌くなんて、かなり普通じゃないです」
「技じゃない。これはタイミングと気合の問題。その気になれば桜だって出来る」
「はあ。そんなものですか」
「そんなもんだよ。技っていうのは包丁一本で牛一頭バラしたり、氷細工をすぱーんと作っちまうヤツ。
はい、あとよろしく。腹骨とったら焼くから、ボウルに入れといてくれ」
まな板から離れてコンロの前へ。
フライパンに火をかけて、サラダ油をこさじ半分ほど投入。
このあたりは体が覚えていたんで、上の空でやってのける。
「あの、先輩……?」
「ん」
ぼんやりと相づちを打つ。
「……余計な事かもしれませんけど。その、イリヤさんと何かあったんですか?」
「――――――――」
フライパンを持つ手が止まった。
だがそれも一瞬だ。
こっちの動揺は、桜には伝わらなかっただろう。
「ああ。ちょっと、台所に来る前に話した。イリヤはイリヤで、やっぱり大変なんだ。それにどうやって応えればいいのか、すごく難しい」
「……それはマスターとしての問題、なんでしょうか。
イリヤさんは、まだ戦うと言っている、とか」
「いや。とりあえず、イリヤには戦闘意欲らしきものはない。……いや、初めからそんなものはなかったのかもしれない。アインツベルンのマスターとして聖杯を手に入れようとしたんだろうけど、イリヤには聖杯より他の目的があったんだ。
けど、それは」
……この戦いが始まるずっと前に、とうになくなってしまっていた。
イリヤの目的。
彼女が会いたがっていた衛宮切嗣は、五年前に死んでいる。
なら―――その代わりに、俺は何が出来て、何をするべきなのか。
「なあ桜。もしイリヤが自分の国に帰りたくないって言ったら、うちに住んでもらっちゃダメかな」
「あ―――あの。ここは先輩のお家です。わたしの意見は、あんまり意味がないです」
「なに言ってんだ、ここ桜の家じゃんか。それにイリヤを引き取るなんて大事なこと、相方に相談なしで出来る事じゃない」
「あ――――相方ってわたし、ですか……!?」
「ああ。桜以外いないだろ、そんなの」
イリヤも遠坂も、ここまで完璧に料理の手伝いなんてしてくれないし。
「桜、フライパンの用意できたから」
ほら、と桜が仕上げをしたいわしを受け取る。
桜はふわふわした動作でいわしを手渡してくる。
……?
どうしたんだろ、いきなり。
まさかまた熱がぶり返したとか……?
「は、はい、わかりましたっ……! わたし、イリヤさんと仲良くできるようがんばります……!」
「―――うん、そうしてくれると嬉しい。イリヤも桜のこと嫌いじゃないって言ってたから、ちゃんと話せば仲良くなれる」
……ああ、そうなったらすごく嬉しい。
聖杯戦争もマスターも関係なくなった後、この家には桜とイリヤがいて、何の憂いもなく朝食を作ったりする。
そんな幸せな未来《ねがい》が叶うのなら、どんな代償を払ってでも――――
「おはよう。日曜だっていうのに早いのね、二人とも」
……と。
なにか、凄いのが通っていった。
「せ、先輩、いまおかしな人が通りませんでした?」
「……う。桜にも見えたって事は、幻覚じゃないんだな」
で、二人して恐る恐る居間を盗み見る。
どすん、と乱暴に陣取ったソレは、不機嫌そうにポットからお茶を淹れ、やはり不機嫌そうにテレビのスイッチを入れる。
「……びっくり。遠坂先輩、朝に弱い人だったんだ……」
「………………」
いや、桜。
弱いっていうのはああいうんじゃなくて、もっとこう、可愛らしいものを指すのではないだろうか?
朝食が始まった。
食卓には俺と桜、遠坂とイリヤが隣り合う形で陣取っている。
「あら。わりと上品な味付けするのね、サクラ。これなら食べてあげてもいいわ」
なんて、桜を誉めているんだか攻撃してるんだか分からないイリヤ。
「まいったわね。わたし、朝は食べない主義なんだけど」
遠坂は遠坂で、文句を言いながら卵焼きを口に運ぶ。
「――――む」
……で、なぜかそれきり無言で朝食に集中しだした。
「………………」
朝食は静かに進んでいく。
遠坂がつけたテレビだけが騒がしく、かわるがわる新しい話題を提供していた。
「ん……?」
―――テレビに見知った風景が映っていた。
見間違える筈もない。
新都の公園を映したテレビは、朝から不可解なニュースを流している。
「……中央公園で行方不明者……付近には夥しい血痕……?」
それは、妙に生々しい事件だった。
今朝、日課のランニングをこなしていた初老の男性が公園で血の跡を発見し、通報。
報せを受けた警察官が見つけたものは人間一人分と思われる血痕と、被害者のものと思われる死体の一部だったらしい。
……その死体の一部とやらもただの肉片で、掻き集めても50キロに満たないという話だった。
「……警察では四人の身元を……って、なんで四人なんだ? 一人分の血痕しかないのに」
「そりゃ死体の一部ってのが四人分あったんでしょう。
食い残しだろうから本当に一部しか残ってなかっただろうけど、そこから判断したんじゃない」
「……遠坂。
食い残しってことは、これもサーヴァント―――臓硯の仕業だっていうのか?」
「さあね。臓硯の仕業かどうかは判らない。けど、これはあの影がやったと見て間違いない。ほら、画面のはじっこ。雑草が黒く変色してるでしょ。それ、森であの影が出てきた時と同じなのよ」
「――――――――」
あっさりと遠坂は言う。
だが、二つばかり納得がいかなかった。
「なんでだよ。あの影がなんであれ、今まではこんな事してなかっただろう。アレは町の人たちから魔力を吸い上げた事はあっても、こんな風に、その」
直接、人間を殺すなんて事はなかった筈だ。
「……そうね。考えられる理由があるとしたら、敵がいなくなったからでしょう。もう正面からあいつらを倒せるマスターはいない。なら、これからは誰の目も気にする事なく、好き放題できるでしょ?」
「―――それは、見境がなくなってるって事か」
「……さあ。自分で言っておいてなんだけど、わたしにはそうは見えない。仮に臓硯があの影と関係があるのなら、これは予期せぬ事故だったんじゃないかしら。
臓硯本人、今ごろこれを知って驚いてるってのに卵焼きを賭けてもいい」
……そう言う遠坂の卵焼きはとっくになくなっている。
あいつの鷹のような目は、唯一手がつけられていない俺の卵焼きに向けられていた。
「……む。予期せぬ事故って、なんでさ」
「後片付けが出来てないでしょ。血痕はともかく、遺体の一部を残すような臓硯《ヤツ》じゃない。つまりこの現場に臓硯はいなくて、あのわけわかんない影だけで食事をしたってコト」
「―――なるほど。……じゃあもう一つ。さっきの質問なんだが、どうして被害者は四人って判ってるんだ? 血痕は一人分で、遺体の一部だって一人分しかないんだぞ」
「重さじゃなくて形の話。単に一つしかない筈のものが四つあっただけの話なんじゃない? それなら鑑識するまでもなく被害者の数ぐらい判るもの。
ほら。一面の血の海にさ、左手だけが四本あったら誰だって何人いたか判るでしょう?」
平然と遠坂は言う。
「――――――――」
その光景を想像して、急速に食欲が薄れていった。
◇◇◇
朝食の後。
「士郎。やらなくちゃいけない事があるから、ちょっと付き合って」
と、道場まで連れてこられた。
断る理由もなかったし、遠坂とは今後の方針を話し合いたかったので渡りに船でもあった。
あったのだが、
「ちょっと。わたしが呼んだのは士郎だけよ。なんだってぞろぞろついて来るのよ、貴女たちは」
予定外の同行者に遠坂はご機嫌ななめになっていた。
「……その、遠坂先輩が妙に殺気だってるから、先輩一人だと危険だと思って」
「あのね。士郎とは協定を結んだんだから、騙し討ちなんてしないわよ。そんな事言わなくても判ってるクセに、なんだってついて来たの桜」
「だ、だって―――先輩を守るのは、わたしの役割です」
「……言い切ったわね。
じゃあそっちは? わたしがやる事なんてとっくに判ってるクセに、わざわざ野次とばしに来たわけ?」
「いいえ。わたしもサクラと同じよリン。
あなたがやりたい事は判るけど、どんな方法をとるかまでは判らないもの。シロウにヘンなコトしないか監視に来たのよ」
「……まあいいけど。こっちは士郎の為を思って体をいじるんだから、早とちりして邪魔なんてしないでよね。
悠長にやってる余裕なんてないんだから」
朝食の前から用意しておいたのか、道場には遠坂のボストンバッグが置かれていた。
中には遠坂邸にあったような器具が詰まっていて、これから何をされるのかは想像に容易いのだが……。
「悪い。その前に少しいいか、遠坂」
「なによ。まさか、この期におよんで痛いのは嫌だ、なんて言うんじゃないでしょうね」
「そりゃ当たり前だ。誰だって痛いのはヤだぞ。
だいたいな、何をするか説明もしていないのにそんなの見せられたら逃げるぞ、普通」
うんうん、と頷く二人。
頼もしいコトに今回は加勢が二人もいる。
「説明不足で悪かったわね。どうせ、貴方と比べてこっちは普通じゃないわよ。文句があるなら出て行けばいいじゃない」
あ。
三対一という状況にカチンときたのか、遠坂が拗ねた。
「いや、文句はない。遠坂がやろうとしている事だって薄々わかってる。わかってるから、そっちの事は全面的に信頼してる。どんな指示だろうと、遠坂の言葉なら信じる。昨日の夜、そう約束しただろう」
「ふ、ふん。じゃあ何で待ったなんてかけるのよ。
疑問がないなら大人しく言うコト聞きなさいよね」
「いや、その話じゃない。俺が確認しておきたいのは今後の方針だ。これから俺たちはどうするのか、ここでちゃんと決めておくべきだろう」
……三人の顔色が変わる。
俺が口にした事は、昨夜先延ばしにされた全員の問題でもある。
何と戦い、何をするか。
それを決めれば後戻りは出来ない。
いや、後戻りなんてとっくに出来なくなっているのだと、再確認する為の宣言でもある。
「………………」
「わたしは戦いには参加しない。誰かがわたしを襲うのなら戦うけど、自分から戦う気はないわ。今回の聖杯戦争は、勝ち残ったところでどうなるか判らないもの」
「……わたしもイリヤさんと同じです。その、わたしたちではお爺さまには勝てないと思います。
もう勝敗は決まったようなものですから、ここで大人しくしていれば、お爺さまも手出しはしてこない筈ですし……」
「………………」
……遠坂は何も言わない。
その思惑は計れないが、イリヤと桜に同意しない以上、俺と同じ意見なのだと信じたい。
「―――そうだな。守りに徹するって意見には賛成だ。
桜はこの家から出ず、臓硯に対して守りを固める。
桜にはライダーがいるし、防戦に徹するなら桜とイリヤぐらいは守りきってくれる」
「その間、俺と遠坂は臓硯を倒す手段を考える。
ここに立て篭もっていてもいつかは襲われるし、これ以上あいつらを野放しには出来ない。今朝のニュースと同じ事がこれからも起きないとは言えないんだから」
遠坂は口を挟まなかった。
本心がどうであれ、あいつも二人だけで臓硯と戦う気でいたって事だ。
「臓硯も放っておけないが、それ以上にあの影は放っておけない。俺と遠坂は今夜から町に出る事になるだろうから、桜とイリヤはここで気を配っていてくれ」
異論はないな、と全員に確認する。
――――と。
「な、なにを言っているんですか先輩……!」
「桜……? なにって、別におかしな事じゃないだろ。
戦えるのは俺と遠坂だけなんだから、俺たちで臓硯を倒さないと」
「それがおかしいんですっ……!
先輩、片腕がなくなったんですよ!? それがどういう事なのか、本当に理解《わか》っているんですか……!」
「え―――――さく、ら?」
「……わかりません。先輩、おかしいです。そんな目にあったのに、どうしてまだ戦うんですか。
これ以上は先輩の手に余るって、そんな事、実際戦った先輩ならわかってる筈なのに―――どうして、そんな馬鹿な事を言うんですか。
これなら……片腕になってしまえば、もう危ない目にはあわないでくれるって安心したのに、どうして―――」
「……………………桜」
桜は震えている。
俯いたまま、自分の言葉に身を震わせている。
その震えが何処から来るものなのか、俺には判らない。
今返せるものは、桜の問いへの答えだけだ。
「桜。俺は桜を勝たせる。その為に戦う。
臓硯やあの影が放っておけないって事もある。けどそれ以上に俺は聖杯が欲しい。これは誰かの為じゃなくて、俺自身の勝手な願いだ」
―――そう。
誰かの味方ではなく、桜の味方をすると決めた時から抱いた、衛宮士郎の勝手な願い。
「…………それは、わたしのため、なんですか」
「―――そうだ。桜の体から刻印虫が取り除けるなら、それは桜のためにもなる」
「……大丈夫だよ桜。勝ち目がないのならまず勝ち目を作るし、勝ち目がないうちは戦わない。
そりゃ勝ち目があったところで危険は当然だし、代償はついて回るから怪我をしないって約束はできない。
―――けど、必ず帰ってくる。桜を守るって言っただろ。なら、傍にいないと約束を守れない」
「先、輩……」
桜は辛そうに視線を下げる。
それが、まるで謝っているように見えた時。
「――――はいはい、そこまでにしてもらえる?
方針は決まったんだから、今更どうこう言っても仕方がないでしょ。
桜とイリヤはここで留守番。わたしと士郎はとりあえず夜の町を巡回する。臓硯たちを見つけても安易に仕掛けないで、勝算がある場合のみ戦ってあいつらの戦力を削っていく。
これが今後の方針って事でOKなんでしょ、士郎」
「あ……ああ。遠坂がその気なら、こっちも頼もしい」
「――――ふん。そんなの言うまでもないじゃない」
「それと桜。綺礼は貴方から刻印虫を完全には摘出できなかったけど、その活動は大幅に抑えた筈よ。だから慎二の時みたいに、直接何かをされないかぎり刻印虫の暴走はないの。
逆に言えば、貴方がこの屋敷に留まっている限り、臓硯は最後の一人にはなれない。遅かれ早かれあいつは桜を奪いに来るんだから、戦わない、なんて選択肢はないのよ。それが判ってるクセに、大人しくしていようなんてよく言えたものね」
「っ……それは、そうです、けど―――お爺さまだって、わたしたちが何もしなければ手荒な事は―――」
「桜! いい加減、その卑屈な考え止めなさい。臓硯はアンタの祖父でもなければ師でもない。あれだけ非道を重ねられて、まだ臓硯を人間だって思ってるの!?」
「…………いいえ。お爺さまが人だなんて、思ったことは、一度も」
「なら貴方も覚悟を決めなさい。わたしと士郎が外で戦うように、貴方もここで戦わなくちゃいけないんだから。
もし臓硯がここを襲った時、貴方はなんとしても逃げ延びること。ライダーさえ倒されなければ聖杯は完成しない。ライダーが生きている限りは、貴女にだって助かる希望があるんだから」
きっぱりと遠坂は言い放つ。
……さすが姉の貫禄というか。
桜は小さく頷いて、わかりました、と返答していた。
◇◇◇
で、その後。
人を道場に呼びつけて何をするんだ、と訊いてみると、
「そうね。まずは裸になってもらおうかしら。
何をするにしても、士郎がどんな体をしているか見ておかないと上手くいかないでしょ」
なんて、とんでもないコトを口にした。
「え、」
「え、ええーーーーー!?」
「……え、ええーーー」
自分の分以上に驚かれて、申し訳程度に声をあげる。
「なに。いまの驚くようなこと、桜?」
「お、驚くようなコトですっ……! 先輩に裸になれって、と、とと遠坂先輩はなにを考えてるんですかっ……!」
「なにって、士郎のコトに決まってるでしょう。
貴方も危ないけど、士郎だって負けず劣らずでやばいんだから。今のうちに色々やっておかないとダメだって、桜だって判ってるんじゃない?」
「……それは、そうです、けど」
「わかってるなら口出ししないでよね。
ほら、そこ! ぽかんとしてないでさっさと上着を脱ぐ! 魔よけの刻印《サイン》をいれるんだから、服着てたらできないでしょう!」
びし、とこっちを睨む遠坂。
「う…………」
だが、桜の視線が妙に痛い。
不安そうな目が、姉さんのところに行っちゃうんですか、と問いかけてきている。
「早くしなさい。早目に体に馴染ませないと夜の巡回に間に合わなくなるんだから」
「う…………む」
コトがコトなだけに、恥ずかしがってる場合じゃない。
裸になるのは気が引けるが、上着だけなら着替えみたいなもんだし、そう大事でもないだろうし。
「……はあ。脱いだぞ遠坂。で、これからどうするんだ」
「こっちに来て。わたしの魔術刻印を少しだけ移植するから」
「っ……! そっちって、こんなカッコウで遠坂の近くにか!?」
「当たり前でしょう。左手で直接触れて、士郎の肉感を把握して、その上で魔よけの刻印を分けてあげるんだから。くすぐったかったり痛かったりするけど我慢しなさいよね」
ほら、と左手をワキワキさせる遠坂。
「う――――」
……ここまで来た以上、道場から逃げ出すワケにもいかない。
観念して遠坂に近寄っていく。
……その、桜の視線がさっきより痛い、気がする。
「じゃあ始めるけど、その前に確認事項ね。この前は士郎の体にスイッチをいれようって言ってたけど、アレは止めるわ。
ここで簡単に魔術回路の開閉《オンオフ》ができるようになったら、士郎自身が危ないから」
「あ――――ああ、わかった」
うわずった声でなんとか答えた。
そりゃ声だってうわずるし呼吸だって出来なくなる。
こっちは裸で、遠坂がこんなに近いんだ。
これで緊張しない方がどうかしてるっ。
「ちょっと。落ち着きないけどちゃんと聞いてるの?」
「――――聞いてる。ちゃんと聞いてる」
「……? ならいいけど。
それで、今回するのは逆に魔力を抑える手術よ。
今の士郎の体は不安定で、いつアーチャーの腕から魔力が逆流してくるか判らない。だから、とりあえず左肩とお臍《へそ》と喉に鍼《はり》を入れて、貴方本人が全力で意識しないかぎりは左腕とは繋がらないようにするの」
「同時にこれはあの“影”対策でもあるわ。
あいつはそこにいるだけで魔力を吸い上げていく。今から士郎に刻む印《サイン》は対魔力の効用もあるから、あいつと向き合っても少しは楽になる筈よ」
言って。遠坂は俺の胸に、手の平を置いた。
「うひゃあ――――!」
びくっと後退しそうな足を必死に押し止める。
「あれ、熱かった? けど我慢してもらえる? わたしの左手から刻印を移すから、これ以上は温度を下げられないの」
「いや――――熱い冷たいは、いいんだけど」
ぴったりとくっついた遠坂の手は柔らかくて、心臓が壊れかねない。
女の子らしい細い指が胸板を滑っていく度に、あたまの熱が一度ずつ上がっていく。
「……よし、胸の方はだいたい掴めたわ。あとはお臍だけど、ちょっと痛いわよ。指いれるから、できるだけ動かないで。大丈夫、傷はつかないしあんまりかき回さないから」
「ちょっ――――かき回すって、遠さ、か――――!」
びくん、と体が痙攣する。
―――腹。
腹に当てられた遠坂の手の平だけでも耐えられないっていうのに、なにか、小さな棒みたいなものが、皮膚を通り抜けて体の中に入ってきている――――!
「は――――ま、待った、そこ、ま、ず――――」
「だ、だから痛いって言ったでしょ。気が散るからそんな声ださないでってば。なんかいけないコトしてる気になるじゃないっ」
「ばっ、ばかかおまえは――――!」
いけないコトって、そんなコト言われたら余計顔が真っ赤になるじゃんかばかー!
「……ふん。これでお臍の方はおしまい。あとは肩と喉だから、逃げずに大人しくしててよね」
「………………」
いや、できれば脱兎の如く逃げ出したい。
逃げ出したいが、そんなコトをしたらますます遠坂を意識しているようで、言い訳のしようがなくなる。
「ほら、ちゃんと胸張ってよ。今のを肩にするから、今度は頑張ってよね。歯を食いしばって、ヘンな声ださないことっ」
「あ――――ああ。できるだけ、努力する」
とにかく気恥ずかしくなって、遠坂から顔を逸らす。
きっと、俺は顔ばかりか体じゅう真っ赤にしてる。
これが魔術の為だって判ってるのに赤面してるんだから、遠坂だってやり辛いだろう。
……はあ。
こんな失態をさらして、この後どんな顔で遠坂と向き合えばいいんだろうか……。
「はい、これで終わりよ。わたしは道具を片付けてくるから、士郎は体を冷やしてなさい」
救急箱めいたものを手に、ボストンバッグがある隅っこに移動する遠坂。
「――――――――」
赤面したまま、やっと落ち着いて呼吸ができた。
……と。
「?」
桜は何か言いたげに視線を逸らし、両手をもじもじと合わせている。
「……桜? そ、その、どうした?」
「………………あの、そのですね」
ちらり、とこっちの顔色を窺う。
桜ははあ、と意を決するように息を吸うと、
「あのっ、先輩……! わ、わたしたち、えっち、したんですよねっ」
なんて、とんでもない事を、囁いてきた。
「――――――――」
ようやく落ち着いた頬が、一気に沸点を迎えて真っ赤になる。
「あ――――う」
あたまがクラクラする。
あの夜のことは、思い出せばそれだけで自分たちの状況を忘れてしまうほど、その、刺激的だった。
それをこんなところで、しかも桜の口から確認されたら、さっきの遠坂とのダブルパンチでそれこそ撃沈されかねない――――
「あの……先輩?」
「――――――――」
いや。
絶句しているばあいではない。
「――――ああ。桜を抱いたんだ、俺」
「で、ですよねっ! な、なら、姉さんにドキマギするのおかしいですっ!」
むー、と口を尖らせて桜は見上げてくる。
……それで、桜の視線がさっきから痛かったのは、桜が拗ねていたからなんだと、ようやく気付けた。
「す、すまん。けど桜、別に遠坂がどうこうっていうんじゃなくて、今のはその、不可抗力っていうか」
「わ、わかりますけど我慢してくださいっ。先輩は、わた、わたしの恋人、なんですからっ」
「―――――う。それは、判ってるん、だけど」
今のは逆らいようがなかったというか。
俺は男だし、相手は一年の時から憧れてた遠坂なんだから、もうどうしようもなかったんだよう。
「……ごめん。その、次はなんとか我慢する。遠坂にドキマギしないよう、頑張る」
「……ほんとですね? 次もこんなコトがあったら、わたしだって怒っちゃいますからね」
キッ、とまっすぐに見つめてくる。
それに心の底から反省して、努力します、と返答した。
……はあ。
今になって気がついたのだが。
この、一つ屋根の下に三人も女の子がいるっていうのは、すごく緊張するコトなんじゃないだろうか?
◇◇◇
時刻は午前十一時半。
昼食時を目前にして、台所は騒がしく、かつ、近寄りがたい緊張感に包まれていた。
「あの、遠坂先輩。お昼はみんなでつつけるようなものにしようと思うんですが、苦手な料理とかありますか?」
台所の奥。
冷蔵庫を背にして、おそるおそる話しかける桜。
それを遠坂は、
「そう。じゃ、わたしは麻婆豆腐を作るから」
真っ向から一刀両断して、自分勝手に豆腐を切り出した。
「―――険悪ね。シロウ、あの二人に調理を任せるなんて正気?」
座布団にキチンと正座して、イリヤは忌憚《きたん》ない意見を述べる。
ふむ。イリヤから見ても、桜と遠坂がピリピリしているのは判るらしい。
「あの二人、放っておいたらますます仲が悪くなるわよ。
そんなコトわかってるクセに、どうしてこんなコトになったのシロウ」
「どうしてって、ごく自然な流れだったぞ。
昼飯はどうしようって話になってな、遠坂は自分が作る、桜はそれは自分の仕事だって言い張ったんだ。随分話し合ったけど二人とも引かないから、じゃあ間をとって一緒にメシを作ればいいだろって」
「シロウがそう言っちゃったの? ……ふーん。そう、それじゃ引き下がれないわよね、二人とも」
納得したのか、イリヤは行儀良くお茶を飲んだ。
さすがお姫様。作法を知らないというのに、お茶を飲むだけでも気品が溢れている。
「けどシロウ。間をとるんだったらシロウが作ればよかったでしょう? なんだってリンとサクラを一緒にしたの?
遠坂と間桐は敵同士で、リンはサクラを殺したがっているのよ?」
「それは昨日までの話だろ。遠坂は桜と戦いたくないから俺たちに協力してくれるんだ。それに二人は敵同士じゃない。仲いいし、うまくいくと思ったから昼飯を任せたんだ」
「えっ―――仲がいいって、あの二人が!?」
「? 驚くようなコトか、今の。俺とイリヤだって敵同士だったけど仲いいだろ。なら、遠坂と桜だって同じだよ」
「え……そりゃ、わたしとシロウは特別、だけど……」
「特別も何もない。見てればわかる。ほら、遠坂のヤツいつも以上にぶっきらぼうだろ。そのくせ桜が何か失敗するとすぐ注意をする。あれって、つまり」
「…………始終気にかけてるってコトね。けどそれを知られたくないから冷たい顔して、桜を無視してるんだわ」
「ああ。で、桜も桜でそれが分かってるから、いつもはしない筈の失敗をしてる。桜も遠坂が気になって仕方がないんだ」
「……言われてみればそうね。じゃあなに、二人とも仲良くなりたくてウズウズしてるクセに、恥ずかしいから話しかけられないってコト?」
ああ、と頷く。
遠坂の気持ちは知らないが、すくなくとも桜の気持ちだけは分かる。
桜は遠坂が好きだし、好きになって欲しいと思っている筈だ。
そうでもなければ姉さんと口にする筈がない。
「……ふうん。ああ見えて不器用なのね、リンは」
どこか感心したように呟いて、イリヤは台所に視線を移した。
「――――――――」
釣られて台所の様子を窺う。
調理は中ごろに差し掛かっているのか。
遠坂と桜は狭い厨房で、肩を並べて思い思いの料理を作っている。
「――――――――」
「――――――――」
二人は口を閉ざしたまま、かたやフライパン、かたやおたまを握っている。
……そうして、見ているこっちの方が息苦しくなる沈黙の後。
やはり姉妹なのか、まったく同じタイミングで話を切り出した。
「なに? 話があるなら聞いてあげるから、言ってちょうだい」
「あ……いえ、別にこれといって何も。遠坂先輩こそ、なにかお話があるんですか?」
「……別に。しいて言えば、他人の味付けって珍しいでしょ。だから、ちょっと教えてもらえたら役に立つなって思っただけ」
「そ、そうですね。わたしも、遠坂先輩のレシピを教えてもらえたら、嬉しいです」
「――――――む」
「……終わっちゃった。呆れたわね、これじゃ一生あのままだと思うわ、わたし」
「………………」
否定できないところが恐ろしい。
遠坂のヤツ、普段は人の事情なんてお構いなしのクセに、なんだって桜にかぎってあんな奥手なのか。
それに桜も桜だ。
俺といる時は姉さんって呼んでるクセに、本人に対してだけ他人行儀なのはどうかと思う。
「――――桜」
「え? あ、はい、なんでしょう先輩?」
「ちょっと話がある。こっちに来てくれ」
「先輩、外に何かあるんですか?」
「いや、外は関係ない。ちょっとした内緒話がしたかっただけだ」
「はあ……内緒話、ですか……? あの、姉さんには言えないコト、とか」
「それ。俺が言いたいのは今のだ」
「?」
「だから遠坂の呼び方。桜、遠坂の前だと姉さんって言わないだろ。ホントはそう呼びたいクセに無理してるってバレバレだぞ?」
「え―――あ、あの、バレバレって姉さんにですか!?」
……と。
かまをかけてみたのだが、こっちが思っている以上に桜は内気で、恥ずかしがり屋で、姉思いの妹だったようだ。
「い、いや、遠坂は気付いてない。どういうワケか、あいつは桜に対してはすごく鈍感だ。……下手すると、桜に嫌われてると思っている節もある」
「そ、そんなコトありませんっ……! ね、姉さんがわたしを嫌うのは当然だけど、わたしは姉さんと一緒にいられて嬉しいです。こうして二人でお昼ごはんを作るなんて、夢にも思っていませんでしたし……」
「うん。なら素直にそう言えばいいんじゃないか? 鈍感な遠坂でも、桜が面と向かって言えば気が付く。そうすれば桜だって、」
遠坂が桜と仲良くしたいと思ってるって、俺に言われなくても、自分一人で気付ける筈だ。
「……あの、先輩?」
「―――いや。ともかく遠坂に姉さんって言ってみろ。
それだけであいつ、きっと面白いぐらい豹変するから」
「……そう、でしょうか。遠坂先輩、わたしに姉さんなんて呼ばれても迷惑なだけだと思います。
わたしは間桐の魔術師で、姉さんみたいになんでもできるワケじゃない。わたしみたいな出来そこないが妹なんて、きっと遠坂先輩はガッカリしています」
「ばか。姉と妹の関係に余分なコト持ち込むな。おまえは遠坂が好きで、遠坂はおまえの姉貴なんだろ。
なら、それ以上に確かな関係なんてない。俺が保証する。桜と遠坂は、間違いなく相思相愛だ。正直、ちょっと妬けるぐらい」
「え……そ、そうなん、ですか?」
「そうだよ。だからちゃんと姉さんって呼ぶこと。
桜がそう信じてるように、遠坂もずっと信じていたんだと思う。だから怖がるコトなんてない。あいつの為にも、桜の口から遠坂を呼んでやってほしいんだ」
「――――――――姉さんの、為にも」
……桜の中でどんな葛藤があったのかは判らない。
ただ、祈るように手を合わせて思案した後。
「はい。頑張ってみます、わたし」
感謝するように、柔らかく微笑んだ。
――――居間に戻る。
桜は俺に目配せをして、むん、と力をいれて台所に向かっていった。
「お帰りなさい。サクラ、肩がガチガチだけど何かあったの?」
「ん? いや、あとは桜の勇気次第。ま、上手くいくに決まってるんだが」
「?」
よいしょ、と座布団に腰を下ろす。
「―――姉さん。このから揚げ、あとはわたしがやってもいいですか?」
「ええ、あとは揚げるだけだし桜に任せる……って、桜、いま……?」
「はい。それじゃから揚げはわたしがやりますから、姉さん、はレタスをちぎってください。盛り付けは任せますから」
「え――――ええ、それは、いい、けど」
……場が硬直する。
二人はそれきり押し黙ってしまい、張り詰めた緊張は先ほどの比ではない。
「――――――――」
「――――――――」
二人は呼吸を止めて互いを見つめている。
「……あの。やっぱりおかしいですか、姉さん」
「ば――――お、おかしいコトはないけど。そんなふうに呼ばれた事がないから驚いただけよ」
「……それじゃ、その」
「も、文句はないわ。呼び方なんて桜の自由だし、わたしだって桜って呼び捨てにしてるし。ま、先輩って呼び方が二人もいると混乱するし、そっちの方が判りやすいんじゃない?」
ふん、と仕方なげに言って、遠坂は顔を背ける。
……その顔が赤く染まっていて、にやつきを隠しきれていないのは、桜にだって判った筈だ。
……その後の二人の共同作業は、輪をかけてギクシャクした。
お互い失敗ばかりで盛り付けは間違える、から揚げは胡椒まみれにする、麻婆豆腐は鬼のように辛い、おまけに炊飯ジャーにはスイッチが入ってなくてゴハン抜き、という目も当てられない大惨事になってしまった。
それでも遠坂と桜は隙あらば一人でにやけていて、幸せそうったらない。
「……まったく。ほんと不器用ね」
舌がヒリヒリする麻婆豆腐を食べながら、呆れた風にイリヤは言う。
その意見に無言で頷いて、二人が作ったチグハグな料理をありがたく戴いた。
◇◇◇
昼食が終わって、一息入れに部屋に戻る。
遠坂はやる事があるらしく、イリヤを連れて客間に立て篭もった。
「イリヤの手を借りて臓硯対策をするの。刻印が馴染むのにも時間がかかるだろうし、午後は休んでいていいわ。
士郎がいても邪魔なだけだから」
なのだそうだ。
今の俺たちには臓硯に対抗できる手段がない。
ここは遠坂が準備している、という『何か』の完成を待つしかない。
一方、桜は客間に戻っている。
昼食の後片付けの最中、桜は何度か目眩を起こしていた。
朝から元気だったので安心していたのだが、桜は熱に侵されているのと変わらない。
少しでも疲れを感じたのなら部屋で休むコト、という俺と遠坂の言葉を聞いて、桜はようやく客間に戻ってくれた。
「――――――」
一人になって、左腕の調子を見る。
まったく動かなかった左腕は、今では肘を動かせるぐらいにはなっていた。
感覚は依然麻痺したままだが、そのおかげで痛みはほとんどない。
痛みなら遠坂に植え付けられた刻印の方が大きい。
肩と喉、それに丹田《たんでん》。
それぞれにフランケンシュタインがしているようなボルトが植え付けられている気がする。
「左腕は借り物で体はボルト止めか」
SF映画に出てくるサイボーグを連想する。
発想としては楽しかったが、笑う事はできなかった。
……左腕の調子を見ようとしたクセに、鏡の前に立つ事もしなかった。
時刻は二時前。
さて、これから――――
そう言えば朝からライダーの姿を見ていない。
あいつの事だから陰ながら桜を見守ってくれてるんだろうけど、いるならいるで挨拶ぐらいはしておかないと。
屋敷の中にライダーの姿はなかった。
ライダー用の部屋はあるのだが、使われていた形跡もない。
となると、あいつが好みそうな所で、かつ桜の客間が見渡せるロケーションといったら、
考えられるとしたらここか。
桜のいる離れを見渡せて、人気《ひとけ》がなくて、身を隠せるのはこの土蔵ぐらいなものだ。
「ライダー、いるか」
誰もいない土蔵に呼びかける。
「待機していますが。何か用ですか、士郎」
霊体になっていたのか、確かな気配を伴ってライダーは現れた。
「………………」
さて。
挨拶に来たはいいが、こう顔を合わせるとやはり緊張してしまう。
常に距離を保とうとするライダーの性格……は別に気にならないんだが、その、男として彼女の格好は目のやり場に困るのだ。
「……何か用件があるのか、と訊ねたのですが」
「あ、いや、別にこれといって用事はないんだ。ただ挨拶がまだだったから、おはようぐらいは言っておきたくて」
「―――そうですか。暇なのですね、貴方は」
はっきりと返された。
が、これぐらいは予想の範囲だ。むしろライダーらしくてこっちもやりやすい。
「ん、暇なんだ。ちょうど手が空いてぶらぶらしてるところ。ライダーはここで桜の警護か?」
「ええ、私はサクラのサーヴァントですから。
彼女が命じないかぎり、貴方やトオサカリンを守る事はありません」
「ほんとか? 良かった、ライダーがそうしてくれる分には安心できる」
ほっと胸を撫で下ろす。
もしかしたらと心配していたが、桜は無茶をしていないようだ。
「ありがとうライダー。これからも桜をよろしくな」
手をあげて土蔵を後にする。
「―――待ちなさい。質問があります」
「?」
庭に戻ろうとした足を止める。
「なんだよ。俺に答えられる事ってあんまりないぞ?」
「いえ、貴方自身の事ですから、答えられない筈がない。
―――エミヤ士郎。今の貴方の言動が分かりません。
私は貴方の護衛を拒否したというのに、なぜ良かったなどと言えるのです」
「は? なんだ、なにかと思えばそんなコトか。
そりゃライダーが護衛についてくれるなら安心出来るけど、男なんだから自分の身は自分で守らなきゃダメだろ。
遠坂は……まあ、あいつは何が起きても自分で解決しそうだし」
「……。その体で自分の身を守る、ですか。私には強がっているようにしか見えませんが」
「強がりだよ。戦力的に劣ってるんだから強がってなきゃ負けちまうだろ。
……まあ、本音言うと不安で仕方がないんだけど、それでもライダーには今のスタンスを守ってほしい。おまえが動くと桜が疲れる。桜にはこれ以上魔力を使ってほしくない」
「―――なるほど。確かに私が動けばサクラが苦しむ。
こうして実体化するだけでもサクラに負担をかける以上、余分な仕事は増やさせたくないと?」
「そうだ。ライダーは桜だけを守っていてほしい。
で、もし俺がやられちまったら、その時はイリヤも頼めるかな」
「……都合のいい話ですね。私を邪魔者と判っていながら、最悪の時は頼ろうと?」
「ん、そうだけど……やっぱりダメか?」
「――――――――」
ライダーは答えない。
拘束具で隠された視線は、まっすぐに俺を見つめている。
「あー、じゃあ交換条件だ。ライダーがピンチになったら必ず手を貸す。ギブアンドテイクって事で、イリヤも気にかけてやってくれないか」
「返答はできません。私が窮地に陥った時、既に貴方が死亡している確率の方が高いのですから。今の提案は魅力的ではありませんね」
「げ。そっか、ライダーがピンチになる前にやられたら意味ないもんな。……あー、すまん。たしかに都合のいい話だった」
……しかし参ったな。
そうなると、イリヤをもっと安全な場所に連れて行った方がいい事になる。
教会はイリヤが嫌がるし、かといってあの城に一人残しておくのはもっと――――
「―――まったく。本当に貴方は危なっかしい」
「え? なんか言ったかライダー?」
「ええ。今の提案を考える、と言ったのです。貴方が私の窮地を救ったのなら、それ以後は必ず貴方の望みに応えましょう。それでいいですか、士郎」
「あ―――ほ、ほんとか……!? 都合のいい話だぞ、今の!?」
「都合は合っています。貴方が先に私を助けた場合のみの話ですから」
「――――――――」
目が点になる。
……その、ライダーが俺の提案を受けてくれたのも嬉しいんだが、それ以上に、その。
「ライダー。いま、笑ったか?」
「いいえ。喜ばしい事はありませんでしたから、笑みを浮かべる道理はない」
「いや、道理がなくっても笑ってたって。こう、すごく微妙な変化なんで見過ごしかけたけど」
「有り得ません。私が否定している以上、それは貴方の見間違いです」
断言するライダー。
んー、そう言われるとそんな気もしてきたような。
「……………………」
「……………………」
む……妙な沈黙に包まれてしまった。
このまま屋敷に戻るつもりだったんだが、どうも後ろ髪を引かれるというか、ライダーの視線が気になる。
無口で冷たい態度は変わらないんだが、なにか、言いたいコトがあるようなそんな気配だ。
「……………………」
「……………………」
対峙にも似た緊迫感が漂いはじめる。
……しかし。
ほんっとーに今さらだけど、ライダーは背が高い。
長い髪にスラリとした手足。
一度しか見ていないが、拘束具《マスク》の下の顔だってとんでもない美人だった。
遠坂と桜だって美人だが、ライダーは基準からして違う気がする。
「何か疑問ですか士郎」
「え? ああ、疑問ってほどのものじゃないんだが、訊いていいかな」
「構いません。なんでしょうか」
「ああ。ライダーって背、高いよな。どのくらいあるんだ?」
率直に訊いてみる。
……って。
なんで、そこで後ろに下がるんだライダー?
「ライダー?」
「い、いえ、特に意味はありません。気にしないようお願いします」
「……いいけど。で、身長どれくらいあるんだ? 俺より高いから、170は超えてると思うんだけど」
「そ、その質問には答えない。疑問があるのなら、他の質問にしてください」
「答えない……? ライダー、自分の身長判らないのか?」
「そ、そういう訳ではありません。……とにかく他の質問にしなさい士郎。それ以上同じコトを口にされたら、気分を害します」
「む」
ライダーは明らかに動揺している。
冷静なあいつがここまで慌てるってコトは、もしかして――――
「ライダー。背が高いこと、気にしてるのか?」
「――――――――」
ライダーの体が固まる。
どうやら図星だったらしい。
「……………………」
「……………………」
なんとなく黙りあう。
で、沈黙に耐えられなくなったのか、
「……お、おかしいですか……? 私が、このような事に拘るのは」
「え? いや、おかしいっていうより、理由が分からなくて固まってた。なんで気にしてるんだよ、そんなコト」
「……理由は言わずとも明白でしょう。貴方とて判っている筈です。このような背の高い女など、見苦しいだけで可愛く――――」
「なんで? カッコイイじゃんか、ライダー」
っていうか、贅沢な悩みじゃんか。
俺だってそれぐらい上背ほしいぞ、ほんと。
「……………………」
「……………………」
で、また沈黙。
そろそろ気が付いてきたんだが、俺は、ライダーの警護を邪魔しているのではないだろうか。
「えーと。俺邪魔かな、ライダー」
「……そうですね。私はマトウゾウケンの襲撃に備えて姿を隠している。貴方がこう声をかけてきては、姿を隠している意味がない」
「だよな。それじゃそろそろ戻る。邪魔して悪かった」
「あ―――ま、待ってください士郎」
二度目の呼び止めに振り返る。
ライダーは何か、困ったように唇をかみ締めたあと、
「―――手が空いているのなら、サクラの看病をしてください。貴方がいるといないでは、サクラの気の持ちようが違いますから」
「あ……そうだな、すぐに行く。桜、目を離すとすぐ無理をするからな。ちゃんと休んでるか見てくるよ」
ライダーの言う通りだ。
ここから離れはすぐそこだし、午後は桜の看病をしよう。
「―――と。そうだ。初めの用件を言い忘れてた」
三度、ライダーに振り返る。
「な、なんでしょう、士郎」
「ああ、おはようライダー。朝の挨拶、まだだっただろ」
良かった良かった。
これを言いに来たのに忘れたでは間抜けすぎる。
……と。
「―――おはようございます士郎。では、私からも言い控えていた事を一つ」
ライダーはいつもの態度に戻って、冷淡に俺を見据えてくる。
「ん、なんだよ」
「貴方の行動は無駄が多い。朝の挨拶には遅すぎる。時刻はもう昼過ぎでしょう」
「う、面目ない。正直、さっきまでライダーの事忘れてた」
「でしょうね、今後は気をつけてほしい。
それと、先ほどの言葉は忘れてください」
「? 先ほどの言葉って、なにさ」
「貴方が私を邪魔者と思っている、という事です。間違いでしたので訂正します」
「俺、ライダーを邪魔者だなんて思ってないぞ」
「ええ、それは分かりました。何をするでもなく、ただ挨拶をしにきた貴方ですから」
―――にっこりと笑う。
見間違いなんかじゃない。
正面から俺を見るライダーの口元は、確かに、嬉しげに笑っていた。
◇◇◇
遠坂とイリヤはどうしてるだろうか
二人が何をしているのか興味あるし、俺に手伝える事があるかもしれない。
「そんなのないわよ。邪魔だから出て行って」
と。
客間をノックしてから一秒、反撃の余地すらなく一刀両断された。
「む、なんだよその態度。人の善意を足蹴にすると後が怖いぞ」
「なにが善意よ。今からするのは遠坂とアインツベルンの秘門なんだから、他の人間に見せられるワケないでしょ。
手伝いたいって気持ちは嬉しいけど、わたしとイリヤにとっちゃ士郎の行動は害悪そのものなの。貴方だって、自分の家の秘密を他所に知られたくないでしょ」
「――――――――」
……なるほど。
言われてみれば確かにその通り。
いくら協力体制とは言え、どうあっても教えられない事もある。
それはともかく。
「遠坂。おまえ、なんで眼鏡してるんだ?」
「……なんでって……なによ、おかしい?」
「いや、おかしいと言うか―――」
その、優等生ぶりがバージョンアップして、もう会長ぐらいに見えるのだが、
「―――すごく、似合ってる」
「っ……そ、そう。眼鏡なんて一人でいる時しかかけないから、よく分からないけど……おかしくない?」
「ああ。遠坂の本性を知ってるのに、優等生だって騙されかねない。擬態か?」
「――――」
む? なんか、部屋の温度下がってないか?
「遠坂? なんか、妙に背中がゾクゾクしてるんだが」
気のせいだろうか、と視線で訊いてみる。
「あら奇遇ね。わたしも肩が震えてるのよ衛宮くん。
そろそろ本気で、一度白黒つけなくちゃいけないって思ったトコ。うろちょろ歩き回れるぐらい暇なら、動けなくなるまで鍛えてあげましょうか?」
「あ――――む」
……怖い。コイツ、本気だ。
どうも、体力を温存しろと言われたクセに動き回っている俺に本気でお灸を据えたいらしい。
「……すまん、軽率だった。遠坂に言われた通り、大人しく部屋で休んでる」
「……ふん。別にいいけど、それだけ動き回れるんなら他にやる事あるんじゃない? 士郎の助けがいるのは、何もわたしたちだけじゃないんだし」
「? 俺の助けがいるって、何処に?」
「すぐ隣り。あの子にとっちゃ士郎が傍にいるかいないかは大問題でしょ。自覚しなさい、貴方は桜の元気の元なんだから」
「――――」
かあ、と顔が熱くなる。
こう、はっきりと人の口からこういうコトを言われるのは、とんでもなく恥かしい。
「あ、うん、了解した。桜の見舞いをしていいなら、してくる」
ロボットのようにギクシャク頷く。
「していいに決まってるでしょ。
……まったく、大抵の事は大雑把なクセに、つまんないコトだけ気を利かせるんだから、ばか」
客間のドアが閉められる。
桜の部屋はすぐ隣りで、距離にして一メートルあるかないか。
「落ち着け、落ち着け―――ただ様子を見に行くだけじゃないか」
大きく深呼吸をして、隣の客間のドアを睨む。
べ、別にやましい気持ちとかまったくないのだ。
俺はただ、桜がちゃんと休んでいるかどうか確かめに行くだけなんだから。
◇◇◇
「桜、いるか?」
控えめにノックをする。
「あれ、先輩……?」
扉越しに気だるそうな声が聞こえた。
「あ、ちょっと待ってください、すぐに着替えますから……!」
眠っていたのか、なにやら慌しい気配がする。
そうして二分ほど経過したあと。
「お待たせしました。どうぞ、入ってください」
「あ……うん、お邪魔する」
ここにいたって、女の子の部屋に入る、というコトに緊張してきた。
前にもこの部屋には入っているが、あの時と今では状況が違う。
あの時は桜の意識はなくて、今は桜がドアを開けて俺を迎え入れてくれたんだから。
「それで、何かあったんですか先輩? わたし、少し眠っていたから物音とか聞いてなくて」
「あ、いや、そんなんじゃない。別に何かあったから来たんじゃなくて、桜がちゃんと休んでるか気になって来たんだ、けど――――」
その、結果的に桜の安眠を邪魔してしまった。
「あは、それなら合格ですね。わたし、ちゃんと休んでましたよ?」
「ああ。起こしちまってごめん。桜だって自分の体を判ってるもんな。熱があるのに無理して動き回るコトなんてないんだ。……なんか、俺が過保護すぎたみたいだ」
がっくりと反省する。
と、桜はクスクスと笑い出した。
「……う。やっぱり気を回しすぎか、俺?」
「いえ、そんなコトありません。先輩は鋭いです。
ホントはですね、お掃除の続きをしたかったんです。
このまま先輩が来なかったら、ちょっと抜け出しちゃおうって思ってました」
「む……抜け出しちゃおうって、桜」
「はい。だってこんなに元気なのに、寝込んでいたら病人みたいでイヤだったんです。だから先輩に言われても、いつも通りのわたしでいようって。
けど、そうしたら姉さんがふざけるなって怒るんです。
無理をして倒れたらわたしたちに迷惑がかかるって」
「――――ん」
……そうだ。
昼食の後、洗濯をしようとする桜を止めた。
けど俺一人では聞いてくれなくて、どうしたもんかと思案している時、遠坂の助け船が入ったのだ。
もっともそれは生易しいものじゃなく、
『アンタが倒れたら、殺さなくちゃいけないのはわたしたちなのよ』 と、とんでもなくきつい一言だったのだが。
「……そうだな。遠坂、怒ってたな」
「はい。わたし、姉さんに怒られちゃいました」
どこか嬉しげに桜は言う。
……そっか。
言葉はどうあれ、遠坂が心配しているってコトはちゃんと伝わっていたんだ。
「じゃあちゃんと休んでないとな。
桜がどう思っていようと、桜の体は疲れているんだから。桜がこうして休んでいてくれれば、俺も遠坂も安心して外に出られる」
「……そうですね。けど、わたしはホントに元気なんですよ? 今は調子が悪いだけで、明日になれば元気になってるんです。ほら、この前の風邪と同じで、こんなの一日経てば治っちゃうんですから」
「……ばか。邪魔しちまった俺が言うことじゃないけど、桜は横になっていてくれ。眠れるのなら眠った方がいい。
夕食時に起こしに来るから、それまでゆっくりしてるといい」
それじゃ、と客間の出口に向かう。
――――と。
「あ――――」
くい、とシャツの裾を、桜が掴んでいた。
「桜……?」
「あ、あの――――先輩の言う通り、ちゃんと眠るんです、けど。
その、先輩が傍にいてくれるのは、嬉しいです」
「――――――――」
桜は滅多に甘えない。
負担になりたくない、と思っているのか、たいていのコトは一人だけでこなしてしまおうとする。
その桜が、こんなコトで、俺にワガママを言っている。
いや、こんなのワガママでもなんでもないんだが、桜にしてみれば最大限のワガママなんだろう。
だから不安そうに俺の顔を窺っている。
桜の頼みならなんでも聞くっていうのに、桜が俺に甘える事は、こんな些細なことだけだった。
「――――ああ。じゃあ、もう少しここにいる」
桜を抱きしめたい衝動を堪えて、なんとかそれだけ口に出来た。
「やったぁ! それじゃお茶を淹れてきますね先輩! とっておきの中国茶をご馳走しちゃいます!」
言って、それーっとばかりにドアに向かう桜。
「待った。お茶は俺が淹れるから桜はベッド。これじゃ本末転倒じゃないか」
「ぁ……そ、そうですね、なんかおかしいです、わたし」
いそいそとベッドに戻る桜。
すれ違いざま、桜の頭をぽん、と叩いてお茶を淹れに行った。
――――が。
思った以上に、この状況は精神力を消費していった。
とにかく桜と二人きりなのだ。
目の前には桜がいて、少し視線をさげるだけで首元の素肌や、艶めかしい胸元が目に入る。
それだけで、その――――あの晩のことが脳裏に浮かんで、眼のやり場に困るのだ。
「けど、ほんとはですよ? ほんとは、先輩が姉さんのこと好きなんだって気付いてたんです。だって先輩、姉さんの前だとすごく楽しそうにしてますから」
……だから、桜が何を言っているのかも頭に入ってこない。
下手に桜を見てしまうと、抑えが効かなくなってしまう。
……その、俺だって男だし。
あの晩のことを思い返すと、それだけで桜を強引に押し倒して、あの体をもう一度味わいたくなってしまう。
「……そうですよね。姉さんに比べたらわたしなんて魅力ないし。先輩、イリヤさんも好きみたいだし。
……その、先輩は胸のおっきな子は嫌いなんでしょうか」
深呼吸をして自分を抑える。
桜がこんな体なのに押し倒すなんて出来ない―――いや、桜を抱く事は桜の助けになる。
ならそれは悪い事じゃない。
悪い事じゃない、けど――――
「………………」
―――そうだ、だいたい隣りには遠坂たちがいるじゃないかっ!
ここでそんなコトをしたら気付かれるし、そうなったら昼間っから何してるんだって軽蔑されるに――――
「……って、桜……? ……えっと、何か怒らせるようなコトしたかな、俺」
と、桜が妙に元気がないのに気付いて、はたっと妄想から帰還する。
「……いいえ。先輩は何もしてません。何もしてないのが問題なんです」
「?」
「……その、ですね。わたし、きわどいコトを言ったんです。先輩、聞いてませんでしたけど」
「う……すまん、確かに上の空だった。えっと、たしか遠坂の話をしてたと思うんだけど……」
「ええ、そうです。姉さんの話をしてたんです。先輩が、姉さんがここで寝泊りするようになって嬉しいかって」
「あ――――」
……そうだった。
桜にとって今の状況がどんなものなのか、それを聞いていたんだっけ。
「で、どうなんだ。桜、遠坂のこと好きなんだろ。なら今の状況は嬉しいんじゃないか?」
「……ええ、嬉しいです。けど、それと同じぐらい不安なんです。姉さんはわたしの理想で、わたしじゃ手に入らなかったものをいっぱいもってます。だから近くにいると目を背けたくなって、素直には喜べない。
なんだか姉さんにも自分にも、何をしてるんだって責められてる気がしてしまって」
「――――――――」
桜の言い分はなんとなく判る。
“自分の理想”なんてものが目の前にいたら、未熟なままの自分にとっては眩しすぎて目に痛い。
……ま、そうゆう気持ちは分かるにしても、だ。
「……桜。おまえ、遠坂みたいなのが理想なのか?」
おそるおそる訊いてみる。
ここに遠坂がいたらワンパンチされかねない質問だ。
「はい。ずっと姉さんみたいになりたいって思ってました。あ、もちろん魔術師としてじゃなく女の子としてですよ?
姉さんは何でもできて、いつも颯爽としてるじゃないですか。わたしも、一度でいいからあんな風にかっこよくなりたいなって」
嬉しそうに桜は語る。
……むむ。
そうなるとこっちとしては複雑な心境なのだが、まあ、たしかに遠坂はかっこいい。
自分の言動に責任を持つ、という点において、あいつはすごく男前だ。
「……なるほど。けど、桜は今まで遠坂と会えなかったんだろう? 間桐と遠坂の取り決めとかなんとかで。それでよく遠坂のこと知ってるな」
「はい。だってどうしたって気になるじゃないですか。
わたしも姉さんも、子供の頃のことは覚えてないんです。
なにしろずっと前だったから。
ただ事実として、わたしたちは元々姉妹だったんだって知っていただけです」
「それで余計気になって、わたしたちはお互いを遠くからよく見てたんです。
話すことはできなかったけど、一学年上の遠坂先輩の噂はよく聞こえてきてましたし」
「――――ははあ。非の打ち所のない優等生って噂か。
言われてみれば、あいつは有名人だから話には事欠かないよな」
「はい。それに会えない、という事もありませんでした。
学校ではよく声をかけて貰えたし、弓道部をよく見学に来てくれましたから」
「……それで、ですね。そういう時にいつも思ってたんです。わたしは見てもらえるだけでいいって。気にかけてもらえるだけで幸せだし、それ以上を望んだらきっと嫌われるってわかってましたから」
「……? 嫌われるって、どうして?」
「……間桐《わたし》の魔術は、姉さんとは違いますから。魔術というのは基本的に用途を定められていないでしょう?
先輩の魔術だって何かをなし得るために、何らかの現象を起こすものです。そこには初めから限定された“目的”はないと思います」
「ん……そうだな。できる事は決まってるけど、強化《できたもの》をどう扱うかはその都度違う」
「……けど間桐の魔術は違います。間桐の業は、初めから“他人から奪うこと”に限定した魔術なんです。
それ以外の用途なんて持たない。他人の痛みしか糧にせず、他人の喜びを還元する教えがない」
「…………」
そうか、なんて頷く事もできない。
桜が間桐でどんな魔術を教え込まれたのか、俺は知らない。
桜が教え込まれた魔術は外道の類で、それを桜自身が恥じている。
……桜と遠坂の問題は、転じて両家の魔術の違いな訳だ。
桜が間桐の魔術を忌み嫌えば嫌うほど、桜は自分に対して嫌悪感を抱いてしまう――――
「桜は、間桐の魔術が嫌いなのか」
「先輩。それは人間に、呼吸をするのが嫌いなのかと訊いているようなものです」
と。
突然顔をあげて、遠坂のように桜は言った。
「好きでも嫌いでもありません。ただ、そうしなければ生きていられなかっただけです。
わたしは元から、その為だけに間桐の家に譲られた子供ですから。間桐の後継者になれなければ、そこで消えていたものなんです」
「――――――――」
「あ。先輩、そんな顔しないでください。たしかに教えは厳しかったけど、先輩が思っているほど辛いものではなかったんですから」
「それにですね、厳しさで言ったら先輩には敵いません。
わたし、人に傷つけられるのは楽なんですけど、自分で自分を傷つけるのは怖いんです。
生きたがりなわたしは自分で幕を下ろす事ができない。
人に手首を切られるのはなんともないけど、自分で手首を切るのは怖いんです」
「けど先輩はどっちもできちゃうんです。……その、先輩が夜にどんな修練をしているか見ちゃった事があるんです。
い、一度だけですよ? たまたま忘れ物をして取りに来た時、土蔵の方で物音がして様子を見に行っちゃったんです」
申し訳なさそうに頭を下げる桜。
が、そんなことで謝られてもこっちが困る。
「いや、謝らなくていい。それは俺の不注意だろ。桜がいるって事に気付かなかったんだからな。周りの気配に気付けないようじゃ魔術師として失格だ」
「……………………あの、それが」
「それより、それっていつの事だ? 桜がやってくるようになってからすぐか?」
というか、すぐであってほしい。
牛歩の速度とはいえ、俺だってそれなりに進歩しているのだ。
ここ最近で桜の気配に気付かなかった、なんてコトになったら、昔からちっとも進歩していない事になる。
「……去年の、夏ごろの話です。藤村先生が西瓜を持ってきてくれた日、なんですけど」
「――――そうか、良かった」
ほう、と胸を撫で下ろす。
半年前の話なら、まあ、少しは言い訳ができるってもんだ。
「……と、それで、桜。……その、見た感想とか、どうかな」
人に魔術の鍛錬を見られたのは、切嗣以外ではこれが初めてだ。
ここ数日は遠坂の前で実践をしたが、あれは土蔵での鍛錬とは大きく異なる。
そんな訳で、桜の感想はテストの採点に近い。
桜も間桐の魔術師だし、もしかしたらいい点数が期待できるかも――――
「えーと。内容に関しては、黙秘権を使わせてもらいます。姉さんじゃないけど、点数をつけたらタイヘンなことになっちゃいますから」
「う――――それは、赤という事ですか」
「あはは、それなら真っ赤と言えるでしょうねー」
「――――――――」
……まいった。
姉貴に似てないようで似てるじゃないか、桜。
「けど先輩? わたし、本当にその時しか見てないんです。……いえ、見てないんじゃなくて、怖くてもう見られなかった」
「? 怖くて見られなかった……?」
「はい。それだけじゃなくて、何度も何度も止めなくっちゃって思ってました。
……先輩の鍛錬は普通じゃありません。わたしには、先輩が自分で自分の喉を突き刺しているように見えました。そう錯覚したんじゃなくて、本当にそう見えてしまったんです。……そんな風に見えてしまったぐらい、先輩の鍛錬は危険なものでした」
桜の言いたい事は判る。
俺にとって、魔術回路を発現させる事は死に近い行為だった。
内部《なか》に張り巡らした集中をミリ単位でもズラせば、それだけで中身が吹き飛ぶ。
けど、それは魔術師として当たり前の代償ではないのか。
常に死と隣り合わせだ、というのが切嗣《オヤジ》の言葉だったし。
「―――そうかな。魔術師ならあんなものだって聞いてるけど。それに俺が危なっかしいのは、単にまだ未熟だからじゃないか」
「それは違います。未熟とか半人前とか、そういう話ではないんです。だいたい、そんな事を言ったら資質がないのに魔術を使える先輩は別格です。
魔術というのは使うものではなく、体に覚えさせるものなんです。先輩のように、毎回その為だけに魔術回路を発現させるなんて、普通の魔術師はしません」
「……?」
「わたしが言っているのは最終的な結果なんです。
……先輩は自分を殺す事を毎晩やっていました。誰に強制されるのでもなく、かといって自分の為でもないのに、ずっと一人きりで、頑《かたく》なにそれを守ってきた」
「……それは姉さんにも出来ない事だと思います。
先輩はそれが善悪どちらであろうと、一度決めた事を最後まで守り通す。だからきっと、わたしたちの中で先輩が一番強い」
「ちょ――――――――」
ま、まじめな顔でそういうコトを言われると、すごく照れるんだけど、桜。
「ば―――ばか、おだてても何もでないぞ!
だ、だいたい強さでいうなら遠坂だし、さ、桜だってどんな魔術師だか知らないけど間桐の後継者だし、ライダーだっているじゃないかっ……!」
「いいえ、先輩は強いです。それは魔術回路でも魔術特性でもなくて、心の在り方が純粋だから。
……そんなこと、出会った時からわかってたんですよ?
この人はきっと、何も裏切らない人なんだなって」
「ぁ――――――と、その」
そんな顔でしんみりと言われたら、反論なんて出来やしない。
「……さんきゅ。お世辞でも、桜にそう言ってもらえたのは、すごく嬉しい」
照れながらも、素直な気持ちを口にする。
桜は、
幸せそうに笑って、まっすぐに俺を見つめていた。
「…………っ」
まずい。
そんな顔をされると、さっき振り払った妄念が再発してしまう。
「……えっと、そろそろ戻るかな。桜も眠いんだろ。夜もあるんだし、午後は大人しく休んでたほうがいいんじゃないか」
こほん、とわざとらしく咳なんぞをしてみる。
視線は隣り……壁一枚隔てた向こう側、遠坂とイリヤに向けてみた。
「そ、そうですね。夜もありますし、隣りには姉さんがいるんだし」
こっちの気持ちを分かってくれたのか、桜は頬を赤らめてごにょごにょと口にする。
……自分で言っておいてなんだが、きっとこっちもあんな顔をしてるんだろう。
「それじゃ部屋に戻る。夕食になったら呼びに来るから」
「あ――――あの、待ってください先輩っ……!」
「? 待つけど、なに?」
「あ、あの……そのですね、寝付くまで部屋にいてくれたら、嬉しいんです、けど……」
途切れ途切れの言葉に、思わず苦笑してしまった。
そんな事、むしろこっちがお願いしたいぐらいだ。
それを恐る恐るねだってくるあたり、桜はこっちが完全にまいってるって分かってないらしい。
「ああ。邪魔じゃなかったらここにいる。桜が眠ったら出て行くから、それでいいかな」
「は、はい、もちろんです! わたし、頑張って起きてますから!」
だから桜。
そう言ってくれるのは嬉しいんだが、それじゃ意味がないんだってば。
ベッドに横になると、桜は途端に静かになった。
よほど疲れていたのか、体を横にした途端に睡魔が襲ってきた、という感じだ。
が、だって言うのに、
「けど先輩。わたしは今日一日休めば治りますけど、先輩の腕はどうなんですか?」
大人しく眠る気はないのか、ベッドに横になっても桜は話しかけてきた。
「俺の腕なら問題ないよ。この布を巻いているかぎり痛みはないし、少しずつ動くようにもなってきてる。この分なら明日には普通に動くんじゃないかな」
「良かった。ほら、姉さんが手当てをしてから随分経っているでしょう? あの時のは応急処置みたいだったし、もう効き目はないんじゃないかって」
安心したように桜は微笑む。
「――――。随分経ってるって、桜」
「姉さんも姉さんですよね。自分の刻印を移すのはいいけど、遠坂の魔術刻印が遠坂以外の人間に安定するコトなんてないんだから。あんなのはその場凌ぎで、七日も持たないって分かってるクセに」
なんでもない事のように桜は言う。
それが――――
「七日、持たない……?」
ひどく、場違いなものに聞こえてくる。
「そうですよぅ? そろそろ切れちゃうころだから、ちゃんとした手当てをしないと。間桐《わたし》の魔術じゃ根本的な解決はできないから、今度、ライダーにいいアイデアがないか聞いてみますね――――」
ウトウトと舟をこぎながら桜は言う。
「――――――――」
返事をする事はできなかった。
……桜の言動がおかしいのは、もう眠ろうとしているからだと自分に言い聞かせる事しか、できない。
「……先輩、そこにいますよね?」
「ああ。ちゃんといる」
「……良かった。傍にいてください、先輩。
一人になると怖い夢ばっかり見るから、ちゃんと、わたしを――――」
……ゆっくりと目を閉じる。
桜は穏やかな寝息をたてて、深い眠りに入っていった。
電気を消して静かに客間を後にする。
「……………………」
穏やかな桜の寝顔を見たというのに、胸には暗い濁りがあった。
ちゃんとわたしを―――見張っていて、ください。
……眠りに落ちる寸前。
無意識に、桜はそう口にした気がしてならなかったからだ。
◇◇◇
「桜、入るぞ」
返事を待たずにドアを開ける。
そもそもこのドアを開ける時、妹の返事を待った事など一度もない。
「なんだ、まだ帰ってきてないのか。本当にグズだな、あいつ」
舌打ちをしながら室内に踏み入る。
間桐慎二は壁に爪を立てながら、視力を失った犬のように、ぐるぐると妹の部屋を徘徊する。
「桜。今日も地下か。ああ、僕をさしおいてまた下で何かやってるんだろ」
返答のない質問を繰り返す。
部屋には誰もいない。
ここ数日、彼の妹は屋敷に帰ってきていない。
主不在の部屋が無人である事は判りきっているというのに、間桐慎二は室内を徘徊する。
「いつも通り。ハハ、まったく、ホントにいつも通りじゃないか!」
ふと手に触れた時計を投げつけた。
ガラスの砕ける音は、思った以上に耳障りだった。
「何処いってんだよ。兄貴に内緒でさ、どいつもこいつもなに勝手にやってんだよ……!」
気が違ったように物を放る。
……それもいつもの事だ。
これはここ数年、日課になっていた代償行為にすぎない。
彼が真実を知った三年前に始まった、自分と、妹を赦す為の、精一杯の抵抗だった。
――――彼が生まれた時、間桐の血は既に役目を終えていた。
貴い血族である彼らは力を失い、間桐はただの“人間”になり下がった。
特別なものは蓄えられた知識だけ。
かつての魔道の名門は、この極東の地で人知れず滅びる定めとなったのだ。
その事実を、幼いながらも彼は聞かされていた。
間桐は秘跡を伝える一族であり、特別な存在だったと。
既に過去形。
間桐には魔術を扱える者はおらず、今後はまっとうな人として社会に関わっていくのだと。
だが、彼はそう思わなかった。
確かに魔術回路とやらは途絶え、魔術という秘跡を実践する事もない。
魔術師としての間桐は父の代で終わり、自分には間桐の名を継ぐ資格はないとも判っている。
しかし、それでも間桐には秘跡の記録がある。
途絶えたのは血筋だけ、蓄えた知識は失われてはいないのだ。
――――それは、少年にとって十分“特別”な事だった。
自分は他の人間とは違う。
間桐家は選ばれた一族だ。
たとえ魔力を失い魔術師でなくなったとしても、その価値に変わりはない。
自分はその特別な家の子供として、特別に生きていくのだと誇りを持った。
魔術師として欠陥品だろうが、選ばれた家の子供である事は確かなのだから、と。
……その選ばれた家に、いつしか新しい子供が紛れ込んでいた。
父は身寄りのない少女を引き取り、養女にしたという。
もう十年以上前の話だ。
桜という名の少女は、その日から彼の妹になった。
初め、彼は妹を毛嫌いしていた。
特別である間桐の家に異分子を入れたくなかったからだ。
だが日が経つにつれ、彼は妹を容認しはじめる。
桜という少女は無口で、凡庸で、番犬程度のことしかできない。
そんな存在を敵視する事など時間の無駄だし、召使として考えれば、その程度の愚鈍さの方が愛らしい。
彼は書物をあさり、身につかない魔道を覚え、間桐の後継者を自認していった。
間桐の書斎に入れるのは彼だけだ。
養子であり、後継者に選ばれる筈のない妹に書物を読む資格はない。
妹は間桐に唯一残された知識を学ぶ事もなく、一般人として生を終えるだろう。
そんな事柄も、彼の自尊心を大いに満足させていた。
魔術師の家系において、後継者はただ一人。
それを知っていた彼は、自分の妹が自分と切り離されて育てられている事に疑問をもたなかった。
魔術を習うのは一人だけ。
なら、妹が自分から離されているのは当然の事だったから。
そう。
言ってしまえば、彼は彼女に同情していた。
同じ家で暮らし、同じ親を持ちながら、自分だけが“特別”という事を喜び、選ばれなかった妹を哀れんでいた。
それは見下すような優越者の憐憫《れんびん》であり―――彼にとって、もっとも頼りとなる“自尊”だった。
兄は妹を欠陥品として扱った。
妹は兄を恐れ、いつも視線を逸らすように俯いていた。
それが羞恥からくるものだと思い、彼は無能な妹を侮り、同時に愛しもしたのだ。
彼が知らない、真実とやらを知るその時まで。
“え――――――――?” 偶然その部屋を見つけた時、彼はそんな声しかあげられなかった。
自分には知らされなかった部屋。
自分には教えられなかった知識。
そして、自分には与えられなかった才能。
其処にはその全てがあった。
部屋の中央には裸体の少女がいる。
周りには黒い蟲の群と恐ろしい祖父がいる。
父は―――今まで見たことのない、厄介者を見るような眼で、入ってきた彼を一瞥した。
それで終わった。
彼が信じていたもの、彼を形成していたものが、全て丸ごと裏返った。
特別だったのは自分ではない。
隔離されていたのは妹ではない。
哀れなのは彼女ではない。
そして、見下すように同情していたのは自分ではなく――――
彼の生活は一変した。
父はもう隠す必要がないと開き直り、前以上に妹だけを扱うようになった。
妹は何も言わず、今までと同じように俯くだけだ。
以前と変わらない、彼の視線から逃れようとする態度のまま、彼女は言った。
“……ごめんなさい、兄さん”、と。
同情するように。かつて、自分が妹に向けていた感情のまま、彼女は言ったのだ。
『は――――はは、あはははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!』
笑った。
心底おかしかった。
殺してやりたいぐらいおかしかった。
愛玩動物だと思っていたものが本当の主で、自分はただの道化だったのだ。
おかしいのは自分か彼女か。
きっと両方なのだろう。
彼は全てが裏返った足場のまま屋敷に戻り、そこで思い知らされた。
別に、世界が反転した訳ではなかったのだ。
彼の周囲は初めからこうだった。
反転―――勘違いしていたのは自分一人。
初めから反転した自分が、ここにきてようやく己の惨めさに気付いただけなのだと。
その後の三年間は、彼にとって苦痛でしかなかった。
父は亡くなり、祖父は桜だけに手をかける。
間桐慎二はこの屋敷において空気になった。
ここに存ても存なくてもいい物として扱われ、実際、彼はそれ以外の何者でもなかったのだ。
その空気に、彼女は同情した。
ごめんなさい、と。
口にこそ出さないが、彼と顔を合わせる度に謝罪する。
自分が、間桐慎二の居場所を獲ってごめんなさいと。
“なんで謝るんだよ、おまえ――――”
いっそ無視してくれれば良かったのだ。
それなら憎む事も、希望を持つ事もなかった。
桜は謝罪する。
謝るという事は、何かを差し出すという事だ。
なら――――
“――――じゃあ、おまえは今から僕のものだ”
今までの侮辱を思えば、それぐらい受け取っても、何のバチも当たらないと思い込んだ。
「ハ――――なんだあいつ、まだ衛宮んところにいやがるのか。
間桐の後継者のクセに。間桐の後継者のクセに。間桐の後継者のクセに――――!」
部屋には生活の匂いがしない。
それも当然だ。
間桐桜にとって“部屋”とは地下の蟲倉であって、ここは対外的なものにすぎない。
いくら物を壊し、散らかそうと部屋の主はまったく気にかけない。
ここは玄関にかけられた、間桐桜という表札と変わらないのだ。
「ああ、そのくせ謝るんだよなおまえは……! ごめんなさい、ごめんなさいだと……!? じゃあさ、すまないと思うのなら逆らうな……! 罪の意識があるのなら贖《あがな》い続けろよ! 自分が売られてきたってわかっているのなら、大人しく僕の物になってやがれ……!」
シーツを掻き毟る。
今まで自分の物だったもの。
逆らいもせず、考えることもせず、ただ毎日を生きていただけの人形が、どうして自分のもとから離れたのか。
「――――獲ったな。おまえが獲ったんだぞ、衛宮」
それが誤算だった。
アレが衛宮士郎に惹かれている事は知っていた。
何にも興味を持たなかったアレが、衛宮士郎と知り合ってから人並みの物言いをするようになった。
アレは段々と自分を取り戻していって、終いには彼に逆らったのだ。
決して逆らわないよう躾けてきたというのに、兄である自分ではなく他人である衛宮士郎なんぞに肩入れしている――――
「だから言ったんだ。あいつの家にやるのは良くないって。なのにあの爺《じじい》、衛宮は監視しなくてはならんとかふざけた事いいやがって――――!」
そう指示した祖父は、桜を回収しようともしない。
アレはあのままでよい、などと言い、あまつさえ彼に謹慎を申し付けている。
「――――見てろ、必ず償わせてやるぞ桜。おまえだけは、僕に逆らっちゃいけないんだからな――――」
……そう。
人形が逆らうというのなら、また昔の関係に戻してやるだけだ。
アレが人並みに希望を抱くようになって、人に戻ったというのなら。
「……ああ。昔みたいにさ、また、その希望をなくしてやればいいだけじゃないか」
キチキチと笑う。
曇った窓に映った顔は、髑髏のように不気味だった。
◇◇◇
夕方になった。
遠坂は忙しそうだし、桜は眠っているし、夕食は俺が作るべきだろう。
反応が遅いものの左腕は動くし、簡単な料理をする分には支障はない。
「えーっと……かじきのから揚げと、あとは肉じゃがかな、これは」
冷蔵庫の中を確認しながら今夜のメニューを決める。
昨日から食い扶持が二人増えた為、食材の減りが速い。
明日は暇を見て商店《した》街まで買い出しにいこう。
「いただきまーす!」
居間にやってきたら夕食が出来ていた、という状況が嬉しかったのか、食卓についた面々はみな上機嫌だった。
ライダーがやってこないのは気にかかるが、彼女にも思うところがあるんだろう。
ライダーは桜の守護を最優先にしている。そんな彼女からすれば、敵になるかもしれない遠坂と顔を合わす気はないのかもしれない。
「……後で食べに来るかな、ライダー」
食べに来なかったら弁当にして届けよう。
人気のないところが好きらしいライダーは、土蔵か道場のどちらかにいるだろうし。
「へえ。士郎ってこういうのが得意なんだ。桜は洋食で、士郎は和食派ってこと?」
かじきのから揚げを摘みつつ、遠坂は意外そうにこっちを見る。
きつね色に揚がったかじきの切り身は、しょうがの香りをさせた上品なしょうゆ味だ。そのあたりが遠坂のお気に召したらしい。
「わたしはこっちのが好きよ。シロウがお料理上手で嬉しいわ」
一方、満足そうに甘く煮たじゃがいもを頬ばるイリヤ。
……肉じゃがなのにじゃがいもだけをつつかれるのは残念だが、イリヤが喜んでくれる分にはこっちも嬉しい。
……と。
桜は箸を持ったまま、不思議そうに首をかしげている。
「桜? どうした、食欲ないのか?」
「あ……その、食欲はあるんですけど。……その、先輩?
この肉じゃが、お砂糖入ってませんよ? 味付けがヘンです」
「え!?」
バ、バカな肉じゃがなんて作りなれたメニューでそんなたわけたミスを……!?
「くそ、ちょっと待った……!」
真ん中に盛り付けられた大皿から肉じゃがを取り分け、口に含む。
「……む?」
………………おかしいな。
ちゃんといつも通りの味付けだぞ、これ。
「桜。なんかヘンかな、これ」
「ヘンって……これ、お砂糖と塩が逆になってませんか?
甘味がまったくないんですけど……」
「そう? 肉じゃがってこういう味でしょ? そりゃ隠し味らしきものが入ってるから他のとは違うけど。ちょっと真似できない味よ、これ」
「わたしは初めてだから判らないけど美味しいよ? ちょうどいい甘さで食べやすいし」
桜は納得のいかない顔で肉じゃがに箸を伸ばす。
……一口。二口。三口。
「桜……?」
「え? あ、なんか味付けの薄いところを選んじゃったみたいです。ヘンなこと言ってごめんなさい。先輩のごはんは今日もおいしいです」
そう笑って、桜は食事を再開した。
「……………………」
桜は何でもなかったように箸を進める。
様子がおかしい事に不安を覚えたが、その後の桜はとんでもなく元気だった。
なにしろおかわりを三杯だ。
遠坂がびっくりしている横で桜は美味しそうに箸を進め、綺麗さっぱりおかずと米を片付けてくれた。
◇◇◇
十時を過ぎた。
「時間ね。そろそろ行くわよ士郎」
準備を済ませ、遠坂が現れる。
「――――わかってる。それじゃあ留守番頼むぞ、桜」
予定通り、遠坂と町の巡回に向かう。
……臓硯に対抗する手段が町の巡回、というのも間抜けな話だが、今はそれしか出来る事がない。
俺たちが倒さなくちゃいけない相手は臓硯とアサシン、それにセイバーと正体不明の黒い影だ。
……正直言って、正面から挑んで勝ち目のある相手じゃない。
今は遠坂が準備しているという『対抗手段』が出来上がるまで耐えるだけだ。
だが、それでも屋敷に立て篭もっている訳にはいかない。
今朝のニュースであったように、間桐臓硯は町の人間を襲い始めている。
今は敵わないまでも、犠牲になる人々を出さない為に、夜の巡回は無駄ではないと思うのだ。
「………………」
「………………」
無言のまま靴を履く。
遠坂も俺も、夜の町に出る事がどれだけ危険か判っていた。
臓硯の標的は桜だけだとしても、俺たちが町を出歩けば目障りだろう。
……最悪、あの森と同じ事が街中で起こる。
それを考えれば、おいそれと軽口なんてたたけない。
「……ちょっと。どういうつもりよ、貴方」
と。
お互い真剣で話し合う余裕なんてないっていうのに、遠坂はじろりと俺を睨んで――――
「見送りなら結構よ。大人しく部屋に戻ってなさい、桜」
「………………」
――――いなかった。
遠坂は廊下に立つ、桜を睨みつけていたのだ。
「ね、姉さん。やっぱり、わたしも一緒に行きます。姉さんと先輩だけじゃ、夜出歩くのは危険だから」
「――――桜」
……それでここまでやってきたのか。
その気持ちは嬉しいが、もう方針は決まっている。
「ダメだ。臓硯の狙いは桜だってわかってるだろ。桜はイリヤと一緒に、ここで身を守っていてくれ」
「それはわかっています。けど、先輩は片手が動かないし、姉さんだってもうサーヴァントがいないし、その」
「ふざけないで桜。貴女がわたしたちの敵である事は変わらないのよ。そんな、いつ臓硯の手駒になるかわからないヤツに、背中なんて預けられない」
「ぁ……けど、姉さん」
「貴女は貴女だけ守っていればいいのよ。わたしたちに少しでもすまないって思うんなら、こんなことで手を煩わせないでちょうだい。貴女はライダーに、自分とイリヤを守らせておくだけでいいんだから」
「遠坂、おまえ――――って、ちょっ……!」
「ほら、ぼうっとしてないで行くわよ。こんな事をしてる間にも犠牲者が出てるかもしれないんだから」
俺の手を握って、強引に玄関を出て行く遠坂。
「あ――――と、ともかく気をつけて留守番してるんだぞ桜……! イリヤのことは任せたからな……!」
遠坂にひっぱられながら玄関を後にする。
「……………………」
桜は何も言えず、淋しげに玄関に残っていた。
「おい、待てってば遠坂! ちゃんとついてくから、いいかげん手を離せっ!」
「ふん。ぐずぐずしてるそっちが悪いんでしょ」
遠坂は手を離して、急ぎ足だった歩を止める。
「……なによ、その顔。言いたいコトがあるならハッキリ言ったら?」
で、いきなりこれだ。
遠坂は急ぎ足というか、妙にケンカ腰である。
……まったく。
そんなに気になるなら、あんなコト言わなければ良かったのに、ばか。
「……はあ。じゃあ言うぞ遠坂。さっきの事だけど、桜にあんまりきついこと言うな。桜だって好きであんな体なわけじゃないんだ」
「わかってるわよ。けど、だからこそハッキリ言わないといけないでしょう。半端な態度をとったら、それこそ臓硯につけ込まれるだけでしょう」
「……いい機会だからはっきり言っておくけど、わたしは桜に同情していない。
だって臓硯の操り人形とか、間桐に引き取られた事とか、そんなのわたしには関わりのない事だもの。あの子自身の問題に、わたしが口を出してもしょうがないしね」
「――――遠坂」
「いい? わたしがあの家にいるのは、桜じゃなくて貴方がいるからよ。
わたしの目的は聖杯であって、桜を助ける事じゃない。
その為には桜を監視するし、嫌われたって構わない。だからさっきみたいなことも言うし、これからも桜を敵として扱うんだから」
「……じゃあ遠坂は桜に嫌われてもかまわないっていうのか? 今は赤の他人だから関係ないって?」
「そうよ。それに文句があるの、貴方は」
「馬鹿。そんなのあるに決まってるだろ」
……ったく、遠坂らしくない。
いつもならさらりと流す台詞なのに、ぎゅっと拳を握って、必死に騙そうとしてるんだから。
「わかった、遠坂がそう振舞うって言うなら好きにしろ。
遠坂がどんな態度をとったところで、気持ちはちゃんと桜に伝わってるんだしな」
「え―――ちょ、伝わってるってどういうコトよっ!?」
「だから、おまえがどのくらい桜を大切に思ってるかってこと。部外者である俺でも気がつくんだから、桜にはもろバレだ」
「っ――――誤解よ、わたしはただ、その」
「誤解も何もない。人間、どうでもいいヤツに真剣には怒れない。遠坂が桜に厳しいのはそういうコトだろ? 口にはしないけど、おまえの中じゃあ桜は今でも大事な妹なんだ」
「な――――なに言ってんのよばかっ、やめてよねそういう歯の浮くコト言うのっっっっ!!!!」
顔を真っ赤にして怒る遠坂。
が、そこにいつもの迫力がないのは、結局そーゆうコトなのだ。
「なんだ。迷惑かこういうの?」
「迷惑よ。当たり前でしょ、そんなの」
「そうか。じゃあ迷惑ついでに言っとく。俺は遠坂と桜には仲良くしてもらいたい。桜は遠坂が好きで、遠坂だって桜が好きなんだから、今みたいにぎこちないのは気に食わない」
「……あのね。わたしは桜を敵として見てるのよ。仲良くなっても仕方ないし、それに、第一……今更どうやって仲良くなれっていうのよ、アンタは」
「どうやってって、今のままでいいんじゃないか? 自信持てよ遠坂。おまえ、俺から見てもいいお姉さんだぞ?」
「っ――――む、無駄話はここまでよ! とりあえず今朝のニュースでやってた現場に行くんだからっ!」
顔を背けたままズカズカと歩き出す遠坂。
はいはい、と空返事をして後に続く。
――――と。
「士郎」
顔を逸らしたまま人の名前を呼んだかと思うと、
「その、ありがと。いまの、なんか嬉しかった」
そう、照れくさそうに遠坂は愚痴っていた。
……中央公園は無人だった。
昼間でも人気のない公園は、昨夜の殺人事件によって静けさを増している。
公園はオフィス街の直ん中にある憩いの場ではなく、未開の地に広がる荒れ野と何も変わらない。
「……殺人事件か。世間じゃ事件じゃなく事故って扱いみたいだけどね。ま、たしかに誰が死んで体の何処がなくなったのかいまいち判らないんじゃ、殺人って呼び方も怪しいか」
見れば、草むらにはまだ血の跡が残っている。
……バケツ一杯の血を、それぞれ思い思いの地面にぶちまけたような跡が四つ。
黒ずんだ地面が離れているのは、襲われた人間が必死に逃げようとしたからだろう。
「遠坂。おまえはこれが臓硯の仕業じゃないって言ったけど、どうだ? 現場にきて印象は変わったか?」
「……そうね。あの“黒い影”の仕業かと思ったけど、ちょっと違うみたい。
あいつが出ると、あたりの魔力《マナ》を軒並み飲み込んでいくでしょ。けどここ一帯の魔力は枯渇していない。……まあ、ここで起きた事が予定外の食事だろうって見方は変わらないわ」
ここで得られる情報はそれだけだった。
遠坂と二人、惨劇が起きたであろう荒れ地を後にする。
……結局、新都にこれといった動きはなかった。
昨夜の事件があまりにも生々しかった為、臓硯たちも今夜は動かずにいてくれるのかもしれない。
時刻は、じき日付を変えようとしている。
川べりからの冷たい風を受けながら、遠坂と帰路につく。
そこで、ふと「遠坂。桜、間桐の後継者なんだよな」
以前から気になっていた疑問を、訊いてみる気になった。
「なによ今更。もう隠し事なんてないわよ?」
「いや、そうじゃなくて。後継者って事は、桜も魔術師なんだよな。なら、桜はどんな魔術を使うんだろうって」
「あ、そういうコト」
「……そうね、間桐の魔術は“戒め”とか“強制”とか、そういうものだって聞くけど。令呪だって間桐がいなかったら出来なかったっていうし」
「ふうん。じゃあ桜の魔術は“制約”なのかな。けど、それだと」
あの日。
刻印虫に責められた桜が放った魔術は、ライダーの力だったんだろう。
「……制約……ではないと思う。それはマキリの禁呪であって、得意とする魔術じゃないもの。
ま、考えたところで意味ないわよ。桜には魔術を使うだけの魔力がないもの。そんな余分な力まっさきに刻印虫に食べられるんだから、魔術は組み立てられない筈よ」
「……そうか、それならいい。で、遠坂から見て桜ってどれくらいの腕前なんだ? 間桐の後継者って事は同じぐらいなのか?」
「魔術回路の数でいうならわたしと同じぐらいよ。
士郎、わたしたちが姉妹ってコト忘れたの?」
「あ」
そういえばそうだった。
だからこそ間桐は桜を養子に欲しがったんだろうし。
「じゃあ、やっぱり遠坂と同じぐらい?」
「どうかしらね。わたしが五大元素で、桜は架空元素だったらしいわ。けど間桐は水属性だから、無理やりそっちに変えられたのよ。鳥としてなら大空を飛べたモノを、無理やり海中に入れたらどうなると思う?」
「……死ぬか、それとも」
「そ。海中に適応する体を得るだけで精一杯よ。
遠坂の魔術師としてなら大成しただろうけど、無理やり間桐の魔術師にさせられた桜は士郎と変わらないわ。
ううん、体を鍛えてある分貴方の方が何倍も強いでしょうね」
「じゃあ、仮に遠坂と桜が魔術戦をすれば」
「十回中十回わたしの勝ち。桜の魔力量じゃわたしの防壁を突破できない」
……なるほど。
桜がどんな魔術師なのかは判らなかったが、遠坂とのパワーバランスは確認できた。
遠坂は見栄を張るヤツじゃないし、今のは嘘偽りのない事実なんだろう。
「……けど恥ずかしいな。桜が魔術師だった事にも気付かなければ、桜の腕前も判らない。これで桜の保護者を気取ってたなんて、とんだ大馬鹿ものだ」
「あのね。桜は体内の魔力を刻印虫に食べられちゃうんだから、傍にいても魔術師だって判らないわよ」
「……それに、あの子は貴方にだけはバレないようにって頑張ってきたのよ。だからそんなコト、間違っても本人の前で口にしないでよね」
「………………」
ああ、それは言われるまでもない。
桜が魔術師であろうと、俺にとっては桜は桜なんだ。
そもそも俺はそんな器用じゃない。
桜の正体がなんであれ、今まで通りに接するコトしかできないし。
「そうだな。遠坂がそれでいいっていうんなら、俺は今までと同じように桜とやっていく。
魔術師として手を貸してもらおう、なんて思わないけど、それでいいんだな」
「もちろんよ。貴方が桜に頼ろうなんて言い出したら、その時は桜をわたしの家に連れ戻してたところ」
そう微笑む遠坂は、ドキリとするほど優しかった。
……ほら。
ほんとにいい姉貴じゃないか、遠坂。
「けどそれも無理かな。桜、あなたの家だと笑うんだもの。昨日から何が驚いたかって、それが一番驚いたわ」
―――と。
心底嬉しそうに、遠坂は妙なコトを口にした。
「え……笑うって、桜は、その」
いつもあんな感じ、なんだけど。
「ええ、わたしの取りこし苦労だったけどね。
そのさ、わたしは桜とはあんまり話せないから、そのかわりに暇さえあれば見てたのよ。あの子がわたしと同じ学園に入ってからは毎日のように弓道部に入り浸ってたし」
「―――――ああ。それは知ってる、けど」
「……うん。それでね、しばらく経ってから気がついたのよ。あの子、一度も笑ってないって」
「――――――――」
それは。
初めて聞く事なのに、聞いた瞬間、納得できる事実だった。
思い返せば学校で会う桜は、いつも暗い面持ちで佇んでいるだけではなかったか。
「ま、それも貴方がいる時だけは別だったけど。
たまに士郎が弓道部に来た時は、桜だって笑ってた。
ようするに桜が元気な時は、衛宮士郎が目の前にいる時だけなのよ」
「………………」
遠坂の言葉は、喜ぶべきものの筈だ。
なのに、その事実は、どこか。
「……桜、人前では笑わないのか」
ひどく危うい事実を、含んでいるように思えた。
◇◇◇
部屋に戻ると、時刻は午前一時を回っていた。
「――――――――はあ」
どさん、と布団に腰を落とす。
夜の巡回で得たものは何もない。
あるとしたら、朝のニュースが現実だったという再認識だけだ。
「………………」
倒すべき敵。
いずれ戦わなくてはならないソレを思い返すと、正直、寒気と吐き気しかなかった。
臓硯とアサシンはまだ『人間』で打倒できる相手だ。
だがあの二人は違う。
黒い影はそもそも“死ぬ”という概念があるかどうかさえ怪しいし、セイバーは、俺たちがどうあがこうと倒しようのない相手だ。
だが―――街に犠牲者が出た以上、もう、“勝てない”で済まされる状況じゃない。
「……アーチャーの腕、か」
赤い布に手をかける。
……武器はある。
何処まで通じるかは判らないが、武器ならあるのだ。
問題は、それが俺に使いこなせる物なのかどうか、俺に耐えられる物なのかどうか、というコト。
「…………少しだけなら、大丈夫だよな」
赤い布の結びを解く。
ギチギチに縛られていた布が緩み、止まっていた血が流れ始める。
途端。
獣の遠吠えを、聞いた気がした。
刺された。
体中がザクザクに突き刺された。
これは痛みか。痛みだとしたら、今まで経験してきた痛みなんて痛みではなくなってしまう。
痛い。痛い。痛い。痛い。
畳の凹凸。布団の柔らかさが痛い。剣山に座っている気がする。空気は猛毒で息を吸うと三度死んだ。遠くで鳥が鳴いている。風が強い。水気がない。肌は乾燥して砂になっていた。サラサラと流れザラザラと削げガラガラと崩れていく。
削げた穴から火箸が突き刺さる。
スッパリなくなった肩から三十二本。
それぞれ内頚静脈気管脊髄交感神経節、左右両胃肺上葉中葉下葉、大動心臓横隔膜脾臓胃袋肝臓胆嚢 大腸八器に丁寧丹念無比正確に串刺していく。
「あ――――、つ」
崩れていく。
時間が猛スピードで減速していく。
秒速三四零で六十兆の細胞が崩れていく景色を見る。
「―――――、―――――――」
痛みはない。
痛みはない。
痛みはない。
あるのは恐怖だけだ。
驚異的なスピードで侵略するエンドロール、
狂想的なイメージで停滞するフラッシュバック、
目前の死、背後に過ぎた死、現在にある死、痛みは肉体的な痛みではなく死を叩きつけられる毎に起きる否定の炸裂にすぎず――――
「は、あ――――……………!」
……音を聞いた。
跪いた自分の頭が、どん、と畳に倒れる音。
「あ――――あ」
……瞳が熱い。
気がつけば涙を流していた。
「あ――――ああ、あ」
喉までせりあがった叫びを、必死に飲み込んだ。
背中を丸め、頭を畳に押し付けたまま、右手で左腕を握り締め、ただ、泣いた。
「――――あ――――ああ、あ――――」
怖い。
十年前の火事から欠落していたもの。
怖い。
生物として当たり前の畏怖。
怖い。
自分が終わるという事から、生まれて初めて、逃げたいと思った。
「は――――――――あ」
死が痛いから拒むのではない。
生きたいから死にたくないのではない。
それは、ただ、恐ろしいだけのものだ。
「――――ぁ………………く」
赤い布を結び直す。
結んで、二度と緩まないように何度も何度も引き絞った。
「――――だめだ。コレは、だめだ」
嗚咽を漏らしながら泣いた。
左腕を使えば死ぬと神父は言った。
そんなのはデタラメだ。
こんなの、布を解くだけで死ぬ。
体は耐えられるのかもしれないが、この布を解けば精神が先に死ぬ。
わずかに緩め、肩が外気に触れただけで意識がボロボロと欠けた。
それにすら耐えられなかった俺が、この布なしで生きていける筈がない。
――――厭。
この腕が、人が触れていい矛盾《そんざい》でないとしたら、既に 終わりを告知された廃線《カラダ》は、終着駅に向かって走り 船底に亀裂をもった船は手の施し様も無く深海に没すのみで 乗客だけが気付かないまま、気付いた時には、何もかも手遅れに――――
「…………っ、ぁ――――」
――――息が荒い。
「――――あ、つ」
――――悪い、夢を見た。
……額に溜まった汗を拭い取る。
立ち上がることができない。
蹲ったまま、よくわからない痛みを、よくわからないあたまで堪える。
「ぅ――――っ」
……思い出せない。
左腕が痛い。
切り落としたくなるぐらい痛い。
どうしてそれほど痛むのか思い出そうとしたが、そも、一秒前に思いを馳せる、という方法が思い出せなかった。
「ん―――――――」
痛みが引いていく。
断絶した意識をなんとかヒトまとめにする。
眠っていたからだろう。
バラバラの記憶は、タンタンと包丁を入れた玉葱のようで、纏めてみればキレイに調理できる気がした。
じゅー、じゅっじゅっ。
ほら、醤油で色づけして胡椒で味付けして片栗粉をちょっとだけ混ぜれば歪だがマトマリのある傷めモノ。
「うわ――――不味そう、それ」
ぼんやりと呟く。
お節介なまでに人の手が入りまくった頭はろくでなしで、そんなモンでも結論だけはキチンと出せた。
つまり、不味そうなモノは食わなければいい。
左腕はとうに無いもの。
無いものを頼りとする事自体が、既に正順ではない。
故に、衛宮士郎に武器などない。
この異物は一生涯をかけて封殺する物であり、
この異物に一生涯をかけて汚染される者である。
「っ…………!」
布で抑えつけようと無駄なこと。
真実この毒から逃れたいのなら、方法《それ》はもう一つしかない。
「―――、―――――」
そこまで判っていながら、未練がましく左腕を抱いた。
銃口がこめかみに当てられている。
イメージするのは銃の引き金。
左腕は撃鉄《トリガー》そのものだ。
引けば、定められた機能にそって銃弾を打ち出し、脳を頭蓋から吹き飛ばすだろう。
「………………」
身震いがした。
薄闇に息を潜め、空白の壁を見据える。
「………………」
もう一度左腕を強く抱いて、体を倒した。
……目蓋を閉じる。
つまらない弱音を飲み込んで、明日にそなえて眠る事にした。
◇◇◇
……小さな音。
板張りの廊下を踏む足音で、目を覚ました。
「――――――――」
まどろんでいた意識を起こす。
時刻は午前二時前。
……眠りについてから三十分も経っていない。
無意識に左腕を押さえながら、もぞもぞと布団から体を起こす。
「――――桜」
部屋の外。
足音がした廊下に向かって声をかける。
なにも気配を感じ取ったワケじゃない。
ただ漠然と、やってきたのは桜のような気がしただけだ。
「……………………」
……襖が開く。
戸惑いがちに襖を開けて、桜は俺の部屋に入ってきた。
「――――――――」
桜は羞恥で唇を噛みながら、どう切り出していいか判らずに俯いている。
「……ごめんなさい先輩。わたし、また」
自分を責めるように桜は謝ってくる。
「――――――――」
が、謝るのは俺の方だ。
桜がここに来る理由。
頬を赤らめ、火照った体のまま夜を迎える苦しみを、俺は充分すぎるほど知っている。
刻印虫に魔力を奪われる桜は、定期的に魔術師の精を補充しなければならない。
「―――ごめん。帰ったら、すぐに桜のとこに行くべきだった。苦しい思いさせて、ごめんな」
立ち上がる。
……本当にどうかしていた。
左腕に気を取られて、桜の体質を失念していたなんて、謝っても許されない。
「え、先輩……?」
「ああ。桜がいいっていうんなら、桜を抱きたい」
左腕で桜を抱き寄せる。
俺から行ってやれなかった分、桜をエスコートしてやりたかった。
「あ――――、と」
「せ、先輩……!? だだ、大丈夫ですか……!?」
「あ、いや、なんでもない。ちょっと立ち眩みがしただけだ」
―――くそ、情けないっ。
無意識に左腕を使って、さっきの痛みを思い出しちまった。
布で巻いている限りは痛まないっていうのに、何を怖気づいているのか俺は。
……バチン、と意識の電源が落ちる。
後のコトなど考えられない。
痛みしかなかった快楽、この夜に重ねた秘め事が思い出せない。
「っ――――これじゃ、まるで」
桜と体を重ねたコト自体が夢みたいだ。
……深い眠りに落ちていく。
心底疲れきった体は、桜が部屋に戻った事も、脳裏に生まれた不安も、この夜の出来事も忘れて、
一時間前の、浅い眠りに戻っていた―――。
◇◇◇ ◇◇◇
いつも通りの時間に目を覚ます。
六時前。
夜明けを迎えたばかりの空は薄暗く、今日も灰色の雲で覆われていた。
左腕に痛みはない。
居間には誰もいない。
遠坂が起きてくる前に朝食を作っておかなくては。
ニュースが流れている。
朝方、こうしてテレビをチェックするのが日課になりつつある。
「とくに目立った事件はないわね。 昨夜は出てこなかったんでしょう」
出てこなかった、とはあの“黒い影”のことだ。
「―――ああ。連日無休ってワケじゃなさそうだな」
安堵しているのを隠して、そっけなく返答する。
「そうね。百人単位の被害なんて、二日続けておきたらたまらないもの」
朝の七時過ぎ。
居間には俺と遠坂しかいない。
桜は客間で眠っており、イリヤもまだ眠っている。
桜はともかくイリヤには起きてほしかったのだが、遠坂曰く疲れてるから休ませてやれ、なのだそうだ。
「――――から、士郎も今夜に備えて休んでおいて」
唐突に遠坂が言う。
「……それは、どうして?」
「だから、例の切り札の作成。なんとか今日中に骨組みが出来るから、今夜“投影”を実行するわ。
で、成功次第臓硯と決着をつける。これ以上犠牲者は増やせない。あの影がなんであれ、臓硯を倒せば聖杯戦争は終わる。得体の知れないあの影も、そうなったら消えるでしょ」
「――――遠坂。聖杯戦争が終われば、あの影は消えると思うのか」
「消えるわ。あいつの正体がなんであれ、アレが聖杯目的で現れているのは間違いない。
聖杯を欲しがっているのか、それとも聖杯に呼ばれているのかは判らない。けど、どっちにしたって原因は聖杯なんだから、聖杯さえなくなれば影は消えるのよ。
だから戦いさえ終われば影は消える。
聖杯戦争が期限切れになるか、マスターが最後の一人になるか、それとも―――聖杯の器になるモノが死んでしまえば、あの影は消え去るわ」
「―――――遠坂、おまえ」
……もう。
とっくの昔に、あの影の正体を知っていたのか。
「今のはただの推測よ。
臓硯を倒してもあの影は消えないかもしれない。
聖杯戦争が終わってもあの影は消えないかもしれない。
だから今は一番確実な方法をとる。手に入るかどうかも分からない聖杯なんかには頼れない。わたしたちはわたしたちだけの力で、臓硯とあの影を倒さないといけない」
言って、遠坂は席を立った。
何のつもりか、桜の為に用意した水差しと寝巻きを俺から取り上げて、だ。
「おい。なんのつもりだよ、それ」
「桜の様子はわたしが見るわ。部屋も隣りだし、あの子の看病はわたしの方が適任でしょう」
「む――――いや、桜の看病は、俺が」
「馬鹿言わないで。士郎、一睡もしてないでしょ。そんな体でいられちゃわたしたちが困るってわからない?」
……?
一睡もしていないって、俺が?
「それこそバカ言うなよ。昨日はちゃんと眠ったぞ、俺」
「呆れた。自覚がないほど参ってたワケ。
……まったく、嘘だと思うなら鏡を見てきなさい。顔面蒼白で目にクマ作ってたら、看病される桜だって気を遣うわ」
「な――――それ、本当か?」
「うそ言ってどうするってのよ。もう、いいから士郎は部屋で休みなさい。夕方になったら呼びにいくから。
あ、眠れないなら手をかしてあげてもいいわよ? ライダーの真似事でいいなら、まる一日前後不覚にしてあげられるけど?」
ライダーの真似事というと魔眼の真似事というコトだが、知っているかぎり遠坂は魔眼持ちじゃない。
つまり、遠坂は。
「それは、俺に実験台になれってコトか?」
「正解。今まで興味はなかったけど、魔眼も悪くないかなって。流石にあんな離れ業は無理だけど、眠りの暗示ぐらいなら即興で出来そうだなって」
「――――嘘つけ、何が魔眼も悪くないかな、だ。
おまえ、単にやられっぱなしじゃ気が済まないから練習したいだけだろ」
「い、いいじゃない別にっ! それでどうするのよ士郎。
やるの、やらないの」
「やるかバカ! そんな物騒な実験には付き合えないし、だいたい丸一日寝込んだら明日の朝まで起きられない」
「あ、そうか。うまくかかりすぎたら睡眠じゃなくて麻痺になるものね。士郎、単純だからかかりやすそうだし」
なるほど、と納得する遠坂。
なにげに反論したいが、それじゃ試してみる? なんて言われそうなので黙っておく。
「まあ、それほど神経質ってワケでもないし、その気になれば簡単に眠れる。心配されるほどじゃない」
「そう? なら桜の看病はわたしに任せて、士郎は部屋で大人しくできる?」
……と。
さっきまでの軽口から一転して、遠坂は真剣な目で訊ねてきた。
「――――――――」
返答につまる。
……桜の傍にいたい。
傍にいたいが、今は他にやるべき事があるし、遠坂の言う通りひどい顔をしているなら桜には会えない。
遠坂が桜を看ていてくれるなら安心できるし、ここは遠坂の好意に甘えよう。
「……そうだな。じゃあ、少し部屋に引っ込んでる。
昼食と夕食は俺が持っていくから、それ以外は遠坂に甘えていいか」
「ええ、桜の看病は任せておいて。かってに動き出そうものなら叱りつけて眠らせるから。
で、そういう士郎はホントに一人で眠れる? やっぱり一つ試してみる?」
「しつこいな、そうゆう危なっかしいのは却下だ。
けどまあ、ありがとうな遠坂。気を遣わせて申し訳ない」
「べ、別に気なんか遣ってないけど。そ、それじゃわたしは行くから、士郎もちゃんと眠りなさいよねっ!」
慌ただしく遠坂は退場する。
……まったく、なんというか。
勘が良いんだか悪いんだか、冷たいヤツなのか優しいヤツなのか。
天才肌の人間は相手を置いてけぼりにするっていうけど、あいつもその類だろう。
桜もタイヘンだ。遠坂が姉貴だなんて、俺だったら心休まる時がない。
「―――まあ、それ以上に毎日楽しいんだろうけど」
……ああ。
だからあの二人には少しでも早く姉妹に戻ってもらいたい。
この戦いが終わって、遠坂と間桐の約束事がなくなってしまえば、桜と遠坂は姉妹に戻れる。
十一年もの年月はそう簡単には埋まらないだろうが、それでも、少しずつ距離を縮めていって、何気ないことでも笑い合える仲になってほしい。
その為の手助けなら幾らでもする。
前にも思ったが、きっとそれが、桜にとって一番大きな贈り物だと思うのだ。
「あー、ついでに遠坂もな。あいつに困った顔させられるの、いまのところ桜ぐらいしかいないんだし」
と、しまった。
不覚にも、嬉しげに微笑む遠坂の顔を連想してしまった。
すまん桜……って、こういうのも浮気の一つに入るんだろうか?
「――――いや、それはともかく」
いつまでものんびりとはしていられない。
遠坂は今夜にでも臓硯に挑むという。
……それはまずい。
臓硯を倒せば戦いが終わってしまう。
戦いが終われば聖杯が現れる。
いや、厳密に言えば聖杯が“開かれる”。
聖杯は門だと臓硯は言った。
あらゆる望みを叶えるモノ、願望機は聖杯ではなく聖杯の中にあるものだと。
……それが確かなら、聖杯である桜はどうなるのか。
イリヤは言った。
聖杯として完成に近づけば近づくほど、桜は人間としての機能を失うのだと。
「―――――――――っ」
……結局、桜を救う方法は一つしかない。
聖杯戦争が終わるまで桜を守りきる。
聖杯がどのように『現れる』ものなのかは知らない。
マスターが最後の一人になった時点で現れるものなのか、最後の一人になったマスターが召喚するものなのか。
……これが後者なら問題はない。
臓硯を倒し、桜を脅かす存在を排除して、戦いの期限切れを待てばいいのだ。
遠坂は今夜のうちに臓硯に挑むと言った。
なら臓硯は倒せる。
あいつが戦うと言うからには、高い勝算があるという事だ。
「……となると、問題は一つだけ」
……あの“黒い影”。
臓硯を倒したところであいつは消えない。
あいつは桜という聖杯があるかぎり現れ続ける。
そうして現れる度、多くの命を奪っていく。
戦いの期限切れを待つ、という事はあの影を放置する、という事。
「……倒す、しかない。あの影を、俺の手で倒す」
……それ以外に方法はない。
だが倒せるのか。
アレが聖杯の中からこぼれてくるモノだとしたら、影自体には死の概念はないだろう。
もしアレを消せるとしたら、それは投影機である桜本人を消すか、投影機に魔力《でんりょく》を送っている本体を消すしかないのではないか。
「……本体、か……」
……そんなものがいるとは思えない。
だがそう考える以外、確かな打開策がない。
「――――聖杯の中身。
臓硯は十年前の戦いで砕け散った聖杯の欠片を桜に埋め込んだ。その時も中身なんてあったのかな――――」
――――と。
ちょっと待て。
臓硯のヤツ、刻印虫は聖杯の欠片から作ったって言っていたが――――
「――――言峰。あいつは、その事に気がつかなかったのか……!?」
そんな筈あるか……!
あいつは桜から刻印虫を摘出した。
少量だが刻印虫を取り出し、桜の体を治療したのだ。
そこまでしておいて気がつかない筈がない。
仮にも聖杯戦争の監督役であり、前回の戦いで最後まで残ったマスターだ。
なら、桜の体の異状に気がついて然るべきだろう……!
「っ、は――――!」
玄関を飛び出る。
突然の閃きに全身を支配されて、あの神父の顔しか思い浮かばなくなっている。
「くそ、どうしてもっと早く気付かなかった……!」
考えればすぐに思い至った筈だ。
桜の無意識の姿で現れる影、
“聖杯”の中にあるモノがなんであるかを、あの男なら知っている筈なんだから――――!
◇◇◇
「……あれ? いま出て行ったの士郎のヤツ……?」
玄関からの物音に遠坂凛は首をかしげる。
窓から顔を出して外を見ると、やはり思った通りの人物が坂道を駆け下りていっていた。
「あのバカ……! 休んでろって言ったのにちっとも人の話を聞かないんだから……!」
薬の調合を止め、荒々しく席を立つ。
間桐桜に飲ませる薬も大切だが、今は士郎を止める方が先決だ。
「馬耳東風どころの話じゃないわよアイツ……! 自分がどれだけ弱ってるかまるで判ってないんだから……!」
階段を下りる。
とにかく急いで士郎に追いつこう、と玄関へ急ぐ。
「――――と、その前に」
念のため、桜に言いつけておかないといけない。
薬と一緒に持っていこう、と思っていたので水差しと寝巻きもまだ渡していないし、今朝は熱も計っていない。
士郎の無鉄砲さは頭に来るが、それで桜を放っておいたら士郎をとっちめるコトができなくなる。
「――――ま、気配からして眠ってるんだろうけど」
時間にしてほんの一分だ。
どうせ士郎はすぐに息が上がって、下り坂の途中でぜいぜいと立ち止まるに決まっている。あの体では一キロも走り続けられまい。
「……なにが厄介かって、本人が気付いてないあたりが厄介なのよ、ばか」
ともあれ、走ればすぐに追いつける。
いま衛宮邸で一番元気があるのは自分なのだ。
余力がある分、ダウンしている仲間《メンバー》の面倒を見るのは当然の義務である。
「桜、入るわよ」
返事を待たず中に入る。
「ちょっと外に出てくる。すぐ戻るから大人しくしてなさい。着替えはここに置いておくか――――」
ら、と。
そう言いかけて、
「――――やられた。やってくれたわね、桜」
壁を砕きかねない勢いで、凛は拳を叩きつけた。
―――部屋に間桐桜の姿はない。
ベッドに横たわっている人影は、間桐桜以外の何者かだった。
「……見下げ果てたわライダー。サーヴァントともあろうものが、ベッドで主人のフリをしてるなんてね」
「わたしも不本意ですが、これも命令ですので。
ですがこれは貴女の不注意でしょう。私に責任を押し付けられては迷惑です」
「…………言ってくれる。迷惑かけてるのはあの子の方じゃない、一方的に」
歯の鳴る音。
凛は敵意をこめてライダーを睨み、ライダーは涼しげに向けられた敵意を受け流す。
「トオサカリン。次があるのなら、もっと出来のいい監視役を仕掛けなさい。翡翠の鳥程度の使い魔ではサクラは欺けない。技量でこそ貴女には及びませんが、直感という才能は貴女と同格なのですから」
「そう。ご忠告感謝するわ。……けど、その様子じゃ忠告だけってワケじゃなさそうね」
「勿論。自分が帰ってくるまで貴女を外に出すな、とサクラから」
「――――」
チィ、と薄闇に舌打ちが響く。
こうなっては何も出来ない。
凛一人ではライダーを倒す事も逃げる事もできない。
彼女は間桐桜の思惑通り、ここで足止めを受けるしかない。
「――――ほんとに頭きた。一人じゃ出来ないからあいつが助けようとしたのに、結局、一人で解決しにいくなんてね」
「抵抗しないのですか? 潔いのは結構ですが、意外ですね」
「外に出なけりゃいいんでしょ。どうせ貴女には敵わないし、桜が帰ってくるまで大人しくしてるわ」
はあ、とこれ見よがしに溜息をついて壁に背を預ける。
そこに戦意はない。
凛は肩の力を抜き、わずかに顔を俯かせて、
「けどライダー。言っておくけど、あの子はもう帰ってこない。……いいえ。帰って来たところで、わたしたちの知ってる間桐桜じゃなくなってるわ」
冷え切った魔術師の声で、最悪の未来を口にした。
◇◇◇
ぁ――――はあ、はあ、は――――
肺が苦しい。
胸の上から押さえつけた心臓は、ずいぶん前から慌ただしく危険信号を送っている。
どくん、どくん、ぴちぴち、どくん。
心臓は全身に血液を吐き出しながら、これ以上動けば何より先にワシが死ぬわ、と抗議するように暴れている。
ぁ――――はあ、はあ、は――――
喉が痛い。
一息吸うたびにトゲを飲み下すようだ。
だから怖くて呼吸ができない。
ただでさえ酸素が足りないのに、自分から呼吸を制限するなんて自殺行為。
ぁ――――はあ、はあ、は――――
酸素が足りないから手足もよく動かない。
おぼつかない足取りでここまでやってきたが、この先はいつ倒れてもおかしくはない。
っ――――ふ、くっ…………!
そう思ったとたん、力が湧いてきた。
ここで倒れる訳にはいかない。
それでは抜け出してきた意味がない。
彼女―――わたしはここで、自分に決着をつけなくてはいけない。
自分をマスターにしたあの老人を、刺し違えてでも止めなくてはいけない。
――――ふぅ――――ふぅ、ふ――――
……呼吸を整える。
大丈夫、そう難しいことじゃない。
他の人には難しいだろうけど、自分一人ならなんという事はないのだ。
食事時のように顔を合わせて、あの老人の前で“いいえ”と首を振るだけでいい。
それで―――とりあえずは、あの老人の企みは全て終わる。
……その後、あの妖怪を拒絶した自分がどうなるかは考えない。
考えれば出来なくなる。
出来なくなるから、深く考える事を止めた。
幸い、頭の中の記憶も、いまこうしている記憶も曖昧になっている。
次の瞬間には覚えていないから、恐怖は比較的小さかった。
壁にもたれ掛かりながら、数日ぶりの我が家を歩く。
暗い屋敷。
散乱した記憶を拾ってみても、この屋敷が明るかった事などない。
屋敷はいつも通りだ。
いつも通り陰湿で、退廃で、粘質である。
だが――――
“そんな――――どうして?” 予想とは違った。
屋敷に祖父の気配がない。
あの蟲の気配が、屋敷には残っていない。
「……は――――ぁ、あ…………」
崩れそうな体を支えて、無人の居間を見渡す。
おかしい。
おかしい。
おかしい。
間桐邸にあの老人の姿がない。
地下室にもあの笑い声がない。
「……うそ……どう、して」
道理が合わない。
祖父―――間桐臓硯はわたしを回収したがっていた筈だ。
でも衛宮の家にいたから手を出せなくて、今まで手をこまねいていたんだと思う。
だから今は最大のチャンスの筈だ。
あの老人は、わたしが一人なら必ず姿を現して、わたしを聖杯にしようとするだろう。
なのに、どうして出てこないのか。
「あ……はあ……はあ……ぁ――――」
……意識が薄れかかる。
……それは、ダメだ。
眠りにつく前、先輩が行動する前に間桐臓硯に会わなくてはいけない。
会って、こんな事は終わらせないといけない。
会えば―――会うだけで終わるというのに、どうして―――今日に限って、あの老人は現れないのか―――!
「っ……知ってる、筈なの、に……!」
そう、気付いていない筈がない。
あの人は常にわたしを監視している。わたしがどんなに遠くにいても、何処に隠れていようと見つけ出せる。
今のわたしなら簡単に捕まえられて、祖父の思う通りに出来ると判っている。
……たとえわたしに逆らう意思があるとしても、そんなものを考慮する人じゃない。
あの人は今まで通り、わたしを道具として扱うだけだ。
「……なのに……どうして」
気付いていない筈はない。
あの神父の治療で体内の刻印虫が減っていようと関係ない。
……だって、あんなものはただの保険だ。
それとは違う手段、もっと確実な方法で、あの人はわたしの行動を把握している。
いまのわたしの体調。心拍音すら聴いている。
わたしが一人で、ライダーさえ置いて祖父の屋敷に来た事もさっきから知っている。
何故なら、あの老人はずっと彼女の――――
「――――桜」
すぐ後ろで声がした。
それが、
「……兄さん?」
兄の声だと振り向いた瞬間、
◇◇◇
「そら、こっちに来るんだよグズ……!」
「っ、きゃ……!」
倒される。
背後から襲われ、未だ手足の痺れがとれぬまま、少女はベッドに押し倒された。
「この裏切り者、ずいぶん遅いお帰りじゃないか、ええ!?」
喚きながら圧し掛かる。
男はここまで引きずってきた少女を殴る。
「っ――――!」
びくん、と少女の顎が上がる。
男は絶対者だった。
もう一度殴られる。
その、瞬間。
「だめ――――止めて、近寄らないで、兄さん……!」
少女は全力で、圧し掛かる男を拒絶した。
「――――は?」
男の動きが止まる。
男は何か、奇怪なモノと対峙したように、少女を見下ろした。
「なんて言った? いま、おまえなんて言った?」
呆然とした声。
少女はごくりと喉を鳴らして、ありったけの勇気を込めて男を見つめ返す。
「―――ち、近寄らないで、と言ったんです。わたしは、これ以上兄さんの言いなりにはならない。
……先輩。先輩は、こんなわたしでも受け入れてくれた。わたしを守るって言ってくれた……! わたしは兄さんのものじゃない。わたしはもう、先輩のものなんだから……!」
少女は必死に、圧し掛かった男を跳ね退けようとする。
だが男はよろめきもしない。
当然だ。少女の力で男を押し返せる筈もないし、抵抗のしようがない。
「――――――――、んな」
空洞のような声。
男は、ベッドに倒れこんだ少女を見下ろし、
「―――ふざけんな。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなこの――――!」
気が違ったように、妹である少女をさらに殴り始めた。
「衛宮のもの……!? 僕の言いなりにはならない……!?
勘違いするな、おまえにそんな権利なんかない! 決めるのは僕だ、おまえは今まで通り、ただ黙っていればいいんだよ……!」
手加減などしない。
自分の持ち物、絶対に裏切らないものに逆らわれた男には、まともな理性など残ってはいない。
「訂正しろよ桜! おまえは僕のものだ、他の誰のものでもない……! 身のほどを弁えろ!おまえには僕に逆らう権利なんてこれっぽっちもないんだよ……!」
狂ったように殴りつける。
「 」
少女は抵抗しない。
顔を庇うコトもせず殴られ続ける。
その瞳は強い意志を以って、圧し掛かる男を咎めている。
「っ……!」
それが最後のスイッチを押した。
少女の目があまりにも腹だたしかった。
自分をまっすぐに見つめてくる目がイヤだった。
だから、
「―――そうかよ。ならこっちにも考えがある。そんなに衛宮がいいんなら好きにしろ。
……けどさあ桜。それなら、好きな相手に隠し事なんかしちゃいけないよな?」
少女が一番怖れているコトを、何もかも明かしてやる事にした。
「――――――――兄、さん」
少女の目が見開く。
「は」
笑った。
絶望を突きつけられた少女の表情は、少しだけ彼の溜飲を下げてくれた。
「そうだよ桜。今までのコト、全部衛宮にバラしてやろうじゃないか。あいつはおまえを受け入れてくれたんだろう? なら、それぐらいどうってコトないよな?」
「――――――――や」
止めて、という声が、声にならない。
少女は愕然と。
以前の関係に戻ったように、空ろな目で、兄である男を見上げた。
「は。はは、あははははははははは!
そうだよ、結局はその程度さ! いいな桜、それがイヤなら大人しくしてろ。おまえは僕の人形だ、間違っても逆らうんじゃない……!」
部屋を埋め尽くす笑い声。
それも、少女には耳障りな遠吠えにしか聞こえない。
「――――――――、で」
なんで、と。
虚ろな心で、少女は思った。
先輩―――士郎に秘密をバラされるのは、死んでもイヤだ。
兄との関係、衛宮の家を監視していた自分の役割、十一年に渡る地下での生活。
先輩は知っている。
それぐらい、もう判ってくれている。
知らないのは兄との関係だけで、もしそれを知られても、嫌われるコトなんてない。
士郎はきっと、それさえも許してくれる。
「――――――――あ」
そう。
昨日の夜のように、何かを壊して受け入れてくれるだろう。
だから、それがどうしても耐えられない。
これ以上あの人から奪うのはイヤだ。そんな事になるのならこのままでいい。
今まで通り、このまま兄にやられればいい。
「――――――――や」
けれど、それももう出来ない。
……今までは我慢できた事。
だけど今となっては、どうしてもできない。
「――――――――だ」
どちらも容認できない。
士郎に秘密を打ち明けられる事はイヤで、心ががんじがらめになる。
そうして、残ったのは剥き出しの感情だけ。
今までずっと押さえて、十一年間フタをし続けた心は、
「いや――――いや、いや、いや、いや……! 止めて、こんなのヤだ、もう止めてよう、兄さん……っ!」
必死に、圧し掛かる男に抵抗する。
その無力な抵抗を、彼は笑った。
笑う。
笑う。
楽しげに兄は笑う。
「――――――――」
それで、心底理解してしまった。
この人は言う。
何があっても、自分が何をしても、先輩に言ってしまう。
……もう、どうあっても。
この人は、自分が面白がるためだけに、わたしを台無しにする気なんだ、と。
「―――――――なん、で」
声が漏れた。
なんで、いつもこうなるんだろう。
それだけを避けて、それだけは知られないように、ずっと色々なことに耐えてきた。
嘘をついて、人に嘘をついて、自分にも嘘をついて、こんな自分でも幸せになれるんだって言い聞かせてきた。
先輩の家にいられるだけで、幸福なんだって思ってきた。
だっていうのに。
どうして、この人はそんなコトも守ってくれないんだろう。
「――――――――」
……いや、守ってくれないのはこの人だけじゃない。
ずっと前から思っていた。
ずっと前から恨んでいたんだ。
なんで。
なんで―――なんでわたしの周りにある世界は、こんなにも、わたしを嫌っているんだろう、と――――
「――――」
力が入らない。
抵抗する気力がなくなって、そんな自分を、兄である男は満足げに見下ろした。
「は――――はは、はははははははははははははは!!」
勝ち誇る。
それを、虚ろなままぼんやりと見上げ。
「――――こんな人、いなければいいのに」
十一年間。
一度も思わなかった事を、思ってしまった。
「――――――――」
ぱしん、と空気が鳴った。
圧し掛かっていた男が倒れる。
降りかかる鮮血。
少女は体を起こして、物言わぬ兄を見つめた。
「――――――――あ」
即死だった。
ものすごく鋭利なヒモで、ぱしん、と頭を叩かれたのだろう。
後頭部にはペンシルで引いたような線だけがある。
線は脳にまで達し、けれど細すぎる傷口は脳漿《なかみ》を零すことはせず、赤々とした血液だけを流している。
「――――――――、あ」
それを無感動に見下ろした。
兄を殺した影が揺らめいている。
灰色の陽射しを受けて揺らめいている。
自分の。
陽に当たる自分の影が、のっぺりと立ち上がって揺らめいている。
「――――――――、ああ」
だから殺したのは自分だ。
兄を殺したのは自分だ。
それが理解できるのに、少女は何も感じていない。
何も感じない。
何も。
何も。
何も。
嫌悪も恐怖も、罪悪も後悔もない。
からっぽの心に浮かんだものは、ただ、簡単だった、という事だけ。
「――――――――ああ、あ」
手馴れている。
こんなこと、これが初めてじゃない。
だっていくらでも夢で見た。
夢で見たから――――夢で見たから、見様見真似でやってしまった、んだろうか。
「――――――――あ、は」
よくわからない。
でも、こんな事ならもっと早くやればよかった。
何も感じないのなら、もっと早くやればよかったのだ。
そう、少女は思い。
「――――――――ふ――――――――ふふ」
何もない筈の感情が、楽しかった、と呟いた。
楽しかった。
楽しかった。
楽しかった……?
楽しいんじゃなくて、楽しかった……?
それは何時。
何処で。
何を。
夢。
夢。
そうだ、わたしは夢なんか見ていない。
あの夢は、そう――――
夢なんかじゃない。
夜な夜な街を徘徊して、いい寄る男の人たちを殺していたのは、紛れもなく自分自身。
そう、いっぱいころした。
いっぱいいっぱいころした。
にげるひとからコロシタいってきのこさずコロシタだれであろうとコロシタたのしんでコロシタわラいながらコロシタわらイながらコロシタわらいながらコロシタ、わたしがわたしが笑いながらコロシタんだ……!!「――――あは。あはは。あははは」
おかしくて笑う。
だって、笑わないと壊れそうだ。
笑っていないと耐えられない。
けど笑えば笑うほどボロボロと崩れていって、涙が止まらなくて、何もかもがどうでもよくなっていく。
「はは! あはは、はははははははははははは!」
おかしくておなかが痛い。
笑えば笑うほど馬鹿になっていくみたい。
でもそれがとても楽で、とてもとても自然に映る。
ああ、なんてバカらしいバカらしい愚かな自分……!
「――――ふ――――ふふ、あ」
狂笑でひきつった顔。
もう動かない兄に代わって、少女は可憐に、クスクスと硝子のような声を零す。
……そうして。
兄の体をままごとのように沢山、色々といじったあと、少女はベッドから立ち上がった。
血に濡れた姿のまま姿見の前に立つ。
―――その後ろには、多くの人間を殺してきた影が立っている。
自分の影。
もう、何十人という人間を食べてきた自分自身《くろいかげ》。
いつかそうなってしまわないように必死に自分を抑えて、
そうならないようにと傍にいてくれた誰か。
笑ってしまう。
そんなもの、初めから全部無駄だった。
「――――なんだ。少しずつおかしくなってたんじゃないんだ」
くるり、と姿見の前で回る。
少女は誇らしげな微笑みを浮かべ、
「―――見てください先輩。わたし、最初から狂ってたんです」
そう、ダンスを求めるように語りかけた。
少女の意識はそこで終わった。
いや、正確に言えば代わった。
いままでフタをし続けた無意識が、ただ表層に浮かび上がっただけの話。
その少女に語りかけるものがある。
少女の背後。
闇は闇のまま、気配だけを現して少女を見つめる。
「――――多くの人間を殺したな、桜」
少女は答えない。
そんな事は、もう頷くまでもない。
「―――おまえは、もはや人として生きられぬ」
少女は答えない。
そんな事は、もう言われるまでもない。
「―――さあ、その影を受け入れるがいい。おまえを止められる者はおらぬ。アインツベルンの娘を奪い、聖杯を手に入れよ。もはや、おまえにそれ以外の生きる術はない」
「――――はい。仰せのままに、お爺さま」
静かに頷く。
それが楽しそうだから頷いたのか、
それともただ逃げたかっただけなのか。
少女には、もう自分の心も判らない。
ただ、受け入れた途端、あれだけ苦しかった体が嘘のように楽になった。
……這い上がってくる。
体の芯から、黒い泥が肌を塗りたくっていく。
痛みは炎になって、少女の肌を焦がしていく。
それは呪いのように。
少女の白い肌を、違うモノへと変えていく。
「――――ああ、これなら」
きっと、誰にも負けない。
もう誰にも邪魔されない。
断言できる。この戦いにおいて、一番強いのは自分だと。
その絶対性は性的な昂揚《こうよう》に近かった。
少女は自らを脅かし続けたモノたちを想像の中で倒していく。
逃げ惑う足を串刺しにし、抵抗する腕をブチブチと引きちぎり、助けを請う口を縫って、痛いと涙する目玉を噛み砕いて、最後に、笑いながら心臓を抉り出すのだ。
「ん――――」
ぶるり、と体が震える。
そのイメージ、想像上の行為だけでイきそうになる。
……その中で。
何度も何度も現れたのは、遠坂凛という名の、彼女が最も敬愛する肉親だった。
◇◇◇
一度も足を止めず、教会に辿り着いた。
坂道を駆け下りている時は息が乱れて走りづらかったが、それも交差点まで降りた頃にはなくなっていた。
「は―――――はあ、は」
自分でもびっくりするぐらい、体の調子がいい。
最短距離とは言え、家《うち》から教会まで、実に五キロ近い道のりを全力疾走したんだから。
「――――と。感心してる場合じゃないだろ、今は」
教会に向かう。
言峰が全てを知っているのなら、力ずくでも聞き出してやると気合をいれた。
「――――――――っ」
礼拝堂には神父の姿があった。
言峰はまるで待ち構えていたかのように、
「おや、どうした衛宮士郎。進退窮まって神に祈る、などと殊勝な男ではなかった筈だが、宗旨変えかな」
なんて、ふざけた出迎えをしてきやがった。
「―――ふざけろ。アンタの嫌味に付き合ってる暇はないんだ。お喋りがしたけりゃ一人でやってろ」
「ほう。……なるほど、確かに余裕はなさそうだな。その体でよくここまで来れたものだよ。どうかな、長話なら奥に移らないか。おまえとて立ち話は辛かろう」
「結構だ。それより答えろ言峰。
アンタ―――桜が聖杯だって知っていたな?」
「当然だ。あの娘の体を開いて見たのだからな。アレが間桐臓硯によって調整された、黒い聖杯だという事は判っていた」
あっけなく。
それがどうした、と言うように、神父は返答した。
「おまえ、それがどういう事だか判っていて……!」
一瞬で頭が沸騰した。
冷静であろう、とした理性が、言峰の返答で真っ白になる。
「そうだな。それがどういう事なのか、私は今のおまえ以上に判っていた。
間桐桜をあのまま生かせば、多くの人間を殺す事になる。だからこそ私は忠告したのだ。アレを生かす価値があるのか、とな」
「――――――――」
言葉に詰まる。
……そうだ。
確かにあの時、言峰は俺に忠告していた。
助けておきながら、桜を生かす事は間違いだと繰り返した。
「―――じゃあ。じゃあどうしておまえは桜を助けた。
俺は桜を守りたかっただけだ。けど、おまえにそんな理由はないだろう」
「理由はある。私もおまえと同様、間桐桜を死なせたくなかった。彼女が内包した新しい命を死なせる事はできなかった。
人間は死ぬものだ。間桐桜が死ぬというのならそれも道理だろう。死にゆくものが彼女だけならば、私もあそこまで手は尽くさなかった」
「死にゆくものが桜だけなら、だと」
つまり、こいつは。
あの“黒い影”を生かす為に、桜を救ったとでも言うのか……!
「その通りだ衛宮士郎。傷を負い息絶えるのならばそれは摂理だ。だが誕生しうるもの、生まれようとするモノを殺す事は出来ない。
おまえは間桐桜を救う為に彼女を保護した。
私は間桐桜が孕《はら》んだ闇を救う為、彼女を救った。
それが私の理由だ。お互い目的は違えど、間桐桜には生きていて貰わねばならなかった。その結論に、何か不満があるとでも?」
「――――――――」
……不満なんて、ない。
言峰の思惑はどうあれ、あの時はこいつに助けて貰うしかなかった。
それに―――こいつは自分の魔術刻印を全て遣って桜を助けてくれた。
その結果だけは、感謝するべき事だろう。
「……そうだな。アンタが何を考えてたかなんて興味ない。
それより聞かせてもらうぞ言峰。そこまで言うからには、アンタはアレの正体を知っている筈だ」
「街を脅かす影の事か。
……まあ、私なりの考えはあるが、おまえはどうだ。
アレは一体なんだと思う」
「……臓硯は聖杯の中身だと言った。聖杯の中にあるものが、桜を通じて外に出てきていると」
「―――臓硯に直接聞いたのか。……なるほど、あの老人の考えそうな事だ。
それで、おまえはヤツの言葉を全て信用しているのかね? あの影が間桐桜から漏れた聖杯の中身であり、彼女が生きているかぎり殺戮を繰り返すものだと?」
「臓硯なんて信用するか。……けど、あいつの言い分は符号が合いすぎている。桜があの影と関係があるって、認めないワケにはいかない」
「そうだな。臓硯の説明に嘘はなかろう。だが真実も語ってはいない。
よいか、聖杯に満ちる力とは無色のもの。
無色である以上、自分から人を襲う、などという事はない。目的のない力は、目的のないまま霧散するものだろう」
「あ」
……そうか、言われてみればその通りだ。
そもそもどうして、桜という聖杯《もん》から漏れているモノが、無差別に人を襲っている……?
「どういう事だ。どうしてアレは人を襲う?」
「言うまでもない。聖杯の中には『人間を殺すもの』がいる。そうでなければ説明はつかんだろう」
「な――――――」
人間を殺すもの?
それが聖杯の中にいて、桜を蝕んでいるというのか?
「――――――――」
……視界が軋む。
そんな馬鹿げたモノ、いる筈がないと否定して、
「――――――――」
それを、俺は十年前に この眼で、見上げていたのではなかったか。
「っ――――そ、それこそおかしいだろう……!
聖杯の力が無色の力だって言うなら、初めから『人間を殺す』なんて、目的を持ったモノがある筈ない!」
「ああ。それは本来あってはならぬもの、作られる筈のない矛盾だ。
―――だが、確かにアレは聖杯の中に潜んでいる。
十年前。私と切嗣が残り、聖杯をかけて戦った事は教えていたな。
その時点で、聖杯の中身は既に“何か”に汚染されていた。無色の筈の力は、あらゆる解釈をもって人間を殺し尽くす方向性を持った『渦』になっていたのだ」
「まあ、それでも“願いを可能とする”程の魔力の渦だ。
願望機としての機能は損なわれていない。
問題があるとすれば、それは悪を以って善を浮き彫りにする、という幸福の有り方だろう。
十年前の火災はそれ故の惨劇だ。
私はそれでも変わらぬと聖杯を認め、切嗣はそのような悪は認めぬと聖杯を破壊した」
「その結果は言うまでもない。私のサーヴァントは汚染された聖杯の中身を浴び、聖杯から漏れた泥は街を燃やし、人を殺めた。
その光景を――――おまえならば知っている筈だ」
……ああ、見ていた。
確かに、この眼で全ての元凶を見ていたとも……!「―――じゃあ、あの黒い穴が」
「そう、聖杯という門《あな》だ。
皮肉な話だ。穢《けが》れなき最高純度の魂をくべる杯。
そこに一粒の毒が混ざった程度で、穢れなきモノは全て変色した。なにしろ無色だからな。どれほど深遠で広大だろうと、たった一人の、色のついた異分子には敵わなかったという訳だ」
「異分子って……じゃあ、それが聖杯の中身を変色させた原因なのか……?」
「おそらくな。三度目の儀式のおり、アインツベルンは喚《よ》んではならぬモノを召喚した。その結果、彼らが用意した聖杯戦争という儀式に不純物が混入した。
三度目から四度目の間。六十年の歳月をかけて聖杯の中で出産を待った不純《ソレ》物は、しかし外界に出る事は敵わなかった」
「四度目の聖杯は狭すぎたのだ。
前回はセイバーとアーチャーが残ったまま期限を迎え、聖杯は完成しなかった。門こそ開いたものの、それは即座に切嗣によって破壊された」
「不純物―――じゃあ、そいつが黒い影の本体……?」
「そいつ、というのは間違っているな。
黒く染まろうと聖杯の中身は純粋な“力”の渦にすぎない。中にあるものは方向性を持った魔力だ。
『人を殺す』という方向性をもった、それだけに特化した呪いの渦。人間の悪性のみを具現した混ざり気のない魔」
「それが聖杯の中にいる現象―――《モノ》夜に徘徊する影の本体だ。まだ生まれておらず、間桐桜がいなければ影さえ落とせない“出産予定児”にすぎないが」
「出産予定児だと……? ふざけんな、桜はそんな得体の知れないヤツを産ませられるっていうのか……!」
「いいや。間桐桜が正しく作られた聖杯ならば、たしかに彼女の肉体からソレは現れるだろう。
だが彼女は特別だ。
アレは門である間桐桜を侵食し、門そのものになろうとしている」
「己が誕生。無から有に至るため、彼女に自身の力を受け渡す事で、この世に存《う》在まれようとしているのだ。
もとより肉体を持たない“力”だ。人間として肉を持つ必要はない。誰かがその力を継承するだけで、それはこの世《よ》界に存在する事になる」
「聖杯の中身が漏れているのではない。
アレは、間桐桜に浸透する事で誕生しようとしている魔だ。
故に―――あの“黒い影”は聖杯の中身などではない。
アレは既に間桐桜そのものだ。
寄り代《マスター》への侵食……間桐桜に力の継承が済んでしまえば、彼女自身があの影に変貌する」
「――――――――」
……待て。
……ちょっと待ってくれ、言峰。
そんなコト言われても、うまく、考えを纏められない。
「もとより不完全な聖杯。
……いや、前回の戦いで汚染された聖杯を使用した時点で、彼女はとうに契約していたのだ。
アインツベルンが作った聖杯ならばこのような事にはならなかっただろう。聖杯の中身は呪いに満ちていただろうが、それと適合するだけの依り代ではないのだからな」
「――――――――」
黙れ。
だいたい話が長いんだおまえは。
もっと単純に言えばいい。
例えば、あの影は桜の無意識なんかじゃない。
臓硯はそう言ってやがったが、あの影が人を襲っていたのは、もとからそういう力《ヤツ》だからだ。
桜は。
桜本人が、望んだコトなんかじゃない。
「聖杯の中で渦巻く呪い。これに適合する聖杯でなければ、あのように呪いがカタチを得る事などなかっただろう。
聖杯の中にいるモノは、自身を確かなカタチに“象《かたち》どれる”依り代と繋がってしまった。
通常の聖杯……アインツベルン製の黄金や、魔術師の肉体を使った青銅の聖杯ならば象にはならず、不確かなカタチになっていただろう。なにしろ質量を持つほどの呪いだ。場合によっては、ただ増殖するだけの肉の塊になるやもしれん」
「――――――――」
だからそんな、俺たちに関係のない話はいい。
結論を言え。
結論を知れ。
俺はあの影を倒せば助けられると思った。
桜が聖杯に変わりきる前に、黒い影を倒してしまえば助けられると。
だが――――あの影が桜そのものだというのなら、それは。
「呪いは間桐桜という依り代を得た。
なにしろ前回の戦いでこの世に漏れた“触覚”を体に埋め込まれ、魔術回路として育てられた人間だ。間桐桜が聖杯として門を開けば開くほど、中にいるモノと一体化していくだろう。
だが安心しろ。
間桐桜に理性があるかぎり、影は影にすぎない。
いかに呪いが間桐桜を汚染しようと、命令権は彼女にある。彼女が聖杯として門を閉じようとするかぎり、中のモノは間桐桜に宿るだけで、完全には外に出られない」
「マスターとサーヴァントの関係と同じだ。
マスターである間桐桜が許さない限り、サーヴァントである“呪い”はその力を行使できない。どれほど圧倒的な力を持とうと、この主従関係だけは覆せない。
“呪い”がその殺人嗜好《ほうこうせい》を遺憾なく発揮するには、間桐桜の理性が邪魔だ」
「間桐桜が“呪い”を自らの一部として受け入れるか、それとも“呪い”の魔力量に耐え切れず理性が崩壊するか。そのいずれかを以って、間桐桜が孕んだ闇は誕生する。
彼女は既にあの影そのものだ。もはや聖杯戦争が終わったところで、彼女を元に戻す事はできん」
「――――――――」
それは。
あの影を倒して、その死体を確認した時。
黒い影の下から、桜の体が現れるという事だ――――
「は―――― 、あ」
心臓が、止まるかと思った。
強く、肉を抉るほど胸を押さえて、消えかけていた呼吸を再開させる。
「――――じゃあ。桜を、このまま生かすって事は」
「あの黒い影を羽化させる、という事だ。いずれ彼女の精神は死に、その時こそ地獄が具現する。
いや、あのままでは肉体が耐えられぬと思ったが、よくやったな衛宮士郎。おまえのおかげで、間桐桜はいまだ聖杯として機能している」
「――――!」
「おまえ―――おまえは、桜を化け物にしたいのか……!」
「無論だ。アレがなんであれ誕生する意思があるかぎり、生まれ出ようとするモノを止める事はできない。
そして間違えるな衛宮士郎。
おまえはアレを化け物と言うのか。まだこの世に現れてもいないものを化け物と?」
「当然だろう……! あの影は悪魔だ。今だって際限なく人を殺しまくる悪魔じゃないか……!」
「早計だな。善悪など、所詮発生した後に我々が決める事にすぎん。まだ有りもしないモノを否定する事は誰にもできない。
それともなにか? おまえは犯罪者の息子は間違いなく犯罪者になるとでも言うのか? それ故に、生まれる前に殺してしまえと?」
「な――――」
なにを、馬鹿な。
もとからアレは“人を殺す”ものだろう。
実際、あの影は人を殺しているじゃないか――――!
「それが間違いだ。あの影は間桐桜という依り代から象った影にすぎん。聖杯より生まれ出でようとするものはアレとは違う何かだ。
あの影は間桐桜を使い、誕生の為に人々の命を吸っているにすぎん。ただ生きる事を欲する乳飲《ちの》み子と同じだ。
無意識である以上、アレの行いに善悪は問えん」
「馬鹿を言うな、実際人が死んでるんだぞ!?」
「そうだな。故に罪も罰も与えられるべきだろう。だがそれはソレが誕生してからの話だ。まだ誰にもアレを否定する事はできん。
孵らざるもの、いまだ世に罪科を問われぬものを、排斥する事はできない」
「よいか。明確な悪の定義など人の世には存在しない。
だが―――それでも、この世に悪があるとするのなら。
生まれようとするモノを止める事こそが、絶対の悪ではないか?」
「――――――――」
……言葉を飲み込む。
桜を“聖杯の中身”に変貌させる……いや、そうなる事を否定しない、という言峰の言い分を許したワケじゃない。
ただ、今はこいつを糾弾したところで何が変わるワケでもなく、桜が助かるワケでもない。
「―――言峰。アンタの目的は、桜が聖杯に変わる事か」
敵意を込めて問う。
それは宣戦布告にしては遅すぎる、お互いの立場を明確にする為の問い。
「その為に間桐桜を助けた、と言った。ソレが生まれるというのであれば、私はソレを祝福するだけだ。
おまえが間桐桜を擁護するように、私はその胎児を擁護しよう」
「―――そうか。それは、俺たちの敵って事か」
「無論だ。だが、私は間桐桜の命が欲しい訳ではないし、間桐臓硯のように聖杯の力が欲しい訳でもない。
聖杯の中にあるモノ。それが生命として誕生した時のみ、ソレを擁護する。出産の前に間桐桜《ぼたい》が子を拒むのであらば、そちらの意思を尊重しよう」
……言峰の言葉に嘘はない。
この神父は聖杯戦争の勝敗などどうでもいいのだ。
欲しているのはその結果。
俺たちと臓硯―――そのどちらかが残って、その後に現れるモノがただ見たいだけ。
桜に無理強いさせて“変貌”させる気などない。
こいつは、俺たちの力が及ばず桜が変貌してしまった時のみ、変わってしまった桜を助けると言っている。
「……わかった。アンタが傍観に徹するんなら俺も手は出さない。理由はどうあれ、アンタは桜を助けてくれた。
……今は、それだけで充分だ」
「そうか。私が助けたのは母体だが、そう取るのなら口出しはせん。
さて、おまえの用件はこれだけかな。ならば間桐桜の元に帰るがいい。あまり一人にしていい状況ではないだろう」
「………………」
桜の体―――いや、心を気遣って神父は言う。
はっきりと敵対関係になったっていうのに、こいつは相変わらず敵か味方か判らない。
「――――いや。もう一つだけ訊きたい。
……たぶん、これがアンタに訊く最後の質問になる」
「ほう。最後ならば無碍にはできんな。いいだろう、訊こう」
「――――言峰。桜は、助けられるのか」
……空気が変わる。
神父は、身に纏った重圧を更に増して、敵である俺に助言をした。
「手はある。だが半々というところだ。
聖杯として完成すれば、間桐桜という人格は消え去るだろう。だが、聖杯が放つ“力”に彼女の精神が少しでも耐えられるのなら―――その僅かな時間が希望になる」
「おそらく、保《も》って数秒。
その合間に聖杯を制御し、その力を以って彼女の内部に巣食うものを排除する。
要は力ずくだ。間桐桜を聖杯に仕立て上げる刻印虫も、彼女の肉体を依り代にするモノも、聖杯の力で『殺して』しまえばよい。
汚染されたとは言え、聖杯は願望機としての機能を保っている。その用途が『殺害』に関する事ならば、それこそ殺せぬ命はない」
「――――結局聖杯《それ》か。初めから、この戦いは」
「そう、聖杯を手に入れる事に集約される。
だが注意しろ。聖杯の力を聖杯そのものに向けるのだ。
並大抵の魔術師では魔力を制御できず、しくじれば十年前の惨劇を繰り返す事になる。
それだけではない。わずか数秒で聖杯を制御するなど狂気の沙汰だ。おまえ一人では、どうあっても成しえない奇跡だぞ」
「……ふん。けどそれしかないんだろう。ならやってやるさ。それにそういう事なら、こっちだって少しはアテがある」
「なるほど、おまえには凛がいたな。
凛は間桐桜の姉だ。妹の精神に同調し、聖杯からの反動を和らげる事も容易だろう。
もっとも、そんな馬鹿げた賭けに凛《あれ》が賛同するとは思えないが」
「――――――――」
……そりゃもっともだ。
帰ったらまずいの一番に、遠坂を説得して方針を変えさせなきゃいけない。
「いいさ、そんなのはこっちの苦労だ。
じゃ、あばよ。癪だけど世話になった。アンタの言い分は認めないけど、礼は言っとく」
「待て。質問に答えたのだ、私からも一つ訊きたい事がある」
「――――――――」
去ろうとした足を止める。
……気に食わないが、それでこの借りが帳消しになるなら安いものだ。
「なんだよ。最後にするって言ったのはアンタだろ。手短に済ませてくれ」
「なに。万が一、今の方法で間桐桜を救えたとしよう。
だが、おまえはそれでいいのかな衛宮士郎。間桐桜が聖杯でなくなったとしても、彼女が既に“人食い”である事に変わりはない。その罪人を、おまえは擁護するというのか?」
「――――――――」
止まった。
今度こそ、心臓が凍りついた。
「耐えられぬのはおまえだけではない。
彼女は多くの人間を殺した。間桐桜自身、そのような自分を容認できるとは思えんが」
「――――――それは」
「罪を犯し、償えぬまま生き続けるのは辛かろう。ならば一思いに殺してやった方が幸せなのではないか?
その方が楽であり、奪われた者たちへの謝罪にもなる」
「――――――――」
……そうだ。
連鎖はそれで終わる。
本人の意思でなかろうと関係ない。
どんな理由があろうと、加害者は罰せられなくてはならない。
命を奪ったのなら―――それと等価のモノを返さなければ、奪われた者は静まらない。
だから殺せと。
失われた者にすまないという気持ちがあるのなら、当事者である桜を殺せと、あらゆる常識が訴え続ける。
それだけじゃない。
結局桜を救えず、桜が聖杯になってしまえば、もう歯止めは効かなくなる。
今よりもっと、何十倍もの命が失われる。
あの日と同じ。
無関係な人間が、死の意味も判らぬまま、一方的に死んでいくのだ。
せり上がった胃液を飲み下す。
充血する眼。
眼球から血液さえこぼれだしそう。
―――その圧迫を、それこそ、何千という剣で切り殺して、
「――――ああ。けど、それは償いじゃない」
それでも、桜を守ると告白した。
「―――そうか。衛宮切嗣の跡は継がないという訳か」
淡々とした声。
神父は失望したように、つまらなげに俺を見る。
「切嗣《オヤジ》の、跡だと……?」
「そうだ。おまえの父親は、人間を愛していた。
より高く、より遠く、より広く。際限なく自らの限界を切り開く人間を愛し、その為に、自身を絶対の悪とした。
あの男ならば――――やはり、間桐桜を殺していただろう。ヤツは正義とやらの為に、人間らしい感情を切り捨てた男だからな」
「……それは、アンタとは違うのか。
正義の為に―――多くの幸福の為に、一人の人間の幸福を切り捨てると」
「―――いや。おまえたちが幸福と呼ぶものでは、私に喜びを与えなかった」
「え……?」
返答になっていない。
いや、そもそも。
淡々と語る神父は、俺を見てさえいなかった。
「そう、違ったな。
ヤツは初めからあったモノを切り捨て、私には初めから、切り捨てられるモノがなかった。
結果は同じながら、その過程があまりにも違ったのだ。
ヤツの存在はあまりにも不愉快だった。ヤツの苦悩は明らかに不快だった。
そこまでして切り捨てるというのなら、初めから持たねばよい。だというのにヤツは苦悩を持ち、切り捨てた後でさえ拾い上げた。それが人間の正しい営みだというように」
「その違いこそが決定的だった。そう。初めから持ち得ないのなら。何故、私はこの世に生を受けたのか」
神父の独白は、誰に宛てられたものでもない。
……ただ、今の言葉には怒りがあった。
この男にはないと思っていた、本当の感情が込められていた。
「……ふん。それを思えば、おまえに切嗣の跡など継げる筈もなかった。ヤツは切り捨てる事で実行したが、おまえは両立する事しか実行できない。
おまえと私は似ている。
おまえは一度死に、蘇生する時に故障した。後天的ではあるが、私と同じ“生まれついての欠陥品”だ」
「な……故障って、どこが壊れてるっていうんだ」
「気付いていないだけだ。
おまえには自分という概念がない。だがそのおまえが、まさか一つの命に拘《こだわ》るとはな。いや、それとも―――」
多くの命に拘る、のではなく。
一つの命に拘るが如く、全ての命に拘ったのか。
――――そう。
どこか羨むように、言峰綺礼は独白した。
「―――まあいい。その上で間桐桜だけを救うのなら止めはしない。背負いたいだけ罪業を背負うがいい。
最後に忠告をしよう。
どのようなカタチであれ間桐桜を救いたいのであらば、間桐臓硯を殺す事だ。ヤツは間桐桜の精神が消え去った後、空になった肉体に乗り移る。そうなっては、間桐桜を取り戻す事もできなくなる」
「の―――乗り移るって、桜に、臓硯が!?」
「そうだ。アレの本体は人体に寄生する蟲だからな。魂の容器にあたる脳虫が何処に潜んでいるかは知れんが、ソレが生きている限り人体の乗っ取りは容易い。
間桐臓硯はある意味不老不死だ。魂を世に留めている手のひらほどの本体《むし》を探し出すか、魂そのものを浄化させなければ完全には滅ぼせん」
「―――そうか。逆にスッキリしたよ。どのみち、臓硯は倒さなくちゃいけないって事なんだからな」
「フッ。なるほど、確かに判り易いな。
間桐臓硯を倒し、間桐桜を勝者にする。その後に現れる聖杯を制御し、間桐桜の身体を洗浄する。方針としてはそんなところか」
癪だが、ああ、と頷いた。
言峰の言う通り、方針はシンプルな方がいい。
「これは私見だがな。間桐桜の精神は存外に強く、聖杯の“呪い”に適合しすぎている。
凛が陽性だとしたらアレは陰性なのだろう。間桐臓硯に落ち度があったとしたらそこだ。あの黒い影は、臓硯の予想を超えて間桐桜を成長させてしまった。臓硯《アレ》がおまえに手を出してきたのはその為だろう」
「―――間桐桜を守るがいい。
羽化に耐えられるのであらば、母胎とて死にはすまい」
言葉は返さず、頷くだけで応える。
言峰の目的は桜の変貌だ。
だが、それでも臓硯に比べれば幾分マシだ。
「言っとくが、アンタの出番はない。そんな得体の知れないモノを羽化なんてさせるものか」
「その意気だ。決して、臓硯にだけは手渡すな」
ふん、と鼻を鳴らして背を向ける。
―――この場所に用はない。
早く、桜の元に帰らないと。
◇◇◇
「――――――――え?」
屋敷に戻って、一番初めに感じたのは悪寒だった。
何がおかしい訳でもなく、何か危険なモノが混ざっているのでもない。
ただ漠然と、嫌な予感が背中を掠めた。
居間には誰もいない。
イリヤは和室で眠っている。
遠坂は客間で投影の準備をしている。
桜は――――
「桜。入るぞ」
声をかけてドアノブに手を置く。
―――ひやり、と背に冷たい違和感。
嫌な予感、何か欠けている、という虫の報せを振り払って、ドアを開けた。
「桜」
「っ……!」
一瞬、ライダーの姿が見え、幻のように掻き消えた。
その後ろ。
桜が眠っている筈のベッドには、誰の姿も見当たらなかった。
「――――っ」
電灯が点けられた。
「な――――」
不意打ちに視線を泳がす。
「お帰りなさい。何処に行ってたかは訊かないけど、随分と遅かったわね」
「遠坂……? これは一体――――」
「見れば判るでしょう。桜は一人で外に出て行って、わたしはさっきまでライダーに睨まれてたのよ。
……彼女、貴方には手を出さないよう命じられているんでしょうね。士郎が入ってきた途端、霊体化して外に逃げていったわ」
「な――――」
遠坂の声は落ち着いていた。
……いや、違う。
これは落ち着いた声じゃない。
淡々とした口調は、もう、何かを諦めて容認したような、そんな冷たさがあった。
「――――遠坂。桜が、出て行ったって」
「本当よ。貴方が出て行く前から居なかったようだから、もう二時間は経つわ。
あんな体で何をする気かは知らないけど、わたしたちの言い付けは聞けないって事でしょうね。探しに行こうとしたわたしをライダーで止めるぐらいなんだから、後ろめたい事でもあるんでしょ」
「ば―――馬鹿なこと言うな……! 桜が俺たちに隠し事をしてる、なん、て――――」
あるものか、とは言えなかった。
……桜の悪夢。
日に日に壊れていく体を桜がどう思っていたかなんて、俺に解る筈もない。
「と、とにかく連れ戻さないと……! あんな状態の桜を一人にしたら、それこそ」
「犠牲者が出るかもね。学校でわたしを襲った時みたいに、目に付いた人から魔力を奪いかねないわ。
だって、ほら。昨夜、あの影に襲われた人がいなかったでしょう。きっと空腹なのよ、あの子」
「――――――――――――遠坂」
わずかに視線を逸らして、遠坂は言葉を飲む。
その眼が。
“もういいでしょう、士郎”と、一つの終わりを訴えていた。
「遠坂、おまえ」
「桜を探すのはいい。わたしも賛成よ。
けど―――見つけ出して、あの子の姿を見た時。桜がもう桜じゃなかったら、やるべき事は判ってるわね」
「―――そんな事はない。桜は、桜のままだ」
「正気? もう限界だって判らないの? いいかげん諦めなさい士郎。これ以上桜を庇ったら、まずまっさきに貴方が死――――」
「つまらない憶測は後だ。今は桜を見つけて連れ戻すだけだろう。……その後で納得いくまで言い合ってやるから、今は黙ってろってんだ……!」
「ちょっ、待ちなさい士郎――――!」
廊下を走る。
桜が何処にいったのか、考えている余裕はない。
“――――もういいでしょう、士郎” そう告げた遠坂を否定するように、ただ全力で外に向かう。
「シロウ。サクラを探しに行くの?」
「――――」
と。
玄関に手をかけた俺の背中に、予想外の声がかけられた。
……いつの間にやってきていたのか。
イリヤは遠く、まるで壁があるように、離れた場所から俺を見ていた。
「……イリヤ」
「答えてシロウ。サクラを探しに行くの?」
「――――――――」
無言で頷く。
イリヤの声は張り詰めていた。
遠坂とは違う諦め。……同じ聖杯だからこそ、イリヤには桜がどんな状態なのか感じ取れるのか。
「そう。けどシロウ。サクラが一人で外に出たのは、シロウに見られたくなかったからだよ。サクラはシロウを守る為に、怖いけど、死にたくないけど、聖杯である自分自身に決着をつけにいったの。
シロウが好きだったサクラはもういないわ。サクラは自分を消すために、一人でここから出て行ったんだから」
「――――――――」
まっすぐなイリヤの目。
それを見つめ返して、迷いなく首を振った。
そんな事はさせない。
桜が桜でなくなっていようと、俺がする事は一つだけなんだから。
「……そう。けどシロウ。わたしもサクラも、自分の中にもう一つの自分を持っている。それはきっとシロウが知ってるわたしじゃないし、シロウが想ってるサクラとは違うんだよ。
サクラは戻らない。変わってしまったサクラはもう別人にすぎない。
それでも―――サクラを殺すのはイヤなの、シロウ?」
静かな問いかけ。
イリヤは言う。
聖杯など、所詮作られたもの。
壊れる事を前提に作られたのだから、壊す事に躊躇する必要はない、と。
俺にはそれが、イリヤという名を、サクラという響きに置き換えたものに聞こえた。
「シロウ、もう一度だけ訊くわ。
それでも―――貴方は、サクラを探しに行くの?」
「………………」
その問いにどれだけの想いが込められているのか、俺には知る由もない。
だから素直に、自分の選んだ道を告げた。
「ああ、探しに行く。俺にとって、桜はどうあっても桜なんだ。それはイリヤも同じだろ。もしイリヤが聖杯なんて訳の分からないモノになっても、イリヤはイリヤだ」
「……たとえ、どんなに変わり果ててしまっても。
その中にイリヤがいるなら、それは、俺の知ってるイリヤだと思う」
「――――」
「難しい事は、正直よくわからない。俺にはそれだけだ」
玄関に手をかける。
「……ゾウケンのところよ。サクラが行くとしたら、そこ以外ありえないわ」
背中越しに声がする。
「わかった。イリヤはうちで待機しててくれ。桜を連れて、すぐ帰ってくる」
玄関を後にする。
廊下にはいつまでも、遠くを見るように佇むイリヤの姿があった。
間桐邸に着く。
呼吸は乱れていない。
朝から走り詰めで疲れているだろうに、体は一向に不備を訴えない。
「……開い、てる」
呼び鈴を押そうとした指が止まった。
……誰かが入っていったのか、それとも出ていったのか。
玄関の扉は半開きになっており、中は恐ろしいほど静かだった。
人の気配がない。
間桐邸は昨日以上に陰鬱としている。
一階には誰もいない。
自分の足音だけが廊下に響く。
ギシギシと音をたてて、二階への階段に足をかける。
二階には誰もいない。
踊り場の天窓から空が見える。
階段を上がった時点で、二階には生きた人間がいないと感じ取れた。
一階に戻ろうとした足を止める。
生きた人間。
その違和感が、ドアが開きかけた部屋に向かわせた。
――――桜の部屋だ。
以前、一度だけ見たコトがある。
中に入ったコトはない。
慎二に案内されて来た時、桜が顔を真っ赤にして俺たちを外に押し出したからだ。
たしかあれは二年前か。
何も変わっていない。
女の子らしい部屋。桜らしい飾り気のない部屋。
そこに、
「――――慎二」
ベッドに横たわる、間桐慎二の死体があった。
◇◇◇
「慎二」
ベッドには慎二の死体がある。
それ以外には何もない。
ここで何があったのか。
そんな事、読み取れる筈もないのに、
「――――桜」
慎二を手にかけたのが、彼女だと判ってしまった。
「……………………」
考えがまとまらない。
慎二の死体。
桜の行方。
昨日の夜から。桜を抱きしめた夜から半日も経っていないというのに、どうして、こんな、事に。
『おや。誰かと思えば衛宮の小倅か。
よく来たと言いたいところだが、少しばかり遅かったようじゃな』
「――――!」
突然の声に振り返る。
「っ……!」
背後には誰もいない。
この屋敷に人がいない事は判っている。
いま響いたものは、ここではない何処かにいる臓硯の声にすぎない。
「臓硯……! おまえ、桜に何をした……!」
『何もしておらぬ。見ての通り、不肖の孫が妹に手を出し、返り討ちにあっただけよ。別段騒ぎ立てるほどの事でもない。
だが―――うむ、不肖の孫と呼ぶのもこれ限りじゃな。
使えぬ男ではあったが、最後にはきっちりと役目を果たしてくれた』
呵々と笑う。
老魔術師の姿は見えなくとも、その面が醜悪に歪んでいる事だけは明白だ。
「慎二の役目、だと……?」
『応よ。桜をその気にさせるのはワシでは出来ぬ。ワシはちと、アレに嫌われすぎてしまったからな。おぬしか慎二、どちらかにアレを壊してもらわねばならなかった。
桜が自らの影を受け入れるには、この世に絶望して貰わねばならなかったからのう』
「――――な」
『いやはや、これはワシの過ちじゃ。アレの精神力を甘くみておった。簡単に壊れるかと思ったが、アレは決して自分から壊れはしない。
長く責めるのも考え物じゃな。アレがあそこまで我慢強く育つとは思わなんだ』
「――――――――、て」
神経が凝縮する。
俺は―――こいつの戯言の中身を理解するより早く、強く右拳を握り締め、瞬時に魔術回路を開き、
『いや、欲を言えばおぬしの手で桜を裏切ってほしかったのだぞ? それならばあのように半端な覚醒では留まらず、心身ともに影そのものに変わり果てたであろうに!
だがまあ、それも時間の問題よな。
慎二の死をもって、アレはようやく自分の立場を受け入れた。あとは見ているだけでよい。アレは本能の赴くままに人を食い、その暴食故に自滅する。
ワシの仕事はその後というコ――――』
殴った。
声のする闇、ただの壁にすぎない物を、全力で殴りつけた。
無意識ながらも、ありったけの魔力を込めた一撃は壁に魔力を通し、部屋に染み付いた闇を払拭する。
『おお、これは怖い。監視役にと残した蟲どもが軒並み潰れおったわ。はは、これではすぐに声すら届かなくなるな』「――――うるせえ、出て来い臓硯……! ここで八つ裂きにしてやる……!」
『いやいや、残念だがそういう訳にもいかぬ。マキリ五百年の宿願に、ようやく手が届いたのだ。
ここでおぬしに殺される訳にもいかぬし、おぬしを仕留めるほど恩知らずでもないのでな』
「恩知らずだと……? ふざけるな、誰がおまえに尻尾を振った……!」
『振ったとも。おぬしはあそこまで桜を育ててくれたではないか。何事にも耐えるだけだったあの娘に、他者を欲するという欲望を教え込んだのはおぬしよ。
そう、ワシは感謝しておるよ衛宮士郎。此度の儀はおぬしがいてこその成功だった。
故に殺しはせん。おぬしには、見事成長したアレの姿を見てもらわねばならぬからのぅ……!』
「っ―――臓、硯」
『呵々、もはや誰にも止められぬ。兄を殺したアレはもはや立ち止まる事などできぬ。
アインツベルンの聖杯。あの小娘が取り込んだアーチャーの魂を取り込み、門に至る鍵を奪う。
さすれば詰みだ。我がマキリの悲願、第三法の再現がついに、ついに果たされるのみよ……!』
耳障りな哄笑が響く。
俺は――――
「――――――――」
待て。
アインツベルンの聖杯を、奪うだって……?
「――――!」
走りだす。
部屋に響きわたる臓硯の笑いなどどうでもいい。
どうせこの場にはおらず、安全な場所から俺たちを見下しているヤツだ。
今はそんな、ふざけた年寄りの戯言より――――
『そうだ、急ぐがよい衛宮士郎!
既に桜は黒化しておる、イリヤスフィールを捕らえれば容赦なく飲み下すぞ……!』「っ――――!」
足よ千切れよ、とばかりに地面を蹴る。
「イリヤ、無事で――――!」
屋敷まで全力で走って二十分。
灰色の空を睨みながら、一心にイリヤの元へと駆け抜けた。
◇◇◇
少女は空を見上げている。
灰色の陽射しは少女の銀髪を曇らせ、赤い瞳に影を落としていた。
「……そうね。シロウが帰ってきたら、言わなくっちゃ」
誰に語るでもなく、銀髪の少女《イリヤスフィール》は独白する。
衛宮邸は静かだった。
士郎も凛も桜を捜しに行った。
ライダーは当然のように姿を現さず、屋敷にはイリヤしかいない。
「―――大空洞《テンノサカズキ》。二百年前に作られた、一番初めの約束の土地。この感じじゃ、もう起動が始まってる」
冬木の町で行われる聖杯戦争はこれで五度目。
聖杯を降ろす場所は毎回違ったけれど、今回は初まりの場所に還ってきた。
それも当然だ。
この土地にある四方の門を利用し、失敗する度に次の門を利用していく。
一度目は柳洞寺。
二度目は遠坂邸。
三度目は丘の教会。
四度目はあの焼け野原。
となれば、今回の降霊は一度目の土地に戻る。
初まりの土地。
聖杯戦争という儀式《ルール》を作り上げている、あの偽りの理想郷に。
「――――英霊の魂で満ち足りた聖杯。
それを以って門を開くのが彼らが目指した奇跡だけど……まさか、開けてもいないのに中に棲んでしまうモノがでるなんて」
滑稽ね、とイリヤは呟く。
こうなってはアインツベルンの悲願も何もない。
彼らは失敗した。
これから起きること、これから生まれるものは彼らが望んだものとはかけ離れた“災厄”である。
「……放っておけばいい。わたしの役目は開ける事だもの。閉じろなんてコト、誰もわたしに言わなかった」
それに、今から調停に赴いたところで閉じられる筈がない。
聖杯としての能力は、いまや間桐桜が勝っている。
マキリの聖杯が開いた門は、アインツベルンの聖杯では手が出せない。
間桐臓硯は同じモノを開いたつもりで違うモノを開いたのだ。
それを理解しているのは聖杯である少女と、同じく聖杯に変えられた間桐桜だけ。
「―――間に合うかな、シロウ。シロウが間に合うなら、一緒に、どこか遠くに逃げてもいいけど」
ぼんやりと空を見上げる。
少女は迷っていた。
自身に課せられた責務と、自身に生まれた欲求のどちらを選ぶべきか迷っている。
「でもねシロウ。どっちにしたって、死んじゃうコトに変わりはないんだよ」
結果は同じ。
聖杯として門に向かっても、このまま逃げても死ぬだけだ。
なら―――自分の本当はどちらなのだろう、と少女は灰色の空に問いかけ続ける。
“――――――――” だから気がつかない。
玄関をくぐり、「ただいま」と声をかけて帰ってきた人影に。
衛宮邸に張られた結界をすり抜けたのか、それとも結界は彼女を“侵入者”とみなさなかったのか。
“――――――――” ゆっくりと。
足音も立てず、居間から中庭に移動した彼女は、中庭で佇む少女の肩に、ゆっくりと手を、
「―――随分遅いお帰りね、桜。今まで何処に行ってたの」
「――――姉、さん」
侵入者――――間桐桜の腕が止まる。
彼女は目の前のイリヤから視線を外し、中庭で待っていた遠坂凛だけを見た。
「イリヤから離れなさい。それ以上近づいたら容赦なく撃ち抜くわ」
それが脅しではない事は、この場にいる全員が判っている。
「――――無駄なコトなのに。まあ、それでリンの気が済むならいいけど」
驚いた様子もなくイリヤスフィールは歩き出す。
少女は間桐桜と遠坂凛―――二人の対峙を傍観するように、中庭の端まで歩いていった。
「……そう。初めからここで待っていたんですね、姉さん。わたしがイリヤちゃんを誘いに来ると読んでたんだ」
「まあね。わたしには士郎と違って、アンタを助ける理由がないもの。いよいよとなったらイリヤを攫《さら》いに来るのは明白でしょ。そうでなくても一度前科があるんだから、イリヤを見張るのは当然よ」
士郎、という響きに桜の眉が揺れる。
不愉快だ、と。
以前の彼女を知る者なら目を疑うほどの、それは露骨な嫌悪だった。
「……ひどいな。姉さんはいつもそう。そうやって極め付けて、わたしを馬鹿にするんです。自分は綺麗だからって、汚れたわたしを見下している。
……ほんとうにいやな人。ねえ、姉さん。わたし、そんなに悪い子ですか?」
感情のない声。
それ故に寒気のする質問に、
「あったりまえじゃない。この家を出た時点で救いきれない大馬鹿よ。アンタは間桐桜を守りたがってたヤツを、最後まで信じてやらなかったんだから」
きっぱりと、遠坂凛は断言する。
「ぁ――――――――」
間桐桜の視線が下がる。
その事実だけは、本当に間違いだったと認めるように。
「でも、わたしは」
「それが最良だと思った、なんて言わないで。わたしたちは外に出るなって言ったのよ。それに異論があったならまず相談しろっていうのよ。
なのにアンタは黙って出て行った。一人きりで、今までとまったく同じ失敗を繰り返した。
本当に呆れたわ。そんな事も守れないから、他人にいいようにつけこまれるのよ、アンタは」
「……そうですね。確かに、今まではそうでした。
けど姉さん。わたし、もう弱くなんてありません。これからは、姉さんが家に籠もっていてください。先輩は、わたしが守りますから」
冷め切った視線と、零れ落ちる不吉な影。
「――――――――っ」
それが予想通りのモノと看破し、遠坂凛は僅かに後退してしまった。
――――その焦りが。
間桐桜を後押しする、最後の一手だったと気付かずに。
「……どうしたんですか姉さん。そんなふうに背中をまるめてると、まるで、わたしに怯えているように見えますよ?」
「――――――――」
しまった、と舌打ちした時には手遅れだった。
……いや。
手遅れも何もない。
そもそも間桐桜がイリヤスフィールに手を伸ばした時点で、もう、何もかもが手遅れだった。
「……そう。もう部屋で大人しくしている気はないってコト?」
「ええ。姉さんの言うことなんて、もう聞く必要なんてない」
「――――だって。わたしのほうが強いもの」
影が躍る。
間桐桜の足元から、夥しいまでの黒色が中庭を蹂躙していく。
その、重油じみた影の中から「――――桜、アンタ」
黒く汚染された剣の騎士が這い上がる。
「セイバー、聖杯を捕まえて。抵抗するようなら多少の乱暴は構わないから」
「――――――――」
黒いセイバーは無言で従う。
……もう疑う余地はない。
あの影が何であるか。
あの影に飲まれたサーヴァントがどのような末路を辿るのかを目の当たりにし、遠坂凛は唇を噛む。
その、瞬間。
「!」
「っ、は――――!」
一欠けらの容赦もない一撃、
遠坂凛の魔力を遥かに凌駕した影《モノ》が放たれた……!
「っ…………!」
転がるように着地する。
放たれた影は、あの“黒い影”と同位のものだ。
触れればそれで終わる。
一度でも掠《かす》れば肌に張り付き、瞬く間に遠坂凛を覆い尽くす。
――――その果て。
サーヴァントでさえ脱出できない影に飲まれれば、遠坂凛という魔術回路は抵抗さえ出来ずに吸収される。
「く、この……!」
矢継ぎ早に繰り出される影の触手。
それが“黒い影”による物ではなく、間桐桜が保有する“魔術”なのだと凛は悟る。
間桐の魔術は他者を律する束縛だ。
だが、もともと桜は遠坂の人間―――架空元素、虚数を起源とする影使い。
その二つの属性を持つ間桐桜だからこそ、あの“黒い影”をあそこまで具現化できる――――!
「っ……!!!!」
容易く追い詰められる。
もとより魔力の絶対量が違いすぎる。
今の桜の魔力は無尽蔵だ。
その貯蔵量は億に届く。
貯蔵量が三百ほどの凛から見れば、今の桜は底なしの“怪物”だった。
サーヴァント中最大の魔力量を誇るセイバーを操り、“黒い影”を自在に操る。
……そんな規格外の魔術師、サーヴァントを以ってしても打倒しうるかどうか。
「…………まず。魔術自体は単純だけど、とにかく量が違いすぎる――――」
肩で息をしながら変貌した桜を見据える。
……勝ち目などないし、逃げ道すらない。
仮に、今の桜―――つまり聖杯と同位の魔力の供給源があれば話は違うのだが、そんなものは出来ていない。
「……と言っても。魔力の供給源としちゃあ、この世界で聖杯と同レベルの物なんてないんだけど」
ふう、と焦燥を愚痴で抑える。
「あ、ダメよ姉さん。そんなところで立ち止まったら、危ないじゃないですか」
躊躇いもなく、桜はその掌を凛に向ける。
そこに容赦はない。
間桐桜は絶対的な優勢に唇を歪め、
「さあ――――もっと遊びましょう姉さん。
最後には捕まってしまうでしょうけど、それまで可愛く逃げてくださいね?」
そう、最愛の姉に微笑みかけた。
間桐桜の言葉通り、結果は判りきっていた。
彼女の“影”からは逃げられない。
その気になれば一息のうちに中庭はおろか屋敷の全てを覆い尽くせるのだ。
少しずつ“影”の範囲を広げていく桜に、凛は成す術もなく敗北した。
「っ――――ぁ、あ――――………………」
黒い影が遠坂凛を包み込む。
ゲル状の泥は凛の体を束縛し、圧迫し、恥知らずにも、数多の舌となって体内の魔術回路に侵入する。
「なぁんだ、そこまでですか? 思っていたほど強くないんですね、姉さんは」
楽しげに囚われの姉を見下ろす。
―――荒い呼吸と上気した頬。
重油に塗りたくられた姉の姿は、同じ女性である桜から見てもそそるものがある。
「っ――――さく、ら――――」
その苦しみを愉しむ為か、顔は黒い泥に覆われてはいなかった。
「っ――――こ、の―――――……………………」
侮辱をかみ殺しながら、凛は桜を睨み返す。
だがそれも数秒。
体中をかき回す泥は、凛の内臓をドロドロに犯していく。
「くっ……! っ、んあ、は――――、…………」
「ふふ。それじゃ戴きますね。これ、楽しみだったんです。魔術師から魔力を食べるのは初めてだから」
ゲル状の影が遠坂凛を締め付ける。
『食事』は、それこそ秒もかからなかった。
「あ………、っ、ん――――――」
「……美味しい……満腹にはほど遠いけど、少しは足しになりました、姉さん」
遠坂凛に残っていた魔力が消える。
それで事は終わりだ。
ぐったりと頭《こうべ》をたれ、苦しげに吐息を漏らす凛に抵抗する力はない。
抵抗する術はないのだが――――
「――――それだけじゃ駄目だ。ここで殺しておかないと、次は、わたしが」
姉さんに負けてしまう。
……根拠はない。
この実力差はどうあっても覆らない。
それでも―――次に戦えば、きっと自分が殺されると桜は確信する。
だからここで殺しておかないと。
魔力を奪って無力化したぐらいじゃ甘い。
遠坂凛がそうするように、自分も、ここで手を下さねばならない。
そう、震える自分に言い聞かせ、掌を広げる。
「っ――――姉さん、ここで」
影は伸びない。
彼女はふるふると肩を揺らし、衰弱しきった姉を見つめ、
「桜――――!!!!!!」
一番会いたくない人物に追いつかれた。
◇◇◇
「――――くそ、何が起きてる……!」
庭《そこ》で何か起きている事は明白だった。
吐き気がする陰湿な魔力が、触れられるほどに渦を巻いて外に溢れ出しているのだ。
そんなもの、魔術師でなくとも異常を感じ取れる。
「な――――」
覚悟していたとは言え、一瞬、その光景に目眩がした。
コールタールのような影に覆われた遠坂。
庭の端に佇むイリヤと、イリヤの前に立つ黒いセイバー。
そして、中庭の真ん中で、遠坂に掌を突き出している桜の姿――――
「桜――――!!!!」
中庭に飛び込む。
―――どれもが放っておけないが、今は遠坂が一番危ない。
コールタールに包まれた遠坂は顔面蒼白で、一秒でも早く手当てをしなければ危うく見えた。
「遠坂……! おい、しっかりしろばか……!」
「――――――――」
抱き上げても返事はない。
「く、待ってろ、すぐ剥がしてやるこんなの……!」
遠坂を覆う泥を剥がす。
が、泥は液体のクセに、弾力のあるゴムそのものだった。
掴んでも掴めないし、剥がしてもすぐさま元に戻ってしまう……!
「っ……! なんだこれ、遠坂には触れるのに、どうして……!」
なにをやっても泥は剥がれない。
混乱して、錯乱しそうな頭で遠坂から泥を引き剥がす。
そこへ、
「―――無駄ですよ先輩。わたしの影はわたししか解呪できない。先輩程度の技量じゃ逆に取り込まれてしまいます」
「――――桜?」
俺の知らない、冷め切った声で桜は言った。
「桜――――その、顔」
千々に乱れていた思考が止まる。
……桜の首筋。
そこから何か、刺青のようなものが侵食している。
あれは―――とてもそうは見えないが、令呪だ。
桜の体に、得体の知れない令呪が蠢いている―――
「……驚いたな。よっぽど急いで来たんだ、先輩。
けど、やっぱり慌ててるんですね。兄さんがどうなったのか見てきたのに、わたしを叱らないんだもの」
「っ――――それは、いい。慎二の事は、今は話さなくていい。桜が落ち着いてから、ちゃんと話を聞く」
……そうだ。
今は桜と話をしないと。
臓硯はふざけた事を言ってやがったが、あんなのは嘘だ。
桜は桜のままだ。
こうして、ちゃんと俺と話をして、いつも通り―――
「いいえ。わたしはそんな話はしたくないし、先輩とも話したくない。喋るのはわたしだけでいいんです。
先輩も姉さんも、兄さんも町の人たちも、もう、わたしを叱るコトなんてできないんだから」
「っ――――」
ぞくん、と背中が総毛だった。
いや、今のは寒気なんてもんじゃない。
延髄から尾底骨まで、ぎちり、とナイフで裂かれたような極寒の棘――――
「それより先輩。なんで、姉さんを庇うんですか」
「――――――――」
一瞬、目の前が真っ白になった。
桜の背後に立ち上がる影。
「あ――――」
悪寒は背中ばかりか、全身を恐怖で凍らせていく。
アレは、桜だ。
あの“黒い影”は桜なのだと聞かされてもまだ耐えられた。
だが、こうして目の当たりにして、判ってしまった。
……成す術もなく、触れられただけで溶けていった左腕。
感情などなく、機械が行う作業のように街の人間を殺してまわったものが――――桜、だった。
「さく、ら」
喉が干からびる。
眼球は痙攣し、
空間が捩じれたように視界が歪む。
全身の細胞が警告を発し、必死に、怖れで凍りついた体を解凍しようと努力する。
だが溶けない。
桜の気配。もはや人ではないモノ、桜ではない何か別のモノ。
その膨大すぎる魔力に飲まれた訳じゃない。
体を凍らせるのはただ一つ。
桜は本気で――――俺に、殺意を向けていた。
「そう、いつもそうでした。わたしを守ってくれるって言ったのに。先輩は、わたしだけを見てくれなかった。
―――でもいいんです。そういう人だから、わたし、先輩が欲しかった」
――――視界が歪む。
俺の知らない桜の言葉に、思考がところどころ崩れていく。
違う、と。
――――アレは桜ではないと。
思ってはいけない事が、脳裏を埋め尽くした。
「先輩、わたしといると苦しいでしょう?
先輩にとって、わたしがどれだけ重荷なのかよく分かっています。先輩はわたしといるかぎり、ずっと苦しみ続けてしまう。
だからわたし、先輩の前から消えないといけなかった」
影が踊る。
中庭の地面は、それこそ影絵の舞台のようだ。
「けど、できないんです。わたしにとって、嬉しいことは、先輩だけだから。
それに先輩だって、わたしからは離れられない。先輩はこれ以上、自分を裏切ることができないから」
「……ええ。だから、殺してあげます。そうすればずっと傍にいてくれるし、なにより――――
先輩は、もう苦しまなくていいでしょう?」
――――影が伸びる。
遠坂もろとも、俺を飲み込もうと波と化して降りかかってくる。
ボロボロの思考のまま、遠坂を弾き飛ばした。
頭上から黒い波が落ちる。
自分が避ける事は考えつけなかった。
「――――――――」
俺は怯えた。
一瞬でも、桜を桜ではないモノだと思ってしまった。
その事実が、体に避ける事を命じなかった。
―――知っている。
これは以前浴びた闇だ。
きっと発狂する。あの時は一秒も耐えられなかった。
それがこんな、真っ白のまま浴びたのならからだの前に心が消える。
「ご――――あ」
体が萎《しぼ》む。
体温がまたたくまにゼロになっていく。
それが思いのほか苦しく、恐ろしかったから、外に出たいと体が動いた。
だが跳べない。
そもそも蹴るべき地面がない。
俺は、このまま
「ぁ――――え?」
気がつくと中庭にいた。
俺の前には、視界を覆うほどの紫の髪がある。
「……ライダー、貴女」
「これは貴女の命令です、サクラ。何があっても、衛宮士郎を守れと」
「――――ライ、ダー」
黒い波から俺を助け出したのはライダーだった。
「動かないように。その体で立ち上がれば意識が途絶えます」
「――――」
……いや、立ち上がるどころの話じゃない。
こうして膝をついていても、息を吸うたびに意識が落ちかける。
「………そう。わたしに逆らうのねライダー。
なら、貴女も取り込みます。予定外のモノを摂ったから、これ以上サーヴァントは要らないのだけど―――― 貴女は、特別にセイバーと同じにしてあげる」
……影が立ち上がる。
……ライダーの裏切りで本気になったのか、桜から広がる影は中庭を覆い尽くす。
……周囲はとうに黒く染まっていた。
ライダーは逃げる素振りも見せず、処刑を待つ罪人のように、這い寄る影を正視する。
「そこまでよ。余計な事はしない方がいいわサクラ。
―――貴女、これ以上取り込むと戻れなくなるから」
「――――イリヤ」
影の侵食が停止する。
「……それはどういう意味ですか、イリヤスフィール」
「言葉通りの意味よ。ライダーを取り込んでもシロウを殺してもリンを再起不能にしても、今のサクラには意味がないってコト。時間の無駄だし、八つ当たりはそのあたりにしておいたら?」
……何のつもりなのか。
イリヤは自分から桜へ歩み寄っていく。
「――――――――」
「サクラはわたしが目的なんでしょ。なら早く済ませましょう。大人しく一緒にいってあげるから、あんなの放っておきなさい」
「正気ですか? わたしが欲しいのは貴女の心臓だけ。
わたしと来る、という事は殺されても構わない、という事です」
「そんなの判ってるわ。けどどっちにしたって殺されるんだし、抵抗しても無駄でしょ。とりあえず、今《・・》はサクラが一番強いんだし」
淡々とイリヤは語る。
「――――――――」
……頭にくる。
こんな体じゃ、意識を総動員しても、イリヤが何を言いたいのか、読み取れない。
「じゃあ、自ら生贄になると言うの、イリヤスフィール」
「ええ。それがわたしの役割だもの。
けど正装はここにはないの。サクラが後継者として門を開きたいんなら、わたしの城まで取りに行かないと」
「――――――――」
「それに、サクラは決着をつけるコトにしたんでしょう?
ならシロウを殺す必要はないじゃない。
誰も殺したくないから受け入れたのに、今はもうみんなを殺したくて仕方がないなんて、矛盾してるわよサクラ」
「――――――――っ」
……影が引いていく。
中庭に満ちた影だけでなく、遠坂を覆っていた泥も、初めから存在しなかったかのように薄れていく。
「……いいでしょう。自分で探す手間が省けますから。
どんな思惑かは知らないけど、貴女の口車に乗ってあげます」
長い髪が揺れる。
桜は俺とライダーから興味を失ったように、無防備な背中を見せて去っていく。
「――――桜…………!」
膝をついたまま、遠ざかっていく桜を呼び止める。
「……………………」
「……もう、わたしの前に来ないでください。
先輩を前にしたら、わたし――――先輩を、殺すしかない」
桜が遠くなっていく。
俺は追いかける事も、呼び止める事も出来ず。
「サクラの言う通りよ。シロウの出番はこれで終わり。
後の始末はわたしの役目だもん。サクラはわたしが連れて行くから、シロウはもう休んでいいよ」
イリヤまで、助ける事が出来ないまま、
「―――じゃあね。今まで楽しかったよ、お兄ちゃん」
そんな、悲しい別れを聞いた。
「――――――――」
それで全てが解凍した。
“黒い影”を前にして震えていた体も、
桜を別人だと思ってしまった負い目も消え去った。
頭にくる。
情けなくブルって、桜の手も引っ張れなかった。
それだけじゃない。
あげくに―――兄と呼んでくれたイリヤに、俺はあんな顔をさせやがった――――!
「馬っ鹿野郎――――!」
走る。
全身鉛、吐き気と悪寒で脳みそがぐるんぐるんの状態で、遠ざかっていく二人を追いかける。
「――――追うな。それ以上進めば殺す」
「っ………!!!!」
立ちはだかる黒いサーヴァント。
終始無言だった彼女は剣を突きつけ、静かに俺たちを圧倒する。
「……退いてくれセイバー。あのまま二人を行かせる訳にはいかない」
「それはこちらの台詞だ。このまま貴方に追わせる事は出来ない。……それに。仮に私が退いたところで、今の貴方に何が出来る」
「――――――――」
「……これは最後の忠告だ。どのような形であろうと、桜は聖杯を手に入れる。それだけが桜を解放する手段だ。
その結果が彼女の死であったとしても、それで間桐桜は救われる」
「桜を助けたいのなら手を引け。
だが、それでも追ってくるというのなら―――その時こそ、その首を叩き落す」
……黒いセイバーの姿が消える。
桜とイリヤの姿もない。
二人は桜の影に沈むように、俺の視界から消え去っていた。
「――――――――く」
体を動かしていた気力が途絶える。
手足は、糸の切れた人形のように地面に落ちる。
「――――――――そ」
……意識が続かない。
暗くなっていく視界のなか。
影に飲まれていく桜の姿が、俺を弾劾するように、目蓋に焼き付いて離れなかった。
◇◇◇ ◇◇◇
―――では、最後の選択をしよう。
勝敗は既に決した。
いや、正確に言うのなら、そんな物はとうの昔に付いていた。
この結末は、セイバー《かのじょ》を失った時から決定していたのだから。
“ただ、シロウ。アレの相手をするという事は、最も困難な道を行くということ。
それを、今から胸に刻んでおいてください”
共に戦い、最後まで君の剣であってくれた少女はそう言った。
彼女と決別した夜。
君は一人でも戦いを続けて、あの“影”を、この戦いを止めるのだと約束した。
地獄があった。
生き延びた事には意味がある。
生き延びたからには意味がある。
みんな死んだ中で、奇跡的に生き残れたのではない。
みんなを犠牲にして、一人分だけ、救える席が出来ただけだ。
それを嫌悪し。
現実を打開する為に、君は、誰をも救える“正義の味方”になるしかなかった。
その涙がなんだったのかは知らない。
聖杯を壊し、自らの戦いが間違っていたと否定し、死に物狂いで生存者を探し出した。
思惑はどうあれ、その涙は君を救い、新しい道を共に歩かせた。
その道も、いつか一人きりになった。
先を歩いていた男は、君に夢を見て亡くなった。
“ああ――――安心した” そう、贖いきれなかった罪を飲み込んで、衛宮切嗣はこの世を去った。
―――彼は誰をも救えなかったから。
君には、誰かを救える人間になってほしかった。
“おまえが今までの自分を否定するのなら。
その罪《ツケ》は必ず、おまえ自身を裁くだろう―――”
……わかっている。
それがどういう事なのか、一生をかけて贖い続けなくてはいけない。
十年間信じ続けた自分を殺した。
殺された自身は、虫食いのように、生きた自身を食《は》んでいくだけ。
罪《そ》の具現がこれだ。
聖者の埋葬《たて》など無駄なこと。
アーチャーの腕は繋がっているかぎり確実に侵食し、贖いを強制する。
死などより凄惨な終わりを齎《もたら》す。
そうだ。
たかが片腕、命を取り留めた今では切り落としても死ぬ事はない。
だと言うのに、何故。
“シロウだって判ってるでしょ? ぜんぶを選ぶことはできない、助けられるのは一人だけなんだって”
ずっと、ずっと父親を求めていて、復讐だけを心の糧にして時間を過ごしてきた少女。
一緒に暮らそう、という言葉を、泣きそうな笑顔で飲み込んだ。
そんな事はできないよ、と。
わたしたちは、二人いっしょには長生きできない。
だから。
“―――それじゃあね。楽しかったよ、お兄ちゃん”
――――――――――――――――。
最後の選択。
君は
「――――ったりまえだ……!
勝敗が決したがどうした、そんなんで後に引けるか……っっっっ!!!!!」
「いい気合だ。その様子では入院の必要はないな」
「え――――――って、なんで言峰……?」
「……それは私の台詞だ。
凛とおまえ、二人して玄関に捨てられていてな。
捨て子にしては可愛げがないので見捨てたかったが、揃いも揃って衰弱しきっていた。放っておけば死体が二つ並ぶ事になる。教会としては体裁が悪いのでな、仕方なく治療してやったのだ」
「――――――――」
……状況を確認する。
ここは教会の礼拝堂だ。
体に異状はない。桜の影に飲まれ、ごっそり削ぎ落とされた体力も回復している。
俺は中庭で気を失った。遠坂も同じだろう。
おそらく、残ったライダーが俺たちをここまで運んだのだ。
ライダーには傷ついた人間を救う術はない。
彼女が知る限り、俺たちの手当てが出来る人間は言峰以外なかったのだろう。
それからどのくらい経ったのか。
今の時刻は――――
「深夜の三時過ぎだ。ここに運ばれてから十二時間ほど眠っていた事になる」
「――――十二時間って、まるまる半日じゃないか……!」
横になっていた長椅子から立ち上がる。
冗談じゃない、そんな悠長に休んでられるか……!
「言峰、遠坂は!? 俺と一緒に倒れてたんだろう、あいつは!?」
「凛は遠坂の家で休ませている。
おまえは体力だけだったが、アレは魔力を根こそぎ奪われていたからな。通常、持ち直すには七日はかかるが、遠坂の土はアレによく馴染む。
順当に行けば、明日の昼には意識を取り戻すだろう」
「―――そうか。命に別状はないんだな?」
「ない。あの土地の土は特別だ。なにしろ吸血種が寝床にしていた曰くつきの霊脈だ。遠坂の後継者である凛なら、一晩埋めておけば減らず口を取り戻すだろう」
「………………」
今、なにか聞きなれない表現を聞いた気がするが、追及するのは止めておいた。
埋める、というのは言葉通りの意味ではないと信じよう。
「―――ならいい。世話になった」
教会を後にする。
やるべき事は決まっている。
桜を追う。
イリヤを連れ戻す。桜を連れ戻す。
好きな相手を守りきる。
勝敗が決したからなんだ。
俺にはまだ戦う力が残っている。
なら、ここで踏み止まっている場合じゃない。
「――――――――」
時間がない。
家に戻って武器を見繕う時間も惜しい。
……いや、家で見つけ出せる武器で、どうにかなる相手じゃない。
桜とセイバー。
それに臓硯とアサシン。
臓硯の目的がイリヤだったのなら、向かう先には全ての駒が揃っていると見るべきだ。
「それで、何処に向かうつもりだ衛宮士郎。私には事情が掴めないのだが」
「? 何処に向かうもない。イリヤは俺たちを庇って、自分から桜に同行したんだ。……正装がほしかったら城に来いって言っていた。正装とやらが何かは知らないが、行き先はあの城だろう」
「正装だと……? いや、それ以前に間桐桜は敵に回ったのか。では此度の聖杯戦争、既に勝敗は決したという事か」
「……………………」
癪に障るが、言峰の言う通りだ。
臓硯と桜。
マスターとして優れているのは文句なしに桜だが、桜は臓硯には逆らえない。
……桜がイリヤを連れて何をしようとしているかは判らないが、臓硯と出会ってしまえばそれで終わりだ。
どんなに桜が臓硯を拒んでも、桜の体内《なか》の刻印虫が桜を支配してしまう。
「――――って、そんな事より!
なんでついて来るんだよ、おまえ……!」
「おまえ一人では荷が重かろう。イリヤスフィールを攫われたというのなら、私も静観はしておられん」
「な――――」
あまりの答えに足が止まる。
今、この男はなんと言ったのか――――
「一人じゃ荷が重いって―――俺に手を貸すっていうのか、おまえが……!?」
「不服か? 相手は最大勢力だ。
凛の助力がない今、私程度でも有り難いはずなのだが」
「――――――――」
不服なんてない。
協力者が増えてくれる分には不服なんてないが、しかし――――
「なんでだよ。アンタが俺に手を貸す理由はない筈だ」
「勿論。これは今回限りの事だ。イリヤスフィールを救い出した後も協力者などと思われては困る。おまえと私は、最後まで相容れぬ関係だ」
「なら」
「なに、単純な利害の一致だよ。
加えて、私のサーヴァントは全てヤツに敗れた。理由としてはそれで十分ではないか?」
……言峰の言葉に嘘はない。
こいつとは色々あったが、今まで嘘だけは言ってこなかった。
◇◇◇
俺は――――
「………勝手にしろ。アンタが何を考えてるかは知らないが、臓硯を良く思っていない事だけは同じだからな」
「なるほど、その共通点は大きいな。確かに、あの老人には少なからず縁がある」
坂道を下りていく。
俺たちは互いの表情《かお》も見ないまま、申し合わせたように教会を後にした。
ハイヤーを飛ばして森に着く頃、夜は明け始めていた。
「ここで待て。日付が変わるまでに私たちが戻ってこなければ帰っていい」
森の入り口近くの公道に黒塗りの外車を停止させる。
足である自動車は言峰が手配した。
『で。協力するって、何を協力するんだよ』『ふむ。さしあたっては足だな』 ……なんてやりとりの後、言峰はすぐさま運転手付きの車を用意したのだ。
正直、その点だけでも助かったと言える。
深夜の三時過ぎ、得体の知れない学生一人を郊外まで乗せてくれるタクシーは少ない。
「戻ってくる者がそこの少年だけ、という事もある。
その時はよくない状況だ。私の帰りは待たず、全速で町に戻れ」
淡々と運転手に指示を出す言峰。
運転手は無言で頷きを返し、車のトランクを開けた。
「――――衛宮。得物《えもの》だ、持っていけ」
「え?」
ぽい、と棒のような物を投げつけてくる。
「っと。……って、なんだこれ、剣か?」
受け取った棒は細い剣だった。
知っている中では西洋の細剣《レイピア》に近い。
斬撃ではなく刺突だけを用途にしたもの。
だが、それにしては刀身はやや太く、なんとも扱いづらい。
アサシンの使っていた短剣《ダーク》を長剣にしたような剣だった。
「得物って、これ」
「切嗣《ヤツ》は銃を好んだがな。あいにく今は短機関銃《サブマシンガン》しかない。幽霊どもに鉛弾は効かんし、おまえには扱い辛いものだ。魔術使いのおまえには、そちらの方がらしいだろう」
「――――――――」
ぶん、と軽く剣を振るう。
……妙な重心の剣だ。
重さは一キロ弱程だろうが、明らかに切っ先の重さが違う。
剣というよりは矢のような武器だ。
「……教会の専用武器か? なにか、魔力を感じるけど」
「黒鍵《こっけん》という。更に言うのなら魔術ではなく秘跡だ。
霊体を相手にするのは我々の専売特許だからな。その刀身におまえの魔術を載せれば、サーヴァントと言えど多少は有効だろう」
もっとも当てられればの話だが、と余計な一言を足す言峰。
「それを使うような事態にならないよう心がけろ。
―――行くぞ。
イリヤスフィールが連れ出されてからじき一日経つ。
今ごろはもぬけのカラかも知れんが、その時はその時だ。
間桐桜が何処に向かったのか、その手掛かり程度は見つけだせる」
俺とは違い、神父は空手《からて》で森へと歩き出した。
「――――――――」
短く深呼吸をする。
教会製の剣を鞘に収めて、言峰の後に続いた。
先導役は俺になった。
記憶を頼りにアインツベルンの城を目指す。
……以前ここに来た時は、城には辿り着けなかった。
城に向かう途中、“黒い影”から逃げるイリヤと遭遇したからだ。
「――――――――」
……左腕を確かめる。
俺はあの時、この腕を失った。
あの“黒い影”に成す術もなく殺されかけた。
それは今も変わらない。
桜―――いや、あの影と対峙しても打開策はなく、おまけにあっちにはセイバーまでいる。
……出会えば後はない。
イリヤを奪い返すのなら奇襲だけだ。
桜に気付かれず、イリヤを連れ戻す。
それから――――
それから後は、どうすればいいのか。
ああなってしまった桜相手にどうすればいい。
俺はどうやって桜を、衛宮の家まで連れ帰るのか。
「待て。間桐桜を連れ戻そう、などと思ってはいないだろうな」
「なっ……お、思ってるに決まってるだろう。俺は桜を助ける為に」
「止めておけ。
今の我々では間桐桜……いや、あの黒い影には太刀打ちできん。出会った瞬間、話し合いの余地もなく飲み込まれるだけだ。それはおまえの方が判っているのではないか?」
「っ――――――――」
……それは。
確かに、いま桜の前に出ても中庭の時と変わらない。
けど、だからと言って――――
「今回は諦めろ。イリヤスフィールをこちらで保護すれば、まだ猶予は出来る。間桐桜と話がしたいのなら、彼女に対抗できる力を用意してからだ」
「………………」
あの、とんでもない魔力を誇っていた桜に対抗する力。
……そんなもの、用意できるとしたら遠坂だけだ。
臓硯と黒い影対策として進めていた、“宝石の剣”とやらを投影するしかない――――
「っ、この…………! わかった、今はイリヤを救うのを第一にすればいいんだろう……!」
「そうだ。では行くぞ、時間がない」
「――――――――」
パン、と頬を叩いて気合を入れ直す。
弱気になっている場合じゃない。
とにかく今はイリヤを助ける。
桜はイリヤを殺すといった。
……イリヤは殺させないし、桜にそんな事はさせない。
今のオレに出来る事は、イリヤを桜から引き離す事だけ。
なら、今はそれだけに集中しよう――――
見覚えのある場所に出た。
森に入ってから二時間強。
とうに日が昇っているだろうに、森は依然として朝靄《あさもや》に包まれている。
「――――……いるな。この森に満ちた呪いは、間違いなくヤツのものだ」
「?」
走りながら言峰はおかしな事を呟く。
……森に満ちた呪い。
そんなもの、こいつは見るコトができるというのか。
「言峰。呪いって、アンタには桜の気配が判るのか」
「判るというよりは共鳴だ。……それはいいが。万が一、間桐桜と戦う事になれば私は撤退する。
おまえはともかく、私では黒化《こくか》した間桐桜を傷つけられん。戦ったところで勝ち目はない」
「……?」
いや、勝ち目がないのは俺もだが、それはともかく。
「待て。黒化ってなんだ。桜は桜だ。おかしな影に取り付かれてるだけで、すぐに」
「すぐに正常になる、か。
それは以前に説明しただろうに。間桐桜を元に戻すには、彼女と影を切り離すしかない」
「方法があるとすれば二つ。
あの影の本体を消滅させるか、間桐桜が影を実体化させるのを待つか。
今のおまえに影《アレ》を倒す術はない。おまえに出来る事は、影がこの世に生まれ落ちるまで、間桐桜の精神を繋ぎとめる事だけだ」
「――――――――」
その繋ぎ止める方法がわからない。
……桜の体を覆っていた令呪。
アレが言峰の言う黒化なら、桜は刻一刻と影そのものになろうとしているのではないか……?
「……言峰。影の実体化ってのは、桜が影そのものになるって事か」
「いや。多少の共感はあるだろうが、影の本体は聖杯の中にいる。
間桐桜を変貌させているものは聖杯の中にいるモノだが、ソレとてあくまで彼女の影なのだ。
彼女なくして影は存在できない。カタチのない本体は、間桐桜の影になる事で物質界に存在する」
「間桐桜という不完全な聖杯でなければ、中にいるモノはこの世に生まれる事はない。
だが生んでしまえば、それは間桐桜とは別のモノになる。離れたのなら、彼女を汚染する“呪い”も止まるだろう」
「……言峰。生まれるって言うけど、桜の胎《なか》にそいつは居るのか」
「まさか。そうであれば話は簡単だろう。胎内にいるモノを摘出してしまえば事足りるのだから。
影の本体は聖杯の中にいる。間桐桜は、あくまでソレに栄養と実像を与えるだけの依り代だ」
「だから、桜は聖杯なんだろう。どういう事だよそれ。
聖杯っていうのは何個もあるのか」
「あるとも。初めに説明しただろう。この地には聖杯があり、その聖杯を、人間が用意した聖杯に降霊させるのだ、と。
大本の聖杯―――聖杯戦争という儀式の法則を司る大頭脳たる魔法陣。それがアインツベルンと遠坂、マキリが用意した『この土地にある聖杯』だよ」
「――――この土地にある聖杯――――」
全ての法則……サーヴァントを召喚し、マスター同士を争わせ、聖杯を呼び寄せるモノ。
この土地に起きる聖杯戦争が人為的に起こされたものなら、確かに、人の手による原因がなければおかしい。
なら―――その大掛かりな起動式《まほうじん》を探し出して破壊すれば、桜を犯している影を消す事が出来るのでは―――
「言峰、その場所を知っているのか」
「予測はつく。正確な入り口を知りたければ凛に訊け。
この土地の管理者は遠坂だ。
二百年前、アインツベルンが遠坂と手を結んだのは儀式の場所を確保する為。後継者である凛ならば教えられている筈だ」
「尤も―――それはイリヤスフィールを取り戻してからの話だ。このまま臓硯の手にイリヤスフィールが渡れば、間桐桜もイリヤスフィールも聖杯として使い捨てられる。
間桐臓硯は“大本の聖杯”など使う気はない。ヤツにしてみればイリヤスフィールと間桐桜さえいれば事足りるのだ。
大本の聖杯を壊す、というおまえのアイデアも、それでは何の意味ももたん」
「ば、ばかいうな、そんなの考えてなんかないぞっ!」
「そうなのか? おまえにとっては、それが最も現実的な打開策だと思うのだがな。実行しないとはおかしな男だ」
「っ―――うるさいな。そういうおまえこそ、なんだって黙ってたんだ。
始めからそんな物があるって言ってくれれば、今ごろ」
「とっくに起動式を壊していたか? そう上手くいかんさ。なにしろ私の目的は起動式の成就だ。おまえに起動式を壊させる訳にはいかん」
「言っただろう。イリヤスフィールを助け出した後は敵同士だと。私の目的はおまえたちとは違う。
興味があるのは間桐桜から変化するモノ―――いや、間桐桜になろうとしているモノだ。臓硯のような望みはない」
「……ふざけんな。アンタも臓硯と同じだ。桜を利用して得体の知れないモノを作って、それを自分のものにしようとしているじゃないか」
「自分のもの……? まさか。生まれた後のことなど興味はないし、そもそも人の手で御しえるものではなかろう。
現れるのは地獄という現象だ。間桐桜がソレになれば、私とて例外なく死に絶える」
「な――――――――」
なんだそれ。
じゃあ、こいつの目的っていうのは、ただ。
「―――正気かおまえ。
そこまで判っていて、自分だって殺されるって判っていて、桜をそんなものにしたいのか……!」
「そうだ。私の役割は誕生する者を祝福する事。
それはどのような状況、どのような対象であろうと変わらない。
ここに生まれようとする命と意思がある。それを阻む事は出来ない。
衛宮。この世に純粋な願いがあるとすれば、それは生《・》まれたい《・・・・》という一念だけではないのか」
「――――だけど、桜にとりついたヤツは」
「悪ではない。
人間はただ在るだけで幸福を得られる生き物だ。
生きれば生きるほど違う幸福を知り、より高度で複雑な快楽を学習する」
「だが、人間とて初めから幸福である事はない。
胎児には幸福がなんであるか理解する知識がない。
人間はゼロから“何が楽しいのか”を学び、“何が正しいのか”を受け入れる機能がある。
初まりはゼロだ。
そこには善悪もなく、この世に在る事を許されたという事実しかない」
「――――――――」
「善か悪か。どちらに別れるかは人間の学習次第だ。
責任があるとしたら、それはその人間を育んだ環境と、自らを育てた『自己』だけだろう。
その者が生まれ出る事には何の罪もない。
故に、それが悪魔であろうと誕生を祝福する」
「―――私は今までそのように生きてきた。
この生き方は私の物だ。
間桐桜から生まれ出るものが地獄であろうと、己《ソレ》を変える事こそ難しい」
「――――――――」
……理解できない。
こいつが本気で言っているのは判る。
自分も死に絶えると判っていながら、桜から生まれようとしている“魔”を祝福する気なのだ。
……俺にはこの男を認める事は絶対にできない。
が―――イリヤを助けようとし、臓硯から桜を解放させようとしているのは本当だった。
「っ―――――――」
相容れない思想。
共存できない生き物。
だが今この時だけは、同じ目的を抱いている。
「―――信頼して、いいんだな」
「共闘すると言った。私の背中はおまえに任せる」
迷いのない返答。
……今はそれだけだ。
この場において何よりも勝る味方を得た。
あとはイリヤを助け出し、無事にこの森から脱出する事だけを考えよう――――
◇◇◇
ア――――ア、ア――――ア――――
黒い炎が立ち込める。
贅を尽くして造られた空間は無慈悲に、意味も無く、目的も定まらない喘《あえ》ぎによって崩壊していく。
――――ア――――ぁ、あ――――ぁ――――
立ち上がる火は陽炎のようだ。
本来実像を持たぬ影は、影を落とす主人の苦悶にそって床という床、壁という壁を切り崩していく。
は――――ぅ、ア―――あああ、ぁ――――!
旋律に乗って乱舞する闇陽炎《やみかげろう》。
広間のただ中に立ち、背を丸め、苦しげに喉を掻き毟るたび、古城の美は崩壊していく。
―――だが、憂えるまでもない。
もともと無人の城、永く忘れられた冬の城だ。
今まで見る者もなく、住まう者もなかったのだから、どのように破壊されようと大差ない。
“ぁ……ぅぁ……ぁ……ぁぁぁ、ぁ…………”
広間は影の国と化している。
その中心で苦悶する女は王でありながら奴隷である。
イリヤスフィールを伴い、この城を訪れてから既に一日。
彼女―――間桐桜の変貌は最終段階を迎えていた。
影と一体化する彼女にとって、この世界に肉を持って存在する事自体が拷問である。
体の痛み、破壊衝動のみに塗り替えられていく思考回路。
……そういった黒化だけならば彼女はまだ耐えられよう。
肉体の痛み、自己を苛《さいな》む苦しみは、彼女にとっては馴染んだものだ。
だが―――存在そのものを否定される、という悲痛だけは、彼女にとって未知のものだった。
影はこの世にあってはならない。
この世におけるあらゆる恩恵を与えられない。
“ぅ……ぁ…………ぁ…………あ…………!”
喉をかきむしる。
単純な話、黒化している彼女は息ができなかった。
大気はすでに猛毒。
異界《しんかい》に棲む生物《かげ》に成ろうとする間桐桜にとって、陸上は宙《そら》の真空そのものなのだから。
“ア――――アア、ああああ…………!!!!”
故に乱舞する。
自己を忘れ、正気を失い、目に付く全てに怒りをぶつける。
苦しい、と。
自らの不遇を、無関心な外界に、無理解な世界に訴え続ける。
「――――さて。そろそろ頃合かの、アレは。思いの外《ほか》間桐桜で在り続けたが、あと一押しで肉の器に為り変わるじゃろうて」
その様を眺める影が二つ。
老魔術師、間桐臓硯とそのサーヴァント、アサシンである。
「……あと一押しか。その言葉、とうに聞き飽きたぞ魔術師殿。既に勝敗は決したのだ。私以外のサーヴァントなど不要。早々に残る二体を取り込ませてしまえばよかろう」
「わかっておる。だがのう、アレは自ら取り込んだサーヴァントを殺そうとせん。小娘の浅知恵か、単に度胸がないだけなのか。セイバーもバーサーカーも、未だ桜に囚われたままよ。殺してしまえばよいものを、未だ存命させておる」
「……なんと。駒はセイバーだけではないと言うのか」
「うむ。恐らくワシに対する牽制なのだろうが、浅慮浅慮。サーヴァントを抱え込めば込むほど、アレは多くの魔力を聖杯から引き出す。大聖杯《きどうしき》から魔力を受信する小聖杯ならではの魔力補給だが、流れてくるモノは魔力だけではない。
アレはサーヴァントを生かすかぎり変貌を速めておるのだ。ワシが手を下さずとも、じき理性を食われ、理想通りの聖杯《どうぐ》になろう」
老魔術師は笑い、眼下で苦悶する娘を見守る。
視線には愛情があった。
彼は愛している。
実験作と扱ってきたものが思惑を超えて成長し、彼が渇望する“不老不死”を授けてくれるのだ。
これを愛さない方がおかしい。
今の老魔術師にとって、間桐桜は麗しい花嫁にさえ見える。
アレはどうあがいても老魔術師のモノになる。
いかに力をつけ、多くのサーヴァントを支配し、未だ理性を残そうと問題ではない。
間桐桜と間桐臓硯の優劣は、十一年前についている。
老魔術師は目を閉じ、目を覚ますだけで、間桐桜を完全に“殺す”事ができるのだから。
「――――――――」
……だが白い髑髏は違う。
不吉の象徴たる彼は、死を運ぶ風であるが故に“同種”には敏感だった。
「―――魔術師殿は軽視しているが、さて―――」
そう上手くいくものなのか。
あの小娘が理性を失ったところで状況は変わらない。
敵意を持つ者、殺意を持つ者にアレは反応する。
その点でいえば、眼下で荒れ狂っている娘は、正気を失った後と変わらない。
間桐臓硯は傲《おご》っている。
あの娘が理性を失ったところで、唯々諾々《いいだくだく》と魔術師の言いつけを聞くようになるとは思えない。
「……魔術師殿。真実、あの娘を御し得る方法があるのだろうな? アレの外敵に対する防御本能は過剰にすぎる。理性を無くし、敵味方の判別がつかなくなれば、魔術師殿の声も届くまい。
そうなっては殺気を消す程度では近寄れぬ。
アレは『自分を殺す』という結果を先読みし、外敵を排除する類のモノだ」
「ほう。なるほど、それは頼もしい。器として、ますます安心できるというものよ」
呵々と老魔術師は笑う。
「――――――――」
白い髑髏は沈黙し、崩れ去る広間を眺める。
……正直、老魔術師の思惑には賛同できない。
目的は不老不死だというが、その方針、実現方法がどこか歪んでいるように思える。
いや、もとより腐敗する人間。
狂っているのは当然なのだが、それにしても、老人の手順には一貫性がないように思えるのだが――――
「ホホ、聞いたかアサシン! 助けてくださいお爺さま、と! よいぞよいぞ、その哀願、十一年前に還るようじゃ!
世界そのものに否定される圧迫、さぞ苦しかろう桜!
だが耐えよ。おまえの体は耐えられるとも。思い出すがよい、十一年に渡る壺毒《こどく》の日々を!
何千という責め苦に耐えたのは何の為だ、何万という蟲どもに体を預けたのは何の為だ! そうだ、その程度の痛み、おまえにはなんら問題はない! そのように育て上げた! そのように鍛え上げたのだ!」
「………………」
老魔術師には娘の声が聞き取れるらしい。
アサシンには苦悶にしか聞こえぬそれは、必死に、それこそ命をかけて、祖父に助けを訴えるものなのだろう。
「おお、助けるとも助けるとも! おぬしはワシの作品じゃ、最後まで見届けてしんぜよう! いやいや、だが助けられるのは肉体だけじゃ。十一年の鍛錬において、おぬしの精神だけはついてこなかったからのう。
そう、受け入れる事で苦痛から逃れたおまえでは、その怨嗟には耐えられまい。だが安心するがよい、肉の頑強さだけはワシの保証つきじゃ! 耐えられる耐えられる、おぬしの肉ならば見事に“復讐者《アヴェンジャー》”を纏《まと》うであろう!」
老魔術師は笑い続ける。
それを無情に眺めながら、アサシンは身を引いた。
「む? 何処に行くアサシン。
万が一という事もある。おぬしにはアレからワシを守ってもらわねばならん」
「……それは構わんが。黒い聖杯ばかりに感《かま》け、白い聖杯を自由にさせるのはどうか。ようやく手に入れた正統な聖杯を、なぜあのように遊ばせておく?」
「おお、その事か。なに、イリヤスフィールは我らに協力的じゃ。もとより聖杯として門を開ける為だけに存在する娘。その目的が果たされるのならば、と大人しく頷きおったわ」
「………………」
「そう訝しがるでない。おぬしの求める聖杯はあちらの娘だ。歴史に名を残し、自らが本物《オリジナル》になる。記録としての永遠を望むうぬの願いはアインツベルンが叶えてくれよう。
だが、それにはあの娘に本来の姿になって貰わねばならん。ワシはホムンクルスは管轄外でな。あやつらが正装を整えるまでは好きにさせておけばよい」
「…………無理強いはしない、という事か。
だが―――そのような余裕が我らにあるのかな」
「あるとも。もはや我らに敵はいない。
衛宮の小倅と遠坂の小娘が生きておるのは意外じゃったが、どうという事もなかろう。あれほどの力の差を見せられ、歯向かうような馬鹿者はおらぬ」
「そのような杞憂で事を急ぎ、イリヤスフィールに死なれでもしたら取り返しがつかん。
天の門を開けるはあやつの責務だ。我らは慈悲をもって、その仕事を全うさせてやればよい――――アサシン?」
「―――そこまで。どうやら、その馬鹿者がいたらしい」
「――――ぬ?」
次の瞬間、白い髑髏はかき消えた。
侵入者を感知した暗殺者は、躊躇うことなく城の外へと飛び出したのだ。
既に敵は外へ。
油断しきった老魔術師の手をすり抜け、城門を抜けつつあった。
「――――ほう。どうあっても死にたいというのか、小僧」
だがそれは油断ではない。
何が起ころうとイリヤスフィールは逃げだせない。
アレの真髄にはアインツベルンの宿願がかけられている。
あの白い娘は、もはや臓硯が手を放したところで自分から協力する。
そんな娘を連れて逃げるなど滑稽だ。
森から連れ出したところで、イリヤスフィールは自ら聖杯の地、全ての源たる心臓の地に現れるだろう。
「ふん。故に放任していたのだが、仕方あるまい。
―――出番だぞ桜。イリヤスフィールなくしておまえが救われる事はない。その苦しみから逃れたいのであれば、遠慮せず蹂躙してくるがよい」
高らかな笑い声を残し、老魔術師の気配も途絶えた。
……広間には影が蹲る。
広間全体を覆った影は黒い沼となり、その水底より二体の闇が具現する。
“…………………………………………”
少女に苦悶はない。
大気《もうどく》に慣れた訳ではない。
それは、ただ、
“…………そう。来てくれたんですね、先輩…………” 昏い悦びが、暗い痛みを凌駕しただけの話。
「……あの神父さんも一緒なのね。ばかなひと。自分から食べられに来るなんて」
つい、と指先が上げられる。
方角は城門。侵入者たちが通り、今も必死に逃げ出している方角だ。
「いって。先輩以外は殺していいわ。他の相手が誰であ《・・・・・・・・》ろうと《・・・》、問題なく切り殺しなさい」
解放される黒い巨人。
放たれた猟犬は咆哮をあげ、突風となって消え去った。
「もっとも―――今の貴方には、その相手が誰かなんて判断はつかないでしょうけどね、バーサーカー」
くすり、という笑い声。
影を纏ったまま、彼女は黒い剣士と共に、ゆっくりと瓦礫の王国を後にした。
◇◇◇
森を抜ける。
広大な樹海の中、切り開かれた円形の空間。
イリヤの眼を通して見ただけの城は、あの時の姿のまま聳えていた。
辺りに人影はない。
城壁はおろか城門にさえ見張りがいないのは明らかにおかしかったが、今さら罠だと引き返すわけにもいかない。
「言峰。あの木から二階にあがれないか?」
気付かれているとしても、正門から侵入するのは自殺行為だ。
無駄かも知れないが、できるかぎり手は尽くしてみるべきだろう。
「……そうだな。
侵入するのなら使われていない水路を使うところだが、そんな悠長な真似が通じる相手ではなかろう。
城に入った時点で侵入は悟られる。直接イリヤスフィールの監禁場所に乗り込み、有無を言わせぬまま脱出したいのだが、さて――――」
神父は城を見上げてなにやら思案する。
……壁を見透かすように瞳を細め、注意深く、一つ一つ窓を凝視する。
「―――驚いたな。本気で侮られているようだぞ、衛宮」
にやりとした声。
「え?」
この男の楽しげな声なんて初めて聞いたもんだから、思わず耳を疑ってしまった。
「な、なんだよ言峰。なんか見つけたのか」
「見つけたとも。
―――時に、一つ訊ねるが。登山の経験はあるかね、衛宮士郎?」
「………………まさか、アンタ」
「無論、壁登《フリークライミング》りだ。垂直だが出っ張《オーバーハング》りはなく、凹凸《おうとつ》は充分にある。この壁なら足場は確保できる。道具はなくとも登るのは容易い。なに、氷壁に比べれば道を歩くが如しだ」
「ちょっ――――」
止める間もなく、言峰は城の壁に手をかける。
「な――――」
そのまま壁に張り付いて登っていく。
スピードこそゆったりとしたものだが、その姿はだからこそズッシリとした安定感があった。
「何をしている。足場《ポイント》の確保が出来ないのなら見て真似ろ。四階程度の壁登りが出来ぬほどヤワではないだろう。
―――ああ、それと武器《こっけん》は置いていけ。帰りに拾っていけばいい」
そう言いながらも神父は壁を登っていく。
「っ―――本気で言ってんだな、あの野郎」
言峰に借りた剣を放って壁に張り付く。
……なんだかんだと登りやすい壁を選んだのだろう、この付近の壁《いし》の凹凸は荒く、なんとか手がかけられそうだ。
壁登りは腕力だけで行うものではない。
次に手を伸ばす先が安全であるかどうか、わずか数センチの凹凸で体重を支えられるか否か、そのポイントを頼りにした後、次の体重移動に耐えられる凹凸があるか否か。
垂直に近い壁登りは、その実アドリブに満ちたパズルに近い。
目的の高さまであと一メートルに迫ったとしても、その時点で次のポイントがなければ地上まで降り、別の攻略ルートを試さなくてはならないのだ。
目的地に至るまでの道筋。
絶えず二手三手先を予測した行動を要求される壁登りの技術は、経験者しか持ち得ない。
持ち得ないので、こっちはもう言峰を寸分たがわず真似するしかなかった。
わずかなセンチのずれ、力加減を間違えれば即座に落ちる。
「――――信じられねえ。普通素人にやらせるか、こんなの――――」
悪態をつきながら壁に張り付く。
……まあ、やる事はメチャクチャだが、まるっきり無謀という訳でもない。
本来、こういった壁登りは山の中腹から山頂付近で行われる。
その時に登山者が戦う相手は壁だけではない。
深海が人間にとって不可侵であるように、高層もまた人間には立ち入れない聖域である。
標高六千メートルを超えた時点で酸素は絶対的に足りなくなり、訓練されていない人間なら数時間といられない。
吐き気、目眩、果てには酸素欠乏からくる脳水腫を起こし、最後には死亡する。
これは高度が増せば増すほど苦しくなる無酸素の地獄だ。
加えて極寒。肌をさらせば凍りつき、わずかな擦り傷でも壊死を招く。
その極限状態、一歩進む度に肉体の機能が低下していく中で壁登りは行われる。
その困難さ、過酷さに比べれば、“ただ壁を登る”のはそう不可能な話ではない。
「っ――――と、いっても――――」
……辛いものは辛い。
使えるものは指の第一関節まで。
それだけの手掛かりに体重を預けて、これまた爪先ほどもない足場で体を固定する。
こんなの……よっぽど隅々まで鍛えてないと、付いて、いけるかって、言うんだ……!
「ん……? まて、移動した。上かと思えば下か。衛宮、三階の窓まで下がって中に入れ」
「この―――無茶言うなよな、おまえ」
こっちは蜥蜴じゃないんだ、そんな器用な真似できるかって――――
「言峰、窓あるぞ窓……! こんなのどうやって入れってんだよ!」
「かまわん、ぶち破れ」
「っ! このエセ神父、こんなんなら最初からな、」
あっちの木を使って侵入した方が楽だったってんだバカっ――――!
「っ……!」
城内に押し入る。
窓を割るのと中に飛び込むのは同じ動作だった。
両手で壁にぶらさがり、体を振り子のように前後させて窓ガラスに両足からつっこんだのだ。
「は――――あ…………!」
ゴロゴロと床……物凄く高級そうな絨毯に転がる。
両足を振り下げた時、体はほとんど落下していた。
足を叩きつけるタイミングが少しでも遅かったら、頑強な壁に蹴りをいれるばかりか、背中から地上に落ちていただろう。
「くそ、三階の高さで頭から落ちれば死ぬぞ、普通……」
窓ガラスに両足からつっこみ、ガラス片を撒き散らしながら転がるのも危ないが、まあなんとか許容範囲だと顔をあげる。
「…………シロウ?」
―――瞬間。
あらゆる瑣末《さまつ》事が、頭の中から消えてくれた。
「――――イリヤ」
それだけで、ここが敵地である事を忘れた。
中庭での光景が脳裏に浮かぶ。
イリヤはあんな、作り物の笑顔で、さよならと別れを告げた。
「――――呆れた。なんで来たのシロウ。もう貴方の出番なんてないのに、まだ無駄な努力をするつもり?」
冷たい声。
イリヤは初めて出会った時と同じ、冷静な貌を作る。
「――――――――」
慣れている。
イリヤのそういう顔には慣れているというのに、
「まだ判らないの? サクラのことはわたしに任せればいいの。これはわたしの役割なんだから、シロウは大人しく家に帰って」
「馬鹿。後始末が役割なんて、言うな」
許せなくなって、イリヤの頬を叩いていた。
「な――――シ、シロウの無礼者……! レディの頬を叩くなんて紳士じゃないわ! い、いくらシロウでも、わたしにこんなコトするなんて許さないんだからっ!」
「許さないのはこっちだバカイリヤ……! 男だったら拳骨で殴ってるぞ、この不良娘……!」
怒鳴り返す。
イリヤの顔を見られただけで嬉しいクセに、真っ白になった頭は本気で腹を立てていた。
「な、なによ、わたし怒られるようなコトしてないじゃない! わたしは自分の役割を果たすためにサクラについていっただけよ。それが一番いい方法なんだから、シロウに文句を言う資格なんか――――」
「うるさい、そんなもの知ったことか……!
いいか、イリヤの役割なんて俺は知らない。俺はただ、かってに出て行った不良娘を連れ戻しにきただけだ。
イリヤがどんなに強がって、どんなに平気なフリをしていても騙されないからな。イリヤが少しでも嫌がっている限り、絶対に連れて帰ってやる……!」
「な――――つ、強がってるって何よ! わたしは嫌だなんて思ってないわ。この体は聖杯として作られた。あいつらの為に鍵になるのは癪だけど、それで聖杯の力を使えるようになれば、サクラだって」
「それが強がってるっていうんだバカ!
……いいか、聖杯なんてどうでもいい。イリヤはイリヤだ。イリヤがイリヤのままでいたいなら、そんなコトはほっぽっといていいんだ。自分以外の何かの為に、自分を犠牲になんてするな……!」
「――――――――」
視線が逸れる。
イリヤはわずかに唇を噛んで、
「―――――――それは、シロウだって」
よく聞き取れない声で、何事か呟いた。
「……いいわ。仮にわたしが嫌がってるとしても、それがどうだっていうの。わたしたちじゃあサクラには勝てないし、逃げられない。
わたしをこの城から連れ出すコトは不可能よ。だから臓硯もわたしを好きにさせている。
シロウだけならまだ見逃してもらえるけど、わたしと一緒じゃ絶対に森からは出られないわ」
だから今すぐ帰れ、と赤い瞳が拒絶する。
俺は――――
「それでも連れて帰る。俺は一人で帰る気はないからな」
考えるまでもない。
今の自分には、それ以外の選択肢なんて存在しない。
「――――」
イリヤは何も言わず、ぼんやりとこっちを見つめてくる。
その無防備な手を握って、
「行くぞイリヤ。見つかる前に家に帰ろう」
小さな、軽すぎるイリヤの体を引き寄せて歩き出した。
「呆れた。シロウには何を言っても無駄ね」
イリヤは抵抗せずにトテトテと歩き出し、
「ほんとに。こんなの、上手くいくはずないのに」
そっと、幸福そうに、俺の手を握り返した。
◇◇◇
「何を悠長にやっている」
―――と。
俺が蹴破った窓から、外套をはためかせて言峰が飛び込んできた。
「コトミネ……!?」
俺から手を離して、バッと身構えるイリヤ。
「あ、待ったイリヤ……! そいつは味方だ。今回だけ協力する事になった、即興の味方なんだ」
「え!? うそ、シロウったらこんなヤツと手を組んだの!? ダメよシロウ、こいつは」
「無駄話は後だ。追いつかれる前に外に出るぞ」
「え、きゃっ――――!?」
―――一瞬の早業。
言峰はイリヤの腕を掴むと、そのまま、躊躇する事なく窓から外へ飛び出していた。
「な――――イリヤ…………!!!!」
慌てて窓に飛びつく。
……言峰は庭に着地している。
言峰に抱かれたまま地上に降りたイリヤは、
そのあとすぐさま手を振り払って、バチン、と神父の頬を叩いていた。
……ここまで聞こえてくるんだから、実にいい音をさせている。
「っ――――感心してる場合じゃない、要するに飛び降りろって事かよあいつ……!」
迷っている暇はない。
三階程度の高さならうまく着地すればなんとかなる。
「ふ――――」
出来るだけの魔力を両足に帯電させる。
自分の体に“強化”はかけられないが、これなら少しは落下の衝撃を軽減でき――――
――――るワケないだろバカーーーーー!「っ――――ぅううううう……!!!!」
二十メートル強の高さを飛び降り、着地の瞬間にごろんごろんと回転する。
三階とはいえ、城の三階はとんでもなく高かったのだ。
日本の建物《マンション》なら、間違いなく八階相当の落下である。
「効いたぁ……脳天飛び出すかと思ったぞ、今の」
……くそ、足が痺れて立ち上がれない。
それでも下が芝生だったのが幸いした。
これがアスファルトだったら足の骨に罅でも入って、ここから逃げ出す事ができなくなっている。
「びっくり。シロウ、丈夫だね」
「そうだな。あの高さから何の魔術行使もなしに落下とは恐れ入る。――――自棄か?」
まじまじと倒れた俺を眺める二人。
イリヤはともかく、言峰の言い分は足の痺れを忘れさせるほどアレだった。
「っざけんな、おまえが飛び降りたからああするしかなかったんだよ! 俺だってこんなのは二度とゴメンだ、ふつう足折れてるし飛び降りた瞬間なんて目眩で失神しかけたんだからなっ!」
「だが五体満足ではないか。文句を言われる筋合いはないが……しかし、確かに驚きだ。よくあの高さから飛び降りよう、などと思えたな。
いかに魔術師とはいえ、魔術行使なしで飛び降りようとは思うまいに」
「え――――」
いや、だって置いていかれたし、言峰はイリヤを抱いて降りた以上、俺だって続かないと格好がつかないというか――――
「シロウのせいじゃないわ。シロウは体だけじゃなくて、精神《こころ》までアーチャーの影響を受けているのよ。
だから体だって丈夫になってるし、あの高さからなら降りられるって、アーチャーと同じように思っちゃったのよ」
「……え? イリヤ、今の、どういう」
「なるほど、それは頼もしい。戦闘面でその強気を発揮してくれ。そら、おまえの剣だ」
登り際に置いていった剣を投げよこす。
「っと……」
「走れるな。ここからは命がけだぞ」
話をしている余裕はない、と言峰は城門へ足を向ける。
それを咎めるかのように、
「」
何か異質な音が、冬の城を震わせた。
「……やっぱり。まだこの世に留めてたのね、サクラ」
―――今の咆哮は、間違いなく狩りの狼煙だった。
最凶の猟犬を放ったぞ、と。
親切で無慈悲な城の主が、逃げ惑う囚人に告げる死の宣告そのものだ。
「―――バーサーカーか」
「――――――――」
思考が戦闘態勢に切り替わる。
バーサーカー、と。
かつて、いや今でも脅威の象徴である名を出され、細胞という細胞から余裕が搾り出されていく。
「言峰」
「引くぞ。戦ってどうにかなる相手ではない。追いつかれれば殺されるだけだ」
言峰は先行して城門へ向かう。
「振り返るなイリヤ……! 諦めろ、バーサーカーは以前とは違う……!」
イリヤの手を取って走り出す。
―――体力を温存している余裕なんてない。
追手が―――俺たちを殺しに来るのがあの狂戦士なら、ここから森の出口まで最短の三時間を、全力で走り抜けるしか生き延びる術はない……!
―――息がつまる。
どんなに目を逸らしても無視できない闇が、すぐそこまで追ってくる。
「っ……!」
森を駆ける。
背後にはまだ何の姿も見えない。
聞こえるのは暴風の音だけだ。
追手は猟犬ではなく巨獣だった。
俺たちのように木々をすり抜けられない巨獣《ソレ》は、行く手を阻む木々《しょうがい》を吹き飛ばしながら近づいてくる。
……トンネルを削る、巨大な削岩機に追われているような錯覚。
真っ黒い壁が少しずつ速度をあげ、俺たちを飲み込もうと突き進んでくるかのよう。
「あ……はあ、は……だめ、そんなに早く走れない……!」
「っ」
歩を緩めてイリヤの速度にあわせる。
……まずい。
壁《てき》の速度と俺の速度はほぼ同じ。
イリヤを抱えて走れば、一分もしないうちに間違いなく追いつかれる――――!
「やっぱりダメ……! わたしは残るから、シロウ一人で逃げて……!」
「まだ追いつかれたワケじゃない……! 背中に乗れ、イリヤ一人ならどうってことない……!」
「馬鹿、どうって事ある……! そんなコトしたらすぐに追いつかれるって判るもん……!」
「く――――」
どうする。
このままイリヤを連れて逃げるか、それとも―――
―――それとも、あの怪物と戦うのか?
アサシンにも太刀打ちできない俺が、
こんな借り受けただけの細剣一本で、サーヴァント中最強のあの怪物と一対一で――――?
「――――っ、ぁ――――」
だめだ、
やめろ、
勘弁してくれ、
俺じゃあ何をどうやったって、あんな怪物に勝てるワケがない……!
立ち止まれば死ぬ。
間違いなく殺される。
あの怪物と向かい合うだけでこんななまっちろい胴体は両断されて、まだ意識がのこったままの上半身を工事現場の機械みたいにズバーングシャーンと木っ端微塵、跡形も無く踏み潰され――――
「―――その必要はない。イリヤスフィールは私が運ぶ」
「「え?」」
イリヤと二人して振り返る。
―――驚いている暇もない。
言峰はここまで戻って来たかと思うと、有無を言わさず、イリヤを抱えて走り出した。
「――――――――!」
速い……!
そりゃ言峰はガタイがある。
あいつほど長身なら、イリヤを軽々と抱いて走れるだろう。
だがここは森の中だ。
不確かな足場、乱立する木々の中を、両手を塞がれてイリヤを抱いたままで、まったくスピードが落ちないなんて――――!
「言峰……!」
全力で追いすがる。
それで互角だった。
イリヤを抱いた言峰と、足枷なしで走れる俺。
いつ地面に足を取られてもおかしくない森の中、百メートルを七秒台で走り抜ける。
「っ――――」
心臓が早鐘を打つ。
異常だ。
走る速度が速すぎる。
時速五十キロ近いスピードで森を駆け抜けるなんて人間業じゃない。
腕が震動する。
布に巻かれた左腕が、どくん、と大きく膨張するかのような違和感。
……さっきイリヤが言っていた事は、きっとそういう事だ。アーチャーの戦闘経験だけでなく、肉体的な機能まで衛宮士郎を侵している。
過剰なまでの筋肉増強剤。
その毒が身体に流入し、普段以上の力を発揮させている。
――――それはいい。
それが放射能漏れでガイガーカウンターとかいうそこはかとなく格好よさげなメーターを振り切らせるような事でも、今は素直に有り難い。
だが言峰は違う。
魔力の発露、魔術行使の痕跡がまったく見られない。
信じがたい事だが、こいつは―――なんの魔術の恩恵もなしで、イリヤを抱えてかっ飛んでいやがるのだ……!
「おい、アンタほんとに人間か……!?」
「おまえ程ではない。それより気がついたか。この速度を保てば逃げ切れるぞ。なにしろ、アレは目が見えぬようだからな」
「!? 目が見えないって、追手の?」
「そうとしか思えん。
速度ではあちらの方が上だ。森の木々などバーサーカーには小石程度の足止めにしかならん。にも関わらず追いつかれないのは、あちらに何か欠陥があるのだろう」
淡々と語る言峰。
その、今の立場なら幸運と喜ぶべき事をつまらなげに語るのはひっかかるが、それなら、
「……逃げ切れる。後は俺たちの体力次第って事か!?」
「いや。逃げ足だけで勝ち抜けるほど甘くはないようだ」
殺気に満ちた声。
それが何を意味しているのか悟る前に、
「――――アサシン――――!」
ギチン、と左腕が惷動した。
「っ……!」
白い髑髏が見えた。
スライド写真のように流れていく木々の隙間、アサシンは逃げる俺たちを嘲笑うように併走している……!
「ま――――」
ずい、と思った時には手遅れだった。
高速ですり抜けていく木々の向こう、アサシンは僅かに左腕を振りかぶり――――
「「!?」」
俺の眉間に突き刺さる前に、何者かに弾かれていた。
「――――――――」
息を呑む。
何者かなんて、そんなのは一人しかいない。
腕を振り上げる動作さえ見せないアサシンの投擲を、イリヤを抱えたままで言峰が弾いたのだ……!
「―――目障りなヤツだ。手が空いている時は現れぬクセに、忙しい時は呼ばれずともやってくる」
言峰の速度が緩む。
……神父は不快そうに眉を曇らせたまま、併走する黒い暗殺者を一瞥する。
「言峰?」
「イリヤは任せた。かわりにアレを任されよう。
なに、これでも神職だ。悪霊払いは馴れている」
言峰は足を止め、イリヤを地面に降ろす。
「な――――アンタ本気か!?」
戸惑うイリヤの手を掴んで引き寄せる。
同時に――――弾丸のように放たれる、三条の電光暗器……!
「言峰――――!」
「―――鋭いが実直すぎる。山の主《アサシン》を名乗るにしては、読み易い太刀筋だ」
「――――――――」
正直、自分の目を疑った。
アサシンから放たれた紫電は三閃。
それを事も無げに、神父は切って捨てたのだ――――!
「――――」
「!」
バーサーカー……!
くそ、今のは近いぞ、ここで足止めを食らってたら間違いなく追いつかれる……!
「っ――――」
止まっている場合じゃない。
今はイリヤを連れて先に行かないと……!
「いいんだな……! 行くぞ言峰……!」
「そう言っている。こちらの心配は無用だ」
―――イリヤを抱える。
言峰のようには走れないが、それでもイリヤの手を引くよりは速い……!
神父に背を向ける。
黒塗りの咆哮は森の向こう。
俺たちの居場所を探るように、無秩序な破壊を繰り返しながら、確実に追ってきている。
言峰にかける言葉なんてない。
背中を預けて、力の限り走り出す事が何よりの応えになる。
―――そうして、背を向けて地を蹴る寸前。
「―――衛宮。助けた者が女ならば殺すな。
目の前で死なれるのは、中々に応《こた》えるぞ」
自嘲するような人間臭さで、神父はおかしなコトを言った。
「……え?」
「余分な忠告だ。急げ。バーサーカーだけならば逃げ切れよう。後の戦いはおまえ次第だ、衛宮士郎」
「――――――――」
頷いて、地面を蹴る。
―――遠ざかっていく二つの影。
最後に見届けた背中が遠い。
……不吉な予感がする。
お互い生きたまま会う事は、もう二度とないだろうと思えたほどに。
◇◇◇
―――唐突であるが。
悪霊払いは神父の生業、というのは間違いである。
神父とは神の教えを説くものであって、悪霊を払うものではない。
彼ら《・・》の神は唯一絶対。至高にして全なるもの。完璧な世界を作り上げた聖霊だ。
それが自らの子である人を穢し、自らが創造した世界を汚す魔などを容認する道理がない。
だが確固として魔は存在し、人を堕とし地上を汚す。
在ってはならぬ物が神の世界を冒涜する。
その矛盾を、彼らはこう定義した。
即ち。人を脅かす魔ですら、主が構築した世界に必要な欠片、愛すべき被造物なのだと。
その教義で言えば、魔とは天の使いである。
人の善性を鍛えるものが聖ならば、人の悪性を鍛えるものが魔であるだけ。
ソレらは同じ天の御使い。
主の教えを説く神父に、これを撃滅する権利はない。
だが。
繰り返すが確固として魔は存在し、人を堕とし地上を汚し、人智及ばぬ凄惨な悲劇喜劇を演出する。
時に天の計りは、人の子に天の無力さを錯覚させた。
人知及ばぬ魔の所業に、偉大なる主の奇跡を求めさせたのだ。
以って、ここに特例が生じた。
主の教えを説くのではなく、人の身でありながら主の代行を成す使徒が赦された。
本来傍観すべき試練、
本来否定すべき異端。
本来存在しない筈の第八秘跡を身につける者、
百二十の枢機卿によって立案された魔の撃滅者、『代《エクスキ》行者《ューター》』が誕生したのである。
彼らは魔を払い、主の教えに存在しないモノを排除する。
教義にないモノを狩りとる彼らは、教義に縛られる事もない。
結論から言えば、彼らには“不徳”が許される。
守るべきはただ一つ、偉大なる主の御名のみ。
その為ならば、主の被造物である魔すら滅ぼし尽くす。
彼らが悪魔払《エクソシスター》いと一線を画すのは、ただその一点のみである。
「―――代行者か。教会《れんちゅう》はこぞって鳩の如き軽薄さ、蛇の如き移り身を習わせるというが……なるほど、貴様もその例に漏れぬらしい」
白い髑髏が嘲笑う。
神父―――言峰綺礼は答えず、自身の武装を確認する。
告解の黒鍵《つるぎ》が左右に五つずつ、右腕には前回《・・》から未使用のまま保存し、今も力を残している令呪が数個。
下級霊を相手にするには充分すぎる武装。
だがサーヴァントが相手では、全弾命中させても倒しきれまい。
いかに無名といえ、アサシンとて英霊の一つ。
選ばれた代行者が持つという“聖典”クラスの武装でなければ、倒しきる事は出来ないだろう。
「どうした? 見れば貴様のソレも投擲するもの。ここで私と一勝負興じてみるか?」
「――――――――」
神父は動かない。
彼は木々の間《あいだ》に潜む髑髏を見据えながら、注意深く森の音を聴いている。
葉ずれの音。
仮面の下の息遣い。
じるじると溶ける肉の音。
そして、遠退いていく狂戦士の足音を。
「……やはりあちらに行ったか。間桐桜とは上手くいっていないようだな、マキリ臓硯」
髑髏を見据えたまま告げる。
「――――呵《カ》。呵々《カカ》、呵々々々々々々《カカカカカカカ》!
そうか、ワシの気配に気付いておったか綺礼よ!
そこまで判っていながら足を止めるとは何事じゃ? 以前のおぬしならば小僧を撒き餌にしても逃げ切ろう。
だというのに自ら囮になるなどらしからぬ善行。よもや情に絆《ほだ》された、などという事はあるまいな!」
笑い声だけが森に響く。
白い髑髏がわずかに揺らぐ。
神父は眉一つ動かさず、
「――――なに、衛宮士郎を助けたつもりはない。
単に、こちらに用があっただけだ」
殺気すら灯さず、見えざる老魔術師に言い放った。
「ほ? ワシに用があった、と?」
「無論だ。どの道、私も衛宮も森からは出られまい。じき殺されるのは判っている。
ならば―――死ぬ前に、己が目的のため手を打つのは当然だろう」
「む……? では、イリヤスフィールがどうなろうと構わぬと言うのか? アレを救う為に来たのであろうが」
「構わんさ。ここでアサシンを倒し、衛宮士郎を助けに行ったところで間に合わん。衛宮士郎があの娘を救おうと救うまいと、もう私には関係のない事だ」
左手に握った黒鍵は三本。
扇状に剣を展開したまま、神父は目前の髑髏を見据える。
「……ほう。では、わざわざこの場に残ったのは」
「ああ。私のすべき事は、イリヤスフィールをおまえに渡さぬ事か、」
……殺気が消える。
白い髑髏は木々に擬態し、その姿を完全に消失させ。
「―――ここで、おまえを殺しておく事のどちらかだ」
―――刃が奔る。
神父の穿つ剣と、アサシンが放つ短剣が激突する……!
「ク、ハハ、ハハハハハハハハ!
そうか、その為に死にに来たか! よかろう綺礼、腐れ縁じゃ、教会の外れ者が何処まで戦うか見届けて進ぜようぞ――――!」
哄笑が響き渡る。
魔を退けるだけの聖職者は、絶対に勝てないと知りながら、老魔術師の操る死の天使《マラク・アル・マウト》を迎え撃つ――――
「は――――はあ、はあ、はあ、は………!」
イリヤを抱えたまま森を走る。
背後には振り向けない。
振り向いた瞬間、黒い壁が一面に広がっている気がして、生還しようという気が萎える。
そんな余裕はない。
少しでも気力が鈍れば、その時点で追いつかれる。
追いつかれて、俺もイリヤも殺される。
「っ――――あ、はア、が、あ、あ…………!」
「 」
足がもげそうだ。
いくらイリヤが軽いといっても、人を一人抱えて走るのはそれだけで速度が落ちる。
くわえて森の足場は悪く、踏み出すごとに前に倒れそうになる。
「あ――――! は、あ、ア、ハ…………!」
「 !」
速く。速く。速く。速く。
今よりもっと速く走らなければ追いつかれる。
背後の気配は刻一刻と近づいてくる。
こんな悠長に走っている場合じゃない。
俺はもっと速く――――言峰のように速く走って、イリヤを連れて逃げないといけないのに……!
「――――――――あ、――――――――ぐ……!」
「 !」
心臓が破裂しそうだ。
苦しい。息が出来ない。
足の筋肉が断裂しかけて、股から骨がブチ折れるぞと悲鳴をあげている。
「――――――――、――――――――!」
「 !」
苦しい。
もうどのくらい走ったのか。
言峰と別れて、イリヤを抱えて、森の中をがむしゃらに駆け抜ける。
五キロはとっくに走った。
酸欠で回らない頭だから倍は走ったかもしれない。
全力で、ペースを落さず、これでもかと走り続けた。
「――――」
「あ――――――――」
「 !」
だというのに離れない。
これだけ全力で走り続けて、心筋が硬直し停止しようとしているのに、背後の気配は容赦なく強大になっていく。
「――――――――く」
「 !」
イリヤが重い。
酸素が重い。
両足が重い。
死が重い。
追いつかれたら死ぬ。
一撃で殺されると、背中に得体の知れない怖れが圧し掛かる。
「そ――――――――!」
「 !」
萎えようとする意識に蹴りをくれる。
走れ。
今は何も考えず走れ。
足がもげそうだからなんだ。余計な心配だ。そんなもの、もげた時に考えればいい。
今は全力で出口を目指すだけ。
胸に燃料《ガソリン》を入れろ。弱気で停止しそうなエンジンのキーを回せ。ギアは常にトップ、ブレーキなんぞとっぱらえ。
「は――――あ、あ――――!」
「 !」
走れ。走れ。走れ。
背中に圧し掛かる不安を振り払うように走れ、
背後に迫った恐怖から目を背けるように走れ、
つまらない弱音が真っ白になるまで走れ――――!
「――――!」
うるさい。
耳元で怒鳴るな、こっちは自分の呼吸だけで鼓膜が破裂しそうなんだ、おまえの大声なんざ聞いてやるほど余裕は――――
「だめ、止まってシロウ…………!!!!!!!」
「っ――――――――!?」
胸元でイリヤが叫ぶ。
その、全身全霊をこめた忠告に、心より速く体が反応した。
「バ――――――――」
両足を止める。
土を抉りながら体を止め、抱えていたイリヤを地面に降ろす。
「――――同調《トレース》、」
腰に下げていた黒鍵《つるぎ》を構え、時速二百マイルの速度《スピード》で魔術回路を発現させる。
「開始《オン》――――!」
頭に浮かんだものは皆無。
その全てを頭に浮かべず、同時に、一瞬で工程を通過した。
「ああああああああああああ!」
両手で、満身の力でその一撃に抵抗した。
旋風は真横から。
木々を蹴散らしながら、“追手”は俺たちの真横から殴りつけてきたのだ――――!
――――体が弾け飛ぶ。
わずか一撃で粉砕された。
ありったけの魔力をこめてダイヤ並に強化した黒鍵《つるぎ》は、焼けた飴のようにひしゃげた。
剣を通して伝わってきた衝撃《ダメージ》は両腕から全身に駆け上がり、脳天から足の指まで浸透した。
「――――――――、あ」
飛んでいる。
全身全霊、全てを篭めて対抗した一撃が一方的に粉砕された。
――――相手に、ならない。
まるで相手にならない。
衛宮士郎では、あの怪物を止める事さえ許されない。
体は宙に浮いている。
いや、飛んでいる。
まるで投げ槍だ。ヤツの一撃で弾かれ、何十メートルも飛ばされようとしている。
この分なら城まで戻《とば》されかねない。
それ程の力の差があり、逃走は絶望的だった。
時間が止まっている。
このまま飛ばされ続け、落下すれば死ぬだろう。
あまりの力の差に、それが避けられない運命だと受け入れそうになった時、
「うそ……やだ、うそでしょバーサーカー……?」
黒い敵を前にして、愕然と涙するイリヤの姿が目に入った。
「が――――…………!!!!!」
咄嗟に腕を伸ばす。
果てしなく飛ばされる筈の距離を、自分から幹にぶつかる事で停止させた。「あ――――は…………!!!!!!!!」
背中をハンマーで叩かれたような衝撃。
破裂寸前だった心臓はさらに膨張し、亀裂が入ったが如き絶痛を訴える。
「ハ――――ぁ――――、あ…………!」
可能な呼吸は一息分だけ。
酸素が足りないクセに、その一息だけで体がパン、と風船みたいに破裂しそう。
「は、つ、は――――――――!」
だがそれで体は動く。
一息分の呼吸があれば地面を蹴れる。
魔術回路を総動員し動かない筋肉を運転させ―――
「ねえ、どうしたのバーサーカー? わたしだよ、わからないの?」
イリヤは黒い敵を前にして、魅入られたように動かなかった。
イリヤは愕然と――――変わり果てたソレの姿を否定するように、弱々しく声をあげるだけだ。
……それが、黒い敵の正体だった。
言峰は目が見えていない、と言った。
それは正しかったが、正確じゃない。
……あのサーヴァントには、もう目も鼻も口もない。
赤く光る両目は殺気を放つだけのものだ。
全身は黒い泥に侵食され、セイバーにつけられた傷さえそのままに放置されている。
……アレは違うもの。
黒い影に飲まれ、壊すだけの用途しかない怪物だ。
アレには追っている相手の姿など映っていない。
黒い狂戦士の眼球には、俺は勿論、イリヤの姿さえ映っておらず、
「」
咆哮と共に、目の前にいる“生き物《イリヤ》”に対して、その斧剣を振り上げた。
そうして、神父は最期の時を迎えた。
「ふ――――、ふぅ――――、ふ――――」
神父―――言峰綺礼は壁に背を預け、前方にかすむ髑髏を凝視する。
存分に切り刻まれた神父服。
乱れに乱れた呼吸は整わず、残る武装は三本の黒鍵《つるぎ》のみ。
「うむ、これで詰めかのう。サーヴァントを向こうによく保《も》ったと誉めるべきか」
老人の哄笑が空を覆う。
「――――――――」
饒舌な主に反して、アサシンは無言だった。
彼にとって戦闘は作業である。
急所を狙う短刀《ダーク》は、同時に獲物の能力を測る物差しでもある。
一の短刀が防がれる事で獲物の運動性を測り、
二の短刀で獲物の行動法則を測る。
保つ距離は常に四間。
その、投擲武器でしか届かない間合いを保ちつつ、暗殺者は獲物の“能力”を推量するのだ。
一撃で倒せぬとあらば、一撃で倒せる位置まで敵を追い込む。
手足を切り刻み、肉体を疲労させ、心臓を破裂寸前まで追い込んでいく。
アサシンにとって、短刀は真の“必殺”へ繋ぐ布石にすぎない。
短刀によって獲物の力を測り、絶対の好機へと戦いを運び、魔の腕を叩きつける。
それは作業であり、アサシンにとっては何の愉しみもない日常だった。
だが―――退屈な作業ではあったが、神父は思いの外よい獲物だった。
使用した短刀は二十を超える。
技量を測ると言っても、放つ短刀は全て必殺だ。
それを凌ぎながら森を抜け、この廃墟に辿り着いた。
人間と侮ったが、神父の力量は驚嘆に値する。
「ふ――――、ふぅ――――、ふ――――」
だがそれもここまで。
もはや走る体力も尽きた神父は、壁に背を預けてアサシンを見据えるのみ。
隠し持つ黒鍵は残り三本。
弾丸の如く放った七本の黒鍵は、悉《ことごと》くがアサシンに躱《かわ》され、何処かに消えていった。
「では幕じゃな。慈悲をくれてやるがよい、アサシン」
髑髏が揺れる。
アサシンは無動作《ノーモーション》で短刀を撃つ。
狙うは眉間膵臓横《三点》隔膜。
まったく同時、一息で放たれた紫電に、神父は手にした黒鍵で対抗する。
必至《ひっし》、という言葉がある。
その手を行えば必ず殺す、という勝利を確定する一手。
それがこの一投だ。
急所を狙う三撃こそ誘い。
短刀を弾いた瞬間こそが、言峰綺礼の終わりである。
「――――死ね」
翼がはためく。
呪いの長腕《ながうで》、片翼の槍が展開される。
―――それは、回避不可能の攻撃だった。
アサシンは神父の運動能力を把握している。
疲労し出血した獲物の能力を悟っている。
―――故に必至。
あの獲物は短刀《ダーク》による死は防ぐだろう。
だがその後はない。
いかに逆転の為に体力を温存しようと、身体能力は神父の思惑に付いてこない。
三撃の短刀を弾いた神父に許された行為は、かろうじて真横に跳躍する事だけ。
それもわずか二間、この腕から逃れるだけの力はない―――!
――――魔腕が伸びる。
神父に恐怖はない。
この展開は覚悟していた。
短刀が誘いである事も、弾いた瞬間に魔腕を叩き込まれる事も、自身に回避する手段がない事も、全て読んでいたのだ。
そう、これはどう足掻《あが》こうと躱せぬ必至。
故に、
「告げる《セット》――――」
残された手段は、この身を捨てての相打ち狙い―――!
「――――――ふ」
髑髏が笑う。
心臓を掴み取らんと繰り出される魔腕と、
神父の黒鍵が交差する。
だが問題ない。
直撃するのはアサシンの魔腕のみ。
なるほど、この体勢で放てば黒鍵は命中する。
だが悲しいかな、いかな魔術効果を足したところで、神父の黒鍵ではアサシンを倒しきれない。
三本の剣はアサシンを貫通し、背後の幹に縫い付けるだろう。
だがそれだけ。
神父はアサシンに傷を負わせたという功績をもって、同時に心臓を掴み取られ死滅する――――!
先に事を成したのはアサシンの腕だった。
彼の宝具――――“妄想心音《ザバーニーヤ》”は確かに神父の胸に張り付き、偽りの心臓を作り上げた。
しかし、その手応えがない。
男の心臓は、まるで空っぽのように反応しない。
「な―――」
瞬間、衝撃が炸裂した。
三針の黒鍵はアサシンを弾き飛ばし、その黒衣を大木に磔《はりつけ》る。
「ニィィィィイイ!?」
驚愕は二つ。
一つは黒鍵によって動きを封じられたアサシン、
そしてもう一つは、
「馬鹿な、なぜ死なぬ綺礼――――!?」
「――――――――」
翻る神父の黒衣。
跳躍する。
冗談じみた上昇は、砲台の弾丸そのものだった。
力を溜めに溜め、限界まで引き絞った筋肉を解放し、十メートルの距離をゼロにする超人芸。
それは生い茂った木々の高み、
神父の処刑を愉しんでいた間桐臓硯の頭を、一瞬にして『掌握』した。
「ぬ――――ア、アサシン、何をしておるか……!」
何をしているかなど語るまでもない。
頼みの護衛は三本の黒鍵によって、幹に磔《はりつけ》られている。
アサシンにとっては掠り傷。
だが老人の救助を不可能とする聖なる釘。
「私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」
絶対に勝てないと知った敵になぜ挑もう。
もとより、彼の狙いは初めからソレだけだと言っていたではないか。
「お――――おのれ、貴様、貴様……!」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」
神父は老人の頭を鷲掴みにし、そのまま地上へと落下する。
「ギ――――!」
「打ち砕かれよ。
敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え。
休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」
容赦などない。
老魔術師の肉体を地面に叩きつけ、全身の骨を砕き、頭部を鷲掴みにしたまま壁に叩きつけ、
「は――――そうか、ワシを殺すか! よかろう、好きにするがいい。だがそれで何が変わる。おまえの望みが叶うとでも思うておるのか!」
「装うなかれ。
許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」
歩いた。
壁に血の跡を残しながら、淡々と歩き出した。
「ははは、ははははは! なんと救いようのない男よ、いまだ人並みの幸福とやらを求めているのか! そのようなもの、おぬしには絶対《・・》にない、と理解したのではなかったか!」
壁に描かれていく血の跡《あと》肉の跡《あと》。
老魔術師の体はもはや頭しか残っていない。
ずるずると、壁という鑢《やすり》に摩り下ろされた。
その頭部も、もはや半分以下。
ぐちゃり、と脳みそを壁にペーストされながら、老魔術師は最後の哄笑をあげる。
「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう。
永遠の命は、死の中でこそ与えられる。
――――許しはここに。受肉した私が誓う」
「そう、おまえには永遠にない。綺礼よ、ぬしは生まれながらの欠陥者にすぎん。この世の道理に溶け込めぬまま、静観者であり続けるがよい……!」
「――――“この魂《キリエ・エレイソン》に憐れみを”」
――――消えていく哄笑。
目には見えぬ重み、人の眼には映されないカタチが薄れていく。 洗礼詠唱。
彼等の聖典、“神の教え”は世界に固定《システム》化された魔術基盤の中でも、最大の対霊魔術とされる。
肉の身より離れ、腐り狂いながらも世に迷う魂を“無に還す”摂理《せつり》の鍵。
それは大いなる慈悲を以って、五百年を生きた老魔術師の妄念を昇華した。
◇◇◇
時間が止まっている。
「――――やだ。
わたしこんなのやだよぅ、バーサーカー……!!!」
懇願するようにイリヤは巨人に叫び、
巨人はそれが誰であるかも判らず、大剣を振り下ろそうと――――
「イリヤァァァアーーーーーーーーー!」
走る。
飛ばされた距離は十メートルほど。
こんな距離は一瞬だ。走れば絶対に間に合う。
一息分の呼吸、ジェット気流の如く全身を駆け巡る血液麻薬推進剤、発火する思考は電荷の如く――――!
―――踏み込む。
体は軽い。時間は止まって感じられる。
―――これなら間に合う。
絶対に間に合う。だが、間に合ったところで。
―――黒鍵では歯が立たなかった。俺では歯が立たなかった。
だから。
―――摸索し検索し創造する。
ヤツに勝てるモノ。
この場でヤツに太刀打ちできるモノは。
―――明瞭だ。
即ち、ヤツが持つ大剣以外有り得ない―――!
――――防いだ。
“投影”は当然のように成功し、巨人の斧剣を受け止めた。「 あ」
亀裂が入る。
投影で作り上げた斧剣に亀裂が入る。
それは、同時に
「!」
「あああああああああああああああ!」
使ってはならないモノを使った俺への、死に近い反動だった。
弾かれる。
巨人の第二撃を防いだ斧剣は粉々に砕かれ、俺の体も、ゴミのように地面を転げ滑っていく。
――――なくなる。
意識が無くなる。
考えられない。
散らばった自分を必死にかき集めても考えられない。
左腕が反乱する。
血液が氾濫する。
左腕の拘束は外れていないのに投影をしただけで知能指数は半分になって二度ともう戻らないような悪寒、悪《・》い予感は現実になる《・・・・・・・・・》、大切なものからなくしていくぞ《・・・・・・・・・・・・・・》。
「――――、あ」
強い風の中にいる。
強い光の中にいる。
見失った見失った。
あまりの痛みで見失った。
探しているのに見つからない。
我《ガ》は砂漠に落ちた粒となって二度と誰にも見つからずただ乾いて乾いて乾いて乾いて――――
「シロウ! しっかりして、ちゃんと自分を見つけなさい……!」
イリヤがいる。
俺は倒れている。
黒い巨人から十メートルほど離れている。
巨人は弾き飛ばした俺を探すように、赤い両眼をギラつかせている。
「――――――!」
意識が戻った。
悠長に倒れている場合じゃない。
体、体はまだ動く。
外傷は木の枝による擦り傷だけ、出血なんて滲む程度。
ただ苦しい。ぜいぜいと喘ぐ舌、走り通しで体の中には一息の酸素もなく満足な呼吸が欲しい。
それだけだ。
肝心なのは中身―――その中身も冷静に診断したくもないが、まだ充分に戦える――――!
「イリヤ、一旦離れるぞ……!」
イリヤの手を握って立ち上がる。
体は無事でも今は酸素が欲しい。
たとえ一分でもヤツの間合いから離れて、呼吸を整えなくては話にならない――――!
が。
「……なんで? シロウ、自分がどうなってるか判ってるの?」
イリヤは、俺の手を拒むように引き下がった。
「――――――――」
どうかしていた。
イリヤの背後には、こちらに狙いを定めようとするバーサーカー。
俺は俺で酸欠で頭が正常《まとも》じゃなく、イリヤがどうしてそんなコトを言うのかが考えられない。
「イリヤ?」
「……ごめんなさい。けどもういいの。もういいから、シロウ一人で逃げて」
「――――――――」
俯いてイリヤは言う。
頭が回らない。
回らないから、完全に頭にきた。
「ああもう、こんな時にまで駄々こねるなっ! 行くぞイリヤ、今はそんな場合じゃないだろう!」
「きゃっ……!?」
イリヤの腕を引っ張る。
その小さな体が、その小さな体で俺を助けようとする心が、ひどく、尊いものに感じられた。
「ちょっ、なにするのよシロウ! もういいって言ってるじゃない……! 今ならまだ間に合うから、シロウ一人で逃げて!」
ぽかぽかと頭を叩いてくる。
それを無視して、
「黙ってろ……! んなコトできたらな、そもそもこんなところに来てないんだよ……!」
ぎゅっと、イリヤの体を抱きしめた。
「な――――」
どうして、とイリヤは目で問いかけてくる。
ふざけてる。
そんなの、どうしても何もない――――!
「理由なんてあるかっ! 俺はかってにイリヤを守るだけだ! いいか、兄貴はな、妹を守るもんなんだよ!」
「はあ!? ばっかじゃないの、わたしはシロウの妹なんかじゃないもん!」
「いいんだよ! 一度でもお兄ちゃんなんて呼ばれたら兄貴は兄貴だ! たとえ血が繋がってなくても、イリヤは俺の妹だろう……!」
「――――――シロウ」
黒い巨人がこちらに向き直る。
「走れ、来るぞ……!」
考えるのは後だ。
今は全力で、あいつから距離を取らなければ……!
――――少し、異常だった。
イリヤの手を引いて走る速度は、自分の知っている衛宮士郎の脚力を遥かに凌駕している。
見覚えのある広場に出る。
「あ、はっ、っ、は――――!」
苦しげに吐き出される呼吸はイリヤのものだ。
体が麻痺しているのか、俺の呼吸は乱れていない。
酸素が足りなくて苦しいのに、呼吸そのものはまるでしていない。
まるで死人。
心臓はさっきから完全にストライキに入っている。
「あ、だいじょう、ぶ、走れる、から……!」
握り返してくるイリヤの指は、恐ろしいまでに熱かった。
イリヤには初めから、走り続けられるほどの体力は付属されていない。
イリヤの設計には、人間のような運動など想定されていないからだ。
「――――――――」
頭痛がする。
知りもしない知識が頭に入ってくる。
雑念は邪魔だ。
今は離れなければならない。
五感全てを封じられ、狂わされているあの巨人が、すぐそこまで迫っている。
一時、何かの間違いで引き離したが、さっきのスピードは望むべくもない。
俺の足はブルブルと震えていて、動けるのはあと十メートル足らずと冷静に判断できる。
イリヤもこれ以上は走れない。
隠れるにしても、この地形では身を隠せる遮蔽物《しゃへいぶつ》がない。
尤も―――何も見えてない巨人《バーサーカー》にとっては、何に隠れようと無意味ではあるが。
「――――しめた」
だが一つだけ幸運があった。
広場には地割れのような窪みがある。
それは以前、セイバーの宝具によって抉られた大地の傷痕だ。
「イリヤ、こっちだ――――!」
イリヤの手をとって窪みに飛び込む。
塹壕じみた穴は人間二人を易々と収納した。
「は――――あ」
剥き出しの土に背中を預ける。
酸素を求めて顔を上げると空が見えた。
地底から見上げたような、切り取られた狭い空。
「は――――あ、あ――――」
深々と呼吸をする。
ほんの一時体を休め、極限にあった精神を緩める安息。
「っ……!」
それも一瞬だ。
巨人は決して見失わない。
何処に逃げようと確実に追い、捕らえ、惨殺する。
「………ぁ………、っ……」
押し殺した声は、傍らで縮こまった少女のものだった。
イリヤは声を殺して、こちらに負担をかけないよう、懸命に自分の体を抱いている。
「――――――――」
限界だ。
これ以上は逃げられないし、これ以上は我慢できない。
赤布《ひだりうで》に視線を落とす。
そこには唯一の打開策が、今か今かと解放を待っていた。
死ぬ。
言峰はこれが時限爆弾のスイッチだといった。
さっきの痛みが思い出される。
投影を使っただけで壊れかけた。
なら、この布を解いた時の痛みがどれほどのものなのか、想像する事もできやしない。
撃鉄は常に頭に。
赤い布に手をかける事は、銃口を口に入れて引き金を引くのと同じだ。
布をはがせば撃鉄が落ちる。
脳は確実に頭蓋から後ろにぶっ飛び、あらゆる出来事はそこで終わる。
「――――――――」
覚悟を決めろ。
答えなぞ初めから出ていた。
イリヤを連れ戻して桜を助ける。
それがどういう事かは判っている。
イリヤをこのまま守りきって、あの得体の知れない影を倒して、桜から引っぺがす。
そんな、自分では手の届かない奇蹟を願った。
今でも全霊をかけて、その結末を望んでいる。
それが自分では叶えられない理想《ユメ》だと理解しても、諦める事さえ考えなかった。
「――――――――」
なら、いかないと。
桜を救って、イリヤも助ける。
そんなコトは出来ない。
死に行く者、破滅を迎えるしかない桜。
それを救うという事は奇蹟だと、誰かが言った。
――――そうだ。
人の身では成し得ない救い。
自分の手にあまる奇蹟を成し得るのなら、相応の代償が必要になる。
自分を守って誰かを守る事などできない。
破滅に進む桜を救う為には。
誰かが、その席を替わらなくてはならないとしたら。
大地が震えている。
暴風の具現が急速に近づいてくる。
「―――外に出る。あいつを倒していいな、イリヤ」
「え……?」
呆然と顔をあげる。
イリヤは、俺の右手が左腕にそえられている事に気がついた。
「だめ……! それだけはだめ、アーチャーの腕を使ったら戻れなくなる……! 死ぬのよ、いいえ、死ぬ前に殺されるわ。シロウが、何も悪いコトをしてないシロウがそこまでする必要ない……!」
「それはなんとか我慢する。死にそうになってもなんとか我慢するから、イリヤは心配しなくていい。
ああ、あと一つ訂正。俺だって、悪いコトぐらいしてきたぞ」
「え――――シロウ……?」
「じゃ、行ってくる。イリヤはここで待っててくれ」
ぽん、とイリヤの頭に右手を置いて、亀裂の中で足を進めた。
イリヤから離れる。
バーサーカーをひきつけ、正面から迎撃する。
その時、万が一にもイリヤを巻き込まないように離れておかないといけない。
「――――来たな」
左肩、聖骸布の結び目に手をかける。
手首《リスト》は際立って強く結ばれているので、引き剥がすなら肩口からだ。
あとは力任せに引っぺがすだけ。
それだけで、今まで経験した何十倍もの、あの痛みがやってくる。
「――――――――」
言峰は時限爆弾のスイッチだといった。
外せば導火線に火がつく。
爆発するのは一分後か一日後かは判らない。
ただ確実に判るのは、一度ついた火は決して消せないという事だけ。
―――舌が渇く。
覚悟したところで恐怖心は消え去らない。
不安で不安で叫びだしたくなる。
―――正気でいられるか、と。
俺は、俺自身が怖くて怖くてたまらない。
自分が死ぬのは当たり前だ。
だって、このままでいても殺される。
どちらにしても殺されるのなら、少しでも長く続く方を取るだけだ。
だから、恐ろしいのはただ一つ。
この体が壊れるより速く、俺の心が狂ってしまわないかという事だけ。
「は―――――――あ」
あの痛みに耐えられるのか。
戦う前に自分も判らなくなってイリヤも桜も判らなくなるのか。
判らなくなって、守ると誓った言葉さえ思い出せなくなるのか。
それが怖かった。
その一点が何より怖かった。
だから封じた。
この腕は決して使わない、死ぬような目にあっても使えないと判っていた。
……バーサーカーの姿は他人事じゃない。
左腕の痛みに耐えかね、正気を失えばああいったモノになる。
いや、その怖れは左腕がある限り有り続けるだろう。
この腕は俺を殺す悪夢の具現だ。
だが。
そこまで判っていて、ここまで残したのは何の為だったのか。
――――切り落としてしまえばいい。
そう思いながらここまで残した理由は一つだけ。
この腕は使われる為に有り続け、ヤツは必要だから俺に託した。
俺は俺自身に裁かれる、とヤツは言った。
悪いコトなんてしていない、とイリヤは言ってくれた。
「ああ――――それで充分だ」
贖《あがな》いはここに。
己を裏切り、多くの命を犠牲にした。
譲れないモノは変わらず、その為に在り続ける。
赤い罰に力を篭める。
生きるか死ぬか。
立ち向かうための深呼吸をして、引き裂くように右腕を――――
瞬間。
世界が崩壊した。
「 、あ」
絶望が吹いている。
秒速百メートルを優に超える超風。
人が立つ事はおろか、生命の存在そのものを許さぬ強風が叩きつけられる。
既に風などではない。
吹き付けるソレは鋼そのもので、風圧に肉体が圧し潰される。
「 、が」
眼球が潰れる。
背中が壁にめり込む。
手を上げるどころか指さえ動かない。
逆流する血液。
漂白されていく精神。
痛みなどない。
痛みを感じ、堪えようとした事など、ここではあまりにも人間らしい。
「 あ、あ」
とける。
抵抗する苦悶さえあげられない。
何もない。
抗う術などない。
先に、前に進まなくてはいけないのに、指一本動かせない。
「 ああ、あ」
白くとける。
体も意識も無感動に崩れていく。
前へ。
なんのためにここにいるのか。
それでも前へ。
なんのためにこうなったのか。
あの向こう側に。
なんのためにたたかうのか。
この風を越えて、前へ。
「 ――――」
――――消える。
体は初めから敗れていても心だけは負けるものかと食いしばっていた心が消える。
保た、ない。
どんなに力をいれても動けない、
どんなに心を決めても残れない。
自分の全存在を懸けて右手を握り締めようと試みる。
それが出来れば踏み止まれる。
体の一部が動けば、その感覚を足場にして前に出れる。
拳を握るどころか指先さえ動かない。
左眼が潰れた。
風鳴りが鼓膜を破る。
薄れていく意識と視界。
その、中で ありえない、幻を見た。
「 あ」
立っている。
この風の中であいつは立っている。
立って、向こう側へ行こうとしている。
―――当然のように。
赤い外套をはためかせ、鋼の風に圧される事なく、前へ。
「 ああ、あ」
顎に力が入った。
ギリギリと歯を鳴らした。
右手は、とっくに握り拳になっていた。
赤い騎士は俺など眼中にない。
わずかに振り向いた貌《かお》は厳しく、この風に飲まれようとする俺に何の関心もない。
ヤツにとって、この結果は判りきった事だった。
衛宮士郎ではこの風には逆らえない。
自分を裏切り、手に余る望みを抱いた男に未来などないと判っていた。
ヤツの言葉は正しい。
溜めに溜めた罰《ツケ》は俺自身を裁くだろう。
だというのに、ヤツの背中は。
“――――ついて来れるか” 蔑むように、信じるように。
俺の到達を、待っていた。「 ――――ついて来れるか、じゃねえ」
視界が燃える。
何も感じなかった体にありったけの熱を注ぎ込む。
手足は、大剣を振るうかの如く風を切り、
「てめえの方こそ、ついてきやがれ――――!」
渾身の力を篭めて、赤い背中を突破した。
「」
地上に踏み上がる。
風は途絶えた。
黒い巨人まで、距離にして三十メートル。
ヤツなら三秒とかからず詰める。
―――故に。
勝敗は、この三秒で決せられる。
思考は冴えている。
自身の戦力は把握している。
創造理念、基本骨子、構成材質、制作技術、憑依経験、蓄積年月の再現による物質投影、
魔術理論・世界卵による心象世界の具現、魂に刻まれた『世界図』をめくり返す固有結界。
アーチャーが蓄えてきた戦闘技術、経験、肉体強度の継承。訂正、肉体強度の読み込みは失敗。斬られれば殺されるのは以前のまま。
固有結界・“無限の剣製”使用不可。
アーチャーの世界と俺の世界は異なっている。再現はできない。
複製できるものは衛宮士郎が直接学んだものか、ヤツが記録した宝具のみ。
左腕から宝具を引き出す場合、使用目的に最も適した宝具を“無限の剣製”から検索し複製する。
だが注意せよ。
投影は諸刃の剣。
一度でも行使すれば、それは自らの――――
「――――――――」
呼吸を止め、全魔力を左腕に叩き込む。
把握するのは使える武装だけでいい。
注意事項など先刻承知。
もっと前へ。
あの風を越えて、俺は、俺自身を打倒する――――
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
凝視する。
ヤツの大剣を寸分違わず透視する。
左手を広げ、まだ現れぬ架空の柄を握り締める。
桁外れの巨重。
衛宮士郎ではその大剣は扱えない。
だが―――この左腕ならば、敵の怪力ごと確実に複製しよう。
「――――――――、ぁ」
壊れた。
パシ、と音をたてて脳の一部が破裂する。
骨格は流出する魔力に耐え切れず瓦解。リンゴの皮みたいにみっともない。
「――――――――行くぞ」
心配など無用。
壊れた個所は が補強する。
我が専心はヤツの絶殺にのみ向けられる。
「!」
気付かれた。
収束する殺意。
こちらの魔術行使を敵と見なし、黒い巨人の眼が動く。
黒い、凶《まが》つ星のようだ。
巨人は断末魔をあげながら、自らの敵を討ちに走る。
―――狂戦士。
狂ったまま、巨人は変わってはいなかった。
アレは、未だセイバーとの戦いの中にいるのだ。
目は見えず、正気を失い、二度の死を迎え全身を腐敗させながら、尚、イリヤを守ろうと戦っている。
――――――――――、一秒。
「――――――――」
走りくる巨人は一撃では止まらず、通常の投影など通じまい。
投影魔術《トレース》では届かない。
限界を超えた投影でなければ、あの巨人は倒せない。
故に―――
「――――投影《トリガー》、装填《オフ》」
脳裏に九つ。
体内に眠る二十七の魔術回路その全てを動員して、一撃の下に叩き伏せる――――
――――――――――、二秒。
目前に迫る。振り上げられる大剣。
激流と渦巻く気勢。
踏み込まれる一足を一足で迎え撃ち。
上腕 鎖骨 喉笛 脳天 鳩尾 肋骨 睾丸 大腿、
その八点に狙いを定め、
「全工程投《セット》影完了――――是、射殺《ナインライブズブレイドワークス》す百頭」
振り下ろされる音速を、神速を以って凌駕する―――!
「―――、…………!」
だが倒れない。
自らの大剣に全身を撃ち抜かれ尚、バーサーカーは健在だった。
「は――――あ――――………!!!!!」
踏み込む。
左手には巨人の大剣。
こちらが速い。
体の八割を失い、殺されたバーサーカーより俺のトドメの方が速い。
大剣を胸元まで持ち上げ、槍の様に叩き込む。
「――――!!!!」
だが、負けた。
後先も何もなく。
与えられた反則級の特権を臆面もなしに全開投入して、なお負けた。
バーサーカーの一撃が迫る。
旋風を伴って振り下ろされる。
「――――――――」
体をひねる。
全能力を回避に費やす。
気付いたのは早かった。
だから躱せる。
バーサーカーの一撃はギリギリのところでこめかみを掠《かす》めていくだけだ。
――――だがそれで即死。
大剣の先端、わずか数ミリが掠っただけで死ぬ。
直撃ならば大地をも殺しかねない一撃だ。
俺の頭など、切っ先が掠っただけで豆腐のように吹き飛んでしまう。
大剣が迫る。
自分の頭が吹き飛ばされる瞬間に視界が凍る。
―――だが。
脅威的なスピードで繰り出された大剣は、
脅威的なスピードで止められた。
「――――――――え?」
死の一撃は標的《このおれ》まで落とされない。
「――――――――」
黒い巨人は、前を見ていた。
懐にいる俺ではない。
窪みから地上に出てきていた白い少女を、理性のない眼で見つめていた。
貫いた。
躊躇わず、微塵も情を零さず、バーサーカーの心臓に大剣を叩き込む。
反撃はない。
巨人は残る命を使いきり、今度こそ塵に帰っていく。
……その刹那。
消えていく赤い眼が、少女を見つめたまま、おまえが守れと告げていた。
――――戦いは一瞬。
本当に一息の間に、決着はつけられた。
少年は震える唇で、行ってくる、と少女に伝えた。
疲労と不安を押し殺して、赤い拘束具に手をかけて少女から離れていった。
少女が地上に出たのは、少年を止める為だ。
離れていく背中を、どう止めるべきか一息だけ迷って、言葉など思いつかず、耐え切れなくなって外に出た。
それは時間にして、十秒もなかったと思う。
だが、そのわずかな躊躇いが明暗を分けてしまった。
「シロ――――――――」
少年の後を追うように地上に出る。
戦いは終わっていた。
彼女の守り手であった巨人は、最期に少女を見つめたまま消えた。
戦いの終わりを告げるように、広場には風が吹き込む。
少女の視界には、その背中だけが残された。
「――――――――」
戦いは終わった。
英霊の腕の力などではない。
少年は、自らの力で、自らの死と戦い、打ち勝った。
少女は少年の背中を見守り続ける。
振り返る事なく、二度と振り返らないだろう、その背中を。
聖骸布を解放し、巨人を倒した少年の姿は、力強く雄雄しかった。
そこに迷いは見られない。
布を解き、投影を行使した時点で、彼はあらゆる煩悶を落としたのだ。
「―――――――――シロウ」
その背中を、少女は悲しげに見守り続ける。
別人のような姿、別のものになってしまった少年の体。
―――引き返す道をなくしてしまった、愚かで尊い、ある一つの結末を。
「――――――――、は」
止めていた呼吸を再開する。
左腕が熱く、体中が痛い。
体内に電気製の蛇がいて、縦横無尽にはねまくっている。
「ぁ――――、ずっ――――」
とてもじゃないが立っていられない。
早く。
少しでも早く左腕を布で覆って、この痛みから逃れないと時間切《タイムリミット》れが来てしまう。
「っ――――、は――――あ」
だが、今はまだ拘束できない。
左腕を押さえつけるのも、腰を落とすのも、
彼女を、撃退してからの話だ。
「――――セイバー」
痛みを飲み込み、気合負けしないようにセイバーを見据える。
「……………………」
初めからバーサーカーに追随していたのか、セイバーは敗れた巨人の仕事を引き継ぐように、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
……そうして四間。
彼女なら一息で踏み込める間合いで、セイバーは足を止めた。
「――――――――」
「……………………」
真正面から対峙する。
―――倒される。
バーサーカーとの戦いでこっちはまともに動けない。
セイバーに斬り込まれれば躱す事さえできず真っ二つにされる。
それだけじゃない。
たとえ五体満足であろうと、俺ではセイバーには勝てない。
セイバーが手にする宝具―――アレを上回るモノを、俺はどうあっても投影できない。
だから勝負は決まっている。
セイバーを倒せるとしたら、それは彼女の宝具に拮抗する宝具を、その持ち主に使ってもらうしかない。
「――――――――は」
その時点で矛盾している。
攻撃力において、セイバーの宝具は最強だ。
いや、あの聖剣を上回る武器を持つ英霊もいるかもしれないが、この聖杯戦争においてそんなヤツは存在しない。
現状でセイバーを倒せるとしたら、それはセイバーの剣だけだ。
故に矛盾。
こと戦闘面において、いまやセイバーは最強のサーヴァントだ。
……家《うち》の中庭で見た桜は、確かに桁外れの魔力量を誇っていた。
だが、その桜でさえセイバーを倒しきれまい。
俺というマスターから解放され、魔力を充分に供給されるようになったセイバーは文字通り無敵なのだ。
「―――無駄な事を。貴方では桜は救えないと忠告した結果がそれですか」
セイバーの声に感情はない。
「―――――!」
それが合図だ。
容赦もなく間隙もなく、彼女は俺を斬り伏せにくる。
「こ――――」
それがどうした。
ここで殺されるワケにはいかない。
相手がセイバーだろうと負けられない。
倒す事はできなくても、今の自分ならイリヤを連れて逃げ果せるぐらいは――――
「ですが幸運ですね。自滅する者に関わっている場合ではなくなった。―――桜が、私を呼んでいる」
「え――――?」
セイバーは背中を向けて、森の奥へと歩いていく。
「……いえ。運ではなく、自らの手で勝ち取った生還でした。貴方はバーサーカーを倒した。その決意が、この結果を引き寄せたのですから」
セイバーは振り返る事なく去っていく。
……呼び止める事など出来ない。
彼女は敵だ。
理由はどうあれ、見逃してくれるのなら有り難く情けに預かる。
こっちは満身創痍で、敵を呼び止める余裕なんて一欠けらもない。
「――――――――」
痛みをかみ殺して、遠ざかっていくセイバーに背を向ける。
今はイリヤを連れてこの森から出る。
……敵はセイバーだけじゃない。
桜とあの影を引き離すにしても、臓硯がいるかぎり邪魔をしてくるだろう。
「っ――――ぐ」
自分の体がどうなっているのか、どうなろうとしているのかは理解している。
投影は、出来てあと三回。
……いや、五体満足でいたいのならあと一回も危ない。
そんな状態で臓硯とアサシンの相手は出来ない。
倒したところで体が破裂してしまっては意味がない。
なら、満足な体で許される最後の一回は、遠坂との約束にあてるべきだ。
それなら―――俺が戦闘不能になっても、まだ望みは残ってくれる。
「シロウ……?」
どこからかイリヤの声が聞こえる。
「……ああ。今は少しでも早く森を出よう。
セイバーの―――いや、桜の気が変わったら今度こそ逃げ切れない」
イリヤを視認できない。
心臓の鼓動はやけに巨大で、ギシギシと頭蓋の中を跳ね回っていた。
◇◇◇
―――聖言《ホーリーワード》による浄化。
神父の悪霊祓いによって、間桐臓硯の霊体は霧散した。
広場に残された者はただ二人。
黒衣を朱色に染め、満身創痍で壁に寄りかかる言峰綺礼と、
黒鍵によって大木に縫い付けられた、髑髏の暗殺者のみである。
「―――完全に魔術師殿を消したな、代行者。アレが蟲の集まりだと知っていたのか」
「――――」
声へと振り返る。
アサシンの姿はとうにない。
幹には突き刺さった黒鍵と、わずかな血の跡だけがあった。
「……アレとは長い付き合いでな。蟲を触媒にしてこちらに干渉する霊体だと知っていた。故に肉体を千切ったところで効果はない。殺すのなら、跡形もなく肉体を擦り潰すか」
「貴様のように霊体そのものに攻撃するか、か。
なるほど、人間にしては強い括りで留まっていた魔術師殿だが、経典による聖言には弱かろう。
悪霊払いとはよく言ったものだ。マトウゾウケンにとって、貴様は天敵だったという事か」
「――――――――」
神父は答えず、傷だらけの体を確認する。
出血は止まっている。
武器こそなくなったが致命傷はなく、この分なら数分休めば体力も回復するだろう。
「それで、どうするのだアサシン。おまえのマスターは消えた。魔力提供がなくなったおまえならば、私の聖言でも充分に通用するが」
「……だろうな。この体はじき消える。新しいマスターを得なければ、この森に漂う浮遊霊と大差はない。この身は一日を待たず下級霊に落ち、この世から消え去るだろう」
「そうだ。マスターのいないサーヴァントであらば、代《わ》行者《たし》でも傷は与えられる。
それで、どうなのだ。主の仇討ちをするかアサシン」
「それほど酔狂ではない。魔術師殿は慢心によって敗北した。私の落ち度とは思えぬ。
思えぬが、合点のいかぬ事がある。それを聞かねば納まりがつかん」
「“妄想心音《ザバーニーヤ》”の不成功か。
悪魔《シャイターン》より譲り受けた腕と見たが、地獄の天使《ザバーニーヤ》の名を冠する以上、私に効き目はない。
それは人を罰するモノ故、同種の存在を呪えるものではない。……既に人のモノではない私の心臓は、“呪い”には滅法強いのだ」
「――――やはり。貴様の心臓はあの娘と同じだった。
貴様、既に汚染されていたな……?」
神父は答えない。
ただ皮肉げに口元を歪めただけだ。
「……だが、だとしても何故知っていた。貴様の行動は私の腕が効かない、と知っていなければ出来ぬ事だ。
貴様は初めから、私に宝具を使わせるつもりでいたな?」
「そうだな。おまえの腕は知っていたぞアサシン。
対象の心臓とまったく同じ偶像を作り、反鏡存在とする事で実像の心臓とすり替える呪いの腕。
私のサーヴァントは、その腕によって破れたのだ」
「――――! では、貴様は」
「ああ、見ていたとも、ヤツが息絶える瞬間までな。
知っていたのは当然だろう。ランサーを倒した時点で、おまえの失態は決まっていた」
「――――チ。確かに、これは失態だ」
憎々しげに舌打ちをするアサシン。
同時に、放たれていた殺気が途絶える。
神父の答えに満足したのか、アサシンは呆気なくこの場から離脱していった。
「……次の契約者を探しにいったか。
大方、次の雇用主は間桐桜といったところだが―――」
神父にとってそれは問題ではない。
要は間桐臓硯が、間桐桜を『殺して』しまわねばそれでよいのだ。
臓硯の望みは不老不死。
それは聖杯と化した間桐桜の肉体だけで事足りる。
あの老人が生きていては、聖杯の中で受胎した“呪い”が孵《かえ》る事はない。
ここまで育った間桐桜を、臓硯《むし》の乗り物になどさせては意味がない。
間桐桜には、このまま“寄り代《マスター》”で在り続けてもらわねばならない。
何故なら、それは
“――――そう、おまえには永遠にない。
ぬしは生まれながらの欠陥者にすぎん―――”
「――――――――」
わずかに立ち眩みがした。
血を流し、疲れきっているせいだろう。
神父は壁に背を預け、一時だけ、眠るように目蓋を閉じた。
それは、十年以上も前の話。
“生まれながら欠陥している――――” その事実を受け入れた後、男はあらゆる努力をした。
道徳を識りえぬ身でありながら常識を持つ男の青年期は、それを克服する為だけのものだった。
だが叶えられた事はない。
男の苦行、苦悩は癒されぬまま、悉く無駄に終わった。
その最後の試みが、一人の女だった。
単純な話だ。
どのような人間であろうと、異性を愛し、家庭を持ち、静かに息絶える姿を幻想しない者はいない。
その平穏を嫌悪しようと、それを夢見ない人間はいないのだ。
男も例外ではない。
そこに一握りの魅力も感じずとも、そうできたらいいと願い、
人並みの幸福を得ようと、一人の女を愛した。
男が選んだのは未来のない女だった。
病に蝕まれた女は数年程しか生きられまい。
そんな女だから選んだのか、その女しか選べなかったのか。
その基準だけは、こうして思い返しても判らない。
生活は二年ほど続いた。
男は女を愛そうとした。
女も男を愛そうと努力し、愛し、子もなした。
だが結果は変わらない。
男にとっての幸福とは女の苦しみであり、我が子の絶望に他ならなかったからだ。
愛そうとすれば愛そうとするほど、愛する者の苦しみだけが、男にとっての救いになった。
その矛盾に男は苦しまない。苦しんでいたかも判らない。
ただ女が自分を癒そうとすればするほど、この女の嘆きが見たいと思う自分がいるだけだ。
女は聖女だった。病気持ちの女だったが、男に言わせれば聖女だった。
女がどれほど信心深く、また、男の憤怒を理解していたかは言うまでもない。
それ故、男の絶望は近かった。
あれほど自分を理解し、癒そうとする人間はこの先現れまい。その女ですら、自分の欠損を埋める事はできなかった。
ならば――――もはや、生きて是非を問うこともない。
自分は欠陥品として生まれた。
己《こ》の誕生は何かの間違いだった。
間違いなら消えるだけだ、と結論を下し、己が死を迎える前に、女に別れを告げにいった。
己が試みの為に妻としたのだから、終わりを告げるのは当然の義務だった。
女は言峰を愛していた。
言峰も女を愛そうと考えた。
この話は、それだけの事である。
終わりは、あまりにも速やかだった。
「私にはおまえを愛せなかった」
石造りの部屋に訪れ、男はそれだけを告げた。
死病に冒された女は笑って、立ち上がる事もできぬ細い、骨と皮だけの体で、
「―――いいえ。貴方はわたしを愛しています」
そう微笑んで、自らの命を断った。
止めようがなかったし、止めても意味のない事だった。
女は死病に冒されている。いずれ死ぬ身だ。もとよりそういう女を選んだのだ。
血に染まった女は、掠れていく意識で男を見上げて、笑った。
「ほら。貴方、泣いているもの」
無論、泣いてなどいない。
女には、そう見えただけの話だ。
貴方は人を愛せる。生きる価値のある人だと、女は死を以って証明した。
男は無言で部屋を去り、主の教えに決別した。
―――そう。
確かに悲しいと思った。
だがそれは女の死にではない。
その時、男は思ってしまったのだ。
“なんという事だ。どうせ死ぬのなら、私の手で殺したかった” 彼が悲しんだものは女の死ではなく、女の死を愉しめなかった、という損得だけだった。
――――遠い昔の話だ。
今ではあの女の声はおろか、顔さえも思い出せない。
ただ、時に思う事がある。
“私の手で殺したかった”
それが自らの快楽によるものなのか、それとも――― 愛したものだからこそ、自身の手で殺したかった悲哀なのか。
その答えが脳裏を掠める時、彼は常に思考をカットした。
それは永遠に沈めておくべきものだ。
女の死は無意味だった。
その献身とて、男を変える事はできなかったからだ。
だが、それを無価値にする事を、男は嫌った。
―――答えを出す事を、永遠に止めたのだ。
……もうずっと昔の話だ。
他人の不幸だけを糧とし、世界が穢れるほど満たされる男の記憶。
その後、男は生涯の仇敵と出会う。
衛宮切嗣。
男が欲していたかもしれないモノを、自らの手で無価値とした一人の魔術師――――
「――――――――」
目蓋を開ける。
少し眠っていたようだ。
神父は体力の回復を確かめ、先行している衛宮士郎を追いかけようと歩を進め、
「――――いいえ、どこにも行けない。
だって、貴方はここで死ぬんだもの」
一人の少女に、その道を阻まれた。
少女は完全に変わっている。
身を包む装束は、彼女の影そのものだ。
アレは剥き出しの体に、自らの暗い魔力を纏っている。
―――その魔力量、存在感、ともに人間《ヒト》のモノではない。
今の少女は純粋なる英霊、抑止の守護者《カウンターガーディアン》と同格の位に達している。
「……完全に汚染されたな間桐桜。
体だけではない。精神まであの“呪い”に同調しなければ、そこまでの変貌はない。
―――認めたな。自分が『人を食う怪物』なのだと、開き直ったという訳だ」
それを望んでいたというのに、神父は少女を糾弾する。
怪物である自分を認め、その力に酔う少女を咎めるように。
「……くす。そう、自分の力に酔うのはいけませんか?
けど、きっと仕方のないコトなんですよ、これ。
だってみんな、今までわたしをいじめすぎました。もっとみんなが優しかったら、わたしだってもう少しぐらい我慢したと思うんです」
「――――ほう。我慢とは、何をかな」
「自分をですよ、神父さん。
こうなってやっと認められました。わたし、この世界がきらいなんです。
わたしを捨てた遠坂の家。わたしとは何もかも違う、なに不自由なく生きてきた姉さん。怖いお爺さまと可哀相な兄さん。わたしの痛みも知らず、平穏に過ごす町並み」
「そういうのが、今はすごく許せないんです。
……これが八つ当たりだって理解しています。けど、悪い事だって判っていても思ってしまうんです。
―――そう。
今までわたしを助けてくれなかった全てに、わたしを思い知らせてあげたらどんな顔をするのかって」
昏い悦びに浸るように少女は微笑む。
神父の眼差しは変わらない。
彼は汚いものを見るように少女を見据える。
「変わったな、間桐桜。……なるほど、その闇も適合する為の素質だったという訳か」
「ええ、変わりました。わたしは今までの間桐桜じゃない。あんな弱い子はもういないの。
……そう。今まで、みんなわたしを苦しめてきたんだもの。その仕返しに、わたしがみんなを苦しめてあげるだけ。ただ耐えているだけのワタシはとっくに消えたわ」
クスクスと笑う。
二重人格。
今までの間桐桜は消え、無意識に眠っていた別人格が表れた。
少女の妖艶さは、そうとしか思えない豹変ぶりだった。
だが、それを。
「―――何を言う。隠す必要などないぞ、間桐桜」
神父は、一言の下に否定した。
「な――――なにを、ですか」
「隠す必要などない、と言った。
おまえは別人格などではない。泥に飲まれ、暴力に酔うおまえもまた間桐桜だ。異なる人格を用意し、間桐桜は悪くない、などと言い訳をする必要はない」
少女の貌が強張る。
それは真実だったのか。
黒く染まった少女はぎり、と歯を噛み、目前の神父を睨み返した。
「なにを―――貴方が、貴方がわたしをこうしたクセに……!」
憎しみに満ちた声に、少女の影が反応する。
―――侵食は烈火の如く。
瞬く間に地面を覆った影の速度は、今までの比ではない。
「否定はせん。私がおまえを生かしたのはアレのマスターを続けさせる為だ。その期待に応え、おまえは見事アヴェンジャーを誕生させようとしている。
私では出来なかった事を、おまえは難なくやってのけたのだ」
「難なくなんかじゃない……! わたしがどれだけ苦しかったのか、今もどれだけ苦しいのか知りもしないで……!」
「知らんし、知る必要もない。小娘の恨み言を聞くほど酔狂ではないのでな」
「っ――――…………そう。
そうですね、わたしも知ってほしいなんて思わない。
そんな簡単に同情なんてされてやらない。わたしはこれから、一方的に思い知らせる立場なんですから」
酷薄な笑みが少女の口はしに浮かぶ。
「――――――――」
神父は躊躇うことなく後退した。
上空に潜む間桐臓硯を捕らえた時と同じく、一息で急速に間合いを離す。
―――そうして、神父はわずか一足で離脱した。
いかに強大な魔力を得ようと少女は素人だ。
戦闘経験もなく、魔術師としても未熟な彼女が相手ならば、神父はいかようにも離脱できる。
「―――馬鹿なひと。逃げられると思うの、わたしから?」
くすり、という笑い声。
瞬間、神父は力なく大地に転げ落ちた。
「ぐ――――ご…………!」
転がり落ちる。
口から鮮血を吐き出しながら、言峰綺礼は崩れ落ちた。
「は――――ぬ、ぐ…………!」
止まらない。
吐血は一向に止まらず、呼吸をしようと肺を動かすたび、血液が喉から吐き出される。
「どうですか、心臓を鷲掴みにされた感想は。どこに居ようと、貴方の命はわたしの手の上なんですよ?」
「ぬ――――、ぐ――――!」
「神父さん。貴方はもう、十年前に死んでいた。衛宮切嗣に心臓を撃ち抜かれて死んだんです。それでも生きてこれた理由はただ一つ」
「貴方はあの……ええっと、誰だったかな。この前食べたサーヴァントさんなんですけど、まあ、名前なんていいですよね。
あの金色の人が聖杯の中身を浴びて、まずアレと繋がった。けどあの人は汚染できなくて、アレはマスターである貴方に流れていったんですよね?
そうして貴方は蘇生した。
アヴェンジャー……“この世全《アンリ・マユ》ての悪”から魔力を供給される事で、一命を取り留めたんです」
「ふ――――そうか。では、今のは」
「はい。貴方はアンリマユと繋がっている。けどアンリマユはもうわたしでしょう?
――――だから、潰してあげたんです。今まで貴方を生かしていた黒《かりそめ》いの心臓を壊しました。
お望みなら内臓も潰してあげましょうか?
わたしの手は、貴方が何処にいようと、その中身を引きずり出せるんですから」
少女の手が上がる。
お望みなら、などとよく言ったものだ。
少女には神父を生かして帰す気はない。
神父がどれほどの助けを請おうと笑って殺す。
その中身、今まで生き長らえてきた仮初めの命を返してもらう。
なにしろそれは自分のものだ。
たとえ部屋の片隅につもった塵ほどの魔力であろうと、神父に譲ってやる道理はない。
「さよなら。わたしを生かしてくれた事だけは感謝しますね、神父さん」
少女の可憐な指が、見えない人形をねじ切るように握られる。
―――ごきん、という音。
倒れ伏した神父の体が雑巾のように絞られていく。
あと一掴み。
時間にして一秒もかからずに神父は完全に死に絶える。
だが、その寸前。
「っ――――! あ、う、あ――――!?」
少女の体がくの字に折れ曲がった。
……吐き出される鮮血。
少女は助けを求めるように、黒く染まった大地に爪を立てる。
「く―――いた、だめ、入って、こな、い、で――――!」
影が膨張する。
……何が起きたのか、少女の体を覆った黒衣は一回り大きく膨れ上がり、時間をかけて元の大きさに戻っていった。
「……うそ……バーサーカーが、負ける、なんて……」
それ以外に理由はない。
バーサーカーは破れた。
破れ、純粋な魔力《たましい》に戻り、聖杯である少女に取り込まれたのだ。
「――――ぁ――――あ――――」
思考が歪む。
間桐桜という人格が、また一つ端に押しやられていく。
……もうこれ以上端にはいけないというのに、大きな魂に壁に押し付けられてしまう。
「――――――――――――あ」
……消える。
消えてしまう。
このままでは間桐桜が消えてしまう。
「――――――――その、前に」
あの神父を殺そうと思い、視線を上げ、自らの詰めの甘さに舌打ちした。
「っ――――いい、です。どう、せ、放っておいて、も、すぐ死ぬん、だから」
廃墟に人影はない。
言峰綺礼が倒れていた地面には、血塗れの神父服だけが残されていた。
◇◇◇
想像していたより早く森の出口に辿り着いた。
森の主であるイリヤの案内があったからだろう。
公道に出ると、行きに使った車は消えていた。
俺たちは街に向かって公道を歩き始め、通りかかった車を止めて乗せてもらった。
森を走って泥だらけ傷だらけの俺とイリヤの組み合わせは、見るからに怪しい。
怪しいので、通りかかった車の前に出て無理やり止まってもらって、びっくりしている運転手さんにイリヤが暗示をかけ、これまた強引に乗せてもらったのだ。
いや。
生きているうちに、強盗みたいなヒッチハイクをするとは思わなかった。
「シロウ、帰ってきたよ。早くあがろ」
「――――え?」
あっという間に屋敷に帰ってきていた。
日は沈みかけている。
森から戻ってくるまでの数時間、うたた寝をしていたようだ。
居間に戻ると、日はとうに沈んでいた。
時計は七時を過ぎている。
「―――――――――」
何かおかしい。
時間の経過が速すぎる。
玄関に入るまでは夕方だったのに、居間にあがった途端夜になっているなんて、有り得ない。
「イリヤ。なんか、時間が過ぎるの速すぎないか?」
隣りにいたイリヤに話し掛ける。
「――――――――」
だが隣りにイリヤの姿はない。
イリヤは、
「ん? 晩ごはんならおいしかったよシロウ」
とっくに居間にあがって、おかしなコトを口にした。
「――――――――晩ごはん?」
「ええ。まずは栄養をとるんだって言った時は驚いたけど、おかげでいい思いしちゃった。シロウ、はりきって台所に立ってたし」
「――――――――」
食卓には夕食の跡がある。
流しには二人分の洗い物。
冷静になってみると、俺もほどよい満腹感がある。
どうやら夕食を作ったのは本当らしい。
「……おかしいな。こんな食材、買い置きしてたっけ」
「してないよ。してないから商店街で降ろしてもらって、いっぱい買い物してきたんじゃない」
「――――――――」
む、と記憶を探ってみる。
……。
…………。
………………。
……………………まあ。
そういう事も、あったのかもしれない。
「そうか。ヘンなコト言っちまったな。とりあえず、夕食は済んだんだ」
「ええ。あとはゆっくり休むだけだね、シロウ」
「ん―――そうだな、休まないとな。ちょっと部屋で着替えてくる。話があるから、イリヤはもうちょっと起きててくれ。すぐ戻る」
うん、と頷くイリヤ。
悪いな、と手を上げて居間を後にした。
気がつくと部屋にいた。
居間を出た瞬間、自分の部屋で倒れていた。
「ずっ……、ぐ――――!」
串刺しにされたような激痛で目が覚めた。
左の胸元に剣が刺さっている。
そうとしか思えないほど胸は熱く、痺れ、ドクドクと血液のかわりに、生気が流出していっているように思えた。
「ぐ――――、つ」
当然、剣なんて刺さっていない。
そんなものは幻覚だ。
左腕から伝わってくる違和感に、もっとも近い左胸が拒否反応を示しているだけ。
ただ、それでようやく気付けた。
速すぎる時間の感覚。
途切れ途切れの映像は、つまり。
「……そうか。おかしいのは時間の感覚じゃなくて」
ただ、自分の意識がおかしいだけだ。
過去の記憶がないのではなく、出来事の記録ができていない。
一部一部―――気を抜いて時間を過ごしていると、その間何が起きて何をしていたのかが、残らなくなっている。
森を出てからこっち、記憶がないのも当然だ。
今みたいに痛みがなければ、意識を保っていられなくなっている――――
「――――――それは、まずいな」
気を抜いて途切れそうになる意識を掴み止める。
自分で自覚して、歯を食いしばって精神を集中していないと『衛宮士郎』が消えていってしまう。
胸を貫かれるほどの痛みか、それと同等の集中をしていないと、自分《きおく》が保てない。
つまり、魔術回路を背骨に入れようとしていた頃と同じレベルの集中を、常時行っていなくてはならないのか。
「――――――――」
……まいった。
そんなものは続けられないし、続けたところで、その方法でいつまで保ってくれるか判らない。
「……待てよ。となると、眠るのはまずいよな」
眠れば起きれない。
眠ってしまったら、もう『衛宮士郎』という自分は戻ってこれない。
体は傷一つなくとも、精神が四散しているだろう。
「――――――――――」
倒れていた体を起こす。
起きて机をあさる。何か小さな刃物が必要だ。右手の中に隠しておけて、強く握れば肉を抉《えぐ》るような。
鍛錬レベルの精神集中は継続できない。
気が緩んで映像が跳びそうになった時、掌を抉って、その痛みで意識を留めなくては。
「……お。刃物とはいかないけど、これなら」
机の中にはいつかの水晶があった。
……マスターになった夜、ランサーに殺された俺の傍に落ちていたペンダント。
元はどれだけの魔力が篭められていたかは知らないが、残っている魔力は俺の魔術《きょうか》一回分にも満たない。
……そうだ。このペンダントの持ち主、あの夜俺を助けてくれたのが誰だったのかは、今ならちゃんと考えられる。
なにしろあの時間に校舎にいたのは俺とあいつぐらいなもので、助けた理由は判らないが、あいつなら、理由なんてなくても、死にかけた人間を助けるだろう。
「ぁ――――、つ」
意識が切れかかる。
その答えは後に回そう。
嬉しいコトとか楽しいコトを考えると、気が抜けて倒れそうになる。
―――戦力を確認する。
左腕の拘束は解いた。
聖骸布を巻きつけてはあるが、もう気休め程度でしかない。
一度でもアーチャーの腕を使えばスイッチが入る、と言峰は言った。
その後は、何をしても手遅れだと。
「――――――――」
だが体はまだ活動できる。
問題は精神《あたま》の方だが、こっちも眠らないかぎりは継続させられる。
投影……アーチャーの腕を使っての“剣製”のリミットは、おそらく三回。
あと一回ぐらいはなんとかなる。
次の二回目は正直、怖い。
最後の三回目は決定的になる。精神が残っていようが、体の方が自滅する気がする。
「……………………」
目を閉じて耳を澄ます。
……心音にまじって、ギチギチと硬い音がする。
……アーチャーの左腕から侵食してくるモノ。
剣製を使う度にヤツの固有結界が抑えきれなくなり、外ではなく内、体内で無限の剣製が作られる。
……その結果は想像したくもない。
俺は内側から、千の剣で串刺しにされて死ぬのだ。
「―――――冗談。自滅なんかしてたまるか」
状況は絶望的だ。
自分でもそれなりに受け入れてはいる。
が、そんな事実は蹴飛ばすだけだ。
俺は死なないし、自滅なんかしない。
眠ったら目覚められない、なんてのは俺の臆病な妄想だ。
―――助かる。
やるべき事をやって、全てを終わらせれば俺は助かる。
そうでなくては意味がない。
何があろうと桜を守ると言った。
なら、この体は一人で勝手にくたばっていい身分じゃない。
「―――そうだ。まず、遠坂に連絡をとらないと」
時間がない。
急いで遠坂の屋敷に行こう。
言峰の無事も気になるが、イリヤを助け出した今、あいつは元のスタンスに戻るだろう。
どのみち協力は望めないが、あいつとの約束は、
時刻は九時過ぎ。
すぐに戻ってきたつもりだったが、あれから二時間も経っていた。
「―――。わるい、待たせたイリヤ。いまから遠坂の家に行くから一緒に行こう」
「リンの家? んー、別にわたしは構わないけど、なんで?」
「え……なんでって、遠坂と合流しないと。それにあいつの容体だって気になるだろ。
言峰は夜になれば回復するとか言ってたけど、あいつの言い分はいまいち信用できない。遠坂がまいってたら手当てをしてやらないと」
「ふーん。それはいいけど、シロウ」
ちょいちょい、と壁ぎわを指差すイリヤ。
――――と。
「心配してもらって嬉しいわ。とりあえず、わたしの調子は見ての通りよ。
けど。そこまで気にかけてくれるんだったら、森に行く前にわたしの家に寄っていってほしかったわね」
「と、遠坂……!? い、いつの間にこっちに来てたんだ……?」
「ほんの一時間前よ。森で何が起きたのかはイリヤから聞いたわ」
遠坂はご機嫌斜め……ではなく、明らかに怒っている。
遠坂を置いて森に行った事が気に食わないらしい。
「仕方ないだろ。あの時は一刻を争うと思ったし、事実、イリヤだって危ないところだったんだ。
……だったんだよな、イリヤ?」
「……そうね。わたしは閉じ込められてはいなかったけど、数分後には大聖杯に連れて行かれて心臓を抜き取られていてもおかしくなかった。
ゾウケンはサクラを乗っ取り次第、わたしで門を開けようとしていたから。シロウとコトミネが来るのがあとちょっとでも遅かったら、今ごろは死んでいたわ」
「―――ほら。遠坂を待ってたら間に合わなかっただろ」
「どうだか。今の言い分じゃ桜次第ってコトでしょ。イリヤ、本当のところはどうなのよ」
「あ、やっぱりバレちゃったか。
ええ、ホントはもうちょっと猶予があったかな。サクラは芯が強いから簡単に壊れたりしない。サクラが自我をなくしてゾウケンの操り人形になるまで、あと一日は間があったでしょうね」
「やっぱり。あのねイリヤ、あんまり士郎を甘やかしちゃダメよ。こいつには人一倍厳しいぐらいが丁度いいんだから」
「―――そうね。リンがシロウにそうしてくれるなら、わたしはもう安心かな」
などと二人して人を非難する始末。
が、タイムリミットがあと一日だったのなら、今から遠坂と森に向かっても間に合ったかどうか。
森では重い選択を迫られたが、それを引き換えにして、こうして三人一緒にいる時間を取り戻せたのだ。
「――――っ」
……緩みかけた意識をきつく絞る。
遠坂とイリヤの掛け合いで、緊張感が薄れてしまったようだ。
「……ん……? ちょっと待ってくれイリヤ。
桜が一日保つかどうかって事は、残った猶予はあと」
「半日あるかどうかよ。……いいえ。サクラがどう頑張っても、もう復讐者《アヴェンジャー》は産まれようとしている。アレが受胎してしまえばサクラは完全に変わる。誰もサクラを助けられなくなるし、誰も助からなくなるのよ」
「「――――復讐者《アヴェンジャー》……?」」
遠坂と二人、聞きなれない言葉に顔をしかめる。
「そう、復讐者。
聖杯戦争における第八のクラス、アインツベルンがルールを破ってまで召喚した“反則”よ。
それが大聖杯の中を呪いで汚染した原因《モノ》。
自分じゃ外に出れないからってサクラと同化して“黒い影”を映していた本体。
そして、今もカタチを得ようと人間の命を食べ続けている“在り得ない存在”」
「それがアヴェンジャー―――三度目の儀式でアインツベルンのマスターが召喚してしまった、喚んではいけなかった反英雄」
「イリヤ、貴方知ってるの……!? あの影がなんなのか、桜が何に獲りつかれてるかって……!?」
「ええ。サクラから必要な情報を取り出して、何が起きているのかは理解できた。
わたしがやるべき事。シロウたちが敵とみなしているモノがなんであるかを」
そう言って、イリヤは一度だけ目を閉じた。
……あれは諦め、だろうか。
イリヤは小さく息を吐いて、挑むように俺と遠坂を正視する。
「これから話す事はわたしたちの核心であり、もう関係のない話。貴方たちが背負うべきものでもない。
シロウとリンには聖杯戦争に関わった最後のマスターとして、ただ事実だけを口にします」
「イリヤ――――?」
遠坂は呆然とイリヤを見る。
それは俺も同じだ。
今のイリヤは、どこか別人のような静けさと空虚さを持っていた。
「事の起こりは二百年前。
いえ、聖杯を求める彼らの放浪はもっと前から続いていたけど、この土地での儀式が始まったのは二百年前からだった」
「話はそこから始めるわ。
聖杯―――あらゆる願いを叶える願望機。その完成のため、アインツベルンとマキリ、遠坂は協力して“聖杯を召喚する”儀式を行った。
それが聖杯戦争の発端。七人の英霊を召喚して、聖杯の所有権を定める殺し合い。
聖杯によってマスターに選ばれた魔術師は英霊の依り代となり、最後の一人になるまで殺しあう。
それがシロウとリンが知っている聖杯戦争の、表向《・・・》きの決まり事《・・・・・》」
「驚かないのねリン。やっぱり、貴方も薄々は感付いていたの?」
「……それなりにはね。誰かに利用されてるってコトはすぐに気付いたけど、あんまり気にはしなかったわ。
人様が作った儀式《システム》を使って、その成果を戴こうっていうんだもの。利用し、利用されるのはお互い様でしょう。
いちいち目くじらたてるほど馬鹿じゃないわ」
「そう。じゃあ順番が逆、という事はもう説明しなくていい? シロウはどう? 本当はサーヴァント同士に戦わせる、なんて過程そのものが余分なんだって気付いてた?」
「――――――――」
……まあ。気付いていたか、と言われれば気付いてはいた。
サーヴァントは聖杯に呼び出される。
聖杯を得る人間が相応しいかどうか、その選定の為の道具として英霊は呼び出される。
呼び出された英霊は聖杯を手に入れる為、現世に留めてくれる寄り代《マスター》と契約し、自分たち以外の聖杯探求者《マスターとサーヴァント》を倒しにかかる。
……そう、それだけならまだ目を瞑れる。
だが倒された英霊は消え去らず聖杯に取り込まれるのだ、と知った時、違和感は生まれてきた。
英霊―――サーヴァントは聖杯に相応しいマスターを選定する一要素にすぎない。
だというのに何故、その用をなくした英霊が聖杯に取り込まれるのか。
「……つまり、聖杯戦争にとって必要なのは英霊だけで、マスターはただ、英霊を呼び寄せる為だけの道具だって事か……?」
「そう。聖杯戦争という儀式において、マスターはサーヴァントをこの世に呼び出す受容体《レセプター》にすぎない。サーヴァントさえ召喚してくれれば、後はマスターなんていつ死んでもらっても構わないのよ。
聖杯完成に必要なモノは英霊だけ。
時間軸の外にいる純粋な『魂』、この世の道理から外れ、なおこの世に干渉できる外界の力―――それが英霊の本質でしょう」
「彼らはその力を必要とした。
その力を以って、外界に出ようとした。
それがこの地に作られた聖杯の本当の目的。
人の手では届かぬ奇跡、未だ人間の物ではない現象を手に入れる為、この地における聖杯戦争は行われてきた」
「それはアインツベルン《わたしたち》から失われたとされる神秘、真の不老不死を実現させる大儀礼。
英霊でも聖霊でもない。いと小さき人の位において、肉体の死後に消え去り還り、この世から失われる運命の“魂”を物質化する神の業」
「―――その奇跡の名を“天の杯《ヘブンズフィール》”。
現存する五つの魔法のうちの一つ、三番目に位置する黄金の杯よ」
「ま――――魔法って、あの魔法……!?」
「――――――――」
場が緊迫する。
イリヤは聖杯とは魔法を行う為の儀式だと言った。
魔法。
魔術では到達できない神秘、あらゆる手段を以ってしても、現在の人間では届かない実現不可能の現象。
それは魔術師にとっての最終目的であり、実現し修得した者は、ありったけの羨望と畏怖をこめ“魔法使い”と呼ばれる。
現在、魔術協会において認定されている魔法は五つ。
その内容は俺のような末端のそのまた末端、いや協会に属してもいない部外者には知るよしもないが、魔法と呼ばれる大儀礼は五つあり、その使い手は四人足らずしかいないと聞く。
「ちょっ、ちょっと待って……! 第三魔法って魂の物質化なの!? けど、それならサーヴァントだって魂の物質化じゃない……!」
「違うわ。たしかに英霊召喚《システム》の基盤は第三魔法の一部を使っているけど、英霊はあくまで降霊でしょう。
サーヴァントはこの地上に、この時代のモノとして生きている訳じゃない。第三魔法としては不完全だし、英霊なら魔法の力なんてなくても、依り代さえあれば実体化できる」
「“天の杯《ヘブンズフィール》”は過去にいた魂《もの》を読み上げて複製体を作る業じゃない。
それは精神体でありながら単体で物質界に干渉できる、高次元の存在を作る業。
魂そのものを生き物にして、生命体として次のステップに向かうものを言うのよ」
「つ、次のステップって――――た、たしかにそれは、とんでもない大事、だけど。
でもイリヤ、どんなに内容が違うっていっても、魔法は全部根源に至る道でしょう!? それが聖杯とどんな関係があるのよ」
「いえ、だいたい魔法を起動できるような管理地は日本に一つしかない。
冬木の霊脈だって一級品だって自負してるけど、それでも根源に繋がるほどの歪みはないわ」
「ええ、届くほど歪んではいない。だから穴を開けるのよ。道が繋がっていないなら、自分たちで壁を壊すしかないでしょう?」
「その、壁を壊す、という過程が聖杯戦争なの。
その過程で『どんな願いでも叶えられるぐらいの魔力』が溜まるのだけど、それはアインツベルンには二次的なもの、もしくは生贄《マスター》を呼び寄せる為の宣伝でしかなかった」
「アインツベルンが必要としたのは、魔術協会の目につかず、大量の魔力を貯蔵できる巨大な魔法陣だけ。
時の遠坂の当主は彼らに協力した。
もともと協会の目が届きにくいこの国で、アオザキの管理地に次ぐ一等地は数少ないわ。
アインツベルンにとって、冬木の町は必要条件を満たした完璧に近い実験場だった」
「あとはもう判るでしょう。
聖杯戦争を司る聖杯は二種類ある。
この土地に眠る聖杯と、アインツベルンが用意する聖杯。
前者が遠坂の管理地を使った魔法陣。
これを大聖杯と呼び、
アインツベルンが毎回鍵として用意するものを聖杯と呼ぶ」
「大聖杯は聖杯戦争のシステムを管理するもので、聖杯は敗れていった英霊の魂を回収し、大聖杯を動かす為の炉心にあたるわ」
「そうして、大聖杯起動に必要な分の魂が聖杯に溜まった時、“外部”からのマレビトである英霊の魂を利用して穴を開ける。
役目を終えた英霊《かれら》が元の“座”に戻ろうとする瞬間、わずかに開いた穴を大聖杯の力で固定し、人の身では届かない根源への道を開く」
「もちろん、こんなのは初めの一歩。穴を開けられたところで望みのものは手に入らない。根源への道は遠すぎる」
「それでも―――聖杯を手にしたものは無尽蔵の魔力を手に入れられる。
外側《あっち》にはまだ誰も使っていない、この地上とは比べ物にならない大量の魔力《マナ》が撒布されてるからね。普通の魔術師なら、それだけでも充分“奇跡”と呼べる成果の筈よ」
「……そう。要するに大聖杯っていう大本の魔法陣があって、聖杯はそれを起動させる鍵な訳ね。
聖杯戦争が六十年周期なのは、英霊を召喚するだけの魔力《マナ》を溜める為か」
「それだけの召喚術、個人の魔力で起動できる筈がない。
大聖杯は六十年かけて、この土地に満ちる魔力《マナ》を枯らさないよう少しずつ吸い上げ、それが溜まった時―――」
「そう、英霊を召喚してサーヴァントにする。
けど英霊を召喚するには代償が必要なの。彼らは望むものを与えてあげないとこちらの召喚に応じてくれない。
だから聖杯を用意して、彼らの望みに応えてあげた」
「……もっとも、そんなのは初めから欺瞞だけど。
アインツベルンは元から英霊の魂だけが欲しかった。
彼らの霊格なんてどうでもよくて、ただ強大な魂がほしかっただけよ。
それを隠す為に聖杯戦争なんて表向きのルールを作って、サーヴァントとマスターを騙して、今まで殺し合いを続けさせた」
「……ま、そうなったのは二回目の儀式かららしいわ。
一度目は馬鹿正直に英霊を召喚して、遠坂とマキリとアインツベルンで独占権の取り合いになって、あっというまに失敗したんだって」
「だから今のルールが出来たのは二回目からよ。
外来の魔術師を呼び寄せて、それぞれ聖杯を目的にして殺し合わせる。
自分たち以外のマスターなんて、サーヴァントさえ呼んでしまえば邪魔なだけだし、戦いの中で死んでもらった方が効率が良い。
三家にとってみれば、自分たち以外の協力者を合法的に始末できるんだから、都合が良かったのよ」
「呆れた。じゃあなに、マスター同士殺しあうってルールは、所有権が誰にあるか話し合いで解決できなかったから、力ずくで決めようとしたコトの末路なワケ?」
「そうよ。でも、その殺し合うって選定方法は思いのほか合っていたわ。
今の凛と同じよ。騙されていると気付くサーヴァントやマスターもいたけど、そんな背景はどうでもよかったみたいね。だって、勝ち残れば結果として聖杯は手に入るんだから」
なるほど、と納得する遠坂。
「………………」
……要するに、聖杯戦争とは聖杯を手に入れる為の戦いではなく、聖杯を用いて外に出る為の儀式だった。
外に至る試み。
神秘学によると、この世界の外側には次元論の頂点に在るという“力”がある。
それが“根源の渦”と呼ばれ、あらゆる出来事の発端とされる座標だ。
それは万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神さまの座だという。
「………………」
が、正直そんな話はどうでもいい。
切嗣《オヤジ》だったらそれがどれだけ大事か判るんだろうが、俺にはまったく関わりのない事だ。
そんな事の発端より、桜に獲りついているヤツの正体の方が重要だ。
「イリヤ。聖杯戦争の本当の目的とかはいい。イリヤの言ったとおり、それは俺たちには関係のない話だ。
それより、さっき言ってたヤツの事を聞かせてくれ」
「か、関係ないって、魔法よ魔法!? しかも三番目の魔法なんて、協会でもずっと秘密にされてきた禁忌中の禁忌じゃないっ!
貴方も魔術師なら、第三魔法って聞いて無視できるわけ――――」
「できる。……まったく、なに間違えてるんだ遠坂。
今はそんな、成功しないモノの話をしている場合じゃないだろう」
「せ、成功しないって、いったいどんな根拠さまよ、それ」
「あのな。理由は判らないが、聖杯戦争は一度も勝利者を出していないだろ。なら、この儀式はどこかで仕組みを間違えていたってコトだ。
……だいたいな、そうでなかったら桜の事をどう説明するんだ。聖杯が魔法に至る道だっていうなら、桜があんな風になるのも魔法なのかよ」
痛いところをつかれたのか、遠坂はうっと黙り込む。
「それでイリヤ。どうしてこの聖杯戦争はこんな事になったんだ。
聖杯の中には何かがいる、と言峰は言った。
その何かっていうのが復讐者《アヴェンジャー》ってヤツなのか。そいつは聖杯……イリヤや桜の中じゃなく、大聖杯とかいう魔法陣の中にいると……?」
「そっか、コトミネなら知っているわよね。
あいつもサクラと同じ、復讐者に汚染された魔術師だもの。聖杯の中にいるモノがなんであるか、とっくの昔に知っていたんだ」
「え……? 綺礼が桜と同じ……?」
「そうよ。ここからはシロウとリンに関係のある話。
ゾウケンが手に入れようとしているモノ、サクラを変貌させているモノ。聖杯の中に潜み、無色の力である英霊たちの魔力《たましい》を汚染しているモノの話。
そいつのクラス名が復讐者《アヴェンジャー》。
聖杯の力で『生命』としてカタチを得ようとしている、第三魔法の成功例になりつつある英霊よ」
「……はあ? ちょっと、何が魔法は関係ない、よ。ちゃんと関係してるじゃない、ちゃんと」
「いいえ、復讐者《アヴェンジャー》の物質化は、聖杯による魔法じゃない。アレはもとからそういう属性をもった英霊だった。
復讐者《アヴェンジャー》だからこそ聖杯の中で物質化が可能なの。
大聖杯は第三魔法を成し得る復讐者を呼び出したに過ぎず、大聖杯自体が第三魔法を成し得た訳ではないわ」
「……? ええっとつまり、そいつは初めから物質化できる怪物だったってコト?
大聖杯による魔法が成功していなくても、勝手に第三魔法を体現するヤツってコト?」
「そうよ。……事の発端は三度目の戦いだった。
一度目は失敗、二度目に序盤で敗れ去ったアインツベルンは追い詰められて、ただ殺す事だけに特化した英霊を召喚したの」
「アインツベルンが手にした古い経典、異国の伝承を触媒にして、手の内にある中で最悪の魔を呼び出した。
他のマスターたちを皆殺しにして、問答無用で大聖杯を起動させ、成果を独り占めする為に呼んではならないモノを呼び寄せてしまった。
――――その英霊の名がアンリマユ。
世界最多とも言える、あらゆる呪いを体現した殺戮の反英雄」
「――――アンリ、マユ?」
……ちょっと待った。
アンリマユっていうのは、たしか古代ペルシャの悪魔の名だ。
拝火教における最大の悪魔であり、人間の善性を守護する光明神と九千年間戦い続けるという、悪性の容認者。
拝火教はこの善悪二神による確執が主軸になる物語で、天使と悪魔の二元論を形にした最初の宗教だ。
しかし、そこにはアンリマユという名の英雄など存在しない。
そもそも悪魔の王の名を冠するモノが、どうして“英霊”に成りえるのか――――?
「そんな訳ないでしょうイリヤ。聖杯は英霊しか呼べないし、そんな神霊レベルの現象を再現できるなら聖杯なんて必要ない。
いえ、そもそもアンリマユの名を冠する英雄なんている筈がない。いたとしてもそれは無名の、歴史に何の痕跡も残していない悪霊にすぎないわ。呼び寄せたところで聖杯に相応しい魂なんて持ち得ない」
「……イリヤ。アインツベルンのマスターは、一体何を召喚したの?」
「だから絶対悪《アンリマユ》よ、リン。
……彼は確かに無名であったし、真実悪魔などではなかった。けれど、アンリマユの名を冠した英雄は確かに存在したの」
「……ええ。もうずっと昔、気の遠くなるぐらい昔の、ちっぽけな世界の話よ。
ソレは拝火教の、名前もないある村落に現れた英雄だった」
「彼らの教義がどう歪んでいたかは知らない。
どうしてそんな考えに至ったかなんて判らない。
ただ、彼らは教義に基づいて清く正しく生きていた。
人間は善を尊び、光を守り、正しく生きる。
貧しく、外界から隔離された彼らにとってその祈りは絶対だった。そうである事が、人間以下である彼らを人間たらしめる唯一の誇りだったんでしょうね」
「――――そう。
その村落の人たちはね、本気で世界中みんなが平和である事を望んでいた。
人間全てが下らない悪性から解き放たれ、清く正しく生きられるように。
飢餓とか殺戮とか愛憎とか、予め人に付属された機能すべてを否定して、自分たちは神に祝福されるに相応しい生き物だって誇り続けた」
「けどそれは不可能な話よ。
人間、清く正しく生きているだけじゃ悪性からは解放されないもの。
悪とは元からあるもの。それを切り離したいのなら、何らかの手段を講じるしかない。
そうして――――その手段は実行された」
「彼らは自分たちの狭い世界だけでなく、人間全てを救える手段を考えついたの。
この世の人間全てに善行を取らせる事は難しい。
けど、人間全ての善性を証明する事はできる。
……たった一人。
たった一人の人間にこの世の悪を独り占めさせてしまえば、残った人たちはどうあっても悪い事ができない《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
そんな子供みたいに単純なコトを、彼らは本気で信じてしまった」
「そうして一人の青年が生贄に選ばれた。
彼らは青年を捕らえ、その全身に人を呪うあらゆる言葉を刻み、彼らが知り得る全ての罪業を与え、全ての悪事を彼の責任とした。
それでおしまい。
狭い世界。けれど完成された一つの世界において、究極の悪性が誕生した」
「彼らは彼を心底呪い、侮蔑し、恐れ、同時に奉《たてまつ》った。
我々は清く正しい。あそこにこの世の全ての罪悪があるのなら、我々は何をしても善なる者だ、と。
彼らは本気で、世界中の人間の為になると信じて一人の“悪魔”を作り上げた。
世界中の人々の善性を証明する為に、一人の青年を発狂するまで殺し続けた。いえ、その寿命がつきるまで殺してなどあげなかった」
「……人間を堕落させる悪魔の名前。
アンリマユの名を与えられた青年は、世界中の人間の敵として、ただ理不尽に殺され憎まれ続けたの」
「その過程で、青年が本当に悪魔になったかどうかは知らない。
ただ村落中の人間が彼を悪魔だと信じ、そのように扱った。憎みながら恐れながら、世界中の人間の善性を証明してくれる、自分たちにとっての“救いの証”として奉った」
「忌み嫌われる対象でありながら、人々を救うもの。
その存在が在るだけで、どんなに人々が悪事を重ねようとも『清く正しい』と赦される免罪符。
そう。方法は違えど、彼は人々を救った。
村人たちにとって、彼はこの上ない英雄となった」
「そうして一人の英雄が誕生した。
人々に恨まれ恨まれ、自分などとうになくなって、いつか本当にそうなってしまったモノ。世界中の人間の代わりに悪を公言する哀れな生贄。
「―――それが反英雄アンリマユ。
“この世全ての悪”と極め付けられた、何の取り得もなかった、ただ普通に生まれただけの一般人。
拝火教において、六十億の悪全てを容認するという悪魔の王。その体現者として葬られた、原初の人の想念が作り上げた、“願い”という名の呪いのカタチ」
皮肉も侮蔑も込めず、イリヤは淡々と大昔の出来事を語り終えた。
……反英雄。
その定義は、この戦いが始まってすぐ、言峰が俺に告げたものだ。
「……………………」
……しかし。
イリヤの話が本当なら、アンリマユという英霊になったそいつは、今も人間の悪を背負い続けている事になる。
それが“英霊”として扱われてしまった、そいつの存在意義だからだ。
六十億もの人の罪業を一方的に押し付けられた英霊。
……そんなヤツが召喚されたら、後に待つものは殺戮しかない。
そいつは人間を憎んで然るべきだし、そもそも、周りの人間がそいつに魔であれと定めたのだ。
……アンリマユ。
悪魔の名を冠したそいつは、自らを魔にしたてあげた人間への復讐……いや、人々が願った通りの役割をこなす為に、桜を利用しているというのか……?
「復讐者《アヴェンジャー》……アンリマユの話は判ったわ。
けど、どうしてそいつが聖杯の中にいるワケ? いいえ、そもそもそいつはただの人間でしょう? いくら悪魔の名をつけられて、悪魔そのものとして扱われたとしても、能力は人間と変わらない。
あんな、町を一呑みするほどの怪物にはならない筈よ」
「……そうね。アンリマユは人間よ。ただの人間を無理やり英霊にしたものが彼だった。だから何の問題も起きなかった筈なのよ、本当は」
「……三度目の戦いでアインツベルンはアンリマユを呼び出した。
けど呼び出された英霊は、すごく弱かった。
反英雄であるソレはまたも序盤で敗れて、いち早く聖杯に取り込まれた。アインツベルンのマスターは嘆いたわ。あの、普通の人間とまったく変わらないヤツのどこが、人の世を滅ぼす悪魔なのか、と」
「……そう。事実、その英霊はただの人間だった。
ただこの世を恨んでいただけの人間。
ただこの世の悪であれと望まれた人間。
……もとから何の力も無く、周りの人間の想いだけで構成された、有り得ない筈のモノ。
それが聖杯に取り込まれた時、全てが逆転してしまった」
「聖杯は人の望みを叶える願望機でもある。
サーヴァントは敗れた後、方向性のない魔力として聖杯に戻って、そのまま解放の時を待つ。英霊としての人格もなくなった彼らは、万能の力として聖杯に溜まるだけなの。
けどアンリマユは違った。彼は自分ではなく周りが願って創り上げた英雄。人格などなくとも、アンリマユである以上、悪であれと望まれる存在だった」
「――――まさか。もしかして、そいつ」
「そう。聖杯はあらゆる願いを叶える杯。
ただの人間であり、性別も人格も、人でさえないソレは、もともと人間の願いそのものなのよ。
だから―――アンリマユが聖杯に取り込まれた瞬間、聖杯は一つの願いを受諾してしまったの」
「本来在り得ない存在。
身勝手な願望だけで捏造された英霊は、人々の願いを叶える聖杯の中において、ようやく人々が望んだ姿で生まれる事になった。
……マキリの五百年、アインツベルンの一千年なんて子供だましよ。
なにしろあっちは二千年以上も前から続いた、神代から願われてきた“人間の理想”なんだから」
「それがあの影の本体、英霊としてようやくカタチを得ようとするモノの正体よ。
アンリマユはサーヴァントたちの無色の魔力《たましい》を糧に、自分の霊殻である“この世全ての悪”を体現してしまった。
ただ悪であれ、と。
六十億の人間全てを呪う、六十億の人間全てを呪える宝具《のうりょく》を備えたサーヴァントとして、少しずつ育っていったの」
「―――じゃあなに? 聖杯の中身はとっくにそいつに占拠されてて――――いえ、聖杯が叶える“望み”はとうに決まってしまっていて、四度目の戦いはそいつの願い……アンリマユを形にする為の、魔力《ようぶん》補充にすぎなかったってコト……?」
「ええ。キリツグがアンリマユというサーヴァントをどこまで理解していたかは判らない。
けどキリツグは聖杯の外に出ようとしていた“黒い影”を危険視して、聖杯を破壊した」
「それは正しいわ。
以前のアンリマユはどうあれ、聖杯によって受肉するアンリマユは本物だもの。“この世全ての悪”として、命ある限り人間たちを殺し尽くす魔王になる」
「けど、そのアンリマユは切嗣の英断で出産には至らず、大聖杯の中に残された。
その一部を受けた者がコトミネであり、サクラだった。
ゾウケンは聖杯の中にいるモノが受肉しかけたサーヴァントだと気付いていたんでしょうね。
だからその肉片をサクラに植え付け、聖杯の中にいるサーヴァントとリンクさせた。
聖杯の中にいるサーヴァントが外に出てきた時、それを従えられるようサクラをマスターにしたのよ」
「“この世《ア》全《ン》ての悪《リマユ》”が何であれ、サーヴァントである事に変わりはない。どんなに強力な存在でも、サーヴァントはマスターには逆らえない。
ゾウケンの目的はそれよ。あいつはサクラを餌にして、“この世《ア》全《ン》ての悪《リマユ》”を釣り上げたいんでしょうね」
――――待った。
つまり桜は、アヴェンジャーというサーヴァントと契約している、という事になるのか……?
「正気? それでアンリマユのコントロールを握ったところで、桜は黒い影……アンリマユからの魔力汚染に耐えられない。
アンリマユが聖杯の中にいる状態であそこまで変わったんだから、出てきてしまったら桜の人格なんて消え去る。そうなったらマスターも何も無いじゃない」
「それでいいのよ。ゾウケンはサクラの人格なんて考えていないもの。ゾウケンにとって大切なのは、アンリマユと繋がっているサクラの体よ」
「あいつはサクラの人格が消え去った後、空っぽになった体を乗っ取る気なの。
……リンは知らないだろうけど、ゾウケンは自分の魂の容れ物である本体《むし》があれば、どんな人間の体だろうと自分のものにできる。いいえ、あいつはそうやって今まで生き長らえてきた。
ゾウケンにとって、サクラは初めから“いつか乗り換える肉体”だったっていうコト」
――――となればどうなる?
桜に獲りついているもの。
桜を変えている原因がサーヴァントとの契約だというのなら――――
「ゾウケンがわたしを攫ったのは、サクラには門を開かせる気が無かったからでしょうね。
聖杯としての役割はわたしにやらせて、自分はアンリマユのマスターになったサクラの体を乗っ取る」
「そうして――――行く行くは、第三魔法の成功例、魂が物質化した架空の魔物であるアンリマユに乗り換えるつもりなんでしょう。完全な神を、人間が自らの欲望で不完全な神に貶めるように」
「……神造の定義……それは人の望みによって作られながら、人の意思に影響されず生まれるもの、か。
まあ、たしかに臓硯なんかの人格を反映されちゃ、どんな神様も悪魔になるだろうけど。……綺礼が臓硯を敵視してたのもそのあたりか」
「話は判ったわ。それだけ聞けば十分よね、士郎」
「――――え?」
遠坂の声で我に返る。
「え、じゃないわよ。相手の正体が判って、臓硯の目的も判ったじゃない。なら、あとは話し合うまでもないでしょう」
「――――――――」
……話し合うまでもない、か。
確かにその通りだ。
聖杯の中にいるモノ。
そいつをこのまま外に出せば、十年前と同じ惨劇が起きてしまう。
……いや、十年前どころの話じゃない。
放っておけば、ソレは数え切れないほどの人間を殺す。
―――そう。
桜が生み出したモノが、桜の代行者として、多くの命を奪うのだ。
「――――――――」
そんなコトが許せる筈がない。
なら止めるだけだ。
何を犠牲にしても、これ以上桜に命を背負わせるコトは出来ない。
――――アンリマユを止める。
ソレが聖杯から出てくる前に、戦いを終わらせる。
「納得いったようね。わたしたちは戦って勝つしかない。
で、その方法は二つだけ。
“この世《ア》全《ン》ての悪《リマユ》”とやらが出てくる前に寄り代《マスター》である桜を殺すか、“この世《ア》全《ン》ての悪《リマユ》”が出てくる前に大聖杯とやらを破壊するか」
「……まあ、確実なのは前者だけど。
大聖杯を壊そうとすれば、必ず桜と臓硯が立ちはだかる。二人を避けて大聖杯は破壊できないでしょ。
となると結局、マスターである桜を倒す事が一番楽って事になる」
「そうだな。桜と戦って、アンリマユを引き離す。それが一番の近道だし、方針として判り易い」
「へえ。桜を狙うって事に反対はしないんだ、士郎」
「……今はそれしかないだろう。アンリマユとやらがイリヤが言う通りのモノなら、人間に太刀打ちできるものじゃない。そいつを外に出した時点で俺たちの負けだ。
なら、一番早くて確実な方法をとるしかない。
それより遠坂。戦いに行くのはいいが、桜の居場所は判るのか」
「それなら問題ないわ。イリヤの言う事が正しいなら、大聖杯とやらの場所は一つしかない。そうでしょイリヤ?」
「……ええ、その通りよリン。
アンリマユの誕生を間近に控えた今、ゾウケンは大聖杯に戻っている。
堕ちた霊脈。二百年前、三家によって選ばれた始まりの土地―――柳洞寺の地下に広がる大空洞に、アンリマユは受胎している」
「――――柳洞寺の地下」
……それが桜のいる世界。
俺たちが向かう、聖杯戦争決着の地。
「………………」
わずかに息を吐いて、集中し続けた意識を少しだけ休ませる。
右手に持ったペンダントの冷たい感触が、さっきの考えをより明確に纏めてくれる。
「――――――――」
桜と戦う。
遠坂に言った言葉に嘘はない。
ただ、俺と遠坂の戦う方法が違うだけ。
遠坂は桜を殺す事で戦いを終わらせるつもりだろう。
だが俺は、桜を生かす方法で戦いを終わらせて―――
「……!?」
どくん、と体が震えた。
空気が水になったような重圧が屋敷を覆う。
それが、
「桜――――!」
あの影の威圧感だと察した瞬間、俺たちは中庭へ走り出していた。
◇◇◇
――――中庭に出る。
世界は一面、昏い影に覆われていた。
背筋はおろか、指先までギリギリと痺れさせる威圧と恐れ。
……俺たちの目の前にいる黒い影。
ソレがその気になるだけで、俺たちは屋敷ごと潰される。
力の差は歴然だ。
それは変貌しきり、以前とはまるで違う存在になっている。
「……………………」
……黒い影は何もしない。
それは桜ではなく、桜の形をしただけの影だ。
本物の桜は柳洞寺の地下にいる。
今目の前でゆらめくモノは、桜を象っただけの虚像だった。
「――――ふん。本人じゃなく影を飛ばしてくるなんて、ちょっと見ない間に偉くなったものね桜」
「……………………」
遠坂の挑発が聞こえていないのか、それともこちらの言葉は聞こえないのか。
桜の影は月の光に揺らめくだけで、その姿はひどく淋しげに見えた。
「……………………」
その瞳が、確かに俺に向けられた。
先輩、と。
手を差し伸べれば今まで通りに応えてくるような、そんな弱さをもって。
「――――――――」
手を差し伸べる事はしなかった。
俺のやるべき事は決まっている。
ここで桜に声をかけ、わずかでも決意を弱める事はできない。
視線が逸れる。
桜の影は一度、かすかに俯いたあと。
「イリヤスフィールから話は聞きましたか、姉さん」
冷たい侮蔑のこもった声で、遠坂と対峙した。
「聞いたわ。アンタに獲りついているモノの正体も、聖杯から生まれようとしているモノの能力もね。
それで桜。一応訊いておくけど、アンリマユとやらから手を切るつもりはある?」
遠坂の声も同じ。
桜に対して一片の関心もない、見下しきった冷徹な声。
「ありません。弱いわたしはもう消えたと言ったでしょう? 折角手に入れた力だもの。わたしはアレから離れる気はないし、できない。
……間桐桜は、もうこうして生きるしかないんだから」
「そう。それじゃもう一つ。
その、アンタが自慢してるサーヴァントはどのくらい出来上がってるの? イリヤはもうすぐだって言ってるけど、母親としてどうなのよ、そのへん。もしかしてもう外に出てきちゃったとか?」
「……そんな訳ないでしょう。アレが出てきてしまったら、こんな街なんて瞬く間に飲まれてしまう。
そんな事、まだ許すわけにはいかない。ここにはまだ先輩がいるんです。
だから、わたしが残っているかぎり、あの子は外には出しません」
「へえ。なんだ、なら急ぐコトはないわけね。士郎がわたしといる限り、アンタはアンリマユを押さえ付けてくれるってワケ。
良かったわね士郎。桜、この分ならまだまだ元気そうよ」
「……ふざけないでください。わたしがあとどのくらい保つか、姉さんは分かっているんでしょう?
なら、今すぐ先輩を連れて逃げてください。わたしはそう長くはありません。このままだといつ自分が消えてしまうか判らない。わたしが耐えられるのは今夜だけかもしれない」
「だからその前に、こうして忠告をしているんです。
……姉さん。先輩を連れて、遠いところに逃げてください。そうしてくれたら、わたしは安心してあの子と刺し違えるコトが出来ますから」
……刺し違える、と桜は言った。
遠坂の肩がわずかに震える。
それは桜の言葉を信じてのものか、それとも。
「……ふん。いつ自分が消えてしまうか判らない、か。
それ、いつ我慢できなくなるか判らないの間違いでしょ、桜」
「――――姉さん」
「まあいいわ。どうやってアンリマユと刺し違える気か知らないけど、わたしが士郎を連れて逃げれば心置きなく自滅できるって事ね?
聖杯の中にいるサーヴァントも、その力を受け継いだアンタも、一緒になって死んでくれるんだ」
「……そ、そうです。だから逃げてください。
わた、わたしは、変わりきる姿を見られたくない。先輩、先輩さえ離れてくれれば、それでいいんです。
だから――――もう、わたしを追ってこないでください、先輩」
それは決死の懇願だった。
桜の影はすぐにでも俺たちを殺せるというのに、全力で俺たちに“追ってこないでほしい”、と救いを求める。
「――――――――」
その願いには応えられない。
桜を放って逃げる事も、アンリマユと刺し違える、という桜を認める訳にもいかない。
そうして、
「行くわ。行って、確実にアンタを殺す」
遠坂ははっきりと、実の妹と決別した。
「な―――――――」
「当然でしょう。遠坂の魔術師として今のアンタは放っておけない。それに自滅する、なんて発言も信用できないわ。
気付いてるの桜? 貴方、さっきから言動がメチャクチャよ。わたしを殺したいクセに逃げろだなんてね。
ほんと、士郎の前だからっていい子ぶってまあ」
「……なん、ですって」
「あら、いい顔するじゃない。初めからそうしていれば良かったのよ、アンタは。
で、話はそれだけ? ならさっさと消えなさい。慌てなくてもすぐに会いに行ってあげるから。
いい桜。貴方は他の誰でもない、このわたしの手で殺してあげる」
優しささえ篭った声で、遠坂は断言した。
……影が揺れる。
桜の投影であるソレは彫像のように固まったあと、
「ええ――――お待ちしています、姉さん」
くすり、と凄絶なまでの笑みをこぼして、俺たちの前から消え去った。
屋敷を覆っていた影は消えた。
中庭には俺と遠坂だけが立っている。
――――目眩がした。
自分では意識を集中していたつもりだったが、桜の姿を見て動揺していたらしい。
……どうやら、時間がないのは桜だけじゃなさそうだ。
「――――士郎。
桜はああ言っていたけど、貴方はどうするの。
このまま町から離れるって言うのなら止めないわ。ま、その時は宝石剣を複製してから行って貰うけど」
「そんなコト確認しなくてもいい。戦いは止めないし、宝石の剣もなんとか投影する。
俺たちは協力関係だろ。なら最後まで、遠坂に出来ない事をフォローする」
「……そう。ならいいけど、判ってるの士郎。
わたしと行くって事は桜を殺すっていう事よ。宝石剣だってそう。貴方は桜を殺す武器を、わたしの為に用意しなくちゃいけないのよ」
「……そうだな。宝石の剣に関しては、確かに矛盾してる。けど今の桜は俺たちの手に負えないし、剣を作るのは以前からの約束だ。宝石の剣を投影する事で桜の影に対抗できるなら、それは絶対に必要なものだ」
「ふうん。それじゃやっぱり」
「ああ、遠坂の逆だよ。俺は桜を助ける事で戦いを終わらせる。俺は、桜にとっての正義の味方になるって決めたからな」
「桜を生かすって事は、桜以外の人間をみんな殺すっていう事なのに?」
「まだそうと決まった訳じゃないだろう。桜を助けて、これ以上犠牲が出ない方法がある筈だ」
「……どうだかね。桜はもう何人も殺してる。それでも、そんな人間を助ける事がアンタの正義なわけ、士郎?」
――――その言及は、決定的だった。
言い逃れのできない罪。
それを言葉として突きつけられて、俺はようやく
「―――そうだ。たとえ桜が人でなくなったとしても守る。そうなって、自分を殺したがっている桜もひっくるめて、ぜんぶから桜を守るんだ。
俺がやりたい事はそれだけだ。誰かの味方をするって、そういう事だろ」
自分の気持ちを、胸を張ってカタチにできた。
「………はあ。臆面もなく言い切ったわね、貴方」
ああ、と臆面もなく頷いてみる。
「……そ。ま、なに言っても無駄だとは思ってたけど、まさかこれほどとはね。正直、負けたわ」
「あれ? 何処行くんだよ、遠坂」
「何処って、戦いの準備をしなくちゃいけないでしょ。
桜があんな忠告するって事は、本当に余裕がないって事だもの。急いで準備しないとね」
「そ、それはそうだけど、話はまだ――――」
「話なんて終わったわよ。要するに、士郎は自分が生きてるかぎり桜を助けるって言うんでしょ。
……ふん。いいわよ、好きにしなさいよ、もう口出ししないわよ、こうなったら納得いくまで足掻いてみなさいってーのよ」
「む……?」
さっきまでの緊張は何処にいったのか、遠坂は微妙に頬をプリプリさせている。
「けど勘違いしないで。これは宝石剣を作ってもらう交換条件よ。
士郎が頑張っているかぎり、桜をどうするかは貴方に任せる。わたしの出番は貴方が動けなくなってからにしてあげるわ。
……それなら文句ないでしょ。士郎の頑張り次第で桜は助かるかもしれないんだから」
そんな捨て台詞を残しながら、遠坂は離れへ消えていった。
「………………」
その後ろ姿を見て、何か、胸につかえていた大きな不安が溶けてくれた。
俺たちの考えは正反対だ。
それでも、なんだかんだと遠坂は、桜を助けたがっている。
なら――――安心して任せられる。
俺と遠坂、どっちも桜が好きだっていうんなら。
遠坂なら、桜をちゃんと立ち直らせてやれるだろうから。
◇◇◇
時刻は夜の十時。
遠坂は日付が変わるまでに戦闘準備を済ませ、柳洞寺に乗り込むと断言した。
「さて。今から宝石剣を投影してもらうけど、体の調子はどう? アーチャーの腕を抑えながら投影できる?」
「あ――――」
……そうか。
イリヤ、遠坂には聖骸布を解いた事を言っていないんだ。
「えっと――――まあ、それは、なんとか」
「お、頼もしいわね。じゃあ後は士郎とイリヤ次第。
出来るだけ宝石剣に似せたアゾット剣と、士郎の投影とイリヤのサポート。うまくいけばオリジナルの複製とはいかないけど、半分ぐらいは能力の再現ができる筈よ」
はい、と短剣を手渡してくる遠坂。
「………………」
渡された短剣は儀礼用の物だ。
遠坂愛用の品なのか、かなり年季が入っている。
そればかりではなく、半人前の俺でさえ判るほど強大な魔力が蓄積《チャージ》されていた。
……まあ、桜の纏った影に比べたら掌一つ分の魔力ではあるのだが、それでも俺の許容量からすれば何百倍という破格さだ。
「……すごいなコレ。遠坂、こんな秘密兵器隠し持ってたのか?」
「凄いのは当たり前。なにしろ残った宝石を全部つぎ込んだ、わたしの十年分の魔力なんだから」
勿体無さげに拗ねる遠坂。
……遠坂は気風がいいようで、お金に関してはすごく厳しい人間なのかもしれない。
ま、それはさておき。
「ふーん。けどいいのか遠坂。宝石を全部つかったら遠坂自身の予備はなくなるんだろ? おまえだってまだ本調子じゃないのに、そんなんで戦えるのか?」
「そうね、飛んだり跳ねたりぐらいはなんとか。けど魔術を使えるほど魔力は回復してないわ」
「ちょっ――――おまえ、それじゃ」
「心配無用よ。貴方がちゃんと宝石剣を投影してくれれば問題ないわ。その剣は“月落とし”さえ止めたっていう、領域外の力なんだから」
「??」
言葉の意味はよく判らないが、遠坂の自信は相当なものだ。
……まあ、そこまで言うならこっちも心配はしないけど。
「シロウ、そろそろ始めましょう。いくらシロウでもその剣の投影には時間がかかるわ。すぐに始めないと日付が変わる」
「そうね。それじゃ部屋に戻りましょう。落ち着いた場所じゃないと成功率が落ちるでしょ」
ほら、と居間に足を向ける遠坂。
「ああ、ちょっと待った。投影は土蔵でやる。
それと、投影中はイリヤと二人きりになりたいんで、遠坂は部屋で待っててくれ」
「なんで? 何かあった時タイヘンだし、わたしもフォローに回った方がいいでしょ?」
「その必要はないわ。逆にリンがいると邪魔なのよ。
シロウは注意力が散漫だから、ここ一番でリンが転んだりしたら気が散って失敗するでしょ」
「……む。失礼なコト言うわね、イリヤ」
不満そうに唸る遠坂。
反論しないあたり、本人もここ一番でドジをかます可能性を否定できないらしい。
「……わかったわ、わたしは蔵の外で待機してる。それでいいんでしょ、イリヤ」
「…………仕方ないか。それが精一杯の譲歩ね」
「リン。宝石剣を複製したいのなら、わたしがいいって言うまで入ってこないで。事故が起きそうになったら声をかけるから、それまで、何があっても外にいるのよ」
「しつこいわね。分かったって言ったでしょ、たとえ士郎の悲鳴があがっても中には入らないわよ」
「………………」
どうでもいい事だが、そういう例えは人としてよくないと思う。
「じゃ、行きましょうシロウ」
イリヤは土蔵に入っていく。
それに続こうとして、はた、とある事を閃いた。
「遠坂。この剣、もらっていいかな」
「? 貰うも何も、それを使って今から投影するんじゃない。宝石剣が出来たらアゾット剣はなくなるわよ」
「そうだな。宝石の剣は遠坂のものだから、そのかわりにこっちを譲ってくれないか。
ほら、失敗したらこの剣も壊れるかもしれないし。その時、遠坂に怒られるかと思うと集中できない」
「……はあ。まあいいけど。それで士郎がリラックスできるなら、アゾット剣はあげるわ」
「さんきゅ。んじゃ、ちょっくら気合いれてくる」
……扉を閉める。
ここから先は遠坂には見せられない。
事此処にいたって止めはしないだろうが、あいつは絶対に責任を感じる。
それを和らげる為には、聖杯戦争が終わった後、実はもう使ってしまってました、と事後承諾させるしかないのだ。
「……準備はいいシロウ? アーチャーの腕を解放した貴方なら、もう手順を説明するコトはないわよね?」
こくん、と頷く。
イリヤは床に座すように言い、素直に指示に従った。
「けどイリヤ。俺は自分で見たものか、アーチャーが作った事のある武器しか投影できない。宝石剣とやらの情報は皆無だ。いくら宝石剣に真似た短剣と元になる設計図があっても、宝石剣は複製できないぞ」
「分かってるわ。シロウにはまず、わたしの記録《なか》に入ってもらう。わたしだって見た事はないけど、わたしの中には宝石剣の記録があるわ。
大聖杯を創り上げた時、遠坂の大師父も立ち会った。
彼《か》の魔道翁《まどうおう》が手にする剣もちゃんと見ていた筈だもの」
「っと、イリヤ――――」
「いいから目を閉じて。士郎の体はそのままで、意識だけを別の場所に移すわ。前もやったでしょ? シロウの眼をわたしの記録《なか》に移すから、そこで宝石剣を解析して。
……シロウが中に入ったら、わたしが左腕の拘束を外す。二百年前の記録へ遡る圧力と、左腕の侵食が同時に来るわ。気をしっかり持って、出来るだけ早く投影を終わらせなさい」
「――――――――」
イリヤの声は震えている。
……俺を正面から抱いたイリヤの腕も、小刻みに震えている。
「……宝石剣まではわたしが連れて行くから、シロウは息を止めているだけでいい。雑念は捨てて。余計なものは見ないで。シロウはわたしの中から、彼《か》のゼルレッチを抜き取ってくるだけでいい――――」
――――空間が割れる。
感覚、五感の全てがイリヤの記録《なか》とやらに含まれた為か、
それとも、左腕の拘束を外されたからか。
痛みのない、痛みという認識はもはや該当しない自己の損傷に蝕まれながら、何重にも回転する痛みの中に落ちていく。
場所が判らない。
自分が判らない。
意味が判らない。
それは巨大な回路だった。
半径五十メートル以上、すり鉢状の岩肌に刻まれた何十もの多重層刻印。
アリゾナの荒野に独りきりで回る、大きな大きな観測装置に酷似している。
幾重にも張り巡らされた回路。
グルグルと回転する幾何学模様。
その、美しい蜘蛛の巣の中心に、白い少女がいた。
名をリズライヒ。
リズライヒ・ユスティーツァ・フォン・アインツベルン。
この地における聖杯戦争を立案した魔術師、
マキリ臓硯と遠坂永人を従えた、冬の聖女と謳われた大魔道師。
大聖杯が起動している。
ユスティーツァが鍵となって古の魔法を再現しようと試みる。
そうだ。彼女がいなければ聖杯はただの聖杯にすぎない。
“天の杯《ヘブンズフィール》”には彼女の意思が必要だ。
マキリや遠坂だけでは、聖杯はただの願望機にすぎない事を、その老人《・・・・》はよく知っていた。
――――視界が狭まる。
世界が拡大する。
余分な事に意識を裂いた。意識を裂いたから、体が半分になった。
縮んだ体、低くなった視界では世界が広すぎる。
それではいずれ何も見えなくなる。
二百年前の儀式、その製作過程など関係ない。
いま見るべきものは唯一つ。
大聖杯を眼下に見据え、事の顛末を見守る一人の老人が手に持つ、その剣だけに意識を裂く――――
――――それがオリジナル。
宝石を刀身とした儀礼用の短剣。
その、万華鏡のような煌きが、眼球はおろか脳髄まで焼滅させる。
“――――――――、――――――――”
一見した瞬間に理解した。
自分では理解できないと理解した。
真似られるのはカタチだけ。
その構造を解析し投影する事しかできない。
いかなる魔術理論で編まれたものか。
アーチャーの腕を用い、英霊エミヤとしての知識を総動員しても、老人の短剣は未知の世界の理だった。
異星というより異星系。
まだ幼年期にいる人類には届かない、遥か未来の常識を老人は体現している――――
“――――、――――、…………!!”
弾かれる。
弾かれるわけにはいかない。
届かない。
届かないなどゆるされない。
手を伸ばす。
手を伸ばす。
手を伸ばす。
焼き切れた眼球、焼き切れた脳神経のまま、
何十メートルと左手を伸ばして、伸ばして、伸ばして、伸ばして――――――――
「そこまでよ! 戻りなさいシロウ……!」
イリヤの声が響く。
だがまだだ。
まだ指先さえ触れていない。
このまま―――このまま戻ることなど、どうして出来る。
あの奇跡、究極の一を目の当たりにしてどうして引ける……!
「諦めなさい……! このまま消え去りたいのシロウ!」
届け――――。
届け―――――――――。
届け――――――――――――――――。
届け―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「は、あ…………!!!!!!!」
「シロウ――――!」
自分で跳ねたのか、何かに跳ね飛ばされたのか。
体は宙に飛んでいて、背中から地面に落ちた。
「は――――が、あ――――!」
左腕 痛 が 。
舌が なって指は硬く 、どうあっても震えが 。
「あ――――うあ、あ、あ――――!」
。
、 。
「大人しく ! すぐ聖骸 巻き !」
「は、ぐあ、あ…………!」
横合いからでっかい包丁で刺された。
それがあまりにも不快で、包丁をもった誰かを弾き飛ばし――――
「ぁ……い、た――――」
自分が殴りつけたモノが、イリヤだと認識できた。
「……! す、すまないイリヤ、俺、俺は――――」
パンパン、と埃をはたいて立ち上がる。
……良かった。幸い、イリヤに怪我はない。
「バカ、余計なものは見るなって言ったじゃないっ……!
……まったく、上手くいったから許してあげるけど、今度わたしの言うコト聞かなかったら承知しないんだからねっ」
ビシ、と俺の鼻先に指を突きつけて叱るイリヤ。
……と。
イリヤの言葉に釣られて、左手にある硬い感触に視線を落とす。
「――――――――」
……投影、出来てる。
出来ているんだけど、どうも記録の中で見たのとは違うような。
いや、そもそもこの剣にはまったく魔力を感じない。
これなら遠坂のアゾット剣の方が何十倍も優れているし、こんな刀身じゃ物を斬りつけるコトもできないだろう。
「そ。小言はいっぱいあるけど、とりあえずお疲れさまシロウ。投影だけなら完璧、非の打ち所のない剣製を見せてもらったわ」
「う――――実感が湧かないんだけど、どうなんだよコレ。なんかへぼっちいんだけど」
「それはそれでいいのよ。その剣はシュバインオーグの系譜の者にしか扱えない、とびっきりの魔剣なんだから。
ま、考えてみると因果よね。サクラは第三の加護を受けて、リンは若輩の身でありながら第二を駆使しようっていうんだから。協会の連中がいたら調査どころの話じゃない、各部門あげての裁判沙汰になりかねないわ」
クスクスとイリヤは笑う。
「……へえ。この短剣、そんなに凄いものなのか」
「ええ。正しく言うのなら多重次元屈折現象、宝石剣キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。
宝石剣ゼルレッチと呼ばれる、魔道翁の愛剣にして遠坂に遺された家宝ってところ」
「と言っても、遠坂に継承されたのは設計図だけで宝石剣そのものじゃないわ。
ソレはね、遠坂の魔術師がもっと長い時間をかけてたどり着かなくちゃいけない、魔法使いからの宿題なのよ」
「魔法使いからの宿題……って、遠坂の言ってた大師父って魔法使いなのか……!?」
「そうよ。けどゼルレッチは魔法使いの中でも頻繁に俗世に関わる変人だから、弟子は他にもいるでしょうね。
ゼルレッチ本人はこの世界にはいないようだけど、リンが自分の手で宝石剣を作れるようになったらひょっこりやってくるかもしれない」
「むむむ……?」
この世界にはいないだの、ひょっこりやってくるだの、それはただの放浪趣味の旅行好きってヤツではなかろうか。
「――――――――」
――――と。
油断、した。
気を抜くと目の前が霞む。
右手を強く握って、ペンダントを裂けた肌の肉《おく》に突き刺して、意識を保つ。
「――――、――――」
イリヤに気付かれないように呼吸を整える。
手足――――手足の感覚は、まだ残っている。
「――――――――」
……助かった。
一度でも投影を行えば何か失われると危惧していたが、まだ体は何処も欠けていない。
頭もまだキチンと働いている。
こうして自分を確認できるのが何よりの証拠だ。
これなら、あと一回ぐらいはなんとか投影が使える。
―――いや、使わなくてはいけない。
遠坂とは違う方法で桜を救う。
それはアーチャーの腕があって初めて可能に
「 な ってワケ。要するにね、大師父の魔法 並行世界 なのよ。それで、ついたあだ名が とか宝石翁とか万華鏡《カレイドスコープ》とか 」
「――――遠坂?」
「 ? 、 ?」
「――――――――」
聞き取れない。
聞こえないのではなく、遠坂は知らない言葉で喋っている。
知らない言葉で喋って、なにか、物騒なものを左手に持っていた。
……遠坂は見たことのない剣を持っている。
見たことのない?
そんな筈はない。
アレはついさっき俺が投影した<らしい>もので、左手はとうに空っぽで、つまりもう遠坂に手渡したのか。
「士郎? 、さっきから 。
さすがに の投影は ?」
「――――――――」
悪寒がする。
記憶がとんでいる。
記憶が思い出せない。
理解と内容が一致しない。
「ぐ――――、っ…………!」
強く右手を握る。
ポタポタと血液がこぼれるかわりに、ようやく、目の焦点があってくれた。
「――――えっと、遠坂」
立ち上がる。
断線だらけの頭に比べて、手足は異様に軽い。
軽すぎて、中身が空っぽになったのではと訝しむほど。
「遠坂、じゃないわよ。わたしとイリヤは試し打ちをしてくるから、士郎は少しでも体を休めて―――って、どうしたのよその手……!」
遠坂が飛びついてくる。
そのスピードはびっくりするぐらい遅いクセに、
「え……? なんで、士郎がこれ持ってるの……?」
意識が断線して、いつのまにか血塗れの右手を掴まれていた。
遠坂は愕然と、俺の掌にあるペンダントを見つめている。
遠坂が驚いている理由は判らない。
ただ、俺がこれを持っている理由は、確か。
「士郎。どうして貴方がこれを持っているの。それにこんなになるまで握り締めてるなんて正気?」
「どうしてって、お守りがわりに持ってるだけだ。これは、確か」
拾ったものだ。
何処でだろう。
簡単な、忘れられない事なのに、どうしても記憶の引き出しから出てこない。
だと言うのに、俺以外の何者か、左腕に残るモノが、それを、今の俺以上に知っていた。
「……その、大切なもの、なんだ。それは、肌身離さず、最期まで、持っていない、と」
自分のものではない言葉がこぼれる。
「………………。
士郎。そのペンダントなら、わたしも持ってる」
「え?」
遠坂はポケットからペンダントを取り出した。
確かに同じだ。
宝石使いである遠坂にはこじんまりとした物だが、遠坂は美人なんだから、こういう小物の方が本人を引き立たせていいと思う。
「へえ、そっくりだな」
思ったままに頷く。
「違うわ。わたしのは空っぽだけど、士郎のは少しだけ残ってる。取るに足りない量だけど、それでも、使われ《・・・》たからには《・・・・・》意味があるんだわ」
「?」
「それ、持っていて。何かの役に立つかもしれないから」
遠坂はペンダントを仕舞うと、イリヤの手を掴んで歩き出した。
「おい遠坂。どこ行くんだよ」
「わたしはイリヤに話があるのよ。一時間だけ休憩をあげるから、部屋で大人しくしてなさい。
それと。その右手、いますぐ手当てしないと本気で怒るわよ」
「――――――――」
遠坂の不機嫌さはほとんど殺気だった。
遠坂はイリヤを連れて行き、イリヤも黙ったままついて行く。
……そうだ。
以前、星空の下でライダーは俺に問うた。
どんな事になろうと、最後まで桜の味方が出来るのか、と。
あの時答えられなかった言葉。
それを、今なら胸を張って口にできる。
「ライダー。アンタが桜を大切にしているのは判る。
今だって、俺を行かせたら桜が苦しむから止めようとしてるんだろ」
「………ええ。それが判っていて、サクラを殺しにいくのですか、士郎」
「殺す為じゃない。救う為に行くんだ。
ライダー。俺は最後まで桜を守る。どんな事になろうと桜を選ぶ」
「その為に―――アンタの力を貸してくれ。俺と遠坂だけじゃ桜を助けられない。桜を本当に大切に思ってくれるなら、今だけでも手を貸してくれ」
「――――――それは。
いつぞやの質問の回答、という事ですか」
無言で頷く。
「………………いいでしょう。
ですが私は勝算のない戦いには赴きません。貴方は私に何を期待するのですか、士郎」
ライダーに期待する事?
そんなものは一つだけだ。
桜を守る最強のカード、セイバーの宝具に対抗できるのは、全サーヴァント中ライダーだけなんだから。
「―――その前に質問がある。アンタの宝具は、今でも使えるのか」
「使えます。桜は未だ、私に魔力を供給していますから」
「じゃあ次。サーヴァントは実体化していても、カテゴリー的には霊体なんだろ。となると、通常の武器ではサーヴァントを傷つけられないのか」
「……そうですね。通常のサーヴァントなら無効化できますが、サクラに囚われたサーヴァントは別です。
セイバーは肉を与えられ、霊体に戻れない生命です。
強力な魔術品ならば、彼らが纏った黒い影を突破できるでしょう」
「――――そうか。なら決まりだ。勝算はあるし、役割もはっきりしている。
ライダー。アンタには一対一でセイバーを倒してもらう。具体的に言うとだな――――」
ごにょごにょ、とライダーに耳打ちする。
……誰が聞いている訳でもないが、一応用心というヤツだ。
「――――なるほど。確かにその方法なら突破できる。
なにしろ純粋な力勝負です。紛《まぎ》れが起きる心配もない」
「だろ。……まあ、問題があるとしたら、それは」
「貴方の技量と、貴方の技量を私がどこまで信頼できるか、ですね」
ああ、と頷く。
ライダーは僅かに戸惑い、口元に指を当て、
「承知しました。貴方を信頼し、一時の主人と認めましょう」
その、びっくりするぐらい可憐な笑みを浮かべて、俺の提案に頷いてくれた。
◇◇◇
全ての秒針が頂点を指す。
午前零時、約束の時間になった。
アゾット剣を布で覆い、脇に抱える。
武器はそれだけだ。他に持っていくものは、遠坂に言われたペンダント一つだけ。
「シロウ、リンが呼んでるわ。外で待ってるから、準備が出来次第来なさいって」
イリヤはここに残る。
臓硯がイリヤを狙っている、という事もあるが、イリヤに残ってもらうのは俺の希望でもあるからだ。
「そうか。遠坂、先に外で待っているのか」
「ええ。早く来いって顔してたから、急がないとまた小言よ」
「――――――――」
イリヤの言葉に頷いて、立ち上がった。
左腕からの痛みはもうない。
ただ、生物としての機能が、少しずつこそぎ落ちているだけだ。
立ち止まっていると、自分が何をしているか判らなくなる。
「それじゃ行ってくる。イリヤも気をつけてな」
「いってらっしゃいシロウ。夜が明ける頃に、サクラとリンと三人で帰ってきてね」
イリヤに手を振って部屋を後にした。
居間は静まり返っている。
十年間。
ここでは色んなコトがあって、沢山の思い出があった。
それはつい最近あった出来事。
いつも、この一年半、身近で在り続けてくれた朝の風景。
土蔵は静まり返っている。
自分の部屋のように入り浸った、衛宮士郎の小さな工房。
ここで切嗣の背中を追いかけて、毎夜、無我夢中になって鍛錬をした。
寝坊した時、たまに起こされるコトもあった。
もうずっと昔のように感じられるのに、空気の匂いさえ覚えている。
部屋は静まり返っている。
たった数日間だけ使われた客間。
ここにはさして思い出などなく、
ただ、桜の姿が浮かぶだけだ。
「――――――はあ」
息をついて、壁に背を預ける。
思い出せない。
この家で起きたコト、今まで過ごしてきたコトがこれっぽっちも思い出せない。
だというのに。
こうして、足を運ぶだけで、桜の面影だけは明確に蘇る。
「――――呆れた。こんなに、俺は」
桜が、大切だったんだ。
意識はもう細切れになりそうで、記憶もメチャクチャになっている。
屋敷で過ごした十年間が何もかもあやふやになっている。
それでも―――ちゃんと思い出せる。
何がなくなろうとも、桜のことだけは、こんなにも明確に思い出せる。
「――――――――――――」
ほう、と大きく深呼吸をする。
やるべき事なんて初めから決まっていた。
「さあ――――行こう、桜」
断線する意識を繋ぎとめて、桜の部屋を後にする。
残ったものは何もない。
此処には、いつか、約束があった。
叶わないと知りながら、お互いを励ましあった。
それを今でも繰り返す。
あれは――――何処に向かう為の、小さな希望だったのだろう。
◇◇◇ ◇◇◇
――――それは、星を祭る祭壇だった。
天と地を繋げるが如く燃える炎。
揺らめく炎身は無明である空洞を照らし、
堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。
しかし、この祭りは正しいモノではあり得まい。
宙《ソラ》を繋ぐというが天は地の底であり、
無明を照らす松明は赤ではなく黒色。
空気は濁り、風は封殺され、壁に滲む水滴は悉《ことごと》くが毒の色。
龍が棲むとされる地の国は、その実、巨大な龍の胃袋を模していた。
ここを訪れるモノはみな人ではない。
このような異界に救いを求め、このような異景を祭ろうとするモノは、陽の光から逃れる蛇蠍魔蠍《だかつまかつ》の類に違いない。
「グ――――」
その異界の中で、白い髑髏の面が咽《むせ》ぶ。
黒色の緋に照らされたソレは、言峰綺礼によって主を失ったサーヴァント・アサシンである。
「―――ここまでか。魔力提供がなくては、もはや体が保たぬ」
白い髑髏は壁を這う。
その行く先には一人の少女が立っている。
黒い呪いに身を包んだ少女は、迫り来る髑髏をぼんやりと見つめている。
「ツ――――ようやくたどり着いたか。
魔術師殿。姿は見えぬが、御身は健在か?」
少女から離れること三間。
蜘蛛のように壁に張り付いたまま、アサシンは虚空に呼びかける。
「――――うむ。よく戻ったなアサシン」
果たして、呼びかけは応えられた。
虚空に響くのは老魔術師の声だ。
言峰綺礼に退治された筈の老人は、この地底において健在だった。
それも当然。
森で潰された間桐臓硯など、所詮は虫の集まりにすぎない。
老魔術師の本体、魂を世に留めている依り代は最も安全な場所で眠っているのだ。
いかに神父の聖言とて、本体である虫を潰さねばこの老魔術師は滅びない。
「しかし、手足どもを潰されたのは応えたわ。今のワシではおぬしに送る魔力も作り出せぬ。かといって地上で新しい肉を調達するのも手間じゃ。
……ふむ。負担をかけるが頃合か。桜、アサシンと契約を結べ。バーサーカーを失った今、新しい護衛が必要じゃろう」
老魔術師の声が響く。
黒い呪いの少女――――間桐桜は反応しない。
絶対者である老人の言葉を無視し、光の無い目で虚空を見つめるのみである。
「……なにをしておる桜。ワシの言葉が聞けぬというのか」
苛立ちを含んだ声は、同時に危険をも感じさせる。
老人は少しばかり気が立っていた。
むざむざイリヤスフィールを逃し、バーサーカーを失った少女の不手際に怒りを覚えていたからだ。
「―――桜。もう一度言うぞ。ワシの言葉が聞けぬというのか」
冷え切った侮蔑。
この声を前にして、少女が老人に逆らった事は一度もない。
それは恐怖からではなく、絶対的な支配力によるものだ。
少女は確かに老人を恐れている。
そしてそれ以上に、少女は老人には逆らえない。
何故なら、少女の心臓には、
「―――待たれよ魔術師殿。この女、もはや知性がないのではないか。あれほどの念を受け入れているのだ。脆弱な小娘に耐えきれる筈もない」
「―――ぬ?」
老人の苛立ちが消える。
……ゆるやかな静寂。
黒い炎に照らされた奈落に、ヒタヒタと虫の這う音がする。
「ふむ。どうやらそのようじゃな。しばらくは保つかと思うたが、幕引きはあっけなかったのう」
老魔術師は心底残念そうに、心底嬉しそうに言葉を投げる。
少女は答えない。
彼女の意識は、とうに闇に飲まれている。
「では――――予定通り、その娘を?」
「人聞きの悪い。予定通りなどではないぞ、あくまで仕方なくじゃ。間桐桜の理性は消えてしまった。このままではあの化け物を制御するモノがいなくなってしまう。
故に、鬼畜と知りながらも空洞になった孫娘を食らおうというのではないか」
くつくつと笑う。
それは少女の喉から。
空っぽになった間桐桜の声帯を使って上げられる、老魔術師の笑いだった。
「では急ぎ行っていただけぬかな。私の体は消えかけている。早急に魔力を貰わねば消えてしまう」
「うむ。では始めるとするか。
……いやはや、実に残念だぞ桜。ここまでアレを育てたおぬしじゃ、せめて聖杯を手に入れる栄光は譲りたかったのだが、仕方あるまい。
恨むのなら己を恨め。儀式が間に合わなかったは、イリヤスフィールを逃したおまえの落ち度よ」
ギチリ、と音がする。
少女の首を挿げ替えようと一匹の虫が蠢く。
その姿は見えなかった。
少女の肌に這う虫など存在しない。
―――それは外からではなく。
少女にとって逃れようのない、自身の心臓からにじり寄る、歪《いび》つな思念に他ならない。
蟲使い、間桐臓硯。
その本体、腐敗する魂を繋ぎ止める依り代は、間桐桜の心臓に潜む擬似神経体だったのだ。
「く、体はまだ変わりきっていないが、なに、贅沢は言わぬ。その肉体、消えた理性《あるじ》に代わってワシが引き継いでやろう。
さらばだ桜。実験作の身でよくぞ耐え抜き、よくぞワシを愉しませた……!」
ずるずると血管を這う音がする。
腐敗する間桐臓硯の霊体が、本体である虫に、少女の脳を食えと命令する。
――――が。
「その必要はありません、お爺さま。わたしは大丈夫です」
自らの胸に手をあて、少女は目を覚ましていた。
「ほう。飲まれてしまったかと思うたが、まだ踏み止まっておったか。…………ふむ。では桜。ちと事情が変わってな、ワシではアサシンを維持できなくなった。
少しばかり負担をかけるが、ワシの代わりにアサシンと契約するがよい」
当然のように老魔術師は命令する。
それを、少女は首を振って拒絶した。
「――――なに? なんのつもりかな、桜」
「ですから言ったでしょう、お爺さま。その必要はありません、と」
虚空に響く氷の声。
瞬間。
壁に這っていた白い髑髏が、巨大な闇に飲み込まれた。
「ギ――――!?」
「な――――!?」
驚愕など遅い。
暗殺者は一撃のもとに体を圧縮され、原型を留めるは仮面のみ。
「ガ――――ア、ああああああああああああ!?」
その仮面も落ちる。
白い髑髏の下。
在るべき筈の素顔は、面と同じ髑髏だった。
「……ふふ。なぁんだ、どんな顔をしてるかと思えば、もともと顔がない人だったんですね。
貴方は顔を隠していたんじゃなくて、素顔を隠す事で、顔があると思わせているだけの、つまらない人だった」
「ギ―――小娘、キサ―――」
「顔を無くして、名前も捨てて、それでも永遠を求めたなんて。……けど残念。永遠を求めるなら、お爺さまのようにこれから生き続ける事を望まないと。
いくら聖杯でも、過去に戻って貴方の名前を取り戻すなんてコトはできないんだから」
「消えなさい山の主。貴方は何者でもない一人の暗殺者、ただ一人の本物《ハサン》になど成れないわ」
「ギ、ぎゃあああああああああああああああ―――!」
断末魔さえ影に飲まれる。
白い髑髏の暗殺者は、跡形もなく少女の影に飲み込まれた。
「ぐ―――貴様正気か!? 何をするのだ、このバカ者め……!」
老人の混乱は狂乱に近い。
突然の凶行に驚いたのか、それとも―――何か、言いようの無い恐怖を感じたが故の狂乱か。
少女は支配者であった老人の叫びに微笑みを返す。
「だってあの人、二度も先輩に手を上げたでしょう?
だから殺しました。だって、先輩を傷つけていいのは、わたしだけなんだから」
「な――――」
「それにお爺さま? お爺さまはもう、彼に守られなくてもいいんです。なら、彼には暇をあげないと可哀想」
そうして、ずるりと。
少女は自らの心臓に指を入れ、神経深く食い込んでいた、一匹の虫を引きずり出した。
「っ――――!!!」
その恐怖、混乱をなんと呼ぼう。
自らの心臓を抉り、体中の神経をズタズタにしながら、少女は涼しげに笑っていた。
「な――――なにを、なにをする、桜――――」
ピチピチと動く。
少女は光のない目で、祖父であるモノ、祖父と名乗るモノ、祖父であったらしいモノを観察する。
「なんだ。やってみたら簡単なんですね。わたし、お爺さまはもっと大きいかと思っていました」
いや。実際、間桐臓硯が本体とする虫は、このような矮躯ではなかった。
老魔術師は少女の心臓に寄生する為、それに相応しい虫に依り代を切り替えた。
心臓に棲むからには心臓以下でなくてはならぬ。
振り返ってみれば、その奇怪な嗜好こそが老魔術師の過ちだった。
「桜―――桜、よもや」
「あの神父さんには感謝しないといけませんね。あの方がお爺さまを消してくださらなかったら、本当にわたしが食べられていたところだった」
見透かされている。
いや、そんなものは始めから決まっていたのだ。
老魔術師は己の目的を隠そうともせず、少女は老魔術師の意向に逆らわなかった。
だから問題などなかったのだ。
少女はいつか、必ず老魔術師にとって代わられるだけの肉だった。
こうして―――少女が老魔術師に反旗を翻すこの時までは。
「ま―――待て、待て待て待て待て……!!
違う、違うぞ桜……! おまえに取り憑くというのは最後の手段だ。おまえの意識があるのなら、門は全ておまえに与える。ワシは間桐の血統が栄えればそれでよい。
おまえが勝者となり、全てを手に入れるのならばそれでよいのだ、桜……!」
ピチピチと虫が蠢く。
指先でつまんだ汚物《ソレ》に、少女は優しく笑いかける。
「それでは尚更ですね。だって、もうお爺さまの手は要りません。あとはわたしだけでも、門を開ける事はできますから」
有り得ない事が起きる。
老魔術師の間違いは唯一つ。
「――――! 待て、待つのだ、待ってくれ桜……!
ワシはおまえの事を思ってやってきたのだぞ……!?
それを、それを、恩を仇で返すような真似を――――」
「さようならお爺さま。
二百年も地の底で蠢いていたのは疲れたでしょう?
―――さあ、もうお消えになっても結構です」 老人は、少女を育てすぎた。
少女が孕む闇に気付かず、純粋なモノと見誤って育てたのだ。
……祭壇には少女だけが残される。
ゆらめく黒い炎は、自らを体現する、少女の自立に歓喜する。
「―――――――ふ」
黒い少女は掌にこびりついた血を見つめ、
「ふふ――――ふふ、あはははははは――――」
糸の切れた人形のような空虚さで、いつまでも笑い続けた。
◇◇◇
出迎えはない。
闇に沈む柳洞寺は、蹲る巨人のように大きく、何か異質な力を感じさせる。
上空には風が出ているのか。
耳を澄ますと、ごうごうと強く大気を蹴る音がする。
「……階段の上に力を感じます。境内の裏手にある池に、なんらかの場が作られているようですが」
「いえ、柳洞寺《そっち》に用はないわ。上で作られてる場は表向きの、ただ聖杯を欲しがるマスター用の門よ。……聖杯戦争の大聖杯《おおもと》に行こうっていうんなら、上じゃなくて下に行かないとね」
階段から離れ、遠坂は森の中に入っていく。
「……ライダー、大丈夫か? 柳洞寺は結界が張ってあるんだろ。サーヴァントは正門からしか山に入れないって聞いたけど」
「……多少の重圧はありますが、耐えられるレベルです。
それに中に入りさえすれば、この土地はサーヴァントにとって最適な霊脈です。大気に満ちた魔力《マナ》を吸い上げれば回復は容易い」
「そうか。辛いだろうが、少しの間我慢してくれ」
木々をかきわけて、夜の山を歩いていく。
山には獣道さえなく、ほとんど絶壁じみた岩肌を降りる事さえあった。
「む―――イリヤの話じゃこのあたりなんだけど……士郎、入り口らしきもの、見当たらない?」
「らしきものって、なんだよ」
「岩肌に人が入れそうな亀裂があるとか、あからさまに怪しい社とかよ。一応入り口なんだから、まさか落とし穴ってワケでもないでしょ」
「……無茶言うなあ。星が出てるからって、夜の森で周りが見通せるかって――――」
……あ。わりと見通せる。
柳洞寺の裏手に出たのか、あたりは冬の枯れ木ばかりだ。
人工物なんて当然なく、あるといったら枯れ木と、チロチロと流れる小川ぐらい。
「……小川?」
待て。
小川って事は、どこからか水が涌いているって事だ。
「……ライダー。あの小川の先、岩が固まってるよな。
真っ暗でよく見えないけど、あれ、もしかして横穴になってないか?」
「―――――。士郎、振り向かないように」
かちゃり、と小さな金属音がする。
ライダーが目の拘束具を外したのだ。
「……ありますね。天然の洞穴ですが、人間が入れない事もない。ここからでは一メートルほどで行き止まっているように見えますが、魔術による偽装が感じられます」
「そっか、助かる。―――遠坂。それらしいもの、あったみたいだ」
声をかけて小川へと降りていく。
……それは川というより、岩からこぼれる清水の流れにすぎなかった。
流れの源では幾つもの岩が折り重なり、人間一人がようやく入れる程度の隙間がある。
岩で出来たカマクラのようなものだ。
中に入ったところですぐに岩にぶつかると一目で判り、まっとうな人間なら入ろうとすら思わない。
「――――当たり。この岩、簡単にすり抜けるわ」
遠坂は振り返らずに暗い闇へと突入していく。
「先にどうぞ。後は私が守ります」
ライダーに頷いて闇に潜る。
かつん、という音。
水に濡れた地面を手探りで進んでいく。
地面は急激な角度で下へ下へと傾いている。
……狭く、息苦しい闇の圧迫。
背中をつけて下っていかなければ、すぐさま無限の闇へ転がり落ちていきそうだ。
「………………」
暗闇の中、坂の傾斜に寝そべって、ゆっくりと降下していく。
……先はどれほど暗く、地下に続いているかは判らない。
自分の息遣いだけが耳に響く。
「士郎。今のうちに訊いておく」
……と。
先行する遠坂が、唐突に話し掛けてきた。
「いいけど、なんだ」
「宝石剣。なんで作ってくれたの」
それはなんというか、下に降りるだけの作業に飽きて、暇つぶしに口にしたような、そんな素っ気なさだ。
「なんでって、なんでさ」
「―――だから。わたしは桜を殺すって言ってるのよ。
そんなわたしに武器を預けていいのかってコト」
「―――――――」
なるほど、と闇に頷いたりする。
それは、まあ確かに、遠坂の言う通りである。
「よくない。よくないけど、遠坂がいないと桜は助けられない。桜を助けたいんなら、一人より二人の方が確実だろ。
……それに、剣を投影するのは約束だった。
俺は遠坂との約束を果たせなかった。だから、もう一つの約束だけはキチンと守りたかったんだ」
もう随分前。
セイバーを失った後、俺は遠坂に助力を求めた。
遠坂はそれに応じてくれて、確かに約束したんだ。
遠坂を勝たせる。
聖杯戦争の勝者を遠坂にすると約束した。
……それはもう守れない。
だから、もう一つの約束だけは守らないと。
あの時。
何も無かった俺を信じてくれた、遠坂凛っていう、好きだった女の子の為に。
「そう。律儀ね、貴方」
「ああ。遠坂ほどじゃないけどな」
闇は静寂に戻る。
会話はそれで終わった。
俺たちは互いの顔も見れず、淡々と奈落へと降りていく。
黄泉に通じるような長い路。
それが螺旋状に穿たれた通路であり、体の感覚で百メートル以上は進んだと判断した時。
暗い洞穴は、一転して俺たちを迎えいれた。
一人一人しか進めなかった路は、通路になってさらに奥へと続いている。
明かりは必要ない。
光苔《ひかりごけ》の一種か、洞窟はぼんやりとした緑色に照らされている。
通路には生命力が満ち溢れている。
それがあまりにも生々しい。
活気に満ち、生を謳歌しようとする誕生の空気。
それは夥《おびただ》しいまでの“生気《オド》”であり、視覚化できるほど垂れ流される魔力《マナ》である。
「――――――――」
その、あまりの生々しさに吐き気がする。
輝かしいものである生命の温かさが、ここでは目を背けたくなる汚物だった。
「……………………」
「――――――――」
かける言葉はない。
ここは死地だ。
声をかけあうなど、そんな余分な事で緊張を和らげては死に繋がる。
「―――行くわよ。ここから先は、自分の命を優先して」
……通路の奥、黒い空気の源流へと遠坂は進んでいく。
俺とライダーも周囲に気を配りながら足を進める。
「……?」
ふと、地面に赤いモノが見えた。
間違いなく血の跡だ。
血は点々と奥まで続いている。
「――――――――」
俺たちより先に来た者がいるのか。
それもこんな、血の跡を残していくほど傷だらけの人間が……?
「士郎」
「……すまない。すぐ行く」
頭に浮かんだ予想を振り払って先に進む。
俺だって他人の心配をしている余裕はない。
「っ―――――――」
気を抜けば意識が切れる。
余分な事を気に病めば自分が消える。
「………………」
右手に持ったペンダントを強く握る。
痛みで自分を呼び起こして、緑の闇へ踏み出した。
◇◇◇
―――生暖かい風が頬を撫でる。
通路を抜けた先は、大きく開けた空洞だった。
横幅は学校のグラウンドほど。
天井は闇に霞んで見えないが、十メートルほどの高さの筈だ。
生命の気配はない。
昔、何かの図鑑で見た月の荒野に酷似した、忘れられた地下の広間。
そこに、
絶対の殺気を纏って、セイバーが待っていた。
空洞には彼女しかいない。
桜も、臓硯もアサシンも姿がない。
立ち塞がっているのは、黒く変貌した彼女だけだ。
「――――――セイバー」
「――――――――――」
呼びかけても答えはない。
……当然だ。
セイバーの役割は侵入者の排除に他ならない。
彼女はここの門番であり、処刑人だった。
桜を守る最強のサーヴァントであるセイバーなら、一人きりで俺たち三人の相手が出来る。
「……ふん。話し合いで通してくれる、って雰囲気じゃなさそうね」
姿勢を低くしながら、遠坂は腰の後ろに隠した宝石剣に手を伸ばす。
―――遠坂は正面から戦る気だ。
あの剣がどんな能力を持っているかは知らないが、セイバーとまともに斬り合うハラらしい。
だが、それは上手くない。
手の内が判っているセイバーなら、こっちにも対抗策がある。まだ臓硯とアサシンが控えている状況で、唯一“秘密”である宝石剣を使うのは――――
「遠坂待て……! セイバーは――――」
「凛。私には貴方と争う理由はない。くれぐれも間違いで私に剣を向けないように。―――貴方をここで殺してしまっては、桜の命令に背いてしまう」
「……!」
セイバーは静かな、以前と同じ声で、戦おうとする遠坂を諌める。
それが何を意味するのか、俺も遠坂も、訊くまでもなく分かってしまった。
「……どういうつもり? 貴方はここの門番よね、セイバー」
「はい。相手が何者であれ、ここを通る者は消去する。
それが桜の命令です。ですが―――」
「わたしは例外。桜の方から会いたがってるってワケ?」
セイバーは無言で頷く。
「……そう。本気なんだ、桜」
短い呟き。
……大きく息を吸った後、遠坂はセイバーへと歩きだした。
「遠坂」
「悪いわね。そういう訳だから、先に行かせてもらうわ」
遠坂は堂々と歩を進め、セイバーの横を通りすぎていく。
その姿が洞窟の闇に溶け込む寸前。
「士郎。アンタがどうなるかは知らないけど、わたしは信頼してるんだから。ちゃんと期待に応えてよね」
「は?」
……いや。
この局面で目的語抜きで文句を言われても、うまく頭が働かないのだが。
「だ、だから、ケリがついた後に来られて文句言われるのも迷惑だってコト! ……その、桜を助けたいっていうんなら、あんまり遅くならないようにね」
長い髪をなびかせて、振り返らずに遠坂は奥へと消えていった。
「――――――――」
……サンキュ、遠坂。
今のは気合が入った。
要するにあいつは、自分が桜を止めておけるうちに来いと、遠まわしに応援してくれたのだ。
「それは不可能です。貴方はここで死ぬのですから、シロウ」
「……!」
セイバーの殺気が膨れ上がる。
遠坂が奥に進み、残されたのは俺とライダーだけだ。
この状況なら―――もう殺気を抑える必要はないという事か。
「殺す、とは聞き捨てなりませんね。貴方が手をかけるのはこの道を通る者のみ。彼がこの場に留まるのなら、貴方に襲われる事はない筈ですが」
「留まるのならばそうしよう。
だが、その男はどうあっても先に進む。私には勝てないと理解していながら、先に進むしかない。
違いますか、ライダー」
「そう。先に仕えていたのは貴女だったわねセイバー。
彼の性格、知っていて当然ということ」
……セイバーの視線が細まる。
その手には黒く染まった聖剣が握られている。
―――来る。
俺かライダー。
どちらかが一歩でも踏み込めば、セイバーは全力を以って、一撃で俺たちを仕留めにかかるだろう。
「………セイバー。どうあっても退かないんだな」
「くどい。それが私の役割と言いました」
左腕の聖骸布を握り締める。
……セイバーには、何の戸惑いもない。
俺たちはとうに敵同士だ。
それはあの森で認識しあった、覆《くつがえ》りようの無い事実。
それを、
「―――そうか。なら、ここでおまえを消滅させる」
はっきりと、飲み込まなくてはいけない。
「――――」
「俺は桜を助ける。その為に、おまえは邪魔だ」
敵はセイバーだけじゃない。
まだ元凶である臓硯とアサシンが残っている。
これ以上、ここで時間を食うわけにはいかない。
「士郎、貴方は後ろに。指示通り、セイバーの相手は私がします」
魔眼の拘束を解き、ライダーは片手で俺を後ろに下げた。
セイバーの剣が上がる。
―――切っ先から立ち上る剣気は、既にライダーを捉えている―――
「馬鹿言うな。二人がかりでやるって言っただろう。ライダーじゃセイバーには」
「倒せないまでも押し留める事はできる。幸い、セイバーは魔眼除けの特性を持っていません。
魔力で上回る彼女を石化する事はできませんが、重圧をかける事はできる。全力でかかれば、二分は拮抗できるでしょう」
ライダーの眼がセイバーを捕らえる。
見た者を石にする魔眼は、一時的にセイバーの能力を減少させる。
「状況は私が作ります。貴方は動かず、機を逃さぬよう気を配りなさい」
「ライダー」
「――――では。私の命は貴方に預けます、士郎」
ライダーの姿が掻き消える。
高速の脚を以って、黒い騎兵が剣士へと疾走する。
人間の動体視力では捉えられぬ神速《ライダー》の一撃。
それを事も無げにセイバーは弾き返す。
「―――いいでしょう。まずは貴方が消えなさい、ライダー」
強大な重圧が空洞に充満する。
口はしに冷酷な笑みを浮かべ、悠然と、黒い剣士は動き出した。
◇◇◇
視界が広がる。
暗い闇を抜けた時、少女―――遠坂凛は、ここが地の底である事を忘れてしまった。
果てのない天蓋と、黒い太陽。
広大な空間は洞窟などではなく、荒涼とした大地そのものだ。
直径にして優に二キロ。いや三キロはあるだろう。
遥か遠方には壁のごとき一枚岩。
……それがこの戦いの始まりにして終着点。
あの崖を登れば、視界に広がるのは巨大なクレーターの筈だ。
そこに、二百年間稼動し続けたシステムが存在する。
大聖杯と呼ばれる巨大な魔法陣を腹に収めた巨岩は、すり鉢状の内部より黒い柱を燃え上がらせている。
どくん、どくん、と胎動する黒い影。
荒野を照らす明かりは、その“何か”から漏れている魔力の波だ。
……遠坂の文献に曰く、始まりの祭壇はこう呼ばれている。
最中《さなか》にいたる中心。
円冠回廊、心臓世界テンノサカズキ。
いまや計測不能なまでの魔力を孕んだソレは、その異名に恥じない“異界”を創り上げている。
「アレがアンリマユ……この世全ての悪っていうのは伊達じゃないってコトね――――」
軽口を叩いて凛は祭壇へと歩いていく。
……残してきた士郎たちは気にかかるが、自分の状況も楽観できたものではない。
大聖杯に満ちた魔力は、もう人間がどうこうできる次元の話ではなかった。
アレは、もう『無尽』とさえ呼べる魔力の渦だ。
世界中の魔術師がここに集まって、好き勝手魔力をくみ上げようと尽きない貯蔵量。
人間が一生を以ってしても使い切れない魔力は、たとえ限度があろうとも、無尽と称しても間違いではない。
「……不可能はない、か。確かにアレは、あらゆる願いを可能にする聖杯だ」
手足を痺れさせる死の予感、圧倒的なまでの戦力差を見せつけられて心が折れそうになる。
それを軽口で冷却しながら、遠坂凛は歩いていく。
―――彼女が警戒しているのは、目下のところ間桐臓硯とアサシンである。
彼女の中では、間桐桜は“注意すべき”相手にはなっていない。
自分を見失っているだけの間桐桜に、凛は脅威を感じていない。
所詮、桜は臓硯の操り人形である。
彼女にとって最大の敵とは間桐臓硯に他ならない。
間桐桜との対決など、その後に来る事後処理としか考えていない。
「…………おかしい。これじゃ祭壇に着いちゃうんだけど、わたし」
あの臓硯が、異物の侵入をここまで許す筈がない。
仕掛けるのなら祭壇に向かう途中だ。
それが未だ見られず、凛は祭壇に到着しつつある。
「――――――――」
考える。
臓硯による妨害がない理由、臓硯とアサシンの気配がまるで感じられない状況。
それらを踏まえて、凛はある推測を立ててしまった。
そんな事はない、と否定しながらも、それを容易く認めてしまった。
否、認めざるを得なかった。
何故なら、既に。
「―――嬉しいわ姉さん。逃げずに来てくれたんですね」
その推測は、疑いようのない事実となっていたからだ。
頭上を見上げる。
高い崖の上。
黒い太陽を背にして、間桐桜は己《おの》が姉を歓迎した。
「――――――――っ」
その重圧、変貌に圧倒され、凛は僅かに後退する。
……少女の変貌は、凛の予想を上回っていた。
アンリマユとは実体を持たないサーヴァント。
人間の空想がカタチどり、人の願いをもって受肉する“影”にすぎない。
故に、その力は影を生み出す寄り代《マスター》に委ねられる。
間桐桜は、いまやアンリマユそのものだった。
“この世全ての悪”という呪い、それを外界に流出させ、指向性を持たせる「機能」が、間桐桜という少女なのである。
「……まいった。綺礼がいたら、神の代行者とか言うんだろうな……」
無尽蔵の魔力と化した桜を見上げ、凛は宝石剣を解放する。
―――だが、頭上の少女は、それで太刀打ちできる存《モ》在《ノ》なのか。
魔術をサポートする武装、儀式を補助する礼装は、大きく二系統ある。
一つは増幅機能。
魔術師の魔力を増幅、補充し、魔術師本人が行う魔術そのものを強化する予備燃料《バックアップ》。
これはオーソドックスな補助礼装とされ、魔術師ならば一つは保有する魔術品だ。凛の宝石もこの系統に属する。
もう一つは限定機能。
武装そのものが一つの“魔術”となる、特殊な魔術品である。
これらは魔術師の魔力を動力源として起動し、定められた“神秘”を実行する。
最大の利点は、魔力さえ流せば使用者が再現できない魔術であろうと実行できる、という事。
応用は利かず、単一の用途しか持たないが、それ故に込められた魔術は絶大だ。
使えば必ず心臓を貫く槍、
聖獣を使役する手綱、
あらゆる魔術効果を初期化《キャンセル》する短刀。
サーヴァントの持つ宝具も、大部分はこの系統に属する。
「――――――――」
では、凛の持つ宝石剣はどちらなのか。
所有者に魔力を与える補助武装か、
特異な能力によって敵を倒す限定武装か。
……しかし。
そのどちらであろうと、今の間桐桜に通用する武装があるとは思えない。
魔力《ちから》の差は圧倒的だ。
どのような魔術であれ、それは、間桐桜の一息で吹き飛ばされてしまうだろう――――
「どうしました姉さん、そんなに怯えて。……ふふ、いまさら臆病風に吹かれた、なんて言わないでくださいね」
「……言うじゃない。そういうアンタこそ、いつも傍にいる保護者はどうしたのよ。弱虫なんだから、すぐ近くにいてもらわないと困るんじゃない?」
「――――――――」
……空気が凍る。
生暖かい生気に満たされた大空洞《ようすい》に、昏い殺気が混ざさっていく。
「――――――――」
黒い少女は僅かに唇を噛み、小さく息を吐いて、
「お爺さまならもういません。邪魔でしたから、アサシンと一緒に潰したんです」
クスリと、優雅な微笑みを浮かべた。
「………………」
問うまでもない。
間桐臓硯は、間桐桜に殺された。
……姿を見せないのも当然だ。
あの老魔術師は、最後の最後で飼い犬に食い殺されてしまったのだから。
「なるほど、完全に自由になった訳ね。良くも悪くも、臓硯は今までアンタを縛っていた支配者だった。
その臓硯《よくあつ》を自分の手で始末して、もう怖いものはないってワケ」
「いいえ。それがまだなんですよ、姉さん。
お爺さまを消したぐらいじゃダメなんです。こんなに強くなって、何だってできるようになったのに、わたしはまだ囚われている」
「……もう。もう姉さんなんて取るに足りない存在なのに、姉さんはわたしの中から消えてくれない。姉さんはわたしの中で、今も懲りずにわたしを苛め続けている。
だから――――貴女がいるかぎり、わたしは自由になんてなれません」
少女の声は歌うように軽やかであり、粘りつくように重い。
その矛盾は、少女が正気ではない証だった。
大空洞に満ちた殺気は、その実、優越と畏怖が混ざった狂想である。
「……ふうん。そのわりにはご機嫌じゃない。臓硯を殺してアサシンも殺して、その分じゃ綺礼もアンタに殺されたと見るべきね。
あれだけ嫌がってたのに大した手際だわ。人殺しにはもう慣れたの?」
「ええ。だって、人を潰すのも食べるのも変わらないもの。
人間は潰《あそんで》していないと毎日がつまらなくて意味がないし、食べないとお腹がすいて苦しいでしょう?
ほら、だから同じ。姉さんと変わらない。わたしは当たり前のように、みんながしてるコトをするだけです」
「―――ちょっと。今の屁理屈、本気で言ってる?」
「屁理屈なんかじゃありません。わたしは間違ってない。
違ったのは強くなったからです。強くなったから、今までとは在り方が変わってしまっただけ」
「わたしは――――わたしは強くなりました。強くなれば、何をしても許されるんじゃないんですか。
……そう。強くなれば、誰にも負けなければ、今までしてきてしまった事だって許される。わたしがわたしじゃなくなれば、今までしてきたコトも全部当たり前の、仕方のないコトなんだって言える筈です……!」
怒りに満ちた絶叫。
それは、そう信じるコトでしか逃げ場のない、泣きじゃくる子供の訴えだった。
「わかりましたか姉さん。わたしはそういうモノになるんです。だから誰だって殺せます。そんなの、わたしにとっては当たり前の事なんだから」
「……そ。で、目に付くものなら片っ端から八つ当たりするワケか。けど士郎はどうなの。あいつは今でもアンタを助けられると信じてる。それでも関係なく、アンタはあいつをやっちゃう気?」
「っ――――」
少女の貌が引きつる。
凛の問いかけは、少女にとって最後の関だった。
……姉を前にして昂ぶっていた気持ちが治まっていく。
少女は、もう間近にまでやってきてくれた少年を想って、狂いかけた心を取り戻す。
そうして、穏やかな笑みを浮かべ、
「はい。それは先輩だって例外じゃないわ。
ううん―――わたしが殺してしまいたいのはあの人だけなんです、姉さん。
……ええ。わたし、早く――――」
――――先輩を、食べてしまいたい。
「――――――――」
間桐桜の答えは、もう何もかも手遅れだった。
凛は宝石剣を握り、頭上の“敵”までの距離を測る。
「……ふん。何がアンリマユと刺し違える、よ。
バカな娘だと思ってたけど、ここまでバカとは思わなかったわ。完全に取り込まれて、とっくに人間辞めてた《・・・・・・》のね」
明確な殺気に満ちた声。
遠坂凛はこの地を預かる管理者として、実の妹を“魔”と認定した。
「――――フ。強がりですね、素直になってください姉さん。
こんな強い力を見せられて、本当は羨ましがってるんでしょう? 嫉妬してるんでしょう? だからわざわざ、敵わないって知りながらわたしを殺しに来たんです。
……そう。この子をわたしから取り上げて、また自分だけで幸せになる気なんだ」
影が浮き立つ。
以前とは比べ物にならない魔力の固まり、サーヴァントの宝具に匹敵する“吸収の魔力”。
それは一つだけに留まらず、次々と鎌首をもたげていく。
「渡さない。これはわたしの力です。姉さんにあげるものは、後悔と絶望だけ。
それを――――ゆっくりと教えてあげます」
湧き上がる影は四身。
それは少女を守護する巨人のように、眼下のちっぽけな人間へと手を伸ばす。
「――――力の差を見せてあげますね、姉さん。
今度は誰も助けに来ない。湖に落ちた虫みたいに、天《この》の杯《わたし》に溺れなさい」
影の巨人が迫る。
防ぐ事も躱す事もできぬ絶大な力が、遠坂凛を飲み込んだ。
◇◇◇
二つの黒影がぶつかり合う。
一つは超高速で地面を駆け、地表上空、前後左右から目まぐるしく標的へ襲いかかるライダー。
長い髪を引いて走り抜ける姿は、美しい流れ星のようですらある。
だが。
流れ星は所詮、小さな星にすぎない。
ライダーが標的とする剣士《もの》。
泰然と地上に構え、ライダーの猛攻を迎撃し圧倒するセイバーを打ち崩す事など出来ない。
いかにライダーが目まぐるしく跳び回り死角を突こうと、セイバーはただ一振りでライダーの短刀を全て弾き返し、返す刃で確実にライダーを“壊して”いく。
その堅固さ、苛烈さは黒い太陽を思わせる。
近づけば燃え尽きる巨大な恒星。
いかに宙を駆けようと、刹那に消え行く流星に太刀打ちできる道理はない。
「は――――、ぁ――――」
またも奇襲を弾かれ、体を削られるライダー。
……超人的なスピードを誇る彼女だからこそ、セイバーの反撃を受けつつ離脱できる。
わずか一息の間、接近と離脱を行うライダーは黒い火花だ。
そのライダーでさえ、かろうじて致命傷を避けているにすぎない。
実力差は明確だった。
ライダーの速度は攻めれば攻めるほど減速していく。
目にも止まらぬ高速移動と連続攻撃。
セイバーによって傷つけられた体を癒す自然治癒。
後の事など考えない。
全ての燃料《エネルギー》を燃やして畳み掛けなければセイバーを抑えきれない。
ライダーは攻め続ける事で、セイバーの攻撃を防いでいる。
セイバーが攻撃に転ずれば、自分はおろか主である少年まで瞬殺されるだろう。
故に、燃え尽きると知りながらライダーは走り続ける。
―――刻一刻と失われていく体力。
ライダーは二分間保《も》たせられると言った。
その限界から、既に十分。
ライダーの両脚は過度の酷使で、内部から崩壊しだしている。
対して、セイバーはまったくの無傷だった。
ライダーの攻撃は一度たりともセイバーに届かず、不動で迎撃するセイバーには体力の衰えが見られない。
技量、体力、魔力。
その三点において、セイバーはライダーを圧倒している。
故に―――ライダーが誇る、唯一勝っている速度が失われた瞬間、セイバーは地を蹴るだろう。
ライダーの速度は下り坂に入っている。
……セイバーがライダーを捉えるのは時間の問題。
あと数秒、おそらく次の攻撃が防がれればライダーの息は上がる。
そうして体力と魔力を失い、全力を出せなくなった瞬間、ライダーはセイバーによって両断される。
「――――――――」
だが、それは予測されていた事実。
この洞穴に向かう前。
ライダーが少年に告げた戦いの結末は、この通りのものだった。
彼女は、この戦い方では敗北すると判っている。
死の結末を変える方法はただ一つ。
その瞬間を、彼らは息を殺して待ち続ける―――― ライダーがセイバーへと仕掛けた。
同時に、
左腕の拘束を緩め、
投影を、
開始、
する。
――――消えていく。
聖骸布を緩め、アーチャーの左腕を
検索。
吹き飛ばされる。
風が強い。
目に見えているモノの意味が、泣きたくなるぐらい、理解できなくなっていく。
右手を離せ。
聖骸布を戻せ。
こんなの一秒だって耐えられない。
失う。
大事なものを失う。
検索→選出。
いや、この瞬間、体のいたるところが死んでいる。
ライダーは決死で戦ってくれている。
泣き言はいえない。
俺は 俺も 自分にできる事で、たたか、
一瞬でも気は抜けない。
タイミングはライダーがとる。
俺は彼女に合わせる為、予め左手を自由にしておかないと
選出→解析。
でも、痛い。
痛くて怖い。
早く――――早く、ま なの 、ライ ー。
「――――――――」
消えた。
何か、大切なものが無くなった。
何がなくなったのかも思い出せない。
ただ、ずっと胸に仕舞っておいたモノが、二度と思い出せなくなった。
保留。保留。保留。保留。
ざくん、と。
右の肺が、内側から切り裂かれた。
「ご――――ふ」
まだか。
意識が保てなくなる。
必死なのはライダーだって同じだ。
負けない。
全霊を以ってライダーを直視しろ。
彼女は命を預けると言った。
ライダーにはライダーの戦いを。
俺には、俺の戦い方が――――
「…………!」
ライダーの動きが止まる。
もう離脱する体力がないのか、ライダーはセイバーの前で膝をついている。
セイバーの剣が翻る。
このままではライダーが先に死ぬ。
俺は、
―――限度を超える。
いま、ライダーの為に作った投影を維持したまま、セイバーを止める“武器”を投影する。
「――――――――」
冷静さを欠く。
光を凌駕する思考速度を以って白熱する。
発狂はとうに過去であり、狂知覚こそがスタート地点。
「――――投影《トレース》、重装《フラクタル》」
際限なく縮小し際限なく拡大し際限なく増殖する。
空想は混濁と化しながら法則を持ち、無より生じるソレは無より生じたのではなく拡大する事で浮かび上がる多くの類似。
「――――I am《我が骨子》 the b《は》one 《捻じれ》of my s《狂う。》word.」
刹那を抜いて投影した剣を構える。
「偽・螺旋《カラドボルグ》剣」
狙う必要はない。
既に的《あた》るイメージがある以上、この一矢は必ずセイバーに食らいつく。
「ぎ、ず………っっっっっっ!!!!」
こわ 。
かくじ 、とりかえしのつか ものが、コわれた。
その成果を、破裂した左眼で見る。
ライダーはセイバーから離脱している。
放たれた螺旋の剣を弾いたセイバーは、ライダーを追えずにたたらを踏んでいる。
その隙、時間にして僅か二秒間。
だが、それはライダーにとって充分すぎる僅か二秒。
「宝具――――!」
距離にして五十メートル。
それだけの間合いを離され、セイバーは瞬時にライダーの狙いを悟る。
ならば迎撃手段は一つだけ。
最大の攻撃には、最大の攻撃を以って応えるのみ。
――――黒い光が流出する。
風を巻いて、セイバーの剣が灼熱する。
一秒の後《のち》襲い来るであろう彗星。
ライダーの駆る純白の光を断ち切らんと、最強の宝具が展開する。
「セイバーァァァアア…………!!!!!」
ライダーの姿勢が落ちる。
召喚の魔法陣は組まれている。
彼女の前面に、赤い血で結ばれた巨大な眼《まなこ》が現れる。
「――――来るか、ライダー――――!」
刃は横に。
収束し、回転し、臨界に達する星の光。
黒色の太陽は、そのフレアを両手に携え。
「――――“騎英《ベルレ》の”」
真名が唱《めい》じられる。
ライダーの姿は一瞬で白色に包まれ、
「“約《エ》束《クス》された――――”」
真名が明かされる。
セイバーの剣は燃え盛る黒炎となり、
「“手綱《フォーン》――――!!!!!!!”」 「“――――勝利《カリバー》の剣!!!!!”」 空洞を染め上げる二つの光が、己以外の光は要らぬと鬩ぎ合う――――!
瞬間、時間を止めた。
衛宮士郎の内部を総加速させ、刹那を永遠に偽装する。
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
検索。選出。解析。投影。
それが俺の役割だ。
二度目の投影。
自身を削る魔術。
だがそれ無くしてセイバーは打倒できない。
ライダーの宝具《ベルレフォーン》を以ってしても、セイバーの宝具には敵わない。
それは判りきっていた事だ。
―――――だから、俺が勝たせる。
ライダーの宝具が破壊力で劣るならば、足りない分をこの俺が補充する……!!!!
「―――I am the bone 《体は剣で出来ている》of my sword」
使うべきもの、選び出すものは決定している。
投影は一瞬で成る。
弓兵《ヤツ》が知る中で最大の守り、ライダーを勝利させる宝具を、
「“熾天覆《ロー・》う七《アイ》つの円環《アス》――――!”」
その真名を以って、この瞬間真実と成す――――!「ガ――――!」
突き出した左腕がブレる。
腕中の神経筋肉血管が踊り狂う。
弾け散りかねない左腕の痙攣を右手で必死に押さえつける。
「づ……! あ、あ、あ――――!」
耐えろ。
まだ投影は止められない。
両者の光は未だ拮抗している。
ここで守《アイアス》りを失えば、
ライダーは一瞬で蒸発する――――!
「ぎ――――ア、 、 ――――!」
跳ね回る左腕と、左肩から体内に撃ち出される弾丸。
抑えきれない魔力はザクザクと体内で兆弾し、
消しゴムをかけるように、
エミヤシロウの中身を白く変えていく。
「 、―――― 、 !!!!」
吼える。
体内の痛み、自分が失われていく恐怖を追い返さんと絶叫する。
叩きつけられる剥き出しの魔力。
それは、完全に両者の拮抗を破壊し、「あ、あア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!!!」 黒い極光に打ち砕かれた四枚羽を撒き散らしながら、 空洞を、
眩いばかりの白色に染め上げた。
二体のサーヴァントが弾け飛ぶ。
突進したスピードのまま、生身で壁に激突するライダー。
ベルレフォーンの一閃によって弾き飛ばされ、背中から地面に落ちるセイバー。
二人ともまだ生きている。
ライダーは魔力を使い切ったのか、立ち上がる事もできず倒れ伏している。
だがセイバーは―――死に体ではあるが、まだ充分に余力があった。
「――――――――、つ」
宝具による対決は、わずかに俺たちに分があったにすぎない。
ベルレフォーンの光はその九割を、セイバーの聖剣によって相殺された。
「――――――――、あ」
走った。
自分が何をするべきなのか、理解できずに走った。
走りながら、アゾット剣を解放した。
「――――セイ、バー」
駆け寄る。
駆け寄って――――セイバーに駆け寄って、その、無抵抗な体に圧しかかった。
「ぁ――――シロ、ウ――――?」
頭を打ったのか。
セイバーはぼんやりと、俺を見上げている。
「――――――――、あ」
セイバーにはどう映っただろう。
俺は馬乗りになって、短剣を振り上げて、セイバーを見下ろしている。
「――――――――」
セイバーの自己回復は半端じゃない。
ここでトドメを刺さなければすぐに復帰する。
ここでトドメを。
傷つき、抵抗できず、立ち上がる事もできないセイバーを、ここで殺さなければ、俺たちが殺される。
◇◇◇
黒い波が迫る。
遠坂凛というちっぽけな獲物を逃がすまいと両手を広げ、高波となって襲いかかる。
「Es lt fr《解放、》ei.Werkz《斬撃》g―――!」
だが、黄金の一閃が巨人の存在を許さない。
既に六体。
際限なく涌き上がってくる黒身の呪いを、凛は一刀の元に両断していた。
「な――――」
驚きは影の主たる、間桐桜のものだ。
少女が目を見張るのも当然である。
黒身の巨人は、その一体一体がサーヴァントの持つ宝具に匹敵する。
巨人は遠坂凛にとって、一体だけであろうと逃れられない死の化身なのだ。
それを、既に六体。
しかも悉く一撃で消滅させ、遠坂凛は苦もなく崖を駆け上がりながら、
七体目の影を、短剣の一振りでかき消していた。
「そんな筈――――
Es erzh《声は遠くに》lt―――Mein 《私の足は》Schatten 《緑を覆う》nimmt Sie……!」
「しつこい……! Gebhr,Zweih《次、》aun《接続》der…………!」
宝石の剣が光を放つ。
無色だった刀身は七色に輝き、その中心から桁外れの魔力を提供し、
「Es lt fr《解放、》ei.EileSal《一斉射撃》ve――――!」
大空洞を、眩いばかりの黄金で照らし上げる……!
「ふっ――――!」
侵入を拒んでいた影たちを一掃し、遠坂凛は崖を上りきった。
目前には間桐桜。
黒い少女は愕然と、ここまで駆け上がってきた姉を凝視する。
「うそ――――そんな、はず」
……少女の呟きと共に、無数の影が立ち上がる。
その数は先ほどの比ではない。
間桐桜の焦りか、それとも、彼女の背後に浮かぶモノが、主の危機を感じ取ったのか。
遠坂凛という、取るに足らない人間一人に対して繰り出された魔力は、数値にして一億を越えていた。
「―――また大盤振舞ね。協会の人間がいたら卒倒するわよ。それだけの貯蔵量があれば、むこう百年は一部門を永続できるってね」
「―――それを斬り伏せる姉さんはなんですか。わたしが引き出せる魔力は、姉さんの何千倍です。姉さんには一人だって、影《わたし》を消す魔力なんてないのに、どうして」
「どうしても何も、純粋な力勝負をしてるだけよ。
わたしは呪いの解呪なんてできない。単に、影を創り上げている貴女の魔力を、わたしの魔力で打ち消しているだけ。そんなの見て判らない?」
「それが嘘だって言ってるんです……!
姉さんにはそれだけの魔力はない。いいえ、さっきから何度も放ってる光は、まるで」
最強のサーヴァント。
セイバーの宝具、エクスカリバーの光そのものではないか、と少女は歯を軋ませる。
「……その剣ですか。考えられないけど、それはセイバーの宝具の力を真似ている。姉さんに残った微弱な魔力でも起動する、影を殺すだけの限定武装――――」
「は? ちょっと、そんなコトも判らないの? 貴女今まで何を習ってきたのよ、桜」
「な――――バ、バカにしないで……! だって、そうでなくっちゃ説明が」
「説明も何もない。これはセイバーの宝具のコピーでもないし、影殺しの魔剣でもない。これはね、桜。遠坂に伝わる宝石剣で、ゼルレッチって言うの」
「え……? ぜるれっち……?」
「呆れた。ゼルレッチの名前も知らないのね。
……なんか説明するのも馬鹿らしくなってきたけど、まあ、要するに貴女の天敵よ。
今の貴女は魂を永久機関にして魔力を生み出す、第三魔法の出来そこない。
そしてわたしは―――無限に列なる並行世界を旅する爺さんの模造品、第二魔法の泥棒猫《コピーキャット》ってコト……!」
――――宝石剣が一閃される。
短剣はその軌跡通りに光を放ち、間桐桜を守る影を消滅させる。
そればかりか、小エクスカリバーとも言うべき光と熱は内壁を削り、大空洞を震動させる。
それは、確かに単純な魔力のぶつけ合いだった。
どのような魔術――――いや、魔法を使ったのか。
今の遠坂凛には、確かに、間桐桜に匹敵する魔力の貯《スト》蔵《ック》があるのである――――
「あ――――あ」
「近づくまでもないわね。こっちはこう見えても飛び道具だし、アンタは影に守られて引き篭もってるし。
どっちかの力が尽きるまで、打ち合いをするのも悪くないわ。……ま、あんまり続けたらわたしたちより先に、この洞窟が崩れそうだけど」
「そんな……打ち合いなんて、それも嘘です。
姉さんには、もうこれっぽっちも魔力なんて残っていない。その剣がなんであれ、もう次の攻撃なんて出来ないはず――――」
「そ? ならやってみましょう。いいからかかってきなさい桜。貴女が何をしてきてもわたしには届かない。
荒療治だけど、ま、授業料って思って諦めるのね。ちょっと強くなったからって我が侭放題したコト、後悔させてあげるから」
「――――!」
「っ……!
まだです、Es be《声は》fieh《遥かに》lt―――Mein Atem《私の檻は》 schliet 《世界を縮る》alles……!」
「Eine《接続、》,Zwei《解放、》,RandVer《大斬撃》schwinden――――!」
「――――――――」
目の前の光景を、間桐桜は理解できなかった。
ただもう、怖れだけで影たちを使役する。
それを容赦なく打ち払っていく光の剣。
間桐桜は怯え、混乱していた。
それ故に気付かない。
遠坂凛の額の汗。
一撃振るう度に腕の筋肉を切断していく、宝石剣からの代償《ペナルティー》に。
「っ――――貯蔵《ストック》に関しちゃあ負けないんだけど、わたしの体が何処までもつか、か――――」
襲いくる影を光が打ち消していく。
だが両者の力は互角などではない。
遠坂凛と間桐桜。二人の戦力差は変わっていない。
間桐桜の魔力貯蔵量は数億どころか兆に届く。
時代の一生を以ってしても使い切れぬ量《ソレ》は、無尽蔵の貯蔵と言えるだろう。
「どうして――――!? わたしは誰よりも強くなった。
もう誰にも叱られなくなった。
なのに、どうしていきなり、そんな都合よくわたしに追いつくんですか……! 姉さんの魔力じゃわたしに飲まれるしかないのに……!」
「それが間違いだっていうのよ。いくらデタラメな貯蔵があったって、それを使うのは術者でしょう。
わかる? どんなに水があったって、外に出す量は蛇口の大きさに左右される。
間桐桜っていう魔術回路の瞬間最大放出量は一千弱。
ならどんなに貯蔵があっても、一度に放出できる魔力はわたしとさして変わらない……!」
「きゃっ……!?」
「だから! わたしが用意するのはアンタと同じ貯蔵量じゃなく、毎回一千程度の魔力でいい……!
そんなバカみたいに肥大した魔力なんて、持っていても宝の持ち腐れよ――――!」
振るわれる光の線。
千の魔力《かげ》に対する千の光ならば、確かに力は拮抗する。
だが、遠坂凛の魔力は百にも届かない。
その矛盾。
本来ならば成立しない拮抗を生み出すものは、言うまでもなく彼女の持つ“剣”の力だ。
一撃ごとに千の魔力を放出し、更なる魔力を補充する光の剣。
それは遠坂凛の魔力を増幅しての事ではない。
彼女はただ、この大空洞に満ちる魔力《マナ》を集め、宝石剣に載せて放っているだけである。
魔術師個人が持つ魔力《オド》と、大気に満ちる自然の魔力《マナ》。
どちらが強大であるかは言うまでもない。
個人として間桐桜に劣る遠坂凛が頼るものは、もう大気の魔力《マナ》しか有り得ない。
なるほど、確かにこの大空洞に満ちる魔力は千に届く。
一度きりならば魔力《マナ》の助けを借りて影の巨人を退けられるだろう。
―――だがその後には続かない。
大気の魔力《マナ》とて有限である。
魔力《マナ》を使い切ってしまえば人間と同じ、その回復には莫大な時間を要する。
この大空洞《せかい》で、遠坂凛が間桐桜に対抗できるのは一度だけだ。
―――だが。それならば、もし、仮に。
ここに、もう一つの『大空洞』があるとしたら、対抗できる回数はもう一度だけ増える事になる。
その“もしも”を現実化させるものがあるとしたらどうなるのか。
並行世界。
合わせ鏡のように列なる『ここと同じ場所』に穴を開け、そこから、未だ使い切っていない『大空洞の魔力《マナ》』を引き出せるとしたらどうなるのか。
「っ……! その歪み、聖杯と同じ――――まさか、姉さん!?」
「そう、他所から魔力を引っ張ってるのはアンタだけじゃない。けど勘違いしないでよね。わたしのはそんな無駄に増えたモノじゃない。わたしはあくまで並行して存在する大空《ここ》洞から魔力を拝借してるだけ。
合わせ鏡に映った無限の並行世界から、毎界一千ずつ魔力を集めて、力まかせに切り払ってるのよ……!」
「……!」
大聖杯という、巨大な貯蔵庫を持つ少女が息を呑む。
「そんな。そんな、デタラメ……!」
「わかった桜? そっちが無尽蔵なら、こっちは無制限ってコト――――!」
――――宝石剣ゼルレッチ。
それは無限に列なるとされる、並行世界に路を繋げる“奇跡”。
この剣の能力はそれだけ。
わずかな隙間、人間など通れぬ僅かな穴を開け、隣り合う『違う可能性を持つ』世界を覗く礼装。
そこには魔力を増幅する機能もなく、一撃振るう度に千の魔力を生み出す力もない。
だがそれで充分すぎる。
この世界における大空洞の魔力を使い切ったあと、隣り合った世界の大空洞から、まだ使われていない魔力を引き出せばそれでいいのだ。
使いきれば次に移ればいい。
そのまた次へ。次へ。次へ。次へ。
並行世界に果てはない。合わせ鏡の可能性は無限なのだ。
故に無制限。
遠坂凛に溜められる魔力量の最大《マックス》が千であろうと関係ない。
無尽蔵の貯蔵と、無限に続けられる供給。
魔術回路として性能が互角である以上、二つの事柄はまったくの同位である――――! ……何度目かの地響きが木霊する。
凛の宝石剣は影を斬り払うだけではない。
その余りある火力で、少しずつ大空洞を崩壊へと傾かせている。
そうなっては大聖杯たるこの祭壇も無事ではすまない。
このまま徒《いたずら》に戦いを続けては間桐桜の敗北となる。
仮に、遠坂凛の体力が尽きるまで攻め続けたとしても、その後に待つものは洞窟の崩壊なのだ。
「は――――あ、あ――――」
……影が止まる。
事此処にいたって、ようやく敵の正体が判ったのか。
大きく肩を揺らし、苦しげに吐息をもらして、間桐桜は悠然と佇む姉を睨む。
「なんどやっても同じよ桜。貴方が手に入れた力なんてその程度。舞い上がってた頭も、これで少しは冷えたでしょ」
「ふざけないで――――! こんなの不公平です、姉さん、姉さんばっかり、どうして―――!」
繰り返される攻防。
無意味と知りながら、自らの首を締めると理解していながら、間桐桜は叫び続ける。
長く。
長く鬱積《うっせき》し続けた、唯一の肉親に対する恨みと共に。
「そうです……! わたしは姉さんが羨ましかった……!
遠坂の家に残って、いつも輝いていて、苦労なんて一つも知らずに育った遠坂凛が憎らしかった。
だから勝ちたかった。一度ぐらい、一度でいいから、姉さんにすごいって誉めてほしかったのに……! なのにどうして、そんな事も許してくれないんですか……!」
「――――――――」
……姉は襲い来る影を斬り払う。
歯をかみ締め、妹の心を垣間見る。
「どうしてですか!? わたしは違ったのに。同じ姉妹で、同じ家に生まれたのに、わたしには何もなかった!
あんな暗い蟲倉に押し込まれて、毎日毎日オモチャみたいに扱われてた! 人間らしい暮らしも、優しい言葉もかけられたコトはなかった……!」
「――――――――」
その憎悪は。
姉である自分に対してのものではなく。
「死にかけたコトなんて毎日だった。死にたくなって鏡を見るのなんて毎日だった。でも死ぬのは怖くて、一人で消えるなんてイヤだった……!
だって、わたしにはお姉さんがいるって聞かされてた。
わたしは遠坂の子だから、お姉さんが助けに来てくれるんだって、ずっとずっと信じていたのに……!」
「なのに姉さんは来てくれなかった。
わたしのコトなんて知らずに、いつも綺麗なまま笑ってた。惨めなわたしのコトなんて気にせず、遠坂の家で幸せに暮らしていた。
どうしてですか……! 同じ姉妹なのに、同じ人間なのに、どうして姉さんだけ、そんなに笑っていられるんです……!」
「――――――――」
……その憎悪は、姉である彼女に対するものではなく。
世界と自分自身に向けられた、出口のない懇願だった。
「人間を辞めた、ですって……!?
当然です、わたしはもうずっと前から人間扱いされてこなかった。目も髪も姉さんとは変わっていって、細胞の隅々までマキリの魔術師になるよう変えられた……!」「十一年、十一年です姉さん!
マキリの教えは鍛錬なんてものじゃなかった。あの人たちはわたしの頭の良さなんて期待してなかった。
体に直接刻んで、ただ魔術を使うだけの道具にしたてあげた。苦痛を与えれば与えるほどいい道具になるって笑うんです」
「そのうち食事にも毒を盛られて、ごはんを食べるコトは怖くて痛いコトでしかなくなった。
蟲倉に放り込まれれば、ただ息を吸う事さえお爺さまの許しが必要だった……!」
「――――――――」
泣いている。
泣いて縋ってくる少女《かげ》を、彼女は無言で切り伏せる。
「……あは、狂ってますよね。でも痛くて痛くて、止めてくださいって懇願すればするほど、あの人たちは喜んでわたしの体をいじり続けた。
だから姉さんみたいに頭もよくない。なんでもできるワケじゃない。わたしにできることは、こうやって自分の痛みをぶつけるコトだけです」
「――――――――」
虐げられた魂。
救われない体。
それを――――
「……けど、それってわたしのせいですか? わたしをこういう風にしたのはお爺さまで、間桐に売り渡したお父さんで、助けに来てくれなかった姉さんじゃない……!
わたしだって好きでこんな化け物になったんじゃない……! みんなが、みんながわたしを追い詰めるから、こうなるしかなかったのに……!」
それを。
「――――ふうん。だからどうしたって言うの、それ」
――――可哀想ね、なんて。
彼女は、一切同情しなかった。
「な――――――――」
「そういう事もあるでしょ。泣き言を言ったところで何が変わるわけでもないし、化け物になったのならそれはそれでいいんじゃない?
だって、今は痛くないんでしょ、アンタ」
冷酷な全肯定。
……少女の叫びは、行き過ぎてはいたが、温かさを求めただけの行為だった。
それを否定された。
怪物である自分を肯定された。
そうなったのはおまえが弱かったからだ、と。
いつも、いつも潔癖で完全だった姉が、誤魔化しようのない真実を口にした。
「姉さん―――姉さんが、そんなだから――――!」
影が沸き立つ。
姉に圧され、戦いを拒否しかけていた少女は、絶望と共に呪いを具現化させていく。
「そ。じゃあ、わたしからも一つだけ言っておくわ。
わたし、苦しいと思った事は一度もなかった。
大抵の事はさらっと受け流せてたし、どんな事だって上手くこなせた。
だからアンタみたいに追い込まれる事もなかったし、追い込まれる人間の悩みなんて興味なかった」
「そういう性格なのよ、わたし。あんまり他人の痛みが分からないの。
だから正直に言えば、桜がどんなに辛い思いをして、どんなに酷い日々を送ってきたかは解らない。悪いけど、理解しようとも思わないわ」
簡潔な言葉。
彼女は嘘をつかない。
苦しみを訴える妹に事実だけを口にして、
「けど桜。そんな無神経な人間でもね。
わたしは自分が恵まれているなんて、一度も思えた事はなかったけど」
まっすぐに。
精一杯の気持ちを込めて、間桐桜という少女を見返した。
「――――は?」
理解できない。
いま、あのはなんと口にしたのか。
わたしだって……?
恵まれていなかった……?
「っ――――なに、を」
―――憎悪で、脳内が真っ赤になる。
今さら、今になってそんな都合のいい言葉なんて、ふざけているとしか思えない。
――――うるさい。
「今さら―――恵まれていなかった、ですって……?」
狂いそうだ。
壊れそうだ。
わたしのコトを一度も振り返りもしないで。
その、輝かしいまでの才能と幸福を振りかざして、
――――うるさい。
「よくも―――よくも、そんな――――」
わたしのコトなんて好きでも嫌いでもないクセに、
持っていて欲しかったものを一欠片も持たないクセに、 自分だけはキレイなままだと言い張って―――!
――――あの女《ねえさん》は、許《うるさ》さない。
「足りない―――!
そんな言葉聞きたくない、そんな言い訳なんてきかない、わたしは、姉さんなんてもう―――!」
いらない、と。
自身の闇を拒むように少女は叫ぶ。
「――――――――」
……それが、遠坂凛にできる最後の抵抗だった。
先延ばしにしていた決意を固める。
限界まで衛宮士郎を待とうとしたが、これ以上は延ばせない。
――――いや。
そもそも自分たちの問題を、士郎に預けようとした事が間違いだった。
遠坂凛の、間桐桜に対する弱さだったのだ。
「桜」
「――――え?」
なにげない、朝の挨拶のように名前を呼ぶ。
―――瞬間。
遠坂凛は、あっさりと勝負を決めていた。
◇◇◇
「あ――――、あ」
あれだけ消えそうだった意識が、今はひどくクリアだ。
「――――――――」
……意識が戻ったのか。
セイバーは冷たい瞳のまま、目前の俺《し》を見つめている。
俺は
躊躇いはない。
セイバーの目を見つめたまま、彼女の視線に応えて、重い腕を振り下ろした。
抵抗はなかった。
きっかりと一撃で、セイバーの命を止めた。
「――――――――――、―――」
思い出があった。
ちゃんと、今でも生きている温かさがあった。
忘れようのない、彼女の体温がすぐ近くにあってくれた。
その記憶ごと彼女を殺めた。
自分の記憶を抉り、手の届かないところに投げ捨てた。
もう、二度と蘇る事はない。
二度と、彼女を思い出す事はない。
―――そんな事は、絶対に許されない。
俺はこの道を選んだ。
桜を助ける為に他人を殺した。
親しい人を、最期まで俺を守ってくれた少女を、この手で殺めた。
後悔も懺悔も許されない。
……誰かの味方をするという事。
ただ一つ愛する者《エゴ》の為、大切なものを奪い続ける。
その先に。
喪ったものに見合う輝きなど在りはしない。
「――――でも、セイバー」
喪ったものに見合う幸せを、一生涯求め続ける。
ツケは溜まっていく一方で、いつか動けなくなるのは目に見えている。
それでも―――みっともなく、滑稽で無価値なまま、奪い続けた責任を果たしてみせる。
幸福が何処にあるのかは判らない。
ただ、終わりが見えなくても、諦める事だけはしないと誓う。
「――――ありがとう。おまえに、何度も助けられた」
……短剣にかかる重みが消える。
黒い剣士は最期まで口を閉ざし、俺をぼんやりと見上げたまま、黒い影に沈んでいった。
◇◇◇
「桜」
声をかけて、投げた。
彼女にとって最大の武器。
何物にも替えがたい魔法使いの遺産を、ぽーん、とキャッチボールのように投げて、
「――――Wel《事象》t、End《崩壊》e」
大空洞は、一面の光に包まれた。
爆散する。
人の手では届かぬ奇跡を体現した宝石の剣は、崩壊の際において全ての影を打ち消していく。
そこを走った。
一直線に、間桐桜目指して走り抜けた。
桜は光に怯んで動けない。
いかに強大な力を得ようと、彼女は戦闘経験がまったくない素人だ。
だから、その気になれば倒す事は簡単だった。
遠坂凛はあっさりと間合いをつめる。
走り抜ける中、背中に隠したもう一本の短剣を握り締める。
「――――」
桜は反応できない。
殺される、と気がついたようだが、あまりにも遅すぎる。
……確実に殺《と》った。
これでおしまい、と彼女は短剣を突き出し、
――――あ、ダメだこれ。
自分の敗けを、悟ってしまった。
……殺された。
躱す余裕などなく、あの短剣で心臓を突き刺されると理解できた。
体は反撃を試みるが、絶対に間に合わない。
“――――殺され、るんだ” 恐怖はなかった。
他人に傷つけられるのは慣れている。
それが遠坂凛の手によるものなら、ひどく当然のような気もする。
でも痛いのはイヤだし、自分が死ぬのは怖いから目を瞑った。
そのまま消えてしまえば、それなりに楽だろうと少しだけホッとした。
「――――?」
けれど痛みはなく、終わりは来ない。
かわりに、とても温かい気持ちになる。
その正体がなんであるかに気付いた瞬間。
間桐桜は、潰れた視力を取り戻した。
……血が流れている。
温かい人の血。お腹を破られて、ポタポタと血を流している。
しっかりと―――崩れ落ちそうな体で、自分を抱きしめる姉の体から、取り返しがつかないほどの血が流れている。
「ねえ、さん?」
どうして? と少女は言った。
確実に速かった。
確実に自分を殺せた筈なのに、最後の最後で、彼女は短剣を突き出さなかった。
「……あーあ。士郎の事は言えないな、わたしも」
ぼんやりとした声。
それは少女がずっと憧れていた、
皮肉屋で容赦がなくて、けど温かくて優しい、遠坂凛という少女の声だ。
凛は思う。
……なんという事はないのだ。
ようするにさっきの瞬間、ここ一番っていう時に気付いてしまった。
間桐桜を間近で見た途端、自分には桜を殺せないなー、などと、当たり前のように感じてしまった。
「……はあ。バカだ、わたし」
……本当に呆れてしまう。
最後の最後でそんな事に気が付かされるなんて、自分のドジさ加減も筋金入りだ。
そんなのもっと早くに気づけって言うのだ。
……けどまあ、それも仕方ないかな、と凛は納得してみる。
「……うん、でもしょうがないわよね。
わたし、だらしのないヤツを見てるとほっとけないしさ。きちんとした仕組みが大好きだから、頑張ってるヤツには、頑張った分だけ報酬がないと我慢ならないし」
―――それに、第一。
「桜の事が好きだし。いつも見ていたし、いつも笑っていてほしかったし。……うん。わたしが辛ければ辛いほど、アンタは楽できてるんだって信じたかった。
それだけで―――苦しいなんて、思う暇すらなかったんだから」
愛おしむように桜を抱く。
一生で一度だけの、姉妹の抱擁。
彼女は自らの腹部を貫いた妹を、ようやく手に入れた宝物のように、柔らかく抱きとめる。
「―――姉、さん―――」
……体温が消えていく。
恨み言など一つもない。
遠坂凛は、自分の死ではなく、抱きしめた少女を救ってやれない事だけを後悔して、
「ごめんね、こういう勝手な姉貴で。
……それと、ありがと。そのリボン、ずっと着けていてくれて、嬉しかった」
舞い散った赤い花のように、祭壇に崩れ落ちた。
「――――、ぁ」
重みが消えた。
ほんの一瞬。蜃気楼のようだった温かみと一緒に、姉だった人が消えた。
―――けど、桜。そんな無神経な人間でもね。
わたしは自分が恵まれているなんて、一度も―――
「――――、ゃ」
……その言葉に、どんな孤独が込められていたのだろう。
少女の苦悩は少女だけのものだ。
それを理解し、解放する事など他人にはできない。
そんな偽善は絶対にない。
それと同じように。
彼女が憧れ、信じ続けた少女にも、誰にも理解できない孤独があったとしたら。
「――――――――だ」
……だとしたら、どうなるんだろう。
いつも自信に溢れていて、自分の欲しい物を全て持っていて、理想そのものだった存在。
そんな姉が自分と同じ、いつも何かに縛られていた人間だったとしたら。
「――――わたし、が」
……なら。
結局、弱くて悪いのは彼女の世界ではなく。
臆病で顔を上げられなかった自分だけで―――
―――そんな自分を、不器用ながら、愛してくれた人たちがいた。
「なのに――――わたしが、壊し、ちゃった」
……何処で、間違えてしまったのか。
全部あった。
あんなに欲しかったものが、本当はすぐ目の前にあった。
あんなに優しく抱きしめてくれて、あんなに想っていてくれたのに。
わたしが―――自分の手で、粉々にしてしまった。
「――――――――、あ。
ああ、あ、あああああああああああああああああああああああああ………………!!!!!!」
抱き返す事もできなかった手は固まったまま。
少女は愛してくれていた姉の血に濡れ、強く、自身を呪い始めた。
◇◇◇
……音が聞こえる。
洞窟をかすかに震わせる衝撃。
光と音は遠くから僅かしか聞こえないのに、洞窟は軋みをあげて震えている。
遠雷だろうか。
ぼんやりと頭に浮かんだが、いつ、遠雷なんてものを聞いたのか、思い出す事ができなかった。
……セイバーが影になって消えていくのと同時に、手にした短剣が崩れていく。
サーヴァントという、強力な使い魔を打ち消した代償だろう。
遠坂がありったけの貯蓄を注ぎ込んで作り上げたアゾット剣は、跡形もなく砕け散ってしまった。
「――――――――」
左腕の拘束を強く締める。
魔力は大部分を使い切った。
アーチャーの腕に残ったモノと、自分の中に残ったモノ。
合わせればまだいけそうだが、投影はあと一度が限界だ。その後は何をしても、アーチャーの腕を抑えきれなくなる。
「――――――――ライ、ダー」
そうだ。彼女は、どうなっただろう。
立ち上がる。
体が硬い。
関節が鋼になった気がする。
これなら、鉄砲をうけても跳ね返しそうだ。
「ライダー、無事か」
うまく歩けない。
歩いた。
血が出た。
折り曲げた足から何かが飛び出ている。
見ないフリをした。
足に鉄の棒を突き刺されたぐらいに痛いが、幸い、歯を食いしばれば歩けるようだ。
……とおくでなにかが鳴っている。
昔、子供のころよく聞いたなにかに似ている。
子供のころによくキいたというのは、子供ゴコロに残っているからだと思う。
ガキの頃は、とかく、いろんなコトに興味をもつのだ。
「ライダー」
彼女が衝突した壁まで歩く。
ライダーは健在だった。
ただ、体じゅうボロボロで、魔力もほとんど尽きている。
すぐには動けないだろう。
……彼女には、休んでいてもらった方がいい。
「先に行ってる。走れるようになったら来てくれ」
倒れ伏したライダーに呟いて、奥へ向かう。
「っ――――う。……思ったより、人使いが荒いのですね、貴方は」
意識があったらしい。
ライダーはろくに立ち上がれない体で、どこか眩しそうに見上げている。
「悪いな。今は頼りきりになる。少しでも回復したら駆けつけてくれ」
「――――ええ。すぐに行きますから、後の事は心配なく」
ライダーは無理をしない。
ここで無理をして立ち上がるより、確実に回復してから動くべきだと判っているのだ。
そのあたり、考えなしの俺とは違って本当に頼もしい。
……地鳴りの間隔が狭まっている。
ぐずぐずしてはいられない。
うまく動かない体で、遠坂の後を追う。
「っ――――は、はあ、は、は――――」
息が上がっている。
壁に手をかけて前へ進んでいる。
速度は悪くない。
体が硬いだけで、慣れてしまえば不都合はない。
「ぶ――――っ、は、ごほっ、ご」
口から何か出た。
気付かなかったフリをして唇を拭う。
「ずっ、あ――――」
太腿の筋肉がビシっと痺れて転びそうになった。
ビシっとしたはずだ。
服が内側《・・》から破れて、体の中が見えていた。
必死に見ないフリをして先に進む。
――――近い。
生暖かい風が体を撫でる。
「――――行くぞ」
ぱん、と頬を叩いて走り出した。
闇を抜ける。
視界には、いつか見た事のある荒野が広がっていた。
いや、違う。
ここは見たことのある風景ではない。
以前、イリヤの記録にあった荒野に、あんなモノは存在しなかった。
「――――アレが」
この、ふざけた戦いの元凶。
俺から桜をとっていった間男か。
「――――受肉、しかけてる」
全身に叩きつけられる威圧と不快感。
生命力にすぎるその息遣いが、誕生を目前に控えたモノだと宣言している。
閃光と地鳴り。
光は崖の上から放たれ、ズガン、とバカみたいに考えなしに洞窟を削っていく。
……何が起きているのかは判らないが、まあ、ああいう派手なのは遠坂に決まっている。
となると――――そうか。
「焦ってるんだな、おまえ」
ぎょろり、と。
目玉もないクセに、歪な胎児が俺を見る。
……間違いない。
遠坂の暴れっぷりがお気に召さないのか、ヤツは今すぐに外に出たがっている。
だがまだ体が出来ていない。
あの黒い柱の中がヤツの胎盤だ。
あそこで完全に“肉体”を形成しなければ、ヤツは外に出て来れない。
だからこそ―――胎盤そのものを壊しかねない遠坂に焦って、みっともなく、急造でいいからと体を完成させたがっている。
肉を持ったサーヴァントとして、この世に召喚されたがっている。
「―――――ふざけろ」
走る。
やけくそじみた光と影の衝突。
「――――桜――――?」
それが桜と遠坂の衝突なのだと、下からでも崖上の様子が視認できるまで走り寄った時。
大空洞の時間が止まった。
そうとしか思えないほどの、強大な光が放たれ、そして――――
姉さん、と。
子供のような泣き声と共に、大きく、世界が揺れ始めた。
光による内壁の破壊などではない。
これはもっと根本的な部分の崩壊であり、あの巨大な影が、外に出ようとする惷動《しゅんどう》だった。
「今の、は――――」
背筋が凍る。
嫌な予感がする。
泣きじゃくる桜の声が、最悪の光景を予感させる。
「遠坂――――遠坂、遠坂――――!」
走った。
息を狂わせ、病にかかったみたいに手足をついて、高い崖を駆け上る。
――――震動は収まらない。
ドオン、と。
荒野のどこかに、大きな岩が落ちた音を聞く。
「はっ――――はぁ、はぁ、はぁ、は――――!」
後ろのコトなどどうでもいい。
一心不乱に、土にまみれながら崖を駆け上って、
自分が遅かった事を、網膜に焼き付けた。
「――――――――遠坂」
……地面が揺れている。
うつぶせに倒れた遠坂の顔は見えない。
地面に崩れ落ちた遠坂は、茎から落ちた大輪の花のようだった。
「……………、…………せん、ぱい」
顔をあげる。
遠坂の向こう。
血に濡れた遠坂から逃げるように離れて、桜は、自らを罵倒していた。
◇◇◇
「――――桜」
「……ちゃった。わたし、殺しちゃった。あんなに大切にしてくれてたのに、わたし、姉さんを、殺し、ちゃった―――」
桜の声は、俺に向けられたものじゃない。
桜は拒んでいる。
こうしている自分。
遠坂の血に濡れた自分、黒く染まった自分、自分に繋がったあの黒い影を、半狂乱になりながら、全力で憎んでいる。
「……わたし、馬鹿、でした。ごめんなさい。ごめんなさい。こんなのつらいだけだった。ダメだって、負けるなって姉さんはずっと言ってくれてたのに、わたし、バカだから分からなくて、先輩が信じてくれたのに、裏切って、ばっかりで―――」
影が桜を縛っている。
あの、全身を覆った黒い令呪が桜を縛っている。
「……やだ……もう、やめなくちゃ……でも、戻れなく、て―――だめ、やだ、もう、こんなのは、いやだ―――!」
―――拒絶している。
桜はあの影を拒んでいる。
自分を嫌って、あの影の誘惑を拒んで、自分自身を殺そうとしている。
だが出来ない。
あの影にとって、桜は必要な本体だ。
桜が自分を殺そうとすれば、影がそれを許さない。
桜は自分を殺そうとする自責と、それをさせまいとする影によって切り刻まれている。
「――――――――」
……遠坂は、勝ったんだ。
桜の憑き物は落ちている。
あいつはやっぱり、最後の最後で、桜の命を選んでくれた。
桜は桜だ。
どんなに影に飲まれようと、その芯は変わらない。
……桜をああしてしまったのは俺だ。
あの時―――影に飲まれた桜を恐れず、ぱかん、と叩いていたら、こんな事にはならなかった。
「――――――、っ」
遠坂に走り寄る。
かろうじて呼吸をしている。
――――まだ、諦めるには早すぎる。
「桜。遠坂は死んでいない」
「――――――――――?」
「そうだ、死んでいない。まだ助かる。いや、どうあっても助けるんだ。俺とおまえで助けなくっちゃいけないんだ。そうだろう、桜」
「あ――――え?」
桜の目に光が戻っていく。
―――影の拘束が和らいでいく。
桜はようやく、目前にいる俺と遠坂を視界に収めて、ほう、と安堵の息を漏らして、
「っ――――! だめ、逃げて先輩――――!」
必死に、自分を押さえ込んだ。
「――――、つ――――」
遠坂に覆い被さって、影の一撃を背中で受ける。
「ぁ――――ちが、違う先輩、わたし、わたし……!」
桜の背後から、影が次々と湧き上がっていく。
……ふざけやがって。
まだ生まれてもないクセに危険感知だけは一級品かよ。
「わかってる。往生際が悪いガキの仕業だ。桜をとられたくないって、駄々をこね始めやがった。
―――待ってろ。すぐにぶん殴って桜から引き剥がしてやる」
桜に向かって歩き出す。
「だ――――やめ、やめて先輩――――!」
影が頬を掠めていく。
本来なら俺の首をかっ飛ばしたソレは、桜の叫びで、軌道を変えてくれたようだ。
「は――――あ、あ、う…………!」
桜は自分を抑えつけるように抱く。
だが影は一向に消えず、ますます数を増やしていく。
「う……うう、ううう……!」
……泣いている。
桜は泣いている。
自身を蝕む影の痛みからじゃない。
自分を抑えきれない、あの影に操られるしかない自分が悔しくて泣いている。
「……先輩、ダメ、です。わたし、抑えきれない。姉さんが教えてくれたのに、負けちゃうんです。……強くなんてなかった。わたしは弱虫で、臆病で、ひどい人間だった」
さらに一歩。
影の槍が頬をかすめる。
「――――! やめて、なんで来るんですか先輩……!
それ以上来られたら、先輩を殺しちゃう……!」
さらに一歩。
右手を、左腕の肩にかける。
「どうして。逃げて。逃げてください先輩、姉さんを連れて逃げて……!
わたしの事なんて忘れていいです……! ちゃんと、ちゃんとここで死にますから、ひとりでもちゃんと死にますから……! わたし、わたしは、こんな自分、これ以上先輩に見られたくない……!」
――――一歩進む度に、影の拘束は厳しくなる。
俺の前進は、桜の心と体を傷つけている。
「どうして言うこと聞いてくれないんですか……!?
先輩、先輩がそれ以上近寄るなら、わたしだって我慢しません。先輩に殺される前に、わたしが先輩を殺しちゃうんだから……!」
「どうしても何もない。桜をここから連れ出して、遠坂を助ける。さっきそう言っただろう、桜」
「っ―――まだ、そんなことを言ってるんですか、先輩は。
……やめてください。わたしは助かりません。いいえ、助かっちゃいけないんです。わたしは、生きてちゃいけない人間だった」
一歩。
「っ――――」
ずん、と腹に影が直撃する。
……刺し傷じゃない、ただの打撃だ。
今のは桜が、自分の意志で俺を押しのけようとしたものだ。
「ほら、見たでしょう先輩。わた、わたしはこういう人間なんです。いまさら外には戻れないし、この子もわたしを放してくれない。
それに――――もし、戻れた、ところで」
「……わたし、いっぱい人を殺しました。何人も何人も殺して、兄さんも殺して、お爺さまも殺して、姉さんも殺してしまった……!
そんな―――そんな人間にどうしろっていうんです……! 奪ってしまったものは返せない。わたしは多くの人を殺しました。それでも、それでも生きていけっていうんですか、先輩は……!」
「――――――――」
……そうか。
後戻りの出来ない道。
償う事さえできない罪が、桜を追い詰めていた。
救いはない。
どうあっても、桜の意思でなかったとしても、多くの人の命を奪った咎は、桜の心に在り続けるだろう。
影から解放され、元に戻ったところで、桜の中には昏い影が残ったままだ。
だが。
「―――当然だろう。奪ったからには責任を果たせ、桜」
左肩の拘束を解除する。
最後の一回。かろうじて死を押し留めていた、赤い布を引き剥がす。
……気が遠くなる。
自分が無くなる前に、前へ。
言わなくちゃいけない言葉を、まだ口にできるうちに、桜を。
「先、輩」
「そうだ。罪の所在も罰の重さも、俺には判らない」
「っ……!」
肩と胸、右足と腹に影が突き刺さる。
ぎしゃり。
影は突き刺さらず、火花をこぼしてズレていく。
「けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。
たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を、ずっと理想に生きてきたんだから―――」
前へ。
桜はもう目の前にいる。
「うそ――――先輩、からだ、が」
……投影、開始。
思い浮かべるモノは一つだけ。
衛宮士郎に残った魔力を、全てその複製に注ぎ込む。
最後の投影。
契約破りの短剣を振り上げる。
桜の顔が、よく見えない。
「先、輩」
「おしおきだ。きついのいくから、歯を食いしばれ」
「―――――――――」
必死に息を呑む音がする。
そうして。
はい、と短く応えて、桜は自ら胸を差し出し―――
これが、桜に下される罰になるように。
「帰ろう桜。―――そんなヤツとは縁を切れ」
一息で、彼女の心臓を突き刺した。
◇◇◇
解放される。
桜の体を覆っていた、黒い令呪が砕け散っていく。
契約破りの短剣。
あらゆる魔術効果を初期化し、サーヴァントとの契約を破る宝具。
それは桜の命を奪わず、彼女を縛り付けていた契約だけを破戒《はかい》した。
―――映像が継続しない。
桜は、生きている。
影から解放された反動か、今は眠るように横たわっている。
遠坂―――遠坂も、まだ間に合う。
出血は止まっている。あいつにはまっとうな魔術刻印がある。
刻印は遠坂家が遺してきた魔術の結晶だ。遠坂が意識を失っても、易々と後継者を死なせはしない。
「――――――――」
大空洞が揺れている。
アンリマユ。
この世全ての悪、なんて、ふざけた呪いがのたうっている。
……くそ。
桜という依り代を無くしても、黒い影は消え去らない。
育ちすぎた。
あの影は、もう桜がいなくても外に出れる。
この大聖杯がある限り、いずれ、自分から外に這い出て来るだろう。
――――壊す。
あの影ごと、この巨大な魔法陣を切り崩す。
アンリマユの胎動は、大空洞を少しずつ崩壊させている。
……だが、この洞穴が崩れたところでアレが消え去るとは思えない。
アレはこの場で、跡形もなく消し去らなければならないものだ。
それは可能か。
……ああ、出来ない事はない。
あいつの足元に、ギリギリまで近づいて、大火力をぶっ放す。
あの黒い炎の中にいるかぎり、アンリマユは動けない。
いまのうちに、外に出る前に一刀両断して、元の『無いもの』に叩き返す。
それを可能とするとしたら、それは――――
俺が知る得る限り最強の宝具で、あの怪物を一掃する。
「――――――――、ごほ」
息が止まっている。
アンリマユの足元まで、ざっと百メートル。
……大丈夫、やれない距離じゃない。
あと一回だ。
たった一回投影をするだけで、全部にケリがつく。
大丈夫。きっとやれる。
さっさと片付けて、二人を地上に連れ戻、
「士郎、聞こえていますか」
誰か、見知らぬ人が肩を叩いた。
「――――――――」
……誰だったか。
見知らぬ人、なんて事はない。
よく知っている。なにやら物騒な格好をしているが、この女性は信頼できると、覚えている。
「助かった。遠坂と桜を連れて、外に出られるか」
「―――――士郎?」
長い髪の女性はほんの数秒、俺を値踏みするように見据える。
「それで、貴方は?」
「アレを閉じてから行く。すぐ終わるだろうけど、遠坂の傷は一刻を争う。桜だって、ここにいたらアイツの影響を受けるだろう。アンリマユとやらは、懲りずに桜をマスターにするかもしれない」
「――――承知しました。サクラとリンは私が運びます。
安心してください。それだけの体力は回復してきたつもりです」
「頼む。なんとか二人を連れて外に出てくれ。洞窟、崩れ出してるだろ。ええっと、ラ―――ラ、ラ、くそ、アンタの足なら、あんな落盤なんて問題じゃない」
「…………………………。
――――では。二人を安全な場所に運び次第、迎えに来ます」
「あー……それは頼もしいんだけど、二人の手当てを優先してくれ。任せられるのはアンタしかいない。こっちはこっちでとっとと逃げるから、遠坂を治してやってくれ。そいつがいないと、桜は幸せになれない」
……たしか、この女性に治療技術はなかった筈だ。
それでも、無理を承知で遠坂の命を委ねるしかない。
「必ず。ですが士郎、それは貴方も同じです。
サクラには貴方とリンが必要です。それを肝に命じておきなさい。……私も、サクラを支えるのは貴方でなければ納得できませんから」
「……?」
「急ぎます。――――ご武運を」
黒い衣装の女性は軽々と二人を抱きかかえ、崖の傾斜を駆け下りていった。
―――崩れていく空洞、落ちてくる天井を躱しながら出口へと疾走していく。
「――――――――ふう」
……あれなら安心だ。
彼女に任せておけば、二人はきっと助かる。
後は――――
最後の、後始末をするだけだ。
◇◇◇
「――――、――――、――――」
意識が断線する。
たった百メートルが、永遠に到達できない長さになっている。
「――――、――――、――――」
大空洞の崩壊は、時間の問題だった。
天蓋はところどころが崩れ、荒野のようだった地上は、瓦礫の山になりつつある。
「――――、――――、――――」
関節が硬い。
手足を曲げると痛い。
気を抜くと呼吸をしていないので、喉にナイフを突き立てるぐらいの覚悟で、ようやく数回だけ呼吸ができた。
そんな思いまでして息を吸うのは、酸素をとりこまないと人間は動けないからだ。
だが、もしかすると、酸素なんてなくても今の自分は動けるし、酸素をいっぱいとったところで、もうじき動けなくな
「――――、――――、――――」
……熱い。
体の中から、数百の刃が生えてくる。
逃げ様のない串刺し刑。
体は剣で出来ている。
けどそれは、とうに判っていたコトだ。
は言った。
投影をすれば最後、時限爆弾のスイッチが入ると。
だから、この終わりはもう決められていた事だ。
「――――、――――、――――」
……足が重い。
……自分が何をしているのか判らない。
痛みと疲労と空虚で心臓が破裂しそうだ。
でもあともう少し。
アイツを消せば全てが終わる。
邪魔をするヤツはいない。
もう誰も邪魔をするヤツはいない。
――――だと言うのに。
「は――――――、あ――――」
影が揺らめく。
大聖杯と呼ばれるクレーターの前。
赤黒い炎に照らされて、が立っている。
「――――言峰、綺礼」
「ああ。お互い、かろうじて生き延びているようだな、衛宮士郎」
強い意志に満ちた声。
生きているモノのいない世界で、その男は、宿命のように俺の前に立ちはだかった。
「―――何のつもりだ。
今更、おまえの出る幕なんかない」
生きていたのか、などとは訊かない。
あの男は、死に体だ。
魔力の波を感じさせない体。
心臓の位置にある黒い染み。
……俺と同じ、返された砂時計のように、短い炎。
言峰の心音は聞こえない。
あの男は余命幾ばくもない。
憶測ではなく、これは断定だ。
言峰綺礼は、何をしなくとも、あと数分後に死亡する。
「何をする、などと判りきった事を訊くな。
私の目的はただ一つ、この呪いを誕生させる事のみだ」
「――――何を。おまえにそんな事はできない。そいつはおまえの物になんてならない」
「当然だ。私はこれに干渉する事はできんし、これに干渉する気もない。
だが言った筈だぞ。私は誕生するモノを祝福すると。
コレは今まさに産まれようとしている。ならば、その誕生を阻む外敵から守ってやるのは当然ではないかな」
「……正気か言峰、そんな今にも死にそうな体でなにを言ってやがる。仮に、おまえの望み通りソレを外に出したところで、おまえは――――」
「それはおまえも同じだろう。正気などとうにない。目的を果たしたところで、我々の末路は同じだ。
おまえはコレを滅ぼし、私はコレを守る。
だが、どちらが目的を果たそうと、結果を得る者はいない。それを承知でおまえはここまで来た。
―――無意味な争いだ。そんなものをする時点で、私もおまえも正気ではないだろう」
「――――――――」
……言峰は退かない。
あいつはあの場から退かず、ヤツがいる限り、俺は最後の投影を試みる事さえできない。
投影には時間を要する。
そんな隙を見せれば、セイバーの剣を作る前に頭蓋を砕かれている。
「……なんでだよ。なんでそこまでソイツを守る。
ソイツが出て来たところで、アンタに返るものなんてないんだろう。なのに、どうして」
死の淵においてまで。
人間の敵である“この世全ての悪”なんていうモノを容認するのか。
「何故も何もない。私にとっては、これが唯一の娯楽だからだ。
――――衛宮士郎。
おまえが他人の幸福に至福を感じるように。
私は、他人の不幸に至福を感じるだけだ」
「――――」
「そもそも何故殺す。生まれる前から悪と決めつけるのは傲慢ではないか。孵りたがっている命ならば、羽化させてやるのが愛ではないのか」
「何が愛だ、屁理屈言うな。アレはもう多くの人間を殺してきた。このまま外に出す事はできない」
「ほう。では訊こう。おまえの言う善悪とはなんだ。人を殺す事が絶対の悪だと、おまえはそう言うのか?」
「……それ、は」
……そんなもの、答えられる筈がない。
今の俺には善悪がない。
桜を救うと決めた時点で、俺には、衛宮士郎が信じていた正義はなくなってしまった。
「―――それでいい。もとより答えなどない。人間とはそういうものだ。明確な答えなどなく、変動する真実を良しとする。我々には、初めから真実となる事柄なぞない。
人間は善悪を同時に兼ね備え、その属性を分けるのはあくまで自身の選択による。始まりはゼロであり、生まれ出る事に罪はないと、おまえには教えた筈だが」
「―――ああ。たとえそれが悪であろうと、赤ん坊に、罪はない、と」
「そうだ。人間は生まれ、学習によって善か悪か、そのどちらかに偏るモノだ。
とある聖典にはこうある。人間は天使より優れた存在だと。何故か。それは悪を知りながらも、悪に走らぬ者がいるからだと。
生まれながら善しか知らぬ天使とは違う。
人間とは、悪を持ちながら善と生きられる存在故に、善しか知らぬ天使より優れたモノだと」
「――――然り。
吐き気を催すような悪人が、戯れに見せる善意がある。
多くの人間を救った聖人が、気紛れに犯す悪意がある。
この矛盾。両立する善意と悪意こそが、人を人たらしめる聖灰だ。
生きるという事が罪であり、生きているからこその罰がある。生あってこその善であり、生あってこその悪だ。
故に――――」
「――――生まれ出でぬモノに罪科は問えぬ。
何者にも望まれぬモノ、生まれながらに悪であるモノなどない。
アレは誕生するその瞬間まで、罰を受ける謂れはない」
それが、言峰という名の神父の答えだった。
あの男は本当に―――そんな理由で、人間が望みあげてしまった“全ての悪”を赦そうとしている―――。
「―――だからって許すのか。コイツは初めから殺す為だけのモノだ。外に出る事で多くの人間が死ぬと判っているのなら、それは、俺たちにとって紛れもない悪だろう……!」
「そうだ。これは存在自体が悪だ。なにしろそのように創られた。初めから悪であるようにと生まれたのだ。
人間とは違う。これは悪しか持たぬ、人々が創り上げた純粋な単一神だ。
だが―――その行為が悪だとしても、アレ本人がそれをどう思うかはまだ判るまい」
「え……?」
本人……“この世全ての悪《アンリマユ》”が、自分をどう思うか、だって……?
「そうだ。
“この世全ての悪”本人が自らの行動を“悪し”と嘆くか、“善し”と笑うか。それは我々の計るところではない。
もしアレに人に近い意思があり、自らの存在を嘆くのであれば、それは悪だろう。
だが自らの存在に何の疑問も持たなければ、アレは善だ。なにしろそのように望まれたモノ。自らの機能に疑いを持たぬのであれば、それが悪である筈がない」
「な――――」
「そう。
生まれながらにして持ち得ぬもの。
初めからこの世に望まれなかったもの。
それが誕生する意味、価値のないモノが存在する価値を、アレは見せてくれるだろう」
「何もかも無くし何もかも壊したあと、ただ一人残ったモノが、果たして自身を許せるのか。
私はそれが知りたい。
外界との隔たりをもったモノが、孤独《ありのまま》に生き続ける事に罪科があるのかどうか、その是非を問う。
その為におまえの父を殺し、その為に間桐桜を生かした。私では答えは出せない。故に、答えを出せるモノの誕生を願った」
「―――それが私の目的だ衛宮士郎。
自身に還る望みを持たぬおまえと対極に位置する、同質の願望だ」
「―――――――」
……俺には理解できない。
この男の望み、求めたものは俺には遠すぎる。
……だから、判るのは一つだけだ。
こいつは――――そんな事の為に、桜を。
「桜を。そんな事のために、桜を利用したのか」
おぼろがかった視界を振り絞って、満身の敵意を込めて神父を睨む。
ヤツは。
「そうだな。そんな事の為に、私は多くのモノを殺してきた。故に今更降りる事などできん。
言っただろう。私はそのように生きてきた。
その疑問を解く為だけにここにあった。
それは、死を前にして変わるものでもない」
僅かにも目を逸らさず、死に行く体で断言した。
「――――――――」
堂々としたその言葉。
自分には後悔も間違いもないと、当然のように語る姿。
「………………ああ、そうか」
それで、分かった。
あの男とは相容れない。初めて会った時から認めるものかと反発していた。
……その正体が、分かってしまった。
認めたくないが。
どうも俺は、言峰綺礼という男が好きだったらしい。
それを否定する為に、最後まで気付かないままでいる為に、必死にヤツを敵視した。
ヤツは俺に、自分たちは似ていると言った。
今なら解る。
共に自身を罪人と思い。
その枷《かせ》を振り払う為に、一つの生き方を貫き続けた。
―――その方法では振り払えないと判っていながら、それこそが正しい贖《あがな》いだと信じて、与えられない救いを求め続けた。
「―――――退かないよな、そりゃ」
同じなら、退くはずがない。
ヤツは死に行く体だから、最後に望みを叶えようとしているんじゃない。
……そう。最後だからこそ誓いを守る、ではない。
あいつはそういう風に生きてきた。
今までそれ以外の道を歩かなかった。
だから、一分後に自分が死ぬとしても―――それ以外の、本当に正しい生き方を知らないだけ。
「……ふん。それにな、告白すれば八つ当たりでもある。
以前からよもや、とは思っていたが、事ここに至ってようやく気が付いた」
踏み出してくる。
俺もあいつも動ける時間は残り少ない。
だから、決着は迅速に。
自分の炎が尽きる前に、相手の炎を根絶やしにする。
「――――私は、おまえたちを羨んでいる。
求めても得られなかったもの。手に入れたというのに手に入らなかったもの。どのような戒律をもってしても、指の隙間から零れ落ちた無数の澱《おり》」
“おまえたちが幸福と感じるものが――――”
「その鬱積を、ここで帳消しにするのみだ」
“――――私には、幸福と感じられなかった”
……ああ。何をしても得られなかったこの男こそが、空っぽだ。
求めて求めて、何一つ幸福を得られなかった。
そうして得たものは死を運ぶという生き方のみ。
なら―――その、たった一つだけ在った生き《モノ》方を、どうしてここで放棄《すて》る事が出来るだろう。
「―――そうか。無駄な時間を使わせたな、言峰」
忘れていた呼吸を再開する。
肺に空気を送り込み、体を戦闘用に切り替える。
「構わん。時間がないのはお互いさまだ」
言峰の筋肉《からだ》に力が篭る。
魔術戦になどなる訳がない。
俺たちは互いに死に体。
出来る事などこの拳を相手に叩きつける事だけ。
残されたものは技術も駆け引きもない、残った命を潰しあう殴り合いだ。
ヤツは俺を殺し、その望みを叶え。
俺はヤツを倒し、その望みを破壊する。
賭けるものは互いの命。
その刻限がくる前にヤツを倒し、あの影を消去する。
地を蹴り、一直線に“敵”は敵を討ちに迫る。
「、は――――」
こっちにはそれだけの足がない。
腰を落とし、正面から襲いくる敵の胸元を見据え、
「、あああああああ――――!」
躱しようのないタイミングで、渾身の一撃を見舞わせる……!
だが、突き出した右拳は宙を切り、衝撃を受けたのはこちらの胸元。
「ぐ、っ――――!?」
言峰の姿がない。
あの速度。あの勢いで襲撃した敵は、一瞬で視界から消え去り、
長身を折り畳むよう俺の左横に身を屈め、掌で腹を殴りつけ、
迸る稲妻めいた左右の脚で、俺の体を容赦なく蹴り上げた。
「は――――ず…………!」
火を吐くような左右の蹴り上げ。
傷つけられた痛みで意識がトブなど、ここ数時間忘れていた。
「ぎ、っ――――」
何メートル突き上げられたのか。
胴から首を引っこ抜かれてもおかしくない衝撃。
いや、それを言うなら腹を叩いた二撃目ですら、内臓を破壊する威力があった。
「お、まえ――――」
知ってる。
初動作のない最短の軌跡。円でありながら線、外部はもとより内部へのダメージを考慮したそれは、
「神父のクセに、中国拳法、なんて」
それも秘門《ごくじょう》。
今のは、見様見真似で出来る動きじゃない……!
「そうでもない。私のコレは真似事だ。師の套路《とうろ》を真似ただけの、内に何も宿らぬ物だが―――死に損ないの相手には十分のようだ」
吹き飛ばされた俺へと振り返る。
「っ…………!」
追撃が来る。
固まった関節を力ずくで曲げ、体を起こす。
「…………?」
が、言峰は動きを止めたまま、自らの拳を見ていた。
その手は真紅に染まっている。
「厄介な体だな。打つ方が命がけとは」
それは、
刃の塊を素手で砕こうとした代償だった。
「は――――あ」
……飛びそうな意識をかき集めて敵に向き合う。
そんなものは関係ない。
あいつは、たとえ相手が死の棘だろうと手を止める事はしない。
「だがいい条件《ハンデ》だ。
つまるところ、私とおまえの戦いは」
「っ――――」
言峰の腰《からだ》が沈む。
鍛えぬかれた肉体が、一秒後の爆発に備えている。
「外敵との戦いではなく、自身を賭ける戦いだという事だ――――!」
――――敵が迫る。
格闘技術において、言峰は俺を遥かに上回っている。
ヤツの拳は砕けまい。
このままでいけば、砂時計が空っぽになる前に砂時計《うつわ》ごと破壊される。
「は――――」
目を背けず、火花じみた速度で迫る敵を迎え入れる。
やるべき事は唯一つ。
前回より迅く、躱されてもより迅く、この拳を打ち込むだけだ。
――――耳朶《じだ》に響くものは己の心音のみ。
止まない落盤の音も、雨のように降り注ぐ土塊も目に入らない。
倒すべきモノは目の前にいる。
何百年と続いた妄執、一つの世界の崩壊に関心はない。
衛宮士郎にとって。
この“敵”に打ち克つ事だけが、残された最後の意味だった。
◇◇◇
“――――――――” 掌底が叩きつけられる。
体が何に変貌していようと同じこと。
外側ではなく内側の破壊を旨とした一撃は、容赦なく衝撃を通してくる。
戦いは、圧倒的だった。
こちらの拳は躱され、弾かれ、引き込まれて、敵の攻撃をまともに食らう。
ガイン、と言峰の拳が体を打つ度に、視界が真白に切り刻まれる。
それは敵によるダメージではなく、傷ついた体を直し、書き換えようとする、左腕からの痛みだった。
“――――――――” 頭を守る。
顔だけはまだ剣《てつ》になっていない。
頭に直撃されては一撃で終わる。
こっちの拳が当たらない以上、両腕でなんとか頭部への攻撃だけは防ぎきる。
痛覚はとうに麻痺し、視覚も、じき死に絶える。
脳に伝わる痛みは、ただ、左腕からの侵食だけだ。
血塗れの拳は、俺の全身《こっかく》をくまなく粉砕している。
それを修復しようと左腕が躍起になり、結果――――
何もかもが、白くなる。
映像も意識も、戻れないところまで白く。
“――――――――” もう、考える事でさえ、痛みを伴う。
破壊される体を死なせまいと刃が生える。
それと引き換えに脳髄が削られていく。
終わるのは、どちらが早いのか、もう、
「っ――――ぐ、ふっ…………!」
ヤツの拳の骨も砕けている。
それに耐え、顔を苦悶に歪めながら敵は俺を打ってくる。
“――――――――” 突き出される拳を躱して、右拳を叩きつける。
弾かれる。
同時に左わき腹に衝撃。脳を切りきざむ刃に堪えて、もう一撃。
“――――――――” まだ。
まだ動ける、もう動けない、これで、これで最、
“――――あ”「あ――――」
効いた。今のは、効いた。
体の痛みなんてなくなった筈なのに、体中が、痛みで泣きそうになっている。
吹っ飛ばされた体は、落盤した岩にぶつかって、崖下への落下を、かろうじて免れた。
“――――ぁ”「、あ」
――――。
立てない。
衝撃だけでこの痛みなら、体を作り変えようとする脳への痛みは、想像を絶する。
狂う。
あと一秒で痛みに耐え切れず焼き切れ、何も考えられなくなる。
――――その前に眠ってしまえ、ば。
このまま目を閉じれば、それは。
「終わったか。では頭を潰すぞ」
敵が歩み寄ってくる。
……もう走る事もできないのは敵も同じ。
俺たちは既に、一分後に消えてもおかしくない。
なら――――、もう――――
“あ” 何を誓った。
おまえは、誰を守ると誓ったんだ。
“あ、” 生きて。
二人でなければ は救われないと彼女は言った。
“あ、あ” 何を失った。
その為におまえは何を失った。
“あ、ああ――――” 敵が近づいている。
無防備な俺の頭を潰そうと、足を引きずってやってくる。
――――冗談じゃない……!
俺は負けない、あの男には目的なんてない、ヤツにとって当然のように守ってきた在り方なだけだ……!
けど俺にはある、
目的がある、
こいつをぶちのめす理由、勝たなくちゃいけない理由がちゃんとある――――!
“ああ、あ――――あ」
どのくらい泣かせてきたのか判らない。
俺の知らないところで、 はずっと泣いていた。
笑っていたのは俺の前だけで、ずっと一人で泣いていたんだ。
「あ――――、お」
……そうだ。
だからこそ、守らないと。
が犯した罪、 を責める罪、 が思い返す罪、全部から、守るんだ。
俺の前でだけ笑えた少女。
未来のない体で、俺を守ると言った彼女が―――
―――俺以外の前でも、いつか、強く笑えるように。
その為にはおまえが邪魔だ。
「お―――おお、オ――――」
――――失せろ。
おまえが存《い》たままだと、桜は二度と笑えない――――!
「オオオオオぉおおおお――――!!!!!!」
「ぐ――――、ぬ――――!?」
「あ、あああああ――――!!」
一撃。
俺の顔を打ちに来た敵の顔面に、ありったけの拳を打ち込む。
「ぬ、貴様、まだ――――!」
「言峰、綺礼――――――!」
二撃。 三撃。 四撃。 五撃。 六撃。 七撃――――!「は、はあ、は、ガ―――ッッッッッ!!!!!」
殴る、殴る、殴る、殴る……!
これが最期、ここを逃したら本当に後がない、この奇跡、この好機に、残った命を全てつぎ込む――――!「っ――――、あ……!!!!!!」
飛んだ。
相打ち覚悟の拳をあっさりと流され、強烈なのをぶち込まれた。
「あ、が、ぐ――――!」
ちくしょう、そうだよ、そう簡単に殴らせてなんてくれねえよ、あいつの方が何倍も強いんだから、
俺の反撃なんて苦もなく流してとどめを刺しに来るに決まってる――――!
「は――――。あ――――!」
ああ、それがどうした……!
実力差は覆らない。
そんな都合のいい話はない。
飛ばされ、蹲る俺の頭を潰そうと敵がやってくる。
負ける。負ける。負ける。負ける。
それは判りきった自明の理。
それでも、まだ、この体は動くんだから――――!
「コトミ、」
立ちはだかり、覆い被さる敵の影。
それに、言う事をきかない足―――ああ、右足はホントにピクリとも動かない―――に火をつけて体を起こす。
このままでは終わらない。
こんな足では躱しきれない敵の一撃。
一秒後に来る死を、全力で回避しようとし――――
「―――、ネ?」
目の前にいる男が。
拳を俺の目前まで突き上げたまま、間に合わなかった姿を見た。
「……ここまでか。単純に、時間の差が出るとはな」
男は自らの胸に視線を落とす。
黒く塗りつぶされたそこは、本来、心臓があるべき個所だ。
……時間の差。
あの森で死に体になったのは、わずかに、この男の方が早かったのか。
「おまえの勝ちだ衛宮士郎。その体で何秒保つかは知らんが、目的があるのなら急ぐがいい」
男は以前のまま。
教会で出会った時と同じ、何事にも関心がないという声で告げる。
「――――言峰」
「おまえが最後のマスターだ。
聖杯を前にし、その責務《のぞみ》を果たすがいい」
最後のマスター。
その言葉は深い重みを持ちながらも、神父はやはり、変わらぬ声で言い捨てた。
当然だ。
この男は最期だろうと変わらない。
崩れていくこの瞬間さえ、いけすかない俺の敵であり続ける。
「―――ああ。散々いためつけてくれたお礼だ。容赦なく、あんたの願いを壊してくる」
「―――――――、」
最期に男は笑ったのか。
スクラップ寸前の俺の眼は用を成さず、
埋葬する者もなく、神父は今度こそ、この苦界から消えていった。
◇◇◇
「――――――――」
呼吸をして、体に、動けるだけの酸素を入れる。
喉は一度しか動かない。
幸い、苦しいなんて事はなかった。
五感は、そのほとんどが鉄になっている。
――――どんなに頑張っても。
意識が、保てなくなってきた。
――――行こう。
最後の、一仕事だ。
左腕を解放する。
意識が消えかけてきた。
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
……最後の投影。
俺が知り得る中で最強の剣を以って、大聖杯ごと、この呪いを破壊する。
「――――――――」
それは絶対の終わりだ。
俺は
――――良くはない。
使えば、絶対に戻れない。
このままでも自分が消えるのは判っている。
それでも―――命がある限り、まだ他に方法を探さなくては。
約束をした。全ての事から桜を守ると。
俺は勝手に消えていい命じゃない。
桜を―――桜と一緒に、生きていきたい。
だから、まだ――――
「――――とう、え――――」
……だが、他に方法はない。
桜の罪。桜に幸福が許される絶対条件が、この呪いの破壊にある。
……意識も、もう砂粒ほどしかない。
桜、俺は――――
「――――投影、開始」
おまえとの、約束を――――
「 」
手に剣を。
は もしない 体で、最後の、
――――ううん、シロウは死なないよ。
だって、この門を閉じるのはわたしだから。
「――――――――――――」
それは。
もう名前も思い出せない、誰かの声。
「――――――――、 ?」
思い出せないのに、名前を呼んだ。
呼ばなければいけないと思った。
―――そうしなければ、 は、二度と帰ってこないと。
――――ね。
シロウは、生きたい? どんな命になっても、どんなカタチになっても、シロウはまだ生きていたい?
「――――――――、 」
生きたい。名前を。名前を呼んで、止めさせないと。
でも生きたい。そう頷いたら が消えてしまうと判っているのに、名前を、生きたいと、心の底から、生きたいと願っていた。
――――うん。
良かった、わたしもそうしたかった。わたしよりシロウに、これからを生きてほしかったから。
「――――――――、 」
何を言ってるんだ、ばか。
いいから戻れ。それ以上進んだら帰って来れない。
そいつは、俺が連れて行くから、くそっ、名前、名前を思い出さないといけないのに、頭がバカになっちまって、たいせつな、名前が。
――――じゃあ奇跡を見せてあげる。
前に見せた魔術《とおみ》の応用だけど、今度のはすごいんだよ。
なんていったって、みんなが見たがってた魔法なんだから。
「――――――――、 ヤ」
いい。そんなの見なくていい。いいから戻ってきてくれ。
俺は、
――――けど体《うつわ》だけは安物かな。
使えるのはわたしの体しかないから、完全に再現はできないの。けどだいじょうぶ。リンといっしょに試行錯誤すれば、すぐに元通りにしてもらえるわ。
「――――――――、 ヤ……!」
真ん中に進んでいく。
白い装束の誰かは、初めの儀式のように、起動のための生贄《かぎ》になって、大聖杯を閉ざしていく。
―――じゃあね。
わたしとシロウは血が繋がっていないけど。
シロウと兄妹で、本当に良かった。
「――――――――」
リヤ。
行くな、そう思ってくれるなら行かないでくれ。
犠牲にできない。一緒に暮らすって言った。今まで一人にした分、一緒に暮らすって言っただろう。
それでも――――それでも、どちらかが犠牲になるというのなら、それは――――
―――ううん。
言ったよね、兄貴は妹を守るもんなんだって。
……ええ。わたしはお姉ちゃんだもん。なら、弟を守らなくっちゃ。
「イ――――――リヤ」
思い出した。
彼女の名前。
切嗣の本当の血縁。俺が横取りして、ずっと一人にさせてしまった幼い少女。
俺より少しだけ年上の、銀の髪と赤い目をした―――「イリヤ―――イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ―――――!!!」
届かない。
もう声は聞こえない。
光に包まれて何も見えない。
彼女は、最後に。
じゃあねと微笑って、パタン、と大聖杯の門を閉めた。
空が、見える。
ほんの少し、ただ腕を伸ばすだけで、空へ抜ける。
けど、何も残っていない。
この体には、一欠片の魔力《ちから》も残っていない。
沈んでいく。
彼女が救ってくれた命が、沈んでいく。
悔しくて手を握り締める。
手のひらには冷たい痛み。
それは沈みかけた意識を覚ます――――
“だいじょうぶ。リンが助けてくれるから”
――――ああ。
手のひらにはちっぽけな奇跡がある。
ほんの一呼吸分の魔力。
何の役にも立たない、けれど、手を伸ばすぐらいは助けてくれる、小さな小さなペンダント。
手を伸ばす。
柔らかい大気は肌に、温かい陽を受ける。
この手には、果てのない青い空が――――
◇◇◇
――――崩れていく。
崩壊はもはや決定的だった。
千年をかけたアインツベルンの探求。
五百年をかけたマキリの悲願。
果てず、翻らず、成らぬまま、連綿と続けられた一つの世界が、ここに終わろうとしている。
「お――――お、おおおおおおお」
その崩壊の中、ソレにはまだ意思があった。
――――死にたくない――――
体はもはや赤黒い肉の集まりにすぎず、人のカタチの面影すらない。
この地下に棲み付いていた蟲の群。
その全てを集め、一つの肉にしたところで、もはや人のカタチさえ保てない。
「お、おお、お、お――――」
のたうつ姿は、ただ“動いている”だけの肉塊だった。
それでも生きている。
その塊は腐敗する体、溶けていく自分を呪いながら、
――――死にたくない――――
ただ、その執念だけで、未だこの世に留まっていた。
「おお――――おお、お――――オ――――」
地面を這う。
マキリ臓硯。魂をこの世に留める本体《よりしろ》を潰された老魔術師は、その執念だけでこの世界に残留していた。
だが滅びるのは時間の問題。
腐敗する魂を急造の蟲に詰め込んだところで、二度潰された傷は癒えるものではない。
――――死にたくない――――
肉塊となった老魔術師はこのまま、苦しみぬいた末に息絶える。
最後まで腐り、無念のまま果てていく。
目の前に。
長く求め続け、あともう一歩で手に入る筈だった、永遠の具現を仰ぎながら。
「お――――おお、おおおお」
断末魔は苦痛か、無念か。
――――死にたくない――――
死ぬのはイヤだ。
このまま消え去るなどどうして出来よう。
五百年。
五百年に渡り苦しみ続けた成果、与えられてしかるべき報酬が目前にあって、何故消えねばならぬのか。
「お――――お、おおおおおおおおおおおお」
思い返すのは苦しみだけだ。
マキリの宿業。
故郷を追われ、この極東の地に流れ着き、異国の法則に溶け合えず衰退していった魔道の名門。
―――だが、それは違う。
そうであったのならまだ救いはあった。
そのような理由で血が絶えるのなら、或いは、大人しく滅びを甘受していただろう。
――――死にたくない――――
だが真実は違う。
日本の土が合わなかったのではない。
そのような外的要因でマキリが終わったのではない。
単に、彼らは脱落したのだ。
マキリの祖たる探求者より三百年。
その三百年が魔術師の家系として限界だった。
マキリという魔術師は、臓硯の代で既に衰退していた。
苦しみはそこから始まり、老人は否定するしかなかった。
マキリの血族は所詮そこ止まりと突きつけられ―――それを必死に覆そうと抗ったのが、間桐臓硯という男の人生だった。
――――死にたくない。
死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…………!!!!
「お、おお、オオオオオオオオオオオ……!!!!」
そう、死ぬ訳にはいかない。腐る体が恨めしい。苦しいのは苦しい。とにかく苦しい。苦しいだけの五百年だった。苦しいだけの人生だった。それ故に永遠を求めて何がわるい。苦しんだ苦しんだ、満たされないまま苦しんだ、何も残せぬまま消えるなど出来るものか、苦しいまま死ぬなど出来るものか、目の前には聖杯が開いている、ならば我が望みを聞くがいい、問われれば答えてやろう、我が望みはシニタクナイ、あそこまで、あの崖を登れば願いが叶う、願いが叶うというのにこの体ではたどり着けぬ、たったあれだけの距離、この五百年を顧みれば塵にも等しい、たったあれだけの距離が、なぜ、なぜこんなにも遠いのか――――――――――――――――!!!!
「お、おお、オ、お――――」
ビチャビチャと自身を撒き散らしながら、肉塊が地面を這う。
なんという執念。
動けぬはず、否、動くなどという機能のないソレが、ただ怨念のみで前に進んでいく。
もはや執念だけの怪物と化した思念。
崩壊の音も耳に入らず、聖杯だけを視界に収めてソレは進む。
その、この世ならざる醜怪に、
「――――そこまで変貌したか、マキリ」
鈴のような、美しい声をかける者が、いた。
「な、に?」
視線をあげる。
揺れる視界の中。
そこには、一人の少女の姿があった。
「――――――――」
肉塊の前進が止まる。
ソレは、陶然と少女を見上げる。
……老魔術師が見たものは少女ではない。
それは、遠い記憶にある女。
いつの時も色褪せずに心にいた、アインツベルンの黄金の聖女。
―――二百年前。
大聖杯を築き上げる為、自ら生贄となった、天の杯であった我が同胞。
「――――――――」
あの日より些かも衰えない。
聖杯の女は、彼が焦がれていた頃と同じ瞳のまま、
「問おう、我が仇敵よ。汝は、なぜ死にたくないと思ったのか」
ただ一度、懐かしい声をあげた。
「――――――――」
純粋な問いに、苦しい、という思考が止まる。
何故。
何故。
何故。
言われてみればおかしい。
何故死にたくないなどと思ったのか。
何故死ぬ訳にはいかなかったのか。
終わってしまえばこの苦痛から解放されるというのに、あらゆる苦しみを抱いたまま、なお生にしがみついたのは何の為か。
「お――――おお、おおおおお」
思い出す。
そう。最初に、ただ崇高な目的があった。
万物をこの手に。
あらゆる真理を知り、
誰も届かない地点に行く。
肉体という有限を超え、魂という無限に至る。
人間という種。
あらかじめ限界を定められ、脳髄という螺旋の中で回り続けるモノを、外へ。
あらゆる憎悪、あらゆる苦しみを、全て癒し消し去る為に。
――――思い出す。
楽園などないと知った悲嘆のあと。
この世に無いのならば、肉の身では作る事さえ許されぬのなら、許される場所へ旅立とうと奮い立った。
新しい世界を作るのではなく、自身を、人という命を新しいものに変えるのだと。
「お――――、お」
……そうだ。
見上げるばかりの宙《ソラ》へ、その果てへ、
新しく生まれ変わり、何人《なんびと》も想像できない地平、
我々では思い描けない理想郷に到達する。
――――その為に。
その為に聖杯を求めた。
人の手に余る奇蹟を求めた。
至るまで消える訳にはいかなかった。
幾たび打ちのめされ、何度この身では届かないと悟りながらも、生きている限りは諦められなかった。
―――そう、ユメみたモノはただ一つ。
この世、全ての悪の廃絶の為。
我らは、叶わぬ理想に生命《いのち》を賭した。
「――――――――お」
だから残った。
あらゆる仇敵たちが去った後も、無意味と知りながらもただ求め続けた。
そう在る事に意味があると信じ、そう在る事が、いつか、自身を継ぐ者を育むのだと知っていた。
だから生き続けたのだ。
苦しいと知りながらも死ぬ訳にはいかなかった。
自身を作り変えても、若い頃に見た未熟な悲嘆を覆《くつがえ》したかった。
それが自身の生き方であり、己が出した答えではなかったのか。
……そう。
たとえその生《さき》に。何の報いが、なかったとしても。
「お――――おお、お…………!」
それが、最初の願いだった。
その苦痛。
叶わぬ望みに挑み続ける事に比べれば、死にたくない、などという望みのなんとちっぽけな事か……!
「――――そうか。そうであったな、ユスティーツァよ」
……世界を見上げる。
大空洞は半ば崩壊していた。
間桐桜は解放され、既にこの世界より連れ出されている。
生み出された、間違いでしかない“第三魔法《アンリマユ》”は、陽炎のように揺らめいている。
―――その全てが。
もう、老魔術師には届かない出来事だと受け入れた。
「終わりか。
我が宿願も、我が苦痛も、マキリの使命も――――こんなところで、終わるのだな」
それは初めから決まっていたこと。
マキリの旅は、何処で果てようと、所詮はこんなところ止まりである。
「は――――はは、ははは」
だが。
それは長い苦痛の果ての、惨めな終焉などでは断じてない。
きっと、まだ始まったばかりなのだ。
彼らの試み、その旅は始まったばかり。
五百年など取るに足らぬ。
たったそれだけの年月でどうして届こうか。
我らが望んだものは遥かに眩く尊く、遠く必ず果たされるもの。
これより幾星霜の時間《とき》を超え、千の年月、万の年月の末に手に入れる、人間という種の成長だ。
ならば、このような瑣末事など始まる為のちっぽけな、けれど必ず意味がある要素にすぎない。
彼らの宿願は、これで終わるのではない。
旅はここから始まる。
ここから、ずっとずっと――――また長い長い、遥か彼方を目指す歴史が、ユメの終わりと共に回っていく。
「――――だが無念よ。いや、あと一歩だったのだがなあ」
諦める言葉は、やはり老魔術師そのものだ。
どのような光を目指そうと、彼は悪行を良しとした外道である。
それを最期まで覆さず、彼は生への執着を断った。
――――最後の一人が消える。
奇蹟を求めた魔術師たちの一角、生きながらえ当事者であり続けた傍観者が崩れていく。
「五百余年――――ク。思えば、瞬きほどの宿願であった」
肉塊は跡形もなく、崩れ落ちた天蓋に飲み込まれた。
変貌しながら生き続けたモノ。
魔術師は目指し続けた悲願の崩壊と共に、この世から完全に消滅した。
◇◇◇エピローグ◇◇◇
「――――ふう、つっかれたあ」
どすん。
お土産でぎゅうぎゅうに膨らんだ旅行カバンを地面に置いて、のびのびと背筋を伸ばすこと数秒間。
見上げた空はカラッカラの快晴で、春の陽射しは問答無用で気持ちがいい。
ま、機体慣れした目には些かまぶしいのだが、それも長旅から解放されてこその不自由さと思えば、頬がゆるむってものである。
「あ、ヴェルデなくなってる。代わりに映画館なんて出来たんだ。……しばらく見ないうちに変わったなあ」
肩をほぐしながら街の様子などを眺めてみる。
ロンドンから日本の地方都市まで、実に二十五時間。
シートに閉じ込められていた体はなまりになまっている。狭苦しいシートに座り続けていたもんだからお尻は痛いし、なにより着陸の時におもいっきり天井に頭をぶつけたのはどうかと思う。
「……エコノミーどころの話じゃないわよね。せめてまっとうな旅行会社を使えば良かった」
教訓。長旅で旅費をけちってはいけない。
いくら金欠で万年資金ぐりに困っていて、主席争いしているルビィアゼリッタに、
“あらミストオサカ、お金に困っているのならワタクシ付きのメイドにしてあげてもよろしくてよ四番街のしみったれた悪趣味カフェのウェイトレス一年分の月給は保証しますわオホホああそう言っておきますけどわりと本気ですから明日朝一で編入届を出してきなさいね?”
なんて言われていようと、帰国する際の旅費はしぶってはいけない。
うん、次は是非そうしよう。
往復でチケットをとってあるので、とりあえず戻りはあのオンボロジェットで我慢する。
「えっとバスは……二十分待ちか。
―――ま、面倒だし歩いていこう」
よっ、と両手でカバンを持って歩き出す。
家までは歩いて一時間。
少々かかるが、約束の時間まで間があるのでちょうどいい。
「――――ん。懐かしいな、海ぞいの風だ」
車輪をガラガラと鳴らしながら、吹いてくる風に目を細める。
――――ああ、帰ってきた。
一年ぶりの故郷は変わっているようでちっとも変わっていない。
わたしは見慣れている筈の、なんでもない町の風景に一喜一憂しながら家路を辿る。
年に一度の帰郷、ロンドンに留学してから初めての帰国だ。
一年ぶりに町を歩くのはそれだけで幸福になれるし、訳もなく楽しい。
ま、どんなにハッピーでも旅行カバンが容赦なく重いのは変わらないワケなのだが。
「――――よし。ま、こんなんでオッケーかな」
シャワーを浴びて、姿見で一通りおかしなところがないかチェックをする。
……別に誰に気を遣っているワケじゃないけど、まあ、一年ぶりなんだからこれぐらい気合を入れといてもバチは当たるまい。
あー、いや、若干一名、バチっていうよりジト目を向けてきそうなのがいるけど、今日ぐらいは無視しよう。
屋敷は思っていたより綺麗で、埃もそう溜まっていなかった。
桜がたまに掃除してくれているのかも知れない。
それは有り難い。とても有り難いんだけど……。
「……あの娘《こ》、ヘンなコトにここを使ってないわよね……なんか、記憶にないシャンプーがあったんだけど」
シャンプーがあるのはバスだ。書斎とか台所とか、玄関、中庭等にシャンプーは置かない。
……いや。
別に気にするコトじゃないんだけど、バスというのは中々に暗示的ではあるまいか。
「―――って、もう三時じゃない……! ああもう、二時間も何してたんだわたし……!」
だだーっ、と玄関までショートダッシュ、気取ってパンプスを履こうとしたけどそれもアレなのでブーツに履き替えてまたダッシュ。
約束の時間は四時だ。
できれば早めに行って敵情視察をしたいのだが、そんなんで髪が乱れてはこっちの戦力がダウンする。
遺憾ではあるが、こうなったら真っ向勝負としゃれこもう。
「――――――――さて」
色々と感慨深くはあるが、ここまで来るとつまらない考えなんか消えて、少しでも早く中に入りたくなってしまった。
門を抜けて玄関へ。
それではいざ、呼び鈴ぽちっ。
ぴんぽーん、なんて間の抜けた音がして、ガラガラっと扉が開く。
「――――――――」
「――――――――」
驚いた。
何が驚いたかって、ライダーが玄関に出てきて、かつ、普通の服を着てるコトに驚いた。
「ただいま。ちょっと早いけど帰ってきたわ。
桜はいる、ライダー?」
「―――ええ。サクラは部屋で、タイガは居間で待っています」
「あ、藤村先生もいるんだ。……って、春休みだから当然か。んじゃお邪魔します。とりあえず居間に行けばいい?」
「はい。私はサクラを呼んできます」
廊下にあがる。
横並びで居間に向かう中、ちょっとだけライダーを盗み見た。
……これは意外な伏兵と言うべきだろうか?
もとから神がかった美人だったけど、こうして普通の格好をされると余計に際立って見える。
言ってしまえば、ドがつくクラスの美女である。
女が女を美女という時は、それはホントに美女なのだ。
向こうに行っていろんなタイプの美形に出くわしたけど、ライダーほどの美女にはまだお目にかかっていない。
まあ、そもそもライダーは人間以上なんだから規格外なのも当然か。
なにしろ天下ご免のサーヴァントである。
降霊科《ユリフィス》の魔術師が見たら三日は仕事が手につかなくなり、あまつさえ現役の使い魔だなんて聞いたら一ヶ月は工房に篭ってしまうだろう。
「リン? 私に話があるのですか?」
「ん、そうね。あれから調子はどう? 少しは今の状態に慣れた?」
「……そうですね。二年前に比べれば安定しています。
リンがいなくなってからは不安定でしたが、ひと月ほど前から安定しだしました。サクラもコツを掴んだようです」
「そう。ま、ライダーと桜は相性がいいから心配はしてなかったけど。……その、桜に黙って血なんて採ってないでしょうね……?」
ぼそぼそと小声で訊ねる。
別に咎めているワケではなくて、吸ってるなら吸ってるでちゃんとフォローできてるかが心配なのだ。
「それこそ心配無用です。桜に知られるような真似は、決して」
「………………」
微妙な答えだが、誰にも迷惑をかけてないようだからスルーしよう。
魔術師としての悪いクセだ。
ライダーほどの使い魔は価値がありすぎて、多少のお茶目は目を瞑ってしまうのだ。
「それではまた。リンには相談事もありますので、夜に時間を作っていただけますか」
「ふうん。内緒話ならここじゃなくて遠坂《うち》邸でしましょう。今夜はこっちに泊まるから、明日の夜でいい?」
ライダーは静かに頷き、桜の部屋へ向かっていく。
――――、と。
「お帰りなさい、リン」
「ありがと。留守中苦労かけたわね、ライダー」
微笑みで返して、ライダーは和室に向かっていく。
……いや、驚いた。
ほんと美女だわ、アレ。
「あら。いらっしゃい遠坂さん。元気そうでなによりね」
「はい、お邪魔します。藤村先生もお変わりないようで安心しました。今日は部活動、休みですか?」
「あー、今日は遠坂さんが来るって聞いてたから、ズル休み。ま、今年の主将はしっかりしてるし、今日は新入生対策の会議だから問題ないわ」
「新入生対策? 部員減ったんですか、弓道部?」
「んー、増えたよ? ほら、去年は桜ちゃんが主将になってたでしょ。それで男の子は増えたんだけど女の子が定員に届いてないのよ。
……って、遠坂さんは卒業したから知らないか。
ま、今年はカッコイイ男の子が主将だから、うまく立ち回ればどっさり入ってくるだろうけどねー」
「はあ。カッコイイ男の子って、誰です?」
「美綴さんの弟さん。これがまあ、姉さんとは正反対の小心者なのよぅ。部活紹介でステージになんて立ったら金縛りにあうわね、ぜったい」
「………………」
それは、人選を間違えているのではないだろうか。
……まあ、弓道は厳しいイメージがあるから、女の子にはとっつき易さをアピールした方がいいのかもしれないけど……にしても、綾子の弟か。弟がいるなんて初めて聞いたぞ、わたし。
「それで、あっちの暮らしはどうなの? 日本人だからっていじめられてない? ほら、美大の学《こ》生ってライバル心だけで友人関係成立してるじゃない」
「藤村先生、それは偏見です。芸術を信奉する人間に、そのような狭窮さはありません」
「あ。てへ、怒られちゃった」
……あるのは自分に対する関心だけです、なんてコトは口が裂けても言えまい。
加えて、わたしが通っている学部に限っては、藤村先生の不安は100%的中しているワケだが、それも黙っておこう。
……と。
藤村先生は意味ありげにわたしの顔を見てはニヤついている。
「―――なんでしょう、藤村先生」
「ん? 遠坂さん、綺麗になったなって。一皮剥けたっていうか、大人になったっていうか。向こうでいい人でもできた?」
「――――――――」
……いい人って、どうして女同士だとすぐこういう話になるんだろう。それになんか鋭いし。
「あ、なんか手応えあり。どうなのよ、花のロンドンでしょ? こう、パァーっと出会った瞬間に謎の組織に追われて手を繋いで大脱走、残り十分あたりでロンドン橋が炎上してキスしてお別れとかしちゃってたら承知しないぞ?」
「いえ。別に、そういうコトはないです」
「む。じゃあいい話は一切なし?」
「………………そういうワケではないんですが。
まあ、出来そうというか、出来ないというか」
……煮え切らない回答だが仕方がない。
わたしだってそれらしい誘いは受けたし、いい加減研究面だけでもパートナーがほしいのだ。
……けど、どうしても本気になれないというか。
いざ男の子と付き合ってみると、脳裏に別のバカものが浮かんでしまって集中できない。
信じがたい事だが、これはもしかしてあいつに惚れているのかしらん、などと首をひねる毎日だ。
――――いや。
そんなコトは断じてないったらないったらな―――
「あ、桜ちゃん」
「っ……!?」
びくっ、と反射的に背筋が伸びる。
そんなわたしに面食らっている桜。
……うわ。この子も変わらないな、ほんと。
「は、はあい。元気だった、桜?」
はい、と桜は頷く。
そうして、顔いっぱいに喜びを浮かべて、
「お帰りなさい姉さん。元気そうで嬉しいです」
これ以上ないっていう笑顔で、わたしの帰りを祝ってくれた。
そうして一時間。
わたしが留学してからの一年間、あっちとこっちの思い出話を交換しあう、賑やかで益体もない会話が続く。
「そっか。桜、もう卒業したんだね。それで進路はどうするの? うちに来るならわたしから紹介状でっちあげるけど」
「そうですね。嬉しいけど遠慮しておきます。
今はこっちでやる事があるし、勉強なら見てくれる人がいますから」
「む。手紙にあった綺礼の後釜か。……まあ人のいい爺さんみたいだし、うちに来るよりはマシだろうけど。
たまには外に出て冒険してみないとダメになるわよ。
ただでさえアンタは怠け性なんだから、教師は活きのいいのじゃないと」
「あ、それなら大丈夫です。ライダー、凄く厳しいから。
ちょっと怠けるとですね、すっごく怖い顔するんです」
「あー……いや、そりゃ怖いでしょ、彼女の本気は」
なにしろ石化の魔眼持ちだ。
本気で怒った時の迫力たるや、下手すると服まで石にされかねない。
……と。
なんだろ。藤村先生、元気ないけど。
「藤村先生?」
「え? あ、なに? ごめんなさい、聞いてなかった」
「いえ、そういうのではないのですが……急に黙り込んでしまったから、気になって」
「あ、うん……ちょっとね。
桜ちゃんと遠坂さんを見てると、士郎のコト思い出しちゃって。今いればすっごくラッキーなのに、あの子ったら肝心なところで損してるんだから」
「あーあ。帰り、遅いよね士郎。いつになったら帰ってくるのかな」
藤村先生は湯飲みを持ったまま、窓の外を見つめている。
その視線は遠く。
気持ちよく晴れた、雲一つない青空を見上げている。
「あ―――あれ、なんかヘンな雰囲気になっちゃったわね。
……ええっと、わたしのせいかなー、とか」
「そんなコトないですよ。藤村先生が先輩の話をしてくれるのは、嬉しいです」
「あはは、だめよ桜ちゃん。桜ちゃんにとって、士郎はもう先輩でもなんでもないんだから。
……ま、それはともかく。急に体を動かしたくなったから、道場で素振りでもしてくるわ」
気を遣ってくれたのか、藤村先生は席を外してくれた。
―――さて。
気を遣ってくれたのは嬉しいが、こうなると些か話の切り出しに困ってしまう。
「……ま、いっか。こっちまで気を遣うコトないものね。
聞いておくべきコトは聞いておかないと。
で、桜。アンタの方はどうなのよ。あれから二年、なんとかやっていけそう?」
「―――はい。少しずつですけど、色々なことを素直に受け止められるようになりました。罪の意識で潰されるのは逃げなんだって。
わたしはわたしの出来るコトをして、少しずつ頑張っていこうと思います」
「そっか。ちょっと見てきたけど、町も完全に元通りだものね。二年前の傷痕は消えていて、おかしな事件ももう起こらない。
……わたしの役目を桜に押し付けて協会に行っちゃったけど、それはそれで良かったってコトか」
「はい。姉さんの代わりはタイヘンでした。おかげでこの一年間、ずっと強くなれた気がします」
それは魔術の腕じゃなくて心の話だろう。
ま、人間悩んでいるより動き回ったほうがいいってコトである。
「けど、そういう姉さんはどうなんですか? なんか、色々ゴタゴタしてたって聞いてますけど?」
「わたし? ……あー、うん、ゴタゴタしてたって言えばしてたけど」
……さて、どこから話したものか。
遡ってしまえば、それは二年前が発端になる。
――――聖杯戦争。
あいつと桜、わたしが関わったあの戦いから二年が経った。
大聖杯は崩壊し、聖杯戦争の基盤は消失。
この地における聖杯探求は永遠に閉ざされ、冬木の町はようやく平穏を取り戻した。
取り戻したのだが、わたしの方はそれで終わってはくれなかったのだ。
管理地における一連の騒動。
冬木の土地は遠坂の物ではあるが、それは魔術協会が認めたもので、完全に遠坂のものってワケでもない。
あらゆる神秘は秘匿しなければならない、というのが魔術協会の大原則で、その原則をわたしたちは破りに破ってしまった。
まず、聖杯戦争における一般社会への被害の甚大さ。
次に魔術協会から派遣されたマスターの暗殺。
とどめに、協会で計測された『根源の渦』の発生。
……まあ、上二つは綺礼の責任でもあり、綺礼は魔術協会が派遣した監督役なのでとりあえず言い訳は立った。
けど三つ目はどうしようもない。
聖杯による門の出現。根源に至る儀式は、魔術協会の監視下で行われるべきものだ。
で、協会からしてみれば戦犯もいいところだったらしい。
ある日突然、極東の地で『根源の渦』らしきものの発生を観測し、驚きながらも喜んだのだが唐突に消失。
お偉いさんたちは門を開けた事にもご立腹だったらしいが、本当は成功していながら門を消してしまったわたしたちをもうギッタンギッタンにしたかったらしい。
で、わたしは後始末でタイヘンだったっていうのに魔術協会の総本山、イギリスはロンドンの時計塔に連行された。
そうして三百人は入れそうな会議室の中心に立たされ一大裁判の開始である。
各部門長はやってくるわ遠坂家が裁かれたあとの利権拾いに来たはぐれ魔術師は集まるわで、アレはちょっとしたパレードだったと思う。
“あー、わたしもここまでかあ。こうなったら協会と反目してる中東圏に逃げ込むか、日本で徹底抗戦だ”
なんて覚悟をして、脱走の準備までしたのだが、そこはそれ、捨てる神あれば拾う神あり。
遠坂凛を弾劾する会議場に、
「―――いや。弟子の不始末は私の責任でもある」
なんて、数百年ぶりに、お偉いさんたちよりちょっとだけ偉い爺さんが現れて、わたしにかけられた罪状をみーんな無しにしてくれたのだ。
もちろん、その爺さんがわたしの代わりに罰を受けてくれたのではない。
魔術師の世界は等価交換《ギブアンドテイク》。
爺さんは、事もあろうに
「よかろう。では弟子をとる事にする。教授するのは三人までだ。各部門、協議の末見込みのある者を選出せよ」
なんて爆弾発言をなさりやがった。
なにしろ行方の知れない魔法使いが現れて、あまつさえ弟子をとってやる、というのだ。
会場は大混乱。
わたしみたいな小物なんてどうでもよくなって、それぞれが自分の部門に駆け込んで連日連夜、選抜の為に大騒ぎだった。
で、ぽかーんとするわたしに爺さんはにやりと笑い、「トンビがタカを生んだ、というのはおまえの国の言葉だったな。トオサカは最も芽のない教え子だったが、わずか六代で辿り着くとは」
なんてのたまう始末。
“な、なんの事でしょう、大師父” 恐る恐るとぼけるわたし。
だって、気付かれたら殺されると思ってた。
魔法使いたちは自分の魔法を他者に漏らさない。
自身の奇跡に近づいた者は容赦なく排斥すると、わたしは本能で悟っていたからだ。
だが、敵もさるもの。
宝石の翁はわたしの頭をぽん、と撫でて誉めてくれた。
「協会《れんちゅう》を利用してやれ。ここは窮屈な場所だが、道具だけは揃っておる」
さすが大師父。
あちこちの並行世界を旅する爺さんは、懐が広かった。
……そう。
実を言えば、わたしは宝石剣を再現できる。
設計図も理論もあの戦いで把握したので、材料と時間さえあれば魔法の真似事はできるのだ。
まあ、それには莫大な資金が必要なワケで、一年二年、いや十年二十年でどうにかなるレベルではないのだが。
……とまあ、そうしてわたしは無罪放免。
あまつさえ時計塔へのフリーパスも貰ってしまって、学校を卒業した後、妹である桜に冬木の管理を一任し、すぐさまロンドンに発った訳である。
それから一年。
わたしは時計塔の生活に翻弄されながら、桜と同じように、すこーしずつ自分の生活圏《テリトリー》を広げている。
「……そうですか。それで姉さん。衛宮の家―――先輩の、事は」
「……問題になってないわ。
報告にはあげてないし、綺礼も“巻き込まれて死亡した一般人”としか記録してなかった。……幸か不幸か、あいつの事を知ってるのはわたしと貴方だけってコト」
「――――――――――――」
……空気が、少し重い。
あの後。
ライダーに地上まで運ばれたわたしと桜は、なんとか生き延びる事が出来た。
ライダーはわたしを遠坂邸まで連れて行ってくれて、魔力を補充してくれた。
魔力さえあれば、遠坂の魔術刻印がわたしを無理やりにでも生かそうとする。
しばらく食事が摂れなかったぐらいで、わたしはすぐさま回復した。
桜はアンリマユと繋がっていた後遺症と、その、あいつがいない事で、しばらくどうしようもなかった。
パニックになるでもなく、塞ぎこむでもなく。
……あいつがいつ帰って来てもいいようにと、無理やり平気なフリをし続けた。
正直、あんな姿を見せられるなら、半狂乱になってくれた方がまだ癒す術があっただろう。
……けど、それももう過去の話だ。
月日は経って、日常は少しずつ変わっていく。
桜は卒業して、まだしばらくはこの町に残ると言う。
わたしは休みを故郷で使いきって、一週間後にはロンドンに戻らなければならない。
「――――――――」
……わたしは、何を期待してこの屋敷に戻ってきたのか。
一年前。
いや、二年前から、ここで多くの出来事があった。
わたしの記憶は一年前で止まっているが、卒業するまでの一年はこの屋敷に入り浸った。
だから、だろうか。
こうして台所に振り向けば、あいつがつまらなそうな顔で包丁を握っている気がするのは。
……聖杯戦争に巻き込まれた未熟な魔術師。
そいつは結局、最後まで勝ち残って、それで――――
「ただいまー! いや、悪い悪い、一成から檀家のお供え物を分けてもらってたら遅くなっちまった」
それで、こんな風に今も無事だったりするワケである。
山ほどの買い物袋を手にして、士郎は居間に入ってくる。
――――と。
当然、わたしと目が合うわけである。
「―――よう。あ、相変わらず元気そうだな、そっちは」
やば、笑いそう。
廊下で深呼吸して、普段通りにしようって努力してたのが丸わかりである。
「―――ひ、久しぶりね。相変わらず抜けてるみたいじゃない、そっちは」
って、なんでわたしまで声が裏返ってるのよぅ!?
しかも桜のヤツ、士郎とわたし込みでクスッなんて笑ってるし!
「先輩。無理して強がってると、よけい姉さんに笑われますよ。まあ、姉さんも同じように意地を張ってるからおあいこですけど」
サラっと桜は怖いコト言ってるし。
「―――別に無理なんてしてない。遠坂は家族なんだから、家にいるのは当たり前だろ。何も特別なコトなんてない」
そういう割に、あの男は大量の買い物袋を持っている。
……まったく。
どうするのよあんな量、わたしたちだけじゃ絶対に食べきれないってのに、ばか。
「―――そうね。緊張して損しちゃった。こいつ、なーんにも変わってないし」
「はい。先輩はなーんにも変わってません」
「……………………」
お。なにやら反論したいクセに、まあどうでもいいか、と思っているいつもの顔。
「ふん、言ってろ。―――それより遠坂。今晩はメシ食っていくんだろ」
「ええ。泊まる気満々だけど」
「そっか。んじゃ休んでろ。長旅で疲れただろ。晩メシはこっちで片付けるから、桜とお茶飲んで待ってろよ。
つもる話もあるだろうしな」
台所に移動して、エプロンを装着する。
それは一年間、いや、正確には半年間いつもこの場所にあって、記憶に焼きついた光景だ。
「ありがと。お言葉に甘えるわ」
「そうしろそうしろ。
―――ああ、それとおかえり遠坂。ちっとも心配してなかったけど、いつも通りで安心した」
「ええ、ただいま衛宮くん。そっちもいつも通りで嬉しいわ」
そうして、この屋敷の主はかいがいしくも居候の為に夕食の準備をする。
……はてさて。
この一年でどれだけ元に戻ったのか、楽しみに待たせてもらうとしますか。
「ふうん。調子良さそうじゃない。一時はどうなるコトかと思ったけど、あれなら相手が誰であろうとバレないかな。学校の方は問題なし?」
「はい。おかげさまで一緒に卒業できました」
そっか。
ならもうわたしの出番はないんだろうな。
……まあ元からわたしや桜の助けなんていらなかっただろうけど、一年間の休学届とか藤村先生を誤魔化す言い訳とか、そのあたりは役に立てたからいいけど。
で。
どうしてあいつが生きているかって言うと、それはもう魔法以外有り得ない。
衛宮士郎の肉体は完全に壊れていた。
アーチャーの腕による侵食、限界を超えた投影によって破壊しつくされた魔術回路。
それは聖杯と言えど復元できないレベルの“死”だったのだ。
なのにああしてピンシャンしてるのは、あそこにいる士郎は『分身』だからである。
ああいや、それも正しくはない。
とにかく士郎の体は死んだ。
死滅した肉体を蘇生する事は、あの聖杯には出来ない。
聖杯―――イリヤに出来る事は、第三魔法と呼ばれる神秘だけ。
それを以って、イリヤは士郎の魂をなんとか蘇生させた。
蘇生させて、何の傷も負っていない肉体《うつわ》を与えたのだ。
なんだそりゃー、って話だけど、そこはそれ流石は第三魔法。
霊体、意識だけを他人の脳に流し込んで支配する、なんてものじゃない。
第三魔法で具現化された魂は、ちゃんと人間としての機能を持つ肉体《うつわ》を与えれば完全に“魂のカタチ”に作り直されるのだ。
肉体の遺伝子ではなく、魂の遺伝子というか。
イリヤは士郎の魂を生かして、まだ何物でもない素体に宿す事で『衛宮士郎』を復活させた。
……ただ、それも不完全だったというか、イリヤの第三魔法はやっぱりオリジナルには届かなかったのか。
大空洞崩壊から数日後、ライダーが見つけてきた士郎は、ちょーーーーっと元のモノとは違っていた。
……ああいや、あれは見つけてきたというより拾ってきた、もしくは摘んできた、ってなものだったけど。
そりゃ初めは面食らったし、どんな理屈だそれって驚きましたよ。
けど考えてみれば、ああして料理をしている士郎だって魂っていう“生命”が遠隔操作をして、こっちの世界に干渉しているようなものだ。
記憶とか脳とか魔術回路とか、そういったものは実は肉体ではなく魂の方にある。
そんなワケで、器は運動機能としての端末でしかなく、命令系統はあっちの世界で無敵状態だ。
……ま、それでも初めの半年はどうしたものかと試行錯誤を繰り返した。
水をかければ育つってもんでもないし、ホムンクルスを作れるほどの設備もないし。
で、結局、間桐にあった書物を協会に売っぱらって、名高い人形師が残していったっていう素体を手に入れて、ようやく今の状態になったワケだ。
……なんかこう言うと語弊があるけど、士郎はわたしたちと同じ、立派な人間である。
病院にいって手術も受けられるし、風邪薬も効果があるし、殺されたら死んでしまう。
魂というのは肉体に宿すと、魂を肉体で再現するかわりに、肉体に固定されるのだ。
ようするに、今のあいつはマスターがいなくても活動できるサーヴァントみたいなもの。
唯一異なるのはこの時代に生きていること。
成長もするし、寿命を迎えれば天に召されるし、ああやっておいしい料理を作ってくれる、今まで通りの衛宮士郎というワケである。
「でも元が中古だしなあ。何人か腕のいい人形師をあたってみたんだけど、今の素体よりいい出物はなかったわ。
あの素体を作ったっていう人にお願いしようともしたけど、その人、封印指定を受けて協会から逃げ出したんだって。見つけるのは骨でしょうね」
「そうですか。けど、先輩は今のままで問題ないって言ってますよ。魔力の通りが悪いだけで、あとは前よりいいぐらいだって。
……その、わたしもそう思います」
ふーん。
どんなにいい素体を使っても結局は魂に塗り替えられるんだから、上手くいかない個所はあれ、性能が向上するコトはないと思うんだけど――――
「―――って、ちょっと待った」
なんで、そこで照れるのよ桜。
「桜?」
「え……えっと、あの、そのですね、わたしもやりすぎかなって思うんですけど、わたしの体が、まだ、その」
「――――あ」
……そうだった。
桜の体、まだアンリマユの後遺症があるんだったっけ。
アンリマユと契約が切れたところで、桜が聖杯である事に変わりはない。
むしろアンリマユと繋がっていた事で、あっち側との接続はまだ生きている。
その膨大な魔力は桜の体に溜まっていて、定期的に吐き出さないと桜の体が保たない。
大聖杯無き今、ライダーを留めておけるのは桜の膨大な魔力量あっての事だ。
で、それでも使い切れない魔力を、勿体無いから士郎に供給しているんだろう。
士郎の今の体は魔術回路が少ないっていうし、確かに、桜の助けがないと以前の状態に逆戻りしてしまうし。
「……はあ。色々と込み入ってるのね、貴女たち」
「はい。前途多難です」
―――まあ、確かに普通に生きる分には問題山積みだけど、魔術師として生きるのなら物凄いアドバンテージなんだけどな、桜の体質は。
「……って。考えてみれば凄いパーティーじゃない、わたしたち」
士郎は第三魔法の成功例、ちゃんと今から修行すれば固有結界を使いこなせるようになるし。
桜は一部とは言え、聖杯としての機能を生かしている。
おまけにライダーなんていう反則付き。
で、わたしは第二魔法の真似事ぐらいならなんとか。
「―――――――――――」
はっきり言って無敵だ。
いっそのこと協会で魔術大会でも開いてほしい。
サクッと優勝するから、そうしたら賞金でもくれないかしら。ドサっと気前良く五千万ぐらい。もちろんポンドで。日本人だからって消費税とかつけないで。
「む」
やばい、ちょっとその気になった。
そうなったらやりたい放題したい放題、幸せいっぱい夢いっぱいだ。
資金にあかして宝石剣を再現して、あんな所とはさっさとおさらばして、この町に戻ってくる。
そうしたら、またこうやって――――
「――――ま、無理か。人間地道が一番だし」
すっぱりと諦めた。
正直、それは暖かすぎると思うのだ。
わたしは今の生活を気に入ってるし、これからの変化を楽しみにしている。
それに、いつまでも遠く離れているワケでもない。
これだけトラブルの要素をもった連中が、こんな片田舎で安穏と生活できるワケがないし。
「姉さん? なんか、いま邪悪な笑みをこぼしてましたけど……」
「え、そう? 勘がいいわね桜」
さて、と座布団から立ち上がる。
のんびりやっている暇はない。
なにしろ七日しかいられないのだ。大事な夕食、一度だって無駄には出来ない。
「士郎、手伝うからコンロ貸して。英国仕込みの腕前、見せてあげる」
なにー、なんて抗議は却下。
わたしは自分でもどうかなー、と思うぐらいニヤニヤと頬を緩ませて、ちゃんと用意されているわたし用のエプロンを装着する。
「さて――――」
腕まくりをして台所へ向かう。
……と、その前に。
この町に帰ってくる時、一番確かめたかったコトを思い出した。
あれから二年。
穏やかに成長した妹に振り返る。
「桜、幸せ?」
「――――はい」
満面の笑顔は、文句のつけようがなかった。
それだけで、帰ってきた価値がある。
そんなワケで、私も幸福を分けてもらって青空を見る。
いつか冬が過ぎて、春になった。
気がつけば外は一面の桜色で、寒かった日の面影はない。
わたしたちは無くなったものと得たものを秤にかけて、帳尻を合わせながらやっていく。
――――さて。
この町で続けられた物語は終わったけれど、わたしたちの物語はこれからだ。
エンドロールは遠い遠い未来の話。
とりあえずは明日も晴れそうだし、休みは始まったばかりだし。
新しい一日、新しい未来を抱えて出かけよう。
頭の中には、のんびり歩くように坂道を下りていくイメージ一つ。
さあ。
それじゃあ今年も、約束の花を見に行こう――――
Heavens Feel TrueEnd
-春に帰る-
(C) TYPE-MOON