Fate/stay night
Prologue
TYPE-MOON
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)衛宮切嗣《えみやきりつぐ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)間桐|臓硯《ぞうけん》
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(例)[#「石化」に丸傍点]
(例)[#改ページ]
(例)[#挿絵(img/000.JPG)入る]
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それは、稲妻のような切っ先だった。
心臓を串刺しにせんと繰り出される槍の穂先。
躱そうとする試みは無意味だろう。
それが稲妻である以上、人の目では捉えられない。
だが。
この身を貫こうとする稲妻は、
この身を救おうとする月光に弾かれた。
しゃらん、という華麗な音。
否。目前に降り立った音は、真実鉄よりも重い。
およそ華やかさとは無縁であり、纏《まと》った鎧の無骨さは凍てついた夜気そのものだ。
華美な響きなど有る筈がない。
本来響いた音は鋼。
ただ、それを鈴の音と変えるだけの美しさを、その騎士が持っていただけ。
「―――問おう。貴方が、私のマスターか」
闇を弾く声で、彼女は言った。
「召喚に従い参上した。
これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。―――ここに、契約は完了した」
そう、契約は完了した。
彼女がこの身を主と選んだように。
きっと自分も、彼女の助けになると誓ったのだ。
月光はなお冴え冴えと闇を照らし。
土蔵は騎士の姿に倣うよう、かつての静けさを取り戻す。
時間は止まっていた。
おそらくは一秒すらなかった光景。
されど。
その姿ならば、たとえ地獄に落ちようと、鮮明に思い返す事ができるだろう。
僅かに振り向く横顔。
どこまでも穏やかな聖緑の瞳。
時間はこの瞬間のみ永遠となり、
彼女を象徴する青い衣が風に揺れる。
――――差し込むのは僅かな蒼光。
金砂のような髪が、月の光に濡れていた。
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Fate
それは、今から十年前の話。
……懐かしい人を見ている。
背が高くて、彫りの深い顔立ちで、わたしが知るかぎり一度も冗談なんて口にしなかった人が、わたしの頭を撫でている。
いや、ちょっと違うか。
力加減が分からないのか、撫でているというより頭を鷲掴みにしてグリグリとまわしている、という表現の方が正しい。
それも当然だと思う。
なにしろ、この人がわたしの頭を撫でたのは、この時が初めてだったのだから。
「それでは行くが。後の事は解っているな」
重い声に、行儀良くはい、と答えた。
わたしの頭を撫でていた人は一度だけ頷くと、手を離して立ち上がった。
……だから、それだけ。
あの時これが最後だと知っていたのなら、とっておきの冗談で笑わせてやっていたのに。
いつかこの人の仏頂面を崩してやろうと、一人で何度も何度も笑い話を練習していた。
それが結局、一度も披露できなかったのが、悲しいと言えば悲しかった。
[#挿絵(img/201.JPG)入る]
「成人するまでは協会に貸しを作っておけ。それ以後の判断はおまえに任せる。おまえならば、独りでもやっていけるだろう」
なんて言いながらも、一応は心配だったのだろう。
家宝の宝石の事とか、大師父が伝えていた宝石の事とか、地下室の管理の仕方とか。
今まで教えてくれなかった事を矢継ぎ早に話す姿を見て、子供心に気づいたのだ。
―――たぶん。
この人は、もう帰ってはこないだろうと。
……戦争が起きたのだ。
国と国が戦う戦争ではなく、人と人とが戦う戦争。
といっても、いがみ合っていたのはたったの七人だけだ。
それなら戦争なんてお題目は似合わないのだけれど、その戦う人々が魔術師であるなら話は別である。
派閥の違う七人の魔術師達はよくわからない理由で競い始め、よくわからない方法で殺し合った。
そのうちの一人が、わたしの目の前にいる人だった。
だから、この人も殺し、いつかは殺される立場にある。
その時が近い事は、わたしなんかよりこの人の方がはっきりと感じていたはずだ。
「凛、いずれ聖杯《せいはい》は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、何より―――魔術師であろうとするのなら、避けては通れない道だ」
もう一度。
くしゃり、とわたしの頭を撫でて、その人は去っていった。
それが最後。
マスターの一人として聖杯戦争に参加し、帰らぬ人となった、師であり父であった人の最後の姿。
「行ってらっしゃいませ、お父さま」
行儀良く送り出した。
自分が泣きそうな事は判っていたけれど、涙は決して流さなかった。
あの人の事が好きだった。
父親として優れ、魔術師としても優れた人物。
魔術師というのは偏屈者《へんくつもの》しかいない。
その世界において、あの人ほど優れた人格者はいなかっただろう。
彼は師としてわたしを教え、父として愛してくれた。
だから、決めていたのだ。
あの人が最期に何を遺《のこ》すかで、わたしは自らの道を決めようと。
――――凛、いずれ聖杯は現れる。
アレを手に入れるのは遠坂の義務でもあり、魔術師であろうとするのなら避けては通れない道だ――――
彼は最後の最後で、父親としてではなく魔術師として言葉を遺した。
だから、その瞬間にわたしの往く道は決定した。
「――――よし。それじゃあひとつ、気合い入れて一人前になりますか―――」
弟子が師の言葉に応えるのは当然のコト。
それから色々、紆余曲折あってわたしこと遠坂凛《とおさかりん》は成長した。
父が戦いに赴いた冬の日から、はや十年。
この時を待ちこがれていた訳ではないけれど、気持ちは知らず逸っている。
それも当然。
十年間片時として忘れなかったそのイベントは、あと少しで始まろうとしているのだから――――
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1月31日
「………………ん」
何か鳴ってる。
じりり。じりり。
「…………うるさい。止まれ」
音は止まない。
じりりじりりと、まるでわたしが親の仇だと言わんばかりの騒々しさ。
「……なによ、もう……昨日は遅くまでやってたんだから、もうちょっと……」
もうちょっと寝かせてくれてもいいのに。
いや、むしろ寝かせるべきだ。
なにしろ朝方まで父の遺言を解読していたんだし、魔力も派手に使いすぎた。
つまり疲労困憊、心も体もクタクタです。
「……ああ、もう――――融通のきかないヤツ」
じりり。じりり。じりり。じりり。
目覚まし時計に言葉は通じない。
だっていうのに、じりりじりりという音が『遅刻するぞ遅刻するぞ』なんて聞こえるのはどんなカラクリをしてるんだろう。
「……遅刻……遅刻は、まずい……」
けどそれも時と場合。
いくら優等生だからって、今日ぐらいは時間ギリギリで登校してもいいんじゃないかな。
「……そうそう……あらかじめ三十分だけ時間をズラして目覚ましをセットしたんだから、あと三十分は眠れるはず……」
――――うん?
なんか、それヘンじゃない?
「……三十分、ズラして……」
ねぼけ眼で目覚まし時計を見る。
時計はきっかり七時を指している。
習慣《いつも》の起床時刻は六時半だから、三十分の預金はキレイさっぱり使われている。
……というか、どうしてこう、目覚め時は思考能力が低下するのかわたしは。
「………………む」
目覚まし時計とにらめっこするコト数秒。
ベルを止めて、渋々とベッドから出るコトにした。
冷え切った廊下を渡って、冷え切った居間に移動した。
一月最後の朝七時。
冬木の町は冬でもそれなりに暖かい気候なのに、今朝に限っては他所様の冬並みに寒かった。
家の中にいても吐く息は白いし、なにより家《うち》には人がいないから余計寒いったらありゃしない。
「……暖房、暖房……」
ヒーターをオンにして、洗面所に向かう。
こういう時、一人暮らしというのは不便だ。
自分より先に起きている人間がいるなら、居間はとっくに暖房が行き届いているだろうに。
洗面所で顔を洗う。
長い髪にブラシを通して、身支度を整える。
寒い朝、冷えた洗面所。
唯一の利点と言ったら、冷たい水が否応なしに眠気をふっ飛ばしてくれるコトぐらい。
きゅっ、と襟元のリボンを結んで準備完了。
あとは朝食を済ませて登校するだけ。
時計を見ればまだ七時を過ぎたばかりで、いささか拍子抜けした。
「なんだ、これなら走っていく必要もないか」
もっとも、走って学校に行く、なんて無様をする気は更々ない。
どんな時でも余裕を持って優雅たれ、というのが遠坂の家訓なのだ。
そんな家訓を本気で持ち続けたあたり、うちの祖先は本当に高貴な出だったのだろう。
こんな時代めいた洋館を持っているのが何よりの証拠だし、くわえて、遠坂の家は“魔術”を伝える魔法使いの血筋なのだ。
古いと言えば、もう文句なく古い歴史を持っている。
「……まあその、自慢できる事でもないんだけど」
というか、臆面もなく吹聴できる話でもない。
―――実は遠坂凛《わたし》、魔法使いなんです―――
なんて、いったい誰に自慢できるっていうんだろう。
魔術っていうのは、読んで字のごとく魔術である。
イメージ的にはちちんぷいぷいでもアブラカタブラでもかまわない。
ようするに、呪文を唱えて不思議なコトをする人と捉えておけばいい。
―――あ、と言ってもホウキで空を飛ぶ訳でもないし、杖をふって星を出す訳でもない。
……似たようなコトは出来るけど、あんまり意味がないのでやらない。
基本的にわたしたちは世に隠れ忍ぶ異端者だ。
目立つ事は禁止されているし、そんな事をする余裕があるのなら家にこもって魔術を研鑽している。
ついでに言えば、魔法使いというのも大語弊。
正確に言えば、この世界に魔法使いは五人しかいない。
誰にも真似の出来ない事、現代の科学でも到達できない事、そういった“奇跡”を可能とする存在を、わたしたちは魔法使いと呼ぶ。
どんなに時間と技術をかけても実現できない神秘が魔法であり、
どんなに不思議でも時間と技術をかければ誰でも実現できてしまうモノが魔術。
だからわたしの使う“神秘”も魔法ではなく魔術にすぎない。
ややこしいが、そういう決まりなのだからそういうコトにしておいてほしい。
まぁまっとうな話、魔術師なんていう存在は現代では容認されない。
計測できないモノを信じ、操り、学ぶわたしたちは、現代社会とは相容れない存在だ。
なにしろ、あんまり意味がない。
魔術なんてモノを学ぶなら、まっとうな学校にいってまっとうに大人になった方が何倍も幸せになれる。
人間の技術は偉大だ。
ここ数百年、魔術はつねに文明社会の後追いをしているのが現状である。
人間に不可能な事はなくなった。
かつて魔術にしか成しえなかった奇跡は、とっくの昔に奇跡でもなんでもない「雑貨用具」に成り下がってしまっている。
―――まあそれでも、魔術には魔術の利点がある。
科学でしか到達できない地点があるように、
神秘でしか到達できない地点があるのだ。
科学が未来に向かって疾走しているのなら、魔術師は過去にむかって疾走しているようなものだ、とは遠坂家における大師父の言葉だったっけ。
過去も未来も行き着く所は結局同じ。ゼロに向かって走り続けよ、とかなんとか。
そのあたりの難しい話は置いておこう。哲学は老後の楽しみにとっておくべきだし。
朝食を済ませて、鞄を手に取る。
「―――そうだ。ペンダント、持っていかないと」
学校にあんなモノを持っていくのは気が引けるけど、置いていくのも勿体ない。
「なにしろ百年物の石だものね。うちにある宝石の中じゃダントツで最強だし」
いや、むしろ次元違い、と言ってもいいだろう。
昨夜父の遺言を解読して手に入れたコレは、今のわたし十年分の魔力を秘めている。
遠坂の家には古くから伝わる家宝があるというけど、あるいはコレがそうなのかも。
変換、力の流動を得意とする遠坂の魔術師は、暇さえあれば宝石に自らの魔力を移し替える。
簡潔に言ってしまえば拳銃が自分で、宝石が弾丸といったところだ。
それ以外に父から継いだ物と言えば、左腕に刻まれた遠坂の魔術刻印ぐらいだ。
魔術刻印は簡単に言って後継者の証で、遠坂家が伝えてきた魔術を凝縮した入れ墨みたいなものである。
「……まだ始まった訳じゃないけど、用心に越したコトはないか」
今となっては父の形見といえるペンダントをポケットに仕舞う。
「切り札だものね。コレに秘められた魔力なら、出来ないコトはないぐらいなんだし」
時刻は七時半。
そろそろ出ないと学校に間に合わない。
「Schli《ロック。》eBung. Verfah《コード3》ren,Drei」
短く、魔力を込めて言葉を紡ぐ。
魔術師たる者、自分の根城を留守にする時は警戒を怠ってはならない。
たとえ、今まで一度も泥棒とか迷《まよ》い子《ご》とか野良猫とか、そういった類の闖入者《ちんにゅうしゃ》がなかったとしてもだ。
……否、そればかりかお隣さんが挨拶にきた事もないような。
「……ふん、別にいいけどね。野良猫でさえ入ってこないってどういう事よ」
十何年住み慣れた洋館《うち》を見上げる。
冬木市はおかしな街で、交差点を挟んで向こう側の住宅地には日本風の武家屋敷が多く、こっち側の住宅地には家《うち》のような洋館が多い。
ずっと昔、外国から移住してきた家族が多いのが理由らしいけど、そのわりには外国人なんてとんと見ない。
川を挟んだ新都《しんと》には外国人墓地さえあるけど、そこにある墓だって移住した代の人たちの物だけだ。
「日本の土が合わなかったのかな」
うん、今度教会に行って神父に聞いてみよう。
あの神父ならつまんない事を色々と知っているに違いない。
「――――あれ」
外に出て、何か違和感を感じた。
「なんだろ、思ったより静かなんですけど……」
外は静かで、朝の騒々しさが感じられない。
七時半と言えば、通学する生徒や通勤する人々で賑わっている筈なんだけど。
「……ま、こういう日もあるか」
みんな今朝は寝過ごしたのかな。
今日は珍しく寒いし、誰も彼もベッドでまるまっているに違いない。
「んー……けど、さすがに」
いくらなんでも、ここまで生徒の姿を一人も見ないのはおかしい。
七時半って言ったら、もうちらほらと制服姿が見られる時間帯だ。
なのに校門にいるのはわたしだけで、部活の朝練はまだ始まったばかりの様子。
つまりこの場合、導き出される結論は――――
「あれ、遠坂? 今朝は一段と早いのね」
「……やっぱりそうきたか」
はあ、と軽くため息をついて、声をかけてきた女生徒に振り返る。
「おはよ。今日も寒いね、こりゃ」
気さくな口調の彼女は美綴綾子《みつづりあやこ》。
同じ2年A組のクラスメイトで、色々と曰くのある人物だ。
「おはよう美綴さん。つかぬ事を聞くけど、今何時だか判る?」
「うん? 何時って七時前じゃない。遠坂寝ぼけてる?」
大丈夫? と手のひらをヒラヒラさせる綾子。
彼女はわたしが朝に弱いという事を知っている数少ない友人である。
……ようするに、わたしがいまだ本調子でないと察しているのだろう。
「うちの時計、一時間早かったみたい。しかも軒並み。
目覚まし時計はおろか、柱時計まできっかり早まってた」
ほんと、いったいどうなってるのか。
父さん、あのペンダントを地下室から出したら時計が狂うように仕向けてたんだろうか。
「遠坂?」
「気にしないで。別に大した事じゃないから。それより、美綴さんは今日も朝練?」
「ええ。弓道部は問題児も多いし、巧いのが一人減ったからね。四月の新入生獲得の為に、少しぐらいは見栄えを良くしとかないと」
「そう。気苦労が絶えないのね、相変わらず」
「他人事だからって言ってくれるわ。あ、ついでだから見ていく? 遠坂が見学する分には男どもも喜ぶけど」
「――――弓道部、か」
弓道部にはちょっとした顔見知りが三人いる。
そのうち一人が目の前にいる綾子で、あとの二人はそう話をする機会のない顔見知りだ。
もっとも、その二人のうち一人は顔見知りなどと一言で片づけられる相手ではない。
わたしが弓道部主将である綾子と友人になったのも、ひとえに弓道場を遠くから眺めていたからなのだし。
「そうね、様子を見るだけならつき合うわ。早く来すぎたからやる事もないし」
「よし。んじゃ善は急げ、さっそく行こう」
うちの学校の特徴の一つに、この豪華な弓道場がある。
理事長が弓道に関心があるのか、弓道場は学生の部活動だけでは勿体ないほど立派である。
「ほらほら。まだ開始まで時間があるし、中でお茶しようぜ遠坂」
何が嬉しいのか、綾子は強引に人の手を引っ張っていく。
本音が入ると男前な口調になるのが彼女の悪癖だ。
綾子の言う通り、道場にはまだ誰もいなかった。
わたしたちは今日の授業の予習などをしつつ、舌が痺れるほど熱い日本茶を飲んでいる。
閑散とした冬の道場には、この熱いお茶が実に美味しい。
「さて。単刀直入に聞くけど、そっちの調子はどうなのよ遠坂。いい加減、頼りになる相棒は見つかった?」
で。
周りに誰もいないのをいい事に、綾子はとんでもないコトを訊いてきた。
「…………ふう。本当、いきなり本題に入るのね貴女は。その言いぶりだと、そっちはもう見つけたんだ?」
「ノーコメント。遠坂が手を明かすまではこっちも秘密さ。で、どうなのよ。その疲れた顔を見ると脈ありって感じだけど?」
「こっちもノーコメント……って、貴女に隠してもどうせ見抜かれるか。残念ながらこっちはまだよ。
綾子の方は? お互い、のんびりしてられる余裕はない筈だけど?」
「そうなんだけど、あたしも雲行きは怪しいわ。とりあえず取り繕う事はできるけど、事が事でしょう? この先の命運がかかってるんだから、妥協するワケにもいかないし」
「ふうん。簡単に決めて、わたしに負けるのもイヤ?」
「もちろん。わたしにとって重要なのはアンタを負かす事だもの。何が手に入るとか、何を手に入れるとかは二の次よ」
ふふん、と不敵に笑う。
「――――はあ。似たもの同士ね、わたしたち」
「ええ。初めて会った時に言ったでしょ。アンタとはそういう関係にあるんだって」
ああ、言った言った。
『アンタとはきっと、殺す殺さないの関係までいきそうだ』
などと、初対面で言われた時はわたしも本気でビックリした。
要するに、綾子は
『とことんまで殴りあわないとおまえとは友情は芽生えないぞ』  と言ったのだ。
それはわたしも同意見で、それから二年、こうして友人なんだか天敵なんだか判らない関係を続けている。
「ところでさ。わたしたち、なんでこんな話してるんだっけ?」
「なんでって、言い出したのは遠坂でしょ。
アンタがいつまでも彼氏がいないのは女としてどうよ、なんてこぼすもんだから、なら三年になる前にどっちが先に男作るかって勝負になったんじゃない」
「……あー、そうだった。売り言葉に買い言葉ってヤツだった。で、遅れをとった方が一日言いなりになるんだっけ」
「ええ。今どき子供でも交わさない約束だけど、あたしとアンタにかぎって往生際が悪いってコトはないでしょ。
どんな結果になろうと、負けた方は大人しく勝者に従うコトになる。それを思うと、あたしゃ今から楽しみで楽しみで」
くつくつと愉しげに笑う綾子。
まったく。
まるっきり本気なあたり、美綴綾子という女は始末が悪い。
……まあ、わたしも綾子を負かした時が楽しみで楽しみで仕方がないので、始末が悪いのはお互い様なワケなのだが。
「そう。けど美綴さん? 楽しむのは結構だけど、目的を違えないよう気をつけなさい。勝負の内容は後先だけじゃないでしょう?」
「わかってるって。遠坂より早く、遠坂が心底羨ましがるような関係にならないと完全勝利と言えないからね。
……ま、あたしたちにとってはそれが一番厄介な問題なんだが。どんなにいい男だろうと、好きになれなきゃ意味がない」
はあ、と重苦しく溜息をつく綾子。
わたしが知り得るかぎり、美綴綾子は男嫌いと言われている。
が、人の噂など当てにならないのが常だ。こんな勝負を持ち出すあたり、男嫌いというより、単に今まで興味がなかっただけかもしれない。
―――いや、それはともかく。
「ちょっと。あたしたちって何よ、あたしたちって。
断っておきますけど、わたしはそっちと違って冷血漢じゃありません。男の子を好きになるなんて、問題でもなんでもないわ」
「ああ、それ嘘。もしくは気付いていないだけ。遠坂が男を気にかけるなんて事は絶対ないもの。
今まで数えきれないぐらい告白されたクセに、一つも色よい返事してないじゃない。少しでも興味があるなら付き合おうって思うでしょ。なのに断り続けるってコトは、アンタは男に興味がないってコトよ」
「発想が貧困ね。その場合、既に好きな相手がいるから断ってるって話もありじゃない?」
「うわ、すごい美談。いいね。そういうの、浪漫だな」
バカにするのでもなく、真剣に綾子は頷く。
本当にそうだったら素敵ね、と溜息で語っている。
……まいった。
ホントにこいつには隠し事ができないみたい。
「そうね。わたしもそう思う」
ま、綾子の言う通りだ。
わたしだって、自分がどんなに酷薄な人間か判ってる。
「認めるわ。わたし、こと恋愛に関しては素人みたい」
「そうゆうコト。似たもの同士だって言ったの遠坂でしょ。
……って、もうじき七時か。秘密の話はこのヘンにしとこう。いつ人がやってくるか判らないし、朝になったら学生らしく振舞わないとな」
「まあ。美綴さんにもそういう世間体があったなんて意外だわ。ええ、これだけでも早起きした甲斐があったみたい」
「ふん、アンタほど筋金入ってないけどね。あたしの世間体なんて、遠坂凛に比べたら蟷螂《とうろう》の斧《おの》ってもんよ。アンタの猫被りは擬態っていうより別人格のレベルよ、別人格」
大げさに溜息をつく綾子。
淹れてくれた熱いお茶はお互いカラになって、今度はわたしがお茶を淹れる番になった。
「で、遠坂はどうして部活に入らないのよ。運動神経がない、なんて戯言は聞かないからね。あたしゃ、去年の体力測定でことごとくアンタに負けたのまだ恨んでるんだから」
「あら。肺活量では美綴さんに負けたわよ、わたし。あと体重も美綴さんのが上だったけど」
「あはははは! やったー、重さで三キロ上回ったー!
……って、体重で勝っても嬉しくないってのよこのタヌキ!」
ばーん、と机を強打する綾子。
「危ない。お茶がこぼれるでしょ、美綴さん。主将なんだから道場は大事になさい」
「うるさい、あたしゃ主将である前に遠坂のライバルだ。部員がいなけりゃアンタに食ってかかるのは当然よ」
ふん、と半眼で流し目をする綾子。
……この子は独特の美意識を持っていて、
『美人は武道をしていなければならない』
とつねづね口にしている。
そういう本人も武芸百般、たいていの武道に精通した豪傑だ。
その中で唯一心得がない弓道部に進んで籍を置き、今では当然のように主将の座に収まっている。
男女問わず、うちの学校の中で逆らってはいけないリストのトップ3に入るのではないだろうか。
「あら。部員がいなければ主将じゃないなんて、問題発言なんじゃない、それ?」
「問題発言なもんですか。あたしはお飾りの主将だから、出来る事っていったら不良部員を取り締まる事だけよ。
あたし以上に射《シャ》が立派なヤツがいるんだから、主将としての面目なんてないわ」
「そうなの? 藤村先生、美綴さんは飛び抜けて巧いって言っていたけど」
「う……あの人がそう言うんなら、そりゃあ少しは自信が持てるけど。まあ、いなくなっちまったヤツの事なんて考えても仕方ないか。そうね、藤村先生がそう言ってくれたんなら、真面目に主将やんないとまずいか」
「そうそう。噂をすれば影、そろそろ部員がやってくる頃でしょ。わたしはおいとまするけど、美綴さんはきちんと主将になりなさい」
「なに、見ていかないの、射?」
「見ても分からないもの。遠くから眺める分にはいいけどね、不心得ものが道場にいる訳にはいかないでしょ」
そうしてわたしが席を立つのと、道場に部員がやってくるのとはほぼ同時だった。
「おはようございます、主将」
「ああ、おはよう間桐《まとう》。今朝は一人?」
「……はい。力になれず、申し訳ありません」
「ああ、いいっていいって。本人が弓をやらないって言うんなら、無理をさせても仕方がない」
綾子はやってきた部員と話している。
「それじゃ失礼するわ。また後でね、美綴さん」
「ああ。また後でね、遠坂」
「……おつかれさまです、遠坂先輩」
「――――ありがと。桜もしっかりね」
邪魔にならないように道場を後にする。
「やあ遠坂。おはよう、朝から君に会えるなんてついてるな」
ついてない。あまり遭いたくないヤツとばったり遭ってしまった。
「おはよう間桐くん。今日は早いのね」
「当たり前だろ。主将なんだから、早めに来ないと一年に示しがつかないじゃないか」
にっこりと笑う男子生徒は2年C組の間桐慎二《まとうしんじ》。
弓道部の副主将で、校内では女生徒の人気を二分する優男だ。
そのルックスもさることながら、成績優秀、人なつっこくて女子には優しい、とまさにアイドルとかなんとか。
わたしにはそのあたりがいまいち分からないので、すべてクラスメイトからの受け売りなんだけど。
「そう。ご機嫌なところ悪いんだけど、一文字抜けてるわ間桐くん。大事な字だから忘れない方がいいと思うけど」
「? 一文字抜けてるって、なにがさ?」
「コウフクのフク。字は違うけど響きは一緒でしょ、副主将さん。気をつけなさい。別に主将も副主将も変わらないけど、ヘンに意識すると拘《こだわ》ってるみたいに聞こえるでしょう?」
「――――。
そうだね、今後は気をつける。ありがとう、遠坂」
「お礼を言われるような事はしてないけど。まあ、間桐くんがそう思ったのならわたしには関係ないか」
それじゃあ、と弓道場を立ち去る。
「ちょっと待てよ。見学に来たんだろう? なら見ていけばいいじゃないか。遠坂なら大歓迎だよ」
「遠慮するわ。朝の練習の邪魔をしたくないもの」
「そんなの構わないよ。他の連中が気に障るんなら締め出すからさ、ちょっと寄っていけって」
「……だから邪魔をする気はないって言ってるでしょう。それにわたし、別に弓道に興味がある訳じゃないから。知らないヤツの射を見ても嬉しくないわ」
「? なんだよ遠坂、弓道に興味はなかったのか。
……へえ。だっていうのに放課後になると遠くから見てたのはそういうワケかな」
……。
どういうワケかは知らないけど、彼が多大な勘違いをしているのは間違いないな、こりゃ。
「―――なんだ。知ってたの、間桐くん」
「ああ、よく目があったんだぜ、僕と遠坂。射を終えてさ、残心の時にかぎって遠坂は僕を見てただろ。
声を返したかったけど、一応決まりでね。射場では声をあげちゃいけないんだ」
なにが嬉しいのか、慎二はずい、と身を寄せてきた。
人なつっこい笑顔は、同時に優位に立ったような含みがある。
「勘違いしてたよ。遠坂は弓が好きなんだと思ってたけど、弓道には興味がないんだろ? なら、なんで遠坂は道場を見ていたのかな」
「――――――――」
ああ、そういうコト。
なるほど、確かにそういう風に聞こえる会話だったな、今のって。
「離れてくれないかしら、間桐くん。わたし、あまり人に近寄られるのは好きじゃないし」
「うん? なに、遠坂?」
「呆れた、ここまで言っても分からないのね。
……趣味じゃないけど仕方ないか。簡単に、貴方にも理解できるように言ってあげる。
いい間桐くん。わたしは弓道に興味がない以上に、貴方に興味はないって言っているのよ。実際、貴方が射場にいたなんていま初めて知ったぐらいだし、きっとこれからも目に入らないわ」
「―――な、なんだと……!」
癇に触ったのか、乱暴な手が伸びてくる。
それをひょい、と軽くかわして背を向けた。
「それじゃあね間桐くん。自意識過剰なのも結構だけど、程々にしておいた方がいいわよ」
「遠坂、オマエ……!」
何か言いたげな口調のまま、慎二は怒鳴る事もなければ追いすがってくる事もない。
……まったく、本当に格好だけなんだから。
アイツももうちょっと性根がしっかりすれば、周りが苦労する事もないんだけど。
弓道場がある校舎裏から校内に入る。
朝の七時を過ぎても、まだ廊下には生徒の姿が見られなかった。
「あれ、遠坂さんだー」
「―――。おはようございます、藤村《ふじむら》先生」
「うん、おはよう遠坂さん。ちゃんと挨拶してくれて先生は嬉しいよぅ」
よよよ、と嬉しそうに泣き崩れるジェスチャーをする謎の女性。
……信じがたい事だけど、この、常人を遙かに凌駕した親しみと気楽さを兼ね備えた人物は、うちの学校の教師である。
「……あの、先生。ちゃんと挨拶をする、以外にする挨拶があるのでしょうか」
「うん、あるわよ。一年生はちゃんと挨拶してくれるんだけどね、上級生になってくるとわたしの苗字で挨拶しないんだから。遠坂さんはああいう輩の真似しちゃダメだからね」
「―――はあ。よく分かりませんけど、先生に失礼な事はしませんが」
「よしよし。あーあ、みんながみんな遠坂さんみたいだったらいいのになー」
じゃあねー、と手を振って藤村先生は去っていった。
幸い、わたしのクラス担任は藤村先生じゃない。
藤村先生の教科は英語。
あんな朗らかな顔をしておいて剣道は段持ちで、学生時代は「冬木の虎」と慕われたんだそうだ。
……だいたい、そのあたりからして謎だ。
普通、虎と名の付く者は慕われるんじゃなくて恐れられるんじゃないのだろうか?
ご機嫌なのか、藤村先生は楽しそうに弓道場へ向かっていった。
藤村先生は剣道部ではなく、なぜか弓道部の顧問である。
時刻は七時半前。
校庭には部活動に勤しむ生徒たちの姿が見えるけど、校内にはまったく人気《ひとけ》がない。
だっていうのに、
「――――げ、遠坂」
人の顔を見るなり、失礼なコトを口走る輩に遭遇した。
「あら生徒会長。こんな朝早くから校舎の見回り? それとも各部室の手入れかしら。どっちでもいいけど、相変わらずマメね、そうゆうトコ」
「ふん―――そういうおまえこそ何を企んでいる。部活動もしていないおまえが、こんな早くに何の用か」
「ただの気紛れよ。柳洞《りゅうどう》くん家みたいに早起きじゃないもの、わたし」
「………………」
む、と端正な顔を曇らせる生徒会長。
なんでだかは知らないけど、彼はわたしを目の敵にしているみたいだった。
理由は本当に分からない。
……もしかして、修学旅行の会議で『お寺は辛気くさいからパス』と横やりを入れたのが原因だろうか。
「…………一つ訊いておくが。最近、夜遅くまで校舎にいた事はあるか、遠坂」
「ないわね。わたしが帰宅部だって知ってるでしょう、柳洞くんは」
「当然だ。生徒会長を任された以上、全校生徒の情報は把握している」
「そう。ならわたしに訊くまでもないでしょう。なんだってそんな事を訊くか知らないけど、生徒会の仕事を部外者に押しつけちゃまずいんじゃない?
情報収集は一人でやりなさいよ。わたしみたいな部外者に頼らないで」
「たわけ、おまえのどこが部外者だっ!
うちの会計の首根っこ掴んで悪さをしたのを知らぬと思ったか、この女狐!」
「あら、人聞きが悪いわね。アレは美綴さんに頼まれて、部費の割合を明らかにしただけでしょう?
みんなの予算がどこに使われているか調べるなんて、生徒として当然の行為だと思うけど」
「……なんと。うちの会計を一週間休ませた精神的ダメージが当然の行為なのか。とんでもない倫理観をお持ちのようだな、相変わらず」
「貴方もね。部下の手綱ぐらいちゃんと握ってなさい。文化系ばっかり贔屓《ひいき》するのはフェアじゃないわ」
「分かっている。だからこそ、俺の手で不正を糾したかったのだが――――」
「一成《いっせい》、修理終わったぞ」
――――と。
思ってもいなかったヤツが、いきなり出てきた。
「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、衛宮《えみや》に任せきりにしてしまった。許せ」
「そんなコト気にすんな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」
「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」
「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」
「……そうなんだが、いちおう見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」
「そうか。なら試そう」
男子生徒に促されて去っていく生徒会長。
「――――――――」
突然の事で、思考が停止してしまった。
手にスパナやらドライバーやらを持った男子は思い出したように振り返って、
「朝早いんだな、遠坂」
そう、ぶっきらぼうに去っていった。
……今の、挨拶のつもりなのかな。
生徒会長が衛宮と呼んでいた生徒はスタスタと去っていった。
衛宮といえば、2年C組の衛宮士郎《えみやしろう》の事だろう。
「……それはいいんだけど、さ」
その、なんというか。
ああもスパナが似合うヤツっていうのは、物騒なんだか便利なんだか分からないな、などと思ってしまった。
朝の七時半、2年A組の教室には誰もいない。
「仕方ない。予習でもしてよう」
自分の机について、パラパラと数学の問題集を開いてみる。
朝のホームルームまで三十分、クラスメイトが登校してくるまで退屈な予習になりそうだ。
◇◇◇
四時限目が終わって、教室は賑やかなお昼休みを迎える。
うちの学校は学食もあるので、教室に残る生徒は半分ほど。
ちなみに、残った生徒の大部分は女子である。
うちの学食は大雑把な味付けなので女子に受けがよろしくなく、結果として、
「あ、あの、遠坂さんっ……! よ、良かったらお昼ごはん一緒に食べませんか……!」
なんて、女の子同士で仲良くお弁当、というコトになる。
「ありがとう三枝《さえぐさ》さん。けどごめんなさい、わたし今日は学食なんです。今朝は寝過ごしてしまって、お弁当を作る余裕がなかったものですから」
「あ、や、そうなんですか。……ごめんなさい、そうとも知らず呼び止めてしまって。わたし、余計なコトしましたね」
しゅん、と申し訳なさそうにうなだれる三枝さん。
上品で大人しい生徒の多いA組の中でも群を抜いて大人しい生徒で、なぜかわたしに構ってくれる優しい人だ。
「余計なコトだなんて、そんな事はありません。今日はたまたまだから気にしないで。また明日、これに懲りず声をかけてください」
にっこり、と本心からの笑顔で返す。
「あ、はい。でも、遠坂さんでも寝過ごす事があるんですね」
わたしの笑顔にホッとしたのか、三枝さんもほにゃっとした笑顔で切り返してくる。
「――――――――」
その笑顔は可愛い。
三枝由紀香さんはすごい美人ではないけど、笑うと周りにいる人間をあったかくしてくれる。
「ええ、そうなんです。なんとか誤魔化していますけど、本当は寝ぼすけなんですよ、わたし。部活だって、朝起きられないから入ってないんです」
まあ、なんてこれまた上品に驚いてくれる三枝さん。
その反応はすごく安らぐのだが、楽しいからって話を続けるワケにはいかない。
こういう人と話していると、いつのまにか地が出てしまうのがわたしなのだ。
「それじゃあ食堂に行ってきます。三枝さんもごゆっくり」
「はい、遠坂さんも」
ほにゃっと極上の挨拶を交わして、三枝さんは女子の一団へ戻っていった。
三枝さんとお昼を一緒するのは蒔寺《まきでら》と氷室《ひむろ》さんか。
そっか、三枝さん陸上部のマネージャーだっけ。
蒔寺と氷室さんは陸上部のホープだ。
蒔寺のヤツとは休日お店を冷やかしにいく悪友で、氷室さんとはあまり面識がない。
「お、フラれたね由紀っち。だから言ったでしょ、遠坂は弁当持ってこないって。釣りたかったらあいつの分もメシ用意しないとねー」
「……蒔。それは、私たちも食堂に移動すればいいだけの話では?」
「だめだめ。食堂は狭いんだから、弁当組が座れるスペースなんてねーっての。それに遠坂と同席してみなさい、男どもの視線がうざいのなんの。
前の休みだってさー、二人で遊びにいったのにあいつだけ得しちゃってさー。やだよねー、美人を鼻にかけた優等生はー」
三枝さんの机を取り囲みつつ、なにやら言いたい放題の蒔寺。
その口の悪さとは裏腹に、こいつは和服の似合う日本美人だったりする。
「……蒔の字。君の陰口は、遠坂嬢に聞こえているようだが」
一方、氷室さんは喧しい蒔寺とは対照的にクールでソリッドな感じである。
「あ、やべ、遠坂に聞かれた? げげ、めっちゃにらんでるじゃんあいつ……!」
「え……べ、別に遠坂さん、蒔ちゃんを睨んでなんかないと思う、けど」
「睨んでんだよアレ。あいつは笑ってる時が一番怖いんだから。なんだよー、いいじゃんかグチぐらい。大目に見ろよー、あたしと遠坂の仲だろー。タイヤキ奢ってやっただろー」
ほっぺたを膨らませて割り箸をブン回す蒔寺楓。
アレで趣味が風鈴集めっていうのは、どうも世の中複雑すぎる。
……ともあれ、いつまでも三人の様子を眺めていては三枝さんに悪い。
際限なくグチをこぼす蒔寺を前にして、三枝さんはどうしたものかと取り乱しているからだ。
「気にしないでいいのよ三枝さん。
それと蒔寺さん? 奢らされたのはわたしで、品物はタイヤキではなくクレープでした。無意識に事実を改竄《かいざん》する悪癖、次あたりに直さないと考えますよ?」
「げ。マジ怖えあの笑顔」
ササッとお弁当のフタで顔を隠す蒔寺。
どこから見てもチグハグな三人に挨拶をして、教室を後にする。
がらり、と教室のドアを閉める。
……と。
「ぶー。なんだよー、大差ないじゃんかタイヤキもクレープもー。どっちも甘いの皮で包んでるんだからさー」
蒔寺による女の子にあるまじき暴言が聞こえてきた。
「……タ、タイヤキとクレープが同じですって……!?」
あいつはホントに女なのか、甘いものならなんでも一緒なのか。
500円もするフルールのベリーベリーベリーが、江戸前屋の一個80円のタイヤキと同位などとある意味うらやましい味覚の持ち主と言えなくもないというか、
おのれ蒔寺楓、それなら初めからタイヤキで済ませておけば420円も得したじゃないっ……!
「…………って、なに本気で悔しがってるんだわたし」
昨夜の疲れがまだ取れていないらしい。
食堂も面倒くさいし、購買でパンと飲み物を買って屋上で済ませよう。
購買でお昼ごはんを調達して、人のいない屋上に移動する。
夏場ならともかく、冬場の屋上は生徒の寄り付かない便利な場所だ。
お昼休みを取るには寒すぎるけど、周りに気を遣わなくていいというのは何事にも代えがたい。
「さて。とりあえずごはんごはん、と」
購買のトマトサンドとホットレモンを口に運ぶ。
簡素な食事だけど、気楽に食べられる屋上だと何割か増しで美味しく感じられた。
「―――――ふう」
サンドを完食して、生暖かいホットレモンで唇を潤す。
……ちょっと疲れた。
優等生のクセに極力人付き合いを避ける、というのはバランス感覚が難しい。
文武両道、学園一の優等生を守っているのはわたしの見栄というか、信念である。
どうせ学生でいるなら一番でいたいし、遠坂の名を貶《おとし》めるなんてもってのほかだからだ。
そんなワケで遠坂凛は完璧な、誰から見ても隙のない女生徒をやってるワケである。
が、同時にわたしは魔術師なんて物騒な生業をしていて、あんまり普通の人と関わるのはよろしくない。
一般人に正体を知られた魔術師は、目撃者を消す事でしか自分を守れない。
……そんなのは御免だ。
だから必然、わたしの人付き合いは簡素で表向きなものになる。
遊び友達の蒔寺だって休日にしか会わないし、三枝さんのように人懐っこい子の誘いも断る。
わたしは学園で一番の優等生でありながら、誰かの一番にならないように波風立てずに生活している。
それが、まあ、こんな風に疲労している時、なんとなーくつまんないなあ、と思ってしまうワケなのだ。
「っと、もう時間か」
ホットレモンを飲みきって立ち上がる。
感傷にひたるのはこれぐらいにして、階段を下りたらまたいつもの遠坂凛に戻るとしよう――――
◇◇◇
「ではHRを終了する。日直は日誌と戸締まりの確認を。部活動のない生徒は速やかに帰宅するように」
おきまりの台詞を残して、2年A組の担任が退場する。
わたしが知る限り、今の台詞はこの一年間で一言一句違った試しがない。
「遠坂、今日はもうお帰り?」
「ええ。朝方間桐くんと一件あったし、面倒になる前に帰るわ」
「はは、やっぱりそうか。間桐のヤツ、今朝はとくに荒れてたからさ。遠坂に手ひどく扱われたんだろうなって思ってた」
「そう。迷惑をかけてしまったかしら、美綴さん」
「別に。間桐が下級生をいびるのはいつもの事だし。アレはアレでいい精神鍛錬になるよ」
「そう、よかった。じゃあこの埋め合わせは、また今度」
「はいはい。これに懲りずまた寄っていってちょうだい」
寄り道をせず帰路につく。
弓道部や生徒会室に用がない訳ではないけれど、ここ数日にそんな暇はない。
学校から出れば、学生である遠坂凛の時間は終わりだ。
残りの半日は学生ではない自分、
遠坂の魔術師としての自分に切り替わらなくてはいけない―――
屋敷《うち》に帰ってきたわたしを出迎えたのは、点滅する留守番電話のランプだった。
「―――留守電なんて珍しいな。相手は……やっぱりアンタか、綺礼《きれい》」
何を言われているか予想はつくけど、一応聞いておかないと後が怖い。
再生のボタンを押すと、聞き慣れた男の声がした。
『私だ。解っていると思うが、期限は明日までだぞ凛。
あまり悠長に構えられては困る。残る席はあと二つだ。早々にマスターを揃えねばならん』
いきなり本題を口にするあたり、この神父は容赦がない。
『マスターの権利を放棄するというのなら今日中に連絡をしろ。予備の魔術師を派遣するにも時間がかかる』
嘘つけ。予備の魔術師ぐらい、アンタならすぐに準備できるくせに。
『おまえにはすでに令呪の兆しが現れているのだ。さっさとサーヴァントを召喚し令呪を開け。
もっとも、聖杯戦争に参加しないというのならば話は別だ。命が惜しいのなら早々に教会に駆け込むがいい』
留守電はそこで切れた。
……簡潔と言ってはあんまりにも簡潔な言葉。
戦うなら今日中に支度しろ、戦わないのなら目障りだから早くリタイアしろ、か。
「……ふん。言われなくても分かってるわよ」
まあ、こうなっちゃしょうがない。
引き延ばしも今日が限界だ。
幸い、昨日は父さんの遺言を解読できた。
戦う準備はとうに整っている。
あとは、そう―――文字通り、この戦いに参加する資格を得るだけなのだが――――
「聖杯戦争……たった一つきりの聖杯を奪い合う殺し合い。何百年も前から伝わってきた聖杯の儀式、か……」
聖杯戦争に参加する魔術師はマスターと呼ばれる。
これは階級を表す呼称ではなく、単純に“主”としての役割を意味する。
聖杯戦争に参加する条件。
それはサーヴァントと呼ばれる使い魔を召喚し、契約する事のみだ。
いくら魔術師として優れていようが、サーヴァントを従えなくてはマスターとは認められない。
サーヴァントは通常の使い魔とは一線を画す存在だ。
その召喚、使役方法も通常の使い魔とは異なる。
聖杯戦争に参加する魔術師はこの日に備えてサーヴァント召喚用の触媒を用意するものなんだけど……
「……ほんと。父さんもセイバーに縁の物を遺してくれれば良かったのに」
わたしには“縁”を示す品物がない。
サーヴァントは呼び出せる。
その気になれば今すぐに呼び出して契約できる。
この街の霊地は遠坂の管轄だ。
代々土地を守ってきた遠坂の跡取り娘として、他所からやってきた魔術師になんて遅れはとらない。
とらないんだけど……流石にコンパスなしで航海には出れないというか、無計画にも程があるっていうか。
「……サーヴァントはシンボルによって引き寄せられる。
強力なサーヴァントを呼び出したいのなら、そのサーヴァントに縁のあるモノが必要不可欠なのだ、かぁ……」
つまり、そのサーヴァントが持っていた剣とか鎧とか、紋章とか骨とか、そういうとんでもない値打ち物だ。
「……父さんの遺言に期待してたんだけどなあ……ううん、これはこれでもの凄い切り札なんだけど」
昨夜地下室で発見したペンダントは、古代遺物《アーティファクト》としては最上級の代物だ。
これはこれで凄い。
凄いんだけど、サーヴァント召喚の役には立たない。
「……ふん。いいわよ、そんな物に頼らなくたってなんとかなるわ。そもそも、わたし以外にセイバーを扱えるマスターなんている筈ないし」
―――よし、決めた。
これ以上伸ばして綺礼に嫌みを言われるのもご免だし、ギリギリまで待つなんて性に合わない。
こうなったら本番勝負。
今夜万全の態勢でサーヴァント召喚に臨んで、力ずくでセイバーを手に入れてやるんだから……!
◇◇◇
深夜。
時計の針はじき午前二時を指そうとしている。
わたしにとって最も波長のいい時間帯。
その中でもピークになるのが午前二時ジャスト。
制限的にもこれが最初にして最後のチャンスだから、わずかでもミスをする訳にはいかない。
「―――消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む、と」
地下室の床に陣を刻む。
……実際、サーヴァント召喚にはさして大がかりな降霊は必要ない。
サーヴァントは聖杯によって招かれるモノ。
マスターは彼らをつなぎ止め、実体化に必要な魔力を提供する事が第一なのだから、召喚はあちらが勝手にやってくれる。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。
降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
それでも、細心の注意と努力を。
本来なら血液で描く魔法陣を、今回は溶解した宝石で描く。
……わたしが今までため込んできた宝石のうち半分を使うんだから、財政的にも失敗なんて承知しない。
「閉じよ《みたせ》。閉じよ《みたせ》。閉じよ《みたせ》。閉じよ《みたせ》。閉じよ《みたせ》。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する」
……じき午前二時。
遠坂の家に伝わる召喚陣を描き終え、全霊をもって対峙する。
「―――――Anfang《セット》」
わたしの中にある、カタチのないスイッチをオンにする。
かちり、と体の中身が入れ替わるような感覚。
通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
これより遠坂凛は人ではなく。
ただ、一つの神秘を成し得る為だけの部品となる。
……指先から溶けていく。
否、指先から満たされていく。
取り込むマナがあまりにも濃密だから、もとからあった肉体の感覚が塗りつぶされていく。
だから、満たされるという事は、同時に破却するという事だ。
「――――――――――――」
全身に行き渡る力は、大気に含まれる純然たる魔力。
これを回路となった自身に取り込み、違う魔力へと変換する。
魔術師の体は回路にすぎない。
幽体と物質を繋げる為の回路。
その結果、成し得た様々な神秘を、我々は魔術と呼ぶ。
……体が熱い。
額に角が生えるような錯覚。
背に羽が生えるような錯覚。
手に鱗が生えるような錯覚。
踝に水が満ちるような感覚。
……汗が滲む。
ザクン、ザクン、と体中に剣が突き刺さる。
それは人であるわたしの体が、魔術回路と成っているわたしの体を嫌う聖痕だ。
いかに優れた魔術師であろうと人は人。
この痛みは、人の身で魔術を使うかぎり永劫につきまとう。
それでも循環を緩めない。
この痛みの果て、忘我の淵に“繋げる”為の境地がある。
「――――――――――――」
……左腕に蠢《うごめ》く痛み。
魔術刻印は術者であるわたしを補助する為、独自に詠唱を始め、余計、わたしの神経を侵していく。
取り入れた外気《マナ》は血液に。
それが熱く焼けた鉛なら、
作動し出した魔術刻印は茨の神経だ。
ガリガリと、牙持つ百足《むかで》のようにわたしの体内を這いまわる――――
「――――――――――――」
その痛みで我を忘れて。
同時に、至ったのだと、手応えを得た。
あまりにも過敏になった聴覚が、居間の時計の音を聞き届ける。
午前二時まであと十秒。
全身に満ちる力は、もはや非の打ち所がないほど完全。
「――――――――告げる」
始めよう。
取り入れたマナを“固定化”する為の魔力へと変換する。
あとは、ただ。
この身が空になるまで魔力を注ぎ込み、召喚陣というエンジンを回すだけ――――
「――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
視覚が閉ざされる。
目前には肉眼では捉えられぬという第五要素。
故に、潰されるのを恐れ、視覚は自ら停止する。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
文句なし……!
手応えなんてもう、釣り竿でクジラをつり上げたってぐらいパーフェクト!
「―――かんっぺき……! 間違いなく最強のカードを引き当てた……!」
ああもう、視覚が戻るのがもどかしいっ。
あと数秒で目が回復して、そうすればもう目前には召喚されたサーヴァントの姿が――――
――――ない。
「はい……?」
ないものはない。
変化なんてこれっぽっちもない。
あんだけ派手にエーテルを乱舞させておいて、実体化しているモノが欠片もない。
加えて。
なんか、居間の方で爆発音がしてるし。
「なんでよーーーーー!?」
走った。
もう頭んなか空っぽにしたまま走った。
地下室の階段を駆け上がって居間へ急ぐ。
「扉、壊れてる!?」
居間の扉はゆがんでいた。
取っ手を回しても意味がない。
押しても引いても開かないので、
「―――ああもう、邪魔だこのおっ……!」
どっかーんと、蹴破って中に入った。
「…………」
で。
居間に入った瞬間、わたしは全てを理解した。
居間はメチャクチャになっていた。
何が天井から落ちてきたのか、部屋は瓦礫にまみれており、偉そうにふんぞり返っている男が一人。
「……………」
アレ、間違いなく下手人だ。
[#挿絵(img/101.JPG)入る]
「……………」
けど、そんな事よりもっと大事な事が一つ。
破壊を免れた柱時計は正確に時間を刻んでいる。
……それで、思い出してしまった。
うん、そうそう。たしかうちの時計、今日にかぎって一時間早かったんだっけ。
つまり今は午前一時。
わたしの絶好調まで、ほんとはあと一時間。
「…………また、やっちゃった」
わたしは大抵のコトは人並みにこなせるんだけど、一つだけ遺伝的な呪いがある。
それはここ一番、もっとも大事な勝負時に、信じられないような大ポカをしでかす事だ―――
「……やっちゃった事は仕方ない。反省」
自分の馬鹿さ加減が腹立たしい。
カリカリとした心のまま、偉そうに横たわっている瓦礫の男を睨み付けた。
「それで。アンタ、なに」
「開口一番それか。これはまた、とんでもないマスターに引き当てられたものだ」
赤い外套《がいとう》のソイツは、やれやれ、なんて大げさに首をすくめた。
オマケに「これは貧乏クジを引いたかな」なんて呟きやがる。
……断言しよう。
コイツ、絶対に性格ゆがんでる。
「――――――」
それにしても、これがサーヴァント、なんだろうか。
使い魔っていうからカタチのないモノだと思ってたけど、これじゃまるで人間そのものだ。
……いや、それは違うか。
こうしているだけで、アレが桁外れの魔力を帯びている事が判る。
外見に惑わされるな。
アレは間違いなく人間以上のモノ、人の身でありながら精霊の域に達した“亡霊”だ。
「――――――」
いつまでも圧倒されている場合じゃない。
アレはわたしの。
なら、ここからはきっちりと頭を切り換えないと。
「―――確認するけど、貴方はわたしのサーヴァントで間違いない?」
「それはこちらが訊きたいな。君こそ私のマスターなのか。ここまで乱暴な召喚は初めてでね、正直状況が掴めない」
「わたしだって初めてよ。そういう質問は却下するわ」
「……そうか。だが私が召喚された時に、君は目の前にいなかった。これはどういう事なのか説明してくれ」
「本気? 雛鳥じゃあるまいし、目を開けた時にしか主を決められない、なんて冗談は止めてよね」
む、と正体不明のサーヴァントは顔をしかめた。
こっちの言い分に腹が立ったのか、それともあんまりにもわたしの言葉が正しかったから感心したのか、ちょっと微妙な反応だ。
「まあいいわ。わたしが訊いてるのはね、貴方が他の誰でもない、このわたしのサーヴァントかって事だけよ。
それをはっきりさせない以上、他の質問に答える義務はないわ」
「……召喚に失敗しておいてそれか。この場合、他に色々と言うべき事があると思うのだが」
「そんなのないわよ。主従関係は一番初めにハッキリさせておくべき物だもの」
「――――む」
ぴくり、とサーヴァントの眉があがる。
中途半端な召喚だったからか、こいつ、わたしへの不満を隠そうともしない。
「ふむ。主従関係はハッキリさせておく、か。やる事は失点だらけだが、口だけは達者らしい。
―――ああ、確かにその意見には賛成だ。どちらが強者でどちらが弱者なのか、明確にしておかなければお互いやり辛かろう」
瓦礫に寝そべったまま、意味ありげにわたしを見定めるサーヴァント。
「どちらが弱者かですって……?」
「ああ。私もサーヴァントだ、呼ばれたからには主従関係を認めるさ。だが、それはあくまで契約上の話だろう?
どちらがより優れた者か、共に戦うに相応しい相手かを計るのは別になる。
―――さて。その件で行くと、君は私のマスターに相応しい魔術師なのかな、お嬢さん」
にやにやと笑うサーヴァント。
人の家を壊しておいて、その王様みたいな態度だけでもカチンとくるってのに、言うにコト欠いてマスターに相応しいかですって……!?
「―――貴方の意見なんて聞いていないわ。
わたしが訊いているのは、貴方がわたしのサーヴァントかどうかって事だけよ」
おへそに力を入れて睨む。
こんな、あからさまに見下してくるヤツに負けてたまるか。
「ほう。なるほどなるほど、そんな当たり前の事は答えるまでもない、と? 実に勇ましい。いや、気概《きがい》だけなら立派なマスターだが―――」
「だ・か・ら、順番を間違えるなっていうのっ……!
一番初めに確認するのは召喚者の務めよ。さあ答えなさい、貴方はわたしのサーヴァントなのね……!?」
返答しだいによっちゃ掴みかかる気合で踏み込む。
「――――はあ。強情なお嬢さんだ、これでは話が進まんな。
……仕方あるまい。仮に、私が君のサーヴァントだとしよう。で。その場合、君が私のマスターなのか? いやまあ、あくまで仮の話だが」
「あっ、当ったり前じゃない……! 貴方がわたしに呼ばれたサーヴァントなら、貴方のマスターはわたし以外に誰がいるっていうのよ……!」
沸騰しそうな頭をなんとかクールダウンして、この不届きものを睨みつける。
「ほう。そうか、まあ仮の話なんだが、とりあえずそうだとしよう。
それで。君が私のマスターである証は何処にある?」
ニヤニヤと笑いながら戯言を口走るサーヴァント。
こいつ、マスターの証とやらでわたしが慌てふためくと思っているに違いない。
「ここよ。貴方のマスターである証ってコレでしょ」
「む?」
右手の甲に浮き出た令呪を見せつける。
ふん、何も知らないと思わないでよね。
こっちは父さんからマスターについて散々聞かされてきたんだから、令呪の事ぐらい知ってるわよ。
「納得いった? これでもまだ文句を言うの?」
どうだ、とマスターの証を突きつける。
瓦礫に横たわったサーヴァントは目を白黒させて、
「……はあ。まいったな、本気で言っているのかお嬢さん」
なんて、ますます不満そうに顔を曇らせた。
「ほ、本気かって、なんでよ」
「その考えがだ。令呪があればマスターなのか? 令呪などサーヴァントを律する道具にすぎないだろう。
まったく、そんな形だけのものでマスターぶるとはな。
私が見たかったのは、君が忠誠を揮《ふる》うに相応しい人物かどうかだったのだが」
「あ――――う」
そ、それはそうだけど―――マスターの証って言ったら、まず令呪だって思うじゃない、普通。
「……なによ。それじゃあわたしはマスター失格?」
「そう願いたいが、そうはいくまい。令呪がある以上、私の召喚者は君のようだ。……信じがたいが、君は本当に私のマスターらしいな」
やれやれ、なんて大げさに肩をすくめる。
「………………」
―――まずい。
沸点低すぎて、クールダウンが間に合わなそう。
「まったくもって不満だが認めよう。
とりあえず、君は私のマスターだ。だが私にも条件がある。私は今後、君の言い分には従わない。戦闘方針は私が決めるし、君はそれに従って行動する。
これが最大の譲歩だ。それで構わないなお嬢さん?」
「――――――――」
あー、だめみたい父さん。
わたし、そろそろ臨界です。
「……そう。不満だけど認めるくせに、私の意見には取り合わないって、どういうコトかしら? 貴方はわたしのサーヴァントなんでしょ?」
震える声で一応訊いてみる。
さっきの令呪のコトもあるし、わたし的には思いっきり譲歩した最後通告だ。
それに。
「ああ、カタチの上だけはな。故に形式上は君に従ってやる。だが戦うのは私自身だ。君はこの家の地下にでも隠れて、聖杯戦争が終わるまでじっとしていればいい。それなら未熟な君でも、命だけは助かるだろう」
わたしには何も望んでいない、と見下しきった目で告げた。
「――――、っ」
「ん、怒ったのか? いや、もちろん君の立場は尊重するよ。私はマスターを勝利させる為に呼ばれたものだからな。
私の勝利は君の物だし、戦いで得た物は全て君にくれてやる。それなら文句はなかろう?」
「――――――――、あ」
「どうせ君に令呪は使えまい。
まあ、後のことは私に任せて、君は自分の身の安全、を……!?」
「あったまきたぁーーーーー!
いいわ、そんなに言うなら使ってやろうじゃない!」
「――――Anfang《セット》……!」
もう容赦なしだ、こんな捻くれモノ相手にかけてやる情けなんてあるもんかっ……!
「な――――まさか……!?」
「そのまさかよこの礼儀知らず!
Vertrag《令呪に告げる》……! Ein neuer《聖杯の規律に従い、》 Nagel Ein neues《この者、我がサーヴァントに》Gesetz Ein neues《戒めの法を重ね給え》 Verbrechen―――!」
「ば…………!? 待て、正気かマスター!? そんなコトで令呪を使うヤツが……!」
「うるさーい!
いい、アンタはわたしのサーヴァント! なら、わたしの言い分には絶対服従ってもんでしょうーーー!?」
「な、なんだとーーーーーー!?」
――――右手に刻まれた印が疼く。
三つの令呪。
聖杯戦争の要、サーヴァントを律するという三つの絶対命令権が行使される。
「か、考えなしか君は……! こ、こんな大雑把な事に令呪を使うなど……!」
ふん、怒鳴られても後の祭りよ。
……だいたい、わたしだって予想外だ。
自己嫌悪で死にたくなる。
まさかこんなコトで、大事な令呪をあっさりと使うハメになるなんて―――!
――――で。
廃墟みたいになった居間から引き上げて、とりあえず私の部屋に移動した。
目の前にはわたしの令呪で“絶対服従”になったはずのサーヴァントがいる。
いるんだけど――――
「……なるほど。君の性質はだいたい理解したぞ、マスター」
これの、どこが絶対服従なんだって言うのかっ。
「念のため訊ねるが。君は令呪がどれほど重要か理解しているのか、マスター」
「し、知ってるわよ。サーヴァントを律する三回きりの命令権でしょ。それがなによ」
「……はあ。いいかね、令呪はサーヴァントを強制的に行動させるものだ。
それは“行動を止める”だけでなく、“行動を強化させる”という意味でもある」
「例えば、私はここから遠くの場所まで瞬間的には移動できない。だが令呪で“行け”と命じれば、それが私と君の魔力で届く事ならば可能となる。
強制命令権とはそういう事だ。サーヴァント自身でも制御できない、肉体の限界さえ突破させる大魔術の結晶が三つの令呪なのだ。まあ、今では二つに減ってしまったがな」
「し、知ってるわよそんなコト。いいじゃない、まだ二つあるんだし、貴方に命じた規則は無駄じゃないんだし」
「……ふう。確かに、これは私の誤算だった。
令呪というものは曖昧な命令には効きが弱くなる。
“私を守りとおせ”“この戦いに勝て”などといった、広く長く効果が続くものには令呪の力が弱くなる。強制《ききめ》は長く続くが、苦痛が小さい為逆らえるサーヴァントも出てくるだろう」
「逆に、“次の一撃を死ぬ気で放て”“あのグラスだけは壊すな”といった単一の命令は絶対で、よほど強力なサーヴァントでも逆らうのは難しくなる。
……さて。ここまでで私が言いたい事がわかるな、マスター」
「……解るわよ。ようするに、広く長い命令は意味がないんでしょ。
効果も戒《いまし》めも薄いなら、サーヴァントは令呪に逆らって行動できる。そんな効き目の薄い命令をするなら、絶対的な“単一の命令”をした方がいい」
「そうだ。令呪とは元々、自分たちの能力以上の奇跡を起こす為のもの。それを代用の効く命令などで消費する愚は許されない。
……君の先ほどの令呪はまさにそれだ。私が君に従うかは話し合いで解決できた事だし、仮に令呪を使ったところで“全ての言動に絶対服従”など、令呪が百あっても実現できない」
「う……じゃあ、わたしのさっきの令呪は無意味って事……?」
「……通常ならそうなのだがな。どうも、君の魔術師としての性能はケタが違ったらしい」
「?」
呆れているのか、嬉しいのか。
サーヴァントは溜息をつきながらも、口元を緩ませている。
「ケタが違ったって――――もしかして。
ちょっと貴方。自分が今どんな状態なのか、正直に話してみなさい」
ピンとくるものがあって、ちょっと強気に訊いてみる。
「ああ。誤算というのはそれだ。
先ほどの令呪《めいれい》では、“少しはマスターの意見を尊重しよう”という程度の心変わりにしかならない。
だが、今の私は君の言葉に強い強制を感じている。君の意見に異を唱えると、そうだな……ランクが一つばかり落ちるようだ。
つまり、マスターの意向に逆らうと体が重くなって動き辛い、というところか」
困ったものだ、と肩をすくめるサーヴァント。
「――――えっと」
……って事は、さっきの令呪は無駄じゃなくて、むしろプラスに働いたんだろうか?
けどこいつは相変わらず皮肉ばっかり口にするし、全然弱くなったように見えない。
ううん、仮にこのサーヴァントがわたしに逆らって力が落ちても、わたしなんかじゃ十人いても太刀打ちできないんじゃないだろうか……?
「前言を撤回しよう、マスター。
年齢は若いが、君は卓越した魔術師だ。
子供と侮り、戦いから遠ざけようとしたのは私の過ちだった。無礼ともども謝ろう」
居を正して、礼儀正しく頭を下げる。
「え―――ちょっ、止めてよ、たしかに色々言い合ったけど、そんなのケンカ両成敗っていうか……」
「そうか。いや、話の解るマスターで助かった」
「……なんか、切り返し早いわねアンタ」
「なに、誤算は誤算だったが、嬉しい誤算というヤツだったからな。これほどの才能があるのなら、君を戦いに巻き込むことに異論はない」
「え――――?」
えっと……今のって、強いマスターに巡り合えたって意味、なんだから――――
「じゃあ令呪抜きで、わたしがマスターだって認めるのね?」
「無論だ。先ほどは召喚されたばかりで馴染んでいなかったが、今では完全に繋がった。魔術師であるのなら、契約による繋がりを感じられるだろう」
「契約……?」
む。言われてみれば、なにか体に違和感がある。
今まで内に閉じていた神経が外に向かっている感じ。
……ついでに言うと、わたしの魔力の何割かが目の前の男に流れていっている。
「そっか。サーヴァントは聖杯に呼ばれるけど、呼ばれたサーヴァントをこの世に留めるのは」
「そう、マスターの力だ。サーヴァントはマスターからの魔力提供によってこの世に留まる」
「魔力提供量は十分だ。経験的に問題はありそうだが、君の能力はとび抜けている。
普通の魔術師ならば、サーヴァントを召喚した瞬間に意識を失っているだろう。だというのに君は活力に満ちている。
先ほどの令呪といい、この魔力量といい―――マスターとして、君は間違いなく一流だ」
「っ―――ふ、ふん。今さら褒めたって何もでないけど」
気恥ずかしくなって視線を逸らす。
……ちょっと意外だ。
そりゃ令呪で強制的に従わせてはいるけど、人間以上であるサーヴァントが、素直にわたしをマスターと認めてくれるなんて。
「……で? 貴方、何のサーヴァント?」
気を取り直して、ようやく本題に移る。
「見て判らないか。ああ、それは結構」
…………。
さっきのは気の迷い。
コイツ、やっぱりわたしをバカにしてる。
「……分かったわ、これはマスターとしての質問よ。
ね。貴方、セイバーじゃないの?」
「残念ながら、剣は持っていない」
「――――――――」
……やっぱりそうか。
そりゃそうよね、時間は間違えるわ、召喚陣はなんの機能も果たさないわ、はては見当違いの場所にサーヴァントを呼びつけたんだもの。
最強のサーヴァントであるセイバーを呼ぶには、あんまりにも不手際すぎる。
「……ドジったわ。あれだけ宝石を使っておいてセイバーじゃないなんて、目も当てられない」
「……む。悪かったな、セイバーでなくて」
「え? あ、うん、そりゃあ痛恨のミスだから残念だけど、悪いのはわたしなんだから―――」
「ああ、どうせアーチャーでは派手さにかけるだろうよ。
いいだろう、後で今の暴言を悔やませてやる。その時になって謝っても聞かないからな」
「……はい?」
……意外。
わたしがセイバーに固執するのが癇に触ったのか、正体不明のサーヴァントは拗ねているみたいだ。
「なに、癇に触った、アーチャー?」
「触った。見ていろ、必ず自分が幸運だったと思い知らせてやる」
じっ、と半眼で抗議するアーチャー。
雰囲気はすごく嫌みなんだけど、今の素振りはどこか子供じみていて、邪気がなかった。
――――なんか。
コイツ、けっこうイイ奴かも。
「そうね。それじゃあ必ずわたしを後悔させてアーチャー。
そうなったら素直に謝らせて貰うから」
「ああ、忘れるなよマスター。己が召喚した者がどれほどの者か、知って感謝するがいい。
もっとも、その時になって謝られてもこちらの気は晴れんだろうがな」
ふん、とまたも嫌みな笑みをこぼすアーチャー。
あー、やっぱりコイツ性格悪いかも。
「まあいいわ。それでアンタ、何処の英霊なのよ」
「――――」
アーチャーは答えない。
さっきまでの皮肉屋な素振りは消えて、深刻そうに眉を寄せている。
「アーチャー? マスターであるわたしが、サーヴァントである貴方に訊いてるんだけど?」
「――――それは、秘密だ」
「は……?」
「私がどのようなモノだったかは答えられない。何故かと言うと―――」
「あのね。つまんない理由だったら怒るわよ」
「―――――――それは」
あ、またその顔。
本当に困っているのか、アーチャーは言いにくそうに口を開けると、
「―――何故かと言うと、自分でも分からない」
……ちょっと、なんですって……?
「はああああああ!? なによそれ、アンタわたしの事バカにしてるワケ!?」
「……マスターを侮辱するつもりはない。
ただ、これは君の不完全な召喚のツケだぞ。どうも記憶に混乱が見られる。自分が何者であるかは判るのだが、名前や素性がどうも曖昧だ。……まあさして重要な欠落ではないから気にする事はないのだが」
「気にする事はない―――って、気にするわよそんなの!
アンタがどんな英霊か知らなきゃ、どのくらい強いのか判らないじゃない!」
「なんだ、そんな事は問題ではなかろう。些末な問題だよ、それは」
「些末ってアンタね、相棒の強さが判らないんじゃ作戦の立てようがないでしょ!? そんなんで戦っていけるワケないじゃない!」
「何を言う。私は君が呼び出したサーヴァントだ。それが最強でない筈がない」
まっすぐに。
絶対の自信と信頼を込めて、赤い騎士はわたしを見据えた。
「な――――――――」
思考が停止する。
アーチャーの言葉に嘘はない。
彼は、出会ったばかりのわたしを、わたし以上にはっきりと認めていた。
「――――――――」
……顔が熱い。
ああもう、間違いなく赤面してる。
なんだってこう、不意打ちの出来事に弱いんだろう、わたしは。
「……ま、いっか。誰にも正体が分からないって事には変わりはないんだし……敵を騙すにはまず味方からっていうし……」
照れ隠しに言って、アーチャーから顔を背ける。
まあ、アーチャーがどのくらいのサーヴァントなのかは追々知ればいいだろう。
とりあえず、今はそれより優先すべき事があるのだし。
「分かった、しばらく貴方の正体に関しては不問にしましょう。
―――それじゃアーチャー、最初の仕事だけど」
「さっそくか。好戦的だな君は。
それで敵は――――」
何処だ、なんて続けるアーチャーの前に、ぽいぽいっとホウキとチリトリを投げつける。
「――――む?」
「下の掃除、お願い。アンタが散らかしたんだから、責任もってキレイにしといてね」
「――――――」
呆然とする事十秒。
ようやく思考を取り戻したアーチャーは、ガッと文句ありげにホウキを握りしめた。
「待て。君はサーヴァントをなんだと思っている」
「使い魔でしょ? ちょっと生意気で扱いに困るけど」
「――――――――」
言葉を飲むアーチャー。
もちろん撤回する気なんて微塵もないし、こっちには切り札がある。
「異議あり。そのような命令はことわ――――」
「いいの? これ、マスターとしての命令よ? マスターの方針に逆らったら体が重くなるんだっけ?」
「む」
「ま、貴方はその程度じゃどうって事ないだろうけど、そのペナルティは居間を掃除するまで続くのよ? そんな状態で、明日から戦っていくのは危ないんじゃない?」
「むむむ」
ホウキを握り締めたまま唸ること数秒。
赤い外套《がいとう》のサーヴァント―――アーチャーは悔しげに目を閉じて、
「了解した。地獄に落ちろマスター」
潔く、わたしのお願いを聞いてくれた。
さて。
夜も遅いし、今夜はもう休もう。
アイツの扱いをどうするかは目が覚めてから決めればいい。
―――運命の日が終わりを告げる。
いや、運命はこの夜から回り始めた。
わたしを含めてこれで六人。
最後の一人、未だマスターとして覚醒しない七人目がサーヴァントを召喚した時、此度《こたび》の聖杯戦争が開始される。
それはもう遠くない未来。
十年間待ち続けたわたしの戦いは、あと少しで始まろうとしているのだ――――
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2月1日
―――聖杯戦争。
それは何百年も昔から繰り返される大儀式、
参加したからには他の六人を排除しなければならない、生き残りをかけた殺し合い。
聖杯戦争がいつから始まったのかは知らない。
ただ、この冬木の土地には聖杯が在るとされ、過去何人もの魔術師たちが技を競い合ったという。
目的はただ一つ、聖杯と呼ばれる宝具を手に入れる事だけだ。
しかし、聖杯の由来は定かではない。
神の血を受けた杯でない事だけは確かだけど、その力の凄まじさは伝説のソレに匹敵する―――
そう。
曰く、聖杯はあらゆる願いを叶えるという。
その所有権は一人のみ。
一つの聖杯が叶える願いは、一人の人間の望みだけ。
けれど、この土地で聖杯を召喚するには七人の魔術師が必要だった。
一つの奇跡と、七人の協力者。
……ま、ようするに。
聖杯の奪い合いが始まるのは、時間の問題だったのだ。
発端はそんな、よくある利権争いみたいな話だった。
七人の魔術師たちは平等に聖杯の力を使い、それぞれの使い《サーヴァ》魔《ント》を用いて他の魔術師たちと競い合った。
聖杯を手にする魔術師は一人だけ。
結果として、彼らは仲間だった六人を敵とみなし、凄惨な殺し合いが始まった。
それが聖杯戦争と呼ばれる儀式、魔術師たちによる聖杯争奪戦である。
聖杯に選ばれた魔術師はマスターと呼ばれ、
マスターは聖杯の恩恵により強力な使い《サーヴァ》魔《ント》を得る。
―――マスターの証は二つ。
サーヴァントを召喚し、それを従わせる事と。
サーヴァントを律する、三つの令呪を宿す事だ。
一つ目は言うまでもない。
昨日……いえ、正確にはほんの数時間前……に呼び出したアーチャーが遠坂凛《わたし》のサーヴァントとなった。
だからあとは二つ目。
サーヴァントを律する令呪を最後まで守り続ける。
これがマスターにとって、最も重要な点だろう。
アーチャーを召喚した事で、右手に刻まれた紋様。
これが令呪。
聖杯によってもたらされた聖痕《よちょう》が、サーヴァントを召喚する事によって変化したマスターの証である。
強大な魔力が凝縮された刻印は、永続的な物ではなく瞬間的な物だ。
これは使う事によって失われていく物で、形の通り、一画で一回分の意味がある。
つまり、たった三回。
この三回分の令呪を失ったマスターはサーヴァントを従えられなくなり、死を迎える事になる。
……故に。
令呪とは自身の命と同じぐらい、最後まで慎重に扱うべき物なのだ。
それを開始早々使ってしまったのは頭が痛いが、まったくの無駄でもなかったので良しとする。
なにしろサーヴァントはいつマスターを裏切ってもおかしくない連中だ。
令呪を一つ使って首輪をかけられたのなら僥倖《ぎょうこう》である。
……要点をまとめるのはこのあたりにしておこう。
七人のサーヴァントが揃った時、聖杯戦争は開始される。
ゆっくり眠ってはいられない。
最後のマスターがいつ現れるか判らないけど、それはすぐそこまで迫っている筈なんだから――――
「ん――――もう、朝……?」
……だるい。
ぼんやりとした意識のまま窓に視線をやると、とっくに日が昇っていた。
「……九時過ぎてる……遅刻どころの話じゃない……」
まどろんだまま時計を確認して、今日は学校をサボろう、と頷いた。
「……体が重い……半分以上もっていかれたみたいね、これは」
ベッドから体を起こして、ふう、と大きく深呼吸をする。
……体がだるいのはわたしが朝に弱いから、という訳じゃない。
アーチャーのヤツが言ってたっけ。
サーヴァントを召喚したばかりのマスターは満足に活動できないって。
「――――そうだった。
わたし、セイバーじゃなくってアーチャーを呼び出したんだ」
ハッキリと思い出した。
そりゃあできれば思い出したくないけど、否定したところでやり直しができる訳でもないし。
「……魔力が戻るまで一日ちょいか。今日はならし運転って事にしよう」
もそもそとベッドから出る。
……冬にしては暖かな空気と、シーツにくるまりたい欲求と少しだけ格闘した。
で、二度寝の誘惑を開始三秒でノックアウトして、姿見の前で軽く全身をチェック。
とりわけ異状はない。体に流れている魔力が半分ほどしかない以外はすべて正常。
「―――ま、問題なんてあるわけないけど」
とりあえず、今のうちに現状を確認したい。
わたしが呼び出したサーヴァントはアーチャーで、
召喚主であるマスターに礼をとらない無礼者だ。
しかも自分が何者か判らない、なんていうオマケ付き。
……うわ。なんか、いきなり頭痛くなってきた。
「……あいつの記憶が戻るまで宝具《きりふだ》は封印か……思い出せないんじゃ使いようがないしね」
サーヴァントはそれだけで強力な使い魔だが、彼らを最強足らしめているのは強力な“奥の手”を必ず一つ持っている事だ。
困ったコトに、その奥の手をアーチャーは思い出せないと言う。
「―――まあ、非はこっちにもあるし、なんとかやっていくしかないか」
そう、こうなった以上わたしたちは一蓮托生《いちれんたくしょう》。
少しでも早く記憶の混乱とやらが整理される事を祈るけど、あの調子ではいつになる事やら。
……まったく。
前途はなかなか多難みたいだ――――
「……うわ。見直したかも、これ」
居間はすっかり元通りだった。
せめて瓦礫ぐらいは片づけさせよう、と思っただけだったから、ここまでされると感心を通り越して感動してしまう。
アイツも居間をメチャクチャにした事を気にしてたんだろう。そうでもなければここまでは出来ない。
殊勝というか、わりといいヤツっていうか――――
「日はとっくに昇っているぞ。また、随分とだらしがないんだな、君は」
「………………」
前言撤回。
このふてぶてしさ、どこに殊勝な心がけがあるっていうのか。
「―――おはよう。そういうアンタは随分とリラックスしてるようね。人の家の居間を好き勝手使ってくれちゃってさ」
「なに、一晩過ごした部屋だからな。どこに何があるかは把握したよ。ああ、ついでだから厨房も片づけておいた。もう少し荒れているかと思ったが、なかなか気の行き届いた厨房だ。一人暮らしの洋館にしては上等だな」
「………………」
頭痛がする。
なんだってサーヴァントに整理整頓ぶりをチェックされなくちゃいけないんだろ。
サーヴァントっていうのは戦う事しか考えていない連中だって言うけど、コイツ、ホントにサーヴァントとして欠陥品なんじゃないだろうか……?
「なるほど、本調子ではなさそうだな。昨夜は元気だったが、睡眠をとって疲れが出たのだろう。
―――ふむ。紅茶で良ければご馳走しよう」
勝手知ったる人の家。
アーチャーは席を立って、淀みのない仕草で新しいティーカップを持ち出して、上等な赤色をした紅茶を淹れている。
「――――――――」
色々とつっこみどころはあるんだけど、不思議と横やりを入れる気にはなれなかった。
一連の仕草はとても洗練されていて、まあ、気が利くといえば気が利いている訳だし。
「……まあいいけど。疲れてるのは事実だし、飲む」
椅子に腰を下ろす。
ティーカップは一つも音を立てずに差し出されて、とりあえず、一口だけ口をつけた。
――――あ、おいしい。
そりゃあ中国紅茶の春摘みものだ。お気に入りの葉の一番美味しいところなんだから、不味く作られたら怒る。
っていうか、勝手にわたしのお気に入りを使われたら怒る。
……うん。
怒るけど、ここまで美味しく淹れられると文句より先に幸福感で満たされてしまった。
「ふむ。ふむふむ」
「……ちょっと。なに笑ってるのよ、アンタ」
「なに、感想が聞きたかったが、その顔では聞くまでもないと思っただけだ」
「――――っ!」
だん、とティーカップをテーブルに置く。
「勿体ない。熱いうちに味わった方がいいぞ。私が気に障るなら消えているが」
「ごちそうさま、結構よ。わたしは茶坊主がほしくてマスターになった訳じゃないわ。貴方もね、頼みもしない事をする必要はないわよ」
「そうか。確かに、私も茶坊主になったり後片づけをする為に契約した訳ではない。君がそう言うのならば、これからは気をつけよう」
「ええ。わたしが求めているのは戦力としての使い魔よ。
家事をこなすサーヴァントなんて聞いた事がないし、する必要も特にはないわ」
「? 特にはない、とはどういう意味かな」
「別に。好きなようにとって結構よ。
それより―――貴方、自分の正体は思い出せた?」
いや、と首をふるアーチャー。
……やっぱり、事態は深刻だ。
一晩で思い出せないって事は、そう簡単に思い出せる事じゃないって事だろう。今日一日、色々と試してみるにしても、これは――――
「分かった、貴方の記憶に関しては追々対策を考えとく。
じゃ、出かける支度してアーチャー。召喚されたばかりで勝手も分からないでしょ? 街を案内してあげるから」
「出かける支度? いや、そんな必要はないだろう。出るのならばすぐに出られるが」
「あのね、そんな格好で出歩くつもり? どう見ても普通じゃないし、他のマスターが見たら一発でサーヴァントって判るじゃない。
わたし、自分からわたしはマスターです、なんて言いふらす気はないんだけど?」
「ああ、そういう事か。
それも問題はない。確かに着替える必要はあるが、それは実体化している時だけでね。
サーヴァントはもともと霊体だ。非戦闘時には霊体になってマスターにかける負担を減らす」
「あ、そっか。召喚されたって英霊は英霊だものね。霊体に肉体を与えるのはマスターの魔力なんだから、わたしが魔力提供をカットすれば」
「自然、我々も霊体に戻る。
そうなったサーヴァントは守護霊のようなものだ。レイラインで繋がっているマスター以外には観測されない。
もっとも、会話程度は出来るから偵察ならば支障はないが」
「うわ、便利。それじゃあ本当に、他のマスターを捜し出すなんて難しいんだ」
「ああ。だが魔術師は魔術師を知覚できるのだろう? それと同じでサーヴァントもサーヴァントを感知できる。
優れた魔術を知るサーヴァントならば、遠く離れたサーヴァントの位置さえ把握するだろう」
……アーチャーの言う通りではある。
マスターっていうのは優れた魔術師がなるモノだ。
強力な魔力を帯びた魔術師は、それだけ魔力感知しやすくはある。
けどわたしの知る得る限り、そこまで強力な魔力を帯びたヤツはこの町には存在しない。
「ふうん……で、アンタはどうなの? 他のサーヴァントの位置、判る?」
「マスター、私のクラスは何か忘れたのか。遠く離れた敵の位置を探るなど、騎士あがりにできるものか」
……ま、そうだろう。
アーチャーの魔力はそう強力じゃない。
遠く離れた敵を探る、なんて魔力持ちはキャスターのサーヴァントぐらいなものだと思う。
「分かったわ。じゃ、とりあえず後に付いてきてアーチャー。貴方の呼び出された世界を見せてあげるから」
「そう目新しい物ではなさそうだがね。
―――それよりマスター。君、大切な事を忘れていないか」
「え? 大切な事って、なに?」
「……まったく。君、まだ本調子ではないぞ。契約において最も重要な交換を、私たちはいまだしていない」
「契約において最も重要な交換――――?」
等価交換?
いや、もともとサーヴァントにとっての報酬は聖杯戦争に参加する事だ。
わたしたちに必要な交換なんて、もうない筈なんだけど―――
「……君な。朝は弱いんだな、本当に」
呆れたように言うアーチャー。
その、またも皮肉げな台詞を聞いて、とある事に思い当たった。
……そういえば。
コイツ、一度もわたしを名前で呼ばないな、とか。
「―――あ。しまった、名前」
「思い当たったか。まあ、今からでも遅くはないさ。それでマスター、君の名前は? これからはなんと呼べばいい」
ふて腐れたように言うアーチャー。
――――やば。コイツ、いいヤツだ。
うん、それに間違いはない。
だって名前の交換なんて、そんな物に意味はない。
サーヴァントとマスターは、令呪によって作られた力ずくの主従関係だ。
普通の使い魔との契約なら名前の交換は強い意味を持つけれど、マスターとサーヴァントにはそんな親愛の情はいらない。
だっていうのに、アーチャーはそれを大切な事と言った。
それは令呪を別にして、これから共に戦っていこうという信頼の証に他ならない。
「………わたし、遠坂凛《とおさかりん》よ。貴方の好きなように呼んでいいわ」
素直になれず、ぶっきらぼうに返答する。
……まあ、それでもマスターとか君とか、そういった他人行儀に呼ばれた方が楽ではあるし、コイツはきっとそう呼ぶだろう。
だっていうのに。
アーチャーは噛みしめるように「遠坂凛」と呟いた後。
「それでは凛と。……ああ、この響きは実に君に似合っている」
なんて、トンデモナイ事を口にした。
「――――――――」
「凛? どうした、なにやら顔色がおかしいが」
「――――う、うるさいっ! いいからさっさと行くわよアーチャー! と、とにかくのんびりしてる暇なんてないんだから……!」
ふん、と顔を背けて歩き出す。
悔しい。なんか知らないけど、とにかく悔しい。
アーチャーのヤツ、もしかしてわたしを悔しがらせる為にあんなコトを言いだしたんだろうか。
「……ありえる。コイツなら絶対そうだ……」
そうだ、そうに違いない。
だから顔が熱いのも動悸がするのもみんなコイツの奸計だ。
気をつけろわたし。
これからはこんな捻くれ者と手を組んでやっていかなくちゃいけないんだからっ。
アーチャーを連れて外に出る。
わたしたちの住んでいる街、冬木市は大きくわけて二つの町で構成される街だ。
昔からの町並みを残したここ深山町《みやまちょう》と、
川一つ挟んで近代的な開発が進んでいる新都《しんと》。
わたしの家があるのは、古い町並みである深山町の方である。
その深山町も、これまた大きく二つに分かれている。
外国からの移住民が住んでいた、この洋風の町並みが片一方。
で、反対側、山を背後に広がっている古い和風の住宅地がもう一方。
どちらも坂上にあるので、郊外と言えば郊外だろう。
この、和風と洋風に挟まれた真ん中の町並みは比較的普通である。
どのくらい普通かというと、
これぐらい普通。
ここが深山町の分岐点で、ここからわたしの家がある洋風の住宅地の坂道、
反対側にある和風の住宅地の坂道、
隣町である新都に続く橋、学校、商店街、はては山にある柳洞寺というお寺に通じている。
そうして、これが新都と深山町を繋げる大橋。
新都《あっち》は数年前に大きな駅が造られ、急速に発展している。
同じ市にあるというのに、深山町と新都はまったく別物と見ていい。
冬木市という名前は、冬季が長いという事からきているそうだ。
言われてみれば、この町の冬は長い。
が、その反面気温は暖かく、冬木の二月は他所でいう十二月程度の気温だったりする。
適当に地面を掘れば、温泉の一つや二つは出るのではなかろうか。
もっとも、こう半端な寒さでは温泉街としては失格だ。
冬木の町は過ごし易い冬を送り、いつのまにか四月になって春を迎えている、というおかしな気候をしている。
新都の様子はこんな感じ。
急速に発展した町並みは、なにかに急かされるように高いビルばかりを建て、結果として人工的な町になった。
それもここ十年ばかりの話だ。
なんでも十年前に起きた大火事で住宅地はほぼ全焼。
まるっきり人が住まなくなった土地を利用して、こうしたビルが建てられたという。
―――――――そして。
ここが、その中心。
「ここが新都の公園よ。これで主立った所は歩いてまわった訳だけど、感想は?」
隣にいるアーチャーに話しかける。
アーチャーの姿はもちろん見えない。
「―――広い公園だ。だというのに人気《ひとけ》がないのは、何か理由でもあるのか」
「やっぱりそう見える? ま、ここはちょっとした曰くがあるから」
ぐるりと公園を見渡す。
これほど広くて整地された公園なら、平日でも子供の遊び場になっているだろう。
けれど、ここには人の姿なんて数える程しかなく、ただ閑散とした空気だけが流れている。
「十年前の話よ。このあたり一帯で大きな火事があったんだって。火は一日燃え続けて、雨が降りだした頃に消えたんだとか。
その後、町は復興したけどここだけはそのままなの。
焼け野原になって、何もなくなったから公園にしたらしいわ」
「――――――――」
アーチャーは何も言わない。
ただ、姿は見えなくとも、彼が特別なモノを感じ取っている事は読みとれた。
「……気づいたみたいね。そうよ、ここが前回の聖杯戦争決着の地。わたしも事情は知らないけど、前回の聖杯戦争はここで終決して、それきり」
「―――なるほど。それでこんなにも、ここは怨念に満ちているという訳か」
「ふうん。判るの、そういうの?」
「サーヴァントというのは霊体だ。その在り方は怨念、妄執《もうしゅう》に近い。故に同じ“無念”には敏感なのさ。町中でも濃い場所はあるが、ここは別格だ。我らから見れば固有結界のそれに近い」
と。
感情のない声で、アーチャーは珍しい単語を口にした。
――――固有結界《こゆうけっかい》。
魔術師にとって到達点の一つとされる魔術で、魔法に限りなく近い魔術、と言われている。
ここ数百年、“結界”は魔術師を守る防御陣と相場が決まっている。
簡単に言ってしまえば、家に付いている防犯装置が極悪になったモノだ。
もとからある土地・建物に手を加え、外敵から自らを守るのが結界。
それはあくまで“すでにあるもの”に手を加えるだけの変化にすぎない。
だが、この固有結界というモノは違う。
固有結界は、現実を浸食するイメージである。
魔術師の心象世界―――心のあり方そのものを形として、現実を塗りつぶす結界を固有結界と呼ぶ。
ようするに魔術師の思い通りに世界を歪める、いや、思い通りに作り変える広範囲の魔術な訳だが――――
「凛? どうした、考え事か?」
「え……? ううん、ちょっと意外だったから。
固有結界だなんて、アーチャーのくせに珍しい言葉を知ってるなって」
「なんだ、知っていてはおかしいか」
「だってそうじゃない。固有結界っていうのは魔術師にとっては禁忌の中の禁忌、奥義の中の奥義だもの。アーチャーである貴方が知ってるなんて筋違いよ」
でしょ? と視線で問いかける。
すると、隣でははあ、と大きなため息の気配。
「凛。英雄とは剣術、魔術に長けた者を指す。
アーチャーだからといって弓しか使えないと思うのは勝手だが、私以外のサーヴァントにそんな楽観は持たないでくれ」
……う。
確かに、言われてみればその通りだ。
「わ、わかったわよ。今のは軽率な発言だったわ。次からは気をつけるから、これでいいでしょ」
「……。凛、ズバリ言おう。君は優秀だが、それ故に他人を過小評価する欠点がある。成人するまでには矯正したまえ」
「っ――――! な、なにげに失礼なコト言うわねアンタ……!」
きょ、きょきょ矯正って、ヘンなクセがついた馬をしつけ直す事じゃないっ……!
「いや、失礼。別に凛がじゃじゃ馬だと言った訳ではない。単にイメージ通りの表現を使っただけというか」
「ええい、なおさら悪いわ――――、痛っ……!?」
唐突に、右腕が痛んだ。
「――――凛?」
「…………ちょっと、黙ってアーチャー」
右腕に刻まれた令呪が痛む。
じくり、と。主に注意を呼びかけるような、鈍い警告。
「――――誰かに見られてる」
「む」
……周囲に意識を伸ばす。
精神で作り上げた糸を敷き詰め、公園中を索敵する。
「……わたしじゃ見つけられない。
アーチャー、貴方は?」
「―――難しいな。私には視線すら感じられん」
「……って事は、見てるのはマスターね」
何者かは知らないけど、アーチャーに判らないのなら相手はマスターだろう。
まだ七人そろっていないが、始めようと思えば、戦いはいつでも始められる。
わたしを監視しているヤツは前哨戦でもやりたいらしいが―――
「……令呪は令呪に反応する。マスターであるのなら、誰がマスターであるかは出会えば感じられる、という事か。だが、それなら凛にも相手が識別できるのではないか?」
「ええ。けど高位の術者なら、自分の魔力ぐらい隠し通せる。いくら令呪同士が反応するって言っても、その令呪だって魔力で発動するものよ。大本であるマスター自身が魔術回路を閉じていれば、見つける事は難しいわ」
「……厄介だな。では、こちらはいいように位置を知らせているという事か」
「でしょうね。ま、私だって家捜しすれば魔力殺しぐらいは見つかるだろうけど―――」
「必要ない、と?」
「そ。だって隠さなければ向こうからやってきてくれるでしょう? こっちから出向く手間が省けるわ」
「――――」
呆れたのか、アーチャーは息をのんで黙ってしまった。
「……なによ。自信過剰はいけないって言いたいの?」
さっきのやりとりを思い出して、なんとなく訊いてみた。
アーチャーはまさか、と短くこぼしたあと。
「君はそのままが一番強い。
ああ、小物には付きまとわせてやるがよかろう」
なんて、笑いを堪えながら口にした。
……とまあ、アーチャーの言葉が気に入った訳じゃないけど、開き直ってそのまま町中を歩く事にした。
主立った場所を回って、これでもかっていうぐらい付きまとってるヤツを振り回して、ついでに夕食も済ませて、最後の締めに移動する。
さんざん歩き回って時刻は夜の七時過ぎ。
この時間なら、これから向かう場所は最高の景色を見せてくれるだろう。
ごう、という風。
新都で一番高いビル。
その屋上から見下ろす町並みは、今日の締めくくりに相応しい。
「どう? ここなら見通しがいいでしょ、アーチャー」
「……はあ。将来、君とつき合う男に同情するな。よくもまあ、ここまで好き勝手連れ回してくれたものだ」
「え? 何か言った、アーチャー?」
「素直な感想を少し。……と、確かにいい場所だ。初めからここに来れば歩き回る必要もなかったのだが」
「なに言ってるのよ。確かに見晴らしはいいけど、ここから判るのは町の全景だけじゃない。実際にその場に行かないと、町の作りは判らないわ」
「―――そうでもないが。アーチャーのクラスは伊達ではないぞ。弓兵は目がよくなければ勤まらん」
「そうなの? それじゃあここから遠坂《うち》邸が見える、アーチャー?」
「いや、流石に隣町までは見えない。せいぜい橋あたりまでだな。そこまでならタイルの数ぐらいは見てとれる」
「うそ、タイルって橋のタイル……!?」
それって目がいいとか、そういうレベルの話じゃないと思う。よく屋上には望遠鏡があるけど、それと同レベルの視力なんだから。
「びっくり。アーチャーって本当にアーチャーなんだ」
「……凛。まさかとは思うが、君、私を馬鹿にしているんじゃないだろうな」
「そんな訳ないでしょ。たださ、貴方ってアーチャーって言うわりには弓使いっぽくないから、つい勘違いしてただけ」
「それは問題発言だ。帰ってから追求しよう」
アーチャーはここからの風景が気に入ったのか、それきり黙り込んでしまった。
おそらく町の作りを把握しているのだろう。
……戦場の下調べを邪魔する訳にはいかない。
アーチャーの側を離れてビルの端に移動する。
「――――――――」
わたしの視力で見えるのは、このビルの下の明かりだけだ。
大通りには行き交う車のヘッドライトが流れ、歩道には仕事帰りの人々の姿が見えるだけ。
それがどんな車なのか、どんな人なのかは判らない。
それは見えてはいるけれど、見えていないという状態だ。
ちょうど先ほどまで、わたしは監視されている事に気が付いていたのに、その相手が見えなかったのと同じである。
「――――少なくとも、新都を根城にしているヤツが一人いる」
目を凝らして地上を睨む。
……マスターは全部で七人。
誰が、どのサーヴァントを連れているかはいまだ不明。
今のところ、全てのマスターが他のマスターの情報を求めて町を徘徊しているのだろう。
「―――?」
ふと、視線を感じた。
令呪には反応なし。
ただ純粋に、わたしに向けられた視線を感じる。
「下――――?」
地上を見つめる。
……道には行き交う人々がいる。
その中で、一人。
まるで月でも眺めるように、わたしを見上げているヤツがいた。
「………………」
それが誰であるか、はっきりとは判らない。
はっきりとは判らないのだけれど、誰であるかは見て取れた。
……呆れた。
アイツ、こんな時間に何をしているんだか。
「凛。敵を見つけたのか」
わたしが殺気だっているのに気づいたのか、アーチャーが声をかけてくる。
「―――別に。ただの知り合い。わたしたちには関係のない、ただの一般人よ」
苛立ちを隠せないまま答えて、その場から立ち去った。
地上からわたしが見えた筈がない。
アイツがビルを見上げていたのはただの偶然だろう。
だから姿を見られた、という訳でもない。
……だっていうのに。
わたしは魔術師として気構えていた遠坂凛《じぶん》を、アイツに見られた事に気が立ってしまっていた。
深山町に戻ってくる頃には、時刻は九時を回っていた。
深山町は新都と違って、昔ながらの住宅地である。
夜も九時を過ぎれば出歩く人影はなくなり、町は深夜のように静まりかえる。
「こんなところね。町の作りはだいたい判った?」
「……ん? ああ、町の事なら判る。あとは追々掴んでいくさ」
「なら今日はここまでね。わたしもまだ本調子じゃないし、家に戻って休みましょう」
ゆるやかな坂の道を行く。
……と。
なんか、前を行く人影があった。
「……あれ、桜……?」
まずい。
今は顔を合わせづらい。
「凛。何を隠れている」
「黙ってて! ……あ、うん、あそこにいるの知り合いなのよ。今日は学校を休んだし、あんまり顔を合わせたくないの」
言いつつ、前方の人影を観察する。
道には、
見知った顔の一年生と
知らない外国人がいた。
二人はなにやら話している。
……違う、外国人の方が言い寄っていて、女生徒は嫌がっているようだ。
「凛、知り合いとは外国人の方か?」
「いいえ、知らない。このあたりは洋館が多いから、どっかよそから遊びに来てるんじゃない?」
と、そこまで口にして、我ながらあの子が絡むと甘くなるな、と反省する。
「……アーチャー。あいつ、人間?」
「さあ。実体はあるから人間なのだろう。少なくともサーヴァントではない」
「……そうよね。マスターでもないし、ただの痴話喧嘩か」
……もっとも、あの子が男とトラブるような子じゃないって事はわたしだって知ってるけど……。
「二人とも行ったな。女は坂を上っていく。
男は――――」
金髪の男性は、わたしたちがやってきた道を下っていった。
◇◇◇
「それじゃ貴方はここを使って。わたしはもう眠るけど、何か質問はある?」
「とりわけ重要な疑問はない。すぐに戦闘をしかけない君の判断は正しいよ。今夜は魔力の回復を行うべきだろう」
「ええ。それじゃ明日、今朝の紅茶をよろしくね」
部屋に帰って来るなり、どっと疲れが押し寄せた。
「―――そうだ。眠る前に綺礼に連絡しないと」
あのうるさい神父の事だ。
今頃予備の魔術師の手配とやらを進めているだろう。
そんなのはわたしの知った事じゃないけど、アレでもわたしの後見人だし。いちおう、筋は通しておかないと。
「電話、電話っと……」
子機のダイヤルをプッシュする。
ほどなくしてエセ神父が電話に出た。
「綺礼? わたしだけど、昨日アーチャーと契約したから。正式にマスター登録、お願い」
「………………」
微かな沈黙。
受話器ごしでも気分を重くさせるぐらい、綺礼の沈黙は圧力がある。
「……いいだろう。ではどうする。一度こちらに顔を出さないか。君のご両親から預かっている物もある。君がマスターになった場合にのみ、成人前に伝えてほしいと頼まれているのだが」
「ああ、それって父さんの遺言のこと? それならもう解読して手に入れたからいいわ。それじゃ、気が向いたらお邪魔するから、よろしく」
「待て。凛、マスターになったのなら――――」
最後まで聞かずに電話を切った。
疲れている時に綺礼の小言なんて聞いてたら、魔力の回復どころではなくなってしまう。
「―――さて。これで準備は終わり、と……」
あとは眠るだけ。
目が覚めれば今までとは違う朝がある。
……十年前。
父が魔術師として挑み、敗れ去った聖杯戦争。
その戦いに、わたしも身を投じる事になったのだから。
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2月2日
で。
朝食のあと、今後の方針をきっぱりと口にした。
「なに、学校に行くだと?」
「ええ。何か問題あるかしら、アーチャー」
「……問題はないが、しかし、それは」
アーチャーは言い淀みするけれど反論はしない。
昨日一日で、遠坂凛という人間は一度決めた事を覆《くつがえ》す性格ではない、と理解したからだろう。
口にしなくても判るというか、アーチャーは皮肉屋だけど妙に素直なところがあって、認めた事柄に文句をつける事はないみたいだ。
うむ、ようするに不器用な忠義者なのだ。
これ、昨日一日アーチャーを観察した結論というか、直感みたいなものなんだけど。
「凛。マスターになったからには、常に敵マスターを警戒しなくてはならない。学校という場は、不意の襲撃に備えにくい場所だろう」
「そんなことはないけどね。いいアーチャー? わたしはマスターになったからって、今までの生活を変える気はないわ。それにマスター同士の戦いは人目を避けるモノでしょう? それなら人目につく学校にいれば、不意打ちされる事はまずないと思うけど」
「……そうか。凛がそう決めたのなら私は従うだけだ。
だが、霊体化して君の護衛をするぐらいはいいのだろうな。まさか学校に行っている間はここに残れ、などとは言うまい」
「当たり前じゃない。学校に限らず、外に出る時は側にいてもらうからね。マスターを守るのもサーヴァントの役割なんだから、頼りにしてるわ」
「それを聞いて安心した。信頼に応えるのは騎士の勤め、せいぜい期待に添うとしよう」
「だが凛。もしもの話だが、その安全な場所に敵がいたとしたらどうする」
「? なに、学校にマスターがいるかもしれないって仮定?」
「そうだ。確かに学舎《まなびや》には生徒と教師以外は入りにくいが、すでに内部の者がマスターだとしたら厄介ではないのか」
「それはないんじゃないかな。この町には魔術師の家系は遠坂と、あと一つしかないの。そのあと一つっていう家系は落ちぶれてるし、マスターにもなってないし」
「マスターになっていないと、どうして判る」
「あのね、遠坂以外の魔術師の家系がいるんなら、まっさきに確かめるのは当然でしょう。
そいつ、マスターにはなってなかったし、あっちの家系の後継者にはマスターになるだけの魔力がないから無視してかまわないわ」
「そうか。つまり凛の通う学校には、もう一人魔術師がいるのだな。だがマスターになれるほどの魔力を持ち合わせていない、と?」
「そういうこと。だから他のマスターは外からやってくる連中が大半の筈。そんな連中が学校にまでやってくる事はないでしょ」
「……まあ、今の段階ではな。
だが凛、何事にも例外は存在する。もし学校に、君が知らない魔術師がいたとしたらどうする?」
「だからいないってば。魔術師っていうのは他の魔術師《どうぎょう》に敏感なの。一年も同じ学校にいたらね、どんなに隠してても魔術師の存在は感じ取れる。
断言するけど、うちの学校に魔術師は二人しかいないわ。そのうちの一人がわたしで、もう一人はマスターになるだけの力がない魔術師見習いなの。
分かった? アーチャーの用心はただの杞憂《きゆう》よ。そんなこと絶対にありえないんだから」
「だからもしもの話だ。物事には常に裏目が存在する。本来あり得ざる事が起こるのもまた運命だ。
もしそういった事態になった場合、私に八つ当たりをするのだけは思いとどまってほしいと言っているのだ」
ふっ、と乾いた笑みをこぼすアーチャー。
……その態度だけで八つ当たりしたくなるけど、いちいち相手にしていたら学校に遅れてしまう。
「そんな事あるわけないじゃない。もしもの話っていうのは、起きないからもしもの話なのよ。もしそんな事になったら、その時はわたしの見通しが甘かったってだけなんだから」
「よし、確かに聞いたぞ。それでは行こうか凛。
君の学舎《まなびや》まで三十分、そろそろ出なければ間に合わない時間帯だ」
◇◇◇
「驚いた。もしもの話ってホントにあるのね」
「ああ、私も驚いている。いや、何事もケチをつけておくものだな。思わぬところで役にたった」
正門をくぐるなり、二人してそんな軽口をたたきあう。
周りには教室に向かう生徒たちの姿があって、
時計はじきHR開始の時刻になろうとしている。
そんな、我先にと校舎へ向かっていく人波の中、ガーンと立ちつくすわたしとアーチャー。
「空気が淀《よど》んでるどころの話じゃない。これ、もう結界が張られてない?」
「完全にではないが、既に準備は始まっているようだな。
ここまで派手にやっているという事はよほどの大物か……」
「とんでもない素人ね。他人に異常を感じさせる結界なんて三流だもの。やるんなら、仕掛ける時まで隠し通しておくのが一流よ」
「―――で。君はどちらだと思う、凛」
「さあ。一流だろうが三流だろうが知った事じゃないわ。
わたしのテリトリーでこんな下衆なモノ仕掛けたヤツなんて、問答無用でぶっ倒すだけよ」
ふん、と鼻をならして校庭を通り抜ける。
魔術師である以上、キレイごとを口にするつもりはないけど。この結界を張ったヤツには、しかるべき報いを与えてやらなきゃ気が済まない。
二時限目が終わって、音楽室から帰る途中。
頼りない足取りで廊下を歩いている一年生を見かけた。
一年生は何かの資料を運んでいるのか、見るからに大変そうだ。
「手伝うわ、桜」
「え――――?」
「あ、遠坂、先輩――――」
「なに、プリント? 世界史っていったらうちの担任じゃない。葛木《くずき》のヤツ、女生徒に使いをさせるなんてなに考えてんだか。ほら、半分貸して」
「あ…………はい。ありがとうございます、先輩」
「いいっていいって。それじゃコレ、桜のクラスまで?」
「……ううん、葛木先生のところです。誤字があったから回収するって言ってました」
「……納得。葛木は融通きかないからね。ひとつ誤字があったぐらいで試験を中止させるぐらいのヤツだった」
「……? 試験って、学校の試験をですか?」
「そう、あれは去年の中間試験だったかな。みんながガァーっとマークシート塗りつぶしてる時にやってきてね、誤字があるので正しい問題ではなかった、よって試験は中止、後日改めて行う、ってあの調子で淡々と言ったのよ。わたしたちも驚いたけど先生方も驚いてね、今でもアレは語り草よ」
「なんか葛木先生らしいですね、それ。先生、物を教える立場に間違いは許されないって人ですから」
「葛木のは度が過ぎてるけどね。桜もそのうち思い知るわよ、葛木の堅物ぶりったら岩か山かって感じなんだから」
「ふふ。遠坂先輩、葛木先生の事が好きなんですね。先輩がそんなふうに言うなんて、珍しいです」
「そう? ……まあ、確かに葛木はもうちょっと柔軟性があればなあって思うけど……」
……思うけど、あの先生はあのままでいいんじゃないかなー、とも思う。
うちの学校には生徒にとことん親しまれる教師と、とことん恐れられている教師がいる。
そのバランスが絶妙なもんだから、葛木先生はいい規律になっていると思う。飴と鞭でいうところの鞭だ。
「ま、二年になればもっと葛木と顔を合わせるようになるわ。アイツは倫理も受け持ってるし。
……って、そんな事より桜。ちょっと訊きたい事があるんだけど、いい?」
「え? なんですか、先輩」
「昨日の話なんだけど。桜、見かけない外国人と話してなかった?」
「ぁ……見、見てたんですか、先輩」
「たまたま。それでアレ、なんだったの。知り合い?」
「……いいえ。それがその、よくわからない人だったんです。あの人、道に迷ってたみたいでした。色々訊いてくるんですけど、何を言っているのか聞き取れなくて、その……」
ああ、それで逃げてしまった、と。
「そっか。ごめんなさい、少しだけ気になったから」
「いえ、かまいません。……その、ここまででいいです先輩。あとは届けるだけですから」
「そう。それじゃまたね」
プリントの束を桜に返す。
そのまま自分の教室に戻ろうとして、少しだけ立ち止まった。
「桜、最近はどう?」
「ぁ……はい、大丈夫。元気です、わたし」
「……そう。慎二がまた何かやったら言いなさい。アイツは度ってものを知らないから、黙っていると悪化する一方よ」
「大丈夫、心配いりませんよ先輩。兄さん、この頃は優しいんですから」
……笑顔でそう言われては何も言えない。
もう一度お別れを言って、顔見知りの後輩に背を向けた。
◇◇◇
一日が終わった。
教室から生徒たちの姿が減っていき、校舎は刻一刻と昏《くら》く翳《かげ》っていく。
じき日が沈む。
赤い夕日が落ちて夜になれば、学校に残る人間はいなくなるだろう。
「始めるわよアーチャー。まずは結界の下調べ。どんな結界かを調べてから、消すか残すか決めましょう」
見えざる相棒に声をかける。
アーチャーは承知しているのか、頷くような気配を返してきた。
結界とは術者を守るモノを指す。
魔力で編んだ綱を土地に張り、その内部に手を加える地形魔術と言えるだろう。
結界内での効用は千差万別。
結界を張った地域そのものを人目に付かないよう遮断するモノから、結界内での魔術を制限するモノまで多種多様だ。
その中でもっとも攻撃的な物が、結界内における生命活動の圧迫である。
学校に張られている結界はその類だ。
いまだ完成してはいないけれど、ひとたび結界を編み上げれば学校中の人間はことごとく昏倒するだろう。
けどそんな物、わたしには効果はない。
結界は所詮、わたしという個人にではなく、わたしが居る場所にかけるモノだ。
そんな間接的な魔力干渉は、自身の体に魔力を通している魔術師にはなんら効果はない。
大気に漂う程度の弱い電流は、わたしという強い電流には近寄れずに弾かれるだけなんだから。
故に、この結界の意図は他にある。
どんなヤツが学校に結界を張ったかは知らないが、そいつの目的はマスターを倒す事じゃない。
信じがたい事に、そいつは学校内の人間すべてを標的にしているのだ。
……そんな事をする理由はただ一つ。
まさかとは思うけど、そいつは――――
校内を軒並み調べ、最後の締めとして屋上に出る。
外はすっかり闇に落ちていた。
門限である六時を過ぎて、時刻は八時。
学校に残っているのはわたしと、隣で霊体になっているアーチャーだけだ。
「―――これで七つ目か。とりあえずここが起点みたいね」
屋上には堂々と七画の刻印が描かれている。
魔術師だけに見える赤紫の文字は、見たこともないカタチであり、聞いた事もないモノで刻まれている。
「……まいったな。これ、わたしの手には負えない」
この結界を張ったヤツは何も考えていない。
何も考えていないけど、この結界自体は桁違いの技術でくくられている。
一時的にこの呪刻《けっかい》から魔力を消す事はできるけど、呪刻《けっかい》そのものを撤去させる事はできない。
術者が再びここに魔力を通せば、それだけで呪刻《けっかい》は復活してしまうだろう。
「――――――――」
アーチャーは何も言わない。
……屋上で呪刻を見た時から口を噤《つぐ》んでいるのは、彼も結界の正体に気が付いているからだろう。
この結界は体力を奪う、なんてモノじゃない。
一度発動すれば、結界内の人間を文字通り“溶解”させる。
内部の人間から精神力や体力を奪うという結界はある。
けれど、いま学校に張られようとしている結界は別格だ。
これは魂食い。結界内の人間の体を溶かして、滲み出る魂を強引に集める血の《ブラッド》要塞《フォート》に他ならない。
古来より、魂というものは扱いが難しい。
在るとされ、魔術において必要な要素と言われているが、魂《それ》を確立させた魔術師は一人しかいない程だ。
魂はあくまで“内容を調べるモノ”“器に移し替えるモノ”に留まる。
それを抜き出すだけでは飽きたらず、一つの箇所に集めるという事は理解不能だ。
だって、そんな変換不可能なエネルギーを集めたところで魔術師には使い道がない。
だから、意味があるとすれば、それは。
「アーチャー。貴方たちってそういうモノ?」
知らず、冷たい声で問いただした。
「……ご推察の通りだ。我々は基本的に霊体だと言っただろう。故に食事は第二《たましい》、ないし第三《せいしん》要素となる。
君たちが肉を栄養とするように、サーヴァントは精神と魂を栄養とする。
栄養をとったところで基本的な能力は変わらないが、取り入れれば取り入れるほどタフになる―――つまり魔力の貯蔵量があがっていく、というワケだ」
……そう。
自らのサーヴァントを強力にする方法が、無差別に人間を襲うこと。
「―――マスターから提供される魔力だけじゃ足りないってコト?」
「足りなくはないが、多いに越した事はない。実力が劣る場合、弱点を物資で補うのが戦争だろう。
周囲の人間からエネルギーを奪うのはマスターとしては基本的な戦略だ。そういった意味で言えば、この結界は効率がいい」
「――――――――」
勝ちたければ人を殺して力をつけろ、とアーチャーは言っている。
なんて単純。
そんな事、わたしだって知っていた。
だから、これから自分がとるべき道もちゃんと判っているつもり。
「それ、癇に触るわ。二度と口にしないでアーチャー」
地面に描かれた呪刻を見つめながら告げる。
アーチャーは、なぜか弾むような声で
「同感だ。私も真似をするつもりはない」
そう、力強く返答してくれた。
「……さて。それじゃあ消そうか。無駄だろうけど、とりあえず邪魔をするぐらいにはなる」
地面に描かれた呪刻に近寄り、左腕を差し出す。
左腕に刻まれたわたしの魔術刻印は、遠坂の家系が伝える“魔道書”だ。
ぱちん、と意識のスイッチをいれる。
魔術刻印に魔力を通して、結界消去が記されている一節を読み込んで、あとは一息で発動させるだけ。
「Abzug《消去。》 Bedienung《摘出手術》 Mittelstnda《第二節》」
左手を地面につけて、一気に魔力を押し流した。
それで、とりあえずはこの呪刻から色を洗い流せるのだが―――
「なんだよ。消しちまうのか、もったいねえ」
唐突に。
結界消去を阻むように、第三者の声が響き渡った。
「――――!」
咄嗟に立ち上がり、振り返る。
給水塔の上。
十メートルの距離を隔てた上空で、そいつはわたしを見下ろしていた。
[#挿絵(img/103.JPG)入る]
夜に溶け込む深い群青。
つりあがった口元は粗暴で、獣臭じみたものが風に乗って伝わってくる。
……獣の視線は涼《すず》やかだ。
青身の男は、この異様な状況において、わたしを十年来の友人みたいに見つめている―――
「―――これ、貴方の仕業?」
「いいや。小細工を弄するのは魔術師の役割だ。オレ達はただ命じられたまま戦うのみ。だろう、そこの兄さんよ」
「――――!」
軽々と、しかし殺意に満ちた声。
この男には、アーチャーが見えている……!
「やっぱり、サーヴァント……!」
「そうとも。で、それが判るお嬢ちゃんは、オレの敵ってコトでいいのかな?」
「―――――」
背筋が凍る。
なんという事のない、飄々とした男の声。
そんなものが、今まで聞いたどんな言葉より冷たく、吐き気がするほど恐ろしいなんて―――
「――――――――」
どう動くべきか、何が最善なのかは判らない。
ただ、この男とここで戦う事だけは、絶対にしてはならないと理性が告げている――――!
「……ほう。大したもんだ、何も判らねえようで要点は押さえてやがる。
あーあ、失敗したなこりゃあ。面白がって声をかけるんじゃなかったぜ」
男の腕が上がる。
「――――――――」
事は一瞬。
今まで何一つ握っていなかったその腕には、
紅い、二メートルもの凶器があった。
「は、っ――――――――!」
考えるより早く真横へ跳ぶ。
屋上だから思いっきり跳べない、なんて余裕はない。
とにかく全力で、力の限り、フェンスに体当たりする気で真横へ跳躍する……!
髪を舞い上げる旋風。
―――間一髪。
ほんの瞬きの間に突進してきたソレは、容赦なくフェンスごと、一秒前までわたしがいた空間を斬り払った。
「は、いい脚《あし》してるなお嬢ちゃん……!」
―――青い旋風が追ってくる。
退路なんてない。
背後にはフェンス、左右は―――ダメだ、きっと間に合わない……!
「Es ist《軽量、》 gros, Es ist《重圧》 klein…………!!」
反応は早かった。
左腕の魔術刻印を走らせ、一小節で魔術を組み上げる。
身体の軽量化と重力調整。
この一瞬、羽と化した体は軽々と跳び上がり――――
「凛……!」
「わかってる、任せて……!」
フェンスを飛び越えて、屋上から落下した。
「っ――――」
風圧と重圧が体を絞る。
地上まで約十五メートル、着地まで一.七秒――――じゃ遅い、きっとあいつに追いつかれる……!
「vox 《戒律引用、》Gott Es A《重葬は地に還る……!》tlas――――!
アーチャー、着地任せた……!」
「――――、は――――!」
着地の衝撃をアーチャーに殺させて、地面に足がついたと同時に走り出す。
―――とにかく場所を変えないといけない。
屋上なんて狭い場所ではなく、もっと自由に動き回れるところ。
わたしとアーチャーの長所を生かせる、遮蔽物《しゃへいぶつ》のない広い場所《フィールド》に移動しないと……!
「はっ、は――――!」
屋上から校庭まで、七秒かからず走り抜ける。
距離にして百メートル以上、常人なら残像しか見えない速度。
けど、そんなものは、
「いや、本気でいい脚だ。ここで仕留めるのは、いささか勿体なさすぎるか」
サーヴァント相手には、何の意味もあり得なかった。
「アーチャー――――!」
わたしが後ろに引くのと同時に、前に出たアーチャーが実体化する。
曇天《どんてん》の夜。
アーチャーの手には、微かな月光を反射させる一振りの短剣があった。
「―――へえ」
男は、口元を不気味に歪める。
「……いいねぇ、そうこなくっちゃ。話が早いヤツは嫌いじゃあない」
ごう、という旋風。
……それは屋上で振るわれた凶器、わたしを容赦なく殺しにきた、血のような真紅の槍―――
「ランサーの、サーヴァント――――」
「如何にも。そう言うアンタのサーヴァントはセイバー……って感じじゃねえな。何者だ、テメエ」
先ほどまでの気軽さなど微塵もない。
殺気の固まりとなったランサーに対して、アーチャーはあくまで無言。
……両者の間合いは五メートル弱。
ランサーが手に持つ凶器は二メートル近い。
獣の臭いがするあの男からすれば、残り三メートルなど意味を成さないように思えた。
「……ふん。真っ当な一騎打ちをするタイプじゃねえなテメエは。って事はアーチャーか」
嘲る声にもアーチャーは答えない。
対峙するは奇しくも青赤《セイセキ》。
似て非なる二色の騎士は、すでに互いの必殺を計っている。
「……いいぜ、好みじゃねえが出会ったからにはやるだけだ。そら、弓《エモノ》を出せよアーチャー。
これでも礼は弁《わきま》えているからな、それぐらいは待ってやる」
「――――――――」
アーチャーは答えない。
倒すべき敵に語るべきなどないと。
その、剣《はがね》のような背が語っていた。
「――――」
それで気づいた。
……わたしはバカだ。アーチャーはただ一言、わたしの言葉を待っているだけだというのに。
「アーチャー」
近寄らずに、その背中に語りかける。
「手助けはしないわ。貴方の力、ここで見せて」
「――――ク」
それは笑い、だったのか。
わたしの言葉に応えるよう口元をつり上げて、赤い騎士は超疾した。
渦巻く突風。
短剣を手に、赤い弾丸が疾走する。
「――――バカが!」
迎え撃《う》つは青い槍突。
疾駆するアーチャーが突風ならば、迎撃する穂先は神風であったろう。
奔《はし》る刃、流す一撃。
高速で突き出される槍の一撃を、アーチャーはすんでに短剣で受け流す。
「ッ――――――――!」
赤い外套《がいとう》が止まる。
敵は、アーチャーの疾走を許さなかった。
槍の間合いまで、わずか二メートルの接近すらさせない。
長柄の武器にとって、距離は常に離すもの。
二メートル近い武器を持つランサーは、自らの射程範囲に入ってくる敵を迎撃するだけでいい。
踏み込んでくる外敵を貫く事は、自ら打って出る事より容易いのだから。
にも関わらず。
ランサーは自ら距離を詰め、アーチャーに前進さえ許さなかった。
「たわけ、弓兵風情が接近戦を挑んだな――――!」
その気性、烈火の如く。
ランサーは一撃ごとに間合いを詰め、停止する事を知らない。
……長柄の武器にとって、間合いを詰める事は自殺行為だ。
長大な間合いをもって敵を制し、戦いを制するのが槍兵の戦いである。
故に、前進を止めないランサーに勝機はない。
「――――うそ」
けれど、それはただの定石。
喉を、肩を、眉間を、心臓を、間隙なく貫こうとするランサーの槍に、戻りの隙などなかった。
残像さえ霞む高速の打突。
一撃ごとにアーチャーを弾き、押し留め、後退させるランサーの槍は、一刺しでさえ必殺と称されるだろう。
だが、いかに弓兵といえアーチャーとてサーヴァント。
通常の攻め手など、必殺になどなり得ない……!
「ふ――――!」
眉間に迫る穂先を既に弾き、ランサーの槍もかくやという速度で踏み込むアーチャー。
―――その形容から打突こそ主体と思われるが、槍の基本戦術は払いにある。
長さに物を言わせた広範囲の薙ぎ払いは、もとより身を引いて躱す、などという防御を許さないからだ。
半端な後退では槍の間合いから逃れられず、反撃を試みるような見切りでは腹を裂かれるのみ。
かといって無造作に前に出れば、槍の長い柄に弾かれ、容易く肋骨を粉砕される。
アーチャーとランサーはほぼ同じ体格だ。
くわえて重装甲でないアーチャーにとって、槍の間合い―――旋風のように振り回される攻撃範囲に踏み込むのは難しい。
―――だが、それが打突なら話は別だ。
高速の一刺、確実に急所を貫く突きは確かに恐ろしい。
しかし軌跡が点である以上、見切ってしまえば躱《かわ》す手段はいくらでもある。
アーチャーのように、急所を貫きに来た槍の柄を打ち、わずかに軌道を逸らせばそれだけで隙になる。
弓兵と甘く見た油断だろう。
長柄の利点は自由度の高い射程と間合いだ。それを自ら狭めた時点で、ランサーの敗北は――――
「――――」
「ぬっ――――!?」
赤い外套が停止する。
―――時間が逆行したかのような悪夢。
繰り出された一撃は、先の打突より更に高速……!
「ぐ、っ――――!」
軌道を逸らそうといなしにかかるアーチャーが、短剣ごと弾かれる。
ランサーの槍に戻りの隙などない。
いや、そればかりか鋭さも威力も際限なく上がっていく打突は、もはやサーヴァントをしても必殺の域……!
「――――」
甘く見たのはわたしたちだ。
あのサーヴァント―――ランサーの槍に、槍兵の定石など存在しない。
息もつかせぬ連撃を捌《さば》く事など誰に出来よう。
アーチャーはかろうじて後退しつつ弾き、結果として、両者の距離はわずかに開く。
その間隙。
離れた間合いをさらに助走とし、さらなる強撃を放つランサー。
嵐のような連撃はその繰り返しにすぎない。
が、それも際だてば神域の技。
すでに十合《じゅうごう》。
否、実際はその数倍か。
直線的な槍の豪雨は、なお勢いを増してアーチャーを千殺せんと降り続ける。
……アレは迅いのではなく、ただ、巧い。
ランサーの槍には緩急などなく、瀑布《ばくふ》のように繰り出される。
守りに入るアーチャーに何の手段があろう。
あんな短い剣では槍を受け流す事しかできない。
後退し続けるアーチャーに、ランサーへ近寄る術はないのだ。
「―――――――」
繰り広げられる鋼の真空。
援護を―――アーチャーの援護をしなくてはいけないというのに、喉がうまく動かない。
わたしの魔術は狙いが甘い。
アーチャーがランサーから大きく離脱しないかぎり、アーチャーごと巻き込んでしまう。
そんな隙、ランサーをますます有利にするだけだ。
……それに、そう。
正直、わたしは見惚れていた。
これがサーヴァントの戦い。
魔術師《わたしたち》では手の届かない最高ランクの使い魔――――英霊を使役する、聖杯戦争そのものなのだと。
サーヴァント。
七人のマスターに従う、それぞれ異なった役割《クラス》の使い魔たち。
それは聖杯自身が招き寄せる、英霊と呼ばれる最高位の使い魔だ。
―――だが、彼らを使い魔と呼ぶのは語弊がある。
本来、使い魔とは魔術師に代わってお使いをする程度の存在でしかない。
イメージ的には長靴を履いた猫とか、
白くて可憐な小鳥とか、
主人の言うことを聞かない黒犬とか、まあそういったモノだろう。
一介の魔術師が使役できる使い魔はその程度だ。
あくまで使い魔は使い魔。
主人の代わりに雑用をこなすマスコットなのだから、主である魔術師より強力な存在になどなり得ない。
けれどサーヴァントは違う。
彼らは文字通り人類最強の存在だ。
おそらく五人しかいないとされる魔法使いであっても、彼らを使役する事など不可能だろう。
それは召喚が難しいからでも、サーヴァントの能力が魔術師以上だからでもない。
サーヴァントとは、それ自体が既に、魔術の上にある存在《モノ》なのだ。
率直に言おう。
サーヴァントとは、過去の英雄そのものである。
神話、伝説、寓話、歴史。
真偽問わず、伝承の中で活躍し確固たる存在となった“超人”たちを英雄という。
人々の間で永久不変となった英雄は、死後、人間というカテゴリーから除外されて別の存在に昇格する。
……奇跡を行い、人々を救い、偉業を成し遂げた人間は、生前、ないし死後に英雄として祭り上げられる。
そうして祭り上げられた彼らは、死後に英霊と呼ばれる精霊に昇格し、人間サイドの守護者になる。
これは実在の人物であろうが神話上の人物であろうが構わない。
英雄を作り出すのは人々の想念だ。
こうであってほしい、と想う心が彼らを形取り、彼らを実在のモノとして祭り上げる。
そこに真偽は関係ない。
ただ伝説として確かな知名度と信仰心さえあれば彼らは具現化する。
人間が生み出した究極の理想、人間の中でもっとも優れた人間。
それが英雄であり、英霊である。
そして当然、人間以上である彼らは、決して人間では操れない。
魔術師は彼らの力の一端を借り受け、その真似事をこなす程度に留まるのが常だ。
英霊そのものを呼び出して使役する、なんて事は決して出来はしない。
が、聖杯はその不可能を可能にした。
本来人間の手におえぬ英霊をまるごと召喚し、あまつさえマスターに仕える使い魔に固定した。
そのデタラメさは、まさに聖杯が万能である事の証でもある。
そうして年代を問わず、近くは百年前、遠くは神代の頃から英霊は召喚された。
七人の英霊はそれぞれ七人のマスターに従い、おのがマスターを守護し、敵であるマスターを駆逐する。
……あらゆる年代、あらゆる国の英雄が現代に蘇り、覇を競い合う殺し合い。
それが、この儀式が聖杯戦争と呼ばれる由縁だろう。
……もっとも、聖杯にも限界があったらしい。
いかに聖杯といえど、精霊じみた連中を無差別に呼び出す事は出来なかった。
悪魔と呼ばれる第六架空要素の実体化には“人々が創造したカタチ”が必要なように、
英霊たちも、こちらの世界で活動できるカタチが必要なのだ。
それが彼らの仮の名前であり、この世界に許された存在の在り方。
聖杯は英霊たちが形になりやすい“器《クラス》”を設け、器に該当する英霊のみを召喚させる。
現代へのパスポートと言うか、予め使い魔としての役割を用意しておき、召喚された英霊がその役割に憑依する事で、仮初めの物質化を手助けする。
聖杯に選ばれたマスターが七人ならば、マスターに仕える英霊も七人。
予め振り分けられたクラスは七つ。
剣の騎士、セイバー。
槍の騎士、ランサー。
弓の騎士、アーチャー。
騎乗兵、ライダー。
魔術師、キャスター。
暗殺者、アサシン。
狂戦士、バーサーカー。
この七つのクラスのいずれかの属性を持つ英霊だけが現代に召喚され、マスターに従う使い魔―――サーヴァントとなる。
それがサーヴァントシステム―――
人の手に余る“聖杯《きせき》”を勝ち取る為に与えられた、人の手に余る、英霊の召喚と契約。
他の聖杯戦争ではありえない、この土地でのみ行われる、最強の競い合い――――!
「――――!」
一際高い剣戟。
ランサーの槍を弾いた短剣は、そのままアーチャーの手から離れた。
ランサーの技だ。
直線だけの打突から、一転してアーチャーの手首を払うなぎ払い。
それはアーチャーにとって、判っていながらも避ける事のできない一撃だった。
剣で槍を受け流す有効手はない。
強く弾けば弾いた以上の鋭さで切り返され、かといって最小の力で受け流しても隙は一向に生まれない。
剣と槍の戦いとは、つまるところいかに間合外から敵を倒すか、という点に集約される――――
「―――間抜け」
罵倒するランサーに躊躇はない。
アーチャーを追い詰めようと踏み込んでいた足が止まる。
―――一瞬で勝敗を決するつもりか。
がっしりと地面に根を下ろしたランサーと、
無刀となったアーチャーの視線がぶつかり合う。
瞬間。
一息のうちに放たれたランサーの槍は、まさに閃光だった。
視認さえ許さない。
眉間、首筋、そして心臓。
穿つは三連、全弾急所――――――!!
だが。
視る事さえできぬ閃光を、日輪の如き刃が弾き流す……!
「――――!?」
アーチャーの手には再び短刀が握られていた。
先ほどの剣と同じ、鉈を思わせる中華風の剣。
しかし、その最大の違いは――――
「チィ、二刀使いか……!」
剣は一対。
両手に握られたそれは、左右対称の双剣だった。
「ハ、弓兵風情が剣士の真似事とはな―――!」
ランサーの槍が奔る。
もはや生かさんとばかりに槍の速度はなお上がっていく。
「―――――――」
烈火の気勢で弾くアーチャー。
これ以上は引かぬ―――否、これより先は進むのみだと、鷹のような双眸が告げている。
耳を打つ剣戟は、よく出来た音楽のようだった。
響き合う二つの鋼。
火花を散らす剣合は絶え間なく、際限なくリズムを上げていく。
両者の戦いは真空に近い。
周囲の空気を巻き込み、近づけばそれだけで切り刻まれそう。
「――――――――」
本当は一瞬。
けれど、見ている自分には、息が詰まるほど長い時間に感じられる。
懐に入れまいとするランサーと、
双剣を盾に間合いを詰めるアーチャー。
両者の撃ち合いは百を超え、その度にアーチャーは武器を失う。
だがそれも一瞬、次の瞬間にはアーチャーの手には剣があり、ランサーはその度わずかに後退する。
事此処《ことここ》に至り、ランサーは自らの油断を認めたのだ。
目の前の相手が何者かは知らぬ。
だが、これ以上弓兵と侮っては、敗北するのは己なのだと。
間合いが離れる。
仕切り直しをする為か、ランサーは大きく間合いを離した。
……その速さは尋常じゃない。
アーチャーの突進だって常軌を逸していたけど、ランサーに比べればまだ遅い。
咄嗟に間合いを外したランサーの動きは、豹そのものの速さと嫋《しな》やかさを持っていたのだから。
「……二十七。それだけ弾き飛ばしてもまだ有るとはな」
苛立ち、呟くランサー。
いや、アレは苛立ちというより困惑だ。
……その気持ちはわたしも同じ。
父の話では、サーヴァントが持つ武器はただ一つ。
それぞれが絶大な魔力を帯びた彼らの武器は、アーチャーのように次から次へと取り出せる物じゃない。
サーヴァントとは、英雄が死後に霊格を昇華させ、精霊、聖霊と同格になった者を指す。
言いかえれば悪魔、天使の類に近い。
彼らは単体でも強力な使い魔だが、彼らの最も強力な武器は“英雄の証”、すなわち“宝具”と呼ばれるマジックアイテムだ。
“宝具”はサーヴァントが英雄であった頃に愛用した武器や防具であり、文字通り“奥の手”として扱われる。
サーヴァントにとって、“宝具”は唯一無二の武装。
それは宝具そのものが代えのきかない最終兵器だからでもある。
……ランサーの持っている槍だって、ランサーがその気になれば“宝具”としての能力を発揮するだろう。
宝具とはそれだけで優れた武器だけど、その本領は“真名”を以って力を解放させる事にある。
かつて、竜を殺し神を殺し、万物に君臨してきた英雄の武器。
サーヴァントは自らの魔力を以ってその“宝具”を発動させる。
言うなれば魔術と同じだ。
サーヴァントたちは、自らの武器を触媒にして伝説上の破壊を再現する。
それらの武器は決して使い捨てにできる物ではない。
アーチャーが何十と持ち出した剣は、たしかにそれぞれが名剣のようだけど、アーチャーの“宝具”ではないのだろう。
彼はアーチャーのサーヴァント。
故に、彼が隠し持つ“宝具”は弓でなければならないのだから。
「どうしたランサー、様子見とは君らしくないな。先ほどの勢いは何処にいった」
「……チィ、狸が。減らず口を叩きやがるか」
ランサーの苛立ちはもっともだ。
ランサーは槍兵として戦ったというのに、アーチャーは剣士として戦い、これを凌《しの》いだ。
いわばアーチャーとしての手の内をまったく見せていない状態である。
ランサーに鬼気が迫るのも当然だろう。
「……いいぜ、訊いてやるよ。テメエ、何処の英雄だ。二刀使いの弓兵なぞ聞いた事がない」
「そういう君は判りやすいな。槍兵には最速の英雄が選ばれると言うが、君はその中でも選りすぐりだ。
これほどの槍手は世界に三人といまい。加えて、獣の如き敏捷さと言えば恐らく一人」
「―――ほう。よく言ったアーチャー」
途端。
あまりの殺気に、呼吸を忘れた。
ランサーの腕が動く。
今までとは違う、一分の侮りもないその構え。
槍の穂先は地上を穿つかのように下がり、ただ、ランサーの双眸だけがアーチャーを貫いている―――
「―――ならば食らうか、我が必殺の一撃を」
「止めはしない。いずれ越えねばならぬ敵だ」
クッ、とランサーの体が沈む。
同時に。
茨のような悪寒が、校庭を蹂躙した。
……空気が凍る。
比喩ではなく、本当に凍っていく。
大気に満ちていたマナは全て凍結。
今この場、呼吸を許されるのはランサーという戦士だけ。
ランサーの手に持つ槍は、紛れもなく魔槍の類だ。
それが今、本当の姿で迸《ほとばし》る瞬間を待っている―――
「――――まずい」
やられる。
アレがどんな“宝具”かは知らないけど、アーチャーはやられる。
こんな直感、初めてで信じがたいけど間違いはない。
あの槍が奔《はし》ればアーチャーは死ぬ。
それは絶対だ。
文字通り、ランサーの槍は必殺の“意味”を持っている――――
「――――、あ」
アーチャーは敗北する。
ランサーに心臓を貫かれればアーチャーは死ぬ。
―――なのに。
そこまでもう予知できているというのに、わたしはアーチャーを助ける事さえできない。
わたしが指一本でも動かせば、それが開始の合図となってしまうからだ。
……だからこの戦い、アーチャーの敗北を止める事ができるとしたら、それは―――
「――――――誰だ…………!!!!」
わたしたちが見逃していた、偶然という第三者の登場に他ならなかった。
「……え?」
ランサーから放たれていた鬼気が消えた。
走り去っていく足音。
……その後ろ姿は、間違いなく学生服だった。
「生徒……!? まだ学校に残ってたの……!?」
「そのようだな。おかげで命拾いしたが」
冷静に言うアーチャー。
……いやまあ、それは確かに助かったけど。
「……失敗した、ランサーに気をとられて周りの気配に気づかなかった……って、アーチャー。アンタ、何してんの」
「見て判らないか。手が空いたから休んでいる」
「んな訳ないでしょ、ランサーはどうしたのよ」
「さっきの人影を追ったよ。目撃者だからな、おそらく消しに行ったのだろう」
「――――――――」
一瞬。
あらゆる思考が、停止した。
「……追ってアーチャー! 私もすぐに追いつくから……!」
「――――」
即座にランサーを追うアーチャー。
「……くそ、なんて間抜け……!」
自らのうかつさを呪う。
目撃者は消すのが魔術師のルールだ。
……だから。それが嫌なら目撃者など出さなければいいんだって、いままでずっと守ってきたのに、なんだって今日に限ってこんな失敗を……!
月明かりも閉ざされた夜。
ひどく冷たい廊下には、床に倒れた生徒と、立ち尽くしているアーチャーの姿があった。
「………………」
彼は、ただ呆然と生徒を眺めている。
……鼻をつく匂い。
それが死の匂いなのだと、床に流れる血液を見て、思い知らされた。
「……追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと、割が合わない」
「――――」
ランサーを追っていくアーチャー。
残されたのはわたしと、床に倒れ伏した生徒だけだ。
「…………」
直視できない。
けれど、直視しなければ。
これはわたしの責任。
これはわたしの責任。
これはわたしの責任。
―――幼い頃。
遠坂の跡継ぎになると決めた時から、こんなコトは覚悟していた。
魔術師には善も悪もない。
ただその道にあるのは、自分と他者のこぼす血だけなのだと、そんなコトはとっくの昔に覚悟していたんだから――――!
「……ランサーの槍で一突きか。心臓をやられてちゃ助からない」
ランサーがこいつを何秒前に殺したかは知らない。
ただ、貫かれたのが心臓だったのは幸か不幸か。
ランサーの一撃は単純な外傷ではないのか、心臓破裂による血液の逆流は酷くない。
酷くないが、脳に血液がいかなくなればそれで終わりだ。
いや、そもそも心臓が壊されたのなら即死といっても間違いはないだろう。
「……そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」
……そう。
断末魔というか、まだ微かに息がある。
けどそれもあと数秒。
こいつには自分で傷を癒すコトもできないし、わたしには、こいつを助けるだけの力はない。
「顔を見ないと。それぐらいは、しなくちゃ」
うつぶせになっている顔に触れようとして、指先が動かない事に気が付いた。
……震えている。
なんで、だろう。
こんな事には馴れている。
こんな選択は今まで何度もあった。
自分の間違い、自分の我侭《わがまま》で色々なものを無くしてきた。
だから―――いつだって、いつかこういう日が来るだろうって覚悟してた。
なのにどうして―――わたしはこんなにも、自分自身に腹が立っているんだろう。
「……ごめんね。看取るぐらいはしてあげる」
震える指と、今にも崩れそうな膝を理性で抑えつけて、倒れている生徒の顔を確認した。
「――――――――」
がつーん、という音。
本当に、後頭部をハンマーで叩かれた気が、した。
「……やめてよね。なんだって、アンタが」
ぎり、と歯を噛む。
震えを抑える為じゃない。
わたしは、本当に頭にきている。
なんだってコイツなんだろう。
よりにもよってコイツなんだっての。
まったく完璧に、サーヴァントらしく鮮やかに目撃者を仕留めたランサーに腹は立たない。
ただもう、こんな日、こんな時間に学校に残ってたコイツが、憎たらしくて仕方ない……!
「――――――――」
桜の顔を思い浮かべる。
きっとあの子は泣くだろう。
ついでに、わりと昔の、赤い放課後なんかを思い返してしまう。
……遠い夕焼け。
一人でいつまでも走っていた誰か。
それを遠くから、ただぼんやりと眺めていたつまらない女の子。
―――そして、目の前には巻き込まれた誰かの死体。
「――――――――」
……手はある。
失敗して切り札を失うかもしれないけど、手はある。
ああいや、失敗しようが成功しようがどのみち切り札はなくなるんだから、わたしにとっての結果は変わらないんだけど。
「――――――――」
それは間違ってる。
コイツが死のうとしているのは、ある意味終わった事だ。
周囲の気配に気づかなかったわたしの責任と、
運悪く学校に残っていたコイツの責任。
だから、わたしがそこまでやってやる事はない。
だって、そう、元々コレは、父さんが、わたしに何一つとして遺さなかった父さんが、わたしの為だけに遺しておいてくれた物だ。
この戦いに勝ち残る為に、絶対の切り札となる強力な魔力の固まり。
わたしの為だけの、大切な大切な――――
「―――だからなんだってのよ、ばか」
振り切って、死体一秒前みたいなヤツの前に跪《ひざまづ》いた。
「……ああ、やっちゃった」
手にしていたペンダントが軽くなる。
父の形見のペンダントは、もうほとんどスッカラカンになって、とん、と、死体一秒前だったヤツの上に落っこちた。
「――――ま、仕方ないか」
そう、仕方がない。
わたしでは、心臓を破損して、血管という血管が傷ついていて、おまけに脳死寸前なんていう人間を蘇生させる力も技術もなかった。
だからまあ、足りない部分は力ずくでこう、ガァーっとツギハギするしかなかっただけ。
「まだ息があるのが運の尽きだった。完全に死んでいたら、どんなに魔力の蓄えがあっても蘇生なんてできなかったし」
けど、まだ生きていたから。
出来うるだけの事をして、助けただけの話。
「……失敗してたら目も当てられなかったけど、成功したからいっか。……ええ、正直に言えば充実感あるしね、こういう経験も悪くはなかったわ」
なんて、思いっきり強がりを口にする。
「……行こ。済んだ事は済んだ事。コイツが目を覚ます前に帰らないと」
そうだそうだ、こんなところに長居は無用。
アーチャーはランサーを尾行しているだろうし、もう一人で帰ってしまえ。
――――で、帰り道について思い出した。
魔力を引き出し、ただのペンダントになってしまったソレを、学校に置き忘れたという事を。
「……ま、いっか」
もうあのペンダントに用はない。
そりゃあちょっとは魔力が残ってるかもしれないけど、そんなのはわたしが持っている十個の宝石以下な訳だし。
父さんが遺したかったものは聖杯戦争に勝つための魔力だ。
その魔力を使い果たしたあれは、もう意味のない物になってしまったんだから。
ただいまも言わずに家にあがって、ばふっとソファーに腰を下ろす。
アーチャーはまだ帰ってこない。
はあ、と気の抜けた溜息をついて、ぼんやりと時計の音を聞くこと数分。
「―――って、いいかげん頭を切り替えなくちゃ。
あれだけの戦いを経験しておいて、なに惚けてるんだわたし」
シャキっと立ち上がって、とりあえず紅茶を淹れる。
考えなくてはいけない事は山ほどあるのだ。
取り立てて重要なのはサーヴァントについて。
わたしはついさっき、知識でしか知らなかったサーヴァント同士の戦いを目の当たりにしたんだから。
「ランサーか……宝具を使われそうになった時は焦ったけど、実際使ってたら正体は判ったのよね……」
敵サーヴァントを打倒するには、その正体を知ることが近道となる。
自分の正体さえ知らないバカものは例外として、サーヴァントにとって最大の弱点はその“本名”なのだ。
サーヴァントの本名――つまり正体さえ知ってしまえば、その英霊が“どんな宝具を所有しているか”は大体推測できる為だ。
言うまでもないが、サーヴァントは英霊である以上、確固たる伝説を持っている。
それを紐解いてしまえば、能力の大部分を解明する事ができる。
サーヴァントがクラス名で呼ばれるのは、要するに“真名”を隠す為なのだ。
なにしろ有名な英雄ほど、隠し持つ武器や弱点が知れ渡っているんだから。
サーヴァントとなった英霊は決して自分の正体を明かさない。
サーヴァントの正体を知るのはそのサーヴァントのマスターのみ。
マスターは自分のサーヴァントの正体を隠しつつ、他のサーヴァントの正体を探らなければならない、なんていう暗黙の了解があるほどだ。
……聖杯戦争も今回で五回目。
各サーヴァントの優劣は、もちろん呼び出された英霊の格で決まる。
有名な英雄、伝説上優れた武装を持つ英雄ほど強力なのは言うまでもない。
もっとも、そういった英霊を召喚するのは難しい。
英霊召喚には、彼らが生前所有していた武装か、なんらかの縁がなければ召喚できない。
英雄の持ち物なんて、魔術協会でも数えるほどしか保有していないのだ。
だから大抵はわたしのように、数ある英霊の中から自分に合った英霊を召喚する事になる。
サーヴァントの強さは英霊の格で決まる。
が、事はそう簡単にはいかず、どんなに優れた英霊でも与えられたクラスによっては苦戦を強いられる。
それがクラス別の特殊能力、小が大を打ち倒す可能性だ。
七つのクラスはそれぞれ異なる付加能力を持ち、その相性によっては格上の相手に勝利する事もある。
その例で言えば、過去四回、知名度の低い英雄が大英雄をうち負かした事もあるらしい。
わたしが知りうる限り、最も優れたサーヴァントはセイバーだ。
過去四回、セイバーのサーヴァントはことごとく最後まで勝ち残った。
セイバー、ランサー、アーチャーの三クラスは強力な対魔力を持つという。
率直に言って、この連中に魔術は通用しづらい。
なにしろ神話の時代、魔法が当たり前のように跋扈していた世界で戦い抜いた戦士たちだ。
現代の魔術師が使う魔術など、彼らに触れただけで霧散するだろう。
……まあ、そういった訳でこの三つのクラスは基本にして優秀、と評されている。
それ以外に注意すべきはバーサーカーのサーヴァント。
このクラスになって呼び出された英霊は、正気を失う。
文字通りマスターの操り人形となって活動する狂戦士となるのだが、その恩恵は生前の能力を大きく上回る“強化”だ。
もっとも、サーヴァントが強くなればなるほど、マスターにかかる負担は大きい。
過去、バーサーカーを得たマスターは暴走するサーヴァントを御する事ができず、魔力切れで自滅してきた。
ただ一人の例外もなく。
―――聖杯戦争の勝敗を決めるのは、十中八九呼び出したサーヴァントの能力である。
そりゃあマスターの努力次第でいくらでも勝ち残る術はあるだろうけど、基本はサーヴァントによる潰し合いだ。
だからこそ、マスターはサーヴァント召喚には細心の注意を払わなくちゃいけないんだけど―――
「――――――――」
一人悶々と、これからの作戦予定表を組み立ててみる。
そうこうしているうちに時刻は十一時になり……無論、時間は既に直してある……アーチャーが帰ってきた。
「お帰りなさい。成果はどう?」
「……すまない、失敗した。よほど用心深いマスターだったのだろう。少なくともこちら側の町には、ランサーのマスターはいなかった」
やっぱりそうか。
ランサーは一人きりだったし、ランサーのマスターは直接戦いの場に顔を出すタイプではなさそうだ。
「そう。ま、そう簡単にはいかないわよね」
そう、すべて思い通りに行くなんて事はない。
だから仕方ない。
今夜の事は授業料と思って諦めよう。
「覇気がないなマスター。いつもの威勢はどうした。まさか先の一戦で怖じ気付いた、というのはなしだぞ。君が命じるのなら、今すぐにでもランサーとの再戦に赴《おもむ》いてもいい」
いや、むしろそうするべきだろう―――なんて無言で抗議するアーチャー。
……そっか。
わたし、落ち込んでいるように見えるのか。
「そんな訳ないでしょう。わたしが打って出ないのはね、単に無駄手間をしたくないだけなんだから」
「む? 無駄手間をしたくない……?」
「だってまだマスターの数が揃ってないでしょ。今夜のは止むなしだったけど、開戦の合図があるまでは戦わないわ。それが聖杯戦争のルールだって父さんは言ってたし」
「……そうか。君の父親もマスターだったのか」
なるほど、と納得するアーチャー。
―――と。
なんか、難しい顔をして悩むアーチャー。
「なによ。何か言いたいコトでもあるの、アンタ」
「ああ、一つ訊き忘れていた。
凛、君は幼い頃からマスターになるべく育てられ、それに従ってきたのだろう? つまり、初めからマスターになる事を予想していた訳だ」
「当たり前じゃない。そりゃあいきなりマスターに任命される魔術師もいるそうだけど、わたしは別よ。遠坂の人間にとって、聖杯戦争は何代も前からの悲願なんだから」
「そうだろう。つまり初めからマスターになるべく育ってきた君ならば、目的がとうにある筈だ。
私はそれを聞き忘れていた。主の望みを知らなければ私も剣を預けられない。
―――凛。それで、君の願いは何だ」
「願い? そんなの、別にないけど」
「――――なに?」
あ、アーチャーがおもしろい顔してる。
「そ、そんな筈はあるまい! 聖杯とは願いを叶える万能の杯だ。マスターになるという事は聖杯を手に入れるという事。だというのに、叶える願いがないとはどういう事だ……!」
「――――――――」
アーチャーは真剣な顔で問いただしてくる。
……ああ、そうか。
聖杯を手に入れた時、そのマスターが何を望むかはサーヴァントにとっても無関係じゃないんだ。
でもおかしいな。父さんはサーヴァントにも望みがあるって言ってたけど、それはあくまでサーヴァントの望みだ。
わたしに望みがなくったってアーチャーが気にする事はないと思うけど。
「よし、よしんば明確な望みがないのであらば、漠然とした願いはどうだ。例えば、世界を手にするといった風な」
「なんで? 世界なんてとっくにわたしの物じゃない」
「――――――――」
「あのね、アーチャー。世界ってのはつまり、自分を中心とした価値観でしょ? そんなものは生まれたときからわたしの物よ。そんな世界を支配しろっていうんなら、わたしはとっくに世界を支配しているわ」
「――――」
難しい顔でわたしを見るアーチャー。
呆れた。こいつ、頭かたいなー。
「馬鹿な。聖杯とは望みを叶える力、現実の世界を手に出来る力だぞ。それを求めるというのに何も望まないというのか、君は」
「だって世界征服も面倒くさいし、そんな無駄な事を願っても仕方がないでしょう。貴方、わりと想像力が貧困ね」
「……。理解に苦しむな。それでは何の為に戦う」
「そこに戦いがあるからよ、アーチャー。ついでに貰える物は貰っておく。聖杯がなんだかは知らないけど、いずれ欲しい物が出来たら使えばいいだけでしょう? 人間、生きていれば欲しい物なんて限りないんだし」
「―――つまり、君は」
「ええ。ただ勝つ為に戦うの、アーチャー」
「――――――――」
ふう、と肩をすくめるアーチャー。
わたしの言い分に呆れまくったのか、ようやく肩の力がとれたようだ。
「……まいった。確かに君は、私のマスターに相応しい」
―――う。
……その、そういう言い回しは対処に困るから、やめてくれないものかな、こいつ……。
「……ふん。サーヴァントにマスターを選ぶ権利はないけど、一応訊いとく。なんでわたしが貴方のマスターに相応しいのよ」
「言うまでもない。君は間違いなく最強のマスターだ。仕える相手としてこれ以上の者はない」
「そ、ありがと。貴方に言われるなら世辞って訳じゃなさそうだし」
……照れくさいので顔を背ける。
アーチャーは皮肉屋のくせに、こういう言葉をまっすぐに言ってくるから苦手だ。
……けどまあ、信頼されているのは素直に嬉しい。
わたしもアーチャーを信頼しているし、アーチャーもわたしを信頼している。
この連帯感は、そう悪い物じゃないと思う。
「さて、ならば一息入れようか。七人目のマスターが現れるにせよ、それは今すぐという訳でも……と、ちょっと待て凛。君、あの飾りはどうした」
「飾りって、ペンダントの事? ……ああ、アレなら忘れてきちゃった。もう何の力もない物だし、別に必要ないでしょう?」
「それはそうだが。……君がそう言うならいいが」
「ええ。父さんの形見だけど、別に思い出はアレだけって訳じゃない――――」
「―――よくはない。そこまで強くある事はないだろう、凛」
睨むようにそう言ったあと。
アーチャーは、学校に忘れてきたペンダントを取り出した。
「あ……拾いにいってくれたんだ、アーチャー」
「……もう忘れるな。それは凛にしか似合わない」
照れくさいのか、視線を逸らしてペンダントを手渡してくるアーチャー。
「――――そう。じゃ、ありがとう」
なんとなく受け取る。
正直、照れていいのかクールに流すべきなのか、わたしには分からなかった。
ペンダントは以前のままだ。
……やっぱり、どう見ても魔力は残っていない。
空になったそれは、高価だけどやっぱりただの宝石で、これといった力はない。
でも、アーチャー風に言うのなら。
このペンダントに力は無くなっても、父がわたしに遺したという意味だけは、まだ残っているのだろう。
それなら―――切り札と引き替えにアイツを助けた事も、本当に良かったと笑い飛ばせるかもしれないな。
「―――って、待った。」
ちょっと引っかかる。
後悔があったから頭が回らなかったけど、冷静に考えてみれば片手落ちだ。
アイツがわたしたちを見た以上、記憶をいじらないと危険だし。
なにより、ランサーはわたしたちとの戦いより目撃者の消去を優先した。
ランサーの考えはマスターの考えである筈。
なら―――そこまでするランサーのマスターが、殺した筈の相手が死に損なったとしたらどうするか。
「―――そんなヤツ、生かしておかない―――」
ソファーから立ち上がる。
……あれから三時間。
間に合わないかもしれないけど、
あれだけのコトをして助けたんだから間に合わない訳にはいかないじゃない―――!
夜を走る。
幸い、アイツの家は知っていた。
いや、わたしが調べたわけじゃなくて、たまたま知り合いがよく遊びに行く家だっただけで、今まで一度も行った事はない。
「……まったく。余計な苦労を背負おうとしているぞ、君は」
アーチャーはやる気がない。
わたしが殺されかけたアイツを助けた事も、これから助けに行く事も非難していた。
――――午前零時。
雲に覆われた夜空の下、わたしたちは武家屋敷に辿り着いた。
住宅地の端、郊外に近いこの屋敷には、人気というものがない。
隣接した家も少なく、もし事が起きたとしても駆けつける人間はいないだろう。
「――――」
吐く息が白い。
風が出てきた。
よほど強いのだろう、雲がごうごうと流れていく。
暖かい筈の冬木の風は背筋を震わせて、ぶるりと、全身が痙攣した。
冬木の町が暖かいと言っても、坂の上はまっとうな冬の気温をしている。
シン、と凍り付いた空気。
あまりにも冷たい大気に耳を澄ませる。
全てが凍気に支配された感覚で、確かに、敵の気配を感じ取った。
「……いる。|ランサー《さっき》のサーヴァント……!」
唇を噛む。
気配はこの塀の向こうからだ。
ランサーはとっくに屋敷の中に忍び込んでいて、訳も分からず帰ってきたアイツを、再び殺そうとしている。
「……飛び越えて倒すしかない。その後のことはその時に考える――――!」
アーチャーに突入の指示を送ろうとしたその時。
カア、と。
太陽が落ちたような白光が、屋敷の中から迸った。
「――――」
気配が、気配にうち消される。
ランサーというサーヴァントの力の波が、それを上回る力の波に消されていく。
……瞬間的に爆発したエーテルは幽体であるソレに肉を与え、
実体化したソレは、ランサーを圧倒するモノとして召喚された。
「うそ――――」
呟くことしかできない。
だが紛れもない事実だ。
その証拠に、ほら―――たった今、塀を飛び越えて出てきたランサーは、屋敷から逃げるように跳び去っていったのだから。
「……ねえアーチャー。これも、もしもの話?」
「さあな。だがこれで七人。ついに数が揃ったぞ、凛」
落ち着いて答えるアーチャー。
わたしは正常な判断力を失っていた。
だから、容易に想像できる筈の次の展開を、考慮する事さえできなかった。
一際強く、風が吹いた。
傘のような雲が空を覆う。
明かりのない郊外は一転して闇に閉ざされ。
そのサーヴァントは塀を飛び越え、魔鳥のように舞い降りてきた―――
「――――!」
アーチャーは反応していた。
けれど、わたしは反応できなかった。
それが失点。
一秒にも満たないその隙で戦いは終わった。
わたしにとっては一秒でも、
あのサーヴァントにとっては度し難い隙だったのだ。
踏み込んでくる剣風。
「え、アーチャー……?」
わたしを突き飛ばすアーチャーと、
アーチャーを斬り伏せるサーヴァント。
本当に一瞬。
ランサーの猛攻をあんなにも華麗に捌《さば》いていたアーチャーが、ものの一撃で倒されたのか―――
「―――アーチャー、消えて……!」
だが、今度は間に合った。
敵のサーヴァントが返す刃でアーチャーの首を断ち切る瞬間、強制的にアーチャーを撤去させる。
じくん、と右腕に痛み。
あまりにも無茶な命令と行為だったからだろう、右腕にある令呪が一つ減ったのだ。
……これで残る令呪は一つだけ。
けどこれが最善。
アーチャーに死なれるぐらいなら、令呪の一つや二つなくなっても――――
「――――」
消失したアーチャーも意に介さず、サーヴァントは襲いかかってくる。
「――――舐めるな!」
ポケットから風呪を織り込んだトパーズを出し、そのまま、なんの加工もせずに魔力をたたき付ける―――!
家の一軒や二軒は跡形もなく吹き飛ばすソレは、日頃から少しずつ蓄えた風の呪文の固まりだ。
十七年間一日も休まずに織り上げた十の宝石、その一つ。
それを使い切るんだから、倒せないまでも足止めぐらいには――――
……なら、なかった。
どうもこうもない。
巻き込んだ物を一瞬にして八つ裂きにする風の群れは、あのサーヴァントに触れた途端、手品みたいに消滅した。
――――なんていう強力な対魔力。
このサーヴァントには、魔術師程度の魔力じゃ傷一つつけられない……!?
―――あ、ダメだ。
魔術は通じず、アーチャーという守りを失ったわたしに、このサーヴァントを止める事はできない。
辛うじて一撃を躱《かわ》したものの、それでおしまい。
夜空を見上げる。
そこには、無様に倒れこんだわたしに手を下す、冷徹な死神の姿が――――
「――――な」
風が吹く。
曇天の切れ間、螺旋の空に月が覗く。
降りそそぐ月光と、あまりにも可憐な顔立ち。
それがランサーを逃げ帰らせ、
わたしのアーチャーを一撃で倒し、
こともなげに魔術を無効化した、サーヴァントの姿だった。
[#挿絵(img/104.JPG)入る]
「今の魔術は見事だった、魔術師《メイガス》」
鈴のような少女の声。
ああ、今はその声ですら悪夢のよう。
当然だろう。
この相手が美しければ美しいほど、その驚異的な実力との差が、認められない悪夢となるのだから。
「だが最期だ、アーチャーのマスターよ」
突きつけられた剣が煌めく。
――――その死の間際で理解した。
確証もなく一目で判った。
これが私の欲しがっていたカード、
サーヴァント中最強と言われる剣の英雄。
「――――――――」
死を覚悟したまま月を見上げる。
命乞いの情も、逃げ出せる隙もない。
私はここで死に、遠坂凛の聖杯戦争は三日で終わる。
そこには屈辱と後悔しかなく、わたしは敵を憎んだまま消え去るだろう。
―――だと言うのに、わたしは何も感じていない。
本当にどうかしている。
瞬きの後、確実に殺されるというのに、またも見惚れてしまうなんて。
……そうだ。
悔しいと言えば、それが悔しい。
でも仕方がないとも思う。
―――わたしを殺す最強のサーヴァント。
その姿はただ無情で、際限なく凛々しくて、その、悔しいぐらい、可愛らしかったんだから――――