Fate/stay night
Unlimited Blade Works GoodEnd sunny day
TYPE-MOON
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)衛宮切嗣《えみやきりつぐ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)間桐|臓硯《ぞうけん》
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―――――気が付けば、焼け野原にいた。
大きな火事が起きたのだろう。
見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。
―――それも、長くは続かない。
夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。
あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。
……その中で、原型を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。
この周辺で、生きているのは自分だけ。
よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。
どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。
生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。
いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。
まわりに転がっている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。
……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより。
もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。
それでも、希望なんて持たなかった。
ここまで生きていた事が不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。
まず助からない。
何をしたって、この赤い世界から出られまい。
幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。
そうして倒れた。
酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能がすでに失われていたのか。
とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。
まわりには黒こげになって、ずいぶん縮んでしまった人たちの姿がある。
暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。
……それならいい。雨がふれば火事も終わる。
最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。
息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。
もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。
――――それが十年前の話だ。
その後、俺は奇跡的に助けられた。
体はそうして生き延びた。
けれど他の部分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまったのだと思う。
両親とか家とか、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。
だから体以外はゼロになった。
要約すれば単純な話だと思う。
つまり、体を生き延びらせた代償に。
心の方が、死んだのだ。
―――――――――夢を見ている。
「――――っ」
はじめての白い光に目を細めた。
まぶしい、と思った。
目を覚まして光が目に入ってきただけだったが、そんな状況に馴れていなかった。
きっと眩しいという事がなんなのか、そもそも解っていなかったのだ。
「ぁ――――え?」
目が慣れてびっくりした。
見たこともない部屋で、見たこともないベッドに寝かされていた。
それには心底驚いたけど、その部屋は白くて、清浄な感じがして安心できた。
「……どこだろ、ここ」
ぼんやりと周りを見る。
部屋は広く、ベッドがいくつも並んでいる。
どのベッドにも人がいて、みんなケガをしているようだった。
ただ、この部屋には不吉な影はない。
ケガをしているみんなは、もう助かった人たちだ。
「――――」
気が抜けて、ぼんやりと視線を泳がす。
――――窓の外。
晴れ渡った青空が、たまらなくキレイだった。
それから何日か経って、ようやく物事が飲み込めた。
ここ数日なにがあったのか問題なく思い出せた。
それでも、この時の自分は生まれたばかりの赤ん坊と変わらなかった。
それは揶揄ではなく、わりと真実に近い。
とにかく、ひどい火事だったのだ。
火事場から助け出されて、気が付いたら病室にいて、両親は消えていて、体中は包帯だらけ。
状況は判らなかったが、自分が独りになったんだ、という事だけは漠然と分かった。
納得するのは早かったと思う。
……その、周りには似たような子供しかいなかったから、受け入れる事しか出来なかっただけなのだが。
―――で、そのあと。
子供心にこれからどうなるのかな、なんて不安に思っていた時に、そいつはひょっこりやってきた。
包帯がとれて自分でご飯が食べられるようになった日に、その男はやってきた。
しわくちゃの背広にボサボサの頭。
病院の先生よりちょっとだけ若そうなそいつは、お父さんというよりお兄さんという感じだった。
「こんにちは。君が士郎くんだね」
白い陽射しにとけ込むような笑顔。
それはたまらなく胡散臭くて、とんでもなく優しい声だったと思う。
「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」
そいつは自分を引き取ってもいい、と言う。
親戚なのか、と訊いてみれば、紛れもなく赤の他人だよ、なんて返答した。
……それは、とにかくうだつのあがらない、頼りなさそうなヤツだった。
けど孤児院とそいつ、どっちも知らないコトに変わりはない。
それなら、とそいつのところに行こうと決めた。
「そうか、良かった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く馴れなくっちゃいけないからね」
そいつは慌ただしく荷物をまとめだす。
その手際は、子供だった自分から見てもいいものじゃなかった。
で、さんざん散らかして荷物をまとめた後。
「おっと、大切なコトを言い忘れた。
うちに来る前に、一つだけ教えなくちゃいけないコトがある」
いいかな、と。
これから何処に行く? なんて気軽さで振り向いて、
「――――うん。
初めに言っておくとね、僕は魔法使いなのだ」
ホントに本気で、仰々しくそいつは言った。
一瞬のコトである。
今にして思うと自分も子供だったのだ。
俺はその、冗談とも本気ともとれない言葉を当たり前のように信じて、
「――――うわ、爺さんすごいな」
目を輝かせて、そんな言葉を返したらしい。
以来、俺はそいつの子供になった。
その時のやりとりなんて、実はよく覚えていない。
ただ事あるごとに、親父はその思い出を口にしていた。
照れた素振りで何度も何度も繰り返した。
だから父親―――衛宮切嗣《えみやきりつぐ》という人間にとって、そんなコトが、人生で一番嬉しかった事なのかも知れなかった。
……で。
事故で両親と家を失った子供に、自分は魔法使いなんだ、なんて言葉を投げかけた切嗣《オヤジ》も切嗣《オヤジ》だけど、
それが羨ましくって目を輝かせた俺も俺だと思う。
そうして俺は親父の養子になって、衛宮の名字を貰った。
衛宮士郎《えみやしろう》。
そう自分の名前を口にした時、切嗣と同じ名字だという事が、たまらなく誇らしかった。
………夢を見ている。
幼い頃の話。
ちょうど親父を言い負かして弟子にしてもらった頃だから、今から八年ぐらい前だろう。
俺が一人で留守番できるようになると、切嗣は頻繁に家を空けるようになった。
切嗣はいつもの調子で「今日から世界中を冒険するのだ」なんて子供みたいな事を言い、本当に実行しだしたのだ。
それからはずっとその調子だった。
一ヶ月いないなんてコトはザラで、酷い時は半年に一度しか帰ってこなかったコトもある。
衛宮の家は広い武家屋敷で、住んでいたのは自分と切嗣だけだ。
子供だった自分には衛宮の屋敷は広すぎて、途方にくれた事もある。
それでも、その生活が好きだった。
旅に出ては帰ってきて、子供のように自慢話をする衛宮切嗣。
その話を楽しみに待っていた、彼と同じ苗字の子供。
いつも屋敷で一人きりだったが、そんな寂しさは切嗣の土産話で帳消しだった。
―――いつまでも少年のように夢を追っていた父親。
呆れていたけど、その姿はずっと眩しかったのだ。
だから自分も、いつかはそうなりたいと願ったのかもしれない。
………まあついでに言うと。
あんまりにも夢見がちな父親に、こりゃあ自分がしっかりしなくちゃいけないな、なんて、子供心に思った訳だが――――
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1月31日     1 One day T
……音がした。
古い、たてつけが悪くて蝶|番《つがい》も錆びて無闇に重い、扉が開く音がした。
暗かった土蔵に光が差し込んでくる。
「――――っ」
眠りから目覚めようとする意識が、
「先輩、起きてますか?」
近づいてくる足音と、冬の外気を感じ取った。
[#挿絵(img/105.JPG)入る]
「……ん。おはよう、桜」
「はい。おはようございます、先輩」
こんな事には馴れているのか、桜はおかしそうに笑って頷く。
「先輩、朝ですよ。まだ時間はありますけど、ここで眠っていたら藤村先生に怒られます」
「と……そうだな。よく起こしに来てくれた。いつもすまない」
「そんな事ありません。先輩、いつも朝は早いですから。
こんなふうに起こしに来れるなんて、たまにしかありません」
……?
何が嬉しいのか、桜はいつもより元気がある。
「……そうかな。けっこう桜には起こされてるぞ、俺。
けど藤ねえにはたたき起こされるから、桜の方が助かる。……うん、これに懲りずに次は頑張る」
……寝起きの頭で返答する。
あんまり頭を使っていないもんで、自分でも何を言っているか判らなかった。
「はい、わかりました。でも頑張ってもらわない方が嬉しいです、わたし」
桜はクスクスと笑っている。
……いけない。まだ寝ぼけていて、マトモな台詞を口にしなかったようだ。
「―――ちょっと待ってくれ。すぐ起きるから」
深呼吸をして頭を切り換える。
冬の冷たい空気は、こういう時に役に立つ。
寒気は寝不足で呆っとした思考を、容赦なくたたき起こしてくれた。
……目の前には後輩である間桐桜《まとうさくら》がいる。
ここは家の土蔵で、時刻は午前六時になったばかり、というところ。
「……先輩?」
「ああ、目が覚めた。ごめんな桜、またやっちまった。朝の支度、手伝わないといけないのに」
「そんなのいいんです。先輩、昨夜も遅かったんでしょう? なら朝はゆっくりしてください。朝食の支度はわたしがしておきますから」
弾むような声で桜は言う。
……珍しい。本当に、今朝の桜は元気があって嬉しそうだ。
「ばか、そういう訳にいくか。今起きるから、一緒にキッチンに行こう」
「よし、準備完了。それじゃ行こう、桜」
「あ……いえ、その、先輩」
「? なんだよ、他に何かあるのか」
「いえ、そういうコトではないんですけど……その、先輩。家に戻る前に着替えた方がいいと思います」
「――――あ」
言われて、自分の格好を見下ろした。
昨日は作業中に眠ったもんだから、体はツナギのままだった。
作業着であるツナギは所々汚れている。こんな格好のまま家に入ったら、それこそ藤ねえになんて言われるか。
「う……まだ目が覚めてないみたいだ。なんか普段にまして抜けてるな、俺」
「ええ、そうかもしれませんね。ですから朝食の支度はわたしに任せて、先輩はもう少しゆっくりしていてください。それにほら、ここを散らかしっぱなしにしていたら藤村先生に怒られるでしょう?」
「……そうだな。それじゃ着替えてから行くから、桜は先に戻っていてくれ」
「はい。お待ちしてますね、先輩」
桜は早足で立ち去っていった。
さて。
まずは制服に着替えて、散乱している部品を集めなくては。
この土蔵は庭の隅に建てられた、見ての通り、ガラクタを押し込んでいる倉庫である。
といっても、子供の頃から物いじりが好きだった自分にとって、ここは宝の倉そのものだ。
親父は土蔵に入る事を禁じていたが、俺は言いつけを破って毎日のように忍び込み、結果として自分の基地にしてしまった。
俺―――衛宮士郎にとっては、この場所こそが自分の部屋と言えるかもしれない。
だだっ広い衛宮の屋敷は性に合わないし、なにより、こういうガラクタに囲まれた空間はひどく落ち着く。
「……そもそも勿体ないじゃないか。ガラクタって言ってもまだ使えるし」
土蔵に仕舞われたモノは、大半が使えなくなった日用品だ。
この場所が気に入ったからガラクタを持ち込んだのか、ガラクタが山ほどあるからここが気に入ったのか。
ともかく毎日のように土蔵に忍び込んでいた俺は、ここにあるような故障品の修理が趣味になった。
特別、物に愛着を持つ性格ではない。
ただ使える物を使わないのが納得いかないというか、気になってしまうだけだと思う。
そんなこんなで、昨夜は一晩中壊れたストーブを修理していた。
「……完成は明日か。途中で寝るなんて、集中力が足りない証拠だ」
軽い自己嫌悪を振り払う。
とりあえずストーブの部品を集めて、修理待ち用の棚にしまった。
修理待ち用の棚に空きはない。このストーブを直したら、次は時代遅れのビデオデッキが待っている。
……そのどちらも藤ねえによって破壊された、という事実はこの際無視する事にしよう。
「……よっと」
作業着から制服に着替える。
土蔵は自分の部屋みたいなものなので、着替えも生活用具も揃っていた。
あとはそう、所々に打て捨てられた書き殴りの設計図と、修練の失敗作ともいえるガラクタが大半だ。
もともとは何かの祭壇だったのか、土蔵の床には何やら紋様が刻まれていたりもする。
「―――さて。今日も一日、頑張って精進しよう」
ぱん、と土蔵に手を合わせ、屋敷へと足を向けた。
土蔵から屋敷に向かう。
この衛宮邸は、町外れにある武家屋敷だ。
切嗣《オヤジ》は町の名士だった訳でもないのに、こんな広い家を持っていやがった。
それだけでも謎だっていうのに、衛宮切嗣には日本に親戚がいないらしい。
だから親父が死んだ後、この広い屋敷は誰に譲られる事もなく、なし崩し的に養子である自分の物になってしまった。
だがまあ、実際の話、俺にそんな管理能力はない。
相続税とか資産税だとか、そういった難しい話は全て藤村の爺さんが受け持ってくれている。
藤村の爺さんは近所に住んでいる大地主だ。
切嗣《オヤジ》曰く、“極道の親分みたいなじじい”。
無論偏見だ。
藤村の爺さんは極道の親分みたいな人ではなく、ずばり極道の親分なんだから。
「…………」
それはそれで多大に問題があるが、あえて追求しない方針でいきたい。
それに藤村の爺さんは怖い人っていうか、元気な人である事は間違いないのだが、悪い人ではなかったりする。
爺さんが趣味で乗り回しているバイクをチューンナップすると、とんでもない額の小遣いをくれるので助かるし。
ともかく、そんな訳でこの広い屋敷に住んでいるのは自分だけだ。
切嗣《オヤジ》が死んでからもう五年。
月日が経つのは本当に早い。
その五年の間、自分がどれだけ成長できたのか考えるとため息が出る。
切嗣のようになるのだと日々修練してきたけど、現実はうまくいかない。
初めから素質がなかったから当然と言えば当然なのだが、それでも五年間まったく進歩がない、というのは考え物だろう。
現状を一言でいえば、理想だけが高すぎてスタート地点にさえ立てていない、といったところ。
「―――――――」
いや、焦ってもいい事はないか。
とりあえず、今は出来る事を確実にこなしていくだけだ。
さて。
とりあえず、今やるべき事といったら――――いつもの日課を済ませてしまおう。
衛宮邸には立派な道場がある。
家を建てる時、ついでだからと建てられたものだ。
道楽以外の何物でもない。
そんな訳だから、この道場は目的があって作られた物ではない。
「――――さて」
朝食の前に軽く体を動かしておこう。
別に武術をやっているワケではないのだが、
『僕の真似事をするんなら、まず身体を頑丈にしとかないと』
なんて切嗣《オヤジ》に言われて以来、こうして体を鍛えるのが日課になったのだ。
「……九十九っ、百、と……」
定番の腹筋運動を切り上げて、道着から制服に着替える。
今朝は寝坊したんで、気持ち分だけ体を動かす時間を少なくした。
柔軟を省略して、腹筋だけ切りのいい回数までこなせば充分だ。
自分はそう筋肉が付いてくれる骨格じゃないし、いくら体が資本といっても、殴り合いをしたいワケじゃない。
身体能力は突然の事故に対応できる程度、自分の無茶がイメージ通りに実現できるだけで充分だ。
そもそも自分のなりたいモノは、スポーツマンとは正反対なモノのワケだし。
「……と、もうこんな時間か」
汗を吸った道着を洗濯籠に入れる。
時刻は六時二十分。
朝が早い衛宮邸では、この時間帯でもやや遅い朝食になってしまう。
朝食の支度は完全に整っていた。
桜らしい、上品な朝餉《あさげ》の匂いが食卓から伝わってくる。
「お疲れさまでした。こっちも朝食の支度、終わりましたよ」
「ん、サンキュ。……すまん、俺が寝過ごした分、桜に無理させちまって」
「そんな、ぜんぜん無理なんかじゃないですよー。それに寝坊なんかじゃありません。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」
「部活は関係ないよ。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのって、凄い早起きじゃないか」
「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」
「ん、それは何度も聞いた。
……まあ、だから俺も部活に関係なく早起きしたいんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」
自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。
もっとも、それも一年半前からの習慣にすぎないのだが。
「ふふ。先輩、そういうところこだわりますよね。美綴《みつづり》先輩、衛宮は粗雑なクセに律儀すぎてうるさいってよく言ってます」
思い出すように微笑む桜。
美綴というのは桜が所属する弓道部の女主将で、なにかと因縁のある女生徒だったりする。
「…む。美綴《あいつ》、まだ俺への文句を桜にこぼしてんのか?」
「はい。先輩が卒業するまでになんとしても射でうならせてやるって、毎日がんばってます」
「……はあ。今じゃ美綴《あいつ》のが段位高いだろうに。アレかな、思い出は無敵ってヤツかな。美化されてるのは悪い気分じゃないけど、それも人によりけりって言うか」
「美綴先輩、すっごく負けず嫌いですから。きっと心の中で先輩をライバルみたいに思ってますよ」
言いつつ、桜はお茶碗にごはんを盛っていく。
時刻は六時半になろうとしている。
弓道部の朝練は七時からだ。
自主参加制とはいえ、あまりのんびりしてはいられない。
「藤ねえ……はそろそろか。ま、この時間に来ない方が悪いんだし。桜、先に食べていよう」
「そうですね。はい、どうぞ先輩」
にっこりと笑ってお茶碗を差し出してくる桜。
「――――――――、っ」
……と。
毎朝慣れているコトなのに、つい、その白い指に目を奪われた。
「――――っ」
……なんていうか、困る。
成長期なのか、ここ最近の桜は妙に色っぽい。
なにげない仕草がキレイに見えて、息を呑むコトが多くなった。
今まで桜に異性を感じていなかった反動か、余計に女性らしさを意識してしまうのだろうが―――
「先輩? どうかしましたか?」
「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」
「?」
……ほんと、まいる。
友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。
桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。
そもそも、間桐桜と自分の関係はあくまで先輩と後輩にすぎない。
桜は友人の妹だが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。
それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。
確か俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのままこんな感じになってしまった気がする。
俺のケガが治るまで、とお互い決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。
ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。
こうして朝も早くから手伝いにきてくれてとても助かるんだが、最近はちょっと微妙だ。
問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。
「――――」
素直に言えば、桜は美人だ。
一年生の中じゃダントツだし、付き合いたいってチェックしている連中も多いだろう。
とくに最近は出るところも出てきて、なんでもない仕草にハッとさせられる事も多い。
つまり、微妙な問題とはそういう事だ。
……友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。
普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……?
◇◇◇
テーブルに朝食が並んでいく。
鶏ささみと三つ葉のサラダ、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたし、大根とにんじんのみそ汁、ついでにとろろ汁まで完備、という文句なしの献立だ。
「いただきます」
「いただきます」
桜と二人、きちんと座っておじぎをして、静かに食事を始める。
カチャカチャと箸の音だけが響く。
基本的に桜はお喋りではないし、こっちもメシ時に話をするほど多芸じゃない。
自然、食事時は静かになる。
普段はもうちょっと喧《やかま》しいのだが、今朝に限ってその喧しい人は、
昨夜スパイ映画でも見たのか、新聞紙で顔を隠しながら、俺たちの様子を窺っていた。
「藤村先生、ご飯時に新聞は見ない方がいいと思いますよ?」
「…………………」
遠慮がちに話しかける桜を無視する藤ねえ。
あまりにも怪しいが、朝の食卓で藤ねえが挙動不審なのはいつものコトだ。
桜も馴れているのか、とりわけ気にした風もなくご飯を食べている。
桜は、どちらかというと洋風の食事を作る。
和風の料理を覚えたのはうちに手伝いに来てからだ。
俺と藤ねえがとことん和風な舌だったから、桜もせめて朝ぐらいは、と軽い和風料理を覚えてくれたのだ。
今では師匠である俺を上回るほど桜の腕前は上がっている。
とくに鮭の照り焼きの焼き加減は神域に入っているっぽい。
みそ汁の味も上品だし、最近では山芋を擦ってとろろ汁を作るまでの余裕を見せている。
というか、とろろ汁は今日が初出ではなかろうか。
「わるい。桜、醤油とって」
「はい―――って、大変です先輩。先輩のお醤油は昨日で切れてます」
「んじゃ藤ねえのでいいや。とって」
「藤村先生、いいですか?」
ん、と頷く藤ねえ。
ガサリ、と新聞紙が揺れる。
「はいどうぞ。とろろ汁に使うんですか?」
「ああ。とろろには醤油だろ、普通」
つー、と白いとろろに醤油をかける。
ぐりぐりとかき回した後、ごはんにかけて一口。
うむ、このすり下ろされた山芋の粘つき加減と、自己主張の激し過ぎる強烈な醤油の辛さがまた――――
「ごぶっ……! うわまず、これソースだぞソース! しかもオイスター!」
たまらずごはんを戻しかける。
そこへ。
「くく、あはははははは!」
ばさり、と勢いよく新聞紙を投げ捨てる藤ねえ。
「どうだ、朝のうちにソースとお醤油のラベルを取り替えておく作戦なのだー!」
わーい、と手をあげて喜ぶ謎の女スパイ。
「あ、朝っぱらから何考えてんだアンタはっ! 今年で二十五のクセにいつまでたっても藤ねえは藤ねえだな!」
「ふふーんだ、昨日の恨み思い知ったかっ。
みんなと一緒になってお姉ちゃんをいじめるヤツには、当然の天罰ってところかしら?」
「天罰ってのは人為的なモンじゃないだろ! なんか大人しいと思ったら昨日からこんなコト考えてやがったのか、この暇人っ!」
「そうだよー。おかげでこれから急いでテストの採点しなくちゃいけないんだから。うん、そーゆーワケで急がないとヤバイのだ」
しゅた、と座り直すなり、ガババー、と凄い勢いで朝食を平らげる藤ねえ。
「はい、ごちそうさま。朝ごはん、今日もおいしかったよ桜ちゃん」
「ぁ……はい。おそまつさまでした、先生」
「それじゃあ先に行くわね。二人とも、遅刻したら怒るわよー」
んでもって、だだだだだー、と走り去っていく。
……アレでうちの学校の教師だっていうんだから、世の中ほんと間違っている。
「……あの、先輩?」
「すまない。せっかくの朝食だっていうのに、藤ねえのヤツろくに味わいもしないで」
「いえ、そういうのではなくて……あの、昨日藤村先生に何かしたんですか? 食べ物に細工するなんて、藤村先生にしてはやりすぎですから」
「ん……いや、それがさ。昨日、ついアダ名で呼んじまった」
「それじゃあ仕方ありませんね。先輩、藤村先生に謝らなかったんでしょう?」
「面目ない。いつものコトなんで忘れてた」
「だめですよ。藤村先生、先輩にあだ名を言われるのだけは嫌がるんですから。また泣かせちゃったんでしょう」
「……泣かした上に脱兎の如く走り去らせた。おかげで昨日の英語は自習だった」
そして俺はみんなからルーズリーフで作られた学生名誉賞を受賞したが、そんなものは当然ゴミ箱に捨てた。
「もう。それじゃ今朝のは先輩が悪いです」
桜にとっても藤ねえは姉貴みたいなもんだから、基本的に藤ねえの味方なのだ。
それはそれで嬉しいのだが、藤ねえの相手を四六時中しているこっちの身にもなってほしい。
もともと藤ねえは切嗣《オヤジ》の知り合いで、俺が養子に貰われた頃からこの家に入り浸っていた人だ。
親父が他界してからも頻繁に顔を出すようになって、今では朝飯と晩飯をうちで食べていく、という見事なまでの居候ぶりを示している。
―――いや。
そんな藤ねえがいたから、親父が死んでからも一人でやってこれたのかもしれない。
今では俺と藤ねえと桜、この三人が衛宮家の住人だった。
……とは言っても、親父が魔術師だったのを知っているのは俺だけだ。
曰く、魔術師はその正体を隠すもの。
だから親父に弟子入りした俺も、魔術を学んでいる事は隠している。
ただ、学んでいると言っても満足な魔術《モノ》は何一つも使えない半人前だ。
そんな俺が魔術を隠そうが隠すまいが大差はないだろうが、一応遺言でもあるし、こうして隠しながら日々鍛練を続けてきた訳である。
朝食を済ませて、登校の支度をする。
テレビから流れるニュースを聞きながら、桜と一緒に食器を片づける。
「―――」
桜はぼんやりとテレビを眺めていた。
画面には“ガス漏れ事故、連続”と大げさなテロップが打ち出されている。
隣町である新都《しんと》で大きな事故が起きたようだ。
現場はオフィス街のビルで、フロアにいた人間が全員酸欠になり、意識不明の重体に陥ってしまったらしい。
ガス漏れによる事故とされているが、同じような事故がここのところ頻発している。
「今のニュース、気になるのか桜」
「え――いえ、別に。ただ事故が新都で起きているなら近いなあって。……先輩、新都の方でアルバイトしてますよね?」
「してるけど、別にそんな大きな店じゃないよ。今のニュースみたいな事故は起きないと思う」
……とは言っても、あまり他人事ではない事件だった。
ガス漏れならどんな建物でも起きるものだし、なにより数百人もの人間が被害にあっている、というのは胸に痛い。
同じような事故が頻発しているのは、新都を急開発した時に欠陥工事をしたからだ、なんて話もあがっているとか。
真偽はどうであれ、これ以上の犠牲者は出てほしくないというのが正直な気持ちだが―――
「……物騒な話だ。俺たちも気をつけないと」
「あ、それならご心配なく先輩。ガスの元栓はいつも二回チェックしてますから安心です」
えっへん、と胸をはる桜。
「いや、そういう話でなくて」
……うん。前から思っていたけど、桜も微妙にズレてるな。
「先輩、裏手の戸締まりはしました?」
「したよ。閂かけたけど、問題あるか?」
「ありません。それじゃあ鍵、かけますね。先輩、今日のお帰りは何時ですか?」
「少し遅くなると思う。桜は?」
「わたしはいつも通りです。たぶんわたしの方が早いと思いますから、夕食の下準備は済ませておきますね」
「……ん、助かる。俺も出来るだけ早く帰るよ」
がちゃり、と門に鍵をかける。
桜と藤ねえはうちの合い鍵を持っていて、戸締りは最後に出る人間がする決まりだ。
「行こうか。急がないと朝練に間に合わない」
「はい。それじゃ少しだけ急ぎましょうか、先輩」
桜と一緒に町へ歩き出す。
長い塀を抜けて下り坂に出れば、あとは人気《ひとけ》の多い住宅地に出るだけだ。
衛宮の家は坂の上にあって、町の中心地とは離れている。
こうして坂を下りていけば住宅地に出て、さらに下りていくと、
町の中心地である交差点に出る。
ここから隣町に通じる大橋、
柳洞寺に続く坂道、
うちとは反対側にある住宅地、
いつも桜と自分がお世話になってる商店街、
最後にこれから向かう学校と、様々な分岐がある。
寄り道をせず学校へ向かう。
とりわけ会話もなく桜と坂道を上っていく。
まだ七時になったばかり、という事で通学路に人気はない。
自分たちの他には、朝の部活動をする生徒たちがのんびりと歩いているぐらいだった。
「それじゃまたな。部活、がんばれよ」
校門で桜と別れるのもいつも通り。
桜は弓道部に所属しているので、朝はここで別れる事になる。
「………………」
というのに。
今朝にかぎって、桜は弓道場へ向かおうとはしなかった。
「桜? 体の調子、悪いのか」
「……いえ、そういう事じゃなくて……その、先輩。たまには道場の方に寄っていきませんか?」
「いや、別に道場に用はないぞ。それに今日は一成《いっせい》に頼まれてるから、生徒会室に行かないとまずい」
「……そ、そうですよね。ごめんなさい、余計なことを言っちゃって」
ぺこり、と頭をさげる桜。
「?」
「それじゃあ失礼します。晩ご飯、楽しみにしていてくださいね」
桜は申し訳なさそうに道場へ走り去っていった。
「……?」
はて。今のは一体どんな意味があったんだろう……?
◇◇◇
「一成《いっせい》、いるか?」
「いるぞ。今朝は少し遅かったな、衛宮」
予習でもしていたのか、ペーパーらしきものに目を通していた男子生徒が顔をあげる。
「一成だけか。他の連中はどうしたんだ。この時間なら登校しててもおかしくないだろ」
「いや、生憎とうちのメンバーはビジネスライクでね。働く時間帯はきっかり決まっていて、早出と残業はしたくないのだそうだ」
「それで生徒会長自らが雑用か。ここはここで大変そうだな」
「なに、好きでしている苦労だ。衛宮《えみや》に同情してもらうのは筋が違う」
「? いや、一成に同情なんてしてないぞ?」
「うむ、それはそれで無念だが聞き流すとしよう。情が移っているという事では同じだからな」
トントン、と読んでいたペーパーを整える一成は、この生徒会室の大ボスだ。
緩みきっている生徒会を根本から改革しようと躍起になっているヤツで、自分とは一年の頃からの友人である。
フルネームを柳洞一成《りゅうどういっせい》。
古くさい名前とは裏腹に優雅な顔立ちをしていて、実際女生徒に絶大な人気がある。
しかも生徒会長だっていうんだから、まさに鬼に金棒、虎に翼といったところなのだが、
「うむ、やはり朝は舌がしびれる程の熱湯がよい」
なんて言いながら番茶をすすっているもんだから、いまいち締まらない。
この通り、一成はとことん地味な性格だ。
誤解されやすいのだが、本人は色恋沙汰には手を出さないし、学生らしい遊びもしない。
なにしろコイツはお山にある柳洞寺《りゅうどうじ》の跡取り息子だ。
本人も寺を継ぐのを良しとしているので、卒業したら潔く丸坊主にする可能性も大である。
「それで。今日は何をするんだ」
「ん? ああ、まあともかく座って一服―――と言いたいのだが時間がないな。移動がてら説明をする故、いつもの道具を持って付いてきてくれ」
「率直に言うとな。うちの学校、金のバランスが極端なんだよ」
「知ってる。運動系が贔屓《ひいき》されてるもんで、他に予算がいかないんだろ」
「うむ。結果、文化系の部員はたえず不遇の扱いでな。
今年から文化系に予算がいくよう尽力しているのだが、予算の流れが不鮮明でうまく回っていない。おかげで未だ文化系の部室は不遇でな。
とくに冬のストーブ不足に関しては打開策がまるでない」
「そうか。―――あ、マイナスドライバーくれ。一番おっきいヤツな。あと導線も。……うん、これぐらいならなんとか」
「導線? ……えっと、これか? すまん、よく判らん。間違っていたら叱ってくれ」
「あたってるからいいよ。で、ストーブ不足がどうしたって? ここ以外にも故障してんのがあんのか」
「ある。第二視聴覚室と美術部の暖房器具が怪しいそうだ。新品購入願いの嘆願書が刻一刻と増えている」
「けど予算にそんな余裕はない、と。……やっぱり劣化してるだけだな。中がイカレてなくて助かった」
「……ふむ。直りそうか、衛宮?」
「直るよ。こういう時、古いヤツは判りやすくていい。配線系のショートだから新しいのに代えれば、とりあえず今年いっぱいは頑張ってくれる」
「そうか! やるな衛宮、おまえが頼りになると極めて嬉しいぞ」
「おかしな日本語使うね、一成。
……っと、もう少しで済むから、ちょっと外に出ててくれ」
「うむ、衛宮の邪魔はせん」
静かに教室から出ていく一成。
……どうも、ここから先はデリケートな作業だと勘違いしたみたいだ。
「……いや、デリケートと言えばデリケートなんだけど……」
古びた電気ストーブに手を触れる。
普通、いくらこの手の修理に馴れているからって、見た程度で故障箇所は判断しにくい。
それが判るという事は、俺のやっている事は普通じゃないってことだ。
視覚を閉じて、触覚でストーブの中身を視る。
―――途端。
頭の中に沸き上がってくる一つのイメージ。
「……電熱線が断線しかかってるのが二つと……電熱管はまだ保つな……電源コードの方は絶縁テープでなんとかなる……」
……良かった、手持ちの工具だけで修理できる破損内容だ。
電熱管がイカレていたら素人の手には負えない。
その時は素人じゃない方法で“強化”しなくてはいけなかったが、これなら内部を視るだけで十分だ。
それが切嗣に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。
「――――よし、始めるか」
カバーを外して内部線の修理に取りかかる。
破損箇所はもう判っているんだから、あとの作業は簡単だ。
「……はあ。これだけは得意なんだけどな、俺」
そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。
その代わりといってはなんだが、物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに巧いと思う。
実際、設計図を連想して再現した時なんて、親父は目を丸くして驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。
俺の得意分野は、あまり意味のある才能ではないそうだ。
親父曰く、物の構造を視覚で捉えている時点で無駄が多い。
本来の魔術師なら、先ほどのようにわざわざ隅々まで構造を把握する、なんていう必要はない。
物事の核である中心を即座に読みとり、誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと言う。
だから設計図なんてものを読みとるのは無駄な手間だし、読みとったところで出来る事といったら魔力の通りやすい箇所が判る程度の話。
そんなこんなで、自分のもっとも得意な分野はこういった故障品の修理だったりする訳だ。
なにしろ解体して患部を探し出す必要がない。
すみやかに故障箇所を探し出せるなら、あとは直す技術を持っていれば大抵の物は直せるだろう。
ま、それもこういった『ちょっとした素人知識』で直せてしまうガラクタに限るのだが。
「―――よし終わり。次に行くか」
使った導線をしまって、ドライバーとスパナを手にして廊下に出る。
「一成、修理終わったぞ」
――――と。
廊下には、一成の他にもう一人、女生徒の姿があった。
「――――」
少しだけ驚いた。
一成と話していたのは2年A組の遠坂凛《とおさかりん》だ。
坂の上にある一際大きな洋館に住んでいるというお嬢様で、これでもかっていうぐらいの優等生。
美人で成績優秀、運動神経も抜群で欠点知らず。
性格は理知的で礼儀正しく、美人だという事を鼻にかけない、まさに男の理想みたいなヤツなんだとか。
そんなヤツだから、言うまでもなく男子生徒にとってはアイドル扱いだ。
ただ遠坂の場合、あまりにも出来すぎていて高嶺の花になっている。
遠坂と話が出来るのは一成と先生たちぐらいなもの、というのが男どもの通説だ。
……まあ、正直に言えば、俺だって男だし。
ご多分に漏れず、衛宮士郎も遠坂凛に憧れている男子生徒の一人である。
「……………」
遠坂は不機嫌そうに俺たちを見ている。
一成と遠坂の仲が悪い、というのはどうやら本当らしい。
「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、衛宮に任せきりにしてしまった。許せ」
おお。
あの遠坂をまるっきり無視して話し始めるあたり、一成は大物だ。
「そんなコト気にするな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」
「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」
「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」
「……そうなんだが、一応見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」
「そうか。なら試そう」
朝のホームルームまであと三十分ほどしかない。
直すのなら急がないと間に合わないだろう。
一成に促されて視聴覚室に向かう。
ただ、顔を合わせたのにまるっきり無視する、というのは失礼だ。
ぼう、と立ったままの遠坂に振り返る。
「朝早いんだな、遠坂」
素直な感想を口にして、一成の後に付いていった。
◇◇◇
「ギリギリ間にあったか。すまんな衛宮、また苦労をかけた。頼み事をした上に遅刻させては友人失格だ」
「別に気にするな。俺が遅刻する分には大した事じゃないだろ。まあ、一成が遅刻するのは問題だけど」
「もっともだ。いや、間に合ってよかった」
一成はほう、と胸を撫でおろして自分の席に向かう。
時刻は八時ジャスト。
ホームルーム開始前の予鈴が鳴ったから、あと五分もすれば藤ねえがやってくる。
「―――ふう」
視聴覚室から走ってきたんで、少し息があがっている。
軽く深呼吸をしてから自分の席に向かう。
「朝から騒がしいね衛宮。部活を辞めてから何をしてるかと思えば柳洞《りゅうどう》の太鼓持ち? 僕には関係ないけどさ、うちの評判を落とすような事はしないでよね。君、なんていうか節操ないからさ」
と。
席の前には、中学時代からの友人である間桐慎二《まとうしんじ》が立っていた。
間桐、という姓で判る通り、桜の一つ上の兄貴である。
「よ。弓道部は落ち着いてるか、慎二」
「と、当然だろう……! 部外者に話してもしょうがないけど、目立ちたがり屋が一人減ったんで平和になったんだ。次の大会だっていいところまで行くさ!」
「そうか。美綴も頑張ってるんだな」
「はあ? なに見当違いなコト言ってんの? 弓道部が記録を伸ばしてるのは僕がいるからに決まってるじゃんか。衛宮さ、とっくに部外者なんだから、知ったような口をたたくと恥をかくよ?」
「そうか、気をつけよう。もっとも弓道部に用はないから関わるコトはないけどな」
鞄を机に置いて椅子を引く。
「なにそれ。僕の弓道部には興味がないってコト?」
「興味じゃなくて用だよ。部外者なんだからおいそれと道場に行くの、ヘンだろ。
けど何かあったら言ってくれ。手伝える事があったら手伝う。弦張りとか弓の直し、慎二は苦手だったろ」
「そう、サンキュ。何か雑用があったら声をかけるよ。ま、そんなコトはないだろうけどさ」
「ああ、それがいい。雑用を残しているようなヤツは主将失格だからな。あんまり藤村先生を困らせるなよ。あの人、怒ると本気で怖いぞ」
「っ……! ふん、余計なお世話だ。ともかく、おまえはもう部外者なんだから道場に近づくなよ!」
慎二はいつもの調子で自分の席に戻っていく。
……はて。今日はとくにカリカリしてたな、あいつ。
「ふざけたヤツだ。自分から衛宮を追い出しておいて、よくもあんな口がきける」
「なんだ一成、居たのか」
「なんだとはなんだ! 気を利かして聞き耳を立てていた友人に向かって、なんと冷淡な男だオマエは!」
「? なんで気を利かすのさ。俺、一成に心配されるような事してないぞ」
「たわけ、心配もするわ。衛宮はカッとなりやすいからな。慎二に殴りかかれば皆は喝采を送るが、女どもからは非難の嵐だ。友人をそんな微妙な立場に置くのはよろしくない」
「そっか。うん、言われてみればそうだ。ありがとう一成。そんなコトにはならないだろうけど、今の心配はありがたい」
「うむ、分かればよろしい。……だが意外だったぞ。衛宮は怒りやすいクセに、間桐には寛大なんだな」
「ああ、アレは慎二の味だからな。つきあいが長いと馴れてくる」
「ふむ、そんな物か」
「そんな物です。ほら、納得したら席に戻れよ。そろそろ藤村先生がスッ飛んでくるぞ」
「ははは。あの方は飛んでくるというより浮いてくるという感じだがな」
ホームルーム開始の鐘が鳴る。
通常、クラス担任は五分前に来るものだが、このクラスの担任はそういう人ではない。
2年C組にとってホームルームの開始は今のベルから一分ほど経過したあと、つまり
「遅刻、遅刻、遅刻、遅刻〜〜〜!」
なんて叫びながら、ダダダダダー、と突進してくる藤ねえを迎え入れる所から始まるのだ。
「よし間に合ったーあ! みんな、おは――――」
ぎごん、と。
生物的にヤバイ音をたてて、藤ねえはスッ転んだ。
「――――――――」
さっきまでの慌ただしさから一転、教室はなんともいえない静寂に包まれる。
この唐突なまでの場面転換。
さすが藤ねえ、人間ジェットコースターの名は伊達じゃない。
……にしても、今のはシャレにならない角度だった。
藤ねえは教壇に頭をぶつけたまま倒れている。
俯せになって顔が見えないところがまた、否応無しに嫌な想像をかき立てる。
「……おい、前の席のヤツ、先生起こしてやれよ」
「……えー、やだよー……近づいた途端、パクッって食べられたら怖いもん……」
「……ミミックじゃあるまいし、さすがに藤村でもそこまでやらねえだろ」
「アンタね、そういうんなら自分で起こしてあげなさいよ」
「うわ、俺パス。こういうの苦手」
「あたしだって苦手よ! だいたいなんで女の子にやらせるわけ!? 男子やりなさいよね、男子!」
最前列はなにやら荒れ始めている。
席が真ん中あたりにある我々としては、いまいち藤ねえがどんな惨状になっているか判らない。
判らないんで、みんなで席を立ってのぞき込む。
「ちょっと、先生動いてないぞ。気絶してんじゃないのか」
もっともな意見を誰かが言った。
ただ問題は、その場合どうやって藤ねえを保健室まで連れて行くかだ。
みんなも、ここ一年藤ねえとつき合ってきた猛者たちだ。
いい加減、担任を保健室に連れて行く、なんて慣習は打破したいと思っているのではなかろうか。
「ふじむらセンセー……? あのー、大丈夫ですかー?」
勇気ある女生徒が声をかける。
藤ねえはピクリとも動かない。
動揺はますます広がっていく。
「……まずいって今の転び方。こう頭から直角に教壇に突っ込んだじゃないか。アレで無傷だったら藤村無敵っぽいって」
「んー、いっそのこと野球部にスカウトするのはどうだろう」
「や、やめろよなそういう脅しは……! タイガーが顧問になった日にゃ、オレたち甲子園いっちまうぞ!?」
「藤村センセ、藤村センセー……! だめ、なんか反応ないよぅ……!」
「おい、おまえ目の前なんだから起こしてやれよ」
「ええ!? イヤだよオレ、もし死んでたら殺されかねねえ!」
「でもぉ、だからってほっといたら後が怖いと思うしぃ」
「でも誰も近づきたくない、と」
「……仕方ねえなあ。こうなったらアレしかないか」
「うん、アレだね」
「せーのっ」
みんなの心が一つになる。
……ああ、例外として俺と慎二だけは、そんな恐ろしいコトはできないので黙っていた。
「せーのっ、起きろー、タイガー」
全員が声を合わせたわりには、呟くような大きさだった。
とくに『タイガー』の発音は聞こえないぐらい小さい。
だというのに。
……ぴくっ。
と、沈黙していた藤ねえの体が反応する。
「うお、動いた!? 効き目ありだぞみんな!」
「よし続けろ! ガコロウトンの計じゃ!」
期末試験が迫ってきているんで、みんなてんぱっていたんだろう。
よせばいいのに、ブンブンと腕を振り回して藤ねえのあだ名を連呼する。
「起きろータイガー。朝だぞー」
「先生、起きないとタイガーです!」
「負けるなタイガー! 立ち上がれタイガー!」
「よーし、起きろ先生! それでこそタイガーだぜ!」
「ターイーガー! ターイーガー!」
「がぁ―――!
タイガーって言うな―――っ!」
轟雷一閃。
あれほどの打撃をうけてノーダメージだったのか、雄々しく大地に立つ藤ねえ。
「……あれ? みんな何してるの? だめよ、ホームルーム中に席を立っちゃ。ほらほら、始めるから座りなさい」
藤ねえはいつもの調子で教壇に立つ。
……どうも、教室に飛び込んできてから立ち上がるまでの記憶が、ポッカリ抜け落ちているようだ。
「……おい、タイガー覚えてないみたいだぞ」
「……ラッキー、朝からついてるな、俺たち」
「……いや、ついてるっていうのかな、こういうの……」
ガヤガヤとそれぞれの席に戻る生徒たち。
「むっ。いま誰か、先生のことバカにしなかった?」
「いえ、してないっすよ。気のせいじゃないっすか」
「そっか、ならよし。じゃあ今朝のホームルームをはじめるから、みんな大人しく聞くように」
藤ねえはのんびりとホームルームを始める。
ちょっとした連絡事項の合間合間に雑談をするもんだからちっとも進まない。
「そういう訳だから、みんなも下校時刻を守るように。門限は六時だから、部活の子たちも長居しちゃだめよ」
「えー、六時っていったらすぐじゃんかー。大河センセー、それって運動系は免除されないの?」
「されませんっ。それと後藤くん、先生のことは藤村先生って言わなくちゃダメなんだから。次に名前で呼んだら怒るからね?」
「はーい、以後注意しまーす」
後藤くんは全然注意しないよーな素振りで着席した。
……なんて甘い。
藤ねえは怒るといったら怒る人だ。相手が生徒だろうが自分が教師だろうが関係ない。
今のは限りなく本気に近い最後通牒なんだって、後藤のヤツ気づいていない。
「それじゃ今日のホームルームはここまで。みんな、三時限目の英語で会おうねー!」
手のひらをヒラヒラさせて去っていく藤ねえ。
2年C組担任、藤村大河《ふじむらたいが》。
あだ名はタイガー。
いやもう本気かってあだ名だけど、本当なんだから仕方がない。
女の子なのに大河なんて名前がついているからそう親しまれているのだが、藤ねえ本人はタイガーというあだ名を嫌がっている。
藤ねえ曰く、女の子らしくない、とかなんとか。
けど本人がああいう人なんで、あだ名が女の子らしくないのは当然というか自業自得だろう。
「授業を始める。日直、礼を」
そうして、藤ねえと入れ違いで一時限目の先生が入ってくる。
藤ねえが時間ギリギリまでホームルームをするせいで、うちのクラスの朝はいつもこんな感じだった。
◇◇◇
そうして、いつも通り一日の授業が終了した。
部活動にいそしむ生徒、早足で帰宅する生徒、用もなく教室に残る生徒、そのあり方は様々だ。
自分はと言うと、その三つのどれにも該当しそうにない。
「すまない、ちょっといいか衛宮。今朝の続きなんだが、今日は時間あるか?」
「いや、予定はあると言えばあるけど」
俺だって遊んでいる訳じゃない。
そもそも弓道部を辞めた一番の理由は、アルバイトを優先したからだ。
親父が他界した後、生活費ぐらいは自分で出すとアルバイトを始めてもう五年。
それだけ色んな仕事をしていると、断れない付き合いというのも出てきてしまう。
とくに今日のはそういう物だ。
飲み屋の棚卸《たなおろ》しで、とにかく男手は多いほどいいから手伝いに来られるのなら来てほしい、という物だった。
ただ、自分が行かなければいけない、という手伝いでないのも確か。アレは単に、仕事が終わった後で騒ぎたいから知り合いを集めている類だし。
「――――」
選択肢は二つ。
俺は――――
一成には悪いが、やはりバイトを優先しよう。
顔を出すと確約した訳じゃないが、出来るかぎり善処すると言ったからには守らないと。
「いや、悪い一成。先約があるんで、今朝の続きはまたにしてくれないか」
「先約……? ああ、例のアルバイトか。そうか、それは困らせたな。こちらは今日明日で進退が決まるものでもない。俺の頼みなど気にせず労働に励んでくれ」
「すまん。明日の朝一で続きをするから、それでチャラにしてくれ」
「ん? そこまで深刻な話でもないと言っただろう。急を要していた物は今朝で片付いた。残った修理品は衛宮の手が空いた時で構わんさ」
「そっか。じゃ、バイトの休みが取れたら続きをするってコトでいいかな?」
「仔細ない。その時はまた頼りにするぞ、衛宮」
ではな、と堅苦しい挨拶をして教室を後にする一成。
「――――さて」
こっちもグズグズしてはいられない。
時間指定こそないものの、バイトに行くと決めたのなら急いで隣町に行かないと。
◇◇◇
「……まいったな。ほんの手伝いのつもりだったのに、三万円も貰ってしまった」
棚から牡丹餅というか、瓢箪から駒というか。
今日のバイト先のコペンハーゲンは飲み屋兼お酒のスーパーマーケットみたいな所で、棚卸しには何人もの人手が必要になる。
少なくとも五人、あとはいればいるだけ楽になるという一大作業だ。
だと言うのにおやじさんはいつもの調子で、
『手伝える人は手伝ってねーん』
なんて、バイト全員に声をかけて安心しきっていたらしい。
で、フタを開けてみれば手伝いにきたアルバイトは俺一人で、あとは店長《おやじ》さんと娘のネコさんだけという地獄ぶりだった。
「バカだねアンタ、そりゃ誰も来るわけないじゃん」
おやじさんをなじるネコさんだったのだが、その予想に反して顔を出した生贄一人。
“おおー”と二人は緊張感のない拍手をして俺を迎えてくれて、仕方ないから出来る範囲で倉庫を整理しよう、という運びになった。
――――で。
気が付けば二時間後、棚卸しは予定通り終わっていた。
「驚いたなあ。士郎くんはアレかな、ブラウニーか何かかな?」
作業後の一服、こげ茶色のケーキを食べながらおやじさんは感心していた。
「違いますっ。力仕事には慣れてるし、ここのバイトも長いし、倉庫の何処に何があるかぐらいは把握してるからですっ! 伊達にガキの頃からここで働かせてもらってません!」
「そっかー。あれ、士郎くんってもう五年だっけ?」
「そのぐらいですね。切嗣《オヤジ》が亡くなってからすぐに雇ってくれたの、おやじさんのトコだけだったし」
「ありゃりゃ。うわー、ボクも歳を取るワケだ」
もむもむとラム酒入りのケーキを頬ばるおやじさん。
ネコさんはとなりで熱燗をやっている。
ここの一家は店長が甘党で娘さん辛党という、バランスのいい嗜好をしていらっしゃる。
で。
「んー、けど助かったわー。こんだけやってもらって、お駄賃が現物支給《ケーキ》だけっていうのもアレだし、はい、これボクからの気持ち」
ピラピラと渡されたのが万札三枚。
一週間フルに働いても届かない、三時間程度の労働には見合わない報酬だった。
「あ、ども」
さすがに戸惑ったが、貰えるからには貰っておいた。
そうしてコペンハーゲンを後にしようとしたおり、
「……んー、ちょい待ち。エミヤん、今日の話誰から聞いた?」
疲れたー、とストーブの前で丸まっていたネコさんに呼び止められた。
「えーと、たしか古海さんですけど」
「……はあ、学生に自分の仕事おしつけるんじゃないってのよ、あのバカ。まあそれはいいとして……なに、じゃあ今日の棚卸し、また聞きだったのに来たんだ」
「あー……まあ、暇だったら手伝ってくれって感じで」
「――――古海もバカだけど、エミヤんもお馬鹿さん?
まあいいけど。キミさあ、人の頼みを断ったコトないでしょ。前にアタシと父が風邪で寝込んだ時も店番してくれたし」
「? 別にそんな事はないですけど。俺、無理な注文は受けませんもん。自分で出来る事で、出来る場合だけ引き受けますから」
「……ふうん。あん時、キミも風邪引いてたんだけどね。まあいいけど。えーと、アタシが何を言いたいかって言うとですね、エミヤんはいいヤツで、ちょっとバカで、そのあたりアタシは心配なので今度藤村にちょっとは顔出せやコラと伝えておいてほしいのです」
くい、と熱燗を飲みながらネコさんはクルクルと指を回す。
俺をトンボか何かと勘違いしているっぽい。
「はあ。……えーと、とにかく藤ねえに伝言?」
「そ。じゃね、あんまし頑張りすぎんなよ少年」
◇◇◇
「……と、いつのまにか橋越えてら」
隣り町の新都から深山町まで、ぼんやりしているうちに着いてしまっていた。
夜の町並みを行く。
冬の星空を見上げながら坂道を上っていると、あたりに人影がない事に気が付いた。
時刻は七時半頃だろう。
この時間ならぽつぽつと人通りがあってもいいのに、外には人気《ひとけ》というものがなかった。
「……そういえば、たしか」
つい先日、この深山町の方でも何か事件が起きたんだったっけ。
押し入り強盗による殺人事件、だったろうか。
人通りが無いのも、学校の下校時刻が六時になったのも、そのあたりが原因か。
「……ガス漏れに強盗か。物騒な事になってきたな」
これじゃあ夜に出歩こう、なんて人が減るのも当然だ。
桜を一人で帰らせるのも危なくなってきた。
藤ねえはともかく、桜の家は反対側の住宅地にある。
今日からでも夜は送っていかなくては―――
「……ん?」
一瞬、我が目を疑った。
人気がない、と言ったばかりの坂道に人影がある。
坂の途中、上っているこっちを見下ろすように、その人影は立ち止まっていた。
「―――――――」
知らず息を呑む。
銀の髪をした少女はニコリと笑うと、足音もたてず坂道を下りてくる。
その、途中。
「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」
おかしな言葉を、口にしていた。
坂を上がりきって我が家に到着する。
家の明かりが点いているのを見ると、桜と藤ねえはもう帰ってきているようだ。
居間に入るなり、旨そうなメシの匂い。
テーブルには夕食中の桜と藤ねえの姿がある。
今晩の主菜はチキンのクリーム煮らしく、ホワイトソース系が大好きな藤ねえはご機嫌のようだ。
「お帰りなさい先輩。お先に失礼していますね」
「ただいま。遅くなってごめんな。もうちょっと早く帰って来ればよかったんだけど」
「いいです、ちゃんと間に合いましたから。ちょっと待っててくださいね、すぐ用意しますから」
「うん、頼む。手を洗ってくるから、人のおかずを食べないように藤ねえを見張っといてくれ」
「はい、きちんと見張っています」
自分の部屋に戻る。
土蔵に比べればあんまりにも物がない部屋だが、そもそも趣味がないからこれでも飾ってある方だ。
大半は藤ねえがポイポイと置いていった用途不明の品物ばっかりなんだけど。
手を洗い、着替えを済ませて戻ってくると、テーブルには夕食が用意されていた。
「いただきます」
「はい、お口にあえばいいんですけど……」
桜はあくまで奥ゆかしい。
ここ一年で桜の料理の腕は飛躍的に向上している。
洋風では完敗、和風ならまだなんとか勝てそう、中華はお互いノータッチ、という状況だ。
教え子が上達するのは嬉しいのだが、弟子に上回られる師匠っていうのもなんとなく寂しい。
「――――む」
やはり巧い。
鶏肉はじっくり煮込めば煮込むほど硬くなってしまう。故に、面倒でも煮る前に表面をこんがりと焼いておくと旨味を損なわずジューシーな仕上がりになる。
そのあたりの加減が絶妙で、不器用な藤ねえには決して真似できない匠の技だ。
「どうでしょうか先輩……? その、今日のはうまくいったと思うんですけど……」
「文句なし。ホワイトソースも絶妙だ。もう洋物じゃ桜には敵わないな」
「うんうん、桜ちゃんがご飯作ってくれるようになってから、お肉関係がおいしくなった」
と。
今までもぐもぐと食事に専念していた藤ねえが顔を上げた。
「あ。だめよー、士郎。学生がこんな夜更けに帰って来ちゃいけないんだからっ」
……あちゃ。
桜の夕食でご機嫌かと思われていたが、俺の顔を見たとたんご機嫌ななめになった模様。
「もう、また誰かの手伝いをしてたんでしょ。それはそれでいい事だけど、こんな時ぐらいは早く帰ってきなさい。最近物騒だぞってホームルームで言ったじゃない。
アレ、士郎に対して言ったんだからね」
「……あのさ。わざわざホームルームで言わなくても、うちで言えばいいんじゃないの?」
「ここで言っても聞かないもの。学校でがつーんと言った方が士郎には効果的なんだもん」
「……先生、それは職権乱用というか、公私混同だと思います」
「ううん、それぐらいしないと士郎はダメなのよ。
いつも人の手伝いばっかりして損してるからさ。たまにはまっすぐ帰ってきてのんびりしててもいいじゃない、ばかちん」
「むっ。バカチンとはなんだよバカチンとは。いいじゃないか、誰かの手伝いをして、それでその人が助かるなら損なんかしてないぞ」
「……はあ、切嗣さんに似たのかなぁ。士郎がそんなんじゃお姉ちゃん心配だよ」
どのあたりが心配なのか、もぐもぐと元気よくご飯を食べる藤ねえ。
「……あの、藤村先生。今の話からすると、先輩って昔からそうなんですか?」
「うん、昔からそうなの。なんか困ってる人がいたら自分から手を出しちゃうタイプ。けどお節介ってわけじゃなくて、士郎はね、単におませさんなのだ」
ふふふ、となにやら不穏な笑みをこぼす藤ねえ。
「藤ねえ。余計なコト言ったら怒るぞ。桜もつまんないこと訊くなよな」
じろり、と二人を睨む。
藤ねえはちぇっ、と舌打ちして引っ込んでくれたが、
「藤村先生、お話を続けてください」
むん、とマジメに授業を受ける桜がいた。
「じゃあ話しちゃおう。これがねー、士郎は困った人を放っておけない性格なのよ。弱きを助け強きをくじくってヤツ。子供の頃の作文なんてね、ボクの夢は正義の味方になる事です、だったんだから」
「――――」
……また昔の話をするな、藤ねえも。
けど全部本当の事なので口は挟まない。
そもそも、正義の味方になるって事は今でも破っちゃいけない目標だ。
「うわあ。すごい子供だったんですね、先輩」
「うん、すごかったよー。うーんと年上の男の子にいじめられてる女の子がいたら助けに入ってくれたし、切嗣さんが無精だったから家事だって一生懸命こなしてたし」
「あーあ、あの頃は可愛くて純真だったのに、それがどうしてこんな捻くれた子になっちゃったんだろうなー」
「そりゃあ藤ねえがいたからだろ。ダメな大人を見てると子供は色々考えるんだよ。悔しかったらちゃんと自分でメシ作ってみろ」
「――――――な」
がーん、と打ち崩れる藤ねえ。
そのままうなだれて反省するかと思えば、
「うう、お姉ちゃんは悲しいよう。桜ちゃん、おかわり」
ずい、と三杯目のお茶碗を差し出していた。
◇◇◇
夕食を終えてのんびりしていると、時計は九時にさしかかろうとしていた。
「さて、何をしたもんか」
夜の鍛錬まで時間がある。
ここは――――
……あー、食後の軽い運動がてらに藤ねえの様子を見るのも一興かな。
「―――だな。桜につまんない話しやがって、隙あらば仕返ししてやる」
「ん? なに、お風呂入ってたんじゃないのー?」
食後のデザートのつもりか、藤ねえはもくもくとミカンを剥いていた。
テーブルには水中花じみたミカンの皮が二つほど転がっている。
「………………」
リンゴの皮剥きは出来ないクセに、ミカンの皮剥きだけが芸術的なのは何かの呪いなんだろーか。
「風呂は後にした。さっきの話でケチついたんで、風呂の前に文句言っとこうと思って」
「えー? 別にいいじゃん、もう昔のコトなんだし、桜ちゃんも喜んでたし。それよりはい、今日のノルマ。士郎は一日一個だからね」
ひょい、と籠から小さなミカンを手にとって投げつけてくる。
「うわっと……って、ミカンぐらいで懐柔されないぞ。桜だったからいいようなものの、学校であんな話するなよ。一成あたりがヘンな心配するから」
「美綴さんは大笑いしそうだけどねー。……なーんて、言われなくてもわかってるわよ。士郎の子供の頃の話なんて、桜ちゃん以外にはしないから」
「だーかーらー、桜にもするなって言ってるの。あんなつまんない話されたら桜だっていい迷惑だろ。……もうないと思うけど、今度やったら怒るからな」
本気だぞっ、と気合をこめて藤ねえを睨む。
「ははーん。なあんだー、そっかー、そういうわけ、つまり士郎はそうなのようー」
だっていうのに、にんまりと口元をにやけさせて藤ねえご満悦。
「……あ。なんかこう、カチンときたかも。なに納得してんだよ、ばか虎っ」
むむー、と藤ねえの間抜け顔を睨む。
「虎でもいいよーだ。ようするにアレでしょ、士郎は桜ちゃんに知られるのがイヤだったのよ。
他の人に“正義の味方になりたい”なんて知られても気にしないけど、桜ちゃんに知られるのは恥かしかったワケね」
「な――――」
そ、そんなコトは、ないと思う、けど。
「うんうん、そういうコトならどんどん話しちゃうから。そっかー、士郎もようやく桜ちゃんを意識しだしたかー。教師としてちょっと心配だけど、保護者としてはちょっと安心したかな。けどお姉ちゃんはちょっと寂しいかな」
なにやら感慨深けに言って、はむ、とミカンを丸ごと口に含む。
藤ねえは拳大ぐらいの食べ物なら一口で口に放り込める。
サバンナあたりならわりとズキューンとくる仕草だと思うのだが、成熟した女の人にそんなワイルドな魅力は必要ないと思う。
「あれ? 先輩、お風呂入ってたんじゃないんですか?」
と。
洗い物を済ませた桜が居間にやってきた。
「ああ、藤ねえに話があってちょっと後回し。桜、ミカン食べるか?」
籠に載せられた大量のミカンに手をやる。
予想外の展開だが、三人で食後の一服をするのもいいだろう。
「あ、それならさっき藤村先生に戴きました。わたし用にとっておいてくれたおミカンで、おいしかったです」
「桜ちゃんは生の果物はダメだからねー。
調理したヤツか、アイスみたいに冷やしてないと食べてくれないのだ―――って、桜ちゃんそろそろ時間?」
「はい。後片付けも済みましたから、今日はもう帰ります」
「そっか。じゃわたしもおいとまするわ。桜ちゃん、いこ。最近は物騒だから近くまで送っていってあげる」
ミカンの大量摂取を止め、潔く立ち上がる藤ねえ。
その立ち姿は責任感のある年長者のようだ。
「え……いいんですか、先生?」
「当然でしょ。桜ちゃんも士郎もわたしが預かってるんだから、ちゃんと家まで送り届けないと。士郎もそれでいいでしょ? わたしたちが帰ったら、ちゃんと戸締りして寝るのよ」
「――――了解。藤ねえなら痴漢が出ようがクマが出ようが安心だ」
「そうでもないわよー。さすがにクマは無理でしょ。うん、無理だからここまで逃げ帰ってくるね。そしたら二人でやっつけて、明日はクマ鍋かな」
余裕げに微笑む藤ねえ。
……うん。
藤ねえは普段はマイペースすぎてまわりをとんでもスペースに巻き込むのだが、教師である藤ねえは惚れ惚れするぐらい責任感溢れる人なのだ。
「行こっか桜ちゃん。それじゃまた明日ね士郎」
「はい。それじゃあおやすみなさい、先輩」
「ん」
屋敷を後にする二人。
それを玄関まで見送って、藤ねえの言いつけ通り戸締りを終わらせた。
◇◇◇
そうして一日が終わる。
深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。
「――――――――」
結跏趺坐《けっかふざ》に姿勢をとり、呼吸を整える。
頭の中はできるだけ白紙に。
外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。
否、それは本当に自己暗示にすぎない。
魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪文は自分を変革させる為だけの物だ。
……本来、人間の体に魔力を通す神経《ライン》はない。
それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神経全てを統括しうる集中力が必要になる。
魔術は自己との戦いだ。
例えば、この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。
その鉄の棒こそ、たった一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。
これを体の奥まで通し、他の神経と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。
それは比喩ではない。
実際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノ”が、ズブズブと差し込まれている。
――――僕は魔法使いなのだ。
そう言った衛宮切嗣は、本当に魔術師だった。
数々の神秘を学び、世界の構造とやらに肉薄し、奇跡を実行する生粋の魔術師。
その切嗣に憧れて、とにかく魔術を教えてくれとねだった幼い自分。
だが、魔術師というのはなろうとしてなれる物ではない。持って生まれた才能が必要だし、相応の知識も必要になってくる。
で、もちろん俺には持って生まれた才能なんてないし、切嗣は魔道の知識なんて教えてはくれなかった。
なんでも、そんなモノは君には必要ない、とかなんとか。
今でもその言葉の意味は判らない。
それでも、子供だった自分にはどうでも良かったのだろう。
ともかく魔術さえ使えれば、切嗣のようになれると思ったのだ。
しかし、持って生まれた才能―――魔術回路とやらの多さも、代々積み重ねてきた魔術の業も俺にはなかった。
切嗣の持っていた魔術の業……衛宮の家に伝わっていた魔術刻印とやらは、肉親にしか移植できないモノなのだそうだ。
魔術師の証である魔術刻印は、血の繋がっていない人間には拒否反応が出る。
だから養子である俺には、衛宮家の刻印は受け取れなかった。
いやまあ。
実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。
で、そうなるとあとはもう出たトコ勝負。
魔術師になりたいのなら、俺自身が持っている特質に応じた魔術を習うしかない。
魔術とは、極端に言って魔力を放出する技術なのだという。
魔力とは生命力と言い換えてもいい。
魔力《それ》は世界に満ちている大源《マナ》と、生物の中で生成される小源《オド》に分かれる。
大源、小源というからには、小より大のが優れているのは言うまでもない。
人間一人が作る魔力である小源《オド》と、世界に満ちている魔力である大源《マナ》では力の度合いが段違いだ。
どのような魔術であれ、大源《マナ》をもちいる魔術は個人で行う魔術をたやすく凌駕する。
そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力を汲み上げる術に長けている。
それは濾過器《ろかき》のイメージに近い。
魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から魔力《マナ》を汲み上げて人間でも使えるモノ、にするのだ。
この変換回路を、魔術師は魔術回路《マジックサーキット》と呼ぶ。
これこそが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっている。
一般の人間に魔術回路はほとんどない。
それは本来少ないモノなのだ。
だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に適した肉体にする。
いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれてくる子供の魔術回路を増やすのだとか。
……まあ、そんな訳で普通の家庭に育った俺には、多くの魔術回路を望むべくもなかった。
そうなると残された手段は一つ。
切嗣曰く、どんな人間にも一つぐらいは適性のある魔術系統があるらしい。
その人間の“起源”に従って魔力を引き出す、と言っていたけど、そのあたりの話はちんぷんかんぷんだ。
確かな事は、俺みたいなヤツでも一つぐらいは使える魔術があって、それを鍛えていけば、いつか切嗣のようになれるかもしれない、という事だけだった。
だから、ただその魔術だけを教わった。
それが八年前の話。
切嗣はさんざん迷った後、厳しい顔で俺を弟子と認めてくれた。
―――いいかい士郎。魔術を習う、という事は常識からかけ離れるという事だ。死ぬ時は死に、殺す時は殺す。
僕たちの本質は生ではなく死だからね。魔術とは、自らを滅ぼす道に他ならない―――
幼い心は恐れを知らなかったのだろう。
強く頷く衛宮士郎の頭に、切嗣は仕方なげに手を置いて苦笑していた。
―――君に教えるのは、そういった争いを呼ぶ類の物だ。
だから人前で使ってはいけないし、難しい物だから鍛錬を怠ってもいけない。
でもまあ、それは破ったって構わない。
一番大事な事はね、魔術は自分の為じゃなくて他人の為にだけ使う、という事だよ。そうすれば士郎は魔術使いではあるけど、魔術師ではなくなるからね―――
……切嗣は、衛宮士郎に魔術師になってほしくなかったのだろう。
それは構わないと思う。
俺が憧れていたのは切嗣であって魔術師じゃない。
ただ切嗣のように、あの赤い日のように、誰かの為になれるなら、それは――――
「――――――――っ」
……雑念が入った。
ぎしり、と、背骨に突き刺さった鉄の棒が、入ってはいけないところにズレていく感覚。
「っ、ぐ、う――――!」
ここで呼吸を乱せば、それこそ取り返しがつかない。擬似的に作られた魔術回路《しんけい》は肉体を浸食し、体内をズタズタにする。
そうなれば終わりだ。
衛宮士郎は、こんな初歩の手法に失敗して命を落とした半人前という事になる―――
「―――、――――、――――――――――――」
かみ砕きかねないほど歯を食いしばり、接続を再開する。
針の山を歩く鬩《せめ》ぎ合いの末、鉄の棒は身体の奥まで到達し、ようやく肉体の一部として融解した。
……ここまでで、一時間弱。
それだけの時間をかけ、ようやく一本だけ擬似神経を作り、自らを、魔力を生成する回路と成す。
「――――基本骨子、解明」
あとはただ、自然に魔力を流すだけの作業となる。
衛宮士郎は魔術師じゃない。
こうやって体内で魔力を生成できて、それをモノに流す事だけしかできない魔術使いだ。
だからその魔術もたった一つの事しかできない。
それが――――
「――――構成材質、解明」
物体の強化。
対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。
「――――、基本骨子、変更」
目前にあるのは折れた鉄パイプ。
これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。
そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させるに等しい。
衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。異なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。
それを防ぎ、毒物を薬物とする為には対象の構造を正確に把握し、“空いている透き間”に魔力を通さなければならない。
「――、――っ、構成材質、補強」
……熟練した魔術師ならば容易いのだろうが、魔力の生成さえ満足にいかない自分にとって、それは何百メートル先の標的を射抜くぐらいの難易度だ。
ちなみに弓道における一射は二十七メートル。
その何十倍という難易度と言えば、それがどのくらい困難であるかは言うまでもない――――
「っ、くっ……!」
体内の熱が急速に冷めていく。
背骨に通っていた火の柱が消え、限界まで絞られていた肺が、貪欲に酸素を求める。
「は―――ぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あ――――!」
そのまま気を失いかねない目眩に、体をくの字に曲げて耐えた。
「ぁ――――あ、くそ、また失敗、か――――」
鉄パイプに変化はない。通した魔力は外に霧散してしまったようだ。
「……元からカタチが有る物に手を加えるのは、きつい」
俺がやっている事は、完成した芸術品に筆を加える事に似ている。
完成している物に手を加える、という事は完成度をおとしめる、という危険性をも孕んでいる。
補強する筈の筆が、芸術品そのものの価値を下げる事もある、という事だ。
だから“強化”の魔術というのは単純でありながら難易度が高く、好んで使用する魔術師は少ないらしい。
……いや、俺だって好んでいるワケじゃないけど、これしか能がないんだから仕方がない。
いっそ形のない粘土をこねて代用品を作っていいなら楽なんだが、そうやってカタチだけ再現した代用品は、外見ばっかりで中身がともなわない。
まわりに転がっているガラクタがそうだ。
強化の魔術に失敗すると、練習がてらに代用品を作って気を落ち着けるのだが、これがそろいもそろって中身がない。
物の設計図を明確にイメージできるが故に、外見だけはそっくりに再現できるのだが中身は空洞、もちろん機能もまったくない。
「――――――――」
びちゃり、と汗ばんだ額をぬぐう。
気が付けば全身、水をかけられたように汗まみれだ。
……だが、この程度で済んだのは僥倖《ぎょうこう》だ。
さっきのは本当にまずかった。
持ち直すのが一呼吸遅れていたら、内臓をほとんど壊していただろう。
「……死にかけた分上達するんなら、まだ見込みがあるんだけどな」
そんな都合のいい話はない。
もっとも、死を怖がっていては魔術の上達がないのも道理だ。
魔術を学ぶ以上、死は常に身近にある。
毎日のようにこなしているなんでもない魔術でも、ほんの少しのミスで暴発し、術者の命を奪う。
魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認する事だ。
―――切嗣はそれを悲しげに言っていた。
それは、俺にはそんな覚悟なんてしないでほしい、という意味だったのかもしれない。
「……誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ、か……」
切嗣みたいになるよ、と言った子供の俺に、切嗣はそんな言葉を繰り返していた。
その意味は知らない。
ただ、衛宮士郎は、衛宮切嗣のように誰かを助けて回る、正義の味方にならなくてはいけないだけ。
「……その割に、こんな初歩がうまくいかないんだもんな。なんでいざって時に雑念が入るんだ、ばか」
物の構造を視覚で捉えているようでは甘い。
優れた魔術師は患部だけを捉え、無駄なく魔力を流し込む。
――――ボクの夢は正義の味方になる事です。
夕食の時、藤ねえが言った台詞を思い出す。
それを恥ずかしいとも、無理だとも思わない。
それは絶対に決まっている事だ。衛宮士郎は衛宮切嗣の後を継ぐと。
だから未熟なままでも、出来るかぎりの事をしてきた。
正義の味方っていうのが何者なのかは分からない。
分からないから、今はただ自分の出来る範囲で、誰かの為になる事でしか近づけない。
そうして五年間、ずっと前だけを見てきたつもりだけど、こう上手くいかないと迷ってしまう。
「……ああもう、てんで分からないよ切嗣《オヤジ》。
一体さ、何をすれば正義の味方になれるんだ」
窓ごしに空を見る。
闇雲に、誰かの為になればいいってワケでもない。
人助けと正義の味方っていうのは違うと思う。
それが分かっているのに、どうすれば違ったモノになれるのか、と。
その肝心な部分が、この五年間、ずっと掴めないままだった。
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2月1日     2 One day U
……目覚めは暗い。
夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。
……イメージするものは常に剣《つるぎ》。
何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。
そこに意味はなく、さしたる理由もない。
ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。
見る夢などない。
眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。
たとえば魔術師について。
半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。
―――一言で言って、魔術師というのは文明社会とは相反する例外者だ。
だが例外者と言えど、群《むれ》を成さねば存在していられない。
切嗣《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。
……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。
魔術協会、と呼ばれるその組織は、魔術《しんぴ》を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。
ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。
切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。
ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。
彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。
ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。
ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。
たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。
故に、そんな一般社会に害をなすような研究は魔術協会が許しはしない。
かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。
魔術師が自身を隠そうとするのは、偏《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。
……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。
なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。
そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。
管理者《セカンドオーナー》、と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。
同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。
……その点で言うと、衛宮《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。
切嗣《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。
管理者《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師だって事を知らないし、切嗣だって管理者《オーナー》が誰なのかなんて知らなかった。
そういった事もあって、衛宮《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。
真っ当な魔術師であった切嗣《オヤジ》は他界し、
その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。
……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。
いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。
―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。
魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。
……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。
それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが――――
「…………、ん」
窓から差し込む陽射しで目が覚めた。
日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ仄《ほの》かに薄暗い。
「……さむ。さすがに朝は辛いな」
朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。
時刻は五時半。
どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。
目覚まし時計はなんとなく堕落している気がするので子供の頃から使っていない。
「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」
昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。
桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。
ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。
昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。
同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。
主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。
「よし、こんなんでいいか」
そろそろ六時。
思ったより早く終わったんで時間を持て余してしまった。
さて、余った時間で何をしたものか。
「―――そうだな。これだけ時間があれば一汗流せるか」
朝の運動は日課だし、軽く体を動かしてこよう。
衛宮邸には立派な道場がある。
家を建てる時、ついでだからと道楽で建てられたものだ。
そんな訳で、この道場は何かが目的で作られた物ではない。
「ま、藤ねえが好き勝手使ってるけどな」
俺が衛宮の家に来る前から、ここは藤ねえの遊び場だったらしい。
が、俺が切嗣に弟子入りしてからはこっちが頻繁に使うようになって、当時は藤ねえに嫌われたものだ。
「……さて」
ここに来たらやる事は一つだけ。
魔術師と言えど身体の鍛錬を怠る事は出来ない。
優れた身体能力を持つ、という事も魔術師の条件の一つだ。
切嗣が生きていた頃はここで何度も手合わせをした。
と言っても一方的に痛めつけられただけだったから、戦いに勝つ術なんて身に付かなかった。
……それでもケンカと戦闘の違いぐらいは身に付いたと思う。
ようするに、相手を倒すか殺すかの違い、その加減を知る事を教わったのだ。
知識と経験は違う。
あらかじめ知っておかないと、自分がケンカに巻き込まれたのか、殺し合いに巻き込まれたのかの判断をつけにくい。
……単純な話だ。
魔術を習う以上は自滅する事もあるのだし、何かと争わなければならない時もある。
魔術師にとって争いは殺し合いだ。
だから切嗣が衛宮士郎に教えたかった事は、死地に面した時すみやかに覚悟できる心構えだったのだろう。
しかし、それも教えてくれる相手がいなくなって久しい。
一人になった自分に考えられて出来る事と言えば、こんな誰にでもできるトレーニングだけだった。
腕立て伏せとか腹筋運動とか柔軟とか、ようするにやってる事は弓道部の朝練と変わらない。
単に、運動量にハードかソフトかの違いがあるだけだ。
◇◇◇
「おはようございます先輩。今朝はもう済んでしまいましたか?」
「ああ、朝食の支度なら済んでる。あとは食器の支度と、魚に火を通すだけ」
「あ、それならお手伝いします。食器の支度は任せてください」
むん、とはりきる桜。
そんな健気な後輩の後ろを、
「あ、この匂いは士郎の卵焼きね。そっか、今朝は士郎の朝ごはんなんだー」
藤ねえがのんびりと食卓へ移動していく。
「……まあ、アレは放っておいて」
とりあえず下ごしらえしておいた魚に火を通さなければ。
「桜、皿は真ん中のヤツ使ってくれ。その方が旨く見えるから」
「え……? あの、この表面がブツブツのですか?」
「そうそれ。焼き物は皿にも気を配らないと片手落ちだからな。で、大根はもう摩ってあるから―――」
よいしょ、と棚の奥に手を伸ばして皿を取り出す桜。
「――――」
身を乗り出す桜の手首に、うすい痣が見えた気がした。
「桜、ちょっと待った」
「はい? なんですか先輩」
「その手首の痣、なんだ」
「あ――――」
気まずそうに視線を逸らす。
それで、その痣が誰につけられた物か判ってしまった。
「また慎二か。アイツ、妹に手をあげるなんて何考えてやがる……!」
「ち、違います先輩……! あの、その……これは転んでぶつけちゃったんです。ほら、わたし鈍いでしょう?
だからよく転んで、ケガばっかりしてるんです」
「ばか、転んだぐらいでそんな痣がつくか。慎二のヤツ、どうやらまだ殴られ足りないみたいだな……!」
「だ、だめです先輩っ……! これ、本当に兄さんは関係ないんです。わたしが一人でケガをしただけなんですから、先輩に怒ってもらう資格なんてありません」
「――――」
それきり桜は押し黙ってしまった。
……大人しそうに見えて、桜はわりと意固地なところがある。こうなっては何を言っても逆効果だろう。
「……わかった。桜がそう言うんならそういう事にしておく。けど次に見つけたら我慢できないからな、俺」
「……はい。ごめんなさい、先輩」
「だから、どうしてそこで桜が謝るんだ。悪いのは慎二だろう」
「………………」
慎二の名前を口にした途端、桜は気まずそうに視線を逸らした。
つまり、それが桜の手首に痣がある理由だ。
間桐慎二。桜の兄貴であるアイツは、妹である桜に辛くあたる悪癖がある。
俺がそれに気が付いたのは一年ほど前だった。
桜は時々ケガをしている事があって、どうしたのかと訊ねても誤魔化してばかりだった。
それが気になって慎二に相談したら、あろう事かあの野郎、桜を殴ったのは自分だなんて言い出しやがった。
なんで殴ったんだ、と問いつめれば、気にくわないから殴っただけ、と答えた。
―――そのあとカッとなった俺は、慎二とまったく同じ事を慎二本人に仕返した。
それ以来、慎二とは疎遠《そえん》になった。
慎二を殴った事は今でも後悔はしていない。
ただ桜への風当たりが一層強くなったのは、間違いなく俺の責任だと思う。
「……先輩。兄さんとはその、仲直りしてくれましたか?」
「え? ああ、したよ。別にはじめからケンカなんてしてないから、仲直りも何もないけどな」
「……えっと、先輩にとってはそうでしょうけど、兄さんにとってはケンカをした事になるんです。だから、その……気をつけて、ください」
「?」
桜はおかしな事を言ってくる。
「気をつけろって慎二を?」
「……はい。兄さん、先輩を目の仇にしてるって聞きました。……その、先輩が退部するようになったのも兄さんのせいだって―――」
「それは違う。部活を辞めたのは慎二とは関係ない。いや、そりゃあ多少はあったかもしれないけど、そんなのは桜が気に病むコトじゃないぞ。たしかに慎二の言うとおり、ちょっと見苦しいからなコレは」
くい、と右肩を指さす。
そこにはちょっとした傷跡がある。
一年半前の話だ。
バイト中に荷物が崩れてきて、右肩を痛めてしまった事があった。怪我自体は骨折で済んだのだが、落ちてきた荷物が厄介なもので、肌にちょっとした焼き跡がついてしまったのだ。
その事故の後、俺は弓道部を辞めた。
うちの学校の弓道部は格式を重んじるのか、学生ながらに礼射をやらせてくれる。
男子の礼射は右肩だけ服をはだけさせ、肌を露わにして的を射る。
肩に火傷の跡があるヤツが礼射をするのは見苦しいのでは、と慎二の指摘があり、俺もちょうどアルバイトも忙しい時期だったので部活を辞めたという訳だ。
「あの、先輩。しつこいようですけど、本当にもう弓は引かないんですか? 藤村先生も怪我なんて支障はないって言ってるのに」
「なにを平和な! 藤ねえは全身骨折しようが支障ないって言うヤツだぞ、桜」
「先輩、わたし真面目な話をしているんですっ」
むっ、と何か言いたそうに上目遣いをしてくる桜。
「……む」
こうなるとこっちも真面目に答えなくちゃいけないんだが、生憎と桜の望む返答は出来ない。
「当分は部活をしている余裕はないよ。弓は好きだけど優先するべき事じゃないし、しばらくは間を取ろうと思う」
「……しばらくって、どのくらいですか」
「気が向いた頃かな。ま、桜が卒業するぐらいまでにはなんとか。その時はよろしくな、桜」
ぽん、と桜の肩を叩く。
桜はほんのわずかだけボウ、とした後、
「あ、はいっ……! わたし、その時をお待ちしています、先輩!」
なんて、食器を落としかねない勢いで頷いていた。
◇◇◇
時刻は七時半になろうとしている。
朝の部活動がある桜と藤ねえはとっくに家を出た。
昨日は一成に呼ばれていたから早めに登校したが、今朝は普通の時間に家を出た。
交差点まで下りてくると、見慣れない光景に出くわした。
一軒家の前に数台のパトカーが止まっている。
なにか騒ぎでもあったのか、周囲の雰囲気は慌ただしく、集まった人だかりは十人や二十人ではきかないようだ。
「?」
興味はあったが、人だかりが邪魔で何が起きたのか判らない。
時間もないし、今は学校を優先すべきだろう。
予鈴の十分ほど前に到着。
いつも通り余裕を持って正門をくぐると、
「や、おはよう衛宮」
見知った女生徒とバッタリ会った。
「なんだ、まだ着替えてないのか美綴。もうすぐホームルームだぞ。俺に挨拶なんかしてる場合じゃないだろ」
「あはははは! いや、ごもっとも。相変わらずつれない野郎だねぇ、衛宮は!」
何が楽しいのか、人目も気にせず豪快に笑う。
美綴綾子《みつづりあやこ》。
一年生の頃クラスメイトだったヤツで、今は弓道部の主将をしている。
学生とは思えないほど達観したヤツで、一年の頃から次期主将を期待されていた女丈夫だ。
……まあ、要するに実年齢よりいくぶん精神年齢が上で、一年の頃からみんなに頼りにされていたお姉さんタイプである。
もっとも、本人はそれを言われると怒る。あたしはそんなに老けてないっ! というのが本人の弁だ。
「あん? 今アンタ、よからぬ感想を漏らさなかったかもし?」
「そんな物は漏らさない。あくまで客観的な事実を連想しただけだ。それで気を悪くするのは美綴の勝手だが」
「お、言うじゃん。いいね、正直に答えるくせに、何をどう考えてたかは口にしないんだもの。 衛宮、慎二と違って隙がないな」
「慎二? なんでそこに慎二が出てくるんだ?」
「なんでもなにも、アンタと慎二って友人じゃない。
慎二の男友達ってアンタだけでしょ? それにお忘れでしょうが、あたしこれでも弓道部の主将なの。うちの問題児と、辞めちまった問題児をくっつけるのは自然な流れだと思わない?」
「ああ、たしかに自然だ。弓道部ってのは関係ないけど、俺とアイツは腐れ縁だからな」
「あ、カチンと来た。アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるでしょ。
いいご身分よね、慎二をほっぽっといて自分はさっさと退場しちゃうんだから。後に残されたあたしとか桜の気持ちとか、少しは考えてくれてもいいんじゃない?」
「む。慎二のヤツ、またなんかやったのか」
「アイツが何もやらない日なんてないけど。
……ま、それにしても昨日のはちょっとやりすぎか。一年の男子が一人辞めたぐらいだから」
はあ、と深刻そうにため息をつく美綴。
こいつがそんな顔をするのも珍しいけど、それ以上に今の話は聞き捨てならない。
「なんだよそれ。部員が辞めたって、なんで」
「慎二のヤツが八つ当たりしたのよ。わざわざ女子を集めてね、弓を持ったばかりの子に射をさせて、的中するまで笑い物にしたとか」
「はあ!? おまえ、そんなバカげた事を見過ごしてたってのか!?」
「見過ごすかっ! けどさ、主将ってのは色々と忙しいんだ。いつも道場にいる訳じゃないって、衛宮だって知ってるでしょ」
「……それは、そうだが。にしても、なに考えてんだ慎二のヤツ。必要以上に厳しく教える事はあっても、素人を見せ物にするようなヤツじゃないだろ」
「――――呆れた。衛宮ってば、ほんとにアレだ」
「む。アレってなんだ。いまおまえ、よからぬ感想を漏らさなかったか?」
「あーら、あたしはあくまで客観的な事実を連想しただけさ。それで気を悪くするのは衛宮の勝手だね」
「……この、ついさっき聞いたような返答をしやがって。いいよ、それより慎二はどうしたんだよ。なんだってそんな真似をしたんだ」
「んー、聞いた話じゃ遠坂にこっぴどくふられたとかなんとか」
「え……遠坂って、あの遠坂か?」
「うちの学校にアレ以外の遠坂なんていないでしょ。
2年A組の優等生、ミスパーフェクトこと遠坂凛よ」
「……いや、そんなあだ名は初めて聞いたけど」
聞いたけど、それなら、と納得できてしまった。
相手が遠坂凛なら、慎二が振られる事もあるだろうし、なにより―――
あの遠坂なら、交際を断る時も容赦ない台詞を口にしそうだし。
「ともかく、慎二のヤツは昨日からずっとその調子よ。おかげであたしもこんな時間まで道場で目を光らせてたって訳」
「……慎二のヤツは癇癪《かんしゃく》持ちだからな。美綴、たいへんだろうけど頑張ってくれ」
「はいはい。けどねー、慎二って懲りないでしょ? また遠坂に声をかけて振られた日には、今度こそ遠坂本人に何かしそうでさー」
「いや、いくら慎二でも振られた相手には近寄らないだろ。アイツ、そのあたりはちゃんとしてるぞ」
「けど相手が近寄ってくるんだからしょうがないじゃない。遠坂さ、なんか知らないけどうちの道場をよく見学に来るのよ。衛宮は辞めちゃったから知らないだろうけどね」
「?」
それは初耳だ。
遠坂凛は家の事情だとかで、一切部活動はやっていない。生徒会も同じ理由で推薦を拒否したぐらいだから、放課後はすんなりと帰宅していると思っていた。
「ま、たまにはそれもいいか。アイツお高くとまってるし、一度ぐらいは痛い目にあうのもいいかもねー。お気の毒さまっていうか、ご愁傷さまっていうか」
なにやら物騒な事を口にする美綴。
……そういえば、遠坂凛はああ見えて敵が多いというけど、美綴もその一人なんだろうか?
「おい美綴、いくらなんでもそれは」
「あ、そろそろ時間だ。じゃあね衛宮、今度あたしの弓の調子見に来てよ」
慌ただしく走っていく美綴。
「―――相変わらずだな、あいつ」
けど、アイツのああいうスッパリしたところは昔から気に入ってる。
なんとなく穏やかな気持ちになって、教室へ足を向けた。
◇◇◇
昼休み。
うちの学校には立派な食堂があり、たいていの生徒は食堂でランチをとる。
が、中には弁当持参という古くさい連中もいて、その中の一人が自分と、目の前にいる生徒会長だった。
「衛宮、その唐揚げを一つくれないか。俺の弁当には圧倒的に肉分が不足している」
「……いいけど。なんだっておまえの弁当ってそう質素なんだ一成。いくら寺だからって、酒も肉も摂らない、なんて教えがあるわけでもないだろう」
「何を時代錯誤なことを。これは単に親父殿の趣味だ。
小坊主に食わす贅沢はない、悔しいのなら己でなんとかせよ、などと言う。いっそ今からでも典座《てんぞ》になるか、俺も考えどころだ」
「あー、あの爺さんなら確かに」
一成の親父は柳洞寺の住職で、藤ねえの爺さんとは旧知の仲という豪傑だ。
藤村の爺さんと気が合う、という時点でまともな人格を期待してはいけない。
「それはそれは。んじゃ、いつか恩返しを期待して一つ」
ほい、と弁当箱を差し出す。
「やや、ありがたく。これも托鉢の修行なり」
深々とおじぎをする一成。
……なんていうか、こんなコトで一成がお寺の息子なのだと再認識させられるのはどうかと思う。
「ああ、そういえば衛宮。朝方、二丁目の方で騒ぎがあったのを知っているか? ちょうど衛宮と別れるあたりの交差点だが」
「交差点……?」
朝方の交差点と言えば、パトカーが何台も止まっていた騒ぎだろうか。
「なんでもな、殺人があったそうだ。詳細は知らないが、一家四人中、助かったのは子供だけらしい。両親と姉は刺殺されたというが、その凶器が包丁やナイフではなく長物《ながもの》だというのが普通じゃない」
「――――――――」
長物? つまり日本刀、というコトだろうか。
殺人事件という事は、それに両親と姉を殺されたという事か。
……想像をしてしまう。
深夜、押し入ってきた誰か。不当な暴力。交通事故めいた一方通行の略奪。斬り殺される両親。訳も分からず次の犠牲になった姉。その陰で、家族の血に濡れた子供の姿。
「一成。それ、犯人は捕まったのか」
「捕まってはいないようだな。新都の方では欠陥工事による事故、こちらでは辻斬りめいた殺人事件だ。学校の門限が早まるのも当然―――どうした衛宮? 喉にメシでもつまったか?」
「? 別に何もないけど、なんだよいきなり」
「いや……衛宮が厳しい顔をしていたのでな、少し驚いた。すまん、食事時の話ではなかったな」
一成はすまなそうに場を和ます。
……いや、本当にどうというコトもなかったのだが、そんなに厳しい顔をしていたんだろうか、俺。
と、静かに生徒会室のドアがノックされた。
「失礼。柳洞はいるか」
「え? あ、はい。なんですか先生」
一成はやってきた葛木《くずき》となにやら話し込む。
生徒会の簡単な打ち合わせなのだろうが、一成はわりと力を抜いているようだ。
「………へえ」
それは、ちょっとお目にかかれない光景だ。
ああ見えて、一成は人見知りが激しい。クラスメイトにも教師にも線を引くあの男が、生徒会顧問の葛木に対しては気を許している。
「……真面目なところで気が合うのかも」
2年A組の担任である葛木《くずき》宗一郎《そういちろう》は、とにかく真面目で堅物だ。
おそらく、そのあたりが規律を重んじる一成と波長があうのだろう。
「――――――――」
二人の話し合いは続いていく。
それを眺めながら、なぜか、先ほど聞いた殺人事件のことが頭から離れなかった。
◇◇◇
授業が終わり、下校時刻になる。
今日はバイトが入っているので寄り道はできない。
学校に残るコトはせず、まっすぐに隣町に行かなくてはいけないのだが―――
朝の話が気になったのか、気が付けば弓道場に来てしまった。
「―――ああもう、何やってんだ俺」
美綴の話では、遠坂凛は頻繁にここに来るらしい。
それは、まあ―――気にするコトなんてないけど、慎二が遠坂に手をあげるのは問題だと思う。
「……慎二のヤツ、カッとなると止まらないからな……」
遠坂にふられて慎二が暴力をふるうのはダメだ。
……いや、何がダメなのかは分からないけど、とにかくダメだ。
そんなシーン、思い描くだけで不快になるんだから、出来るなら止めなくては。
「って―――なんだ、遠坂、いないじゃないか」
道場の周りに遠坂の姿はない。
美綴の心配はただの杞憂だ。
「へえ、誰がいないって?」
「っ!」
咄嗟に振り向く。
「だーかーらー、誰がいないって?」
と。ついさっき別れたばかりの一成がいた。
「お、おまえか一成。あんまり驚かすなよな」
「いや、衛宮が挙動不審げに道場を眺めていたからつい。―――で、誰がいないって?」
「誰って、遠坂だよ。なんでも昨日、慎二と一悶着あったらしいんだ。それで一応、様子を見に来ただけだ」
「ほうほう。挙動不審だな、訊かれてもいないのに理由まで話すなど。俺は誰がいないかと訊いただけなのだが?」
「――――! な、なんだよ。別にいいだろ、俺が何しようが俺の勝手だっ」
「うむ、それはしかり。だが無駄だぞ衛宮。遠坂はここにはいない。何故なら、あいつは今日ズル休みだ」
「なに?」
ズル休みって、つまり欠席?
「そうか、欠席か……って、待て一成。なんで遠坂がズル休みなんだよ。あいつがそんなのするわけないだろ」
「するとも、あいつが風邪など引くものか。俺が見たところアイツは悪いヤツだ。外見に騙されるとパクッと食われるぞ、衛宮」
「――――む」
なぜか、一成の言葉が癇に触る。
たしかに俺は遠坂を知らないが、あいつが悪い人間とは思えない。
「言い過ぎだぞ、一成。遠坂はそんなヤツじゃないだろう」
「むむ? なんだ、衛宮も遠坂狙いなのか。ああ、それはすまない、今のは流してくれ」
「――――!」
と、遠坂狙いって、誰がそんなコトを―――!
「か、勝手に決めつけるな! 俺はただ、慎二がもめ事を起こしたらたいへんだから―――」
「慎二が遠坂に殴りかかろうとしたら止める為か。また損な役回りをするな。……別に俺は気にしないが、わりと趣味が悪いのだな衛宮は」
「してないから損じゃない。けど一成。おまえ、いまヘンなコト言わなかった?」
「うん? 遠坂狙いは趣味が悪いって事かい」
「そう。遠坂は人気あるじゃないか。俺もあいつの悪い噂は聞かないぞ」
「ああ、聞かないね。それがまた気にくわない」
ふん、と鼻をならしてそっぽを向く一成。
「気にくわないって、どのヘンがだよ」
「だから全部だよ。アレは女狐だ。女生《にょしょう》だ。妖怪だ。とにかく生理的に気にくわない。悪いことは言わないから、衛宮も気に入らないようにしろ」
「一成。人の陰口は良くないって、おまえの口癖じゃなかったか」
「たわけ。これが陰口に入るか。俺は聞こえるように喋っている」
ああ、どうりで弓道場から視線を感じる訳だ。
……良かった。
今日、遠坂が欠席で本当に良かった。
「頼む一成。悪いが、早速陰口にしてくれ」
「うむ、衛宮がそう言うのなら了解した。
が、とりわけ中傷をしていた訳ではないぞ。単に柳洞一成が遠坂凛を警戒している、と言っただけだ。あくまで個人の趣味趣向の範囲だろう」
「そのわりには妖怪だとか女狐だとか言ってたけど」
……というか、女生というのはあきらかに差別用語ではあるまいか。
「なに、褒め言葉だ。女狐にも妖怪にも善いモノはいる。あくまで遠坂を表現する値として採用しただけである。喝」
かんらかんらと笑う一成。
「それではな。俺は生徒会室に戻るが、衛宮はバイトだろう? こんなところで道草を食っている暇はなかろう」
言いたい事を言ってすっきりしたのか、泰然とした後ろ姿で去っていく一成。
知り合って二年になるが、正直、あの男の性格はいまいち掴めない。
◇◇◇
学校からバスに乗る事二十分。
橋を渡って隣町である新都に到着した。
「……なんだ、まだ五時前か。少し時間があるな」
住宅街である深山町ではアルバイトのタネは無いに等しいが、開発地区である新都なら仕事に事欠かない。
校則でアルバイトが許可されている事もあり、簡単な仕事を請け負っている。
そんな中で自分が好む仕事は力仕事で、ハードで、出来る限り短時間で終わる、というものだ。
体を鍛えられてお金を貰えるんだから、一挙両得というものだろう。
今日のバイトは五時から八時までの、簡単な荷物運びだ。
三時間だけとはいえ、その内容は六時間ほどの濃さがある。なにしろ一分の休憩もなしで走り回されるようなものなのだ。
故に、たとえ十分程度と言えど休める時は休んでおくべきだろう。
時間までブラブラしているのも体力の無駄遣いだし、公園に入って時間まで休んでいよう。
ビル街のただ中にある公園は、木々と芝生に覆われた大きな広場、という趣だ。
休日であるなら親子連れや恋人たちで賑わう公園も、この時間だと人気はない。
いや―――もともと、公園の中でもここだけは何時であろうと人気はないのだ。
「相変わらずだな、ここは」
少し呆れた。
荒れ放題の地面は、きちんと整地された周囲に比べてあまりにも見窄《みすぼ》らしい。
荒涼とした地面に引きずられているのか、吹く風も冷たかった。
ここは十年前の大火災の跡で、そのまま焼け死ぬ筈だった自分が助けられた場所でもある。
「なんで芝生とか植えないんだろ。いつまでもこのままってのは勿体ない」
これだけ広い土地なんだから、ちゃんと整地すれば公園は一段と広くなるだろうに。
ぼんやりとそんな事を思いながら、適当なベンチに座った。
「――――――――」
時間潰しに焼け跡の大地を眺める。
かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。
子供だったから覚えていないのだろうし、記憶できるほど簡単な光景でもなかった為だろう。
覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。
それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。
「どうして、そうなのかな」
例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。
例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたら水はなくなって、他の人たちはみんな息絶えてしまった。
例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。
それと、例えば。
何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまって力尽きてしまった人とか。
「――――――」
そういうのは嫌だった。
頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。
誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。
ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。
“それは難しい。士郎の言っている事は、誰も彼も救うという事だからね”
幼い自分の疑問に、切嗣はそう答えた。
当然、幼い自分はくってかかった。
だって切嗣は俺を助けてくれた。なんでもできる魔法使いなんだって知っていた。
無償で、ただ苦しんでいる人を放っておけず手を出した正義の味方なんだって分かっていた。
だから―――切嗣ならあの時だって、みんなを助ける事ができたんじゃないかって信じていた。
そうぶちまけた俺に、切嗣は余計に困った顔をして、一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした。
“士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”
そりゃあ分かる。
言われてみれば当たり前だ。
ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。
通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。
それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。
つまり、人質を助けられてしまった強盗である。
正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。
だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。
「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」
十年前の火事はそういうモノだ。
今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。
「けど、イヤだ」
そういうのは、イヤだった。
初めから定員が決まっている救いなどご免だ。
どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。
あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。
だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――
「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」
それは絶対だ。
まったく、我ながら夢がない。
「っと、しまった。ぼんやりしてたら五時になっちまった」
五時を告げる鐘が鳴り響く。
ベンチから立ち上がり、急いでバイト先へと向かっていった。
◇◇◇
バイトが終わった頃、日は沈みきっていた。
時刻は八時前。
予定より十分ほど早く終わったのは、単に頑張りすぎたせいだ。
仕事前にあんな場所に寄ってしまったからか、がむしゃらに働いてしまったらしい。
駅前という事もあり、ここでは夜が始まったばかりだ。
人波は多く、道を行く自動車も途切れることがない。
見上げるビルにはまだ明かりが灯っていて、それだけで手の込んだイルミネーションを見ているようだ。
「藤ねえにおみやげ―――はいいか」
明かりのついたビルを見上げながら歩く。
新都で一番大きいビルなので、さすがに上の方はよく見えない。
ただ夜景を楽しむ為にビルを見上げていると、
「――――?」
なにか、不釣り合いなモノが見えた気がした。
「なんだ、今の」
立ち止まって最上階を見上げる。
両目に意識を集中させて、米粒程度にしか見えないソレを、ぼんやりと視界に捉える。
[#挿絵(img/106.JPG)入る]
「――――な」
それは、知っている誰かに似ていた。
何の意味があって、
何をする為にあんな場所にいるのか。
長い髪をたなびかせ、何をするでもなく、彼女は街を見下ろしている。
「――――」
こちらに気が付いている様子はない。
いや、見えている訳がない。
人並み外れて目のいい自分が、魔力で視力を水増ししてようやく判る高さだ。
あんなところで一人きりで立っているからこそ見分けられるが、地上で人波に紛れている自分になど気が付く筈もないだろう。
彼女はただ街を見下ろしている。
何かを捜しているのか、こんなに遠くからでも鋭い視線が感じられた。
「――――――――」
時間を忘れて、虚空に立つ少女を見上げる。
それは高い塔の上。
月を背に下界を見下ろす、魔法使いのようだった。
「あ」
と。
用が済んだのか、あっさりと彼女は身を翻していった。
屋上から人影は消え、綺麗なだけの夜景に戻る。
「今の、遠坂だったのかな」
確証は持てないが、まず間違いはあるまい。
あれだけ目立つ容姿の女の子はそういないし、なにより、ひそかに憧れているヤツを見間違えるほど間抜けじゃない。
「……そうか。に、しても」
なんていうか、その。
ヘンな趣味してるんだな、遠坂。
◇◇◇
新都と違い、深山町に人影はない。
夜の八時を過ぎれば通りを行く人もなく、町は静まり返っている。
交差点には、朝方見かけた一軒家がある。
人気《ひとけ》はなく、玄関には立ち入り禁止の札がかけられているだけだった。
……たった一日で、家は廃墟のように閑散としていた。
押し入り強盗によって殺された両親と姉。
一人残された子供にはこの先どんな生活が待っているのか。
「――――」
無力さに唇を噛んだ。
切嗣のようになるのだと誓いながら、こんな身近で起きた出来事にさえ何もできない。
誰かの役に立ちたいと思いながらも、結局、今の自分に出来る事がなんなのかさえ判っていない。
坂を上りきって衛宮の家に着く。
明かりがついているので、藤ねえか桜がまだ残っているのだろう。
「ただいま―――あれ、藤ねえだけか?」
「ん? あ、お帰り士郎〜」
ぱりぱりとお煎餅を食べながら振り向く藤ねえ。
テレビはガチャガチャと賑やかなバラエティ番組を映している。
「もう、またこんな時間に帰ってきて。冬は日が暮れるのが早いんだから、もっと早くに帰ってきなさいって言ったでしょ」
「だから早く帰ってきてるだろ。八時までのバイトを選んでるんだから、これ以上無茶言わないでくれ。
……で、桜はどうしたんだよ。なんか、晩飯の支度だけはできてるみたいだけど」
「桜ちゃんなら早めに帰ったわよ? 今日は用事があるからって、晩ごはんだけ作ってくれたの」
嬉しそうに語る藤ねえ。
この人にとって、ごはんを作ってくれる人はみんないい人なんだろう。
「そっか。確かにしばらくはその方がいいかもしれないな。最近は物騒だし、いっそ新学期まで晩飯は俺が作ろうか」
「えー、はんたーい! 士郎、帰ってくるの遅いじゃない。それからごはん作ってたら、食べるの十時過ぎになっちゃうよぅ」
「……あのね。そこに自分ん家で食べる、という選択肢はないのかアンタは」
「だから、ここがわたしのうちだよ?」
はてな、と首をかしげる藤ねえ。
正直、嬉しいんだか悲しいんだか判断がつきかねる。
「ったく、分かったよ。藤ねえにメシを作れ、なんて無理難題を言ってもしょうがねえ。
……それはいいけど、足下のソレ、なんだよ。また余計なモノ持ってきたんじゃないだろうな」
藤ねえはいらないガラクタをうちに置いていく、という度し難い悪癖がある。
ファミレスでもらってきた使い道のない巨大なドンブリとか、商店街でひきとってきたやたら重い土瓶とか、ひとりでに演奏しだす怪しいギターとか、とにかく、ひとんちを都合のいい倉庫だと思っている節がある。
「ちょっと見せてみろ。ゴミだったら捨てるから」
「これ? えーと、うちで余ったポスターだけど」
はい、とポスターを手渡してくる藤ねえ。
おおかた売れない演歌歌手のポスターか何かだろう。
「どれどれ」
ほら見ろ、ハリボテっぽい青空をバックに、笑顔で親指を出している軍服姿の青年。
血文字っぽい見出しはズバリ、
『恋のラブリーレンジャーランド。
いいから来てくれ自衛隊』
―――って、これ自衛隊の隊員募集じゃねえかっ……!
「それ、いらないからあげるね」
「うわあ、俺だっていらねえよこんなの!」
広げたポスターを高速で巻き戻し、ぽかん、と藤ねえの頭を叩く。
「へへーん、はずれー」
が。
藤ねえめ、隠し持ってたもう一本のポスターで上段切りを払うやいなや、容赦なく反撃してきた。
ぽかん、と。
軽やかにポスターが直撃す――――
「ぐはぁ!?」
星だ! いま星が見えたスター!
「ふっふっふ。士郎の腕でわたしに当てようなんて甘いわよ。悔しかったらもうちょっと腕を磨きなさいね」
「ぐっ……そ、そんな問題じゃないだろ、今の。な、何故に紙のポスターがかような破壊音を……」
もしや、割り箸の袋で割り箸を断つという達人の技なのか……!?
「え? あ、ごめんごめん。こっちのポスター、初回特典版なんで豪華鉄板仕様だった。
……士郎、頭大丈夫……?」
「……藤ねえ、いつか絶対に人を殺すぞ、その性格……」
「えへへー。その時は士郎がお嫁にもらってくれるから安心かなー」
「ふん、全速でお断りです。そんな天然殺人鬼を相方にもらう気はないやい」
「むっ。わたし、そんな物騒なのじゃないと思う」
「やっぱり。得てしてそういう連中は自覚がないっていうのはホントだったのか」
なんまいだぶ、なんまいだぶ。
俺もいつ殺られないかと注意して暮らさないと。
「ふんだ、言ってなさい。そんな事より士郎、わたしお腹へった。今まで待ってたんだから、早くごはんの用意しよ」
よいしょ、と立ち上がる藤ねえ。
……珍しい。藤ねえが(たとえ食器の準備だけとはいえ)手伝ってくれるなんて、よっぽど腹ペコなのに違いない。
「はいはい。んじゃ藤ねえは皿と茶碗な。ごはんぐらいつげるだろ」
「つげるよー? ねえ士郎、わたしドンブリでいいかな」
「いいんじゃないか。今日は桜もいないし、どうせメシは余るし」
「よしよし。それじゃ士郎もおそろいね」
せっせと二つのドンブリにごはんをよそう藤ねえ。
「………………」
まあいいか。どうせおかわりするんだし、藤ねえのやる事に口だしなんてしたら、それこそ夕食がなくなっちまう。
それに、まあ。
こういったメチャクチャな夕食こそ、ここ何年も続いてきた当たり前の風景なんだから。
……一日が終わる。
騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。
あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。
それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。
午前一時。
一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。
[#改ページ]
2月2日     3 Long day,long night
炎の中にいた。
崩れ落ちる家と焼けこげていく人たち。
走っても走っても風景はみな赤色《せきしょく》。
これは十年前の光景だ。
長く、思い出す事がなかった過去の記憶。
その中を、再現するように走った。
悪い夢だと知りながら出口はない。
走って走って、どこまでも走って。
行き着く先は結局、力尽きて助けられる、幼い頃の自分だった。
「――――――――」
嫌な気分のまま目が覚めた。
胸の中に鉛がつまっているような感覚。
額に触れると、冬だと言うのにひどく汗をかいていた。
「……ああ、もうこんな時間か」
時計は六時を過ぎていた。
耳を澄ませば、台所からはトントンと包丁の音が聞こえてくる。
「桜、今朝も早いな」
感心している場合じゃない。
こっちもさっさと支度をして、朝食の手伝いをしなければ。
「士郎、今日どうするのよ。土曜日だから午後はアルバイト?」
「いや、バイトは入ってないよ。一成のところでなんかやってると思うけど、それがどうかしたか?」
「んー、べつに。暇だったら道場の方に遊びにきてくんないかなーって。わたし、今月ピンチなのだ」
「? ピンチって、何がさ」
「お財布事情がピンチなの。誰かがお弁当作ってくれると嬉しいんだけどなー」
「断る。自業自得だ、たまには一食ぐらい抜いたほうがいい」
「ふーんだ、士郎には期待してないもん。わたしが頼りにしてるのは桜ちゃんだけなんだから。ね、桜ちゃん?」
「はい。わたしと同じ物でよろしければ用意しておきますね、先生」
「うん、おっけーおっけー。じゃあ今日は一緒にお昼を食べましょう」
いつも通りに朝食は進んでいく。
今朝のメニューは定番の他、主菜でレンコンとこんにゃくのいり鶏が用意されていた。
朝っぱらからこんな手の込んだ物を作らなくとも、と思うのだが、きっと大量に作って昼の弁当に使うのだろう。
桜は弓道部員だし、藤ねえは弓道部の顧問だ。
二人が弁当で結ばれるのも至極当然の流れと言える。
「そう言えば士郎。今朝は遅かったけど、何かあった?」
みそ汁を飲みながらこっちに視線を向ける藤ねえ。
……ったく。普段は抜けているクセに、こういう時だけ鋭いんだからな、藤ねえは。
「昔の夢を見た。寝覚めがすっげー悪かっただけで、あとはなんともない」
「なんだ、いつもの事か。なら安心かな」
とりわけ興味なさそうに会話を切る藤ねえ。
こっちもホントに気にしていないので、ムキになる話でもない。
十年前。
まだあの火事の記憶を忘れられない頃は、頻繁に夢にうなされていた。
それも月日が経つごとになくなって、今では夢を見てもさらりと流せるぐらいに立ち直れている。
……ただ、当時はわりと酷かったらしく、その時からうちにいた藤ねえは、俺のそういった変化には敏感なのだ。
「士郎、食欲はある? 今朝にかぎってないとかない?」
「ない。なんともないんだから、人の夢にかこつけてメシを横取りなんてするなよな」
「ちぇっ。士郎が強くなってくれて嬉しいけど、もちょっと繊細でいてくれたほうがいいな、お姉ちゃんは」
「そりゃこっちの台詞だ。もちっと可憐になってくれたほうがいいぞ、弟分としては」
ふん、とお互い視線を交わさないで罵りあう。
それが元気な証拠となって、藤ねえは安心したように笑った。
「――――ふん」
正直、その心遣いは嬉しい。
ま、感謝すると付け上がるので、いつも通り不満そうに鼻を鳴らす。
「??」
そんな俺たちを見て、事情を知らない桜が不思議そうに首をかしげていた。
◇◇◇
藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。
「先輩。今日の夜から月曜日までお手伝いに来れませんけど、よろしいですか?」
「? 別にいいよ。だって土日だろ、桜だって付き合いがあるんだから、気にする事ないぞ」
「え―――そんな、違います……! そういうんじゃないです、本当に個人的な用事で、ちゃんと部活にだって出るんですから! だ、だからなにかあったら道場に来てくれればなんとかします!
別に土日だから遊びに行くわけじゃないです、だから、あの……ヘンな勘違いはしないでもらえると、助かります」
「???」
桜は挙動不審というか、えらく緊張しているようだ。
何が言いたいのかよく判らないが、とにかく土日は来られないという事だろう。
「判った。何かあったら道場に行くよ」
「はい、そうしてもらえれば嬉しいです」
ほう、と胸をなで下ろす桜。
そうして視線を下げた桜の顔が、一転して強ばった。
「先輩、手―――」
「?」
桜の視線の先にあるのは俺の左手だ。
見ると―――ぽたり、と赤い血が零れていた。
「あれ?」
学生服の裾をたくし上げる。
そこには確かに血が滲んでいた。
「なんだこれ。昨日の夜、ガラクタいじってて切ったかな」
にしては痛みがない。
傷だって、ただ腕にミミズ腫れのような痣《あざ》があるだけだ。
痣は肩から手の甲まで一直線に伸びていて、小さな蛇が、肩口から手のひらを目指して突き進んでいるようにも見えた。
「ま、痛みもないしすぐに引くだろ。大丈夫、気にするほどじゃない」
「……はい。先輩がそう言うのでしたら、気にしません」
血を見て気分を悪くしたのか、桜はうつむいたまま黙ってしまった。
◇◇◇
部活がある桜と別れて校舎に向かう。
校庭には走り込みをしている運動部の部員たちがいて、朝から活気が溢れている。
「…………」
にも関わらず、酷い違和感があった。
学校はいつも通りだ。
朝練に励む生徒たちは生気に溢れ、真新しい校舎には汚れ一つない。
「……気のせいか、これ」
なのに、目を閉じると雰囲気が一変する。
校舎には粘膜のような汚れが張り付き、校庭を走る生徒たちはどこか虚ろな人形みたいに感じられる。
「……疲れてるのかな、俺」
軽く頭をふって、思考をクリアにする。
そうして、どことなく元気がないように感じられる校舎へ足を向けた。
◇◇◇
土曜日の学校は早く終わる。
午前中で授業は終わり、その後で一成の手伝いを終えた頃には、日は地平線に没しかけていた。
「さて、そろそろ帰るか」
荷物をまとめて教室を後にする。
と。
「なんだ。まだ学校にいたんだ、衛宮」
ばったりと慎二と顔を合わせた。
慎二の後ろには何人かの女生徒がいて、なにやら騒がしい。
「やる事もないクセにまだ残ってたの? ああそうか、また生徒会にごますってたワケね。いいねえ衛宮は、部活なんてやんなくても内申稼げるんだからさ」
「生徒会の手伝いじゃないぞ。学校の備品を直すのは生徒として当たり前だろ。使ってるのは俺たちなんだから」
「ハ、よく言うよ。衛宮に言わせれば何だって当たり前だからね。そういういい子ぶりが癇に触るって前に言わなかったっけ?」
「む? ……すまん、よく覚えていない。それ、慎二の口癖だと思ってたから、どうも聞き流してたみたいだ」
「っ――――!
フン、そうかい。それじゃ学校にある物ならなんでも直してくれるんだ、衛宮は」
「何でも直すなんて無理だ。せいぜい面倒見るぐらいだが」
「よし、なら頼まれてくれよ。うちの弓道場さ、今わりと散らかってるんだよね。弦も巻いてないのが溜まってるし、安土《あづち》の掃除もできてない。
暇ならさ、そっちの方もよろしくやってくれないかな。元弓道部員だろ? 生徒会になんか尻尾ふってないで、たまには僕たちの役にたってくれ」
「えー? ちょっとせんぱーい、それって先輩が藤村先生に言われてたコトじゃなかったー?」
「そうですよう、ちゃんとやっておかないと明日怒られますよー?」
「でもさー、今から片づけしてたら店閉まるじゃん。そこの人がやってくれるんならそれでいいんじゃないの?」
「悪いよー。それに部外者に後片づけなんか出来るワケないし……」
「そうでもないんじゃない? あの人、元弓道部員だって慎二が言ってるしさぁ、任せちゃえばいいのよ」
なんか、慎二の後ろが騒がしい。
弓道部員みたいだが、見知った顔がないという事は最近慎二が勧誘しているという部員たちだろうか。
「じゃ、あとはよろしく。鍵の場所は変わってないから、かってにやっといてよ。文句ないよね、衛宮?」
「ああ、かまわないよ。どうせ暇だったから、たまにはこういうのも悪くない」
「はは、サンキュ! それじゃ行こうぜみんな、つまんない雑用はアイツがやっといてくれるってさ!」
「あ、待ってよせんぱーい! あ、じゃ後はよろしくお願いしますねぇ、先輩」
勝手知ったるなんとやら、弓道場の整理は苦もなく終わった。
これだけ広いと時間がかかったが、一年半前まで使っていた道場を綺麗にするのは楽しかった。
途中、一度ぐらいならいいかな、と弓を手に取ったが、人の弓に弦を張るのも失礼なので止めておいた。
弓が引きたくなったのなら、自分の弓を持ってお邪魔すればいいだけの話だし。
「……にしても、カーボン製の弓が多くなったな。一年前までは一つしかなかったのに」
カーボン製の弓はプラスチックや木の物と違って、色々な面で便利な弓だ。
ただ値段が高い事が最大のネックで、とても部費で買えるものじゃなかった。
当時は使っているのは慎二ぐらいだったが、新しく入ってきた部員たちはわりとお金持ちなんだろうか?
「……もったいない。木の弓の方が色々と手を加えられるのに」
ま、そのあたりは個人の好き好きか。
時計を見れば、とうに門限は過ぎている。
時刻は七時を過ぎたあたり。この分じゃ校門は閉められてるだろうから、無理して早く帰る必要はなくなってしまった。
……それにしても。
この道場ってこんなに汚れていたっけ。弓置きの裏とか部室とか、細かいところに汚れが目立つ。
「……ま、ここまできたら一時間も二時間も変わらないか」
乗りかかった船だ。どうせだからとことん掃除してしまおう―――
風が出ていた。
あまりの冷たさに頬がかじかむ。
……冬でもそう寒くない冬木の夜は、今日に限って冷え込んでいた。
「――――――――」
はあ、とこぼした吐息が白く残留している。
指先まで凍るような大気の冷たさに、体を縮めて耐える。
「……なんだ。暗いと思ったら月が隠れてるのか」
見上げた空に白い光はない。
強い風のせいか、空には雲が流れている。
門限が過ぎ、人気の絶えた学校には熱気というものがない。
物音一つしないこの敷地は、町のどの場所より冷気に覆われているようだ。
「…………?」
何か、いま。
物音が、聞こえたような。
「―――確かに聞こえる。校庭の方か……?」
この夜。
凍てついた空の下、静寂を破る音が気になったのか。
真偽を確かめる為に、俺は、その場所へと向かってしまった。
―――校庭にまわる。
「…………人?」
初め、遠くから見た時はそうとしか見えなかった。
暗い夜、明かりのない闇の中だ。
それ以上の事を知りたければ、とにかく校庭に近づくしかない。
音は大きく、より勢いを増して聞こえてきた。
これは鉄と鉄がぶつかり合う音だ。
となれば、あそこでは何者かが刃物で斬り合っている、という事だろう。
「……馬鹿馬鹿しい。なに考えてるんだ、俺……」
頭の中に浮かんだイメージを苦笑で否定して、さらに足を進めていく。
―――この時。
本能が危険を察知していたのか、隠れながら進んでいた事が、ついていたのかそうでないのか。
ともかく身を隠せる程度の木によりそって、より近くから音の発信源を見――――
そこで、意識が完全に凍り付いた。
「――――――――な」
何か、よく分からないモノがいた。
赤い男と青い男。
時代錯誤を通り越し、もはや冗談とすら思えないほど物々しい武装をした両者は、不吉なイメージ通り、本当に斬り合っていた[#「本当に斬り合っていた」に丸傍点]。
理解できない。
視覚で追えない。
あまりにも現実感のない動きに、脳が正常に働かない。
ただ凶器の弾けあう音だけが、あの二人は殺し合っているのだと、否応なしに知らせてくる。
「――――――――」
ただ、見た瞬間に判った。
アレは人間ではない。おそらくは人間に似た別の何かだ。
自分が魔術を習っているから判ったんじゃない。
あんなの、誰が見たってヒトじゃないって判るだろう。
そもそも人間はあんな風に動ける生物ではない。
だからアレは、関わってはいけないモノだ。
「――――――――」
離れていても伝わってくる殺気。
……死ぬ。
ここにいては間違いなく生きてはいられないと、心より先に体の方が理解していた。
鼓動が激しいのもそういう事だ。
同じ生き物として、アレは殺す為だけの生き物なのだと感じている。
「――――――――」
……ソレらは包丁やナイフなんて足下にも及ばない、確実に人を殺す為の凶器を繰り出している。
ふと、昨日の殺人事件が頭をよぎった。
犠牲になった家族は、刀のような凶器で惨殺されたという。
「っ―――――――」
これ以上直視していてはダメだ。
だというのに体はピクリとも動かず、呼吸をする事もできない。
逃げなければと思う心と、
逃げ出せばそれだけで見つかるという判断。
……その鬩《せめ》ぎ合い以上に、手足が麻痺して動かない。
あの二人から四十メートルは離れているというのに、真後ろからあの槍を突きつけられているような気がして、満足に息も出来ない。
「――――――――」
音が止まった。
二つのソレは、距離をとって向かい合ったまま立ち止まる。
それで殺し合いが終わったのかと安堵した瞬間、いっそう強い殺気が伝わってきた。
「っ………………!」
心臓が萎縮する。
手足の痺れは痙攣に変わって、歯を食いしばって、震えだしたくなる体を押さえつけた。
「うそだ――――なんだ、アイツ――――!?」
青い方のソレに、吐き気がするほどの魔力が流れていく。
周囲から魔力を吸い上げる、という行為は切嗣に見せてもらった事がある。
それは半人前の俺から見ても感心させられる、一種美しさを伴った魔術だった。
だがアレは違う。
水を飲む、という単純な行為も、度を過ぎれば醜悪に見えるように。
ヤツがしている事は、魔力を持つ者なら嫌悪を覚えるほど暴食で、絶大だった。
「――――――――」
殺される。
あの赤いヤツは殺される。
あれだけの魔力を使って放たれる一撃だ。それが防げる筈がない。
死ぬ。
ヒトではないけれど、ヒトの形をしたモノが死ぬ。
それは。
それは。
それは、見過ごして、いい事なのか。
その迷いのおかげで、意識がソレから外れてくれた。
金縛りが解け、はあ、と大きく呼吸をした瞬間。
「誰だ――――!」
青い男が、じろりと、隠れている俺を凝視した。
「………っっ!!」
青い男の体が沈む。
それだけで、ソレの標的は自分に切り替わったと理解できた。
「あ――――あ…………!」
足が勝手に走り出す。
それが死を回避する行為なのだとようやく気づいて、体の全てを、逃走する事に注ぎ込んだ。
どこをどう走ったのか、気が付けば校舎の中に逃げ込んでいた。
「何を――――バカな」
はあはあと喘ぎながら、自分の行動に舌打ちする。
逃げるなら町中だ。
こんな、自分から人気のない場所に逃げるなんてどうかしてる。
それも学校。同じ隠れるのでも、もっと隠れやすい場所があるんじゃないのか。
そもそもなんだって俺はこんな、走らなければ殺されるなんて、物騒な錯覚に捕らわれてしまっている―――
「ハァ――――ハァ、ハァ、ハ――――ァ」
限界以上に走りづめだった心臓が軋《きし》む。
振り向けば、追いかけてくる気配はない。
カンカンと響く足音は自分だけの物だ。
「ァ――――ハァ、ハァ、ハァ」
なら、これでようやく止まれる。
もう一歩だって動かない足を止めて、壊れそうな心臓に酸素を送って、はあ、と大きくあごをあげて、助かったのだと実感できた。
「……ハァ……ぁ……なんだったんだ、今の……」
乱れた呼吸を整えながら、先ほどの光景を思い返す。
とにかく、見てはいけないモノだったのは確かな事だ。
夜の校庭で人間に似たモノ同士が争っていた。
思い返せるのはそれだけだ。
ただ、もう一つ視界の隅にあったのは、
「……もう一人、誰かいた気がするけど……」
それがどんな姿をしていたかまでは思い出せない。
正直、あの二人以外に意識をさいている余裕などなかった。
「けど、これでともかく――――」
「追いかけっこは終わり、だろ」
その声は、目の前から、した。
「よぅ。わりと遠くまで走ったな、オマエ」
そいつは、親しげに、そんな言葉を口にした。
「――――」
息ができない。
思考が止まり、何も考えられないというのに。
――――漠然と、これで死ぬのだな、と実感した。
「逃げられないってのは、オマエ自身が誰よりも判ってたんだろ? なに、やられる側ってのは得てしてそういうもんだ。別に恥じ入る事じゃない」
フッ、と。
無造作に槍が持ち上げられ、そのまま。
「運がなかったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」
容赦も情緒もなく、男の槍は、衛宮士郎の心臓を貫いた。
よける間などなかった。
今まで鍛えてきた成果なんて一片も通じなかった。
殺されると。
槍で貫かれると判っていながら、動く事さえできなかった。
「ぁ――――ぁ」
世界が歪む。
体が冷めていく。
指先、末端から感覚が消えていく。
「こ――――ふ」
一度だけ、口から血を吐き出した。
本来ならなお零《こぼ》れるはずの吐血は、ただ一度きりだった。
男の槍は特別製だったのかもしれない。
血液はゆっくりと淀んでいて、壊れて血をまき散らす筈の心臓《ポンプ》は、ただの一刺しで綺麗に活動を停止していた。
「――――――――」
よく見えない。
感覚がない。
暗い夜の海に浮かんでいる海月《クラゲ》のよう。
痛みすらとうに感じない。
世界は白く、自分だけが黒い。
だから自分が死んだというより、
まわりの全てがなくなったような感じ。
知っている。
十年前にも一度味わった。
これが、死んでいく人間の感覚だ。
「死人に口なしってな。弱いヤツがくたばるのは当然と言えば当然だが―――」
意識が視力にいかない。
「―――まったく嫌な仕事をさせてくれる。この様で英雄とは笑いぐさだ」
ただ、声だけが聞こえてくる。
「解っている、文句はないさ。女のサーヴァントは見たんだ。大人しく戻ってやるよ」
苛立ちを含んだ声。
その後に、廊下を駆けてくる足音が。
「―――アーチャーか。ケリをつけておきたいところだが、マスターの方針を破る訳にもいくまい。……まったく、いけすかねえマスターだこと」
唐突に声は消えた。
窓から飛び降りたのだろう。
その後に。
やってきた足音が止まった。
その、奇妙な間。
……また足音。
もう、よく聞き取れ、ない。
「追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと」
……それは誰の声だったか。
かすんでいく意識を総動員して思い出そうとしたが、やはり、何も考えつかなかった。
今はただ、呼吸だけがうるさい。
肺はまだ生きているのか。
ひゅーひゅーと口から漏れる音が、台風みたいに、喧しかった。
「そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」
覗き込まれる気配。
そいつも俺の呼吸がうるさかったのか、この口を閉じようと指を伸ばして――――
「……やめてよね。なんだって、アンタが」
ぎり、と。
悔しげに歯を噛む音が聞こえた途端、そいつは、ためらう事なく、血に濡れた俺に触れてきた。
「……破損した臓器を偽造して代用、その間に心臓一つまるまる修復か……こんなの、成功したら時計塔に一発合格ってレベルじゃない……」
苦しげな声。
それを境に、薄れていくだけの意識がピタリと止まった。
「――――――――」
体に感覚が戻ってくる。
ゆっくりと、少しずつ、葉についた水滴が零《こぼ》れるぐらいゆっくりと、体の機能が戻っていく。
「――――――――」
……ぽたり、ぽたり。
何をしているのか。
寄り添ったそいつは額から汗を流して、一心不乱に、俺の胸に手を当てている。
「――――――――」
気が付けば、手のひらを置かれた箇所が酷く熱い。
きっと、それが死んでいた体を驚かせるぐらい熱かったから、凍っていた血潮が流れだしてくれたのだ。
「――――――――ふぅ」
大きく息を吐いて座り込む気配。
「っかれたぁ……」
カラン、と何かが落ちる音。
「……ま、仕方ないか。ごめんなさい父さん。貴方の娘は、とんでもなく薄情者です」
それが最後。
自嘲ぎみに呟いて、誰かの気配はあっさりと遠ざかっていった。
「――――――――」
心臓が活動を再開する。
そうして、今度こそ意識が途切れた。
……それは死に行く為の眠りではなく。
再び目覚める為に必要な、休息の眠りだった。
「あ…………つ」
呆然と目が覚めた。
のど元には吐き気。体はところどころがズキズキと痛んで、心臓が鼓動する度に、刺すような頭痛がする。
「何が――――起きた?」
頭痛が激しくて思い出せない。
長いこと廊下で眠っていたせいか、震えがくるほど体は冷え切っている。
唯一確かな事は、胸の部分が破れた制服と、べったりと廊下に染みついた自分の血だけ。
「…………っ」
朦朧とする頭を抱えて立ち上がった。
自分が倒れていた場所は、殺人現場のように酷い有様だ。
「……くそ、ほんとに……」
――――この胸を、貫かれたのか。
「……はぁ……はぁ……ぐ……」
こみ上げてくる物を堪えながら、手近な教室に入る。
おぼつかない足取りのままロッカーを開けて、雑巾とバケツを取り出した。
「……あれ……なにしてんだろ、俺……」
まだ頭がパニックしてる。
とんでもないモノに出会って、いきなり殺されたっていうのに、なんだってこんな時まで、後片づけをしなくちゃいけないなんて思ってるんだ、馬鹿。
「……はぁ……はぁ……くそ、落ちない……」
……雑巾で床を拭く。
手足に力が入らないまま、なんとかこびりついた血を拭き取って、床に落ちていたゴミを拾い集めてポケットに入れた。
……証拠隠滅、というヤツかもしれない。
朦朧とした頭だからこそ、そんなバカな事をしたのだろう。
「……あ……はぁ……はぁ……はぁ……」
雑巾とバケツを片づけて、ゾンビのような足取りで学校を後にした。
……歩く度に体の熱が上がる。
外はこんなにも冷たいのに、自分の体だけ、燃えているようだった。
……家に帰る頃には、とうに日付が変わっていた。
屋敷には誰もいない。
桜はもとより、藤ねえもとっくに帰った後だ。
「……あ……はあ、はあ、は―――あ」
どすん、と床に腰を下ろした。
そのまま床に寝転がって、ようやく気持ちが落ち着いてくれた。
「……………………」
深く息を吸い込む。
大きく胸を膨らますと、罅《ひび》が入るかのように心臓が痛んだ。
……いや、それは逆だ。
実際ひび割れていたどころじゃない。
穴が開いていた心臓が塞がれて、治ったばかりだから、膨張させると傷が開きかけるのだ。
「……殺されかけたのは本当か」
それも違う。
殺されかけたのではなく、殺された。
それがこうして生きているのは、誰かが助けてくれたからだ。
「……誰だったんだ、アレ。礼ぐらい言わせてほしいもんだけど」
あの場に居合わせた、という事はアイツらの関係者かもしれない。
それでも助けてくれた事に変わりはない。いつか、ちゃんと礼を言わなくては。
「あ……ぐ……!」
気を抜いた途端、痛みが戻ってきた。
同時にせり上がってくる嘔吐感。
「あ……は、ぐっ……!」
体を起こして、なんとか吐き気を堪える。
「っ……ふ、っ……」
制服の破れた箇所、むき出しになっている胸に手を触れた。
助けられたとはいえ、胸に穴が開いたのだ。
あの感覚。
あんな、包丁みたいな槍の穂先がずっぷりと胸に刺さった不快感は、ちょっとやそっとじゃ忘れられない。
「……くそ。しばらく夢に見るぞ、これ」
目を瞑れば、まだ胸に槍が刺さっている気がする。
そんな錯覚を振り払って、ともかく冷静になろうと気を静めた。
「……よし。落ち着いてきた」
毎晩の鍛錬の賜物。
深呼吸を数回するだけで思考はクリアになり、体の熱も嘔吐感も下がっていく。
「それで、アレの事だけど」
青い男と赤い男。
見た目は人間だったが、アレは人ではないと思う。
幽霊の類だろうか。
だが実体を持ち、生きている人間に直接干渉できる幽霊なんて聞いたことがない。
しかもアレは喋っていた。自分の意志もあるって事は、ますます幽霊とは思いにくい。
……それに肉を持つ霊は精霊の類だけと聞くが、精霊っていうのは人の形をしていないんじゃなかったっけ……?
「……いや。問題はそんなじゃなくて」
他に、もっと根本的な問題がある筈だ。
……殺し合いをしていた二人。
……近所の家に押し入ったという強盗殺人。
……何かと不吉な事件が続く冬木の町。
「………………」
それだけ考えて、判ったのは自分の手には負えない、という事だけだ。
「……こんな時、親父が生きてれば」
胸の傷があまりに生々しかったからか、口にするべきじゃない弱音を吐いていた。
「―――間抜け。判らなくても、自分に出来る事をやるって決めてるじゃないか」
弱音を吐くのはその後だ。
まずは、そう―――関わるのか関わらないのか、その選択をしなくては―――
「――――!?」
屋敷の天井につけられていた鐘が鳴る。
ここは腐っても魔術師の家だ。
敷地に見知らぬ人間が入ってくれば警鐘が鳴る、ぐらいの結界は張ってある。
「こんな時に泥棒か――――」
呟いて、自らの愚かさに舌を打つ。
そんな筈はない。
このタイミング、あの異常な出来事の後で、そんな筈はない。
侵入者は確かにいる。
それは泥棒なんかじゃなく、物ではなく命を奪りにきた暗殺者だ。
だって、あの男は言っていたじゃないか。
『見られたからには殺すだけだ』、と。
「―――――」
屋敷は静まりかえっている。
物音一つしない闇の中、確かに―――あの校庭で感じた殺気が、少しずつ近づいてくる。
「――――っ」
ごくり、と喉が鳴った。
背中には針のような悪寒。
幻でもなんでもなく、この部屋から出れば、即座に串刺しにされる。
「っ――――」
漏れだしそうな悲鳴を懸命に抑えた。
そんな物をこぼした瞬間、暗殺者は歓喜のていで俺を殺しに飛び込んでくるだろう。
……そうなれば、あとは先ほどの繰り返しだ。
何の準備もできていない自分は、またあの槍に貫かれる。
「――――ぁ――――はぁ、ぁ――――」
そう思った途端、呼吸が無様に乱れ出した。
頭にくる。
恐怖を感じている自分と、助けてもらった命を簡単に放棄しようとしている自分が、情けない。
「っ――――く」
歯をかみ合わせ、貫かれた胸を掻きむしって、つまらない自分を抑えつける。
いい加減、慣れるべきだ。
これで二度目。
殺されようとしているのはこれで二度目。
それだけでもさっきのような無様は見せられないっていうのに、衛宮士郎は魔術師ではないのか。
なら、こんな時に自分さえ守れなくて、この八年何を学んできたという―――!
「……いいぜ。やってやろうじゃないか」
難しい事を悩むのは止めだ。
今はただ、来たヤツを叩き出すだけ。
「……まずは、武器をどうにかしないと」
魔術師といっても、俺に出来る事は武器になりそうな物を“強化”する事だけだ。
戦うには武器がいる。
土蔵なら武器になりそうな物は山ほどあるが、ここから土蔵までは遠い。
このまま居間を出た時に襲われるとしたら、丸腰ではさっきの繰り返しになる。
……難しいが、武器はここで調達しなければならない。
出来れば細長い棒状の物が望ましい。相手の得物は槍だ。ナイフや包丁では話にならない。
木刀なんてものがあれば言うことはないのだが、そんなものは当然ない。
この居間で武器になりそうな物と言えば――――
「うわ……藤ねえが置いていったポスターしかねえ……」
がくり、と肩の力が抜ける。
が、この絶対的にどうしようもない状況に、むしろ腹が据わった。
ここまで最悪の状況なら、これ以下に落ちる事はない。
なら―――後はもう、力尽きるまで前進するだけだ。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ程度のポスターに魔力を通す。
あの槍をどうにかしようというモノに仕上げるのだから、ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては使えないだろう。
「――――構成材質、解明」
意識を細く。
皮膚ごしに、自らの血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。
「――――構成材質、補強」
こん、と底に当たる感触。
ポスターの隅々まで魔力が行き渡り、溢れる直前、
「――――全工程《トレース》、完了《オフ》」
ザン、とポスターと自身の接触を断ち、成功の感触に身震いした。
ポスターの硬度は、今では鉄並になっている。
それでいて軽さは元のままで、急造の剣としては文句なしの出来栄えだ。
「巧く、いった―――」
強化の魔術が成功したのは何年ぶりだろう。
切嗣が亡くなってから一度も形にならなかった魔術が、こんな状況で巧くいくなんて皮肉な話だ。
「ともあれ、これで――――」
なんとかなるかもしれない。
剣を扱う事なら、こっちだってそれなりに心得はある。
両手でポスターを握り締め、居間のただ中に立った。
どのみちここに留まっても殺されるし、屋敷から出たところで逃げきれるとも思えない。
なら、あとは一直線に土蔵に向かって、もっと強い武器を作るだけだ――――
「――――――ふう」
来るなら来やがれ、さっきのようにはいくもんか、と身構えた瞬間。
「―――――――!」
ぞくん、と背筋が総毛立った。
何時の間にやってきていたのか。
天井から現れたソレは、一直線に俺へと落下した。
「な………え――――?」
頭上から滑り落ちてくる銀光。
天井から透けて来たとしか思えないソイツは、脳天から俺を串刺しにせんと降下し―――
「こ――――のぉ……!!」
ただ夢中で、転がるように前へと身を躱した。
たん、という軽い着地音と、ごろごろとだらしなく転がる自分。
それもすぐさま止めて、急造の剣を持ったまま立ち上がる。
「――――」
ソイツは退屈そうな素振りで、ゆらりと俺へと振り返る。
「……余計な手間を。見えていれば痛かろうと、オレなりの配慮だったのだがな」
ソイツは気だるそうに槍を持ちかえる。
「――――」
どういう事情かは知らないが、今のアイツには校庭にいた時ほどの覇気がない。
それなら、本当に―――このまま、なんとか出し抜く事ができる……!
「……まったく、一日に同じ人間を二度殺すハメになるとはな。いつになろうと、人の世は血生臭いという事か」
男はこちらの事など眼中にない、という素振りで悪態をついている。
「――――」
じり、と少しずつ後ろに下がる。
窓まであと三メートルほど。
そこまで走り、庭に出てしまえば後は土蔵まで二十メートルあるかないかだ。
それなら、今すぐにでも――――
「じゃあな。今度こそ迷うなよ、坊主」
ぼんやりと。
ため息をつくように、男は言った。
「っぁ――――!?」
右腕に痛みが走る。
「……?」
それは一瞬の出来事だった。
あまりに無造作に、反応する間もなく男の槍が突き出された。
……本来なら、それで俺は二度目の死を迎えていただろう。
それを阻んだのは、身構えていた急造の剣である。
アイツはただの紙だとでも思ったのだろう。
ポスターなど無いかのように突き出された槍は、その紙の剣に弾かれ、こちらの右腕を掠めるに留まったのだ。
「……ほう。変わった芸風だな、おい」
男の顔から表情が消えた。
先ほどまでの油断は微塵と消え、獣じみた眼光で、こちらの動きを観察している。
「ぁ――――」
しくじった。なんとかなる、なんて度し難い慢心だった。
―――今目の前にいるのは、常識から外れた悪鬼だ。
そいつを前にして少しでも気を緩ませた自分の愚かさを痛感する。
……そう。
本当に死に物狂いだったのなら、頭上からの一撃を奇跡的にやりすごせた後、脇目も振らずに窓へ走っておくべきだったのだ……!
「ただの坊主かと思ったが、なるほど……微弱だが魔力を感じる。心臓を穿たれて生きている、ってのはそういう事か」
槍の穂先がこちらに向けられる。
「――――――――」
防げない。
あんな、閃光めいた一撃は防げない。
この男の得物がせめて剣なら、どんなに早くても身構える程度はできただろう。
だがアレは槍だ。
軌跡が線である剣と、点である槍。
初動さえ見切れない点の一撃を、どう防げというのか。
「いいぜ―――少しは楽しめそうじゃないか」
男の体が沈み込む。
刹那――――
正面からではなく、横殴りに槍が振るわれた。
顔の側面へと振るわれた槍を、条件反射だけで受け止める。
「ぐっ――――!?」
「いい子だ、ほら次行くぞ……!」
ブン、という旋風。
この狭い室内でどんな扱いをしているのか、槍は壁につかえる事もなく美しい弧を描き、
「っ……!!!!!」
今度は逆側から、フルスイングでこちらの胴を払いに来る……!
「がっ――――!!!??」
止めに入った急造の剣が折れ曲がる。
化け物―――アイツが持ってんのはハンマーか!
くそ、構えていた両腕の骨がひしゃげたんじゃないのかこの痺れ―――!
「ぐ、この――――!」
「ふん?」
反射的に剣を振るう。
こちらを舐めているのだろう、未だ戻しに入っていない槍の柄《え》を剣で弾きあげる―――!
「ぐっ……!」
叩きにいった両腕が痺れる。
急造の剣はますます折れ曲がり、男の槍はわずかだけ軌道を逸らした。
「……使えねえな。機会をくれてやったのに無駄な真似しやがって。まあ、魔術師に斬り合いを望んでも仕方ねえんだろうが―――」
男の今の行動はただの遊びだ。
二つ受けたらご褒美に打ち込んでこさせてやる、という余裕。
……その唯一にして絶対の機会を、俺はその場しのぎに使ってしまった。
故に―――この男は、俺に斬り合うだけの価値を見いださない。
「―――拍子抜けだ。やはりすぐに死ねよ、坊主」
男は打ち上げられた槍を構え直す。
「勝手に――――」
その、あるかないかの余分な動作《スキ》に。
「言ってろ間抜け――――!」
後ろも見ず、背中から窓へと飛び退いた……!
「はっ、はぁ、は――――」
背中で窓をブチ割って庭へと転がり出る。
そのまま、数回転がった後、立ち上がりざま――――
「は、あ――――!」
何の確証もなく、
体ごとひねって背後へと一撃する―――!
「ぬ――――!」
突きだした槍を弾かれ、わずかに躊躇する男。
―――予想通りだ。
窓から飛び出せば、アイツは必ず追撃してくる。
それもこっちが起きあがる前に追いついて、確実に殺しにかかる。
だからこそ―――必殺の一撃がくると信じて、満身の力で剣を横に払った。
少しでも遅ければ即死、早くても空振りした隙に殺されかねない無謀な策だが、ヤツとの実力差を見てこちらが早すぎる、なんて事はない。
だからこっちがする事は、全身全霊の力で一刻も早く起き上がり、背後へと一撃する事だけだったのだ。
結果はドンピシャ、賭けそのものだった一撃は見事に男の槍をはじき返した……!
「は、っ……!」
即座に態勢を立て直す。
あとは男が怯んでいる隙に、なんとか土蔵まで走り抜ければ―――!
「――――飛べ」
「え……?」
槍を弾かれた筈の男は、槍など持たず、空手のまま俺へと肉薄し、
くるりと背中を向けて、回し蹴りを放ってきた。
「――――――――」
景色が流れていく。
蹴り上げられた胸が痺れ、呼吸ができない。
いや、それより驚くべき事は、自分が空を飛んでいるという事だ。
ただの回し蹴りで、自分の体がボールみたいに蹴り飛ばされるなんて、夢にも思――――
「ぐっ――――!」
背中から地面に落ちた。
壁にぶつかり、背中が折れる程の衝撃を受けて、ずるりと地面に落ちたのだ。
「ごほ――――っ、あ…………!」
息ができない。
視界が霞む。
壁―――目的地だった土蔵の壁に手をついて、なんとか体を奮い立たせる。
「は――――はあ、は」
霞む視界で男を追った。
……本当に、二十メートル近く蹴り飛ばされたのか。
男は槍を持ち直して、一直線に突進してくる。
「ぐ――――!」
殺される。
間違いなく殺される。
男はすぐさまやってくるだろう。
それまで―――死にたくないのなら、立ち上がって、迎え撃た、なけれ、ば――――
「――――」
迸《ほとばし》る槍の穂先。
男に振り返る事もできず、崩れ落ちそうだった体が槍を迎える。
「チィ、男だったらシャンと立ってろ……!」
なんて悪運。
体を支えきれず、膝を折ったのが幸いした。
槍は俺の頭上、土蔵の扉を強打し、重い扉を弾き開けた。
「あ――――」
だから、それが最後のチャンス。
土蔵の中に入れば、何か―――武器になるようなもの、が。
「ぐっ――――!」
四つん這いになって土蔵へ滑り込む。
そこへ――――
「そら、これで終いだ―――!」
避けようのない、必殺の槍が放たれた。
「こ――――のぉぉおおおおお!」
それを防いだ。
棒状だったポスターを広げ、一度きりの盾にする。
「ぬ……!?」
ゴン、という衝撃。
広げきったポスターでは強度もままならなかったのか。
槍こそ防いだが、ポスターは貫通され、途端に元の紙へと戻っていく。
「あ、ぐっ……!」
突き出された槍の衝撃に吹き飛ばされ、壁まで弾き飛ばされる。
「ぁ――――、づ――――」
床に尻餅をついて、止まりそうな心臓に喝を入れる。
そうして、武器になりそうな物を掴もうと顔を上げた時。
「詰めだ。今のはわりと驚かされたぜ、坊主」
目前には、槍を突きだした男の姿があった。
「―――――――――――」
もはや、この先などない。
男の槍はぴったりと心臓に向けられている。
それは知ってる。
つい数時間前に味わった痛み、容赦なく押しつけられた死の匂いだ。
「……しかし、分からねえな。機転は利くくせに魔術はからっきしときた。筋はいいようだが、まだ若すぎたか」
……男の声は聞こえない。
意識はただ、目の前の凶器に収束してしまっている。
当然だ。
だって、アレが突き出されれば自分は死ぬ。
だから他の事など余計なこと。事此処《ことここ》にいたり、今更他の何が考えられる。
「もしやとは思うが、おまえが七人目だったのかもな。
ま、だとしてもこれで終わりなんだが」
男の腕が動いた。
今まで一度も見えなかったその動きが、今はスローモーションのように見える。
走る銀光。
俺の心臓に吸い込まれるように進む穂先。
一秒後には血が出るだろう。
それを知っている。
体に埋まる鉄の感触も、
喉にせり上がってくる血の味も、
世界が消えていく感覚も、
つい先ほど味わった。
……それをもう一度? 本当に?
理解できない。なんでそんな目に遭わなくてはいけないのか。
……ふざけてる。
そんなのは認められない。こんな所で意味もなく死ぬ訳にはいかない。
助けて貰ったのだ。なら、助けてもらったからには簡単には死ねない。
俺は生きて義務を果さなければいけないのに、死んでは義務が果たせない。
それでも、槍が胸に刺さる。
穂先は肉を裂き、そのまま肋《あばら》を破り心臓を穿つだろう。
「――――」
頭に来た。
そんな簡単に人を殺すなんてふざけてる。
そんな簡単に俺が死ぬなんてふざけてる。
一日に二度も殺されるなんて、そんなバカな話もふざけてる。
ああもう、本当に何もかもふざけていて、大人しく怯えてさえいられず、
「ふざけるな、俺は――――」
こんなところで意味もなく、
おまえみたいなヤツに、
殺されてやるものか――――!!!!!!
「え―――――?」
それは、本当に。
「なに………!?」
魔法のように、現れた。
目映い光の中、それは、俺の背後から現れた。
思考が停止している。
現れたそれが、少女の姿をしている事しか判らない。
ぎいいいん、という音。
それは現れるなり、俺の胸を貫こうとした槍を打ち弾き、躊躇う事なく男へと踏み込んだ。
「―――本気か、七人目のサーヴァントだと……!?」
弾かれた槍を構える男と、手にした“何か”を一閃する少女。
二度火花が散った。
剛剣一閃。
現れた少女の一撃を受けて、たたらをふむ槍の男。
「く――――!」
不利と悟ったのか、男は獣のような俊敏さで土蔵の外へ飛び出し―――
退避する男を体で威嚇しながら、それは静かに、こちらへ振り返った。
風の強い日だ。
雲が流れ、わずかな時間だけ月が出ていた。
土蔵に差し込む銀色の月光が、騎士の姿をした少女を照らしあげる。
「――――」
声が出ない。
突然の出来事に混乱していた訳でもない。
ただ、目前の少女の姿があまりにも綺麗すぎて、言葉を失った。
「――――――――」
少女は宝石のような瞳で、何の感情もなく俺を見据えた後。
「―――問おう。貴方が、私のマスターか」
[#挿絵(img/107.JPG)入る]
凛とした声で、そう言った。
「え……マス……ター……?」
問われた言葉を口にするだけ。
彼女が何を言っているのか、何者なのかも判らない。
今の自分に判る事と言えば―――この小さな、華奢な体をした少女も、外の男と同じ存在という事だけ。
「……………………」
少女は何も言わず、静かに俺を見つめてくる。
―――その姿を、なんと言えばいいのか。
この状況、外ではあの男が隙あらば襲いかかってくる状況を忘れてしまうほど、目の前の相手は特別だった。
自分だけ時間が止まったかのよう。
先ほどまで体を占めていた死の恐怖はどこぞに消え、今はただ、目前の少女だけが視界にある―――
「サーヴァント・セイバー、召喚に従い参上した。
マスター、指示を」
二度目の声。
その、マスターという言葉と、セイバーという響きを耳にした瞬間、
「――――っ」
左手に痛みが走った。
熱い、焼きごてを押されたような、そんな痛み。
思わず左手の甲を押さえつける。
それが合図だったのか、少女は静かに、可憐な顔を頷かせた。
「―――これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。
――――ここに、契約は完了した」
「な、契約って、なんの――――!?」
俺だって魔術師の端くれだ。その言葉がどんな物かは理解できる。
だが少女は俺の問いになど答えず、頷いた時と同じ優雅さで顔を背けた。
――――向いた先は外への扉。
その奥には、未だ槍を構えた男の姿がある。
「――――」
まさか、と思うより早かった。
騎士風の少女は、ためらう事なく土蔵の外へと身を躍らせる。
「!」
体の痛みも忘れ、立ち上がって少女の後を追った。
あの娘があの男に敵う筈がない。
いくらあんな物騒な格好をしていようと、少女は俺より小さな女の子なんだ。
「やめ――――!」
ろ、と叫ぼうとした声は、その音で封じられた。
「な――――」
我が目を疑う。
今度こそ、何も考えられないぐらい頭の中が空っぽになる。
「なんだ、あいつ――――」
響く剣戟《けんげき》。
月は雲に隠れ、庭はもとの闇に戻っている。
その中で火花を散らす鋼と鋼。
土蔵から飛び出した少女に、槍の男は無言で襲いかかった。
少女は槍を一撃で払いのけ、更に繰り出される槍を弾き返し、その度《つど》、男は後退を余儀なくされる。
「――――」
信じ、られない セイバーと名乗った少女は、間違いなくあの男を圧倒していた。
―――戦いが、始まった。
先ほどの俺と男のやりとりは戦闘ではない。
戦闘とは、互いを仕留める事ができる能力者同士の争いである。
それがどのような戦力差であろうとも、相手を打倒しうる術があるのなら、それは戦闘と呼べるだろう。
そういった意味でも、二人の争いは戦闘だった。
俺では視認する事さえ出来なかった男の槍は、さらに勢いを増して少女へと繰り出される。
それを、
手にした“何か”で確実に弾き逸らし、間髪いれずに間合いへと踏み込む少女。
「チィ――――!」
憎々しげに舌打ちをこぼし、男は僅かに後退する。
手にした槍を縦に構え、狙われたであろう脇腹を防ぎに入る――――!
「ぐっ……!」
一瞬、男の槍に光が灯った。
爆薬を叩き付けるような一撃は、真実その通りなのだろう。
少女が振るう“何か”を受けた瞬間、男の槍は感電したかのように光を帯びる。
それがなんであるか、男はおろか俺にだって見て取れた。
アレは、視覚できる程の魔力の猛りだ。
少女の何気ない一撃一撃には、とんでもない程の魔力が籠もっている。
そのあまりにも強い魔力が、触れ合っただけで相手の武具に浸透しているのだ。
あんなもの、受けるだけでも相当な衝撃だろう。
男の槍が正確無比な狙撃銃だとしたら、少女の一撃は火力に物を言わせた散弾銃だ。
少女の一撃が振るわれる度に、庭は閃光に包まれる。
だが。
男が圧倒されているのは、そんな二次的な事ではない。
「卑怯者め、自らの武器を隠すとは何事か……!」
少女の猛攻を捌きながら、男は呪いじみた悪態をつく。
「――――――――」
少女は答えず、更に手にした“何か”を打ち込む……!
「テメェ……!」
男は反撃もままならず後退する。
それも当然だろう。
なにしろ少女が持つ武器は視《み》えないのだ。
相手の間合いが判らない以上、無闇に攻め込むのは迂闊すぎる。
そう、見えない。
少女は確かに“何か”を持っている。
だがそれがどのような形状なのか、どれほどの長さなのか判明しないのでは、一切が不可視のままだ。
もとから透明なのか、少女の振るう武器は火花を散らせようと形が浮かび上がらない。
「チ――――」
よほど戦いづらいのか、男には先ほどまでの切れがない。
「――――」
それに、初めて少女は声を漏らした。
手にした“何か”を振るう腕が激しさを増す。
絶え間ない、豪雨じみた剣の舞。
飛び散る火花は鍛冶場の錬鉄を思わせる。
―――それを舌打ちしながら防ぎきる槍の男。
正直、殺されかけた相手だとしても感嘆せずにはいられない。
槍の男は見えない武器を相手に、少女の腕の動きと足運びだけを頼りに確実に防いでいく―――!
「ふ――――っ!」
だがそれもそこまで。
守りに回った相手は、斬り伏せるのではなく叩き伏せるのみ。そう言わんばかりに少女はより深く男へと踏み込み、
叩き降ろすように、渾身の一撃を食らわせる……!!
「調子に乗るな、たわけ――――!」
ここが勝機と読んだか、男は消えた。
否、消えるように後ろに跳んだ。
ゴウン、と空を切って地面を砕き、土塊を巻き上げる少女の一撃。
槍の男を追い詰め、トドメとばかりに振るわれた一撃はあっけなく躱《かわ》された――――!
「バカ、なにやってんだアイツ……!」
遠くから見ても判る。
今までのような無駄のない一撃ならいざ知らず、勝負を決めにかかった大振りでは男を捉える事はできない。
男とて、何度も少女の猛攻を受けて体が軋んでいただろう。
それを圧して、この一瞬の為に両足に鞭をうって跳んだのだ。
今の一撃こそ、勝敗を決する隙と読み取って――――!
「ハ――――!」
数メートルも跳び退いた男は、着地と同時に弾けた。
三角飛びとでもいうのか、自らの跳躍を巻き戻すように少女へと跳びかかる。
対して―――少女は、地面に剣を打ち付けてしまったまま。
「――――!」
その隙は、もはや取り返しがつかない。
一秒とかからず舞い戻ってくる赤い槍と、
ぐるん、と。
地面に剣を下ろしたまま、コマのように体を反転させる少女。
「!」
故に、その攻防は一秒以内だ。
己の失態に気が付き踏みとどまろうとする男と、
一秒もかけず、体ごとなぎ払う少女の一撃――――!
「ぐっ――――!!」
「――――――――」
弾き飛ばされた男と、弾き飛ばした少女は互いに不満の色を表した。
それも当然。
お互いがお互いを仕留めようと放った必殺の手だ。
たとえ窮地を凌《しの》いだとしても、そんな物には一片の価値もあるまい。
間合いは大きく離れた。
今の攻防は互いに負担が大きかったのか、両者は静かに睨み合っている。
「―――どうしたランサー。
止まっていては槍兵の名が泣こう。そちらが来ないのなら、私が行くが」
「……は、わざわざ死にに来るか。それは構わんが、その前に一つだけ訊かせろ。
貴様の宝具――――それは剣か?」
ぎらり、と。
相手の心を射抜く視線を向ける。
「―――さあどうかな。
戦斧かも知れぬし、槍剣かも知れぬ。いや、もしや弓という事もあるかも知れんぞ、ランサー?」
「く、ぬかせ剣使い《セイバー》」
それが本当におかしかったのか。
男……ランサーと呼ばれた男は槍を僅かに下げた。
それは戦闘を止める意思表示のようでもある。
「?」
少女はランサーの態度に戸惑っている。
だが―――俺は、あの構えを知っている。
数時間前、夜の校庭で行われた戦い。
その最後を飾る筈だった、必殺の一撃を。
「……ついでにもう一つ訊くがな。お互い初見だしよ、ここらで分けって気はないか?」
「――――――――」
「悪い話じゃないだろう? そら、あそこで惚けているオマエのマスターは使い物にならんし、オレのマスターとて姿をさらせねえ大腑抜けときた。
ここはお互い、万全の状態になるまで勝負を持ち越した方が好ましいんだが――――」
「―――断る。貴方はここで倒れろ、ランサー」
「そうかよ。ったく、こっちは元々様子見が目的だったんだぜ? サーヴァントが出たとあっちゃ長居する気は無かったんだが――――」
ぐらり、と。
二人の周囲が、歪んで見えた。
ランサーの姿勢が低くなる。
同時に巻き起こる冷気。
―――あの時と同じだ。あの槍を中心に、魔力が渦となって鳴動している――――
「宝具――――!」
少女は剣らしき物を構え、目前の敵を見据える。
俺が口を出すまでもない。
敵がどれほど危険なのかなど、対峙している彼女がより感じ取っている。
「……じゃあな。その心臓、貰い受ける――――!」
獣が地を蹴る。
まるでコマ送り、ランサーはそれこそ瞬間移動のように少女の目前に現れ、
その槍を、彼女の足下めがけて繰り出した。
「――――」
それは、俺から見てもあまりに下策だった。
あからさまに下段に下げた槍で、さらに足下を狙うなど少女に通じる筈がない。
事実、彼女はそれを飛び越えながらランサーを斬り伏せようと前に踏み出す。
その、瞬間。
「“――――刺し《ゲ》穿つ《イ》”」
それ自体が強力な魔力を帯びる言葉と共に、
「“――――死棘の《ボル》槍《ク》――――!”」
下段に放たれた槍は、少女の心臓に迸っていた。
「――――!?」
浮く体。
少女は槍によって弾き飛ばされ、大きく放物線を描いて地面へと落下――――いや、着地した。
「は―――っ、く……!」
……血が流れている。
今まで掠り傷一つ負わなかった少女は、その胸を貫かれ、夥《おびただ》しいまでの血を流していた。
「呪詛……いや、今のは因果の逆転か――――!」
苦しげに声を漏らす。
……驚きはこちらも同じだ。
いや、遠くから見ていた分、彼女以上に今の一撃が奇怪な物だったと判る。
槍は、確かに少女の足下を狙っていた。
それが突如軌道を変え、あり得ない形、あり得ない方向に伸び、少女の心臓を貫いた。
だが槍自体は伸びてもいないし方向を変えてもいない。
その有様は、まるで初めから少女の胸に槍が突き刺さっていたと錯覚するほど、あまりにも自然で、それ故に奇怪だった。
軌跡を変えて心臓を貫く、などと生易しい物ではない。
槍は軌跡を変えたのではなく、そうなるように過程《じじつ》を変えたのだ。
……あの名称《ことば》と共に放たれた槍は、大前提として既に“心臓を貫いている”という“結果”を持ってしまう。
つまり、過程と結果が逆という事。
心臓を貫いている、という結果がある以上、槍の軌跡は事実を立証する為の後付でしかない。
あらゆる防御を突破する魔の棘。
狙われた時点で運命を決定付ける、使えば『必ず心臓を貫く』槍。
そんな出鱈目な一撃、誰に防ぐ事が出来よう。
敵がどのような回避行動をとろうと、槍は必ず心臓に到達する。
―――故に必殺。
解き放たれれば、確実に敵を貫く呪いの槍―――
が。
それを、少女は紙一重で躱《かわ》していた。
貫かれはしたものの、致命傷は避けている。
ある意味、槍の一撃より少女の行動は不可思議だった。
彼女は槍が放たれた瞬間、まるでこうなる事を知ったかのように体を反転させ、全力で後退したのだ。
よほどの幸運か、槍の呪いを緩和するだけの加護があったのか。
とにかく少女は致命傷を避け、必殺の名を地に落としたのだが――――
「は――――ぁ、は――――」
少女は乱れた呼吸を整えている。
あれだけ流れていた血は止まって、穿たれた傷口さえ塞がっていく―――
「――――」
桁違いとはああいうモノか。
彼女が普通じゃないのは判っていたが、それにしても並外れている。
ランサーと斬り合う技量といい、一撃ごとに叩きつけられる膨大な魔力量といい、こうしてひとりでに傷を治してしまう体といい、少女は明らかにランサーを上回っている。
……しかし、それも先ほどまでの話。
再生中といえど、少女の傷は深い。
ここでランサーに攻め込まれれば、それこそ防ぐ事も出来ず倒されるだろう。
だが。
圧倒的に有利な状況にあって、ランサーは動かなかった。
ぎり、と。
ここまで聞こえるほどの歯ぎしりを立てて少女を睨む。
「―――躱したなセイバー。我が必殺の一撃《ゲイ・ボルク》を」
地の底から響く声。
「っ……!? ゲイ・ボルク……御身はアイルランドの光の御子か――!」
ランサーの顔が曇る。
先ほどまでの敵意は薄れ、ランサーは忌々しげに舌打ちをした。
「……ドジったぜ。こいつを出すからには必殺でなけりゃヤバイってのにな。まったく、有名すぎるのも考え物だ」
重圧が薄れていく。
ランサーは傷ついた少女に追い打ちをかける事もせず、あっさりと背中を見せ、庭の隅へ移動した。
「己の正体を知られた以上、どちらかが消えるまでやりあうのがサーヴァントのセオリーだが……あいにくうちの雇い主は臆病者でな。槍が躱《かわ》されたのなら帰ってこい、なんてぬかしてやがる」
「――逃げるのか、ランサー」
「ああ。追って来るのなら構わんぞセイバー。
ただし―――その時は、決死の覚悟を抱いて来い」
トン、という跳躍。
どこまで身が軽いのか、ランサーは苦もなく塀を飛び越え、止める間もなく消え去った。
「待て、ランサー……!」
胸に傷を負った少女は、逃げた敵を追おうとして走り出す。
「バ、バカかアイツ……!」
全力で庭を横断する。
急いで止めなければ少女は飛び出していってしまいそうだったからだ。
……が、その必要はなかった。
塀を飛び越えようとした少女は、跳ぼうと腰を落とした途端、苦しげに胸を押さえて立ち止まった。
「く――――」
傍らまで走り寄って、その姿を観察する。
いや、声をかけようと近寄ったのだが、そんな事は彼女に近づいた途端に忘れた。
「――――――――」
……とにかく、何もかもが嘘みたいなヤツだった。
銀の光沢を放つ防具は、間近で見ると紛れもなく重い鎧なのだと判る。
時代がかった服も見たことがないぐらい滑らかで鮮やかな青色。
……いや、そんな事で見とれているんじゃない。
俺より何歳か年下のような少女は、その―――とんでもない美人だった。
月光に照らされた金の髪は、砂金をこぼしたようにきめ細かく。
まだあどけなさを残した顔は気品があり、白い肌は目に見えて柔らかそうだった。
「――――――――」
声をかけられないのは、そんな相手の美しさに息を呑んでいるのともう一つ。
「――――なんで」
この少女が戦って傷を負っているのかが、ひどく癇に触ったからだ。
どんなに強くて鎧で身を守っていようと、女の子が戦わなくちゃいけないなんていうのは、なにか間違っていると思う。
俺がぼんやりと少女に見とれていた間、少女はただ黙って胸に手を当てていた。
それもすぐに終わった。
痛みが引いたのか、少女は胸から手を離して顔を上げる。
まっすぐにこちらを見据える瞳。
それになんて答えるべきか、と戸惑って、彼女の姿に気が付いた。
「……傷が、なくなってる……?」
心臓を外したとはいえ、あの槍で胸を貫かれたというのに、まったく外傷がない。
……治療の魔術がある、とは聞いているけど、魔術が行われた気配はなかった。
つまりコイツは、傷を受けようが勝手に治るという事か――――
「――――っ」
それで頭が切り替わった。
見とれている場合じゃない、コイツは何かとんでもないヤツだ。正体が判らないまま気を許していい相手じゃない。
「―――おまえ、何者だ」
半歩だけ後ろに下がって問う。
「? 何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。
……貴方が私を呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう」
静かな声で、眉一つ動かさず少女は言った。
「セイバーのサーヴァント……?」
「はい。ですから私の事はセイバーと」
さらりと言う。
その口調は慇懃《いんぎん》なくせに穏やかで、なんていうか、耳にするだけで頭ん中が白く―――
「――――っ」
……って、なにを動揺してんだ俺は……!
「そ、そうか。ヘンな名前だな」
熱くなっている頬を手で隠して、なにかとんでもなくバカな返答をした。けどそれ以外なんて言えばいいのか。そんなの俺に判る筈もないし、そもそも俺が何者かって訊いたんだから名前を言うのは普通だよな―――ってならいつまでも黙ったままなのは失礼なのではないかとか。
「……俺は士郎。衛宮士郎っていって、この家の人間だ」
―――どうかしてる。
なんか、さらに間抜けな返答をしてないか俺。
いやでも、名前を言われたんだからともかく名乗り返さないといけない。
我ながら混乱しているのは分かっているが、どんな相手にだって筋は通さないとダメなのだ。
「――――――――」
少女……セイバーは変わらず、やっぱり眉一つ動かさないで、混乱している俺を見つめている。
「いや、違う。今のはナシだ、訊きたいのはそういう事でなくて、つまりだな」
「解っています。貴方は正規のマスターではないのですね」
「え……?」
「しかし、それでも貴方は私のマスターです。契約を交わした以上、貴方を裏切りはしない。そのように警戒する必要はありません」
「う……?」
やばい。
彼女が何を言っているのか聞き取れているクセにちんぷんかんぷんだ。
判っているのは、彼女が俺の事を主人《マスター》なんて、とんでもない言葉で呼んでいる事ぐらい。
「それは違う。俺、マスターなんて名前じゃないぞ」
「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」
「っ…………!」
彼女にシロウと口にされた途端、顔から火が出るかと思った。
だって初対面の相手なら名前じゃなくて名字で呼ばないかフツー……!?
「ちょっと待て、なんだってそっちの方を――――」
「痛っ……!」
突然、左手に痺れが走った。
「あ、熱っ……!」
手の甲が熱い。
まるで発火しているかのような熱さをもった左手には、
入れ墨のような、おかしな紋様が刻まれていた。
「な――――」
「それは令呪と呼ばれるものですシロウ。
私たちサーヴァントを律する三つの命令権であり、マスターとしての命でもある。無闇な使用は避けるように」
「お、おまえ――――」
一体なんだ、と今度こそ問いつめようとした矢先、彼女の雰囲気が一変した。
「―――シロウ、傷の治療を」
冷たい声で言う。
その意識は俺にではなく、遠く―――塀の向こうに向けられているようだった。
けど治療って、俺にしろっていうのか……?
「待て、まさか俺に言ってるのか? 悪いけどそんな難しい魔術は知らないし、それにもう治ってるじゃないか、それ」
セイバーは僅かに眉を寄せる。
……なんか、とんでもない間違いを口にした気がする。
「……ではこのままで臨みます。自動修復は外面を覆っただけですが、あと一度の戦闘ならば支障はないでしょう」
「……? あと一度って、何を」
「外の敵は二人。この程度の重圧なら、数秒で倒しうる相手です」
言って、セイバーは軽やかに跳躍した。
ランサーと同じ、塀を飛び越えて外に出る。
あとに残ったのは、庭に取り残された俺だけだった。
「……外に、敵?」
口にした途端、それがどんな事なのか理解した。
「ちょっと待て、まだ戦うっていうのかおまえ……!」
体が動く。
後先考えず、全力で門へと走り出した。
「はっ、はっ、は――――!」
門まで走って、慌てる指で閂を外して飛び出る。
「セイバー、何処だ……!?」
闇夜に目を凝らす。
こんな時に限って月は隠れ、あたりは闇に閉ざされている。
だが――――
すぐ近くで物音がした。
「そこか……!」
人気のない小道に走り寄る。
―――それは、一瞬の出来事だった。
見覚えのある赤い男とセイバーが対峙している。
セイバーはためらう事なく赤い男へと突進し、一撃で相手の態勢を崩して―――
「――――――――え?」
それは、一瞬の出来事だった。
セイバーの前には赤い外套の男がいる。
赤い男はセイバーに襲われて体勢を崩し、今まさにとどめの一撃を受けようとしている。
その、奥。
赤い男に庇われながらセイバーを見つめる人影は、間違いなく俺の知っている人物だった。
「や――――」
左手を伸ばして、喉を鳴らす。
あの赤い男が何者かは知らない。
だがあの男を倒した後、セイバーは間髪入れずに奥の人物に襲いかかるだろう。
それは、ダメだ。
あいつに斬りかかるなんて、そんな事はさせられない…………!
「止めろ、セイバーーーーーー!!!!!!」
「っ――――!?」
軽い痛みが走った。
左手の甲に刻まれた印が一つだけ消えていく。
それを代償とするかのように、
本来ならば止められない筈の一撃を、セイバーは止めていた。
「っ――――」
一瞬、銀の甲冑が石化したかのように停止する。
その隙をついて、赤い男は即座に間合いを外す。
「あいつ――――さっきの」
間違いない。
あの赤い騎士はランサーと戦っていたヤツだ。
「――――――――」
そうすると、あいつの背後にいる“彼女”は、
その……あまり考えたくないが、そういうコトになるんだろうか……?
「正気ですか、シロウ。今なら確実にアーチャーとそのマスターを倒せた。だというのに、令呪を使ってまでその機会を逃すとは……!」
「――――――――」
いや、そんなコトを言われてもどうしろってんだ。
俺には状況がまるで判らない。
それでもセイバーを止めたのは、俺を助けてくれた少女が彼女《あいつ》を切り殺してしまう、なんて光景を見たくなかっただけだ。
「マスター、指示を撤回してください。貴方がそのような態度では、倒せる相手も倒せなくなる」
再び手にした“何か”を構えるセイバー。
その先には、倒し損なった赤い男の姿がある――――
「……違う。止めてくれ、セイバー。正直、俺には何がなんだか判らない。
それでも―――おまえが襲いかかろうとしているヤツは、俺が知っているヤツなんだ。それを襲わせるなんて、出来ない」
「何を言うのです。彼女はアーチャーのマスターだ。私たちの敵なのですから、ここで仕留めておかなければ」
「――――――――」
敵……?
あの赤い男と、あいつが敵……?
「……そんな事は知らない。
だいたいな、マスターなんて言ってるけど、こっちはてんで解らないんだ。俺の事をマスターなんて呼ぶんなら、少しは説明するのが筋ってもんだろう」
「……それはそうですが、しかし……」
セイバーは困ったように言い淀む。
そこへ、
「―――ふうん。つまりそういうコトなワケね、素人のマスターさん?」
丁寧なくせに刺々しい声で、そいつは声をかけてきた。
振り向いた先には赤い男と、それを押しのけて前に出る制服姿の少女がいた。
「――――――――」
思わず息を呑む。
……やっぱり見間違いじゃなかったのか。
赤い男と一緒にいる人物は、紛れもなくあの[#「あの」に丸傍点]遠坂凛だった。
「遠坂、凛――――」
なんと言えばいいのか。
遠坂の後ろにいる男が人間でないのは、俺にだって判る。
アレはセイバーと同じ、この世ならざる者だ。
なら―――それを連れている遠坂も、その―――
「え? なに、私のこと知ってるんだ。なんだ、なら話は早いわよね。
とりあえず今晩《こんばん》は、衛宮くん」
何のつもりなのか。
とんでもなく極上の笑顔で、遠坂は挨拶をしてきやがった。
「あ――――え?」
それは、参った。
そんな何げなく挨拶をされたら、今までの異常な出来事が嘘みたいな気がして、思わず挨拶を返したくなってしまう―――
「ば―――バカかおまえ、今晩はってそんな場合じゃないだろう! 遠坂、おまえは……!」
「ええ、貴方と同じマスターよ。つまりは魔術師って事になるわね。お互い似たようなものだし、隠す必要はないでしょう?」
「魔術師、だって―――? そんな、おまえ魔術師なのか遠坂……!?」
目を見開いて、思わず遠坂を指差してしまう。
「あ――――」
……しまった。
なんか知らないが遠坂のヤツ、
いかにも不機嫌そうにこっちを見返してきてるんだけど……。
「あ、いや、違う。言いたいのは、そういうことじゃなくて」
「―――そう。納得いったわ、ようするにそういうコトなワケね、貴方」
遠坂は俺たちを一瞥して、背後の男に振り返る。
「アーチャー、悪いけどしばらく霊体になっててもらえる? わたし、ちょっと頭にきたから」
「それは構わないが……頭にきたとは、どういう意味だ」
「言葉通りよ。腹いせに現状を思い知らせてやらないと気が済まなくなったの。それまで貴方の出番はないから消えていて。貴方がいたらセイバーだって剣を納められないでしょ」
「ふう、また難儀な事を。まあ命令とあらば従うだけだが……一つ忠告すると、君は余分な事をしようとしているぞ」
男は、それこそ幻のように消え去った。
「と、遠坂、いまの……!」
「いいから話は中でしましょ。どうせ何も解ってないんでしょ、衛宮くんは。安心して、イヤだって言っても全部教えてあげるから」
さらりと言って、遠坂はずんずん門へと歩いていく。
「え―――待て遠坂、なに考えてんだおまえ……!」
思わず呼び止める。
と―――
振り向いた遠坂の顔は、さっきの笑顔とは別物だった。
「バカね、いろいろ考えてるわよ。だから話をしようって言ってるんじゃない。
衛宮くん、突然の事態に驚くのもいいけど、素直に認めないと命取りって時もあるのよ。
ちなみに、今がその時だって分かって?」
「っ――――う」
「わかればよろしい。それじゃ行こっか、衛宮くんのおうちにね。貴女もそれでいいでしょうセイバー?
見逃してもらったお礼に、貴女のマスターに色々教えてあげるんだから」
「……いいでしょう。何のつもりかは知りませんが、貴方がマスターの助けになるかぎりは控えます」
遠坂は衛宮邸の門をくぐっていく。
「……なんかすげえ怒ってるぞ、あいつ……」
その理由は判らない。
いやもう、まったくもって判らないのだが……
「それにしたって、あいつ」
なんか、学校の遠坂とは180度イメージが違う気がするんだけど……。
で、なんでか不思議な状況になってしまった。
目の前にはずんずんと歩いていく学校のアイドル、憧れていた遠坂凛がいて、
背後には無言で付いてくる金髪の少女、自らをサーヴァントと名乗るセイバーがいる。
「………………」
あ。
なんか、廊下が異次元空間のような気がしてきた。
が、いつまでも腑抜けのままではいられない。
俺だって半人前と言えど魔術師だ。
同じく魔術師であるらしい遠坂がここまで堂々としているのだから、俺だってしっかりしなければ馬鹿にされる。
……とは言え、考えつくのは僅かな事だ。
まず、後ろに付いてきているセイバー。
彼女が俺をマスターと呼び、契約したというからには使い魔の類であるのは間違いない。
使い魔とは、魔術師を助けるお手伝い的なモノだと聞く。
たいていは魔術師の体の一部を移植され、分身として使役されるモノを言うのだとか。
使い魔とは魔術師の助けとなるモノ。
故に、できるだけ魔術師に負担をかけないよう、あまり魔力を必要としない小動物が適任とされる。
確かにそう教わりはしたけど、しかし。
「? 何かあるのですか、シロウ」
「……ああいや、なんでもない」
……セイバーはどう見ても人間だ。しかも明らかに主である俺より優れている。
そんな相手を縛り付ける魔力なんて俺にはないし、そもそも使い魔を使役するだけの魔術回路もない。
「…………」
だから、きっとセイバーは使い魔とは似て非なるモノの筈だ。
彼女は自分をサーヴァントと言っていた。
それがどんなモノかは知らないが、あのランサーという男も、遠坂が連れていた赤い男も同じモノなのだと思う。
セイバーは遠坂もマスターと呼んでいた。
なら、サーヴァントを連れた魔術師をマスターと呼ぶのだろう。
……遠坂も魔術師らしいが、彼女が何者なのか俺には知る由もない。
衛宮家は切嗣《オヤジ》の代からこの町にやって来たよそ者だ。
だから遠坂が魔術師だとは知らなかったし、遠坂の方も俺が魔術を習っている、なんて知らなかったに違いない。
……この町には、俺の知らない魔術師が複数いる。
ランサーとやらも他の魔術師の使い《サーヴァ》魔《ント》だとしたら、俺はつまり、魔術師同士の争いに足を突っ込んだという事だろうか――――
「へえ、けっこう広いのね。和風っていうのも新鮮だなぁ。あ、衛宮くん、そこが居間?」
なんて言いながら居間に入っていく遠坂。
「………………」
考えるのはここまでだ。
とにかく遠坂に話を聞く為に居間に入る。
電気をつける。
時計は午前一時を回っていた。
「うわ寒っ! なによ、窓ガラス全壊してるじゃない」
「仕方ないだろ、ランサーってヤツに襲われたんだ。なりふりかまってられなかったんだよ」
「あ、そういう事。じゃあセイバーを呼び出すまで、一人でアイツとやり合ってたの?」
「やりあってなんかない。ただ一方的にやられただけだ」
「ふうん、ヘンな見栄張らないんだ。……そっかそっか、ホント見た目通りなんだ、衛宮くんって」
何が嬉しいのか、遠坂は割れた窓ガラスまで歩いていく。
「?」
遠坂はガラスの破片を手に取ると、ほんの少しだけまじまじと観察し―――
「――――Minuten vor SchweiBen」
ぷつり、と指先を切って、窓ガラスに血を零した。
「!?」
それはどんな魔術なのか。
粉々に砕けていた窓ガラスはひとりでに組み合わさり、数秒とかからず元通りになってしまった。
「遠坂、今の――――」
「ちょっとしたデモンストレーションよ。助けて貰ったお礼にはならないけど、一応筋は通しておかないとね。
……ま、わたしがやらずともそっちで直しただろうけど、こんなの魔力の無駄遣いでしょ? ホントなら窓ガラスなんて取り替えれば済むけど、こんな寒い中で話すのもなんだし」
遠坂は当たり前のように言う。
が、言うまでもなく、彼女の腕前は俺の理解の外だった。
「―――いや、凄いぞ遠坂。俺はそんな事できないからな。直してくれて感謝してる」
「? 出来ないって、そんな事ないでしょ? ガラスの扱いなんて初歩の初歩だもの。
たった数分前に割れたガラスの修復なんて、どこの学派でも入門試験みたいなものでしょ?」
「そうなのか。俺は親父にしか教わった事がないから、そういう基本とか初歩とか知らないんだ」
「――――はあ?」
ピタリ、と動きを止める遠坂。
……しまった。なんか、言ってはいけない事を口にしたようだ。
「……ちょっと待って。じゃあなに、衛宮くんは自分の工房の管理もできない半人前ってこと?」
「……? いや、工房なんて持ってないぞ俺」
……あー、まあ鍛練場所として土蔵があるが、アレを工房なんて言ったら遠坂のヤツ本気で怒りそうだし。
「………まさかとは思うけど、確認しとく。もしかして貴方、五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」
おう、と素直に頷いた。
「………………」
うわ、こわっ。
なまじ美人なだけに黙り込むともの凄く迫力あるぞ、こいつ。
「なに。じゃあ貴方、素人?」
「そんな事ないぞ。一応、強化の魔術ぐらいは使える」
「強化って……また、なんとも半端なのを扱うのね。で、それ以外はからっきしってワケ?」
「……まあ、端的に言えば、たぶん」
さすがに視線が痛くて、なんとも煮え切らない返答をしてしまった。
「――――はあ。なんだってこんなヤツにセイバーが呼び出されるのよ、まったく」
「…………む」
なんか、腹が立つ。
俺だって遊んでたワケじゃない。
こっちが未熟なのは事実だけど、それとこれとは話が別だと思う。
「ま、いいわ。もう決まった事に不平をこぼしても始まらない。そんな事より、今は借りを返さないと」
ふう、と一息つく遠坂。
「それじゃ話を始めるけど。
衛宮くん、自分がどんな立場にあるのか判ってないでしょ」
「――――」
こくん、と頷く。
「やっぱり。ま、一目で判ったけど、一応確認しとかないとね。知ってる相手に説明するなんて心の贅肉だし」
「?」
なんか、今ヘンな言い回しを聞いた気がするけど、ここで茶々を入れたら殴られそうなので黙った。
「率直に言うと、衛宮くんはマスターに選ばれたの。
どっちかの手に聖痕があるでしょ? 手の甲とか腕とか、個人差はあるけど三つの令呪が刻まれている筈。それがマスターとしての証よ」
「手の甲って……ああ、これか」
「そ。それはサーヴァントを律する呪文でもあるから大切にね。令呪っていうんだけど、それがある限りはサーヴァントを従えていられるわ」
「……? ある限りって、どういう事だよ」
「令呪は絶対命令権なの。サーヴァントの意思をねじ曲げて、絶対に言いつけを守らせる呪文がその刻印よ。
発動に呪文は必要なくて、貴方が令呪を使用するって思えば発動する。
で、その令呪がなくなったら衛宮くんは殺されるだろうから、せいぜい注意して」
「え……俺が、殺される――――?」
「そうよ。マスターが他のマスターを倒すのが聖杯戦争の基本だから。そうして他の六人を倒したマスターには、望みを叶える聖杯が与えられるの」
「な――――に?」
ちょっ、ちょっと待て。
遠坂のヤツが何を言っているのかまったく理解できない。
マスターはマスターを倒す、とか。
そうして最後には聖杯が手に入るとか……って、聖杯って、そもそもあの聖杯の事か……!?
「まだ解らない? ようするにね、貴方はあるゲームに巻き込まれたのよ。聖杯戦争っていう、七人のマスターの生存競争。他のマスターを一人残らず倒すまで終わらない、魔術師同士の殺し合いに」
それがなんでもない事のように、遠坂凛は言い切った。
「――――――――」
頭の中で、聞いたばかりの単語が回る。
マスターに選ばれた自分。
マスターだという遠坂。
サーヴァントという使い魔。
―――それと。
聖杯戦争という、他の魔術師との殺し合い――――
「待て。なんだそれ、いきなり何言ってんだおまえ」
「気持ちは解るけど、わたしは事実を口にするだけよ。
……それに貴方だって心の底では理解してるんじゃない? 一度ならず二度までもサーヴァントに殺されかけて、自分はもう逃げられない立場なんだって」
「――――――――」
それは。
確かに、俺はランサーとかいうヤツに殺されかけた、けど。
「あ、違うわね。殺されかけたんじゃなくて殺されたんだっけ。よく生き返ったわね、衛宮くん」
「――――」
殺されかけたのではなく、殺された。
……そうだ。
俺はあの槍の男に殺された。
今の状況を驚くより先に、俺は自分が生きている、という事に驚かなくてはいけない筈だ。
……胸に穿《うが》たれた傷。
……流れていく血液。
……薄れていく体温。
そして。
その淵で聞いた、あまりにも潔かった誰かの声―――
「納得いった? とっくに貴方はそういう立場になってるのよ。
何も判ってないからって逃げる事なんて出来ないし、貴方も魔術師なら覚悟ぐらい決まってるでしょ? 殺し、殺されるのがわたしたちだってね」
俺が困惑する姿が愉快なのか、遠坂は上機嫌だ。
「――――――――」
……ああ、覚悟ぐらいちゃんと知ってる。
だが、その前に。
「……遠坂、俺がランサーに殺された事を知ってるのか……?」
どうしてそれを、彼女が知っているのかが気になった。
「―――チッ。少し調子にのりすぎたか」
なんか、あからさまに怪しい素振りをする。
「今のはただの推測よ。つまんない事だから忘れなさい」
「……つまんない事じゃないぞ。
俺はあの時、誰かに――――」
「いいからっ! そんな事より、もっと自分の置かれた立場を知りなさいっての。
貴方も七人のマスターの一人、聖杯戦争の主役なんだから」
遠坂は俺の視線から逃れるように背を向けて、教壇に立つ教師のように居間をのし歩く。
「いい? この町では何十年かに一度、七人のマスターが選ばれて、それぞれサーヴァントが与えられるの。
マスターは己が手足であるサーヴァントを行使して、他のマスターを潰していく。
―――これが聖杯戦争と呼ばれる儀式のルールよ」
「わたしもマスターに選ばれた一人。
だからサーヴァントと契約したし、貴方だってセイバーと契約した。
衛宮くんは自分でセイバーを呼び出した訳じゃなさそうだけど、もともとサーヴァントってのは聖杯が与えてくれる使い魔だからね。衛宮くんみたいに、何も知らない魔術師がマスターになる事だってありえるわ」
「…………」
遠坂の説明は簡潔すぎて、実感を得るには遠すぎた。
それでも一つだけ、先ほどから疑問に思っていた事がある。
「……ちょっと待ってくれ。遠坂はセイバーを使い魔だっていうけど、俺にはそうは思えない。
だって使い魔っていうのは猫とか鳥だろ。そりゃ人の幽霊を扱うヤツもいるって言うけど、セイバーはちゃんと体がある。それに、その―――とても、使い魔なんかに見えない」
ちらりとセイバーを盗み見る。
セイバーは俺と遠坂の会話を、ただ黙って聞いていた。
……その姿は本当に人間そのものだ。
正体は判らないが、自分とそう歳の違わない女の子。
「使い魔ね―――ま、サーヴァントはその分類ではあるけど、位置づけは段違いよ。何しろそこにいる彼女はね、使い魔としては最強とされるゴーストライナーなんだから」
「ゴーストライナー……? じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」
「幽霊……ま、似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。
サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」
「――――はあ? 受肉した過去の英雄?」
「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄をこう引っ張ってきてね、実体化させるのよ」
「ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ」
「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」
セイバーを見る。
なら彼女も英雄だった人間なのか。
いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって―――
「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない」
「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない」
「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……?」
「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の枠から外されて一段階上に昇華するって話、聞いたことない?
英霊っていうのはそういう連中よ。ようするに崇め奉られて擬似的な神さまになったモノたちなんでしょうね」
「降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な『霊を扱う魔術』は英霊《かれら》の力の一部を借り受けて奇蹟を起こすでしょ。
けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。
だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ」
「……む。その、霊体と実体を使い分けられるって事か。
……さっき遠坂に付いてたヤツが消えたのは、霊体になったから?」
「そ。今はここの家の屋根で外を見張ってるわ。
さっきの戦いで判ったと思うけど、サーヴァントを倒せるのは同じ霊体であるサーヴァントだけなの」
「そりゃあ相手が実体化していればこっちの攻撃も当たるから、うまくすれば倒せるかもしれない。
けど、サーヴァントはみんな怪物じみてるでしょ? だから怪物の相手は怪物に任せて、マスターは後方支援をするっていうのがセオリーね」
「…………む」
遠坂の説明は、なんか癇に触る。
怪物怪物って、他のサーヴァントがどうだかは知らないけど、セイバーにはそんな形容を当てはめてほしくない。
「とにかくマスターになった人間は、召喚したサーヴァントを使って他のマスターを倒さなければならない。そのあたりは理解できた?」
「……言葉の上でなら。けど、納得なんていってないぞ。そもそもそんな悪趣味な事を誰が、何のために始めたんだ」
「それはわたしが知るべき事でもないし、答えてあげる事でもない。そのあたりはいずれ、ちゃんと聖杯戦争を監督しているヤツに聞きなさい。
わたしが教えてあげられるのはね、貴方はもう戦うしかなくて、サーヴァントは強力な使い魔だからうまく使えって事だけよ」
遠坂はそれだけ言うと、今度はセイバーへ視線を向ける。
「さて。衛宮くんから話を聞いた限りじゃ貴女は不完全な状態みたいね、セイバー。マスターとしての心得がない魔術師見習いに呼び出されたんだから」
「……ええ。貴方の言う通り、私は万全ではありません。
シロウには私を実体化させるだけの魔力がない為、霊体に戻る事も、魔力の回復も難しいでしょう」
「……驚いたわ。そこまで酷かった事もだけど、貴女が正直に話してくれるなんて思わなかった。どうやって弱みを聞き出そうかなって程度だったのに」
「敵に弱点を見抜かれるのは不本意ですが、貴女の目は欺けそうにない。ですからこちらの手札を隠しても意味はないでしょう。それならば貴方に知ってもらう事で、シロウにより深く現状を理解してもらった方がいい」
「正解。風格も十分、と。……ああもう、ますます惜しいっ。わたしがセイバーのマスターだったら、こんな戦い勝ったも同然だったのに!」
悔しそうに拳を握る遠坂。
「む。遠坂、それ俺が相応しくないって事か」
「当然でしょ、へっぽこ」
うわ。心ある人なら言いにくいコトを平然といったぞ、今。
「なに? まだなんか質問があるの?」
しかも自覚なし。
学校での優等生然としたイメージがガラガラと崩れていく。
……さすがだ一成。たしかに遠坂は、鬼みたいに容赦がない。
「さて。話がまとまったところでそろそろ行きましょうか」
と。
遠坂はいきなり、ワケの分らないコトを言いだした。
「? 行くって何処へ?」
「だから、貴方が巻き込まれたこのゲーム……“聖杯戦争”をよく知ってるヤツに会いに行くの。衛宮くん、聖杯戦争の理由について知りたいんでしょ?」
「―――それは当然だ。けどそれって何処だよ。もうこんな時間なんだし、あんまり遠いのは」
「大丈夫、隣町だから急げば夜明けまでには帰ってこれるわ。それに明日は日曜なんだから、別に夜更かししてもいいじゃない」
「いや、そういう問題じゃなくて」
単に今日は色々あって疲れてるから、少し休んでから物事を整理したいだけなのだが。
「なに、行かないの? ……まあ衛宮くんがそう言うんならいいけど、セイバーは?」
なぜかセイバーに意見を求める遠坂。
「ちょっと待て、セイバーは関係ないだろ。あんまり無理強いするな」
「おっ、もうマスターとしての自覚はあるんだ。わたしがセイバーと話すのはイヤ?」
「そ、そんなコトあるかっ! ただ遠坂の言うのがホントなら、セイバーは昔の英雄なんだろ。ならこんな現代に呼び出されて右も左も分からない筈だ。
だから―――」
「シロウ、それは違う。サーヴァントは人間の世であるのなら、あらゆる時代に適応します。ですからこの時代の事もよく知っている」
「え――――知ってるって、ほんとに?」
「勿論。この時代に呼び出されたのも一度ではありませんから」
「な――――」
「うそ、どんな確率よそれ……!?」
あ、遠坂も驚いてる。
……という事は、セイバーの言ってる事はとんでもない事なのか。
「シロウ、私は彼女に賛成です。貴方はマスターとして知識がなさすぎる。貴方と契約したサーヴァントとして、シロウには強くなってもらわなければ困ります」
セイバーは静かに見据えてくる。
……それはセイバー自身ではなく、俺の身を案じている、穏やかな視線だった。
「……分かった。行けばいいんだろ、行けば。
で、それって何処なんだ遠坂。ちゃんと帰ってこれる場所なんだろうな」
「もちろん。行き先は隣町の言峰教会。そこがこの戦いを監督してる、エセ神父の居所よ」
にやり、と意地の悪い笑みをこぼす遠坂。
アレは何も知らない俺を振り回して楽しいんでいる顔だ。
「………………」
偏見だけど。
あいつの性格、どこか問題ある気がしてきたぞ……。
夜の町を歩く。
深夜一時過ぎ、外に出ている人影は皆無だ。
家々の明かりも消えて、今は街灯だけが寝静まった町を照らしている。
「なあ遠坂。つかぬ事を訊くけど、歩いて隣町まで行く気なのか」
「そうよ? だって電車もバスも終わってるでしょ。いいんじゃない、たまには夜の散歩っていうのも」
「そうか。一応訊くけど、隣町までどのくらいかかるか知ってるか?」
「えっと、歩いてだと一時間ぐらいかしらね。ま、遅くなったなら帰りはタクシーでも拾えばいいでしょ」
「そんな余分な金は使わないし、俺が言いたいのは女の子が夜出歩くのはどうかって事だ。最近物騒なのは知ってるだろ。もしもの事があったら責任持てないぞ、俺」
「安心しなさい、相手がどんなヤツだろうとちょっかいなんて出してこないわ。衛宮くんは忘れてるみたいだけど、そこにいるセイバーはとんでもなくお強いんだから」
「あ」
そう言えばそうだ。
通り魔だろうがなんだろうが、セイバーに手を出したらそれこそ返り討ちだろう。
「凛。シロウは今なにを言いたかったのだろう。私には理解できなかったのですが」
「え? いえ、大した勘違いっぷりって言うか、大間抜けっていうか。なんでもわたしたちが痴漢に襲われたら衛宮くんが助けてくれるんだって」
「そんな、シロウは私のマスターだ。それでは立場が逆ではないですか」
「そういうの考えてないんじゃない? 魔術師とかサーヴァントとかどうでもいいって感じ。あいつの頭の中、一度見てみたくなったわねー」
「………………」
遠坂とセイバーは知らぬ間に話をするぐらいの仲になっている。
セイバーはと言えば、出かける時にあの姿のままで出ようとしたのを止めた時から無言だ。
どうしても鎧は脱がない、というので仕方なく雨合羽を着せたら、ますます無言になってしまった。
今ではツカツカと俺の後を付いてきて、遠坂とだけ話をしている。
「あれ? どっちに行くのよ衛宮くん。そっち、道が違うんじゃない?」
「橋に出ればいいんだろ。ならこっちのが近道だ」
二人と肩を並べて歩くのは非常に抵抗があったので、早足で横道に入った。
二人は文句一つなく付いてくる。
川縁の公園に出た。
あの橋を渡って、隣町である新都へ行くのだが―――
「へえ、こんな道あったんだ。そっか、橋には公園からでも行けるんだから、公園を目指せばいいのね」
声を弾ませて橋を見上げる遠坂。
夜の公園、という場所のせいだろうか。
橋を見上げる遠坂の横顔は、学校で見かける時よりキレイに見えて、まいる。
「いいから行くぞ。別に遊びに来たわけじゃないんだから」
公園で立ち止まっている遠坂を促して階段を上る。
橋の横の歩道にさえ辿り着けば、あとは新都まで一直線だ。
歩道橋に人影はない。
それも当然、昼間でさえここを使う人は少ないのだ。
隣町まではバスか電車で行くのが普通で、この歩道橋はあまり使われない。
なにしろ距離があまりにも長いし、どうも作りが頑丈でないというか、いつ崩れてもおかしくないような杞憂をさせるというか。
ロケーション的には文句無しなのにデートコースに使われないのも、そのあたりが原因だろう。
「……馬鹿らしい。なに考えてんだ、俺」
無言で後を付いてくるセイバーと、すぐ横で肩を並べている遠坂。
その二人を意識しないようにと努めて、とにかく少しでも早く橋を渡ろうと歩を速めた。
橋を渡ると、遠坂は郊外へ案内しだした。
新都と言えば開発が続く駅前のオフィス街しか頭に浮かばないが、駅から外れれば昔ながらの街並みが残っている。
郊外はその中でも最たるものだ。
なだらかに続く坂道と、海を望む高台。
坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、丘の斜面に建てられた外人墓地が目に入ってくる。
「この上が教会よ。衛宮くんも一度ぐらいは行った事があるんじゃない?」
「いや、ない。あそこが孤児院だったって事ぐらいは知ってるけど」
「そう、なら今日が初めてか。じゃ、少し気を引き締めた方がいいわ。あそこの神父は一筋縄じゃいかないから」
遠坂は先だって坂を上がっていく。
……見上げれば、高台の上には十字架らしき物が見えた。
高台の教会。
今まで寄りつきもしなかった神の家に、こんな目的で足を運ぶ事になろうとは。
「うわ―――すごいな、これ」
教会はとんでもない豪勢さだった。
高台のほとんどを敷地にしているのか、坂を上がりきった途端、まったいらな広場が出迎えてくれる。
その奥に建てられた教会は、そう大きくはないというのに、聳《そび》えるように来た者を威圧していた。
「シロウ、私はここに残ります」
「え? なんでだよ、ここまで来たのにセイバーだけ置いてけぼりなんて出来ないだろ」
「私は教会に来たのではなく、シロウを守る為についてきたのです。シロウの目的地が教会であるのなら、これ以上遠くには行かないでしょう。ですから、ここで帰りを持つ事にします」
きっぱりと言うセイバー。
どうもテコでも動きそうになく、ここは彼女の意思を尊重しよう。
「分かった。それじゃ行ってくる」
「はい。誰であろうと気を許さないように、マスター」
広い、荘厳な礼拝堂だった。
これだけの席があるという事は、日中に訪れる人々の数も多いという事だろう。
これほどの教会を任されているのだから、ここの神父はよほどの人格者と見える。
「遠坂。ここの神父さんっていうのはどんな人なんだ」
「どんな人かって、説明するのは難しいわね。十年来の知人だけど、わたしだって未だにアイツの性格は掴めないもの」
「十年来の知人……? それはまた、随分と年期が入った関係だな。もしかして親戚か何かか?」
「親戚じゃないけど、わたしの後見人よ。ついでに言うと兄弟子にして第二の師っていうところ」
「え……兄弟子って、魔術師としての兄弟子!?」
「そうだけど。なんで驚くのよ、そこで」
「だって神父さんなんだろ!? 神父さんが魔術なんて、そんなの御法度じゃないか!」
そう、魔術師と教会は本来相容れないものだ。
魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、
一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。
この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが隙あらばいつでも殺し合いをしているという物騒な関係だ。
教会は異端を嫌う。
人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。
教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが学ぶもの。
それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。
それは教会に属する人間であろうと例外ではない。
教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。
こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが――――
「……いや。そもそもここの神父さんってこっち側の人だったのか」
「ええ。聖杯戦争の監督役として派遣されたヤツだもの、バリッバリの代行者よ。……ま、もっとも神のご加護があるかどうかは疑問だけど」
かつん、かつん、と足音をたてて祭壇へと歩いていく遠坂。
神父さんがいないというのにお邪魔するのもなんだが、そもそもこんな夜更けなのだ。
礼拝堂にいる訳もなし、訪ねるのなら奥にあるであろう私室だろう。
「……ふうん。で、その神父さんはなんていうんだ? さっきは言峰《ことみね》とかなんとか言ってたけど」
遠坂の後を追いながら質問する。
遠坂は祭壇の前で立ち止まると、難しい顔で振り向いた。
「名前は言峰綺礼《ことみねきれい》。父さんの教え子でね、もう十年以上顔を合わせてる腐れ縁よ。……ま、できれば知り合いたくなかったけど」
「同感だ。私も、師を敬わぬ弟子など持ちたくはなかった」
かつん、という足音。
俺たちが来た事に気が付いていたのか、その人物は祭壇の裏側からゆっくりと現れた。
「再三の呼び出しにも応じぬと思えば、変わった客を連れてきたな。……ふむ、彼が七人目という訳か、凛」
「そう。一応魔術師だけど、中身はてんで素人だから見てられなくって。
……たしかマスターになった者はここに届けを出すのが決まりだったわよね。アンタたちが勝手に決めたルールだけど、今回は守ってあげる」
「それは結構。なるほど、ではその少年には感謝しなくてはな」
言峰という名の神父は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
「――――」
……知らず、足が退いていた。
……何が恐ろしい訳でもない。
……言峰という男に敵意を感じる訳でもない。
だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。
「私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。
君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」
「―――衛宮士郎。けど、俺はまだマスターなんて物になった覚えはないからな」
腹に力をいれて、重圧に負けまいと神父を睨む。
「衛宮――――――士郎」
「え――――」
背中の重圧が悪寒に変わる。
神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。
――――その笑みが。
俺には、例えようもなく――――
「礼を言う、衛宮。よく凛を連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここには訪れなかったろう」
神父が祭壇へと歩み寄る。
遠坂は退屈そうな顔つきで祭壇から離れ、俺の横まで下がってきた。
「では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」
「それは違う。確かに俺はセイバーと契約した。けどマスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても俺にはてんで判らない。
マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他にマスターを選び直した方がいい」
「……なるほど、これは重傷だ。彼は本当に何も知らないのか、凛」
「だから素人だって言ったじゃない。そのあたり一からしつけてあげて。……そういう追い込み得意でしょ、アンタ」
遠坂は気が乗らない素振りで神父を促す。
「――――ほう。これはこれは、そういう事か。
よかろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。衛宮士郎には感謝をしてもし足りないな」
くくく、と愉快そうに笑う言峰神父。
なんていうか、聞いてるこっちがますます不安になっていくような会話だ。
「まず君の勘違いを正そう。
いいか衛宮士郎。マスターという物は他人に譲れる物ではないし、なってしまった以上辞められる物でもない。
その腕に令呪を刻まれた者は、たとえ何者であろうとマスターを辞める事はできん。まずはその事実を受け入れろ」
「っ―――辞める事はできないって、どうしてだよ」
「令呪とは聖痕でもある。いいか、マスターとはある種与えられた試練だ。都合が悪いからといって放棄する事はできん。その痛みからは、聖杯を手に入れるまでは解放されない」
「おまえがマスターを辞めたいと言うのであれば、聖杯を手に入れ己が望みを叶えるより他はあるまい。そうなれば何もかもが元通りだぞ、衛宮士郎。
おまえの望み、その裡《うち》に溜まった泥を全て掻き出す事もできる。―――そうだ、初めからやり直す事とて可能だろうよ」
「故に望むがいい。
もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その、目に見えぬ火傷の跡を消したいのならば、聖痕を受け入れるだけでいい」
「な――――」
目眩がした。
神父の言葉はまるで要領を得ない。
聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。
……にも関わらず、コイツの言葉は厭《イヤ》に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り着く―――
「綺礼、回りくどい真似はしないで。わたしは彼にルールを説明してあげてって言ったのよ。誰も傷を開けなんて言ってない」
神父の言葉を遮る声。
「――――と、遠坂?」
それで、混乱しかけた頭がハッキリとしてくれた。
「そうか。こういった手合いには何を言っても無駄だからな、せめて勘違いしたまま道徳をぬぐい去ってやろうと思ったのだが。
……ふん、情けは人のため為らず、とはよく言ったものだ。つい、私自身も楽しんでしまったか」
「なによ。彼を助けるといい事あるっていうの、アンタに」
「あるとも。人を助けるという事は、いずれ自身を救うという事だからな。……と、今更おまえに説いても始まるまい。
では本題に戻ろうか、衛宮士郎。
君が巻き込まれたこの戦いは『聖杯戦争』と呼ばれるものだ。
七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦―――という事ぐらいは凛から聞いているか?」
「……聞いてる。七人のマスターで殺し合うっていう、ふざけた話だろ」
「そうだ。だが我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」
……何が試練だ。
賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。
「待てよ。さっきから聖杯聖杯って繰り返してるけど、それって一体なんなんだ。まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」
聖杯。
聖者の血を受けたという杯。
数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇蹟を行うという。
その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。
……もっとも、そんなのは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。
確かに、“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。
だがそれだけだ。
実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。
「どうなんだ言峰綺礼。アンタの言う聖杯は、本当に聖杯なのか」
「勿論だとも。この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇蹟が起きているだろう」
「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇蹟は魔法と言える。
これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の真贋など、その事実の前には無価値だ」
「――――――――」
つまり。
偽物であろうが本物以上の力があれば、真偽など問わないと言いたいのか。
「……いいぜ。仮に聖杯があるとする。けど、ならなんだって聖杯戦争なんてものをさせるんだ。聖杯があるんなら殺し合う事なんてない。それだけ凄い物なら、みんなで分ければいいだろう」
「もっともな意見だが、そんな自由は我々にはない。
聖杯を手にする者はただ一人。
それは私たちが決めたのではなく、聖杯自体が決めた事だ」
「七人のマスターを選ぶのも、七人のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。
これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。
それが聖杯戦争―――聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式という訳だ」
「――――――――」
淡々と神父は語る。
反論する言葉もなく、左手に視線を落とす。
……そこにあるのは連中が令呪と呼ぶ刻印だ。
ようするに神父は、この刻印がある以上マスターを放棄する事はできないとでも言いたいのか。
「……納得いかないな。一人だけしか選ばれないにしたって、他のマスターを殺すしかないっていうのは、気にくわない」
「? ちょっと待って。殺すしかない、っていうのは誤解よ衛宮くん。別にマスターを殺す必要はないんだから」
ぽん、と俺の肩を叩いて、遠坂は意外なつっこみをしてきた。
「はあ? だって殺し合いだって言ったじゃないか。言峰もそう言ってたぞ」
「殺し合いだ」
「綺礼は黙ってて。あのね、この町に伝わる聖杯っていうのは霊体なの。だから物として有る訳じゃなくて、特別な儀式で呼び出す―――つまり降霊するしかないって訳」
「で、呼び出す事はわたしたち魔術師だけでも出来るんだけど、これが霊体である以上わたしたちには触れられない。この意味、分かる?」
「分かる。霊体には霊体しか触れられないんだろ。
―――ああ、だからサーヴァントが必要なのか……!」
「そういう事。ぶっちゃけた話、聖杯戦争っていうのは自分のサーヴァント以外のサーヴァントを撤去させるってコトよ。だからマスターを殺さなければならない、という決まりはないの」
「――――――――」
なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに!
まったく、遠坂もこの神父も人が悪いったらありゃしない。
……とにかく、それで安心した。
それなら聖杯戦争に参加しても、遠坂が死ぬような事はないんだから。
「なるほど、そういう考えもできるか。
では衛宮士郎、一つ訊ねるが君は自分のサーヴァントを倒せると思うか?」
「?」
セイバーを倒す?
そんなの無理に決まってるじゃないか。
そもそもアイツに魔術は通用しないし、剣術だってデタラメに強いんだから。
「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ問いだが、君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」
「??」
なに言ってるんだ、こいつ。
俺はセイバーを倒せないんだから、俺がセイバーより優れてるなんて事ありえない。
今の質問はどっちにしたって、マスターである俺の方がサーヴァントより弱いって答え、に――――
「――――あ」
「そういう事だ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。ならばどうするか。
そら、実に単純な話だろう? サーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。いかにサーヴァントが強力であろうが、マスターが潰されればそのサーヴァントも消滅する。ならば」
そう、それはしごく当然の行為。
誰もわざわざ困難な道は選ばない。
確実に勝ち残りたいのなら、サーヴァントではなくマスターを殺す事が、サーヴァントを殺す最も効率的な手段となる――――
「……ああ、サーヴァントを消す為にはマスターを倒した方が早いってのは解った。
けど、それじゃあ逆にサーヴァントが先にやられたら、マスターはマスターでなくなるのか? 聖杯に触れられるのはサーヴァントだけなんだろ。なら、サーヴァントを失ったマスターには価値がない」
「いや、令呪がある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約できる魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約できる」
「マスターを失ったサーヴァントはすぐに消える訳ではない。彼らは体内の魔力が尽きるまでは現世にとどまれる。そういった、“マスターを失ったサーヴァント”がいれば、“サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能となる。戦線復帰が出来るという事だ。
だからこそマスターはマスターを殺すのだ。下手に生かしておけば、新たな障害になる可能性があるからな」
「……じゃあ令呪を使い切ったら? そうすれば他のサーヴァントと契約できないし、自由になったサーヴァントも他のマスターとくっつくだろ」
「待って、それは――――」
「ふむ、それはその通りだ。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターの責務からは解放されるな」
「……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う、などという魔術師がいるとは思えないが。
いたとしたらそいつは半人前どころか、ただの腑抜けという事だろう?」
ふふ、とこっちの考えを見透かしたように神父は笑う。
「…………っ」
なんか、癪だ。
あの神父、さっきから俺を挑発してるとしか思えないほど、人を小馬鹿にしてやがる。
「納得がいったか。ならばルールの説明はここまでだ。
―――さて、それでは始めに戻ろう衛宮士郎。
君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今でも同じなのか」
「マスターを放棄するというのなら、それもよかろう。
君が今考えた通り、令呪を使い切ってセイバーとの契約を断てばよい。その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は私が保証する」
「……? ちょっと待った。なんだってアンタに安全を保証されなくちゃいけないんだ。自分の身ぐらい自分で守る」
「私とておまえに構うほど暇ではない。だがこれも決まりでな。私は繰り返される聖杯戦争を監督する為に派遣された。故に、聖杯戦争による犠牲は最小限にとどめなくてはならないのだ。マスターでなくなった魔術師を保護するのは、監督役として最優先事項なのだよ」
「――――繰り返される聖杯戦争……?」
ちょっと待て。
そんな言葉、初めて聞いたぞ。
繰り返されるって、つまりこんな戦いが今まで何度もあったってのか……?
「それ、どういう事だよ。聖杯戦争っていうのは今に始まった事じゃないのか」
「無論だ。でなければ監督役、などという者が派遣されると思うか?
この教会は聖遺物を回収する任を帯びる、特務局の末端でな。本来は正十字の調査、回収を旨とするが、ここでは“聖杯”の査定の任を帯びている。
極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、これが正しいモノであるのなら回収し、そうでなければ否定しろ、とな」
「七百二十六って……聖杯ってのはそんなに沢山あるものなのかよ」
「さあ? 少なくとも、らしき物ならばそれだけの数があったという事だろう」
「そしてその中の一つがこの町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。
記録では二百年ほど前が一度目の戦いになっている。以後、約六十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されている。
聖杯戦争はこれで五度目。前回が十年前であるから、今までで最短のサイクルという事になるが」
「な―――正気かおまえら、こんな事を今まで四度も続けてきたって……!?」
「まったく同感だ。おまえの言うとおり、連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。
―――そう。
過去、繰り返された聖杯戦争はことごとく苛烈を極めてきた。マスターたちは己が欲望に突き動かされ、魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺し合いを行った」
「君も知っていると思うが、魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。
だが、過去のマスターたちはそれを破った。
魔術協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが、それが間に合ったのは三度目の聖杯戦争でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが、納得がいったか少年」
「……ああ、監督役が必要な理由は分かった。
けど今の話からすると、この聖杯戦争っていうのはとんでもなく性質《たち》が悪いモノなんじゃないのか」
「ほう。性質《たち》が悪いとはどのあたりだ」
「だって以前のマスターたちは魔術師のルールを破るような奴らだったんだろ。
なら、仮に聖杯があるとして、最後まで勝ち残ったヤツが、聖杯を私利私欲で使うようなヤツだったらどうする。平気で人を殺すようなヤツにそんなモノが渡ったらまずいだろう。
魔術師を監視するのが協会の仕事なら、アンタはそういうヤツを罰するべきじゃないのか」
微かな期待をこめて問う。
だが言峰綺礼は、予想通り、慇懃な仕草でおかしそうに笑った。
「まさか。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりだけだ。その後の事など知らん。どのような人格が聖杯を手に入れようが、協会は関与しない」
「そんなバカな……! じゃあ聖杯を手に入れたマスターが最悪なヤツだったらどうするんだよ!」
「困るな。だが私たちではどうしようもない。持ち主を選ぶのは聖杯だ。そして聖杯に選ばれたマスターを止める力など私たちにはない。
なにしろ望みを叶える杯だ。手に入れた者はやりたい放題だろうさ。
―――しかし、それが嫌だというのならおまえが勝ち残ればいい。他人を当てにするよりは、その方が何よりも確実だろう?」
言峰は笑いをかみ殺している。
マスターである事を受け入れられない俺の無様さを愉しむように。
「どうした少年。今のはいいアイデアだと思うのだが、参考にする気はないのかな」
「……そんなの余計なお世話だ。第一、俺には戦う理由がない。聖杯なんて物に興味はないし、マスターなんて言われても実感が湧かない」
「ほう。では聖杯を手に入れた人間が何をするか、それによって災厄が起きたとしても興味はないのだな」
「それは――――」
……それを言われると反論できない。
くそ、こいつの言葉は暴力みたいだ。
こっちの心情などおかまいなし、ただ事実だけを容赦なく押しつけてくる―――
「理由がないのならそれも結構。ならば十年前の出来事にも、おまえは関心を持たないのだな?」
「――――十年、前……?」
「そうだ。前回の聖杯戦争の最後にな、相応しくないマスターが聖杯に触れた。そのマスターが何を望んでいたかは知らん。我々に判るのは、その時に残された災害の爪痕だけだ」
「――――――――」
一瞬。
あの地獄が、脳裏に浮かんだ。
「―――待ってくれ。まさか、それは」
「そうだ、この街に住む者なら誰もが知っている出来事だよ衛宮士郎。
死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以て原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」
「――――――――」
――――吐き気がする。
視界がぼやける。
焦点を失って、視点が定まらなくなる。
ぐらりと体が崩れ落ちる。
だが、その前にしっかりと踏みとどまった。
歯を噛みしめて意識を保つ。
倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。
「衛宮くん? どうしたのよ、いきなり顔面真っ白にしちゃって。……そりゃああんまり気持ちのいい話じゃなかったけど、その―――ほら、なんなら少し休んだりする?」
よほど蒼い顔をしていたのだろう。
なんていうか、遠坂がこういった心配をしてくれるなんて、とんでもなくレアな気がした。
「心配無用だ。遠坂のヘンな顔を見たら治った」
「……ちょっと。それ、どういう意味よ」
「いや、他意はないんだ。言葉通りの意味だから気にするな」
「ならいいけど……って、余計に悪いじゃないこの唐変木っ!」
すかん、容赦なく頭をはたく学園一の優等生・遠坂凛。
それがトドメ。
本当にそれだけで、さっきまでの吐き気も怒りも、キレイさっぱり消えてくれた。
「……サンキュ。本当に助かったから、あんまりいじめないでくれ遠坂。今はもう少し、訊かなくちゃいけない事がある」
むっ、と叩きたりない顔のまま、遠坂は一応場を譲ってくれる。
「ほう、まだ質問があるのか。いいぞ、言いたい事は全て言ってしまえ」
俺が訊きたい事なんて見抜いているだろうに、神父は愉快そうに促してくる。
上等だ。
衛宮士郎は、おまえになんて負けるものか。
「じゃあ訊く。アンタ、聖杯戦争は今回が五回目だって言ったな。なら、今まで聖杯を手に入れたヤツはいるのか」
「当然だろう。そう毎回全滅などという憂き目は起きん」
「じゃあ―――」
「早まるな。手に入れるだけならば簡単だ。なにしろ聖杯自体はこの教会で管理している。手に取るだけならば私は毎日触れているぞ」
「え――――?」
せ、聖杯がこの教会にある――――?
「もっとも、それは器だけだ。中身が空なのだよ。先ほど凛が言っただろう、聖杯とは霊体だと。
この教会に保管してあるのは、極めて精巧に作られた聖杯のレプリカだ。これを触媒にして本物の聖杯を降霊させ、願いを叶える杯にする。そうだな、マスターとサーヴァントの関係に近いか。……ああ。そうやって一時的に本物となった聖杯を手にした男は、確かにいた」
「じゃあ聖杯は本物だったのか。いや、手にしたっていうそいつは一体どうなったんだ」
「どうもならん。その聖杯は完成には至らなかった。馬鹿な男が、つまらぬ感傷に流された結果だよ」
……?
先ほどまでの高圧的な態度はどこにいったのか、神父は悔いるように視線を細めている。
「……どういう事だ。聖杯は現れたんじゃないのか」
「聖杯を現すだけならば簡単だ。七人のサーヴァントが揃い、時間が経てば聖杯は現れる。凛の言う通り、確かに他のマスターを殺める必要などないのだ。
だが、それでは聖杯は完成しない。アレは自らを得るに相応しい持ち主を選ぶ。故に、戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」
「ふん。ようするに、他のマスターと決着を付けずに聖杯を手に入れても無意味って事でしょ。
前回、一番はじめに聖杯を手に入れたマスターは甘ちゃんだったのよ。敵のマスターとは戦いたくない、なんて言って聖杯から逃げたんだから」
吐き捨てるように言って、遠坂は言峰から視線を逸らす。
「――――うそ」
それはつまり、言峰は前回のマスターの一人で、聖杯を手に入れたものの戦いを拒否して脱落したって事なのか……!?
「……言峰。あんた、戦わなかったのか」
「途中まで戦いはした。だが判断を間違えた。結果として私はカラの聖杯を手にしただけだ。もっとも、私ではそれが限界だったろう。なにしろ他のマスターたちはどいつもこいつも化け物揃いだったからな。わたしは真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護されたよ」
「……思えば、監督役の息子がマスターに選ばれるなど、その時点であってはならぬ事だったのだ。
父はその折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会で聖杯を守っている」
そう言って、言峰綺礼という名の神父は背中を向けた。
その視線の先には、礼拝されるべき象徴が聳えている。
「話はここまでだ。
聖杯を手にする資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君たち七人が最後の一人となった時、聖杯は自ずと勝者の元に現れよう。
その戦い―――聖杯戦争に参加するかの意思をここで決めよ」
高みから見下ろして、神父は最後の決断を問う。
「――――――――」
言葉がつまる。
戦う理由がなかったのはさっきまでの話だ。
今は確実に戦う理由も意思も生まれている。
けれどそれは、本当に、認めていいものなのかどうか。
「まだ迷っているのか。
いいか、マスターというものはなろうとしてなれる物ではない。そこにいる凛は長く魔術師として修練してきたが、だからといってマスターとなるのが決定されていた訳ではないのだ。
決定されていた物があるとすれば、それは心構えが出来ていたかいないかだけだろう」
「マスターに選ばれるのは魔術師だけだ。魔術師ならばとうに覚悟などできていよう。
それが無い、というのならば仕方があるまい。
おまえも、おまえを育てた師も出来損ないだ。そんな魔術師に戦われても迷惑だからな、今ここで刻印を消してしまえ」
「――――――」
言われるまでもない。
俺は逃げない。
正直、マスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても実感なんてまるで湧かない。
それでも、戦うか逃げるかしかないのなら、逃げる事だけはしない。
神父は言った。
魔術師ならば覚悟は出来ている筈だと。
だから決めないと。
たとえ半人前でも、衛宮士郎は魔術師なんだ。
憧れ続けた衛宮切嗣の後を追って、必ず正義の味方になると決めたのなら――――
「―――マスターとして戦う。十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺は、あんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」
俺の答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべた。
「――――」
はあ、と深く呼吸をする。
―――迷いは全て断ち切った。
男が一度、戦うと口にしたんだ。
なら、ここから先はその言葉に恥じないよう、胸を張って進むだけだ。
「それでは君をセイバーのマスターと認めよう。
この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。
―――これよりマスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」
重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に響いた。
その宣言に意味などあるまい。
神父の言葉を聞き届けたのは自分と遠坂だけだ。
この男はただ、この教会の神父として始まりの鐘を鳴らしたにすぎない。
「決まりね。それじゃ帰るけど、わたしも一つぐらい質問していい綺礼?」
「かまわんよ。これが最後かもしれんのだ、大抵の疑問には答えよう」
「それじゃ遠慮なく。綺礼、あんた見届け役なんだから、他のマスターの情報ぐらいは知ってるんでしょ。こっちは協会のルールに従ってあげたんだから、それぐらい教えなさい」
「それは困ったな。教えてやりたいのは山々だが、私も詳しくは知らんのだ。
衛宮士郎も含め、今回は正規の魔術師が少ない。私が知りうるマスターは二人だけだ。衛宮士郎を加えれば三人か」
「あ、そう。なら呼び出された順番なら判るでしょう。仮にも監視役なんだから」
「……ふむ。一番手はバーサーカー。二番手はキャスターだな。あとはそう大差はない。先日にアーチャー、そして数時間前にセイバーが呼び出された」
「―――そう。それじゃこれで」
「正式に聖杯戦争が開始されたという事だ。凛。聖杯戦争が終わるまではこの教会に足を運ぶ事は許されない。許されるとしたら、それは」
「自分のサーヴァントを失って保護を願う場合のみ、でしょ。それ以外にアンタを頼ったら減点ってコトね」
「そうだ。おそらくは君が勝者になるだろうが、減点が付いては教会が黙っていない。連中はつまらない論議の末、君から聖杯を奪い取るだろう。私としては最悪の展開だ」
「エセ神父。教会の人間が魔術協会の肩を持つのね」
「私は神に仕える身だ。教会に仕えている訳ではない」
「よく言うわ。だからエセなのよ、アンタは」
そうして、遠坂は言峰神父に背を向ける。
あとはそのまま、別れの挨拶もなしにズカズカと出口へと歩き出した。
「おい、そんなんでいいのか遠坂。あいつ、おまえの兄弟子なんだろ。なら―――」
もっとこう、ちゃんとした言葉を交わしておくべきではないのだろうか。
「いいわよそんなの。むしろ縁が切れて清々するぐらいだもの。そんな事より貴方も外に出なさい。もうこの教会に用はないから」
遠坂は立ち止まる事なく礼拝堂を横切り、本当に出ていってしまった。
はあ、とため息をもらして遠坂の後に続く。
と。
「っ――――!」
背後に気配を感じて、たまらずに振り返った。
いつのまに背後にいたのか、神父は何を言うのでもなく俺を見下ろしていた。
「な、なんだよ。まだなんかあるっていうのか」
言いつつ、足は勝手に後ずさる。
……やはり、こいつは苦手だ。
相性が悪いというか、肌に合わないというか、ともかく好きになれそうにない。
「話がないなら帰るからなっ!」
神父の視線を振り払おうと出口に向かう
その途中。
「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」
そう、神託を下すように神父は言った。
その言葉は。
自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。
「―――なにを、いきなり」
「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだから」
「っ――――――――」
目の前が、真っ暗になりそう、だった。
神父は言う。
衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。
……そう。何かを守ろうという願いは、
同時に、何かを犯そうとするモノを望む事に他ならない――――
「―――おま、え」
けど、そんな事を望む筈がない。
望んだ覚えなんてない。
あまりにも不安定なその願望は、
ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。
だというのに神父は言う。
この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。
「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」
愉しげに笑みをこぼす神父。
「っ――――――」
それを振り払って、出口へと歩き出した。
「さらばだ衛宮士郎。
最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。
これより君の世界は一変する。君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだから」
早足で立ち去る背中に、そんな言葉が投げかけられた。
……風が出ていた。
丘の上、という事もあるのだろう。
吹く風は地上より強く、頬を刺す冷気も一段と鋭い。
「シロウ。話は終わりましたか」
「……ああ。事情はイヤって言うほど思い知らされた。
聖杯戦争の事も、マスターの事もな」
「それでは――――」
ずい、と身を乗り出して俺の顔を見つめるセイバー。
……それも当然か。
俺がどんな選択をしたかは、彼女にとって他人事じゃないんだから。
「……ああ。俺に務まるかどうかは判らないけど、マスターとして戦うって決めた。
半人前な男で悪いんだけど、俺がマスターって事に納得してくれるか、セイバー」
「納得するも何もありません。貴方は初めから私のマスターです。この身は、貴方の剣となると誓ったではないですか」
思わず、あの時の光景が蘇った。
「―――そう、だったな。……うん、セイバーがそう言ってくれると、助かる」
ほう、と軽く深呼吸をして、改めてセイバーへと向き直る。
「それじゃ握手しよう。これからよろしく、セイバー」
右手を差し出す。
マスターとサーヴァントの関係なんて知らないし、これから何をするべきかも判らない。
ならせめて、一番初めの挨拶ぐらいはキチンとしておきたかった。
「――――――――」
「セイバー? あれ、もしかして握手はダメか?」
「―――いえ、そんな事はありません。ただ突然だったので、驚きました」
言って、セイバーも右手を重ねてきた。
「今一度誓いましょう。貴方の身に令呪があるかぎり、この身は貴方の剣となると」
「ああ。よく判らないけど、頼む」
セイバーが大真面目なものだから、こっちもつられて頷いてしまった。
「――――――――む」
……冷静になってみると、おかしな光景ではある。
冬の星空の下。
冷えきった手で出会ったばかりの少女と握手をして、契約じみた言葉を交わしているんだから。
「―――ふぅん。その分じゃ放っておいてもよさそうね、貴方たち」
「――――っ!」
あわてて手を離す。
振り返ると、そこには遠坂と―――あの、赤い外套の騎士が立っていた。
「仲いいじゃない。さっきまでは話もしなかったのに、大した変わり様ね。なに、セイバーの事は完全に信頼したってワケ?」
「え……いや、そういうワケじゃないけど……いや、そういう事になるのか。
まだセイバーの事は何も知らないけど、これから一緒にやってくんだから」
「そ。ならせいぜい気を張りなさい。貴方たちがそうなった以上、わたしたちも容赦しないから」
「?」
言われて、はて、と首を傾げる。
少しの間、言われた意味が解からなかった。
「……あのね。わたしたち、敵同士だって理解してる?
ここまで連れて来てあげたのは、貴方がまだ敵にもなっていなかったからよ。
けどこれで衛宮くんもマスターの一人でしょ? なら、やるべき事は一つしかないと思うけど」
「あ――――む?」
いや、まったくもってその通りなんだが、その。
「なんでさ。俺、遠坂と喧嘩するつもりはないぞ」
「……はあ。やっぱりそうきたか。まいったな、これじゃ連れてきた意味がないじゃない」
がっくりと肩を落とす遠坂。
「凛」
「なに。わたしがいいって言うまで口出しはしない約束でしょ、アーチャー」
「それは承知しているが、このままでは埒《らち》があくまい。相手の覚悟など確かめるまでもない。倒し易《やす》い敵がいるのなら、遠慮なく叩くべきだ」
「む……そんなコト、言われなくても判ってるけど」
「判っているのなら行動に移せ。それとも何か。君はまたその男に情けをかけるのか。
……ふむ。まさかとは思うが、そういう事情ではあるまいな?」
「そ、そんなワケないでしょう!
……ただその、コイツには借りがあるじゃない。それを返さないかぎり、気持ちよく戦えないだけよ」
「……ふん、また難儀な。では私は消えるぞ。借りとやらを返したのなら呼んでくれ」
赤い騎士―――アーチャーの姿が消える。
いや、それは姿が見えなくなっただけの話だ。
遠坂曰く、サーヴァントは霊体だという。
セイバーは霊体に戻る事は出来ないと言うが、完全なマスターである遠坂のサーヴァントなら、今のようにあっさりと姿を消す事が出来るのだろう。
……と、それはそれとして。
「なあ遠坂。借りって、もしかしてさっきの事か?」
「そうよ。カタチはどうあれ、衛宮くんは令呪を使ってセイバーを止めたでしょ。だから、少しは遠慮してあげなくちゃバランスが悪いってコト」
「……バランスって……妙なコトに拘るんだな、遠坂は」
「ええ、判ってるわ。こんなの心の贅肉だって理解してるわよ。けどしょうがないじゃない、わたし、借りっぱなしって嫌いなんだから」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「けど、こんなのは期間限定のサービスなんだから。明日になったら容赦しないから、せいぜいセイバーと作戦でも立てなさい」
「……む。つまり、サービスは今日一杯ってワケか?」
「そうよ。……ま、ここまで連れてきたのはわたしだし。その、町に戻るぐらいまでは面倒みてあげるわ」
そうして、俺たちと目を合わせないように遠坂は歩き出した。
「行きましょう、シロウ。彼女の言う通り、ここに長居するのは良くない」
「…………」
セイバーの言葉に頷いて、ずんずんと歩いていく遠坂の後を追った。
三人で坂を下りていく。
遠坂が一人で先行していた為か、これといった会話もないまま坂道を下りきった。
ここから先は単純な分かれ道だ。
新都の駅前に続く大通りに行くか、深山町に繋がる大橋へと進むか。
「――――――――」
その交差点の前で、ピタリと遠坂は立ち止まった。
「遠坂? なんだよ、いきなり立ち止まって。帰るなら橋の方だろ」
「ううん。悪いけど、ここからは一人で帰って。
衛宮くんにかまけてて忘れてたけど、わたしだって暇じゃないの。せっかく新都にいるんだから、捜し物の一つもして帰るわ」
「――――捜し物って、他のマスターか?」
「そう。貴方がどう思っているか知らないけど、わたしはこの時をずっと待っていた。七人のマスターが揃って、聖杯戦争っていう殺し合いが始まるこの夜をね。
なら、ここで大人しく帰るなんて選択肢はないでしょう? セイバーを倒せなかった分、他のサーヴァントでも仕留めないと気が済まないわ」
「――――――――」
……遠坂の目に迷いはない。
それで思い知らされた。
遠坂凛は、一人前の魔術師だ。
その知識も精神も、魔術師として完成されている。
「――――――――」
なのに、どうして。
「だからここでお別れよ。義理は果たしたし、これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ。きっぱり別れて、明日からは敵同士にならないと」
こう、魔術師とは正反対の余分を持っているのか。
遠坂は義務感からルールを説明したんじゃない。
あくまで公平に、何も知らない衛宮士郎の立場になって肩入れしただけだ。
だから説明さえ終われば元通り。
あとはマスターとして、争うだけの対象になる。
「………………」
にも関わらず、遠坂はそんなコトを言う。
遠坂凛から見れば、今夜の事は全て余分だ。
『これ以上一緒にいると何かと面倒』
そんな台詞を口にするのなら、遠坂は初めから一緒になんていなければ良かったのだ。
聡明な彼女の事だから、それは判りきっている筈。
それでも損得勘定を秤にもかけないで、遠坂凛は衛宮士郎の手を取った。
……目の前にいる遠坂は、学校で見る彼女とはあまりにも違う。
控えめにいっても性格はきついし、ツンケンしていて近寄りがたいし、学校での振る舞いはなんなんだー、と言いたくなるぐらいの変わり様だ。
いやもう、こんなのほとんどサギだと思う。
……だが、まあそれでも。
遠坂凛は、みんなが思っていた通りの彼女でもあったのだ。
「―――ああ。遠坂、いいヤツなんだな」
「は? なによ突然。おだてたって手は抜かないわよ」
そんな事は判っている。
コイツは手を抜かないからこそ、情が移ると面倒だって言い切ったんだから。
「知ってる。けど出来れば敵同士にはなりたくない。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」
「な――――」
何故か、それきり遠坂は黙ってしまった。
人気の絶えた郊外。
遙か頭上にそびえる教会と、丘に広がる外人墓地の静けさが、今は不思議と温かい。
「と、とにかく、サーヴァントがやられたら迷わずさっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば命だけは助かるんだから」
「ああ。気が引けるけど、一応聞いておく。けどそんな事にはならないだろ。どう考えてもセイバーより俺のほうが短命だ」
「――――ふう」
またもや謎のリアクションを見せる遠坂。
彼女は呆れた風に溜息をこぼした後、ちらり、とセイバーを流し見た。
「いいわ、これ以上の忠告は本当に感情移入になっちゃうから言わない。
せいぜい気を付けなさい。いくらセイバーが優れているからって、マスターである貴方がやられちゃったらそれまでなんだから」
くるり、と新都に向けて歩き出す遠坂。
が。
幽霊でも見たかのような唐突さで、彼女の足はピタリと止まった。
「――――ねえ、お話は終わり?」
幼い声が夜に響く。
歌うようなそれは、紛れもなく少女の物だろう。
視線が坂の上に引き寄せられる。
そこには――――
いつのまに雲は去っていたのか、空には煌々と輝く月があった。
影は長く、絵本で見る悪魔のように異形。
仄暗く青ざめた影絵の町に、酷く、あってはならぬモノがそこにいた。
「―――バーサーカー」
聞き慣れない言葉を漏らす遠坂。
意味するところは判らないまでも、あの巨人が持つ異質さは嫌というほど感じ取れる。
アレは人間ではない。
ならば―――セイバー達と同じ、サーヴァントと呼ばれる存在《もの》だ。
「こんばんはお兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」
[#挿絵(img/111.JPG)入る]
微笑みながら少女は言った。
その無邪気さに、背筋《せすじ》が寒くなる。
少女の姿は背後の異形とあまりにも不釣り合いで、悪い夢を見ているようだった。
「――――――――」
いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。
体はおろか意識まで完全に凍っている。
アレは化け物だ。
視線さえ合っていないのに、ただ、そこに在るだけで身動きがとれなくなる―――
「―――驚いた。単純な能力だけならセイバー以上じゃない、アレ」
舌打ちをしながら、頭上の怪物を睨む遠坂。
その背中には、俺と同様の絶望と―――それに負けまいとする、確かな気迫が感じられた。
「アーチャー、アレは力押しでなんとかなる相手じゃない。ここは貴方本来の戦い方に徹するべきよ」
呟く声。
それに、姿のない騎士が応答する。
「了解した。だが守りはどうする。凛ではアレの突進は防げまい」
「こっちは三人よ。凌ぐだけならなんとでもなるわ」
それに頷いたのか。
遠坂の背後に控えていた気配は、一瞬にして何処かに消失した。
「―――衛宮くん。逃げるか戦うかは貴方の自由よ。
……けど、出来るならなんとか逃げなさい」
「相談は済んだ? なら、始めちゃっていい?」
軽やかな笑い声。
少女は行儀良くスカートの裾を持ち上げて、とんでもなくこの場に不釣り合いなお辞儀をする。
「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」
「アインツベルン――――」
その名前に聞き覚えでもあるのか、遠坂の体がかすかに揺れる。
そんな遠坂の反応が気に入ったのか、少女は嬉しそうに笑みをこぼし、
「――――じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」
歌うように、背後の異形に命令した。
巨体が飛ぶ。
バーサーカーと呼ばれたモノが、坂の上からここまで、何十メートルという距離を一息で落下してくる――――!
「――――シロウ、下がって……!」
月の下。
流星じみた何条もの“弾丸”が、落下してくる巨体《バーサーカー》をつるべ打ちにする……!
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
正確無比、とはこの事か。
高速で落下する巨体を射抜いていく銀光は、紛れもなく“矢”による攻撃だった。
否、矢と呼ぶなどおこがましい。
機関銃めいた掃射、一撃一撃が秘めた威力は岩盤すら穿ちかねない。
―――それを八連。
家の一つや二つは容易く蜂の巣にするだろうそれは、しかし。
「うそ、効いていない――――!?」
黒い巨人には、何ら効果を持たなかった。
激突する剣と剣。
“矢”をその身に受けながらも落下したバーサーカーの大剣と、
その落下地点まで走り寄ったセイバーの剣が火花を散らす……!
「ふっ…………!」
「〓〓〓〓〓〓」
ぶつかり合う剣と剣。
バーサーカーの剣に圧されながらも、セイバーはその剣を緩めない。
―――闇に走る銀光。
あの小さな体にどれだけの魔力が籠められているのか。
明らかに力負けしている筈のセイバーは、けれど一歩も譲らなかった。
旋風にしか見えない巨人の大剣を受け、弾き、真っ正面から切り崩していく。
「――――――――」
息を呑む音は、俺だけではないだろう。
あの巨人のマスターである少女も、俺の傍らで呆然とセイバーを見つめている遠坂も、その姿に見惚れていた。
「……っ! アーチャー、援護……!」
咄嗟に叫ぶ遠坂。
それに応じて、またもや何処からか銀の光が放たれる。
銀光は容赦なく巨人のこめかみに直撃する。
大気を穿ちながら飛ぶアーチャーの矢は、戦車の砲撃に匹敵する。
あの巨人が何者であろうと、それをこめかみに受けて無傷であろう筈がない。
「――――取った…………!」
間髪入れず不可視の剣を薙ぎ払うセイバー。
しかし。
それは、あまりにも凶悪な一撃によって、体ごと弾き返された。
「ぐっ……!?」
飛ばされ、アスファルトを滑るセイバー。
それを追撃する黒い旋風と、
追撃を阻止せんと奔《はし》る幾つもの銀光。
だが効かない。
正確に、一分の狂いもなく額に放たれた三本の矢は、悉く巨人の体に敗れ去った。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓――――!!!!」
巨人は止まらない。
振るわれる大剣を、セイバーは咄嗟に剣で受け止める……!
「セイバー……!」
そんな叫び、何の意味もない。
バーサーカーの一撃を受け止めたセイバーは、それこそボールのように弾き飛ばされ――――だん、と坂の中頃に落下した。
「――――!」
目が眩んでいるのか。
セイバーは地面に膝をついたまま動かない。
「――――トドメね。潰しなさい、バーサーカー」
少女の声が響く。
黒い巨人は、悪夢のようなスピードでセイバーへと突進する。
「アーチャー、続けて……!」
叫びながら遠坂は走り出した。
―――セイバーに加勢するつもりなのか。
遠坂は石らしき物を取り出しながら坂道を駆け上っていく。
「Gewicht《重圧、》, um zu 《束縛、》Verdoppelung《両極硝》――――!」
黒曜石を中空にばらまく遠坂と、
天空から飛来する無数の銀光。
それを受けてなお、バーサーカーの突進は止まらない。
「――――なんて」
怪物、だ。
……ここにきて、俺にもその異常性が読みとれた。
あの巨人は“屈強”なんていう次元《レベル》の頑丈さじゃない。
アレは何か、桁違いの魔力で編まれた『法則』に守られた不死身性なのだと。
「いいよ、うるさいのは無視しなさい。
どうせアーチャーとリンの攻撃じゃ、アナタの宝具を越えられないんだから」
響く少女の声。
薙ぎ払われる巨人の大剣。
それを。
凛々しい視線のまま剣で受け止め、セイバーは二度、大きく弾き飛ばされた。
―――坂の上、何十メートルと吹き飛んでいく。
セイバーは一直線に、それこそ剛速球のように、坂道から外れた荒れ地へと叩き込まれた。
「――――――――」
それで、死んだと思った。
一撃ならまだいい。
だが、あの巨人の大剣を二度受けて、無事でいられる筈がない。
黒い旋風が移動する。
既に勝敗は決したというのに、まだ飽き足らないのか。
バーサーカーと呼ばれた巨人は、咆哮をあげて坂上の荒れ地へと突進する。
「――――――――」
死ぬ。
もしセイバーが生きていたとしても、これで確実に死ぬ。
……そして。
ここにいる限り、俺も殺される事に間違いはない。
“出来るのなら、なんとか逃げて”
そう言った遠坂の姿はない。
あいつはバーサーカーを追っていった。
あれだけやって無傷だった相手に、まだ挑む気があるというのか。
「――――――――」
俺は――――
「――――――――」
俺が行ってもどうなる物ではないと判っている。
それでも―――この手には、彼女の感触が残っていた。
これからよろしく、と。
差し出した手を、あいつはしっかりと握り返してくれた。
なら――――
「ああもう、そんなの決まってるじゃないか……っ!!」
坂を登れば、巨人の後を追えば殺される。
その事実に震える背中を押さえつけて、全力で坂道を駆け上がった。
「セイバー――――!」
荒れ地に駆け込む。
……と。
そこに待っていた光景は、俺の予想を遙かに裏切っていた。
墓石が飛ぶ。
咆哮をあげて巨人が大剣を一閃するたび、冗談のように重い墓石が両断されていく。
―――その中。
乱舞する墓石の上、勇然と駆け抜ける騎士がいた。
吹き荒れる斧剣の一撃。
ドンドンと音を立てて吹き飛ぶ墓石。
その中で、先ほどと同じ――――いや、それ以上の力で、セイバーはバーサーカーと対峙していた。
「――――――――」
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
両者の立場は、ここにきて逆転している。
バーサーカーに比べてあまりに小柄な彼女の利点。
障害物に阻まれるバーサーカーと、
障害物などないかのように振る舞うセイバー。
バーサーカーにとって、この程度の障害など些末事だろう。
だが、それは決してゼロではない。
戦場としては些細な違いではあるが、その僅かな差こそが、拮抗《きっこう》する両者の天秤を傾けている―――
「こっち……! 前に出るととばっちり食らうわよ!」
「えっ、ちょっ……!?」
「なに考えてんのよアンタ……! 逃げろって言ったでしょ!? それともなに、もしかして聞こえなかったワケ!?」
があー、ともの凄い剣幕で怒っている。
「あ―――いや、聞こえてた。けど、そういうワケにもいかないだろ」
「はあ!? なんでそういうワケにもいかない、なんて結論が出るのよ! 衛宮くんは戦う手段がないんだから、いるだけ邪魔って判らない!? 色々やって死ぬんならしょうがないけど、何もせずにやられちゃったら無駄死にってもんじゃないっ!」
「――――?」
……なんでか知らないが、遠坂は本気で怒っている。
が、不思議な事に、こんなに怒鳴られているのに腹は立たなかった。
「―――なあ。それ、遠坂が怒るコトか? 別に俺が無駄死にしようと遠坂には関係ないだろ」
「関係あるわよ! 今日いっぱいは見逃してあげるって言ったんだから、ちゃんと家に帰ってもらわないと困るの、わたしがっ!」
「………………」
……ますます不可解だ。
遠坂って、ホントに猫被ってたんだな、学校で。
「―――ったく。とにかくまだ無事なんだから、今のうちに逃げなさい。
……あのイリヤスフィールってガキ、本気でわたしたちを皆殺しにするつもりだろうから」
「それは判ってる。けど逃げられる訳ないだろう。セイバーがああして戦ってるんだ、俺が離れる訳にはいかない」
「……それは一人前の台詞よ。何の援護も出来ない貴方がいても無駄死にするだけでしょう。
―――これが最後よ。いいから、早く逃げなさい」
「そんな事あるもんか。体があるかぎり出来る事はある筈だ。それにな、遠坂。自分に出来ない事を人にやらせる気か、おまえ」
「――――――――」
遠坂は真剣な顔でこちらを見据えたあと。
「……そうね。自分に出来ない事を貴方に強制するなんて、恥知らずはこっちだった」
ふい、と顔を逸らす。
「―――まあ、確かに逃げる必要はないかもね。あの調子じゃセイバーは負けないだろうし」
木の陰に隠れながら、遠坂は墓地の様子を覗き見る。
両者の戦いに変化はない。
バーサーカーの一撃は悉く空を切り、台風のように周囲を破壊するだけだ。
その合間。
振るわれる旋風と舞い上がる土塊、
切断されていく墓石の雨の中、
セイバーは鎧さえ汚さず踏み込み、バーサーカーへ一刀を見舞う。
「………………………………」
これ以上はないという神業。
人の身では到底及ばない戦いを見せつけられ、先ほどまでの恐怖は消え去っていた。
いや、正直見惚れてさえいる。
聖杯戦争なんて言われても実感は湧かなかったし、不安もあった。
だが、そんなものは彼女を見て吹き飛んだ。
舞い狂う剣舞。
触れれば一瞬にして肉塊にされる旋風の中、躊躇うことなく敵に挑む騎士の姿。
……それで全てを受け入れたのかもしれない。
この先、どんな出来事が待ち受けようと。
セイバーと名乗る彼女となら、たとえ相手が鬼神でも戦い抜けると確信して―――
「……やっぱりね。怪しいとは思ったけど、バーサーカーの剣を受けたのはワザとだったわけか」
ぽつりと。
感情のない声で遠坂は呟く。
「……それは、バーサーカーをここに誘い込む為か?」
「わかってるじゃない。遮蔽物《しゃへいぶつ》のない場所でアレと戦うのは自殺行為よ。だからこそ、セイバーは戦場にこの場所を選んだ。それも自然に、衛宮くんからバーサーカーを遠ざけながら、あくまで追い詰められたフリをしてね」
「――――――――」
……だとしたら。
セイバーは坂道を歩いている時点で、この場所が戦闘に適した場所だと考えていたワケか。
「もちろん、こんな戦いになったら援護は期待できない。けど相手はアーチャーの矢さえ無効化する怪物だもの。援護なんて、始めから無意味なのよ」
遠坂はぶつぶつと呟きながら、セイバーとバーサーカーの戦いを観察する。
「……アーチャーの、矢……」
ただ、こっちはその言葉が気になった。
ここにアーチャーの姿はない。
あいつがその名の通り弓兵なら、確かに白兵戦はしないのだろうが――――
「入った――――!」
指を鳴らす遠坂。
彼女の歓声通り、セイバーの剣がバーサーカーに届いたのか、それとも足場を失ったのか。
今まで決して揺るがなかったバーサーカーの体が、ぐらりとバランスを崩す。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓―――――――」
苦し紛れに薙ぎ払われる旋風。
それを大きく後ろに跳んで躱し、セイバーは剣を両手で構え直す。
――――それで決着だ。
苦し紛れの一撃を躱されたバーサーカーはさらにバランスを崩し、
セイバーは渾身の力を込めて踏み込もうと膝を曲げる。
その時。
「――――え、アーチャー……? 離れろってどういう事……?」
首を傾げる遠坂の声と、遙か遠くから向けられた殺気に気が付いた。
「――――――――」
背後。
何百メートルと離れた場所、屋根の上で弓を構える赤い騎士の姿を見た。
「――――――――」
吐き気か悪寒。
ヤツが構えているものは、弓だ。
今までと何も変わらない弓。
直撃したところでバーサーカーには傷一つ負わせられない物。
なら、そんな物に脅威を感じる必要など――――
「――――――――」
―――悪寒がする。
ヤツが弓に添えているものは“矢”ではなく、もっと別の物であり。
その殺気の標的は、バーサーカーだけではない。
「セイ――――」
足が動く。
俺は――――
「セイバー――――っっっっっ!!!!!」
気が付けば、物陰から飛び出していた。
「ちょっ、待――――!」
全力でセイバーへと走る。
「な、シロウ――――?」
きょとん、とした顔。
セイバーは俺を見て、バーサーカーへと踏み込むのを止めてくれた。
“間に合う――――!”
背後に迫る危機感。
「な、なぜ出てきたのですか、貴方は……!」
セイバーの叱咤も無視して、とにかく全速でセイバーへと駆け寄り、その腕を掴む――――!
「正気ですか、マスター……!」
「話は後……! いいからこっち――――」
セイバーを抱き寄せて、そのまま跳んだ。
――――“矢”が放たれる。
今まで何の効果も出さなかったアーチャーの矢。
そのような物、防ぐまでもないと向き直る黒い巨人。
だが、その刹那。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
黒い巨人は俺たちに背を向け、全力で迫り来る“矢”を迎撃し――――
――――瞬間。
あらゆる音が、失われた。
「――――――――!」
セイバーを地面に組み伏せ、ただ耐えた。
聴覚が麻痺したのか、何も聞こえない。
判るのは体を震わせる大気の振動と、肌を焦がす熱さ。
烈風で弾き飛ばされた様々な破片は四方に跳ね飛ばされ、ごっ、と重い音をたてて、俺の背中にも突き刺さった。
「っ………………!」
歯を食いしばって耐える。
白い閃光は、その実一瞬だったのだろう。
体はなんとか致命傷を受けずに、その破壊をやり過ごせた。
「な――――」
俺の下で、セイバーは呆然とソレを見ていた。
……それは俺も同じだ。
何が起きたのかは判らない。
ただ、アーチャーが放った“矢”によって墓地が一瞬にして炎上しただけ。
爆心地であったろう地面は抉れ、クレーター状になっている。
それほどの破壊をアーチャーは巻き起こし。
それほどの破壊を以ってしても、あの巨人は健在だった。
「……バーサーカー……ランクAに該当する宝具を受けて、なお無傷なんて――――」
セイバーの声には力がない。
火の粉が夜の闇に溶けていく中。
黒い巨人は微動だにせず炎の中に佇み、居合わせた者は声もなく惨状を見据えている。
火の爆ぜる音だけが耳に入る。
このままでは大きな火事になる、と思った矢先。
「え……?」
カラン、と硬い音をたてて、おかしな物が転がってきた。
「……剣……?」
否、それは“矢”だった。
豪華な柄と、螺旋状に捻れた刀身を持つ矢。
……たとえそれが剣であったとしても、“矢”として使われたのなら、それは矢だった。
「――――――――」
それが、どうしてそこまで気になったのか。
バーサーカーによって叩き折られた矢は、炎に溶けるように消えていった。
跡形もなく薄れていく様は、熱に溶ける飴のようでもある。
それが――――
――――理由もなく、吐き気を呼び起こした。
「――――シロウ、今のは」
「……アーチャーの矢だ。それ以外は、判らない」
顔をあげ、遙か遠くのアーチャーに視線を移す。
「っ――――――――」
見える筈がない。
見える筈がないというのに、確かに見た。
やつは口元を歪めていた。
狙ったのはバーサーカーだけではない、と俺に見せつけるように笑ったのだ。
「あいつ――――!」
……頭痛がする。
背筋に走る悪寒が止まらない。
まるで魔術回路の形成に失敗した時のように、背骨が熱くなって吐きそうになる――――
「……ふうん。見直したわリン。やるじゃない、アナタのアーチャー」
何処にいるのか、楽しげな少女の声が響く。
「いいわ、戻りなさいバーサーカー。つまらない事は初めに済まそうと思ったけど、少し予定が変わったわ」
……黒い影が揺らぐ。
炎の中、巨人は少女の声に応えるかのように後退しだした。
「―――なによ。ここまでやって逃げる気?」
「ええ、気が変わったの。セイバーはいらないけど、アナタのアーチャーには興味が湧いたわ。だから、もうしばらくは生かしておいてあげる」
巨人が消える。
白い少女は笑いながら、
「それじゃあバイバイ。また遊ぼうね、お兄ちゃん」
そう言い残して、炎の向こう側へ消えていった。
「………………」
それで、突然の災厄は去ってくれた。
口ではああ言っていたが、遠坂もあの少女を追いかける気はないのだろう。
俺にだって見逃して貰えたと判るのだ。
なら、あの遠坂がわざわざ無謀な戦いを挑むとは思えない。
「……マスター。窮地を救ってもらったのは感謝します。ですが、そろそろ放してもらえませんか」
……淡々としたセイバーの声が聞こえる。
「あ――――そうか、すまない」
ぐらぐらする頭のまま、なんとか答える。
セイバーから手を放して、立ち上がろうとした瞬間、みっともなく尻餅をついてしまった。
「シロウ? どうしました、気分でも――――シロウ、その背中は……!」
切迫したセイバーの声。
……頭痛が強いためか、セイバーの顔がよく見えない。
セイバーは倒れかける俺の体を支えて、そのまま背中に手をやった。
「あ、痛」
ずくん、という痛み。
……この頭痛ほどじゃないにしろ、わりとハンパじゃない痛みが背中で点滅している。
「……ひどい。このままでは危険です。破片を抜きますが、我慢してください」
「え――――ちょっ、破片って、セイバー」
…………!
躊躇なんてしてくれない。
どうやら背中に刺さった破片とやらを、セイバーは強引に抜いてしまったらしい。
「あ――――つ、この、乱暴、もの――――」
乱れそうになる呼吸を整える。
……俺だって半人前でも魔術師だ。
これぐらいの痛みならなんとかコントロールできる。
「ふう――――ふう、ふう、ふ――――」
ただ、今の感覚は特殊だった。
背中に羽が生えていて、その羽を抜かれるとしたら、こんな感じだったかもしれない。
「……傷が塞がっていく……なるほど、自身に対する治療法を備えていたのですね」
胸を撫で下ろしながら、セイバーはおかしな事を言った。
「……?」
自身に対する治療法……?
いや、だからそんな高等な魔術、俺が使える訳ないんだが。
「衛宮くん、無事?」
……遠坂が駆け寄ってくる。
それに、一応無事だ、と手をあげて答えた。
「そう。ならわたし達も行きましょう。これだけハデにやったんだから、騒ぎを聞きつけて人が来るわ」
ほら、と長い髪をなびかせて、遠坂は墓地から坂道へと駆けていく。
「――――――――」
それを追いかけようと地面を蹴った瞬間。
目の前が、唐突に真白《ましろ》くなった。
「マスター……!?」
……倒れる体を支えてくれる感触。
それもすぐに消えて、あっけなく、ほとんどの機能が落ちてしまった。
――――残ったのは、この鼓動だけ。
何が癇に触って、
何が気になっているのか。
……意識は落ちようとしているのに、熱病めいた頭痛だけが、鼓動のように続いていた。
[#改ページ]
2月3日     4 One dayV
――――見た事もない景色だった。
頭上には炎の空。
足元には無数の鋼《つるぎ》。
戦火の跡なのか、
世界は限りなく無機質で、生きているモノは誰もいない。
灰を含んだ風が、鋼の森を駆け抜ける。
剣は樹木のように乱立し、その数は異様だった。
十や二十ではきかない。
百や二百には届かない。
だが実数がどうであれ、人に数えきれぬのであらば、それは無限と呼ばれるだろう。
大地に突き刺さった幾つもの武具は、使い手が不在のままに錆びていく。
夥《おびただ》しいまでの剣の跡。
―――それを。
まるで墓場のようだと、彼は思った。
……視界が戻る。
日が昇って随分と時間が経ったのだろう、確かな陽射しが伝わってきた。
「――――――今の、夢」
ぼんやりと目を開けて、見ていた夢を思い起こす。
……剣の丘。
あんな夢を見たのは、そう、剣を持った少女《セイバー》と、炎に包まれた墓地を見たからで――――
「あ、お目覚め? それは結構。大事がなくて何よりだわ」
「は………………?」
と。
同時に、偉そうに見下ろしながら、とんでもなくフツーな一言を述べる遠坂凛。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!」
布団から跳ね起きる。
そのままコンマで壁際まで跳び退いて、ともかく遠坂から距離を取った。
「と、とと、とととととと遠坂!? な、ななな!? 何故にいま俺の部屋………!!??」
ぐるぐるぐるぐる思考がまわる。
俺は剣の丘―――じゃなくて、燃えさかる墓地にいた筈で、近くにいたのはセイバーで、どうして自分の部屋で眠っていてもう朝になっているのか……!?
「と、遠坂、どうしておまえがここにいて、俺は何してたんだ――――!?」
口にした途端、ますます頭がまわりだした。
事態が急展開を迎えているから、って訳じゃない。
一番びっくりしているのは、そう―――目を覚ましたらすぐ目の前に遠坂がいたってコトが、こんなにも心臓をバクバクさせている。
「驚くんならどっちかに驚きなさいよ。どっちも取れるほど器用じゃないでしょ、衛宮くんは」
こっちの心境も知らず、遠坂はあくまでクールだ。
「――――む」
それで停止していた頭に喝が入った。
そうだ。
そりゃあ目が覚めた途端、遠坂の顔があったらびっくりするのは当然だ。
が、裏を返せば、それはつまり――――
「……そうか。状況を見ると、気を失った俺をここまで運んでくれたんだな、遠坂」
「へえ。なんだ、見た目より頭の回転は速いんだ。混乱しているようでちゃんと物事は考えてるのね。うん、面白い面白い」
………む。
褒めているのか貶しているのか、判断しづらい発言は止めて欲しい。
「……じゃああれから半日ぐらいしか経ってないのか。俺ん家まで運んでくれたって事は、人目につかないで逃げられたんだ」
「ええ、そういう事。話が早くて助かるわ」
それで満足したのか。
それじゃ、と短く言って、遠坂は歩き出す。
「え――――おい。どこ行くんだよ、遠坂」
「貴方、まだ寝ぼけてる? どこに行くも何も、ここは貴方の家じゃない。わたしがいつまでも居ていい場所じゃないわ」
きっぱりと言う。
その目が、
“敵同士でしょ、わたしたち”
と告げていた。
「――――――――」
それは、そうだ。
昨夜。
あの教会で戦うと口にした。
ならもう、衛宮士郎と遠坂凛は競い合うしかない関係なんだ。
「そうだったな。すまない遠坂。それと、今更だけどありがとう」
「――――――」
と。
遠坂は去っていく足を止めると、難しい顔でこっちを睨んできた。
「待った。どうしてそこで礼なんか出るの」
「いや、だって助けてもらっただろう。敵同士だって言うんなら尚更ありがたいと思って」
「―――――ちょっと。そこに座りなさい、衛宮くん」
ずかずかと部屋の真ん中まで戻ってくる遠坂。
「……?」
思惑は判らないが、逆らうととんでもない事態になりそうな気がする。
「ほら、早く」
ぽんぽん、と畳を叩く。
「――――――」
……どうやら真面目な話があるようだ。
そういう事なら、と大人しく正座した。
「いい。まだ解ってないようだから言ってあげるけど、そんな考えじゃ死ぬわよ、貴方」
「? そんな考えって、どんなだよ」
「……だから、間違っても敵にありがとう、なんて言うなってコトよ。いちいちそんな気になってたら命が幾つあっても足りないわ。
いい、相手はただの障害よ。人間のカタチをしていて人間のコトバを喋るからって、“自分と同じ”だなんて思わないで」
「――――――――」
強い口調、厳しい眼差しで遠坂は告げてくる。
……それは、確かにその通りだ。
敵を自分と同じだ、と情を移す事が間違いなら、いちいちそんな余分な思考をする事も間違い。
戦うと決めたからには、相手は倒すだけのもの。
―――ああ、遠坂の言い分は理解できる。
しかし、それは。
「ちょっと、聞いてる!? いい、聖杯戦争は聖杯を手に入れる為だけの殺し合いなんだから。その為には他のマスターを人間として見ない事。たとえ肉親でも叩き潰す対象と割りきりなさい。まったく、こんな事マスターとしての第一条件じゃない」
不愉快そうに叱りつけてくる遠坂。
いや、だから、それなら。
「それは判った。けど、ならなんで遠坂は俺を殺さなかったんだ?」
そういう問題にならないか?
「え――――そ、それは、つまり」
さっきまでの剣幕は何処にいったのか。
うー、とますます不愉快そうに喉を鳴らす。
「ふ、ふん。単に気分が乗らなかっただけよ。貴方には借りがあったし、寝込みを襲うなんてフェアじゃないもの。だから、なんか気にくわないなって」
「遠坂。おまえいま、勝つためならいかなる手段も使え、みたいなコト言わなかったか?」
「そうよ。だからこれは私の失点。貴方よりわたしの方が強いから生じた油断かな。ま、言うなれば心の贅肉《ぜいにく》ね」
あ、その表現、前も聞いた覚えがある。
「心の贅肉? つまり遠坂が太ってるってコトか?」
「ふふふふふ。面白いこと言うのね、衛宮くんは」
にっこり、と笑う遠坂。
「でもこれからは余計な言動は控えた方がいいわよ。軽率な行動は死を招くだけだから」
「――――――――」
……こわかった。
なんか、ビリっと悪寒が走って思わず身を引いちまったぞ、今の。
「……ふん。とにかくわたしの話はそれだけよ。後のことは貴方のサーヴァントにでも訊きなさい」
遠坂はスッと立ち上がると、今度こそ止める間もなく出口へと歩いていく。
「それじゃあね。今度会ったら敵同士だから、その時は覚悟しなさい」
それで遠坂の気配は消え失せた。
俺をここまで運んでくれて、手当てまでしてくれたのは本当に気紛れだったのだろう。
あいつは何の未練も感情も残さず、敵同士だと告げて、この屋敷から去っていった。
「――――さて」
軽く息を吸って、状況を把握する。
昨夜の事件―――夜の学校でランサーとアーチャーの戦いを目撃してからこっち、まともに考える時間がなかった為だ。
「……あ。そうか、ならあの時にいた人影って遠坂だったワケだ」
ぽん、と今更ながら気がつく。
その後、俺はランサーに胸を貫かれ、なんでか助かって家に戻り、再びランサーに襲われ――――
「セイバーに助けられて、マスターになった」
教会で聞いた事。
聖杯戦争という殺し合い。
勝者に与えられる、あらゆる望みを叶える“聖杯”。
……そんな事はまったく実感が持てないが、衛宮士郎はすでに三回も敵に襲われている。
なら―――いつまでも戸惑ってはいられない。
何より、俺はこの戦いが放っておけないからこそ戦うと口にした。
……聖杯戦争という椅子取りゲーム。
どのような思惑だろうと、参加したからには相手を押し退けないと生き残れない。
問題はその押し退ける方法が、椅子取りゲームに参加していない人にまで危害を加える可能性がある、という事。
だから、
――――喜べ衛宮士郎。
俺の戦う理由は聖杯戦争に勝ち残る為じゃなくて、
――――君の望みは、ようやく叶う。
どんな手を使っても勝ち残ろうとするヤツを、力ずくでも止める事。
「――――――――」
……それに間違いはない筈だ。
衛宮士郎は正義の味方に、不当に命を奪われる“誰か”の為に魔術を鍛えてきたんだから。
「よし。まずはセイバーに話を聞かないと」
脳裏にこびりついている神父の言葉を振り払って、廊下へと足を向けた。
屋敷をまわる。
人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったがセイバーの姿はない。
「あれ……? あの格好なんだ、いればすぐに判るもんだけど」
そうは言いつつも、屋敷のどこにもセイバーの鎧姿は見あたらなかった。
サーヴァントは霊体になれるらしいが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。
いや、そもそも――――
「マスターだなんて言うけど、俺、あいつの事なんにも知らないんだよな」
セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで解らない。
ただ判る事と言えば、それは。
あの金髪の少女となら、こんな訳の分らない戦いも切り抜けられるという確信だけだ。
「ここにもいない――――」
屋敷はすべてまわった。
旅館みたいに広い屋敷だが、子供の頃藤ねえと隠れんぼをして効率のいい屋敷内の探索法は心得ている。
ここまで捜していないとなると、後は道場か土蔵ぐらいなものだろう。
「――――え?」
静まりかえった道場にセイバーはいた。
……ただ、その姿は昨日までの彼女とは違う。
板張りの床に正座したセイバーは、鎧を纏ってはいなかった。
セイバーは彼女らしい上品な洋服に着替えていて、無言で床に座していた。
「――――――――」
……その姿に、言葉を忘れた。
凛と背筋を伸ばし、目を閉じて正座をするセイバーは、綺麗だった。
静寂に溶け込む彼女の有り様は、清らかな水を思わせる。
「――――――――」
それで、最後に残っていた棘が取れた。
サーヴァントだろうとなんだろうと、彼女は聖なるものだと思う。
なら―――この先、自分が間違った道を進むことはないだろう。
「セイバー」
声をかける。
セイバーは慌てた風もなく目蓋を開けて、ゆっくりと視線を返す。
「目が覚めたのですね、シロウ」
落ち着いた声。
染みいるように響く彼女の声は、ひどくこの道場にあっていた。
「―――ああ。ついさっき目が覚めた。セイバーはここで何を?」
「体を休めていました。私にはシロウの手当ては出来ませんから、今はせめて自身を万全にしておこうと思いまして」
「っ――――」
まっすぐにこっちを見ながら、淡々とセイバーは言う。
……それは、その。
遠坂とはまた違った緊張があるというか。
「シロウ? どうしました、やはり体がまだ……?」
「っっっっっ! い、いやこっちも問題ないっ! かってに戸惑ってるだけだから、気にしないでくれ……!」
ばっと一歩引いて、ぶるぶると首を振る。
「?」
不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。
「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」
ふう、と深呼吸を一度する。
……けど、なんともすぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。
「……ああもう、なんだって着替えてるんだ、セイバーは――――」
思わずごちる。
セイバーの服装はあまりにも現実感がありすぎて、否応なしに異性を意識してしまうのだ。
……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。
それは昨日で知っていたつもりだったけど、今はさらに思い知らされた。
鎧姿、という出で立ちがあまりにも非現実的だったので、昨夜はそう気にならなかったのだろう。
こうして、ああいう女の子らしい格好をされると、健全な男子としてはとにかく困るのだ。
「シロウ」
呼びかけてくる少女と目があった途端、緊張する自分が判る。
かといって、黙り込むために彼女を捜していた訳じゃない。
彼女は苦手だけど、だからといって黙っていたら一生このままだ。
「―――よし。
いいかなセイバー。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」
意を決して話しかける。
――――と。
「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」
「―――? いいけど、なんだよ話って」
「ですから昨夜の件です。
シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困ります。戦闘は私の領分なのですから、マスターは後方支援に徹してください」
「昨夜の話――――?」
昨日な記憶を振り返ってみる。
……セイバーが言っているのは、アーチャーの一撃からセイバーを連れ戻そうとした事か……?
「……む。アレは仕方ないだろう。セイバーが体を張ってたんだ。なら、せめてあれぐらいはしないと協力関係だなんて言えないじゃないか。相棒が危なかったんだから、手を出すのは当然だろ」
「―――まさか。貴方はまだサーヴァントのなんたるかも知らないというのに、そこまで心を許していたのですか?」
あ。すごい、セイバーがびっくりしてる。
「え、だって握手しただろ。それにセイバー、何度も俺を助けてくれたじゃないか。これで信頼できないヤツこそどうかしてる」
「――――――――」
呆然と俺を見上げるセイバー。
「う……もしかして、契約ってそういう事じゃないのか?」
不安になって問いただす。
セイバーはいいえ、と静かに首を振ったあと、
「サーヴァントとして、シロウの言葉は喜ばしい。
それに、あの時止めてもらわなければ私も致命傷を負っていたでしょう。……方法こそ巧くはありませんでしたが、シロウの指示は的確でした」
「……そっか。良かった、つい夢中でやっちまったけど、あれはあれで良かったんだな」
「はい。ですが、今後はあのような行動は控えてください。私は傷を負ってもマスターさえ健在ならすぐに回復できます。ですが貴方が傷を負っては、私には治す術がない」
「う―――分かった、気をつける。確かにアレは軽率だった。次はもっと巧くやる」
どう巧くやればいいか判らないが、ともかく考え無しで飛び出すのは止めよう、と自分を戒める。
と。
「はい。いい返事です、マスター」
そんな俺の素振りがおかしかったのか。
セイバーは一瞬だけ、笑ってくれたように見えた。
「――――――――」
ぼっ、と火照る頭を振り払う。
今はそんな事より、はっきりさせなくちゃいけない事がある。
本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。
彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、
本当に―――この戦いに参加するのかという事を。
「話を戻すぞセイバー。
……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」
「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」
セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。
彼女の意思には疑問を挟む余地などない。
「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つためにか」
「? シロウはその為に私を呼び出したのではないのですか」
「違う。俺がおまえを呼び出したのはただの偶然だ。
セイバーも知ってる通り、俺は半人前の魔術師だからな。セイバーには悪いが、俺にはマスターとしての知識も力もない。
けど、戦うと決めたからには戦う。未熟なマスターだけど、セイバーはそれでいいのか」
「もちろん。私のマスターは貴方です、シロウ。
これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」
「――――――――」
……そうなのか。
なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに応えるしかない。
「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」
「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。貴方に勝算がなければ私が作る。可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います。
私たちサーヴァントは無償で貴方たちマスターに仕えるのではない。私たちも聖杯を欲するが故に、貴方たちに仕えるのです」
「――――え。ちょっと待った、聖杯が欲しいって、セイバーもそうなのか……!?」
「当然でしょう。もとより、霊体である聖杯に触れられるのは同じ霊格を持つサーヴァントだけです。
聖杯戦争に勝利したマスターは、サーヴァントを介して聖杯を手に入れる。その後、勝利したマスターに仕えたサーヴァントは見返りとして望みを叶える。
―――それがサーヴァントとマスターの関係です、シロウ」
「――――――――」
……そうか。
言われてみれば、“英霊”なんてとんでもない連中が人間の言うことを聞くはずがないんだ。
彼らにも目的があるから、交換条件としてマスターに仕えている。
……そうなるとセイバーにも“叶えるべき願い”があるって事だ。
だからこそセイバーには迷いがない。
けど、それは。
「……待ってくれセイバー。可能である全ての手段って言ったな。それは勝つ為には手段を選ばないって事か。
たとえば――――」
あの神父が言ったように。
マスターでもない無関係の人間を巻き込んで、十年前のあの日のような惨状を起こすような――――
「シロウ、それは可能である手段ではありません。
私は私が許す行為しか出来ない。自分を裏切る事は、私には不可能です。剣を持たぬ人間に傷を負わせる事など、騎士の誓いに反します」
「ですが、マスターが命じるのであれば従うしかありません。その場合、私に踏みいる代償として、その刻印を一つ頂く事になりますが」
怒りさえ込もった声に圧倒される。
「――――――――」
それでも、嬉しくて胸をなで下ろした。
あまりの強さと迷いのなさに機械のようなイメージがあったけど、セイバーは冷酷な殺人者ではないと判って。
「―――ああ、そんな事は絶対にさせない。
セイバーの言う通り、俺たちは出来る範囲でなんとかするしかないからな。……本当にすまなかった。知らずに、おまえを侮辱しちまった」
「ぁ……いえ、私もマスターの意図が掴めずに早合点してしまいました。シロウは悪くないのですから、顔をあげてくれませんか……?」
「え? ああ、思わず謝ってた」
顔をあげる。
「――――――――」
セイバーは何がおかしかったのか、わずかに口元を緩めていた。
「?」
まあ、笑ってくれるのは嬉しいんで追求するのはやめておこう。
「それじゃあもう一つ訊いていいか。マスターっていうのはサーヴァントを召喚する魔術師の事だよな。
それはいいんだけど、セイバーたちの事が俺にはまだよく判らない。セイバーとかランサーとか、どうも本名じゃないのは分かるんだが」
「ええ、私たちの呼び名は役割毎につけられた呼称にすぎません。……そうですね、この際ですから大まかに説明してしまいましょう」
「私たちサーヴァントは英霊です。
それぞれが“自分の生きた時代”で名を馳せたか、或いは人の身に余る偉業を成し遂げた者たち。どのような手段であれ、一個人の力だけで神域まで上り詰めた存在です」
言われるまでもない。
英霊とは、生前に卓越した能力を持った英雄が死後に祭り上げられ、幽霊ではなく精霊の域に昇格したモノを言う。
「ですが、それは同時に短所でもあります。私たちは英霊であるが故に、その弱点を記録に残している。
名を明かす―――正体を明かすという事は、その弱点をさらけ出す事になります。
敵が下位の精霊ならば問題になりませんが、私たちはお互いが必殺の力を持つ英霊です。弱点を知られれば、まず間違いなくそこを突かれ、敗北する」
「……そうか。英雄ってのはたいてい、なんらかの苦手な相手があるもんな。だからセイバー、なんて呼び名で本当の名前を隠しているのか」
「はい。もっとも、私がセイバーと呼ばれるのはその為だけではありません。
聖杯に招かれたサーヴァントは七人いますが、その全てがそれぞれ“役割《クラス》”に応じて選ばれているのです」
「クラス……? その、剣士《セイバー》とか弓兵《アーチャー》とか?」
「そうです。もとより英霊をまるごと召喚する、という事自体が奇蹟に近い。それを七人分、というのは聖杯でも手に余る。
その解決の為、聖杯は予め七つの器を用意し、その器に適合する英霊だけを呼び寄せた。この世界に我々が存在できる依り代を用意したのです。
それが七つの役割、
セイバー、
ランサー、
アーチャー、
ライダー、
キャスター、
アサシン、
バーサーカー。
「聖杯は役割に該当する能力を持った英霊を、あらゆる時代から招き寄せる。
そうして役割《クラス》という殻を被ったモノが、サーヴァントと呼ばれるのです」
「……なるほど。じゃあセイバーは剣に優れた英霊だから、セイバーとして呼ばれたって事か」
「はい。属性を複数持つ英霊もいますが、こと剣に関しては私の右に出る者はいない、と自負しています」
「もっとも、それがセイバーの欠点でもある。
私は魔術師ではありませんから、マスターの剣となって敵を討つ事しかできない」
「権謀術数には向かないって事だな。いや、それは欠点じゃないと思うけど。セイバーはあんなに強いんだから、もうそれだけで十分だろ」
「シロウ、戦闘で強いだけではこの戦いは勝ち抜けません。
例えばの話ですが、敵が自身より白兵戦で優れている場合、貴方ならどうしますか?」
「え? いや、そうだな……正面から戦っても勝てないって判ってるなら、戦わずになんとかするしかな――――」
そこまで口にして、そうか、と納得した。
相手が強いのなら、まっとうな戦いなんて仕掛けない。
なにも剣でうち倒すだけが戦いじゃないんだ。
剣で敵わない相手なら、剣以外で敵の息の根を断つだけの話じゃないか。
「そういう事です。白兵戦で優れている、と相手に知られた場合、相手はまず白兵戦など仕掛けてこないでしょう。……そういった意味で言うと、能力に劣ったサーヴァントはあらゆる手を尽くしてくる」
「アサシンのサーヴァントは能力こそ低いですが気配を隠すという特殊能力がありますし、キャスターのサーヴァントはこの時代にはない魔術に精通している。
単純な戦力差だけで楽観はできません。加えて、私たちには“宝具”がある。どのようなサーヴァントであれ、英霊である以上は必殺の機会を持っているのです」
「宝具――――?」
それも聞き慣れない単語だ。
いやまあ、ニュアンス的になんとなく意味は判るんだけど。
「宝具とは、サーヴァントが持つ特別な武具の事です。
ランサーの槍や、アーチャーの弓、それに私の剣などが該当します。
英雄とは、それ単体で英雄とは呼ばれません。彼らはシンボルとなる武具を持つが故に、英雄《ヒーロー》として特化している」
「英雄とその武装は一つなのです。故に、英霊となった者たちはそれぞれが強力な武具を携えています。
それが“宝具”――――サーヴァントたちの切り札であり、私たちが最も警戒すべき物です」
「――――――――」
……宝具とは、その英霊が生前に持っていた武具だとセイバーは言う。
あの青い騎士の槍を思い出す。
大気中の魔力を吸い上げ、あり得ない軌跡でセイバーの胸を貫いたあの槍。
あれは、確かに人の手におえる物ではない。
あの槍自体も強い呪いを帯びていたが、あの時ランサーが発した言葉にも桁違いの魔力を感じた。
なら、もしかしてそれは。
「セイバー。宝具ってのは魔術なのか?
たしかにランサーの槍は曰くありげな槍だったけど、それ自体は槍っていう領域から出てなかっただろ。
けどあいつの言葉で、あの槍は武器の領域から逸脱した。それって魔術の類じゃないのか?」
「ええ、確かに宝具は魔術に近い。
たとえばランサーの槍ですが、彼の槍はそれ自体が宝具ではありますが、その真価を発揮するのは彼が魔力を注ぎ込み、その真名を口にした時だけです」
「宝具とは、ある意味カタチになった神秘ですから。
魔術の発現に詠唱が必要なように、宝具の発動にも詠唱―――真名《しんめい》による覚醒が必要になる。
ですが、これにも危険はあります。宝具の真名を口にすれば、そのサーヴァントの正体が判ってしまう」
「……そっか。英雄と武器はセットだもんな。持ってる武器の名前が判れば、おのずと持ち主の正体も知れる」
こくん、と無言で頷くセイバー。
だからこそ宝具は切り札なんだ。
正体を明かすかわりに、避けきれぬ必殺の一撃を炸裂させる。
だがそれが不発に終わった時――――そのサーヴァントは、自らの欠点をもさらけ出す事になる。
「それじゃあセイバー。おまえの宝具は、あの視えない剣なのか?」
「……そうですね。ですが、あれはまだ正体を明かしていません。今の状態で私の真名を知るサーヴァントはいないでしょう」
言って、一瞬だけセイバーは気まずそうに目を伏せた。
「シロウ。その件についてお願いがあります」
「え? お願いって、どんな」
「私の真名の事です。本来、サーヴァントはマスターにのみ真名を明かし、今後の対策を練ります。
ですがシロウは魔術師として未熟です。
優れた魔術師ならば、シロウの思考を読む事も可能でしょう。ですから――――」
「ああ、名前は明かせないって事か。……そうだな、たしかにその通りだ。催眠とか暗示とか、いないとは思うけど他のマスターに魔眼持ちがいたらベラベラ秘密を喋りかねないし。
―――よし、そうしよう。セイバーの“宝具”の使いどころは、セイバー自身の判断に任せる」
「ぁ――――その、本当に、そんなにあっさりと?」
「あっさりじゃないぞ。ちゃんと考えて納得したんだ。考えた末の合意だから、気にすんな」
「――――――――」
……さて。
だいたいの話は判ったものの、状況は未だに掴めない。
考えてみればおかしな話だ。
戦うと決めたものの、判っている相手は遠坂だけで、俺はあいつとドンパチやる気はまったくない。
……ああいや、向こうはやる気満々だから、そうも言ってはいられないだろうが。
「なあセイバー。マスターやサーヴァントって何か目印はないのか? このままじゃどうも勝手が分からないんだが」
「いいえ。残念ながら、明確な判別方法はありません。
ただ、近くにいるのならサーヴァントはサーヴァントの気配を察知できます。それが実体化しているのなら尚更です。サーヴァントはそれ自体が強力な魔力ですから。シロウもバーサーカーの気配は感じ取れたでしょう?」
「う―――それはそうだけどな。襲われて初めて判る、なんていうのはまずいだろう。せめて近づかれる前に気づかないと対応できない」
「では、マスターの気配を辿るのはどうですか。マスターとて魔術師です。魔術を生業とする以上、魔力は必ず漏れています。それを探れば、この町にいるマスターは特定できるのでは」
「……悪い。生憎、そんな器用な真似はできない」
そもそも同じ学校にいた遠坂の正体にも気づかなかったんだぞ、俺は。
二年間も同じ建物にいて、あまつさえ何度も見かけているっていうのにだ。
「――――参ったな。これじゃ確かに半人前ってバカにされるワケだ。マスターとしての証も令呪だけだし、前途は多難か」
はあ、と肩で息をつく。
―――と。
「シロウ。少し目を閉じて貰えますか」
真剣な面もちで、セイバーはそんな事を言ってきた。
「……? 目を閉じるって、なんで」
「貴方がマスターだと証明する為です。いいですから、目を閉じて呼吸を整えてください」
「…………………………」
……目を閉じる。
ついで、額に触れる微かな感触。
――――って、妙にチクチクするけど、これってまさか刃物の先か――――!?
「――――セイバー? ちょっと待て、なんかヘンな事してないか、おまえ?」
「……。マスター、黙って私の指先に意識を集中してください。貴方も魔術師なら、それでこちらの魔力を感じ取れるでしょう」
「――――む」
そうか、触れてるのはセイバーの指か。
それでは、と気を取り直して意識を静める。
――――と。
なんだ、これ。
[#挿絵(img/001.JPG)入る]
「セイバー、今の、なんだ?」
「なんだ、ではありません。貴方と私は契約によって繋がっているのですから、私の状態は把握できて当然です」
「――――把握って、今のが?」
「どのようなカタチで把握したのかは知りません。サーヴァントの能力を測るのは、あくまでシロウが見る基準です。単純に色で識別するマスターもいれば、獣に喩えて見分けるマスターもいます」
「つまり、個人差はあれど本人にとって最も判別しやすい捉え方をする、という事です。
これはマスターとしての基本ですから、今後は頻繁に確かめてください。私と同様、一度見た相手ならばその詳細が理解出来ている筈ですから」
……そうか。
いきなりで驚かされたが、これなら少しはマスターとして振る舞えるかもしれない。
「―――マスター。簡略しましたが、私にできる説明は以上です」
「ああ。駆け足だけど合点がいった。すまなかったな、セイバー」
「……すまなかった、ではありません。
状況が判ったのなら、これからどうするかを決めるべきではないですか」
ずい、と身を乗り出して問いただしてくる。
……そうか。
セイバーも遠坂と同じで、やられる前にやるタイプなのか。
「いや、どうするもなにも、別段変わった事はしないぞ。
遠坂みたいに自分から他のマスターを倒しにいく、なんて気はないからな」
「―――シロウ、それでは話が違う。貴方はマスターとして聖杯を手に入れる気がないのですか」
……セイバーの目が細まる。
それは否定を許さない、冷徹な剣士の目だ。
「――――――――」
それに気圧されまいと視線を返して、きっぱりと今後の方針とやらを口にする。
「ああ、ある。けどそれは悪いヤツに渡らないようにしたいからだ。俺には、自分から聖杯が欲しいっていう理由はない」
「っ――――」
「けど、それは戦わないって意味じゃないぞ。
見習いだけど俺は魔術師だ。自分が後戻りできない場所にいる事ぐらい理解してる。無傷で、何もしないままじゃ生き残れないって事は判ってる」
「では魔術師として避けられない戦い―――つまり聖杯を手に入れる為ではなく、聖杯による争いを防ぐ為に戦うというのですか、貴方は」
「? ……ああ、そういう事になるのか。そうだな、きっとそういう事だ。うまく言葉にできないけど、そういう戦いになら価値があるだろ」
そうだ。
正直、聖杯なんて言われても実感が湧かない。
けどそういった事の為なら、俺は本気で、胸を張って戦う事が出来ると思う。
「……わからない。シロウは魔術師だと言う。ならば万能である聖杯を欲する筈です。自分では叶えられない望みがあるからこそ、魔術師は魔術を極めるのではないのですか」
「なに言ってるんだ。叶えられない望みなんて持ってないぞ、俺。やらなくちゃいけない事は山ほどあるけどな」
うん。
だから今は、その為に無関係な人を巻き込まないように手を尽くすだけだ。
「―――それではシロウは聖杯が要らないというのですか。聖杯の為には戦わないと」
「そうは言ってないだろ。戦うからには聖杯は手に入れるつもりだぞ」
「それこそ矛盾している。貴方には必要がない物を、何故戦ってまで欲するというのです」
「?」
いや、だって。
勝ち残るって事は聖杯を手に入れるって事だし、なにより。
「セイバーには必要なんだろ。なら必ず手に入れなくちゃ」
「――――――――」
「ああ、他のマスターがどんなヤツかは知らない。
もしかすると、中にはすごくいいヤツだっているかもしれない。
けど、俺はセイバーの味方をするって決めたんだ。そのセイバーが聖杯を手に入れたいって言うなら、最大限手を貸すのは当たり前だろう」
「――――――――」
「……その、切嗣《オヤジ》の受け売りなんだけどな、正義の味方になるんだったらエゴイストになれって。
誰にも彼にも味方なんてしてたら意味がないんだから、自分が信用できる、自分が好きな相手だけの味方をしなくちゃダメだって」
「今までそうは思えなかったけど、今はそう考えるべきだと思う。
俺は自分の為に戦う、なんてのは出来ない。
けどセイバーの為に戦うんなら、それがいい」
それに、正直に言えば。
この少女がこんなにも真剣に欲しがるのなら、是が非でも手に入れてやりたくなるってのが人情だろう。
……その、俺だって男なんだから。
「では、私が聖杯を諦めれば戦わないと言うのですか、貴方は」
「――――む」
それは困る。
セイバーにそんな事を言われたら、今までの前提が全て崩れてしまうのだが――――
「……いや、それでも同じだ。一度戦うと言ったんだ。だから逃げない。これは絶対だぞ、セイバー」
きっぱりと、セイバーの目を見て断言した。
セイバーはすぐには答えず、深く息を吐いてから俺を見上げる。
「解りました。マスターである貴方がそう言うのなら、私は従うだけです。私の目的は聖杯であり、貴方の目的が争いの調停であっても、行き着く場所は同じですから。
――――ですが、シロウ」
言葉が止まる。
セイバーは遠くを見るような瞳で、
「私にはうまく言えないのですが、それではシロウは後悔する。……きっと、後悔する事になる」
そんな言葉を、口にした。
◇◇◇
朝飯を抜いていたのと正午にさしかかった事もあって、ひとまず昼食を摂る事にした。
セイバーはアーチャーのように霊体になる事が出来ず、本来マスターから得られる筈の魔力提供もないという話だった。
無論、そのどちらもマスターである俺が未熟な為である。
魔力の消耗は睡眠を取る事で防げるらしいが、魔力の補充は万全とはいかないらしい。
そうなると唯一のエネルギー補給は食事になる訳で、食事係として手を抜く事はできない。
「サーヴァントは魔力で実体化しているんだろ。
それじゃあ、その―――セイバーの魔力は回復しないんだから、戦っていけばいくほど弱っていくのか……?」
食器を片づけた後、エプロンをたたみながら質問する。
「まったく回復しない、という訳ではありません。
魔力というものは活動している内は絶え間なく生成されるものです。自然からの供給がないサーヴァントでも、自身の魔術回路だけで少なからず魔力を補充する事は出来ます」
「なんだ。なら問題はないんじゃないのか?」
「……さて、どう説明したものか。そうですね、そこの水道を例にしましょう。
いま蛇口から水滴が零《こぼ》れていますね? それが私自身の魔力生成量だと思ってください。そして、その水滴を受け止めているグラスが私自身です。
今の状態なら、少しずつではありますが、魔力《みず》は私に溜まっていきます」
「さて。この零れている魔力《みず》ですが、これはグラスが重ければ重いほど蛇口の栓が開かれていくのです。
私はグラスに重さ《みず》が入っているかぎり、蛇口から水を出し続けます。けれどグラスの水が無くなった時、つまり私《グラス》にたまった魔力を使い切った時、蛇口は完全に閉まってしまう」
「そうなれば魔力《みず》の供給はなくなり、グラスはずっと乾いたままでしょう。
―――それがサーヴァントにとっての消滅です。
肉体を維持できぬほどの傷を負うか、自身を保つほどの魔力を維持できなくなるか。……後者の例はそうあり得る事ではありませんが」
「……。けど、グラスに一滴でも水が残ってればいいんだろう? 少しでもグラスに魔力……重さがあれば蛇口の栓は開いてるんだから、時間が経てばまたグラスに水は溜まる」
「そうですね。ですがこのグラスに溜まった水は、常に失われていくのです。
水はこうしている間にも使われていますし、戦闘となればその消費量はさらに勢いを増す。
……逆に言えば、強力な行動ほど水を多く消費するのです。私の宝具を使用するのならば、グラスに水が満ちていようと一瞬で空になる危険もある」
……難しい話になってきた。
要約すれば、俺という蛇口を封じられているセイバーは、魔力回復がとんでもなく遅いという事だ。なにしろ零れ落ちる水滴程度の回復量なんだから。
その為、もし戦闘となればすぐに決着をつけ、その後は長時間の睡眠をとって無駄な活動を無くし、グラスに水滴を溜めなくてはいけない、という事だろう。
「―――はあ。それじゃあ宝具を使う、なんてのはとんでもない贅沢って事か」
「そうですね。ですが使えない、という事はありません。威力を抑えれば一度ぐらいは可能でしょう」
「なに言ってんだ、そんなコトさせられるか。セイバー、宝具を使うのは禁止だぞ。そんなんで死なれたりしたら、どう謝っていいか分からない」
とん、とセイバーの前に食後のお茶を置く。
「――――――――む」
難しく眉をひそめ、湯飲みに手を伸ばすセイバー。
――――と。
タイミングよく電話のベルが鳴り響いた。
「……日曜日、この時間にうちにかかってくる電話……」
心当たりはありすぎるが、居留守を決め込むとどんな逆襲が待っているか恐ろしい。
「―――はい、もしもし衛宮ですけど」
「はーい、もしもし藤村でーす!」
「…………………………………」
目眩がした。
これは、ある意味最強だ。
昨夜からジェットコースターのように繰り広げられた出来事が、この人の一声でぐるんと日常にひっくり返るんだから。
「……なんだよ。断っておくけど、俺は暇じゃないぞ藤ねえ」
「なによ、わたしだって暇じゃないわよ。今日も今日とて、お休み返上して教え子の面倒みてるんだから」
不思議だ。
えっへん、と受話器の向こうで胸を張る姿が、まるで目の前で起きているかのようなこの錯覚。
「そうか。なら世間話をしてる場合じゃないな。こっちには火事も泥棒もサーカスも来てないから、安心して部活動に励んでくれ」
じゃ、と手短に会話を切る。
「ちょっ、ちょっと待ったー! 恥をしのいでお姉ちゃんが電話してるっていうのに、用件も聞かずにきったらタイヘンなんだからー!」
……こっちは昨夜からタイヘンなんだが、それをこの人に言っても仕方がない。
そもそも恥を忍ばず凌いでいるあたり、藤ねえ的にライブで小ピンチなのか。
「……あいよ。んで、用件はなに」
「士郎、わたしお弁当が食べたいなー。士郎が作った甘々の卵焼きとかどうなのよう」
「………………………………………………」
「以上、注文おわり。至急弓道部まで届けられたし。カチリ」
………ほんと。なんなんだろう、あの先生は。
「……ったく。しょうがねえよな、猛獣ってハラ減ると暴れるって言うし……」
外していたエプロンを着け直す。
……まあ、どうせ昼飯の余りがあるし。卵焼きぐらいならササッと追加できるし。
「よし出来た――――セイバー、ちょっと留守番頼む。すぐに戻るから、待っててくれ」
藤ねえ用の弁当箱を携えて廊下に出る。
隣りには、なぜか付いてくるセイバーさん。
靴を履く。
さて、と気を取り直して隣りを見ると、
セイバーも無言で靴を履いていた。
「……セイバー?」
恐る恐る声をかける。
……いや、返事はもう読めているのだが、それでも聞かざるを得ないというか。
「その、なんだろう」
「外出するのなら同伴します。サーヴァントはマスターを守る者ですから。シロウ一人で外を歩かせるなど危険です」
……やっぱりそうきたか。
けどまあ、これはいずれ通らなければならない道だ。
いい機会だから、ここで言い含めておこう。
「セイバー。マスターってのは人目につく事を避けるんだろ。なら昼間は安全だよ。人気のない場所にいかないかぎり、あっちから仕掛けてくるコトはない」
「それは承知しています。ですが万が一という事もある。シロウはまだ未熟ですから、四六時中共にいなければならないでしょう」
「な――――――――」
し、四六時中共にいるって、ずっと一緒にいるってコトか――――!?
「ば、ばばばばばばか、そんな事できる訳ないだろう!
だいたいな、ずっと一緒にいるってそれじゃあ寝る時はどうするんだよ!」
「シロウは私を試しているのですか。睡眠中など最も警護すべき対象です。当然、シロウの側で私も待機しますが」
「ば――――――!」
ぼっ、と赤くなる頬を咄嗟に隠して、とにかく落ち着こうと空気を吸う。
「――――――」
……くそ、なんて間抜けだ。
こんな大事なこと、今になってようやく気づいた。
セイバーと一緒に戦う、ってコトはつまりそういうコトじゃないか……!
「シロウ、どうしたのです。そこまで驚く事はないでしょう。昨夜、凛が行《おこな》った事を私がするだけの話ではないですか」
っ……!
ふざけんな、そんな事されたら戦う前にどうかするぞ、俺っ……!
「だ、だめだそんなの! セイバーにはちゃんと部屋を用意するから、そこを使ってくれ!」
「…………………………」
……う。
そんな目で見られても、負けないぞ。
「シロウ、いいかげんにしてほしい。大抵の矛盾は我慢してきましたが、これは譲歩できない。貴方の方針はマスターとして間違いだらけだ。理由を聞かなければ従えません」
むっ、と見上げてくるセイバー。
じりじりと気圧されながら、それでも必死にセイバーを見つめ返す。
「り、理由なんてない……! いいから大人しくしてろって言ってるんだ。昼間は大丈夫なんだから、セイバーは休んでいればいいだろう!」
「―――断ります。明確な理由を聞かなければ、私も引き下がれない」
「こ―――この、わかんないヤツだな……! セイバーは女の子なんだから、同じ部屋でなんか寝れるワケないだろ……!」
ぴたり、とセイバーの動きが止まる。
「っ……と、ともかく、帰ってきたら部屋を用意するから、それまで休んでいてくれ……!」
だっ、と玄関から駆けだす。
ああそう、みっともないけど逃亡だ。しかも敵前、弁解の余地まるでなし!
「……ああもう、ガキか俺は……!」
真っ赤になっているだろう顔をバシバシ叩きながら、だあーっと外まで駆け抜けた。
……まあ、ともかく。
あれだけ強く言えばセイバーだって納得してくれるだろう。
学校から帰ってきたら、怒鳴った事は謝るなりして許して貰おう―――
坂道を下っていく。
学校までは歩いて三十分。別段急がなくてもいい距離ではあるのだが、なんとなく早足になっていた。
その理由が、
「――――――――」
無言で後に付いてくる彼女である。
「………………」
放っておけば間違いなく学校までついてくる。
ここは、きっぱりと言わなければなるまいっ。
「セイバー。家で待っていてくれって言っただろ。マスターの言うことを聞けないのか」
足を止めて振り返る。
セイバーはいかにも何か言いたげにこっちを睨んだあと。
「―――さあ。サーヴァントがマスターの指示に従わない、という事は、おそらく聞こえなかったのでしょう」
ぷい、と不機嫌そうに顔を背けてしまった。
セイバーを無視して坂道を下りきる。
背後にはもちろん、
無言でプレッシャーを投げかけ続けるセイバーの姿がある。
「いいかげん戻れ。これ以上付いてこられると迷惑だって、はっきり言わなくちゃわからないのか」
俺の後ろ、きっかり五メートルの距離を保っている相手を睨み付ける。
「――――――――」
何が気にくわないのか、セイバーは無言で抗議してくるだけだ。
……まったく。
なんであそこまで怒っているか知らないが、あいつ、絶対意地になってるぞ。
「―――そうかよ。じゃあ好きにしろ」
今度こそ本当に、セイバーを無視して歩き出した。
校舎に続く坂道を上る。
深山町は坂の多い町だが、この坂道はその中でも特に長い。
高台にある校舎からは、町の全てが見通せるぐらいだ。
時刻は午後一時を過ぎたあたり。
幸い、通学路に生徒の姿は見あたらない。
日曜日、部活動にいそしむ連中もまだ昼食後の休憩、というコトだろう。
「……ついてるって言えばついてるけどな。さすがに、ここから先は無理だ」
はあ、と溜息をついて、根負けした。
「――――――――」
振り返る。
足を止めると、セイバーはこっちを睨みながらとつとつと上がってきた。
……あれからずっと無視していた為か、セイバーの不機嫌さには磨きがかかっている。
「セイバー」
「なんでしょう。好きにしていい、という事でしたが」
「……む。都合のいいコトだけ聞くんだな、おまえは」
「当然です。私はサーヴァントですから、みすみすマスターを危険にさらす訳にはいきません」
「―――もう。わかった、俺の負けだ。諦めたから一緒に学校まで行こう。そうすればおまえだって学校が安全だって判るだろうしさ。
それと、さっきは怒鳴って悪かった」
「え――――」
「ほら、そうと決まったら口裏を合わせよう。セイバーは親父の親戚で、観光がてらに遊びにきたってコトでいいか?」
セイバーと肩を並べて、一緒に坂道を上っていく。
「あ――――はい。それでシロウの都合がいいのなら、かまいません」
「よし、それじゃ決まりだ。……そうだな、どうせ遅かれ早かれ顔合わせはするんだから、いま紹介しても同じだよな」
そうそう。
セイバーが家で暮らす以上、藤ねえや桜と顔を合わせるってコトなんだから。
「そうだセイバー。聞き忘れてたけど、その服どうしたんだ?」
「これは凛がくれたものです。霊体になれない以上、普段着は必要だろうと」
「――――」
それは、かなり意外だった。
遠坂の手際の良さ、というより、このお嬢様っぽい洋服が遠坂の持ち物だってコトがびっくりだ。
「それじゃあの鎧は? 今はうちに置いてあるのか?」
「違います。あの鎧は私の魔力で編まれたものです。解除する、という事は消すという事。戦闘時になれば、すぐにでも私の体を守るものです」
「ふうん。なんだ、あの武装はいつでも出したり消したり出来るって事か」
「はい。ですから心配は無用です。ここで敵に襲われようと、シロウは私が守護します」
「そっか。うん、そりゃ頼もしい」
今まで黙っていた反動か、つい本音でそんな感想を漏らしてしまった。
セイバーは俺の失言には何も答えず、とつとつと坂道を上っていった。
校門に着く。
ここまできたら開き直るしかない。転入生を案内する、と思えばなんとかなる。
「セイバー。もし誰かに呼び止められたら、何も言わずに首を振るんだぞ。日本語は解りませんって顔が出来ればベストだ」
セイバーに振り返る。
「――――――――」
「セイバー? なんだよ、怖い顔して。脅かしっこはなしだぞ」
「え……? いえ、別にシロウを見ていた訳ではありません。ただ魔力の残滓《ざんし》が強いもので、驚いていただけです」
「魔力の残滓《ざんし》? ほんとか?」
セイバーはそう言うが、こっちは何も感じない。
……いや、そもそもよっぽど強い魔力じゃないと感知できないんだが。
「はい。と言ってもシロウには驚くべき事でもない。凛はシロウとは同学年なのでしょう? 彼女ほどの魔術師が一年以上居る場所なのです。工房の一つも用意しているでしょうから、どう隠しても魔力は漏れる」
セイバーが感じとった魔力とやらは、どうも遠坂の残り香らしい。
「ふーん。あいつも結構ドジなんだな。入る前からセイバーに魔力感知されるなんて。……って、あいつ中にいるのか、今!?」
「いいえ、凛本人はいないようです。彼女がいるのならもっと強く感じ取れるでしょう。この敷地には魔術師らしき人間はいない。
……気になる違和感はありますが、とりあえず危険はありません」
「だから危険なんてないって言っただろ。ほら、中に入るからちゃんと付いてこいよ」
「あれ、衛宮だ。なに、もしかして食事番?」
「――――――――」
気心の知れた知人、というのはこういう時に便利ではある。
弓道部主将・美綴綾子は俺の顔を見ただけで、その用件まで看破したらしい。
「お疲れ。お察しの通り飯を届けに来た。藤ねえは中に居るか?」
「いるいる。いやあ、助かった。藤村先生ったら空腹でテンション高くて困ってたのよ。学食も休みだしさ、仕方ないんで買いだしに行こうかって考えあぐねてたところ」
「そこまで深刻だったか。で、買いだしって、まさか下のトヨエツに一人でか?」
「そこ以外に何処があるって言うのよ。ただでさえ備品で金食ってるんだから、非常食に金はさけないでしょ」
さすが美綴、無駄遣いを嫌う女。
ちなみにトヨエツとは商店街にあるスーパーの名前である。
弓道部では、腕の筋肉を休めている暇人が走り込みと称して買いだしに行かされる。
……腕を休める為の走りこみだっていうのに、帰りには大量の荷物を持たされるという矛盾した習慣だ。
「……そりゃ災難だったな。ほら弁当。遅くなったけど、藤ねえに渡してやってくれ」
ほら、と紙袋を差し出す。
「お、豪華三段セット。いいね、久しぶりに見た。衛宮はこういう細《こま》いの上手なのよね」
何が嬉しいのか、にんまりと笑う美綴。
……そういうコイツは、とにかく大量生産に優れている。
合宿の夕食はたいてい美綴が担当し、その都度みんなを驚かせたものだ。
皮しか剥いていないじゃがいもカレーが美味かったあたり、料理の世界は奥が深い。
……いやまあ、それはいいとして。
美綴は中を覗いただけで、紙袋を受け取りはしなかった。
「おい。嫌味はいいから受け取れ。中、藤ねえが暴れててタイヘンなんじゃないのか」
「そうね。そう思うんならさっさと中に入って、藤村先生に手渡してあげるべし。
だいたいね、入り口でアンタを帰したなんて言ったらもっとへそ曲げるに決まってるじゃない。あたしは藤村先生にしごかれたくはないからね。ほら、ここまで来たら観念して中に入りな」
くい、とあごで道場を指す。
「……………………」
たしかに、成り行き上顔ぐらい出しておかないと後が怖い。
別に弓を持ちに来た訳じゃなし、弁当を渡したらとっとと帰ればいいだけか。
仕方ないな、と観念して弓道場に足を運ぶ。
「けどな美綴。おまえも長いんだから、朝のうちに藤ねえの弁当ぐらい確認しとけよ。顧問が生徒の昼飯を物欲しそうに見て回る、なんてイメージ悪すぎるぞ」
「いや、それがあたしも今朝は疲れててさ。最近ちょっと忙しくて、あんまり余裕がないんだな。ま、アンタに愚痴ってもしょうがないんだけど――――」
と、唐突に体を寄せると、内緒話でもするかのように耳元に近づいて、
「……で、衛宮。あれ何者よ。凄い美人だけど、知り合い?」
なんて、緊張しきった声で言ってきた。
「――――――――」
だよなあ……普通、セイバーを見たら驚くだろう。
それが無言で、俺の後について弓道場に入ろうとしているんだから尚更だ。
「どうなのよ衛宮。アレ、知り合い?」
「説明すると複雑なんだが、そういう事にしておいて貰えると助かる。……ついでにあいつが部室に入ってもみんなが騒がないように言い含めてくれると、とんでもなく恩に着る」
「……………オッケー。事情は気になるけど、その交換条件は気に入った。衛宮、あとでチャラってのはなしだからね」
扉を開ける。
セイバーは無言で、俺と美綴の後に付いてきた。
道場に入る。
……昼休みあとの弓道場は、まるで戦場のように騒がしかった。
「藤村先生―! 岬さんがお腹痛くて死にそうだ、と言っていますー! さっきのカンパンいつの時代のものだったんですかー!?」
「そんなのただの腹痛よ! 一緒に食べた先生は元気なんだから、岬さんには昆布茶でも飲ませておきなさい!」
「タイガせんせーい! 巻藁《まきわら》練習するんでストーブ移動させてくださーい! 道場の隅は寒いっすー」
「はい、いい度胸してる君は半ズボンで道場三周。腐った性根ともどもたたき直してきなさいね」
「先生―っ! 出血です、北子くんが弦で頬を切りました!」
「ふんふん、その程度なら保健室に行かなくてもいいわ。裏山に植えてあるアロエでも塗っときなさい」
「いたっ。ああもう、なんだってこんなに裏反ってんのよこの弓ってば。こんなんじゃうまく張れないじゃない」
「あ、そこ! 上から押さえて張らないのっ。まだ若いんだから、難しいんなら二人でやんなさい。ひっくり返して切詰めが離れたら、あとで首を折っちゃうんだから。こう、ぽきっと。大事な弓を壊した生徒を、わたしが」
「先生っー! ぎり粉がありませーん! 手が、手が滑りますー!」
「あれ、ほんと? だれか、物置に行って在庫を取ってきてー」
「先生、在庫切れです! 原因は先日、先生が発注を忘れた事だと思いますが!」
「あー、じゃあ一年は野球部からロージンバッグちょっぱって来ることー!」
「うわあ、むちゃくちゃだこの先生―!」
一年生たちの悲鳴がはもる。
「……………………」
いや。
ホント、変わらないなここの光景。
「――――さて」
いつまでもこの阿鼻叫喚を眺めている訳にもいかない。
「お、ちょうどいい。おーい、桜―」
弓かけの前にいる女生徒に声をかける。
「え、先輩……!?」
桜は手にした弓を置いて、目を白黒させて駆け寄ってきた。
「先輩! ど、どうしたんですか今日はっ。あの、もしかして、その」
「ああ、藤ねえに弁当を届けにきたんだ。
悪いんだけど、あそこで無茶苦茶言ってる教師を連れてきてくれ」
「ぁ――――はい、そうですよね。……そういえば先生、電話してました」
「?」
さっきの笑顔はどこにいったのか、桜は元気なく肩をすくめる。
「そういうコト。藤ねえ、ハラ減って無理難題言ってるんだろ。手遅れかもしれないけど、とにかく弁当作ってきたから食わせてやってくれ。
それと、昨日は遅くなって悪かった。晩飯作っといてくれて、さんきゅ」
「……はい。そう言ってもらえると嬉しいです、けど……」
ちらり、と俺の後ろに視線を向ける。
そこには弓道場には不似合いな、金髪の少女が立っている。
「……あの、先輩?」
「ん? なんだ、もしかしてホントに手遅れか? いちおう桜の分も作っといたのも、無駄?」
「あ、いえ、そんなコトないですっ。わた、わたしもお腹減ってますっ……! ……その、先生に半分あげちゃったから」
「うん、そんな事だろうと思った。桜のはすぐに食べられるようにしといたから、そう時間は取らない筈だ。
……ま、みんなもそういう事情なら昼食を再開しても文句ないだろうけどな」
「そ、そうですねっ。あの、それじゃごちそうになりますけど……先輩、今日はずっと道場にいるんですか?」
「そうだな、せっかく来たんだし、部活が終わるまで学校にいるよ。昨日はすっぽかしたし、今日の夕飯は俺が作るから、桜も食べに来てくれ」
「―――はい、喜んで。あの、それじゃすぐに先生を呼んできますね。先輩、お弁当だけ置いてどこかに行くのはなしですよ?」
たたっ、と急いで藤ねえを呼びに行く桜。
振り返れば、セイバーを見てざわつき始めた部員たちに説明して回る美綴がいた。
―――さて。
とりあえず、これで当初の目的は果たせたな。
「あー、お腹いっぱい。糖分も頭に回ったし、これでようやく本調子ね」
休憩室。
ずずー、とお茶を飲みながらデザートの羊羹をついばむ藤ねえ。
藤ねえが大人しくなった為か、道場には静かに、弦と矢の風切り音が響いている。
「あの、先生。そろそろわたしも射場に出ますから、失礼しますね」
「はいはーい。あ、控えにいる美綴さんに、話があるからこっちに来るよう伝えてもらえる?」
「はい。先輩もゆっくりしていってください。出来れば、久しぶりに指導してもらえると助かります」
桜は一礼して去っていく。
ただ、その合間。
壁際で静かに見学しているセイバーを、不安げに見つめていた。
「で? 士郎はこの後どうするの? 部活は五時には終わらせるけど、それまで見学していく?」
「……うーん……」
どうしたものか。
見たところ、セイバーはセイバーで弓道場の様子を興味深そうに眺めているし、それじゃあ――――
……まあ、せっかく学校まで来たんだし。
こうなったら開き直って、セイバーに校舎を見せてやろう。
「ちょっと散歩してくる。ぶらっと校舎を回ったら戻ってくるから」
「散歩? いいけど、物好きなコトするのね。切嗣さんも地味な趣味してたけど、士郎もそーゆー属性?」
「そうゆう属性も何も、散歩は地味じゃないと思うけど。あんまり例えたくないけど、デートだって散歩みたいなものじゃないか」
「えー、デートは違うよー。あれはどっちかって言うと、おいしいもの食べ歩きツアーじゃない」
「だーかーらー、そういう無軌道なのを散歩っていうんだろ。いいから行ってくる。
……言っとくけど、学校の中なんだからおみやげなんて買ってこないぞ。露店なんてないんだから」
「そっか。学食もお休みだし、家庭科室も閉まってるか。……仕方ない、手ぶらでいいから早く帰ってくるのよ衛宮くん」
最後に教師らしく苗字で言いつける。
それに手を振るだけで応えて、セイバーに声をかけた。
「学校の案内、ですか?」
「ああ。ここまで来んだ。せっかくだから中を案内しようと思ってさ。セイバーだって弓道場にいるだけってのは退屈だろ?」
「……そうですね。退屈していた訳ではありませんが、校舎を見て回るのは有意義です。マスターの通う学校が安全かどうか、直に確かめるとしましょう」
ありゃ。
思いつきだったが、この提案は思いのほかセイバーに好評の模様。
……まあ、こっちの思惑とセイバーの思惑はズレているようだが、気にせず校内を案内しよう。
「はい。こちらが校舎裏、弓道場の後ろに広がる雑木林になります。広さは適当に三百から六百|平坪《ヘーベー》、実に正面グラウンドに匹敵するようなしないような、裏手が山だから許される大胆な土地運営の見本でございます」
とりあえず近場、弓道場から歩いて数分の裏山に案内する。
「ほう。三百から六百ですか。倍近く違うとは、曖昧にも程がある」
「棘のある感想ありがとう。―――で、見たところ不満そうだが何故かなセイバー」
「気のせいでしょう。私は学校を案内する、というシロウの言葉に期待していた訳ではありませんから。
ええ、いきなりこのような場所に連れてこられても一向に気になりません。初めから期待していないのですから、落胆するコトなどないのです」
つーん、とそっぽを向くセイバー。
……完全に不機嫌なのだが、見ようによっては拗ねている、と取れなくもない。
「それで、ここに何があるというのですかマスター。確かに人気のない林ですが、これといって気になるところはありませんが」
「ああ、ないな。ただ学校の裏手は林だって教えただけだ。んじゃ、次行ってみようか」
「で、こっちが校庭。今は陸上部の連中が走ってるから、あんまり顔出さないようにしてくれ。体育の時間はここで団体競技をする」
「団体競技……? 具体的に、どのような?」
「ん、うちの学校は運動系に強いんだ。その中でも野球部が一番なんで、たいていは野球かな。たまにドッジボールとか。ま、二組に分かれて一方の組を負かすスポーツだよ」
「……ほう。団体競技というと、主導者の動きに合わせて民衆が動くものを想像してしまったのですが、違うのですね」
「………………」
セイバーが想像したものは、とても物騒なモノのような気がする。
気がするので、詳しくつっこむのは止めよう。
「ま、まあ、とにかく他の相手と得点を競い合うスポーツってコトで。いま走ってるやつらだって、五十メートルを何秒で走れるかって得点《タイム》を競ってる」
なるほど、なんて言いながらせわしなく校庭を眺めるセイバー。
「なんだよセイバー。何か探しものか?」
「え、いえ。……その、以前少しだけ見た競技があるのですが、その運動場があるかないか気になって。
他のスポーツはどうも勝手が掴めないのですが、あの競技だけは楽しそうに見えたもので、つい」
「へえ、セイバーがやってみたくなったスポーツか。
もしかしてテニスとか? それなら裏手に行けばコートがあるけど」
「い、いえ、テニスではないのです。冷静に考えて見れば、このような敷地に収まるスポーツではありませんでした。
……ただその、昔私も、剣で似たような球遊びをして咎《とが》められた事があって、それで懐かしくなってしまったというか……」
「? 剣でする球遊び……?」
なんだろう、それ?
……というか、この真面目なセイバーが剣で遊ぶなんて考えるとおかしくて頬がにやけてしまう。
「い、今の発言は忘れてくださいマスター! さ、ここはもう調べましたから、次の場所に行きましょう……!」
セイバーに押されて校内に移動する。
まずは廊下を案内して、
三階にある自分の教室までやってきた。
「―――ここがマスターの教室ですね。……廊下を歩いている時はどうかと思いましたが、これなら許容範囲です」
「許容範囲? ……それって危険か安全かって事か?」
「はい。学校の敷地に入った時と同じ魔力を廊下にも感じました。ですがこの教室には魔力の残り香がまったくない。廊下や校舎に残ったものは凛の魔力だけです。
今のところ、マスターを危険に晒す要因は見当たりません」
とりあえず納得がいったのか、セイバーから緊張感が薄れていく。
やりすぎだとは思うが、セイバーは俺の身を案じて学校を調べていたのだ。
……その、白状すれば嬉しくない筈がない。
契約してまだ一日、お互いの事は何も知らない。
けれどこのわずかな間で、セイバーが俺の安全を第一に考えてくれている事が、言葉以上に理解できていた。
◇◇◇
日が暮れ始めた頃、部活動もお開きとなった。
冬場は日が落ちるのが早く、最近の物騒な事件を考慮しての事だろう。
「あ。そういえば美綴、慎二のヤツはどうしたんだ? 今日は姿が見えなかったけど」
「あいつはサボリ。新しい女でも出来たのか、最近はこんなもんよ」
なんでもない事のように言って、美綴は校舎の方へ足を運ぶ。
「じゃあね。あたし、職員室に用があるから」
部室のカギを指で弄びながら、弓道部主将は一足先に去っていった。
―――そうして正門。
日が落ちかけた町を眼下に、藤ねえと桜、それとセイバーと一緒になってみんなと別れる。
「じゃあね、せんせー!」
「衛宮いじめるなよタイガー!」
などと、騒がしく見送られながら坂道を下り始める。
坂道を下っていく。
隣りには桜と藤ねえがいて、後ろには少し距離を置いてセイバーが付いてきている。
「―――はてな? あの子、どうしてわたしたちに付いてくるの?」
……と。
今まで不思議に思わなかったのか、事ここにいたってようやくその問題に気づいたらしい。
「ね、士郎。知り合い?」
本日二回目の質問だ。美綴というリハーサルのおかげか、戸惑うことなく、
「知り合いだよ。俺が連れてきたんだから当然だろ」
なんて、しれっと返答できた。
「や、やっぱりそうですよね。……それで先輩、あの人とはどういったご関係なんですか……?」
「うん。士郎に外国人さんの友達がいるなんて聞いてなかった」
「いや、友達じゃなくて親父の知り合いなんだ。切嗣《オヤジ》が飛び回ってた頃知り合った人の娘さんだって」
「切嗣さんの? じゃああの子、切嗣さんを訪ねに来たの?」
「そういう事。今日からしばらくうちで暮らすから、よろしくしてやってくれ」
「「――――え?」」
まったく同時に、まったく同じ反応をする桜と藤ねえ。
まあ、いきなり“あの子が今日からうちで暮らすよ”と言われれば、驚かない方がおかしいってもんだ。
「ちょ―――し、士郎、暮らすってあの子と同居するっていうの――――!?」
「同居じゃない。セイバーが滞在するのはほんのちょっとの間だけだ。宿として家を貸すだけなんだから、そう驚く事でもないだろ」
「……あの。先輩、あの人セイバーさんって言うんですか……?」
「ああ、変わった名前だけどな。あんまり日本になれてないんで、変わったところもあると思う。……あ、それと無愛想なヤツだけど、根はいいヤツなんだぞ。桜も仲良くしてくれると助かる」
「……………………はい。それはいいです、けど」
桜は俺と目を合わさず、助けを求めるように藤ねえに視線を移す。
「藤村先生。藤村先生は、セイバーさんの滞在を許可するんですか?」
「んー……教師としては当然アウトなんだけど、切嗣さんを頼ってきた子を無碍には出来ないし……しっかりしてるようだし、間違いは起きないかな。ね、士郎もそうなんでしょ?」
横目でこっちを眺めながら、藤ねえは失礼なコトを言う。
「と、当然だろ。切嗣《オヤジ》の客なら俺の客だ。失礼なコトなんて出来ないし、なにより妹みたいなもんじゃないか」
「ふーん。そう言えば、あの子何歳? 桜ちゃんより年下みたいだけど」
「え―――と、まあ、そんな感じ、かな」
「――――――――――――」
じっと人の顔を観察する藤ねえ。
で、もうじき坂を下りきるという時、唐突に。
「士郎、あの子のコト好きなの?」
なんて、とんでもない奇襲をしかけてきた。
「っっっっ…………!! そ、そんなの知るかっ! 俺だって会ったばっかりなんだから、どうこう言えるワケないだろう!」
……う、顔が熱い……藤ねえから見たら、さぞこっちの顔は真っ赤だろう。
「ふむ。嘘はないけど脈はありか」
……それで何が判ったのか。
藤ねえは腕を組んで、さも難しいコト考えてますよー、という顔で黙り込んでしまった。
結論として、セイバーの下宿は許可された。
「いいんじゃない? ホームステイと思えばいい経験だし、ここって無駄に部屋も多いもの」
という、藤ねえの鶴の一声によるものだ。
桜は終始無言だったが、最後に
「はい。わたしが意見できる事じゃありませんから」
と、一応納得してくれた。
「……………………」
そんなワケで、夕食である。
セイバーの歓迎と、昨夜のお礼をかねて夕食は力をいれた。
かつおのたたきサラダ風から始まって、ピリリと辛いねぎソースをかけた鶏肉揚げ、定番といわんばかりの肉じゃがと、トドメとばかりにえび天を筆頭に天ぷら各種を用意する。
奮発したというか、もはや節操のない献立となった夕食は、しかし。
「……………………」
誰一人口を利かないまま、あっさりと終わってしまった。
「……………………」
ざぶざぶざぶ。
台所で食器を洗う。
一日目から和気藹々とした食卓を期待していたワケではないが、少しぐらい会話があっても良かったのではないだろーか。
特に今回の天ぷらは美味しくできたと思う。
身は丸まらずピンとして、衣だってサクサクだった。
文句なく会心の出来だったのだから、なにか一言あっても良かったと思うのだ。
「……そのくせ全部平らげるんだもんな。出た台詞がおかわり×3、ってのはなんなんだ」
ざぶざぶざぶ。
さすがに四人分の後片づけは手間がかかる。
……というか、今日に限って桜が手伝いにこないのは何らかの意思表示ではあるまいか。
「さて。ごはんも食べたし、そろそろ時間かな」
お茶を飲みながら時計を見る藤ねえ。
時刻は九時過ぎ。
いつもならそろそろ二人は帰る時間だ。
「藤ねえー。帰るなら桜の見送り頼むー」
台所から、食器洗いをしながら声をかける。
「――――――――」
返事はない。
藤ねえは我関せず、といった体でテレビを見ている。
「……もしもーし。聞こえなかったんですか、藤村先生」
居間に戻って、ぺちぺちと藤ねえの頭を叩く。
と。
「悪いけど、それは却下。しばらくは桜ちゃんを送ってあげられないから」
「? なんでさ。藤ねえ、何か用でもあるのか?」
「えっとね。用じゃなくて、今日からわたしもここに泊まるから」
あっさりと。
もう決定事項のように、藤ねえは言い切った。
「――――――――はい?」
「あ、桜ちゃんもどう? おうちの方にはわたしから連絡入れておくから安心だよ。女の子三人、一緒にいたほうが楽しいでしょ?」
「あ…………は、はい、是非! 藤村先生、たのもしいですっ!」
いや。
どうしてそこで、そう力んで構えるのか桜。
「よーし、それじゃ奥の座敷を使おう! 布団ならいっぱいあるし、浴衣も人数分あるわよー! セイバーちゃんもいいわよね?」
いいわよね、のネのアクセントが微妙に強いのは気のせいか。
「………………」
セイバーはどうしたものか、とこっちに視線を投げかけてくるし。
「……困りますシロウ。私は貴方の守護をするのですから、彼女たちと同じ部屋では役目が果たせない。それに同室したところで、どう対応していいものか分りません」
「……悪い。藤ねえが言いだしたら俺じゃ止められない。それに、どうもこれを交換条件にしている節がある。
断ったらセイバーをうちに住ませるって約束を破棄されそうだ。そうなったら俺たち、外で野宿するしかないぞ」
「……それも困る。この屋敷の結界は優れていますから、拠点としては申し分ないのです。ここにいる限り、シロウは敵の奇襲に備えられます」
「……そうか。なら尚更我慢してくれ。屋敷にいる限り、何かあってもすぐに合流できるだろ。
……その、藤ねえの相手はタイヘンだけど、困ったら日本語わかりませんって言えばいい」
「ほらそこ、内緒話は禁止なんだから。
そうゆうワケでセイバーちゃんはこっち。士郎は男の子なんだから、一人でも平気よねー」
セイバーの手を引っ張って離れる藤ねえ。
「――――――――」
それで話は決まってしまった。
セイバーの下宿は許可され、藤ねえが泊まる事になり、桜も付き合う事になった。
わずか半日でこの人口密度の上がりよう。
……うーん……本当に旅館じみてきたな、なんか。
そうして就寝。
セイバーに何が起こっていたのか、さっきまでとんでもなく賑やかだった座敷の明かりが消えて、静寂が戻ってきた。
女三人よれば姦《かしま》しい、というが、無口なセイバーと大人しい桜でも、その格言は当てはまったらしい。
「……いや、違うか。メインで聞こえてきたのは藤ねえの笑い声だもんな」
それでも座敷が賑やかだったのは事実である。
すぐ近く、同じ屋根の下で同年輩の女の子たちが騒いでいた、というのは精神衛生上よろしくない。
「――――くそ。気になって眠気なんてなくなった」
セイバーが困っている顔とか、
桜とセイバーが仲良く出来ているのかとか、
そもそも藤ねえは何を考えているのか、とか。
考えれば考えるほど頭が痛くなって、これなら隣の部屋でセイバーに眠って貰ったほうがまだましだったかもしれない。
「――――――――」
時刻は午後十一時。
屋敷の電灯は消え、外は物音一つない。
座敷で眠っている藤ねえたちに気づかれないよう、足音を殺して部屋の襖に手をかけた。
庭に出る。
月は明るく、切りつける風は冷たい。
冬の夜、世界は凍りついたように静かだった。
土蔵は静まりかえっている。
昨日俺がランサーに追いつめられた場所であり、
セイバーが現れた場所。
入り口は開かれたままで、内部の闇は来る者を拒むように黒々としていた。
中に入る。
扉を閉めて外気を遮断し、おんぼろなストーブに火を入れた。
「……日に二百以上の矢をかけろ、か」
弓道における中貫久《ちゅうかんく》の教え。
中は文字通り的に中る力、
貫は的を射抜く力。
そうして最後の久が、中貫の力を長く維持する厳しさだという。
……たしか中要秘刊集あたりにあった言葉だ。
一度射手たらんと志す者は、真の意味を具備した後にこれを永久に続ける事なり。
故に、日に二百以上の矢数をかけよ……とかなんとか。
「……ああ。マスターとして何をするべきか判らないなら、せめて魔術だけは鍛えないと」
土蔵の真ん中に腰をおろして、すう、と深く息を吸った。
「ふぅ――――、ふ」
……呼吸を整えて、いつもの修練を開始する。
脳裏にはいつもの映像。
空っぽの頭に浮かび上がる剣の姿。
「――――――――」
それを無視して、思考をさらにクリアにしていく。
全身に魔力を通したら、あとはお決まりの“強化”の練習。
昨夜、ランサーに襲われて何年かぶりに成功した強化の魔術。
その感覚を忘れないうちに繰り返して、確実にモノにしなければ勿体ない。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
目を半眼にして肺の中身を絞り出す。
――――今はそれだけ。
聖杯戦争の事も、セイバーの事も、遠坂の事も、この工程に没すれば全てなくなる。
未熟な自分の迷いを一切忘れるほど思考を無にしなくてはならない。
ただ、その過程。
自分がこうしている今、魔術師である遠坂も同じように鍛錬をしているのかと―――そんな雑念が、頭から離れなかった。
◇◇◇
――――不自然な闇を抜ける。
人気の絶えた深夜。
月明かりに照らされていながら一寸先も見えぬ通路を抜けて、彼女はその室内に踏み入った。
「――――――――」
そこは、ある建物の一室だった。
収容された従業員は五十人ほど。
そのほとんどが男性で、その全てが、糸の切れた人形のように散乱していた。
「――――――――」
彼女は歯を食いしばる。
闇で視界を閉ざされていた事が、幾分は救いになった。
腐乱した空気は、草の薫りが煙となって室内に満ちている為だ。
「―――なんの香だろう、これ。アーチャー、貴方判る?」
ドアを開け、窓を開けながら彼女は自らの背後に問うた。
そこに人影はない。
ただ、立ちこめる煙より濃密な気配だけが揺らめいている。
「魔女の軟膏だろう。セリ科の、愛を破壊するとかいうヤツかな」
「……ドクニンジン? なに、魔力喰いだけじゃ飽きたらず、男を不能にして愉しんでいるってワケ、この惨状の仕掛け人は」
「だとすると相手は女かな。いや、なんの恨みがあるか知らんが、サーヴァントになってまで八つ当たりするとは根が深い」
「能書きはいいから窓を開けて。……倒れてる連中は―――まだ息があるか。この分だと、今から連絡するのも朝になって発見されるのも変わらない。
用が済んだら手早く離れるわよ、アーチャー」
一面の窓を開け放ち、特別状態の悪い人間の手当てをし、彼女は室内を後にする。
「……チ。服、クリーニングに出さないと」
くん、とコートの匂いをかぐ。
特別触れたワケではないが、彼女のコートには錆びた鉄の匂いが移っていた。
密室となっていた空間。
その床という床には、五十人もの人間が吐き出した血が溜まっていたのだから。
彼女の背後にいた気配がカタチを得る。
彼女――――遠坂凛の背後に現れたのは、赤い外套を纏った騎士だった。
霊体として遠坂凛を守護していたサーヴァント、アーチャーである。
「それで? やはり流れは柳洞寺か?」
「……そうね。奪われた精気はみんな山に流れていってる。新都で起きてる昏睡事件はほぼ柳洞寺にいるマスターの仕業よ。マスターがどれだけのヤツか知らないけど、こんなのは人間の手にあまる。可能だとしたら、キャスターのサーヴァントだけでしょうね」
「柳洞寺に巣くう魔女か。――――となると、昨夜は失態を演じたな」
「失態……? バーサーカーと引き分けた事? アレは最善だったと思うけど」
「どうかな。キャスターがそれほど広範囲な網を張っているのなら、昨夜の戦いも盗み見ていただろう。
にも関わらずバーサーカーを倒せず、セイバーさえ見逃し、こちらは手の内を晒してしまった。これのどこか最善だ」
皮肉げに語る。
だが、その言葉に凛は答えなかった。
バーサーカーを撃退した事も、セイバーを助けた事も間違いではない。
そして何より―――アーチャーは、その手の内を晒してなどいないのだ。
昨夜。
アーチャーが放った“矢”がバーサーカーを止めたのは事実だ。
だがその正体―――あれほどに強力な“宝具”の正体を、マスターである凛でさえ知り得てはいなかった。
「――――凛」
……いや、原理だけならば彼女も見抜いてはいる。
アレはただの爆弾だ。
“宝具”という火薬のつまった爆弾を、敵の前で破裂させただけ。
それがどれほど破格であるかは言うまでもない。
アレは最強の幻想である宝具を使用した、ただ一度きりの魔力の炸裂だった。
――――壊れた《ブロークン・》幻想《ファンタズム》。
それが赤い騎士が持つ、必殺の宝具の名称。
「――――凛」
……だが、それがあまりにも不可解だった。
サーヴァントが持つ宝具はただ一つであり、生前共に在り続けた半身だ。それを惜しげもなく破壊する事が、はたしてどの英霊にできるというのか。
「――――凛」
破壊された宝具の修復は容易い事ではない。
自らの宝具を破壊するなど、サーヴァントにとっては自殺行為に近い。
「――――凛」
つまりアーチャーは、あの時、未だ倒すべき敵が六人いるという状況で、自ら最強の武器を放棄した。
いや、なにより英雄の証である宝具を自分から破壊するなど、他のサーヴァントが知れば卒倒ものだろう―――
「凛―――!」
「っ! え、なに? ごめん、聞いてなかった」
「……。今夜はこれからどうすると訊いたのだ。先ほどの戦闘で疲れているだろうし、大事をとって戻らないかとな」
「――――――――」
アーチャーの言葉に、凛はわずかに拳を握る。
先ほどの戦闘。
通路に夥しく蠢いていた骨作りの雑魚《ゴーレム》たち。
その全てを、彼女は一人で破壊した。
アーチャーの助けなど要らなかったし、そんな事でアーチャーの能力を晒け出す気もなかった。
何より―――魔術師としてのルールを破り、こうして第三者を巻き込んでいる『敵』に怒りがあったのだ。
だから破壊した。
容赦なく、完膚無きまでに叩きのめした。
……その骨の材料がつい先日まで生きていた誰かだとしても、一切の情はかけなかった。
「――――――――」
その戦いで、彼女が負った傷はない。
ただ一つ。
必死に、吐き気を堪えながら戦った代償に、唇を噛み切ってしまっただけ。
「―――キャスターを追うわ。気配はまだ残っているんでしょう。柳洞寺に逃げられる前に片をつける」
「なに? 驚いたな、出来ないと思った事はやらないのが君の主義ではなかったか?」
「……そうよ。わたし、結果が判りきってる事はできない。
けどこれは別でしょ。今から追いかければ尻尾ぐらいは掴めるだろうし、なにより――――」
「――――喧嘩を売らなければ気が済まない、か。
やれやれ。倒しやすい相手を放っておいて、もっとも倒し難《がた》い相手を追うとは」
「……む。いいのよ、セイバーの事は放っておいて。あんなのはいつだって始末できるんだから、別に目の仇にする必要ないじゃない。
ちゃんと大人しくしているんなら、無理に手を出すコトもないわ。あいつが家に隠れている分には見逃してあげるだけよ」
「……ほう。では、あのマスターが目の前にいれば話は違うのかな。たとえば、未だマスターとしての自覚もないまま、衛宮士郎の方から君の前に現れたとしたら」
試すような言葉。
感情のないその声に、夜の街を見下ろしながら、
「―――殺すわ。
そんな事も判らないヤツに、かける義理なんてない」
自らに言い聞かせるよう、遠坂凛は断言した。
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2月4日     5 Bonnie And Clyde
それは、五年前の冬の話。
月の綺麗な夜だった。
自分は何をするでもなく、父である衛宮切嗣と月見をしている。
冬だというのに、気温はそう低くはなかった。
縁側はわずかに肌寒いだけで、月を肴にするにはいい夜だった。
この頃、切嗣は外出が少なくなっていた。
あまり外に出ず、家にこもってのんびりとしている事が多くなった。
……今でも、思い出せば後悔する。
それが死期を悟った動物に似ていたのだと、どうして気が付かなかったのかと。
「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
ふと。
自分から見たら正義の味方そのものの父は、懐かしむように、そんな事を呟いた。
「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」
むっとして言い返す。
切嗣はすまなそうに笑って、遠い月を仰いだ。
「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」
言われて納得した。
なんでそうなのかは分からなかったが、切嗣の言うことだから間違いないと思ったのだ。
「そっか。それじゃしょうがないな」
「そうだね。本当に、しょうがない」
相づちをうつ切嗣。
だから当然、俺の台詞なんて決まっていた。
「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」
“――――俺が、ちゃんと形にしてやっから”
そう言い切る前に、父は微笑《わら》った。
続きなんて聞くまでもないっていう顔だった。
衛宮切嗣はそうか、と長く息を吸って、
「ああ――――安心した」
静かに目蓋を閉じて、それきり、目覚める事はなくなった。
それが五年前の冬の話。
衛宮士郎の行き先を決めた別れ、
衛宮士郎は正義の味方になると決まった夜の事。
――――忘れられる筈がない。
口にはしなかったけど、ちゃんと覚えていたんだ。
十年前、火事場に残されていた自分を救い出してくれた男の姿を。
意識もなく、全身に火傷を負って死にかけていた子供を抱き上げて、衛宮切嗣はありがとう、と言った。
見つけられて良かったと。
一人だけでも助けられて救われたと、誰かに感謝するように、これ以上ないという笑顔をこぼした。
……その時の感情が、知らず胸に焼き付いている。
誰も助けてくれなかった。
誰も助けてやれなかった。
その中でただ一人助けられた自分と、ただ一人助けてくれた人がいた。
だから、そういう人間になろうと思ったのだ。
彼のように誰かを助けて、誰も死なせないようにする正義の味方に。
それが子供じみた空想でも、そうできたらいいと夢見てしまった。
……そうして。
自分にとってその具現者である切嗣こそが『そういうモノ』に成りたかったと遺して、自分の前で穏やかに幕を閉じた。
子が父の跡を継ぐのは当然のこと。
衛宮士郎は正義の味方になって、かつての自分のような誰かを助けなくてはいけない。
そう、幼い頃に強く誓った。
衛宮士郎は、誰よりも憧れたあの男の代わりに、彼の夢を果たすのだと。
……だが、正直よく分からない。
自分の考えが正しいのか。
それは何処からくるものなのか。
未熟なままの自分に何が出来るのか、
切嗣の口癖だった、みんなが幸せでいられればいい、なんて魔法みたいな夢の実現方法とか。
……ああ、それと。
マスターになったいま自分に何が出来るのか、もう色々あって正直あたまがパンクしそうで――――
「――――――――」
懐かしい夢を見て、目が覚めた。
窓からは鮮やかな朝の光が差し込んでいる。
毛布にくるまった体は微かに冷えているが、風邪をひくほど寒くはなかったらしい。
「……まいった。またここで眠っちまったのか」
軽く頭を振って、作業服《つなぎ》から学生服に着替える。
―――時刻は朝の六時前。
桜の事だから、もう起きて朝の支度をしているだろう。
庭に出て、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。
いや、いい朝だ。
これで家に入れば女の子が三人もいる、という事がなければもっと気が楽なのだが。
「……あ、訂正。女の子は二人だけだった」
さすがに藤ねえに子をつけるのは抵抗がある。
何はともあれ、これから――――
まずはセイバーがどうなったのか確認しなくてはなるまい。
セイバーはああ見えて世間慣れしているようだし、うまく藤ねえと桜を誤魔化してくれたとは思うが、それでも気になるものは気になる。
「……セイバー、起きてるよな」
となると、行き先は一つぐらいだ。
居間には桜がいるし、セイバーがいるとしたら―――
予想通り、道場にはセイバーの姿があった。
「シロウ……? どうしたのです、まだ起床には早いと思いますが」
「え? いや、俺はこのぐらいが普通なんだ。飯の支度があるから」
「そうなのですか。……驚いた、随分と早起きなのですね、貴方は」
よっぽど意外だったのか、セイバーはそんな事で驚いている。
「……うーん、まあ早起きの部類には入るかな。
けどおかしなコトを気にするんだな。セイバー、俺が寝坊するタイプだと思ってたのか?」
「ぁ……いえ、その、失言でした。大河がまだ眠っていますし、エミヤの家の者はみな朝に弱いのだろう、と早合点してしまった」
「あー、納得。藤ねえのネボスケっぷりは半端じゃないからな」
うんうん。
考えてみれば、あの寝相の悪いヤツと同じ部屋で眠ったんだ。
桜もセイバーも、昨夜は寝にくかったんじゃないだろうか。
「それよりおはようセイバー。昨日はよく眠れたか?」
「はい、十分に。昨日は戦闘もありませんでしたし、疲労はまったくありません」
「そりゃ良かった。てっきり眠れていないのかと思ってさ。藤ねえ、寝相悪かっただろ。
……昨日はその、遅くまで騒いでいたようだし。あんまり騒がしいようだったら、俺から言って部屋を別にさせるけど、どうする?」
セイバーの性格上、藤ねえたちと寝床を共にするのは苦痛なのでは、と心配して提案してみる。
「いいえ、その必要はありません。問題がないかぎり、大河の提案を飲みたいと思います」
「そうなのか? いや、そうしてもらえるとこっちも助かるんだけど……」
その、微妙に、セイバーの声には親しみが感じられるというか……。
「セイバー。藤ねえのコト、気に入ったのか?」
「ええ、大河はいい人柄です。あれほど人に偽らず、人に騙されない人間は希です。彼女が監督をしていたと聞いて、シロウの素直さがとても納得できた」
「……うーん。喜んでいいのかどうか、微妙な評価だな、それ」
「褒めているのです。まだ短い時間ですが、彼女の事はよくわかりましたから」
なるほど。
分りやすい、という点では同意できる。
問題はその後、藤ねえの思考を理解できるかという事になるのだが、それは別の物語である。
「それじゃ桜とも仲良くできただろ。桜は藤ねえに輪をかけて毒がないからな」
「……それはそうなのですが……私には、彼女を把握できません。敵意……というほどではないのですが、まだ警戒されている、という感があります」
「……む。じゃあ桜とはまだ話してないのか?」
「いえ、桜とも和解しました。シロウの言う通り、彼女も大河同様優しい人柄ですから」
「――――なんだ。なら問題ないじゃないか」
ほっと胸をなで下ろす。
……その、藤ねえたちと和解した、というフレーズはどうも気になるのだが、ともかくセイバーはうち解けてくれたのだ。
とりあえず、衛宮家における問題はこれで解決したという事だろう。
◇◇◇
いただきます、という声が重なり合う。
朝の食卓、四人でテーブルを囲むというのは初体験で、こういうのもいいなあ、と和んでしまった。
「ん? あれ、これ微妙に薄味だな。ダシ替えたのか、桜?」
「はい。セイバーさん、おみそ汁に慣れてないと思って。あんまりお味噌が濃いのもダメかなって」
「そうですね。昨夜の味付けより、今朝の方が美味しいと思う。ですが桜、私も和風の食事には慣れていますから、そう気を遣わず自由に調理してください。その方がお互いの為になる」
「え、そうなんですかっ!? うわ、ちゃんとお箸持ててる。……びっくりしました、セイバーさんって器用なんですね」
「慣れていますから。
……ですが、正直に言うと箸は疲れます。ナイフやフォークより優れた道具だとは思うのですが」
「そうだねー。セイバーちゃんはお箸よりナイフとフォークだよね。って、それ違う違う。かけるのはソースじゃなくて醤油」
「……なるほど。忠告、感謝します」
「よしよし。報酬として海苔を一枚いただきましょう。はい、士郎おかわり」
「はい。食い過ぎて二度寝するなよ」
「あの、先生? 今日の朝練に参加されるなら、少し控えた方がいいと思いますけど……」
「だいじょうぶだいじょうぶ、これぐらい入れておかないとお昼まで持たないもの。そう言う桜ちゃんだって、朝練の後におにぎり食べてるじゃない」
「――――! 先生、知ってたんですかっ!?」
「むふり。端っこでコソコソやってるから気になって観察してたのよ。だめよー、いい年頃の女の子が朝二食なんて。
悪魔はこっそりと、ある日テロリストのように体重計に舞い降りるんだから。ふふ、わたしの読みでは桜ちゃんの今の体重は――――」
「だめっ! だめです先生、言ったらもうご飯作りに来ませんからっ!」
「ちぇっ」
「そ、それに、間食は時々だけですっ。いつもそんなコトしてるワケじゃありませんっ!」
「あれ、そうなのか? 朝飯、いつも一合多く炊かれてたから、てっきり桜が握り飯でも作ってるんだろうなって思ってたんだけど」
「せせせせ先輩も知ってたんですかっ!?」
「あはは、ダメダメ桜ちゃん。士郎ね、そういう細かいコトには妙に神経質なヤツだから。きっと初めておやつを作った時から気づいてたわよ?」
「初めて? それって去年の夏のこと?」
「っっっっ――――――――!!!!」
「? 桜、空中に埃でもあるのですか? そんなところで手をふって」
――――そんなこんなで朝食は進んでいく。
いつもより二倍ましで騒がしい朝食。
その中で、不意に
「―――今朝未明に発見された被害者は五十名を越え、現在は最寄の救急病院で治療を受けており――――」
何か、ひどく物騒なニュースが流れていった。
「……え? 新都でまたガス漏れ? うわー、今度は五十人だって」
「なになに、被害者には昨夜から連絡がとれず、何人かの家族は不審に思い会社に連絡、警備員に確認させたところ社内に残っている社員はいなかったとのコト……なにこれ?
夕方からみんなビルの中で倒れてたのに、どうして警備員が気が付かないかなあ。職務怠慢とか、そういうレベルの話じゃないよね」
それで食欲がなくなったのか、藤ねえは三杯目のごはんから手を離した。
「……………………」
セイバーは厳しい顔でニュースを見ている。
……となると間違いない。
目的こそ定かではないが、この事件はマスターによる物だろう。
今までのガス漏れ事件同様、死者が出ていない事だけは幸いと言えるが――――
「もう、物騒だなあ。
士郎、しばらく新都でアルバイトするのは禁止だからね。貯金ならたくさんあるんだから、こんな時ぐらいゆっくりしなさい」
「――――――――」
藤ねえの心配は有り難いが、返答はできなかった。
もとより今はアルバイトどころじゃないが、戦いが始まればここに帰ってこれる事も少なくなる。
なら―――藤ねえと桜を心配させないように、帰れない時はアルバイトと偽らなければならないだろう―――。
後片づけを済ませて玄関に出た。
藤ねえと桜は朝練のため、一足先に登校している。
セイバーは昨日と同じように、家を出ようとする俺の後ろに付いてきている。
が、今日はそれを認める訳にはいかない。
休日ならまだしも、平日の学校にセイバーを連れて行ける筈がないからだ。
「セイバー、言っとくけどここまでだぞ。
学校に行っている間はここにいてくれ。セイバーと一緒に学校に行ったら騒ぎが大きくなるし、なにより目立つ。マスターは人目につくのは避けるべきなんだろ」
「――――――」
納得がいかないのか、セイバーは無言で抗議をしてくる。
「だから大丈夫だって。人気があるところでは襲われないんだから、学校は安全だ。それにさ、身を守るだけなら俺一人でもなんとかなる」
「っ――――」
ぴくり、とセイバーの眉が動く。
身を守るだけなら一人でできる、という事に反論があるのだろう。
「一つ訊ねますが。それは、シロウ一人で敵を倒せる、という意味ですか?」
「まさか。昼間なら一人でも危険を回避できるって事だ。人気のないところには近づかないし、日が落ちる前に帰ってくる。
それならセイバーも納得がいくだろ。おまえだって魔力を温存する為に休んでなくちゃいけないんだから、無理して付いてくる事はない」
「……ふう。解りました、マスターがそう言うのなら、私は信じざるを得ませんね」
肩を落として溜息をこぼすセイバー。
……彼女は真剣に俺の身を案じてくれている。
それをつっぱねるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
「……わるい、セイバー。
けど大丈夫だって。それにさ、俺の身に何かあったらセイバーにも伝わるんだろう? もしそうなったら駆けつけてきてくれればいいじゃないか」
「いえ、そうはいかないでしょう。私とシロウの繋がりは細い。マスターの危機が私に伝わる時は、シロウの命そのものが危うくなっている時だ。そうなってから駆けつけても遅すぎる」
「む。じゃあ俺の方からセイバーを呼べばいいのか?」
「はい。士郎が私を必要だと思えば、それは貴方のサーヴァントである私に伝わります。……それでも間に合わないと判断した時は令呪を使ってください。令呪の《バック》助《アップ》けがあるのなら、空間を跳んでシロウの守りとなる事ができるでしょう」
空間を跳んで、だって……?
そんなの、ほとんど魔法じゃないか。
絶対命令権―――令呪ってのは、そこまでとんでもない物なのか。
「……わかった、できるだけそんな事態にならないように立ち回る。日が落ちるまでには帰ってくるから、セイバーは留守を守っていてくれ」
またな、と手をあげて玄関に手をかける。
と。
「……はい。どうか気を付けてください、シロウ。
貴方の学校は異常です。行動には細心の注意を。特に凛には出会わないように」
深刻な顔で、セイバーはおかしな事を口にした。
「? 学校で遠坂が仕掛けてくるっていうのか? まさか、それこそ有り得ないだろ」
あいつはちゃんとした魔術師だ。
無関係な人間を巻き込むな、っていう協会のルールが染みついているヤツだし、なにより優等生っていう猫を被っている。
学校で顔を合わせたら、おはよう、なんてしれっと挨拶してくると思うんだけど。
「……そうだといいのですが。凛は人目を気にして判断を鈍らせるタイプではありません。
それにシロウを敵視しているようですから、気を付けるに越したコトはないでしょう」
「はいはい。取り越し苦労だとは思うけど気を付ける」
時刻は朝の七時過ぎ。
いつもより遅くなってしまったが、この時間なら急がなくとも間に合うだろう。
七時四十分。
余裕を持って正門を通り抜け、校舎へ向かう途中。
「――――――――」
何かおかしな違和感に襲われて、足を止めた。
「……なんだ? 別に何がおかしいってワケじゃないよな……」
誰かに見られているというワケでもないし、いつもと景色が違うワケでもない。
しいて言うのなら、そう―――なんとなく活気がない、というか。
それは校舎に向かう生徒たちだけでなく、木々や校舎そのものも、どこか色あせて見えるような錯覚だった。
「……気のせいかな。色々あって過敏になってるのかもしれない」
目を瞑って、ポキポキと肩を鳴らす。
……が。
そうやって一呼吸おいて見ても、正体の判らない違和感は消えてはくれなかった。
三階に上がって教室に向かう。
と。
ばったり、遠坂と顔を合わせた。
「よっ」
一応、もう顔見知りなワケだし軽く挨拶をする。
「―――――――――――」
が、遠坂は幽霊でも見たかのように固まっていた。
「遠坂? なんだよ、顔になんかついてるのか?」
制服の裾で頬を拭ってみる。
「―――――――――――」
遠坂はそれでも口を開けず、
ふん、と顔を背けて自分の教室へと戻っていった。
「…………????」
なんだろう、今のリアクションは。
遠坂のやつ、挨拶をされたら無視できる性格じゃないと思うんだけど。
「――――――――」
教室に入るなり、またあの違和感があった。
誰かが菓子でも持ち込んだのか、微かに甘い匂いがする。
「……別に、いつも通りの教室だよな」
男連中に挨拶をしながら席に着く。
ホームルームが始まるまであと十分ほど。
その間にぐるりと教室を見渡して、鞄のない席に気が付いた。
「慎二のヤツ、欠席か」
そういえば昨日も部活を休んでいたっけ。
ああ見えても慎二は几帳面で、神経質なまでに規則を守ろうとするヤツだ。
そんなあいつが二日も学校にいないというのは、なんとなく気になった。
◇◇◇
昼休みになった。
弁当を作ってきた日は大抵、こうして生徒会室に移動する。
何故かというと、教室で弁当を広げると男どもにはハシをつつかれ、女どもには茶化されるからである。
「なんだ一成。おまえ、昼は食べないのか」
「ああ、先ほど済ませた。今はともかく眠くてな、昼休みが終わる前に起こしてくれ」
べったりと机に伏したまま、一成はそんな事を言う。
「なんだ、徹夜でもしたのか? お山じゃ十一時には絶対就寝じゃなかったっけ?」
「うむ……そうなのだが、最近寝付きが良くない。いくら眠っても疲れが取れなくてな。おかげで、ここ数日は暇さえあれば眠っている」
「……? なんだそりゃ。暇さえあれば眠ってるんなら、眠気なんてないだろ」
「うぅ、そうなのだがな。いくら眠っても疲れがとれない故、疲れをとる為に眠らざるを得ないのだ。
……矛盾していると分かってはいるのだが、眠いものは仕方がない」
「―――はあ。春にはまだ早いんだけどな、一成」
「春眠暁を覚えずか。まことに耳が痛い」
一成は机につっぷしたまま起きようともしない。
……仕方ない。
重傷のようだし、昼休みが終わるまで付き合うとするか――――
「あれ? おい一成、誰か来たぞ」
「……知らん。生徒会は店じまいだと言ってやれ」
「いや、そう言ってもいいんだが……やってきたの、葛木先生っぽいぞ」
「――――。むむ、それはまずい」
のんびりと立ち上がり、ドアを開ける一成。
「柳洞。今朝の弓道部の件だが――――」
と、生徒会室に俺がいる事に気が付いて、葛木は言葉を止めた。
葛木宗一郎は二年A組の担任で、生徒会の顧問でもある。この学校でもっとも厳しい教師で、愛想というものはまったくない。
「え……? それじゃ家にも帰ってないんですか?」
「そのようだ。おそらく刑事事件になるだろう。解っているだろうが、無闇に話す事は避けるように」
「―――それは解っています。ですが、そうなると間桐はどうしたんですか。あいつが昨日会っていたと、弓道部の一年が言っていたじゃないですか」
「それに関しても同じだ。間桐慎二も無断欠席しており、家も留守だそうだ。妹である間桐桜は藤村先生の家に泊まっていたというし、事情は知らされていない」
……一成と葛木は、なにやら物騒な会話をしていた。
聞こえてしまった内容を吟味すると、昨日から行方不明の生徒がいて、その生徒と最後に会っていたのが慎二だという事だが――――
「邪魔をしたな。そういった事情もある。また下校時間が早まるだろう」
用件だけ述べて、葛木は生徒会室から去っていった。
「……まったく。なあ衛宮、おまえ慎二を見なかったか?」
「いや、見てない。今朝は弓道場にも行かなかったし、あいつが休んでるってコトはおまえも知ってるだろ」
「そうか。それならいいんだが……」
深刻そうに顔を曇らせる一成。
―――まいったな。
そう無遠慮に訊ける話じゃなさそうだが、どうも事は弓道部に関わる事のようだ。
一成には悪いが、無理にでも詳しい話を聞くべきだろう。
「一成。昨日から家に帰ってないとか言ってたけど、それって誰なんだ? いや、慎二のヤツも掴まらないってのは判ったけど」
「ん……? そうだな、衛宮も部外者という訳ではないし、知っておいてもいいだろう」
「昨日の夜の話だ。
弓道部の練習に出た娘が家に帰ってこない、という連絡があってな。至急、練習に参加した生徒たちに話を聞いたところ、行方不明になった生徒と最後に話していたのは慎二だと判ったのだ」
「――――」
慎二と、話していた……?
「ちょっと待った。慎二は昨日の練習にはいなかったぞ。それに、弓道部のみんなとはちゃんと校門で別れたんだが」
「ああ、衛宮もいたらしいな。話はその後だ。忘れ物をした一年生が道場に戻った時、慎二が道場の前にいたらしい。その時にな、慎二とそいつが口喧嘩してたそうなんだ」
「――――――――」
嫌な予感がする。
……あの時、道場に残っている可能性があるとしたら、それは一人しかいないからだ。
「一成、肝心な話をぼかすな。……それで、昨日から行方不明になってる生徒ってのは誰なんだ」
「……うむ。美綴綾子、弓道部の主将だ。
彼女は道場の鍵を職員室に戻した後、弓道場前で見かけられてから一向に行方が知れない」
一成は言いづらそうに、視線を逸らしながらそう言った。
◇◇◇
授業が終わった。
例の事件の影響か、放課後の部活動は取りやめになっている。
図書室も閉鎖されたそうで、ホームルームを終えた生徒たちは早足で校舎から去っていく。
特別な用事がない生徒は下校してください、というアナウンス。
二年C組の教室にはもう自分しかいない。
他の教室も似たような物で、急がなければ校舎はじき無人になってしまうだろう。
「――――――――」
その前に話を聞こう。
美綴が家に帰ってない、なんてコトを聞いて、何もせずに帰れる筈がない。
あいつはしっかりしたヤツだし、腕っ節もそんじょそこらの男より立つ。
そんなあいつが行方知れず、というのはただ事ではないし、何より友人として放っておけない。
「……悪いセイバー。少しやる事ができた」
セイバーに謝って、教室を後にする。
まずは二年A組、美綴のクラスで話を聞いてみるべきだろう。
「え? ……あの、綾子ちゃんなら風邪でお休みしてますよ?」
「美綴さんなら休み。弓道部員ならそれぐらい知ってるでしょう」
「だから欠席だって。鬼の霍乱サ。あいつの無遅刻無欠席もここで終わりだやね、うひゃひゃひゃひゃひゃ」
帰り支度をしている女子の話は、決まってその程度でしかなかった。
二年A組では、美綴はあくまで病欠という事になっている。
「邪魔したな。明日美綴が来たら、このことは黙っててくれ」
片手をあげて教室を去る。
他に何かあるとしたら、もう道場ぐらいしかないのだが――――
「―――誰もいないか。そうだよな、部活は休みなんだから」
道場の入り口は固く閉ざされている。
中に誰かがいる様子もないし、ここにいても無意味だろう。
「……一成に聞いてみるか。あれから何か判ったかもしれないし」
昼休みから三時間も経っているのだ。
もしかしたらとっくに美綴は見つかっていて、聞いてみればなんでもない話だった、なんて可能性もある。
「――――――――」
まいった。
まさか生徒会まで休みとは思わなかった。
校舎にはほとんど人が残っていないし、これ以上誰かに話を聞くのは難しいだろう。
「……とりあえず戻ろう。美綴の事なんだから、藤ねえが何か知ってるだろうし」
鞄を手にとって廊下に戻る。
外は茜色に染まっていた。
夕日は地平線に沈みはじめ、あと一時間もすればすっかり暗くなるだろう。
三階の階段に着く。
鞄をぶら下げて帰路につこうとしたその時、かたん、頭上で物音がした。
「?」
顔をあげる。
と、そこには――――
四階に続く踊り場で仁王立ちしている、遠坂の姿があった。
「あれ。遠坂、まだ残ってたのか?」
「………………………………………」
返答はない。
朝といい今といい、挨拶をする度に、あいつの目つきがきつくなっていくような。
「? なんだよ、話がないんなら行くぞ、俺」
ほら、と鞄を目の前に上げて、今から帰るんだ、というジェスチャーをしてみせる。
「――――――――ハァ」
……?
何がどうしたのか、遠坂は呆れた風に溜息をこぼしてから、
「呆れた。サーヴァントを連れずに学校に来るなんて、正気?」
そう、感情のない声で呟いた。
「正気かって、そんなの当然だろ。だいたいセイバーは霊体化できないんだから、学校に連れてこれるワケないじゃないか」
「それなら学校なんて休みなさい。マスターがサーヴァント抜きでのこのこ歩いているなんて、殺してくださいって言っているようなものよ。
……衛宮くん、自分がどれくらいお馬鹿かわかってる?」
「な―――お馬鹿って、そんな事あるかっ。
遠坂こそ馬鹿なコト言うなよな。マスターは人目のある所じゃ戦わないんだろ。なら日中、とくに学校なんて問題外じゃないか」
「…………ふぅん。じゃあ聞くけど、ここは人目のある所かしら」
「は――――?」
なにいってんだ、人目があるかなんて、そんなのは確かめるまでも――――
「あれ――――――?」
なぜだろう。
都合がいい事に、周りには誰もいなかった。
三階の廊下には誰もいない。きっと四階も二階も同じようなものだろう。
夕暮れの校舎は静まり返っている。
こうなっては、一階にしか生徒や教師は残っていないのではないだろうか――――
「ようやく分かったみたいね。
……ほんと、朝は呆れたのを通り越して頭にきたわ。
あれだけ教えてあげたのに、どうして自分からやられに来るのかって」
棘のある口調で言いながら、遠坂は左手の裾をまくり上げる。
「――――?」
白く細い腕。
女の子らしいその腕に、ぼう、と。
燐光を帯びた、入れ墨のようなモノが浮かび上がった。
「――――な」
令呪じゃない。
アレはもしかして―――俺は持っていないが、魔術師の証と言われる魔術刻印ではないのか。
「―――説明するまでもないわよね?
これがわたしの家に伝わる魔術の結晶よ。ここに刻まれた魔術なら、わたしは魔力を通すだけで発動させる事ができる」
……そう。
魔術刻印とは、言うなれば魔術師本人の回路とは別の、付属したエンジンである。
複雑な詠唱も手順も必要ない。
ただ回すだけで魔術という車を走らせる、究極の短縮機関。
だがそれ故に、魔術刻印は使用時でなければ浮かび上がらない。
魔術刻印とは、持ち主が魔力を通す事で形成される、もう一つの魔術回路なのだ。
「アーチャーは帰らせたわ。貴方ぐらい、この刻印に刻まれた“|ガンド《呪》撃《い》ち”で十分だもの」
言い捨てる声に感情はない。
「――――――――」
それで、目の前の相手が本気なのだと、思い知った。
「逃げてもいいけど辛いだけよ。どうせ勝つのはわたしなんだから」
冷淡に言う。
だがこっちの頭はぐちゃぐちゃだ。
ここで、本気で、戦うだって……?
なんだってこんな所で、
なんだってこんな時に、
なんだってよりにもよって、あの遠坂と戦わなくっちゃいけないのか――――?
「ま、待て遠坂! おまえ正気か、ここ学校だぞ!? 下手に騒げば誰がやってくるかわかったもんじゃ―――」
「その時はその時よ。わたしね、目の前のチャンスは逃がさない主義なの。衛宮くんには悪いけどここで片づけさせてもらうわ。
……それに、今日みたいにふらふらされてたらわたしの神経が持ちそうにないし」
「だ、だから待てって……! だいたい俺は遠坂と戦う気なんて―――」
「貴方になくてもわたしにはあるの……! いいから覚悟なさい、士郎―――!」
何か八つ当たりじみた宣戦布告をして、遠坂の腕が動いた。
「――――――――!」
それはどのような魔術なのか。
遠坂が左手を突き出した瞬間、視界が光に潰された。
「っ………………!」
二階に続く階段まで、思いっきり飛び込んで四歩。
廊下に戻るのなら、同じく四歩程度で遠坂の死角に入れる。
戸惑ってる場合じゃない、今は――――
「っ――――!」
後ろを見ずに、勘だけで後ろに跳び退いた。
遠坂の死角、廊下の曲がり角を盾にして、ともかく全力で横っ跳びする――――!
廊下に前のめりに滑り込む。
「チィ――――!」
苛だたしげな遠坂の舌打ちと、何か重い物が壁を乱打する音が聞こえた。
「ちょっ――――あいつ、いま何やった――――!?」
立ち上がりながら後ろを見る。
……壁。
さっきまで俺がいた後ろの壁から、なにやら煙らしき物が上がっていた。
で。
も少し正確に言うと、壁には三つ、こぶし大ほどの焼き跡があったりする。
「――――――――」
飛び道具――――いや、ありゃ狙った相手を病気にするっていう“呪い”めいた物だ。
遠坂が言っていたガンド撃ちってのは、たしか北欧のルーン魔術に含まれる物で、相手を指差す事で病状を悪化させる間接的な呪いの筈だ。
効用はあくまで体調を悪くするだけで、間違ってもあんな風に、直接ドカーッと効果の出るもんじゃない。
が、遠坂のガンドはあんまりにも濃い魔力で編まれているため、パッと見が弾丸そっくり。
問題は外見だけでなく、威力も効果も弾丸と同じだってコトだ。
いや、さすが遠坂。
本来ゆったりとした呪いを即効性にするなんて、実力行使にも程がある。
「って、殺す気かあいつ――――!」
「この、だからそうだって言ったでしょう!」
背後から駆け下りてくる足音が響く。
「っ――――!」
全速で体勢を立て直す。
―――考えている暇はない。今はとにかく逃げないとシャレにならない……!
「廊下、廊下はやばい――――!」
何しろまっすぐだ。
遠坂の武器は飛び道具なんだから、単純に廊下を走ってたら背中を撃たれる。
「そこ、動くな――――!」
階段から躍り出てくる遠坂。
それより僅かに早く、
すぐ横の、二年F組の教室に飛び込んだ。
廊下を撃ち抜くガンド。
遠坂のやつ、廊下にでるなり問答無用でぶっ放しやがったらしい……!
「冗談、あんなの相手に出来るか……! 何が戦えだ、そもそも戦力が違うぞ、戦力がっ……!」
大急ぎで教室を見渡す。
防具。
何か、あんなんで撃たれても助かるような盾とか服とか防弾チョッキとかないか……!?
「やば、来た――――!」
駆けてくる遠坂の足音は、教室の入り口あたりで止まった。
……俺がここに飛び込んだのは見えた筈だ。
となると、俺が待ち伏せしていると用心して足を止めた――――
「なワケあるか、バカ――――!」
走る。
教室の端から端、教室の前の出口へ駆けだすのと同じくして、
容赦なく、廊下から弾丸《ガンド》が連発された――――!
ああもう、つるべ撃ちもいいところだ……!
弾丸は壁を貫通し、放射状に教室内を狙い撃ちにする。
「っ……! あつ、背中に掠ったぞ、背中に!」
足を止めていたら間違いなく撃ち抜かれていた。
「!? うそ、なんでピンシャンしてんのよアンタは!」
だっ、と教室に飛び込んでくる遠坂凛。
距離は四メートルほど、俺たちは教室の前と後ろの入り口に手をかけて、再度睨みあう――――なんて余裕はないっ……!
廊下に飛び出る。
教室に逃げ込むのは却下だ。
こうなったらもう、あっちの階段に向かって全力疾走するしかない!
「!」
うわ、容赦ねえな本当に!
こめかみに掠っていったぞ、今! ちょっ、脇腹、脇腹にいまじーんときたじーんと!
「あつ、あつつつつ……! くそ、本気かおまえ! そんなん当ったらタダじゃすまないじゃないか!」
「当然、タダで済むほど甘くないわ……!
痛いのがイヤなら止まりなさい、そしたらすぐ楽にしてあげるから―――!」
駆け抜ける銃弾。
というか、なぜにさっきから効果音がリアル銃弾になってますか!?
「待て、おまえガンド撃ってるんじゃないのか!?
殺意以外感じない音だぞそれ!」
「うるさい、ならちょこまか逃げ回るな! 標的が動きまわるから、つい狙いに熱が入るんじゃない……!」
ばきゅんばきゅん撃ちながら、そんなコトを言う遠坂。
「うわーっ! これじゃなんとかに刃物だーっ!」
「この、言うに事欠いてそれかーっ!!」
一際強く銃声が木霊する。
だが間一髪。
本当にスレスレのタイミングで、二年A組側の階段に辿り着けた。
「はっ――――はぁ、はぁ、は――――!」
階段を駆け下りる。
ここまで来ればこっちの勝ちだ。
階段を駆け下りて、二階の踊り場に着く。
このまま一階まで下りてしまえば、いくら遠坂でもこんな無茶はしな――――
―――絶句。
遠坂のやつ、階段の手すりを飛び越えて、一階に続く階段まで一気にショートカットしやがった。
……簡潔に言えば、つまり。
この階段から一階に下りるには、やる気満々でこっちを睨んでいる遠坂を突破しなくてはならないという事だ。
「―――驚いた。身、軽いんだな遠坂。前は贅肉があるとか言ってたのに」
「――――――――」
あ。
遠坂、青筋たてて睨んできた。
慣れという物は恐ろしい。
来るな、と思った瞬間、足は勝手に廊下へと横っ跳びして、だんだん、と壁に炸裂する銃弾の音を聞いていた。
廊下を逆方向に逃走する。
一歩前進したところは、三階から二階の廊下になったというコトだ。
これでもう一度逃げ切って一階まで降りれば、流石の遠坂ももう――――
「うわあ、また来たー! しつこいぞ遠坂、いい加減あきらめろー!」
「そっちこそ往生際が悪いっっっ! 命までは取らないんだから大人しくしなさいよね……!」
―――今度という今度は本気なのか、それとも逃げ回られて頭に血が上ったのか。
遠坂のガンドは、これ以上やったら間違いなく警察に通報されるレベルにまでアップしている。
「ひー……!
そんな心配してる場合じゃないぞ、これ――――!」
威力があがっている、という事は、弾丸も大きくなっているという事だ。
さっきまで掠っても熱いだけだった“呪い”は、触れた箇所をごっそりと焼き削る物となっている。
「――――痛っ…………!」
片足。腿にガンドが触れる。
―――スピードが落ちる。
階段に着く前に追い付かれる、と判断した瞬間、体は真横、三年の教室に跳び込んでいた。
「――――っ」
教室に飛び込んで、窓際まで移動する。
……さて、どうするか。
二階ぐらいだったら飛び降りてもなんとかなりそうだ。
廊下に出ても狙い撃ちにされるのなら、いっそここから外に出てしまおうか。
「――――Das SchlieBen.Vogelkafig,Echo《準備。防音、終了》」
廊下で遠坂の声が聞こえた。
何か、薄い膜のようなモノが教室を包み込む。
「――――――なんだ、結界……?」
それが、なんらかの防音機能を持った結界だと気づいた瞬間、遠坂が何をするつもりなのか読みとれた。
「!!!!!!!!!」
窓際に頭から跳び込む。
――――強い魔術の発動を全身で感じ取る。
即座に身を屈め、机を倒してその陰に隠れる。
――――今までのガンドとは違う。
目を閉じて、手のひらを机の裏側に密着させる。
――――呪文を。
魔術刻印の助けがありながら、遠坂は呪文を詠唱している。
間に合うか。否、間に合わせるしかない。
あらゆる工程、背骨に第二の神経を作る過程を吹っ飛ばして、気が狂ったかのように机に魔力を流し込む……!
「Fixierung《狙え、》,EileSalve《一斉射撃》――――!」
「同調《トレース》、開始《オン》――――!」
炸裂する音と光。
いつも通りの放課後。何の変哲もない教室は、一瞬にして舞踏場へと変貌した。
――――踊る机。
廊下から教室に向けて放たれた魔力の束は、拳銃なんて比喩では間に合わない。
絶え間なく放たれ、広範囲にばらまかれるソレは、既に機関銃と同じだった。
魔力に籠められた“呪い”がどんな効果を持っているかは知らないが、それでも目に見えるほどの魔力の塊なのだ。
質量を持ったソレは、触れる物全てを弾き飛ばしていく。
教室に並べられた机は、頭に火をつけられた人間のように荒れ狂う。
響く銃弾と踊る机の音で、鼓膜はとっくにいかれていた。
これじゃ舞踏場というより戦場だ。
にも関わらず、窓ガラスには皹《ひび》一つ入っていない。
遠坂が張った結界の力だろう。
いま、この教室は密室になっている。
この密室は侵入する事は出来ても、退出する事は許されないらしい。
放たれる何十という弾丸も例外ではなく、この騒音さえ外には漏れない。
……まったく。
遠坂のやつ、カッカしてるようで感心するぐらい魔術師然としてるじゃないか――――!
「っ――――!」
盾にした机に、ありったけの魔力を籠める。
俺が使えるただ一つの魔術―――“強化”によって硬度を増した机は、豪雨じみた魔力の弾丸を防いでいた。
「ぐ、っ――――!」
だが、それも一時の事。
俺の強化では、この弾丸の雨を三秒と防げない。
結果として、強化が切れた瞬間にさらに強化をかけ、魔力の続く限りそれを繰り返すしかないのだが――――
「くそ、あいつの魔力は底なしか――――!」
雨は一向に緩まない。
……もしかしたら、遠坂には教室の様子が読みとれているのかもしれない。
あいつは俺がこうして防いでいる事を知っているから、攻撃の手を緩めないのではないか。
そうなると、この雨が止む時は、つまり――――
「……こっちの魔力が切れた時、か……」
机に神経を集中しながら、はあ、と肩を落とした。
……こうなれば根比べだ。
あいつと俺、どっちが先に根を上げるか勝負してやろうじゃないか――――!
「――――いや、まいった」
勝負はあっさりと着いた。
なんというか、一ラウンド開始十五秒でノックアウト負けを食らった気分。
こっちは無傷だし、体力だって有り余っているが、魔力が底をついたのではどうしようもない。
「……しかし、またこれは」
机からひょこっと顔を出す。
教室は白煙に包まれてよく見えなかった。
からん、という音。
床に付けていた手が、何か棒のような物に触れた。
「椅子の足だ。……また派手に壊したもんだよな、あいつ」
ともあれ、何らかの武器にはなるだろう。
二十センチほどの鉄の棒を握って、残った最後の魔力を籠める。
「―――上手くいった。なんだ、本番なら百発百中じゃないか、俺」
ぶん、と景気づけに“強化”した鉄の棒を振ってみる。
……さて。
ここで煙に巻かれていても事態は好転しないし、もう一度さっきのをやられたら間違いなく蜂の巣にされる。
魔力の使いすぎで足腰やられたのか、今は立ち上がる事もできない。
「っ――――ごほっ、かはっ」
おまけにこの煙、まともに呼吸させてくれないし。
「燻りだしか、くそ。詰めまで完璧じゃないか、あいつ」
遠坂は戦い慣れている。
ここに留まっていたらいっそう追い詰められるだけだ。
……どうせ廊下で待ち構えているんだろうが、ヘンな結界のせいで窓からは出られない。
「――――――――」
覚悟を決めて廊下に向かう。
足の痺れは未だ取れず、机の残骸を押し分けながら、匍匐《ほふく》前進で白煙に突入する。
そうして焦土を抜けた先に、
「―――ふん。ようやく出てきたわね、衛宮くん。」
大きく肩を上下させながら、遠坂が待ち受けていた。
「………………」
むっ、と睨み付けながら、なんとか中腰まで立ち上がる。
足の痺れは一時的なもので、動かそうと思えば動せるようだ。
が、それでどうにかなる話でもない。
遠坂は走り疲れているだけで、魔力はまだまだ残っている。
魔力切れの俺とは逆で、遠坂は体力が先に尽きているだけだ。
このまま戦闘を再開すれば、今度こそ避ける間もなく撃ち抜かれるだろう。
「勝負あったわ。ほら、そのヘンテコな武器を捨てなさいよ。こうなったら衛宮くんに勝ち目なんてないでしょう」
ふふん、と勝ち誇る遠坂凛。
「………………」
カチンときた。
正直、無謀だなって分かってはいるが、なんだかともかくカチンときてしまったのだ。
「……そんなのやってみなくちゃわからないだろ。肩で息してるクセに偉そうなコト言うな、ばか」
てっていこうせんだ、とばかりに椅子の足を遠坂に突きつける。
「―――ふうん、そう。
わかったわ、大人しくするなら優しくしてあげようって思ったけど、そんなのはいらないお節介だったみたいね。ええ、だから初めに謝っておくわ、衛宮くん」
にたりと。
なにか、とんでもなく不吉な笑みを浮かべるのは止めて欲しい。
「? 謝るって、なんでさ。というか、いまさら謝られてもこの恨みは忘れないぞ」
「ええ、わたしが謝るのはこれからの事よ衛宮くん。
だって下手に抵抗されたら手加減は出来なくなるでしょう? 手元が狂って貴方を殺しちゃったら、もう謝罪はできないじゃない」
「――――…………!」
うわ、こいつ本気だ……!
いや、今までだって本気っぽかったけど、今ので本当に最後のスイッチを入れてしまったというか、自分がまな板の上の鯉だってようやく気が付いた……!
「あ、やっと解ってくれた? 良かった、これだけ言ってまだぼんやりしたコト吐かれたら、それこそどうかしてたから、わたし」
「う――――どうかって、どんなさ」
「――――――――」
ぎり、と睨み付けてくる。
……なるほど。
つまり、今みたいなコトがぼんやりしたコトな訳か。
「―――これが最後の忠告よ。
そのヘンテコな武器を捨てて、令呪を出しなさい。最悪腕の神経を剥がす事になるけど、命を獲られるよりはいいでしょう?」
「――――――――」
令呪を差し出す……?
いや、令呪は差し出せる物じゃないし、何より―――
「……駄目だ。それは出来ない、遠坂」
「……ふうん。聞いておくけど、なんでよ」
「令呪は渡せない。それは、俺にセイバーを裏切れって言ってるのと変わらない」
「……そう。三秒あげるわ。自分の命だもの、自分で選びなさい」
左手をかざす遠坂。
俺が断った瞬間、その腕からガンドが放たれるのだろう。
俺は――――このまま、
「三秒―――衛宮くん、返事は」
「――――――!?」
思わず遠坂と顔を見合わせた。
いま、下から悲鳴が聞こえなかったか……!?
「遠坂、いまの」
「悲鳴、だったわよね」
即座に立ち上がって駆けだす。
「ちょっと、場所は判ってるの衛宮くん……!?」
「知るか! 下からって事しか判らなかった!」
「ちょっと待った、いま結界を解くから――――!」
階段を駆け下りる。
「待ってったら! 一人で先走ったら危ないわよ!」
「そんな場合か! さっきの悲鳴、どう聞いても普通じゃなかったぞ!」
「わかってるわよ! だから危ないって言ってるんじゃない、ばか!」
一階に下りる。
廊下には誰もいない。
ただ一つ、女生徒らしき人影が倒れ伏しているだけだ。
「――――!」
女生徒は非常口の前に倒れていた。
「……良かった。気を失ってるだけか」
女生徒の傍まで駆け寄って、無事を確かめる。
一年生だろうか。
意識はないようだが、出血も外傷もなく、とりわけ大事という訳ではなさそうだ。
「そんな訳ないでしょう―――! こんなに顔を青くして、中身が空っぽだって判らない!?」
「え……? 中身が空っぽ……?」
「魔力、もっと極端に言えば生命力よ。……キャスターにやられた人と同じ、いえアレよりもっと質が悪い。
―――この子、放っておいたら死ぬわ」
「な……死ぬって、傷一つないのにか……!?」
「外が無事でも中が空っぽなら動かなくなるのは当たり前でしょ。血がぜんっぜん足りないのよ。……まってて、これぐらいなら手持ちの石でなんとか――――」
ごそごそとポケットを探る。
……良かった。
なにか大変な事になっているようだが、遠坂は治療法を知っているようだ。
遠坂はしゃがみ込んで、倒れた女生徒を介抱している。
「――――――――」
その横顔は真剣そのものだ。
額に汗を浮かばせながら、女生徒の安否を気遣う。
「……?」
……なんだろう。
その、見ている方が痛みを覚えるほどの真剣な顔を、俺は。
つい最近、すごく間近で見た覚えが――――
「ああもう、気が散るっ……! 衛宮くん、そこのドア閉めてくれる? 風で髪が乱れるのよ」
「え――――ああ、あの非常口だな」
開けっ放しの非常口に視線を送る。
「ん――――?」
開けっ放し……?
そういえば、この子がどうして倒れているのか、俺たちはまだ調べていない。
一人で倒れた訳でもなし、彼女を襲った第三者がいた筈だ。
悲鳴が聞こえて一分と経たずに駆けつけたんだから、犯人が逃げるとしたらその非常口ぐらいしかない。
「――――あ」
その、開けっ放しの非常口を見ていたおかげか。
黒い“何か”が飛んでくるような気がして、咄嗟に、
「遠坂、危ない」
右手で、遠坂の顔を庇《かば》った。
「え―――な、なによそれ……! 衛宮くん、腕、腕に穴開いてる……!」
「っ――――――――」
遠坂の言う通り、右腕には黒い短剣が突き刺さっていた。
肘と手の中間に刺さったそれは、釘に似ている。
いや、釘というには鉄塊すぎる。
もはや短剣と呼べるそれは、ものの見事に俺の腕を貫通していた。
「なんで、そんな―――ううん、今はそうじゃなくて、血、血がそんなに出てるのに、いた、痛く、ないの……?」
「――――痛い。とんでもなく痛い」
が、あんまりにも痛すぎて、冷静にパニックできない。
それに、そんな事より。
こんなモノを、遠坂の顔めがけて投げやがったのか。
「――――遠坂、その子任せた」
床を蹴る。
遠坂の返事を聞く余裕はない。
左手に“強化”した鉄の棒を握り直して、非常口を飛び出した。
「ふ――――ふぅ、ふぅ、ふ――――」
右腕をぶら下げながら走る。
肘から下は血で真っ赤になっている。
……今日は腕に因縁でもあるのか。
遠坂からは腕を差し出せと言われるし、今はこうして、引きちぎれそうな腕を抱えている。
「っ――――このあたりだ、間違いない」
周囲を見渡す。
何に引っ張られているかは判らないが、確かに感じる。
あの女生徒を襲った“誰か”、
遠坂に短剣を放った“何か”は、すぐ近くにいる。
まだ見失っていない。
目を瞑《つむ》れば、黒い闇めいた魔力が移動していると感じ取れる。
「弓道場の裏――――雑木林か……!」
垣根を跳び越えて、腐葉土の地面を走る。
――――と。
林の隙間。
木々に隠れるように、見知った顔が、俺を見て笑っていた。
「慎二…………?」
思わず足を止める。
なんで慎二がこんな所にいるのか。
あいつは行方不明で、いや、
そもそも行方不明なのは美綴で、慎二はその美綴と最後に会っていて、そして――――
「――――!!!!!」
刺されっぱなしの右腕が痛む。
クン、と体が前のめりに倒れそうになった瞬間、
喉もとを狙って、釘のような短剣が突き出された。
「っ…………!」
とっさに躱した。
後ろでも横でもなく、つんのめる体に逆らわず、思いっきり地面に前転してやりすごした。
「は――――づ…………!!!!」
喉。
喉に掠った。皮膚がずるりと裂けている。
それでも幸運と言えるだろう。
一歩遅ければ、皮膚ではなく骨を串刺しにされていたのだから。
「おまえ…………!」
咄嗟に体を起こす。
俺の目前には、
癇に触る笑みをうかべた、黒一色の女がいた。
「サーヴァント…………!」
確かめるまでもない。
遠坂でさえ霞むほどの、人間離れした魔力の塊。
夢か幻と見紛うほどの美しさと、濃密なまでに血に濡れたその姿。
何のクラスかは知らないが、こいつは紛れもなく人間以上の存在に他ならない――――
「消えた……!?」
目の前から黒い影が消失する。
――――殺される、と直感し。
夢中で、左手の武器で、自らの頭上を振り払った。
「ぐっ――――!」
脳天へと落ちてきた“釘”をうち払う。
あの女は蜘蛛か何かなのか、木々に張り付くように雑木林をすり抜けていく。
「――――――――」
走った。
今の奇襲を弾けたのは偶然だ。
次に襲われては防ぎようがないし、もとより、既に逃げられる筈もない。
「つ、は――――!」
手近にあった木まで走り、背中を預ける。
とりあえず背後からの奇襲はこれで防げる。いや、防げると信じるしかない。
「くそ――――あんだけ目立つ格好してるのに、どうして――――」
黒いサーヴァントの姿は何処にもない。
枝から枝に飛び移っているのか、女は一度たりとも地上に降りては来ない。
「――――――――」
汗が滲む。
ジャラジャラという音は、獲物を狙う蛇そのものだ。
「は――――はは、は」
木の下、零れそうになる笑いを必死に堪える。
雑木林に響く鎖の音。
次に襲われたら間違いなく殺される、という状況で、頭のなかは真っ白け。
時間の感覚はまるでなく、断頭台《ギロチン》の紐は解かれたまま、いつまでたっても落ちてこない。
「は――――はぁ、は」
だから、それが不思議だった。
本来なら、もう戦いは終わっているだろう。
なのに自分は生きている。
それが不思議で不思議で、もしかしたら、自分はさっきの一撃で死んでいて、こうして敵の奇襲に怯えている事自体、死後の夢なのではないかと思いこみたくなるぐらい、真っ白だった。
「――――セイバー」
……自分ではサーヴァントには太刀打ちできない。
なら彼女に頼るしかない。
令呪。令呪を使ってセイバーを呼べば、この窮地を脱せるだろう。
だが――――いいのか。
この死地には自分から飛び込んだのだ。なら、その責任はこの手で果すべきだし、なにより――――
「――――俺はまだ、出来る事をやっていない」
そうだ。
拙《つたな》いけれど、この腕には武器がある。
それに体だってまだ動く。
場所が悪いのなら移動すればいい。
セイバーを呼ぶのはその後でも――――
「驚いた。令呪を使わないのですね、貴方は」
「――――!」
声が響く。
上――――やはり木の上に潜んでいるのか。
「……ふん。あいにく残りが少なくてな。こんな事で使ってたら、この先やってられないんだよ」
それにまあ、正直使い方が判らないってコトもあるんだが。
「……そう。私のマスターと違って勇敢なのですね、貴方は」
位置を探る。
声の元は何処だ――――?
「では、私もやり方を変えましょう。サーヴァントのいないマスターに本気は出せませんから―――貴方は、優しく殺してあげます」
……声が止まる。
林には、ジャラジャラという音だけが響いていく。
「――――――――」
……来るか。
俺のやるべき事はまず、この林から出る事だ。
それにはあのサーヴァントの“釘”を数回受け止めなくてはならない。
「……………………」
その為の道具が椅子の足を“強化”しただけの物っていうのは、情けなさを通り越して笑い話だ。
せめて、そう――――
この棒が、あいつの武器ぐらい立派だったら、防ぐどころか反撃さえ出来るだろうに。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――行くぞ」
……もしもの話をしている暇はない。
雑木林の出口まで、わずか三十メートル程度。
さっきの遠坂との追いかけっこに比べれば、こんなの大した距離じゃない――――!
――――走る。
耳障りな鎖の音を無視して、一心不乱に外を目指す……!
「ふっ――――!」
頭上から放たれた一撃を弾き返す。
ついで左、地面すれすれに着地したサーヴァントが放った回し蹴りを“武器”で受ける。
次に正面。
二度の襲撃を防がれた苛立ちか、立て続けに放たれた剣戟をことごとく弾き返す――――!
「っ、そんな――――!?」
黒いサーヴァントが後退する。
「――――――――」
それは偶然だ。
始めの奇襲もそうなら、この一連の襲撃も全て偶然で防ぎきった。
俺には敵の姿さえ見えていない。
そんなやつが生き延びられるのは、偶然以外の何物でもない。
――――だが。
偶然というものは、こんなにも続くものなのか。
いや、そもそもその前提が間違っていたとしたらどうする。
始めの一撃。
脳天への奇襲、
衛宮士郎では躱す事など不可能な一撃は、
決して偶然などでは防げない――――
「――――貴方」
黒いサーヴァントが呟く。
苛立ちを含んだ声は、同時に、ぞっとするほど綺麗だった。
「は、大した事ないな、他のサーヴァントに比べたら迫力不足だ――――!」
立ち塞がるサーヴァントを薙ぎ払う。
「っ…………!」
黒いサーヴァントは俺の武器を受け止め、長い髪をなびかせて跳び退いた。
「行ける――――!」
もう邪魔はいない。
黒いサーヴァントは離れた。
あと、ほんの数メートルで、このまま――――
「―――いいえ、そこまでです。
貴方は、始めから私に捕らわれているのですから」
「え――――?」
体が倒れる。
いや、後ろに引っ張られる。
右腕が痛い。
ただでさえ大穴が開いている腕が、何か得体の知れない力に引っ張られている――――!?
「まだ判りませんか? 貴方の腕に刺さったそれは、私の杭だという事に」
「おまえの、杭――――」
それで気づいた。
あの女の武器から伸びているモノ。
耳障りな鉄の音。
ジャラジャラと。
校舎を出る時からしていた、縛めの鎖の音―――
「しまっ――――!」
左手を右手へと伸ばすが、もう遅い。
血に濡れた腕はひとりでに持ち上がり、そのままどこまでも持ち上げられていく。
「ぐっ……!!! あ、っ――――!」
腕が、千切れる。
右腕に刺さった釘。
そこから伸びる鎖は、木の枝を支点にして、俺の体を宙にぶら下げてしまった。
「あ――――ぐ――――…………!」
「……さて。先ほどは何か、興味深い事を言ってらしたようですが」
……黒いサーヴァントが近寄ってくる。
宙吊りにされたこの状態では、もう逃げる事も殴りつける事もできない。
「この私が他のサーヴァントに劣る、と。
……困りました。その認識を改めさせてからでないと、貴方を殺すのは難しい」
……百舌《もず》の早贄《はやにえ》。
まるで、西部劇に出てくる絞首台にかけられたよう。
釘のような短剣が持ち上げられる。
黒いサーヴァントは、ぬらり、とその先端に舌を這わせ、
「そうですね。まずはその誤った目からいただきます。残った手足は、その後に」
トン、と軽く地を蹴って、地上三メートルに吊された俺の前に、現れた。
「――――――――」
釘が振り下ろされる。
体はまだ動く。
俺は――――
俺にはまだ、残った腕に武器がある――――!
宙吊りにされたまま左手を振るう。
読んでいたのか。
黒いサーヴァントはそれを、中空でひらりと躱した。
くすり、と目の前で死神が笑う。
「っ――――!」
必死に体を揺らして避けようとするが、無駄だ。
サーヴァントの“釘”は、容赦なく俺の目へ突き出され――――
横合いから放たれた、無数の光弾の前に弾かれていた。
「いたっ……!」
地面に落下する。
鎖は今の光弾で切れ、どん、と容赦なく地面に尻餅をつく事になった。
「――――――――」
黒いサーヴァントが身を翻す。
木の枝へと跳躍し、そのまま獣のように遠ざかっていった。
「衛宮くん、無事……!?」
駆けつけてくるなり、遠坂は座り込んだ俺の手を取った。
「と、とにかく血止めしないと……! 衛宮くん、何か巻く物持ってない……!?」
「ああっと……あ、ハンカチ発見。いつも桜が用意してくれてるんで、きっと清潔」
「う、似たもの同士か。けど無いよりマシよ。わたしのタオルとそれで、なんとか格好ぐらいはつけられる」
遠坂は俺の脈を取りながら何やらブツブツと呪文らしき物を呟く。
……血止めと痛み止めだったのか、それで右腕は少しだけ楽になった。
遠坂は熱心に傷口にハンカチをあてて、ぐるぐると右腕をタオルで巻いていく。
「…………」
その横顔を見て、再確認してしまった。
遠坂は美人で、いいヤツだ。
三日前まではただ遠巻きに見ているだけで、優等生というイメージしか持てず、それに憧れていた。
で、箱を開けてみれば遠坂凛はイメージとはかけ離れていたけど、その中身は何が違っていた訳でもない。
―――動悸が激しい。
心臓がばっくんばっくんいってる。
遠坂はいいヤツで、いま体が触れあうぐらい近くにいて、さっきまでの事を水に流してもいいぐらい綺麗なせいで、まともな考えが浮かばない――――
「よし、応急処置はこんなところね。
……それで、あいつ何だったの? 追い付いたらとんでもない事になってたから、とにかく援護してみたけど」
「俺も判らない。ここまで追いかけてきて、襲われた」
簡潔に事情を説明する。
……それと、森で見かけた慎二の事は秘した。
俺の見間違いかもしれないし、もし慎二だったにしても、さっきのサーヴァントと関わりがあるのかどうかの確証もないからだ。
「―――――」
「そんな顔するな。正体は掴めなかったけど、ともかくあいつもサーヴァントだろ。なら、俺たち以外にマスターがいたって事じゃないか」
「……そうね。学校にわたしたち以外のマスターがいるって事は知ってたけど、ようやく尻尾を出したってワケか」
ふう、と肩を落とす遠坂。
……ふむ。
どうも、遠坂はとっくに第三のマスターに気が付いていたらしい。
「――――む?」
となると、さっき倒れていた女生徒はそいつの仕業っていう事か……?
「待った遠坂、さっきの子はどうなった……!?」
「持ち直したわ。今は保健室で寝かせてあるから、もう大事はないと思う」
「――――――そうか。それは、良かった」
ほう、と胸をなで下ろす。
……なら、これで当面の問題はすべて解決したワケだ。
となると、あとは――――
「えっ? な、なによ、人のコトじっーと見て。い、いっとくけど、わたしはあんなコトしないからねっ!」
どんな勘違いをしたのか。
遠坂はその、時々妙にズレた勘違いをする。
「あのな、そんなのわかってる。遠坂があんな真似するもんか。俺が言ってるのはそうじゃなくて、さっきの続きだよ。どうするんだ。やるのか、やらないのか」
「――――――――」
俺に言われて、はた、と遠坂は動きを止めた。
……それがどのくらい続いただろう。
遠坂は一度だけ強く睨み付けてきたかと思うと、
なにか、観念するようにうなだれた。
「………………」
それはいいんだけど。
こんなに近くでそんな顔をされると、男としては色々こまる。
「遠坂? その、どうするんだよ」
「やらない。今日はここまでにする。なんだかしらけちゃったし、また借りができちゃったし」
立ち上がって、パンパンと膝を払う。
「じゃ行くわよ。辛いだろうけど、うちに着くまで我慢して」
ほら、と手を差し出してくる遠坂。
「………?」
首を傾げて、遠坂の目を覗き込む。
「だから、わたしの家に行くわよって言ってるの。衛宮くん、自分じゃその傷治せないんだから」
「あ―――いや、それはそうだけど、なんで?」
「なんでもなにもないわよ。
その傷、治療しないと壊死しちゃうじゃない。それで片腕にでもなられたら、わたしの落ち度みたいじゃない」
つべこべ言うな、とばかりに手を引く遠坂。
「え――――え?」
いや。
いきなりそんなコト言われても、こっちだってワケわからないじゃない?
遠坂の家は、同じ深山町の中で、俺の家とは正反対の住宅地にある。
洋風の建物が住宅地の一番上にあるらしいのだが、今まで足を運んだ事はなかった。
俺が知っているのはこのあたりまでで、ここから先は未知の領域と言える。
―――で。
ここが有名な丘の上の洋館―――由緒正しい魔術師の家系である、遠坂の本拠地である。
「――――――――」
呆然と洋館を見上げる。
……いや、慎二の家で見慣れていたけど、これはこれで味があるっていうか。
「衛宮くん? 玄関、こっちだけど」
「あ――――うん。わかってる、わかってる」
ごほん、と咳払いして遠坂の後に続く。
……まいったな。
他のマスターの本拠地に招かれるって事で警戒するんならまだしも、遠坂の家にお邪魔するって事だけで、妙に緊張してきちまったぞ……。
――――で。
ここが遠坂邸の居間、遠坂凛が毎日暮らしている場所だった。
「それじゃ腕を見せて」
単刀直入、遠坂はまったなしだ。
「…………悪い、頼む」
促された椅子に座って、右腕を差し出す。
しゅるり、と巻かれたタオルが解かれる。
……なんか、さっきより近い気がする。
右腕を看てくれる遠坂は目の前にいて、さっきは気づかなかった黒髪のキレイさが目に映えて、心拍数があがってしまう。
「……あれ? おかしいな、傷口がさっきより小さくなってる。衛宮くん、自然治癒の呪《まじな》いでもかけてるの?」
「え――――いや、そ、そんなコトないぞ、断じてっ!」
「そうなの? そのわりには傷、もうほとんど塞がってるんだけど」
「いや、だから別にキレイだとかなんとか―――って、いまなんて言った遠坂?」
「だから、傷はほとんど治ってるって言ったの。わたしがしたのは血止めだけだから、治ってるなんてコトはない筈なんだけど」
「む……そんなコト言われても知らないぞ、俺」
「ほんと? 前もこんなコトがあったけど、ほんとに心当たりないの?」
「待った、ますます判らない。前もあったって、どのくらい前の事だ」
「前は前よ。
衛宮くん、バーサーカーに襲われたあと背中にザックリ破片が刺さったでしょ。
あの後、わたしが手を加えなくても傷は治ってたし。……まあ、あの時は貴方自身の魔術だと思ってたんだけど、そんな器用じゃないものね、貴方」
「はいはい、不器用で悪かったな。……けど、それってどういう事だ? 俺、今までそんな事はなかったけど」
「……そうね。考えられるとしたら、セイバーと契約した事が原因じゃないかな。衛宮くんとセイバーがどんな契約を結んだかは知らないけど、サーヴァントの中には契約者を不死にする者もいるっていうから。
セイバー自身の自然治癒能力が、そのまま衛宮くんにも流れてるのかもしれない」
「……ふうん。なら、セイバーと契約している限りは怪我をしてもなんとかなるって事か?」
「……まあ、そういう事になるけど……それは当てにしない方がいいわよ。結局、貴方の傷を治しているのはセイバーって事になるんだから、セイバーの魔力を消費する事になるし。
なにより貴方のは傷を癒す力であって、生を返すものじゃないわ。死んでしまえばそれまでなんだから、今回みたいな無茶は控えなさい」
……と。
いつのまに包帯まで巻いてくれたのか、遠坂はすっかり治療を終わらせてくれていた。
ぽん、と俺の右腕を叩いて、遠坂は立ち上がる。
「さて。それじゃお茶でも煎れようか。衛宮くん、砂糖とミルク、どっちがいい?」
「え―――いや、どっちもいらないけど……遠坂、その前に教えてくれないか」
「? いいけど、なに?」
「さっき言ってた事だよ。学校にもう一人マスターがいて、そいつが何かしてるって」
「あ、そのコト? そっか、衛宮くんじゃ結界には気づかないか。……まあ簡潔に言うとね、学校にはわたしと貴方以外にもう一人マスターがいて、さっきみたいなコトを繰り返してるのよ」
「――――――――」
……倒れていた女生徒の姿が浮かぶ。
顔を蒼白にした彼女は、遠坂が駆けつけなかったら命を落としていたという。
「……マスターはマスターだけを狙うワケじゃない、か。あの神父が言ってた事だけど、なんでそんなコトをするんだ」
「聖杯戦争に勝つ為でしょう。サーヴァントは人の精神を食べれば食べるほど魔力を蓄えられる。
学校にいるマスターはね、うちの生徒をみんな生け贄にして、自分のサーヴァントを強くしようって魂胆なんでしょ」
「な―――生徒を生け贄にするって、正気かそいつ!?」
「さあ。けど学校には既に結界が張られてる。
まだ完成してないけど、一度発動すればあの敷地にいる人間はみんな衰弱死するでしょうね。ま、そんなコトはわたしが許さないけど」
遠坂は淡々と説明する。
……遠坂にとって、今のは何日も前から知っていた事実なのだろう。
だからこそやるべき事が決まっていて、俺には学校に来るなと言っておきながら、自分は学校に来ていたのだ。
危険と知りながら、学校に結界を張ったマスターを阻止する為に。
「――――――――――――」
「?」
……自分を恥じる。
なんとなく学校に来た衛宮士郎を見て、遠坂が頭にきたのは当然だ。
俺はそんな覚悟もなく、平然と学校という日常に浸っていたんだから。
「ちょっと。どうしたのよ、さっきから落ち込んじゃって。わたし何か言っちゃった……?」
不安そうに覗き込んでくる。
……遠坂のヤツ、また妙な勘違いをしているんだろう。
「いや、そうじゃないんだ。ただ、おまえには勝てないなって、そう思った」
ごめん、と言うのはどこか間違っている気がするんで、せめてこんな台詞で、精一杯の気持ちを口にした。
じっー、と人の顔を観察する遠坂。
「……な、なんだよ。い、いまのはその、別にさっきのコトじゃなくてだな――――」
「わかってるわよ。それより衛宮くん、とりあえず休戦しない?」
―――と。
ドキッとするぐらい軽やかな笑顔で、とんでもない奇襲をされた。
「休戦って、俺と、遠坂で?」
「そう。学校に潜むマスターは性質《たち》が悪いし、衛宮くんも、敵に知られちゃったしね。わたしとしては貴方より先にあっちを片づけておきたいの。だからそれまで休戦して、二人でさっきのマスターを捜さない?」
「――――――――」
面くらいながらも、冷静に考える。
いや、考える必要なんてない。
遠坂の言っている事は正しいし、なにより、俺もそのマスターは放っておけない。
そもそも俺は、無関係な人間を巻き込むマスターを止める為に戦うと決めたんだから。
「どう? 悪い条件じゃないと思うけど」
「ああ、遠坂が力を貸してくれるなら頼もしい」
遠坂の目を見返して頷く。
「待った。別にわたしは衛宮くんに力を貸すワケじゃないわ。ただ休戦協定を結んだだけよ」
「……そっか。敵の敵は味方、なんて訳にはいかないか」
「ええ。けどそれまでは信頼して。貴方がわたしを裏切らない限り、わたしは衛宮くんを助けるから」
断言する声。
それが本当に遠坂らしくて、素直に、この幸運に感謝した。
「―――良かった、それなら遠坂はずっと味方だ。これからよろしくな、遠坂」
頷いて、右手を差し出す。
「――――ふ、ふん、短い間だろうけど、せいぜい役に立ってよね」
憎まれ口を叩く遠坂。
が、惑わされるコトはない。
返された手はきちんと右手だったし、なにより遠坂の手は、しっかり俺の手を握り返してきたんだから。
「……なるほどね、どうりでおかしいと思った。つまり衛宮くんは正式な後継者じゃないんだ。魔術刻印を引き継ぐ前にお父さんが死んじゃったんでしょ?」
「どうなのかな。切嗣《オヤジ》は俺に魔術刻印を引き継がせる気はなかったみたいだし、魔術師になるのには反対してた」
「? けど衛宮くんに魔術は教えたのよね? なんか矛盾してない、それ?」
「かもな。切嗣《オヤジ》、俺が諦めないから仕方なく教えたって感じだったし。始めに魔術師じゃなく魔術使いになれ、なんて言ってたし」
などと、とりとめのない会話が続く。
「協力関係になった以上、衛宮家の事情が知りたい」
という遠坂の提案で、俺が魔術をどう習っていたのか、という話になったのだ。
衛宮切嗣は、外からやってきた一匹狼の魔術師だった。
対して遠坂の家は、この土地を管理している由緒正しい家系である。
通常、外からやってきた魔術師は地主である魔術師に何らかの誠意を見せなくてはならないのだが、切嗣はそれをやらなかった。
というより、魔術師である事自体隠していたらしい。
遠坂の家を任されている遠坂凛は、この若さにしてここ一帯の管理人なのだそうだ。
その遠坂も、管理を任されたのは十年前。実質的に土地を守れるようになったのはつい最近だという。
そんなワケで、遠坂家は衛宮切嗣の存在を知らないまま現在にいたり、その息子である俺という魔術師の存在を知り得なかったという訳である。
「……魔術使いか……それじゃ衛宮くん、ホントに素人なんだ。自分が扱える魔術以外、魔道の知識はないわけね?」
「ああ、そういう事。俺が使えるのは“強化”だけだからな。他の魔術《コト》は名称とか概要とか、そんな事しか判らない。さっきだって強化で机を盾にしただけだし、あれにしたって今までで一番上手く出来た魔術だった」
「え―――ちょっ、ちょっと本気!? なんでそんな事までわたしに喋るのよ、アンタは!」
と。
なぜか我がコトのように怒り出す。
「? なんだ遠坂、今のつっこむところか?」
「つ、つっこむところって言うか……あのね、衛宮くん。わたしたち手を組んだけど、それでも内緒にしなくちゃいけない事ってあるでしょ。
自分の手の内は隠しておくべきだし、第一、魔術師にとって自分の魔術は隠し通すべき物よ」
「そうか? いまさら隠しても仕方がないだろ。そりゃあ人には言えない事だけど、遠坂は魔術師だ。話しても問題ない。それに相手がなんであれ、魔術は必死になって隠す事じゃないって親父は言ってたし」
「―――なにそれ。衛宮くんの父親、本気でそんなコト言ってたの?」
「ああ。あんまり規則に捕らわれるなって言いたかったんじゃないかな、切嗣《オヤジ》は。魔術なんてものは覚えない方がいいし、止めたければいつでも止めろって口癖だったぞ」
「っ――――――――」
ぎり、という音。
何に苛ついているのか、遠坂は今までにないぐらい敵意を剥き出しにしている。
「―――ふざけないで。
貴方の父親は魔術師じゃないわ。そんなヤツに鍛えられた貴方も、魔術師なんて認めないから」
「遠坂? 落ち着け、なに怒ってるんだよおまえ。いや、確かにおまえに比べたら俺は魔術師なんて名乗れないけど、切嗣《オヤジ》は立派な魔術師だったぞ?」
「―――そうじゃない。わたしが言いたいのはそういう事じゃない。わたしが許せないのは、その――――」
その、なんだろう。
そこまで言いかけて、遠坂は我に返ったかのように敵意を消した。
「……ごめんなさい。ちょっと、どうかしてた。鍛え方は人それぞれだものね。わたしはわたしに胸を張ってるんだから、衛宮くんをどうこう言える筈がなかった」
「……わからないな。なにか気に障った事でもあったのか。その、切嗣《オヤジ》の教え方とか、俺の未熟さとか」
「そうね。衛宮くんの未熟っぷりには文句あるわよ。
何年も魔術を鍛えていて強化しか知らないところとか、そういう弱みをわたしに教えちゃうところとか」
にやり、と意味ありげに笑う遠坂。
……なんか、もの凄く背筋が寒いのは気のせいか。
「う……そうだな、今すっごく後悔してる。けど仕方ないだろ。俺には強化ぐらいしか取り柄がないし、切嗣《オヤジ》は死んじまったんだから。それ以外の事を教わる方法はなかったんだ」
「ええ、それが独り身の魔術師の限界ね。魔術師なんていつ死ぬか判らないんだから、その為に魔術刻印を残すんだし、協会と手を組むんじゃない」
「……わたしが頭に来たのはね、そのあたりの努力をまったくしなかった貴方の父親によ。
魔術師の『魔術』は、その魔術師だけのものじゃない。
魔術ってのは親から子へ、何代も何代も続けられてきた“命の成果”だもの。その責任は、もう自分だけの物じゃなくなるのよ」
「だからそれを教わるって事は、自分の後の世代にそれを渡すって事が第一条件になる。魔術師の家に生まれた子供は、誕生した瞬間に後継者であり伝承者でもあるの。
―――わたしたちはその為に生まれて、その為に死ぬ」
「魔術師の子供は、始めから人間じゃない。
ううん、人として生まれたものを、長い年月と厳しい修練によって別の物に代えるのが“魔術師”という家系の義務。
……だから、衛宮くんのお父さんは魔術師なんかじゃない。貴方の父親は、魔術師である前に親をとったのよ」
俺の目を見ずに語って、遠坂は顔を逸らした。
「……………………」
正直、俺には遠坂が怒った理由は分からない。
遠坂がどんな思いでこの家で育ったのか。
魔術師の娘としてどれだけ修練を積み重ね、どれだけ自分を犠牲にしてきたか。
それを想像したところで、俺が、遠坂になれる訳ではないんだから。
「――――なあ遠坂。もしかして、それで俺を目の仇にしてたのか? 魔術師としての心構えがなってないから」
「……そうよ。貴方の事は嫌いじゃないけど、魔術師としては認められないもの。
……だからその、つい灸を据えるっていうか、つっつきたくなったのっ! 悪い!?」
「ああいや、悪いけど―――忠告は助かった。
今日の事がなかったら学校のマスターにも気づかなかったし、遠坂とも手を組めなかった」
だろ、と視線で問いかけてみる。
遠坂はむー、とばつが悪そうに唸ったあと、
「ああもう、なんだってこんなのがセイバーのマスターなのよ!」
なんて、よく分からない文句を口にした。
話し込んでいるうちに、外はすっかり日が暮れていた。
時刻は夜の七時前。……流石に、そろそろ帰らないとセイバーが怒り出す。
「じゃあ遠坂、マスター捜しは学校でするんだな?」
「ええ。明日の放課後、廊下で待ち合わせましょう。
あ、それと帰りはアーチャーを付けてあげる。わたしはやる事があるから送ってあげられないけど、アーチャーがいれば問題ないでしょ?」
「え――――?」
言われて、完全に失念していた。
ここは遠坂の家なんだから、アーチャーがいてもおかしくはないんだ。
「――――――――」
赤い外套の騎士、アーチャーが実体化する。
「……………………」
考えてみれば、まともに対面するのはこれが初めてだった。
あの夜、セイバーと打ち合い、その首を切り落とされかけたサーヴァント。
バーサーカーと戦うセイバーを無視して、もろともに葬り去ろうとした男。
「……………………」
……そんな事があったからか。
こうして対面し、目を合わせて直感した。
こいつは嫌いだ。
たぶん、どうやっても受け入れる事はできないと。
「――――――――」
それはアーチャーも同じなのか、敵意のまじった目で俺を見据える。
……ふん、願ったり適ったりだ。
相手が嫌ってくれるなら、こっちも大手を振って毛嫌いできる。
「よろしくねアーチャー。彼とは協力関係になったから、襲いかかったりしちゃ駄目よ」
「―――解っている。マスターの指示には従うさ」
アーチャーの姿が消える。
あの姿のまま外に出る訳にはいかないだろうから、霊体化して護衛する、という事だろう。
……夜の住宅地を歩く。
まだ七時前という事もあり、あたりにはちらほらと人影が見えた。
これなら護衛など必要ないと思うのだが、遠坂の好意を無碍にする訳にもいかない。
「――――――――」
だが、やはり断るべきだったかもしれない。
……神経が歪む。
肌には鳥肌が立ち、油断すれば口から胃液でも吐き出しそうだ。
「――――――――」
背中に突き刺さる敵意。
姿の見えない護衛は、その守るべき対象である俺を、何よりも警戒している。
……まったく、これのどこが護衛なんだ。
神経をすり減らすほどの敵意は紛れもなく、俺の背後にいる男から放たれているっていうのに。
「このあたりでいい。あんまり近づくと前みたいな事になりかねない」
背後の気配に言い放つ。
アーチャーは答えない。
ただ、こちらの言い分を受け入れて立ち去ろうとする。
「―――待てよ。なんか言いたい事があるんじゃないのか、おまえ」
見えない相手を睨む。
去ろうとする気配は立ち止まり、
敵意を放ったまま実体化した。
「見直したよ。殺気を感じ取れる程度には心得があるらしい。いや、てっきり虫も殺さない平和主義者だと思っていたが」
「―――馬鹿にすんな。これでも魔術師だぞ、俺は。相手がやる気だっていうんなら、幾らでも相手になる」
気圧されないように、全身で赤い騎士と対峙する。
ヤツは人を小馬鹿にするように鼻で笑って、やれやれ、なんて、これ見よがしに肩をすくめた。
「たわけた事を。血の匂いがしない魔術師など半人前だ。師にそう教わらなかったのか、衛宮士郎」
「な――――」
気合いが削がれる。
……そう、確かに切嗣は言っていた。
魔術師は血を帯びる。
他者を傷つけようと傷つけまいと関係ない。自身が手を下さずとも、進む道は血に濡れるものなのだと。
だからこそ―――切嗣は、魔術師になどなるなと言っていたのではなかったか。
「……俺からは血の匂いがしないって言うのか、おまえは」
「無論だ。その点においても衛宮士郎はマスターには向いていない。凛とは大違いだな」
「―――なんだそれ。遠坂は血の匂いがするっていうのか」
「するとも。アレはいささか甘すぎるきらいはあるが、それでも手を下す時は容赦すまい。そうでなくては連日、マスターを捜して街を巡回などしないさ」
「――――――」
連日、マスターを捜している……?
それはマスターとの戦闘を意味している。
見つけて終わり、という訳ではないだろう。
なら――――
「……じゃあ、遠坂は今日みたいな事を毎日してるのか」
学校での一件。
雑木林であった、一瞬の殺し合いと同じ事を……?
「まさか。今日のような体たらくは今回かぎりにしてほしいものだ。あれだけの意思と能力を持った魔術師が、おまえを相手にするとどうも年相応に戻ってしまう」
「だいたい、彼女の能力なら衛宮士郎と協力する必要などないのだ。
にも関わらず余分な事をしている。私としては協力など反対なのだが―――まあ、仕方があるまい。サーヴァントはマスターに従うモノだ」
「そうだろう衛宮士郎? たとえマスターが役に立たない未熟者でも、サーヴァントは従わなければならないという事だ」
……それは。
俺とセイバーの事を言っているのか。
「―――そうかよ。遠坂も気の毒だな。おまえみたいな捻くれ者と組まされてな」
「……まったく、呆れる。まだそんな事を口にするのか。
忠告するが、サーヴァントの性格など考慮するな。我らはただ戦う為に呼び出されたもの。所詮サーヴァントは令呪で繋がれた道具にすぎない。支配権はおまえたちにあるのだから、道具の戯れ言など聞き流せ」
「――――――――」
そんな事はない、なんて言葉は吐けない。
令呪に縛られているアーチャー自身が口にしたそれは、紛れもない真実だ。
……俺はセイバーを道具だなんて思えないが、事実として、セイバーは令呪に縛られてしまっているんだから。
「で。呼び止めた用件はなんだ。まさか親睦を深めよう、などとふざけた理由ではあるまい」
「――――っ」
……う。
理由なんてあるもんか。
ただ気にくわなかったから、一言文句を言わなくちゃ気が済まなかっただけだ。
「その―――そうだ。アーチャー、おまえも聖杯が欲しいのか?」
苦し紛れに、解りきったコトを訊く。
――――と。
「聖杯―――? ああ、人間の望みを叶えるという悪質な宝箱か。そんな物は要らん。私の望みは、そんな物では叶えられまい」
赤い騎士は侮蔑をこめて、はっきりと断言した。
「―――なん、だって……?」
矛盾している。
サーヴァントは聖杯を欲する。
聖杯を欲するからこそ、魔術師の召喚に応じてサーヴァントになるのではなかったか……?
「待て、おかしいぞおまえ。ならなんでサーヴァントになんてなってんだよ」
「成り行き上仕方なく、だ。
私に自由意思などない。おまえはサーヴァントが自らの意思で呼び出しに応じている、とでも思っているのだろうがな」
「な――――に?」
自由意思はない……?
じゃあその、こいつは聖杯に興味はないっていうのに、無理矢理呼び出されたっていうのか……?
「幸せな男だ。本当に考えた事はなかったのか?
いいか、サーヴァントとは呼び出される者[#「呼び出される者」に丸傍点]だ。
否、英霊とは全て自らの意思ではなく、他者の意思によって呼び出される。
過去の功績によって英霊となり、以後は人々の間で語り継がれ、その支えになるもの」
「―――だが。その、当の英霊自身が心の底から、“人間の助けになりたい”などと思っていると?」
「――――いや、それは」
……どうなんだろう。
英霊と呼ばれるからには、それは高潔な人物の筈だ。
故に人々を守る、というイメージがあるが、俺が出会ってきたサーヴァントたちの多くはそうではなかった。
「そうだ。元々“英霊”という物に意思などない。
英霊となったモノは、以後、ただ人間を守る力として置かれるだけだ」
「何かこちらで不都合があった場合のみ呼び出され、その後始末をして消えるだけの存在。
在るが無い物。人の世の危機を救おうが、誰にも認識されないもの。
それが英霊―――守護者と呼ばれる都合のいい存在だ。なってしまったが最後、意思を剥奪され、永遠に人間の為に働き続ける掃除屋にすぎん」
「な――――」
呼び出されて、消えるだけのもの。
意思のない道具が、英霊だと言うのか……?
「そんな筈はない。セイバーもおまえもちゃんと意思があるじゃないか。……そりゃ自分の意志とは無関係に呼び出されたかもしれないけど、それでもこっちに出てきてからの選択肢はあるんじゃないのか。
セイバーだって、やりたくない事はやらないって突っぱねるし」
「当然だろう、我々はサーヴァントだ。誰が作った儀式《システム》だか知らんが、この戦いはよく出来ている。
本来、本体からの触覚でしかない英霊にカタチを与え、本体そのものとして使役するのだからな。
サーヴァントという殻を与えられた英霊は、その時点で元の人間性を取り戻せる。かつての執念、かつての無念と共にな」
「故にサーヴァントは聖杯を求めるのだろうよ。
聖杯を得れば叶わなかった無念を晴らせるだろうし、短い時間であれ、人間としてこの世界に留まれるのだから」
「人間として留まれる―――」
それはつまり、サーヴァントとしてではなく、あくまで個人として自由になれる、という事か。
……くわえて、聖杯には願いを叶える力がある。
彼らが生前に叶わなかった願いさえ果たせるというのなら、確かにサーヴァントはマスターに協力する。
英霊という彼らにとっても、聖杯は降って湧いた奇蹟という事か。
「……なんで。そこまでの物を、なんでおまえは要らないって言うんだ。叶えられなかった願いを叶えられるし、サーヴァントでなくなる事だって出来るっていうのに」
「―――単純な話だ。
私には、叶えられない願いなどなかった」
「え――――?」
「他の連中とは違う。私は望みを叶えて死に、英霊となった。
故に叶えたい望みなどないし、人としてここに留まる事にも興味はない。それはおまえのサーヴァントも同じだろうさ」
「なっ、バカ言うな。セイバーは聖杯が必要だって言ったんだ。おまえみたいに、目的がなくてサーヴァントをやってる訳じゃない」
「―――私の、目的?」
呆然と呟くアーチャー。
「――――――――っ」
何故だろう。
どうという事のない呟きだったのに、全身に悪寒が走った。
「……ふん。目的があろうとなかろうと同じだ。
気になるのならば問いただしてみるがいい。セイバーの目的は聖杯でありながら、決して聖杯を自分の為には使わない。そういった意味でアレは典型的な守護者、文字通り“奴隷”なのだ。
―――その事を。
彼女のマスターであるのなら、決して忘れない事だ」
薄れていく気配。
赤い外套の騎士は、最後まで憎まれ口を叩いて去っていった。
◇◇◇
「ただいま」
気乗りしない頭でもきっちりと習慣を口にして、ともかく玄関にあがる。
居間からは賑やかな気配がこぼれている。
藤ねえがテレビでも見ていて、桜が夕食の支度をしてくれているんだろう。
セイバーは――――居間にいるのだろうか。
「――――――――」
アーチャーの言葉を思い出して、ぶんぶん、と頭を振った。
あいつが何を言いたかったのかなんて、解る筈もないし知ろうとも思わない。
それでも頭にこびりついて、無視する事が出来ない。
サーヴァントという使い魔。
英霊を掃除屋と蔑んでいた、あいつの本意。
「あ。おかえりなさい、先輩」
桜は調理中だっていうのに、わざわざ出迎えてくれる。
「ただいま。遅くなってすまない。晩飯、どのくらい進んでる?」
「はい、まだ始めたばかりです。でも先輩のお手を借りるコトはないと思いますよ。今晩のメニュー、藤村先生のリクエストでシチューなんです」
「そうか。そりゃ確かに手伝えないかな」
パッと見、台所には切り刻まれた食材が並んでいた。
手際のいい桜の事だから、あとは煮込むだけなんだろう。
「―――セイバーは? 居間にはいないようだけど」
「セイバーさんでしたら、和室の方で眠っています。先輩が帰ってきたら起こしてほしい、と言っていましたけど……」
「……む。セイバー、もしかして怒ってたか?」
「えっと……そんなコトはなかった思いますよ? セイバーさん、いつもキッとしていますから」
……桜が言い淀んでいるってコトは、目に見えて怒ってたってコトだろう。
それも当然、日が落ちるまでに帰るって約束を破っちまったんだから。
「や、お帰り士郎。セイバーちゃん怒ってたよー? 帰ってきたら道場で話があるって」
もぐもぐとミカンを食べながら、呑気に恐ろしげな発言をする藤ねえ。
「―――藤ねえ。なんか、セイバーにヘンなコト吹き込んだりしてないだろうな? ……その、約束を破ったヤツは道場で竹刀打ちの刑だとか、なんとか」
「したよ? うちは体育会系だから、容赦なくやっちゃっていいって」
「――――――――」
そうか。
敵はマスターだけでなく、こんなところにも潜んでいた。
「つかぬ事を訊くけどな。藤ねえ、セイバーを道場に連れて行ったのか? 稽古するなら竹刀を使えって」
「うん、さっき軽く手合わせしたんだけど、あの子とんでもないわよ? 剣道を知らないくせに、わたし以上に剣道家っぽいんだもん。あの子、向こうでフェンシングでもやってたの?」
「いや、フェンシングはやってないと思う。どっちかっていうと、藤ねえとキャラが被る」
……その、体に似合わず大剣ブン回すところとか、野生の動物みたいに敵に襲いかかるところとか。
「いいや、自業自得として観念しよう。
それより藤ねえ、美綴の事だ。あいつ家に帰ってるのか?」
「え? なんで士郎が知ってるのよ。美綴さんの事は知らされていないはずよ」
「ああ、生徒会室で盗み聞きしたんだ。―――それで、どうなんだよ。美綴、見つかったのか」
じっと藤ねえを見る。
……藤ねえは、こう見えても教師である。
教師として黙っているべき事は黙っているし、生徒を安心させる為に方便だって使うだろう。
だから少しの変化も見逃さず、美綴がどうなっているのか訊き出さないと。
「どうなんだ藤ねえ。やっぱり一向に変化なしなのか」
「……仕方ないなあ。黙ってたら今すぐ飛び出しそうだし、絶対秘密って話でもないし。
けど士郎、今回は特別だからね。士郎が美綴さんの友人だから教えてあげるのよ?」
「わかってる。恩に着るから、早く」
「じゃ結論から。美綴さん、さっき保護されたわよ。今頃は検査も終わって家に帰ってるんじゃないかしら。
ちょっと意識が混濁しているらしいけど、外傷もないし命に別状もないって。―――それ以上の話はダメ。士郎も友達なら、美綴さん本人から聞きなさい」
「――――そうか。
とにかく大事はなかったんだな、あいつ」
……良かった。
美綴がどんな目にあったのかはまだ判らないが、それが連続している不穏な事件の一環だって事ぐらい、判っている。
その元凶は、学校に潜むマスターである可能性が高い。
もしそれで美綴がどうにかなっていたら、俺は誰に悔いていいか判らなくなる。
「……そうだ。桜、ちょっといいか」
「――はい? なんですか先輩」
「いや、大した事じゃない。ただその、慎二がどうしているか知らないかなって」
「え……あの、すみません先輩。昨日はこちらに泊めて貰って学校に行ったでしょう? だから家には帰ってないんです。先生にも、兄さんが無断欠席したって聞いたんですけど、その」
「事情は判らない、か。……そうだよな、桜が知ってるワケないし。ごめん、見当違いなコトを訊いちまった」
「いえ、そんな事ありませんっ……! 兄さんの事はわたしが一番よく知っているんですから、兄さんが休んだ理由ぐらい気づかないといけないでしょう?」
「いや、そんな事はないだろ。実際、桜がうちにいてくれて助かったし」
……雑木林での一件。
あそこにいたのが本当に慎二なら、黒いサーヴァントと無関係なんて事はない。
なら―――最悪、あいつがマスターである可能性だってある。
もしそうなら、このまま桜を間桐の家に帰すのは危険ではないのか。
「? 先輩、それはどういう――――」
「―――桜、今夜もうちに泊まってけ。着替えなら藤ねえの使っていいから」
「え――――せ、先輩、それは、あの――――」
「出来るならしばらく泊まり続けてくれると助かる。
いや、桜が迷惑だって言うんなら帰ってくれていいんだが」
……あ。
やっぱり無茶だよな、いきなり泊まれって言われても迷惑に決まってる。
「すまん。困らせるようなコト言って、悪かった」
ぺこり、と頭を下げて謝罪する。
―――と。
「……はい。あの、お言葉に甘えます」
コトコトとシチューを煮込む鍋の音に紛れるように、桜は頷いてくれた。
◇◇◇
夜が更けていく。
夕食後、目を覚ましたセイバーと道場で体罰―――セイバーは戦闘訓練だと言い張ったが、どう見ても弱いものいじめだった―――を終えた頃、時間は夜の十時を過ぎていた。
今夜も三人で眠るらしく、藤ねえと桜は和室に移動している。
「シロウ……? どうしました。部屋に戻るのではないのですか?」
「ん……? ああ、戻るよ。ただその前に、セイバーに訊いておきたい事があって」
「気になる事、ですか? どうぞ、私に答えられる事であれば構いませんが」
「――――――――」
……単刀直入に訊くべきか。
アーチャーの言っていた事。
自由のないサーヴァントが自由を得る為に求める聖杯。
それはセイバーとて同じ筈なのに、彼女は自由など求めない、とヤツは言った。
「……セイバー。おまえは、聖杯が必要なんだよな」
「―――はい。私の目的は聖杯です。その為に私は英霊になった。それは以前にも話した筈ですが」
「わかってる。けど、それは何の為なんだ。
聖杯さえ手に入れれば、サーヴァントはマスターがいなくてもこっちに留まってられるんだろ。
なら―――セイバーは聖杯を手に入れて、ここでやりたい事をやるんだよな?」
「―――いいえ。聖杯を手に入れた後、私はこの世界から去るだけです。この時代の人間ではない私がここにいる事は許されませんし、何より、私にはやりたい事などありませんから」
きっぱりと言いきる瞳。
そこには偽りも迷いもなくて、俺が口を挟める余地なんてなかった。
「―――そうか。セイバーの目的がなんなのかは分からないから、強くは言えないけど」
……その、聖杯で望みを叶えるっていうのは、セイバーのイメージじゃないって、今更ながら思ってしまった。
聖杯が何なのかは知らない。
ただそれは、この金髪の少女には相応しい物ではないと、漠然とそう思った。
「――約束したからな。セイバーに聖杯を手に入れさせるって。……今は、それを信じよう」
「……? 何かあったのですか、シロウ。どうも、帰ってきてからの貴方は覇気がないように思えますが」
「そんな事はないけどな―――って、そうだ。セイバー、今後の方針なんだが」
キリ、と表情を改めるセイバー。
流石というか、どんなに藤ねえたちと仲良くなろうと、セイバーはセイバーだ。
忌々しいが、アーチャーの言う通り彼女の本質は戦う事なんだろう。
「今日学校に行って、そこに三人目のマスターがいるって事が判ったんだ。……その、そこで遠坂と一波乱起きた。色々あって、学校に潜んでるマスターを捜し出すまで遠坂とは休戦協定を結んだんだが……」
駆け足で今日の出来事を報告する。
始めは真剣な顔で聞いていたセイバーだったが、話が進むにつれ、
なんか、不満そうに見つめてきた。
「……む。セイバー、遠坂と協力するのは反対か?」
「いえ。シロウには知識がないのですから、凛から学ぶのは賛成です。
ですが、そういった大事を決めたのならすぐに伝えてほしい。それと、出来るのなら相談も」
じろっ、と窘《たしな》めてくるセイバー。
……まことにもってその通りで、面目ない。
「では、明日からは凛と協力して校舎を探索するのですね?」
「そういう事になる。何か異状を見つけたらセイバーを呼ぶから、それまで待機していてくれ」
「……ふう。方針としては手緩いですが、シロウが戦闘に慣れるまでは丁度良いでしょう。
当面は、学校に結界を張ったマスターを追うのですね」
こくん、と頷く。
セイバーはわずかに思案したあと。
「―――確認しますが。
学校に潜むマスターを倒した後は、凛との休戦協定は白紙に戻り、彼女とは敵同士に戻る。
それに間違いはありませんね?」
念入りに確認をとってくるセイバー。
いや、それは――――
……どんなに取り繕っても、そういう事になるのか。
俺が戦いを拒否したところで遠坂は戦いを挑んでくる。
そうなった時―――無抵抗なまま殺されるのは、なにより遠坂に辛い思いを押し付ける事になる――――
「……ああ。学校に潜むマスターを倒したら、遠坂とは敵同士に戻る。それでいいにだろ、セイバー」
「はい、それを理解してくれているのなら、私からは何もありません。凛と協力し、シロウの戦闘経験を増やすとしましょう」
それでは、と一礼してセイバーは去っていく。
「――――――――」
マスターである以上、戦いは避けられない。
……生き延びている限り、いずれ対決の時が来る。
俺はその時―――セイバーに告げた通り、遠坂と戦う事が出来るだろうか――――
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2月5日     6 faker
―――――――夢を見る。
血液が流れるように、繋がった細い回路から、手の届かない記憶を見る。
それは、そいつの思い出だった。
少なくとも自分の物ではない。
これは他人の物語だ。
思い出す事もないほど昔の、
思い出そうとする事もないほど遠い、
思い出す事さえできなくなった古い記憶。
―――もう。
今更変える事の出来ない、決定してしまった契約の重い枷。
そいつは、何が欲しかった訳でもなかった。
しいていうのなら、我慢がならない質の人間だったのだろう。
まわりに泣いている人がいると我慢ならない。
まわりに傷ついている人がいると我慢ならない。
まわりに死に行く人がいるとしたら我慢ならない。
理由としては、ただそれだけ。
それだけの理由で、そいつは、目に見える全ての人を助けようとした。
それは不器用で、見ていてハラハラするほどだ。
けれど最後にはきちんと成し遂げて、その度に多くの人たちの運命を変えたと思う。
控えめに言っても、それは幸福よりだったろう。
不器用な戦いは無駄ではなかった。
傷ついた分、死に直面した分だけきっちりと、そいつは人々を救えていたんだから。
……けれど、そこに落とし穴が一つある。
目に見える全ての人、と言うけれど。
人は決して、自分を見る事だけはできない。
だから結局。
そいつは一番肝心な自分自身というやつを、最後まで救えなかった。
―――どうしてそうなったのかは判らない。
いや、本当は逆だろう。
どうしてそうならなかったのか、今まで不思議なぐらいだったのだ。
とにかく、ひどい災害だった。
多くの人が死に、多くの人が死を迎えようとしていた。
そいつ一人ではどうしようもない出来事。
多くの死を前にして、そいつは。
“契約しよう。我が死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい”
そう、世界などという得体の知れないモノと契約した。
――――己が身を捨てて衆生《しゅじょう》を救う。
英雄の、誕生である。
それで終わり。
そこから先などない。
英雄と呼ばれようと、そいつのやる事は変わらない。
もとより、そいつの目的は英雄になんてなる事ではなかった。
ただその過程で、どうしても英雄とやらの力が必要だっただけの話。
だっていうのに、終わりは速やかにやってきた。
傑出した救い手など、救われる者以外には厄介事でしかない。
そいつは自分の器も、世界の広さも弁えている。
救えるもの、救えないものを受け入れている。
だからこそ、せめて目に見えるものだけでも幸福であって欲しかったのだ。
それを偽善と。
狭窮な価値観だと蔑む者も多かったけど。
それでも、無言で理想を追い続けたその姿は、胸を張っていいものだったのに。
そいつは結局。
契約通り、報われない最期を迎えた。
――――その場所に辿り着く。
[#挿絵(img/A37.JPG)入る]
そいつには仲間らしきモノもいたし、恋人らしきモノもいた。
その全てを失って、追い求めた筈の理想に追い詰められた。
行き場もなく。
多くの怨嗟の声を背負いながら、それでも、そいつは戦い続けた。
死に行く運命を知っていながら、それを代償《ささえ》に、己が手に余る“奇蹟”を成し遂げようとするように。
……けど、それも終わりだ。
辿り着いたのは剣の丘。
担い手のいない錆びた鋼の丘で、そいつの戦いは終わりを告げた。
―――やはり独《ひと》り。
それでも、目に映る人々を救えたのなら、悔いる事など何もないと。
そいつは満足げに笑って、崩れ落ちるように、剣から手を放した。
◇◇◇
「――――――――――――」
体が重い。
目覚めは快適な物ではなく、わずかに頭痛を伴っていた。
「……昨日の傷のせいかな。右腕、まだ微かに痛むし」
ぼんやりと呟きながら体を起こす。
時刻は午前六時を過ぎていた。
「まず、今日くらい朝飯作らないと……!」
布団から飛び出し、パパッと着替えを済ませる。
藤ねえと桜には朝練がある。
二人は六時半には家を出るから、急いで支度にかからないと間に合わない。
◇◇◇
二人を送り出して、セイバーと食後のお茶を飲む。
朝は慌ただしく過ぎていって、気が付けば七時をとっくに過ぎていた。
「それじゃ行ってくる。留守番よろしくな、セイバー」
「はい。シロウも気を付けて。凛の助力があるとは言え、無茶はしないように」
「ああ、昨日で懲りてる。敵を追いかける時はセイバーの力を借りるよ」
セイバーに片手をあげて玄関を後にする。
朝の空気はいたって平穏。
だがこれから向かう学校は、今までとは違うモノだ。
「――――よし」
気を引き締めて坂道を下りる。
遠坂がマスターとして行動しているのなら、俺もあいつに恥じない成果を出さないと。
時間ギリギリ、ホームルーム開始前に教室に到着する。
思い思いに雑談しているクラスメイトに挨拶しながら自分の席に向かう。
「――――え?」
その途中。
意外なヤツと目があって、一瞬言葉を忘れてしまった。
「――――!」
何を考えるまでもない。
カッとなった頭で、一直線に慎二へと駆け寄った。
「慎二、おまえ――――!」
「やあ衛宮。どうしたんだよ、今朝は随分と物騒じゃないか。なに、僕が休んでる時に何かあったの?」
「何かあったじゃない。おまえ、美綴に何をした」
「美綴――? ああ、綾子ね。なんでも家出してたらしいじゃん。僕も今朝道場で聞いたよ。昨日、新都の方で見つかったんだってね」
何がおかしいのか、慎二はクスクスと笑う。
その目は、美綴を嘲笑っているようにしか見えなかった。
「……とぼけるな。美綴と最後に会ったのはおまえだろう。その時、あいつに何をしたかって訊いてるんだよ、俺は」
「はあ? 何をしたかって、ただの世間話だけど?
それよりさ、聞いたかい衛宮! 綾子のヤツ、そこいらの路地裏でキマってたんだぜ? よっぽどバカ吸いしたのか目もイッてて、制服もボロボロだったって話だ。
いや、何があったかしらないけどさ、ちょっと聞き捨てならないよな。普段から偉ぶってるあいつがさ、どんな風に捨てられたか興味あるよね」
「――――――――」
「どうしたんだよそんな怖い顔して。冗談だよ冗談、本気にするなって。それに綾子は保護されたんだろ? 家で療養中だっけ。ま、あいつが帰ってくる頃には噂話も広まってるだろうから、何かとやりづらくなるだろうけど」
「―――おまえ。今の話、弓道部のみんなに話したっていうのか」
「さあね。けどもう一年の間じゃ有名だぜ? 伝言ゲームじゃないけど、昨日の内からくるくる回ってたらしいからさ」
楽しげに慎二は言う。
「――――――――」
……握りしめた拳を堪える。
こいつは、そんな話を言いふらしたのか。
美綴は女の子だ。あいつはああいうヤツだし、周りもそう思っているけど、気丈そうに見えても女の子なんだ。
なら、どんなに強くたって、こんな話を広められたら立っているのが難しくなる。
それを承知の上で言いふらしたのか。
昨日のうちから、保護した人間しか知らない筈の出来事を、無責任な噂話として面白おかしく――――!
「―――慎二、おまえ!」
肩を掴む。
「そう睨むなよ。僕は知らないって言ってるだろ? 身勝手な思い付きで言いがかりをつけると後悔するよ、衛宮」
掴んだ手を振りほどいて慎二は席につく。
ホームルーム開始の鐘が鳴る。
「―――――――っ」
みんなが席につく中、立っている訳にもいかない。
慎二に一瞥をくれて、今は大人しく席に戻るしかなかった。
◇◇◇
一日が終わる。
放課後になって、生徒たちは波が引くように下校していった。
「――――――――」
慎二を詰問する事も出来たが、今は何も材料がない。
雑木林での一件も、たまたまそこにいたと言われたらそれまでだ。
「……先に、確証をとらないと」
あいつがマスターなのかどうかは定かじゃない。
ただ美綴が行方不明になった件だけは、間違いなくあいつが絡んでいる。
「マスターを識別する方法……服を脱がして令呪を見つけるしかないのか」
もっとも、そんな事をさせるマスターはいないだろう。
「―――そろそろか。遠坂ならいい方法を知ってるかもな」
席を立つ。
放課後の廊下で待ち合わせ、というのが遠坂との約束だ。
―――遠坂と合流して、学校中を歩いて回る。
遠坂曰く、学校には何カ所か結界を張る為の支えとなる“呪刻”があるらしい。
遠坂は何日も前から見つけては消しているのだが、その度に新しい呪刻が作られたり、数日前に消した呪刻が再度浮かび上がったりで、完全に結界を消すには至らないそうだ。
「結界自体はもう張られちゃってるから。
わたしがやってる事は効力を弱めているだけよ。それでもやらないよりはマシだし、不完全なうちは相手だって結界を発動させないでしょ?」
なんだそうだ。
「遠坂。訊きたい事があるんだけど、いいか」
屋上に隠された呪刻を消去した後、遠坂を呼び止める。
「え、なに? まだ屋上に違和感を感じるの?」
「あ―――いや、それとは別件。ここにはもうおかしな所はない。俺の方はここで打ち止めだ」
「そう、なら生きている呪刻はほとんど消せたかな。
衛宮くん、魔力感知はできないクセに場所の異常には敏感なんだもの。まさかこんなに早く、校舎中の呪刻を消せるとは思わなかった」
遠坂は上機嫌だ。
いや、こっちも役に立てて嬉しいんだが、今はそういう気分じゃない。
「なあ遠坂。マスターってのはマスターが判るのか。その、サーヴァントは隠していても、ただいるだけで気配が変わるとか」
「え、別にそんな事はないけど……そうね、何も細工をしてなければ、マスターの識別は出来るでしょうね」
「マスターはもともと魔術師がなる物だから、魔力を探っていけば魔術師は見つけられる。加えてサーヴァントなんていう破格の使い魔と契約してるんだから、隠したって魔力は漏れるわ」
「衛宮くんは鈍感だから気が付いてないけど、わたしだって魔力を残して歩いてる。魔術師が見たら一目でわたしがマスターだって判るだろうし、わたしだってマスターを見れば識別できるんじゃないかな」
「そうなのか……!? けど遠坂、俺が魔術師だって知らなかっただろ。それはどういう事だよ」
「なに? それ、言っていいの?」
途端、いじわるな口調になる。
……なんか、まことに嫌な予感がしてきたな。
「いや、いい。だいたい想像ついた、いま」
「賢明ね。ま、そういう事よ。魔術師じゃなくても微弱な魔力を持つ人はいる。魔術師はね、一定以上の魔力を帯びた者しか魔術師って認めないの」
「はいはい、そんなコトだろうと思ったよ。
……あ、けどそれじゃあ、今の俺はどうなんだ?」
「うーん、それが全然変わらないのよね。
まあ不完全な召喚だったって言うし、傷を治す時以外はセイバーとの繋がりは薄いんでしょうね。
ま、衛宮くんは特例だからそういう事もありでしょ」
……ふむ。
それじゃあ慎二はマスターじゃないな。
俺には判らなくても、遠坂は見ただけでマスターの判別がつく。
もし慎二がマスターでサーヴァントと契約しているなら、その漏れた魔力を遠坂は感知できる筈なんだから。
「なんだ。マスター捜しだなんて言うけど、その気になればすぐにでも見つけられるんじゃないか。強い魔力の残り香を辿っていけばいいんだから」
「そうでもないわよ。例えばの話、魔力を隠してしまう道具を持っていれば敵には悟られないもの。
……まあ、サーヴァントのデタラメな魔力を消せる道具なんて少ないでしょうから、そんなマスターはいないと思うけど」
「じゃあ、もし遠坂の身近にいる人間がマスターでも、そんな道具を持っていたら判らないってコトか?」
「どうかな。物によるけど、どんなに隠しても近くにいれば判ると思う。サーヴァントと契約している以上、どうしても世界との摩擦は起きるから」
「身近にいてもマスターかどうか判らないってコトは、そのマスターはサーヴァントを使っていないってコトよ。ま、例外はあるかもしれないけど、九割方はそう考えて間違いないと思うわ」
教室に戻る。
マスターの手がかりは掴めなかったものの、大部分の呪刻を消せて遠坂は満足のようだった。
なんでも、これだけハデに邪魔をされたら向こうも黙ってられないんで、近いうちに必ずボロを出す、とかなんとか。
「気が長いな。近いうちって言っても、どのくらい先か判らないだろ」
「そう? こんな結界を張るヤツだもの、邪魔されて我慢できる性格じゃないわ。わたしの見立てでは明日よ。二度目は黙ってられない性格でしょ、こいつ」
ふふん、とまだ見ぬマスターを鼻で笑う。
「ふうん。そんなもんなのか」
「そんなもんよ。―――さて、わたしは用事があるから先に帰るわ。明日の決戦に備えて色々買わなくちゃいけないし」
「それじゃあまた明日。それと、今日は早めに帰りなさい。寄り道なんてしたら駄目だからね」
「む? なんだ、心配してくれるんだ、遠坂」
「っ……! ち、違うわよ、協力関係になったんだから、かってに脱落されちゃ予定が狂うじゃないっ! 今のはそれだけの、ちょっとした確認事項っ!」
があー、とまくし立てる。
が、その慌てぶりは遠坂らしくなく、照れ隠しをしているのは一目瞭然だった。
―――なるほど。
普段クールな分判りやすいというか、少しずつ遠坂のコトが読めてきた。
「ともかく! 衛宮くんは無防備すぎるんだから、あんまり軽率な行動はしない事! わたしは例外で、他の連中は即命を奪いにくるんだからねっ」
ふん、と顔を背けて立ち去ろうとする遠坂。
「ぁ――――――――」
その、遠ざかっていく背中を見て不意に。
「遠坂。今もアーチャーは側にいるのか」
そんな、意味のない事を訊いていた。
「いるけど、なに? アイツに話でもあるの?」
「……いや、別に。遠坂はうまくやってるのかなと思って」
突然の質問に、遠坂ははあ? と目を見開いて俺を見る。
―――と。
「ははあん、そういうコト。
ええ、心配無用よ。アイツ捻くれてるけどいいヤツだもの。ああ見えても子供っぽいし、付き合っていく分には楽しいわ」
楽しげにそう言って、遠坂は一足先に階段へ消えていった。
美綴の件が尾を引いているのか、気が付けば弓道場に足を運んでいた。
校門から離れた道場に人気はない。
部活も終わっているし、ここに来ても得られる物などないだろう。
「…………帰るか」
道場に背を向けて校門へと歩き出す。
―――その先、校門に続く路に、
立ち塞がるように、間桐慎二の姿があった。
「や、今ごろお帰りかい? 最近は物騒だから、生徒は速やかに下校するんじゃなかったっけ」
「――――――――」
この場所で、慎二を前にして冷静でいられる自信はない。
慎二を無視してその横を通り抜ける。
「ふうん。友人に挨拶もできないぐらい疲れてるわけか。
まったく、呪文潰しなんて地味なコトをしてるからそうなるんだよ」
にやついた声。
「――――!」
それに、咄嗟に後ろに跳んで身構えた。
「呪文潰し―――そんな事を言えるって事は、おまえ」
身構えながら慎二を睨む。
「ああ、そういう事。おまえが虱《しらみ》潰しにしてくれた結界はさ、僕が仕掛けた保険なんだぜ?
それをあんな風に消されちゃあ、こっちは怖くて学校に来れなくなるじゃないか」
「――――――――」
……そうか。
これが俺の甘さだ。
雑木林で慎二を見た時、ヤツがそうなのだと判っていながら認めようとしなかった俺の不覚悟。
「待てって。そう構えないでよ衛宮。うるさい遠坂もいなくなったし、男同士ゆっくり話し合おうじゃない。知っての通り喧嘩は嫌いなんだよ、僕は」
「話し合う……? 俺とやりあう気はないっていうのか?」
「そんなのあるもんか。
見たところ、衛宮もマスターなんてものに無理矢理させられたんだろう?
僕もそれと同じでね、魔術師でもなければ戦う気もないっていうのにマスターにさせられたんだ」
「で、目下のところ誰とも戦わないで済む方法を探してる最中ってワケ。だからここで衛宮と争う気なんてないんだ」
「……そうかよ。じゃああの結界はなんだ。あんなものを仕掛けておいて、戦う気はないっていうのか」
「バカだな、アレは保身だよ。学校には遠坂っていう根っからの魔術師がいるだろ。
あいつはマスター同士の戦いに躊躇なんてしない。となると、魔術師じゃないマスターとしては防護策を持っておかないとやっていけないじゃないか。
あの結界はそれだけの物だよ。誰かに襲われない限り、発動させる事はない」
「――――――――」
……話の筋は通っている。
慎二が本当にマスターなのかどうか、どういう経緯でマスターになったのかは判らない。
それでも今の話は信じていい。
慎二がそう言うのなら、そうなのだと頷くべきだ。
だが、その前に――――
「慎二。昨日、女生徒を襲ったのはおまえか」
この問題を、片づけておかないと。
「……昨日の事か。アレは、仕方がなかったんだ。
僕のサーヴァントはじゃじゃ馬でね、放っておくと人を襲う。
僕はマスターに選ばれただけの人間だ。遠坂みたいな魔術師じゃないんだから、言いつけをきかせる事も大変なんだよ」
「―――じゃあ昨日の件はあくまで事故なんだな? おまえのサーヴァントが勝手にやった事だと」
「ああ、これからは気を付けるよ。ボクも自分の住処で事件なんて起こしたくない。あいつには、僕を守ることだけ徹底させるさ」
「―――それは本当だな、慎二」
「ああ。嘘を言ってもしょうがないだろ。隠しておく事もできたのに、こうしてわざわざ告白してやったんだ。
衛宮、僕の事を疑ってただろ? 無闇に襲われたら行き着く所までいくしかなくなるからさ、先にこうやって正体を明かしたんだ。
――――僕は、誰とも戦いたくはないからね」
……その言葉を鵜呑みにする事はできない。
ただ、本当に慎二がそう思っているのなら―――それは、俺にとっても願ってもない事だ。
「わかった、信じる。おまえが何もしないんなら、俺も手は出さない。それでいいんだな、慎二」
「いいね、衛宮にしては物分かりがいい。
けどそれじゃあ困るんだ。こうやって話し合いに来た事を、もう少し理解してくれないかな」
握手を求めるように手を差し出す慎二。
それは、つまり。
「僕に協力しないか衛宮。おまえは知らないだろうけど、もともと間桐の家は魔術師の家系なんだ。
……まあ父の代で魔道は絶えていたけど、知識だけはまだ残っている。どうかな、素人のくせにマスターになった君にとっては頼りになる存在だろう?」
「――――――――」
間桐が魔術師の家系……?
そんな事、遠坂は言わなかった。
いや、慎二の言う通り血が絶えていたから、部外者として除外していたのか。
「どう? 遠坂に頼らなくても、僕たちが手を組めば聖杯戦争ぐらい生き残れる。こんなの考えるまでもないと思うけど?」
「――――――――」
差し出された手。
……慎二の提案は、間違いではない。
筋は通っているし、一つの選択ではあるだろう。
だが――――
「……慎二。おまえがマスターだって事を、桜は知ってるのか」
「はあ? なんだ、本当に素人なんだな衛宮。
いいかい、魔術師の家系は長男にしか秘儀を伝えないんだ。長男以外の子供なんてただの予備臓器にすぎない。そんなのに魔術を伝える意味はないし、手間も惜しいんだよ。
……ったく。あんなトロい女に魔道を伝えるもんか。間桐の秘儀を継いだのは僕だけだ」
「――――――――」
そうか。
それは、本当に良かった。
桜はこっち側にいるべき子じゃない。
あいつはいつも、幸せそうに笑っていてくれなきゃ、いやだ。
「―――慎二。おまえが何もしないんなら、俺もおまえには何もしない。それで文句はないだろう」
「……そう。協力はできないってコト?」
「する必要なんかないだろ。お互い戦わないんなら、協力するもしないもない。
自分の身を守りたいだけなら、聖杯戦争が終わるまで教会に保護して貰えばいい。それぐらいの事は知ってるんだろ」
「……へえ。なんだよ衛宮。君、もしかしてこの殺し合いに勝とうだなんて思ってるの?」
「――――――――」
……殺し合いをするつもりはない。
ただ、降りかかる火の粉は払うし、街に火を付けようとするヤツは放っておけないだけだ。
それに――――
「……殺し合いなんてするか。ただ俺は、聖杯ってヤツの正体を見極めなくちゃいけない。その為には、最後まで残るしかないだろ」
慎二に背を向ける。
「そうかい。あくまで戦うつもりか。
まあ僕には関係のない事だけど、それなら桜を巻き込むような真似はしないよなあ、衛宮?」
「―――そんなの当たり前だ。おまえこそ桜には隠し通すんだろうな」
「勿論。けど兄貴としてさ、これから殺し合いを続けるってヤツの家に妹は置いておけない。
おまえが戦うっていうんなら、聖杯戦争が終わるまで桜は家から出さない。それでいいよな、衛宮?」
「――――――――」
……確かに、慎二の言い分には一理ある。
俺がセイバーと一緒に戦う以上、衛宮の家だって危険なんだから。
「わかった。桜には俺の方から言っておく。それでいいな、慎二」
「オーケー、後輩思いの先輩で助かった。
正直、おまえがいつ桜を人質にするか冷や冷やしてたからね。いや、これで当面の悩み事は解消されたよ」
何が愉しいのか、慎二は押し殺した笑い声をあげる。
「話はこれで終わりだな。なら帰るぞ」
「ああ、ご自由に。けどわかってるよな衛宮。ここで話した事は僕たちだけの秘密だぜ。こっちは衛宮を友人とみこんで秘密を打ち明けたんだ。それを人に話すような事になったら、僕だって何をするかわからない」
それは、慎二の事を遠坂に話せば結界を発動させる、という事だろう。
「――ああ、黙ってる。けど遠坂が自分で見つける分には別だぞ。俺は遠坂に出来る限り協力する。あいつがおまえの正体を知ったら、戦う事を止めない。
……そういう訳だから、見つけられたくなかったら大人しくしてるんだな」
今度こそ正門に向かって歩き出す。
夕暮れの校舎。
立ち去る俺を、慎二は何も言わず見送った。
◇◇◇
玄関には二人分の靴しかなかった。
藤ねえのパンプスと、セイバーのローファーだけだ。
「――――――――」
気になって、ただいまも言わず居間に向かう。
荒い足音をたてて廊下を突っ切ると、
予想通り、居間に桜の姿はなかった。
あまつさえ、台所では藤ねえらしき人物が何やら調理らしきコトをしている。
「あ、お帰り士郎。ん? なに、驚いた顔しちゃって。何かあったの?」
小麦粉でも溶いていたのか、しゃこしゃことかき混ぜていたボールをテーブルに置く藤ねえ。
「ああ―――いや、うん。驚いてるって言えば、驚いた。その、いつもと何もかも違うから」
というか、藤ねえが料理らしきコトをしているのを見るのは、実に何年ぶりだろうか。
「いつもと違う……? あ、そっか、桜ちゃんの事ね。桜ちゃんなら帰ったわよ。おうちの人から電話があって呼び戻されちゃった」
「……そうか。慎二のヤツ、直接電話してきたのか」
余計なお世話だが、確かに事は早いに越した事はない。
「慎二くん? んー、まあいっか」
何か納得いかなげに首を傾げた後、藤ねえは厨房に向き直る。
「――――――――」
……少し気になるな。
まだ日も沈みきってないし、ここは――――
「ちょっとセイバーに声かけてくる。藤ねえ、どういう風の吹き回しか知らないけど、夕飯は任せていいのか?」
「いいよー、オッケー。おいしいかに玉作ってあげるから期待してなさいよー」
「………………」
若干不安は残るが、かに玉なら玉子焼きの上級職みたいなもんだし、まあ、藤ねえでもなんとかなるだろう。
「ただいまセイバー、いま帰ってきたぞー」
裸足になって道場に上がる。
「―――おかえりなさいシロウ。その様子では大きな動きはなかったようですね」
この雰囲気が落ち着くのか、セイバーはすっかり道場の住人になっている。
そんなセイバーに合わせるように、こっちも床に正座して今日の出来事―――学校に張ってあった結界の消去と、明日には何らかの反撃がある筈だ、という遠坂の意見を伝えた。
「……なるほど。敵マスターとの戦いは明日ですか。では今夜は十分に睡眠をとり、力を蓄えねばなりませんね」
そうだな、と合づちを打つ。
……自分でも甘いとは承知しているが、慎二の事は伏せておいた。
慎二《あいつ》の思惑がはっきりするまでは、敵と認識する事は避けたかったからだ。
「しかしシロウ。もうじき夕食ですが、ここにいていいのですか?」
「?いや、別にこれといった用事はないし、夕飯まで時間があるからセイバーに報告に来たんじゃないか。
たまにはこうやって、夕飯までゆっくりするのも悪くないしさ」
「な……では、今日の食事はシロウが作ってくれるのではないのですか……!?」
「え……そ、そうだけど、問題あるかな。ほら、藤ねえも頑張ってるし、邪魔するのも悪いじゃないか」
「……むむむ……確かに、大河の意欲は尊重すべきですが……その、シロウは本当に手を貸さないと……?」
「貸さないよ。大丈夫、藤ねえだってもう大人なんだし、かに玉の一つや二つは作れるさ。
いや、もしかしたら俺より上手いかもしれない。なにしろ意外性A判定の性能だ」
自分でもよく解らないフォローをする。
が、セイバーは眉を顰《ひそ》めたまま、あまつさえ、
「……分かりました。大河ではなくシロウを信じます。
……重ねて言いますが、信頼していいのですねシロウ?」
なんか、脅迫めいた迫力で念を押してきた。
「あ、ああ。信頼してくれて、いいけど」
「……確かに聞きました。その誓い、決して忘れぬように」
それで安心したのか、セイバーは肩の力を抜いて体を休める。
……嗚呼。
これがあのような惨劇の原因になろうとは、誰が予測しえたであろうカ。
待望の夕食になった。
食卓には藤ねえ謹製、かに玉丼が三人分並んでいる。
どんぶりにごはんを盛り、その上に一人分のかに玉を乗せただけの単純料理だ。
どんぶりの上に黄色いフタがかかっているようで、見た目はあまりよろしくない。
が、丼ものというのはそれだけでごはんが美味しく感じられる。
カツ丼しかり、天丼しかり。
おかずの旨味が万遍なくごはんに染み込んでいくんだから、そりゃ不味くなる筈がない。
欠点は味が単純になる事だが、まあ、それは贅沢な悩みだろう。
「ん、じゃいただきます」
「はい、いただきまーす」
「いただきます」
三者三様のお辞儀をしてかに玉丼に口をつける。
――――と。
こう、かに玉の柔らかさなど微塵もない、むしろメインディッシュを食べてるような異様な食感。
「ば、バカなぁぁーーーーーあ!?
事件発生、かに玉丼がたった一分の間に別の料理になってるよおうぅぅぅ……!!!」
「………………」
……いや、事件でもなんでもないし。
単にこれ、かに玉じゃなくてお好み焼き丼だし。
「ねえ、なんでこうなっちゃったの!? わたし、ちゃんと聞いたとおり作ったよ!?」
「……うわ。もしかして藤ねえにコレ教えたの、藤村組の若衆さん?」
「うん。おっきな玉子焼き作るって言ったら、小麦粉とか色々くれたの」
「……………………」
その時点で間違いに気付いてほしかった。
俺は今まで、玉子焼き作りなんてものは人間に備わった、ごく自然な調理機能と思っていた。
かに玉とは、その玉子焼きの上級職だ。
故に藤ねえと言えど仕損じまい、と納得したのが間違いだった。
そう、藤ねえはそもそも玉子焼きさえできなかったのである……!
「シロウ」
……と。
なんか、真横からひどく落ち込んだ声が一つ。
「セイバー……?」
ギリギリギリ、と首を動かす。
「――――シロウ。いくら私でも、さすがにこれは食べにくい」
……うわあ……判りづらいけど、セイバーはセイバーでなにやらご立腹のようですよ……?
……悪夢のような夕食が終わって、夜の作戦会議となった。
といっても、今日一日の報告は済んでいる。
明日にでも動きがある可能性が高い以上、今夜は明日の戦いに備えるべきだろう。
「それでは、今夜も外に出る事はないのですか。シロウ」
「……ああ。セイバーには歯がゆいだろうけど、今はそれで我慢してくれ。無闇に戦う気はないし、なによりめったやたらに戦えるほど余裕がある状況じゃないだろ、俺たちは」
俺はマスターとして未熟であり、セイバーだって魔力供給がない為、戦闘回数に限りがある。
そんな状況において、いたずらにマスター捜しをする、というのは巧くない。
「……解りました。確かにシロウの言い分には一理あります。積極的ではありませんが、勝利する為には細心の注意も必要ですから」
「―――ですが。戦う意思があるというのなら、無駄な時間は使えません。今夜はここに留まるというのであらば、その時間を鍛錬に使うべきです」
きりっ、と俺を見据えるセイバー。
言われるまでもない。
俺だってそのつもりだから、セイバーを道場に連れ出したのだ。
「わかってる。セイバー、昨日のこと覚えてるか?
俺が夜遅く帰ってきたら、たるんでるってコトで手合わせしただろ。
……あれ、いい教訓になったんだ。勝てないヤツには何をやっても勝てない。そんな初歩的なコト、セイバーと向き合うまで気づかなかった」
「そういった心構えの意味も含めて、セイバーと手合わせするのは大切だと思う。
どのくらい効果があるか判らないけど、セイバーがその気になって相手をしてくれれば、俺も少しは生き延びる事ができるだろ」
「では、シロウ」
「ああ。これからは時間に余裕がある限り鍛えてくれ。さしあたっては、これから寝るまで」
壁に立てかけてある竹刀を手に取る。
……時刻はまだ夜の八時。
眠りにつくまでの四時間、たっぷり稽古を付けて貰お、う――――!?
「セ、セイバー、ちょっと待ったーーーーー!」
命の危険を感じて待ったをかける。
何故なら、俺へと振り返るセイバーは、
「なにか? 戦う心構えを鍛えたい、という事ですので、私もシロウの意気込みに応えてみたのですが」
一目でわかるほど、殺《や》る気満々の格好をしていらした。
「さあ、鍛練を始めましょうシロウ。
まずは貴方の不明を打ちます。たしかにシロウはたるんでいますからね。今後、今夜のような事がないよう、気を引き締めてもらわなければ」
って、やっぱりお好み焼き丼がお気に召さなかったのかっ……!
「な、なんだそりゃ、あれは藤ねえが悪いんだろ!
そ、それにセイバーだって文句いいながらちゃんと全部平らげて――――」
「――――問答無用。
それにシロウ? 意識を失う前に言っておきますが、アレはやむなくです。今後、それを忘れぬように」
「あ――――」
……セイバーの姿が消える。
ああ。
これから四時間、情け容赦ない責め苦を食らうのか……………………………………食べ物の恨みって怖いなあ。
◇◇◇
「痛っ……セイバーのやつ、やるとなったら本気で手加減なしでやんの……」
布団に入る。
打ち身だらけの体は湿布でベタベタで、明日になれば筋肉痛の追い打ちがあるだろう。
「――――疲れた」
ほう、と息をつく。
セイバーとの鍛錬の後、日課である“強化”の鍛錬をして、心身共に消耗している。
少し離れた和室でセイバーと藤ねえが眠っているが、今はそれも気にならない。
とにかく、疲れた。
今は眠って、明日に備える事にしよう――――
[#挿絵(img/011.JPG)入る]
……夢を見ている、のか。
意識は微睡み。
体は眠りについたまま指一本も動かない。
なら――――こんな事は、やはり夢だ。
……暗い夜だった。
おかしな耳鳴り。
足は眠ったままで、しっかりと坂道を下っていく。
冷たい。
風は頬を刺して、寝間着のまま外に出た体はとっくに冷え切っている。
……冬木の町とは思えない寒さだ。
もしこれが夢なら、とっくに目が覚めるぐらいの悪寒。
誰もいない、無人の街を行く。
耳障りな音は止まない。
寒さに震える体を無視して、足はしっかりと何処かを目指している。
「――――あ」
叫ぼうとして、喉が固まっている事に気がついた。
夢ではない。
夢の筈がない。
だというのに意識は眠ったまま。
手足は俺―――衛宮士郎の言う事を聞かず、操られるように歩いている。
「あ――――」
ここが終着なのか。
足は速度を増して石段を登り始め――――
[#挿絵(img/012.JPG)入る]
――――耳鳴りは確かな声に変化した。
「つ――――」
否、それは違う。
耳鳴りは変化などしていない。
これは始めから、同じ言葉を繰り返していただけだ。
―――おいで、と。
頭蓋の中を埋め尽くす、魔力の籠もった女の声。
山門が見える。
その奥に何かがいる。
――――そして。
あの門を潜れば、自分は生きては帰れまい。
「っ――――」
何か判らないが、今すぐ逃げろと微睡んだ意識が叫ぶ。
引き返せ。
引き返せ。
引き返せ。
足を止めろ。まだ間に合う。引き返せ。今すぐ目を覚まして引き返せ、目を覚ませ、目を覚ませ、目を覚ませ、いいから、その声を聞くんじゃない…………!!!!
「っ…………あ――――!」
意識だけが覚醒する。
微睡んでいた頭はクリアになって、ようやく自分の意志が戻ってきた。
だが遅い。
手足は依然として俺の言うことを聞かず、山門をくぐっていく。
―――確かなものはこの頭だけ。
衛宮士郎《からだ》は俺の意思とは無関係に、声の主に逆らわず、柳洞寺の境内へと入ってしまった。
―――闇に沈む境内。
その中心に、人ならざる魔力を持った『何か』が立っていた。
陽炎のように揺らぐ姿。
死神を思わせる暗い影は、段々と闇を剥ぎ――――
古い、童話に現れるような、魔法使いの姿となった。
「―――そこで止まりなさい坊や。
それ以上近づかれると殺してしまうでしょう?」
嘲りを含んだ微笑。
……俺の体はあいつの意のままらしい。
あれだけ止まれと念じた両足は、今の一言でピタリと止まっていた。
「――――――――」
意識が軋む。
手足は一向に動かず、目の前には正体不明の“敵”がいる。
……そう、アレは敵だ。
迷うことも間違えるコトもない。
アレはサーヴァント―――七人のサーヴァント中、最も魔術に長けた英霊―――
「……キャスターの、サーヴァント……!」
固まった喉を懸命に動かして、なんとか敵を睨み付ける。
「ええ、その通りよ坊や。ようこそ私の神殿へ。歓迎するわ、セイバーのマスターさん」
涼しげな声は、同時に俺を嘲笑っている。
「っ――――!」
両足に力を込めるが、体はまったく動かない。
―――くそ、何をしてるんだ俺は……!
ここまでまんまとおびき寄せられて、そのあげく体がまったく動かないなんて……!
「ぁ―――、く、っ――――!」
全力で手足に意識を集中させる。
どんなカラクリか知らないが、体の自由を奪っているのはキャスターの魔術だ。
なら、体内に入った他人《キャスター》の魔力《どく》さえ排出すれば……!
「自由になれる、と思って? ふふ、可愛いこと。そんな方法で私の呪縛を解こうだなんて、随分と優しいのね貴方」
「な――――んだ、と――――」
唯一自由になる意識を総動員して体内を探る。
キャスターの魔力。
手足の自由を奪うため体内に浸食した、外から混ざった敵の魔力を。
……目を開けたまま、自分の体だけを視る。
大丈夫、落ち着けばそう難しい事じゃない。
魔力の流れ、回路の把握なら毎晩やっている事だ。
今はそれを繰り返して、体の中にあるキャスターの毒を読みとればいい。
体外に出す事は出来なくとも、一カ所に集中させてしまえば四肢のうち三肢は動くようになる――――
「――――え?」
それは、どういう事なのか。
俺の体内に他者《キャスター》の魔力なんて混ざっていない。
毒素らしき物はただ一点、胸についた小さな点だけだ。
だというのに、体の全てが異常だった。
「――――――――」
流れる血に異状があるんじゃない。
血液ではなく、血脈そのものが全て異常。
喩えるなら心臓を固定《ロック》されているようなものだ。
胸についた赤い点はキャスターの魔力なのか。
この体はたった一言の呪いで、完全に命令権を剥奪されている――――
「そん、な―――バカ、な」
なら、俺は眠っている時からキャスターに呪われていたという事になる。
眠っていたとは言え、こんな遠くから放たれた魔術に囚われるなんてあり得ない。
魔術師には抗魔力というものがある。
催眠、呪縛、強制といった、術者の行動を抑制する『魔術』を弾き返す力だ。
魔術師である以上、おいそれと他の術者に操られる、なんて事は起こり得ない。
―――基礎的な話だ。
魔術師とは魔術回路を有する者。
体内に走る回路は魔力の生成だけでなく、外部からの魔力を弾く特性を持つ。
故に、魔術回路が働いている内部《しんたい》への干渉は難しく、数ランク下の魔術師が相手でも操るのは難しいとされる。
魔術回路が外部からの魔力を弾こうと躍起になる為、魔術という式が、完成する前に乱されてしまうのだ。
その為、催眠や束縛といった間接的な干渉魔術はとにかく成功率が悪い。
相手が魔術師でなくとも、魔術回路があるのなら無意識に弾かれてしまう事もある。
その点、魔力をぶつけるだけの干渉―――遠坂がやるような、まず外界に要因《ぶき》をつくって、その結果として相手を傷つける、という魔術はてっとり早い。
物理的な衝撃は万物共通だ。
体内に魔術回路があろうがなかろうが、ナイフで切られれば血を流すのが人間である。
「――――――――」
だからこそ、この状況はどうかしていた。
……ごく間近、密着されての魔術行使なら何らかのペナルティを受けもするだろう。
以前、どこかでキャスターに出会い、“強制”の呪いでも受けていれば、遠く離れていようが操られる事もある。
―――だが、俺はキャスターと出会った事もなければ呪いを受けた覚えもない。
……つまりこれが初見。
キャスターはこの場所から一歩も動かず、遠く離れた衛宮の家まで呪いを放ち、衛宮士郎の体を捉えたのだ。
―――魔女、という言葉が脳裏に浮かぶ。
魔術師同士ならば成功する筈のない肉体の乗っ取りを、数キロメートル以上の遠距離から成し得るというのなら。
キャスターはここに留まったまま、町中の人間を意のままに操れるという事ではないのか――――
「――――――――っ」
……気迫が削がれる。
既に魔術として完成してしまった以上、俺ではどうあっても解呪する事が出来ない。
キャスター自身が縛めを解くか、外部からの助けがない限り、もはや手の打ちようがない―――!
「理解できて? 貴方を縛っているのは私の魔力ではなく魔術そのもの。
一度成立した魔術は、魔力という水では洗い流せない。液体と固体のようなものよ。形を得たモノに水をかけても、そのカタチは崩れないでしょう?」
……影が近づいてくる。
闇に溶ける紫紺の衣が、冷笑を浮かべている。
「けれど例外もあるわ。
例えば、そうね。貴方たちが編み上げた魔術など、私にしてみれば泥の建造物にすぎない。
そんなもの、かける水流が多く激しければ、カタチになっていようと簡単に洗い流せる。
理解できて? 私と貴方たちの違いは、そういう次元の話なのよ」
「そう―――かよ。それでわざわざ、こんなところまで、呼びつけたワケ、か」
「ええ。マスター達はみな小物だけど、その中でも貴方はとび抜けて力不足でしたから。
なにしろ街の人間たちと変わらない抗魔力ですもの。そんなマスターを見つけたら、こうして話をしたくなるのは当然でしょう?」
クスリ、という笑い声。
そこには獲物を前にした優越感しかない。
「っ――――――――」
……悪寒が走る。
何が話をしたくなった、だ。
こいつ、俺を殺す気満々じゃないか――――!
「ほら、また誤解。安心なさい、殺してしまっては魔力を吸い上げられないわ。
この町の人間はみな私の物ですからね。
殺さない程度に生かし続けて、最後の一滴まで差し出してもらわないと」
冷笑が耳朶《じだ》に響く。
「な――――に?」
開いていた場所に、かちり、と断片がはまる感覚。
こいつは今、町中の人間から魔力を吸い上げると言ったのか――――!?
「キャスター……! おまえ、無関係な人間に手を出したな……!」
「あら、知らなかったの? あの小娘と手を組んだのだから、当然知っているものと思っていたけど―――そう。まだ知らなかったのね、貴方」
キャスターの唇が、さらに愉快げにつり上がる。
捕まえた獲物をどう料理しようか思案するように。
「なら教えてあげる。私―――キャスターのサーヴァントには『陣地』を作る権利があるのよ。
魔術師は工房を持つ者でしょう? それと同じよ。
私はこの場所に神殿を造って、貴方たちから身を守る。
幸いこの土地はサーヴァントにとって鬼門ですからね。陣地としては優れているし、なにより魔力を集めやすい」
「始めはあんまりにも貴方たちの魔力が少なくて加減がつかなかったけれど、今はほどよく集められるわ。
ほら、見えるでしょう? この土地に溜まった数百人分の魔力の貯蔵、有象無象の人の欠片が」
「じゃあ―――町で起きてる事件は、おまえが」
「ええ。ここは私の神殿だと言ったでしょう?
なら、供物《くもつ》を捧げるのは、下界で蠢《うごめ》く人間たちの使命ではなくて?」
「っ――――!」
町で起きている原因不明の昏睡事件。
そう多くはないと思っていたが、こいつは数百人と口にした。
―――そうして、目を凝らして見れば。
この境内に満ちた魔力の渦は、千にいたる人の輝き《たましい》で出来ているように見えた。
「キャスター…………!!!!!」
手足に力を込める。
だが一向に変化はなく、目の前にはそんな俺を嘲笑うキャスターの姿があるだけだ。
「さあ、それでは話を済ませてしまいましょうか。
貴方も、ずっとそうしているのは退屈でしょう?」
耳元で囁かれる声。
同時に―――今まで見えなかった敵の姿が、視界を覆っていた。
「セイバーのマスター。貴方からはその令呪を貰ってあげるわ。
……セイバーは消すには惜しいサーヴァントですもの。彼女には、あの目障りなバーサーカーを倒してもらうとしましょう」
「――――――――」
キャスターの腕があがる。
その指は、確実に俺の腕を狙っている――――
「令呪を、奪う、だと――――」
そんな事が出来るのか。
たしか遠坂は、令呪を剥がすには腕から神経ごと剥がすしかないと言っていたが――――
「そうよ。まずは腕を切り落として、それから令呪を私のマスターに移植する。
けれど令呪は所有者の魔術回路と一体化しているでしょう? 令呪を剥がす、という事は貴方から魔術回路《しんけい》を引き抜く、という事でもあるわ」
さらりと。
なんでもない事のように、キャスターは言った。
「な――――」
神経を引き抜く?
片腕をもいで、体の中に張り巡らされた神経を持っていくっていうのか。
そんな事をされたら、俺は――――
「ええ、廃人になるでしょうね。けれど安心なさい、命までとりはしないから」
「――――っっっっ!」
必死に、手足がバラバラになってもいいと力を込めるが変化はない。
手足は動かず、俺は死刑台にかけられた囚人のように、
―――艶やかな冷笑。
禍々しい光を帯びた指が、這い寄る蜘蛛のように、ゆっくりと俺の左手に伸びて――――
◇◇◇
その異状に気がついたのは、どれほどの時が経ってからか。
眠りの中、蜘蛛の糸ほどの違和感に目を覚まして、彼女は廊下へと足を運ぶ。
「………シロウ?」
始め、それは彼女の主による物だと考えた。
異状は衛宮士郎の部屋から、外に放たれた物であったからだ。
「……まったく。まだ魔術の鍛錬をしているのですか」
ふう、と金の髪の少女―――セイバーは溜息をつく。
熱心なのはいいが、休む時には休んで貰わなければ体が保つまい。
そうして注意しに行こうと足を向けた時、彼女は自らの過ちに気がついた。
「――――――――」
それを確かめて、彼女は息を飲んだ。
異状は士郎の部屋から放たれた物ではない。
月光の下。
彼女の髪と同じく、闇に輝く細い糸が張られている。
ただ一本のみの糸は屋敷の外から、士郎の部屋へと放たれたものだった。
屋敷に張られた結界でさえ見逃すほどの細い糸。
それを操る敵を讃《たた》えるのならば、眠りにおいてさえソレを感知したセイバーとて卓越している。
「――――――――」
思考する余分などない。
少女の姿は一瞬にして騎士の姿となり、即座に外へと飛び出した。
無人の町を駆ける。
地を蹴るセイバーに迷いはない。
行くべき場所は判っている。
この糸が続く先、士郎《あるじ》の鼓動を追うだけでいい。
彼女がするべき事は、ただ最速で駆けつけるのみ。
その先が敵地であり、顎《あぎと》の如く罠が張り巡らされた死地であっても変わりはない。
主を守ると誓ったのだ。
ならば己が身にかかる火の粉など、省みるにも値しまい。
「――――――――」
そこは、夥しい魔力に汚染された山だった。
上空には死霊が鴉《からす》の様に旋回し、
木々に育った葉は視えない血に濡れている。
集められた魔力、剥離された精神が残留し、山は禿げ山の如く訪れたモノを食らうだろう。
世に死地があるというのなら、ここは紛れもなく最低の極上品。
「――――――――」
それに、躊躇する事なく踏み込んだ。
もとより止まる意思などない。
この場所が地獄であるのならば、尚のこと己が主を救わねばならないのだから。
石の階段を駆け上がる。
予想されていた妨害はまったくない。
山門は既に視界に収まっており、あと一段、魔力を籠めた足で石段を蹴り抜けば山門に達しよう。
「――――――――」
だが、そこで彼女の進撃は止まった。
否―――その“敵”に、止められた。
[#挿絵(img/115.JPG)入る]
山門に至る階段。
そこに一人のサーヴァントが立っていた。
名を佐々木小次郎。
アサシンのサーヴァント、長刀物干し竿を操る、柳洞寺の守り手である。
「――――――――」
風王結界を構えるセイバーの心境は、ここにきて乱れていた。
彼女のマスターはあの山門の向こうにいる。
だが目の前に立ちはだかるサーヴァントは、あまりにも正体が不明だった。
惜しげもなく名を明かす心胆。
構えなどなく、涼やかな敵意はあまりに透明。
「――――――――」
その、逸脱した無心に力量が掴めない。
サーヴァントとして相手の格は見抜けてはいる。
アサシンはそう優れたサーヴァントではない。ならば御しやすいと下す反面、彼女の直感が告げているのだ。
剣の勝負―――単純な剣の試合では、この相手には勝ちえないと。
「――――貴様に用はない。そこを退けアサシン」
正体の掴めない不安を押し留め、セイバーはアサシンを睨む。
……一足一刀の間合いまで石段一つ。
下りるか上るか。
どちらかが足を踏み出せば、その瞬間に必殺の剣が繰り出されるに違いない。
「聞こえなかったのか。退けと言ったのだ、アサシン」
最後の問答。
それを、長刀の剣士は愉しげに受け止める。
「―――そうか。この門を通りたいのだな、セイバー」
「――――――――」
愚問、と聖緑の瞳がアサシンを射抜く。
それを良しとしたのか。
長刀は、弧を描くように夜に跳ねる。
「ならば押し通れ。急がねば、おまえの主人とやらの命はないぞ」
涼しげに笑う声。
「アサシン――――――!」
応と言わんばかりに石段に踏み込むセイバー。
同時に振り下ろされる長刀は、彼女の不可視の剣によって弾かれる。
―――風巻く山頂に、剣戟の火花が木霊する。
繰り広げられる攻防は互角。
だが、それは彼女にとって有利という訳ではない。
「くっ――――」
気が焦る。
すぐさま倒さねばならない敵は、その実倒すこと自体が困難な難敵である。
“シロウ、どうか――――!”
歯をかみ殺しながら、心の中で懸命に祈る。
その隙、その余分こそが彼女の体を浸食していく。
―――決着はつかず。
山門に至る道は、あまりにも遠かった。
◇◇◇
――――キャスターの白い指が伸びる。
「く―――そ―――…………!」
抵抗しようにも体が動かない。
手足の感覚は奪われ、じき、手足そのものも奪われてしまうだろう。
「さよなら坊や。悔やむのなら、その程度の力量でマスターになった事を悔やみなさい」
体は一向に動かないまま、死の指先を受け入れる。
「っ――――!」
瞑りたくなってしまう目蓋を堪えて、全力でキャスターを睨み付ける。
「あら。いい子ね、そういう頑張りは嫌いではありませんよ」
こっちの精一杯の抵抗を嘲笑いながら、キャスターは令呪に指をあてた。
「あ――――――――」
……自由だった意識さえ麻痺していく。
……遠くなっていく思考のなか。
きぃーーーん、と。
背後の山門から、剣と剣が打ち合うような音だけが聞こえていた――――
「――――!」
それは、どんな奇蹟だったのか。
何十という空を切る音と、目の前の地面を串刺しにしていく無数の矢。
キャスターはとっさに後退し、黒いローブは独楽《コマ》のように翻《ひるがえ》っていく。
「な――――」
キャスターの足下には矢が突き刺さっている。
上空、山門の上から放たれた矢は十三本。
おそらく一息で放ったであろうそれは、あと一本多ければ、間違いなくキャスターの胸を貫いていた。
矢の主は、山門の上に立っていた。
赤い外套の騎士は、徒手空拳のまま地面に降りる。
「ふん。とうに命はないと思ったが、存外にしぶといのだな」
男―――アーチャーはキャスターを阻むように、俺の目の前で、そんな言葉を口にした。
「おまえ―――なんで」
「なに、ただの通りがかりだ。あまり気にするな。
……で、体はどうだ。キャスターの糸なら、今ので断った筈だが」
「え――――」
言われて、自分の手を確認する。
……動く。
あれだけ動かなかった手足は、今の攻防だけで自由を取り戻していた。
「動く。キャスターの呪縛は解けた、けど―――」
「それは結構。あとは好きにしろ、と言いたいところだが―――アレに殺されたくなければ、しばらくそこから動かぬ事だ。あまり考え無しに動くと」
「く、アーチャーですって……!? ええい、アサシンめ何をしていたの……!」
「そら、見ての通り八つ当たりを食らう事になる。
女の激情というのは中々に御しがたい。……まったく、少しばかり手荒い事になりそうだ」
「―――さて。そう怒るなキャスター。
アサシンならばセイバーと対峙している。あの侍、何者かは知らんがセイバーを押し留めるとは大した剣豪だ。むしろ褒めてやるべきではないか?」
敵と対峙しているというのに、アーチャーには緊張感というものがまるでない。
それに気づいたのか、キャスターは冷静さを取り戻したようだ。
「―――ふん、ふざけた事を。アナタを止められないようでは英雄などとは呼べない。あの男、剣豪を名乗らせるには実力不足です」
「ほう。その言いぶり、アサシンが自分の仲間だとでも言いたげだが―――やはり協力しあっているのか、君たちのマスターは。
そうでなくてはこの状況に説明がつかん。一つの場所に、二人のサーヴァントが居を構えるなどとな」
キャスターは無言のまま、ただアーチャーを見据えている。
ローブに隠れて表情は判らないが、キャスターは動揺しているように見えた。
「―――アーチャー、今の本当か……!? セイバーがここに来てて、アサシンのサーヴァントと戦っていて、おまけにアサシンとキャスターのマスターが協力しあってるって……!?」
「ああ。門の外を守るアサシンと、門の内に潜むキャスター。この両者が協力関係なのは明白だろう。
マスター同士が協力しあうのも珍しい事ではない。現におまえと凛とて手を結んでいる」
「あ」
そう言えばそうだった。
―――じゃあ、この柳洞寺にはマスターが二人いるっていう事か……!?
「ふ――――。
ふふ、あはははははは! 何を言いだすかと思えば、随分と的外れな事を言うのねアーチャー!」
「む? なんだ、違ったか? ……まいったな、君たちが仲間だというのは確信だったのだが」
「ええ、見当違いもは甚だしいわ。
仲間ですって―――? 私があの狗《いぬ》と協力しあう? 私の手駒にすぎないあの男と?」
キャスターの高笑いは止まらない。
それはあまりにも場違いな笑い声で、緊迫していた境内の空気が霧散していく。
そんな中。
アーチャーの背中が、ぎり、と強く歯を噛んでいた。
「―――――――」
今までなかったものが現れる。
キャスターの敵意でもなければ、境内を包んでいた魔力の渦でもない。
ここに現れて初めて。
アーチャーは、むき出しの敵意を表していた。
「そう、アナタの予感は正しいですよアーチャー。
私のマスターは誰とも手を組んでなどいないし、アサシンのマスターも同じ。
いいえ、そもそも|あの《アサシ》狗《ン》にマスターなど存在しない[#「マスターなど存在しない」に丸傍点]のですからね……!」
「な――――に?」
アサシンにマスターはいない……?
それはどういう事なのか。
サーヴァントはマスターがいなければ存在できない。
魔力の供給源がなければ消えてしまうのではなかったか――――?
「―――キャスター。貴様、ルールを破ったな」
「まさか。ルールを破ってなどいませんわ。だってサーヴァントを呼び出すのは魔術師でしょう?
なら―――魔術師《キャスター》である私が、サーヴァントを呼び出して何の不都合があるのです!」
冷笑を浮かべたまま、黒いローブの魔女が告げる。
「――――――――」
……つまり。
山門にいるアサシンのサーヴァントは、キャスターによって呼び出された“英霊”なのか――――!
「……サーヴァントを操るサーヴァントか―――なるほど、ならばこその架空の英雄か。
まっとうなマスターに呼び出されなかったアサシンは、本来呼び出されるべき“暗殺者”以外のモノをアサシンにしてしまった。……それは構わん。元となる英霊が誰であろうと敵は倒すのみ。
だが、それは貴様の独断ではないのか、キャスター」
「っ……! ……聞きましょう。なぜそのような結論が出せるのです、アーチャー」
「なに、ただの直感だよ。マスターとは魔術師だ。
その魔術師が、自分より優れた魔術師を使い魔にした場合―――そこにあるのはただの主従関係ではあるまい。
魔術師《マスター》が自身より優れた魔術師《キャスター》を警戒するのは当然だ。
……私が貴様のマスターであるのなら、魔女に自由など与えない。マスター本人ではなく、貴様だけの手足となるサーヴァントの召喚など許可する筈がない」
「……ふ。それなりの知恵は働くようですねアーチャー。
いいわ、その賢さに免じて、今の暴言は聞き流しましょう」
くつくつと笑いながら、キャスターはアーチャーを見据える。
……両者の間にあるのは、もはや敵意だけだ。
離れた間合いは七メートルほど。
夜の校舎で見せたアーチャーの突進ならば、キャスターが呪文の詠唱を終える前に斬り伏せられる――――
「納得がいった。セイバーやランサー、ライダーは強力な対魔力を持っている。ここの男の抗魔力など比べ物にならない、次元違いの対魔力だ。
彼らにはあらゆる魔術が効き難い。故に、魔術師である君では彼等には太刀打ちできない」
「となれば策略に走るのは当然だったな。
ルールを破り、自らの手でアサシンのサーヴァントを呼ぶ。
この土地に居を構え、町の人間から魂を収集する。
自らは戦わず、町中に張った“眼”で戦況を把握する。
これだけの事をするのだ。当然、自分のマスターは拘束しているのだろうな? ここの間抜けなマスターのように、とっくに操り人形という訳だ」
物言わぬ笑い。
それを見て、心底背筋が寒くなった。
町中の人間から魔力を集めているだけじゃない。
あいつは自らのマスターさえ、さっきまでの俺のように“道具”として扱っている――――
「――――――――」
……キャスターは、危険だ。
バーサーカーのような純粋な脅威ではなく、姿を見せずに状況を悪化させていくヤツこそが、乱戦において最も厄介な敵に違いない。
「ええ、貴方は正しいわアーチャー。
けれど私が貴方たちに敵わない、というのは間違いよ。聖杯戦争に勝つ事なんて簡単ですもの。
私が手をつくしているのは、単にその後を考えているだけ。貴方たちを恐れて策を弄《ろう》している訳ではないわ」
「―――ほう。我々《サーヴァント》を倒すのは容易い、と言ったなキャスター。逃げ回るだけが取り柄の魔女が、よく言った」
「言ったわ。ここなら私は誰よりも強いもの。バーサーカーやセイバーならいざ知らず、貴方《アーチャー》程度では掠り傷さえ負わせられないでしょう」
「それより、貴方の方こそ逃げる算段を立てなさい。
一度目は許した。けれど二度目はなくてよ。
私を“魔女”と呼んだ者には、相応の罰を与えます」
キャスターのローブが歪む。
大気に満ちた魔力は濃霧となって、キャスターの体を覆っていく。
それを前にして、
「――――面白い。掠り傷さえ負わぬ、と言ったな」
本当に愉快そうに、アーチャーは呟いた。
「ええ。貴方では、私に触れる事さえ出来ないでしょう」
黒い影が応える。
赤い外套の騎士はそうか、と笑い。
「では一撃だけ。それで無理なら、あとはセイバーに任せよう」
突風のように、黒い《キャス》影《ター》へと疾走した。
赤い影が走る。
いつのまに握られていたのか、アーチャーの両手にはあの武器――――対で作られた双剣があった。
「――――!」
呪文の詠唱など許さない。
キャスターが片腕を突き出すより早くアーチャーは間合いを詰め、
その双剣で、キャスターを両断していた。
はらり、と真っ二つにされたローブが舞い散る。
「む――――――」
苦もなく切り倒した相手の亡骸を前に、アーチャーは納得いかなげに立ちつくす。
あまりにも拍子抜けだったからだろう。
あれだけの大口を叩いておいて、一度も反撃せずに敗れ去ったのだ。
アーチャーでなくとも、気が削がれるのは当然と言えた。
「……………………」
アーチャーは双剣を握ったままだ。
「……………………」
赤い外套。
黒と白の短剣は美しく、ひどく、こちらの心を奪う。
……おかしい。
もしかして見惚れているのか、俺は。
……あの双剣。
曰くのある名剣なのだろうが、あいつの持つ双剣には何の邪気も感じられなかった。
宝具は優れた武器であるから、美しいのは当然だ。
セイバーの剣だって、もし見えるのならさぞ豪奢《ごうしゃ》な物に違いない。
が、あれはそういった物じゃない。
他者を倒す事を目的とする戦意。
後世に名を残そうとする我欲。
誰かが作り上げた武器を越えようとする競争心。
何か、絶対的な偉業を成そうとする信仰。
そういった名剣、魔剣にはなくてはならない創造理念が、アレにはない。
……しいていうのなら、ただ作りたいから作った。
対なる剣、鍛冶師としての自身の意義を問うかのように、ただ無心で作り上げた無骨な剣。
それがアレなのだと思う。
虚栄のない鏡の剣。
白と黒、陰と陽を体現した不器用な鍛冶の剣。
――――見とれたのは、そう。
その在り方が、ただ美しく見えただけ。
切り倒されたキャスターの体が消えていく。
「――――――――」
それを見届け、アーチャーが剣を納めようとした瞬間。
「……残念ねアーチャー。貴方が、本当にその程度だったなんて」
荒涼とした境内に、キャスターの声が響き渡った。
「づっ…………!」
アーチャーが跳ねる。
先ほどの攻防の焼き直しだ。
天空から飛来した光弾はアーチャーを貫こうとし、
アーチャーは双剣で弾き落とす。
―――いや。
それは、決して焼き直しなどではない。
「な――――」
地面が、赤く焦げていた。
小さな光に籠められた魔力は、実に俺という容器を満タンにして三倍強というところ。
アーチャーとて直撃を受ければ体の半分を持っていかれ、今頃さきほどの黒い《キャス》影《ター》と同じ末路を辿っていただろう。
空を見る。
月は無く、夜空には黒々とした雲海が流れ。
その真中《まなか》、まるで空を統べるように、黒い魔術師が君臨していた。
「―――空間転移か固有時制御か。どちらにせよこの境内ならば魔法の真似事さえ可能という事か。
……見直したよキャスター。いや、大口を叩くだけはある」
上空のキャスターを見上げながら、アーチャーは双剣を握り直す。
「そうですか? 私は見下げ果てたわアーチャー。
使えると思って試してみたけど、結果がこれではアサシン以下よ」
「いや、耳に痛いな。次があるのならもう少し気を利かせるが」
「――――まさか。愚か者に次などありません。
貴方はここで消えなさい、アーチャー」
「チッ――――!」
アーチャーの体が流れる。
キャスターの視界から逃れようと、境内から脱出しようと疾走する。
「ふん、逃げ切れると思って……!」
キャスターの杖が動く。
杖がアーチャーに狙いを定めた後。
何か、悪い冗談のような光景が、目の前で繰り広げられた。
「ば――――」
馬鹿な、と漏らす声さえ聞こえない。
キャスターの攻撃は際限のない雨だった。
降り注ぐ光弾は爆撃と何が違おう。
その一撃一撃が必殺の威力を持つ魔術を、キャスターは矢継ぎ早に、それこそ雨のように繰り出していく。
それがどれほど桁外れの“魔術”なのか、魔術師である以上俺にだって理解できる。
アレは大魔術に属する物だ。
その発動には簡易的な魔法陣と、瞬間契約《テンカウント》、すなわち十以上の単語を含んだ魔術詠唱をしなければならない。
大魔術は強力であるが故に、その詠唱には時間を要する。
あれほどの魔術なら、一人前の魔術師でも一分。
高速詠唱を用いる魔術師でさえ三十秒はかかるレベルだ。
それを一瞬。
詠唱さえ必要とせず、ただ杖を向けただけで、しかもあれほどの連続使用となると、もう比較対象など思いつかない――――!
「っ……! 女狐め、Aランクの魔術をここまで連発するとは、よほど魔力をため込んだな――――!」
もはや避け切れぬと判断したのか、アーチャーは双剣で弾きながら疾走する。
―――境内の外を目指すアーチャーは、途中、何かに気がついたようにルートを変えた。
「間抜け……!
貴様、いつまでそこに突っ立っている……!」
アーチャーが血相を変えて突っ込んでくる。
「え?」
それで気がついた。
ここは、とうに安全じゃない。
降り注ぐ光弾は、既に俺の頭上まで攻撃範囲として捉えている――――!
「クソ、なんだってこんな手間を――――!」
つっこんでくるアーチャー。
「っ――――!」
避けようと跳び退こうとした瞬間、
体は、ふわりと空中を飛んでいた。
「え?」
思わず足をバタつかせる。
……信じられない。
アーチャーのヤツ、俺を抱えて走っている―――!?
「……! 降ろせバカ、なに考えてんだおまえ!」
「知るものか! いいから黙っていろ、おまえに言われると自分の馬鹿さ加減に頭を痛めるわ、馬鹿が!」
「馬鹿!? おまえ、自分が馬鹿だって判ってるのに人のこと馬鹿呼ばわりするのかよ、このバカ!」
「っ……! ええい、ガキか貴様! 馬鹿でガキとはもはや手が付けられん、せめてどちらかに決めておけたわけめ!」
アーチャーも余裕がないのか、言動が支離滅裂だ。
が、助けてもらったというのに、とにかく無性にその事実が納得できないっ。
「このっ――――いいから放せ、これぐらい一人でなんとかする! おまえの手なんて借りない!」
いや、それより足手まといになる事が耐えられない。
アーチャー一人なら、とっくに境内から逃げられていた筈だ。
だが俺を庇ったせいで出口は遠のいてしまった。
境内を旋回するアーチャーは、頭上のキャスターからすれば格好の的だろう。
「アーチャー! 聞いてるのか、おまえ……!」
「―――そうか。なら遠慮は要らんな」
と。
アーチャーは唐突に冷静になって、俺の体を蹴り飛ばした。
「がっ――――!?」
地面に叩きつけられる。
よほど強く蹴り飛ばしやがったのか、間違いなく五メートルは吹っ飛ばされた。
「てめ――――」
痛みを堪えて起きあがる。
「――――え?」
アーチャーは、ピタリと立ち止まっていた。
降り注ぐ光弾も止んでいる。
あるのは、ただ耳を振るわせる冷たさだけ。
「――――あいつ」
それで、ようやく気がついた。
アーチャーの周囲が、それこそ凍結したように固まっている事に。
「気分はどうかしらアーチャー。いかに三騎士と言えど、空間そのものを固定化されては動けないのではなくて?」
勝ち誇ったキャスターの声。
アーチャーは口もきけないのか、時間が止まったかのように動かない。
「どうやらこれで詰めのようね。外にはセイバーもいる事ですし、これ以上貴方にかける時間はないわ。
何処の英雄だったかは知らないけど、これでお別れよ、アーチャー」
キャスターの左手が向けられる。
その手から、即死の光弾が落とされる。
ただ、その直前。
なにか、アーチャーは呟いていた。
「―――? なにかしらアーチャー。命乞いなら聞いてあげても――――」
「―――――、と言ったのだ、キャスター」
苛立ちをこめた呟き。
それに、俺とキャスターが耳を澄ませた時――――
「―――たわけ、躱せと言ったのだキャスター!」
そう叫んで、アーチャーは跳んでいた。
空間の固定化とやらを力ずくで砕いたのか。
硝子が砕けるような音をまき散らしながら、アーチャーは俺たちの視界から消失する。
「な、何をバカな――――」
アーチャーの怒号に気をとられ、戸惑うキャスター。
―――その、左右に。
弧を描いてキャスターを狙う、白と黒の光があった。
「――――!!!!!!」
キャスターのローブが裂ける。
アーチャーの叱咤に反応した故か、キャスターは間一髪で二つの凶器を避けた。
左右より襲いかかったソレは、言うまでもなくアーチャーの双剣である。
―――あの瞬間。
俺を蹴飛ばし、キャスターの術中に落ちる直前、アーチャーは双剣を左右に投擲していたのだ。
放たれた剣は這うように地面を飛び、時間をおいて空中にいるキャスターへと襲いかかった――――
「さすが弓兵《アーチャー》ってところか……って、あいつ何処に――――……っ!?」
今度こそ絶句した。
それはキャスターとて同じだろう。
境内に跳び退いた赤い騎士は、すでに詰め《チェック》に入っていた。
地面に膝をたてて、弓を上空へと構えている。
狙いはキャスター。
そして、弓にあてがわれた“矢”こそ、バーサーカーを狙撃したあの魔剣――――!
「――――I am《我が骨子》 the b《は》one 《捻じれ》of my swo《狂う。》rd.」
アーチャーの声が大気を揺らす。
「―――Τροφα……!」
切迫したキャスターの詠唱。
それをはっきりと見越した上で、
「――――“偽・《カラド》螺旋剣《、ボルク》”」
アーチャーは、その矢から手を放した。
それがヤツの宝具なのか。
放たれた矢は大気を根こそぎ狂い曲げ、その跡を禍々と見せつけている。
「は―――――あ…………!」
上空ではキャスターの喘ぎ声がこぼれていた。
竜巻めいた矢は、キャスターの守りを容易く貫通したのだ。
おそらく―――あの大気の捻れようからして、キャスターが空間転移をしたところで、その空間ごとねじ切られていたに違いない。
「あ――――あ――――」
……それでも、キャスターは生きていた。
黒いローブは飛び散り、ローブの下の肉体はズタズタに引き裂かれている。
キャスターは魔力を全て自己再生に回しているが、直撃であったのなら、再生する余裕などなく霧散していただろう。
……そう。
アーチャーの矢は直撃ではなかった。
矢はキャスターから離れた虚空に放たれ、キャスターはその余波で守りの壁を砕かれたにすぎない。
矢は外れた。
……いや、それは違うか。
矢は外れたのではなく外したのだ。
一体なんのつもりなのか。
必殺の機会だったというのに、アーチャーは自分から射を外していた。
……境内は静寂に戻る。
目前にはアーチャーと、呆然とアーチャーを睨むキャスターの姿がある。
今の一撃はさすがに堪えたのか、アーチャーから感じる魔力は微弱な物になっていた。
それはキャスターも同様だ。
外したとは言え、アーチャーの一撃はキャスターの体と魔力、その大部分を削いでいった。
この境内には膨大の魔力がプールしてあるとは言え、それを汲み取るべきキャスターの肉体が破損していては意味がない。
「く………ぁ………」
地に降りてきたキャスターに覇気はない。
辛うじて肉体を形成したものの、中身は空っぽ。
戦闘の続行など不可能だろう。
「ふ、う――――くっ……!」
乱れた呼吸のまま、キャスターはこちらを見据える。
彼女は自らを地に降ろしたサーヴァントと、なぜか、どうでもいい俺を見比べていた。
「……アーチャー。今の一撃、なぜ外したのです」
覇気のない声で問う。
アーチャーはその問いこそ不思議だ、と言わんばかりに肩をすくめ、
「いや、試すのは一撃だけと言っただろう。
初めの一撃は躱されたからな。その後はただのおまけだ。なんだ。それともまさか、約束を違えても中《あて》てほしかったのか?」
なんて、巫山戯《ふざけ》た事を言いやがった。
「―――――――。では、私を殺す気はなかったと?」
「つい挑発に乗っただけだ。私の目的はそこの男にあったからな。他のサーヴァントと戦うなど予定にはなかった」
……む。
確かにあいつ、始めっからやる気がないというか、敵意らしき物を持っていなかったっけ。
「……そう。どうやら私と戦いに来た、という訳ではなかったようねアーチャー」
「ああ、そこの男が腰抜けなのと同じでね。不必要な戦いは避けるのが主義だ。
剣を執《と》る時は必勝の好機であり、必殺を誓った時のみだ。意味のない殺生は苦手でな」
……何がおかしいのか。
キャスターは口元を緩ませて、本当に愉快そうに微笑した。
「そう。なら、アナタたちは似たもの同士という事?」
「「は?」」
声がはもる。
似たもの同士って、俺とアーチャーが?
その、一体どんな理由で?
「違うのかしら。貴方たちは無益な殺生が嫌なのでしょう? そこの坊やは私のような無関係な人間を糧にするサーヴァントが許せない。
貴方は無意味な殺戮は好まない。
ほら、まったく同じじゃない。だから手を組んでいるのではなくて?」
「ばっ……! どうしてそんなふざけた結論になる! おまえ目が腐ってるぞ、誰がこんなヤツと一緒なもんか!」
「―――同感だ。平和主義者なのは同じだが、根本が大きく異なる。厄介事は早めに片づけるのが私の方針だ。この男のように、いつまでも悩んだりはしない」
「っ、何が平和主義者だ! 俺は忘れてないぞ。おまえはバーサーカーと一緒にセイバーを狙ったんだ。
セイバー一人に戦わせて、自分は安全なところにいたクセに……!」
「仕方なかろう。あの時はまだ共闘関係ではなかった。セイバーの安全よりバーサーカーを倒す事が優先されただけだ。
それともなにか、目に映る物全てを助けろなどと言うのではあるまいな? ならばバーサーカーとて倒す対象にはならないが」
「っ〜〜〜〜…………!」
むーっ、と睨み合う。
ああもう、こいつとは本当に馬が合わない!
なんだってこう、こいつの台詞はことごとく癇に触りやがるのか……!
「ふ―――」
……と。
そんな俺たちを見て、キャスターはますます楽しげに笑ってやがる。
「気に入ったわ。貴方たちは力も、その在り方も稀少よ。敵に回してしまうのは惜しい」
「?」
はあ、と首をかしげる。
アーチャーは俺から目を逸らし、一転して真剣にキャスターを睨み付けた。
「……ちょっと待て。何が言いたいんだ、おまえ」
「判らない? 私と手を組みなさい、と言っているのよ。私なら今のパートナーより優れたモノを用意できるわ。
坊やにはセイバー以上のサーヴァントを。
貴方《アーチャー》は今のマスターより優れた魔術師と契約できる」
―――思考が停止する。
正直、この女が本気で言っているのか、その正気のほどを疑った。
「悪い話ではない筈よ。私にはこの戦いを終わらせる用意がある。言ったでしょう、勝つ事なんて容易いと。
どう? 生き残りたいのなら、私に従うべきじゃなくて?」
「―――――――」
そんなこと、考えるまでもない。
俺は無関係な人間を巻き込むヤツを止める為に戦うと決めた。
なら、こんなヤツには絶対に頷けない。
「――――断る。俺は、おまえみたいな魔女とは手を組まない」
断言する。
それは当然の答えだ。
このサーヴァントとは手を組めないし、なにより俺たちは互いのパートナーを裏切らない。
俺はセイバーと共に戦っていくんだし、アーチャーだって、遠坂を裏切るような真似はしない。
「――――――――」
……と。
こいつ、どうしてさっきから黙っているんだ。
「……おい。アーチャー、おまえ―――!」
「―――拒否する。君の力を借りる理由がない。
それ以前に、君の陣営はいささか戦力不足だ。いかに勢力を伸ばそうとバーサーカー一人に及ばない。まだ与するほどの条件ではないな」
「――――――――」
……ほう、と胸を撫で下ろす。
何か嫌な予感がしたが、こいつはそんなヤツじゃない。
気にくわないヤツではあるけど、きっかりと筋の通ったヤツなんだから。
「そう。交渉は決裂、という事?」
「そうだ。だがここで君と戦う気はない。この場に居合わせたのは私の独断でね。マスターの命令ではないから君を討つ理由はない。ここは痛み分けという事で手を打たないか」
「え――――?」
その言動に、耳を疑った。
今、キャスターを見逃すと言ったのか……?
「……意外ね。アナタのマスターは私を追っていたでしょう? なのにアナタは私を見逃すというの?」
「ああ。おまえがここで何人殺そうが知らん。それは私には預かり知らぬ事だ」
「―――あら。ひどい男、毒は使いようということ?」
「私のマスターはマスター殺しに精力的でなくてね。
その分、おまえが他のマスターを潰してくれるのなら何かと助かる。この戦いの決着は、その後でも遅くはあるまい」
アーチャーの提案を受け入れたのか、キャスターは黒衣を翻す。
「っ、待てキャスター……!」
消えようとするキャスターへと走り寄る。
が、それはアーチャーの手によって阻まれた。
「馬鹿か貴様。追えば確実に死ぬぞ」
冷淡な一言。
それは怒りで吐き気がするぐらい、真実味を帯びた言葉だった。
「っ――――」
足を止める。
キャスターの黒衣はゆらりと風に乗り、そのまま、手品のように消えていった。
キャスターは消えた。
境内には自分と、悠然と佇むアーチャーだけがいる。
「……………………」
その姿が癇に触る。
アーチャーには二度も助けられた。
こいつがいなかったらキャスターに令呪を奪われていたし、その後だってあの光弾の雨を躱せずバラバラになっていただろう。
けど、それとこれは別だ。
俺にはどうしても、キャスターを容認したこいつの言動が許せない――――
「アーチャー。なんでキャスターを逃がした」
「戦う時ではなかったからだ。ここで斬り伏せたところで、アレはすぐさま逃げおおせただろう。今の空間転移、見逃した訳ではあるまい?」
「――――――――」
……それは、確かにその通りだ。
キャスターが本気で逃げにまわったら、俺たちでは捕まえられない。
加えて、この境内はキャスターの庭である。
あの魔女の事だ。
弱っていたとしても、ここなら切り札の一つや二つはあっただろう。
「理解できたらしいな。キャスターを倒すのならマスターが先なのだ。いかに空間を跳んで逃れようが、依り代であるマスターが倒されれば、キャスターとて消えざるをえないからな」
……サーヴァントよりマスターを狙う。
それが聖杯戦争における正攻法であり、もっとも危険のない選択だ。
「……それは判ってる。けど、だからって見逃すのか。
街で起きてる事件は全部あいつの仕業なんだろ。キャスターを止めないかぎり犠牲者は出続ける。俺は、そんなのを放っておくなんて出来ない」
「何故? おまえ自身が傷つくコトではあるまい。むしろヤツにはこのまま続けて貰いたいぐらいだ。
キャスターは人々から生気を吸い上げ、その力でバーサーカーを倒す。私たちはその後でキャスターを倒せばいい。
私と凛はキャスターは倒せるが、バーサーカーには及ばないのでな。バーサーカーを倒すまで、キャスターには好きにさせておくさ」
「――――――――」
カア、と顔が熱くなった。
頭に血が上って、アーチャーを殴りつけたくなる。
「―――ふざけるな。遠坂は、そんな方針はとらない」
「そうだな。だからこそキャスターには手早く事を済ませてほしいものだ。凛がキャスターに追いつけば対決は避けられない。その前にキャスターがバーサーカーを退治してくれれば理想的だ」
「なに、何人犠牲になるかは知らんが、それでバーサーカーが倒せるのならば安い物だろう。
人間など結局は死ぬ生き物。誰にどう殺されようが、結果的には変わるまい」
「っ……………!」
「キャスターも手緩い。いっそ魔力だけでなく命まで奪ってしまえばよいものを。町中の人間が死に絶えれば少しは戦いやすくなる。私のマスターも根は甘いからな。そうなれば、もはや形振《なりふ》りなどに構ってはいられまい」
乾いた笑みをうかべながら、赤い騎士はそう言った。
それも愉快げに。
ここに住んでいる人々は邪魔だと、
本気で、キャスターと同じ事を、その口で―――!
「お――――」
「ああ、おまえも知っての通り、凛は形式に拘るタイプでね。魔術師としては申し分ないが、マスターとしては汚さに欠ける。
そうだな、彼女がキャスターのようになってくれれば、私もここまで苦労はしないのだが―――」
「おまえ――――!」
アーチャーの顔面を殴りつける。
そんな物は当たる筈もなく、アーチャーは苦もなく躱していた。
「何をする。私たちは協力関係ではなかったか?」
「ふざけるな……!
俺はおまえとは違う、勝つ為に―――結果の為に周りを犠牲にするなんて、そんな事、絶対にするものか……!」
「それは私も同じだ、衛宮士郎。だが全ての人間を救う事はできまい。
例えば、キャスターが聖杯を手に入れてしまえば被害はこの町だけに留まるまい。それはイリヤスフィールも他のマスターも同じだ。
聖杯を私利私欲で使わぬマスターは、私が知る限りおまえと凛だけだからな。故に、私たちが勝利しなければ被害はさらに大きくなる」
「ならば―――この町の人間には犠牲になってもらい、私たちの役に立ってもらうしかあるまい。
その結果で被害を抑えられるのなら、おまえの方針と同じだろうさ」
「――――――――」
頭が麻痺している。
そんな事は、今更こいつに言われるまでもない。
全てを救う事はできない。
それは切嗣の口癖だった。
だから、こうして言われたところで何の衝撃も受けない筈なのに―――こいつの言い分だけは、頭に来て仕方がない……!
「無関係な人間を巻き込みたくない、と言ったな。
ならば認めろ。一人も殺さない、などという方法では、結局誰も救えない。
キャスターの言う通り、残念ながら私たちは似たもの同士だ。犠牲者を出したくないというのなら、協力しあうしかあるまい」
「違うっ……! 俺はおまえなんかとは組まない。おまえなんて、絶対に認めない……!」
「―――そうか。おまえが信じたものは凛だけだったな」
アーチャーに背を向ける。
俺はこいつとは違う。
キャスターを放っておけないのなら、やるべき事は一つだけだ。
「まさか、キャスターを追うつもりか?」
「――――――」
無視して歩く。
行き先は寺の中だ。
ここがキャスターの陣地である以上、寺の中にあいつの工房がある筈なんだから。
「信じられんな。おまえ一人ではキャスターに敵うべくもない。命が惜しいのなら止めておけ」
「――――――」
まだ文句を言い足りないのか、アーチャーはぴったりと付いてくる。
「まったく、せっかく助けてやった命を無駄にするのか。
それは構わんが、せめて感謝の一言でも残したらどうだ。
先程の助勢は私なりの厚意だったのだがね。命の恩人とまではいかないが、死線を共にくぐり抜けた友人、ぐらいには有り難がってほしいものだ」
「っ……!」
ああもう、ホントに癇に触るなこいつはっ!
「―――うるさい、誰がおまえなんかに友情を感じるもんか! いいからさっさと遠坂の所に帰れっ。頼まれたっておまえの手助けなんていらないんだからっ」
ふん、と顔を背けて、今度こそ振り返らずに柳洞寺へと向かっていく。
そこへ。
「――――そうか。懐《なつ》かれなくて何よりだ」
氷のような殺気が、真後ろから放たれた。
「――――なに?」
振り向きざまに跳び退くのと、
アーチャーの短剣が一閃したのは、まったくの同時だった。
「ぁ――――ぐっ………?」
肩口から袈裟に切られた感触。
ドボドボと流れ落ちる血と、気を抜けば一瞬にして消えそうな意識。
痛みはあまりに鋭利で、肌と肉が焼かれているかのよう。
「は――――あ」
よろよろと後退する。
逃げよう、としての事じゃない。
ただ力が入らず、倒れようとする体をこらえようと、足が後ろに流れるだけ。
「お、おま、え――――」
「外したか。殺気を抑えきれなかった私の落ち度か、咄嗟に反応したおまえの機転か。―――まあ、どちらでも構わないが」
俺の血に濡れた短剣を手に、アーチャーが歩み寄ってくる。
「ぁ―――――ぐっ――――!」
殺される。
殺されると直感して、懸命に足を動かした。
―――境内の出口。
階段に至る山門を目指して、後ろ歩きのまま、よろよろと後退していく。
「――――――――――――」
……これが致命傷だと判っているのか。
ヤツは慌てた風もなく、ゆっくりと歩いてくる。
「はっ――――あ、あ――――!」
気が、遠くなる。
自分が何をしているのか分からない。
何を思って山門を目指しているのか、どうして自分が切られたのか、そのあたりの意思が、血液と一緒にだらだらと流れていく。
……その中で、まだ意識があったのは、ヤツが持っている剣のおかげだったのかもしれない。
白い短剣。
飾り気のないソレが不思議と目に焼き付いて、閉じてしまいそうな目蓋を留めていた。
「あ――――つ」
だがそれも終わり。
気が付けば背後は山門。
すぐ近くに石段があるというのに、振り向く事さえできない。
何故なら、背中を向けたその時こそ、アーチャーは衛宮士郎を両断するからだ――――
「最期だ。戦う意義のない衛宮士郎はここで死ね」
剣があがる。
黒い陰剣が、断頭台のように掲げられる。
「な…………戦う―――意義、だって……?」
「そうだ。自分の為ではなく誰かの為に戦うなど、ただの偽善だ。おまえが望むものは勝利ではなく平和だろう。
―――そんなもの。この世の何処にも、有りはしないというのにな」
「な―――んだ、と」
消えかける意識で、アーチャーの言葉に抵抗する。
だがもう、体も心も消えかけていた。
「――――さらばだ。理想を抱いて溺死しろ」
憎しみの籠もった声。
翻る陰剣莫耶《いんけんばくや》。
もう一度袈裟に振り落とされた剣は、完全にこの体を断とうとする。
―――その、直前。
ヤツの言葉に反発したい一心で、後先考えず後ろに跳んだ。
「ぬっ――――!?」
空を切る短剣と、宙に躍り出る体。
背後は底なしの闇だ。
ガン、という衝撃。
その後、体は硬い石段を転がり落ちていった。
「む、何事」
すぐ近くで聞き覚えのない声がする。
「シロウ……!?」
ついで、聞き間違えようのない声がした。
「――――セイ、バー―――…………?」
視界はほぼ死んでいる。
ぬるり、と血に濡れた体を起こそうとして、そのまま石段に倒れ込んだ。
「シロウ、しっかり……! おのれ、ここまでの傷を負わせて、なお階段から叩き落としたのか……!」
……セイバー、なのか。
彼女らしからぬ切迫した声で、セイバーは俺の体を支え起こす。
「あ――――つ」
けど、それはまずい。
誰かは判らないが、セイバーのすぐ近くにはもう一人、正体不明のサーヴァントがいる。
俺にかまっていたら、無防備の背中を襲われてしまうじゃないか――――
「い、い――――いいから、セイ、バー」
「黙って……! まだ間に合います、シロウの回復量ならこのまますぐに帰還すれば――――」
……そこまで口にして気が付いたのだろう。
セイバーは俺を支えたまま、背後のサーヴァントに振り返る。
「―――アサシン。なぜ私を討たなかった」
「それこそ無粋。刹那の花を摘むことなど誰にも出来ぬ」
「――――?」
敵の真意を掴めず、首を傾げるセイバー。
「なに、その横顔に見とれただけよ。果し合う顔も良かったが、今の張り詰めようも捨てがたくてな。つい愛でてしまったのだ」
……着物、だろうか。
とんでもなく時代錯誤な格好をしたサーヴァントはそう言い流して、あっさり俺たちに背を向けた。
「今宵はこれで十分。立ち去るがいいセイバー」
「な――――私たちを見逃すというのか、アサシン」
「そうだ。この続き、いずれ果すと言うのなら見逃そう。
今のおまえでは満足な戦いは望めまい。私とてそれは惜しい」
……アサシンを睨むセイバーと、
あくまで涼しげにセイバーを見据えるアサシン。
息が詰まるような視線の交差は、その実、十秒にも満たなかった。
「……わかりましたアサシン。貴方との決着は、必ず」
「よい返事だ。期待しているぞ、騎士王よ」
俺を抱えたまま階段を下りるセイバー。
だが――――
山門から、俺を逃がすまいと駆け下りてくる赤い騎士の姿が見えた。
「アーチャー……?」
不思議そうに声をあげるセイバー。
―――ヤツは言っていた。
殺す時は必殺の心構えで手を下す、と。
ならばアーチャーにとって、ここで俺を生きて帰す道理などあり得ない。
殺すべくして剣を振ったのならば。
ヤツは、どうあってもここで俺を仕留めるだろう。
羽のように赤い外套がはためく。
セイバーがいようといなかろうと関係ない。
アーチャーは眼下の俺めがけて石段から跳びおり、そのまま剣を振り下ろす……!
激突する刃と刃。
―――閃光のような迎撃。
割って入った刃はアーチャーの剣を受け流し、そのまま宙に跳んだアーチャーの首を断ちにいく……!
「っ――――! アサシン、貴様――――!」
身をひねって石段に着地するアーチャー。
赤い外套の騎士は着物姿のサーヴァントに阻まれ、階段を下りる事が出来ないでいた。
「邪魔をするつもりか、侍」
アーチャーは双剣を構え、アサシンのサーヴァントと対峙する。
それを前にして、アサシンは何事もなかったかのように切っ先を僅かに上げた。
「それはこちらの台詞だ。貴様こそ、見逃すと言った私の邪魔をするつもりか?」
愉快げに言う。
どういうつもりなのかは知らないが、あのサーヴァントは本気で俺たちを逃がす気らしい――――
「加えて、私の役割はここの門番だ。生きては通さんし、生きては帰さん。
―――行きは見逃したが、帰りは別だ。いささか雅さにかける首だが、今宵はそれで納めるとしよう」
……殺気が漏れる。
アサシンの殺気《それ》は、手にした長刀に似て鋭利だった。
アーチャーやセイバーのように全身に叩きつけてくる威圧感はない。
ただ、極限まで研ぎ澄まされた針のような敵意が、相手の首だけを狙っている――――
「―――よく言った。セイバーに傷一つつけられなかったキャスターの手駒風情が、このオレ[#「オレ」に丸傍点]と戦うと?」
「貴様こそ。あの女狐を驚かせようと送ったというのに、我が身可愛さで逃げ帰るとは失望したぞ」
向かい合ったのはほんの一瞬。
両者の間には、目を見張るほどの剣戟が繰り広げられていた。
「――――――――」
その光景に目を奪われる。
アサシンの剣筋は、正直理解さえできない。
多少は心得がある程度の俺の目では、もはや速いだの鋭いだのといった次元の問題ではなかった。
だが―――だからこそ、ヤツの剣舞に見惚れたのだ。
舞うような双剣の軌跡。
俺では理解できないアサシンの太刀筋を、俺でもなんとか届きそうな技量で、アーチャーは対抗していた。
……白状すれば、憧れたと言っていい。
才能や天賦の物に左右されない、鉄の意思で鍛え上げられた技量だけで、ヤツはアサシンの魔剣と鬩《せめ》ぎあっている。
……くそ、あいつが強いのは当たり前だ。
遠坂やセイバーとは違う強さ。
非凡ではないからこそ積み重ねてきた鍛錬の数。
きっと―――あいつには何もなかった。
だから限られた物だけを、自分が持っているわずかな物だけを、あの領域まで、一心に鍛え上げた――――
「……シロウ、今のうちに。どちらにせよ、貴方の体を早く休ませなければ」
セイバーの声で我に返る。
セイバーに抱えられる形で、柳洞寺を後にする。
背後には止む事のない、アサシンとアーチャーの剣戟が響いていた。
家に戻ってくる頃には、傷はほとんど塞がっていた。
“セイバーと繋がってるから、セイバーの治癒能力が付いてきているんじゃない?”
という遠坂の意見は正しいのか、セイバーと触れていると傷の治りは目に見えて速かった。
「それで、一体なにがあったのですか、シロウ」
傷の手当てを終え、藤ねえを起こさないように着替えも済ませて道場に移った途端、セイバーは説明を求めてきた。
「――――――――」
出来るだけ要点をまとめて話す。
キャスターに操られて境内まで足を運んだ事。
町で起きている昏睡事件とキャスターの関係。
……令呪を奪われる時に助けに入ったアーチャー。
そうしてそのアーチャーが、最後に俺を殺そうとした事を。
セイバーは何やら考え込んでいる。
一晩でこれだけの事が起きたんだから、そりゃあ考えも纏めたくなるだろう。
「……なるほど。では、アーチャーはキャスターを見逃したのですか」
「ああ見逃したさ。……あいつは最低だ。いくら勝つ為でもキャスターみたいなヤツを利用するだなんて、それじゃあキャスターと何も変わらないじゃないか……!」
思い返すとまた頭に血が上ってしまう。
くそ、やっぱりあの時、あいつの顔を殴っておけば良かったっ……!
……と。
セイバーが、ヘンな顔してる。
「……セイバー。なんでそこで笑うんだよ」
「いえ、シロウが人の悪口を言うなんて珍しい、と思いまして。まだ数日ほどしかシロウを見ていませんが、貴方はそんなふうに陰口を言う人ではないと判っていましたから」
「む――――――――」
……言われて、たしかにグチを言うなんて子供っぽかったな、と反省する。
「……けどしょうがないだろ。アーチャーはそれだけの事を言ったんだ。あいつは何より、マスターである遠坂を馬鹿にしたんだぞ」
「そうですね。―――ですがシロウ。一つ訊ねますが、シロウはアーチャーの裏切りが許せないのですか?
どうも、貴方は彼に切りつけられた事を怒っているようには見えない」
「え?」
―――あ、そうか。
アーチャーが俺を殺そうとしたのは、その、一応『裏切った』事になるんだ。
………いや、けどそれは。
「……それは違う。あいつは俺を裏切った訳じゃない。
始めからあいつとは何も約束していなかった。だからアーチャーが俺を襲っても、それはアリなんだと思う」
「それはそうですが……まったく、シロウは不思議ですね」
呆れた風に言う。
けど、心なしかセイバーの口調には親しみが籠もっていたような。
「結論から言うと、私もシロウと同じです。キャスターは放置できませんが、アーチャーは非道ではないのでしょう」
「え……? ちょっと待て、人の話の何処らへんを聞いていたんだよセイバー」
「全てです。それを踏まえた上で、私もシロウと同意見だと言っています。
加えて彼の剣技は清流でした。心に邪《よこしま》な物がないのでしょう。舞うような剣戟は、彼の人格を物語っていると思う」
「―――――――」
なんか、ますます気にくわない。
あんなヤツの事を褒めるなんて、セイバーはどうかしてる。
だいたい、剣技でいったらアーチャーなんて――――
「あ――――――――」
違う、さっきのは気の迷いだっ!
あんなの、セイバーに比べたら賞味期限寸前のヨーグルトみたいなモンなんだからっ。
「ふん、なに言ってんだ、あいつの剣なんて大したコトない。不意打ちしたクセに俺一人殺し損ねたんだぞ? そんなんでよくサーヴァントを名乗れるってもんだ」
「ええ。ですからシロウも筋がいいのです。長く鍛えればアーチャーに届く技量になりましょう」
「んくっ――――」
穏やかな顔でそう言われたら、もう反論のしようがない。
……とにかく、セイバーがアーチャーの剣を認めているのは確かなようだ。
それはなんか、とても、自分でも判らないぐらい気にくわない。
「――――セイバー。俺、筋がいいって言ったな」
「はい。長ずればよい使い手となるでしょう」
「……決めた。なら、傷が治り次第剣を教えてくれ。
今までみたいな生き残る為の鍛錬じゃなくて、戦う方法を教えてほしい」
ぐっ、とセイバーの手を握って、まっすぐに目を合わせる。
「え――――あ、はい。シロウがそう言うのでしたら、構いませんが」
よし、セイバーに師事できるなら文句なしだ。
今夜のような失態は繰り返せないし、逃げるだけというのも性に合わない。
……それに、なにより。
犠牲者を少なくする為に犠牲者を出せ、なんて言ったあいつにだけは、負ける事は許されない――――
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2月6日     7 Ghostwaltz
「あれ?」
気が付くと、とんでもない場所にいた。
一面の荒野に果てはなく、地平の向こうはどうあっても見渡せない。
絶え間なく吹く風は黄砂を運んで目に痛い。
「――――――――」
そのただ中にいて、ぼんやりと立ちつくした。
別に慌てる必要もない。
この風景は知っている。
なにしろ以前、夢で見た覚えがある。
ならこれも夢なのだろうと納得して、目が覚めるのを待つことにした。
「――――?」
不意に、腕に違和感が走った。
かちん、という鉄の音。
なんだろう、と袖をめくると、そこには
剣そのものになった、自分の片腕があった。
「うわあっっっっっ!!!!!」
布団から跳ね起きる。
ここが自分の部屋だと認識するより速く、まず右腕を確認した。
「あ――――え?」
……大丈夫だ。
右腕はちゃんと右腕をしている。
硬い感触でもなければ、剣になっている訳でもない。
「――――夢、だよな」
胸を撫で下ろす。
どうしてあんな夢を見たかは定かじゃないが、セイバーと契約をした事に関係があるのかもしれない。
「……機会があったら遠坂に訊いてみるか。と、それより朝飯の支度をしないと」
時刻は六時前。
今日から桜がいないとは言え、うちにはセイバーと藤ねえがいる。
三人分の朝食の支度にかかるには、これでも遅いぐらいだろう。
物音を立てないよう居間に向かう。
「…………ん」
ぴたり、と立ち止まって、障子越しに中の様子を窺う。
……半端に目を覚ましているっぽい藤ねえの寝息と、規則正しいセイバーの寝息が聞こえる。
「――――――――う」
油断したのか、わずか、中の様子を想像してしまった。
赤くなってるっぽい頬を手で隠して、庭から冷たい空気を吸い込む。
「……修行不足だ。朝メシにしよう、朝メシ」
ぶんぶんと顔をふって和室から離れる。
……にしても。
やはり、一つ屋根の下で女の子が寝ている、というのは精神衛生上よろしくないと思う……。
◇◇◇
「それじゃ先に行くけど。一人だからって遅刻しちゃだめよ」
「はいはい。藤ねえこそ朝のお勤め、頑張ってくれ」
「うん。ありがとね、士郎。朝ごはんおいしかったよ」
ぺこり、とお辞儀をして学校に向かう藤ねえ。
「――――さて」
こっちはまだあと三十分ほどある。
朝食の後片づけも済ませたし、昨日の取り決めを実行しよう。
袈裟斬りにされた傷も、階段を転がり落ちた全身打撲も完治していた。
くわえて時間もある事だし、という事で、朝一番でセイバーと竹刀を合わせる。
「は――――つ――――!」
響き渡る竹刀の音。
しなり、弾け合う二つの竹刀は、今までにないほどの快音をあげていた。
見よう見まね、というのも侮れない。
竹刀を握る前にお手本をイメージしただけで、竹刀はいつもより軽く扱い易かった。
「――――――――」
セイバーは相変わらず呼吸を乱さずにこちらの踏み込みを捌いている。
が、今朝はどこか調子が悪いのか。
昨日までなら弾かれた瞬間にこっちの意識が刈り取られてるっていうのに、セイバーの反撃はなんとかやり過ごせる程度の物だった。
……いや、やり過ごせるというのは目の前が真っ白になる、という最悪の状態を回避できるだけで、セイバーの反撃は立派に有効なわけなのだが。
「――――ふう」
竹刀を置いて、肺にたまった熱を吐き出す。
時計はいつのまにか八時を指している。
セイバーと打ち合いを始めて、気が付けば一時間経っていた。
セイバーの調子が悪い、という事もあったが、思いのほか体がセイバーの竹刀に反応してくれた分、興が乗って時間を忘れてしまったのだ。
「いや、いい汗かいた。……けどセイバー、今朝はどうしたんだ? なんか、昨日に比べて厳しさを感じなかったけど」
「そのような事はありません。私は昨日と同じように打ち合いました。それを軽く感じたのはシロウの技量があがっているからです」
「え? 技量があがってるって、俺の?」
こくん、と頷くセイバー。
……その、お世辞だったりする様子はないし、セイバーはもともとそういう事は言わないし……
「それは、本当に?」
「驚きました。シロウの技量は、昨日とは別人です」
きっぱりと言い放つ。
「……そうかな。いや、そんな事はないだろ。単にセイバーの調子が悪かっただけだ。昨日の今日で腕前があがったりしたら、師範代は商売あがったりじゃないか」
「それは同感ですが……そうですね、具体的に言うと型に無駄がなくなりました。シロウはもともと体は出来上がっていますから、適した剣筋を身につければそれだけで一段階上の剣士になれるのです」
「型に無駄がなくなった……?」
……そう言われると、今朝は体がよく動いてくれた。
俺自身が反応できないセイバーの竹刀を、こっちの竹刀が勝手に叩き落としてくれた感じだったし。
「……うーん。単にあいつの真似をしただけなんだけど」
ぼんやりと呟く。
「やはりそうでしたか。私に師事すると言っておいて、アーチャーの剣筋を手本にしたわけですね、シロウは」
見抜いていたのか、セイバーはむっとした目を向けてきた。
「え―――うわ、やっぱり判るのか、そういうの!?」
「当然です。もともとシロウには基本となる型がありませんでしたから。それに筋が一つ通れば、誰が見ても判ります」
ふん、とご機嫌ななめな体《てい》で顔を逸らす。
「う……いや、セイバーをないがしろにしたわけじゃないんだ。ただ昨日はずっとあいつといたから頭にこびりついていたって言うか――――」
「いいえ、私に断らずとも結構です。シロウが強くなる分には、私も文句はありませんから」
……うそつけ。
なんだその、いかにも不満そうな顔は。
「だから済まなかったって。……それにな、セイバーを手本にするって言っても、俺にはセイバーがどうやって反撃してくるのか見えないんだぞ? 体格も違うし、手本にするのは無理があるだろ」
「中々に正論です。では、私はあくまで貴方の練習相手という事ですね」
……う。
なんか、底なし沼にはまった気がする。
「―――いい。この件について追究するのは止めよう。
とにかく、少しは俺だって戦えるようになったってのは確かなんだから」
「何を言うのです。確かにシロウの技量はあがりましたが、それはあくまで最低限戦える、というレベルです。
私やアーチャー、バーサーカーと向き合える物ではないのですから、間違っても単独で戦闘など挑まないでください」
ぴしゃりと言い放つセイバー。
それが調子に乗った弟子をいさめる師匠のようで、つい破顔してしまった。
いや、こんな可愛らしい師匠っていうのは、妙に微笑ましいというかなんというか。
◇◇◇
一時間遅れで登校する。
休み時間、廊下は生徒たちで賑わっていた。
二年C組もたったいま授業が終わったらしく、教室から知った顔がぞろぞろと出てきている。
「よっ、おつかれ。なんか知らねーけど、タイガー怒ってたぜ。四時限目は覚悟しとけとさ」
「……そうか。今日の授業、英語があったっけ」
廊下で顔を合わすなり、聞きたくもないコトを伝えてくれたクラスメイトに挨拶をする。
まいったなあ、と教室の扉に手をかけて中に入ろうとした矢先、
「ん――――?」
先に、世界史の教師が顔を出した。
「おはようございます先生」
「遅刻か、衛宮。今日の授業は試験範囲を確認したものだ。後で、友人にきちんと聞いておくように」
「は、はい。どうも、遅れてすいません」
うむ、と頷いて葛木は去っていく。
世界史の教師にして生徒会顧問、おまけに倫理も受け持っているという鉄壁の教師、葛木宗一郎。
見た目も言動もあんな感じだが、生徒間では上級生になるほど人望が厚くなるという珍しい先生だ。
「おはよー」
教室中に挨拶をしつつ机に向かう。
覚悟の上とは言え、遅刻はやはりばつが悪いと反省すること数秒。
「やあ。随分と遅い到着だね」
「?」
声をかけられて振り返る。
―――と。
そこには、妙に愛想のいい慎二がいた。
「……慎二? どうしたんだよ、おまえどっかヘンだぞ。寝不足か?」
素直な感想を口にする。
「――――――――」
一転して睨んでくる……かと思えば、また笑う。
昨日の慎二もおかしかったが、なんか、今朝の様子はその比じゃないぞ、これ。
「慎二? おまえ、まさか襲われたのか? ばか、だから言っただろ。戦わないんなら家で身を守っているべきだって」
「……。うるさいな、なに偉そうな口きいてるんだよ、おまえ」
「……慎二?」
「なに、それとも遠坂と仲良くやっていい気になってんの? …………勘違いするなよな。遠坂と手を組んだところでおまえが強いってわけじゃない。強いサーヴァントを手に入れて嬉しいのは判るけどさ、思い上がるのはみっともないよ?」
慎二はじろじろと睨め付けてくる。
その様子は、いつもと違ってあまりにも余裕がない。
「まあいい、君が来てくれてよかったよ。ほら、衛宮がこないんじゃさ、面白みにかけるだろう?」
それが言いたかったのか、慎二はクスクスと笑いながら自分の席に戻っていった。
◇◇◇
昼休みになって、教室は一段と騒がしくなる。
「―――あれ。一成のやつ、もう出ていきやがった」
またぞろ寝不足とやらで生徒会室に引きあげたのか。
今日も弁当だから、出来れば教室で食べるのは避けたいのだが――――
「ん?」
なにやら、クラスの男どもが騒がしい。
「おーい。どした、なにかあったのか?」
声をかける。
なにやら固まって秘密会議をしている男子は、挙動不審な目つきのままこっちを見た。
「何かあったではござらん。それ、教室の外を見てみるがよい。ただしこっそり。あくまで隠密」
……後藤のヤツ、昨日は良からぬ時代劇でも見たんだな、と納得しつつ、言うとおりにした。
「――――な」
と。
教室の外、つまり廊下には、後藤くんたち以上に挙動不審な影ひとつ。
「2Aの遠坂だよな。う、うちのクラスになんか用かな?」
「間違いござらん。先ほどから盗み見ていたが、あちらも同様の草っぷり。さりげなく、しかし大胆に我らが教室を覗いておる。ドアの前を通り過ぎるのも七回目。いや、今ので八回目よ」
「……だよな。こうなると偶然じゃねえ。つうかさあ、なんか目つき悪くねえか? 遠坂さん、もっとこう、普段は涼しげな顔してない?」
「あ、おまえもそう思う? こう、通りがかるたびに目尻があがってんだよなあ。近寄りがたくなってく一方だ。ありゃイライラしてるね。なんか気にくわないコトでもあったんかな」
「待ち人来たらずというより、待ち人気づかずというところ。こう、誕生日にこっそりプレゼントを仕掛けておいたのに、送られたヤツは一年経っても気づかないんでもうブチ切れ寸前、といったところであろう」
「……後藤ってさ、時々すごい表現するよな。的確すぎ。なに、おまえ前世は軍師か何か?」
……などと、うちの男どもは言いたい放題言っている。
「………………」
恐る恐る、もう一度廊下に視線を送る。
―――怒ってる。
何に怒っているかは不明だが、なんとなく、後藤くんの考えは正しい気がする。
「――――――――」
さて。
どうしよう?
ここで廊下に出て行ったらどんな目に遭うか分からない。
遠坂本人の悪巧みもさる事ながら、二年A組のアイドルである遠坂凛に話し掛けるところなんて見られたら、クラス中の男子に槍玉にあげられかねない。
「ん、無視無視。気付かないフリ気付かないフリ」
よいしょ、と机から弁当を出す。
……教室で弁当を広げるのは危険だが。いま廊下に出て遠坂に捕まる危険性の方がもっと強い。
今日の昼はこのまま、教室から一歩も出ないで篭城しよう。
いかな遠坂とて、昼休みの教室という堅固な城壁を突破する術は持つまいよ。
「あれ? 遠坂さん、A組に戻っていっちゃったぞ?」
「なんだよ、結局理由は分からずじまいか。
……まー、案外ただの散歩すもな。ほら、遠坂って時々突拍子もない行動するらしいじゃん? 交際しろって迫ってきた三年をフルのに屋上で飛び降り寸前までいったって話、知ってるか?」
「違うって、三年に飛び降りさせる寸前、だろ。フェンス乗り越えてさ、屋上の端で立ったまま一日付き合ってくれたら付き合ってもいいってヤツ。あの三年生、しばらく登校拒否になったんだってな。
……でもさあ、なんでそんなコトしたんだろうなあ。イヤならイヤって言うタイプらしいじゃん、遠坂さん」
「あー、それでござるか。遠坂殿曰く、つり橋の上の恋愛理論だとか。とりあえず好きになれそうにないので、緊迫状態で一日過ごせば恋愛感情が芽生えるかもしれない、とのコト。いや、下々の人間には考え至らぬオツムでござる」
「………………」
弁当を開けようとした手が止まる。
……遠坂のヤツ、そんな武勇伝持ってたのか……よし、これからあいつと屋上に行った時は気をつけよう。
「おお? ラッキー、戻ってきたぜ遠坂さん!」
「……けど、なんかこう違くね? さっきまでは殺気だってたけど、今はこう、寒気がするぐらい涼しげっていうか」
「天使の笑顔でござるな。アレはもう、“アンタがそうでるならこっちも容赦しない、ワタシ開き直ったわ”という覚悟の現れでござろう」
「―――む?」
なにか、尋常じゃない寒気が走った。
セイバーに鍛えられたおかげか、危険を察する能力が上がっている。
「………………」
ちらり、と廊下を盗み見る。
自分の教室から持ってきたのか、新品の消しゴムを持って微笑む遠坂。
瞬間、
遠坂の投げた消しゴムが、俺の額に直撃した。
「なんだぁーー!? 突如衛宮くんが回ったぞう…!?」
「ありえねぇー! どうしたよ衛宮、椅子にバナナの皮でもかませたか!?」
「忍法!? 今のは忍法でござるか衛宮!?」
「あ……いったぁ――――」
白昼の奇行に盛り上がる後藤くんたち。
椅子ごと床に倒れた俺を取り囲み、心配そう……じゃなくてワクワクした目で手を貸してくれる。
「う、さんきゅ……って、後藤、いまの、どう見えた?」
「む? どうって、にゃんと一回転。衛宮が椅子に座ったまま、一人で側転したように見えたが」
是非ご教授願いたい、と申し出る後藤くん。
まあ、授業中先生に指された瞬間、ぐるんと一回転したら大ウケ間違いなしだし、後藤くんが羨ましがるのも頷ける。
が、いまはそういう問題ではない。
もう弾丸としか思えなかった消しゴムを一投したあくまが、廊下で第二弾を放とうとこっちを見据えているからだ。
「すまん後藤、話は後だ。ちょっと用事が出来た」
机は無事だったんで、弁当を持って席を立つ。
……いたい。
床に打ちつけた腰より、消しゴムが当たったおでこがジンジンしてるぞ、くそ。
「遠坂、おまえな……!」
真っ赤んなったおでこを押さえながら、魔弾の射手に食って掛かる。
「ふん、いつまでもぼんやりしてるそっちが悪いのよ。平和にお弁当食べるのもいいけど、衛宮くんはそういうのが許される立場じゃないでしょ」
「む……いや、だからって人を一回転させるのはやりすぎだ。下手したら死んでるぞ、今の」
「どうだか。あれぐらいで死んじゃうような体じゃないでしょ衛宮くんは。
……ま、そんなコトはどうでもいいわ。ちょっと話があるから付いて来て」
「話があるって……それって作戦会議か?」
「当ったり前でしょ。ほう、急ぐわよ。衛宮くんがのんびりしてたおかげで時間がないんだから。早くしないとお昼休み、終わっちゃうじゃない」
気まずそうに視線を逸らし、遠坂はズカズカと先行する。
「……?」
気のせいだろうか。
遠坂のヤツ、どことなく元気がないように見えるんだが……。
で。
人気のない屋上に連れてこられた。
「寒い」
屋上は容赦なく寒かった。
夏ならば見晴らしの良さと風通しの良さから生徒で賑わう屋上も、冬場は閑古鳥が鳴くお正月の商店街だ。
「寒い」
もう一度言う。
一応、隣にいる人物への抗議をかねた素直な感想だ。
「な、なによ。男の子でしょ、これぐらい我慢しなさい」
反対意見はすっぱり却下された。
「衛宮くん、こっち。ここなら風もこないし、人目にもつかないわ」
とことん俺と目を合わせる気がないのか、遠坂はそそくさと移動する。
「――――――――」
とにかく昼飯を食べる。
話があるから呼びつけただろうに、遠坂はいっこうに話しかけてこない。
そのくせ、
ちらり、と盗み見てみると、何か言いたげにこっちを見ていたりする。
「――――――――」
とにかく弁当をつつく。
そうしないと、その、まっとうな思考が保てないからだ。
寒いのも会話がないのも、とりわけどうってコトはない。
ただ、
これが、すごく困る。
風よけができる場所は限られているんで、必然、遠坂は俺のすぐ隣りで購買のパンを食べていた。
ちょっと体をズラせば肩が触れ合うほど近い。
つまりそれは、傍目から見れば、一緒に昼食をとっているように見えるのではないだろうか?
「っ――――――――」
赤くなりそうな頬を必死に抑える。
……くそ。
さっき廊下で誘われた時、なんでそのコトに気が付かなかったのか。
気持ちが落ち着かないのは当たり前だ。
すぐ隣りにいる相手は、今では戦友になったものの、その前までは憧れていた女の子なんだから。
……ああいや、そんなコトを遠坂に言ったら笑い飛ばされるから口が裂けても言えないが、それにしても、もうちょっと気を遣ってくれないものか。
「――――――――」
かつん、と箸が弁当の底を叩く。
……飯、食い終わった。
仕方なく弁当を片づける。
遠坂もとっくに食べ終わっていたらしく、所在なげにこっちの様子を伺っていた。
……まいったな。
あと数分で昼休みも終わってしまう。
「――――――――」
こうなったら、俺の方から放課後どうするのかを問いただしてみるしかないか――――
「なあ遠坂」
「ちょっと、いい?」
声がはもる。
ついでに、今日一度も合わなかった目線がばっちり合った。
またも二人そろって言いだし、気恥ずかしさで顔を逸らしてしまった。
「――――――――」
「――――――――」
そうして沈黙。
昼休みの終わりが刻々と近づいてくる。
あ、このままお開きかな、と残念に思いつつ助かった、と安堵する。
―――と。
「………………その、昨日の夜は、ごめん」
ぽつりと、申し訳なさそうな声で、遠坂は呟いた。
「え?」
「だから昨日のコト。アーチャーには令呪を使っといたから。……そんなんでいまさら済まされないけど、ごめん」
「――――――――」
ぴたり、と浮ついていた意識が止まる。
……昨夜の出来事。
俺を殺そうとしたアーチャーと、令呪を使ったという遠坂。
「遠坂。それは、つまり」
「……ええ。協力関係にある限り、絶対に衛宮くんを襲うなって令呪で命令したわ。だから、今後は昨日みたいな事は起きないから」
「――――――――」
……それは助かる。
助かるが、そんな事に三つしかない令呪を使ったのか、遠坂。
「そうか。けど、それは遠坂が謝る事じゃないだろう。アレは、あいつが勝手にやった事だ。遠坂だってあいつが何をしていたのか知らないんだろ」
「……うん。けど、だからって無関係じゃない。昨日の事は、あいつに自由行動をさせた|マスター《わたし》の責任よ」
俯き加減でそんな事を言う。
その仕草は遠坂らしくない。アーチャーに襲われた事より、俺はそっちの方が気にくわない。
「わかった。遠坂がそう言うんなら、そういう事にする。けどよくアーチャーが話したな。俺を襲った事なんて、あいつが遠坂に報告するとは思えない」
「……そうね。けど、自分のサーヴァントが傷を負って帰ってきて、しかも魔力が空っぽなら何かあったって思うでしょ。
あいつ、隠し事はするけど嘘はつかないから。何をしてきたのか訊ねたら、あっさり白状しやがったわよ」
思い返してカチンときたのか、ふん、と遠坂は文句を言う。
「お、調子が戻ってきたな。よかった、そうでなくっちゃ遠坂じゃない」
「むっ……ちょっと、それどういう意味よ」
「いいからいいから。それでアーチャーは?」
「家に置いてきた。なんか昨夜から様子がおかしいし、昨日の今日で衛宮くんに会わせるのもアレでしょ」
確かに、こっちも顔を合わせるのはゴメンだ。
会ったらまた憎まれ口をたたき合うに決まってるんだから。
「……そっか。けど遠坂、あいつが俺を襲った理由はなんだったんだ?」
「……それが、敵は少ない方がいい、だって。
衛宮くんはどうでもいいけど、セイバーは後々厄介になるから、今のうちに潰しておくべきだとかなんとか。
昨日みたいに簡単に他のマスターに操られると迷惑だから、ここで切り捨てた方がいいって判断したんだって」
「――――――――」
くそ、反論できない。
たしかに、あいつからしてみればキャスターの手に落ちかけた俺は足手まといだ。
キャスターに操られた時点で、あいつは俺を厄介者と判断したんだろう。
「納得いった。それじゃ、この話はこれで終わりにしよう。俺だって悪いところはあったし、そもそもあいつがいなかったら今頃どうなってたか判らない。
ほら、あいこって事で帳消しじゃないか。遠坂がそう気に病む事はないぞ」
「………………ん。そう言ってくれると、助かるけど」
気まずそうに顔を逸らす。
責任感が強い分、簡単には納得できないんだろう。
「お。ちょうどよくチャイムが鳴ったな」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
飯の味なんてちっとも判らなかった昼食だったが、これはこれで楽しかった。
「中に戻ろう。五時限目、遅れるぞ」
立ち上がって出口に向かう。
「?」
が、遠坂は座ったままだ。
「遠坂? チャイム、鳴ったんだが」
「――――――――」
遠坂は答えず、むっ、と何か言いたげな目でこっちを見たあと、
「少し付き合いなさいよ。一つぐらいサボっても平気でしょ?」
なんて、優等生にあるまじきコトを口にした。
五時限目開始の鐘が鳴る。
だっていうのに、こんなところで
あったかい缶コーヒーを飲んでいる我々は何者なのか。
……ああ、ちなみに缶コーヒーはダッシュで買ってきたものだ。
「授業開始まで五分あるでしょ? 一階の購買からここまで、五分もあれば充分じゃないかしら」
なんて、遠坂の悪魔めいた提案が原因である。
「それで、衛宮くんはどうなの。えっと、八年ぐらい前から教わり始めたんだっけ?」
「え……? ああ、魔術を習い始めた頃か。たしかそんなもんだよ。二年近く切嗣《オヤジ》に無理をいって、ようやく教えてもらえたんだ」
「じゃあ足かけ八年か……衛宮くんのお父さんも随分と半端なコトするのね。どうせ教えるんなら、生まれた時から手を加えれば良かったのに。
八年前って言えば、もう二次成長期あとでしょ? そんなに大きくなったら刻印を刻む事もできないし、体もいじれないじゃない」
遠坂は真顔で物騒なコトを言う。
いや、それが魔術師として一人前である遠坂らしさ、という事は判っているが。
「まあな。前にも言ったけど、切嗣《オヤジ》は俺に魔術を教えるつもりはなかったんだ。だからそういう、遠坂みたいにちゃんとした手順は踏まなかったんだよ。
……というか。生まれた時から手を加えるって、なにさ」
「……えっと、言葉通りの意味よ。歴史が古くなればなるほど、その家系の魔術刻印は大きくなる。
魔術刻印は形になった魔術回路だから、ほんの少し体に刻むだけで『人間の体』が拒否反応をおこして、もの凄く痛むのよ。
で、それを少しでも和らげる為に、子供の頃から少しずつ移植していくってわけ。ついでに中身も無理が利くように、にっがーい薬草やら怪しげな骨を砕いた粉とか飲み続けて、体に耐性を作っておくの」
「……まあ、魔術使いである衛宮くんには関係のない話だから、あんまり気にする必要はないわ。今から無理して真似されても困るし」
「言われなくてもそんな気はないよ。
けど遠坂は大丈夫なのか。なんか聞くだけで痛々しいんだが、その」
……うまく言えない。
俺は普通の魔術の師、というものを知らない。
ただ遠坂の家に行った時、なんともいえない重圧を感じた。
古い歴史を伝える家系。
生まれた時から後継を義務づけられ、本人の意思とは無関係に、普通の世界から離されていく子供。
それがどのくらい長くてどのくらい重いものなのか、無責任にも想像して、唇を噛んだ。
「ふーん。そう、そういう心配なんてしてるんだ、衛宮くんは」
「……うっ。な、なんだよその意味ありげな顔は。別に俺、心配なんてしてないからなっ」
「当然よ。心配なんてされる憶えはないもの。私は好きでやってきたんだから、そこに後悔なんてないしね。そのあたり、衛宮くんも同じなんじゃない?」
「……? なんでそこに俺が出て来るんだ?」
というか、同じって、俺と遠坂が?
「……まったく。ほんとに自分の事は判らないのね、アンタって。
いい、確かに私の修行は大変だったわ。けど逃げ出したい、なんて思った事はなかった。それは衛宮くんも同じでしょって言ったの」
「あ―――うん。それはそうだけど、俺は遠坂ほどきつい事は要求されなかったし」
「馬鹿言わないでよ。九年間まっとうに育っておいて、それから魔術を習うなんて正気じゃないわ。
……衛宮くんの日課がどんな物かは知らないけど、それ、よっぽど危険な鍛錬な筈よ。失敗したら命がないっていうぐらい、ギリギリのライン」
「あ……いや、それは俺が未熟なだけであって、本来ならそう危険な物じゃないんだ。遠坂と比べる事なんてできない」
「そうね。私だって貴方と比べる事はできないもの。
……魔術の鍛錬なんてね、結局はそういうものよ。唯一共通なのは命を秤にかけてるって事。
秤には個人差があるけど、要はその秤をどれほど傾けられるかでしょ」
「その点で言えば、貴方は私なんかよりずっと厳しい。私、死ぬような鍛錬なんてしたことないもの。そもそも失敗する事がないし」
「―――うわ。言い切ったな、いま」
さらりとこっちが傷つく問題発言。
ようするにアレだ、遠坂さんは赤点をとる俺たちの気持ちが判らないと仰ったワケなのだ。
「ほら、そこ拗ねない。今の褒めたんだから」
「ふん。テストでいつも百点とってるヤツに、今回はよくできました、なんて褒められても嬉しかないやい」
「今回は、なんて言ってないわよ。
要するにね、たしかに教えは厳しかったけど、辛くはなかったって事。だから逃げ出さなかったし、今もずっと続けている。それ、衛宮くんも同じでしょ?」
「む――――――――」
厳しかったけれど辛くはなかった、と遠坂は言う。
……それは、確かに似ていると思う。
衛宮士郎は辛いとも厳しいとも感じなかった。
いや、正直そんな余裕はなかったんだ。
ただ俺は、切嗣に追い付きたかっただけだ。
いつか切嗣のような人間になる。
切嗣がなれなかったという正義の味方になる為に、ただ鍛錬を積み重ねた。
振り返って見れば、日々の思い出の大半は土蔵で鍛錬をした事だけだ。
それを後悔した事はない。
きっと、そうする事が自分にとって一番大切なコトだと信じていたからだ。
「……そうか。言われてみれば、そうだな。俺も、それなりにやってきたって事か」
「そういう事。衛宮くんは独学でここまできたんだから、もっと自信を持ちなさい」
胸を張って、遠坂はそう言った。
……少し照れる。
そう、我が事のように喜ばれると、こっちは倍も気恥ずかしいというか。
「さて、話がまとまったところで、少しは真面目な話をしよっか。協力者としてお互いの特技は知っておかないとね」
「特技……? ああ、使える魔術の事か。そんなの今更だろ。遠坂は俺の魔術を知ってるじゃないか」
「ええ、衛宮くんの魔術は“強化”だっけ。
珍しい……とまでは言わないけど、メインに据えてる魔術師はそう多くないじゃない。それが不思議だったのよ。貴方、どうして強化にこだわるわけ?」
「いや、単にそれしか使えないんだよ。色々試したけど強化ぐらいしか出来なかった」
あとは設計図作りとか、そういう基本的な事だけだ。
そんなの今更話し合う事じゃないだろうに。
「そう。わたしのところは“転換”かな。
力の蓄積、流動、変化ってところ。そのあたりを基本にして、有名どころの魔術は抑えてある。結界作りも教室ぐらいの広さなら、形だけは整えられるわ」
力の転換―――それって基本にして万能って事だよな。
ようするに、魔力を色んな器に移し替えられて、それを変化させられるっていうんだから。
「そっか。けど遠坂、教えてくれるのは嬉しいけど、自分の魔術をバラしていいのかよ」
「前に衛宮くん、私に教えてくれたでしょ。なのにわたしだけ隠しているのはフェアじゃないから」
そう言って、遠坂は左手を突き出してくる。
「この前見せたけど、これがわたしの魔術刻印。
遠坂の家に伝わるのは転換の技法でね。自分でも他人でも、ともかく力を移し替えたりするのが得意なわけ。
普通、魔力っていうのは体外に出すと消えるでしょ?
魔力だけで神秘は起こせない。外に出して魔力が消えてしまう前に、魔力によって魔術っていう式を発動させる。だから魔術にしていない“純粋な魔力”は移し替えるのが難しいんだけど――――」
そこで話をきって、遠坂はポケットから小さな石を取り出した。
……宝石、だろうか。
透明な多面体は、万華鏡をイメージさせる。
「例外として、私は他の物に自分の魔力を蓄積できる。
いいえ、自分の魔力だけじゃなくて、他の術者の魔力だって保存できるし、難しいけど、移し替えられるのは魔力だけじゃないわ」
「で、その保存場所に一番相性がいいのが宝石なの。
宝石が想念を貯めやすい『場』、流れを留める牢獄って事は知ってるでしょ。
くわえて、ずっと地中で眠っていた鉱石には強い自然霊が宿っている。そういった宝石は魔力を籠めるだけで、簡易的な『魔術刻印』になるのよ。
ま、宝石である以上、一度でも籠められた魔力を解放すれば壊れちゃうんだけど」
ふう、と肩をせばめて宝石を仕舞う遠坂。
「……なんだ、勿体ない話だな。一度使ったら壊れるって、なくなるって事だろ? 宝石なんて高い物、その度に補充するのか?」
「……そう、そうなのよ。おかげでうちは年中金欠でさ。遠坂の魔術師は、跡継ぎになったらまずお金を稼ぐところから――――」
「そうか。うん、問題ってのは人それぞれなんだな、遠坂」
「――――く」
余計なコトを口走った、とばかりに顔を逸らす。
……うむ。
会う度に思うのだが、遠坂って根はドジな方なのではなかろうか。
五時限目も終わりに近い。
遠坂の説明も終わった事だし、魔術師の家系繋がりで、慎二の事を訊いてみるコトにした。
「なあ遠坂。慎二の家―――間桐の家が魔術師の家系だって言うんだけど、知ってたか?」
「ええ、知ってたわ。
けど間桐家はここ数十年で衰退したって父さんが言ってた。今の間桐家には魔術師としての血脈はないって。それは本当。だから慎二がマスターになったって聞いて驚いたけど」
なんだ、やっぱり知っていたか。
そうだよな、ここ一帯の土地を管理しているんだから、歴史のある魔術師の家系なんて全部知ってるし、慎二がマスターだって事ぐらい――――って、ちょっと待った…………!!!!!
「遠坂! 慎二がマスターだって知ってたのか!?」
「あはは。ごめんごめん、わたしも今朝知ったのよ。慎二がマスターになる訳ないってタカをくくってたのが裏目に出たみたい」
遠坂はなんでもない事のように言う。
「…………?」
なんか、おかしいぞ。
学校にいる三人目のマスターを捜していたクセに、慎二を全然問題視していないような……?
「遠坂? 慎二はその、マスターなんだろ?」
「ええ。けど別にどうって事ないでしょ。慎二自身に魔力はないんだし、そう大それた事はできないわ。
私たちの敵は学校に潜んでいるマスターだもの。慎二はマスターとしての気配もないし、私たちが探している相手とは別物よ」
「……? じゃあ学校には、都合四人のマスターがいるって事か?」
「そうなるんじゃない? まあ、慎二には大人しくしておけって言ったから、邪魔される事はないでしょうけど」
……またも気になる発言。
いや、そもそも遠坂は、どうやって慎二がマスターだと知ったんだろう……?
「遠坂。ちょっと、今朝の話を詳しく聞かせてくれ」
「? 詳しくも何も、慎二の方から話しかけてきたのよ。僕もマスターになったから、二人で手を組まないかって」
「――――――――」
悪い予感がしてきたが、ここで納得する訳にもいかない。
「続き。その続きはどうした」
「続きも何も、当然断ったわ。
……だっていうのにあいつ、しつこく食い下がってくるんだもの。つい、士郎がいるから間桐くんはいらないって言っちゃった」
あははー、と楽しげな後日談っぽく語る遠坂。
「……………………」
慎二のヤツがどこかおかしかったのは、それが原因だろう。
だが――――
「……それで遠坂はどうするんだ。慎二を放っておくのか。学校の結界って慎二が張ってるんだろ」
「―――――え?」
遠坂の動きが止まる。
……やっぱり。こいつ、慎二が結界の主だって気づいてなかったな――――!
「違うんだ遠坂。たしかに慎二は魔術師じゃない。けどあの結界は慎二が張ったものだ。きっと、キャスターみたいにサーヴァントの方が魔術に長けているんじゃないか」
遠坂は見る見る青くなっていく。
「遠坂。おまえ、気づいてなかったのか」
「……ううん。あの結界がサーヴァントによるものだって気が付いてた、けど」
それと慎二が結びつかなかったのか。
……さっきまでの遠坂を思い出す。
きっと、遠坂の頭の中は昨夜の事件でいっぱいで、慎二の事を考える余裕がなかったんだろう。
遠坂にとっては、まさに一世一代の大ポカだ。
「まずい。下手したら慎二のヤツ―――」
すぐさま立ち上がり、出口を睨む遠坂。
その、瞬間。
まるで計ったかのように、その異常は発現した。
「結界――――!」
赤く染まった空。
学校の敷地全てを包む赤い空気は、吸い込むだけで意識を麻痺させようとする。
……体内で魔力を生成できる魔術師ならばそう影響はないが、魔力の少ない人間なら、息をするだけで昏睡し、いずれ死に至るだろう――――
「遠坂―――!」
「わかってる、急ぐわよ士郎―――!」
校舎は一面の赤だった。
血のように赤い廊下。
血のように赤い空気。
どろりと肌にまとわりつく濃密な空気は、それだけで、これが悪い夢なのではないかと錯覚させる。
「くっ――――」
硬く閉ざしていた口から、嫌悪をこめた息が漏れる。
混乱し、加熱している思考に理性という冷却水をぶっかけて、ともかく現状を把握しようと努力する。
四階、階段に一番近い教室に飛び込む。
「………………!」
一瞬、遠坂は足を止めて、その惨状に踏み入るのを躊躇した。
「――――――――っ」
……その気持ちは分かる。
俺だって、こんな場面には出会いたくない。
「―――息はある。まだ間に合わない訳じゃない」
倒れている生徒に近寄って、脈と呼吸を確認する。
……教室で起きている人間はいなかった。
椅子に座っていた生徒も教壇にいた先生も、今は例外なく地面に伏している。
生徒たちの大部分が意識を失い、全身を痙攣させ、悪い冗談のように、口から泡をこぼしていた。
……残る数人。
数えるぐらい少数の生徒には、それ以外の異状が現れていた。
……肌が、溶けている。
少しずつ、石膏につけた泥がズレていくように、人間の肌がとろけている。
倒れ込み、溶けていく肌が床に染み込んでいく光景は、巨大な胃袋を想像させた。
教室の惨状を目の前にして、遠坂は息を殺している。
「――――――――」
考えている余裕はない。
一刻も早くこの事態を収拾するには――――
―――それが最善だ。
これが慎二のサーヴァントが張った結界なら、こっちもセイバーを呼ぶまでだ―――!
「遠坂、セイバーを呼ぶ……! 令呪の使い方を教えてくれ」
「え―――ちょっ、ちょっと待って、セイバーを呼ぶなら、わたしも――――」
「遠坂は昨日令呪を使ったんだろ。なら次は俺の番だ。セイバーを呼んでもどうにもならないなら、その時はアーチャーを呼べばいい! それで、令呪の使い方は!?」
「――――左手に意識を固めて。目は瞑った方がいい。頭の中で自分の令呪の形をイメージして、するっと紐解くだけでいいわ。もちろん、解く時は命令をしながらよ」
目を瞑る。
時間はかけられない。
最短で雑念《しこう》をクリアし、
二つ目の画に手をかけ、
「――――頼む。来い、セイバー――――!!!!」
躊躇う事なく、左手の令呪を解放した。
「っ――――」
ぎち、と左手の甲が熱く焼ける。
同時に、すぐ真横に異様な重さを感じ取り―――その重い“歪み”から、銀色の騎士が出現した。
「セイバー……!」
「召喚に応じ参上しました。
マスター、状況は……? 令呪を使う程の事なのですね?」
「―――見ての通りだ。サーヴァントに結界を張られた。一秒でも速くこいつを消去したい」
「承知しました。確かに、このフロアにサーヴァントの気配を感じます」
「このフロア……!? 四階にいるっていうの、サーヴァントが!?」
「間違いありません。……凛、それが何か」
「えっ―――ううん、セイバーの感知なら確かだろうけど、それはおかしいのよ。結界の基点は一階から感じられる。サーヴァントの気配を感知するのはサーヴァントであるセイバーのが優れてるでしょうけど、こと魔術の痕跡に関してはわたしだって負けてない」
「……? サーヴァントはこの階にいるのに、結界を張っているのは一階だって事か、遠坂」
「ぅ……断定はできないけど、わたしはそう感じてるわ。この結界の基点は一階にあるんだって」
「――――――――」
二者択一か。
サーヴァントをこの階に配置したのが慎二だとしたら、間違いなくどちらかが罠だ。
選択を間違えれば、それこそ学校中の人間が犠牲になる――――
「凛。アーチャーはどうしたのです。彼がいるのなら、もう少し確かな判別ができる」
「それがあいつ、呼んでも応えないのっ! この結界、完全に内と外を遮断してる。令呪を使うか、あいつがこっちの異状を感知して駆けつけてくる以外ないわ」
「――――――――」
睨み合う遠坂とセイバー。
が、今はそんな場合じゃない。
……考えろ。
遠坂は冷静さを失っている。
俺たちに出来る最善は――――
「―――――――よし」
一階を調べに行こう。
セイバー一人に任せるのは申し訳ないが、彼女なら一人でも応戦できる筈だ。
「―――セイバー、サーヴァントは任せた。一人で戦えるか?」
「無論です。では、シロウは」
「遠坂と一階に急ぐ。俺一人じゃ危なっかしいだろうが、遠坂がいるならなんとかなる。それに魔力感知は遠坂しか出来ない。一緒に行くぞ、遠坂」
「え――――え、ええ、当然よ。言われなくても一人で行くつもりだったわ」
決まりだ。
となると、後は――――
「ちょっ、なにしてんのよ!? 椅子の足なんて折って、正気?」
「武器は必要だろ。俺は強化しかできないんだから、元になる得物が必要なんだ」
ブン、と折った椅子の足を振る。
―――以前、遠坂に襲われた時の再現か。
強化はすんなりと成功し、ついでだから、ともう一本椅子の足を頂戴した。
「シロウ。外に微弱な気配がします。どうやら包囲されたようです」
「!? 包囲されたって、何に!?」
「判りかねます。ですが、外に出て確認するだけの話です」
「――――そうだな。先頭、頼めるか」
「無論。貴方の盾となるのが、私の使命ですから」
セイバーは廊下へと飛び出していく。
「行くぞ遠坂――――こっちは一階だ……!」
「――――!」
廊下に出た瞬間、俺たちを包囲していたモノが判明した。
アレは骨、か。
人ではないモノの骨で作られた人形が、廊下の向こうから大挙してやってくる……!
「遠坂、アレは……!?」
「ゴーレム、使い魔の類でしょ! いいからこっち! アイツらはセイバーが引き受けてくれるってば! あんなの、何百体いようがセイバーの敵じゃない!」
「っ―――すまん、セイバー!」
階段へ走る。
背後では、セイバーが奇怪な骨人形を蹴散らす音だけが響いていた。
―――階段を駆け下りる。
四階から一階まで、距離的には遠くない。
だが――――
「こ、の――――!」
手にした椅子の足で、立ちはだかる骨人形をうち砕く。
「はっ――――は、は――――!」
これで三体目。
学校中の惨劇を目の当たりにしたからか、こんな化け物と対峙する事がどうでもよくなっていた。
ようするに麻痺しているのだ。
嫌悪、恐怖、悲壮、逃走、なんてまっとうな感情が凍っている。
頭の中にあるのは一階に向かう事だけ。
手にした二つの武器を、ただ見よう見まねで振り続ける――――!
「この、なにそっち行ってんだテメェ――――!」
四体目の骨を薙ぎ払う。
遠坂を真横から襲おうとした骨人形は、今までにないほど砕け、壁に叩きつけられた。
「おい、無事か遠坂――――!」
わらわらと寄ってくる骨どもを弾き返しながら遠坂に声をかける。
「――――――――」
良かった、遠坂には傷一つない――――!
「遠坂、結界の基点は!?」
「え―――ええ、すぐそこ! あそこの教室!」
遠坂が指した先は、距離にして十メートル先だ。
階段から俺たちを追ってきた骨人形はあと数体。
が、こいつらに関わっている余裕はない……!
襲いかかってくる剣を、右の武器で弾く。
そのままがら空きの胴体に、左の武器を叩きつけた。
五体目の骨人形を破壊する。
だが数は減らない。
廊下に群がる数は、ざっと見て十体以上……!
「くそ、しつこい……! いい加減品切れになれってんだ、こいつら―――!」
じり、と後退する。
手にした椅子の足は、もうボロボロだ。
いかに強化したところで、もともとはステンレス材にすぎない。
これじゃああと一回、ヤツラの剣を受けきれるかどうか――――
「士郎、下がって……!」
「え……?」
驚きつつ、言われた通りに後退する。
瞬間。
俺と入れ替わるように前に出た遠坂は、宝石を骨人形どもへ投げつけ、
「Ein 《灰は》KOrper《灰に》 ist ein 《塵は》KOrper《塵に》―――!」
視界を、一面の白にした。
「――――――――」
今のは何らかの解呪だったのか。
廊下には何の破壊の跡もなく、ただ、バラバラに散らばった骨人形の残骸があった。
「ありがと、助かったわ。トパーズなんて滅多に使わないから、用意するのに時間がかかって。
……正直、衛宮くんがいなかったら数で押されてた」
ふう、と両肩を下げる。
それも一瞬の事で、遠坂はすぐさま教室を睨み付けた。
「行きましょう。あそこに慎二がいる筈よ」
遠坂は教室へ駆けだしていく。
その後を追って、赤い教室に足を踏み入れた。
――――そこは、まさしく地獄だった。
教室に充満した空気は、もはや気体とさえ呼べまい。
気化した血液はペンキのように、見る者の眼球を染め上げる。
苦悶の声は四方から聞こえていた。
―――ここは結界の基点、もっとも“吸収”の激しい場所だ。
床に倒れた生徒たちは、四階の生徒たちとは別物だった。
……聞こえてくるうめき声は、ただの錯覚。
倒れ伏す生徒たちの顔は青ざめ、蝋細工《ろうざいく》のように動かない。
それは亡骸の山、荒れ地にうち捨てられたゴミの山を想像させた。
遠坂は足を震わせて、ただ、その光景を凝視している。
カチカチという音。
何らかの感情を抑える為か。遠坂は歯を鳴らして、必死にこの光景を見据えていた。
「――――――――」
震える足をあげて遠坂は進んでいく。
机と机の間《あいだ》。
そこに、生きている人間がいた。
倒れ伏す生徒たちに紛れるように尻餅をつき、間桐慎二は遠坂を見上げている。
「慎二、アンタ……!」
睨み付ける声。
それに反応したのか。
慎二はよく判らない奇声をあげて、遠坂から跳び退いた。
「―――言い訳はきかないわよ。アンタがやった事の代償は、どんな事をしても払わせてやる」
慎二に詰め寄る遠坂。
「ち、違う、違う違う違う違う違う……! 僕じゃない、僕じゃない、僕じゃない、僕じゃない………!!!!!」
ぶるぶると首をふって、慎二は壁際まで後ずさっていく。
「僕じゃない……? よくもそんな事を言えたものね。いいから、今すぐ結界を解きなさい。解かないっていんうなら、その顔吹っ飛ばしてでも――――」
「あ――――う、うう、ちが、だから違う、僕じゃない、僕じゃないんだ、殺したのは僕じゃない……!!!」
「……?」
おかしい。
慎二は遠坂から逃げているくせに、遠坂を見ていない。
あいつの視線は床―――俺たちの足下に向けられている。
「足下……?」
視線を向ける。
そこにあるのは、やはり倒れ伏した生徒たちの姿だけだ。
それ以外には、なに、も――――
「――――――――遠坂」
声をかけて、その場所を指す。
「え――――?」
間の抜けた声。
慎二への怒りも忘れたのか。
そこに倒れ伏したモノを見た途端、遠坂の殺気は消え去っていた。
「――――――――――――」
呼吸が止まる。
床に倒れ伏したソレは、完全に死んでいた。
紫の長い髪。
黒い装束に身を包んだソレは、俺を襲ったサーヴァントだった。
「――――死ん、でる」
感情のない遠坂の声。
「だから僕じゃない。僕がやったんじゃない。結界を起こして、誰も動かなくなったのに、ライダー、ライダーは、あいつ、あいつに」
黒いサーヴァント――――ライダーは、一撃で絶命していた。
どのような武器、どのような手段だったのか。
サーヴァントを相手にただの一撃。
首だけを狙い、それを引き千切る事で相手を仕留める。
……その過程が、あまりにも思いつかない。
よほどの虚を突いた物だったにせよ、首を一撃で断つその手腕。
……いや、あれは『断つ』と言えるのか。
まるで万力か何かを首にセットして、押し潰す事によって肉と骨をえぐり取ったかのようだ。
――――ライダーが消滅する。
同時に赤い世界も消えた。
やはり結界はこのサーヴァントが張っていた物だったらしい。
だが――――
「慎二。これをやったのは誰?」
「ひ――――」
遠坂に詰め寄られ、慎二はじりじりと廊下へと後退していく。
「言ったでしょう。学校にはもう一人マスターがいるって。その忠告を無視して騒ぎを起こしたアンタの落ち度よ。
……ふん。どうやらサーヴァントを見殺しにして生き残ったみたいだけど、相手の顔を見たんなら次はアンタの番よ。どんなマスターだか知らないけど、必ずアンタを始末しにくるわ」
「っ…………! そ、そんなコトあるもんかっ! 僕にはもうサーヴァントはいないんだ! マスターじゃないんだから、狙われるのはおまえたちだけだろう……!」
「そうね。……まあ、確かにその通りか。アンタにまだ令呪が残っていようと、放っておいても害はないもの。
うろちょろして見苦しいかもしれないけど、羽虫じゃ人間は殺せないし。
―――そうね。アンタ次第で、ここで息の根を止めるのは待ってあげる」
「は、羽虫――――僕が、羽虫……?」
「害虫に喩えなかっただけでも有り難く思いなさい。
間桐慎二は魔術師でもなければマスターにも相応しくないから、人畜無害だって言ってやったのよ」
「―――で。見たんなら答えなさいよ。今のアンタなんて、その程度の価値しかないんだから」
「っ――――う、う――――!」
遠坂の気迫に押されて後退する慎二。
遠坂が本気なのか脅しなのか、俺にも判別はつかない。
……ただ。
あいつは本気で怒っている。
この教室の惨状を見て、我を失っている。
「さあ……! アンタのサーヴァントを仕留めたのはどんなサーヴァントだったのよ、慎二!」
「っ――――し、知るもんか間抜け! お、怯えるのはおまえたちの方だぞ遠坂、次あいつに狙われるのはおまえたちなんだからなっ……!!!!」
「このぉ――――!」
廊下へ逃げ去っていく慎二と、それを追いかけようと前に出る遠坂。
――――が。
遠坂は何かに気づいたように、ピタリと足を止めていた。
……いや、違う。
何かに気づいた訳じゃない。
遠坂はただ、教室に倒れ込んだ生徒たちを見て、悔しげに歯を噛んでいるだけだった。
「――――――――」
その横顔は、いつもの遠坂凛の物だ。
けれど膝は震えていて、その目は、今にも泣きだしそうなほど揺れている。
「――――――――」
……悔やんでいるのか、悲しんでいるのかは判らない。
ただ、それで分かってしまった。
こいつは強気で、なんでも出来て、一人前の魔術師だけど。
その中身は本当に、年相応の女の子なんだって事が。
「―――大丈夫だ遠坂。みんな、まだ息はある。まだ終わったワケじゃない」
「え……? 息があるって、みんなに……?」
「ああ。辛いだろうけど、よく見て見ろ。みんなちゃんと生きてる。結界もなくなったし、後はすぐに助けを呼ぶだけだ。
―――で。この場合は救急車か、それとも違うところか? 魔術による傷なら、教会に連絡をいれるべきなのか」
声を落ち着けて質問する。
それでようやく理性が戻ってくれたのか、遠坂はパン、と両手で自分の頬を叩いていた。
「連絡するのは教会でいいわ。綺礼に状況を説明すれば、あとの手配は全部やってくれる」
「よし。じゃあすぐに連絡しよう」
頷いて、遠坂は廊下へと飛び出していった。
向かう先は事務室だろう。
あそこなら電話があるし、すぐに連絡がとれる筈だ。
連絡を済ませて、とりあえず校舎から出た。
学校の中で無事なのが俺たちだけ、というのは後々厄介なので、とりあえず今日はいなかった事にしろ、という言峰からの指示らしい。
「じゃあセイバー、相手はキャスターだったのか?」
「はい。骨人形《ゴーレム》を操っていたのはキャスターのサーヴァントでした。校舎に潜んだキャスターを倒しはしましたが、アレは影にすぎないのでしょう」
「――――――――」
……そうか。
キャスター本人は柳洞寺から骨人形どもを操っていた訳か。
となると、慎二のサーヴァントを襲ったのはキャスターで間違いはない。
「……学校にいる四人目のマスターは、キャスターのマスターって事だな。あいつの事だ、マスターである慎二を使ってライダーを罠にはめたって事もある」
「……そうでしょうね。シロウの話では、ライダーは一撃で首を斬られている。何らかの理由で動きを封じられ、無抵抗なまま倒されたとしか思えない」
「―――厄介だな。でもまあ、なんにせよキャスターのマスターが学校にいるって事は判ったんだ。まったくの無駄だった訳でもない」
な、と遠坂に振り返る。
遠坂は無言で視線を向けてくるだけだ。
教室で別れて以来、遠坂は何か言いたげに俺を見ている。
「遠坂、言いたい事があるなら言えって。おまえに黙ってられると、なんか背中がむずむずする」
その、いつ背後から叩かれるか不安になって。
「――――――――」
遠坂はそれでもじっとこっちの顔を見た後、あくまで真剣な顔で、
「衛宮くん、冷静なのね。意外だった」
なんてコトを口にした。
「……? 冷静じゃないぞ。俺だって目の前が真っ赤になった。怒りで我を忘れたのはお互い様だろ」
「それでもみんなの傷を把握してたじゃない。わたしには、出来なかったけど」
「? ああ、そんな事か。別に大した事じゃない。死体は見慣れてるから判断がついただけだ」
「え―――死体は、見慣れてる……?」
話ながら場所を移す。
救急車の一団がやってきたら、ここも騒がしくなるだろう。
とりあえず、雑木林から裏口に出て、そこから学校を出る事にしよう。
――――と。
「なんだ。セイバーがいるとは驚いたな」
裏口に向かう途中、バッタリ遅刻野郎と出くわした。
「アーチャー……! アンタ今頃やってきてなんのつもりよ!」
「決まっているだろう、主の異状を察して駆けつけたのだ。もっとも遅すぎたようだがな。セイバーがいて凛が無事なら、事はもう済んでしまったのだろう?」
「っ! ええ、もう済んじまったわよ! アンタがのんびりしてる間に何が起きたのか、一から聞かせてやるからそこに直れっていうの!」
「……チ。どうやら最悪の間で到着してしまったか」
などと、二人は俺たちを忘れて言い争う。
……まあ、遠坂が一方的に怒鳴って、それをアーチャーがやんわりと受け流しているだけなのだが。
「やはり仲がいいのですね、あの二人は。凛が怒っているのはアーチャーを信頼していた裏返しですし、それを黙って聞いているアーチャーも、凛に申し訳がないからでしょう」
「―――言いたい事は判る。けど、どうしてそれをいちいち俺に言うんだセイバー」
「いえ、シロウが難しい顔をしていたものですから。代わりに解説してみただけです」
何が楽しいのか、セイバーは意味ありげに笑ってたりする。
「…………………………」
なにか、ますます気にくわない。
「わかったわかった、次からは体裁など気にしない。それで今回の件は分けという事にしておこう。
―――で。結局、脱落したのはどのサーヴァントだ?」
アーチャーの目つきが変わる。
いつもの皮肉げな余裕は影を潜め、そこにあるのは冷徹な戦士の趣だった。
「……消えたのはライダーのサーヴァントだ。状況は判らないが、キャスターにやられたんだろう」
「キャスターに? ではキャスターはどうなった。よもや無事という訳ではなかろう」
「それも判らない。ただライダーは一撃で倒されていたから、キャスターは無傷だと思う」
三人を代表して言う。
……と。
「……ふん。腑抜けめ、所詮口だけの女だったか。
勝ち抜ける器ではないと思ったが、よもやただの一撃で倒されるとは。まったく、敵と相打つぐらいの気迫は見せろというのだ」
いつもの調子に戻って、アーチャーはもういないライダーを罵倒した。
「―――アーチャー。ライダーはマスターを守って死んだ。腑抜けなどと、貴方に言う資格はない」
「は、何を言うかと思えば。腑抜けは腑抜けだろう。英雄を名乗るのなら、最低限一人は殺さなければ面目が立つまい。それが出来ぬのなら、せめて命懸けで相討ちを狙えというのだ」
「―――勝手な事を。それが出来ぬ状態だったからこそ無抵抗で破れたのではないか。その散り様を罵《ののし》るとは、貴様こそ英雄を名乗る者か」
「く。どのような理由であれ、無様に破れた事に変わりはあるまい。
……まあ、確かに英雄であるから、というのは失言だったな。英雄であろうがなかろうが、弱ければ死ぬだけだ。この戦いに相応しくない“英雄”とやらは、早々に消えればいい」
「―――よく言った。ならば私と戦うか、アーチャー」
「おまえと? これは驚いたな。何が癇に触ったかは知らんが、協力関係にある者に戦いを挑むとは。
だが残念。私はおまえたちと戦うな、と令呪を下されている。
いま挑まれては、ライダーと同じく無抵抗で倒されるだけだが―――そんな相手と戦うのが君の騎士道なのか、セイバー」
「ぬ――――――――」
無言で睨み合う二人。
「アーチャー、そこまでよ」
それを止めたのは、遠坂の静かな一喝だった。
「む……」
「セイバーと喧嘩してる場合じゃないでしょう。
ライダーは消えて、マスターも一人脱落した。けど学校にはあと一人、正体不明のマスターが潜んでいる事は間違いない。
私と衛宮くんの協力条件は“学校に潜むマスターを倒すまで”よ。それともなに? あなた、今度はセイバーと戦うな、なんて令呪を使わせたいの?」
「――――そうだな。セイバー殿があまりにも王道ゆえ、からかいに興が乗ってしまった。
すまんなセイバー。私と戦うのは、協力関係が終わってからにしてくれ」
「……いいえ。私も大人げがなかったようです。凛に免じて、今の発言は聞き流します」
アーチャーを睨んだまま一歩引いて、俺の傍らに控えるセイバー。
遠坂もアーチャーを後ろに下げて、とにかく、と場をしきり直す。
「……まあ、話は今の通りよ。
わたしたちの協力関係はまだ続いてる。今日はもう無理だろうけど、明日になれば学校でキャスターのマスターを捜す事だって出来るわ。
―――つまりは現状維持って訳だけど、衛宮くんはそれでいい?」
「ああ、そのつもりだ。それで、今日はこれからどうするんだ? やっぱり柳洞寺に行ってみるのか?」
「……そんな訳ないでしょう。アーチャーの話じゃ柳洞寺に行くのは自殺行為だって話だし。キャスターを倒すんなら、マスターを捜すのが先決よ。
幸か不幸か、キャスターのマスターは毎日学校に来てる。こっちからつついて警戒されるより、今はそれを続けさせた方がいいわ」
「……む?」
どうしてそういう結論になるのか、と考える。
遠坂は学校にマスターがいる、と前から気づいていた。
それは慎二ではなく、確かに魔力を帯びた人間がいたからだろう。
今回の騒ぎでキャスターが現れた以上、学校に潜んでいたマスターはキャスターのマスター、という事になる。
で、キャスターのマスターは、なぜか毎日学校に足を運んでいる。
キャスターが守りを布いている柳洞寺に篭るのではなく、無防備なままで学校に来ているという事――――
「……つまり、誰がマスターなのか確かめた後、柳洞寺に戻る前に襲おうってハラか?」
「そういう事。どうもね、キャスターのマスターはわたしと衛宮くんがマスターだって知らないと思うのよ。
だって、知ってたら学校になんか来ないでしょ?」
「あ―――うん、それはそうだ。……じゃあキャスターのマスターは、慎二がマスターだって事も知らなかったのかな」
「……説明はつかないけど、その可能性は高いわ。あれだけ魔術に長けたサーヴァントを連れておいて、そんな間の抜けた話はないと思うんだけど……」
……だよな。
マスターとしての知識がない俺だって、セイバーのおかげでここまでやってこれているんだ。
キャスターみたいなヤツがサーヴァントなら、それこそ外に出てくるなんて危険な真似はしないんじゃないだろうか。
「それは違う。前提を間違えているんだ、凛」
「アーチャー……?」
「キャスターのマスターに自由意思はあるまい。
……いや、自由意思があるつもりでいて、やはりキャスターに操られているのだろう。あの女は人の下につく者ではない。マスターなど最初の一手で排除し、都合のいいように扱うだけだ」
「―――キャスターのマスターは傀儡だっていうの?
キャスターに騙されているか、自分がマスターだって忘れさせられてるとか」
「む――――なるほど、本人が意識していない、というのは面白いな。
本来、サーヴァントはマスターには手出しができない。
マスターを殺害すれば、自分が存在できなくなる。
逆に、マスターには令呪がある。サーヴァントが逆らえば、最悪マスターはサーヴァントを殺す事ができる。
……となると、マスターは排除するより騙す方が安全だ」
なるほど、と考え込む遠坂。
が、どうもそれには納得がいかない。
「そうかな。キャスターはあれだけの悪事を働いてるだろ。それをマスターに隠している、なんて出来るのか。サーヴァントが強ければ強いほど、マスターだって警戒心を持つんじゃないか?」
「その点は問題ない。絵に描いたようなお人好しがマスターであるなら、都合のいい言い訳などいくらでも出来る。キャスターのマスターも、そういう善人なのかもしれんぞ?」
「―――おい。なんだって俺を見て言うんだよ、おまえ」
「なに、ここに前例があるからな。キャスターのマスターが間の抜けた人間、という可能性とてゼロではない」
「なるほど。たしかに貴方の言い分には一理ありますね、アーチャー」
……って。
なんでそこで同意するんだよう、セイバー。
「―――オーケー、わかったわ。
キャスターのマスターがどんなヤツであれ、とにかく明日も学校に来る可能性は高いでしょ。
わたしたちは引き続き学校の調査。で、キャスターのマスターを発見次第襲撃、でいいわね」
「……まあ、それが妥当な線だけど。どうやって捜せばいいんだ?」
「それは今日の宿題。各自、家に帰って考えること。
どのみち衛宮くんとセイバーは疲れてるでしょ。ここで無理して倒れられても困るし、今日はここで解散しましょう」
「え―――いや、そこまで疲れてる訳じゃない。
まだこんな時間だし、今からでも――――っ、ちょっ、遠坂っ!?」
「―――いいから言うとおりにしなさい。どのみち今日は学校に入れないし、手がかりもゼロでしょ。ここにいても仕方がないし……なによりアーチャーの様子が変だって気づいてないの……!?
昨日の今日で衛宮くんと顔合わせなんてしたら、纏まるものも纏まらないじゃないっ」
「っ――――わ、わかった。帰る、大人しく帰るから、その」
この至近距離で、ひそひそと内緒話なんてしないでくれ……!
「……じゃ、また明日ね。もうないだろうけど、夜は気を付けなさいよ。またキャスターなんかに連れ出されたりしたら、それこそ承知しないから」
「う――――わかった、わかったから、帰るっ」
「…………ふん。それと、今日はお疲れさま。ちょっとだけだけど、貴方をマスターだって認めてあげたから」
―――ばっ、と勢いよく離れる遠坂。
「行くわよアーチャー! 帰ったら本気でさっきの不始末を追及するからねっ!」
「ああ、やはりそうきたか。どうもな、凛にしては口汚さが足りないと思っていた」
「――――アンタね。ほんっと、一度とことん白黒つけないとダメなわけ?」
あれこれと文句を言い合いながら、遠坂とアーチャーは去っていく。
「俺たちも帰ろうか。確かに少し疲れたし、今日は早めに夕食にしよう」
「いいですね。その意見には賛成です、シロウ」
人目につかないよう、雑木林を後にする。
……そうだな。
気を取り直して、とりあえず商店街で夕飯の材料を買っていって、豪華な夕食にして、心身ともに休憩を入れよう。
キャスターとそのマスターの事は、その後に話し合った方がいい。
◇◇◇
二人きりの夕食が終わった頃、遠坂から電話があった。
学校の件に関しては、俺たちが思っていたより被害は少なかったそうだ。
結界を張っていたサーヴァント、ライダーがすぐさま倒されたからだろう。
……ライダーがいた教室の生徒たちは長い入院が必要になるというが、大半の生徒は貧血程度で生活に支障はないという。
学校も休みになる訳でもなく、明日は通常通りの時間割になってくれるそうだ。
「シロウ、凛はなんと言ってきたのですか?」
「ああ、学校はいつも通りだって。だから明日も学校に行って、キャスターのマスターを捜す事になる」
「……そうですか。では、あの建物にいた人々に大事はなかったのですね?」
「一部を除いてはな。あ、藤ねえが帰って来ないのは職員会議か何かで忙しいからだと思う」
「それは良かった。大河の事ですから、明日の朝には何事もなく食卓に座っているでしょう」
うん、それは俺も嬉しい。
ま、人並み外れて体力のある人だから、みんなが無事と聞いた時点で心配はしてなかったが。
「―――ではシロウ。先ほどの話の続きですが」
ずい、と真面目な顔で、テーブルに乗り出してくる。
「……う。やっぱり諦めてなかったのか、セイバー」
「当然です。昨夜のような失態を繰り返さない為にも、私はシロウの部屋で眠ります。それに文句はありませんね?」
「――――――――」
文句なんてあるに決まってる。
セイバーと同じ部屋で眠るなんて、俺に死ねと言っているようなもんだ。
「シロウ。もとはと言えば、あれほど離れた場所からの遠隔催眠にかかる貴方が悪い。
私ではキャスターの魔術からシロウを守る事はできないのですから、せめて同じ部屋にいるのは当然でしょう」
「魔術の感知は近ければ近いほどいい。キャスターがシロウを狙うのなら、私とて離れて眠るなどできません」
「いや、それはまったくもって正論なんだが、セイバー」
一度失敗している以上、キャスターも同じ手は使ってこないと思う。
思うのだが、そんな意見を今のセイバーに言ったら、
「――甘い! 先ほどのデザート、白玉あんみつチョコ饅頭なみに甘い! そのような考えだからこそ、キャスターなどというド外道に誑《たぶら》かされたあげく、アーチャーのような性根の捻れ曲がった野郎に罵倒されるのです!」
なんて、一刀両断されそうだしなぁ……。
「聞いているのですかシロウ! 私が女性だから、などという言い訳は聞きませんっ。今夜からシロウの部屋で睡眠をとりますから、夜な夜な土蔵になど逃げ出さぬように!」
視線を彷徨わせる俺を睨み付けて、ばーん、とセイバーは言い切った。
……うう、土蔵に逃げこむ事まで見抜かれてる。
ここはなんとか踏みとどまって、せめてもの妥協案を飲んで貰うしかない。
「―――わかった。セイバーにはすぐ近くで眠ってもらう」
「ようやく承知しましたか。ええ、マスターとしてそれが当然の選択です」
「けど、何も同じ部屋って訳じゃないぞ。俺の部屋、隣りに空き部屋があるの知ってるだろ。襖で締め切った向こう」
「? ええ、知っていますが、それが何か?」
「その、寝込みを守るってんならあそこで十分だろ。いや、そもそも同じ部屋で寝てたら敵だって入ってこない。むしろすぐ隣りでセイバーが待機しててくれた方が、油断して襲ってきた敵を撃退できるじゃないか」
お、なんかいい感じで筋が通った気がする。
「それで十分だろうセイバー。正直、あの狭い部屋で二人っていうのも無理がある。物理的に眠れない。サーヴァントとして、マスターを寝不足にするのはマイナスだと思うんだが」
「む……今夜はやけに弁が立ちますね、シロウ。
分かりました。多少言い訳じみたものを感じますが、いいでしょう。その案で手を打ちます」
渋々と引き下がってくれるセイバー。
「――――――――ふう」
いや、良かった。
まったく、マスターだけでも大変なんだ。
だっていうのにセイバーと同じ部屋で眠ったりしたら、処理能力がいっぱいになってオーバーヒートしかねないところだった。
―――そうして、波乱の一日が終わりを告げた。
日課になりつつあるセイバーとの剣の鍛錬を十一時までこなして、土蔵での日課を一時間。
日付が翌日に変わった頃に部屋に戻ると、隣部屋からセイバーの寝息が聞こえてきた。
「――――――――」
それにドキマギしながら、とにかく平常心を保って床につく。
目蓋を閉じ、邪念を振り払いながら、とにかく一分でも早く眠ってしまえ、と言い聞かせる。
「………………って、そう簡単に眠れるか、ばか」
出来るだけセイバーを意識しないように、と今日一日を振り返る。
赤い校舎。
しくじっていたら、多くの犠牲者を出していた血の結界。
「――――――――」
それで、うわついた心などふっとんだ。
赤い教室に倒れていた生徒たち。
倒れていたライダーと、亡骸のような生徒たちを見て、あいつは必死に堪えていた。
……ああ、思い出した。
あの一瞬、俺はたしかに、あいつの深いところを知ったんだから。
―――次に会ったら殺すわ。
だって敵同士でしょ、わたしたち。
そうやって一人前の魔術師として振る舞いながら、あいつは最後の一線を越えなかった。
気丈で、したたかで、ほれぼれするぐらい華麗なクセに、あいつはとんでもなくお人好しだ。
だから、その差があいつの重荷なんだろう。
……ほんと、不器用なヤツ。
魔術師としての自分を貫けば貫くほど、あいつは遠坂凛という自分を端っこに追い込んでいるんだから。
「―――ああ、いや。俺も、人のことは言えないか」
ふう、と息を吐いて布団を被る。
……まあ、なんというか。
あれだけやる事にそつがないヤツに対して、少しぐらいは支えになってやりたい、なんて。
そんな事を思ってる時点で、俺もどうかしてるんだろう――――
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2月7日     8 Interval Level1
―――――――夢を見る。
血液が流れるように、繋がった細い回路から、手の届かない記憶を見る。
何のために戦い、何のために走り続けたんだろう。
そいつは誰にも胸の裡《うち》を明かさなかった。
まわりから見ればとんでもない偏屈か変わり者。
おまけに冷徹で口数も少なかったから、無慈悲な人間とさえ思われただろう。
そいつの目的は分からない。
少なくとも、知っている者は誰もいない。
英雄とかいう位置づけになって、色々なものを背負うようになっても、決して語ることのなかった混沌衝動《その理由》。
……だから、周りから見れば、そいつは最後まで正体の掴めないヤツだったのだ。
なにしろ理由が分からない。
都合よく自分たちの窮地を救ってはくれるものの、そいつは何が欲しくてやっているのか誰一人として理解できない。
ほら、そんなの不安にならない筈がない。
だから、何か一つでも持っていれば良かったのだ。
富豪名声、我欲色欲、復讐献身。
そんな判りやすい理由なら、あんな結果は、待ってはいなかったんだから。
成功の報酬はいつも裏切り。
すくい上げた物は砂のように、手のひらからこぼれていく。
それも慣れた。
バカみたいに慣れてしまった。
もとより、そいつにとっての報酬は、
救った者から貰えるものではなく、誰かを助ける事こそが見返りだったらしい。
―――その繰り返しが殴りたくなるぐらい頭にきて、不覚にもこみあげた。
英雄と呼ばれた理由。
そいつの理由は、最後まで人に知られる事はなかった。
まわりの人間は知らなかったし、唯一知っている筈の本人さえ、いつか忘れてしまったから。
――――だから、不覚にも泪《なみだ》したのだ。
スタートからゴールまで、長い長い道のりの中。
……もう何が正しいのかさえ定かではないというのに、ただの一度も、原初の《さいしょの》心《みち》を踏み外さなかった、その奇蹟に。
そうして、終わりがやってきた。
傑出した救い手など、救われる者以外には厄介事でしかない。
そいつは自分の器も、世界の広さも弁《わきま》えている。
救えるもの、救えないものを受け入れている。
だからこそ、せめて目に見えるものだけでも幸福であって欲しかった。
それを偽善と、狭窮な価値観だと蔑む者も多く。
そいつは味方よりも多い敵にかかって、あっけなく死んでしまった。
………だから、こんな場所なんて何処にもない。
ここはそいつの果て。
死の際に見た幻、絶えず胸の裡《うち》にあった、唯一の誇りに他ならない。
この光景をこそ武器《ささえ》にして戦い続けた英雄は、最期に、自らの闇に落ちる。
辿り着いた剣の丘。
担い手のいない錆びた鋼の丘で、そいつの戦いは終わりを告げた。
―――やはり独《ひと》り。
それでも、目に映る人々を救えたのなら、悔いる事など何もないと。
そいつは満足げに笑って、崩れ落ちるように剣から手を放した。
……だから、無念など始めからなかった。
そいつの目的はとうの昔に叶っている。
始めからそいつは、自分ではなくどうでもいい誰かの為に、懸命に走り続けただけなんだから――――
◇◇◇
「…………ん」
重い目蓋をこすって体を起こす。
起床時間はいつもと同じ朝の五時半。
体に眠気はないし、なんだかんだと昨夜は安眠できたらしい。
「はあ……単純に出来てるんだな、俺」
ぼやきつつ布団から出て、ササッと学生服に着替えた。
「――――――――」
耳を澄ますと、かすかな寝息が聞こえてくる。
襖一枚隔てた隣の部屋には、たしかなセイバーの気配があった。
「――――――――う」
どんな顔で寝ているんだろう、などと思った瞬間、ヤカンを鳴らせるぐらい頭がクラクラする。
「―――――朝飯だ。朝飯を作ろう」
それがいいそれがいい。
ぶんぶんと頭ん中の妄想を振り払って、忍び足で部屋を後にした。
朝の食卓。
昨日の件もあるし、今朝は静かな朝食になるだろう、というこちら側の予想は、
「そこでそのお医者さん、なんて言ったと思う? 藤村さんはまれに見る健康体ですから、献血でもしていったらどうですかフハハハハ―――だよ!?
ええい、あたしだって病人だって言うのっ。ああもう、次からあんなところ行かないんだからー!」
こう、いつも以上に元気な藤ねえによって覆された。
競馬で言うなら大穴なのだが、よくよく考えてみると本命っぽい気がしないでもない。
「あ、おみそ汁おかわり。たまねぎ抜いてね」
「あいよ―――で、それから? 倒れた生徒は色んな病院に運ばれたって言うけど、みんなすぐに気が付いたのか?」
「そうね、個人差はあるけど昨日中に回復した筈よ。
四階……一年生の子たちはただ眠ってたのと大差なくて、二年生の子たちは記憶がとんでる子もいたみたい。
三年の子は、その……二階の教室にいた子に大事はなかったけど、一階の教室は、ちょっとね」
藤ねえは言い辛そうに下を向く。
……悪いことをした。
藤ねえは今朝まで、町中の病院をかけまわってきたのだ。
一階の教室―――三年A組とB組の生徒たちがどんな容体なのかも、しっかりと見てきたばかりなんだから。
「ごめん、この話はもう止める。ともかく学校はいつも通りなんだろ」
「うん。けど三年生はもうじき自主登校だし、体調が悪い子は休んでいい事になってる。三年の子たち、ほとんどが休むんじゃないかな」
……そうか。
となると、登校してくる生徒は一年と二年が中心な訳だな……。
「なあ藤ねえ。うちの学校でさ、柳洞寺の関係者って誰かな」
「一成くんじゃないの? 彼、お寺の跡取りでしょ」
「だよな。いい、なんでもないから忘れてくれ」
「?」
うーん、と天井あたりを眺めながら茶碗を置く。
うちの学校で柳洞寺に関わりがある人間は一成ぐらいだ。
だからって簡単に決めつけるのは早計だし、何よりあいつは違うと思うんだが――――
「じゃあ行ってくる。留守番よろしくな、セイバー」
「シロウも気を付けて。あの校舎から結界がなくなったとしても、キャスターのマスターがいる以上は油断できません。……令呪はあと一つだけなのですから、行動には細心の注意を」
「わかってる。キャスターのマスターを見つけたら、まずここに帰ってきてセイバーに報告するよ」
「―――はい。期待に添えるよう、私も魔力を回復させておきましょう」
セイバーに見送られて門をくぐる。
藤ねえはまだ事件の後始末が残っているらしく、手早く朝食を済ませ病院に行ってしまった。
あんな事件の後だっていうのに、校門の風景は変わらない。
朝の七時半、校門は生徒たちで賑わっている。
登校してきた生徒は、顔見知りとあった途端昨日の話をしだし、それとなく盛り上がっているようだった。
「――――」
で。
そんな中、校門の前には、
こう、なぜか仁王立ちで立っている遠坂がいた。
「――――――――」
……嫌な予感がする。
嫌な予感がするのだが、校門の真ん中にいられたら隠れてやり過ごす事もできない。
「よ。おはよう遠坂。今日は遅いんだな」
校舎に向かう途中、足を止めて挨拶をする。
「つまり、一成が怪しいと思うのよ」
……うわ。
開口一番、いきなり直球を投げてきやがった。
「……怪しいって、何がさ」
「キャスターのマスター。柳洞寺に巣を張ってるキャスターと、柳洞寺から学校に通ってる一成。これで因果関係がない筈ないでしょう」
「ないって、そんなの偶然の一致かもしんないだろ」
一応、一成の立場を擁護してみたりする。
「そんな訳ないじゃない! いい、ここ数週間柳洞寺の山門はずっと閉じられているのよ!?
部外者は入れないし、寺から外に出てきたのを見かけられたのは一成ぐらいのもんなんだから!
これで怪しくなかったら、真犯人は誰でもいいってレベルでしょう!?」
「……あのさ。外に出ないって言うけど、普通、お坊さんは頻繁に寺から出てこないもんじゃないのか」
「莫迦、アンタいつの時代の人間よ。昨今《さっこん》、坊主が托鉢《たくはつ》なしで生きていける訳ないじゃない!」
「――――――――」
うわあ、大偏見。
もしここに一成がいたら、間違いなく二年間に渡る暗闘に決着がつけられていただろう。
……だが、問題はそこではない。
一成の名誉を守るのも大切だが、今は周りを気にしよう。
場所は校門。
周りには登校中の生徒たちがいっぱいいて、彼らは学校のアイドルである遠坂の狂態に凍り付いている。
「なによその目。なに、衛宮くんは一成を庇うってわけ?
ふん、いいわよわたしは。貴方が現実的な推測を無視するっていうんなら、こっちだって勝手にやるんだから!」
だっていうのに、その事に自分だけ気が付いていない学校のアイドルさん。
「…………遠坂、ちょっとこっち来い」
「なによ、逃げる気!?」
「逃げない。いいからこっち」
遠坂の手を引いて歩き出す。
「ちょっ――――ちょっと、衛宮くん……!?」
文句は後だ。
ともかく、今は一秒でも早くここから撤退させてくれ……。
昨日の事件で朝練は休みなのか、弓道場に人気はない。
「――――ふう」
……良かった。
ここなら人目を引くこともない。
となると、残った問題は――――
「――――――――――――」
目の前でじぃーーーーーっとこっちを睨んでいる遠坂だけである。
「わかってる。遠坂の言いたい事ぐらい、俺だってわかってる。わかってるから、そんな顔するな。遠坂に拗ねられると、どうしていいかわからない」
「拗ねてなんかないっ!」
「う」
稲妻のような切り返しに、よけい気が動転する。
だが、ここは落ち着いて対応しなければならないのだ。
なにしろ一成の命がかかっている。
遠坂の事だから、なにやら無茶をして一成を試すに決まってるんだから。
「貴方こそ誤魔化さないで。キャスターの本拠地は柳洞寺で、一成は柳洞寺から学校に来ているのよ。だっていうのに、どうしてそれを無視するのよ、貴方はっ」
があー、と怒る遠坂。
……それはその通りなんだが、そういう理由とは別のところで一成は違うと思うのだが……。
「――――なによ。反論があるっていうの」
「………………」
そんなアヤフヤな意見を口にしたら、一成の前に俺が最期を迎えそうだ。
かといって遠坂をこのままにしてはおけないし、ここはなんとか説得するしかないよなあ……。
「―――よし。どうしても一成が怪しいって言うんだな、遠坂は」
「そうよ。衛宮くんには判らないかもしれないけど、今の柳洞寺はとにかくヘンなの。
キャスターが根城にしているって事もあるんだけど、それにしたって揺らぎが大きすぎるっていうか、集まり易すぎるっていうか―――」
「集まり易すぎる……? それって町から吸い上げてるっていう魔力の事?」
「うっ―――ううん、それは関係ない事だから気にしないで」
「………………」
……いや。一成よりずっと怪しいぞ、遠坂。
「―――ともかく! そんなところから毎日涼しい顔でやってきている時点でアイツは怪しいのっ。
ええ、前からアイツには一発蹴りいれてやんなきゃなんないって思ってたし、今回の件は丁度いいわ」
遠坂は本気だ。
前から一成と遠坂の仲は悪い、と聞かされていたが、まさかここまでの確執とは。
……というか。
一成のヤツ、いったい遠坂に何をしたんだろーか。
遠坂をここまで過激かつ好戦的にするあたり、ちょっとだけ興味が出てきた……などと面白がってる場合ではなく。
「―――そうだな。一成の立場が疑わしいってのには、俺も同感だ」
「当然よ。これ以上庇ったりしたら、それこそ同罪なんだから」
「ああ。だから一成の事は俺に任せてくれ。あいつがマスターかどうかは俺がはっきりさせる」
「………………」
うわ。
あからさまに信じてないな、こいつ。
「信じろ。一成が友人だからって手加減はしないし、遠坂にも嘘はつかない。だいたいそんな心配はいらないんだ。一成があんな非道をする訳ないんだから」
「……………………………………」
無言の圧力は続く。
遠坂としては、俺が友人である一成に手心を加えるかどうか心配なんだろう。
その疑いはもっともなんで、ここは黙って耐えるしかない。
なにしろ、こっちは信用して貰うしかないんだから。
「………………わかったわよ。一成の事は貴方に任せる」
「――――遠坂」
良かった、と胸を撫で下ろす。
「けど、どうやって見極めるのよ。衛宮くん、マスターの見分け方を憶えたの?」
「え?」
その、この提案における根本的な欠陥を、遠坂は訊いてきた。
「あ――――えっと」
「……ふうん。まさかいつもの調子で“おい一成、おまえマスターか”なんて問いただす訳じゃないでしょうね?
いくら協力関係でもね、そんなたわけたコトをやろうっていうんなら、ここで貴方との決着をつけてやるわよ?」
「――――――――う」
怒ってる。
アレは、本気で怒ってる。
「待った。大丈夫、訊かなくてもマスターかどうか判る手段はある。一成の件は今日中に白黒つけるから、遠坂は大人しくしていてくれ。結果が判ったら連絡をいれるから」
「―――そうね。協力関係ってこういうコトだし」
納得いかないのが見え見えの仕草で、遠坂は歩き出した。
「信頼してるわ。けど、あんまり馬鹿なことはしないでよ。もし一成がそうだった場合、下手な行動は命取りになるんだから」
それだけ言って、遠坂は校舎へ向かっていった。
「――――――――」
その背中をぼう、と見送ったあと。
「……あれ。今の、もしかして」
ひどい時間差で、遠坂は心配してくれてるのか、なんて気が付いた。
◇◇◇
昼休みになって、生徒会室に顔を出す。
「邪魔するぞ」
声をかけて扉を開く。
「お。今日はここで昼食か、衛宮」
中には一成が一人きりで昼食をとっていた。
「――――――――」
……よし。都合がいいと言えば、都合がいい。
「どうだ調子は。昨日の事件、どんな按配になったんだよ」
机に陣取りながら、さりげなく話を振る。
「それが説明されずじまいだ。一階の空き教室に置かれていた薬品がどうかしたとか、そんな当たり障りのない話だよ。昨日の午後から朝まで散々校舎を調べ回って、出た結論がソレだとさ」
不愉快なのか、ガリガリと硬そうなニンジンをかじる。
「しかしおまえも運がいいな。昼休みから珍しくサボリか、と思えば難を逃れたという。うむ、普段の行いがようやく報われたという事か」
今度は愉快げに、善哉善哉《ぜんざいぜんざい》とお茶をすする。
……まいったな。
とても確かめられる空気じゃないし、ここはもうちょっと様子を見よう。
「は――――!?」
しまった、気が付けば昼休み終了五分前―――!
「? どうした衛宮。何かひらめいたか?」
「ひらめきはしないが、思い出した。呑気に弁当食ってる場合じゃなかった」
「?」
いそいそと弁当箱を布巾でくるみ、じろり、と一成に向き直る。
「……む、不穏な空気。言っておくが金の無心はするな。ねだられても無いものは無い」
がたん、と椅子から腰を上げる。
……時間もない。
はあ、と深呼吸をして、一言。
「一成。何も訊かずに上着を脱げ」
きっぱりと、用件だけを口にした。
「な、なんですとーーーーーー!!!!????」
「だから制服を脱げ。上着だけじゃなくてシャツもだ。裸じゃないと意味がない」
「っ―――ななななな何を言いだすかと思えば正気か貴様っ!? あれか、新手の押し問答か!? そもさんなのか!?」
「そう、せっぱせっぱ。いいから脱げ、放課後になったら手遅れなんだからっ!」
ええい、と一成に掴みかかる。
「うわあ――――! ええい、止めぬかたわけ、貴様それでも武家の息子かー!」
「――――――――よし」
結論から言うと、一成の体に令呪はなかった。
念には念を入れて調べたが、ともかく令呪らしき物は一切ない。
「良かった。いや、ほんと良かった」
うんうん、と一人頷く。
「何が良いものか……! 貴様、ここまでやっておきながら何もないとはどういうコトだ!」
「? あ、そうか。悪かった一成。事情は話せないんだが、どうしても調べたい事があったんだ。それも済んだから、もう何も問題ない」
頭をさげて謝罪をする。
「むっ――――う、うむ。悪い事をしたと思うのなら、謝罪の一つもするというもの」
一成は難しい顔のまま黙り込む。
「………………」
しかし、そうなると話はまた振り出しに戻ってしまった。
柳洞寺に関係のある一成が白だとすると、キャスターのマスターに該当する人間がいなくなってしまう。
「……なあ一成。最近、寺の方で変わった事はないか?」
「む? 変わったこと、と言うと?」
「わからない。ただ、今までとは違うコトとかないかな」
「……そうだな。最近の話なら、見慣れない女が一人いるぐらいか。だがそれだけだ。親父も兄貴たちも静かなもんだぞ」
ごく平然と一成は言う。
「――――――――」
……見慣れない女がいる。
それはキャスターの事なのか。……たしかにあのサーヴァントなら、平気な顔をして人間のふりをするだろう。
それとも、その女がキャスターのマスターなのか。
「――――――――」
……一成に話を聞いてみるべきか。
ここは――――
「――――――――」
いや、下手にこの話題を続けるのは危険だろう。
なにしろ一成は柳洞寺に住んでいるのだ。
俺が“見慣れない女”の事を訊いて不審がらせたら、一成は興味を持って何らかの行動を起こしてしまうかもしれない。
そうして―――その女がマスターだった場合、なにより一成が危険に晒される。
「――――――――」
今日はここまでだ。
一成が聖杯戦争と無関係と判った事でよしとしよう。
「ああ、そういえば衛宮。慎二の妹、今日はいなかったな」
「……え? 桜、学校を休んでるのか?」
「慎二も休んでいただろう。二人とも無断欠席、家で何かあったのではないかと職員室で問題になっている」
「――――――――」
忘れていた問題をつきつけられて言葉を失う。
「お、昼休みも終わりだな。教室に戻ろう」
一成に促されて生徒会室を後にする。
……その間。
学校を休んでいる桜と、ライダーを失った慎二の行方がぐるぐると頭の中で回っていた。
◇◇◇
それは、鉄を叩くような音だった。
「はあ―――はあ―――はあ―――はあ―――!」
荒い息遣いのまま、彼はその場所に訪れた。
床を踏む足音は高く、その歩幅《リズム》は一定しない。
彼は扉を開け放したまま、前のめりに倒れそうになる体に引かれるように、ただ前へ前へと進んでいく。
ぎょろぎょろと周囲を見渡す。
朝の礼拝を終えた教会は無人だった。
明かりは頭上から差し込む陽射しだけである。
静寂は厳粛な空間を作り、制止した空間は洗礼された静寂を生む。
その中で、彼は火を見るように異端だった。
「あ―――はあ……は、あ――――!」
―――訂正しよう。
訪れた、という表現は的確ではない。
乱れた吐息と定まらない目線。
枯れ木のように震える四肢は、逃走者のそれに近い。
彼はここに避難してきたのだ。
ならばいかようにも合点がいく。
その必死さは、猟犬に襲われる鼠と同じなのだから。
「戦いが始まって六日。ここに足を運んだのは君が初めてだ」
「――――!」
地に這いかけていた体を起こす。
いつのまに現れたのか。
祭壇に立つ神父を、彼は血走った眼で見上げ、何か、よく判らない言葉を口にした。
「――――――――」
神父は眉をひそめる。
完全には理解できなかったが、要約すれば、彼は助けを求めているらしい。
つまりは保護だ。
サーヴァントを失ったマスターは、戦いを放棄するという条件で保護を求められる。
その避難場所、最後の守りがこの教会であり。
その主が、言峰綺礼という神父だった。
「――――では戦いを放棄するのか、少年」
厳かな声に、彼は火花のように反応する。
「あ、あたりまえだ、僕に死ねっていうのか……!?
いいか、サーヴァントがいないんじゃ殺しようがないし、マスターなんてやってられない……! ぼ、僕は普通の人間なんだ。いわば被害者側だろ!? そういうのを狙ってさ、一方的に殺すのなんて不公平じゃないか……!」
「――――――――」
神父は答えず、ただ闖入者を見据えている。
その奥。
皮の下、骨の隙間、肉の深部を捉えるように。
「―――なんだよ、何か文句あるのかよ、おまえ」
「意見などない。君は今回一人目の放棄者であり、我が教会始まって以来の使用者だ。管理者としてここに根付いた父に代わり、丁重にもてなそう」
「え? なんだよ、リタイヤしたのは僕だけだっていうのか。……くそ、みっともない。こんなコト爺さんに知られたらなんて言われるか。
ああ、それもこれもおまえたちのせいだぞ……! ライダーなんてカスを掴ませやがって、あんまりにも不公平じゃないか!」
忌々しげに地を叩く。
床を殴りつけた音は鐘のように響き、神父はほう、と興味深そうに口元を緩ませた。
「では、ライダーは役に立たなかった、と?」
「そうだよ! ……ったく、役にたったのは女としてだけだ。アイツ、この僕があんなに手を貸してやったのに、あっけなく死にやがった。あれなら他のサーヴァントの方がよっぽど役に立ったんだ!」
「―――――――」
「……ああ。それでも僕はうまくやった。ちゃんと爺さんの言いつけ通りやって、準備は万全だったんだ!
だって言うのにあいつら、そろって邪魔をしやがって……!
二対一だぞ、そんなの勝ち目なんてないじゃないか。
……そうだ、負けたのは僕のせいじゃない。
単にサーヴァントの質の差なんだ。それをあいつら―――偉そうに勝ち誇った顔しやがって―――!!!」
そうして地面に這った。
彼は忌まわしげに床を叩き、己が不運を嘆き、自らの障害を思い浮かべる。
だが、怨嗟の声もすぐに消える。
彼程度の憎悪では教会の静寂は破れない。
「くそ――――くそ、くそ、くそ、くそ――――!」
繰り返す暗い吐露。
その中で――――
かつん、と。
凍った空気を砕くように、神父の足音が響き渡った。
神父はゆったりと彼の肩に手を置く。
「―――つまり。
君にはまだ、戦う覚悟はあるという事だな」
この上なく優しい声で、そう、訪れた敗者を見下ろした。
「え―――――?」
彼には神父の言葉が理解できない。
黒い聖職者は、口元に慇懃《いんぎん》な笑みを浮かべたまま、
「君は運がいい。ちょうど一人、手の空いているサーヴァントがいてね」
悦びを押し殺すように、新たな救いを告げていた。
◇◇◇
放課後になった。
昨日の事件の為か、生徒はどのような理由であれ校舎に残る事は禁止されている。
夕暮れまでまだ時間はある。
ここは――――
「あ。商店街、今日特売だったっけ」
……ふむ。
セイバーは夕食を楽しみにしているし、今日は奮発して豪勢にいくのもいいかもしれない。
遠坂への報告は家に帰ってからでもいいだろう。
「――――牛フィレを、買ってしまった」
しかも子牛の。なんか高くて稀少なだけで、あんまり味が変わらないフィレ肉を肉屋のおっちゃんの口車に乗って買ってしまった……!!!!
「まあいいけど。安かったから」
アルバイト一日分がぶっとんだと思えばいい。
セイバーは見た目お肉圏の人っぽいし、ここんとこずっと家庭料理だったから西洋料理のフルコースっぽいコトをしたら喜んでくれるハズだ。
「―――これで食前酒を用意できたら文句なしなんだが、さすがに藤ねえの前で酒は出せないよな。
年齢問題の前に、そもそも藤ねえにアルコールは与えられな、い……?」
いま、なんか見慣れないのが視界を掠めた。
「………………」
なんだろ、とケーキ屋ベコちゃんに振り返る。
……ど、どっかの制服かな。
こう、こんな下町の商店街には似つかわしくない格好の女の人が、ケーキ屋のお姉さんを困らせていた。
……少し気になって立ち止まる。
ざっと盗み聞きした範囲だと、あの白い女の人が出したお金は日本円じゃなくて、ケーキ屋のお姉さんはどう対応したらいいか困っているようだ。
しかもあの女の人、どうも日本語がカタコトらしい。
「………………」
…………まあ、特売で安く済んだし。
通りがかった船ってコトで、お節介を焼いてみよう。
「ありがとうございましたー!」
二重の意味で感謝されてケーキ屋を後にする。
「……ありがとう。ケーキ、たすかった」
で、カタコトながらもこっちの子にも感謝される。
が、別に大したコトはしてないというか。
俺がした事はただの両替で、この子が持ってる外国の紙幣を、手持ちの千円札二枚と交換しただけである。
「……おつり。あまったから、あげる」
「え? いや、さっきので十分だって。10フラン紙幣、ちゃんと二枚もらったから」
「………………」
ナイチンゲールみたいな格好をした女の子は、ぼんやりと視線を漂わせる。
「……買い物、終わったから。さよなら」
ペコリ、とお辞儀をして去っていく。
なんてゆーか、こういう日もあるんだなー、と女の子を見送る。
と。
「ああ、そうだ。ケーキ、好きなの?」
なんとなく聞きたくなって呼び止める。
白い女の子はピタリと立ち止まって、ふわふわと視線を漂わしたあと。
「……うん。セラが、こういう庶民の味が好きだから」
やっぱりふわふわした口調で、よくわからない答えを口にした。
家に帰り着くなり生徒名簿をチェックして、遠坂の家に電話する。
りんりんりん。
コールすること数十回、留守かな、と諦めかけた時に電話が繋がった。
「はい、遠坂ですが」
受話器越しの声は間違いなく遠坂だ。
「もしもし、衛宮だけど。いま時間いいか?」
「はあ? なにふざけてんのよア―――ってあれ? うそ、ほんと……!?」
「……あのな。おまえにイタズラ電話かけるほど余裕ないぞ、俺」
「あ―――ううん、そういうんじゃなくて……ごめん、ちょっとビックリしただけ。それで、何かあったの? 衛宮くんの方から電話してくるなんて」
「何かって、一成の事だよ。朝約束しただろ、今日中にハッキリさせるって。結論から言うと、一成はマスターじゃなかった。体の何処にも令呪はなかったから、間違いない」
「ほんと? ……驚いたわ、ほんとに今日中に調べるなんて。けど一成はシロか……ま、アテはなくなったけどそれならそれでいいか」
ガッカリしたのか安心したのか、電話越しでは遠坂の反応はいまいち掴めない。
「とにかくご苦労様。マスター探しの方針はまた明日考えるとして、用件はそれだけ? なら切るけど」
「………………」
他に用件はない。
が、一つだけ気になる事がある。
「遠坂。さっき驚いてたみたいだけど、そっちでなんかあったのか?」
「――――――――」
受話器越しに、遠坂の戸惑いが伝わってくる。
遠坂は少しだけ沈黙したあと、
「……別に。貴方の声、電話だと少し違って聞こえたから驚いただけよ」
冷たい声で当たり前の事を言って、電話を切った。
◇◇◇
―――と、気が付けば夕食が終わっていた。
家に帰ってきて、セイバーと道場で剣の鍛錬をして、途中で藤ねえが帰ってきて、夕食を作って、三人で食べて、いつのまにか時計は午後八時を過ぎていて、
「セイバーちゃん、もしかして外国《あっち》じゃ有名な達人さんなの? セイバーちゃんが教えだしてからこっち、士郎ったら別人みたいなんだけど」
「それは私も驚いています。ですが、シロウの師は別にいるようですから。私の手腕ではありません」
こう、食後のお茶を飲んでいる訳である。
「――――――――」
藤ねえとセイバーの仲がいいのは、いいコトだ。
邪魔するのもアレなので、こっちは大人しくお茶を飲みつつ、セイバーにしごかれた体の疲れをとるコトにする。
「師匠が二人? ありゃ、二股かけてるってコトかな、それ」
「本人に自覚はないようですが。ですがまあ、結果が良いので黙認する事にしました。
……たしかに、シロウは自分に合った戦法を身につけた方がいい。体はとうに出来上がっているのですから、あとは自身を巧く動かす思考を組み込むだけです」
「あ、セイバーちゃんわかってるじゃない。そうそう、士郎はずっと鍛えてきたんだから、体はしっかりしてるのよ。今まではね、本人にやる気がなかっただけなんだから」
「体を鍛える……たしかにあのような道場があったのなら、鍛錬にも身が入りましょう。くわえて大河という良い対戦相手がいたのですから、素質がない筈がない」
感慨深く頷きつつ、湯飲みを口に運ぶセイバー。
それを、
「ううん、あの道場で剣道をするのは久しぶりだよ。セイバーちゃんが来るまで、あそこは剣道場じゃなかったもん」
ぱりん、と煎餅を噛みながら、呑気に藤ねえが訂正した。
「剣道場ではなかった……? シロウは道場で竹刀を持たなかったのですか?」
セイバーは意外そうに見つめてくる。
「え? まあ、そうだけど。親父が死んでからは使わなかったからな」
「そうよおー。士郎、暇さえあれば切嗣さんと試合してたのに、切嗣さんが亡くなったら途端に竹刀を持たなくなってさ。わたしは悲しかったなー」
ぱりん、ぱりん。
テーブルに顔を乗せつつ、がじがじと煎餅をかみ砕く藤村タイガー。
「――――――――」
やな予感がするというか、未来予知というか。
藤ねえがこういう態度をとると、話は決まって―――
「あーあ、どうしてかなー。あの頃は剣道少年だったのに、今じゃプータローだよ。そりゃお世辞にも剣の才能はなかったけど、弓道はちょっと、この子大丈夫なのかなーって思うぐらいだったのに、止めちゃうしさ」
「―――やっぱりそうきたか。藤ねえ、昔の話なんてやめろよな。後ろ向きだぞ、そういうの」
じろっと睨む。
藤ねえはふーんだ、と拗ねながら煎餅を食べる。
ふう。
どうやら、今回はそれで引き下がってくれたらしい。
「ほう。シロウの幼年期の話ですか、大河」
「ぶっ……!」
だっていうのに、どうしてそこで話を蒸し返すんだセイバー!
「なに? 聞きたい、聞きたい?」
「はい、興味があります」
「よーし! ならお姉ちゃん話してあげよっかな!」
……百万の《セイ》軍勢《バー》という味方を得て、俄然士気をあげる藤村虎組。
「――――――――」
……仕方ない。茶々入れるのもなんだし、黙々とお茶を飲んでいよう。
初志貫徹はいい言葉だ、うん。
「それでね、今はこんなに捻くれちゃったけど、子供の頃は可愛かったのよ。人のことを疑わなかったし、お願いすればなんでも二つ返事で引き受けてくれたり」
「ふむふむ」
「でも妙に頑固なところがあってね、一度決めた事はなかなか変えなかったりしたっけ。そのあたり、切嗣さんとは正反対だったかなあ」
「? 切嗣は、士郎とは正反対だったのですか?」
「そだよ。切嗣さんはなんでもオッケーって人だったから。いい事もわるい事も人それぞれ。人生なるようになるさって人だったな」
「――――――――」
「そのくせ、困ってる人を見たらなんとかしちゃうのよね。士郎もそんな切嗣さんの真似ばっかりしてた。
士郎は切嗣さんよりハッキリしてたから、悪いコトはだめだ!って、町のいじめっこをバンバン叩いてたっけ。うん、その時から士郎は正義の味方だったんだ」
つまらない事を、嬉しそうに藤ねえは言う。
その横で。
「……? なぜ士郎は正義の味方なのですか?」
そう、なんでもない疑問を、セイバーは口にした。
「―――いや。なぜって訊かれても困る。単に憧れてるからじゃないか」
「憧れている……その、正義の味方に?」
「……ん……まあ、そうだけど」
そう面と向かって“正義の味方”と言われると照れる。
「それは、どうして?」
「どうしてって、それは」
そこまで口にして、はた、と気が付いた。
……そんなの、どうしても何もない。
衛宮士郎は子供の頃から正義の味方に憧れている。
誰かの為になれるように、自分の出来る範囲で、悲しんでいる人を助けるのだとやってきた。
それは昔も今も変わらない。
けれどその原因。
俺が、“誰かの為”になろうとした理由はなんだったのか。
――――爺さんの夢は、俺が
「―――――――――」
それが答えだ。
おそらくは、自分にとって全てだった人の最期。
なんでもない自分の一言で、安心したと遺して逝った。
……その信頼を、守りたかった。
こうして、彼が消えてしまった後も。
その安らぎが、彼にずっと続くようにと。
――――けれどそれは。
本当に、正しい理由だったのか。
「……シロウ?」
「――――――」
名前を呼ばれて気が付く。
「いや、悪い。先に戻る」
何か、正体の判らない不安に襲われて席を立った。
逃げるように居間を後にする。
「――――――――」
いや、逃げるようにじゃなくて、逃げた。
今のは、なんでもない疑問だった。
けれどセイバーの瞳で見つめられると、何かが剥がれ落ちそうで怖かった。
「……なんで。何が怖いってんだ、俺は」
自分でも分からない不安。
形のない恐れ、こみ上げてくる吐き気。
頭痛を抑えながら、部屋へ急いだ。
藤ねえは今夜も仕事がある、と帰っていった。
セイバーは昨日と同じく、隣の部屋で眠っている。
「――――――――」
今夜も寝付けずに闇を見ている。
眠れないのはセイバーを意識してじゃない。
―――どうして、シロウは正義の味方なのですか?
その言葉。
その疑問が、いまだ胸に残っているからだ。
「――――――――」
どうしてと聞かれて、憧れているからだと答えた。
……そこで逃げた理由は明白だ。
なら―――どうして憧れたのか、と問われた時、俺には返す答えがなかっただけ。
「――――――――」
いや、答えはある。
だが、それは決して口にしてはいけない事なのだと、無意識で縛っている自分がいる。
「――――正義の味方である理由」
……そんなもの、どうして、今更。
切嗣になろうとして、ただ必死だった子供の頃。
正義の味方に憧れていたのは、そう―――叶えられなかった理想があったからではないのか。
―――それが発端の筈だ。
今の自分、否、十年前からあった理想の正体。
助けられるのならば。
何もかもを助けられなくては嘘じゃないかと空を睨んだ。
「――――――――」
けれど、嘘なのはどちらなのか。
自分が憧れた、正義の味方という理想。
……歳をとればとるほど、衛宮士郎は憧れからズレていく。
無知故に限界を知らなかった子供は、知識を学んで有限を知ったのだ。
―――救えないモノは救えない。
奇蹟は、人の手にあまるモノ。
「――――――――」
それでも、大人になれば切嗣のようになれると信じていた。
なのに手に入れたものは、理想は理想なのだと判断する賢明さだけだ。
自分に出来る事は後始末だけ。
それでも、無駄と思い知らされながらも出来る事をやってきた。
それで一人でも助かるのならと。
……出来るだけ多くの命を助けるのが目的のくせに、多くの物を落としながらやってきたのは、負けない為だ。
現実に打ちのめされても、心《じぶん》が負けを認めないのなら、やせ我慢でも立っていられる。
その理想。
誰も傷つけないというカタチこそ、美しいと信じられる。
――――爺さんの夢は、俺が
そう、誰も成し得ないのなら。
この手で、その思いを引き継ごうと思っただけ。
だから正義の味方にならないといけない。
切嗣の跡を継いで、彼が憧れたものを守る。
犠牲なんて出さず、誰もが今まで通りにやっていければ、それはどんなに――――
“そんなものは、この世の何処にも有りはしない”
「っ……! うるさい、やってみなくちゃわからないだろう……!」
脳裏に浮かんだ言葉を懸命に否定する。
理想を抱いて溺死しろ、とヤツは言った。
その言葉はまるで―――衛宮士郎という人間の結末を、言い当てるかのような不吉さだった――――
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2月8日     9 Mydear,straydead
――――そうして、そいつの夢を見る。
英雄の座に祭り上げられた男の記憶。
最期まで誰にも理解されなかった、或る騎士の物語。
それは簡単な話だった。
ようするに、そいつはどうかしていたのだ。
それなりの力があって、それなりの野心もあった。
なのに力の使いどころを終始間違えて、あっけなく死んだだけ。
それも当然だろう。
力っていうのは、自分自身を叶える為のものだ。
情けは人の為ならず。
綺礼もよく言うけど、あらゆる行為は自身に返ってくるからこそバランスがとれている。
行為はくるっと循環するからこそ元気が戻ってきて、次の活力が生み出されるのだ。
それが無いという事は、補充が無いという事だ。
たとえば自分の為ではなく、誰かの為だけに生きてきたヤツなんて、すぐ力尽きるに決まっている。
使い捨ての紙幣があるとしたらそれだ。
散々他人に使われて、終わってしまえば消えるだけ。
付け入る事は簡単だし、利用するのは既に前提。
そんなんだから、そいつは、結局。
色々なものに色々な裏切りを見せられて、救ったうちの“誰か”の手によって、その生涯を終えていた。
……とにかく、それが無性にあたまにきた。
どうして、と文句を言いたくなる。
頑張って頑張って、凡人のくせに努力して、血を流しながら成し得た奇蹟があった。
その報酬が裏切られて死んだ、なんて笑い話にもならない事だったのに、そいつは満足して死んだのだ。
他人の人生に口を挟む気はないけど。
わたし、その一点だけは絶対に認められない。
それが今まで何度か見てきた夢の感想。
いつもならここで目が覚めて朝を迎える。
―――だっていうのに。
今朝に限って、夢には続きがあるようだった。
――――その地獄に、そいつは立っていた。
おそらくは何かの事故現場で、争いによる惨状じゃない。
“契約しよう。我が死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい”
契約の言葉を紡ぐ。
その後、そいつは何かに憑かれたように様変わりして、本来救える筈のない人々を助け出していた。
……ああ。ようするにコレが、そいつが『英霊』になった事件なワケだ。
……そうしてみると、なんだ、わりあいあっけない。
そいつが救った命は、きっと百人にも満たないだろう。
そんな数では“英雄”と呼ばれる事もないし、“英霊”として登録される事もない。
けど、重要なのは数じゃない。
要はあれだ、本来死ぬべき定めにある命[#「死ぬべき定めにある命」に丸傍点]を救えるかどうかこそが、英雄、人間を越えたモノの資格なのだ。
それは運命の変更。
規模は小さくとも、もうどのような手段を用いても変えられない災害を打破したのなら、そいつ本人に英雄としての力がなくともかまわない。
否。
もとよりその奇蹟の代償として、世界は“英霊”を手に入れるのだ。
そいつは英雄になって、救えない筈の命を救った。
その結果、死んだ後は英霊となって、生前と同じ事を繰り返している――――
つまりは奴隷《サーヴァント》。
死んだ後も他人の為に戦い続ける、都合のいい使い捨ての道具になる事が、奇蹟の代償という事らしい。
英霊。
人間から輩出された優れた霊格、人類の守護精霊。
―――だがそれは、サーヴァントのように自由意思を持つモノではない。
英霊とは、人類の守護者である。
守護者に自由意思などなく、ただ“力”として扱われる。
人の世を守る為、『世界を滅ぼす要因』が発生した場合にのみ呼び出され、これを消滅させる殲滅兵器。
サーヴァントシステムとは、その“守護者”を利用した召喚儀式に他ならない。
守護者はあらゆる時代に呼び出され、人間にとって破滅的な現象を排除した後、この世から消滅する。
……わたしはそんなのはゴメンだけど、そいつは覚悟の上だったのだろう。
いや、もしかしたら望んでいたのかもしれない。
死んだ後も人々を救えるのなら、それは願ってもない事だと。
生前は力がなく救えなかったが、英霊になればあらゆる悲劇を打破できると。
そんな事を思って、世界との取引に応じて死後の自分を差し出して、百人の命を救ったんだ。
……その後は。
もっと多くの、何万人という命が救えると信じきって。
――――なんて、バカ。
そんな事あるはずがない。
だって、英霊が呼び出されるという時点で、そこは死の土地と化しているんだから。
英霊、守護者が現れる場所は地獄でしかない。
彼らは、世界が人の手によって滅びる場合にのみ出現する。
人間は自らの業によって滅びる生き物。
だから、滅びの過程はいつだって同じはずだ。
嫉妬。憎悪。我欲。妄念。
人を愛して、その為になろうとしたそいつは、死んだ後も同じ醜さ《もの》を見せられ続けた。
その場所に呼び出されて、契約通り守護者として責を果した。
―――殺して。
殺して殺して殺して殺して、人間っていう全体を救う為に、呼び出された土地にいる人間をみんな殺した。
それを何度繰り返したのか私には判らないし―――これから何度繰り返していくのかも、わたしには知る術もない。
……だから、言える事は一つだけ。
そいつはずっと、色々なものに裏切られてきたけど。
結局最後は、唯一信じた理想にさえ、裏切られたという事だ。
「あっちゃあ――――――――」
目が覚めて、とりあえずはそんな言葉しか言えなかった。
体は妙にだるくて、ベッドからピクリとも動かない。
はっきりしているのは意識だけで、意味もなく天井を見つめたりする。
「……薄々そうだろうとは思ったけど。アレ、やっぱりあいつの記憶だったか」
はあ、と溜息をついて天井を見つめる。
……やり辛いなぁ。
マスターとサーヴァントは霊的に繋がっているから、睡眠時にあっちの記憶層に迷い込む事だってある、とか教えてくれれば良かったのに。
そうしたら意識をカットして、あんなモノ見ずにいられたのだ。
「――――起きよ。今日もやる事いっぱいあるし」
ベッドから体を起こす。
体は重く、目蓋も石か鉄みたいに重い。
朝に弱い体質を恨みながら、もそもそと寝間着から制服に着替える。
「けど、まあ」
納得したというか、意外だったというか。
あいつ、昔はわりと熱血漢だったんだ。
どんな英雄だったかはまだ判らないけど、昔はもっと素直だったっぽい。
「……ま、それもあんな人生送ったあげく、死後もこんな目にあわされちゃあ、確かに性格歪むわよね」
あはは、と陽気に笑い飛ばす。
姿見に映った顔は笑うどころか泣きそうなぐらい深刻だったけど、それでも笑う事にした。
だって、そうでもしないと|アーチャー《あいつ》とまともに顔を合わせられないだろうから。
朝の支度を済ませて、居間で煎れたての紅茶を飲む。
朝食はとらない主義なので簡素なものだ。
登校までの十五分、朝の一杯は寝ぼけている体を覚醒させる為の儀式と言っていい。
「凛、いつまで遊んでいるつもりだ」
だっていうのに、主人の気分を読みとれない無頼が一人。
「いつまでって、七時半までよ。それを過ぎたら遅刻しちゃうじゃない」
「誰が登校時間を言っているか。私が言いたいのは聖杯戦争の事だ。
……他のマスターと協力する事は悪くない。だが、君の場合は選んだパートナーが悪すぎる」
「――――はあ」
またその話題か。
アーチャーは事あるごとに衛宮士郎との協定を切れ、と提案してくる。
「だからその気はないって言ったでしょう。アーチャーはそう言うけど、わたしは適任だと思う。そりゃ戦力としては不安だけど、協力者としては文句なしでしょ。
……その、衛宮くんなら何があっても裏切らないと思うしさ」
「本来信頼は駆け引きで築くものだ。理由のない信頼などそれこそ信用ならん。いいか、アレは勝ち残れる人間ではない。協力者を選ぶというのなら、まだキャスターのマスターの方が賢い」
「ふざけないでアーチャー。アンタ、私にあんな外道と志を同じにしろっていうの」
ティーカップを置いてアーチャーを見据える。
皮肉だとしても、今の発言は聞き捨てならない。
「――――――――」
「――――――――」
……場が凍る。
わたしは本気で怒っていて、アーチャーも発言を訂正する気はない。
わたしたちはそのままの姿勢で、互いの目を見つめていた。
「確かにキャスターは外道だが、アレはアレで実に魔術師らしい。
その点で言えば、凛は戦いには向いていない。魔術師ならば志より結果をとるべきだ」
「皮肉を言っても無駄よ。私は方針を変えないわ」
「……まったく、どうしたのだいったい。衛宮士郎と知り合ってからの君はおかしいぞ。以前の合理性はどこにいった」
「――――――――」
……ふん。
そんなの、アンタに言われなくっても気づいてる。
けどしょうがないじゃない。
あいつは魔術師のくせになんにもなくて、そのくせ危なっかしいぐらい一本気なんだから。
そーゆう相手に駆け引きとか策略とかをかけても不毛なだけだし、それに――――あいつは、その。
「凛? どうした、ようやく自分の愚かさに気づいたか?」
「―――そうね。ええ、わたしはどうかしてる。
けどアーチャー。それもこれもみんな、アンタがつまんないモノ見せるからじゃない」
「なに?」
「……いいわ、忘れて。とにかくアンタがわたしのサーヴァントである以上、わたしは自分《わたし》が信じるコトしかやらない。わたしは衛宮士郎ほど甘くはないけど、それでも譲れないものがある。相手が何者であろうと、それを譲る気なんかない」
怒りを込めて言った。
―――それで、今更ながら気が付いた。
わたしはこいつの過去を知って同情なんてしていない。
ただもう、ひたすらに怒っているだけなんだって。
「……ふんだ。アーチャー、返事は!?」
ヤケになってアーチャーを睨み付ける。
赤い外套の騎士は、はあ、ともう何度も見たおきまりのポーズをして、
「仕方あるまい。主が不調ならば支えるのが臣下の役割だからな。君が本調子になるまで、陰ながら見守るとしよう」
と、イエスなんだかノーなんだか判らない返事をした。
◇◇◇
「――――――――」
……目を覚ます。
目覚めは重く、頭の中に鉛が入っているようだ。
「――――なんだろう。ここんとこ、目覚めが悪いな」
考え事が多いからか、それともおかしな夢でも見ているのか。
「っ――――」
あまり夢を見ない自分が、ここ最近は夢らしきモノを見ている気がする。
「……まあ、綺麗な剣だったけどさ」
夢に見るのは、漠然とした剣のイメージだ。
その中でもあいつの短剣は頻繁に出てきてしまう。
「―――チッ。そうだよ、気に入ってるよ、悪いか」
いもしないアーチャーに悪態をついて、布団から体を起こす。
時刻は朝の六時前。
不確かな夢で一喜一憂している場合じゃない、さっさと朝飯の支度をしよう。
◇◇◇
セイバーに見送られて家を出る。
この生活にも慣れたもので、朝はとりわけ何もなく、実にスムーズに過ぎていった。
校門に遠坂の姿はない。
一成が怪しい、という唯一の突破口が消えた今、あいつも情報集めに忙しいんだろう。
「―――って、人ごとじゃない。俺も調査しないと」
……かといって、どうやって調べればいいものか。
遠坂は学校にいる人間を調べているだろうから、俺は校舎をもう一度調べてみよう――――
―――とまあ、今まで判らなかったものが都合よく判る筈もない。
午前中の休み時間と昼休みの前半を使って校舎を走り回ったものの、異状がありそうな場所は発見できなかった。
「うむ。なにか知らんが、お疲れ」
既に昼食は済ませたのか、時代がかった詩集を読みながら、一成はねぎらってくれた。
「…………サンキュ。飯食うからお茶貰うぞ。あれ、急須は?」
「ああ、こっちだ。しかしな、今日は昆布茶しかないが、いいか?」
「え? うー、なら白湯でいいや。俺、どうも昆布茶のドロッとした感じ、だめだ」
「そうかそうか。では、明日までに職員室から緑茶でも貰ってこよう」
あっはっは、と明朗に笑う一成をよそに、自分用の湯飲みに白湯を注いで机に陣取る。
「んじゃ、いただきます」
ぱんぱん、と手を叩いて弁当箱を開ける。
重なるようにコンコン、というノックの音。
「あれ? 一成、お客さん」
「む? こんな時間にか?」
一成はのろのろと扉まで歩いていく。
来客は生徒会顧問の葛木だった。
葛木先生とはここでよく顔合わせするが、あっちから言わせれば“衛宮はよく生徒会室にいる”になるんだろう。
「――――――――」
もぐもぐ、と無言で鶏そぼろ弁当を食べる。
今日は連絡事項ではないのか、一成と葛木先生は世間話をしていた。
「――――――――」
もぐもぐもぐ。
もぐもぐもぐもぐもぐ、ごっくん。
「先生、そろそろ時間ですが」
「む。そうか、邪魔をしたな。言わずとも承知しているだろうが、戸締まりは忘れないように。下校時間も厳守したまえ」
「はいはい、わかってますって」
葛木先生は立ち去り、一成はわりとご機嫌な体《てい》で戻ってくる。
「――――――――」
……いや、珍しいものを見たな。
生徒と世間話をする葛木宗一郎というのは、ものすごくレアだ。
それも人見知りの激しい一成と。
……ああいや、堅物同士気が合うのかもしれないが、にしても不思議ではある。
「なあ一成」
「ん? なんだ衛宮」
「いや、前から疑問に思っていたんだが。おまえと葛木、仲いいのか?」
あ。驚いてる、驚いてる。
「―――いや、答えられないんならいい。ふとそう思っただけだから、気にするな」
「ああ、違う違う。そういえば衛宮には言ってなかったな、と気が付いてね。仲がいいのは当然なのだ。なにしろ葛木先生は俺の兄貴分みたいなものだからな」
「―――――――は?」
葛木先生が、一成の、兄貴分……?
「ちょっと待て。それどういう事だ」
「だから兄貴分だって。
宗一郎―――葛木先生は三年ほど前からうちに居候をしているんだ。見ての通り朴訥《ぼくとつ》な人柄だが、裏表のない誠実な心をしている。同じ屋根の下で暮らしていて、人間として尊敬できるのだ。兄として慕うのは当然だろう」
「―――――葛木が、柳洞寺に住んでいる――――?」
ぐわん、と後頭部を叩かれたような感じ。
それでも表面上は平静を取り繕って、話の続きを促した。
「そういえば。最近、見慣れない女がいるって言ったよな。そいつのこと、葛木は知ってるのか?」
「知ってるも何も、あの女は葛木先生の許嫁だ。近々祝言をあげるから、それまで部屋を貸し与えている」
「――――――――」
ごわん、と二度目の衝撃。
「一成。そういうの、見慣れない女って言わないんじゃ、ないのか」
くらくらする頭で、精一杯の抗議をする。
「見慣れない女は見慣れない女だ。葛木先生の許嫁であろうと、名前も知らない女などそれで十分だろう」
不愉快だ、とばかりに会話を切る一成。
「――――――――」
……と、ともかく。
出所はどうあれ、無視できない話だった。
柳洞寺から通ってきている葛木宗一郎と、柳洞寺にいるという女性。
葛木先生に許嫁が現れたのは一ヶ月ほど前だと言う。
もしそれがキャスターなら、答えは出ているのと同じだが――――
「と、そういう訳なんだが」
「――――――――」
放課後の教室。
下校時間まであと十分もない、という状況で、とりあえず遠坂に葛木先生の件を伝えてみた。
「どうだろう。一成の事もあるし、柳洞寺に住んでるからって怪しい、と決めるのはどうかと思うんだが」
「……葛木先生か……マスターとしての気配っていうより、そもそも魔術師じゃないんだけどな、あの人は」
こっちの話を聞いているのかいないのか、遠坂は納得いかなそうに眉をひそめている。
「魔術師じゃない……? なんだ、良かった。それじゃとりあえず葛木は除外か」
「なんで? そんな怪しいヤツ、マスターに決まってるじゃない」
「――――――――」
……いや、慣れてきたけど。
やっぱりまだ、遠坂《こいつ》のスピードにはついていけない。
「今夜にでも仕掛けるわよ。学校に手を回して夜勤になるように仕向けるから、衛宮くんも準備しといて」
「と―――ちょっと待て。いくらなんでもそれはなし。葛木を夜勤にするって、それじゃあ今夜にでも戦うっていうのかよ」
「当然でしょ。葛木が明日も学校に来る保証はないもの。機会はまったなし、夜まで学校に残らせて、帰り道であいつがマスターかどうか試すのよ」
「……念のため訊くが。マスターかどうか試すって、どうやって」
「実力行使。衛宮くんの時といっしょ」
いっしょ、というフレーズが妙に甘ったるく聞こえた。
……こいつ、やっぱり根はいじめっ子だったんだな。
もしかしたらガキの頃、こいつと公園の平和を巡って一戦やらかした事があったやもしれぬ。
「―――俺は反対だ。試すにしても、もっと穏やかな方法がある。わざわざ危険な真似をしなくてもいい」
「危険じゃないわよ。わたしだって見境なしじゃないわ。陰から軽いガンドを打つだけよ。もし葛木先生が一般人でも、二日風邪で寝込む程度だし」
「あ――――いや、それも問題だろ。もし葛木が本当にマスターだったら、そのまま戦闘になる。こっちから手を出す以上、話し合いにはならない」
「? わからないわね。それなら余計好都合じゃないの。一体何が危ないっていうのよ、衛宮くんは」
「そっちこそわからないヤツだなっ。だから、遠坂が危ないって話だろ」
「――――――――」
ようやくそれに気付いてくれたのか、遠坂はピタリと会話を切った。
が、それも一瞬。
「そ。別にいいわよ、それならわたし一人でやるだけだもの」
なんて、あっさり決断しやがった。
「くっ――――!」
ああもう、一度そうと決めた遠坂に何を言っても無駄かっ。
「……わかった、俺も付き合う。遠坂を一人にしたらどんな無茶をするか分からないからな」
「それはこっちの台詞よ。……まったく、何を言いだすかと思えば」
「……下校時間ね。それじゃ待ち合わせは午後七時、橋の下の公園。戦闘になるだろうから、ちゃんと準備してくるのよ」
ふん、と顔を背けて歩き出す。
その背中を追うかたちで、こっちも教室を後にした。
◇◇◇
「では、今夜キャスターのマスターに仕掛けると?」
「いや、まだ葛木がマスターだって決まった訳じゃないんだが、おおむねそうだ」
帰宅するなり、セイバーに今日の顛末を報告する。
セイバーも遠坂と同意見なのか、どうにもこう、今からやる気オーラが充ち満ちていた。
「そういう訳だから、今日の鍛錬はなしだ。夕食もすぐに支度するから、待ち合わせに備えよう……って、そっか。セイバー、出陣の前に飯食うのってよくないのか?」
「は……? なぜそのような事を訊くのです。戦闘時に空腹では問題があると思うのですが―――」
「いや、腹がもたれるのかなって。あと一時間もないし、夕飯は帰ってきてからのがいいんじゃないかなって」
「あ、いえ、そのような事はないと思いますよ? 口にしたものを素早く消化するのも戦士の素質です。
その、普段から正しい生活と鍛錬をしていれば、食事はあまり問題ないかと……」
「えーと。それはつまり、夕飯は作ってオッケーって事?」
「はい。そちらの方がたいへん力が出るのでは」
……そっか。
まあこっちも食った後すぐに動ける程度には鍛えてあるし、問題はないんだろう。
それでもまあ、一応メニューは軽いものでまとめておこう。
「それじゃ居間に行ってるけど、セイバーは?」
「シロウの邪魔をする訳にはいきません。私はもうしばらく気を整えておきます」
気を整える、とは正座しての瞑想の事だろう。
「了解、飯が出来たら呼びに来る」
道場を後にする。
外はすっかり暗くなっていた。
待ち合わせは七時。……となると、葛木先生に仕掛けるのはその一時間後ほどになるのか。
「――――――――」
もし葛木先生がマスターだったら、その時は戦うしかない。
キャスターは用心深いサーヴァントだ。
自らの主が襲われたと知れば、二度と奇襲の機会など与えてはくれまい。
……となると、仕掛けるのならそれは必殺。
相手を逃がす事もできないし、こちらが逃げる事も許されない。
相手が何者であれ―――町の人間を次々と襲っているキャスターを止めるには、そのマスターを倒すしかない。
うまくいって、令呪を奪う事によりマスターでなくす。
……だが最悪、それが出来ないのなら命の鬩ぎ合いになるだろう。
「―――そうか。武器の一つも持っていかないとな」
うちにある武器―――魔力を通しやすい得物といえば木刀ぐらいか。
ここのところ“強化”の成功率はあがってきていて、木刀でも立派な武器になる。
が、それは通常の争いの話だ。
サーヴァント、マスターが相手なら、もっと確かな武器が必要になる。
「欲を言えば――――あいつの、剣みたいに」
……頭の中で、夢に見たモノをイメージする。
白と黒の夫婦《めおと》剣。
あのぐらいの長さだったら俺でも扱えるし、
何より―――あの剣なら、俺でも一人前に戦える。
セイバーの足を引っ張らずに身を守れて、あいつのマスターとして少しは胸を張れるだろう。
「―――ったく。無い物ねだりをしてもしょうがないだろ、ばか」
はあ、と肩を落として縁側へ向かう。
今は出来る事をするだけだ。
とりわけ、今は夕食に精根をこめよう。
セイバーは仏頂面のようでいて、食事を楽しみにしている節がある。そんなセイバーを喜ばせるのが、最近の密かな楽しみになっているし。
◇◇◇
午後七時。
待ち合わせの時間通りに遠坂はやってきた。
「おまたせ。必要な物を揃えてたら時間かかっちゃった。で、そっちの準備はどう?」
「――――――――」
ん、と手にした竹刀袋を差し出す。
中には木刀が一本。
俺が用意する準備なんてこの程度である。
「……ま、しょうがないか。そもそも白兵戦ならこっちはセイバーがいるんだし、衛宮くんは様子を見ているだけでいいかもね」
「そうだな。セイバーがいる以上、俺はセイバーのフォローをするだけだ」
……まあ、セイバーの背中を守る、という状況も考えづらいのではあるが。
「凛。なぜアーチャーはいないのですか?」
と。
真剣な顔をして、セイバーはそんな事を口にした。
「え……? 遠坂、アーチャーを連れて来てないのか?」
「―――ええ、アイツなら置いてきた。今夜は奇襲だし、セイバーがいるなら必要ないでしょ。正直なところ、あいつとキャスターを会わせたくないのよ」
行くわよ、と歩き始める遠坂。
……何を考えているかは知らないが、今回アーチャーの助けはない、という事だ。
……時間が過ぎていく。
学校から柳洞寺に帰るには、どうしてもこの交差点を通らなければならない。
そんな訳でここに網を張ること一時間。
遠坂によって簡易的な結界―――
「外から見られるのはアウトだけど、防音だけは完璧よ。ここ一帯、ミサイルが落ちても周りには気づかれないわ」
―――だそうだ。
周囲はあまりにも静かだ。
遠坂の結界が働いている、というのもあるのだろうが、町にはあまりにも活気がない。
―――聖杯戦争が始まってから、すでに七日。
町は誰にも気づかれないところで、少しずつその精気を削ぎ落とされているようだった。
「――――来た。衛宮くん、隠れて」
「っ――――」
体を壁ぎわに寄せる。
……足音も聞こえない。
街灯の下にあるのは、一人分の人影。
長身痩躯。
校舎で見慣れたその姿は、間違いなく葛木宗一郎だ。
葛木は普段通り、乱れのない足取りで目の前を通り過ぎていく。
「――――――――」
それがあまりにも無防備すぎるというか。
ここにきて、葛木先生はなんの関係もないのではないか、という不安が蘇ってきた。
「……なあ遠坂、やっぱり葛木は違うんじゃないのか」
「…………。ま、やってみればはっきりするでしょ」
遠坂も半信半疑っぽい。
それでも作戦を決行するのか、トコトコと通り過ぎていく葛木に向かって、遠坂は人差し指を向けた。
――――ガンド。
もっとも単純な魔術とされる、対象の身体活動を低下させる『呪い』である。
遠坂のソレはすでにガンド打ちというより鉄砲打ちだが、今回はちゃんと威力を抑える筈だ。
「――――準備はいい、衛宮くん」
ぼそり、という声。
「――――――――」
今ならまだ間に合う。
葛木宗一郎が無関係である可能性。
ガンド以外でマスターかどうかを確かめる手段があるのではないか――――
―――やっぱりダメだ。
いくらなんでも、この方法は乱暴すぎる……!
「遠坂、待った……! 幾らなんでも軽率すぎる……!」
「いまさら遅いっ、ここまで来て止められるかっ!」
「っ―――――!」
遠坂の左手が突き出される。
その直後、耳を刺すような音をたてて、黒いモノが放出された。
「――――――――」
おそらく、音をたてたのはワザとだろう。
放たれたガンドのスピードも遅く、黒いモヤはスローボールのように葛木へと飛んでいく。
「――――――――」
受ければ二日は寝込む病の風。
だがマスターにとって、二日の行動不能は致命的だ。
葛木先生がマスターであるのなら、絶対に何らかのリアクションがある筈だが―――
「やば――――!」
遠坂が体を起こす。
……道を行く葛木は何の反応もしない。遠坂のガンドは容赦なく、葛木宗一郎の頭部に直撃し――――
――――寸前。
突如中空に現れた布きれによって無効化された。
「――――ほう」
ガンドの直撃を受ける筈だった男は、そう漏らして俺たちを見た。
何者かが物陰に隠れている事など、始めから知っていたと言うかのように。
「遠坂……!」
咄嗟に袋から木刀を抜き、魔力を込める。
“強化”に戸惑っている余裕などない。
葛木の前に舞い降りた布きれは、いまや人の形を成していた。
紫紺のローブから、すらりとした女の手足が出現する。
―――空間転移。
純粋な転移《それ》は現代においても魔法とされる。
神秘《それ》を事も無げに体現し、黒い《キャス》魔女《ター》は現れていた。
「忠告した筈ですよ宗一郎。このような事になるから、貴方は柳洞寺に留まるべきだと」
俺たちの事など眼中にないのか、キャスターは余裕げに己が主―――葛木に話しかける。
「そうでもない。実際に獲物は釣れた」
「そうね。あまり大きな魚ではなさそうだけど、大漁である事は間違いないわ。―――さあ。そこから出てきなさい、莫迦《ばか》な魔術師さん」
「――――――――」
……こうなっては逃げる事は難しいだろう。
いや、目の前にキャスターとそのマスターがいるのなら、ここが町中であろうと戦うだけだ。
だが、その前に――――
「出てこないの? 残念ね、顔ぐらいは見ておきたかったのですけど」
「ちっ……なによあの狸、こっちの素性なんてもう判ってるクセに―――」
物陰に隠れながら毒づく遠坂。
それが聞こえているのか、
「三秒あげるわお嬢さん。それで、貴女がした事をそのまま返してあげましょう」
そう楽しげに言って、キャスターは手のひらをこちらに向けた。
―――柳洞寺の光景が蘇る。
あいつは、そんな甘いヤツじゃない。
やるのならここ一帯、俺たちが隠れている壁ごと破壊するだろう。
「衛宮くん、合図をしたら跳んで。セイバー、準備はいい?」
こくん、と背後で頷く気配。
――――だが。
その前に、確かめなくてはいけない事がある。
「―――すまん。それは後にしてくれ、遠坂」
「え?」
返事を待つまでもない。
俺は木刀を下げたまま、物陰から交差点へと歩き出した。
「ちょっ、士郎――――!」
……放っておけなくなったのか、遠坂まで一緒に出てきてしまう。
「あら。意外ね、少しは物分かりがよくなったのかしら、坊や」
そんな俺たちを余裕げに眺めるキャスター。
……その横には葛木がいる。
ここから距離は十メートルほど。
どう考えても、こっちが近づくよりキャスターの指先の方が速すぎる――――。
「――――――――」
それを承知で姿を現した。
戦う前にやらなくちゃいけない事。
それは――――
「遠坂と衛宮か。間桐だけではなくおまえたちまでマスターとはな。魔術師とはいえ、因果な人生だ」
キャスターが守っている、葛木宗一郎の正体を確かめるという事だ。
「どうした衛宮。話があるのではないのか」
いつもと変わらぬ態度で言う。
葛木からは魔術師としての気配を感じない。
いや、聖杯戦争を戦い抜こう、という意思さえ感じない。
なら――――
「葛木。あんた、キャスターに操られてるのか」
アーチャーの言う通り、葛木はキャスターに操られているだけかもしれない。
その疑問を明らかにしないかぎり、葛木とは戦えない。
「――――」
キャスターが殺気を帯びる。
それだけで、今の質問はあいつにとって禁句だったと感じ取れる。
「―――うるさい坊や。殺してしまおうかしら」
脅しではない言葉。
それを、
「待て。その質問の出所《でどころ》はなんだ、衛宮」
教壇と変わらぬ声で葛木が止めた。
「疑問には理由がある筈だ。言ってみるがいい」
「――――――――」
……喉が渇く。
キャスターの殺気だろう。下手な事を言えば殺す、と紫紺のローブが告げている。
それを堪えて、
「―――アンタがどうやってマスターになったかは知らない。けど、アンタはマトモな人間だろ。ならキャスターがやっている事を見逃している筈がない。
だっていうのに見逃してるって事は、アンタは知らないんじゃないかって思っただけだ」
そう、キャスターを睨みながら口にした。
「キャスターがやっている事だと?」
「……ああ。そいつは柳洞寺に巣を張って、町中の人間から魔力を集めてる。ここ最近連続している昏睡事件は全部そいつの仕業だ」
「――――」
「今までも、そしてこれからも犠牲者は増え続ける。キャスターが魔力を吸い上げ続けるかぎり、いずれ死んじまう人間だって出てくるだろう。
……そいつは町中の人間は生け贄だって言ってた。取り返しのつかない事になるのは、そう先の事じゃない」
「なるほど、そういう事か。通常、善良な人間ならばキャスターを放置できない。
にも関わらず、マスターである私がキャスターを放置しているのは、彼女に操られているからだと考えた訳だな」
「……ああ。もしアンタがキャスターの行為を知っていて放っておいているなら、アンタはただの殺人鬼だ。俺も容赦はしない。けどアンタが操られているんなら別だ。俺たちはキャスターだけを倒す」
「いや。今の話は初耳だ」
確固たる意思で、葛木は断言した。
そこに嘘は見られない。葛木宗一郎は、教壇に立つ姿のように潔癖だった。
「――――――ふぅ」
キャスターを警戒しつつ胸を撫でおろす。
キャスターに操られているのなら、葛木先生も犠牲者という事になる。
となれば、後はキャスターを倒すだけ――――
「だが衛宮。キャスターの行いは、そう悪い物なのか」
―――だと言うのに。
平然と、葛木宗一郎はそう言った。
「なん、だって…………?」
「他人が何人死のうが私には関わりのない事だ。加えてキャスターは命までは取っていない。
……まったく、随分と半端な事をしているのだなキャスター。そこまでするのなら、一息で根こそぎ奪った方がよいだろうに」
「――――――――!」
それも、いつもと変わらない。
葛木宗一郎は教壇に立つ姿のまま、嘘偽りのない意見を述べる。
「っ―――葛木、おまえ無関係の人間を巻き込むつもりか……!!!!」
「全ての人間は無関係だが。……まあ、私が何者であるかはそちらで言い当てただろう。
私は魔術師などではない。ただの、そこいらにいる朽ち果てた殺人鬼だよ」
葛木が下がる。
ヤツはキャスターの背後に位置して、その陰から俺たちを流し見た。
「キャスターの傀儡というのは当たっているがな。
私は聖杯戦争など知らん。キャスターが殺し、おまえたちが殺し合うというのなら傍観するだけだ。
もっとも―――」
「私も、自分の命が一番可愛い。キャスターが何を企もうと知らぬ。私はただ、私を阻むモノを殺すだけだ。
―――では好きにしろキャスター。生かすも殺すもおまえの自由だ」
勝ち誇った笑みを浮かべ、俺たちの前に立ち塞がるキャスター。
「っ―――ああもう、とんだ狸同士じゃない、あいつら……!」
そう舌打ちしながらも遠坂は動かない。
いや、動けないのだ。
魔術師としての技量は、俺たちが束になったところでキャスターには敵わない。
マスターは魔術師である以上、卓越した魔術師であるキャスターには太刀打ちでき――――
「―――そうか。
では、ここで死しても構わぬのだな、キャスターのマスターよ」
「……え?」
背後からの声。
それに振り向くより速く、
剣士のサーヴァント、セイバーが疾走していた。
「――――セイバー!?」
声さえも追い付かない。
既に白銀の鎧で武装したセイバーは、疾風となって葛木へと突進する。
「―――お待ちなさいセイバー!」
迎え撃つキャスターの呪言。
詰めるは五間。
十メートルもの距離を一息で完走するセイバーが突風なら、なお速く呪文を紡いだキャスターは雷鳴だろう。
しかも暴風。
一秒に満たぬ間に放った光弾は五指、死の棘となってセイバーを串刺しにする――――!
「対魔力……! いえ、私の魔術を防ぎきる騎士など知らない……!」
キャスターの悲鳴があがる。
アーチャーとて躱すしかなかったキャスターの呪文を、セイバーは睨むだけで無効化する。
その視線の先にあるのはキャスターではない。
彼女の標的。
その剣で両断すべき相手は、マスターである葛木宗一郎に他ならない……!
セイバーはためらう事なく葛木を両断した。
「宗一郎――――様」
……交差点は無音に戻る。
セイバーは剣を振った姿勢のまま止まっている。
そのあまりの速攻に、場にいた全ての者が、勝敗は決したと見て取った。
―――そう。
一人冷然と佇む、葛木宗一郎以外の者は。
疾走。停止。一撃。
キャスターの神言を全て弾き返し、誰にも対抗する隙を与えず、セイバーは勝負を決した。
踏み込む速度、大地に落とした足捌き、横一文字に振り抜いた剣に是非はない。
彼女の視えない剣は敵マスターを一閃した。
最高の機を窺っての奇襲である。
斬撃は大木を断つほどの会心さで、仕損じる事なく葛木宗一郎を二つに分ける。
いや―――分ける、筈だった。
「な―――――――」
当惑で息が漏れる。
一体どうなっているのか、と。
剣を振るった姿勢のまま、彼女《セイバー》は呆然と目の前の敵を見た。
「―――――――ばか、な」
彼女でさえ事態が掴めていない。
横一線になぎ払った必殺の一撃。
それが止まっている。
敵の胴体を薙ぎ払う直前に、何かに刀身を挟まれて停止している。
「――――足と、腕?」
そんな奇蹟が起こりえるのか。
彼女の剣は、敵である葛木宗一郎によって止められていた。
膝と肘。
高速で切り払われるソレを、男は片足の膝と肘で、挟み込むように止めていたのだ[#「挟み込むように止めていたのだ」に丸傍点]。
「――――――――」
無論、彼女は知らない。
素手で相手の武器――――刃を受け止める武術がある事も、それを実現する達人の事も。
それでも、これが通常の戦いなら放心する事などなかっただろう。
だが事はサーヴァント戦。
敵はあくまでただの人間だ。
それが必殺の一撃、視えない刀身を捉え、かつ素手で押し止めたなど、もはや正気の沙汰ではない……!
「―――侮ったな、セイバー」
それは、地の底から響いてくるような声だった。
「…………っっっ!!!!」
セイバーの体が流れる。
止められた剣を全力で引き戻そうとする。
その瞬間。
「がっ――――!?」
彼女の後頭部に、正体不明の衝撃が炸裂した。
「は、っ――――!?」
訳が判らない。
素手で剣を止める、などという相手は初めてだ。
いや、となると今のは素手による攻撃か。
つまりは殴られた。この間合い、お互い肌を合わせる距離で、後頭部を殴られた……?
「っ――――!」
正体が掴めないまま回避する。
「は――――!」
こめかみを掠っていく“何か”。
それが何らかの魔術によって“強化”された拳であると看破し、セイバーは跳んだ。
長柄の武器を持つ以上、素手の相手に対して接近戦《クロスレンジ》では不利だ。
セイバーは自身の間合い、剣を生かす一足一刀の《ショート》間合い《レンジ》まで後退する。
無論、体は敵を見据えたまま。
敵にとって有利な間合いを離そうというのだ。
当然逃がすまいと追ってくる敵を迎え撃つのが定石である。
が、敵は追ってはこなかった。
キャスターのマスター、狙われれば倒されるしかないその男は、その場に踏み留まったまま、
彼女の鳩尾《みぞおち》を貫いていた。
「っ――――!?」
吐息が漏れる。
貫いたのは衝撃だけだ。
攻撃は鎧に阻まれ、その衝撃だけを伝えてくる。
「は、あ――――!」
続く衝撃。
的確に急所だけを狙ってくるソレは、紛れもなく、人の拳そのものだった。
「――――――――」
息を呑む暇が彼女にあったか。
巌《いわお》じみたあの指が衝撃の正体だと理解した時、勝敗は決していた。
繰り出される拳の雨。
神鉄で作られたかのような強度と重さをもって、男の拳はセイバーをつるべ撃つ。
それを、どう表現すればいいのか。
鞭のようにしなる腕は、しかしあくまで直角に変動する。
放たれる速度が閃光ならば、そこから更に変化する二の腕は鬼神の業か。
「は――――つ――――!?」
視認する事さえ困難な一撃は、悉く急所のみを標的とする。
反撃など許されない。
剣を振るう腕さえ狙われ、その一撃《いたみ》は鎧を通して心髄にまで届いていた。
攻撃は常に外から内に。
大きく周りこむ腕は肘を支点に軌道を変え、あらぬ方向からセイバーを打ちのめす。
「は――――、くっ――――!」
鈍重で鋭利。
即死性はなく、だが死に至る毒を帯びた突起物。
それがこの攻撃の全てだった。
拳は躱せないものの、威力はそう大きくない。
だが―――受ける度に、痛みで意識が停止する。
その僅かな隙をつき、根こそぎ意識を刈り取ろうと後頭部に食いつく一撃は、死の鎌を連想させた。
「っ…………!」
それを直感だけで回避する。
―――腕や胸を狙う一撃はいい。
だが頭――――後頭部を打たれては倒される。
それ故、セイバーはその一撃にだけ神経を集中する。
剣を素手で止める怪人。
初体験とも言える奇怪な攻撃方法を前にして、彼女が頼りにするものは己が直感だけだった。
「―――よく躱す。未だ混乱しているというのにな」
敵の腕が止まる。
その構えは、拳と同じく岩のように不動。
「―――なるほど。眼がいいのではなく、勘がいいという事か」
「――――!」
男の体が動く。
繰り出される一撃は何が違ったのか。
確実に致命傷を避けていたセイバーは、その一撃を躱せなかった。
「あ――――」
意識が落ちる。
後頭部に落ちた衝撃が脳を犯す。
「く――――!」
それでも両腕を上げた。
男の攻撃では彼女の鎧を突破できない。
ならば―――男が狙うのは、剥き出しである彼女の顔だ。
セイバーは両腕をあげ、自らの顔を守る。
「がっ――――!」
抜けてくる衝撃。
それは、密林を這う蛇そのものだった。
顔を覆った腕の合間を、敵の拳は容易《たやす》くすり抜けた。
「つ――――く…………!」
意識が遠のく。
“蛇”の胴体、左腕の肘が、セイバーの鎖骨へと叩き込まれる。
それをわずかに後退して躱し、セイバーは剣を握りしめた。
その先にある変化。
肘先から変化し、左側面から後頭部を狙ってくる一撃に備えた。
―――もはや、この相手を侮る事などできない。
相手が意識を刈り獲《と》るというのなら獲らせる。
だが、その直後に見返りとして両腕を切り落とそう、と彼女は両目を見開き、
その変化に、愕然とした。
「――――――――」
肘を支点に、真上から垂直に落ちてくる。
今まで円を描いていた軌道が、ここにきて線……!
「っ――――は…………!!!!」
咄嗟に首をずらし、脳天に叩き落とされる一撃を回避する。
「ぐっ……!」
肩口に落ちる衝撃。
左肩は完全に破壊された、と敵を睨んだ瞬間、彼女の背筋は凍り付いた。
ぐるん、と男の体が半身を引く。
今まで一度も使われなかった右腕。
常に彼女の喉の高さに位置されていたソレは、それこそ、砲弾のように放たれた。
「――――――――」
今まで線でしかなかった敵の攻撃は、ここにきて点だった。
正面にいるセイバーに対して、一直線に放たれる打突の拳。
その威力、針の穴ほども通す精密さを持つこの男なら、貫ける。
溜めに溜めた渾身の一撃ならば、セイバーの喉を貫き骨を断ち、完膚無きまでに頭を飛ばすに容易すぎる――――!
「――――!!!!!!」
だがそれも不発。
未来予知に近い直感を持つ彼女に奇襲は通じない。
蛇の拳は彼女の首横を掠っていく。
それを見届け、刃を返そうと踏み込もうとした瞬間。
ガ、と。
彼女の首の真横で、信じがたい音がした。
蛇の牙が突き刺さる。
セイバーの首を掠ったそれは、躱された瞬間、音をたてて彼女の首に指を食い込ませた[#「首に指を食い込ませた」に丸傍点]。
“――――突き《ア》刺し《ン》針《カー》………!”
驚愕は戦慄となって駆け巡る。
そう。手というものは、本来殴るものではなく掴むもの。
キャスターの魔力による補助か、敵の指はセイバーの首を容易く握り潰していく……!
「ぐ――――ああああああああ…………!!!!」
セイバーの剣が上がる。
この一瞬、首を握り潰される前に敵の腕を断とうと剣が走る。
だがそれは適わない。
剣を振るうより速く、彼女の体そのものが剣のように振るわれる。
―――体が宙に浮く感覚。
投手のようなオーバースイング。
男はセイバーの首を捉えたまま、片腕で彼女を放り投げた[#「放り投げた」に丸傍点]。
人体を球に見立てた剛速球。
受け身など取れる筈がない。
首の肉を削がれながら投げ飛ばされ、時速200キロのスピードでコンクリートの壁に叩きつけられ、
「ぁ……、っ――――――――――――」
彼女の体は、活動停止を余儀なくされた。
「――――――――」
その光景を、誰もが呆然と見つめていた。
俺と遠坂だけじゃない。
本来勝ち誇る筈のキャスターでさえ、呆然と自らの主を凝視していた。
セイバーの速攻から葛木の反撃。
悪夢のような首打ちから、敵である俺たちでさえ見惚れるほど、見事すぎた一投まで。
「――――――――」
セイバーは動かない。
首を掴まれたまま投げられ、背中から壁に激突した。
首の傷はおそらく致命傷。
加えて、トドメとばかりにあのスピードで壁に叩きつけられたのだ。
―――即死、という訳ではなさそうだが、動く事は出来まい。
少なくとも、首の傷と全身の打撲が癒えるまでセイバーは地面に倒れたままだろう――――
「そんな、ばかな」
知らず声が漏れる。
拳をキャスターの魔術で強化されているといっても、葛木は生身の人間にすぎない。
それがまさか、格闘戦でサーヴァントを圧倒するなど誰が思おう。
「マスターの役割は後方支援などと決めつけるのはいいがな」
振り返る痩躯。
「例外はつねに存在する。私のように、前に出るしか能のないマスターもいるという事だ」
それは、たった今見せつけられた。
つまり、この二人は。
後方支援《マスター》と戦闘担当《サーヴァント》、その役割がまったくの逆なのか………!
「何をしているキャスター。事前に言っておいただろう。後方支援をするのなら、敵の飛び道具は始末しておけと」
敵―――葛木の視線が遠坂を捉える。
ヤツにとって脅威なのはセイバーではなく、遠距離攻撃を可能とする遠坂だ。
だから葛木は俺たちを狙わない。
魔術師の相手は魔術師にさせるのが確実なのだと、あいつは肌で感じ取っている。
「どうしたキャスター。好きにしていい、と言ったが」
「―――いえ、セイバーには私が手を下します。宗一郎、貴方は残ったマスターを」
「―――――――」
キャスターの提案に無言で頷き、葛木は俺たちへと足を向ける。
その背後で、キャスターは倒れ伏したセイバーへと向き直った。
「―――上等。セイバーは面食らってやられたけど、あいつのネタは判ってる。要は近づかれる前に倒せばいいんでしょ」
葛木を睨みつけたまま、遠坂はじりじりと後退していく。
―――魔術師と戦士の戦いは距離との戦いだ。
いかに化け物じみた格闘技能をもっていようが、葛木に対魔力はない。
故に、放てば勝てる。
近づかれる前に一つでも呪文を編み上げられればこちらの勝ちだ。
「――――――――」
葛木は足先を遠坂に向けたままで動かない。
キャスターはセイバーが放り投げられた壁へと歩いていく。
……あの行為は失策だろう。
そこに付け入る隙があるが、今は――――
――――遠坂を守る。
セイバーは死んだ訳じゃない。
葛木が予想外の化け物だったとしても、セイバーはまだ負けてはいない。
加えて、セイバーがキャスターなんかにトドメをさされる事もない。
「――――――――」
木刀に力をこめる。
葛木の姿、その瞬きさえ見逃すまいと睨み付ける。
ヤツが遠坂へ体を向けた瞬間、遠坂の前に割ってはいる。
遠坂の事だ、咄嗟に左右に跳んで葛木を狙い撃ちにしてくれるだろ――――
「きゃっ……!」
そんな余裕など、なかった。
わずか一瞬。
わずかに葛木の体がブレた、と思った瞬間、葛木は遠坂の目の前にいた。
愕然としながら、それでも咄嗟に手のひらを葛木に向ける遠坂。
その胸の中心に、ガン、と。
あの、セイバーの首を貫こうとした右手が打たれていた。
「あ――――ぐ…………!」
遠坂の時間が止まる。
胸の中心を点穴され、呼吸を封じられた。
それで終わりだ。
息、呪文が口にできなければ、魔術師はその大部分の性能をカットされる。
咄嗟に跳び退いたおかげか、胸への一撃は呼吸を奪うに留まった。
だが次弾。
後ろに跳んだといっても一メートル弱。
そんな距離《モノ》、
葛木にとっては逃げた事にすらならない――――!
「しっ――――!」
両者の間に割って入る。
手にした木刀を盾に、遠坂を追撃する葛木と対峙する。
一転して放たれる拳。
「なっ……!?」
見えない……!?
こんなもの、どうやってセイバーは避け――――
「っ――――、ぐ――――!」
夢中で左側だけを守る。
重い打撃音と、木刀の砕ける音。
目前には次弾を放つ葛木の姿。
――――死ぬ。
直感した。
強化された木刀は鉄と同じだ。
それを一撃で叩き折るのなら、俺の体など何処を狙っても破壊できる。
――――止められない。
背後には苦しげに咳き込む遠坂。
葛木の攻撃は見えず、唯一の武器さえ破壊された。
的確にこめかみを狙ってくる拳。
鉄槌めいたソレで、衛宮士郎は死ぬだろう。
おそらくは頭蓋ごと脳髄を外に出されて、びちゃりとアスファルトに雨を降らす。
――――止められないと、死ぬ。
武器だ。
俺ではこいつには太刀打ちできない。
あまりにも開いた溝を埋めるには、せめて強い武器が要る。
脳髄に迫る。
直に殺されるイメージ。
それはダメだ。そんな事になったら、そう
――――止められなければ、死んでしまう。
武器。武器があればいい。
こいつに壊されない武器、木刀なんて急造のものじゃなく鍛え上げられた強い武器がいる。
それも極上、俺には不相応の剣、そうだ、あいつが持っていた武器でなら、きっと――――
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
なら作る。無理でも作る。どんな犠牲を払ってでも作る。
強化と複製、元からある物と元々ない物、その違いなど僅かだと思い込め。
そうだ、考えている余分はない、なんとしても偽装しろ。
故障してもいい、どこかを失ってもかまわない、偽物だろうと文句はない、急げ、忘れろ、わかっているのか、壊れるのはおまえだけじゃない、ここで止められなければ、後ろにいる遠坂を――――…………!!!!!!!
「え、うそ……!?」
その光景を。
俺のかわりに、遠坂が代弁した。
「ぬっ――――」
くぐもった声。
それは葛木の声だったのか。
耳がどうかしてしまったのか、音がよく聞こえない。
いや、耳だけじゃなく手足の感覚もあまりに希薄。
満足な右目だけが生きている。
繰り出される葛木の拳を見る。
それを防いでいる、他人事を観察する。
「――――――――」
腕が千切れそうだ。
感覚はないクセに、ぶつぶつと神経が千切れていく音を聴く。
両の手にはあいつの双剣がある。
陽剣干将《ようけんかんしょう》、陰剣莫耶《おんけんばくや》。
剣の名称。
デタラメに複製された剣は、それでも持ち主に、自らの存在を提示する。
――――けど、わるい。
今の俺では、おまえたちを投影しきる事が出来ない。
「ぐっ――――!」
「―――――――」
間合いが離れる。
三十もの拳を弾いた双剣は、もはや耐えられぬとばかりに砕け散った。
葛木の拳に負けたからじゃない。
双剣はあくまで、剣を維持しきれない俺自身のイメージによって消滅した。
「――――――――」
今の双剣が予想外だったのか、初めて躊躇らしきものを見せる葛木。
その時、
強い風が、交差点に巻き起こった。
「セイバー……!」
壁際に視線を移す。
回復したのか、セイバーは立ち上がっていた。
その前には後じさるキャスターがいる。
……そう、だから失策だったのだ。
いかに倒されたとはいえ、セイバーはまだ力を失った訳じゃなかった。なら、強力な対魔力を持つセイバーがキャスターに追い詰められる筈がない。
セイバーを倒すのなら、それはあくまで葛木の役割。
にも関わらずキャスターは見誤った。
何か目的があったようだが、その余分が確実な勝機を逸したんだ。
「――――――――」
葛木が退く。
セイバーに気圧されるキャスターを庇うように立ち、
「ここまでだ。退くぞキャスター」
そう、的確な判断を下す。
「マスター……!? いいえ、セイバーは手負いです、貴方なら先ほどのように――――!」
「二度通じる相手ではない。侮ったのは私の方だったな。あと一芸、手を凝らすべきだった」
……葛木は正しい。
セイバーが一方的に追い込まれたのは、葛木の技があまりに奇異だったからだ。
だがそれも先ほどまで。
俺では何度受けようが対応できないが、セイバーはすでに慣れてしまっている。
戦法とは形がない事を極意とする。
強力ではあるがあまりにも特殊な形の為、葛木の攻撃は見切られやすい。
初見、故に必殺。
芸術にまで磨き上げられた“技”と、
極限にまで鍛え上げられた“業”の違いが、ここにある。
「……分かりましたわ宗一郎。
ええ、サーヴァントである以上、マスターの命令には従わないといけませんものね」
それは誰にあてつけたものなのか。
忌々しげに吐き捨て、キャスターは大きくローブを翻す。
……その後には何もない。
紫紺のローブは葛木の体を包み込んだあと、それこそ魔法のように、交差点から消失していた。
「……やられた。いくらなんでも、こうなったら葛木は柳洞寺から降りてこない」
キャスターと葛木が消えた後。
打たれた胸を庇いもせず、遠坂は悔しげに歯を鳴らした。
……遠坂の気持ちは分かる。
こうなった以上、葛木は柳洞寺から出てこない。
キャスターを倒すのなら、今度はこちらから敵の陣地に挑まなければならないのだ。
だが柳洞寺にはアサシンという門番がおり、葛木とキャスターも簡単に倒せる相手じゃない。無闇に攻め込めば返り討ちにあうのがオチだ。
それでもキャスターを倒すには、こちらから柳洞寺に乗り込まなければならなくなった。
「凛。忠告しますが、あの寺は我々《サーヴァント》にとって鬼門です。アーチャーを動員したところで、力押しでは勝機は薄い」
「……ふん。わたしだってあの山がどれだけヘンかぐらい判ってる。悔しいからってすぐに追いかけたりしないし、貴方のマスターを強攻策になんか巻き込まないわ」
「――――では、キャスターを伐つのは諦めると?」
「冗談。やられっぱなしは性に合わないし、なによりキャスターは放っておけない。そのあたり、貴女のマスターも同意見だと思うけど?」
でしょ? と視線で問いかけてくる。
「―――――――――――――」
遠坂に釣られたのか、セイバーまで“そうなのですかシロウ”と言わんばかりの顔つきだ。
「当たり前だ。いつまでもあの二人を放ってはおけない。
キャスターは魔力集めを止《や》めないだろうし、マスターである葛木も止《と》めないと言った。なら二人を倒すだけだ。
柳洞寺にはアサシンもいるようだけど、キャスターのマスターである葛木を倒せば事は済む」
「そうね。葛木先生が大人しく令呪を消させてくれるとは思えないけど、とにかく取り押さえればなんとかなる。
……当面はこっちも作戦を立てるしかない訳だけど……」
―――と。
何かあったのか、遠坂は突然、
「それより衛宮くん、さっきのは何? 貴方の魔術って強化だけじゃなかったの?」
敵を見据えるような真剣さで、そんな事を訊いてきた。
「――――?」
さっきの魔術って、アーチャーの剣を複製した事か。
いや、自分自身でもやればできるもんだなって驚いている最中だけど、別にそう睨まれる事でもないような。
「黙ってないで答えなさいよ。前に言ったわよね、俺が使える魔術は強化だけだ、って」
「いや、そうだけど。初めに出来た魔術が投影で、そっちは効率が悪いから強化にしろって教えられたんだってば。……あれ、こんなの言わなかったか、俺?」
「―――言ってない。頭にくるぐらい聞いてない」
ぎろり、という視線。
どうしてなのか、遠坂は本気で怒っているようだ。
「じゃあ訊くけど。貴方、投影魔術は今回が初めてじゃないのね?」
「あ……そうなるかな。強化の鍛錬に失敗した時、仕切り直すためによくやってた。でもさっきみたいに役に立つモノを投影できる訳じゃない。
なんていうか、外見は似せられるけど中身は空っぽだったんだ」
「中身は空っぽ? なに、外観だけしか複製しないって事?」
「いや、ちゃんと中身も考えてはいるんだけど、うまくいかなかった。だから自分でも驚いている。
イメージした物は本物には及ばないんだけど、さっきのは真に迫ってたからな」
「そう。じゃあ衛宮くん、貴方は強化より先に投影を修得したってこと?」
「修得っていうより、それしかできなかったんだって。切嗣《オヤジ》はそれじゃ何の役にもたたないから目先を変えて強化にしろって」
「―――そうね。わたしでもきっとそうさせたわ。
……でもおかしな話よね。アーチャーの剣をあれだけ長時間複製できるクセに、普通の物は投影できない。
……属性が限られているのかな。
汎用性はないけど、ある事柄に関してのみ優れた魔術師ってのもいるし……」
なにやら一人で思案しだす。
それきり遠坂は俺と顔を合わそうとはせず、
「―――とりあえず今日は帰りましょ。
セイバーも自己回復に魔力を使ったようだし、休ませてあげないと」
と、一人で帰路についてしまった。
◇◇◇
家には誰もいなかった。
廊下はひどく静まりかえっている。
まだ耳がおかしいのか、自分の足音も聞こえない。
手足の麻痺は取れず、地面を踏んでいる感覚がない。
「――――――――」
そんな状態でまっすぐに歩ける事を意外に思いながら、会話もなく部屋へ向かう。
「今日の鍛錬はなしにしよう。セイバーも疲れてるだろ。あんな酷い傷を負ったんだしさ」
部屋に戻って、付いてきていたセイバーに話しかける。
「……いえ、私の方は問題ありません。回復の為に魔力を消費しましたが、まだ十分に補えるレベルです。
それよりシロウ。貴方の方こそ、体に異状はないのですか」
「? いや、別に大丈夫だぞ。まだ手足が重いけど、筋肉痛みたいなものだし。明日になれば楽になってるさ」
「…………わかりました。ですが、もし体が痛むようでしたら声をかけてください」
「ああ。セイバーこそ何かあったら起こしてくれ。夜分に腹が減ったんなら、夜食でもなんでも作る」
俺はセイバーに魔力を提供できないんだし、できる事といったら飯を作ってセイバーに元気を出してもらうコトぐらいだし。
「……シロウ。くれぐれも無理はしないように」
一言残して、セイバーは隣りの部屋へ消えていった。
「…………そうだな。大人しく寝るか」
布団を敷いて、ゴロリと横になる。
手足の感覚が少しだけ鈍い。
慣れない魔術の影響か、気を抜くとすぐに意識が落ちかける。
「……ん……なんだ、ほんとに――――」
疲れてる、らしい。
キーンという耳鳴りが気になるが、今夜は久しぶりに、ぐっすりと眠れそうだ――――
「っ―――、―――ぁ…………」
「ぁ、っ―――、ぐ―――」
「はあ―――は―――、は、ぎ―――」
「ぁ―――ぐ―――っ…………!!!!!」
布団を掻きむしる。
熱く焼けた鉄がこみあげてくるような嘔吐感。
全身の筋肉、骨格という骨格が狂っている。
「ぎっ―――あ、づっ―――!」
ぎちぎち、なんて音が、麻痺していた耳に響く。
体内から生じるソレは、骨が軋んでいる音だ。
何が気にくわないのか。
手足の骨は宿主に抗議するようにささくれだち、外に出たいのか、肋骨あたりがギチギチと胸の肉を突き破ろうと蠢動《しゅんどう》している。
「な―――は―――…………!」
体中に走る痛み。
巨大な万力で体ごと押し潰されているのに、痛みは体の内から、生じている。
小さく圧縮されているのに、体はより大きく膨張するという矛盾。
「が―――っ…………!!!!」
布団の上。
蛆虫のように這い蹲《うずくま》って、正体不明の激痛をなんとか堪える。
「はっ―――あ、あ―――」
……額が熱い。
痛みに耐えきれないのか、脳髄はさっきからサウナ状態だ。
だから、これが無理な魔術の代償なのだとか、俺本人ではなくセイバーが気遣っていた“身体の異状”なのかとか、どうでもよくなってくる。
「ぐ―――ぁ―――………………」
それでも、どうしてかセイバーに助けを求めるのはイヤだった。
そんな事で心配などさせたくないし、自分の責任ぐらいはとる。
「……そんなの……男なんだから、当然だし―――」
汗だくの体で、必死に呻き声を押さえつける。
……呆然とした意識で見た時計は、まだ午前零時にもなっていなかった。
眠ってしまえば楽になれるのだろうが、この痛みでは眠ったところで起こされるだろう。
「は―――はあ―――づっ―――…………!!!」
……朦朧としていく。
意識はぐつぐつと白ばんでいく。
夜が明ければ、、きっと痛みは引いてくれる。
ただそれまで。
あと七時間近くもこの痛みに耐えなければならないのが、既に、悪い夢のようだった――――
◇◇◇
彼にとって、その場所はあまりいい物ではなかった。
挫折と妄執《もうしゅう》、羨望と嫉妬。
昏い感情が染み付いたそこは、呪いの一室と言っていい。
本来自分の物である筈なのに、ただの一度も自分の為に使われなかった部屋。
「チ――――小便臭いんだよ、ここ」
舌打ちは、それこそ彼の妄想である。
どうでもいい余所《たにん》の子供がここで数年を過ごし、長く間桐の血筋を脅かした。
彼が知り得る過去はそれだけだ。
父は何も語らなかったが、祖父はここで起きた事を一部始終教えてくれた。
父は自分を選ばず間桐家を絶やそうと考えたが、祖父は間桐家の再興を願っていた。
だから、彼は父親だった人間になんの感情も抱いていない。
父は存在と落第を。
祖父は優越と権利を教えてくれた。
さて、そうなると母は何を与えてくれたのか、と考え、慎二は笑った。
そもそも間桐の家に女などいらない。
母親はどこぞの保菌者《キャリアー》だったと言うが、出産した後は用済みになったのだろう。
賭けてもいいが、この部屋を探せば母親だったモノぐらいある。
それを探す気など彼にはない。
そもそも、劣った自分を生んだ胎盤など見たくもない。
地下室は腐敗に満ちている。
暗闇の奥、さらに暗い部分には、得体の知れない蟲どもが地面を覆っている。
もはや吸うべき養分などないだろうに、蟲は飽きずにこの地下修練場に巣くっている。
……いや。
ここは元より人を育てる場所ではなく蟲を育てる場所。
這い寄る闇に見えるものは、黒い羽をもつ蟲の群れだ。
壁に張りついた影さえ、ヌメヌメと光る黒い粘虫に違いない。
――――その中に。
この最下層には不釣り合いな、黄金の輝きを放つ男がいた。
「なんだアーチャー、ここにいたのかい」
「―――――」
黄金の男―――アーチャーは下りてきた人物《あるじ》に目もくれず、ただ深い闇を眺めている。
「聞けよ、朗報だぜ。言峰のヤツ、僕らの行動には目を瞑るってさ。―――く、見所があるヤツだって思ってたけど、ホントに使えるよなアイツ! ようするにさ、僕たちが何をやったってお咎めなしってコトだろ、それ!」
楽しげに話しかけながら、彼はアーチャーへと歩み寄る。
「―――――――――」
そこで、ようやくアーチャーは主に気が付いた。
赤い瞳が無造作に向けられる。
「っ――――あ、いいや、別に文句を言いに来たワケじゃない。君がどこで何をしていようと構わないさ。サーヴァントの自由意思ぐらい尊重するよ。僕は他の連中と違って了見が広いからね」
赤い瞳に気圧されながら、それでも慎二はアーチャーへ近寄っていく。
アーチャーが不気味な存在だとしても、彼にとってソレは使い《サーヴァ》魔《ント》にすぎない。
故に、彼はアーチャーに対して常に増長を保ち続ける。
言葉の上では寛大に、あくまで強いのは自分だと誇示するように。
「―――そうか。言峰は、随分とオマエを買っているようだな」
「ああ。なんでも爺さんには借りがあるんだって。得体の知れない三流魔術師が残るより、僕のように歴史のある血筋が勝利すべきとか言ってたな。
―――は、そんなの当然じゃないか。何を今更って気はするけど、まあ人を見る目だけはあるよ。いちおう世話になったしさ、聖杯を手に入れたら礼の一つでもやろうかって思案中」
愉快げな忍び笑いが響く。
「―――それじゃあ始めようかアーチャー。もう人目を気にする必要もないんだ、てっとり早く殺しまくってさ、じゃんじゃん魂を食べて強くなってよ。
……そうしたら次はあいつらだ。目障りなセイバーを潰して、衛宮にお礼参りをしないとね」
さあ、とアーチャーの肩に手をかける。
その手を、何か不快なものに触れた、という眼でアーチャーは観察する。
「なに? ほら、行くって言ってるんだよアーチャー。
何処の英雄だろうが、サーヴァントってのはマスターの命令には絶対服従なんだろ?」
セイバーを犯し、友人を這い蹲らせる光景を思い描いたのか。
彼は上機嫌なままアーチャーに命じる。
だが黄金の青年はピクリとも動かず、
「―――シンジ。おまえは聖杯というものを理解していない」
初めて、主の名前を口にした。
「な――――え?」
「聖杯が欲しいのなら他のマスターなど放っておけ。連中は所詮生け贄にすぎん。真に聖杯を手にするというのなら、先に押さえておくべきモノがある」
「先に押さえておくべきモノ……?」
彼―――間桐慎二はおずおずと自らのサーヴァントを見つめる。
その足は知らず後ろに引き、肩にかけた手は、いつの間にか離れていた。
「まずはそれを手に入れようか。我《オレ》は聖杯を手に入れる為にオマエに力を貸している。我らにとって共通の目的は聖杯だけだからな。
まあ、オマエの気持ちは分からんでもないが。復讐は気持ちが良《い》い。快楽を求めるのは人の証だ。するべき事を済ませたのなら、オマエの遊びにも付き合おう」
何が楽しいのか、アーチャーの口元が釣りあがる。
……そこに凶悪なものを感じ、慎二は今更ながら、このサーヴァントの正体に不安を覚えた。
第八のサーヴァント。
いるはずのない英霊。
―――前回の聖杯戦争から留まり続けているという、最強の英雄王――――
「……そう言えば、聞いてなかったね」
それでも優位を保とうと、慎二は声をかける。
「なんだ。訊けば答えるぞ、マスター」
「おまえの望み。聖杯を手に入れたらさ、おまえはどうしたいんだアーチャー」
それは当然と言えば当然の問いだった。
半ば不老不死となり、この世のあらゆる財宝を持つ英霊。
その男が今更何を望むというのか。
「――――なんだ。そんな事も知らなかったのか」
意外そうにアーチャーは言う。
その顔は、些細な幸福に出会ったように破顔していた。
「我は豪勢な物を許す。装飾華美など最も愛でるべきものだ。だが―――余分なモノ[#「余分なモノ」に丸傍点]に与える意義などない」
「……余分な、モノ……?」
「昔の話なのだがな。十人の奴隷を選び、その中で“いなくともよい”モノを殺そうとした事がある。どうなったと思う、シンジ?」
「はあ? みんな奴隷なんだろ。なら全員殺したんじゃないの」
「いやいや。それがな、一人も殺せなかった。いかな人足とは言え無駄なモノなどいなかったのだ、かつての世界には」
皮肉げに肩をすくめ、アーチャーは一歩前に出た。
……いっそう深い闇。
暗い影に覆われた床に向けて足を上げる。
「だがこの世界には余裕が溢れている。十人どころか何千という人間を選んだところで、殺せない人間など出てきまい。
―――まったく、おそろしく人間に優しい世界になったものだ」
「? わけわかんないな。結局何が欲しいんだよアーチャー。おまえだって欲しいモノがあるから聖杯を手に入れようっていうんだろ。なら――――」
アーチャーは答えない。
金の青年は主に振り向きさえせず、
「簡単な話だ。多いという事は、それだけで気色が悪い」
上げた片足を、深い闇へと踏み下ろした。
……ぐちゃり、という音。
踏みしだかれた暗い床には夥しい蟲の死骸と、更に夥しく集《たか》る、有象無象の群があった。
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2月9日     10 strike lovers
「――――朝、だ」
ゆっくりと目蓋を開ける。
永遠に続くかと思われた夜も、気が付けば終わっていた。
「…………良かった。体の痛み、なくなってる」
痛みに耐えきれなくなったのか、それとも知らないうちに痛まなくなったのか。
ともかく体に痛みはないし、眠くてだるい、という事もない。
三時間ほど眠れたのか、頭はわりあいハッキリとしている。
「よし。んじゃ朝飯作るとするか」
汗で湿った布団から立ち上がる。
……と。
立ち上がろうとした矢先、左足がずるりと滑った。
「あれ?」
おかしいな、と左足に触れてみる。
異状はない。
痛みもなければ出血もないし、なにより―――今左足に触っている、という実感もない。
「…………む」
感覚がないのは左足だけじゃなく左腕もだった。
もしかして、と左胸をつねってみると、これまた痛みも感触もない。
「……………」
痛みは引いたものの、まだ体は回復しきっていない、という事だろうか。
体の左半身がまるごと感触がなく、自分の体という実感もない。ええと、これと似たような経験は頻繁にあるんだけど――――
「土蔵で寝違える時だ。腕を下敷きにしちまって、起きたら血が通ってなかったんだっけ」
そうそう、それそれ。
一時的に血が通わなくなって感覚が麻痺してしまうアレに似ている。
ま、とりあえずちゃんと動くし、時間が経てば元に戻るだろう。
反応が鈍いというか、手足をレバーで動かすようなもどかしさがあるが、気を付ければ実生活に支障はない筈だ。
とりあえず、今朝は包丁を持つのは自重し、簡単なパン食にした。
利き手である右手は無事だったんで、フライパンはなんとかオッケー。
ベーコンと卵を焼いて、できあいのクラムチャウダーを三人分用意して、なんとか食卓を彩ってみる。
「いただきます」
「いただきます」
二人しておじぎをして、きつね色のトーストをかじる。
いつも通り、セイバーはこくこくと頷きながらトーストやらサラダやらを食べていた。
……うん。
茶碗と箸を持つセイバーも味があるが、やはり彼女には洋食が似合っている。
「――――――――」
基本的に、セイバーは静かだ。
無口という訳ではなく、沈黙を美徳としている節がある。
とりわけ食事時はこんな調子。
俺も食事時は静かな方が楽なんで、こういう朝食は理想的ではある。
「……あれ?」
そこで、どうして今朝が静かなのかようやく気が付いた。
ようするに、今朝は
「や、おはようー! ……って、あれ? なに、今朝はフランス?」
藤ねえがうちに泊まっていなかったのだ。
「そうだよ。今朝はフランスはカフェ・マルリー風にしてみました。してみましたんで、黙って食え」
ほら、と藤ねえのマグカップを手渡す。
「む? そのわりにはそこはかとなく粉末《インスタント》の匂いがするよ士郎?」
「気のせいだ。起きたばっかりだから鼻がきかないんだろ」
「そっか。言われてみればそうかも。あ、セイバーちゃんもおはよう。昨日は帰れなくてゴメンね」
ごっくん、と熱々のクラムチャウダーをスポーツ飲料のごとく一気飲みする藤ねえ。
この人の食道には、きっと特殊なコーティングがされているに違いない。
「おはよう大河。昨夜は姿が見えませんでしたが、何かあったのですか?」
「ん? うん、ちょっとお仕事……じゃないか。単にお見舞いに回ってるだけなんだけどね。それも昨日で終わったから、今日からはまたのんびりできるなり」
言いつつ、トーストを手にとってマーガリンを塗りたくる。
どうでもいい事だが、なぜか藤ねえはバターを使わない。
その理由を訊いてみてもいいんだが、どうしようもない答えが返ってきそうで遠慮しているのだ。
「……。なあ藤ねえ、入院したヤツで重傷なのは何人ぐらいいるんだ?」
「重傷な子はいないよ。今は病院で様子を見てるだけで、週があければみんな元気に登校できるって。
だから大丈夫よ士郎。今回の事故は気にしないで、気楽にいっていいんだから」
さっくり、と音をたててトーストをかじる藤ねえ。
その仕草はあまりにも不安がなくて、見ているだけで大船に乗った気分になった。
「――――そっか。それは良かった」
「そうそう、世は全て事もなし。わたしも今日の夕ご飯を楽しみにしてるのだ」
平穏なその笑顔。
……うん。こういう時、なんだかんだって藤ねえは藤ねえなんだって思い知らされてしまう。
「それじゃ行ってくる。今まで通り留守番よろしくな、セイバー」
「はい、それはいいのですが……シロウ、台所に食事の作り置きがないようでしたが、今日は昼食抜きなのですか……?」
「? あ、いや、今日は土曜だから早く帰ってこれるんだ。少し遅くなるけど昼飯時には戻ってくるから、昼ご飯は俺が作るよ」
「――――そうですか。シロウ、そういう事はきちんと言ってもらわねば困ります。どうも今朝のシロウは気が緩んでいるようです。反応も鈍いですし、何か気がかりな事でもあるのですか?」
「え? いや、別にないぞ。昨日の今日で体がまだ重いけど、こんなのすぐに戻る」
左半身にはまだ感覚が戻っていないが、痛みはないしちゃんと動くんだから問題はない。
こんな事、いちいちセイバーに報告して心配がらせる事でもない。
「ま、たしかに悪かった。食事はセイバーの唯一の趣味だもんな。謝罪の意味もこめて昼飯は豪勢にするから、それで帳消しにしてくれ」
じゃあな、と手をあげて玄関に手をかける。
「ぬっ。なにか今の言いようは納得いきません。私はただ、食事を抜いては有事の際に力が出せないと――――」
「いいからいいから。それじゃ留守番よろしくな、セイバー!」
抗議《セイバー》の声を背にして玄関を後にした。
「と―――なんだ、思ったより疲れるな」
感覚のない左足に触れる。
家にいる時はそうでもなかったが、こう歩き出すと気分が悪くなった。
いくら行動に支障がないとはいっても、感覚のない体を引きずって歩く、というのは精神的にこたえるらしい。
「……いや、これぐらい我慢しないと。この程度、二人に比べたらどうって事ないんだから」
回復したとはいえ、セイバーは喉を裂かれ壁に叩きつけられた。
遠坂はあのハンマーみたいな葛木の一撃を胸に受けて咳き込んでいた。
その二人に比べれば、実際に傷を負っていない俺なんて可愛いものだ。
「―――――さて」
痺れた左足で踏み出して、坂道を下っていく。
……軽い嘔吐感。
幽霊になったような不確かな足取りのまま、いつもの通学路についた。
◇◇◇
……と。
気が付けば放課後になっていた。
体がまだおかしい為か、時間の感覚がなくなっている。
午前中の授業の内容なんてまるっきり頭に入ってないし、自分が何をしていたかも曖昧だ。
「―――まずいかな、やっぱり」
左半身の調子は変わらない。
いくら感覚がないとはいえ、こう長いこと麻痺したままだと気が滅入る。
「なんか、感じないクセに重くなってきた気がするし」
……吐き気も治まらないし、葛木も当然のように学校には来ていなかったし。
「―――帰ろう。セイバーもお腹減らしてるだろうし」
よし、と鞄を手にして席を立つ。
何か忘れている気がするが、家に帰って休めば思い出すだろう。
「――――あ」
感覚のない左足で坂道を上りきったところで、忘れ物を思い出した。
「そういえば、遠坂と話をするの忘れてた」
体の事で手一杯だったというか、頭がぼーっとして失念していた。
ま、あっちから来なかったんだから大きな動きはなかったんだろう。
体の事もあるし、こっちの調子が戻ってから連絡をいれればいいか。
「ただいまー」
和室に聞こえるぐらいの大声で挨拶をして、台所に直行する。
買ってきた食材を冷蔵庫にしまって、手を洗って、エプロンを装着する。
夕飯はたら鍋にするんで、昼は肉にしよう。
鶏肉の照り焼きをメインにした献立を思案しつつ、ガチャガチャと支度をする。
「シロウ、帰ったのですか」
音を聞きつけたのか、セイバーは縁側の方からやってきた。
「ああ、遅くなってすまない。すぐに飯にするから休んでいてくれ。セイバーもお腹減って――――」
……しまった。
セイバーに気をとられて、手にした皿を落としてしまった。
「シロウ。食器が割れていますが」
「うん。皿を割るなんて初めてだ」
自分自身もびっくりしていたんで、そんな間の抜けた相づちを打ってしまった。
「すまん。すぐに片づけるから、セイバーは気にせず座っていていいぞ」
よっ、と割れた皿を拾い上げる。
「――――あれ」
拾い上げた破片を再び落とす。
「はあ。疲れているようですね、シロウは。
いいです、片づけは私がしますから。シロウは調理に専念してください」
左手で拾おうとしたのが失敗だったか。
……ま、いい教訓になった。
左手はまだ感覚がズレているから、包丁を使う際には細心の注意を払おう。
「シロウ。無理せずとも結構ですから、単純な料理をお願いします。気を入れてくれるのは嬉しいのですが、料理に貴方の血が混ざっている、というのは困る」
いや、そりゃ俺も困る。
そんなの台所を任された身として失格だ。
「了解。気合いをいれるのは夕飯にして、昼は簡単な物ですますよ。とりあえずメインはそのまま、予定していた南瓜《かぼちゃ》と大根は自重するけど、いいかな」
鶏肉二百グラムをまな板の上にのせ、用心深くフォークを構える。
朝にああ言った手前、せめて主菜だけは手を抜かずに作らねば。
「はい。期待しています、シロウ」
こっちの意気込みが伝わっているのか、セイバーはそんな言葉を返してくる。
「――――――――」
俄然やる気が出てきた。
まずはフォークで穴を開けて下ごしらえを――――
「……ピンポン?」
「シロウ、来客のようですが」
「そうみたいだな。ちょっと出てくる」
「はい、いま出ます――――!」
小走りで玄関に向かう。
この時間、誰かが訊ねてくるなんて珍しい。
藤ねえはチャイムなんて鳴らさないし、なにより合い鍵を持っている。
うちは元々来客は少ないし、まわりに家がないから近所付き合いも少ない。
「……誰だろ、いったい」
まあ、切嗣《オヤジ》の結界が警告音を出さない、という時点で敵意を持つ人間ではないし、大方藤ねえんところの若い衆だろう。
「はい、どなたですか」
玄関を開ける。
途端、
ぱったり思考が停止した。
「――――――――――――」
「――――――――――――」
お互い無言で見つめ合う。
……いや、こっちはただ呆然としているだけで、遠坂の方がピリピリしているだけなんだが。
「と、遠坂――――なんで?」
停止した頭で、当たり前の疑問を言う。
「定時連絡、衛宮くんがすっぽかしたから」
それを簡潔に答えてくる遠坂。
「て、定時連絡をすっぽかしたって―――そりゃたしかに遠坂と会うのを忘れてたけど。……その、そもそもそんな決まり事、あったっけ?」
「――――――――――――」
遠坂は無言で睨んでくる。
……まずい。
怒られる覚えはないんだが、すごく悪いコトをした気になってきた。
「……すまん。忘れてたのは謝る。協力者として、定時連絡は当然の義務だった」
気圧されてつい謝る。
それで気が晴れたのか、
「―――そうよ。状況は何も変わってないんだから、お互いの確認は当然じゃない」
遠坂は溜飲をさげて、そんなコトを口にした。
「――――――――」
ほっ、と一息つく。
遠坂がうちの玄関にいるだけでびっくりなのに、玄関先で怒られてはもう異次元状態だ。
こういう心臓に悪い状況は、早々に打破するに限る。
「―――話はわかった。連絡はすぐにするから、遠坂も帰ってくれていい。ここまで来てもらってわざわざすまなかった」
……おい。
なんでそこでそういう顔するんだ遠坂。
「……遠坂? 用件はわかったから、ひとまず帰って橋の下の公園で落ち合うんじゃないのか?」
嫌な予感がしたコトもあり、おそるおそる訊ねてみる。
……それがトドメだったのか。
こっちの弱み、恐れている事を読みとるのが得意っぽい遠坂は、
「いいえ。いい機会だから今日はここで会議するわ。
まさか、わざわざここまで来た友人を追い返すなんてしないわよね、衛宮くんは」
悪魔みたいに微笑んで、悪魔みたいなコトを言った。
「な―――ここで会議するって、うちにあがるっていうのかおまえ……!?」
「なによ、貴方だってわたしの家にあがったでしょ。それに今回が初めてってワケじゃないし、今更隠すことなんてないんじゃない?」
「あ」
そうだった。
初めてセイバーと出会ったあの夜、倒れた俺の手当てをしてくれたのは遠坂だった。
けどあの時はマスターになったばかりで混乱していて、遠坂がうちにいる、なんて状況を把握できていなかっただけだ。
いくら協力関係だって言っても、遠坂は遠坂だ。学園のアイドルで同学年の女の子だ。それがうちにあがってくるっていうのはなんかとんでもない状況じゃないのかってなんで廊下にあがってんだそこーーーっ!
「じゃ、お邪魔しまーす。話し合いなんだから居間でいいわよね衛宮くん?」
「ま、ままままま待てってば、ばかっ! いいのかおまえ、遠坂なのに俺んちにあがったりしたらタイヘンだぞ!」
「いいからいいから。あ、それとお昼食べてないからよろしくねー」
ドカドカと上がりこんでくる侵略者こと遠坂凛。
「うわ、待てってば……! この、考え無しもほどほどにしろー!」
大声で抗議するも敵影まったく異状なし。
困惑する俺を残し、侵略者は事も無げに居間へ移動していった。
……で。
うやむやのうちに遠坂とセイバーと俺とで昼食をとった後、今後の方針を語り合った。
議題はもちろんキャスターについて。
柳洞寺に陣を構えたあいつをどう倒すか、四時間近く討論してみたのだが、結果は芳しくなかった。
「……はあ。結局正面からの実力行使しかないってワケね。セイバーの話が本当なら、サーヴァントは正門からしか入れないっていうし」
「そうですね。あの山には霊体に対して強力な結界が張られていますから、私では正門から突入するしか手はありません。……役割《クラス》的に単独行動が可能であるアーチャーならば、多少の無理は利くでしょうが」
「で、無理して疲弊しきった体で境内にあがったらキャスターが待ち伏せている訳だろ。そんなのいい的じゃないか」
「……まあね。的を射るアイツが的にされてちゃしょうがないわ。ま、アサシンだけならセイバーとアーチャーのコンビで倒せるだろうけど、境内にあがった後、キャスターをどう追い詰めるかも問題か。
衛宮くんの話じゃとんでもない魔力の貯蔵量だって言うし、下手に追い詰めたら柳洞寺ごと道連れにされかねない」
「たしかに。キャスターは潔《いさぎよ》い死を迎える性質ではないようでしたし。自らが滅びるなら、私たちごと爆散しかねない。無論、そうなれば柳洞寺も消え去りますが」
「セイバー、しれっと怖いコト言うよな。
キャスターのやつ、追い詰められたら自爆するっていうのか?」
「するでしょ、そりゃ」
「しますね、おそらく」
「……………………」
二人の息はバッチリだ。
振り返ってみれば、セイバーと遠坂は初めっから意見があっているというか、戦闘において認め合っている節がある。
その二人がそろってダメだというんだから、柳洞寺攻略は相当に困難なんだろう。
「あ。なんだ、もうこんな時間なんだ」
居間に響く時計の音。
気が付けば夕方の六時前、外はすっかり茜色に染まっていた。
「―――はあ。とりあえず、話し合いはここまでだな。そろそろ夕飯の支度をしないと」
よっこらしょ、と立ち上がる。
今夜はたらのおろし鍋なんで、調理にそう時間はかからない。
今からやる事といったらご飯を炊いて、鍋ものに合う一品ものを作るだけなんだが――――
「なによ衛宮くん。人の顔じろじろ見ちゃって」
「――――――――」
……いや、だから。
どうしてそう、これからうちは夕飯だっていうのにくつろいでいるんだろう、こいつは。
「それにさっきからずっと離れてるし。そこが衛宮くんの定位置かどうかは知らないけど、話し合いをするんだからもっと近くにいないと不便でしょ? なんだってそんなトコにいるのよ、貴方は」
遠坂はテーブルに堂々と陣取ったまま、はしっこに座布団を置いた俺を眺めやがる。
……遠坂と距離をとってる理由なんて、そんなの一つしかないっていうのに。
「ばか言え、俺の定位置はおまえが陣取ってるところだよ! それを遠坂が横取りするからこうなったんだろっ」
せやー、と精一杯の抗議をする。
「ははあん。そっか、外じゃあマスター同士って事で気にならなかったけど、自分の家の中になったら素に戻るってコトね」
「わ、悪いかばかっ! 男なんだから、こんなの普通の反応だっ……!」
同学年の女生徒、くわえて相手が遠坂なんだから緊張しない方がおかしい。
それでもマスター同士なんだから、と必死に言い聞かせて今まで通りに作戦会議していたのだ。
情けないコトだが終始緊張していたし、お茶を何杯飲んだかもわからない。
「でもおかしくない? セイバーだって女の子だし、聞いた話じゃ藤村先生も桜もここに来るんでしょ? ならわたしだって似たようなものじゃない」
「………………」
似たようなもんじゃないっ。
セイバーと遠坂は違うし、藤ねえと遠坂は違うし、桜と遠坂は違う。
そもそも、セイバーとなんとかやっていけているのは一緒に戦う仲間だからだ。
「……ふん、いいからもう帰れ。うちはこれから夕飯なんだ、遠坂も家でアーチャーが待ってるんだろ」
「あら。結論が出てもないのに帰れるわけないでしょ?
夕飯をご馳走になった後、今後の方針を決めるんじゃないの?」
「――――――――」
いや、本気で目眩がした。
「ぐっ……それは、もう決定してる事項なのか、遠坂」
「違うの? イヤなら別にいいけど。じゃあ衛宮くんはぁ、キャスターに関してはしばらく放置ってコトでいいんだ」
「が――――」
喉まででかかった文句を飲み込む。
「シロウ。凛の言い分は正しいのではないですか? 別に彼女が滞在しても問題はない訳ですし」
くわえて、セイバーまでも遠坂の味方だった。
「――――わかった。けど、飯が口に合わなくても知らないからな。それと藤ねえ―――藤村先生も来るだろうから、そん時はおまえが説き伏せてくれよ」
「わかってるわかってる。衛宮くんの料理の腕はお昼で確認済みだし、藤村先生の事も知ってるわ。両方とも承知の上だから気にしないで」
「――――ふん。後悔しても知らないからな」
ぷい、と顔を背けて台所に向かう。
――――と。
手を洗って、いつものエプロンを装着しようとして、いつもの場所にエプロンがない事に気が付いた。
……いや。
そもそも、遠坂の目を気にしながら昼食の準備をした後から、エプロンを取った覚えすらないのはどういうコトか。
「あれ?」
きょろきょろと周りを見渡す。
そんな俺を見て楽しげに笑うと、
「それと、言い忘れてたけど。男の子として、エプロンをつけたまま動き回るのはどうかと思うわよ、衛宮くん」
なんて、勝ち誇った顔で言いやがった。
ダンダンと豪快にたらを切る。
白菜も切り分けたし、大根も大量に下ろした。
「……よし。次はだしとった鍋に具をいれて、火を付けるだけっと……」
鍋は煮立たせてある。
もともと簡単に出来る料理だし、オリジナルと言えばいかにだしを美味く作るかだ。
それも巧くいったし、あとは人数分の食器を用意するだけ――――
「ただいまー! うー、寒い寒い、雪降ってきたよー」
ちゃーす、とばかりに藤ねえが帰ってきた。
「お帰りー。雪降ってきてんだ、外」
「うん。小降りだけどけっこう積もりそうよ。わ、今夜は鍋物だ。さっすが士郎、冴えてるじゃない。んー、気分もいいしお酒とか飲んじゃおっかなー」
なにやら物騒なコトを言いつつ、藤ねえは居間に入ってくる。
「お邪魔しています、藤村先生」
「あ、遠坂さんだー。どうしたの、士郎んちで会うなんて珍しいね」
……?
藤ねえは遠坂の挨拶をごく自然に受け止める。
ふんふんと鼻歌を歌いながら居間を素通りして台所へ。
「へえ、いいたらじゃない。雪身のたらは極上だっていうし、ますますお酒が似合いそう」
がちゃり、と冷蔵庫を開ける藤ねえ。
で。
中からお気に入りのバームクーヘンを取り出して、モムモムとつまんだあと。
「って、なんで遠坂さんが士郎んところにいるのよーーーーーー!!!!」
「ちょっと遠坂さん! お邪魔してますじゃないでしょ、こんな時間に何やってるのあなた!」
バームクーヘンをごくんと飲み込んで、藤ねえはドスドスと居間へ進軍していく。
「なにって、衛宮くんの家で夕飯をご馳走されているのですが。そういう藤村先生こそ、チャイムも押さずに上がり込んでくるなんて非常識ではないんですか?」
対して、涼しげな顔で藤ねえを迎撃する帝国《とおさか》軍。
「うっ……わ、わたしはこの家の監督役なんですっ!
しろ―――衛宮くんのお父さんから任されているんですから、ここでは家族も同然なのっ!」
「そうなんですか。じゃあ改めて挨拶をしますね。
お邪魔しています、藤村先生。今日は一日ここで過ごしていました。夕食後も衛宮くんとは試験勉強をしますけど、どうぞお構いなく」
「なっ―――しろ……う、じゃなくて衛宮くんっ! コレはどういうことですかっ! 遠坂さんと勉強会を開くなんて、いつのまにそんなコトになってたのよぅ!」
「先生? 呼びにくいのでしたら無理をなさらずに。
別に先生が衛宮くんをどう呼ぼうとわたしには関係ありませんから。呼び捨てにしようがちゃんをつけようが、個人のプライバシーは尊重しますし」
「うっ―――遠坂さん、もしかして桜ちゃんから聞いてる……?」
「さあ。残念ですが、間桐さんが何を話していたのかも個人のプライバシーですから、その質問には答えられません。けど、先生の想像通りだといいですね」
遠坂の笑顔を前にして、う、と怯む藤ねえ。
……藤ねえの気持ちはすっごく分かる。
あいつにあの笑顔をされると気圧されるっていうか、すっごく追い詰められた気持ちになるんだよなあ……。
「―――勝負あったな。ありゃ放っておいても大丈夫だ」
というか、始めから勝負になっていないか。
藤ねえが遠坂に言い負かされるのは時間の問題だ。
そっちは遠坂に任せて、こっちは夕食の支度に専念しよう――――
鍋がカラになる頃、外の雪も止んでいた。
結局二時間ほどしか降らなかったから、庭にはかすかな雪しか残っていないだろう。
「士郎、食器流しに集めといたよ」
「あ、サンキュ。んじゃさっさと済ませるか」
テーブルを立って台所に向かう。
「洗い物? ならわたしがやろっか? ご馳走されっぱなしじゃバランスがとれないし」
どれどれ、と藤ねえと入れ替わりで立ち上がる遠坂。
その申し出は嬉しいが、仮にもお客さんに洗い物をさせるなんて真似はできない。
「いい、貸しにしとく。食ったばかりなんだから大人しくしてろよ。ところで藤ねえは後で風呂を沸かすこと」
「はいはーい、わかってまーす」
お腹がいっぱいになったからか、藤ねえは素直だ。
いつもこうなら楽でいいんだが、それはそれで味気ない気もする。
「あ」
また皿を落としてしまった。
洗い物を始めて二十分。床に落とした皿はこれで二枚目だ。
「……………む」
左手が麻痺しているから仕方がない、なんてコトはない。この程度の感覚のズレで皿を落とすなんて気が緩んでいる証拠だ。
「――――――――」
一瞬、左腕が治るまでやめるべきだ、と冷静に考えて、即座に振り払った。
腕まくりをして洗い物を続ける。
外的要因で失敗するんなら受け入れるしかないが、内的要因で失敗するなんて認められない。
自分自身が相手なら勝てない筈がないんだから、負けを認める訳にはいかないというか。
「む――――」
結果、こうして無闇に被害を広げてしまう。
落ちた皿は三枚目。
一枚目が落ちた時、床にバスタオルを敷いたんで幸いにして割れてはいない。
だから別に問題はないのだが――――
「――――――――」
その、皿が落ちる度に遠坂の視線を感じるのは、なんとも居心地が悪い。
「……藤村先生。衛宮くんっていつもああなんですか?」
居間から遠坂の声が聞こえる。
「ばか言わないでっ。士郎はお皿を割った事なんて今まで一度もなかったんだから。きっと遠坂さんを意識して緊張してるのよ」
もちろん外敵として。
などと、矢のようなつっこみをする藤ねえ。
「――――――――」
それを無視して、じっと視線を向けてくる。
「………………」
……やりづらい。
ただでさえ体半分の感覚がないっていうのに、そう真面目に見られると気が散って―――と、危ない
「ち、しまった」
舌打ちして割れた皿を見下ろす。
これで四枚目か。今のは落とすって判っていたのに、左手が咄嗟に動いてくれなかった。
「……………」
おそるおそる背後の様子を窺う。
「――――――――」
……見てる。
遠坂は注意深く観察している。
と。
唐突に立ち上がったかと思うと、ずかずかとこっちにやってきた。
「衛宮くん。わたしがやるから休んでいて」
「いや、それは」
「割れた皿は踏まないでね。どこに仕舞えばいいのかは見当がつくから、貴方はお茶でも飲んでなさい」
きゅっ、と袖をまくし上げて流しに立つ遠坂。
「――――――――」
……仕方ない。
こうなった遠坂を止めるのは難儀だし、それに、正直に言えば。
……悔しいが、流しに立って洗い物をする遠坂は見惚れるぐらい絵になっていたのだ。
風呂から上がると、居間には藤ねえしかいなかった。
玄関にはまだ遠坂の靴があったし、セイバーは道場だろう。
時刻はそろそろ九時になろうとしている。
さて――――
んー、じゃあセイバーと話を付けよう。
「はあ。私の好きな食べ物、ですか?」
うん、と頷く。
道場に来てみたものの、体の麻痺はまだ取れていない。
セイバーと試合をする事もできないし、かといって今は物騒な話をする気分でもないんで、今後の参考にとセイバーの趣味趣向を訊いてみた。
いや、ホントはセイバーのコトが知りたいだけなのではあるが。
「……おかしな事を訊くのですね。私には解りかねますが、何か大きな意味があるのでしょうか……?」
「え? いや、別に大した意味はないよ。セイバーはあんまり好き嫌いを口にしないから、喜んでもらえているか不安になっただけ。
どんな料理が好みなのか知っておけば、セイバーが苦手なものをさけられるだろ」
「……む。それは誤解ですシロウ。シロウの用意する食事に問題などない。
私は満足していますし、仮に何か、あまり考えられないのですが、調理の仕方がまずい時があったとしても不満などありません」
雰囲気一転、心なしかとても真剣にこっちを見据えるセイバー。
……まあ、セイバーが喜んでくれてるっていうのは俺だって感じ取れていたから、そう言ってもらえるのは嬉しいのだが。
「ん、しかしだな、やっぱり嫌いなモノを出されたらイヤだろ? せっかく作るんだから美味しく食べてもらいたいし、セイバーの弱点も知っておきたい」
「……むむ。弱点など、そんなものを知ってどうすると言うのですシロウは」
「そりゃ参考資料として覚えておく。セイバーがアレルギーもってるとは思えないけど、一応聞いておくに越したことはないからな」
「……むむむ。どうにも合点がいかぬのですが、私が答える事で、今後の食事が更に向上したりするのでしょうか……?」
「するよ。好き嫌いがハッキリ判れば、献立も立てやすくなるし。今よりいくらか旨くなると思うけど」
「―――協力しますマスター。どうぞ、遠慮なく質問して下さい」
ザッ、と礼儀正しく正座するセイバー。
「…………う」
……なんか、これから一試合始めるぐらい気合が入ってるような。
「さあ、お願いしますシロウ。心の準備はできました」
早く早く、と無言で急かしてくる。
……予想外の展開になったが、こっちもキチンと正座して、セイバーと向き合った。
「じゃあ始めは大雑把に。セイバー、甘いものは苦手か?」
「問題ありません。どちらかと言うと好きな部類です」
「そっか。なら、反対に辛いものは苦手?」
「そちらも問題ありません。運動した後の刺激はありがたい」
「ふむふむ、甘辛どっちもオッケー、と。じゃあもうちょっと細かくいって、青物はいけるクチか?」
「いけます。菜食主義、という訳ではありませんが、瑞々しい野菜は食事に欠かせない」
「ふーん。じゃあ反対に肉類はどうだ? 鶏、豚、牛、と苦手なのがあったら言ってくれ。あと調理方法も好きなのがあったらどうぞ」
「そのような贅沢は言いません。肉料理は食事の華だ。シロウが調理してくれたものは全て驚くほど美味しかったので、今後も自由に作ってほしい」
「そ、そうなんだ。……ちょっと本題からはそれるけど、セイバーのいたところの料理ってどんなんだったんだ?」
「………………」
って。
どうしてそこで考え込むんだ、セイバー。
「……ああ、いや。じゃあその、旨い不味いの感想とかなら、どうかな」
「………………………………雑でした」
ぽつりと。
なんか、実に怨念のこもった感想がこぼれました。
こう、いたらぬ部下に対する不満であり、それを窘《たしな》められなかった自分に対する自己嫌悪の具現みたいな、セイバーにあるまじき負の感想。
「そ、そっか。えーと…………その、ごめん。
とにかく話を戻そう。最後のカテゴライズとして、魚介類はどうだ? 魚料理はけっこう出してたけど、貝類はまだ食べてないよなセイバー」
「そうですね。私もあまり口にした事はありませんが、海産物は体にいい。食すまでの手間を考慮しないのなら、好きな食べ物に入るでしょう」
……そっか。
甘いものも辛いものも好きで、野菜も肉も魚も大好きですか。
「――――訊き方が悪かった。セイバー、どうしてもダメな食べ物ってある?」
「いえ、その心配は無用ですシロウ。私に嫌いなものなどありません」
……さて。
ここまで訊いておいてなんだが、この質問自体無意味だった気がしてきた。
「なるほどなるほど。あー、なんだ。つまり、セイバーはなんでも食べるってコト?」
「はい。美味しいものなら分け隔てなくいただきます。
こと食事に関して、私に弱点はないのです」
えっへん、と小さく胸を張るセイバー。
「――――――――」
……そっか。
無意味と思えたこの質問だが、一つだけ重大なコトが判明した。
……その、面倒くさいからって手を抜いてメシを作ったりしたら、セイバーの機嫌がどう転ぶかわからないというコトだ。
―――さて。
気を取り直して、そろそろ遠坂と真面目な話をしなくっちゃな。
居間にいる藤ねえから離れて、縁側で夕方の続きをする。
昼間から散々こじれた作戦会議だから、そう簡単に決着はつくまい、と気合いをいれて会合に望んだのだが、
「柳洞寺に挑むのは現段階では無理よ。
こっちで罠をしかけて、キャスターをおびき出すしかないでしょ」
と、遠坂は実にすっぱり結論を出した。
「――――いや。それは、その通りなんだが」
「問題は罠をどうするかだけど。
……ま、二三心当たりがあるから衛宮くんは待機していて。最悪、貴方とセイバーにはエサになってもらうから」
物騒な事を言って、遠坂は雨戸を開けた。
冷えた空気が内部に侵入してくる。
それでもこの縁側は特別なのか、肌寒い程度で留まっている。
……五年前の夜と同じ。
この縁側だけは、冬でも月見ができるぐらい温かい。
「―――いい結界ね。わたしの家とは違って、人間の情を感じる」
縁側に腰をかけ、ぼんやりと庭を見つめながら、遠坂はそんなコトを呟いた。
「ちょっと付き合わない? なんでもない話があるんだけど」
「――――――――」
無言で隣りに座る。
話がある、だなんて言っておいて、遠坂は一向に喋らない。
仕方がないので、ぼんやりと庭を眺めた。
「――――――――」
月は見えない。
吐く息が白いのは、やはり雪が降ったからだろう。
ふと横を見ると、遠坂も白い息をこぼしながら庭を見つめていた。
「――――――――」
少し体をずらせば、きっと肩が触れる距離。
それに動揺する事はなかった。
単に慣れたのか、冬の夜のおかげなのか。
こんなに近くに遠坂がいるのに、不思議と気持ちは落ち着いている。
「――――で。話ってなんだよ、遠坂」
なんとなく聞かれたがってるな、と感じて話しかけた。
「……ん。ちょっとね、このうちって特殊だから。人のふり見て我がふり直せじゃないけど。その、衛宮くんはそのままでもいいのかなって、ふと思った」
「うわ。そのままでいいって、半人前でいいって事かよ」
「そうじゃないんだけど、そうなのかもね。
衛宮切嗣って人がどんな魔術師だったか知らないけど、この屋敷はすごく自然なのよ。魔術師の工房のくせに開《ひら》けてる。
四方の門は開け放たれていて、入るのも帰るのもご自由にって感じ。きっと守るべき知識《もの》がないから、何物にも縛られないのよ」
「貴方のお父さんが魔術師じゃなくて魔術使いになれって言ったのはそういう事なんだと思う。なんにもないかわりに、何処へだって行けるんだから」
「なんだ。遠坂はそうじゃないのか」
「ええ、わたしの家は違う。近所じゃ幽霊屋敷って言われてるけど、その実その通りなのよね。来るものは拒む、そのくせ入ってきたものは逃がさない」
「……時々ね、なんか違うなって思うんだけど、これが変えられないのよ。
呪われてるとかそういうんじゃなくて、わたし自身そういう在り方が気に入っちゃってるわけ。こういう性格をしてるから後継者に選ばれたんでしょうけど、気が付いた時にはわりとショックだった」
「―――ふむ。それはつまり、自分がいじめっこだと気が付いた時か?」
「…………思うんだけど。衛宮くんって、歯に衣きせない質よね」
「そうか? 遠坂を見習って回りくどく言ったつもりなんだが」
「……まったく。そういうところが直球だって言ってるの」
はあ、と大きく息を吐いてうなだれる。
吐息の残滓《ざんし》は白く、冷たい夜にゆっくりと溶けていった。
……その横顔を盗み見て、思い出した。
赤い校舎。
ライダーによって倒れ伏した生徒たちを見て、遠坂は何も言わなかった。
いつも通り気丈に振る舞いながら、唇を噛んで、膝を小さく震わせていた。
……その時に気づいたのだ。
魔術師として完璧になればなるほど、こいつは、遠坂凛っていう自分を殺しているのではないかと。
「遠坂は、きつかったのか」
不安になって訊いた。
「魔術の修行が? おあいにくさま、苦しいなんて思ったコトはなかったわ。大抵の事はすんなりこなせたし、出来なくて挫折した事なんてなかったしね。
それに新しい事を覚えるのは楽しかった。さっきも言ったでしょ? わたし、生まれつきそういう性格なんだって。だから衛宮くんの心配は杞憂ってヤツよ」
あっさりと言う。
そこには強がりも偽りもなく、遠坂は本当に気持ちのいい笑みを浮かべていた。
「そっか。なら学校はどうなんだ? 魔術師としてやっていくんなら、学校に行っても無意味なんじゃないか?」
「無意味とまではいかないけど寄り道でしょうね。
けど無駄じゃないわよ? 学生って楽しいもの。わたしね、基本的に快楽主義者なの。父さんの跡を継ぐのは義務だけど、それだって自分が楽しくなければやらないわ。
マスターになったのだって自分の力を試したいからだし、衛宮くんと協力してるのだって、貴方が面白いからだし」
「――――――――」
俺が面白い、という意見はさておくとして、それで胸のつかえはなくなってくれた。
魔術師の家系。
重い歴史と血脈に縛られた遠坂は、暗い影を背負っていると思っていた。
けれどそんなのはこっちの思いこみだ。
こいつにとっては“遠坂家”は重い影でもなんでもなくて、遠坂凛は自由に、自分のやりたいようにやってきたんだから。
「――――そうか。遠坂が楽しそうで、良かった」
「ありがと。で、もちろんそういう衛宮くんも楽しかったんでしょ? そうでもなければ魔術の修行なんて続かないものね」
当然のように遠坂は言う。
が、それは
「む――――」
その、簡単に頷けるものじゃなかった。
「……ちょっと、どうして黙るのよ。衛宮くんのお父さんは強制しなかったんでしょ? それでも続けたって事は、魔術が楽しかったからじゃないの?」
「え、いや―――――」
楽しい、と感じた事は一度もないんじゃないだろうか。
衛宮士郎にとって、魔術は常に自身を脅かす試練だった。
自分に適性がないのは判っている。
それでも切嗣のようになりたくて、必死にしがみついただけだ。
始めの一年は食事と睡眠以外は全て鍛錬に費やした。
毎晩、死を背中に押し当てながら神経を研ぎ澄ました。
それを五年間繰り返しただけ。
辛いとも思わなかったし、楽しいとも思わなかった。
「……待った。ちゃんと答えて、衛宮くん。
わたし、とんでもない勘違いをしてたかもしれないから」
遠坂は真剣に俺を睨む。
「…………」
……まいった。
そんな顔されちゃ、答えない訳にはいかない。
「―――そうだな。魔術の修行を楽しいと思った事はなかった。魔術の修行も、魔術そのものも楽しいと思った事はない。けど、俺はまわりが幸せならそれで嬉しかったんだ。だからその、魔術を習っておけば、いつか誰かの為になれるかなって」
「――――――――」
「俺は切嗣のような正義の味方になりたかった。その為に魔術を習ってきた。……とまあ、俺の理由なんてそんなもんだけど」
「―――じゃあなに。アンタ、自分の為に魔術を習ったんじゃないの?」
「え……いや、自分の為じゃないのか、これって? 誰かの為になれれば俺だって嬉しいんだから」
「あのね。それは嬉しいんであって楽しくはないのっ!
いい、わたしが言ってるのは衛宮くん自身が楽しめる事よ。まわりがどうこうじゃなくて、自分から楽しいって思える事はないのかって訊いてるのっ!」
があー、と吠える遠坂。
「――――――――」
が、そんなコトを言われても答えられないものは答えられない。
自分から楽しめる事、なんて言われても考えつかないし、なにより―――
―――俺には、そんな余分な願いを持つ資格がない。
「あったまきたっ! ようするにアンタ、人の事ばっかりで自分に焦点があってないのよ!」
唐突に立ち上がるなり、ギッ、と鼻先に指を向ける遠坂。
「え、ちょっ、遠坂、指……!」
指、じゃなくて爪がこう、鼻の頭に触れてるんですけど!
「うるさい、口答えするなっ。ああもう、似てる似てるって思ってたけど、まさかここまで一緒とは思わなかった!」
こっちの抗議を却下し、遠坂はますます俺に詰め寄ってくる。
「待て。落ち着け遠坂。おまえ、なんでそんなに怒ってるんだ?」
「それが分からないヤツだから頭にきてるの! ああもう、どうして誰も一言いってやらないのよ!」
わなわなと拳を震わせる。
「――――――――」
こうなっては黙秘を決め込むだけだ。
遠坂の怒りが収まるまで黙っていよう、と言うなりになるしかない。
……で。
ひとしきり怒りを発散させた後、
「―――ふん。いいわ、決めた。
明日、アンタに参ったって言わせてやるから」
手袋を叩きつけるような口調で、そんなコトを言われてしまった。
「……物騒だな。まさか、いつかの続きをする気か?」
いつか、とは言うまでもなく校舎での追いかけっこの事である。
降参しろと追い詰められたのだが、ライダーの邪魔が入って決着はうやむやのままだった。
「そうよ。いいから首を洗って待ってなさい。とっておきにスペシャルなのを味あわせてやるんだから」
むん、と気合いを入れると、ずかずかと遠坂は居間へ歩み去ってしまった。
「――――む」
何が起こるのか判らないのだが。
ともかく、首だけは洗っておいた方がいいんだろうか……?
ともあれ、遠坂を送らないといけない。
時刻はじき十時になる。
こんな遅くまで女の子を拘束していたら藤ねえになんて言われるか。
「え? いまなんて言ったの士郎?」
「だから遠坂を送っていくっていったんだよ。……だってのに、あいつどこうろちょろしてるんだ。いい加減帰らないとまずいだろ」
藤ねえは呆然とこっちを見ている。
……おかしいな。
まっさきに賛同する筈の藤ねえは、とりわけ慌てた風もない。
「んー。遠坂さんなら今頃別棟じゃないかな。
お客さんだし、泊まるならちゃんとした客間にしないとダメでしょ?」
「よし、別棟か―――って、ふざけるな藤ねえ。いま、なにかおかしなコト言わなかったか?」
「もう、おかしなコト言ってるのは士郎でしょ。
今日はもう遅いから遠坂さんを泊めるんでしょ? 遠坂さん、さっきそう言いに来たけど」
「な――――泊まるって、遠坂が……!?」
「そうよ? あ、けどおかしな事したらダメだからね。わたしも和室で寝てるし、客間から悲鳴なんてあがったら一発であの世逝きなんだから」
ぱりぱりと煎餅を食べる藤ねえ。
その様子はいたって普通で、遠坂が泊まる、という非常事態をどうとも思っていないようだ。
「あいつ―――――!」
すでに藤ねえは、遠坂に陥落されたと見るべきだろう。
「あ、ちょうど良かった。わたし右の客間を借りるから」
――――と。
別棟に向かう途中、廊下でばったり会った正体不明の存在は、気軽にそんなコトを言ってきた。
「え――――あ」
その姿に、頭がぐるぐるする。
制服じゃない、私服の遠坂。
それが家の廊下にいて、なにか、とんでもないコトを言っているのだ。
「あ、これ? 泊まるコトにしたから、アーチャーに言って宿泊道具一式を持ってこさせたの。そんなワケだから寝間着はいらないわよ」
「い――――う?」
「ちょっと、大丈夫? 疲れてるなら早目に寝なさいよね。明日の朝、寝坊なんてしたら承知しないんだから」
じゃあねー、と手を振って別棟に続く廊下へ消えていく。
それを呆然と見送って、廊下にある鏡に目をやった。
「―――――――」
顔はリンゴみたいに真っ赤になってる。
……くそっ。
いくら離れてるっていっても、同じ家で眠るなんてなに考えてやがんだあいつ。
「……風呂、入り直そうかな」
で、頭から水を被って顔の熱を冷ます。
……その、そうでもしないと遠坂の私服姿が頭に焼き付いたままで、夜の鍛錬が出来そうにない―――
明かりが落ちる。
日付が替わろうとする午前零時、凍えた月を見上げながら鍛錬に埋没する。
「――――――同調《トレース》、開始《オン》」
背骨に新しい神経を埋め込んでいく。
体内に魔術回路を作り、呼吸のように魔力を生成し、手にした木刀の構造を把握する。
「――――――基本骨子、解明」
魔力を通し、木刀を“強化”する。
構造を解明し、内容を変更し、全体を補強する。
「――――――構成材質、補強」
いつもの工程は、あっけないほどスムーズに進んでいく。
……マスターになったからなのか、成功率一桁だった強化は難なく行えるし、魔術回路を作る工程も一息で行えるようになっている。
「………………」
……いや、それはマスターになったからじゃない。
単に、自分は真似ているだけだ。
あいつの剣。
柳洞寺の境内で見た、あの赤い騎士の姿を模倣しているだけ。
あいつの双剣を真似て、その剣技を真似て、今、息遣いさえも真似ている。
「……偽物だ。こんなの、俺の物じゃない」
自己嫌悪を抱かずにはいられない。
あいつの真似をすれば、それだけで衛宮士郎の実力はあがっていく。
それが自分の力ではないと判っていても、今はそれに頼らざるを得ない。
校舎で骨人形相手に戦い抜けたのはあいつの剣技のおかげだし、
葛木の猛攻を防ぎきれたのだってあいつの双剣を投影できたからだ。
……今だって。
本気で、真剣に工程を重ねて見れば、もう一度あの剣を複製できる、という確信がある。
「……強化と似て非なるもの。始まりと終わりをいれて、ちょうど八節に分ければいいんだよな……」
同調開始《トレース・オン》ではなく投影開始《トレース・オン》。
……言葉にする響き自体は変わらない。
自分自身に働きかける意味さえ同じなら呪文を変更する必要はない。
そもそも俺は、自分を作り替える呪文なんて一種類しか知らないし、使えないと思う。
「――――――――」
“強化”し終わった木刀を置く。
……左半身は麻痺したままだ。
今日一日休んでいれば回復すると楽観したが、そう都合良くはいかなかった。
これが分不相応な魔術の代償――――アーチャーの双剣を模倣した代償なら、もう一度“投影”をした時こそ、無様に自滅する時なのかもしれない。
「――――――――ふう」
背骨に抉り込んだ感覚を外す。
体は魔術回路という毒素から解放され、堅い緊張から解けていく。
そこへ、
「シロウ?  眠れないのですか?」
静かに、セイバーがやってきた。
「いや、そういうワケじゃない。これは日課だから気にしないでくれ」
その日課も無事終わってホッとしていたんだろう。
答えた声は、自分でも驚くほど優しい声をしていた。
「今日は賑やかでしたね」
「そうだな。タイプは違えど、藤ねえが二人いたようなもんだし」
微笑みに微笑みで応える。
セイバーはまったくです、なんて珍しく軽口を言って、座っている俺の横に腰を下ろした。
「しかし、今夜も魔術の鍛錬ですか。何が有ろうと予定は変えないのですね、シロウは」
「え……? ああ、欠かさずにやれっていうのが切嗣《オヤジ》の教えだったからな。けどまあ、教えてくれたのはそれだけだったけど」
「それだけ……? では、魔術師としての知識も在り方も教授されてはいないのですか?」
「ああ。そもそもさ、教えるべき本人が魔術師らしくなかったんだよ。
困った大人だったな。普段はぼーっとしていて、どうも冴えなかった。楽しむ時は思いっきり楽しむんだ、なんていって子供みたいにはしゃいでたし。
あれで僕は魔法使いなのだ、なんて言われても信じられないって、普通」
そう語る自分の頬が緩んでいるのがわかる。
昔のこと。
十年前のあの火災から、切嗣が亡くなるまでの五年間。
思えばあの時が、自分にとって純粋に楽しい時間だったのかもしれない。
「なるほど。そういう師が好きだったのですね、シロウは」
「……ん。遠坂に聞かれたら怒られそうだけど、憧れてた。自由でぜんぜん魔術師っぽくなくても、俺にとっては切嗣こそが本当の魔法使いだったんだ。
ま、それにさ。自分以上に子供っぽいんで、どうしても放っておけなかったってのもあるし」
「ええ、シロウの気持ちはわかる。私にも魔術師《メイガス》はいたが、そいつも子供のような人物だった」
「そいつ……? 珍しいな、セイバーが人をそんなふうに言うなんて」
「いいえ、彼は例外です。アレはとんでもない老人だった。尊敬していたし親愛も感じていましたが、同時にあらゆる厄介事の素でした。彼の悪戯好きさえなければ、もう少しまともな時代になったでしょう」
「……うわ。なんか凄いな、その言い方。まるで希代の悪人みたいじゃないか」
「悪人でした。くわえてその、色事に弱いというか、愛の多い人物というか。結局最後にそれが仇《あだ》となって幽閉されてしまいましたが、あの老人の事です。きっと、今でも呑気に愛を語っているのでしょう」
呆れているのか、笑っているのか。
セイバーはそんな昔話をして、ほんの少しだけ言葉を飲んだ。
そうして、わずかな沈黙のあと。
「シロウ。貴方の半身はどうなっているのです」
まっすぐな目で、知られたくない事を追及してきた。
「……なんだ。セイバー、気づいてたのか」
「あれだけ皿を割っていれば誰でも気が付きます。
それで、どうなのです。見たところ異状があるのは半身だけのようですが」
「いや、異状ってほどの事じゃない。ただ麻痺してるだけなんだから」
そうして、朝から体がおかしかった事、運動能力としてはまったく異状がない事、原因は昨夜の投影魔術による反動《フィードバック》だろうという事を説明する。
「……………………」
セイバーは不安げな目で俺を見る。
それに大丈夫だと笑いかけようとした時。
「―――体の大部分が麻痺したままか。当然と言えば当然だな」
開かれた扉の前に、赤い外套の騎士が立っていた。
「アーチャー……!」
俺を守るように身を翻すセイバー。
……彼女にしてみれば、あいつは俺を切りつけた敵なのだ。
「――――――――」
……そして、俺にとってもこいつは敵だ。
“―――理想を抱いて溺死しろ”
俺を切りつける直前に告げたその言葉が、今でも頭にこびりついて離れない――――
「何用だアーチャー。我らは互いに不可侵の条約を結んでいる筈。己《おの》が主の命を守るのなら、早々に立ち去るがいい」
「――――――――」
アーチャーは答えず、さらに踏み入ってくる。
「――――止まるがいい! それ以上進むのならば、相応の覚悟をしてもらおう」
セイバーの敵意は殺気に変わりつつある。
「……いや、待つんだセイバー。あいつにその気はない。それに、ここで戦う訳にはいかないだろ」
「む……それはそうですが、シロウ」
「いいから。―――で、用件はなんだよアーチャー。
おまえの事だ、挨拶しにきた訳でもないんだろ」
セイバーを押しのけてアーチャーと対峙する。
……っ。
やっぱりこいつは気にくわない。
考え方が違うってのもあるが、こう顔を見た瞬間背筋に悪寒が走るんだから、生理的に相容れないに違いない。
きっと天敵とか仇敵とか、そういう類《カテゴリー》に属する野郎だ。
「おい。用件がないんなら出ていけ」
「……ふん。投影をしたと凛から聞いていたが、やはりそうか。半身の感覚がなく、動作が中よりに七センチほどずれているのだろう?」
「――――――――」
息を呑む。
アーチャーの指摘は、恐ろしいぐらい正確だった。
「体を見せてみろ。力になれるかもしれん」
アーチャーが腕を伸ばす。
「っ………!」
「いい、よすんだセイバー。……体を見せればいいんだな、アーチャー」
上着を脱いで、アーチャーに背中を向ける。
「――――――――」
アーチャーは無言のまま背中に手をあててきた。
「っ――――」
僅かな痛み。
感覚―――痛覚さえなかった左半身に、鍼《はり》を刺されたような熱を感じる。
「……運のいい男だ。壊死《えし》していると思ったが、閉じていたモノを開いただけか。これならば数日もすれば回復しよう」
「……閉じていたモノが、開いた?」
「そうだ。おまえは勘違いをしているようだがな、魔術回路とは作るものではなく表すものだ。一度作ってしまえば、後は表面に出すか出さないかの物でしかない。
……そのような勘違いをしているから、本来使われる筈の回路が放棄され、眠っていたのだ。
おまえの師や凛には考えられない盲点だろうよ。真っ当な魔術師ならば、通常の神経そのものが回路になっている異端など知りもしまい」
「おまえの麻痺は一時的なものだ。今まで在ったというのに使われてなかった回路に全開で魔力を通した結果、回路そのものが“驚いている”状態だろう。
だが、なんにせよ放棄されていた区画に風が通ったのだ。いずれ神経は通常の機能を思い出すし、放棄されていた回路はこれで現役に戻ったという事だ」
「っ――――」
もう一度、背中に鍼《はり》が刺さる。
この一日、感覚がなかった半身から、どくどくと脈打つ確かな鼓動を聞き届ける。
「……こんなところか。体が動く頃には、以前よりはましな魔術師になっているだろう。何にせよ、俺の剣を作るなど初めにしては欲張りすぎだ」
アーチャーの手が離れる。
「……では、シロウの体に異状はないと?」
「今までが異状だったのだ。……いや、異常を眠らせたまま終わるのが正常な人間の生だ。その点で言えば、衛宮士郎は既に異状だが――――まあいい。
ともあれ、明日一日は魔術を使おうと思うなよ。治りかけた神経が焼き付いたら麻痺ではすまん」
「詳しいのですね、アーチャー」
「似たような経験があってな。私も初めは片腕をもっていかれた。新しい魔術を身につけるとはそういう事だ」
背中を向け、アーチャーは立ち去ろうとする。
「待てよ」
それを呼び止めた。
俺を殺そうとし、今ここで手助けをするこいつの真意を、どうしても知りたくて。
「なんだ。セイバーに頼みこんで、いつぞやの続きでもするつもりか」
「そんな事するか。ただ訊きたいだけだ。おまえが言い捨てやがった台詞がどんな意味なのかってな」
―――理想を抱いて溺死しろ。
その意味を。
他ならぬこいつの口から聞かなければ、脳裏に棲みついた不安は消えない。
「言葉通りの意味だ。付け加えるモノなどないが」
断言に迷いはない。
アーチャーは本気で、一片の迷いもなく返答した。
「――――!」
それが。
目の前が真っ白になるぐらい、我慢ならなかった。
「じゃあおまえはなんだアーチャー……!
理想を抱くなと言うおまえは何の為に戦ってるんだ。
サーヴァントはみんな自分の目的があるんだろう。なら、おまえの戦う意義ってなんだ。理想がないおまえは、何の為に戦うんだ」
「―――知れた事。私の戦う意義は、ただ己の為のみだ。
つまらぬ世情、大儀、理想。
そんな不確かな意義など偽物だ。剣を執るのは、ただ己が欲望の成就の為。それ以外に理由などない」
「自分の――――自分の為だけ、だと」
「そうだ。おまえの欲望が“誰も傷つけない”という理想であるのなら好きにするがいい。そんなに他人を救いたければ救えばよかろう。
ただし―――それが、本当におまえ自身の欲望ならばな」
「―――――な」
思考が止まる。
こいつは今、何を、言ったのか。
「自分の意志で戦うのならば、その罪も罰も全て自分が生み出したもの。背負う事すら理想の内だ。
だがそれが借り物の意思であるのなら、おまえの唱える理想は空想に墜ちるだろう」
つまり。それは偽物だと。
「戦いには理由がいる。だがそれは理想であってはならない。理想の為に戦うのなら、救えるのは理想だけだ。そこに、人を助ける道はない」
声が出ない。
反論がうかばない。
アーチャーの言葉は、それこそ矢のように胸を刺す。
それは俺だけでなく、傍らにいるセイバーさえで同じだった。
「戦う意義とは、何かを助けたいという願望だ。
少なくともおまえにとってはそうだろう、衛宮士郎」
「――――――――」
「だが他者による救いは救いではない。人を叶《かな》えるのは本人の意思と結果だけだ。
他人による救いなど、そんなものは金貨と同じだよ。使えば、他人の手に回ってしまう」
「――――――――」
……声が、出ない。
なにか。
それは違うと言わなければならないのに、どうして。
「だから無意味なんだ、おまえの理想は。
確かに“誰かを救う”などというおまえの望みは達成できるだろう。だがそこにはおまえ自身を救う[#「おまえ自身を救う」に丸傍点]、という望みがない。
おまえはおまえの物ではない借り物の理想を抱いて、おそらくは死ぬまで繰り返す」
違う、それは。
「―――私が言いたかった事はそれだけだ。
人助けの果てには何もない。結局、他人も自分も救えない、偽りのような人生だ」
赤い背中が遠ざかっていく。
「――――――――」
「――――――――」
……口に出来る言葉が探せない。
影が落ちる。
土蔵に残された俺たちは、互いを見る事もできず、居もしないやつの背中を見つめていた―――
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2月10日     11 WitchCraft
――――何の為に、何を求めたのか。
助けられなかった人たちがいて、
助けられなかった自分がいた。
きっと、それが理由の筈だ。
それから何があって、何に成ろうと思ったのか。
……灰色の空を覚えている。
泣き出す一歩手前の暗い空。
そこで、生きようともがいていた意思も消えかけた。
意思がなくなれば死ぬだけだ。
多くの人たちを見捨てて歩いて、ほんの数分だけみんなより長生きした。
その過程で、色々なものが死んだのだ。
だからほとんど空っぽだった。
生きていたい、という願いさえ折れれば、それで無になる。
何も無いのなら、あとは死ぬ事しか残っていない。
そうして死んだ。
考えるのも難しくなって、目を閉じて―――完全に真っ暗になる一歩手前で、空に伸ばしていた手を掴まれた。
――――それが全てだ。
何にもなくなった。
何もなかったから、それしかなかった。
自分には出来なかったから、痛烈に憧れた。
……そう。
助けられなかった人たちの代わりに、これから、多くの人たちの為になろうと思ったのだ。
―――なのに。
それが偽りだと、あいつは言った。
借り物の理想。
巡る金貨のような救い。
報われる事などないという、その末路。
「――――――――」
何の為に、何に成ろうとしたのか。
“正義の味方になりたかった”
そう言い残したのは俺ではなく、たしか――――
「――――つ」
目を覚ます。
外から差し込む陽射しは強く、昨日とうってかわって、今日が晴天だと告げていた。
「―――くそ。だっていうのに頭痛がする」
昨夜の出来事が原因か、寝覚めはいいものじゃなかった。
よほど魘《うな》されたのか、こめかみがズキズキする。
「あー……顔、洗ってこよ」
「いや、見事に晴れてるな」
まだ六時半だっていうのに、空は惚れ惚れするほど青かった。
気温も冬の朝にしては温かく、庭に積もった雪は綺麗さっぱりなくなっている。
脱衣場で顔を洗って歯を磨くと、眠気は完全になくなった。
「そっか。今日は日曜だから、無理して藤ねえを起こすコトもないんだ」
朝食の支度も遅めでいいし、食事もゆっくりできる。
居間には誰もいない。
「……俺が一番だったんだ。藤ねえとセイバーはわかるにしても、遠坂がまだ寝てるってのは意外だな」
ま、ともかく朝食の支度だ。
いくら休日とは言え、今朝は四人もいるんだ。
下準備ぐらいはそろそろ始めても――――
「あれ。食パンないぞ?」
昨日一斤買っておいた筈なんだが、袋ごと消失している。
「その代わりに百円玉が三枚あるのは、誠意と見るべきなのか否か」
……この手の犯罪は初めてだ。
第一容疑者である藤ねえは、こんな手の込んだ事はしない。
となると、もう犯人は一人しかいないのだが。
さて、どうしよう。
食パンがないぐらいどうってコトはないんだが、今朝は遠坂っていう余計な食い扶ちがいるし。
「……七時前。豆腐屋さんなら開いてるな」
……まあ、犯人が誰かは判明している事だし。
貴重な朝の時間を、誰かさんとの問答で消費するのは料理当番として容認できない。
「もっともだ。んなヒマがあるなら豆腐買ってくるべし」
抜けるような青空の下、朝一番で豆腐屋にて買い物をする。
テーブルに置かれた三百円で絹ごし豆腐を三丁購入し、
「お、士郎くん日曜日だってのに偉いねえ!」
豆腐屋の二代目がサービスでくれた豆乳パックを飲みながら帰還する。
「――――うん、満たされてる」
完璧だ。
シチュエーション的に、文句のつけどころのない気持ちいい朝である。
「……なんだけど、なんか損したような……?」
はて、と首をかしげながら青空を仰ぐ。
大きめに切ってもらった豆腐、六十円の豆乳パック。
この幸せに匹敵するモノなんて、そう簡単には転がっていないと思うんだが。
散歩がてらにゆっくりと戻ってきて、豆腐をどう使うか悩むコト二十分。
気が付けば時計の針は八時半を指していた。
「おはようございます、シロウ。今朝は随分とゆっくりなのですね」
「ん? ああ、おはようセイバー。今日は日曜で学校がないから、その分ゆっくりしていられるんだ。体の調子もいいから、朝飯が終わったら道場に行こう」
「ええ、望むところです。ではシロウ、半身の麻痺は完治したのですね」
「あ、そう言えばそうだった。
商店街から気持ちよく散歩できたし、もうほとんど治ってるみたいだ。……ま、まだかすかに重いけど、この分なら明日には治ってる」
「それは良かった。貴方《マスター》が傷を負ったままでは私も立つ瀬がない。シロウがいつも通り厨房に立っていると、私も安心できます」
セイバーはテーブルの横、自分の定位置に腰を下ろす。
藤ねえと遠坂が起きてこないのは寝坊と言わざるを得ないが、休日なんだし、朝食が出来るまで寝かしておいてやろう。
「おはよう凛。昨夜はゆっくり眠れたようですね」
お。
なんて言ってる間に、遠坂が起きてきたみたいだ。
「……おはよ。別にそうでもなかったんだけどね。陽射しは眩しいし、零時過ぎてもごそごそやってるヤツラはいたし」
セイバーに答えながら、遠坂は居間に入ってくる。
―――さて。
朝から小言なんて言いたくないが、食パンを全滅させた理由ぐらいは問いたださねば。
「おはよう遠坂。早速だが今朝の――――」
――――息が止まる。
遠坂のヤツ、朝っぱらから、また見慣れない服装をしてる。
「ぁ――――、と」
どくん、と唐突に心拍数が上昇する。
……あの真っ赤な服のせいだ。
あんまりにも目に痛いから、言いたかったコトが、頭の中から綺麗さっぱり蹴っ飛ばされた。
「―――朝メシ、作ってる途中。出来るまでお茶でも飲んでろ」
平静を取り繕って二人分のお茶をテーブルに置く。
が。
「なにのんびりしてるのよ。今日は出かけるんだから、早く用意なさい」
朝食なんて後回しだ、と遠坂は睨んできた。
「え―――? なんだ、出かけるって、何処に」
「隣街までよ。ほんとは遠出したいけどさすがにそこまでの余裕はないでしょ。だから妥協案ってコトで」
「……?」
新手の先制攻撃か。
遠坂の意図が、俺にはどうも掴めない。
「はあ。妥協案はわかったけど、何しに?」
「何って、遊びに行くに決まってるじゃない。デートよ、デート」
「デートって―――誰が、誰と」
「わたしと、士郎が」
きっぱりと言う。
「――――――――?」
それにはてな?と首をかしげたあと。
「デ―――デートって、俺と遠坂があああああああ!?」
「それ以外に誰がいるのよ。昨日の夜そう言ったでしょ」
「――――」
ちょっと待て。
なんだそれ、幾らなんでも急すぎて頭の処理速度が追いつかないっ……!
「ほら、いいから行くわよ。どうせこんなコトだろうと思ってたし、お弁当作っておいたから。はい、士郎はこのトートバッグを持ってついてくる」
緑色のトートバッグを押しつけ、遠坂は居間を後にする。
「――――――――」
それを呆然と見送る俺。
「シロウ……? 凛の後を追わなくていいのですか?」
「あ――――ああ、ちょっと待て遠坂――――!」
慌てて走る。
足音は二人分。
後ろにはセイバーも付いてきているようだった。
「遅い。女の子を待たせるなんて、随分余裕があるのね」
余裕も何もねえ。
こっちの言い分も聞かず、もう、デートに行くっていうのは決定事項になっているらしい。
「いや、だから待てってば……! 遊びに行くって、その、どうして!?」
「そういう気分だから。別に構わないでしょ、どうせ昼間は何もしないんだし。今更逃げるなんて言わせないわよ」
「っ―――たしかに構わないだろうけど、ほら―――そうだ、アーチャーはどうするんだよ! あいつだって反対だろ、こういうのっ!」
「アーチャーは置いてきたわ。今頃わたしの家で寝てるんじゃないかしら」
「――――――――」
う、と喉がつまる。
……勝てない。
俺だけじゃ遠坂を言い負かせられない。
こいつを止められるとしたら、ええっと――――
「そうだ、セイバー! セイバーはどうするんだ」
「セイバーならいいわよ、同伴しても」
玉砕。
わずか一言で、こっちのカードは全て粉砕された。
「いい加減観念した? なら急ぎましょ。今日はマスターの義務なんて忘れて、思いっきり遊ぶんだから」
「え―――ちょっ、待てったらばかっ……!」
戸惑っている余裕なんてない。
こっちの手を掴むやいなや、遠坂は玄関から飛び出した。
「っ―――…………!」
……なんか、観念するしかないみたいだ。
今朝の遠坂はやけに元気でちっとも敵いそうにないし、抗議したところで論破されるのは目に見えているし、何のつもりかセイバーも文句一つなく付いてくるし。
……いやまあ、それになにより。
ほら。なんか、今日はすごくいい天気だし。
◇◇◇
「う――――」
バスから降りた瞬間、人混みに圧倒された。
駅前は賑わっている。
こんな天気のいい休日、おまけに時刻は十時前なんだから、賑わっていない方がおかしい。
「―――驚いた。休日ともなればこれほど人が集まるのですね」
戸惑いながらも街を眺めるセイバー。
今まで昼間の街を見ていなかったのだから、その反応は当然だろう。
「……………………」
かく言う俺も、この人混みにあてられていたりする。
「さて、どこから行こうかしらね。二人ともリクエストある?」
が。
そんな俺たちとは別次元に、遠坂は元気いっぱいだ。
「う……リクエストって言われても困る。遊び場なんて知らないぞ、俺」
「でしょうね。じゃあセイバーは? どこか行ってみたい所とかない?」
「私ですか……? いえ、特に関心のある場所はありません。そもそも私はシロウの護衛です。
これが凛とシロウの休日ならば、私はいないものとして扱ってください」
「な」
「そう? じゃあわたしの好みでいいのね。
ふふーん。二人とも意見がないんだから、わたしの方針には絶対服従ってコトでオッケー?」
「ななな」
ぶるっ、と背中が震える。
にやりと俺たちを見つめる遠坂の目は、なんか怖い。
「ちょ、ちょっと待て、物騒な言い方するなっ。
だいたいな、遠坂に付き合うとは言ったけど、デ、デートするとは言ってないぞっ。これはあくまで、たまには息抜きをしようって三人でだな――――」
「はい残念、世間じゃそういうのをデートって言うの。ほら、ここまで来たんだからいいかげん観念なさい。あんまり往生際が悪いと女の子に嫌われるわよ?」
「なっ――――き、嫌われるって、誰にっ」
「さあ誰でしょう? でもまあ、しぶといってのは長所かな。ね、セイバー」
「はい。シロウは負けず嫌いですから。戦闘において不屈の精神は心強い」
「だってさ。良かったわね士郎」
「くっ――――」
にんまりと笑う遠坂。
ああもう、さっきから人をからかいやがって何が楽しいってんだこいつはっ!
「さーて、それじゃあ手始めにベェルデに行きましょうか。二人とも朝食はまだでしょう? 軽くお茶した後で店荒らしでもして、とりあえず体をあっためよ」
ずんずんと歩き出す遠坂。
ベェルデってのは確か、つい最近出来た新しいデパートの名前だったっけ。
「ほら、のんびりしてると置いてくわよ? モーニングは十時までなんだから、急がないと終わっちゃうじゃない」
「ちょっ――――――――」
呼び止めても止まらない。
遠坂は待ったなしで、こっちに落ち着く余裕もくれないようだ。
「シロウ。凛が行ってしまいますが」
「く―――ああもう、分かった! こうなったら何処へだって付き合ってやるっ!」
ぱん、と自分の両頬を叩いて気合いを入れる。
「行くぞセイバー、はぐれるなよ!」
「はい。シロウこそ凛を見失わないように」
二人して走り出す。
人混みで賑わう街の中、遠坂は振り返りもしない。
その背中は、俺たちが追いかけてくるのを信じ切っているかのようだった。
で。
気が付くと、とっくに正午を回っていた。
白状すれば、最初の一時間はひたすら緊張していたと思う。
喫茶店に入ろうがボーリング場に行こうがブティックをひやかそうが、とにかく人の目が集まってくるのだ。
言っておくと、遠坂だけでも目立つ。
目を引く鮮烈な赤色の服と、長くしなやかな黒髪。
その色彩だけで目立つって言うのに、遠坂自体も隙のない美人ときた。
人混みの中で一際目立つのは当たり前。
そんな遠坂の隣りにセイバーがいるんだから、どのくらい華やかな二人組かは言うまでもない。
が、別に視線が気になって緊張していた訳じゃない。
注目されてる、と気が付いたのは緊張が解けてからだ。
ようするに俺は、遠坂とデートをする、なんてコト自体に緊張していたのだ。
覚悟を決めた、なんてのは言葉の上だけの事で、実際に喫茶店に入った時点で生きた心地がしなかった。
マスターとしてなら背中を合わせて戦えるっていうのに、実際にデートと聞くとそれだけで心臓が跳ね上がる。
なまじ近づきすぎてしまったから、今更普通に接する事が難しかったんだろう。
「――――――――」
そんなこんなで、訳の分からないまま一日が終わると思っていた。
遠坂がなんのつもりでこんな事をしたのかは分からないが、緊張したまま街を回って帰るだけだと確信していた。
……だから、デートなんかより早く帰って作戦を練った方がいいと思っていたのだ。
――――それが。
その、こんな風になったのは、一体どんな魔法だったんだろう?
「いやー、笑った笑った。久しぶりにいいもの見せてもらったわ、ほんと」
公園を歩きながら莫迦笑いをする遠坂。
「そうでしょうか。私は判断しかねます。どうも、先ほどのシロウはあまりイメージではありません」
「それがいいんじゃない。まさかメガネ一つであんなにお坊ちゃん風になるとは思わなかったなあ。士郎、あのメガネ買えば良かったのに」
よほど気に入ったのか、遠坂はまだ笑っている。
……事は十分ほど前に遡る。
何を思ったのか遠坂はメガネ屋に寄って、伊達メガネをセイバーにかけさせて遊んでいた。
そのとばっちりを受けて俺もメガネをかける事になって、そのうちの一つが遠坂にヒットしたという訳だ。
ちなみに、縁の太い固っくるしいデザインをした伊達メガネだった。
「……ったく、余計なお世話だ。いいか、金輪際メガネなんてかけないからな。ただでさえ童顔なんだから、これ以上ガキに見られてたまるか」
「え? あー、そっか、自覚はあったんだ。けど心配いらないんじゃない? 衛宮くん、今のままでも問題ないし」
「ば、今のままなんて問題あるっ! 顔は仕方ないけど、もう少しぐらい背が高くならないと困るっ」
「あら。衛宮くんの身長、平均だと思うけど?」
「平均なもんか。それに、背が高いとふんばりが利くだろ。せめて一成ぐらいは背丈がないとダメだ」
「だから心配ないってば。まだまだ大きくなるもの、貴方」
「……それは嬉しいけど。遠坂、その根拠はなんだよ」
「え―――あ、うん。だって骨格はしっかりしてるんだから、ちゃんと栄養をとれば育つでしょ? しっかり光合成してれば士郎も大きくなれるかなー、とか」
「どこの葉っぱの話だよそれ。人をそこいらの花と一緒にすんな」
「あ。衛宮くん、もしかして怒っちゃった……?」
「別に。話半分に聞いとくよ。……まあ、遠坂のお墨付きならわりと期待してよさそうだし」
「――――ええ。背のことは保証できないけど、きっととびっきりのいい男になるわ。それだけはわたしの保証付きよ、士郎」
「な――――」
ど、どうしてそう、顔が沸騰するようなコト言うんだおまえはっ!
「あは、照れてる照れてる。衛宮くん、すぐ顔に出るから好きよ」
「っ――――」
あ、遊ばれてる。
俺は、間違いなくこいつに遊ばれてる。
「くっ、この性悪っ! 同学年の男からかって楽しいのかおまえはっ!」
「もちろん。人によるけど、士郎の反応は極上だしね」
…………神さま。
どうか、こいつに天罰か何かを落としてやってください。
俺の為ではなく、学校の男連中みんなの為に。
「っと、士郎で遊ぶのはこのへんにして本命に行きしょうか。お昼ご飯前に、こうがっきーんってストレス解消していかない?」
両手を合わせて、ぶん、と振る遠坂。
「……がっきーんって……それ、まさか」
まさかも何も、今のジェスチャーは間違いなくアレだ。
いや、しかし、女の子がデートコースで、しかも自分から言いだすなんてあるだろうか……?
「なにって、バッティングに決まってるじゃない。士郎、もしかして知らない?」
本気? と真剣に訊いてくる学園の(元)アイドル。
「んなワケあるかっ!
いや、俺が言いたいのはだな、バッティングセンターは女の子向けじゃないっていうか――――」
そこまで言って、遠坂が打席に立つ姿を想像する。
[#挿絵(img/209.JPG)入る]
「………………………………」
……やばい。違和感こそあれ、頼りなさがまったくないのはどういうコトか。
「なによ、それなら水族館にでも行く? たしかペンギン軍団VS北海の巨大アザラシ、炎の凍結三番勝負がやってた筈だけど、見せ物としちゃ三流よ?」
「――――――――」
いや。その見せ物はわりと二流だと思うのだが、この青空の下で水族館というのもどうかと。
「凛。そのバッティングとはなんなのですか」
「え? あ、そうね、セイバーの得意分野よ。時に特訓の一つに挙げられる、総合的な身体運動とも言えるわ」
うわ。
遠坂のヤツ、またとんでもない表現を。
「―――む。それは聞き捨てなりませんね」
「そうそう、気持ちいいからやってみなさい。セイバーなら店の景品を根こそぎ獲得できるってもんよ」
無責任にセイバーを煽りつつ、遠坂はまたもやずんずんと歩き出す。
「――――はあ」
その後ろ姿を眺めながら、ま、仕方ないかと走り出した。
遠坂の元気さは問答無用だ。
止めるコトなんて出来ないし、こうやって振り回されるのも、そう悪い気分じゃないワケだし。
だから、つまりはそういうコトだ。
緊張が解けたのは、単に楽しかっただけ。
息つく暇もないほどあちこちに連れ回され、気が付けば緊張なんてなくなっていた。
次に行こう、と手を伸ばしてくる遠坂と、不承不承ながらも応える自分と、そんな俺たちを静かに見守っているセイバー。
……それが、本当に楽しかった。
今まで通り過ぎるだけだった街の趣《おもむき》。
関わるまいとしてきたもの全てが、これほど意味のあるモノだとは知らなかった。
「――――――――」
そう思った反面、何か檻のようなモノが落ちてきて、ああ、と納得した。
ようするに分不相応。
こんなもの、おまえには勿体なさすぎる、と。
どこか、深いところにいる自分が告げていた。
――――つ、つかれた。
一回三十球を五回、都合百五十スイングもバットを振るはめになるとは思わなかった。
それというのもすべて、
「な、なんでしょうかシロウ。そのような目で見られると困ります」
こいつが、ヘンに負けず嫌いだったからである。
「誤算だったわ……あそこまでセイバーが勝負に拘るなんて思わなかった」
はあ、と傍らで嘆息する遠坂。
こいつはこいつで、
「あら、わたしは一ゲームだけよ? そんなにバット握ってたら手の皮が荒れちゃうもの」
なんて言っておいて、セイバーにつられてもう一ゲームし、後になって肩がだるいだの手が痛いだの言う始末。
「なに言ってんだ。遠坂は二回だけやって、奥でハンドル握ってたじゃないか。俺なんて五回だぞ五回、しかも最高速度!
……あーもう、手を抜くとセイバーが怒るし、差を付けると拗ねるんだからな。地獄のような一時間だった」
「す、拗ねてなどいませんっ! シロウに対して闘志を燃やしていただけではないですか。そもそも道場での打ち合いに比べれば遊びのようなもの、そこまで疲労する方が悪いのです」
「……納得。セイバー、遊びに負けると怒るタイプだったんだ」
はあ、と溜息をついてよろよろと進んでいく。
ともかく今回判明した事は、セイバーと賭け事はするなということ。
ヒット級のあたりを十本分差をつけた方が勝ち、というルールは、実力が伯仲すると無限地獄になるということ。
それと、魔力使用を制限したセイバーは俺たちより筋力がなかった、ということ。
……いや、120キロをポンポン打ち返していたあたり、遠坂が異常なのか。
セイバーは一番小柄なんだから当然といえば当然で、むしろ遠坂が女の子にしては力持ちと言わざるをえない。
「失礼ね、バッティングはイコール腕力じゃないわ。
スイングスピードと命中角度さえ合ってれば女の子でも打ち返せるわよ」
「そりゃ一球や二球はな。問題はその後。普通は腕の筋肉がひきつるって。おまえ、寝る前に腕立て伏せでもしてんじゃないのか? いや、あれはそうとしか思えないバッティングだったぞ」
ふふん、と今までのお返しとばかりに皮肉を言う。
が。
「……し、してるわよ。なによ、悪い?」
「―――――あ、いや。……うん、ナイス」
時にこういう切り返しをするもんだから、全然反撃になっていなかった。
「と、ともかく昼にしよう。もう二時過ぎだろ。いいかげん何か食べないと目眩がしてきた」
このあたりなら橋ぞいのファミリーレストランが手頃だろう。
メニューも多いし、セイバーも文句はなさそうだし。
「遠坂もそれでいいよな。別に目当ての店があるってワケじゃないだろ」
行こう、と遠坂に呼びかける。
「あ、あるわよ。目当ての店ってわけじゃないけど、予定はちゃんと組んであるんだから」
「なんだ、そうだったんだ。で、それってどこだよ」
「…………ここ」
「は? ここって、どこさ」
「だから、ここ。天気もいいし、公園でお昼にするの」
……きょろきょろと辺りを見渡す。
食事処はおろか出店のホットドッグ屋もない。
「遠坂、まさか出前でもとるつもりか」
「……アンタね。その、朝からずっと持ってるわたしのトートバッグはなんだと思ってるのよ」
「え――――?」
あ。
そう言えば朝方、荷物持ちだとばかりに持たされたバッグが一つ。
「……む。そこはかとなくマスタードの匂い。つまり、これは」
「お弁当に決まってるでしょ。それぐらい用意したって言わなかったかしらね、わたし」
じろり、と抗議の視線を向けてくる。
……そういえば、確かにそんなコトを言ってたっけ。
「うわ、驚いた。まさかそこまで手が込んでるとは思わなかった。」
「そんなの当然でしょ。わたしから誘ったんだから、それなりの準備はしてるわよ」
「ああ、これで謎も解けた。遠坂、この為に食パンを使ったんだな。
いや、てっきり夜中に腹が減ったんでモシャモシャ食っちまったのかと思ってた。一斤まるごと食うなんて無茶っぽいけど、遠坂ならアリかなって」
いや、納得納得。
これで胸の支えも取れた、と頷くこと二回。
「あ」
顔をあげると、遠坂がこわい顔をしていたりした。
「衛宮くん?」
「う、うん。なんだろう、遠坂」
「お喋りはそれぐらいにして、お昼ご飯の準備をしてくれない? 道具一式、トートバッグの中に全部入ってるから。それと、あんまりモタモタしてると殺すわよ?」
「あ――――はい。努力します」
いそいそと芝生に陣取る。
……いや、怖かった。
極上の笑顔で、冗談に聞こえない冗談を言われるのは心臓に悪い……。
で。
二時間遅れの昼食が開始されたワケなのだが。
「あれ、どうしたの士郎? 唐突にぼーっとしちゃって。……あー、もしかして辛いの苦手だった?」
すぐ隣り。
手を伸ばせば触れる位置に座った遠坂は、そんなコトを言ってくる。
「え――――あ、いや、大丈夫。強烈な味付けだけど、美味いぞ、これ」
正直な感想を口にし、さらにサンドイッチを口にする。
「そ? 良かった、サンドイッチをまずく作るのって一種の才能でしょ? もしかして、そういういらないもんまで持っちゃったかと思ったわ」
遠坂は楽しげに笑う。
「――――――――」
俺がぼーっとしているように見えたとしたら、その姿が眩しかったからだろう。
澄んだ青空の下、芝生の上で昼食をとる。
それだけでも平和すぎて十分だっていうのに、そこに遠坂がいたら許容量を越えてしまって、朝の緊張が戻ってきたというか。
「あ。口元にトマトが残ってる。とったげよっか?」
「ぶっ……! と、とととと突然なに言いだすんだおまえっ、それぐらい自分でとる!」
ぐい、と服の裾で口元を拭う。
「あ」
……しまった。
服にこう、不吉な赤いシミがベッタリと。
「あちゃ、ちょい悪ふざけがすぎたか。ごめんね、士郎があんまりにも予想通りの反応するから、つい面白くって」
謝っているのか笑いを堪えているのか、遠坂は腹を押さえながらナプキンをとってよこす。
「――――ふん。いいよ、どうせ今日は一日中こんなもんなんだ。気にしない」
ナプキンを受け取って、こしこしと袖を拭く。
赤い汚れはなかなか取れない。
……ぬぬ。遠坂のヤツ、特別《オリジナル》のソースを使ってるな。油汚れはかなり頑固で、そう簡単にとれそうにない。
「けど今に見てろよ。今日の教訓を生かして、明日からはちょっとやそっとじゃ動じなくなってやる。いいか、いつまでも思い通りになると思うなよ」
「へえ。じゃあ明日からは手加減なしで出来るわけね。良かった、いいかげん猫をかぶるのにも飽きてきたところだったんだ」
ふふん、と余裕ありげに返してくる赤いあくま。
「……あ、いや、今の取り消し。もうちょっと時間がかかるから、しばらく今のレベルで抑えてくれると助かる」
「そう? 士郎がそう言うならいいけど、レベルアップしたくなったら教えてね。遠慮なく叩きのめしてあげるから」
「――――くそ。いつか返り討ちにしてやる」
負け惜しみじゃないんだが、負け惜しみにしか聞こえない文句を言う。
……なにか、異様に悔しいんで目の前のサンドイッチに八つ当たりする事にした。
ばくばくとサンドイッチを平らげていく。
腹も減っていたし、せっかくの遠坂の手料理だし、こうなったら一人で食べ尽くしてやるのだ。
……いやまあ、すでに三分の一はセイバーが平らげてしまったのだが。
そんなこんなでセイバーと二人してサンドイッチを食べる。
遠坂はもう満腹なのか、そんな俺たちをのんびりと眺めているかと思えば、
「体の調子、良さそうじゃない。これなら午後は遠慮なく引っ張り回してもよさそうね」
なんて、またもや意地の悪い笑みをこぼしやがった。
アレは、アレだ。
午後の遊びが楽しみっていうより、連れ回されてへばる俺を見るのが楽しみな笑みだ。
「ふん、甘く見るな。この程度引っ張り回されたぐらいで根をあげるもんか。昨日ならいざ知らず、今日はずっと調子がいいんだから」
「そうなんだ。うん、ならもう大丈夫かな」
よかった、と遠坂はサンドイッチに手を伸ばした。
まるで肩の荷がおりた、とでも言うように。
「……?」
なんでそんなコトを言うんだろう、と首を傾げた瞬間。
「あ」
ピタリと、何もかもが符号した。
「――――――――」
考えてみれば、とにかく不自然だったのだ。
遠坂がわざわざうちに来た理由。
アーチャーは俺の異状を知っていた。
俺があいつの剣を投影したと聞いて、体に異状がある筈だと看破したんだろう。
それはいい。
だが、あの場にいなかったあいつが投影を知っていたのは、遠坂が教えたからだ。
なら。
遠坂がアーチャーにキャスターとの戦いを報せたように、アーチャーも、俺が何らかのペナルティを負っていると遠坂に報せたのではないか――――
「遠坂」
「え、なに?」
「おまえ、なんだって昨日うちに来たんだ。しかも泊まっていくなんておかしいぞ。昨日は藤ねえにかき回されて気が付かなかったけど」
「――――――――」
一瞬の間。
けど、たしかに遠坂が息を飲んだのだけは読みとれた。
「なんでって、別に理由はないけど。昨日のはただの気紛れよ。たまにはああいうのもいいかなって」
「そうか。確かに昨日は賑やかで楽しかった」
「でしょ」
「うん。何もなかったけど、ありがとう」
「――――――!」
おー。
すごい、一気に真っ赤になった。
「な、なななに勘違いしてんのよ……! わた、わたしは別に士郎を気遣ったワケじゃなくて―――!」
「ああ、協力者が減るのはマイナスだもんな。だから様子を見に来たんだろ」
「う……そ、そうよ。よくわかってるじゃない」
「ああ。けど、たとえそうでも感謝してる。
遠坂が何を企んでいたかは知らないけど、気を遣ってくれた事だけは絶対なんだからな」
「…………………」
むー、と顔を赤くしたまま不満そうにうなる。
その姿はとんでもなく愛らしくて、つい頬が緩んでしまう。
「――――――なるほど、そっか」
で、少しだけ遠坂の気持ちが分かったというか。
種別は違うだろうけど、好きな相手を照れさせるっていうのは、すごく幸福な感じがした。
昼食が終わった頃から天気が怪しくなってきた。
あれほど澄んでいた空は見る影もなく曇り、今ではいつ一雨きてもおかしくない空模様になっている。
「……仕方ないか。傘もないし、今日はもう帰りましょう」
反対意見はなし。
もともと遠坂が始めた事だし、終わりを告げるのも遠坂の役目だったのだ。
◇◇◇
バスから降りる。
いつもの交差点に着いた時、空は泣き出す一歩手前だった。
「今日は楽しかった?」
バスから降りて坂道に向かおう、という時。
唐突に、遠坂はそんなコトを訊いてきた。
「え――――」
返すまでもない。
楽しかったと言えば、問答無用で楽しかった。
とびきりの力技というか、洗濯機につっこまれてグルグル回されたようなもんだ。
緊張も戸惑いも、汚れと一緒に洗い流された感がある。
ただ、それは。
「どうなの。楽しかった、士郎?」
「ああ、まいった。こんなに遊んだのは久しぶりだ。よくもあそこまで振り回してくれたな」
その、楽しければ楽しいほど。
衛宮士郎《おれ》には、そんな出来事は勿体ない気がして、気まずくなる。
「……そう。士郎が何を考えているか知らないけど、楽しいんなら素直に楽しいって言いなさいよ。ここまでエスコートしたわたしに失礼じゃない」
「え……? いや、そんなつもりじゃなくてだな」
「あるわよ。アンタ、無意識にブレーキかけちゃってるもの。……ふん。前に何があったか知らないけど。そんなに辛い事だったら、いっそ忘れた方が楽じゃないの」
「――――――」
……喉が詰まる。
こっちが驚くぐらいの鋭さで、深い患部《ところ》に棘《メス》を入れられた、ような。
「遠坂、それは」
「さあ、わたしの知った事じゃないわ。……ま、当初の目的は果たしたし、あとはそっちの問題でしょ」
髪をなびかせて、遠坂は坂道に向かっていった。
洋風の家々が並ぶ方角ではなく、和風の家々が並ぶ坂道へ。
「………………」
ぼんやりと立ちつくす。
「シロウ、家に帰るのではないのですか。じき雨が降ってきますが」
「あ、ああ。そうだな、行こう」
セイバーに促されて、坂道に足を向けた
「――――――――な」
屋敷に帰ってきた途端、激しい違和感に襲われた。
何一つ欠けていないのに、何一つとして満足ではない消失感。
二人の顔が強ばる。それは俺とて同じだ。
この感覚の正体。
今まで通りなのに、何か大きなモノを剥がされた建物。
屋敷から失われているもの、それは――――
「結界がなくなってる――――」
切嗣《オヤジ》が張った結界。
敵意あるモノの侵入を報せる結界が、強引に断ち切られている――――
「……誰かが留守中に押し入ったみたいね……出かけてたのは幸いか」
「シロウ、大河は――――!?」
「――――――――」
愕然とした後、走り出した。
考える余裕などない。
「ば、待ちなさい……! 中にまだ敵がいるかもしれないじゃない……!」
――――ぞぶり、と音がした。
玄関を開けた途端、空気の淀《よど》みが感じられる。
何者かが侵入した後。
結界に守られていた分、空気はわずかな汚れだけで真綿のように重くなっている。
土足で走る。
靴を脱いでる暇などないし、そんなコトさえ考えられなかった。
背後には駆けつけてくるセイバーと遠坂の足音。
それさえ視界に納めず、一心に居間へ向かう。
居間に入る。
電気はついていない。
灰色の空、薄暗い室内には、
「あら。このまま連れ去ろうと思ったのに、いいタイミングで現れるのねぇ、坊や」
意識を失った藤ねえと、キャスターとかいう敵がいた。
「キャスター……!」
背後でセイバーの声がした。
駆けつけた二人は、キャスターを見るなり足を止めた。
藤ねえが人質に取られているからだろう。
少しでもセイバーと遠坂がしかけようとすれば、キャスターは呪文を呟く。
それは誰よりも速い。
セイバーが突進しようと、
遠坂が魔術を放とうと、
それより先にキャスターの指先が灯る。
あの位置関係だ。
そうすれば、きっと、トマトみたいに   の顔が飛び散る。
「――――――――」
思考が止まった。
怒っている。
怒りで視界が真っ赤になりそうなぐらい、気が違っている。
だっていうのに頭はひどく客観的だった。
怒りが限度を超えると冷静になるなんて、今まで知らなかった。
「不用心よ坊や。魔術師であるのなら、結界にはもっと力を入れないと」
くすくすと笑う。
それさえも、ただ他人事のように受け止めるだけ。
「殊勝な心がけねキャスター。自分からこっちの陣営にやってくるなんて、降伏宣言のつもり?」
「ええ、似たような用件よ。もっとも、許しを請うのは貴方たちの方でしょうけど」
声だけで火花が散る。
遠坂はキャスターを睨み付けたまま何もしない。
動けば   の命はない。
万が一にも動くっていうんなら、キャスターより先に俺が遠坂を    いる。
「―――で。人質をとって何をするっていうのよ、アンタ」
「貴女に用はないわ。関心があるのはそこの坊やよ」
「ねえ、私が持ちかけた話をまだ覚えていて?」
境内での一件。
キャスターは俺とアーチャーに、自分の下につけと言った。
「っ……! アンタ、まだ懲りずにそんな事を……!」
遠坂の怒気は強い。
……意外だ。アーチャーのヤツ、遠坂にきちんと報告していたのか。
「懲りる? そうね、本来なら一度断った人間に関心なんて持たない。けれど、それも相手によるのよお嬢さん」
キャスターはこちらだけを見つめている。
遠坂に関心はない、と言うかのように。
「貴方は面白いわ坊や。聖杯戦争は今回で五回目。そのいずれも貴方のようなケースはなかったでしょう。
殺してしまうのは簡単。けれど折角の貴重なサンプルだもの、出来れば殺さずに手に入れたい。
わかって? こんな無粋な真似をするのも、貴方を生きたまま仲間にしたいからなのよ」
それは。
断れば、   を殺 という事だ。
「私は主の命に背いてここまで来た。そこまで貴方を評価しているのだから、こちらの熱意も信用できるのではなくて?」
「なに勝手なコト言ってんのよ……! マスターに黙って好き勝手やってるヤツが―――!」
「あら、嫉妬? でも残念、悪いけど貴女に興味はないの。魔術師としては優秀みたいだけど、私には到底及ばないわ。私が欲しいのは完成した万能ではなく、不完全な特異能力だけ。
……その点、そこの坊やは理想的よ。魔術師として未熟だもの、御するのは容易《たやす》いですし」
艶めく冷笑。
キャスターは   の首筋に指を食い込ませながら、さあ、と返答を迫ってきた。
「……困った子ね。悩む事などないでしょうに。
聖杯を手に入れるのは私以外にない。この街はとっくに私の物だもの。いくら貴方のセイバーが優れていようと、無尽蔵の魔力を持つ私を倒す事はできないわ」
「――――」
セイバーの気配が動く。
彼女は臨戦状態だ。キャスターに隙さえあれば、即座に突進しているだろう。
「―――ふん。だから無駄なのよセイバー。
いいこと、ここでこうしている私でさえ影にすぎない。私の力の供給源は街に住む全ての人間、千人単位でマスターを持っているようなものよ。
それがどういう事かわかって?」
「っ――――貴様、まさか」
「そう、魔力のない人間でも魂そのものは別でしょう?
私たちはもともと魂喰い《ソウルイーター》だもの。マスターから“命”という魔力を奪えば、いくらでも魔力は引き出せる。
……貴方のその怪物じみた宝具も、今の私なら何度だって扱えるわ」
ほぼ無尽蔵の供給源。
街中の人間から吸い出す魔力。
……それがあるから勝つというのか。
と同じ、無関係の人間をいいように使って、それで無敵だと誇るのか。
あの時と同じ。
誰かの犠牲の上で、なお笑い続けると――――
「――――――――」
撃鉄があがる。
客観的になりすぎて冷えきった思考に熱が戻る。
「さあ、答えを聞かせて衛宮士郎。
貴方に勝ち目はないわ。セイバーと共に私に従ってくれるかしら」
「――――藤ねえを放せ」
「……話を聞いていなかったのかしら。私に降りなさい、と言ったのよ」
「うるさい。藤ねえを放せ」
それ以外には何もない。
俺がこいつに渡すものは、何一つだってありはしない。
「――――――――」
ぎり、という音。
キャスターは忌々しげに歯を鳴らした後、気を静めるように嘆息した。
「…………解ったわ。交渉は決裂というわけね。聖杯を手に入れられるマスターは一人だけだもの。他のマスターと手を組む気はないということ?」
「違う、聖杯とかそういうのは関係ない。俺はおまえとは組まないだけだ」
「そう。嫌われたものね、私も」
静かな声に冷笑はない。
代わりに含まれたのは怒りだけだ。
「……本当に残念。貴方を気に入っていた、という気持ちに嘘はなかっただけにね。
もし貴方が私に協力してくれたなら、聖杯を分けてあげても良かったのに」
「それこそ余計なお世話だ。俺はおまえみたいなヤツを止める為に戦うって決めたんだ。聖杯なんて関係ない。そんな事より藤ねえを放せ」
キャスターを睨む。
敵意を込めた俺の視線を受けて、キャスターは―――
「ふふ――――あはは、あはははははは!」
何故か、おかしそうに笑っていた。
「――――おまえ」
「あら、気に障った? けど貴方も悪いのよ、心にもない事を口にするから」
「――――――――」
喉が詰まる。
心にもない事なんて、俺は。
「聖杯なんて関係ない? ふふ、本当にそうなのかしらね。貴方は聖杯の犠牲者ですもの。
聖杯なんて関係ない―――そう言葉にする時点で、貴方は聖杯を憎んでいるのではなくて?」
「――――――――」
瞬間。
心が、ギチリと凍り付いた。
「……士郎?」
凍り付いて、よく分らない。
心配そうに俺を見る遠坂の目も、辛そうに目を伏せるセイバーの顔も、
「――――――――」
喉元までせり上がってきた、気色の悪い嘔吐感も。
「知っているわよ、衛宮士郎。前回の戦いは十年前だったんですって? その時に貴方は全てを失った。炎の中に一人取り残され、死を待つだけだった貴方は衛宮切嗣に拾われた。
だから本当はこの家の子供じゃないのよ、貴方は。
にも関わらず、なりたくもない魔術師にさせられて、今まで苦しんできたんでしょう?」
「――――――――」
「……うそ。衛宮くん、今の、話」
「そう。貴方にとって聖杯は憎むべき敵だった。そんな貴方がこの戦いに参加するなんて皮肉な話ね」
「――――――――」
「貴方の気持ちは分かるわ。誰だって不当に自身の幸福を奪われては恨まずにはいられない。
……ええ。私が気に入ったのは、そういう衛宮士郎の過去よ」
「――――――――」
「貴方には復讐の資格がある。聖杯を手に入れて、十年前の清算をする権利がある。だから貴方を仲間にしてあげてもいいと思った」
「――――――――」
「―――さあ、考え直しなさい坊や。
私だって戦いを望んではいない。だって殺し合いなんて馬鹿らしいでしょう? 聖杯に無限の富があるのなら、幾ら分けても底はつきない筈。
なら、信用に足る者たちなら聖杯を共有してもいいのではなくて?」
「――――――――」
その言葉に、嘘はない。
おそらく、キャスターは本気でそう思っている。
「復讐なさい、衛宮士郎。
聖杯は私の手にあるも同然。貴方の願いを叶えてあげる事ぐらい造作もないわ」
「世迷い事だキャスター……! サーヴァントが最後の一人になるまで聖杯は現れない。そのような寧言《ねいげん》で、私の主《マスター》を侮辱するな……!」
「いいえ、戦わなくとも聖杯が手に入る方法はあるのよセイバー。他のサーヴァントには無理でも、キャスターである私には聖杯のカラクリは読みとれる。
そうね、膨大な魔力出力を誇る貴女が手を貸してくれるなら、今からでも聖杯を呼び出す事は可能でしょう」
「な――――」
セイバーの気迫に罅《ひび》が入る。
それは、セイバー自身もキャスターの言葉に嘘はないと感じ取っているからだ。
「さあ、これが最後よ坊や。
無益な戦いは避けたいのでしょう? なら私に従いなさい。セイバーを私に渡し、貴方が私に協力するというのなら、聖杯は貴方たちに預けるわ」
最後の交渉。
セイバーは迷っている。
避けられるのなら戦いは避けるべきであり、それで聖杯が手に入るのならば非の打ちどころがないからだ。
それに、敵の手には   の命が握られている。
答えは一つしかない。
遠坂ですら、諦めたように唇を噛んでいる。
――――俺は。
「――――断る。おまえの話には乗らない」
目を逸らさず、黒い魔術師に言い放った。
「なっ……!?」
息を呑む気配は三人分。
この場にいる誰もが、この選択を予想していなかった。
「あ、貴方正気――――? 自分がどんな立場にいるか判っていて?」
「ああ。おまえの言い分は解った。確かに正しい事を言ってると思う」
戦いを避けられるなら避けるべきだし、分けられるのなら分ければいい。
――――だが。
「けど、人を無差別に襲っている魔女には協力しない。おまえの言い分は正しいけど、その手段は間違ってる。
……それにもう一つ。俺は無理やり魔術師になったんじゃない。自分から進んで切嗣《オヤジ》の跡を継いだんだ。
―――それを、おまえにとやかく言われる筋合いはない」
「―――そう。なら貴方はいらないわ。ここで消えてしまいなさい」
キャスターの声に殺気が籠もる。
「貴様――――」
同時にセイバーの腰が沈む。
それを、
「動くなセイバー―――!」
渾身の声で制止させた。
「……頼む。動かないでくれセイバー。遠坂もだ。今は、動く訳にはいかない」
動けば殺される。
この屋敷で。
今までずっと一緒にいた、姉であってくれた人を、この居間で失うのだ。
そんな事を、容認できる筈がない。
「……シロウ、ですが」
「……バカ。ならどうして断ったりしたのよ」
それでも二人は踏みとどまってくれた。
「………………」
二人を隠すように、一歩だけキャスターへと歩み寄る。
「あら。まったくの考え無しかと思ったけど、自分の立場ぐらいは理解していたようね」
キャスターの唇に笑みが戻る。
……その腕。
藤ねえを抱きかかえた左手が、ゆっくりと俺に向けられる。
「……! 卑怯者、無抵抗の士郎を殺すつもり!?」
「まさか。命まで獲りはしませんよ。坊やにはマスターでなくなってもらうだけ。一つしか残っていないようだけど、その令呪を渡しなさい。
私の仲間にはならない、けれどこの娘は救いたい。
そう言うのなら、それぐらいの覚悟はあったのでしょう?」
「――――――!」
セイバーの息が止まる。
「……………………」
すまない、と心の中で頭を下げて、もう一歩だけキャスターへ歩み寄る。
「―――わかった。けどどうやって令呪を渡せばいい。人に渡す方法なんて、俺は知らない」
「シロウ……! 駄目だ、そんな事をしても……!」
「そうね。邪魔が入らなければ移植は出来るのだけど、ここでは望めそうにない。落ち着ける場所に移動しないと移植は無理でしょう。だから」
――――その腕を、ここで切り落としなさい。
「――――――――」
艶やかに笑いながら、黒い魔女はそう言った。
「―――ここまでです。
シロウ、大河の事は諦めてください。これ以上キャスターの思い通りにはさせられない……!」
「わたしも同意見よ。だいたい、アイツが人質を解放するタマかっていうの。一度言いなりになったら最後まで利用されるだけよ」
「――――――――」
二人の言い分は正しい。
だから、今はせめて、心の中で謝るしかない。
「――――持っていけ。これでいいんだろ」
左腕を上げる。
キャスターなら、一言呟くだけで綺麗に腕ごと令呪を持っていってくれるだろう。
「―――シロウ、だめだ……!」
「なんだってのよアンタは……! そこまでして他人を助ける必要なんてないでしょう!」
「ある。片腕で藤ねえが助かるなら、そんなの考えるまでもない」
左腕をキャスターに向ける。
「……いいわ。こちらに来なさい、衛宮士郎。
何を企んでいるかは知らないけど、どんな奇襲より私の指の方が早いのだから」
キャスターは俺を信じていないのか、まだ用心深く間合いをとっていた。
「………………………」
歩み寄る。
……キャスターの目の前、二人から離れた場所。
もう、俺ではどうあがいても逃げられない所まで歩いて、片腕を差し出した。
「は――――――――」
黒い魔女は呆然と俺を見る。
「はは。あはは、あはははははは…………!!
驚いたわ、たいした善人ね坊や! いいわ、貴方の誠意に免じてこの女は返してあげる!」
翻《ひるがえ》るローブ。
キャスターは左手で藤ねえの首を掴んだまま、残った右手で、奇怪な刃物を取り出した。
「お笑いぐさね、これなら手間をかける必要もなかった!
本当に馬鹿な子。目障りだから、貴方みたいなお人良しは死んでしまいなさい……!」
短刀が振るわれる。
それは俺の腕ではなく、心臓を奪うかのように胸へと叩き落とされ――――
「キャスター――――!」
爆ぜた。
そうとしか思えない速さで、セイバーが踏み込んできた。
「――――っ!?」
その速度は予想以上だったのか、キャスターは反応できずに短刀を弾かれる。
後退するキャスターと、それを追うセイバー。
逃げ切れない、と悟ったのか。
「そう、なら――――」
嬉しげに唇を歪めて、キャスターは右腕に力を―――
「―――だめだ、止めてくれセイバー……!!!!」
心からそう願って、上げていた左腕を伸ばしてしまった。
「な――――シロウ、令呪を――――」
セイバーの動きが止まる。
令呪という絶対命令権によって行動を封じられたセイバー。
そこへ
とすん、と。
雪に足跡をつけるような容易《たやす》さで、短刀が突き立てられた。
「な――――」
時間が止まったような錯覚。
セイバーは呆然と自らの胸を見下ろしている。
「キャスター、貴様」
「そう。これが私の宝具よセイバー。なんの殺傷能力もない、儀礼用の鍵にすぎない。
けれど―――これはね、あらゆる契約を覆す裏切りの刃。貴女もこれで私と同じ。
主を裏切り、その剣を私に預けなさい」
「っ――――!?」
赤い光が漏れる。
禍々しい魔力の奔流《ほんりゅう》。
それはセイバーの全身に行き渡り、彼女を律していたあらゆる法式《ルール》を破壊し尽くし――――
俺と、セイバーとの繋がりを完全に断っていた。
「は、あ――――!」
床に崩れ落ちるセイバー。
……その額には何か、痣のような刻印が浮かび上がっている。
傍らに立つキャスターには三つの刻印が浮かんでいた。
サーヴァントを縛る令呪。
今まで俺にあった、セイバーのマスターである証が、あいつの腕に宿っている――――
「な――――」
「驚いたかしら。これが私の宝具、“破戒すべき《ルールブ》全ての《レイカ》符《ー》”。
この世界にかけられたあらゆる魔術を無効化する、裏切りと否定の剣」
「ぁ――――――――く」
床に伏したセイバーが喘いでいる。
まるで、体内に侵入した毒と戦うように。
「アンタ――――サーヴァントのくせに、サーヴァントを――――」
「ええ、使い魔にしたのよお嬢さん。これで計画通り。衛宮士郎はマスターではなくなり、セイバーは私のモノになった。
この娘さえ手中に収めてしまえば恐れるものは何もない。そうよ、あの野蛮人《バーサーカー》が私を襲おうと関係ない。今度は私から攻め入ってあげましょう……!」
高らかに笑い、キャスターは倒れた藤ねえを抱きかかえる。
「ほら、返してあげるわお馬鹿さん。大事な人なんでしょう? なら死んでしまわないように、最期まで頑張らないとダメよ」
藤ねえの体が浮く。
視えない腕に引かれ、藤ねえの体は宙に舞った。
「っ、藤ねえ……!」
咄嗟に受け止める。
「藤ねえ……! 大丈夫か藤ねえ……!」
呼びかけても返事はない。
ただ、抱いた腕が温かかった。
藤ねえは意識こそないものの、きちんと息をしていて、傷一つないままだ。
「――――――――」
安堵で吐息が漏れる。
「満足したかしら。約束だものね、その娘は助けてあげる。それに……そうね、貴方も見逃してあげましょう。先ほどの見せ物、頭にくるぐらい素敵だったから。
けれど――――」
「……そう。ま、そういう流れになるわよね、普通」
「ええ、戯れはここまでよお嬢さん。
さあセイバー、アーチャーのマスターを仕留めなさい。
邪魔をするようなら、貴方のマスターだった子も殺していいわ」
「ぐっ……ふざけるな、誰が貴様などに……!」
跪いたままキャスターを睨むセイバー。
「いいえ、従うのよセイバー。貴女はもう私のモノ。この令呪がある限り、身も心も私には逆らえない」
「あ――――、ぐ――――!」
セイバーの声はいっそう苦痛を帯びる。
……だが、その反面。
セイバーの意思とは別に、彼女の体はゆっくりと起きあがった。
「あ――――は、あ――――!」
セイバーの体が流れる。
彼女は、以前の速度のまま遠坂へと突進し、
そして――――
その剣を、突き入れた。
「あ……く――――っ…………!」
肩に鈍痛。
深々と肩に刺さる鉄の感触。
視えない筈のセイバーの剣は、俺の血でうっすらと浮かび上がっていた。
「馬鹿、なんで――――」
すぐ後ろから、遠坂の声がする。
……が、そんなコト言われても、どうしようもない。
体が勝手に動いただけだし、なにより―――遠坂にセイバーが斬りかかるなんてとこ、見たくはなかった。
見たくなかったから、二人の間に割って入っただけなんだから――――
「ぐっ――――!」
体が跳ねる。
セイバーの剣はまだ勢いを止めていない。
俺の肉を裂き、鎖骨を削る。
刃はいずれ首の血管を破り、あとはそのまま死ぬだけだ。
「は、あ――――!!!!!」
それは、まずい。
俺はまだ藤ねえを抱いたままだし。
後ろには遠坂が、いるんだから――――!
「……残念。勿体ないわね。その子には興味があったのだけれど」
遠くで。
キャスターが、何かを言っている。
「令呪に従いなさいセイバー。そのままもろとも切り落とせば二人減るわ」
冷酷な命令。
それに抗うような音をたてて。
セイバーの腕は、震えながら止まってくれた。
「――――! 馬鹿な、セイバーの対魔力は令呪の縛りにさえ抗うというの……!?」
驚愕するキャスター。
セイバーは俯いたまま、ただ必死に唇を噛みながら剣を引いていく。
「―――げ、て」
絞り出される囁き。
ぽたり、と。
俯いた頬から涙を流して
「―――逃げて、シロウ……!!!!」
血を吐くような懸命さで、セイバーは訴えた。
「士郎、来なさい……!」
「ぁ――――待て、遠坂――――」
遠坂に手を引かれて走り出す。
……肩の傷が熱くて、まともに頭が働かない。
それでも俺の腕には藤ねえがいて、今は逃げるしかないと受け入れている。
……いや。
受け入れるしか、なかった。
「セイ、バー」
……なんて、矛盾。
剣士としての誇りをかなぐり捨てて、彼女は逃げろと言った。
その懇願を受け入れる事が、今の彼女にとって最大の救いになる。
……けれど、反面。
あの涙を見捨てて逃げる事自体が、彼女を失うという事だったのだ――――
……息があがる。
どこをどう走ったのか、気が付けば、目の前には見覚えのある洋館が聳えていた。
「士郎、こっち……! 意識はある? まだ歩ける?」
……誰かに手を引かれて走る。
体は異様に軽かった。
中身をぶちまけて身軽になったのか、感覚がなくなったのか。
重さを感じるものは、片腕でしっかりと抱き留めている藤ねえの体だけだ。
よく見えない。
どこを歩いていて、なにをしているのか曖昧になっていく。
「藤村先生はそこに寝かせて。……ちょっと、聞いてるの士郎!? いいから、ここなら安全だから手を放しなさいっての……!」
誰かが、抱いていた誰かを奪っていった。
――――大切な重さが消える。
それと入れ替わりで重くなった。
あんなに軽かった体は鉄になって、立つ事もできず倒れ込む。
「っ……! アーチャー、急いで! 手当てをするからわたしの部屋に……!」
誰かの声が聞こえる。
体は重く、熱かった。
……赤化するイメージ。
刃を鍛える時、鋼に火を当てるとこれぐらい熱くなるんだろうか、と。
益体もなく時間をさまよっている間に、段々と熱は下がっていってくれた。
「――――――――――――」
知らない部屋。
ゆだった頭で天井を見る。
……それしか出来ない。
ベッドに寝かされているらしい。
「わたしじゃ治せない。この傷じゃこれ以上は戦えないでしょうけど―――もうマスターじゃないんだから、戦う理由もないか」
……さっきとは違う、落ち着きを取り戻した声。
ここまで連れてきてくれて、傷の手当てをしてくれた誰かは、
「―――ここまでね。士郎はもう戦わなくていいわ」
そんなコトバを、口にした。
「――――――――」
何か言おうとして、目の前が真っ暗になった。
目蓋が落ちる。
麻酔が体を眠らせていく。
遠ざかっていく誰かの気配と、閉められる扉の音。
「――――――――」
意識は、そこで途切れた。
日が落ちた。
見えもしなかった日が没し、もとより陰鬱とした空はさらに闇を増していた。
「―――そうか。セイバーが奪われたか」
アーチャーの感想はそれだけだった。
彼の主、遠坂凛も簡潔に事実だけを述べたが、彼の簡潔さはそれを上回っている。
「……それだけ? これでキャスターの下にいるサーヴァントは二人よ。何か他に感想はないの?」
「ああ、これといった打開策は思いつかないな。だがヤツの宝具が判明しただけでも良しとするべきだ。
―――サーヴァントとマスターの契約を断つ、か。事前にそれを知っておけば、上手く事を運べるだろう」
「それはそうだけど。
……随分無関心なのねアーチャー。貴方、セイバーに肩入れしてたんじゃないの?」
「―――そんな素振りを見せたつもりはないが。何を以ってそう思う、凛」
「そうね。女の勘、で納得できる?」
「却下だ。女という歳か、君は。まず色香が足りない。
優雅さも不足だ。
おまけに―――ああ、これが致命的なのだが、とにかく可愛さが判りづらい」
「――――ふん。なんだ。ようやく調子出てきたわね、アンタ」
彼女は嬉しげに微笑《わら》った。
アーチャーはこうでなくては嘘だ。
無感情に振る舞うアーチャーなど、凛の信頼するパートナーではない。
彼女の相棒は常に余裕めいていて、誰であろうと皮肉を口にしていなければならない。
それがこの騎士の優しさだと凛は気づいている。
皮肉を言うのは、そう、ようするにそこを直せと遠回しに忠告しているようなものなのだ。
「そう。じゃあ確証そのいち。
貴方、初めてセイバーと会った時、手を抜いてたでしょ。
いくらセイバーが強いっていっても、守り上手な貴方が一撃で倒されるとは思えないのよね」
「あれは不意打ちだったからな。君と同じ、予想外の展開には弱いんだ」
「余計なお世話よ。で、確証そのに。
ライダーの一件の後、セイバーを挑発してたでしょ?
あれってどう考えてもアンタらしくないのよね。
それで少し見方を変えてみたらわかっちゃった。貴方、あの時セイバーを叱ってたんでしょ」
「………………………………」
「あ、正解? やっぱりねー。そうじゃないかと思ったんだ。前世からの因縁にしろ何にせよ、アンタがあそこまで冷たい態度をとるなんて珍しいもの」
「そうかな。私は誰に対してもああいった対応をしていると思うのだが」
「そう思うは本人ばかりってね。思うんだけど、貴方って自分に関する事だけは不器用なのよ。周りに対してはすごく器用だから、つい騙されちゃうんだけど」
ふむ、とアーチャーは難しげに顔をしかめる。
どうやら自覚はあったらしい。
赤い騎士は困った顔で黙り込み、彼の主はそれを楽しげに眺める。
そうして、唐突に。
「で、そろそろ思い出した? 自分がどこの英雄か。セイバーと関係があるなら、セイバーに近い時代の英雄なんでしょ?」
何か、試すように彼女は言った。
「――――いや、靄《もや》がかかったままだ。
だが君の言う通り、あのセイバーには覚えがある。あちらは知らないようだから、あまり深い関係ではなかったようだが」
「ふーん。じゃあ友人とか恋人関係じゃなかったのね。
残念。そうだったらセイバーの正体も判ったのに」
それは惜しむ口調ではなかった。
とって付けただけの台詞、本心ではない言葉だ。
「まあ、いずれ思い出すさ。
それより凛。連れ込んできた者の様子はどうだ。命に別状はないのか?」
「……うん、なんとか命は取り留めたわ。あいつ、昨日まで怪我を負っても勝手に治ってたクセに、今回の傷は全然治らないのよ。契約が切れたから、セイバーから貰っていた治癒能力がなくなったんでしょうね。
けど、まあなんとかなったわ。幸い急所は外れてたし、三日ほど安静にしていれば食事ぐらいはできるようになる」
「いや、そっちじゃない。もう一人の方だ」
「え? あ、藤村先生? あの人なら寝室で寝かせてあるけど。キャスターの眠りの魔術を受けているみたいだけど、本人はすっごく元気よ。処置はしてきたから、一週間眠り続けても支障はないわ」
「――――そうか。だが、キャスターの魔術なら眠り姫になりかねないな。あの女のそれは魔術というより呪いだ。解呪するには本人を倒すのがてっとり早い」
「そうね。どのみち聖杯戦争も長くは続かない。一日でも早くキャスターは倒すし、藤村先生ならひょっこり自力で起きそうだし」
違いない、と同意するアーチャー。
そうして、お互いに会話がなくなった後。
「キャスター退治が最優先だな。マスターが一人減ったとは言え、セイバーは健在だ。……余裕はないぞ、凛」
「わかってる、すぐに街に出るわ。
いくらキャスターでも、セイバーを完全に支配するには時間がかかるはず。出来ればセイバーが操られる前にキャスターを倒さないと」
「了解だ。――――では、あの小僧との契約もここまでだな」
「え――――?」
「え、ではない。衛宮士郎はマスターではないのだろう。
ならば戦力にはならんし、わざわざ守ってやる必要もない。君が使った一つ目の令呪は、これで解約という事だ」
「――――――――」
「どうした。まさか、ともに戦ったよしみで面倒を見る、などと言うのではなかろうな」
「――――まさか。そこまでお人好しじゃないわ」
「なら」
「けど、まだ終わってない。あいつが自分から降りるって言うまで、約束は破らない。
……わたしはつっぱねるけど、あいつがまいったって言うまでは終わらせちゃいけないんだから」
迷いながらも彼女はそう断言する。
それに、いったいどんな反旗を翻せるというのか。
「それがわたしの方針よ。文句ある、アーチャー」
「――――仕方あるまい。君がそういう人間だという事は、痛いほど解っている」
答える声は皮肉げだった。
それにふん、と鼻を鳴らして彼女は命じる。
「行くわよアーチャー。どうしてか知らないけど、キャスターは柳洞寺に戻っていない。
なら――――捜し出して、戻る前に倒しましょう」
もはや返答するまでもない。
赤い騎士は無言で頷き、主の後に続いていく。
空には陰鬱とした雲塊がいまだ滞在している。
月のない夜。弓兵を引き連れ、彼女は標的を狙いに発った。
どん、と殴りつけられるような感覚。
「――――――――、あ」
肩の痛みで目が覚めた。
……体はきちんと在る。
手足の感覚も、自分の呼吸の音も聞き取れる。
肩には包帯が巻かれていて、眠っているベッドはふかふかだった。
「――――あ、れ、ここ」
……見知らぬ部屋だ。
たしか、そう――――誰かが、何か言っていた。
―――ここまでね。士郎はもう戦わなくて―――
「っ……!」
体を起こす。
一切合切を思い出して、ベッドから跳ね起き――――
「づ――――!」
痛みで、体がくの字に曲がっていた。
「あ――――つ…………!」
……左肩に触れる。
そこだけがまだ、火のように熱い。
肉離れが何倍にもなった感じだ。
いや、貫通しかけたぐらい剣で刺されたんだから、腕が付いているだけでも幸運なんだろうが、正直、きつい。
「ぐ……あ、あ、は――――」
ゆっくりとベッドから出る。
歯を食いしばれば、なんとか耐えられる痛みだ。
これならすぐに――――
「――――――――」
……肩の熱が頭まで上ってくる。
それを振り払って、足を動かした。
「――――誰も、いない、のか」
ああ、誰もいない筈だ。
遠坂の言葉を覚えている。
あいつはあんな事を言って去っていった。
なら、今頃は一人で戦いにいったはずだ。
「は――――はぁ、あ――――」
ドアに向かう。
とにかく外へ。
外に出て遠坂を見つけないと。
「く――――」
倒れる。
倒れそうになって、化粧台に手をかけた。
「つ――――」
……無駄だった。
よりかかった化粧台ごと床に倒れる。
「わりぃ……散らかしちまった、遠坂」
散らばった小物を拾い集めて元に戻す。
「…………あれ?」
その中に、見覚えのある物があった。
水晶で作られた、飾り気のないペンダントだ。
「……これ、どこかで――――」
どこかで見た。
……そうだ、あの時もこんなんだった。
ランサーに胸を刺された夜。
死に至る傷を受けて、いつのまにか治っていた。
気だるい体で廊下を去る時、たしか、拾い集めたものがあった筈だ。
熱い。
肩の毒が、脳に回って粗雑になる。
「……そうだ。これ、あの時のと同じだ」
わかっているのに、思考だけがまとまらない。
今まで夢だと思いこんでいたコト。
あの時ランサーと戦っていたのは誰のサーヴァントだったのかとか。
死にかけた俺を助けられるヤツ、そこにいる必然性があったのは誰だったのか。
……そんなこと、もう考えるまでもないっていうのに、頭のなかがグラグラしている。
「……くそ。なんだよ、それ。一つ貸しだとか借りだとか言っておいて。こんなの、絶対に返せない借りじゃないか――――」
クラクラする。
痛みと熱と、自分の馬鹿さ加減でぐちゃぐちゃだ。
「は――――ぁ――――」
足を動かす。
とにかく、いまは捜さないと。
言いたいコトがあるし、言わなくちゃいけないコトもできちまったし。
こんなシチューみたいなあたまじゃ、今は、それぐらいしか考えられない――――
「はあ――――はあ、はあ、あ――――」
気が付けば、駅前に足を運んでいた。
朦朧とした頭は、漠然としたイメージだけで動いている。
……そこにいる、と。
あいつを捜すのならそこに行け、と命じてくる。
「――――――――」
……どうしてここに引かれるのかは知らない。
茹《ゆ》だった頭はこのビルだけを思い浮かべていた。
「―――――――っ」
……なら、それに従うしかない。
もとより遠坂を捜す手段はない。
それが何であれ、今は何かにすがるだけだ。
――――屋上に出る。
高層に吹く風はなお冷たく、熱しきった頭を少しは冷ましてくれた。
「――――――アンタ、なんで」
息を呑む気配。
遠坂はいつかの夜と同じように、この屋上で街を見下ろしていた。
「帰りなさい。なんのつもりか知らないけど、目障りよ、貴方」
怒りを顕わにして俺を見る。
その背後には
おまえの出番はない、と無言で告げるヤツの姿があった。
「帰らない。戻る時は遠坂とだ。一緒に戦うって約束しただろ、俺たちは」
霞みかける意識を力ずくで纏《まと》めて、なんとか口を動かした。
「そんな約束忘れなさい。だいたい今の貴方に何ができるっていうのよ。セイバーを失った貴方に、マスターの相手は務まらない」
「――――――それは」
「それに、貴方が戦う必要なんてもうないわ。
マスターじゃなくなったんだから、教会に逃げ込めば安全よ。あとは大人しくしていれば、聖杯戦争は終わってくれる」
「――――――――」
その言葉に、気を失いかけた。
正直、頭にきた。
「馬鹿言うな、セイバーをあのままにしておけるか……!
いいか、一度戦うと言ったんだ。なら、どんな事になったって最後までたた――――」
「づ――――!」
視界が赤色に反転する。
声が、出せない。
ただ叫んだだけで、全身の筋肉がひきつって、死にそうに、なる。
「それ見なさい。今まではセイバーの助けがあったけど、なくなればそうなるのよ。
……いい、衛宮くん。人間は傷つけば死ぬの。貴方のその傷だって、本来なら致命傷なんだから」
「あ――――は、あ――――あ」
……くそ。
そんなコト分かってる。
分かっているのに、苦しすぎて、言うべき言葉が出てこない――――
「それにセイバーがどうのこうのって言うけど、それは貴方が気にかける問題じゃないわ。
衛宮くんはマスターじゃなくなったんだから、セイバーがどうなろうと関係ないでしょう」
「――――――――」
関係なんて、ある。
この痛みが、今までセイバーによって助けられていたっていうのなら尚更だ。
「……違う、マスターでなく、てもだ。
セイバーは、嫌がっていた。あんなヤツの言いなりになんて、させられ、るか…………!」
「――――そう。けど貴方は無力よ。
……いいわ、貴方が認めようとしないのなら、代わりに私が言ってあげる。
今の貴方じゃ、セイバーを助けるコトなんて出来ない」
「――――――――」
熱が消える。
冷徹なその言葉に、煮え立った頭の中でさえ、凍り付いた。
「話はここまでよ。
セイバーはいなくなって、マスターでもなくなった。
聖杯戦争なんていう殺し合いに巻き込まれる理由はなくなったんだから、ここで士郎は降りなさい」
背中を向けて歩み去る遠坂。
「――――待て遠坂、それでも――――」
「っ――――!」
吹き上がるビル風の中。
なんの躊躇いもなく、遠坂は地面を蹴っていた。
「ば――――! ばか、なに考え――――」
必死に腕を伸ばす。
「――――――――」
その必要はなかった。
遠坂の傍らには、あいつを守るように赤い騎士の姿が浮かび上がる。
この高さから飛び降りようと、サーヴァントさえいれば問題なく着地できるだろう。
「――――――――」
遠坂の唇、かすかに動く。
……何を言ったかは聞き取れなかった。
ただ、向けられた目が。
―――これ以上関わると死ぬわよ、と。
最後通牒のように、冷淡に告げていた。
「――――――――」
冷めていた熱が戻ってくる。
痛みと熱で思考が錯乱していく。
――――俺では、セイバーを助けらず。
衛宮士郎が戦う理由は、何処にもない。
「――――――――」
……傷が痛む。
遠坂を飲み込んだ夜景を見下ろしながら、その言葉を、頭の中で繰り返していた。
◇◇◇
――――静かな夜だった。
山林に吹く風は穏やかで、木々のざわめきは囁きほど幽《かす》か。
冬を謳う鳥もおらず、月に吠える獣もない。
柳洞寺に通じるただ一つの通路。
長い石造りの階段は、今宵も平穏を維持していた。
だが余人は知らず。
この場は既に五戦を耐え、その度に死闘が繰り広げられた事を。
柳洞寺に挑んだ数々のサーヴァント。
バーサーカー、ランサー、ライダー、セイバー、アーチャー。
その五者を悉く撃退した魔人があってこそ、山門は穏やかに闇を貪《むさぼ》れるのだ。
長刀が走る。
月のない夜で幸いした。
弧月の如き太刀筋は、月が見れば己が異形を恥じるほど流麗。
「聞いているのですかアサシン。貴方には門番を続けてもらう、と言ったのです」
紫の魔術師、キャスターの声もどこ吹く風か。
アサシンは長刀を下げ、関心なさげに山林を一瞥する。
「いや、邪魔者がいてな。おかしな梟《とり》をみかけたので切ってみたが、血も出なければ悲鳴もあげぬ。これはおまえの同胞か、キャスター」
「っ……! ……そう、監視役の使い魔ね。バーサーカーのマスターか、あのお嬢さんか。どちらにせよ、ここもそう長くは保たない」
キャスターは山林に歩み寄り、地面に散った“モノ”を見下ろす。
そこにあるのは梟《ふくろう》の死骸だ。
鉱石で出来た石の鳥。単純ながらも監視役として優れた作品《ソレ》は、アーチャーのマスターによるものだろう。
「……ふん。あのお嬢さんも運がないわね。もう少し無能なら、教え子にしてあげてもよかったのに」
踏み潰す。
紫水晶《アメジスト》の鉱石は跡形もなく粉砕され、星のような輝きを地面に散らせた。
「こんな輩も多いですし。マスターの守護は任せましたよ、アサシン。マスターが死んでしまっては私も消えざるを得ない。そうなれば貴方とて存在してはいられない。
消えたくなければ死ぬ気で門を守りなさい」
「さて―――死ぬ気で、というのは難しいな。この小次郎、生まれてこの方“生きている”という実感がない。
そのような者に決死を命じても無意味ではないかな、キャスター」
「――――減らず口を。
勘違いはしないことねアサシン。貴方は私が呼び出したサーヴァントよ。奴隷は奴隷らしく振る舞いなさい。
いいこと、主人に忠誠を誓えないのなら、ここで消してしまうだけよ」
キャスターの言葉には敵意と侮蔑しか存在しない。
彼女にとってアサシンは道具にすぎない。
道具が口をきく事でさえ癇に触るというのに、まして皮肉を言われては苛立つのも当然である。
「そうか、それはしたり。カゲロウの如き我が命だが、いま消されるのは困る。一つ、約束をしてしまったのでな。出来るのならば果したいのだ」
「―――なら言葉を慎みなさい。貴方はただここを守っていればいい。
ええ、それが果たせた暁には貴方を本物にしてあげるわ。宝具も持たない下級の貴方が英霊になれるのだから、命を賭ける価値はあるでしょう?」
「心配は無用だ。もとより幽世《かくりよ》の身、与えられた役割は演じきってみせよう。
だがいいのかなキャスター。私も主人に忠実ではないが、おまえとて不義理ではないか? 此度の件、マスターには内密であろう」
瞬間、アサシンの体が爆ぜた。
ドン、という音。
彼の体内――――召喚時に植え付けられたキャスターの腫瘍《のろい》が飛び散ったのだ。
木々が揺れる。
吹き飛ばされたアサシンは山林に叩き込まれ、自らの肋《あばら》で胸を串刺しにした。
その姿は、展開した花弁に似ている。
「ぐ―――これは、また。日に日に度が過ぎていくな、キャスター」
「――――黙りなさい。次に同じことを言わせるのなら、あと五日を待たずに消し去るだけよ」
「……まったく。女と小人《しょうじん》は手におえんと言うが、おまえは些《いささ》かいきすぎだ」
ゆらり、と立ち上がる伊達姿。
胸から肋を見せようが、その全身が血にまみれようが、このサーヴァントの優美さは損なわれない。
「おお、そのような目で睨むな。美しい顔が台無しだぞキャスター。わかっている、おまえのマスターには全て内密に行うのだろう。セイバーを捕らえた事も、私という門番がいる事も隠し通す。
よい美談ではないか。主人を思うその心意気、あの男に通じるといいのだが」
「―――――――アサシン、貴方」
「なに、ただの負け惜しみだ。どうあろうとおまえには手をあげられぬのだから、この程度の戯言は許せよ。
―――門は守る。何があろうと守り通そう。
だが、そういうおまえは何処に行く? 私の守りは信用できぬか?」
「――――当然でしょう。貴方はただの保険よ。
けど、それも終わり。セイバーさえ手に入れれば、こんな鄙《ひな》びた場所を神殿にする事もないわ」
「……ふむ、陣地変えか。となると、確かに私は用済みだが。このお山に勝る霊地があるとでも?」
「ええ。多少は劣るようだけど、私に相応しい場所があるわ。それに―――遠からずそこには足を運ぶのですもの。いますぐに行っても問題はないでしょう?」
「――――」
終始涼しげだったアサシンの表情が曇る。
それに満足したのか、キャスターは艶やかな唇を歪ませた。
「そう。私たちの勝利は揺るがないのだから、先に賞品[#「賞品」に丸傍点]を受け取りに行くの。
新しい陣地と聖杯。それにセイバーという駒まで揃えた。これなら乗り気でない私のマスターも、私の方針に異論は挟めないでしょう?」
それは事実だ。
キャスターのマスター、葛木宗一郎がいかに沈黙を守ろうと、そこまで条件が揃ってしまえば戦わざるを得ない。
だが、それ以上に確かな事は。
「―――つまらない戦いはおしまい。聖杯さえ手に入れれば恐れる物は何もない。
……そう、誰であろうと、私を阻む事はできなくなるのですからね―――!」
哄笑が夜を汚す。
紫の魔術師は高らかに勝利を謳う。
それを横目にして、長刀の剣士は空を仰いだ。
――――刻限は近い。
どのような結末になろうと、許された時間は残り五日。
日数を使い切る事はないだろうが、そう簡単に決着がつく争いではない事を、修羅を生き抜いてきた剣士は感じ取っていた。
◇◇◇
「は――――、はあ――――、は――――」
そうして倒れた。
呼吸もままならない。
肩の傷は赤く腫れ上がり、息をするだけで激しく痛んだ。
「――――――――」
意識を保てない。
気を抜けば今すぐにでも眠りに落ちる。
……いや、そもそも覚醒しているかさえアヤフヤだ。
あの屋上からここまで、どう帰ってきたのか、何の為に帰ってきたのかさえ、定かではないんだから。
……意識が曖昧になっていく。
確かなものは連呼する鼓動だけ。
「――――――――」
……関わるな、と遠坂は言った。
俺は無力で、もう戦う理由はないのだからと。
「――――――――」
けど、それは違う。
自分が無力なのは、誰より自分自身が判っていた。
戦う理由は、もっと別の物だった。
……それを、ただの傷痕にする訳にはいかない。
誰かに負けるのは仕方がない事だ。
打ちのめされるのは慣れっこだし、どうあっても届かない事ぐらい、悔しいが理解してる。
けど、それは相手が他人の場合だけの筈。
自分には負けられない。
戦力が同じなら負ける要素はありえない。
そんな相手に膝を屈する事は、自身が間違っていると宣言する事になる。
「っ――――――――!」
傷が歪む。
包帯に血が滲む。
「ぁ――――、っ――――!」
それを右手で押さえつけて、消えていく意識で闇を睨んだ。
十年前の記憶。
親父だった男の言葉。
……自分が初めから間違いであったとしても、この道に間違いはない。
あの出来事をただの悲しい過去にしない為に、正義の味方になろうと思った。
誰もが幸福な時間。
誰も涙しないという理想を、十年前から抱いてきた。
「―――――――なら」
どんなに頭が働かなくても構わない。
やるべき事は最初から決まっていた。
マスターになったから戦ったんじゃない。
自分に出来る事だから、やらなくてはいけない事だと信じたから、戦うと決めたのだ。
そんな当たり前のこと、俺はようやく思い出せた。
「――――遠坂。おまえが、どんなに言っても」
正しいと信じたなら、最後までこの道を信じ抜く。
このまま止《や》める事なんてしないし、あいつを一人で戦わせるなんて真似もしない。
……その為に今は眠る。
足手まといなんて言わせない。
こんな傷、一晩で治してみせる。
そうして、目が覚めて朝になったら――――
……目が覚めて、朝になったら。
必ずあいつに追い付いて、今度こそ、あの夜の借りを返さないと――――
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2月11日     12 moonlight(U)
夜明けと共に、石室は輪郭を顕わにした。
天井から差し込む光が地下の闇を薄めていく。
入り口という入り口、窓という窓には封が施されているが、そんなもので陽の侵入は防げまい。
本来闇に閉ざされるべきこの場所でも、夜明けとなれば陽の恩恵が下されるのだから。
「っ――――は――――ぁ」
入り口であれ窓であれ、もとより何かを出入りさせる為のものだ。
蓋をしたところで隙間が埋まる筈もなし、何より、それでは通路としての用をなさない。
日の光から完全に逃れたいというのなら、初めから入り口などあってはならない。
闇を好むのならば地中に、後戻りできぬ地の底に潜るべきだ。
「ん――――っ、ぁ――――」
その点で言えば、この地下聖堂も完璧とは言えない。
日の光は無遠慮に秘密を露わにする。
隠された聖堂は容易《たやす》く発見され、やはり同じ程度の容易さで、その主を失った。
床には血の跡がある。
この聖堂の本来の持ち主は、侵入者によって倒された。
聖杯戦争の監督役である言峰綺礼は、キャスターの手にかかって退場したのだ。
「く……ぁ、は…………っ――――」
その戦いも、既に数時間前の話である。
地下は静寂を取り戻した。
教会の新たな主となった彼女は、その闇の中で佇んでいる。
だが、勝利者である彼女は自らを蔑《さげす》んでいた。
口元を苛立たせたまま、キャスターは闇を睨む。
まず、この聖堂が気に入らない。
隠された聖域も、この聖域が隠す更なる聖域も趣味に合わない。
侵入《さしこ》む明かりも不快であるし、先ほど始末した神父も気に入らなかった。
そして何より、最も重要な目的が未だ果たせていないとはどういう事か。
彼女は事の不出来さに呆れ、いっそ|この《きょう》場《かい》を灰燼《かいじん》に帰そうとさえ憤《いきどお》った。
「ふ―――――っ、は…………ぁ」
幸い、その凶行は取り止められた。
冷静さを取り戻したからではないし、教会に対する敬意の念などからでもない。
彼女が感情を抑えたのは、偏にこの音があるからだ。
定期的に漏れる、囁くむような雑音。
苦しげに漏れる女の声は、彼女にとって天上の楽曲に等しい。
それが今しばらく、この享楽《きょうらく》を続けさせているだけだった。
「んっ―――! ぁ、はあ、あ、っ………!」
苦悶に呻く声は、紛れもなく少女のものだ。
艶を含んだ吐息は熱く、口元から漏れる声はあまりにも弱々しい。
苦悶は聞く者に保護欲か、相反する嗜虐心を抱かせる。
無論、彼女は後者だ。
ぽたり、と少女の額から零れる汗。
恥辱に耐える可憐な唇を眺めるだけで、この冷たい部屋の温度が上がる気がする。
「―――大したものねセイバー。令呪の縛りを一晩中拒み続けるなんて、私たちでは考えられないわ」
愉しげに語りかける。
[#挿絵(img/240.JPG)入る]
「っ――――ん、ぁ――――」
聖堂の奥。
磔にされた少女は、ただ吐息を漏らすだけだ。
令呪に逆らい続ける限り、彼女《セイバー》に自由意思など存在しない。
加えて視覚化されるほどの魔術《いましめ》がセイバーの全身を苛《さいな》んでいる。
内からは令呪に圧迫され、外からはキャスターの魔術によって責められている。
その責め苦は、彼女にとって身体を傷つけられるより耐えがたい物だった。
「っ――――あ、ああ、んっ…………!」
セイバーの理性はとうに溶かされている。
それでも、最後に残った誇りが彼女を保たせていた。
令呪の縛めもキャスターの魔術も、その根底だけは奪えない。
故に責め苦は永遠に続く。
その過程――――必死に踏みとどまる少女を、キャスターは愉しげに眺めていた。
白い《ド》装束《レス》で着飾らせたのは彼女の趣向だ。
無骨な鎧ではそそらないし、なにより少女には似合わない。
汚れを知らない処女ならば、堕ちる時こそ純白のドレスで飾るべきだろう。
「……ふふ、健気なこと。
いくら貴女の意思が拒み続けても、サーヴァントとして作られたその体は別よ。
令呪が少しずつ浸食しているのが判るでしょう? 貴女はあと一日も経たずに私のモノになる。なら、もう降参して素直になった方が楽じゃなくて?」
「っ――――く、んっ…………!」
苦しげに抗う声。
理性を溶かされたとはいえ、セイバーはキャスターに屈しない。
キャスターの言う通り、肉体が令呪に支配される最後の時まで、この責め苦に耐えるだろう。
「強情ねセイバー。……ええ、けど許してあげる。
私、貴女みたいな娘は好きよ。金の髪も小さな体も、少年のような凛々しさも可愛いわ。それに、裏切るぐらいなら死を選ぶ一途さも愛らしい。
―――本当、踏み潰してあげたいぐらい」
憎しみと愉悦が混じった目で少女を見つめる。
キャスターがその気になれば、セイバーの陥落など一瞬だ。
セイバーは一つの令呪を抑えるだけで自由を奪われている。
ならば、続けて二つ目の令呪で追い詰めれば結果は明白だ。
このような責め苦を負わせるまでもなくセイバーはキャスターの物になるだろう。
「くっ……っ、は、ぁ――――!」
だがそのような無粋な真似はしない。
愛しい玩具だからこそ、調教には時間をかけるべきだ。
キャスターにとって、セイバーは容姿も能力も一級品の道具である。
他に類を見ない宝石ならば、丹念に愉しむのは当然だろう。
「……そうね。令呪で体を支配するなんて退屈ですもの。
彼女には自分から私のサーヴァントになってもらいましょう。……ええ。体ではなく、先に心を壊してあげる」
白い装束に包まれた少女を、キャスターは艶めく視線で睨め付ける。
あの白い肢体を蹂躙し、ただ快楽だけを求める奴隷にするかと思うと、聖杯の事さえ忘れそうだ。
―――あの少女を卑しい性奴にする。
もちろん処女を奪う、などという無粋な真似はしない。
せっかくの生娘なのだ。
ならば一生生娘のまま、快楽に溺れる体にしてやるべきだろう。
満たされぬ体を抱えたまま、誰よりも貪欲に性にすがる少女の姿。
それを夢想して口元を歪めた時。
「そこで何をしている、キャスター」
不意に。背後から、感情のない声がかけられた。
「――――!?」
咄嗟に振り返る。
聖堂の上。
地上に通じる階段を、何者かがゆっくりと下りてくる。
薄闇に浮かび上がるのは、幽鬼のような痩躯《そうく》だ。
足音もなく気配もない。
床に続く血痕、磔《はりつけ》にされた少女を前にして、男は無表情のまま聖堂に降り立った。
「――――宗一郎、様」
キャスターの気配が一変する。
苛立ちと愉悦という相反する感情に酔っていた姿が、引き締められたサーヴァントの貌《それ》になる。
「何故ここに……? 貴方には柳洞寺にいるよう、お願いした筈ですが」
「質問は私が先だキャスター。ここで何をしている、と訊いたのだが」
男―――葛木宗一郎の声に変化はない。
抑揚のない声は、その実どのような恫喝よりも心を圧迫する。
感情のない声は鏡と同じだ。
罪の意識。
後ろめたいものがある者ほど、この声に畏《おそ》れを抱く。
葛木という人物にではなく、自分自身に問いつめられるのだ。
「っ――――」
胸を押えながら、キャスターは一部始終を報告する。
偽証など通じる相手ではない。
否、この相手にだけは、偽りを口にする訳にはいかなかった。
「昨日《さくじつ》、マスターの一人である衛宮士郎からサーヴァントを奪いました。……衛宮士郎は逃がしましたが、既にマスターではありません。賢明な人間ならば、私たちに刃向かう事はないでしょう」
「そうか。だが、そんな指示を下してはいない」
「私の独断です、マスター。
その後、聖杯の“器”を手に入れる為に教会を襲いました。聖杯の管理役である神父は仕留めましたが、聖杯の行方は不明です」
「そちらも独断か。帰還しなかったのは聖杯が見つからなかったからだな。……ふむ。たしかに折角手に入れた場所だ。肝心の物を手に入れないまま留守にしては意味がない」
葛木の言葉は、何を責めている訳でもない。
が、キャスターは己を恥じるしかなかった。
聖杯の行方を知る神父を殺したものの、未だ聖杯を手に入れていない。
加えて、隠し通さねばならない独断さえ明らかにしてしまった。これを失態と言わずなんと言おう。
「状況は判った。理由を説明できるか、キャスター」
「……申し訳ありません。ですが、これも全てマスターの為。私の目的は貴方を勝利させる事だけです。理由など、それ以外にはありません」
「――――――――」
長い沈黙。
強く断言したキャスターを前にして、そうか、とだけ葛木宗一郎は呟いた。
「では、ここから離れる訳にはいかんな。留守中、他のマスターに聖杯を見つけられては、おまえの苦労も無駄になる」
「では、マスター」
「納得のいくまで調べるがいい。それまでは私もここに残ろう。おまえ一人では戦いに向かん。セイバーが手駒になるまで護衛は必要だろう」
「え―――い、いえ、それには及びません。マスターに力を借りずとも手駒はありますし、聖杯の探索とてどれほどかかるか。
それに、ここは危険です。柳洞寺に戻られた方が、貴方の身は安全です」
「正論だ。だが、それでは私の目的が果たせなくなる」
「?」
その言葉は、キャスターにとって意外な一言だった。
目的などない、と。
望みを叶えるという聖杯にさえ興味がない、というこの男に、いったいどんな目的があるというのか。
「宗一郎様、それは」
「急げよ。無ければないでいい。成果は問わん。結果だけを出すがいい」
簡潔に告げて、葛木は階段へ戻っていく。
「――――――――」
その姿を、キャスターは呆然と見上げた。
薄闇は変わらず静寂。
地上を目指していく足音は、やはり聞こえなかった。
◇◇◇
「―――――――」
閉じていた目蓋が開く。
開かれたのは眼だけでなく、眠っていた意識まで鮮明に覚醒した。
「傷は――――問題ないな」
左肩の傷を確認する。
痛みこそあるものの、昨夜ほどの激痛はない。
体の熱も下がっている。
これなら動き回る事になんの支障もないだろう。
朝食を摂って空腹を満たす。
何をするにしてもまずは飯だ。栄養を摂らない事には体も満足に働いてくれない。
「――――と」
左肩の包帯を巻き直す。
むき出しの肌、傷痕は青黒く変色していた。
傷口は塞がっておらず、赤黒い肉が覗いている。
「―――当然だ。今、セイバーはいないんだから」
気休め程度に消毒し、ガーゼをかけ、包帯で縛る。
包帯で縛って傷口を絞らせる、という原始的な応急処置だが、こうでもしないと左腕を動かすだけで傷口が広がってしまう。
「よし、これで終わり。あとは武器が要るな」
空は曇っていた。
今日は一段と冷えるのか、庭にはまだ霜が残っている。
「――――――――」
だが、自分には無関係だった。
寒さを感じない。
体は熱く、氷水を頭から被りたいぐらいだ。
それでも昨夜に比べれば健康状態と言えるだろう。
武器になりそうな物は、やはり木刀だけだった。
何本かある中で一番魔力の通りがよさそうな物を選び、竹刀袋に包む。
そうして、ぴしゃりと頬を叩いた。
気合いを入れ直したつもりなのか、それとも戻ってはこれないと覚悟したつもりなのか。
自分でも、どうしてそんなコトをしたのかは分からない。
右肩に竹刀袋を背負って外に向かう。
長年過ごした場所。
自分の部屋とも言える土蔵には振り返らなかった。
――――さて。
戦うといっても問題は山積みだ。
何を第一にするか、何をするべきかをはっきりと定めなければ、何も出来ずに終わるだろう。
とるべき道は二つ。
俺は――――
――――遠坂と合流する。
あいつはここで降りろと言った。
それを拒んで戦うのなら、あいつに思い知らせないと。
俺は自分からは降りないし、まだ協力関係は続いている。
それに――――
ここで、あいつ一人に戦わせるなんてできるものか。
あいつには大きな借りがある。
それを返すまで降板なんて出来ない。
「……しかもあいつ、ここ一番で失敗するし……危なっかしくて、一人になんて、させておけない」
竹刀袋を背負い直す。
……自分が大した戦力にならない事も、あいつが反対する事も分かっている。
それでも遠坂の顔を見ないと安心できない。
……だって、例えばの話。
もし俺の知らないところで怪我なんかされたら、今のままじゃ、手を貸す事も出来ないんだから―――
「―――――ふう」
ベンチに腰を下ろして、火照った体を休ませる。
時刻は正午を過ぎた。
その間、新都中を探し回って得た物は何もない。
「……くそ。簡単にはいかないと思ったけど、ここまで無反応なんて」
遠坂を捜す手段がない、なんてのは始めから解っていた。
有るか無いかの偶然に期待して街を捜したところで、あいつの姿はおろか痕跡《こんせき》さえ発見できない。
「……他のマスターも出てこない。……令呪がない以上、ちょっかい出す必要もないって事か」
はあ、と大きく深呼吸をして、背もたれに体を預ける。
「――――――――」
このままでは埒があかない。
遠坂は俺に尻尾を見せるほど甘くないし、自分を囮にして他のマスターを呼び寄せる、という最後の手段も空《から》ぶっている。
……僅かな不安が生じる。
遠坂は見つけられず、セイバーも助けられない。
そうして二人を見つけだせた時には、もう取り返しのつかない状況になっているのではないかと――――
「――――まだ昼だ。そう簡単にいくもんか」
ベンチから立ち上がる。
熱を持ち出した左肩を無視して、公園を後にする。
もう一度、始めから捜し直そう。
新都にあいつがいる事に間違いはない。
昨夜と同じだ。
どんな理屈だかは知らないが、あいつ―――いや、ヤツがこの辺りに居る事だけは直感できる。
それは予感などといった不確かな物ではなく、確信に近いイメージだった。
◇◇◇
――――その夢の正体に、いつ気が付いたのだろう。
見渡すかぎりの荒野。
大地に突き刺さった無数の剣には、しかし、誰一人として担い手がいなかった。
空は荒れ果て、遠く地平の彼方には森も町も海もない。
無限に続く剣の丘。
使う者、持ち主のいない鋼の墓標。
それが。
その英雄の心象風景なのだと、そんな事、いちばん初めに気が付いていた。
様々な経緯を経て、英霊となったモノはその座に陥っていく。
人々に親しまれたまま他界した者もいれば、高潔な王と讃えられて他界した者もいる。
戦いを望んだまま戦いに散った者もいれば、満ち足りた余生を終えて消えた者もいる。
……けれど、本人の意思とは別に祭り上げられたモノも、少なくはないようだった。
正しい在り方で英霊になったモノを正英雄と言うのなら、それらは異なる英雄。
逆しまの運命によって座におちた、黒い念の反英雄《アヴェンジャー》と言うべきだろう。
英雄とは逆位置にありながら、結果として英雄として奉《まつ》られたモノたち。
人間を恨みながら、人間に恨まれながらも英雄として扱われたモノさえ、人間《わたしたち》は守護者として使役する。
……けど、あいつはどっちつかずだ。
正英雄でもないし、数少ない反英雄でもない。
報われなかった人生で、裏切られて終わった命だったクセに、最後まで人間を恨まなかった。
――――けど、それも摩耗《まもう》した。
そう、きっと摩耗したんだ。
わたしは勘違いしていた。
英霊、サーヴァントと呼ばれる使い魔。
……その中でも『守護者』に位置づけられる霊長の抑止力。
彼らはあらゆる時代に召喚され、人の世の破滅を防ぐ。
けど、彼らが呼び出される条件は“人間の手による破滅”だけ。
自然、外的要因による破滅は、霊長《にんげん》の抑止力《がんぼう》ではなく、世界の抑止力が解決する。
……だから、守護者となった英霊が見るのは自滅だけ。
人間《みずから》の欲望によって生み出された破滅を消去するだけの存在。
人間を救う為に世界と取り引きをして、英雄になった。
その死後、代償として守護者になったそいつは延々と“人間の自滅”を見せつけられる。
人々を救う“英霊”として呼び出されたのに、人間がしでかした不始末の処理を押し付けられ続ける。
……それを虚しいと思い、人の世を侮蔑せずにいられなくなるには、そう回数はいらない。
そいつは、結局。
死んだ後さえ、守った筈の理想《モノ》に裏切られ続けたんだ――――
「凛。どうした、立ち眩みか」
「え――――?」
不意に声をかけられ、遠坂凛は目を覚ました。
……ゆっくりと周囲を見渡す。
ここは外人墓地。
夜の七時を過ぎたばかりだというのに人気《ひとけ》はない。
もっとも、教会の立つ丘は何時だって人気はないのだが。
「……ごめん、寝てた。少し疲れてるみたい」
「無理もない、昨夜から不眠だったからな。体調が優れないのならば見合わすか? 何も今すぐ仕掛ける事はない」
「……いいえ、時間はかけられない。キャスターの居場所が判ったんなら、ここで決着をつけるべきよ」
そう断言して、凛は自分の体が温かい事に気が付いた。
彼女の使い魔、アーチャーがその外套で冷気から守っていてくれたのだろう。
「……ふん。なんだ、寝てるって気が付いてたんじゃない、貴方。なのに起こさないなんて人が悪いわね」
「なに、立ったまま眠る人間にはそうお目にかかれないのでね。物珍しさでつい観察してしまった」
「―――ますます質が悪い。女の子の寝顔を見るなんて何様よ、アンタ」
「安心したまえ、誓ってそのような無礼はしていない。
だが、別の物は聞いたな。目は閉じようと思えば閉じられるが、耳はそうはいかないのでな」
「…………そう。わたし何か言ってた、アーチャー?」
「ああ。気にくわないだの頭にくるだの、実に物騒な囁きを数件」
「――――――なんだ、良かった」
ほう、と凛は胸を撫で下ろす。
いま見ていた夢は、口にしてはいけない事だ。
それをアーチャーに知られる事だけは避けなくてはならない。
彼女はこの関係が気に入っている。
……その為には、自分がアーチャーの過去を知っている、という事実は隠すべきだった。
「行きましょアーチャー。教会なら少しは詳しいわ。あそこならどこに隠れているか見当ぐらいつく」
アーチャーの外套を払って立ち上がる。
無言で背後を守るアーチャー。
そこへ、
「ねえアーチャー。自分のやってきた事を、後悔した事ってある?」
振り返らず、彼女は言葉を投げかけた。
「――――――――」
「わたしは、出来れば最後までしたくない。本当に打ちのめされた時にも、歯を食いしばって意地を張り続けたい。
けど、それって難しいんでしょうね。きっと、わたしが考えている以上に」
「個人差があるな、その手の精神論は。
出来る者もいれば出来ない者もいる。とりわけ君は前者だ。その手の人間はまず過ちなど起こさないし、自らの過ちなど考える事もない」
「……む、なによ。それじゃわたしが傍若無人な暴君みたいじゃない」
「いい自己認識だ、凛。
鮮やかな人間というモノは、人より眩しいモノを言う。そういった手合いにはな、歯を食いしばる時などないのだ。
……で。私見だが、君は間違いなくその手合いだ。遠坂凛は、最後まであっさりと自分の道を信じられる」
歌うように、赤い外套の騎士は言った。
その答えに凛は頬を赤くしながら、やはり振り返らず、核心を口にする。
「……じゃあ貴方は? 最後まで自分が正しいって信じられる?」
「む? いや、申し訳ないが、その質問は無意味だな」
「……どうしてよ。答えられないコトじゃないでしょ、こんなの」
僅かに緊張のこもった声。
それに、
「最後まで、という質問が無意味だ。
忘れたかのかマスター。
―――私の最期は、とうの昔に終わっている」
乾いた声で、赤い騎士は返答した。
◇◇◇
「――――――はあ」
溜息をついて標識に寄りかかる。
日が沈むまで捜し回って、判った事は自分がいかに役立たずかというコトだけだ。
「っ――――」
左肩の傷が疼いている。
包帯が緩んできたのか、傷そのものが開いたのか。
……ともかく、これ以上無駄に時間は費やせない。
確かな手がかりを得られなければ昨夜の二の舞だ。
「……あいつ、何処に行ってるんだ、ほんと」
……昨夜、あいつと別れた時を思い出す。
セイバーを失った俺じゃ戦いは務まらないとか、いざとなったら教会に逃げ込めとか、言いたい放題だったあれからもう一日――――
「――――て。そうだ、教会」
手がかりならある。
朝、街に出る時に一度は思った筈だ。
聖杯戦争の監督役。
丘の上の教会にいる神父なら、遠坂の居場所を知っているのではないか――――
「……あいつの手を借りるのは癪に障るけど、えり好みしてる場合じゃない――――」
……いや、好き嫌いの前にあの神父とは会うべきではない。
神父だと言うが、言峰綺礼という男は根本的に近寄ってはならない不穏さがある。
出来れば相談などしたくはないが、もう頼れるのはあいつだけだ。
「……一度だけだ。それなら問題ないだろう」
自分に言い聞かせて、疼きだした体を動かす。
時刻は、夜の七時になろうとしていた。
駅前から歩くこと二十分。
街の喧噪から離れた郊外に教会は建っている。
「――――――――」
この坂道を上っていくのは九日ぶりだ。
もっとも、それまで一度も寄りつかなかった事を考えれば頻繁に足を運んでいる事になる。
……正直に言えば、あの教会も苦手だった。
ともすれば、言峰神父よりあの建物自体が近寄ってはいけない禁域なのかもしれない。
十年前の火事。
孤児になった子供たちを預かっていた教会は、十年前を否応無しに思い出させるからだ。
坂道を上りきり、一面の広場に出る。
「――――――――!」
途端、頭痛がした。
左肩の傷によるものじゃない。
傷は熱こそ出していたが、こんな、刺すような頭痛を生み出しはしない。
「くっ…………」
こめかみが痛む。
自己が不確かになって、脱皮する昆虫のように、体が二重に分かれそうな悪寒がある。
「――――おかしいぞ、これ」
頭痛を堪えて走り出す。
原因は、昨日からしている直感だ。
新都《このまち》に遠坂がいる、という正体不明の感覚。
それが極限まで大きくなって、こんな頭痛を生んでいる。
なら―――あの中で何かが起きているのは、もう間違いない筈だ――――
床に血痕がある。
血の跡は点々と続き、教会の奥にある扉に消えていた。
「……いや、違う。奥に続いてるっていうより、奥から外に出たって感じだ」
……気になるが、今はそんな場合じゃない。
血痕があるという事は誰かが怪我をしたという事。
しかもこの量――――間違いなく命に関わる。
「――――――――」
頭には鋭利な痛み。体には鈍い重さが沈殿していく。
それを無視して木刀を取り出し、足音を立てないよう歩き出した。
「遠坂――――いるのか」
答える声はない。
張り詰めた空気。
大声を出せば、それだけで教会中の窓ガラスが割れる気がした。
「――――――――」
血の跡を辿る。
血痕は建物の隙間。
知らなければ通り過ぎてしまうだろう、暗い階段から続いていた。
「……地下へ続く階段……ここ、地下室があったんだ」
教会と言うからには霊廟《れいびょう》だろうか。
「っ――――――――」
……悠長に思案しているほど、こっちにも余裕はない。
細心の注意をはらって、暗い闇へと足を進ませる。
暗い闇を降りていく。
……階段の先にはかすかな明かり。
息を潜め、眼下の明かりだけを頼りに進んでいく。
ほどなくして狭い通路は終わり、開けた空間に出た。
そこは、広い石室だった。
階段は壁づたいに聖堂まで伸びている。
この階段を下った先には聖堂と思われる広場があり、
そこに―――捜し求めた遠坂凛の姿があった。
遠坂はアーチャーに守られながら、目の前の“敵”と対峙している。
あいつの目の前―――祭壇の前には、二つの人影があった。
言うまでもない。
紫のローブの魔術師キャスターと、そのマスターである葛木だ。
二人の背後にある祭壇には
俯き、苦しげに吐息を漏らすセイバーの姿がある――
「――――――――」
鼓動が跳ね上がる。
脈拍は明らかにレートを飛び越えている。
「――――――――」
状況は明らかだ。
五メートルほど下の聖堂には、対峙する二組のマスターとサーヴァント。
連中は頭上に潜んでいる俺には気づいていない。それだけの余裕はない。
遠坂もキャスターも、隙あらば仕掛けようと先《せん》を計っている状態だ。
その状態で頭上を見上げるなど、許される事ではない。
「――――――――」
心臓の回転数があがる。
頭痛は絶え間なく、肩には焼き鏝《ごて》をあてられたような傷痛《しょうつう》。
この傷では、いつまでも気配を隠していられない。
キャスターか葛木か。どちらかが少しでも視線を上げれば、隠れている俺に気が付くだろう。
俺は――――
「――――――――っ」
呼吸を殺す。
壁に体を寄せ、体を隠しながら様子を窺う。
……まだ、早い。
どんな状態なのか把握してもいないのに仕掛けるのは無謀すぎる。
なにより持ち札はあまりに少ない。
武器は強化した木刀だけ。それだけの武器で、策もなくキャスターと対峙するのは無謀すぎる。
―――いや、違う。
武器なら、他にもう一つあった筈だ。
「…………馬鹿な。それこそ、何を考えている」
投影なんて使えない。
一度やっただけで体の半分が麻痺したんだ。
アーチャーも言っていただろう、次に使えば麻痺だけでは済まないと。
自らの力量を越えた魔術は、まず術者を駆逐する。
今の体で身に余る投影魔術なんて使えば、その場で死んでもおかしくない。
「――――機会は必ず来る。今は」
駆け出したくなる体を抑えて、その機会に備えるだけだ。
「―――そう。なら綺礼は殺したわけ?」
張り詰めた声には殺気しかない。
遠坂は今までにない冷たさで、目前の敵を睨んでいた。
「ええ、始末したわ。素直に聖杯を差し出す人間でもなさそうでしたからね。後々になって邪魔をされても困るもの」
対して、キャスターには余裕がある。
紫の魔女は高らかに神父殺しを宣言した。
「――――――――」
ぎり、という音が聖堂に響く。
……俺にとっては聖者というよりは悪魔めいた男だったが、遠坂にとって、あの神父は兄弟子だった。
それを殺されたのだ。
どんなに魔術師として覚悟していて、あの神父もこちら側の人間だったとしても、簡単に受け流せる事じゃない。
「……そう。それは結構。綺礼もそれぐらいは覚悟していたでしょう。けどキャスター。一つ訊くけど、あいつの死体は確認した?」
怒りを押しとどめたのか、それとも俺の勝手な思い違いで、初めから怒りなどなかったのか。
遠坂は他人事のように問いただし、キャスターは一転して言葉を濁す。
「……何を言いだすかと思えば。そのような事、貴女には関係ないでしょう」
「ええ、まったくないわ。けど他人事でもない。あいつが本当に死んだんなら安心できるから、確認しただけよ」
「――――それはどういう意味かしら、お嬢さん」
「言葉通りの意味よキャスター。
あいつがそう簡単に死ぬタマかっての。もしはっきりと死体を確認していないんじゃ、まず間違いなく生きてるって思っただけ」
「ち。使えないわね、貴女も。どうせ綺礼を襲うならしっかりきっかり息の根を止めておけっていうのよ。
まあいいわ。やる事も出来たし、早めに済ませましょうキャスター。今回は人質もいないし、気持ちよく戦えるわ」
―――開始の合図。
遠坂かキャスター。
どちらかが一歩前に出れば、聖堂は即座に魔術の炎に包まれる―――
「大きくでたわね。貴女、この状況で私たちに勝てるつもりなのかしら」
「やりようによってはね。幸いセイバーの制御もまだのようだし、条件は同じでしょう。
それに葛木先生の事も判ってる。セイバーは面食らってたけど、事前に知っていれば私のアーチャーの敵じゃないわ」
キャスターを見据えながら、遠坂はアーチャーに手をかざす。
「聞いての通りよアーチャー。
キャスターの相手はわたしがする。下手に近づくとアンタまで契約破りをくらいかねないから」
「……ふむ。私の相手はあの男か。
それは構わないが―――魔術師ではキャスターには敵わないと解っているのか、凛」
「……安心して、勝ち目もない事は言いださないわ。
キャスターは必ずここで倒す。そうすればセイバーだって元に戻って、士郎と契約をし直せるでしょ」
―――遠坂の腰がわずかに落ちる。
獲物に襲いかかる猫科の猛獣を思わせる緊迫感。
それを、止めるように、
「理想論だな。彼女をここで倒す、というのは難しい。
逃げるだけならば彼女は当代一だ。なにしろ逃亡の為に、実の弟すら八つ裂きにする女だからな」
無造作に、アーチャーが遠坂とキャスターの間に立った。
「アーチャー……? ちょっと、なんのつもりよ」
「――――――――」
遠坂の声にも答えない。
赤い騎士はいつかのように、無言でキャスターと対峙する。
そんな光景を。
いつか、見た覚えが、あった。
「……実の弟すら八つ裂きにした、ですって……?
知ったような口をきくのねアーチャー。アナタには私の正体が判っていて?」
「竜の歯を依り代とした人型はコルキス王の魔術と聞く。
その娘、王女メディアは稀代の魔女と謳われたそうだが?」
――――空気が凍る。
キャスターから余裕が消え、火のような敵意がアーチャーへ叩きつけられる。
「―――そう。
なら、この場はどちらが優勢か判るでしょう?」
「――――――――」
アーチャーは答えない。
善悪などないと。ただ物事を受け入れるだけの、岩のようなその表情は、以前。
「抵抗は無駄よアーチャー。
貴方が何者だろうと、セイバーを取り戻す事はできない。今はまだ私に逆らう意思が残っているけど、それもあと一日保つかどうか。
それに―――令呪さえ使ってしまえば、今すぐにだって私の人形にしてしまえるわ」
「――――――――」
立ち上がろうとする足を押さえつける。
……まだだ。
今のが本当だとしても、今は堪える。
セイバーを助けたいんなら、ここで飛び出す訳にはいかない――――
「―――ふん。たとえ令呪を使われても、セイバーなら耐えられるわ。それが一分か二分かは知らない。
けど、それだけあれば十分に貴女を仕留められるんじゃない?」
「ええ、そうでしょうね。何か策がある顔だもの。
けれどアーチャー、貴方は本当にそう思っていて? そこのお嬢さんのように、ここで私を仕留められると?」
キャスターと遠坂はアーチャーを支点にして睨み合っている。
その支点であるあいつは、
「不可能だな。ここでおまえを斬り伏せようが、せいぜいその半身を断つ程度。
その後に待つのは、セイバーとキャスターを同時に敵に回す、という劣勢だけだろう」
そう、己がマスターである遠坂の思惑を否定した。
「アーチャー、それは」
「判っている筈だ、凛。流石にそうなっては勝ち目がない。
セイバーは不完全なマスターの為に能力を制限されていた。その縛りがなくなった以上、彼女は最強のサーヴァントだ。太刀打ちできるのはバーサーカーのみだろうよ」
淡々と語る。
遠坂はアーチャーを呆然と見つめ、
キャスターですら、物分かりのいい敵に戸惑っていた。
だが俺は違う。
俺はこれと似た光景を、以前一度味わっている。
「まさか――――あいつ」
嫌な予感が思考を塞ぐ。
あの時の境内。
キャスターと対峙したあいつは、仲間になれといったキャスターの言葉を、なんと言って断ったのか。
「――――やめろ」
知らず呟いた。
それは、やめろ。
状況が一層悪くなるからじゃない。
おまえは遠坂の相棒だ。
だから、やめろ。
そんな事になったら―――あいつがどんな顔をするか、分からなく、なる。
アーチャーが前に出る。
その手はあくまで空手。
敵意も殺気もないまま踏み出したあいつは、そのまま。
「―――恨むなよ小僧。
こうなっては、こうする以外に道はなかろう?」
俺が覗いている事に気がついていたように、ニヤリと、こっちを見て笑いやがった――――
「さてキャスター。一つ訊ねるが。おまえの許容量にまだ空きはあるのだろうな」
「アーチャー、アンタ……!」
「ふ――――ふふ、あはは、あはははははははは!」
心底おかしそうに笑うキャスターと、鋼のようなアーチャーの背中。
それを、遠坂は。
俺の知らない顔で、見つめていた。
―――目を逸らさず。
こんな時ぐらい崩れてもいいっていうのに、精一杯の強がりのまま、歯を食いしばって受け入れていた。
「ええ、当然よ。一人と言わず、全てのサーヴァントを扱えるだけの貯蔵はあるわ。私の魔力が何処から補充されているかは知っているでしょう?」
七人のサーヴァントを維持できる魔力。
それは、街中の人間から汲み上げる命そのものだ。
「ならば話は早い。以前の話、受けることにするよキャスター」
それを承知で、あいつはキャスターに手を差し出した。
「――――――――」
気が狂うかと、思った。
―――あいつが、許せない。
遠坂を裏切った事も。
キャスターを認め、その仲間になる事も。
―――英雄と。
多くの人間を救ってきた、衛宮士郎の理想とも言える英雄が、あんな男だという事も――――
「あの時は断ったのに? 随分と腰が軽いのね、アナタは」
「状況が変わった。
セイバーがそちらについたのなら、今回の聖杯戦争の勝機はおまえにある。勝てる方につくのは当然の行為だろう」
アーチャーは無防備なままキャスターへと歩いていく。
それは遠坂から離れるという事だ。
遠坂は止めず、油断なく目前の敵を見据えていた。
「――――――――」
その姿を、知っている。
赤い教室。
倒れた生徒を前にして、あいつは、足の震えを隠して遠坂凛であり続けた。
……それがあいつの強さであり、弱さだった。
どんな時でも気丈であろうとするから、周りの人間は、あいつを強い人間だと勘違いしてしまう――――
「さあ、契約破りを使ってくれ。凛にはまだ令呪が残っているからな。早くしなければおまえに襲いかかってしまうぞ」
軽口は変わっていない。
あいつは目の前で遠坂を裏切ったっていうのに、以前のままに振る舞っている。
そんな相手に警戒心を抱いたのか。
キャスターはあの異形の短剣を持ち出したものの、アーチャーに突き立てようとはしなかった。
「どうした? 労せずして忠実な部下が手に入るのだ。何を躊躇う必要がある」
「……どうかしら。私は裏切り者を信用しない。貴方の言葉が正しいのなら、駒はセイバーだけでいいのではなくて?」
「裏切り者を信用しない、か。
確かに私はおまえをも裏切るかもしれん。私は私の為におまえに降るのだからな。おまえを主と認めた訳ではない。だが―――」
「令呪とは、裏切り者を罰する為にある、でしょう?
……いいわ。貴方一人を御し得ないようでは私の器も知れるというもの。もとより貴方の“宝具”には興味があった事だし、思惑にはまってあげましょう」
キャスターの腕が上がる。
握られた契約破りの短刀は、一直線にアーチャーの胸を刺した。
「っ――――!」
遠坂の顔が歪む。
一方的に契約が断ち切られた事による反動だろう。
だが、そんな事に躊躇しているあいつじゃない。
状況は、ここにきて最悪な物となった。
遠坂はキャスターたちを見据えたまま、じり、と僅かに後退している。
……遠坂は冷静だ。
もう、この場は戦ってどうにかなる状況ではないと理解している。
それでもまだ戦うというのなら、今は撤退するしかない。
「――――――――」
だが、遠坂の位置から階段まで六メートル。
その距離を一気に走り抜ける事など出来るのか。
―――不可能だ。
こうして上から見れば瞭然としている。
今まで終始無言だった葛木が、遠坂に意識を向けている。
遠坂が背中を見せて全力疾走したところで、あの葛木を躱して階段に辿り着き、この出口まで上りきる事が出来るというのか。
キャスターたちを見据えたまま、遠坂は鼻を鳴らす。
その顔が、
「ふん―――そんなの無理に決まってるじゃない」
そう、皮肉げに呟いているように見えた。
「――――――――」
死ぬ。
このままならあいつは殺される。
それを助けるというのなら、俺も戻る事はできなくなる。
この下、僅かでも階段を下りた場所は死地だ。
葛木というマスターと敵であるサーヴァントが二人。
それを前にして、生きて帰れる筈がない。
「――――――――」
喉が渇く。
指は緊張で固まったまま。
ゼロかイチか。
それを、思案する時間もなく、
遠坂の体が流れた。
なんの前触れもなく、矢のような速さで階段へと走り出す。
その背中に。
遠坂が止まって見える速度で、痩身の影が追い付いていた。
葛木の拳は遠坂の後頭部を打つだろう。
セイバーを鎧の上から傷つけた相手だ。
人間の頭蓋など砕くにも値しまい。
「――――――――」
―――救えない。
俺一人では助けられない。
こんな木刀だけじゃあいつを救えない。
……出て行けば死ぬ。
出て行けば死ぬ。
出て行けば死ぬ。
出て行けば死ぬ。
出て行けば死ぬ――――!
降りた。
階段なんて使っていられなかった。
気が付けば五メートルの高さから、遠坂の真後ろに飛び降りていた。
だがそこまで。
遠坂の後頭部に食らいつこうとした葛木の蛇《こぶし》によって、木刀は粉砕された。
「え?」
突然の乱入者に目を見張る。
その中で一人、当然のように動く敵がいた。
「――――――――」
躊躇などない。
この男には相手が誰であろうと関係ない。
突如現れた衛宮士郎に抱く感慨などない。
打ち出される死神の釘。
防ぐ手段などない。
茎のように首を折られる。
なんて無様。
わずか二秒も保たないのでは意味がない。
俺は、このまま。
何も出来ず、遠坂さえ助けられない――――
――――却下。
手段ならば初めから持っている。
防ぐ手段《もの》などそれこそ無数に用意できる。
この体が魔術師ならば。
戦うのは体《おのれ》ではなく、魔術によって創り出したモノに他ならない――――!
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
ならば作れ。
成功など当然だ。
復元するのは基本骨子からではない。
(危険)
その概念、創作者の思想思惑道徳信仰から起源そのものを読み《リード》込む《する》。
(危険)
故に復元ではなく投影、其《そ》は真物より落ちる同一の影。
(危険)
それがいかなる領域の業であろうと関係ない。
一度成したモノならば、再現するに支障など――――!
(暴走)
だから問題は別にある。
そう、問題は、問題は問題は、問題は問題は問題は機能に筐体がついてこれないというコトだけ。体が熱い。
細胞という細胞が発火する。神経は阿鼻を訴え網膜は罅割れ乾き心音は消失する。
肉体の停止命令を無視し、創造における理念、基本となる骨子、構成する材質、制作の為の技術、憑依された経験、蓄積した年月、その手順を一息に省略《キャンセル》して干将莫耶を作り出す。
全身が燃える。
いま投影を使う、という事は死ぬということ。
そんな規格外の魔術行使、衛宮士郎の肉体は耐えられない。
それを無視して頭は先走り、故に肉体は死滅する。
――――だが。
その問題さえ、問題である筈がない。
そう、そんな筈がない。
――――剣製を行えば死ぬ?
まさか。
この体は、その点においてのみ特化した魔術回路。
剣に助けられ、剣と融合《とも》に生きてきた。
故に―――他の人間ならいざ知らず、こと剣製で、衛宮士郎《おれ》が自滅する事などありえない――――!
「はっ――――…………!!」
弾く。
手にした得物が同じなら、対峙する敵も同じ。
手にあるのは干将莫耶。
複製されたアーチャーの宝具は、再度、葛木の拳を弾ききっていた。
「――――――――」
―――それで止まった。
このままでは前回の繰り返しになると読んだのか、葛木はわずかに間合いを離す。
「は―――、づっ…………!」
肺が爆発する。
止まっていた呼吸が、堰を切って口からあふれ出る。
左肩の感覚はない。
傷は完全に開ききり、ぬらりと、包帯だけでなく服さえ血で染めていた。
―――投影によるダメージではない。
二撃。
葛木の拳を二回弾いただけで、左腕は潰された。
もう一撃受けていれば肩の骨は外され、拳に殴られたというのに腕が千切れる、なんて奇怪な光景が展開されただろう。
「っ――――はあ、はあ、は――――」
だがそんな内情を明かす訳にはいかない。
双剣を構えたまま、遠坂の背中を守る。
その、肝心の遠坂は、
「ば、ばか士郎―――! アンタ、なんだってこんなところに来てんのよ……!」
足を止めて、憎まれ口を、たたいていた。
「――――――――」
……ほっとする。
この選択に、間違いはなかった。
こいつの、この判りづらい人の良さを失わないで、本当に、良かった。
「――――――――っ」
いや、今はそんな場合じゃない。
間違いでないかどうかはこの後だ。
俺たちはこのまま、無傷でここから外に出なくちゃいけないんだから。
「―――わるい、文句は後だ遠坂。一息つけたらちゃんと聞くから、今はアイツらをなんとかしよう」
遠坂は無言で頷いて、俺の後ろで臨戦態勢に入る。
「―――手を出すと判ってはいたが。まさか、飛び降りるとは思わなかった」
拳を構えたまま、葛木は俺と遠坂を見据えている。
……俺たちを逃がす気はない。
こうして睨み合っているのは、どちらかを逃がさない為だ。
俺と遠坂、どちらかが動けば即座に反応してくるのだろうが――――
「っ――――――――」
こっちは、そう悠長にかまえてはいられない。
……肩の傷は秒単位で悪化していく。
血が流れる分だけ集中力が途切れていく。
もとより長くは保たない体だ。
逃げるのなら、一刻も早く逃げなくてはならない。
……だが、簡単に逃げ出せる相手でもない。
俺が動けば葛木は当然反応する。そうなった時、まっさきに殺されるのは遠坂だ。
遠坂を逃がす為には葛木を倒すしかない。だが俺に葛木を倒す力はなく、敵は葛木だけではない。
葛木の背後にはキャスターと、裏切ったアーチャーがいる。
……いや、下手をすればセイバーまでも敵に回ってくるかもしれない。
「――――――――」
出口など、初めからなかったのか。
ここまで絶望的な状況で逃げだせる奇蹟などない。
最悪遠坂だけでも辿り着かせたいが、それさえ、あきれる程の偶然が必要になる――――
「そこまでのようね。貴方の乱入には驚いたけど、結果は変わらないわ。
……ええ、その顔では諦めもついたようだし。出てきた、という事は殺されてもいい、という事よね、坊や?」
「ここでおしまいにしてあげるわ。生かしておいても面倒でしょうし、ここでまとめて―――」
「――――!」
……来る……!
こうなったら全力で抵抗するのみ、双剣に力を込めて遠坂の前に立つ。
放たれる殺気。
それが俺たちに到達する直前。
「――――いいや。待て、キャスター」
感情のない声で、赤い騎士が場を制した。
「……アーチャー。この場での発言権がないことぐらい、読みとっていると思ったけど」
「いや、言い忘れていた事があった。おまえの軍門に下るには、一つだけ条件を付けたい」
「……条件、ですって?」
「ああ。無抵抗でおまえに自由を差し出したのだ。
その代償として、この場ではヤツラを見逃してやれ。どのみちマスターとしては機能しない者達だ。殺す価値はないだろう」
他人事のような提案。
それを、遠坂はまっすぐに見つめていた。
「見逃せ、ですって? ……ふん。言動のわりには甘いのね、貴方」
「私とて人の子だ。さすがに裏切った瞬間に主を殺した、では後味が悪い」
「ふぅん。裏切り者のクセに、よく本人の前で人並みのコトを言えたものね」
「……いいわ。今回は見逃してあげましょう。けれど次に目障りな真似をしたら、誰が止めようと殺します。
それでいいかしら、アーチャー」
「当然だ。この状況でなお戦いを挑むような愚か者ならば、手早く死んだ方がいい」
……それで交渉は成立したのか。
聖堂に満ちていた殺気は薄れ、俺たちを逃がすまいとする圧迫感はなくなっていた。
「そういう事よお二人さん。今回は見逃してあげるわ。さあ、敗者は敗者らしく逃げるように立ち去りなさい」
「っ――――」
キャスターを睨み付ける。
……が。
そんな俺の腕を、遠坂は無言で引っ張った。
「行きましょう。今はあいつの言う通りよ」
耳元で囁かれる声。
「――――――――」
それに呼吸を鎮めて、目前の敵に背を向けた。
走る事もせず、ゆっくりと階段まで歩いていく。
あれだけ遠かった距離は、わずか数歩で埋まった。
かつん、という足音。
遠坂は階段に足をかけ、一度だけキャスターへ振り返る。
……いや、それは違う。
遠坂が見据えた相手はキャスターではなく、敵側で微笑するあの男だ。
「恨むのなら筋違いだぞ、凛。
マスターとしてこの女の方が優れていただけの話だ。
優劣が明確ならば、私は強い方をとる」
「―――そうね。けど後悔するわよ。わたしはぜったいに降りない。
いい、キャスターを倒してアンタを取り戻す。その時になって謝っても許さないんだから」
「それは無駄骨だな。まあ、自殺するというのなら止めはしないが」
ふん、と顔を背けて歩き出す。
横顔は悔しげに唇を噛んでいた。
それでも足は速めず、遠坂は堂々とした足取りのまま、振り返らずに地下聖堂を後にした。
教会を出る。
地下聖堂からここまで、一度も言葉は交わさなかった。
「っ――――――――」
……傷が痛む。
額に滲《にじ》んだ汗が目に入って、視界が濁《にご》る。
「は…………つ」
歩くだけ、という運動さえ傷に障《さわ》るのか。
坂道を下りる度に肩が痛んで、知らず、歩幅が縮んでいく。
「……衛宮くん?」
遅れた俺へと振り返る。
……と。
いきなり、遠坂は真顔になって俺を見据えた。
「少し休みましょう。士郎、歩くのも辛いでしょう」
「え……? いや、大丈夫だ。このぐらいなら我慢できる。それより今は、早く戻った方がいい」
衛宮邸か、遠坂邸か。
どちらでもいいから、ともかく今は、少しでも早く遠坂を自分のホームグラウンドに戻すべきだ。
「こっちの傷は気にするな。別に毒が塗り込まれたわけでもないんだから」
遠坂の視線を払って歩き出す。
「っ――――」
……って。情けない、言ってるそばから、膝が折れそうになる、なんて。
「ほら! もう、無茶するんだから。その傷で葛木とやりあうなんて自殺行為よ。いいから休みなさい。あいつら、わたしたちを追いかけたりはしてこないわ」
「……だろうな。けど、少しでも早く家に戻ろう。俺ならそう辛くはない」
「アンタね……! そんなに血が出てて、辛くないなんて言わないでよ! なんで家に戻りたがるか知らないけど、今は休む方が先でしょう!?」
怒鳴ってくる。
……ああ、やっぱりまだ本調子じゃないんだな。
遠坂にはいつもの冷静さが欠けている。
もともと激情家なヤツだし、ブレーキが壊れたらとことん怒るんだろう。
「ちょっと聞いてるの!? 綺礼じゃあるまいし、そんなに血の跡をつけて歩かれても迷惑なのよ!
だいたいどうしてこんなコトになってるワケ!? そりゃ教会に行けって言ったのはわたしだけど、すぐにやばいって判らなかったの!?」
「……あのな、馬鹿にすんな。それぐらい判ったぞ。のっぴきならない事態になってるって、教会を見た時から気づいてた」
「――――! ならすぐに帰りなさい、バカ! それだけじゃない、傷も治ってないのに乱入してきて、おまけにまた投影!? そんなの傷が悪化するのは当然じゃない! だっていうのに辛くはないですって? ああもう、どうかしてる! なんだってそんな無茶するのよアンタは……!!!!」
があー、ともの凄い勢いでまくし立てる遠坂。
……いや、しかし。
実際俺の傷は辛くはないし、それに――――
「―――だって、遠坂の方が辛いだろう」
「―――――――」
「だから戻ろう。家に帰れば、弱音を吐いてもいいんだから」
……ああ、だから少しでも早く戻りたかった。
いくらなんでも、そこまで強くあるコトはないんだ。
自分の家、自分だけの部屋に戻れば、遠坂だって気兼ねなく文句を言える。
「え――――?」
「っ――――!」
しまった、とばかりに顔を拭って、遠坂は背中を見せた。
「あ――――え――――っ、と」
こ、言葉が浮かばない。
今のは、その。
「……信じられない。男の子に、泣かされた」
俯いたまま呟く。
――――と。
「っ……! と、遠坂、手……! 俺の手握ってるぞ、おまえ……!」
「―――うるさい。責任とれ、バカ」
「え――――ちょっ、傷、傷が痛む……! よりにもよって左手を引っ張るな……!」
そこは、いつかの外人墓地だった。
遠坂はずんずんと草むらまで歩いていくと、ようやく握った手を放してくれた。
「―――あのな遠坂。
今はこんな寄り道をしてる場合じゃ――――」
「座って。いいから座って」
「………………」
有無を言わさぬ迫力に、とりあえず腰を下ろす。
「で、後ろを向いて、絶対に振り返らないこと。わたしの顔を見たらホントに怒るから」
とさん、と背後で音がした。
「…………?」
背中合わせで草むらに座り込む。
……それに何の意味があるのか、どうも掴めない。
遠坂はそれきり黙ってしまったし、振り返るなって言うし。
やるコトもないんで、とりあえず夜空を見上げた。
「――――――――」
その広さに、息を飲んだ。
長く地下にいたからか、たまたま今夜の星空が澄んでいたのか。
ともかく、冬の夜空は傷の痛みを忘れさせるぐらい綺麗だった。
背中ごしに伝わってくる遠坂の体温も気にならない。
今はぼんやりと、あらゆる事を忘れて黒こげの空を見上げる。
―――そうして、どのくらいの時間が経ったのか。
黙り込んでいたお隣さんが、落ち着いた声で話しかけてきた。
「――――独り言、なんだけど」
……そうか。独り言なら返事はできない。黙って星を眺めていよう。
「少し、間違えたかもしれない。
アーチャーの言う通り、最初のうちに手段を選ばずキャスターを倒しておけば良かった。
ちょっとの犠牲を気にして機会を計ってたけど、結局、このままだと街中の人が犠牲になるでしょ」
とつとつと語る。
それは、きっと弱音だった。
俺があんな事を言ったから告白してるワケじゃない。
単に遠坂は、一人で反省するより誰かに反省させてほしかったんだ。
「……別にグチを言うわけじゃないけどね。わたし、いつも一番大事なことばっかりしくじるのよ。二番か三番か、そういうのはさらっと出来るくせに、一番大事なものだけは手こずるんだ」
冬の空は透き通っている。
が、その反面、気温はひどく冷え込んでいた。
俺はともかく、遠坂はコートもないし寒いんじゃないだろうか。
……ちょっと、そのあたりが心配だ。
「アーチャーがあっち側にいったのも、あいつだけの責任じゃないわ。結局、キャスターを野放しにしたのはわたしだもの。
けど、うん……まいったなあ、ついさっきあんなコト言ったのに、いきなり追い詰められちゃった」
はあ、と大きな溜息をつく。
見えないけど、やはりその息も白いのだろう。
「……ちょっと。ここ、何をってつっこむところだと思うんだけど」
「ああ。で、何に追い詰められたんだ、遠坂」
「うん、後悔はしたくないってコト。
あいつは、わたしはそういう性格じゃないって言ったけど、今が正念場みたい。士郎があんな事いうから、余計失敗したなー、って落ち込んじゃった」
「――――――――」
……なんだ。
言っている事はよく分からないが、アーチャーの言は正しい。
遠坂は後悔をするようなタイプじゃない。
「そんなの今だけだろ。癇に触るけど、俺もアーチャーの意見には同感だ。遠坂は、何も反省することなんてない」
「どうしてよ。現にキャスターはやりたい放題で、アーチャーにまで愛想を尽かされた。これ、わたしが方針を間違えたからでしょう」
「それは単に失敗しただけだろ。遠坂は間違えてなんかない。間違えていないなら、失敗しても胸を張れると思う」
―――その過程。
自らが正しいと信じた道を歩いたのなら、間違いなんてない。
……そういう時、大抵の人間は選んだ道そのものが間違いだったって気が付くワケだけど、こいつは違う。
こいつの選ぶ道は、いつだって胸を張れるものだろうから。
「―――そうだな。正直、俺にはおまえが眩しい。
……俺も後悔はしない。自分のやってきたコトが正しいって信じてる。けど、それはツギハギだらけだ」
―――後悔はしないと。
今まで歩いてきた道が正しいと信じる事で、起きてしまったあらゆる悲劇を、無意味なものにしたくないだけ。
「でもおまえは違うだろ。
後悔はしたらしたで、きっとその倍は仕返しをするタイプだ。俺はツギハギでなんとか誤魔化してるけど、おまえは平気な顔で粉々にしちまうんだ。
採算は取れてる。たまにしか落ち込まないだろうけど、遠坂はその後が怖い。おまえを落ち込ませた相手は、何倍もおまえに落ち込まされると思う」
「――――う。なにそれ、追い打ち?」
「ああ、鬼が攪乱《かくらん》しているうちに言っておこうと思って。でもまあ、事実なんじゃないか? 遠坂、このままで済ます気はないんだろ」
夜空を見上げながら、こっちも独り言のように言う。
遠坂は答えない。
ただ、なんとなく。
気を取り直したような、微笑がこぼれた気がした。
「――――――――」
そうして静寂。
言いたい事は言ったのか、遠坂はまたも黙り込んだ。
意味もなく夜空を見上げる。
……すぐにでも家に帰らなくてはいけないのに、どちらも立ち上がれずに背中を合わせている。
「―――そういえば。どうしてわたしを助けたの、士郎」
「――――――――」
そんなの、どうしても何もない。
理由はそれこそ沢山ある。
それをいちいち説明するのはなんだか間抜けのような気がする。
気がするので、一番に言わなくてはならない事を口にした。
「このペンダント、見覚えあるだろ」
じゃら、と音をたててペンダントを見せる。
「――――――――」
背後で息を呑む気配がする。
……やっぱり。隠しておくつもりだったんだろうが、また凡ミスをしでかしたな、こいつ。
「ちょっ……それ、どうして?」
「遠坂の部屋で見つけた。あ……帰ったらびっくりするだろうけど、すまん。化粧台倒しちまった」
とりあえず返す、と背中ごしにペンダントを遠坂に手渡す。
「……ふん。で、それがどうしたっていうのよ、貴方は」
「いや。これと同じペンダント、俺の家にもあるんだ。
学校でランサーに殺されかけた時、気が付いたら近くに落ちてたんで拾って、そのまま」
当たり障りなく、あの夜の事を暗示する。
と――――
「――――そっちにも、同じ物がある……?」
何か、見てはいけない物を見たように、遠坂は息を飲んだ。
「あれ? なんかおかしなこと言ったか、俺」
「あ……ううん、別に。……それより、どうしてそれがわたしを助けた理由になるのよ。別にいいじゃない、そんなペンダントなんて」
「そうだな。……ああ、ホントはただの後付けだ。
白状すると、ずっと前から遠坂凛ってやつに憧れてた。
で、困ったコトにいざ話してみたら余計好きになっちまった。だから死んでほしくなくて、気が付けば、何も考えずに飛び降りてただけだ」
「っ――――ア、アンタね、そういう歯に衣着せぬ発言は止めなさいっ。か、考え無しに思ったこと口にしてると、どこかしらで誤解を招くんだからっ」
「むっ。招くかそんなの。俺、ほんとに遠坂のこと好きだぞ」
意地になって即答する。
嘘でもなんでもないんだから、誤解なんてあるもんか。
「ば、ばかっ……! そんなんだから自殺同然で飛び込んでくるのよ、この大馬鹿っ!」
ばかばかと連発する遠坂。
散々な言われようだが、悪い気はまったくしなかった。
夜空は綺麗で、気持ちは落ち着いているし。
なにより遠坂がいつもの遠坂に戻ってくれた事が、本当に嬉しかった。
「よし。士郎の言うとおり、そろそろ家に帰りましょうか」
「ほら、手を出して。その傷だと立つのも辛いでしょ」
差し出された手を右手で握る。
よっ、なんて元気のいい声をだして、遠坂は俺をひっぱりあげた。
「これで貸し借りはなしね。今日の事はお互いノーカウントって事にしましょ」
「――――――――」
ああ、それは助かる。
あのペンダントが遠坂にとってどんな物だったのか、俺は知らない。
それを知ったら、もっと大きな負い目を遠坂に感じてしまうだろう。
それを嫌って遠坂は相殺すると言った。
だから遠坂も、さっき助けられた事に負い目を感じる事はない。
―――そうして、外人墓地を後にする。
その道中、ぽつりと
「……助けてくれてありがとう士郎。その、すっごく助かったわ」
照れくさそうに、遠坂は付け足していた。
坂道を下っていく。
安心できるホームグラウンドに帰ろう、という時。
遠坂は当然のように、自分の家ではなく、衛宮邸《おれのいえ》を目指していた。
家に帰ってきた。
無事に帰ってこれると思っていなかっただけに、居間にあがった途端、一気に肩の力が抜けてしまった。
「――――と」
軽い立ち眩みがして、壁に体を預ける。
「ほら見なさい。やっぱりまともに立ってられないじゃない、ばか」
「…………む」
……遠坂の言葉はもっともなんだが、最後のは余計だと思う。
ほんと、本日何回目のバカ呼ばわりだ。間違いなく今日は今までの記録を更新している。
「ほら、こっちに来なさい。とりあえず包帯ぐらい替えないとまずいでしょ」
「――――」
有無を言わせぬ視線に頷いて、遠坂の前まで移動する。
「この救急箱使っていいんでしょ? お、さすが家に道場があるだけのことはあるわねー。
ハサミばかりか、針と糸が入ってる救急箱ってのも珍しいわ……って、ほら早く。服を脱いで傷を見せなさいってば」
「え―――服脱ぐのか? あ、いや、その前に手当てぐらい自分で出来る。今朝だって自分でやったんだから、問題ない」
「……あのね。なに遠慮してるか知らないけど、そもそもその傷の手当てをしたのは誰だと思ってるの?」
「――――う。けどあの時は、その」
気を失っていたから、遠坂に迷惑をかけただけであってだな。
「あの時もこの時もないの。いいから早くなさい。士郎の傷は特別なんだから、ちゃんと看ないと治るものも治らなくなるじゃない」
「…………」
……ひきょうもの。
そんな顔で言われたら、文句なんて言えるワケがないじゃないか。
「……ああ。それじゃ頼んだ。正直に言うと、さっきからやけに熱くなってる」
観念して座り込む。
血に濡れた服を前にして、遠坂はあっさりと脱がす事を諦め、ハサミでジョキジョキと服を切断、血まみれの包帯を迅速に、かつ丁寧に解いていく。
「――――――――」
……そんなに酷いのか、遠坂はかすかに息を呑んでいた。
「………………」
……が、それはこっちも同じというか。
こんな近くでマジマジと体を見られているかと思うと、気恥ずかしくてしょうがない。
「ホントに無茶するんだから。せっかく治りかけてたのがまた開いてるわよ。
……まったく。こんなの見せられたら怒るに怒れないじゃない」
そんな憎まれ口を叩きながらも、ものすごく優しい指遣いで傷に触れていく。
「――――――――」
……やば。さっきとは違う意味で目眩がした。
さっきはあんなに近くにいても落ち着けたのに、今は心臓も不安定なら目のやり場にも困っている。
「…………ああ、もう」
内心で呟いて火照った頭を叩くも、効果はむしろマイナスだ。
こうしているかぎり頭の温度は上昇し続ける。
だって、こう頭がグラグラしているのは傷の熱ってワケじゃないんだから。
「……遠坂? その、もういいだろ。血止めをして化膿止め塗って、包帯を巻き直してくれればいいから」
「そういうのは手当てって言わない。……前言撤回、やっぱり頭にきた。そんな気休めで外に出たわけね、アンタは」
ぴしゃり、という音。
「ぎっ……!」
な、なんてコトしやがる……!
遠坂のヤツ、容赦なく傷口を叩きやがったっっっ。
「く、この……! なんの恨みがあるんだおまえ!」
「ふん。恨みなら骨髄まで染み渡ってるっていうの。それでも手加減してあげたんだから感謝しなさい」
言って、なにやら自家製の軟膏らしきものを持ち出す。
「今の痛かったでしょ? とりあえず、壊死してる神経を治したからしばらくは痛むわよ。軟膏《これ》には痛み止めも含まれてるけど、もともと破損した肉の代わりだから。なじむまでは痛むけど、痛みがあるうちは無茶しちゃダメだからね」
ぬらり、とゼラチンめいたモノを傷口に塗りたくる。
「――――――――」
その様はとてつもなく怪しいのだが、遠坂が本気で傷を看てくれているのだけは分かるんで口出しはしない。
「はい、これで終わり。後は包帯を巻いてぐっすり寝れば、明日には幾分楽になってる筈よ」
ぐるぐる、とこれまた手際よく包帯を巻いてくれる。
……別に褒めるワケじゃないが、包帯の巻き方一つとってみても俺の数倍は上手だった。
「……うん。その、サンキュ、遠坂。なんか楽になった」
出来るだけ視線を合わせないようにして礼を言う。
「え―――ま、まあ、それならいいけど。楽になったっていうんなら、看た甲斐があったわ」
「ああ。治らないものと覚悟してたから、余計助かった。ともかく、手当てをしてくれてありがとう」
「――――ふ、ふん。そんなの当り前でしょ。わたしが看る以上は、きっかり治してみせるんだから」
手当てを終えて遠坂は立ち上がる。
……と。
何を思ったのか、遠坂はそのまま台所へ向かっていった。
「遠坂?」
目の錯覚だろうか。
なんかあいつ、冷蔵庫の中身やら炊飯ジャーの中身やらをチェックしている。
「おい、何をするつもりなんだ?」
「夕ご飯の支度。士郎、食べてないでしょ? わたしも食べてないのよ。だからとりあえず夕食」
「……ああ、それは見れば判る。けど、どうしてこの状況で夕飯なんだ?」
「なんでって当然じゃない。人間、空腹でまともな案が浮かぶワケないでしょ?」
と。
冷蔵庫の中身と睨めっこしつつ、あっさりと遠坂は言い切った。
かちゃかちゃと食器の音が響く。
時刻は夜の十時過ぎ。
何の因果か、居間で遠坂と顔を合わせて遅めの夕食をとっている。
ちなみに夕食は合作だ。
せっかくだから和風が食べたい、だのと言っておきながら、遠坂嬢はみそ汁の作り方も知らないときた。
うちの学校、調理実習で女子に何を教えているのか不安である。実に。
遠坂は食事に集中している。
空腹なのか、お茶碗はそろそろ空っぽになりそうだ。
「――――――――」
が、こっちはそう箸が進まない。
こんな事している場合じゃない、という事もあるが、それ以前に俺はまだ言っていない。
“――――士郎はここで降りなさい”
そう告げて去っていった遠坂に、自分の考えを伝えていない。
「――――遠坂、話がある」
箸をおいて遠坂を見る。
「なに?」
「あれから考えたんだ。俺がこの戦いを始めた理由を。一体なにがしたかったのかって事を」
「うん、それで?」
みそ汁に口をつけたまま先を促す。
……気合いが削がれるが、負けるものかと丹田に力を入れた。
「初めは巻き込まれたからだった。そうしてマスターになった以上は、この戦いをどうにかしたかった。
―――けど、マスターになったとか巻き込まれたとか、そんなのは関係がない」
「――――――――」
「俺は正義の味方が好きなんだ。だから、みんなを守らないと。マスターなんてどうでもいい。マスターでなくなっても、セイバーがいなくなっても、戦う事には変わりはない」
遠坂の反論を覚悟して、とにかく言った。
……だっていうのに遠坂のやつ、
「ふーん、そう」
なんて空返事をしながら、茶碗に残ったメシをたいらげやがった。
「あのな遠坂。人が真面目に話してるんだから、ちゃんと―――」
「聞いてるわよ。士郎は一人でも戦うのよね。死ぬような目に遭うより、死ぬような目に遭ってしまう人がいるっていう事実が耐えられない。
だから、どんなに自分が弱くても戦う事に決めたんでしょ」
まっすぐな視線。
それは、俺でさえ知らない衛宮士郎《なかみ》を見抜くような真摯さであり―――俺が戦う事を認めている言葉だった。
「え―――あ、うん。そうだけど」
「なによその顔。リスが砂糖菓子なめたような顔して」
「いや、だって。遠坂は反対するかと思ってた」
「してるわよ、もちろん。けどあれだけ見事に助けられたんだから、士郎に文句なんて言えないでしょ。
……それにさ、どんなに止めたってアンタはそういうヤツなんだって解っちゃったし」
遠坂はわずかに目を逸らす。
「?」
それがどうしてかは分からないが、とにかく――――
「じゃあ遠坂、これからも協力態勢って事でいいんだな……!?」
「―――まあね。仕方ないから付き合ったげる。だいたいアンタみたいなのを一人にしてたら、不安で不安で眠れないし、それに」
ふう、という深呼吸。
遠坂は何か、妙に気合いをいれたあと、
「士郎風に言えば、わたしも士郎のこと嫌いじゃないし。
……わたしはそういうワケだし、そっちだって一緒にいても問題ないでしょ、実際」
はい、と頬を赤らめながら茶碗を差し出す遠坂。
それが飯のおかわりを催促している、と気が付くのに何秒かかっただろう。
「あ―――ああ、もちろん……! 遠坂がどんなに横暴でも望むところだ!」
茶碗を受け取って、ばっくんと炊飯ジャーを開けて、とにかくしゃもじを振るって、山盛りにして茶碗を返す。
「……いいけど。お腹減ってるし、ごはん美味しいし」
山盛りの茶碗に箸をつける遠坂。
「―――――――っ」
つい笑みがこぼれる。
きっと、自分はとんでもなく嬉しそうな顔で飯を食べている。
けど、判っていても締まらないというか。
どうしようもないぐらい嬉しいんだから、今ぐらいは莫迦みたいにニヤけていてもいいじゃないか――――
さて。
そんなこんなで食後のお茶会になったのだが。
「つまり投影には投影なりの限度ってものがあるワケ。
一見、イメージを形にするっていう何でもありに見えるけど、投影には色々と独自の制約《ルール》がある。
その制約の中で一番判りやすいのは投影物の損傷。存在における強度ってヤツよ」
紅茶を飲みながら、びし、と指をたてる遠坂。
「存在における強度……? なに、幻想なるモノの存在に耐えられない軽さってヤツ?」
対して、緑茶をずずー、とすすって首をかしげる俺。
「……何も知らないようでいてつまんない言葉知ってるのね、貴方。……けどまあ、当たらずとも遠からずかな。
投影は自己のイメージから、それにそった本物を完璧に複製する。これに例外はないわ。
自分の中で完璧でなければ投影はできない。真作の影である以上、一分の隙も許されないのが投影魔術よ」
「だから―――基本的に、投影によって生み出されたモノは自己のイメージ通りの強度を持つわ。幻想、という点においてはこの時点で完璧なのよ。
加えて投影する術者のイメージ、知識が『本物』に近ければ近いほど、現実においても完璧になるわけ」
「……む? ちょっと待った、それはおかしい。
俺、アーチャーの剣を投影しただろ。けど、それは葛木に壊された。
いくら葛木の拳にキャスターの強化がかかってるからって、宝具を壊せるほどじゃない。
って事は、俺が投影したアーチャーの干将と莫耶は本物《オリジナル》に数段劣るって事じゃないのか」
「はい、いいところに気が付きました衛宮くん。
それが投影の限界、存在における強度ってヤツよ。
いい? 投影はあくまで投影。創造じゃない。投影を作り上げるのは術者のイメージだけだから、そのイメージそのものに綻びが生じた時、本物と同じ性能であろうと霧散するの」
「……? イメージに綻びが生じる……? それもヘンじゃないか? イメージが間違っていたら、そもそも投影はできないんだろ」
「ええ。だから綻びが生じるのは投影した後になるわ。
……そうね、たとえば士郎が『絶対に折れない名剣』を投影したとするでしょ?」
こくん、と頷く。
遠坂はよしよし、と満足げに頷いたりする。
「けど、絶対に折れない剣なんてものはない。
その剣の表現方法、伝承、売り文句等に『絶対に折れない』というパーソナリティがあるだけで、実際はそれを上回る幻想にぶつかれば刃こぼれぐらいするし、折れる事だってある」
「……? それ、折れた時点で俺のイメージが間違っていた、って事にならないか? 俺は『折れない剣』を作ったんだから」
「ならない。
投影が成功した時点で、形の上での間違いはないんだし、そもそも『折れない剣』なんて名前みたいなものでしょ。実際に折れない剣なんてないんだから。
けど士郎。貴方がイメージしたものは『絶対に折れない剣』よね。これが現実で折れちゃった場合、投影された物は嘘になるのよ」
「それは『剣が折れたから』じゃないわ。
貴方がイメージしたものは『折れない剣』。
それが折れてしまった時点で、士郎の中の『折れない剣』と、『いま折れてしまった剣』は別物になる。
―――貴方と現実、その秤が崩れてしまうから」
……?
ええっと、遠坂の話を解りやすく纏めてみるとだな。
「―――よし。
つまり、俺は折れない剣を想像して投影した。けど、実際に投影した剣は戦闘中に折れてしまった。
その時点で、俺自身がその剣を『なんだよ、実際は折れちまうじゃないかこの剣』と否定してしまって、結果として投影したモノは消えるって事か?
その、イメージの齟齬《そご》によって」
「冴えてるじゃない。ええ、つまりはそういう事。
貴方はアーチャーの剣を投影した。
貴方の中でアレがどんな位置づけだったか知らないけど、士郎自身は葛木の攻撃で壊れるような剣をイメージしてはいなかった」
「けど実際に剣は破壊されてしまった。
その時点で、貴方はその剣を“こんなのはアーチャーの剣じゃない”と思ってしまったのよ。
で、作り上げられた投影は術者の否定によって存在強度を失い、もとの空想に戻ったってわけ」
「――――――――」
……なるほど。
投影された武器だって破壊される事はある。
しかし、投影された武器を消滅させるのは敵ではなく自分自身という事か。
自身のイメージと現実、その落差が大きくなり、それを修正しきれなくなった時、投影された武器は消え失せてしまうのだ。
なにより、それを生み出した俺自身が、その幻想を信じ切れなくなる事によって。
「わかった? だから、投影魔術はまず設計図から入るの。あとは材質と性質、歴史なんかも考慮すべきね。そのあたりから固めていけば、多少現実でイメージと違ってもすぐに消える、なんて事はないでしょ」
「え? それなら、何故それを作る気になったのかってのが最初じゃないか?
材料と技法だけじゃダメだ。
今日の夕飯だって、まず遠坂が和風が食べたいって言ったから始まっただろ。なら、創作する上での発端から始めないと」
「――――――――」
あ。
なんか、遠坂がぼけっとしている。
「…………………………」
じーっ、とこっちを見据えてくる遠坂。
緑茶を飲みつつそれを受けて、はて、と首をかしげた。
「なあ。なんでこんな話になったんだっけ」
「……そういえばそうよね。わたしたち、たしか今後の作戦を話し合ってたような……」
ああ、そうだったそうだった。
これからどうするかを話し合っている内に遠坂のやつが、
「士郎、本格的に投影魔術をやってみない?」
と、無責任なコトを言いだしたんだっけ。
「……思い出した。不確定な要素に希望を持っちゃうぐらい行き詰まったんだっけ」
「―――まあ、そうだな。
だいいち俺の投影なんて剣を作れる程度だ。それも今まで役に立ったコトなんてないんだから、大した戦力にならないだろ」
「……………………」
あ、またヘンな目で見ている。
……どうしてかな、投影魔術の話になるとああいう顔するよな、あいつ。
「……まあいいわ。もう一度状況を確認しましょう。
目下のところ、敵はキャスター。あいつだけなら大した事はないけど、白兵戦に長けた葛木《マスター》と、あっち側についたアーチャーに守られている限り手は出せないわ。
加えてセイバーが操られるのも時間の問題。状況は刻一刻と悪くなっていく訳だけど――――」
「……ああ。けど、アーチャーはともかくセイバーはまだキャスターの自由にはなっていない。
それが勝機と言えば勝機だろう。
セイバーが完全にキャスターの軍門に下ったら、それこそ俺たちに勝ち目はない」
それに、そんな事は絶対にさせられない。
……逃げろ、と。
涙をこぼしながら告げたセイバーの為にも、あんなやつの思い通りになんかさせられるか。
「――――そういう事ね。
それじゃ意見のある人は挙手。士郎、なんかいいアイデアある?」
「む――――」
現状を打開する策。
キャスターに対抗する術があるとしたら―――
……正面から戦っても今日の二の舞になるだけだ。
戦力的に劣る俺たちが勝つ為には、キャスターの死角をつく奇襲しかない。
「なあ。遠坂は言峰と師弟の関係なんだろ。なら、あの教会については詳しいんじゃないのか?」
「? そりゃ何度か泊まったコトはあるけど……って、ああ、そういうコト。
せっかくのアイデアだけど、あの教会に秘密の通路なんてないわ。あの地下聖堂だって初めてだったし、仮にあったとしても、そんなの綺礼しか知らないわよ」
「まいった、それじゃお手上げだ。……くそ、やっぱりそんな都合よくいかないか。あの神父のコトだから、それぐらいは用意してると思ったんだけどな」
「まあね。けど利用できない以上、他の手を考えるしかない。……その、例えばのアイデアなんだけど、聞いてもらえる?」
「ああ、そりゃ聞くけど……何かアイデアあるのか?」
「アイデアって程のものじゃないけどね。
いい士郎、わたしだけじゃキャスターに勝てないのは明白でしょ? なら、単純な対抗策はこっちも戦力を増やすだけってコトよ。
あっちはサーヴァントを三体も保有してるんだから、こっちも一人はサーヴァントがいないと話にならないじゃない」
「いや、それはそうなんだが……戦力を増やすって、他のマスターに助けを求めるとか?」
「助けじゃなくて共闘よ。キャスターがあそこまで強くなった以上、他のマスターも黙っていられないでしょ?
聖杯が欲しいのなら、一番強い相手を協力して倒して、その後で一人《ピン》にもどればいい。
こういうの、混戦状態《バトルロイヤル》の定石でしょ?」
「――――――――」
強力になりすぎたキャスター陣営を倒す為に、残ったマスターで同盟を作るってコトか。
「……なるほど。交渉次第で協力関係は作れるかもな。となると……」
「ええ、残るマスターは二人……ランサーのマスターとバーサーカーのマスターね。
……ランサーのマスターは不明のままだから交渉のしようもないけど、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールなら可能性はあるかもしれない」
バーサーカーのマスター。
始まりの日に出会った白い少女と、岩のような巨人。
言動こそ物騒だったが、あの子は残忍という訳ではなかったと思う。
「……そうだな、あの子なら話し合いに応じてくれそうだ。見返りに無茶な条件も出してきそうにないし」
「―――ばか。士郎にとっちゃアイツが一番やばいのよ。アイツ、はじめっから士郎しか見てなかったもの。わたしはともかく、アンタはどんな目にあわされるか判ったもんじゃないわよ」
「な……何だよそれ。俺はあの子と一度しか会ってないんだ、そんなコトになるわけないだろ。お、脅かしっこはなしだぞ遠坂」
「…………ふん。そんなコトになったら交渉なんて破棄に決まってるじゃない、馬鹿」
と。
顔を逸らして、遠坂は紅茶を一気飲みした。
「……けど、今はイリヤスフィールに賭けるしかないわね。キャスターの正体がアーチャーの言う通りなら、間違いなくバーサーカーは天敵だし。
なにしろ生前の知り合いだもの。キャスターの手口なんて知り尽くしてるでしょ。バーサーカーなら、キャスターとアーチャーが同時に攻めてきても追い返せる。わたしたちはその間に葛木一人を攻略すればいい」
「そりゃ理想論だけど……遠坂、キャスターはバーサーカーと関係があるのか?」
「ええ、アーチャーが言ってたのよ。バーサーカーの正体はヘラクレスだって。
キャスターが本当にあの希代の魔女なら、アルゴー船繋がりでバーサーカーとは面識があるかもしれない。
わたしが綺礼に苦手意識を持つのと同じ。世の中にはね、どうしたって苦手なヤツっているもんなのよ」
……はあ。
けど遠坂、あの神父には誰だって苦手意識を持つぞ、きっと。
「―――じゃあ決まりだな。
けど、どうやってあの子を見つけようか。あれ以来出てこないけど、あれだけの魔力を持ってるなら隠れていようと見つけだせるだろ。
なのに見つからないって事は、この街にはいないって事じゃないのか」
「でしょうね。イリヤスフィールはずっと遠くから聖杯戦争を眺めて愉しんでるんでしょ」
「……ずっと遠く……? キャスターみたいに柳洞寺から街を監視してるのか?」
「さあ。けど、どこに居るかは見当がつく。
……昔、父さんから聞いた事があるのよ。アインツベルンは郊外の森に別荘を持ってるって」
硬い声で言い捨てる。
―――郊外の森に立つ別荘。
それがどれほど危険な場所なのかは、遠坂の様子だけで十分すぎるほど感じ取れた。
部屋に戻って横になる。
布団に体を預けると、睡魔はすみやかに全身に広がった。
「――――――――」
暗い天井を仰ぐ。
イリヤスフィール―――あの白い少女の隠れ家に向かうのは明日になった。
どのような話し合いにせよ、体力勝負になるのは目に見えている。
疲れ切った体で行ってもいい結果にはならない、という遠坂の提案で、仮眠をとってから向かう事になったのだ。
「……夜明けまであと五時間。そうなったら、あの子と話し合いをしなくちゃならない」
マスターになった夜、俺たちの前に現れた幼いマスター。
セイバーがあらゆる面において優れたサーヴァントなら、
バーサーカーは戦闘面において特化されたサーヴァントだ。
単純に戦闘数値だけを見るのなら、バーサーカーに太刀打ちできるサーヴァントは存在しない。
「―――そんな相手と、どう話し合えばいい」
言葉にすると、そんな交渉はとうてい不可能に思える。
だが――――
不思議な事に不安は感じなかった。
あのイリヤという子は、話せばきちんと分かってくれる気がする。
……遠坂と同じように、魔術師として敵味方ははっきりと区別するだろうけど、そういうところとは別の部分で、あの子はちゃんとした子のような気がするのだ。
「……まったく、まだ話した事もないクセに。希望的観測にも程がある」
あいつなら都合のいい夢物語と罵倒するだろう。
けど、それを信じて何が悪い。
まだ知らない者、これから出会う人間に希望を抱くのはおかしいのか。
「――――――――」
ぎり、と。気が付けば歯を鳴らしていた。
理想を抱いて溺死しろと言った男は、俺の目の前で遠坂を裏切った。
あれだけ信頼されて、あれだけの力を持ったやつが、あんなに容易く自身の信条を変えたのだ――――
「―――――――アーチャー」
感情が沈んでいく。
いや、これは凍っているのか。
あいつの行動を思い返すだけで、頭の中が冷え切っていく。
俺は怒っている。
他の誰でもない、遠坂を裏切ったあいつが許せない。
他の誰でもなく、あいつが仲間を切り捨てた事が許せない。
俺は――――絶対に、違う。
たとえあれが最善の行為で、自分が生き残る為のもの、最終的には正しい道であったとしても、真似なんてしてやらない。
今までずっと、あいつの行動が癪に障ってきた。
綺麗事を言うなと。
全てを助ける事など出来ないと、そう言い捨てるあいつと反発しあっていた。
それでも――――心の何処かで頷いてはいたのだ。
……あいつの言葉は正しい。
切嗣《オヤジ》の言っていた正義の味方は絵空事で、
少しでも理想に近づきたいのなら、あいつのようになるしかないと受け入れていた。
受け入れた心で、それでも嫌だと否定してきた。
……けど、今回のはそういうレベルじゃない。
あいつが、認められない。
どんな事情があろうと、あいつのとった行動だけは認められない。
それを認めたら、俺はきっと歩けなくなる。
「――――だから。おまえには、負けられない」
……紡いだ言葉は闇に溶けず、いつまでも残留した。
夜明けまでの数時間。
泥のような眠りの中でさえ、その言葉を繰り返し続けていた――――
[#改ページ]
2月12日     13 VS berserker
闇の中で、彼女は一人思案していた。
教会を襲い、神父を殺してからはや一日。
何処に隠そうと『有る』のならば見つけだせる、と断言してから一日だ。
他のサーヴァントならいざ知らず、魔術に長けた彼女が『聖杯』ほどの聖遺物を発見できぬ筈がない。
となれば、答えは一つ。
この教会には、初めから聖杯など存在しなかった。
「――――――――」
微かな嘆息を漏らして、彼女はこめかみに指を当てる。
……目を瞑ると、重い闇が全身にのし掛かってきた。
それは、単純に悲鳴だった。
他人のものではない。
彼女自身の、肉体と精神があげる悲鳴、疲労という名の臨界である。
召喚されてから既に一月。
その間、勝利する為だけに全力を尽してきた。
マスターは魔術回路を持たない一般人であり、自身はサーヴァント中最弱である。
その欠点を補う為、禁忌としてきた魔術を乱用した。
市民からの搾取。街中に張り巡らせた魔力の糸と、人柱《いけにえ》を用いた地脈の操作。
……それは生前、彼女が“魔女”と呼ばれる原因となったものだ。
だが、それを使った事は一度もない。
一度もない筈だったし、決して禁を破る気はなかった。
―――それを。
どうしてこんな、どうでもいい殺し合いの為に使う気になったのか。
自分は復讐の為に英霊となった。
けれど、だからといって自らを“魔女”に貶めた術を使っては意味がないとも解っている。
彼女が使うのは些細な魔術だけ。
人が欲望によって自滅するだけの、自己に返る呪いだけで、災いを呼ぶ事を信条としてきた。
それが彼女の精一杯の復讐だったのに、どうして、ここまで道を外してしまったのか。
「……全ては聖杯の為。あらゆる望みを叶える聖杯なのだから、気が違うのは当然です」
それは嘘だ。
彼女は聖杯の正体に気が付いている。
アレがどんなモノなのか、そもそも自分たちがどのような目的で呼び出されたモノなのか、とっくの昔に理解している。
……確かに、この街に現れる聖杯ならば大抵の願いは叶うだろう。
彼女を霊体としてではなく実体としてこの世に押し留め、人の世に干渉できる『人間』として第二の生さえ与えてくれる。
――――だが。
「――――馬鹿ね。そんな事に、何の意味があるというの」
呟いて、彼女は目蓋を閉じた。
意識をカラにする。
今だけ―――一時だけあらゆる警戒を解いて、心を休めた。
……雨の音が聞こえる。
あれは月のない夜だった。
周囲は一点の明かりもない暗闇で、からっぽの心のまま彷徨った。
そこで出会った。
血まみれの体と、冷え切った手足のまま。
どんな奇蹟よりも奇蹟のようだった、その偶然に。
それは、柳洞寺のあるお山だった。
降りしきる雨。
鬱蒼《うっそう》としげった雑木林の中を、彼女はあてもなく彷徨っていた。
「ハア――――ハア、ハ――――」
血の跡を残していく。
手には契約破りの短刀。
紫の衣は雨に濡れ、白い手足は冬の雨に凍えていた。
「ハ――――ハア、ア――――…………!」
木々に倒れ込みながら歩く。
泥に汚れ、呼吸を乱し、助けを求めるように手を伸ばして歩き続ける。
その様は、常に余裕を持つ彼女とは思えない。
否、その魔力さえ、面影は皆無だった。
―――消耗している。
彼女にはもう、一握りの魔力しか残されていない。
サーヴァントにとって、魔力は自己を存在させる肉体のようなものだ。
それが根こそぎ失われている。マスターから送られるべき魔力もない。
だが、それは当然だ。
たった今、彼女は自らのマスターを殺害した。
彼女の消耗は、偏にそれが原因である。
彼女―――キャスターのサーヴァントは、自由を得た代償として、この山で独り消えようとしていたのだ。
「ハ――――アハ、アハハハ――――」
乾いた笑い。
自分の身が保たない事もおかしければ、下卑たマスターの寝首をかいた事もおかしかった。
ついでに言うのなら、マスターとの繋がりを甘く見ていた自分の甘さもおかしくて仕方がない。
――――彼女は、実に上手くやった。
彼女のマスターは正規の魔術師だった。
年の頃は三十代で、中肉中背で、あまり特徴のない男だった。
戦う気もないクセに勝利だけを夢見ている、他のマスター達の自滅を影で待っているだけの男だった。
男は、キャスターを信用しなかった。
魔術師として優れたキャスターを疎み、他のサーヴァントに劣る彼女を罵倒した。
数日で見切りをつけた。
彼女は従順なサーヴァントとして振る舞い、男の自尊心を満たし続けた。
結果として簡単な、どうでもいい事に令呪を消費させたのだ。
令呪などなくてもいい、と。
令呪の縛りなどなくとも彼女はマスターに忠誠を誓っている、と信じ込ませた。
結論として、信じる方が悪い。
マスターはどうでもいい事に三つ目の令呪を使い、その瞬間、キャスターの手によって殺された。
容易かった。
あの男との契約が残っている事も不快だったので、殺す時は契約破りでトドメを刺した。
「っ――――く、あ――――」
だが、彼女は失敗した。
サーヴァントはマスターからの魔力供給で存在できる。
それは何も“魔力”だけの話ではない。
サーヴァントはこの時代の人間と繋がる事により、この時代での存在を許されるのだ。
つまり―――自らの依り代、現世へのパスポートであるマスターを失うという事は、“外側”へ強制送還されるという事なのである。
……しかし、それでもここまで消耗はしない。
これは彼女のマスターが残した呪いだ。
彼女のマスターは、自身より優れた魔術師であるキャスターを認めなかった。
故に彼女の魔力を、常に自分《マスター》以下の量に制限していたのである。
人間程度の魔力量で英霊を留めておける筈もない。
本来の彼女ならば、マスターを失った状態でも二日は活動できるだろう。
だが今は違う。
魔力は存在するだけで刻一刻と激減していき、ついに底が見え始めた。
……おそらくは、あと数分。
このまま次の依り《マス》代《ター》を捜し、契約できなければ彼女は消える。
何も成さず、ただ蹂躙される為だけに呼び出された哀れなサーヴァントとして、戦う前に消えるのだ。
「ア――――ハア、ハ――――」
悔しかった。
悔しかったが、どうという事もなかった。
だって、いつもそうだったのだ。
彼女はいつだって不当に扱われてきた。
いつだって誰かの道具だったし、誰にも理解される事などなかった。
――――そう。
彼女の人生は、他人に支配され続けるだけの物だった。
神という選定者によって選ばれた英雄《イアソン》を助ける為だけに、まだ幼かった王女《かのじょ》は心を壊された。
美の女神とやらは、自らが気に入った英雄の為だけに、知りもしない男を愛するよう呪いをかけ。
少女は虚ろな心のまま父を裏切り、自らの国さえ裏切らされた。
……そこから先の記憶などない。
全てが終わった後、王女であった自分は見知らぬ異国にいた。
男の為に王である父を裏切った少女。
祖国から逃げる為に弟を八つ裂きにし、無惨にも海に捨てた魔女。
―――そしてそれを望んだ男は、王の座を得る為に、魔女など妻にできぬと彼女を捨てた。
操られたまま見知らぬ異国に連れ去られ、魔女の烙印を押され、唯一頼りになる相手に捨てられた。
それが彼女の起源だ。
彼女に咎はなく、まわりの者たちもそれを承知していた。
にも関わらず、人々は彼女に魔女の役割を求め続けた。
王の座を守る為の悪。
暗い迷信の受け皿になってくれる悪。
彼らは、あらゆる災害の原因を押しつけられる、都合のいい生け贄が欲しかったのだ。
そのシステムだけは、いつの時代も変わらない。
人間は自身が善良であるという安堵を得る為に、解りやすい悪を求めるワケだ。
そういった意味で、彼女は格好の生け贄だった。
頼るべき父王は異国の彼方。
彼女を弁護する者など一人としておらず、人々は気持ちよく彼女に咎を押しつけた。
生活が貧しいのも、
他人が憎いのも、
人々が醜いのも、
人が死ぬ事すらも、
全てはあの魔女の仕業なのだと極め付けたのだ。
「は――――はは、あ、は――――」
……だから、受け入れてやっただけ。
どうせ魔女としてしか生きられぬのなら、魔女として生きてやろうと。
おまえたちが望んだもの、おまえたちが祭りあげたものがどれほど醜いものなのか、真実その姿になって思い知らせてやろうと、誓っただけ。
おまえたちがおまえたちの咎を知らないというのなら、それでいい。
それを知らぬ無垢な心のまま、自らの罪によって冥府に落ちて、永遠に苦しむがいい。
彼らは冥府から出られやしない。
だって罪の所在が解らないのだから、一生罪人のままで苦しむしかない。
それが――――彼女が自分に科する存在意義。
魔女と呼ばれ、一度も自分の意志で生きられなかった少女の、彼らが与えた役割だった。
「あ――――ぁ――――」
だが、そんなこと。
本当は誰が望んだ訳でもない。
彼女だってそれは同じ。
彼女は自分の望みもないまま、ただ復讐を続けるだけだった。
―――そう。
この瞬間、見知らぬ誰かに出会うまでは。
がさり、という音がした。
「――――――――」
倒れそうな意識のまま、彼女は目前を睨んだ。
時刻は深夜。
こんな山林に、まさか寄りつく人間がいようとは。
「そこで何をしている」
重い声だった。
相手を視認する余裕さえなかった。
ただ終わった、と思っただけ。
彼女には魔術を行使する力もない。
紫のローブは防寒具に見えない事もないだろうが、腰から下は返り血で真っ赤だ。
この雨の中、血に濡れた女が隠れている。
それだけで、この人間が何をするかは明白だった。
まずは逃げる。
その後はどうするだろう。通報するか、見なかった事にするか。
……どちらにせよ、もう満足に動けない彼女には関係のない話だったが。
それで、最後まで残っていた気迫が萎えた。
彼女は生前と同じように、独りきりのまま冷たい最期を迎えた。
―――きっと、そうだと思っていた。
気が付くと、その場所にいた。
目前にはあの人間――――林で出会った男が座っていた。
「起きたか。事情は話せるか」
それが初めの言葉。
彼女が呆然と男を見つめると、
「迷惑だったのなら帰るがいい。忘れろと言うなら忘れよう」
変わらぬ口調で、男はそう告げてきた。
……それが彼女のマスター、葛木宗一郎との出会いだった。
葛木は、不思議な男だった。
幽霊とでも言うのだろうか。
生きている理由もないが、死ぬ理由もない。
ただ凡庸とそこに在り、在るからには与えられた事を成す。
言うなれば自己がない。
第一印象はそれだけで、この男なら傀儡《かいらい》にするのは容易いと思った。
―――それが間違いであった事は、少しずつ思い知る事になる。
葛木宗一郎には過去がない。
自己がないのは過去がないからであり、葛木自身が空っぽ、という訳ではなかった。
事実、葛木は誠実な男だった。
マスターになってほしいと言った時も、自分の正体を明かした時も、あっさりと受け入れてくれた。
「このような話を信じるのですか?」と問えば、
「今のは嘘なのか?」と返してくる。
もちろん真実だと答えれば、ならばそれでいい、と受け入れた。
なにより傑作だったのは、出会った夜の事だ。
消えかけた彼女は葛木に抱いて欲しい、と訴えた。
葛木はなにやら難しげに顔をしかめた後、
「一つ訊ねるが。それは手荒くか、それとも優しくか」
そんな事を言ってから、結局、彼女の答えなど聞かずに抱いた事だ。
彼流に言うのなら神仏の前での行為。
阿修羅のように激しかった気もするし、菩薩のように穏やかだった気もする。
……なんにせよ、それで契約は完了したのだ。
彼女は新しいマスターを得る事で現世に留まり、魔女としての役割に復帰した。
……今でも、それを奇蹟だと彼女は思っている。
彼女が連れ込まれたのが柳洞寺でなければ、彼女は目覚める前に消えていただろう。
柳洞寺はサーヴァントにとって鬼門だが、中に入ってしまえば最高の召喚場所とも言える。
結界に囲まれた柳洞寺は、人間ではないモノを存続させるに適した場所になっているからだ。
消えかけた彼女が残っていられたのは、柳洞寺に運ばれたが故である。これが違う場所だったのなら、運ばれた後で彼女は消えていただろう。
その結果、彼女は最高の霊脈を押さえ、鉄壁の守りを得る事になった。
柳洞寺を容易く占拠し、聖杯の絡繰《からく》りさえ読みとり、第七のサーヴァントとしてアサシンを召喚した。
だが、そんな事は些末な出来事だ。
あの夜、彼女は確かに幸運だった。
幾つもの奇蹟が彼女を救い、こうして勝利を目前に控えさせている。
けれどそれは感謝するに値しない。なければないで諦めがついた類だ。
―――本当に大切な事は一つだけ。
他人から見れば小さく、重要性のない事柄。
葛木宗一郎という人間と出会えた偶然こそが、彼女にとっては、見たコトのない奇蹟だったのだ。
「――――――――」
それも上手くいかない。
いや、自分のやる事はみな上手くいかないのだ、と彼女は嘆息した。
彼女のマスターは、こんな事をしても喜ばない。
もとより聖杯になど興味のない人間だ。
あの男に明確な望みがあるのなら、彼女は全力でそれを成し遂げようというのに、葛木宗一郎には望みらしきものがないのだ。
一方通行の関係。
かみ合わないお互いの存在。
そんな関係である事自体、そもそも上手くいっていない。
「―――ミイラ取りがミイラになったか。希代の魔女というのも、案外脆いものなのだな」
「――――!」
闖入者に振り返る。
そこに立つのは彼女のマスターではない。
未だ正体不明のサーヴァント、赤い外套の騎士、アーチャーである。
「……アーチャー。貴方には外の見張りを任せた筈ですが」
「ああ、それがな。ざっと見たところ、周囲に敵という敵がいない。退屈を持て余してね、中の様子を見に来たのだ」
「……ふん。それはそうでしょうね。私たちの敵はバーサーカーだけよ。それもセイバーさえ陥落すればこちらから打って出るだけ。貴方が私たちに寝返った時点で、もう敵なんていないのよ。
―――貴方もそれが判っていたからこそ、こちらに付いたのではなくて?」
「さて、どうかな。私はあのマスターと契約を切りたかっただけ、とは思わないか。あのマスター以外なら、契約者は誰でも良かったと」
アーチャーの軽口は、どこか真実味のある言葉だった。
……しかし、それはどういう意味なのか。
アーチャーは裏切るつもりなどなく、ただ遠坂凛と契約を切りたいが為に寝返ったという事なのか。
「……そう。小娘のお守りはご免ということ。確かに私たちサーヴァントは総じてマスターに不満を持つわ。貴方が愛想を尽かすのも当然でしょうね」
「いや。召喚者として彼女は完璧だった。ただ少しばかり狂いが生じただけだ。
―――それとキャスター、一つ忠告しよう。あらゆるサーヴァントが君と同じだとは思わない事だ。
少なくともセイバーとバーサーカーは主に不満を抱いてはいなかった。正しい英雄という者はね、正しい人間にしか使役できない者なんだ」
「……ふん、何を今更。ねじ曲がったマスターだからこそ、ねじ曲がった英霊を呼ぶ。そのような事、貴方に言われるまでもないわ」
……そう、サーヴァントの質は召喚者によって変動する。
心に暗い陰を持つ召喚者は、光側である英霊を呼ぶ事はできない。
その例で言うのなら、彼女やライダーは英霊ではない。
ねじ曲がった召喚者は、ねじ曲がった英霊を呼ぶ。
ライダーがかつて“美しいもの”であったように、彼女もかつて“正純であるもの”にすぎない。
そんな彼女が呼び出した英霊《アサシン》が架空の英雄だという事は、皮肉と言えば痛烈な皮肉と言えた。
「しかし、考えてみればおかしな話だな。君やライダーは英霊に敵対する者だろう。にも関わらずサーヴァントとして選ばれている。
……まあ、聖杯には善悪の区別はない。力のある人間霊なら、誰であろうと汲み上げるという事か」
「―――いいえ。本来、そんな“英霊としての側面もあるモノ”なんて混ざりモノは選ばれない。
この戦いが狂ったのは三度目からよ。それまでは私や彼女《ライダー》のような英霊は呼ばれなかった」
……それも、今になっては関係のない話だ。
聖杯の正体など、彼女は関心がない。
キャスターのサーヴァントである彼女の使命は、ただこの戦いに勝つことだけ。
その先の事など興味はない。
いや、正直に言えばそんな終わりこそ、彼女は望んではいなかった。
「――――無駄話はここまでよ、アーチャー。
持ち場に戻りなさい。貴方が何を考えているかはどうでもいいわ。貴方は既に私のサーヴァント。その命は私の手の中にある。それを肝に銘じて口をききなさい」
「了解した。では従順なサーヴァントらしく、主の期待に応えるとしよう」
変わらぬ口調のまま、赤い騎士は階段を上がっていく。
「――――――――」
それを無言で観察し、彼女は長く息を吐いた。
―――セイバーの陥落まであと一日。
聖杯こそ見つからないものの、そうなればまた一歩終わりに近づく。
……戦いが終わればどうなるのか。
キャスターはその力であらゆる望みを叶えるだろう。
生前からの誓い通り、魔女として存在し続けるのも悪くはない。
だが―――終わってしまえば、理由がなくなる。
彼女本人にその意思があろうと、彼女の主には、マスターとしての理由がなくなってしまうのだ。
「―――――あと少しで、聖杯はこの手に収まる」
優雅に、白い手を虚空に伸ばすキャスター。
長かった疲労もそれで報われるというのに、その表情は、死出に赴く罪人《つみびと》のようだった。
◇◇◇
―――多くの人間の死体を見た。
その時に自分は死んで、新しく生まれたのだ。
道に懺悔はなく。
目はそこで憎悪をなくし、
手はそこで憤怒をなくし、
足はそこで希望をなくし、
我はそこで自身をなくした。
何もなくなった。
助けてくれるモノなどいないと受け入れたのは、諦めからではない。
ただ、それが自然なのだと知っただけ。
死に行く者は死に、生きる者は生きるだけの話だ。
瓦礫の山に横たわって、広がる焼け跡を眺めていた。
そこで全てを理解した。
理解したつもりだった。
――――だが、それでも思ってしまった。
もしこの場で何もかもを救う事が出来るなら。
それは、どんなに素晴らしい事なのかと。
憧れたのはそんな事だ。
ただ、誰も苦しまなければいいと思っただけ。
その為に正義の味方になろうとした。
なにしろ判りやすかったし、その在り方は理想のように思えたからだ。
だから目指した。
行き先は見えていて、道はそれこそ山ほどある。
何が正しいのか判らずとも、少しでも近づきたくて走り続けた。
そうして通り過ぎた道の多くは歪んでいて、行き先は離れていく一方だ。
ひどい遠回りばかりしている。
切嗣に助けられてから十年間、ずっとそんな事の繰り返しだ。
だが後悔はしない。
俺は遠坂のように器用じゃない。
選んだ道が過ちで、多くの物を失う時だってある。
それを無意味と切り捨てる事はできない。
踏みつけにしてきたもの、もう戻らないものの為にも、生き延びた意味を示さなければならない。
その為には、負けられない。
他人に負けるのは仕方がない。
けど自分には勝てる。諦めろと囁く自分にだけは、いつだって抗える。
だから、誓ったのはその程度の事だ。
俺が信じたもの、信じたかったものは、一つだけ。
……そう。
たとえ、俺自身《このみち》が間違っていたとしても。
それを信じた事に、後悔だけはしないように。
「――――――――っ」
外から差し込む陽射しで目を覚ました。
時刻は六時前。
窓越しの空は、灰をまぶしたかのような一面の曇天だった。
支度を済ませて部屋を後にする。
体の調子は良好で、傷の痛みはほとんどない。
これなら戦闘になっても、遠坂の足を引っ張る事はないだろう。
「――――来たわね。準備はいい、士郎?」
「――――」
……いいけど。
その、遠坂が変身している。
「……? なによ、地雷踏んで動けなくなった新兵みたいな顔して。まだ準備できてないの?」
「――――いや、そうじゃなくて。遠坂、なんかヘンじゃないか?」
「は……?
ああ、これ? 細かい作業の時にかけるだけだから、気にしないで」
「…………」
いや。
そう言うんなら、いいけど。
……なんか、ひどく似合ってないようで、すごく似合っているように見えるのは、どんな魔術なんだろう。
「いい? わたしたちが向かうのは郊外の森。
街から遥かに離れた市外、まだ人の手が入っていない広大な樹海よ。
長年人間の介入を拒んできただけあって、森は深くて広いわ。年に何人か、何の準備もなしに踏み込めで遭難したって話、知ってるでしょ?」
「――――――――」
無言で頷く。
目的地はその森のどこかにあるというアインツベルンの別荘だ。
あの子……イリヤスフィールとの交渉が決裂し戦闘になった瞬間、俺たちの運命は決まっている。
助けなど呼べないし、脱出する事も難しいだろう。
あの巨人―――バーサーカーを倒さないかぎり、生きて森からは出られまい。
「じゃあ、そろそろ行きましょ。
徹夜して場所にあたりはつけといたから、うまくすれば半日ぐらいで見つけられる筈よ。
とりあえず国道までは車を使うから、タクシー代用意しといて」
ざっ、となにやら色々とつまったボストンバックを持って歩き出す。
「――――む」
もう馴染みになった竹刀袋を片手に追いかける。
……しかし、遠坂。
タクシー代はいいけど、それじゃあ帰りは歩いて帰ってくるのか、ここまで。
―――街から自動車《タクシー》で移動すること一時間。
延々と続く国道を走り、幾つかの山を越えて森の入り口に辿り着いた。
無論、森には舗装された道などない。
高速道路とそう変わらない国道からそれ、雑木林を一キロほど歩いて、ようやく森の入り口に到着した。
「――――――――」
一筋縄ではいくまいと覚悟はしていたが、やはり実際目の前にすると気後れしてしまう。
森は昼なお暗い。
空を覆うほど茂った枝は陽射しを遮り、森はその終わりはおろか、十数メートル先さえ定かではなかった。
「ちょっと士郎。悪いけど、先に進んでみてくれない?」
「? いいけど。あの子の居場所を知ってるのは遠坂なんだろ。俺が先に行っても仕方がないと思うが」
文句を言いつつ森に踏み入る。
―――と。
「っ――――なんだ、ビリッときたぞ……!?」
思わず足を引っ込める。
痺れたのは一瞬だけだ。
痺れ自体も些細なもので、タンスの角に指をひっかけた方が遙かに痛い。
……まあ、ようするに静電気みたいなものだった。
「―――やっぱり。識別だけだろうけど、森全体に管理が行き届いているみたいね」
「え―――ちょっと待て。それ、まずいんじゃないのか。ようするに防犯ベルにひっかかったってコトだろ?
なら――――」
「別に問題ないんじゃない? わたしたちは奇襲にきた訳じゃないもの。話し合いにきたんだから、むしろ今からアピールしておいた方が得でしょ」
「あ。一応気を付けろよ、ちょっとビリっとくるから」
「わかってるわかってる。士郎の見てたからどんなものか判ってるって――――」
ひらひらと手を振って、堂々と森に踏み入る遠坂。
とたん。
「うきゃーーーー!」
なんて、愉快な奇声をあげて遠坂は跳び退いた。
「うわあ……」
ばすばすという音。
遠坂の足下、積もった落ち葉が焼け焦げて見えるのは気のせいだと思いたい。
「……個人差がある警報だったみたいだな。俺は挨拶程度だったみたいだけど」
冷静に状況を解説する。
「く――――くく、くくく――――」
が、そんな言葉は遠坂には届かなかったようだ。
「やってくれるじゃないあのガキ……! いま笑ったの、たしかに聞こえたんだから……!」
があー、と誰もいない虚空に向かって怒鳴る遠坂。
さっきの台詞はどこにいったのか、話し合いというより殺し合いに行きかねない剣幕だ。
……まあ、それはともあれ。
どんなに遠く離れていても、遠坂の悪口を言うのは命とりっぽいんで気をつけよう。
……森を行く。
この無限とも言える木々の中、生きている人間は俺たちだけだった。
獣の息遣いもなく、冬の草木は屍のように生気がない。
進めば進むほど広がっていく木々の海は、果てがないのでは、という危惧を常に抱かせる。
森に入ってから、既に三時間。
正午はとうに過ぎ、切り開いていく風景の変化さえ判らなくなりだした頃。
「――――見つけた。
……って、聞いてはいたけど呆れたわ。本気でこんな所にあんなモノを建てるなんて」
遠坂の視線を追う。
その先にあるのは暗い闇だ。
木々の隙間。
注意していなければ見失うほどの隙間の向こうに、何か、ひどく場違いな物がある。
「……なんだあれ。壁、か?」
「壁よ。まったく、どうかしてるわ。あれ、自分たちの国からまるごと持ってきたものよ」
悪態をつきながら、遠くに見える『異物』へ向かう遠坂。
まだアレの正体が掴めず、当惑したまま後に続いた。
森を抜ける。
あれほど果てがなかった森は、あっさりとなくなっていた。
いや、ここだけ巨大なスプーンで切り取られたように、森の痕跡が消失しているだけだ。
灰色の空はまるく、見上げきれぬほど高い。
―――巨大な円形の空間。
それは広場というより、地中深くに陥没した王国のようだった。
それが、イリヤスフィールの住処だった。
森の中に建てられた古い城。
あの少女が住むには広すぎ、一人で暮らすには寂しすぎる、来訪者などいる筈のない森の孤城。
「――――――――」
……ともあれ、ここで怯んでいても始まらない。
遠坂の話だと、イリヤスフィールも俺たちがやってきた事は知っているという。
なら敵意がない事を示すため、正門から堂々と入るべきだろう。
「よし、行くぞ遠坂…………って、遠坂?」
遠坂はただならぬ顔で城を見上げている。
その横顔は、敵と対峙した時と同じ緊張感に満ちていた。
「遠坂。気になるもんでもあったのか」
「……うん。わたしたち以外に誰かいる」
「そりゃいるだろ。イリヤって子とバーサーカーの住処なんだから」
「そうじゃなくて、それ以外の誰かって事よ。……士郎、こっちから入るわよ」
「え――――ちょ、ちょっとおまえ……!?」
止める間もなく、遠坂は壁際の大木まで走り出した。
いや、そんなんじゃない。
遠坂はそのまま枝に手をかけ、器用に登っていってしまった。
「――――――――」
呆然と見上げる。
遠坂はきょろきょろと城を見渡し、そのまま―――
城の二階へに、跳び蹴りをくれていた。
がしゃん、という音。
窓ガラスは見事に蹴り割られ、赤い姿が城の中へ消えていく。
「ほら、早く……! 本気でおかしいわよ、この城……!」
「っ―――ああもう、話し合いをするんじゃなかったのかよ……!」
が、やってしまったものは仕方がない。
こっちも木を登って、遠坂と同じように城の二階へ飛び移った。
侵入した部屋から廊下に出る。
そのあまりの豪奢さに目を見張る前に、遠坂の言う“異常”に気を奪われた。
響いてくる音は、紛れもなく戦いの音だ。
剣と剣が打ち合う音。
だが―――こんな、嵐みたいな剣戟があり得るだろうか。
今まで最も激しかった剣同士の戦い……セイバーとバーサーカーの打ち合いでさえ、こんな音は立てなかった。
「――――――――あ」
そこで、不意に思い立った。
これは剣戟の音なんかじゃない。
一対多数の戦い―――文字通り、この城のどこかで“戦争”が起こっている。
その一方はバーサーカーに間違いない。
この城はイリヤスフィールの城だ。
戦闘が起こるとしたら、バーサーカーが侵入者を迎え撃つ時のみである。
駆けだした。
音は下から響いてくる。
入るときに確認した位置関係からすると、戦いは城の中心―――来訪者を迎え入れる広間に違いない。
不慣れな城を走り抜ける。
意見を交わしている場合じゃない。
何が起きているかは判らないが、何か、取り返しの付かない事が起きている―――
階段を降りた先は二階の廊下だった。
壮絶な剣戟は、すぐ間近で行われている。
「しめた。ここ、広間の吹き抜けに繋がってる」
通路の先を確認する遠坂。
廊下はT字に別れており、それぞれが広間の両側のテラスへ通じているようだ。
「ここで別れましょう。わたしはこっちから様子を見るから、士郎はそっちからお願い」
固まっているよりバラけた方がいい。
……今の俺たちでは、見つかった時点で逃げ延びる術はない。
それは二人でいようと一人でいようと同じだ。
だから分かれる。
二手に分かれていれば、たとえ一方が見つかったとしても、もう一方だけはなんとか逃げられる希望があるからだ。
遠坂は東側の廊下へ歩を進める。
「――――――――」
頷いて、もう一方の廊下―――正反対に位置する西側の廊下に進む。
「――――士郎」
不意に呼び止められた。
「……判ってるわね。何が起きようと絶対に手は出さないで。今のわたしたちに戦う手段はない。
いい、やばいと思ったらすぐに逃げるのよ。どちらかが捕まっても構わず走って。……誰かを助けるなんて、まず自分を助けてから考える事なんだから」
感情を押し殺した声。
それは忠告というより、どこか懇願に近い響きがあった。
大回りをしてロビーのテラスに出る。
正面、遠く離れたテラスには、俺と同じタイミングで到着した遠坂の姿があった。
遠坂はテラスに着くなり身を屈め、体を隠しながら眼下の様子を覗き見る。
それにならって広間を見下ろした途端、俺たちは同時に声を押し殺していた。
「し、慎二――――!? なんだってあいつ、こんなところに……!?」
瓦礫の上。ロビーの隅で、慎二は楽しげに様子を見ている。
いや、違う。
驚くのはそんな事じゃない。
今、真実認めなくてはいけないのは、慎二が見守っている“戦い”だった。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
黒い巨人が、雄叫びをあげていた。
薙ぎ払われる斧剣は砂塵を巻き上げ、うち砕かれた瓦礫を灰燼に帰していく。
以前と何も変わらない狂戦士の姿。
いや、鬼気迫る咆哮は以前の比ではないだろう。
巨人の背後には、白い少女の姿がある。
バーサーカーのマスター、イリヤスフィール。
たえず無邪気な笑みをうかべていた、殺し合いには到底似つかわしくない少女。
その少女が。
今は肩を震わせ、泣き叫ぶ一歩手前の顔で、自らのサーヴァントを見つめていた。
蒼白になった顔は、目前の絶望を必死になって否定している。
誰か助けて、と。
白い少女は、震える唇でそう訴えていた。
「――――そんな」
吹き荒れる旋風。
バーサーカーの斧剣はことごとく弾かれる。
広間の中央。
瓦礫の玉座に君臨する、一人のサーヴァントの“宝具”によって。
無数の剣が舞う。
男の背後から現れるそれらは、一つ一つが紛れもなく必殺の武器だった。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓――――!」
貫く。
それこそ湯水の如く。
底なしの宝具はバーサーカーの斧剣を弾くだけでは飽きたらず、その体を蹂躙していく。
吹き飛ぶ五体。
剣は黒い巨人の胴を断ち、頭部を撃ち抜き、心臓を串刺しにする。
―――だが、それでも死なない。
巨人は即死する度に蘇り、確実に敵へと前進する。
既に八度。
それだけの数無惨に殺されていながら、バーサーカーは前進する。
それを、あの“敵”は楽しげに笑って迎えた。
繰り返される惨劇。
バーサーカーは敵に近づく事さえできず、幾度となく殺されていく。
「――――バカ、な」
あのバーサーカーが為す術もなく倒されている、という事がじゃない。
あの男―――あのサーヴァントが、あまりにも馬鹿げている。
次々と繰り出される無数の宝具は、その全てが本物。
アーチャーの剣を投影したからこそ読みとれる。
アレは、あらゆる宝具の原典、伝説になる前の最初の一だ。
それを限りなく保有する英霊とは何者なのか。
いや、そもそもサーヴァントは七人の筈。
ならばあいつは八人目――規定外の、居てはならない存在ではないのか―――
「――――――――」
息が出来ない。
バーサーカーは、尋常じゃない。
鋼の肉体とあの怪力。加えて死んでもその場で蘇生する、なんて能力があっては、それこそ太刀打ちできる相手じゃない。
その怪物相手に一歩も引かず、次々と魔剣、聖剣を繰り出して圧倒する八人目のサーヴァント。
「――――――――」
顔をあげれば、向こう側の遠坂の顔も蒼白だった。
―――当然だろう。
眼下の空間は死地だ。
立ち入れば一瞬にして死ぬ。
いや、何より――――
……あいつは、悪魔だ。
バーサーカーとは違う凶暴さ―――秩序を持たない、ただ殺す事が目的の戦いを、あの男は望んでいる。
――――だが。
その、あまりにも規格外の敵を前にして、黒い巨人はなお最強だった。
全身を貫かれようが切り裂かれようが、その歩みは止まらない。
降り注ぐ宝具の雨を受け、その度に蘇生を繰り返しながら、確実に敵へと間合いを狭めていく。
それは、あまりに愚直な前進だった。
敵の攻撃への対抗策など考えない。
ただ命のある限り前に進み、敵を屠り殺すだけの野蛮な戦いだ。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
……届かない。
バーサーカーの蛮勇は敵に報いる事なく、ただの標的として終わるだろう。
あの敵はそれを理解している。
故にあえて歩を止め、愚かにも前進するだけの巨人を挑発しているのだ。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
今の方法では、黒い巨人に勝機などない。
傍目から見ている俺にも、対峙しているあの男にも判る事だ。
―――そしておそらくは。
標的にされているバーサーカー自身も、とうにそれを知っていた。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
だというのに、巨人は愚鈍なまでに歩を進める。
後退も知らず、避ける事もしない。
その姿を、あの男は笑って出迎える。
「――――フ。所詮は犬畜生《バーサーカー》、戦うだけのモノであったか。同じ半神として期待していたが、よもやそこまで阿呆とはな!」
宝具が奔《はし》る。
哄笑をあげ、男は背後の宝具に指令を下した。
「では、そろそろ引導を渡してやろう。これ以上近づかれては暑苦しい」
―――号令一下、無数の宝具が巨人を襲う。
巨人はその大部分を弾き返し、同時に、大部分にその命を奪われた。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
黒い巨体が揺れ動く。
ゆらり、と倒れていく岩の体。
―――だが。
巨体は今一度踏みとどまり、全身にまとわりついた宝具を振り払った。
「な――――に?」
驚愕は男のものか。
黒い巨体は宝具の群れを駆逐し、なお己が敵へと踏み込んでいく。
……体は、既に死に体だ。
もはや絶望的なまでの致死傷を背負いながら、黒い巨人は前進する。
「――――――――」
……それは、強い意志に因るものだ。
決して狂戦士故の狂気ではない。
巨人は確かな意思の下、絶望的な戦いに挑んでいる。
「チ―――でかいだけの的が、いまだ形を留めるか……!」
容赦なく打ち出される魔弾。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
斧剣で弾き、肉を削がれ、足を穿たれながら、巨人は男を追い詰めていく。
「――――――――」
きっと届きはしない。
それを承知でなお挑むのは、譲れないものがあるからだ。
―――前に進むのは何の為か。
サーヴァントは主の為、その命を守る為に戦う。
だからこそあの巨人は引かなかった。
背後にいる主、怯える少女を宝具の雨から守る為に、盾となって前進するしかなかった。
巨人は愚直な前進を繰り返す。
イリヤスフィールを守りながらあの敵を討つには、攻撃を自身に集めるしかないと悟った故に。
そうして―――もし敵まで辿り着けたのなら、その時こそ彼の勝利だ。
これは、始めからそういう戦いだった。
男は巨人が間合いを詰めるまでに絶命させ、
巨人は命が尽きる前に男へと肉薄する。
そのどちらかを先に果した者が生き残るという戦い。
巨人はその事実を悟っていたのだ。
……たとえ、それが。
始めから、勝ち目のない戦いだったとしても。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓――――!」
咆哮があがる。
十度目の死を越え、黒い巨体が駆けた。
瓦礫を巻き上げながら男へ突進するそれは、闘牛士に挑む雄牛のようでもある。
「下郎――――!」
放たれる無数の矢。
度重なる死の中で慣れたのか、最後の猛りだったのか。
巨人は全ての矢を弾き返し、
宝具の主へと肉薄する――――!
斧剣が走る。
今まで一度たりとも男に対して振るわれなかった剛剣が、ついに唸りをあげて一閃され――――
「――――天の鎖よ――――!」
現れた無数の鎖によって、黒い雄牛は捕らえられた。
それはいかなる宝具か。
突如空中より現れた鎖は、空間そのものを束縛するようにバーサーカーを封じていた。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓」
鎖はバーサーカーの両腕を締め上げ、あらぬ方向へとねじ曲げていく。
全身に巻き付いた鎖は際限なく絞られていき、岩のような首でさえ、その張力で絞り切ろうとしていた。
「―――ち、これでも死なぬか。
かつて天の雄牛すら束縛した鎖だが、おまえを仕留めるには至らぬらしい」
男の声。
広間には鎖の軋む音が充満している。
バーサーカーの力だろう。
空間そのものを制圧する鎖を断ち切ろうとする巨人。
本来不可能な筈のそれも、あの巨人ならば成し得るに違いない。
そして当然、男もそれを承知していた。
「やだ――――戻って、バーサーカー……!」
少女の悲鳴があがる。
令呪を用いて、イリヤスフィールはバーサーカーに強制撤去を命じる。
だが、巨人は鎖に捕らえられたまま、一歩たりとも動く事は出来なかった。
「なんで……? わたしの中に帰れって言ったのに、どうして」
「無駄だ人形。この鎖に繋がれた物は、たとえ神であろうと逃れる事はできん。否、神性が高ければ高いほど餌食となる。元より神を律する為だけに作られたもの。令呪による空間転移など、この我《オレ》が許すものか」
そうして。
終わりを示すように、男は片腕で巨人を指した。
「ぁ――――」
愕然とする少女の声。
……………………終わった。
今度こそ、本当に終わった。
鎖に繋がれ、無防備なままに宝具を受けること二十二回。
もはや奇怪なオブジェにしかとれない形になって、黒い巨人は沈黙した。
……息があるかなど見るまでもない。
十の死を乗り越えた大英雄であろうと、それを越える二十の死を受けては立ち上がれまい。
……そう。
たとえ生きているとしても、巨人には呼吸をする力すら、もはや残されてはいないだろう。
―――そうして、両者の戦いは終わった。
どちらが勝利するのかは、始めから判っていたのだ。
……バーサーカーは、あのサーヴァントには勝てなかった。
否、あらゆるサーヴァントは、英霊である以上あの男には敵わない。英霊にはそれぞれ、生前において苦手とされた事柄がある。
その因縁こそが彼らにとって最大の弱点だ。
なら―――もし全ての宝具、その英雄を殺した宝具を所有するモノがいるとしたらどうなるか。
その結果が、これである。
いかに英雄としての精度で上回ろうと、英霊である以上は、決してあの男には勝利できない――――
「やだ――――やだよぅ、バーサーカー……!」
墓標となった黒い巨体に、白い少女が駆け寄っていく。
それを。
男は手にした剣で、容赦なく切りつけた。
「――――――――――――」
悲鳴があがる。
男は、少女の両目を一文字に切り裂いた。
「――――――――――――」
ついで一撃、心臓に突き刺す。
それは外れた。
否、あえて外したのか。
少女は肺を貫かれ、ごふ、と赤いモノを咳き込んだ。
――――鎖が断ち切られる。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓――――!!!!」
鎖を断ちきり、黒い巨人が男へと襲いかかる。
その、あまりにも鈍重な標的を、男は刺した。
心臓を穿つ槍。
ランサーの宝具、ゲイボルクに類似した槍で巨人を仕留める。
――――それで終わり。
今度こそ本当に、黒い巨人は絶命した。
「――――――――――――」
倒れた少女から剣が引き抜かれる。
赤い跡を残しながら、少女は動かなくなった巨人へと這っていく。
「――――――――――――」
その姿を愉快げに見下ろして、男は歩いていく。
剣は捨てた。
男は、素手で。
瀕死の少女の体に、とどめを。
「――――――――――――」
死ぬ。
きっと死ぬ。
今度ばかりは、絶対に死ぬ。
あのサーヴァントには理屈などない。
邪魔をすればただ殺すだろう。
見つかる前にここを離れなければ、確実に殺される。
それを、俺は。
固まっていた体が弾けた。
立ち上がる足と、手すりにかけた腕は同時。
最中、遠坂の顔が見えた。
遠坂は悔しげに唇を噛んだまま、眼下の惨状を睨んでいる。
……判ってる。
遠坂だって止めたいに決まっている。
だが、そんな事をすれば殺されるのは自分だ。止める事などできる筈がない。
それは俺だって同じだ。
死にかけの少女を助ける為に自分が死ぬのは、あまりにも馬鹿げていると理解している。
―――そんな事は知らない。
俺には、あの子を放っておけない。
脳裏を占めたものはそれだけ。
手すりに体を預け、飛び降りる。
遠坂と慎二、二人は突然の乱入者に驚きの目を向け、
あの男は、飛び降りた俺など視界にさえ納めていない。
男は、白い少女の体に手を伸ばす。
「――――止めろ、テメェ―――!!」
絞った声で叫ぶ。
渾身の思いであげた制止の声。
「――――――ほう?」
男は突きだそうとした腕を止め、ゆらり、と。
新しい獲物を見つけた死神のように、壁際に降り立った俺へ振り向いた。
◇◇◇
遡ること一月《ひとつき》よりさらに前。
誰よりも早く、彼はこの世に召喚された。
彼が呼び出された場所は、この国ではなかった。
遠い異国。
大地は常に白く覆われ、空は青みを忘れて久しい、人知れぬ山間の城だった。
その土地には冬が永住している。
冷気と停滞、不毛と切望。
現世との関わりを断ち、ひたすら奇蹟の再現を待つ彼らは、生きる屍と同じだった。
冬の寒気は彼等から人としての温かみを奪い、
停滞した世界は彼らに新たな生き方を許さない。
……彼の一族は聖杯の探求者。
悲願が成就されるその日まで、アインツベルンに春は来ない。
聖杯の探求より、既に十世紀が経った。
あらゆる手段を用いて“聖杯”に近づこうとした彼らは、いつしか聖杯を錬鉄するに至った。
もっとも、作れるのは器のみ。
その中に宿る神秘はカラのまま、満たされる事のない杯ばかりを錬鉄する。
―――だが、その日々にも終わりが見えた。
彼らは外部からの協力者を得て、その中身を満たす儀式を行ったのだ。
その結果は、成功であり、失策でもあった。
聖杯は成る。
その方法ならば聖杯は満たされよう。
だが、同時に多くの敵をも作った。
聖杯の所有者である筈の彼らは、他《た》の凡百の魔術師たちと同格の“提供者”に成り下がったのだ。
彼らの執念は常軌を逸していた。
いや。千年前、聖杯をつかみかけた時から、とうに正気を失っていた。
彼らはルールを破り、常に最強のカードをたぐり寄せる。
一度目はそう仕向ける余裕もなかった。
二度目にようやくルールの綻びを発見した。
三度目には呼んではならぬモノを呼んだ。
そして四度目。
最強のカードとその操り手を得て、今度こそ勝てると踏んだ。
結果はかつてないほどの惨敗だった。
彼らが選び出したサーヴァントとマスターは、事もあろうに彼らを裏切ったのだ。
妻と娘を冬の城に残したまま、その男は聖杯を破壊した。
彼らは男の裏切りに憤怒し、自分たちの過ちを嘆いた。
やはり外の人間は信用ならぬ。
事を成すのは我らの血族、魔術回路として完成された一族の作品だけだと。
もとより保険はかけてあった。
そうして五度目。
彼らは今度こそ、最強のマスターとサーヴァントを用意した。
それが彼である。
聖杯戦争が開始される二月《ふたつき》前。
あらゆるルールを破り、事前に彼―――バーサーカーは召喚された。
その後の日々は、マスターとなる人間を痛めつけるだけのものだった。
……少女の全身に刻まれた令呪は、バーサーカーを制御するだけのもの。
魔術回路として何の役にも立たないソレは、間違いなく少女の命を削っていく。
バーサーカーがわずかに動くだけで、白い少女は悲鳴をあげた。
―――無理もない。
聖杯出現は二月も先の事だ。
大英雄である彼を繋ぎ止めるのは、少女の魔力と令呪だけである。
バーサーカーは聖杯の魔力で編まれたモノではないのだ。
いかに少女が特別とは言え、自身の魔力だけでバーサーカーを留める事は命を奪われるに等しい。
それを理解してなお、彼らは休息を与えなかった。
冬の森、飢えた獣の群に置き去りにした。
悪霊憑きの亡骸どもにもくれてやった。
失敗作がうち捨てられる廃棄場にも投げ込まれた。
少女が助かる為には、唯一与えられた巨人に頼るしかなかった。
―――もはや訓練とも呼べぬ拷問に、少女は悉く生還した。
躙《にじ》りよってくる敵を巨人に打たせる。
その度に苦悶の絶叫《こえ》をあげながら、絶え間なく襲いかかってくるモノを全て排除させた。
……その過程が、いつから。
自分にとって特別な物になったのか、彼自身よく判らない。
少女はその幼さとは裏腹に、弱音を吐く事を嫌っていた。
口に出るものは全て罵倒だ。
嘆くのならば、その原因である誰かを嫌った方が強くなれる、と本能的に悟っていたのか。
少女はバーサーカーを醜いと蔑み、その存在を呪った。
当然だろう。
バーサーカーさえいなければ、少女は苦しむ事もない。
マスターになど選ばれなければ、あのような地獄に投げ込まれる事もなかったのだから。
少女は事あるごとに巨人を憎み、怒りのはけ口にした。
制御に慣れ、聖杯出現の予兆が現れた頃には、少女を襲う苦痛も消えていた。
少女は今までの復讐とばかりに巨人から理性を奪い、物言わぬ『狂戦士』として扱った。
―――それが少女の精一杯の抵抗だという事を、彼はとうに悟っていた。
少女はそうする事で、必死に自身の弱さに蓋をする。
自分は一人でも生きていける、と。
頼りになる協力者も親愛なる友人もいらない、と胸を張っていた。
……それは。
どうしても与えられぬ自身を誤魔化す為の、精一杯の虚勢だったのだ。
『―――バーサーカーは強いね』
[#挿絵(img/216.JPG)入る]
冬の森。
返り血で真紅に染まった腕に、躊躇いがちに少女は触れた。
獣の群に囲まれ、少女は死を覚悟し、必死にそれを拒み続けた。
―――あの時。
主の指示なくしては動けなかった彼は、まっさきに獣たちの餌食となった。
首を、額を、手足を食いちぎっていく獣の群。
それを目前にして、少女は叫んだ。
……その時の言葉がなんであったか、理性を奪われている彼には思い出せない。
ただ、少女は自らの為ではなく、彼の為に叫んだのだ。
この腕《かいな》が振るわれる度に自身の腕が破裂するというのに、彼を死なせない為に、少女は肉体の崩壊に耐え続けた。
だから、お互いが血まみれだった。
巨人は屠った獣たちの血で濡れ、少女は自らの血で濡れていた。
……その、冬の森を覚えている。
苦痛の涙をこぼしながら、体を預けた少女の重みを。
そうして気が付いたのだ。
あの狭く冷たい城の中。
少女が話しかけるのは、黒い《おの》巨《れ》人だけだったという事に。
「やだ――――やだよぅ、バーサーカー……!」
その姿が、視界に映った。
あの時と同じ。マスターとして完成されて以来、見ることのなくなった泣き顔で少女が走り寄ってくる。
それを斬った。
両目を一薙に切り払い、金色《こんじき》の敵は、少女から光を奪っていた。
少女の顔が真紅に染まる。
かまわずに走って、両目を切り払われた少女は、足下の瓦礫に躓《つまづ》いた。
細い体が倒れ込む。
そこに。
敵の剣が、振り落とされた。
剣は、少女の心臓を外していた。
肺を破かれたのか、少女は倒れたまま、ごふ、と血の塊を吐き出している。
即死ではない。
だが、もはや助かるまい。
両目は潰され、肺も壊れ、サーヴァントさえ失ったのだから、少女にはもう何もない。
故に、せめて安らかに。
そのまま眠ってしまえば、或いは救いの手もあるだろう。
だと、いうのに。
「……あれ……いたい、いたいよ、バーサーカー……」
少女は、血の跡をつけて進んでいた。
苦悶の声をあげ、泣きながら、手探りで黒い巨人へと這ってくる。
どこにそれだけの力が残っていたのか。
渾身の力で鎖を粉砕し、男へと掴みかかる。
「――――フン」
奔る魔槍。
巨人の胸に心臓破りの槍が入る。
「――――――――」
それで終わった。
男は何事もなかったように槍を引き抜き、巨人に残された力は完全に消滅した。
体が消える。
この身を受肉させていた力は全て途絶えた。
ならば、あとは消え去るのみ。
全ての魔力を無くしたサーヴァントに、これ以上現界する力はない。
ぐらりと足下から倒れ込む。
だが、その最期。
彼は網膜に、自分を手探りで捜す少女を見た。
「――――――――」
倒れゆく足に力が戻る。
彼を作り上げた魔術法則、
矛盾を嫌う世界からの粛正、
砂と化して崩れていく岩の体。
『―――バーサーカーは強いね』
その、自身をここで消そうとするあらゆる力を、ただ意思だけで押しのけた。
―――まだ消える事はできない。
おそらくは唯一つだった心の寄る辺《べ》。
彼を罵倒しながらも、ただ一つの頼りとして信じ切っていた、孤独な少女に応えるために。
「……どこ? わかんない、まっくらでなんにもわかんないよぅ、バーサーカー―――」
両目を潰され、手探りで少女は這ってくる。
……見えぬからこそ、その手に触れたいのか。
血に濡れた手は、彼の存在を確かめようと空を掴む。
「――――――――」
残された力などない。
出来る事など何もない。
彼《バーサーカー》はここで倒れ、ここで死ぬ。
全身はとうに死滅し、倒れ込む己を支える力もない。
―――だからわたしは安心だよ。
どんなヤツにだって、
バーサーカーさえいれば負けないもの―――
だが、それは許されなかった。
もはや死んだ意識。
とうにある筈のない意思だけで、彼はその身を保ち続けて、この世を去った。
四肢は倒れず、無敵であった以前のまま。
己を頼りとする少女の為、最後まで、この身は不撓不屈でなければならぬと言うかのように。
……そうして、少女は辿り着いた。
空を切るばかりだった指先が、たしかな感触に包まれる。
「あ―――」
こふ、と赤く咳き込みながら、少女は硬い体にすがりついた。
……もう目は見えないが、彼女にはキチンと伝わってくる。
バーサーカーは負けていない。
自分にはもう確かめられないけれど、バーサーカーはいつもみたいに強いままだ。
「―――うん。良かった、ずっとそこにいてね、バーサーカー」
力が抜けた。
いまはとても痛くてこわいけど、彼がいるのならだいじょうぶだ。
いつだって守ってくれた。
怖かったけど、本当に優しかった。
おっきな体はお父さんみたいで、ほんとは一度ぐらい抱きあげてほしかった。
「暗くてもこわくないよ。バーサーカーは強いんだもん。
こうしていてくれれば、わたしはあんしんできるから―――」
体を預ける。
頭に、硬くておっきなてのひらが乗せられるような気がした。
きっとそれは本当だ。
目を開ければ、もう頭を撫でられているに違いない。
「……ん……ちょっと、寒いね」
体が冷たい。
少しだけいつかの森を思い出して、少女は笑った。
もうずっと前のこと。
傷つきながらも自分を守ってくれた巨人の姿を思い出して、彼女は幸せに意識を閉じた。
――――男は、安らかに眠りについた、白い少女に手を伸ばす。
「――――止めろ、テメェ―――!!」
絞った声で叫んだ。
自身の危険、その先にあるものなど考えなかった。
「――――――ほう?」
男は突きだそうとした腕を止める。
その背後には、俺の乱入に驚く慎二の姿がある。
男の口元には不吉な笑み。
「待――――」
震える喉が、考えるよりも先に声を絞る。
だが、そんな事で。
あの男が、止まる筈がなかったのだ。
「――――――――」
待て、と言う事も、出来なかった。
男は笑みを貼り付けたまま、素手で、少女の体から何かを引きずり出していた。
毒々しい果実じみた赤色。
男が手にしたものは、紛れもなく、白い少女の心臓だった。
「――――――――」
思考が焼け落ちる。
殺される、という畏怖と、殺してやる、という憎悪が混濁して正気が消えた。
「観客がいたか。我《オレ》の勇姿を見たいという気持ちは分かるが―――」
男は、右手に少女の心臓を握ったまま、
「身の程を弁えろ。王に命じるとは何事か、雑種!!」
無数の宝具の一つを、俺めがけて射ち放った。
テラスが落ちた。
男の宝具は城の壁を貫き、広間の壁を倒壊させていく。
「――――――――」
その中で、一歩も動かなかった。
頭上から落ちてくる瓦礫も知らない。
逃げる余分などなかったし、逃げる気など毛頭なかった。
家ほどもある瓦礫の塊が背中を掠っていこうが関係ない。
今はただ、ヤツを―――あの男から、視線を逸らすなんて考えられない。
「―――ほう。何かと思えばセイバーのマスターとはな」
「――――――――」
赤い瞳が、俺の敵意に反応する。
―――気が狂う。
次の瞬間、自分は死ぬ。それが怖くない筈がない。
だが体は逃げる事を拒絶し、あの敵をここで倒せと叫び続ける。
無惨に殺された少女の亡骸が、やつを許すなと命じ続ける。
気が狂うのは当然の事。
生と死を望む矛盾が、この脳《あたま》を不能なまでにかき回している。
「――――――――」
「戦う意思はあるようだが話にならん。肝心のセイバーがいないのでは、貴様などに価値はない」
男の左手に剣が現れる。
剣は容赦なく振りかぶられ、あとは振り下ろすだけで、衛宮士郎を仕留めるだろう。
「――――――――」
それでも、敵を凝視し続けた。
あの男に背中を見せる事は、どうあっても考えつかない。
「―――ちょっと待てよ。そいつさ、僕の知り合いなんだよね」
男の剣が止まる。
俺と正反対の壁際で様子を見ていた慎二は、軽い足取りで広間の中央へと歩いてくる。
「よう。久しぶりだな衛宮。こんなところで会うとは思わなかったんでね、少しばかり驚いたよ」
「――――――――」
男は動かない。
ヤツまでの距離は十メートルほど。
……近づけるのか。この間合いを詰める事は、あのバーサーカーにさえ出来なかったというのに。
「なんだ、ブルって声も出ないのか! まあ気持ちは判らないでもないよ。僕もライダーの時はそうだった。
ああ、そうだったそうだった! いや、あの時は見逃してもらって助かったよ衛宮!」
武器になる物はない。
だが構うものか。
思考は、ある意味澄みきっている。
今の状態なら、あいつの剣を投影する事にも不安はない――――
「おい。僕がこっちを見ろって言ってるんだ……!」
「――――――――」
……僅かに気を逸らす。
男を視界に納めたまま慎二に顔を向ける。
「そうだよ、判ってるじゃんか。今、ここで一番誰が偉いのかってコトがさ」
「――――――――」
少し、息を飲んだ。
慎二の言葉にではない。あいつが、それを本気で言っているという事が、意外だった。
「そういう事だ。なら判ってるよな衛宮? おまえ、このままじゃ確実に死ぬよ」
……なんて場違い。
とっくに理解している事を、今更何故口にする。
「紹介が遅れたが、そいつはボクの新しいサーヴァントでね。ライダーなんかより凄いだろ」
慎二は男の肩に手をかける。
そうして、嬉しげな顔のまま、
「命乞いしろよ衛宮。少しは考えてやってもいいぜ」
よくわからない事を、口にした。
「断る」
迷いはなかった。
躊躇も、わずかに思案する素振りも見せず即答する。
「っ……! そうかよ、それじゃあ死んじゃえよ、おまえ……!」
跳び退く慎二。
男は冷めた貌《かお》のまま、振り上げたままの剣をようやく一閃させ――――
「そこまでよ。そこのサーヴァント、指一本でも動かせばマスターの命は保証しないわ」
――――再度、その剣を停止させた。
視線があがる。
広間にいる者全てが、テラスに立つ少女に意識を向ける。
遠坂の手は慎二に向けられていた。
慎二に魔術師としての適正がないとしても、その意味は判るだろう。
遠坂は本気だ。
あの男が剣を振り下ろせば、報復として確実に慎二を仕留める。
「と、遠坂……! おまえまでなんでここに……!?」
「――――――――」
遠坂は答えず、ただ慎二に照準を合わせている。
「な―――なんだよ、おまえ―――本気で僕を撃とうってのか、この人殺し……!」
「殺したのはそっちが先でしょう。
―――もっとも、どうであれこっちの気は変わらないわ。慎二。殺す権利と殺される権利は同じよ。そんな事、人間なら魔術師じゃなくても本能で理解なさい」
「っ――――」
遠坂に射すくめられ、慎二は弱々しく後退する。
それを、
「――――ほう」
ヤツは、楽しげに眺めていた。
頭上の遠坂をなめ回すような視線。
「…………?」
……と。
何か、妙な振動が、一瞬だけ広間を支配した気がする。
「なるほど。我《オレ》の打倒は出来ぬと悟りマスターを狙ったか。交渉を持ちかけたのは、マスターを殺したところで我《オレ》が止まらぬと判断したからだな、娘」
「……そうよ。慎二が死んだぐらいじゃアンタは止まりそうにない。けどこの状況なら考えてもいいでしょう?
今なら慎二を救えるもの。アンタだってサーヴァントなら、マスターを失うのは痛手の筈よ」
「ふ。なるほどなるほど、なかなかの機転だ。そこの雑種を助けたいのならば、その交渉しかありえまい」
剣が消える。
やつはそれきり、興味をなくしたと俺に背を向けた。
「……! おまえ、何のつもりだ! 誰が止めろって言ったんだよ……!」
「いや―――状況が変わったぞ、シンジ。彼女ならば器としては文句なしだ」
「え――――?」
慎二の息が止まる。
苛立ちに染まった顔は、唐突に、嫌らしい笑顔に変わっていた。
「そうか―――いや、嬉しいよ遠坂。君がまだ生きていてくれて」
「そう。一応わたしもホッとしたわ。アンタみたいなのでも付き合いは長いからね。どこかで死なれてたら気落ちするわ」
へええ、と嬉しそうに笑うと、慎二は両手をあげて喝采した。
……異様と言えば異様だ。
遠坂に命を狙われていながら、慎二に恐怖はない。
それを上回る喜びが、あいつを麻痺させているようだった。
「まあいい。それよりどうだ遠坂。衛宮なんてほっといてさ、僕たちと手を組まないか?」
「―――僕たち?」
「そうだよ。君もキャスターが力を蓄えているのは知っているだろう。柳洞寺は今回の祭壇なんだ。そこに陣取られて魔力を蓄えられてるとね、少しばかり不利になる」
両手をあげて慎二は言う。
が、それは言われるまでもない事実だ。
加えて言うのなら、慎二はキャスターがセイバーとアーチャーを手に入れた事を知らないようだ。
「な、わかるだろ、一人でやっても勝ち目は薄いんだ。
バーサーカーのマスターは倒したけど、これだけじゃ足りない。遠坂、君がいればキャスター達にも負けないモノが作れるよ」
自信に満ちた声で慎二は誘う。
それを、
「お断りよ慎二。アンタが誰と繋がっているかは知らない。けどね、わたしから見てもいいように使われてるだけのヤツに、付いていく道理はないわ」
眉一つ動かさず、遠坂は切り払った。
「な――――なん、だって……?」
「わからない? 腐れ縁から忠告するけど、もうちょっと周りを観察する知力を養いなさい。
間桐慎二をマスターだと思っているのはアンタ一人だけよ。アンタには魔術師としての才能がないっていい加減気が付いたら?」
「テッ――――――!」
慎二の顔がひきつる。
容赦のない遠坂の言葉で、命を握られている事も忘れたのか、
「やれギルガメッシュ、衛宮も遠坂も皆殺しだ……!」
慎二は、自らのサーヴァントにそう命令した。
「――――――――」
「な、なんだよ、やれって言ってるだろ……! おまえなら、僕がやられる前にやるなんて簡単じゃないか……!」
「―――いや、残念だが時間切れだ。これ以上放置すれば腐ってしまう」
詰め寄ってくる慎二に、男は右手のモノを見せつける。
……赤い肉片。
白い少女から引きずり出した、いまだ脈打つ心臓を。
「くっ――――」
悔しげに歯を鳴らす慎二。
「―――くそ、後悔するなよ遠坂! もう仲間にしてやらないからな……!」
慎二は正門へと走り去っていく。
……残った一人。
男は己が主の狂態をゆっくりと眺めた後、
「だそうだ。よい友人を持ったな」
愉快げに残して、瓦礫の広間から去っていった。
――――そうして、歩み寄った。
広間の中心。
天井から灰の陽射しが差し込む中。瓦礫にまみれて、少女は眠っていた。
「――――――――」
その目蓋が開かれる事はない。
間近で見れば、少女は白くなどなかった。
全身を赤色で塗りたくられた少女には、もう、以前の面影はない。
「……士郎のせいじゃないわ。
判ってるでしょう。わたしたちじゃ、この子を助ける事なんて出来なかった」
判っている。
助けられるモノと助けられないモノがいる事は、ずっと前から教わっていた。
自らの手にあまる事を成そうとすれば、自らの命を危険に曝す事になるとも知っていた。
――――それでも。
それでも、助けたかった。
子供が死ぬのはイヤだ。
目の前で人が死ぬのはご免だ。
助けて、と。
救いを求める誰かを救えないのは、何よりも怖く、辛かった。
「――――――――」
ごめん、などと口にできる筈もないし、口にするだけの関わりがあった訳でもない。
この少女は、衛宮士郎とは無関係だ。
そんな事、誰に言われるまでもなく理解しているというのに、何故――――
「――――――、あ」
この目は、無関係な涙を流しているのだろう?
「――――どうして?」
「……遠坂?」
「……どうしてよ。
あいつの前に出れば殺されるって判っていたでしょう。なのにどうしてイリヤスフィールを助けようとしたの。
結果はどうあれ、イリヤスフィールは敵だった。
なのにどうして、この子の死にそこまでしてやれるのよ」
それは追及、だったのか。
遠坂の目は真剣だった。
「―――どうしても何もない。助けたいと思ったから止めただけだ」
それ以外に説明のしようがない。
遠坂は、そう、と俺を睨み付けたあと。
「……そう。前から異常だと思ってたけど、今ので確信したわ。
士郎。貴方の生き方は、ひどく歪《いびつ》よ」
今までずっと閉じていたフタを、開けようとした。
「歪……だって……?」
「そうよ。自分より他人のが大切、なんて生き方は間違ってる。
いい、他人を助けるのは自分が愛されたいからだ、なんて一般論を口にしてるんじゃないわ。
そんな偽善とは別のところで、人間は自分を一番にしなくちゃいけないの」
「そりゃ他人が一番のヤツだっている。
けど、そもそも自分っていうのは秤にかけられない“別格”なのよ。言うなれば計りそのものでしょう。なのにアンタは、その計りを壊してどうでもいい他人を助けようとする」
「……ええ、それでも構わない。アンタが自分のない、ただ生きてるだけの人間ならそれもいい。
けど、士郎は自分があるじゃない。
そんな確固たる自意識があるクセに、自分をないがしろにするなんて出来ないのよ。
―――そんな事を続けてたら、いつか必ず壊れるから」
「――――――――」
バカな。
壊れるなんて、そんな事はない。
俺は、むしろそうならない為に。
胸を張っていられる為に、助けられなかった誰かを助けようと――――
「いいえ。もう十分に壊れてるわ、貴方は。
……だから言ってよ。十年前に何があったかは知らない。けど、アンタがおかしくなってるのはそれが原因なんでしょうから……!」
遠坂の目は、泣いているようにも見えた。
どうしてそんな顔をするのか。
まるで、この先。
俺の行く末が報われないものだと知って、止めるかのような懸命さで。
「……学校の時もそうだった。貴方はあれだけの死体を見て、とんでもなく冷静だった。……わたしでさえ死体と勘違いしたっていうのに、一瞥しただけでみんなが生きてるって読みとっていた」
「それが、ずっとヘンだってひっかかってた。
魔術師としてろくな教育を受けていないクセに、殺し合いになってもすぐに自分を落ち着かせていた。
死体を前にして憤る事はあっても、死体そのものに嫌悪を抱いてはいなかった。
それはきっと―――貴方にとって、人の死は見慣れたものだったからよ。それだけのモノを、十年前に見たっていう事でしょう?」
見慣れている……?
ああ、確かに初めて見たという訳でもなかった。
学校で倒れていた生徒たちも、首をねじ切られて死んでいたライダーの姿も、こうして、目の前で眠る少女の姿も、あの時に比べれば“人の死”を迎えていると思う。
「――――――――」
だが、違う。
十年前の火災は、衛宮士郎を救ったものだ。
それが、遠坂に責められる要因になる筈がない。
「違う、遠坂。そんな事はない。俺はただ、助けられただけだ」
「助けられた……? 貴方、十年前の火事の時に助けられたのね? それが衛宮切嗣だったの?」
「ああ、そうだ。ただそれだけだ。あれは原因なんかじゃない」
そう答えた時、胸が軋んだ。
それは嘘だと、自分自身が訴えている。
「じゃあ他には何かなかった? ずっと後悔しているような事とか、助けられる代償に、衛宮切嗣に取られたモノとかなかったの?」
「―――そんなのあるもんか。切嗣は俺を助けてくれただけだ。それに、取られるも何も、その時は」
その時は、何もなかった筈だ。
―――多くの人間の死体を見た。
その時に自分は死んで、新しく生まれたのだ。
――――道に懺悔はなく。
目はそこで憎悪をなくし、
手はそこで憤怒をなくし、
足はそこで希望をなくし、
我はそこで自身をなくした。
……そんな自分が、なぜ。
遠坂の言うような、確固たる“自意識《じぶん》”を持ち得たというのだろう――――?
「――――――――、それは」
死を受け入れていた。
もう死ぬものだと判っていた。
そんな状態で、体を救われたところで心まで生き返る筈がない。
俺は、あの時。
空っぽのまま、何か尊いものに、憧れただけではなかったか。
「ああ――――そう、だった」
思い出した。
いや、そもそも記憶などしていなかった。
だからそれが、俺を本当に助けたモノだったなんて、今まで気が付きもしなかった。
「……士郎? やっぱり、何か契約でもさせられたの?」
「違う。取られたものなんて何もない。俺はただ、貰っただけだ」
地獄のような世界。
自分以外の全ての人間が死に絶えた場所で、ただ一人救われた。
誰も助けてくれず、誰も助けてやれなかった。
その最期に、奇蹟だと思っていた事を、叶えてくれた。
「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。
その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」
素晴らしい、奇蹟なんだって事を。
だから憧れた。
何もなかったから、何一つ残っていなかったから、目にしたその姿に憧れた。
「だから、俺は――――」
―――それしか、なかった。
助けられて、その感情しか浮かばなかった。
嬉しかったんだ。
涙が出たんだ。
それしか考えられなかったんだ。
だから――俺は、そんな感情しか作れなかった――
「――――ああ。きっと、遠坂は正しい」
自分より他人を優先するのは歪だ。
それは何か、手順をひどく間違えている。
「けど、救われたのは俺だけだった。その時に思っただけだ。
―――この次があるのなら。助けられなかった人の代わりに、すべての人を助けなくちゃいけないんだって」
「っ、それがおかしいって言ってるのよ……!
いい、助かったんならまず自分を大切にしろっていうの! 死んじゃった人たちには悪いけど、アンタだけが助かったっていうのはただの偶然よ!
ならその幸運を噛みしめなさい。そんだけ酷い目にあったんだから、あとは楽しくやんなきゃ嘘でしょう!」
遠坂は本気で怒っている。
「――――――――」
ああ、それはすごく嬉しい。
遠坂がこういうヤツだから、今更になって気が付けた。
自分一人でずっと首を傾げていた疑問。
正義の味方になりたくて、ずっと誰かの為になろうとした。
その方法がどこかおかしいと気づいていながら、理解できなかった。
―――それが、こんなにもあっさりと判明した。
目の前で、他人である俺の為に、本気で怒ってくれている誰かのおかげで。
「な、なによ。これだけ言ってもまだ判らないわけ?
あったまくるわね、そんなに判らず屋だっていうんなら、アンタとのコンビも――――」
「いや、判ってる。言っただろ、遠坂は正しいって」
「なら――――」
「けど、やっぱり忠告は聞けない。
確かに俺は何か間違えている。けどいいんだ。
だって、誰かの為になりたいっていう思いが、間違えの筈がないんだからな」
だから。
できるだけの感謝を込めて、そう答えた。
「っ――――――。
……まったく。そんな顔されたら何も言えないじゃない」
気まずくなったのか、遠坂は背中を向けて俺から離れる。
で、ついでに。
「―――ま、仕方ないか。こうなったらもう、わたしがなんとかしてあげるわよ」
大きく肩で息をして、そんな愚痴をこぼしていた。
日が落ちる。
灰色の空が茜色に染まった頃、俺たちは城の広間に戻ってきた。
……瓦礫の山に少女の亡骸はない。
たった今、遠坂と二人で中庭に埋葬してきた。
サーヴァントの常か、黒い巨人の亡骸は風化してしまったが、その砂だけでも少女と同じ棺に納めた。
「さて。これからどうするかだけど、考えはある?」
「……考え中だ。事態がまた悪い方に転んだからな。少し整理しないとやってられない」
「そうね。……最大の敵だったイリヤスフィールとバーサーカーはいなくなったけど、代わりにワケわかんないヤツが出てきたし。
サーヴァントは七人しか呼ばれない筈なのに、あいつで八人目でしょう。……どう見ても既存のサーヴァントじゃなかったけど、慎二のヤツ、どこであんなのと契約したんだか」
……八人目のサーヴァント、か。
慎二の連れていたあの男は、サーヴァントと扱っていい存在《もの》とは思えない。
英霊に対して絶対的に優位な英霊。
底なしの宝具を持ち、およそ人間らしい感情を持たない悪鬼だ。
「―――ギルガメッシュ。それって古代メソポタミア神話に出てくる英雄だよな」
「ええ。半神半人の英雄。ウルクの王、不老不死の探求者。この世の全てを治めたとされる暴君だけど、まさかあんなイカレたヤツとは思わなかったわ」
「……バーサーカーを事も無げに倒した事といい、あいつ、本気になったセイバーより強いかもしれないわね」
遠坂の声にはキレがない。
それは、新たに現れた敵が難物だから、という訳ではなさそうだ。
「……? どうしたんだよ遠坂。奥歯に物が挟まったような言い方だけど」
「ん……ちょっとね。あいつ、確かに強かった。あれだけの数の宝具を持ってるんだから、その力は一級品でしょ。
けど、実質はどうなのかって。わたし、あいつとバーサーカーに、そう実力差はないと感じてたんだけど」
むー、と考え込んだりする。
……あれ。
もしかして遠坂、あいつの強さがどんな物なのか気づいていないのかな。
「いや、あいつ自身はセイバーやバーサーカーと同じか、きっとそれ以下だ。
そもそも英霊の強さっていうのは召喚された土地での知名度によるんだろう。ならギルガメッシュなんて英雄、こっちじゃ知ってるヤツはそういないぞ」
「―――それはそうだけど、知名度による実力の変動だってそう大きいものじゃないわ。
わたしにはどうも、あの金ピカは反則めいて見えたんだけど……」
「……?」
遠坂はおかしな呼び方をする。
まあ、それはさておき。
「いや、だから反則だって。あいつの持ってた宝具はみんな本物だ。……いや、そうじゃなくて、きっと本物の元になった武器なんだ。
ギルガメッシュは一番古い神話の英雄で、あらゆる贅沢をつくした王様だったんだろう。なら、各地の神話の元になった原典を所有していてもおかしくない」
「あ―――じゃあなに、あいつが出してた宝具は宝具じゃなくて、ただの武器って事……?」
「だろうな。あいつの宝具自身は、きっと“蔵”なんだ。
生前にあいつが集めた財宝を収納した“蔵”こそが、あいつの宝具なんだと思う」
「……そうか。ならバーサーカーが敵わないのも当然よね。英霊たちにはそれぞれ弱点がある。全ての宝具の原型を持つんなら、相手の弱点となる物を持ち出せばいいだけの話だもの」
……そういう事だ。
勝機があるとしたら、あいつはそれぞれの武器を全て使いこなしてはいない、という事。
セイバーやランサーのように、自己の武器を極限まで使いこなす“担い手”でないのならば、まだ勝てる方法がある気がする。
とまあ、それはともかく。
「なあ遠坂。ほんっとーに関係ないんだけど、なんで金ピカなんだよ、あいつ」
「え……!? あー、いや、それはその、髪が金色だったから、とか」
「なに言ってんだ。それならセイバーも金ピカなんて呼んでた筈だ。金ピカ。すごいぞ、実に意味ありげじゃんか。なんか、他に気付いた事があったからそう口にしたと見た」
「え――――」
「ここまできて隠すなよ。遠坂、なんか気付いたんだろ」
「ちょ、ちょっと違うってば、わたしのは士郎みたいに真面目な話じゃないから、あんまり追究しないでっ」
「ウソ吐け。根拠もなしで金ピカなんて呼ぶもんか。ほら、白状しろよ遠坂。今は一つでも情報が欲しいんだから」
「あ――――う」
じっと遠坂を見据える。
そうして数秒。
観念したのか、遠坂ははあ、と大きく息をついた。
「……だから、それは……あいつ、高価そうなのいっぱい持ってたでしょ? それで、ものすごくお金持ちなんだろーなー、って。
……だから金ピカ。あの金ピカ、すっごい贅沢してそうじゃない」
あはは、なんて明後日の方角を見ながら頬を掻く。
……恐ろしい。
遠坂の中では、お金持ちはみんな金ピカと評されるらしい。
そして更に恐ろしいのは、遠坂は“お金持ちっぽい”という嗅覚だけで、あのサーヴァントの本質を察していたコトだろう。
「―――ともあれ、厄介なヤツが出てきたものね。八人目のサーヴァントって時点で破綻してるのに、そいつ自身がジョーカーなんだもの。
……問いつめようにも監督役の綺礼は行方知れずだし。まあ、今はキャスターの方が大事だから後回しにするしかないんだけど」
……そうだった。
こうしている間にもキャスターは力を蓄えている。
キャスターの支配に抗っているセイバーも、これ以上は逆らえないだろう。
いや。
最悪の場合、セイバーさえ敵に回っている可能性だってある。
「―――そうだな。
イリヤスフィールの協力は得られなかったけど、だからといって放っておく訳にはいかない。こうなったら二人だけでキャスターを倒せる手段を考えよう」
「……そうね。なんのアイデアもないけど、やるしかないか」
はあ、と溜息をついて瓦礫に腰を下ろす遠坂。
「……ふう。まさかお城で作戦会議するコトになるなんてな」
遠坂にならって腰を下ろす。
……まあ、ここなら夜になっても暖はとれるし。
もしかすれば、イリヤスフィールが持っていた魔術品も発見できるかもしれない。
そうして、二人して気を緩めた瞬間。
「止めとけ止めとけ。オマエたち二人だけで裏をかく?
そんなの通用するワケねえだろ、間抜け」
呆れかえった声が、正面玄関から響いてきた。
「!?」
すぐさま立ち上がって正門に振り向く。
「いつぞやの夜以来だな、お二人さん。お互いしぶとく生き残っているようで何よりだ」
「ラ―――ランサー……!?」
神経を一気に束ね、魔術回路を繋いでいく。
現れた男は紛れもなくランサーだった。
……十日前の夜、俺はあの男に胸を貫かれた。
アレを再現させられる訳にはいかない。
ヤツがその槍を振るう前に、遠坂だけでも逃がさなければ―――!
「士郎、離れて……! アイツはわたしが引きつけるから、その間にアンタは二階に……!」
「遠坂、走れ……! あいつは俺がくい止める。遠坂はいったん外に――――!」
「――――ちょっと待った。
アンタ、自分を大切にしろってさっきの話、ぜんっぜん聞いてなかったみたいね」
ぴたり、とランサーに向けた左手を下げ、あまつさえ俺の鼻先に向けてくる遠坂。
が、そんな脅しをされても、こっちだって文句はあるっ。
「馬鹿言うな、忠告は聞かないってちゃんと断っただろう。殴り合いの戦いは男の役目だ。あいつとは二度目だし、ここは遠坂より俺の方が向いている」
「そんなワケないじゃないっ! 相手は歩兵よ、飛び道具がない相手に飛び道具であるわたしが逃げてどうすんのよ!」
「だからこそだろ! 懐に入られたらおしまいって判らないか!? いいから、遠坂は遠くから援護していてくれればいいんだよ!」
「ばかっ、援護なんてできるかっ! あいにくそんな器用な魔術なんて知らないわよ。やるならアンタごと吹っ飛ばすに決まってんじゃない!」
「っ――――! 自分の壊し屋っぷりを開き直るな!
だいたいどうしてそう、なんでもかんでも派手目でいこうってんだおまえは! たまにはもっと慎ましいコトやってみろ。キャスターが遠坂は要らないもーんって言ってたの、あんまり無視できないぞほんと」
「な、なんですってこのぉ――――!」
……そうして、お互いがお互いを押しのけようと言い争うコト数分間。
どうしてこんな事になったのか、といい加減疲れたころ、はた、と。
城の入り口で、にやにやと俺たちを観察しているランサーに気が付いた。
「―――お、もう終わりか? 別に急がねえから最後まですましちまいな。相手への不満はとことん吐き出しといた方がいいぞ」
「――――――――」
「――――――――」
こほん、と反省してランサーを睨む。
俺は半歩前に、遠坂はやや後ろに。
……まったく、始めからこうしていれば問題はなかったのだ。
「ああ、待て待て。せっかく同意を得たところ悪いが、こっちに戦う気はない。見るに見かねてな。少しばかり手助けしてやろう、とでしゃばりにきたワケだ」
「な――――に?」
ちょっと待て。
あいつ、今なんて言った――――!?
「……聞き違いかしら。今、手助けをするって聞こえたけど」
「なんだ、判りづらいか? なら言い直すか。オマエたち二人だけではキャスターたちには太刀打ちできん。できんだろうから、オレが手を貸してやると言ったんだ」
「――――――――」
目が点になる。
その横で、遠坂はいち早く事態を掴んでいた。
「そう。ホントにでしゃばりね、ランサー。訊くけど、それは貴方のアイデア?」
「いや、オレのマスターからの指示だ。キャスター達がああなっちまった以上、一人きりの身としては協力者がほしいんだと。ま、連中を潰すまでの共同戦線ってヤツだな」
「まっとうな理由ね。けど、それならわたしたちよりもっと頼りがいのあるヤツがいるでしょう」
……それは慎二とギルガメッシュの事か。
遠坂のやつ、ランサーが慎二の事を知っているかカマをかけているようだが――――
「いや、ありゃあ駄目だ。とてもじゃないが性に合わん。戦力的には申し分ないが、いちいち背中の心配をするのも面倒だろう」
「……ふうん。正しい選択ね、ランサー。けど、それも貴方のマスターの指示ってワケ?」
「それも違うな。アンタらを選んだのは俺の趣味だ。一度面識がある分話が早いだろう」
あっさりと言う。
あの男の中では、アーチャーと戦った事も俺の胸を貫いた事も、面識で済まされてしまうらしい。
「……待てランサー。俺はおまえに二度も殺されかかった。だっていうのに、おまえの言葉を信用すると思っているのか」
「思っているさ。オマエの参謀はさっぱりとしたいい女だからな。そんな女が手を貸すってんだから、オマエだって物好きなお人好しなんだろ?」
「む―――――――」
思わず眉を寄せる。
……味方の筈の遠坂がランサーの言葉に頷いているのが気になったが。
「そういう訳だ。だから協力できるって思ったのさ。
―――ああ、言っておくがオマエ達がじゃない。オマエ達なら協力してやっていいと、このオレが思ったんだ」
「………?」
ランサーの言い回しは、正直違いが分からない。
「……大した自信ね。協力しようって持ちかけておいて、選ぶのはそっちってコト?」
「ああ。初見からアンタのコトは気に入ってたんだぜ?
美人で強情で肝が座っているときている。女をマスターにするんならな、アンタみたいなのがいい」
どこか涼しげな視線で、ランサーは遠坂を流し見る。
「…………む」
……なんか気にくわないぞ、あいつ。
「―――いいわ。わたしは賛成。けどまだ決定じゃない。衛宮くんが信用できないって言うんなら、この話はなかった事にするけど」
「だそうだ。どうする小僧。おまえ、器を試されてるぞ」
くく、と笑いを押し殺してランサーは俺を見る。
「――――――――」
俺は――――
「――――――――」
……受けるしかないだろう。
たとえ敵だとしても、あいつの言い分は正しい。
俺と遠坂だけではキャスターたちを倒せない。
だがランサーの協力があるのなら、少しは光明が見いだせる筈だ。
「………分かった。俺も、共闘する事に文句はない」
全身に繋げた魔術回路をオフにして、肩の力を抜く。
―――それが自分に出来る精一杯の誠意だ。
戦う気はない、と。
共闘する以上は、こちらも無防備に背中を見せるという意思表示。
「―――なるほど、重傷だ。これじゃあ嬢ちゃんも苦労するな」
「あ、わかる? 良かった、ようやく分かってくれるヤツに会えたわ。もしかしたら最後までこのままかなー、とか危惧しちゃってたんだ」
「それは災難だったな。だが、男としちゃあ悪くない。
ガキのうちはな、馬鹿みたいに愚鈍で構わねえんだよ。つまんねえ知恵つけて、捻くれるのはその後だ」
そう答えて、ランサーは俺たちに向かって歩き出した。
その手に朱色の槍はない。
俺が臨戦態勢を解いた事に応えるように、ランサーもその武装を解いていたのだ。
夜の森を行く。
思惑はどうあれ、ランサーの協力を得た今、城に留まっている事はないと判断したからだ。
ランサーは遠坂が気に入ったらしく、よくわからないちょっかいを出しては遠坂に叩かれている。
「ちょっと。アンタね、ちゃんと自分のマスターがいるんでしょ。なら大人しくしてなさいよ。
キャスターを倒したら敵同士になるんだし、話なんかしてもしょうがないでしょ。作戦会議以外はみんな無駄口よ、無駄口」
「なんだ、敵になるからって話はなしか? 見かけによらず余裕がないんだな。相手が仇であろうと、気が合うなら飲み明かすってのが情だろうに」
「いつの時代の人間よ、アンタ。
そうゆうね、明日には殺すけど今日は親友だー、なんてのは今時流行らないの。やるとなったら徹底してやらないと相手にも失礼じゃない」
「……はあ。そりゃまた、つまんねえ世の中になったもんだ」
……ランサーはまったく懲りない。
心なしか、さっきから同じような会話を繰り返している気がしないでもない。
「それよりランサー。自分の役割、きちっとわかってるんでしょうね」
「うん? ああ、露払いは任せておけ。オマエたち二人で、キャスターとそのマスターと戦うんだろう。
オレの役目はアーチャーの相手だ。
最悪セイバーもどうにかしなくちゃならんが、まあ、抑えるだけなら問題ない」
他人事のようにランサーは言う。
セイバーとアーチャー、その二人を同時に敵に回す事を恐れてもいない。
「――――――――」
そういえば、道場で稽古をつけてもらった時、セイバーは言っていた。
こと“生き残る”だけなら、ランサーはサーヴァントの中でも最高だと。
卓越した敏捷性と豊富な戦闘経験を持つランサーは、守りに徹すれば鉄壁だと褒めていたっけ。
……おそらく、生前は戦力的に劣る戦いばかりをこなしてきたのだろう。
飄々《ひょうひょう》としたこの男は、幾たびの死地を豹のように駆け抜け、生き延び続けた英霊なのだ。
「……それはいいけどな。敵はアーチャーとセイバーだけじゃない。キャスターの下にはアサシンもいるんだろう。なら、最悪アンタの相手は三人ってコトになるぞ」
「ああ、そりゃやべえな。あのヤロウは苦手だ。出来れば一対一でもやりあいたくはねえ。あの手のヤツは遠くから仕留めるに限るが―――まあ、その心配は不要だな。アサシンは教会には現れない」
「? どうしてそう断言できるのよ。キャスターが柳洞寺に戻らないなら、門番としてアサシンだって呼び戻すんじゃないの?」
「いや。アサシンはキャスターが呼び出したサーヴァントだが、それ故に制約がある。ヤツはあの場所そのものに呼び出された英霊だ。柳洞寺を離れる事はできんし、なによりキャスターが呼び戻さんだろう。
アレはキャスターが、マスターに黙って独断で召喚したサーヴァントだ。
マスターが教会にいる以上は隠し通すし、おいそれと柳洞寺を手放す事もできまい」
「柳洞寺を手放せない……? それって、つまり」
「聖杯の召喚場所があの山だからだろうな。知っているか? 聖杯戦争は今回で五回目だが、聖杯が呼び出される特異点《とち》は四カ所ある。そのうちの一つが柳洞寺であり、教会でもあるワケだ。
ちなみに三回目の召喚場所は教会だったらしい。四回目はどこぞの平地だったそうだ」
「―――へえ。戦ってれば幸せみたいな人だと思ったけど、意外に物知りなんだ、貴方」
「単にマスターが小難しいヤツなだけだ。オマエたちの事情に関心があるワケじゃない」
「ふうん。……けど、そっか。じゃあ今回の召喚場所って、一回目と同じ場所に戻ったって事なのね」
ぶつぶつと考え出す遠坂。
ランサーはそんな遠坂を楽しげに眺めつつ、暗い森を進んでいく。
「――――――――」
夜も更け、日付とうに代わっている。
森を抜け街に戻る頃には、空には赤みが差している筈だ。
……一人、心の中で覚悟を決めて足を動かす。
数時間の後、俺たちはもう一度キャスターに挑む。
……その時、彼女が敵に回っていたとしても躊躇わない。
キャスターを倒す。
今は、それが最優先事項だと割り切るしかない。
――――戦場に向かう。
黎明時の教会に何が待っていようと、もう、休む事はできなかった。
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2月13日     14 Knight stay night
―――その前に、一つの話があった。
森を抜け、夜が明けた頃。
教会に向かう前に、彼女は秘めていた或る事実を彼に告げた。
「今のうちに言っておくけど。士郎が返してくれたペンダントね、アレ、一つしかないものなの」
それが何を意味するのか彼女は口にせず、彼も深くは追究しない。
彼らにとって最大の敵―――キャスターとの戦いを目前に控えた今、それは余分な事だからだ。
一つしかないペンダント。
彼女の部屋で見つけ、彼女に返した物。
あの夜拾い、部屋の机の中に仕舞った物。
その矛盾を、今は追究する時ではない。
「……言っておかなくちゃいけないのはそれだけよ。
士郎がわたしの部屋で見つけたペンダントって、アーチャーに返してもらった物なんだ。士郎がランサーに刺されたあの日にね。
わたしはてっきり、あいつが拾ってきてくれたものだと思ってたけど」
―――決戦が近い。
見上げた空の端に、高い教会の屋根が見えた。
最後に確認しよう、と遠坂は言った。
役割は決まっている。
ランサーはアーチャーとセイバーをキャスターから引き離す。
その隙に、俺と遠坂はキャスターたちと対決する。
オマエたちにキャスターを倒せるのか、というランサーの皮肉に、
「……まあね。わたしとキャスターを一対一にして貰えれば、まず裏をかけると思う」
遠坂は自信ありげに返答した。
……裏をかく、という言葉の真意は判らない。
俺が訊いてもランサーが茶化しても教えてくれなかったから、味方に話すと成功率が落ちる類の作戦なんだろう。
なら、俺のすべき事は遠坂の要望を叶えるだけだ。
キャスターを守るであろう葛木を、なんとしても自分一人で押さえつける。
その為に必要だと言うのなら、何度だってあいつの剣を投影しよう。
……目を閉じて自らの内に潜る。
体内に巡っている魔術回路は、とりあえず安定していた。
―――分不相応の魔術は、まず術者自身を滅ぼす。
一度目は半身が麻痺した。
二度目の投影は驚くほど容易く、体には何の障害も現れなかった。
三度目も同じという保証はないが、あいつの剣を真似るだけなら問題はないと思う。
体は安定している。
今まで作る事さえ困難だった魔術回路は、意識するだけでここまで手に取る事ができる。
まるで正常な神経の裏側に擬似神経があって、ボタン一つでくるん、と裏返すようだ。
それを、慣れたからだ、と思いたがっている自分がいる。
―――剣は容易く用意できる。
投影は、衛宮士郎にとってただ一つの戦力になっている。
十日前とは格段の進歩だ。
向上したのは魔術回路の扱いだけではなく、剣の握り方、振るい方まで上達した。
「……………………」
その理由。
その原因を考える事は止めにした。
今はキャスターを倒し、セイバーを取り戻す事が先決だ。
くだらない自問は戦いが終ってから。
教会に近づくほど強くなる頭痛。
それが遠坂を捜していた時と同じ痛みだということも、考えるのは止めにした。
朝焼けは灰色だった。
陽射しは雲に阻まれ、黎明はその輝きを封じられている。
頭上は一面の曇天。
黒というより灰に近い空は、十年前のあの時間を思い起こさせた。
―――じき、雨が降るのだろうか。
濁った乳色の空。
曇っていながら雨上がりの匂いを含んだ空の下に、その男は立っていた。
「君の事だ。必ず来ると思っていた」
涼しげに遠坂を見つめる。
「――――――――」
遠坂は何も言わず、アーチャーの視線をまっすぐに受け止めていた。
「それで、用意した策はなんだ。何の手だてもなしで勝負を挑む君ではあるまい」
愉しむような言葉。
それに、
「ああ。とりあえず、テメエの相手はこのオレだ」
遠坂の真横に出現した、青い槍兵が返答する。
「驚いたな。私を失い、数日と経たずに新しいサーヴァントと契約したか。
やれやれ。私もそうだが、君の移り気もなかなかの物だ。これは袂《たもと》を分かって正解だったかな」
「――――!」
「……構わないわ士郎。あいつの挑発になんか乗らないで」
アーチャーを見据えたまま俺を止める。
……だが、その顔を見れば瞭然だ。
挑発と判っていようと、遠坂にとって今の台詞が苦痛である事に変わりはない。
「………ふん。前から気に食わねえヤロウだと思っていたが―――テメエ、性根から腐っていたようだな」
「ほう。裏切りは癇に障るかランサー。自分が裏切られた訳でもないのに律儀な事だ」
「―――別にお嬢ちゃんに肩入れする気はねえよ。
単に、テメエみたいなサーヴァントがいるってコトが気にくわねえだけだ」
「英雄の誇りか。……まったく、どいつもこいつも同じような事ばかりを口にする。
あのキャスターでさえ、そんな下らないモノを持っていてな。死した身で今更、何の栄誉を守るというのだ。正直、私には君たちの考えが理解できんよ」
「ああ、しなくていいぜ。考える手間を省いてやる」
―――両者の間から言葉が消えた。
残ったものは刃物のようなランサーの殺気と、
それを平然と受け止めるアーチャーの殺気だけだ。
「――――――――」
……間合いは五間。
十メートル近く離れた距離で対峙する青赤の騎士の姿は、まさにあの夜の再現だった。
「ランサー」
遠坂は青い背中に語りかける。
「おまえたちは中に行け。コイツをぶっ倒したらオレも行ってやるからよ」
「……わかってる。けどランサー、アーチャーは」
「ああ、手ぇ抜いてやる。アイツには土下座して、おまえに謝ってもらわなくちゃいけねえからな」
振り返らず、アーチャーを見据えたままニヤリと笑う。
「―――ありがとう。
助力に来てくれたのが貴方で良かった」
二人を迂回して教会へ走る。
門番であるアーチャーは俺たちをあっさりと通した。
いや、通さざるを得なかった。
アーチャーは既にランサーと対峙している。
その状態で俺たちに意識をさけば、次の瞬間ランサーに胸を貫かれるだろう。
俺たちを行かすまいとしてランサーに破れるか、俺たちは見逃してランサーだけでも撃退するか。
―――あいつが門番としての役目を受け持ったのなら、どちらを取るかは考えるまでもない。
広場を迂回して、躊躇わずに教会の扉を開ける。
その背後。
「―――まったく。面倒なコトになっちまったな」
「何がだ、ランサー」
「いや、なに。あんな顔で礼を言われた日には手抜きもできねえ。
そういうの、困るだろ? おいそれと主を裏切れない身としちゃあ、少しばかり眩しいってもんだ」
「……随分と甘いのだなランサー。君は隣の芝生は青い、という言葉を知っているか」
「は、なーに言ってやがる。
んなもん、オレが知ってるワケねえだろうが―――!」
「悠長にやってる時間はないわ。ランサーがアーチャーと決着をつける前にキャスターを倒すわよ」
「わかってる。ここから無駄口はなしだ。
―――それと。本当にキャスターを任せていいんだな、遠坂」
「ええ。とことんまで追い詰められるだろうけど、それでも手は出さないで。士郎は葛木先生をできるだけ引き離してくれればいい」
礼拝堂をつっきって、中庭に通じる扉へ向かう。
遠坂がそう言うのならこっちも迷わない。
……もっとも、遠坂がピンチになったところでフォローできるかどうかだって怪しい。
俺の相手はあの葛木だ。遠坂に気を配っていたら、それこそ初撃さえ躱せまい。
―――キャスターの気配が近くなる。
その力を隠しもしないのか、教会はキャスターの魔力で包まれていた。
この分なら、俺たちの襲撃などとっくに知られている筈だ。
「―――――投影《トレース》、開始《オン》」
できるだけ丁寧に、八つの段階を踏んで幻影を編み上げる。
慣れたもので、あいつの双剣は分を待たずに両手に握られていた。
「っ――――――――」
軽い頭痛。
慣れたとはいえ、やはり何らかの負荷が生じている。
衛宮士郎本人が気づかないところで、投影は確実に体を侵している。
「………………」
「?」
気のせいか。
一瞬、隣を走る遠坂が、辛そうに俯いた気がした。
闇を降りる。
地下に通じる階段を走り抜けて、一際広い空間に出る。
あとは以前と同じよう、階段の手すりから聖堂へ飛び降りた。
「あら。飛び降りてくるなんて、まるで猿ね。
何を急いでいるのだか知らないけど、人間なんだから階段ぐらいは使いなさい」
聖堂に着地する。
奇襲に近い乱入だというのに、キャスターは余裕ぶって俺と遠坂を出迎えた。
「――――――――」
キャスターの傍らには葛木宗一郎がいる。
……殺気も敵意も感じられない立ち姿。
それがあの男の戦闘態勢だ。透明な殺意は、葛木宗一郎という人物の恐ろしさまで隠している。
そういった意味で言えば、やつは今のアサシンよりよっぽど暗殺者じみていた。
祭壇にはセイバーの姿がある。
状況は二日前と同じだ。
セイバーは磔《はりつけ》にされたまま、ただ頭を下げている。
「――――――――」
間に合った、と思う反面、セイバーが妙に静かなのが気になった。
以前のセイバーは、もう少し苦しげだった気がする。
キャスターの魔力に逆らい、全身で息をするように小さく震えていた。
それが、今では凍り付いたように静かだった。
「……………………」
イヤな予感に軋む。
アサシンがいないのは助かったが、この不安が的中してしまうのなら、俺たちは生きて帰れない――――
「来たわよキャスター。色々考えたんだけど、やっぱり貴女には消えて貰う事にしたわ。
目障りだし邪魔だし煩《わずら》わしいし、なによりその格好が気にくわないのよね。いまどき紫のローブなんて、どこの田舎者よって感じでさ」
余裕げなキャスターに負けじと憎まれ口を叩く遠坂。
口ではそんな事を言いつつ、じりじりと間合いをつめているあたり、心中は逆の筈だ。
「――――――――」
……こっちもセイバーを案じている場合じゃない。
遠坂が左回りにキャスターを追い詰めるなら、俺は右回りに距離をつめる。
キャスターと葛木。その二人を引き離すのなら、挟み撃ちの形にして、お互いがお互いの敵を確立させなくてはいけない。
「―――ふん。見逃してもらった分際で、随分と勘違いをしたようね。いまどきの魔術師は皆こう猪頭なのかしら。これではアーチャーが見限るのも当然ね」
遠坂の罵詈雑言が利いたのか、キャスターは疎ましげに遠坂だけを睨んでいた。
その隙に体を動かす。
遠坂とは反対側、キャスターを挟み撃ちできる位置まで移動する。
「――――――――」
それを無言で見据える葛木。
……やっぱりな。
この程度の事、あの男が気づかない筈がない。
葛木《あいつ》は全て承知だ。
俺たちが各個撃破を狙っている事も、遠坂には何か策がある事も。
それを踏まえてなお、葛木はキャスターの好きにさせている。
……葛木はキャスターに操られている訳じゃない。
あいつは自分の意志でキャスターのマスターになっている。
だが、それでも―――この消極性からいって、葛木は傀儡に近い。
魔術による後方支援を得意とするサーヴァントと、
格闘による白兵戦を得意とするマスター。
本来の関係が逆転しているあの二人は、その在り方も逆のような気がする。
聖杯を執拗に求めるキャスターと、自分の意志などなくキャスターを守るマスター。
「――――――――」
それで、意味もなく思ってしまった。
もしキャスターがマスターで、葛木が彼女を守るだけのサーヴァントであったのなら、あの二人はここまで外れた道を取らなかったのではないか、と。
「――――――――」
遠坂がこちらを見る。
位置的にはもう申し分ないという事だ。
なら―――後はどちらかが仕掛けるだけで、決着はつく。
俺と遠坂が破れるにしろ、その前に遠坂がキャスターを倒すにしろ、キャスターとの戦いはここで終る。
「それじゃ始めましょうか。貴女との小競り合いもこれで三度目。いいかげんその顔も見飽きたし、ここでカタをつけてあげる」
一歩、キャスターへ間合いをつめる遠坂。
「大きくでたわね。まさかとは思うけど、本気で私に勝てると思っているのお嬢さん?
だとしたら腕比べどころの話じゃないわ。今回も見逃してあげるから、まずその頭を治療してらっしゃいな」
「そんなの、勝てるに決まってるじゃない。
だってそうでしょう? 貴方みたいな三流魔術師に、一流である魔術師《わたし》が負ける筈ないんだもの」
「―――そう。なら仕方がないわ。
その増長、厳しく躾《しつけ》る必要があるようね、お嬢さん」
構えは同時。
数メートルの距離を隔て、両者は鏡像のようですらあった。
それが合図だ。
俺は無防備になるキャスターへと襲いかかり、
「っ…………!」
当然のように、葛木の一撃に阻まれる。
……目前には幽鬼のような暗殺者。
遠坂とキャスターの魔術戦を見届ける余裕などない。
こちらの思惑などとうに悟られている。
時間稼ぎなどさせぬ、と。
セイバーさえ追い詰めた“蛇”を繰り出し、葛木宗一郎は俺の命を取りに来た。
――――持って一分。
それは俺も遠坂も同じの筈だ。
本来なら、逆の組み合わせでなければ勝ち目のない戦い。
格闘と魔術、ともに格上の敵に勝利する術はない。
―――だが、逆を言えば少しは戦いになる。
葛木を相手にすれば遠坂は一息で殺されるし、
俺がキャスターを相手にすれば指差しだけで終る。
反面、この組み合わせなら勝てないまでも瞬殺される事はない。
……つまり。
この戦いはどう倒すか、ではなく。
互いに格上の相手に対してどこまで保つかという、そんな、綱渡りめいた戦いだった。
◇◇◇
――――交差する二つの凶器。
双剣と長槍、両者の得物《エモノ》は互いの首を討とうと繰り出される。
そこに間断はなく、容赦はない。
放つ一撃は全て、必殺の意思によるもの。
それはランサーとて例外ではない。
協力者である遠坂凛に“手を抜く”と言っても、いざ戦いが始まればそんなものは二の次だ。
手加減なぞ、放った槍が偶々《たまたま》心臓を外れ、即死でなかったのならトドメは刺さない、という次元の話にすぎない。
そうなったところでいずれ絶命するが、要は死ぬまでに遠坂凛の前に引きずっていけばいいだけの話。
その後の事などランサーの知った事ではない。
「っ――――!」
朱色の魔槍が、敵の領域を侵犯する。
繰り出される槍は回を増すごとにアーチャーの守りを崩す。
いつぞやの戦いとは違う。
あの夜防ぎきったランサーの槍を、アーチャーは捌《さば》ききれない。
それも当然。
これは二度目の戦いだ。
ランサーにはある令呪が働いている。
敵マスターの戦力を知る為、彼のマスターはランサーにこう告げた。
「おまえは全員と戦え。だが倒すな。一度目の相手からは必ず生還しろ」
自身に科せられたただ一つの命令。
そんな馬鹿げた命令《コマンド》に従った彼に、ようやく訪れた“何の縛りもない戦い”がこれである。
故に、前回と同じである筈がない。
ランサーを縛るものは何もなく、アーチャーはここにきて、サーヴァント中最速の英霊と戦う事になった。
「ぬっ――――!」
二度、アーチャーから苦悶が漏れる。
ランサーの槍は、彼の鷹の目を持ってしても視認できる物ではなくなっていた。
もとより点にすぎない槍の軌跡。
それが、今では閃光と化している。
迫り来る槍の穂先が見えぬ。
得物を振るう腕の動き、その足捌きさえ、既に不可視の領域に加速しつつあった。
「――――――――っ」
それをここまで防ぎきったのは、前回の戦いでランサーの槍を知ったからだ。
彼は今の自分に出来る事―――白兵戦でランサーに劣っている、という事実のみを武器にして猛攻を捌いていた。
いうなれば攻撃箇所の調整である。
赤い外套の騎士は、自ら致命的な隙を作る事で攻撃を限定させる。
無論、それを躱せねば死あるのみだ。
だが、即死を避けるあまり全身に傷を負い死に至るのならば、五体が満足のままの即死を選んだ。
そうでなければここまでした意味がない。
幸い、ランサーは未だアーチャーを侮っている。
いや、単純に戦闘そのものに没頭している。
このまま能力差だけで殺し合うというのなら、考え得るだけで三十通りは“隙を見せる”事ができる。
前回に得た情報を元にした行動予測と、培ってきた戦闘経験による状況打破。
それが『心眼』と呼ばれる、修練によって得られる鉄の心だ。
それは非凡な物などでは断じてない。
彼の持つ唯一の技術《スキル》。
セイバーの持つ『直感』のような先天的な物ではなく、愚直なまでに修練を重ねれば誰にでも手が届く、凡人故の武器だった。
「――――――――」
槍を翻し、わずか、ランサーは足を止めた。
どうも納得がいかぬ、と赤い弓兵を観察する。
勝敗はもはや明らかだ。
白兵戦ではアーチャーに勝ち目はない。
否、そんな事は判りきっていた事だ。
アーチャーがその名の通り“弓兵”であるのなら、遠距離からの狙撃でなくては勝負にさえなりはしない。
だが、それを防いだ。
とうに劣勢、あと数合も保つまいが、それでも本気になった自分の槍を受けきった。
―――ヤツが強いのか、それともオレが手を抜いているのか。
ふん、と鼻で笑う。
アーチャーがどこか得体の知れないサーヴァントだという事は気づいている。
その点において、ヤツが強い、というのは認めるべきだ。
だが―――自分が手を抜いている、というのは心外だ。
一合目はヤツの顔ごと吹き飛ばすつもりで首を狙った。
二合目は肋ごと粉砕するつもりで心臓を払った。
手を抜いている筈はない。
筈はないが――――
――――確かに、殺す気ではなかったか。
このような戦闘で本気になったところで何がある。
サーヴァントの戦いは、つまるところ宝具の戦いだ。
必殺であるソレを出さずに追い詰める事こそ手を抜いている証拠。
その理由。
その原因は、つい先ほど耳にした、なんでもない礼らしい。
“――――チッ。まったく、本気かオレは―――!”
「くっ――――!」
「づっ――――!」
一際高い剣戟。
舞い散る火花と共に、両者の体が後退する。
自身に叩きつけるようなランサー渾身の一撃は、同じくアーチャー渾身の一撃によって相殺された。
離れた距離は五メートル弱。
ランサーならば一息もかけずに攻め込めるその間合いで、
「―――解せんな」
ぽつりと、青い槍兵が呟いた。
「貴様、これだけの腕を持っていながらキャスターに就いたのか。貴様と凛ならば、キャスターになぞ遅れはとるまい」
殺意こそ途絶えたものの、ランサーの構えには一分の隙もない。
それを前にして、アーチャーは口元をわずかに歪めた。
「―――驚いたな。何を言いだすかと思えば、まだそんな事を口にするのか。
ランサー、私は少しでも勝算の高い手段をとっただけだ。凛がどう思おうと、私はこれ以外の手段はないと判断した」
自信に満ちた声に罪悪感などない。
赤い騎士は真実、主を裏切った事を悔いてはいなかった。
「そうかよ。訊ねたオレが馬鹿だったぜ」
まったくだ、とアーチャーは同意する。
ランサーはハ、とつまらなげに鼻を鳴らし、静かに槍の穂先を上げた。
「たしかにオマエは戦上手だ。そのオマエがとった手段ならば、せいぜい上手く立ち回るだろう。
―――だが、それは王道ではない。貴様の剣には、決定的に誇りが欠けている」
立ち上る闘気。
それを前にして、赤い弓兵はなお愉快げに笑っていた。
「ああ、あいにく誇りなどない身だからな。
だがそれがどうした。英雄としての名が汚れる? は、笑わせないでくれよランサー。汚れなど成果で洗い流せる。
そんな余分なプライドはな、そこいらの狗にでも食わせてしまえ[#「そこいらの狗にでも食わせてしまえ」に丸傍点]」
「――――――――」
瞬間。
わずかに弛緩していた空気が一変した。
――――大気が凍り付く。
世界の調律を乱す魔力、因果を狂わせる魔槍が鎌首を起こしていく。
放たれる殺気は今までの比ではない。
その、呼吸さえ困難な緊迫の中、
「狗《いぬ》と言ったな、アーチャー」
戦場の鴉をも払う声で、青い槍兵は言い放った。
「事実だ、クー・フーリン。英雄の誇りなぞ持っているのなら、今の内に捨てておけ」
「――――よく言った。ならば、オマエが先に逝け」
大きく後退するランサー。
槍を突き出す、どころの間合いではない。
一瞬にして離された距離は百メートル以上。
ランサーはこの広間の入り口まで跳び退き、そこで、獣のように大地に四肢をつく。
「――――――――」
アーチャーの五感が凍る。
恐怖か、畏怖か。
そのどちらであれ、彼は即座に理解した。
ランサーの後退の意味。
敵が打ち出すであろう次の攻撃が、文字通り必殺であるという事を。
「――――|オレの《ゲイボ》槍《ルク》の能力は聞いているな、アーチャー」
地面に四肢をついたランサーの腰があがる。
その姿は、号砲を待つスプリンターのようだった。
「――――――――」
アーチャーに答える余裕などない。
赤い騎士は両手に持った双剣を捨て、最速で自己の裡《うち》に埋没する。
だが間に合うか。
ランサーのあの姿勢。
彼の魔槍が伝説をなぞるのなら、防ぐ宝具は生半可な物では済まされまい――――
「―――行くぞ。この一撃、手向けとして受け取るがいい……!」
青い豹が走る。
残像さえ遙か、ランサーは突風となってアーチャーへ疾駆する。
両者の距離は百メートル。
それほどの助走を以ってランサーは槍を突き出すのではない。
青い姿が沈む。
五十メートルもの距離を一息で走り抜けた槍兵は、あろうことか、そのまま大きく跳躍した[#「跳躍した」に丸傍点]。
宙に舞う体。
大きく振りかぶった腕には“放てば必ず心臓を貫く”魔槍。
ぎしり、と空間が軋みをあげる。
―――伝説に曰く。
その槍は、敵に放てば無数の鏃《やじり》をまき散らしたという。
つまり、それは。
「――――刺し《ゲ》穿つ《イ》」
紡がれる言葉に因果の槍が呼応する。
青い槍兵は弓を引き絞るように上体を反らし
「死翔の《ボル》槍《ク》――――!!!!!」
怒号と共に、その一撃を叩き下ろした――――
それは、もとより投擲する為の宝具《モノ》だった。
狙えば必ず心臓を穿つ槍。
躱す事など出来ず、躱し続ける度に再度標的を襲う呪いの宝具。
それがゲイボルク、生涯一度たりとも敗北しなかった英雄の持つ破滅の槍。
ランサーの全魔力で打ち出されたソレは防ぐ事さえ許されまい。躱す事も出来ず、防ぐ事も出来ない。
―――故に必殺。
この魔槍に狙われた者に、生きる術などあり得ない……!!
魔弾が迫る。
一秒にも満たぬその間、赤い騎士は死を受け入れるように目蓋を閉じ、
「――――I am the《体は》 bone《剣で》 of m《出来ている》y sword.」
衝突する光の棘。
天空より飛来した破滅の一刺が、赤い騎士へ直撃する刹那、
「“熾天覆《ロー》う《・》七つの《アイ》円冠《アス》”――――!」
大気を震わせ、真名が展開された。
激突する槍と盾。
あらゆる回避、あらゆる防壁を突破する死の槍。
それが、ここに停止していた。
暴風と高熱を残骸として巻き散らしながら、必殺の槍はアーチャーの“宝具”によって食い止められる。
何処かより出現した七枚の花弁はアーチャーを守護し、主を撃ち抜こうとする魔弾に対抗する――――!
誰が知ろう。
この守りこそアイアス。かのトロイア戦争において、大英雄の投擲を唯一防いだというアイアスの盾である。
花弁の如き守りは七つ、その一枚一枚は古の城壁に匹敵する。
投擲武具、使い手より放たれた凶器に対してならば無敵とされる結界宝具。
この盾の前には、投槍など一枚羽にも届かず敗退するは必定だった。
少なくとも使用者であるアーチャーが知る限り、この守りを突破する槍など有り得ない。
だが。
それを、必殺の槍は苦もなく貫通していく。
「―――っ…………!!!!!」
六枚目の花弁が四散する。
残るは一枚。
魔槍は決して貫けなかったと言われる七枚目に到達し、なおその勢いを緩めない。
殺しきれぬ魔槍の一棘。
それを直前にし、
「ぬ――――ぬああああああああ…………!!!!」
裂帛の気合いを以って、アーチャーは全魔力を己が宝具に注ぎ込む――――!
「――――――――」
地に降りたランサーは、ただ、目前のサーヴァントを凝視する。
……アーチャーは満身創痍だ。
突きだしていた腕はかろうじて胴に繋がっている程度。
苦痛に歪む貌《かお》は腕の傷だけでなく、想像を絶する頭痛に耐えてのものだった。
「――――驚いたな。アイアスを貫通しうる槍がこの世にあろうとは。
君のそれは、オリジナルの“大神宣言《グングニル》”を上回っている」
赤い騎士は心から青い槍兵に賛辞を送る。
「――――――――」
そのようなもの、ランサーに届く筈がない。
最強の一撃。
自らを英雄たらしめていた一撃を防がれたのだ。
その憤怒《ふんぬ》たるや、視線だけで人を呪い殺せよう。
だが、その怒りも強い疑問にうち消されつつあった。
……解せないどころの話ではない。
確かにアーチャーは正体不明のサーヴァントだ。
何処の英雄とも知れず、弓兵でありながら双剣を持ち、そして今、ランサー最強の一撃を防ぐほどの盾さえ見せた。
それは、異常だ。
そのような英雄、この世のどこを探しても見あたるまい。
「貴様――――何者だ」
「ただの弓兵だが。君の見立ては間違いではない」
「戯れ言を。弓兵が宝具を防ぐほどの盾を持つものか」
「場合によっては持つだろう。
だが、それもこの様だ。魔力の大部分を消費したというのに片腕を潰され、アイアスも完全に破壊された。
……まったく、私が持ち得る最強の守りだったのだがな、今のは」
「――――――――」
軽口を叩くアーチャーを、ランサーはただ睨み続ける。
そこへ、
「それより気づいたかランサー。
キャスターめ、存外に苦戦していると見える。こちらに向けられていた監視が止まった」
両手をあげ、降参するかのようにアーチャーは付け足した。
「……そうかよ。そうじゃねえかとは思ったけどな。テメエ、もとからそういうハラか」
「無論だ。言っただろう。勝率の高い手段だけをとる、と」
「―――ふん。とことん気に食わねえヤロウだな、テメエ」
苦々しげに言って、ランサーはアーチャーに背を向ける。
……彼の仕事は終った。
アーチャーを引きつけるという役割は、もはや意味をなさない。
これ以上、遠坂凛に肩入れする必要はなくなった。
青い槍兵は主の元に帰ろうと踵を返し、そのまま―――
もうしばらくだけ様子を見よう、と草むらに体を預けていた。
◇◇◇
「っ――――!」
繰り出される拳を必死に捌く。
葛木の拳は生きた“蛇”だ。紙一重で避けたところで、躱した瞬間に軌道を変えて食らいついてくる。
セイバーはそれで深手を負った。
なまじ紙一重で躱せるだけの反射神経を持っていたが故に、セイバーは葛木の“蛇”に食らいつかれた。
が、こっちはそんな反射神経を持ち合わせていない。
紙一重で躱す事なんて出来ないし、そもそも葛木の拳なんて見えていない。
見えていないんだから、自分から防ぐ事など不可能だ。
「が――――!」
肩口。左の鎖骨に、葛木の拳が掠っていく。
「は、ぐ――――!」
まるで玄翁《げんのう》だ。そのまま肩ごと左腕を砕き落とされたような感覚に、短剣を落しかける。
「―――――――っ」
踏みとどまって耐え、右の短剣で眉間に繰り出される拳を弾く。
「あ、つ――――!」
必死になって後退する。
なりふり構わず後退する俺と、前進した事も気づかせないまま間合いを詰める葛木。
「は――――」
――――その構えに、戦慄した。
次こそは耐えられない。
ここまで数撃|捌《さば》ききれた事さえ異常だ。
実感がない。遠坂がキャスターを倒すまでの囮、防御に徹するのならなんとかなる、なんて思い違いは初撃で砕かれた。
葛木宗一郎は、前回の戦いをよく考慮していた。
以前、遠坂を襲った葛木を俺は撃退できた。
だから今回も、アーチャーの双剣さえ投影できれば防ぎきれると思っていた。
―――だが。
それは逆に、アーチャーの剣がなければ話にならないという事でもある。
葛木はそれを踏まえている。
今回、葛木がまず仕掛けてきた事は、俺から双剣を奪うという事だったのだから。
「づ――――!」
右の短剣が砕かれる。
―――キャスターの魔術によって強化されたヤツの拳は、わずか数合で俺の剣を破壊する。
「――――投影《トレース》、再開《オン》…………!」
即座に短剣を複製する。
無理な投影、即席の剣では高い完成度は望めない。
結果として、数撃を受けきれた双剣は段々とその精度を落していく。
「ぐっ―――ハ、はあ、は―――……!!」
呼吸を殺しきれない。
無我夢中で葛木の蛇に短剣を合わせる。
体は双剣に従うだけ。アーチャーの動きを真似る手足は、そもそも衛宮士郎という肉体の限界を超えている。
加えて、この頭痛。
砕かれ、新たに投影をする度に体の中が削れていく。
魔力を消費しているのとは違う。
剣を一つ作る度に、数少ない魔術回路が一つ消えていくような感覚。
ゼロになるのはもはや目前だ。
作れてあと二本。
魔力の貯蔵が失われた時がこちらの終わりだ。
だが、そもそも。
あと二本使い切れる余裕など、この体のどこに―――
「え―――――――あ?」
飛んでいた。
葛木の右拳。常に不動だったソレが、槍のように放たれたのだ。
胸を肋《あばら》ごと貫こうとするその一撃を、双剣で受けた。
瞬間、双剣は破壊され、衝撃はそのまま俺を吹き飛ばしたらしい。
背中には硬い感触。
……五メートル近い距離を、弾き飛ばされた、のか。
「は――――、つ」
呼吸を再開しようとして、息が出来ない事に気が付いた。
貫通した衝撃は心臓を麻痺させている。
呼吸はおろか、手足さえ動かない。
わずか数秒。
心臓が活動を再開するまでのその空白に、
「は――――――――」
幽鬼が迫る。
それで詰めだ。
あの男ならば、一秒の隙でさえ俺を仕留める。
それがこの体たらくならば、六度殺しても余りある。
「――――――――」
敵を睨む。
手足は動かなくても、やれる事はある。
俺は、そもそも剣を振るう人間じゃない。
衛宮士郎が戦う武器は、始めから魔術と決まっている。
なら―――まだ終ってはいない。
俺の役目は葛木の足止めだ。それを果さないまま、おいそれと諦められるか――――!
「え?」
「――――――――」
その打撃音は、目の前で起きた物ではなかった。
思い描いていた剣の構造が消える。
俺の首をねじ切ろうと詰め寄った葛木の足が止まる。
その異変は葛木の背後。
祭壇を背にしたキャスターに起きたものだった。
◇◇◇
劣勢であるのは彼女も同じだった。
いや、実力差を明確に把握している分、彼女の負担は彼より大きかっただろう。
「―――Αερο―――」
余裕に満ちた仕草で、キャスターは彼女に指を向ける。
紡がれる魔術は『病風《アエロー》』。
キャスターは詠唱など必要としない。
神代に生きた魔女にとって、自身と世界を繋げる手順《じゅもん》など不要なのだ。
キャスターは常として歯車《せかい》を回す神秘を帯びている。
彼女にとって、魔術とはただ命じるもの。
己が番犬に、ただ『襲え』と告げるに等しい。
「――――Acht《八番》……!」
それを、彼女は秘蔵の宝石で相殺する。
悠長に呪文を詠唱している時間はなく、左手の魔術刻印による簡易詠唱ではキャスターの魔術に太刀打ちできない。
魔術師としての技量は、それこそ天と地ほど離れている。
その差を埋めるには、長年蓄えてきたモノを吐き出すしかない。
魔術師の娘として生を受け、今まで貯めに貯めてきた十年分以上の魔力の結晶。
代えのない十の宝石のうち、残る九つをこの場で使い切る覚悟で、彼女は戦いに臨んでいた。
「ふふ、健気に頑張ること。そんな奥の手があるとは思わなかったわ、お嬢さん」
己が魔術を純粋な魔力で相殺されながらも、キャスターの微笑は崩れない。
ほぼ無限に魔術を行使できるキャスターと、
宝石という増幅器で対抗する彼女。
その差は歴然としている。
彼女がどれほど宝石を所有しているかは知らぬが、所詮十や二十。
その程度のモノで、キャスターが破れる道理など一分《いちぶ》もない。
「――――Sieben《七番》……!」
繰り出される電荷を、七つ目の宝石で相殺する。
残る宝石は六つ。
あと六回キャスターが呟くだけで、彼女の奥の手は底を突く。
「あら、綺麗に防ぎきるのね。本当に健気。自分だけ守っていれば石を使い切る事もないでしょうに」
クスクスという笑い声にも反応せず、彼女は次弾に備えて宝石を指に挟む。
……キャスターの言う通り、自分の身だけを守るのならば宝石は砕けない。
キャスターの呪文に対して、おそらく三回は防ぎきってくれるだろう。
……だが、それは出来なかった。
キャスターの魔術は、ひとたび発動すれば聖堂を覆う。
マスターである葛木はキャスターによって護られているだろうが、彼だけは例外なのだ。
もし彼女がキャスターの魔術を発動前に相殺しなければ、葛木宗一郎を引き留めている衛宮士郎が焼け死ぬ事になる。
「―――――――っ」
故に、自分だけ守っても意味がない。
彼にそんな死に方をさせるのは許せないし、そもそもこの作戦の前提は、彼が葛木を止めてくれる、という一点にあるのだから。
「ふうん、まだ守りきるつもり? 大した信念ですけど、それもいつまで保つかしらね。受けてばかりでは結果は見えていてよ、お嬢さん」
キャスターの指が動く。
「―――――――Sechs《六番》 Ein FluB,ein 《冬の河》Halt……!」
それに、彼女は先手を取った。
確かに受けてばかりでは、いずれ宝石を失い殺される。
キャスターの魔術と彼女の宝石。
そこに籠められた魔力が同等ならば、先手を取れば倒し得るという事だ――――!
「―――Κεραινο―――」
だが、キャスターの詠唱を上回る事などできない。
呪文を使わず、宝石を解放するだけで魔術を成立させる遠坂凛も最速ならば、
わずか一言で神秘を起こすキャスターも最速である。
両者の戦いに“先手”などない。
あるのはただ力による押し合いだけ。
この押し合いに破れ、魔力が尽きた方が敗北する。
ならば――――
「Funf《五番、》,Drei《三番、》,Vier《四番》……!
Der Riese 《終局、》und brennt《炎の剣、》 das《相乗》 ein Ende――――!」
もはや、純粋に押し通るだけ。
立て続けに宝石を叩きつけ、キャスターの魔力を突破する――――!
解放した宝石は三つ。
加えて虎の子の四番を用いて、禁呪である相乗さえ重ねた。
それは彼女の限界を超えた魔術でもある。
『術者の許容量を上回る魔術は、決して使ってはならない』
そう彼に告げた彼女自身が、その禁を侵してまで放った一撃。
キャスターが守りに入らなければ聖堂はおろか教会ごと崩壊するであろうそれを、
紫の魔女は、事も無げに防ぎきった。
―――いや、相殺したどころの話ではない。
キャスターは彼女の放った魔力、その全てを衣の中に飲み込んだ[#「飲み込んだ」に丸傍点]のだ。
「――――――――」
愕然と立ちつくす。
……その背後では、彼が敗北を喫した音がしていた。
砕かれる剣の音と、肉が壁に激突する音。
勝敗は、ここに決しようとしていた。
彼女は為す術もなく、ぐらり、と体を揺らした。
逃れられぬ絶望にうち負かされたように、よろよろと前のめりに流れていく。
「あら、これで終わり? まだ手持ちの宝石はあるのでしょう? 諦めずに、なくなるまで試してみたら?」
「――――――――」
彼女に答える気力はない。
……あと幾つ宝石があろうと、今のが彼女の最大なのだ。
それが通じない以上、百の宝石を重ねても、彼女の魔術ではキャスターに傷一つつけられない――――
「そう。ようやく理解したようね。何をしようが私には敵わないと。けれど楽しくはあったわお嬢さん。魔術を競い合うのは久しぶりでしたからね。
ええ、それだけでも貴女に価値を与えましょう」
「っ――――」
前のめりに崩れる足を堪え、吐き気を手で押さえて、彼女はキャスターを睨み付ける。
「悔しい? けれどこれが現実よ。むしろ誇りなさい。
遊んであげたとはいえ、貴女はこの私に魔術戦をさせたのだから」
そうして、キャスターは彼女を指さす。
今度こそ最後だと、死刑を宣告するように。
「消えなさい。あの坊やが私のマスターに倒されるのは時間の問題。
その前に―――こちらも、そろそろ終わりにしましょう」
ゆっくりと死を呟くキャスター。
―――その油断。
その断定こそを、彼女はずっと待っていた。
「stark《二番》―――Gro z《強化》wei」
解放する呪文はただ一言。
彼女は俯いたまま、口元に微笑を浮かべて呟いた。
「え?」
「――――――――」
一瞬、我が目を疑った。
遠坂とキャスター。
二人の魔術戦は、遠坂の敗北で終っていた。
遠坂はキャスターに許しを乞うようによろよろと前に進み、そんな遠坂に、キャスターは止《とど》めとも言える魔術を放った。
――――その、瞬間。
遠坂は放たれた魔術を相殺した。
それはいい。
それは驚くに値しない。
問題はその後――――遠坂のヤツ、あろう事かとんでもなく気合いの入った姿勢で、キャスターに殴りかかっていやがった――――!
遠坂は自ら業火に飛び込む。
そのまま放たれた魔術を相殺し、目眩ましにしてキャスターへと跳びかかった。
「――――!?」
キャスターの驚きは、きっと魔術師としてのモノだ。
あいつの中には、魔術戦で敗れた魔術師が殴りかかってくるなんて常識はない。
俺にだってないんだから、卓越した魔術師であるキャスターにとっては冒涜《ぼうとく》に等しいだろう。
が、それもただの悪あがきじゃない。
間合いを詰め、キャスターの胸に打ち込んだのは中国拳法でいうところの寸頸《すんけい》だ。
「ご――――ふ…………!?」
パリン、という音。
葛木と同じく拳を“強化”しているのか、遠坂の一撃は容易くキャスターの守りを貫通した。
「は―――貴女、魔術師のクセに、殴り合いなんて……!」
「おあいにくさま……! 今時の魔術師ってのは、護身術も必修科目よ……!」
「―――――――」
その連携に、正直、惚れ惚れした。
寸頸の直後、遠坂の体が沈んだ。
両手を床に付け、キャスターの膝もとまで屈みこむ。
格闘の心得などないキャスターには、それこそ消えたように見えた筈だ。
そこへ、とんでもない足払いが入った。
ザン、と体ごと回した旋脚は、キャスターの両足を断たんとばかりに炸裂する――――!
「きゃ――――!?」
足を払われ、背中から地面に倒れゆくキャスター。
だが終らない。
足払いの後、キャスターに背中を向けたまま立ち上がりかけ、回転する勢いのまま遠坂は肘をキャスターに叩き込み――――
「飛べ……!」
体の回転を止め、とんでもなく腰の入った正拳を炸裂させた――――!
「ごふ…………!」
キャスターの体が吹き飛ぶ。
遠坂の正拳突きをまともに受けたキャスターは、俺と同じように壁まで叩きつけられた。
「ぁ――――あ」
壁に背中を預け、朦朧と吐息を漏らすキャスター。
「取った――――!」
離れた距離。
吹き飛ばした数メートルの間合いを詰める為、遠坂は地を蹴った。
もはや勝負はついた。
キャスターは動けず、あの様子では致命傷だろう。
時間にして数秒もなかった攻防。
俺が壁まで叩きつけられ、葛木と対峙した合間の、五秒にも満たない一瞬で勝負はついた。
キャスターに抗う余力はない。
遠坂はセイバーじみた速度でキャスターに詰め寄り、とどめの一撃を見舞う。
魔術による数秒だけの“強化”。
遠坂は始めから、キャスターに格闘戦を仕掛けるつもりだったのだ。
キャスターは遠坂を魔術師としてしか見ていなかった。
その隙、ただ一度しか通じない奇襲を成功させる為に、あえて不利な魔術戦を演じたのか。
そうして策は成った。
キャスターは遠坂に欺かれ、完全に敗北した。
この戦いは遠坂の勝ちに終わった。
―――そう。
「―――いや。そこまでだ、遠坂」
この男の、怪物じみた運動能力さえなかったのなら。
キャスターに走り込む遠坂が疾風だとしたら、それは、魔風のような速度だった。
「う――――そ」
遠坂の足が止まる。
壁によりかかるキャスターの前には、たった今、俺の目の前にいた葛木宗一郎の姿がある。
「あ――――」
遠坂の体が動く。
死を直感して、咄嗟に顔を守って後ろに跳んだ瞬間、
俺を吹き飛ばした右拳《くずき》の一撃が、遠坂の顔面を強打した。
「っ――――!」
顔を両手でガードし、なお後ろに跳んでいたというのに、遠坂の体は大きく弾き飛ばされる。
俺とは正反対の壁際まで弾かれた遠坂の両手は、骨折したようにだらりと下げられていた。
「勝機を逃したな。四度打ち込んで殺せなかったおまえの未熟だ」
平然と言う。
……だが、そんなのは遠坂のせいじゃない。
勝機を逃した原因は俺だ。
俺が葛木を止めていれば、遠坂はキャスターを倒しきっていただろう。
―――これは俺の責任だ。
千載一遇の奇襲は、俺の未熟さと、葛木宗一郎という男の卓越した格闘スキルの前に阻まれた――――
「ぁ――――く」
キャスターの意識が戻る。
葛木に守られたキャスターは、ゆっくりと聖堂を見渡した。
……それで終わりだ。
キャスターにもう奇襲は通じない。
遠坂も疲労しきり、俺も、残る剣製は二本だけ。
――――もし。
もしこの状態で“彼女”を使われたら、俺たちは二度と地上には戻れない――――
「っ……ふう。感謝しますわマスター。貴方がいなければ、あのまま倒されていました」
「世辞はいい。今はセイバーを起こせ。甘く見ていい相手ではなさそうだ」
「ええ。的確な判断ですわ、マスター」
キャスターの指が、祭壇の“彼女”に向けられる。
目に見えるほどの呪いの縛め。
それを、キャスターが解こうとした時。
“―――ああ。それが、あと数秒ほど早ければな”
俺の頭上。
地上に至る階段から、そんな呟きが聞こえてきた。
「――――――――」
その異変に、最も早く気が付いたのはキャスターだった。
葛木は気づかない。
何故なら、葛木には魔力を感知する能力がない。
キャスターの体が動く。
彼女のマスター。
葛木宗一郎の頭上には
無数の剣が、浮遊していた。
「宗一郎――――――――!」
傷ついた自身の魔力では防げないと悟ったのか。
キャスターは、その身をもって己が主の前に立ち、
“――――投影《トレース》、開始《オン》”
頭上から響く声は、確かに、そんな呪文を口にした。
「――――――――」
……音が止んだ。
中空に現れた剣は、その全てが一つの標的へと舞い落ち、一人の肉体を串刺しにした。
無数の剣は肉を裂き、断ち、貫いた後、幻のように消えていく。
残ったものは、夥しい血の跡だけだ。
「ぁ…………つ…………あ」
ソレは。
自ら進んで盾となった女は、ぐらりと、血まみれの体で、背後の男へ振り返る。
「―――――――」
葛木は、ただ無言だった。
彼の目前には、串刺しになったサーヴァントの姿がある。
……もはや隠す必要もなくなったのか。
ローブははだけ、今まで晒さなかった素顔で、女は己が主へと歩み寄る。
[#挿絵(img/221.JPG)入る]
「あ―――あ、あ――――」
……崩れ落ちる体。
もはや死に絶えた体で、女は眉一つ動かさぬ主を見上げる。
その白い指が、無表情な男の頬をなぞっていく。
「あ――――無事ですか、マスター」
途絶える声は、ひどく透明な気がした。
葛木に変化はない。
短く、ああ、と答えるだけで、その視線はキャスターに向きもしない。
「良かった。貴方に死なれては、困ります」
それでもいいと。
……否、そんな相手だからこそ良かったのだと、女は口元に笑みをこぼす。
「でも、残念です。やっと望みが、みつかったのに」
頬をなぞる指が落ちる。
キャスターの体が、足下から消えていく。
「悲嘆する事はない。おまえの望みは、私が代わりに果たすだけだ」
あまりに朴訥《ぼくとつ》なその言葉に、くすりと。
儚いユメを見るように笑って、
「それは駄目でしょうね。だって、私の望みは」
―――さっきまで、叶っていたんですから。
希代の魔女は、眠るように崩れ落ちた。
……紫のローブが落ちる。
主を失った衣は次第に薄れ、後を追うように風に散った。
「―――――――」
消え去ったキャスターを見る事もなく、葛木はそいつを見据えていた。
俺の頭上にいるであろう、赤い外套の騎士の姿を。
――――頭痛がする。
投影を乱用した負荷だけじゃない。
呟かれた呪文。
ヤツが口にした言葉が、吐き気を伴って脳髄を打ちのめしている。
―――――投影《トレース》、開始《オン》と。
確かにヤツは、投影開始と口にした。
同じモノなどない筈の自己暗示《じゅもん》を、ヤツは、寸分違わず口にした。
「――――――――」
階段を降り、聖堂に立つアーチャー。
その姿を、遠坂は呆然と見つめている。
「……アー、チャー……もしかしたらって思ってたけど、そういうコト?」
「――――――――」
アーチャーは答えない。
ヤツは敵である葛木だけを見据えている。
「……獅子心中の虫、か。初めからこれを狙っていたな、アーチャー」
「ああ。だが、どちらかと言えばトロイの木馬だろう。倒すべきがギリシャの英傑であったのだからな。喩え話としては、そちらの方が相応しい」
目の前でキャスターを裏切っておきながら、アーチャーの態度に負い目はない。
「そうか。おまえのような男を引き込んだキャスターの落ち度だったな」
裏切り者を前にしても、葛木の口調は変わらなかった。
その体には未だ戦意が残っている。
魔術師でもなく、キャスターを失ったというのに、葛木には戦いを続ける意思がある――――
……構えをとる。
キャスターがいない今、葛木の戦闘能力は激減している筈だ。
あの“蛇”は健在だとしても、拳を鋼に変えていたキャスターの強化は消えている。
にも関わらず、葛木は変わらぬ姿でアーチャーと対峙した。
「そうか。続けるというのなら止めはしない」
双剣を構えるアーチャー。
両者の間には、既に戦闘が成立している。
「な――――」
それは、いいのか。
葛木は聖杯に興味はないと言った。
ただキャスターに付き添っていただけの、形だけのマスターだ。
なら、キャスターが消えた今、葛木と戦う理由など何処にもない。
「―――待て。どうして続けるんだ葛木。アンタはキャスターの言いなりになってただけだろう。キャスターはもういないんだから、戦う理由はない筈だ」
気が遠くなりそうな頭痛を堪えながら、二人に負けじと睨み付ける。
「――――――――」
葛木は、わずかに目を細めた後。
「そうだ。戦う理由などない。おまえと同じく、私は聖杯などに興味はなかったからな」
「なら」
「――――だが、これは私が始めた事だ。それを、途中で止《や》める事などできない」
それだけ。
答えた理由は、それだけだった。
――――戦いが始まる。
両者の戦いは、おそらく一合で終わるだろう。
いかに葛木が人間離れした格闘技術を持っていても、相手はサーヴァントだ。
“人間離れ”程度で太刀打ちできる相手じゃない。
これは戦いの名を借りた敗兵処理だ。
敗者の定め。
もとより殺し殺されるのがマスター同士の戦いであり、受け入れるべき結果。それが認められないのなら、始めから戦うべきじゃない。
それでも――――
――――助けられるのなら。
殺さないで済むのなら、そう望むことはいけないのか。
甘いと言われてもいい。
偽善である事も判っている。
マスターにとって相手を倒す、という事は殺す、という意味合いだ。
それを承知でここまで踏み込んだ。
お互いが殺す覚悟を踏まえた上での戦い。
そこに、今更待ったをかける事がどれほど卑怯なのかも判っている。
それでも。
誰かを助ける為に戦うと決めたのなら、失わなくていい命を無くす事はできない。
「――――やめろ。勝負はついた、これ以上は」
頭痛を押し殺して、両者の争いを止めに入る。
瞬間。
葛木の体が流れた。
「な――――」
俺の制止を隙と見たのか、葛木は一息でアーチャーに肉薄し、その拳を眉間へと叩き込む。
常人ならば頭蓋を砕かれて即死したであろうそれを、アーチャーは躱さなかった。
ゴン、とズレる頭。
赤い騎士はあえて葛木の一撃を受け、
相討つ形で、葛木宗一郎の胸を貫いていた。
沈黙だけがあった。
声をあげる者はなく、俺自身、言うべき言葉などない。
葛木宗一郎は死んだ。
最期まで無言のまま、後悔も希望も感じさせない幽鬼のまま、自分の選んだ道に殉じた。
……頭痛がする。
摩耗した魔術回路が神経を圧迫しているのか、
葛木を事も無げに殺した|アーチャー《ヤツ》が許せないのか、 だとしても異を唱える資格などない自分に腹が立っているのか。
判別がつかないまま、頭痛は一層強く鋭くなっていく。
「――――――――」
その音に振り返る。
キャスターが消え、縛めの呪縛が解けたのだろう。
聖堂の奥、磔の祭壇の前で、セイバーはその身を床に預けていた。
「ぁ……ん……」
セイバーは床に伏したまま、苦しげに呼吸を漏らす。
その姿だけで頭痛など忘れ去った。
「セイバー…………!」
駆け寄る。
たった数メートルの距離が、こんなにも煩《わずら》わしい。
「―――シロウ」
セイバーの顔があがる。
走り寄る俺を見て、セイバーは安心したように吐息を漏らし――――
「――――!」
「え?」
そのまま、肩口で体当たりをして、走り寄る俺を弾き飛ばした。
横殴りに、力任せに倒された。
体は数メートルも弾き飛ばされ、容赦なく地面に激突する。
「つあ…………!」
背中から床に落ちた。
「く――――」
混乱する頭を振り払って、とにかく頭を起こす。
瞬間――――
再度、鉄と鉄が衝突する音がした。
「な――――」
そこにいたのは、武装したセイバーだった。
……そして。
彼女の目前、弾き飛ばされる前に俺がいた床には、無数の剣が突き刺さっている――――
「―――チ、外したか」
ヤツは。
セイバーと対峙したまま、つまらなげに口にした。
「――――――――」
満足に立ち上がる事もできない体で、セイバーはアーチャーを睨み付ける。
「―――――アイ、ツ」
その理由は、考えるまでもない。
ヤツは背後から、俺を殺そうと剣を放った。
セイバーはそれに気が付いて、咄嗟に俺を庇ってくれたのだ。
「………………」
遠坂は呆然とヤツを見つめ、セイバーは苦しげな呼吸のまま剣を構える。
二人とも立場は違えど、その目には疑問があった。
キャスターが倒された今、アーチャーは何故、衛宮士郎を殺そうとするのかと。
「――――――――」
平然としているのはアーチャーと俺だけだ。
……そう、別に驚く事じゃない。
俺たちは初めから互いを嫌悪していた。
決して相容れないと対立してきた。
その理由も分からず、ただ認められないと否定し続けた。
……その理由。
お互いを否定するしかない意味が、もし本当にそうだとするのなら。
ヤツが俺を殺したがるのは、当然だと受け入れた。
「く――――」
弾き飛ばされた体を起こす。
セイバー、よっぽど必死だったんだろう。
手加減できずに突進したんだろうが、おかげでまともに息ができない。
―――それが、余計に体を起こさせる。
あのセイバーが、全力で体当たりしてその程度なんだ。
今の彼女には、それこそ俺を相手にする力さえ残っていない。
そんな体でアーチャーと対峙するのは、自殺行為に他ならない。
「アーチャー、なんのつもり……!?」
遠坂はアーチャーに詰め寄る。
……それはそうだろう。
アーチャーがキャスターに付いたのは、キャスターを騙し討ちする為だった。
それも成功した今、アーチャーが俺を襲う理由などない。
「芝居はもう終わりでしょう? キャスターは倒したんだから、もう勝手な真似は許さないわよ……!」
「許さない……? 解らないな、なぜ私が許されなければならないのだ。私のマスターでもないオマエに」
「え……アーチャー……?」
「オマエとの契約は切れている。自由になった私が、自ら進んで人間の手下になると思うのか?」
「――――――――」
愕然と赤い騎士を見上げた後、遠坂は何かを思い出したように息を飲んだ。
「まさか、アーチャー」
「私は私の目的の為だけに行動する。
だが、そこにオマエがいては些《いささ》か面倒だ」
「――――!」
遠坂が跳び退く。
アーチャーから離れ、そのまま膝をついている俺へと走り寄ろうとして、
遠坂は、その行動を封じられた。
二メートル近い大剣の群れ。
輪を描くように落下したソレは床に突き立ち、円形の鉄格子と化す。
「っ――――!」
人間一人がかろうじて立っていられる輪。
その中に、一瞬にして遠坂は閉じこめられた。
「ここまできて邪魔はさせん。契約が切れた今、オマエにかけられた令呪の縛りも存在しない。
キャスターに付いた理由はそれだけだ。あの令呪を無効にする為には、契約を破棄せねばならなかったからな」
剣の檻に閉じこめた遠坂に背を向け、アーチャーは歩き始める。
その先にいるのはセイバーではなく、未だ地に膝をつけている俺だった。
「やっぱり―――なんでよアーチャー! アンタ、まだ士郎を殺すつもりなの……!?」
「―――そう、自らの手で衛宮士郎を殺す。
それだけが守護者と成り果てたオレ[#「オレ」に丸傍点]の、唯《ただ》一つの願望だ」
「な――――に?」
セイバーの体に力が戻る。
彼女は弱り切った体に喝を入れて、アーチャーと俺の間に身を移す。
「アーチャー。貴方は、まさか」
「……そうだ。いつか言っていたな、セイバー。オレには英雄としての誇りがないのか、と。
無論だ。そんなものが有るはずがない。この身を埋めているのは後悔だけだよ。
―――オレはね、セイバー。英雄になど、ならなければ良かったんだ」
「――――――――」
セイバーから戦意が消えていく。
……何を悟ったのか。彼女にはもう、アーチャーに対する敵意が存在しなかった。
「そういう事だ。退いているがいい騎士王。マスターがいない身で無茶をすればすぐに消えるぞ。
もはや衛宮士郎にはマスターとしての資格がない。肩入れしたところで、君の望みには届かない」
「―――それは出来ない。マスターでなくなったとしても、契約は消えない。彼を守り、剣となると誓った。
……聖杯戦争など知らなかった彼は、それでも私の一方的な誓いに応えてくれた。その信頼を、裏切る事などできない」
視えない剣を構える。
だが、その姿には以前の凛々しさも力強さも見られない。
「―――そうか。ならば、偽りの主共々ここで消えろ」
アーチャーの両手に剣が現れる。
「っ――――」
っ……! 今のセイバーじゃあ、アーチャーの剣を受ける事さえできないって言うのに……!
「――――バカ、逃げろセイバー……!!」
立ち上がり、セイバーの背中に手を伸ばす。
それを引き離す為だったのか、
「は――――っ!」
セイバーは気力をふり絞って地面を蹴り、アーチャーへと疾走した。
――――戦いは、数合で終った。
かつてアーチャーを圧倒したセイバーは、わずか数秒の剣舞さえ行えず、膝を屈する。
……セイバーの手には、もはや剣さえない。
キャスターの呪縛に抗い続けた彼女には、魔力が残されていない。
息をする事もできず、セイバーは床に両手をつき、懸命に消えいく自身を持ち堪えていた。
「――――――――」
アーチャーの剣が上がる。
無防備なセイバーに振り下ろされる双剣。
それを、
「つあああああああ――――――――!」
横から、渾身の力を放って食い止めた。
「っ――――!」
双剣を構える。
瞬時に投影した武器を手にして、赤い騎士を凝視する。
「……ほう。あとしばらくは大人しくしていると思ったがな。さすがに、目の前で女が殺されるのは耐えられないか」
「―――うるさい。おまえが殺したがってるのは俺だろう。なら、相手を間違えるな」
対峙する。
手にした武器は共に双剣。
体格の差こそあれど、俺たちの構えは、細部に至るまで同一だった。
「人真似もそこまで行けば本物だ。だが―――おまえの体は、その魔術行使に耐えられるかな」
嘲笑う声。
……ヤツの言う通り、限界は近い。
頭痛は止まらず、投影によって回転を速められた魔術回路はリミッター一杯だ。
……これで、双剣のイメージを保ちながらの打ち合いなどすれば、斬り殺される前に脳髄が破裂する。
「――――く」
「前に忠告したな。おまえに投影は扱えないと。分不相応の魔術は身を滅ぼす。おまえをここまで生かしてきた魔術《きせき》の代償―――ここで支払う事になったな、衛宮士郎」
アーチャーが踏み込んでくる。
「く――――黙りやがれ、てめえ――――!」
それに。
この頭痛に斬りかかるように、なりふり構わずに剣を合わせた。
――――両手を振るう。
繰り出す剣筋は、全て敵の模倣にすぎない。
武器も借り物なら剣技も借り物。
故に、敵う筈などない。
たとえ体調が万全であろうとも、この相手には敵わない。
模倣は本物に近づく事が出来ても超える事はできないのだし。
もとから、この男には敵う筈がなかったのだ。
理想を抱いて溺死しろと男は言った。
偽りのような人生だと男は言った。
……それに反論できなかったのは、理想だったからだ。
不可能を可能とする力。
多くの人間を救い、英霊となった存在。
そうなりたいと願ったのは、他でもない自分自身だ。
だから敵わない。
目前の男は、その果てに立ったモノ。
誰かを救う為に強くなろうとした、衛宮士郎の理想に他ならないとしたら――――
「あ――――ぐ…………!」
剣が砕ける。
剣撃こそ防ぎきれたものの、双剣は跡形もなく消失した。
……意識が、保てない。
体は無傷だというのに、中身が血を流して、ズタズタに崩れようと――――
「納得がいったか。それが衛宮士郎の限界だ。無理を積み重ねてきたおまえには、相応しい幕切れだろう」
剣が振り上げられる。
「――――――――」
それが、左から落とされるのか右から落とされるのか、朦朧とする意識で見極めようとした時、
“―――告げる!
汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に! 聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら―――”
聖堂に、凛とした遠坂の声が響いていた。
「――――!」
それに気を取られたのか。
振り落とされた剣撃は鈍り、それなら――――
「く、あ――――!」
こんな体でも、避ける事ぐらいはできる……!
床を転がって間合いを離す。
「チィ――――!」
舌を打つアーチャーは俺を追わず、倒れ込んだセイバーを見た。
「―――我に従え! ならばこの命運、汝が剣に預けよう……!」
剣の檻からセイバーに手を伸ばす遠坂。
それに、彼女は最後の力を振り絞って走り寄り、
「セイバーの名に懸け誓いを受ける……!
貴方を我が主として認めよう、凛―――!」
本来あるべき契約。
自身に相応しいマスターを、ようやく、彼女は得るに至った。
巻き起こる烈風。
正規のマスターを得、本来の力を取り戻したのか。
アーチャーを見据えるセイバーの姿は、今までの比ではなかった。
「――――――、な」
息を飲んだのは自分だけじゃない。
アーチャーですら、その姿に見入っている。
立ち上る魔力の渦と、傷つく事などあり得ぬ甲冑。
他を圧倒する膨大な魔力は、それこそ底なしだ。
―――あれがセイバー。
サーヴァント中最強と謳われた剣の英霊―――!
「―――チ。もとより凛と再契約させるつもりだったが、些か手順が違ってきたか」
もはや俺に構う余裕はないのか、アーチャーはセイバーを見据えたままぼやく。
「それで、どうするセイバー。
凛と契約した以上、君は本当に衛宮士郎とは無関係になった訳だが――――」
「言った筈ですアーチャー。シロウとの誓いはなくならないと」
断言するセイバー。
不快げに舌打ちし、アーチャーは双剣を握り直した。
「貴方こそどうするのですアーチャー。貴方がシロウを手にかけるというのなら、私は全力でそれを阻む。
考え直すのなら今のうちです。今の私を相手にして、勝機があるとは思わないでしょう」
セイバーの忠告は真実だ。
今のセイバーは、バーサーカーと一騎打ちをしたところで負けはしない。
アーチャーが何者であろうと、セイバーには太刀打ちできない。
それを誰よりも判っていながら、
「―――フン。たかだか魔力が戻った程度で、よくもそこまで強気になる……!」
有無を言わせず、アーチャーは突進した。
衝突する二つの剣戟。
アーチャーは赤い弾丸と化してセイバーに踏み込み、渾身の一撃を炸裂させる。
「―――――――は!」
それを、セイバーは事もなげに受けきった。
身長差も、突進による推力も関係ない。
セイバーは一歩も引かずアーチャーの双剣を弾く。
後退したのは攻めた筈のアーチャーだ。
おそらくは最大の力、二の剣など要らぬと繰り出した一刀は―――
「ッ、ぐっ…………!!!!」」
―――受けきられたばかりか、防がれただけで体を泳がされていた。
「ぬっ――――!」
たまらず引き下がるアーチャー。
そこへ、
烈火怒濤《れっかどとう》と、セイバーの剣が襲いかかる――――!
繰り出されるセイバーの剣を、アーチャーは防ぐ事しか出来ない。
反撃を試みれば、その隙にセイバーの剣が額を打つ。
いや、そもそも反撃にまわれるだけの余裕などない。
アーチャーに許された抵抗は、力尽きるまでセイバーの剣を受ける事のみ。
それも長くは続くまい。
セイバーの剣に籠められた魔力は、干将莫耶を一撃ごとに削っていく。
双剣はこれ以上セイバーの剣に耐えきれず、アーチャーとて振るう腕に力が入るまい。
決着は、予想より早くついた。
セイバーの剣舞に耐えられず、片膝をつくアーチャー。
そこへ、セイバーは止めとばかりに剣を降り落とす。
必殺《そ》の一撃を、アーチャーは双剣の交差で受け止めた。
戦いはそれで終わりだ。
セイバーの剣を止めたものの、アーチャーは動けない。
交差させた双剣をわずかでも緩ませれば、セイバーの剣がヤツを額から両断する。
「ぬ――――む…………!」
両の腕に力を込め、セイバーの一撃を食い止めるアーチャー。
その額には汗が滲み、呼吸は千々に乱れている。
「――――――――」
対して、セイバーは呼吸さえ乱れていない。
こと白兵戦において、アーチャーがセイバーに勝利する事はあり得ない。
「―――ここまでですアーチャー。
万全な貴方ならまだしも、今の貴方の魔力ではこれ以上戦えない」
「先ほど私の身を案じていましたが、それは貴方にも言える事だ。キャスターを倒す為にあれだけの宝具を使った今、魔力は残り少ない筈です。
加えてこの世に留まるための依り《マスタ》代《ー》もいない。魔力の供給もままならない、今の貴方に何ができる」
「ふ―――それこそ余計な世話だセイバー。
アーチャーのサーヴァントには、マスターがおらずとも単独で存在する能力がある。マスターを失ったとしても二日は存命できよう。それだけあれば、あの小僧を仕留めるには十分だ」
「馬鹿な、まだそんな事を言うのですか……! 貴方の望みは聖杯ではなく、シロウを殺す事だとでも……!」
「――――――――」
アーチャーは答えない。
冷め切った目が、ただ、苦悩に歪むセイバーの顔を見つめている。
「……なんという事を。アーチャー、貴方の望みは間違っている。
何故―――何故、そのような結末を望むのですか。そんな事をしても、貴方は」
救われない、と。
そう言いかけて、セイバーは唇を噛んだ。
「……ふん。間違えている、か」
アーチャーの両腕が膨れあがる。
ヤツは、一度だけセイバーを見て、
「それはこちらの台詞だセイバー。
君こそ、いつまで間違った望みを抱いている」
一瞬、昏い目をしてそう告げた。
「―――――アーチャー」
セイバーの剣が緩む。
「ふっ――――!」
その隙をついてアーチャーは立ち上がり、自由になった足でセイバーを蹴り飛ばす……!
「っ――――!」
吹き飛ばされつつ、セイバーは華麗に着地する。
状況は先ほどと変わらない。
俺を庇うセイバーと、剣の檻に囚われた遠坂を背にするアーチャー。
両者の距離は、またも五メートルほどの間合いとなった。
「……ふう。判りきっていた事だが、やはり剣技では及ばぬか」
言って、アーチャーは素手に戻った。
手にした双剣は消え、ヤツは徒手空拳のままセイバーと向かい合う。
「……アーチャー。剣を捨てたという事は、戦いを納める気に――――」
「まさか。君こそ思い違いはよせ。オレはアーチャーだぞ? もとより、剣で戦う者ではない」
そう言って、ヤツは、
“I am the《体は》 bone《剣で》 of m《出来ている》y sword”
こちらに聞こえない声で、そんな呪文を口にした。
「止めろアーチャー! 私は、貴方とは――――」
「セイバー。いつか、おまえを解き放つ者が現れる。
それは今回ではないようだが―――おそらくは次も、おまえと関わるのは私なのだろうよ」
“Unknown to《ただの一度も敗走はなく、》 Death.Nor known 《ただの一度も理解されない。》to Life”
聖堂に響く言葉《じゅもん》。
……周囲に変化はない。
あれだけの長い呪文ならば、必ず周囲に影響が出る。
魔術というものは世界に働きかけるもの。
しかし、ヤツの呪文は世界に働きかけず、ただ―――
「だが、それはあくまで次の話。今のオレの目的は、衛宮士郎を殺す事だけだ。
それを阻むのならば――――この世界は、おまえが相手でも容赦はせん」
左腕が上げられる。
ヤツの呪文は、それで完成するのか。
“■■■―――unlimite《その体は》d blade 《きっと剣で。》works.”
明確に言霊を吐いて、ヤツは世界を変動させた。
――――炎が走る。
地面を走るソレは、白線のようでもあった。
瞬時にして聖堂を囲った炎は境界線なのか。
炎の色が視界を覆い、聖堂を塗り潰したあと。
その異界は、忽然と聖堂にすり替わっていた。
「――――――――」
頭痛が、思考を埋め尽くす。
―――解る。
この魔術、この異常がなんであるか、俺は理解できる。
理解など出来る筈がないのに、問答無用で、これがなんであるか読みとれる。
それが――――
何より、脳を沸騰させた。
それは、一言でいうなら製鉄場だった。
燃えさかる炎と、空間に回る歯車。
一面の荒野には、担い手のない剣が延々と続いている。
その剣、大地に連なる凶器は全て名剣。
ヤツが使う干将も莫耶も、もとはこの世界より編み出されたもの。
無限とも言える武具の投影。
夥《おびただ》しいまでの武器は、それだけで廃棄場じみている。
その、瓦礫の王国の中心に、赤い騎士は君臨していた。
「これ、は――――」
当惑の声はセイバーだ。
彼女は熱くもない幻の炎の中、呆然と赤い騎士を見つめている。
「―――固有結界。
心象世界を具現化して、現実を浸食する大禁呪。
つまり、アンタは剣士でもなければ弓兵でもなくて」
「そう。生前、英霊となる前は魔術師だったという事だ」
遠坂の声は淡々としていた。
……もしかして、あいつは、とっくに。
アーチャーの正体に、気が付いていた、のだろうか。
「―――ではアーチャー。貴方の宝具は」
「そんなものはない。
私は聖剣も魔剣も持ってなどいなかったからな。オレが持ち得るのはこの世界だけだ。
宝具が英霊のシンボルだというのなら、この固有結界《まじゅつ》こそがオレの宝具。
武器であるのならば、オリジナルを見るだけで複製し、貯蔵する。それがオレの、英霊としての能力だ」
「――――――――」
息を呑むセイバー。
彼女は呆然と、荒野に連なる墓標《つるぎ》を見つめる。
その、荒れ地と鉄しかない、人の住まぬ灰の空を。
「これが……貴方の、世界だというのか、アーチャー」
「そうだ。試してみてもかまわんぞセイバー。
おまえの聖剣―――確実に複製してみせよう」
「私の聖剣……その正体を知って言うのか、アーチャー」
「勿論。アレほどのモノになると完全な複製はできぬが、真に迫る事はできる。
となれば、どうなる? 聖剣同士が衝突した時、周りの人間は生きていられるかな」
「な――――アーチャー、貴方は……!」
「そういう事だ。間違っても聖剣を使うなセイバー。使えばオレも抵抗せざるを得ない。
その場合、消えるのは我々ではなく周りの人間だ。
……おまえの事だ、自身を犠牲にしてもそこの小僧を守るだろう。オレとて聖剣など投影しては自滅する。
となれば、生き残るのは衛宮士郎《ひとり》だけ。それではあまりにも意味がない」
アーチャーの左腕があがる。
ヤツの背後に立つ剣が次々と浮遊していく。
「―――抵抗はするな。
運が良ければ即死する事もない。事が済んだ後、おまえのマスターに癒してもらえ」
アーチャーの指がセイバーを示す。
無数の剣が、セイバーに切っ先を向けていく。
そのどれもが必殺の武器。
「―――躱すのもいいが。その場合、背後の男は諦めろ」
そうして、ヤツは号令を下した。
「……………………!」
放たれる無数の剣。
セイバーは一歩も動かない。
その全てを、手にした剣だけで払いのけようと、決死の覚悟で迎え撃つ――――
「―――――投影《トレース》、開始《オン》」
頭痛で、何も考えられなかった。
残り一回分の魔術回路。
焼け焦げ、溶解しかかった無残な内部。
そんな事情など、ヤツの世界を見た時から消え去った。
気が付けば地を蹴って、セイバーの真横へ走り込んで、ただ目障りな剣どもを凝視した。
「シロウ!? だめだ、早く――――!」
知らない。
今は、飛び交う十八の剣、その全ての解析に肉眼では追い付かず感覚が暴走し
最高速度を超えてなお速く、速く、速く、速く、
次が迫る。
バキン、と撃鉄らしきモノが後頭部に落ちる感じ。
「ふざけ――――」
左腕を突き出す。
疑問など一分もない。
今まで散々真似をしてきた。
その道理、法則に間違いがないのなら、
「―――てんじゃねえ、テメェ………――――!!!」
目前の剣の雨を、複製できない筈がない――――!
……破片が舞っていく。
目を開けた時、ヤツの固有結界とやらは消失していた。
有るのは舞い散る剣の欠片と、
「は――――あ――――、あ、は――――!」
内臓そのものが喉元までせり上がってきたような、地獄めいた吐き気だけ。
「――――――――」
ヤツは忌々しげに俺を睨んだあと。
「ちょっ―――アーチャー、アンタ――――!?」
剣の檻に囚われた遠坂を連れ出すなり、その体を拘束、しやがった。
「っ……! っっ、っ〜〜〜………………!」
アーチャーに掴まれながら暴れる遠坂。
「あ――――え……?」
どんな手を使ったのか、アーチャーは遠坂の首筋に手をあて、意識を刈り取る。
……そうして、聖堂を後にする。
遠坂を抱きかかえたまま、アーチャーは地上へ通じる階段へ跳び上がった。
「……何処に行く気です、アーチャー」
「これ以上邪魔の入らないところだ。
オレは今ので魔力切れだしな。おまえに守られた小僧を仕留めるだけの力はない」
「――――凛を連れて行くのは、人質ですか」
「いや、交換条件だ。コレがオレの手元にある限り、そこの小僧はオレを追わざるをえまい。
加えて、凛はおまえのマスターになった。いかにおまえが小僧を守ろうと、マスターの命には代えられまい」
「――――――――」
……吐き気を堪える。
気を緩めれば倒れそうな意識を絞って、ヤツの戯言に耳を貸す。
「――――郊外、だ」
そうして。
震える喉で、見上げる事もできないまま言い放った。
「なに?」
「―――だから、郊外の森だ。そこに使われていない城がある。あそこなら、誰にも迷惑はかからない」
「シロウ……!?」
「オレに文句があるんだろう。いいぜ、聞いてやる。
言いたい事があるのは、こっちだって同じなんだ」
視界が点滅する。
異次元にいるような気持ち悪さの中、それだけを口にした。
「郊外の森……そうか、アインツベルンの城があったな。確かにあの城ならば邪魔は入るまい。
―――ふん、いい覚悟じゃないか衛宮士郎」
「……うるさい。そんな、事より」
軽口は聞きたくない。
聞けば、耐えきれなくなって、体の《な》内臓《かみ》をぶちまけてしまう。
「―――それまで遠坂に手を出してみろ。
その時は、セイバーの手を借りてでも、おまえを殺してやる」
ぎり、と。
頭痛を堪える為、額を皮ごと引っ掻いて、宣告した。
「よかろう。場所を指定した見返りだ、一日は安全を保証してやる。
―――だが急げよ。マスターがいない今、オレとて時間がない。この身は二日と保たぬだろう。
その前におまえを殺せないとあらば、腹いせに人質をバラしかねんからな」
……癇に触る笑い声を残して、アーチャーの姿が消える。
「――――――――」
その姿を見届ける事もできず、床に膝をついた。
「シロウ……! 無茶をして、いくら貴方でもアーチャーと同じ投影をするのは早すぎます……!」
倒れ込む俺を支える腕。
「…………ごめんな、セイバー。遠坂、とられちまった」
軋む頭蓋を押さえて、なんとか立ち上がる。
「シロウ……それはいいのです。凛は無事だ。アーチャーも凛には手を出さないでしょう。
それより、今は貴方の方が危ない。凛の事は私に任せて、シロウは家で休息をとるべきです」
「…………いや。そんな、暇は」
ない、と言いかけて、気が遠くなった。
……くそ。
まいった、満足にグチを言うコトさえ、出来ないのか。
「話は後で聞きます。今は貴方を家に連れて帰る。いいですね、シロウ」
「――――ちょっ――――ま」
……反論する隙もない。
セイバーは俺に肩を貸して、階段に向かって歩き出した。
空は、依然として灰色のままだった。
もはや誰もいなくなった教会を後にする。
「お。事は済んだみたいだな、坊主」
……と。
目前の広場には、見慣れた槍兵の姿があった。
「――――――!」
俺に肩を貸したまま、セイバーは広場を睨む。
あと一歩でもランサーが近寄れば、迷わず斬りかかりかねない気迫だ。
「……いや、違うんだセイバー。あいつは、俺たちの手助けを、してくれた」
「は……? ランサーが、シロウに協力したというのですか?」
「……ああ、そうだ。……できれば、今は戦わないで、くれ」
セイバーは呆然とランサーを見据える。
……あいつはあいつで、そんなセイバーを心底愉しんでいるようだ。
「それは判りましたが……何故ですランサー。貴方がシロウたちに協力するなど、何か企みがあるのですか」
「あ? なんだ、バカだろおまえ。んなもの有るに決まってんじゃねえか。裏で企んでなきゃ余所の手助けなんてするか」
はっきりと言い切るランサー。
「……は」
ああいうヤツだって判っていたが、セイバーまで茶化すあたり、徹底している。
「む。何がおかしいのです、シロウ」
「え……いま笑ってたか、俺……?」
「ええ、笑っていました。どうやら私の思い違いだったようですね。笑みがこぼれるほど元気があるのなら、この肩を貸すまでもなかったようですが」
むっとした顔で怒る。
……それで、不謹慎ながら、少しだけ安心できた。
セイバーは以前のままだ。
もう俺と繋がりはなくなってしまったが、彼女は変わらないままでここにいる。
なら―――一体、何を悔やむ必要があるだろう。
「……悪い、気が緩んだみたいだ。今は、そんな場合じゃなかったな」
「―――はい。凛を取り戻すにしても、今は休まなければ。……ランサー。何が目的かは知らぬが、もはや用は済んだのだろう。ならば去れ。私も、今は貴方とは戦わない」
堂々とランサーに告げ、セイバーは広場に降りていく。
「……? おい、万事首尾良くいった―――って訳じゃなさそうだな。何が起きたんだ、坊主」
「遠坂がアーチャーに連れて行かれた。これから取り戻しに行くだけだ」
目眩を堪えて、ランサーの目を見据えて答える。
「……なに? おい待て、そりゃあどういう事だ」
「――――――――」
……悪いが、こっちには余分な体力がない。
長ったらしい説明なんて出来ないんだから、大人しく帰って――――
「アーチャーの目的はシロウを殺す事です。その為に私のマスターとなった凛を攫《さら》い、交換条件としてシロウに一騎打ちを命じました。
一日中にアーチャーの元に行かなければ、凛の安全は保証しないそうです」
…………いや、まあ。
代わりに説明をしてくれるのは助かるが、ランサーにそんな事を言っても仕方がないだろ、セイバー。
「――――ヤロウ。やりやがったな」
……と。
どこか親しみがあった皮を捨てて、ランサーは地の顔で歯を鳴らした。
「……ランサー?」
「つまりアレか。あのヤロウ、一度ならず二度までお嬢ちゃんを裏切ったってワケか」
「え……ええ、そういう事になりますが、それがどうしたと……?」
「―――どうしたじゃねえ。……クソ、気が変わった。手助けするのはこれっきりだったがな、もう少し付き合わせろ。このままじゃ寝覚めが悪い」
そう吐き捨てて、ランサーは歩き出した。
「――――――――」
言葉もなくランサーを見つめるセイバー。
……気持ちは判る。
ランサーの背中は、俺たちと同行すると告げているようなものだったからだ。
「……まいった。シロウと凛はどんな魔術を使って、彼を味方に引き入れたのです」
感心した、というより呆然としたセイバーの声。
が、残念ながら答える体力もないし、葛木にやられた傷と左肩の痛みがぶり返してそれどころじゃない。
……いや、そもそもそんな事。
もとよりこっちが聞きたいぐらいだ、ほんと。
◇◇◇
――――そうして、そいつの夢を思い出した。
英雄の座に祭り上げられた彼の記憶。
わたしじゃ手の届かないところで終わった、或る騎士の物語。
この丘があいつの世界。
他人の為に戦い続けた男が手に入れた、他人のいない一面の荒野。
この風景を抱いたまま、あいつは満足だと笑って死んだらしい。
「――――バカじゃないの、本気で」
……そう、ともかくそれが無性にあたまにきたのだ。
頑張って頑張って、凡人のくせに努力して、血を流しながら成し得た奇蹟があった。
なら幸せにならないと嘘だ。
多くの人間を幸福にしたのなら、そいつらが束になってかかってきても負けないぐらい、幸せにならないといけない筈だ。
けど、そんな報酬は与えられなかった。
代わりに与えられたのは、死んだ後も“守護者”として使役される運命だけだ。
「――――――――」
そう。どうして、そんな事に気が付かなかったんだろう。
守護者はあらゆる時代に呼び出される。
それは、逆に言えばあらゆる時代から[#「から」に丸傍点]呼び出されるという事ではなかったか。
つまり現在と過去。
そして、まだ見ぬ未来からですら[#「まだ見ぬ未来からですら」に丸傍点]、英霊となるモノなら呼び出せるのだ[#「英霊となるモノなら呼び出せるのだ」に丸傍点]。
時間軸から外れた“座”に押し込まれた守護者には、もはや時間の概念などない。
彼らは英霊となった時点で、人間だった頃とは別の物に昇華する。
なら――――同じ時代。
かつて自分が生きていた時代、生きていた街に呼び出される守護者がいないとは限らない。
「――――――――」
それを思うと、悔しくなる。
だってどっちも救われない。
かつての自分を見る側も、
いつかの自分を見る側も、
変わり果てたその在り方に、胸を痛めるだけなんだから。
誰かの為になろうとする大バカの結末を、わたしはもう知っている。
そいつは望んで守護者になった。
死んだ後も人々を救えるのなら、それは願ってもない事だと。
生前は力がなく救えなかったけど、英霊としてならあらゆる悲劇を打破できると信じていた。
そんな事を思って、世界との取引に応じて死後の自分を差し出して、百人程度の命を救ったんだ。
その後は、もっと多くの、何万人という命が救えると信じきって。
――――けど、そんな希望も裏切られた。
英霊、守護者が現れる場所は地獄でしかない。
彼らは世界が人の手によって滅びる場合のみ出現する。
人間は自らの業によって滅びる生き物。
だから、滅びの過程はいつだって同じはずだ。
あいつは、その『地獄』にのみ呼び出された。
救いたかった筈の人間が死に絶えた破滅の地で、そいつはもっと多くの人間を手にかけた。
泣いている誰かを見たくないだけだ、と語った少年は。
永遠に、人間の泣き顔しか、見ることができなくなった。
言える事は一つだけ。
そいつはずっと、色々なものに裏切られてきて。
最後の最後に、唯一信じた理想にさえ裏切られた。
―――体は剣で出来ている。
血潮は鉄で 心は硝子。
幾たびの戦場を越えて不敗。
ただの一度も敗走はなく、
ただの一度も理解されない。
彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。
故に、生涯に意味はなく。
その体は、きっと剣で出来ていた。
……それが、そいつに与えられた唯一つの呪文だった。
なによそれ。
なんなのよーって、本人の胸をむちゃくちゃに叩いて叱りつけたくなるぐらい、頭にくる。
……遠坂凛《わたし》は苦労した事がない。
だから言う資格はないかもしれないけど、わたしは努力と痛みを信じている。戦った分だけ報酬がないのは間違っている。
だからこそ、報われなかったあいつの人生そのものに頭がきているし、なにより―――そうやって守り通した結果、かつての自分の生き方そのものを呪うようになったあいつが、放っておけない。
“アンタがわたしのサーヴァントである以上、わたしは自分《わたし》が信じるコト以外はやらない。
わたしは衛宮士郎ほど甘くはないけど、それでも譲れないものがある。
相手が何者であろうと、それを譲る気なんかない―――”
……そう。
だから、そうしようと誓ったんだ。
わたしがあいつのマスターである限りは、かつての彼と同じように、自分の信じた道を貫き通す。
わたしには、それぐらいしか示せない。
それぐらいの事でしか、あいつに報いる事ができなかった。
それは意味のない事だったかもしれないけど、せめて。
過去を見失ってしまったアーチャーが、自身《そ》の人生は誇れるものだったんだって気づける時がくるように――――
「ぁ…………ん…………」
微睡みから覚めた途端、まず気になったのが手足の感覚だった。
動かないし、痛い。
「…………縛られてる」
おまけに椅子に座らされていて、不自然な格好で眠っていたらしい。
「――――――――」
……認めたくはないが、自分の状態は最悪だ。
はっきりいって何も出来ない。
手は椅子の後ろに回され、手錠のような物で拘束されている。
足首も同様で、椅子から立ち上がる事もできない。
加えて、手錠や足枷は抗魔術がかけられていて、魔術回路の働きがメチャクチャで魔力も生成できない有様。
「――――――――」
自分の状態を確認したところで、次は周囲を確認する。
……寒い。
暖房などない石の部屋は、使われなくなって久しい廃墟だった。
窓の外は暗い。……この感じからして、夜の十時過ぎというところだろう。
「で。どういうつもりよアーチャー」
闇を睨む。
……柱の影。
積み重なった瓦礫の上に、赤い外套の騎士が腰を下ろしている。
「どうもこうもない。オマエは衛宮士郎を釣る餌だ。それは自分でも判っているだろう」
「……ふん。わたしがいなくたって、士郎なら勝手に来るわよ。そんな事、貴方なら判るでしょうに」
「―――そうだな。だが、そこにオマエがいては都合が悪い。事が済むまで、目障りな邪魔者にはここで大人しくしていてもらう」
わたしの前には現れず、アーチャーはそう言葉を切った。
そこに以前の親密さはない。
今のあいつは本当に、冷徹な“掃除屋”だった。
「そう。どうあっても士郎を殺すっていうのね、貴方」
「ああ。あのような甘い男は、今のうちに消えた方がいい」
当然のように答える。
ここから見えるのは影になった横顔だけだ。
冷め切った、能面のような顔。
それが――――もう、致命的なまでに頭にきた。
「……ふん。士郎が甘いって事は言われなくても分かってるけど」
すう、と息を吸う。
これを口にしたら終わる。
それを言ったら、わたしのアーチャーは二度と帰ってはこない。
それを一息で飲み込んで、強く、影になった男を見据えた。
「それでもわたしは、あいつの甘いところが愛しいって思う。
あいつはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる」
「けどアンタはどうなの。
そこまでやっておいて、身勝手な理想論を振りかざすのは間違ってるって思ったわけ?
何度も何度も他人の為に戦って、何度も何度も裏切られて、何度も何度もつまらない後始末をさせられて―――!
それで、それで人間ってモノに愛想がつきたっていうの、アーチャー……!」
なんだかもう、続けているうちに頭にきて力の限り怒鳴っていた。
「――――――――」
……アーチャーは答えない。
影に沈んだ横顔は、もう、わたしの知るどの横顔とも似てはいなかった。
◇◇◇
“―――全ての人間を救う事はできない”
自分にとって、全ての人間を救えるだろう男にそう言われた時、あったのは反発だけだ。
“―――いいかい士郎。
正義の味方に救えるのは、味方をした人間だけだ”
その言葉も嫌いだった。
自分にとって正義の味方そのものの人物に、そんな現実を口にしてほしくなかった。
……それからの衛宮士郎の時間は、ずっと、その言葉を覆す為だけのもの、だったのかもしれない。
犠牲なんて出さなくてもいい。
頑張れば、精一杯努力すれば傷つくヤツなんていなくなる。
切嗣《オヤジ》だって、それにずっと憧れていた筈だ。
だから
“ああ――――安心した”
その最期に、背を向ける事はできない。
その在り方が歪《いびつ》だと、遠坂は言ってくれた。
……分かっている。
そんな事、ずっと前から気づいていた。
誰も傷つかない世界なんてないし、
誰も傷つけない幸福なんてない。
そんな都合のいい理想郷は、この世の何処にもありはしない。
衛宮士郎が成ろうとする正義の味方なんてものは、それだけで偽善なんだ。
――――人助けの果てには何もない。
だから。
そんな事、言われなくても分かっている。
―――他人も自分も救えない、偽りのような人生だ。
……ああ。
たとえそうだとしても、おまえにだけは、その台詞は言わせない。
他の誰が否定してもいい。
けど、ヤツにだけは言わせない。
同じもの。
同じところから始まって、いずれ自分もああなるとしても―――いや、だからこそ否定する。
あいつがかつての衛宮士郎を認めないように。
俺はここにいる以上、あいつのカタチを認めない。
……たとえ、このユメが歪《いびつ》な物であろうと。
それを信じてきて、これからも信じていくと決めたのなら、決して、自分にだけは――――
「――――――――」
目を覚ます。
起きてすぐに時計を見て、今が十一時過ぎだと確認する。
「目が覚めましたか、シロウ」
セイバーは正座したまま、穏やかな声で言った。
……教会から家に帰ってきてから、もう半日。
俺が意識を失った後、そこでずっと見守っていてくれたのか。
「ああ、起きた。体も問題ないよ。疲れも取れたし、頭痛も消えた」
布団から体を起こす。
手足の感覚は元通りだ。
あれだけ酷使した魔術回路はさすがに消耗したままだが、回路が焼き切れた、という事にはなっていない。
「――――行くのですか、シロウ」
唐突に、セイバーはそんな事を言ってきた。
判りきった事なんで、無言で頷きを返す。
「……わかりました。では私も同行します。
ですがシロウ、凛は私のマスターです。彼女を救い出すのは私の役目だ。アーチャーは私が止めますから、シロウは」
「逆だセイバー。アーチャーとは俺がやる」
セイバーの言葉を遮る。
彼女は、不安げに俺の視線を受け止め、
「……それは駄目だ、シロウ。
アーチャーは、貴方の―――」
そう、辛そうに言い淀んだ。
「判ってる。アイツが何者なのかは、多分、出会った時から解ってた」
顔を合わせた時から、理由もなく反発した。
こいつだけは認められないと、意固地になって嫌ってきた。
……それも当然だ。
人間誰だって、自分の過ちを見せられたら目を背けるしかないんだから。
「……ああ。けど、だからこそアイツがした事は認めない。アイツとだけは、俺が決着をつけなくちゃいけないんだ」
立ち上がる。
体は万全だ。
約束の刻限まであと半日。……これ以上、休息に時間を割く事はできない。
「シロウ」
「……こんな事を言える立場じゃないけど、頼むセイバー。アーチャーとは俺がやる。その時、どうなっても手を出さないでいてほしい」
きちんと頭を下げて、セイバーにお願いする。
「―――いいえ。そのような事をする必要はありません、シロウ。
貴方がそう望むのなら、私はそれに従いましょう。
この身は貴方の盾になると誓ったのです。その行く末を、最後まで見届けます」
「――――――――」
その答えは、完璧だった。
凛とした声は、心に染みついた不安を払拭する。
「ありがとう。セイバーが見守ってくれるんなら、心強い」
「はい。私も貴方がそうであってくれて嬉しい、シロウ」
返ってくる笑顔。
それで、出陣の支度は整ったようなものだった。
衛宮の家を後にする。
まさかもう一度、あの城に行く事になるなんて誰が思っただろう。
「―――おい。オマエら、人の話聞いてねえだろ」
「え?」
「は?」
二人して振り返る。
……あ。
そう言えば、まだいたんだっけランサーのヤツ。
「……なんだ。案外暇なんだな、アンタ」
思わず本音が口に出た。
「………………」
自覚があるのか、ランサーもその件については反論する気はないようだ。
「ランサー。貴方が何を企んでいるかは知りませんが、私たちに同行しても得るものはありません。
アーチャーは既にマスターを持たないサーヴァント。貴方のマスターが倒したがるとは思えませんが」
「ああ、判ってる判ってる。別にアーチャーのヤロウをどうこうしようって気はねえ。坊主とヤツの殺し合いにも手は出さねえから安心しろ」
「……では何の為に付いてこようというのです。私との決着を望むのなら、ここでつけても構いませんが」
「いや、それも願い下げだな。オレは貴様のマスターと敵対する気はない。むしろ売りたいのは恩でね。ここらで貸しを作っておこう、とそういうハラだ」
「………………」
セイバーはランサーを睨み、
ランサーは飄々とセイバーの視線を流している。
「―――判った、好きにしろ。遠坂を助ける手助けをしてくれるなら、こっちも助かる」
「シロウ……! ランサーは敵です。そのような軽い決断は――――」
「その点は大丈夫だろ。そいつ、性根ひんまがってるけど嘘を言うヤツじゃないし、なにより回りくどい事なんて出来ない。俺たちを騙したいんなら、その前に真っ正面から倒しに来てるさ」
「む……それは、そうですが、しかし」
「いや、セイバーが嫌だって言うなら追っ払う。けどこいつ、放っておいても付いてくるぞ。それなら傍にいさせて監視したほうが楽だろ」
「む―――たった数日で随分と口が上手くなったのですね、シロウ」
「いや、色々あったから。
ま、そういう事だランサー。俺たちもアンタには関与しないから、アンタも俺たちには口を出さない。それでいいなら一緒に行こう」
にやにやと俺たちのやりとりを眺めるランサーに声をかける。
「十分だ。いや、いいコンビじゃねえか。
セイバーは見てのとおり融通がきかないからな。オマエが大人になってくれて助かったぜ」
「そ、そのような事はありませんっ。融通がきかないのはむしろシロウの方だ。私がどれほど苦労したか、貴方に何が分かるのですっ」
「さあ?
なんだ、訊けば聞かしてくれるのかセイバー? いいぜ、城までは随分とある。道中おまえの苦労話を肴としよう」
「っ――――! な、なぜ私がそのような事を説明しなくてはならないのです! それこそ貴方には無関係ではないですか!」
があー、とランサーを責め立てるセイバー。
「…………うわ」
セイバー、ランサーとは相性が悪いんだな。
まさかあのセイバーが、あんな遠坂っぽく怒鳴るなんて思っても見なかった。
「――――まあいいか。
それより行くぞ。遊んでる暇はないんだ、出来るだけ早く城に行かなくちゃいけないんだからな」
二人を放っておいて歩き出す。
「シ、シロウ……! 私は遊んでいる訳ではありませんっ」
まだ気が立っているのか、怒鳴りながら後を追ってくるセイバー。
ランサーはそんな俺たちと距離を保ったまま、飄々と付いてくる。
時刻は午前零時。
ここから城までの行程は把握している。
約束の刻限には間に合う筈だ。
――――到着はおそらく夜明け。
主のいなくなった森の古城に向かって、夜の中を歩き出した。
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2月14日     15 After image
夜が明けようとしていた。
赤い外套の騎士は柱に背を預けたまま、ただ己が腕を見つめている。
指先に力を込め、広げた手のひらを握る。
感覚は、残り半分といったところだ。
いかに英霊と言えど、この世界に留まれる依り《マスタ》代《ー》がいなくては存在《にくたい》を保てない。
アーチャーのクラスが持つ特殊能力故に存命しているが、それも限界が見えている。
赤い騎士に残された力は、もはや元の一割にも満たない。
握りしめた拳は希薄であり、気を抜けば徐々に風化していくだろう。
「――――――――」
だが問題はない。
残された力が十分の一に満たずとも、衛宮士郎を処刑するには十分だ。
標的との戦力差を考えれば、この程度のマイナスはハンデにすらなりえまい。
故に、戦闘になれば終わる。
彼にとって唯一つの目的となっていたモノが、ここで終わりを告げるのだ。
「――――――――」
……そう。
彼は、この時だけを待ち続けてきた。
永遠に続く一瞬の繰り返しの中、この確率だけを希望にして耐えてきた。
限りなくゼロに近い確率、本来起こりえる筈のない希望を持つ事しか、彼には出来なかった。
それが叶った。
いや、あと一押しで叶おうとしている。
……その後に待つものがなんであるかなど、彼にはもはやどうでもいい。
自らを自らの手で殺す。
その、希望というにはあまりにも未来のない願いだけが、摩耗しきった彼をここまで支えてきた物なのだから。
「―――長かったのか。それとも、刹那にすぎなかったのか」
元より呼び出されれば消える身。
それを何百、何千回と繰り返そうと、彼の記憶には残らない。
ただそんな事があった、と知識として大本に記録されるだけだ。
英霊たちがそれぞれ他の英霊を知るのは、そういった“召喚の蓄積”による知識を蓄えているからである。
言うなれば本と同じだ。
一度呼び出される度に、その歴史の本が家に送られてくる。
出かけた筈の自分は家にいて、送られてきた本を見るだけの存在だ。
厄介なのは、その本がいつ送られてきたものなのか、彼本人には判らないという事である。
過去も未来も関係がない。
彼の部屋には初めから全ての『本』がある。
いずれ自身が成すであろう『掃除』の記録を読む事でしか、彼には時間を計る術がない。
彼にとっては永遠も一瞬も変わらない。
永遠は一瞬であり、一瞬は永遠なのだ。
故に、この時間がどれほどの確率で掴んだ奇跡なのかも判らない。
その目的《きぼう》を得てから、真っ先に呼ばれた時が今なのか、目的を得てから何千回と繰り返した後が今なのか。
……彼に有るのは順序が狂った知識だけ。
未来も過去も現在も、英霊にとっては有って無い物なのである。
「……来客か。邪魔は入らんというから来てやったのだがな」
不意に、赤い騎士は身を起こした。
その耳が侵入者の音を聞いたのか。
無音の筈の城に、段々と足音が響き出す。
「―――へえ。驚きだね遠坂。半信半疑だったけど、ほんとにこんなトコにいたんだ」
声が響く。
無遠慮に足を踏み入れたのは、間桐慎二という少年だった。
「おっと、物騒な真似はなしだぜアーチャー。
こっちはおまえに用はないんだ。おまえだって遠坂に用はないんだろ? ならここで殺し合うコトはないんじゃない?」
間桐慎二は軽い足取りで歩いてくる。
その視線の先には、椅子に縛られた遠坂凛の姿があった。
少女は何も言わず、椅子に縛られたままで闖入者を睨み付ける。
それが悦に入ったのか。
満足げに唇を舐めて、間桐慎二は少女へと近づいていく。
「――――――――」
「あ?」
無言で見下ろされ、間桐慎二は不愉快そうに騎士を一瞥した。
「なに、やるっていうの? 本気かよ、おまえなんて相手になるワケないじゃんか!」
口元を釣り上げ、間桐慎二は入り口に振り返る。
現れたものは金の髪をした青年―――第八のサーヴァント、ギルガメッシュ。
それは、一つの災厄だった。
黄金のサーヴァントは涼しげに赤い騎士を眺めている。
――――だがその奥。
笑いに歪む赤い瞳には、目前の敵を惨殺する意思しかない。
「――――――――」
赤い騎士は無言のままだ。
間桐慎二が現れようと、目前に最強のサーヴァントが牙を研いでいようと変わらない。
騎士は泰然《たいぜん》としたまま、招かれざる敵を見据えている。
「はは、ブルってるんだろアーチャー? いいんだぜ、別に恥じゃない。あいつはバーサーカーだって難なく始末したサーヴァントなんだからさ。おまえが怖じ気付くのもとうぜ――――」
「―――凛が欲しいのか、間桐慎二」
「え……? あ、ああ、当然じゃないか。そうでもなけりゃこんな城には近寄らないよ」
「そうか。ならばコトが済むまで待て。衛宮士郎を始末した後ならばくれてやる。
それまで、アレは私の物だ。それが聞けぬとあらば仕方がない。―――不本意だが、ここで死ぬ事になるぞギルガメッシュ」
金色のサーヴァントを見据えたまま、赤い騎士はそう告げた。
「愉快だな、道化」
その発言ですら、男にとっては死に値するのか。
金色のサーヴァントは目前の赤い騎士を、決して見逃さぬ抹消対象として認識した。
「へえ。待てギルガメッシュ。はやまるなよ、事はスマートに行こう。いいじゃん、くれるってんだから貰っておこう。
どうせアーチャーはマスターがいないんだ。何度も裏切ったコイツと契約するマスターなんていないんだしさ、ほっとけば消えるだろ。遠坂はその後で貰えばいい」
口元を釣り上げたまま、間桐慎二は赤い騎士を睨め付ける。
その目は、あと数刻で消えようとする者の末路を愉しんでいるようだった。
「賢明だな、間桐慎二。その判断は的確だ。君はある意味、誰よりもマスターに相応しい」
「なんだ、アンタ見所あるじゃん! もったいない、それなら僕のところに来てれば契約してやったのに!」
赤い騎士から離れ、心底愉快げに間桐慎二は両手を叩く。
「けど悪いね、もう他のサーヴァントなんて要らないんだ。残念だけどさ、おとなしく消えちゃってよ、アンタ」
「言われるまでもない。それで、結局どうするのだ。ここで私と戦うか、私が消え去るのを待つのか」
「ああ、待ってやるよ。アンタ見所があるしさ、衛宮を始末するまで、遠坂は僕たちが守ってやろうじゃないか。
けど、そうだな。となると、アレはもう僕のだろ? なら何をしても構わないと思わない?」
毒蛇じみた視線は、赤い騎士と遠坂凛に向けられたものだ。
赤い騎士の忠誠を試す言葉。
それに、
「―――傷をつけるな、というのが衛宮士郎との契約だが、それは夜明けとともに消える。刻限がきたのなら、後は好きにするがいい」
感情のない声で、赤い騎士は返答した。
「は――――はは、あははははははははははは!
聞いたかよ遠坂、おまえのサーヴァント、マスターを売っぱらうってさ!」
薄汚れた室内に嘲笑が響き渡る。
関心などない、と赤い騎士は部屋を後にした。
「――――――――」
「――――――――」
ギルガメッシュの横を過ぎる。
愉快げに眺めてくる赤い瞳を、無視したまま廊下に抜ける。
その、瞬間。
「――――――――偽物《フェイカー》」
蔑むように、そう、英雄王は告げていた。
◇◇◇
夜が明けようとしていた。
森を進むごとに口数は減り、沈黙は重くなっていく。
この森を抜けた時、衛宮士郎はその男と対決しなくてはならない。
勝算はなく、戦えば敗北するのは必定だ。
ひとたび剣を合わせれば、無惨に殺されるだけだという事も判っている。
「――――――――」
恐れがないのは、開き直ったからでも覚悟したからでもない。
死ぬというのなら、あの男はとうに死んでいる。
それに気が付いてしまった時点で、衛宮士郎も死んだに等しい。
そんな身分で、自身の死をどうだのと憂いる余裕などないだけだ。
城門を抜ける。
この先にある戦いがどんなモノか理解しているのか、セイバーの貌《かお》は暗かった。
彼女を悩ませているモノは、オレでありヤツだった。
どちらが生きどちらが破れようと、消える者は同じだ。
そんな馬鹿げた戦いを、彼女は今でも止めるべきだと苦悩している。
中空を見据える目は厳しく、或いは、不毛な戦いに怒っているのかもしれない。
廃墟となった大広間。
朝靄《あさもや》にけぶるこの場所が、お互いの死地となる。
「来たか。随分と遅い到着だな、衛宮士郎」
冷め切った声が響く。
聞き慣れた声は二階から。
崩れた階段の上、朝日差す踊り場に、その男の姿があった。
赤い外套は遠く、男の姿は白い情景に霞んでいる。
だが見える。
その細部にいたるまで敵の姿を確認できる。
それは、鷹の目を持つというヤツとて同じだろう。
アーチャーの役割を与えられたサーヴァント。
弓兵でありながら弓兵でなく、多くの宝具を持ち、惜しげもなくそれらを散らしていった矛盾した存在。
手にする宝具は全て複製であり、無限に剣を製造する事があの男の宝具だった。
……その真名《しょうたい》に、自分だけが気づかなかった。
英霊はあらゆる時代から召喚される。
過去に該当する者がいないのなら、その英霊は未だ誕生していない未来のモノだ。
「……ようやく気づいた。あのペンダントが二つある筈がない。アレは、元々」
「そうだ。アレは命を救われたおまえが生涯持ち続けた物。この世に二つとない、遠坂凛の父の形見だ」
それが二つあるという事自体が、矛盾だった。
ヤツの言う通り、衛宮士郎があのペンダントを生涯持ち続けたというのなら、それは。
「―――英霊の召喚には必ず触媒が必要となる。
おまえがセイバーを召喚したように、召喚者と英霊には繋がりがなくてはならない」
「遠坂凛には、英霊を呼び出す為の触媒がなかった。
故に、彼女は呼び出したサーヴァントに何の縁もないと思い込んだ。
―――だが、偶然で呼び出される英霊などいない。召喚者と英霊には、必ず物質的な縁《えん》が必要となる」
「――――――――」
それが正しいのなら、答えは一つだけ。
遠坂がアーチャーに縁の触媒《もの》を持っていなかったというのなら、それは――――
「そう。召喚者ではなく、呼び出された英霊そのものが、召喚者に縁のある触媒《もの》を持っていた場合のみだ」
「――――――――っ」
それは一つしかない、小さな宝石。
命を救われ、その相手が誰かも知らず、ただ救い主の物であろうペンダントを持ち続けた。
……だから、それが答えだ。
ヤツが遠坂のペンダントを持っていた以上、その正体は一つだけ。
――――英霊エミヤ。
未来の自分。
未熟な衛宮士郎の能力を完成させ、その理想を叶えた男が、目の前にいる英霊の真名だった。
赤い外套の騎士―――アーチャーは階段からオレを見下ろしている。
周囲に人影はない。
ヤツは一人きりで、この大広間に立っている。
「アーチャー。遠坂はどうした」
「あの小娘なら城のどこかに置いてきたが、気に病むのなら急げ。おまえが来るのが遅いのでな、先に来た間桐慎二にくれてやったところだ。」
「な――――んだと」
「おまえとの約束は守っている。オレは手出しはせん。他の人間が彼女に何をしようが、オレには関わりのない事だ」
「まあ、結果は見えているがな。間桐慎二は遠坂凛に情欲と敵愾を抱いている。アレに凛を預ければどうなるかは考えるまでもない。凛に挑発された小僧は我慢できずに口火を切り、今頃は死姦の真っ最中かもしれんぞ」
「――――――――!」
冷めていた頭に血が上る。
あのヤロウ、よくもそんな事を平然と――――!
「あー、焦るな坊主。あのお嬢ちゃんならオレに任せろ。なに、すぐに助け出してやる」
「え……ランサー?」
「マスターからの命令でな。もとから、オレはあのお嬢ちゃんを死なせない為に協力したワケだ。
……いや、これが思いの他居心地が良くてな。昨日のは悪くなかった。自分の仕事を気に入れるってのは、オレにとっては珍しい」
そう軽口を叩きながら、ランサーはアーチャーを無視し、西側のテラスへ向かっていく。
「ランサー」
「気にするな。これはあくまで俺の趣味だ。
……ま、今までいけすかねえ命令ばっかりだったからな、この命令は最後まで守り抜く。そっちはそっちで、自分の面倒だけみてやがれ」
「――――ああ。遠坂を頼む」
あいよ、と気軽に声を返す。
と。
何を思い出したのか、ランサーは足を止めて振り返った。
「おい。なにしてんだセイバー、おまえも来るんだよ」
「――――――――」
セイバーは、苦しげに目を細めたあと。
「いいえ。私はここに残ります、ランサー」
俺の隣りで、サーヴァントらしからぬ答えを返した。
「本気か? 今のマスターはお嬢ちゃんだろう。|おまえ《サーヴァント》が守るべきはマスターだけの筈だが」
「わかっています。ですが、それでも私はここに残りたい。……私は、この戦いを見守らなければ」
「―――――そうかよ。なら好きにしな」
ランサーの体が消える。
青い槍兵は事も無げに二階のテラスへ跳躍し、振り返りもせず通路へと消えていった。
アーチャーは手出しをしない。
ヤツにとって、遠坂はもう用のない人間だと言うかのように。
「――――――――」
瓦礫を踏み砕いて前に進む。
向かうのは階段の下、この広間の中心だ。
セイバーは一歩も動かず、俺とヤツの戦いを見守ろうと感情を殺している。
「手出しはしないか。それは有り難い。
ここまできてセイバーに邪魔をされるようでは、凛と契約を切った意味がないからな」
「――――――――」
セイバーの躊躇いが聞こえる。
彼女はわずかに息を呑み、遠く階段に佇む男へと声を返した。
「ええ、私は手出しをしません。何があろうと、貴方とシロウの戦いの邪魔はしない」
「それは結構。ならば安心して小僧を始末できるというものだ」
「……はい。ですが、その代わりに一つだけ答えてほしい。アーチャー。なぜ貴方は、シロウを殺そうというのです」
「―――何故も何もないだろう。そいつがオレを認められないのと同じように、オレもそいつを認められないだけだよ」
「そんな筈はない……! 貴方はシロウだ。エミヤシロウという人物の理想、英雄となった姿が貴方ではないのですか。なら、ならどうしてこんな、自分を殺すような真似をするのです……!」
「何故そう思う。未熟だった頃の衛宮士郎と、エミヤと呼ばれる英雄となったオレは別の存在だ。そうでなければ同時に存在などできないが」
「それは貴方がサーヴァントになったからでしょう?
時間軸に囚われない守護者になったのなら、自身が生きた時代に呼ばれる事もあると聞きます……!
貴方はシロウだ。シロウがずっと思い描いて、その努力が叶った姿が貴方の筈だ。なのに、どうして――――」
そんな、違うモノになったのですか、と。
彼女は、言葉にしない声で、吐き出した。
「――――――」
答えず、ヤツは階段を下り始める。
「………………」
答える事などできない。
それが答えられるのなら、俺もヤツも、ここで決着をつけようとは思わない。
「アーチャー……!」
身を乗り出してアーチャーに挑むセイバー。
「―――いいんだセイバー。いいから下がっていてくれ」
片手で制して、彼女を入り口へと下がらせる。
「ですが、シロウ……!」
「気持ちは嬉しい。けど話しても無駄だ。あいつは初めから、俺を殺す事だけが目的だったんだから」
「っ…………」
悔しげに唇を噛む。
セイバーは俺を見つめた後、広間に降りようとするアーチャーを見つめた。
「……何故なのです、アーチャー。私には解らない。守護者とは死後、英霊となって人間を守る者と聞いた。その英霊が何故、自分自身を殺そうなどと考えるのか」
「―――――守護者、だと?」
それに何か感じ入るモノがあったのか。
ヤツは歩を止めて、無表情でセイバーを見下ろした。
「違うよセイバー。守護者は人間を守る者ではない。アレは、ただの掃除屋だ。オレが望んでいた英雄などでは断じてない」
その声は、先ほどまでの物とは違っていた。
淡々とした声には憎悪と嘲笑が滲んでいる。
「アーチャー……?」
「オレは確かに英雄になった。衛宮士郎という男が望んでいたように、正義の味方になったんだ」
――――正義の味方。
誰一人傷つける事のない誰か。
どのような災厄が起きようと退かず、あらゆる人を平等に救えるだろう、衛宮士郎が望んだ誰か。
それに。
あの男は、成れたというのか。
「アー……チャー……?」
「ああ、確かに幾らかの人間を救ってきたさ。
自分に出来る範囲で多くの理想を叶えてきたし、世界の危機とやらを救った事もあったよ。
―――英雄と。遠い昔から憧れていた地位にさえ、ついには辿り着いた事もある」
「英雄に辿り着いた―――なら、シロウは報われたのですね……?
少なくともここにいる貴方は、エミヤシロウの理想を叶えられたのでしょう?
なら貴方には悔いなどない筈だ。シロウはちゃんと、その理想を叶えたのだから」
訴える声に力はない。
……彼女は気づいている。
自らの言葉が、そうであってほしいという、願いでしかない事に。
「理想を叶えた、か。確かにオレは理想通りの正義の味方とやらになったさ。
だが、その果てに得たものは後悔だけだった。残ったものは死だけだったからな」
「殺して、殺して、殺し尽くした。
己の理想を貫く為に多くの人間を殺して、
無関係な人間の命なぞどうでもよくなるぐらい殺して、
殺した人間の数千倍の人々を救ったよ」
「――――――――」
セイバーは言葉を失ったまま、愕然とアーチャーを見上げる。
それは、己の鏡像を見たような貌でもあった。
「―――そう、そんな事を何度繰り返したか判らないんだセイバー。
オレは求められれば何度でも戦ったし、争いがあると知れば死を賭して戦った。何度も何度も、思い出せないほど何度もだ」
「だって仕方がないだろう。
何を救おうと、救われない人間というモノは出てきてしまう。何度戦いを終わらせようと、新しい戦いは生み出される。
そんなモノがあるかぎり、正義の味方っていうのは有り続けるしかないんだから」
その言葉は誰に宛てたものか。
騎士はゆっくりと階段を下りながら、かつての己を告白する。
「だから殺したよ。
一人を救う為に何十という人間の願いを踏みにじってきた。踏みにじった相手を救う為に、より多くの人間をないがしろにした。
何十という人間の救いを殺して、目に見えるモノだけの救いを生かして、より多くの願いを殺してきた。
今度こそ終わりだと。今度こそ誰も悲しまないだろうと、つまらない意地を張り続けた」
「―――だが終わる事などなかった。
生きている限り、争いはどこにいっても目に付いた。
キリがなかった。何も争いのない世界なんてものを夢見ていた訳じゃない。
ただオレは、せめて自分が知りうるかぎりの世界では、誰にも涙して欲しくなかっただけなのにな」
―――それは。
紛れもなく、衛宮士郎《じぶんじしん》の願いのカタチ―――
「一人を救えば、そこから視野は広がってしまうんだ。
一人の次は十人。十人の次は百人。百人の次は、さて何人だったか。そこでようやく悟ったよ。衛宮士郎という男が抱いていたものは、都合のいい理想論だったのだと」
「……それは、何故」
「判りきった事を訊くなセイバー、君ならば何度も経験した事だろう。全ての人間を救う事はできない。
国を救う為にほんの少しの人間を見殺しにする、なんていうのは日常茶飯事だっただろう?」
「……………」
押し黙る声は、反論する意思を奪われていた。
赤い騎士の言葉は、セイバー自身の闇でもあったのだ。
「そう、席は限られている。幸福という椅子は、常に全体の数より少な目でしか用意されない。
その場にいる全員を救う事などできないから、結局誰かが犠牲になる。
―――それを。
被害を最小限に抑える為に、いずれこぼれる人間を速やかに、一秒でも早くこの手で切り落とした。
それが英雄と、その男が理想と信じる正義の味方の取るべき行動だ」
誰にも悲しんでほしくないという願い。
出来るだけ多くの人間を救うという理想。
その二つが両立し、矛盾した時―――取るべき道は一つだけだ。
正義の味方が助けられるのは、味方をした人間だけ。
全てを救おうとして全てを無くしてしまうのなら、せめて。
一つを犠牲にして、より多くのモノを助け出す事こそが正しい、と。
「多くの人間を救う、というのが正義の味方だろう?
だから殺した。誰も死なさないようにと願ったまま、大勢の為に一人には死んで貰った。
誰も悲しまないようにと口にして、その陰で何人かの人間には絶望を抱かせた」
「そのうちそれにも慣れてきてね、理想を守る為に理想に反し続けた。
自分が助けようとした人間しか救わず、敵対した者は速やかに皆殺しにした。犠牲になる“誰か”を容認する事で、かつての理想を守り続けた」
「それがこのオレ、英雄エミヤの正体だ。
―――そら。
そんな男は、今のうちに死んだ方が世の為と思わないか?」
そうだ。
正義の味方が助けられるのは、味方をした人間だけ。
……だが。
その言葉に逆らったのは、果たして誰だったのか。
「……それは嘘です。たとえそうなったとしても、貴方ならばその“誰か”を自分にして理想を追い続けたのではないですか」
「――――――」
騎士の足取りが止まる。
ヤツは、わずか。
一度だけ、苦々しげに眉を曇らせた。
「貴方は理想に反したのではない。守った筈の理想に裏切られ、道を見失っただけではないのですか。
そうでなければ、こんな―――自分を殺す事で罪を償おうなどとは思わない」
「――――――」
皮肉げに歪んでいた笑みが消える。
騎士は、凍り付いた貌でセイバーを直視したあと、
「――――は。はは、ははははははは!!」
心底おかしい、と。
狂ったように、笑い出した。
「くく、ははははははは! いや、これは傑作だ。
オレが自分の罪を償う? 馬鹿な事を言うなよセイバー。償うべき罪などないし、他の誰にも、そんな無責任なモノを押しつけた覚えはない」
騎士は、あくまで冷静に狂っていた。
声は小さく、くぐもった笑いだけが広間に響く。
「ああ、そうだったよセイバー。確かにオレは何度も裏切られ欺かれた。救った筈の男に罪を被せられた事もある。死ぬ思いで争いを収めてみれば、争いの張本人だと押し付けられて最後には絞首台だ。
そら。オレに罪があるというのなら、その時点で償っているだろう?」
「な――――うそだ、アーチャー。貴方の、最期は」
「……ふん。まあそういう事だ。
だが、そんな事はどうでもよかった。初めから感謝をして欲しかった訳じゃない。英雄などともてはやされる気もなかった。オレはただ、誰もが幸福だという結果だけが欲しかっただけだ。
―――だが、それが叶えられた事はない。
生前も、その死後も」
くぐもった笑いは既にない。
ヤツから漏れる言葉には、もう、憎悪しか含まれていなかった。
「守護者とは、“霊長の存命”のみを優先する無色の力だ。
力は高き処にありて、人の世が滅亡する可能性が生じれば世に下る。
……ソレがただの奴隷である事は知っていた。
死後、己が存在を守護者に預けたモノは輪廻の枠から外れ、無と同意になるのだと」
「それでも、誰かを救えるのならそれでいい。
かつてのエミヤシロウは、その誓いを守れなかった。
なら―――守護者となって“人間の滅亡”とやらを食い止める一端になるのなら、それでいいと思ったのだ」
「――――だが実際は違う。守護者は人など救わない。
守護者がする事はただの掃除だ。既に起きてしまった事、作られてしまった人間の業を、その力で無にするだけの存在だった」
「ソレは人を救うのではなく、世界に害を与えるであろう人々を、善悪の区別なく無くすだけ。
絶望に嘆く人々を救うのではなく、絶望と無関係に生を謳歌する部外者を救う為に、絶望する人々を排除するだけの殺戮者。
―――馬鹿げた話だ。それが、今までの自分《オレ》と何が違う」
―――何も違わない。
むしろ絶望が増しただけだ。
自分一人の力では叶わないから、より大きな力に身を預けた。
だが、その先も結局は同じだったのだ。
その力ならば叶うと思った事なのに、その力は、ヤツがした事を、更に巨大にしただけのモノだとしたら。
「……アーチャー。貴方は、ずっと、そんな事を」
「それも慣れたよ。人間は繰り返す。どんな時代でも強者が弱者を奪い尽くすのだ。そして、それが最も効率のいい繁栄だと思い知らされた」
「―――ああ、何度も見てきた。
意味のない殺戮も、意味のない平等も、意味のない幸福も……!
オレ自身が拒んでも見せられた。守護者となったオレには、もはや自分の意志などない。ただ人間の意思によって呼び出され、人間が作ってしまった罪の後始末をさせられるだけだったからな」
それが、ヤツが辿り着いた結末だった。
人間が生み出した欲望を消す為だけの存在。
誰かを救うのではなく、救われなかった人々の存在を無かった事にするだけの守護者。
何度も何度も。
自らの手で滅びようとする人間の業を目の当たりにし、それを、ゴミのように焼き払ってきた。
一人でも多くの人間を救うのだと。
その思いだけで英雄になった男は、結局―――ただの一度も、それを叶える事がなかったのか。
「―――そうだ。それは違う。
オレが望んだモノはそんな事ではなかった。
オレはそんなモノの為に、守護者になどなったのではない…………!!!!」
こみ上げる怒声は、おそらく自身に対してのみ。
あそこにいるのは、とうに摩耗しきった残骸だった。
エミヤという英雄は、救いたかった筈の人間の醜さを永遠に見せ続けられる。
その果てに憎んだ。
奪い合いを繰り返す人間と、それを尊いと思っていた、かつての自分そのものを。
「オレは人間の後始末などまっぴらだ。だが守護者となった以上、この輪から抜け出す術はない。
―――そう。ただ一つの例外を除いて」
冷めた瞳に、揺るぎのない殺気が灯る。
ヤツの目にセイバーはいない。
アーチャーの目的はただ一つ、自身の消去だ。
だが、ヤツは死んだところで輪の外にある“座”に在るエミヤ本体は消え去らない。
守護者となったモノに消滅などありえない。
それはもとより『無』、この世界の輪に無いモノを殺したところで意味はない。
……だが。
もしヤツが消えられるとしたら、それは一つだけ。
英雄となる筈の人間を、英雄になる前に殺してしまえば、その英雄は誕生しない。
故に――――
「シロウを、ここで殺すというのですか。他でもない、貴方自身の手によって。」
「そうだ。その機会だけを待ち続けた。果てしなくゼロに近い確率だ。
だがそれに賭けた。そう思わなければ自身を許容できなかった。ただその時だけを希望にして、オレは守護者などというモノを続けてきた」
「……それは無駄ですアーチャー。
貴方は既に守護者として存在しているのでしょう。ならもう遅い。今になって英雄となる前のエミヤシロウを消滅させたところで、貴方自身は消えはしない」
「そうかもしれん。だが可能性のない話ではあるまい。
過去の改竄だけでは通じないだろうが、それが自身の手によるモノならば矛盾は大きくなる。
歪みが大きければ、或いは―――ここで、エミヤという英雄は消滅する」
「それにな、セイバー。オレはこの時だけを待って守護者を続けてきたのだ。いまさら結果など求めていない。
―――これはただの八つ当たりだ。くだらぬ理想の果てに道化となり果てる、衛宮士郎という小僧へのな」
そうして、赤い騎士は広間に降り立った。
瓦礫で埋め尽くされた広間には、俺とヤツだけが立っている。
隔てる物はない。
理由はシンプルだ。
ヤツが俺を殺そうというのなら、俺は、目の前の敵が気にくわないから叩きのめすだけ。
「――――――――」
広間の中心へ踏み出す。
あと数歩詰め寄れば、後戻りは出来なくなる。
その前に、
「アーチャー。おまえ、後悔してるのか」
一つだけ、訊いておくべき事があった。
「無論だ。オレ……いや、おまえは、正義の味方になぞなるべきではなかった」
吐き捨てられる言葉。
それで、最後の覚悟が決まってくれた。
「―――そうか。それじゃあ、やっぱり俺たちは別人だ」
「なに」
「俺は後悔なんてしないぞ。どんな事になったって後悔だけはしない。
だから―――絶対に、おまえの事も認めない。
おまえが俺の理想だっていうんなら、そんな間違った理想は、俺自身の手でたたき出す」
そうやって生きてきた。
それを正しいと信じてここまできた。
ヤツの言う通り、それはやせ我慢の連続でひどく歪だったろう。
得てきた物より、落とした物の方が多い時間だった。
だからこそ。
その、落としてきた物の為にも、衛宮士郎は退けない。
歩を進める。
意識の底には、既に設計図を描き始めた回路がある。
「……その考えがそもそもの元凶なのだ。おまえもいずれ、オレに追いつく時が来る」
「来ない。そんなもん絶対に来るもんか」
「ほう。それはつまり、その前にここでオレに殺されるという事か」
「――――――――」
敵に踏み込む。
もはや剣を打ち合える間合い。
お互いに武器はない。
俺とヤツは徒手空拳のまま対峙する。
衛宮士郎は剣士じゃない。
俺たちは共に剣を造り出すモノ。
ならば――――
「解っているようだな。
オレと戦うという事は、剣製を競い合うという事だと」
ヤツの両手に双剣が握られる。
……あの夜。
柳洞寺の境内で見惚れた無骨な双剣。
伝説に残る名工が、その妻を代償にして作り上げた希代の名剣。
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
出来上がっていた設計図を起こし、イメージだけで双剣を複製する。
……ソレのなんて不出来な事か。
完璧と思っていた俺の双剣は、ヤツの物に比べればあまりにも曖昧だ。
劣った空想は、その時点で妄想に成り下がる。
恐らく。
あの双剣と打ち合えば、俺の双剣は無惨に砕け散るだろう。
「――――――――」
一歩を踏み込む。
きちり、と。
踏み込んだ足元で、瓦礫が軋む音がする。
―――それが開始の合図になったのか。
「オレの剣製に付いてこれるか。
僅かでも精度を落とせば、それがおまえの死に際になろう……!」
―――対峙した剣が奔る。
一対の武装、四つの刃は、磁力で引き合ったように重なり、弾け合った。
◇◇◇
探索は容易く終わった。
戦闘専門と思われるランサーだが、その実、彼は魔術に長けたサーヴァントである。
ランサーが影の国と呼ばれる魔城で学んだ物は“貫く《ゲイボ》物《ルグ》”だけではない。
十八の原初の呪刻《ルーン》、その全てを修得しているが故の英雄である。
もっとも、彼本人が魔術より槍による戦闘を好む為、それらの秘術が日の目を見る事は希だ。
その希な日が、今日この時だった。
「――――よし、当たりか」
地を走っていた“何か”が落ちる。
ベルカナのルーンを刻んだ小石は探索を終え、石くれに立ち返る。
「な、誰だオマエ……!?」
見覚えのない少年が慌てて立ち上がる。
「――――――――」
その甲高い声に聞き覚えがある、と思い直し、ランサーは相手が何者であるか思い出した。
「ライダーのマスターじゃねえか。なんだ、とっくの昔にくたばったもんと――――」
言いかけて、言葉を切る。
少年の背後には遠坂凛の姿があった。
椅子に縛られている。
それはいい。
囚われの身なのだから、それぐらいは当然だろう。
だが彼女の姿には、もう少しアクセントが加わっていた。
まず、椅子が地面に倒れている。
椅子に縛り付けられているのだから、当然のように遠坂凛も地面に倒れ込んでいる。
長い黒髪は砂にまみれ、口元には赤いモノが見えた。
唇を切ったのだろう。
わずかではあるが、口元には青あざも見て取れた。
「おまえ、ランサーか……!? なんだよ、誰に断ってここに来たんだ! 話が違うぞ、おまえは―――ぎゃっ!」
無造作に振るった拳は、間桐慎二の頬を薙いでいた。
軽く払った裏拳は、容赦なく少年を壁まで弾き飛ばす。
「お―――ああ、悪《わり》いなガキ。口より先に手が出ちまった」
無意識だったので殺さずに済んだらしい。
もっとも、遠坂凛の顔色がもう少し青く、あと僅かでも衣服に乱れがあったのなら無意識にはならなかっただろう。その時は意識して、その首を殴り飛ばしていたに違いない。
断っておくと、捕らえた人間の扱いなどランサーは気にしない。
重要なのは、獲物を他人に横取りされたか否かだ。
彼にとって獲物とは、無論、殺すべき敵と気に入った女に分類される。
「ラン、サー……?」
倒れた椅子に縛られたまま、遠坂凛は声をあげた。
気を失っていたのか、その声は寝起きと大差がない。
「よう。朝だぜ、起きろぐうたら」
場違いな挨拶をして、ランサーは遠坂凛へと近寄っていく。
「え―――な、なんで? ここ、アインツベルンの城よ?」
「承知している。ああ、いいから動くな。今その手枷を切ってやる。その後は好きにしろ。広間に行ってバカどもの喧嘩を止めるなり、裏口から帰るのも自由だ」
ぶん、と風を切って朱色の槍が現れる。
「そ、それは助かるけど―――ランサー、後ろ……!」
「――――――――」
凛の警告に振り返るランサー。
「な――――に?」
……そこに現れたのは、彼にとっても意外な人物だった。
部屋の隅。
殴り飛ばされた間桐慎二の横を通り過ぎ、硬い足音をたてて現れた人物は、
「そこまでだランサー。協力しろとは言ったが、深入りしろとは言わなかったぞ」
キャスターに殺されたとされる、言峰綺礼その人だった。
「――――綺礼!?」
驚きの声をあげる凛。
その横で、ランサーは訝《いぶか》しげに神父を睨む。
「……おい。いつから宗旨変えしやがったんだ、おまえ。
オレのマスターは、表には出てこないのが信条だったんじゃなかったか?」
「変えるような宗旨などない。そう言うおまえこそ命令違反だぞランサー。アーチャーの始末を命じた筈だが、仕損じたか?」
「―――ふん。アレは放っといても自滅する。その前にやり残した仕事を片づけにきたんだが―――おまえがここにいる、という事は、そこのガキはおまえの差し金か?」
「人聞きが悪いな。彼とは協力関係だ。聖杯を手に入れる為、共に認め合った仲だが」
瓦礫の中で呻く間桐慎二を見ようともせず、神父はそんな事を言う。
「―――そう。アンタがそう簡単にくたばるワケないと思ったけど。しぶとく生きてるばかりか、裏でこそこそ手を回してたのね。
……悪趣味ここに極まるっていうか。人畜無害な慎二を懐柔してどうしようっていうのよ、綺礼」
「ふむ―――なるほど、アレを人畜無害ととるか。この状況においても、おまえは遠坂凛らしい。もう少し出来の悪い弟子ならば、惜しむ事もないのだが」
そう漏らして、神父は笑った。
祝福するかのようなそれは、死に逝く者を看取る顔でもある。
「――――――――」
ぞくん、と少女の背に悪寒が走る。
彼女は、それで自分の命運を理解した。
神父は聖者に相応しい微笑みを浮かべ、十年間、弟子だった生け贄を見下ろしている。
「……待てよ言峰。その女をどうするつもりだ。教え子を助けたい、と言ったおまえの言葉は嘘だったのか」
少女の前に立ったまま、ランサーは言峰神父《おのがマスター》を睨む。
「嘘なものか。彼女はここまで育てた大切な駒だ。十年に渡り欺き続けたのだから、そう簡単にリタイヤされてはつまらん。
故に、おまえに彼女の警護を任せたのだ。わずか二日ばかりの延命だったが、親心としては十分すぎるのではないかな」
「――――――――」
神父はランサーを通り過ぎ、地面に倒れ込んだ少女を見下ろす。
少女は倒れたまま、かつての師を睨み付けた。
「エセ神父。アンタならやりかねないと思ったけど、ホントにマスターだったなんてね。監督役のくせにゲームに参加するなんて、反則もいいところじゃない」
「そのわりには落ち着いているな、凛。やはり気づいてはいたのか」
「当然でしょ。自分のサーヴァントを見せなかったのも、アンタを疑ってたからだもの。……けどね。まさか初めっから騙されてるとは思わなかったわ」
「――――初め、から?」
と。
神父は意外な言葉を聞いたように、その顔を曇らせた。
「……なによ。文句あるっていうの、綺礼」
「――――いや。初めからというが、それはどのあたりからを指しているのか、と思ってな」
歪む口元。
神父は心底愉快そうに、倒れ伏した少女を見た。
「――――待った。綺礼、アンタ」
「それは今回の聖杯戦争が始まってからか?
それとも―――おまえが言う“初めから”とは、前回の聖杯戦争[#「前回の聖杯戦争」に丸傍点]を言っているのかね?」
「――――――――」
それで、彼女は全てを理解した。
顔は蒼白と化し、信じがたいものを見るように、十年間師事し続けた男を見上げる。
「……そう。殺したのは、アンタだったんだ」
「当然だろう。恩師であったからな。騙し討ちは容易かった」
「………………」
ぎり、という音。
少女は顔を伏せ、悔しげに歯を鳴らしたあと。
「こ―――のぉ、逝き場に迷えクソ神父……っっ!! 断言してやるけど、アンタに居場所なんてないんだからね! 地獄だってアンタみたいなのは願い下げで、煉獄だって他の連中が図太くなるってんでタライ回しよ!
アンタみたいな不能者はね、性に合わない天国あたりで針の筵《むしろ》にくるまってろっての……!!!!」
等々、延々と聞くに堪えない罵詈雑言を怒鳴り散らした。
無論、そのような些末事など神父は意に介さない。
が、彼は少女の豹変ぶりに気圧されていた。
遠坂凛がここまで感情を曝けだす事があるなど、間桐慎二は夢にも思っていなかったのだ。
「言峰。遠坂は僕が貰ったんだって知ってるだろう。あいつに用があるのは僕だけだ。アンタはただ、教会でこっちの首尾を待ってればいいんだよ」
「いや。用ならばある。彼女には、ここで聖杯になって貰わねばならないからな」
神父が何を言っているのか、間桐慎二には判らない。
理解しているのは神父と、おそらく、生け贄とされる遠坂凛本人だけだろう。
「アーチャーとセイバーが消えればいい加減頃合いだ。
いらぬ抵抗をされ、魔力《せんど》を落とされても困る。事は、迅速に済ませてしまおう」
言って、神父は少女から離れた。
倒れた遠坂凛の前には、槍を手にしたランサーだけがいる。
「言峰、貴様」
「そのゴミを始末しろランサー。器に心臓は要らん」
その言葉に反応したのは、間桐慎二だけだった。
遠坂凛は神父を睨んだまま、唇を噛みしめるだけ。
自分がここで殺されるであろう事は、先ほどの神父の笑顔で悟っていた。
助からない事も、助けを請うたところで聞き届けられない事も理解している。
だからこそ、泣き言は絶対に言わなかった。
それが彼女に出来る唯一の抵抗であり、反抗の意思でもある。
最後の最後まで諦めはしない。
この瞬間にも助けがやってくるかもしれないし、何かの手違いで部屋ごと崩れて自分だけ助かる、なんて奇蹟だってあるだろう。
“…………ま、あり得ない話だけど”
諦めはしないが、それが不可能だという事も理解している。
故に、あまり恐怖はなかった。
あるとしたら一つだけ。
自分が死んだ後、勢いこんで助けに来たヤツがどんな顔をするか、想像すると気まずくなる。
泣かれるのはイヤだ。
自分が泣かしたと思うとハラがたってくるし、どう謝っていいか分からない。
いや、そもそも死んでしまったらどう謝るかもないのだが、それでも泣かれるのはイヤだった。
“―――ごめん衛宮くん。わたし、先にリタイヤする”
だから、今のうち謝ることにした。
それで何がどうなるというワケでもないけど、気持ちはキレイに落ち着いてくれた。
「どうしたランサー。相手は少女だ、貫くのは容易かろう」
神父に情けなどない。
それに、
「お断りだ。今回のは従えねえ。オレにやらせたかったら、その令呪でも使うんだな」
敵を睨む目で、ランサーは返答した。
「なに――――?」
神父の目が細まる。
主と従者。
両者は刃のような視線を交わらせ、室内の空気を凍り付かせる。
「……そうか。仕方あるまい、自分で出来る事に令呪を消費する訳にはいかんのだが……」
左腕を掲げる。
神父は、その腕にある令呪を発動させ、
「では命じよう。――――自害しろ[#「自害しろ」に丸傍点]、ランサー」
「ご――――」
吐血する。
口元からこぼれる血液は、その胸元から流れる鮮血に比べれば、遙かに微量だった。
「言峰、貴様――――」
漏れる声すら、もはや聞き取れない。
槍兵―――ランサーの胸は自らの槍によって貫かれ、その心臓を完全に破壊していた。
「さらばだ。おまえの役目はとうに終わっている」
「っ――――、――――――――――――」
青い甲冑が地に倒れる。
「あ――――あ」
夥《おびただ》しい赤色が床を浸食していく。
……立ち上がる兆候はない。
青い槍兵は主の命により、自らの槍によって敗北した。
「――――――――」
神父の体が動く。
ゆらりとした足取りで少女に歩み寄り、膝をまげてかがみ込む。
……その心臓。
椅子に縛られた遠坂凛の心臓を、たやすく引き抜けるように。
「なっ……! 言峰、約束が違うじゃないか! 遠坂は僕にくれるって言っただろう!」
「――――――」
神父は答えず、少年を一瞥する。
「だ、だめだ、遠坂はだめだ! そいつには借りがいっぱいあるんだから、生きていてくれなくちゃ困る……!」
ランサーの死体を背に、歯を鳴らしながら間桐慎二は食い下がる。
「――――――――」
「あ――――あ、う――――」
だが、それも終わった。
神父の視線に耐えられず、少年はじりじりと後退する。
神父は少年から視線を逸らし、ようやく、本命である少女を見た。
「最期に何か言い残す事はあるか。遺言ぐらいは聞こう」
簡潔な言葉。
「……ふん。こういう時のわたしが何を考えているか、アンタなら知ってる筈でしょ」
いつも通りの口調で、遠坂凛は返答する。
「そうだな。最後まで諦めないのがおまえだ、凛。
同時に、覆らない現実を瞬時に認めるのもおまえの素晴らしさだ。
―――いいぞ。その矛盾は、なかなかに芳醇《ほうじゅん》だ」
躊躇いなどない。
神父の右手は無遠慮に少女の胸―――心臓の上を鷲づかみにする。
「っ、んっ…………」
その感覚に、少女は目蓋を閉じた。
ザクン、という音。
貫かれた心臓と、こぼれ落ちる大量の血液。
うち捨てられた石室は、廃棄されてなお、死体の投棄場所になり果てた。
「――――――っ」
息苦しく息を飲んだのは、遠坂凛だった。
床には血が零れていく。
ボタボタと音をたてるそれは、高いところから。
倒れ伏した少女を見下ろす、神父の胸から流れていた。
「――――――――ぐ」
夥しいまでの血液が、食道を逆流する。
胸に穿たれた穴は紛れもなく致命傷。
背後から一刺しにしたソレは、“貫くモノ”と称される呪いの槍に他ならない。
「――――――――」
神父には何の感情もない。
唇を血に濡らしたまま、背後に立ちつくすランサーへ視線を投げた。
「ランサー。貴様」
「……生憎だったな言峰。この程度でくたばれるんならよ、オレは英雄になんぞなってねえ」
皮肉に満ちた声は、誰がどう見ても強がりではある。
ランサーには生気など微塵もない。
心臓はなく、肉体は今にも消滅しかけている。
魔槍が引き抜かれる。
神父は何を遺すでもなく倒れ、絶命した。
いかに魔術を極め、天の加護を持ち得ようと所詮は人間。
呪いの槍で心臓を穿たれて生きている道理がない。
「は――――たく、結局こうなったか、たわけ」
壁にもたれかかり、崩れ落ちる体を引き留める。
だがそれも一時凌ぎだ。
一度地に伏せればランサーとて消え去るのみ。
心臓を失い、マスターさえ失った。
そのランサーが肉体を保っていられるのは、偏《ひとえ》に彼の“生き汚さ”故である。
「は……はは、あははははは! いいじゃんいいじゃん、バカどもは勝手に殺し合っててよ!」
「え――――慎二……?」
神父の死に様を見つめていた凛は、その笑い声で正気を取り戻す。
「なにが聖杯は君のものだ、だよ。役立たずは最後まで役立たずだったな、神父さん」
言って、間桐慎二は神父の亡骸を蹴りつける。
死体はぴくりとも動かない。
それに満足したのか、少年は全力で神父の顔を蹴った。
ゴキン、と乾いた音が響く。
その感触と快音は、予想以上に間桐慎二の気分を高揚させてくれる。
「けど文句は言わないでおくよ。さっきの事は根に持ってないし、死んじゃったヤツにあれこれ言うのはみっともないしさ」
クスクスと笑う。
理性の箍が外れかかった少年は、おぼつかない足取りで遠坂凛へと近寄っていく。
「待たせたね遠坂。色々邪魔が入ったけど、これでようやく二人きりだ。残るサーヴァントもあと三人。ここで君が泣き疲れた頃には、全部カタがついてるさ」
前のめりに、それこそ蜥蜴《とかげ》のように手足をついて、間桐慎二は遠坂凛に覆い被さる。
「けど良かった。おまえには色々用があったんだ。ほんと、困るよ遠坂。簡単に死なれちゃあさ、ここまで我慢してきた僕に申し訳ないってもんだろ?」
「―――さあ、媚びてみろよ遠坂。おまえの態度次第で助けてやらない事もないぜ?
それに、聖杯はもう僕の物だ。ここで僕の物になるっていうんなら、おまえにも分けてやっても――――」
「呆れた。本当に馬鹿じゃないの、アンタ」
と。
手足を縛られ、頬に舌を這わせられているその体で、遠坂凛は屹然と言い放った。
「な、なんだって……?」
「まだ懲りないのかって言ってるのよ、慎二。アンタは綺礼にいいように使われてただけでしょう。
……いい、あのサーヴァントは扱いきれるものじゃない。
そんな事、近くにいるんだからアンタだって分かってるでしょう。ならいい加減目を覚まして、こんな殺し合いから手を引けっていうの。
今ならまだ間に合うのはそっちの方よ。死にたくなかったら、一秒でも早くここから逃げ出しなさい」
「ハ――――! 何を言いだすかと思えば、結局は命乞いじゃんか! バカはおまえだよ遠坂。目障りな言峰は死んだんだぜ?いまさら何が僕の邪魔をするっていうんだ」
間桐慎二は少女の体に指を這わせる。
その、瞬間。
「――――おい」
間桐慎二の体は、再度殴り飛ばされていた。
「ぎ――――!」
壁まで吹き飛ばされる。
「ガキが。そいつはテメエなんかが触れていい女じゃねえ」
その様を一瞥しながら、ランサーは気だるそうに少女の元へ歩き出した。
「なに? 死に損ないの分際でボクに意見しようっていうの?」
「――――――――」
槍兵の足が止まる。
少女に歩み寄ろうとしていた足は、そこで間桐慎二へと向けられた。
「っ―――ふ、ふん、大人しく寝てれば苦しまずに死ねたってのにな。さっきといい今度といい、おまえ、楽には殺さないからな。
……ほら、出番だぜギルガメッシュ。こいつ、格好つけて死にたいんだってさ!」
声をあげる。
間桐慎二のサーヴァント、最強を冠する英霊殺しのソレは、主の召喚に応じて――――
「……おい。なんだよ、なにやってんだよアイツ……!
聞こえないのか、早く来いって言ってるだろう……!」
声だけが虚しく響く。
黄金のサーヴァントは現れない。
青い槍兵は血にまみれたまま、一歩、耳障りな人間に向かって踏み出した。
「ひ―――く―――くそ、くそくそくそくそ……! なんだよオマエ、死に損ないのクセになに格好つけてんだよ……! 消えろよ、目障りだってわかんないのかよ、この化けも――――」
打突が奔る。
「あ――――」
閃光のような一撃は、正確に、間桐慎二の左肩に突き刺さっていた。
「ひ――――?
ひ、ひあ、ああああああああああ!!!??????」
絶叫が室内を満たしていく。
ランサーはつまらなげに槍を引き抜き、ピタリと、間桐慎二の眉間に合わせた。
「――――失せろ。死に損ないでもな、オマエ程度なら千人殺したところで支障はない」
「ひっ――――は、はあ、はあ、ヒ――――!」
壁に張り付き、向けられた槍に怯えながら、間桐慎二は走り去る。
「……ったく。無駄な体力使わせやがって」
大きく息をはいて、今度こそ少女へと歩み寄った。
風を切る槍は、少女の縛めを紙のように両断する。
「―――ありがとう。助かったわ、ランサー」
自由になるなり、少女はそう口にした。
まとわりつく汚れも気にせず、彼女はランサーに頭を下げる。
「……ふん。ま、成り行きだからな。礼を言われる筋じゃあねえ」
途端――――槍兵は、力無く崩れ落ちた。
「ラ、ランサー……!?」
止める手も間に合わない。
背中から壁にもたれかかったランサーは、そのまま地面に腰を落とした。
両足は動かない。
槍兵の手足はとうの昔に死んでいるのだ。
それが立ち上がり、主を貫き、彼女を自由にした事こそが、あまりにも出鱈目だった。
「ごっ…………!」
滝のような喀血《かっけつ》が、青い甲冑を真紅に染める。
「……っ。待ってて、すぐに傷を塞ぐから―――!」
血まみれの槍兵に駆け寄る凛。
それを、ランサーは片手で制した。
「無駄だ。|オレの《ゲイボ》槍《ルク》で破壊された心臓は簡単には治らん。だいたいな、そんな余分な魔力は残ってねえだろ、おまえ」
「……けど、それじゃ―――」
「まあ気にするな。こういうのには慣れてる。英雄ってのはな、いつだって理不尽な命令で死ぬものなんだからよ」
飄々とした口振りは以前通り。
青い槍兵は、死の際にあっても、その口調を変えなかった。
「………………」
彼女は言葉もなく立ちつくす。
それを見上げたまま、ほう、と。
肩の荷がおりたように、槍兵は息をついた。
「―――いや。お互い、つまんねえ相棒を引いちまったな」
「……そうね。けど、わたしのはつまんないっていうより、扱いづらいだけだったかな」
「違いない。おまえのような女が相棒だったら言う事はなかったんだが―――生憎、昔っからいい女とは縁がなくてな。
まったく、こればっかりは何度繰り返しても治らねえみてえだ」
自嘲するように笑う。
そうして、
「……さあ、早く行け。こいつはオレが連れて行く。
―――おまえは、おまえの相棒のところに戻らないと」
青い槍兵は、立ちつくす少女に先を急かした。
その手には火《アンサス》のルーン。
残った魔力を全て籠めたルーンは、地に刻みつけるだけでこの部屋を燃やし尽くすだろう。
「――――――――」
決意を悟って、少女はランサーに背を向ける。
「―――さよならランサー。短い間だったけど、わたしも貴方みたいな人は好きよ」
大広間へと駆けていく。
「―――は。小娘が、もちっと歳とって出直してこい」
呟いた言葉は、心底愉しげだった。
炎に包まれる。
業火はランサーの体を焼き、主だった男の遺体をも焼き払っていく。
残骸すらなく。
朱色の槍も青い甲冑も、空虚な幻のように、炎の中に消えていった。
◇◇◇
「っ――――!」
同じ剣、同じ剣戟が交差する。
衛宮士郎の一閃とヤツの一閃はまったく同等。
だと言うのに、衝突を重ねる度に刃は欠け、体は深手を負っていく。
止めた筈の一撃が、貫通する。
左の干将《つるぎ》はヤツの干将《つるぎ》によって砕かれ、凶器は横殴りに俺の体を一閃した。
「は――――づぅぅぅう………!!」
身をひねって躱すも、薄皮一枚とはいかない。
即死にはいたらない傷痕は、確実に肉を断ち、いずれ致命傷となるだろう。
「く―――、そ…………!」
痛みを罵倒でかみ殺し、踏み込んだ敵に右の莫耶《つるぎ》を叩き落とす……!
「な――――」
それも砕かれ、防がれた。
同じ剣、同じ剣筋だというのに、埋められない壁がある。
「―――おまえの干将とオレの干将が同等とでも思ったか? おまえはまだ基本骨子の想定が甘い。
いかにイメージ通りの外見、材質を保とうが、構造に理がなければ崩れるのは当然だ。イメージといえど、筋が通ってなければ瓦解する」
眉間と横腹。
急所を同時に薙ぎ払ってくるヤツの一撃を、
「っ――――あ――――!」
即座に“投影”した双剣で受け流す――――!
「っ――――――――」
眼球が痺れるほどの頭痛。
即座に行った投影魔術の負荷じゃない。
これは、あの頭痛だ。
遠坂を探していた時の直感。
ヤツと向き合う度にしていた微熱。
それが、ここに至って最大の負荷となって、この体を狂わせていく――――
「は――――あ、あ――――!」
繰り出される剣を弾く。
踏み込んでヤツの体を袈裟に薙ぐ。
――――その度に、赤い頭痛が眼《まなこ》を焦がす。
衛宮士郎とエミヤが同時に存在する矛盾なのか。
こうして、お互いがお互いと認識した時から、触れあう度に体がズレる。
ヤツから剣技を模倣《トレース》し、その複製技術さえ手に入れた。
それが自分に馴染むのは当たり前だ。
ヤツの技術は、長い年月の末に得た、『衛宮士郎にとって最適の戦闘方法』に他ならない。
馴染まない筈がない。
俺は駆け足でヤツに追い付こうとし、本来知ってはいけない未来の自分を知ってしまった。
「あ――――ぐ――――!」
眼球が痺れる。
剣を振るう度、火花を散らす度に、失明しかねないほどの閃光が視界を浚う。
実力では及ばず、一撃毎に視界が真紅に染まる。
それだけなら構わない。
体はとっくにズタズタだ。
頭痛なんてものは、裂かれた腹の焼き鏝《ごて》めいた重さに比べれば軽い。
問題は、ヤツからいまだ引き出している物があるから、この頭痛が止まないという事――――
「――――都合五本目だな。投影による複製ではそろそろ限界か。おまえの魔力量はよく解っている。その様では残り三本。……わざわざアレを見せてやったというのに、未だそんな勘違いをしているとはな」
嘲る声には失望が混じっている。
勘違い……?
そんなモノ、言われたところで知ったコトか。
それより今は、この頭痛を。
おまえから流れる、その――――
「ともあれ、至ったところで不可能ではあるか。今の衛宮士郎が生成できる魔力では足りない。
そう、どちらにせよ――――」
頭痛が強まる。
ヤツは、勝負を決めようと大きく双剣を振り上げ、
「―――貴様に、勝算など一分たりともなかったという事だ!」
十字に交差するように、俺の脳天へと振り下ろした。
「っっ――――!」
防ぎに入った双剣が砕かれる。
体は金槌を打ちこまれたように痺れ、頭痛はついに、眼球だけでなく脳まで焦がした。
――――流れてくる。
だから、
苦痛なんかより、
コレのほうが、
恐ろしい。
それはヤツの記憶だ。
ヤツがここまで変わった理由。
この先、衛宮士郎という人間が味わうであろう出来事が、断片的に視えてしまう。
それが正しいのか正しくないのか、俺には判らない。
きっと判断のつく人間はいない。
美しいものが醜く、醜いものは美しかった。
客観的に見ればおぞましいモノなどない。
なのに、どうしてそんな偏りが生じるのか。
詭弁、詐称、奸計《かんけい》、自己愛。
見てきたものの大部分は、そういったモノだった。
――――体は、剣で出来ている。
……それでも。
それでも、構わなかったらしい。
誓った言葉と守るべき理想があった。
その為なら何を失っても構わなかった。
人に裏切られても、自分さえ裏切らなければ次があると信じ。
嘆く事もなく、傷つく素振りも見せないのなら。
――――血潮は鉄で、心は硝子。
他人《ひと》から見れば、血の通わない機械と同じ。
都合のいい存在だから、いいように使われた。
周りから見ればそれだけの道具。
けれど、機械にだって守るべき理想があったから、都合のいい道具でもいいと受け入れた。
――――幾たびの戦場を越えて不敗。
ただの一度も敗走はなく、
ただの一度も理解されない。
誰に言うべき事でもない。
その手で救えず、その手で殺めた者が多くなればなるほど、理想を口にする事は出来なくなる。
残された道は、ただ頑《かたく》なに、最期まで守り通す事だけだった。
その結果が。
衛宮士郎が夢見ていた理想など一度も果たせず、
はた迷惑なだけの、愚者の戯言だと知ってしまった。
――――彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。
[#挿絵(img/013.JPG)入る]
見ろ これがヤツの末路。
見ろ これが貴様の結末だ。
「――――――――」
心が、折れる。
同情なんてしない。
同情なんてしない。
同情なんてしない。
同情なんてしない、けれど。
これからその道を、この足が歩くかと思うと、心が欠けそうになる。
――――故に、その生涯に意味はなく。
おまえが信じたもの。
おまえが信じるもの。
その正体が嘘で塗りたくられた夢物語だと見せつけられて、まだ――――
「――――!」
剣戟が迫る。
双剣ではない、尖った角のような剣が心臓を貫きに来る……!
「ぐ、っ――――――――!」
間合いを離す。
手にあるのは、咄嗟に複製したヤツの剣。
「は――――はあ、はあ、はあ、は――――!」
吐き気を堪える。
今、何を――――見ていた、のか。
忘れろ。
見た|モノ《コト》なんて忘れろ。
今はヤツを倒すだけ。それ以外の事にかまっている余裕なんてない筈だ…………!
「―――計算違いか。
前世の自分を降霊、憑依させる事で、かつての技術を修得する魔術があると聞くが……オレと打ち合う度に、おまえの技術は鍛えられていくようだな」
「は――――あ、はあ、はあ、は――――」
両肩で息をして、ヤツの一撃に備える。
「となると、引き出したモノは投影技術だけではあるまい。―――その顔。今にも吐きそうな最低の面《つら》がまえからすると、おまえも見たな、衛宮士郎」
「――――――――」
息が止まる。
言わせるな。
思い出させるな。
いま見たものを口にだされたら、俺は。
「ならば話は早い。それは全て事実だ、衛宮士郎」
赤い外套が翻る。
ヤツは一息で間合いをつめ、その一角剣を突きだしてくる――――!
「っ…………!」
一撃で破壊された。
急造、加えて初めて投影した剣など、ヤツに及ぶべくもない――――!
「ふっ――――!」
だが。
こちらは空手だというのに、ヤツはその一角剣を投げ捨てる。
そうして次に投影された物は、覇者の剣と称される絶世の《デュラ》名剣《ンダル》――――
「は、あ――――!」
行程を四節跳ばし、瞬時にヤツの得物を複製する。
当然、そんな紛い物は一撃で粉砕され――――
「――――――――」
倒れた。
弾かれ、瓦礫の上に背中から落ちる。
「あ――――く」
それで、びっくりした。
俺が倒れただけで、瓦礫は真っ赤に染まっていたのだ。
……なんだ。
気が付かなかっただけで、俺の体は、外も内も死に体らしい。
「―――そこまでだ衛宮士郎。
敵わないと知ってなおここに現れる愚かさ。生涯下らぬ理想に囚われ、自らの意思を持たなかった紛い物。
それが自身の正体だと理解したか」
「――――――――」
声が響く。
体は切り傷だらけ。
そのどれもが、手を入れれば中まで入って骨を取り出せそうなぐらい深いのには、正直、まいった。
「そんなモノに生きている価値はない。
何よりこのオレが確信しているのだ。衛宮士郎という男の人生に価値などない。
……ただ救いたいから救うなど、そもそも感情として間違えている。人間として故障したおまえは、初めから、あってはならない偽物だった」
「――――――――」
残った魔力だってゼロに近い。
それだけじゃなく、魔力を走らせる回路自体が、とっくに焼き付いている。
……いや、焼き付いていると言えば、昨日の投影で焼き付いていたのだ。
これは単に、壊れかけたものが完全に壊れただけ。
「は―――――――」
それでも、体はまだ戦えると訴えている。
折れかかった心が、まだ折れていないと強がっている。
「―――――――あ」
なら。
立って、アイツを、倒さないと。
「無駄な事を。オレはおまえの理想だ。敵う筈などないと、今ので理解できた筈だが」
「はあ――――はあ――――はあ――――」
……残った意識を、全て回路につぎ込み回す。
「っ」
ささくれ立った神経が悲鳴をあげる。
その中で、動揺する事なく八節を組み上げる。
「――――投影《トレース》、完了《オフ》」
手にする物はヤツの双剣。
干将と莫耶、古の刀工の名を冠した名剣。
「ふ――――あああああああああああ!」
振るう。
残った体力、その全てが燃え尽きるまで、絶え間なく攻め続ける……!
双剣を迎え撃つ物はやはり双剣。
アーチャーは得物を干将莫耶に代え、一歩も退かずに俺の連撃を防ぎきる。
「―――そうか。認める訳にはいかないのは道理だな。
オレがおまえの理想であるかぎり、衛宮士郎は誰よりもオレを否定しなければならない」
冷静な台詞は、頭にくる。
こっちは呼吸さえできないっていうのに、ヤツは息一つ乱していない。
「くっ、この――――!」
渾身の一撃。
「チッ」
受け流せず、ヤツの双剣とこちらの双剣が鍔迫り合う。
「は――――、く…………!」
……双剣ごと押し返される。
腕力の差は歴然だ。
押し相撲では、こちらに勝ち目はあり得ない―――
「ふん―――では訊くがな士郎。
おまえは本当に、正義の味方になりたいと思っているのか?」
「――――――――」
一瞬。
その不意打ちに、頭の中が真っ白になった。
「何を、今更―――俺はなりたいんじゃなくて、絶対になるんだよ……!」
力を込めて、正面から睨み返す。
それを。
「そう、絶対にならなければならない。
何故ならそれは、衛宮士郎にとって唯《ただ》一つの感情だからだ。逆らう事も否定する事もできない感情。
―――例えそれが、自身の裡《うち》から、現れた物でないとしても」
ヤツは、心臓を掴むような言葉だけで止めてしまった。
「―――――な」
自らの裡《うち》から、表れた物ではない。
それがどんな意味なのか、考えるより先に否定した。
言わせてはいけない。
それに気が付いてはいけない。
知れば、わかってしまえば、衛宮士郎の基盤は跡形もなく崩壊すると。
「ほう。その様子では薄々感づいてはいたようだな。
いや、初めから気づいていて、それを必死に遠ざけていただけだったのか。―――今のオレでは、思い出す事さえできないが」
「――――――――や」
言いかけて、口を噤んだ。
知りたくない。
知ってはいけないと分かっている。
それでも―――知らなければならないと、いい加減わかっていた。
衛宮士郎の矛盾。
何を間違えて、何が歪《いびつ》だったのかという、その答えを。
「オレには、もはやおまえの記憶などない。
だが、それでもあの光景だけは覚えている。一面の炎と充満した死の匂い。絶望の中で助けを請い、叶えられた時の感情。衛宮切嗣という男の、オレを助け出した時に見せた安堵の顔を」
死ぬのが当然だと思い知らされて、心には何もなくなった。
その時に、助けられた。
俺を助けた男は、目に涙をためて微笑んでいた。
―――それが。
なんて、幸せそうなのだろうと。
「そうだ。おまえは唯一人助けられた事で、助けられなかった人々に後ろめたさを感じていた訳じゃない。
ただ衛宮切嗣に憧れただけだ。
あの男の、おまえを助けた顔があまりにも幸せそうだったから、自分もそうなりたい[#「自分もそうなりたい」に丸傍点]と思っただけ」
……そう。
あの時、救われたのは俺の方じゃない。
……今まで考える事さえ放棄していた仮定。
もし。もし仮に、あの火災の原因が切嗣にもあるとしたら、彼には耐えられなかった筈だ。
誰一人生存者のいない惨劇。
当事者である切嗣は、死にものぐるいで生存者を捜しただろう。
そうして、いる筈のない生存者を捜し当てた。
助かる筈のない子供と、いる筈のない生存者を見つけた男。
どちらが奇蹟だったかと言えば、それは。
「――――――――」
でも、そんな事はわかっていた。
そんな相手の事情なんて知らない。
俺には、あの地獄の中から救い出してくれただけで十分だった。
たとえそれが自己に向けられた物であったとしても、俺を救おうとする意思も、助かれと願ってくれた真摯《しんし》さも本当だった。
……それで十分。
何もなくなっていた自分を、十分すぎるぐらい、衛宮切嗣は救ってくれたのだ。
だから――――
「そう、子が親に憧れるのは当然だ。だがおまえはそれが行きすぎた。
衛宮切嗣に、衛宮切嗣がなりたかった物に憧れるだけなら良かった。
だが、最期にヤツはおまえに呪いを残した。言うまでもないだろう。それがおまえの全てだと言ってもいい」
“―――じいさんの夢は、俺が”
……それが、答えだった。
自分の何気ない言葉を聞いて、安心したと遺して、俺以上に空っぽだった人は逝った。
その瞬間に、衛宮士郎は正義の味方にならなくてはならなくなった。
自分の気持ちなどどうでもいい。
ただ、幼いころから憧れ続けた者の為に、憧れ続けた物になろうとしただけ。
誰もが幸せでありますようにという願いは。
俺ではなく、衛宮切嗣が思っていた、叶うはずもないユメだった――――
「気づいているのだろう、士郎。
おまえの理想はただの借り物だ。衛宮切嗣という男がなりたかったモノ、衛宮切嗣が正しいと信じたモノを真似ているだけにすぎない」
「―――――それ、は」
歯を食いしばって、必死に、折れていく心を支える。
だが。
「正義の味方だと? 笑わせるな。
誰かの為になると。そう繰り返し続けたおまえの想いは、決して自ら生み出されたものではない。
そんな男が他人の助けになるなどと、思い上がりも甚だしい―――!」
剣が奔《はし》る。
罵倒《ばとう》をこめた双剣は、かつてない勢いで繰り出された。
「――――――――あ」
その、怒濤のような剣戟を目の当たりにして。
衛宮士郎《じぶん》はここで死ぬのだと、十年前のように受け入れた。
叩きつけられる衝撃。
流麗だった剣筋は見る影なく、ただ、力任せに打ち付けられた。
「は――――」
受けた左腕が震える。
剣を握った指は、その衝撃で折れた。
残った全精力で作り上げた干将も、わずか一撃で歪曲した。
「――――――――」
死んだ。
初撃で既に瀕死。ならば迫る次弾を受けきれる道理はない。
「――――――――あ」
だというのに。
心が折れかけているというのに、体は全力で否定する。
それは違うと。
この男の言葉を認めるのも、ここで死を迎えるのも違うのだと、賢明に訴えるように。
――――顔をあげる。
眼は機能していない。
眼球は敵を写さず、ただ、ヤツの記録だけを流してくる。
……その中で。
亀のように縮こまって、必死に生き延びようとする自分がいた。
……聞こえるのは剣の響きだけじゃない。
ヤツは。
その一撃の度に、自らを罵倒する。
「そうだ、誰かを助けたいという願いが綺麗だったから憧れた!」
繰り出される剣を受ける。
莫耶は砕かれた。残る命綱は左の干将のみ。
「故に、自身からこぼれおちた気持ちなどない。これを偽善と言わずなんという!」
その干将も歪に折れ曲がり、存在そのものが薄れかかっている。
……胸が、痛い。
瀑布《ばくふ》の如きヤツの剣戟ではなく、その言葉が、衛宮士郎の心を裂く。
「この身は誰かの為にならなければならないと、強迫観念につき動かされてきた。
それが苦痛だと思う事も、破綻していると気づく間もなく、ただ走り続けた!」
―――繰り返される否定。
それが届くたび、心は戦闘を放棄しかける。
体はとっくに、重撃に耐えられずリタイヤしたがっている。
だというのに。
そのリタイヤしたがっている体は、なお必死になって、ヤツを否定し続ける。
「だが所詮は偽物だ。そんな偽善では何も救えない。
否、もとより、何を救うべきかも定まらない―――!」
「が――――!」
弾き飛ばされる。
バーサーカーもかくやという一撃は、たやすく衛宮士郎の体を弾き飛ばす。
「――――――――」
なのに、踏みとどまった。
無様に背中から瓦礫に落ちる一撃を、懸命に耐えきった。
倒れれば。
倒れれば起きあがれないと、体が頑なに転倒を拒否していた。
「ぁ――――はあ、あ、げ――――ぅ…………!」
消えかかった干将を地面に突き立て、体を預ける。
体は前のめりになったままで、起こす事さえできない。
「は――――あ、はぁ、は――――…………!!」
干将を杖がわりにして、前に倒れ込む体を両手で押さえる。
その姿は、たとえようもなく無様だ。
端から見れば、ヤツに土下座しているようにもとれるだろう。
「―――その理想は破綻している。
自身より他人が大切だという考え、誰もが幸福であってほしい願いなど、空想のおとぎ話だ。
そんな夢を抱いてしか生きられぬのであらば、抱いたまま溺死しろ」
生きる価値なし。
否、その人生に価値なし、とヤツは言い捨てた。
「……………………」
武器は消えかけ、体は立っている事自体が無駄。
対して、ヤツは傷どころか呼吸さえ乱していない。
――――ここに勝敗は決した。
いや、そんなものは初めから決していた。
衛宮士郎では、英霊エミヤに敵う道理などない。
……だが、それは間違いだ。
実力差がはっきりとしていたのなら、こんなバカげた小競り合いになる事はない。
負けていたのは、俺の心。
自分が間違っていると気付き、アイツは正しいと受け入れた心が、弱かった。
負けていたのはそれだけだ。
なぜなら、ずっと――――
「…………けんな」
「なに……?」
なぜならずっと―――この体は、おまえには負けないと訴えていた。
偽物と。
おまえの理想は偽りだと蔑まされる度に、力が籠もったのは何の為に――――
「ふざけんな、こんちくしょう…………!!!!」
「――――――――」
届く。
必ず届く。
壊れているなら壊れていないところを使えばいい。
有るモノ全てが壊れたのなら無い部分を総動員しろ。
体《オレ》がまだ負けていないというのなら、その奥、まだ手つかずの領域に手を伸ばす――――!
ぶつん、という頭痛。
コンマの刹那。おそらく最後になるだろう、ヤツの風景を見た。
理解には至らなかった。
だが、痛みだけは教訓として知れたと思う。
……自らを表す呪文に、自らを律する韻を持たせた英雄。
そこに込められた真意を、今は判らずとも。
おまえに代わって、その言葉を貰っていく。
「―――――――、体は」
自らに胸を張る為に、その呪文を口にする。
エミヤの言葉はエミヤを傷つける。
それを承知で、おまえは俺を殺す事を望んだ。
長い繰り返しの果てに、そんな事しか望めなくなった。
なら。
おまえが俺を否定するように。
俺も、死力を尽くして、おまえという自分をうち負かす――――!
「――――I am the《体は》 bone《剣で》 of m《出来ている》y sword.」
知らず、呟いた。
顔をあげる。
死にかけの体を奮い立たせる。
ごくん、と、喉につまった血の塊を飲み下す。
存在が稀薄だった陽剣干将が確かな実像を帯びていく。
「貴様、まだ」
「―――そうだ。こんなのが夢だなんて、そんな事」
とっくの昔から知っていた。
それでも、それが正しいと思うから信じ続けた。
叶わない夢、有り得ない理想だからこそ、切嗣は追い続けた。
たとえ叶わなくとも。
走り続ければ、いつか、その地点に近づけると。
「そうか、彼女の鞘……! 契約が切れたところで、その守護は続いている……!」
剣を構える。
そんなのは知らない。
俺は、ただ、
「―――おまえには負けない。誰かに負けるのはいい。
けど、自分には負けられない―――!」
最後まで、衛宮士郎を張り続ける――――!
―――それは、ありえない剣戟だった。
[#挿絵(img/226.JPG)入る]
「ぬっ――――!?」
斬りかかる体は満身創痍。
指は折れ、手足は裂かれ、本人は気づいてさえいないが、呼吸はとうに停止している。
踏み込む速度も取るに足りなければ、繰り出す一撃も凡庸だ。
彼の知識を吸収し、戦闘に耐えうる域まであがったというのに、その様は元の少年に戻っている。
出鱈目に振るわれた、あまりにも凡庸な一撃。
……だというのに。
その初撃は、今までのどの一撃よりも重かった。
「な――――に?」
放心は、秒を持たずに驚愕へと変わった。
奮われる剣は狂ったように。
彼の想像を遙かに超えた速度で、長剣を軋ませた。
―――何処にこれだけの力があるのか。
鬩ぎ合う剣戟の激しさは今までの非ではない。
「貴様――――!」
受けになど回れない。
この一撃ならば確実に首を跳ばす。
軽んじられる状況ではないと判断し、彼は己が剣を走らせる。
上下左右。
一息で放つ四撃は、手足を切断し胴を四散するに有り余る――!
「……………………!」
それを、防いだ。
否、必殺の四撃を上回り、剣風は彼の首を刎ねに来る―――!
「――――――――!」
咄嗟に長剣を返し、振るわれる一刀を捌く。
「こいつ……!」
攻めなければ倒される、と直感した。
長剣は死に体である敵を襲い、
少年はがむしゃらに剣を振るう。
拮抗する両者の剣戟。
空間は火花に満ち、立ち入るモノは瞬時に切り刻まれるだろう。
―――だが、それは終わりの見えた者が見せる、最後の炎にすぎない筈だ。
少年は一撃放つ度に息があがり、倒れそうになり、踏みとどまって次の一撃を振るう。
「――――――――」
それを見て、彼は確信した。
敵に力など残っていない。
目の前の小僧は、見たとおりの死に体だ。
だが。
だというのに何故、剣を振るうその手に、際限なく力が宿るのか。
――――意識などない。
もう敵が何をしているのか、自分が振るう剣が通じているのかさえ読みとれない。
筋肉は酸素を求めて悲鳴をあげ、足りなすぎる血液は運動停止を命じ続ける。
その悉《ことごと》くを、力ずくで押し殺した。
「……じゃない」
頭をしめるのはそれだけ。
自分の思いは偽物。コイツの言うとおり、正義の味方になんてなれないだろう。
衛宮士郎はそれに憧れ続ける限り、目の前の男と同じ末路を辿る。
「……なんかじゃ、ない……!」
だが、美しいと感じたのだ。
自分の事より他人が大切なんてのは偽善だと判っている。
―――それでも。
それでも、そう生きられたのなら、どんなにいいだろうと憧れた。
朽ち果てる寸前の体を動かすのは、ただ、それだけの思いだった。
「――――――――!」
敵が何を言っているのかも、彼には聞き取れなかった。
それほど敵の声は弱く、その剣戟は苛烈だった。
見れば剣を握る両手は、とうに柄と一体化している。
剣を固定する為だろうが、アレでは直接体に衝撃が響く。
血にまみれ、彼が一歩下がるだけで前のめりに倒れ込み、死体となる。
そんな少年にとって、振るう一撃は地獄の苦しみと同意の筈だ。
「――――――――」
それを苛だたしく受ける。
死に損ないの敵も癇に触るが、
一歩後ろに下がるだけで終わるというのに、それを成さぬ自分にも苛立った。
「――――――――」
だが、どうして引き下がる事ができよう。
もはや駆け引きも何もない、まっすぐな敵の剣戟。
そんな幼稚な剣に背を向ける事が恥ならば、その一撃を受け止めない事も屈辱だった。
一歩、後ろに引くだけで相手は自滅するというのに。
一歩でも引けば、決定的なモノに膝を屈する予感がある――――
「――――――――」
その煩悶《はんもん》もじき終わる。
敵はとうに限界だ。もって三撃。三度弾き返せば、あとは自分からバラバラになる。
「――――――――チ」
下らぬ思いつきに舌打ちした。
先ほどはあと二撃と見た。その結果、こうして十を超える剣戟を受けている。
少年は倒れない。
「……………………!」
聞き取れない声。
瀕死のソレは、一心に目前の障害へと立ち向かう。
―――その姿を。
彼は初めて、己が瞳で直視した。
千切れる腕で、届くまで振るい続ける。
あるのはただ、全力で絞り上げる一声だけ。
「……、じゃない……!」
叩き込む剣戟は、その叫びの代償だ。
……助けられなかった人たちと、助けられなかった自分がいる。
いわれもなく無意味に消えていく思い出を見て、二度と、こんな事は繰り返させないと誓った。
「……なんかじゃ、ない……!」
それからどれほどの年月が流れたのか。
無くしていった物があって、
落としていった物がある。
拾いきれず、忘れ去ってしまう物はいつだって出てくるだろう。
だから、これだけは忘れないように誓ったのだ。
――――正義の味方になる。
それが自分の願いでないとしても、自己の罪を薄める為の詭弁であったとしても、守り抜こう。
叶わないと。
幼い頃、自分を救ってくれた人が寂しげに遺して逝った。
その言葉に籠められた願いを、信じている。
世界中の人間に疎《うと》まれても、こうして自分自身に呪われても、それだけは――――
そうして。
繰り返される剣戟に終わりはないと、彼は悟った。
この敵は止まらない。
決して自分からは止まらない。
渾身の力で打ち込んでくるものの、敵の意識は彼を捉えてなどいない。
少年が斬り伏せようとしているものは、あくまで己を阻む自分自身。
信じてきた物、これからも信じていく物を貫き通す為に、敵は剣を奮っていた。
「――――――――」
それに気が付いて、彼は忌々しげに歯を噛んだ。
勝てぬと知って、意味がないと知って、なお挑み続けるその姿。
それこそが、彼が憎んだ彼の過ちに他ならない。
―――だというのに、何故。
それがどこまで続くのか、見届けようなどと思ったのか。
「っ………! そこまでだ、消えろ――――!」
長剣を振り上げる。
敵の剣戟は、もはや手を抜ける物ではない。
敵の剣撃を弾き返し、返す刃で、確実に頭蓋を砕く。
ギン、という音。
必殺の筈のそれは、容易く弾かれた。
今まで一度も防ぎきれなかった筈の相手が、彼の渾身の一撃を当然のように弾き返した。
「――――――――」
息が止まる。
剣を弾き、一際大きく剣を構え直す敵の姿。
その目は、やはり。
まっすぐに、自分だけを――――
その衝撃で、どちらかの腕と足が折れた。
痛覚は麻痺などしていない。
失禁しかねない痛みに、猛りだけでフタをする。
水分が足りない。そんな余分な物は流せない。
敵の左胸はがら空きだ。半身が折れた今、これが最後の一刀になる。
だが、そんな事は頭にない。
あるのは、ただ。
無防備になった左胸を守ろうと長剣を切り返す。
間に合う。
彼ならば、それは容易く間に合う行為だ。
それが、最後だった。
「……間違い、なんかじゃない……!」
頭にあるのはそれだけだ。
衛宮士郎が偽物でも、それだけは本当だろう。
誰もが幸せであってほしいと。
その感情は、きっと誰もが想う理想だ。
だから引き返す事なんてしない。
何故ならこの夢は、決して。
―――まっすぐなその視線。
過ちも偽りも、
胸を穿つ全てを振り切って、
立ち止まる事なく走り続けた、その―――
「―――決して、間違いなんかじゃないんだから……!」
言葉が、胸に突き刺さる。
血を吐くような決意で奮った一撃と、間に合う筈の守り。
その歯車はかみ合わないまま、あっけなく、この戦いに終わりを告げた。
「――――――――」
ざくん、と。
胸に刃物が突き刺さる音を、彼は聞いた
「――――――――」
驚きは、無論、赤い騎士の物だ。
敵は打倒する決意をこめて一刀した。
ならば仕留めるのは道理。
そこに驚きを挟む余地などないし、そんな余裕さえ、少年にはなかっただろう。
「――――――――」
故に、驚きは騎士だけのもの。
あれほど容易《ようい》に捌ける筈の一撃を捌けなかった事が、本当に不思議だった。
倒れそうになる体を、唯一満足な右足で支える。
手にした干将《つるぎ》は、確実にアーチャーの胸を貫いていた。
「アーチャー、何故」
……ずっとそこで見守っていたのか。
大広間の入り口に立ったまま、セイバーは問いかける。
「――――――――」
アーチャーは答えない。
答える必要がないと取ったのか、それとも―――ヤツ本人にも、その答えはなかったのか。
「っ――――」
ずくん、と指先が痺れる。
折れた指は、もうこれ以上剣を握っていたくないと告げている。
「――――――――」
……赤い騎士は動かない。
いかに胸を貫かれたとはいえ、サーヴァントなら十分に反撃ができるだろう。
だが、ヤツの両手は下げられたまま動く気配がない。
それが何を意味するのか、言われなくても判っている。
「俺の勝ちだ、アーチャー」
見据えたまま宣言する。
赤い騎士は、一度だけ目蓋を閉じ、
「―――ああ。そして、私の敗北だ」
遠くを見つめたまま。
そう、己に言い聞かせるように呟いた。
―――剣を引き抜く。
投影した剣は外気に触れた途端、元からそうであると言うように、ザラザラと散っていった。
「あ―――――――、つ」
全ての緊張が切れて、ようやく自分の体に振り返る。
「…………は」
酷いもんだ。
切られた傷は治りかけているようだが、ところどころが赤黒く変色している。
……アーチャーはセイバーの鞘のおかげだ、とか言っていたが、それにしたってどんな基準なんだか。
切られた肉はすぐ治すクセに、折れた骨は後回しらしい。
「……?」
と。
広間の東側、ランサーが消えていった廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
誰かがやってくる。
そいつは二階のテラスに現れると、躊躇する事なく広間へと飛び降りて、
「い、っぅぅぅ――――」
なんて、落下の衝撃に苦しんだ。
「士郎、無事―――
って、アーチャー、アンタその傷どうしちゃったのよ……!」
慌ただしくやってきた遠坂は、やっぱり慌ただしく声を上げた。
約束通り、ランサーは遠坂を助け出してくれたようだ。
に、したって―――遠坂の元気っぷりには、正直毒気を抜かれた。
あいつは俺の無事を確かめたいのか、アーチャーの傷に怒っているのか、いったいどっちなんだろうか。
「…………まったく、つくづく甘い。
彼女がもう少し非道な人間なら、私もかつての自分になど戻らなかったものを」
皮肉を言うものの、そこには温かな響きしかない。
赤い騎士は遠く遠坂を見た後、一歩、退場するように踵《きびす》を返す。
「ともあれ決着はついた。おまえを認めてしまった以上、エミヤなどという英雄はここにはいられん。
――――敗者は、早々に立ち去るとしよう」
「――――――――」
遠坂に別れも告げずにか。
……傷は深く、マスターもいない。
ヤツはここで消え、また、英霊として同じ場所に戻る事に――――
「え――――?」
それは、一瞬の出来事だった。
遠坂を見て弛緩しきった俺の隙をつく、必殺の一撃。
繰り出された剣は複数。
剣の雨は、ぼんやりと立ちつくす衛宮士郎の体を串刺しにしようとし――――
倒れ込む。
弾かれ、瓦礫の上に尻餅をつく。
「―――――――」
「ぐっ…………!」
突き飛ばされたのは一メートル程度。
目の前には。
……折れた手足はうまく体を支えられず、体には立ち上がる力さえ残っていない。
俺は、そうして。
目の前で串刺しになった自分を、見上げる事しかできなかった。
「何者―――!」
セイバーの恫喝が沈黙を裂く。
それは広間の二階―――崩れた階段の上に向けられていた。
「楽しませてもらったぞ。偽物同士、実にくだらない戦いだった」
「貴様、アーチャー……!?」
「十年ぶりだなセイバー。おまえとはもう少し早く顔合わせをする気であったが、予定が変わった。予想外の事故ばかり起きてな、我《オレ》の思惑とはズレてきてしまったのだ」
バーサーカーを倒し、イリヤスフィールをその手にかけた英霊《サーヴァント》、ギルガメッシュ。
……ソレはセイバーの凝視を受け流し、串刺しになっているアーチャーと、その前で倒れている俺を見下ろした。
「さて、理解したか。それが本物の重みというものだ。
いかに形を似せ力を似せようが、所詮は作り物。本物の輝きには及ばない」
―――片腕が上がる。
ソレは、まるで配下の兵に命じるように、
「偽物が作り上げた贋作など見るのも汚らわしい。
―――クズめ。貴様らの裡《うち》には何一つ真作が存在せぬ。
他人の真似事だけで出来上がった偽物は、疾《と》くゴミになるがいい」
無数の宝具を、広間へと打ち出した。
避けられない雨が降り注ぐ。
繰り出される宝具は、数にして三十弱。
たとえ五体が満足であったとしても、それだけの剣戟は防ぐ事も躱す事もできない。
砂塵が舞い上がる。
叩きつける爆撃によって広間はさらに倒壊していく。
―――その中で、見た。
赤い外套が翻る。
ヤツは串刺しにされたままで俺へと走り寄り、もう一度突き飛ばした。
「――――――――」
遠ざかっていく赤い姿。
その眼が、強く語りかけていた。
“―――おまえが倒せ”と。
オレを負かした以上、正義の味方を目指す以上は、あの敵を倒しきれと。
視界が砂塵に埋め尽くされる。
赤い外套が瓦礫に沈む。
その姿が消え去る前に、たしかに見た。
確信を帯びた瞳。
―――あのサーヴァントは、衛宮士郎《おれたち》の敵ではない。
ヤツを仕留めるのはセイバーでも遠坂でもない。
あの黄金のサーヴァントにとって、衛宮士郎こそが天敵なのだと、俺自身が告げていた――――
視界が晴れていく。
舞い上がった粉塵と、一層高く積み上げられた瓦礫。
その後には何もない。
赤い騎士は瓦礫に埋もれたまま、俺たちの前から消え去った。
「ほう、驚いたぞアーチャー。あの傷で他人を救う余裕があったとはな」
皮肉げな言葉は、同時に嘲笑をも含んでいた。
男はアーチャーの鮮血《ざんがい》がこびりついた広間を見下ろしながら、満足げに口元をつりあげる。
「――――――――」
沈黙が落ちる。
現れたギルガメッシュは、この場で最も力のある存在だった。
下手に動けばアーチャーの後を追う。
セイバーでさえ唇を堅く閉じ、敵に向かう機会を見定めている。
――――が。
「―――この、誰に断ってわたしのアーチャーに手を出してんのよ―――!」
アーチャーを失った遠坂は、とっくに冷静さなんて無くしていた。
光が走る。
宝石に籠めた魔力を叩き込むだけの、なんの加工もしていない純粋な破壊の衝撃。
ヤツは躱す事さえしない。
甘んじて受けた体には傷一つなく、
「死に損ないを先にするつもりだったのだが。
順序が変わったな、女」
背後の剣に、遠坂の処刑を命じた。
高速で放たれた剣。
それを上回る速度でセイバーは疾走し、己がマスターを守っていた。
「セ、セイバー……!?」
「凛、下がって……! あの男は危険だ、手を出せば殺されます……!」
「ほう、今のマスターはその小娘か。
―――よかろう。ならば今の無礼は不問に付す。|セイバー《おまえ》を失っては愉しみが減るからな」
「――――――――」
セイバーは手に不可視の剣を構えたまま、頭上の敵を睨み付ける。
「なぜここにいるアーチャー。御身は前回の聖杯戦争で呼ばれたサーヴァント。
その貴方が、なぜ今回も現界している」
「何故も何もあるまい。前回の戦いが終わった後、我は消えずにこの世に留まっただけだが」
「な―――そんな馬鹿な。サーヴァントは聖杯が消えた時点で、この世との接点を無くす筈だ……! ならば、貴方が十年もの間留まっていられる筈がない……!」
「そうでもないぞ。元より、この世との接点は聖杯ではなく依り代となった魔術師《マスター》だ。聖杯はあくまで道を通したにすぎん。聖杯が消えた後も、魔術師が魔力を提供し続ければこの世には留まれる」
「尤も、聖杯の助力なしでサーヴァントを維持できるマスターなどそうはいないがな。その点で言えば、我《オレ》の依り代は魔力不足ではあった」
「……? ならば、どちらにせよ貴方が留まれる筈がない。貴方という使い魔を持つ事にマスターが耐えられないのなら、貴方は召喚者ともども枯渇している筈だ」
「それもやりようであろう。魔術回路が少なければ知識で補うのが魔術師という輩だ。
その点で言えば、我《オレ》のマスターはなかなかに筋金の入った男だった」
……男だった[#「だった」に丸傍点]……?
じゃあアイツのマスターはもういない、という事なのか……?
いや、ヤツのマスターは慎二だ。
己以外は何者も認めぬ、という|あの《ギルガメ》男《ッシュ》が慎二に従っていたのが何よりの証拠じゃないか。
「……では。貴方のマスターは、ライダーのマスターと同じように」
「ああ、自己で補えなければ他人から奪うのは当然だろう。
だが、実を言えばそのような手間も要らなかったのだがな。我《オレ》は聖杯を浴びた唯一人のサーヴァントだ。この時代における受肉など、十年前に済ませている」
「――――――――」
愕然と男を見つめるセイバー。
十年前という言葉に、彼女は痛ましげに眼を伏せた。
「そう、おまえのおかげだぞセイバー。
アレが何であるか、我は誰よりも熟知している。なにしろそのハラワタをぶちまけられ、中に『在る』ものを見たのだからな」
「――――では。あの時、貴方は」
「ああ、聖杯の正体を理解したのだ。
―――その時に決めた。アレは、我《オレ》だけが扱うとな」
セイバー。
いや、広間にいる俺たちを見下ろしながら、黄金のサーヴァントは、サーヴァントにあるまじき宣言をする。
「聖杯を――――貴方が、使うだと」
「そうだ。マスターなどという寄生動物に分け与えてやる義理もあるまい。我《オレ》は我《オレ》の目的の為に聖杯を使おう。
その最大の障害であった召喚者も先ほど消えた。
残ったモノは依り代にもならぬ魔術師もどきだけだ。我《オレ》の望みには、その成り損ないこそが相応しい。
尤も―――おまえの肉ならば、或いは完全な聖杯が出来上がるやもしれんが、さて」
男は遠坂を睨め付ける。
「ぁ…………」
身の危険を感じたのか、遠坂は顔を青くして後じさった。
……赤い瞳は、例えようもなく不吉だった。
あんな眼で見据えられては生きた心地なんてしない。
あの気丈な遠坂が怯えるほど、男の眼は常軌を逸していた。
「―――馬鹿な。聖杯はマスターが得るものだ。
我らサーヴァントでは得られないからこそ、マスターに協力するのだろう……!」
「それこそおかしな話だ。
聖杯に触れられるのはサーヴァントだけでありながら、聖杯を得られるのはマスターだけだというのか?」
「ぁ――――しかし、それは」
「……ふん。全てはくだらぬ戯言だ。
七人のマスターによる聖杯の奪い合い? 最後の一人となったマスターのみが聖杯を得る儀式だと?
そんなものはただの隠れ蓑にすぎん。
もとより聖杯の降霊など済んでいる。連中は毎回、聖杯を用意してから七人のサーヴァントを呼ぶ。
解るか騎士王。連中が必要としたのは聖杯ではなく、その中に入る[#「中に入る」に丸傍点]モノだ」
「マスターなど、もとは我らを呼ぶ為だけの回路にすぎん。魔術師どもはな、聖杯を造りはしたがその中身を用意できなかった」
「先ほども言っただろう? 自己で補えないのなら、余所から奪ってくるのがヤツラだと。
聖杯を満たす最高純度の魔力。
守護者とも言える、“霊長最強の魂”こそが、ヤツラが求めたものだ。七人のサーヴァントとはな、もともと聖杯にくべられる生け贄の事らしいぞ?」
「――――――――な」
セイバーは愕然と男を見上げる。
その目は、必死に男を否定しようとしていた。
……そんな筈はない、と。
自分が求めた聖杯《モノ》が、そんな歪な物である筈がない、と言い聞かせるように。
「驚く事はあるまい。聖杯は魂という、本人でなければ制御できぬ力を純粋な魔力に帰す濾過器だ。
ああ、確かにそれならば願いは叶おう。魔術師どもにとっては、永遠に使い切れぬ魔力量だろうからな。
故に、生け贄は多ければ多いほどよい。六人ものサーヴァントをくべれば、それは万能と言えるだろう。
聖杯が汲み取ったサーヴァントは五人。やつらが目指した万能の釜までは、あと一人分で十分だ」
「―――それでは。それでは、やはり聖杯はマスターにしか扱えない。聖杯が純粋な魔力の貯蔵庫だというのなら、扱えるのは魔術師だけだ。
……そう、そうだ。持ち主となるマスターさえ優れた術者なら、きっと――――」
「あらゆる願いを叶えられる、か?
たわけ、人間風情にそのような奇蹟は与えられん。どれほど強大な力を持とうと、自滅するのが人間というものだ。
だが―――安心しろ、セイバー。
この聖杯は本物だ。きちんと七人分の英霊を組み込めば、必ず原初に到達する[#「原初に到達する」に丸傍点]」
「……原初……? ちょっと待った。じゃあ聖杯って、まさか」
「何者かは知らんが、最初にこの仕組み《ルール》を敷いた者は間違いなく神域の天才だろうよ。
まあしかし、我《オレ》には関係のない話ではある。我《オレ》はそんなモノに興味はない。あるのは聖杯の“孔《もん》”としての能力だけだ」
「な――――聖杯が孔、だと――――?」
「……ふん。
十年前だセイバー。あと一歩で聖杯を手に入れるという時、我《オレ》はおまえに阻まれた。
聖杯は聖剣によって両断され、こぼれたおちたモノは炎となって街を焼き払った。聖杯の真下にいた我《オレ》は、当然その奔流《ほんりゅう》を一身に浴びたのだ」
「その時に聖杯の正体を知った。
―――実に下らぬ。下らぬが、使い道はある。
数ある兵器の中でもアレほど殺人に特化したモノはあるまい。アレはあのままでいい。万能の釜になどする必要はない」
「兵器―――聖杯が、サーヴァントをもって生み出すモノが兵器だというのか、アーチャー」
「もともと我らとて兵器だろう。アレはそれを突き詰めたモノにすぎん。聖杯とは地獄の門。一度開けば、中からは五十六億もの呪いが溢れ出す。
言峰は言っていなかったか?
聖杯の名は“|この《ア》世全ての《ンリ・マ》悪《ユ》”。
その名の通り、全ての人間を食い潰す終わりの泥だと」
……アンリマユ?
それはたしか、拝火教における魔王の名だ。
神に対抗し、何千年もの間戦いを続ける魔の統率者。
人間全ての悪意の具現とされるソレは、人間全ての善意の鏡像として描かれる。
―――だが何故、古代ペルシャにおける悪魔の名が聖杯に付けられているのか。
「――――では。貴方の目的は、人間の」
「そう、一掃だ。我《オレ》は言峰のように、人間を愛でようと努める気はない。愛でるべきは美しいモノだけだ。
この世界は楽しいがな、同様に度し難い。
凡百の雑種が生を謳歌するなど、王に対する冒涜だ。それでは治める気にもなれん」
「ば―――馬鹿じゃないのアンタ!? 何が王に対する冒涜だ、よ……! 人間が一人もいなくなったら、それこそ王様の意味なんてないじゃない!」
「死に絶えるのならばそれでよい。自らの罪で消え去るのなら、在きる価値などあるまい。
我《オレ》が欲しいものは雑種ではない。地獄の中ですら生き延びられるモノにこそ、支配される価値がある。
その点で言えば前回のは落第だったな。あの程度の火で死に絶えるなど、今の人間は弱すぎる」
口元がつり上がる。
ヤツは、初めて。
ヤツの言う落第者であろう俺を見た。
「“この世全ての悪”とやらが何物であるかは知らん。
だが都合がよいだろう? 全ての人間に等しくおちる死の咎。
人より生まれた、人だけを殺す底なしの闇。
本来|我《オレ》がすべき仕事を任せるには相応しい猟犬だ」
ギルガメッシュの片腕があがる。
その背後には、王の命令を待つ宝具が控えている。
「では十年前の続きといこう。あの時はくだらぬ雑種《ゴミ》が混ざったが、此度はあのような雑種《ゴミ》はおらん。
尤も―――それ以上に質《たち》が悪い偽物《クズ》が混ざっているようだがな……!」
剣の切っ先が、一斉に俺へと向けられる。
「っ…………!」
立ち上がろうと足に力を入れるが、折れた足はぴくりとも動いてくれない。
……クソ、あの中の一本だって、俺には防ぐ事はできない。
なのにどうして―――アーチャーのヤツは、あんな意思を遺しやがったんだ……!
「む」
剣が消える。
黄金のサーヴァントは、唐突にその腕を下げた。
ヤツは不快げに天井を見た後、ぱん、と肩に落ちた埃を払う。
「―――煤《すす》で汚れる。命拾いしたな、小僧」
「え……?」
……城が燃えている。
誰が火を付けたのかは知らないが、よほど強い火の手なのだろう。
既に城の三階は炎で包まれ、火の手は二階にまで及んでいた。
……いや、驚くのはそんな事ではなく。
あいつは本当に、煤で汚れるなんて理由で、戦闘を放棄したのだ。
「逃げるのですか、アーチャー」
「場所を変えるだけだセイバー。聖杯は我《オレ》の手にある。
事は迅速に済ますのが我《オレ》の方針だからな。早々に聖杯を作り、地獄の孔を開けてやろう」
金の髪が靡く。
ギルガメッシュは火の手のないテラスへと歩いていく。
「取り戻したければ早めにしろ。
何しろ今回の聖杯は急造の欠陥品だ、急がなければ中身が全てこぼれてしまうぞ……!」
押し殺した笑いが響く。
そうして、ヤツは炎上する城から立ち去った。
広間には火の粉が舞い始め、天井は刻一刻と赤く染まる。
……絢爛だった城に、かつての面影はない。
主を失った城は白い少女の後を追うように、跡形もなく崩れていった。
◇◇◇
「はあ、はあ、はあ、は――――!」
獣じみた息遣いのまま、間桐慎二は森を彷徨っていた。
いや、実際は確かな道順に基づいて走っているのだが、その心情は迷走に等しい。
目的もなくただ逃げ帰るだけの体では、彷徨《さまよ》うという表現の方が相応しかろう。
「くそ―――あと少し、あと少しっていうところでどいつもこいつも邪魔しやがって……!」
片腕で枝をかき分け、湿った土をまき散らして走る。
点々とした血の跡を残しながら、間桐慎二は森の出口を目指していた。
ランサーに刺された肩は、当然治療などしていない。
右腕の感覚はとうに失われている。
傷口は赤くただれ、腕は壊死したように動かなかった。
「はっ……はあ、は、あ…………!」
片腕ではうまく走れないのか、足を滑らせて木に倒れかかる。
だらり、と下げられた右腕はゴミのようだった。
自分の体の一部が、すでに用をなさないゴミだと知った途端、間桐慎二は笑い出した。
「はっ……はは、あはははは」
咳き込むように笑う。
痛い。
傷のせいだろう、体は瘧《おこり》のように熱い。
朦朧とした頭は、片腕が腐り落ちる自分の姿を想像した後、まわりの人間全てが同じように腐り落ちる姿を妄想した。
もちろん片腕だけではない。
自分が片腕なのだ。他のバカどもは身を弁えて腕無しになるべきだろう。
「く――――」
笑いが止まらない。
そう決めると痛みも少しは我慢できる。
なにしろ正当な理由が出来たのだ。
まっさきにする事は、腕という腕を集める事。
どいつもこいつも、誰であろうと例外はない。
「……は、そりゃあいい。じゃあ、一番初めは決まってる」
自分の思い通りにならなかった少女。
一番のお気に入りだからこそ、それが自分より優れた造形である事は許されない。
「ああ、待っててよ遠坂。すぐに僕以下にしてやるからさ」
くぐもった笑いをあげて、間桐慎二は顔をあげる。
「――――え?」
いつからそこにいたのか、目前には彼のサーヴァントが立っていた。
「オマエ――――」
呆然とサーヴァントを見る。
黄金のサーヴァントは、それこそ家畜を見る目で間桐慎二を見下ろし、
「傷を負ったのか。酷いな、それではさぞかし痛かろう」
そんな、心にもない事を口にした。
「――――――――!」
間桐慎二の顔が歪む。
己のサーヴァントがどんな意味を込めて告げたかも気づかず、彼は目の前の男を睨み付けた。
「痛かろう、だと!? 誰のせいだと思ってるんだ、オマエが間抜けだからランサーなんかにやられたんだぞ!?
番犬役も出来ないクセに偉そうなコトを言うな……!」
熱に侵された頭で、間桐慎二はサーヴァントを罵倒する。
「――――ふむ」
黄金のサーヴァントは。
まあ、これでも構わぬか、と頷いた。
「その傷はランサーにつけられたのか。では、あのマスターを逃がしたのはヤツだったのだな」
「ああそうだよ、オマエがグズだから遠坂を逃がしちまったんだ……! あんな死に損ないにとられるなんて、思い出しただけで吐き気がする!」
「そうか。それは残念だ」
「っ……! なに落ち着きはらってんだよ、遠坂がいなけりゃ聖杯が手に入らないんだろ!? くそ、オマエのおかげで全部台無しだ! わかってんのかよ、これからどうすれば―――」
「安心しろ、予定に狂いはない。聖杯は作り出せる」
感情のない声でサーヴァントは言う。
赤い眼が自分を見ていない事にさえ、間桐慎二は気が付かない。
「どうやって!? いくら聖杯があっても、その器がないと出来ないって言峰も言ってたじゃないか! あのガキの心臓だけじゃ意味がない。アレは優れた魔術回路に繋げないと聖杯にならないんだろ……!」
間桐慎二は己がサーヴァントに詰め寄り、その無能をなじる。
黄金のサーヴァントは、ああ、と頷いたあと。
「だから問題ない。
依り代になるマスターなら、ここにもう一人いるじゃないか」
無造作に、その腕を突き立てていた。
どす、という音。
それが何であるか、間桐慎二には最後まで判らなかった。
「――――え?」
ただ、腹に違和感がある。
見下ろしてみれば、そこには、サーヴァントの腕があった。
その拳が、自分の体にめり込んでいる。
痛みもなく出血もない。
サーヴァントの腕は、いつか見たデタラメな霊媒手術のように、自分の腹に溶け込んでいた。
「聖杯が欲しいのだろう? ならばくれてやろう。大事なものなら二度と手放すな」
「あ―――あ、あ?」
血管が、膨れあがる。
ジジジジジ、と。
体の中に何億という害虫が蠢き、出口を求めてひしめき合うような感覚のあと。
「ぎ――――ぎ、べ?」
彼は、間桐慎二でなくなった。
「ぎゃ――――げ、びや、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………………!!!!」
ビクビクと痙攣する。
膨れあがったソレは、まさに肉塊だった。
カタチなど判らない。
ソレを構成するものは剥き出しの肉と血管、急速に誕生する肉と、短命に腐敗していく肉だけだ。
「イ――――イタ、イタ、イタイ、イタイる、増え、増える、タス、タス、ヤメ、テ――――」
際限のない増殖と死滅を繰り返す痛みより、自身の中にびっしりと蠢き回る“何か”の不快感に耐えられず、彼の理性は崩壊した。
それを観察した後、サーヴァントは何事もなかったように身を離す。
「―――醜いな。力ある魔術師ならば変貌する事もないのだろうが、まあ、仕方があるまい」
鎖が伸びる。
中空より現れた天の鎖は、膨張と腐敗を繰り返す肉塊を拘束する。
今は膨張と腐敗のバランスは拮抗しているようだが、聖杯はすぐに依り代の使い方を覚える筈だ。
そうなれば膨張は腐敗を大きく上回る。
この様子ではそう時を待たずして、彼の聖杯は完成するだろう。
「ゲテモノの方が味はよい。
なにより―――オマエならば相応しい泥を吐き出すだろう、シンジ?」
サーヴァントは高らかに笑う。
その陰で。
タスケテクレ、と、もはや人間のモノでない声で、肉塊は繰り返した。
◇◇◇
「シロウ。傷はもう痛まないのですか?」
「え――――? あ、うん、そっちの方は問題ない。いたって健康だし、回路《なかみ》だってまだ使える」
「……そうですか。それならいいのですが」
話す事がないのか、セイバーは気まずそうに会話を切る。
「……………………」
帰ってきてからもう一時間、こうして会話もなく互いを気にしている。
遠坂の無事を喜ぶ余裕もなければ、再会を祝して喜び合う事もなかった。
状況はいいものじゃない。
最後のサーヴァント、ギルガメッシュ。
ヤツが聖杯を所有しているかぎり、俺たちはヤツと戦うしかない。
……打開策はなく、考えれば考えるほど勝ち目がないと思い知らされる。
言葉が少なくなるのは当然と言えた。
「――――――――」
けれど、口を閉ざしている理由はそれだけではないと思う。
……おそらく、これで最後なのだ。
こうして戦いに臨むのはこれが最後。
うち倒すか倒されるか、結果がどちらになろうと、待っている物は変わらない。
聖杯戦争はこれで終わる。
その後は―――もう、こうして三人で話し合う事はない。
振り返れば十日ほどしかない時間だった。
昨日の事など思い返す余裕はなく、次から次に起こる出来事に翻弄された十日間。
……けど、苦しい事ばかりじゃなかった。
こうして思い返せば、この十日間はかけがえのない思い出になっている。
「――――――――」
だから、こうして口を閉ざしている。
それを認めたくなくて、判りきった言葉を押し殺している。
俺も遠坂もセイバーも、もう答えは決まっている筈だ。
それを口に出来ないのは、こんなカタチで、今まで続いたものを終わらせたくないからだろう。
「―――じゃあ、わたしから言うけど。
わたしはアーチャーの仇を討つ。裏切られたし、酷いヤツだったけど、アイツは士郎だったから」
意を決して、遠坂はそう言った。
ギルガメッシュと戦う、と。
この戦いを終わらせると、彼女ははっきり口にした。
「士郎は? セイバーにはどうしたって付き合って貰うけど、マスターじゃない貴方には無理強いできない。
あの金ピカ、士郎を目の仇にしてるみたいだし、戦うのなら真っ先に狙われると思うけど」
気を遣っているのか、遠坂は逃げ道を用意する。
けど、こっちだって答えは決まっている。
ギルガメッシュは放っておけない。
ヤツが使うという聖杯も、在ってはならない物だと直感している。
だが、それ以上に引けない理由がある。
――――おまえが倒せ。
あいつはそう残して、自分ではなく俺を生き残らせたんだ。
……衛宮士郎を否定する為だけに在り続けた男。
その男に敗北を認めさせた以上、俺の取るべき道は決まっている。
「―――ヤツを倒す。自分で戦うと決めたんだ。最後までそれを守らなくちゃ、あいつになんて文句を言われるか分からないだろ」
「……そう。貴方がそう決めたのなら止めないわよ」
「ああ、頼む。それに聖杯は放っておけない。
聖杯がヤツの言う通りの物だとしたら、そんな物は壊した方がいい。今度こそ完全に、こんな事を二度と繰り返さないようにだ」
「――――――――」
セイバーは聖杯を手に入れる事だけを目的にして戦ってきた。
その迷い、未練は、そう簡単に断ち切れる物じゃない。
それでも、
「―――承知しています。
聖杯がギルガメッシュの言う通りの物ならば、それはこの世にあってはならない物です」
そう、自らの願いを殺して頷いてくれた。
「―――――よし!」
座布団から腰を上げて台所に向かう。
かけてあったエプロンを装備。
きっちりと紐を結んで、気合いをいれて腕まくりをする。
「シ、シロウ?」
「な、なに? 何かいいアイデアでも思いついたの?」
「え? いや、飯作ろうと思って。二人とも、腹減ってるだろ」
呆然とする二人を余所に、テキパキと夕食の支度をする。
「話は決まったんだ。なら、あとはいつも通りにしよう。
三人で夕食をとって、その後でヤツを倒しに行けばいい」
ボウルとフライパンを出す。
冷蔵庫の食材は全部使ってしまえ。
今日は無礼講だ、思いっきり豪勢に行こう。
「―――ええ。そうですね、いつも通り夕食を迎えましょう。私たちには、その方が合っている」
「そうね。じゃ、わたしも手伝おっかな。あ、セイバーはお風呂沸かしてきて」
さっきまでの深刻な空気は、そんな事で消えてくれた。
居間はとたんに明るくなる。
もう二度とこない三人の夜。
それをいつも通りに過ごす為に、精一杯騒々しく、夕食を迎えられるよう張り切るのだ。
――――で。
和洋中と節操のない夕食を片づけた後、恒例の作戦タイムが始まった。
「では、凛は柳洞寺に聖杯がある、と?」
「ええ。前から今回の降霊場所は柳洞寺だと睨んでたのよ。キャスター対策で監視役の使い魔を放ってたんだけど、それもついさっき潰れたし。あの金ピカ、柳洞寺に陣取ってると見て間違いないわ」
「……柳洞寺ですか……厄介ですね。
あの山には山門からでしか侵入できない。当然ギルガメッシュも山門で待ちかまえているでしょう」
「そうね。けど逆に言えば位置が特定できて助かるわ。
アイツも厄介だけど、まず聖杯の召喚を止める事のが先決だもの。
セイバーにはアイツの足止めをしてもらって、その隙にわたしたちで聖杯を壊す……っていうのが理想でしょうね」
「待った。聖杯を壊すって、それはセイバーじゃないと出来ないんじゃないのか? 俺たちじゃ聖杯には触れないんだろ」
「そうね、わたしたちに呼び出された聖杯を壊す事はできない。けど、その前に聖杯の器を壊す事はできる。
正確には聖杯が発動する前に停止させるって事だけど」
「む。聖杯を停止させるってどういう意味だ」
「……。あんまり考えたくないんだけど、今までの話を総合すると、聖杯はイリヤスフィールの心臓でしょ。
けど、聖杯っていうのはイリヤスフィールの体……魔術回路とセットだと思う。
アイツはイリヤスフィールが聖杯になる事を嫌がって、核になる心臓だけ引き抜いた」
「……と、するとね。
聖杯として機能させる為には、もう一度魔術師の体に埋め込まないといけない。残ったマスターはわたしとあと一人だけ。
わたしがここにいる以上、アイツが聖杯基盤に選ぶのは――――」
「慎二って事か……!? けど慎二には、その」
「魔術回路がないって言うんでしょ。……きっとそんなの構わないのよ、アイツは。
不完全な聖杯を作りたがってるんだから、不完全なマスターに埋め込むでしょうね」
「……血が絶えたっていっても、間桐の血族には遺伝的に魔術回路の跡があるし。
イリヤスフィールの心臓なんて、そんな核融合炉めいたのをつけられたら、閉じてた回路だって力ずくで開かれるわ」
「――――――――」
……となると、まず慎二を聖杯と切り離さないといけないんだな。
聖杯の基盤になる、という事がどんな事かは判らないが、間に合うものなら止めなければ。
「ですが、それをギルガメッシュが許すとは思えない。
聖杯を止める、という事はギルガメッシュを倒すという事ではないのですか」
「……そうだな。アイツが聖杯を守っているのは明白なんだから、まずアイツをどうにかしないと話にならない」
「そうね。けどアイツ、山門でわたしたちを待ち受けてると思うのよ。わたしたちの最大の戦力であるセイバーが山門からしか入れない以上、それ以外の突入経路はないんだもの。
だから――――」
「……なるほど。
私は単身で山門から突入する。
凛と士郎はその隙に裏から柳洞寺に侵入するのですね。
マスターである二人なら、柳洞寺の結界も意味はない」
「そういう事。……セイバーには頑張ってもらうしかないんだけど、とにかくアイツの足止めをして。わたしたちも聖杯を止め次第、すぐに駆けつけるから」
「―――待った。それは無茶だ。セイバーじゃアイツには敵わない。
足止めなんて出来ないぞ、きっと」
「え? なによ、やけにアイツの肩を持つわね、士郎」
「まったくです。確かに彼は強敵だが、それでも防戦に徹すれば私とて簡単には敗れません。
その根拠を言ってください、シロウ」
「あ、いや、そういう意味じゃないんだ。俺が見たかぎり、アイツよりセイバーの方が強い。
これは絶対だ。賭けてもいい」
「? では、何故そのような事を言うのです」
「だから、英霊である限りアイツには勝てないんだ。
……そうだな、もしアイツがセイバーと同じ宝具しか持ってないのなら、セイバーはまず負けない。剣士としての能力は比べるまでもないんだから」
「けど、アイツの強さはそういう『個人』としての強さじゃないんだ。どんなに優れた兵士でも、戦争そのものには勝てないだろ。
アイツはそういう類の英霊だ。対抗するには、おなじ戦争じゃないと飲み込まれる」
「……?……つまり、シロウは私と彼とでは相性が悪い、と言っているのですね?」
「ああ、そういう事。だから遠坂、なんの策もなしでセイバーとアイツは戦わせられない。せめて突破口ぐらいないと勝ち目がないんだ」
「むっ……そんなコト、言われなくてもわかってるわよ。だから、いまからそれを考えようって言ってるんじゃない」
「ふむ。では、凛には策があるのですね?」
「あのね、そう都合よく思いつく筈ないでしょ。
士郎の言った通り、アイツの宝具は戦争だもの。
戦争っていうのは戦力をどれだけ整えたかで勝敗が決まる物でしょ。いかに上手に兵器を扱えるかじゃなくて、どれだけ相手と同じ戦力、を――――」
「……? なんだよ遠坂。いきなり黙り込んで」
「……そっか。だから目の仇にしてたんだ。そうよね、自分の宝具を持たない英霊なら、原典になる武器さえ存在しない。あ……待てよ。それって、つまり」
「……凛? どうしたのです、いきなり私の背後に回って」
「な、なんでもないっ……! ちょっと考え事するから、二人でかってに会議してて……!」
「?」
セイバーと二人、顔を見合わせる。
……まあ、アイディアがあるっていうんなら、放っておくけど。
「……では、そうなるとアーチャーとの一騎打ちは避けた方がいい、という事ですね。
ですが私とて凛のバックアップがある。
彼女からの供給があれば、封印していた私の宝具も問題なく使用できます。それならば、彼が宝具を使用する前に倒せる可能性もあるのですが」
「セイバーの宝具……? それって風王結界じゃなくて?」
「はい。風王結界は鞘にすぎません。
凛の許しがあれば、私は自らの聖剣を使用できます。前回聖杯を破壊したのもその剣です」
「―――そうか。じゃあそのあたりは遠坂次第って事か?」
「そうですね。聖剣を使用すれば、私だけでなく凛にも大きな負荷がかかります。凛の魔力の大半を奪う事になるでしょう」
「だってさ遠坂。おまえの魔力量、どのくらい余裕があるんだ?」
「ま、魔力量って、なんでわたしの考えてるコトわかるのよアンタ……!?」
「え?」
「……な、なんでもないっ。わたしのコトは放っておけって言ったでしょ。セイバーの宝具のコトならちゃんと判ってるわ。
言っとくけど、私とセイバーじゃ打てて二回よ。
一回は聖杯に使うんだから、ギルガメッシュとの戦いに使うっていうんなら一回だけだからね」
「……はあ。えっと、セイバー。遠坂はそう言ってるけど、どうだ」
「……判りません。アーチャーがあらゆる宝具を持つというのなら、私の宝具と拮抗する物も所有しているでしょう。そうなれば、後はどちらの宝具が優れているかという戦いになる」
「……そうか。結局宝具の競い合いになるのは否めないのか……」
……となると、勝算はギルガメッシュにある。
そんな無謀な戦い、セイバーにさせられないが―――
ああもう、考えが纏まらないっ。
なにしてんだあいつ、さっきから様子がおかしいぞ。
なんだってそう、じろじろとこっちを見たりするんだ。
「おい遠坂。言いたい事があるなら言えよ。アイディア、あるんだろ」
「――――な、ないわよっ! こんなところで言えるわけないでしょ、バカ!」
などと、よく分からない罵倒を返し、気まずそうに視線を逸らす。
「………シロウ?」
「いや、なんでもない。あいつはヘンなんで、ほっといて話を進めよう」
そんなこんなで、二人だけで作戦会議を進める。
……が、遠坂というブレインを欠いた俺たちに有効な打開策はなく、
「――――無いんならさっきの案でいいでしょ。
決行は夜明け前だから。それまで各自、自分の部屋で十分に休みをとっておくように」
遠坂の独断で、方針は決定してしまった。
――――時間が過ぎていく。
時計の針は、じき日付を越えようとしている。
「………………」
遠坂は仮眠でもとっておけ、なんて言っていたが、とても眠れる状況じゃない。
あと数時間であのサーヴァントと決着をつける。
夜明け前という事は、日が昇る頃には何もかも終わっているという事だ。
「………………」
じっとしていられる訳がない。
俺は――――
セイバーと話をしよう。
……ギルガメッシュを倒せたとしても、この戦いが終わればセイバーはいなくなる。
セイバーは自らの手で聖杯を破壊し、サーヴァントとしての責務から解かれる。
そうなってしまえば、もう二度と彼女には会えない。
……最後の会話。
戦いに赴く前に、何か確かなものを、セイバーとの間に残したかった。
「シロウ? どうしたのです、こんな所に」
「いや、どうしたってなんとなくセイバーの顔が見たくて。あ、もしかして迷惑だったか? 戦いに備えて精神集中してたとか」
「え―――い、いえ、そのような事はないのです。
わたしもちょうどシロウの顔が見たかったので嬉しいのですが……その、シロウは凛の部屋に行ったものと思いまして」
「? なんで俺が遠坂の部屋に行くんだ? 別に呼ばれてないぞ、俺」
「そ、そうですね。私が勝手に思い込んでいただけですから気にしないでください。
た、ただその方がいいと思ったのですが、こ、こういうのも老婆心と言うのでしょうか」
「???」
セイバーはますます挙動不審になっていく。
……原因は不明だが、ほっといたら際限なく赤くなりそうなんで、一応理由を訊くコトにした。
「どうしたんだよセイバー。なんかおかしいぞおまえ。何かあったのか?」
「お、おかしいところなどありませんっ。私はただ、戦いに備えて英気を養っているだけです。
そういうシロウこそどうしたのです。夜明けまで仮眠を取り、万全の状態で柳洞寺に向かうのではないのですか」
「む」
そう面と訊かれると、セイバーと時間を過ごしたかった、なんて言えなくなる。
言えなくなるので、
「……んー、俺も眠れなくてさ。どうせ起きてるならセイバーとお茶でも飲もうかなって。
ほら、遠坂のヤツはなんか忙しそうだから」
思いつきで、嘘のない気持ちを口にした。
「お茶、ですか……? あと数時間もしないうちに、あの英雄王に挑むというのに……?」
「ああ。どうせお互い、緊張して休めないんだろ?
なら付き合えよセイバー、とびっきりのお茶をご馳走するから」
強引にセイバーを誘う。
顔は真っ赤で、とにかく恥かしかったけど、それ以上にセイバーとお茶が飲みたかった。
「はい。喜んでお付き合いします、シロウ」
柔らかに頷くセイバー。
―――そうと決まれば善は急げ。
台所に戻って、この日の為に買っておいた中国茶を美味しく淹れて、セイバーにご馳走しよう―――
―――で。
結局、二人してお茶を飲む以外なにもしなかった。
会話らしきものもなかったし、短い言葉さえ交わさなかった。
ただ二人でぼんやりと道場を眺めていただけ。
たった数日、けれど確かにセイバーと打ち合った、板張りの床を見つめていた。
「シロウ。そろそろ凛のところに。彼女の事ですから、新しい考えが纏まっているでしょう」
「ん、そうかな。セイバーがそう言うなら、そうする」
一人立ち上がって道場を後にする。
「ではシロウ、後ほど」
「ああ。ご機嫌ななめなセイバーのマスターの様子を見てくる」
見送られて道場を後にする。
―――結局、それで最後の時間は終わった。
確かなものなんて残せない。
明確な約束も、記憶に残る手触りも、セイバーがここにいた証も、何一つ作れなかった。
……けど、それでこそ正しい気がする。
残ったものはいつか薄れていく思い出だけだ。
だからこそ、このなんでもなかった時間を強く胸に刻んでおこう――――
「おーい。遠坂、起きてるかー」
ドアをノックする。
「……起きてるわよ。そっちこそ寝なくていいの? さっきまで道場で、セイバーと仲良く話してたみたいだけど」
「え? なんだ、見てたのか遠坂。
……そっか、客間から道場は丸見えだもんな。
それなら遠坂も来れば良かったのに。どうせ起きてるなら、三人でお茶にした方が良かっただろ」
「………………まあいいけど。
………………すごくよくないけど。
とりあえず上がんなさいよ。ちょうどアンタんところに行こうと思ってたところだから」
むむ。なにか、妙に棘のある言い回し。
「……わかった、お邪魔する」
それに首をかしげながら、静かにドアを開けて中に入った。
「余裕あるじゃない。セイバーと何してたのよ、アンタ」
と。
顔を合わせるなり、遠坂は睨み付けてきた。
「いや。なにってお茶飲んでただけだ。
これから戦いがあるっていうのに稽古なんかするワケないだろ。余分な体力使えないんだから」
「余分な体力って――――そ、そうよね。余分な体力なんて使えないわよね」
……って。
なんでそこで黙り込むのか、おまえは。
「……遠坂。もしかして、今すごく不機嫌か?」
判りきったコトを訊いてみる。
あったりまえじゃない!
なんて怒鳴ってくるのは目に見えているが、それでも気になったものは仕方がない。
が。
「……ううん。別に、そういう訳じゃないわ」
なんか、さらに正体不明な回答をしやがった。
「遠坂。おまえ、熱でもあるのか」
「ないわよっ! ……ああもう、いいから座って!
これからギルガメッシュ対策を、なんにも思いつかない貴方の為にやってあげるんだからっ!」
遠坂は俺を引き入れるなり、がちゃん、と鍵をかけて、ずかずかと奥に戻る。
「…………?」
とりあえず、部屋の中央へ移動。
椅子に座った遠坂に合わせて、クッションに腰を下ろす。
「――――――――」
「――――――――」
そうして、沈黙。
そっちから来るつもりだった、なんて言っておきながら遠坂は黙っている。
「遠坂。ギルガメッシュの事なんだが」
「……わかってるわよ。セイバーと戦わせたくないって言うんでしょ。セイバーには優しいのよね、衛宮くんは」
「あのな、そういう話じゃないだろ。
単にセイバーじゃアイツとは相性が悪いから、配置変えをするべきだって話だ。足止め役のセイバーが倒されたら、次に狙われるのは遠坂なんだから」
「…………ふん。じゃあ配置変えって言うけど、どうするつもりよ。
わたしはパスよ。 あの金ピカ、金にあかせて対魔術の武装を纏ってるし。わたしじゃセイバー以上に相性が悪いわ。それは貴方だって同じでしょ」
「――――――――」
それは、そうなのだが。
……どうしてもあの眼が忘れられない。
アーチャーは確かに告げていた。
黄金のサーヴァント。
ギルガメッシュに太刀打ちできるのは衛宮士郎だけなのだと。
「……遠坂。怒らないで聞いてくれ。
アイツの相手は、俺が」
「貴方がするって言うんでしょ。
……なんだ、やっぱり気づいてたんだ。ギルガメッシュの宝具の天敵は、アーチャーの魔術なんだって」
「え?」
ぽかん、と口を開く。
「え? って……士郎、アンタ気付いてなかったっていうのに、そんなふざけたコト口走ったワケ?」
「う―――いや、それは確証がなかっただけで、俺たちの中なら一番俺に可能性があるかな、と」
「……ふうん。誰に入れ知恵されたか知らないけど、それは間違いじゃないわ。
ギルガメッシュを最強たらしめているのは宝具の数でしょ。けど、逆に言えば同じ数の宝具さえ持っていれば力は拮抗する」
「――――同じ数の、宝具」
それはつまり、ヤツが繰り出した分だけ、片っ端から複製すればいいという事。
「……そうよ。アイツは貴方たちの事を偽物だって言ってたけど、それは敵として脅威を感じていたからでしょうね。アイツは、英霊エミヤに対してだけは互角の戦いをせざるを得ないんだから」
「――――――――」
それは、そうだろうけど。
「……けど無理だ。アーチャーの剣を一本投影するだけでボロがでるんだぞ。
あんな、次から次に宝具を出されたら投影も間に合わないし、魔力も持たない」
「貴方の魔術が今までと同じならね。
けど、アーチャーの宝具がなんだったか覚えてるでしょ。
あの魔術―――固有結界さえ使いこなせるようになれば、ギルガメッシュに対抗できる」
遠坂はじっと俺を見据えてくる。
が、その期待には応えられない。
「それは無茶だ。固有結界ってのは禁呪中の禁呪じゃないか。やり方が判らないし、アーチャーが世界を作る時に使った魔力は俺の数倍だぞ。そもそも無理なんだ、それは」
「……そうね。無理なのは判ってる。けど、やり方なら貴方はもう知ってる筈よ。だって、貴方の魔術は結局みんなソレなんだもの。“強化”も“投影”も、貴方の固有結界から漏れた物にすぎない。必要な魔力さえあれば、驚くぐらい簡単に歯車がかみ合うと思う」
「――――――――」
無茶を言う。
そんな確証のない方法、月に行けっていうより難しい。
「……はあ。いいよ、仮にそうだとしよう。けど無理な事に変わりはない。今の俺には結界を張る魔力も、維持する魔力もないんだ。
アイツは長い年月をかけて魔術回路を鍛えていったんだろうけど、俺にはアイツほどの魔力が――――」
「わかってる。だから、その……ほら、ギルガメッシュも言ってたでしょ。自分で補えないんなら余所から持ってくるのが魔術師だって」
ぼそぼそと言う。
「……? たしかにそんな事を言ってたけど、それがなんだって言うんだよ」
「ああもう! ……だから、つまり、足りない分は、わたしがなんとかするしかないでしょう」
頬を染めて、横目で、しおらしい小声で、遠坂はそんな事を口にした。
「ま――――――――」
分かる。
俺だって魔術師のはしくれだ。
遠坂が何を言ったのかぐらい、判る。
「と――――遠坂、それは」
「……魔術師同士が波長を合わせる方法なんて一つか二つぐらいでしょ。わたしたちは性別がアレだし、時間もないし、契約みたいなものだから一番効果的だし」
つまり。
性交する事で、遠坂と霊脈を繋いで、その魔力を分けて貰うという事だ。
「……あ、う?」
頭が、一撃で粉砕された。
遠坂の言う方法を頭に思い描いた途端、ここ数日分の記憶と一緒に粉砕された。
――――だって遠坂だぞ?
遠くから憧れていた女生徒で、本性を知ったのはつい最近で、優等生なのは擬態だって思い知らされて、だっていうのに一段と惹かれちまった赤いあくまで、近くにいるだけで動悸が止まんないっていう俺が、なんだってそんなコトになってるんだ?
「……なによ。たんに性交するだけでしょ。殺し合いよりはずっと楽だと思うけど」
ば、ばかっーーーーーーー!
そんなん、殺し合いのほうがよっぽど楽だーーーーーーっっっっっ!!!!!
「ち、ちょっと待てーーーーーーーーーーー!!
それはヘンだ。おかしいぞ、いくらなんでも話がとびすぎる。は、はん、騙されないぞっ。今までさんざんからかわれてきたんだ、そんなんカンタンに騙されるもんかっ!」
遠坂はじっとこっちを見ている。
それはどんな言葉で説明されるより真実味のある仕草だった。
「あ、ぐ――――――――」
ぼっ、と茹だっていた頭が、さらにグツグツと煮込まれていく。
遠坂の仕草は、その、サッカーならイエローカードをダースで突きつけるぐらい、反則だった。
「ぐっ――――待て、待て待て待て待て…………!
なんでそんな話になるんだよ!? だって、性交ってセックスだぞ!? 求愛行為だぞ、子供作るんだぞ、裸で抱き合うんだぞ!? そんなの、俺なんかとしちゃダメじゃないか!」
壊れた頭でまくしたてる。
手は汗でびっしょり濡れていて、視界はもう焦点があってない。
だっていうのに、その。
口ではさんざ言っているクセに、体は正反対だった。
今まで見ないように、気にしないようにと必死に意地を張ってたっていうのに、遠坂から目が離せない。
柔らかそうな胸とか。
長く滑らかな黒髪とか。
華奢なくせに弾力がありそうな首から肩までのラインとか。
スカートから伸びた、瑞々しい太ももとか。
そんな女の子の部分に、どうしても目が釘付けになってしまう――――
「…………………………」
じっと見つめられる。
「あ――――う」
……判る。
それでギルガメッシュに対抗できて、セイバーを危険に晒さなくて済むのなら、やるべきだ。
俺たちは魔術師なんだから、それが勝つ為の手段なら抵抗なんてない。
けど、それは――――
「――――――――」
ごくり、と喉が鳴る。
自分自身が抑えられなくなる一歩手前で、必死に理性を修復する。
だって、いうのに、
「……士郎は、わたしじゃイヤ?」
なんで、そんな、絶対あり得ないコトを心配そうに訊くんだ、ばか……!
「そんなワケあるかっ……! イヤだなんて、そんなコトないっ」
言って、自分の馬鹿さかげんに気が付いた。
遠坂だって恥ずかしくない筈がない。
だっていうのにそれをひっこめて、自分から提案してきた。
それだけでも銃殺ものなのに、俺はなにを、こんなコトを言わせているのか。
「――――――――っ」
ほう、と大きく息を吸う。
冷静に、冷静に。
残された手段がそれしかないのなら、こっちだって覚悟を決めなくちゃいけない。
「――――すまん。遠坂が許してくれるなら、頼む。
それでヤツに勝てる可能性が生まれるなら、迷ってる場合じゃなかった」
精一杯の勇気で声を出して、遠坂を見つめ返す。
「……謝るのはこっちの方よ。士郎がここまで嫌がるとは思ってなかった。
……こんなコトなら、もうちょっと順を追って説明すべきだった」
遠坂は気まずそうに、わずかに視線を下げる。
それで、
「―――――違う。嫌がってたんじゃない」
息もできないぐらい追い詰められているのに、きっぱりと訂正した。
「え……?」
「だから、違う。俺は遠坂が好きで、絶対に嫌がってなんかない。逆に嬉しすぎて息が出来ない。こんなの、それこそユメみたいだ」
「――――――――」
「けど―――だからこそ、これが契約とか、そういうものの為っていうのが、イヤだった」
顔が熱い。
実は燃え上がるんじゃないかってぐらい熱いけど、なんでか、頭は言葉を紡ぐ。
「……えっと、それって」
「うん。俺は、遠坂とはそういうのを抜きで触れ合いたかった。だから、こういうのは反則だって」
言った。
グツグツに煮立った頭で言った。
まともに理性がないクセに、それだけは本当なんだと、目の前にいる女の子に告げていた。
「――――――――」
……遠坂の目が痛い。
「……………………」
気まずくなって、遠坂から目を逸らして頬をかく。
――――と。
「な――――」
不意に、唇に何かが触れた。
「えへへ。キス、しちゃった」
「っっっっ……!!!?  とと遠坂……!」
あわてて首を引く。
俺の慌てっぷりがおかしかったのか、軽く唇を重ねてきた遠坂は、
「―――うん。それじゃ、そういうのを抜きでしよ」
いたずらに、これ以上ないって仕草で笑って、こっちの頭をグラグラにしてくれた―――
電灯を消す。
ランプの燐光が、闇に落ちた部屋を照らしている。
「――――――――」
どくん、と胸が早鐘をうつ。
戸惑いはさっきの不意打ち《キス》で消し飛んだものの、緊張は依然最高潮のままだ。
これから自分が何をするかと考えると、目眩がして暴れ出しそうになる。
真っ白になって暴走しかねない本能を、秒単位で小さくなっていく理性でつなぎ止めている。
「っ――――、――――」
……そう。緊張しているのは、これが初めてだから、なんてコトじゃない。
―――俺は、これから遠坂と体を重ねる。
それがなんというか、今更ながら、とんでもなコトなんだって気付いてしまったのだ。
「………………」
遠坂はベッドの傍で、俺が歩み寄るのを待っている。
「それじゃ、遠坂」
カチコチになった足を動かして、遠坂の腕に触れようとする。
「……待って。その前に、もう一度しよ。……今度は士郎の方から、して」
「――――」
どくん、と釘をさされたような衝撃。
遠坂はいつもの調子で不満そうに甘えてきて、その不器用さに、こっちの緊張はみんな吹き飛んでくれた。
「―――ああ。さっきの、やり直そう」
遠坂の手を握る。
緊張で固まっているのは指先だけでなく、目で判るほど首筋もガチガチだ。
「………………」
さっきの不意打ちはどこにいったのか。
遠坂は汚れを知らない少女のように、体を縮こませて俺を待っている。
「……なあ。遠坂、緊張してるのか?」
「っ……! し、してるワケないでしょう……! さ、さっきもしたんだし、なんだってこんなコトでいちいち身構えなくちゃいけないのよっ……!」
「そっか。ならいいんだけど、一応訊いておいた方がいいと思って」
「っ――――い、いいから続けてっ……!
…………その、キ、キスの後じゃないと、こういうのはダメなんだから―――」
「――――――、っ」
まず……なんか、今のでスイッチが入った。
体の震えを悟らせまいと強がる遠坂が、今は理由もなく可愛く感じられる。
目を閉じて口付けを待ち構える遠坂。
かすかに震える唇と、ピンと張り詰めた首のラインが、折ってしまいたいぐらいか弱い。
「じゃ、するからな遠坂」
二の腕を掴んで体を引き寄せる。
そのまま、見様見真似で唇を重ねた。
―――唇の感触は一瞬だった。
重なった唇に戸惑ったのか、遠坂はすぐに顔を引いてしまった。
「ぁ――――」
呆然と俺を見上げる遠坂。
遠坂が引くのは当然だ。
今の、無作法に押し付けるだけの口付けで、驚かない筈がない。
「……わ、わるい。力加減、判らなくて」
「う、ううん―――今のは、士郎が悪いんじゃなく、て」
恥じ入るように俯いて、はあ、と深呼吸をする。
「……ごめん。えっと……今のでいいから、続けて」
かすかに頬を染めて、遠坂は目を閉じた。
「――――――――」
体温が上がる。
今度はもっと優しくしよう、なんて考えも浮かばない。
力加減も判らない不器用なまま、牙をたてるように、遠坂の唇に吸い付いた。
「ぁ……、ん……」
柔らかな感触が口に伝わる。
触れ合ったのは一瞬だけだ。
重なり合った唇はそのまま潰しあい、溶け合うように一つになる。
「ぁ……は……ん―――、ん……」
「っ――――、――――」
溶け合う口の感覚。
遠坂の唇《もの》を味覚で味わう。
唇の温かさを直に感じ取る。
柔らかな肉の質感、漏れてくる呼吸、互いの唾液で湿っていく唇。
「んっ……む、……ぁ、んッ……」
―――その全てが、とんでもない拷問だった。
こんなにも近い。
触れた相手がこれ以上は不可能なほど近くにいる。
触れ合う唇の生々しさだけで気が狂いそうなのに、それだけでは全然足りない。
もっと抱き寄せたい。
もっと溶け合いたい。
遠坂と口付けを交わしている、ただその事実だけで脳が絶頂を迎えたがる。
射精の昂ぶりに似た高揚。
だが唇だけでは物理的に達する事などできず、せき止められた絶頂感で、理性はクラクラと跳ね回る。
「はっ……ん、ふ――――あ、れ……?」
「――――、は」
緊張で固まっていた男根は、もう充分なほど屹立している。
……その、充血して張り詰めた性欲を、ズボンごしに遠坂に密着させた。
「ぁ、ん……なんだ、ろ、これ……士郎、なん、か……おへそに、あたって、る――――」
遠坂の吐息が乱れていく。
熱を帯びていくのは呼吸だけではなく、あれだけ強張っていた首筋も、ほんのりと赤く染まっていく。
「は――――ん、んふ、ん…………」
ちゅる、という音。
……俺も遠坂も、決して唇以外は求めなかった。
貪るように唇を吸うことも、相手の口内を知ろうとする事もない。
それをしたら、何か戻れなくなりそうで怖かった。
だから口付けは表面だけ。
上唇と下唇を分け合う、ソフトではないがディープでもない、中途半端な意識の交換。
「ぁ……ん、だんだん、かた、く……なっ……て」
「っ……ん、は――――遠、坂」
「んっ……あ、は……!」
口付けで止められた呼吸、酸素を求めるように、無意識に腕が伸びる。
「はぁ……ぁ―――え? ちょっ、士郎……!?」
弾けようとする遠坂を、右手で押さえつける。
残った左手は、無遠慮に彼女の胸を鷲掴みにしていた。
「んっ……! バ、バカぁ……? や、いきなり、ヘンなとこ、揉む、んっ、いた…………!」
唇を塞ぐ。
文句なんて聞かない。
唇で遠坂の吐息を感じながら、片手で柔らかな乳房を掴み取る。
「いた、いたい、ってば……! まだダメ……! いま、いまはキスだけにしない、と……ん、くっ……!」
「ん……ダメって、なんで……? 遠坂の胸、気持ちいい、んだけど―――」
夢中になって、抱きしめたまま遠坂の乳房に指を食い込ませる。
「ぁ――――ん……、っ……気持ち、いいって……わたしの、胸、が……?」
「……ん……触ってるだけで、遠坂が女の子なんだって伝わってくる。恥ずかしがって、息を乱してる遠坂は、かわいい」
「ばっ――――なに、言い出すかと、思えば……ん、ふっ……! は、はぁ……ん………………バ、カ」
小さく、切なげにもれる吐息。
遠坂の胸は、手で包むのにちょうどいい大きさだった。
手のひらに握ると少しだけ持て余す。
形の良さとたしかな弾力が拮抗した、理想的な胸だと思う。
「……遠坂。まだ痛いか?」
「……え……? ぁ、ん……いたい、けど―――ちょっとだけ、なれてきた、みたい、だから……もう少しだけ、我慢して、あげる――――」
はあ、と熱っぽくこぼれる吐息。
……遠坂の温度があがっていく。
服の上からでも判る胸の揺れ。
まだ抵抗こそしているものの、こみあげる熱さを受け入れようと、必死に呼吸を整えている。
「――――ん」
「……え、士郎?」
唇を離す。
もうこれ以上は我慢できないし、する必要もない。
俺も遠坂も、心はとうに準備ができている。
これ以上触れ合っていたら、このまま遠坂を押し倒しかねない。
「……えっと。そろそろ始めないか、遠坂」
いくら気持ちがそうなっているからって、こう口にするのは恥ずかしい。
それは遠坂も一緒なのか、
「………………うん。わたしは、そのつもりだけど」
鏡に映したように、赤面したまま返答する。
「……じゃ、服、脱ぐから。後ろ向いたくれない……?」
「あ――――ああ、そっか」
慌てて後ろを向く。
……そうだ。
その、体を重ねるってコトは、裸になるってコトだ。
そんな単純で、恐ろしいコト―――この局面まですっぱりと忘れていた。
「う………………」
だらだらと額に汗が浮かぶ。
遠坂の裸なんて、想像しただけで目眩がするのだ。
実際に見たら、それこそ心拍数が倍化しかねない。
「………………む」
いや、それだけならまだいい。
……背後からする、しゅる、という衣擦れの音。
これが終わって振り向いた時――――自分の理性が残っているかの方が、考えるだに恐ろしい。
「……ちょっと。なにぼんやりしているのよ、士郎」
「え?」
「そっちも裸になるのっ……! わ、わたしだけに服を脱がせるなんて、男として失格でしょ……!」
「あ。そ、そうだよな、すまん、どうかしてた……!」
あたふたと裸になる。
――――で。
「……いいわ。こっち向いて、士郎」
ぐっ、と気合を込めて振り向く。
正直、それぐらいしないと裸を見たとたん鼻血でも出しかねない。
「………………」
目を細めながら、できるだけ正視しないように遠坂を見る。
――――と。
[#挿絵(img/241.JPG)入る]
「ちょっ、なによそれーーー!!?」
「は?」
素っ頓狂な遠坂の声で、期待も羞恥も塗りつぶされた。
「と、遠坂……?」
「うわ、ちょっとタンマ、こっち来ないで……! なんなのよソレ、うそ、うそうそうそうそ…………!?」
パニックになる遠坂。
……が、混乱しながらも遠坂はしっかりと俺―――というより、勃起した俺の男根《モノ》を見つめている。
「……遠坂。何に驚いているかは知らないが、その反応は、わりと傷つく」
その、男としてすごく傷つく。
「あ――――う」
それで冷静になったのか。
遠坂は顔を真っ赤にしたまま、恐る恐る、屹立した俺のモノを観察した。
「……遠坂。その、そういうのも、辛い。じろじろ見られると、我慢できなくなる」
「あ……ごめん。けど、その、びっくりして」
言いつつ、人差し指を向けてくる遠坂。
「まま、待ったっ――――! なな、なにする気だお前……!」
「なにって、硬そうだから突いてみようかなって……」
これ以上ないほど顔を真っ赤にして、遠坂は所在なげに指を回す。
「ッ――――」
じょ、冗談じゃない……!
遠坂の指でちょん、なんてつつかれたら暴発するかもしれないだろっ……!
「ば――――バカかおまえ、恥ずかしいんなら大人しくしてろ……! 危ないモンには自分から近づくなっ!」
自分でも何を口走っているか分からないが、とにかく遠坂を遠ざける。
「……ヘンだぞ遠坂。俺の、なんかおかしいのかよ」
むっとして抗議する。
「え……ううん、そうじゃなくて……その、訊いていたのとは違うなって。その、男の子のって、もっと小さいって思ってた、から」
これぐらい、と両手で大きさを提示する。
その規模、実に勃起時の半分ほど。
「――――――――」
どうやら遠坂が想像していた男根というのは、勃起する前のモノであったらしい。
「……ね。こんなのが、ホントに入るの……?」
頬を赤らめて、恐る恐る訊いてくる。
が。
「そ、そんなん知るかぁ! あのな、俺だって初めてなんだから、そんなのわかるワケないだろうっ!」
ガアー、と口をあけて威嚇する。
「――――――――」
遠坂はそんな俺を呆然と見つめた後、
「……そっか。そうよね、士郎も初めてなんだ」
なんか、安心したように、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「………………」
……って、待った。
士郎も、ってコトは、その――――
「……遠坂、初めてなのか?」
「――――――――」
むっと視線で返してくる遠坂。
その目は、そうよ、悪い? と開き直っているようだった。
「う――――――――」
けどこっちはそうもいかない。
初めてってコトは、その、処女なんだから、性交には痛みが伴うはずだ。
それだけじゃなく、経験がないのなら性的な快感を得る事も難しいのではないだろうか――――
「遠坂、おまえ」
「……ふん。気にしないでいいわ。言い出したのはわたしなんだから、それぐらい覚悟の上よ。
……痛みには慣れてるもの。わたしの事なんて考えず、士郎は達する事だけを考えればいいの」
「っ……達する事だけって、それはその、射精するって事、だよな」
「ええ。けど、わたしより先に気を抜いたりしないで。二人同時に高みに達して、互いの理性の《プロテク》殻《ト》を外さないと繋げられないから。
士郎との契約―――魔術回路の接続はわたしの方でやるから、士郎はわたしを抱いてくれるだけでいい」
「――――――――」
……そうだった。
これは遠坂の魔力を分けてもらう儀式でもある。
俺一人、バカみたいに欲望に流されるワケにはいかない。
遠坂が初めてだっていうなら尚更だ。
二人一緒に絶頂を迎えなければならないなら、初めての遠坂が感じられるように、こっちが気を遣わないと。
「あと、目的はあくまで繋がるコトなんだから、それ以外のコトは禁止よ。……言うまでもないと思うけど、ヘンなコトしたら怒るからね」
「? ヘンなコトって、どんなコトだよ」
「え……だ、だから、中に出したり、口でしたりとか、しないってコト」
俯いたまま、耳まで真っ赤にして遠坂は言う。
「――――――――」
その仕草に、薄れていた衝動が蘇った。
赤いライトに照らされた素肌の生々しさが、否応無しに欲望を刺激する。
「分かってる。けど遠坂、その、始める前に一ついいかな」
「な、なによ。ほ、ほかのヘンなコトなんて言い出したら怒るからねっ」
きっ、と精一杯の強がりで返す遠坂。
その照れっぷりがあんまりにも可愛くて、こっちの恥ずかしさなど消し飛ばしてくれた。
「いや、素朴な疑問なんだけど。遠坂、なんで上だけ脱がないんだ?」
「え……?」
ぽかん、と放心する遠坂。
予想外の追究だったらしく、お化けでも見るようにこっちを見つめる。
で、待つコト数秒。
「べ、べつに理由はないけどいいでしょこれで……! そ、その、する分には下だけ脱げばいいんだから、何も裸にならなくても」
「なんでさ。俺、裸になってるけど」
「っっっ……! し、士郎は男の子なんだからそれでいいのっ! 女には女の事情があるんだから、少し隠れてるぐらいがちょうどいいのっ……!」
逃げるように体を引く遠坂。
遠坂にとって、あの上着は最後の防衛線というか、羞恥心なのだろう。
その気持ちは分かる。遠坂が落ち着かないって言うんなら、上着ぐらいは着ていてもいいのかもしれない。
けど、それは無茶な注文だ。
そんなコト、この状態で言われて頷ける男なんていないと思う。
「困る。遠坂の服を汚すかもしれない。気になって集中できない。それに、」
「う。そ、そになの士郎の問題でしょ。か、仮に集中できなくても、その分わたしが集中できるんだから問題なしで――――」
「それに、遠坂のからだをちゃんと見たい。俺は遠坂が裸になってくれないといやだ」
「ば――――」
遠坂はわなわなと唇を震わせて、俺の勝手な言い分に閉口している。
「遠坂」
「――――わ、わかったわよこの朴念仁! 言う通りにしてあげるから、後ろ向いて目を瞑ってて……!」
「あ、う、うん」
突然の剣幕に圧されて目を瞑る。
……衣擦れの音はしない。
ただ空気が動く気配だけが背中にかかる。
「……はい。いいわ、こっち向いて士郎」
緊張した声に、無言で頷く。
「――――――――」
月明かりのない客間。
温かなランプの明かりに照らされた遠坂の体は、落ち着きだしたこっちの思考を粉々にするほど、綺麗だった。
[#挿絵(img/241(2).JPG)入る]
「……………………」
遠坂は何も言わず、じっと俺の視線を受け流そうと頑張っている。
男とは圧倒的に違う滑らかな肌。
まだ成長しきっていない、少女の面影を残した四肢。
両手で隠された乳房は丁度いい大きさで、指でつつけばゼリーのように震えそうだ。
「――――――――」
賛美の声など余計な気がして、ありのままの遠坂を見つめ続ける。
……と。
冷静になってみると、一つだけ前と変わっていないところがあるような。
「……えっと。遠坂、靴下脱がないのか?」
「文句ある? これがギリギリの妥協点よ。……いきなり全部なんて、見せてあげないんだから」
ふん、と拗ねながら視線を逸らす。
あそこまで脱いだのなら素足の一つや二つは変わらないと思うのだが、そう言われては反論できない。
……それに、今のままでも充分すぎるほど蟲惑的《こわくてき》なのだ。今の俺たちには、本当にこれが精一杯のバランスなにだろう。
「……ん。始めるぞ、遠坂」
返事を待たず腕を掴む。
……遠坂をベッドに倒す。
赤く照らされた体が、長い黒髪に沈んでいく。
「ぁ……士郎。その、できれば、初めは、」
「―――わかってる。ゆっくりやるから、遠坂は我慢してくれてればいい」
「……うん。じゃあ、お願い」
不安で小さくなる声。
それに応えるよう、遠坂の胸にゆっくりと指を置いた。
「ぁ……んっ……」
形のいい胸に触れる。
わずかに上気した体と同様、ふくよかな胸もじっとりと熱を帯びていた。
遠坂の女の象徴を手のひらで包み込む。
「……うわっ」
思わず声が漏れた。
包み込んだ肉の柔らかさと、手のひらからこぼれる弾力に気が昂ぶる。
指を強めれば強めるほど沈み込んでいきそうな肉の柔らかさが、否応なしにこっちの男を刺激する。
「ッ……やだ、いまの……ん、ちょっと、いた、い」
「え――――?」
強く握ったつもりはなかったが、遠坂には辛かったようだ。
が、それで止められるほど冷静じゃない。
もっと遠坂の柔らかさを感じていたい。
もっと遠坂の胸を味わいたい。
「と……じゃあこうする」
「え……? あ、んっ……!?」
手のひらで遠坂を包んだまま、なだらかな胸の形を舌でなぞる。
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「は……ん、それなら……はあ、くすぐったいけど、だいじょう、ぶ、んっ……!」
手のひらは押す程度で、鋭敏な部分を搾りだす程度。
それでも手のひらを弾く乳房は、逆に吸い付くようにピッタリと指に密着してきた。
「っ……あっ……ん、っ……」
「んっ……気に入ったか、遠坂……?」
「え………ぁ、べ、べつに、そんなんじゃ………ない、けど――――」
……少しずつリズムを速めていく呼吸。
舌は張りのある胸をなぞった後、当然のようにその先端へと落ちていく。
「あ……ん……」
味見をするように、ピンク色の乳首を舐めた。
舌先でつつき、いじくって、唇で柔らかく挟み込む。
「っ……、あ、っ……ん――――」
遠坂の息遣いが段々早くなっていく。
……体温をあげていく柔らかな肉の丘。
充血していく乳首は硬くなっていて、歯をたてればコリコリとした感触があるに違いない。
「は……はあ、っ……ん、あッ……」
が、遠坂の体はまだ出来上がっていないようだった。
……もどかしげに繰り返される呼吸。
遠坂の感度はまだ低い。
……こんなコトを考えるのは失礼なのだが、遠坂は感じにくい体質なのかもしれない。
「は―――ん、士郎の舌、あついのに、湿って、て……は、や……、ん――――」
けど、こっちは収まりがつかない。
遠坂の胸を舐めながら、心はもう胸に歯を突き立てたくなっている。
下半部に覆い被さった脚は、遠坂の太ももとこすれるたびにギシギシと脳髄を刺激する。
胸とは違った、瑞々しい腿の弾力が背骨から一直線に頭に叩き込まれてくるのだ。
「あ、はぁ、は――――ん………!」
……くわえて、目の前には息を乱して俺に身を任せている遠坂の顔がある。
「――――――――」
もっと深く。
もっと遠坂を味わいたい。
このまま乱暴に、力ずくで、遠坂凛を自分のモノにしたくなってもう――――
「あ……ん……――――ひゃ……!? や、やだ、どこいくのよ士郎……!?」
ぬらり、と舌を滑らせる。
顔は胸から下へ。
ゴルフボールのように、胸の谷間からなだらかな肌を滑る。
「っ…………!!! やだ、あ、ん、くっ……!」
びく、と今まで無反応だった体が震《ゆ》れる。
「だ、だめだってば……! わた、わたしおヘソだけは、ん、く――――!」
弱点を守るように、遠坂は臍《へそ》を隠そうとする。
「ん……遠坂、ここ、弱いんだ」
「あ――――ひゃ、ひゃう、うううう……!!」
その指を頬でせき止めながら、可憐な窪みを舌で舐め上げた。
「あ、や――――やだ、ダメだって、ば……あ、んあ、あ、や――――」
押さえる指に力はない。
遠坂は俺にされるがままで、舌はそのまま薄く生え揃った恥毛をこえて、小さな突起に到達する。
「あ、ンッ……!!!!」
遠坂の音階があがった。
感じにくい遠坂でも、性感帯充分な刺激を与えてくれたようだ。
「ん、なら――――」
「あ……やっ……! は、あっ……ああっ……!」
舌先で蕾の皮をめくって、肉の芽を露にする。
剥きだしになった淫核は赤く充血して、指で突けばプルプルと震えそうだ。
「は、あう、あはあああ……! ダ、ダメ、そこ、触っちゃヤ……! ほんと……ほんとにきらいになっちゃうんだか、ら……」
今までとは違う、懇願するような声。
「……?」
どうして、と顔を上げた俺に、
「ぁ……はぁ……はぁ……は……だから、ダメなの。そこいじられたら、その……先に、いっちゃうから」
恥じ入るように、遠坂は告白する。
「んっ……いいから……挿れて……。わたしなら……ん……準備、できてる、から」
「――――――――」
できてるん、だろうか。
遠坂の言葉とは裏腹に、彼女の秘所はまだ潤っていないように見える。
熱を帯びて感じ始めてはいるが、秘裂はまだ水気が足りなく、差し入れる余裕なんてありそうにない――――
「……っ」
……どうしよう。
こういう場合、やっぱり愛撫を続けたほうがいいんだよな……いきなり俺のモノを挿れるより、舌とか指とか、細いもので慣らしておかないと痛いって聞くし……。
「……遠坂。さっきはああ言ってたけど、舐めるぐらいはしないとまずいんじゃないか」
「え――――な、舐めるって、わ、わたしの……!?」
声には抵抗と羞恥しかない。
性器は排泄器官でもある。
それを口にしてもらう、という事は、彼女の中では一大事件になっているみたいだ。
「い、いい……! いきなりそんなの、士郎だってイヤでしょう……!」
「別に。遠坂のなら、俺、かまわないぞ」
「っ―――あ……う。で、でも止めて。……わたしはもう大丈夫だし……えっと……そんなコトされたら、困る」
「? ……困るってなにが」
「だ、だから困るのっ……! これ以上ヘンなコトされたらどうにかなっちゃうし、恥ずかしいんだからあんまり見ないで……!」
「――――ああ。なんだ、要するに」
さっきの俺と同じなんだ。
裸になった上、自分の性器をまじまじと見られるのはひどく恥ずかしい。
……男の俺でさえ気恥ずかしかったんだから、遠坂はその何倍も恥ずかしさに耐えていたんだろう。
体は重ねるが自分の女性部分、欲望に溺れる秘所はまだ見られたくないみたいだ。
「……わかった。このまま挿れるけど、いいな」
「………………ん」
声はあげず、こくんと頷きだけで応える遠坂。
緊張で汗ばんだ両脚を開いて、腰を沈める。
そうして、手で屹立した男根を握って、遠坂の秘部へと押し当てた――――
「っは、きっ…………!」
遠坂の腰が跳ねる。
わずかな侵入。数センチにも満たない亀頭の挿入に、遠坂の体は異常なまでに反応した。
ぬちゃり、という音。
赤く灼けついた割れ目の奥、ピンク色の秘肉をこすって、膨張した雄の生殖器が遠坂の膣に挿る。
「は――――あ、あ、ん―――………!!」
「っ――――――――」
その狭さ、熱く灼けた肉の感触に、声が漏れる。
予想通り、遠坂のなかはあまり濡れていなかった。
潤滑油がない以上、侵入はただ突き破るだけのものとなる。
「は―――っ……! あ、入って、く……!」
挿っていく、というより割っていく、という重い感触。
じぶじぶと音をたてて、無数の襞が千切れていく。
「っっっ……! い、……あ、く、んっ……!」
腰を止める。
このまま続けたら遠坂がどうかしてしまう。
まだ先端、亀頭を半分も挿れていないというのに、遠坂は歯を食いしばって異物感に耐えている。
「あ――――はあ……はあ……あ……」
赤い光に照らされた肢体が、遠坂自身の熱で朱に染まっていく。
肌には玉のような汗が浮かび、指は胎に入ろうとする俺《モノ》を堪えるようにシーツを掻く。
「――――――――」
先端でこれなら、この先はもっと辛い。
だがもう始めてしまった。
きつく、痛みしかなくても、俺のモノは遠坂に触れてしまった。
「あ……はあ……あ……、――――ふ、ぁ」
苦しげな声が、かろうじて理性を留めてくれる。
……ゆっくりと。
遠坂が苦しまないよう、少しずつ進めればいい―――
「遠坂。体の力を抜いて」
「え……? あ、んくっ……! ん、っ……!」
―――少しずつ腰を突き出す。
遠坂の膣《なか》は、きつい。
頑なに折り重なった襞と襞を切り開いていく。
否、先走りの汁で濡れた鈍器でねじ広げていく。
「はっ……んく、だ、め……! おおき、だめ、こんな、の、入ら、ない――――……!」
受け入れられる感覚はない。
遠坂にあるのは痛みだけで、入り込んでくるいびつな肉棒を拒絶する。
「は――――、っ」
いや、これは拒むなんてものじゃない。
無理やりに押し広げられた肉壺は急速に、入り込んだ異物を押し戻そうと収束してくる。
「あ、んあ、あ、く…………!」
「は――――、あ…………!」
それを力で押し退けつつ、勢い余って踏み込まないよう、細心の注意を払う。
……くそ。
遠坂も苦しいだろうけど、こっちもきつい。
微妙な力加減だけでも神経を使うっていうのに、遠坂の膣は、それでも快感を突き上げてくる。
ビッチリと密着する無数の襞。
亀頭、尿道に伝わる熱い肉の感覚。
排出官から流れ込み、体内を通って脳に届く性器《なか》の感触。
「っ、ぐ――――」
射精とは逆方向の快感に、喉を絞る。
暴れ出しそうな自分を、自分以上の力で押さえつける。
……それが苦しい。
気を抜けば、もっと欲しくなって一気に遠坂を貫いてしまいそうだ。
「ぁ……や、かたまり、入って、く、る――――」
―――採血を、スローモーションで行うように。
ペニスの頭、いびつな形で膨らんだ亀頭を、なんとか遠坂に押し入れた。
腰を止めて、遠坂の様子を見る。
「ぁ――――はあ、あ、は、…………」
……呼吸は落ち着いている。
亀頭もなんとか挿ったし、ここからは少しは楽になるだろうと一息つく。
――――が。
「ん……っ……ま、まだ、全部じゃないの……?」
涙を堪えて、遠坂は不安げに俺を見た。
「――――」
……まだも何も、ぜんぜん入っていない。
まだ亀頭が納まっただけ。
体の繋がり――――生殖器を油送する、という行為はここからが本番だ。
「―――ああ、まだ少しだけだ。これからもっと、深く入れる事になる」
「ぁ……そう、なんだ……まだ、先っぽだけ、なんだ」
ぼんやりと口にする。
……遠坂は既に限界だ。
まだあまり濡れていない襞。
それは体の問題だけじゃない。
……どんなに気丈でも、いや、普段が気丈だからこそ、剥きだしになった遠坂はこんなにもか弱いのか。
遠坂は濡れにくい体だけじゃなく、自分のなかに入ってくるモノへの怖れにも、脆くか弱く見えた。
「……どうする。少し休もうか……?」
「ん………いいわ、もう充分に休んだから。……ゴメンね。なんか、気を遣わせて」
「――――。ほんとにいいのか、遠坂」
「……ん……平気、だから――――始めて、士郎」
「―――――――」
抱きしめたい衝動にかられる。
が、挿入だけでここまで苦しむ遠坂に、余計な刺激は与えられない。
「……力、抜くんだぞ。痛かったら止めろってい言ってくれ」
「…………ん。ちゃんと、わかってる」
遠坂の腰をわずかに上げる。
ぎちん、と音がするほど、きつく亀頭を締め上げる遠坂。
それに抗うように、ず、と肉の重圧を押し広げた。
「はっ、んく、んっっ……!!」
今までは違う感覚、カリが上下をこする刺激に、遠坂の頬が染まる。
……それは今まで見られなかった反応だと思う。
今までは痛みに耐えるだけだった。
が、生々しい男根の起伏を感じ取って、これが性交なのだと実感したのか。
遠坂の表情には、痛みと恥じらいが同居しはじめていた。
「っ……はぁ、あ、ん――――士郎、すこし慣れてきた、みたい……だから……もうちょっとだけ……ん、……強く、して―――」
遠坂は懸命に力を抜いていく。
少しずつ、俺を受け入れようと感じようとしてくれている。
「遠、坂――――」
……これなら、なんとか。
もう少しだけ強く、遠坂の奥にいけるかも知れない。
「きゃっ……!? ふぁ、ん、んア――――!!!!」
一息だけ、強く腰を動かした。
ずちゃ、と音をたててめり込む肉棒。
竿の中ごろまで一息に挿れた反動で、遠坂のなかが揺れる。
亀頭には何か、弾力めいた手応えがあった。
[#挿絵(img/242.JPG)入る]
「あ、はぁ、い……、ん、はあ、いた、あ、……はぁ、んっ……だ、め……!」
「っ――――!」
圧迫される異物。
遠坂の膣は泣き叫ぶように、深く入り込んだペニスを吐き出そうとする。
「あ、つ」
―――急ぎすぎた。
苦悶を聞いて慌てて腰を引く。
「あ……なんで、止める、の……?」
「――――なんでって、遠坂」
「ん……わたしなら大丈夫……いたい、けど、少しだけ……だった、から。……おねがい士郎……いまの、もう一度、して……」
痛みをかみ殺しながら訴える。
「――――――――」
今の衝撃は処女膜にまで伝わった筈だ。
それがどういう事なのか受け入れた上で、遠坂は息を殺して耐えている。
「ん、ふぁ――――!!!!」
もう一度、一息分だけ腰を入れた。
ぎこちない油送。
わずか数センチにも満たない性器のこすれ合いに、遠坂の体が跳ねる。
「は、ん……なんか、あたって、る――――」
……言われるまでもない。
竿をきつく包んでくる襞とは違う、侵入そのものを防ぐ壁を感じる。
「……衛宮、くん……?」
不安げに俺を見上げる遠坂。
それに頷いて、
「――――行くぞ。遠坂の、貰うからな」
今までの遅行を帳消しにするように、残った胴部を一気に遠坂へと突き挿れた。
「あ、んあ、つぅうううう…………!」
[#挿絵(img/243(5).JPG)入る]
弾力を押し退ける。
締め付ける痛みは今までの比じゃない。
「ふ、っ――――」
挿れた分だけ切り落とされたような圧迫。
鋭い刺激《いたみ》に変換されて、遠坂を貫いた、という悦びを倍増させる。
「あ、や、いた、やだ、わたし、こわれ、あ、はあ、あ、あ―――! はあ―――は、んあ……い、ぎちっていま、んあ、ふ、んあああぁああ……!!!!!!」
ぎちぎちと軋む肉壺。
だがそれも長くは続かず、波が引くように拘束は解けていく。
「あ―――あ………はあ、あ…………ん…………」
その後は容易かった。
処女膜を破ってから、遠坂の体は一気に力を失い。
今までの困難さが嘘のように、残る半分はずるん、と遠坂のなかに挿っていた。
「――――、ぁ――――…………は」
……遠坂の呼吸が治まる。
もうこれ以上奥に届くことはなく、あとは押し破った襞をゆっくりとほぐしてやるだけだ。
「……は、あ――――全部、入ったの……?」
答えるまでもない。
男根は深く遠坂に食い込んでいる。
肉欲で膨張した竿はびっちりと遠坂の膣を埋め尽くし、隙間というものがない。
亀頭の先端さえ、わずかに圧迫した子宮の入り口にぴったり接合していた。
「あ……動くと、すご、く」
……破瓜の後遺症か、自分の中に挿った俺への抵抗か。
遠坂は腕を上げるコトもできず、接合した生殖器を見つめている。
入りっこないと思っていた異物を受け入れてしまった驚きと、これからどうしていいか分からない不安。
それがあまりにも可愛くて、それだけで、
「―――遠坂、このまま」
「あ……ん……そっ、か……わたしのなか……士郎で、いっぱいに、なってる」
「――――、っ」
このまま動いていいか、なんて、言えなくなった。
「あ……まだ、大き、く――――」
困惑する瞳。
それを無視して、
「――――動くぞ遠坂。これ以上、我慢できない」
「え……あ、んっ……!?」
「――――っ、ふ――――」
腰を引く。
きつく、侵入した異物を排斥しようと収束していた肉の壺から、滾った男根を引き上げる。
「あ、んっ……! や、んあ、は―――ふやあ、ん……!」
じらされた性器は、まだ充分に欲望に満ちていた。
焦ることはない。
遠坂の体をならすように、ゆっくりと引き、また奥まで押し入るだけだ。
「はっ……ああ……ん、くっ……!」
ず、ず、と肉と肉、肌と肌がこすれ合う。
ゆっくりと腰を前後させ、遠坂の呼吸に合わせるよう、硬い肉棒を進ませていく。
「あ、んっ………やだ、動か、ないで……んっ、は……息、くるしくて……わたし、まだ……、んっ……」
呼吸を乱しながら、遠坂は何か言っている。
が、体がいうコトを聞いていない。
「は―――、っ……! だめ、士郎、わたしまだ、いた、い……!」
遠坂の声にはまだ痛みが篭っている。
いくら貫通したからって、その痛みは一度や二度の性交で慣れてくれるものじゃない。
「あ……ん、はぁ、あ、んっ……! いた、い……ん……いたい、け、ど……」
それでも変化は起きている。
ず、ず、と音をたてて、匍匐前進のように慎重に、優しく緩やかな挿入を繰り返す。
「……っ、はあ、っ……はっ、はっ、あ……!」
強張っていた体に熱が灯る。
痛みはまだ消えない。
同時に、遠坂はその痛みと同じだけの達成感と―――
「良かっ、た…………わたし、ちゃんと抱かれてるんだ」
安堵するように、涙を溜めていた。
「あ、ん、ンッ……! いいよ、士郎、もっと――――」
だから全身で受け入れてくれる。
痛みに耐えながら、ゆっくりと時間をかけて俺という異物を受け入れてくれている。
「―――強く、して――――わたしだって、ちゃんと、女の子なんだって、ん、ふあ、あ―――!!」
肩を上下させて、必死に俺に合わせてくる遠坂。
締め付けてくる感覚は、段々と痛み以外のものを俺の背骨へと送りつけてくる。
ぬちゃ、ず、じゅぶ、ず。
「ぁ――――、は」
きつかっただけの膣《なか》が、滑らかになっていく。熱く男根を灼くだけだった肉壺は、次第に蜜で濡れたうねりへと変わっていく。
「ぁ……はあ……あ、は――――ん……いっ、気持ちい……ッ……!」
―――慣れてきたのか。
俺の腺液と、少しずつ分泌されてきた遠坂の愛液が混ざり合う。
じゅぶ、と淫らな音をたてて腰の間で泡をたてる。
「――――――――」
剥きだしの神経、雄の器官と雌の器官がこすれあう。
「――――――――、は」
尻かせ背骨、延髄から脳天へ迫《せ》り上がってくる快感。
―――だめだ。耐えられる筈がない。
抱きしめたい。遠坂を抱きしめたい。
もうこんな、穏やかなだけの混ざり合いは、我慢できない。
「え、ンッ……? ……士郎……? ちょっ手、強く、ない……? ……ん……わたし、もう少しゆっくりが、いい――――
――――聞こえない。
それに、もう
「……もうこれぐらい平気だろ。遠坂のなか、初めに比べて随分楽になってる」
「は……けど、今ので充分、気持ち、いい、し――――」
「充分じゃない。俺は、もっと遠坂を抱きしめたい」
とっくに、理性なんて弾け飛んでいた。
「や、あ…………!? は、士郎、きつ、い……!」
突き上げる。
今までの緩やかさなど知らない。
遠坂のなかをかき回すように、股と股がぶつかり合うように、激しく腰を突き入れる……!
[#挿絵(img/244.JPG)入る]
「っ……!! や、はっ、だめ、やめて、んああ……!」
弓反りにしなる体。
耐え切れなくなった劣情は、遠坂の声さえ衝動に変換する。
「は、んあ、は、あ―――! あた、上にこすれてるよぅ……! あ、んあ、あ、んっ――――!?」
逃げるように腰をねじる。
だが持ち上げた腰はどこにも逃げ場などなく、遠坂は俺のものを受け入れるしかない。
「こ、やめ、やめって、言ってる、のに……!
ふあ、ん、くっ……! この、ほんきでおこるから、ばかぁ……!」
「はっ――――あ、は、イヤなら、抵抗すればいい……しないってコトは、遠坂も、気持ちいいん、だろ」
「っ……だって……気が、抜けて……体に、力が入らな、あ、ん、くふ、んっ…………!」
上下にゆらされ、長い髪が乱れていく。
形のいい胸はぶるぶるとゼリーのように弾け、視覚だけでこっちの息を荒くさせる。
「や、だめ、また、裂けちゃ、う……! あ、いた、ほんとに、いたいの、に……ん、ふぁ、はっ、や、は……!」
幾度となく突き上げる。
気が違ったような暴走はスムーズだ。
ようやく分泌されはじめた愛液と、破瓜の血がきつい洞内をぬめらしていく。
じゅ、ずぷ、ずず、ずっ、じゅ……!
今までにはなかった摩擦が、鋭敏な生殖器を駆り立てる。
「は――――あ、あは、ん…………!」
「――――、――――、――――…………!」
吐き気がする。
叫び出したくなる快感に歯を砕く。
それは遠坂だって同じ筈だ。
うまそうな、指を食い込ませればたとえようもなく気持ちよさそうな肌から、玉の汗が流れていく。
「ぁ―――い、い――――いた、くても……ん、いい、なんて――――士郎が、なか、ぐちゃぐちゃにこするから、おかし、く――――!」
「あ……はっ、くっ……!」
――――お互いが絡みつくような錯覚。
いや、錯覚である筈がない。
俺たちはいま繋がっている。
遠坂を貫こうとする俺と、
男根《おれ》を受け止めようとする遠坂。
それは相手を取り入れようとする行為に他ならない。
じゅ、ず、ずず、ずじゅっ……!
合わさる波長、密着しようとするソレを、この挿入が補助している。
野蛮な音をたてて腰を突き入れるだけの前後運動。
「あ――――や、もっと、奥、ま、で――――!」
単純な運動が精神を同律させていく。
「は――――もっと、奥、に――――」
その純粋な快楽が理性のカラを剥がしていく。
その単純な、
単純な、
単純な行為が、飛びそうなほど気持ちいい――――!
「は、あ、はっ…………!!!!」
スピードをあげる。
子宮の奥深くに届くほど突き上げる。
[#挿絵(img/245.JPG)入る]
「あ、んあ、は、や――――! いた、痛い、痛い、痛いよ、士郎……!!」
もう遠慮なんてしない。
その苦痛《こえ》と、その涙と、その肢体が、今は壊してしまいたいほど欲しい―――
「あ、ふあ、いやぁ、あ……! こわ、こんなの怖い、やだ、やだやだやだやだやだ……!」
苦悶は痛みのせいだけじゃない。
乱暴にされ、激しく突き上げられ、叩きつけられる快楽を、遠坂は怖れていた。
だから、その証拠に、
「っ……! は、遠坂、締め付け、すご、い……!」
欲望に応えてくる反動が、同じように加速していく。
「わた、わたしのせいじゃないよう……! だって、だって悪いのは士郎で、ん、はぁ、あ、んあああ……!
―――体が、末端である生殖器から真っ白になっていく感覚。
遠坂のなかは、ここにきて更に締め付けを増してきた。
びっちりと締めつけてくる肉壁。
竿とカリ、いびつなカタチをした男根をミチミチと隙間なく埋める柔肉。
その感覚、快感は、精液だけでなく意識すら遠坂にぶちまけかねないほど、強烈だった。
「あ――――遠、坂…………!」
「いや、いた、痛いのに、気持ち、良くて――――! や、あんッ、うあ、は、ア……! とけ、とける、わたし、おかしくされて、る……!」
膣も股も、もうドロドロになっている。
あれだけ感じにくかった遠坂の体は、熟しきった果実に変わっていた。
雄の塊を突き上げる
拒むよう受け入れるよう絡まってくる襞。
振り払って何度も、何度も何度も突き上げる。
「あ、んあ、や、はっ……! こわれ、こわれちゃう、おなか、士郎でいっぱ、いっぱいで、あ、ん……!」
やすりがけのように快楽中枢を刺激し、理性を弾き飛ばす。
突き上げる腰のように、激しく揺れる遠坂のように、心をより高い位置へ押し上げる。
そこに際限などない。
いけるところまで、届くところまで頭のなかを真っ白にできれば、それで――――
「あ――――や、んあ、あああああああぁああ……!」
一際高い遠坂の嬌声《こえ》。
目を閉じ、突き上げられる快楽に耐えながら、遠坂も俺を果てさせようと締め付けてくる。
―――視界が点滅する。
何も考えられない。
ただ目の前の相手しか、凛、遠坂しか目に入らない。
―――精神はとうに限界。
急きたてるように互いを責め、快楽の苗木は絡みつくように成長した。
「は、あ――――…………!」
もう精神は溶け合っている。
これ以上互いを抑えるコトはない。
「だめ――――もうだめなんだから……! 士郎、わたし、もう……!」
遠坂が絶頂に耐えているように、俺もあと一度で破裂する。
「っ――――遠、坂……!」
それを挿れた。
激しく、子宮の奥に届くように、腰元まで遠坂を一突きにする……!
「士郎……! 士郎、んあ、あ、は――――あ、士郎の、バカ――――ぁ…………!!!!」
「っ、ぐ――――…………!?」
遠坂の体が、支えをなくしたようにベッドに落ちる。
―――寸前、衝撃が走った。
絶頂を迎えた瞬間、遠坂のなかが激しく収束し、
「っ、あ……!」
―――肉棒を削《そ》ぎあげる肉壁。
微塵の隙間もなくペニスが無数の襞に包まれる。
それは今までの報復とばかりに、俺の根元から、チューブを搾り出すように射精を促した――――
「っ――――、あ――――」
耐え切れず、白い欲情が吐き出される。
ベッドに投げ出された無防備な体に、滾った精液をぶちまけてしまう。
……なんて失態。
果てる直前、急いで腰を引いた結果、膣で出すコトだけは免れたのだが――――
[#挿絵(img/243(8).JPG)入る]
「ぁ……と、遠坂」
ごめん、と言いかけた声を飲み込む。
「…………ぁ……ん……士郎の、あつ、い……」
何を言おうと今の遠坂には無駄のようだ。
絶頂を迎え陶酔しきった体は、ただ乱れた呼吸を整えている。
「――――――――、はあ」
それに、消耗しているのはこっちも同じだ。
このまま朝を迎えられる余裕はないし、急いで疲れを取らないといけない。
とらないといけないん、だけど――――
「……ん……こんなに、粘ついて……は……士郎のが、こぼれ、てる……」
「っ…………」
……その、遠坂の姿は、目の毒すぎた。
上気した肌にかけられた、粘着の濁り。
はあ、と静かに呼吸をするたび、柔らかな腹が上下して、白濁は肌を滑っていく。
「ぁ――――う」
……まずい。
このまま直視していると、果てたばかりの欲求がまた目を覚ましかねない。
「……えっと、拭くものは――――」
ぶんぶんと雑念を払って部屋を見渡す。
名残は惜しいが、遠坂に見惚れている場合じゃない。
コトは終わったんだから、すぐに気持ちを切り替えないと遠坂に怒られちまう――――
[#挿絵(img/246.JPG)入る]
「……信じられない。
何が優しくする、よ、このケダモノっ」
―――って。
気持ちを切り替えても、やっぱり遠坂に怒られた。
それもいつもの高飛車な怒り方じゃなくて、こう、ホントにこっちが悪かったと思い知らされる怒り方で。
「―――――――えっと、遠坂む
「……ばか士郎。痛いって言ったのに。……もう二度とエッチなんてしないんだから」
「あ――――う」
そんな恨み言を言われて、どんな言葉を返せるだろう。
ごめん、なんて謝るのは逆に遠坂を怒らせると思うし、かといって黙っているのもどうかと思う。
「――――――遠坂、その」
遠坂の涙顔から視線を逸らせず、ギブアップ状態の頭でなんとか話題を探す。
「……あ。そうだ、契約はうまくいったのか? ……その、最後はあんなコトになっちまった、けど」
「そんなの当たり前じゃないっ! あれだけされたのに回路を繋げられなかったら、今すぐ士郎にやり返してるわ!」
「お」
がおー、と元気よくまくし立てる。
成功したかどうかは判らないが、牙を見せて怒鳴る遠坂はいつもの遠坂だった。
「―――そっか。なら遠坂と魔術回路は繋がったんだな?」
「……わたしから士郎への一方通行だけどね。
とりあえず成果が出るのはもうちょっと後になるけど、落ち着けば予備タンクとして、わたしからの魔力供給が受けられる筈よ」
ふん、と睨みながら遠坂は説明する。
俺が遠坂に夢中になって暴走していた時も、遠坂はちゃんと俺との繋がりょ築いてくれていたのだ。
「じゃあ、これで」
「ええ。固有結界を作れるだけの魔力は提供できるわ。後は貴方の頑張り次第ってコト」
「――――――――」
むっ、と見据えてくる遠坂の前で、ぎゅっと右手を握ってみる。
……実感はまだない。
けど遠坂が言う以上、契約は完璧に結ばれたのだろう。
「――――ああ。ありがとう遠坂。それと、ごめん。我慢しきれなくて、遠坂を泣かせちまった」
「っ…………ふん。謝ったて許さないわ。
士郎には二度も泣かされたし、かならず仕返ししてやるんだからっ」
覚悟なさい、と涙目で睨んでくる遠坂。
……怒っているのか拗ねているのか。
遠坂は不思議と柔らかな口調で、そんな捨て台詞を口にした。
「――――――――」
で、遠坂の部屋から追い出された。
なんでも女の子には色々あるんだから、気を利かせて部屋に戻れ、だとかなんとか。
「……ばか言うな。男にだって色々あるぞむ
あるのだが、間違っても遠坂の前では言わなかった。
そんなグチをこぼしていたら、間違いなく仕返しとやらが叩き込まれていただろう。
「…………それに」
遠坂の準備がなんであれ、時間がないのは本当だ。
もう日付は変わっている。
柳洞寺に向かうまで、あと一時間もないだろう。
「ん――――確かに、これは」
目を閉じて、自分に流れてくる遠坂《がいぶ》からの魔力を感じ取る。
遠坂からは意識的に供給していないというのに、俺の体を満たしていた。
衛宮士郎の最大魔力量が二十か三十だとしたら、あいつは常備五百もの魔力を持っている。
……その、溜めるのに年単位の時間を必要とするだろうが、供給してくれるモノさえあれば、最大許容量は千に届くかも知れない。
「……驚いた。あいつ、ホントに凄いヤツだったんだ」
再確認というか、今更ながら実感した。
ま、今は消耗しているし、たいてい魔術師ってのはいつも八分程度の魔力しか溜めていないから、遠坂の魔力量は四百ほどだ。
だが、それにしたって膨大な魔力量だ。
俺は強化一回に対しては二の魔力量を、
投影一回に対しては五の魔力量を平均して消費する。
その例でいくと、最高六回の投影が、遠坂のバックアップで三十回、六十回と出来るようになるんだから。
「……ま、いくら燃料《まりょく》があっても乗り物が安物ならオーバーヒートしちまうんだが」
それでも飛躍的な戦力向上だ。
これなら本当に、あの英雄王相手にも勝機がある。
あとは――――
「―――後一時間。それまで、ゆっくり体を休めないと」
体を休めて、性交で消耗した体力を取り戻す。
……準備は全て整った。
体を許してくれた遠坂の為にも、万全の態勢で最後の夜を迎えよう――――
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2月15日     16 EDEN
屋敷の明かりを消していく。
午前四時。
夜明けまであと数時間をきり、俺たちは衛宮邸を後にする。
段取りは決まっていた。
これ以上話す事はない。後は戦場に赴き、それぞれの責務を果すだけだ。
……無事に帰ってこられる保証はない。
いや、今までだってそんな事の連続だったが、今回こそは帰れる保証はない。
だからこそ最後はきっちりと、丁寧に屋敷の明かりを消していく。
「……あれ?」
庭に誰か立っている。
何をするでもなく、金髪の少女は冬の夜空を見上げていた。
「おーい。なにしてるんだ、セイバー」
「空を見ていました。それと、この家を」
応える声は、あまりにも穏やかだ。
彼女は出会った時とは違う顔で屋敷を眺めている。
「色々ありましたから。ずっと覚えていられるように、心に焼き付けておきたかった」
「――――――――」
それは。
俺以上に、ここには戻ってこられないと覚悟している声だった。
「そっか。……うん、出来ればずっと覚えていてくれ」
縁側から、そんな拙い願いを口にする。
「はい。ではワタシからもお願いします。
貴方たちは私が守る。ですから必ず、二人でこの家に戻ってください」
「―――ああ。必ず戻るよ、ここに」
今はそう答える事しかできない。
俺たちは聖杯を壊しに行く。それは同時に、サーヴァントであるセイバーの帰還の時でもある。
俺がセイバーにいてほしいと思い、
セイバーがこの屋敷に愛着を持ってくれていても。
彼女がサーヴァントである限り、その法則に逆らう事は出来ない。
「ちょっと、そこなにしてんのよー! 時間がないんだから急ぎなさいよねっ……!」
玄関から急かす声がする。
遠坂は準備を済ませて、もう門の前にいるようだ。
「――――では、シロウ」
「ああ。決着をつけにいこう、セイバー」
最後の明かりを消して、セイバーと共に屋敷を後にする。
――――静かな夜。
星空の下にある中庭には、まだ、星を見上げている少女の幻が残っていた。
方針は決まっている。
セイバーは正面から柳洞寺に突入し、俺と遠坂は山の裏側から柳洞寺に侵入する。
セイバーには俺たちより少しだけ早く境内に踏み込んでもらい、ギルガメッシュの注意を引く。
俺たちはその隙に裏山から柳洞寺に侵入、出来るだけ早く聖杯を停止させてセイバーの加勢に入る。
……そうして俺がギルガメッシュの宝具を投影してヤツを封じ、その隙にセイバーはヤツを倒しきる―――
それが現状における、俺たちの唯一の作戦である。
「――――――――」
裏山にはかろうじて道があった。
事前に調べていたのか、遠坂は迷いもなく斜面を登っていく。
夜の山は暗く、不気味だ。
霊地であり不可侵であるお山が人を拒むのは当然だ。
山の闇は人間にとって脅威であると同時に、清浄さを持つ神域の具現でもある。
だが――――
「……尋常じゃないわね、これ。生臭すぎて吐き気がする」
山の頂上……柳洞寺を睨んで、遠坂は吐き捨てた。
生臭い、というのは遠坂の表現にすぎない。
山頂から放たれるモノに、生臭さなどない。
ただ奇怪なだけだ。
空気はじっとりと湿り、粘膜のように肌にまとわりつく。
満ち溢れる生命力はあまりにも生々しく、自分が息をしているのか、山が息をしているのか判らない。
山ではなく、巨大な臓器を登っているような錯覚さえする。
「……今更だけど。士郎、体の調子はどう?」
―――と。
唐突に、遠坂はそんな事を訊いてきた。
「え……? いや、調子はいいんだが、悪いというか。正直、持て余してる」
素直に白状する。
この魔力なら、投影の十や二十は軽い。
が、もともとオンボロな機体にジェットエンジンを積んでいるようなものなんで、体は落ち着かないというか、気を抜くと燃料が漏れて爆発しかねない。
「うわ、贅沢な悩みね、それ。けどちゃんと成功したのね。……その、初めてだったから心配だったけど」
「――――――――」
思い出した途端、冷静だった頭が火照る。
「待て。頼むから、今はそういう事を言わないでくれ」
「わ、わかってるわよっ。そんなのこっちだって同じなんだから。
……わたしが言いたかったのは別のコトよ。
士郎に分けてる魔力とセイバーに取られてる魔力のバランス。二人分の掛け持ちなんだから、セイバーの出力が落ちてるのは判るでしょ」
「あ―――そうか、そうだよな。じゃあセイバー、思うように戦えないのか?」
「あのね、甘く見ないで。
そんな不手際はしないし、セイバーに比べたら士郎に分ける魔力は小さいからなんとかやっていけるわ。
ただ、無理は利かないの。今のセイバーは、一回しか聖剣を使えない」
「――――聖剣が一度しか使えない?」
……となると、ギルガメッシュに聖剣は使えない。
セイバーの宝具は聖杯を壊す為にとっておかなければならないんだから。
「じゃあ、セイバーは切り札を封じたままでギルガメッシュの足止めをするのか!?」
「ええ。だから少しでも早く合流しないとまずいわ。
セイバーがギルガメッシュを止められない、と判断した場合、聖剣を使うようには言ってある。
……けど、そうしたらセイバーに後はないの。セイバーの聖剣でなければ聖杯は壊せない。
だから、その時は――――」
「――――――――」
息が止まる。
つまり、その時は。
消滅する事を覚悟の上で、彼女に聖剣を使ってもらう事になる――――
「―――遠坂、それは」
「……仕方ないでしょう。これはセイバーが言いだした事なんだから。わたしが止めたって、彼女は聖杯を壊すわよ」
視線を逸らして、遠坂はそう呟いた。
「――――――――」
……くそ、なんて馬鹿だ。
辛いのは遠坂だって同じだ。
遠坂だってセイバーに消えてほしくないと思っている。
なら――――
「急ごう。ギルガメッシュにセイバーは渡さない」
「当然よ。わたしのセイバーだもの、あんなヤツに殺させないわ」
獣道を駆け上がる。
やるべき事は判っている。
一秒でも早く聖杯を止め、ギルガメッシュと決着をつけるだけだ――――
◇◇◇
山が鳴動している。
見上げる空には暗雲が立ちこめ、木々は山の胎動に震えるようにざわついていた。
「――――――――」
彼女はその様を、山門の入り口で見上げている。
柳洞寺が形容しがたい毒素を孕《はら》んでいる事は、訪れた瞬間に判った。
この階段を上った先にいるのは黄金のサーヴァントだけではない。
何か異質なモノが、自分と彼らを待ち受けている。
「―――――――」
スウ、と大きく息を吸う。
この先、一手たりとも誤る訳にはいかない。
山頂が彼らにとって死地であるのなら、死の危険を自分が受け持つ。
せめてあの二人だけでも、この異界から生きて帰ってもらいたい。
その為には出し惜しみなどしていられない。
聖剣は打てて二回。
二度目の一撃を放った瞬間自分が消滅する事を、彼女は良く理解している。
「―――構わない。元より、捨て身でなくては敵わぬ相手だ」
英雄王ギルガメッシュ。
千の宝具を持つあの男には、聖剣の一撃を以って打倒する以外ない。
“―――じゃあセイバー。三十分経ったら始めて”
凛の言葉が思い出される。
指定された時間まであと一分。
彼女は深く吸い込んだ息を吐いて、体調《コンディション》を整える。
――――山頂より風が漏れる。
その魔風に木々が一際震え上がった時、彼女は石段に足をかけた。
一息で駆け上がる。
石段に踏み込んだ時点で、彼女の襲来は悟られただろう。
境内には倒すべき最後のサーヴァントが現れる筈だ。
そこまで最速で登り切り、凛とシロウが柳洞寺に辿り着く前に、あの男を倒す。
……マスターの命令には逆らっていない。
彼女は凛の指示通り、三十分後に突入した。
その後―――凛の予想より早く境内に辿り着き、ギルガメッシュと戦闘になってしまったとしても、それは命令違反ではない筈だ。
彼女は主の命を守りきり、結果として、主の思惑から外れてしまうだけの話。
「――――――――」
山頂より漏れてくるモノが汚濁なら、石段を行く彼女は汚れを切り払う突風だった。
階段を上りきり、境内に至るまで一分とかかるまい。
凛の予想を上回る事、およそ五分。
それだけの時間があれば、ギルガメッシュとの戦いは終わる。
「ハッ―――――!」
山門より滲み出る悪寒を堪えて走る。
銀の甲冑は弾丸となって山頂を目指していく。
そうして、ついに山門を目前にした時。
「な――――に?」
決して止まらぬ筈の足が止まった。
額には汗。
彼女は驚愕に満ちた顔で山門を見上げる。
「―――待っていたぞ。よくぞ間に合ってくれた、セイバー」
流麗な声が響く。
五尺を超える長刀が月光を弾く。
山門に至る階段。
そこに、いる筈のない敵がいた。
「アサ、シン――――」
セイバーの声に色はない。
いる筈のない敵、いてはならない障害。
その二つのまさかが、彼女から冷静さを奪っていた。
「どうしたセイバー。私がいるのがそれほど不思議か。
私はここの門番だと、おまえは承知している筈なのだが」
楽しげに語る声は、あくまで涼《すず》やか。
サーヴァントにとって悪寒でしかない魔風を背にして、長刀の剣士は何一つ変わらなかった。
「……馬鹿な。何故ここにいるアサシン……! 貴方はキャスターが呼び出したサーヴァントだ。キャスターが消えた今、貴方が留まっている筈がない……!」
「通常のサーヴァントならばそうであろう。だが私はちと特殊でな。この身を縛っているのは人ではなくこの土地なのだ。
おまえたちがマスターと呼ぶ依り代。私にとっては、それがこの山門という事になる」
「な――――土地が、依り代だと……?」
「うむ。いかに魔術師と言えど、実体を持たぬサーヴァントにサーヴァントは維持できぬ。サーヴァントの依り代はこの時代のモノでなければならぬらしい。
女狐は私を呼びだし、依り代にこの土地を選んだ。
故に私はこの山門にのみ出現するサーヴァント。召喚者であるキャスターが滅びたところで、この山門がある限り消える事はない」
「―――もっとも、それも日雇いにすぎんがな。
女狐が私に与えた魔力はおよそ二十日分。その限度がいつか、おまえならば見て取れよう」
歌うように言って、剣士は右腕を掲げる。
雅な着物のなか。
白い腕は、ガラス細工のように透けていた。
「アサシン――――――貴方は」
「見ての通り、夜明けまで持たぬ身だ。
二十日の刻限などとうに過ぎている。ここまで持ち堪えた事こそ僥倖と言えよう」
「――――――――」
呆然と剣士を見上げる。
長刀から放たれるモノは、殺気でもなければ敵意でもない。
ただ、戦え、と。
勝利も敗北も介さぬ、意味のない殺し合いを求めていた。
「―――では。私と戦う為に残ったというのですか、アサシン」
「言わせるなセイバー。口にすれば、詰まらぬ言葉に成り下がる」
くつくつという笑い。
彼女とて剣士の思惑は理解できる。
だが、今はそれに付き合う時間はない。
急がなければ、ふたりはギルガメッシュとの戦いに間に合ってしまう。
いや、最悪―――自分が境内に到達する前に、二人はギルガメッシュと対決するだろう。
「そこを退けアサシン。貴方に門番を命じたキャスターは消えた。もはや門を守る意味などあるまい」
じり、と一歩踏み込んでセイバーは問う。
だが――――
「―――否。もとより、私に戦う意味などない」
それ以上進めば始める、と。
長刀の切っ先をセイバーに向け、アサシンは言い捨てた。
「そう、戦う意味などない。私には初めから何もないからな。英霊としての誇りも、望むべき願いもない。
いや―――そもそも、私が呼び出された事自体が間違いなのだ。なにしろこの身は、佐々木小次郎などではない[#「佐々木小次郎などではない」に丸傍点]」
「――――!?」
セイバーの混乱はここに極まったと言っていい。
佐々木小次郎。
それはこのサーヴァントの真名の筈。
しかしアサシンは自らの口で、自らを偽物と告げたのだ。
「そう驚く事でもあるまい。
佐々木小次郎というモノはな、もともと正体のない架空の剣士なのだ。
実在したとされるが、記された記録はあまりに不鮮明。
ある剣豪の仇役として都合がよい“過去”を捏造された、人々の記録だけで剣豪とされた人物だ」
「確かに佐々木小次郎という男はいただろう。物干し竿と呼ばれる長刀を持つ武芸者もいた筈だ。
――――だが、それらは一個人の物ではない。
佐々木小次郎という剣士は、引き立て役としてのみ作られた架空の武芸者であった筈だ」
「架空の、英霊――――ですが、貴方は」
「そう、佐々木小次郎だ。佐々木小次郎という殻《カラ》、それを被るに最も適した剣士が私というだけの話だ。
私に名などない。読み書きなど知らぬし、名前を持つほど余裕のある人間ではなかった」
「私はただ、記録にある佐々木小次郎の秘剣を披露出来る、という一点で呼び出された亡霊だ。
偽りのサーヴァントであるこの身は長くは保たぬ。故に、キャスターも使い捨てとして扱った」
「そら、意味など初めから無いだろう?
たとえここで偉業を成したところで、報酬は全て“佐々木小次郎”に与えられる。私には何も返ってこない。無である私にとって、あらゆる事は無意味だ。
この身は自分すら定かではない。佐々木小次郎という役柄を演じるだけの、名の無い使い捨ての剣士にすぎぬ」
長刀が揺れる。
架空の物語によって作り上げられた架空の剣士は、その役柄を貫き通さんと立ちはだかる。
「―――だが。
その私にも唯一意味があるとすれば、それは今だ。
無名のままで死んでいった“私”に、もし、望みがあったとしたら」
きっと。
無名の剣士では立ち会う事も許されなかった、上等すぎる剣士との対決を、死の際でさえ夢見たのではなかったか。
「――――アサシン」
……そうして、彼女は剣を構えた。
この敵を説き伏せる事など出来ない。
初めから死を賭している剣士に応えられるのは、ただ剣を合わせる事のみ。
「では始めよう。
なに、もとより花と散るこの身。その最期をそなたで迎えられるのであらば、これ以上の幕はあるまい――――!」
長刀が奔《はし》る。
セイバーの剣が、月光の如き一撃を受け流す。
「くっ――――!」
翻る長刀。
この男に力を使っては、山頂で待つギルガメッシュには太刀打ちできない。
だが力を温存する余裕などない。
否―――全力で戦ってとしても、果たして勝利し得るかどうか。
長刀は一撃毎に鋭利さを増していく。
架空の剣士。
宝具を持たぬまま、英霊と互角以上に戦う剣豪。
その決着を、彼女はここで付けねばならない――――
◇◇◇
―――山頂が近い。
裏山から登れば、境内の裏側につく。
そこには確か、人の手が入っていない大きな池があった筈だ。
「見えた、あともう少し……!」
遠坂は枝をかきわけて斜面を上がっていく。
周囲に気を配り、遠坂の背中を守りながら後に続く。
そうして。
長い斜面からようやく平らな地面に出た瞬間、ソレが、俺たちを出迎えた。
「―――――――――――なんだ、これは」
肉塊が、蠢いている。
池の中央に鎮座したソレは、どぶどぶと黒い血液を流しながら、救いを求めるように蠢動《しゅんどう》していた。
どれぼとの大きさなのか。
浮島ほどに広がった肉塊は少しずつ広がっている。
澄んでいた池の水は、今ではコールタールのように濁り、粘ついていた。
「嘘だろ――――アレが、聖杯だっていうのか」
正視に耐えられず視線を逸らす。
山林に満ちていた空気はアレの呼吸だ。
際限なく満ちる魔力は肉塊を破裂させ、黒い血液となって池を汚染していく。
その血液は無色の魔力なんて物じゃない。
黒いソレは、視覚化された呪いだった。
「く――――、っ」
黒い泥を視ているだけで悪寒がする。
網膜から侵入した呪いは、脳にただ一言、
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とだけ、命じてくる。
「――――聞いてないぞ。あんなの、どうやって」
止めろって言うのか。
肉塊までは三十メートルほど。
池は底が浅く、歩いて行く事には問題ない。
だが―――あの黒い泥をかき分けて進むなんて自殺行為だ。
見ただけで意識を裂く呪い。
そんな物の中を歩けば、一メートルも歩けずに衰弱し、泥に沈み込んでしまうだろう。
「―――アレ、破裂寸前よ。
もとからああいうカタチなのかどうかは知らないけど、器があんまりにも小さすぎたんでしょうね。中のモノを抑え切れず、器を壊して溢れ出ようとしてる」
「器を壊すって―――それは」
「慎二が聖杯になってるなら、慎二を壊すって事でしょうね。ほら、見える? あの山の奥、なんか人型らしきものがあるでしょう。士郎なら確認できると思うんだけど」
「え……?」
遠坂の視線を追う。
崩れ、なお増殖している肉塊の中。
確かに人型らしきモノが見える。
……磔《はりつけ》になっているのか。
服は破れ、体は剥き出し。素肌に浮かび上がった血管はムカデのように蠢き、自身の体と、あの肉塊とを繋げている。
……なんというか、カタチこそ違うが、イメージ的には葡萄《ぶどう》が人型になったような奇怪さがある。
「―――慎二。顔は見えないけど、あの背格好は間違いない―――」
「そう。で、生きてる?」
「――――――――」
……判らない。
死んではいない。だが、あの状態を生きている、と言えるほど楽観できない。
「……息はある。体だって、まだ」
見ようによっては人間らしい手足がある、とは言えなかった。
「やっぱりね。もともと今回の聖杯は人型だった。なら、人間っていう部品を利用して動かす物って事でしょ。
慎二は合わないからああなったみたいだけど、基本的に聖杯は、宿主に生きていてもらわないと作動しない」
「―――けど、アレは破裂寸前なんだろう。核になっている慎二を壊すって」
「それは仕方なく、よ。……そうなったら聖杯も何もない。ただ聖杯によって開けられた孔《あな》から、あの得体の知れないのが溢れてくるだけ」
「だから、逆に言えばまだ間に合うわ。
聖杯は起動しているけど、願望機っていう本来の姿になってなければ壊れてもいない。
あの金ピカは孔だけを開けるって言ってたでしょ。
あいつの目的は聖杯を起動させて、器だけ壊す事なのよ。そうすれば――――」
「今みたいに、あの得体の知れない泥が際限なく溢れ出てくる――――」
――――考えている時間はない。
とにかくあの肉塊から慎二を引きずり出して、聖杯だけでも止めないと……!
「遠坂。あの泥、なんとかできるか。凍らせちまえば上を歩けそうだけど」
「無理。ただの水ならいけるけど、アレはもう呪いに加工された魔力なのよ。カタチになった魔術を凍らせるなんて、そんなの氷結専門の術者でも難しいわ」
「――――そうか。なら、あとは」
運を天に任せてつっこむしかない。
あの呪いに汚染される前に池を渡りきって、慎二を連れ戻すだけだ。
「ちょっ、そのままで行く気!? 無理よ、貴方じゃいいとこ真ん中で飲み込まれるってば!」
「やってみなくちゃ判らないだろ。もう時間がない。セイバーも今頃アイツと戦ってる筈だ。ここで躊躇している暇は――――っ……!?」
咄嗟に遠坂を庇い、背後に振り向く。
「これは驚いた。
まさか、三度もその不出来な顔を見るとはな、雑種」
嘲笑う声。
ソレは俺たちの行動を見透かすように、境内ではなくこの池に現れていた。
「ギルガメッシュ――――!? うそ、なら誰と戦ってるのよセイバーは……!」
遠坂の口振りではセイバーは何者かと戦闘中らしい。
その相手が何者で、どんな状況になっているかまでは判らない。
いや―――それを考えている余裕などない。
目前にいるのは最悪のモノだ。
俺たちが三人がかりで打倒する筈だった、最強のサーヴァント。
それがよりにもよって、セイバーがいない状態で、俺と遠坂を見据えている――――
「なに、セイバーは不在か。……つまらん。それではただ殺すだけか」
泥の海から漏れる悪寒と、目前の男から放たれる殺気。
ヤツの背後には、既に宝具が装填されている。
不用意に一歩踏み出せば、その瞬間串刺しにされるだろう。
「む―――いや、それでは芸がないな。
本来なら有無を言わせぬが、今回は特別に許す。折角の客だ。その生に僅かばかりの猶予をやろう」
「………猶予、だと?」
指先に力を入れて、敵を睨む。
―――魔術回路は開いている。
可能なかぎり並べた設計図は十四個。
ヤツがその指を鳴らせば、こっちは全開で片っ端から剣を複製する。
そうすれば最悪、遠坂を逃がすぐらい―――
「なんだ、言われなくては判らんのか。
繭《まゆ》が孵《かえ》るまでの数分、そこでカカシになるがいい。アレも見届ける者が我《オレ》だけでは寂しかろう。
この行く末を最期まで見届けるというのなら、その生にも意味がある」
「っ――――――――!」
そんな言い分がきけるか。
俺たちの目的は聖杯を止める事。
まだ間に合うというのなら、なんとしても慎二をあの肉塊から連れ戻す――――!
「そうかよ。悪いがこっちは――――」
「アンタの言いなりになんてならない。今すぐあの肉塊に行って、アンタの聖杯を止めてやるわ」
と。
俺の後ろから身を乗り出して、遠坂はギルガメッシュを睨み付けた。
「――――ほう?」
ヤツの口元が歪む。
あの笑いは――――目の前の人間を、殺すと決めた時のモノだ。
「ま、待て遠坂、それは――――!」
「士郎はここでアイツを止めて。
……無茶だって判ってるけど、セイバーが来るまでなんとか持ちこたえて。慎二は、わたしが責任もって引っ張り出してくるから」
「な――――引っ張り出してくるって、おまえ」
「わかってるわよ。あんなんでも桜の兄貴だし、見殺しにはできないもの。……それに、助けられるのなら助けるのが士郎の信条でしょ」
黒い池へ走り出す遠坂。
あいつ、生身のまま、あの泥を突き進んでいくつもりなのか―――!?
「く――――はは、ははははははは!!!!!
なんだその滑稽さは、我《オレ》を笑い殺すつもりか貴様ら!」
それを。
遠坂の決意を見下すように、ヤツは口汚く笑いやがった。
「テメエ、何がおかしい……!」
「なんだ、おまえはおかしくないのか雑種?
とんだ三流どもだ、あの呪いの中を進むだと? サーヴァントですら耐えられぬ呪いの渦を、人間風情が踏破できるとでも思ったか!」
「―――フン。わたしの底を甘く見ないで。この程度の呪いで染まるほど弱くないわ。
それにね、わたしたちはアンタみたいに半霊体ってワケじゃない。ちゃんと生身のある人間なんだから、むざむざ飲み込まれてたまるもんか……!」
あからさまな強がりだったが、たしかに、そう断言できる遠坂なら辿り着ける。
あいつの言う通り、遠坂凛はあんな得体の知れないモノに負けるほど柔じゃない。
「そうか、ならば好きにしろ。
―――もっとも。我《オレ》は、そんな真似は許さんがな」
「――――投影《トレース》」
剣が翔《と》ぶ。
放たれた一本の剣は、無防備な遠坂の背中を串刺しにしようと打ち出され――――
「――――完了《オフ》…………っ!」
瞬時に割って入った、俺の干将によって弾き落とされた。
「は、ふっ――――!」
肩で息をする。
間に合った―――用意していたとは言え、これだけ速く投影が出来たのは初めてだ。
遠坂の魔力のおかげだろう。
これなら、或いは――――
「――――貴様」
赤い瞳に殺気が籠もる。
……投影は、ヤツを本気にさせた。
英雄王の背後に浮かぶ宝具は、際限なく数を増していく。
「――――士郎」
背後では、俺を気遣う遠坂の声。
振り返る事なく、干将を構えたまま敵を見据える。
「遠坂。慎二を頼む」
それだけを口にした。
「―――任せて。すぐに連れ帰ってくる!」
水の跳ねる音。
あの泥の海に、躊躇なく遠坂は飛び込んだ。
「――――――――ふう」
なら、守る。
これより後ろ、遠坂に向けて一本たりとも宝具を通しはしない。
「おまえの相手は俺だ。遠坂に手を出したかったら、まず俺を倒しやがれ」
一歩踏み出す。
それが癇に触ったのか。
黄金のサーヴァントは遠坂から目を離し、完全に俺だけを視界に収めた。
「―――ふん。あの小娘はのたれ死ぬ。
我《オレ》が手を下すのはあくまで慈悲だったのだが―――」
切っ先を向ける宝具の群。
ヤツは、刃のような殺気を灯し、
「その前に、貴様には思い知らせる必要があるようだ。
―――薄汚い贋作者。
その身をもって、真偽の違いを知るがいい――――!」
自らの財宝を、惜しげもなく展開した。
◇◇◇
長刀が闇を裂く。
二メートル近い長物を自在に繰るアサシンに、セイバーは未だ踏み込めずにいた。
「くっ……!」
躱しきれず後退する。
両者の距離は一向に縮まらない。
セイバーとアサシンの間合いの差は一メートル。
その、たった数歩分の石段を駆け上がる事さえ、セイバーには出来なかった。
「――――――――っ」
唇を噛む。
このような小競り合いを続けている暇はない。
もとより力で勝る相手だ。
魔力と剣の威力を盾にすれば押し切れない相手ではない。
一撃だけ。
一撃だけ受ける事を前提にすれば、容易く組み伏せられる。
腕でも足でもいい。
多少の傷に怯まなければ二撃目はない。
甘んじて一撃を受けた瞬間、彼女はアサシンに踏み込み、敵を両断する自信がある。
だが。
その一撃が確実に首を刎ねる物だとしたら、力押しなど出来よう筈がない。
目前のサーヴァントの一撃とはそういう一撃だ。
牽制などなく、常に命を奪いにくる。
それを防ぐ手段は後退しかありえない。
横に回り込めぬ地形の不利と、敵の技量が彼女の前進を許さぬ為に。
故に踏み込めない。
彼女は生きて境内に辿り着かねばならないのだ。
こうしている合間にも、二人はギルガメッシュと対峙している。
彼女の到着が遅れれば、どちらかが死んでいるかもしれない。
いや、最悪――――既に、二人は。
「くっ――――ああああ…………!」
駆けた。
胸に沸いた不吉な想像を払拭するように、声を振り絞って駆け上がる。
衝突する二つの軌跡。
「む」
鬼気迫る突進に何を思ったのか、アサシンは己を討ちに来るセイバーの体ではなく、振り下ろされる剣に刀を振り当てた。
「……ほう。流石はセイバーの剣。数回程度ならば耐えられると思ったが、一撃で曲がるとは……!」
火花がこぼれる。
打ち合った剣と刀は、鍔迫り合いながら、互いを押しのけようとする。
「受けた……? アサシンが、私の剣を……?」
アサシンの刀は脆い。
鉄さえ両断するという業物ではあるが、所詮は人の手による物。人ならざる業によって鍛えられた彼女の剣とは比べるべくもない。
正面から力のみで打ち合えば、確実に長刀は粉砕される。
それを知っているからこそアサシンは剣を受け流し、剣ではなく体を狙う事でセイバーを退かせていたのだ。
だが、アサシンは自ら受けた。
いかに鍛え上げられ、アサシン自身の“粘り”があったところで、刀ではセイバーの一撃を防げない。
セイバーの一撃を受け止めた長刀は芯が曲がっている。
その様では、もはや今までの鋭利さは保てまい。
“……勝てる? 無傷で、この男に勝てるのか……?”
アサシンの長刀を押し返しながら自問する。
その迷いが、油断となった。
アサシンがセイバーの剣を受け止めた事には意味がある。
それが何の為なのか気付く前に、彼女はその位置に立たされていた。
「……!」
体の位置が、変わっている。
階段の上と下とに別れた二人の立ち位置が、今は平行。
セイバーは気が付かないうちに体を横にずらされ、真っ平らな足場に立たされている。
……それは、前回の焼き直しだ。
お互いが水平になる立ち位置。
秘剣を振るうに適した足場。
そこでならば、アサシンは己が魔剣を披露できる。
――――燕返し。
円を描く三つの刃は同時に標的を囲み、防ぐ事も躱す事も許さず、確実に敵を絶命させる。
「――――――――」
ぞくり、と。
彼女は、自らの首筋に走る悪寒に身震いした。
「アサシン、貴様……!」
セイバーの力が弱まる。
このまま押し倒す事はできる。
力で勝る彼女ならばアサシンを弾き跳ばし、トドメを刺しに走り寄るか、山門まで駆け上がる事もできる。
だが―――そのどちらも、結果は同じだ。
離れればアレ[#「アレ」に丸傍点]が来る。
突き飛ばした後、トドメを刺しに踏み込もうと、背中を見せて駆け上がろうと、あの魔剣を放たれればそれで終わる。
ならば押せない。
力を弱め、アサシンに合わせて睨み合うしか手段がない。
「―――よいのか、力を弱めて。これならば私の方からおまえを弾き飛ばせるが」
アサシンは満足げに、追い詰められたセイバーを見つめる。
そこに酷薄なものはない。
長刀の剣士はただ、窮地に立たされた相手の、起死回生を狙う瞳に見惚れていた。
「………っ。この為に自らの武器を傷つけたのか、アサシン……!」
「無論。埒《らち》があかぬのでな、勝負を付けに来た。
これならば以前のおまえに戻ろうと思ってな。果たし合いの最中に、後の事など考えるな」
「――――――――」
息を呑む。
彼女の心を見透かしたアサシンの言葉は、罵倒ではなく――――
「……!?」
境内が燃えている。
響き合う剣の音と、砕け散る剣の音。
それは間違いなく、ギルガメッシュと衛宮士郎の戦いの音だった。
「ふむ。どうやら宴もたけなわというところだな。こんなところで門前払いを受けている場合ではないぞ、セイバー」
「アサシン――――!」
剣に力が入る。
目の前の障害を弾き飛ばそうと剣に魔力を籠める。
……だが、出来ない。
その瞬間こそが彼女の終わりだ。
このまま間合いを離してしまえば、それこそアサシンの術中である。
「くっ――――」
不甲斐なさに歯を鳴らす。
彼女は剣に魔力を籠めたまま、為す術もなく剣を合わせる。
そこに、
「何を迷う。お互い、やるべき事は一つだろう」
透明な声で、剣士は告げていた。
「……アサシン?」
「もとより、我らは役割を果たす為だけに呼び出された。
私がこの門を守るように、おまえにも守る物がある。
ならば迷う隙などあるまい。
―――それにな、セイバー。時間がないのは、おまえに限った話ではない」
「――――――――」
その言葉には、偽りなどなかった。
架空の役割のみを果たしてきた剣士の、最初で最後の本当の言葉。
願わくば、死力を尽した結果が見たい、と。
この時代に召喚され、この門を守り続けた報酬、唯一の望みを、目前の剣士は告げていた。
「――――失礼をした。確かに、お互い時間はない」
剣に籠めた魔力を放出する。
「ぬっ……!?」
容赦なく放たれた力は、アサシンの体を弾き飛ばす。
距離にして二メートル。
アサシンにとっては最高の間合いを前にして、セイバーは動かない。
山門に走る事も、弾かれたアサシンに駆け寄る事もない。
結界を解く。
自らの剣を露わにして、セイバーはアサシンと対峙した。
眼に迷いはない。
必要とあらば全ての力を使う。
全力を以って目前の敵をうち倒すと、その姿が語っていた。
「――――――――」
事ここに至って語るべき言葉などない。
架空の剣士はゆっくりと長刀を構え、
「――――――――いざ」
己が最強の剣技で、生涯最高の敵を迎え入れた。
◇◇◇
―――腐肉の海を進む。
池の水深は一メートルもない。
底にはべったりと肉塊が広がっており、実際沈むのは膝もと程度ではあった。
「っ―――この、気持ち悪いにもほどがあるってのよもう……!」
乱れた呼吸のまま悪態をつく。
一歩進む度に、大量の虫を踏み潰すような悪寒が走る。
肌にまとわりつく腐肉は腐肉以外の何物でもなく、立ち止まれば彼女を取り込もうと固まりだす。
「っ……! ああもう、こんちくしょう……!」
それを力ずくで振り払って前に進む。
ぞぶ、ぞぶ、ぐちゃり。
臓物をかき分けて進む作業は、とても正気ではやっていられない。
この分なら精肉店のアルバイトだって怖くない。
牛一頭を捌く作業だって簡単だ、と遠坂凛は開き直る。
そんなワケで、この作業にも慣れた。
作業と思わなければ動けなくなるほど切迫していたが、とにもかくにも精神的なダメージは負わなくなった。
「っ……ぁ、はあ、あ、っ――――」
だが、これだけは気持ちの持ちようなどでは耐えられない。
一歩進む度、体の熱が上がっていく。
足にまとわりつく腐肉は、その瞬間に神経を侵しにくる。引き剥がしたところでとうに毒は回っているのだ。
呪い。
手に取れるほどになった“他者への悪意”は瘧《おこり》のようだ。
触れれば発病する。
神経を侵し体力を奪い脳を茹でるソレは、一歩歩いた時点で致命的となる。
常人なら二歩で動きが止まり、腐肉に倒れ込む。
その後どうなるかなど知らない。
窒息死するのか、自分も腐肉の一部になるのかなど考えたくもない。
そんなもの、既に四十度を超える頭で想像できる筈がなかった。
「ぐ――――あ、こ、の――――」
止まりそうになる足、よろけそうになる体を必死に踏ん張って、前に進む。
……凛とて、何の策もなしで腐肉に飛び込んだ訳ではない。
あと二つしかない虎の子の宝石を飲み込んで、ため込んだ魔力の全てを防御膜に充てている。
この呪いが純粋な魔力が結晶化したモノならば、単純に強い魔力を纏っていれば弾ける筈―――
「く――――、ま、ず――――」
……視界が歪む。
その予想は正しかったのだが、規模が違った。
飲み込んだ宝石など紙にもならない。
これは人間が抵抗できるモノではない。
この中で『奪われずにすむ』人間などありえない。
……ここでは、ただ。
自分の、自分に対する強さだけが、生き残る支えだった。
「あ――――つ――――ああ、もう……これなら、火の海に飛び込んだほうが、涼しい、のに」
実際、宝石に守られた彼女なら、火の海に飛び込んでも支障はない。
そんな文句を、意味もなく口にした途端、
「――――――――っ」
自分の軽口に頭がきて、気合いが戻った。
そんな事などない。
間違ってもこの程度で、そんな軽口は叩けない。
熱に浮かされた頭で、背後の剣戟に耳を向ける。
……二人の姿はもう見えない。
衛宮士郎が誘導したのか、それとも為す術もなく追い込まれているだけなのか。
どちらにせよ、両者の戦いは境内へと移ったようだ。
「――――あと少し。一気に行くから、それまで」
走る。
それでもようやく歩く程度の速度だったが、ともかく足を動かした。
腐肉をかき分ける。
みっともなく乱れた呼吸で肉塊に手を伸ばす。
「つ、と――――!」
這うように登った。
肉塊の山には確かな手応え。
「……あ。なんか、こっちのが楽みたい」
ドクドクと脈動する地面に体を預ける。
気色の悪さはこちらの方が上だが、神経を侵す熱は急速に冷めていってくれた。
「……? ちょっと、これ……もしかして……」
赤い地面に指をあてる。
……それは、黒い泥と同じでありながら、確かに実体を持ったモノ。
聖杯というモノから溢れ出し、魔力によってカタチを得た―――受肉した、この世にあってはならぬモノ。
「……サーヴァント……これ、サーヴァントと同じなんだ」
呆然と呟く。
……それに何の意味があるのか、考えようとして凛は思考を止めた。
今はその時ではない。
彼女がやるべき事は一つだけだ。
「―――よし、回復した。さっさと慎二を見つけてこんなところとはおさらばよ」
立ち上がり、肉塊の上を駆ける。
肉の山は直径五十メートルほどの浮島だった。
対岸からでは判らなかったが、盛り上がった土台は山脈のように入り組んでいる。
「――――いた」
その奥。
肉の谷間に隠れるように、間桐慎二の姿はあった。
◇◇◇
「つぁ……!」
繰り出される剣を弾く。
展開された宝具は十を超え、その全てが矢となって衛宮士郎を砕きにかかる。
「く、っ……!!!!」
砂と散った剣を投げ捨て、次弾に備える。
「は、はあ、は――――」
乱れた呼吸を一息で正常に戻す。
息吹が乱れれば投影は出来ず、武器がなければ、この体はたやすく串刺しにされるだけ。
「はっ、づ――――!」
この戦いは、ヤツとの戦いじゃない。
自分の体との戦い、
投影の速度と精度が落ちた時こそ、衛宮士郎が消える時だ。
「は――――そら、休んでいる暇はないぞ!」
「っ……!」
ヤツの声に応じ、見たこともない直刀が切っ先を返す。
ぎちん、と音をたてて装填された宝具《ちょくとう》は、そのまま必殺の速度をもって――――
「――――投影《トレース》……!」
「――――ぐ、づ――――!」
衝撃を殺しきれず、背中から地面に倒れ込む。
咄嗟に横に転がり、態勢を立て直しながら立ち上がる。
「どうした、質が落ちているぞ。わずか一撃で壊れるようでは複製とは言えんな」
……嘲笑う声。
ヤツは明らかに楽しんでいる。
背後にゆらめく宝具を一斉に放てば、俺に防ぐ術などない。
だというのに一本ずつ、こちらの限界を試すように手を抜いている。
「は――――はぁ、は――――」
……だが、今はそれが幸いしている。
いくら遠坂にバックアップして貰っているからといって、相手の武器を見てからの投影は困難すぎた。
似せられるのはカタチだけ。
その内面にある能力までは設計できず、こうして一撃防ぐ度に砕かれる。
「く――あの、ヤロウ、こんなんで、どうやって―――」
アイツに勝てるのは俺だけだとヤツは言った。
だが実際はこの始末だ。
ヤツの宝具を防ぎ、踏み込んで一撃食らわせる事もできない。
二つ。最低でも二つの武器が必要だ。
が、一本でさえこの始末だっていうのに、同時に投影する事なんて出来るものか……!
「どうした。歯ごたえがあるのは口先だけかフェイカー」
転がりまわる俺の姿が気に入ったのか、ヤツはあくまで愉しげだ。
「は――――あ」
……呼吸を整える。
満悦している分にはいい。
それならまだ、未熟な自分にも勝ち目はある――――
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
内界に意識を向ける。
限られた僅かな回路。
そこに、限界まで設計図を並べていく。
……視認できるヤツの宝具は十七個。
その外見から内部構造を読みとり、創作理念を引き出し構成材質を選び出す――――
「ごぶっ―――…………!」
吐血する。
通常一つか二つしか入らない回路に、複数の魔術《せっけいず》を走らせている代償だ。
投影を始めてから神経は傷つき、体は内側から崩壊している。
胃には血が溜まり、食道はポンプのように、血液を外に吐き出させようとする。
「――――憑依経験、共感終了」
それを飲み込んで、工程を押し進める。
干将莫耶ではヤツの宝具は防げない。
アーチャーほどの剣技があれば双剣でも防げるだろうが、俺にそれだけの技量はない。
剣技に劣る俺が宝具を防ぐ方法はただ一つ。
放たれた宝具とまったく同じ宝具をぶつける事で、単純に相殺するしかない――――!
「ふ――――ふう、ふ――――」
魔力ならまだ保つ。
遠坂からの供給は半端じゃない。
……ただ、それを動かす回路自体が、根本から倒壊しかけている。
終わりは近い。
ヤツが本気になった時、同じ数の剣を投影をしなければ生き残れない。
だがそれだけの数を投影すれば、間違いなく、この体は破裂する。
「――――工程完了《ロールアウト》。全投影《バレット》、待機《クリア》」
溢れ出すイメージを保存する。
……外に出ようとする剣は、そのイメージ通り中から体を串刺しにするモノだ。
回路が焼き切れ制御できなくなれば、衛宮士郎は内から突き出される刃によって、それこそ針千本と化す。
「ほう。今度は多いな。十、十五、十七……そうか、目に見える我の宝具を全て複製した訳か」
「な――――に?」
「舐めるな。魔術師の手の内など看破できなくて何が英霊か。おまえに働く魔術の数など、それこそ手に取るように判る」
「――――――――」
その台詞に、不意をつかれた。
千の財宝を所有する英雄王は、視ただけでこちらの魔術を把握するというのか、と。
「では採点だ。
もっとも―――いかに精巧であろうと、一本たりとも世には残さんが」
ギルガメッシュの腕があがる。
「く――――!」
反応が遅れた。
ヤツの言葉に気を取られたその隙が、絶望的なまでに後手――――!
放たれる十七の宝具。
“王の財宝”。その一部が、遊びは終わりだとばかりに雪崩こむ……!
「っ―――停止解凍《フリーズアウト》、全投影連続層写《ソードバレルフルオープン》………!!!」
「は――――ぐ――――!」
体がブレる。
内面から打ち出す剣と、外界から打ち出される剣とが衝突し、衝撃が内と外を震わせる。
「あ――――が――――…………!!!!」
防ぎきれない。
十七個の宝具を投影したところで、自分に出来るのは一本ずつカタチにするだけ。
いかに連続といえ一本ずつしか出せない自分と、
その全てを一斉に放ってくるヤツとでは、初めから火力が違いすぎる――――!
「はは、硝子細工にしてはよく持つが、それもあと数撃か。そら、急いで真似ねば八つ裂きだぞ」
剣戟の向こうで、ヤツの嘲笑う声がする。
敵宝具、残り十二――――!
「しかし、ほとほと愚考よな。
我《オレ》には勝ち得ないと考え、聖杯だけでも取り外す判断は正しい。おまえでは我には敵うべくもない」
「つ――――!」
前面に突きだした指先が焼ける。
自ら放出する魔力と、その寸前で衝突し、弾け合う宝具の熱が、指を容赦なく灼いていく。
残る宝具、あと七つ――――!
「だが、それならばあの男を殺してしまえばよかろう。
聖杯を止めたいのであればシンジを始末する事こそが確実だ。魔術師であるおまえたちならば、あの泥を越えずとも殺しようはあったろう。
――――ふん。だというのにまだ救おうというその偽善、まさに雑種の具現よな――――!」
「あ――――は、あ――――」
……切れる。
回路が、完全に焼き切れる。
足りない。こんな僅かな回路だけじゃ、この男には敵わない――――!
「く――――そ、なん、で…………!」
なぜ防げないのか。
ヤツは勝てると言った。なのに勝負にさえなりはしない。
――――つまり、それは。
衛宮士郎《オレ》は、何かを間違えているという事なのか。
「っ――――あ、あ――――!」
残る宝具、あと三つ。
それを防ぎきるまで体は保つのか。
いや、そうじゃなくて、考えるべき事は俺の剣製と|アイツ《アーチャー》の剣製、その違いがなんなのかと――――
「――――――え?」
瞬間、あらゆる感覚が停止した。
迫り来る残り三つの宝具さえ目に入らない。
黄金のサーヴァントは、一つの剣を取りだしていた。
奇怪な剣。
石柱ともとれるソレを見た時点で、思考が白熱したと言っていい。
「女を救うと言ったな、小僧」
剣の咆哮に乗って、嘲笑う声が響く。
回路に残る三つの魔術《せっけいず》を全て破棄し、全速でヤツの剣を解読《リード》する。
だが。
“――――読め、ない……?”
今まで、それが剣であるのならどんな物だって読みとれたというのに。
あの剣だけは、その構造さえ読みとれ、ない。
「ならば見せて見ろ。その贋作で、一体何が救えるのかを!」
――――風が、断層を作り上げる。
ギルガメッシュの剣から放れた斬風は、自らの宝具さえ蹴散らして衛宮士郎に襲いかかる。
「――――――――」
思考は白いまま。
対抗策など何も考えられず、ただ、残った魔力を叩きつけた――――
◇◇◇
「――――――――いざ」
そうして、剣士はその業物を構えた。
構えらしき物を持たぬアサシンの唯一の構え。
異なる円を描く刃を同時に放ち、敵を四散させる必殺剣。
それを彼女は体験している。
……以前放たれた刃は、敵を囲む円と縦軸しかなかった。
だからこそ彼女は避け、こうして命を繋いでいる。
だが、真のソレは三つの軌跡を持つという。
円を描く線と頭上から股下までを断つ縦の線。……そして恐らくは、左右に逃げる敵を捉える横の線。
この三つが同時に放たれるのならば逃げ場などない。
間合いに入ったが最後、一つの軌跡を受けた瞬間に二つの軌跡が体を四散させる。
左右にも逃れられず、後退したところで長刀は苦もなく逃げる胴を薙ぐだろう。
―――魔剣、燕返し。
サーヴァントすら凌駕する神域の技。
無名の剣士が、その存在全てを懸けて練り上げた究極の一が、ここにある。
長刀が揺れる。
その体が、一足で間合いを詰める。
セイバーを断ち切る距離、
あらゆる守りを許さぬ間合いから、牢獄の如き軌跡が繰り出される――――!
「――――――――」
セイバーは聖剣を使わない。
もとより、この間合いになった時点で宝具など使えない。
いかにセイバーの聖剣が速かろうと、アサシンの燕返しは、それを遙かに上回る。
聖剣に魔力を籠めた時点で彼女の首は跳んでいる。
故に、頼りとなるのは純粋な剣技のみ。
――――円が走る。
二度目だというのにその鋭利さ、迅速さに感嘆し、絶望する。
このような一撃――――果たして、如何なる修練の果てに辿り着くのかと。
「――――――――」
その時、彼女にあったものは戦慄だけだった。
防げるものではない。
この魔剣は、人の身で神仏に挑む修羅の業。
神ならぬ身では防ぐ事も返す事も許されまい。
「は――――――――」
息を呑む。
脳裏には砂粒ほどの微かな閃き。
それが何なのか、それが合っているのかなど考えない。
彼女は、ただ己が直感に全てを賭け、
「あ――――――――!」
全能力を以って、その“勝利”へと疾走した。
その姿を、架空の剣豪はどう取ったのか。
「――――――――ク」
銀の鎧が、腕の隙間をすり抜けていく。
剣士の左腕下、腰と二の腕の間。
その、僅かばかりの隙間こそが、魔剣の死角だと彼女は見抜いたのか。
セイバーは身を丸め、三つの刃で鎧を削がれながらも、その一点のみを突破した。
彼女の予知――――卓越した直感があってこその妙技。
まだ見ぬ魔剣の完成形、不完全ながらも一度燕返しを体験したが故に、その完成図を予知し得た。
―――だが、驚嘆すべきはそんな事ではない。
彼女を生かしたのはその決意。
瞬間に浮かんだ閃きを信じ、刹那の隙間に全ての能力を傾けた。
通れる筈のない隙間、僅かでも遅ければ輪切りにされるという恐れを振り払って地を駆けた。
故に。
真実その決意こそが、かの魔剣を破り去った『強さ』だった。
「ア、ずっ…………――――!」
しかし、勝負はついていない。
燕返しを躱されたところで敵は真横、しかも剣士の抜刀を上回る速度での跳躍だ。
その体勢、容易に直せるものではない――――!
「じゃっ――――――――!」
長刀が翻る。
返す刃は魔剣に至らぬまでも最速。
だが。
振り払われた一撃は、僅かに剣士を上回っていた。
「ぐ――――ぬ」
口元を締める。
堅く唇を閉ざし、倒れぬよう四肢に力を込める。
腑より逆流した血液が口内を満たしたが、決して吐き出すまいと飲み込んだ。
―――剣士の足下には、金の髪をした騎士がいる。
その輝きを五臓六腑《ごぞうろっぷ》の流しものなどで汚すなど、剣士の流儀には存在しない。
「――――――――」
セイバーに言葉はない。
はらり、と金の髪が石段に舞っていく。
……首が付いている事が不思議だった。
……手足が削がれていない事は奇跡だった。
……あの僅かな隙間に身を投じた瞬間、体を四つに断ち切られたと実感した。
差があるとしたら、それだけの差だったのだ。
剣士の長刀。
それがたわんでいなかったのなら、彼の魔剣は生涯無敵であったろうに。
―――大気が鳴動している。
山門の奥。境内では、異なる戦いが今も続いている。
「……………………」
セイバーは何を告げるべきか定まらず、死に体となった剣士を見上げた。
それに、
「――――――――行け」
視線を合わせる事なく剣士は告げた。
その言葉にどれだけの意味が込められていたのか。
セイバーは剣を引き抜き、全速で階段を駆け上がっていく。
立ちつくす剣士に振り返る事もない。
彼女はただ、己が役割を果たす為に駆けていった。
「ふ―――美しい小鳥だと思ったのだがな。その実、獅子の類であった」
呟いて、それも当然、と剣士は笑った。
燕でさえ躱せぬものを躱したのだ。それが愛でるモノである筈がない。
「―――ふむ。女を見る目には自信があったのだが。どちらも修行不足という事か」
一人ごちて、剣士は肩を竦めた。
そのカタチ―――雅《みやび》な陣羽織は、既に色を失っている。
腹を突き破られ、鮮血に濡れた足下さえ希薄。
それを事も無げに見下ろし、さて、と石畳に腰を下ろす。
木々が揺れる。
山頂からの吹き下ろしが雑木林を揺らしていく。
花が散り鳥が消え風が止み、虚空の月さえ翳った頃。
そこにいた筈の剣士は、その存在自体が幻だったかのように、跡形もなく消え去っていた。
◇◇◇
瞬間。
ここまで複製してきた内、最硬の物を前面に展開した。
だが、そんなものは盾にもならない。
乖離剣《かいりけん》。
ヤツの手にした正体不明の剣は風を断ち、都合六つの宝具を粉砕して、俺の体を切断した。
消えていく。
回路は断線していき、遠坂から貰った魔力は行き場をなくして戻っていく。
「く―――――――そ」
不甲斐なさを呪う。
自分が未熟なのは判っていた。それでも今まで一度も思わなかった事を、心の底から罵倒した。
なぜ、俺の回路《まりょく》はこれだけなのか。
もう少し多く。
もう少し多く、あの闇の先に手が伸ばせたのなら、アイツのように、戦って――――
――――地面に落ちる。
衝撃を殺しきれず、何十メートルと吹き飛んで、背中から地面に落ちた。
落下による痛みはない。
そんな感覚はもう残っていない。
この意識さえ、白く洗浄されていく。
……死に行く直前。
最後に思った事は、よく手足がついているな、という驚きだけだった。
「そこまでか。やはり偽物は偽物だったな。おまえでは何も救えない」
……鼓動が小さくなっていく。
肺は動かず、呼吸をする為の気管は、そのどれもが固まっていた。
「これならばアーチャーが残った方が楽しめた。
ヤツも贋作者だったが、その理念は俗物ではなかったからな」
何も見えないのは、目が壊れたからではないらしい。
今はただ、中がグチャグチャで、人間としての機能を忘れている。
それは幸いと言えた。
なにしろ痛みさえ忘れているんだから、このまま放っておけば、簡単に死ぬことが―――
「―――ああ。そう言えばヤツも言っていたな。おまえの理念は借り物だと。自身から生み出したモノが一つとしてない男が何かを成そうなどと、よくも思い上がれたものだ」
―――それは、できない。
このまま正気に戻れば痛みで発狂するとしても、意識を取り戻して立て、と。
深い所に根付いた自分が、あの場所を指して言っている。
「正義の味方? 誰も傷つかない世界だと?
おかしな事を。誰も傷つかず幸福を保つ世界などない。
人間とは犠牲がなくては生を謳歌できぬ獣の名だ。平等という綺麗事は、闇を直視できぬ弱者の戯言にすぎぬ。
―――雑種。おまえの理想とやらは、醜さを覆い隠すだけの言い訳にすぎん」
「――――――――」
……動かない筈の腕を、上げた。
倒れた体と、死に至る直前の意識。
何かを掴むようにあげられた片腕は、あの日の、灰色の空と同じだった。
……何がおかしいのか、誰かが笑っている。
耳を覆う高笑いは、世界中の人間の、笑い声のようでもあった。
偽物の願い。
借り物の理想。
そのユメは叶わないと蔑む誰か。
……そう、その通りだ。
この思いは借り物。
誰かを助けたいという願いが、キレイだったから憧れただけ。
故に、自身からこぼれおちた気持ちなどない。
この身は誰かの為にならなければならないと、呪いのような強迫観念に、ずっとつき動かされてきた。
だから偽物。
そんな偽善は結局何も救えない。
もとより、何を救うべきかも定まらない。
だが。
だが、それでも美しいと感じたんだ。
これは自分から生じたものじゃない。
誰かを救う誰かの姿を見て真似ただけの飾り物だ。
あの時、自分の裡《なか》は空っぽだった。
誰もが平等に死んで、自分では誰一人救えなかった。
人間なんてそんなものだと諦めるしか、目の前の恐怖を抑えられなかった。
――――だから。
だからこそ、その理想に憧れた。
自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。
いけないのか。
自分の気持ちではないから、それは偽物なのか。
偽物だから、届いてはいけないのか。
――――違う。それはきっと、違うと思う。
「あ――――――――ぁ」
偽物でもいい。
叶えられない理想でも叶えるだけ。
もとより届かないユメ、はや辿り着けぬ理想郷。
―――なら、衛宮士郎が偽物だとしても。
そこにある物だけは、紛れもない本物だろう。
「―――そうだ。そんなこと、とっくに」
全てを救う事はできないと。
誰かが犠牲にならなければ救いはないと、解っている。
大人になったから、それが現実なのだと理解してる。
その上で、そんなものが理想にすぎないと知った上で、なお理想を求め続けた。
傷ついて終わり、ではなく。
多くを救う為に傷つけて、それが最善であっても、それでも―――誰も傷つかない幸福を求め続ける。
正義などこの世にはない、と。
現実とは無価値に人が死に続けるものだと。
そんな悟ったような諦め《言葉》が、正しいとは思えない……!
その果てに、ヤツはここに辿り着いた。
[#挿絵(img/A37.JPG)入る]
おまえが信じるもの。
おまえが信じたもの。
その正体が偽善だと男《ヤツ》は言った。
それでも、そう言った男こそが、最期までその偽善を貫き通したのだ。
……ならやっていける。
借り物のまま、偽物のままでも構わない。
だいたい、そんな事を気にするほど複雑な感情はもっちゃいない。
そう、剣の丘で独り思った。
自分に見える世界だけでも救えるのなら、その為に戦おうと。
こんなこと、考えるまでもなかったんだ。
狭窄な自分の世界。
もとより自分《オレ》が生み出せるのは、この小さな“世界”だけなんだから――――
――――そう。
この体は、硬い剣で出来ている。
……ああ、だから多少の事には耐えていける。
衛宮士郎は、最後までこのユメを張り続けられる。
……磨耗しきる長い年月。
たとえその先に。
求めたものが、何一つないとしても。
「―――なんだ、それだけの事じゃないか!」
「っ――――!?」
体を起こす。
意識が戻った途端、手足は言うコトを聞いてくれた。
勢いよく起きあがった体はまだ動く。
あの剣の一撃を受け、生きているばかりか立ち上がれる事が不可思議だが、そんな事はどうでもいい。
助かったというのなら、何か助かる理由があったのだ。
単にそれが、俺の預かり知らぬ物であっただけ。
「直前に盾を敷いたのか……? 出し惜しんだとは言え、致命傷だった筈だが。
―――存外にしぶといな、小僧」
「出し惜しみ……? は、そんだけ山ほど持っておいて、今更なにを惜しむってんだ」
呼吸を整えながら距離を保つ。
やり方は判った。
遠坂のバックアップがあるんなら、きっと出来る。
問題は詠唱時間だ。
一応暗記したとは言え、どれだけ速く自身に働きかけられるかは、やってみないと判らない――――
「――――ふん。今のは覇者にのみ許された剣だ。
興が乗った故見せてやったが、本来雑種などに使うモノではない。
エアと打ち合う権利を持つ者はセイバーだけだ。
おまえのような偽物に使っては、セイバーに合わせる顔がない」
無数の宝具か出現する。
が、それは全て三流だ。
先ほどの剣を見た後だと、格の違いは明白すぎる。
かといって楽観できるものではない。
本来、衛宮士郎を殺すにはそれで十分すぎる。
―――実力差は変わらない。
あの一撃から奇蹟の生還を遂げたところで、投影魔術を武器にする衛宮士郎では、あのサーヴァントに敵うべくもない。
「ほう、真似ごとはおしまいか。ようやく無駄と判ったらしい。
―――ならば潔く消えるがいい。偽物を造るその頭蓋、一片たりとも残しはせん――――!」
中空に浮かぶ宝具が繰り出される。
それを、
「シロウ……!」
俺たちの間に割って入った、青い突風が蹴散らした。
「セイバーか……!」
咄嗟に後方に跳ぶギルガメッシュ。
いかにヤツとて、セイバーだけは警戒している。
こと剣技で劣るヤツにすれば、セイバーとの白兵戦は避けたいのだろう。
「―――良かった。無事ですか、シロウ。
遅くなりました。後は私が受け持ちます。シロウは離れて―――」
「いや。ギルガメッシュは俺一人でなんとかできる。離れるのはそっちだ、セイバー」
「な―――――」
「――――に?」
「な、なにを言うのですシロウ……!
その体で彼の相手をすると? いえ、そもそも魔術師ではサーヴァントには太刀打ちできない。それは貴方もよく知っているでしょう……!」
「ああ。けど俺とアイツだけは例外だ。信じろ。
俺は、きっとあいつに勝てる」
……息を呑むセイバー。
セイバーは俺の言葉を信じるからこそ、その事実に目を点にしている。
「セイバーは境内の裏に急いでくれ。遠坂が一人で聖杯を止めてる。けど、アレを壊せるのはセイバーだけだ」
「――――――――」
数秒……いや、実際は一秒もなかっただろう。
彼女は一度だけ深く目蓋を閉じたあと、
「ご武運を。―――凛は、私が必ず」
一番言って欲しい事を口にして、ギルガメッシュから身を退いた。
銀の甲冑が背を向ける。
「セイバー」
その背中を、一度だけ呼び止めた。
「―――おまえを救う事が、オレにはできなかった」
そうして言った。
俺が彼女と過ごした時間、ヤツが彼女を思っていた時間を、せめて代弁できるように。
「あの聖杯はおまえが望んでいる物じゃないと思う。
……だからよく見極めておくんだ。次は、決して間違えないように」
「――――シロウ?」
「……ごめん。うまく言えない。俺はおまえのマスターには相応しくなかったんだろう。
だから――――」
おまえの本当の望みを、見つけてやる事さえ出来なかった。
「そんな事はない。シロウは、私のマスターだ」
「―――セイバー」
「サーヴァントとして責務を果たしてきます。伝えたい事は、その後に」
振り返らずに走っていく。
颯爽としたその姿は、一陣の風のようだった。
セイバーは去っていった。
疑いなど微塵もなく、ヤツに勝つと言った俺の言葉を信じて、遠坂を救いにいった。
――――さあ、行こう。
ここから先に迷いなどない。
あとはただ、目前の敵を打ち倒すだけ。
「ふ――――はは、はははははは!!!!!」
「正気か貴様? ただ一つの勝機を逃し、あの小娘を助けさせるだと?
―――たわけめ、自らを犠牲にする行為など全て偽りにすぎぬ。それを未だ悟れぬとは、筋金の入った偽善者だ。
ああ、それだけは讃えてやろう、小僧」
宝具が展開される。
―――数にして三十弱。
防ぎきるには、もはや作り上げるしかない。
「……贋作、偽善者か。ああ、別にそういうのも悪くない。たしかに俺は偽物《フェイカー》だからな」
片手を中空に差し出す。
片目を瞑り、内面に心を飛ばす。
「ぬ―――?」
「……勘違いしてた。俺の剣製っていうのは、剣を作る事じゃないんだ。そもそも俺には、そんな器用な真似なんてできっこない」
そう。
遠坂は言っていた。もともと俺の魔術はその一つだけ。
強化も投影も、その途中で出来ている副産物にすぎないと。
「……そうだ。俺に出来る事は唯一つ。自分の心を、形にする事だけだった」
ゆらり、と 前に伸ばした右腕を左手で握りしめ、ギルガメッシュを凝視する。
「――――I am the《体は》 bone《剣で》 of m《出来ている》y sword.」
その呪文を口にする。
詠唱とは自己を変革させる暗示にすぎない。
この言葉は、当然のように在《あ》った、衛宮士郎を繋げるモノ。
「そうか。世迷い言はそこまでだ」
放たれる無数の宝具。
――――造る。
片目を開けているのはこの為だ。
向かってくる宝具を防ぐ為だけに、丘から盾を引きずり上げる――――!
「ぐ――――!」
乱打する剣の群。
盾は衛宮士郎自身だ。
七枚羽の盾がひび割れ、砕かれるたびに体が欠けていく。
「―――Steelismyb《血潮は鉄で》ody,and fireism《心は硝子》yblood」
導く先は一点のみ。
堰を切って溢れ出す力は、瞬時に衛宮士郎の限度を満たす。
「な――――に?」
驚愕は何に対してか。
たった一枚の盾をも突破できぬ自らの財宝に対してか、それとも――――目前に奔る魔力の流れにか。
「―――I have created o《幾たびの戦場を越えて不敗》ver athousand blades.
Unaware of lo《ただ一度の敗走もなく、》ss.
Nor aware of《ただ一度の勝利もなし》 gain」
壊れる。
溢れ出す魔力は、もはや抑えが効かない。
一の回路に満ちた十の魔力は、その逃げ場を求めて基盤を壊し――――
「―――突破出来ぬ、だと―――? 」
血が逆流する。
盾は、もう所々虫食いだらけだ。
今までヤツの宝具が届かなかったにせよ、その時点で衛宮士郎の体は欠けている。
それでも――――
「―――Withstood pain to cr《担い手はここに孤り。》eate weapons.
waiting for one's 《剣の丘で鉄を鍛つ》arrival」
魔力は猛り狂う。
だが構わない。
もとよりこの身は『ある魔術』を成し得る為だけの回路。
ならば先がある筈だ。
この回路で造れないのなら、その先は必ずある。
……いや、今だってそれはある。
ただ見えない[#「見えない」に丸傍点]だけ。
回路の限度など、初めからなかったのだ。
せき止めるものが壁ではなく闇ならば。
その闇の先に、この身体《かいろ》の限度がある――――
「――I have no《ならば、》 regrets.This《我が生涯に意味は》 is《不要ず》 the only path」
一の回路に満ちた十の魔力は、その逃げ場を求めて基盤を壊し―――百の回路をもって、千の魔力を引き入れる。
「―――Mywholelif《この体は、》ewas“unlimited blade 《無限の剣で出来ていた》works”」
真名を口にする。
瞬間。
何もかもが砕け、あらゆる物が再生した。
――――炎が走る。
燃えさかる火は壁となって境界を造り、世界を一変させる。
後には荒野。
無数の剣が乱立した、剣の丘だけが広がっていた。
「――――――――」
その光景は、ヤツにはどう見えたのか。
黄金のサーヴァントは鬼気迫る形相で、目前の敵と対峙する。
「……そうだ。剣を作るんじゃない。
俺は、無限に剣を内包した世界を作る。
それだけが、衛宮士郎に許された魔術だった」
荒涼とした世界。
生き物のいない、剣だけが眠る墓場。
直視しただけで剣を複製するこの世界において、存在しない剣などない。
それが、衛宮士郎の世界だった。
固有結界。
術者の心象世界を具現化する最大の禁呪。
英霊エミヤの宝具であり、この身が持つただ一つの武器。
ここには全てがあり、おそらくは何もない。
故に、その名を“無限の《アンリミテッド》剣製《ブレイドワークス》”
生涯を剣として生きたモノが手に入れた、唯一つの確かな答え―――
「―――固有結界。それが貴様の能力か……!」
一歩踏み出す。
左右には、ヤツの背後に浮かぶ剣が眠っている。
「驚く事はない。これは全て偽物だ。
おまえの言う、取るに足らない存在だ」
両手を伸ばす。
地に刺さった剣は、担い手と認めるように容易く抜けた。
「だがな、偽物が本物に敵わない、なんて道理はない。
おまえが本物だというなら、悉《ことごと》くを凌駕して、その存在を叩き堕とそう」
前に出る。
目前には、千の財を持つサーヴァント。
「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は十分か」
「は――――思い上がったな、雑種――――!」
敵は“門”を開け、無数の宝具を展開する。
荒野を駆ける。
異なる二つの剣群は、ここに、最後の激突を開始した。
◇◇◇
「なんだ、アレは――――」
境内を迂回し、池に辿り着いた彼女《セイバー》が見たものは、巨大な肉塊だった。
彼女とて並みの騎士ではない。
英雄と呼ばれていた時代、様々な幻想種《かいぶつ》と戦う事も少なくはなかった。
最強の幻想種と謳われる『竜種』とさえ、剣を合わせた事もある。
その彼女が、あの肉塊には怯むしかなかった。
醜さからではない。
あのカタチ―――あの肉塊から放たれる呪いと、あの肉塊そのものが、自分と同じだと直感した為に。
「サーヴァント―――召喚を間違えれば、サーヴァントとはあそこまで変わるものなのか」
それとも、それが聖杯の力なのか。
彼女は呆然と肉塊を見据え、咄嗟にかぶりをふった。
「凛……! 何処にいるのです、凛……!」
池に駆け寄り、対岸の肉塊に声を上げる。
池の中、黒い泥に足を入れる事は躊躇われた。
不快だからではない。
半霊体であるサーヴァントは、コレに触れてはならないと彼女の予知が告げているのだ。
「――――!?」
呼び声がする。
微弱だが確かに、マスターからの命令が届いている。
彼女は目を凝らして肉塊の様子を探り――――
「凛……!?」
その状況に、迷わず足を踏み出した。
『―――待った……! ダメ、セイバーは入ってこないで……!』
「っ……!」
セイバーの体が止まる。
踏みだしかけた足を引き、彼女は剣を構えたままで肉塊を凝視する。
「凛、ですが……!」
『いいからダメ……! その泥に触れたら貴女だってこうなるわよ。いいから、セイバーはそこで宝具の準備をして。この塊はもうすぐ弾けるわ。その前に宝具でぶった切っちゃって……!』
緊迫した主の声に、セイバーは頷く事が出来ない。
……あの肉塊が羽化しようとしているのは判る。
蠢動は鼓動に変わり、がふり、と吐き出す泥の量は増え続けている。
池は黒く濁りきり、黒い泥は地面に溢れ出している。
……つまり、成長しているのだ。
あんなものをこのままにしておけば、それこそ抑止力が発動する。
その前に聖剣を以って破壊するのは当然だ。
だが―――それには。
「凛、外に……! 池にさえ出てしまえば、あとは私が―――!」
『……よね。オッケー、任せた。けど、もし間に合わなかったら、間に合う方をとって。
……セイバーとの契約は切れちゃうけど、士郎が無事ならなんとかなるでしょ』
「馬鹿な事を……! 構いません、何に変わろうがこのような呪い、蹴散らして――――」
肉塊を目ざし、黒い泥へ走り込むセイバー。
が、その体はどうしても動かない。
池に近づこうとするだけで、彼女の体は停止するのだ。
「凛、令呪を――――」
『……当然でしょ。聖杯を壊せる唯一の人材を、むざむざ死なせる訳にはいかないもの。
それに心配無用だってば。この程度、簡単に振り切って逃げ出すから。セイバーはそこで、大船に乗ったつもりで聖剣の準備をしてなさい』
命じてくる思念は、いつもと同じ余裕に満ちた物だった。
「――――凛」
だが、それが強がりである事は言うまでもない。
―――対岸の肉塊。
そこにいる彼女のマスターには、とうに逃げ道などないのだから。
「―――なんてね。まあ、言うは易しってヤツだけど」
奇怪な肉の腕に囲まれながら、ぽつりと彼女は呟いた。
―――状況は、一言で言えばお話しにならない。
間桐慎二は救えた。
……全身に融け込んだ血管やら神経やら、無理矢理引きちぎって肉塊から取り出した。
後遺症に目を瞑れば、十分に“生きている”というレベルだろう。
いや、気を失って昏倒する姿は、彼を担いでいる彼女より健康とも言えた。
「……問題はその後か。そりゃあ心臓とられちゃ暴れるわよね。慎二を返せば見逃してくれるかな、コレ」
蠢く無数の触手を見据えながら、少しずつ外へと移動する。
だが出口などない。
池に出る為のルートには、既に触手によって網が張られている。
巻き付き、肉塊に取り込もうとする触手たちをやりすごしたところで、壁と化したアレは突破できないだろう。
「っ……まず、力、が」
肩に支えた間桐慎二ごと倒れそうになり、懸命に持ちこたえる。
呪いの海を越えて肉塊の浮島に渡り、間桐慎二を肉塊から引き離す為に神経手術まで行った。
その時点で、彼女の魔力は長年使っていなかった予備タンクにまで突入したのだが――――
「……く……もう、あのバカ。遠慮なしで人の魔力もってくんだから。……おかげで、こっちはもうすっからかん、じゃない……」
目眩を堪えて、そんな文句を言ってみる。
もちろん本気ではない。ただ言ってみただけだった。
それに、魔力が残っていたところで変わらないのだ。
彼女を取り囲む触手たちは、獲物が大人しいからこそ停止している。
体内に侵入したモノが毒と判れば、即座に行動に移るだろう。
遠坂凛と間桐慎二が無事なのは、彼女にエサとしての魔力が残っていなかったからである。
「……っ……けど、ここまで、かな……いい加減、立ってるのも辛く、な――――」
視界が霞む。
足場があるとは言え、ここも泥の上である事は変わらない。
彼女の神経は秒単位で熱に侵されている。
そうして肉の台地に倒れ込めば、ずぶずぶと音をたてて、今度は彼女自身が聖杯の核となるだろう。
――――その前に。
「……ごめんねセイバー。言うこときかないだろうから、無理矢理聞かせる」
残った令呪は二つ。
それだけあれば、対岸で待機するセイバーに聖剣を使わせる事ができる。
「っ…………あと、アンタにも謝っとかないと。
慎二、助けられ、なかっ――――」
“いいから走れ。そのような泣き言、聞く耳もたん。”
「――――え?」
倒れかけた体が止まる。
その声。
耳ではなく心に伝えてくる思念は、間違いなく、彼女と契約したサーヴァントのものではなかったか。
「ちょっ――――」
戸惑っている暇はない。
彼女は、その相手の性格をよく知っている。
走れと言ったからには、そいつはもう走らないと間に合わないコトをしでかしたのだ―――!
「っ…………!!!!!!」
走り抜ける。
上空より降りそそぐ矢はまさに豪雨、
肉の触手だろうが網だろうが台地だろうが、彼女の行く手を阻む全てを粉砕する――――!
「あ、くっ――――!」
振り返る余裕などない。
彼女は間桐慎二を抱えたまま、全力で走り抜けた。
「っ――――!」
池に飛び込む。
彼女の逃げ道になるであろうそこは、矢によって一掃されていた。
ほんの僅かな時間ではあるが、黒い泥は弾かれ、汚れた水だけが岸へと続いている。
「はっ、は――――!」
間桐慎二を抱えたまま池を走る。
自分でも呆れるぐらいの底力で、もうぐちゃぐちゃに濡れながら岸まで走る。
「セイバー、お願い……!」
叫ぶ声を、彼女の魔力が受け止める。
もはや確かめるまでもない。
振り上げられた黄金の剣は、その圧倒的な火力を以って目前の全てを薙ぎ払う。
両断され、倒壊していく肉の山。
黒い泥は蒸発し、光の帯は池そのものを、真っ平らな荒野へと変えていく。
「――――――――」
何もかも消していく光の奔流。
その中で、彼女はその姿を探していた。
赤い外套。
彼女が一番初めに契約し、最後にその責務を果してくれた、もう一人の騎士の姿を。
◇◇◇
「はっ――――!」
繰り出される長刀に長刀を合わせる。
互いの剣は相殺し、大気に破片をまき散らす。
「おのれ、調子に――――」
ヤツの背後に曲刀の柄が出現する。
「乗るなというのだ、小僧――――!」
より速く、
足元の曲刀を抜き、一文字に薙ぎ払う―――!
「っ――――!」
後退するギルガメッシュ。
その間合いに踏み込み、すぐさま剣を引き抜き一閃する。
「ぐっ、何故だ……!
何故打ち負ける、雑種の剣に……!」
矢継ぎ早に現れる宝具に剣を合わせる。
「はぁ――――はぁ、はぁ、はぁ、は――――!」
何も考えていない。
体も心も立ち止まれば止まる。
だから前に進むだけだ。
ヤツの宝具を見た瞬間、手元に同じモノをたぐり寄せ、渾身の力で打倒する――――!
「馬鹿な―――押されているのか、この我《オレ》が、このような贋作に……!?」
「ふっ、は――――!」
剣戟が響き渡る。
ヤツは俺の一撃を捌ききれず、その宝具を相殺させる。
―――それが、ヤツの敗因になる。
千を超える宝具を持ち、その全てを扱うギルガメッシュの器の大きさは、紛れもなく英霊の中でも頂点に位置するものだ。
だが、ヤツはあくまで“持ち主”にすぎない。
たった一つの宝具しか持たぬが故、それを極限まで使いこなす“担い手”ではない。
相手が他のサーヴァントなら、こんな世界を造ったところで太刀打ちできない。
無限の剣を持ったところで、究極の一を持った敵には対抗できない。
ギルガメッシュにはあるのだろうが、それだけの身体能力が俺にはない。
故に―――俺が肉薄できる相手《サーヴァント》はこの男のみ。
同じ能力、同じ“持ち主”であるのなら、既に剣を用意している俺が一歩先を行く……!
「おのれ――――おのれ、おのれおのれおのれおのれおのれ……!!! 貴様風情に、よもや我《オレ》の剣を使うことになろうとは……!」
ギルガメッシュの腕が動く。
その背後に現れた剣の柄は、ただ一つこの世界に存在しないあの魔剣――――!
「させるか――――!」
「がっ――――!?」
走る双剣。
咄嗟にたぐり寄せた干将莫耶は、剣を掴もうとしたヤツの腕を切断する――――!
「な――――」
剣戟が止まる。
片腕を失い、愛剣さえ取り落としたヤツは完全に無防備だった。
「は、あ――――!」
思考より先に体が動く。
勝利を確信した手足は、なお鋭く英雄王へと踏み込み、その体を両断する――――!
「―――――――っ」
跳び退く体。
渾身の双剣を紙一重で躱し、ギルガメッシュは更に後退する。
「く―――今はおまえが強い……!」
この場での敗北を認め、ギルガメッシュは離脱する。
「逃が――――」
させない。
冷静に戻られては負ける。勝負はここで、この熱が冷めないうちに付けなくては――――!
「すかってんだ、このヤロウ――――!」
「チィ―――――!」
避けられぬと悟ったのか、ヤツは残った腕で背後から宝具を引き出す。
だがこちらが速い。
その間に、今度こそ――――
「――――――――え?」
「なに―――――――?」
声が重なる。
その異変は、一瞬だった。
背後―――池の方から走り抜けた閃光が、剣の丘を消していく。
強大な魔力が、消えかけていた固有結界を消し飛ばしたのだ。
――――それはいい。
勝負はついている。
この手の双剣を振るうだけで、このサーヴァントを打倒できる。
だがその後。
黒い孔《あな》。
人間一人を飲みこめるほどの丸い孔《あな》が、
俺の目前――――ギルガメッシュの体に、現れていた。
「な――――に?」
愕然と、ギルガメッシュは自らの体を見下ろす。
……その体が、めくれていく。
黄金のサーヴァントは、自らに空いた穴に、内側から飲まれていた[#「内側から飲まれていた」に丸傍点]。
「待――――」
待て、と言いたかったのか。
孔は容赦なくサーヴァントを飲み込んだ。
……逃れる術などなかっただろう。
なにしろ孔はヤツ本人に空いていたのだ。
自分に空いたモノから逃げる事など出来よう筈がない。
「――――今のは、一体」
呆然と立ちつくす。
目前の孔は刻一刻と小さくなっていく。
……これがなんなのかは判らない。
ただ、遠坂たちは聖杯を壊せたようだ。
その影響でこの黒い孔が現れ、ヤツは消え去ったとしか考えられない。
「…………はあ。ともかく、これで」
全て、終わったんだ。
双剣が消える。
体を占めていた魔力は急速に薄れていき、同時に、
「あ――――やば」
疲れという疲れが一気にやってきた。
「……くそ。まずいな、これじゃ歩けない」
今すぐ遠坂の様子を見に行きたいのに、体が動かない。
……まあ、セイバーが行ってくれたんだから今頃ぴんしゃんしてるとは思うんだけど。
「――――そうだな。こっちも、少しは」
休んでいいのかもしれない。
そうして、ほう、と大きく呼吸をした時。
「なっ――――!?」
一本の鎖が、俺の腕に巻き付いた。
「っ…………!」
呼吸が止まる。
腕に絡みついた鎖は容赦なく俺を、あの黒い孔へと引きずり寄せる……!
「あ、く……!」
手足に力を入れるも、まるで抵抗できない。
踏ん張った足は地面ごと、ズルズルとあの孔へと近づいていく……!
「く――――あの頭《のう》無しめ、同じサーヴァントでは核にならんとさえ判らぬか…………!」
「おまえ……!」
孔《あな》から這い出たソレは、紛れもなくヤツだった。
だが―――その体は所々が溶解している。
あの孔は、取り込んだものを融かしていくのか……!
「く、この……!」
鎖を引きはがそうとするがビクともしない。
これはバーサーカーさえ拘束した鎖だ。俺がどうあがいたところで外せる物じゃない……!
「あ、ぐ――――」
引き込まれていく……!
このままあの孔に近づけば、俺もヤツと同じように飲み込まれる……!
「くそ、道連れにするつもりか……!」
「たわけ、死ぬつもりなど毛頭ないわ……!!
踏み留まれ下郎、我《オレ》がその場に戻るまでな!」
「こいつ……!」
この期におよんでまだそんな王様発言を……!
「ぁ――――く、まず――――」
だが、どうする。
鎖はどうやっても外れない。
このままだとヤツもろとも孔に落ちる。
もし持ち堪えられたとしても、その時はヤツがこの場に戻ってしまう。
どちらにせよ、俺の命はないという事――――
「っ……、は――――」
目眩がする。
体はもう踏ん張っていられない。
……死ぬ。
最後の最後で、耐えられなかった。
なら、どうせ耐えられないのなら、力を抜くべきか。
そうすれば少なくとも、ヤツをもう一度あの孔にたたき込め――――
「―――って、舐めるな……! こんなコトで道連れになんてされてたまるか……!」
萎えかけた手足を奮い立たせる。
この腕が千切れるのが先か、ヤツの鎖が千切れるのが先か、それとも、ヤツが這い出てくるのが先か。
どっちだっていい。こうなったら最後の最後まで全力で抗って、派手に散ってやろうじゃないか……!
“……ふん。おまえの勝手だが、その前に右に避けろ”
「え?」
咄嗟に振り向く。
視線は遠く、荒野となった境内へと向けられる。
――――すれ違うように、何かが通り過ぎた。
「貴様――――――――アー、チャー」
……鎖が外れる。
ヤツは、最後に。
意外なものを見たような顔で、天の鎖を放していた。
「――――――――」
尻餅をつく。
呆然とする俺の前で、孔《あな》は手の平ほどの大きさまで縮み、やがて消え去っていった。
「今、のは――――」
立ち上がる事も出来ず、背後の荒野に視線を移す。
――――夜明けが近い。
昇りかけた日を背にしているのは、赤い外套をまとった騎士だった。
「あい、つ――――格好、つけやがって」
つい文句が口に出る。
けれど、呟く口元は自分でも仕方がないぐらい、嬉しげに笑っていた。
「――――ふん。まあ、言いたいコトは」
俺にはないし、いい加減眠らせてほしいから黙っていよう。
一面の荒野となった黄金の大地。
そこに佇む騎士と、そいつめがけて駆けていく遠坂の姿を認めて、背中から地面に寝ころんだ。
告げるべき言葉は、遠坂が代わりに告げてくれる筈だ。
―――だから、今は眠ろう。
顔を合わせればまたケンカになるだろうし、自分自身に別れを告げる事なんて慣れていない。
……そうして、最後にもう一度。
忘れぬよう自分の理想を眼に焼き付けて、ゆっくりと目蓋を閉じた。
◇◇◇
踏みしめる大地は、いつか見た荒野に似ていた。
あたりには何もない。
何もかも吹き飛んだ山頂には、もう、余分な物など何もなかった。
――――戦いは、終わったのだ。
聖杯を巡る戦いは終幕が過ぎ、彼の戦いもまた、ここに幕を閉じようとしていた。
それがどのくらい長かったのかなど、彼には判らない。
ただ、永遠に自己を縛り付けるであろう積念が、今は無い。
終わりはただ速やかに浸透し、この時代に現れた彼の体を透《と》かしていく。
「アーチャー……!」
呼びかける声に視線を向ける。
走る余力などないだろうに、その少女は息を乱して駆けてくる。
それを、彼は黙って見守った。
「はあ、はあ、はあ、は…………!」
彼の元まで走り寄った少女は、乱れた呼吸のまま騎士を見上げる。
―――風になびく赤い外套に、見る影はなかった。
外套は所々が裂け、その鎧もひび割れ、砕けている。
存在は希薄。
以前のまま、出会った時と変わらぬ尊大さで佇む騎士の体は、その足下から消え始めていた。
「アー、チャー」
遠くには夜明け。
地平線には、うっすらと黄金の日が昇っている。
「残念だったな。そういう訳だ、今回の聖杯は諦めろ凛」
特別言うべき事もないのか。
赤い騎士はそんな、どうでもいい言葉を口にした。
「――――――――」
それが、少女には何より堪えた。
今にも消えようとするその体で、騎士は以前のままの騎士だったのだ。
信頼し、共に夜を駆け、皮肉を言い合いながら背中を任せた協力者。
振り返れば「楽しかった」と断言できる日々の記憶。
――――それが、変わらず目の前にあってくれた。
この時、最後の瞬間に自分を助ける為に、残っていてくれたのだ。
主を失い、英雄王の宝具を一身に受けた。
現界などとうに不可能な体で、少女に助けを求める事なく、彼女たちの戦いを見守り続けた。
その終わりが、こうして目の前にある。
「アーチャー」
何を言うべきか、少女には思いつかない。
肝心な時はいつだってそうなのだ。
ここ一番、何よりも大切な時に、この少女は機転を失う。
「く――――――――」
騎士の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
そんな事は、初めから知っていた。
赤い騎士にとって、少女のその不器用さこそが、何よりも懐かしい思い出だったのだから。
「―――な、なによ。こんな時だってのに、笑うことないじゃないっ」
むっと、上目遣いで騎士を見上げる。
「いや、失礼。君の姿があんまりにもアレなものでね。
お互い、よくもここまでボロボロになったと呆れたのだ」
返してくる軽口には、まだ笑みが残っている。
「――――――――」
その、何の後悔もない、という顔に胸を詰まらされた。
いいのか、と。
ここまま消えてしまって本当にいいのか、と思った瞬間、
「アーチャー。もう一度わたしと契約して」
そう、言うべきではない言葉を口にした。
「それは出来ない。凛がセイバーと契約を続けるのかは知らないが、私にその権利はないだろう。
それに、もう目的がない。私の戦いは、ここで終わりだ」
答えには迷いがなく、その意思は潔白だった。
晴れ晴れとした顔は朝焼けそのもので、それを前に、どうして無理強いする事ができるだろう。
「……けど! けど、それじゃ。
アンタは、いつまでたっても―――」
救われないじゃないの、と。
言葉を飲み込んで、少女は俯いた。
それは彼女が言うべき事でもなく、仮に騎士をこの世に留めたところで、与えられる物ではないのだから。
「―――まいったな。この世に未練はないが」
この少女に泣かれるのは、困る。
彼にとって少女はいつだって前向きで、現実主義者で、とことん甘くなくては張り合いがない。
その姿にいつだって励まされてきた。
だから、この少女には最後まで、いつも通りの少女でいてほしかった。
「――――――――凛」
呼びかける声に、少女は俯いていた顔をあげる。
涙を堪える顔は、可愛かった。
胸に湧いた僅かな未練をおくびにも出さず、遠くで倒れている少年に視線を投げ、
「私を頼む。知っての通り頼りないヤツだからな。
―――君が、支えてやってくれ」
他人事のように、騎士は言った。
それは、この上ない別れの言葉だった。
……未来は変わるかもしれない。
少女のような人間が衛宮士郎の側にいてくれるのなら、エミヤという英雄は生まれない。
そんな希望が込められた、遠い言葉。
「―――――――アー、チャー」
……けれど、たとえそうなれたとしても、それでも―――既に存在してしまっている赤い騎士は、永遠に守護者で有り続ける。
彼と少年は、もう別の存在。
スタート地点を同じにしただけの、今ここにいる少年と、少年が夢見た幻想だった。
「――――――――っ」
……もう、この騎士に与えられる救いはない。
既に死去し、変わらぬ現象《カタチ》となった青年に与えられる物なんてない。
それを承知した上で、少女は頷いた。
何も与えられないからこそ、最後に、満面の笑みを返すのだ。
私を頼む、と。
そう言ってくれた彼の信頼に、精一杯応えるように。
「うん、わかってる。わたし、頑張るから。アンタみたいに捻くれたヤツにならないよう頑張るから。きっと、アイツが自分を好きになれるように頑張るから……!
だから、アンタも――――」
―――今からでも、自分を許してあげなさい。
言葉にはせず。
万感の思いを込めて、少女は消えていく騎士を見上げる。
――――それが、どれほどの救いになったのか。
騎士は、誇らしげに少女の姿を記憶に留めたあと。
「答えは得た。大丈夫だよ遠坂。オレも、これから頑張っていくから」
[#挿絵(img/237.JPG)入る]
ざあ、という音。
騎士は少女の答えを待たず、ようやく、傷ついたその体を休ませたのだ。
「――――ふんだ。結局、文句言い損ねちゃったじゃない」
ぐい、とこみ上げた涙を拭って、もういない彼に話しかける。
その声は清々しく、少女はいつもの気丈さを取り戻していた。
それも当然。
あんな顔をされては落ち込んでいる暇などない。
騎士が立っていた荒野に別れを告げて、少女は倒れた少年の元へ駆けていく。
―――黄金に似た朝焼けの光の中。
消えていった彼の笑顔は、いつかの少年のようだった。
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epilogue.
―――朝が近い。
閉じた目蓋、眠りについたままの意識で、夜の終わりを感じていた。
残っているのは、心地のいい気怠さだけ。
手は剣を握れないほど疲れきっていて、体には一絞りの魔力も残っていない。
正直に言ってしまえば、衛宮士郎は燃え尽きていた。
「――――――――、あ」
だが、それは悔いの残る終わりじゃない。
とりあえず今の自分で出来る事―――やるべき事をキチンと終わらせた達成感がある。
燃え尽きているのは今だけの話だ。
休息をとった体は少しずつ脈打ち始め、じき、新しい朝を迎えようとウズウズしている。
「――――――――」
意識が鮮明になっていく。
灰色だった頭は微睡みに揺れて、次の瞬間にも目覚めるだろう。
その直前。
最後に、あいつの姿を思い出した。
翻《ひるがえ》る外套は既にない。
あの、永遠に燃え続けるのだと思っていた空を引き連れて、あの男は去っていった。
振り返らず何も語らず。
自身を恥じなかった背中だけを俺に残して。
その道筋を目で追った。
一つの結末。
同じ理想、同じ道を歩んだ男の姿に手を伸ばす。
勝った以上は、決して逃げない。
いつか必ずおまえに追い付くと、空《から》のまま、強く手を握り締め―――
「ん――――……む」
朝の陽射しに目を覚ます。
起こした体は微妙に重く、ところどころ傷だらけだった。
「……あれ。ここ、俺の部屋だ」
ぼんやりとした頭で周囲を見渡して、時計を見る。
時刻は朝の十時過ぎで、日付は二月十六日。
「うわ。丸一日経ってるじゃないか」
とりあえず驚いてみたものの、頭は他人事のように冷静だった。
――――柳洞寺での戦いのあと。
俺は気を失ったまま運ばれ、一日中眠って、ようやく目を覚ましたんだろう。
「……にしては静かだな。遠坂は……もう帰ったよな。
おーい、セイバー。起きて――――」
起きているか、と言いかけて、喉が止まった。
「――――――――」
起きている筈がない。
いや、そもそも、彼女がここに居る筈がない。
聖杯はもう存在しない。
人の手にあまるサーヴァントを繋ぎ止められるモノは、この世から消え失せている。
故に―――あの金の髪をした少女は、もう、この世の何処にもいないのだ。
「ああ――――そうだった」
手のひらで両目を覆って、何かを堪えるように天井を仰いだ。
部屋は、静まり返っていた。
冬の朝は冷たく、吸い込む空気は肺を締め付ける。
……長いようで短かった時間。
この二週間に起きた出来事と、この部屋に残った彼女の面影が通り過ぎていく。
“――――伝えたい事は、その後で”
そう言って走り去った姿が、彼女の最後だった。
……走り去る後ろ姿。
その後などないと。
もう触れあう事はなく、
三人で戻ってこれる事はないと気付いていて、
叶わないと知りながら、俺たちは別れを口にしなかった。
「ん…………腹、減ったな」
立ち上がる。
動くと体の節々が痛んで、あの戦いが夢ではなかったと思い知らされた。
「うー、さむ」
廊下は冷え切っている。
ぎしぎしと廊下を軋ませて、早足で居間へ向かう。
「――――さて、と」
台所について、エプロンを装着。
フライパンを火にかけて、トーストを二人分切り出して、賞味期限ぎりぎりの卵を手に取る。
「よっと」
トーストを焼きながら、卵を割ってフライパンへ。
じゅわっ、という油のはじける音を聞きながら皿を用意して、キレイな目玉焼きを二つ作る。
「よし、会心の出来」
目玉焼きを白い皿に載せて、焼き上がったトーストを籠に並べる。
そうして、流し台から居間へ振り返って、
「――――あ」
居間には自分以外、誰もいない事を思い知った。
「――――――――」
はあ、と長く息を吸う。
毎朝、居間で朝食を待っていた少女はもういない。
ここにきて、ようやく実感できた。
……戦いは、終わったのだ。
聖杯を巡る争いは幕を閉じた。
そんな事を、今更―――彼女のいない朝を迎えて、ようやく気が付くなんて、間が抜けてる。
「――――――分量、間違えちまった」
フライパンを置く。
空腹だったクセに食欲はなくなっていた。
エプロンを脱いで居間を横切る。
外はいい天気だ。
なんとなく、初めて彼女とまともに話をした道場が見たくなって、作りすぎた朝食を置き去りにした。
無人の道場に足を踏み入れる。
陽射しは淡く、板張りの空間を白く照らし上げている。
そこに、
見間違う筈のないヤツが、堂々と鎮座ましましていやがった。
「は――――?」
目が点になる。
まさか、いつのまにか二週間前にタイムスリップしたとかどうとか……!?
「――――シロウ? 目を覚ましたのですか?」
「もう大事はないようですね。
傷そのものは浅いものでしたから、そろそろ目が覚める頃だと思っていました」
「シロウ? どうしたのです、先ほどから口を開けて。
……まさか、どこか私たちには判らない傷を負っているのですか?」
「え――――あ、いや、そういったワケじゃない、けど」
こっちの混乱は下手な致命傷よりダメージがおっきくて、状態回復に多大な時間を必要としている。
「セ、セイバー」
「はい。なんでしょう、シロウ」
「あ……うん。その、セイバーだよな、セイバー」
「見ての通りですが。……それとも、私がアーチャーやランサーに見えるのですか、貴方は」
「――――まさか。見えない。全然、まったく見えない」
ぶんぶんと首を横に振る。
「ええ、当然です。シロウも傷だらけですが、今まで通りのシロウです」
「――――――――」
それで、パニクッていた頭がようやく落ち着いた。
いや、落ち着いたっていうか、セイバーに見惚れて思考が停止《ショート》した。
「セイバー。本当に、セイバーなんだな?」
「ですからそうだと言っているでしょう。……む。もしや目の調子がおかしいのですか、シロウ」
「っ……!」
セイバーが手を伸ばしてくる。
俺の目蓋に指をあてる彼女は、紛れもなく実体だ。
白い指は優しく、柔らかく目蓋に触れて、離れていった。
「――――――――」
ここまできたら疑う余地はない。
セイバーはセイバーだ。
聖杯がなくなっても、今まで通りここにいる。
「――――――――」
吐息が漏れる。
ああ、と長く胸にあったものを吐き出して、
「―――おはようセイバー。また会えて、良かった」
そう、まっさきに浮かんだ言葉を口にした。
「おはようシロウ。私も、こうしてシロウと挨拶ができて嬉しい」
華やかに笑う。
そこに、今すぐに消え去る、なんて暗い影は微塵もない。
「ああ。けどセイバー、どうやってここに残っているんだ。その、聖杯はもうないんだろう?
なら――――」
サーヴァントはこの時代に留まっていられないのでは、と言いかけて口をつぐむ。
「セイバー……?」
「シロウ。その件でしたら凛に聞いてください。先ほどから今か今かと、貴方が気付くのを待っているのですから」
「え?」
言われて振り向く。
「あ」
「あ、なんて随分な反応ね。セイバーには愛想ふりまいといて、わたしには『あ』なんだ」
「―――遠坂。おまえ、いたのか」
「いたわよっ! あれからこっち、アンタが目を覚まさないからずっと陣取ってたわよ!」
悪い!? とばかりに睨み付けてくる。
「え―――――陣取ってたって、家《うち》にか!?」
「そうよ。傷の手当てもあったし、藤村先生と桜を言い含めないといけないじゃない。士郎一人放っておいて帰れるワケないでしょ」
「あ―――そうか、そうだよな。……わるい、遠坂。また迷惑かけちまった」
「……。いいわよ、お礼なんて。迷惑なんかじゃないし、その、一番の大金星は士郎なんだし。いいから報酬として受け取っときなさい。今日ぐらいは大目に見てあげるから」
顔を背けてそんなコトを言う。
その姿は本当に遠坂らしくて、ホッと胸を撫で下ろした。
俺とセイバーが無事だったように、遠坂も大事なく戦いを乗り越えたのだ。
「―――そうか。ご苦労様、遠坂。
色々あったけど、こうして戻ってきたな、俺たち」
感謝と達成の意を込めて手を差し出す。
「ま、そうね。一人も欠けてないし、文句なしに完全勝利だし。おめでとう、っていうのが相応しい締め言葉よね」
笑顔のまま握手をする。
「…………」
握った遠坂の手は柔らかくて、あの夜を思い出してしまって困る。
それでも、顔を真っ赤にしながら、お互いの実感を確かめ合った。
「――――で。それはいいんだけど遠坂。おまえ、セイバーをどうしたんだよ」
「? どうしたって、どうもしてないけど? 単に契約を続行して、わたしの使い魔をやってもらってるんじゃない。セイバーは最強の使い魔なんだから、そう簡単に手放すワケないでしょ」
遠坂はあっさりと返答する。
が、コトはそんな単純な話じゃない。
「おまえな、セイバーは聖杯と引き替えにサーヴァントになったんだぞ。その聖杯《ほうしゅう》がなくなったんだから、もう自由になっていいはずだ」
「ふーん。だってさセイバー。士郎はぁ、セイバーにさっさと帰れって言ってるけど?」
「む」
「なっ――――ち、違う……! そんなワケないだろ!
俺が言いたいのは、セイバーを使い魔にしておくなんてもう意味がないって―――」
「あるわよ。聖杯がないんだから、セイバーは魔術師と契約してないとこの世に留まれない。その為には、使い魔になって貰うのが一番の方法でしょ」
「だいたい、わたしだって魔力の大部分をセイバーに分けるんだから、その分の働きはして貰わないと。魔術の基本は等価交換なんだから。
んー、それともなに、士郎はセイバーが残ってくれて嬉しくないのかな?」
「ばっ、そんなの嬉しいに決まってる……!
けど、セイバーがサーヴァントのままなんていうのはおかしいだろ。
それに―――聖杯がないのにセイバーを留めておくなんて、出来るのか」
……そう、それが最大の問題だ。
英霊をそのまま呼び出して使い魔にする、なんてコトは人間の手に余る。
いくら遠坂が天才的な魔術師でも、セイバーを養うのは無理がある。
……そうなると、手段は一つしかない。
契約者の魔力で養えない使い魔は、契約者以外から魔力を得るしかない。
ライダーのように、町の人間から魂を食らって生きる、そんな怨霊じみた者になるしか――――
「あのね。そんな暗い顔で何考えてるか知らないけど、話は最後まで聞きなさい。
いい、たしかにわたし一人でセイバーを維持するのは難しいわ。けど、こっちにはもう一人魔術師がいるじゃない。二人で協力すれば、なんとかセイバーを繋ぎ止める事が出来るはずよ」
「な……二人って、もしかして俺のコトか!?」
「当たり前でしょ。貴方以外誰がいるってのよ」
「や―――いや、頼りにされるのは嬉しいんだが、協力しろって言われても困る。使い魔との契約なんて知らないし、そんな器用なコト出来ないぞ俺」
「もちろん、そんなのは承知の上よ。
セイバーへの魔力提供はわたし一人でやるから、士郎はわたしのフォローをしてくれればいいの。セイバー程じゃないけど、わたしも何かと不自由になっちゃうから」
何が気に食わないのか、顔を背けながら遠坂は説明する。
何故にそのような態度なのかはこの際おくとして、
「? フォローって、どんな」
一番の疑問点を口にした。
「そ、そりゃあ色々よ。いちいち口にするコトでもないでしょ」
「?? 悪いが遠坂、色々じゃ分からない。面倒くさがらずちゃんと説明してくれ」
「だ、だから色々は色々なのっ! もう、それぐらい察しろ馬鹿っっっっ!!!!」
「っ〜〜〜〜――――――――」
き、きーんときた……な、なんだよ遠坂のヤツ、いきなり大声で怒鳴りやがって。
「……ふん。とにかくわたしの使い魔としてならセイバーは現界させられるってコトよ。
衛宮くんはセイバーがいてくれた方がいいんでしょ。なら、それで文句はないじゃない」
「む」
そりゃセイバーがいてくれるなら、これ以上嬉しいコトはない。
けど、それはセイバーが同意してくれた場合だけだ。
セイバー本人がこの世界に用がないというのなら、無理に留めるのは間違っている。
「シロウ。私が残る事に、何か反対があるのですか?」
こっちの戸惑いを読み取ったのか、セイバーは静かに問うてくる。
「――――――――」
……反対などない。
反対なんてしたくないが、これは、訊かなくてはいけない事だ。
「セイバー。もうこの町に聖杯はない。ここにいても、おまえの望みが叶う事はないんだ。
……セイバーは、それでいいのか……?」
「はい。私は私の意思でこの時代に留まります。
……私は、最後まで貴方を見届けたい。
彼は私が間違えていると言った。……その答えを、いつか、貴方が私に教えてください」
その声は穏やかで、強い意志が感じられた。
あの夜と同じ。
彼女と初めて出会った時と同じ、契約を告げる清純な声。
「――――セイバー」
「はい。貴方には迷惑でしょうが、どうか許してほしい。その代償として、私は変わらず貴方の力になりましょう」
まっすぐに向けられる視線を、逸らさずに受け止める。
……彼女の期待に応えられるかは分からない。
ただ、彼女が見届けてくれるのなら、この先何が持っていようと、道を違える事はないだろ――――
「はいはいそこまで!
見詰め合うのは結構だけど、いつまでもそんなんじゃ話が進まないでしょう!」
「と、遠坂……!? なな、なんだよいきなり大声だしやがって、びっくりしたじゃないか」
「……ふん。そっちがいつまでものろけてるからでしょう。
いい? 話を戻すわよ。
セイバーは私と契約して、士郎は私に協力する。事後承諾になるけど、今後の体制はそういう事でかまわないわね?」
「……ああ、セイバーが承諾してるなら文句はない。
けど遠坂に協力するって結局なんなんだ? さっきの話じゃ全然わからないし、いまいち不安で納得できないんだが」
な、とセイバーに同意を求める。
「そうですね。シロウの立場からすれば、内容の判らない約束は不安でしょう。
凛、色々フォローする、とはどういう事なのですか?」
セイバーに問われて、うっ、と後じさる。
よしよし。
いかに遠坂と言えど、第三者からの冷静な意見の前には膝を折るしかあるまい。
「ほら。セイバーもこう言ってるし、具体的な内容をだな」
ここが勝機と追究する。
が。
「ああもう、ごちゃごちゃ言わないっ!
セイバーはわたしのだし、士郎だってもうわたしのなんだから口答えは禁止っ!
使い魔同士、黙ってマスターの言う事きくのが筋ってもんでしょうっっっ!!!!」
遠坂のヤツ、とんでもない独裁者ぶりを発揮しやがった。
「……む、ちょっと待て。俺、遠坂のものじゃないぞ」
「なによ、士郎、わたしと契約したじゃないっ!
わたしから魔力を引っ張った時点で使い魔みたいなもんなんだから、これぐらい無茶言ってもいいんだからっ……!」
「あ――――う」
いきなりの剣幕に気圧されたというか、あの夜を思い出してフリーズしてしまった。
……その、遠坂本人も
『うわあ、わたしとんでもない無茶を言ってるー!』
……などと後悔しているのが分かってしまって、妙に申し訳なくなってしまった。
「―――そりゃ、遠坂の魔力を借りてなんとかなったし、遠坂と契約したのは事実だから、そういう見方も、あると思う、けど」
「ふん。あると思うじゃなくて、事実そうなのっ。
とにかく、話はそういうコトよ。私たちの協力関係はまだ続行中なの」
「……ついでに言っとくと、協力者が未熟なままっていうのもアレだから、士郎には少しでも早く一人前になってもらうわ。
魔術はわたしが教えて、戦闘技術はセイバーが鍛えるからね。今日からビシバシいくから覚悟なさい」
「――――――――」
突然の提案に面食らう。
頼もしいコトこの上ないんだが、それってつまり、その。
「遠坂、俺の魔術の師匠になってくれるのか……?」
「仕方ないでしょ、他に適任者がいないんだから。
そ、それに士郎はわたしのなんだから、他のヤツになんて任せられないわ」
「な――――――――」
――――反則だ。
そんな台詞、真っ赤になって言われたらこっちまで赤くなる。
「――――――――」
「――――――――」
互いに赤面したまま、何を口にすべきか判らず硬直する。
「――――――――」
「――――――――」
……修行不足だ。
とんでもなく相手を意識してしまって、うまく口が動かない。
そうして、緊迫しすぎて遠坂が暴れだしそうな一歩手前。
「凛。話がまとまったところで、そろそろ朝食にしませんか」
セイバーが助け舟を出してくれた。
「そ、そうね。いいかげんおなか減ったし。士郎も朝、まだでしょ?」
ぎくしゃくする遠坂。
「あ、ああ。起きてすぐにメシの準備をしたけど、食わずにこっちに来たから、まだ食べてない」
同じく、ぎくしゃくと返答する俺。
「え? なに、じゃあごはん作ってあるの?」
「作ってある。トースト二人分」
「ほんと? なんだ、気が利くじゃない士郎。
善は急げ、さっそく居間に行きましょうセイバー」
「あ」
さっきまでの固さは何処にいったのか、遠坂はセイバーの手を引いて道場を後にする。
それを呆然と見送ること十秒。
「こらー、なにのんびりしてるのよ士郎ー!
三人そろわないとお茶できないでしょうーーー!」
[#挿絵(img/239.JPG)入る]
セイバーの手を引いたまま、声をあげて呼びかける。
道場をとび出した遠坂は、庭に立ち止まって手を振っていた。
「……まいった。ほんとに待ったなしだな、あいつ」
今までさんざん振り回されたが、それはこれからも続くだろう。
あいつとやっていくかぎり、こんなのは日常茶飯事だ。
よっぽどの覚悟がないと遠坂には付いていけない。
けどまあ、遠坂風に言うなら仕方がない。
そんなあいつだからここまで来たんだし、そんなあいつに、俺は惚れちまったんだから。
「ほら、早く早くー! 急がないと先に食べちゃうからねー!」
そう言いながら、遠坂はきちんと足を止めて俺を待っている。
いつも不機嫌で冷徹なクセに、あいつは根っこでとんでもないお人好しなのだ。
「ああ、いま行く―――! ちょっと待ってろー!」
道場を後にして、二人の後に続く。
―――遠坂がいて、セイバーがいて、
遠坂は一つの場所で大人しくしているヤツじゃなく、
セイバーだってあれで負けん気が強いから何処にだって行くだろう。
この三人でいる限り、切嗣《オヤジ》でさえ呆れるほど、落ち着かない日々が続くに決まってる。
決定していた未来と、これから踏破していく未来。
いつか、あいつが立っていた場所に追いつける日が来るとしても。
こうして、これから築いていく輝かしい時間があるのなら、違った未来《じぶん》だってあり得る筈だ。
太陽はとうに昇っている。
一人では変えられない事も、二人なら少しは変えていけると思う。
―――道行《みちゆき》は始まったばかり。
自分に出来る精一杯の歩幅で、これから、あの頼もしい相棒と歩いて行こう―――
[#改ページ]
END