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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
例 衛宮切嗣《えみやきりつぐ》
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「Fate/stay night」(present by TYPE-MOON)
―――――気が付けば、焼け野原にいた。
大きな火事が起きたのだろう。
見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。
―――それも、長くは続かない。
夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。
あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。
……その中で、原型を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。
この周辺で、生きているのは自分だけ。
よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。
どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。
生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。
いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。
まわりに転がっている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。
……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより。
もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。
それでも、希望なんて持たなかった。
ここまで生きていた事が不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。
まず助からない。
何をしたって、この赤い世界から出られまい。
幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。
そうして倒れた。
酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能がすでに失われていたのか。
とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。
まわりには黒こげになって、ずいぶん縮んでしまった人たちの姿がある。
暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。
……それならいい。雨がふれば火事も終わる。
最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。
息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。
もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。
――――それが十年前の話だ。
その後、俺は奇跡的に助けられた。
体はそうして生き延びた。
けれど他の部分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまったのだと思う。
両親とか家とか、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。
だから体以外はゼロになった。
要約すれば単純な話だと思う。
つまり、体を生き延びらせた代償に。
心の方が、死んだのだ。
「Fate/stay night」(present by TYPE-MOON)
セイバー編
―――――――――夢を見ている。
「――――っ」
はじめての白い光に目を細めた。
まぶしい、と思った。
目を覚まして光が目に入ってきただけだったが、そんな状況に馴れていなかった。
きっと眩しいという事がなんなのか、そもそも解っていなかったのだ。
「ぁ――――え?」
目が慣れてびっくりした。
見たこともない部屋で、見たこともないベッドに寝かされていた。
それには心底驚いたけど、その部屋は白くて、清浄な感じがして安心できた。
「……どこだろ、ここ」
ぼんやりと周りを見る。
部屋は広く、ベッドがいくつも並んでいる。
どのベッドにも人がいて、みんなケガをしているようだった。
ただ、この部屋には不吉な影はない。
ケガをしているみんなは、もう助かった人たちだ。
「――――」
気が抜けて、ぼんやりと視線を泳がす。
――――窓の外。
晴れ渡った青空が、たまらなくキレイだった。
それから何日か経って、ようやく物事が飲み込めた。
ここ数日なにがあったのか問題なく思い出せた。
それでも、この時の自分は生まれたばかりの赤ん坊と変わらなかった。
それは揶揄ではなく、わりと真実に近い。
とにかく、ひどい火事だったのだ。
火事場から助け出されて、気が付いたら病室にいて、両親は消えていて、体中は包帯だらけ。
状況は判らなかったが、自分が独りになったんだ、という事だけは漠然と分かった。
納得するのは早かったと思う。
……その、周りには似たような子供しかいなかったから、受け入れる事しか出来なかっただけなのだが。
―――で、そのあと。
子供心にこれからどうなるのかな、なんて不安に思っていた時に、そいつはひょっこりやってきた。
包帯がとれて自分でご飯が食べられるようになった日に、その男はやってきた。
しわくちゃの背広にボサボサの頭。
病院の先生よりちょっとだけ若そうなそいつは、お父さんというよりお兄さんという感じだった。
「こんにちは。君が士郎くんだね」
白い陽射しにとけ込むような笑顔。
それはたまらなく胡散臭くて、とんでもなく優しい声だったと思う。
「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」
そいつは自分を引き取ってもいい、と言う。
親戚なのか、と訊いてみれば、紛れもなく赤の他人だよ、なんて返答した。
……それは、とにかくうだつのあがらない、頼りなさそうなヤツだった。
けど孤児院とそいつ、どっちも知らないコトに変わりはない。
それなら、とそいつのところに行こうと決めた。
「そうか、良かった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く馴れなくっちゃいけないからね」
そいつは慌ただしく荷物をまとめだす。
その手際は、子供だった自分から見てもいいものじゃなかった。
で、さんざん散らかして荷物をまとめた後。
「おっと、大切なコトを言い忘れた。
うちに来る前に、一つだけ教えなくちゃいけないコトがある」
いいかな、と。
これから何処に行く? なんて気軽さで振り向いて、「――――うん。
初めに言っておくとね、僕は魔法使いなのだ」
ホントに本気で、仰々しくそいつは言った。
一瞬のコトである。
今にして思うと自分も子供だったのだ。
俺はその、冗談とも本気ともとれない言葉を当たり前のように信じて、
「――――うわ、爺さんすごいな」
目を輝かせて、そんな言葉を返したらしい。
以来、俺はそいつの子供になった。
その時のやりとりなんて、実はよく覚えていない。
ただ事あるごとに、親父はその思い出を口にしていた。
照れた素振りで何度も何度も繰り返した。
だから父親―――衛宮切嗣《えみやきりつぐ》という人間にとって、そんなコトが、人生で一番嬉しかった事なのかも知れなかった。
……で。
事故で両親と家を失った子供に、自分は魔法使いなんだ、なんて言葉を投げかけた切嗣《オヤジ》も切嗣《オヤジ》だけど、
それが羨ましくって目を輝かせた俺も俺だと思う。
そうして俺は親父の養子になって、衛宮の名字を貰った。
衛宮士郎《えみやしろう》。
そう自分の名前を口にした時、切嗣と同じ名字だという事が、たまらなく誇らしかった。
………夢を見ている。
幼い頃の話。
ちょうど親父を言い負かして弟子にしてもらった頃だから、今から八年ぐらい前だろう。
俺が一人で留守番できるようになると、切嗣は頻繁に家を空けるようになった。
切嗣はいつもの調子で「今日から世界中を冒険するのだ」なんて子供みたいな事を言い、本当に実行しだしたのだ。
それからはずっとその調子だった。
一ヶ月いないなんてコトはザラで、酷い時は半年に一度しか帰ってこなかったコトもある。
衛宮の家は広い武家屋敷で、住んでいたのは自分と切嗣だけだ。
子供だった自分には衛宮の屋敷は広すぎて、途方にくれた事もある。
それでも、その生活が好きだった。
旅に出ては帰ってきて、子供のように自慢話をする衛宮切嗣。
その話を楽しみに待っていた、彼と同じ苗字の子供。
いつも屋敷で一人きりだったが、そんな寂しさは切嗣の土産話で帳消しだった。
―――いつまでも少年のように夢を追っていた父親。
呆れていたけど、その姿はずっと眩しかったのだ。
だから自分も、いつかはそうなりたいと願ったのかもしれない。
………まあついでに言うと。
あんまりにも夢見がちな父親に、こりゃあ自分がしっかりしなくちゃいけないな、なんて、子供心に思った訳だが――――
……音がした。
古い、たてつけが悪くて蝶番《つがい》も錆びて無闇に重い、扉が開く音がした。
暗かった土蔵に光が差し込んでくる。
「――――っ」
眠りから目覚めようとする意識が、
「先輩、起きてますか?」
近づいてくる足音と、冬の外気を感じ取った。
「……ん。おはよう、桜」
「はい。おはようございます、先輩」
こんな事には馴れているのか、桜はおかしそうに笑って頷く。
「先輩、朝ですよ。まだ時間はありますけど、ここで眠っていたら藤村先生に怒られます」
「と……そうだな。よく起こしに来てくれた。いつもすまない」
「そんな事ありません。先輩、いつも朝は早いですから。
こんなふうに起こしに来れるなんて、たまにしかありません」
……?
何が嬉しいのか、桜はいつもより元気がある。
「……そうかな。けっこう桜には起こされてるぞ、俺。
けど藤ねえにはたたき起こされるから、桜の方が助かる。……うん、これに懲りずに次は頑張る」
……寝起きの頭で返答する。
あんまり頭を使っていないもんで、自分でも何を言っているか判らなかった。
「はい、わかりました。でも頑張ってもらわない方が嬉しいです、わたし」
桜はクスクスと笑っている。
……いけない。まだ寝ぼけていて、マトモな台詞を口にしなかったようだ。
「―――ちょっと待ってくれ。すぐ起きるから」
深呼吸をして頭を切り換える。
冬の冷たい空気は、こういう時に役に立つ。
寒気は寝不足で呆っとした思考を、容赦なくたたき起こしてくれた。
……目の前には後輩である間桐桜《まとうさくら》がいる。
ここは家の土蔵で、時刻は午前六時になったばかり、というところ。
「……先輩?」
「ああ、目が覚めた。ごめんな桜、またやっちまった。
朝の支度、手伝わないといけないのに」
「そんなのいいんです。先輩、昨夜も遅かったんでしょう? なら朝はゆっくりしてください。朝食の支度はわたしがしておきますから」
弾むような声で桜は言う。
……珍しい。本当に、今朝の桜は元気があって嬉しそうだ。
「ばか、そういう訳にいくか。今起きるから、一緒にキッチンに行こう」
「よし、準備完了。それじゃ行こう、桜」
「あ……いえ、その、先輩」
「? なんだよ、他に何かあるのか」
「いえ、そういうコトではないんですけど……その、先輩。家に戻る前に着替えた方がいいと思います」
「――――あ」
言われて、自分の格好を見下ろした。
昨日は作業中に眠ったもんだから、体はツナギのままだった。
作業着であるツナギは所々汚れている。こんな格好のまま家に入ったら、それこそ藤ねえになんて言われるか。
「う……まだ目が覚めてないみたいだ。なんか普段にまして抜けてるな、俺」
「ええ、そうかもしれませんね。ですから朝食の支度はわたしに任せて、先輩はもう少しゆっくりしていてください。それにほら、ここを散らかしっぱなしにしていたら藤村先生に怒られるでしょう?」
「……そうだな。それじゃ着替えてから行くから、桜は先に戻っていてくれ」
「はい。お待ちしてますね、先輩」
桜は早足で立ち去っていった。
さて。
まずは制服に着替えて、散乱している部品を集めなくては。
この土蔵は庭の隅に建てられた、見ての通り、ガラクタを押し込んでいる倉庫である。
といっても、子供の頃から物いじりが好きだった自分にとって、ここは宝の倉そのものだ。
親父は土蔵に入る事を禁じていたが、俺は言いつけを破って毎日のように忍び込み、結果として自分の基地にしてしまった。
俺―――衛宮士郎にとっては、この場所こそが自分の部屋と言えるかもしれない。
だだっ広い衛宮の屋敷は性に合わないし、なにより、こういうガラクタに囲まれた空間はひどく落ち着く。
「……そもそも勿体ないじゃないか。ガラクタって言ってもまだ使えるし」
土蔵に仕舞われたモノは、大半が使えなくなった日用品だ。
この場所が気に入ったからガラクタを持ち込んだのか、ガラクタが山ほどあるからここが気に入ったのか。
ともかく毎日のように土蔵に忍び込んでいた俺は、ここにあるような故障品の修理が趣味になった。
特別、物に愛着を持つ性格ではない。
ただ使える物を使わないのが納得いかないというか、気になってしまうだけだと思う。
そんなこんなで、昨夜は一晩中壊れたストーブを修理していた。
「……完成は明日か。途中で寝るなんて、集中力が足りない証拠だ」
軽い自己嫌悪を振り払う。
とりあえずストーブの部品を集めて、修理待ち用の棚にしまった。
修理待ち用の棚に空きはない。このストーブを直したら、次は時代遅れのビデオデッキが待っている。
……そのどちらも藤ねえによって破壊された、という事実はこの際無視する事にしよう。
「……よっと」
作業着から制服に着替える。
土蔵は自分の部屋みたいなものなので、着替えも生活用具も揃っていた。
あとはそう、所々に打て捨てられた書き殴りの設計図と、修練の失敗作ともいえるガラクタが大半だ。
もともとは何かの祭壇だったのか、土蔵の床には何やら紋様が刻まれていたりもする。
「―――さて。今日も一日、頑張って精進しよう」
ぱん、と土蔵に手を合わせ、屋敷へと足を向けた。
土蔵から屋敷に向かう。
この衛宮邸は、町外れにある武家屋敷だ。
切嗣《オヤジ》は町の名士だった訳でもないのに、こんな広い家を持っていやがった。
それだけでも謎だっていうのに、衛宮切嗣には日本に親戚がいないらしい。
だから親父が死んだ後、この広い屋敷は誰に譲られる事もなく、なし崩し的に養子である自分の物になってしまった。
だがまあ、実際の話、俺にそんな管理能力はない。
相続税とか資産税だとか、そういった難しい話は全て藤村の爺さんが受け持ってくれている。
藤村の爺さんは近所に住んでいる大地主だ。
切嗣《オヤジ》曰く、“極道の親分みたいなじじい”。
無論偏見だ。
藤村の爺さんは極道の親分みたいな人ではなく、ずばり極道の親分なんだから。
「…………」
それはそれで多大に問題があるが、あえて追求しない方針でいきたい。
それに藤村の爺さんは怖い人っていうか、元気な人である事は間違いないのだが、悪い人ではなかったりする。
爺さんが趣味で乗り回しているバイクをチューンナップすると、とんでもない額の小遣いをくれるので助かるし。
ともかく、そんな訳でこの広い屋敷に住んでいるのは自分だけだ。
切嗣《オヤジ》が死んでからもう五年。
月日が経つのは本当に早い。
その五年の間、自分がどれだけ成長できたのか考えるとため息が出る。
切嗣のようになるのだと日々修練してきたけど、現実はうまくいかない。
初めから素質がなかったから当然と言えば当然なのだが、それでも五年間まったく進歩がない、というのは考え物だろう。
現状を一言でいえば、理想だけが高すぎてスタート地点にさえ立てていない、といったところ。
「―――――――」
いや、焦ってもいい事はないか。
とりあえず、今は出来る事を確実にこなしていくだけだ。
さて。
とりあえず、今やるべき事といったら――――
◇◇◇
衛宮邸には立派な道場がある。
家を建てる時、ついでだからと建てられたものだ。
道楽以外の何物でもない。
そんな訳だから、この道場は目的があって作られた物ではない。
「――――さて」
朝食の前に軽く体を動かしておこう。
別に武術をやっているワケではないのだが、
『僕の真似事をするんなら、まず身体を頑丈にしとかないと』 なんて切嗣《オヤジ》に言われて以来、こうして体を鍛えるのが日課になったのだ。
「……九十九っ、百、と……」
定番の腹筋運動を切り上げて、道着から制服に着替える。
今朝は寝坊したんで、気持ち分だけ体を動かす時間を少なくした。
柔軟を省略して、腹筋だけ切りのいい回数までこなせば充分だ。
自分はそう筋肉が付いてくれる骨格じゃないし、いくら体が資本といっても、殴り合いをしたいワケじゃない。
身体能力は突然の事故に対応できる程度、自分の無茶がイメージ通りに実現できるだけで充分だ。
そもそも自分のなりたいモノは、スポーツマンとは正反対なモノのワケだし。
「……と、もうこんな時間か」
汗を吸った道着を洗濯籠に入れる。
時刻は六時二十分。
朝が早い衛宮邸では、この時間帯でもやや遅い朝食になってしまう。
朝食の支度は完全に整っていた。
桜らしい、上品な朝餉《あさげ》の匂いが食卓から伝わってくる。
「お疲れさまでした。こっちも朝食の支度、終わりましたよ」
「ん、サンキュ。……すまん、俺が寝過ごした分、桜に無理させちまって」
「そんな、ぜんぜん無理なんかじゃないですよー。それに寝坊なんかじゃありません。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」
「部活は関係ないよ。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのって、凄い早起きじゃないか」
「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」
「ん、それは何度も聞いた。
……まあ、だから俺も部活に関係なく早起きしたいんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」
自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。
もっとも、それも一年半前からの習慣にすぎないのだが。
「ふふ。先輩、そういうところこだわりますよね。美綴《みつづり》先輩、衛宮は粗雑なクセに律儀すぎてうるさいってよく言ってます」
思い出すように微笑む桜。
美綴というのは桜が所属する弓道部の女主将で、なにかと因縁のある女生徒だったりする。
「…む。美綴《あいつ》、まだ俺への文句を桜にこぼしてんのか?」
「はい。先輩が卒業するまでになんとしても射でうならせてやるって、毎日がんばってます」
「……はあ。今じゃ美綴《あいつ》のが段位高いだろうに。アレかな、思い出は無敵ってヤツかな。美化されてるのは悪い気分じゃないけど、それも人によりけりって言うか」
「美綴先輩、すっごく負けず嫌いですから。きっと心の中で先輩をライバルみたいに思ってますよ」
言いつつ、桜はお茶碗にごはんを盛っていく。
時刻は六時半になろうとしている。
弓道部の朝練は七時からだ。
自主参加制とはいえ、あまりのんびりしてはいられない。
「藤ねえ……はそろそろか。ま、この時間に来ない方が悪いんだし。桜、先に食べていよう」
「そうですね。はい、どうぞ先輩」
にっこりと笑ってお茶碗を差し出してくる桜。
「――――――――、っ」
……と。
毎朝慣れているコトなのに、つい、その白い指に目を奪われた。
「――――っ」
……なんていうか、困る。
成長期なのか、ここ最近の桜は妙に色っぽい。
なにげない仕草がキレイに見えて、息を呑むコトが多くなった。
今まで桜に異性を感じていなかった反動か、余計に女性らしさを意識してしまうのだろうが―――
「先輩? どうかしましたか?」
「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」
「?」
……ほんと、まいる。
友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。
桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。
そもそも、間桐桜と自分の関係はあくまで先輩と後輩にすぎない。
桜は友人の妹だが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。
それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。
確か俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのままこんな感じになってしまった気がする。
俺のケガが治るまで、とお互い決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。
ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。
こうして朝も早くから手伝いにきてくれてとても助かるんだが、最近はちょっと微妙だ。
問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。
「――――」
素直に言えば、桜は美人だ。
一年生の中じゃダントツだし、付き合いたいってチェックしている連中も多いだろう。
とくに最近は出るところも出てきて、なんでもない仕草にハッとさせられる事も多い。
つまり、微妙な問題とはそういう事だ。
……友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。
普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……?
◇◇◇
テーブルに朝食が並んでいく。
鶏ささみと三つ葉のサラダ、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたし、大根とにんじんのみそ汁、ついでにとろろ汁まで完備、という文句なしの献立だ。
桜と二人、きちんと座っておじぎをして、静かに食事を始める。
カチャカチャと箸の音だけが響く。
基本的に桜はお喋りではないし、こっちもメシ時に話をするほど多芸じゃない。
自然、食事時は静かになる。
普段はもうちょっと喧《やかま》しいのだが、今朝に限ってその喧しい人は、
昨夜スパイ映画でも見たのか、新聞紙で顔を隠しながら、俺たちの様子を窺っていた。
「藤村先生、ご飯時に新聞は見ない方がいいと思いますよ?」
「…………………」
遠慮がちに話しかける桜を無視する藤ねえ。
あまりにも怪しいが、朝の食卓で藤ねえが挙動不審なのはいつものコトだ。
桜も馴れているのか、とりわけ気にした風もなくご飯を食べている。
桜は、どちらかというと洋風の食事を作る。
和風の料理を覚えたのはうちに手伝いに来てからだ。
俺と藤ねえがとことん和風な舌だったから、桜もせめて朝ぐらいは、と軽い和風料理を覚えてくれたのだ。
今では師匠である俺を上回るほど桜の腕前は上がっている。
とくに鮭の照り焼きの焼き加減は神域に入っているっぽい。
みそ汁の味も上品だし、最近では山芋を擦ってとろろ汁を作るまでの余裕を見せている。
というか、とろろ汁は今日が初出ではなかろうか。
「わるい。桜、醤油とって」
「はい―――って、大変です先輩。先輩のお醤油は昨日で切れてます」
「んじゃ藤ねえのでいいや。とって」
「藤村先生、いいですか?」
ん、と頷く藤ねえ。
ガサリ、と新聞紙が揺れる。
「はいどうぞ。とろろ汁に使うんですか?」
「ああ。とろろには醤油だろ、普通」
つー、と白いとろろに醤油をかける。
ぐりぐりとかき回した後、ごはんにかけて一口。
うむ、このすり下ろされた山芋の粘つき加減と、自己主張の激し過ぎる強烈な醤油の辛さがまた――――
「ごぶっ……! うわまず、これソースだぞソース! しかもオイスター!」
たまらずごはんを戻しかける。
そこへ。
「くく、あはははははは!」
ばさり、と勢いよく新聞紙を投げ捨てる藤ねえ。
「どうだ、朝のうちにソースとお醤油のラベルを取り替えておく作戦なのだー!」
わーい、と手をあげて喜ぶ謎の女スパイ。
「あ、朝っぱらから何考えてんだアンタはっ! 今年で二十五のクセにいつまでたっても藤ねえは藤ねえだな!」
「ふふーんだ、昨日の恨み思い知ったかっ。
みんなと一緒になってお姉ちゃんをいじめるヤツには、当然の天罰ってところかしら?」
「天罰ってのは人為的なモンじゃないだろ! なんか大人しいと思ったら昨日からこんなコト考えてやがったのか、この暇人っ!」
「そうだよー。おかげでこれから急いでテストの採点しなくちゃいけないんだから。うん、そーゆーワケで急がないとヤバイのだ」
しゅた、と座り直すなり、ガババー、と凄い勢いで朝食を平らげる藤ねえ。
「はい、ごちそうさま。朝ごはん、今日もおいしかったよ桜ちゃん」
「ぁ……はい。おそまつさまでした、先生」
「それじゃあ先に行くわね。二人とも、遅刻したら怒るわよー」
んでもって、だだだだだー、と走り去っていく。
……アレでうちの学校の教師だっていうんだから、世の中ほんと間違っている。
「……あの、先輩?」
「すまない。せっかくの朝食だっていうのに、藤ねえのヤツろくに味わいもしないで」
「いえ、そういうのではなくて……あの、昨日藤村先生に何かしたんですか? 食べ物に細工するなんて、藤村先生にしてはやりすぎですから」
「ん……いや、それがさ。昨日、ついアダ名で呼んじまった」
「それじゃあ仕方ありませんね。先輩、藤村先生に謝らなかったんでしょう?」
「面目ない。いつものコトなんで忘れてた」
「だめですよ。藤村先生、先輩にあだ名を言われるのだけは嫌がるんですから。また泣かせちゃったんでしょう」
「……泣かした上に脱兎の如く走り去らせた。おかげで昨日の英語は自習だった」
そして俺はみんなからルーズリーフで作られた学生名誉賞を受賞したが、そんなものは当然ゴミ箱に捨てた。
「もう。それじゃ今朝のは先輩が悪いです」
桜にとっても藤ねえは姉貴みたいなもんだから、基本的に藤ねえの味方なのだ。
それはそれで嬉しいのだが、藤ねえの相手を四六時中しているこっちの身にもなってほしい。
もともと藤ねえは切嗣《オヤジ》の知り合いで、俺が養子に貰われた頃からこの家に入り浸っていた人だ。
親父が他界してからも頻繁に顔を出すようになって、今では朝飯と晩飯をうちで食べていく、という見事なまでの居候ぶりを示している。
―――いや。
そんな藤ねえがいたから、親父が死んでからも一人でやってこれたのかもしれない。
今では俺と藤ねえと桜、この三人が衛宮家の住人だった。
……とは言っても、親父が魔術師だったのを知っているのは俺だけだ。
曰く、魔術師はその正体を隠すもの。
だから親父に弟子入りした俺も、魔術を学んでいる事は隠している。
ただ、学んでいると言っても満足な魔術《モノ》は何一つも使えない半人前だ。
そんな俺が魔術を隠そうが隠すまいが大差はないだろうが、一応遺言でもあるし、こうして隠しながら日々鍛練を続けてきた訳である。
朝食を済ませて、登校の支度をする。
テレビから流れるニュースを聞きながら、桜と一緒に食器を片づける。
「―――」
桜はぼんやりとテレビを眺めていた。
画面には“ガス漏れ事故、連続”と大げさなテロップが打ち出されている。
隣町である新都《しんと》で大きな事故が起きたようだ。
現場はオフィス街のビルで、フロアにいた人間が全員酸欠になり、意識不明の重体に陥ってしまったらしい。
ガス漏れによる事故とされているが、同じような事故がここのところ頻発している。
「今のニュース、気になるのか桜」
「え――いえ、別に。ただ事故が新都で起きているなら近いなあって。……先輩、新都の方でアルバイトしてますよね?」
「してるけど、別にそんな大きな店じゃないよ。今のニュースみたいな事故は起きないと思う」
……とは言っても、あまり他人事ではない事件だった。
ガス漏れならどんな建物でも起きるものだし、なにより数百人もの人間が被害にあっている、というのは胸に痛い。
同じような事故が頻発しているのは、新都を急開発した時に欠陥工事をしたからだ、なんて話もあがっているとか。
真偽はどうであれ、これ以上の犠牲者は出てほしくないというのが正直な気持ちだが―――
「……物騒な話だ。俺たちも気をつけないと」
「あ、それならご心配なく先輩。ガスの元栓はいつも二回チェックしてますから安心です」
えっへん、と胸をはる桜。
「いや、そういう話でなくて」
……うん。前から思っていたけど、桜も微妙にズレてるな。
「先輩、裏手の戸締まりはしました?」
「したよ。閂かけたけど、問題あるか?」
「ありません。それじゃあ鍵、かけますね。先輩、今日のお帰りは何時ですか?」
「少し遅くなると思う。桜は?」
「わたしはいつも通りです。たぶんわたしの方が早いと思いますから、夕食の下準備は済ませておきますね」
「……ん、助かる。俺も出来るだけ早く帰るよ」
がちゃり、と門に鍵をかける。
桜と藤ねえはうちの合い鍵を持っていて、戸締りは最後に出る人間がする決まりだ。
「行こうか。急がないと朝練に間に合わない」
「はい。それじゃ少しだけ急ぎましょうか、先輩」
桜と一緒に町へ歩き出す。
長い塀を抜けて下り坂に出れば、あとは人気《ひとけ》の多い住宅地に出るだけだ。
衛宮の家は坂の上にあって、町の中心地とは離れている。
こうして坂を下りていけば住宅地に出て、さらに下りていくと、
町の中心地である交差点に出る。
ここから隣町に通じる大橋、
柳洞寺に続く坂道、
うちとは反対側にある住宅地、
いつも桜と自分がお世話になってる商店街、
最後にこれから向かう学校と、様々な分岐がある。
寄り道をせず学校へ向かう。
とりわけ会話もなく桜と坂道を上っていく。
まだ七時になったばかり、という事で通学路に人気はない。
自分たちの他には、朝の部活動をする生徒たちがのんびりと歩いているぐらいだった。
「それじゃまたな。部活、がんばれよ」
校門で桜と別れるのもいつも通り。
桜は弓道部に所属しているので、朝はここで別れる事になる。
「………………」
というのに。
今朝にかぎって、桜は弓道場へ向かおうとはしなかった。
「桜? 体の調子、悪いのか」
「……いえ、そういう事じゃなくて……その、先輩。たまには道場の方に寄っていきませんか?」
「いや、別に道場に用はないぞ。それに今日は一成《いっせい》に頼まれてるから、生徒会室に行かないとまずい」
「……そ、そうですよね。ごめんなさい、余計なことを言っちゃって」
ぺこり、と頭をさげる桜。
「?」
「それじゃあ失礼します。晩ご飯、楽しみにしていてくださいね」
桜は申し訳なさそうに道場へ走り去っていった。
「……?」
はて。今のは一体どんな意味があったんだろう……?
◇◇◇
「一成《いっせい》、いるか?」
「いるぞ。今朝は少し遅かったな、衛宮」
予習でもしていたのか、ペーパーらしきものに目を通していた男子生徒が顔をあげる。
「一成だけか。他の連中はどうしたんだ。この時間なら登校しててもおかしくないだろ」
「いや、生憎とうちのメンバーはビジネスライクでね。
働く時間帯はきっかり決まっていて、早出と残業はしたくないのだそうだ」
「それで生徒会長自らが雑用か。ここはここで大変そうだな」
「なに、好きでしている苦労だ。衛宮《えみや》に同情してもらうのは筋が違う」
「? いや、一成に同情なんてしてないぞ?」
「うむ、それはそれで無念だが聞き流すとしよう。情が移っているという事では同じだからな」
トントン、と読んでいたペーパーを整える一成は、この生徒会室の大ボスだ。
緩みきっている生徒会を根本から改革しようと躍起になっているヤツで、自分とは一年の頃からの友人である。
フルネームを柳洞一成《りゅうどういっせい》。
古くさい名前とは裏腹に優雅な顔立ちをしていて、実際女生徒に絶大な人気がある。
しかも生徒会長だっていうんだから、まさに鬼に金棒、虎に翼といったところなのだが、
「うむ、やはり朝は舌がしびれる程の熱湯がよい」
なんて言いながら番茶をすすっているもんだから、いまいち締まらない。
この通り、一成はとことん地味な性格だ。
誤解されやすいのだが、本人は色恋沙汰には手を出さないし、学生らしい遊びもしない。
なにしろコイツはお山にある柳洞寺《りゅうどうじ》の跡取り息子だ。
本人も寺を継ぐのを良しとしているので、卒業したら潔く丸坊主にする可能性も大である。
「それで。今日は何をするんだ」
「ん? ああ、まあともかく座って一服―――と言いたいのだが時間がないな。移動がてら説明をする故、いつもの道具を持って付いてきてくれ」
「率直に言うとな。うちの学校、金のバランスが極端なんだよ」
「知ってる。運動系が贔屓《ひいき》されてるもんで、他に予算がいかないんだろ」
「うむ。結果、文化系の部員はたえず不遇の扱いでな。
今年から文化系に予算がいくよう尽力しているのだが、予算の流れが不鮮明でうまく回っていない。おかげで未だ文化系の部室は不遇でな。
とくに冬のストーブ不足に関しては打開策がまるでない」
「そうか。―――あ、マイナスドライバーくれ。一番おっきいヤツな。あと導線も。……うん、これぐらいならなんとか」
「導線? ……えっと、これか? すまん、よく判らん。
間違っていたら叱ってくれ」
「あたってるからいいよ。で、ストーブ不足がどうしたって? ここ以外にも故障してんのがあんのか」
「ある。第二視聴覚室と美術部の暖房器具が怪しいそうだ。新品購入願いの嘆願書が刻一刻と増えている」
「けど予算にそんな余裕はない、と。……やっぱり劣化してるだけだな。中がイカレてなくて助かった」
「……ふむ。直りそうか、衛宮?」
「直るよ。こういう時、古いヤツは判りやすくていい。
配線系のショートだから新しいのに代えれば、とりあえず今年いっぱいは頑張ってくれる」
「そうか! やるな衛宮、おまえが頼りになると極めて嬉しいぞ」
「おかしな日本語使うね、一成。
……っと、もう少しで済むから、ちょっと外に出ててくれ」
「うむ、衛宮の邪魔はせん」
静かに教室から出ていく一成。
……どうも、ここから先はデリケートな作業だと勘違いしたみたいだ。
「……いや、デリケートと言えばデリケートなんだけど……」
古びた電気ストーブに手を触れる。
普通、いくらこの手の修理に馴れているからって、見た程度で故障箇所は判断しにくい。
それが判るという事は、俺のやっている事は普通じゃないってことだ。
視覚を閉じて、触覚でストーブの中身を視る。
―――途端。
頭の中に沸き上がってくる一つのイメージ。
「……電熱線が断線しかかってるのが二つと……電熱管はまだ保つな……電源コードの方は絶縁テープでなんとかなる……」
……良かった、手持ちの工具だけで修理できる破損内容だ。
電熱管がイカレていたら素人の手には負えない。
その時は素人じゃない方法で“強化”しなくてはいけなかったが、これなら内部を視るだけで十分だ。
それが切嗣に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。
「――――よし、始めるか」
カバーを外して内部線の修理に取りかかる。
破損箇所はもう判っているんだから、あとの作業は簡単だ。
「……はあ。これだけは得意なんだけどな、俺」
そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。
その代わりといってはなんだが、物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに巧いと思う。
実際、設計図を連想して再現した時なんて、親父は目を丸くして驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。
俺の得意分野は、あまり意味のある才能ではないそうだ。
親父曰く、物の構造を視覚で捉えている時点で無駄が多い。
本来の魔術師なら、先ほどのようにわざわざ隅々まで構造を把握する、なんていう必要はない。
物事の核である中心を即座に読みとり、誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと言う。
だから設計図なんてものを読みとるのは無駄な手間だし、読みとったところで出来る事といったら魔力の通りやすい箇所が判る程度の話。
そんなこんなで、自分のもっとも得意な分野はこういった故障品の修理だったりする訳だ。
なにしろ解体して患部を探し出す必要がない。
すみやかに故障箇所を探し出せるなら、あとは直す技術を持っていれば大抵の物は直せるだろう。
ま、それもこういった『ちょっとした素人知識』で直せてしまうガラクタに限るのだが。
「―――よし終わり。次に行くか」
使った導線をしまって、ドライバーとスパナを手にして廊下に出る。
「一成、修理終わったぞ」
――――と。
廊下には、一成の他にもう一人、女生徒の姿があった。
「――――」
少しだけ驚いた。
一成と話していたのは2年A組の遠坂凛《とおさかりん》だ。
坂の上にある一際大きな洋館に住んでいるというお嬢様で、これでもかっていうぐらいの優等生。
美人で成績優秀、運動神経も抜群で欠点知らず。
性格は理知的で礼儀正しく、美人だという事を鼻にかけない、まさに男の理想みたいなヤツなんだとか。
そんなヤツだから、言うまでもなく男子生徒にとってはアイドル扱いだ。
ただ遠坂の場合、あまりにも出来すぎていて高嶺の花になっている。
遠坂と話が出来るのは一成と先生たちぐらいなもの、というのが男どもの通説だ。
……まあ、正直に言えば、俺だって男だし。
ご多分に漏れず、衛宮士郎も遠坂凛に憧れている男子生徒の一人である。
「……………」
遠坂は不機嫌そうに俺たちを見ている。
一成と遠坂の仲が悪い、というのはどうやら本当らしい。
「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、衛宮に任せきりにしてしまった。許せ」
おお。
あの遠坂をまるっきり無視して話し始めるあたり、一成は大物だ。
「そんなコト気にするな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」
「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」
「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」
「……そうなんだが、一応見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」
「そうか。なら試そう」
朝のホームルームまであと三十分ほどしかない。
直すのなら急がないと間に合わないだろう。
一成に促されて視聴覚室に向かう。
ただ、顔を合わせたのにまるっきり無視する、というのは失礼だ。
ぼう、と立ったままの遠坂に振り返る。
「朝早いんだな、遠坂」
素直な感想を口にして、一成の後に付いていった。
「ギリギリ間にあったか。すまんな衛宮、また苦労をかけた。頼み事をした上に遅刻させては友人失格だ」
「別に気にするな。俺が遅刻する分には大した事じゃないだろ。まあ、一成が遅刻するのは問題だけど」
「もっともだ。いや、間に合ってよかった」
一成はほう、と胸を撫でおろして自分の席に向かう。
時刻は八時ジャスト。
ホームルーム開始前の予鈴が鳴ったから、あと五分もすれば藤ねえがやってくる。
「―――ふう」
視聴覚室から走ってきたんで、少し息があがっている。
軽く深呼吸をしてから自分の席に向かう。
「朝から騒がしいね衛宮。部活を辞めてから何をしてるかと思えば柳洞《りゅうどう》の太鼓持ち? 僕には関係ないけどさ、うちの評判を落とすような事はしないでよね。君、なんていうか節操ないからさ」
と。
席の前には、中学時代からの友人である間桐慎二《まとうしんじ》が立っていた。
間桐、という姓で判る通り、桜の一つ上の兄貴である。
「よ。弓道部は落ち着いてるか、慎二」
「と、当然だろう……! 部外者に話してもしょうがないけど、目立ちたがり屋が一人減ったんで平和になったんだ。次の大会だっていいところまで行くさ!」
「そうか。美綴も頑張ってるんだな」
「はあ? なに見当違いなコト言ってんの? 弓道部が記録を伸ばしてるのは僕がいるからに決まってるじゃんか。衛宮さ、とっくに部外者なんだから、知ったような口をたたくと恥をかくよ?」
「そうか、気をつけよう。もっとも弓道部に用はないから関わるコトはないけどな」
鞄を机に置いて椅子を引く。
「なにそれ。僕の弓道部には興味がないってコト?」
「興味じゃなくて用だよ。部外者なんだからおいそれと道場に行くの、ヘンだろ。
けど何かあったら言ってくれ。手伝える事があったら手伝う。弦張りとか弓の直し、慎二は苦手だったろ」
「そう、サンキュ。何か雑用があったら声をかけるよ。
ま、そんなコトはないだろうけどさ」
「ああ、それがいい。雑用を残しているようなヤツは主将失格だからな。あんまり藤村先生を困らせるなよ。あの人、怒ると本気で怖いぞ」
「っ……! ふん、余計なお世話だ。ともかく、おまえはもう部外者なんだから道場に近づくなよ!」
慎二はいつもの調子で自分の席に戻っていく。
……はて。今日はとくにカリカリしてたな、あいつ。
「ふざけたヤツだ。自分から衛宮を追い出しておいて、よくもあんな口がきける」
「なんだ一成、居たのか」
「なんだとはなんだ! 気を利かして聞き耳を立てていた友人に向かって、なんと冷淡な男だオマエは!」
「? なんで気を利かすのさ。俺、一成に心配されるような事してないぞ」
「たわけ、心配もするわ。衛宮はカッとなりやすいからな。慎二に殴りかかれば皆は喝采を送るが、女どもからは非難の嵐だ。友人をそんな微妙な立場に置くのはよろしくない」
「そっか。うん、言われてみればそうだ。ありがとう一成。そんなコトにはならないだろうけど、今の心配はありがたい」
「うむ、分かればよろしい。……だが意外だったぞ。衛宮は怒りやすいクセに、間桐には寛大なんだな」
「ああ、アレは慎二の味だからな。つきあいが長いと馴れてくる」
「ふむ、そんな物か」
「そんな物です。ほら、納得したら席に戻れよ。そろそろ藤村先生がスッ飛んでくるぞ」
「ははは。あの方は飛んでくるというより浮いてくるという感じだがな」
ホームルーム開始の鐘が鳴る。
通常、クラス担任は五分前に来るものだが、このクラスの担任はそういう人ではない。
2年C組にとってホームルームの開始は今のベルから一分ほど経過したあと、つまり「遅刻、遅刻、遅刻、遅刻〜〜〜!」
なんて叫びながら、ダダダダダー、と突進してくる藤ねえを迎え入れる所から始まるのだ。
「よし間に合ったーあ! みんな、おは――――」
ぎごん、と。
生物的にヤバイ音をたてて、藤ねえはスッ転んだ。
「――――――――」
さっきまでの慌ただしさから一転、教室はなんともいえない静寂に包まれる。
この唐突なまでの場面転換。
さすが藤ねえ、人間ジェットコースターの名は伊達じゃない。
……にしても、今のはシャレにならない角度だった。
藤ねえは教壇に頭をぶつけたまま倒れている。
俯せになって顔が見えないところがまた、否応無しに嫌な想像をかき立てる。
「……おい、前の席のヤツ、先生起こしてやれよ」
「……えー、やだよー……近づいた途端、パクッって食べられたら怖いもん……」
「……ミミックじゃあるまいし、さすがに藤村でもそこまでやらねえだろ」
「アンタね、そういうんなら自分で起こしてあげなさいよ」
「うわ、俺パス。こういうの苦手」
「あたしだって苦手よ! だいたいなんで女の子にやらせるわけ!? 男子やりなさいよね、男子!」
最前列はなにやら荒れ始めている。
席が真ん中あたりにある我々としては、いまいち藤ねえがどんな惨状になっているか判らない。
判らないんで、みんなで席を立ってのぞき込む。
「ちょっと、先生動いてないぞ。気絶してんじゃないのか」
もっともな意見を誰かが言った。
ただ問題は、その場合どうやって藤ねえを保健室まで連れて行くかだ。
みんなも、ここ一年藤ねえとつき合ってきた猛者たちだ。
いい加減、担任を保健室に連れて行く、なんて慣習は打破したいと思っているのではなかろうか。
「ふじむらセンセー……? あのー、大丈夫ですかー?」
勇気ある女生徒が声をかける。
藤ねえはピクリとも動かない。
動揺はますます広がっていく。
「……まずいって今の転び方。こう頭から直角に教壇に突っ込んだじゃないか。アレで無傷だったら藤村無敵っぽいって」
「んー、いっそのこと野球部にスカウトするのはどうだろう」
「や、やめろよなそういう脅しは……! タイガーが顧問になった日にゃ、オレたち甲子園いっちまうぞ!?」
「藤村センセ、藤村センセー……! だめ、なんか反応ないよぅ……!」
「おい、おまえ目の前なんだから起こしてやれよ」
「ええ!? イヤだよオレ、もし死んでたら殺されかねねえ!」
「でもぉ、だからってほっといたら後が怖いと思うしぃ」
「でも誰も近づきたくない、と」
「……仕方ねえなあ。こうなったらアレしかないか」
「うん、アレだね」
「せーのっ」
みんなの心が一つになる。
……ああ、例外として俺と慎二だけは、そんな恐ろしいコトはできないので黙っていた。
「せーのっ、起きろー、タイガー」
全員が声を合わせたわりには、呟くような大きさだった。
とくに『タイガー』の発音は聞こえないぐらい小さい。
だというのに。
……ぴくっ。
と、沈黙していた藤ねえの体が反応する。
「うお、動いた!? 効き目ありだぞみんな!」
「よし続けろ! ガコロウトンの計じゃ!」
期末試験が迫ってきているんで、みんなてんぱっていたんだろう。
よせばいいのに、ブンブンと腕を振り回して藤ねえのあだ名を連呼する。
「起きろータイガー。朝だぞー」
「先生、起きないとタイガーです!」
「負けるなタイガー! 立ち上がれタイガー!」
「よーし、起きろ先生! それでこそタイガーだぜ!」
「ターイーガー! ターイーガー!」
「がぁ―――!
タイガーって言うな―――っ!」
轟雷一閃。
あれほどの打撃をうけてノーダメージだったのか、雄々しく大地に立つ藤ねえ。
「……あれ? みんな何してるの? だめよ、ホームルーム中に席を立っちゃ。ほらほら、始めるから座りなさい」
藤ねえはいつもの調子で教壇に立つ。
……どうも、教室に飛び込んできてから立ち上がるまでの記憶が、ポッカリ抜け落ちているようだ。
「……おい、タイガー覚えてないみたいだぞ」
「……ラッキー、朝からついてるな、俺たち」
「……いや、ついてるっていうのかな、こういうの……」
ガヤガヤとそれぞれの席に戻る生徒たち。
「むっ。いま誰か、先生のことバカにしなかった?」
「いえ、してないっすよ。気のせいじゃないっすか」
「そっか、ならよし。じゃあ今朝のホームルームをはじめるから、みんな大人しく聞くように」
藤ねえはのんびりとホームルームを始める。
ちょっとした連絡事項の合間合間に雑談をするもんだからちっとも進まない。
「そういう訳だから、みんなも下校時刻を守るように。
門限は六時だから、部活の子たちも長居しちゃだめよ」
「えー、六時っていったらすぐじゃんかー。大河センセー、それって運動系は免除されないの?」
「されませんっ。それと後藤くん、先生のことは藤村先生って言わなくちゃダメなんだから。次に名前で呼んだら怒るからね?」
「はーい、以後注意しまーす」
後藤くんは全然注意しないよーな素振りで着席した。
……なんて甘い。
藤ねえは怒るといったら怒る人だ。相手が生徒だろうが自分が教師だろうが関係ない。
今のは限りなく本気に近い最後通牒なんだって、後藤のヤツ気づいていない。
「それじゃ今日のホームルームはここまで。みんな、三時限目の英語で会おうねー!」
手のひらをヒラヒラさせて去っていく藤ねえ。
2年C組担任、藤村大河《ふじむらたいが》。
あだ名はタイガー。
いやもう本気かってあだ名だけど、本当なんだから仕方がない。
女の子なのに大河なんて名前がついているからそう親しまれているのだが、藤ねえ本人はタイガーというあだ名を嫌がっている。
藤ねえ曰く、女の子らしくない、とかなんとか。
けど本人がああいう人なんで、あだ名が女の子らしくないのは当然というか自業自得だろう。
「授業を始める。日直、礼を」
そうして、藤ねえと入れ違いで一時限目の先生が入ってくる。
藤ねえが時間ギリギリまでホームルームをするせいで、うちのクラスの朝はいつもこんな感じだった。
そうして、いつも通り一日の授業が終了した。
部活動にいそしむ生徒、早足で帰宅する生徒、用もなく教室に残る生徒、そのあり方は様々だ。
自分はと言うと、その三つのどれにも該当しそうにない。
「すまない、ちょっといいか衛宮。今朝の続きなんだが、今日は時間あるか?」
「いや、予定はあると言えばあるけど」
俺だって遊んでいる訳じゃない。
そもそも弓道部を辞めた一番の理由は、アルバイトを優先したからだ。
親父が他界した後、生活費ぐらいは自分で出すとアルバイトを始めてもう五年。
それだけ色んな仕事をしていると、断れない付き合いというのも出てきてしまう。
とくに今日のはそういう物だ。
飲み屋の棚卸《たなお》しで、とにかく男手は多いほどいいから手伝いに来られるのなら来てほしい、という物だった。
ただ、自分が行かなければいけない、という手伝いでないのも確か。アレは単に、仕事が終わった後で騒ぎたいから知り合いを集めている類だし。
「――――」
選択肢は二つ。
俺は――――
◇◇◇
やりかけた仕事だしな。
朝の続きを済ませてしまおう。
「予定変更。朝の続きだろ、任せろ。試験が始まる前に備品の修理なんて済ませちまおうぜ」
「助かる。それでは美術部の患者を見に行くとするか」
「あいよ。……っと、人払いはちゃんとしてくれよ。人目があると集中できない」
「無論だ。他の連中に邪魔はさせぬ」
早足で廊下に向かう一成に倣って、こちらも早足で教室を後にした。
校舎を出るともう完全に日は落ちていた。
学校の門は閉ざれている。
時刻は七時、門限は完全にオーバーしているが、一成のとりなしでお咎めはまったくなかった。
「いや、今日は助かった。必ずこの礼はするから、何かあったら遠慮なく言ってくれ」
「そうだな、何かあったら言うよ。まあ、とりわけ何もないとは思うけど」
別に礼がほしくて手伝いをした訳でもなし、一成に無理を言うような頼み事はないだろう。
「……まったく、人が良いのも考え物だな。衛宮がいてくれると助かるが、他の連中にいいように使われるのは我慢ならん。人助けはいい事だが、もう少し相手を選ぶべきではないか。衛宮の場合、来る人拒まず過ぎる」
「? そんなに節操ないか、俺」
「うむ。これでは心ないバカどもがいいように利用しようというものだ。衛宮も忙しい身なのだから、たまには他人の頼みなど断ってもよかろう」
「――――」
いまいち判断がつかないが、つまり一成は俺の心配をしているらしい。
衛宮は頼み事を持ちかけられると断らない。それでいて見返りは求めないから助かる、というのは中学の頃から言われてきたコトだ。
それを一成は危うく思っているのだろう。
もっとも、こっちは好きでやってる事だし、自分じゃ無理だな、と判断した事はきっぱりと断っているから問題はない。
「それは一成がするような心配じゃない。自分の事は自分が一番分かってるさ。それに、人助けは善行だろ。寺の息子が咎めるような事じゃあるまい」
「しかしな、衛宮のは度が過ぎるというか、このままいくと潰れるというか」
「忠告は受けとっとく。それじゃまた明日、学校でな」
「……うむ。それではまた明日」
納得いかない顔つきのまま一成は去っていく。
一成の家である柳洞寺はここからお山に向かわなければならない。当然、帰り道は別々という事だ。
◇◇◇
夜の町並みを行く。
冬の星空を見上げながら坂道を上っていると、あたりに人影がない事に気が付いた。
時刻は七時半頃だろう。
この時間ならぽつぽつと人通りがあってもいいのに、外には人気《ひとけ》というものがなかった。
「……そういえば、たしか」
つい先日、この深山町の方でも何か事件が起きたんだったっけ。
押し入り強盗による殺人事件、だったろうか。
人通りが無いのも、学校の下校時刻が六時になったのも、そのあたりが原因か。
「……ガス漏れに強盗か。物騒な事になってきたな」
これじゃあ夜に出歩こう、なんて人が減るのも当然だ。
桜を一人で帰らせるのも危なくなってきた。
藤ねえはともかく、桜の家は反対側の住宅地にある。
今日からでも夜は送っていかなくては―――
「……ん?」
一瞬、我が目を疑った。
人気がない、と言ったばかりの坂道に人影がある。
坂の途中、上っているこっちを見下ろすように、その人影は立ち止まっていた。
「―――――――」
知らず息を呑む。
銀の髪をした少女はニコリと笑うと、足音もたてず坂道を下りてくる。
その、途中。
「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」
おかしな言葉を、口にしていた。
坂を上がりきって我が家に到着する。
家の明かりが点いているのを見ると、桜と藤ねえはもう帰ってきているようだ。
居間に入るなり、旨そうなメシの匂い。
テーブルには夕食中の桜と藤ねえの姿がある。
今晩の主菜はチキンのクリーム煮らしく、ホワイトソース系が大好きな藤ねえはご機嫌のようだ。
「お帰りなさい先輩。お先に失礼していますね」
「ただいま。遅くなってごめんな。もうちょっと早く帰って来ればよかったんだけど」
「いいです、ちゃんと間に合いましたから。ちょっと待っててくださいね、すぐ用意しますから」
「うん、頼む。手を洗ってくるから、人のおかずを食べないように藤ねえを見張っといてくれ」
「はい、きちんと見張っています」
自分の部屋に戻る。
土蔵に比べればあんまりにも物がない部屋だが、そもそも趣味がないからこれでも飾ってある方だ。
大半は藤ねえがポイポイと置いていった用途不明の品物ばっかりなんだけど。
手を洗い、着替えを済ませて戻ってくると、テーブルには夕食が用意されていた。
「いただきます」
「はい、お口にあえばいいんですけど……」
桜はあくまで奥ゆかしい。
ここ一年で桜の料理の腕は飛躍的に向上している。
洋風では完敗、和風ならまだなんとか勝てそう、中華はお互いノータッチ、という状況だ。
教え子が上達するのは嬉しいのだが、弟子に上回られる師匠っていうのもなんとなく寂しい。
「――――む」
やはり巧い。
鶏肉はじっくり煮込めば煮込むほど硬くなってしまう。
故に、面倒でも煮る前に表面をこんがりと焼いておくと旨味を損なわずジューシーな仕上がりになる。
そのあたりの加減が絶妙で、不器用な藤ねえには決して真似できない匠の技だ。
「どうでしょうか先輩……? その、今日のはうまくいったと思うんですけど……」
「文句なし。ホワイトソースも絶妙だ。もう洋物じゃ桜には敵わないな」
「うんうん、桜ちゃんがご飯作ってくれるようになってから、お肉関係がおいしくなった」
と。
今までもぐもぐと食事に専念していた藤ねえが顔を上げた。
「あ。だめよー、士郎。学生がこんな夜更けに帰って来ちゃいけないんだからっ」
……あちゃ。
桜の夕食でご機嫌かと思われていたが、俺の顔を見たとたんご機嫌ななめになった模様。
「もう、また誰かの手伝いをしてたんでしょ。それはそれでいい事だけど、こんな時ぐらいは早く帰ってきなさい。最近物騒だぞってホームルームで言ったじゃない。
アレ、士郎に対して言ったんだからね」
「……あのさ。わざわざホームルームで言わなくても、うちで言えばいいんじゃないの?」
「ここで言っても聞かないもの。学校でがつーんと言った方が士郎には効果的なんだもん」
「……先生、それは職権乱用というか、公私混同だと思います」
「ううん、それぐらいしないと士郎はダメなのよ。
いつも人の手伝いばっかりして損してるからさ。たまにはまっすぐ帰ってきてのんびりしててもいいじゃない、ばかちん」
「むっ。バカチンとはなんだよバカチンとは。いいじゃないか、誰かの手伝いをして、それでその人が助かるなら損なんかしてないぞ」
「……はあ、切嗣さんに似たのかなぁ。士郎がそんなんじゃお姉ちゃん心配だよ」
どのあたりが心配なのか、もぐもぐと元気よくご飯を食べる藤ねえ。
「……あの、藤村先生。今の話からすると、先輩って昔からそうなんですか?」
「うん、昔からそうなの。なんか困ってる人がいたら自分から手を出しちゃうタイプ。けどお節介ってわけじゃなくて、士郎はね、単におませさんなのだ」
ふふふ、となにやら不穏な笑みをこぼす藤ねえ。
「藤ねえ。余計なコト言ったら怒るぞ。桜もつまんないこと訊くなよな」
じろり、と二人を睨む。
藤ねえはちぇっ、と舌打ちして引っ込んでくれたが、「藤村先生、お話を続けてください」
むん、とマジメに授業を受ける桜がいた。
「じゃあ話しちゃおう。これがねー、士郎は困った人を放っておけない性格なのよ。弱きを助け強きをくじくってヤツ。子供の頃の作文なんてね、ボクの夢は正義の味方になる事です、だったんだから」
「――――」
……また昔の話をするな、藤ねえも。
けど全部本当の事なので口は挟まない。
そもそも、正義の味方になるって事は今でも破っちゃいけない目標だ。
「うわあ。すごい子供だったんですね、先輩」
「うん、すごかったよー。うーんと年上の男の子にいじめられてる女の子がいたら助けに入ってくれたし、切嗣さんが無精だったから家事だって一生懸命こなしてたし」
「あーあ、あの頃は可愛くて純真だったのに、それがどうしてこんな捻くれた子になっちゃったんだろうなー」
「そりゃあ藤ねえがいたからだろ。ダメな大人を見てると子供は色々考えるんだよ。悔しかったらちゃんと自分でメシ作ってみろ」
「――――――な」
がーん、と打ち崩れる藤ねえ。
そのままうなだれて反省するかと思えば、
「うう、お姉ちゃんは悲しいよう。桜ちゃん、おかわり」
ずい、と三杯目のお茶碗を差し出していた。
◇◇◇
夕食を終えてのんびりしていると、時計は九時にさしかかろうとしていた。
「さて、何をしたもんか」
夜の鍛錬まで時間がある。
ここは――――
……あー、食後の軽い運動がてらに藤ねえの様子を見るのも一興かな。
「―――だな。桜につまんない話しやがって、隙あらば仕返ししてやる」
「ん? なに、お風呂入ってたんじゃないのー?」
食後のデザートのつもりか、藤ねえはもくもくとミカンを剥いていた。
テーブルには水中花じみたミカンの皮が二つほど転がっている。
「………………」
リンゴの皮剥きは出来ないクセに、ミカンの皮剥きだけが芸術的なのは何かの呪いなんだろーか。
「風呂は後にした。さっきの話でケチついたんで、風呂の前に文句言っとこうと思って」
「えー? 別にいいじゃん、もう昔のコトなんだし、桜ちゃんも喜んでたし。それよりはい、今日のノルマ。士郎は一日一個だからね」
ひょい、と籠から小さなミカンを手にとって投げつけてくる。
「うわっと……って、ミカンぐらいで懐柔されないぞ。
桜だったからいいようなものの、学校であんな話するなよ。一成あたりがヘンな心配するから」
「美綴さんは大笑いしそうだけどねー。……なーんて、言われなくてもわかってるわよ。士郎の子供の頃の話なんて、桜ちゃん以外にはしないから」
「だーかーらー、桜にもするなって言ってるの。あんなつまんない話されたら桜だっていい迷惑だろ。……もうないと思うけど、今度やったら怒るからな」
本気だぞっ、と気合をこめて藤ねえを睨む。
「ははーん。なあんだー、そっかー、そういうわけ、つまり士郎はそうなのようー」
だっていうのに、にんまりと口元をにやけさせて藤ねえご満悦。
「……あ。なんかこう、カチンときたかも。なに納得してんだよ、ばか虎っ」
むむー、と藤ねえの間抜け顔を睨む。
「虎でもいいよーだ。ようするにアレでしょ、士郎は桜ちゃんに知られるのがイヤだったのよ。
他の人に“正義の味方になりたい”なんて知られても気にしないけど、桜ちゃんに知られるのは恥かしかったワケね」
「な――――」
そ、そんなコトは、ないと思う、けど。
「うんうん、そういうコトならどんどん話しちゃうから。
そっかー、士郎もようやく桜ちゃんを意識しだしたかー。
教師としてちょっと心配だけど、保護者としてはちょっと安心したかな。けどお姉ちゃんはちょっと寂しいかな」
なにやら感慨深けに言って、はむ、とミカンを丸ごと口に含む。
藤ねえは拳大ぐらいの食べ物なら一口で口に放り込める。
サバンナあたりならわりとズキューンとくる仕草だと思うのだが、成熟した女の人にそんなワイルドな魅力は必要ないと思う。
「あれ? 先輩、お風呂入ってたんじゃないんですか?」
と。
洗い物を済ませた桜が居間にやってきた。
「ああ、藤ねえに話があってちょっと後回し。桜、ミカン食べるか?」
籠に載せられた大量のミカンに手をやる。
予想外の展開だが、三人で食後の一服をするのもいいだろう。
「あ、それならさっき藤村先生に戴きました。わたし用にとっておいてくれたおミカンで、おいしかったです」
「桜ちゃんは生の果物はダメだからねー。
調理したヤツか、アイスみたいに冷やしてないと食べてくれないのだ―――って、桜ちゃんそろそろ時間?」
「はい。後片付けも済みましたから、今日はもう帰ります」
「そっか。じゃわたしもおいとまするわ。桜ちゃん、いこ。最近は物騒だから近くまで送っていってあげる」
ミカンの大量摂取を止め、潔く立ち上がる藤ねえ。
その立ち姿は責任感のある年長者のようだ。
「え……いいんですか、先生?」
「当然でしょ。桜ちゃんも士郎もわたしが預かってるんだから、ちゃんと家まで送り届けないと。士郎もそれでいいでしょ? わたしたちが帰ったら、ちゃんと戸締りして寝るのよ」
「――――了解。藤ねえなら痴漢が出ようがクマが出ようが安心だ」
「そうでもないわよー。さすがにクマは無理でしょ。うん、無理だからここまで逃げ帰ってくるね。そしたら二人でやっつけて、明日はクマ鍋かな」
余裕げに微笑む藤ねえ。
……うん。
藤ねえは普段はマイペースすぎてまわりをとんでもスペースに巻き込むのだが、教師である藤ねえは惚れ惚れするぐらい責任感溢れる人なのだ。
「行こっか桜ちゃん。それじゃまた明日ね士郎」
「はい。それじゃあおやすみなさい、先輩」
「ん」
屋敷を後にする二人。
それを玄関まで見送って、藤ねえの言いつけ通り戸締りを終わらせた。
◇◇◇
そうして一日が終わる。
深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。
「――――――――」
結跏趺坐《けっかふざ》に姿勢をとり、呼吸を整える。
頭の中はできるだけ白紙に。
外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。
否、それは本当に自己暗示にすぎない。
魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪文は自分を変革させる為だけの物だ。
……本来、人間の体に魔力を通す神経《ライン》はない。
それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神経全てを統括しうる集中力が必要になる。
魔術は自己との戦いだ。
例えば、この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。
その鉄の棒こそ、たった一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。
これを体の奥まで通し、他の神経と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。
それは比喩ではない。
実際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノ”が、ズブズブと差し込まれている。
――――僕は魔法使いなのだ。
そう言った衛宮切嗣は、本当に魔術師だった。
数々の神秘を学び、世界の構造とやらに肉薄し、奇跡を実行する生粋の魔術師。
その切嗣に憧れて、とにかく魔術を教えてくれとねだった幼い自分。
だが、魔術師というのはなろうとしてなれる物ではない。持って生まれた才能が必要だし、相応の知識も必要になってくる。
で、もちろん俺には持って生まれた才能なんてないし、切嗣は魔道の知識なんて教えてはくれなかった。
なんでも、そんなモノは君には必要ない、とかなんとか。
今でもその言葉の意味は判らない。
それでも、子供だった自分にはどうでも良かったのだろう。
ともかく魔術さえ使えれば、切嗣のようになれると思ったのだ。
しかし、持って生まれた才能―――魔術回路とやらの多さも、代々積み重ねてきた魔術の業も俺にはなかった。
切嗣の持っていた魔術の業……衛宮の家に伝わっていた魔術刻印とやらは、肉親にしか移植できないモノなのだそうだ。
魔術師の証である魔術刻印は、血の繋がっていない人間には拒否反応が出る。
だから養子である俺には、衛宮家の刻印は受け取れなかった。
いやまあ。
実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。
で、そうなるとあとはもう出たトコ勝負。
魔術師になりたいのなら、俺自身が持っている特質に応じた魔術を習うしかない。
魔術とは、極端に言って魔力を放出する技術なのだという。
魔力とは生命力と言い換えてもいい。
魔力《それ》は世界に満ちている大源《マナ》と、生物の中で生成される小源《オド》に分かれる。
大源、小源というからには、小より大のが優れているのは言うまでもない。
人間一人が作る魔力である小源《オド》と、世界に満ちている魔力である大源《マナ》では力の度合いが段違いだ。
どのような魔術であれ、大源《マナ》をもちいる魔術は個人で行う魔術をたやすく凌駕する。
そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力を汲み上げる術に長けている。
それは濾過器《ろかき》のイメージに近い。
魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から魔力《マナ》を汲み上げて人間でも使えるモノ、にするのだ。
この変換回路を、魔術師は魔術回路《マジックサーキット》と呼ぶ。
これこそが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっている。
一般の人間に魔術回路はほとんどない。
それは本来少ないモノなのだ。
だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に適した肉体にする。
いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれてくる子供の魔術回路を増やすのだとか。
……まあ、そんな訳で普通の家庭に育った俺には、多くの魔術回路を望むべくもなかった。
そうなると残された手段は一つ。
切嗣曰く、どんな人間にも一つぐらいは適性のある魔術系統があるらしい。
その人間の“起源”に従って魔力を引き出す、と言っていたけど、そのあたりの話はちんぷんかんぷんだ。
確かな事は、俺みたいなヤツでも一つぐらいは使える魔術があって、それを鍛えていけば、いつか切嗣のようになれるかもしれない、という事だけだった。
だから、ただその魔術だけを教わった。
それが八年前の話。
切嗣はさんざん迷った後、厳しい顔で俺を弟子と認めてくれた。
―――いいかい士郎。魔術を習う、という事は常識からかけ離れるという事だ。死ぬ時は死に、殺す時は殺す。
僕たちの本質は生ではなく死だからね。魔術とは、自らを滅ぼす道に他ならない―――
幼い心は恐れを知らなかったのだろう。
強く頷く衛宮士郎の頭に、切嗣は仕方なげに手を置いて苦笑していた。
―――君に教えるのは、そういった争いを呼ぶ類の物だ。
だから人前で使ってはいけないし、難しい物だから鍛錬を怠ってもいけない。
でもまあ、それは破ったって構わない。
一番大事な事はね、魔術は自分の為じゃなくて他人の為にだけ使う、という事だよ。そうすれば士郎は魔術使いではあるけど、魔術師ではなくなるからね―――
……切嗣は、衛宮士郎に魔術師になってほしくなかったのだろう。
それは構わないと思う。
俺が憧れていたのは切嗣であって魔術師じゃない。
ただ切嗣のように、あの赤い日のように、誰かの為になれるなら、それは――――
「――――――――っ」
……雑念が入った。
ぎしり、と、背骨に突き刺さった鉄の棒が、入ってはいけないところにズレていく感覚。
「っ、ぐ、う――――!」
ここで呼吸を乱せば、それこそ取り返しがつかない。
擬似的に作られた魔術回《しんけい》路は肉体を浸食し、体内をズタズタにする。
そうなれば終わりだ。
衛宮士郎は、こんな初歩の手法に失敗して命を落とした半人前という事になる―――「―――、――――、――――――――――――」
かみ砕きかねないほど歯を食いしばり、接続を再開する。
針の山を歩く鬩《せめ》ぎ合いの末、鉄の棒は身体の奥まで到達し、ようやく肉体の一部として融解した。 ……ここまでで、一時間弱。
それだけの時間をかけ、ようやく一本だけ擬似神経を作り、自らを、魔力を生成する回路と成す。
「――――基本骨子、解明」
あとはただ、自然に魔力を流すだけの作業となる。
衛宮士郎は魔術師じゃない。
こうやって体内で魔力を生成できて、それをモノに流す事だけしかできない魔術使いだ。
だからその魔術もたった一つの事しかできない。
それが――――
「――――構成材質、解明」
物体の強化。
対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。
「――――、基本骨子、変更」
目前にあるのは折れた鉄パイプ。
これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。
そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させるに等しい。
衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。異なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。
それを防ぎ、毒物を薬物とする為には対象の構造を正確に把握し、“空いている透き間”に魔力を通さなければならない。
「――、――っ、構成材質、補強」
……熟練した魔術師ならば容易いのだろうが、魔力の生成さえ満足にいかない自分にとって、それは何百メートル先の標的を射抜くぐらいの難易度だ。
ちなみに弓道における一射は二十七メートル。
その何十倍という難易度と言えば、それがどのくらい困難であるかは言うまでもない――――
「っ、くっ……!」
体内の熱が急速に冷めていく。
背骨に通っていた火の柱が消え、限界まで絞られていた肺が、貪欲に酸素を求める。
「は―――ぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あ――――!」
そのまま気を失いかねない目眩に、体をくの字に曲げて耐えた。
「ぁ――――あ、くそ、また失敗、か――――」
鉄パイプに変化はない。通した魔力は外に霧散してしまったようだ。
「……元からカタチが有る物に手を加えるのは、きつい」
俺がやっている事は、完成した芸術品に筆を加える事に似ている。
完成している物に手を加える、という事は完成度をおとしめる、という危険性をも孕んでいる。
補強する筈の筆が、芸術品そのものの価値を下げる事もある、という事だ。
だから“強化”の魔術というのは単純でありながら難易度が高く、好んで使用する魔術師は少ないらしい。
……いや、俺だって好んでいるワケじゃないけど、これしか能がないんだから仕方がない。
いっそ形のない粘土をこねて代用品を作っていいなら楽なんだが、そうやってカタチだけ再現した代用品は、外見ばっかりで中身がともなわない。
まわりに転がっているガラクタがそうだ。
強化の魔術に失敗すると、練習がてらに代用品を作って気を落ち着けるのだが、これがそろいもそろって中身がない。
物の設計図を明確にイメージできるが故に、外見だけはそっくりに再現できるのだが中身は空洞、もちろん機能もまったくない。
「――――――――」
びちゃり、と汗ばんだ額をぬぐう。
気が付けば全身、水をかけられたように汗まみれだ。
……だが、この程度で済んだのは僥倖《ぎょうこう》だ。
さっきのは本当にまずかった。
持ち直すのが一呼吸遅れていたら、内臓をほとんど壊していただろう。
「……死にかけた分上達するんなら、まだ見込みがあるんだけどな」
そんな都合のいい話はない。
もっとも、死を怖がっていては魔術の上達がないのも道理だ。
魔術を学ぶ以上、死は常に身近にある。
毎日のようにこなしているなんでもない魔術でも、ほんの少しのミスで暴発し、術者の命を奪う。
魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認する事だ。
―――切嗣はそれを悲しげに言っていた。
それは、俺にはそんな覚悟なんてしないでほしい、という意味だったのかもしれない。
「……誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ、か……」
切嗣みたいになるよ、と言った子供の俺に、切嗣はそんな言葉を繰り返していた。
その意味は知らない。
ただ、衛宮士郎は、衛宮切嗣のように誰かを助けて回る、正義の味方にならなくてはいけないだけ。
「……その割に、こんな初歩がうまくいかないんだもんな。なんでいざって時に雑念が入るんだ、ばか」
物の構造を視覚で捉えているようでは甘い。
優れた魔術師は患部だけを捉え、無駄なく魔力を流し込む。
――――ボクの夢は正義の味方になる事です。
夕食の時、藤ねえが言った台詞を思い出す。
それを恥ずかしいとも、無理だとも思わない。
それは絶対に決まっている事だ。衛宮士郎は衛宮切嗣の後を継ぐと。
だから未熟なままでも、出来るかぎりの事をしてきた。
正義の味方っていうのが何者なのかは分からない。
分からないから、今はただ自分の出来る範囲で、誰かの為になる事でしか近づけない。
そうして五年間、ずっと前だけを見てきたつもりだけど、こう上手くいかないと迷ってしまう。
「……ああもう、てんで分からないよ切嗣《オヤジ》。
一体さ、何をすれば正義の味方になれるんだ」
窓ごしに空を見る。
闇雲に、誰かの為になればいいってワケでもない。
人助けと正義の味方っていうのは違うと思う。
それが分かっているのに、どうすれば違ったモノになれるのか、と。
その肝心な部分が、この五年間、ずっと掴めないままだった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
……目覚めは暗い。
夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。
……イメージするものは常に剣《つるぎ》。
何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。
そこに意味はなく、さしたる理由もない。
ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。
見る夢などない。
眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。
たとえば魔術師について。
半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。
―――一言で言って、魔術師というのは文明社会とは相反する例外者だ。
だが例外者と言えど、群《むれ》を成さねば存在していられない。
切嗣《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。
……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。
魔術協会、と呼ばれるその組織は、魔術《しんぴ》を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。
ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。
切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。
ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。
彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。
ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。
ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。
たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。
故に、そんな一般社会に害をなすような研究は魔術協会が許しはしない。
かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。
魔術師が自身を隠そうとするのは、偏《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。
……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。
なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。
そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。
管理者《セカンドオーナー》、と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。
同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。
……その点で言うと、衛宮《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。
切嗣《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。
管理者《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師だった事を知らないし、切嗣だって管理者《オーナー》が誰なのかなんて知らなかった。
そういった事もあって、衛宮《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。
真っ当な魔術師であった切嗣《オヤジ》は他界し、
その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。
……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。
いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。
―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。
魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。
……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。
それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが――――
「…………、ん」
窓から差し込む陽射しで目が覚めた。
日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ仄《ほの》かに薄暗い。
「……さむ。さすがに朝は辛いな」
朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。
時刻は五時半。
どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。
目覚まし時計はなんとなく堕落している気がするので子供の頃から使っていない。
「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」
昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。
桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。
ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。
昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。
同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。
主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。
「よし、こんなんでいいか」
そろそろ六時。
思ったより早く終わったんで、時間を持て余してしまったが――――
◇◇◇
「―――そうだな。これだけ時間があれば一汗流せるか」
朝の運動は日課だし、軽く体を動かしてこよう。
衛宮邸には立派な道場がある。
家を建てる時、ついでだからと道楽で建てられたものだ。
そんな訳で、この道場は何かが目的で作られた物ではない。
「ま、藤ねえが好き勝手使ってるけどな」
俺が衛宮の家に来る前から、ここは藤ねえの遊び場だったらしい。
が、俺が切嗣に弟子入りしてからはこっちが頻繁に使うようになって、当時は藤ねえに嫌われたものだ。
「……さて」
ここに来たらやる事は一つだけ。
魔術師と言えど身体の鍛錬を怠る事は出来ない。
優れた身体能力を持つ、という事も魔術師の条件の一つだ。
切嗣が生きていた頃はここで何度も手合わせをした。
と言っても一方的に痛めつけられただけだったから、戦いに勝つ術なんて身に付かなかった。
……それでもケンカと戦闘の違いぐらいは身に付いたと思う。
ようするに、相手を倒すか殺すかの違い、その加減を知る事を教わったのだ。
知識と経験は違う。
あらかじめ知っておかないと、自分がケンカに巻き込まれたのか、殺し合いに巻き込まれたのかの判断をつけにくい。
……単純な話だ。
魔術を習う以上は自滅する事もあるのだし、何かと争わなければならない時もある。
魔術師にとって争いは殺し合いだ。
だから切嗣が衛宮士郎に教えたかった事は、死地に面した時すみやかに覚悟できる心構えだったのだろう。
しかし、それも教えてくれる相手がいなくなって久しい。
一人になった自分に出来る事と言えば、単純な運動だけだった。
腕立て伏せとか腹筋運動とか柔軟とか、ようするにやってる事は弓道部の朝練と変わらない。
単に、運動量にハードかソフトかの違いがあるだけだ。
◇◇◇
「おはようございます先輩。今朝はもう済んでしまいましたか?」
「ああ、朝食の支度なら済んでる。あとは食器の支度と、魚に火を通すだけ」
「あ、それならお手伝いします。食器の支度は任せてください」
むん、とはりきる桜。
そんな健気な後輩の後ろを、
「あ、この匂いは士郎の卵焼きね。そっか、今朝は士郎の朝ごはんなんだー」
藤ねえがのんびりと食卓へ移動していく。
「……まあ、アレは放っておいて」
とりあえず下ごしらえしておいた魚に火を通さなければ。
「桜、皿は真ん中のヤツ使ってくれ。その方が旨く見えるから」
「え……? あの、この表面がブツブツのですか?」
「そうそれ。焼き物は皿にも気を配らないと片手落ちだからな。で、大根はもう摩ってあるから―――」
よいしょ、と棚の奥に手を伸ばして皿を取り出す桜。
「――――」
身を乗り出す桜の手首に、うすい痣が見えた気がした。
「桜、ちょっと待った」
「はい? なんですか先輩」
「その手首の痣、なんだ」
「あ――――」
気まずそうに視線を逸らす。
それで、その痣が誰につけられた物か判ってしまった。
「また慎二か。アイツ、妹に手をあげるなんて何考えてやがる……!」
「ち、違います先輩……! あの、その……これは転んでぶつけちゃったんです。ほら、わたし鈍いでしょう?
だからよく転んで、ケガばっかりしてるんです」
「ばか、転んだぐらいでそんな痣がつくか。慎二のヤツ、どうやらまだ殴られ足りないみたいだな……!」
「だ、だめです先輩っ……! これ、本当に兄さんは関係ないんです。わたしが一人でケガをしただけなんですから、先輩に怒ってもらう資格なんてありません」
「――――」
それきり桜は押し黙ってしまった。
……大人しそうに見えて、桜はわりと意固地なところがある。こうなっては何を言っても逆効果だろう。
「……わかった。桜がそう言うんならそういう事にしておく。けど次に見つけたら我慢できないからな、俺」
「……はい。ごめんなさい、先輩」
「だから、どうしてそこで桜が謝るんだ。悪いのは慎二だろう」
「………………」
慎二の名前を口にした途端、桜は気まずそうに視線を逸らした。
つまり、それが桜の手首に痣がある理由だ。
間桐慎二。桜の兄貴であるアイツは、妹である桜に辛くあたる悪癖がある。
俺がそれに気が付いたのは一年ほど前だった。
桜は時々ケガをしている事があって、どうしたのかと訊ねても誤魔化してばかりだった。
それが気になって慎二に相談したら、あろう事かあの野郎、桜を殴ったのは自分だなんて言い出しやがった。
なんで殴ったんだ、と問いつめれば、気にくわないから殴っただけ、と答えた。
―――そのあとカッとなった俺は、慎二とまったく同じ事を慎二本人に仕返した。
それ以来、慎二とは疎遠《そえん》になった。
慎二を殴った事は今でも後悔はしていない。
ただ桜への風当たりが一層強くなったのは、間違いなく俺の責任だと思う。
「……先輩。兄さんとはその、仲直りしてくれましたか?」
「え? ああ、したよ。別にはじめからケンカなんてしてないから、仲直りも何もないけどな」
「……えっと、先輩にとってはそうでしょうけど、兄さんにとってはケンカをした事になるんです。だから、その……気をつけて、ください」
「?」
桜はおかしな事を言ってくる。
「気をつけろって慎二を?」
「……はい。兄さん、先輩を目の仇にしてるって聞きました。……その、先輩が退部するようになったのも兄さんのせいだって―――」
「それは違う。部活を辞めたのは慎二とは関係ない。いや、そりゃあ多少はあったかもしれないけど、そんなのは桜が気に病むコトじゃないぞ。たしかに慎二の言うとおり、ちょっと見苦しいからなコレは」
くい、と右肩を指さす。
そこにはちょっとした傷跡がある。
一年半前の話だ。
バイト中に荷物が崩れてきて、右肩を痛めてしまった事があった。怪我自体は骨折で済んだのだが、落ちてきた荷物が厄介なもので、肌にちょっとした焼き跡がついてしまったのだ。
その事故の後、俺は弓道部を辞めた。
うちの学校の弓道部は格式を重んじるのか、学生ながらに礼射をやらせてくれる。
男子の礼射は右肩だけ服をはだけさせ、肌を露わにして的を射る。
肩に火傷の跡があるヤツが礼射をするのは見苦しいのでは、と慎二の指摘があり、俺もちょうどアルバイトも忙しい時期だったので部活を辞めたという訳だ。
「あの、先輩。しつこいようですけど、本当にもう弓は引かないんですか? 藤村先生も怪我なんて支障はないって言ってるのに」
「なにを平和な! 藤ねえは全身骨折しようが支障ないって言うヤツだぞ、桜」
「先輩、わたし真面目な話をしているんですっ」
むっ、と何か言いたそうに上目遣いをしてくる桜。
「……む」
こうなるとこっちも真面目に答えなくちゃいけないんだが、生憎と桜の望む返答は出来ない。
「当分は部活をしている余裕はないよ。弓は好きだけど優先するべき事じゃないし、しばらくは間を取ろうと思う」
「……しばらくって、どのくらいですか」
「気が向いた頃かな。ま、桜が卒業するぐらいまでにはなんとか。その時はよろしくな、桜」
ぽん、と桜の肩を叩く。
桜はほんのわずかだけボウ、とした後、
「あ、はいっ……! わたし、その時をお待ちしています、先輩!」
なんて、食器を落としかねない勢いで頷いていた。
◇◇◇
時刻は七時半になろうとしている。
朝の部活動がある桜と藤ねえはとっくに家を出た。
昨日は一成に呼ばれていたから早めに登校したが、今朝は普通の時間に家を出た。
交差点まで下りてくると、見慣れない光景に出くわした。
一軒家の前に数台のパトカーが止まっている。
なにか騒ぎでもあったのか、周囲の雰囲気は慌ただしく、集まった人だかりは十人や二十人ではきかないようだ。
「?」
興味はあったが、人だかりが邪魔で何が起きたのか判らない。
時間もないし、今は学校を優先すべきだろう。
予鈴の十分ほど前に到着。
いつも通り余裕を持って正門をくぐると、
「や、おはよう衛宮」
見知った女生徒とバッタリ会った。
「なんだ、まだ着替えてないのか美綴。もうすぐホームルームだぞ。俺に挨拶なんかしてる場合じゃないだろ」
「あはははは! いや、ごもっとも。相変わらずつれない野郎だねぇ、衛宮は!」
何が楽しいのか、人目も気にせず豪快に笑う。
美綴綾子《みつづりあやこ》。
一年生の頃クラスメイトだったヤツで、今は弓道部の主将をしている。
学生とは思えないほど達観したヤツで、一年の頃から次期主将を期待されていた女丈夫だ。
……まあ、要するに実年齢よりいくぶん精神年齢が上で、一年の頃からみんなに頼りにされていたお姉さんタイプである。
もっとも、本人はそれを言われると怒る。あたしはそんなに老けてないっ! というのが本人の弁だ。
「あん? 今アンタ、よからぬ感想を漏らさなかったかもし?」
「そんな物は漏らさない。あくまで客観的な事実を連想しただけだ。それで気を悪くするのは美綴の勝手だが」
「お、言うじゃん。いいね、正直に答えるくせに、何をどう考えてたかは口にしないんだもの。 衛宮、慎二と違って隙がないな」
「慎二? なんでそこに慎二が出てくるんだ?」
「なんでもなにも、アンタと慎二って友人じゃない。
慎二の男友達ってアンタだけでしょ? それにお忘れでしょうが、あたしこれでも弓道部の主将なの。うちの問題児と、辞めちまった問題児をくっつけるのは自然な流れだと思わない?」
「ああ、たしかに自然だ。弓道部ってのは関係ないけど、俺とアイツは腐れ縁だからな」
「あ、カチンと来た。アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるでしょ。
いいご身分よね、慎二をほっぽっといて自分はさっさと退場しちゃうんだから。後に残されたあたしとか桜の気持ちとか、少しは考えてくれてもいいんじゃない?」
「む。慎二のヤツ、またなんかやったのか」
「アイツが何もやらない日なんてないけど。
……ま、それにしても昨日のはちょっとやりすぎか。
一年の男子が一人辞めたぐらいだから」
はあ、と深刻そうにため息をつく美綴。
こいつがそんな顔をするのも珍しいけど、それ以上に今の話は聞き捨てならない。
「なんだよそれ。部員が辞めたって、なんで」
「慎二のヤツが八つ当たりしたのよ。わざわざ女子を集めてね、弓を持ったばかりの子に射をさせて、的中するまで笑い物にしたとか」
「はあ!? おまえ、そんなバカげた事を見過ごしてたってのか!?」
「見過ごすかっ! けどさ、主将ってのは色々と忙しいんだ。いつも道場にいる訳じゃないって、衛宮だって知ってるでしょ」
「……それは、そうだが。にしても、なに考えてんだ慎二のヤツ。必要以上に厳しく教える事はあっても、素人を見せ物にするようなヤツじゃないだろ」
「――――呆れた。衛宮ってば、ほんとにアレだ」
「む。アレってなんだ。いまおまえ、よからぬ感想を漏らさなかったか?」
「あーら、あたしはあくまで客観的な事実を連想しただけさ。それで気を悪くするのは衛宮の勝手だね」
「……この、ついさっき聞いたような返答をしやがって。
いいよ、それより慎二はどうしたんだよ。なんだってそんな真似をしたんだ」
「んー、聞いた話じゃ遠坂にこっぴどくふられたとかなんとか」
「え……遠坂って、あの遠坂か?」
「うちの学校にアレ以外の遠坂なんていないでしょ。
2年A組の優等生、ミスパーフェクトこと遠坂凛よ」
「……いや、そんなあだ名は初めて聞いたけど」
聞いたけど、それなら、と納得できてしまった。
相手が遠坂凛なら、慎二が振られる事もあるだろうし、なにより―――
あの遠坂なら、交際を断る時も容赦ない台詞を口にしそうだし。
「ともかく、慎二のヤツは昨日からずっとその調子よ。
おかげであたしもこんな時間まで道場で目を光らせてたって訳」
「……慎二のヤツは癇癪《かんしゃく》持ちだからな。美綴、たいへんだろうけど頑張ってくれ」
「はいはい。けどねー、慎二って懲りないでしょ? また遠坂に声をかけて振られた日には、今度こそ遠坂本人に何かしそうでさー」
「いや、いくら慎二でも振られた相手には近寄らないだろ。アイツ、そのあたりはちゃんとしてるぞ」
「けど相手が近寄ってくるんだからしょうがないじゃない。遠坂さ、なんか知らないけどうちの道場をよく見学に来るのよ。衛宮は辞めちゃったから知らないだろうけどね」
「?」
それは初耳だ。
遠坂凛は家の事情だとかで、一切部活動はやっていない。生徒会も同じ理由で推薦を拒否したぐらいだから、放課後はすんなりと帰宅していると思っていた。
「ま、たまにはそれもいいか。アイツお高くとまってるし、一度ぐらいは痛い目にあうのもいいかもねー。お気の毒さまっていうか、ご愁傷さまっていうか」
なにやら物騒な事を口にする美綴。
……そういえば、遠坂凛はああ見えて敵が多いというけど、美綴もその一人なんだろうか?
「おい美綴、いくらなんでもそれは」
「あ、そろそろ時間だ。じゃあね衛宮、今度あたしの弓の調子見に来てよ」
慌ただしく走っていく美綴。
「―――相変わらずだな、あいつ」
けど、アイツのああいうスッパリしたところは昔から気に入ってる。
なんとなく穏やかな気持ちになって、教室へ足を向けた。
昼休み。
うちの学校には立派な食堂があり、たいていの生徒は食堂でランチをとる。
が、中には弁当持参という古くさい連中もいて、その中の一人が自分と、目の前にいる生徒会長だった。
「衛宮、その唐揚げを一つくれないか。俺の弁当には圧倒的に肉分が不足している」
「……いいけど。なんだっておまえの弁当ってそう質素なんだ一成。いくら寺だからって、酒も肉も摂らない、なんて教えがあるわけでもないだろう」
「何を時代錯誤なことを。これは単に親父殿の趣味だ。
小坊主に食わす贅沢はない、悔しいのなら己でなんとかせよ、などと言う。いっそ今からでも典座《てんぞ》になるか、俺も考えどころだ」
「あー、あの爺さんなら確かに」
一成の親父は柳洞寺の住職で、藤ねえの爺さんとは旧知の仲という豪傑だ。
藤村の爺さんと気が合う、という時点でまともな人格を期待してはいけない。
「それはそれは。んじゃ、いつか恩返しを期待して一つ」
ほい、と弁当箱を差し出す。
「やや、ありがたく。これも托鉢の修行なり」
深々とおじぎをする一成。
……なんていうか、こんなコトで一成がお寺の息子なのだと再認識させられるのはどうかと思う。
「ああ、そういえば衛宮。朝方、二丁目の方で騒ぎがあったのを知っているか? ちょうど衛宮と別れるあたりの交差点だが」
「交差点……?」
朝方の交差点と言えば、パトカーが何台も止まっていた騒ぎだろうか。
「なんでもな、殺人があったそうだ。詳細は知らないが、一家四人中、助かったのは子供だけらしい。両親と姉は刺殺されたというが、その凶器が包丁やナイフではなく長物《ながもの》だというのが普通じゃない」
「――――――――」
長物? つまり日本刀、というコトだろうか。
殺人事件という事は、それに両親と姉を殺されたという事か。
……想像をしてしまう。
深夜、押し入ってきた誰か。不当な暴力。交通事故めいた一方通行の略奪。斬り殺される両親。訳も分からず次の犠牲になった姉。その陰で、家族の血に濡れた子供の姿。
「一成。それ、犯人は捕まったのか」
「捕まってはいないようだな。新都の方では欠陥工事による事故、こちらでは辻斬りめいた殺人事件だ。学校の門限が早まるのも当然―――どうした衛宮? 喉にメシでもつまったか?」
「? 別に何もないけど、なんだよいきなり」
「いや……衛宮が厳しい顔をしていたのでな、少し驚いた。すまん、食事時の話ではなかったな」
一成はすまなそうに場を和ます。
……いや、本当にどうというコトもなかったのだが、そんなに厳しい顔をしていたんだろうか、俺。
と、静かに生徒会室のドアがノックされた。
「失礼。柳洞はいるか」
「え? あ、はい。なんですか先生」
一成はやってきた葛木《くずき》となにやら話し込む。
生徒会の簡単な打ち合わせなのだろうが、一成はわりと力を抜いているようだ。
「………へえ」
それは、ちょっとお目にかかれない光景だ。
ああ見えて、一成は人見知りが激しい。クラスメイトにも教師にも線を引くあの男が、生徒会顧問の葛木に対しては気を許している。
「……真面目なところで気が合うのかも」
2年A組の担任である葛木宗一郎《くずきそういちろう》は、とにかく真面目で堅物だ。
おそらく、そのあたりが規律を重んじる一成と波長があうのだろう。
「――――――――」
二人の話し合いは続いていく。
それを眺めながら、なぜか、先ほど聞いた殺人事件のことが頭から離れなかった。
◇◇◇
学校からバスに乗る事二十分。
橋を渡って隣町である新都に到着した。
「……なんだ、まだ五時前か。少し時間があるな」
住宅街である深山町ではアルバイトのタネは無いに等しいが、開発地区である新都なら仕事に事欠かない。
校則でアルバイトが許可されている事もあり、簡単な仕事を請け負っている。
そんな中で自分が好む仕事は力仕事で、ハードで、出来る限り短時間で終わる、というものだ。
体を鍛えられてお金を貰えるんだから、一挙両得というものだろう。
今日のバイトは五時から八時までの、簡単な荷物運びだ。
三時間だけとはいえ、その内容は六時間ほどの濃さがある。なにしろ一分の休憩もなしで走り回らされるようなものなのだ。
故に、たとえ十分程度と言えど休める時は休んでおくべきだろう。
時間までブラブラしているのも体力の無駄遣いだし、公園に入って時間まで休んでいよう。
ビル街のただ中にある公園は、木々と芝生に覆われた大きな広場、という趣だ。
休日であるなら親子連れや恋人たちで賑わう公園も、この時間だと人気はない。
いや―――もともと、公園の中でもここだけは何時であろうと人気はないのだ。
「相変わらずだな、ここは」
少し呆れた。
荒れ放題の地面は、きちんと整地された周囲に比べてあまりにも見窄《みすぼ》らしい。
荒涼とした地面に引きずられているのか、吹く風も冷たかった。
ここは十年前の大火災の跡で、そのまま焼け死ぬ筈だった自分が助けられた場所でもある。
「なんで芝生とか植えないんだろ。いつまでもこのままってのは勿体ない」
これだけ広い土地なんだから、ちゃんと整地すれば公園は一段と広くなるだろうに。
ぼんやりとそんな事を思いながら、適当なベンチに座った。
「――――――――」
時間潰しに焼け跡の大地を眺める。
かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。
子供だったから覚えていないのだろうし、記憶できるほど簡単な光景でもなかった為だろう。
覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。
それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。
「どうして、そうなのかな」
例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。
例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたら水はなくなって、他の人たちはみんな息絶えてしまった。
例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。
それと、例えば。
何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまって力尽きてしまった人とか。
「――――――」
そういうのは嫌だった。
頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。
誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。
ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。
“それは難しい。士郎の言っている事は、誰も彼も救うという事だからね”
幼い自分の疑問に、切嗣はそう答えた。
当然、幼い自分はくってかかった。
だって切嗣は俺を助けてくれた。なんでもできる魔法使いなんだって知っていた。
無償で、ただ苦しんでいる人を放っておけず手を出した正義の味方なんだって分かっていた。
だから―――切嗣ならあの時だって、みんなを助ける事ができたんじゃないかって信じていた。
そうぶちまけた俺に、切嗣は余計に困った顔をして、一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした。
“士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”
そりゃあ分かる。
言われてみれば当たり前だ。
ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。
通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。
それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。
つまり、人質を助けられてしまった強盗である。
正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。
だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。
「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」
十年前の火事はそういうモノだ。
今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。
「けど、イヤだ」
そういうのは、イヤだった。
初めから定員が決まっている救いなどご免だ。
どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。
あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。
だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――
「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」
それは絶対だ。
まったく、我ながら夢がない。
「っと、しまった。ぼんやりしてたら五時になっちまった」
五時を告げる鐘が鳴り響く。
ベンチから立ち上がり、急いでバイト先へと向かっていった。
バイトが終わった頃、日は沈みきっていた。
時刻は八時前。
予定より十分ほど早く終わったのは、単に頑張りすぎたせいだ。
仕事前にあんな場所に寄ってしまったからか、がむしゃらに働いてしまったらしい。
駅前という事もあり、ここでは夜が始まったばかりだ。
人波は多く、道を行く自動車も途切れることがない。
見上げるビルにはまだ明かりが灯っていて、それだけで手の込んだイルミネーションを見ているようだ。
「藤ねえにおみやげ―――はいいか」
明かりのついたビルを見上げながら歩く。
新都で一番大きいビルなので、さすがに上の方はよく見えない。
ただ夜景を楽しむ為にビルを見上げていると、
「――――?」
なにか、不釣り合いなモノが見えた気がした。
「なんだ、今の」
立ち止まって最上階を見上げる。
両目に意識を集中させて、米粒程度にしか見えないソレを、ぼんやりと視界に捉える。
「――――な」
それは、知っている誰かに似ていた。
何の意味があって、
何をする為にあんな場所にいるのか。
長い髪をたなびかせ、何をするでもなく、彼女は街を見下ろしている。
「――――」
こちらに気が付いている様子はない。
いや、見えている訳がない。
人並み外れて目のいい自分が、魔力で視力を水増ししてようやく判る高さだ。
あんなところで一人きりで立っているからこそ見分けられるが、地上で人波に紛れている自分になど気が付く筈もないだろう。
彼女はただ街を見下ろしている。
何かを捜しているのか、こんなに遠くからでも鋭い視線が感じられた。
「――――――――」
時間を忘れて、虚空に立つ少女を見上げる。
それは高い塔の上。
月を背に下界を見下ろす、魔法使いのようだった。
「あ」
と。
用が済んだのか、あっさりと彼女は身を翻していった。
屋上から人影は消え、綺麗なだけの夜景に戻る。
「今の、遠坂だったのかな」
確証は持てないが、まず間違いはあるまい。
あれだけ目立つ容姿の女の子はそういないし、なにより、ひそかに憧れているヤツを見間違えるほど間抜けじゃない。
「……そうか。に、しても」
なんていうか、その。
ヘンな趣味してるんだな、遠坂。
◇◇◇
新都と違い、深山町に人影はない。
夜の八時を過ぎれば通りを行く人もなく、町は静まり返っている。
交差点には、朝方見かけた一軒家がある。
人気《ひとけ》はなく、玄関には立ち入り禁止の札がかけられているだけだった。
……たった一日で、家は廃墟のように閑散としていた。
押し入り強盗によって殺された両親と姉。
一人残された子供にはこの先どんな生活が待っているのか。
「――――」
無力さに唇を噛んだ。
切嗣のようになるのだと誓いながら、こんな身近で起きた出来事にさえ何もできない。
誰かの役に立ちたいと思いながらも、結局、今の自分に出来る事がなんなのかさえ判っていない。
坂を上りきって衛宮の家に着く。
明かりがついているので、藤ねえか桜がまだ残っているのだろう。
「ただいま―――あれ、藤ねえだけか?」
「ん? あ、お帰り士郎〜」
ぱりぱりとお煎餅を食べながら振り向く藤ねえ。
テレビはガチャガチャと賑やかなバラエティ番組を映している。
「もう、またこんな時間に帰ってきて。冬は日が暮れるのが早いんだから、もっと早くに帰ってきなさいって言ったでしょ」
「だから早く帰ってきてるだろ。八時までのバイトを選んでるんだから、これ以上無茶言わないでくれ。
……で、桜はどうしたんだよ。なんか、晩飯の支度だけはできてるみたいだけど」
「桜ちゃんなら早めに帰ったわよ? 今日は用事があるからって、晩ごはんだけ作ってくれたの」
嬉しそうに語る藤ねえ。
この人にとって、ごはんを作ってくれる人はみんないい人なんだろう。
「そっか。確かにしばらくはその方がいいかもしれないな。最近は物騒だし、いっそ新学期まで晩飯は俺が作ろうか」
「えー、はんたーい! 士郎、帰ってくるの遅いじゃない。それからごはん作ってたら、食べるの十時過ぎになっちゃうよぅ」
「……あのね。そこに自分ん家で食べる、という選択肢はないのかアンタは」
「だから、ここがわたしのうちだよ?」
はてな、と首をかしげる藤ねえ。
正直、嬉しいんだか悲しいんだか判断がつきかねる。
「ったく、分かったよ。藤ねえにメシを作れ、なんて無理難題を言ってもしょうがねえ。
……それはいいけど、足下のソレ、なんだよ。また余計なモノ持ってきたんじゃないだろうな」
藤ねえはいらないガラクタをうちに置いていく、という度し難い悪癖がある。
ファミレスでもらってきた使い道のない巨大なドンブリとか、商店街でひきとってきたやたら重い土瓶とか、ひとりでに演奏しだす怪しいギターとか、とにかく、ひとんちを都合のいい倉庫だと思っている節がある。
「ちょっと見せてみろ。ゴミだったら捨てるから」
「これ? えーと、うちで余ったポスターだけど」
はい、とポスターを手渡してくる藤ねえ。
おおかた売れない演歌歌手のポスターか何かだろう。
「どれどれ」
ほら見ろ、ハリボテっぽい青空をバックに、笑顔で親指を出している軍服姿の青年。
血文字っぽい見出しはズバリ、
『恋のラブリーレンジャーランド。
いいから来てくれ自衛隊』 ―――って、これ自衛隊の隊員募集じゃねえかっ……!
「それ、いらないからあげるね」
「うわあ、俺だっていらねえよこんなの!」
広げたポスターを高速で巻き戻し、ぽかん、と藤ねえの頭を叩く。
「へへーん、はずれー」
が。
藤ねえめ、隠し持ってたもう一本のポスターで上段切りを払うやいなや、容赦なく反撃してきた。
ぽかん、と。
軽やかにポスターが直撃す――――
「ぐはぁ!?」
星だ! いま星が見えたスター!
「ふっふっふ。士郎の腕でわたしに当てようなんて甘いわよ。悔しかったらもうちょっと腕を磨きなさいね」
「ぐっ……そ、そんな問題じゃないだろ、今の。な、何故に紙のポスターがかような破壊音を……」
もしや、割り箸の袋で割り箸を断つという達人の技なのか……!?
「え? あ、ごめんごめん。こっちのポスター、初回特典版なんで豪華鉄板仕様だった。
……士郎、頭大丈夫……?」
「……藤ねえ、いつか絶対に人を殺すぞ、その性格……」
「えへへー。その時は士郎がお嫁にもらってくれるから安心かなー」
「ふん、全速でお断りです。そんな天然殺人鬼を相方にもらう気はないやい」
「むっ。わたし、そんな物騒なのじゃないと思う」
「やっぱり。得てしてそういう連中は自覚がないっていうのはホントだったのか」
なんまいだぶ、なんまいだぶ。
俺もいつ殺られないかと注意して暮らさないと。
「ふんだ、言ってなさい。そんな事より士郎、わたしお腹へった。今まで待ってたんだから、早くごはんの用意しよ」
よいしょ、と立ち上がる藤ねえ。
……珍しい。藤ねえが(たとえ食器の準備だけとはいえ)手伝ってくれるなんて、よっぽど腹ペコなのに違いない。
「はいはい。んじゃ藤ねえは皿と茶碗な。ごはんぐらいつげるだろ」
「つげるよー? ねえ士郎、わたしドンブリでいいかな」
「いいんじゃないか。今日は桜もいないし、どうせメシは余るし」
「よしよし。それじゃ士郎もおそろいね」
せっせと二つのドンブリにごはんをよそう藤ねえ。
「………………」
まあいいか。どうせおかわりするんだし、藤ねえのやる事に口だしなんてしたら、それこそ夕食がなくなっちまう。
それに、まあ。
こういったメチャクチャな夕食こそ、ここ何年も続いてきた当たり前の風景なんだから。
……一日が終わる。
騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。
あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。
それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。
午前一時。
一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
炎の中にいた。
崩れ落ちる家と焼けこげていく人たち。
走っても走っても風景はみな赤色《せきしょく》。
これは十年前の光景だ。
長く、思い出す事がなかった過去の記憶。
その中を、再現するように走った。
悪い夢だと知りながら出口はない。
走って走って、どこまでも走って。
行き着く先は結局、力尽きて助けられる、幼い頃の自分だった。
「――――――――」
嫌な気分のまま目が覚めた。
胸の中に鉛がつまっているような感覚。
額に触れると、冬だと言うのにひどく汗をかいていた。
「……ああ、もうこんな時間か」
時計は六時を過ぎていた。
耳を澄ませば、台所からはトントンと包丁の音が聞こえてくる。
「桜、今朝も早いな」
感心している場合じゃない。
こっちもさっさと支度をして、朝食の手伝いをしなければ。
「士郎、今日どうするのよ。土曜日だから午後はアルバイト?」
「いや、バイトは入ってないよ。一成のところでなんかやってると思うけど、それがどうかしたか?」
「んー、べつに。暇だったら道場の方に遊びにきてくんないかなーって。わたし、今月ピンチなのだ」
「? ピンチって、何がさ」
「お財布事情がピンチなの。誰かがお弁当作ってくれると嬉しいんだけどなー」
「断る。自業自得だ、たまには一食ぐらい抜いたほうがいい」
「ふーんだ、士郎には期待してないもん。わたしが頼りにしてるのは桜ちゃんだけなんだから。ね、桜ちゃん?」
「はい。わたしと同じ物でよろしければ用意しておきますね、先生」
「うん、おっけーおっけー。じゃあ今日は一緒にお昼を食べましょう」
いつも通りに朝食は進んでいく。
今朝のメニューは定番の他、主菜でレンコンとこんにゃくのいり鶏が用意されていた。
朝っぱらからこんな手の込んだ物を作らなくとも、と思うのだが、きっと大量に作って昼の弁当に使うのだろう。
桜は弓道部員だし、藤ねえは弓道部の顧問だ。
二人が弁当で結ばれるのも至極当然の流れと言える。
「そう言えば士郎。今朝は遅かったけど、何かあった?」
みそ汁を飲みながらこっちに視線を向ける藤ねえ。
……ったく。普段は抜けているクセに、こういう時だけ鋭いんだからな、藤ねえは。
「昔の夢を見た。寝覚めがすっげー悪かっただけで、あとはなんともない」
「なんだ、いつもの事か。なら安心かな」
とりわけ興味なさそうに会話を切る藤ねえ。
こっちもホントに気にしていないので、ムキになる話でもない。
十年前。
まだあの火事の記憶を忘れられない頃は、頻繁に夢にうなされていた。
それも月日が経つごとになくなって、今では夢を見てもさらりと流せるぐらいに立ち直れている。
……ただ、当時はわりと酷かったらしく、その時からうちにいた藤ねえは、俺のそういった変化には敏感なのだ。
「士郎、食欲はある? 今朝にかぎってないとかない?」
「ない。なんともないんだから、人の夢にかこつけてメシを横取りなんてするなよな」
「ちぇっ。士郎が強くなってくれて嬉しいけど、もちょっと繊細でいてくれたほうがいいな、お姉ちゃんは」
「そりゃこっちの台詞だ。もちっと可憐になってくれたほうがいいぞ、弟分としては」
ふん、とお互い視線を交わさないで罵りあう。
それが元気な証拠となって、藤ねえは安心したように笑った。
「――――ふん」
正直、その心遣いは嬉しい。
ま、感謝すると付け上がるので、いつも通り不満そうに鼻を鳴らす。
「??」
そんな俺たちを見て、事情を知らない桜が不思議そうに首をかしげていた。
◇◇◇
藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。
「先輩。今日の夜から月曜日までお手伝いに来れませんけど、よろしいですか?」
「? 別にいいよ。だって土日だろ、桜だって付き合いがあるんだから、気にする事ないぞ」
「え―――そんな、違います……! そういうんじゃないです、本当に個人的な用事で、ちゃんと部活にだって出るんですから! だ、だからなにかあったら道場に来てくれればなんとかします!
別に土日だから遊びに行くわけじゃないです、だから、あの……ヘンな勘違いはしないでもらえると、助かります」
「???」
桜は挙動不審というか、えらく緊張しているようだ。
何が言いたいのかよく判らないが、とにかく土日は来られないという事だろう。
「判った。何かあったら道場に行くよ」
「はい、そうしてもらえれば嬉しいです」
ほう、と胸をなで下ろす桜。
そうして視線を下げた桜の顔が、一転して強ばった。
「先輩、手―――」
「?」
桜の視線の先にあるのは俺の左手だ。
見ると―――ぽたり、と赤い血が零れていた。
「あれ?」
学生服の裾をたくし上げる。
そこには確かに血が滲んでいた。
「なんだこれ。昨日の夜、ガラクタいじってて切ったかな」
にしては痛みがない。
傷だって、ただ腕にミミズ腫れのような痣《あざ》があるだけだ。
痣は肩から手の甲まで一直線に伸びていて、小さな蛇が、肩口から手のひらを目指して突き進んでいるようにも見えた。
「ま、痛みもないしすぐに引くだろ。大丈夫、気にするほどじゃない」
「……はい。先輩がそう言うのでしたら、気にしません」
血を見て気分を悪くしたのか、桜はうつむいたまま黙ってしまった。
◇◇◇
部活がある桜と別れて校舎に向かう。
校庭には走り込みをしている運動部の部員たちがいて、朝から活気が溢れている。
「…………」
にも関わらず、酷い違和感があった。
学校はいつも通りだ。
朝練に励む生徒たちは生気に溢れ、真新しい校舎には汚れ一つない。
「……気のせいか、これ」
なのに、目を閉じると雰囲気が一変する。
校舎には粘膜のような汚れが張り付き、校庭を走る生徒たちはどこか虚ろな人形みたいに感じられる。
「……疲れてるのかな、俺」
軽く頭をふって、思考をクリアにする。
そうして、どことなく元気がないように感じられる校舎へ足を向けた。
土曜日の学校は早く終わる。
午前中で授業は終わり、その後で一成の手伝いを終えた頃には、日は地平線に没しかけていた。
「さて、そろそろ帰るか」
荷物をまとめて教室を後にする。
と。
「なんだ。まだ学校にいたんだ、衛宮」
ばったりと慎二と顔を合わせた。
慎二の後ろには何人かの女生徒がいて、なにやら騒がしい。
「やる事もないクセにまだ残ってたの? ああそうか、また生徒会にごますってたワケね。いいねえ衛宮は、部活なんてやんなくても内申稼げるんだからさ」
「生徒会の手伝いじゃないぞ。学校の備品を直すのは生徒として当たり前だろ。使ってるのは俺たちなんだから」
「ハ、よく言うよ。衛宮に言わせれば何だって当たり前だからね。そういういい子ぶりが癇に触るって前に言わなかったっけ?」
「む? ……すまん、よく覚えていない。それ、慎二の口癖だと思ってたから、どうも聞き流してたみたいだ」
「っ――――!
フン、そうかい。それじゃ学校にある物ならなんでも直してくれるんだ、衛宮は」
「何でも直すなんて無理だ。せいぜい面倒見るぐらいだが」
「よし、なら頼まれてくれよ。うちの弓道場さ、今わりと散らかってるんだよね。弦も巻いてないのが溜まってるし、安土《あづち》の掃除もできてない。
暇ならさ、そっちの方もよろしくやってくれないかな。
元弓道部員だろ? 生徒会になんか尻尾ふってないで、たまには僕たちの役にたってくれ」
「えー? ちょっとせんぱーい、それって先輩が藤村先生に言われてたコトじゃなかったー?」
「そうですよう、ちゃんとやっておかないと明日怒られますよー?」
「でもさー、今から片づけしてたら店閉まるじゃん。そこの人がやってくれるんならそれでいいんじゃないの?」
「悪いよー。それに部外者に後片づけなんか出来るワケないし……」
「そうでもないんじゃない? あの人、元弓道部員だって慎二が言ってるしさぁ、任せちゃえばいいのよ」
なんか、慎二の後ろが騒がしい。
弓道部員みたいだが、見知った顔がないという事は最近慎二が勧誘しているという部員たちだろうか。
「じゃ、あとはよろしく。鍵の場所は変わってないから、かってにやっといてよ。文句ないよね、衛宮?」
「ああ、かまわないよ。どうせ暇だったから、たまにはこういうのも悪くない」
「はは、サンキュ! それじゃ行こうぜみんな、つまんない雑用はアイツがやっといてくれるってさ!」
「あ、待ってよせんぱーい! あ、じゃ後はよろしくお願いしますねぇ、先輩」
勝手知ったるなんとやら、弓道場の整理は苦もなく終わった。
これだけ広いと時間がかかったが、一年半前まで使っていた道場を綺麗にするのは楽しかった。
途中、一度ぐらいならいいかな、と弓を手に取ったが、人の弓に弦を張るのも失礼なので止めておいた。
弓が引きたくなったのなら、自分の弓を持ってお邪魔すればいいだけの話だし。
「……にしても、カーボン製の弓が多くなったな。一年前までは一つしかなかったのに」
カーボン製の弓はプラスチックや木の物と違って、色々な面で便利な弓だ。
ただ値段が高い事が最大のネックで、とても部費で買えるものじゃなかった。
当時は使っているのは慎二ぐらいだったが、新しく入ってきた部員たちはわりとお金持ちなんだろうか?
「……もったいない。木の弓の方が色々と手を加えられるのに」
ま、そのあたりは個人の好き好きか。
時計を見れば、とうに門限は過ぎている。
時刻は七時を過ぎたあたり。この分じゃ校門は閉められてるだろうから、無理して早く帰る必要はなくなってしまった。
……それにしても。
この道場ってこんなに汚れていたっけ。弓置きの裏とか部室とか、細かいところに汚れが目立つ。
「……ま、ここまできたら一時間も二時間も変わらないか」
乗りかかった船だ。どうせだからとことん掃除してしまおう―――
風が出ていた。
あまりの冷たさに頬がかじかむ。
……冬でもそう寒くない冬木の夜は、今日に限って冷え込んでいた。
「――――――――」
はあ、とこぼした吐息が白く残留している。
指先まで凍るような大気の冷たさに、体を縮めて耐える。
「……なんだ。暗いと思ったら月が隠れてるのか」
見上げた空に白い光はない。
強い風のせいか、空には雲が流れている。
門限が過ぎ、人気の絶えた学校には熱気というものがない。
物音一つしないこの敷地は、町のどの場所より冷気に覆われているようだ。
「…………?」
何か、いま。
物音が、聞こえたような。
「―――確かに聞こえる。校庭の方か……?」
この夜。
凍てついた空の下、静寂を破る音が気になったのか。
真偽を確かめる為に、俺は、その場所へと向かってしまった。
―――校庭にまわる。
「…………人?」
初め、遠くから見た時はそうとしか見えなかった。
暗い夜、明かりのない闇の中だ。
それ以上の事を知りたければ、とにかく校庭に近づくしかない。
音は大きく、より勢いを増して聞こえてきた。
これは鉄と鉄がぶつかり合う音だ。
となれば、あそこでは何者かが刃物で斬り合っている、という事だろう。
「……馬鹿馬鹿しい。なに考えてるんだ、俺……」
頭の中に浮かんだイメージを苦笑で否定して、さらに足を進めていく。
―――この時。
本能が危険を察知していたのか、隠れながら進んでいた事が、ついていたのかそうでないのか。
ともかく身を隠せる程度の木によりそって、より近くから音の発信源を見――――
そこで、意識が完全に凍り付いた。
「――――――――な」
何か、よく分からないモノがいた。
赤い男と青い男。
時代錯誤を通り越し、もはや冗談とすら思えないほど物々しい武装をした両者は、不吉なイメージ通り、本当《・・》に斬《・・・・・・・・》り合っていた。
理解できない。
視覚で追えない。
あまりにも現実感のない動きに、脳が正常に働かない。
ただ凶器の弾けあう音だけが、あの二人は殺し合っているのだと、否応なしに知らせてくる。
「――――――――」
ただ、見た瞬間に判った。
アレは人間ではない。おそらくは人間に似た別の何かだ。
自分が魔術を習っているから判ったんじゃない。
あんなの、誰が見たってヒトじゃないって判るだろう。
そもそも人間はあんな風に動ける生物ではない。
だからアレは、関わってはいけないモノだ。「――――――――」
離れていても伝わってくる殺気。
……死ぬ。
ここにいては間違いなく生きてはいられないと、心より先に体の方が理解していた。
鼓動が激しいのもそういう事だ。
同じ生き物として、アレは殺す為だけの生き物なのだと感じている。「――――――――」
……ソレらは包丁やナイフなんて足下にも及ばない、確実に人を殺す為の凶器を繰り出している。
ふと、昨日の殺人事件が頭をよぎった。
犠牲になった家族は、刀のような凶器で惨殺されたという。「っ―――――――」
これ以上直視していてはダメだ。
だというのに体はピクリとも動かず、呼吸をする事もできない。
逃げなければと思う心と、
逃げ出せばそれだけで見つかるという判断。 ……その鬩《せめ》ぎ合い以上に、手足が麻痺して動かない。
あの二人から四十メートルは離れているというのに、真後ろからあの槍を突きつけられているような気がして、満足に息も出来ない。「――――――――」
音が止まった。
二つのソレは、距離をとって向かい合ったまま立ち止まる。
それで殺し合いが終わったのかと安堵した瞬間、いっそう強い殺気が伝わってきた。
「っ………………!」
心臓が萎縮する。
手足の痺れは痙攣に変わって、歯を食いしばって、震えだしたくなる体を押さえつけた。
「うそだ――――なんだ、アイツ――――!?」
青い方のソレに、吐き気がするほどの魔力が流れていく。
周囲から魔力を吸い上げる、という行為は切嗣に見せてもらった事がある。
それは半人前の俺から見ても感心させられる、一種美しさを伴った魔術だった。
だがアレは違う。
水を飲む、という単純な行為も、度を過ぎれば醜悪に見えるように。
ヤツがしている事は、魔力を持つ者なら嫌悪を覚えるほど暴食で、絶大だった。
「――――――――」
殺される。
あの赤いヤツは殺される。
あれだけの魔力を使って放たれる一撃だ。それが防げる筈がない。
死ぬ。
ヒトではないけれど、ヒトの形をしたモノが死ぬ。
それは。
それは。
それは、見過ごして、いい事なのか。
その迷いのおかげで、意識がソレから外れてくれた。
金縛りが解け、はあ、と大きく呼吸をした瞬間。
「誰だ――――!」
青い男が、じろりと、隠れている俺を凝視した。
「………っっ!!」
青い男の体が沈む。
それだけで、ソレの標的は自分に切り替わったと理解できた。
「あ――――あ…………!」
足が勝手に走り出す。
それが死を回避する行為なのだとようやく気づいて、体の全てを、逃走する事に注ぎ込んだ。
どこをどう走ったのか、気が付けば校舎の中に逃げ込んでいた。
「何を――――バカな」
はあはあと喘ぎながら、自分の行動に舌打ちする。
逃げるなら町中だ。
こんな、自分から人気のない場所に逃げるなんてどうかしてる。
それも学校。同じ隠れるのでも、もっと隠れやすい場所があるんじゃないのか。
そもそもなんだって俺はこんな、走らなければ殺されるなんて、物騒な錯覚に捕らわれてしまっている―――
「ハァ――――ハァ、ハァ、ハ――――ァ」
限界以上に走りづめだった心臓が軋《きし》む。
振り向けば、追いかけてくる気配はない。
カンカンと響く足音は自分だけの物だ。
「ァ――――ハァ、ハァ、ハァ」
なら、これでようやく止まれる。
もう一歩だって動かない足を止めて、壊れそうな心臓に酸素を送って、はあ、と大きくあごをあげて、助かったのだと実感できた。
「……ハァ……ぁ……なんだったんだ、今の……」
乱れた呼吸を整えながら、先ほどの光景を思い返す。
とにかく、見てはいけないモノだったのは確かな事だ。
夜の校庭で人間に似たモノ同士が争っていた。
思い返せるのはそれだけだ。
ただ、もう一つ視界の隅にあったのは、
「……もう一人、誰かいた気がするけど……」
それがどんな姿をしていたかまでは思い出せない。
正直、あの二人以外に意識をさいている余裕などなかった。
「けど、これでともかく――――」
「追いかけっこは終わり、だろ」
その声は、目の前から、した。
「よぅ。わりと遠くまで走ったな、オマエ」
そいつは、親しげに、そんな言葉を口にした。
「――――」
息ができない。
思考が止まり、何も考えられないというのに。
――――漠然と、これで死ぬのだな、と実感した。
「逃げられないってのは、オマエ自身が誰よりも判ってたんだろ? なに、やられる側ってのは得てしてそういうもんだ。別に恥じ入る事じゃない」
フッ、と。
無造作に槍が持ち上げられ、そのまま。
「運がなかったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」
容赦も情緒もなく、男の槍は、衛宮士郎の心臓を貫いた。
よける間などなかった。
今まで鍛えてきた成果なんて一片も通じなかった。
殺されると。
槍で貫かれると判っていながら、動く事さえできなかった。
「ぁ――――ぁ」
世界が歪む。
体が冷めていく。
指先、末端から感覚が消えていく。
「こ――――ふ」
一度だけ、口から血を吐き出した。
本来ならなお零《こぼ》れるはずの吐血は、ただ一度きりだった。
男の槍は特別製だったのかもしれない。
血液はゆっくりと淀んでいて、壊れて血をまき散らす筈の心臓《ポンプ》は、ただの一刺しで綺麗に活動を停止していた。
「――――――――」
よく見えない。
感覚がない。
暗い夜の海に浮かんでいる海月《クラゲ》のよう。
痛みすらとうに感じない。
世界は白く、自分だけが黒い。
だから自分が死んだというより、
まわりの全てがなくなったような感じ。
知っている。
十年前にも一度味わった。
これが、死んでいく人間の感覚だ。
「死人に口なしってな。弱いヤツがくたばるのは当然と言えば当然だが―――」
意識が視力にいかない。
「―――まったく嫌な仕事をさせてくれる。この様で英雄とは笑いぐさだ」
ただ、声だけが聞こえてくる。
「解っている、文句はないさ。女のサーヴァントは見たんだ。大人しく戻ってやるよ」
苛立ちを含んだ声。
その後に、廊下を駆けてくる足音が。
「―――アーチャーか。ケリをつけておきたいところだが、マスターの方針を破る訳にもいくまい。……まったく、いけすかねえマスターだこと」
唐突に声は消えた。
窓から飛び降りたのだろう。
その後に。
やってきた足音が止まった。
その、奇妙な間。
……また足音。
もう、よく聞き取れ、ない。
「追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと」
……それは誰の声だったか。
かすんでいく意識を総動員して思い出そうとしたが、やはり、何も考えつかなかった。
今はただ、呼吸だけがうるさい。
肺はまだ生きているのか。
ひゅーひゅーと口から漏れる音が、台風みたいに、喧しかった。
「そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」
覗き込まれる気配。
そいつも俺の呼吸がうるさかったのか、この口を閉じようと指を伸ばして――――
「……やめてよね。なんだって、アンタが」
ぎり、と。
悔しげに歯を噛む音が聞こえた途端、そいつは、ためらう事なく、血に濡れた俺に触れてきた。
「……破損した臓器を偽造して代用、その間に心臓一つまるまる修復か……こんなの、成功したら時計塔に一発合格ってレベルじゃない……」
苦しげな声。
それを境に、薄れていくだけの意識がピタリと止まった。
「――――――――」
体に感覚が戻ってくる。
ゆっくりと、少しずつ、葉についた水滴が零《こぼ》れるぐらいゆっくりと、体の機能が戻っていく。
「――――――――」
……ぽたり、ぽたり。
何をしているのか。
寄り添ったそいつは額から汗を流して、一心不乱に、俺の胸に手を当てている。
「――――――――」
気が付けば、手のひらを置かれた箇所が酷く熱い。
きっと、それが死んでいた体を驚かせるぐらい熱かったから、凍っていた血潮が流れだしてくれたのだ。
「――――――――ふぅ」
大きく息を吐いて座り込む気配。
「っかれたぁ……」
カラン、と何かが落ちる音。
「……ま、仕方ないか。ごめんなさい父さん。貴方の娘は、とんでもなく薄情者です」
それが最後。
自嘲ぎみに呟いて、誰かの気配はあっさりと遠ざかっていった。
「――――――――」
心臓が活動を再開する。
そうして、今度こそ意識が途切れた。
……それは死に行く為の眠りではなく。
再び目覚める為に必要な、休息の眠りだった。
◇◇◇
「あ…………つ」
呆然と目が覚めた。
のど元には吐き気。体はところどころがズキズキと痛んで、心臓が鼓動する度に、刺すような頭痛がする。
「何が――――起きた?」
頭痛が激しくて思い出せない。
長いこと廊下で眠っていたせいか、震えがくるほど体は冷え切っている。
唯一確かな事は、胸の部分が破れた制服と、べったりと廊下に染みついた自分の血だけ。
「…………っ」
朦朧とする頭を抱えて立ち上がった。
自分が倒れていた場所は、殺人現場のように酷い有様だ。
「……くそ、ほんとに……」
――――この胸を、貫かれたのか。
「……はぁ……はぁ……ぐ……」
こみ上げてくる物を堪えながら、手近な教室に入る。
おぼつかない足取りのままロッカーを開けて、雑巾とバケツを取り出した。
「……あれ……なにしてんだろ、俺……」
まだ頭がパニックしてる。
とんでもないモノに出会って、いきなり殺されたっていうのに、なんだってこんな時まで、後片づけをしなくちゃいけないなんて思ってるんだ、馬鹿。
「……はぁ……はぁ……くそ、落ちない……」
……雑巾で床を拭く。
手足に力が入らないまま、なんとかこびりついた血を拭き取って、床に落ちていたゴミを拾い集めてポケットに入れた。
……証拠隠滅、というヤツかもしれない。
朦朧とした頭だからこそ、そんなバカな事をしたのだろう。
「……あ……はぁ……はぁ……はぁ……」
雑巾とバケツを片づけて、ゾンビのような足取りで学校を後にした。
……歩く度に体の熱が上がる。
外はこんなにも冷たいのに、自分の体だけ、燃えているようだった。
……家に帰る頃には、とうに日付が変わっていた。
屋敷には誰もいない。
桜はもとより、藤ねえもとっくに帰った後だ。
「……あ……はあ、はあ、は―――あ」
どすん、と床に腰を下ろした。
そのまま床に寝転がって、ようやく気持ちが落ち着いてくれた。
「……………………」
深く息を吸い込む。
大きく胸を膨らますと、罅《ひび》が入るかのように心臓が痛んだ。
……いや、それは逆だ。
実際ひび割れていたどころじゃない。
穴が開いていた心臓が塞がれて、治ったばかりだから、膨張させると傷が開きかけるのだ。
「……殺されかけたのは本当か」
それも違う。
殺されかけたのではなく、殺された。
それがこうして生きているのは、誰かが助けてくれたからだ。
「……誰だったんだ、アレ。礼ぐらい言わせてほしいもんだけど」
あの場に居合わせた、という事はアイツらの関係者かもしれない。
それでも助けてくれた事に変わりはない。いつか、ちゃんと礼を言わなくては。
「あ……ぐ……!」
気を抜いた途端、痛みが戻ってきた。
同時にせり上がってくる嘔吐感。「あ……は、ぐっ……!」
体を起こして、なんとか吐き気を堪える。
「っ……ふ、っ……」
制服の破れた箇所、むき出しになっている胸に手を触れた。
助けられたとはいえ、胸に穴が開いたのだ。 あの感覚。
あんな、包丁みたいな槍の穂先がずっぷりと胸に刺さった不快感は、ちょっとやそっとじゃ忘れられない。「……くそ。しばらく夢に見るぞ、これ」
目を瞑れば、まだ胸に槍が刺さっている気がする。
そんな錯覚を振り払って、ともかく冷静になろうと気を静めた。「……よし。落ち着いてきた」
毎晩の鍛錬の賜物。
深呼吸を数回するだけで思考はクリアになり、体の熱も嘔吐感も下がっていく。
「それで、アレの事だけど」
青い男と赤い男。
見た目は人間だったが、アレは人ではないと思う。
幽霊の類だろうか。
だが実体を持ち、生きている人間に直接干渉できる幽霊なんて聞いたことがない。
しかもアレは喋っていた。自分の意志もあるって事は、ますます幽霊とは思いにくい。
……それに肉を持つ霊は精霊の類だけと聞くが、精霊っていうのは人の形をしていないんじゃなかったっけ……?
「……いや。問題はそんなじゃなくて」
他に、もっと根本的な問題がある筈だ。
……殺し合いをしていた二人。
……近所の家に押し入ったという強盗殺人。
……何かと不吉な事件が続く冬木の町。
「………………」
それだけ考えて、判ったのは自分の手には負えない、という事だけだ。
「……こんな時、親父が生きてれば」
胸の傷があまりに生々しかったからか、口にするべきじゃない弱音を吐いていた。
「―――間抜け。判らなくても、自分に出来る事をやるって決めてるじゃないか」
弱音を吐くのはその後だ。
まずは、そう―――関わるのか関わらないのか、その選択をしなくては―――
「――――!?」
屋敷の天井につけられていた鐘が鳴る。
ここは腐っても魔術師の家だ。
敷地に見知らぬ人間が入ってくれば警鐘が鳴る、ぐらいの結界は張ってある。
「こんな時に泥棒か――――」
呟いて、自らの愚かさに舌を打つ。
そんな筈はない。
このタイミング、あの異常な出来事の後で、そんな筈はない。
侵入者は確かにいる。
それは泥棒なんかじゃなく、物ではなく命を奪りにきた暗殺者だ。
だって、あの男は言っていたじゃないか。
『見られたからには殺すだけだ』、と。
「―――――」
屋敷は静まりかえっている。
物音一つしない闇の中、確かに―――あの校庭で感じた殺気が、少しずつ近づいてくる。
「――――っ」
ごくり、と喉が鳴った。
背中には針のような悪寒。
幻でもなんでもなく、この部屋から出れば、即座に串刺しにされる。
「っ――――」
漏れだしそうな悲鳴を懸命に抑えた。
そんな物をこぼした瞬間、暗殺者は歓喜のていで俺を殺しに飛び込んでくるだろう。
……そうなれば、あとは先ほどの繰り返しだ。
何の準備もできていない自分は、またあの槍に貫かれる。
「――――ぁ――――はぁ、ぁ――――」
そう思った途端、呼吸が無様に乱れ出した。
頭にくる。
恐怖を感じている自分と、助けてもらった命を簡単に放棄しようとしている自分が、情けない。
「っ――――く」
歯をかみ合わせ、貫かれた胸を掻きむしって、つまらない自分を抑えつける。
いい加減、慣れるべきだ。
これで二度目。
殺されようとしているのはこれで二度目。
それだけでもさっきのような無様は見せられないっていうのに、衛宮士郎は魔術師ではないのか。
なら、こんな時に自分さえ守れなくて、この八年何を学んできたという―――!
「……いいぜ。やってやろうじゃないか」
難しい事を悩むのは止めだ。
今はただ、来たヤツを叩き出すだけ。
「……まずは、武器をどうにかしないと」
魔術師といっても、俺に出来る事は武器になりそうな物を“強化”する事だけだ。
戦うには武器がいる。
土蔵なら武器になりそうな物は山ほどあるが、ここから土蔵までは遠い。
このまま居間を出た時に襲われるとしたら、丸腰ではさっきの繰り返しになる。
……難しいが、武器はここで調達しなければならない。
出来れば細長い棒状の物が望ましい。相手の得物は槍だ。ナイフや包丁では話にならない。
木刀なんてものがあれば言うことはないのだが、そんなものは当然ない。
この居間で武器になりそうな物と言えば――――
「うわ……藤ねえが置いていったポスターしかねえ……」
がくり、と肩の力が抜ける。
が、この絶対的にどうしようもない状況に、むしろ腹が据わった。
ここまで最悪の状況なら、これ以下に落ちる事はない。
なら―――後はもう、力尽きるまで前進するだけだ。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ程度のポスターに魔力を通す。
あの槍をどうにかしようというモノに仕上げるのだから、ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては使えないだろう。
「――――構成材質、解明」
意識を細く。
皮膚ごしに、自らの血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。
「――――構成材質、補強」
こん、と底に当たる感触。
ポスターの隅々まで魔力が行き渡り、溢れる直前、
「――――全工程《トレース》、完了《オフ》」
ザン、とポスターと自身の接触を断ち、成功の感触に身震いした。
ポスターの硬度は、今では鉄並になっている。
それでいて軽さは元のままで、急造の剣としては文句なしの出来栄えだ。
「巧く、いった―――」
強化の魔術が成功したのは何年ぶりだろう。
切嗣が亡くなってから一度も形にならなかった魔術が、こんな状況で巧くいくなんて皮肉な話だ。
「ともあれ、これで――――」
なんとかなるかもしれない。
剣を扱う事なら、こっちだってそれなりに心得はある。
両手でポスターを握り締め、居間のただ中に立った。
どのみちここに留まっても殺されるし、屋敷から出たところで逃げきれるとも思えない。
なら、あとは一直線に土蔵に向かって、もっと強い武器を作るだけだ――――
「――――――ふう」
来るなら来やがれ、さっきのようにはいくもんか、と身構えた瞬間。
「―――――――!」
ぞくん、と背筋が総毛立った。
何時の間にやってきていたのか。
天井から現れたソレは、一直線に俺へと落下した。
「な………え――――?」
頭上から滑り落ちてくる銀光。
天井から透けて来たとしか思えないソイツは、脳天から俺を串刺しにせんと降下し―――
「こ――――のぉ……!!」
ただ夢中で、転がるように前へと身を躱した。
たん、という軽い着地音と、ごろごろとだらしなく転がる自分。
それもすぐさま止めて、急造の剣を持ったまま立ち上がる。
「――――」
ソイツは退屈そうな素振りで、ゆらりと俺へと振り返る。
「……余計な手間を。見えていれば痛かろうと、オレなりの配慮だったのだがな」
ソイツは気だるそうに槍を持ちかえる。
「――――」
どういう事情かは知らないが、今のアイツには校庭にいた時ほどの覇気がない。
それなら、本当に―――このまま、なんとか出し抜く事ができる……!
「……まったく、一日に同じ人間を二度殺すハメになるとはな。いつになろうと、人の世は血生臭いという事か」
男はこちらの事など眼中にない、という素振りで悪態をついている。
「――――」
じり、と少しずつ後ろに下がる。
窓まであと三メートルほど。
そこまで走り、庭に出てしまえば後は土蔵まで二十メートルあるかないかだ。
それなら、今すぐにでも――――
「じゃあな。今度こそ迷うなよ、坊主」
ぼんやりと。
ため息をつくように、男は言った。
「っぁ――――!?」
右腕に痛みが走る。
「……?」
それは一瞬の出来事だった。
あまりに無造作に、反応する間もなく男の槍が突き出された。
……本来なら、それで俺は二度目の死を迎えていただろう。
それを阻んだのは、身構えていた急造の剣である。
アイツはただの紙だとでも思ったのだろう。
ポスターなど無いかのように突き出された槍は、その紙の剣に弾かれ、こちらの右腕を掠めるに留まったのだ。
「……ほう。変わった芸風だな、おい」
男の顔から表情が消えた。
先ほどまでの油断は微塵と消え、獣じみた眼光で、こちらの動きを観察している。
「ぁ――――」
しくじった。なんとかなる、なんて度し難い慢心だった。
―――今目の前にいるのは、常識から外れた悪鬼だ。
そいつを前にして少しでも気を緩ませた自分の愚かさを痛感する。
……そう。
本当に死に物狂いだったのなら、頭上からの一撃を奇跡的にやりすごせた後、脇目も振らずに窓へ走っておくべきだったのだ……!
「ただの坊主かと思ったが、なるほど……微弱だが魔力を感じる。心臓を穿たれて生きている、ってのはそういう事か」
槍の穂先がこちらに向けられる。
「――――――――」
防げない。
あんな、閃光めいた一撃は防げない。
この男の得物がせめて剣なら、どんなに早くても身構える程度はできただろう。
だがアレは槍だ。
軌跡が線である剣と、点である槍。
初動さえ見切れない点の一撃を、どう防げというのか。
「いいぜ―――少しは楽しめそうじゃないか」
男の体が沈み込む。
刹那――――
正面からではなく、横殴りに槍が振るわれた。
顔の側面へと振るわれた槍を、条件反射だけで受け止める。
「ぐっ――――!?」
「いい子だ、ほら次行くぞ……!」
ブン、という旋風。
この狭い室内でどんな扱いをしているのか、槍は壁につかえる事もなく美しい弧を描き、
「っ……!!!!!」
今度は逆側から、フルスイングでこちらの胴を払いに来る……!
「がっ――――!!!??」
止めに入った急造の剣が折れ曲がる。
化け物―――アイツが持ってんのはハンマーか!
くそ、構えていた両腕の骨がひしゃげたんじゃないのかこの痺れ―――!
「ぐ、この――――!」
「ふん?」
反射的に剣を振るう。
こちらを舐めているのだろう、未だ戻しに入っていない槍の柄《え》を剣で弾きあげる―――!
「ぐっ……!」
叩きにいった両腕が痺れる。
急造の剣はますます折れ曲がり、男の槍はわずかだけ軌道を逸らした。
「……使えねえな。機会をくれてやったのに無駄な真似しやがって。まあ、魔術師に斬り合いを望んでも仕方ねえんだろうが―――」
男の今の行動はただの遊びだ。
二つ受けたらご褒美に打ち込んでこさせてやる、という余裕。
……その唯一にして絶対の機会を、俺はその場しのぎに使ってしまった。
故に―――この男は、俺に斬り合うだけの価値を見いださない。
「―――拍子抜けだ。やはりすぐに死ねよ、坊主」
男は打ち上げられた槍を構え直す。
「勝手に――――」
その、あるかないかの余分な動作《スキ》に。
「言ってろ間抜け――――!」
後ろも見ず、背中から窓へと飛び退いた……!
「はっ、はぁ、は――――」
背中で窓をブチ割って庭へと転がり出る。
そのまま、数回転がった後、立ち上がりざま――――「は、あ――――!」
何の確証もなく、
体ごとひねって背後へと一撃する―――!
「ぬ――――!」
突きだした槍を弾かれ、わずかに躊躇する男。
―――予想通りだ。
窓から飛び出せば、アイツは必ず追撃してくる。
それもこっちが起きあがる前に追いついて、確実に殺しにかかる。
だからこそ―――必殺の一撃がくると信じて、満身の力で剣を横に払った。
少しでも遅ければ即死、早くても空振りした隙に殺されかねない無謀な策だが、ヤツとの実力差を見てこちらが早すぎる、なんて事はない。
だからこっちがする事は、全身全霊の力で一刻も早く起き上がり、背後へと一撃する事だけだったのだ。
結果はドンピシャ、賭けそのものだった一撃は見事に男の槍をはじき返した……!
「は、っ……!」
即座に態勢を立て直す。
あとは男が怯んでいる隙に、なんとか土蔵まで走り抜ければ―――!
「――――飛べ」
「え……?」
槍を弾かれた筈の男は、槍など持たず、空手のまま俺へと肉薄し、
くるりと背中を向けて、回し蹴りを放ってきた。
「――――――――」
景色が流れていく。
蹴り上げられた胸が痺れ、呼吸ができない。
いや、それより驚くべき事は、自分が空を飛んでいるという事だ。
ただの回し蹴りで、自分の体がボールみたいに蹴り飛ばされるなんて、夢にも思――――
「ぐっ――――!」
背中から地面に落ちた。
壁にぶつかり、背中が折れる程の衝撃を受けて、ずるりと地面に落ちたのだ。
「ごほ――――っ、あ…………!」
息ができない。
視界が霞む。
壁―――目的地だった土蔵の壁に手をついて、なんとか体を奮い立たせる。
「は――――はあ、は」
霞む視界で男を追った。
……本当に、二十メートル近く蹴り飛ばされたのか。
男は槍を持ち直して、一直線に突進してくる。
「ぐ――――!」
殺される。
間違いなく殺される。
男はすぐさまやってくるだろう。
それまで―――死にたくないのなら、立ち上がって、迎え撃た、なけれ、ば――――
「――――」
迸《ほとばし》る槍の穂先。
男に振り返る事もできず、崩れ落ちそうだった体が槍を迎える。
「チィ、男だったらシャンと立ってろ……!」
なんて悪運。
体を支えきれず、膝を折ったのが幸いした。
槍は俺の頭上、土蔵の扉を強打し、重い扉を弾き開けた。
「あ――――」
だから、それが最後のチャンス。
土蔵の中に入れば、何か―――武器になるようなもの、が。
「ぐっ――――!」
四つん這いになって土蔵へ滑り込む。
そこへ――――
「そら、これで終いだ―――!」
避けようのない、必殺の槍が放たれた。
「こ――――のぉぉおおおおお!」
それを防いだ。
棒状だったポスターを広げ、一度きりの盾にする。
「ぬ……!?」
ゴン、という衝撃。
広げきったポスターでは強度もままならなかったのか。
槍こそ防いだが、ポスターは貫通され、途端に元の紙へと戻っていく。
「あ、ぐっ……!」
突き出された槍の衝撃に吹き飛ばされ、壁まで弾き飛ばされる。
「ぁ――――、づ――――」
床に尻餅をついて、止まりそうな心臓に喝を入れる。
そうして、武器になりそうな物を掴もうと顔を上げた時。
「詰めだ。今のはわりと驚かされたぜ、坊主」
目前には、槍を突きだした男の姿があった。
「―――――――――――」
もはや、この先などない。
男の槍はぴったりと心臓に向けられている。
それは知ってる。
つい数時間前に味わった痛み、容赦なく押しつけられた死の匂いだ。
「……しかし、分からねえな。機転は利くくせに魔術はからっきしときた。筋はいいようだが、まだ若すぎたか」
……男の声は聞こえない。
意識はただ、目の前の凶器に収束してしまっている。
当然だ。
だって、アレが突き出されれば自分は死ぬ。
だから他の事など余計なこと。事此処《ことここ》にいたり、今更他の何が考えられる。
「もしやとは思うが、おまえが七人目だったのかもな。
ま、だとしてもこれで終わりなんだが」
男の腕が動いた。
今まで一度も見えなかったその動きが、今はスローモーションのように見える。
走る銀光。
俺の心臓に吸い込まれるように進む穂先。
一秒後には血が出るだろう。
それを知っている。
体に埋まる鉄の感触も、
喉にせり上がってくる血の味も、
世界が消えていく感覚も、
つい先ほど味わった。
……それをもう一度? 本当に?
理解できない。なんでそんな目に遭わなくてはいけないのか。
……ふざけてる。
そんなのは認められない。こんな所で意味もなく死ぬ訳にはいかない。
助けて貰ったのだ。なら、助けてもらったからには簡単には死ねない。
俺は生きて義務を果さなければいけないのに、死んでは義務が果たせない。
それでも、槍が胸に刺さる。
穂先は肉を裂き、そのまま肋《あばら》を破り心臓を穿つだろう。
「――――」
頭に来た。
そんな簡単に人を殺すなんてふざけてる。
そんな簡単に俺が死ぬなんてふざけてる。
一日に二度も殺されるなんて、そんなバカな話もふざけてる。
ああもう、本当に何もかもふざけていて、大人しく怯えてさえいられず、
「ふざけるな、俺は――――」
こんなところで意味もなく、
おまえみたいなヤツに、
殺されてやるものか――――!!!!!!
「え―――――?」
それは、本当に。
「なに………!?」
魔法のように、現れた。
目映い光の中、それは、俺の背後から現れた。
思考が停止している。
現れたそれが、少女の姿をしている事しか判らない。
ぎいいいん、という音。
それは現れるなり、俺の胸を貫こうとした槍を打ち弾き、躊躇う事なく男へと踏み込んだ。
「―――本気か、七人目のサーヴァントだと……!?」
弾かれた槍を構える男と、手にした“何か”を一閃する少女。
二度火花が散った。
剛剣一閃。
現れた少女の一撃を受けて、たたらをふむ槍の男。
「く――――!」
不利と悟ったのか、男は獣のような俊敏さで土蔵の外へ飛び出し―――
退避する男を体で威嚇しながら、それは静かに、こちらへ振り返った。
風の強い日だ。
雲が流れ、わずかな時間だけ月が出ていた。
土蔵に差し込む銀色の月光が、騎士の姿をした少女を照らしあげる。
「――――」
声が出ない。
突然の出来事に混乱していた訳でもない。
ただ、目前の少女の姿があまりにも綺麗すぎて、言葉を失った。
「――――――――」
少女は宝石のような瞳で、何の感情もなく俺を見据えた後。
「―――問おう。貴方が、私のマスターか」
凛とした声で、そう言った。
「え……マス……ター……?」
問われた言葉を口にするだけ。
彼女が何を言っているのか、何者なのかも判らない。
今の自分に判る事と言えば―――この小さな、華奢な体をした少女も、外の男と同じ存在という事だけ。
「……………………」
少女は何も言わず、静かに俺を見つめてくる。
―――その姿を、なんと言えばいいのか。
この状況、外ではあの男が隙あらば襲いかかってくる状況を忘れてしまうほど、目の前の相手は特別だった。
自分だけ時間が止まったかのよう。
先ほどまで体を占めていた死の恐怖はどこぞに消え、今はただ、目前の少女だけが視界にある―――
「サーヴァント・セイバー、召喚に従い参上した。
マスター、指示を」
二度目の声。
その、マスターという言葉と、セイバーという響きを耳にした瞬間、
「――――っ」
左手に痛みが走った。
熱い、焼きごてを押されたような、そんな痛み。
思わず左手の甲を押さえつける。
それが合図だったのか、少女は静かに、可憐な顔を頷かせた。
「―――これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。
――――ここに、契約は完了した」
「な、契約って、なんの――――!?」
俺だって魔術師の端くれだ。その言葉がどんな物かは理解できる。
だが少女は俺の問いになど答えず、頷いた時と同じ優雅さで顔を背けた。
――――向いた先は外への扉。
その奥には、未だ槍を構えた男の姿がある。
◇◇◇
「――――」
まさか、と思うより早かった。
騎士風の少女は、ためらう事なく土蔵の外へと身を躍らせる。
「!」
体の痛みも忘れ、立ち上がって少女の後を追った。
あの娘があの男に敵う筈がない。
いくらあんな物騒な格好をしていようと、少女は俺より小さな女の子なんだ。
「やめ――――!」
ろ、と叫ぼうとした声は、その音で封じられた。
「な――――」
我が目を疑う。
今度こそ、何も考えられないぐらい頭の中が空っぽになる。
「なんだ、あいつ――――」
響く剣戟《けんげき》。
月は雲に隠れ、庭はもとの闇に戻っている。
その中で火花を散らす鋼と鋼。
土蔵から飛び出した少女に、槍の男は無言で襲いかかった。
少女は槍を一撃で払いのけ、更に繰り出される槍を弾き返し、その度《つど》、男は後退を余儀なくされる。
「――――」
信じ、られない セイバーと名乗った少女は、間違いなくあの男を圧倒していた。
―――戦いが、始まった。
先ほどの俺と男のやりとりは戦闘ではない。
戦闘とは、互いを仕留める事ができる能力者同士の争いである。
それがどのような戦力差であろうとも、相手を打倒しうる術があるのなら、それは戦闘と呼べるだろう。
そういった意味でも、二人の争いは戦闘だった。
俺では視認する事さえ出来なかった男の槍は、さらに勢いを増して少女へと繰り出される。
それを、
手にした“何か”で確実に弾き逸らし、間髪いれずに間合いへと踏み込む少女。
「チィ――――!」
憎々しげに舌打ちをこぼし、男は僅かに後退する。
手にした槍を縦に構え、狙われたであろう脇腹を防ぎに入る――――!
「ぐっ……!」
一瞬、男の槍に光が灯った。
爆薬を叩き付けるような一撃は、真実その通りなのだろう。
少女が振るう“何か”を受けた瞬間、男の槍は感電したかのように光を帯びる。
それがなんであるか、男はおろか俺にだって見て取れた。
アレは、視覚できる程の魔力の猛りだ。
少女の何気ない一撃一撃には、とんでもない程の魔力が籠もっている。
そのあまりにも強い魔力が、触れ合っただけで相手の武具に浸透しているのだ。
あんなもの、受けるだけでも相当な衝撃だろう。
男の槍が正確無比な狙撃銃だとしたら、少女の一撃は火力に物を言わせた散弾銃だ。
少女の一撃が振るわれる度に、庭は閃光に包まれる。
だが。
男が圧倒されているのは、そんな二次的な事ではない。
「卑怯者め、自らの武器を隠すとは何事か……!」
少女の猛攻を捌きながら、男は呪いじみた悪態をつく。
「――――――――」
少女は答えず、更に手にした“何か”を打ち込む……!
「テメェ……!」
男は反撃もままならず後退する。
それも当然だろう。
なにしろ少女が持つ武器は視《み》えないのだ。
相手の間合いが判らない以上、無闇に攻め込むのは迂闊すぎる。
そう、見えない。
少女は確かに“何か”を持っている。
だがそれがどのような形状なのか、どれほどの長さなのか判明しないのでは、一切が不可視のままだ。
もとから透明なのか、少女の振るう武器は火花を散らせようと形が浮かび上がらない。
「チ――――」
よほど戦いづらいのか、男には先ほどまでの切れがない。
「――――」
それに、初めて少女は声を漏らした。
手にした“何か”を振るう腕が激しさを増す。
絶え間ない、豪雨じみた剣の舞。
飛び散る火花は鍛冶場の錬鉄を思わせる。
―――それを舌打ちしながら防ぎきる槍の男。
正直、殺されかけた相手だとしても感嘆せずにはいられない。
槍の男は見えない武器を相手に、少女の腕の動きと足運びだけを頼りに確実に防いでいく―――!
「ふ――――っ!」
だがそれもそこまで。
守りに回った相手は、斬り伏せるのではなく叩き伏せるのみ。そう言わんばかりに少女はより深く男へと踏み込み、
叩き降ろすように、渾身の一撃を食らわせる……!!
「調子に乗るな、たわけ――――!」
ここが勝機と読んだか、男は消えた。
否、消えるように後ろに跳んだ。
ゴウン、と空を切って地面を砕き、土塊を巻き上げる少女の一撃。
槍の男を追い詰め、トドメとばかりに振るわれた一撃はあっけなく躱《かわ》された――――!
「バカ、なにやってんだアイツ……!」
遠くから見ても判る。
今までのような無駄のない一撃ならいざ知らず、勝負を決めにかかった大振りでは男を捉える事はできない。
男とて、何度も少女の猛攻を受けて体が軋んでいただろう。
それを圧して、この一瞬の為に両足に鞭をうって跳んだのだ。
今の一撃こそ、勝敗を決する隙と読み取って――――!
「ハ――――!」
数メートルも跳び退いた男は、着地と同時に弾けた。
三角飛びとでもいうのか、自らの跳躍を巻き戻すように少女へと跳びかかる。
対して―――少女は、地面に剣を打ち付けてしまったまま。
「――――!」
その隙は、もはや取り返しがつかない。
一秒とかからず舞い戻ってくる赤い槍と、
ぐるん、と。
地面に剣を下ろしたまま、コマのように体を反転させる少女。
「!」
故に、その攻防は一秒以内だ。
己の失態に気が付き踏みとどまろうとする男と、
一秒もかけず、体ごとなぎ払う少女の一撃――――!
「ぐっ――――!!」
「――――――――」
弾き飛ばされた男と、弾き飛ばした少女は互いに不満の色を表した。
それも当然。
お互いがお互いを仕留めようと放った必殺の手だ。
たとえ窮地を凌《しの》いだとしても、そんな物には一片の価値もあるまい。
間合いは大きく離れた。
今の攻防は互いに負担が大きかったのか、両者は静かに睨み合っている。
「―――どうしたランサー。
止まっていては槍兵の名が泣こう。そちらが来ないのなら、私が行くが」
「……は、わざわざ死にに来るか。それは構わんが、その前に一つだけ訊かせろ。
貴様の宝具――――それは剣か?」
ぎらり、と。
相手の心を射抜く視線を向ける。
「―――さあどうかな。
戦斧かも知れぬし、槍剣かも知れぬ。いや、もしや弓という事もあるかも知れんぞ、ランサー?」「く、ぬかせ剣使《セイバー》い」
それが本当におかしかったのか。
男……ランサーと呼ばれた男は槍を僅かに下げた。
それは戦闘を止める意思表示のようでもある。「?」
少女はランサーの態度に戸惑っている。
だが―――俺は、あの構えを知っている。
数時間前、夜の校庭で行われた戦い。
その最後を飾る筈だった、必殺の一撃を。
「……ついでにもう一つ訊くがな。お互い初見だしよ、ここらで分けって気はないか?」
「――――――――」
「悪い話じゃないだろう? そら、あそこで惚けているオマエのマスターは使い物にならんし、オレのマスターとて姿をさらせねえ大腑抜けときた。
ここはお互い、万全の状態になるまで勝負を持ち越した方が好ましいんだが――――」
「―――断る。貴方はここで倒れろ、ランサー」
「そうかよ。ったく、こっちは元々様子見が目的だったんだぜ? サーヴァントが出たとあっちゃ長居する気は無かったんだが――――」
ぐらり、と。
二人の周囲が、歪んで見えた。
ランサーの姿勢が低くなる。
同時に巻き起こる冷気。
―――あの時と同じだ。あの槍を中心に、魔力が渦となって鳴動している――――
「宝具――――!」
少女は剣らしき物を構え、目前の敵を見据える。
俺が口を出すまでもない。
敵がどれほど危険なのかなど、対峙している彼女がより感じ取っている。
「……じゃあな。その心臓、貰い受ける――――!」
獣が地を蹴る。
まるでコマ送り、ランサーはそれこそ瞬間移動のように少女の目前に現れ、
その槍を、彼女の足下めがけて繰り出した。
「――――」
それは、俺から見てもあまりに下策だった。
あからさまに下段に下げた槍で、さらに足下を狙うなど少女に通じる筈がない。
事実、彼女はそれを飛び越えながらランサーを斬り伏せようと前に踏み出す。
その、瞬間。
「“――――刺《ゲイ》し穿つ”」
それ自体が強力な魔力を帯びる言葉と共に、
「“――――死棘《ボルク》の槍――――!”」
下段に放たれた槍は、少女の心臓に迸っていた。
「――――!?」
浮く体。
少女は槍によって弾き飛ばされ、大きく放物線を描いて地面へと落下――――いや、着地した。
「は―――っ、く……!」
……血が流れている。
今まで掠り傷一つ負わなかった少女は、その胸を貫かれ、夥《おびただ》しいまでの血を流していた。
「呪詛……いや、今のは因果の逆転か――――!」
苦しげに声を漏らす。
……驚きはこちらも同じだ。
いや、遠くから見ていた分、彼女以上に今の一撃が奇怪な物だったと判る。
槍は、確かに少女の足下を狙っていた。
それが突如軌道を変え、あり得ない形、あり得ない方向に伸び、少女の心臓を貫いた。
だが槍自体は伸びてもいないし方向を変えてもいない。
その有様は、まるで初めから少女の胸に槍が突き刺さっていたと錯覚するほど、あまりにも自然で、それ故に奇怪だった。
軌跡を変えて心臓を貫く、などと生易しい物ではない。
槍は軌跡を変えたのではなく、そうなるように過程《じじつ》を変えたのだ。
……あの名称《ことば》と共に放たれた槍は、大前提として既に“心臓を貫いている”という“結果”を持ってしまう。
つまり、過程と結果が逆という事。
心臓を貫いている、という結果がある以上、槍の軌跡は事実を立証する為の後付でしかない。
あらゆる防御を突破する魔の棘。
狙われた時点で運命を決定付ける、使えば『必ず心臓を貫く』槍。
そんな出鱈目な一撃、誰に防ぐ事が出来よう。
敵がどのような回避行動をとろうと、槍は必ず心臓に到達する。
―――故に必殺。
解き放たれれば、確実に敵を貫く呪いの槍―――
が。
それを、少女は紙一重で躱《かわ》していた。
貫かれはしたものの、致命傷は避けている。
ある意味、槍の一撃より少女の行動は不可思議だった。
彼女は槍が放たれた瞬間、まるでこうなる事を知ったかのように体を反転させ、全力で後退したのだ。
よほどの幸運か、槍の呪いを緩和するだけの加護があったのか。
とにかく少女は致命傷を避け、必殺の名を地に落としたのだが――――
「は――――ぁ、は――――」
少女は乱れた呼吸を整えている。
あれだけ流れていた血は止まって、穿たれた傷口さえ塞がっていく―――
「――――」
桁違いとはああいうモノか。
彼女が普通じゃないのは判っていたが、それにしても並外れている。
ランサーと斬り合う技量といい、一撃ごとに叩きつけられる膨大な魔力量といい、こうしてひとりでに傷を治してしまう体といい、少女は明らかにランサーを上回っている。
……しかし、それも先ほどまでの話。
再生中といえど、少女の傷は深い。
ここでランサーに攻め込まれれば、それこそ防ぐ事も出来ず倒されるだろう。
だが。
圧倒的に有利な状況にあって、ランサーは動かなかった。
ぎり、と。
ここまで聞こえるほどの歯ぎしりを立てて少女を睨む。
「―――躱したなセイバー。我が必殺の一撃《ゲイ・ボルク》を」
地の底から響く声。
「っ……!? ゲイ・ボルク……御身はアイルランドの光の御子か――!」
ランサーの顔が曇る。
先ほどまでの敵意は薄れ、ランサーは忌々しげに舌打ちをした。
「……ドジったぜ。こいつを出すからには必殺でなけりゃヤバイってのにな。まったく、有名すぎるのも考え物だ」
重圧が薄れていく。
ランサーは傷ついた少女に追い打ちをかける事もせず、あっさりと背中を見せ、庭の隅へ移動した。
「己の正体を知られた以上、どちらかが消えるまでやりあうのがサーヴァントのセオリーだが……あいにくうちの雇い主は臆病者でな。槍が躱《かわ》されたのなら帰ってこい、なんてぬかしてやがる」
「――逃げるのか、ランサー」
「ああ。追って来るのなら構わんぞセイバー。
ただし―――その時は、決死の覚悟を抱いて来い」
トン、という跳躍。
どこまで身が軽いのか、ランサーは苦もなく塀を飛び越え、止める間もなく消え去った。
「待て、ランサー……!」
胸に傷を負った少女は、逃げた敵を追おうとして走り出す。
「バ、バカかアイツ……!」
全力で庭を横断する。
急いで止めなければ少女は飛び出していってしまいそうだったからだ。
……が、その必要はなかった。
塀を飛び越えようとした少女は、跳ぼうと腰を落とした途端、苦しげに胸を押さえて立ち止まった。
「く――――」
傍らまで走り寄って、その姿を観察する。
いや、声をかけようと近寄ったのだが、そんな事は彼女に近づいた途端に忘れた。
「――――――――」
……とにかく、何もかもが嘘みたいなヤツだった。
銀の光沢を放つ防具は、間近で見ると紛れもなく重い鎧なのだと判る。
時代がかった服も見たことがないぐらい滑らかで鮮やかな青色。
……いや、そんな事で見とれているんじゃない。
俺より何歳か年下のような少女は、その―――とんでもない美人だった。
月光に照らされた金の髪は、砂金をこぼしたようにきめ細かく。
まだあどけなさを残した顔は気品があり、白い肌は目に見えて柔らかそうだった。
「――――――――」
声をかけられないのは、そんな相手の美しさに息を呑んでいるのともう一つ。
「――――なんで」
この少女が戦って傷を負っているのかが、ひどく癇に触ったからだ。
どんなに強くて鎧で身を守っていようと、女の子が戦わなくちゃいけないなんていうのは、なにか間違っていると思う。
俺がぼんやりと少女に見とれていた間、少女はただ黙って胸に手を当てていた。
それもすぐに終わった。
痛みが引いたのか、少女は胸から手を離して顔を上げる。
まっすぐにこちらを見据える瞳。
それになんて答えるべきか、と戸惑って、彼女の姿に気が付いた。
「……傷が、なくなってる……?」
心臓を外したとはいえ、あの槍で胸を貫かれたというのに、まったく外傷がない。
……治療の魔術がある、とは聞いているけど、魔術が行われた気配はなかった。
つまりコイツは、傷を受けようが勝手に治るという事か――――
「――――っ」
それで頭が切り替わった。
見とれている場合じゃない、コイツは何かとんでもないヤツだ。正体が判らないまま気を許していい相手じゃない。
「―――おまえ、何者だ」
半歩だけ後ろに下がって問う。
「? 何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。
……貴方が私を呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう」
静かな声で、眉一つ動かさず少女は言った。
「セイバーのサーヴァント……?」
「はい。ですから私の事はセイバーと」
さらりと言う。
その口調は慇懃《いんぎん》なくせに穏やかで、なんていうか、耳にするだけで頭ん中が白く―――
「――――っ」
……って、なにを動揺してんだ俺は……!
「そ、そうか。ヘンな名前だな」
熱くなっている頬を手で隠して、なにかとんでもなくバカな返答をした。けどそれ以外なんて言えばいいのか。
そんなの俺に判る筈もないし、そもそも俺が何者かって訊いたんだから名前を言うのは普通だよな―――ってならいつまでも黙ったままなのは失礼なのではないかとか。
「……俺は士郎。衛宮士郎っていって、この家の人間だ」
―――どうかしてる。
なんか、さらに間抜けな返答をしてないか俺。
いやでも、名前を言われたんだからともかく名乗り返さないといけない。
我ながら混乱しているのは分かっているが、どんな相手にだって筋は通さないとダメなのだ。
「――――――――」
少女……セイバーは変わらず、やっぱり眉一つ動かさないで、混乱している俺を見つめている。
「いや、違う。今のはナシだ、訊きたいのはそういう事でなくて、つまりだな」
「解っています。貴方は正規のマスターではないのですね」
「え……?」
「しかし、それでも貴方は私のマスターです。契約を交わした以上、貴方を裏切りはしない。そのように警戒する必要はありません」
「う……?」
やばい。
彼女が何を言っているのか聞き取れているクセにちんぷんかんぷんだ。
判っているのは、彼女が俺の事を主人《マスター》なんて、とんでもない言葉で呼んでいる事ぐらい。
「それは違う。俺、マスターなんて名前じゃないぞ」
「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」
「っ…………!」
彼女にシロウと口にされた途端、顔から火が出るかと思った。
だって初対面の相手なら名前じゃなくて名字で呼ばないかフツー……!?
「ちょっと待て、なんだってそっちの方を――――」
「痛っ……!」
突然、左手に痺れが走った。
「あ、熱っ……!」
手の甲が熱い。
まるで発火しているかのような熱さをもった左手には、 入れ墨のような、おかしな紋様が刻まれていた。
「な――――」
「それは令呪と呼ばれるものですシロウ。
私たちサーヴァントを律する三つの命令権であり、マスターとしての命でもある。無闇な使用は避けるように」
「お、おまえ――――」
一体なんだ、と今度こそ問いつめようとした矢先、彼女の雰囲気が一変した。
「―――シロウ、傷の治療を」
冷たい声で言う。
その意識は俺にではなく、遠く―――塀の向こうに向けられているようだった。
けど治療って、俺にしろっていうのか……?
「待て、まさか俺に言ってるのか? 悪いけどそんな難しい魔術は知らないし、それにもう治ってるじゃないか、それ」
セイバーは僅かに眉を寄せる。
……なんか、とんでもない間違いを口にした気がする。
「……ではこのままで臨みます。自動修復は外面を覆っただけですが、あと一度の戦闘ならば支障はないでしょう」
「……? あと一度って、何を」
「外の敵は二人。この程度の重圧なら、数秒で倒しうる相手です」
言って、セイバーは軽やかに跳躍した。
ランサーと同じ、塀を飛び越えて外に出る。
あとに残ったのは、庭に取り残された俺だけだった。
「……外に、敵?」
口にした途端、それがどんな事なのか理解した。
「ちょっと待て、まだ戦うっていうのかおまえ……!」
体が動く。
後先考えず、全力で門へと走り出した。
「はっ、はっ、は――――!」
門まで走って、慌てる指で閂を外して飛び出る。
「セイバー、何処だ……!?」
闇夜に目を凝らす。
こんな時に限って月は隠れ、あたりは闇に閉ざされている。
だが――――
すぐ近くで物音がした。
「そこか……!」
人気のない小道に走り寄る。
―――それは、一瞬の出来事だった。
見覚えのある赤い男とセイバーが対峙している。
セイバーはためらう事なく赤い男へと突進し、一撃で相手の態勢を崩して―――
◇◇◇
たやすく赤い男を斬り伏せた。
トドメとばかりに腕を振り上げるセイバー。
が、赤い男は首を刎ねられる前、強力な魔術の発動と共に消失した。
セイバーは止まらない。
そのまま、男の奥にいた相手へと疾走し、
そして―――敵が放った大魔術を、事もなげに消滅させた。
「な――――」
強いとは知っていたが、圧倒的すぎる。
今の魔術は、俺なんかじゃ足下にも及ばないほどの干渉魔術だ。
威力だけなら切嗣《オヤジ》だって負けてはいないが、あれだけの自然干渉をノータイムで行うなど、一流の魔術師でも可能かどうか。
だが、そんな達人クラスの魔術でさえ、セイバーはあっけなく無効化させた。
敵は魔術師なのか、それで勝負はついた。
魔術師の攻撃はセイバーには通用せず、セイバーは容赦なく魔術師に襲いかかる。
どん、と尻餅をつく音。
奇跡的にセイバーの一撃を躱したものの、敵はそれで動けなくなった。
セイバーは敵を追いつめ、その視えない剣を突きつける。
「――――」
意識が凍る。
一瞬、月が出てくれたからだろう。
セイバーが追いつめている相手が人間なのだと見てとれた。
それが誰であるかまでは判らないが、人を殺して返り血を浴びているセイバーの姿だけが、咄嗟《とっさ》に脳裏に描かれた。
「――――」
セイバーの体が動く。
その手にした“何か”で、相手の喉を貫こうと―――
「止めろセイバーーーーーーーー!!!!!!」
精一杯、力の限り叫んだ。
ピタリと止まる剣。
……視えないという事は、精神的に良かったのかもしれない。
彼女の視えない剣の切っ先は、未だ相手の血で濡れてはいなかった。
「……止めろ。頼むから止めてくれ、セイバー」
セイバーを睨みつけながら言った。
彼女を止めるのなら全力で挑まなければ止められまい、と覚悟して。
「何故止めるのですシロウ。彼女はアーチャーのマスターです。ここで仕留めておかなければ」
違う、セイバーはやっぱり止める気なんてない。
俺が言っているから止めているだけで、すぐにでも剣を振るおうとしている……!
「だ、だから待てって言ってるだろう! 俺のことをマスターだとかなんとか言ってるけど、こっちはてんで解らないんだ。俺の事をマスターなんて呼ぶんなら、少しは説明するのが筋ってもんだろう……!」
「………」
セイバーは答えない。
静かに俺を見据えて佇むだけだ。
「順番が違うだろ、セイバー。俺はまだおまえがなんなのか知らない。けど話してくれるなら聞くから、そんな事は止めてくれ」
「…………」
セイバーは黙っている。
倒れ込んだ相手に剣を突きつけたまま、納得いかなげに俺を見据える。
「そんな事、とはどのような事か。
貴方は無闇に人を傷つけるな、などという理想論をあげるのですか」
「え……?」
無闇に人を傷つけるなって……?
いや、そりゃあ出来るかぎり争いは避けるべきだけど、襲ってきた相手に情を移すほどお人好しじゃないぞ、俺。
「つまり貴方は、敵であれ命を絶つなと言いたいのでしょう? そのような言葉には従いません。敵は倒すものです。それでも止めろと言うのであれば、令呪を以って私を律しなさい」
「? いや、そんな事っていうのはおまえの事だ。女の子が剣なんて振り回すもんじゃない。怪我をしてるなら尚更だろ。
……って、そっか、ホントに剣を持ってるかどうかは判らないんだっけ―――ああいや、とにかく女の子なんだから、そういうのはダメだっ!」
「――――――――」
途端。毒気を抜かれたように、ぽかんとセイバーは口を開けた。
そんな状態のまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。
「………で? 何時になったら剣を下げてくれるのかしらね、セイバーさんは」
不意に、尻餅をついていた誰かが言った。
「――――!」
とっさに元に戻って、剣に力を込めるセイバー。
「諦めなさい。敵を前にして下げる剣は有りません」
「貴女のマスターは下げろって言っているのに?
へえ、セイバーともあろうサーヴァントが主に逆らうっていうんだ」
「――――――――」
ぎり、と歯を噛んだ後。
セイバーは剣を下げ、手の平から力を抜いた。
それで剣は仕舞われたのか、セイバーから殺気が消える。
「そ。なら立ってもいいのよね、わたし」
尻餅をついていた誰かが立ち上がる。
ぱんぱん、とお尻を叩いているあたり、なんていうかふてぶてしい。
……って、ちょっと、待て。
あーあ、とばかりにふてくされているのは、その、間違いなく、ええぇーーーーー!?
「お、おまえ遠坂……!?」
「ええ。こんばんは、衛宮くん」
にっこり、と極上の笑みで返してくる遠坂凛。
「あ――――う?」
それは、参った。
そんな何げなく挨拶をされたら、今までの異常な出来事が嘘みたいな気がして、ああいや、だからその、すでに頭がパンクしそうというか、いっそパンクしたらどんなに楽か――――!
「ああ、いや、だから、ええっとつまり、さっきの魔術は遠坂が使ったって事だから、つまり――――」
「魔術師って事でしょ? ま、お互い似たようなもんだし隠す必要もないわよね」
「ぐ――――」
だから、そうもはっきり言われると訊いてるこっちが間抜けみたいじゃないか―――
「いいから話は中でしましょ。どうせ何も解ってないんでしょ、衛宮くんは」
さらりと言って、遠坂はずんずん門へと歩いていく。
「え―――待て遠坂、なに考えてんだおまえ……!」
と―――
振り向いた遠坂の顔は、さっきまでの笑顔とは別物だった。
「バカね、いろいろ考えてるわよ。だから話をしようって言ってるんじゃない。
衛宮くん、突然の事態に驚くのもいいけど、素直に認めないと命取りって時もあるのよ。ちなみに今がその時だとわかって?」
じろり、と敵意を込めて睨まれる。
「――――っ」
「分かればよろしい。それじゃ行こっか、衛宮くんのおうちにね」
遠坂は衛宮の門をくぐっていく。
「……なんかすげえ怒ってるぞ、あいつ……」
いや、考えてみれば当然だ。
なにしろついさっきまで剣を突きつけられ、命を奪われるところだったんだから。
「いや、それにしたって」
なんか、学校の遠坂とはイメージが百八十度違うのは気のせいなんだろうか……。
で、なんでか不思議な状況になってしまった。
目の前にはずんずんと歩いていく学校のアイドル、一応憧れていたりした遠坂凛がいて、
背後には無言で付いてくる金髪の少女、自らをサーヴァントと名乗るセイバーがいる。
「………………」
あ。
なんか、廊下が異次元空間のような気がしてきた。
が、いつまでも腑抜けのままではいられない。
俺だって半人前と言えど魔術師だ。
同じく魔術師であるらしい遠坂がここまで堂々としているのだから、俺だってしっかりしなければ馬鹿にされる。
……と言っても、俺に考えつくのは僅かな事だ。
まず、後ろに付いてきているセイバー。
彼女が俺をマスターと呼び、契約したというからには使い魔の類であるのは間違いない。
使い魔とは、魔術師を助けるお手伝い的なモノだと聞く。
たいていは魔術師の体の一部を他者に移植し、分身として使役されるモノを言うのだとか。
このおり、分身とする他者は小動物が基本とされる。
単純に、猫や犬ならば意識を支配するのが容易い為だ。
中には人間を使い魔とする魔術師もいるが、その為には人間一人を絶えず束縛するだけの魔力を持たなければならない。
が、人間一人を支配する魔力なんて常時使っていたら、その魔術師は魔力の大半を使い魔の維持に費やす事になる。
それでは本末転倒である。
使い魔とは魔術師の助けとなるモノ。
できるだけ魔術師に負担をかけないよう、使役するのにあまり力を使わない小動物が適任とされる。
……確かにそう教わりはしたけど、しかし。
「? 何かあるのですか、シロウ」
「……ああいや、なんでもない」
……セイバーはどう見ても人間だ。しかも明らかに主である俺より優れている。
そんな相手を縛り付ける魔力なんて俺にはないし、そもそも使い魔を使役するだけの魔術回路もない。
「…………」
だから、きっとセイバーは使い魔とは似て非なるモノの筈だ。
彼女は自分をサーヴァントと言っていた。
それがどんなモノかは知らないが、あのランサーという男も、遠坂が連れていた赤い男も同じモノなのだと思う。
となると、遠坂もマスターと呼ばれる者の筈だ。
あいつの魔術の冴えは先ほど垣間見た。
俺が半人前だとしたら、遠坂は三人前……というか、そもそも強化の魔術しか使えない俺と他の魔術師を比べても仕方がない。
ともかく、遠坂凛はとんでもない魔術師だ。
霊的に優れた土地には、その土地を管理する魔術師の家系がある。
衛宮家は切嗣の代からこの町にやってきたから、いうなれば他所者《よそもの》だ。
だから遠坂が魔術師だと知らなかったし、遠坂の方も俺が魔術を習っている、なんて知らなかったに違いない。
……この町には、俺の知らない魔術師が複数いる。
ランサーとやらも他の魔術師の使い魔だとしたら、俺はつまり、魔術師同士の争いに足を突っ込んだという事だろうか――――
「へえ、けっこう広いのね。和風っていうのも新鮮だなぁ。
あ、衛宮くん、そこが居間?」
なんて言いながら居間に入っていく遠坂。
「………………」
考えるのはここまでだ。
とにかく遠坂に話を聞こう。
電気をつける。
時計は午前一時を回っていた。
「うわ寒っ! なによ、窓ガラス全壊してるじゃない」
「仕方ないだろ、ランサーってヤツに襲われたんだ。なりふり構ってられなかったんだよ」
「あ、そういう事。じゃあセイバーを呼び出すまで、一人でアイツとやり合ってたの?」
「やりあってなんかない。ただ一方的にやられただけだ」
「ふうん、ヘンな見栄はらないんだ。……そっかそっか、ホント見た目通りなんだ、衛宮くんって」
何が嬉しいのか、遠坂は割れた窓ガラスまで歩いていく。
「?」
遠坂はガラスの破片を手に取ると、ほんの少しだけまじまじと観察し―――
「――――Minuten vor Schweien」
ぷつり、と指先を切って、窓ガラスに血を零した。
「!?」
それはどんな魔術か。
粉々に砕けていた窓ガラスはひとりでに組み合わさり、数秒とかからず元通りになってしまった。
「遠坂、今の――――」
「ちょっとしたデモンストレーションよ。助けて貰ったお礼にはならないけど、一応筋は通しておかないとね」
「……ま、わたしがやらなくともそっちで直したんだろうけど、こんなの魔力の無駄遣いでしょ? ホントなら窓ガラスなんて取り替えれば済むけど、こんな寒い中で話すのもなんだし」
当たり前のように言う。
が、言うまでもなく、彼女の腕前は俺の理解の外だった。
「―――いや、凄いぞ遠坂。俺はそんな事できないからな。直してくれて感謝してる」
「? 出来ないって、そんな事ないでしょ?
ガラスの扱いなんて初歩の初歩だもの。たった数分前に割れたガラスの修復なんて、どこの学派でも入門試験みたいなものでしょ?」
「そうなのか。俺は親父にしか教わった事がないから、そういう基本とか初歩とか知らないんだ」
「――――はあ?」
ピタリ、と動きを止める遠坂。
……しまった。なんか、言ってはいけない事を口にしたようだ。
「……ちょっと待って。じゃあなに、衛宮くんは自分の工房の管理もできない半人前ってこと?」
「……? いや、工房なんて持ってないぞ俺」
……あー、まあ鍛練場所として土蔵があるが、アレを工房なんて言ったら遠坂のヤツ本気で怒りそうだし。
「…………まさかとは思うけど、確認しとく。もしかして貴方、五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」
おう、と素直に頷いた。
「………………」
うわ、こわっ。
なまじ美人なだけに黙り込むともの凄く迫力あるぞ、こいつ。
「なに。じゃあ貴方、素人?」
「そんな事ないぞ。一応、強化の魔術ぐらいは使える」
「強化って……また、なんとも半端なのを扱うのね。で、それ以外はからっきしってワケ?」
じろり、と睨んでくる遠坂。
「……まあ、端的に言えば、たぶん」
さすがに視線が痛くて、なんとも煮え切らない返答をしてしまった。
「――――はあ。なんだってこんなヤツにセイバーが呼び出されるのよ、まったく」
がっかり、とため息をつく。
「…………む」
なんか、腹が立つ。
俺だって遊んでたワケじゃない。
こっちが未熟なのは事実だけど、それとこれとは話が別だと思う。
「ま、いいわ。もう決まった事に不平をこぼしても始まらない。そんな事より、今は借りを返さないと」
ふう、と一息つく遠坂。
「それじゃ話を始めるけど。
衛宮くん、自分がどんな立場にあるのか判ってないでしょ」
「――――」
こくん、と頷く。
「やっぱり。ま、一目で判ったけど、一応確認しとかないとね。知ってる相手に説明するなんて心の贅肉だし」
「?」
なんか、今ヘンな言い回しを聞いた気がするけど、ここで茶々を入れたら殴られそうなので黙った。
「率直に言うと、衛宮くんはマスターに選ばれたの。
どっちかの手に聖痕があるでしょ? 手の甲とか腕とか、個人差はあるけど三つの令呪《れいじゅ》が刻まれている筈。それがマスターとしての証よ」
「手の甲って……ああ、これか」
「そ。それはサーヴァントを律する呪文でもあるから大切にね。令呪っていうんだけど、それがある限りはサーヴァントを従えていられるわ」
「……? ある限りって、どういう事だよ」
「令呪は絶対命令権なの。サーヴァントには自由意思があるって気づいていると思うけど、それをねじ曲げて絶対に言いつけを守らせる呪文がその刻印」
「発動に呪文は必要なくて、貴方が令呪を使用するって思えば発動するから。
ただし一回使う度に一つずつ減っていくから、使うのなら二回だけに留めなさい。
で、その令呪がなくなったら衛宮くんは殺されるだろうから、せいぜい注意して」
「え……俺が、殺される――――?」
「そうよ。マスターが他のマスターを倒すのが聖杯《せいはい》戦争の基本だから。そうして他の六人を倒したマスターには、望みを叶える聖杯が与えられるの」
「な――――に?」
ちょっ、ちょっと待て。
遠坂のヤツが何を言っているのかまったく理解できない。
マスターはマスターを倒す、とか。
そうして最後には聖杯が手に入るとか……って、聖杯って、そもそもあの聖杯の事か……!?
「まだ解らない? ようするにね、貴方はあるゲームに巻き込まれたのよ。
聖杯戦争っていう、七人のマスターの生存競争。他のマスターを一人残らず倒すまで終わらない、魔術師同士の殺し合いに」
それがなんでもない事のように、遠坂凛は言い切った。
「――――――――」
頭の中で、聞いたばかりの単語が回る。
マスターに選ばれた自分。
マスターだという遠坂。
サーヴァントという使い魔。
―――それと。
聖杯戦争という、他の魔術師との殺し合い――――
「待て。なんだそれ、いきなり何言ってんだおまえ」
「気持ちは解るけど、わたしは事実を口にするだけよ。
……それに貴方だって、心の底では理解してるんじゃない? 一度ならず二度までもサーヴァントに殺されかけて、自分はもう逃げられない立場なんだって」
「――――――――」
それは。
確かに、俺はランサーとかいうヤツに殺されかけた、けど。
「あ、違うわね。殺されかけたんじゃなくて殺されたんだっけ。よく生き返ったわね、衛宮くん」
「――――」
遠坂の追い打ちは、ある意味トドメだった。
……確かにその通りだ。
アイツは俺を殺し、俺は確かに殺された。
そこには何のいいわけも話し合いも通じず、俺はただ殺されるだけの存在だったのだ。
だから。
その、訳のわからない殺し合いを否定したところで、 他の連中が手を引いてくれるなんて事はない。
「――――」
「納得した? ならもう少しだけ話をしてあげる。
聖杯戦争というのが何であるかわたしもよくは知らない。
ただ何十年に一度、七人のマスターが選ばれ、マスターにはそれぞれサーヴァントが与えられるって事だけは確かよ」
「わたしもマスターに選ばれた一人。だからサーヴァントと契約したし、貴方だってセイバーと契約した。
サーヴァントは聖杯戦争を勝ち残る為に聖杯が与えた使い魔と考えなさい。
で、マスターであるわたしたちは自分のサーヴァントと協力して、他のマスターを始末していくわけね」
「…………」
遠坂の説明は簡潔すぎて、実感を得るには遠すぎた。
それでも一つだけ、先ほどから疑問に思っていた事がある。
「……ちょっと待ってくれ。遠坂はセイバーを使い魔だっていうけど、俺にはそうは思えない。
だって使い魔っていうのは猫とか鳥だろ。そりゃ人の幽霊を扱うヤツもいるって言うけど、セイバーはちゃんと体がある。それに、その―――とても、使い魔なんかに見えない」
ちらりとセイバーを盗み見る。
セイバーは俺と遠坂の会話を、ただ黙って聞いていた。
……その姿は人間そのものだ。
正体は判らないが、自分とそう歳の違わない女の子。
そんな子が近くにいるだけで冷静じゃいられないのに、それが使い魔だなんて言われても実感が湧かないし、なにより、心臓がばっくんばっくん言って困る。
「使い魔ね―――ま、サーヴァントはその分類ではあるけど、位置づけは段違いよ。何しろそこにいる彼女はね、使い魔としては最強とされるゴーストライナーなんだから」
「ゴーストライナー……? じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」
とうの昔に死んでいる人間の霊。
死した後もこの世に姿を残す、卓越した能力者の残留思念。
だが、それはおかしい。
幽霊は体を持たない。霊が傷つけられるのは霊だけだ。
故に、肉を持つ人間である俺が、霊に直接殺されるなんてあり得ない。
「幽霊……似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。
サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」
「――――はあ? 受肉した過去の英雄?」
「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄をこう引っ張ってきてね、実体化させるのよ」
「ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。
魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ」
「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」
セイバーを見る。
なら彼女も英雄だった人間なのか。
いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって―――
「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない」
「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない」
「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……?」
「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の枠から外されて、一段階上に昇華するって話、聞いたことない?
英霊っていうのはそういう連中よ。
ようするに崇《あが》め奉《たてまつ》られて、擬似的な神さまになったモノたちなんでしょうね」
「降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な“霊を扱う魔術”は英霊《かれら》の力の一部を借り受けて奇蹟を起こすでしょ。
けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。
だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ」
「……む。その、霊体と実体を使い分けられるって事か。
……遠坂のサーヴァントは姿が見えないけど、今は霊体って事か?」
「いえ、アイツはうちの召喚陣で傷を癒してる最中よ。
さっきセイバーにやられたでしょ。あれだって、あと少し強制撤去が遅かったら首を刎ねられて消滅してたわ」
「いい、サーヴァントを倒せるのは同じ霊体であるサーヴァントだけ。そりゃあ相手が実体化していればこっちの攻撃も当たるから、うまくすれば倒せるかもしれない。
けど、サーヴァントはみんな怪物じみてるでしょ? だから怪物の相手は怪物に任せて、マスターは後方支援をするっていうのがセオリーね」
「…………む」
遠坂の説明は、なんか癇に触る。
怪物怪物って、他のサーヴァントがどうだかは知らないけど、セイバーにはそんな形容を当て嵌《は》めてほしくない。
「とにかくマスターになった人間は、召喚したサーヴァントを使って他のマスターを倒さなければならない。
そのあたりは理解できた?」
「……言葉の上でなら。けど、納得なんていってないぞ。
そもそもそんな悪趣味な事を誰が、何の為に始めたんだ」
「それはわたしが知るべき事でもないし、答えてあげる事でもない。そのあたりはいずれ、ちゃんと聖杯戦争を監督しているヤツに聞きなさい。
わたしが教えてあげられるのはね、貴方はもう戦うしかなくて、サーヴァントは強力な使い魔だからうまく使えって事だけよ」
遠坂はそれだけ言うと、今度はセイバーへ視線を向ける。
「さて。衛宮くんから話を聞いた限りじゃ貴女は不完全な状態みたいね、セイバー。マスターとしての心得がない魔術師見習いに呼び出されたんだから」
「……ええ。貴方の言う通り、私は万全ではありません。
シロウには私を実体化させるだけの魔力がない為、霊体に戻る事も、魔力の回復も難しいでしょう」
「……驚いたわ。そこまで酷かった事もだけど、貴女が正直に話してくれるなんて思わなかった。どうやって弱みを聞き出そうかなって程度だったのに」
「敵に弱点を見抜かれるのは不本意ですが、貴女の目は欺けそうにない。こちらの手札を隠しても意味はないでしょう。
それならば貴方に知ってもらう事で、シロウにより深く現状を理解してもらった方がいい」
「正解。風格も十分、と。……ああもう、ますます惜しいっ。わたしがセイバーのマスターだったら、こんな戦い勝ったも同然だったのに!」
悔しそうに拳を握る遠坂。
「む。遠坂、それ俺が相応しくないって事か」
「当然でしょ、へっぽこ」
うわ。心ある人なら言いにくいコトを平然といったぞ、今。
「なに? まだなんか質問があるの?」
しかも自覚なし。
学校での優等生然としたイメージがガラガラと崩れていく。
……さすがだ一成。たしかに遠坂は、鬼みたいに容赦がない。
「さて。話がまとまったところでそろそろ行きましょうか」
と。
遠坂はいきなり、ワケの分らないコトを言いだした。
「? 行くって何処へ?」
「だから、貴方が巻き込まれたこのゲーム……“聖杯戦争”をよく知ってるヤツに会いに行くの。衛宮くん、聖杯戦争の理由について知りたいんでしょ?」
「―――それは当然だ。けどそれって何処だよ。もうこんな時間なんだし、あんまり遠いのは」
「大丈夫、隣町だから急げば夜明けまでには帰ってこれるわ。それに明日は日曜なんだから、別に夜更かししてもいいじゃない」
「いや、そういう問題じゃなくて」
単に今日は色々あって疲れてるから、少し休んでから物事を整理したいだけなのだが。
「なに、行かないの? ……まあ衛宮くんがそう言うんならいいけど、セイバーは?」
なぜかセイバーに意見を求める遠坂。
「ちょっと待て、セイバーは関係ないだろ。あんまり無理強いするな」
「おっ、もうマスターとしての自覚はあるんだ。わたしがセイバーと話すのはイヤ?」
「そ、そんなコトあるかっ! ただ遠坂の言うのがホントなら、セイバーは昔の英雄なんだろ。ならこんな現代に呼び出されて右も左も分からない筈だ。
だから―――」
「シロウ、それは違う。サーヴァントは人間の世であるのなら、あらゆる時代に適応します。ですからこの時代の事もよく知っている」
「え――――知ってるって、ほんとに?」
「勿論。この時代に呼び出されたのも一度ではありませんから」
「な――――」
「うそ、どんな確率よそれ……!?」
あ、遠坂も驚いてる。
……という事は、セイバーの言ってる事はとんでもない事なのか。
「シロウ、私は彼女に賛成です。貴方はマスターとして知識がなさすぎる。貴方と契約したサーヴァントとして、シロウには強くなってもらわなければ困ります」
セイバーは静かに見据えてくる。
……それはセイバー自身ではなく、俺の身を案じている、穏やかな視線だった。
「……分かった。行けばいいんだろ、行けば。
で、それって何処なんだ遠坂。ちゃんと帰ってこれる場所なんだろうな」
「もちろん。行き先は隣町の言峰教会。そこがこの戦いを監督してる、エセ神父の居所よ」
にやり、と意地の悪い笑みをこぼす遠坂。
アレは何も知らない俺を振り回して楽しいんでいる顔だ。
「………………」
偏見だけど。
あいつの性格、どこか問題ある気がしてきたぞ……。
◇◇◇
夜の町を歩く。
深夜一時過ぎ、外に出ている人影は皆無だ。
家々の明かりも消えて、今は街灯だけが寝静まった町を照らしている。
「なあ遠坂。つかぬ事を訊くけど、歩いて隣町まで行く気なのか」
「そうよ? だって電車もバスも終わってるでしょ。いいんじゃない、たまには夜の散歩っていうのも」
「そうか。一応訊くけど、隣町までどのくらいかかるか知ってるか?」
「えっと、歩いてだと一時間ぐらいかしらね。ま、遅くなったなら帰りはタクシーでも拾えばいいでしょ」
「そんな余分な金は使わないし、俺が言いたいのは女の子が夜出歩くのはどうかって事だ。最近物騒なのは知ってるだろ。もしもの事があったら責任持てないぞ、俺」
「安心しなさい、相手がどんなヤツだろうとちょっかいなんて出してこないわ。衛宮くんは忘れてるみたいだけど、そこにいるセイバーはとんでもなくお強いんだから」
「あ」
そう言えばそうだ。
通り魔だろうがなんだろうが、セイバーに手を出したらそれこそ返り討ちだろう。
「凛。シロウは今なにを言いたかったのでしょう。私には理解できなかったのですが」
「え? いえ、大した勘違いっぷりって言うか、大間抜けっていうか。なんでもわたしたちが痴漢に襲われたら衛宮くんが助けてくれるんだって」
「そんな、シロウは私のマスターだ。それでは立場が逆ではないですか」
「そういうの考えてないんじゃない? 魔術師とかサーヴァントとかどうでもいいって感じ。あいつの頭の中、一度見てみたくなったわねー」
「………………」
遠坂とセイバーは知らぬ間に話をするぐらいの仲になっている。
セイバーはと言えば、出かける時にあの姿のままで出ようとしたのを止めた時から無言だ。
どうしても鎧は脱がない、というので仕方なく雨合羽を着せたら、ますます無言になってしまった。
今ではツカツカと俺の後を付いてきて、遠坂とだけ話をしている。
「あれ? どっちに行くのよ衛宮くん。そっち、道が違うんじゃない?」
「橋に出ればいいんだろ。ならこっちのが近道だ」
二人と肩を並べて歩くのは非常に抵抗があったので、早足で横道に入った。
二人は文句一つなく付いてくる。
川縁の公園に出た。
あの橋を渡って、隣町である新都へ行くのだが―――
「へえ、こんな道あったんだ。そっか、橋には公園からでも行けるんだから、公園を目指せばいいのね」
声を弾ませて橋を見上げる遠坂。
夜の公園、という場所のせいだろうか。
橋を見上げる遠坂の横顔は、学校で見かける時よりキレイに見えて、まいる。
「いいから行くぞ。別に遊びに来たわけじゃないんだから」
公園で立ち止まっている遠坂を促して階段を上る。
橋の横の歩道にさえ辿り着けば、あとは新都まで一直線だ。
歩道橋に人影はない。
それも当然、昼間でさえここを使う人は少ないのだ。
隣町まではバスか電車で行くのが普通で、この歩道橋はあまり使われない。
なにしろ距離があまりにも長いし、どうも作りが頑丈でないというか、いつ崩れてもおかしくないような杞憂をさせるというか。
ロケーション的には文句無しなのにデートコースに使われないのも、そのあたりが原因だろう。
「……馬鹿らしい。なに考えてんだ、俺」
無言で後を付いてくるセイバーと、すぐ横で肩を並べている遠坂。
その二人を意識しないようにと努めて、とにかく少しでも早く橋を渡ろうと歩を速めた。
橋を渡ると、遠坂は郊外へ案内しだした。
新都と言えば駅前のオフィス街しか頭に浮かばないが、駅から外れれば昔ながらの街並みが残っている。
郊外はその中でも最たるものだ。
なだらかに続く坂道と、海を望む高台。
坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、丘の斜面に建てられた外人墓地が目に入ってくる。
「この上が教会よ。衛宮くんも一度ぐらいは行った事があるんじゃない?」
「いや、ない。あそこが孤児院だったって事ぐらいは知ってるけど」
「そう、なら今日が初めてか。じゃ、少し気を引き締めた方がいいわ。あそこの神父は一筋縄じゃいかないから」
遠坂は先だって坂を上がっていく。
……見上げれば、坂の上には建物らしき影が見えた。
高台の教会。
今まで寄りつきもしなかった神の家に、こんな目的で足を運ぶ事になろうとは。
「うわ―――すごいな、これ」
教会はとんでもない豪勢さだった。
高台のほとんどを敷地にしているのか、坂を上がりきった途端、まったいらな広場が出迎えてくれる。
その奥に建てられた教会は、そう大きくはないというのに、聳《そび》えるように来た者を威圧していた。
「シロウ、私はここに残ります」
「え? なんでだよ、ここまで来たのにセイバーだけ置いてけぼりなんて出来ないだろ」
「私は教会に来たのではなく、シロウを守る為についてきたのです。シロウの目的地が教会であるのなら、これ以上遠くには行かないでしょう。ですから、ここで帰りを持つ事にします」
きっぱりと言うセイバー。
どうもテコでも動きそうにないので、ここは彼女の意思を尊重することにした。
「分かった。それじゃ行ってくる」
「はい。誰であろうと気を許さないように、マスター」
広い、荘厳な礼拝堂だった。
これだけの席があるという事は、日中に訪れる人も多いという事だろう。
これほどの教会を任されているのだから、ここの神父はよほどの人格者と見える。
「遠坂。ここの神父さんっていうのはどんな人なんだ」
「どんな人かって、説明するのは難しいわね。十年来の知人だけど、わたしだって未だにアイツの性格は掴めないもの」
「十年来の知人……? それはまた、随分と年期が入った関係だな。もしかして親戚か何かか?」
「親戚じゃないけど、わたしの後見人よ。ついでに言うと兄弟子にして第二の師っていうところ」
「え……兄弟子って、魔術師としての兄弟子!?」
「そうだけど。なんで驚くのよ、そこで」
「だって神父さんなんだろ!? 神父さんが魔術なんて、そんなの御法度じゃないか!」
そう、魔術師と教会は本来相容れないものだ。
魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、
一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。
この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが、隙あらばいつでも殺し合いをする物騒な関係だ。
教会は異端を嫌う。
人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。
教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが取得するもの。それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。
それは教会に属する人間であろうと例外ではない。
教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。
こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが――――
「……いや。そもそもここの神父さんってこっち側の人だったのか」
「ええ。聖杯戦争の監督役を任されたヤツだもの、バリッバリの代行者よ。……ま、もっとも神のご加護があるかどうかは疑問だけど」
かつん、かつん、と足音をたてて祭壇へと歩いていく遠坂。
神父さんがいないというのにお邪魔するのもなんだが、そもそもこんな夜更けなのだ。
礼拝堂にいる訳もなし、訪ねるのなら奥にあるであろう私室だろう。
「……ふうん。で、その神父さんはなんていうんだ? さっきは言峰《ことみね》とかなんとか言ってたけど」
「名前は言峰綺礼《ことみねきれい》。父さんの教え子でね、もう十年以上顔を合わせてる腐れ縁よ。……ま、できれば知り合いたくなかったけど」
「―――同感だ。私も、師を敬わぬ弟子など持ちたくはなかった」
かつん、という足音。
俺たちが来た事に気が付いていたのか、その人物は祭壇の裏側からゆっくりと現れた。
「再三の呼び出しにも応じぬと思えば、変わった客を連れてきたな。……ふむ、彼が七人目という訳か、凛」
「そう。一応魔術師だけど、中身はてんで素人だから見てられなくって。
……たしかマスターになった者はここに届けを出すのが決まりだったわよね。アンタたちが勝手に決めたルールだけど、今回は守ってあげる」
「それは結構。なるほど、ではその少年には感謝しなくてはな」
言峰という名の神父は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
「――――」
……知らず、足が退いていた。
……何が恐ろしい訳でもない。
……言峰という男に敵意を感じる訳でもない。
だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。
「私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。
君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」
「―――衛宮士郎。けど、俺はまだマスターなんて物になった覚えはないからな」
腹に力をいれて、重圧に負けまいと神父を睨む。
「衛宮――――――士郎」
「え――――」
背中の重圧が悪寒に変わる。
神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。
――――その笑みが。
俺には、例えようもなく――――
「礼を言う、衛宮。よく凛を連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここには訪れなかったろう」
神父が祭壇へと歩み寄る。
遠坂は退屈そうな顔つきで祭壇から離れ、俺の横まで下がってきた。
「では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」
「それは違う。確かに俺はセイバーと契約した。けどマスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても俺にはてんで判らない。
マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他にマスターを選び直した方がいい」
「……なるほど、これは重傷だ。彼は本当に何も知らないのか、凛」
「だから素人だって言ったじゃない。そのあたり一からしつけてあげて。……そういう追い込み得意でしょ、アンタ」
遠坂は気が乗らない素振りで神父を促す。
「――――ほう。これはこれは、そういう事か。
よかろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。
衛宮士郎には感謝をしてもし足りないな」
くくく、と愉快そうに笑う言峰神父。
なんていうか、聞いてるこっちがますます不安になっていくような会話だ。
「まず君の勘違いを正そう。
いいか衛宮士郎。マスターという物は他人に譲れる物ではないし、なってしまった以上辞められる物でもない。
その腕に令呪を刻まれた者は、たとえ何者であろうとマスターを辞める事はできん。まずはその事実を受け入れろ」
「っ―――辞める事はできないって、どうしてだよ」
「令呪とは聖痕《せいこん》でもある。マスターとは与えられた試練だ。都合が悪いからといって放棄する事はできん。
その痛みからは、聖杯を手に入れるまでは解放されない」
「おまえがマスターを辞めたいと言うのであれば、聖杯を手に入れ己が望みを叶えるより他はあるまい。そうなれば何もかもが元通りだぞ、衛宮士郎。
おまえの望み、その裡《うち》に溜まった泥を全て掻き出す事もできる。―――そうだ、初めからやり直す事とて可能だろうよ」
「故に望むがいい。
もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その、目に見えぬ火傷の跡を消したいのならば、聖痕を受け入れるだけでいい」
「な――――」
目眩がした。
神父の言葉はまるで要領を得ない。
聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。
……にも関わらず、コイツの言葉は厭《イヤ》に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り着く―――
「綺礼、回りくどい真似はしないで。わたしは彼にルールを説明してあげてって言ったのよ。誰も傷を開けなんて言ってない」
神父の言葉を遮る声。
「――――と、遠坂?」
それで、混乱しかけた頭がハッキリとしてくれた。
「そうか。こういった手合いには何を言っても無駄だからな、せめて勘違いしたまま道徳をぬぐい去ってやろうと思ったのだが。
……ふん、情けは人のため為らず、とはよく言ったものだ。つい、私自身も楽しんでしまったか」
「なによ。彼を助けるといい事あるっていうの、アンタに」
「あるとも。人を助けるという事は、いずれ自身を救うという事だからな。……と、今更おまえに説いても始まるまい」
「では本題に戻ろうか、衛宮士郎。
君が巻き込まれたこの戦いは『聖杯《せいはい》戦争』と呼ばれるものだ。
七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦―――という事ぐらいは凛から聞いているか?」
「……聞いてる。七人のマスターで殺し合うっていう、ふざけた話だろ」
「そうだ。だが我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。
全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。
なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」
……何が試練だ。
賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。
「待てよ。さっきから聖杯聖杯って繰り返してるけど、それって一体なんなんだ。まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」
聖杯。
聖者の血を受けたという杯。
数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇蹟を行うという。
その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。
……もっとも、そんなのは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。
確かに、“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。
だがそれだけだ。
実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。
「どうなんだ言峰綺礼。アンタの言う聖杯は、本当に聖杯なのか」
「勿論だとも。この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇蹟が起きているだろう」
「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇蹟は魔法と言える。
これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の真贋《しんがん》など、その事実の前には無価値だ」
「――――――――」
つまり。
偽物であろうが本物以上の力があれば、真偽など問わないと言いたいのか。
「……いいぜ。仮に聖杯があるとする。けど、ならなんだって聖杯戦争なんてものをさせるんだ。聖杯があるんなら殺し合う事なんてない。それだけ凄い物なら、みんなで分ければいいだろう」
「もっともな意見だが、そんな自由は我々にはない。
聖杯を手にする者はただ一人。
それは私たちが決めたのではなく、聖杯自体が決めた事だ」
「七人のマスターを選ぶのも、七人のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。
これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。
それが聖杯戦争―――聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式という訳だ」
「――――――――」
淡々と神父は語る。
反論する言葉もなく、左手に視線を落とす。
……そこにあるのは連中が令呪と呼ぶ刻印だ。
この刻印がある以上、マスターを放棄する事はできないとでも言いたいのか。
「……納得いかないな。一人だけしか選ばれないにしたって、他のマスターを殺すしかないっていうのは、気にくわない」
「? ちょっと待って。殺すしかない、っていうのは誤解よ衛宮くん。別にマスターを殺す必要はないんだから」
「はあ? だって殺し合いだって言ったじゃないか。言峰もそう言ってたぞ」
「殺し合いだ」
「綺礼は黙ってて。あのね、この町に伝わる聖杯っていうのは霊体なの。だから物として有る訳じゃなくて、特別な儀式で呼び出す―――つまり降霊するしかないって訳」
「で、呼び出す事はわたしたち魔術師だけでも出来るんだけど、これが霊体である以上わたしたちには触れられない。この意味、分かる?」
「分かる。霊体には霊体しか触れられないんだろ。
―――ああ、だからサーヴァントが必要なのか……!」
「そういう事。ぶっちゃけた話、聖杯戦争っていうのは自分のサーヴァント以外のサーヴァントを撤去させるってコトよ。だからマスターを殺さなければならない、という決まりはないの」
「――――――――」
なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに!
まったく、遠坂もこの神父も人が悪いったらありゃしない。
……とにかく、それで安心した。
それなら聖杯戦争に参加しても、遠坂が死ぬような事はないんだから。
「なるほど、そういう考えもできるか。
では衛宮士郎、一つ訊ねるが君は自分のサーヴァントを倒せると思うか?」
「?」
セイバーを倒す?
そんなの無理に決まってるじゃないか。
そもそもアイツに魔術は通用しないし、剣術だってデタラメに強いんだから。
「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ問いだが、君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」
「??」
なに言ってるんだ、こいつ。
俺はセイバーを倒せないんだから、俺がセイバーより優れてるなんて事ありえない。
今の質問はどっちにしたって、マスターである俺の方がサーヴァントより弱いって答え、に――――
「――――あ」
「そういう事だ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。ならばどうするか。
そら、実に単純な話だろう? サーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。いかにサーヴァントが強力であろうが、マスターが潰されればそのサーヴァントも消滅する。ならば」
そう、それはしごく当然の行為。
誰もわざわざ困難な道は選ばない。
確実に勝ち残りたいのなら、サーヴァントではなくマスターを殺す事が、サーヴァントを殺す最も効率的な手段となる――――
「……ああ、サーヴァントを消す為にはマスターを倒した方が早いってのは解った。
けど、それじゃあ逆にサーヴァントが先にやられたら、マスターはマスターでなくなるのか? 聖杯に触れられるのはサーヴァントだけなんだろ。なら、サーヴァントを失ったマスターには価値がない」
「いや、令呪がある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約できる魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約できる」
「マスターを失ったサーヴァントはすぐに消える訳ではない。彼らは体内の魔力が尽きるまでは現世にとどまれる。そういった、“マスターを失ったサーヴァント”がいれば、“サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能となる。戦線復帰が出来るという事だ。
だからこそマスターはマスターを殺すのだ。下手に生かしておけば、新たな障害になる可能性があるからな」
「……じゃあ令呪を使い切ったら? そうすれば他のサーヴァントと契約できないし、自由になったサーヴァントも他のマスターとくっつくだろ」
「待って、それは――――」
「ふむ、それはその通りだ。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターの責務からは解放されるな」
「……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う、などという魔術師がいるとは思えないが。
いたとしたらそいつは半人前どころか、ただの腑抜けという事だろう?」
ふふ、とこっちの考えを見透かしたように神父は笑う。
「…………っ」
なんか、癪だ。
あの神父、さっきから俺を挑発してるとしか思えないほど、人を小馬鹿にしてやがる。
「納得がいったか。ならばルールの説明はここまでだ。
―――さて、それでは始めに戻ろう衛宮士郎。
君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今でも同じなのか」
「マスターを放棄するというのなら、それもよかろう。
君が今考えた通り、令呪を使い切ってセイバーとの契約を断てばよい。その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は私が保証する」
「……? ちょっと待った。なんだってアンタに安全を保証されなくちゃいけないんだ。自分の身ぐらい自分で守る」
「私とておまえに構うほど暇ではない。だがこれも決まりでな。
私は繰り返される聖杯戦争を監督する為に派遣された。
故に、聖杯戦争による犠牲は最小限にとどめなくてはならないのだ。
マスターでなくなった魔術師を保護するのは、監督役として最優先事項なのだよ」
「――――繰り返される聖杯戦争……?」
ちょっと待て。
そんな言葉、初めて聞いたぞ。
繰り返されるって、つまりこんな戦いが今まで何度もあったってのか……?
「それ、どういう事だよ。聖杯戦争っていうのは今に始まった事じゃないのか」
「無論だ。でなければ監督役、などという者が派遣されると思うか?
この教会は聖遺物を回収する任を帯びる、特務局の末端でな。本来は正十字の調査、回収を旨とするが、ここでは“聖杯”の査定の任を帯びている。
極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、これが正しいモノであるのなら回収し、そうでなければ否定しろ、とな」
「七百二十六って……聖杯ってのはそんなに沢山あるものなのかよ」
「さあ? 少なくとも、らしき物ならばそれだけの数があったという事だろう」
「そしてその中の一つがこの町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。
記録では二百年ほど前が一度目の戦いになっている。
以後、約六十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されている。
聖杯戦争はこれで五度目。前回が十年前であるから、今までで最短のサイクルという事になるが」
「な―――正気かおまえら、こんな事を今まで四度も続けてきたって……!?」
「まったく同感だ。おまえの言うとおり、連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。
―――そう。
過去、繰り返された聖杯戦争はことごとく苛烈を極めてきた。マスターたちは己が欲望に突き動かされ、魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺し合いを行った」
「君も知っていると思うが、魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。
だが、過去のマスターたちはそれを破った。
魔術協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが、それが間に合ったのは三度目の聖杯戦争でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが、納得がいったか少年」
「……ああ、監督役が必要な理由は分かった。
けど今の話からすると、この聖杯戦争っていうのはとんでもなく性質《たち》が悪いモノなんじゃないのか」
「ほう。性質《たち》が悪いとはどのあたりだ」
「だって以前のマスターたちは魔術師のルールを破るような奴らだったんだろ。
なら、仮に聖杯があるとして、最後まで勝ち残ったヤツが、聖杯を私利私欲で使うようなヤツだったらどうする。平気で人を殺すようなヤツにそんなモノが渡ったらまずいだろう。
魔術師を監視するのが協会の仕事なら、アンタはそういうヤツを罰するべきじゃないのか」
微かな期待をこめて問う。
だが言峰綺礼は、予想通り、慇懃な仕草でおかしそうに笑った。
「まさか。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりだけだ。その後の事など知らん。どのような人格が聖杯を手に入れようが、協会は関与しない」
「そんなバカな……! じゃあ聖杯を手に入れたマスターが最悪なヤツだったらどうするんだよ!」
「困るな。だが私たちではどうしようもない。持ち主を選ぶのは聖杯だ。そして聖杯に選ばれたマスターを止める力など私たちにはない。
なにしろ望みを叶える杯だ。手に入れた者はやりたい放題だろうさ。
―――しかし、それが嫌だというのならおまえが勝ち残ればいい。他人を当てにするよりは、その方が何よりも確実だろう?」
言峰は笑いをかみ殺している。
マスターである事を受け入れられない俺の無様さを愉しむように。
「どうした少年。今のはいいアイデアだと思うのだが、参考にする気はないのかな」
「……そんなの余計なお世話だ。第一、俺には戦う理由がない。聖杯なんて物に興味はないし、マスターなんて言われても実感が湧かない」
「ほう。では聖杯を手に入れた人間が何をするか、それによって災厄が起きたとしても興味はないのだな」
「それは――――」
……それを言われると反論できない。
くそ、こいつの言葉は暴力みたいだ。
こっちの心情などおかまいなし、ただ事実だけを容赦なく押しつけてくる―――
「理由がないのならそれも結構。ならば十年前の出来事にも、おまえは関心を持たないのだな?」
「――――十年、前……?」
「そうだ。前回の聖杯戦争の最後にな、相応しくないマスターが聖杯に触れた。そのマスターが何を望んでいたかは知らん。我々に判るのは、その時に残された災害の爪痕だけだ」
「――――――――」
一瞬。
あの地獄が、脳裏に浮かんだ。
「―――待ってくれ。まさか、それは」
「そうだ、この街に住む者なら誰もが知っている出来事だよ衛宮士郎。
死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以て原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」
「――――――――」
――――吐き気がする。
視界がぼやける。
焦点を失って、視点が定まらなくなる。
ぐらりと体が崩れ落ちる。
だが、その前にしっかりと踏みとどまった。
歯を噛みしめて意識を保つ。
倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。
「衛宮くん? どうしたのよ、いきなり顔面真っ白にしちゃって。……そりゃああんまり気持ちのいい話じゃなかったけど、その―――ほら、なんなら少し休んだりする?」
よほど蒼い顔をしていたのだろう。
なんていうか、遠坂がこういった心配をしてくれるなんて、とんでもなくレアな気がした。
「心配無用だ。遠坂のヘンな顔を見たら治った」
「……ちょっと。それ、どういう意味よ」
「いや、他意はないんだ。言葉通りの意味だから気にするな」
「ならいいけど……って、余計に悪いじゃないこの唐変木っ!」
すかん、容赦なく頭をはたく学園一の優等生・遠坂凛。
それがトドメ。
本当にそれだけで、さっきまでの吐き気も怒りも、キレイさっぱり消えてくれた。
「……サンキュ。本当に助かったから、あんまりいじめないでくれ遠坂。今はもう少し、訊かなくちゃいけない事がある」
むっ、と叩きたりない顔のまま、遠坂は一応場を譲ってくれる。
「ほう、まだ質問があるのか。いいぞ、言いたい事は全て言ってしまえ」
俺が訊きたい事なんて見抜いているだろうに、神父は愉快そうに促してくる。
上等だ。
衛宮士郎は、おまえになんて負けるものか。
「じゃあ訊く。アンタ、聖杯戦争は今回が五回目だって言ったな。なら、今まで聖杯を手に入れたヤツはいるのか」
「当然だろう。そう毎回全滅などという憂き目は起きん」
「じゃあ―――」
「早まるな。手に入れるだけならば簡単だ。なにしろ聖杯自体はこの教会で管理している。手に取るだけならば私は毎日触れているぞ」
「え――――?」
せ、聖杯がこの教会にある――――?
「もっとも、それは器だけだ。中身が空なのだよ。先ほど凛が言っただろう、聖杯とは霊体だと。
この教会に保管してあるのは、極めて精巧に作られた聖杯のレプリカだ。これを触媒にして本物の聖杯を降霊させ、願いを叶える杯にする。そうだな、マスターとサーヴァントの関係に近いか。……ああ。そうやって一時的に本物となった聖杯を手にした男は、確かにいた」
「じゃあ聖杯は本物だったのか。いや、手にしたっていうそいつは一体どうなったんだ」
「どうもならん。その聖杯は完成には至らなかった。馬鹿な男が、つまらぬ感傷に流された結果だよ」
……?
先ほどまでの高圧的な態度はどこにいったのか、神父は悔いるように視線を細めている。
「……どういう事だ。聖杯は現れたんじゃないのか」
「聖杯を現すだけならば簡単だ。七人のサーヴァントが揃い、時間が経てば聖杯は現れる。凛の言う通り、確かに他のマスターを殺める必要などないのだ。
だが、それでは聖杯は完成しない。アレは自らを得るに相応しい持ち主を選ぶ。故に、戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」
「ふん。ようするに、他のマスターと決着を付けずに聖杯を手に入れても無意味って事でしょ。
前回、一番はじめに聖杯を手に入れたマスターは甘ちゃんだったのよ。敵のマスターとは戦いたくない、なんて言って聖杯から逃げたんだから」
吐き捨てるように言って、遠坂は言峰から視線を逸らす。
「――――うそ」
それはつまり、言峰は前回のマスターの一人で、聖杯を手に入れたものの、戦いを拒否して脱落したって事なのか……!?
「……言峰。あんた、戦わなかったのか」
「途中まで戦いはした。だが判断を間違えた。結果として私はカラの聖杯を手にしただけだ。
もっとも、私ではそれが限界だったろう。なにしろ他のマスターたちはどいつもこいつも化け物揃いだったからな。わたしは真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護されたよ」
「……思えば、監督役の息子がマスターに選ばれるなど、その時点であってはならぬ事だったのだ。
父はその折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会で聖杯を守っている」
そう言って、言峰綺礼という名の神父は背中を向けた。
その視線の先には、礼拝されるべき象徴が聳えている。
「話はここまでだ。
聖杯を手にする資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君たち七人が最後の一人となった時、聖杯は自ずと勝者の元に現れよう。
その戦い―――聖杯戦争に参加するかの意思をここで決めよ」
高みから見下ろして、神父は最後の決断を問う。
「――――――――」
言葉がつまる。
戦う理由がなかったのはさっきまでの話だ。
今は確実に戦う理由も意思も生まれている。
けれどそれは、本当に、認めていいものなのかどうか。
「まだ迷っているのか。
いいか、マスターというものはなろうとしてなれる物ではない。そこにいる凛は長く魔術師として修練してきたが、だからといってマスターとなるのが決定されていた訳ではないのだ。
決定されていた物があるとすれば、それは心構えが出来ていたかいないかだけだろう」
「マスターに選ばれるのは魔術師だけだ。魔術師ならばとうに覚悟などできていよう。
それが無い、というのならば仕方があるまい。
おまえも、おまえを育てた師も出来損ないだ。そんな魔術師に戦われても迷惑だからな、今ここで令呪を消してしまえ」
「――――――!」
言われるまでもない。
俺は――――
俺は逃げない。
正直、マスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても実感なんてまるで湧かない。
それでも、戦うか逃げるかしかないのなら、逃げる事だけはしない。
神父は言った。
魔術師ならば覚悟は出来ている筈だと。
だから決めないと。
たとえ半人前でも、衛宮士郎は魔術師なんだ。
憧れ続けた衛宮切嗣の後を追って、必ず正義の味方になると決めたのなら――――
「―――マスターとして戦う。
十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺は、あんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」
俺の答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべる。
「――――」
深く呼吸をする。
迷いは断ち切った。
男が一度、戦うと口にしたんだ。
なら、ここから先はその言葉に恥じないよう、胸を張って進むだけだ。
「それでは君をセイバーのマスターと認めよう。
この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。
―――これよりマスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」
重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に響いた。
その宣言に意味などあるまい。
神父の言葉を聞き届けたのは自分と遠坂だけだ。
この男はただ、この教会の神父として始まりの鐘を鳴らしたにすぎない。
「決まりね。それじゃ帰るけど、わたしも一つぐらい質問していい綺礼?」
「かまわんよ。これが最後かもしれんのだ、大抵の疑問には答えよう」
「それじゃ遠慮なく。綺礼、あんた見届け役なんだから、他のマスターの情報ぐらいは知ってるんでしょ。こっちは協会のルールに従ってあげたんだから、それぐらい教えなさい」
「それは困ったな。教えてやりたいのは山々だが、私も詳しくは知らんのだ。
衛宮士郎も含め、今回は正規の魔術師が少ない。私が知りうるマスターは二人だけだ。衛宮士郎を加えれば三人か」
「あ、そう。なら呼び出された順番なら判るでしょう。
仮にも監視役なんだから」
「……ふむ。一番手はバーサーカー。二番手はキャスターだな。あとはそう大差はない。先日にアーチャー、そして数時間前にセイバーが呼び出された」
「―――そう。それじゃこれで」
「正式に聖杯戦争が開始されたという事だ。
凛。聖杯戦争が終わるまで、この教会に足を運ぶ事は許されない。許されるとしたら、それは」
「自分のサーヴァントを失って保護を願う場合のみ、でしょ。それ以外にアンタを頼ったら減点ってコトね」
「そうだ。おそらくは君が勝者になるだろうが、減点が付いては教会が黙っていない。連中はつまらない論議の末、君から聖杯を奪い取るだろう。私としては最悪の展開だ」
「エセ神父。教会の人間が魔術協会の肩を持つのね」
「私は神に仕える身だ。教会に仕えている訳ではない」
「よく言うわ。だからエセなのよ、アンタは」
そうして、遠坂は言峰神父に背を向ける。
あとはそのまま、別れの挨拶もなしにズカズカと出口へと歩き出した。
「おい、そんなんでいいのか遠坂。あいつ、おまえの兄弟子なんだろ。なら―――」
もっとこう、ちゃんとした言葉を交わしておくべきではないのだろうか。
「いいわよそんなの。むしろ縁が切れて清々するぐらいだもの。そんな事より貴方も外に出なさい。もうこの教会に用はないから」
遠坂は立ち止まる事なく礼拝堂を横切り、本当に出ていってしまった。
はあ、とため息をもらして遠坂の後に続く。
と。
「っ――――!」
背後に気配を感じて、たまらずに振り返った。
いつのまに背後にいたのか、神父は何を言うのでもなく俺を見下ろしていた。
「な、なんだよ。まだなんかあるっていうのか」
言いつつ、足は勝手に後ずさる。
……やはり、こいつは苦手だ。
相性が悪いというか、肌に合わないというか、ともかく好きになれそうにない。
「話がないなら帰るからなっ!」
神父の視線を振り払おうと出口に向かう。
その途中。
「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」
そう、神託を下すように神父は言った。
その言葉は。
自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。
「―――なにを、いきなり」
「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には倒すべき悪が必要だ」
「っ――――――――」
目の前が、真っ暗になりそう、だった。
神父は言う。
衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。
……そう。何かを守ろうという願いは、
同時に、何かを犯そうとするモノを、望む事に他ならない――――
「―――おま、え」
けど、そんな事を望む筈がない。
望んだ覚えなんてない。
あまりにも不安定なその願望は、
ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。
だというのに神父は言う。
この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。
「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」
「っ――――――」
神父の言葉を振り払って、出口へと歩き出す。
「さらばだ衛宮士郎。
最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。
これより君の世界は一変する。
君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだからな」
◇◇◇
外に出た途端、肩に圧し掛かっていた重圧が消え去った。
あの神父から離れた、という事もあるが、
遠くからでも目立つ制服の遠坂と、
雨合羽を着込んだ金髪の少女がつかず離れずで立っている、なんて光景が妙に味があって気が抜けたらしい。
「――――――――」
セイバーは相変わらず無言だ。
じっとこっちを見ているあたり、俺がどんな選択をしたのか気になっているようだ。
「行きましょう。町に戻るまでは一緒でしょ、わたしたち」
言うだけ言ってさっさと歩き出す遠坂。
その後に続いて、俺たちも教会を後にする。
三人で坂を下りていく。
来た時もそう話した方じゃないが、帰りは一段と会話がない。
その理由ぐらい、鈍感な俺でも分かっていた。
教会での一件で、俺は本当にマスターになったのだ。
遠坂が俺とセイバーから離れて歩いているのは、きっとそういう理由だろう。
「――――」
それは理解してる。
理解しているけど、そんなふうに遠坂を区別するのは嫌だった。
「遠坂。おまえのサーヴァント、大丈夫なのか」
「え……?」
「あ、うん。アーチャーなら無事よ。……ま、貴方のセイバーにやられたダメージは簡単に消えそうにないから、しばらく実体化はさせられないだろうけど」
「じゃあ側にはいないのか」
「ええ、わたしの家で匿ってる状態。いま他のサーヴァントに襲われたら不利だから、傷が治るまでは有利な場所で敵に備えさせてるの」
なるほど。
うちはともかく、遠坂の家なら外敵に対する備えは万全なんだろう。
魔術師にとって自分の家は要塞のような物だ。そこにいる限り、まず負ける事などない。
逆を言えば、ホームグランドにいる限り、敵は簡単には襲いかかってこないという事か。
……うむ。
うちの結界は侵入者に対する警報だけだが、それだけでも有ると無いとでは大違いだし。
「そういえば遠坂。さっきヤツ、聖杯戦争の監督役って言ってたけどさ。アイツ、おまえのサーヴァントを知ってるのか」
「知らない筈よ。わたし、教えてないもの」
「そうなのか。おまえとアイツ、仲がいいからそうだと思ってたけど」
「……あのね衛宮くん。忠告しておくけど、自分のサーヴァントの正体は誰にも教えちゃ駄目よ。たとえ信用できる相手でも黙っておきなさい。そうでないと早々に消える事になるから」
「……? セイバーの正体って、なにさ」
「だから、サーヴァントが何処の英雄かって言う事よ。
いくら強いからって戦力を明かしてちゃ、いつか寝首をかかれるに決まってるでしょ。……いいから、後でセイバーから真名を教えてもらいなさい。
そうすればわたしの言ってる事が判る……けど、ちょっとたんま。衛宮くんはアレだから、いっそ教えてもらわない方がいいわね」
「なんでさ」
「衛宮くん、隠し事できないもの。なら知らない方が秘密にできるじゃない」
「……あのな、人をなんだと思ってるんだ。それぐらいの駆け引きはできるぞ、俺」
「そう? じゃあわたしに隠している事とかある?」
「え……遠坂に隠してる事って、それは」
そう口にして、ぼっと顔が熱くなった。
別に後ろめたい事なんてないけど、その、なんとなく憧れていた、なんて事は隠し事に入るんだろうか……?
「ほら見なさい。何を隠してるか知らないけど、動揺が顔に出るようじゃ向いてないわ。
貴方は他にいいところがあるんだから、駆け引きなんて考えるのは止めなさい」
「……む。それじゃ遠坂はどうなんだよ。あの神父にも黙ってるって事は、アイツも信用してないって事か?」
「綺礼? まさか。私、アイツを信用するほどおめでたくないわ。アイツはね、教会から魔術協会に鞍替えしたくせに、まだ教会に在籍している食わせ者なのよ。人の情報を他のマスターに売るぐらいはやりかねないわ」
ふんだ、と忌々しげに言い捨てる遠坂。
遠坂は本気であの神父を信用してないようだ。
それはそれでホッとしたけど、それでも、なんとなく今の台詞には、神父への親しみが含まれている気がした。
―――そうして橋を渡る。
もうお互いに会話はない。
冷たい冬の空気と、吐きだされる白い吐息。
水の流れる小さな音と、橋を照らす目映い街灯。
そういった様々なものが、今はひどく記憶に残る。
不思議と、隣りを歩く遠坂の顔を見ようとは思わなかった。
今は遠坂の顔を見るより、こうして一緒に夜の橋を歩く事の方が得難いと思う。
俺と、遠坂と、まだ何も知らないセイバーという少女。
この三人で、何をするでもなく、帰るべき場所へと歩いていく。
交差点に着いた。
それぞれの家に続く坂道の交差点、衛宮士郎と遠坂凛が別れる場所。
「ここでお別れね。義理は果たしたし、これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ。きっぱり別れて、明日からは敵同士にならないと」
今までの曖昧な位置づけに区切りをつける為だろう。
遠坂は何の前置きもなく喋りだして、唐突に話を切った。
それで分かった。
彼女は義務感から俺にルールを説明したんじゃない。
あくまで公平に、何も知らない衛宮士郎の立場になって肩入れしただけなのだ。
だから説明さえ終われば元通り。
あとはマスターとして、争うだけの対象になる。
「……む?」
けど、だとしたら今のはヘンだろう。
遠坂は感情移入をすると戦いにくくなる、と言いたかったに違いない。
遠坂から見れば今夜の事は全て余分。
“これ以上一緒にいると何かと面倒” そんな台詞を口にするのなら、遠坂は初めから一緒になんていなければ良かったのだ。
聡明な遠坂の事だから、それは判りきっている筈。
それでも損得勘定を秤にもかけないで、遠坂凛は衛宮士郎の手を取った。
だから今夜の件は何の思惑もない、本当にただの善意。
目の前にいる遠坂は、学校で見る彼女とはあまりにも違う。
控えめにいっても性格はきついし、ツンケンしていて近寄りがたいし、学校での振る舞いはなんなんだー、と言いたくなるぐらいの変わり様だ。
いやもう、こんなのほとんどサギだと思う。
……だが、まあそれでも。
遠坂凛は、みんなが思っていた通りの彼女でもあったのだ。
「なんだ。遠坂っていいヤツなんだな」
「は? なによ突然。おだてたって手は抜かないわよ」
そんな事は判ってる。
コイツは手を抜かないからこそ、情が移ると面倒だって言い切ったんだから。
「知ってる。けど出来れば敵同士にはなりたくない。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」
「な――――」
何故か、それきり遠坂は黙ってしまった。
遠坂の家は俺とは反対方向にある、洋風の住宅地だって聞いている。
一応ここまで面倒を見てくれたんだから、こっちは遠坂を見送ってから戻りたいんだが。
「と、とにかく、サーヴァントがやられたら迷わずさっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば命だけは助かるんだから」
「それは気が引けるけど、一応聞いておく。けどそんな事にはならないだろ。どう考えてもセイバーより俺のほうが短命だ」
冷静に現状を述べる。
「――――ふう」
またもや謎のリアクションを見せる遠坂。
彼女は呆れた風に溜息をこぼした後、ちらり、とセイバーを流し見た。
「いいわ、これ以上の忠告は本当に感情移入になっちゃうから言わない。
せいぜい気を付けなさい。いくらセイバーが優れているからって、マスターである貴方がやられちゃったらそれまでなんだから」
くるり、と背を向けて歩き出す遠坂。
「――――」
だが。
幽霊でも見たかのような唐突さで、彼女の足はピタリと止まった。
「遠坂?」
そう声をかけた時、左手がズキリと痛んだ。
「――――ねえ、お話は終わり?」
幼い声が夜に響く。
歌うようなそれは、紛れもなく少女の物だ。
視線が坂の上に引き寄せられる。
いつのまに雲は去ったのか、空には煌々と輝く月。
――――そこには。
伸びる影。
仄暗く青ざめた影絵の町に、それは、在ってはならない異形だった。
「―――バーサーカー」
聞き慣れない言葉を漏らす遠坂。
……追究する必要などない。
アレは紛れもなくサーヴァントであり、
同時に―――十年前の火事をなお上回る、圧倒的なまでの死の気配だった。
「こんばんはお兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」
微笑みながら少女は言った。
その無邪気さに、背筋が寒くなる。
「――――――――」
いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。
体はおろか意識まで完全に凍っている。
アレは、化け物だ。
視線さえ合っていないのに、ただ、そこに在るだけで身動きがとれなくなる。
少しでも動けばその瞬間に死んでいるだろう、と当然のように納得できた。
むき出しの腹に、ピタリと包丁を押し当てられている感覚。
……だというのに、何も、何も感じない。
あまりにも助かるという希望がない為だろう。
恐怖も焦りも、すべて絶望で覆われて、何も感じない。
「――――やば。あいつ、桁違いだ」
麻痺している俺とは違い、遠坂には身構えるだけの余裕がある。
……しかし、それも僅かな物だろう。
背中越しだというのに、彼女が抱いている絶望を感じ取れるんだから。「あれ? なんだ、あなたのサーヴァントはお休みなんだ。つまんないなぁ、二匹いっしょに潰してあげようって思ったのに」 坂の上、俺たちを見下ろしながら、少女は不満そうに言う。
……ますますやばい。
あの少女には、遠坂のサーヴァントが不在だという事も見抜かれている。 ―――と。
少女は行儀良くスカートの裾を持ち上げて、とんでもなくこの場に不釣り合いなお辞儀をした。「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」
「アインツベルン――――」
その名前に聞き覚えでもあるのか、遠坂の体がかすかに揺れた。 そんな遠坂の反応が気に入ったのか、少女は嬉しそうに笑みをこぼし、
「じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」
歌うように、背後の異形に命令した。 巨体が飛ぶ。
バーサーカーと呼ばれたモノが、坂の上からここまで、何十メートルという距離を一息で落下してくる――――!「――――シロウ、下がって……!」
セイバーが駆ける。雨合羽がほどけ、一瞬、視界が閉ざされた。 バーサーカーの落下地点まで駆けるセイバーと、
旋風を伴って落下してきたバーサーカーとは、まったくの同時だった。「っ…………!」
空気が震える。
岩塊《がんかい》そのものとも言えるバーサーカーの大剣を、セイバーは視えない剣で受け止めていた。「っ――――」
口元を歪めるセイバー。
そこへ 旋風じみた、バーサーカーの大剣が一閃する―――! 轟音。
大気を裂きかねない鋼と鋼のぶつかり合いは、セイバーの敗北で終わった。 ざざざざ、という音。
バーサーカーの大剣を受けたものの、セイバーは受け止めた剣ごと押し戻される。「くっ……」
セイバーの姿勢が崩れる。
追撃する鉛色のサーヴァント。
灰色の異形は、それしか知らぬかのように大剣を叩きつける。 避ける間もなく剣で受けるセイバー。
彼女の剣が見えなかろうと関係ない。
バーサーカーの一撃は全身で受け止めなければ防ぎきれない即死の風だ。 故に、セイバーは受けに回るしかない。
彼女にとって、勝機とはバーサーカーの剣戟《けんげき》の合間に活路を見いだす事。
だが。
それも、バーサーカーに隙があればの話。 黒い岩盤の剣は、それこそ嵐のようだった。
あれほどの巨体。
あれほどの大剣を以ってして、バーサーカーの速度はセイバーを上回っている。 繰り出される剣戟は、ただ叩きつけるだけの、何の工夫もない駄剣だ。 だがそれで十分。
圧倒的なまでの力と速度が有るのなら、技の介入する余地などない。
技巧とは、人間が欠点を補うために編み出すもの。
そんな弱点《もの》、あの巨獣には存在しない。「――――逃げろ」
凍り付いた体で、ただ、そう呟いた。
アレには勝てない。
このままではセイバーが殺される。
だからセイバーは逃げるべきだ。
彼女だけなら簡単に逃げられる。
そんな事、他でもない彼女自身がよく判ってるだろうに…………!「あ――――」
あれは、まずい。
体は麻痺しているクセに、頭だけは冷静に働くのか。
絶え間なく繰り出される死の嵐。
捌《さば》ききれず後退したセイバーに、今度こそ、
防ぎ切れぬ、終りの一撃が繰り出された。
セイバーの体が浮く。
バーサーカーの大剣を、無理な体勢ながらもセイバーは防ぎきる。
それは致命傷を避けるだけの行為だ。
満足に踏み込めなかったため大剣を殺しきれず、衝撃はそのままセイバーを吹き飛ばす。
―――大きく弧を描いて落ちていく。
背中から地面に叩きつけられる前に、セイバーは身を翻して着地する。
「……ぅ、っ……!」
なんとか持ち直すセイバー。
だが。その胸には、赤い血が滲んでいた。「――――あれ、は」
……なんて、バカだ。
俺は大事な事を失念していた。
サーヴァントが一日にどれくらい戦えるかは知らないが、セイバーはこれで三戦目だ。
加えて彼女の胸には、ランサーによって穿たれた傷がある――――「つ、う――――」
胸をかばうように構えるセイバー。
バーサーカーは暴風のように、傷ついたセイバーへと斬りかかり――――
その背中に、幾条もの衝撃を受けていた。「―――Vier Stil Erschieung……!」
いかなる魔術か、遠坂の呪文と共にバーサーカーの体が弾ける。
迸《ほとばし》る魔力量から、バーサーカーに直撃しているのは大口径の拳銃に近い衝撃だろう。 だがそれも無意味。
バーサーカーの体には傷一つ付かない。
セイバーのように魔力を無効化しているのではない。
あれは、ただ純粋に効いていないだけ。「っ……!? く、なんてデタラメな体してんのよ、こいつ……!」
それでも遠坂は手を緩めず、
バーサーカーも、遠坂の魔術を意に介さずセイバーへ突進する。「…………っ」
苦しげに顔をあげるセイバー。
彼女はまだ戦おうと剣を構える。
―――それで、固まっていた体は解けた。
「だめだ、逃げろセイバー……!」
満身の力で叫ぶ。
それを聞いて 彼女は、敵うはずのない敵へと立ち向かった。 バーサーカーの剣戟に終わりはない。
一合受ける度にセイバーの体は沈み、刻一刻と最後の瞬間を迎えようとする。
―――それでも、あんな小さな体の、どこにそんな力があったのか。 セイバーは決して後退しない。
怒濤と繰り出される大剣を全て受け止め、気力でバーサーカーを押し返そうとする。
勝ち目などない。
そのまま戦えば敗れると判っていながら踏み止まる彼女の姿は、どこか異常だった。 その姿に何を感じたのか。
「――――!」
絶えず無言だった異形が吠えた。 防ぎようのない剣戟。
完璧に防ぎに入ったセイバーもろともなぎ払う一撃は、今度こそ彼女を吹き飛ばした。
だん、と。
遠くに、何かが落ちる音。 ……鮮血が散っていく。
その中で、もはや立ち上がる事など出来ない体で。
「っ、あ…………」
彼女は、意識などないまま立ち上がった。
……まるで。
そうしなければ、残された俺が、殺されるのだと言うかのように――――「――――――――――――――――――――――――」
それで。
自分がどれほど愚かな選択をしたか、思い知った。 セイバーを斬り伏せたバーサーカーは、そこで動きを止めた。
立ちつくす俺と遠坂に目もくれず、坂の上にいる主の命令を待つ。「あは、勝てるわけないじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシャ最大の英雄なんだから」
「……!? ギリシャ最大の英雄って、まさか――――」「そうよ。そこにいるのはヘラクレスっていう魔物。
あなたたち程度が使役できる英雄とは格が違う、最凶の怪物なんだから」 イリヤと名乗った少女は、愉しげに瞳を細める。
それは敵にトドメを刺そうとする愉悦の目だ。 ―――倒されるのが誰かは言うまでもない。
彼女はここで殺される。
ならどうするというのか。
彼女に代わってあの怪物と戦えというのか。
それは出来ない。
半端な覚悟でアレに近づけば、それだけで心臓が止まるだろう。 俺は――――
俺は―――倒れている誰かを、見捨てる事はできない。
衛宮士郎はそういう生き方を選んだ筈だし、
なにより―――自分を守る為に戦ってくれたあの少女を、あんな姿にしておけない。
「いいわよバーサーカー。そいつ、再生するから首をはねてから犯しなさい」
バーサーカーの活動が再開する。
俺は――――
「こ―――のぉおお…………!!」
全力で駆けだしていた。
あの怪物をどうにかできる筈がない。
だからせめて、倒れているセイバーを突き飛ばして、バーサーカーの一撃から助け――――
「――――え?」
どたん、と倒れた。
なんで……?
俺はセイバーを突き飛ばして、バーサーカーからセイバーを引き離して、その後はその後で何か考えようって思ったのに、なんで。
「が――――は」
なんで、こんな。
地面に倒れて。息が、できなくなっているのか。
「!?」
……驚く声が聞こえた。
まず、もう目の前にいるセイバー。
ついでに遠くで愕然としている遠坂。
それとなぜか、呆然と俺を見下ろしている、イリヤという少女から。
「……あ、れ」
腹がない。
地面に倒れている。
アスファルトに、傷の割には少ない血液とか柔らかそうな臓物とか焚き木のように折れた無数の骨とか痛そうだなオイまあそういったモノがこぼれている。
「……そうか。なんて、間抜け」
ようするに、間に合わなかったのだ。
だからそう―――突き飛ばすのは無理だから、そのまま盾になってみたのか。
そうしてあの鉈のお化けみたいな剣で、ごっそりと腹をもっていかれてしまった。
「――――こふっ」
ああもう、こんな時まで失敗するなんて呆れてしまう。
正義の味方になるんだって頑張ってきたけど、こういう大一番にかぎってドジばっかりだ。
「――――なんで?」
ぼんやりと、銀髪の少女が呟く。
少女はしばらく呆然とした後、
「……もういい。こんなの、つまんない」
セイバーにトドメをささず、バーサーカーを呼び戻した。
「―――リン。次に会ったら殺すから」
立ち去っていく少女。
それを見届けた後、視界が完全に失われた。
意識が途絶える。
今度ばかりは取り返しがつかない。
ランサーに殺された時は知らないうちに助かったが、仏の顔も三度までだ。
こんな、腹をごっそりなくした人間を助ける魔術なんてないだろう。
「……あ、あんた何考えてるのよ! わかってるの、もう助けるなんて出来ないっていうのに……!」
叱咤する声が聞こえた。
……きっと遠坂だ。なんだか本気で怒っているようで、申し訳ない気がする。
でも仕方ないだろ。
俺は遠坂みたいに何でもできる訳じゃないし、自由に出来るのはこの体ぐらいなもんだ。
……だから、そう。
こうやって体を張る事ぐらいしか、俺には、出来る事がなかったんだから――――
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
それは、五年前の冬の話。
月の綺麗な夜だった。
自分は何をするでもなく、父である衛宮切嗣と月見をしている。
冬だというのに、気温はそう低くはなかった。
縁側はわずかに肌寒いだけで、月を肴にするにはいい夜だった。
この頃、切嗣は外出が少なくなっていた。
あまり外に出ず、家にこもってのんびりとしている事が多くなった。
……今でも、思い出せば後悔する。
それが死期を悟った動物に似ていたのだと、どうして気が付かなかったのか。
「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
ふと。
自分から見たら正義の味方そのものの父は、懐かしむように、そんな事を呟いた。
「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」
むっとして言い返す。
切嗣はすまなそうに笑って、遠い月を仰いだ。
「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」
言われて納得した。
なんでそうなのかは分からなかったが、切嗣の言うことだから間違いないと思ったのだ。
「そっか。それじゃしょうがないな」
「そうだね。本当に、しょうがない」
相づちをうつ切嗣。
だから当然、俺の台詞なんて決まっていた。
「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。
爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」
“――――俺が、ちゃんと形にしてやっから”
そう言い切る前に、父は微笑《わら》った。
続きなんて聞くまでもないっていう顔だった。
衛宮切嗣はそうか、と長く息を吸って、
「ああ――――安心した」
静かに目蓋を閉じて、その人生を終えていた。
それが、朝になれば目覚めるような穏やかさだったから、幼い自分は騒ぎ立てなかった。
死というものを見慣れていた事もあったのだろう。
何をするでもなく、冬の月と、長い眠りに入った、父親だった人を見上げていた。
庭には虫の声もなく、あたりはただ静かだった。
明るい夜《やみ》の中、両目だけが熱かったのを覚えている。
泣き声もあげず、悲しいと思う事もない。
月が落ちるまで、ただ、涙だけが止まらなかった。
それが五年前の冬の話。
むこう十年分ぐらい泣いたおかげか、その後はサッパリしたものだった。
藤ねえの親父さんに葬儀の段取りをしてもらって、衛宮の屋敷に一人で住むようになった。
切嗣がいなくなっても変わらない。
衛宮士郎は切嗣《オヤジ》のような正義の味方になるのだから、のんびりしている暇などありはしない。
――――そう。
口にはしなかったけど、ちゃんと覚えていたんだ。
十年前、火事場に残されていた自分を救い出してくれた男の姿を。
意識もなく、全身に火傷を負って死にかけていた子供を抱き上げて、目に涙をためるぐらい喜んで、外に連れ出してくれた。
その時から、彼は俺の憧れになった。
誰も助けてくれなかった。
誰も助けてやれなかった。
その中でただ一人助けられた自分と、ただ一人助けてくれた人がいた。
―――だから、そういう人間になろうと思ったのだ。
彼のように誰かを助けて、誰も死なせないようにする正義の味方に。
その彼こそが“そういうモノ”に成りたかったと遺して、自分の前で穏やかに幕を閉じた。
子が父の跡を継ぐのは当然のこと。
衛宮士郎は正義の味方になって、かつての自分のような誰かを助けなくてはいけない。
幼い頃にそう誓った。
誰よりも憧れたあの男の代わりに、彼の夢を果たすのだと。
……だが、正直よく分からない。
切嗣の言っていた正義の味方ってどんなモノなのかとか、早く一人前になる方法とか、切嗣の口癖だったみんなが幸せでいられればいい、なんて魔法みたいな夢の実現方法とか、それと、マスターなんてモノになっちまって、一緒に付いてきた金髪の女の子とか頭んなかがゴチャゴチャだ、ホント――――
「……………………っ」
目を覚ますと見慣れた部屋にいた。
「なんだ。ここ、俺の部屋じゃないか」
声をだした途端、気分がとんでもなく悪くなった。
「……う……口ん中、まずい……」
濁った血の味がする。
口内に血が溜まっていたのか、呼吸をするだけでどろっとした空気が流れ込んできた。
「――――」
なんでこんな事になっているのか、いまいち不明。
ただ猛烈な吐き気がするんで、ともかく洗面所に行って顔を洗いたかった。
「――――よっと」
体を起こす。
目眩がした。
思わず倒れそうになって、なんとか壁に手を突く。
「……う」
動くと吐き気が増す。
……いや、吐き気というよりは苦痛だ。
体は重いし、動く度に腹ん中がぐるんぐるんと回るよう。きっと胃に焼けた鉛を流し込んだら、こんな気分になるのではあるまいか。
「……あつ……ヘンな想像したら熱でてきた」
額に滲んだ汗を拭って、よたよたと壁づたいに部屋を出る。
「……よし、少しは落ち着いた」
顔を洗って、ついでに汗ばんでいた体を拭く。
「……?」
なぜか腹には包帯が巻かれていた。
思い当たる節がないので、とりあえず保留にしておく。
「……ハラ減ったな。なんか作り置きでもあったっけ……」
胃の中は相変わらずぐるんぐるんに気持ち悪いのに、体は栄養を欲しているようだ。
「くっ……」
ええい、と気合いをいれて壁づたいに歩き出す。
目眩は相変わらず起きるし、なにより体が鈍い。
「いた―――いたたた――――」
情けない声を出しながら前進する。
……ほんと、寝る前に何をしたんだろう、俺。
こんな、体中が筋肉痛になるような鍛錬なんてした覚えはないんだけどな。
居間に到着。
桜も藤ねえも今日は学校なのだろう。
居間には朝食の支度もなければ、騒がしい藤ねえの暴れっぷりもない。
静かな居間は、いつもの日曜日といった風景―――
「おはよう。勝手にあがらせてもらってるわ、衛宮くん」
―――なんかじゃねえ。
「な、え――――!?」
座布団に座っているのは遠坂凛だ。
その落ち着きようといったら、まるでこっちがお客さまなのでは、と勘違いさせられるほど。
うん、そういう意味でも二度びっくり。
「……………」
なんと返答していいか分からず、とりあえず座布団に座る。
で、深呼吸をして一言。
「遠坂、おまえどうして」
「待った。その前に謝ってくれない? 昨夜の一件についての謝罪を聞かないと落ち着けないわ」
“うちに居るんでしょうか?”なんて言う暇もない。
遠坂はいかにも怒ってます、という視線でこっちを睨んでいる。
どうも昨夜の一件とやらに腹を立てているらしいが、昨夜の一件って一体――――
「――――待て」
思い出した。
そうだ、何をのんびり朝の空気に浸っているのか。
俺はセイバーを助けようとして、それで―――バーサーカーに、腹を切り捨てられたのだ。
「……う」
……吐き気が戻ってくる。
あの、体がぽっかりとなくなった感覚を思い出して寒気がした。
腹の中のモノがどろり、と胎動する。
それはこの上なく気持ち悪い。
この上なく気持ち悪いけど、同時に生きているという確かな証だ。
って、おかしいぞこれ。
俺、ほぼ即死だった筈じゃないか?
「―――ヘンだ。なんだって生きてるんだ、俺」
「思い出した? 昨夜、自分がどんなバカをしでかしたかって。なら少しは反省しなさい」
ふん、と鼻を鳴らして非難してくる遠坂。
……むっ、なんかカチンときた。
遠坂がうちにいる不思議さで固まっていた頭に、ようやくエンジンがかかる。
「なに言ってんだ、あの時はあれ以外する事なんてなかっただろっ! あ……いや、そりゃあ結果だけ見ればバカだったけど、本当はもっと上手くやるつもりだったんだ。
だから、アレは間違いなんかじゃない」
バカじゃないぞ、と視線で抗議する。
「……む」
な、なんだよ。
はあ、なんて、これ見よがしに疲れた溜息なんてこぼしやがって。
「マスターが死んだらサーヴァントは消えるって言ったでしょう? だっていうのにサーヴァントを庇うなんてどうかしてるわ」
「いい、貴方が死んでしまえばセイバーだって消えてしまう。セイバーを救いたかったのなら、もっと安全な場所からできる手段を考えなさい。
……まったく、身を挺してサーヴァントを守る、なんて行為は無駄以外の何物でもないって解ってるの?」
「庇った訳じゃない。助けようとしたらああなっちまっただけだ。俺だってあんな目にあうなんて思わなかった」
あんな怪物に近寄れば死ぬだろうな、ぐらいは考えてはいたが、それはそれだ。
「……そう。勘違いしているみたいね、貴方」
そんなこっちの考えを見抜いたのか、遠坂はますます不機嫌になっていく。
「あのね衛宮くん。きっちりと言っておくけど、教会まで連れて行ったのは貴方に勝たせる為じゃないわ。
あれはね、何も知らない貴方が一人でも生き残れるようにって考えた結果なの。どうも、そのあたりを解ってなかったみたいね」
「俺が生き残れるように……?」
「そうよ。負ける事がそのまま死に繋がるって知れば、そう簡単に博打は打たなくなる。衛宮くん、こういう状況でも一人で夜出歩きそうだから。
脅しをかけておけば火中の栗を拾うこともなし、上手くいけば最後までやり過ごせるかもって思ったの」
「そうか。それは気づかなかった」
だからそれに気が付かず、自分からバーサーカーに向かっていった俺に文句を言っていたのか。
「……? けどどうして遠坂が怒るんだよ。俺がヘマをやらかしたのは遠坂には関係ないだろ」
「関係あるわよ、このわたしを一晩も心配させたんだから!」
ああもう、と癇癪《かんしゃく》を起こす遠坂。
……けど、そうか。
心配してくれたのは素直に嬉しい。
この分からすると、手当をしてくれたのも遠坂のようだ。
「そうか。遠坂には世話になったんだな。ありがとう」
感謝と謝罪をこめて頭をさげる。
「――――」
「ふん、分かればいいのよ。これに懲りたら、次はもっと頭のいい行動をしてよね」
ぷい、と視線を逸らす遠坂。
仕草そのものは刺々しいままだが、なんとなく機嫌は良くなったような気がする。
「じゃあこれで昨日の事はおしまいね。
本題に入るけど、真面目な話と昨日の話、どっちにする?」
「?」
遠坂は当たり前のように話をふってくる。
そのスッパリさ加減に面を食らったが、考えてみれば話があるから遠坂はここにいるのだ。
衛宮士郎に用がなければ、遠坂凛はとっくに自分の棲家に帰っているだろう。
敵である遠坂が、敵の陣地に居座ってまで話したがる本題とは何なのか。
その思惑にも興味はあるし、昨日あれからどうなったかも知りたい。
聞かない訳にもいかないだろうし、ここは――――
◇◇◇
話を聞くにしたって、まずは自分の置かれた状況を確認してからじゃないと意味がない。
目的地に向かう前に、まず現在地を把握する。
旅の基本はそういう事だ。
「まずは昨日の話からのがいい」
「そうね。まずは状況を知るのが先。なんだ、まともに頭が働くじゃない、貴方」
満足げに微笑んで、遠坂は手短に昨夜の事を説明した。
なんでも俺が気を失った後、バーサーカーは立ち去ってしまったらしい。
その後、よく見れば俺の体は勝手に治りはじめ、十分もしたら外見は元通りになった。
傷は治ったものの意識が戻らない俺をここまで運んで、あとは今に至るという訳だとか。
「ここで重要なのは、貴方は貴方一人で生ききったっていう事実よ。確かにわたしは手助けしたけど、あの傷を完治させたのは貴方自身の力だった。そこ、勘違いしないでよね」
「話を聞くとそうみたいだけど。なんだ、遠坂が治してくれたんじゃないのか?」
「まさか。死にかけてる人間を蘇生させる、なんて芸当は、もうわたしには出来ない。衛宮士郎は自分でぶっ飛んだ中身をどうにかしたのよ」
「――――む」
そんな事を言われてもどうしろと。
確かに俺の腹は元通りになっているけど、正直遠坂の話には半信半疑だ。
俺には蘇生はおろか治療の魔術さえ使えないんだから。
「そうなると原因はサーヴァントね。
貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召喚の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね」
「ライン? ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」
「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。
なら話は早いわ。ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト」
「見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。
普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ」
「……む。簡単に言って、川の水が下から上に流れているようなもんか?」
「上手い喩えね。本来ならあり得ないだろうけど、セイバーの魔力ってのは川の流れを変えるほど膨大なんでしょう。そうでなければあの体格でバーサーカーとまともに打ち合うなんて考えられない」
「本来ならあり得ない……じゃあ遠坂とアーチャーは普通の魔術師と使い魔の関係なのか」
「そうよ。人の言うことぜんっぜん聞かないヤツだけど、一応そういう関係」
「マスターとサーヴァントの繋がりなんて、ガソリンとエンジンみたいなものだもの。こっちが魔力を提供して、あっちがそれを食べるだけ。
……まあ中には肉体面でもサーヴァントと共融して擬似的な“不死”を得たマスターもいたそうよ。サーヴァントが死なない限り自分も死なない、なんていうヤツなんだけど……衛宮くん、人の話聞いてる?」
「え……? ああ、聞いてる。
じゃあ遠坂、俺の体って多少の傷はほっといても治るって事か?」
「貴方のサーヴァントの魔力を消費してね。理屈は解らないけど、原因がセイバーの実体化にある事は間違いないわ。貴方が自然治癒の呪いなんて修得している筈はないから」
「当たり前だ。そんな難しいこと、親父から教えて貰った事ないからな」
「そうじゃなくて、そうだったらわたしが悩む必要はなかったっていう事よ。いいわ、貴方には関係のない話だから」
「……?」
なんだろう。
遠坂の言葉は婉曲で分かりづらいと思う。
「まあいいわ。とにかくあまり無茶はしない事。
今回は助かったからいいけど、次にあんな傷を負ったらまず助からない筈だから。多少の傷なら治る、なんていう甘い考えは捨てた方がいいでしょうね」
「分かってる。俺がかってにケガして、それでセイバーから何かを貰ってる、なんていうのは申し訳ない」
「バカね、そんな理由じゃないわよ。断言してもいいけど、貴方の傷を治すと減るのはセイバーの魔力だけじゃない。
―――貴方、それ絶対なんか使ってるわ。
寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから」
ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。
それには確かに同感なのだが。
「遠坂。預金残高は関係ないのでは」
「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!
そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!」
ガアー! と私怨の炎を噴き上げる遠坂凛。
不思議だ。
話せば話すほど、こっちの遠坂が地で、学校での遠坂がよそ行きだと判ってしまう。
……ああ、いやまあ、そんなのは昨日の段階で判りきっていた事だったか。
「……まあ、お金の話は置いとくとして。
次は真面目な話だけど、いいかしら衛宮くん」
「遠坂がここに残った本題ってヤツだろ。いいよ、聞こう」
「じゃあ率直に訊くけど。衛宮くん、貴方これからどうするつもり?」
本当に率直に、遠坂は一番訊いてほしくないコトを訊いてくる。
……いや、それは違うか。
訊いてほしくないんじゃなくて、ただ考えがおよばないだけ。
これからどうするかなんて、それこそこっちが訊きたい問題だ。
「……正直、判らない。聖杯を競い合うって言うけど、魔術師同士の戦いなんてした事がない。
第一、俺は――――」
殺し合いは出来れば避けたいし、何より―――
「聖杯なんていう得体の知れないモノに興味はないんだ。
欲しくないモノの為に命を張るのは、どうかと思う」
「言うと思った。貴方ね、そんなこと言ったらサーヴァントに殺されるわよ」
「な……殺されるって、どうして!?」
「サーヴァントの目的も聖杯だから。
彼等は聖杯を手に入れる、という条件だからこそ人間《マスター》の召喚に応じているのよ」
「サーヴァントにとって最も重要なのは聖杯なの。
彼らは聖杯を手に入れる可能性があるからマスターに従い、時にマスターの為に命を落とす。
だっていうのに聖杯なんていらないよ、なんて言ってみなさい。裏切り者、と斬り殺されても文句は言えないでしょ」
「……なんだそれ。おかしいじゃないか、サーヴァントっていうのはマスターが呼び出した者なんだろ。
なら――――」
「サーヴァントが無償で人間に従うなんて思ってたの?
聖杯は手に入れた者の望みを叶える。それはマスターの守護者であるサーヴァントも例外じゃない。
サーヴァントたちにもね、それぞれ何らかの欲望があるのよ。だからこそ彼等は本来有り得ない召喚に応じている」
「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。
聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼びだしに応じるのよ」
「――――――――」
サーヴァントにも欲望がある……?
ならあのセイバーも、聖杯を手に入れて叶えようとする願いがある、という事なのか。
「だからサーヴァントはマスターが命令しなくとも他のマスターを消しにかかる。聖杯を手に入れるのは一人だけ。自分のマスター以外に聖杯が渡るのは彼らだって承知できないのよ。
マスターと違って、サーヴァントには令呪を奪う、なんてコトはできない。彼らが他のマスターを無力化するには、殺す以外に方法がない」
「だからね、たとえマスター本人に戦う意思がないとしても戦いは避けられないのよ。
サーヴァントに襲われたマスターは、自分のサーヴァントでこれを撃退する。それが聖杯戦争なんだって、綺礼から嫌っていうほど聞かされたでしょう?」
「――――ああ。それは昨日の夜教えられた。
けど――――」
それはつまり、サーヴァントとサーヴァントを殺し合わせる、という事だ。
マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、サーヴァントが聖杯を求めて召喚に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、それじゃあ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。
……なら。
自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡って争い、殺し、殺される立場だというのか。
「……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流してた」
「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ」
「いや、だから。それは」
たとえ仮初めの死だとしても。
この世界で、人の姿をしたモノが息絶えるという事に変わりはない。
「なに、人殺しだっていうの? 魔術師のクセにまだそんな正義感振り回してるわけ、貴方?」
「――――――――」
遠坂の言うことはもっともだ。
魔術師である以上、死は身近に存在する。
そんな事はとっくに覚悟しているし、理解している。
それでも俺は―――人の生き死にに善悪を計れるほど強くはない。
「―――当然だろう。相手を殺すための戦いなんて、俺は付き合わない」
「へえ。それじゃあみすみす殺されるのを待つだけなんだ。で、勝ちを他のマスターに譲るのね」
「そうじゃない。要は最後まで残っていればいいんだろう。自分から殺し合いをする気はないけど、身を守るための戦いなら容赦はしないさ。
……人を殺しに来る相手なら、逆に殺されても文句は言えないだろ」
「ふーん、受けに回るんだ。それじゃあ他のマスターが何をしようが傍観するのね。例えば昨日のアイツが暴れ回って、町の人間を皆殺しにしても無視するってワケ」
昨日のアイツ……?
それは、あの人とも思えぬ異形の鬼の事か。
「――――――――」
一撃で家の一軒や二軒、優に崩す怪力。
……たしかにアレがその気になれば、こんな小さな町なんて一晩で壊滅する。
くわえて、なにより厄介なのはサーヴァントというのは基本的に霊体だという事だ。
霊感のない人間には姿さえ観測できない。
にも関わらず実体を持つかのように現世に干渉できるという時点で、サーヴァントは最強の兵器と言えるだろう。
なにしろ今の科学では、霊体に効果のある兵器など存在しない。
こちらの攻撃は通じず、あちらの攻撃は通じる。
これではワンサイドゲームどころの話じゃない。
サーヴァントによる殺害は、一般人から見れば自然災害のようなものなのだ。
姿のない殺戮者に襲われた人間の死は、事故死か自殺としか扱われまい。
「なんだよそれ。サーヴァント―――いや、マスターとサーヴァントは、他のマスターしか襲わないんじゃないのか。町の人たちは無関係だろう」
「ええ、そうだったらどんなに平和な事か。けど、それなら見届け役の綺礼なんていらないでしょ?」
「一つ言い忘れていたけど、サーヴァントっていうのは霊なの。彼等はもう完成したものだから、今以上の成長はない。
けど燃料である魔力は別よ。
蓄えた魔力が多ければ多いほど、サーヴァントは生前の特殊能力を自由に行使できるわ。
そのあたりはわたしたち魔術師と一緒なんだけど……貴方、この意味解る?」
「解る。魔術を連発できるって事だろ」
魔力というのは弾丸に籠める火薬で、魔術師というのは銃と見ればいい。
銃の種類は短銃、ライフル銃、マシンガン、ショットガンと、魔術師ごとに性能が異なる。
その例で言えば、サーヴァントって連中は銃ではなく大砲だ。
火薬を大量に消費することで、巨大な弾を撃ち放つ。
「そうよ。けどサーヴァント達は私たちみたいに自然から魔力《マナ》を提供されてる訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。
それを補助するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの」
「けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?
その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。
サーヴァントは霊体だから。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと」
「――――む?」
同じモノを食べれば栄養になる……?
「同じモノって、霊体のコトか? けどなんの霊を食べるっていうんだよ」
「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。
なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?」
「――――あ」
簡単な話だ。
俺たちが肉を食べるように、人の霊である彼らはつまり――――
「ご名答。まあ魔力の補充なんて、聖杯に補助されたマスターからの提供だけで、大抵は事足りる。
けど一人より大勢の方が大量摂取できるのは当然でしょ?
はっきり言ってしまえばね、実力のないマスターは、サーヴァントに人を食わせるのよ」
「――――」
「サーヴァントは人間の原感情や魂を魔力に変換する。
自分のサーヴァントを強くしたいのならそれが一番効率がいい。人間を殺してサーヴァントへの贄にするマスターは、けっして少なくないわ」
「贄にするって……それじゃ手段を選ばないヤツがマスターなら、サーヴァントを強くする為に人を殺しまくるってコトなのか」
「そうね。けど頭のいいヤツならそんな無駄な事はしないんじゃないかな」
「いい、サーヴァントがいくら強力でも、魔力の器そのものには限界がある。能力値以上の魔力の貯蔵はできないんだから、殺して回るにしても限度があるわ。
それにあからさまに殺人を犯せば協会が黙ってないし、なによりその死因からサーヴァントの能力と正体が、他のマスターたちにバレかねない。もちろんマスター自身の正体もね。
聖杯戦争は自分の正体を隠していた方が圧倒的に有利だから、普通のマスターならサーヴァントを出し惜しみする筈よ」
……そうか。
確かに自分がマスターである事を知られなければ、他のマスターに襲われる事はない。
逆に誰がマスターかを知っていれば、確実に奇襲ができる。
その理論でいけば、サーヴァントに人を襲わせて自分たちの正体を暴露させてしまう、なんてヤツはそう出てこない事になる―――
「……良かった。なら問題はないじゃないか。マスターが命令しなければ、サーヴァントは無差別に人を襲わないんだから」
「でしょうね。仮にも英雄だもの、自分から人を殺してまわるイカレ野郎は、そもそも英雄だなんて呼ばれないだろうけど―――ま、断言はできないか。
殺戮者だからこそ英雄になった例なんて幾らでもあるんだし」
「――――――」
さらりと不吉なコトを言う遠坂。
それが嫌味でも皮肉でもなく本心っぽいあたり、かすかな性格の歪みを表しているのではなかろーか。
◇◇◇
「話を戻しましょうか。で、どうするの。
人殺しはしないっていう衛宮くんは、他のマスターが何をしようが傍観するんでしたっけ?」
……前言撤回。
こいつ、かすかじゃなくてはっきりと性格が歪曲してる。ここまで人を追いつめておいて、笑顔でそんなコトを言うあたり、とんでもなくいじめっこだ。
「そうなったら止めるだけだ。サーヴァントさえ倒せば、マスターだって大人しくなるんだろう」
「呆れた。自分からマスターは倒さない、けど他のマスターが悪事を働いたら倒すっていうんだ。
衛宮くん、自分が矛盾してるって解ってる?」
「ああ、都合がいいのは分かってる。けど、それ以外の方針は考えつかない。こればっかりはどんなに論破されても変えないからな」
「ふーん。問題点が一つあるけど、言っていいかしら」
企んでる。あの顔は絶対なにか企んでる。
が、男が断言した以上、聞かない訳にもいかないのだ。
「い、いいけど、なんだよ」
「昨日のマスターを覚えてる? 衛宮くんとわたしを簡単に殺せ、とか言ってた子だけど」
「――――」
忘れるもんか。帰り道、問答無用で襲いかかってきた相手なんだから。
「あの子、必ずわたしたちを殺しに来る。それは衛宮くんにも判ってると思うけど」
「――――」
そう、か。
あの娘だってマスターなんだ。
俺と遠坂がマスターだって知ってるんだから、いつかは襲いかかってくるだろう。
今日か明日かは判らないが、それが死刑宣告である事は間違いない。
少なくとも、俺ではあんな怪物を止められない。
「あの子のサーヴァント、バーサーカーは桁違いよ。
マスターとして未熟な貴方にアレは撃退できない。自分からは何もしないで身を守るって言うけど、貴方は身を守る事さえ出来ないわ」
「―――悪かったな。けど、そういう遠坂だってアイツには勝てないんじゃないのか」
「正面からじゃ勝てないでしょうね。白兵戦ならアレは最強のサーヴァントよ。きっと歴代のサーヴァントの中でも、アレと並ぶヤツはいないと思う。わたしもバーサーカーに襲われたら逃げ延びる手段はないわ」
「……それは俺だって同じだ。今度襲われたら、きっと次はないと思う」
無意識に腹に手を当てた。
今は塞がっている腹の傷。
いや、傷なんて言えるレベルじゃなかった、即死に近い大剣の跡。
アレをまた味わうかと思うと、逃れようのない吐き気が戻ってくる。
「そういうこと。解った? 何もしないままで聖杯戦争の終わりを待つ、なんて選択肢はないってコトが」
「……ああ、それは解った。けど遠坂。おまえ、さっきから何を言いたいんだよ。ちょっと理解不能だぞ。
死刑宣告された俺を見るのが楽しいってワケでもないだろ……って、もしかして楽しいのか?」
「そこまで悪趣味じゃないっ。
もう、ここまで言ってるのに分からない? ようするに、わたしと手を組まないかって言ってるの」
「?」
む? むむむむ、む? それ、額面通りに受け取ると、その。
「―――て、手を組むって、俺と遠坂が!?」
「そう。わたしのアーチャーは致命傷を受けて目下治療中。完全に回復するまで時間がかかるけど、それでも半人前ぐらいの活躍はできる筈よ。
で、そっちはサーヴァントは申し分ないけど、マスターが足ひっぱってやっぱり半人前。ほら、合わせれば丁度いいわ」
「むっ。俺、そこまで半人前なんかじゃないぞ」
「わたしが知る限りでもう三回も死にそうになったっていうのに? 一日で三回も殺されかける人間なんて初めて見たけど?」
「ぐ――――けど、それは」
「同盟の代価ぐらいは払うわ。アーチャーを倒されたコトはチャラにしてあげて、マスターとしての知識も教えてあげる。ああ、あと暇があれば衛宮くんの魔術の腕を見てあげてもいいけど、どう?」
……う。
それは、確かに魅力的な提案だと思う。
右も左も分からない俺にとって、遠坂は頼りになる先輩だ。
それに出来る事なら、遠坂とは争いたくない。
学校で憧れていた女の子だから、じゃない。
むしろ知らないままなら、ここまで抵抗は感じなかっただろう。
……目の前にいる遠坂凛は、学校で言われている優等生のイメージとはかなり異なる。
けど、こうして話しているとやっぱり遠坂は遠坂というか、見た目通りというか、
その―――ああもうつまり、なんでこんなコト自分に言い聞かせなくちゃいけないのかっていうぐらい、こっちの方が魅力的だと思うのだ―――
「衛宮くん? 答え、聞かせてほしいんだけど?」
返答を急かされる。
俺は――――
……そもそも選択の余地はない。
俺は知らない事が多すぎるし、魔術師としても未熟だ。
一時的にせよ遠坂が手を貸してくれるのなら、こんなにいい話はないと思う。
「―――分かった。その話に乗るよ、遠坂。正直、そうして貰えればすごく助かる」
「決まりね。それじゃ握手しましょ。とりあえず、バーサーカーを倒すまでは味方同士ってことで」
「あ……そっか。やっぱりそういう事だよな。仕方ないけど、その方が判りやすいか」
差し出された手を握る。
……少し戸惑う。
遠坂の手は柔らかくて、握った瞬間に女の子なんだ、なんて実感してしまった。
そんな手に比べると、ガラクタいじりで傷だらけの自分の手はなんとも不釣り合いだ。
「――――」
そう思った途端、気恥ずかしくなって手を慌てて引いた。
「なに、どうしたの? やっぱりわたしと協力するのはイヤ?」
「――――いや、そんなんじゃない。遠坂と協力しあえるのは助かる。今のはそんなんじゃないから、気にするな」
遠坂は不思議そうに俺を見たあと、
「ははーん」
なんて、とんでもなく意地の悪い顔をしやがった。
「な、なんだよ。つまんないコト言ったら契約破棄するからな。するぞ。絶対するからな!」
「貴方、女の子の手を握るの初めてだったんでしょ?
なんだ、顔が広いように見えて士郎ってば奥手なんだ」
「ち、違うっ! そんなんじゃなくて、ただ」
相手が遠坂だったから照れただけだ、なんて言える筈もなく、そりゃあ確かにあんなに強く女の子と触れあったコトも今までなかった。
……ああいや、藤ねえは除外。
アレは異性の人というより異星の人だから。
「―――って、む?」
なんか、今の遠坂の台詞、微妙におかしなアクセントが混じっていたような……?
「あはは、聞いてた通りほんと顔にでるのね。ま、今のは追求しないであげましょう。ヘンにつっついて意地を張られても困るし」
「じゃ、まずは手付け金。これあげるから、協力の証と思って」
どこに隠し持っていたのか、遠坂はテーブルに一冊の本を持ち出す。
見た目は日記帳そのものだ。
タイトルはなく、表紙はワインレッド。
……どことなく遠坂っぽいカラーリングである。
「わたしの父さんの持ち物だけど、もう要らないからあげる。一人前のマスターには必要ないものだけど、貴方には必要だと思って」
遠坂はめくってみて、と視線で促してくる。
「……じゃ、ちょっと失礼して」
ぱらり、と適当に頁をめくる。
――――と。
本には何も書かれていない筈なのに、おかしな映像が脳裏に浮かんできた。
「??? 遠坂、なんだよこれ」
「各サーヴァントの能力表よ。聖杯戦争には決められたルールがあるのはもう判ってるでしょ? それはサーヴァントにも当てはまるの」
「まず、呼び出される英霊は七人だけ。
その七人も聖杯が予め作っておいた“役割《クラス》”になる事で召喚が可能となる。英霊そのものをひっぱってくるより、その英霊に近い役割を作っておいて、そこに本体を呼び出すっていうやり方ね」
「口寄せとか降霊術は、呼び出した霊を術者の体に入れて、なんらかの助言をさせるでしょ? それと同じ。
時代の違う霊を呼び出すには、予め“筐《ハコ》”を用意しておいた方がいいのよ」
「役割《クラス》―――ああ、それでセイバーはセイバーなのか!」
「そういう事。英霊たちは正体を隠すものだって言ったでしょ? だから本名は絶対に口にしない。自然、彼らを現す名称は呼び出されたクラス名になる」
「で、その用意されたクラスは セイバー、
ランサー、
アーチャー、
ライダー、
キャスター、
アサシン、
バーサーカー、の七つ」
「聖杯戦争のたびに一つや二つはクラスの変更はあるみたいだけど、今回は基本的なラインナップね。通説によると、最も優れたサーヴァントはセイバーだとか。
これらのクラスはそれぞれ特徴があるんだけど、サーヴァント自体の能力は呼び出された英霊の格によって変わるから注意して」
「英霊の格……つまり生前、どれくらい強かったかってコトか?」
「それもあるけど、彼らの能力を支えるのは知名度よ。
生前何をしたか、どんな武器を持っていたか、ってのは不変のものだけど、彼らの基本能力はその時代でどのくらい有名なのかで変わってくるわ。
英霊は神さまみたいなモノだから、人間に崇められれば崇められるほど強さが増すの」
「存在が濃くなる、とでも言うのかしらね。信仰を失った神霊が精霊に落ちるのと一緒で、人々に忘れ去られた英雄にはそう大きな力はない。
もっとも、忘れられていようが知られていなかろうが、元が強力な英雄だったらある程度の能力は維持できると思うけど」
「……じゃあ多くの人が知っている英雄で、かつその武勇伝も並はずれていたら――――」
「間違いなくAランクのサーヴァントでしょうね。
そういった意味でもバーサーカーは最強かもしれない。
なにしろギリシャ神話における最も有名な英雄だもの。
神代の英雄たちはそれだけで特殊な宝具を持つっていうのに、英雄自体が強いんじゃ手の打ちようがない」
「……遠坂。その、宝具ってなんだ」
「その英霊《サーヴァント》が生前使っていたシンボル。英雄と魔剣、聖剣の類はセットでしょ? ようするに彼らの武装の事よ」
「……? 武器って、セイバーの視えない剣とか?」
「まあね。あれがどんな曰くを持っているか知らないけど、セイバーのアレは間違いなく宝具でしょう。
言うまでもないと思うけど、英雄ってのは人名だけじゃ伝説には残れない。
彼らにはそれぞれトレードマークとなった武器がある。
それが奇跡を願う人々の想いの結晶、『貴《ノウブル・ファンタズム》い幻想』とされる最上級の武装なワケ」
「む……ようするに強力なマジックアイテムって事か」
「そうそう。ぶっちゃけた話、英霊だけでは強力な魔術、神秘には太刀打ちできないわ。
けれどそこに宝具が絡んでくると話は別よ。
宝具を操る英霊は数段格上の精霊さえ討ち滅ぼす。
なにしろ伝説上に現れる聖剣、魔剣は、ほとんど魔法の域に近いんだもの」
「最強の幻想種である竜を殺す剣だの、万里を駆ける靴だの、はては神殺しの魔剣まで。
……ともかくこれで無敵じゃない筈がないっていうぐらい、英霊たちが持つ武装は桁が違う。
サーヴァントの戦いは、この宝具のぶつかり合いにあると言っても過言じゃないわ」
「……つまり、英霊であるサーヴァントは必ず一つ、その宝具を持ってるってコトだな」
「ええ。原則として、一人の英霊が持てるのは一つの宝具だけとされるわ。
大抵は剣とか槍ね。ほら、中国に破山剣ってあるじゃない。一振りしかできないけど、その一振りで山をも断つっていう魔術品。それと似たようなモノだと思う」
「もっとも、宝具はその真名を呪文にして発動する奇跡だから、そうおいそれと使えるモノじゃないんだけど」
「? 武器の名前を口にするだけで発動するんだろ? なんだってそれでおいそれと使えない、なんてコトになるんだ?」
「あのね。武器の名前を言えば、そのサーヴァントがどこの英雄か判っちゃうじゃない。
英雄と魔剣はセットなんだから、武器の名前が判れば、持ち主の名前も自ずと知れてしまう。そうなったら長所も短所も丸判りでしょ?」
「なるほど。そりゃあ、確かに」
実際、宝具とやらを使ったランサーは、セイバーにその正体を看破されていたっけ。
たしかアイルランドの光の御子だとか、なんとか。
「――――ふむ」
さて、整理すると、
サーヴァントはそれぞれのクラスに別れており、そのクラスに見合った特性を持つ英霊だという事。
彼らは自分がどのような英雄かを隠しているという事。
そして、持っている武器は奥の手と言える切り札だが、正体を知られてしまうが故においそれとは出せない、という事。
「以上でサーヴァントについての講義は終わり。
詳しい事はその本を見れば判るから、一息ついたら目を通しなさい。馴れてくれば、その本がなくても直感でサーヴァントを判断できるようになるから」
それだけ言って、遠坂は座布団から立ち上がった。
「さて、それじゃわたしは戻るけど」
「え? ああ、お疲れさま」
座布団に座ったまま、帰ろうとする遠坂を見上げる。
「協力関係になったからって間違わないでね。わたしと貴方はいずれ戦う関係にある。最後の日になって他のマスターたちが倒れているにしろ、全員健在であるにしろ、これだけは変わらない。
だから―――わたしを人間と見ないほうが楽よ、衛宮くん」
最後にきっちりとお互いの立場を言葉にして、遠坂は自分の家へと帰っていった。
◇◇◇
遠坂が去って、緊張の糸が切れた為か。
熱を持っていた体がだるく感じられて、そのまま居間に寝転がってしまった。
「――――」
ぶり返してきた吐き気を、横になってやり過ごす。
こつこつと、静かな居間に時計の秒針が刻まれていく。
「……マスター同士の戦い、か」
それが一体どういうものなのか、自分にはまだ判らない。
はっきりしているのはこの手に余る、という事だけだ。
少しでも聖杯に興味があるのなら、もう少し実感が湧くのだろうが――――
「何故だろう。聖杯には、嫌悪感しか湧かない」
望みを叶えるという杯。
それがどんなモノかは知らないが、サーヴァントなんていうモノを呼び出せる程の聖遺物だ。
どんな望みも叶える、とまではいかないまでも、魔術師として手に入れる価値は十分すぎる程あるだろう。
それでも―――俺はそんなモノに興味はない。
実感が湧かず半信半疑という事もあるのだが、結局のところ、そんな近道はなんか卑怯だと思うのだ。
「それに、選定方法が戦いだっていうのも質が悪い」
……だが、これは椅子取りゲームだ。
どのような思惑だろうと、参加したからには相手を押し退けないと生き残れない。
その、押し退ける方法によっては、無関係な人々にまで危害を加える事になる。
だから、
―――喜べ衛宮士郎。
俺の戦う理由は聖杯戦争に勝ち残る為じゃなくて、
―――君の望みは、ようやく叶う。
どんな手を使っても勝ち残ろうとするヤツを、力ずくでも止める事。
「―――――――っ」
また目眩がした。
当然だ。
いくら外見が元通りになったといっても、数時間前まで体が二つになりかけていたんだ。
この体調不良がすぐに治る訳がない。むしろ一生このままっていう方が納得できる。
なにしろ一日に三度も殺されかけた。
力のない者が戦いに参加すれば、傷つくのは当然だ。
俺は己の力量不足の代償として体を失いかけ、
彼女は、そんな俺を守るために傷を負った。
「――――!」
ガバッ、と横になっていた体を起こす。
「そうだ、アイツ……!」
何をしているのか、俺は。
遠坂が居間に居座っていた事ですっかり失念していた。
いや、無意識に考えるのを避けていた。
――――卑怯者。
自分の為に傷ついた誰か、
無惨に血を流す少女の姿を、思い返す事を避けていた。
「遠坂のヤツ、肝心なコトは外しやがって……!」
休んでいた体に喝を入れて立ち上がる。
遠坂はセイバーについて何も語らなかった。
俺をセイバーと二人で運んだ、なんて言いながら、それ以上の説明はしなかった。
一番に聞かなくてはいけない事、バーサーカーの手で負傷した彼女が、無事なのかと言う事を。
「く――――」
目眩を堪えながら屋敷をまわる。
人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったがセイバーの姿はない。
「あの格好なんだ、いればすぐに判るってのに――――」
屋敷のどこにも、あの勇ましい鎧姿のセイバーの気配はない。
遠坂はサーヴァントは霊体にもさせられる、とか言っていたが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。
いや、そもそも――――
「……マスターだなんて言うけど、俺のどこがアイツのマスターだって言うんだ」
セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで判らない。
こんなの、新参兵がいきなり戦車を与えられたようなもんだ。
「その通りだ。旧式の鉄砲しか扱えないヤツに最新鋭の兵器を渡しても、扱えるワケないだろうに」
ごちる。
いや、それでも幸いなのは、この戦車にはオートパイロット機能がついている事か。新参兵がヘボでも、戦車は勝手に戦ってくれる。
「――――」
自分の考えに頭がきて、柱に頭を打ち付けた。
「……なに腐ってるんだ、バカ。今のは、とんでもなく失礼な弱音だった」
心の中で金髪の少女に頭を下げる。
なんか、そうなったら一刻も早く彼女を見つけて、無事を確認しなければ気が済まなくなってきた。
「ここにもいない――――」
屋敷はすべてまわった。
旅館みたいに広い屋敷だが、子供の頃藤ねえと隠れんぼをしていたのは伊達じゃない。効率のいい屋敷の探索は心得ている。
ここまで探していないとなると、後は―――
「庭か、蔵か、それとも――――」
候補はいつくかあがったが、もう屋敷にはいない、なんて考えだけは浮かばない。
俺を守護すると言った。
なら、この屋敷から外に出るなんて、そんな事はないと思う。
「――――もしかして」
唐突に思いついた事がある。
屋敷でもなく庭でもなく、初めて出会った土蔵でもない。
そういえば、この屋敷にはもう一つ大きな建物があるじゃないか。
「間違いない。きっとあそこだ」
急ぎ足で歩き出す。
向かう先は離れにある剣道場。
「――――」
わずかに緊張する。
そこにいなかったら、その時こそは彼女が消えてしまったと認めるしかない。
「……?」
それで気づいた。
彼女の事なんて何一つ知らないというのに、そんな相手に居て欲しいと思っている自身の矛盾に。
余分なものが何一つない、板張りの空間。
生活する為ではなく、己を鍛える為だけに作られた道場。
淡い陽射しを受け入れ、音もなく佇むその場所に、
彼女は、ただ自然にそこにいた。
「――――――――」
静謐とした空間。
差し込む陽射しは白く、一点の汚れもなく彼女と道場を一つにしている。
凛と正された姿勢からは、わずかな乱れも感じられない。
彼女がそうしているだけで、道場の空気は張りつめている。
だが冷たいものは一切なかった。
冷たい冬の空気さえ忘れるほど、その姿はあまりにも清らかだったからだ。
「――――、――――」
息を呑む音さえ、邪魔だった。
道場の片隅で正座をしている少女は、紛れもなく昨夜の少女だ。
月の下、俺がランサーに殺される寸前に現れ、ためらう事なく剣を振るった少女。
青い月光を含んでいた金砂の髪が、今は穏やかな陽射しに同化している。
「――――――――」
それで、本当に思いだした。
初めて彼女を見た時の感情は、こういうモノだった。
鎧に身を包み、剣を振るい、無言で敵を圧倒していた彼女。
そんな非日常的な光景に驚いたんじゃない。
彼女がどんな姿をしていても関係ない。おそらく泥にまみれていても決して変わりはしないだろう。
俺が感動したモノは、今もこうして目の前にいる。
「――――――――」
だから呼吸さえ忘れて、その姿を眺め続けた。
マスターも聖杯戦争もない。
この一瞬だけで、本当に―――自分は、セイバーという少女の全てを認めてしまっていた。
それがどれほどの時間だったのか。
セイバーは眠りから覚めるように目蓋を開く。
「――――あ」
残念そうな俺の声は、やけに大きく道場に響いた。
それに気が付いたのか、セイバーは音もなく立ち上がる。
「…………」
何を言うべきか考えつかないまま、彼女へと歩み寄る。
「目が覚めたのですね、シロウ」
落ち着いた声。
染みいるように響く彼女の声は、この道場にあっている。
「あ―――ああ。ついさっき、目が覚めた」
うまく働かない頭で答える。
「シロウ? 顔色が優れないようですが、やはり体調は悪いのですか?」
ずい、と近寄ってくる金髪の少女。
「あ、ち、違う……! 体調はいい、すごくいい……!」
慌てて身を引いて、セイバーから離れる。
「?」
不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。
「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」
ふう、と深呼吸を一度する。
……けど、なんともすぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。
「……ああもう、なんだって着替えてるんだよ、アイツ……」
思わずごちる。
セイバーの姿は昨日とは一変していた。
あの鎧姿とは正反対の、いたって普通の服装だ。
それが意外というか、あんまりにも現実感がありすぎて、困る。
……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。
それは昨日で知っていたつもりだったけど、今さらに思い知らされた。
鎧姿、という出で立ちがあまりにも非現実的だったので、昨夜はそう気にならなかったのだろう。
こうして、ああいう女の子らしい格好をされると、健全な男子としてはとにかく困るのだ。
「シロウ」
呼びかけてくる少女と目があった途端、緊張する自分がわかる。
が、黙り込む為に捜していた訳じゃない。
彼女は苦手だが、だからといって黙っていたら一生このままだ。
「セイバー、だったよな。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」
意を決して話しかける。
――――と。
「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」
さっきまでの穏やかさが嘘みたいな不機嫌さで、俺の言葉を遮った。
「―――? いいけど、なんだよ話って」
「ですから昨夜の件です。
シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困る。戦闘は私の領分なのですから、シロウは自分の役割に徹してください。自分から無駄死にをされては、私でも守りようがない」
きっぱりと言うセイバー。
―――それで、さっきまでの緊張はキレイさっぱりなくなった。
「な、なんだよそれ! あの時はああでもしなけりゃおまえが斬られてたじゃないか!」
「その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。繰り返しますが、今後あのような行動はしないように。マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」
淡々と語る少女。
その姿があんまりにも事務的だったからだろう。
「な―――バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんているもんか……!」
知らず、そんな条件反射をしてしまった。
怒鳴られて驚いたのか、セイバーは意表を突かれたように固まったあとまじまじと、なんともいえない威厳でこっちを見つめてくる。
「うっ……」
真面目に見つめられて、わずかに後退する。
なんか、自分がすごく場違いな台詞を言ったな、と思い知らされて恥ずかしくなってしまった。
「と、ともかくうちまで運んでくれたのは助かった。それに関しては礼を言う」
「それはどうも。サーヴァントがマスターを守護するのは当たり前ですが、感謝をされるのは嬉しい。シロウは礼儀正しいのですね」
「いや。別に礼儀正しくなんかないぞ、俺」
そんな事より、今ははっきりさせなくちゃいけない事がある。
本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。
彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、
本当に―――この戦いに参加するのかということを。
「話を戻すぞセイバー。……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」
「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」
セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。
彼女の意思には疑問を挟む余地などない。
「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つ為にか」
「? シロウはその為に私を呼びだしたのではないのですか」
「違う。俺がおまえを呼びだしたのは――――」
ただの偶然なんだ、とは言えなかった。
いや、そもそも自分は呼び出してさえいない。
セイバーは俺のピンチに勝手に現れ、そして、勝手に救ってくれただけだ。
その結果が今の状況。
セイバーのマスターになって、聖杯戦争という殺し合いに巻き込まれた。
そこには一つだって、俺の意思は挟まれていない。
俺はただ分不相応の戦いに巻き込まれた、半人前の魔術師で――――
「―――っ、それがどうした。
……どのみち戦うしかないって覚悟はしたんだ。今更、泣き言なんて言ってられるか」
かすかに頭を振って、つまらない弱音を殺す。
―――これで終わりだ。
男が一度でも戦うと口にしたんだ。
なら逃げる事なんて出来ない。
弱音を口にするのも思うのもこれで最後。
どのような形であれ、俺は戦うと決めたんだから。
「シロウ?」
「―――いや、なんでもない。
けどセイバー、俺についても勝ち目は薄いぞ。俺は遠坂みたいに知識も力もないから、明日にでも昨日みたいな事になりかねない。それでもいいのか」
「それは戦う意思がない、という事ですか」
「戦う意思はある。ただ勝算がないから、そんな俺に付いていいのかって言いたいんだ。
経過はどうあれ、これは俺が始めると決めた戦いだ。
だから――――」
俺の代わりに誰かが傷つくのは、違うと思う。
いくら力不足だからってセイバーに戦わせて、
あんな――――
あんな光景を繰り返させるなんて、我慢できない。
「私のマスターは貴方です、シロウ。これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」
「――――――――」
それはそうだ。
だからこそ、セイバーは俺のサーヴァントになっている。
なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに負担をかけないようにするしかない。
「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」
「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。
貴方に勝算がなければ私が作る。
可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います。私たちはその為に召喚に応じたのだから」
聖杯を手に入れる為、か。
遠坂はサーヴァントにも叶えたい願いがあると言った。
それはこのセイバーだって例外ではないんだろう。
だからこそここまで迷いがない。
だが、それは
「……待ったセイバー。
可能である全ての手段、と言ったな。それは勝つ為には手段を選ばないって事か。たとえば、力を得る為に人を襲うと、か――――」
最後まで、口にできない。
セイバーは敵を見るかのように俺を見つめている。
「シロウ。それは可能である手段ではありません。
私は私が許す行為しか出来ない。自分を裏切る事は、私には不可能です。剣を持たぬ人間に傷を負わせる事など、騎士の誓いに反します」
「ですが、マスターが命じるのであれば従うしかありません。その場合、私に踏みいる代償として、その刻印を一つ頂く事になりますが」
怒りさえ籠もった声に圧倒される。
「――――――――」
それでも、嬉しくて胸をなで下ろした。
あまりの強さと迷いのなさに戦闘機械のようなイメージがあったけど、セイバーは冷酷な殺人者ではないと判って。
「―――ああ、そんな事は絶対にさせない。
セイバーの言う通り、俺たちは出来る範囲でなんとかするしかないからな。……本当にすまなかった。知らずに、おまえを侮辱しちまった」
「ぁ……いえ、私もマスターの意図が掴めずに早合点してしまいました。シロウは悪くないのですから、頭をあげてくれませんか……?」
「え? ああ、思わず謝ってた」
顔をあげる。
「――――――――」
セイバーは何がおかしかったのか、わずかに口元を緩めていた。
「?」
まあ、笑ってくれるのは嬉しいんで追求するのはやめておこう。
「……っと、言い忘れていた。
出来る範囲でなんとかするって言っただろ。その一環として、しばらく遠坂と協力する事になったんだ。ほら、昨日一緒にいた、アーチャーのマスター」
「凛ですか? ……そうですね、確かにそれは賢明な判断です。シロウがマスターとして成熟するまで、彼女には教わるものがあるでしょう」
……良かった。
セイバーが同意してくれれば、大手を振って遠坂と協力できる。
あと、どうしても今ここで訊かなきゃ気が済まないっていう事は――――
あれだけの傷を負ったセイバーの体が気にかかる。
「それよりセイバー。
……その、体は大丈夫なのか? バーサーカーにやられた傷、深かっただろ」
「……? 私の体は見ての通りですが。
確かにあの傷は敗北に至るものでしたが、致命的ではなかった。バーサーカーが立ち去った後、一時間ほどで治療を済ませました」
「え……じゃあセイバーはもう完全に元通りなのか……?」
「無論です。ですが本調子、という訳でもありません。
バーサーカーの一撃は単純なものだったので問題なく治療できましたが、ランサーの宝具による傷は別です。
あの槍は特殊な呪いを帯びているのでしょう。彼につけられた傷は、まだ完全に治りきっていません」
「――――――――」
……治りきっていない、か。
とてもそうは見えないが、セイバーは見ての通り痛みを口にするヤツじゃない。
セイバーと戦っていく以上、よく気を配って彼女の体を気遣わないといけないみたいだ。
あとは――――
セイバーの本当の名前についてはどうなんだろう。
「セイバー。遠坂に教えて貰ったんだが、サーヴァントは英霊を召喚して使役する魔術なんだろ。
なら―――セイバーは“セイバー”っていうクラス名じゃない、本当の名前があるんだよな?」
「はい。セイバーというのはこの時代における私の存在意義を表すものです。シロウのような、個人を示す名称ではありません」
「そっか。ならセイバーはホントはなんて言うんだ?
遠坂は自分のサーヴァントが何処の英雄なのか、知っておかないと戦いにならないって言ってたんだが」
サーヴァントは英霊だ。
その正体はあらゆる時代で名を馳せた英雄である。
彼らはクラス名で正体を隠し、自らの手の内をも隠している。
サーヴァントの真の名はおいそれと知られてはならないもの。
だが、同時にマスターだけは知っておかなければならない事でもあるのだ。
何故なら、英霊の正体が判らなければ正確な戦力が判らない。
マスターとサーヴァントは一心同体。
どちらかが隠し事なんてしていたら、まともに戦える筈がない。
戦える筈がないのだが――――
「―――シロウ。その件なのですが、どうか無礼を許してほしい。
召喚されたサーヴァントは、まずマスターに真名を告げなくてはならない。……その誓約を、私は果たす事ができません」
「セイバー……? 誓約を果たせないって、どうして?」
「私なりに考えた結果です。いかにシロウが私の真名を隠そうとしても、シロウから知識を奪う術は多くあるでしょう。
シロウの魔術抵抗はそう高くありませんから、敵が優れた術者ならば精神介入も容易い。敵の魔術にかかれば、貴方の意思に反して私の真名が明かされてしまう。
それを警戒して、シロウの知識に私の名を入れておきたくないのです」
「あ、そういうコトか。そうだよな、暗示をかけられたら俺なんて一発だもんな」
それに、真名を明かすのは普通のマスターとサーヴァントの関係だ。
セイバーの真名を知ったところで俺には有効な作戦は思いつかないだろうし、なによりあまり興味がなかった。
「ああ、そういう事なら秘密にしておこう。俺が未熟な分、注意深くやっていかないとな」
「そういって貰えると助かります。……もっとも、私自身はそう高名な者ではありません。バーサーカーに比べれば数段ランクは落ちるでしょうし、知られたところでどうという事はないでしょうが」
無念そうに呟くセイバー。
……ちょっと意外だ。セイバーも人間らしいところがあるというか、英雄としてバーサーカーに劣っている事を悔しがってる。
「いいんじゃないか? 切り札は隠しておいてこそ切り札だろ。マスターがこんなだからさ、セイバーが工夫しようとしているのは判るよ。
……それとバーサーカーだけど、アレは反則だろ。
セイバーが落ち込む事はないし、それに―――俺から見たら、セイバーは全然負けてない。あんな傷を負ってたのに真っ正面から打ち合ってたじゃないか」
「そうですね。昨夜は不覚をとりましたが、傷が癒えれば違った結果になるでしょう」
「え―――――あ、ああ。だと、いいんだけど」
カラ返事をして、思わず視線を逸らす。
……今のは、不意打ちだった。
セイバーのヤツ、笑うと、その――――
◇◇◇
と。
入り口の方で、何か重い荷物が落ちる音がした。
「どすん?」
はてな、と振り返る。
そこには おっきなボストンバッグを足下においた遠坂の姿があった。
「はい―――?」
思考が停止する。
帰った筈の遠坂が道場にやってきて、しかも私服で、なんであんな荷物を持っているのだ―――?
「……むむむ? 何しにきたんだ遠坂?」
「何って、家に戻って荷物取ってきたんじゃない。今日からこの家に住むんだから当然でしょ」
「なっ……!!!!?
す、住むって遠坂が俺の家に…………!!!?」
「協力するってそういう事じゃない。……貴方ね、さっきの話って一体なんだったと思ったわけ?」
「あ―――――――う」
びっくりして声が出ない。
何か。何か反論しないと、とんでもないコトになっちまうっていうのに、頭がうまく働いてくれない。
「私の部屋、どこ? 用意してないんなら自分で選ぶけど」
だというのに、容赦なく話を進めていくとんでも侵略《インベー》者《ダー》。
「あ――――いや、待った、それは――――」
道徳上まずいのではなかろうか。
いいか、遠坂は学校のアイドルだぞ? そんなのがうちにいるだけでもパニックなのに、泊ったり住まわれたりしたら気が気じゃないっていうか藤ねえに殺されるっていうか、まさかアイツ俺を発狂させてマスターを一人減らそうと画策してるんじゃなかろうな……!?
「あ、ついでに彼女の部屋も用意したら? 私のアーチャーと違って士郎のサーヴァントはかさばるんだから、ちゃんと寝る場所を与えておかないと。ま、同衾《どうきん》するっていうんなら別にいいけど」
ど、同衾って、その……一緒の布団に寝ること、だよな。
「す、するかバカッ! 人が黙ってると思ってなに言いだすんだおまえ! んなコトするわけないだろう、セイバーは女の子じゃないかっ……!」
「―――論点が違うけど、ま、いっか。ですってセイバー。
士郎は女の子と同じ部屋は嫌だってさ」
「……………………」
じっ、と。
すぐ隣りで、なにやら難しい顔をするセイバー。
「困ります、シロウ。サーヴァントはマスターを守護する者。睡眠時は最も警護すべき対象なのですから、同じ部屋でなければ守れない」
「そんなこと言われてもこっちはもっと困る! なに考えてんだおまえら、それでも女か!」
「………………」
「………………」
だから。
なんでそこで黙って俺を見るわけ、二人とも。
「……ふうん。サーヴァントはサーヴァント、人間扱いする必要はないけどね。士郎にそんなこと言っても無駄か」
「――――」
反論しようとした口が止まる。
さっき、居間で遠坂と話していた時の違和感が蘇る。
―――っていうか。
違和感の正体がはっきりと理解できた。
「……ちょっと待て遠坂。おまえ、いつのまに俺を名前で呼び捨てるようになってんだよ」
「あれ、そうだった? 意識してなかったから、わりと前からそうなってたんじゃない?」
「………なってた。けっこう前から、そんな気がする」
「そう。イヤなら気をつけるけど、士郎はイヤなの?」
こっちの気も知らずに、遠坂はごく平然と言いやがる。
……まったく、おまえの言う通りだ一成。
遠坂凛っていうのは、なんかとんでもなく魔性の女な気がする。
「……いい、好きにしろ。遠坂の呼びやすい方で構わない」
「そ? ならそういうコトで」
「凛、話を切らないでほしい。私とシロウの部屋について、まだ結論が出ていない」
「あ、そうだったそうだった。けど士郎がこの様子だと相部屋は難しいわね。サーヴァントを人間扱いしてもいいことなんてないけど、士郎が嫌だって言うんだから諦めたら?」
「それは違う。シロウは困ると言っただけで、嫌だとは言っていない」
「だってさ。そのあたりどうなの、士郎?」
「――――――――」
ちょっと待ってくれ。
なんだってこう、たった一日で人のことを士郎シロウと拾ってきた猫みたいに連呼するのか。
……ああいや、問題はそんなコトじゃなくて、セイバーの部屋のコトだ。
「シロウ、もう一度訊きます。睡眠中の警護はサーヴァントの役割です。マスターとして、自分の立場は判っていると思いますが」
う……そんな睨まれても、ダメなもんはダメなんだってば。
「……駄目だ。セイバーには別の部屋を用意する。その、出来るだけ近い部屋を用意するから、それで勘弁してくれ」
「――――――――」
「だ、駄目だぞすごんでも! とにかく男としてこればっかりは譲らないからな、セイバーも少しは自分の立場ってものを考えろってんだ……!」
「? ですから、私はサーヴァントとしてマスターを守護しようと――――」
「そうじゃなくて、自分のコトだっての……! ああもう、分からないんならいい! それ以上言うんなら令呪を使ってでも言うコトきかせるからな……!」
ふー、とうなってセイバーを威嚇する。
「……そのような事で令呪を使われては困る。三つしかない命令権を、自分を守るな、などという事に使われては先が見えない」
「そうね。間違いなく、そんなマスターは士郎が最初で最後でしょう」
バカ言うない。俺だってこんなコトに令呪を使いたくなんかない。
「……わかりました、マスターの方針に従います。ですが敵に襲われた時はどうするのです。アサシンなどは気配なく標的に忍び寄ってくる。そういった時、私が駆けつけるまでにシロウは自分を守れるのですか」
「それは――――」
なんとかする、とは断言できない。
ランサーの時は上手くいったけど、あんな偶然はそれこそ二度とないだろう。
「それはあり得ないわね。この屋敷には外敵が侵入すると警報が鳴る結界が張ってある。襲撃は避けられないけど、奇襲ならすぐに察知できるわ。それなら士郎が襲われる前に駆けつけられるだろうし、セイバーは好きな部屋に陣取ればいいんじゃない?」
「……それは、たしかにそうですが、しかし」
「なんなら士郎の部屋の隣りでいいじゃない。一緒の部屋でなければいいんでしょ、衛宮くんは?」
じと目で、これみよがしに“衛宮くん”なんて発音する遠坂。
「遠坂、そういうの詭弁っていうんだぞ」
「貴方の為に言ってるんだから正論よ。さーて、それじゃわたしの部屋はどこにしよっかなー」
話はここまで、とばかりに荷物を持って屋敷へ歩いていく遠坂。
その背中は、修学旅行で部屋決めをする生徒みたいに楽しげだ。
「……………………」
「――――――――」
その様子があまりにも唯我独尊だった為か。
思わずセイバーと二人、呆然と見送ってしまっていた。
道場から出て屋敷に戻る。
とりあえず、セイバーに好きな部屋を選んでもらう為にも、屋敷を案内しなければなるまい。
「こっちが和室。裏側にまわると居間とか風呂とか、そういった共通施設に出る。で、縁側をずっと歩いてあっちの別棟に行くと客間がある。……遠坂はどうもそっちに行ったみたいだな」
説明しながら歩く。
聞いているのかいないのか、セイバーは頷きもせずに付いてきていた。
「屋敷の見取りはいいです。それよりシロウの部屋はどこなのですか?」
「俺の部屋はこっち。わりと奥まったところにある」
「ではそちらに案内してください。内密に話があります」
「内密に話……?」
それは遠坂に聞かれたくない、という事か。
遠坂は別棟に行っているからここでも構わないと思うが、アイツだってマスターだ。
壁に耳あり障子に目ありというし、確かに縁側で内緒話もない。
「ほら。ここが俺の部屋」
「な―――これがシロウの部屋、ですか?」
「?」
部屋に入るなり、セイバーは目を丸くして驚いている。
「どうした? 冷静なセイバーをびっくりさせるような物なんかないと思うけど」
「いえ、びっくりさせるような物がないというより、何もないではないですか。本当にここが貴方の部屋なのですか、シロウ」
「セイバーを騙して俺に得なんかないだろ。ここには寝に帰ってくるだけだし、物がないのは当たり前だ」
「……そうですか。意外でした、シロウはもっと雑多な人となりだと思っていましたから」
セイバーは和室に入って、壁や襖に手をあてて感触を確かめる。
それは物に触れれば、その思い出を感じ取れるかのような優しい仕草だった。
「……良かった。寂しい部屋ですが、無碍に扱われている訳ではない。殺風景ですが、ここはここで温かい場所なのですね」
「温かい? ……ああ、まあそうかな。屋敷の作りなのか、この部屋って夏は涼しく冬は暖かなんだ。親父もいい部屋をとったな、なんて感心してたし」
「ええ。部屋は持ち主の心象ですから。シロウの心の有り方に不安を覚えましたが、これなら今までの印象とそう変わりはしないでしょう」
安心したようにセイバーは言うが、彼女が何を言いたいのか俺には判らない。
「それで? 内緒の話ってなんだよ、セイバー」
「二つあります。そのどちらもシロウと私だけの隠し事にしたいのですが、いいですね?」
「? いや、セイバーがそうしたいっていうんなら構わないけど、できれば先に内容を言ってくれ。いい話か悪い話か判断がつかない」
「どちらも悪い話です。少なくとも、他のマスターには知られたくはない」
「……む」
セイバーの面持ちからするに、悪い話ってのは俺たちの欠点のコトなんだろう。
「……そうか、話の趣旨は判った。真剣に聞くから、言ってくれ」
「はい。まず一つめ、召喚されたサーヴァントの最初の義務なのですが、これを果たせない事を許してほしい」
「? サーヴァントの最初の義務?」
「自身が何者であるかをマスターに告げる、という物です。凛から聞いてはいませんか?」
「何者であるか告げる――――ああ、セイバーの本当の名前の事か」
サーヴァントは英霊だ。
その正体はあらゆる時代で名を馳せた英雄である。
彼らはクラス名で正体を隠し、自らの手の内をも隠している。
サーヴァントの真の名はおいそれと知られてはならないもの。
だが、同時にマスターだけは知っておかなければならない事でもあるのだ。
何故なら、英霊の正体が判らなければ正確な戦力が判らない。
マスターとサーヴァントは一心同体。
どちらかが隠し事なんてしていたら、まともに戦える筈がない。
――――とまあ、それは普通のマスターの事情だ。
セイバーの真名を知ったところで俺には彼女を扱えないし、なによりあまり興味がなかった。
「ふうん。いいけど、どうして?」
「私なりに考えた結果です。シロウが黙っていようと、シロウから知識を奪う術はあります。
シロウの魔術抵抗はそう高くありませんから、敵が優れた術者ならば精神介入も容易でしょう。それを警戒して、シロウの知識に私の名を入れておきたくない」
「なるほど、そりゃそうだ。暗示をかけられたら一発だもんな。いいよ、そういう事なら秘密にしておいてくれ」
「そういって貰えると助かります。……もっとも、私自身はそう高名な者ではありません。バーサーカーに比べれば数段ランクは落ちるでしょうし、知られたところでどうという事はないでしょうが」
無念そうに呟くセイバー。
……ちょっと意外だ。セイバーも人間らしいところがあるというか、英雄としてバーサーカーに劣っている事に悔しがってる。
「いいんじゃないか? 切り札は隠しておいてこそ切り札だろ。マスターがこんなだからさ、セイバーが工夫しようとしているのは判るよ。
……それとバーサーカーだけど、アレは反則だろ。
セイバーが落ち込む事はないし、それに―――俺から見たら、セイバーは全然負けてない。あんな傷を負ってたのに真っ正面から打ち合ってたじゃないか」
「そうですね。昨夜は不覚をとりましたが、傷が癒えれば違った結果になるでしょう」
「だろ。よし、一つ目の話はこれで終わり。
二つ目の話っていうのは?」
「ええ、それなのですが……おそらく、これはもう私たちでは解決できない事です。
私たちサーヴァントはマスターからの魔力提供によって体を維持する。だからこそサーヴァントはマスターを必要とするのですが、それが―――」
「……俺が半端なマスターだから、セイバーが体を維持するのに必要なだけの魔力がないって事か?」
「違います。たとえ少量でもマスターから魔力が流れてくるのなら問題はないのです。ですが、シロウからはまったく魔力の提供がありません。本来繋がっている筈の霊脈が断線しているのです」
「――――」
えっと、それはつまり。
ガソリン役である俺が、エンジン役であるセイバーに燃料を送っていない、という事なのか。
「セイバー、それは」
「シロウ自身の欠点ではありません。おそらく召喚時に問題が起きたのでしょう。何らかの不手際があって、本来繋がる筈のラインが繋がらなかったようです」
「――――召喚時の不手際って」
セイバーが呼び出されたアレは、召喚なんていうもんじゃなかった。
アレはただの事故だ。
たしかにあんな召喚をしたんだから、セイバーに異状がない方がおかしいだろう。
「……待て。それじゃあどうなるんだ。魔力を回復できないって事は、セイバーはすぐに消えてしまうのか」
「ええ。私が持つ魔力を使い切れば、この世界に留まる事はできなくなるでしょう」
「召喚されてから既に三回の戦闘を行いました。
私の治癒能力も蘇生魔術ですから、傷を負えば魔力の消費も早くなる。……そうですね、昨夜までで成熟した魔術師十人分の魔力は消費したでしょう」
「――――」
愕然とした。
戦う度に魔力は失われ、セイバーにはそれを回復する手段がない。
既にそれだけの魔力を消費したのなら、あとどのくらい、セイバーはこうしていられるのか―――
「判ってもらえましたか、マスター。
その為、私は少しでも魔力の消費を抑えなければならない。供給がないのなら、あとは睡眠する事で魔力の消費を抑えるしかありません」
「睡眠……その、眠れば魔力は回復するのか?」
「……判りません。ですが最低でも、眠っている間は魔力を使わない。
ですから、これから出来る限りの睡眠を許してほしいのです。常にシロウを守ることはできなくなりますが、それも勝利の為と受け入れてほしい」
「はあ――――」
大きく胸を撫で下ろす。
……良かった。そんな事でいいんなら、いくらでも受け入れる。
「そんなのいいに決まってるだろ。辛くなったらセイバーは休んでいいんだ。それで少しでも長くいられるんだったら、その方がずっといい」
「では、今後は頻繁に眠りに入りますが、その間は決して屋敷から離れないように。遠く離れた場所でシロウが襲われた場合、私はすぐに駆けつけられない」
「空間を跳躍するのなら話は別ですが、そんな能力を持つサーヴァントは希です。
もし離れた場所で私を呼ぶのなら、令呪のバックアップが必要になります。ですから、出来るだけ私から離れないようにしてほしい」
「…………む」
そうしたいのは山々だけど、簡単には頷けない。
セイバーといつも一緒にいる、なんて生活が想像できないし、何よりこっちにだって都合ってもんがあるんだから。
「……努力はする。けど本当にそれだけでいいんだな?
眠っていれば、その――――」
「問題はないでしょう。このような事はなかったので断言はできませんが、前回も総戦闘数は七回に満たなかった。私が倒さずとも、サーヴァントはサーヴァントによって減っていくのですから」
「そうか。別に全員が全員とやりあわなくちゃいけないって訳じゃないんだ。うまくすれば、簡単にこの戦いを終わらせる事ができる」
俺が戦うのは人としての節度を外したヤツだけだ。
まさか七人全員がそんなヤツな訳がない。
遠坂だってやる気満々だけど、アイツは魔術師としてのルールをきっちりと守りきるだろう。
だからあと五人―――残りの奴らがマトモならこっちから戦う事はないんだ。
セイバーは前回七回に満たなかったっていうし、今回も――――
「あれ?」
ちょっと待て。
前回、七回に、満たなかった?
「待ってくれセイバー。その、以前もセイバーだったのか? いや、そうじゃなくて前回も聖杯戦争に参加してたっていうのか……!?」
「私がこの聖杯の争いに参加するのは二度目です。
その時も私はセイバーでした。中には複数のクラス属性を持つ英霊もいるようですが、私はセイバーにしか該当しません」
「――――――――」
遠坂は言っていた。
七人のサーヴァントの中で、最も優れたサーヴァントはセイバーだと。
それを二回も連続で、この少女は成り得たという。
「それじゃ以前は、その……最後まで、残ったのか」
「無論です。前回は今のように制約はありませんでしたから、他のサーヴァントに遅れを取る事もなかった」
当然のように言うセイバー。
それで、今更ながら思い知らされた。
この手には、あまりにも不相応な剣が与えられたのだという事を。
「……まいったな。それじゃあ不満だろセイバー。俺みたいなのがマスターだと」
「私は与えられた役割をこなすだけです。聖杯さえ手に入るのであらば、マスターに不満はありません」
「そうか。それは助かるけど、それでも――――」
以前は負け知らずだったのに、今回はもう二度も傷を負っている。
魔力を回復できない、という状態において、彼女は魔力の残量を気にしながら戦わなくてはならない。
その不自由な、足かせをつけられた戦いの結果が、
あの、赤い血に染まった姿だった。
「――――――――」
それが脳裏にこびりついている。
この、俺より小さくて華奢な少女が、無惨にも傷ついた映像が。
「シロウ。その後悔は、余分な事です」
「え――――?」
セイバーの声で我に返る。
顔をあげると、そこには真剣な顔をしたセイバーがいた。
「私も負け知らずだった訳ではありません。
私は勝ちきれなかったからこそ、こうして貴方のサーヴァントとなっている。傷を負う事には慣れていますから、貴方が悔やむ事などない」
「馴れてるって……あんな、死ぬような怪我でもか」
「ええ。剣を取るという事は傷つくという事です。それは貴方も同じでしょう。私だけが傷つかない、という道理はないと思いますが」
「それは―――そうだけど。それじゃ怪我をしても構わないって言うのか、セイバーは」
「それが死に至る傷でなければ。死んでしまってはマスターを守れなくなりますから」
「……なんだそれ。マスターを守る為なら傷を負ってもかまわない、なんて言うのかおまえは」
「それがサーヴァントの役割ですから。
……確かに凛の言葉は正論ですね。サーヴァントを人間として扱う必要などない。私たちはマスターを守るための道具です。貴方も、それを正しく把握するべきだ」
そう言い切って、セイバーは襖《ふすま》の方へ歩いていく。
襖の向こうは隣りの部屋だ。
俺にはこの広さだけで十分なので、隣りの部屋は使っていなかった。
「睡眠をとります。夕食時には起きますので、外出するのなら声をかけてください」
す、と静かに障子が引かれ、閉められる。
―――私たちはマスターを守るための道具です。
貴方も、それを正しく把握するべきだ――――
「……なんだ、それ」
なんか無性に頭にくる。
だっていうのに声もかけられず、一人立ちつくしてセイバーの言葉を噛みしめていた。
◇◇◇
縁側に腰をかけて、ぼんやりと青空を見上げる。
昼間っから眠ってしまったセイバーではないが、こっちも休憩が必要だった。
……吐き気は治まったものの、体の具合は依然最悪。
おまけに、次から次へと予期せぬ展開を押しつけられて両肩がぐっと重い。
「―――――――ふう」
深呼吸をして、ぼんやりと庭を眺める。
とりあえず訊くべき事は訊いたが、右も左も判らない状況は変わっていない。
魔術師として先輩というか、ちゃんとした正規のマスターである遠坂はと言うと、
「ね、余ってるクッションとかない? あとビーカーと分度器」
こんな感じで、うちの家具の物色に余念がない。
「……クッションならとなりの客間のを持ってけ。
けどビーカーと分度器なんて、普通の家には置いてない」
「はあ? 信じられない、魔術師なら実験用具ぐらい置いておくものよ?」
文句だけ言って、忙しそうに別棟に戻っていく。
「……本当に本気みたいだな、遠坂のヤツ」
はあ、ともう一度深呼吸。
遠坂がうちに泊まる、というのはもう確定らしい。
さっき別棟の客室に行ったら、一番いい部屋に   “ただいま改装中につき、立ち入り禁止” なんてふざけた札がかかっていたし。
「……うん。別棟なら遠いし、問題はないよな」
セイバーだけでも緊張するっていうのに、遠坂まで身近に居られたら気の休まる所がなくなってしまう。
とにかく別棟なら距離があるし、いくら廊下で繋がっているといっても隣の家みたいなものだし、こっちが近寄らなければ間違いなんて起こらないだろう。
……あ、けど飯時は顔を合わせるよな。
それに風呂だってこっちにしかないんだから、ちゃんと話し合って使わないと。いや、それを言うならセイバーだって女の子なんだから――――
「ってバカ、なに考えてんだ俺は……!」
ぶんぶんと頭をふって、ばたん、と縁側に倒れ込んだ。
「――――はあ」
本日何度目かの深呼吸をして、ぼんやりと空を眺める。
疲れている為か、こうしているとすぐに眠気がやってくる。
「ああ、もうどうにでも――――」
なりやがれ、なんて捨て鉢になって目を閉じる。
……捨て台詞が効いたのか。
目を閉じた途端、あっさりと眠りに落ちた。
気が付けば日は落ちていて、居間には俺とセイバー、遠坂が集まっていた。
俺はついさっき目が覚めて、
セイバーは何時の間にか居間にいて、
遠坂はついさっき部屋の改装が終わったらしい。
ちなみに、
これがたった数時間前までのうちの客間。
で、
「士郎、あのエアコンどう使うのー?」
そんな藤ねえでも訊かないような用件で呼び出されて見た光景が、
これである。
「………………はあ」
なんていうか、俺はとんでもないヤツと協定を結んでしまったのかもしれぬ。
「………………」
……落ち着かない。
この二人は完全なまでの異分子だ。
この家に客が来る事なんて滅多にないので、よけい違和感があるのだろう。
いや、そもそも。
この二人、和風の建物にとけ込んでくれるような外見をしていない。
「………………」
そんなこんなで時刻は夜の七時前。
全員で居間に集まったものの、何をするでもなく黙りこくっているのは、精神衛生上よろしくない。
「二人とも、少しいいか。今後の事で話をしておきたいんだけど」
「ちょっと待って。その前に一つ決めておきたいんだけど、いいかしら」
「う―――いいけど、何だよ」
「何って夕食のことよ。士郎、ずっと一人暮らしだったのよね?」
「……? まあそういう事になるけど」
「なら食事は自分で作ってきたのよね?」
「そりゃ作るだろ。食べなくちゃ腹減るんだから」
「そう。なら提案なんだけど、夕食の当番は交代制にしない? これからしばらく一緒に暮らすんだし、その方が助かるでしょ?」
「……ふむ。確かにそうだな。ついいつもの調子で考えてたけど、遠坂がうちで暮らすなら家族と同じだ。飯ぐらい作るのは当たり前だし、俺も楽でいいや」
「決まりね。じゃ、今日は士郎が当番ってコトで。
もうこんな時間だし、作戦会議は食べてからにしよ」
「?? いや、夕飯が交代制なのはいいけど、朝飯はどうするんだ。朝飯も交代制か?」
「あ、朝はいいのよ。わたし食べないから」
「―――なんだそりゃ。勝手なコトいうな、朝飯ぐらい食べないと大きくなれないぞ」
「余計なお世話よ、人の生活スタイルに口を挟まないでちょうだい。
……とにかく今日の夕食は士郎が作るの! ちゃんとした食べ物を出さないと話なんてしないからね」
何が気にくわなかったのか、遠坂は不機嫌そうにこっちを睨んでいる。
「……分かったよ。かってに作るけど、セイバーも飯は食うんだろ?」
「用意してもらえるのでしたら、是非。食事は重要な活力源ですから」
「了解。それじゃ大人しくしてろよ、二人とも」
エプロンを手にして台所に移動する。
幸い、冷蔵庫には三人分程度の食材が残っていた。
米はさっき起きた時に炊いておいたので、あと三十分もすれば出来るだろう。
台所からセイバーと遠坂を盗み見る。
「…………む」
どう見ても和食より洋食という顔ぶれだ。
遠坂はともかく、セイバーに豆腐と納豆の味が判るかどうか疑問すぎる。
「いや、そもそも箸を持てないんじゃないかな、セイバー」
などと少しだけ迷ったが、気にしても仕方がない。
どうせこの材料だと作れるものなんて限られてる。
とにかく豆腐が余っていた。
ザッと考えて、まず揚げ出し豆腐。汁物は簡単な豆腐とわかめのみそ汁に。
下ごしらえが済んでいる鶏肉があるので、こいつは照り焼きにして主菜にしよう。
豆腐の水切り、鶏肉の下味つけ、その間に大根をザザーと縦切りにしてシャキッとしたサラダにする。大根をおろしてかけ汁を作ってししとうを炒めて――――
「今後の方針は決まっているのですか、凛」
「さあ? 情報がないからなんとも言えないけど、とりあえずは他のマスターを捜し出すコトが先決かな。
残るマスターはあと四人。こっちがマスターだって知られずに探し出したいけど、さすがに上手くはいかないわよね」
……む。
おとなしくしてろって言ったのに、なんで物騒な話をしているんだおまえたちはっ。
こっちは三人分の飯の支度でかかりきりだって見て判らな―――つーか見てもいねえ。
「遠坂! 四人じゃないぞ、五人だろ! マスターだって判っているのは俺とおまえしかいないじゃないか!」
揚げ出し豆腐用の、大鍋を持ち出しながら声をあげる。
「なに言ってるのよ。わたしと士郎、それにイリヤスフィールで三人でしょ。貴方、バーサーカーの事もう忘れたの?」
「――――あ」
……そうか、あの娘もマスターなんだっけ。
あまりにもバーサーカーが強烈だったから忘れていたが、それにしても―――あんな小さな娘がマスターで、容赦なく俺たちを殺そうとするなんて。
「どうせね。貴方のことだから、イリヤスフィールを敵だって認識してなかったんでしょ。それはいいから調理に専念しなさいってば。士郎の実力が判らないとわたしが困るんだから」
「?」
俺の料理の腕がどう遠坂を困らせるか不明だが、言うことはもっともだ。
下ごしらえもそろそろ終わるし、ここからはガーッと一気に仕上げなければ。
「イリヤスフィール……バーサーカーのマスターですね。
凛は彼女を知っているようでしたが」
「……まあね、名前ぐらいは知ってる。アインツベルンは何回か聖杯に届きそうになったっていう魔術師の家系だから」
「……聖杯戦争には慣れている、という事ですね」
「でしょうね。他の連中がどうだか知らないけど、イリヤスフィールは最大の障害と見て間違いないわ。本来バーサーカーっていう役割《クラス》は力の弱い英雄を強化するものよ。
理性を代償にして英霊の存在を強化するんだけど、そういった“狂った英雄”の制御には莫大な魔力を必要とする。たとえば貴女がバーサーカーになったら――――」
「このように話をする事もできませんね。協力者としての機能を一切排除し、戦闘能力だけを特化させたのがバーサーカーです。ですがそれは手負いの獅子を従えるようなもの。並の魔術師ではまず操れません」
「でしょうね。そこいらのマイナーな英霊がバーサーカーになった程度でも、並のマスターじゃ制御しきれない。
だっていうのにイリヤスフィールは超一流の英霊を召喚して、そいつをバーサーカーにして完全に支配してた。
……悔しいけど、マスターとしての能力は次元違いよ、あの娘」
「……同感です。私たちの当面の問題は、その次元違いの相手に狙われている、という現状ですか」
「うん。わたしのアーチャーはまだ戦線に出られるほど回復してない。セイバーはどう? もう傷はいいの?」
「……通常の戦闘ならば支障はありませんが、バーサーカーを相手に出来るほど回復はしていません。
バーサーカー戦の傷は完治しているのですが、ランサーに貫かれた胸の治癒には時間がかかるようです」
「そう。それじゃあやっぱり、当面は様子見をするしかないかな」
「それについては提案が。アーチャーの目は鷹のそれと聞きます。彼には屋敷の周囲を見張って貰う、というのはどうでしょうか」
「そのつもりよ。アイツには屋根で見張りをさせるから、怪しいヤツが近寄ってきたらすぐに判るわ。この屋敷だって侵入者用の結界が張ってあるんだし、守りは万全でしょうね。
……ま、バーサーカーに攻め込まれたら逃げるしかないけど」
二人は台所にいる俺をそっちのけで話を進めている。
「――――」
なんか、気にくわない。
人が真面目に飯作っているっていうのに、人をそっちのけで話をするなんてどういうつもりだ。
だいたい遠坂のヤツ、セイバーに気安すぎる。
……いや、そりゃあ俺はあんなに気軽に話しかけられないから、遠坂がセイバーと相談してくれるのなら話は早いんだが――――
「――――ん?」
食器棚のガラスに映った顔は、むっと眉を寄せていた。
……ヘンだな。なんで怒ってるんだろ、俺。
「――――よっと」
三人分の食器を用意して、出来上がった夕飯を盆にのせる。
その居間に移動して、
「まったく。夕飯時に物騒な話するなよな」
どん、と遠坂の前に盆を置いた。
「? なに怒ってるのよ士郎。あ、料理出しぐらいは手伝うべきだった?」
「別に怒ってなんかないけど。遠坂、馴れ合いはしないんじゃなかったのかよ」
じろ、と横目で睨む。
遠坂はへ? なんて目を点にしたあと、
なんか、とんでもなくゾッとする笑顔をしやがった。
「協力体制を決めていただけよ。安心なさい、別に貴方のセイバーをとったりしないから」
「―――――!」
カア、と顔が赤くなるのが判る。
遠坂に言われて、自分が何に怒っていたのかに気づいてしまった。
「お、おま、おまえ――――」
「あら違った? ならごめんなさいね、衛宮くん」
「く、この…………勝手に言ってろ!」
だっ、と残りの料理を取りに台所まで撤退する。
……うぅ、完全に負かされた。
遠坂はにやにやと笑ったままだし、セイバーは相変わらず無表情だし。
……はあ。この先、この面子でやっていけるのか本気で不安になってきた……。
そんなこんなで夕食が始まった。
「――――――――」
こっちは無言で通している。
さっきの事もあって、ここで遠坂と話をするのも癪に障るし、セイバーの顔を見るのも気恥ずかしかった。
「………………」
セイバーは黙々と食事を進めている。
その仕草は上品で、とても剣を振るっていた少女とは思えない。
それに、なんていうか。
「……ふむ。……ふむ、ふむ」
手をつけていない料理を口に運ぶたび、こくこくと頷いたりする。
その仕草が妙におかしい。
おそらくは美味しいという意思表示なのだろう。
ちなみに、きちんと箸を持てた。
一方遠坂はと言うと、
「よし、これなら勝った……!」
なんて、一口食べただけで握り拳をする始末だ。
「ふふ、明日を見てなさいよ衛宮士郎……!」
ふるふる、と握った拳を震わせる遠坂。
「――――――――」
ゴッド。
俺、なんか悪いコトしましたか。
「あのな、さっきの話だけど」
「?」
二人同時に顔をあげる。
「――――――――」
待て。待て待て待て待て待て。
一人でさえ緊張するっていうのに、二人同時に反応するなっていうんだ。
「さっきの話って、なんのことよ」
「……だから今後の方針ってヤツ。人が飯作ってる時に話してただろ」
「まずは他のマスターを捜す、という事ですか?」
「そうそれ。具体的にはどうするのかなって思って」
「どうするも何も、地道に捜すしかないでしょ。
あ、そうだ。士郎、魔術師の気配ぐらいは判る? なら話は早いんだけど」
「判らない。二年近く学校にいて、遠坂が魔術師だったなんて知らなかったんだぞ、俺」
「やっぱりそうなのね。……ま、それはいいわ。どうせ他の連中はみんな気配を断ってるだろうし、魔術師の気配から辿る線は無理っぽいもの。
セイバーはどう? サーヴァントはサーヴァントを感知できるっていうけど」
「多少はできますが、あくまで身近で能力を行使している場合だけです。私では半径二百メートルほどしか捉えられません」
「なるほどね。じゃあますます相手の出方を待つか、どこかおかしな場所を探すしかない。マスターが何か行動すれば、その痕跡は残るもの。わたしたちはそれを探り当てるってわけ」
「―――つまり、町中を調べろって事か?」
「いいえ、それは止めた方がいいわ。あっちも網を張ってるから、そんなことしたら一発でマスターだってバレるわよ」
「とりあえずは、こっちの態勢が整うまでは後手に回りましょ。
今まで通りに生活してマスターだと悟られないこと。
腕の令呪は他人に見られないように隠しておくこと。
できるだけ人気のない所には行かないこと。
日が落ちたらすぐに戻ってくること。
えっと、あとは……」
「外出する時はサーヴァントを連れて行くようにしてください。アーチャーは凛の護衛ができますか?」
「それぐらいなら出来るみたいね。霊体にして待機させておくからわたしは大丈夫よ。問題は―――」
「私のマスターですね」
「そ。ちょっと、聞いてる士郎? 外出する時はちゃんとセイバーを連れて行きなさいよ。人目につかないようにするのがわたしたちのルールだけど、中には昼間っから襲いかかってくるバカがいるかもしれない。
そういう時に備えて、セイバーとは一緒にいなさいよね」
「――――わかった、努力はする」
気乗りのしない返事を返す。
言っている事は解るけど、セイバーといつも一緒にいる、というのは抵抗がある。
遠坂を相手にするのも緊張するけど、セイバーはそれ以上に緊張する。
……いや、緊張というのは違うか。
セイバーと話をするのは、ともかく苦手なのだ。
「なにか?」
「――――なんでもない。おかわりならつぐから、茶碗よこせよ」
「いえ、結構です。実に見事な味付けでした、シロウ」
「っ――――」
思わず視線を逸らす。
……こんな風にまともに顔を合わせられないんだから、いつも一緒になんていられるもんか。
「あ、でもダメか。セイバーは霊体になれないんだから、学校まで付いて来られない」
「学校……? シロウは学生なのですか?」
「そうだけど……あ、そうか。セイバーは生徒じゃないんだから、学校には入れない。……学校に行っている間は、うちで待機してもらうしかないかな」
「……学校に行かない、という事はできないのですか、シロウ」
「できないよ。普段通り生活しろってんなら、学校には行かなくちゃ。それに学校に危険はない。あれだけ人がいる場所ってのもそうはないぞ」
「ですが」
「大丈夫よセイバー。学校にはわたしだっているんだから、もしもの時はフォローするわ」
「だから、もしもの時なんてないって」
きっぱりと言い捨てる。
「……分りました。マスターがそう言うのでしたら従います」
セイバーは納得のいかない様子で、とりあえずは頷いてくれた。
夜が更けていく。
遠坂はこっちが後片づけをしている隙に、勝手に風呂を沸かして入っていたようだ。
まったく、初日から随分なやりたい放題だと思う。
「……今後の為にも、早いうちに主導権を握っておくべきだろうな……」
などと判ってはいるのだが、アイツからイニシアチブを奪うのはとんでもなく困難な気がする。
「……はあ。困難ついでに言えば、頭が痛いのがもう一人いるんだよな……」
いや、むしろそっちのが本命だろう。
遠坂は話せば分かってくれるが、そっちは話しても分かってくれそうにない。
「……セイバー、か。悪いヤツじゃないっていうのだけは分かるんだけど」
セイバーは部屋に戻っている。
遠坂も今頃は別棟の客間で休んでいるだろう。
居間にいるのは自分だけだ。
就寝までまだ時間があるし、今は少しでもセイバーと話をするべきだろう。
……正直、少しでも苦手意識を克服しておかないと、先行きが不安で仕方がない。
だいたい、サーヴァントだろうが何だろうが相手は年下の女の子だ。
話せば色々と見えてくる事もあるだろうし、なにより、
「……早いとこ馴れないと、いつまでたっても遠坂に冷やかされる……」
うん、それは困る。
困るので、できればもう少し気軽に話せるようにならなくては。
◇◇◇
自分の部屋に戻ってきた。
この部屋の隣り、襖一枚隔てた向こうがセイバーの部屋である。
「……セイバー、起きてるか?」
「起きています。何かありましたか、マスター」
音もなく襖を開けて、セイバーが現れる。
「――――う」
実際目の前にして、どくん、と高鳴る心臓を押さえつける。
……落ち着け。俺は別に、マスターとして彼女に話を聞くだけなんだから。
「シロウ? 顔色が優れませんが、傷が開いたのですか?」
「あ―――いや、そんな事はない。体の方はとっくに大丈夫だ。それを言うならセイバーの方こそいいのか」
「はい、問題はありません。今の状態では完治まで時間はかかりますが、このままでも平均値はクリアしていますから。バーサーカー以外の相手ならば、互角に渡り合えるでしょう」
きっぱりと断言するセイバー。
そこには強がりも自信も感じられない。
彼女はただ、事実を述べているだけなのだろう。
「―――――――」
返す言葉はなかった。
セイバーの発言はマスターとしては頼もしい限りなんだろうが、俺は―――こんな華奢な少女に、戦って欲しくはない。
「その、一つ訊くけど。セイバーは戦うこと以外に何か目的はないのか? せっかく現代《ここ》にいるんだから、他にしたい事とかあるだろ」
「他の目的、ですか……? そのような事はありませんが。サーヴァントは戦う為だけに呼び出された者です。
それ以外の目的など余分なだけだ。シロウの発言は、ひどく的が外れています」
だろうな。
今のは戦う為だけに呼び出されたヤツに、戦うなって言ってるようなものなんだから。
俺だって別にそんな事を言いたい訳じゃない。
ただ、なんていうか―――セイバーには人間味が欠けている。
戦う為ならそれでいいんだろうが、彼女はちゃんと人間として目の前にいるのだ。
なら、戦う為だけなんていうのはダメだ。
セイバーはここにいるのなら、ちゃんと自分の楽しみを持たないと嘘だと思う。
「なあセイバー。サーヴァントってのは過去の英雄なんだろ。なら――――」
そうなる前のセイバーはどんなヤツだったのか、と訊こうとして思いとどまった。
“―――私の真名は教えられません” 昼間、セイバーは俺たちだけの秘密としてそう言った。
なら昔の彼女のことを尋ねたところで、セイバーが答えてくれる筈もない。
「シロウ? 言いかけて止めるのはよくありません。必要な質問なら答えますが」
「―――いや、今のは忘れてくれ。バカなコトを口走りそうになっただけだ」
視線を逸らして、そう誤魔化した。
……本当に馬鹿な話だ。
俺はセイバーの正体になんて興味はなかった筈だし、セイバーは教えられないからこそ断ってきたのだ。
それをここで蒸し返したら、意味のない質問を繰り返す駄目マスターぶりを証明する事になる。
「………………」
けど、それ以外に話す事といったら何があるだろう?
セイバー本人の事が聞けないのなら、残る話題は自分の事ぐらいだ。
……そんなの、それこそ無意味ではなかろうか。
「―――――――む」
こうなったら自棄《ヤケ》だ。
セイバーの正体について聞けないんなら、セイバーの好きな物とか、明日の朝飯は何がいいかとか、もうセイバーに白い目で見られるのを覚悟してつまんないコトを話題にしてやる―――
「シロウ。貴方から質問がないのなら、私から訊ねていいでしょうか」
「え―――いいけど、なに」
「昨夜の事です。シロウは私を助けようとしてバーサーカーに両断されました。それは覚えていますね?」
「覚えているけど……なんだよ、朝の続きをしたいのか? 軽率な行動だったってのは判ってるから、あんまり思い出させないでくれ。吐き気がぶり返してくる」
「それは私も同じです。ですがこれは、貴方という人間を知る為に訊いておくべき事だと思う。
シロウ。貴方はなぜバーサーカーに向かったのです。
近寄ればどうなるか、シロウには判らなかったのですか?」
「それは――――」
そんな事は判っていた。
近寄れば絶対に殺されると理解していた。
それでもセイバーを助けようとしたのは、もしかしたら助かるかもしれない、なんて楽観を持っていたからじゃない。
……あれは、ただセイバーを助けようと思っただけ。
その後の事なんて知らない。
あの時、衛宮士郎にとって最も優先すべき事が、セイバーを助ける事だった。
……恐らく。
あの瞬間、自分の中にあった“殺される”という恐怖より、セイバーを“救えない”という恐怖の方が、遙かに強かっただけの話。
「…………悪い、忘れた。
一瞬の事だったからな、その時の考えなんて分からない。きっと気が動転していたんだ。そうでもなけりゃあんな特攻はできない」
セイバーの目があまりにも真剣だったからだろうか。
有りのままの心を口にせず、その場しのぎのごまかしを口にしていた。
「……つまり。ただ自然に、私を助けようとしたのですね」
「―――自然じゃない。気が動転してたって言っただろ。
もう一回あんな事になったら、その時はきっとガタガタ震えてる」
「そうですね。それが正常な人間です。自らの命を無視して他人を助けようとする人間などいない。
それは英雄と呼ばれた者たちでさえ例外ではないでしょう」
「ですから―――そんな人間がいるとしたら、その人物の内面はどこか欠落しています。
その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけです」
「――――――――」
深い緑の瞳が何かを訴えている。
……それを、
「―――しつこいぞセイバー、あれは気の迷いだって言ってるだろ。俺だって死ぬのは怖いんだ、そんな聖人君子になんてなれるもんか。
……次にあんな事になったら、その時はセイバーより自分を優先させるさ」
心にもない言葉で、懸命にはね除けた。
「それは良かった。私の思い違いなら問題はないでしょう。ええ、たしかにシロウは臆病です。道さえ間違えなければ、きっと正しい魔術師になれる」
「む。なんだよ、臆病に見えるのか、俺」
「ええ、とても。置かれた状況を受け入れる為に努力するあたりが特に。そういった賢明さを、時に臆病と言うのです。恐れを知らない者は賢者になれないのと同じですね」
安心したのか。
僅かに微笑んで、セイバーはそう言った。
「――――――――」
その仕草は可憐で、あまりにも優雅だったからだろう。
それきり何を話すべきかも思いつかず、セイバーと二人、味気ない部屋で時間を過ごす事になってしまった。
◇◇◇
……そうして深夜。
セイバーと何を話すでもなく、別棟にいる遠坂と話すでもなく、なし崩し的に就寝時間となった。
時刻は午後十一時。
屋敷の電灯は消え、床についた住人は明日に備えて眠りに落ちる。
………。
………………。
………………………。
「――――――――眠れん」
ぱちり、と横になったまま目蓋を開く。
眠り慣れた自分の部屋だが、今日は今までとは勝手が違う。
「………くそ。なんだって、こう――――」
静かなクセに、隣の部屋にいるセイバーの寝息が聞こえてくるんだろう。
ああいや分かってます、音がしないぐらい静かだから隣の部屋の音が聞こえるって道理な訳で、音が聞こえるって事はセイバーの寝姿も勝手に妄想されてしまうのだ。
「……ええい、ちくしょう……! こんな状況で眠れるもんか……!」
こんな針のむしろはもうご免だ。
セイバーを起こさないように布団から出て、とりあえずいつものところに退避しよう。
「……助かった。セイバー、気づくと思ったけどわりと鈍感なんだな」
それとも眠りが深い性質なのか。
そんなんでマスターを守れるのかとも思ったが、今は危険なんてまったくない。
サーヴァントというものがマスターと繋がっているのなら、マスターが窮地に陥った瞬間に目覚めるのだろう。
「遠坂は……寝てるみたいだな」
別棟の明かりは消えている。
開き直っているのか、もともと順応力が高いのか。
遠坂はわずか一日で、うちの空気に慣れたようだ。
「……まあ、実際助かるんだよな、アイツがいてくれると」
うん、色々厄介だけど助かる。
そのうちの一つが、手のひらに巻かれた包帯である。
「令呪は隠せ、か。言われてみるまで気づかなかった」
マスターが持つ令呪は腕のどこかに現れる。
俺の場合は左手の甲。
服で隠す事もできないので、不自然だが包帯を巻いて隠している。
「……冬だし。長めの長袖を着て誤魔化そう」
遠坂は俺とは逆で、右腕の真ん中あたりにあるとかないとか。
令呪の形はマスター毎に違うというが、遠坂の令呪を見るような事はないだろう。
土蔵は静まり返っている。
昨日俺がランサーに追いつめられた場所であり、
セイバーが現れた場所だ。
入り口は開かれたままで、内部の闇は来る者を拒むように黒々としていた。
それも自分にとっては馴染み深い暗さである。
幼いころからの遊び場、衛宮士郎にとって本当の自室ともいえる古い建物は、冬の夜空の下でひっそりと佇んでいた。
……中に入る。
扉を閉めて外気を遮断し、おんぼろなストーブに火を入れた。
「そうだな。今日ぐらいは休もうと思ったけど、却下しよう。二日連続でサボったら親父にどやされる」
土蔵の真ん中に腰をおろして、すう、と深く息を吸った。
……鍛錬は間を置かず続けるもの。
自分にとって魔術とは精神鍛錬に他ならないのだから、ちょっとやそっとの事で怠る訳にはいかない。
「ふぅ――――ふ」
……呼吸を整えて修練を開始する。
脳裏にはいつもの映像。
空っぽの頭に浮かび上がる剣の姿。
「――――――――」
それを無視して、思考を更にクリアにしていく。
全身に魔力を通したら、あとはお決まりの“強化”の練習。
昨夜、ランサーに襲われて何年かぶりに成功した強化の魔術。
その感覚を忘れないうちに繰り返して、確実にモノにしなければ勿体ない。
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
目を半眼にして肺の中身を絞り出す。
――――今はそれだけ。
聖杯戦争の事も、セイバーの事も、遠坂の事も、この工程に没すれば全てなくなる。
未熟な迷いの一切を忘れるほど思考を無にすれば、自ずと、一夜の眠りぐらい訪れてくれるだろう―――
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
白い陽射しを感じた。
隙間風だろう、冷たい外気が頬にあたって、ぼんやりと目が覚めた。
「あれ……土蔵だ、ここ――――」
体を起こして、目覚めたばかりの頭を二三回振る。
「そうか。昨日、そのまま眠っちまったんだ」
夜の日課―――自分の体にもう一つの感覚を付属させる鍛錬の後、部屋に戻るのが面倒になったのだろう。
「外の様子だと六時前ってところか。……いかん、朝飯の支度しなきゃ」
毛布を折り畳み、昨日も失敗に終わった“強化”の破片を片づけて、顔を洗いに屋敷へ向かう。
「――――さむ」
土蔵から出れば、外の気温は輪をかけて低かった。
冬でも暖かい深山町だが、こっち側の山の上だけはまっとうな冬の寒さを持っている。
「お、霜がおりてる。……芝生、そろそろちゃんとしないとダメかな」
しゃりしゃりと氷を砕く音。
地面には霜が立っていて、歩くと足跡が残っていく。
で。
氷水めいた水道水で顔を洗って、とりあえずスッパリと覚醒する。
「――――――――よし」
完全に目が覚めた。
そうなってみると、自分がどんな状況に置かれているのかなんて、考えたくない事が浮かんでくる。
「……そうだ。のんきに顔洗ってる場合じゃなかったっけ……」
時刻は朝の五時五十五分。
やるべき事は山ほどあるが、まずは部屋に戻ってセイバーの様子を見なくては。
「……だよな。黙って部屋を出た事になるんだし、一言説明しておかないと」
セイバーに変な勘違いをされるのも困る。
……深夜、眠る前に土蔵に行くのは日課なんだし、説明すれば納得してくれるだろう。
「セイバーにちゃんと説明したら、その後は朝飯の支度だろ。……遠坂は食べないらしいから、セイバーの分を足せばいいだけか」
あ。そっか、それなら増えた人数分の材料を買い込んでおかないと。忘れないうちにメモをとっておくべきだな。
「……む? 忘れ物……?」
なんだろ。
なにか一つ、とんでもなく重要なコトを忘れている気がするのだが―――
「やば、六時だ。急がないと間に合わない」
ま、思い出せないのなら大したコトじゃあるまい、うん。
「――――――――」
そーっと扉を開ける。
部屋の様子は昨夜のままだった。
夜のうちにセイバーが目を覚まし、こっちの部屋を捜した形跡はない。
俺が部屋を抜け出した事はどうやら気づかれなかったようだ。
「……なんか拍子抜けだな。セイバーならそれぐらいは気が付くと思った」
それとも、今の彼女はそんな事に気が付かないほど深い眠りを必要としているのか。
「……そうか。体を維持する為に頻繁に眠るって言ってたのは、そういう事かもしれない」
だからこそ出来るだけ身近で眠って、何かあったときすぐに駆けつけられるようにしているのか。
「…………」
どちらにせよ、屋敷の中にいる限りは何処にいようと大差はない。
敵の侵入は結界で感知できる。
それなら俺でも一分ぐらいはなんとか身を守れるだろうし、一分もあれば屋敷のどこからでもセイバーは駆けつけられる。
「……そうだよな。それに土蔵だったら隠れる場所には事欠かないし」
とりあえず、昨夜の行動はそう怒られるような事ではないだろう。
セイバーに事情を説明しようと思ったが、その必要はなさそうだ。眠っているのなら無理に起こすのもアレだし。
「セイバー、朝飯の支度をしてくる。セイバーの分も用意しとくけど、眠かったら無理に起きなくていいからな。
また後で来るから、それまで休んでてくれ」
一応きちんと声をかけて、静かに部屋を後にした。
居間には誰もいない。
とりあえず冷蔵庫を開けて、今朝は何にしようかと案を練る。
と。
「―――おはよ。朝早いのね、アンタ」
思いっきり機嫌が悪そうな顔で、遠坂がやってきた。
「と、遠坂……? どうした、何かあったのか……!?」
「別に。朝はいつもこんなだから気にしないで」
遠坂はゆらゆらと、幽鬼のような足取りで居間を横切っていく。
「おい、大丈夫かおまえ。なんか目つきが尋常じゃないぞ」
「だから気にしないでって言ってるでしょ。顔でも洗えば目が覚めるわ。……えっと、ここからだとどう行くんだっけ、脱衣場って」
「そっちの廊下からのが近い。顔を洗うだけなら、玄関側の廊下に洗面所がある」
「あー、そういえばあったわね、そんなのが」
どこまで聞こえているのか、遠坂は手を振りながら去っていった。
と。
遠坂が廊下に消えたのと同時に、来客を告げる呼び鈴が聞こえた。
「士郎―――? 誰か来たけど―――?」
廊下から遠坂の声。
「ああ、気にしないでいいー! この時間に来るのは身内だからー!」
この時間に来るのなら桜だろう。
桜なら合い鍵を持っているし、玄関まで出る必要はない。
「……まったく。チャイムなんて押さなくていいって何度言ってもきかないんだからな、桜は」
桜は家族みたいなもんなんだから、チャイムなんか押さずにドカドカと入っていいのだ。
なのに桜は礼儀正しく、必ずチャイムを押して『お邪魔します』と一声かける。
それが桜の美点なんだろうが、そんなにいつも気を遣ってたらいつか参って――――
「――――――」
って、ちょっと待った。
桜が、うちに、やってきた……?
「っっっっっっ…………!!!」
廊下を走る。
自分の間抜けさを叱るのは後だ。
とにかく今は玄関に急いで、遠坂と顔を合わす前に帰ってもらわないといけない――――!
「ハッ……ハッ……!」
息を切らして玄関に駆けつける。
が、時すでに遅い。
玄関には、
「――――――――」
頼まれもしないクセに客を出迎えている遠坂と、
「――――――え?」
ぽかん、と驚いている桜の姿があった。
桜は玄関の土間、遠坂は廊下。
二人はなんともいえない緊張感を持って、お互いを見つめていた。
「おはよう間桐さん。こんなところで顔を会わせるなんて、意外だった?」
廊下から、桜を見下ろすように遠坂は言う。
「――――遠坂、先輩」
どうして、という顔。
桜は怯えを含んだ目で遠坂を見上げている。
「――――」
まいった。
なんか、声がかけられない。
二人は駆けつけた俺を無視して、お互いだけを観察している。
そこに俺が口を挟む余地なんてない。
出来る事といったら桜にどう説明しようか考える事ぐらいなんだが、うまい説明を考えつく前に、
「先輩……あの、これはどういう……」
助けを求めるように、桜がこちらに視線を逸らした。
「ああ。それが、話すと長くなるんだけど―――」
「長くならないわよ。単に、わたしがここに下宿する事になっただけだもの」
きっぱりと。
人の言葉を遮って、遠坂のヤツ、要点だけを言いやがった。
「……先輩、本当なんですか」
「要点だけ言えばな。ちょっとした事情があって、遠坂にはしばらくうちに居てもらう事になった。
……ごめん、連絡を入れ忘れて、桜を朝から驚かせてすまなかった」
「あ、謝らないでください先輩っ。……その、たしかに驚きましたけど、そんなのはいいんです。それより今の話、本当に―――」
「ええ、これはわたしと士郎で決めた事よ。家主である士郎が同意したんだから、もう決定事項なの。
この意味、わかるでしょう? 間桐さん」
「……わかるって、何がですか」
「今まで士郎の世話をしていたみたいだけど、しばらくは必要ないって事よ。来られても迷惑だし、来ない方が貴女の為だし」
「――――――――」
桜は俯《うつむ》いて口を閉ざしてしまう。
そのまま凍り付いたような静寂が続いたあと。
不意に、
「…………わかりません」
小さな声で、しかしハッキリと呟いた。
「え――――はい?」
「…………わたしには、遠坂先輩のおっしゃる事がわからないと言いました」
「ちょっ、ちょっと桜、アンタ――――」
「お邪魔します。先輩、お台所お借りしますね」
桜はぺこりとお辞儀をして家に上がると、遠坂を無視して居間へと行ってしまった。
「な―――――――」
呆然と立ちつくす遠坂。
それはこっちも同じだ。あんな桜を見たのは初めてで、なんて言ったものか判断がつかない。
……いや、それも驚きだけど、今はもう一つ意外な事がある。
「おい遠坂。おまえ、どうして桜が俺んちに来てるって知ってたんだよ。今まで桜が俺の世話をしてたなんて、おまえに言ったおぼえはないぞ」
「え――――? ああ、それなら前にちょっと小耳に挟んだだけよ。ただの偶然。
それより驚いたわ。あの子、ここじゃあんなに元気なの? 学校とじゃ大違いじゃない」
よっぽど意外だったのか、遠坂は不機嫌そうに言い捨てる。
という事は、遠坂は学校での桜をそれなりに知っているのだろう。
桜の方も遠坂とは顔見知りだったみたいだし、知らない所で二人はいい先輩といい後輩だったのかも知れない。
……まあ、それはいいとして。
「いや、俺も驚いてる。あんなに刺々しい桜は初めて見た。うちに手伝いに来てくれてる時と、学校での桜は変わらないよ。今のは鬼の霍乱ってのに票を投じる」
「―――ふうん、そうなんだ。……まずったわね、桜があんなに意固地だとは知らなかったわ。こうなるんなら士郎の口から説明させればよかった」
そりゃそうだ。
遠坂の容赦ない説明に比べれば、俺の方が幾分ましだろう。
「……済んだことは仕方がないだろ。それよりまずいって何がだよ」
「そりゃまずいでしょう。これからこの家は戦場になるかもしれないのよ? だからわたしたち以外の人間を寄せ付けないようにって桜を窘《たしな》めたのに、あれじゃ逆に追い出すのが難しくなったじゃない」
「あれで窘めてたのか。俺はてっきり虐《いじ》めてるのかと思った」
「そこ! なんかつまんないコト言った、いま!?」
「素直な感想だよ。それより桜の事だ。どうする、あの分じゃ帰ってくれそうにないぞ。
……言っとくが、桜を巻き込むなんて許さないからな、俺は」
「そんなのなんとかするしかないでしょ。で、桜が来るのは朝だけ? それとも夕食もこき使ってるの?」
「誤解を招くような言い方するなよな。朝は毎日だけど、夕飯はそう多くないぞ」
「そう。それじゃ、これからは毎日になりそうね」
「?? 毎日って、何がさ」
首をかしげて質問する俺に、遠坂はこれみよがしに、はあ、なんて溜息をこぼしていた。
その後。
遠坂は居間に残り、桜は無言で朝飯の支度を始めてしまった。
居間で遠坂と桜をふたりきりにするのは不安があったが、こっちもセイバーの事を忘れるほど間抜けじゃない。
どうも桜は遠坂がいる事に怒っているみたいだし、ここでセイバーが出てきては話が更にこじれる。
こじれるので、セイバーには事情を説明する事にした。
「……という訳なんだ。
桜―――あ、いまうちに来てくれてる子は桜って言うんだが、桜は魔術師でもなんでもない普通の子で、聖杯戦争なんかに巻き込むわけにはいかないだろ。できれば知らないままで、しばらくうちから離れていてほしいんだが―――」
違うっ、どうしたら離れてくれるだろうなんて相談しにきた訳じゃないっ!
「だからだな、今朝の桜はどうもおかしいんだ。
遠坂が原因なんだが、そこに追い打ちをかけるのもどうかと思う。ああいや、だから桜は見知らぬ他人がうちにいる事に驚いてるんだ。そこにセイバーが出てくるとさらにおかしくなりそうな気配がするんだが、まて、俺なんかセイバーに失礼なコト言ってないか……?」
「いいえ、士郎の言いたい事は判ります。つまり、私はここで待機していれば良いのですね?」
「――――! そう、そうしてくれると助かる! 桜を送り出したらすぐに戻ってくるから、朝食はその時で」
ええ、と静かに頷くセイバー。
いや、セイバーが物わかりのいいヤツでもの凄く助かった。
よし。
居間の様子も気にかかるし、急いで戻ることにしよう。
「――――シロウ」
「ん? 何だ、セイバー」
「はい。そのような事を私に説明する必要はありませんが、もう少し落ち着くべきです。先ほどからシロウの言動は破綻しているかと」
「え――――慌ててるか、俺?」
「とても。居間に戻るのでしたら、その前に気を落ち着けることです」
セイバーは静かに、いつもの調子でそんな助言を口にした。
◇◇◇
で。
何事もなかったかのように、いつもの朝食が始まった。
「どうぞ先輩。遠坂先輩もいかがですか?」
ごはんを盛ったお茶碗を差し出す桜は、いつも通りの桜だった。
俺がいない間に何があったかは知らないが、二人の間にあった緊張感は薄れている。
いやまあ、とりあえず表面上は。
「……ん。じゃ、お言葉に甘えて」
遠坂は少し戸惑ったあと、桜からお茶碗を受け取った。
桜はにっこりと笑ってみそ汁、卵焼き等のおかず軍団を並べていく。
目の前に並べられていくそれを、遠坂は複雑そうな顔で見下ろしていた。
「遠坂。おまえ、朝飯は食べない主義じゃなかったっけ」
「用意されたものは食べるわ。当然の礼儀でしょう、それって」
何が気にくわないのか、ふん、と余所さまを睨んでから箸を持つ遠坂。
「……ま、いいならいいか。それじゃいただきます。それと、結局支度を任せてすまなかったな桜」
「いえ、これがわたしの仕事ですから気にしないでください。じゃあわたしもいただきますね」
「まったく良い身分だこと。後輩に朝食作らせるなんてどこの王侯貴族なんだか。ま、それは追々問いつめるとしていただきます」
三者三様のていでお辞儀をして、いざ朝食。
……。
…………。
………………。
……………………いかんな。どうも会話がない。
「――――――――」
まあ険悪なムードではないし、そもそもうちの朝食はこんなもんだ。
俺も桜もお喋りな方でなし、飯時が静かなのはいたって道理なのだ。
にも関わらず、どうして衛宮邸の朝食はいつも騒々しいんだろう。
「…………?」
いや、まて。
なんか、また頭にひっかかったぞ……?
「先輩? あの、お魚の味付け濃かったですか……?」
「いや、そんな事はないけどな。どうも、さっきから何か忘れてる気がする」
なんだろう?
思い出せないコトなら大した事じゃない、と割り切ろうとしたが、それはとんでもない思い違いな気がしてきた。
放っておいたら死に至る病巣を抱えてしまっているような、そんな不安がよぎる。
「―――ま、いっか。どうせ大したコトじゃないんだろ」
うん、と無理矢理納得して飯をかっこむ。
――――と。
「おはよー。いやー、寝坊しちゃった寝坊しちゃった」
パタパタと音をたてて、藤ねえがやってきた。
「――――――――」
そうか。
思い出せないコトじゃなかったんだ。
ようするに、思い出さないコトで問題を先送りにしたかった訳なのだ。
「士郎、ごはん」
行儀良くいつもの席に正座する藤ねえ。
おそろしいほどユニゾンする二人の挨拶。
「はい、どうぞ先生。大したものではありませんけど、召し上がってください」
そして、いつも通りの笑顔で藤ねえにお茶碗を渡す桜。
「?」
桜からお茶碗を受け取って首を傾げる藤ねえ。
何か不思議なのだが、どうして不思議なのか分からない。
そんな藤ねえは、まにょまにょと物静かにご飯を食べる。
かくしてきっかり一杯分の飯を平らげてから、ぼそぼそと俺に耳打ちをしてきた。
「……ね、士郎。どうして遠坂さんがいるの?」
「それは、今日からうちに下宿する事になったからかな」
淡々と事実だけを説明する。
「あ、そうなの。遠坂さんも変わったコトするのね」
「うん。あいつ、けっこう変わり者だ。学校じゃ猫被ってる」
「そっかー、今日からここに下宿するのかー」
なるほどなるほど、と納得してぐぐーっ、とみそ汁を飲み干す藤ねえ。
「って、下宿ってなによ士郎ーーーーーー!!!!」
どっかーん、とひっくり返るテーブル。
幸運なことに桜は風上、遠坂は当然のように予め移動していて、被害は俺だけに集中した模様。
「あちーーーー! ななななにすんだ藤ねえ! みそ汁だぞ炊きたての飯だぞつくね煮込んだ鍋ものだぞ!? こんなもんかけられたら熱いだろうっ―――て、何故に朝っぱらから鍋物なぞ……!?」
「うるさーい! アンタこそなに考えてるのよ士郎! 同い年の女の子を下宿させるなんてどこのラブコメだい、ええいわたしゃそんな質の悪い冗談じゃ笑ってやらないんだから!」
「笑いをとるつもりなんかねーってば……! っていうか熱! 熱い、火傷する、桜タオルくれタオル!」
「はい。冷やしたタオルでしたら用意しておきました、先輩」
「サンキュ、助かる……! うわ、襟元からつくねが、必要以上に加熱されたつくねがあ―――!?」
「タオルはあと! そんなコトより申し開きしなさい士郎、アンタ本気でそんなコト言ってるの!?」
「おう、そんなの当たり前だ。藤ねえなら俺がこの手の冗談苦手だって分ってるだろ。
とにかく遠坂はうちに泊めるんだ。文句は聞くけど変更はしないから、言うだけ無駄だぞ」
「そんなの大却下! な、なんのつもりか知らないけどダメに決まってるでしょう! お、同い年の女の子と一緒に暮らすなんて、そんなのお姉ちゃん許しません!」
があー、と吠える藤ねえ。
……そりゃあ、まあそうだよなぁ。
藤ねえは俺の保護者だし、かつ学校の先生だし。
こんな状況、竹刀百叩きどころか真剣百回切りでも済まされるかどうかだし。
それでも無理を通さなくちゃいけないあたりが我が身の不幸というかなんというか。
「いや、そこをなんとか。別にやましい気持ちなんてないし、遠坂とはそういう関係でもないんだ。ただ、たまたま事故に遭ったっていうか、成り行きで部屋を貸すコトになっただけなんだってば」
「うるさーい! ダメなものはダメなのーーーー!
わたしは下宿なんて許しません! 遠坂さんの事情は知らないけど、ちゃっちゃと帰ってもらいなさい!」
うわあ、聞く耳もたねー!
ダメだ、やっぱり俺なんかの説得が通じるほど生やさしい人じゃないのかっ……!
「先生。下宿は許しません、とおっしゃいますけど、わたしはすでに一泊してしまったのですが」
と。
藤ねえの頭に冷水ぶっかけるような台詞を、さらりと遠坂は口にした。
「――――え?」
「ですから、昨日泊めさせていただいたんです。
いえ、正確には土曜の夜からお邪魔していますから二泊でした。今は別棟の客間を借りて、荷物も運んであります。
どうでしょう先生。客観的に見て、わたしはもう下宿している状況なのですが」
「――――――――」
さあー、と藤ねえの顔が青くなっていく。
「し、し、士郎、アンタなんてコトするのよぅ……!  こんなコト切嗣さんが知ったらどうなるか分かってるの!?」
「どうなるかって、親父だったら間違いなく喜ぶぞ。男の甲斐性、とかなんとか言って」
「う……同感。切嗣さん、女の子にはとことん甘い人だったからなぁ……そっか、それが遺伝してるんでしょ士郎のばかー!」
がくがく、と人の襟を掴んで体を揺さぶる藤ねえ。
……まあ、遺伝はともかくとして、女の子は守ってあげなくちゃいけないよ、というのが親父の信念だった。
俺も親父ほど振りかざす訳じゃないけど、まったくその通りだって思ってる。
だが、しかし。
「なに? 助け船、出してほしいの?」
あの冷血漢まで女の子と認識しなくちゃいけないあたり、男っていうのは辛い生き物だと思う。
「……頼む。俺じゃあ現状を打破できない。遠坂の政治手腕に期待する」
ガクガクと頭を振られながら呟く。
「オッケー。それじゃサクっと解決しますか」
今まで遠巻きに見ているだけだった遠坂は、軽い足取りで藤ねえの真横に立つ。
「藤村先生。衛宮くんを振っても出るのは悲鳴だけですから、そのあたりで止めてあげてください。それに、下手をすると朝ご飯まで出てきかねません」
「む……なによ遠坂さん、そんな真面目な顔したって怖くないんだから。教師として、なにより士郎の教育係として、遠坂さんの下宿は認めませんっ」
藤ねえは俺から手を離して遠坂と対峙する。
野生の勘というヤツだろう。
俺にかまっていては遠坂に寝首をかかれる、と察したに違いない。
「それは何故でしょうか。うちの学校には下宿している生徒も少なくありません。生徒の自主性を伸ばすのが我が校の方針ではありませんでしたか?」
「なによ、難しいコト言ったってダメなんだからっ。だいたいですね、こんなところに下宿したって自主性なんて芽生えません。
ご飯はかってに出てくる、いつもキレイ、お風呂はかってに沸いてるっていう夢のようなおうちなんだから、ここ。こんなところに居候してたら堕落しきっちゃうわよ、遠坂さん」
「…………藤ねえ」
その発言は、教師としてあまりにも問題が。
「それにね、原則として下宿していい生徒は家が遠い生徒だけよ? 遠坂さんのおうち、たしかにここより遠いけど登校できない場所じゃないでしょ。桜ちゃんだってあっちから通ってるんだから、下宿する必要なんてありません」
「それが、今うちは全面的な改装を行っているんです。
古い建物ですから、そこかしこにガタがきてしまっていて。改装が終わるまではホテルで暮らそう、と考えていたのですが、偶然通りかかった衛宮くんに相談したところ、それはお金が勿体ないからうちを使えばいい、と言ってくれたんです」
「むっ……それは、確かに士郎っぽい発言ね」
「はい。あまり面識のない衛宮くんからの提案には驚いたのですが、確かにホテル暮らしなんて勿体ないし、なにより学生らしくありません。それなら学友である衛宮くんのおうちにご厄介になった方が勉強になる、と思ったのです」
「む……むむむ、む」
うなる藤ねえ。
遠坂の返答と態度があんまりにも優等生な為、仮にも教師な藤ねえは反論できないようだった。
「は、話は判りました。けど、それでも問題はあるでしょう? 遠坂さんと士郎は女の子と男の子なんだから、一つ屋根の下で暮らす、というのはどうかと思うわ」
「どうか、とはどんな事でしょうか、先生」
「え……えっと、だからね、遠坂さん美人だし、士郎もなんだかんだって男の子だし、間違いがあったらイヤだなって」
「何も間違いはありません。わたしの部屋は別棟の隅、衛宮くんの部屋は蔵の近くにある和室です。距離にしてみれば三十メートル以上離れているじゃないですか。ここまで離れていれば何も問題はないと思いますが」
「う……うん、別棟には鍵もかかるし、違う家みたいなものだけど……」
「でしょう。それとも藤村先生は衛宮くんを信用していないとでも? 先程、先生は衛宮くんの教育係だと仰いました。なら衛宮くんがどのような性格かは、わたしより藤村先生の方がご存じだと思います。彼がそのような間違いを犯すというのでしたら、わたしも下宿先には選びませんが?」
「失礼ね、士郎はちゃんとしてるもん! ぜったい女の子を泣かせるような子じゃないんだから!」
「なら安心でしょう。わたしも衛宮くんを信用していますから。ここなら、安心して下宿できると思ったのです」
「むーーーーーーーー」
藤ねえから迫力が消えていく。
……勝負あったな、こりゃ。
まだ色々とつっこみどころはあるけど、遠坂なら全部論破できるだろうし。
とりあえず、これで遠坂は晴れてうちの市民権を獲得できたって訳か……。
―――そうして朝食は終わった。
こっちの予想通り、藤ねえは遠坂にことごとく言い負かされて撃沈。
結論としては、学校では極力秘密にして、家では藤ねえが監督するって事で決着。
そうと決まれば人数が増えて嬉しいのか、藤ねえは上機嫌で学校に行ってしまった。
朝食を終えて、学校に行く前にセイバーに声をかける。
セイバーはやはり冷静に、
「学校では凛の指示に従うように。
危険が迫った時は私を必要としてください。それでマスターの異状は感じ取れますから」
と、実にあっさり部屋に戻っていった。
◇◇◇
そんなこんなで登校時間。
「それじゃ行きましょうか。このあたりの道は不慣れなんだから、学校までの近道ぐらい教えてよね」
となりには制服姿の遠坂凛。
……もう薄れつつはあるが、それでも制服を着た遠坂は優等生然としていて緊張する。
学校一の美人と一緒に登校するっていうだけでも冷静でいられないっていうのに、くわえて
「先輩。戸締まり、できました」
今日は桜まで一緒だった。
弓道部員の桜は、本来なら藤ねえと一緒に登校する。
が、今朝は何を言うでもなく居間に残り、朝食の後片づけをして俺が登校するのを待っていた。
「え、なに? 桜に鍵持たせてるの、士郎ってば?」
「持たせてるよ。桜は悪いコトなんてしないし、ずっと世話になってるからな。……ああ、その分でいくと遠坂にはやれないが、別にかまわないだろ」
「……それは構わないけど。どういう意味よ、それ」
「悪いコト、するだろ。それにおまえ、鍵なんかなくても困らないんじゃないのか? 必要ないモノを作るほど酔狂じゃないぞ、俺」
「―――あっそうですかっ。ええ、士郎の言うとおりこれっぽっちも要らないわよそんな物!」
ふん、と顔を逸らす遠坂。
馴れてきたのか、遠坂のこういう仕草も味があるなー、と素直に思う。
「………………」
「? どうした桜、戸締まりが出来たのなら行こう。
今朝は遠坂もいるし、出来るだけ早めに行きたいんだ」
「はい、そうですね。先輩がそう言うのなら、そうします」
元気のない声で言って、桜は俺たちの後に付いてくる。
……まいったな。
藤ねえが遠坂に言い負けてから、桜は妙に元気がない。
藤ねえは納得しても桜は納得してないのだろう。
「……ちゃんと話さないとダメかな……」
そうだな。出来るだけ早くに機会を作って、桜にも遠坂と仲良くしてもらわないといけないか―――
坂道は生徒たちで賑わっている。
時刻は朝の七時半過ぎ、登校する生徒が一番多い時間帯だ。
そんな中、
こんな目立つ面子と歩いていようものなら、そりゃあ周りから奇異の目で見られまくる。
「………………」
何か忘れ物でもしたのか。
遠坂はさっきからこんな調子で黙っている。
「どうした遠坂。なんか坂道あたりから様子が変だぞ、おまえ」
「え……? やっぱりヘン、今朝のわたし?」
「いや、別に変じゃないが、その反応が変だ」
「先輩、その説明は矛盾してます。遠坂先輩が訊いているのはそういうコトじゃないと思いますけど……」
桜は遠坂の訊きたい事が分かっているらしい。
「? 何を訊きたがってるっていうんだよ、遠坂は」
「ですから、遠坂先輩は周りから見られているから、どこか自分の姿がおかしいのでは、と思ってるんですよね?」
「そ、そうだけど、やっぱり桜から見てもヘン?
おかしいな、今朝は眠いながらもちゃんとブローしたし、制服だって皺一つないと思うんだけど……やっぱり馴れない家で寝たもんだから目にクマでもできてるってワケ!?」
「なんでそこで俺に怒鳴る。
遠坂がうちの家で寝なれないのは俺の所為じゃないし、仮にそのせいで遠坂の目にクマが出来ていたとしても大したコトじゃない。気にするな」
「なに失礼なコト言ってるのよ。女ってのは生まれた時から自分の身だしなみを気にするものなの!
ああもう、今まで外見だけは完璧でいようって繕ってきたのに、それも今日でおしまいってコトかしらね……!」
「だから、なんで俺を見て怒鳴るんだよ遠坂は。
なんで遠坂が変なのかは知らないが、間違いなくそれは俺のせいじゃない。八つ当たりは余所でやってくれ」
「違いますよ遠坂先輩。先輩は今日も綺麗です。
みんなが遠坂先輩を見ているのは、先輩がわたしたちと一緒だからです。先輩、今まで誰かと登校した事なんてなかったから」
「え……? なに、その程度の事でこんな扱い受けるわけ? ……侮れないわね。十年も通ってれば学校なんてマスターしたつもりでいたけど、謎はまだ残ってたわけか」
ふーん、と真剣に考え込む遠坂。
つーか、今日も綺麗ですっていう賛美を当然のようにスルーするおまえは何者か。
「……わかんないヤツだな。遠坂が誰かと登校すれば騒ぎになるのは当然じゃないか。それが男子生徒なら尚更だ」
「ですね。けど遠坂先輩、そういうの気にしない人なんです。だから今まで浮いた話ひとつなかったんですよ」
「へえ……そりゃ良かった。外見に騙されて泣きを見た犠牲者は、いまのところ一人だけってコトだからな」
なんて、桜と小声で秘密会議をしながら、不思議そうな顔で歩いていく遠坂の後に続く。
周囲の視線にさらされながら校門をくぐる。
校舎に入ってしまえばそれぞれ別行動だから、周りの目もそれまでの辛抱だろう。
「……ふん。朝から頭痛いのがやってきちゃってまあ」
ぼそり、と遠坂が呟く。
遠坂の視線の先には、登校する生徒たちを邪魔そうに押しのけてくる顔見知りの姿があった。
「桜!」
「あ……兄、さん」
びくり、と体を震わせる桜。
慎二は俺たちの事など目に入っていないのか、早足で一直線に桜まで近寄った。
「どうして道場に来ないんだ! おまえ、僕に断りもなく休むなんて何様なわけ!?」
慎二の手があがる。
それを、
「よ、慎二。朝練ご苦労さまだな」
掴んで止めて挨拶をした。
「え、衛宮……!?
おまえ―――そうか、また衛宮の家に行ってたのか、桜!」
「……はい。先輩の所にお手伝いに行っていました。けど、それは」
「後輩としての義務だって? まったく泥臭いなおまえは。勝手に怪我したヤツなんてかまうコトないだろ。いいから、おまえは僕の言う通りにしていればいいんだよ」
ふん、と捕まれた腕を戻す慎二。
……桜に手をあげなければ握っている理由もないし、こっちも何もせずに手を離した。
「しかしなんだね、そこまでうちの邪魔して楽しいわけ衛宮? 桜は弓道部の部員なんだからさ、無理矢理朝練をサボらせるような真似しないでくれないかな」
「――――む」
それを言われるとこっちは反論できない。
桜がうちに朝食を作りに来てくれるのを止めていない時点で、俺は桜の朝を拘束しているコトになる。
「そんなコトありませんっ……! わたしは好きで先輩のお手伝いをしているだけです。兄さん、今のは言い過ぎなんじゃないですか」
「は、言い過ぎだって? それはおまえの方だよ桜。衛宮が親なしだからなんだって言うんだ。別に一人でいいっていうんだからさ、一人にしてやればいいんだよ。衛宮みたいなのはそっちの方が居心地がいいんだからさ」
「兄さん……! ……やだ、今のはひどい、よ……」
「―――ふん。まあいい、今日で衛宮の家に行くのは止めろよ桜。僕が来いって言ったのに部活に来なかったんだ。そのくらいの罰は受ける覚悟があったんだろ?」
「――――――――」
桜は息を呑んで固まってしまった。
慎二はそんな桜を強引に連れて行こうとし、
「おはよう間桐くん。黙って聞いていたんだけど、なかなか面白い話だったわ、今の」
「え――――遠、坂? おまえ、なんで桜といるんだよ」
「別に意外でもなんでもないでしょう。
桜さんは衛宮くんと知り合い、わたしは衛宮くんと知り合い。だから今朝は三人で一緒に登校してきたんだけど、気づかなかった?」
「な――――え、衛宮と、知り合い……!?」
「ええ。きっとこれからも一緒に学校に来て、一緒に下校するぐらいの知り合い。だから桜さんとも付き合っていこうかなって思ってるわ」
「衛宮と、だって…………!!!!!」
ぎっ、とこっちを睨む慎二。
……そこに、敵意を通り越した殺意を感じたのは気のせいか。
そりゃここんところ慎二とはうまくいってなかったけど、そこまで一方的に恨まれるコトはしてないぞ、俺。
「は、そんなバカな。冗談がきついな遠坂は。君が衛宮なんかとつき合う訳ないじゃないか。
……ああ、そうか。君勘違いしてるんだろ。そりゃあたしかにちょっと前まで衛宮とは友達だったけど、今は違うんだ。もう衛宮と僕は無関係だから、あまりメリットはないんだぜ?」
「そうなの? 良かった、それを聞いて安心したわ。貴方の事なんて、ちっとも興味がなかったから」
「――――うわ」
慎二に同情する。
俺だったら、しばらく立ち直れないトラウマになるぞ、今の。
「――――おまえ」
「それと間桐くん? さっきの話だけど、弓道部の朝練は自由参加の筈よ。欠席の許可が必要だなんて話は聞いてないわ。そんな規則、わたしはもちろん綾子や藤村先生も聞いてないでしょうねぇ」
「う―――うるさいな、兄貴が妹に何をしようが勝手だろう! いちいち人の家の事情に首をつっこむな!」
「ええ、それは同感ね。だから貴方も―――衛宮くんの家の事をあれこれ言うのは筋違いじゃない? まったく、こんな朝から校庭で騒がしいわよ、間桐くん」
「っ――――――――!」
じり、と慎二は後退すると、忌々しそうに俺と桜を睨み付ける。
「―――分かった、今朝の件は許してやる。
けど桜、次はないからな。今度なにかあったら、その時は自分の立場ってヤツをよく思い知らせてやる」
言いたい放題言って、慎二は早足で校舎へ逃げていった。
うん。アレはどう見ても、遠坂に貫禄負けして撤退したのだ。
「……ごめんなさい、先輩。兄さんがその……朝から失礼な事を言ってしまって」
申し訳なさそうに頭を下げる桜。
桜は俺だけではなく、遠坂にも謝っているのだろう。
「ううん、朝からいい運動になったわ。頭のギアがスパッと上がったし、ようやく調子が出てきたもの。口喧嘩好きなのよねー、わたし」
「それに謝るのはわたしの方だし。ちょっとやりすぎだったわよね、今の。あいつだって立場があるんだし、ほら、みんなの前でああいうのってしちゃ駄目だって言うじゃない。
間桐くんが落ち込んでたら後でフォローしてあげて。
これに懲りずに、またつっかかってきてもいいって」
「あ―――はい。兄さんが懲りていなければまたお相手をしてあげて下さい、先輩」
安心したのか、嬉しそうに微笑む桜。
遠坂は照れくさそうにそっぽを向いていたりする。
「先輩も。あの、出来れば怒らないであげてください。
兄さん、先輩しか友達いないから」
「分かってるよ。怒るなっていうのは無理だけど、慎二はああいうヤツだってのは知り合った時から知ってる。
ま、何かの拍子でまた付き合いが深くなるのは目に見えてるしさ。気長にやっていくよ、アイツとは」
「はい――――よろしくお願いします、先輩」
ぺこり、と一礼する桜。
……そうだな。
俺が慎二に対して本気で怒るっていったら、こんないい妹がいるのに何が不満なんだって所かもしれない。
「それじゃあ先輩、今日も一日頑張りましょうね」
桜は一年の廊下へ移動する。
俺たちは階段を上がって二年の廊下に出て、
「はうわ!?」
ばったりと、生徒会長と出くわした。
「な、何故に遠坂と一緒にいるのか衛宮士郎!」
ふむふむ。慎二とはまた違った意味で嫌悪感むき出しだな一成。
「あら。おはよう柳洞くん。朝からハウワ、とはご挨拶ね」
「く、目覚めから嫌な予感がしたが、まさか暗剣殺とはな―――! ええい、いいからこっちに来い衛宮! 遠坂の近くにいたら毒がうつる、毒が!」
ぐい、と強引に人の手を引く一成。
遠坂は何も言わず俺と一成を眺めた後、何事もなかったように二年A組の教室へ向かう。
「ふん、行くがいい。誰も止めはしないからな」
「………………」
遠坂は無言で俺たちの横を通り過ぎる。
と。
「士郎、昼休みに屋上」
一瞬。一成に聞こえないように、そんな言葉を囁いてきた。
――――昼休みになった。
朝の一件以来、一成は“裏切り者”扱いして近寄ってこない。
「……さっきのは悪ノリしすぎたか」
ちょっと反省。
朝、どうして遠坂と一緒にいたのか、と詰問され、
「休みの間に親密になったんだ」
と答えたのがまずかった。
問題はどんなふうに親密になったかだと思うのだが、そこまで説明できる筈もなく、一成はクラクラと目眩を起こしながら去っていた次第である。
「……まあちょうどいいか。しばらくは一人で色々やらなくちゃいけないからな」
関わる人間は少ないに越した事はない。
さて、とりあえずやるべき事といったら――――
◇◇◇
遠坂との約束がある。
一方的な発言だったが、呼び出すからには話があるのだろう。
昼飯を買って屋上へ。
夏場なら生徒たちで賑わう屋上も、冬の寒さの前には閑古鳥を鳴かさざるを得ない。
いくら冬木の冬が暖かいと言っても、屋上の寒さは我慢できるものじゃない。
冷たい風にさらされた屋上にいるのは自分と、
「遅いっ! 何のんびりしてるのよ士郎!」
寒そうに、物陰で縮こまっている遠坂だけである。
「遅れたのは悪かったと思ってる。思ってるんで差し入れを持ってきたんだが、その様子じゃ要らないか」
売店で買ってきたホットの缶コーヒーをポケットに仕舞う。
「う……アンタ、木訥《ぼくとつ》な顔してけっこう気が利くのね」
「ただの気紛れだよ。ほら、もうちょっとそっち行けよ。
ここだと風が当たるし、人目につくだろ」
ほら、と缶コーヒーを渡しながら物陰に入っていく。
ここなら人がやって来てもすぐには見つからないし、校舎の四階から見える事もない。
「ありがと。次は紅茶にしてね。わたし、インスタントならミルクティーだから。それ以外はありがたみがランクダウンするから注意するべし」
「あいよ、次まで覚えていたらな。それよりなんだよ、こんなところに呼び出して。人気《ひとけ》がない場所を選ぶあたり、そっちの話だと思うけど」
「と、当然でしょ。わたしと士郎の間で、他にどっちの話があるっていうのよ」
「ああ、それはそうだな。で、どんな話なんだ」
「……なによ。随分クールじゃない、貴方」
「? まあ、寒いからな。できるだけ手短に済ませたい。
遠坂はそうでもないのか?」
「―――! そんな訳ないでしょう、わたしだってさっさと用件だけ済ませるつもりに決まってるじゃない!」
うん、そうだと思った。
別に判りきってる事なんだから、怒鳴らなくてもいいのに。
「―――まあいいわ。
それじゃ単刀直入に訊くけど、士郎。貴方、放課後はどうするつもり?」
「放課後? いや、別にこれといって予定はないよ。生徒会の手伝い事があったら手伝うし、なかったらバイトに出るし」
「――――――――」
「……なんだよ、その露骨に呆れた顔は。言いたい事があるならはっきり言ってくれ。出来るだけ直すから」
「……まったく。貴方がどうなろうとわたしは構わないんだけど、ま、一つだけ忠告してあげるか。今は協力関係なんだし、士郎は魔術師として未熟すぎるから」
「またそれか。魔術師として未熟だっていうのはもう耳にタコだ。気にしてるんだからあまり苛めないでくれ」
「苛めてなんていないわよ。ただ士郎が学校の結界に気づいてないようだから未熟だって言ってるの」
「――――?」
学校の結界……?
「待て。学校の結界って、それはまさか」
「まさかも何も、他のマスターが張った結界だってば。
かなり広範囲に仕組まれた結界でね、発動すれば学校の敷地をほぼ包み込む」
「種別は結界内にいる人間から血肉を奪うタイプ。まだ準備段階のようだけど、それでもみんなに元気がないって気づかなかった?」
「――――――――」
そう言えば……二日前の土曜日、なんとも言えない違和感を感じたが、アレがそうだったっていうのか?
だが、という事は――――
「つまり―――学校に、マスターがいる……?」
「そう、確実に敵が潜んでいるってわけ。分かった衛宮くん? そのあたり覚悟しておかないと、死ぬわよ貴方」
「――――――――」
弛緩していた意識が引き締まる。
「……それで。そのマスターが誰かは判っているのか、遠坂は」
「いいえ。あたりは付いてるけど、まだ確証が取れてない。……まあ、うちの学校にはもう一人魔術師がいるって事は知ってたけど、魔術師イコールマスターって訳じゃないから。
貴方みたいな素人がマスターになる場合もあるんだし、断定はできないわ」
「む。俺は素人じゃない、ちゃんとした魔術師だ……って、待った遠坂、魔術師ならもう一人いるってうちの学校にか……!?」
「そうよ。けどそいつからマスターとしての気配は感じないのよね。真っ先に調べにいったけど、令呪も無ければサーヴァントの気配もなかった。
よっぽど巧く気配を隠しているなら別だけど、まずそいつはマスターじゃないわ」
「だからこの学園に潜んでいるマスターは、士郎みたいに半端に魔術を知っている人間だと思う。
ここのところさ、微量だけどわたしたち以外の魔力を校舎に感じるのよ。それが敵マスターの気配って訳なんだけど……」
あまりに微量すぎて逆探知が難しい、というところだろう。
「魔術師ではないマスターか。遠坂が断定するからには相当な確信があるんだろう。
それは信じるけど、そうか……うちの学校、そんなに魔術師がいたのか」
「そんなにってわたしとその子だけだって。
魔術師ってのは家柄を大事にするでしょ? こんな狭い地域に二つの家系が根を張った場合、どうしても懇意になるものなのよ」
「そうなのか? けど俺は遠坂の家のこと、知らなかったけどな」
「衛宮くんちは特別。衛宮くんのお父さん、協会から離反した一匹狼だったんでしょうね。たまたまこの町が気に入って根を下ろしたんだろうけど、冬木の町は遠坂《うち》の管轄だからさ。
わたしたちにバレたら貰うもの貰う事になるし、それが嫌で隠れてたんじゃないかな」
「な――――なんだよ、その貰うもの貰うって不穏な発言は」
「ふふーん、気になる? それは将来、士郎が一人前になったら取り立てにいくから期待してて」
「……まったく。ほんっとに猫被ってやがったんだな、おまえってヤツは。
何が学校一の優等生だ、この詐欺師」
「あら、いけない? 外見を飾るのだって魔術師としての義務でしょ。
ほら、わたしは遠坂家の跡取りだし、非の打ち所のない優等生じゃないと天国の父さんに顔を合わせられないのよ」
「?―――父さんって、遠坂」
「ええ、わたしが子供のころ死んじゃった。ま、十分長生きしたから天寿は全うしたんだし、別に哀しんだりはしてないけど」
「――――――――」
遠坂は、それが魔術師を父に持つ子供の在り方だ、とばかりに微笑む。
だが、それは。
「―――それは嘘だ。人が死んだら哀しいだろ。それが肉親なら尚更だ。魔術師だから仕方がない、なんて言葉で誤魔化せるものじゃない」
「…………………………ま、そうね。
衛宮くんの意見は、反論できないぐらい正しいわ」
言って、遠坂は湯たんぽ代わりにしていた缶コーヒーを開けた。
……ちびちびとコーヒーを口にする。
遠坂の事だから、男勝りにぐいっと一気飲みするかと思ったが、こういうところは本当に女の子だった。
「話を戻すけど。
ともかく、冬木の町に魔術師は二人しかいないの。
他のマスターは外からやってきた連中か、魔術をかじった程度でマスターに選ばれたっていう変わり種でしょうね」
そうですか。
遠坂に言わせると、俺も立派な変わり種という事らしい。
「それは判った。けどさ、半端に魔術をかじっただけのマスターなら、こんな結界は張れないんじゃないのか」
「マスターが張ったんじゃなくて、サーヴァントが張ったのかもね。
サーヴァントは自分のマスターを選べないもの。士郎みたいなマスターに当たってしまった場合、サーヴァント自身が色々策を練るしか勝機はないでしょ?」
「だろうな。気に障るけど、反論しようがないんで頷いとくよ」
「はい、素直で結構。
で、結界の話に戻すけど、この結界はすごく高度よ。
ほとんど魔法の領域だし、こんなの張れる魔術師だったら、まず自分の気配《まりょく》を隠しきれない。だから間違いなく、この結界はサーヴァントの仕業だと思う」
「……サーヴァントの仕業か。なら、マスター自身はそう物騒なヤツじゃないのかな」
「まさか。魔術師にしろ一般人にしろ、そいつはルールが解ってない異常者よ。他のマスターと知れば、まずまっすぐに殺しに来るタイプの人間ね」
「? ルールが解ってないって、聖杯戦争のルールをか?」
「違う。人間としてのルール。こんな結界を作らせる時点で、そいつは自分ってものが判ってない」
「いい士郎? この結界はね、発動したら最後、結界内の人間を一人残らず“溶解”して吸収する代物よ。
わたしたちは生き物の胃の中にいるようなものなの。
……ううん、魔力で自分自身を守っているわたしたちには効果はないだろうけど、魔力を持たない人間なら訳も分からないうちに衰弱死しかねない」
「一般人を巻き込む、どころの話じゃないわ。
この結界が起動したら、学校中の人間は皆殺しにされるのよ。分かる? そういうふざけた結界を準備させるヤツが、この学校にいるマスターなの」
「―――――――――」
一瞬だけ視界が歪んだ。
遠坂の言葉を、出来るだけ明確にイメージしようとして、一度だけ深呼吸をする。
―――それで終わり。
不出来なイメージながらも最悪の状況というものを想像し、それを胸に刻みつけて、自分の置かれた立場を受け入れる。
「話は解った。
―――それで、遠坂。その結界とやらは壊せないのか」
「試したけど無理だった。結界の基点は全部捜したんだけど、それを消去できないのよ。わたしにできるのは一時的に基点を弱めて、結界の発動を先延ばしにするだけよ」
「ん……じゃあ遠坂がいるかぎり結界は張られない?」
「……そう願いたいけど、それも都合のいい願いでしょうね。もう結界は張られていて、発動の為の魔力は少しずつ溜まってきている。アーチャーの見立てだとあと八日程度で準備が整うとか」
「そうなったらマスターか、サーヴァントか―――そのどちらかがその気になれば、この学校は地獄になる」
「――――じゃあ、それまでに」
「この学校に潜んでるマスターを倒すしかない。
けど捜すのは難しいでしょうね。この結界を張られた時点でそいつの勝ちみたいなものだもの。あとは黙ってても結界は発動するんだから、その時まで表には出てこない。だから、チャンスがあるとしたら」
「……表に出てくる、その時だけって事か」
「ご名答。ま、そういう訳だから今は大人しくしてなさい。その時になったら嫌でも戦う事になるんだし、自分から探し回って敵に知られるのもバカらしいでしょ」
凍えた屋上に、無機質な予鈴が鳴り響く。
昼休みが終わったのだ。
「話はそれだけ。わたしは寄るところがあるから、家には一人で帰って。寄り道は控えなさいよ」
じゃあね、と気軽に告げて、遠坂は去っていった。
「――――――――」
気分がいい訳がない。
マスターはマスターだけを襲う、なんて話が何の役にも立たない事を知らされて、まっとうな気持ちでいられる筈がない。
「学校に結界、だと――――?」
何も知らない、無関係な人間を巻き込むつもりなのか。
そんなのはマスターでもなんでもない、ただの大量殺戮者だ。
そいつが結界とやらを起動させる前に見つけて、見つけて―――完膚無きまでに、倒さなければ。
“――――喜べ衛宮士郎。君の願いは”「っ――――」
頭を振って、脳裏によぎった言葉を否定する。
そんな願いはしていない。
倒していい“悪者”を求めていたなんて、そんな願いは、衛宮士郎の物ではないんだから―――
帰りのホームルームが終わって、教室から生徒たちの姿が減っていく。
いつもなら生徒会室に顔を出すところだが、遠坂に早く帰れと言われた手前、寄り道せず屋敷に戻るべきだろう。
◇◇◇
門には鍵がかかったままだった。
「……そうか。こんなに早く帰ってきたのなんて久しぶりだ」
学校が終われば、大抵はちょっとした手伝いかバイトに精を出して、まっすぐ帰る事なんて珍しかった。
いつもは帰ってくれば門が開いていて、中では桜が夕食の支度をしてくれていた。
この一年それが当たり前になっていて、大切なコトが薄れかけていたのか。
門の鍵を自分で開ける、なんて些細な事で、桜が来てくれている有り難みを実感した。
「ただいまー」
声をかけて廊下にあがる。
とりあえず居間に行こうとした矢先、金髪の少女が現れた。
「帰ったのですね、マスター」
少女はまっすぐにこちらを見る。
「――――――――」
一瞬。
現実感というものが、キレイさっぱり崩れてしまった。
「シロウ? いま帰ってきたのではないのですか?」
こっちの驚きが伝染したのか、少し驚いた風に少女は言った。
静かな声が自分の名前を呼ぶ。
それで、ようやく現実感が戻ってくれた。
「あ……セ、セイバーだよな。わるい、いきなりなんで驚いた」
その、一瞬だけだったが、彼女をセイバーではなく普通の少女だと錯覚してしまって。
「? 私はマスターの指示に従ってここに待機していたのですが、間違っていましたか?」
「あ……いや、こっちの勘違いだから気にしないでくれ。
そ、それより体の方はいいのかセイバー。頻繁に眠るって言ってたけど、今は、その」
「起きていても支障はありません。
―――いえ、可能なかぎり戦闘時以外は眠っていた方がいいのですが、それでは勘が鈍りますから。
定期的に目覚めて体を動かしていなければ、いざという時に動きが鈍ります」
「……そっか。言われてみればその通りだ。人間、一日中寝てたら頭が痛くなるし、セイバーだって眠くて眠ってる訳じゃないんだし」
「そうですね。眠りを必要とする疲れはありません。
ですがシロウ、貴方は眠りすぎると頭を痛くするのですか?」
「痛くなるだろ、そりゃ。普通、一日の半分も寝てたら体の調子を悪くするって。俺の場合は頭が痛くなって目が覚めるから、半日も眠ってられないけどさ」
「……不思議な話ですね。私はそのような事はありませんでした。今も昔も、眠ろうと思えばいくらでも眠れますし」
「―――む。それはなんか、生き物として間違ってると思うぞセイバー。一日中寝てるなんて勿体ない。眠気がとれたら起きて遊んでいた方が楽しいだろ」
「……そうですね。確かに、その方が無駄はありません」
「だろ。今は俺のせいでそうなっちまったけど、俺から縁が切れたら普通の生活サイクルに戻れよ。
俺が言える事じゃないけどさ、これがクセになって一日中寝てたらぐうたらなヤツだ、なんて思われるから」
「それは、すでに手遅れかもしれません。私は皆《みな》にそう思われていたかもしれない」
む、とわずかに眉を寄せて考え込む。
……軽口のつもりだったのだが、セイバーに生半可な冗談は通用しないようだ。
居間に移動する。
セイバーは今日の出来事を教えてほしいらしく、遠坂から聞いた“学校の結界”の事を話すことにした。
「……そうですか。学校に集まる人間たちを生け贄にするつもりなのですね、そのマスターは」
「―――率直に言えばそういう事だろう。遠坂はまだまだ時間がかかる、とは言っていたけど」
「同感です。それほど大規模な結界の完成には時間がかかる。学校の校舎というものは封鎖しやすい建物ですから、おそらく神殿に見立てた祭壇なのでしょう。
それだけの規模の結界を完璧に起動させるには、早くて十日は必要です」
「十日……俺が異状を感じたのが二日前の土曜日だから、まだ八日は猶予があるって事か。遠坂の見込みと同じだな……」
「はい。その結界が生け贄を集めるものであれ守りを固めるものであれ、完成させては厄介です。それまでに結界を張ったマスターを見つけだせればよいのですが」
「―――そうだな。遠坂は難しいって言ってたけど、学校に潜んでいる以上は特定しやすい筈だ。なんとか見つけだして、結界を止めさせよう」
学校に結界を張る、という発想をする時点で、十中八九そのマスターは学校関係者だろう。
生徒か教師。
明日からはできるだけ昼間のうちに学校を見て回って、怪しいヤツを探し出さなければ。
「あとは……そうか、そいつがどんなサーヴァントを連れているか、っていう問題か」
いや、そればかりは実際遭ってみないと判らないか。
それなら、考えるべきは既に遭遇しているサーヴァントについてだろう。
今はセイバーも起きているし、訊いてみるには丁度いい。
よし、それじゃあ――――
アイツ――――
俺が初めて遭遇したサーヴァント、ランサーについて訊いてみよう。
セイバーはアイツと戦ったし、その正体に気が付いた節もあるし。
「なあセイバー。ランサーの事なんだけど、アイツは何者なのか判るか?」
「は? ランサーの事、ですか?」
「ああ。セイバーがアイツを追い返してくれた時、なにか言っていたじゃないか。アイルランドのなんとかとか。
だからもしかして、セイバーはアイツの正体に気づいているのかなって」
「ああ、そういう事ですか。……驚きました、シロウが敵のサーヴァントの正体を知りたがるとは思っていなかったもので」
「知らなくちゃやっていけないって話だからな。……けど、なんでそこで嬉しそうなんだよ、セイバーは」
「シロウが戦う気になっているからです。正体を知った相手ならば対策が立てられる。まず弱点が判った相手から仕留めるのは、戦いの常道ですから」
「………………む」
何もしてこないヤツにこっちから戦いに行く気なんてないが、ここで注意しても話の腰を折るだけだ。
「いいから、ランサーの正体。今の口振りだと知ってるんだな、セイバー」
「はい。あの紅槍と全身に帯びたルーンの守り、くわえて戦いではなく“生き延びる”事に特化した能力からいって間違いはないでしょう。
彼の真名はクーフーリン。魔槍ゲイボルクを繰る、アイルランドの大英雄です」
「……クーフーリン……?」
聞いた事のない名前だ。
……って、アイルランドの神話自体あまり知らないんだから仕方がないか。
「……で。強いのか、そのクーフーリンってヤツは」
「この国では知名度が低いですから存在が劣化していますが、それでも十分すぎる能力です。
こと敏捷性に関してならば他の追随を許さないでしょうし、彼の宝具はこの戦いに最も適した武器だと思います」
「宝具……? ああ、あの槍か。そういえばアイツの槍、最後にヘンな動きを見せたけど、アレがゲイボルクってヤツなのか?」
「……おそらくは。ゲイボルクの伝承は諸説あります。
曰く、足で投擲する呪いの槍だとか、貫いた瞬間に内部から千の棘を生やして相手を絶命させる魔槍だとか」
「……? なんか、まったく違う言い伝えじゃないのか今のは。そんなんで伝説の武器だなんて言えるのか?」
「ですから、続きがあるのです。ゲイボルクの能力は様々な形で伝えられていますが、その全てに“心臓を穿つ”という一節が残っている。
……それは武器としての能力ではなく、あくまで持ち主の技量だと思っていましたが、間違いだったようですね。
魔槍の正体――――ランサーのゲイボルクの能力は、文字通り心臓を穿つモノです」
「あ――――」
言われて、鮮明に思い出した。
あの夜。
セイバーの足下へと突き出された槍は、あり得ない方向に切っ先を変えて、彼女の心臓へと走ったのだ。
「つまり、アイツの槍は――――」
「ええ。使えば必ず敵の心臓を穿つ魔槍なのでしょう。
空間をねじ曲げているのか、因果律を変えているのか。
ともあれ、槍自体の呪いとランサー自身の技量でしょうね。こと一対一の戦闘において、これほど効率的な武器もありません。なにしろまったく無駄がない」
「無駄がない……? 無駄がないって、どういう意味だよ」
「分かりませんか。ランサーの槍は城を破壊する事はできませんが、人間一人を殺すだけなら十分です。
宝具というものは、その規模によって消費する魔力が変わります。
Aランクの宝具を持つ者は、その使用に大量の魔力を消費する。一度使ってしまえば、失った分の魔力補充には時間がかかるのです」
「ですが人を一人―――いえ、サーヴァントを倒すのにそれほど強大な破壊力など要りません。ランサーのように一撃で仕留められるのであれば、それ以上の戦果はないでしょう」
「……? つまりなんだ。大砲一発分より、弓矢一本の方が、コストが低い?」
「はい。ですが、サーヴァントには弓矢など当たりません。結果としてサーヴァント同士の戦いは大砲の撃ち合いになるのですが―――」
「……ランサーのゲイボルクは、その弓矢を命中させられる槍って事か。しかも掠り傷じゃなく、確実に命を奪う心臓に当ててくる?」
「そういう事です。加えて、使う為の魔力量もそう多くない。あの程度の魔力消費なら、七回使っても魔力の補充は必要ないでしょう。
ですから、彼の魔槍はこの戦いに適しているのです。
通常のサーヴァントは数回戦闘をすれば休まざるをえません。ですがランサーならば六人を続けて相手にする事もできる。……まあ、一対一である事が条件になってきますが」
「…………ふむ」
つまり派手さはないが、堅実に勝利を納められるサーヴァントという訳か。
「その割には本人無駄が多かったぞ。俺を相手にして遊んでいたしな」
「ですね。ランサー自身、むらっけのある人物のようです。非情な人物ではありましたが、どこか憎めない一面がありました」
それは同感だが、油断は禁物だ。
アイツは草を刈るような気軽さで俺の心臓を貫いた。
バーサーカーにしろランサーにしろ、その手に持った武器を振るう事に、なんの躊躇も持たない奴らなんだから。
◇◇◇
「それじゃあ他のヤツの事だけど」
「待ってくださいシロウ。屋敷の門を人がくぐりました」
「え、そんなコト判るのか……?
ってもうこんな時間!? まずい、きっと桜が帰ってきたんだ!」
慌てて立ち上がる。
呼び鈴の音。玄関から、
「お邪魔します」
という、桜の声が聞こえてくる。
「セイバー、悪いんだが、その」
「判っています。部屋に戻っていますから、私の事は気にせずに」
セイバーが部屋へと去っていく。
それと入れ替わりになる形で、
「ただいま。感心感心、ちゃんと先に帰ってたわね」
買い物袋を手にした遠坂と、
「お邪魔します先輩。珍しいですね、先輩がこんな早くから帰ってきてくれるのって」
嬉しそうに笑う桜が入ってきた。
「よし、準備は完璧っと。それじゃ始めるとしましょうか」
むん、と気合いをいれて台所に向かう遠坂。
それを心配そうに見つめる桜。
「先輩……? あの、お夕飯の支度なんですけど……」
「ああ、今日は遠坂の番だからいい。桜は朝作ってくれたんだから、夜は任せてくれ。遠坂が居るうちは俺とアイツで夕飯を作るから」
「あ……は、はい。先輩がそう言うのなら、そうします」
桜は大人しく座布団に座る。
台所ではジャージャーと派手な音がしているが、遠坂の後ろ姿に危なげなところはまったくない。
「……あれなら任せても大丈夫だな……」
ならここにいても仕方がないだろう。
セイバーの事もあるし、出来るまで部屋に戻っていよう。
「ちょっと部屋で休んでくる。藤ねえがやってきたら、たまには風呂沸かすように言っといてくれ」
「あ、はい。どうぞごゆっくり先輩。ご飯の支度ができたら呼びに行きますね」
「ああ。……と、そうだ。部屋に来る時はノックを忘れないでくれ」
時刻は六時前。この分だと、夕食にありつけるのは七時頃になりそうだ。
部屋に戻ると、セイバーは隣りの部屋で眠ってしまっていた。
「なんだ。なんか話そうと思ったのに」
ちぇ、と舌打ちして座布団に腰を下ろす。
「……って、何いってんだか。聖杯戦争のこと以外、なに話していいかも判らないくせに」
第一、自分はセイバーが苦手ではなかったのか。
「ま、いいけどさ。眠ってるなら、それで」
ぼんやりと口にして、ただ時計の針だけを眺めた。
昨日の夕食は自分とセイバー、それに遠坂の三人だけだった。
それが今日では桜と藤ねえを加えて五人だ。
「……あ、いや……セイバーはダメなのか」
藤ねえと桜がいる限り、セイバーは部屋から出せない。
「―――セイバー、朝飯食ったのかな」
昨夜、セイバーはこくこくと頷きながら夕飯を食べていた。
あの様子からして食事は要らない、という訳でもないだろう。
「……昼飯は用意しなかったし。腹減ってるよな、そりゃ」
藤ねえと桜が帰ったら、夕飯を温めてセイバーに作ってやらないと。
一人で食べてもらう事になるけど、それはそれで仕方がない―――とか。
「………………」
なんか。
一人で食事をしているセイバーを想像したら、無性に腹が立ってきた。
「士郎、起きてる?」
ドアをノックして、ひょい、と遠坂が顔を出してきた。
「遠坂? なんだ、何か用か」
「なにって、夕食なんだけど。出来たから、来て」
―――もうそんな時間だったのか。
よいしょと重い腰をあげ、セイバーが眠っている隣りの部屋に視線を投げてから廊下に出た。
「あ、来た来た。ほら、見てよこの料理! なんと遠坂さんは、長らく不在だった中華料理ができる人だったのだ〜!」
テーブルに並べられた料理を前にしてはしゃぐ藤ねえ。
言われてみれば、確かに今日の夕食は中華風だ。
四つの大皿にはかに玉、青椒牛肉絲、なんか見たこともないような上品そうな肉と野菜の炒めもの、何を考えているのか皿一杯のシューマイ軍団、と色鮮やかなことこの上ない。
小皿には口休めのサラダ等が用意されており、細かいフォローも行き届いている。
一言でいって、藤ねえ好みのゴージャスな夕食ぶりだった。
「……驚いたな。遠坂の事だから洋風でくると思ったのに」
「あ、ほんとは洋風を考えてたそうですよ。けど中華料理は誰も作らないって言ったら、ならわたしが作るって」
「―――なんでそう隙間を突くような人生しか送れないのかアイツは。……ん? なあ桜、遠坂と一緒に帰ってきたけど、アレは一緒に買い物に行ってたのか?」
「はい。遠坂先輩、弓道部が終わるまで待っててくれたんです。それで帰り道がてら、二人で買い出しに行ってました」
「……そうなのか。なんだ、思ったより仲がいいじゃないか、二人とも」
「そうですね。遠坂先輩とは学校でもよく話してましたから。わたしの何処が気に入られたか判らないんですけど、入学した頃から親切にしてもらってます」
へえ。
学校じゃほんとに親切な先輩なんだな、アイツも。
「お喋りはいいから早く食べよ。わたしもうお腹ペコペコだよぅ」
わーい、と腰を下ろす藤ねえ。
「だってさ。二人も早く座ったら? 中華ものって冷めると犯罪的に不味いんだから」
そっけなく言って、遠坂も食卓についた。
「――――――――」
無言で席に座る。
全員がいただきます、とお辞儀をして料理を口にした。
「っ――――!」
……悔しいが、旨い。
中華を作らない理由が“みんな味が一緒だろう”という考えからだったのだが、それが偏見だったと反省するほど、旨い。
「うわ、すごいすごい! こんなにごはんをおいしくさせる料理は久しぶりだよぅ。うん、遠坂さんに百点をあげましょう!」
「ありがとうございます。先生のように素直に感想を言ってもらえると、わたしも嬉しいです」
「はい、わたしも中華を見直しましたっ。辛いのって苦手なんですけど、すごくおいしいです!」
桜も心底おいしそうに喜んでいる。
それを笑顔で見届けたあと。
「――――ふふん」
なんて、勝ち誇った顔を向けてくる性根の曲がった遠坂凛。
「なんだよ。何か言いたそうだな、遠坂」
「べっつにー。みんなに気に入ってもらえて良かったなって。ま、若干一名素直じゃないのがいるけど、それはそれで楽しいから良しとしましょう。得意分野で負けちゃった気持ちは分かるし」
「くっ―――そうか、さてはおまえ、昨日俺に飯作らせたのはこっちの戦力分析か!」
「ふふふふふ。はい、今日の教訓は、手の内は常に隠しておく、でしたー」
などと心底楽しそうに言って、遠坂は自分の作った料理に箸を進めるのだった。
◇◇◇
夕食は、思っていたより賑やかに進んだ。
桜と遠坂はいい先輩と後輩だし、藤ねえも今ではすっかり遠坂の味方だし。
「――――――――」
ま、楽しい食事である事に文句はない。
文句はないのだが、こうしてみんなで飯を食っていると、何か間違っている気がする。
「………………」
席を立つ。
「? なに士郎、トイレ?」
「いや、忘れ物をした。連れてくるから、待っててくれ」
「――――――――」
居間を出る時。
無言で俺を見る、遠坂の視線があった。
単に、納得がいかなかっただけだ。
理由なんてそれだけ。
同じ家にいて、一人だけでいさせるなんて、俺はイヤだった。
だから、後先を考えるより先に、彼女の手を取った。
「シ、シロウ!? 突然何をするのです……!?」
「いいから来てくれ。みんなにセイバーを紹介するから」
「正気ですか!? 待ってください、それは」
「正気だから連れて行くんだ。ほら、いいから行こう。
後の事なんて成るようになる」
「ちょっ、シロウ……!?」
セイバーの手を強引に引っ張ったまま居間についた。
「悪いな遠坂。もう一人分、いいかな」
遠坂は何も反論しない。
ただ、不意打ちを食らった桜と藤ねえだけがぽかん、とセイバーを見つめていた。
「遅くなったけど紹介する。
この子はセイバーって言って、しばらく面倒を見る事になったから。見ての通り外国人さんだから、日本の暮らしには馴れてないんで、そのあたり助けてやってくれ」
「――――――――」
二人から反応がない。
それも当然だろうが、かまってる余裕はない。
「ほら、そこに座れよセイバー。飯はみんなで食べた方がいいだろ」
「それは……確かに効率的だとは思いますが、私は」
「遠慮なんてするな。だいたいな、これからはセイバーも一緒に住むんだぞ? 同じ家に住んでるんだから、一緒に飯を食うのは当然だ」
「………はい。シロウがそう言うのでしたら、私は従うだけですが」
「そんなのダ――――」
「そんなのダメーーーー!」
「…………っぅ〜〜〜〜!!!!」
耳!
耳がキーンとする、キーンと!
「一体どうしちゃったのよ士郎ってば! 遠坂さんだけじゃなくこんな子まで連れ込んじゃって、いつからここは旅館みたいになっちゃったのよぅ!」
「な、なんだよ。いいじゃないか、旅館みたいに広いんだから一人や二人部屋を貸しても。遠坂がいいんならセイバーだっていいだろ、下宿ぐらい」
「いいワケないでしょう! 遠坂さんは認めるけど、そんな得体の知れない子なんて知らないもん! いったいどこの子なのよ、その子は!」
「どこの子って―――遠い親戚の子だよ。よく分からない事情があって、親父を頼ってやってきたとか」
「そんな作り話信じられないっ。だいたいね、仮にそうだとしてもどうして衛宮の家に来たのよ。切嗣さんに外国の知り合いなんている筈な――――」
い、とは言い切れまい。
なにしろ親父は年がら年中外国に行っていたひょうろく玉だ。むしろ日本より外国に知人が多いってもんだろうし。
「―――ないとは言い切れないけど、それにしたっておかしいわ。あなた、何の為にここに来たのよ」
むっ、とセイバーを睨む藤ねえ。
「いや、だからそれは」
「士郎は黙ってなさい。えっと、セイバーさん? わたしはあなたに訊いてるんだけど」
セイバーは黙っている。
それはそうだろう、セイバーに事情なんてないし、俺の嘘に合わせてくれるような器用さは―――
「さあ。私は切嗣の言葉に従っただけですから」
――――あった、みたいだ。
「――――む。切嗣さんが士郎を頼むって?」
「はい。あらゆる敵からシロウを守るように、と」
静かに。
これ以上ない潔白さで、セイバーはそう言った。
……反論する事など誰に出来よう。
たとえそれが嘘でも―――そう口にするセイバー自身の心には、それが絶対の真実だった。
「………………」
さすがの藤ねえも今の言葉には反論できない。
―――が。
不満そうに顔をしかめたまま立ち上がると、キッと正面からセイバーを睨んで、
「……いいわ。そこまで言うんなら、腕前を見せてもらうんだから」
なんて、よく分からない言葉を口にした。
で。
風雲急を告げるような効果音を背負って、藤ねえは俺たちを連れ出した。
「………………」
んでもって、壁にたてかけてある竹刀を手に取って、セイバーを睨み付ける。
……さて。
我らが藤ねえは、一体なにを考えているのだろうか。
「あなた。士郎を守るって言ったわね。なら少しは覚えがあるんでしょ」
「――――私に剣を持て、というのですか」
「そうよ。あなたがわたしより強かったら許してあげます。けど弱かったら家に帰ってもらうからね」
「……構いませんが。それはどういった理屈でしょうか」
「士郎を守るのはわたしだもん! 士郎が一人前になるまで、わたしがずっと側にいるんだから!」
「――――――――」
藤ねえが何を言いたいのか、セイバーにはよく分かっていないようだ。
もちろん、周りのみんなもよく分からない。
「だーかーらー、わたしより弱いヤツはいらないの!
あなたがわたしより強いっていうんなら、わたしより頼りになるでしょ。それなら少しは士郎を任せてもいいわよーだ」
拗ねたように竹刀を弄ぶ藤ねえ。
「―――解りました。貴方を納得させれば良いのですね」
「そうよ。けど、わたしを納得させるのは大変なんだから!」
言うが早いか、ダンッ!と大きく踏み込んで、藤ねえはセイバーへと竹刀をたたき込む……!
「うわあ、藤ねえメチャクチャだー!」
不意打ちどころかセイバーには竹刀すら与えられてないじゃんか、それでも教師かタイガー!
「?」
藤ねえの奇襲に面食らったのか、セイバーはぼんやりと立ちつくしている。
そこに炸裂する、藤ねえの小手先胴――――!
「あれ?」
不思議そうに首をかしげる藤ねえ。
……そりゃそうだ。
端から見てるこっちでさえ不思議なんだから、当事者の藤ねえなんてバビロンの空中庭園なみに不思議だろう。
「――――――――」
セイバーは突っ立ったままだ。
ただ違うといったら、さっきまで藤ねえが持っていた竹刀を持っているという事か。
「あ…………ほんと?」
何がほんとなのかは知らないが、間違いなく真実です。
セイバーは奪った竹刀を構えてさえいない。
あくまで構えをとらないセイバーを前に、藤ねえは固まったように動かない。
藤ねえだって敵無しとまで言われた剣道家である。
その経験が、目の前の相手が次元違いだと悟ってしまったんだろう。
「……構えろというのでしたら構えますが。そこまでしなければ判らない腕ではないでしょう」
「ぅ――――うう、はうはう、はう〜〜……」
藤ねえはよろよろと後退し、へなへなと膝をついた。
「勝負はつきました。認めてもらえましたか」
「――――う。う、ぐすっ」
がくり、と肩をおとしてうなだれる藤ねえ。
それで大人しくなってくれたな、と思った瞬間。
「うわぁぁぁぁぁあああん!
ヘンなのに士郎とられちゃったーーーー!」
回りにいる俺たちが目眩を起こすぐらいの大声で、わんわんと泣き出してしまった。
……結局、藤ねえを説得できたのはそれから二時間後の事だった。
藤ねえが「ちょっとだけ話がしたい」とセイバーと親父の部屋に閉じこもって二時間が経ち、出てきた頃には納得のいかない顔で「なんか、認めるしかないみたい」
と頷いてくれたのだ。
一方、桜は終始無言。
夜も遅いので藤ねえが桜を送る事になったのだが、桜は最後まで何も言わず、ただお辞儀だけして帰っていった。
「それじゃわたしも別棟に戻るわね」
……と。
そういえば、遠坂も遠坂でずっとこの調子だし。
「……悪かったな。どうせバカな真似してって思ってるんだろ」
「別に。ただ、貴方のしている事は心の贅肉よ。そんな余分な事ばっかりしてたら、いつか身動きがとれなくなるわ」
おやすみ、と手を振って別棟へ去っていく。
「――――はあ」
なんだか疲れた。
こっちも、今日は早めに休むとしよう。
「待ってくださいシロウ。私も貴方に訊くべき事がある」
「ん? いいけど、なに」
「なぜ私を皆に紹介したのですか。私も凛の言う通り、シロウの行為は不必要だと思います」
「なぜも何もない。単に嫌だったから紹介しただけだ」
「シロウ、それは答えになっていません。何が嫌だったのか言ってもらわなければ」
詰め寄ってくるセイバー。
……彼女にとって今夜の一件は、そんなに不思議だったのだろうか?
「そんなの知るか。ただメシ食ってて、セイバーは一人でいるのかって思ったら嫌になっただけだ。
しいて言うなら、藤ねえと桜にもセイバーを知ってもらっておけば、隠し事も減ると思ったぐらいだよ」
「それはあまり意味のある事ではありません。
むしろ彼女たちに私の存在を知らせるのはマイナスです。この屋敷なら私の存在は隠し通せるのですから、私は待機していた方が良かった」
「――――」
良いって、なにが。
大勢で食事をしている時に、一人でのけものになっているのがいいっていうのか、こいつは。
「―――そんな事はない。
セイバーが良くても俺がイヤだったんだからしょうがないだろ。こういうの、理屈じゃないと思う」
そう言い切って、セイバーから視線を逸らした。
「土蔵に行ってくるから、先に部屋に戻っててくれ。用事が終わったら戻るから」
「――――――――」
返事はない。
納得いかなそうなセイバーに背を向けて、土蔵に向かう事にした。
外に出る。
青ざめた月光に照らされた静寂の庭。
見上げる冬の夜空は高く、星座がはっきりと見渡せた。
「――――はあ」
知れず、溜息がこぼれる。
遠坂は正しい。
確かに、俺は矛盾している。
セイバーの眠る部屋を避けて、土蔵に行こうとしている自分。
反面、セイバーを一人にしておくのがたまらなくイヤだったさっきの自分。
異性としてセイバーは苦手なクセに、人間としては放っておけないっていうのか。
……こんな矛盾した自分じゃ、遠坂に呆れられるのも当然だ。
「……まいったな。未熟なのは魔術だけだと思ってたけど、精神修行もなってないじゃないか」
ぼんやりと、夜空を見上げながら呟いた。
―――夜は更ける。
未熟な自分だからこそ、鍛錬は休めない。
努力を重ねていけばいつか何かに届くと信じて、小さな自分を積んでいく事しか出来なかった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
そうして一夜明けた後。
いつも通りの朝を過ごして居間に行くと、食卓はかつてないほど複雑な状況だった。
「あ、ごめん桜。わたしバターだめなの。そこのマーマレイドちょうだい」
「そうなんですか? 遠坂先輩、甘いものは好きじゃないような口振りでしたけど」
「まさか、そんな女の子はいないわよ。糖分は嫌いじゃなくて取れないだけだってば。油断すると見えないところが増えるの。甘味どころは週に一回にしなくちゃね」
「? なのにマーマレイドなんですか、先輩?」
「朝は糖分とるの。それにね、少しぐらいは甘いものを口にしておかないと後のカウンターが怖いでしょ」
「そっか。食事を二食に減らしても、食べる量が倍になったらタイヘンですからね」
「そういうコト。……って、黙ってればよく食べるわねセイバー。ちっこい体のくせに桜なみの量じゃない」
「そうでしょうか。私は平均だと思いますし、桜が口にしたパンは私を大きく上回っていると思いますが」
「そ、そんなコトないです……! 遠坂先輩もセイバーさんもわたしも、みんな仲良くトースト二枚じゃないですかっ」
「いえ、厚さが違う。一センチに対して二センチですから、桜はよく食べています。成長期ですし、栄養を摂るのはいい。凛も一枚だけと言わず、残さず食べてはどうですか」
「だから駄目だって言ってるじゃない。桜と違って胸に栄養がいくワケじゃなし、朝からそんなに食べたら増えるっていうの。ただでさえ朝は食べない主義なんだから、これでも譲歩してるのよ」
「……遠坂先輩、その、先輩の前でそういうコトは」
「……ふむ。増える増えると言っていますが、なぜ具体的な表現を避けるのですか、凛」
「だから目に見えないところの話。あ、桜は目に見えるから除外だけど」
「だ、だからそういう話はしないでくださーい!」
「――――――――」
カリ、とよく焼けたトーストをかじる。
目の前の展開に脳がついていっていないのか、会話に参加せずトーストを食べていた。
……いやまあ、口を挟む余地なんてないというのがホントの話だが。
「……どうも、余計な杞憂だったのかな」
とりあえず、三人の仲は悪いようには見えない。
遠坂は相変わらずだし、セイバーも昨夜よりうち解けている。
桜は……まだセイバーに対しては抵抗があるようだけど、それでも嫌っている様子はない。
「……藤ねえが来なかったのが気がかりだけど、まあ夜になったら来るだろ……」
さすがに昨夜のショックが大きかったんだろう。
まあ夕飯は食べに来るだろうし、その頃には機嫌も直っていると思うのだが。
朝食が済んで、後片づけに入る。
「先輩、本当にいいんですか? 後片づけ、任せてしまって」
「ああ、それぐらいはやっとく。それより桜は部活だろ。
昨日の今日だし、顔を出しておいた方がいい」
「……はい。それじゃお先に失礼しますね、先輩」
桜は遠坂にもお辞儀をしてから、早足で居間を後にした。
これで残るは三人。
桜がいなくなれば、秘密を共有する面子になってしまう訳か。
「それでは私も失礼します。何かありましたら声をかけてください」
「じゃあねセイバー。士郎は任されたから、こっちの留守をよろしく」
「はい。シロウを頼みます、凛」
遠坂に軽く頭を下げて、セイバーは部屋へ戻ってしまった。
……まあ、ここに居てもやる事がないし。
それなら少しでも眠っておいて、体力を温存したいのだろうが……
「……まったく。本当に戦う事しか考えてないのか、アイツは」
「当たり前じゃない。士郎もね、そろそろやる気見せないとセイバーに愛想を尽かされるわよ。
まだ傷が完治してないとはいえ、いつまでも大人しくしているような子じゃないでしょ」
ぱちん、という音。
物騒な事を言いながら、遠坂はテレビの電源を入れる。
「――――ふん? またこのニュースやってるんだ」
テレビからは朝の報道が流れてくる。
台所で食器を洗いながら音だけを聞き取る。
……と。
その内容は、少し前に聞いたニュースと同じだった。
「新都の方でまたガス漏れによる事故だって。
……バカな話。そんなのあっちだけじゃなくて、こっちの町にだって起きてるのに」
「――――?」
今。
何か、とんでもなく不穏な事を口にしなかったか、遠坂は。
「遠坂。それ、どういう意味だ」
「だから原因不明の衰弱でしょ? 何の前触れもなく意識を失った人間は、そのまま昏睡状態になって病院に運ばれてるって話。
もうけっこうな数になってるんじゃないかな。今のところ命に別状はないらしいけど、この先どうなるかは仕掛けたヤツの気分次第でしょうね」
「な――――」
待て。待て待て待て待て待て待て。
隣町だけじゃなくて、こっちにまでそんな事件が起きてたっていうのか?
原因不明の昏睡?
けっこうな数の犠牲者?
いや、問題はそれよりも――――
「遠坂、まさかそれも他のマスターの仕業だっていうのか」
「じゃあ他の誰の仕業だっていうのよ。いい加減馴れてよね、貴方だってマスターなんだから」
「それは―――そうだけど。……なんで今まで教えてくれなかったんだよ、遠坂は」
「こっちの件はそれほど簡単じゃないから。
学校で結界を張ってるマスターは三流だけど、こっちのマスターは一流よ。相手を死に至らしめる事はせず、命の半分だけを吸収して力を蓄えている」
「……そりゃあ集めるスピードは遅いけど、その代わりに魔術師としてのルールにはひっかからないし、無理をする必要がない。このマスターは遠く離れた場所で、町の人たちから“生命力”っていう、最も単純な魔力を掠め取っているってわけ」
「遠く離れた場所からって……そんな所から町中の魔力を集められるっていうのか、そいつは」
「よっぽど腕の立つ魔術師なんでしょうね。
新都と深山、二つの町をフォローする広範囲の“吸引”なんて、大がつく魔術師の業だもの」
「……いや、それともよっぽど優れた霊地を確保したのかな。冬木の町には龍脈らしきものがあるって父さんも言ってたし、そこに陣を布けば生命力の搾取ぐらいは簡単か……」
「? ちょっと、遠坂」
「父さんの書斎にそれらしい資料はなかったし、あるなら大祖父の書庫か……いやだなあ、あそこ今でも人外魔境だし、出来れば敬遠したいのに。
……となると綺礼に訊くしかないか……いや、だめだめ、あいつに借りを作るなんてもっての他だわ」
「遠坂、おい――――」
呼びかけても返事はない。
……だめだ。遠坂のヤツ、ぶつぶつと独り言に没頭してしまった。
気乗りがしないまま、遠坂と二人で学校に着く。
正門には登校する生徒たちの姿があり、学校はいつも通りの日常を迎えている。
「――――」
にも関わらず、確かに違和感があった。
昨日は気づかずに校門をくぐったが、注意していれば確実に気が付く違和感。
……なんというか、穏やかすぎて本能さえ麻痺する感覚。
「……本当だ。外と中じゃ空気が違う。甘い蜜みたいな空気じゃないか」
「へえ、士郎にはそう感じられるんだ。……貴方、魔力感知は下手だけど、世界の異状には敏感なのかもしれないわね」
ふうん、と遠坂は何やら考え込む。
「にしても甘い蜜、か。例えるならウツボカズラとか。
うん、なかなか言い得て妙じゃない」
「……ウツボカズラって、おまえ。そのイメージ、とんでもなく凶悪だぞ」
「そう? 士郎の直感は外れてないと思うけど? だってこの学校、結界っていうフタがしまったら中の生き物はみんな食べられるんだし」
「っ――――」
黙っていた本音を見抜かれて、つい息を呑む。
「やっぱりね。判りやすいから楽しいわ、貴方って」
「ああそうですか。俺はちっとも楽しくない」
「怒らない怒らない。士郎の言いたい事だって分かってるから安心なさい。貴方は学校の生徒を巻き込みたくないと思ってるし、わたしだってここを戦場にするのは願い下げ。なら、やるコトは一つよね?」
「…………………」
それは、俺を試す言葉だった。
遠坂は言っている。
聖杯戦争―――衛宮士郎が戦うと言った“相手”、勝つ為に無関係な人間を巻き込むマスターが、他でもない俺たちの学校にいるのだと。
「……分かってる。この結界を張ったマスターを探し出して、なんとかしなくちゃいけない。そうして、そいつが結界を解かないっていうんなら、倒すだけだ」
「そういうこと。ちゃんと理解していてくれて安心したわ」
「じゃ、わたしは結界を張ったヤツを捜してみるから、士郎は不審な場所をチェックしといて。
わたしも一通り回ったけど、見落としがあったかもしれない。士郎はそういう特異点を捜すのに向いてそうだし、餅は餅屋ってね」
ばいばーい、と手を振って校舎へ走っていく遠坂。
「ちょっ―――そんなコト言われても困る……! 不審な場所ってどういう所だよ、遠坂っ!」
「だーかーら、貴方風に言えば空気が甘いところよー!
蜜がべったべたに甘いところを捜せばいいのー!」
遠ざかりながら大声で返してくる。
そのまま、遠坂はあっという間に校舎へと消えていった。
「……なんだあいつ。いきなり走り出すなんて、やっぱりなに考えてるか分からな――――」
「あ」
きんこんかんこーん、とホームルーム開始の予鈴が鳴り響く。
「そ、そういう事か―――って、気づいてるならなんで教えないんだあいつは……!」
鞄を抱えて全速力で走り出す。
昨日の今日だ、遅刻なんてしたら藤ねえにどんな嫌味を言われるか。
◇◇◇
昼休みになった。
一時的にせよ授業から解放された生徒たちは、忙しなく校舎を行き来している。
「……よし。今なら歩き回ってもヘンに思われない」
昼飯を数分で済ませて廊下に出る。
やった事がない、なんて言っている場合じゃない。
とっくに戦いは始まっているのだ。
なら、遠坂が言っていた『不審な場所』とやらを、俺なりの手段で探し出さなくてはいけない。
「……まずは人気のないところが基本かな……」
―――さて。
昼休みが終わるまでの一時間、無駄なく成果が出せるといいのだが―――
一通り校舎を回った後、念の為に外に出た。
グラウンドや校舎裏に異状はなかったが、この一帯は毛色が違いすぎる。
「―――――まさか、ここもか」
……校舎の中にもおかしな場所は多々あった。
それは階段の裏とか廊下の行き止まり、空き室の教室など、あまり人目につかない場所だった。
だっていうのに、ここは違う。
人目につかないどころか、毎日人が集まる場所だ。
「……どうして気が付かなかったんだ。
異常って言えば、ここが一番異常じゃないか―――」
胸を抑えながら呟く。
……ここは妙に息苦しい。
濃密な風、湿った空気は違和感では済まされない。
いや、一度この匂いに気づいてしまうと、吐き気さえこみ上げてくる。
「……結界には基点がある、と遠坂は言ってたな。
何カ所あるか知らないが、最初の基点がこのあたりにあるって事か……」
なら、どこかにそれらしい刻印《サイン》がある筈なのだが……。
……。
…………。
………………。
……………………だめか。
魔力の感知に疎《うと》い俺では、結界を括っているサインなんて見える筈がない。
「…………ふう」
しょうがないな。とりあえず遠坂にここの事を報告して――――
「なんだ。捜し物かい、衛宮」
「――――!」
突然の声に振り向く。昼休み、人気の絶えた弓道場の前に立っていたのは――――
「――――慎二」
「やあ。奇遇だね、僕もそのあたりに用があって来たんだけど……君、もしかして見た?」
にやり、と。
心底嬉しそうに、間桐慎二はそう言った。
「……見たって、何を。別にここには何もないぞ」
「ああ、やっぱり見たのか。……なるほどね、君が遠坂と一緒にいた理由はそれか。そうだよねぇ、マスター同士、手を組んだ方が効率がいいもの」
「――――! 慎二、おまえ」
「そう警戒するなよ衛宮。僕と君の仲だろ。お互い、隠し事は無しにしようじゃないか。
君が何を連れているかは知らない。けど、君もマスターなんていう酷い役目を押しつけられたんだろ?」
何をはばかる事もなく、慎二はきっぱりと口にした。
間桐慎《じぶん》二が、マスターだという事を。
「……まさか。おまえがマスターなのか、慎二」
「だからそうだって言ってるだろ。
ああ、でも勘違いはしないでくれ。僕は誰とも争う気はない。そりゃあ襲われたら殺し返すけど、手を出されないうちは黙ってるさ。ほら、このあたり衛宮っぽいだろ、僕も」
クスクスと慎二は笑う。
その物言いからして、アイツがマスターだっていう事に間違いなさそうではあるが――――
「ま、こっちも衛宮がマスターだって知って驚いてるんだ。意外なのはお互いさまって事で、少し話し合わないか」
「話し合う……それは構わないが、何を話し合うっていうんだ」
「そりゃ今後のことさ。
さっきも言ったけど、僕は戦うつもりはない。けど他はそうでもないんだろ? ならさ、いつか来る災難に備えておかないと不安じゃないか。一人じゃ不安だけど、二人ならなんとかなると思わない?」
…………。
つまり、協力しようと言っているのか、慎二は。
「ま、こんな所で話をするのもなんだろ。誰に聞かれるとも判らないし、場所を変えよう。
ん……そうだね、僕の家がいい。あそこなら遠坂の目も届かないし、襲われても安全だ」
「場所を変えるって、なに言ってんだ。昼休みももう終わるし、話があるなら――――」
「馬鹿? 授業なんてさぼればいいじゃん。ほら、いいから行こう。衛宮がマスターって知って嬉しいんだから、あんまり水を差さないでよね」
「そんな訳にいくか。授業を抜け出したら不審に思われるだろ」
「チッ、融通がきかないヤツだな……って、ああそうか!
それはそうだよね、普通は警戒する!」
「けど安心しなよ、何があってもこっちから仕掛ける事はないさ。ほら、僕がだまし討ちなんかするように見えるかい?」
「? ああ―――そうか。確かに、おいそれとは付いていけないな、それは」
「…………。まあいいさ。そっちだってサーヴァントを連れてるんだろ。そんな危ない相手にケンカなんてしかけないよ」
……?
慎二には、俺がセイバーを連れているように見えるのか?
ああ、いや違う―――慎二のヤツ、霊体になっているサーヴァントが見えないんだ。
だから俺が今もセイバーを連れている、と勘違いしているのか。
「いいから行くよ。遠坂に見つかったら僕も君も只じゃ済まないんだから」
それだけ言って、慎二は歩き出してしまった。
「―――――――」
……付いて行くしかないか。
慎二の話にも興味はあるし、午後の授業は諦めよう。
坂道を上がっていく。
うちとは正反対にある洋風の住宅地。
なんでもここのてっぺんには遠坂の家があるそうなのだが、その裏側、人目を避けるようにあるのが間桐家の洋館だと記憶している。
「――――――――」
相変わらず、すごい建物だ。
中学の頃は何度か遊びに来た事があったが、最近は近寄る事さえなかった。
慎二と疎遠になってからは呼ばれる事もなかったし、なにより桜自身が、この家に俺が近づくのを嫌がっていたからだ。
……昼だというのに、屋敷の中は薄暗い。
この家は陽射しが入らない作りの上、電灯が少ない。
大げさだが、慣れていないと壁にぶつかる事だってある。
「衛宮、こっちだ。居間にいるから早く来いよ」
いつの間にそこまで行ったのか、屋敷の奥から慎二の声がする。
一年経っても体は覚えているもので、迷うことなく間桐邸の居間へ足を運んだ。
居間にも明かりらしき物はなかった。
カーテンは閉められ、日の光は遮断されている。
人工の明かりはなく、居間は暗く闇に沈んでいた。
「衛宮、こっちだ」
声がする方向に視線を投げる。
そこには椅子に座った慎二と――――
黒い、闇が結晶したような、女性の姿があった。
「紹介しよう。僕のサーヴァント、ライダーだ」
「――――――――」
悪寒が走る。
あまりの寒気に、首の後ろが斬りつけられたみたいに痛む。
「……二人だけで話をするんじゃなかったのか、慎二」
わずかに後退して、なんとかそう口にした。
「やだな、用心だよ。衛宮が襲いかかってきたら怖いからね。ライダーにはすぐ近くにいてもらわないと」
手を伸ばして黒いサーヴァント―――ライダーに触れる慎二。
横腹から太ももまで、舐めるようになぞっていく。
「―――――――」
ライダーはピクリとも動かない。
彫像のように佇み、閉ざされた目でこちらの様子を監視している。
……それが指先《こっち》の震えまで捉えている気がするのは、錯覚じゃないだろう。
「人を連れて来てそれか。用心深いにも程があるんじゃないのか、慎二」
「やだなあ、冗談だってば。衛宮はそういうのが出来るヤツじゃないって判ってるよ。
ま、けどおまえのサーヴァントは別だからね。僕だってこいつを躾るのには苦労したんだ。サーヴァントがマスターの命令に従わない、ってのは珍しい事じゃないだろ。だからさ、これはちょっとした牽制だと思ってくれ」
……マスターの命令に従わないサーヴァント?
たしかに目の前にいるライダーは、セイバーとは違う。
セイバーは静かではあるが、冷たくはない。
だがライダーから感じ取れるのは冷たさだけだ。
ひどく人間味の欠けた人間。
血が変色したように見える黒い姿。
彼女は英霊であるサーヴァントとは思えないほど、無機質で、光というものを感じさせない――――
「……ライダーは俺のサーヴァントへの牽制か。あまりいい気分じゃないな」
「ゴメンゴメン。何分こっちは素人だからさ、衛宮みたいに馴れてるって訳じゃないんだ。そのあたりは勘弁してくれ」
「……ふん。俺だって馴れている訳じゃないけどな」
「そうなのか? なんだ、なら君も呼び出せばいいじゃないか。その方がお互い理解しあえるし、すごく公平だ。
ああ、うんうん、それがいいそれがいい! ねえ衛宮、僕のも見せたんだからさ、君のサーヴァントも見せてくれない?」
……やはり慎二はセイバーがいるものと勘違いしている。
もっとも、その勘違いを正してやる必要はない。
「断る。そっちが牽制してくれるならそれでいいだろ。
話し合いならそれで十分だ」
「……なにそれ。あのさ、僕が見たいって言ってるんだよ? なに気取ってるか知らないけど、言うこと聞いといた方がいいんじゃないの?」
「なら話はここまでだ。別にサーヴァントの見せ合いをしにきたんじゃない。そんな事が目的だったんなら、ここで帰る」
「チ―――そうかよ。使えないヤツだな、相変わらず」
あーあ、と不満そうに声をあげて、慎二は椅子にもたれかかった。
「いいよ、本題に入ろう。と言っても話すべき事なんて一つだけだけどね。
……うん。さっきも言ったけど、僕と協力しないか衛宮。マスターになったものの、聖杯戦争っていうのがどんな物か知らなくてさ。一人でいるよりは信用できるヤツと手を組みたいんだ」
「待った。その前に俺も訊きたい事がある。返事をするのはそれからだ」
「なに、僕がどうしてマスターになったかって事?」
ああ、と頷く。
知る限りでは慎二は魔術師じゃない。
その慎二がマスターになった経緯を知らなくては、協力するも何もない。
「マスターは魔術師である事が大前提だと聞いた。俺も未熟ながら魔術をかじっていて、偶然サーヴァントと契約してマスターになったんだが……慎二も偶然サーヴァントを呼び出して、聖杯戦争に巻き込まれたのか?」
だとしたら、俺たちは似たもの同士だ。
協力しよう、という提案を無碍には断れなくなってしまうのだが―――
「へえ、衛宮は偶然マスターになったのか。……ふうん。
へえ、そうなんだ。良かった、それなら納得できる」
くすり、と愉快そうに笑う慎二。
「ま、僕も似たようなものかな。本人の意思に反してマスターになってしまった、という点では同じだ。
―――けど勘違いするなよ。
僕はマスターがなんであるか知っていたし、聖杯戦争の事だって前から知っていた。間桐の家はね、おまえの家なんかとは違う、歴《れっき》とした魔術師の家系なんだからな」
「――――!?」
間桐が魔術師の家系……!?
「な、聞いてないぞそんなの……!?
待てよ、それじゃあ慎二と―――」
妹である桜も、魔術を習ってるっていうのか……!?
「落ち着けよ衛宮。間桐家はね、魔術師の家系ではあるけどもう枯れてしまった一族なんだ。
間桐の先祖は遠坂の家と一緒にこの土地にやってきたらしいが、日本の土が合わなかったんだってさ。
代を重ねる毎に、ええっと、魔術回路ってやつ? それが減っていって、僕が生まれた時にはもう、間桐の血筋は一般人に戻ってしまったそうだ。
だから間桐の人間は魔術師じゃない。昔、魔術師であった家系なだけなんだ」
「昔は魔術師だった……それじゃあ、今は知識だけが残っているのか?」
「ああ、残念ながらね。けど魔術回路がなくなったって、魔術を学ぶ事に変わりはない。マスターの事も聖杯戦争の事も、調べればすぐに判った。突然マスターに選ばれてこうやって落ち着けるのも、先代の教えがあったからなのさ」
「――――――――」
……そうか。
俺はマスターになって、遠坂がいたから聖杯戦争ってものを理解できた。
それと同じように、慎二は間桐の家に伝わる文献で置かれた状況を把握したのか。
「つまり、慎二は魔術の知識だけを教えられてきたんだな。……なら、桜も同じように魔術を習ってきたのか?」
「はあ? ああもう、本当に何も知らないんだな、君。
いいかい、君のところは雑種だからどうでもいいだろうけど、古い血統の魔術師は一人にしか秘術を伝えないんだ。子供が二人いたら跡取りにするのは長男だけだよ」
「一つの物を二つに分けたら力が薄まるだろ?
十の魔術を一つの結晶にして遺していき、血筋をより濃くしていくのが魔術師だ。いくら肉親だからって安売りはしないのさ」
「だから魔術師の家系はね、跡取り以外に魔術は教えない。後継者に選ばれなかった子供は自分の家が魔術を学ぶモノだと知らずに育てられるか、養子に出すっていうのがセオリーなのさ」
「そうか――――それなら、良かった」
胸を撫で下ろす。
桜は魔術とは無縁の、穏やかな日常にいなくちゃいけない子だ。
こんな、訳も分からず殺し合いを強制されるような揉め事に関わらせてたまるものか。
「さ、これで判っただろ衛宮。
僕はマスターになったものの、魔術には疎い。
君は……そうだね、少しは使えるって言うけど、知識の方は素人同然だ。
ほら、ちょうどいいと思わないか? 勝手にマスターにさせられた者同士、協力しようよ」
「……それは構わないが。確認するけど、それは身を守る為なんだな、慎二」
「いや、それもあるけど、まずは当面の敵を叩かないとまずいじゃない。僕、なんか彼女から目の仇にされてるみたいだしさ」
「……目の仇にされてる……? まさかおまえ、それ遠坂のコト言ってるのか」
「そんなの決まってるじゃないか! そうでもなければ僕を邪険にするものか……!
……いいか、アイツは他のマスターを許さないヤツだぞ。そんなの一緒にいる衛宮だって判るだろ?
けどさ、なんの物好きか知らないけど、遠坂は君に気を許している。どうしてかは知らないけど、あの隙のない女がだぜ?
―――ほら、倒すには絶好の機会だと思わない?」
そう言って、慎二は握手を求めるように手を出してきた。
◇◇◇
「――――――――」
……俺は、そんな話には乗らない。
いや、乗れない。
慎二が本気で身を守りたいと思うのなら、俺だけじゃなく遠坂にも声をかけるべきだ。
それに―――
「慎二。聖杯戦争を管理しているヤツがいるのは知ってるか」
「ああ、教会の神父だってね。前回の生き残りだっていうけど、うるさそうだから会ってないよ。
僕は魔術師じゃないんだから、魔術師としてのルールなんて押しつけられるのは面倒じゃない」
「――――――――」
それは矛盾している。
戦いを止《や》めたいと思うのなら、まず何より言峰神父を訪ねるべきではないのか。
「――――慎二。学校に結界が張ってある事は知っているのか」
「知ってるよ。僕には判らないけど、ライダーが教えてくれた。それがどうしたっていうのさ」
「……アレはおまえじゃないのか。遠坂は学校にいるマスターの仕業だと言っていたけど」
「ああ、アレは僕じゃないよ。たしかにあの学園にはもう一人マスターがいるから、そいつの仕事じゃないの」
「? 遠坂は一人しかいない、と言っていたぞ」
「遠坂を信用しすぎるのもなんだけどね。ま、それは別にしてもあいつは間違ってるよ。
遠坂が探っている気配は魔術回路ってヤツなんだろう?
なら僕は彼女が感知できるマスターじゃない。だって、元から魔術回路なんてないんだから。
初めからさ、僕は普通のマスターたちのレーダーに映らない存在なんだよ」
……なるほど。
魔術師の気配だろうが令呪の気配だろうが、それは結局魔力によって作動するものだ。
なら―――魔力を持たない人間がマスターになったのなら、識別する方法は実際に見て確かめるしかない。
魔力を帯びた人間を探る、という遠坂の方法では、慎二というマスターを見つけるどころか気づく事さえできないのだ。
なぜなら、遠坂が追っている魔力《マスター》の気配そのものを、慎二は持っていないのだから。
「……そうか。そうなるといま遠坂が感知しているマスターっていうのは、他にいるんだろう」
帰って遠坂に忠告してやるべきだろう。
そうと決まれば、もうここに残る必要もない。
「……! おい衛宮、協力の話はどうなんだよ」
「それは断る。遠坂を倒す、なんて相談にはのらない。
第一、あいつは何もしていないだろ。
あいつとは……いずれ戦う事になるけど、今は信頼できるし、していたいんだ」
「……ふん。何かあってからじゃ遅いと思うけどね。まあ君がそういうならいい。僕も君と同じく様子を見るさ」
意外な事に、慎二はそれで諦めてくれたらしい。
帰ろうとする俺を引き留める事もしないし、ライダーをけしかけてくる事もなかった。
……ほんと、難しいヤツだな慎二は。
態度はアレだけど、あいつはあいつなりにフェアであろうと心がけているみたいなんだから。
「……なあ慎二。しつこいようだけど、桜はおまえの事を知ってるのか?」
「知らないし、教えてやるつもりもない。間桐の跡取りは僕だからね。桜には何も知らないまま、僕の妹でいさせてやるさ」
「―――助かる。桜には、あのままでいてほしい」
「は――――。
そうか、そこまで桜の心配をされちゃ兄貴として礼をしないとね。……よし、一ついい事を教えてやるよ衛宮。
誰だかは知らないけど、マスターの一人は寺に巣を張ってるよ」
「――――!? 寺って、まさか柳洞寺にか!?」
「ああ。僕のサーヴァントが言うには、山には魔女が潜んでいるそうだ。大規模に魂を集めているそうだから、早めに叩かないと厄介らしい」
「な――――」
それが本当なら、これで五人目だ。
それに大規模に魂を集めているという事は、今朝のニュースの元凶である可能性が高い。
「話はそれだけだよ。
それじゃあライダー、送ってやってよ。いいかい、衛宮は味方だから傷つけるんじゃないぞ」
慎二に命じられ、ライダーが近寄ってくる。
「っ……いや、それは」
「遠慮するなって。家を出るまでは僕の責任なんだから、怪我をされたら困る。
ああライダー、送るのは玄関まででいいからな。外にさえ出てくれたら僕とは無関係だから、それまでは丁重に送ってやれ」
慎二は奥の部屋へと引っ込んでしまった。
「………………」
無言でライダーに視線を送る。
「………………」
黒い衣に包まれたライダーは何も言わない。
ただ意外な事に―――近くで見ると、彼女は清楚な顔立ちをしていた。
長い、地面にまで伸びている紫の髪は血の匂いしか感じさせないのに、同時にとんでもなく美しいものと判る。
……いや、格好が格好だからまともに見るのは恥ずかしいんだけど、この服と彼女の顔立ちは、まったく合っていないんじゃないだろうか。
一言で言うのなら、血に濡れた巫女。
邪悪でありながら神聖、なんていう矛盾に満ちた姿が、ライダーというサーヴァントだった。
「………というか」
英霊っていうのは、こう美人ぞろいなんだろうか。
怖い物見たさでライダーの顔を見上げていると、ついそう思ってしま―――って、女性にしては背が高い。
百七十センチは優にあるんじゃないだろうか、ライダー。
「…………む」
冷静に観察している場合じゃなかった。
ライダーと二人きり、というのも問題あるし、さっさと間桐邸から出なければ。
本当にライダーは玄関まで付いてきた。
……どうだろう。
生きているという感じがしない彼女だが、話しかければ何か答えてくれるかもしれない。
「……ライダー。さっきの慎二の話は本当なのか」
駄目もとで声をかける。
「――――――――」
ライダーに変化はない。ただ、その長い髪が風に揺れているだけだった。
「……だよな。悪かった、敵同士なのにつまんない事訊いちまって」
見送りサンキュ、と手をあげて玄関を出る。
――――と。
「嘘ではありません。あの山に魔女が棲んでいるのは真実です」
「え……ライダー?」
「挑むのならば気をつけなさい。あの魔女は、男性というものを知り尽くしていますから」
淡々と語るライダー。
それに聞き惚れてしまっている自分に気づいて、ぶんぶんと頭を振った。
「あ、その……忠告、ありがとう。
―――それと慎二の事をよろしく頼む。アイツはああいうヤツだからさ、アンタが守ってやってくれ」
面くらいつつ、なんとか言葉を返す。
それがおかしかったのか。
「……人が好いのですね、貴方は。シンジが懐柔しようというのも解ります」
くすりと小さく笑って、ライダーは間桐邸へと消えていった。
◇◇◇
坂道を下って交差点まで戻ってきた。
ここから反対側の住宅地へ上がっていけば、家に帰る事になるのだが―――
「……柳洞寺にマスターがいる、か」
ここから山に向かって歩くこと一時間。
人家の少ない山あいの道路を行けば、柳洞寺に続く山門に辿り着ける。
柳洞寺は山にある大きな寺で、その敷地は学校ほどもある。
墓地も広大だが、なにより五十人からなる修行僧が生活している小世界だ。
町の人々は柳洞寺の世話になりつつも、おいそれとは足を踏み入れられない聖域として敬っている。
「……そういえばここ最近、柳洞寺には行ってないな」
去年の夏、精神修行という事で合宿させてもらって以来か。
寺の生活が本当に厳しいのは冬だろうから、冬休みにはまたお邪魔しようと思っていたのだが―――
「む? 午後の授業をボイコットした男が、こんなところで何をしている」
噂をすれば影というか。
柳洞寺の跡取り息子、柳洞一成とばったり出くわしてしまった。
「よ。学校、もう終わったのか?」
「終わったとも。生徒会でやる事もないので帰ってきたのだが、何かあったのか。見たところ、お山を眺めていたようだが」
「ああ、別に何かあった訳じゃない。なんとなく家に帰りたくなっただけだ」
「ふん。なんとなくで授業を休まれては、教師は商売あがったりだ。―――で。何故お山なんぞを拝んでおったのかと訊いているのだが」
「…………ちょっとな。一成、一つ訊くけど。最近さ、何か変わった事、ないか?」
「ふむ。変動など茶飯事だが、さりとて劇的な境地に至る事もなし。お山は日々これ平穏、しかるに平穏こそ日常よ」
「わるい一成。真面目な話しているんだ」
「し、失礼な! こっちだって真面目だぞ!」
「みたいだな。ならいいんだ、取り越し苦労だった」
「うむ、解ればよい。俺が衛宮相手にふざけるものか」
コホン、と咳払いして落ち着く一成。
「……だが、うむ。変化があるといえばあるのだが、どうしたものかな」
「え……? 変化って、寺にか……!?」
「ああ。お山ではなく寺《うち》の空気がうわついている。親父殿の知り合いらしいのだが、少しばかり厄介な客人を迎えていてな。これが結構な美人であるから始末が悪い。
まったく、皆《みな》も女一人に何を騒いでいるのやら」
「女って―――柳洞寺って、尼さんいたっけ?」
「おらぬ。訳ありでな、祝言まで部屋を貸し与えているのだが――――いや、これが確かに美しい人でな、井戸から水を汲む姿など、俺でも目を奪われるほどだ」
「訳ありってどういう訳だよ……って、一成? おーい、俺の話聞こえてるかー?」
「むっ、いかん。だから女生はいけないんだ、女生は。
色欲断つべし、落ち着け一成」
ぶつぶつとお経を唱える生徒会長。
……まいったな。なまじ真面目なヤツだけに、こうなると扱いに困るというか。
「もしもーし、大丈夫か一成」
「問題ない。修行不足なので、より精進したいと思う」
やっぱりこっちの話など聞こえていなかったのか、
喝、などと言い残して、町の奥地へと消えていく一成だった。
屋敷に戻ってくる頃には、日は沈みかけていた。
昨日と同じく、今日も一番乗りで帰宅した訳だ。
そのうち桜と藤ねえもやってくるだろうし、遠坂も帰ってくるだろう。
「……慎二から聞いた話は、桜と藤ねえが帰ってからだな……」
二人がいる時に内緒話をしても仕方がないし。
さ、そうと決まれば夕食の支度をしなければ。
昨日は遠坂のヤツにやられたし、藤ねえのご機嫌もとらなくてはいけない。
料理は愛情の前にまず手間暇である。
必勝を期すのなら、いつもの二倍は時間をかけなくてはなるまい。
――――で。
結局、何がどうなったかと言うと。
「ふーんだ! なによ、負けてないんだから! 遠坂さんのばか、いじめっこー!」
「ですから、わたしが言っているのは料理の味じゃありません。その、藤村先生曰く今までで一番おいしい夕食なんですから、みんなに分け与えた方がいいんじゃないかって話です」
「……むー……言ってるコトが違うと思う。
遠坂さん、士郎の作ったご飯はあんまり食べたくないって言ったじゃない」
「それは朝だけの話です。夕飯はきちんと摂りますし、そもそも夕食はわたしと衛宮くんとの交代制なんですから、わたしが食べるのは当然の権利じゃないですか。
それが嫌だというのでしたら、明日からは藤村先生が代わってください」
「う―――的確に急所をついてくるその性格。くそう、こんなひどい教え子だとは思わなかったよう」
抱きかかえていたおひつを渋々と食卓に戻す藤ねえ。
こうして、五人分の特製炊き込みご飯が無事食卓に返還された。
「……あのなあ藤ねえ。今日は山ほど飯作ったんだから、別にがっつく必要なんかないぞ。ちゃんと飯もおかずも人数分作ったんだし」
もしゃもしゃ。
「そ、そうですね……でも先輩、これはちょっと作りすぎかなー、とか」
かちゃかちゃ。
「ええ。四人分の樽を二段重ね、というのはあきらかに重量過多です」
もぐもぐ。
「樽じゃない、おひつ。いいんだよ、今日のメインはごはんなんだから多めに作っても。余ったらおにぎりにするから、明日の昼飯にもなるし」
もしゃもしゃ。
「あ、それわたしの分もいい? わたし炒飯は好きじゃないんだけど、これは別格。ねえねえ、なんか色々入ってるけど何入れたわけ?」
ぱくぱく。
「基本的にはきのこの炊き込みご飯ですよね。油物を混ぜるかわりに柚子で香りをとってるあたり、細かいです」
かしゃかしゃ。
「…………いいもん! こうなったらわたし一人でカラにするんだから、みてなさいよー!」
おひつを奪うのは諦めたのか、もの凄い勢いでごはんをかっこむ藤ねえ。
すぐさま茶碗をカラにすると、そのまま間髪入れずにおかわりを要求してくる。
「……いいけど。そんなに急がなくてもなくならないぞ、藤ねえ」
「いいのっ! 士郎のごはんはわたしが食べるんだから、昨日今日やってきた人にはあげないもん!」
がばちょ、とお茶碗をひったくる藤ねえ。
「――――?」
いやもう、訳が分からない。
桜は気まずそうに笑ってるし、遠坂は呆れて藤ねえを無視しているし、セイバーは我関せずで飯食ってるし。
……せっかく気合いを入れて作ったのに、逆効果だったのか。
遠坂にまいった、と言わせる筈の夕食は、藤ねえの奇行によって騒々しく終わってしまった。
「それじゃ先輩、失礼しますね」
「おう。藤ねえ、桜をよろしくな。ちゃんと家まで送ってやってくれよ」
「はいはい。わかってるから安心なさい」
軽い足取りで桜の手を握る藤ねえ。
「なに? 士郎、なんか不思議そうな顔してるけど」
「そりゃ不思議だ。普通、人間はあれだけ食うと身動きがとれなくなる」
「そうかな? 苦しかったけど、飲み込んじゃえばなんとかなるものよ?」
だから、問題はそれに際限がないというコトだと気付けタイガー。
さすがは野生の虎、出来れば人間社会に間違って乱入してこないでほしい。
「じゃあまた明日な。夜更かしするなよ、二人とも」
「はい。おやすみなさい、先輩」
「うん、おやすみ士郎」
◇◇◇
二人を送り出して居間に戻る。
夕食の後に話がある、と言っておいたおかげか、居間では遠坂とセイバーが真剣な面もちで待っていた。
「お疲れさま。―――それで話っていうのは何?」
「他のマスターの話だ。聞いてほしい事がある」
わずかにセイバーの眉が上がる。
……サーヴァントである以上、彼女が優先するのは安穏とした日常ではなく、剣を振るう戦いなんだろう。
だが、彼女の傷はまだ癒えていない筈だ。
ランサーの“宝具”によって穿たれた胸の傷は、セイバーであっても易々と治癒できる物ではない。
「――――――――」
そう思うと、慎二の話をするのは躊躇われた。
俺だって慎二と同じだ。
自分から戦う事は極力避けたいし、それに―――目の前の少女が剣を振るうのは、どう考えても不釣り合いだと思うのだ。
「シロウ。話があるのではないのですか」
「あ―――ああ。そうだな、それでもこれは話しておかないと。……率直に言うとだな。今日、ライダーとそのマスターに会ってきた」
「な、ライダーのマスターに会ってきたって、いつの話よそれ!?」
「そんな馬鹿な! 一人で敵のマスターと会うなどと、自分の身をなんと考えているのですか!」
「うわ、待て、落ち着けってば……! 大丈夫、怪我なんてしてないから、そう怒らないでくれ」
「怒るななどと―――いえ、私は怒ってなどいませんっ。
シロウの行動に呆れているだけです」
「……右に同じ。ま、すんだ事を言っても始まらないわ。
それで、どういう事なのよ士郎」
明らかに怒っている目でこちらを睨んでくる遠坂とセイバー。
……まいった。
軽率だー、なんて言われるとは思っていたが、まさかここまで本気で怒られるとは思っていなかった。
「……会ったのは今日の午後だ。
話し合いをするっていうから付き合っただけで、別に戦った訳じゃない」
「見れば判るわ。で、ライダーのマスターはどんなヤツだったの」
「どんなヤツかって、慎二だよ。
学校で結界を探っていたら声をかけられてな。話があるから付いてこいって、間桐の家まで行ったんだ」
「な――――慎二って、本当にあの慎二!?」
「ああ。ライダーも慎二に従ってたし、聖杯戦争も知ってたぞ。なんでも間桐は由緒正しい魔術師の家系なんだって?」
「え―――ああ、うん、それはそうだけど……そんな筈はないのよ。間桐の家は先代でもう枯渇している筈だもの。何があろうと間桐の子供に魔術回路はつかない。これは絶対よ」
断言する遠坂。
こいつがそこまで言うからには、慎二と桜は本当に魔術回路のない普通の人なんだろう。
「ああ、慎二もそう言っていた。けど知識だけは残ってたんだと。長男である慎二にしか教えなかったそうだから桜は知らないとか。
……ようするにさ、俺と似たタイプのマスターなんだよ、あいつ。自分には魔力がないから、遠坂の感知にもひっかからないとか言ってたぞ」
「……そう。まずったわね、たしかにそういうケースだってあるか……。魔道書が残っているんならマスターになるぐらいはできるだろうし、ああもう、それじゃわたしの行動ってアイツに筒抜けだったんだ、ばか」
遠坂はぶつぶつと反省している。
……ふむ。遠坂はほぼ完璧なんだけど、どこか抜けている部分があると見た。
問題は、それがけっこう致命的な物ばかり、という事だろう。
「わたしのミスだわ。慎二の事はしっかりマークしておくべきだった。知っていたら結界を張らせるなんて事もなかったのに」
「ああ、いや。学校の結界は慎二じゃないって言ってたぞ。学校にはもう一人マスターがいるんだとさ」
「ええ、それはそうでしょうね。学校にはまだ一人、わたしたちの知らないマスターがいるのは明白よ。
けど士郎。貴方まさか、結界を張ってないっていう慎二の言葉を信じてるの?」
「……いや、そこまでお人好しじゃない。慎二が学校にいる以上、半分の割合で慎二の仕業だと思う。あとの半分は、まだ正体が知れないマスターだろ」
「半分ねえ……その時点で大したお人好しだと思うけど。
ま、それはそれでいいわ。そういう余分なところが貴方の味だし、だからこそ慎二は正体を明かしたんだろうしさ」
「?」
「まあいいわ。それで慎二と何を話したのよ、貴方」
「手を組まないか、だとさ。慎二も戦うつもりはないらしい。だから顔見知りとなら協力したいって風だったけど」
「え―――士郎、あなたまさか慎二と」
「いや、断るだろ普通。俺、もう遠坂と手を組んでるし。
返事をするにしたって、ちゃんと遠坂に話を通さないとダメじゃないか」
「あ……うん。それは、そうだけど。でも断ったって、言った?」
「ああ。さっきはああ言ったけど、慎二への返答は俺の独断でやっちまった。遠坂の耳に入れるような話でもなかったし。……あ、それともやっぱり早まったのか、俺?」
「……別に。士郎の判断は正しいんじゃない? まあ、アンタ個人にお呼びがかかったんなら、わたしが文句を言う筋合いでもないけどさ」
ごにょごにょと言う姿は、なんか実に遠坂らしくない。
「慎二からの話はそれだけだよ。
俺の見た限りじゃライダーもそう強力なサーヴァントでもなかった。バーサーカーは言うに及ばず、ランサーより威圧感はなかったと思う。ライダー本人も思ったよりまともだった」
「……マスターがそう実感したのなら確かでしょう。ですが、サーヴァントの真価は手にした宝具に左右されます。ライダーが何者であるか判明するまで油断はしないように、シロウ」
「……ああ。ライダーがどこの英雄かはまったく判らなかった。ほら、ランサーとかバーサーカーはいかにも英雄って感じじゃないか。ライダーにはそれがなくて、どこか普通のサーヴァントとは違う気がした」
「―――普通のサーヴァントとは違う、ですか。
私には分かりませんが、凛ならシロウの違和感が説明できますか?」
「え……? あ、うん、理屈だけなら判るわよ。
えっとね、サーヴァントがどんな英霊かは呼び出されたマスターに左右されるって話。けっこう似たもの同士になるのよ、マスターとサーヴァントは」
「つまり高潔な人物がマスターなら、それに近い霊殻をした英霊が召喚される。逆に言えば心に深い傷を持った人間が英霊を呼び出せば、同じように傷を負った英霊が現れるわ。
士郎がライダーに感じた違和感はそれでしょうね。
歪《いびつ》な心を持つマスターは、時として英雄ではなく英霊に近いだけの怨霊を呼び出してしまうのよ」
「英霊に近い怨霊……それってまさか、前に遠坂が言っていた――――」
「ええ。血を見るのが大好き、人殺しなんてなんとも思わないような殺戮者の事よ。
実際、大量虐殺だけが伝承に残っている英雄だっているんだから、そういうヤツがサーヴァントになってもおかしくはないわ」
「――――――――」
そう、なのだろうか。
たしかにライダーからは血の匂いしかしなかったが、彼女にはそんな、血に飢えた殺人鬼のようなイメージはなかったのだが……。
「……まあライダーの事はそれだけだ。
最後にもう一つあるんだけど、これが一番重要かも知れない。
なんでもさ、ライダーの話じゃ柳洞寺にもマスターがいるらしい。そいつは町中の人間から魔力を集めているそうなんだけど、この話、二人はどう思う」
「柳洞寺……? 柳洞寺って、あの山のてっぺんにある寺のこと?」
「だからそうだって。なんだ、思い当たる節でもあるのか遠坂」
「まさか、その逆よ。柳洞寺なんて行った事ないもの。
どんなマスターか知らないけど、そんな辺鄙《へんぴ》なところに陣取ろうなんて思わないわよ、普通」
「だよな。俺も柳洞寺にいるって聞いた時は驚いた。
いくら人目につかないっていっても、寺には大勢の坊さんが生活しているんだ。怪しい真似をしたらすぐに騒ぎになると思う」
「ふーん……いまいち信用できないわね、その話。
仮にそうだとしても、柳洞寺って郊外のさらに郊外にあるんでしょ?
そこから深山と新都、両方に手を伸ばすなんて、大魔術っていうより魔力の無駄遣いよ。集めた分の魔力を使っても、そんな大規模な魔術は不可能だもの」
と、なにやら難しそうな顔で考え込む遠坂。
こっちは遠坂の意見を頼りにしているので、こいつが顔をあげない事には何も言えない。
「―――いえ、シロウの話は信憑性が高い。
あの寺院を押さえたのなら、その程度の魔術は自然に行えるのですから」
「? セイバー、あの寺院って―――柳洞寺のこと知ってるのか? まだ連れて行った事ないぞ、俺」
「忘れたのですがシロウ。私は前回も聖杯戦争に参加しています。この町の事は熟知していますし、あの寺院が落ちた霊脈という事も知っています」
「―――落ちた霊脈!? ちょっと待って、それって遠《う》坂《ち》邸の事よ!? なんだって一つの土地に、地脈の中心点が二つもあるっていうのよ!」
「それは私にも判りませんが、ともかくあの寺は魔術師にとって神殿とも言える土地です。
この地域の命脈が流れ落ちる場所と聞きますから、魂を集めるには絶好の拠点となるでしょう。魔術師は自然の流れに手を加えるだけで、町中から生命力を回収できる」
「……そんな話、初めて聞いたわ。
けど、確かにそれなら町の人間から生命力を掠め取っていく事もできるわよね……」
「ようするに霊的に優れた土地ってコトだろ? そんなの当然じゃないか。そうでもないところに寺なんて建てないぞ」
「うっ――――そ、そんなの当たり前じゃない。言われなくても分かってるわよ」
「だよな。昔っから寺とか神社ってのは神がかる場所に建てて町を守るものだ。坊さんは神仏に祈って幸を与えるんじゃなくて、鬼門を封じて禍を退ける。その線で言えば、柳洞寺のあるお山が神聖な場所ってのは当然だろ」
「っ――――」
「おい―――まさかとは思うが。おまえ、柳洞寺をお飾りの寺だとでも思ってたのか?」
「ええ、そうよ悪い!? 今まであるだけの寺だと思ってたわよ、あの寺には実践派の法術師がいないんだから!」
「実践派の法術師……? なんだそれ」
「読経や信心、祈願以外で霊を成仏させる連中のこと。
覚者は神仏の力だけで事を成すそうだけど、修行が浅い僧侶は神仏に届かないから、わたしたちみたいに自身の力を上乗せして術を成すの。
そういう連中が集まって組織みたいになってるのがあるのよ、この国には。魔術協《わたしたち》会とは相容れない連中だから詳しくは知らないけどさ」
「ううん、そんな事より寺の事よ。
あの寺が霊脈だとしたら、まず真っ先に押さえようとするのがマスターでしょう? おかしいじゃない、なんで他の連中はそんな場所を見逃しているのよ」
「いや、だから柳洞寺があるからだろ。悪用されないように見張ってるんだって」
「柳洞寺の僧侶はみんな純粋な修行僧じゃない。
わたしたちみたいに外れた連中じゃないんだから、そんな人たちを丸め込むぐらいマスターなら造作もないわ」
「いいえ凛、それは違う。たしかにマスターならばあの寺院を制圧するのは容易いでしょう。しかし、あの山にはマスターにとって都合の悪い結界が張られているのです」
「? わたしたちに都合の悪い結界……?」
「はい。あの山には自然霊以外を排除しようとする法術が働いている。生身の人間に影響はありませんが、私たちサーヴァントには文字通り鬼門なのです」
「自然霊以外を排除する―――それじゃサーヴァントはあの山には入れないって事!?」
「入れない事はありませんが、能力は低下するでしょう。
足を踏み入れる度に近づいてはならない、という令呪を受けるようなものですから」
「―――それじゃ、どうやって柳洞寺のマスターはサーヴァントを維持してるのよ」
「いえ、寺院の中に入ってしまえば結界はありません。
もとより結界とは寺院を守る境界線と聞きます。結界は外来者を拒むだけの物ですから、それ以上の能力はありません」
「……じゃあなんとか中に入ってしまえば、サーヴァントを律する法術はないって事?
……けどおかしいな。そんなふうに寺院を密閉させたら地脈そのものが止まるじゃない。せめて一本ぐらい道を開けておかないと、地脈の中心点には成り得ないんじゃない?」
「はい。寺院の道理で言えば、正しい門から来訪した者は拒めません。その教えに従っているのか、寺に続く参道にだけは結界が張れないと聞きました。
あの寺院は正門のみ、わたしたちサーヴァントを律する力が働いていないのです」
「……なるほど。そりゃそうよね、全ての門を閉じたら中の空気が淀《よど》むもの。……ふうん、ただ一つだけ作られた正門か……」
「私が教えられる事はそれだけです。
―――では結論を。マスターがいると判明したのですから、とるべき手段は一つだけだとは思いますが」
「――――――――」
セイバーの言いたい事は分かっている。
敵の居場所が判明したのなら攻め込むだけだ、と彼女の目が言っている。
しかし――――
「わたしはパス。
どうにも罠くさいし、正直それだけの情報じゃ動けないわ。相手のホームグラウンドに行くんなら、せめてどんなサーヴァントを連れているのかが判明するまで待つべきよ」
「……意外ですね。凛ならば戦いに赴くと思ったのですが」
「侮ってもらって結構よ。こっちはアーチャーがまだ本調子じゃないし、しばらくは傍観するわ」
「わかりました。それではシロウ、私たちだけで寺院に赴きましょう」
「――――――――」
セイバーは当然のように言う。
だが、それは。
「―――いや、俺も遠坂と同じだ。まだあそこには手を出さない方がいい」
「な……貴方まで戦わないと言うのですか……!?
バカな、今まで体を休めていたのは何の為です!
敵の所在が判明した以上、撃って出るのが戦いというものでしょう!」
「―――それは分かってる。けど待つんだセイバー。
柳洞寺にいるマスターがそこまで用意周到なヤツなら、絶対に罠を張っている。そこに何の策もなしで飛び込むのは自殺行為だ。
遠坂の言う通り、せめてアーチャーが回復するまで待つべきだと思う」
「そのような危険は当然です。初めから無傷で勝利を得ようなどと思ってはいません。
敵の罠が体を貫こうと、この首を渡さなければ戦える。
どのような深手を負おうと、マスターさえ倒せればいいのではないのですか!」
「な――――バカ言うな、怪我をしてもいいなんて、そんな話があるか!
危険を承知で行くのはいい。けどそんな特攻は馬鹿げてる。……俺はマスターとして、セイバーにそんな危険な真似をさせられない」
そう、間違いなく柳洞寺に行くのは特攻だ。
寺に続くただ一本の道には、何かしらかの障害があってしかるべきだ。
それを承知で行くのはいいが、打開策もなしで挑むのは自殺行為に他ならない。
いくらセイバーが強いっていっても、彼女には俺というハンデがある。
無理をして戦って、その結果が――――
あの再現になるのなら、俺は絶対に認められない。
「……何を言うかと思えば。
いいですかマスター、サーヴァントは傷を負う者です。
それを恐れて戦いを避けるなど、私のマスターには許しません」
「―――ああ、許されなくてけっこうだ。セイバーが無茶をするんなら何度だって止めるからな。
……それが嫌ならさっさと体を治せっていうんだ。まだ傷が治りきってないんだろ、おまえは」
「戦闘に支障はありません。傷を理由に戦いを先延ばしにするなどと、そのような気遣いは不要です」
セイバーは戦う意思を崩さない。
「っ――――」
ああもう、どうしてこんなに言っているのに分からないんだこいつは……!
「ああそうかよ。けどな、そう簡単に頷けるか。
以前だってそれでセイバーはバーサーカーにやられちまっただろう!? 無理を通して戦って、また俺もおまえも共倒れ、なんて真似を繰り返すつもりか!?
冗談じゃない、俺はあんな、無残に殺されるなんて二度とご免だ……!」
「――――――――」
そうして。
すぐに言い返してくるだろうと思っていた彼女は、わずかに息を呑んで、
「……それを言うのは卑怯ではないですか、シロウ」
謝罪するように、そんな言葉を口にしていた。
「…………卑怯で悪かったな。
とにかく、こっちから仕掛ける事はまだしないぞ。
俺だって柳洞寺にいるマスターは放っておけない。けど俺たちは戦える状態じゃない。こんなんで戦ってやられちまったら、それこそ誰が柳洞寺のマスターを止めるんだ」
「いいか、こっちから撃って出るのはおまえの傷が治って、万全の状態になってからだ。それに文句があるんなら、さっさと他のマスターを見つけてくれ」
「―――分かりました。マスターが、そう言うのでしたら」
静かな声で答えて、それきりセイバーは黙り込んだ。
……話は終わった。
遠坂は部屋に戻り、セイバーも部屋に戻った。
一人居間に残って、ひどく後悔する。
いや、悔やんでも後の祭りだ。
他に言いようがあっただろうに、なんだって俺はあんな、
あんな顔をさせるような言葉でしか、彼女を説得できなかったのか―――
◇◇◇
風の無い、静かな夜だった。
時刻は零時を過ぎている。
地上には流動する物などなく、あらゆる生き物は深い眠りについている。
沈殿した闇。
町は、垣間見える月の明かりだけを寄《よ》る辺《べ》にした、暗い深海のようだった。
雲が流れている。
地上は無風。
されど遙か上空では轟々と大気がうなり、幾重にも連なる雲を泳がせていた。
「――――風が出るな」
聞こえる筈のない風が聞こえるのか。
わずかに耳朶を震わせる上空の風を仰いで、小さく、彼女は呟いた。
空を睨み、音もなく庭に佇むのはセイバーと呼ばれる少女である。
金の髪は闇夜においてなお美しく、澄んだ緑の瞳は見え隠れする月を捉えていた。
「――――――――」
一度だけ、庭の隅に視線を送る。
そこには古い土蔵があり、その中には彼女の主が眠っている。
「――――貴方が戦わないというのなら、いい」
かちゃり、という音。
鉄の響きは誰の耳に届くこともなく闇に溶ける。
月が隠れ、現れる。
上空の雲が流れ去る一瞬で、少女の姿は一変していた。
重く硬い銀の甲冑。
青い衣に身を包んだその姿は、もはや少女と呼べるものではない。
他を圧倒する魔力で編み上げられた鉄壁の守りと、
人を凌駕する魔力で隠し通された視えざる剣。
戦場において不敗とされたその姿は、現代においてなお、彼女の在り方を決定づける。
剣は見えずとも、彼女が卓越した剣士である事はその威風が証明していた。
故にセイバー。
七人のサーヴァント中、最高の能力を持つという剣の英雄。
礼節を弁《わきま》え、主の意思を代行する騎士の中の騎士。
他の英霊がどのような者であれ、彼女だけは決して主に逆らわない理想の剣士。
「――――――――」
だが、それも今宵で終わった。
彼女は主の命に背いてこの場にいる。
否―――真実、主に逆らう訳ではない。
彼女なりに主を勝たせようと思案し、決意した結果がこれである。
「―――彼は甘い。それでは他のマスターに殺されるだけだ」
だが今回のマスターは、その甘さを捨てきれないだろう。
ならば、非情に徹するのは己の役割。
マスターが戦わないというのなら、剣である自身が戦うだけである。
「傷は癒えていない。マスターからの魔力供給も期待できない」
だが、それでも戦闘に支障はない。
自身の性能を確認して、視線を月に移した。
もはや主の眠る土蔵に関心はない。
武装した以上、彼女にあるものは敵を屠る意思だけである。
月が翳《かげ》る。
一際大きな雲塊が夜空を覆ったのと同時に、セイバーは屋敷の塀を飛び越えていた。
――――闇を駆ける。
寝静まった町並みを、銀色の剣士が駆け抜けていく。
向かうべき場所はただ一つ、町の郊外に聳《そび》える霊山、その中腹に位置する柳洞寺だ。
寺に潜むマスターを単独で斬り伏せる事がどれほど困難か、セイバーとて理解している。
士郎の言う通り、一人で挑んでは深手を負う事は目に見えている。最悪、返り討ちにあう事もあるだろう。
だが、その程度の無理を通せなくて何がサーヴァントか。
サーヴァントを支えるものは卓越した能力と、培ってきた絶対の誇りである。
―――彼らには英雄の誇りがあり、幾多の戦場を戦い抜いてきた最強の自負がある。
古来より人々に伝えられ敬われてきた英霊である以上、敵が何者であれ負ける事など許されない。
否、敗北など想像する事さえ許されまい。
それは未だ幼さが残る彼女とて例外ではない。
セイバーの名を冠する彼女だからこそ、自身に対する誇りは譲れないものだ。
敵を前にして傍観するなど、その誇りが許さない。
故に、例えどのような罠があろうと怯まず、単独であろうと挑むだけ。
勝機がないというのなら己が剣で切り開こう。
手にする剣は幾多の敵をうち破ってきた名剣である。
この風王結界を持つ以上、彼女に恐れるものなど何もない。
峠道を越え、寺院へと続く参道を駆け抜ける。
山道を抜けた先に待っていたものは、物々しい石段の階段だった。
「…………確かに、これは」
それは、彼女が記憶していた柳洞寺とは別物だった。
空気が淀んでいる。
風が死んでいる。
土地の命脈が、とうの昔に汚されている。
―――ここは死地だ。
足を踏み入れれば、生きて帰る事は叶うまい。
「――――」
それでも躊躇う事などない。
セイバーの速度はわずかたりとも落ちず、長い階段を駆け上がる。
駆け抜ける景色。
石段を蹴っていく足音が反響し、山はざわざわと蠢きだす。
それは、長い階段だった。
矢のように駆け上がるセイバーでさえ山門は遠い。
これほどの長距離、敵に感知されず山門をくぐるなど不可能だ。
必ず奇襲がある。
山門には容易に辿り着けまい。
だが、どのような策略があろうと蹴散らして進むだけだ。
今の自分を止められるものなどいない。
仮令《たとえ》バーサーカーが現れようと、今の自分ならば突破してみせよう―――
それが彼女の決意であり、セイバーとしての自信だった。
いかなる障害だろうと突き破れると、セイバーは自身の充実を感じている。
そうして頂上。
あと僅かで山門に至るという時に、その障害は現れた。
「――――!」
セイバーの足が止まる。
いかなる敵であろうと突破する、と決意した彼女でさえ、その“敵”には意表を突かれた。
さらり、という音さえする程の自然体。
颯爽《さっそう》と現れた男の姿はあまりにも敵意がなく、信じがたいほど隙がなかった。
「貴様――――」
立ち止まり、視えざる剣を構えるセイバー。
月を背にした男はセイバーの殺気を、涼風のように受け流している。
「――――侍、か」
聞いた事はあるが、見た事はなかった種別の相手に戸惑ったのだろう。
今回で二度目の聖杯戦争。
多くの英霊を見てきた彼女とて、あのような出で立ちをしたサーヴァントは初めてだった。
「――――――――」
セイバーの額に汗が滲む。
恐れているのではなく、あまりに合点がいかない為に。
過去、この男のように奇怪なサーヴァントがいなかった訳ではない。
奇怪さ、得体の知れなさでは前回のアーチャーを上回る者はいないだろう。
それに比べれば、目前のサーヴァントには恐れるべき箇所も、驚異を感じるほどの武装もない。
……故に、それが異常だった。
目前の男からは何も感じない。
サーヴァントには違いないのだが、英霊特有の宝具も魔力も持ち得ない。
ならば倒すのは容易だ。
勝負が一撃で決するは道理。
だと言うのに、彼女の直感はこう告げていた。
―――侮るな。
このサーヴァントには、自分を必殺する手段がある、と。
「――――――――」
間合いがつめられない。
男の武器――――日本刀にしては長すぎる刀の間合いが掴めない事もあるが、それ以上にセイバーの位置はあまりに不利だ。
階段の下と上。
男との距離は約五メートル。
駆け上がり、踏み込む前に一度、あの長刀による洗礼を受けよう。
……しかし、あの刀からは何も感じない。
受け流す事は容易の筈。
ならば臆さず踏み込むべきなのだが、不用意に近づく事は出来ないとセイバーは直感した。
わずかに剣を構え直し、目前の敵を睨むセイバー。
正体は不明だが、せめてこの侍がどのようなクラスなのかは知らねばならない。
「……訊こう。その身は如何なるサーヴァントか」
答えなど期待せずに問うセイバー。
それに、にやりと笑ったあと。
「――――アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎」
歌うように、そのサーヴァントは口にした。
「な――――」
セイバーが驚くのも当然だろう。
サーヴァントは正体を隠すもの。
それを自ら、堂々と告げるサーヴァントが何処にいる―――!
「貴様、何を――――」
「何を、とは無粋だな。立ち会いの前に名を明かすのは当然であろう? それがそなたのように見目麗しい相手ならば尚のこと。だというのに、そのような顔をされるとは心外であった」
アサシン―――佐々木小次郎と名乗ったソレは、セイバーの狼狽を楽しむように続ける。
セイバーは知るまい。
このサーヴァントこそ物干し竿と呼ばれる長刀を持ち、慶長の世に並ぶ者なしと噂され続けてきた剣士だと。
―――否、知っていたところで何が変わろう。
出生も不明、実在したかどうかさえ不明瞭。
ただ人々の口端《くちはし》にのみ上《のぼ》り、希代の剣豪の好敵手として祭り上げられた剣士を知る者など、この世でおそらくただ一人。佐々木小次郎と呼ばれるモノを討ち果たした、史実に残らぬ宿敵のみであろう。
それを英雄と呼ぶ事など出来まい。
アサシンのサーヴァント―――佐々木小次郎というソレは、セイバーとはあまりにかけ離れた存在だ。
本来ならば英霊として扱われぬ剣士の実力なぞ、英霊であるサーヴァントたちの誰が知ろうか。
「―――だが」
事実としてあるものは二つだけ。
目の前の男が敵である事と、自ら名乗りを上げられた事のみ。
「……まいりました。名乗られたからには、こちらも名乗り返すのが騎士の礼です」
答えるセイバーの声は重い。
彼女にとって、真名を語るのはあまりにもリスクが大きい。
どのような責め苦を負おうと真名を語る事などできないし、明かす気もなかった。
―――しかし、それはあくまで勝利する為のもの。
そんなもので騎士の信念を汚す事など、彼女に出来よう筈がない。
「小次郎、と言いましたね。
――――アサシンのサーヴァントよ、私は」
「よい。名乗れば名乗り返さねばならぬ相手であったか。
いや、無粋な真似をしたのは私であった」
かつん、と。
あくまで優雅に石段を下り、アサシンはセイバーと対峙する。
「そのような事で敵を知ろうとは思わぬ。我らにとって、敵を知るにはこの刀だけで十分であろう。
違うか、セイバーのサーヴァントよ」
「な――――――」
「そう驚く事もあるまい? 貴様の持つソレがなんであるかは判らぬが、身に纏った殺気は剣士の物。
……ふん、目が眩むほどの美しい剣気―――その貴様がセイバー以外の何者であろうか」
さらに一歩。
アサシンは石段を下り、長刀の切っ先をセイバーへと突きつける。
「真名など知らずともよい。ただセイバーというサーヴァントが、この刃に破れるだけの話だ。
言葉で語るべき事など皆無。―――もとより、サーヴァントとはそういうモノであろう?」
剣士は楽しげに笑う。
「―――なるほど。それは、確かにその通りです」
応えて、セイバーは深く剣を構え直す。
「それで良い。
―――では果たし合おうぞセイバー。
サーヴァント随一と言われるその剣技、しかと見せてもらわねばな――――」
銀光が跳ねる。
剛と柔。
あまりに異なる剣士の戦いは、月光の下で口火を切った。
◇◇◇
「っ、………………!」
胸が焼けるような痛みで目を覚ました。
……何か、不吉な夢を見た気がする。
冬だっていうのに体は汗ばんでいて、呼吸はぜいぜいと乱れていた。
「……なんだ……胸が、痛い――――」
心臓が加熱されたような感じ。
いや、どちらかというと、外側から強引に熱を送り込まれているのに近い。
「――――外側、から……?」
かすかな疑問。
そのひっかかりが何なのか考えるより先に、体は外へ走り出していた。
「セイバー、いるか……!?」
部屋に駆け込む。
障子を開けて、セイバーが眠っている筈の部屋へ入る。
「――――いない。アイツ、まさか」
いや、まさかも何もあるもんか。
ここにいないって事は、アイツ―――一人で柳洞寺に行ったのか……!
「バカ野郎、なんで……! 体だって治りきってないのに、どうしてわざわざ――――!」
あまりの怒りに頭痛がする。
どうして言う事を聞かないのか。
戦うのがイヤだなんて言っていない。
俺はただ、
あんな風に、あいつを傷つけたくなかっただけだっていうのに……!
「くっ――――!」
腐っていても始まらない。
今からでも柳洞寺に急がないと。
セイバーを一人で戦わせるなんて出来ない。
いや、俺がいったところで何が出来るか判ったもんじゃないが、それでも何か出来る筈なんだから……!
「ああもう、アイツめ―――女の子なんだからもうちょっと大人しくしてろってんだ……!」
走る。
着替えもせずに外に飛び出して、ろくすっぽ使ってなかった自転車を担ぎ出して、全速力でこぎ出した。
ノーブレーキで坂道を駆け下りる。
――――柳洞寺まで、急いでも四十分。
セイバーがいつ出ていったかは判らないが、とにかく一分でも早くセイバーに追いつかないと――――!
◇◇◇
切っ先が交差する。
幾度にも振るわれる剣線、
幾重もの太刀筋。
弾け、火花を散らしあう剣と刀。 ―――数十合を越える立ち会いは、しかし、一向に両者の立場を変動させない。
上段に位置したアサシンは一歩も引く事なく、
石段を駆け上がろうとするセイバーは一歩も詰め寄る事が出来ず、徒に時間と気力を削っていた。
「は――――!」
数十回目となるセイバーの踏み込み。
五尺余もの長刀を苦もなく振るい、セイバーの進撃を防ぎきるアサシン。
いや、それは防ぎきる、などという生易しいものではない。
セイバーの剣戟が稲妻ならば、アサシンの長刀は疾風だった。
速さ、重さではセイバーに及ばないものの、しなやかな軌跡はセイバーの一撃を悉《ことごと》く受け流す。
そうして返される刃は速度を増し、突風となってセイバーの首に翻る。
―――その一撃を紙一重で躱して踏み込むセイバーへ、躱した筈の長刀が間髪入れずに返ってくるのだ。
直線的なセイバーの剣筋に対し、アサシンの剣筋は曲線を描く。
アサシンの切っ先は優雅ではあるが、弧を描く為に最短距離ではない。
ならば直線であるセイバーの剣筋に間に合う筈がないというのに、その差を無《ゼロ》にするだけの何かがアサシンにはあった。
「くっ――――!」
踏み込む足が止まる。
切り返す長刀に剣が間に合わない。
避ける為には引くしかない、と咄嗟に後退する。
見惚れるほど美しいアサシンの剣筋は、同時に、見届ける事が困難なほどの速度だった。
その矛盾はアサシンの技量によるものなのか、頭上の敵に挑む己の不利な状況ゆえなのか。
確たる分析もつかないまま、追撃してくるアサシンの長刀を避け、首を突きに来る切っ先を剣で弾く。
「っ――――」
気が付けば、さらに数段後退している。
あれほどの長刀だ。
一度捌いてしまえば懐に入るのは容易いというのに、どうしてもそれができない。
卓越した敵の技量と、絶対的に不利な足場。
ここが平地であったのなら、あの長刀にこれほど苦戦する事もないであろう、とセイバーは唇を噛む。
「―――さすがにやりにくいな。視えない剣というものがこれほど厄介とは思わなんだ」
アサシンは不動である。
彼にとって、これは守りの戦いにすぎない。
後退するセイバーを無理に追撃する必要もなし、上に位置するという有利を捨てる筈がない。
「……ふむ。見れば刀を見る事さえ初めてであろう?
私の剣筋は邪道でな、並の者ならばまず一撃で首を落とす。それをここまで防ぐとは、嬉しいぞセイバー」
「加えて、打ち込みも素晴らしい。その小躯でこれほどの剣戟を行うからには、さぞ鍛え抜かれた全身であろう」
追撃する必要がない為か、アサシンは余裕げにセイバーを観察する。
力を失い、ゆらぐ切っ先。
それを隙と見て踏み込む事など出来ない。
あの男には構えなどないのだ。
いかなる体勢からでも刀を振るえないようでは、あれほどの長刀は扱えまい。
「どうした? これで終わりという訳ではあるまい。その不可視の剣、見かけ倒しではなかろうに」
「ふん、いつまでも減らず口を――――!」
激突する剣と刀。
「―――いよし、当たりだ……!」
ぎぃん、と何もない空中で止まる長刀。
アサシンは視えない剣を止めた刀をにやりと見つめ、そのまま剣を受け流し――――
セイバーは、首を払いに来る一閃を受けきった。「っ……!」
セイバーとて判っている。
今まで見慣れないアサシンの剣戟を防げたのは、偏にこの剣のおかげなのだと。
不可視の剣は攻め込むにも受けに回るにも、相手の感覚を狂わせる。
故にアサシンは深く追撃をしない。
セイバーの武器の長さが判らない以上、アサシンから攻め込むのは危険すぎる。
アサシンがセイバーを仕留めにかかる時があるとすれば、それは――――
「ハッ…………!」
アサシンの額をうち砕きにかかるセイバー。
その一撃を、
アサシンはわずかに後退しただけで、完全に躱しきった。
「……よし、これで目測はついたな。刀身三尺余、幅は四寸といったところか。形状は……ふむ、セイバーの名の通り、典型的な西洋の剣だな」
涼しげに語るものの、それがどれほど卓絶した目利きなのか言うまでもない。
セイバーの一撃は、たとえ剣が見えていようと捉える事が困難な速さなのだ。
にも関わらず、視えない剣を防ぎきり、かつ全容すら把握するとは―――
「……信じられない。何の魔術も使わず、満足に打ち合ってもいないというのに私の剣を計ったのですか、貴方は」
「ほう、驚いたか? だがこんなものは大道芸であろうよ。邪剣使い故、このような技ばかり上手くなる」
「―――なるほど。私の一撃をまともに受けず、ただ払うだけが貴方の戦いだった。邪剣使いとは、その逃げ腰からきた俗称ですか」
「ハ―――いやいや、まともに打ち合わぬ無礼は許せ。
なにしろこの長刀だ、打ち合えば折れるは必定。おぬしとしては力勝負こそが基本なのだろうが、こちらはそうはいかぬ。その剣と組み合い、力を競い合う事はできん」
「―――――――」
「もとより、刀というものはそういうものだ。
西洋の剣は、その重さと力で物を叩き切る。
だが、我らの刀は速さと技で物を断ち斬るのだ。
戦いが噛み合わぬのは道理であろう?」
「まあしかし……これでは些か興がそがれる。
もうよい頃合だぞセイバー? いい加減、手の内を隠すのは止めにしろ」
「っ――――アサシン。私が貴方に手加減しているとでも」
「していないとでも言うのか? 何のつもりかは知らんが、剣を鞘に納めたまま戦とは舐められたものだ。私程度では、本気を出すまでもないという事か?」
「―――――――」
「ほう。それでも応じないという顔だな。
―――よかろう、ならばここまでだ。おまえが出し惜しみをするのなら、先に我が秘剣をお見せしよう」
そう告げて。
長刀の剣士はゆらりと、セイバーの真横へと下りていった。
「な――――」
アサシンにとって、頭上の有利を放棄するという事は負けに等しい。
アサシンは確かに優れた剣士ではあるが、それはこの地形条件であったからこそ。
同じ足場で戦うのなら、セイバーは一撃でアサシンの長刀を弾き、そのまま首を刎ねる事さえ可能なのである。
それはアサシンとて承知の筈。
だというのに、何故――――
「構えよ。でなければ死ぬぞ、セイバー」
さらりとしたその声に、セイバーの直感が反応した。
――――それは事実だ。
アサシンが下りて来た事は、自分にとって有利な事などではない。
幾多の戦いを駆け抜けてきた直感が、自らの過ちを警告する。
「く――――!」
咄嗟に視えざる剣を構える。
躊躇している暇などない。
アサシンがその長刀を振るう前に、己が剣を打ち込めばいいだけの話――――!
「ふ――――」
両者の間合いは三メートル弱。
一瞬で詰めようと踏み込むセイバーを前にして、アサシンは身構える。
それは。
この戦いが始まって以来、見せた事もない剣士の構え。
「秘剣―――――――」
セイバーが踏み込む。
もはや長刀は意味をなさない。
懐に入られた以上、その長さが仇になる。
だが。
「――――――燕返し」
そんな常道など、この剣士の前にありはしなかった。 稲妻が落ちる。
セイバーの剣戟を上回る速度で、一直線に打ち落とされる魔の一撃―――!
「っ――――!」
だがその程度の一撃、防げないセイバーではない。
振り上げた剣を咄嗟に防御に回し、アサシン渾身の一撃を弾き返す……!
「もらった……!」
いかにアサシンと言えど、今の一撃を弾かれては立て直しに隙が生じる。
その秒にも満たぬ合間に、アサシンの腹を薙ぎ払おうとした瞬間。
「――――――――あ」
咄嗟に、直感だけに任せて、セイバーは石段を転がり落ちた。
逃げるように転がり落ちる。
受け身も何もない。
セイバーはただ必死に体を倒し、勢いを殺さず階段を転がり落ちた。
「く――――!」
落下を止め、体を起こすセイバー。
その視線の先には、悠然と佇む長刀の剣士だけがある。
「ほう。躱したか我が秘剣。さすがはセイバー、燕などとは格が違う」
「―――信じられない。今のは、まさか」
「なに、そう大した芸ではない。偶《たま》さか燕を斬ろうと思いつき、身に付いただけのものだからな」
長刀が僅かに上げられる。
先の一撃―――セイバーを戦慄させた魔剣の動きをなぞるように。
「見えるかセイバー。
燕はな、風を受けて刀を避ける。早かろうが遅かろうが関係はない。どのような刀であろうと、大気を震わさずには振れぬであろう? 連中はその震えを感じ取り、飛ぶ方向を変えるのだ。
故に、どのような一撃であれ燕を断つ事はできなかった。所詮刀など一本線にすぎぬ。縦横に空を行く燕を捕らえられぬは道理よな」
「ならば逃げ道を囲めばいいだけのこと。
一の太刀で燕を襲い、風を読んで避ける燕の逃げ道を続く二の太刀で取り囲む。
しかし連中は素早くてな。この長刀ではまず二の太刀が間に合わん。事を成したければ一息の内、ほぼ同時に行わなければならなかったが、そのような真似は人の業ではない。
叶う事などあるまいと承知したものだが――――」
「――――生憎と、他にやる事もなかったのでな。
一念鬼神に通じると言うが、気が付けばこの通りよ。
燕を断つという下らぬ思いつきは、複数の太刀筋で牢獄を作り上げる秘剣となった」
淡々とした語りに、セイバーは内心首を振る。
違う。
今の剣はそんな簡単なモノではない。
ほぼ同時? まさか。
二つの刃はまったくの同時だった。
アサシン―――佐々木小次郎の長刀は、あの瞬間のみ、確かに二本存在したのだ。
「……多重次元屈折現象《キシュア・ゼルレッチ》……なんの魔術も使わず、ただ剣技だけで、宝具の域に達したサーヴァント――――」
驚嘆すべきはまさにそれだ。
今の一撃ではっきりと判った。
佐々木小次郎には、英霊が持つ“宝具”などない。
有るのはただ、神域に達した力量による魔剣のみ。
あろうことか―――この男は人の身でありながら、宝具で武装した英霊と互角なのだ―――!
「だが足場が悪かったな。燕返しの軌跡は本来三つ。もうわずかに広ければ、横の一撃も加えられたのだが」
「……そうでしょうね。そうでなければ片手落ちです。
全てが同時であるのなら、円の軌跡《二の太刀》はどうしても遅くなる。それを補うために、横方向への離脱を阻む払《三の太刀》いがある筈だ」
「いい飲み込みの早さだ。だからこそ我が秘剣を躱したか。
―――く、素晴らしいぞセイバー……!
このような俗世に呼び出された我が身を呪ったが、それも今宵まで。生前では叶わなかった立ち会い、己が秘剣を存分に振舞える殺し合いが出来るのならば、呼び出された甲斐があるというもの――――」
長刀を構え直し、石段を下るアサシン。
狙うはセイバーの首か。
今一度あの秘剣を躱す自信など、セイバーにはない。
ランサーのゲイボルク同様、アサシンの燕返しは出させてはいけないモノだ。
いや、必ず心臓を狙いにくる、という正体さえ知っていれば対応できるゲイボルクと違い、知っていてなお回避できないアサシンの秘剣は対応策がほとんどない。
あるとすれば、出させない事それ一点。
打ち勝つには、アサシンがあの秘剣を繰り出す前に最強の一撃を見舞うのみか――――
「……なるほど。確かに、手加減など許される相手ではなかったようだ」
両手を下段に。
視えない剣を地に突きつけるように下げ、セイバーは歩み寄るアサシンを睨む。
「ほう……? そうか、ようやくその気になったかセイバー」
階段を下りる体を止め、今一度必殺の構えをとるアサシン。
それを凛と見据え、
「――――不満がないのはこちらも同じだ。
我が一撃、受けきれるかアサシンのサーヴァント……!」
セイバーは自らの枷を解いた。
大気が震える。
剣は彼女の意思に呼応するかのように、大量の風を吐き出した。
「ぬ――――!」
わずかに後退するアサシン。
それも当然、セイバーから放たれる風圧は尋常ではない。
アサシンばかりか、太く堅固な山門の木々さえも震え、軋んでいる。
それは、爆発に近い風の流れだった。
密閉されていた大気が解放され、四方に吹き荒ぶ。
人間の一人や二人などたやすく吹き飛ばす烈風は、セイバーの剣から放出されている。
それが彼女の剣の力。
風王結界とは、その名の通り風を封じた剣である。
圧縮された風を纏う剣は、光の屈折角度を変貌させ剣を透明に見せていた。
その風を解放すればこのような現象が起こる。
解き放たれた空気は逃げ場を求め、無秩序に周囲に発散する。
―――その合間。
吹き荒ぶ風を自在に操る事が、彼女の剣にかけられた戒めの魔術である。
膨大な魔力を持つセイバーならば、おそらくは数分は結界を維持し得るだろう。
その証拠に、これだけの風を解放していながら、未だ彼女の剣は透明のままだった。
「……ふん。さながら台風と言ったところだが、しかし――――」
吹き荒ぶ風の勢いは収まらない。
セイバーの剣から放たれる風は、今まさにアサシンを飲み込もうと鎌首をもたげていた。
「―――この程度の筈がない。その奥にある物、見せてもらうぞセイバー……!」
目を潰す烈風の中、アサシンは間合いを詰める。
「――――――――」
セイバーの腕が動く。
前進を許さぬ強風の中、悠然と歩を進めるアサシンを迎撃しようと、風を巻いた剣が唸りをあげ――――
◇◇◇
「なんだアレ――――!?」
柳洞寺に着いた俺を迎えたのは、台風じみた風の音だった。
「セイバー―――だよな、あそこにいるの」
階段の上、山門の前にはセイバーらしき鎧姿と、着物姿の何者かが対峙していた。
風はセイバーを中心に渦巻いているのか、山の木々はセイバーに押されるように、ぎしぎしと軋んでいる。
「ちょっ……くそ、近づけるのかよこれ……!」
あまりの突風に目を開けていられない。
俯いたままなんとか階段まで近寄ったものの、風は更に強くなっていく。
「だめだ、これじゃ――――」
セイバーに近づけない。
遙か上空、セイバーと何者かが戦っているのが見えてるっていうのに、何もできない。
いや、そもそもこんな風の中でセイバーの近くまで行っても、足手まといになるだけ―――
「っ…………!」
また左手が痛んだ。
手の甲に刻まれた令呪が疼いている。
……それがなんなのかは判らない。
ただ、この手が疼く度に、
あの光景を思い返しちまうんだから、しょうがないじゃないか――――!
「……くそ、こうなったらヤケだ……!」
目を瞑って階段に手を伸ばす。
風に飛ばされないよう身を伏せて、石段に足をかけた。
「っ…………!」
風は強くなる一方だ。
上では何が起きているのか、魔術師として未熟な自分が感じ取れるほど、とんでもなく強大な魔力が溢れ出そうとしている。
令呪が疼く。
風の唸り、頭上で起きようとしている“何か”に警戒を発するように。
「……待て。もしかして、これ……」
セイバーの魔力なのか。
だが、だとしたら――――
「あいつ、あんな体で何を無茶な――――!」
いや、それ以前にそんな事をしていいのか。
セイバーは魔力の回復ができない。
なら、おいそれと考えなしに魔力を使ってはいけない筈だ。
戦うのは俺に任せて、セイバーは手を貸してくれるぐらいに留めないと、いつか魔力が切れて――――
「――――っ」
立ち上がって、階段を駆け上がる。
這って進んでる場合じゃない。
セイバーが何をするつもりかは知らないが、とにかく止めないと――――!
「――――!?」
それを避けられたのは偶然か。
山門へと駆け上ろうとした俺の目の前を、何か、短刀のような物が通り過ぎていった。
「――――誰だ!?」
階段の外、木々が茂る山中へ視線を向ける。
……間違いない。
この強風で気が付かなかったが、誰かもう一人、この近くに潜んでいる……!
「ふざけやがって―――こそこそと隠れてないで出てこい……!」
声をあげる。
強風にかき消されて聞こえない筈のそれは、
言った俺自身が驚くぐらい、大きく階段に響いていた。
「――――風が……止んだ?」
山門を見上げる。
そこには 長刀を持った着物姿の男と、セイバーの後ろ姿があった。
「そこまでにしておけセイバー。その秘剣、盗み見ようとする輩がいる」
薄笑みをうかべながら着物の男は言った。
その視線は俺と同じ、木々の茂った山中に向けられている。
「このまま続ければ我らだけの勝負にはなるまい。
生き残った者に、そこに潜んだ恥知らずが襲いかかるか、それともおまえの秘剣を盗み見るだけが目的なのか。
……どちらにせよ、あまり気乗りのする話ではないな」
男はつまらなげに言って階段を上り始める。
「――――待て……! 決着をつけないつもりか、アサシン……!」
「おまえがこの山門を越える、というのであらば決着はつけよう。何者であれ、この門をくぐる事は私が許さん。
だが―――生憎と私の役目はそれだけでな。
帰る、というのであらば止める気はない。まあ、そこに隠れている戯けは別だが。気に入らぬ相手であれば死んでも通さんし、生きても帰さん」
アサシン、と呼ばれた男はかつかつと石段を上がっていく。
「踊らされたなセイバー。だがもう一人の気配に気が付かなかった私も同じだ。あのままでおけば秘剣の全てを味わえたであろうが……よい所で邪魔が入った。そなたにとっては僥倖であったか」
「っ――――――――」
セイバーは無念そうに俯いている。
……薄れていく殺気。
アサシンの言葉ではないが、セイバー自身、ここで戦う事の不利を感じているのだろう。
「そら、迎えも来ている。そこにいる小僧はおまえのマスターであろう。盗み見をする戯けが小僧に標的を変える前に立ち去るがいい」
そうしてアサシンの姿は消えた。
霊体になったのか、ともかく進まなければ手は出さないという意思表示か。
「――――――――」
セイバーは何も言わない。
ただこちらに背中を見せて、ぼう、と立ち尽くしているだけだ。
「……おい、セイバー……?」
声をかけても返答はない。
「……?」
流石におかしい、と階段を上がった時。
「な……」
唐突に、セイバーを守っていた鎧が消えた。
無防備な、青い衣だけになった彼女はこちらに振り返る事なく、ゆらり、と体を揺らす。
「――――!」
背中から階段に倒れ込むセイバーを抱き止める。
セイバーはぴくりとも動かず、苦しげに目蓋を閉じて、意識を失っていた。
「……はあ……はあ……はあ……はあ……」
………………やっと帰ってきた。
柳洞寺からセイバーを抱えてここまで二時間。
色々と不安はあったが、ともかく無事に帰って来れた。
「……はあ……はあ……あ」
よいしょ、とセイバーを廊下に降ろす。
セイバーは本当に軽かった。四十キロぐらいしかなかったから、本来ならここまで疲れる事はなかったのだ。
が、それは動かない荷物の場合である。
眠っている人間―――それも女の子―――を抱いて歩く、というのがこんなに重労働だとは知らなかった。
とくに肉体面ではなく、精神面での疲労が大きい。
抱きかかえた時の肌の柔らかさとか、とんでもない近さですぅすぅと寝息を立てられる事とか、気が散って仕方がなかったからだ。
「……まったく……なんだって気を失うんだよ、いきなり」
眠っているセイバーを見つめる。
……完全に気絶している訳ではないのだろう。
死んだように眠っていても、名前を呼べば今すぐにパチリと目を開けそうだし。
「……………………」
…………くそ。
家を飛び出した時は言いたい事が山ほどあったのに、こんな寝顔をされたら何も言えなくなっちまうじゃないか。
「……いいさ。目を覚ましたらとっちめてやるからな、セイバー」
ぼそりと呟く。
で、もう一度セイバーを抱えようと腕を伸ばした瞬間。
「……ま、いいけど。士郎がどんな趣味してて、何をしてるかなんてわたしには関係ないから」
なぜか。
午前二時を過ぎているというのに、廊下には遠坂の姿があった。
「と、とととととと遠坂…………!?」
「なによ、お化けでも見たような顔しちゃって。別に文句はないから続けていいわよ。わたしは水飲みに起きただけだし」
「え―――あ、いや違う! これは違う、すごく違う!
その、話せば長くなるんだが、つまりセイバーを部屋に連れて行こうとしただけなんだが俺の言っているコト判ってくれるか……!?」
「ええ。まあ、それなりに」
「う、嘘つけ! ぜんぜん判ってない口振りだぞ、今の!」
「だから判ってるってば。セイバーが一人で戦いに行って、士郎はそれを止めてきたんでしょ?
で、何らかのトラブルがあってセイバーが気絶して戻ってきた。どう、これでいい?」
「あ……う、うん。すごい、全問正解だ。けどなんだってそこまで判るんだよ、おまえ」
「判るわよ。セイバーが単独で戦いを仕掛ける可能性は高かったし、サーヴァントが戦いを始めればマスターにだって伝わるわ。だからこういう展開も十分予測範囲なわけ」
「――――そうか。それは、いいけど」
……その、遠坂にはセイバーが勝手に戦いに行くコトはお見通しだったってコトか。
「で、どうするの? セイバーを部屋に連れて行くんじゃないの? ここに寝かしてたら幾らサーヴァントでも風邪ひくと思うけど」
「いや、だから部屋に連れて行こうって今――――」
抱きあげようとしていたんだけど。
……その。
そうじろじろ見られていると、やりづらい。
「……遠坂。悪いけど、セイバーを運んでくれないか」
「わたしが? まあいいけど。じゃあお茶でも煎れてくれる? 少し二人の話に興味があるから」
よいしょ、と遠坂はセイバーを抱きあげる。
……なんだかやけに物わかりがいいのが気になるが、頼んでしまった以上、こっちもお茶を煎れなくてはなるまい。
遠坂はセイバーを連れて俺の部屋へ向かった。
こっちはというと、台所でお茶の準備をしていたりする。
「―――お茶って日本茶じゃないよな。……紅茶っていってもティーバッグの紅茶しかないぞ、うち」
ま、ないものは仕方がなかろう。
文句を言いたければ幾らでも言うがいい、と開き直ってティーバッグの紅茶を煎れる。
「士郎、ちょっといい?」
おっ、遠坂が戻ってきた。
「ああ、ちょっと待ってくれ。すぐに行く」
二人分のティーカップを盆に乗せて、居間へ移動する。
――――と。
遠坂の隣りには、洋服に着替えたセイバーの姿があった。
「セ、セイバー……!? どうして、眠ってたんじゃなかったのか……!?」
「眠ってたわよ? けどそういつまでも続く眠りじゃなし、ついさっき目が覚めたの。
どうも一気に膨大な魔力を使おうとして、体の方から一方的に機能を停止させられたみたいね。ほら、電気のブレーカーと同じよ。そのままじゃショートするから強制的に電源を切るってヤツ」
「…………………………」
遠坂の説明を余所に、セイバーは黙っている。
「お、おまえ――――」
そのいつも通りの姿を見て、途端、山ほどあった文句が蘇ってきた。
「セイバー、おまえな……! 自分が何をしたのか判ってるのか!?」
「―――判らない訳はないでしょう。
私は柳洞寺に赴き、アサシンのサーヴァントと戦いました。そのおり、私たちの戦いを監視していた第三のサーヴァントに気が付き、戦いを中断しましたが」
「っ……! 違う、そんなコトを言ってるんじゃない!
俺が言いたいのは、どうして戦ったのかってコトだ!」
「またそれですか。サーヴァントが戦うのは当然の事です。シロウこそ―――マスターである貴方が、何故私に戦うなと言うのです」
「いや、それ、は――――」
つい言い淀んでしまう。
……そりゃあマスターとして戦うと決めた以上、戦闘は避けられない。
セイバーに戦うな、という俺が矛盾しているのは判っている。
だが、そうだとしても あんな光景だけは、繰り返す事はできない。
「私の方こそ訊きたい。シロウは戦いを嫌っているようですが、そんな事で聖杯戦争に生き残る気があるのかと。
貴方の方針に従っていては、他のマスターに倒されるだけではないのですか」
―――まさか。
降りかかる火の粉なら躊躇わずに振り払うし、みすみす殺されてやるつもりもない。
ただ、それとは別次元の話で、セイバーに戦わせるのはダメなんだ。
「違う。
戦うのを嫌ってるんじゃない、俺は、その――――」
それはきっと、もっと単純な話。
ようするに、俺は。
「―――その、女の子が傷つくのはダメだ。そんなの男として見過ごせない。だから、おまえに戦わせるぐらいなら、俺が自分で戦う」
「な―――私が女だから戦わせない、だと……!?」
「正気ですか貴方は!? サーヴァントはマスターを守る者です。私たちが傷つくのは当然であり、私たちはその為に呼び出されたモノにすぎない……!
サーヴァントに性別なぞ関係ないし、そもそも武人である私を女扱いするつもりですか!
今の言葉は訂正してください、シロウ……!」
キッ、と目尻をあげて俺に詰め寄ってくるセイバー。
が、そんな剣幕に押される事なんかない。
なにが―――この身は女である前に騎士だ、だ。
あんなか細い、俺でも抱きかかえられる体のクセに無茶なコト言いやがって……!
「誰が訂正なんてするか! そりゃあセイバーは強いかもしれないけど、それでも女の子だろ! つまんないコトにこだわるなバカ!」
「っ……! つまらない事に拘っているのは貴方ではないですか……! まさか、女性に守護されるのがイヤだとでも言うつもりですか!? この身は既に英霊、そのような些末事など忘れなさい!」
「些末なもんかっ! ああもう、とにかくセイバーが良くても俺は嫌だ! だいたい、自分の代わりに戦ってもらうなんて間違いだったんだ。俺はそんな――――」
無力な自分を守って。
その代わりに傷ついてしまう誰かなんて許せない。
救うのは俺の役目だ。
親父のように誰かの為になれる人間になろうって、今までやってきたんだから―――
「……くそ。いいな、とにかくセイバーは戦うな。
喧嘩は男の役割なんだから、戦いは俺がする。それなら文句はないだろ、セイバーの望み通り戦うって言ってるんだから」
「な――無茶を言う人ですね貴方は……! 人間がサーヴァントと戦えると思っているのですか!? シロウでは戦いにすらならないと実感しているでしょう!
ランサーに襲われた時を思い出してください。
あの時、私が現れなければシロウは確実に殺されていた。それはどのようなサーヴァントが相手でも同じです!」
「そ、そんなのやってみなくちゃ判らない! あの時は何の準備もなかっただけだ。けど今なら対策なんていくらでも立てられるんだから、やりようによっては寝首をかく事ぐらいできる!」
「笑止な。シロウの立てた守りなど紙も同然です」
「うわ、いま凄いコト言ったなセイバー!」
「貴方こそサーヴァントを侮っている。人の身で英霊を打倒しようなどと、何を思い上がっているのですか」
「っ〜〜〜〜〜〜!」
むー、と睨み合う俺とセイバー。
ダメだ。どう見ても話は平行線で、一向に交わる気配さえない。
「違うわセイバー。士郎はサーヴァントを侮ってる訳じゃない。そのあたりを誤解しちゃうと話が進まないから、口を挟ませてもらうけど」
「凛……? それはどういう事ですか……?」
「うん。ようするにね、そいつ、純粋に貴女が傷を負うのを嫌がってるのよ。どうしてか知らないけど、士郎は自己献身の塊だもの。
ね? 自分のコトよりセイバーの方が大切なんでしょ、アンタは」
ちらり、とこっちに視線を送る遠坂。
「っ――――そ、そんなコトないぞ……! 俺は別にセイバーが大切なんて言ってないっ」
「うそうそ。そうでもなければ自分で戦う、なんて言えないわ。
だって貴方、自分じゃサーヴァントに勝てないって判ってるんでしょ。それでも戦うって言うのは、自分よりセイバーのが大事ってコトじゃない」
「え――――――――?」
あ……う?
いや、確かに、そう言われてみれば、そういう事になるんだけど――――
「だから無茶でも戦う。勝てないって判っていながら勝とうとする。その結果が自分の死でも構わない。
何故ならアンタの中では、どうしてか知らないけど、自分より他人の方が大切だからよ」
「――――」
――――いや。
決して、そんなつもりはない、けど。
「そういうことよ。判るでしょセイバー。あのバーサーカー相手に貴方を庇うような罵迦なのよ、そいつ。だから本気で、自分が戦うって言ってるの」
遠坂の言葉がどれだけ通じたのか。
セイバーは深く息を吸って、つい、とこっちへ向き直った。
「―――シロウ」
「な、なんだよセイバー」
「貴方が戦う事は認めます。ですが、それならば私にも考えがある」
「――――だ、だから何さ」
「剣の鍛錬です。シロウの時間が許す限り、私は貴方に剣を教える。それを認めるのなら、私もシロウの意見を認めますが」
「な――――」
それはつまり、セイバーが俺に剣の稽古をつけるって事か……?
その、今後は俺が戦うっていう事を認めたから……?
「待った。それは心の贅肉よセイバー。
士郎に剣を教える? やめてよ、そんな気休めでサーヴァントに太刀打ちできる訳ないじゃない」
「それは当然です。ですが知らないよりはましでしょう。
少なくとも戦闘時の迷いは薄れます。
あとはシロウ本人の決意に賭けるだけですが、実戦とは得てしてそういう物ではないですか。向かない者には、何を教えても身に付く事などありません」
「……ふーん……ま、言われてみればそっか。
殴り合う覚悟ってのは、一度殴り合ってみないと一生つかないものね」
「はい。ですから一度、いえ一度と言わず時間の許す限り、シロウには“戦闘の結果としての死”を体験させ、戦いに馴れてもらわなければ」
などと、なにやら物騒な物言いをするお二人さん。
「ちょっと待て。俺はいいなんて一言も――――」
「じゃあわたしは魔術講座にしとく。
セイバーが体を鍛えるんなら、わたしは知識を育てるわね。……ま、初めからそういう約束だったし、明日から本格的に鍛え直してやりますか」
「お願いします。凛がそうしてくれるのなら、私も剣のみに集中できる」
「いいっていいって。じゃ、話も決まった事だし解散しましょ。明日は色々と忙しそうだから」
ばいばい、と手を振って別棟へ消えていく遠坂。
「私も休みます。シロウも休憩をとってください。明日は道場で汗を流してもらいますから」
では、と軽くお辞儀をして部屋に戻っていくセイバー。
「――――――――」
居間には一度も口をつけられなかった紅茶と、ぼんやりと立ちつくす自分の姿だけがある。
「―――いや、だから俺は一言もさ」
呟いた言葉は当然却下。
―――さて。
ただでさえ混線していた状況が、さらにおかしな雲行きになってきた。
明日からの生活がどうなるか考えるも、そんなの考えつく筈もなし。
「……寝よう。とにかく、体力だけは温存しなくちゃ」
何事も体が資本。
……その、なんだ。
俺に出来る事といったら、どんな責め苦だろうと体さえしっかりしていれば乗り切れるといいな、なんて、儚い望みに縋《すが》るしかないワケだった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
―――出来れば、誰も悲しまない方がいい。
自分程度の力添えで周りが幸せなら、それはこの上なく住みやすい世界だと思うのだ。
それが切嗣の口癖だった。
俺にとって正義の味方だった男は、そいつ自身の中では、なり損ねた落第者なのだと語っていた。
説明されるまでもない。
幼かった自分の世界と大人だった切嗣の世界は違いすぎて、正義の味方っていうヤツの合格点が違っていたのだ。
子供だった自分にとって、この家だけが世界だった。
だから切嗣《オヤジ》と藤ねえと自分と、お気に入りの土蔵をずっと守っていければ十分だった。
俺は目に見えるモノだけを守ろうとした。
だが、切嗣は目に見えない部分までなんとかしたかったのかもしれない。
―――若い頃は向こう見ずでね。
世の非情を呪う事で、自らを育んでいた。
世界が非情ならば―――それ以上に非情になる事を武器にして、自分の理想を貫こうとしたんだよ。
救われぬモノは必ずある。
全てを救うことなどできない。
千を得ようとして五百をこぼすのなら。
百を見捨てて、九百を生かしきろう。
それが最も優れた手段。
つまり理想だと、切嗣は一度だけぼやいた事がある。
もちろん怒った。
ものすごく頭にきた。
だって、そんなコト言われなくても判っていた。
他の誰でもない、自分自身がそうやって助けられたヤツなんだ。
そんな当たり前の事なんて言われるまでもない。
けど、それでも―――それを踏まえた上でみんなを助けるのが正義の味方なんだって信じていた。
理想論でも、叶わない絵空事でも、それを叶えようとするのが正義の味方なんだから。
―――そうだね士郎。
結果は一番大事だ。けどそれとは別に、そうであろうとする心が――――
―――心が、なんて言ったんだっけ、切嗣のヤツは。
………よく思い出せない。
そもそもこんな昔のコトを思い出すなんて珍しいんだ。
よっぽど深い眠りにいるんだろう。
そうでもなけりゃ、ユメを見るなんて事自体が珍しいんだから。
――――シロウ、起きてください。そろそろ朝食ではないですか?
ほら。
その証拠に、セイバーに起こされるなんて、情けないコトになってるじゃないか―――
「――――なに?」
がばり、と布団から体を起こす。
時刻は六時半。外からは清々しい日の光。
「シロウ、朝です。朝食の支度はいいのですか?」
で、目の前にはわずかに不機嫌そうなセイバーの顔があった。
「―――寝過ごした。すまん、すぐに起きる」
「……私に謝る必要はないと思いますが、ゆっくりしている余裕がないのは事実です。先ほど桜と凛が揉めていた様ですから」
「桜と遠坂が揉めていたぁ……?」
なんだそれ。
ちょっと待て、起き抜けから訳の分からない状況に追い込まないでくれ。
「それって遠坂の部屋でか?」
「いえ、居間です。私も通りかかっただけですから詳しくは知りませんが」
「分かった。とにかく急ぐ」
――――と。
その前に忘れ物。
「? なんでしょうか、シロウ」
「おはようセイバー。起こしてくれて助かった」
朝の挨拶をして、今度こそ廊下に出る。
……しっかし、桜と揉めてるなんて何やらかしたんだ遠坂のヤツは―――!
「遠坂!」
居間に駆け込む。
……と。
居間には桜の姿はなく、遠坂一人がのんびりと天気予報を眺めていた。
「おはよ。朝っぱらから人の名前を叫ぶなんて穏やかじゃないわね」
何かあった? なんて素振りで振り向く。
「……?」
おかしいな。とてもじゃないけど、桜と揉めていたような素振りじゃないぞ……?
「ああ、おはよう。……って、遠坂。なんでも桜と揉めてたって聞いたんだが、ホントか?」
「え? ……そっか、セイバーから聞いたのか。
ええ、客観的に見ればそういうコトになるけど、別に大したコトじゃないわよ? 単に、しばらくここには来るなって言いつけただけだから」
「――――!」
そ、それがさらりと言うコトかぁ!?
ようするに桜を出入り禁止にしたった事だろ、それ!
「バカな。その話、桜は前にも断ってるじゃないか。それを繰り返したところで桜が承諾する筈が――――」
「ないけど、交換条件を出したら帰ってくれたわよ?  桜が一週間ここに来なければ、わたしは大人しく家に戻るって言ったの。それで交渉成立。渋々だけど帰っていったわ。ああそうそう、士郎によろしくだって」
「よろしくって、おまえ――――」
そんな勝手な事を、人に黙って――――
「――――――――」
……いや、それは違うか。
遠坂は、俺がやらなくちゃいけない事をやってくれただけだ。
「―――そうだった。悪い、朝から面倒を押しつけちまった。気分悪くしただろう、遠坂」
「? いえ、別に面倒でも嫌でもなかったけど。なんだってそんなコト言うわけ、士郎?」
「いや。遠坂、桜と仲が良かっただろう。なのに面と向かって出ていけなんて、二回も言うのは嫌だった筈だ。
だから悪かったって。しっかりしなくちゃいけないのに、また遠坂に負担をかけた」
「――――い、いいけど、そんなの。わたしだって自分の安全第一で桜を追い出したんだし。士郎にそう謝られる筋合いなんてないわ」
「……? 自分の安全第一って、なんでさ」
「だって慎二がマスターだったんでしょう?
アイツの事だから、士郎んところに桜がいるって判ったら目の仇にするに決まってるもの。だから慎二との決着がつくまでは、桜はここに居させないほうがいいのよ」
「あ――――」
……そうか。
言われてみればその通りだ。
慎二は、桜には何も話さないと言った。あの言葉に嘘はないと思う。
だが、妹である桜が俺たちのところに居るという事は、何かとよくない想像を抱かせてしまうだろう。
「……だよな。慎二から見れば、桜を人質にとったように見えるもんな」
「そういう事。もっともそんな事は別にして、ここが危険な事に変わりはないでしょ。
あんまり頻繁に夜出歩かせるのも何だし、しばらくは遠慮してもらった方がいいのよ。それが桜のタメだし、わたしたちのタメでもある」
「……ああ、そうだな。桜には悪いけど、後で謝って許してもらおう」
もっとも、その時が来たとしても事情を話せないのは変わりがない。
「――――――――はあ」
本当にまいる。
今までずっと手伝いにきてくれていた桜を、一時的にせよ、こういう形で断ってしまうというのは気が重い。
「あら、随分と元気がないこと。さっき人を怒鳴りつけてくれた威勢は何処にいったのかしらね。衛宮くんはそんなに桜がいないと寂しいのかなぁ?」
ふふん、と意地の悪い顔をする遠坂。
……しまった。コイツの前で弱みを見せるとつっつかれるって判ってきてたのに、ついやっちまった。
「……ふん、ほっといてくれ。なんにせよ、桜はここんちでの平和のシンボルだったんだよ。藤ねえと俺だけじゃ足りない所を補ってくれてたんだ。それをこっちの都合で追い返したんだから、気だって沈む」
「なんだ、よく判ってるじゃない。それだけ言えれば合格よ。少しは勝ち気ってのが出てきたみたいね」
「? な、何が言いたいんだよ、遠坂は」
「判らない? つまりね、戦いが終われば桜は戻って来るでしょう?
士郎は聖杯なんて要らないっていうけど、それなら今まであってくれた平穏の為に戦えばいい。ほら、目的がハッキリしていいじゃない」
極上の笑顔で遠坂は言う。
「――――――――」
そんな風に言われたら納得するしかない。
……くそ、なんていうか。
コイツは本当に、底なしに意地が悪くて、とんでもなく凄いヤツだと再確認してしまった。
「えー、じゃあしばらく桜ちゃんは来ないの?」
「ああ。そういう事だから、藤ねえもたまには家で親孝行したらどうだ? 爺さん、娘にかまってもらえないって嘆いてたぞ」
「お父さんなんかほっといてもいいのっ。わたしがいなくたって死にゃしないんだから。
それにね、桜ちゃんがいないんなら余計わたしがしっかりしなくちゃダメじゃないっ。士郎だって男の子だもん、万が一があったら懲戒免職よ? そうなったら責任とってくれる、士郎?」
「んなコトな――――」
い、とは言い切れないのが男の性というか。
「……衛宮くん? 何かしらね、今の止めは」
じろりと。
横から入ってくる遠坂の視線が痛い。
「―――ない、と思う。これはただの下宿じゃないんだ。
俺だって、判ってる」
「そう。良かった、やっぱり衛宮くんは信用できますね、先生」
「当然です。士郎はわたしでもちょっと趣味に走りすぎたかっていうぐらい落ち着いてるんだから」
にっこりと笑う遠坂に、えっへんと胸をはる藤ねえ。
「………………」
そんな二人を無言で眺め、黙々と箸を進めるセイバー。
……今日で二日目だが、この雰囲気に慣れる事なんて永遠に来ないと思う。
「あ、そうそう士郎。弓道部の事なんだけどね、美綴《みつづり》さんが怪我したっていう話、知ってる?」
「美綴が? なんだ、また他の部のヤツとケンカでもしたのかアイツ? まったく、もうすぐ三年なんだから少しは落ち着けってんだ。
……で。怪我の方はどうなんだよ。わりと深いのか?」
「ん、それは大丈夫。軽い捻挫だって。学校の帰り道に痴漢に襲われたそうよ。
あの子って俊足でしょ? スパーッと勢いよく逃げたんだけど、最後に転んで怪我したみたい」
「……そうか。大事がなくて良かった。けどアイツが痴漢にね……命知らずというか、鑑識眼があるっていうか。
どちらにせよ間抜けな痴漢だったな。俺はてっきり」
「てっきり、逃げたんじゃなくてノックアウトしたって思ったんでしょ?」
にんまり、と楽しげに笑う藤ねえ。
うむ、さすが美綴綾子をよく判っている人だ。
「うん。あいつが逃げるなんて滅多にないから。
しかし……そうか、美綴のヤツも痴漢には弱かったのか。ま、いいんじゃないか。それぐらいのイベントが起きないと、あいつに女らしさを教えるのは不可能だ」
結構結構、とよく炊けたごはんを食べる。
「ねえねえ衛宮くん」
と。
にんまりとした顔で肩を叩いてくる遠坂凛。
「わたしからもちょっと耳よりな話、してあげよっか」
「? なんだよ、今の話以上に耳よりな話は難しいぞ、本気で」
「うん。今まで黙ってたけどね、わたしと綾子《あやこ》って仲良しなの。休みの日は二人で遊びに行くぐらいの仲って知ってた?」
――――待て。
なんで、おまえと、美綴が、仲良しなのか。
「――――はい?」
「今の話、一言一句間違えずに伝えてあげるから安心して。衛宮くんも喜んでたって言ったら、綾子ったらそりゃあもう瓦十枚はぶち抜くぐらい喜ぶんじゃないかな」
「―――訂正したい。今のは言葉のあやだ。あまり人様に話すような発言じゃないんで、黙っていてくれると、とても助かる」
「そうなの? なら黙っていてもいいけど、それなりの条件がないときついかな。ほら、ついポロッと口に出る事ってあるじゃない?」
「……おまえな。謙虚な台詞を言ってんのに、にんまり笑ってるってのは良くないぞ」
「あら、ごめんなさい。別に楽しい訳じゃないから誤解しないでね?」
ああ、誤解なんてしないって。
おまえ、間違いなく楽しんでるもん。
「……分かった。これから朝食は洋風にする。
……さっきおまえが言ってた、朝飯作るならパンにしろ、という提案も受け入れていい気になったり」
「――――上出来ね。マーマレイドだけじゃなくて、イチゴのジャムも忘れないでくれると嬉しいわ」
「………………はあ。ったく、日本の朝をなんだと思ってやがる、この外国かぶれ。おまえ一人の趣味で朝飯を変えやがって、この暴君」
「―――いいえ、それは違います。朝食がパンになるのは私も嬉しい。加えて半熟の玉子を用意していただければ、文句はないのですが」
……そしてしっかりと自分の意見を挟むセイバー。
「ああそうですか。分かったよ、洋食にすればいいんだろ、くそ。桜が洋食にしたからって調子づきやがって。
お望みどおり明日から朝はパンにするから、それで文句はないな? ならさっきの話は他言無用、絶対に美綴にはバラすなよ」
ふん、と二人から顔を逸らしてメシをかっこむ。
……と。
「なんでそんな無駄な事するのかなぁ?」
俺と遠坂のやりとりを不思議そうに眺めていた藤ねえは、ぼんやりとそんな事を呟いた。
「……なんだよ。無駄ってなんだよ藤ねえ」
「だって遠坂さんが話さなくても、わたしが美綴さんに話しちゃうじゃん。こんな面白い話、黙ってられないよー、わたし」
こまったもんだ、と頷いてごはんを食べる藤ねえ。
「………………」
……いや。
そろそろ対抗策を敷かないと、本気で立場がなくなるなぁ、これ……。
朝食が終わって、時刻は七時半。
藤ねえは珍しくうちに残っていて、三人で一緒に登校しよう、と笑顔で口にする。
「――――」
……けど、それは出来ない。
昨夜の決着。
セイバーに頼らず、自分で戦うと口にした以上、もう悠長な真似はしていられない。
たとえわずかな時間でも戦う事に振り分けなくてはならないとしたら、学校に行っている暇はない。
「それじゃ行こっか。戸締まりはいい、士郎?」
「いや、戸締まりはいいよ。俺、今日学校休むから」
じゃあな、と手をあげて藤ねえと遠坂を見送る。
藤ねえはぽかん、と数秒固まったあと「ちょっと、学校を休むってどういうコトよ!」
「え、お?」
遠坂に、言いたいコトを言われてしまったみたいだ。
「そ、そうよ士郎。学校休むって、士郎どこも悪くないでしょ?」
「いや、傷が痛んでるんだ。気温が下がると古傷って痛むだろ。そんな感じ」
「むっ……それ、嘘でしょ士郎」
「嘘だけど、それで勘弁してくれ藤ねえ。何も学校がイヤって訳じゃないんだ。やる事があって、そっちのが今は重要なだけなんだ。だからさ、それで許してくれないか」
「………………もう。そんな言い方されたらわたしの負けじゃない。士郎が事情を話さない時っていつもそうなんだもん。むかしっからそうだよね」
藤ねえは文句を言いつつ、とりあえず納得してくれたようだ。
「そういう訳だ。学校の方は遠坂に任せる。それじゃいけないか、遠坂」
「……そ。まあ、衛宮くんが居ようが居なかろうがこっちには支障はないし。確かに悪くない選択よ、それ」
「ああ、留守は任せてくれ。しばらくはバイトも休むから、家はそう空けないよ」
「……わかった。それじゃ行ってくるね、士郎。ケガで学校を休むんだから、あんまり外に出ちゃだめよ」
「それじゃあね。……今回はいいけど、次からは事前に相談してよね、こういう事は」
◇◇◇
「さて、雑巾がけぐらいしとかないとな」
セイバーには少ししてから来るように伝えてある。
いつも最低限の掃除はしているが、こうして誰かと手合わせするのは何年かぶりだ。
雑巾がけの一つもしておかないと道場にもセイバーにも失礼っていうもんだろう。
「……しっかしあれだな。剣の修行って言っても何をやらされるのやら」
切嗣と何度か竹刀で打ち合った事もあるが、自分も切嗣も型を重視しない、素人のたたき合いみたいなものだった。
俺は本気で剣道をしようという気もなく、ただ相手が長物を持っていた場合はどうするか、なんていう対応をたたき込まれただけである。
「……そもそも道具を使ってケンカするのは苦手だったな。作ったり直したりする方にしか関心がないんだから」
そういった意味で言えば、まともに剣というものを教わるのは初めてだ。
セイバーの剣は剣道とは大きく違うようだが、それでも通じるところはありそうだし、ついていけなくなるほど突拍子もない物じゃないだろう。
扉の音がする。
時間通りセイバーがやってきたのだろう。
こっちも雑巾がけが終わったところだし丁度いい。
「待たせたな。今日からここで手ほどきをしてもらう訳だけど――――」
「? どうかしましたかシロウ。何か意外なものを見るような顔をしていますが」
「あ―――いや、セイバーの服がそのままだったから、驚いた。てっきりあっちの格好で来るのかと思ってたから」
剣の修行なんだし、セイバーが戦う姿といったらあの鎧姿という事もあって、勝手にそんなイメージをもっていたのだが。
「はあ。武装している方がいい、というのでしたら着替えますが。……そうですね、私がどうかしていました。
たとえ試合とは言え、鎧をまとわないのはシロウに失礼です。申し訳ありません、すぐに着替えてきます」
セイバーはセイバーで何やら勝手に自己完結している模様。
「あ―――いや、別にそういう訳じゃない。ただの思い違いだからいいんだ。俺もどっちかっていうと、鎧姿より今の方がいい」
「は……? ですが、この服装ではシロウの気が済まないのではないのですか?」
「気が済まないって……確かに今から試合するぞー、って感じじゃないけど、セイバーが動きやすいっていうんなら問題ないだろ。昼間っから鎧を着込んでたら、セイバーだって疲れるしな」
「それはそうですが―――この服装で剣を振るうのはおかしくはないでしょうか?」
「なんでさ。似合ってるんだからおかしくなんかないぞ。
俺、セイバーは鎧姿より今の方がいいと思う」
「……? 理解しかねます。この服装は確かに気軽なのですが、戦闘には耐えられないでしょう。セイバーとしては不向きな姿だと思うのですが」
「その格好で戦うな、ばか。セイバーは女の子だろ。女の子にはそういう服のが似合うんだから、それでいいんだ」
さて。
使っていた雑巾をバケツに戻して、壁際にある竹刀を二本持ってくる。
「さて。それでどういった鍛錬をするんだセイバー。方針は全部セイバーに任せるから、無茶でもなんでも言ってくれ」
竹刀をセイバーに投げる。
セイバーは心ここにあらず、といった体で竹刀を受け取って、まじまじとこちらを見つめていた。
「? なんだよ、竹刀じゃダメか?
ま、まさか木刀―――いや真剣を使えってんじゃないだろうな!」
なんてスパルタ! そりゃ流石に想像以上だ。
「ぁ―――いえ、そのような事はありません。せっかく優れた試合用の模造刀があるのですから、こちらを使う事にしましょう」
すう、と何やら静かに深呼吸をするセイバー。
それきり、彼女はいつものセイバーに戻っていた。
「良かった。さすがに木刀で試合をするのは物騒すぎる。
……で、ほんとに何をやればいいんだ? まず素振り五百回とか、走り込みとか、そういう体力作りからか?」
「その必要はないでしょう。私から見ても、シロウの運動能力は水準に達しています。これ以上肉体面を鍛えるのであらば、それは一日や二日で出来る事ではありません」
「シロウは魔術師として未熟ですが、戦士としては悲観したものではないと思います。幼い頃から、よほど懸命に鍛えてきたのですね」
「う―――まあ、それぐらいしか取り柄がなかったからな。体を鍛えるのだけは、魔術の才能がなくても出来た事だし」
「それが幸いしたのでしょう。ランサーに襲われて死に至らなかったのは、シロウのそういう努力のたまものですから」
「ですが、それは武器になるほどの物ではありません。
人間には限界がある。シロウの体はその限界の域にはほど遠いし、突破する事も難しいでしょう。
ですから私が教える事は、ただ戦う事だけです」
「……? 戦う事だけってどういう事だ。今の口振りからして、戦う方法を教えてくれる……って訳じゃなさそうだけど」
「当然です。一朝一夕で戦闘技術など身に付く筈がないでしょう。私に出来る事は、マスターに一回でも多く戦いを味わってもらう事だけです。
そもそも人に物を教える事は苦手なのですから、私に師事されても困ります」
「――――――――もしもし?」
そういう事を胸張って言われても、教え子としては答えに窮するというか。
「……えっと、つまり。ようするに、ただ試合をするだけってコトかな、セイバー」
「―――ええ。ただそれだけです、マスター。
寸止めはなし、お互い相手を殺すつもりで打ち合いましょう。
……そうですね、一時間もすればどういう事なのか、理解してもらえると思います」
では、とセイバーは竹刀を軽く握り込む。
「……?」
その言葉に首をかしげつつ、こちらもセイバーに倣って竹刀を握る。
途端。
ものの見事に、世界が暗転した。
要するに、セイバーが教えようとしているコトはただ一つ。
どんなコトをやっても どんな奇策を用いても、
敵わないヤツには絶対に敵わない、という事実だけだった。
「―――ぁ――――はあ、はあ、はあ、あ―――あいたたた、いたい、これホントに折れてるって、間違いなく……!」
「折れているのならもっと逞しい腕になっています。重度の打ち身ですが、今のシロウならすぐに回復するでしょう」
「……つ、そうか。よし、なら、もう少し続けるか」
「え……まだ続けるのですか、シロウ?
確かに打ち身ではありますが、すぐに動いていいものではありません」
「容赦なく人の腕に打ち込んできてなに言ってんだ。
―――いいぜ、セイバーが乗り気じゃないんなら、その隙――――」
もらった!
……わけないよな、そりゃ。
「人の話を聞いてください。明らかにシロウは疲労しています。そんな体ではせっかくの修練も無駄になるのですから、休憩をいれるべきでしょう」
「――――いや、でもな。こう、明らかに手加減されてるのに打たれっぱなしっていうのは情けない。
せめて一太刀、セイバーの眉ぐらいは動かさなきゃ悔しくて倒れられん」
「驚くというのでしたら、もう十分驚いています。強情だとは思っていましたが、まさかこれほどとは思っていなかった」
「悪かったな。根本的に負けず嫌いなんだ、俺」
「ええ、それは嫌というほど思い知りましたので結構です。ともかく休憩にしますから、シロウも竹刀を置いてください。
床も汗で滑りやすくなっている。極限状態での模擬戦でもなし、疲労困憊して足場も不確か―――などという状態では意味がありません」
「……なんでさ。普通、戦闘訓練ってのは最悪の状態を想定してやるもんだろ。なら」
「それこそ無意です。
いいですかシロウ。貴方がサーヴァントと戦う、というのでしたら、体力は万全、足場は完全、逃走経路は確保済み、という状況以外での戦闘は無意味です。
貴方は全てが充実した状態でなければ、サーヴァントと戦いにさえならない。最悪の状態で戦う、という時点で、貴方は選択を間違えているのです」
「……う。つまりこういう状態では、間違っても戦うなってコトか」
「そういうコトです。そうなってはどのような奇蹟もシロウを救いはしないでしょう。
貴方の戦いは、まず自身を万全にし、的確な状況を模索する事から始まるのです」
「…………納得。それじゃ、申し訳ないけど、休ませてくれ」
ばたん、と壁にもたれかかって、そのままずるずると腰を下ろす。
「――――――――ふう」
肺にたまったモノを吐き出す。
ただの空気の筈のそれは、火傷しそうに熱かった。
「……………………いた」
体中がズキズキと痛む中、ちらりと壁の時計を見る。
時刻は十一時過ぎ。
はじめたのが九時頃だから、都合二時間打ち合っていた訳か。
初めの一時間は、一方的に叩かれただけだった。
いきなりセイバーの一撃がとんできて、軽い失神。
目が覚めて、次は気を付けるぞと思った矢先に失神。
ともかく何度も何度も打ちのめされ、体の方が慣れたのか、怒りで馬鹿力が出たのか、一撃目はなんとか受けられるようになった。
んで、問題はその後。
さて、それだけの戦力差を見せつけられて、人間ってのはおいそれと襲いかかれるものなのか。
「………………鬼」
正解は、ひるんだ瞬間に失神だった。
あとはもう、猫に追い詰められたネズミみたいなもんだ。
どう防いでも致命傷を食らって倒れるなら、もう自棄になって攻め込むしかない。
そんなものは当然のようにあしらわれてまた倒される訳だが、それに馴れてくると、なんていうか、
『あ、しまった』 と思える余裕が出てくるというか、次の瞬間に自分が殺されるな、と理解できる勘が冴えてきた訳だ。
こういうのを、俗に乗ってきた、という。
そうなると、後は必死に受けに回った。
とにかく、アレを食らったら失神する、なんて直感がビシバシ来るわけで、生き物としちゃそんなのは避けるのが道理。
雨のように繰り出されるセイバーの竹刀をなんとか受け流して、反撃の隙をじっと待っているうちに致命傷を食らってしまう。
で、立ち上がって次はなんとかもうちょっと持ち堪えるか、いやいやどうせ持ち堪えられないんだからやられる前にやれ、とばかりに攻め込んだりもする。
この二時間は、その繰り返しだった。
……こんな事をして強くなれるかなんて判らない。
これはただ、戦いっていうものに馴れさせるだけの打ち合いにすぎないと思う。
敵を目の前にしても混乱せず、かといって冷静すぎず。
いつでも、一歩違いで死ぬだけだっていう熱を帯びているのだと、何より自分自身に教え込ませているだけなんだろう。
それでも―――それは無意味かと言われると、そうでもない。
なんの武器もない自分にとって、この緊張感こそが、最も大事にしなければならないモノだと思うのだ。
「お疲れさまでした。どこか痛むところはありますか、シロウ」
気が付けば、傍らにはセイバーがやってきていた。
こっちは床に飛び散らせるほど汗だくだっていうのに、セイバーは汗一つかいていない。
「痛まないところのが珍しいぐらいだ。
……ほんと、容赦なくやってくれたなセイバー。こうまで一方的だと逆に清々しい」
白状しよう。100%負け惜しみである。
「はい。シロウに合わせて加減はしましたが、容赦はしないよう心がけました。手心を加えては戦いにはなりませんから」
「そうだな。おかけで、今なら首輪が外れたドーベルマンが走ってきても冷静に対処できる。
……って、ドーベルマンぐらいじゃまだまだか。俺も全然修行が足りなかった」
素直に反省。
体だけは人並み以上に鍛えてきたつもりだったが、二時間セイバーと打ち合っただけでギブアップとは情けない。
「いいえ、そのような事はありません。シロウの打ち込みは一心で、力がありました。時に、あまりの熱心さに対応を忘れたほどです」
そんなどうでもいい事に感心していたのか、セイバーは穏やかな目をしていた。
「っ――――」
途端、気恥ずかしさが戻ってくる。
今までは竹刀をもった同士、男も女もなく打ち合っていたけど、これはその――――不意打ち、ではないか。
「いや、ちょっと待った。水飲んでくる、俺」
「水ですか? それでしたら私が汲んできますから、シロウは休んでいてください」
セイバーは水を汲みにいってくれた。
「は――――はあ、助かった」
……だから。
助かったって、何が助かったっていうんだろう……?
セイバーが汲んできてくれた水を飲む。
まだ休憩時間なのか、セイバーは行儀良く道場に正座している。
……ああしているセイバーは、本当に綺麗だと思う。
男として異性を美しい、と感じるのではなく、人間としてただ綺麗だ、と思うのだ。
凛とした道場の空気に溶け込み、争いなど微塵も感じさせない静けさを持った少女。
そんな彼女がセイバーのサーヴァントであり、戦いを肯とする事には、やはり違和感がある。
「――――――――」
今、ここには自分とセイバーしかいない。
何か話すにはいい機会だし、ここは――――
……彼女がサーヴァントになる前。
人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。
セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。
そもそも剣士《セイバー》だなんてう呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。
「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」
興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。
「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」
「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」
「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?
おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」
「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。
セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」
―――そう。
可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。
「―――それはありえないと思います。
サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」
「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。
……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」
「……それはどういう意味でしょうか。
私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」
「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。
見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」
「わ、私は喜んでなどいませんっ。
シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」
「――――――――」
……珍しい。
セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。
「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」
「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」
「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」
「だからかな。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」
「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」
「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。
そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」
「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。
私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。
そのため以外のことを口にするべき事ではないし、
考える必要もないでしょう」
「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。
セイバーには役割があるだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」
「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」
「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」
なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。
◇◇◇
……さて。
話していたら体の熱も下がった事だし、そろそろ打ち合いを再開するか。
学校を休んでいるんだから、時間の許す限り戦いに体を慣らしておかなければ。
「セイバー、始めよう。休憩はもういいよ」
「……そうなのですか? 見たところ体の熱は下がったようですが、痛みの方はまだ治まっていないでしょう?」
「構わないよ、そんなの。ただの打ち身なんだから、多少の痛みは我慢する。今の俺はほっとけば治るんだから」
「しかし、それで悪化しては鍛錬の意味がない。もうしばらくは様子を見るべきだと思いますが」
「いいからいいから。遠坂が帰ってくるまでにやっときたいんだ。アイツにはこんな姿見せられないだろ」
「……ふう。分かりました、確かにいずれ敵となる凛に、シロウの腕前を知られるのはよくありませんね。
多少無茶とは思いますが、そういう事でしたらペースをあげていきましょう」
ひょい、と落ちていた竹刀を拾うセイバー。
と。
間の抜けた音が道場に響き渡った。
「セイバー……?」
その、今のはセイバーの、腹の音だと思うのだが。
「空腹のようです。鍛錬に夢中で気が付きませんでした」
「あ―――うん。そう言えばもう昼か」
そりゃお腹の虫ぐらい鳴るよな。
俺はまだそうでもないけど、セイバーがそんなに空腹なら昼飯にしておこう。
その間にこっちの体も完治してくれれば御の字だし。
「いいや、ちょうどいいし昼にしよう。ささっと材料買ってくるから、セイバーは居間で休んでいてくれ」
「シロウ。外に出るのなら私も付き添いますが」
「大丈夫、すぐ近くの商店街だ。真っ昼間から襲いかかってくるヤツはいないし、セイバーがいたら逆に目立つよ」
「…………本当に、危険はないのですね?」
「ないって。すぐに帰ってくるから待っててくれ」
財布を持って外に出る。
ここから商店街まで、自転車でざっと十分もかからない。
ちなみにいま車庫から持ち出したのは二号機で、一号機は柳洞寺前に路駐したままである。
坂道を下っていく。
平日の昼間に商店街に行くなんて、子供の頃のお使い以来かもしれない。
さすがに昼間という事もあり、交差点には買い物帰りの主婦さんが多い。
奥さんたちが歩いてくる深山町の中心が、俺や桜が愛用しているご近所の商店街である。
とりあえず、一通り買い物を済ませてきた。
二人分の昼食の材料と、軽い和菓子。
今日の夕食は遠坂の担当だからいいにしても、明日の朝用の食パンを四人分。
イチゴのジャムの作り方なんて知らないので、一番安い……のは何かと物議を醸しそうだから、それなりに値の張った物を買った。
「……くそ、ひどい出費だ。なんだってこんな甘ったるいモンの為に千円も払わなくちゃいけないんだ」
文句を言いつつ自転車の籠に荷物を押し込む。
―――と。
くいくい、と後ろから服を引っ張られる感じがした。
「?」
なんだろ、と振り返る。
そこには。
銀の髪をした、幼い少女の姿があった。
「な、おまえは―――!」
がらがっしょん、と自転車を倒しながら後じさる。
咄嗟《とっさ》に身構える俺と、にこやかにこちらを見つめる少女。
「……?」
少女からは殺気というか、敵意がまったく感じられない。
あまつさえ少女は、
「よかった。生きてたんだね、お兄ちゃん」
なんて、嬉しげな笑みをうかべてきやがった。
「っ――――」
……少女は間違いなくバーサーカーのマスターだ。
あの夜、俺を一刀のもとに斬り伏せた怪物の主。
それと、事もあろうにご近所の商店街で、しかも真昼間から遭遇するなんて誰が思おう。
「まさか―――ここで、やる気か」
「? おかしなコトを言うんだね。お日さまが出ているうちに戦っちゃダメなんだから」
むー、と不満そうに口をとがらす。
それは、どう見ても年相応の、幼い少女の仕草だった。
「――――――――」
なんのつもりかは判らない。
なんのつもりかは判らないが、目の前にいる少女が無害だという事ぐらいは、俺にでも感じ取れた。
「お、おまえ―――たしか、えっと」
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。長いからイリヤでいいよ。それで、お兄ちゃんはなんて名前?」
「俺……? 俺は衛宮士郎だけど」
「エミヤシロ? なんか言いにくい名前だね、それ」
「……俺もそんな発音で言われたのは初めてだ。いいよ、覚えにくかったら士郎でいい。そっちが名前だ」
「シロウ? なんだ、思ってたよりカンタンな名前なんだね。そっか、シロウか。……うん、響きは合格ね。単純だけど、孤高な感じがするわ」
つ、と何やら思わせぶりな視線を投げてくるイリヤスフィール。
「っ……!」
思わず体が反応して、いつでも動けるように腰を落とした。
……なにしろ相手はバーサーカーのマスターだ。
その気になれば、お隣の花屋さんもろとも俺を吹っ飛ばせるだろう。
「あ、そう身構えなくていいよシロウ。今日はバーサーカーも置いてきたの。お兄ちゃんだってセイバーを連れてないから、おあいこ」
イリヤスフィールは楽しげにこっちの顔を覗き込んでくる。
「……いや。おあいこって、おまえ」
「ね、お話ししよ。わたしね、話したいコトいっぱいあったんだから」
「な――――!」
少女は、それこそ父親の手をとるような自然さで俺の腕に抱きついてきた。
「ま、待て待て待て待て……! いきなり何しやがるおまえ! あ、ああ新手の策略かこいつは!」
「なにって、だからお話しだよ。フツウの子供って、仲良くお話するものなんでしょ?」
「いや、それはそうなんだが俺とおまえは違うだろ! マスター同士だし、一度戦った仲じゃないか! むしろ敵だ、敵!」
「それは違うよ。わたしに敵なんていないもん。他のマスターはただの害虫。けど、いい子にしてたらシロウは見逃してあげてもいいよ?」
笑顔で、さりげなくとんでもないコト言ってるし!
「ああもう、とにかく離れろ! おまえメチャクチャだぞ、なんか!」
ぶん、と手をふってイリヤスフィールをはがす。
「きゃ……!」
とて、と。
俺に振り払われた反動で、少女は背中から地面に倒れそうになる。
「しま、イリヤ―――!」
……なんだってこの時、そんな事したんだろうか。
気が付けば、俺は咄嗟にイリヤスフィール――ああもうめんどくさい、イリヤの腰に手を伸ばして、倒れかけた彼女の体を支えていた―――
とん、と無言でイリヤを地面に降ろす。
「………………」
イリヤは黙っている。
俺も何を言っていいものか判らず、立ち往生してイリヤの姿を見下ろしていた。
……気まずい。
気まずいので、このままそっと帰ってしまおうとした時。
「―――なに。お兄ちゃん、わたしのこと嫌いなの?」
あの夜。
バーサーカーを連れていた時と同じに、赤い瞳を灯らせて彼女は言った。
「――――っ」
背筋が凍る。
さっきまでの仕草があまりにも幼かったから危機感が薄れていたが、彼女は間違いなくバーサーカーのマスターだ。
下手に逆らえば命はない。
こんなところで犬死にしたらセイバーに会わせる顔がないし、何より商店街に集まった人たちまで巻き込んでしまう。
……そう、賭けてもいい。
この少女は、場所がどこであろうと、容赦なくマスターとしてその力を行使すると。
「……分かった。話をすればいいんだろ。大人しくするから、それでいいかイリヤ」
「うん! それじゃあっちの公園に行こっ。さっき見てきたんだけどね、ちょうど誰もいなかったんだ」
たん、と弾むようなステップで走り出すイリヤ。
「ほら、早く早く! 急がないとおいていっちゃうからね、シロウ――――!」
くるくると回りながら、イリヤは商店街を駆けていく。
「……あいつ。ホントに先に行っちまったぞ」
呆れを通り越して、少し感動してしまった。
あのイリヤという少女にとって、一度でも約束したコトは絶対の真実なのだ。
だからあんなに嬉しそうに駆けていった。
こうして一人になった俺が、今がチャンスとばかりに逃げだす可能性を考えない。
一度でも俺が話をすると言ったから、あの少女はそれを信じて駆けていった。
「…………なんなんだ、あいつ」
とんでもないアンバランスさだ。
……だが、まあ。
そんな真っ白な信頼を裏切れるほど、俺も大人になれている訳じゃなかった。
商店街から離れた小さな公園には、俺とイリヤしかいなかった。
この時間、子供たちは学校に行っているのか、それともこんな小さな公園はもう流行らないのか。
ともかく誰もいない冬の公園で、なんとも言えない緊張感に包まれたまま話を始めた。
「……って。話をしようって、なに話せっていうんだ。
セイバーの事とか知りたいのか?」
「え? セイバーの事って、どうして?」
「だって俺たちマスターだろ。敵のサーヴァントの情報は、知りたいと思うだろ」
「なによ、そんな話はイヤよ。もっと面白い話じゃないとつまんない」
「いや、つまんないって言われてもな。……ならイリヤは何が面白いっていうんだよ」
「そんなの分かんないよ。
わたし、あんまり人と話したコトってないんだ。だからなに話していいか分かんない」
「……おまえな。そんなんで話をしようだなんて連れ出したのか。物事はよく考えてから行動しろって教わんなかったか? なかっただろ。なら今からちゃんと思慮深い大人になるんだぞ」
「……む。いいよーだ、そういうのはシロウに任せるわ。
レディをエスコートするのは男の人の責任なんでしょ?
ならわたしはシロウに付いてけばいいだけだもん」
えへへ、とばかりに笑って、イリヤは肩を寄せてきた。
それは馴れ馴れしいというレベルじゃなくて、なんていうか、ただ寒くて身を寄せてくる小動物みたいな自然さだ。
……と。
よく見ればホントに寒そうだな、この子。
「イリヤ。もしかして、寒いのか」
「え? うん、寒い。わたし、寒いの苦手なの」
はあ、と白い息を吐く。
苦手と言いながら、イリヤはその白い息を楽しそうに眺めていた。
「そうか。いつもはそうでもないんだけど、今日は妙に寒いからな。寒いのが苦手なら堪えるだろうけど……その、イリヤはどっから来たんだ? なんか、随分と貴族っぽい名前だけど」
「貴族っぽいんじゃなくて貴族だよ。
わたしはアインツベルンのね、古いお城で生まれたの。
いっつも寒くて雪が降ってたんだ。だからこれぐらいの寒さは平気かな」
「……? 寒い国に生まれたのか。なら寒さには慣れてるもんじゃないのか、普通」
「慣れてるけど、寒いのはイヤなの。わたし、冷たいのよりあったかいほうが好きだもん。シロウだってあったかいほうがいいんじゃない?」
「ああ、そりゃそうだ。冷たいよりは、温かい方がいい」
「だよね! うん、だから寒い日は部屋の中であったまってるの。でも雪は好きよ。白くて、わたしの髪とおんなじだって父さまが言ってたから」
「――――」
ぽん、と手を打つ。
言われてみればその通りだ。
イリヤを見て何かを連想していたが、雪の妖精ってヤツがいたとしたら、それはこんな姿なのではなかろうか。
「うまいこと言うな、イリヤの親父さんは。確かにイリヤの髪は雪みたいだ。白くて、なんだか柔らかそうだし」
「えへへ、でしょ? この髪はね、イリヤの自慢なんだから。わたしの中で唯一女の子らしい、母さま譲りの髪なんだ」
嬉しそうにイリヤは笑う。
そういう仕草を見ていると、本当に麻痺してくる。
この子があのバーサーカーのマスターだなんて、実際に見ていなければ到底信じられない。
「ね、シロウは? シロウはお父さんから譲ってもらったものってあるの? あ、魔術刻印っていうのはなしよ。
マスターとしてじゃなくて、お父さんとして譲ってもらったものだよ」
「え、俺? ……うーん……最後にもらったのは家かな。
その前は名字。で、最初にもらったのは」
死にかけていたこの命、だったか。
十年前の火事で、俺だけが切嗣に助けられたんだから。
「……そうだな、イリヤみたいな、両親から受け継いだ肉体的な特徴はないよ。けどそれに負けないぐらい多くの物をもらってきたと思う」
イリヤはそれを、我が事のように喜ぶ。
そんな笑顔を向けられて、嬉しくならないヤツはいないだろう。
「でも今の話だと、シロウは魔術刻印を受け取らなかったんだ。おかしいなあ。じゃあシロウはマスターじゃないの?」
「? いや、魔術刻印のない半人前の魔術師だけど、マスターだぞ。
そういうイリヤは、その―――マスターなんだから魔術師なんだよな」
「え? わたし、魔術師なんかじゃなくてマスターだよ?
普通の魔術なんて教わらなかったもの」
「はあ……!? じゃあ親から魔術刻印を受け取らなかったのか? ……その、お城を持ってるぐらいの名門なんだろ、イリヤの家は」
「そうだけど……魔術刻印ってマスターになる為のものじゃないの? だからマスターだよ、わたし」
はてな、と首をかしげるイリヤ。
「…………?」
こっちも同じく首をかしげる。
どうも、イリヤの言動はさっきから微妙にズレてるというか、いまいち会話のキャッチボールができていない。
「……なあイリヤ。ひとつ訊くけど、イリヤは何処に住んでるんだ? どうも聖杯戦争の為だけにこの町に来たみたいだけど、それじゃ今はホテル暮らしとか?」
いや、そもそも保護者がいなかったらまずいだろう、イリヤは。
こんな子供を一人で日本に来させるなんてあり得ない話だし。
「ホテル……? それって別荘のこと?」
「ああ、似たようなもんだ。家じゃないけど、泊まれるところ」
「それならあるよ! ほら、あっちにおっきな森があるよね。そこの奥に、お爺さまのお爺さまが建てた洋館があるの。アインツベルンのマスターはね、聖杯戦争の時はそこに住むんだって」
イリヤは西の方角を指さしている。
……たしかにそっちには、まだ開発が進んでいない深い山林が広がっているが……。
「あの森って、車で一時間もかかるだろ。そこから一人で来てるのか、イリヤは?」
「うん、今日は抜け出してきたの。セラもリーゼリットもメイドのクセにうるさいんだもん。
せっかく日本に来たんだから、その間ぐらいは外に出てもいいと思うの。欲しい物はなんだって手に入ったけど、いつも部屋に閉じこもってたんだから、これぐらいはご褒美なの」
「……? 部屋に閉じこもってたって、イリヤがか?」
「うん。雪が降るとね、体に悪いから外に出してもらえなかったの。だからたいていは部屋の中で遊んでたんだ。
あ、でも大丈夫だよ? こっちはお城ほど寒くないから、一人でも平気だもん」
にぱり、と満面の笑顔でイリヤは言う。
彼女はぶらぶらと足をふって、こうしているだけで楽しそうだった。
「…………」
なんとなく、ガソゴソ、と買い物袋に手を入れる。
セイバーと食べる筈だったどら焼きを袋から出して、これまたなんとなく、イリヤへと差し出した。
「食べるか。安物だけど」
「え? なにそれ、食べ物?」
「そうだよ。甘いのは好きじゃないけど、これだけは別だ。うちは親子共々、お茶請けはコイツなんだ」
「……えっと。……その、くれるの?」
おずおずとこちらを見上げるイリヤ。
「やる。一人で食っても旨くないから、二人で食おう」
ほら、とどら焼きを差し出す。
イリヤは戸惑ってから、初めて見るであろう東洋の和菓子を手に取った。
「えへ。うん、ありがとう!」
嬉しそうにどら焼きを食べる。
その仕草は、ほおばるという表現がぴったり来るほど元気いっぱいだった。
「――――――――」
もぐり、とこっちもどら焼きを食べて、後頭部を襲ったショックに耐える。
……まいった。
なんていうか、こういう妹がいたらいいな、なんて本気で思ってしまったのはどういう事か。
「……けど、本当に……」
イリヤは無邪気すぎると思う。
この子は、もしかしたら本当に善悪の区別を知る前の子供なのかもしれない。
魔術師の家系に生まれた子供がどんな風に育てられるか、俺はおぼろげにしか想像できない。
それでも―――イリヤの生まれた環境が普通でないのは感じ取れる。
遠坂はああいうヤツだけど、その芯は根っからの魔術師だ。聖杯戦争も、マスター同士の殺し合いもきちんと“殺人”として受け入れている。
けどこの子は、人を殺すっていう意味を知らないままマスターになってしまったのではないか。
まだ少ししか話してないけど、イリヤは自分から人を殺すような子じゃないと思う。
なら、それは――――
「イリヤ。真面目な話なんだが」
と。
何かに呼ばれたように、唐突にイリヤは顔をあげた。
「……イリヤ? どうした、何かあったのか」
「うん。もう帰らないと。バーサーカーが起きちゃった」
トン、とベンチから飛び跳ねる。
イリヤはそのまま、さよならも言わずに公園から駆けだし、あっというまに走り去っていってしまった。
◇◇◇
屋敷に戻る。
イリヤと出会った事は内緒にする事にした。
本来なら真っ先に報せなければならない事だと判っているが、それでも話したくはなかったのだ。
公園で出会ったイリヤはマスターじゃなかった。
俺とイリヤはなんでもない話をして、なんでもない別れ方をした。
だから、今日の事を人に話すのは躊躇われる。
……隠し事をするようで後ろめたいが、今日のイリヤを敵と思いたくなかったからだ。
セイバーと昼食を摂ったあと、道場で鍛錬を続け、気が付けば夕食時になっていた。
セイバーとの打ち合いで疲れ切った体を休めて、風呂に入って汗を流す。
そうして居間に行くと、夕食の支度が整っていた。
「――――――――」
ちょっと感動した。
風呂からあがって、自分が何もしていないのにご飯が出来ているというのは、やはりいい。
「衛宮くん、夕食だけど―――なによ、馬鹿みたいに立ちつくして。なに、痴呆?」
だというのに。
どうしてこう、コイツはピンポイントで感動をぶち壊す発言をしてくるのか。
「なんでもない。夕食だろ、ありがたくいただくよ。セイバーは?」
「んー? セイバーさんなら士郎の部屋に行ったみたいだけど、会わなかった? おかしいなあ、さっきまでここにいたけど」
「旅館みたいに入り組んだ家だからすれ違ったんじゃない? いいわ、セイバーはわたしが呼んでくるから、衛宮くんはもう一度洗面所に行ってきなさい。髪、よく乾いてないわよ」
「あ、ほんとだ。悪い、それじゃセイバーは任せた」
遠坂に手を振って廊下に戻る。
遠坂の言うとおり、衛宮邸は無節操な改築によってあちこちに通路がある。
その中でも最たるものが洗面所へのルートで、俺の部屋からでも居間からでも行けてしまうあたり、本当に旅館じみた作りをしていた。
洗面所に入る。
ドライヤーは好みではないので、さっき使ったタオルで髪を拭こう。
「――――――――」
瞬間。
今日一日起きたことを、ぜんぶ忘れた。
「シロウ」
何か言ってる。
目の前のヤツが、なんか言ってる。
「二度湯のようですが、今は私が使っています。出来れば遠慮してもらえると助かるのですが」
堂々と、そんなコトを言ってくる。
「あ、あ、あう、あ」
弁明を。
あくまでこれは事故だって弁明しなくちゃいけないと解っているのに、あたまんなかは真っ白だった。
なにしろ今日一日分の記憶が抜け落ちるぐらいのインパクトなんだから。
「す、すす、すすすすす」
「シロウ、湯にのぼせたのですか? 耳まで真っ赤ですが、体を冷やすのなら縁側に出るべきです」
「あ、いや、そうする、けど。その前に、謝らないと、まずい」
セイバーから視線を逸らして、ばっくんばっくん言っている心臓を落ち着かせる。
「これは、事故なんだ。セイバーの裸を覗き見ようとした訳じゃない。いや、こうして出くわしちまった時点で釈明の余地はないんで、セイバーは、俺に怒っていい」
「?」
できるだけ下を見ながら、なんとか気持ちを落ち着けて言った。
セイバーは何やら考え込んだ後。
「シロウ、顔をあげてください」
と、いつもの調子で言ってきた。
「あ……うん」
言われた通りに顔をあげる。
「っ、なんでそのままなんだよおまえは……!」
目の前には、さっきと同じセイバーの姿があった。
「いえ。シロウが謝るほどの事ではありませんから。私の素肌を見たところで、気にする必要はないと言いたいのです」
「あ――――はい?」
「以前にも言ったでしょう。サーヴァントにとって、性別など些末な事だと。
シロウは女性である私の体を見て慌てているようですが、私は女である前にサーヴァントです。ですから、そのような気遣いは不要かと」
「な――――」
なにを言ってるんだ、セイバーは。
いや、いくらセイバー本人がそんなコト言っても、セイバーがとんでもなく女の子だって事は変わらない。
……いや、それとも。
もしかしてとは思うんだけど、セイバー、まさか。
「……訊くけど。裸を見られても恥ずかしくないっていうんじゃないだろうな、セイバー」
「? なぜ恥じ入る必要があるのです?」
「――――――――」
やっぱりそうか。
……が、セイバーがどうでも、俺が正気でいられなくなるのには間違いはない。
「……悪かった。とにかく謝る。次にこんなコトがあったら、セイバーの好きにしていい」
くるん、と百八十度回転して、ぎくしゃくと脱衣場から脱出する。
「?」
そんな俺を、セイバーは最後まで普段通りに見送っていた。
◇◇◇
―――夕食が終わった。
俺以外は概ねいつも通りの夕食だったと思う。
こっちはと言うと、脱衣場での一件がちらついてメシの味さえ分からなかった。
「……さむ」
縁側の窓を開け、外の風で頭を冷やしていたがそれもここまでだ。
いつまでもこんなコトしていたら風邪を引いちまう。
「シロウ、ここにいたのですか」
「セ、セイバー……!? な、なんだよ、俺になんか用か」
「私ではなくシロウにあるかと。いいのですか? 夜は凛に魔術を教わる、という約束だった筈ですが」
「あ」
ぱし、と頭を叩く。
「すっかり忘れてた。さんきゅ、今すぐ行ってくる!」
別棟に駆け込んで、二階にあがる。
遠坂が占拠した客間のドアをノックすると、
「士郎? いいわよ、ちょっと今手が離せないから、勝手に入って」
なんて、どこか余裕のない遠坂の声が返ってきた。
部屋に入るなり、目に入ってきたのはおかしなコトをやっている遠坂だった。
遠坂は宝石らしきものを手のひらに置いて、もう一方の手には注射器、口にはハンカチらしきものを咥えている。
「質問していいかな、遠坂」
「ひょっひまっへ。きょふののるまはこれへおはりだから」
言って、遠坂は注射器を自分の腕に刺す。
……カラの注射器に血が吸い上げられていく。
そうして摘出した血を今度は一滴一滴宝石に零したかと思うと、血に濡れたそれを握りしめた。
かつん、と目眩《めまい》らしきものが通り過ぎた。
それが魔力の光だと言うコトだけ、かろうじて理解できたのだが――――
「……はあ。これだけやってもまだ三割か。やっぱり手持ちの九つだけでやっていかなくちゃダメみたいね」
遠坂はがっくりと肩を落とし、宝石箱らしきものに石を戻す。
「遠坂。約束通り、教えを請いに来たんだけど」
その前に、今の行為がとても気になるのだがどうしたものか。
「ええ、待ってたわ。昼間はセイバーと体の方を鍛えてたんでしょ? なら夜は中身を鍛えないとね」
教える気まんまんなのか、遠坂はなにやら嬉しそうだ。
……ふむ。セイバーは人に教えるのは苦手だと言ってたけど、こいつは絶対逆のタイプだろうな。
いや、向いてるか向いてないかは別にして。
「さて、それじゃあ何から行こうか。たしか士郎は強化の魔術しか使えないって言ってたけど――――」
「いや、その前にちょっといいか。やっぱり気になる。
遠坂さ、さっき何してたんだよ。注射器を自分に刺すなんて危ないだろ」
「え、あれ? あれは魔弾を作ってただけよ。遠坂《うち》の魔術は力の流動と転換だからね。こうやって余裕がある時は、自分の魔力を余所に移しておくのよ」
しれっと、こっちを置いてけぼりで話を切り上げる遠坂。
「待ってくれ。その魔弾とか、魔力を移しておくってなんだよ」
「魔弾は魔弾よ。魔力の込もった弾。
宝石は人の念が宿りやすいって聞いたコトない? 実際、宝石は魔力を込めやすい物なんだけど、うちの家系はさらに相性がいいみたいなのよね」
「魔力を込めるっていうのは、たとえば今日一日なにもしなかったら体力は余ってるでしょ? その余った分の力を宝石にため込んでおくの。
これを何日、何ヶ月、何年と続けて、宝石自体を“魔術”にするのよ」
「もっとも宝石自体にだってキャパはあるし、自分から離れた魔力なんてものは操れない。
宝石に込めた魔力っていうのは、あくまで大魔術を瞬間的に発動させる為だけのイグニッションにすぎないけどね」
「……む? えーと、ようするに自分の魔力を宝石に込めて、バックアップをとってるってコトか?」
「後方支援《バックアップ》……? んー、近いけど違うっていうか、使い捨てのリュックサックの中身をつめてるだけよ」
「じゃあ一時的にハードディスクを増設してるってコトか。……すごいな、それなら魔術なんて使いたい放題じゃないか」
「はーどでぃすく……? アンタの言ってるコトはよく判らないけど、そこまで便利なものじゃないわよ。魔力は宝石に込めた時点で、その宝石の属性に染まるから用途は限られてしまうわけだし」
「……ふーん。それにしても驚いたな。魔力っていうのは、そういうふうに貯めておくコトもできるものなんだ。
そんな便利なコト、なんで他の魔術師はしないんだろう」
いや、そうは言っても俺の知ってる魔術師なんて切嗣だけな訳なのだが。
「自分以外の物に魔力を貯めるっていうのは特殊なのよ。
士郎の強化だって、物に魔力を込めているってコトでしょ? 通常ね、魔力の通った物は何らかの変化をして、その魔力を使い切ってしまうものなの。魔術の効果は瞬間であって永続じゃないでしょ」
「で、うちの家系はそうならないように、うまく宝石に魔力を流動させて永続的な物にしているんだけど……他の魔術師だって、自分の体になら同じような事はできるわ。
それが魔術刻印―――あらゆる魔術師が持っている、魔術のバックアップじゃない」
「魔術刻印……ああ、親が子供に譲るっていう秘伝の話だな。俺、それはないからどうもピンとこないな」
「ちょっと。アンタ、今なんて言ったの?」
「えっ……いや、魔術刻印はないって言ったんだが。親父は持ってたみたいだけど、譲られはしなかった」
「――――――――」
遠坂は息を飲んだかと思うと、なるほど、なんて納得していた。
「どうりで素人同然の訳だ。……じゃあホントに一からやってるのね……うん、なら確かにしょうがないか」
ぶつぶつと言っている。
「……遠坂。俺に魔術刻印がないって、随分前に気が付いてたんじゃないのか?」
「そんな訳ないでしょ。知ってたら一人でなんか行動させなかったわよ。……そりゃあ半人前だなって思ってたけど、魔術刻印がないならそもそも魔術師じゃないじゃない、士郎は」
ふん、と文句ありげな目を向けてくる。
ただ、なんだろう。
今の言葉は、どこかホッとしたような、俺が魔術師じゃなくて羨ましがっているような、そんな温かみがあった。
「――――まあいいわ。そういう事なら一から説明してあげる。魔術刻印がなんなのかを知るって事は、魔術師ってものを知るって事だから。
はい、士郎はそこに座って。大事な話だからちゃんと腰を落ち着かせて聞くこと」
「ここでいいのか? ……よし、始めてくれ」
ぐっ、気合いをいれて遠坂の目を見る。
こっちの真剣ぶりが伝わったのか、遠坂は満足げに頷いた。
「じゃあ簡単な話から入るけど。
魔術を使うのに必要なものが魔力だって事は知ってるわよね? 魔術さえ発動させられるなら、それらは全て魔力と言い換えても差し支えはないわ。
魔力の種類は千差万別。
自分だけの精神力をもって魔術を使用する者もいれば、 自分以外の代価をもって魔術を使用する者もいる。
ここまでは知ってるでしょ?」
「ああ。大源《マナ》と小源《オド》の事だろ。大源が自然、世界に満ちてる魔力。小源が個人が生成できる魔力だ」
「そうそう、よくできました。じゃあその大源《マナ》を用いた魔術から順に説明しましょう」
「いい士郎? 家柄、魔術師として積み重ねた血統が希薄な魔術師……ようするに士郎の事ね……は、“すでに形式《カタチ》あるもの”を以って魔力と成すの。
これは古くからシステムとして確立している儀式、供物をもって神秘と接触する方法よ」
「自身の力だけでは足りないから、代価を用意して取り引きする、という魔術形式《フォーマルクラフト》。
これなら術者の魔力が希薄でも魔術は作用する。なにしろ使用する魔力は自分からではなく他所《マナ》から借り受けるものだから、術者はただ儀式を行うだけでいい」
「……けどまあ、こういうのは知識がないと出来ないからね。士郎にはまだ無理だし、そもそもこういう血生臭いのは向いてないわ、貴方には」
「……だな。俺も鶏の生け贄とか、魔法陣を敷いて一晩中祈るとか、そういうのはやりたくない」
「でしょ。
じゃあこれは置いておいて、次は小源、つまり魔術師個人の力で行う魔術の事。
もう言うまでもないと思うけど、これがわたしや貴方の基本的な魔術行使よ。
士郎の“強化”は他者の力を借りないでする、自身の魔術回路だけを頼りにした魔術でしょう?」
こくん、と頷く。
どうやら話が本題に入ったようだ。
「その、自分だけの魔力を生成する機能―――“魔術回路”っていうのは、先祖代々続く魔術士の血統により受け継がれる遺伝体質なの。
“魔術回路”は何代も重ねて鍛え上げられ、より強さを増して子孫に継承されるわ。
魔術師の家系の子供は、それだけで魔術に適した人間ってわけ。フェアじゃないけど、わたしと士郎はスタート地点からして違うって事よ」
「それは知ってる。気にしてないから、話を続けていいぞ遠坂」
「……別に気にしてなんかないけど。
ま、いいわ。それでね、そういった魔術回路とは別に、その家系が代々鍛え上げてきた秘伝の魔術っていうのがあるのよ」
「さっきの宝石と似てるかな。一つの魔術を極めるとね、魔術師にはその魔術が“手に取れる”ようになるの。
本来ならカタチのない、ただの公式にすぎない魔術を“手に取れる”感覚ってわかる?」
「―――判らないが、体の一部になったようなものなんだろうな、手に取れるっていう事は」
「ご名答。
扱われる式という域を超えて、もはや自分自身となった魔術っていうのはカタチに残せるのよ。
それは不安定な魔術を確立させる偉業であり、同時にその魔術師が生きた証でもある」
「で、魔術師は死ぬ間際に、自分が成し得た偉業を刻印として後継者に譲るのよ。これをやるから、自分が成し得なかった地点に到達しろ。もしかしたらワシが残した刻印が何かの役に立つかもしれん、ってね。
……ま、残した方も残された方も、そんな刻印が何の役にも立たないって判ってるんだけどさ」
「……? なんだよ、それだけ凄い刻印なのに何の役にも立たないのか?」
「立つわよ! 普通に魔術師やってれば、刻印一つで左うちわっていうぐらい役に立つわ!
……まあけど、それは自動車をもらったようなものなのよ。どんなに地上を速く走れても、月には辿り着けないんだから」
「……?」
「いいから、話の続き。
もう判ったと思うけど、その刻印っていうのが魔術刻印なの」
「その家柄の当主が一生を注いで完成させた魔術を刻印にして子孫に譲り、子孫はさらに次の魔術を完成させて刻印を増やし、また子孫に継承する。
そうして複雑さを増し、深い歴史を刻んだものが魔術刻印――――魔術師にとって、逃れようのない縛りってこと」
「…………。つまり魔術刻印には、その家系の全てが記録されてるって事か?」
「あ、それは違う。家系の記録はちゃんと書物で残してるわよ。魔術刻印にあるのは、単純に魔術だけなの。
勝手に呪文詠唱をしてくれたり、自分が修得していない魔術も使えたりするだけ。
判りやすく言えば自分の体に魔法陣を刻んでいるようなものかな」
「…………ふむ。それじゃあさ、別に刻印は誰に刻んでもいいって事にならないか? 魔法陣なら、カタチさえ知っていれば幾つでも描けるじゃないか」
「それがそういう訳にもいかないのよ。
魔術刻印っていうのはね、生き物みたいなものなの。臓器を移植する事のに近いわ。
臓器は一つしかないモノだから、何人かに分け与えるとか写本するとか、そういったコトは出来ないの。 心臓を二つに分けても意味ないでしょ? 結局、分けても機能しなくなるだけなんだから」
「あ……む。そうか、たしかに。それじゃ遠坂にも、その刻印は移植されてるのか?」
「……移植ってのは、我ながら後ろ向きな例えだったわね。実際は入れ墨と変わらないのよ。
わたしの場合は左腕。肩から手までびっしりね。ただ魔術刻印は使わなければ浮かび上がらないから、令呪と違って隠す必要はないわ」
「……ま、そんな訳だから、魔術師の家系っていうのは一子相伝だったりするの。
その家に兄弟がいた場合、どちらかは魔術を教えられずに一般人として暮らすのが常なのよ。だって、魔術刻印を渡せないんだから、魔術師として大成されてもあまり意味がないもの」
「ああ、それは慎二も言ってた。……そうか、そういう理由で桜は教えられなかったんだ」
「ええ。……けど間桐の家は、何代か前から刻印の継承自体が止まってるわ。だから慎二に教えられたのは魔道の知識だけなんでしょう。
……ほんと、そういう手合いが一番厄介なのよね。魔術ってものを実感できないクセに、魔術を使おうっていうんだから」
やれやれと悪態をついて、遠坂は軽く深呼吸をする。
「さて、魔術を教えるって事だったけど、ちょっと予定が変わったわ。士郎に魔術刻印がないんなら違った方針を立てないといけないし。
……うん、今夜はここでお開きにしましょ。明日までには色々と用意しておくから、それまで待ってちょうだい」
「? 遠坂がそう言うんなら頷くしかないんだが……なんだよ、その色々用意しておくって」
「だから色々よ。刻印がないって事は、貴方スイッチできないんでしょ? 体の中身をいじるんだから、お薬とか矯正器具とか必要じゃない」
「――――――――」
うわ。なんか、いま本気でぶるっときたんだがっ。
「なに? イヤだって言うんなら止めるけど。その場合、わたしが教えてあげられる事はなくなるわよ?」
「あ……いや、イヤだけど、頼む。遠坂の言い分は、たぶん正しい」
……その、どういう意味でスイッチと言ったのかは判らないが、それをできないことが、俺がいつも自身を魔術回路に変えようとして、つまづく事に関係していると思うのだ。
「じゃあ明日はそれで決まりね。
……と、そうだ。貴方、明日もセイバーと剣の鍛錬をするつもり?」
「? ああ、そうだけど。学校の結界も気がかりだけど、発動するまでまだ間がある。それまで少しは戦えるようになっていたいんだ」
「そ。まあいいけど。その割にはセイバーとはうまくいってないようじゃない?」
「うっ……それは、その」
「夕食前までは普通に話せてたのに、夕食から妙に黙り込んでたし。
念の為に聞くけど、貴方たちうまくいってるんでしょうね? いざ戦闘って時に仲違いされたら、わたしたちまで被害を受けるんだから」
……う。
それは単に、夕食前にトラブルがあっただけで、今はただ気まずいだけだ。
だけなのだが……本当に、俺とセイバーはうまくいってるんだろうか?
そりゃあ今日一日打ち合って、セイバーがどんなヤツかは少しは判ったとは思う。
協力者として、セイバーは信頼できる。
それは絶対だ。
ただそれ以外の部分でセイバーをどう思っているかと言われると、返答に困ってしまう。
そもそも、俺は。
あの瞬間に、まっとうな感情を奪われてしまっていた。
「……難しいな。そう言う遠坂はどうなんだよ。セイバーの事、好きなのか」
「好きよ。だって嫌いになる要素がないじゃない。
強いし、礼儀正しいし、綺麗だし。うちの皮肉屋とは大違いだわ」
「ふーん。そうか、遠坂はセイバーが好きなのか」
「っ―――! なによ、素直に好きな部類だって言っただけでしょ。あ、貴方ね、そのストレートな物言いは直しなさい。いろいろ敵を作りやすいから」
「お断りだ。遠坂みたいに遠回しなのは嫌いだし、もともと口べたなんだよ、俺は」
「……そうでしょうよ。嫌味とか皮肉とか口にしなさそうだものね、士郎は。ええ、どうせわたしのコトなんて口うるさい嫌味なヤツだとか思ってるでしょ」
「? なんでさ。俺、遠坂が言う分には好きだぞ。なんかさ、そうじゃないと遠坂じゃない気がするし」
「――――――――!」
あ。
癇に触ったのか、遠坂は不機嫌そうに顔を逸らしてしまった。
「…………」
まあ、それより今は、遠坂がセイバーを好きだと言ってくれたコトが、なんとなく嬉しかった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「行ってくるね士郎。今日はおみやげ買ってきてあげるから、おとなしくしてるのよ」
じゃあねー、と手を振って藤ねえは出勤していった。
「わたしも行くわ。今日はうちに寄ってくるから遅くなるけど、夕飯までには戻るから。留守中、軽率な事はしないようにね」
それじゃあ、と視線だけで挨拶をして登校していく遠坂。
「――――さて」
時刻は七時半を過ぎたところだ。
今朝も滞りなく二人を送り出せた事だし、次にやるべき事は決まっている。
「さ、昨日の続きだ。道場に行こう、セイバー」
「え、すぐに鍛錬を始めるのですか? 朝食を摂ったばかりですし、少し間を取るべきではないでしょうか」
「心配は無用だよ。メシの後すぐ動けるぐらいには鍛えてあるし、今朝はパン食だっただろ。あんなんで胃がもたれるほど不健康な生活は送ってないぞ」
「……はあ。シロウがいいというのでしたら、私は構いませんが」
「なら問題なし。いいから行こう。どうやったらセイバーに一太刀あびせられるか、一晩考えた成果を見せてやるから」
「っ…………!」
セイバーの反撃をかわしきれず、受けにまわった竹刀ごと地面に弾き飛ばされた。
「ハッ――――く、っ…………」
竹刀を握っていた指が痺れている。
こうなったら力押しだ、とばかりに全力で踏み込んで食らったカウンターだ。
そりゃあ竹刀も落とすし、床に尻餅もつく。
「―――くそ。今のはうまくいったと思ったんだけどな」
「シロウはその判断が甘い。
いいですか、シロウが捨て身になったところでサーヴァントは倒せません。勝ち気なのはいいですが、それも相手を見てください」
「……む。そうは言うけど、受けに回ってたらいつかはやられるだろう。チャンスがあるならこっちから攻め込まないと」
「その通りですが、シロウはそのチャンスの生かし方を理解していません。捨て身でしかけるのならば、それに相応しい好機を待つべきです」
「言われるまでもないやい。セイバー、さっき少しだけよそ見をしただろ。セイバーがそんなヘマをやるなんて一日で一回あるかないかだから、ここが勝負所だって踏んだんだよ」
「咄嗟にその判断が出来たのは評価しますが、今のはあえて作った隙です。
この程度では動じないだろう、と期待して視線を逸らしたのですが、まさか一直線に踏み込んでくるとは思いませんでした」
「――――う。なんか人が悪いぞセイバー。素人をからかってもいいコトないぞ」
「からかってなどいません。こちらで仕掛けた策であれ、隙である以上は多少のリスクを負います。
もっとも視線を逸らした程度のリスクと、捨て身で突進してくるシロウのリスクは秤《はかり》にかけるまでもありませんが」
「……む。ようするに、小さな隙は静かにつけってコトか? 大振りだとせっかくのチャンスを逃す……んじゃなくて、隙の度合いに見合った行動を取れって言いたいのか、セイバー」
「はい。ですから、好機の大小の読み分けをしっかりしてください」
「ですが昨日よりは格段に、生き死にの境界線には鋭敏になっていますね。危険を察知する感覚が身に付いてくれば、誰と戦い何を打つべきかは自ずと絞られてきますから」
セイバーはどこか嬉しげに言う。
こっちの思い上がりじゃなければ、教え子が少しだけ上達したものと喜んでくれているのかもしれない。
「そろそろ休憩時間ですね。水を汲んできましょうか、シロウ?」
「あ、水ならいいよ。やかんもってきたから、それで飲む」
疲れきった体をひきずって壁際に移動する。
用意しておいたタオルで汗を拭きつつ、やかんに口をつけてごきゅごきゅと水を飲んだ。
「――――はあ」
大きく息を吐く。
……遠坂と藤ねえを見送ってから三時間近く、ただセイバーと打ち合ってた。
相変わらずセイバーは何を指摘するでもなく、こっちも何を訊くでもなく竹刀を交す。
自分の勝つ見込みが希薄な試合ではあるが、それでもセイバーと打ち合う度に体はよく動いてくれる。
戦闘技術の向上なんて期待していない。
これはただ、頭ではなく体に戦いを慣れさせているだけだ。
それでもやらないよりはマシだし、何もないからこそ、この一点だけは鍛えておかなければ話にならない。
いざ敵マスターと対峙した時、どうやって戦うのか、なんて頭で考えていたら、それこそ致命的だろう。
「……セイバーは……やっぱり汗一つかいてないか」
さすがにガックリくるが、一日や二日で彼女に追いつける筈もない。
セイバーは昨日と同じように、正座をして体を休めている。
「――――――――ふむ」
このままぼんやりとしているのもなんだし。
せっかくの休憩時間なんだから話をしよう。
よし、それじゃあ――――
……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。
聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、 セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。
けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。
「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」
「はい。なんでしょう、シロウ」
「その、聞き忘れていた事なんだけど。
セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。
なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」
「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」
「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。
セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」
「ぁ――――シロウ、それは」
「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。
……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」
「――――――――」
セイバーは気まずそうに口を閉ざした。
……まあ、当然か。
セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。
あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。
だから、その第一である望みを口にするのは憚《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。
……だから、止めるべきだったんだ。
そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。
「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」
不意に。
真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。
「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。
ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」
「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。
シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果す為です。私は生前に果たせなかった責任を果す為、聖杯の力を欲している」
まっすぐに。
嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。
「……責任を果す……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」
「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。
私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」
静かに目を伏せるセイバー。
それが。
一瞬だけ、懺悔をする迷《まよ》い子《ご》のように見えた。
「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。
セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」
「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」
「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」
うんうん、と頷く。
そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。
話はそれで終わりだ。
今のは立ち入ってはいけない話だった。
遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。
「――――――――」
ただ、胸に小さな棘は残った。
セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。
◇◇◇
気が付けば正午になっていた。
「お昼時ですね、シロウ」
「ああ、昼時だな」
などと確認しあう俺とセイバーは、仲良く腹の虫を鳴らしていたりする。
「―――メシにしよう。セイバーは何か食べたい物はあるか?」
「私は特に。シロウが用意してくれる食事なら、概ね満足しています」
セイバーの言い回しはどこかおかしい。
……まあ、とりあえず遠坂みたいに口うるさくないのは助かる。
「じゃあ買い出しに行ってくる。昨日と同じぐらいに帰ってくるから、居間に行っててくれ」
「はい。期待しています、シロウ」
昼は以前から試してみたかったエビ団子に挑戦する事にした。
たこ焼きを一回りほど大きくした、中身がほくほくでエビがあつあつの一品だ。
「……マスタードも買ったし、三時のお茶請けもオッケー、と……」
自転車の籠に荷物を押し込む。
―――そう言えば。
昨日はここでイリヤと出逢ったんだっけ。
「―――あいつ、いないな」
いや、毎日ここにいられても困るが、いなければいないで拍子抜けというか、残念というか。
……昨日イリヤと会った事はセイバーにも遠坂にも話していない。
敵として現れた訳でもなかったし、なんとなくイリヤの事を二人に話すのは躊躇われたからだ。
「………………まさかな。昨日いたからって、今日もいるって話でもない」
だから、あとは自転車に乗って―――
◇◇◇
―――少し遠回りして帰ろう。
時間にすれば五分程度の回り道だ。
その程度、ただの気紛れみたいなものなんだから、言い訳をする必要なんてないだろうし――――
公園を通りかかって、ブレーキを引いた。
「――――――――」
自転車を止める。
買い物袋を籠にいれたまま公園に足を踏み入れる。
「――――なんで」
こんな事になっているのか。
ただの気紛れ。
ただ、会えたらいいなという程度の思いつきで寄り道した公園には、
ぼんやりと立ちつくす、銀髪の少女の姿があった。
イリヤは何をするでもなく、ぼんやりと立っている。
俺に気が付いている様子はない。
立ち去ろうとすれば今からでも立ち去れる。
だが―――そんな事をするぐらいなら、初めからこの公園には寄っていない。
「イリヤ」
声をかける。
「――――誰!?」
「いや。誰もなにも士郎だけど」
「え……シロウ、ほんとに……?」
よっぽど意外だったのか、イリヤは目を見開いて俺を見ている。
「なんだよ、驚く事か?
ここは商店街の近くなんだから、通りかかることだってあるだろ。イリヤの方こそ、なんだって今日も公園にいるんだよ。昨日もそうだけど、暇なのかイリヤって」
「うん、実はそうなの。あんまりやるコトがないから遊びに来たんだけど、セラはシロウには会っちゃダメだって。どうせもうすぐ殺しちゃうんだから、シロウと遊んでも楽しくないって言うのよ」
「あ――――いや、それは」
……うわ。
なんと返答したものか、本気で困る台詞をさらっと言われたぞ、今……。
「けどわたし、それは違うと思うわ。だってシロウといると楽しいもの。だからね、ここにいたらシロウに会えるかなって思って、ずっと待ってたの。
―――うん。シロウが来てくれてよかった」
「……ちょっと待て。まさかとは思ったけど、本当に俺を待ってたのか、イリヤ?」
「そうだよ。
ずっと前からね、シロウが来たらいいなーって思ってたんだから」
「……ばか。寒いのは苦手なんだろ。俺に用があるならうちまで―――はまずいか。セイバーと鉢合わせたら問答無用で戦いになる。
いや、それにしたって他に色々あるだろ。昨日みたいに商店街にいれば俺を見つけられただろうし」
「ううん、それはダメなんだ。わたしから会っちゃダメなんだもん。昨日のは一回だけの反則なの。
だから、今日はシロウが来てくれそうな場所で待つコトにして、こうして見事成功したのでありました」
嬉しげに言って、イリヤはくるり、と踊るようにステップを踏んだ。
なびく銀髪は、本当に冬の妖精のようである。
「……それは判ったけどな。なんだって俺に会いに来たんだよ。いや、昨日程度の話でいいんなら付き合うけど」
「ううん、別に今日はなんでもないよ。シロウに会えればいいなって思っただけだし、わたしたちは敵同士だもの。聖杯戦争が終わりそうになったら殺しに来てあげるから、その時いっしょにお話しよ」
無邪気に言う。
……その違和感は、やはり耐え難い。
自分が殺されようとしているからじゃなく、純粋に、この子にマスターなんてものは似合わないと思うのだ。
「……イリヤ。それは、本当におまえがしたい事なのか?
おまえは本当に、自分から聖杯戦争なんてものに首をつっこんだのか」
「むっ。そうだよ、お爺さまの言いつけだもの。
わたしはアインツベルンの中で一番マスターに向いてる、おっきな聖杯の持ち主なんだから」
「……それはお爺さまってヤツの言いなりってコトじゃないのか。イリヤは自分の意志でマスターになったんじゃないだろ」
「んー……そうだったかなぁ……よく思い出せないけど、わたしは生まれた時からマスターだったよ? だから戦うのは当たり前なんだって」
「―――それは違う。人から言われて戦うんなら止めろ。
そもそもイリヤには、こんな殺し合いは似合わない」
ぴたり、とイリヤの動きが止まった。
イリヤはまっすぐに俺の目を見る。
「……ふぅん。命乞いをしてるってワケじゃなさそうね。
お兄ちゃんったら、本気でわたしのコト心配してるんだ」
「……そうだよ。他のヤツはともかく、おまえみたいなのが戦うのはイヤなんだ。出来るなら、マスターを辞めて大人しくしていてほしい」
「くす。そうね、シロウがわたしのサーヴァントになってくれるならやめてもいいよ。そうすれば、シロウを殺さなくてよくなるもの」
「ば―――なな、なに言ってんだおまえ! サーヴァントになれって、意味わかって言ってるのか……!?」
……いや、そもそも俺にバーサーカーの代わりなんか出来るかってーの!
「俺は戦いを止めろって言ってるんだっ。サーヴァントを捨てろって言ってるのに、なんだって俺までイリヤの使い魔にならなくちゃいけないんだよっ」
「使い魔じゃないよ、サーヴァントだってば。
いつもいっしょに居てくれるのがサーヴァントなんでしょ? だから、シロウは側にいてくれるだけでいいんだよ」
「え――――む?」
……ちょっと待て。
もしかして、イリヤ――――
「一つ訊くが。サーヴァントってなんだ、イリヤ」
「わたしのものなんでしょ? いつも側にいてくれて、イリヤを守ってくれる人だってお爺さまは言ってたよ?」
「――――」
……やっぱり。
イリヤにとって、サーヴァントってのはそういうモノなんだ。
令呪もマスターもない。
ただ自分を守ってくれる存在が、彼女にとってはサーヴァントなのだ。
「……そうか。けど、やっぱりダメだ。その条件は飲めないから別のにしてくれ」
「な、なによぅ。
シロウ、わたしじゃ不服だって言うの……?」
「いや、不服とかそういう問題じゃなくて……えっと、なんて言うか――――」
イリヤを心配しているけど、そんな四六時中側にいるような相手にはなれないというか―――
「―――イリヤ、俺にはセイバーがいるんだ。
それにマスターとして、他のマスターを止めなくちゃいけない。その、悪いけどイリヤのサーヴァントにはなれないよ」
「っ……! なによ、シロウだから譲歩してあげたのに、そんなコト言うんならもう知らないんだから……!」
「ちょっ……ちょっとイリヤ、まだ話が――――」
「シロウのばかー! 女の子に恥をかかせるなんてひどいんだからー!」
「あ……行っちまった……」
止める声も聞かず、イリヤは公園から駆けだしていった。
急いで後を追ったものの、何処に行ったのかイリヤの姿は見つけられない。
「……まいったな。これじゃ昨日と同じだ」
溜息をついて自転車まで戻る。
……まあ、それでもあの調子なら、初めて会った夜のようにいきなり襲いかかってくる、なんて事はないだろう。
彼女を説得できる機会は、最低あと一度はあるという事だ。
◇◇◇
昼食を終えて、午後になってもやる事に変わりはない。
飽きることなく、セイバーと一心不乱に竹刀を交わらせる。
遠坂か藤ねえが帰ってくるまで続くその鍛錬は、
来客を告げるチャイムで中断させられた。
「シロウ。来客のようですが」
「ああ、ちゃんと聞こえた。ちょっと出てくるから、セイバーはここにいてくれ」
「……いえ。招かれざる客という事もありえます。万が一に備えて同行しましょう」
「――――む」
セイバーの言う事はもっともだ。
……もっともだが、来客がたまたまご近所の人だった場合、セイバーの事を怪しまれる可能性もある。
なにしろ衛宮さん家は士郎くんが一人で暮らしている事になっているのだから。
しかし……。
「ま、そん時はそん時か」
桜や藤ねえが出入りしてるんだから、今更ご近所の目を気にしても始まるまい。
「よし、付いてきてくれセイバー。ただし、お客さんが普通の人だったら大人しくしててくれよ」
「解っています。私はシロウの遠い親戚、という事ですね?」
「そうそう、それでよろしく」
「はい、いま出ますー!」
何度目かのチャイムに急がされて、玄関の扉を開ける。
「お邪魔する。具合が悪いというから様子を見に来たぞ、衛宮」
と。
やってきたのは敵でもご近所の奥さんでもなく、見知った学校の友人だった。
「なんだ、一成か」
「なんだとは失礼だな。見舞いにきた知人に対してとる態度か、それが」
喝、などと文句を言いながら、一成は手にした紙袋を差し出してくる。
「ん? なんだよこれ。りんご?」
「見舞い品だ。普段風邪一つひかぬ衛宮が病欠しているのだから、それぐらいは持参する」
「――――む」
その心遣いは嬉しいのだが、あいにくこっちは病気で休んでいるワケじゃない。
……それに学校を休んでいる友人に対して、紙袋いっぱいにリンゴを買ってくるのも、年若い学生としてはどうかと思う。
「どうした衛宮。果物は苦手だったか?」
「いや、好きだよ。そうだな。色々複雑だが、気持ちはありがたく」
感謝、とお辞儀をする。
「……衛宮。つかぬ事を訊くのだが、おまえの後ろにいる女性は何者だ?」
「え?」
言われて後ろに振り返る。
そこには当然、付いてきていたセイバーの姿があった。
「あ――――」
そうか。一成のヤツ、俺がお辞儀をした時にセイバーと目があったのか。
「……見たことのない御仁だが。なぜ、かような女性が衛宮の家にいるのだ?」
無遠慮な視線をセイバーに向ける一成。
こいつは人見知りが激しく、初対面の相手や気に入らない相手にはとことん冷たくなる。
「あ、いや、彼女はセイバーって言って、その」
「シロウの遠い親戚です。この家の主人だった切嗣が外国にいたおり、懇意にさせていただきました。
先日こちらに観光に来たのですが、縁を頼りに宿を借りているのです」
「―――――――え?」
セイバーはスラスラと、もっともな説明をする。
「衛宮のお父さんのお知り合いでしたか。聞けばかなりの旅行好きと聞いています。貴方のような人と知り合いになる事もあるでしょう」
「―――――――ええ!?」
一方、あっさりと納得する、人見知りが激しい筈の柳洞一成。
「なるほど、事情は判ったぞ衛宮。
病欠というのは口実で、観光に来た彼女の案内をしていたのだな?」
「あ―――ああ。まあ、そういう事になる」
……うん。とりあえず、大きな目で見れば嘘は付いていないと思うぞ。
「ならお邪魔してもかまうまい。ここまで運んできた礼として茶でも振る舞ってくれ。ここ二日ばかり学校で起きた出来事でも世間話にしよう」
失礼、と靴を脱いであがってくる一成。
「……? なんだよ礼って。いちおう忙しいんだぞ、俺。
世間話はまたの機会にしてくれ」
「何を言っている。オマエ、うちの前に自転車を乗り捨てていっただろう」
「あ……そうか、柳洞寺に自転車置きっぱなしだった」
「だろう。それを持ってきてやったのだ。
俺とて忙しい中、生徒会に行かずまっすぐ家に帰り、ここまで戻ってきたのだ。それでも茶の一つも出せないというのかオマエは」
「――――う」
それは、確かにありがたい。
自転車は三台あるといっても、柳洞寺に乗り捨てた自転車は一番お金がかかっている愛車なのだ。
「……悪いセイバー。少し休憩ってコトでいいか?」
こくん、と無言で頷くセイバー。
「すまない。それじゃセイバーと一成は居間に行っててくれ。俺、お茶煎れてくるから。一成は日本茶、セイバーは紅茶でいいんだよな」
「な……わ、私も同席するのですか!? そ、それはどうかと思います。私がいてはご学友と気軽な話などできないでしょう」
「そんなコトないぞ。だろ、一成」
「うむ。女は喧しいが、セイバーさんなら構わぬ。つつましい女性は文化遺産だ」
「だってさ。んじゃ、先に行っててくれ」
「あ……はい。それは分かりましたが、シロウ」
「なんだ、他になにかあるのか?」
「飲み物でしたら、私も日本茶を。緑茶は嫌いではありません」
なぜかきっぱりと言うセイバー。
いつもの調子でそんな言葉を言われたのが、妙におかしく感じられた。
一時間ほどバカな話をして、一成が帰るコトになった。
居間でした世間話の大半が学校での事で、なにか異状は起きていないかと注意深く聞いてみたが、学校はいつも通りのようだった。
「それではな。明日も休むのか、衛宮は」
「ああ、今週は学校には行かない。明日もセイバーに付き合ってもらわないといけないからな」
「ふむ。まあ、あの御仁と一緒なら問題はなかろう。なにかと不審な所はあるが、問いただすまでもない」
うむ、と一人納得して頷く一成。
……そう言えば、この人見知りの激しい男がよくセイバーを嫌がらなかったもんだ。
「なあ一成。おまえ、セイバーとは初対面だったのに機嫌が良かったけど、どういう風の吹き回しだよ」
「何を言うか。これでも寺の飯で育った身だぞ。人の善し悪しぐらい見抜けなくてどうする。素性は知らぬが、あの子の霊気は澄んでいたからな。悪い人間の筈がない」
「へえ。一成、そういう事判るんだ。ちょっと見直した」
「……まあ、普通は判らん。だがあれぐらい飛び抜けていると未熟者でも見て取れるのだ。
見習い坊主でも、傍らに神仏がおられれば神気ぐらいは感じられる。つまり、それぐらいセイバーさんの佇まいは美しい」
……これまた、珍しい。
一成が、女の子を褒めている。
「そうか。一成もセイバーの事を気に入ってくれたのか」
それは良かった。
セイバーは黙って話を聞いているだけだったから、一成はよく思っていないのでは、と心配だったのだ。
「当然だろう。彼女はいい子じゃないか。嫌うのは難しい」
「うんうん。けどなあ、いいヤツなのは分かるんだけど、ちょっと無愛想だろ。セイバーはいつもああだから、別に一成を嫌ってるって訳じゃないぞ」
「え? 無愛想か、あの子?」
「無愛想だよ。まだ笑った事もないし。俺たちが藤ねえの話でバカ笑いしてた時だって、ずっとムスッとしたままだったじゃないか」
「いや、けっこう笑っていたが?」
「――――え?」
そんな馬鹿な。
そりゃセイバーだって少しは穏やかな顔をする時もある。
けど、そんな目に見えて笑うなんてコト、今まで一度もなかったっていうのにか……!?
「うそだあ。セイバーがハラを抱えて笑ってる姿なんて想像できないぞ、俺」
「……いや、そういうのではなくてだな。
おまえが笑ってるのを見て笑っていたのだが、なんだ、気が付いてなかったのか」
――――?
俺が笑ってるのを見て、笑っていた……?
「……あのさ。それ、俺の事をばかにしてるって事なんだろうか……?」
「――――なるほど、また珍妙な解釈をする。
ま、そのあたりは己れで悩め。何事も自問する事より始まるのだ、喝」
いつもの決まり文句を口にして、あはははは、と笑いながら寺の息子は去っていった。
「む――――なんだアイツ」
思わせぶりなコトを言って帰っていきやがって。
じゃあなの一言ぐらいちゃんと言えってんだ、ばかものめっ。
◇◇◇
日が沈みはじめたところで、今日の鍛錬は終了した。
体力の限界が近かったし、夜は遠坂に魔術を教わらなくてはならない。
セイバーに一太刀あびせるという目標は叶えられなかったが、夜に備えて多少の余力は残しておくべきだろう。
そんなわけで、夕飯は俺の当番だ。
セイバーは俺と入れ替わりで汗を流しに行ったので、しばらくは戻ってきそうにない。
「ただいまー。お、ちゃんと晩ご飯作ってるなシロウ。
えらいえらい、感心感心」
元気よく居間に入って来るなり、すぱーんとまっすぐ座布団に腰を下ろす藤ねえ。
一日の半分は眠っていなければならないセイバーと違って、この人は二十四時間こんな感じだ。
おそらく、眠っている時ですらそうに違いない。
「ねー、士郎―。このりんご、食べていいのー?」
テーブルの上にある、大量のリンゴを手に取りながら言う。
「かまわないぞ。ごらんの通り余ってるからな、一人、一日三個がノルマだ」
「そうなの? じゃあアップルパイでも作ろうかー? おもに士郎がなんだけどー」
お気楽な事を言いつつ、かぷり、とそのままリンゴに噛みつく藤ねえ。
……ちゃんと洗ったものをテーブルに置いておいたんだが、あの人はそのあたり気にしない人なんだろう。
「……まったく、せっかくの見舞い品を……」
勘違いとは言え、俺の体を気遣ってやって来てくれた友人の土産をなんだと思っているのか。
ここは一つ、きちんと言ってやらねばなるまい。
◇◇◇
……夕食の下ごしらえを中断して、エプロンを脱ぐ。
手を洗って居間に出ると、藤ねえの手にリンゴはなかった。
「――――藤ねえ、リンゴ食ったか?」
「うん、食べたよ。甘酸っぱくておいしかった」
「そうか。なら次は藤ねえの番だ。いいから、今食った分の土産を出せ」
「? 土産って、ミカン?」
「……どうしてそういう結論になるのかは聞かないぞ。
俺はただ、藤ねえの用意した土産を出せと言ってるんだ。朝、出かけ際に言った台詞を忘れたワケじゃあるまいな」
「失礼ね、忘れてなんかないですよーだ。ほら、ここにちゃんと用意してあるんだから」
どん、と怪しげな紙袋をテーブルに置くと、どざざー、とその中身をぶちまける藤ねえ。
「――――――――」
意外だ。
自分の言った台詞を覚えているなんて、藤ねえとは思えない。
「……けどそれなんだよ。俺には、その」
どう控えめに見ても、景品レベルのぬいぐるみの廃棄場―――もとい、ぬいぐるみの山にしか見えないのだが。
「士郎にはね、このアステカの石仮面。士郎の部屋って殺風景でしょ? これがあったら少しは温度があがるよ、きっと」
はい、と太陽を模したハートフル&サスペリアな仮面を渡される。
中身にふわふわの綿がつまっているだけの、大きさハンドボールほどの物である。
「……藤ねえ。これ、一回百円か?」
「そうよ、取るの苦労したんだから。二時間もねばって、最後には店員さんに出してもらっちゃった」
えへ、なんて照れ笑いしているが、それがどれほど血に濡れたエピソードなのか、考えるだに恐ろしい。
「えーっと、あとはチャイニーズドラゴンとコウモリとカニとウシとサイとヘビとトツゲキホヘイと……」
藤ねえは山とつまれたぬいぐるみを楽しげに分けている。
ごろごろとテーブルから何体かのぬいぐるみが落ちていって、居間はあっというまに散らかっていく。
……いくのだが、まあ、藤ねえは楽しそうなので水をさすのもなんだろうし。
「―――まあ、もらっとく。藤ねえも整理し終わったら片づけろよ」
「はーい、わかってまーす」
ぬいぐるみを持ったまま台所に踵《きびす》を返す。
―――と。
ちょうど通りかかったのか、居間の入り口でとんでもなく不機嫌そうなセイバーと目があった。
「……………………」
セイバーは何も言わず、ただ居間を睨んでいる。
「セイバー……? もうお風呂から上がったのか?」
「はい、いい湯でした」
などといつもの調子で即答しつつ、ふらふらと夢遊病のように居間に入ってくる。
セイバーはそのままテーブルまで歩いていき、一体のぬいぐるみが落ちているあたりでピタリと立ち止まった。
「大河。この人形は、獅子を模しているのですか」
「え? うん、そうみたいね。ライオンの子供だよ、それ」
「…………………………」
セイバーはじっと足下に落ちているぬいぐるみを見つめている。
「この散らばった人形は大河の物なのですか?
その、そこにある人形たちと同じで」
「そうだけど、セイバーちゃん欲しい? ほしいならあげよっか?」
なんて、気軽に声をかける藤ねえ。
「――――!」
うわ、なに考えてんだ藤ねえ……!
セイバーが不機嫌だって見て判るだろうに、なにそんな素っ頓狂な言動してんだよぅ!
っていうか、そもそもセイバーがそんなの欲しがるとでも――――
「どう、いらない? わたしが持っててもしょうがないし、セイバーちゃんにあげてもいいよ」
セイバーが嫌がっていると気付かず、ライオンのぬいぐるみを持ち上げる藤ねえ。
セイバーはそれを、
「――――是非」
ずい、と真剣に身を乗り出して受け取った。
「……え?」
思考がフリーズする。
それは、どんな目の錯覚か。
あのセイバーが、あんな無駄の塊みたいなぬいぐるみを、大切そうに抱きかかえてるなんて。
「感謝します。ありがとう、大河」
「別にいいよ。それ、虎じゃないんだもん」
……いや。今の発言はなにやら問題あるぞ藤ねえ。
「けど意外かな。こういうの好きなんだ、セイバーちゃんって」
「はい。小さくて可愛らしいものには憧れていました。
あまり、そういったものを手にする機会がなかったもので」
言って、セイバーは手に持ったぬいぐるみへと視線を下ろす。
その顔は、なんていうか――――
「――――?」
……なんだ。
今、なにかおかしな光景が、見えた気がした。
「ん? もしかしてセイバーちゃん、ライオンが好きなの? ライバル?」
セイバーははい、と。ぬいぐるみに向けた笑顔のまま静かに頷いた。
「好き、という訳ではありませんが、縁があるのです。
昔、ライオンの仔を預かっていた事があって、その仔が私によく懐いてくれたのが嬉しかった。
ですから、それ以来獅子には思い入れがあるのです。
本来なら、私は龍を背にする者なのですが」
「ふうん、ライオンの子供かあ……そういえば猫っぽいんだっけ、ライオンの仔って。なに、もしかして噛んだり裂いたり飛んだりする?」
「ええ、そのぐらいはこなすぐらい元気がありましたね。
預かっていたのは一ヶ月だけでしたが、出来ることなら最期まで共にいたかった」
「なるほどなるほど。でも難しいよね、ライオンってすっごく大きくなるじゃない。普通の家じゃ飼えないし、そりゃ手放すしかないか」
うんうん、と一人納得する藤ねえ。
セイバーは一人、まだライオンのぬいぐるみを見つめていた。
「――――――――」
それが、どんな魔法を持っていたのか。
知るはずのない光景が、意味もなく脳裏に浮かんだ。
「――――――――」
……目眩のような物なのだと、自分でも判っている。
それでも、この目眩を振り払う事は出来なかった。
……たった今話していた彼女の思い出。
昔、実際にあった出来事。
幼いライオンの仔と頬を合わせるセイバーは、年相応の少女だった。
それがその時だけの物なのか、俺には判らない。
判るのは、この目眩を振り払うのを惜しいと思う自分がいる、という事だけだ。
「――――――――」
おかしな幻はすぐに消えた。
……ただ、胸がざわつく。
垣間見た幻は、癒えない傷痕のように、脳裏に残った気がした。
◇◇◇
夕飯の支度も終わって、時刻は七時を過ぎた。
居間にはセイバーと藤ねえがおり、この時間にいる筈の遠坂の姿だけがない。
「……あいつ。外で何かあったんじゃないだろうな」
遠坂に限ってそんなヘマはしないと思うが、アイツは時々とんでもないポカをするようだし。
「―――ちょっと見てくるか」
屋敷の周りを見てくるぐらいなら一人でも大丈夫だろう。
廊下に出る。
玄関から外に出ようとした矢先、ガラガラと玄関が開いて、コート姿の遠坂が帰ってきた。
「遠坂」
「ただいま。なに、エプロン姿でお出迎え? わりと似合ってるじゃない、そういうの」
眉一つ動かさず、遠坂は冗談めいた事を言う。
……怖い。
人間、冗談を口にしているクセに顔が真顔っていうのが、一番怖い。
「遠坂、おまえ――――」
何かあったのか、と訊ねようとして、彼女の手についた血の跡に気が付いた。
……わずかな血の跡と、腫れている人差し指。
それって、もしかして。
「遠坂。とてつもなく悪い予感を口にするんだが」
「なによ。つまんない事なら聞かないわよ」
「いや。おまえさ、もしかして誰か殴ってきたんじゃないのか」
「ご名答。何かとやかましい慎二にナックルパートお見舞いしてきわ」
ふん、と鼻を鳴らして通り過ぎていく遠坂。
「………………」
そっか。慎二にナックルパートか。
それなら手についている血の跡も、指の痣も納得がいく―――って、ちょっと待てーーーーーっっっ!!!
「待て待て待て待て! 慎二を殴ったってどういう事だ遠坂!?」
「うるさいわね。気にくわなかったからギッタンギッタンにしてやっただけよ」
「ぎったんぎったんって……ナックルパートってベアか?」
「ベアもベア、グリズリー級にベアよ」
ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。
「………………」
「………………」
しばし、沈黙。
なんと言ったものか口を閉ざしてしまい、妙な間を作ってしまった。
「……話を戻そう。
慎二を殴ったって言うけど、どうしてそんな事になったんだよ」
「殴って当然じゃない。わたしに自分と組めだの、士郎は使えないヤツだから見限れだの言うからよ。
人を呼びつけておいてつまんないこと言うから、殴りつけて黙らせたの」
「…………………」
いや。いくらなんでも、それは短慮すぎないか遠坂。
……いや、それとも。
普段冷静な遠坂が頭にきちまうほど、慎二はバカなコトを言ったのだろうか?
「……なによその目。いっとくけど、被害者はわたしの方よ?」
「いや、それは両成敗だろう。
……にしても、なんで慎二が遠坂にそんな話をするんだ。あいつ、俺に協力しないかって持ち出してきたんだぞ」
「さあ。アイツ、士郎にライバル意識でもあるんじゃない? わたしと士郎が一緒に住んでるって教えてから、かなりおかしくなってたし」
「ええ!? 住んでること教えたって、遠坂、慎二に俺たちのコトを話したのか!?」
「ええ、話したわよ? 昨日の朝だったかな。慎二のヤツ、わたしを呼びつけて僕もマスターになったから遠坂と同じさ、なんて偉そうに言ってくるんだもの。なんか頭に来てね、それじゃあ士郎も同じよって言ってやったの。
それで身の程を知ったかなって思ってたのに、ついさっきうちの前で待ち伏せしてたってワケ」
「で、悪いけどもう衛宮くんの家で暮らしているから、アンタみたいな半端なマスターと協力する気はないって言ったんだけど……なに、もしかしてまずかった?」
「――――――」
それはまずいだろう、フツー。
ただでさえ慎二は遠坂を意識していたのに、これじゃあ火に油をそそぐようなものだ。
……まあ、それにしても……そうか、それで合点がいった。
慎二が遠坂だけを敵視していた理由と、執拗に遠坂に協力を求めた理由。
ようするに、あいつは―――
「けど不思議よね。慎二のヤツ、何だってわたしに拘《こだわ》るのかしら。アイツの性格からいって、誰かと協力するなんて考えは浮かばないと思うんだけど」
―――いや。
だからそれは、間桐慎二にとって、遠坂凛が特別だからだ。
「不思議でもなんでもない。慎二にとって遠坂は特別なんだと思う。
あいつ、元々魔術師の家系だったんだろ。
なら―――同じ魔術師の家系で、まだちゃんと血を残している遠坂に憧れていたんじゃないかな」
だから遠坂に固執している。
あいつにとっては、聖杯戦争なんてものが始まる前から、遠坂凛は求愛の対象だったのではないだろうか。
「ええー!? ……ちょっと、そりゃあ好意を持たれるのは嬉しい、けど―――」
よっぽど意外だったのか、うーん、と考え込む遠坂。
「……あ、思い出した。そういえば一年の頃、慎二に告白されてたわ、わたし」
あっちゃあ、忘れてたー、なんて、とんでもないリアクションをする。
……うう。今だけは慎二に同情しよう。
「うわ、どうりで懲りずに話しかけてくる筈だ。納得したわ」
「……まあいいけど。それ、返事はどうしたんだよ」
「ああ、断ったんじゃない?
わたし、勝負ごとは先出しじゃないと気が済まないの。
やるなら自分からっていうか、相手から勝負をしかけられても乗れないっていうか」
よく覚えていないのか、うーん、と遠坂は考え込む。
―――呆れた。
こいつ、ほんとは感性だけで生きてる生物なのかもしれぬ。
「遠坂。おまえじゃんけん弱いだろう」
「え!? うそ、なんでアンタがそんなコト知ってるのよ!?」
……やっぱりそうだったか。
そりゃあ先出しが好きなら、さぞ後出しには弱かろうってもんだ。
「それには醤油を使ってくれセイバー。間違ってもマヨネーズなんてかけてくれるな」
「―――そうでしたか。いえ、大河がそちらをかけているので、私もそうするべきなのかと」
「………………」
「藤ねえは単に遊んでるだけだ。あんまり参考にならないから、以後気を付けるように」
「……そうでしたか。以前は桜を参考にしていたので、シロウに注意されるコトはなかったのですが」
「いや、別に怒ってるわけじゃない。せっかく作ったんだから、おいしく食べてほしいだけだ。で、さっきの話に戻るんだけど」
「………………………………」
「士郎、おかわり。おみそ汁は具だくさんね」
「あいよ。セイバーは? 今日は昨日よりハードだったから、お腹減ってるんじゃないか?」
「私は特に。ですが念のため、もう一杯いただいておきます」
「ああ、そうしろそうしろ。夜中に腹が減って眠れず、あげく冷蔵庫を漁るなんて暴挙に出る、なんて真似をセイバーまでしだしたらショック死しかねない」
「………………………………」
「あ、ひっどーい。アレはわたしじゃないよぅ。見知らぬ泥棒さんが冷蔵庫を荒らしていっただけだい」
「じゃあその泥棒にいっとけ。肉ばっかり食うんじゃなくて野菜もとれってな。それと狙いすましたように冷蔵庫のデザートを平らげるなと。まったく、飢えた獣じゃあるまいし」
「なにい!? ええーい、わたしを虎と呼ぶなー!」
「うわ、呼んでねーって! あつ、熱した大根を投げるなと言うんだこのバカもの!」
「………………………………」
「シロウ。台所の方で鍋が沸騰しているようですが」
「え? あ、藤ねえちょっとたんま、火を止めてくる」
「よろしい。鶏肉とゆでたまごのしょうゆ煮を早くもってくるのだ」
「了解。んじゃ藤ねえの相手よろしくな、セイバー」
「はい。どうぞ慌てずに調理をしてください、シロウ」
「………………………………」
席を立つ。
……と、そういえば。
なんで遠坂のヤツ、さっきからずっと黙ってるんだろう……?
「遠坂? 今日の飯、まずいか?」
「別に。なんでもないから話しかけないで」
ふい、と不機嫌そうに顔を逸らす。
……ふむ。慎二の件をここまで引っぱってくるようなヤツじゃなし、なんか気に障るコトでもあったんだろうか。
夕食がいつも通り終わって、藤ねえは満足して帰っていった。
居間にはセイバーと遠坂がいる。
以前までは気まずい雰囲気ではあったが、ここ二日セイバーと鍛錬していただけあって、居づらい空気ではなくなっている。
「セイバー、もう眠っていていいぞ。後はこっちでやっとくから」
「いえ、シロウが眠るまでは私も起きています。シロウの魔術がどれほどの腕なのか、凛から聞きたいところでもありますから」
「そうか。なら今日は早めに遠坂の部屋に行こう。かまわないよな、遠坂?」
「ええ、構わないけど。随分とセイバーと仲良くなったのね、貴方」
……?
なぜか、食事時と同じ不機嫌さで遠坂はそんなコトを言った。
「部屋で待ってるから、後片づけが終わったら来て。
……それと、明日からはわたしも学校を休むから。午後はわたしのところに来なさいよね」
ふん、と不機嫌そうなまま居間を後にする遠坂。
「シロウ、凛に何かしたのですか? 彼女は怒っているように見えましたが」
「セイバーにもそう見えたか?
……分からないな。俺、あいつを怒らせるようなコトはしてないけど」
セイバーと二人、顔を合わせて首を傾げる。
遠坂が怒っている理由なんて、てんで見当がつかなかった。
◇◇◇
「それじゃ、手始めにこのランプを“強化”してみて。
まわりのガラスの強度だけあげればいいから」
はい、と時代がかったランプを手渡された。
「――――――――」
床に座する。
ランプを両手に持って大きく深呼吸をする。
遠坂は簡単に言うが、こっちは緊張で全身がかたまっている。
毎晩やっている事とはいえ、成功率は実にれーてんいちパーセントを切っているのが現状なのである。
遠坂は俺の腕前を計るために“強化”の度合いを見るというが、そもそもその強化が成功しなかったら腕前を計るも何もない。
「――――――――」
いかん、と雑念を振り払う。
まずはランプに意識を集中させる。
浮かび上がってくるのはランプの設計図だ。
ガラスの材質とカタチ、力の流れ、人間でいうところの血管まで図面にできる。
なら、あとはその血管に自身の魔力を注ぎ込むだけだ。
……いつもの要領でやればいい。
背骨に焼けた鉄の棒を入れていく感覚。
決して人の体とは相容れない、焼けた神経を一本だけ体に突き刺し、自分の体になじませるだけ。
それさえうまく行けば、あとはこのガラスに見合った量の魔力を注ぎ込むだけで――――
「――――あ」
割った。
コントロールできなかったのか、適量を超えて魔力を注ぎ込んだ結果、ガラスはあっけなく割れてしまった。
「……………………」
恐る恐る遠坂を見上げてみる。
「……やっぱり。そうじゃないかって思ってたんだけど、本当にそうだったか」
がっかりと肩を落とす遠坂。
「ん? そうじゃないかって、何がだよ遠坂」
「そんなの決まってるでしょ、アンタの才能のなさに呆れたのよ……! そもそも基本がなってない。まったく、よくもそんなデタラメな方法で魔力を生成できるもんだって感心するわよ!」
「……遠坂。その、もしかして怒ってる?」
「当たり前じゃない! こんな基本的な問題を抱えたまま鍛錬してきたアンタにも呆れてるし、間違いをたださなかったアンタの師には殺意さえ覚えるわ。
なんだってアンタは、こんな遠回りなコトになってるのよ……!」
「……む。言っているコトは判らないが、親父の悪口はよせ。俺に才能がないのは俺の責任なんだから、親父は関係ないだろ」
「関係あるわよ。仮にも弟子にしたんなら、教え子の道を正すのが師匠じゃない。
……そりゃあもういない人にあたっても仕方がないけど、それにしたってアンタの師匠は初めの手順を間違えてるわ」
ぷんすかと怒りながら、遠坂は荷物から缶のような物を取り出した。
その、外国の子供が愛用していそうな、色とりどりのドロップが入った缶だ。
日本でも類似品をよく見かける。
何種類かのあめ玉が入っていて、白色をしたドロップはハッカ味っていうアレだ。
「士郎、手、出して」
「?」
とりあえず手を出す。
遠坂は缶をふって、赤っぽいドロップを出した。
「はい、それ飲んで」
「???」
とりあえず、言われた通りに口に運ぶ。
「……甘くない」
いや、むしろ味なんてない。
それにこの舌触り、飴っていうより石なんじゃないだろうか。
「……ん……」
ごくん、と無理やり飲み込む。
「うわ、いたっ。食道がヒリヒリするけど、今のはなんなんだよ遠坂」
「なにって宝石に決まってるじゃない。見て判らなかった?」
しれっと。
遠坂はとんでもないコトを口にする。
「な、宝石って、なんで……!?」
「仕方ないでしょ。薬も用意してきたんだけど、士郎を矯正するにはそんな物じゃ効かないの。だから一番強いのでスイッチを開くしかないなって」
「いや、そういうコトじゃなくてだな……! なんだって宝石なんか飲ますんだよ、おまえは! そんなん消化できるか!」
「……あのね。不安がるならもっと別のコトを不安がりなさい、ただの宝石じゃないんだから。
今のは、まだ判ってない貴方に、強制的に判らせる為の強制装置。そろそろ溶け始める頃だから、気合い入れてないと気絶するわよ」
「気絶するわよ、ってなにさわやかに物騒なコ―――」
そう言いかけた矢先、
その異状はやってきた。
「――――――――!?」
体が熱い。
手足の感覚が麻痺していく。
背中には痛みとしか思えない熱さがかたまっている。
意識を眉間に集めて、ぎゅっと絞っていなければ立っていられない。
「っ――――おまえ、これ、は」
知っている。
この感覚を知っている。
これは、失敗だ。
魔術回路を自分に組み込もうとして、失敗した時に起こる、体の反発そのものじゃないか―――!
「大丈夫、苦しいでしょうけど今の状態を維持していれば少しずつ楽になるわ。もっとも、体の熱さだけは二三週間続くだろうけど」
……なんか言い返してやりたいのだが、そんな余裕はない。
今はただ、体が倒れないように全力でバランスを整えるしかできない。
「いい? 魔術師と人間の違いっていうのは、スイッチがあるかないかなの。
このスイッチっていうのは魔術回路のオンオフだってのは判るでしょ。
ほら、そこにお湯を沸かせる電気ポットがあるじゃない。魔術師っていうのはソレなの。で、普通の人はお湯は沸かせないけどお湯を保温できるポットってワケ」
「似たようで違うモノなのよ、私たちは。
お湯を沸かすスイッチの有る無しは、もう個人ではどうしようもない問題でしょ。
生まれつき―――いえ、作られる時に電気ポットか保温瓶か分けられるんだもの。スイッチがない人には、一生魔術なんて体験できない」
「いい? 貴方は素人だけど、魔術回路は確かにある。
つまり適性はあるのよ。だから一度でも魔術回路を体内に作ってしまえば、あとは切り替えるだけでいい。
スイッチを押して、自分の中でオンとオフを切り替えるだけで魔力は成るわ」
……呼吸を落ち着ける。
遠坂の言うとおり、自分を抑えてさえいれば、状態が悪化する事はないようだ。
「魔術回路を作るのは一度だけでいいのよ。 だっていうのに、貴方は毎回一から魔術回路を作って、自分の中に組み込もうとしている」
「それは無駄なの。一度でも体内に確立したものなら、あとは切り替えるだけでいいんだから。
……本来ね、魔術回路を成し得た者は、次にいつでも切り替えられる鍛錬を受けるのよ。
けど貴方の師はそれをしなかった。だから毎回、死の危険性を負って魔術回路を作る、なんて真似をしてる。
……いえ、もしかしたら貴方の父親も、同じ勘違いをしていたのかもしれないけど」
息を吐く。
手足の神経が、少しずつ感覚を取り戻していく。
「長年《ずっと》間違って鍛錬してきた貴方のスイッチは閉じている。こうなっちゃうと力技でこじ開けて、士郎の体に“スイッチ”があるって報せなくちゃいけないでしょ」
「いい、今の宝石はね、そのスイッチを強制的にオンにするものよ。だから士郎はずっとそのまま。もとの状態に戻りたかったら、士郎自身の力でオフにするしかない。
それが出来たのなら、あとは宝石の助けなんていらないわ。以後は比較的簡単な精神の作用で、貴方は魔術回路を操れるようになる」
「っ……それは、判った、けど」
この体の熱さは、なんとかならないものか。
それにスイッチのオフだなんて言われても、そんなものどうしろっていうのか。
「え、もう喋れるの!?
……ふうん、自身のコントロールは上手いんだ。なら思ったより早く元に戻れるかもね。
スイッチそのものは、今の状態を落ち着けよう、早く楽になろうって体の方で勝手にオフにしてくれるから。
あとはそのスピードを自分の意志で速くするだけ。ね、簡単でしょ?」
「……いや……だから、全然判らない。
スイッチだなんて言われても実感湧かないぞ、俺」
「今はそうだけど、そのうち明確にイメージできるようになるわ。頭の中にぽんってボタンが浮かぶようになるから。あとはそれを切り替えるだけで、とりあえず魔術回路は簡単に開けるようになるわよ」
「………だといいけどな。いまは、ともかく気持ち悪い……」
「でしょうね。士郎、今まで強化の魔術を使ったらすぐに魔術回路を閉じてたでしょ?
今はその逆で、ずっと魔術回路が開いている状態だもの。いつでも全力疾走しているようなものだから、苦しいのは当たり前よ。
けど、魔術師を名乗るならそれぐらいは必須条件なんだから。マスターとして戦うっていうんなら、スイッチのオンオフはきっと士郎の助けになる」
「…………判ってる。不意打ちだったけど、遠坂には感謝してる。たしかに、スイッチなんて物が実感できるようになるなら、それはプラスだからな」
「……判ってるじゃない。けど感謝されるいわれなんてないわよ。わたしは、協力者であるアンタが弱いままだと困るから手助けしてるだけなんだから」
ふん、と顔を背ける遠坂。
体が熱いせいだろうか。
照れている遠坂をいいヤツだな、とぼんやりと思ってしまった。
「……なによ。人の顔じろじろ見て」
「いや。遠坂は素直じゃないなって思っただけだ」
「……そう。そんな軽口を叩けるなんて、余裕あるじゃない衛宮くん。そんなに元気なら続けて教えても大丈夫よねぇ?」
遠坂はにやり、と笑って詰め寄ってくる。
「…………う」
ちょっと、待て。
まだ体が全然動かないっていうのに、おい。
「それじゃもう一度“強化”をしてみて。
今の貴方じゃ魔力のコントロールもできないだろうけど、その状態に馴れてもらわないと戦力にならないわ。
大丈夫、ランプは山ほど持ってきたし。何十回失敗するか判らないけど、強化が成功するまで休ませてなんてあげないから」
にっこりと笑って、ろくに動けない俺にランプを手渡してくる。
「…………う」
うわあ……それって四十度の熱がある男に、長い長い綱渡りをしろと言っているのと大差ないぞ、遠坂……。
「……まいったわ。まさか、こっちが先に根を上げる事になるなんてね」
じろり、と。
なんともいえない玄妙な目で、遠坂は俺を非難している。
「………………いや。面目ない」
「わたしの見通しが甘かった。まさか三十個全部壊されるなんて思いもしなかったから。
……悪いけど、今日の鍛錬はこれでおしまいよ。士郎の強化を計れる道具がないから」
「……う」
いや、俺だって努力はしたぞ。
こんな、釜茹されて煮上がったような体で頑張った。
頑張ったが、結局、一回も“強化”が成功しなかっただけではないか。
「……あのさ。ガラスが割れただけなら、遠坂直せるだろ。以前うちの窓ガラスを直してくれたじゃないか」
「無理。アレは普通に破損したものでしょ。こっちは士郎の魔力に耐えきれなくなって割れたものだもの。他人の魔力を帯びた物に干渉するのは難しいって、覚えておいて」
「――――む。そうですか」
「そうよ。……いいから、士郎は休んでいいわ。今日はスイッチを呼び起こしただけでよしとしましょう。
コントロールできるようになったら、この続きを教えるから」
「……ふう。休んでいいのは有り難いけど。この続きって、何を教えてくれるんだ?」
「士郎、強化しかできないんでしょ? 前にそれしか使えないって言ってたけど、それならもう少し上級の“変化”ぐらいまで持っていけるかもしれない。
強化と変化、それに投影の魔術について教わった事はない?」
「――――――――む」
……それなら、少しはある。
強化とは文字通り、物を強化することだ。
強化はおもに物を硬くする事と思われがちだが、実際は物の効果を強化させる。
刃物ならより切れやすく、ランプならより明るく、という風に。
変化もそう説明するまでもないだろう。
たとえば、刃物で火を起こす事はできない。
そういった本来の効果以外の能力を付属させるのが変化だという。
で、投影っていうのは、たしか――――
「……? 投影ってなんだっけ、遠坂。よく親父が言ってた覚えはあるんだけど」
「強化と変化は知ってるんでしょ? なら投影も自ずと想像はつくと思うけど。
ま、ようするに物を複製するって魔術よ。
強化や変化みたいに、もとからある物に手を加える魔術じゃないわ。
基本的には無から、一から十を全て自分の魔力で構成するものだから、難易度的には最高ね」
「あー……けど、魔力ってのは使い捨てでしょ?
“投影”で作り上げた物はすぐに消えてしまうのよ。
十の魔力を使って作り上げた“投影”の剣と、一の魔力で“強化”させた剣とでは、“強化”の剣の方が強くなる。
強化は手を加えるだけでいいから効率がいいってわけ。
その点、投影は魔力を使いすぎるからメジャーに使われる魔術じゃないわ」
「……あ、思い出した。そういえば親父もそんな事言ってたな。割が合わないから止めろ、みたいな」
「そういう事。さ、質問が済んだのなら終わりにしましょう。……足下もおぼつかないようだし、部屋の前までぐらいは送っていってあげるから」
部屋の前まで送ってもらう。
と、縁側でセイバーが俺の帰りを待っていた。
「お疲れさまでした、二人とも」
「…………」
返事をする気力もない。
さんきゅ、と頷きだけで答えて、とりあえず部屋へ移動する。
「シロウはどうですか、凛」
「だめ。すっごくだめ。あいつ才能ないわ」
遠坂らしい、容赦ない一言だった。
……そうして、気が付けば夜空を見上げていた。
今夜はセイバーが気になって逃げてきたワケじゃない。
遠坂に教えられた事と、まだ熱いままの体を持て余して、こうして夜風を浴びているだけだった。
「……しかし。スイッチとやらが本当に使いこなせるようになったら、あとは手順の問題だ。
一番簡単な強化をあんなに失敗するようじゃ、先が思いやられるな……」
呟きながら、土蔵から持ち出した角材に魔力を込める。
――――ぱきん、という音。
やはり強化はうまくいかず、角材には罅《ヒビ》が入っただけだった。
「……中の構造まで見えてるのに。どうして、こう魔力の制御ができないんだろう」
遠坂は力みすぎている、と言っていた。
もっと小さな魔力でいいから、物の弱い箇所を補強する事だけを考えろとも。
……ようするに、今よりもっと手を抜け、という事だろうか。
「……そんな事、言われなくても分ってるけどな」
問題はその力みをほぐす手段がない、という事。
肩の力を抜くいい方法があったらいいんだが―――
「…………」
闇に染み込んでいくような足音。
無遠慮に近づいてくるこの気配は、これで二度目だ。
「……なんだよ。おまえに用なんてないぞ、俺は」
「それは私も同じだ。だが、凛が気に病んでいるようなのでな。見るに見かねた、というヤツだ」
「………………」
アーチャーを睨みながら、手にした角材を放り投げる。
と、興味深そうにアーチャーは角材を拾い上げていた。
「強化の魔術か。にしてもひどい出来だ」
「っ……! ふん、どうせ半人前だよ。おまえのマスターの手を煩わせて悪かったなってんだ」
「いや、そうではない。これに関しては凛も間違えている」
「え……? それは、どういう―――」
「ふん、元から有るものに手を加える? それは高望みしすぎだ。そんな事ができるほど、おまえは器用ではあるまい」
「な……!」
言わしておけば言いたい放題……! ……なのだが、その通りなんで反論しようがない。
俺が不器用なのは事実だし、魔術がうまくいかないのも自分自身の責任だ。
それを、こいつに当たってもしょうがないだろう。
「――――どうした。昨夜ほどの元気はないか」
「うるさい。おまえの言うとおりだから黙っただけだ。
俺が未熟なのが、一方的に悪いんだからな」
ふん、と顔を背ける。
それをどうとったのか、
「……ふむ。おまえはある意味、師に恵まれていないのかもしれないな」
感心したような声で、アーチャーはそう言った。
「え……? そんな事ないぞ。親父も遠坂も教え方はうまいんだから。覚えが悪いのは俺の方だろ」
「―――だからだ。おまえ相手にはな、何も判っていない魔術師の方がうまく作用する。
天才には凡人の悩みは判らない。
凛は優等生すぎるから、落ちこぼれであるおまえの間違いに気がつかないのだ」
「?」
アーチャーの言いたい事はよく分からない。
分からないが、単純に言葉尻を捉えてみると。
「よく判んないけど。つまりおまえ、俺に喧嘩売ってるのか」
今なら買うぞ、二束三文で。
「―――それも間違いだ。衛宮士郎は格闘には向かない。
おまえの戦いは精神の戦い、己との戦いであるべきだからだ」
「む……魔術師の戦いは精神戦だって言うんだろ。そんなの判ってる。それでも、戦うなら殴り合うしかないじゃないか」
「―――まったく。これではセイバーも苦労しよう」
心底こちらを見下げるアーチャー。
その目には今までになかった、本気の落胆と怒りが混ざっていた。
「一度しか言わんからよく聞け。
いいか、戦いになれば衛宮士郎に勝ち目などない。
おまえのスキルでは、何をやってもサーヴァントには通じない」
「…………っ」
それは、セイバーにも言われた事だ。
戦いになっては勝てない。
どんな奇策を用いようと、戦いになっては衛宮士郎に勝機などない、と。
「ならば、せめてイメージしろ。現実では敵わない相手ならば、想像の中で勝て。
自身が勝てないのなら、勝《・・・・・・・・・・》てるモノを幻想しろ。
―――所詮。おまえに出来る事など、それぐらいしかないのだから」
「な――――」
なぜかは分からない。
ただアーチャーの言葉は、どうしようもなく素直に、この胸に落ちた気がした。
忘れるな、と。
この男の言っている事は、決して忘れてはならない事だと、誰より俺自身が思っている―――
「……どうかしているな、殺すべき相手に助言をするなど。どうやら私にも、凛の甘さが移ったようだ」
唐突にアーチャーは消えた。
本来、アーチャーは見張り役だ。
見張りに適した屋根まで、跳んで戻っていったのだろう。
「……なんだ、あいつ」
居なくなった相手に向かって、ぼそりと文句を言う。
答えなど返ってこない。
やけに頭に残るアーチャーの台詞を反芻しながら、火照った体で、冷たい冬の空気を感じていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
……夢を見ている。
血が熱をおびて、体中が脈動しているせいだろう。
思い出す必要などない光景を、また、こんなふうに繰り返している。
それは今の衛宮士《じぶん》郎にとって、一番古い記憶だった。
同時に、一生切り離せない記憶でもある。
普段は思い返す事もないクセに、決して消し去れない十年前の光景。
忘れていた訳でもない。
忘れたい訳でもない。
自分にとって、それは起きてしまった出来事にすぎなかった。
だから特別、痛いと思う事もなく。
それは殊更、怒りに震える事でもない。
過ぎ去ってしまった事は、もうそれだけの話だ。
やり直す事は出来ないし、引き返す事だって出来ない。
この光景から抜け出して、衛宮士郎は今もこうして続いている。
そんな自分に出来る事は、ただ前を見る事だけだ。
……誰に教えられた訳でもない。
ただ漠然と、幼い頃から思っていた。
過去を忘れず、否定せず。
ただ肯定する事でしか、失ったモノを生かす事などできないのだと――――
「あ―――つ」
自分の体の熱さで目が覚めた。
……どのくらい眠っていたのか。
結局、部屋に戻らず夜風を浴びているうちに眠ってしまったのだろう。
薄暗い土蔵には俺と――――
「っ、セイバー……!?」
「目が覚めましたかシロウ。部屋を抜け出すのはかまいませんが、ここで眠るのはだらしがないのではありませんか」
―――なんだか文句を言いたそうな、セイバーの姿があった。
「あ、おはよう。いや、昨夜は体が熱くて、外に出ていたらつい眠くなっちまったんだ」
「見れば判ります。説明はいいですから、次からは気を付けてください。マスターにこのような場所で休息を取られては、私の立場がありませんから」
「う……すまん、今後は出来るだけ部屋で休む」
「分かっていただければ助かります。
ところでシロウ。先ほどから大河が呼んでいるのですが」
「藤ねえが……? 呼んでるって、なんでさ」
「朝食の問題ではないでしょうか。朝食の時間はとうに過ぎていますから」
「え―――うわ、もう七時過ぎてるのか……!? やばい、寝過ごした……!」
「そうですね。シロウが最後に起きるのは珍しい。よほど昨夜の凛との鍛錬が堪えたのでしょう」
冷静に事態を分析するセイバー。
が、こっちにそんな余裕はない。
「起こしに来てくれて悪いが、先に戻っていてくれ。俺もすぐに着替えて台所に行くから」
「はい。それでは、できるかぎり大河をなだめているとしましょう」
セイバーは落ち着いた足取りで去っていった。
しかし藤ねえをなだめてるって……セイバーも随分とうちの朝に順応したなぁ……。
台所に駆け込む。
背中に浴びせられる藤ねえのバリゾーゴンを聞き流しながら、ざっと五分足らずで朝食の用意をした。
「お待たせ。学校の門限まで時間がないからな、手早く食べちゃってくれ」
ことん、とテーブルに朝食を置く。
「な――――」
と。
「なんじゃこりゃーーーっ!!」
ずがーん、と気炎をあげる藤ねえが一人。
「なにこれ、焼いたトーストだけじゃない! 士郎、なんで今日の朝ごはんこれだけなのよぅ……!」
「……あのな、仕方ないだろ寝坊したんだから。他のもの作ってる余裕なんてないし、だいたいパン食なんてこんなもんじゃないか。たんにサラダと卵焼きがないだけなんだから、そう大差ないぞ」
「大差なんてありますっ!
ね、みんなもそう思うでしょ!?」
無言で朝食を摂っているセイバーと遠坂に声をかける藤ねえ。
だが甘い。
二人とも藤ねえほど食い意地は張ってないんだ。同意なんてとれるもんか。
「……そうね。藤村先生じゃないけど、こんな手抜きは容認できないかな。パン食を舐めてるとしか思えないわ」
……って、ちょっと待て。
おまえ、もとから朝食は摂らないスタイルじゃなかったっけ。
「……………………ふう」
うわ、なんだその、あからさまに失望したような溜息は!? セイバー、なんかキャラ違ってないか!?
「ほら、みんな士郎が悪いって。多数決で決定したから、反省した後《のち》ちゃんとした朝ごはんを提供すること」
「そんな出来レースに従えるかっ! そもそもな、今からおかずなんて作ってたら遅刻するぞ藤ねえ。もう七時半なんだから、パンかじりながら走ってかないと間に合わないから諦めろと提案するっ!」
「いいよ。わたし、遅刻か空腹かの選択なら、朝ごはんを尊重するから」
「するな! そんな教師が何処にいる……! いいからさっさと食べて学校に行けっての。言っとくけど、俺は意地でもこれ以外のメシは用意しないからなっ」
「むー。もう、士郎ったらヘンなところで真面目なんだから。そんな爺くさいコトいってると、すぐお爺さんになっちゃうんだからね」
「言われるまでもない。藤ねえのおかげで俺はすっかり爺さん趣味だよ」
ふん、と言い返してトーストをかじる。
……いや、まあ実際。
これだけの人数が顔を合わせているっていうのに、朝食がパンだけというのは寂しいものがあるんだけど。
◇◇◇
竹刀の音が響く。
立ち会いの内容は相変わらずだ。
躍起になって攻める俺と、それを軽くいなして倍の鋭さで反撃してくるセイバー。
それをなんとか凌いで、懲りずに打ち込んであえなく敗退―――なんていう試合を繰り返している。
「は――――はぁ、はぁ、は」
足を止めて、肩で大きく呼吸をとった。
額に流れる汗を腕でぬぐって、ほう、と呼吸をとる。
「何を休んでいるのですか。昨日までのシロウなら、そこで諦めるような事はなかった筈です。さあ、早く打ち込んできてください」
「いや―――ちょっと、待った。これ以上は息が続かない。少し、休憩」
「何をらしくない事を。シロウが来ないというのでしたら、私から攻め込むだけですが。それでも構わないのですね」
む、と出来の悪い教え子を見据えるセイバー。
だが、そんな顔されたって体は満足に動かないのだ。
「……はあ。一体どうしたのですシロウ。今朝の貴方は今までとは別人のようです。
まっすぐに打ち込んでくる太刀だけは目を見張るモノがあったというのに、今朝のシロウには力強さを感じません」
「……それは自分でも判ってるんだけどな……どうも上手くいかない」
その、昨日とは状況が違いすぎて。
「体の熱がまだ取れないのですか? ですが、そんな理由で体のキレが落ちるようでは話になりません。少し頭を冷やして、気持ちを入れ替えてください」
「―――いや。そうするんだったら、まずアレをなんとかしてくれ」
くい、と壁際に立っている傍観者を指さす。
「なに? わたしに構わなくていいから、訓練を続けていいわよ?」
「………………」
遠坂はぜんぜん分かってない。
そこでぼーっと眺められていると、気になってセイバーと真剣に打ち合えないんだって事を。
「凛が気になるのですか。それこそ修行不足ですね。
……いいでしょう。それでしたら、見学者の事など気にならないようにしてさしあげます」
ぎゅっ、と竹刀を力強く握るセイバー。
「うわ、待てセイバー、こっちはまだ息が――――」
「問題はありません。そのようなものは、戦いの最中に整えるものです」
セイバーが視界から消える。
「――――!」
まずい、と咄嗟《とっさ》に竹刀で顔を守った瞬間、スパーン、とセイバーの竹刀が脳天に直撃していた。
……そんなワケで、今朝の鍛錬は苛烈を極めた。
一度気絶させられてからは遠坂の視線は気にならなくなり、セイバーの打ち込みを防ぐことだけに没頭しているとあっという間に昼になっていた次第である。
「けどアレよね、セイバーってほんとに冷静よね。
三時間も士郎と試合してて、眉一つ動かさないんだから。普段も無口だけど、戦闘時はさらに磨きがかかるっていうか。なに、もう無機質? みたいな感じ」
俺がぼてくりまわされた姿がそんなに気に入ったのか、遠坂はともかく上機嫌だ。
二人は居間で休んでいる。
俺はというと、今朝の不真面目さの罰として一人で昼飯の当番中だ。
……ったく。
手を抜いて素麺あたりでパパーッと済ませたい。
「無機質、ですか……? そうですね、そう意識した事はありませんが、剣を握っている時は感情を止めているのかもしれません。それは試合と言えども変わりはないのでしょう」
「ふうん。なに、それって女の身で剣を持つ為の心構えってヤツ? 体格で劣っているから、心だけは負けないようにって」
「それは違います、凛。冷静であるのは戦う時の心構えですが、それは男も女も変わりのない事でしょう。
凛とて戦闘時には情を捨てる筈です。貴方はそれが出来る人ですから」
「む……言い切ってくれるじゃない。まあ、そりゃあ事実だけどさ。
けどセイバーのはわたしとは違うわよ、絶対。わたしは捨ててるのは甘さだけだもの。貴女ほど達観はできないわ」
「そのようですね。だから貴方は華やかなのでしょう。
戦いの中でも女性のしなやかさを保っていられる」
「なによ、嫌味? 華やかさで言ったら貴女には敵わないわ。……士郎があっちにいるから白状するけどね、わたし、初めて貴女を見た瞬間にすっごい美人だなって見とれたんだから」
……いや。聞こえてるぞ遠坂。
「―――それは凛の思い違いでしょう。この身が華やかに見えたのなら、それは私ではなくセイバーという役割《クラス》が華やかなだけではないでしょうか」
「そんなんじゃないってば。純粋にね、同じ女として負けたって思ったんだもの。……そうでもなければあそこまでショックは受けなかったわよ」
「……ですから、それが間違いです。私は一度も自身を女性だと思った事はないし、一度も女性として扱われた事はありません。
その私が、華やかである筈がない」
セイバーのそんな言葉で、二人の会話は途切れてしまった。
「――――――――」
包丁を振るいながら、セイバーの言い分に苛立ちを覚えた。
「……前から思ってたけど、自分のコトをなんだと思ってんだろうな、あいつ」
ダン! と大げさに包丁を振るって鶏肉を捌く。
なんか、無性に腹が立ってきた。
―――私は、自分を女性だと思った事はありません。
「―――ふん。まあ、俺には関係のない話だけどっ……!」
ダンダン! とまな板に包丁を突き立てる。
が、そんな事をしても腹の虫は一向に収まってはくれなかった。
「今日の課題はそれね。
昨日より数は増やしたし、そっちの体も落ち着いてるみたいだから、今度こそ成功するでしょ」
どうやってうちまで持ってきたのか、遠坂は四十個ばかりのランプを持ち出してきた。
「わたしはちょっと外に出てるわ。しばらくたったら戻ってくるから、それまでに終わらせておきなさい」
それじゃあね、と遠坂は部屋から出ていく。
「――――はあ」
さて。
昨夜が昨夜だったし、今度はせめて一、二個は成功させなくてはなるまい。
「…………ふう。とりあえず、半分済んだか」
一時間かけて二十個ばかりのランプに“強化”を試みた。
その半数は割れ、半分は変化なし。 それでも、変化しなかったうちの五つのランプにはうまく魔力が通っていた。あとは残った二十個にチャレンジするだけなのだが―――
「……待てよ。五つもあればテストとしては十分なんじゃないか?」
なんか全部が全部、年代物のランプっぽいし。
これ以上いたずらに破壊してしまうのも遠坂に悪いだろうし。
「…………む」
そうだな、こうなったら―――
◇◇◇
―――遠坂を呼びに行こう。
いくらなんでもこれ以上ランプを破壊する訳にはいかない。
……いや、すでに四十個壊した未熟者の言い分ではないとは思うのだが。
「おーい、遠坂―」
声をかけども返事はなし。
……おかしいな、家の中にはいないのか。
あと遠坂が寄りつきそうな所と言えば―――
「……土蔵の中に誰かいる」
どうやら遠坂とセイバーが、中で話をしているようだ。
「おい、遠さ――――」
そう声をかけようと手をあげた時。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
……それは土蔵から漏れてきた、敵意に満ちた遠坂の魔力の波だったと思う。
「っ――――」
呼びかけた声が止まる。
……ここからでも判るほど、遠坂は苛立っているようだった。
「――――――――」
二人の話し声だけが耳に入ってくる。
知らず、二人の話を盗み聞きするような立場になっていた。
「――――何者よ、アイツ」
怒りとも、畏れとも取れない、遠坂の呟き。
セイバーは無言で遠坂の背後に立っている。
「信じられない。セイバー、貴女この事に気が付いてたわね……?」
「……いえ、私には判らなかった。私は騎士であって魔術師ではない。ここには違和感があっただけで、凛ほど状況を把握している訳ではありません」
「―――そう。なら教えてあげる。アイツは魔術師なんかじゃないわ」
憎しみさえ籠もった声で。
遠坂は、そんな言葉を吐き捨てていた。
「……凛。それはどういう意味でしょうか」
「言葉通りの意味よ。
魔術っていうのはね、結局は等価交換なの。どんな神秘だって、余所にあるものを此処に持ってきて使っているだけ」
「……けどコレは違う。アイツは何処にもないモノを此処に持ってきてしまっている。此処には在ってはならないモノをカタチにしている。
それは現実を侵食する想念に他ならない。
アイツの魔術は、きっと、ある魔術が劣化しただけのモノなんだわ」
「…………」
遠坂が何を言っていたのかは判らない。
だが、今のは俺が聞いてはいけない話だ。
……土蔵から離れる。
遠坂に嘘をつく事になるが、今は部屋に戻って遠坂の帰りを待っていたフリをするべきだろう――――
◇◇◇
二時になった。
遠坂が戻ってくる気配はなく、与えられた課題をせっせとこなす。
「あれ、電話だ」
遠くで電話が鳴っている。
「……居間か。遠坂は―――って、うちの電話なんだから出るワケにはいかないよな」
大した電話ではないと思うが、知らないフリもできない。
床から腰をあげて、居間へ電話を取りに行く。
居間には誰もいなかった。
セイバーと遠坂は庭の方にでもいるのだろうか。
「はい、衛宮ですが」
『よう衛宮。今日も休んでいるようだけど、体の調子が悪いのかい?』 とたん。
くぐもった笑いが混ざった、慎二の声が聞こえてきた。
「慎二か? 何か用か、話す事なんて、お互いないと思うが」
『なんだよ、つれないな。こっちは衛宮に一つ教えてやろうと思って電話をしたのに』
「……俺に教える……?」
『ああ。どうしても話しておかないといけない事があったんだけど、おまえ学校に来ないじゃないか。
これ以上長引くのもなんだし、もう我慢できないから連絡を入れたんだ。……それで、そっちに遠坂はいるのか?』
……慎二の口調は、どこかおかしい。
声だけではなんとも言えないが、ひどく興奮しているような、それとも切迫しているような、そんな声だ。
受話器の向こうから生徒の声が聞こえるところを見ると、まだ学校に居るらしい。
時刻は二時過ぎ。五時限目が終わって、ちょうど休憩時間というところか。
『おい、訊いてるんだよ衛宮。遠坂はそこにいるの、いないの?』「……今はいない。少し席を外している」
『そうか、ちょうどいい。二人だけで話がしたかったんだ。―――いいコト教えてやるからさ、今から学校に来いよ衛宮。もちろん遠坂には内緒でね』
「―――――――」
答えに窮する。
慎二の様子はどこかおかしいし、なにより話なら今している。
わざわざ学校まで足を運ぶ必要はないし、遠坂に黙って行動するのは遠坂を裏切る事にもなる。
「―――いや、悪いが学校には行けない。用があるなら来週まで待てよ。休み明けには登校するから」
『……はあ? なに勝手なコト言ってんだよおまえ。
それじゃ遅いんだよ、我慢できないって言ったじゃないか、今……!』
怒鳴る慎二。
興奮しているのか、受話器ごしでも荒い息づかいが聞こえてくる。
『……ふん。少しは考えてるじゃないか。そうだよね、さすがに今更一人でやってくるワケがないか。どう見ても怪しいもんなあこの電話。衛宮でもヤバイって感じたワケだ』 一転しておかしげに笑う。
「ちょっと待て。落ち着け、おまえヘンだぞ慎二。何があったか知らないが――――」
『あはははは! ウソをつくなよ衛宮、遠坂の事だ、おまえに全部話したんだろ? いいよ隠さなくて。そうだよね、衛宮はセイバーのマスターだもの。僕よりずっとずっと、いっぱしな人殺しってワケだ……!』
慎二はあくまで楽しげだ。
……こいつとは五年の付き合いになるが、ここまでハイな様子はお目にかかったコトがない。
「慎二、おまえ」
『いいから学校で待ってるよ。急げよ衛宮。今からなら六時限目には間に合う。ちょうど藤村の授業だし、遅刻しても問題ないだろ』
「いや、いくら藤ねえでも遅刻したら怒るぞ。それに六時限目だけ出るなんて、欠席するより文句を言われそうだが」
『そんなのは自業自得じゃないか。ああ、それと遠坂にバラしたら本当に絶交するからな。今まで桜のコトは目を瞑ってやってたんだ。最後ぐらいは、友人として義理を果たしてもいいだろ?』
話はそれで終わった。
受話器は味気のない電子音を繰り返している。
「――――なんだ、あいつ」
……だがどうしたものか。
さっきまで家にいた筈の遠坂は見当たらないし、学校に行くのならセイバーを連れて行く事もできない。
かといって、慎二の誘いを断ったらあいつが何をするか不安ではある。
昨日、遠坂にこっぴどく断られて落ち着きがないようだし、放っておいたらまた桜に手をあげかねない。
「……そうだな。まだ明るいし、問題ないだろ」
そうと決まれば急ごう。
走っていけば六時限目には間に合うだろう。
校門に人影はない。
授業中という事もあって、外から見れば学校は無人ともとれる。
体育の授業もないのか、校庭にも生徒の姿は見られない。
まあ、それもあと数十分もすれば一変する。
六時限目が終われば放課後だ。
校庭も校門も、生徒たちの姿ですぐに賑わう事になるだろう。
三階にあがる。
当然のように廊下も無人だ。
教室はみんな授業中で、この中をC組まで歩いていくのは気まずいものがある。
「……ま、丸見えって訳でもなし、さっさと教室に行くか」
C組は廊下の先。
ここが階段脇のH組だから、実に五クラス分歩かなくてはいけない事になるのだが――――
「え――――?」
その目眩は、唐突に。
吐き気をともなって、全身を打ちのめした。「は――――ぐ」
胃が蠕動《ぜんどう》する。
感覚が逆《さか》しまになる。
視界は赤く。
眼球に血が染み込んだかの如く、見るもの全てが赤色に反転した。「は――――あ、ぐ―――………………!!」
気温は何も変わっていないというのに、体だけが異様に熱い。「っ――――なんだ、これ――――!?」
足がもつれる。
体に力が入らない。
砂時計のように、止める手段もなく衰弱していく。
まるで呼吸をする度に、体内のモノを吐きだしてしまうかのよう。「く―――、っ…………!」
息苦しい。
喉が痛い。
廊下、いや、校舎中の酸素がなくなったとでもいうのか。
あえぐ肺に促されるように、無意識に壁までもたれかかって窓を開けた。「な――――」
意識が凍る。
あまりの事態に混乱さえ消えた。 ――――窓の外。
校舎のまわりは、一面の赤だった。
この学校だけがポッカリと切り取られたように、赤い世界に覆われている。 校舎は、赤い天蓋に仕舞われた祭壇だった。
それで、ようやく。
これが“そういうもの”だと受け入れた。「――――!」
窓から離れる。
ふらつく足を、理性だけで抑えつけて目の前の教室に入る。 それが、結果だった。
机に座っている生徒は一人もいない。
生徒はみな床に倒れ、教壇にいたであろう教師も床に伏している。 ―――まだ息はある。
誰もが救いを求めるように痙攣している。
まだ死者はいない。
彼らは立ち上がれず、このまま朽ち果てていくだけの話。
その、無惨に倒れ込んだ彼らの有様を、
散らかったゴミのようだとさえ、思ってしまった。「あ――――ぐ――――」
吐き気が強くなる。
それでも、冷静に対応した。
倒れている生徒たちを観察する。
息が苦しい、といっても呼吸ができない訳じゃない。
体が衰弱しているだけなら、急げばまだ助けられる。
そうして身近な生徒の顔を確認した矢先、カチン、と頭の奥で音が鳴った。「―――肌、が」
溶けている。
全員という訳ではない。
個人差があるのだろう。衰弱が激しい生徒は、肌が溶け始めていた。 どろり、と。
ケロイドのように爛《ただ》れた腕と、死んだ、魚のような眼。「――――――――」
知っている。
こういう光景は知っている。「――――――――やめろ」
これはただの地獄絵図だ。
そんなものは昔から知っている。「――――――――だから、やめろ」
故に、恐れの前に。
怒りだけが、この体を支配した。「っ……!」
左腕が疼く。
手の甲に刻まれた令呪が、すぐ近くに“敵”がいるのだと知らせてくる。「は、あ…………!」
乱れた呼吸のまま走った。
頭は、とっくに正気じゃなかった。「いよう衛宮。思ったより元気そうで何よりだ。
どう、気に入ったかいこの趣向は」
廊下の先。
C組の教室の前に、間桐慎二は立っていた。
腕が疼く。
あそこで立っている男が元凶だと、令呪が訴えかけてくる。
「――――これはおまえの仕業か、慎二」
満足に呼吸もできず、立ち止まって離れた慎二を睨んだ。
……その様がよほど気に入ったのか。
慎二は大げさに両手を広げて、赤い廊下で笑い声をあげた。
「そうだとも。おまえがやってきたのが判ったんでね、すぐに結界を発動させたんだ。タイミングには苦労したんたぜ? なにしろあんまり早すぎると逃げられるし、遅すぎると顔を合わせるからさ。
僕としちゃあ衛宮が顔面蒼白になるのを見たかったワケだし、単純に事を起こすのだけは避けたかったんだ」
「―――そうか。話があるっていうのは、嘘か」
「話? 話はこれからさ。僕とオマエ、どちらが優れているか遠坂に思い知らせないといけないし、衛宮には嘘の謝罪をしないといけないからね ほら。衛宮には黙ってたけど、学校に結界を敷いたのは僕なんだ」
あははは、とおかしそうに慎二は笑う。
「――――――――」
それで。
こっちも、心底思い知らされた。
「あれ? 思ったより驚かないな。なんだ、この結界は僕じゃないって言ったのに、衛宮は信じてくれてなかったんだ。……あは、いいねいいね、おまえでも人を信じないなんてコトがあったワケだ!」
楽しげに笑う声が、錐《きり》になって頭蓋《ずがい》を刺す。
「――――――――」
言っておくが、十分に驚いている。
俺はただ、結界を張っているマスターは慎二かもう一人のどちらかだろう、と覚悟していただけだ。
ただそれだけ。
その甘い希望がこの結果だ。
あの時―――慎二がマスターと判った時点で、話を付けるべきだった。
だからこれは、俺の犯した間違いだ。
「……慎二、なんでこんなモノを仕掛けた。戦う気がないって言ったのも嘘だったのか」
「いいやあ、それは本当なんじゃない? 僕だってこんなモノを発動させる気はなかったんだ。コレはあくまで交渉材料だったんだよ。
爆弾をしかけておけば遠坂だっておいそれと僕を襲わなくなるし、万が一の為の切り札にもなるからね」
「……そうか。だが結界の発動にはまだ数日必要だと遠坂は言ってた。それはあいつの読み違いか?」
「ふん、遠坂らしい意見だ。けどさ、結界は完成していないだけでカタチはとっくに出来ているんだぜ? 単純に発動させる分には支障はないんだ。
ま、おかげで効果は薄いけどね。この分じゃ一人殺すのにあと数分はかかるんじゃないかな」
「―――――止《と》めろ」
吐き気はとうに収まっている。
はっきりと慎二を見据えて、それだけを口にした。
「止めろ? 何をだい? まさかこの結界を止めろ、だなんて言ってるんじゃないだろうな? 一度起こしたものを止めるなんて、そんな勿体ないコトできないな、僕は」
「止めろ。おまえ、自分が何をしてるのか分かってるのか」
「……苛つくな。おまえ、なに僕に命令してるわけ?
だいたいさ、これは僕の力じゃないか。止めるかどうかを決められるのは僕だけだし、止めてほしかったら土下座ぐらいするのが筋ってもんじゃないの? まったく藤村といいおまえといい、自分の立場が判ってないな」
「―――おい。藤ねえが、どうしたって」
「え? ああ、藤村ね。この結界が出来てからさ、あいつ結構動けたんだよ。他の連中がバタバタ倒れてるっていうのに、一人でよろよろしてるんだぜ?
でさ、倒れずにいた僕のところまでやってきて、救急車を呼んでとか言ってきたんだ。すごいよね、教育者の鑑ってヤツ?」
「けどそんな物呼ぶワケにはいかないし、呼ぶ気もないじゃない。藤村のヤツ、それでもしがみついてくるもんだからうざくなってさ、蹴り飛ばしたらピクリとも動かねえでやんの!
ははは、あの分じゃまっさきに死んだんじゃねえのアイツ!」
「――――――――」
完全に切り替わった。
遠坂は頭の中のスイッチを押すだなんて言っていたが、そんなモンじゃない。
ガギン、と。
頭の中で撃鉄が落ちて、完全に、体の中身が入れ替わった。
「――――最後だ。結界を止めろ、慎二」
「分からないヤツだね。おまえに頼まれれば頼まれるほど止める気なんてなくなる。そんなに気にくわないんなら力ずくでやってみろよ、衛宮」
「―――そうか。なら、話は簡単だ」
つまり。
この結界を止める前に、おまえ自身を止めてやる。
体が弾けた。
体は火のように熱い。
慎二までの距離は二十メートルもない。
今の自分ならそれこそ一瞬だ。
体には、魔術回路を通した時とは比較にならない程の活力が漲《みなぎ》っている――――
「ハッ、本当にバカだねおまえ――――!」
影が蠢く。
廊下の隅に沈殿していた影が、カタチをもって蠢き出す。
黒一色で出来た刃。
慎二へと近づく物を斬り伏せる、断頭台のような物。
「――――――――」
それがどんな魔術によるものかは知らない。
沸き立った影の数は三つ。
その程度なら――――
――――止まる必要などない。
それがどのような威力を持っていようとも、当たらなければ意味がない。
ブン、と風を切って迫ってくる三つの刃。
「――――、バカはおまえだ慎二……!」
そんな物、セイバーの一撃に比べれば簡単に躱《かわ》しきれる―――!
「な……!?」
折り重なる三つの影の隙間を抜ける。
危なげな事など何処にもない。
今の影には、なんら驚異は感じなかった。
なら問題はない。
直感的に死を危惧させる物でなければ躊躇うな、とセイバーは教えてくれた。
◇◇◇
「慎二――――!」
踏み込む。
慎二を守る影はない。
あと数歩、三メートルも踏み込めばそれで―――
「っ、やめろ、来るな……!」
逃げる慎二。
その背中に腕を伸ばした刹那。
「――――!」
全身に悪寒を感じて、咄嗟《とっさ》に腕を引っ込めた。
空を切る軌跡。
さっきまで俺がいた空間を断つ、黒い刃物。
「っ……!」
足が止まる。
何処から現れたのか、目の前には、
この毒々しい赤色さえ薄れるほど、禍々しい黒色の女性がいた。
「あ――――」
理性が恐れで停止した。
殺される。
考えたくないのに、無惨に首を断ちきられている自分の姿が脳裏に浮かぶ。
―――それは。
先ほどの影なんて比較にもならないほど、圧倒的な死の気配だった。
「い、いいぞライダー……! 遠慮するな、そいつはおまえの好きにしていい……!」
ライダーの姿が霞む。
俺は――――
「っ――――!」
咄嗟《とっさ》に後退する。
今はまずい。
まずは態勢を立て直して、その後に慎二に結界を止めさせなければ――――
「がっ……!?」
何が起きたのかさえ理解できず、ただ必死に後退する。
「は、あ、あ…………!」
恐怖で、目の前が真っ白になる。
何を恐れているのかさえ判らない。
それでも、判らないまま必死に腕をあげて、首筋だけを庇いきった。
「ずっ……!」
腕に刃物が突き刺さる。
骨を削るギチ、という鈍い音が、次は殺すと告げていた。
「は、く――――っ!」
逃げる。
背中を向ける余裕もない。
両手で急所だけを庇って、必死に後ろへ後ろへと逃げていく。
「ひ―――ぎ…………!!!!!」
ギチ。ギチギチギチギチ。
耳障りな音をたてて、刃物が体中を切り裂いていく。
視界は、自分の体から巻き起こる血煙で塞がれていた。
その合間に。
視認さえ出来ぬ速さで迫る、ライダーの姿があった。
「ぎっ…………!」
斬りつけられる度に、自分とは思えない声がこぼれる。
それでも懸命に、何十回と死に至る一撃から命を拾って、必死に後ろへと逃げ続けた。
「は――――はあ、はあ、あ――――!」
自分が何をしているのか判らない。
ライダーの短刀を受けているのは俺の腕だ。
服はやぶれ、肉はとうにズタズタになっている。
それでも盾にはなるのか、首、眉間、心臓へと放たれる一撃を必死に受ける。
そこに自分の意志などありえない。
体は死にたくない一心で、必死にライダーの一撃に反応する。
「あ――――あ、は――――」
とうに息はあがっている。
目の前に迫る死の気配に急かされ、走っているだけのモノにすぎない。
いずれ力尽き、追いつかれて死ぬだけだ。
「ぐ――――あ、っ――――!」
だから彼女は言っていたのに。
サーヴァントと戦うな。衛宮士郎では戦闘にすらならないと。
それを聞いていながら、なぜ――――こんな事をしているのか俺は。今は一刻も早く慎二を捕まえて、このくそったれな結界を解かせなくちゃいけないっていうのに、なにを――――!
「なにしてるんだライダー。
もういいだろ、さっさと斬り殺しちゃえよ。どうせ何もできないんだからさ、そいつは」
勝ち誇った慎二の声。
それに頷いて、ライダーは一際大きく短刀を振り上げた。
―――確実に脳天を狙った一撃。
避ける事などできない。
俺にできる精一杯の事は、せめて急所を外す程度だ。
「っ…………!」
肩口―――鎖骨の下に、短刀が突き刺さる。
一際高い金属音と、チィ、という舌打ち。
「え……?」
なんだ……? ライダーの短刀の先が、ボロボロと刃こぼれしている―――
「……驚いた。私の刃物では殺せない」
ライダーの動きが止まる。
その、ただ一つ生じた隙をどう生かすかと思考した刹那。
「――――なら、落ちて死になさい」
ハンマーで叩かれたような衝撃を受けて、窓から外にたたき出された。
「が――――」
腹に一撃、回し蹴りを食らっただけ。
それだけで体は大きく弾けて、窓を突き破って空中へと投げ出された。
地上三階。
もう放っておいても出血多量で死ぬだろうに、この高さからたたき落とされたらトドメになる。
否、すでに人間を数十メートル吹っ飛ばす一撃を受けた時点で、通常なら死に至ろう。
「ぁ――――あ」
腕を伸ばす。
まだ落下していないのか、それとも死の間際の錯覚なのか。
体は、未だ空に留まっている。
「ぁ――――なん、て」
何かにすがるように、懸命に腕を伸ばす。
空は赤く。
校舎はどくどくと脈打ち、生き物の胃のようだ。
―――それを。
それを見過ごしたまま、このまま死ぬのか。
このまま。
このまま。
このまま。
このまま――――誰一人救えず、自分勝手に死ぬっていうのか――――!
「なん、て――――」
悔しさに歯を噛んだ。
勝てない。戦いにすらならない。そんなコト、判っていた筈なのに間違えた。
体中の痛みなんて知らない。
ただ、怒りで気が狂いそうなだけ。
―――自分一人で出来ると。
セイバーには戦わせないといった結果が、コレだった。
「っ――――」
俺が馬鹿だった。
俺一人では誰も救えない。
本当にこの戦いを終わらせるのなら、初めからやるべきコトは決まっていたのだ。
ヤツは言った。
誰とも争わず、誰も殺さず、誰も殺させないのか、と。
自身が間違っていたと気づいたのなら、まず何を正し、誰を罰するかを決すべきだと。
―――そして。
天を掴むように伸ばした俺の腕には、下すべき命を待つ令呪がある―――
◇◇◇
「――――セイ、バー」
助けを求める。
空と地上の狭間、時が止まったかのような思考の海で、左手の刻印に望みをかける。
―――落下まであと一秒。
常識の秤では逃れられぬ死を、あいつなら、必ず覆してくれると信じ、
「っ―――頼む、来てくれセイバー……!」
渾身の力を込めて、自らの剣を呼んだ。
令呪が消えていく。
同時に出現する、空間のうねり。
文字通り、それは魔法だったのだろう。
空間に現れた波紋をぶち破るように、銀の甲冑に身を包んだセイバーが飛び出してきたのだから。
「マスター――――!?」
銀の甲冑が駆け抜ける。
突如校庭に現れたセイバーは、この事態に驚くより早く落下する俺を認め、
「っ、ふ……!」
地面に叩き付けられる直前で、俺の体を受け止めてくれた。
「ぁ……ぐ……すまんセイバー、助かっ、た」
血まみれのまま、なんとか地面に降りる。
落下を免れたとは言え、ライダーに切り刻まれた体はとっくに限界を迎えている。
「は――――、あ―――、っ……!」
だが倒れてなどいられない。
感覚のない手足に鞭をうって、無事と見せる為に胸を張った。
「―――説明している暇はない。状況は判るなセイバー」
「待ってくださいシロウ。それは判りますが、その前に貴方の体を――――」
「ライダーを頼む。アイツは、おまえでしか倒せない」
「いけません、シロウの治療が先です。このままでは貴方が死ぬ」
「―――それは違う。先にやるべき事があるだろう」
俺の事なんかより、今は一秒でも早くライダーと慎二を倒す。
それ以外に優先すべき事なんてない。
「ですが、それでは」
セイバーはあくまでこちらの身を案じている。
……嬉しくないと言えば嘘になる。
だが口論している暇はない。
セイバーが嫌がるのなら、二つ目の令呪を使うだけだ。
「っ…………」
こちらの決意が伝わったのか。
セイバーは仕方なげに言葉を飲んでくれた。
「判りました。マスター、指示を」
「ライダーを倒せ。俺は慎二を叩く」
そうなればセイバーに躊躇いなどない。
彼女は無言で頷き、そのまま、突風のように校舎へと走り出した。
◇◇◇
―――階段を駆け上がる。
ライダーと慎二がいるのは三階だ。
慎二が三階に留まっているのは令呪の反応で判る。
三階の廊下にあがった瞬間、火花が散った。
「ライダーか……!?」
俺には見えなかったが、セイバーは頭上から奇襲してきたライダーを捉え、その攻撃を弾き返したようだ。「―――シロウ、ライダーはここで倒します。
貴方はライダーのマスターを……!」
言われるまでもない。
セイバーならライダーに後れを取る事はない。
それはライダーと戦って、彼女の力量を僅かでも感じ取った故の確信だ。
セイバーの戦闘能力は、ライダーのそれを大きく上回っているのだから。
「任せた……! だが深追いはするな、慎二を止めればそれで終わる……!」
セイバーの脇をすり抜けて走る。
すかさず俺を仕留めにくるライダーの短刀と、それをライダーごと弾き返すセイバーの一撃―――!
廊下を走る。
視線の先にはうろたえる慎二の姿。
「……さすがに手ぶらじゃ不利か――――!」
武器になるとしたら長柄のモノ、例えば―――このロッカーに入っているモップぐらい……!
「――――同調《トレース》、開始《オン》」
走りながら魔力を通す。
雑念が無い為か、それとも余分な事をするだけの体力がないのか。
まるで息をするような自然さで、プラスチック製のモップを“強化”する――――
影が沸き立つ。
あれほど傷つけられたというのに、体に鈍さは感じない。
加えて、今は武器すらある。
ならば。
もはや躱す必要さえない。
襲いかかってきた影をすべてモップで叩き切る。
モップはそれで折れたが、急造の武器では仕方ないだろう。
それに、ここまでくればそんな物も必要ない―――!
「慎二――――!」
「ひ――――!」
真っ正面から殴りつけた。
ズタズタに裂かれた腕は、それだけで失神しかねない痛みを生んだ。
慎二の腹を殴って、そのまま壁に押しつける。
「く、この……!」
俺の腕を振り解こうと手を伸ばす慎二。
その腕を、ノータイムで蹴り飛ばした。
―――自分でも、自分がコントロールできない。
蹴った腕を壁に押しつけ、そのまま折った。
「あ―――つあ、いああああああ……!!」
慎二の悲鳴もよく聞こえない。
「――――っ、――――」
……まずい。
気を抜けばこっちが意識を失いそうだ。
まだ手足が動くうちに、早く――――
「ひっ……!」
慎二の髪をつかみ、そのまま壁に押しつける。
「―――悲鳴は後だ。いますぐ結界を止めろ、慎二」
「ふ―――ふざ、ふざけるな、誰がおまえなんか、の」
残った腕で慎二の喉を掴む。
ぽたり、と。
服に染み込んだ血が、慎二の体を汚していく。
「なら結界の前におまえの息の根を止めるだけだ。どっちでもいいぞ、俺は。早く決めろ」
喉を握った腕に力を込める。
―――体内に巡った魔力のおかげだろう。
この程度の首なら、なんとか折るぐらいは出来そうだ。
「は―――デタラメだ。おまえにそんなコトできるもんか。そ、それに僕はまだ誰も殺してないぞ。ただみんなから少しだけ命を分けてもらっただけ――――」
「―――わかった。じゃあな、慎二」
腕に力を込める。
躊躇いはしない。
だが、わずかだけ同情があった。
相手が同じ魔術師なら、殺す事に抵抗なんてないのだと―――そんな魔術師の初歩さえ、慎二は教われなかったのだから。
「ま――――待て! 待ってくれ、わかった、僕の負けだ衛宮……! 結界はすぐに止める、止めるから……!」
「………………」
喉に込めた力を緩める。
「っ―――はぁ、はぁ、はぁ……くそ、ばか力しやがって。……おいライダー! ブラッドフォートを止めろ!
マスターの命が危ないんだぞ……!」
遠く離れたライダーへ叫ぶ慎二。
「――――――――」
ライダーからの返事はない。
ただ、今の言葉でセイバーはライダーから一歩引いている。
ライダーは短刀を下げ、かすかに唇を動かす。
「……これでいいんだろう。この結界は特殊らしくてね、一度張った場所にはそう簡単に張り直せないらしい。
……もうここに結界を張る事はないんだから、その手を離せよ」
「そうはいくか。勝った以上はこっちの言い分に従ってもらう。―――慎二、令呪を捨てろ。そうすれば二度と争う事もない」
「な―――ふざけるな、そんな真似ができるもんか!  令呪がなくなったらライダーを従えられない。そうなったら、僕は―――」
「マスターでなくなるんだろ。なら新都の教会に行けばいい。戦いから下りたマスターを保護してくれる場所だそうだからな。
……それともなにか。身を守る為に結界を張ったっていうのは嘘で、おまえは他のマスターに勝つために、こんな結界を張ったっていうのか」
「っ……別にそんなコト言ってないだろ。僕はただ、マスターになって、サーヴァントを従えていれば」
魔術師になれる、と思ったのか。
……けどそんなもの、なったところで何の意味があるっていうんだ。
「―――ここまでだ慎二。令呪を捨てないのなら、その腕を切り落とす。それでマスターの資格はなくなるそうだからな」
「は……? 腕を切り落とす……?」
慎二は心底不思議そうに首を傾げる。
それは芝居なんかじゃなく、慎二は本当に俺の言っているコトが判らないようだった。
「いや、だから――――」
「シロウ、離れて……!」
セイバーの声。
道場でさんざん教え込まれた賜物か、セイバーの叱咤に、脳より体が先に反応した。
慎二から手を放して後ろに跳ぶ。
同時に、俺がいた場所にライダーの短剣が振るわれる。
「ラ、ライダー……!?」
「―――下がりなさいマスター。この場から離脱します」
「シロウ、下がって……! ライダーは結界維持に使っていた魔力を全て解放するつもりです……!」
「……!? 魔力を解放する……!?」
見れば、確かにライダーの様子はおかしい。
セイバーと対峙していた筈の彼女が突如ここに現れた事といい、全身から放たれる冷気といい、今までのライダーとは威圧感が段違いだ。
「ラ、ライダー……!? なに考えてんだおまえ、衛宮のサーヴァントにさえ勝てないクセに勝手なコトしてんじゃない……!」
「はい。確かに私ではセイバーには及びません。
ですがご安心を。我が宝具は他のサーヴァントを凌駕しています。たとえ相手が何者であろうと、我が疾走を妨げるコトはできない」
ライダーの短刀が上がる。
「な――――」
居合わせた者、全てが驚きで声を漏らした。
あろうことか、ライダーは自らの首筋に短刀を押し当て――――
それを、一気に切り裂いた。
……飛び散る鮮血。
黒い装束に身を包んだライダーの白い首筋から、夥《おびただ》しい量の血が噴き出していく。
「な――――なに、を」
マスターである慎二でさえ、ライダーの行動に息を呑んでいた。
サーヴァントが人並み外れていると言っても、アレでは致命傷だ。
ライダーは大量の血を失い、自ら消滅するだけではないのか。
「っ……!?」
だが、それは知らぬ者だけの杞憂。
まき散らされた血液は空中に留まり、ゆっくりと陣を描く。
それは、血で描かれた魔法陣だった。
見たこともない紋様。
たとえようもなく禍々しい、生き物のような図形。
……ライダーが生み出した、強大な魔力の塊。
さきほどの結界など、この魔法陣に比べれば子供騙しとさえ思える。
「な……!? か、体が押し戻され、る――――」
あまりに強大な魔力が漏れているのか。
強い風に押されるように、体がじりじりと下がっていく。
「シロウ、離れて……! ライダーは宝具を使う気です、そこにいては巻き込まれる……!」
言って、セイバーは俺を強引に引っ張った。
彼女は俺を庇いながら、ライダーの魔法陣と対峙する。
「―――逃げるつもりかライダー。
自身のマスターをも巻き込むというのなら、ここで引導を渡すだけだ。そのような宝具を使わせはしない」
「……ふふ。まさか、マスターを守るのがサーヴァントの役割でしょう。私はマスターを連れて逃げるだけよ。
それが気にくわないのなら追ってきなさいセイバー」
「もっとも―――これを見た後でも、貴方に戦う気迫が残っていればの話ですが」
―――鼓動が聞こえる。
ぎちり、と肉をこじ開けるような音と共に、ライダーの髪が舞い上がり―――
「っ…………!」
「シロウ、屈んで……!」
セイバーに手を引かれ、地面に倒れ込む。
轟音と閃光。
吹き荒れる烈風に目を閉じる。
だが、目を閉じていようと否応なしに感じさせられた。
通り過ぎていった白い何か。
巨大な光の矢じみたものが、とてつもないスピードで廊下を駆け抜けていったのだと――――
「――――――――」
顔をあげると、そこにあるのは無惨な破壊の跡だった。
慎二とライダーの姿はない。
……今の光は俺たちを狙ったものではなく、あくまでここから離脱する為だけの物だったらしい。「っ―――――――」
傷が痛む。
カチン、と頭の中で打ち付けられていた撃鉄が戻っていく。
体を奔《はし》らせていた熱が、急速に冷めていく。
「シロウ……?」
セイバーの問いかけも、もう聞こえない。
意識は、そのまま白い闇に落ちていった。
◇◇◇
……その夢を見る。
これが自分にとっての『死』のイメージなのか。
死に近づけば近づくほど、見る気のないこの光景が蘇る。
死体の山。
崩れていく人々。
誰もが助けを求め、助けなどなかった時間。
あれは苦しかった。
苦しくて苦しくて、生きている事さえ苦しくて、いっそ消えてしまえば楽になれるのだろうとさえ思った。
朦朧とした意識で、意味もなく手を伸ばした。
助けを求めて手を伸ばしたのではない。
ただ、空が遠いなあ、と。
最期に、そんな事を思っただけ。
そうして意識は消えかけ、持ち上げた手はパタリと地面に落ちた。
……いや。
落ちる、筈だった。
力無く沈む手を握る、大きな手。
そいつはあの火事の中、誰でもいいから誰かを助けようとやってきて、この俺を見つけたのだ。
……その顔を覚えている。
目に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の姿。
―――それが、あまりにも嬉しそうだったから。
まるで、救われたのは俺ではなく、男の方ではないかと思ったほど。
そうして。
死の直前にいる自分が羨ましく思えるほど、男は何かに感謝するように、見知らぬ子供を助け出した。
―――それが転機。
死を受け入れていた弱さは、生きたいという強さに変わった。
何も考えつかなかった心は、助かったという喜びだけで埋め尽くされた。
俺は男の手を離さないよう、出来る限りの力を込めて指を動かし、そのまま意識を失った。
その後、気が付けば病院にいて、自分を救った男の面会を受ける事になる。
それが十年前の話。
それからの衛宮士郎はただ切嗣の後を追っていた。
あいつのようになるのだとしか思えなかった。
助けられたから、という事じゃない。
ただあの時の顔が忘れられず、その幻影を被《かぶ》ろうとした。
そうなれる事を目標にして走ってきた。
心の何処かで、気づかないようにと夢見ていたんだ。
そう―――いつかは、自分も。
あの時の切嗣のように笑えるのなら、それはどんなに、救われるのかと希望を抱いて――――
「――――――――」
……目を開けると、そこは見慣れた居間だった。
時計の音が、やけにうるさい。
床に寝かされているらしく、腕をあげてみると、両腕は包帯でグルグル巻きにされていた。
「――――外、暗いな」
体を起こす。
時計は夜の十時を回っていた。
「外、暗いな―――じゃないわよ、この恩知らず。目が覚めたらまず言うべき事があるんじゃない?」
「―――遠坂。なんだ、いたのか」
「いたのか、じゃないわよ。
アンタの真横でずっと看病してやってたのに、随分な態度じゃない」
……そうだったのか。
それは、悪い事をしてしまった。
「すまない。どうも頭が固まってる。うまく物事を考えられないんだが……とにかくありがとう、遠坂。またおまえの世話になっちまった」
「っ――――ま、まあ別に大した事じゃないからいいけど。士郎もあれだけの怪我だったんだから、意識が朦朧としてるのも当然だしさ」
「……で、痛いところはないの? とりあえず外傷は塞がってるけど、中身までは判らないから。異状があるんなら手当しないとまずいでしょ?」
「――――いや。だるいだけで、痛むところはない。
ただ、なんだか―――」
宙に浮いている感じがする。
自分がここに居る経緯が判らない。
今日一日、何をしていたのか思い出せな――――
「――――! 遠坂、学校は!? 俺はあの後どうなったんだ……!?」
「大丈夫、みんなの事は安心なさい。学校には綺礼がフォローにいったから。
廊下の補修とか事後処理はあいつがするから考えなくていいわ。あれでも神職なんだし、これぐらいさせなきゃバチがあたるでしょ」
「―――あいつが? それじゃあ、学校の方は」
「大事にはなってないわ。病院に運び込まれた生徒は多いけど、命に別状はないみたい。みんな栄養失調って事で、二、三日病院で休む程度だって」
「――――そうか、それは」
良かった。
結界を解くのは遅くなったが、間に合わなかった訳ではなかったんだ。
安心した途端、全身から力が抜けた。
ほう、と大きく息を吐いて、壁に背中を預ける。
「……じゃあ俺の体の方も、言峰が治してくれたのか?
いくら遠坂でも、あれだけの傷は治せないだろ」
「なに言ってるのよ。それはアンタが勝手に治したの。
バーサーカーの時と一緒。とりあえず傷を塞ぐだけなら超がつくほどの回復力だけど……貴方の方には覚えはないのよね?」
「あるわけないだろ。俺だって訳が判らないんだ。セイバーと契約するまでは、俺は普通の体だったよ」
「……ふーん。もしかして自分が知らないだけで、祖先がトカゲだったとかない?」
「…………あのな。真剣な顔でそういう怖い冗談は言わないでくれ。俺だって気持ち悪いんだぞ。自分の体が、自分の知らない物になってるようなものなんだから」
「いいんじゃない? 何はどうあれ、それで何度も命を長らえてるんだから。
もう二回も助けられた事だし、トカゲになるぐらいは妥協できる交換条件だと思うけど?」
「……遠坂。重病人をいじめて楽しいのか」
「さっきまで重病人だった人、でしょ。
ま、ともかくセイバーに感謝しなさいよね。理屈は判らないけど、士郎の体がそうなったのはセイバーのおかげなんだし」
「――――あ」
それで、粗雑になっていた頭にようやく喝が入った。
いま自分がやるべき事。
彼女に助けられ、彼女を必要とした自分が、一秒でも早く告げなくてはいけない言葉がある。
「くっ――――」
すぐに立ち上がる。
さすがに動くと体の節々が痛んだが、そんな事を気にしていられない。
「遠坂、セイバーは?」
「道場にいるわ。わたしは部屋に荷物取りに行ってくるわね」
遠坂は軽い足取りで別棟へ向かっていった。
「痛っ……」
きしきしと関節が痛む。
歯を食いしばって我慢して、とにかく道場へと歩を速めた。
道場に辿り着く。
セイバーは一人、瞑想するように正座をしていた。
「シロウ……!? 目が覚めたのですか!?」
入ってきた俺に気が付いたセイバーは、すぐさま立ち上がってズンズンと大股で近づいてきた。
「すまない、いま気が付いたんだ。それで、セイバー」
「すまない、ではありません! 貴方には言いたい事が山ほどある……! 私を置いて敵の誘いに乗った事、一人で戦おうとした事、自身の体を気遣おうともしなかった事……!」
「解っているのですか、そのどれもが死に直結する愚行です! いや、実際貴方は死にかけていた。こうして私を追いつめて何が楽しいのです……!」
「あ――――いや、その」
「なんですか! 生半可な弁明では引き下がりません。
今日という今日は、とことん貴方の考えを聞かせていただきますから!」
があー、と食ってかかってくるセイバー。
それは確かに迫力があったのだが、なんていうか、ここまで感情をむき出しにしたセイバーを見るのは、嬉しかった。
「……分かってる、ちゃんと話す。
だから話をしよう、セイバー。体の方はこの通り大丈夫だからさ」
「え……シロウ、持ち直したのです、か?」
「ああ、そうみたいだ。とりあえず、生き延びてる」
「そうですか―――それは、良かった」
さっきまでの剣幕は何処にいったのか。
セイバーは心底安心したように息をついて、俺の無事を祝うように、柔らかに笑った。
「――――――――」
……痛感する。あの無表情なセイバーにそんな顔をさせるほど、俺は彼女を不安にさせていたんだ。
俺は彼女に頼ろうとしていなかった。
それでも彼女は、そんな俺を共に戦う者だと受け入れていた。
「――――――――っ」
……俺が、バカだった。
こんな純粋な信頼に気づかず、
彼女に戦わせるという単純な信頼さえ、おけなかったのだから。
「セイバー」
自然に声が出る。
今まで目を合わせる事も照れくさかった相手を、本当に自然に、真っ正面から見つめられた。
「……はい? なんですか、シロウ?」
「――――すまない。俺が、バカだった」
頭を下げる。
「な……シロウ、やめてください。先ほどのは言葉のあやです。怒っていたのは確かですが、貴方に謝ってもらう必要は――――」
「ある。パートナーとして、セイバーに謝るのは当然だ。
心配させてすまなかった。セイバーといる限り、俺は二度と一人では戦わない」
「――――シロウ、それは」
「ああ。セイバー、おまえの力を貸してくれ。
俺一人じゃ他のマスターには勝てない。俺には、おまえの助けが必要だ」
「……それでは、今までの行動が間違いだったと認めるのですね? シロウはマスターとして後方支援に徹し、戦うのは私の役割だと」
「―――――――」
……それは、違う。
その事に関してだけは、俺は間違えてなんかいない。
今だって、セイバーの傷つく姿は見たくない。
その為に彼女が戦うのを禁じてきた。
……間違えていたのはそれだけ。
彼女と共に戦うと決めたのなら、俺は全力で、彼女を守り通せば良かったんだから――――
「……いや。俺は自分が間違っていたとは思わない。
セイバーが俺を守るなら、俺もセイバーを守る。セイバーだけを戦わせるなんて事は、出来ない」
「――――――――」
……セイバーは答えない。
道場には冷たい空気だけが流れていく。
「――――――――」
……それでも、これだけは譲れないのだ。
こうなったらセイバーに許して貰えるまで頼み込むだけだ、と顔を上げる。
と。
「……はあ。その頑なさは、実に貴方らしい」
「え……? その、セイバー?」
「まったく、いまさら答えるまでもないでしょう。
私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか、シロウ」
そう言って、セイバーは左手を差し出してきた。
「――――――――」
気の利いた言葉も浮かばず、その左手を握り返す。
……握り合う確かな感触。
出逢ってから数日経って、ようやく―――本当の契約というヤツを、俺たちは交わしていた。
「? なに握手なんてしてるの、二人とも?」
って。
なんでこのタイミングで現れるのだ、おまえというヤツはっ……!
「――――っ」
セイバーと二人、あわてて手を離す。
「? なんか怪しいわね。まさか、わたしに内緒で作戦会議をしてたとか?」
「いえ、そういう訳ではないのです。その、マスターの体が健康かどうか、脈を計っていただけですので」
「――――」
呆然。
セイバーが、すっごく怪しい嘘をついてる。
……いや、そもそもなんでセイバーまで慌ててるんだ。
「へえ。変わった脈の取り方をするのね」
不思議そうにセイバーを見る遠坂。
馴れない嘘をついた為か、セイバーはますます挙動不審になっていく。
……これは助け船を出さないと、ますますおかしな事態になりかねない。
「おい、何の用だよ遠坂。部屋まで荷物を取りに行くとか言ってなかったか、さっき」
「あ、それそれ。はいセイバー、これ」
「ありがとう。凛には迷惑をかける」
遠坂は手提げ袋をセイバーに渡した。
……受け取るセイバーは、これまた珍しく嬉しげな顔をしている。
「それが最後だから気を付けなさいよね。いくら強制召喚だからって、力ずくで武装したら服なんて消し飛ぶんだから」
「申し訳ありません。突然の事だったので、そこまで考えが回らなかったのです。それでも、凛が同じ服を持っていてくれて助かりました」
「まあね。単純なデザインだし、制服みたいなものだし。
綺礼のヤツ、地味な服ばっかりわたしに押しつけるんだもの。……ま、わたしには似合わない服だからいいけどさ。なんだってその服にこだわるのよ、セイバー」
「―――ええ。シロウが似合うと言いましたから」
……はあ。
事情はよく掴めないが、セイバーの服はあれで三着目らしい。
うちには女物なんてないし、セイバーは遠坂に衣服を借りている訳だ。
「…………」
しかし、その。
そういう女っぽい話は、俺のいないところでしてくれるとタイヘン有り難い。
俺だって男だし。
せっかく真面目な話をしていたのに、そんな話をされたら気が抜けて仕方がないじゃないか―――
そうしてこれといった出来事もなく、遠坂とセイバーによって強引に寝かされた。
意識が戻ったとはいえ、俺の体は重傷のままだ。
ライダーに切り刻まれた両腕は、本当なら肘から先を切り落とさなければならないほどの傷であり、三階から落下した体《ほね》は罅《ひび》と歪みだらけだ。
考える事は山ほどあるだろうが、今は眠って体を治せ、というのが二人の共通見解らしい。
「………………」
だが、取り逃がした慎二との決着は一日でも早くつけなくてはならない。
慎二は躊躇もなくあの結界を発動させた。
そんなマスターを野放しにする事がどれほど危険かは、俺にだって判っている。
「…………くそ……眠ってる場合じゃない……ん……だけど」
目眩のような空白。
……元に戻ったのは頭だけだ。
横になった途端、癒えきっていない体は貪欲に眠りを求めてくる。
「っ……明日……明日に、なったら――――」
……こうして休んでなどいられない。
たとえ体が治りきっていなくとも、逃げていった慎二を捕まえないと――――
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
悪い夢を見ている。
傷を負った体は、一秒でも多く休息をとろうと深い眠りを欲している。
だが心は未だあの光景の中にいて、泥のような眠りには至らない。
治りきらない体は熱く、悔やみきれない心は燻ったままだ。
うなされているのか。
まどろみの中、はっきりとしない意識で夢を見る。
……どれだけの人間が犠牲になったのか。
死傷者はいないと遠坂は言っていたが、それは表面だけの話だ。
強引に命を吸い出すような真似をされて、後遺症が出ない筈がない。
長期に渡る身体不良、酸欠による記憶障害。
肌が溶けていた生徒もいた。
その傷痕は、たとえ完治しようと一生涯残るものだ。
……体が痛む。
殺されかけた―――否、間違いなく死んでいた体が痙攣する。
巻き込まれたみんなも災難だったが、それでもおまえはよくやった。
本来なら死に至る傷と引き替えに災害を止められたのだ。
なら悔やむ事も恥じる事もない。
大人しく今は眠りに落ちてしまえ、とその痛みが訴えている。
否。
そんな理由で、誤魔化すコトなどできない。
惨劇は起きて、自分はそこに居合わせて、何も出来なかった事に変わりはない。
俺は命を救ったというが。
同時に、誰一人として助けられなかった。
いっそアレが何かの間違いで、無かった事になるのなら―――心も大人しく眠ってくれるだろうに。
……頭に来た。
体が弱って、心までそんな世迷い事をクチにするなんて、ふざけてる。
そんな奇蹟はない。
都合の悪い事だから、目の当てられない惨状だったから、その前に戻ってやり直せればなんて、ひどい侮辱だ。
起きてしまった事を『無かった事』になど出来ない。
それは不可能な事だし、それ以前に、やってはいけない事ではないのか。
……だから、あの出来事を無かった事になんて出来ない。
俺に出来る事はただ一つ―――今も見続けているこの光景を憎むなら、二度と起こさせないように行動するだけだ。
眠りはここまで。
自分の体なんて後回しだ。
体が動くのなら起きて走れ。
誰も傷つかない事が目指した理想だと言うのなら、死の淵まで、その―――
目を開けた。
深く呼吸をして、肺に空気を送り込む。
「――――はあ」
冷たい冬の大気は、眠気と不安を削ぎ落としてくれた。
習慣というのは大したもので、時刻はまだ六時になったばかりだ。
起床の時間にきっかり目を覚ますあたり、体はわりと回復しているのではなかろうか。
「――――よし」
体を起こして布団を畳む。
そんな何でもない作業の途中、びしり、と。
亀裂《ヒビ》でも入ったかのように、左肩が痛んだ。
「っ……まあ、そりゃそうだよな。さすがにまだ治りきってないか」
それでもあるのは『痛み』だけだ。
何日か前、バーサーカーに腹を切られた時に比べれば幾分ましだろう。
あの時は体中がドロドロで、痛みより吐き気の方が酷かったんだから。
廊下に出る。
陽射しは陰鬱として、力強さがなかった。
天気は一雨きそうなほど曇っている。
「シロウ、目が覚めたのですか……?」
「ああ、いま目が覚めた。そういうセイバーこそ今朝は早いんだな。いつもならまだ眠ってる時間じゃないか」
うん、朝飯が出来てもいないのに、セイバーが起きているのは珍しい。
「……シロウ。私とて好きで眠っている訳ではありません。私が朝食まで眠っているのは、単に魔力を温存する為だと言った筈です。
その、いかにも普段から寝過ごしている、という物言いは止めてほしい」
「? なんでさ。別にそんなつもりで言ってないぞ、俺。
単にこんな早起きしていいのかって思っただけだ」
「……ほう、そうですか。私が早起きするのはおかしい、と」
セイバーはやけにつんけんとした物言いをする。
……気のせいだろうか。
今朝のセイバーはどこか、いつもより厳しいというか、遠慮がないように見えた。
「いや、おかしいとかじゃなくて、いいのかなって。
セイバーが頻繁に眠らなくちゃいけないのは俺のせいだろ。それは分かってるから、その、今朝も呼ばれるまでは眠っていないといけないんじゃないのか」
「当然です。ですが、それはあくまで待機状態にすぎません。私が眠っていたのは緊急時に備えてのもの。今の状態で眠るのは道理にかなわないではないですか」
「? 道理にかなわないって、なんで。別に今は誰とも戦ってないし、襲われてもいないぞ」
「え……いえ、ですから、それは」
何か言いにくい事でもあるのか、セイバーは言葉を濁す。
「まあいいけど。今は緊急って訳じゃないんだし、出かけるまで眠っていたほうがいい。
朝飯が出来たら呼びに行くから、それまで力を温存しといてくれ。今日一日、セイバーの力を借りる事になるんだから」
それじゃ、と台所へ向かう。
「―――待ってください、シロウ」
「? なんだよセイバー、他に何か――――」
「今の発言は聞き捨てなりません。
貴方は今、何をすると言いましたか」
「――――――――」
思わず息を呑む。
質問しているクセに、セイバーは俺に答えなど言わせない、とばかりに睨んでくる。
「そもそも貴方は安静にしなければいけない体でしょう。
朝食の支度など凛がします。シロウが優先すべき事は部屋で休み、体を癒す事です。それが解っていないとは言わせません」
「……セイバー」
セイバーの口調が厳しいのは、真剣に俺の体を気遣っての事だ。
「部屋に戻ってくださいシロウ。眠りが必要なのは、私ではなく貴方の方です」
……こっちの考えが読めるのか。セイバーは一段と視線を厳しくする。
それでも―――俺は、慎二を放っておく事はできない。
「いや、部屋には戻らない。もう十分休んだし、やらなくちゃいけない事があるだろう。準備が出来たら街に出よう、セイバー。今日中に慎二を捕まえるんだ」
「何故ですか。今日中にライダーのマスターを捕える理由などありません。戦うのならシロウの傷が癒えてからにするべきです。それからでも遅くはないでしょう」
「―――それは違う、セイバー。順番で言うなら、俺の体なんて後回しだ」
「――――」
「そんな暇はないんだ。慎二のヤツが何をするかはおまえだって判るだろう。またあんな結界を張られる前に、あいつからライダーを切り離す。サーヴァントがいなくなれば慎二は何もできない筈だ」
「……昨日のような犠牲者を出したくない、と言うのですか。ライダーのマスターを倒すのではなく、ただそれだけの為に戦うと?」
「そんな事はない。慎二には責任をとらせる。その為にはライダーを倒さなくちゃいけないだけだ。
それに犠牲者を出さないために行動する、なんていうのは当たり前だろ。そんなコト、戦う理由以前の問題だ」
「………………そうですか。
マスターがそう言うのなら、私は従うだけですが」
それきりセイバーは口を閉ざした。
「慎二を捜す……? 別に文句はないけど、ちゃんと勝ち目があって言ってるんでしょうね、士郎」
朝食の後。
慎二を放っておけないと提案した途端、遠坂はそんな反応をした。
「え……勝ち目って、慎二に対してか……?」
「そうよ。前もって言っとくけど、勝算もないクセに他のマスターに手を出す気だった、なんて言ったら笑うわよ?」
「あ――――む」
……しまった。
言われてみれば、俺は慎二を止める事ばっかりで、その止める方法を考えてもいなかった。
「……ちょっと。衛宮くん、本気?」
「う――――すまん、笑ってくれ」
「……うわ。悪いけど笑えないわ、今の冗談」
……う。そういうリアクションをされるとホントにこっちがバカだったと思い知らされて、小さくなるっていうか。
「セイバー。アンタのマスターはこんなんだけど、貴女自身はどうなの? ライダーと戦うことに異論はないわけ?」
「ライダーと戦うだけならば問題はありません。彼女の能力は確認済みです。
それはシロウ本人も判っていると思います。なにしろライダーと直接対峙したのですから」
「あ、そうだっけ。なら士郎にもライダーがどの程度かは判っているんだ」
どうなの? と視線だけで問いかけてくる遠坂。
それは勿論、ライダーの強さの程を訊いているんだろう。
確かに、その程度なら把握している。
サーヴァントと契約しているからか、それとも令呪の力か。
他マスターのサーヴァントと言えど、戦闘を見たのなら能力は数値化できる。
ライダー自体はさして優れたサーヴァントではなかった。
「ライダーはセイバーほど強くない。一対一の戦いなら、まず負けはしないと思う」
「そうなんだ。ならちゃんと勝算はあるんじゃない。
慎二は魔術師じゃないから、ライダーはマスターからの支援を受けられない。必然的にセイバーとライダーの一騎打ちになるものね」
「………………」
遠坂の言うとおりではある。
慎二がマスターである以上、ライダーは一人で戦うしかない。
セイバーに不利な点などない筈なのだが――――
「なによ、気の乗らない顔して。何か他に問題でもあるっていうの?」
「……ああ。いいか遠坂、それだけ戦力的に上回ったセイバーに追い詰められていたのに、ライダーは慎二を連れて逃げ延びたんだ。
あれはライダーの宝具だったと思うんだが……」
廊下を蹂躙した光の矢。
セイバーが体を倒してくれなかったら、俺の体なんて塵一つ残らずに四散していたであろう破壊の波。
アレがライダーの奥の手だとしたら、ライダー自身の能力が低くても楽観はできない。
否、楽観どころか挑んではいけない相手のような気さえする――――
「……ふうん。つまりライダーはライダー本人より、所有する宝具の方が優れてるタイプってワケね」
「で、セイバー。士郎はともかく、貴女ならライダーの宝具がなんであるか判ったんじゃない? 目の前で使われたんだから、見当ぐらいはついてるんでしょう」
「……面目ありません。シロウを守る事に精一杯で、私もアレがなんであるか確認する事はできなかった。
そんな事に気を割いていたら、私もシロウもあの一撃に巻き込まれていたでしょう」
「巻き込まれてたって……なに、ライダーの宝具って飛び道具なの?」
「それに近いモノでした。分類的には凛の使う魔術に近い。アレは私の剣やランサーの槍のような、対人宝具ではないのでしょう」
「わたしの魔術に近いって、それこそ変よ。
セイバーの対魔術は神業じゃない。現代の魔術じゃまず貴女に傷を負わせる事はできない。その貴女が躱《かわ》さなくちゃいけない魔術なんて、それは」
「―――はい。神秘はより強い神秘の前に無効化される。
私の鎧を通る事ができる神秘は、貴女たちの言う“魔法”か、神域に棲む幻想種だけです」
「魔法使い―――ライダーは魔術師だって言うのセイバー……!?」
「いえ、それほどの魔力は感じませんでした。
彼女はライダーです。魔法使いがいるとすれば、それはキャスターだけでしょう。ライダーの宝具は、おそらく別のモノだと思います」
セイバーの答えに、ほっと胸をなで下ろす遠坂。
が、こっちはいまいち話が掴めない。
「セイバー。おまえの鎧っていうのはそんなに硬いものなのか? 魔法でなければ通らない、なんて言うけど、それならランサーのゲイボルクは魔法って事になるが」
「え……? ええ、確かにランサーのゲイボルクは魔法に近い“呪い”ですが……凛、シロウに説明してあげてくれますか」
「わたし? ……まあいいけど。ようするに士郎はセイバーは魔法じゃないと傷つかない、と勘違いしてるわけね?」
「あ、いや……別にそういう訳じゃないけど。
ただ、そんなに頑丈な鎧なら凄いなって思っただけだ」
「そりゃ凄いわよ。セイバーに限らず、サーヴァントってのはみんな英霊なのよ? 霊体って事もあるけど、まっとうな手段じゃ傷一つつけられない。サーヴァントはそれ自体が神秘だから」
「物理的な手段でサーヴァントを傷つけられるのは、同じ英霊であるサーヴァントだけ。逆に言えばサーヴァント同士なら、ただのペーパーナイフでもセイバーを傷つける事はできる」
「……相手がサーヴァントなら、セイバーの鎧もそう鉄壁って訳じゃない……ってコトか?」
「そうね。けどセイバー自身、接近戦の技量が優れているから、白兵戦ではまずセイバーに傷は負わせられない。
残った手段は遠距離からの攻撃、魔術っていう飛び道具になる訳だけど、セイバーは騎士のクセにとんでもない対魔力を持ってるから、たいていの魔術は弾かれてしまうのよ」
「不運《バッドラック》に代表される呪いなんてまず届かないし、魔力を矢として放つ直接干渉も効かない。
セイバーを倒したかったら真っ正面からの斬り合いで、彼女を負かさなくちゃダメってワケ」
「――――――――」
遠坂の説明を、セイバーは黙って聞いている。
口を挟まないのは、それが真実だからだろう。
「なんだよ、そんなのインチキだ。
剣技で敵わないから魔術で勝負するっていうのに、その魔術そのものがセイバーに効かないならどうしろっていうんだ。
なんか不公平だぞ、その話」
「そうね。けどそのセイバーだって、白兵戦で絶対に負けない、というワケでもないでしょ?
バーサーカーは力だけならセイバーを上回ってるし、ランサーだって白兵戦において必殺の槍を持ってる。
いま話しているライダーだってセイバーを出し抜くほどの宝具を持ってたんだから、セイバーも完璧ってワケじゃないわ」
「わたしたちだってセイバーを倒す方法はあるもの。
単にセイバーの対魔力を上回る魔術を持ってくるか、サーヴァントが使ってる武器を借りて、寝ている間に首を切るとか。サーヴァントの武器ならサーヴァント自身と同じ霊格なんだから、傷を付ける事は可能なはずよ」
「………………むむ」
物騒なたとえ話だけど、納得できる。
―――って、待て遠坂。
そういう話は、本人の前でしてはいけない。
「そ、そうなんだ。
じゃあライダーの宝具が特別優れてるってワケじゃなくて、サーヴァントの攻撃だからセイバーも守りに徹したって事なのか」
「ワケないでしょ。セイバーが守りに徹するのなら、ライダー自身じゃ何をしたって追い詰める事なんて不可能よ。ライダー本人がそう優れた英霊じゃないのなら、彼女が宝具を使ったところでタカが知れているし。
そうでしょ、セイバー? ライダーの宝具は、ライダー自身の能力とは“関係のない”武器なのよね?」
「おそらく。ライダーの技や魔力に頼らない自動的な武装、宝具そのものに効果がある物だと思います。
魔術か幻想種か。
どちらにせよ、あの魔法陣から放たれたモノは圧倒的でした。直撃を受けた場合、生き延びられるサーヴァントなどいないでしょう」
「そうなの? 数値的にどれくらい?」
「貴方たち風に言うのならA+といったところでしょうか。私個人の推測にすぎないので、断定はできませんが」
「A+!? なにそれ、魔法一歩手前じゃない……!
うわ、そんなの使われてよく学校が吹っ飛ばなかったってもんだわ」
「単純に破壊するだけの宝具、という訳ではないのでしょう。元々は他の用途がある宝具なのではないでしょうか」
「……そう。だとしても厄介ね。セイバーの話じゃA判定どころじゃないし、瞬間的な攻撃力ならサーヴァント中最高って事になるのかしら」
「………………ふん。まあ、確かに攻守共に優れた宝具のようでしたが」
ぼんやりと考え込む遠坂に、なんとも言えない顔つきで相づちをうつセイバー。
「……?」
なんだろう。
セイバー、なんか妙に面白くなさそうな様子だけど。
「……セイバー? 遠坂の意見、何かひっかかるところでもあるのか?」
「え……? あ、いえ、別にそういう訳ではないと言うか……ええ、本当はどちらが強いかなど、追究するのは騎士にあるまじき行いというか……」
「?」
挙動不審。
セイバーは自分の態度を恥じるように、ごにょごにょと言葉を濁す。
「……まあいいけど。それよりさ、さっき妙なコトを言ってなかったか? セイバーとランサーのは対人宝具とかなんとか」
「対人宝具、ですか……? いえ、言葉通りの意味ですが。私の風王結界やランサーのゲイボルクは、あくまで“人を倒す”為の武装です。
いかに強力な魔力、呪いを帯びていたところで、その用途は対人の域を出るモノではありません」
……まあ、それはその通りか。
刀身が見えないセイバーの剣は、確かに戦いにおいて有利だ。
だがそれはあくまで人対人に限る。
薪をたくさん割ろうという時、剣が見えようと見えまいと割るスピードに変化はないだろう。
ランサーのゲイボルクも同様だ。
必ず心臓を貫く、という呪いの槍とて、相手が岩や家ならただの頑丈な槍にすぎない。
「……なるほど、だから対人の宝具って事なのか。
ならライダーの宝具は――――」
「対軍宝具って事になるわね。そう言えば父さんに聞いた事があったわ。宝具には対人に優れたもの、対軍に優れたものがあるって」
「簡単に言って、対人宝具は弾数制限のない拳銃で、対軍宝具ってのは一発かぎりのミサイルって事ね。
ライダーの宝具は強力だけど、その分使用にかなりの制限があるんじゃないかしら。少なくとも、セイバーの剣みたいに“いつも視えない”なんて永続的な宝具じゃない」
「な――――」
ちょっと待て。
拳銃とミサイルなんて、そんなのは勝負にならない。
そりゃあセイバーの“視えない剣”だって凄い剣だけど、そんなデタラメな宝具の前じゃ剣を振るう前に吹き飛ばされる――――
「……つまり。ライダーと戦うのなら、宝具を使われる前に倒せってコトか」
「でしょうね。宝具の打ち合いになったら勝ち目はない。
ライダーと慎二を捜すっていうんなら、それだけは頭に入れておきなさい。
大前提として、ライダーが宝具を使う前に倒すコト。
戦いを長引かせれば長引かせるだけこっちが不利になるから」
「もしくは私が戦っている間にライダーのマスターを倒せばいい。あのマスターに戦闘手段はないのだから、そちらの方が確実かもしれません」
それが結論だ。
ライダーの宝具が何か判らない上、その威力は絶大すぎる。 対抗策がない以上、使われる前に倒すしかない。
他のサーヴァントの宝具がなんであれ、ライダーとだけは宝具の競い合いをしてはいけない、という事か。
「……忠告助かったよ、遠坂。
俺たちは慎二を捜しに行くけど、遠坂はどうする。留守番していてくれるか?」
「……そうね、貴方たちがそう言うなら、わたしたちも慎二を捜してもいいんだけど―――ま、止めとくわ。
敵はライダーだけじゃないし、わたしたちは元々バーサーカーを倒す為に手を組んだんだしね。
士郎が慎二を追っている間、わたしはわたしでやる事があるから」
どこか冷たい笑みをこぼして、遠坂は席を立つ。
「それじゃあね。いい結果を期待してるわ」
◇◇◇
家に遠坂を残して、セイバーと外に出る。
朝の七時半。
坂道はひどく静かだ。
この時間、いつもは生徒たちが登校しているというのに、今日に限って人影はまばらだった。
「学校は休校だそうですね。
死者が出なかったとはいえ、大半の生徒はいまだ立ち上がれる体ではないという事ですか」
「……重度の栄養失調みたいなもんだからな。まともに動けるようになるまで何日かはかかるだろ」
たが、それは比較的軽い被害だ。
肌の変質、末端の壊死。
中には失明一歩手前の生徒もいたらしい。
「……大河も病院に運ばれたと聞きます。見舞いに行かずともいいのですか、シロウ?」
「ああ、藤ねえのはただの疲労だと。心配しなくてもいいから、真面目に家で勉強してろとさ」
出かける際、藤村の家に電話を入れて、とりあえず藤ねえの無事は確かめた。
見舞いに行きたいが、今はそれだけで我慢しなくてはいけない。
「では探索に専念するのですね。それはいいのですが、シロウに当てはあるのですか?
私はサーヴァントの気配を読みとれますが、それも近づかなければ判りません。何か手がかりがなければ、捜し出すのは難しいのではないでしょうか」
「ああ。たしかに慎二が何もせずに隠れていた場合、捜し出すのは難しいだろ。けどあいつの性格から言って、昨日の今日で大人しくしていられるとは思えない」
慎二はやられっ放しで黙ってるタイプじゃない。
殴られたら倍にして返す性格だ、アレは。
「……では、ライダーのマスターは再び結界を張ろうとする、と……?」
「間違いなくな。俺と同じで、あいつはサーヴァントに魔力を提供できない。俺たちに復讐しようとするなら、まず魔力を貯めないといけないだろ。
なら、見つけだすのはそう難しくはないんじゃないか」
「―――ライダーのマスターを捜すのではなく、結界を捜すのですね」
「ああ。マスターの感知はできなくても、あれだけの結界なら近づけば判る。それに場所も特定できるだろ。
大きな建物で、人が沢山集まるところを当たっていけばいい」
「驚いた。やりますね、シロウ」
「あのな。俺だって考えなしって訳じゃないぞ。捜し出せる自信がなかったら、こんな事は言いださないよ」
……そう、自信はある。
結界の事もあるが、それより俺たちが歩き回る事の方に意味がある。
俺が慎二を放っておけないように、おそらくはあいつも、俺をこのまま放っておく気はないだろうから。
念の為、慎二の家に足を運んだ。
セイバーにライダーの気配を読みとってもらう。
結果は反応なし。
……まあ、自分の家に潜伏するほど落ち着いた男でもあるまい。
「行こう。慎二が結界を張るとしたらこっちの町じゃなくて、新都の方だ。オフィス街のビルを総当たりしていこう」
セイバーに声をかけて、間桐邸を後にする。
「いいのですかシロウ? ここは桜の家なのでしょう。
立ち寄ったのですから、声をかけては? それぐらいは余裕があると思いますが」
「――――――――」
たしかに桜の事は心配だ。
遠坂の話じゃ桜は体調不良だけで、幸い外傷はなかったという。
それでも、出来れば顔を見て、いつも世話になっているんだから看病ぐらいはしてやりたい。
だが――――
「やめておく。この戦いが終わるまでは、桜と会って戦いに巻き込む訳にはいかないからな」
……それに、なにより。
これから桜の兄貴と戦う自分が、桜に会える訳がない。
慎二を殺してしまうような最悪の結果になったなら、これから先も、桜に会う事はできなくなるだろう。
……なら、そんな未練は残さないほうがいい。
それは俺がするべき最善の方法で、きっと、桜にとっても最善の方法だと思うのだ――――
手当たり次第にビルを回る。
比較的大きな建物から見て回ってはいるが、今のところコレといった手応えはない。
「――――――――」
額に浮かんだ汗をぬぐって、鉛のような手足を動かす。
乱れている呼吸を整えようと、少しだけ立ち止まって深呼吸をする。
「? シロウ、何か異常でもあり――――」
セイバーは立ち止まった俺へと振り返るなり、顔を強ばらせた。
「シロウ、こちらへ」
「え……ちょっと待った、そっちは公園だぞ。こっちにはまだ見てない建物が残って――――」
「それは後にしてください。今はこちらが最優先です」
何か気にかかる物でも発見したのか。
きつい口調で言って、セイバーは俺を公園へと引っぱっていく。
「ちょっ、セイバー……! どうしたんだよ、こんなところまでやってきて。ここには何もない。そんなの、セイバーにだって判るだろ!?」
「いいですから、そこのベンチに座ってください。話はその後で聞きます」
「む――――」
セイバーの視線に圧されて、渋々とベンチに座る。
と――――
一瞬だけ、意識を失いかけた。
「あ――――れ」
片手で頭を押さえる。
額には汗が滲んでいて、座っているというのに呼吸は妙に荒い。
……って、ちょっと待て。
こんな真冬に、なんで汗なんてかいてるんだろう、俺は。
「……おかしいな。こんなに疲れてたのか、俺」
そう口にした途端、ようやく自分の体調に気が付いた。
疲れている訳じゃない。
これは単に、治りきってない傷が疼いているだけの話だ。
「――――、っ」
……なんて事だ。どんなに深呼吸をしても呼吸が正せない。
ベンチに降ろした腰は重く、足は立ち上がる事を拒否している。
「ようやく自分の体に気が付いたようですね、シロウ」
セイバーは怒っている。
……それも当然か。慎二を捜すと言いだした俺が、ベンチで休んでいては話にならない。
「―――すまん。すぐに動けるようにするから、しばらく待ってくれ」
「私が注意しているのはそんな事ではありません。
どうやら、貴方には何を言っても無駄のようですね」
「――――?」
セイバーが怒っているのは判る。
判るのだが、彼女が俺の何に怒っているのか、それがいまいち分からなかった。
「ちょっとセイバー。きちんと言ってくれないと、何が言いたいのか判らないんだが」
「判らないのなら語る必要はないでしょう。
いいですから、シロウはそこで休んでいてください。
一人で休むのが嫌なら、私もお付き合いしますから」
言って、セイバーは隣りに座る。
「え――――」
ベンチは、そう大きい物じゃない。
隣りに座ったセイバーとは、少し体を傾ければ肩が触れるほどの近さだった。
「ちょっ――――いや、待てってセイバー。
休んでる暇なんてないだろ。俺たちは遊びに来たんじゃなくて――――」
「遊びになど来ていません。休憩も戦いの内です。文句を言うのでしたら、まずその呼吸を整えてからにしてください」
「う……いや、呼吸を整えろって、おまえ」
そりゃあ体はやけに疲れていてうまく息ができないけど、それ以上にこんな近くにいられると心臓が暴れるっていうか――――
「シロウ、人の話を聞いていますか? 今まで体に無理をさせてきたのですから、まずは肩の力を抜いて落ち着いてください。気が散っていては体が休まらないのですから」
「いや、だから」
落ち着いてほしいんなら、もうちょっと離れてくれないものか。
セイバーがどう思っているかは知らないが、こっちにとっちゃセイバーは同い年くらいの女の子だ。
いや、実際には年下だろうけど、とにかく女の子なのだ。
……ついでに、その、現実離れした美人でもある。
そんな子にこんな近くにいられて落ち着けるのは、男としてどうかと思う。
「……シロウ? 気のせいでしょうか、先ほどより顔色が悪くなってきた気がするのですが」
「そ、そんなコトないっ……! ど、動揺してなんてないぞ、こっちは!」
「……それならいいのですが……やはり横になった方がいいのでしょうか。このあたりで休めるところといったら―――」
きょろきょろとあたりを見るセイバー。
……って。
なんでこんな寂しい公園に、恋人に膝枕してもらって寝っ転がっている野郎がいるのか。
「……………………」
で。
セイバーは、その二人組《カップル》を見つめながら、何やら考え込んでいる模様。
「シロウ。気分が悪いのでしたら横に――――」
「大丈夫! 大人しくしてればすぐに落ち着くから、余計な心配はしなくていい! しなくていいから当分ほっといてくれ!」
セイバーから顔を背けて、視線が合わないようにと目を閉じる。
「…………………………」
……気分を平らに。
あとはもう、出来るだけ隣にいるセイバーを意識しないよう、懸命に深呼吸を繰り返して――――。
一夜明けて、火の手は弱まっていた。
ごうごうと燃えさかっていた赤い壁も、いまは無い。
あたりは一面の焼け野原で、黒こげになった材木が、パチパチと音をたて燻《くすぶ》っている。
倒れたまま、線香花火の音に似ているな、なんてコトを思っていた。
空が曇っていく。
じき雨が降って、火事は終わるだろう。
息をする事さえままならない体で、ぼんやりと空を眺めていた。
まわりには焦げた亡骸。
自分の肌はところどころが火傷していて、胸には一際鋭い、熱い感触があった。
抉《えぐ》れた胸。
爛れた肉に指を入れれば、じかに心臓が掴めそう。
―――ああ、そういえばそうだった。
疲れ切ったから倒れたんじゃなかった。
麻痺しきった体は、疲れたぐらいで休めるほど優しくはなかった筈だ。
自分が倒れたのは、単に。
何をどうしようと、もう、手足が動かなくなる傷を負ってしまったからだと思う。
だから潔く、取り乱す事もなかった。
もう助からないな、と判ったし、まわりの人たちもそうやって息絶えたのだから、怖くはなかった。
曇っていく空を見上げて、薄れていく自分を眺めるだけ。
ただ、それでも。
朦朧とする意識で、生きているうちは最後まで、助けを求めようと思って――――
……と、なにかおかしい。
一際熱い胸の感触なんて、俺は覚えてはいない筈だ。
「―――――――」
がばっ、と勢いよく体を起こす。
シャツの襟元を開けて、自分の体を確認する。
「―――だよな。傷なんてないし」
胸に傷痕なんてない。
そもそも俺は火傷による呼吸困難で死にかけたのであって、致命傷らしき物なんてなかった。
そんなものがあったら、いくら切嗣でも俺を助ける事なんて出来なかっただろう。
いや、今はそんな事より――――
「うわ、夜になってる……! 俺、寝ちまってたのかセイバー!?」
「はい。よく眠っているようでしたので起こしませんでしたが、その甲斐はあったようですね。先ほどに比べて、シロウの顔色は良くなっていますから」
セイバーはすぐ側にいて、何事もなかったように返答をした。
「……人が悪いな。居眠りした俺が悪いにしても、起こしてくれても良かったじゃないか。休んでいる暇はないって言っただろ」
「休息は必要な行為です。それにシロウが眠っていたのは一時間程度ですから、そう問題はないでしょう」
「む、そりゃ結果論だ。俺が起きなかったらどうするつもりだったんだよ、一体」
「そうですね、あまり変わりはないでしょう。日が落ちて寒くなってきましたから、そろそろ声をかけようと思っていたところです」
あっさりとセイバーは返してくる。
……ダメだこりゃ。どう考えても、今回はセイバーの言い分のが正しいと思う。
「……まあ、たしかに体の調子はすごくいいけど」
ベンチから立ち上がって、野原をとつとつと歩く。
野原にかつての面影はない。
住宅地だった頃の面影も、あの、赤い世界だった頃の面影も。
それなのに、ここで眠っただけでつまらない残像を見たのは、なんとなく癪に障った。
「シロウ……? 何か問題でもあるのですか……?」
「ああ、いや。どうせ休むなら、別の場所にするべきだったなって。ここはどうも、嫌な思い出がありすぎる」
「嫌な思い出……? シロウはこの場所に縁があったのですか?」
「え……? そっか、話してなかったっけ。俺、昔はこのあたりに住んでたんだ。十年前の話だけどな。大きな火事が起きて、両親も家も焼け落ちた。そん時に切嗣《オヤジ》に助けられて、そのまま養子になったんだよ」
「な……では、貴方は」
「ああ、切嗣の実の子供って訳じゃない。それに聖杯戦争と無関係って訳でもないのかな。
ここが前回の戦いの、最後の場所だってのは聞いてるよ。そこで生き残った俺がマスターになるんだから、皮肉というか、縁があるっていうか」
野原を歩く。
あれから十年は経つというのに、ここの土は草の生えが悪いようだ。
……死んでいった人たちの無念が、この土地に染み込んでいるせいかもしれない。
「シロウ。貴方が犠牲者を出すまいとするのは、それが理由ですか?
貴方自身が聖杯戦争の犠牲者だからこそ、自分のような犠牲者は出したくないと……?」
「え――――いや、それは」
言われてみれば、確かにそういう考えにはなるのかもしれない。
だが、不思議とそうに思った事は一度もなかった気がする。
「……どうだろう。セイバーの言うことはもっともだけど、俺はもっと単純だと思うよ。
十年前さ、ここで切嗣に助けられた時はただ嬉しかった。それ以外になかったから、自分もそうなれたらいいと憧れたんじゃないかな」
そう、ただ嬉しかった。
助けを求めて、それが叶えられた時の感情は言葉では言い表せない。
だが、同時に。
嬉しければ嬉しいほど、後ろめたさもあったのだ。
「けど、自分だけ願いが叶えられたってのは居心地が悪かった。俺は親父に助けられたけど。他の人たちは、助けられずにずっとこのままだ」
誰もが救いを求め、その中でただ一人、俺は願いを叶えられた。
ただ一人助かって、
他の全員を犠牲にして救われた。
だから―――衛宮士郎は、その責任をとらなければ。
「けどまあ、起きてしまった事は戻しようがないからな。
死んでいった人たちに報いたいなら、せめてこれからの事を防ぐべきだ。
十年前のような惨事は起こさせない。またあんな事になったら、それこそ犠牲になった人たちに会わせる顔がないだろ。
まあ、俺の理由なんてその程度のものだと思う」
そんな事より慎二捜しを再開しないと。
体調も良くなったし、まだ調べていないビルを急いで回らなければ。
それに、夜になれば人目も少なくなる。
慎二が俺たちを襲いたいのなら絶好の機会だろう。
自分たちを囮にするのなら、ここからが本番だ。
「行こうかセイバー。とりあえずオフィス街に戻ろう」
「…………」
「セイバー……? どうした、忘れ物でもあるのか?」
「いえ。ただ、今朝の事を思い出していました。
体の傷を治してからライダーのマスターを捜すべきだと言った私に、シロウは順番が違うと言いました」
「?」
む……言ったかもしれないけど、そんな細かいコトまで覚えてないんだけど。
「シロウは昨日も同じ言葉を口にした。以前から感じてはいましたが、その時に確信したのです。
―――貴方には、自分を助けようとする気がないのだと」
まるで。
それが罪だと言うかのように、俺を見据えて断言した。
「貴方は自身より他人を優先している。それは立派ですが、それでは貴方はいつかきっと後悔する。
……シロウはもっと、自分を大切にするべきだ」
セイバーは俺の真横を通り過ぎていく。
「行きましょう。確かに、ここにいては貴方に負担をかける」
オフィス街に向かって歩き出すセイバー。
その背中に声をかけようとして、結局、彼女を止める事は出来なかった。
「――――なにを」
言ってるのか、と喉がつまる。
自分を助けようとする気がないなんて、そんなコトある筈がない。
ある筈がないのに、なぜか―――否定する言葉が、ただの一つも浮かばなかった。
◇◇◇
―――夜の街を歩く。
時刻は夜の八時過ぎ。
駅前がもっとも賑わう時間、セイバーと二人で街の地図を眺めている。
「主立った建物は周りましたね。他に行くべき場所はありますか?」
「そうだな、少し離れたところに工場がある。あそこも人が集まる場所だから調べておかないと。ま、工場っていうのは慎二の趣味じゃないと思うんだが」
……そんな受け答えをしながらも、セイバーとは顔を会わせづらい。
さっきの会話が尾を引いているせいだろう。
セイバーはあんな会話なんてなかったように振る舞っているから、余計こっちが気にしてしまう。
「そう言うセイバーの方はどうだ? ライダーの気配は掴めるか?」
「……いえ、感じません。彼女とは一度戦っていますから、近くにいれば知覚できるのですが――――」
肌を刺す違和感。
俺でさえ感じ取れるほどの魔力の波だ。
セイバーが感知できない筈がない。
「……シロウ。言うまでもないと思うのですが」
「解ってる。……それで、近くにいるのかセイバー」
「いえ、まだそこまでの距離ではないようです。ですが確実に見られている。……この魔力は、私たちに対する挑発でしょう」
見られている……という事は、ようやく囮に引っかかってくれた訳か。
あからさまに魔力を放っているところを見ると、俺たちを誘っているのだろう。
「――――で。この気配、ライダーなのか」
意識が切り替わる。
先ほどまでのぎこちなさなんて、もう遠くに消えていった。
「魔力を辿ります。注意してください、マスター」
声を出さず、無言で頷く。
針のように肌を刺す殺気は、人通りが消えかけているオフィス街から放たれていた。
今日に限って残業をする人間はいないのか。
新都のシンボルとも言えるビルの明かりは、そのほとんどが消えていた。
歩道を歩く人影はまばらで、見通しは悪くない。
不審な人影はなく、慎二がいるとしたらこの先……さっきまで自分たちがいた公園だろうか。
……肌を刺す殺気は一段と強くなっている。
この近くに“敵”がいる事に間違いはない。
いや、むしろ。
「――――――――っ」
背筋に悪寒が走る。
俺のような素人でも感じとれる殺気からして、俺たちはとっくに“敵”の間合いに入っているのではないか。
「……セイバー、気を付けろ。なにか、ヘンだ」
「……ええ、シロウの感覚は正しい。このように人目のある場所で仕掛けてくるとは思えませんが、相手が相手です。用心に越した事はありません」
無言で頷いて、公園へと向かう。
のど元にナイフを突きつけられているような圧迫感は、この際無視しよう。
オフィス街には慎二の姿もライダーの姿もない。
しかけてくるとしたら、人目がない公園の筈――――
「シロウ――――!」
「? なんだよ、セイバー」
セイバーへと振り返る。
彼女は稲妻のように跳びかかり、
俺の頭上で、その一撃を弾き返していた。
「!?」
頭上を仰ぐ。
視界には天を衝くほどの巨大なビルが聳《そび》え。
その側面には、蜘蛛のように張り付いた“敵”の姿があった。「な――――」
全身を覆うほどの長髪と、しなやかな白い四肢。
顔をマスクで隠したソレは、間違いなくライダーのサーヴァント…………!!「――――フ」
ビルの五階付近に張り付いたソレは、ぬらりと舌なめずりをして、俺を見た。
……背筋が凍る。
間違いない。
アレはビルの屋上から落下し、頭上という死角から俺の首を断ちにきたのか――――! セイバーが着地する。
俺の頭上まで跳躍し、ライダーの攻撃を弾いたセイバーは、一瞬で武装していた。
「セイバー、アイツは……!」
「追います! シロウはここにいてください……!」
「え―――追うって、どうやって!?」
地面を蹴る。
銀の鎧は、一瞬にして視界からかき消えた。
「な――――!?」
ビルの屋上から落下してきたライダーもデタラメなら、跳躍だけでライダーを追撃したセイバーもデタラメだ。
否、もともとサーヴァントである彼女たちには、常識など当てはまらないのか。
セイバーはライダー同様、ビルの側面を蹴って、稲妻のようにライダーへ襲いかかった――――!
目まぐるしく交差する二つの影。
頭上で衝突しては離れ、ビルを蹴ってまた衝突しあう様は、戦闘機の空戦を見ているようだ。
それを、俺は――――
「―――――――」
このまま見ている訳にはいかない。
足場のない戦いのせいか、セイバーは以前ほどライダーを押し切れていない。
二人の激突は少しずつ上空へ、ビルの屋上を目指して移動している。
「そうか、屋上――――!」
ライダーが屋上から落ちてきたのなら、慎二がそこにいる可能性は高い……!
ライダーと戦う条件は二つ。
ライダーが宝具を出す前に倒すか、マスターである慎二を先に叩くか。
セイバーがライダーと戦っている以上、俺がするべき事は一つだけだ――――!
駆け上がる二つの影。
既に地上は遠く、激突は際限なく高度を増していく。
両者は足場など必要とせず、壁を蹴る反動だけでより高みへと翔《のぼ》っていく。
その過程。
頂点を目指すまでの一瞬に、幾度となく衝突する。
地上から見上げる者がいたとしたらピンボールを連想しただろう。
尤《もっと》も、ぶつかり合う両者は肉眼で捉えられるものではない。
それはかろうじて衝突の軌跡が判る程度の、人の身では不可視の死の遊技《デスサーカス》。
「――――っ」
その遊技はセイバーの望んだものではない。
いかにサーヴァントと言えど、生身で空を行く事はできない。
ビルの壁を駆け上がる事はできるが、結局はそれ止まりだ。
こんな事は自由落下と変わらない。
勢いを失うまで昇り続けるか、勢いを失って落ちるかだけの話。
故に、空に落ちている、という表現は間違いではないだろう。
始まったからには終着である屋上を目指すしかない。
その過程、この瞬間に相手の一撃を受ければ、無惨に地上へ墜落するのみだ。
―――だが。
セイバーが倒すべき敵である彼女にだけは、そのルールは適用されてはいなかった。
ビルの側面を駆け、ただ上を目指すだけのセイバーを狩りたてる、紫の軌跡。
縦横無尽、上下左右から弧を描いてセイバーを襲うライダーに重力の縛りはない。
長い髪は彗星のように流れ、その姿は大木に巻き付く蛇そのもの。
「っ……!」
セイバーの足が壁に触れる。
体を横に傾け、ビルの端を目指して壁を蹴る。
垂直に屋上を目指していたセイバーの軌跡が、直角に変化する。
―――流れるような追撃が離れていく。
瞬間的な爆発力では、ライダーはセイバーには及ばない。
セイバーは一蹴りで大きくライダーを振りきり、ビルという足場の果て、ギリギリの角まで跳躍し、さらに跳んだ。
次は上へ。
ライダーがビルに巻き付く蛇ならば、セイバーは炸裂する火花に近い。 だが、それも読まれているのか。
両者の間合いは変わらない。
ライダーはセイバーに引き離される事なくビルの側面を駆け、セイバーが跳躍を必要とする隙に牙をむく――――!「くっ……!」
ライダーを剣で弾き飛ばし、開いた空間へと跳躍するセイバー。
巻き付くようなライダーの追撃を防ぎきるも、宙に浮いた状態では限界がある。
以前は勝負にさえならなかった剣の技術は、この戦場において対等になった。
二人の戦いに決定打はない。
否、なによりライダー自身が決定打を避けている。
意を決してセイバーがライダーへと跳躍すれば、ライダーは受けるだけで反撃する様子さえ見せない。
ライダーはただ、屋上へと上っていくセイバーの隙をついて牽制するのみである。
「く―――戦う気がないのですか、ライダー……!」
逃げ腰の敵を罵倒する。
騎士である彼女にとって、このような戦いは屈辱だ。
戦いとは全力で打ち合い、勝敗を決するもの。
その信念で言えば、ライダーの振る舞いは侮辱以外の何物でもない。
「ふふ―――高いところは苦手のようですね、セイバー」
涼しげな声で返すライダー。
ライダーの言うとおり、空中戦などセイバーは不慣れだ。
このような戦いは今夜が初めてだと言っていい。
そもそも、騎士は地を駆ける者だ。
目前の女のように、壁に張りつく類ではない。
「自慢の剣もここでは形無しでしょう? けど安心なさい、もうじき楽にしてあげるから」
誘うように高度を増していくライダー。
彼女は意図的にこの状況を作っている。
「―――――――」
セイバーとて承知している。
この遊戯の終着点。
そこに待ち受けるモノは、ライダーにとって必殺の状況に違いない。
彼女《ライダー》の切り札は、そうおいそれと使えるモノではない。
故に何の邪魔も入らない場所に獲物をおびき寄せ、最強の一撃で決着をつけるつもりなのだ。
このまま屋上に上がれば窮地に追い込まれる。
ライダーの宝具がセイバーの考えている通りのモノだとしたら、防ぐ手段など有り得ない。
だが、いまさら引き返す事はできない。
ライダーはもとより、ライダーのマスターを放っておく事はできないのだ。
敵を倒すのが聖杯戦争の定石だから、ではない。
彼女は、彼女のマスターを守る為に、ライダーをこの場で倒さなければならない。
……だって仕方がないではないか。
彼女本人も呆れてはいるのだが。
あの愚直なマスターに、これ以上無理をさせたくないと、一度でも思ってしまったのだから。
―――両者の高度は上がっていく。
刹那の攻防を続けながら、戦いは終着駅《おくじょう》に着こうとしていた。
「くそ、なんだって四十階までしか動いてないんだ……!」
悪態をつきながら階段を駆け上がる。
裏口からビルに入ったものの、エレベーターは屋上まで動いていなかった。
屋上までの残る十階分は、自分の足で走るしかない。
「は――――はあ、はあ、は――――!」
全力で階段を上がっていく。
セイバーと別れてからどのくらい時間が経ったのか。
十分―――は経っていないと思うが、それでも時間としては長すぎる。
戦いなんて、どんな弾みで終わるか判らない。
セイバーだって完璧って訳じゃないんだ。
なにか、とんでもないミスをして窮地に立つ事だってある。
だからその前に―――慎二を見つけて令呪を使わせてしまえば、ライダーと戦う必要はなくなる筈だ。
「くっ――――は、は…………!」
……病み上がりの体は、階段を駆け上がれば駆け上がるほどキリキリと痛んでくる。
ビルの裏口を探して、階段まで走った事で息もあがっている。
それでもスピードは緩まず、逆に上がっていく一方だ。
イヤな予感がする。
どうしてそんな気がするのかは分からないが、心臓が苦しい。
それは体の痛みではなく、危険を報せる類のものだ。
……セイバーは勝てない。
屋上には、相手にしてはならないモノがある。
不吉な予感を振り払うように、ただ懸命に階段を駆け上がる。
―――風が強い。
扉を開けた途端、街の夜景が視界に飛び込んでくる。
コンクリートの地面は、所々が焼け焦げていた。
じゅうじゅうと音をたてるソレは、肉を焼く鉄板のようでもある。
その中心。
焦げ付き、削られている屋上の真ん中に、膝をつく彼女の姿があった。
「セイバー…………!」
「シロウ……!? どうしてここに――――!」
肩を上下させているセイバーに余裕はない。
そこに駆け寄ろうとした瞬間――――何か異質なモノが浮いている事に気が付いた。
否。
それは圧倒的なまでの魔力をもって、認識を強制したのだ。
「な――――」
視線が空を仰ぐ。
翼のはばたく音。
白い、おぼろげな月の姿より白すぎる何かがいる。
……それは。
神話の中でしか聞いた事のない、伝説上の『神秘』だった。
◇◇◇
そうして、屋上に辿り着いた瞬間。
彼女は、敵である相手の“正体”と対峙した。
「ハァ―――、ハァ、ア―――」
倒れそうな体を剣で支え、顔を上げる。
休みなく駆け抜けてくる白い光。
剣に纏った風を前方に展開し、見えない壁を作る。
吹き飛ぶ体。
本来ならあらゆる衝撃を削減する筈のソレは、天馬の速度を緩める事さえ出来なかった。
「ぐっ…………!」
吹き飛ばされ、受け身もとれずに地面に転がる。
―――倒れている暇などない。
天馬は空中で旋回し、息つく間もなく滑空を再開する。
「ふっ……!」
受け止める事は出来ない。
許されるのは跳躍による回避のみ。
だが避けたところで、その余波だけで彼女の守りは削られていく。
このままではいずれ正面から、何の守りもなく直撃を食らうだろう。
舞い降りてくる白い光。
天馬は遙かな頭上より滑空し、屋上に衝突する事なく彼女をなぎ払い、上空へと去っていく。
追撃など出来る筈がない。
駆け上がる壁もなく、あったところで、あの天馬を捉える事など誰にできよう。
「ハァ……ハア、ハア、ハ――――」
その劣勢において、彼女《セイバー》は反撃の機会を待つ。
天馬と言えど、生きている以上は殺せる相手だ。
彼女に残された勝機は、天馬を駆るライダーがその手綱を誤る失点だけである。
「驚きました。見かけに寄らず頑丈ですね、貴女は」
頭上からの声。
彼女は剣を構えたまま空を仰ぐ。
「ですが、それに意味はありますか? 貴女には勝ち目などない。散るしかないのなら、潔く消えなさい」
ライダーの声は冷静だ。
その陰にはかすかな愉悦が感じられる。
「……ふん。幻想種だとは睨んでいましたが。まさかそんなモノを持ち出してくるとは思いませんでした、ライダー」
―――幻想種。
それは文字通り、幻想の中にのみ生存するモノを指す。
妖精や巨人と言われる亜人、
鬼や竜と言われる魔獣。
その在り方そのものが『神秘』である彼らは、それだけで魔術を凌駕する存在とされる。
神秘は、より強い神秘にうち消されるのが理《ことわり》だ。
魔術が知識として力を蓄えてきたように、
幻想種はその長い寿命で力を蓄えている。
人の身で魔術を極めようと、そんなものはせいぜい五百年。
遙かな太古より生きてきた彼らにとって、五百年程度の神秘など争うに値しない。
だが人と幻想種が同じ世界にいたのは、過去の話だ。
長く生きた幻想種であればあるほど、この世界から遠ざかっていく。
現在、世界に留まっている幻想種など百年単位のモノでしかない。
故に、ライダーの駆る幻想種は百年単位のモノだと読んでいたのだが――――
「……神代のモノを持ち出すとは。随分と業が深いようですね、ライダー」
「ええ、私は貴女たちとは違う。むしろ貴女たちの敵だったモノにすぎない。故に、私が操るのは貴女たちが駆逐してきた、可哀想な仔たちだけよ」
「―――なるほど。歪んでいるとは思いましたが、英霊ではなく悪鬼の類でしたか、貴方は」
「……ふん、せいぜい呪いなさい。貴方では、私の仔に触れる事さえ出来ないのだから」
上空で翼を休める天馬。
隙あらば彼女を貫こうとする巨大な矢。
「――――」
それを睨みながら、彼女は思う。
天馬自体はそう強力な幻想種ではない。
普通の天馬は成長したところで魔獣クラスの幻想種にすぎない。
それならば彼女の“風王結界”だけで打倒しうる相手だ。
だが、アレは違う。
神代から存在し続けてきたあの天馬は、すでに幻獣の域に達している。
幻想種の中でも頂点と言われる『竜種』に、あの天馬は近づきつつあるのだ。
……いや、こと護りに関しては既に竜種に達している。
なにしろ最高の対魔力を誇る彼女《セイバー》を上回る加護が、あの天馬には備わっている。
膨大な魔力を放出しながらの滑空は、巨大な城壁が突進してくるようなものだった。
―――そんなもの、防ぐ事も躱す事も出来はしまい。
だが、驚くべきは別にある。
あの天馬はライダーが呼び出したモノにすぎず、真名など持ち得ない。
ライダーにとって、あの天馬は愛用する短剣とほぼ同位。
つまり―――あの黒い騎兵は、未だ己《・・・・・・》が宝具を使《・・・・》ってはいないのだ。
「――――――――」
その窮地において、セイバーは自身の敗北など考えてはいなかった。
むしろライダーがその気になった後にこそ、勝機があると踏まえている。
ライダーの宝具がなんであれ、この建物《ビル》を破壊する程度なら問題はない。
守りに徹して凌ぎきり、その直後、無防備になったライダーを斬り伏せるのみである。
―――そう。
この場に、彼女の主さえ現れなければ。
「な――――」
空を仰ぐ。
翼のはばたく音。
白い、おぼろげな月の姿より白すぎる何かがいる。 それは。
神話の中でしか聞いた事のない、伝説上の『神秘』だった。
「――――――天、馬……?」
ライダーの宝具の正体。
屋上を焼き付かせ、セイバーに膝をつかせているモノの正体がソレだというのか。
ライダーはそのクラスどおり、天かける馬に騎乗していた――――
「!?」
ライダーから意識を放す。
今、確かに物音がした――――
「慎二か……! いるんだろう、出てこい……!」
天馬を駆るライダーがどれほどの実力なのか、もう自分では判断できない。
あの白い魔物が、魔術師数百人分の魔力で編まれたものだとしか判らない。
屋上が焼き付いているのは当然だ。
アレはただ、走るだけで周囲を破壊する。
それが空から滑空してくるのだとしたら、セイバーでも凌ぐコトなど出来ないだろう。
「隠れるな……! やってきてやったんだ、顔ぐらい見せやがれ……!」
事は一刻を争う。
ライダーの宝具は使われてしまっている。
ならば―――残った手段、マスターである慎二を倒して、ライダーを消すしかない……!
「――――は。はは、あはは、あははははは!」
笑い声がする。
慎二は―――どこの物陰に隠れているのか。
「慎二……!」
「見たか衛宮! これが僕とおまえの力の差だ!」
声だけが響く。
「くっ……!」
あせる心を押さえつけて、笑い声に耳を澄ませる。
……くそ、風が強い……!
笑い声がどこからするのか識別できない……!
「残念だったな、カッコウつけて余裕ぶってるからこういう目に遭うんだ間抜け……! 殺す時はさ、さっさと殺さなきゃダメだって理解できたかい……!?」
「慎二…………!」
焦るな。
今は好きにさせろ、ヤツが喋れば喋るほど位置が限定されていく筈だ―――!
「けど僕は違うよ。おまえもあのサーヴァントもここで終わりだ。なに、これでも知らない仲じゃない。
昨日の借りもあるしさ、せめて苦しまないように一瞬で死んじゃえよ―――!」
「――――!」
――――まずい。
上空で待機していた天馬の頭が、ゆらりとセイバーへと下げられる。
限界などないかのように回転数を増していく魔力の渦。
アレが高速で飛翔してくるのなら、こんな屋上なんて跡形もなく吹き飛ばされる――――!
「なぁに、安心しろ衛宮。おまえに邪魔されたけどさ、学校のバカどももすぐに後を追わせてやるよ。おまえが寂しいってんなら、くそ鬱陶《うっとう》しい桜も付き合わせてやろうじゃないか!」
「慎二、おまえ――――!」
「やれライダー!
まずはその女だ、手足一本残すなよ……!」
「っ、セイバー……!」
頭上から、白いほうき星が落ちてくる。
それを無視してセイバーへと走り出した瞬間。
―――嵐が、目の前で巻き起こった。
「セイバー……!」
「な――――――」
彼女は初めて、戦いの中で敵を忘れた。
このような死地にやってきた主への怒りもある。
このような展開になるのは当然だと、思い至らなかった自身への怒りもある。
だが、それらは思考の隅に追いやられた。
他に何があろう。
この死地において、彼の瞳はただ、彼女の身を案じているだけだったのだから。
「シロウ―――――――」
―――思えば、彼は初めからそうだった。
彼女が優れた騎士であると理解しながら、
ただの一度も、騎士として扱わなかったその視線。
「どうやら余興はここまでのようね、セイバー」
くすり、という笑い声。
ライダーは天馬の首筋に両手をあて、一際大きく、その翼を羽撃《はばた》かせる。
「私の宝具は強力故、地上で使うには適していない。使えばどうしても人目につく。まだ他にマスターがいる以上、おいそれと使う訳にはいかなかった。
けれど、ここでなら覗き見される恐れはない。
貴女をここに誘いこんだのは、ここでなら都合がいいからと分かりましたか?」
ライダーの手に、今まで足りなかったモノが形成されていく。
それは本当にちっぽけな、どうという事のない、黄金に輝く縄。
「―――それが貴様の宝具か、ライダー」
「ええ、私の趣味ではありませんが。
この仔は優しすぎて戦いには向いていない。だからこんな物でも使わないと、その気になってくれないのよ」
天馬の首が下がる。
天馬の意思ではなく、ライダーの意思《ゆび》によって猛る獣性。
「―――消えなさいセイバー。
たとえ貴女が生き延びようと、貴女のマスターは私からは逃げられない。マスターさえ死ねば、頑丈な貴女もそれまででしょう?」
―――それは絶対の真実だ。
ライダーの宝具は、確実にこの屋上を吹き飛ばす。
急げば士郎《あるじ》を抱えて屋上からは逃げられるだろうが、ライダーの一撃は屋上を破壊するだけにはとどまるまい。
倒壊する建物の中で生き延びられるほど、彼女のマスターは強くはないのだ。
故に、彼女が主を守る為には。
あの敵を、その天馬ごと斬り伏せるしかない。
「――――――――」
それが正しいのか、彼女には考える時間などなかった。
もう一度だけ、遠く離れた主に視線を送る。
彼は彼の役割をこなそうと、懸命に歯を食いしばっていた。
「――――風よ」
それで迷いは消えた。
先の事など忘れた。
今はただ、主の剣となって、その敵を討ち滅ぼすのみ。
「やれライダー! まずはその女だ、手足一本残すなよ……!」
耳障りな声が聞こえてくる。
同時に、天馬はなお上空へと舞い上がる。 一瞬で視界から消失する。
遙か上空まで舞い上がった天馬は、既に原形を留めてはいなかった。
月を射抜けとばかりに上昇したソレは、そのまま弧を描いて地上へと翼を返す。 舞い降りてくる彗星。
光の矢となりながら、なおライダーは天馬を奔らせる。
狙うは一つ。
あの天空に孤立した庭園ごと、己が敵を殲滅する――――!
「騎英《ベルレ》の――――」
名が紡がれる。
宝具とは、真実の名を以って放たれる奇蹟を封じたものであり、
奇蹟とは、この世界では起こるはずのない異変であるというのなら―――
「――――手綱《フォーン》…………!!!!!」
それはまさしく、神なる雷そのものだった。
閃《ひらめ》く落雷。
見据える彼女の目には、もはや何の感情もない。
「―――この場所ならば人目につかないと言ったな、ライダー」
風が解かれていく。
彼女を中心に巻き起こる風は、疾《と》く嵐へと化けていく。
「同感だ。ここならば、地上を焼き払う杞憂もない―――!」
封が解かれる。
幾重もの風を払い。
彼女の剣は、その姿を現した。
―――嵐が、目の前で巻き起こっていた。
落下してくる白い光。
その標的にされながらもセイバーは動かない。
「セイ、バー――――?」
吹き荒れる風は、彼女から発していた。
いや、セイバーからではなく、彼女が持つ剣からだ。
「――――え?」
我が目を疑う。
視えない筈のその姿が、確かに見える。
少しずつ、包帯を解いていくかのように、彼女の剣が現れ始める――――
「黄金の――――剣?」
吹き荒ぶ風。
箱を開けるかのように展開していく幾重もの封印。
風の帯は大気に溶け。
露わになった剣を構え、彼女は舞い落ちる天馬へと向き直る。
光の奔流となったライダーが迫る。
屋上を包み込むほどに成長した“騎英《ベルレフォーン》の手綱”は、俺たちはおろかビルそのものを破壊しようと速度を増す。
“騎英の手綱”の白光が屋上を照らし上げる。
「――――――――」
……時間が止まる。
逃れられない破滅を前にして、思考が停止する。
だが、それは。
決して、“騎英の手綱”による物ではなかった。
収束する光。
その純度は、巨大なだけのライダーの騎影とは比べるべくもない。
彼女の手にあるモノは。
星の光を集めた、最強の聖剣である。
「――――約《エ》束《クス》された勝利《カリバー》の剣――――!!!」
―――それは、文字通り光の線だった。
触れる物を例外なく切断する光の刃。
ライダーを一刀のもとに両断し、夜空を翔け、雲を断ち切って消えていく。
……おそらく。
アレが地上で使われたのなら、街には永遠に消えない大断層が残っただろう。
彼女の剣は“視えない”のではない。
あれは単に“視せない”だけだったのだ。
見る者の心さえ奪う黄金の剣、あまりにも有名すぎるその真名。
――――約束《エクス》された勝利《カリバー》の剣。
イングランドにかつて存在したとされ、騎士の代名詞として知れ渡る騎士王の剣。
幾重もの結界に封印された、サーヴァント中最強の宝具。
それがセイバーの持つ、英雄の証だった。
屋上は静まり返っている。
風は既になく、物音をたてる者もいない。
「――――――――」
セイバーに近づく事もできず、体は立ち尽くしたままだった。
混乱しているのか、それともまだあの剣に心を奪われているのか。
思考はとりとめもなく、おかしなコトばかり脳裏に浮かぶ。
何故彼女があの剣を持っているのか。
あの黄金の剣は、誰もが知る騎士の王が持つ物だ。
それを彼女が持つに至った経緯を考えようとして、自分が必死に、簡単な結論を否定したがっていると気が付いた。
……余分な推測をする必要はない。
アレは、初めから彼女の持ち物にすぎない。
だから彼女の真名もおのずと知れる。
そこにどんな手違いがあるのかは知らないが、あの聖剣を持つ以上、彼女の名は一つしかない。
「………………」
セイバーは剣を振るった姿勢のまま動かない。
……そこに駆け寄るべきなのに、体がどうしても前に進まない。
……自分は今まで、セイバーが英霊だという事を言葉でしか理解していなかった。
それを目の前で、はっきりと過去の英雄なのだと知らされ、あまりにも自分とは“違う”のだと思い知らされて―――近づく事を、ためらったのか。
「ひっ……!」
悲鳴が聞こえた。
物陰で何かが燃えている。
「――――誰だ!」
視線を移す。
そこには火が点き、今にも灰になっていく本と、
「あ―――あ、あああ……! 燃える、令呪が燃えちまう……!」
ひきつりながら、それを見つめている慎二がいた。
「――――慎二」
「ひ……! は、あは――――」
ライダーが倒され、自分の不利が判ったのか。
慎二は俺の目から逃れるように背を向け、そのまま屋上の出口へと走り出した。
「……!」
慎二は下の階に続くドアへと飛び込んでいく。
「待て、慎二――――!」
ここで逃がす訳にはいかない。
だが、急いで慎二の後を追おうとした瞬間。
視界の隅で。
崩れ落ちるように、セイバーが倒れ込んだ。
「――――」
思考が止まる。
逃げた慎二と、力なく倒れたセイバー。
俺は――――
―――セイバーを放っておけない。
ライダーは消え、慎二の令呪だった本も焼けた。
慎二にはもうサーヴァントはおらず、令呪も失われたのだ。
決着はついたと見ていい。
なら今は、倒れたセイバーを優先しなければ……!
「セイバー……!」
駆け寄る。
セイバーの手には、もう黄金の剣は握られていない。
剣はかき消え、残ったものは倒れ伏したセイバーだけなのだが――――
「え……?」
セイバーの様子は尋常じゃなかった。
額には玉のような汗が浮かび、呼吸は弱々しいクセに激しく、熱病に魘されているようだ。
「……そんな。おい、セイバー―――何が、どうしたって言うんだ」
恐る恐る声をかけるが、セイバーは何も答えない。
……単純に、意識がないのだ。
「――――セイ、バー……?」
彼女の額に手を触れる。
「熱っ……!」
思わず手を引っ込める。
じ、尋常な熱さじゃない……!
熱だとしたら四十度を超えているぞ、これ……!?
「セイバー! おい、しっかりしろ……!」
声をかけても、返ってくるのは苦しげな呼吸だけだ。
「――――っ」
何がなんだか判らない。
判らないが、このままでいい筈がないのは確かだ。
「うちに連れて行くからな……! 文句があるなら後にしてくれ……!」
倒れたセイバーを抱き上げる。
……軽い。
以前も軽かったけど、今はそれ以上に軽い。
いや、それ以上に、なんていうか――――
「……熱い。ちゃんと、生きてる」
セイバーは、やっぱりセイバーだ。
戸惑っていた自分が頭にくる。
……くそ、英雄だからなんだって言うんだ。
セイバーが何であれ、彼女はここにいて、こんなにも体温を感じさせている。
なのに壁を感じるなんて、なんて愚かだったのか。
「―――すぐに帰るからな。それまで大人しくしてろよセイバー……!」
セイバーを抱きかかえたまま走り出す。
勝利の余韻など何処にもない。
有るのは俺の腕に抱かれ、苦しげに吐息を漏らすセイバーの姿だけだった。
◇◇◇
「終わったわよ。
和室に寝かせてきたけど、あの分じゃしばらく目を覚まさないでしょうね」
「……そうか。遠坂がいてくれて助かった。
俺じゃ、その、セイバーの手当てなんて出来ないからな」
「……。まあ鎧を脱がせて楽にさせただけだから、お礼を言われるほどじゃないわ。セイバーの体も良くならないし、わたしは何もしてないもの」
……それでも、遠坂がいてくれたのは助かる。
家に帰ってきて、何をどうすればいいかと混乱していた俺を怒鳴りつけてくれたのは遠坂だ。
遠坂は一目でセイバーがどんな状態なのか看破して、とりあえず武装を解かせて横にさせよう、と提案してくれた。
それから一時間。
意識のないセイバーになんとか言葉を伝えて、遠坂はセイバーの鎧を脱がしてくれた。
「それで、何があったの。
慎二を捜しにいって、帰ってきたと思ったらセイバーがアレでしょう。一波乱あったのは判るけど、説明してくれないかしら」
「――――」
言葉につまる。
……セイバーの宝具の正体。
彼女の真名を明かすのだけは避けるべきだ。
それは俺の判断だけで語っていい事じゃない。
「……ライダーを倒した。慎二は令呪を失ってリタイヤしたよ。ただ、その時にセイバーが宝具を使って、そのあとに倒れたんだ」
「……ふーん。セイバーの宝具ねえ……」
遠坂は含みありげに黙り込む。
コイツの事だから、それがただ事ではなかったと感づいているんだろう。
「ま、追求するのは勘弁してあげるわ。今の貴方たちはそれどころじゃないものね」
「? それどころじゃないって、どういう事だ」
「言葉通りの意味よ。……貴方だって薄々は気づいているんでしょう。このままじゃセイバーが消えるって事ぐらい」
「な――――」
さらりと。
考えないようにしていた結末を、遠坂は口にした。
「……消えるって。セイバーが消えるっていうのか、おまえは」
「当然でしょう。セイバーの魔力はほとんど空っぽなのよ。セイバーの宝具がどんなモノだったかは知らないけど、よっぽど魔力を使う物だったんでしょうね。
セイバーは自分の中の魔力をほぼ消費してしまった。
今彼女が苦しんでいるのはね、消えようとしている自分を必死に留めているからよ」
「魔力がないから消える……セイバーは傷を負ってもいないのに、消えるっていうのか」
「ええ。サーヴァントにとっては外的ダメージより、魔力切れの方が深刻な問題よ。
霊体であるサーヴァントに肉体を与えているのは魔力だもの。それがなくなれば消えるしかない」
「……もっとも、そんな事にならないようにマスターはサーヴァントに魔力を送るんだけど、貴方はそれが出来ないでしょ。
だからセイバーは自分の魔力だけで戦うしかない。それが切れたらそれまでよ。こんなコト、一番始めに説明したでしょ」
――――それは。
確かに、セイバーから言われた事だ。
「―――けど、今までは大丈夫だったじゃないか。セイバーだって、眠っていれば持ち直すって――――」
「それはセイバーの魔力量が桁外れだったからよ。
……そうね、確かにセイバーの魔力はまだ残ってる。
彼女ならまだ消えずに、肉体を保つぐらいの魔力は回復できるとは思う」
「けど、結局はそこどまりよ。セイバーはずっと今の状態で戦う事になる。
こんな事になった原因である宝具を使うのなんてもってのほか。次に宝具を使えば、セイバーは間違いなく消え去るでしょうね」
「……次に、宝具を使えば消える……」
いや、そもそもあんな状態のセイバーを戦わせるなんて出来ない。
苦しげに背中を丸めたセイバーの姿なんて、二度と見たくない。
「理解できた? 結局、セイバーを以前の状態に戻す方法は二つだけよ。
マスターがサーヴァントに魔力を提供するか、サーヴァントが自分で魔力を補充するか」
……サーヴァントが自分で補充する。
……ライダーのように、無関係な人たちを殺す、という事か。
「……まさか。セイバーはそんな事はしない。セイバー自身が、そんな事はしないと言ったんだ」
「でしょうね。一般人を犠牲にするぐらいなら、セイバーは潔く消えるでしょう。
なら方法は一つだけよ。セイバーを消したくないのなら、貴方が魔力を提供するしかないわ」
「それは―――出来るならとっくにそうしてるさ。
けど俺は魔力を提供する方法なんて知らない。あいにく、遠坂みたいに何でも出来るって訳じゃないんだ」
「……まあね。共有の魔術を教えてあげても間に合わない。士郎は魔術師に向いてないから覚えるのに一年ぐらいかかるだろうし、覚えたところで使えないわ。
……まあ、召喚時にセイバーとパスは通っている筈だから、まだ他に方法があるかもしれないけど――――」
ぶつぶつと考え込む遠坂。
それもすぐに終わった。
遠坂は感情を押し殺した目で俺を見据える。
「いい。セイバーを助けたいのなら、セイバー自身に人を襲わせて、魂を食べさせるしかない。
それは貴方にも判ってると思うけど」
「――――――――」
それがもっとも現実的な手段だ。
けど、それは――――
「もちろんセイバーは嫌がるでしょう。
けど放っておけば遅かれ早かれセイバーは消えて、貴方は他のマスターから狙われる事になる」
「――――――――」
セイバーが消える……?
そんな事、考える事なんて出来ない。
まだこの手には、さっきまで抱いていた彼女の体温が残っている。
「なら答えは一つよ。
―――令呪を使いなさい衛宮くん。それで最悪の事態は避けられる」
それはつまり。
無関係な人間を殺せと、セイバーに命じろという事か。
「――――――――」
何も言えない。
遠坂が言っている事に憤りを覚える反面、それがただ一つの打開策なのだと認めている自分がいる。
「決断は貴方に任せるわ。セイバーは眠らせておけば落ち着くだろうけど、それでも限界は近いでしょうね。
決断をするなら、次に襲われるまでにね」
遠坂は居間から立ち去っていく。
……顔をあげる事もできず、ただ、遠ざかる足音だけを聞いていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
アルトリア。
成人の儀を迎えたばかりの少女は、その日を境に、そう呼ばれる事になった。
戦乱の時代だった。
発端は、一つの帝国の終焉である。
不滅であった筈の帝国は、数多くの異教徒の侵攻によって死を待つばかりとなったのだ。
異教徒との戦いに備える為、帝国はその島国から守りの兵力を剥いでしまった。
それが始まりだ。
帝国の庇護を失い、独立せざるを得なくなった彼女の国は、時をかけず様々な小王国に分かれてしまった。
異教徒たちの侵攻。
自殺行為とも言える部族間の内紛。
後に、“夜のように暗い日々”と言われる、長い戦いの時代。
そこに、王の跡継ぎとして彼女は生を受けた。
長い、戦乱の時代だったのだ。
王は魔術師の予言を信じ、相応しい後継者の誕生を待ちこがれた。
だが生まれた子供は、王の望んでいた者ではなかった。
子は、男子ではなかったのだ。
たとえ王の宿命を持っていようと、男子でないものを跡継ぎにする事は出来ない。
少女は王の家臣に預けられ、一介の騎士の子供として育てられた。
王は嘆いたが、魔術師は喜んだ。
もとより、王となる者に性別など関係はない。
それ以上に、少女が予言の日まで城から離れる事こそ、王の証だと確信していた。
素朴で賢明な老騎士の下、少女はその跡取りとして成長していった。
老騎士は魔術師の予言を信じていた訳ではない。
少女に己が主君と同じ物を感じたからこそ、騎士として育てなければならぬと信じ、その成長を願ったのだ。
だが騎士が願うまでもなく、少女は誰よりも強くあろうと鍛練の日々を重ねた。
崩壊し、死に行くだけの国を救えるのが王だけならば。
誰に言われるまでもなく、少女はその為だけに剣を振るうと誓っていたのだ。
そうして、予言の日がやってきた。
王を選び出す為に、国中の領主と騎士が集まった。
最も優れた者が王になるのならば、と誰もが馬上戦による選定を予想していた。
だが、選定の場に用意されていたのは岩に突き刺さった抜き身の剣だけだった。
剣の柄には黄金の銘。
“この剣を岩から引き出した者は、ブリテンの王たるべき者である―――” その銘に従い、数多くの騎士が剣を掴んだ。
だが抜ける者はおらず、騎士たちは予め用意していた、馬上戦による王の選定を始めてしまった。
まだ騎士見習いだった少女には、馬上戦の資格などない。
少女は周囲に人気の絶えた選定の岩に近づくと、ためらう事なく剣の柄に手を伸ばした。
「いやいや。それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」
振り向くと、この国で最も恐れられていた魔術師がいた。
魔術師は語る。
それを手にしたが最後、おまえは人間ではなくなるのだと。
その言葉に、少女は頷くだけで返した。
王になるという事は、人ではなくなるという事。
そんな覚悟は、生まれた時から抱いていた。
王とはつまり、みんなを守るために、一番多くみんなを殺す存在なのだ。
幼い彼女は毎夜それを思い、朝になるまで震え続けた。
一日たりとも恐れなかった日はない。
だがそれも、今日で終わりだと少女は告げた。
剣は当然のように引き抜かれ、周囲は光に包まれた。
―――その瞬間、彼女は人ではなくなった。
王に性別など関係はない。
ただ王として機能されすれば、王の風貌など誰も気にかけず、一顧だにされまい。
仮に王が女性だと気が付く人間がいようと、王として優れているのなら問題になる筈がなかった。
剣の魔力か、彼女の成長もそこで止まった。
不気味と恐れる騎士も多かったが、大半の騎士たちは主君の不死性を神秘と讃えあげた。
―――そうして。
後に伝説にまで称えられる、王の時代が始まった。
新たな王の戦いは、まさに軍神の業だった。
王は常に先陣に立つ。
彼女の行く手をふさげる敵など存在しなかった。
戦いの神《アルトリア》。
竜の化身とまで謳われたその身に、敗北などありえない。
十の年月、十二もの会戦を、彼女は勝利だけで終わらせた。
それはただ一心に、王として駆け抜けた日々だったのだろう。
一度も振り返らず、一度も汚れず。
彼女は王として育ち、その責務を全うしたのだ。
だから、こんな姿を幻視したのか。
その魂は、いまも戦場にいるのだろう。
夜明け前。
藍色の空の下、風に身を任せて、彼女はただ遠くを見つめている。
空は高く、流れる雲は早い。
澄み切った大気の下、彼女は剣を手に、迎え撃つべき大軍を見つめていた。
―――その姿が、焼き付いて離れない。
彼女とその剣は、一心同体だった。
王を選定した岩の剣。
彼女の運命を決定した剣の輝きは、彼女の輝きそのものだと思う。
だが、と夢の中で首を傾げた。
あの剣は、彼女が持っていた物とは違う。
似ているが違うモノだ。
昨夜彼女が振るった剣と、この剣は別の物。
……なら。
これだけの名剣を、彼女は何処に、失ってしまったというのだろう……?
夢から覚めると、そこは自分の部屋だった。
外は明るい。
昨夜、決断を下せないまま部屋に戻って、セイバーを看ながら眠ってしまったらしい。
「……今の、夢……」
おかしな夢だった。
俺が知るよしもない出来事、俺が知らないセイバーの姿。
そんなものを、夢に見るなんて事があるのだろうか。
「……でも確かに、あれはセイバーの持ってた剣とは違ったよな……」
ぼんやりと思考を巡らす。
不確かだったセイバーの正体。
……正直、自分はまだ彼女が何者だったのか、なんて事を受け入れられない。
セイバーはセイバーだ。
それ以前の事を知っても態度を変える事なんて出来ないし、セイバーだってそんなコトは望んでいないと思う。
「……けど。似合ってたな、セイバー」
昨夜の剣も似合っていたが、夢で見たあの剣も似合っていた。
いや、見惚れたと言っていい。
昨夜の剣といい夢の剣といい、自分は剣に弱いみたいだ。
ランサーの槍を見た時も美しいと思ったが、剣に対しては関心の度合いが違う。
どうも、衛宮士郎は『剣』という物に惚れやすい性格をしているらしい。
「ああまあ……そんなの、今に始まった事じゃなかったか」
はあ、と大きく息を吐いて、汗まみれの額に手を伸ばした。
「……それにしても、なんか熱いな」
額の汗を拭う。
冬だというのに体は火照っていた。
なんというか、流れている血の温度が上がっているようで落ち着かない。
「……なんだろう……セイバーの剣を見てから、なんか」
妙に体が熱い。
令呪が刻まれた左手はカイロを握っているかのようだ。
「……遠坂に宝石を飲まされた時に似てるな……痒いっていうか、走り出したくなるっていうか」
深呼吸をして心を落ち着かせる。
「……セイバーはまだ、眠ったままか……」
昨夜からセイバーは一度も目を覚まさない。
それでも状況は良くなっているようだ。
今は寝息も落ち着いていて、苦しげに喘いでいた面影はない。
セイバーは安らかに眠っている。
それは、今までと何も変わらない朝の光景だった。
「―――もしかしたら、このまま」
眠らせておけば、セイバーは元通りになるかもしれない。
そうすればセイバーに人を殺させる必要なんてない。
セイバーはこのまま、今まで通り俺と一緒に―――
「―――何を、都合のいい事を―――!」
壁を叩く。
自分の弱さに吐き気がする。
「―――セイバーをこんなにしたのは俺だ。
その俺が、何を―――」
……物音を立てないように立ち上がる。
セイバーがいつ目覚めるかは判らない。
だがそれまでに、俺はどちらを取るか決断しなくてはならない――――
まだ遠坂は起きていないのか。
家には活気がなく、廊下は廃墟のようだった。
いや、単に俺が沈み込んでいるだけだ。
どちらも選べず、灰色のまま彷徨《さまよ》うから世界がハッキリしないだけ。
「……?」
今、なにか空気を切るような音がした。
「まただ……庭の方からだけど、今のは――――」
今の音には聞き覚えがある。
……そうだな。
朝食を作る気分でもなし、散歩がてらに様子を見に行こう。
外はいつもより数段冷え込んでいた。
体が火照っている俺がそう感じるのだから、本当に寒いのだろう。
ともすれば、このまま雪でも降りかねない寒空である。
「……蔵の方からだな、あれ」
風切り音は定期的に起きているようだ。
白い息を吐きながら庭を横断する。
蔵の前にはアイツがいた。
……驚かなかったあたり、自分でもなんとなく、コイツがここにいる気がしていたのだろう。
先ほどまで弓を引いていたのか。
アーチャーは俺の姿を見るなり、不快そうに弓を下ろした。
「物騒だな。人ん家の庭で弓なんて引くな。矢が当たったらどうするつもりだ」
「どうするつもりもない。もとより矢など使っていないのだ。射ていないモノが当たる道理はなかろう」
「…………」
そんなこと、言われなくても判っている。
さっきの風切り音は、弓の弦が空を裂く音だ。
アーチャーは何のつもりか矢を使わず、ただ弓を引いていたにすぎない。
「……いい弓だな。今まで納得いかなかったけど、おまえ本当にアーチャーだったんだ」
「さて。私はおまえが知っている弓使いとは違うからな、弓道など訊かれても答えられんぞ。
おまえたちの弓は己に当てる射であり、私のは敵に当てる矢だ。おまえの言うアーチャーというのは、礼節を重んじる者の事だろう」
嫌味に口元をつりあげる。
やはり、コイツとは肌が合わない。
「誰もおまえに弓の事を訊こうだなんて思ってないよ。
ただ何をしているか気になっただけだ」
「見ての通り、調子を計っているのだが?
セイバーに付けられた傷も癒えた。いつまでも見張り役という訳にもいくまい」
「――――――――」
……そうか。
コイツの傷は癒えたのか。なら遠坂も、本格的に戦いを再開するだろう。
踵《きびす》を返す。
遠坂とアーチャーが本格的に復帰する以上、こっちも決断をしなければならない。
どこか一人になれる場所で、真剣に考えをまとめないと。
「―――残心《ざんしん》、という言葉があるな」
「え?」
「事を済ませた後に保つ間の事だ。
私の弓術とおまえの弓道で、唯一共通しているモノがそれだと思うのだが」
「……なんだよ。おまえなんかに八節を説かれるおぼえはないぞ」
「まあ聞け。矢を放った後、体は自然と場に止まるという。それを残心と言うそうだな」
「…………」
確かに、弓道には射礼八節と呼ばれる八つの動作がある。
その中の最後、矢を放った後にくる境地の事を残心と言うのだが――――
「……ああ。それがどうしたって言うんだ、おまえ」
「心構えの話だ。残心とは己の行為、放った矢が的中するかを確かめる物ではない。
矢とは、放つ前に既に的中しているものだ。射手は自らのイメージ通りに指を放す。
ならば当たるか当たらぬかなど、確認する必要はない。
射の前に当たらぬと思えば当たらぬし、当たると思えば当たっているのだから」
「―――そんな事あるか。どんなに当たるって思っても当たらない射はある。思うだけで当たるっていうんなら、誰だって百発百中だ」
「そうかな。少なくとも、おまえは百発百中だろう」
「な――――」
言われて、ドキリとした。
それは、確かに――――
「まあ、そんな話はどうでもいい。言いたい事は一つだけだ。残心とは矢が当たるかどうかを見極めるものではない。放った矢がどのような結果になるかなど判りきった事だからな。
ならば、残心とはその結果を受け入れる為の心構えではなかったか」
「―――判ってる。ようするに、最後まで見届けろって言いたいんだろ、おまえは」
「そういう事だ。セイバーの事は聞いた。彼女がこのような状態になるのは初めから判っていた事だろう。魔力の提供もなしで戦っていれば、いつかは消える。
それはもう決まっていた事だ。ならば――――」
……後は、その結果を受け入れるだけ。
俺の選択でセイバーがどうなろうと、俺には見届けるしか出来ないとでも言うのか。
「――――――――」
アーチャーに背を向ける。
今度こそ完全に、コイツの前から立ち去ってやる。
「……ああ、それともう一つ。気が付いていないようだから教えておこう」
背中越しに聞こえる声。
「セイバーはな、宝具を使えば自身が消えると判っていた筈だ。彼女はおそらく、最後まで宝具を使う気はなかったのだろう」
それにはいつもの嫌味な響きはなく。
「にも関わらず宝具を使った理由は一つ。
セイバーは自身が消える事より、おまえを守る事を選んだのだ。
それを、決して忘れるな」
ただ、事実を告げる誠実さだけが込められていた。
◇◇◇
公園は相変わらず無人だった。
今日がいつもより冷え込んでいる、という事もあるのだろう。
あたりに人気はなく、出歩いている人間は自分ぐらいのものだった。
「――――――――」
力なくベンチに腰をかける。
……望み通り、誰もいない場所に来た。
ここまで来たからには、取るべき道を決めなくてはならない。
これ以上、先延ばしに出来る道などない。
他のマスターを倒して聖杯戦争を終わらせるのなら、セイバーには居続けてもらわなければならない。
いや、そんな理由なんて関係なしに、セイバーに消えてなんかほしくない。
だがそれは。
ライダーのように、セイバーに人を襲わせるという事だ。
「――――っ」
出来る訳がない。
セイバーにそんな事をさせるなんて、それこそ死ねと言うようなものだ。
そもそも、セイバー本人が頑なに拒むだろう。
――――だが。
うなだれた視線の先に左手が見えた。
残った令呪は二つ。
これを使えば、セイバーが拒んだところで命令を実行させられる。
「――――――――」
唇を噛んで、つまらない考えを振り払った。
そうして、どのくらいの間ベンチにうなだれていたのか。
いい加減寒さで指先が震えだしたころ、
「あー!
もう、いないと思ったらこんなところにいるー!」
突然、そんな声をかけられた。
「あは、やっぱりそうだ。こんにちはシロウ。浮かない顔してるけど、何かあったの?」
「イリヤ……? おまえ、また一人でこんな所までやってきたのか。
危ないぞ、何処にマスターの目が光ってるか―――」
知れないんだから、と言いかけて、何をしているのかと呆れてしまった。
イリヤだってマスターなんだ。
俺が心配する事でもないし、そもそも俺たちは敵同士ではなかったか。
「……悪い。今はイリヤと話をする余裕がないんだ。せっかく会えたけど、話し相手になってやれない。今日は冷えるし、帰ったほうがいいぞ」
ベンチに座ったままイリヤを拒絶した。
……この子にはもっと話をしなくちゃいけない事があったが、今はセイバーの事で頭が一杯だ。
「――――――――」
……?
どうしたんだろう。
イリヤは何も言わず、他人を見るような目で俺を見ていた。
「……イリヤ……?
いや、別におまえを邪険にしてるんじゃないんだ。今はちょっと、色々とたてこんでいて――――」
「知ってるわ。セイバーが消えかけてるんでしょ。
それでシロウはどうしようかって考えてるのよね」
突然。
まるで別人のような冷たさで、目前の少女は言った。
「イリヤ……?」
「そんなコトで悩むなんてバカみたい。シロウがそんなだから、ライダーのマスターにも逃げられたのよ。負けたヤツなんて殺しちゃえばいいだけなのに」
足が動く。
座っていてはまずい、と立ち上がろうと力を入れる。
―――だが。
体は、イリヤに魅入られたように動かなかった。
「イリヤ、おまえ―――なんで、そんな事、を」
「言うまでもないでしょ。昨日の夜ね、わたしもあのビルにいただけよ。
もっとも、さすがにビルの中で様子を見てるしかなかったけど」
「――――!」
手足に力を入れるが、一向に動かない。
いや、むしろ入れれば入れるほど固まっていく気がする。
―――あの目だ。
イリヤの赤い目を見ていると、体が麻痺して―――
「あ、もう金縛りになったんだ。
シロウったら守りも何もないんだもの。一人でいれば簡単に捕まえられるって思ったけど、こんなに簡単にいくなんてかわいいなあ」
「イリヤ、おま、え――――」
「無駄だよお兄ちゃん。そうなったらもう動けないわ。
もうじき声もでなくなるけど、心配しなくていいよ。
―――わたしもね、今日はお話をしにきたワケじゃないもの」
イリヤの視線に殺気が灯る。
それはあの夜と同じ、バーサーカーのマスターとしてのイリヤだった。
「くっ……! 俺をここで殺す、つもりか……!」
歯を食いしばって、とにかく全身に力を込める。
それでも、指先はぴくりとも動かない。
もはや神経という神経が、がっちりとイリヤの視線に絡め取られている。
「うん。だって、もうマスターでいてもしょうがないでしょ? セイバーが消えたらシロウは一人きりだもの、いつまでもマスターにさせてられないわ。
戦う手段がなくなったシロウなんて、簡単に殺せるんだから」
イリヤの手が上がる。
白く華奢な指が、ひたり、と俺の胸に触れた。
「他の人に殺される前に見つけられて良かった。
それじゃ、おやすみなさいお兄ちゃん。どうせセイバーも消えるんだから、早いほうがスッキリするでしょ?」
視界が途切れた。
手足の感覚はとうに無く、視覚さえ無くなった。
……完全な闇に落ちて、どのくらい経ったのだろう。
自分が生きているのか死んでいるのか判らないうちに、ようやく、意識もブツリと途切れてくれた。
…………体が熱い。
意識は闇に落ちても、火照った体は変わらずに生を訴えている。
―――そうか。なら、自分は生きているらしい。
だが、仮にそうだとしても今だけの話だ。
イリヤが言っていたじゃないか。
―――戦う手段のないシロウなんて、簡単に殺せるんだから―――
……本当にその通りだ。
セイバーがいなければ、俺はまともに戦えない。
聖杯戦争とはサーヴァントとの戦いだ。
そのサーヴァントを相手にする事が、俺には到底出来はしない。
それはもう、何度も実証された事だ。
滅多刺しだった。
セイバーの言う通り、俺にとってサーヴァントと戦うという事は、いかに生き延びるかという事だ。
それさえ俺は出来なかった。
体中切り刻まれ、あげくに三階から地上にたたき落とされたのだ。
命が助かったのは、自分でも判らない体の異常のおかげだろう。
それが、怒りを覚えるほど悔しかった。
どんなに敵わない相手だからといって、目の前の惨事を止められなかった。
戦うと決めたのに。
マスターとして戦って、誰も傷つけないようにと決めたのに、守れなかった。
―――頭にくる。
幼い頃から憧れていた正義の味方ってのは、いつだって勝たなければ意味がない。
………体が熱い。
勝たなければいけない、と全身が震えている。
だが自分には勝つ手段はおろか、戦う手段さえない。
どうすればこの身だけで戦えるのか。
セイバーに負担をかけず、彼女を助けながら戦うだけの技量が自分には無い。
―――それも間違いだ。衛宮士郎は格闘には向かない。
おまえの戦いは精神の戦い、
己との戦いであるべきだからだ―――
ふと。
そんなコトを言った、男の背中を思い出した。
―――戦いになれば衛宮士郎に勝ち目などない。
おまえのスキルでは、
何をやってもサーヴァントには通じない―――
判っている。
それは嫌というほど思い知らされた。
―――ならば、せめてイメージしろ。
現実では敵わない相手ならば、想像の中で勝て。
自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ。
……そんな事、言われなくても判っている。
勝てるとしたら、それはこの頭の中でだけだろう。
だが、何を思えば勝てるのか。
俺は、衛宮士《じぶん》郎がサーヴァントを倒している姿なんて想像できない。
そこまで器用に自分を騙せないし、自分を騙して作ったイメージなんて所々にボロが出る。
そんな三流の想像で、一流の幻想であるサーヴァントに太刀打ち出来る筈がない。
―――だから。
俺は何に勝ち、
何で勝つのか。
その答えを、今もこうして探して――――
――――探して、いるのか。
黄金の剣。
それは彼女の為だけの剣だ。
それが欲しい訳じゃない。
ただ、美しい、と。
許されるのならば、それを手にしたいと思っただけ。
……まったく、見習い魔術師の悪い癖だ。
中身を見るコトしか能がないから、そんな分不相応な夢を見る。
だが―――夢であるのなら、思うぐらいは許されるだろう。
まずは基本骨子を想定して、構成材質を再現する。
……ああ、“強化”を行う時の基本だけじゃやっぱりダメか。
有るモノに手を加えるのが強化なのだから、もとより無いモノに意味はない。
だから、あの剣を思い出すのなら手間を増やさないと。
―――それは、基本よりもっと前。
“強化”の手順を教わる前の技法、切嗣に教わる前、自分なりに考えた無駄だらけの魔術工程。
ええと、それは確か――――どうやって、カタチにすればいいんだっけ…………?
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………気が付くと、何かとんでもない場所にいた。
「――――なんだ、ここ――――」
見知らぬ部屋、どころの話じゃない。
豪華な天蓋つきのベッドに、足首まで埋まりそうな毛足の長い絨毯。
装飾ではなく、今も暖房として使われている石作りの暖炉。
壁の紋様は壁紙などではなく、直に刻み込まれている。
慎二の家で洋館には馴れていたが、これはそういうレベルの部屋じゃない。
……こういう感想を口にするのは面はゆいが、まるで昔話に出てくるお城のようだった。
「っ…………」
意識が消えかける。
体が異様に重かった。
血の巡りが悪いのか。少しでも油断すると、また眠りに落ちてしまいそうだ。
「―――ええと……何が、どうなったんだっけ」
朦朧とした頭で思い出す。
俺は……そうだ、イリヤに身動きを封じられて、そのまま意識を失ったのだ。
「……イリヤに捕まった……ってコトか」
部屋には誰もいない。
体は重いが、さっきみたいに指先すら動かない、という事はなさそうだ。
力を込めれば、片腕をあげるぐらいは出来そうなのだが――――
「うわっ、縛られてるぞ俺――――!?」
惚けていた頭が、途端に覚醒した。
危機を察して、まず自分の状態を確認する。
「……椅子に座らされて、手を後ろに回されてるのか……これは手錠……じゃないよな。縄で手首を縛ってるだけか」
思ったより酷い状況ではないが、動けない事に変わりはない。
体はまだ痺れているし、腕が縛られていては立ち上がる事もできない。
「……あれからどのくらい経ってるんだ……時計は……ないか、やっぱり」
部屋に時計らしき物はない。
窓は―――後ろか。
出来るかぎり振り向いたが、カーテンがかかっていたので外の様子はよく判らない。
ただ、外は既に日が落ちていた。
朝方にイリヤと遭った訳だから、少なくとも半日は経過しているという事だ。
「………………」
こんな事をしている場合じゃない。
ここが何処だか知らないが、今は一刻も早くセイバーの元に帰らなければ。
……セイバーは弱ってるんだ。
俺が攫《さら》われたなんて、そんな事で負担をかける訳にはいかない。
「ん――――!」
座ったまま、後ろに回された腕に力を込める。
逃げ出すにしても、まずは手首を絞めた縄をなんとかしなければ――――
「!?」
扉が開く。
咄嗟に力を緩めたのと、彼女が部屋に入ってくるのとは同時だった。
「あ、やっと起きたんだ! おはようお兄ちゃん、体は大丈夫?」
イリヤの様子は、先程とは一変している。
冷淡な眼差しはなく、目の前にいるイリヤは公園で俺と話していた、あの白い少女だ。
「ん、どうしたの? なんか元気ないけど、まだ体は動かない? ……おかしいなあ、そろそろ声ぐらいは出せる筈なんだけど」
はて、と首をかしげて俺の顔を覗き込む。
……その目は、純粋にこちらの身を案じているようだった。
「……大丈夫だ。声は出るし、頭の方も、自分が捕まってるって判る程度にはハッキリしてる」
覗き込んでくるイリヤを睨む。
「なによ、不満なの? 捕まえた敵はね、ホントは地下牢にいれておくものなんだよ。
けど、それじゃシロウがかわいそうだから、特別にわたしの部屋に連れてきてあげたのに」
むー、と不満そうに唇をとがらすイリヤ。
それは有り難いのか、そうでないのか。
……ともかく、少しは状況が掴めてきた。
「……なんとなく状況は判った。俺は捕まって、ここはイリヤの住処って訳か」
感情を押し殺して声を尖らす。
状況が判らない以上、今は話を聞くしかない。
「そうだよ。前に言ったでしょ、わたしは森のお城に住んでるんだって」
「ここは樹海の中の城で、周りには何もないわ。シロウが住んでる街まで、車で何時間もかかるんだもの。助けなんて来る筈もないし、絶対に邪魔も入らない」
「―――そうか。
それは判ったけど、なんだってそんな事をしたんだ。
俺を殺すんなら、あの公園で出来たじゃないか」
「なんで? わたし、シロウを殺す気なんてないよ? シロウはわたしのだもん。他のマスターは殺すけど、シロウは特別。
だから誰も邪魔が入らないように、シロウをここに閉じこめたの」
「っ――――!」
思わず仰け反る。
イリヤは俺の動揺なんて知らない、とばかりに、いっそう顔を近づけてきた。
「イ、イリヤ、ちょっと……!」
ふ、不謹慎だとは判っているんだけど、足の上に乗ったイリヤの感触に心臓が動悸している。
重くはないイリヤの体重でも、こうあからさまに膝にのっかると妙に生々しくて、冷静な思考ができなくなるというか――――
「うん、やっぱりシロウは特別。
……ね、わたしのサーヴァントになってみない? シロウがわたしのサーヴァントになってくれるなら、もう殺さなくてすむわ。シロウがうんって言ってくれれば、それでシロウだけは助けてあげるよ」
甘えるような声で言う。
それは、決して生ぬるいものじゃない。
イリヤの言葉は、一度でも頷けば取り返しがつかなくなるほど純粋だ。
……そうして、逆らえばその純粋さが全て憎悪に変わるのだろう。
イリヤを間近にして、慌てていた意識が凍る。
これは好意を向けられている、なんて生やさしいものじゃない。
イリヤの問いは、死ぬか生きるかを問う審問に等しい。
「考えるまでもないでしょう? シロウにはもうセイバーはいないんだもの。戦う手段なんてないわ。
なら、いつまでもマスターでいてもしょうがないじゃない」
「―――違う。セイバーはまだ消えていない。そんなコト、させるもんか」
「ふうん。けどそんな状態じゃ簡単に殺されちゃうよ?
いいから、シロウはここにいればいいの。シロウがずっと側にいてくれるなら、わたしもずっとシロウを守ってあげる」
イリヤは体をすり寄せてくる。
それをはねのけるだけの自由も、今の自分には許されていない。
……逆らえばどうなるかは判らない。
それでも、今はイリヤの言葉には頷けない。
「……駄目だ。離れるんだ、イリヤ。どんなに言われても、俺は」
言いかけた唇に、イリヤの指が触れた。
少女はクスリと愉快そうに笑って、戸惑う俺を見上げてくる。
「もう、判ってないんだから。
いい、今のシロウは籠の中の小鳥なのよ? 生かすも殺すもわたしの自由なんだから、あんまりわたしを怒らせるようなコトは言っちゃダメ。
……十年も待ったんだもの。ここでシロウを簡単に殺しちゃうなんて、そんなのつまらないでしょう?」
「な――――――――」
玩具をせがむような少女の声。
そこに、背筋が凍るほどの残酷さを感じて、ただ息を飲んだ。
「これで最後だよお兄ちゃん。もう一度だけ訊いてあげる」
期待に満ちた目で俺を見上げ。
「シロウ――――わたしの物になりなさい」
拒否を許さない妖艶さで、イリヤは言った。
◇◇◇
―――考えるまでもない。
それにいい加減、我慢の限度ってものがある。
どいつもこいつもセイバーを消えるものとして考えやがって。
セイバーは消えないし、俺は最後まで彼女と一緒に戦うんだ。
その誓いを、こんな事で覆す訳にはいかない。
「……イリヤ、おまえの言う事は聞けない。俺にはセイバーがいる。セイバーが残っている限り、マスターとして戦うだけだ」
「―――――――」
息を呑む音。
一瞬、赤い瞳が、死後硬直のように見開かれた。
「……そう。あなたまでわたしを裏切るのね、シロウ」
イリヤの体が離れる。
少女は取り乱す事なく、平然と俺を見下ろした。
「いいわ。シロウがわたしの言うことをきかないんなら、わたしもシロウの言うことなんてきかない。
今まで見逃してあげたけど、それもこれでおしまいなんだから」
イリヤの声には殺気しかない。
そこに―――酷く、不吉な物を感じた。
「待っていなさい。すぐに用を済ませてくるから」
「待て……! なにをするつもりだ、イリヤ……!」
「なにって、セイバーとリンを殺しに行くの。二人を殺してくれば、シロウも少しは後悔するでしょ?」
「な―――バカな事を言うな……! セイバーも遠坂も関係ない、俺は自分だけの都合でイリヤとはいられないって言ってるんだ……!」
「そうなの? けど二人は殺すわ。それが終わったら次はシロウの番よ。わたしの物にならないのなら、シロウなんていらないもの」
遠ざかっていく足音。
イリヤは本気だ。
本気でセイバーと遠坂を殺しに行く。
……そしてイリヤなら、それを容易く成し得てしまうだろう。
「止めろイリヤ……! セイバーも遠坂も関係ないだろう……! 捕まってるのは俺なんだから、憎いっていうんなら俺だけにしろ……! 二人を殺す理由なんてない……!」
「理由はあるわ。わたし以外のマスターは生かしておけないもの。それが聖杯戦争でしょう?」
「ばか、簡単に人を殺すなんて言うな……! おまえにはそんなの似合わない。イリヤはまだ子供なんだから、そんな真似だけはしちゃダメだ……!」
イリヤは呆然と俺を見つめた後。
「残念ね。わたしはもうマスターを殺してるんだよ、お兄ちゃん」
ひどく愉しそうな顔で、そんな言葉を返してきた。
「もっとも、それは昨日の話だけど。予想外と言えば予想外だったかな。わたし、アイツはお兄ちゃんが手を下すって思ってたのに」
「な――――に?」
瞬間。
自分でも驚くほど、事の次第が飲み込めた。
……昨夜、イリヤはビルの中にいたという。
なら。
彼女の目の前で逃げ出したマスターは、格好の獲物ではなかったのか。
「イリヤ――――おまえ」
「ごめんね。シロウがやらないからわたしがやっちゃった。ほんとは横取りって好きじゃないんだけど」
悪びれた様子などない。
イリヤにとってそれは、本当に大した出来事ではなかったのだろう。
「――――――――」
……思い知った。
いや、以前会った時から判っていた筈だ。
この白い少女には善悪の観念がない。
無邪気に笑うのもイリヤなら、無慈悲に笑うのもイリヤなのだ。
……この少女には天使と悪魔が同居している訳じゃない。
ただ、天使という悪魔がイリヤなだけ――――
「それじゃ行ってくるわ。
帰ってきたらシロウの番なんだから、せいぜい逃げ出す努力でもしていなさい」
「もっとも、籠から逃げ出せないから小鳥は小鳥なの。
お兄ちゃんじゃ、この鳥篭からは出られないでしょうけど」
……イリヤは出ていった。
あいつが口にした事は本当だ。
脅しや駆け引きなんて知らない少女にとって、口にした事は全て真実なんだから。
なら、いつまでもこんな所にはいられない。
イリヤがセイバーを襲う前に、なんとか抜け出して合流しなければ。
「く―――この……!」
体を揺すって、手首の縄を解きにかかる。
俺が逃げられないと本気で思っているのか、部屋には誰もいない。
監視の目がなければ、この程度の縄ぐらい一人でも解ける、のだが――――
「っ――――くそ、まだ体、が――――」
満足に言うコトをきいてくれない。
手足は動くものの鉛のように重く、動かすだけで息が上がりそうだ。
「……イリヤのヤツ……これを見越して逃げられないなんて、言ってたの、か」
……確かにこんなんじゃ動けない。
なんとか縄を解いたところで、満足に動けないようでは、部屋から出られたところで逃げ切れない。
「……体が重いのは、疲れてるからじゃないよな……そっか、イリヤの目を見て、それで動かなくなったんだっけ……」
魔眼、というヤツだろうか。
優れた魔術師は、目を合わせるだけで対象に何らかの魔術干渉を行えるという。
平均的な魔眼は“束縛”だというから、この金縛りもその類なのだろう。
視覚情報を得る眼球は、同時に暗示を受けやすいのが弱点だ。
故に、魔術師はある程度眼にプロテクトを張って相手の魔力を遮断するのだとか。
「……呪文もなしの、暗示じみた金縛りにやられるなんて、遠坂が聞いたらなんて言うか……」
……まあ、それはあくまで魔術によって付けた後天的な魔眼にすぎない。
それとは別に、生まれつき、つまり先天的に魔眼を持つ化け物は、相手と目を合わせる、なんて事はしなくていいらしい。
連中はただ“見る”だけで特有の能力を発揮すると言うが、そういった保持者は世界でも希だという。
で。
幸い、イリヤの魔眼はそういった特別なものじゃないようだ。これはあくまで、相手に魔力を送り込むだけの魔力干渉にすぎない。
それなら解呪する方法もある。
体が動かないのはイリヤの魔力がこっちの神経を侵しているからだ。
なら、その魔力さえ消してしまえば金縛りは解けてくれる。
「―――単純な話だ。泥が溜まってるなら、水を流して洗えばいい」
目を閉じて、意識を体の内だけに向ける。
……俺には自身を侵している他人の魔力を感知する事も、取り出す事もできない。
だが、体内に根付いた呪詛《びょうそう》になっていない魔力なら、そんな技術は必要ない。
体内にイリヤの魔力が淀んでいるのなら、強い魔力を流して吐きだしてやるだけだ。
「……悪いな。乱暴なやり方だけど、生憎そんな事しかできないんだ」
気休め程度に、自分の体に謝っておく。
あとは、いつもの日課を行うだけだ。
背中に異なる神経を打ち込む儀式。
……いや、今はそうじゃない。
もう新しいソレを作る必要はない。
頭の中にあるスイッチを押すだけでいい。
体内に魔術回路を作るのではなく、神経を魔術回路に切り替えるだけの話。
「――――同調開始《トレースオン》」
自らを暗示する言葉《スペル》を呟く。
呪文《スペル》は世界に働きかけるものではない。
世界に働きかける自分に対して唱えるモノだ。
魔術師にとって、最も自己の変革を促しやすい言葉。
自分だけの神秘を行うための、自分にしか効果のない命令こそが、呪文と呼ばれる最初の魔術。
「――――基本骨子、解明」
血の流れが速くなる。
血液に力が宿る。
自身が、魔力を回すだけの装置に変わる。
……遠坂に飲まされた宝石の恩恵だろう。
いつもなら一時間はかかる魔力の生成が、こんな短時間で出来るようになっている。
「――――構成材質、解明」
……これならスイッチとやらを押す必要もない。
このまま魔力を回転させていって、あとは手を離すだけでいい筈だ。
……まあ、もっとも。
スイッチを押すも何も、スイッチ自体が見つかってはいなかったが。
――――熱が奔《はし》る。
早まっていく鼓動を冷静に抑えながら、振り回し続けた紐から手を放した。
「ごぶ……!」
びしゃり、と口元から血が漏れた。
どこぞの血管が切れたのか、中身が破れたのだろう。
体を侵した泥を押し流すだけの魔力を流したんだ。吐血ぐらいですめば御の字だし、幸い痛みもない。
「……痛みがないのは、アレかな……また例の自然治癒かな……」
未だ正体がはっきりしない異常だが、こういう時は純粋にありがたい。
即死でなければ傷が治ってくれるのは、今の自分にとって最大にして唯一の強みだ。
……注意すべきなのは、それに頼ってはいけないという事。
なにしろ原因が不明なのだ。自然治癒を頼りにして怪我をしても、一秒後にはなくなっている可能性もある。
故に、こんな不確かな奇蹟には決して頼ってはいけない。
「―――よし、あとは縄だけだ」
縄を解く。
手首は痣になっていたが、血が止まるほど絞められていた訳でもない。
……絞めたのはイリヤではないだろうが、それでもそう強く縛られたものではなかった。
そもそもイリヤでは俺をここまで運べないだろう。
イリヤ以外の誰か、それもあまり力の無い人間がいるのだろうか。
「……バーサーカーは論外だ。あいつが縄をしめたら、その時点で俺の手首なんて引きちぎられてる」
軽口を叩きつつ、椅子から立ち上がる。
「っ――――」
……体の自由が戻ったのはいいが、やはり乱暴すぎたらしい。 傷こそないが、体の中は未だ魔力が荒れ狂っていた。
動けば、それだけで体の中身が打ちのめされる。
……痛みのせいだろう。
吐き気と目眩が襲ってくるし、手足の末端は感覚がない。
これではイリヤより早く家に戻る事なんて、とてもじゃないけど出来やしない――――
「―――何を弱気な。そんなコト、言ってる場合じゃない」
ぱん、と頬を叩いて歩き出す。
「……?」
壁に手をついて、なんとかドアへ向かおうとした時。
壁の向こうで物音がした。
……足音がする。
それも複数。なにやら話をしながら近づいてくるソレは、扉の前で足を止めた。
「……見回り……!? くそ、なんだってこのタイミングで……!」
隠れている時間はない。
ここは――――
「っ――――!」
迷っている時間はない。
こんな体じゃ戦っても勝ち目はないんだ、今は体が持ち直すまで荒事は避けなければ……!
「と、よっ……!」
両腕を合わせて、なんとか縄で縛られているように偽装する。
「っ……!」
扉が開く。
イリヤか、城の人間か。
ともかくそいつが部屋に入ってくる直前、ギリギリで椅子に座って腕を後ろ、に――――
「―――無事ですか、シロウ……!」
「――――」
目が点になる。
本気で、自分にとって都合のいい幻を見ているのかと、思った。
「縛られているのですね。
すぐに解きますからそのまま――――」
「あ、いや。縄は、解けてるん、だけど」
ほら、と後ろに回した腕を差し出す。
「……話が見えないのですが。シロウは、ここで囚われていたのでは……?」
「……いや、その。なんとか自由になって、逃げ出そうとしたところで誰か来たから、とりあえず捕まったフリをしてたんだ、けど」
「―――なるほど。敵を油断させて、脱出を確かなものにしようとしたのですね?」
おお、と感心するセイバー。
……まあ、その後のコトは何も考えてなかった、というのは黙っておこう。
「それよりセイバー、セイバーだよな!? 幻じゃない、本物のセイバー……?」
立ち上がってセイバーの体に触る。
「! シ、シロウ、待ってください、そのように触られては」
「うん、本物だ―――あ、けどどうしてここに?」
「ど、どうしてなんて、そんな事は言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」
「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」
◇◇◇
「そ、それは私の台詞です! 貴方こそ何をやっていたのですかっ。
一人で行動するなとあれほど言っていたのに、易々とイリヤスフィールに拉致され、このような場所に監禁されるなんて……!」
「シロウはマスター失格です。この件については、何らかの謝罪をしてもらわなければ気が済みません」
「う……たしかにそれは軽率だった。けど、どうしてセイバーがここにいるんだっ。
セイバー、満足に動けないんだろ。だっていうのにイリヤの本拠地に来るなんて、なに考えてるんだ!」
「貴方こそ何を考えているのです。
サーヴァントはマスターを守るもの。シロウが捕らわれたのですから、イリヤスフィールの本拠地だろうと関係はありません」
「――――――――」
セイバーはきっぱりと言い放つ。
……その姿は、以前のままのセイバーだ。
弱り切って、苦しげに眠っていた彼女とは違う。
「……シロウ? どうしたのです、急に黙り込んで。や、やはり捕まっている間に傷を負ったのですか……!?」
「あ……いや、そうじゃない。俺の事はいいんだ。それよりセイバーこそ、元気そうで良かった」
……本当に、胸が落ち着いた。
ここにセイバーがいる事には驚いたけど、それより、彼女がいつも通りな事が嬉しい。
勝手な思いこみなんだが。
やっぱり、セイバーはこうでなくちゃいけないと思うのだ。
「……すまなかったな、セイバー。事情はよく判らないけど、俺を助けに来てくれたんだろ」
「あ……はい。サーヴァントとしてマスターを救うのは当然ですから」
「ありがとう。おまえが来てくれて、本当に助かった」
―――良かった。
これで問題はなくなった。
あとはセイバーとここから外に出るだけ――――
……って。
なんで、遠坂の姿が見えるのだろう……?
「と、遠坂……?」
ええっと。
本当に実像として、そこにいらっしゃるのでしょうか……?
「思ったより元気そうじゃない。これじゃわたしたちが出向く必要もなかったかしら」
「だからそう言っただろう、凛。衛宮士郎など放っておけと。
この手の男はな、まわりに迷惑をかけるだけかけて自分だけは生き延びるのだ。今回のはいい機会だった。見捨てておけば勝手に死んでくれたものを」
「……聞き捨てなりませんアーチャー。
助力を頼んだのは私ですが、貴方にシロウを侮辱する権利など無いはずです」
「―――ふん、いざ主が助かればそれか。マスターもマスターならサーヴァントもサーヴァントだ。協力者に対する有り難みなどないようだな。
……まあ、いずれ戦う身だ。情など持たれない方がやりやすくはあるが」
「…………」
痛いところをつかれたのか、セイバーは黙り込む。
……ア《こ》ーチャ《いつ》ー。
俺だけじゃなく、セイバーとも仲が悪いのか。
「そこまでよ。今がどんな状況なのか忘れてる訳じゃないでしょうねアーチャー。
お喋りなんてしてる暇はないわ。イリヤスフィールが戻ってくる前に撤退しないと」
「……? ちょっと待ってくれ。
遠坂たちは、ここがイリヤの住処だって知ってて来たのか? いや、そもそも――――」
イリヤは遠坂たちを殺す、と宣言して出ていった。
すると……イリヤと遠坂は行き違いになった、という事か。
「――――助かった。今頃イリヤはうちに向かってると思う。遠坂たちがここに来てくれなかったら、イリヤと戦うハメになってた」
「ええ、そうみたいね。イリヤとバーサーカーが外に出たのは確認したわ。……まあ、そうでもなければこんなところまで忍び込まないけど」
……そうか。イリヤが外に出ていったのを確認したから、遠坂たちはこんな強硬策に出たんだ。
あいかわらず強気だな、とは思ったが、今回はその強気が幸いしたというか。
「とにかく話は後よ。ここがアインツベルンのアジトって判った時は覚悟してきたけど、遭わないんならそれに越したことはないでしょ。
セイバーがそんな調子じゃバーサーカーには太刀打ちできないしね」
ほらほら離れて、と遠坂は俺とセイバーを引き離した。
「……遠坂。セイバーがそんな調子って、どこがだよ。
顔色もいいし、もう以前のセイバーじゃないか」
「貴方ね。そんな都合のいい話がある訳ないでしょう。
セイバーはまったく回復してないわ。立っているだけが精一杯って、見て判らない?」
「凛……! それは黙っていると約束した筈です……!」
「悪いわね、そんなの破棄よ。黙っていてもマイナスなだけだし、そもそも隠し通せる問題じゃないわ」
「……それはそうですが、しかし――――」
セイバーは辛そうに言い淀む。
それで、彼女の状態が何一つ解決していないのだと判ってしまった。
「―――セイバー。今の話は、本当なのか」
「……はい。凛の言うことは正しい。恥ずかしい話ですが、今の私にはセイバーとして戦う事はできません。出来る事といえば、シロウの盾になる事ぐらいでしょうか」
「ふん、そんな事だろうと思ったわ。武装も出来ないぐらい弱ってるクセに、一緒に行くってきかないんだもの。
戦えない代わりにマスターを庇おうとでも思ったんでしょ」
「な――――」
息が止まる。
なんだ、それ。
武装できないぐらい弱ってるとか、
戦えない代わりに盾になるとか、なにを馬鹿げたコトを言ってやがるのか。
「……すまないシロウ。このような体ではサーヴァント失格だとは判っていますが、それでも盾の役割はできます。不服だとは思いますが、今はそれで――――」
―――だから。
どうしてそう、馬鹿げたコトばっかり考えるんだ、おまえは――――!
「ふざけんな、そんなの不服に決まってるだろう……!
遠坂、おまえなんだってセイバーを連れてきたんだ!
今は俺の事より、セイバーの方がずっと大事だって判ってたんじゃないのか……!」
「な、なによ、わたしだって反対したわよ! けどセイバーはどうしてもってきかないし、そもそもセイバーじゃないとアンタの居場所は判らなかったわ。危険なのは百も承知だけど、それでもセイバーは必要だったのっ!」
「おまえ、それでも――――」
連れてくるべきじゃなかった、と怒鳴ろうとして、止めた。
……俺に遠坂を非難する資格はない。
そもそも俺が捕まった事が元凶だ。
遠坂もセイバーも、正しいと信じた行動をしたにすぎない。
「……口喧嘩も結構だがな、今はそこまでにしておけ凛。
マスターならば自分の住処の異状には敏感だろう。悠長に説明している暇はないぞ」
「……そうね。イリヤスフィールのヤツ、今頃あわてて戻ってきている頃だものね。
―――いいわ、話は後にしてあげる。今はこの城から出る事が先決よ。それでいいわね、士郎」
「シロウ、私たちも」
「―――いや、けど」
セイバーが昨夜のままだと言うのなら、歩く事さえ苦しいのではないか。
そんなセイバーにこれ以上無理なんてさせられない。
「……まったく。どうやら私も甘く見られたものですね」
「え、セイバー……?」
「いくら魔力が尽きているとは言え、今でもシロウよりは戦えます。私から見れば、シロウの方こそ消えてしまいそうで怖い。
……凛は気が付いていないようですが、体内の魔力が乱れているのではないですか?」
「あ……いや、けどこんなのは大した事じゃない。我慢すれば持ちこたえられる程度だ。
俺は、その―――ぜんぜん大丈夫だぞ、ほんと」
「では、私もシロウと同じです。苦しいですが我慢しきれないものではありません。
突然の事で状況が掴めないと思いますが、今は凛に従いましょう。話をするのなら、それは家に帰ってからです」
さあ、とセイバーは俺を促す。
「――――――――」
……まいった。
そんな顔で言われたら、心配する事さえできなくなる。
「……そうだな。話したい事は山ほどあるけど、それは無事に帰ってからにする」
……そう、セイバーの体の事や、助けに来てくれた礼とか。
―――あの夢がなんだったのかは、いま問いかける事じゃない。
「――――よし。行こう、セイバー」
頷きで返して、懸命に体を動かした。
……一歩進む度に額に汗が浮かぶが、弱音を吐く訳にはいかない。
セイバーだって、弱った体でここまで来てくれたのだ。
なら男として、ここでそんな姿を見せられないってものじゃないか―――
「――――――――うわ」
部屋から出た途端、思わずそんな声が漏れた。
これは廊下……だろうか。
この美術館じみた通路からして、この建物はとんでもなく大きいと見える。
「ちょっと、見とれてる場合じゃないわよ。この城から出ても、外は一面の樹海なんだから。急がないと朝になるわ」
「一面の樹海―――? じゃあここ、本当に山の中なのか? 深山町から車で何時間っていう、あの樹海?」
「そう、アインツベルンの隠し城よ。
この城から出たとしても、わたしたちは何時間もかけて森を抜けなくちゃならないの。今は夜だし、朝日が昇るまでには森を抜けるわよ」
遠坂は迷いなく廊下を走っていく。
おそらく忍び込んだ裏口にでも向かっているのだろう。
「……今が夜なのは知ってたけど……一体どのくらい捕まってたんだ、俺は」
半日と思っていたが、実際はもっと日数が経っていたのかもしれない。
「シロウがイリヤスフィールに捕らわれたのは朝方でしょう。それから半日が経過しています。
……日付は変わってしまいましたから、形の上ではまる一日捕らわれていた事になりますね」
「う……そうか、面目ない」
「いえ、そのような事はありません。イリヤスフィールに捕まってこれだけの時間が過ぎたというのに、シロウは無事でした。体は囚われの身でも、心では負けなかった証ではないですか」
「――――それは、そうかもしれないけど」
「ええ。イリヤスフィールは少女に見えてもアインツベルンの魔術師です。もし彼女に屈していたのなら、シロウはシロウではなくなっていたでしょう」
「……私とて、その可能性を考慮しなかった訳ではありません。最悪、貴方は死んでいるものと覚悟して、この城に足を踏み入れたのです」
「―――――――」
「だから、ここでシロウと再会できて良かった。
マスターが無事な姿を見せているのですから、私も負ける訳にはいきません」
……淡い笑顔でセイバーはそんな事を言う。
そんなの、こっちだっておんなじだ。
俺だってセイバーが無事なのかどうか、考えると気が気でなかったんだから。
「ちょっと、やる気あるのかって言うのよーーーー!
もたもたしてると本気で先に行くからねっっっ…………!!」
廊下の先、曲がり角から顔を出して怒る遠坂。
「やば、話してる場合じゃなかった。急ごうセイバー」
セイバーを促して走り出す。
…………っ。
一歩走るたびに、血管に熱湯を流し込まれるような痛みと不快感があった。
だがそんなもの、歯を食いしばればなんとか走れる。
痛む体を無理矢理動かして、遠坂の後を追う。
騙し騙し走る後ろでは、病人に付きそうようにセイバーが走っていた。
……やはり苦しいのだろう。
気丈なふりをしているが、セイバーは満足に動ける状態じゃない。
「セイバー、苦しかったら――――」
肩を貸そうか、と言いかけて止めた。
そんな事を言ったら、セイバーは意地でも一人で走ろうとする。
今はまだ様子を見るのだ。
セイバーが目に見えて疲れだし、言い訳できないぐらいになったら抱きかかえて走ればいい。
……ほんと、セイバーにも困りものだ。
この気丈な女の子は、それぐらい強引にやらないと休んではくれないって言うんだから。
―――そうして。
遠坂の案内に従って、城の出口とやらに辿り着いた。
「で、出口ってここ入り口じゃないのか遠坂―――!?」
「? なに当たり前のこと言ってるのよ。玄関ってのはそういうものでしょう。入る時も出る時もここが一番てっとり早いんだから」
ほらほら、と階段を下りていく遠坂。
「…………………」
……まあ、こっちも文句を言える立場じゃない。
セイバーと二人、階段を下りて広間に出る。
ここはロビーらしい。
なら、あとは通路の先にある大きな扉を抜ければ外に出られる、というコトだろう。
「よし、ここまで来たら大丈夫。問題は森に出てからだけど、まあ夜だし、闇に乗じて国道まで出られるかな。
イリヤスフィールが戻ってきて、士郎がいないって気づいたところで後の祭りよ。
アイツが帰ってくる頃には朝になっちゃってるしね……って、何よ士郎、その顔。いかにも不服そうだけど」
「……いや、別に。遠坂は大物だなって再確認してただけだ」
「? ヘンところでおかしな確認するのね、貴方」
……いや、だから敵の本拠地に玄関から侵入するところとか、そういう風に堂々としているあたりが。
「ま、いいわ。とにかく外に出ましょう。帰り道は覚えてるから迷う事もないしね」
玄関へ足を向ける。
ロビーからは細長い通路が伸びていて、その先に巨大な扉が見えた。
呆れた事に、通路は三十メートルほどもある。
……なんていうか、本当に城なんだな、と思い知りながら歩き出した瞬間。
「―――なぁんだ、もう帰っちゃうの? せっかく来たのに残念ね」
くすくすという忍び笑いと共に、いない筈の少女の声が響き渡った。
「――――!?」
咄嗟に振り向く。
全員が足を止めた。
振り向き、そこに“敵”の姿を認めた瞬間、背中を向ければ殺される、と理解できたのだから。
「イリヤ……スフィール――――」
遠坂の声は震えている。
ロビーの先。
俺たちが下りてきた階段に、いてはならないモノがいた。
―――奇しくも、状況は前回と似ている。
頭上に佇むイリヤと、その背後に控えるバーサーカー。
バーサーカーの存在感は圧倒的だ。
サーヴァントの力が判る今なら、アレがどれほどの化け物か理解できる。
……なんて間違いだ。
アレは、セイバーが本調子なら太刀打ちできる、なんてレベルじゃない。
……きっと、戦いになどならない。
アレは戦って勝てる相手ではない。
バーサーカーに勝つという事は、戦わずにアレを消し去る方法を探すという事。
つまり。
死にたくなければ、アレとは決して出遭うべきではなかったのだ。
「こんばんは。あなたの方から来てくれて嬉しいわ、リン」
イリヤの声は愉しげに弾んでいる。
その笑みは八日《あ》前の夜と同じものだ。捕まえた昆虫を串刺しにする、無邪気で無慈悲な裸の感情。
―――それで悟った。
自分たちは、どうあっても逃げられない。
俺が何をしようが、イリヤは止められない。
なんとかイリヤの注意を引き寄せたところで、それで遠坂たちが逃げられる訳でもない。
「どうしたの? 黙っていちゃつまらないわ。せっかく時間をあげてるんだから、遺言ぐらい残した方がいいと思うな」
くすくすという笑い声。
……だが、こっちにそんな余裕はない。
隙があれば玄関まで走る。
そんな隙《モノ》、絶対にあり得ないと知りながらも、その機会を待つしかない。
「…………そう。じゃ、一つ訊いてあげる」
だというのに。
遠坂はあえて一歩、イリヤに向かって踏み込んだ。
「イリヤスフィール。アンタが戻ってきた気配はなかったけど、もしかしてずっと隠れてたのかしら」
「そうよ、わたしは何処にも行っていないわ。わたしはね、ここからあなたたちの道化ぶりを眺めていただけ」
「―――そう。外に出ていったのは偽物ってわけ?」
「ええ、あなたたちが来るコトは判ってたもの。
わたしは主人なんだから、お客さまのおもてなしをしないといけないでしょう?」
途端、巨体が消えた。
跳んだのか、ただそこに移動しただけなのか。
ゴウン、という旋風を巻いて、バーサーカーはロビーの中心に現れていた。
……これで詰めだ。
退路―――玄関へと向かえば、背中を見せた順にあの斧剣で両断される。
かといって、このままでいても殺される。
残された道は、無駄死にと知りながらも、あの死の塊に挑むだけ。
「お喋りはおしまい? それじゃ始めよっか、バーサーカー」
白い少女は何かの儀式のように片手をあげ、眼下にいる俺たちを見下ろして、
「――――誓うわ。今日は、一人も逃がさない」
そう、殺意と歓喜の入り交じった宣言をした。
バーサーカーの眼に光がともる。
……今までイリヤに従っていただけだったサーヴァントは、その理性を一時的に解放され、目前の敵を認めたのだ。
「――――――――」
ぎり、という音。
「……遠坂……?」
一歩前に出た遠坂は、まるで悔いるように、強く歯を鳴らした。
「……アーチャー、聞こえる?」
静かな声で、振り向かずにそう呟いて。
「―――少しでいいわ。一人でアイツの足止めをして」
自らのサーヴァントに“死ね”と言った。
「――――――」
アーチャーは答えない。
「馬鹿な……! 正気ですか凛、アーチャー一人ではバーサーカーには敵わない……!」
「わたしたちはその隙に逃げる。アーチャーには、わたしたちが逃げきるまで時間を稼いでもらうわ」
セイバーの意見に耳を貸さず、遠坂は指示を続ける。
それは冷徹な、感情を殺した声だった。
「――――――――」
バーサーカーを見据えたまま、何かを思案するように黙っていたアーチャーは僅かに頷くと、
「賢明だ。凛たちが先に逃げてくれれば私も逃げられる。
単独行動は弓兵の得意分野だからな」
一歩、遠坂を庇うように前に出た。
バーサーカーは動かない。
頭上からは、クスクスとイリヤの笑い声だけが聞こえてくる。
「へえ、びっくり。そんな誰とも知らないサーヴァントでわたしのヘラクレスを止めるって言うんだ。
なーんだ、あんがいかわいいトコあるのね、リン」
「――――――――」
遠坂にもアーチャーにも反論する余裕はない。
そんな事は、誰より遠坂とアーチャー自身が判っている。
ずい、と前に出るアーチャー。
その姿は、相変わらずの徒手空拳。
「………………」
遠坂はアーチャーの背中を見つめている。
……かける言葉などないのだろう。
遠坂も、自分の命令が無茶だと解っている筈だ。
自分たちを逃がすために、アーチャーに死ね、と言ったのだから。
「……………アーチャー、わたし」
何かを言いかける遠坂。
それを。
「ところで凛。一つ確認していいかな」
場違いなほど平然とした声で、アーチャーが遮った。
「………いいわ。なに」
伏目でアーチャーを見る遠坂。
アーチャーはバーサーカーを見据えたまま、
「ああ。時間を稼ぐのはいいが―――  別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
そんな、トンデモナイ事を口にした。
「アーチャー、アンタ――――」
「―――ええ、遠慮はいらないわ。
がつんと痛い目にあわせてやって、アーチャー」
「そうか。ならば、期待に応えるとしよう」
アーチャーが前に出る。
バーサーカーまでの距離はわずか十メートル。
その程度の距離、アレは即座に詰めてくるだろう。
「っ、バカにして……! いいわ、やりなさいバーサーカー! そんな生意気なヤツ、バラバラにして構わないんだから……!」
ヒステリックなイリヤの声。
意にも介さず、遠坂は背中を向けた。
「―――行くわ。外に出れば、それでわたしたちの勝ちになる」
遠坂は俺とセイバーの手を握って走り始める。
「――――――――」
セイバーは反論せず遠坂に従う。
……俺も、背後にアーチャーを残したまま玄関へと走り始めた。
その背中に。
「衛宮士郎」
背を向けたまま、アイツは呼び止めた。
「――――――――」
遠坂の手を解いて振り返る。
もう、今では手の届かない場所になったロビーには、バーサーカーと対峙する男の背中があった。
「―――いいか。おまえは戦う者ではなく、生み出す者にすぎん」
バーサーカーが迫る。
アーチャーは素手のまま、一歩も引かず迫り来る敵を見据え―――
「余分な事など考えるな。おまえに出来る事は一つだけだろう。ならば、その一つを極めてみろ」
アーチャーの片手があがる。
その手には、いつの間にか短剣が握られていた。
「―――忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない」
赤い背中が沈む。
バーサーカーの剣風が奔る。
その衝突を、見届ける事なく走り出した。
遠坂とセイバーは玄関に辿り着いている。
―――振り向く事なく走る。
赤い背中が、ただ、行けと告げていた。
◇◇◇
長い廊下を抜け、門をくぐり抜ける。
―――信じがたい事に、ここは本当に城だった。
深い森の中に隠れた古城。
周囲は見渡すかぎりの森で、遠くにはビルはおろか空さえ見えない。
「こっちよ。三時間も走れば国道に出られるから、それまで走って」
先導しながら、遠坂は俺たちに振り向く。
「――――」
……三時間か。正直、体はそれほど保つかどうか。
疲れはないが、痛みは動けば動くほど強くなっていく。
せめて休めれば熱も引くのだろうが、今はそんな余裕はない。
「士郎、早く」
遠坂の声にも余裕はなかった。
アーチャーにあんな指示を下したのは遠坂だ。
冷静に見えるが、あいつの心は後悔に満ちている。
「分かってる、すぐに追い付く。セイバー、急ごう」
「ぁ……はい。急ぎましょう、シロウ」
俯きながら答えて、セイバーも走り出した。
木々の合間をすり抜けて遠坂に続く。
隣りで走っているセイバーの息遣いは、目に見えて乱れていた。
闇で隠れて見えないが、よほど苦しいのだろう。
……これ以上はもう、放っておく訳にはいかない。
「ぁ――――」
がくん、とセイバーがバランスを崩す。
そのまま地面に倒れそうになる彼女の体を、横から強引に引き留めた。
「ここまでだ。これ以上は無理だぞ、セイバー」
「な……何を言うのです、シロウ。
この程度の苦境、今まで何度も経験してきました。私はまだ、十分に走れます」
「なに言ってんだ。何度経験していようが、苦しいものは苦しいだろ。いいから、少しは弱音を吐けってんだ」
引き留めた腕を引く。
セイバーが軽い、という事もあるのだろう。
思っていたよりあっさりと、セイバーを両手に抱きあげる事が出来た。
「え―――な、何をするのですシロウ……!」
「なにって、しばらく休んでろ。そんな顔で走られてちゃ、こっちが先にまいっちまう」
「っ……! 無礼な、離しなさい! この程度で私が倒れるとでも思っているのですか……!」
抱き上げられた状態で暴れるセイバー。
だが、その抵抗は微弱すぎた。
こっちの胸を突き放そうとする手はか細く、あまりにも力がない。
……それで、彼女がどれほど弱っていたかを痛感した。
あのセイバーが、抱き上げた人間を突き放せないなんて、思ってもみなかった。
「何を考えているのですか、シロウ! このような事、いくらマスターと言えど許しません……!」
顔を真っ赤にしながらセイバーは暴れている。
……まあ、確かに。
騎士として今の格好は恥ずかしいのだろうが、今はそんな体面を気にしている場合じゃない。
「うそつけ。俺を振りほどけないぐらい弱ってるくせに、大丈夫な訳がないだろ。いいから大人しくしてろ、マスターとしての命令だ。
それでもきかないっていうんなら、令呪を使うしかなくなるぞ」
「な――――ひ、卑怯な。こんな事で令呪を使うなど、そんな無意を容認できる筈がない」
「なら大人しくしてろ。急がないと遠坂に置いていかれる」
「……………………」
観念したのか、セイバーはしぶしぶと黙り込んだ。
――――まあ、今はそれでいい。
暴れてさえくれなければ、なんとかセイバーを抱えたまま走って行けるんだから。
視界が点滅する。
走れば走るほど血の流れが加速するのか。
のど元までせり上がる吐き気を抑えながら、歯を食いしばって森を抜ける。
「は――――はあ、はあ、は――――」
呼吸が乱れるが、出来るだけ苦痛は押し殺した。
何故って、理由は一つだけだ。
「シロウ、下ろしてください。
やはり私も走りますから――――」
なんて、少しでも辛そうにすれば、セイバーが不安げに見上げてくるのだ。
ここで足を止める事はできない。
「ふん、甘く見るな。セイバー一人どうって事ないぞ。
壊れたストーブに比べれば、女の子一人分なんて空気みたいなもんだ」
「ですが――――」
「いいから黙っててくれ。ギブアンドテイクって言葉知ってるか? 今まで助けてもらったんだから、これぐらいしないと釣り合わないんだよ。
ここらで借りを返しておかないと、明日から守って貰えないだろ」
「いえ、そんなコトは、ないのですが……私の方こそ、これでは釣り合いが取れなく、なる」
「そりゃ良かった。んじゃ、きついのは今回限りだな。
俄然やる気が湧いてきた」
はあ、と大きく息を吐いて地面を蹴る。
遠坂のヤツ、こっちがセイバーを抱き上げてるって知ってるクセに、狭い道ばかり選んでいきやがる。
セイバーが軽いからいいけど、これじゃ付いていくだけで精一杯だ。
「ほら、喋ると舌を噛むぞ。黙っていてくれた方が俺も助かるんだから、大人しくしていてくれ」
「――――はい。それでは、マスターの指示に従います」
言って、セイバーは全身の力を抜いてくれた。
今まで遠慮していたから抱きづらかったが、これなら少しは楽になる。
あとの問題は―――セイバーの体と、俺の体が保つかという事ぐらいだ。
……もうどのくらい走ったのか。
三十分程度の気もするし、一時間近く走っている気もする。
「はぁ―――はぁ、はぁ、は――――」
いや、走るのは辛くない。
そんな柔な鍛え方はしていないし、セイバーは本当に軽いんだ。
ただ、今は――――
体の中身が、どうかしてる。
動けば動くほど目眩がして、吐きそうになる。
場所も森だし、蛇に咬まれて毒が回っている―――というのなら、少しは納得がいくのだが。
「く――――この、程度、で――――」
こんなもの、死に至る痛みじゃない。
ただ胸が重くて、何かを吐き出しそうになっているだけだ。
そんなもの、この手に抱いた熱さに比べれば問題にもならない。
……セイバーは眠るように瞳を閉じている。
それは安心して休んでいるからじゃない。
セイバーの体は、刻一刻と熱くなっている。
真冬だというのに服は汗に濡れて、俺に見つかるまいと、俯いて乱れた呼吸を隠している。
「まずい――――これじゃ、ほんとに」
あの夜の繰り返しだ。
ライダーにあの剣を振るった後、衰弱して倒れ込んだセイバー。
……セイバーはあの夜から何も変わっていない。
今まで話せていたのは、それこそ消える前の、一瞬の煌めきではなかったのか。
「は――――はぁ、はぁ、はぁ、は――――!」
それを否定するように走った。
自分の体などどうでもいい。
ただ家に帰れば、それでなんとかなるのだと信じて、懸命に足を動かし――――
倒れそうになって、咄嗟に木に背中をぶつけて踏みとどまった。
「っ――――――――」
……血の味がする。
吐き気の正体はこれだったのか。
わずかな量だったからセイバーにはかからなかったが、胸にはまだ吐き気の元が渦巻いていた。
「……ま、考えようによっちゃマシだけど……」
胃の中のモノを嘔吐した日には、セイバーには別の意味で怒られそうだ。
というか、セイバーなら本気で斬り殺しにかかってくるかもしれない。
「は――――」
……うん、それはおかしい。
愉快な想像をしたら、少しだけ元気が出てきた。
よし、それじゃあ休憩おしまい、と。
「いいえ。無茶をするのはここで終わりです、シロウ」
「セイバー……?」
眠っていなかったのか。
セイバーは俺に抱かれたまま、そんな事を口にした。
「……なんだよ。終わりって、何が」
「ですから、シロウは一人で逃げるべきです。その体では、私を連れて行く事はできません」
「な――――そんな事あるかっ……! 今のはただ転んだだけだ。こんなの、別にどうってコト――――」
「あるわよ。そんな死人みたいな顔でなに言ってるんだか」
―――って。
何を思ったのか、今まで先行していた遠坂が戻ってきていた。
「ふん、強がるのは勝手だけどね。いくら夜の森だからって、口元の血ぐらい隠しなさい。それじゃセイバーに心配されるのも当然よ」
怒っているのか、遠坂はじろりと睨み付けてくる。
その声に気が付いたのか。
「……良かった。凛がいるのなら話が早い」
遠坂を見ずに、セイバーは声を呟いた。
「でしょうね。セイバーの言いたい事は分かるわ。時間もないコトだし、そこの大馬鹿にも判るようにさっさと言ってやって」
遠坂の言葉に頷くセイバー。
「……はい。凛、私をここに置いていってほしい。
私を連れていては逃げ切れないし、なにより―――もう、長くは保ちません」
「――――――――」
何を馬鹿な、とは言えなかった。
セイバーを置いていく気なんて微塵もない。
ただ、それでも―――彼女の状態が悪化している事だけは、嫌というほど判っていたのだ。
セイバーは、長くは保たない。
このままでいれば朝は迎えられないと、漠然と気づいていた――――
「そう。で、士郎は? このままセイバーと心中する?」
「―――まさか。そんな気はないし、セイバーは消えさせない。セイバーが消えるっていうんなら、令呪でもなんでも使って――――」
「オーケー、それならいいわ。じゃあ両方とも解決しましょ。
セイバーを助けて、ついでに三人でこの森から脱出する。今後の方針はそれで決まりね」
「…………は?」
あたまのなかがとうふになる。
遠坂はときおり、とんでもなく難しいコトを、さりげなく簡単に言う。
「ちょっと待て……! そ、そりゃたしかにそうしたいけど、それが出来ないから――――」
「いいからこっちに来て。言っとくけど、わたしも簡単にセイバーを死なせる気はないわ。
……ええ、この機会は逃さない。貴女にはその責務を果してもらう。士郎もいいって言ったし、そうしても構わないわよね、セイバー?」
遠坂はセイバーに、意味ありげな視線を向ける。
「………………………………」
セイバーは答えず、気まずそうに目を伏せるだけだった。
◇◇◇
ひときわ高い木々の合間を抜けると、目の前には予想外のモノが佇んでいた。
「……廃、墟……?」
セイバーを抱きかかえたまま、呆然と建物を見上げてしまう。
どのような由縁なのか、こんな樹海のただ中に建てられたソレは、今では人気《ひとけ》の絶えた廃墟となっている。
「ここならしばらくは身を隠せるでしょ。
来る時にね、アーチャーが見つけておいたのよ。万が一の時の隠れ場所にしようって」
どんな神経をしているのか、遠坂はざかざかと廃墟へと入っていく。
「……まあ、これ以上崩れる事はないか」
瓦礫を踏み越えて入り口に向かう。
……絶えてどれほどの年月が経っているのか。
建物は、緑に浸食された亡骸のようでもあった。
――廃墟の一階は、その全てが木々に浸食されていた。
部屋として使えるのは二階ぐらいで、その中でも一番まともな部屋がここだった。
窓は奇跡的に残っている。
どういう仕組みなのか、ここからは高い夜空が覗けていた。
「ふーん。割合キレイじゃない。もしかしたら、最近まで誰かが寝泊まりしてたのかもね」
……ほんと、どういう神経しているのか。
遠坂は瓦礫をピシパシと踏みつけながら、壁際にあるベッドをパンパンとはたいている。
「士郎、こっち。セイバーは寝かせないとまずいでしょ。
人に抱かれているのって、けっこう体力使うのよ」
「あ――――ああ、今行く」
ベッドまで注意深く歩いていって、静かにセイバーを下ろした。
「どう、苦しいセイバー? まだ体を動かすぐらいは問題ない?」
「……ええ、シロウがここまで運んでくれましたから。
まだ体を保っていられるようです」
「―――そう。ならあとはこっちの問題だけか。
あれから一時間は経ってるものね。イリヤスフィールが追ってくるにしても、もう少し時間はかかるでしょう。
……ううん、探すのに手間取れば朝方ぐらいまでは隠れていられるかな」
「あ――――」
その呟きで思い立った。
俺たちはこうして廃墟まで逃げ込んだが、バーサーカーとアーチャーはどうなったのか。
アイツはバーサーカーの足止めをする為に城に残った。
時間的にもう一時間以上は経っている。
なら、アーチャーも一人で館から撤退している筈なのだが―――
「遠坂、アイツは―――」
「――――――」
遠坂は答えない。
ただ、大事な物を抱くように、右手を胸に当てているだけだ。
……それで、アーチャーの運命は判ってしまった。
遠坂の令呪は右手にある。
マスターとサーヴァントは繋がっている。
セイバーが俺の危険を察したように、マスターもサーヴァントの生死が判るのだとしたら、それは。
「……遠坂、アイツは」
「まあね。足止めだけでいいって言ったのにさ。
アイツ―――最後まで、キザだったな」
ぽつりと、まるでよくない噂を笑い飛ばすように、遠坂は呟いた。
……沈黙が落ちる。
永遠に続くかと思われたそれは、しかし。
「―――けど無駄になんかしない。アーチャーを失った以上、バーサーカーはここで倒す」
ぱん、と左手に右拳を打ち付ける音で破られた。
「悔やむのはここまでよ。悩んでる暇があったら行動するのが私の信条。―――ここまできたら、貴方たちにも覚悟を決めてもらうからね」
「……? 覚悟って、なんのだよ」
「決まってるじゃない。イリヤスフィール……バーサーカーを倒す覚悟よ。
セイバーを連れてたらこの森からは出られないし、彼女を回復させるにしたって時間がかかる。どのみちイリヤに追い付かれるわ」
「判る? わたしたちが三人そろって森から出るには、バーサーカーを倒すしかない。
それが出来なければ、わたしたちもアーチャーの後を追うだけよ」
「――――バーサーカーを、倒す、だって……?」
あの怪物を?
あらゆる攻撃を無効化し、触れる者全てを一撃で粉砕する、あの死の旋風を倒す……?
「――――――――」
そんなもの、想像できない。
戦えば死ぬ。
それは遠坂だって理解している筈だ。
それを思い知らされた上で倒すというのか。
「―――――――いや、違う」
何を寝ぼけた事を言っているのか。
遠坂は倒せる、と言っているんじゃない。
そんな希望、初めからこいつは持っていない。
「ああ――――そう、か」
そう、勝つために倒す、ではないんだ。
……こんなコト、一番初めに気が付くべきだった。
「倒すしか、ないんだな」
これは、ただそれだけの話。
―――ここで死にたくないのなら。
俺たちは、あの怪物を倒すしかないだけなんだと。
「そういう事よ。けどそれほど絶望的な状況って訳でもないわ。
いくらバーサーカーだって、アーチャーと戦った後ならなんらかの傷を負っている筈よ。わたしだってとっておきの宝石を全部持ってきているし、セイバーさえ回復すれば打開策の一つや二つは作り出せる」
「―――逆に言えばね。
バーサーカーが傷を負っている今こそ、イリヤスフィールを倒せる最大の機会だと思わない?」
「……それはそうかもしれないが。
肝心のセイバーを回復させる方法はあるのか。……悪いけど、こんな場所でセイバーを治せるとは思えない」
「ううん、セイバーの治療に場所は関係ないわ。
セイバーは単に魔力切れで弱ってるだけだもの。一定量の魔力さえ補充してあげれば、あとは以前通りの能力を発揮してくれるわ」
「あのな、遠坂。その魔力の補充が俺には出来ないから困ってたって話、忘れたのか」
「方法はあるわよ。昨日……って、もう一昨日になるけど、その時に説明したでしょ。
サーヴァントに魔力を分け与える方法は、共有の魔術と、それ以外に一つだけ方法があるって。
あの時は、まあ……こんな状況になるとは思わなかったから言わなかったけど」
「む――――?」
昨夜の会話を思い出す。
そう言えば、確かに――――
「……まあ、召喚時にセイバーとパスは通っている筈だから、まだ他に方法があるかもしれないけど――――」
なんて事を、遠坂は言っていたような。
「……思い出した。パスが通ってるからとか、魔術以外の方法があるとか」
「ええ。貴方とセイバーは霊的なだけじゃなく、肉体的にもパスが通ってるのよ。だから魔力供給に難しい魔術は要らないわ。ようするに活力《エネルギー》を分け与えてあげればいいんだから」
……?
いや、だからその方法が判らないんだ。
「待ってくれ。マスターが活力を分け与えるって言うけど、そんなのどうやって」
きょとん、と遠坂は俺を見る。
しばらく俺を見ていた遠坂は、そんなの簡単よ、なんて言ったあと。
「抱きなさい。幸いセイバーは女の子だから、簡単でしょ」
あっさりと、そんな事を言ってのけた。
「――――――――な」
抱きなさい、っていうのは、その。
幸い、セイバーは女の子だから簡単。という意味なの、か。
「な、ええぇーーーーーっっっっっ!!??」
まままままま待て、なんだっていきなり、そんな話になるんだよおまえはっっっっ!!!!
「なに驚いてるのよ、性交による同調なんて基本じゃない。それに魔術師の精は魔力の塊だしね。お金にこまった魔術師は協会に精液を売るって知らない?」
「しし、知るか……っっ! たたた立川流は邪教だし黒山羊は迷信じゃないか! ええい、そんな甘言に乗るもんかっ……!」
「……あのね。立川流はちゃんとした密儀だし、黒山羊はれっきとした契約者よ。
なにをパニクッてるか知らないけど、覚悟は出来てるってさっき言ったじゃない。
わたしたちが生き残るにはこれしか方法はないんだから、あんまり手間を取らせないでくれない?」
「いや、でも、それは」
そうカンタンに言われてもどうにかなる問題ではないだろう普通……!
「もう、迷ってる暇はないの!
アーチャーがやられた以上、イリヤスフィールはすぐに追ってくるわ。わたしたちが生き残るには、ここでセイバーに回復してもらうしかない。
わたしと、貴方と、セイバーの三人がいないとバーサーカーには太刀打ち出来ないって理解してるでしょう!?
ならやるべき事は一つじゃない!」
「いい、わたしはアーチャーを無駄死になんてさせない。
あいつが死に物狂いで作ってくれたチャンスは絶対にいかしてやる。その為に、使えるものは全部使って生き延びるんだから……!」
だあー、と言い連ねてくる遠坂。
が、そう言われれば言われるほど頭は混乱して、本当にセイバーを抱いてる姿を想像したりして、ますます頭が真っ白になっていく。
「――――――」
……くそ。自分でも顔が真っ赤になってるって判るほど、ともかく顔が熱い。
が、そんなのは仕方がないっ。
いきなりそんなコトを言われても困るし、目の前のベッドには、荒い息づかいで横になっているセイバーの姿がある。
なんだかもう、とんでもない異次元に迷い込んでしまったようでアタマがぐらんぐらんして――――
「……っ、そうだ、遠坂、やっぱりその案はダメだ。
俺はともかく、セイバーは絶対に断るぞ。いくら魔力補充の為だからって、体を許すなんてセイバーが許す筈ない!」
「そう? じゃ本人に訊いてみれば?」
遠坂の態度はこれっぽっちも変わらない。
「な――――」
つ、とベッドに視線を移す。
……セイバーは苦しげな呼吸のまま、遠坂に反論する事なく俺たちを見つめている。
「……セイバー?」
「―――はい。私は構いません、シロウ」
……と。
恥じらいを含んだ声で、セイバーはそう言った。
「――――――――」
それは、ひどい裏切りだ。
なんだってそんな、この状況でそんな――――理性を奪うような発言をするんだ。
「悪いけどゆっくり雰囲気作ってる余裕はないの。
士郎、ちょっと」
遠坂の腕が伸びる。
それは、一瞬の出来事だった。
遠坂はこっちの顔に手をやると、ぐい、と強引に振り向かせ、そのまま――――
控えめに、唇を重ねてきた。
「っ――――――――!!!!?」
息が出来ない。
混乱は極みに達していて、なにがなにやら考えつかない。
―――それでも、それが反則じみた感触なのだと思い知らされた。
……遠坂の唇は、ただ柔らかかった。
他人の肌を唇で感じる、というのはそれだけで特別なコトだと思う。
だっていうのに、今触れあっているのは肌ではなく肉と肉だ。
唇は柔らかく、味なんてしないクセに、本当に甘く。
遠坂も馴れていないのか、唇はただ触れあっているだけだ。
……強く遠坂の体温を感じる。
漏れる吐息が熱い。……唾液、だろうか。お互いの濡れた唇が、かすかに水分を交換しあう。
こすれあう鼻はくすぐったくて、堪えるだけで精一杯だった。
「――――――――」
……男が雄だっていうのは、こういう事なのか。
頭は依然真っ白なくせに、こんなコトだけでもう、心に歯止めが利かなくなっている――――
……唇が離れる。
呆然とした俺をよそに、遠坂はベッドまで体を離す。
「どう、落ち着いた?」
……矛盾してる。
遠坂自身、真っ赤になりながらそんなコトを言う。
「遠坂、おまえ―――」
「ごめんね、わたしで」
―――そんな、ばかな。
なんで遠坂が謝るんだ。謝るとしたら、それは俺の方だ、ぜったい。
「とにかく、わたしは引き下がる気はないの。
……士郎はそこで見てていいわ。こんな状況じゃ無理だろうから、わたしも手伝ってあげる。
……ちゃんと士郎と―――セイバーが、その気になれるように」
遠坂はベッドに腕を立てて、ゆっくりとセイバーの上に移動した。
◇◇◇ ◇◇◇
そうして、両者の戦いは終わった。
殺し尽くし、殲滅しあった彼らの戦いは、赤い騎士の消滅で幕を閉じたのだ。
絢爛《けんらん》を誇っていた広間は一変していた。
床は千々にひび割れている。
壁は何重と穿たれている。
階段は陥没し、砕かれた大理石は砂礫となって風に散った。
空間は破壊し尽くされ、広間にかつての面影は無い。
ならば、時間さえかしいでいると言えるだろう。
夥しい破壊の跡は、つい二時間前の風景すら思い出させないと言うのだから。
「――――――――」
その廃墟の中心に、相応しい彫像が建っていた。
二メートルを優に超すそれは、巨岩を荒々しく削って作った人の像に見える。
言うまでもない。
イリヤスフィールのサーヴァント、バーサーカーである。
巨像は不動だった。
その全身は赤く、体の所々に穴が開いている。
傷のない箇所など、巨人には存在しなかった。
一、両足は溶解しかけている。
二、首には切断された跡がある。
三、腕はかろうじて肘に着いている。
四、肩から股下までを貫かれている。
五、胸からは大量に血が流れている。
六、腹には内臓が見え隠れしている。
バーサーカーは動かない。
当然だろう。
それは、どう見ても死体だった。
戦い自体は、半刻で決着がついていた。
ただあまりにも意外すぎる結果に、バーサーカーのマスターは我を忘れた。
本来ならすぐさま獲物を狩りたてに行かねばならないというのに、呆然とこの惨状を見つめていたのだ。
「―――信じられない。なんだったのよ、アイツ」
忌々しげに呟く。
ここで行われた戦いは、少女にとって屈辱以外の何物でもなかった。
少女のサーヴァントは最強である。
数いる英霊の中でも最高の知名度を誇るヘラクレスに対抗できるモノなど、それこそ一人か二人のみだろう。
それを、どこの英雄とも知らぬ正体不明のアーチャーが打倒した。
あの赤い騎士はバーサーカーと互角に渡り合い、結果、今まで誰も成し得なかったバーサーカー殺しを成功させたのだ。
―――そんな事は許されない。
少女にとってみれば、道ばたの虫に心臓を刺されたようなものである。
本来踏みつぶし、情けを乞わせるだけの相手に追い詰められるなど、最強を自負する少女の自尊心が許さない。
「ああもう、頭にくる!
あんなヤツに六回もやられるなんて、手を抜いてたんじゃないでしょうねバーサーカー!」
「――――――」
彫像は答えない。
答える余裕などないのか、その必要性を感じないのか。
バーサーカーは佇み、体の復元に専念する。
……彼にしてみても、今回の戦いはあまりにも異常だった。
彼の“宝具”は、あらゆる攻撃を無効化する。
超一流の攻撃でなければ、どのようなモノであろうと彼の肉体には通用しない。
故に、傷を負う事など希だった。
神話の時代、偉業を為しえた後の彼に傷を負わせた者はいない。
にも関わらず、それを六度。
アーチャーは致命傷に近い純度の一撃を、実に六度《ろくたび》行ってきた。
その全てが異なる手段だったのは言うまでもない。
たとえ最高純度の攻撃であろうと、バーサーカーには一度行った攻撃は二度と通じないからだ。
……異常だというのなら、それこそが異常だった。
それほど多彩な能力を持つ英雄であるのなら、まず正体は掴める筈である。
だがアーチャーの正体は、結局、その体を粉砕しても判らずじまいだった。
真に驚くべきは、サーヴァントとして矛盾したその有り方であろう。
「――――――――」
……バーサーカーの眼孔に、わずかな光がともる。
彼がまっとうなサーヴァントとして召喚されていたのなら、この戦いを“惜しい”と嘆いただろう。
正体はどうあれ、アーチャーは得難い難敵だった。
彼の理性が奪われていなければ、心ゆくまで剣技を競い合い、充実した時間を過ごせたものを。
「……許さない。許さないんだから。よくもここまでわたしを侮辱してくれたわね……!」
主の声が響く。
わずかに灯った理性の光は、それでかき消えた。
今の彼はバーサーカーにすぎない。
主の望み通り、敵を圧倒し、粉砕するだけがその役割。
「もう待てない! 傷は治ったのバーサーカー!」
「――――――――」
答えるまでもない。
死に至らぬ傷ならば、あと数分で完治しよう。
だが―――全てを元に戻すには三日を有する。
「そんなに待てない! もういいわ、いますぐアイツらを殺しにいくわよ!」
「――――――――」
巨人は無言で抗議する。
それは本能に近い。
こと戦いに関して、バーサーカーにはセイバーと似た直感がある。
敵は確かに容易に薙ぎ払える戦力だ。
だが、セイバーのサーヴァントがあの聖剣《ほうぐ》を使えるほど回復したのなら話は別だ。
たかだか聖剣ごときに屈するバーサーカーではないが、万が一という事もある。
あのサーヴァントと戦うのならば、こちらも万全の態勢で挑むべきだと本能が告げていた。
「……なによ、五つもあれば十分じゃない。あんなヤツら、ゴッドハンドなんかなくったって敵じゃないもの。
それともなに? ここまでわたしたちをバカにしたヤツらを見逃してやるっていうの、バーサーカー?」
「…………………」
「そうでしょ? 誰一人としてわたしの森からは逃がさないわ。うん、リンとセイバーはバーサーカーにあげるね。犯すなり殺すなり好きにしていいわ」
少女は階段から飛び降りた。
瓦礫の中、血まみれのバーサーカーを意に介さず出口へと歩いていく。
そのおり。
少女は思い出したように、一度だけ足を止めた。
「さあ、狩りを始めましょうバーサーカー。
だけどセイバーのマスターは簡単に殺しちゃダメだよ?
シロウには、いちばんひどい死に方をさせてあげるんだから」
くすり、と愉しげに笑って、少女は城を後にする。
―――じき日が昇る。
彼女にとってこの森は庭と同じだ。
獲物が何処に隠れていようが、見つける事など造作もない。
標的である彼らの余命は、あと数分足らずしか許されていなかった。
で。
◇◇◇
なんでか知らないが、廃墟から追い出された。
……その、セイバーに魔力を分け与えたのはいいけど、その後の調整とか着替えとか、とにかく女の子には色々あるのだー、なんて遠坂に追い出されたのだ。
「―――くそ、なに言ってんだ、男だって色々ある」
壁に背中を預けてぼやく。
なんだか負け惜しみのような気がするのは、やっぱり負け惜しみだからだ。
「………………………………」
なんとなく空を見上げた。
……じき夜明けなのだろうか。
東の空にはかすかに赤みが差して、森は少しずつ明るくなっている。
森は静かで、落ち着いていた。
こうまでゆったりとしていると、自分たちが追われていて、かつさっきまであんなコトをしていたなんて信じられない。
「――――――――う」
けど、今は忘れないといけない。
……まったく、こんなコトでやきもきしている余裕はないんだ。
いま俺たちが悩む事は、どうやってバーサーカーを迎え撃つかって事だけなんだから――――
「……そうだ。自分に出来る事をやらないと。あいつだって、最後にそう言ってたじゃないか」
アーチャーの背中を思い出す。
……とことん好きになれなかったヤツだけど、あいつの言葉はどれも頭にひっかかっている。
「…………………」
木の枝を眺める。
……自分に出来る事といったら、それこそ数えるほどしかない。
今はたとえ微力だとしても、それを全力でこなすだけだ。
形として手頃な枝をもぐ。
あとはできるだけ直線の枝を数本見繕った。
「士郎―! 終わったから入ってきてー!」
遠坂の声がする。
もぎ取った枝を抱えて廃墟へ戻る。
……まあ、あとの問題と言えば。
あんな事があった後で、今まで通りにセイバーと向き合えるかって言う事なのだが、
「こちらですシロウ。凛から話があるそうです」
―――その心配は、とりあえず自分だけの物みたいだ。
セイバーは今まで通り毅然としている。
未熟な俺と違って、彼女はきちんと割り切っているのだろう。
「あ―――ああ、いま行く」
……くそ、負けるもんか。
俺一人で赤面してるのもバカらしいし、全力で平静を装ってやるっ。
「来たわね。それじゃ作戦会議を始めるけど、会議っていっても口論しあう暇はないわ。
バーサーカーを倒す方法も限られているし、とりあえずわたしの話を聞いてもらえる?」
こくん、と頷く俺とセイバー。
「作戦としては単純よ。
まともな方法じゃバーサーカーとは勝負にならない。
勝つ為には奇襲、しかも仕掛けたのなら反撃させずに一撃で首を落とすのが絶対条件だと思う」
「……同感です。バーサーカーと打ち合ったところで、アレには致命傷を与えられません。倒すのならば打ち合いの外から決すべきでしょう」
「……打ち合いの外からって、バーサーカーが俺たちに気づく前に先回りして襲うって事か……?
そりゃあ、あいつと正面から戦うのは無謀だけど、そっちの方はもっと無謀だ。あいつが奇襲なんてさせるタマか」
「ええ、バーサーカーに気づかれずに近寄る、なんて都合のいい作戦はやらないわよ。
あっちにはイリヤスフィールがいるんだもの。少なくともセイバーと士郎の気配は簡単に感知されるわ。わたしは気配を隠せるから大丈夫だけど」
……む。
どんな理屈か知らないが、イリヤは俺とセイバーの気配が判るのか。
姿を隠せるのは遠坂だけって事は――――
「……まさか。奇襲をするのは遠坂だって言うんじゃないだろうな」
「当然でしょ。一番に狙われてるのは士郎なんだし、この中で一番動きやすいのはわたしだもの。隙をついて後ろからバッサリやるのは任せなさい」
「後ろからバッサリって、バーサーカーがそんな甘いわけないだろ」
「そりゃそうよ。だからセイバーに隙を作ってもらうの。
セイバー、体はどのくらい回復した?」
「通常戦闘ならば問題はありません。ですが、宝具の使用は避けるべきです。
士郎に貰った魔力では、おそらく使った瞬間に体を維持できなくなる。たとえ使ったとしても純度は落ちていますから、バーサーカーを倒せるとは思えません」
「ええ、それで十分よ。セイバーにはバーサーカーと打ち合って貰うわ。もちろん士郎も一緒。
で、わたしは隠れて様子を見る。イリヤスフィールから見ればわたしはおまけみたいなものだし、いなければ二人を見捨てて逃げた、とか思うんじゃないかしら」
「……はあ。それは……まあ、可能性はなくはありませんが」
「可能性が低いならあげて。
士郎はイリヤスフィールと仲がいいみたいだし、うまく話せば騙せるんじゃない?」
ふふん、と意味ありげな流し目をする遠坂。
「……反論はあるけど、引き受けた。
遠坂は逃げたって言えば、イリヤはまず信じるよ。あの子は、人の言葉を疑わないと思う」
「だとしても問題はあります。
私がバーサーカーと対峙するのはいい。ですが、シロウに同じ事はさせられません。シロウではバーサーカーの一撃に耐えられない」
「誰も士郎に殴り合え、なんて言ってないわ。
士郎はセイバーから離れて後方支援。セイバーだけじゃバーサーカーを押し切るのは難しいから、危なくなったら助けてあげて」
「ばかな。シロウは凛のように黒魔術に長けてはいない。
援護といっても何を」
「それは士郎が考えて。
……もっとも、バーサーカー相手だとマスターが介入する余裕なんてないわ。士郎だけじゃなくて、わたしだって手を出せばセイバーの足をひっぱるもの」
「それでも一人だって遊ばせる余裕はないの。
士郎が殺されればセイバーもおしまいっていうのは判ってるけど、ここはそうしてもうわ。……はじめから賭け事みたいな戦いなんだから」
「それは………………そう、ですが」
セイバーは難しい顔をして黙り込む。
遠坂も黙っているところを見ると、自分でも無茶を言っていると承知しているのだろう。
二人の杞憂はもっともだ。
セイバーと出逢った夜。
バーサーカーに襲われた時、俺は体を張るしか出来なかった。
今度だって、あの夜を再現する可能性は高い。
なら俺は戦場から離れた方がいいのだろうが、言われなくてもそんな気は毛頭なかった。
「判ってる。遠くからの援護はなんとかしよう」
「え?」
二人して振り向く。
いや、そんなに意外なコトなのか、今のって。
「離れたところからセイバーを援護すればいいんだろう。
それならなんとかなると思う」
言って、先ほどもいできた木の枝を手に取る。
長さ的には丁度いい。しなりもなんとか。
……こういう“強化”は初めてだ。
けど原理は間違っていないと思う。
要は補強に補強を重ねて、きちんとしたモノに仕上げればいいだけの話。
それにコレだったら、あいつが持ってたから参考になる。
くわえて、魔力ならさっきから体に流れっぱなしだ。
あとはいつもの工程を繰り返せばいい。
基本骨子を解明し変更する。
構成材質を解明し補強する。
……だが、もとが枝で完成形があいつの弓となると足りない。
想うべきは創造された理念から。
少しでも本物に近づけるなら、せめて頭の中だけでも、あらゆる想定をしなければならないだろう。
……目を開ける。
しなっていた枝は、とりあえず形にはなっていたが、なんというか、その――――
「うわ。似ても似つかねえ」
不細工というか、歪というか。
それでも弓として問題ない事は実感できる。
あとは同じ要領で矢を調達すればいいだけだ。
「―――士郎、今の」
「ああ。慎二との一件でなんとなくコツが判った。遠坂も言ってただろ。力みすぎるなって」
「…………そう。ま、手段が出来たのはいいことだし、今はいいわ」
「話を戻すけど。
とにかく、二人にはバーサーカーと戦ってもらう。わたしは予め木に登って、上から様子を観察してるから。
で、セイバーがなんとかバーサーカーに隙を作ったら、死角である頭上からとっておきの宝石を使い切ってバーサーカーを串刺しにする。
作戦としてはそれだけの、単純な物だけど」
質問はある? と視線で訴える遠坂。
「……宝石、というのは凛の魔術ですか?
だとしても生半可な魔術ではバーサーカーの体には届きません。彼を傷つけるには、最大純度の攻撃でなければならないのですから」
「判ってる。ようするにA判定の攻撃でないとダメなんでしょ?」
言いつつ、遠坂はポケットから宝石を取り出した。
「―――その宝石は?」
「わたしが物心ついた時から貯めに貯めた貯金みたいなものよ。これ一つでA判定の大魔術を即座に発生させられる。十個あったんだけどね、一つは貴女に使っちゃったわ」
「そうか―――あの時の魔術ならば、確かにバーサーカーは防げない。
彼には私のような対魔力はありません。魔術であっても、それがA判定ならば問題なく貫通する――――」
「そういうことよ。ホントは小出ししていこうと思ったけど、悠長な事は言ってられないわ。バーサーカーには特別に二つか三つは叩き込んでやるんだから」
ふふん、と遠坂は自信ありげに胸を張る。
……が。
「……おい。なんか半端にせこくないか、おまえ」
「……同感です。私が言える事ではありませんが、せめて半分使い切る、ぐらいの気前の良さが必要だとは思うのですが」
「うっ……な、なによ、そんなの人の勝手でしょう!
貴方たちね、わたしがどれほど苦労してここまで貯めたって思ってるのよ!」
「……………………」
「……………………」
セイバーと二人して、とにかく無言の抗議をする。
なにしろ事は遠坂の命もかかっている。つまんない出し惜しみをして失敗したら笑うに笑えない。
「……わかったわよ。半分使えばいいんでしょ、使えば!
……なによ、言ってみただけじゃない。わたしだってそれぐらい判ってるんだから」
「―――とにかく、作戦はそれだけよ。
あとは私が隠れられて、士郎がセイバーの援護をしやすい場所を探さなくちゃ。イリヤスフィールが来る前にいい場所を見つけましょう」
……ああ、たしかにもうこの廃墟にはいられない。
後は遠坂の言う通り、バーサーカーを待ちかまえる場所を探すだけだ。
だが、その前に――――
……セイバーは、本当に大丈夫だろうか。
戦闘に支障はないというが、あれだけ弱っていた後、いきなりバーサーカーと打ち合うのは辛いのではないか。
いや、それより気になるのは宝具の事だ。
『使えば、その瞬間に体を維持できなくなる』 セイバーはそう言った。
それはすなわち、あの剣を振るった瞬間、セイバーが消えるという事だ。
「―――セイバー」
「はい。なんでしょうか、シロウ」
「……ああ。戦う前に、一つ約束してくれないか」
「……? ええ、それが私に出来る事ならば構いませんが」
「……うん。その、さ。どんな状況になっても、あの宝具は使わないでほしいんだ。
地上であんな物を使ったら大事《おおごと》だし、それに―――バーサーカーを倒せても、セイバーが死ぬなんていうのはイヤだ」
「ええ、分かっています。私も宝具を使う気はありません。今の魔力でバーサーカーを倒せるとは限りませんし、なにより消えてしまっては聖杯を手に入れられない」
セイバーはきっぱりと言い切る。
今は、それがひどく嬉しい。
「よし、いつものセイバーだ。うんざりするほど冷静で安心した」
「……む。それはどういう意味でしょうか、シロウ」
「いや、他意はないよ。いいから外に出よう。遠坂を待たせると、また文句を言われるからな」
「そうですね。凛はシロウに文句を言うのが趣味のようですから」
……なんかとんでもない感想を口にして、セイバーは出口へ向かう。
―――と。
瓦礫につまずいたのか、セイバーの体がつんのめった。
「っ!」
慌てて後ろから手を引っ張る。
「ほら、足下危ないぞ。散らかってるんだから気を付けないと――――」
「………………」
……って。
セイバーは気まずそうに、顔を真っ赤にしていた。
「セ、セイ、バー……? どうした、何かあったのか」
「………いえ、そういう訳ではないのですが……手を握られていると、その」
セイバーの顔はますます赤くなっていく。
……その姿は、なんだかついさっきまでの自分を見ているようでもあった。
「ぁ――――――――」
つられて赤面する。
握った手のひら。……セイバーの感触を鮮明に思い返してしまって、とっさに手を引いた。
「――――――――」
「――――――――」
二人して、何も言えずに硬直してしまう。
「っ……そ、外に出よう。早く行かないと、時間がない」
「そ、そうですね。急ぎましょう、シロウ」
なんて、無理矢理な会話で足を速めた。
……外に出れば、ここに戻ってくる事などないだろう。
最後にもう一度だけ廃屋に視線を返し、動悸がする心臓を押さえつけて、戦場へ足を向けた。
◇◇◇
一際開けた森の広場に出た。
日は昇りかけ、森は朝靄《あさもや》に包まれて白くくすんでいる。
木々が乱立した森の中に比べれば、ここは随分と見晴らしがいい。
「遠坂。ここ、悪くないんじゃないのか」
「……そうね。条件はいくらかクリアしてるけど、見晴らしが良すぎるのがどうもね。これじゃわたしはともかく、セイバーと士郎の逃げ道がないもの」
「……む」
逃げ道まで考慮するあたり、遠坂は完璧主義者というかなんというか。
「他をあたりましょう。大丈夫、まだ時間はあるわ」
森へと引き返す遠坂。
「……………………」
が。セイバーは遠くを見たまま、一歩も動こうとしなかった。
「セイバー? 何してるのよ、早くしないとイリヤスフィールに――――」
悪寒が走った。
一度味わったのなら忘れようがない。
姿さえ見えず、気配さえまだ感じない。
にも関わらず体を襲う重圧は、間違いなくヤツの物だ。
――――ふふ、見ぃーつけた――――
森に響く少女の声。
霧の向こう。
遠く離れた森から、何か黒いモノが一直線に向かってくる。
―――待ってて。いますぐ殺してあげるから―――
……空が見える広場にいるからだろうか。
まるで空から覗き込んだイリヤが語りかけてくるような、そんな錯覚に捕らわれた。
「やば、アイツもう士郎を見つけたの……!?
まずい、ここじゃ視界が広すぎる―――って、なによこのスピード、これじゃ二分かからない……!」
あたふたと慌てる遠坂。
「ちょっと、何のんびりしてるのよ二人とも……!
ここじゃまずいって言ってるでしょ、早く場所を変えないと……!」
遠坂は俺たちの手を握る。
―――だが、それはもう間に合うまい。
「―――いい。ここで戦おう、遠坂。
三人で戦えるだけでも僥倖《ぎょうこう》なんだ。これ以上は求められない」
「ばか、それがまずいんだってば……! ここじゃ横幅がありすぎるの……! セイバーだけじゃバーサーカーを止められないし、いくら離れてたってアンタもバーサーカーの間合いに入っちゃうじゃない……!」
「遠坂が心配してくれてるのは判ってる。けど危険なのはみんな一緒だ。それに、こうなっちゃ逃げ道なんかないんじゃないのか」
「う……それは、そう、だけど」
「セイバーもいいな。ここでバーサーカーを迎え撃つ」
セイバーは静かに頷く。
「も、もう……! わかったわよ、簡単にやられたら怒るからね……!」
納得してくれたのか、遠坂は霧に身を溶け込ませた。
行動に移ると、あいつは本当に素早い。
広場から離れ、森に隠れてから手際よく木の上へ登り始めた。
「―――来るぞセイバー。準備はいいか?」
「……貴方も。戦いが始まったら、決してここから前には出ないように。何があろうと、バーサーカーをここには近づけさせません」
強く静かな声で、セイバーはそう答える。
……霧がゆらめく。
朝靄《あさもや》の中。
黒い闇が滲み出るように、狂戦士が白い少女に率いられて出現した。
「意外ね、てっきり最期まで逃げまわるとばかり思ってたのに。それとももう観念したの、お兄ちゃん?」
……イリヤとの距離は四十メートルほどだろう。
俺たちは広間の端と端で対峙している形になる。
「……ふうん、セイバーは直ったんだ。そっか、だから逃げまわるのは止めにしたのね。
……おしいなあ。そんなことでわたしに勝てると思うのはかわいいんだけど―――
―――残念ね。シロウはここで死ぬんだもの」
くすくすという笑い声が森に響く。
それが気にくわないのか。
傍らのセイバーは、今にも飛び出しかねないほど殺気立っていた。
「もう。つまんないなあ、ずいぶん無口になっちゃったのね。もしかして殺されるのは怖いの? そんなのもったいないよ? いま命乞いをすれば、わたしも許してあげないコトもないんだから」
……遠坂は木を登りきったか。
仮にあいつが陣取るとしたら、広場の中心付近だろう。
ちょうど木々の枝が重なり合っているそこなら、人一人が乗っても折れないし気づかれない。
「……そう。あくまでそういう態度なんだ。ならもうお喋りはここまでだね。リンともども殺してあげ―――
―――待ちなさい。リンはどうしたの、シロウ」
イリヤの口調が変わる。
……流石はバーサーカーのマスターというところか。
見逃せない事、見逃してはいけない事ってのを心得ている。
「―――遠坂はここにはいない。あいつと俺たちはとうに別れた」
「別行動をとったの? そっか、セイバーを連れてるシロウは足手まといだものね。リン一人なら、もっと遠くに逃げられる」
「……そういう事だ。あいつの事だから、もうとっくに森を出てるだろう。今から追っても間に合わないぞ」
「―――そうかしら。この森はアインツベルンの結界よ。
誰が入ってきて、誰が出ていったかぐらいは判るんだから。あれから外に出た人間は一人もいない。リンはまだ森にいるわ。探し出すのはこの後でも十分よ」
「――――――――」
……助かった。
イリヤに判るのが森への出入りだけなら、遠坂の事はバレていない。
というより、本当にあっさりとこっちの言い分を信じ込んでしまっている。
……たしかにイリヤは冷酷なマスターだ。
だがそれでも―――それは、やり直せる冷酷さなのではないか。
「……イリヤ、戦う前にもう一度だけ訊くぞ。
マスターを辞めて、こんな戦いを止める事はできないのか」
「できないよ、お爺さまの言いつけだもの。
バーサーカーがいるかぎり、わたしはアインツベルンのマスターなの。イリヤは他のマスターたちを殺して、聖杯を持ち帰らなくちゃいけないんだから」
「……それに、もう一度だけ訊くのはこっちだよ。
わたしはアインツベルンの当主だから、あんな言葉二度は言わないわ。……けどシロウが答え直すっていうんなら、ちゃんと聞いてあげてもいいんだよ……?」
……それは、かすかに期待の籠もった声だった。
だが傍らにセイバーがいる以上、俺はイリヤの言葉には頷けない。
「―――答えは変わらない。俺はセイバーのマスターだ。
おまえがマスターを辞めないっていうんなら、バーサーカーを倒して辞めさせる」
イリヤとバーサーカーを見据えて断言する。
途端。
広場の空気が、キチリと音をたてて凍り付いた。
「……そう。なら本気で殺してあげる。
その思い上がりと一緒に、粉々に砕いてあげるわシロウ……!」
「な――――」
……なんだ、アレは。
イリヤの顔に刻印が浮かんでいる。
―――いや、顔だけじゃない。
アレは体全体―――離れていても判るほどの、俺たちとは比較にならない巨大な令呪だった。
「―――遊びは終わりよ。狂いなさい、ヘラクレス」
昏い声。
それに呼応するように、少女の背後にいた巨人が吠えた。
「」
地を揺るがす絶叫。
巨人は正気を失ったように叫び悶え―――そのありとあらゆる能力が、奇形の瘤となって増大していく。
「―――そんな。今までは理性を奪っていただけで、狂化させていなかったというのか……!?」
セイバーの声に畏れが混じる。
彼女が戦慄するのも当然だ。
戦士の力量など計れない俺ですら、アレが触れてはならないモノだと判るのだから。
「行け……! 近寄るモノはみんな殺しちゃえ、バーサーカー……!」
「――――!!」
それは爆音だった。
もはや哭き声ですらない咆吼をあげ、黒い巨人が弾け跳ぶ。
「っ―――、セイバー……!」
応じて駆け抜ける銀の光。
バーサーカーは広場の中心に着地する。
舞い落ちてくる巨体と、その落下地点めがけて縦一文字に疾走するセイバー。
―――大地が振動する。
落下する隕石を押し止めるように、セイバーはバーサーカーを迎え撃った。
―――それは、神話の再現だった。
朝靄《あさもや》に包まれた森の中、二つの影は絶え間なく交差する。
バーサーカーは、ただ圧倒的だった。
薙ぎ払う一撃が旋風なら、振り下ろす一撃は瀑布のそれだ。まともに受ければセイバーとて致命傷に成り得るだろう。
それを正面から、怯む事なく最大の力で弾き返すセイバー。
嵐のように振るわれる一撃に対し、全身全霊の一撃をもって弾き返すのだ。
そうでなければ剣ごと両断される。
間断なく繰り広げられる無数の剣戟は、その実、セイバーにとって一撃一撃が渾身の剣だった。
絶え間ない剣戟の音。
間合いが違う。
速度が違う。
残された体力が違いすぎる。
セイバーに許されるのは、避けきれない剣風に剣をうち立て、威力を相殺する事で、鎧ごと両断されないようにするだけだった。
喩えるのなら、バーサーカーは壊れた削岩機だ。
四方八方に回転する刃物は、近づくモノ全てを容赦なく粉砕する。
少しでも手を伸ばせばそれで終わりだ。
逃げる事など出来ず、刃物の回転に巻き込まれて血と臓物をぶちまけるだろう。
……そんなモノに生身の人間は立ち向かえない。
近づけば死ぬだけなら逃げるしかない。
だがセイバーは回転の内に身を置き、退く事をしなかった。
ならば削られる。
剣が火花を散らし、鎧の破片が零れていくのは当然だ。
彼女は常に、一秒後には即死しかねない渦に身を置いている。
「――――――――」
それに、ただ息を飲んだ。
太古の昔。
竜という魔獣に立ち向かった英雄たちは、誰もが彼女のようだったに違いない。
戦力が違うのなど百も承知。
それでも、彼らは千載一遇の機会に賭けた。
人間を凌駕する巨大な暴力。
唯一の隙が生まれるまでただ防ぎ、そして―――そんな奇蹟など起きず、当然のように息絶えた多くの戦士。
二人の戦いはまさにそれだ。
目を奪うほど絢爛《けんらん》な戦いは、しかし。
一撃毎に傷ついていくセイバーの敗北しか、結末を用意していなかった―――
「」
雄叫びが大地を揺らす。
バーサーカーの旋風は大気を裂き、受け流すセイバーを弾き飛ばす。
その度にセイバーの鎧は欠け、地面に叩きつけられようとして―――地に膝をつける事なく、勇猛にバーサーカーへと突進する。
……それも既に限界だ。
セイバーの呼吸は乱れて、体の動きも目に見えて衰え始めている。
バーサーカーに隙を作る、どころの話じゃない。
おそらくあと数撃で、セイバーはあの斧剣の前に両断される――――
「っ――――――――」
握り締めた手には弓がある。
俺は――――
「く――――そ」
判っている。それは、無駄だ。
こんな弓でどうにかなる相手じゃない。
射ったところでバーサーカーは避けもしないし、傷を負わせる事など不可能だ。
むしろそんな邪魔、セイバーをますます苦しめる事になる。
「くそ――――くそ、くそ、くそ…………!」
何も出来ない。
目の前でセイバーが力尽きようとしているのに何もできない。
走って。
このまま走り寄って、背中を向けているバーサーカーに殴りかかればセイバーが助かるっていうんならとっくにしている。
だがそれも無駄だ。
俺が何をしようと、それはセイバーにとって邪魔でしかない――――
◇◇◇
―――斬撃。
一撃を受け流すセイバーの足が、踝《くるぶし》まで地面に沈む。
返す刃は疾《と》く重く。
頭上に踊った斧剣は、落雷の如くセイバーを撃つ。
咄嗟に身をひねったセイバーの鎧を削りながら、剛剣は地面を断つ。
「っっっ…………!」
歯が砕けそうだ。
結局、俺は何も出来ないのか。
セイバーを守る事も、共に戦う事も出来ない。
俺に出来る事などない。
俺に出来る事など、所詮――――
―――ならば、せめてイメージしろ。
おまえに出来る事など、所詮その程度でしかないのだから。
「――――――――」
そんなコトを。あの男は、言っていた。
―――外敵など要らぬ。おまえにとって戦う相手とは、すなわち自身のイメージに他ならない。
……そうだ。アイツは何を言っていたのか。いつもの嫌がらせじゃない。あの言葉には、今ここで理解しなければならない重みがあった。
―――否、それを言うのなら。
アイツの言葉の全てが、無視してはならない警鐘だったのではないか。
セイバーの体が弾け飛ぶ。
今のは受け流しによる跳躍じゃない。
まともに受けた。
あの烈風じみた斬撃が、セイバーの横腹に直撃した。
たたらを踏むセイバー。
痺れる指に力を込め、咳き込みながらもバーサーカーへと向き直る。
その、セイバーがようやく見せた隙を、巨人が見逃す筈がない。
「――――やめ、ろ」
声なんて届かない。
そんなコトをしても無駄だし、アーチャーの真似事をして弓なんか持っても無駄だ。
まだ判らないのか。
自分に何ができるのか。
この手は何をすべきなのか。
そう。
一体何があれば、自分はセイバーを助けられるのか。
弓ではだめだ。槍でも貫けはしまい。敵と同じ武器だからいいという訳でもない。
あの巨人を。
あの岩の山を切り崩すには剣だ。
鋭利で絢爛、刃こぼれなど知らず、ただ一撃で敵を断つ王の剣。
例えばそう。
夢に見た、彼女に相応しい黄金の剣のような。
「く――――」
―――頭が痛い。
吐き気を堪えながら、それでもセイバーから目は離さない。
だが皮肉な事に、セイバーが倒れる瞬間を見れば見るほど、気が狂いそうになる。 セイバーとバーサーカーの動きは、スローモーションのように感じられた。
スイッチが横にズラリと並んでいる。
咳き込み、一瞬だけ体をくの字に曲げるセイバー。
満身の力を込めて斧剣を振り下ろすバーサーカー。
列を成すように次々と撃鉄が上がり。
それは、ドミノ倒しのようでもあり――――
一斉に、引き金が引かれた。
「セイバー…………!」
バーサーカーの斧剣がセイバーを薙ぎ払う。
それは致命傷だ。
セイバーの体は腰から両断され、その肉片が宙に舞った。
「いや―――違う……!?」
宙に舞っているのは銀の鎧だけだ。
バーサーカーが薙ぎ払ったのはセイバーの鎧のみ。
セイバーはあえて隙を作り、バーサーカーに大振りをさせ―――温存した全ての力で、最速の踏み込みを見せたのだ……!
「――――!」
迸る黒い咆吼。
だが、完全に懐に入ったセイバーから逃れる術はない。
彼女は両手で剣を持ち直し、なお深く巨人に踏み込み、渾身の力でバーサーカーを切り払う―――!
「」
―――信じられない。
地面に根を生やしていたかのような巨人が、セイバーの一撃で数メートルも弾け飛ぶ。
そうして、そのまま。
「引いて、セイバー……!」
間髪入れず、本命の攻撃が繰り出された。
―――できるだけ至近距離で放つつもりなのか。
遠坂は遙か頭上の枝から飛び降り、落下しながら、宝石をバーサーカーへと投げつけ―――「Neu(九番)n,Ach(八番)t,Sieb(七番)en――――!
Stil,schiet(全財投入) Besch(敵影)、ieen ErschieSsu(一片、一塵も残さず……!)ng――――!」 舞い落ちる氷の雨。
中でも三つ、槍となった巨大な氷塊には、屋敷一つ軽く吹き飛ばす程の魔力が圧縮されている――――!
「だめ、避けなさいバーサーカー……!」
静観していたイリヤが叫ぶ。
それがどれほどの危機か悟ったのだろうが、既に遅い。
氷の槍は落下しているのではない。
打ち出されたソレは、バーサーカーを串刺しにせんと“加速”しているのだ。
避けられる筈がない。
千載一遇、セイバーの決死の一撃と完全に息のあった氷の散弾。
その威力たるや、バーサーカーを優に殺しきる魔力がある――――!
が。
「、――――!!!!!!」
大きく上空を薙ぎ払う斧剣の軌跡。
バーサーカーはセイバーに圧されながら、咄嗟に片手に構え直した斧剣で、三つの氷塊を砕いていた。
―――零れる鮮血。
片腕で払った故か、氷塊は壊しきれず、バーサーカーの片腕を切り裂いた。
そればかりではない。
氷は巨人の片腕で再凍結し、その動きを完全に封じていた。
しかし、それでも潰したのは腕一本のみ。
「な――――」
セイバーが声をあげる。
―――当然だ。
もう一本のバーサーカーの腕は、そのまま、落下してきた遠坂の体を握り止めたのだから。
「っ……!」
遠坂の顔が苦痛に歪む。
バーサーカーの力ならば、遠坂を握り潰すコトなど容易だろう。
「と、遠坂――――!!!」
駆けた。
足手まといでもいい。
何が出来なくとも関係ない。
このまま、遠坂を握り潰すなんてさせるものか―――!
「凛……!」
もう立つ力もないだろうに、セイバーも体を起こす。
「………………」
腹を圧迫されて苦しいのか、遠坂は俯いたまま腕を伸ばす。
―――と。
「―――ふん。そんなコトだろうと思ったわ」
にやりと、不敵に言い捨てた。
「!」
誰もが息を飲んだ。
俺も、セイバーも、おそらくはバーサーカーすら凍り付いたに違いない。
―――人が悪いにもほどがある。
あいつ、初めからこうなるコトを予測して、それを黙っていやがったのか――――!
「――――!」
バーサーカーが力を込める。
だが、それは一秒の差で遅すぎた。
「取った……!」
放たれる光弾。
使った宝石の数は四つ。
これ以上は望めないという至近距離からのつるべ打ちは、今度こそ本当に、黒い狂戦士の息の根を止めた。
いや。
それは豪快に、文句のつけようもなく、命を弾《・・・・》き飛《・・・・》ばしていた。
バーサーカーの首が跳んだのか。
びちゃり、と、まだ十メートルは離れたここまで血が飛んできた。
……えっと、脳漿か、コレ。
あきらかに血でないものまで混ざっているのは、どうにも手放しで喜べないというか。
……しかしまあ、やりすぎというコトはないだろう。
相手はあの化け物だ。
一撃で首を跳ばさなければ、それこそ遠坂は潰されていたに違いない。
「――――ふう」
走り寄っていた足を緩める。
遠坂はバーサーカーに握られたままだが、勝負はついた。
バーサーカーの顔は未だ白煙に包まれている。
ぶすぶすという燻った音からして、よほどの爆発だったのだろうが――――
「――――うそ」
遠坂の声が聞こえた。
彼女は呆然と、白煙を眺めている。
――――待て。
気のせい、なのか。
遠坂を握りしめたバーサーカーの指が、さっきより深く食い込んでいる気がする、のは。
「――――――――」
遠坂はただ白煙を見つめている。
……それも長くは続かない。
目を覆うほどの白煙は次第に薄れる。
その後には。
確かに首を吹き飛ばされた筈の、バーサーカーの貌《かお》があった。
「―――――――あ」
悪鬼のような視線に竦められ、遠坂は言葉を失っている。
「……ふふ。うふふ、あははははははは!」
笑い声が響く。
広場の端からバーサーカーを操っていた、銀のマスターが笑っている。
「見直したわリン。まさか一回だけでもバーサーカーを殺すなんてね。
でも残念でしたー。バーサーカーはそれぐらいじゃ消えないんだ。だってね、ソイツは十二回殺《・・・・・・・・・・》されなくちゃ死《・・・・》ねない体なんだから」
「……十二回、殺される……?」
イリヤの言葉に重大な秘密を読んだのか。
愕然としていた遠坂の眼が、微かな悔いに歪んでいた。
「……そう、か。
ヘラクレスだって判った時点で、それに思い当たるべきだった。ヘラクレスっていったらヒドラの弓なのに、持ってるのはただの岩だった。
……だから、コイツの宝具はモノじゃないんだ。英雄ヘラクレスのシンボルは、その――――」
「そう、肉体そのものがヘラクレスの宝具なのよ。
あなたも知っているでしょう、ヘラクレスの十二の難行を。ギリシャの英雄ヘラクレスは、己が罪を償う為に十二もの冒険を乗り越え、そのご褒美として“不死”になった。
この意味、あなたなら判るでしょう?」
「………命のストック……蘇生魔術の重ねがけ、ね」
「ええ。だからソイツは簡単には死ねないの。かつて自分が乗り越えた分の死《しれん》は生き延びてしまう、神々にかけられた不死の呪い。
それがわたしのバーサーカーの宝具、“十二《ゴッド・ハンド》の試練”なんだから」
「わかった? バーサーカーは今ので死んでしまったけど、あと五つの命があるの。
ふふ、惜しかったわねリン。今のが五倍の宝石だったら、バーサーカーは消えていたのに」
イリヤの声は、よく聞き取れない。
視界の端には、バーサーカーへと駆け込むセイバーの姿があった。
「―――凛、逃げて!」
駆け寄るセイバー。
遠坂もなんとかバーサーカーの指を引きはがそうと試みるが、一向に解けない。
そこへ。
「いいよバーサーカー。そいつ、潰しちゃえ」
焼けた眼球が遠坂を睨む。
「っあ―――くあ…………!」
遠坂の悲鳴。
深く、はらわたを抉るように食い込んでいく巨人の指。
その先にあるものは、逃れようのない 無惨に握り潰される、遠坂の姿だった。
「――――――――」
走った。
相手がなんであるか、ここが何処であるかなど吐き捨てた。
思考は、とっくに焼き切れていた。
「―――させるか……!!」
バーサーカーへ斬りかかるセイバー。
視えない剣は大根でも切るように、無防備なバーサーカーの腕に振り下ろされる。
だが効果はない。
剣は弾かれ、バーサーカーの腕は傷つくどころか、遠坂を潰そうとする力さえ緩まない。
「っ――――!」
動くだけで苦しいのか。
セイバーは唇から血をこぼしながら、必死になって剣を振るう。
「な――――シロウ……!?」
その顔が、ヤツに駆け寄った俺を見て凍り付く。
「放しやがれ、テメェ――――――――!」
ただ夢中で、弓で背中を叩きつける。
巨人はぴくりともしない。
背後に駆け寄った俺など、初めから眼中になかったのか。
「っ……!」
指が痺れる。
殴りつけたこっちの手がおかしくなるなんて、こいつ、なんて体、を――――!
「逃げて、シロウ――――!」
……え?
セイバーの声で顔をあげる。
瞬間。
体が、木の葉のように飛んでいた。
「――――、が」
ゴミのように落ち転がった。
―――バーサーカーは凍り付いていた剣で、俺を払ったのだ。
咄嗟に防ぎに入った弓は容易く砕かれ、こんなところまで、弾き飛ば、さ、れ――――
「が――――あ、は――――!!!」
激痛にのたうつ。
折れたのは、弓の音じゃなかったのか。
片腕がクモみたいに曲がっている。
息を吸うと、肺がぶち壊したくなるほど痛みやがる。
「は……あ、ごっ……!」
こみ上げてくる血のせいで、うまく呼吸ができない。
ああ、だが関係ない。
どうせ息をすればオチかけるんだ。
呼吸なんて、今はしない方がいい。
「はっ――――はあ、は――――!」
起きあがる。
今は少しでも早く、あいつ、あいつを――――
走った。
今度はこっちの番だ。あいつの腕を折って、遠坂を助けるだけ。
背中に眼でもあるのか、敵は虫を払うように剣を振るう。
躱せる。
そんな凍り付いた腕で振るったモノ、おいそれと当たるものか――――!
「は――――」
くそ、体が沈む……!
片足にかすったのか。ふざけやがって、触れてもいやがらないクセに、人の足を折るんじゃねえ――――!
「バカな―――もういい、離れなさいマスター……!」
そんな事は出来ない。
こんな事で遠坂は殺させない。
その為には何が必要だろう。
武器。出来れば刃物がいい。足下には破壊された弓の残骸。頭上にはバーサーカーの剣が迫っている。破片を拾った。落ちる剣。考えている暇などない。魔力を流す。
強化は容易く成功した。だが剣が落ちた。破片は今度こそ木っ端微塵になって、躱したつもりの体は地面に倒れ込む。だからこんな破片を強化したところで意味なんてなかったのだ。やるならもう一から全て。
出来ない事はないはずだ。手本があるのなら誰にだって真似は出来る。つまりは基本と構成と制作と経験と年月を繰り返し――――
「」
巨人が振り向く。
遠坂の前にうるさい邪魔を潰す気になったのか。
「――――」
倒れた体を起こして巨人を睨む。
恐怖などない。思考はとっくに焼き切れている。
ただ、その背後で。
自らの消滅も覚悟の上で。
あの聖剣を使うと決意した姿が、網膜に焼き付いた。
◇◇◇
風が解けていく。
セイバーの手には黄金の剣が見え始める。
―――使うなと。
決して使わないでほしいと言った、あの剣。
「――――――――」
切れた。
それで、かろうじて衛宮士郎をつなぎ止めていた最後の線がぶち切れた。
「使《・・・》うなセイバー――――!!!!!」
左手が焼ける。
令呪が一つ消えていく。
「な―――どうして、もうこれしかないではないですか、シロウ……!」
知らない。
そんな事は知らない。
俺に判るのは、それを使えばおまえが消えるという事だけだ。
そんなのは許さない。
遠坂を助けられない自分も、自由に剣を使わせてやれない自分も許さない。
「くっ……」
膝をつくセイバー。
……剣を解放しただけでそれなんだ。
今のおまえにその剣は使えない。
だから待ってろ。
おまえがその剣を使えないのなら、俺が、使える剣を用意してやる――――!
―――現実では敵わない相手ならば、想像の中で勝て。
自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ。
言われてみれば、そんなのは当たり前だ。
俺に出来るのはそんなことしかない。
ならば作れ。
誰にも負けないモノを作れ、常に最強のイメージを想え、誰をも騙し、自分さえ騙しうる、最強の模造品を想像しろ。
難しい筈はない。
不可能な事でもない。
もとよりこの身は、
ただそれだけに特化した魔術回路――――!
「ぉ―――」
跳ね起きる。
全身は発火したように熱く、左手はそれこそ紅蓮。
「な―――あの剣は、私の……!?」
呆然としたセイバーの声。
その視線の先には、この手が握る有り得ないモノがある。
「お――――」
俺ではなく、剣そのものに意思があるのか。
「オオオオオオオオオォオ――――!」
黄金の剣は吸い込まれるように、止まる事なく、巨人の腕を切断した。
捕まれた腕ごと遠坂は落下し、振り抜いた剣はガラスのように砕け散った。
全身の血が逆流する。
だがそんなもの、なんの関心も持ち得ない。
剣は折れた。
それはあり得ない。あの剣を模造したのなら、砕ける筈などあり得ないのだ。
砕けたのは足りないからだ。
俺自身のイメージが、あの剣に及ばなかった。
「」
向けられる眼光。
今度こそ俺を両断せんと、剛剣が振るわれる。
―――そんなコトはどうでもいい。
俺の相手はおまえじゃない。
衛宮士郎にとって、戦うべき相手はただ一人。
今のは完璧ではなかった。
砕けない筈の剣が砕けたのは想定に綻びがあった故。
複製するのなら形だけではなく、その制作者さえ再現する――――!
「――――」
まわりで息を呑む音がした。
目前では嵐のように振るわれる斧剣と、それを防ぎきる出来かけの剣が見えた。
無我夢中なのか、手にした剣で剣戟を合わせている。
―――そんな事は他人事だ。
今すべき事は、これを本物に仕上げるだけ。
―――それも間違いだ。
衛宮士郎は格闘には向かない。
おまえの戦いは精神の戦い、己との戦いでしかない。
言われなくても判っている。
やるべき事など単純だ。
「――――投影《・・》、開始」
精神を引き絞る。
挑むべきは自分自身。ただ一つの狂いも妥協も許されない。
「ぎ―――くう、う、あああ、あ―――」
創造の理念を鑑定し、
基本となる骨子を想定し、
構成された材質を複製し、
制作に及ぶ技術を模倣し、
成長に至る経験に共感し、
蓄積された年月を再現し、
あらゆる工程を凌駕し尽くし――――
「く―――あ、あああああああ…………!!!!」    ここに、幻想を結び剣と成す――――!
「――――!」
巨人が吠える。
狂ったように叩きつけられる無数の剣風を、剣《つるぎ》はことごとく防ぎきる……!
「っ…………!」
だがそこまでだ。
吹き飛ばされる。
意識が戻った途端、剣は全てを俺に委ねたのか。
今まで防ぎきっていた剣戟に、あっさりと弾き飛ばされた。
「は――――あ」
腕の感覚などない。手首は千切れかけ、赤い肉が見えている。
「っ――――くっ…………!」
足腰も動かない。筋肉すべてが断線しているとしか思えない。
―――立ち上がれない。
ヤツを――――バーサーカーを上回る剣は作った。
だがそれだけだ。
作るモノにすぎない自分には、せっかくの剣を使いこなす事が出来ない――――!
影に覆われる。
今、誰を殺すべきか判っているのだろう。
弾き飛んだ俺を、バーサーカーは突風のように追撃し、 その剛剣を振り落とした。
弾かれる剛剣。
「え――――?」
呆然とする俺の手には、誰かの手が添えられていた。
「――――!!!!」
烈震する大気。
巨人は全てを灰燼《かいじん》にせんと、最大の一撃を放ってくる。
その、直前。
「シロウ、手を―――!」
誰より近く、彼女の声が聞こえていた。
バーサーカーが突風となって俺を襲ったのなら、
セイバーは疾風となって俺へと駆け寄ったのか。
駆け寄ったセイバーは、ぐるん、と俺を巻き込むように身を返し――――――
砕け散る岩の剣。
黄金の一閃は巨人の斧剣を叩き折り、衰える事なく岩の体へと切り込み、そして――――
……形が似ていたのなら、その能力も似ていたのか。
バーサーカーの体深くに食い込んだ黄金の剣は、巨人の体を、内側から閃光に包み込んだ。
――――それも一瞬。
光が消え、森は静寂に包まれる。
「は――――あ」
体の力が抜けていく。
あれだけ熱かった体が冷めていく。
剣は、刀身から砂となって消えようとしていた。
「――――――――」
それをぼんやりと見つめる。
完全に消え去るまで、寄り添ったまま一本の剣を握っていた。
―――森の広場に、風が吹き抜けていく。
地を震わせる雄叫びも、大気を切っていた剣風も既にない。
「それが貴様の剣《つるぎ》か、セイバー」
不沈だった巨人は不動となり、己を倒した騎士を見据え、重い声でそう言った。
「これは“勝利すべき黄金の剣《カリバーン》”……王を選定する岩の剣。永遠に失なわれた私の剣。
ですが―――」
「今のは貴様の剣ではなかろう。ソレはその男が作り上げた幻想にすぎん」
セイバーは静かに頷く。
「所詮はまがい物。二度とは存在せぬ剣だ。
だが、しかし―――」
バーサーカーの胸が開く。
ざらりと。
光に切り裂かれた傷から、砂礫のように崩れていく。
「―――その幻想も侮れぬ。よもやただの一撃で、この身を七度滅ぼすとはな」
滅びの言葉に、感情を乗せる事もない。
狂戦士は最期まで自らの役割に殉じ、白い大気に霞むように、その存在を霧散させた。
目眩がした。
度を超えた魔術の代償だろう。暴走した血液が脳を圧迫し、過酸素状態になっている。
……加えて、頭蓋を開くかのような頭痛。
敵が消え、痛みを麻痺させていたものが消えたからだ。
目眩と頭痛は、今まで溜まっていたツケを払うかのように垂れ流される。
「――――っ」
「シロウ……!?」
倒れかけた体を、セイバーが支えてくれる。
が、セイバーだって俺に構っていられる余裕なんてない筈だ。
「っ……いや、大丈夫だ。ところどころ骨が折れてるけど、命には別状はない。例の自然治癒も働いてるし、なんとかなる」
「―――何を言うのです。あれだけの投影魔術を使ったのですから、今は休息を取らないと」
「……いや、けど」
その前に、話をしなくちゃいけない相手がいる。
「…………」
「イリヤスフィール……!」
身構えるセイバー。
イリヤは虚ろな目つきで、バーサーカーが立っていた地面を見下ろしている。
「……丁度いい。何のつもりかは知りませんが、追う手間が省けました。潔く、ここで――――」
「っ……! だめだ、セイバー―――イリヤには、手を出さないで、くれ。バーサーカーがいなくなったんなら、イリヤは」
残った力でセイバーを止める。
俺たちに気が付いていないのか。
イリヤはじっと地面を見つめたあと、
「……うそ。バーサーカー、死んじゃったの……?」
置いていかれた子供のように、そう呟いた。
「…………イリヤ」
セイバーを手で止めて、静かに声をかける。
それでこちらに気が付いたのか。
イリヤはぼんやりと顔をあげ、
「ぁ――――ん、ぁ………………!」
唐突に。
スイッチが切れた人形のように、地面に倒れ込んでいた。
「な――――」
訳が判らず、倒れた少女を見つめる。
「っ……は、つはっ、ごふっ……!」
それと入れ替わるように、遠坂が体を起こす。
バーサーカーの腕が消えて、ようやく自由になったらしい。
「――――――――」
遠坂の無事を確認して気が緩んだのか。
くらり、と意識が倒れかける。
だがそんな弱音を吐いてはいられない。
バーサーカーを倒したとはいえ、ここはまだ森の中だ。
俺たちにはこれから、満身創痍の体を押して森を抜けなくてはならない。
……明け方の空を仰ぐ。
街は遠く、無事な仲間も、無事な個所も見当たらない。
それでも、朝を迎えていた。
―――越えられぬと覚悟した夜。
最大の敵を退けて、冬の森を後にする。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
空は薄墨に染まっていた。
黎明なのか、黄昏なのか。
外から眺めている自分には、どちらかは判別がつかない。
広い空で、高い野原だった。
手を伸ばしても届きそうにない空と、
手を伸ばせば掴めそうな雲。
そこは、かつて彼女が駆け抜けた戦場の一つだった。
今は従える騎兵もない。
見渡すかぎり黄金だった草原もない。
鈍色に染まった空の下、広がっているのは、
とうに見慣れた、戦場跡にすぎなかった。
感情が沸き立たない。
彼女にとって、こんな光景は日常だったのだろう。
独り残った心には何もない。
黄金の剣に身を預けた彼女は、一度だけ大きく息を吐いて、ゆっくりと肩の力を抜いた。
戦いが終わったのだろう。
彼女は討ち滅ぼした兵士の骸を流し見た後、自陣へと足を運ぶ。
それが彼女の経験してきた戦いだった。
冷静な態度は今とまったく変わっていない。
彼女は、どのような苦境であろうと、俺の知っている彼女だった。
――――そうして、王の夢を見る。
その剣を抜いた時から、彼女は人ではなくなった。
父に代わって領主となった後、多くの騎士を従える王となったからだ。
彼女はアーサー王ともアルトリアとも呼ばれ、騎士を目指していた少女は、その人生を一変させた。
彼女は王の息子として振る舞った。
多くの領土を治め、騎士たちを統べる身は男でなくてはならなかったからだ。
王が少女と知る者は、彼女の父親と魔術師しかいなかった。
彼女は文字通り鉄で自身を覆い、生涯、その事実を封印した。
無論、不審に思う者がいなかった訳ではない。
だが聖剣を持つ騎士王は傷つかず、歳を取る事もない。
聖剣《エクスカリバー》には妖精の守りがあり、持ち主を不老不死にする。
それ故、騎士としては小柄すぎる体を追及する者もいなく、少女としか思えない顔つきも、見目麗しい王として騎士たちの誉れとなった。
―――もっとも、そんな事は問題にもならない。
事実、王は無敵だった。
そこに体格や容姿など付け入る隙はない。
蛮族の侵攻に怯える民が求めたものは強い王であり、 戦場を駆ける騎士が従うものは優れた統率者だけである。
王はその条件を全て備えていた。
故に―――真実、王が何者であるかなど追及する者はいなかった。
女であろうが子供であろうが関係はない。
ようは、ソレが『王』として国を守ればそれでよいのだ。
新しい王は公平無私であり、戦場では常に先陣に立って敵を駆逐した。
多くの敵、多くの民が死んでいったが、王の選択は常に正しく、誰よりも上手く『王』をこなしていたのだ。
そこに疑う余地はないし、そもそも、王が正しいうちは疑う意味もないだろう。
戦場では負け知らずだった。
失われていた騎馬形式《カラフラクティ》を再構成した彼女の軍は、文字通り自由に戦場を駆け抜け、異民族の歩兵を破り、幾つもの城壁を突破した。
常に先陣に立っていたのは、その背に国があったからなのか。
戦いに出る為には、多くの民を切り捨てねばならなかった。
戦いに出たからには、全ての敵を切り捨てねばならなかった。
国を守る戦いの為に、自国の村を干上がらせて軍備を整えるのは常道だった。
そういった意味で、彼女ほど多くの人間を殺めた騎士はいなかっただろう。
それを重いと、感じた事があったのかは知らない。
それはこんな夢では知るよしもない話だ。
ただ、戦場を駆ける姿に迷いはなかった。
玉座に身を預ける時も、憂いに眼を細める事さえない。
王とは人ではない。
人間の感情を持っていては、人間は守れない。
その誓いを、彼女は厳格に守り続けた。
あらゆる問題を解決し、誰もが舌を巻くほど政務に励んだ。
一寸の狂いもなく国を計り、寸分の過ちもなく人を罰した。
そうして、何度目かの戦いを勝利で収め、幾つもの部族を乱れなく統率し、何百という罪人を処罰したあと。
“アーサー王は、人の気持ちが分からない”と。
そう、側近の騎士が呟いた。
誰もがその不安を抱いていたのか。
王として完璧であれば完璧であるほど、彼らは自らの君主に疑問を抱いた。
人の感情がないものに、人を治められる筈がない。
何人かの名のある騎士は白い王城《カメロット》を離れるようになり、それすらも王は当然の出来事として受け入れ、統治の一部として組み込んだ。
見目麗しく、騎士たちの誉れであった王は、そうして孤立していった。
だが、それは王には関係のない些末事だ。
離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。
是非もない。
あの剣を手にすると決意した時から、彼女は感情など捨てたのだから。
―――そうして、彼女にとって最後の戦いが始まった。
バドンの丘での戦いは大勝で終わり、そのあまりに圧倒的な戦果から、蛮族たちは和睦を申し入れてきた。
もはや滅亡を待つだけだった国は、そうして束の間の平和を得た。
絶対的な英雄に頼る戦乱は終わった。
ブリテンはようやく、彼女が夢見ていた国に戻りつつあったのだ。
……風景が薄れていく。
夢が終わって目が覚めるのだ、と頭のどこかで考える。
あとは数えるまでもなく意識が落ち、また目覚めるのだろう。
ただ、その前に、ひどく頭にきた事があった。
……あいつはバカだ。
確かにあいつは強くて、戦いが巧かったかもしれない。
けど、だからって戦《それ》いに向いているかどうかは別物じゃないか。
あいつのまわりにいたヤツラにも腹が立つ。
あいつがそれに気づかないのなら、せめてまわりにいるヤツが教えてやらなくちゃ一生間違ったままになる。
……まったく。あんなに雁首そろえておいて、どうして誰一人として、その事実を、あいつに教えてやらなかったのか――――
「――――――――」
目を覚ます。
―――イリヤの森から出て、うちに帰ってきたのが昨日の午後。
遠坂は腹の傷が痛むといって部屋に戻り、俺も激しい頭痛が続いていて、とにかくすぐに眠りたかった。
重い荷物を運んできた、という事もあったろう。
部屋に戻って横になったら、あとは起きあがる事さえできなかった。
平気だったのはセイバーぐらいのもので、俺と遠坂はセイバーに家の警護を任せるように眠ってしまい、そうして――――
「……半日眠ってたワケか。……ん、さすがに頭痛は治まってるな」
ほう、と胸を撫で下ろす。
バーサーカーとの一件。
セイバーの剣を模造してから起きた頭痛は半端ではなかった。
あれがあのまま続いていたら、体より先に頭がいかれていただろう。
――――と。
「え――――?」
枕元にはセイバーが正座していた。
「……セイ、バー……? なんだよ、朝から辛気くさい顔して。俺が眠ってる間になにかあったのか?」
「……………いえ。ただ、夢を見てしまったもので」
「?」
「……いえ、何でもありません。それより朝食にしましょう、シロウ。もう起きる時間です」
セイバーは立ち上がり、静かに部屋を後にする。
「……?」
セイバーの態度が妙な理由は分からない。
分からないが、その――――
「……枕元に正座してたって事は、看病しててくれたのかな――――」
そう思った途端、思い出してはいけない光景が蘇ってきた。
「っ……! いかん、なに考えてるんだ俺……! そんなもん思い出すな……!」
ぶるんぶるん、と顔を振って雑念を払う。
……その、セイバーと体を重ねたのは、あくまでマスターとしてだ。
そう思わないと、とてもじゃないけどセイバーの顔なんて見れない。
「……それに、状況が状況だし……遠坂のヤツが、あんなコトするから」
っ、待った待った待った待った……! 遠坂のコトまで意識しだしたら、もう収集がつかないぞ……!
「――――平常心、平常心。
昨日、帰ってくる時はいつも通りだったじゃないか。
それでいいんだ、それで」
いや、昨日は疲れ切っていてそれどころじゃなかっただけだが、ともかく平常心だ。
……そもそも、俺がこんなんじゃセイバーだって迷惑するに決まってる。
「―――よし。とにかく落ち着いて、朝飯作らないと」
深呼吸をしながら着替える。
時刻は朝の九時過ぎ。
昨日の昼から何も食べていないセイバーは、さぞお腹をすかしているだろう。
九時を過ぎてはもう朝とは言えない。
セイバーの事も考えて、朝食はわりとがっしりとしたメニューに決めた。
「シロウ。今朝は私と貴方だけですが、凛を起こさなくていいのですか?」
「ああ、みんなまだ寝てるんだろ。昨日が昨日だし、無理に起こすコトもない。メシは作っておけば勝手に食べるだろうし」
「そうですか。それでは早めに支度をしてもらえると助かります。もうこんな時間になってしまいましたから」
「わかってる。体の調子もいいし、食べ終わったら道場に行こう」
「え……道場に行く、とは、まだ私と剣の鍛錬を続けるのですか……!?」
「なんで? 日課じゃないか、あれ」
「どうしたセイバー? なんかヘンなコト言ったか、俺」
「あ、いえ……その、もう剣の鍛錬はしないのだろう、と勝手に思いこんでいました。
バーサーカーが倒れた今、シロウがそこまで必死になる理由はなくなったのではないか、と……」
「―――そっか。言われてみれば、そうかもしれない」
俺とセイバーと遠坂、三人の共通の敵だったバーサーカーはもういない。
自分たち以上の敵に狙われていたからこそ俺たちは協力しあい、付け焼き刃の鍛錬を続けてきたんだった。
「んー、でも鍛錬は続けるぞ。俺はまだ半人前だし、セイバーは剣を持つと本音を出すからな。その方が、俺も話してて楽だ」
いやまあ、楽ってのは楽しいの楽なんだけど。
「……はあ。道場での私は本音を出している、のでしょうか」
「出してるよ。少なくとも気兼ねはしてないだろ。
俺もその方が楽だし、セイバーも肩の力が抜けていいんじゃないか。ともかく午前中はセイバーと剣を合わせるのは日課なんだ。数少ない俺の楽しみをとらないでくれ」
冷蔵庫から合い挽き肉とねぎ、しめじ玉ねぎ卵を取り出して台所に向かう。
あとはパン粉と酒とサラダ油と……
「…………はあ。そういう事でしたら、私も反論はありませんが」
「?」
居間の方でセイバーが何か呟く。
こっちは台所に移動してしまったので、生憎と聞き取れはしなかったが。
◇◇◇
ぺったんぺったん。
玉ねぎパン粉酒たまご塩、をこねくりまわした物と、挽肉四百グラムをこれまたコネコネとこねくり回す。
今朝のメニューは、大胆にも和風煮込みハンバーグに決定しました。
「凛? 目が覚めたのですか?」
居間からセイバーの声が聞こえる。
「遠坂?」
調理をしながら振り返る。
「……おはよ。ごめん、牛乳飲ませて士郎」
遠坂は不機嫌そうな顔でこっちにやってきて、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「あー、寝過ぎて頭いたい……って、あれ? なに、朝から凝ってるじゃない」
さっきまでの不機嫌っぷりは何処にいったのか、こっちを見るなり目を輝かす遠坂凛。
「へえ、おいしそう。うん、ちょうどお腹も減ってたし、助かったわ」
そうですか。だが助かったのはそっちで、助からなかったのはこっちだ。
切嗣《オヤジ》の言っていた、どっちかが得をするとどっちかが損をする、とはこういうコトなのかもしれない。
「……前から思ってたんだが。おまえ、わりと目ざといよな」
「あら、人並みに目端が利くだけよ。それじゃわたしの分もよろしくね」
ひらひらと手を振って居間に戻る。
遠坂は牛乳をついだグラスを片手に、テーブルにどかーっと陣取った。
……いや。
なんというか、すごい王様ぶりというか、気の抜けっぷりというか。
「だらけていますね、凛」
よし、さすがセイバーだ。言いにくい事を実にハッキリと言ってくれる。
が。
セイバーの非難の目もどこ吹く風、まあねー、なんてやる気なさげに受け流していた。
「そりゃあだらけもするわよ。
バーサーカーがいなくなった今、あとはキャスターとランサーとアサシンでしょ? バーサーカーに比べたら大した敵じゃないし、今のセイバーなら余裕で撃退できるじゃない」
「―――それは判りません。ランサーのマスターも不明なままですし、アサシンも一筋縄でいく相手ではない。
キャスターに至ってはまだ出会ってもいないではないですか」
「謙遜謙遜。アーサー王の手にかかっちゃそんじょそこらの英雄なんて十把一絡《じゅっぱひとから》げでしょ。
今までは魔力不足で嘆いてたけどそれも解決したし。
今のセイバーに対抗できるサーヴァントなんて一人もいないわ」
「――――」
遠坂の言葉に、セイバーは目を細める。
……その気持ちは俺も同じだ。
今の遠坂の台詞は、さらりと聞き流せるものじゃない。
「―――遠坂。おまえ、セイバーが誰かって気づいてたのか」
「薄々ね。確信が持てたのは昨日よ。あれだけの聖剣を扱える英雄なんて一人しかいないもの。
……ま、伝説のアーサー王が女の子っていうのには驚いたけど、目の前にいるんじゃ信じるしかないじゃない」
「それに伝説なんて都合よく改竄《かいざん》されたものでしょ?
セイバーが隠したのか周囲が隠したのか知らないけど、確かに中世の王様が女の子ってのは都合が悪いものね。
そりゃあ誰がなんと言おうと男として扱うわよ」
遠坂の口調はいつもと同じだ。
それを聞くセイバーも、特別気にした様子もない。
むしろ遠坂の意見に賛同し、否定しようとする気配もなかった。
「………………」
それは、彼女がはっきりと認めたという事だ。
セイバーのサーヴァントには、剣に関する英雄が選ばれる。その点で言えば、彼女はまさに最高のセイバーだろう。
英国における英雄の代名詞。
遠く離れたこの国でさえ名を知らぬ者のいない聖剣の担い手。
……だが、だとするとどうなるのか。
アーサー王の伝説の最後は、王の死で幕を閉じる。
いや、英雄であろうと人間だ。
その最期が死で終わるのは当然だが―――まっとうな死を迎えた英雄などいない。
それはアーサー王とて例外ではなかった筈だ。
アーサー王の最期は、たしか戦争による終わりだと記憶している。
カムランで起きた一大決戦。
ブリテンを統一し、倒すべき外敵がいなくなった筈のアーサー王は、その最後に思いもかけぬ『敵』と戦う事になる。
それは守るべき自国の軍―――腹心の裏切りによって、アーサー王は共に戦場を駆けてきた騎士たちに襲われ、これを殲滅したという。
アーサー王は敵の頭を倒すものの致命傷を負い、ただ一人生き残った騎士であるベディヴィエールに聖剣の返上を託す。
“この血塗られた戦場を越え、丘を越えてくれ。
そこに深い湖がある。そこに、この剣を沈めるのだ”
しかしベディヴィエールはその言いつけを守れなかった。
一度目も二度目も、剣の損失を恐れベディヴィエールは「剣は湖に捨てた」と偽りの報告をした。
その度にアーサー王はベディヴィエールに剣の放棄を命じ、三度目にして王の命は守られた。
そうして、聖剣の返上が成った事を確かめたアーサー王は、その場で息を引きとったという。
「それより士郎。アンタ、これからどうする気よ」
―――と。
唐突に、遠坂はこちらを睨んできた。
「え……どうするって―――何をだよ」
「だから、和室で寝てる物騒な子供の事よ。
放っておけって言ったのに、ここまで連れてきたのはアンタじゃない」
「それについては私も言いたい。バーサーカーを失ったとはいえ、イリヤスフィールは危険なマスターだ。それを保護するなど、シロウはどうかしています」
「そうそう、あんなのは綺礼に預けちまえばいいのよ」
「う――――」
二人はここぞとばかりに息を合わせて俺を睨む。
……そうなのだ。
バーサーカーが消えて、イリヤは気を失った。
目覚める様子がない彼女を放っておけず、家《うち》まで連れてきたのは自分だ。
もちろん遠坂もセイバーも反対したので、一人でイリヤを背負ってきた。
サーヴァントを失ったマスターは、他のマスターに殺される前に逃げるか、教会で保護されるしかない。
遠坂は言峰神父に預けろと言うが、あの神父がイリヤの面倒を見てくれるとは思えず、今は和室で眠らせているのだが――――
「シロウ。貴方の考えは立派ですが、イリヤスフィールに関わるのは危険です。今ならまだ間に合う。早々に教会に預けるか、その令呪を剥奪するべきだ」
キッ、とセイバーはまっすぐに睨んでくる。
……む。
セイバー、本気で言ってるぞ、アレ。
言い伏せるのは、とんでもなく困難そうだ。
「な、なんだよ、だってほっとくわけにはいかないだろっ。
イリヤはまだ子供なんだし、様子もおかしかった。言峰に預けるのは、なんかかわいそうだし」
「かわいそう? アンタね、あの子にあんな目にあわされてまだそんな寝ぼけたコト言うわけ!?」
「同感です。シロウはイリヤスフィールに感情移入しすぎています。彼女は何度もシロウを殺そうとしたではないですか」
二人はますます結束を強めてくる。
だが、ここで言い負かされるワケにはかいない。
「たしかにイリヤは敵だった。けどあいつに邪気はなかった。ちゃんと言いつけてやるヤツがいれば、イリヤはもうあんな事はしない。
それに一番始めに言った筈だ。
俺はマスターを殺す為に戦うんじゃない。戦いを終わらせる為に戦うだけだって」
「それは――――分かっては、いますが」
む、と納得がいかないまでも声を和らげてくれるセイバー。
しかし。
「そう。それじゃイリヤスフィールのした事を全部許すっていうの? 言っとくけど、あの子はわたしたち以外のマスターも襲っている。もしかしたらもう何人かマスターを殺しているかもしれない。それでも貴方は助けてやるっていうのね」
「―――――それ、は」
……そうだ。
イリヤは言った。俺が逃がした慎二をその手で殺めたと。
慎二はライダーを使い、学校の生徒たちを殺そうとした。それがマスターとしての行為だったのなら、倒し倒されるのは、仕方がない事だと判っている。
……それでも、慎二とは何年も付き合ってきた友人であり、妹である桜のことを思うと、俺だってイリヤの行いを帳消しにする事はできない。
「――――けど、それじゃあ終わりがないだろう。
イリヤがマスターでなくなって、自分のした事を悔やめるようになるのなら、俺は助けるべきだと思う」
「……そうね、それは正しい。
けど士郎、わたしはアーチャーの事を帳消しにする気はないの。わたしのアーチャーは、アイツに殺されたんだから」
……場が固まる。
俺たちは互いの顔を見据えたまま硬直する。
そこへ、
「なによ、サーヴァントなんて最後にはみんな消えちゃうじゃない。そんなコト気にしてるなんてマスター失格ね、リン」
和室で眠っている筈の、問題の少女が現れた。
「―――イリヤスフィール……!」
「待ちなさい、あなたたちに用はないわ。戦う気もないからそんなにいきりたたないでくれない?
……ほんと、おなじレディとしてはずかしいわ。わたしよりずっと年上なのに、たしなみってものがないんだから」
心底呆れたようにイリヤは肩をすくめる。
「な、なんですって……!?」
またもや仲良くいきりたつセイバーと遠坂。
二人はさっきとは違った意味で、一段と迫力があった。
「まあ、それも怒らないであげる。今はあなたたちにかまってる場合じゃないもの」
言って、イリヤはくるりとこっちへ振り向いた。
……それは、どんな幻だろう。
イリヤは行儀良くスカートの端を指につまむと、恭しくお辞儀をしてきた。
「え――――イリ、ヤ?」
「礼を言います、セイバーのマスター。敵であった我が身まで気遣うその心遣い、心より感謝いたしますわ」
「あ――――う?」
思わず呆然とイリヤを見つめる。
あまりに予想外だったのか、セイバーも同じように黙り込んでいる。
遠坂はと言うと、いかにも胡散臭そうにイリヤを眺めながら牛乳を飲んでいる。
―――と。
イリヤはにっこりといつもの笑顔をすると、
「なーんてね。
うん、やっぱりシロウはお兄ちゃんだー!」
一直線に、俺の首ったまに抱きついてきた。
「ごふっ……!?」
不意打ちにむせる俺。
「な、なにものーーーーーーーーーー!?」
ぶっ、と飲んだ牛乳にむせている遠坂。
「――――――――――――――――!」
びきり、と真顔でこめかみのあたりに効果音を鳴らすセイバー。
「は、離れなさいこの無礼者……っ!」
だー、と駆け寄るセイバー。
が、イリヤもさるもの、俺の首を支点にして、ぐるっと背中に回り込む。
「ふん、無礼者はどっちよ。サーヴァントのクセにわたしに意見しようなんて百年早いわ」
「貴方に従う義務もなければ意思もありません……! 減らず口を言う暇があるのなら、今すぐシロウから離れなさい……!」
「そんなの聞かないよーだ。ね、シロウ、昨日みたいにしよ。アレ、おんぶっていうんだよね!」
ぐるぐる回るイリヤ。
それを捕まえようと回るセイバー。
「――――――――」
まずい。
何がまずいって、まずい。
二人のにらみ合いは終わらない。
……遠くから眺めていたからだろう。
遠坂は何事もなかったように口元の牛乳を拭いて、どうでもよさげに口にした。
「どうでもいいんだけどね二人とも。そのままだと、そいつ死ぬわよ」
「え……?」
はてな? と俺の顔を覗き込む二人。
さもありなん。
こっちはいい感じで首を極められて、危うし命助けて俺、ただいまライブで大ピンチ―――
さて、状況を確認しよう。
ぺたぺたと挽き肉をこねて作っていたハンバーグはとりあえず冷蔵庫に放り込んだ。
まず、比較的大人しくしているのが遠坂。
ポーカーフェイスで事の成り行きを見守ろうとしているらしいが、内心では何を考えているか判ったもんじゃない。
「ん? なに、シロウ?」
イリヤは俺の横に座って、わけもなくご機嫌の様子。
そわそわと物珍しそうに居間を眺めているが、セイバーや遠坂は初めから眼中に入っていなさそうだ。
おそらく、二人が何を言っても右から左に通過するだけだろう。
で、中でも一番対応に困るのが、
「――――――――」
落ち着きなく俺とイリヤを睨んでいるセイバーだった。
妙にそわそわしていて落ち着きがないのは、実に彼女らしくない。
おかげで、なんだか針の筵《むしろ》に座っている気分になる。
……なので、いつまでもこうしてはいられない。
何が飛び出すか判らないが、そろそろ意を決して現状を打破しなくてはなるまい。
「―――話をつけよう。
いつまでもこうしてちゃ昼になっちまう」
「そうね。結論は決まってるし、問題は早めに片づけた方がいいわ。そうでしょ、セイバー」
「そうですね。私と凛の意見は同じですから、あとはシロウに納得してもらうだけですが」
セイバーは徹底抗戦の構えだ。
……まあ、セイバーから見ればイリヤは最も厄介な敵だったんだから仕方がないんだろうけど。
「? ね、シロウ。リンとセイバーは何を話したがってるの?」
はてな、とイリヤは純真に訊いてくる。
「あ……いや。その、イリヤをどうするかっていう話、なんだが。イリヤはサーヴァントを無くしただろう。だから、この後どうしたものかなって」
「そんなの決まってるでしょ。教会に保護させるか、森の城に追い返すのよ。どちらにしたってここに居させる選択肢はないからね」
「……。シロウも、そう思ってるの?」
イリヤは感情のない目で見上げてくる。
俺は――――
女の子は守ってやるものだってのは切嗣の口癖だったし、なにより、自分より小さい子供を辛い目にあわせるのが嫌いなだけだ。
「―――いや。俺は、イリヤはここにいるべきだと思う。
聖杯戦争は終わってないんだ。残りのマスターと決着がつくまで、イリヤはうちで匿いたい」
「うん! シロウがそう言うんなら、わたしもここにいてあげるね!」
「っ……! イリヤ、苦しい、苦しいって……!」
抱きついてくるイリヤを引き離す―――のだが、俺がするまでもなく、セイバーが引き離してくれていた。
「なによ、さっきから邪魔ばっかりして。あなた、わたしに恨みでもあるの?」
「当然でしょう! その身がシロウに何をしたか、私は忘れる事などない……! シロウもシロウです! イリヤスフィールを匿うなど百害あって一利なしと判らないのですか!」
「む、なんでだよ。イリヤにはもうサーヴァントはいないんだから、危険ってことはないだろう。マスターじゃなくなったんだから。
それより、下手に放り出して他のマスターに襲われたらどうするんだ。イリヤの命だって危ないし、他のマスターに力を付けさせる事になるぞ」
「う……それはそうですが、しかし――――」
言い淀むセイバー。
なんだかんだと、彼女もイリヤを一人にすれば他のマスターに襲われる、と判ってくれているのだ。
◇◇◇
「―――じゃ、次はこっちの番ね。
セイバーを陥落したところ悪いけど、わたしはまだ説得されてないわ。
いい士郎、そいつはまだマスターなのよ。サーヴァントを失っても、令呪がある限りマスターはマスターだって教えたでしょう」
……と。
優雅に紅茶を飲みながら、遠坂は俺とセイバーの会話に横やりを入れてきた。
「え? おい、それどういう意味だよ遠坂」
「だから、令呪さえ残っていればサーヴァントとは何人でも契約できるのよ。
主のいない『はぐれサーヴァント』がいて、かつマスターにその『はぐれサーヴァント』を許容できるキャパシティさえあれば、何人とだって契約はできるわ」
「な―――なんだよそれ。
じゃあ優れたマスターなら、何人でもサーヴァントと契約できるって事か?」
「何人でもって訳じゃないわ。聖杯の力で呼び出せる英霊は七人が限度だから、最大でも七人ね。
……もっとも、どんなに優れた魔術師だって一人以上のサーヴァントを具現化させられる魔力なんてないわ」
「あるとしても、その場合は十の魔力を五に分けて二人のサーヴァントを使役する事になる。そうなるとサーヴァントの能力は下がるから、複数のサーヴァントと契約する旨味はないけどね」
……なるほど。
つまり俺がセイバーとバーサーカーと契約したところで、俺一人分の魔力をセイバーとバーサーカーが分け合って存在する訳だから、二人の能力は極端に下がってしまう。
それならどちらか一人に絞って魔力を提供した方がより効率的という訳か。
「……そう言えば前に言ってたっけ。サーヴァントってマスターを変えられるって。あれってこの事だったんだな」
「あら、珍しく勘がいいじゃない。
士郎の言う通り、サーヴァントがマスターを変えるっていうのはそういう事よ。
マスターを失ったサーヴァントは、消えるまで幾らか猶予がある。で、その間に他にサーヴァントを欲しがってるマスターを探して契約すれば元通りってわけ」
「ええ、だからリンに気を許しちゃダメよシロウ。そいつだってまだマスターなんだから。シロウを殺してセイバーを奪うかもしれないし、まだ生きてるサーヴァントと再契約するかもしれないわ」
「そう。それはアンタにそっくりお返しするわ、イリヤ」
「ふんだ、そんなコトないもん。
……わたし、他のサーヴァントとなんて組まない。イリヤのサーヴァントは、ずっとバーサーカーだけなんだから」
わずかに俯いて、イリヤはそう呟いた。
……二人が言葉を飲んだのも判る。
イリヤとバーサーカーがどんな関係だったかは知らない。
それでも、イリヤスフィールという少女にとって、あのサーヴァントがただ一人きりの存在だった事は判った。
―――それが意外であり、嬉しかった。
マスターとしてのイリヤは冷酷だったが、それでも、自らの相棒を大切に思っていたのだから。
「あ、でもシロウが負けちゃったら、セイバーはわたしが貰うわ。
わたしはシロウ以外のマスターが勝つのは認めない。
でも、もしシロウが負けちゃったら、わたしが代わりに勝ってあげるんだから」
イリヤはえっへんと、感心しかけていたセイバーと遠坂に胸を張る。
「馬鹿な事を言わないでほしい。私はシロウのサーヴァントです。貴方のサーヴァントになるつもりなどありませんっ」
「ふうん。ええ、別にそれでも構わないわ。
わたしはシロウに勝って貰えればそれでいい。わたしが勝つのもセイバーがシロウを守ってくれるのも、どうせ最後は同じだもの」
「――――?」
イリヤはおかしな言い回しをする。
……いや、俺が勝てばいいと思ってくれているのは分かるのだが、どうしてそんな事を思うのだろう……?
……と。
遠坂も不思議に思ったのか、なにやら考え込み始めた。
「私は構いますっ! ともかく私は認めません。
凛、貴方からもシロウに忠告してくださいっ」
「え? ごめんなさい、聞いてなかったわ。もう一度言ってセイバー」
「ですから、イリヤスフィールをここに匿うのは反対だという事ですっ」
「あ、それ? いいんじゃない、別に匿うぐらいなら」
「は――――?」
凍り付くセイバー。
そりゃあ擁護派だった俺が驚いてるんだから、反対派であるセイバーなら凍り付きもするだろう。
「り、凛……! 貴方、正気ですか!?」
「ええ。冷静に考えてみればリスクはどっちも同じなのよ。イリヤを一人にするのも、ここで匿うのも、教会に預けるのも変わらない。
いえ、むしろイリヤ目当てでマスターが来てくれた方が助かるわ」
「今のセイバーなら、他のサーヴァントが束になっても負けっこない。聖杯戦争を終わらせるならその方がてっとり早いし、それは貴方だって望むところでしょうセイバー。
ま、貴方が他のサーヴァントに負けるって言うんなら話は変わるけど」
「まさか。今の私がどのような状態か、凛ならば判っているのでしょう。シロウが私のマスターである限り、私に敗北などあり得ません」
「でしょ。ならイリヤを匿うのも問題ない。
……それに気になる事もある。シロウの選択は、もしかしたらとんでもない妙手だったのかもしれないわ」
遠坂はそれきり黙り込む。
それでセイバーも認めたのか、仕方なげにイリヤから離れてくれた。
朝食を済ませて道場に移る。
遠坂は自室に戻り、セイバーは俺に付いて来ている。
で、イリヤはと言うと。
「ね。ホントに剣の鍛錬なんかするの?」
ぴったりと俺の横に張り付いて、一緒に道場まで来てしまっていた。
「わたし、今日はシロウと遊べると思って楽しみにしてたんだよ? なのにセイバーなんて邪魔者はいるし、ここ寒いし、つまんないよ」
「…………………」
まあ、イリヤから見てつまらないのは当然だ。
そもそも剣の修行なんて、見ていて面白いものでもない。
「ね、居間に戻ろ。強くなりたいんなら、わたしがシロウの力になってあげる」
こっちの手に両手を絡めて、イリヤは道場から立ち去ろうとする。
だが、これに関してはイリヤを甘えさせる訳にはいかない。
「いや、だめだイリヤ。剣の鍛錬は日課だからきちんとこなす。俺は魔術師として未熟なんだから、少しぐらいは戦えるようになっていないと。
それに、鍛えておけばイリヤを守れるだろ。
イリヤをうちに匿うって決めたのは俺なんだから、これぐらいはしないとしまらない」
「え……うん、それはそうかも。
けどわたし、シロウに守られなくてもいいんだけどなあ。シロウはお兄ちゃんなんだから、いっしょにいてくれるだけでいいんだもん」
……だめだ、説得失敗。
イリヤはぐいぐいと俺の手を引っ張る。
そんな俺たちを、セイバーは無言で眺めている。
どうも視線が痛い。
セイバーはまだイリヤを認めていないのか、さっきから無愛想すぎると思うのだが――――
と、目があった。
ちょうどいい、ここはセイバーに言い聞かせてもらおう。
「だからダメだって。
セイバー、おまえからも言ってくれ。午前中にセイバーと鍛錬をするのは日課なんだって」
「私に言うべき事などありません。
イリヤスフィールを連れてきたのはシロウです。
彼女を言い聞かせるのはシロウの役割で、私の責務には含まれていませんから」
「――――う」
……何かやばい。
何か知らないが、アレはもの凄く怒っているのではなかろうか。
「なんだ、セイバーもよくわかってるじゃない。
剣の鍛錬なんてしなくていいのよ。残っているのは雑魚ばっかりなんだから、そんなの必要ないもの。
ね、シロウ。他のマスターなんてセイバーに任せて、わたしたちは外で遊ぼ」
「うわ、と、とと、と」
思わず足が持っていかれ、道場の出口へと体が泳ぐ。
「ちょっ―――ダメだ、離せイリヤ! こればっかりはワガママ言っても聞かないぞ。剣の鍛錬は休まないし、これからもずっと続ける。
……そりゃあイリヤにはつまらないだろうけど、俺はこれが好きなんだ。文句があるなら居間の方で休んでいてくれ」
乱暴に腕を払う。
「きゃ……!?」
振り払われるなんて思ってもいなかったのか。
イリヤは驚いて離れた後、不安そうに俺を見た。
「――――――――」
しまった。
振り払うにしたって、もっと優しい方法は幾らでもあった筈だ。
「……すまんイリヤ、今のは乱暴すぎた。けど剣の鍛錬は止められない。しばらく一人にして悪いんだが、居間で大人しくしていてくれるか?」
「……………………」
イリヤは何も言わず歩いていく。
イリヤはトボトボと入り口まで歩いていって、その横の壁際で立ち止まった。
「?」
「いいわ、ならここで見てる。
それなら文句ないんでしょ!?」
くわー、と。
駄々をこねて俺を睨みつけてくる。
「え―――いや、それは構わないけど、道場《ここ》寒いぞ? 居間だったらお茶もあるし、お茶請けも完備してるんだが……」
「わたしがいいって言ってるんだからいいの! ふんだ、シロウとセイバーを二人きりになんてさせないんだから!」
おかしなコトを言って、イリヤはぷいと顔を背けた。
「……………まあ、いいけど。飽きたら居間に戻ってても構わないから」
イリヤの言い分はよく分からない。
それでも、とりあえず場は収まってくれたようだ。
壁に立てかけた二本の竹刀を取って、セイバーに振り向く。
「じゃあ始めよう。三日ぶりだから、どうも勘が鈍ってそうだけどな……って、セイバー? どうした、ぼうっとしちまって。熱でもあるのか?」
「え―――あ、いえ、別にそういうコトでは、ないのですが」
セイバーはイリヤから顔を背けて、ぶんぶんと首を横に振っていたり。
「体は万全なんだな? なら始めるぞ。ほら、竹刀」
「あ……いえ、投げていただければ結構です! その、あまり不用意に近づかれては困ります。わ、私たちは剣の鍛錬をするのですから!」
「だからそうだって。なに言ってんだ、セイバー」
呆れつつ竹刀を投げる。
だいたい、セイバーに一本入れた事なんて今まで一回もないのだ。
今までセイバーの懐に入れた試しなんてないんだから、不用意に近づくなも何もないと思う。
「――――――――」
放り投げた竹刀をぎちこない手つきで受け止めると、セイバーははあ、と大げさに深呼吸をした。
「それでは始めましょう。今までとは勝手が違いますが、平静を保つように、シロウ」
ちらりとイリヤに視線を向けて、セイバーはそんな事を言う。
「大丈夫だ。誰が見ていようと、始まれば気にならない」
竹刀を構えてセイバーを見据える。
目の前には竹刀を手にした金髪の少女がいる。
それだけで、この視界には彼女しかいなくなった。
二時間に渡った鍛錬が終わって、いつもの休憩時間になった。
セイバーと打ち合っていた足を止めて、竹刀を壁際に置く。
「はあ―――は―――改めて、実感した、な―――やっぱり、セイバーは、凄い」
うんうんと頷きながら、水を入れたヤカンを口にする。
乾いた喉を潤し、汗まみれの首をタオルで拭いて、ようやく体は落ち着いてくれた。
「ね、今のが鍛錬なの? なんか、シロウが一方的にやられてたようにしか見えなかったけど」
「う――――」
言いにくい事を、イリヤはスパーンと言ってくる。
「それは違うイリヤ。今でこそやられっぱなしだけど、以前はもっと酷かったんだ。
むしろ一度も気絶しなかったあたり、今日は上出来だったと言っていい」
「そうなんだ。けどそれってシロウの腕前なのかな?  セイバー、シロウが何度もバランス崩してたのに、わざと見逃してたような気がするんだけど……」
んー、と考え込むイリヤ。
……鋭い。
それに関しては、こっちもおかしいと感じていたのだ。
こっちの体を気遣ってか、それともセイバー自身の体がまだ本調子ではないのか。
どちらにせよ、セイバーは本気ではなかった。
いや、鍛錬に関してならいつも本気ではないのだが、それでも度し難い隙を見せたら容赦なくオトしにかかるのがセイバーだ。
が、今日のセイバーは押しに欠けた。
いつもなら即座に踏み込んできて、スパン!とこっちの意識を刈り取っていく剣捌きが皆無だったのだ。
「……イリヤもそう思うのか。やっぱりセイバーに見逃されてたのかな、俺」
「んー、不思議とそんな感じはしなかったよ。
セイバー、ちゃんとシロウに追い打ちしようって竹刀を構え直すんだけど、とっさに止めて下がっちゃうのよ。
あれ、なんだったのかなあ。見逃してるっていうより、こわがってるっていうか、遠慮してるっていうか」
「はあ? まさか、セイバーが遠慮なんかするもんか。
そんな情けがあったら、俺は初日であそこまで痛めつけられなかったぞ」
そう、こと鍛錬に関してセイバーは遠慮などしない。
それが判っているからこそ、こっちは死にものぐるいでセイバーの竹刀に集中できたのだ。
「……はあ。一体どうしたんだよセイバー。こんなんじゃ鍛錬にならない。まさかとは思うけど、手を抜いてたんじゃないだろうな?」
「いえ、手を抜いていた、などという事はありません。
私は普段通り、シロウより一段階上の剣士を想定して相手をしていたのですが……」
どうも歯切れが悪い。
セイバー本人も、今日の鍛錬がどこかおかしいと感じているからだろうか。
「……ああ。そりゃあセイバーが手を抜くなんて思えないし、真剣にやってくれてたのも判ってる。
けど、今日のは消極的すぎなかったか? もっとこう、がつーんと正面から打ち合ってくれないと為にならないってば」
「しょ、正面からですか……? ですが、そうなるとマスターに近づきすぎです。それでは、展開によっては体がぶつかってしまうというか―――」
「……? そりゃ打ち合ってるんだから肩ぐらいぶつかるだろ。そもそもセイバー、密着戦になったら甘いとばかりに体当たりしてきて、よく俺を吹っ飛ばしてたじゃないか。密着戦はセイバーの得意とするところじゃないのか?」
「え――私、そんな事をしていたのでしょうか……!?」
「していたのかって…………まあ、わりと頻繁に。
ほら、初めて竹刀を合わせた時も派手に壁まで叩きつけてくれただろ。
女の子なのに力持ちだなって言ったら、剣士としてこの程度は当然だー、ってセイバーは言ったじゃないか」
「ぁ――――――――」
セイバーは呆然と立ちつくしている。
「……?」
今日のセイバーは本当に妙だ。
が、その理由なんて俺に判る筈もない。
セイバーの体調が崩れていたら大変だし、後で遠坂に相談してみるべきか――――
どうも今までと勝手が違うまま、セイバーとの鍛錬が再開された。
再開されたのだが、数本も取らないうちにセイバーは竹刀を下げてしまった。
「?」
新手の特訓方法だろうか?
油断させておいて、近づいたところをぽっかーんと打ち返してくるつもりやもしれぬ。
「―――はぁ―――はぁ、ぁ――――」
肩で呼吸をしながら、注意深くセイバーを見据える。
セイバーは少しだけ真剣に目を細めて、一歩踏み出してくると、
「シロウ、昼食にしましょう」
などと、セイバーらしからぬ事を言ってきた。
「は――――?」
竹刀を下げる。
「昼食にするって、もうそんな時間か?」
時計は十二時少し前だ。
昼飯時には違いないけど、セイバーがそんな提案をしてくるなんて初めてだ。
道場で打ち合っている時は、俺もセイバーも時間なんて気にしていなかった。
一息ついて、そういえば腹が減ったなあ、と時計を見たら昼になっていた、というのが日課だったのに。
「――――ふむ」
正しい提案だし、素直に頷いてもいいんだけど―――
「そうだな。イリヤもいる事だし、今日は早めに飯にしようか」
竹刀を置いて、セイバーの意見に賛成する。
―――と。
セイバーはホッとしたように両肩を下げていたり。
「????」
ますます怪しい。
これは少し、理由ぐらいは訊くべきかもしれない。
「良かった。それでは居間に向かいましょう。
シロウの作ってくれる食事は美味しいのですが、準備に時間がかかってしまいますから」
「? 昼飯を作る時間がもったいないのか?
ああ、それなら毎日弁当にすれば良かった。そっちのが手間がかからなくて楽だし。いちいち台所に戻る必要もないしな」
昼食に気合いを入れていたのはちょっとした感謝の気持ちだったのだが、セイバーがそう言うのなら仕方がない。
「シロウ……? 何をしているのです。早く居間に向かいましょう」
「?? いや、だから昼飯だろ」
竹刀を壁に置いて、三人分のざぶとんを置く。
「ええ、昼食です! 一息入れるのはその後なのですから、早く厨房に立ってもらわなければ困ります!」
「なんでさ。居間に戻ることはないし、急ぐ必要もないだろ。―――ところで。困るって、なにが?」
「あ―――」
背中にぜんまいがあるかのように、セイバーはピタリと止まった。
「それに、どうして今日に限って時間ぴったりなんだ?
何か急ぐ理由でもあるのか?」
「い、いえ、別に急いでいる、という訳ではないのですが……」
「急いでないんならゆっくりでいいじゃないか。時間は十分にあるし」
「あの、いえ、それはそうなの、ですが……」
セイバーはどうしていいか分からない、といった体《てい》で視線を泳がせている。
「い、いいですから居間に行きましょう! 昼食を摂らなければ午後の鍛錬に支障をきたします!」
「だからその準備をしてるんだって。暇なら居間に行って、朝作っておいた弁当を持ってきてくれ」
「は……? お弁当、ですか……?」
そうだよ、と頷きながら窓を開けて換気をする。
と。
お腹が減ったぞ、と言わんばかりの音が鳴った。
「ああ、そうか。いつもはどっちかの腹の虫で時間を確かめてたんだっけ。どうりでおかしいと思った」
セイバーに振り返る。
「? どうしたんだセイバー。窓開けたら寒いか?」
いや、でも昼飯にするんだから換気しないと空気が悪いし。
「い、いえ、なんでもありません……っ! い、居間に昼食が用意してあるのですね……!」
セイバーは脱兎の如く道場を後にした。
「…………?」
消極的な打ち合いといい、今の様子といい、今日のセイバーは熱でもあるんだろうか……?
◇◇◇
正午になって、三人で昼飯を食べ始めた。
今日は朝からちゃんとした料理を作ったので、その余り物を使って弁当を作ったのだ。
「これは……なるほど、朝の料理をパンに挟んだのですね」
こくこくと感心しながらサンドイッチを食べるセイバー。
紙ナプキンを上手に使って手を汚さないあたり、こんな弁当でも気品を感じさせる。
「うんうん。朝も思ったけど、シロウはお料理上手よね。
わたしね、ごはんがおいしいのはいいコトだと思うの」
一方、イリヤは元気いっぱいにサンドイッチをほおばっていく。
ハメを外しているのか、単に俺の真似をしているのか。
セイバー以上に行儀正しそうなイリヤだが、食事のマナーに拘ってはいないようだ。
「待ちなさいイリヤスフィール。それでは髪が汚れてしまいます」
ナプキンをイリヤの頬に当てるセイバー。
バターでも付いていたのだろう。セイバーは仕方なげにイリヤの口周りを拭いてあげている。
「……ありがと。けどどういうつもり。セイバーはわたしのコト嫌いなんでしょう」
「ええ、今でも警戒はしています。ですが私とて人の心は分かる。
貴方には敵意がなく、シロウは客人として迎えました。
ですから私も最低限の礼は尽くしますし、それに―――」
「それに?」
「その髪は美しい。目の前で汚れてしまうのは、いささか心苦しいというものでしょう」
それはまったくの本心だったのだろう。
セイバーの声はいつも通りだ。そこに、イリヤを気遣っている様子はなかった。
「――――――――」
イリヤはまじまじとセイバーを見つめている。
それで気が付いた。
イリヤは今まで、一度もセイバーを見ていなかった。
イリヤにとってセイバーは俺のサーヴァントであって、一人の人間として見るべき相手ではなかったのだと。
「……ふん、そんなコト言ったってシロウはわたしのものだけど。
ま、少しはセイバーのコト考えてあげてもいいわ。シロウを勝たせてあげるコトは出来るけど、わたしじゃ守ってあげられないものね」
肩をすくめながら言って、イリヤはサンドイッチをほおばる。
「言われるまでもありません。マスターの盾となるのはサーヴァントの責務ですから」
淡々とイリヤに返答するセイバー。
そのやりとりは今まで通りの物だったが、二人の声には穏やかな響きがあった。
昼食を済ませてのんびりしていると、遠坂がやってきた。
「士郎、いる? こっちの準備は出来たから、早めに顔を出してよね」
簡潔に用件だけ言って、遠坂は別棟に戻っていく。
「……そうか、忘れてた。午後は遠坂に魔術を教えてもらうんだった」
確たる師がいなかった自分にとって、遠坂の魔術講座は役に立つどころの話じゃない。
遠坂はまだ教えてくれる気があるようだし、早々に片づけて別棟に行かなければ。
「悪い、遠坂の部屋に行ってくる。
どのくらいかかるか判らないから、セイバーとイリヤは部屋で休んでいてくれ」
「いいよ。わたしもなんだか眠いし、少しお昼寝する」
眠そうに瞼をこすりながらイリヤは道場から出ていった。
……良かった。
イリヤが大人しく眠ってくれるなら、遠坂の部屋に行っても問題はないだろう。
「シロウ。凛の部屋に行くのですか?」
「ん? ああ、そう言っただろ。遠坂には魔術の基本を教わらなくちゃいけない」
「……その必要はあるのでしょうか。バーサーカーは倒れましたし、私たちが協力して挑む敵は存在しなくなった。
ならば、シロウが凛に教わる事はなくなったのではないですか」
……む、確かにそうかもしれない。
そもそも遠坂が俺に教えてくれるのは、バーサーカーに対抗する為だった。
それがなくなった今、遠坂に師事する必要はなくなったのだが――――
「いや、バーサーカーとは関係なしで教わりたいんだ。
俺は未熟だから、少しでも早く一人前にならないと」
「……そうですか。シロウがそう言うのでしたら、私に止める権利はありません」
「……?」
セイバーは沈んだ顔で、そんなコトを呟いていた。
◇◇◇
「じゃあレクチャーを始めるけど、その前に訊いておくわ。アンタ、体で壊れちゃったところとかない?」
などと。
部屋に入るなり、遠坂はおかしなコトを訊いてきた。
「―――? 壊れたって、何が」
「だから、体で動かない箇所はないかって訊いてるの。
あれだけメチャクチャしたんだから、神経が焼き切れるのは判ってるのよ。
……まあ、そんなのはどうでもいいんだけど。体のどこに異状があるのかぐらい、知っておかないと授業にならないから」
……どうも、遠坂の話では俺の体はどこかしら麻痺してしまっているらしい。
それが遠坂の勘違いである事は、当事者である俺が一番判っているのだが。
「―――いや、動かないところはないぞ。
一晩寝たら頭痛も熱もなくなったし、俺はいたって健康だが」
「はあ? そんな訳ないでしょ、セイバーの剣を投影したのよ? あんなの、腕一本壊死してもおかしくない芸当じゃない!」
「だから動くって。
だいたい、体が動かなかったらイリヤをおんぶして帰ってこれるワケないだろ。あの時おかしかったのは頭痛と熱だけだって」
「うそよそんなの! 士郎、ちょっと腕見せてみなさい!」
こっちの返答も待たず、腕を取ってまじまじと見つめる遠坂。
「っ――――――――」
それで、息が止まってしまった。
……いくら馴れてきたとはいえ、遠坂にこんな近くにこられると緊張してしまう。
それに加えて、その――――この距離は、否応なしにあの夜を思い返させる。
忘れていた訳じゃないが、アレは俺にとって緊急時の幻に近い。
思い返してしまえば平静ではいられないが、こんな事でもないかぎり思い返す事はない。
だから遠坂が普段通りにしてくれるなら、俺も今まで通りに話せる。
だっていうのに、こんな近くにこられたら、緊張して呼吸が出来なくなるのは当然だった。
「……本当に異状はないみたいね。
焼き付いた跡かな、痣みたいに黒くなってるところはあるけど、他は完全に修復されてる……いえ、治ったというより、ようやく生え替わったってとこかしら……」
ぶつぶつと呟く遠坂の吐息が腕にかかる。
「―――――――ちょっ」
それだけでも顔が真っ赤になるっていうのに、あまつさえ。
「ふざけた体ね。これ、例の自然治癒による回復じゃないわよ。士郎の自然治癒は明らかに外部からの働きかけだけど、こっちは貴方自身の治癒能力だと思う」
袖をまくしあげ、人の腕にペタペタと手を当てながら、そんな事を言ってきた。
「ちょっ、ストップ……! も、もういいだろ遠坂、用が済んだら椅子に戻れ……!」
腕を引いて、遠坂の感触から離れる。
「? なによ、こっちはアンタの体を看てあげてるっていうのに……って、ははあ」
ずい、と遠坂は体を寄せてくる。
「熱は下がったっていうけど、まだじゅうぶんありそうじゃない? 士郎、顔が真っ赤よ」
「そ、そんなの俺の勝手だろう! おまえ関係ないんだから気にするな!」
「そうなんだ。関係ないんなら、わたしがこんなコトしても影響はないわけよねー」
「ひゃっ……! ひ、ひひひ額に手なんてあてるな……!
熱なんてないんだから、そんなコトしても意味ないぞ……!」
「ええ、そうみたいね。今度は耳まで真っ赤だもの。熱っていうよりお酒に酔っぱらってるみたい」
くすり、と意地悪げに笑う。
……わざとだ。
こいつ、絶対わざとやってる。
「……遠坂。おまえ、判っててやってるだろ」
「あ、バレた? 士郎があんまりにもベタな反応するから、ついからかっちゃった」
「………………」
……ふんだ。男の純情を弄ぶようなヤツは地獄に堕ちて反省しろっ。
「ま、冗談はこの程度にしといてあげる。あんまりからかうとミイラ取りがミイラになりかねないしね」
遠坂は上機嫌っぽく椅子に戻る。
……問題だ。
遠坂のヤツ、日増しに俺をからかう率が高くなってないか?
「……遠坂。いまさら言うのもなんだけど、俺は真面目に授業を受けに来たんだが」
「あら、失礼ね。わたしだってそのつもりよ。いまのだって教え子の状態を確認しただけだもの」
「そうかよ。じゃ、そろそろ本題に入ってくれるんだな」
「……そうね。本題と言ってもわたしの専門外だからアドバイスぐらいしかできないけど、しないよりはましだから」
さっきまでの気軽さとは一変して、遠坂は真剣にこちらを見据える。
「正直に言ってしまえばね、わたしが貴方の力になってあげられたのは前回でおしまいなのよ。
こんな短期間の授業で魔術は身に付かない。
わたしはただ、貴方が使ってなかったスイッチを取り付けただけ。それは判る?」
「あの宝石だろ。たしかにアレを飲んでから、魔術回路は作るんじゃなくて切り替える物になってくれた」
「そ。一朝一夕で教えてあげられたのはそれぐらい。
けど、それだって貴方が今まで鍛えてきたものを表に出したにすぎないわ。
わたしは貴方が体で覚えた魔術を後押しする事しかできないし、他の魔術を教える気もない。
だって才能ないもの、貴方」
「……うん。そこまでズバッと言われると、ある意味さっぱりした。
けど遠坂、俺が使える魔術ならアドバイスしてくれるんだろ。なら、あの時に使った魔術が何だったのか教えてくれ」
「――――――――」
遠坂は答えない。
ただ、敵を見るように俺を睨んでくるだけだった。
「遠坂? その、レクチャーだよな、これって。黙っていられると俺も困るんだが」
「――――――――」
難しい顔をして視線を逸らす。
が、それも一瞬。
「―――無理よ。
わたし、投影魔術なんて使えないもの。自分が知らないものを教えられるワケないじゃない」
「? ……遠坂が使えない……?」
首をかしげる。
バーサーカー戦でのアレは、言うなれば魔術師としての基本ではないのか。
物の構造を想定し、そこに必要な魔力を通す。
それは“強化”の魔術と変わらない。
ただ、元からカタチのある物に、異分子である自身の魔力を浸透させるのは難しい。
赤い色をより濃くするために“自分が赤いと思う絵の具”を混ぜて、結局違う色にしてしまうような物だからだ。
それに比べれば、一から十まで自分の絵の具で描き上げるコトなんて容易い。
自分の思うがまま落書きをしているようなものなんだから。
「そんな筈あるか。遠坂ならあれぐらい出来るだろ。強化より簡単だぞ、アレ」
「アンタね。今のを他の魔術師に言ったら、間違いなく殺されるわよ。アンタがやったのは投影で、かつ宝具を完全に複製していた。あそこまで出来る複製者《フェイカー》なんて、わたしは知らない」
「――――――――」
背筋に悪寒が走る。
―――気のせいじゃない。
遠坂は確かに、俺に対して敵意を持っている―――
「―――ふん、どうってコトないわ。
そんな事、アンタの蔵を見た時から薄々感づいてたんだから。今更、衛宮士郎に殺意を抱いても仕方ない」
「勘違いしてるようだから言ってあげるとね、貴方がやったのは“投影”の魔術なの。
実在する美術品とか名剣とか、そういった物を自身の魔力でイメージとして再現するっていう半端な魔術よ。
たいていは儀式の際に使用する、一時凌ぎの代用品として使われる。イメージで編んだソレは、当然“架空の物”として認識されるから、すぐに消えてしまうものなんだけどね」
「……?」
イメージで編み上げる複製品、というのは判る。
実際、俺は夢でセイバーの剣を見ていたから、それを手本にして黄金の剣をイメージしたのだし。
「……よく判らないな。魔力ってのは粘土だろ。たとえイメージでも、一度カタチになったものなら消えるコトなんてないんじゃないのか」
「そんな訳ないじゃない……! 魔力ってのは自身の体の中でしか存在できない物でしょ!?
だから物に魔力を通したり、魔力をスターターにして自然干渉を行うんじゃない!」
「そりゃあわたしだって魔力を飴のようにこねて、短剣ぐらい作れるわ。
けどそれで終わり。それは短剣のカタチをした飴にすぎないし、外に出した魔力は気化していくからすぐに消えてしまう」
「いい? 魔力だけで作り上げた物は長続きしないものだし、あくまでカタチだけのものよ。
……まあ、そのカタチだけの物を、外見も性能もオリジナルに近づけるのが投影魔術らしいんだけど」
「――――ふむ」
確かに、魔力なんてカタチのないものだ。
体の中で巡っている時は感じられるが、外に出てしまえば薄れていき、次第に消えてしまう。
なら、いくら頭の中で設計図を作って魔力で作り上げたとしても、構成しているのは魔力なんだから次第に薄れていくのは当然だろう。
……そういえば。
切嗣に魔術を教わる時、まず投影じみた事をやったら、それは効率が悪いから強化にしなさい、と言われたっけ。
「―――そうか。投影って魔力の消費が激しいんだ。使ってもすぐに消えてしまうから、作っても意味がない」
「そういう事。
例えば、十の魔力を使って剣を“投影”するでしょ?
その場合、その剣の力はせいぜい三か四なのよ。人間のイメージなんて穴だらけだから、本物通りの複製なんて出来ないんだもの。
対して、十の魔力を使って剣を“強化”した場合、その剣の力は二十にも三十にも跳ね上がる。加えてその持続時間は“投影”の何百倍よ」
「判った? 投影魔術っていうのは、今じゃ儀式の時にしか使われないものなの。
道具が揃えられなかった時の代用品として、すぐに消える複製品を用意する為の魔術にすぎない。
士郎の父親が“強化”を教えたのは適切よ。
ただでさえ魔術回路が少ないんだから、“投影”なんて無駄な魔術を教えたら一般人と変わらないもの」
「―――――――」
それは判った。
けど、だとしたらアレはなんだったのか。
頭の中でイメージし、現実に複製した黄金の剣は、確かに本来の力を持っていたようだが……。
「……ふうん。じゃあセイバーの剣を投影したのはまぐれだったのかな。
……考えてみれば、あの剣に蓄えられていた魔力はケタ違いだった。自分の何百倍っていう魔力を模倣するなんて、どう見てもおかしいよな」
「……それは、その……きっと、士郎は“剣”と相性がいいのよ。魔術師はそれぞれ属性を持ってるでしょ?
貴方はそれが“剣”なんだと思う」
「属性……? 火とか水とか、各元素に当てはまるものか?」
「そ。普通は世界を構成する一元素を背負うものなんだけどね。魔術協会でも火はノーマル、風はノーブルって言われてるじゃない。
地水火風空でもいいし、木火土金水でもいい。
このうちどれか一つを魔術師は持っているんだけど、中にはさらに分化した属性もあるわ。
……大抵そういう魔術師は中央には入れず、突出した専門家として名を馳せるらしいけど」
「それで言うなら士郎は“剣”よ。
多様性はないけれど、こと剣に関しては頂点を狙えるって事」
「なるほど。それは、確かに」
こと剣に関してなら、昔から関心が強かった。
……となると、遠坂の属性ってなんだろう。
こいつの事だから火とか風とか、そういう偉そうなヤツなのは目に見えているが、一応訊いておきたいっていうか、興味があるっていうか。
「なあ遠坂。参考までに訊くけど、おまえの属性ってなんだ?」
「わたし?
わたしは“五大元素”っていう属性だけど?」
「――――――――」
……あの。
それはつまり、全部持ってらっしゃるっというコトでしょうか……?
「ともかく、わたしが言えるコトなんてそんなものよ。
投影は虚影って言われるぐらい意味のないモノだから、あまり多用はしないこと」
「それにね、セイバーの剣を模造するなんて、そんなのは自殺行為よ。あの時は上手くいったからいいものの、本来なら自滅していてもおかしくなかった。
アンタも言ってたけど、セイバーの剣の魔力は、士郎の魔力のキャパシティを超えているのよ。それを複製するって事は、自分の魔術回路の限界を軽くオーバーしてるって判るでしょ?」
「……判ってる。けど自分の限界なんて、そう簡単に超えられないだろ。いや、そもそも限界なんだから、それ以上なんて行けないんじゃないのか」
「―――行けるわ。だからこそ、魔術師は死と隣り合わせなんじゃない」
「魔術が形式にそったモノなら、知識さえあればどんな魔術だって行えるのは道理でしょう。
たとえ自分では再現不可能の奇蹟だって判っていても、それにチャレンジする事は誰にでも出来る。
魔術師なんて動力源にすぎない。
小さなエンジンでも、アクセルを踏み続けていれば規定以上のスピードは出る。けど、その先にあるのは自滅しかない」
「それと同じよ。魔術師っていうのはね、自滅さえ覚悟なら限界なんて簡単に超えられる。
魔術回路を焼き切らせて、神経をズタズタにして、それでも魔力を回転させていけば奇蹟に手は届くわ」
「貴方の投影はまさにそれよ。
戦いの後、ずっと体が熱かったのは神経が焼き切れていたからだもの。それが分不相応な魔術の代償よ。
……手足の一本や二本、壊れて当然の事を貴方はしたの」
叱咤する声。
だがそれは、同時に。
「……だから、覚えておきなさい衛宮くん。
自分の限界を超えた魔術は、術者を廃人にするわ。
セイバーの剣を投影するなんて、もう二度とやらないで」
真剣に、俺の体を危惧しての物だった。
忠告の後、遠坂はよく判らない薬を処方してくれた。
「……ま、無理するなって言っても無駄だろうしね。
気休めだろうけど、もしもの時の痛み止めぐらいは飲んどきなさい。うまくいけば、痣で変色した肌も治るかもしれないし」
なんて言って、薄い緑色の粉薬を用意してくれたのだ。
薬をお茶で飲み下す。
遠坂は荷物をかきわけて、まだ違う薬を処方しようとしている。
「………………」
さて。
荷物をあさっている遠坂には悪いけど、こうして座っているのも手持ちぶさただし、ここは――――
◇◇◇
……そうだな。
投影魔術がどんな物かは判ったけど、もう少しつっこんで知りたい気がする。
とくにイメージをカタチにする、といったあたり。
「なあ遠坂。忙しいとこ悪いんだけど」
「なによ、早くしろってんなら蹴っ飛ばすわよ。
捜し物が見つからなくてイライラしてるのはこっちなんだからっ。……って、どうしてこう、仕舞った筈の物がなくなってるのよ、この家は!」
ぶつぶつと文句を言う。
こういうところは実に遠坂らしい。
やるコトは完璧なクセに、その準備がうまく行かないところとか、特に。
「ああ、そのままそのまま。捜しながらでいいから、さっきの話の続きをしてくれないか。
その、投影がイメージから作る模造品だとか、そういう事」
「……ふん。まあいいわ。話しておくことは、アンタの為になるかもしれないし」
不機嫌極まっているな。
散々ひっかき回したボストンバックを放り投げ、どすん、と椅子に座り直している。
「じゃ、手短に説明するわね。
投影っていうのは手持ちにない物を、その時だけ使う為のものよ。逆に言えばこの世にない物、とっくに失われた物さえ復元する事ができる。
本物を寸分違わず想像出来れば、あとは魔力で一時的に編み上げられるってコト」
「この投影した“物”は、魔力の気化に応じて消えていくのは話したわよね。
どんなに強い魔力でも、イメージで編み上げた物体は段々と薄れていく。……いいえ、それだけじゃないわ。
そんな幻想は、世界そのものが許さない。
だから投影によって編み上げられた物は、一日だって世界には留まれない」
「? 世界そのものが許さないって、どうして」
「幻想は幻想だからなんでもありなの。それがもしカタチを得てしまったら、それはもう現実でしょ?
けど現実にはそんな物は存在しない。その矛盾を解消する為にね、現実が幻想を潰しにかかるのよ」
「いい? 魔術ってのは元からあるモノに手を加えて、違うモノに切り替える現象を言うの。言うなれば変化、等価交換よ。
けど幻想に等価交換も何もない。イメージで作られたモノが世界の何処にもない場合、それは絶対の矛盾になる」
「だから―――この時代にあり得ないセイバーの剣なんて投影したら、世界そのものが、その幻想を破壊する。
世界と繋がって奇蹟を起こすのはいいけど、世界にない奇蹟を起こすのは御法度だから。
通常の魔術ってのは、世界のどこかにある実物を目の前に持ってきて使うことよ。けど投影魔術は人間のイメージを彩色する」
「……いかに魔術と言えど、世界《ここ》にないモノを作り上げてはいけない。
それは世界《げんじつ》を浸食する幻想に他ならないから。
生物が自己防衛を最優先するように、世界だって自己防衛を最優先する。
世界にとっての命は秩序でしょ。だから秩序を乱す矛盾、現実を浸食する幻想は、世界そのものに握りつぶされるのよ」
だあー、と一気に遠坂はまくし立てる。
もちろん、こっちは話の半分も理解できていない。
「……そうか。つまり、俺がした事は、衛宮士郎の限界を超えているって言う事なんだな」
「だからそう言ったじゃない!
投影は貴方の命を削る魔術だから、セイバーにねだられても使っちゃダメよ」
遠坂は荷物捜しを再開する。
その姿をぼんやりと眺めながら、バーサーカーに勝利できたのは本当に奇蹟だったんだ、と再確認してしまった。
◇◇◇
で。
何種類かの薬を飲まされた後は、体の様子を見るから、と簡単な“強化”の練習をさせられた。
身体に魔力を通して支障がないか調べるとかなんとか。
ほんと、今日の遠坂は教師というよりお医者さんだ。
「―――よし、問題はないみたいね。この分なら明日はもう来なくていいわ」
「え――――?」
言われて愕然とする。
明日は来なくていいって事は、つまり―――
「当然じゃない。今の状況で、わたしが貴方に教える事なんてないもの。本気で魔術を習いたいんなら、この戦いが終わってからにするべきよ。
それにもうアーチャーはいないでしょ。士郎との協力関係は、もうとっくに終わってたのよ」
「な――――」
言われて、その事に気が付いた。
そもそも俺たちはバーサーカーに対抗する為に手を組んだのだ。
そのバーサーカーも既に無く、遠坂にはサーヴァントがいなくなった。
なら―――この生活は、昨日でとっくに終わっていなくてはならなかったのだ。
「――――それじゃ、遠坂はこれからどうするんだ。言峰のところに行くのか」
……それが当然か。
遠坂は言峰神父と師弟関係だし、保護を求めるのに問題はない。
「なんで? 行くわけないじゃない、まだ負けてもいないのに。サーヴァントがいなくなったから戦えない、なんて事はないでしょ。
それに、やり逃げってのも趣味じゃないしね。一度戦うと決めたからには、最後まで事の顛末を確かめるのが責任でしょ」
さも当然のように。
胸を張って、遠坂は言い切った。
「――――――――」
目が点になる。
……いや、驚かされたワケではない。
遠坂はそういうヤツだって事は、もうとっくに判ってる。
こいつは呆れるぐらい強気で、
とんでもないほどワガママで、
見とれるぐらい、鮮やかなヤツだったのだ。
「けど、それじゃあどうするんだ。一人でやってくのか。
まだサーヴァントとマスターは残ってるんだぞ」
「そうね。だから、しばらくはここで情報を集めるわ。
柳洞寺の調査も再開しないといけないし」
「しばらくはここに残る―――い、いいのか!?
そうして貰えると助かるけど、もう協力関係は終わったんだろ。なら――――」
「なに言ってるのよ。バーサーカーに勝てたのはアーチャーのおかげでしょ。協力関係は終わったけど、その借りはまだ貸したままよ。返済が終わるまでここを提供するのは当然じゃない」
「……それに、責任は最後まで取るって言ったでしょ。
ちょっとの間だったけど師弟になったしね。貴方を一人にしたら頼りなくって心配で、聖杯戦争どころじゃなくなるわ」
「――――――――」
……つまり、そういう事だ。
もう今では随分昔のような気がするけど、衛宮士郎が憧れていた遠坂凛っていうのは、つまりこういう女の子だったのだ。
だから、正直嬉しかった。
遠坂はこうでなくちゃいけない。
そもそもこんなに強情なヤツが簡単に諦めた日には、明日から何を信じていいか分らなくなるってもんだ。
「―――ああ。これからもよろしく頼む、遠坂。
なんだかんだいって、おまえがいないと右も左も判らない。俺とセイバーには、遠坂が必要なんだ」
「……いいけど。アンタ、その言い回しは止めなさいってば。バカ正直なのはいいけど、気を付けないと誤解を招くわよ」
「……?」
どうしてそこで遠坂が怒るのか、どうも事情が掴めない。
「遠坂。誤解を招くって、何を招くってんだ?」
気になったので訊いてみる。
「あのね、今のは失言なの。訊くなって態度で表してるんだから、追及するのはルール違反よ」
む。
どうも、遠坂は俺の知らないルールを知っている模様。
「呆れた。これじゃセイバーも大変だわ。
……まあ、それともアンタたちはそれで丁度いいのかもね。少しぐらい麻痺してないと、貴方もセイバーも駄目なのかもしんないし」
「……むむむ。よく判らないけど、その、セイバーが大変だってのは聞き捨てならないぞ。なんだってセイバーが大変なんだよ、遠坂」
「だから、アンタのそういうところが大変だって言ってるの。その分じゃセイバーの変化になんて気が付いてないんでしょ、衛宮くんは」
「セイバーの変化……?」
それって外見上のコト……じゃないよな。
セイバーに変わったところと言えば、それは――――
「……ああ。そう言えば朝から様子が変だったな。
いや、イリヤがいたから不機嫌だったとは思うんだけど、それにしたって黙って正座してるわ、どうしたんだって訊けば夢を見たとか言って立ち去っちまうし」
……イリヤの事でゴタゴタしていたんで忘れていた。
言われてみれば、朝のセイバーは夢うつつ、といった風で普通じゃなかったと思う。
「―――――セイバーが、夢を見た?」
「え? なに、それって驚くところか遠坂?」
「……………………」
あ、無視された。
「おい。黙ってないで何か言ってくれ。そんな顔されると、こっちまで不安になってくる」
「え……? ああ、別にそんな大した事じゃないわ。
単に、サーヴァントは夢を見ないってだけだから」
「――――?」
サーヴァントは、夢を見ない……?
「そうよ。サーヴァントは夢なんて見ないわ。
それでも見たっていうんなら、それは夢じゃない。単に、誰かの記憶を垣間見ただけの話よ」
……遠坂にもそんな経験があったのか。
さっきまでの明るさとはうって変わった冷淡さで、そんな事を言っていた。
◇◇◇
で、夕食の支度となった。
ここ数日のごたごたで当番制は崩壊したかと思われたが、
「今日の夕食、お願いね。
今夜もまた冷えそうだし、イリヤもいるし、シチューとかいいんじゃない?」
と、去り際に言われてしまったのだ。
「……まあ、たしかにイリヤはシチューってイメージだけどな」
帽子を被ったコート姿のせいだろうか。
ともあれ、夕食をシチューにするのに反論はない。
洋食は苦手だが、シチューなら致命的な間違いは犯さないし。
「―――っと、その前に……」
時刻は六時前。
調理の前に少しだけ時間がある。
汗もかいたし、手を洗うついでに風呂を済ませてしまおう。
夕飯前に風呂に入るのも忙しいが、食後は遠坂とセイバーが風呂を使うから、こっちが使える時間が遅くなるし。
冷えた廊下。
部屋は暖房で暖かいが、廊下に出ると冬の冷たさがまじまじと感じられる。
暖かいはずの冬木の気候は、ここ数日微妙に狂っているようだ。
寒いと言えば、知らない間に雪が降っていたそうだ。
時間にして一時間もなく、降った量も少なかったので気が付かなかったのだろう。
まあ、雪が降れば降ったで庭に大量の雪だるま軍団が出現し、後片づけに困るので助かったと言えば助かったか。
もちろん、雪だるま軍団を作るのは一人だけだ。
去年雪が降った時、しもやけで真っ赤になった手で教壇に立っていたのが懐かしい。
――――?
シャワーでも使おうと思ったのに、風呂場は既に温かい。
「シロウ――――?」
ちゃぽん、という音。
はてな、と湯船に視線を移した途端。
―――――湯気より、頭の中が真っ白になった。
「――――――――な」
喉が麻痺してうまく声が出ない。
か、体が動かないのは何も考えられないせいだ。
だっていうのに、頭の隅っこで“以前にもこんなコトがあったな”なんて考えてしまっている。
いや、以前と同じなんかじゃない。
あの時はセイバーは裸だったけど、こっちは服を来ていた。
が、今回はやる気に満ちているというか、こっちも裸で、かつ、混乱してるっていうのに体は反応してしまっていた。
「あ―――――セイ、バー」
ごくり、と息を呑む音だけが響いた。
どうしていいか分からず混乱している俺を、セイバーは凍り付いたように見つめている。
今回ばっかりはセイバーも怒る。
絶対怒る。
間違いなく怒る。
その証拠に、柔らかそうな唇は今にも怒鳴り出しそうにわなわなと震えているし……!
「すまん、悪かった。シャワーを使おうと思って、いや、こんな時間に誰か入っているとは思っていなかったんだけど、普通気が付くだろそんなコトって思われるのはもっともなんだが――――」
じりじりと脱衣場に下がりながら弁明をする。
だ、断じてセイバーの裸に見惚れていたからじゃないっ。
その、なぜかダッシュで脱衣場まで後退したら、余計セイバーを怒らせるような雰囲気だったのだ。
……いや。それでも、目が離せないのに変わりはない。
「と、とにかく、話は後で――――」
手探りで背後の出口を探る。
……と。
「……申し訳ありません、シロウ。
その、勝手な申し出なのですが、今は席を外してもらえない、でしょうか」
視線を逸らして、消え入りそうな声で、セイバーはそう言った。
「――――え」
今度こそ、本当に頭が漂白された。
セイバーがなんで怒らないのか、とか。
その、恥じ入るような顔つきに、全身の血がカアっと脳天に集まった。
「え―――と。なん、で?」
反射的に呟く。
セイバーはますます申し訳なさそうに俯いて、
「……ですから、シャワーを使うのはもう少し後にして、ください。その、この場を一人で使う事を、今だけは許してほしい」
セイバーは体を隠すように身を縮める。
それで、唐突に思いだした。
以前、脱衣場でセイバーとニアミスしてしまった時、彼女は何も言わなかった。
“サーヴァントに性別は関係ない” そう言って、裸である事をまったく気にしていなかったのは、彼女の方だ。
「あ――――えっと、つまり。まて、頭がぐるぐるしててうまく言えないんだが」
ええい、きちっと働け頭!
「ようするに、セイバー、怒ってないのか?」
「……シロウが体を洗うのは当然でしょう。私はそこまで、マスターの行動を制限しません」
「――――」
納得。
ようするに、セイバーは裸を見られる事なんてなんとも思っていないのだ。
だからここに俺がいるのも当然。
風呂場は体を洗うところなんだから、俺がやってきてもおかしくはない。
そこにセイバーがいるいないは、どうにも関係ないらしい。
……それはその、助かった反面、何か違うと思う。
「……けど。なら、いま俺がシャワーを使ってもいいって事、になるん、だけど」
「――――ですから、それは、その」
恥ずかしそうに俯くセイバー。
「……素肌を見られる事は、問題ではないのです。ただ、私の体は凛のように、少女のものではありません。
ですから―――」
彼女は頬をより赤くして、辿々しく、
「……シロウには、あまり見てほしくない。このように筋肉のついた体では、殿方には見苦しいでしょう」
そんなコトを、口にした。
「――――――――」
色々な意味で、意識が遠のきかけた。
「ば、ばか、そんなコト――――」
あるか、なんて口にしたら、それこそ俺の方がどうかしそうだった。
セイバーの体は見苦しくなんかない。
体が硬いっていうけど、そんなの気になったコトなんてない。
そりゃあ遠坂と比べれば鍛えあげられた体をしているけど、それでも―――言葉もないほど、セイバーの体は女の子だと思う。
「……シロウ。その、そういう理由だから、一人にして、ほしいのですが」
「――――――――」
なんて答えられたか、自分でも判らない。
ただ微かに頷いて、扉を閉めた事ぐらいしかはっきりと認識できなかった。
◇◇◇
そうして一日が終わった。
夕食は慌ただしかった。
朝食よりも昼食、昼食よりも夕食、とイリヤはお喋りになっていて、遠坂とはケンカしているんだか意気投合しているんだか微妙な関係になっていた。
セイバーはイリヤを認めているものの、やはり油断ならないのか、イリヤが俺の側にくると眉間に皺を寄せたりする。
「――――――――」
ここ数日が荒々しすぎたのだ。
こんな、ちょっと前までは当たり前だった一日が、どうも落ち着かなくなっている。
物音を立てないように庭に出た。
時間は、まだギリギリ今日のままだ。
冴え凍える月の下、白い息と蒼い影を残して歩く。
……そうして、気が付けばいつもの日課をこなしていた。
最近は遠坂に教え込まれているんだから、なにもこんな時間、こんな場所で鍛錬をする必要はない。
それでもこうして冷たい地面に座し、自身の内に巡るモノを確かめる。
別に自分の腕前が不安だから、という訳でもない。
単にこれはジンクスだ。
もう何年もこうしてやってきたから、ここで一日を終えないと気が済まないだけだろう。
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
それでも、今夜の鍛錬は普段より熱が籠もっていた。
……遠坂はもう使うな、と言っていたが、素直には頷けない。
“投影”とやらがモノになるのなら強力な武器になるし、セイバーをもっと楽にしてやれる。
それに、あの時の熱が、まだ体に残っているのだ。
廃墟の夜。
朝靄《あさもや》の森での戦い。
成しあげた黄金の剣。
その余熱がまだ手のひらに残っていて、挑めば、もう一度それを燃やせるのではないかと、心の底で望んでいる――――
「――――創造理念、鑑定」
再現するのは容易い。
あの時は無我夢中だったから思考が乱れていたが、今なら必要な手順だけを呪文にできる。
―――否。
もとより、衛宮士郎への暗示など一つだけだ。
発音は同じ。
ただ、それを口にする自身の認識を変えるだけで、それは独自の呪文《オリジナルスペル》になるだろう。
「――――基本骨子、想定」
……それがどれほど危険な事かは、遠坂に言われるまでもなく理解している。
魔術師として、衛宮士郎は“投影”に手を出してはならない。
度がすぎている。
分をわきまえない冒険は、いずれ死をもって報いられるだろう。
「―――仮定終了《オールカット》。是、即無也《クリア・ゼロ》」
描いていた設計図をかき消す。
扉の向こう。
蒼い月を隠すように、セイバーがやってきていた。
「……良かった。ここにいたのですねシロウ。姿が見えないので何かあったのかと」
「? いや、別に何があった訳じゃない。寝付けないから頭の体操をしてただけだ。一通りこなしたら部屋に戻るから、心配はいらない」
「……そうですか。なら、いいのですが」
言って、俺の額を見る。
隠しようがないというか、例によって俺の体は汗まみれだった。
「ああ、これもいつもの事だから気にしないでくれ。
魔術の練習なんて、魔術師として当然のたしなみだろ。
……いやまあ、半人前なんで失敗はつきものなんだけど」
ぐい、と額の汗を拭う。
「お?」
……驚いた。
拭った汗は、それこそ氷のように冷たい。
寒い寒いとは思っていたけど、蔵の中はそんなに寒かったのか。
「―――シロウ。一日も欠かさずそれを?」
「いやまあ、出来る限りは。親父に言われた日課だし、これぐらいはやらないと」
答えて、強がっているな、と反省した。
こんなのは日課だと。
そう言い返す事で、セイバーに胸を張りたかっただけだ。
確かに一日の終わりの鍛錬は苦ではなかった。
だが、決して楽でもなかった筈だ。
「……………………」
セイバーは何も言わない。
背には月。
蒼い闇に沈んだ蔵には、銀の斜光が差し込んでいる。
「――――――――」
それは、彼女と出会った時の焼き直しのようだった。
「セイバー。遠坂が言ってたことなんだけど」
まるで夢を見ているようだ、と思った途端。
「サーヴァントは夢を見ないっていうのは本当なのか」
そんな言葉を、口にしていた。
「ええ。私たちは夢を見ない。もともと幽体であるサーヴァントは眠りません。
私は幽体化ができない為眠らざるを得ませんが、それでも夢は見れません」
「でも、朝は見たって」
「…………………………」
微かな沈黙。
彼女は一度だけ目を閉じて、何かを決意したように、穏やかな顔で俺を見た。
「私が見たものは貴方の夢です、シロウ。
……マスターとサーヴァントは精神的にも繋がっている。結びつきが強くなれば、相手の過去を垣間見てしまう事もあるでしょう」
「夢に見たって―――俺の、過去をか……?」
「……はい。貴方の心に踏み入る行為だとは分かっていたのですが、私には拒む事ができなかった。
……それを、どうか許してください、シロウ」
「ば――――」
そんなの、俺だって一緒だ。
セイバーの過去。
彼女がまだサーヴァントになる前の光景を、何度も何度も見てきたんだから。
「ばか、そんなのセイバーのせいじゃないだろ。夢に見ちまうなら仕方がないじゃないか。
……それに、謝るのはこっちの方だ。
俺の昔なんて、つまんない事ばっかりだろ。そんなもん見せられたら、おちおち眠ってられやしない」
「いえ、夢を見たのは今朝だけです。それも最近の事ではありませんから、シロウの男性としてのプライベートを侵害するような事は決してありませんっ……!」
むっ、と真面目に注釈してくれるセイバー。
けどプライベートって……いやまあ、確かに俺も人並みにバカなコトをやってきたけど。
「……それは助かるけど。最近の事じゃないって、じゃあいつ頃の事なんだ?」
「……大きな火事でした。私が見たものは、その光景だけです」
静かな声。
その穏やかな目が、何を見てきたのかを語っていた。
なんだ。
あれを夢に見たのか。
「―――そうか。それは、なんていうか」
災難だった、と言うべきだろうか。
見慣れた映画を見に行ったら、劇場を間違えて、まったく別物を観てしまったようなものなんだから。
「……それで判りました。いえ、前から思ってはいたのです。貴方には、ひどく危ういところがあると」
「? 危ういところってなんだよ。そりゃセイバーから見ればいたるところ危なげだろうけど」
「そんな意味ではありません。
貴方は―――シロウは、私と似ています。だから貴方の間違いも判る。このまま進めばどうなってしまうかも、同じだから判ってしまう」
「……いや、間違ってなんかないけどな。
そりゃ失敗は数え切れないけど、俺は親父みたいな正義の味方になるんだ。間違った事なんて出来ないだろ」
「だから、それが間違いなのです。
……シロウ。あの事故は貴方のせいでもないし、その責任は貴方が負うべき物でもない。
―――貴方には、償うべき物などないのです」
そんなのは当然だ。
アレはただの事故だし、俺はただの被害者だ。
そりゃあ自分だけ生き残った幸運を、後ろめたいと思った事ぐらいはあったけど――――
「以前、凛が言っていました。シロウの自己献身は異常だと。それは私も同感です。
貴方は自らの命を代価として他人《ひと》を助けようとするのではない。
貴方は単に―――初めから自分《・・・・・》の命が、勘定《・・・・・・》に入《・・・・・・・・・・・》っていないのではないですか」
「――――――――」
瞳孔が開いたのか。
なぜか、うまくセイバーの顔を見ることが出来なかった。
「……あの事故を忘れる事は、貴方には出来ないでしょう。ですが、覚えているかぎりシロウは変わらない。それは苦しいのではないですか」
「苦しい―――? 俺が?」
いや、そりゃあ苦しいだろ。
そんなコト、セイバーに言われるまでもない。
だって、そんなのは当たり前だ。
あれだけの人が死んで、あれだけの地獄だったんだ。
それが苦しかったり辛かったりするのは当然のコトだと思う。
それに、そうでなければ。
あまりにも、意味がないのではないか。
「―――うん。たしかにこうして思い出すと辛い。
けどそれは終わった事だ。今更どうにか出来る事じゃないだろ」
セイバーは答えない。
苛だたしげに、自分の手で、自分の腕をひっかいていた。
「……私は聖杯を手に入れなければならない。
けれど、それはシロウにも当てはまる」
「え……セイバー……?」
「シロウには聖杯が必要だ。
私が貴方に呼び出されたのは必然だったのです、マスター」
「――――――――」
それに、どう返答すれば良かったのか。
「……先に眠ります。シロウもあまり無茶はしないように」
セイバーは去っていった。
「―――――――――――――む」
ふむ、と腕を組んで考え込む。
……俺は聖杯が必要、なんだろうか。
持ち主の望みを叶える杯。
不可能はないとされる、魔力を無尽蔵に秘めた器。
たしかにそんな物があれば、俺の願いなんて簡単に叶うだろうけど――――
「いや、違う。どう考えても聖杯なんていらないぞ、俺」
うん、間違いなく要らない。
だって叶わない願いもなければ、不可能な望みもないんだ。
自分の手で掴めない理想《ユメ》なら、そもそも夢に見る事なんてしないんだから。
……夜が更けていく。
月明かりだけを頼りに、過ごし慣れた土蔵で、遠い風鳴りを聞いていた。
◇◇◇
薄墨に染まった空と、亡骸に覆われた朱の丘。
重く立ちこめた雲は去り、戦いの終わりを告げていた。
……この光景は知っている。今まで何度か見た景色だ。
これはセイバーが経験した戦場の一つ。
常勝であった彼女にとっては、もう当たり前となった戦争跡の風景だ。
この後、彼女は城に戻り、勝利を祝う人々から多くの喝采を受け、次の戦に備えるのだろう。
これは日常だ。
彼女が駆け抜けた十二の大戦の一つにすぎない。
だから彼女には勝利の余韻もなく、ただ平然と結果を受け入れているのだろう、と。
呆れるほど見当違いなコトを、思っていた。
―――それは夢ではなく。
もう変えようのない、冷たい過去《げんじつ》に他ならない。
岩の剣を抜いた時から、彼女は人ではなくなった。
父に代わって領主となった後、多くの騎士たちを従える王となったからだ。
そうして彼女はアーサー王ともアルトリアとも呼ばれ、騎士を目指していた少女は、その人生を一変させた。
―――いや。
終わらされた、という表現の方が正しかったのだ。
まだ幼さを残していた少女はその瞬間に消え去り、騎士王としてのみ、存在を許されたのだから。
彼女は王の息子として振る舞った。
多くの領土を治め、騎士たちを統べる身は男でなくてはならなかったからだ。
王が少女と知る者は、彼女の父親と魔術師しかいなかった。
彼女は文字通り鉄で自身を覆い、生涯、その事実を封印した。
……それがどういう事なのか、何故気が付かなかったのか。
最も多くの視線にさらされる人間が、その正体を偽り通したのだ。
そこにどれほどの苦悩があったのかなど、遠くから見ている自分では知るよしもない。
……時間が流れていく。
彼女が王として勤めた十年間の記憶だろう。
その中で共通するものは一つだけ。
玉座にいる時も、
なにげない通路でも、
戦場においてさえも、
彼女に話しかける人間などいなかった。
騎士たちが各々に武勇を語る華やかな円卓でさえ、王が現れた瞬間に沈黙に変わっていた。
つまりはそういう事だ。
彼女はただ、偶像として容認されただけだった。
多くの騎士たちは少年の姿であるアルトリアを卑下し、己が剣を預けるのを良としなかった。
だが自分が抜けなかった聖剣を抜いた以上、形の上だけでも従わなくてはならない。
彼らはその屈辱を、一時の事だろうと受け入れたにすぎない。
聖剣を抜いたとはいえ、所詮は子供。
魔術師《マーリン》の補佐があるとは言え、すぐに失態を晒すに違いない。
そうなれば聖剣を取り上げ、もう一度王の選定を行えばいい―――
それが多くの騎士たちの思惑だった。
だが結果は違った。
成人したばかりの騎士は、非の打ち所のない王だったのだ。
争い合っていた領主たちをまとめ上げ、即座に侵攻してくる異民族を撃退した。
無論、それは聖剣の力による物ではない。
聖剣は王を守る為だけのもの。
国を守るのは、あくまで王の力に依るものだ。
そうして、彼女は常に結果で騎士たちを押さえつけてきた。
聖剣の守りは敵の剣に対してのみ。
人の心を治める助けにはならない。
彼女は文字通り身を粉にして、誰もが理想とする王であり続けた。
そうなっては騎士たちも心から従うしかない。
彼らは少年のままの王への不満を、完璧であるのならばと抑えこんだ。
彼女が目指したものは理想の王。
彼らが支持する条件も理想の王。
―――そこに、人間としてのアルトリアなどいなかった。
王として定められた少女。
聖剣を抜き、その時から年を取らず、十二の大戦を勝ち抜いた偉大な騎士。
完璧であればあるほど敬遠され、
長く続ければ続けただけ孤立するしかなかった王。
―――それが、彼女の正体だった。
それでも彼女はよくやった。
否、よくやりすぎた。
効率よく敵を殲《たお》し、戦の犠牲となる民は最小限に抑えた。
どのような戦であれ、それが戦いであるのなら犠牲は出る。
ならば前もって犠牲を払い軍備を整え、無駄なく敵を討つべきだと考えたのだ。
戦いの前にひとつの村を枯れさせ、軍備を整え、異民族に領土が荒らされる前にこれを討ち、十の村を守る。
それが王として彼女の出した結論であり、事実、当時においてそれは最善の政策だった。
だが騎士たちは不満だったのだろう。
彼らにとって死んでいいのは異民族だけであり、戦いになれば犠牲など出さずに勝利するのが常道だ。
戦いの前から己が領土を手放す必要などない。
自分たちは勝利するのだから犠牲など出ない。
犠牲など出ないのだから、王の行為はただの杞憂だと考えた。
もちろん、それは彼らの夢物語である。
いざ戦いが始まれば、騎士たちは小さな村の事など考えない。それらは蹂躙されて当然のものであり、彼らの守る対象には入っていないのだから。
騎士たちは、敵に滅ぼされるのは当然だと言い、自分たちで干上がらせるのは大罪だと言う。
無論、そんな事は彼女にも分かっていた。
だが王にそのような私情は挟めない。
彼女は私情を殺して決断を下し、彼らは私情を圧して従う。
そうして犠牲を払い、連勝を続けていく内に国は安定した。
その代償は王への反感だった。
“アーサー王は、人の気持ちが分からない”と。
ある騎士はそう残し、王城から去っていった。
……おかしな話だ。
誰も人としてなど望まなかったというのに、人としての感情がなければ反感を持ったのだから。
戦乱の時代は続く。
かねてから王に不満を抱いていた騎士たちは、かの騎士が去った事によって、更に反感を強めていった。
あらゆる外敵と自国の問題を押しつけ、彼女を追い詰めていったのだ。
破綻は見えていた。
度重なる問題が解決できなければ死。
全ての問題を解決したところで、その先にあるものも同じだろう。
だが、それは王には関係のない些末事だ。
離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。
……それは、もうとっくに決めていたからだろう。
あの剣に手にしようと決意した時から、彼女は自らの感情など捨てたのだ。
―――もう何年も昔になった光景。
国中の騎士が集まり、岩に刺さった剣を抜こうと試みた。
だが一人たりとも抜けた者はおらず、騎士たちは馬上の腕を競い、最も優れた者を王にすると躍起になっていた。
騎士たちはこぞって闘技場に赴き、その外にあった岩の剣など忘れていた。
……それは、外から祭りを見る感覚に似ていた。
遠くからは勇ましい騎兵の音。
騎士たちの喧噪は遠く、岩の周囲には誰もいない。
それを前にして、少女は何を思ったのか。
気が付けば、後ろには見知らぬ魔術師が立っていた。
「それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」
悪い事は言わないから止めておけ、と彼は言い。
「それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」
手にすればあらゆる人間に恨まれ、惨たらしい死を迎えるとも言った。
恐れなかった筈がない。
なにしろ、魔術師はちゃんと見せていたのだ。
その剣を取れば、彼女がどのような最期を迎えるのかという事を。
「―――いいえ」
だが、それが少女を決意させた。
自身の未来を見せられても、力強く頷いた。
いいのかい、と魔術師は問いただす。
「―――多くの人が笑っていました。
それはきっと、間違いではないと思います」
剣に手をかける。
魔術師は困ったように顔を背け、
「奇蹟には代償が必要だ。君は、その一番大切なものを引き替えにするだろう」
その、予言じみた言葉を残した。
そう。
少女はただ、みんなを守りたかった。
けれど、それを成し遂げる為には“人々を守りたい”という感情を捨てねばならなかった。
……人の心を持っていては、王として国を守る事など出来ぬのだから。
それを承知で剣を抜いた。
それを承知で、王として生きると誓ったのだ。
だから何度離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。
人としての心は捨てた。
幼い少女はそれを引き替えにして、守る事を望んだのだから。
その気高い誓いを、誰が知ろう。
―――――戦うと決めた。
何があろうと、たとえ、その先に、
―――――それでも、戦うと決めたのだ。
避けえない、孤独な破滅が待っていても。
その終わりが、これだった。
カムランの戦い。
アーサー王が遠征に出立した後、一人の騎士が王座を簒奪《さんだつ》し、彼女の国は二つに分かれて殺し合った。
伝説ではこの戦いで、騎士も騎士道も、全てが華と散ったと言う。
かつて自身が従えていた騎士をことごとく斬り伏せ、 自身が守ってきた土地に攻め入った。
かろうじて自分に付き従ってくれた騎士たちも散り、 自身の体も、傷ついて動かなかった。
周囲には誰もいない。
今まで通り、なにも変わらない。
胸にあるのは王としての誇りだけ。
彼女は、この結末を知っていた。
それでも得るものがあると信じたからこそ、ただ一点の汚れも出さず走り続けたのだ。
だから後悔などしていない。
無念があるとしたら、それはこの、荒れ果てた国の姿だけだった。
ふと視線をあげる。
この丘からなら、遠く離れた城が見えるかもしれない。
だが、あるものは戦場の跡と深い森、そして、帰るべき湖が見えるだけだった。
―――そう。
駆け抜けるだけだった丘は、もはや越えられぬ壁となっていたのだ。
肩の力が抜ける。
そうして、初めて自分の意志で、少女は聖剣から指を離した。
―――それで終わった。
この夢がここで終わるのは当然だった。
彼女の記憶には、この先などないのだから。
……だから、これはもう変えられない一つの結末。
頑張って頑張って、恨まれて、裏切られて。
国よりも人を愛していた事も知られず、無慈悲な王としてあり続け。
報われる事はなく、理解される事もなく。
孤立し、裏切られ続けた彼女が死を迎えようとしている、赤く染まった剣の丘――――
雨の音で目が覚めた。
「………朝になってる」
ぐらぐらと揺れる頭を抱えて、体を起こす。
時計は六時前。
外から入り込んでくる雨音は、そう大きくはない。
小雨ではないが大降りではない、という、ありきたりの雨のようだ。
「っ……!」
突然の頭痛に歯を鳴らした。
それも一瞬だけだ。
痛みも、脳裏に浮かんだ光景も、そう長くは残らない。
それでも意識を起こすには、今の光景は十分すぎる。
「……今の、夢は――――」
いや、確認するまでもない。
アレはセイバーの過去だ。
とうの昔に起きて、もう変える事の出来ない、あいつの人生の顛末《てんまつ》だった。
「――――――――」
気が付くと、奥歯を噛みしめていた。
ギリギリという音。
どうしてか無性に頭にきている。
このまま歯が砕けても構わないっていうぐらい歯を鳴らして、暴れ出しくなる感情を抑えつける。
「―――くそ。なんだよ、それ」
思い返すだけで気がヘンになる。
あいつの過去も、それをなんとも思っていないあいつにも、今までなんでもない夢だと思って眺めていた自分にも。
「…………………っ」
気にくわない。
何が気にくわないのか判らないけど、とにかく気にくわない。
……イヤだ。
そんなのは、イヤなんだ。
あれは誰が見ても不当な人生だった。
そんなのは間違ってる。
望んだものは他人の事だけ。自らに返るものなど、あいつは望みもしなかった。
それなのに、あんなにも頑張ったのに、最後まで理解されなかったなんて、そんなのは頭にくる。
そんなのは、あまりにも報われないじゃないか―――
「――――――――」
……そうだ。
誰よりも頑張ったのなら、誰よりも報われなければ嘘だ。
あいつは、ちゃんと―――自分がやった事の報酬を、受け取らなくてはいけない筈だ。
「――――――――」
……けど、そんなコト。
今更、どうやって叶えられるのか。
良くやった、なんて声をかければいいのか。
おまえは立派だったって讃えてやれというのか。
まさか。
そんな簡単な言葉で、埋められる物などない。
「……分かってる。答えなんて一つだけだ」
……そうだ。
彼女が報われるとしたら、その人生を清算させるだけではないのか。
アルトリアという少女は、かつて戦い抜いた分だけ、きちんと幸せにならなければ間違っている。
「―――――けど、それで何を」
思考はそこで停止する。
人を幸せにするなんて、そんな方法は知らない。
……こんな事で、自らの歪さを思い知った。
今まで正義の味方になると生きてきたクセに、やってきたのは手を貸すだけ。
そうやって誰かの為になっていれば、いつかは周りが幸福になれるのだと信じていた。
いや。
それを信じて走らなければ、胸を張って進めなかった。
「――――――――っ」
……人を助ける事と救う事は本質が異なる。
その違いが分からない俺に、セイバーに報いてやれる手段なんて、思いつく筈がなかったのだ―――
◇◇◇
朝の食卓はいつも通りだった。
セイバーも遠坂も順応性が高いのか、もう異分子であったイリヤに馴れている感がある。
「で、アンタはどうするのよ士郎。
残るマスターは三人。聖杯戦争だって期限がないって訳じゃないんだから、そろそろ行動に移らないとまずいわよ。いつも後手を踏むってのも情けないし」
遠坂の言う通りではある。
体も問題ないし、セイバーだって回復しきっている。
休日は、昨日で終わりにしなければならない。
「……そうだな。けど行動を起こすにしても、それは夜からだ。日が昇っているうちは今まで通りにする」
「本気? ……まあ、相手の情報がないんだから闇雲に出歩いても仕方がないけどさ。じゃあ士郎は今日もセイバーにいじめられるわけ?」
セイバーと剣の鍛錬をする。
それは今まで通りの行動だし、マスターとして戦いに備えるのは当然だろう。
「凛。私とシロウが行っているのは鍛錬です。今の発言は人聞きが悪すぎます」
「いや――まあ、そうだな。午前中は、今まで通りセイバーにしごかれるよ」
「……シロウ。貴方までそのように言われては、私の立場がないのですが」
「え―――? いや、悪いセイバー。ぼうっとしてて聞いてなかった」
「ですから、凛の言いぶりは乱暴すぎるという件です。
……まったく、どうしたのですシロウ。今朝は覇気が感じられません。朝食もどことなく色どりに欠けますし、昨日も遅くまで蔵にいたのですか」
そう言うものの、セイバーの声には非難の色はなかった。
セイバーが俺を信用してくれているのは、それだけで感じ取れる。
だから今は余計、彼女と視線が合わせられない。
目を合わせれば、どうしてもあの丘の光景が浮かんでしまう。
「……ふう。分かりました、後ほど活を入れてさしあげます。それでは今日も道場で鍛錬をする、でいいのですね、シロウ?」
「ああ、頼む。イリヤはどうするんだ?」
「わたし? わたしも昨日と同じだよ。雨に濡れるのは嫌いだから、外に出たくないわ」
「そうか。そうしてくれると助かる。出来ればイリヤには家にいてほしいからな。外に出るのは危ない」
「うん。昨日みたいにお弁当作ってくれるなら、いっしょにいてあげてもいいよ」
……ふむ。
どうも、イリヤは昨日のお弁当が気に入ったらしい。
あれぐらいで喜ばれると恐縮だが、イリヤが喜んでくれる分にはこっちも嬉しかった。
「なんだ、それじゃ昨日と同じってコトね。
わたしも調べ物があるから部屋に籠もるけど、午後になったら顔を出しなさい。ちょっと話があるから」
「……調べ物、ですか?」
「そ。セイバーなら判ってると思うけど、昨日から柳洞寺の様子がおかしいのよ。
あれだけ精力的にやってた魔力集めも止まってるし、何か動きがあったのは明白でしょ。
ま、残ったマスターの中で一番厄介そうなのは柳洞寺のヤツだしね。使い魔でもこしらえて、中の様子を探ってみるわ」
「それでしたら探索に専念した方がいいのではないですか? 無理に時間をさいて、シロウに教授する必要はないと思いますが」
「ま、そこはそれ、悪いけど我慢してちょうだい。わたしもね、まだ危なっかしくて放っておけないのよ。
敵に殺されるのならいいけど、魔術をしくじって自滅でもされたら師として面目がないでしょ」
「―――はい、凛の言う通りです。
……私はどうかしていました。凛の授業がシロウには不必要だなんて、どうして思ってしまったのか」
「その理由は簡単だけど、まあ知らぬが華ってコトで。
それじゃあ午前中の鍛錬、頑張ってね。そいつ頑丈だから、死なない程度にいためつけるぐらいが最適よ」
とんでもないコトを言って、遠坂は居間を後にする。
「……セイバー。言っとくけど、遠坂の言い分なんて本気にするなよ。あいつはセイバーの打ち込みを受けてないからあんなコト言えるんだからな」
いちおう、釘を刺しておく。
セイバーは何が嬉しいのか、
「はい、分かっています。シロウの体に関してなら、私の方が熟知していますから」
穏やかに、そんな言葉を返してきた。
◇◇◇
「どうしました、食べないのですかイリヤスフィール?
昨日に比べると、まだ三割にも届いていませんが」
「違うよ、こっちのは食べられないの。わたし辛いのはダメなんだ」
「……はあ。そう辛いとは思えませんが。この香辛料は鶏肉に合っています」
「マスタードは嫌いなんだってば。いいから食べて! そのかわり、そっちのイチゴの食べてあげる」
「っ……! な、なにをするのですイリヤスフィール!
こら、戻しなさい! それは駄目です、甘いものが欲しいならリンゴのパイがあるでしょう!」
「………………」
隣り合って座る二人は、なんだか仲のいい姉妹のように言い争っている。
時刻は正午過ぎ。
俺たちは三人で向かい合って、昨日と同じくここで昼食を摂っていた。
……っと、昨日と同じなのは昼食だけじゃなかった。
さっきまで行っていた鍛錬は、昨日の焼き直しだったのだから。
いや、ぎこちなさで言うのなら今日は輪をかけてぎくしゃくしていただろう。
……なんていうか、セイバーと向き合っていると訳もなく胸がもやもやして、いつものように死にものぐるいで突進できなくなってしまったのだ。
セイバーもセイバーで、今までならそんな隙は見逃さなかったのに俺の出方を待ち、二人して向かい合ったままだった。
「二人ともどうしたの? 見ててあんまり面白くないよ?」
なんていうイリヤの叱責で気合いを入れ直し、なんとかセイバーに挑んだものの結果は同じだった。
こちらの半端な打ち込みを軽くいなした後、セイバーは反撃せずに俺を見逃す。
見逃された俺はすぐにセイバーに向き直って、また突進して、見逃される。
そんなかみ合わない時間が終わったのが、ほんの十分前。
またもセイバーからの提案によって昼食休みになり、こうして恒例の昼食タイムとなっている。
一応、メニューは昨日と同じサンドイッチだ。
ただ昨日と同じでは芸がないので、今回は色々と具に凝ってみたのだが、これが目に見えて好評だった。
色とりどりのサンドイッチにイリヤははしゃぎ、セイバーも正座をし直して、すう、と呼吸を整えていたり。
……推測だが、アレはセイバーなりに気合いを入れていたのだろう。
ともかく、昨日に比べて今日は一段と騒がしい。
外はあいにくの雨で、床は冷たい板張りではあるが、これはこれでピクニックに似ていると思う。
「ああもう、そこまでですイリヤスフィール。
それでは服が汚れてしまうでしょう。まったく、シロウの真似をして一口で食べるからそうなるのです。貴方の口は小さいのですから、もう少し大人しく食べるべきでしょう」
「ふーんだ、わかってないのはセイバーの方よ。こういうお弁当はね、お行儀を気にするほうが失礼なのよ。
これはピクニックなんだから、こーゆー風にするのがホントなんだよね、シロウ!」
もきゅもきゅ、と嬉しそうにサンドイッチをほおばるイリヤ。
その口元を、セイバーは仕方なげにナプキンで拭く。
「きゃ―――あは、くすぐったいってばセイバー」
「………………」
……ちょっと意外だ。
セイバーもセイバーだが、イリヤもイリヤで、昨日よりセイバーに心を許している。
「……驚いた。拒否しないのですか、イリヤスフィール」
「なんで? わたし、優しくされるの好きだよ?
うん、他のヤツがわたしに触れたら殺すけど、セイバーはキレイだから許してあげる。
それに今は同じお弁当を食べる仲間だもの。セイバーがわたしのコト好きなら、わたしもセイバーのコトは好きよ」
あっけらかんとイリヤは言う。
「――――――――」
さすがに毒気が抜かれたのか、セイバーは呆然とイリヤを見つめていた。
端から見ている俺でさえ、イリヤの笑顔は不意打ちじみていたんだから。
「なに? セイバーは楽しくないの?」
「あ―――いえ、それは」
「わたしは楽しいよ。外は雨で、ここはこんな殺風景な場所で、欲しかった物は何もない。
けど、こうしていると嬉しいの。一人でいるよりずっとずっとあったかいでしょ? なのにセイバーは楽しくないの?」
「――――」
イリヤの笑顔に何か感じ入る物でもあったのか。
セイバーはああ、と深く吐息を漏らして白い少女を見つめた。
「―――そうですね。私も、こうしているのはとても楽しい」
晴れやかな声。
それは今まで見たことのない、セイバーの笑顔だった。
「――――――――」
どうしてだか、胸が熱くなる。
今の笑顔は良かった。
今のはセイバーがセイバーの為にこぼした物だ。
いつもの、誰かの無事を見守るような笑顔ではなく。
ただ嬉しいからこぼれた、彼女自身にあてた笑顔。
「シロウ? どうしました、そんな顔をして。何かいいコトでもあったのですか?」
「え? いや、別に何も……って、いまヘンな顔してたのか、俺?」
「うん、してたわ。お父さんみたいな顔。遠くからこっちを見守ってますってふうなの。
わたし、そういう顔はきらいよ」
「……?」
イリヤの言い分は分からないが、ともかく笑っていた、というコトだろうか。
「そうか……ま、いいコトがあったからな。ついニヤけちまったのかもしれない」
「はあ。いいコト、ですか?」
「そうだよ。セイバーは今みたいな笑顔のがいい。それが見れて良かったって」
「……難しいですね。そんな事が嬉しいのですか、シロウは」
「だな。俺、セイバーのそういう顔を見るのが好きみたいだ」
はあ、と納得いかなげに頷くセイバー。
―――と。
何を思い立ったのか、彼女は小さく笑って顔を上げて。
「そうですか。それでは逆ですね、シロウ」
「? 逆って何が」
「私は、貴方が笑顔でいてくれた方が嬉しい。貴方が笑っていられるのなら、私はそれで十分です」
「――――――――」
セイバーとまともに顔を合わせらない。
あんな笑顔を向けられたら、誰だって頭ん中がグラグラするに決まってる。
「――――――――」
なんとか気持ちを落ち着けて、セイバーの横顔を盗み見る。
セイバーは穏やかな面もちのまま、ピクニックのような昼食を再開していた。
そこに不安はない。
不安な要素などないというのに、何かが胸にひっかかる。
―――私は、貴方が笑顔でいてくれた方が嬉しい。
そう、初めて見るその笑顔で。
彼女は何か、ひどく矛盾した言葉を口にしていた。
◇◇◇
遠坂の部屋で雨音を聞く。
今日も魔術講座とは名ばかりの健康診断もどきで、遠坂の用意した薬を飲んで、全身の魔術回路のチェックをしただけだ。
これ以上教えるなら本格的になるからこんな場所じゃ無理だ、というのは本当らしい。
……それは構わないのだが、こうして何もしないというのも所在がない。
結果を見る為しばらく動くな、と言われているが、まさか話もするな、というコトでもあるまい。
「遠坂、ちょっといいかな」
座禅を組んだまま声をかける。
「ん? いいけど、何よ」
「セイバーの事なんだけど。
その、なんて言ったらいいのか分からないんだが……」
口にして、自分の考えがまったく纏まっていない事に気づく。
セイバーの為に何ができるのか、どころの話じゃない。
俺はセイバーをどうしたいのかってコトさえ、まだ考えてもいなかった。
「……その、あいつ、何がしたいのかなって。
考えてみれば、あいつが自分から何かやるって今までなかっただろ。だから―――」
「セイバーが何を考えているか分からない?」
「―――いや、そういう訳じゃないんだ。ただ、あんまりにも無欲すぎるのが分からない。
……そう、そこがどうするべきなのか分からないんだ」
「ふーん……ま、そうよね。セイバーが自発的にやった事って、アンタを守る事だけだもの。サーヴァントとしては当たり前だけど、あそこまで徹底していると分からなくもなるわ。
でも、だからと言って無欲ってワケはないでしょう。
セイバーだって自分の目的の為に、貴方を守っているんだから」
「――――あ」
そうだ、彼女がサーヴァントになった理由を失念していた。
「……そうか。セイバーの目的は聖杯を手に入れる事なんだもんな。目的がないってワケじゃないんだ」
そして、その聖杯は持ち主の望みを叶えるモノだ。
なら、少なくともセイバーには叶えたい『望み』がある。
それが何なのかは知らないが、サーヴァントになってまで叶えようとする望みだ。
それが彼女自身を救う『望み』でないワケがない。
そう、例えば。
こうしてこの時代にいるんだから、聖杯の力でここに留まって、二度目の生を送る事だって出来る。
いや、むしろそれぐらいして貰わないと、あいつの最期に報いる事なんて出来ない筈だ――――
「なんだ―――話は簡単じゃないか!」
「……? 気持ち悪いわね、いきなり元気になっちゃって。今の話、そんなに面白かった?」
「ああ、元気が出た。そうだよな、そうでなくちゃあそこまで懸命に戦うもんか。
セイバーは、何より自分の望みの為に戦わなくちゃいけないんだから!」
うんうん、と思わず頷いてしまう。
そんな俺の態度に呆れたのか。
「―――衛宮くん。喜んでるところ悪いけど、それは貴方の早とちりよ。セイバーは、自分の為になんか戦わないわ」
「貴方だって判ってるんじゃない? セイバーはそういうタイプじゃないわ。彼女が聖杯を求める理由は、決して自分の為じゃないって」
「な――――何を、根拠に」
しているのか、なんて言えなかった。
……そうだ。
自分の為の望みなんて何一つ持たなかったから、あいつは独りきりの最期を迎えた。
そんなセイバーが―――今更、自分の救いなんて求めている筈がない。
「…………っ」
ただ、それでも。
そうであって欲しいと思って、わずか一瞬でも、彼女の姿を、ねじ曲げた。
「――――――――」
「……………………」
会話が途切れる。
……あとはこのまま、重苦しい沈黙が続くだけだと思った矢先。
「つまんない話だけどね。アーチャーも、アンタと似たような事を言ってたわ」
「……は? アーチャーって、あのアーチャー?」
「そ。わたしもね、あいつに訊いたのよ。アンタの望みはなんなのかって。
そうしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
「え……う、アイツの望みって言われても、困る」
俺はアイツの事は何も知らない。
いずれ敵になる、と公言していたアーチャーは、努めて俺やセイバーとは接触しなかった。
……ただ、それでも。
アイツは皮肉ばっかり口にしていたけど、馬鹿げた目的を持つようなヤツじゃないとは判っているが。
「これがね、聞いたら笑うわよ。望みはなによ、と訊いたら、アイツったらこう言ったの。
“そうだな。恒久的な世界平和というのはどうだ?”
もう呆れを通り越して爆笑したわけ。
そうしたらアイツ、“やはり笑われたか。まあ他人の手による救いなど意味はない。今のは笑い話にしておこう”なんて言っていじけちゃってさ」
「……なんかね、ああいうヤツだから英霊になんてなっちゃって、わたしみたいな小娘に使役されちゃうんだなー、とか思ったわ」
「――――――――」
……そうか。
とてもそうは見えなかったけど、アイツはアイツで立派な騎士だったんだ。
「けどね、間違わないで。聖杯が本当に全ての願いを叶えるのなら、恒久的な世界平和なんて最悪の願いよ。
ようするにそれって何《・・・・》もないって事でしょ? 争いのない世界なんて死んでるだけよ。物事は動いてないと腐るだけなんだから」
「……はあ。それ、アーチャーにも言ったのか」
「言ったわよ。そしたらアイツ、“それが賢者の考えだ。
私も同意見だが―――今でもこれだけは、愚者の夢を守っているのだ”だってさ」
「ま、それはいいから、それじゃ他の望みはあるのかって言ったら、“有るには有るが、聖杯で叶えるほどの物でもなし、私の分は君に譲ろう”とかなんとか。
キザでしょ? あいつ、きっと生前は女ったらしだったに違いないわ」
「ふうん。なんかそんなイメージは無かったけどな。けど、その話がどうかしたのか遠坂」
「別に? サーヴァントにも色々いるってコトを話しただけ」
あ、そうですか。
……まあ、参考になったような気もするから、為になったと言えばなったけど。
「じゃ、次はこっちの番ね。
ま、わたしの話もセイバーに関するコトなんだけど」
「? そう言えば朝方言ってたな。話したいコトがあるとかなんとか」
「ええ、大した事じゃないんだけど少し気になって。
今更になるんだけど、衛宮くんはアーサー王の伝説を知ってる?」
―――アーサー王の伝説。
それはここ数日、嫌でも思い知らされている。
「人並みには知ってる。……まあ、アーサー王が女の子だった、なんて事は知らなかったが」
「そうね。けど性別に関してはどうでもいいのよ。
別にアーサー王が女の子だったとしても、伝説そのものに変更を加える必要はないでしょ。アーサー王が周りの人間を騙し通していれば、女性であっても男性として扱われるんだから」
「幸い、アーサー王にはマーリンっていう魔術師がついてたしね。インキュバスとの混血だっていう悪魔じみたヤツだから、アーサー王の性別を偽装したり、生まれない筈の子供を用意するのもお手の物だったでしょう」
「……ああ、そうだろうな。それで?」
「だから、わたしが問題にしてるのは伝説と今のセイバーの食い違いよ。
ねえ衛宮くん。貴方はエクスカリバーがどういう物か知っていて?」
「なんだよいまさら。エクスカリバーって言ったら、アーサー王の代名詞だろ。妖精に授かった剣で、切れない物はなく刃こぼれもしないっていう名剣だ」
「やっぱり。そんな事だろうと思ったわ」
ふふん、となぜか勝ち誇る遠坂。
「……む。俺、なんかおかしなこと言ったか」
「言ったわよ。貴方もアーサー王と同じ間違いをしたってコト。マーリンがいたら未熟者ってどやされてるわ」
「だからなんでさ。
……ええっと、岩に刺さった剣ってのはエクスカリバーじゃないんだよな。あっちの剣は途中で折れてしまって、その後に湖の妖精から譲り受けた剣があって、それがエクスカリバーなんだろ?」
「そうそう。エクスカリバーをアーサー王が受け取った時にね、マーリンはこう問いかけるの。
“王よ、貴方がお気に召したのはどちらの方ですかな?
剣か、それとも鞘ですか”」
「アーサー王はためらいもなく剣の方だ、と答えるんだけど、マーリンは叱責するの。
“お間違えめさるな。剣は敵を討つ物ですが、鞘は貴方を守る物。その鞘を身につけているかぎり、貴方は血を流す事もなく負傷する事もない。真に大事とすべきは剣ではなく鞘なのです”」
「…………」
遠坂は器用に、アーサー王とマーリンの演技をする。
「ふうん。気合い入ってるな遠坂。
―――それで、おまえ何が言いたいんだ?」
「な、なにってここまで聞いて判らない!? つまりアーサー王は不死者なの! エクスカリバーっていうのは攻守ともに無敵の宝具なのよ。
だから、本当ならセイバーは、傷を負ってもすぐに治る筈だってコト!」
「……遠坂。実際、セイバーは傷を負っても治ってるんだが」
「……それはそうだけど……セイバーの自己回復は、セイバーのバカみたいに膨大な魔力を使った力技にしか見えないっていうか……ともかく、伝説のエクスカリバーの鞘とは違う気がするのよ」
「―――なるほど。遠坂がそう言うんなら、それは正しいんだろう。
ならこっちから質問。
アーサー王は不死者だっていうけど、それならどうしてアーサー王は死んだんだよ。伝説の最後はアーサー王の死じゃないか」
「へ?」
ぽかん、と口を開ける遠坂。
そのまま数秒固まった後、ぎり、と歯を鳴らして視線を逸らす。
「……そうだった……エクスカリバーの鞘は、途中で敵に盗まれたんだ……」
うん、初歩的なミスだ。
俺もその事は忘れてたけど、伝説では無くしてはならないと言われていた鞘を失い、そこからアーサー王の転落が始まるのだ。
「で。納得いったか遠坂」
「……いったわよ。笑い物にしたいんならすればいいわ」
嘘つけ。
笑った瞬間にカカト落とし等を仕掛けてくる雰囲気がみえみえのくせに。
「納得いったんならいい。けど、どうしてそんな事を気にしたんだよ。セイバーが傷つかないかどうかなんて、おまえには関係ないだろ」
「う、うるさいわねっ! なによ、ちょっとそうだったら無敵だなー、なんて舞い上がっただけじゃない。
わたしだってね、たまには間違えるコトぐらいあるわよ」
「………………」
……難しいな。
この場合、たまにはではなく頻繁に間違える、と訂正してやった方が本人の為なんだろうか?
◇◇◇
日が落ちて夜になった頃、雨はすっかり止んでいた。
朝の話通りなら、夕食を済ませた後は町に出てマスターを探す事になるのだが―――
「その前に、確かめておかないと」
セイバーの意思。
彼女が何を目的にして戦っているのかという事を。
「……と言っても、正面から訊いてもダメだな……出来るだけさりげなく聞き出さないと」
―――よし、と気合いを入れて立ち上がる。
とにかく居間に向かおう。
夕食前の穏やかな空気を盾に、セイバーの牙城をうち破れればいいのだが―――
「例えばの話だけど。
もし聖杯戦争に勝ち残れたとしたら、どうしようか」
と。
色々考えてもいい案が浮かばなかったんで、単刀直入に切り出してみた。
「え?」
「は?」
「ん?」
三者三様、異なる仕草でおんなじような反応をする。
「―――だから勝った後の事だよ。聖杯を手に入れたらどうするかって話」
「そんなの説明されなくても分かるけど……どういう風の吹き回しよ。アンタがそんなコト言い出すなんて」
頷きこそしないものの、セイバーとイリヤも遠坂と同意見っぽい顔をしている。
……やっぱりいきなり切り出すのは不自然だったか。
けど、それでも今回はしらを切り通さなければ。
「ああ、いや―――ただの思い付きだ。
ほら、残ったサーヴァントはあと三人なんだから、そういうコト考えてもおかしくないだろ。数が減って、明白に終わりが見えてきたんだから」
「ふーん……ま、言われてみればそうよね。
いくら士郎だって、この状況ならそれぐらいは考えるか。好きで始めたコトじゃないって言っても、命を張ってる以上は報酬ぐらい気になるだろうし」
「そ、そうそう。一応それぐらいは考える」
……遠坂が理屈好きで助かった。
話に筋が通っていれば、それも可能性の一つとして考慮するのが遠坂のいいトコロだと思う。
とりあえず、この瞬間だけの話だが。
「それで、遠坂はどうなんだよ。もし聖杯が手に入ったらどうするんだ?」
出来るだけ自然に問いかける。
「……そうね。わたしは勝つ事しか考えてなかったから、聖杯に叶えて貰うような目的はないわ。
とりあえず聖杯は手に入れるけど、その後のコトは考えてなかったな」
「――――――――」
負けたくないから戦うってコトか。
……いや、まあ、そんなコトだろうとは思ってはいたが、まさか本当にそうだとは。
「呆れた。いちばん物を考えていそうで、実はいちばん考えてないのよね、リンは」
「ふん、言うじゃない。じゃあそういうアンタはどうなのよ、イリヤスフィール」
「そんなの知らない。聖杯はわたしのだから、誰にも渡すなって言われただけよ。
もともとわたしの物なんだから、そんなものに興味あるわけないじゃない」
「……ふうん。ようするに聖杯より聖杯戦争の方が楽しいってコト?」
「当然よ。わたしは勝つためだけに来たんだもの。聖杯の使い道なんてどうでもいいわ」
……似たもの同士、というのか。
二人は何を言うでもなく、むむ、とお互いを睨み、なんともいえないシンパシーを得ているようだ。
「……………………」
セイバーは何も言わない。
彼女には、この話に参加する意思はないのだろう。
だが―――どんなにセイバーが嫌がろうとも、この問いだけは、今しておかなければならない事だ。
「二人の目的はなんとなく判った」
出来るだけ自然に頷いて、
「じゃあ、セイバーは?」
口を閉ざしているセイバーに声をかけた。
「…………………………」
セイバーは答えない。
……その様子がただ事ではないと気づいたのか、言い合っていた二人もセイバーへ視線を向ける。
時間に数えるのなら、それは一分ほどの沈黙だったろう。
「今更語るまでもありませんが、聖杯を手に入れるのは私の義務です。
聖杯がどれほどの許容範囲を持っているかは知らない。
ですがそれが聖杯である限り、私は聖杯を手に入れなくてはなりません。
……そして無論、聖杯が私の望みを叶えられるのであらば、その望みを叶えるだけですが」
―――言った。
確かに、セイバーは自分の望みがあると言った―――!
「そうか。で、その望みってなんなんだ?」
高鳴る心臓を押さえつけて、平然と質問する。
「――――――――」
セイバーは答えない。
……それならそれでいい。
答えられない、というのなら、それは利己的なコトっていう可能性が高い。
セイバーの性格から言って、自分の為だけの願いを口にするのは憚られるのだろう。
だから―――ふざけた願いを言われるよりは、いっそ黙っていてくれた方がいい、と。
そんな弱音が、脳裏を占めた。
「なに、それってそんなにむずかしいコト?
サーヴァントの望みは現世に蘇る事だってお爺さまは言ってたわ。英霊たちは二度目の生を得るために聖杯を求めるんだって。セイバーだってそうじゃないの?」
その言葉に、思わず顔をあげた。
それがセイバーの望みなら、なんの問題もない。
だが、それは。
「―――いいえ、二度目の生に関心はありません。
私の目的は凛やイリヤスフィールに近い。私の目的は聖杯を手に入れる事のみです。
もともとこの身は、聖杯を手に入れる代償として、サーヴァントとなったのですから」
――――きっと、そうだろうと分かっていた。
あの聖剣《ちかい》を手にした彼女が、二度目の生などを求めるワケがないのだと。
「……ちょっと待って、聖杯を手に入れる事と引き替えにサーヴァントになった……? それって英霊になる時の契約の事?」
「はい。この身をサーヴァントとする交換条件として、私は聖杯を求めたのです」
「ええー!?
じゃあなに、貴方って聖杯を手に入れる為に呼び出されたサーヴァントじゃなくて、聖杯を手に入れる為に、自分からサーヴァントになったっていうの……!?」
よほど驚いたのか、遠坂はそうまくしたてた後、む?
と自分の言葉に首を傾げた。
「……つまりセイバーは英霊だから呼び出されたんじゃなくて、自分からこの戦いに参加したってコト?」
「けどサーヴァントである以上、英霊として奉られているんだから、自分からこっちの世界に関わるなんて出来っこないわよね……じゃあセイバーはサーヴァントのルールから大きく外れて……るってワケでもないし。
ああもう、ちょっと待ってね、いま整理するから」
「いいえ、整理するまでもありません。凛が言った事は正しい。
私は他のサーヴァントとは違います。
私はまだ、完全にサーヴァントになった訳ではないのですから」
「完全に、サーヴァントになっていない――――?」
完全にサーヴァントになっていない、とはどういう事か。
いや、そもそも―――サーヴァントになる、とはどういう事なのか。
セイバーは言った。
聖杯を手に入れる代償として、サーヴァントになる事を受け入れたのだと。
つまり、それは――――
「……ちょっと待ってくれ。
サーヴァントっていうのは、まさか―――何かを手に入れた代償として、無理矢理戦わされてるっていうのか……?」
「いいえ、それは違います。もともとサーヴァントというのは、この聖杯戦争だけの特別な使い魔です。
サーヴァントとは英霊の特性を利用した召喚魔術。
もとは英霊なのですから、サーヴァントに『パンを得た代わりに労働をする』という決まりはありません」
「……そうね。サーヴァントシステムってのは、もともと守護精霊である英霊を利用したものだもの。
もとから有るものを使ってるワケだから、サーヴァント側にもマスター側にも、代償として支払う物はない」
「けどサーヴァントになる前―――人間から“英霊”になるには代償行為が必要だって聞いた事がある。
英霊っていうのは人間の守護者でしょ。
彼らは死した後も人間の為に働いて、人の世の滅亡を水面下で防ぐのだとか」
「で、そういった守護者になるには、生前、まだ英雄として現役だった頃に、何かと取引をしなくてはならない。
それが英霊の契約―――世界に、死後の自分を明け渡す儀式」
「交換条件によって財を得た者が英雄となり、英雄としてやりたい事をやった後、死後は英霊《サーヴァント》として貰った財を返す。
つまり英雄になる為に借金をして、死んだ後は英霊になって借金を返すってコト。
サーヴァントっていうのは、その返済金額を横からマ《わ》スター《たしたち》に掠め取られて使役されてるってワケ」
「む―――つまり何かとの取引で人間は英雄になって、英雄にして貰ったお返しとして、死後は英霊《つかいま》として使役されるのか。
じゃあセイバーが英霊になった交換条件が―――」
聖杯、なのか。
生前に聖杯を手に入れたセイバーは、その代償として、死後も英霊として守護者なんてモノを続けている―――?
「……それこそおかしい。セイバーは聖杯が目的だって言った。けど、それはとっくに手に入れてる筈だ。セイバーは聖杯と引き換えに英雄になったんだから」
「―――いいえシロウ。私はまだ聖杯を手にしてはいないのです。
アルトリア―――アーサー王の望みは、生きているうちに聖杯を手に入れる事だった。
私は死ぬ前に聖杯を手に入れなければならなかった。
その為に、もし聖杯が手に入るのなら、死後は守護者になってもよい、と条件を飲んだのです」
「凛の言う通り、人間は英雄になる為に世界と契約をし、人間以上の力を授かり、その代償として死後の自分を売り渡します。
……ですが私は、英雄になる時に世界の後ろ盾を必要としなかった。幸いな事に、アーサー王は英雄になる為の支援を必要としなかったのです」
……英雄になる為の支援を必要としなかった。
つまりセイバーは、セイバー自身の力で、人々から英雄と呼ばれる存在になったのか。
「……ふーん。けど貴方は英霊としてここにいる。
アーサー王は英雄になった後で、世界に違う交換条件を求めたってコト?」
「……はい。私は最期の時に、どうしても聖杯が必要になった。聖杯がなければ我慢できなかった。叶えなくてはいけない願いが出来てしまった。
だから―――英霊の契約をしたのです。
私の手に聖杯が握られるのならば、死後は英霊となってあらゆるモノの為に剣を執ろう、と」
「――――――――」
最期の時に、聖杯の奇蹟を願った。
……今ならその気持ちが分かる。
血塗られた丘。
何十という剣の墓と騎士の亡骸。
誰も看取る者のいない、裏切りで終わった王。
……その最期は、あまりにも報われなかった。
それまでどんなに自分の願いを持たなかった彼女でも、あの時ばかりは思った筈だ。
ここでは死ねない。
こんな終わりを望んだ訳じゃない。
だから―――聖杯の力で、自らの延命を望んでしまっても、それは恥ずべき事じゃない―――
「……そう。つまり死後の自分を売り払ってまで、聖杯を手に入れられる手段をとったのね。
けどセイバー、貴方の出した条件っていうのは生きているうちに聖杯を手に入れる、でしょう?
なら――――」
「はい。私が生きている内に、聖杯探索は為し得なかった。私は―――アーサー王は、最期まで聖杯を手に入れる事が出来なかったのです。
ですが、それでは契約が成り立ちません。
世界が私を英霊《サーヴァント》にするには、アーサー王が生きているうちに聖杯を与えねばならない。
ですから―――」
「――――アーサー王は、聖杯を手に入れるまで死なない。いえ、死ぬ事ができない。
それじゃ、貴女」
「……はい。アーサー王と呼ばれていた私は、死を迎える一瞬で止まっている筈です。
時間軸から見れば私はとうに滅びているでしょう。ですがそれでは契約が果たせない。
アーサー王は死の直前でサーヴァントとして召喚され、聖杯を手に入れた後、死ななければならないのです」
「―――時間が止まってるんじゃなくて、時間に止まってる状態か。
……貴女がサーヴァントとして何度戦いを繰り返してもかまわない。最終的には聖杯を手に入れて契約を果たす事は決まっているんだから、その……」
「そうです。いつかは聖杯を手に入れ、私は契約を果たす。だからこそ、私は英霊になる前から“いずれ英霊化が決定している”という条件で、あらゆる時代に召喚される」
「それはこの町の聖杯だけではありません。
聖杯が手に入る可能性があるならば、私はどの戦場にも召喚される。
そうしていつかは聖杯を手に入れ、私の望みを叶えた時こそ、死の直前で止まっていた私の時間は進みます。
アーサー王は最期の時を迎え、聖杯を手に入れた代償として、こうして英霊となるのでしょう」
「……死の直前で醒めない夢を見ているようなものか。
今回の聖杯戦争もセイバーにとっては夢の一つ。
そして、夢から醒めるのは聖杯を手に入れた時だけ」
「凛はシロウが未熟だから私を霊体化できない、と言いましたね。けれどそれは違う。私は未だ死者ではないから、霊体にはなれないのです。
半端な扱いですが、これでも位置づけは生者ですから。
……前回の聖杯戦争でも私はそうだった」
……謝るようにセイバーは言う。
霊体化できないのは俺が未熟だから、と嘘をついていた為だろう。
「――――――――」
そんな事、本当にどうでもいい。
それより聞かなくちゃいけない事がある。
「セイバー。未だ死者じゃないってどういう事だ。聖杯を手に入れるまで死なないってのは判った。
……話の流れからいって、アーサー王の時代からずっと生き続けている訳じゃないってのも解る。
けど、そうでなかったら今のセイバーはなんなんだ。
本体の分身……って訳でもないんだろう?」
「はい。こちらに呼び出される『英霊』というのは、すべからく“本体”の分身のような物ですが、私はまだその位置に達していません。
聖杯を手に入れるまでは、自《死》分の時代《直前》に止まったままで呼び出されている」
「凛の言った通り、アーサー王は時間という大河の上で停止している。
私はその位置から前か後ろかに跳んで、聖杯を求めた後、止まっている場所に戻っているのでしょう」
頭の中で図面を引く。
……なるほど、図にしてしまえば簡単な話だ。
アーサー王は死の前で止まっている。
時間の流れは彼女が止まっていようが関係ない。
ただ流れ、こうして現在に至っている。
彼女は必要に応じて各時代に跳び、役目を果して、止まっている自分に戻るだけだ。
この時、もし呼び出された時代で聖杯を手に入れてしまえば、彼女の時間は流れ、俺たちが知っている歴史通りに“死”を迎える。
……となると、英霊というのはこういう存在なのかもしれない。
死亡した時点で時間の流れから外れた“倉庫”のような場所に移される。
そうして、求める声に応じあらゆる時間上に呼び出され、戻る事なくその場で消滅する。
こちらに出てくる英霊が“分身”というのもそういう意味だろう。
言うなれば細胞から作ったクローンだ。
生前の能力・記憶を完全にもった“英霊”は現世に現れ、そこで様々な知識を学ぶだろう。だがそれは無駄な事だ。
彼らには“本体”に帰る手段はなく、そこで消滅するのみ。
故に、あらゆる時代に同時に呼び出されようと、英霊の記憶に矛盾が生じる事もない。
“英霊”になった存在は、もうそこから変化する事はないのだろう。
新しい知識を覚えたところで、覚えた“自分”は役割を終えれば、帰れずに消滅するだけなんだから。
……そういった意味で、セイバーは完全なサーヴァントではない。
なにしろ彼女は、呼び出された後も自分の時間に戻るのだ。
――あの赤く染まった剣の丘、今にも息絶える直前の自分に。
「ちょっと待った。
じゃあなに、今回聖杯を手に入れたら元の時代に戻って、その時代で聖杯を使うってコト!?
それって過去の改竄じゃない! 時間旅行にしても並行世界の運営にしても、それは魔法の領域よ。そんなの出来るワケがないわ」
「それを可能とするのが聖杯でしょう。
そうして聖杯さえ使えるのならば、私は死後英霊《サーヴァント》となってもいいと契約したのです。
聖杯を使う事でアルトリアという人物が消え去ろうとも、今の私が英霊となる事を代償として」
淡々とセイバーは語る。
だが、今のはヘンだ。
聖杯を使って望みを叶えるのはいい。
けど、なんだってその結果に、アルトリアが消え去るなんて言葉が出てくるのか。
「……なんだよそれ。聖杯を使う事でアルトリアが消える……? ふざけるなよ、そんなの。
セイバー。おまえは自分を―――」
あの丘で、独り静かに死を迎えようとしている少女を。
「―――自分を救う為に、聖杯を使うんじゃないのかよ」
「……? 何故そのような事を言うのです、シロウ。
私の望みは、国を滅びから救う事だけなのですが……」
「な――――――――――」
自分の顔が凍り付いていくのが判る。
セイバーの願いなんて判っていたクセに―――愕然と意識が白くなって、吐きそうになる。
「なん、で?」
それでも。
喉を絞って、ようやく、それだけ口にできた。
「何故も何もないでしょう。
私は国を守れなかった。国を守る為に王となったのに、その責務を果たせなかった。
その時に思ったのです。
―――岩の剣は、間違えて私を選んでしまったのではないかと」
「ば――――」
バカな。
なんだって、そんな。
「……いえ、その迷いは常に私の中にありました。
私は王に相応しくないのではないか。
本当に選ばれるべき英雄は他にいたのではないのかと。
あの時―――聖剣を抜いてしまった時、国を救えなかった私より、国を救えた筈の相応しい王がいた筈です。
……だから、もし聖杯の力で王の選定をやり直す事が出来るなら、その時に戻ればきっと―――」
……その時に戻れれば、きっと。
彼女の国は、滅びなかったとでも言いたいのか。
「――――――――」
気が遠くなる。
そんなバカげたコトを本気で願ったセイバーに怒りを覚えて、そんなもの、一瞬にして通り越した。
たぶん、自分は呆然としている。
だってそうだろう。
セイバーの望みは自分の為ではなく、加えて、彼女の望みとは自分自身の消滅に他ならない。
あの聖剣があって、聖剣を抜いた王さまがいて、初めて目の前の少女は存在するのだ。
―――それを無かった事にする、という事は、いま目の前にいる彼女が存在しないという事になる。
聖杯を使って彼女の望みを叶えたとする。
王になる前の少女、アルトリアという少女は一人の騎士として、その後の時間軸に生きるだろう。
けど、目の前のセイバーは?
仮と言えど、既に英霊として存在している彼女はその願いを叶えた後、ただ戦うだけの現象となって使役され続ける。
それを代償にして聖杯を手に入れたのだから、たとえアルトリアが王にならずとも、目の前のセイバーはこうして有り続ける。
過去や未来から切り離され。
あの丘で死に絶えるだけの、独りの孤独な王のまま、この先ずっと。
「――――――――馬鹿、か」
そんなのは許せない。
だって、そこには何の救いもない。
やり直して、本当に彼女以上に相応しい王がいて、そいつのおかげで彼女の国が長らえて、その事によって、誰より彼女自身が救われるとしても。
――――それは嘘だ。
それで周りが幸福になったところで、戦い抜いた彼女の十年間を、嘘にする事だけはできない。
「違う―――そんな事は出来ない。
やり直しなんて出来ないし、しても意味はないんだ、セイバー」
「……シロウ?」
「―――そんな事に聖杯を使うな。
聖杯はセイバーが戦って手に入れるんだろう。なら、セイバーは自分の為にその奇蹟を使うべきだ」
「な……ですから、私は自分の為に使うと言っているではありませんか。
私―――アルトリアは、王としての責務を果たさなければ」
「っ……!」
だから、なんだってそんな事に、おまえだけが気づいていない――――!
「ふざけんな、おまえはもう十分すぎるぐらいに果してるじゃないかっ……! セイバーはあんなにも戦ってきた。裏切られても怖がられても負けなかった。あの丘で、最期まで剣から手を離さなかった。
だっていうのに、なんで―――死んじまった後もおまえだけが、そんな誓いを守らなくちゃいけないんだ……!」
「――――」
愕然としたセイバーの顔。
「あ…………」
―――後悔しても遅い。
セイバーの過去を、俺が夢で見ている事は、口にしてはいけない事だ。
「――――――――」
……重苦しい沈黙。
かける言葉も、返す言葉もない。
今は何を言っても逆効果だって、そんな空気ぐらい読みとれる。
それでも―――黙っている事はできなかった。
「……セイバー。俺、頑張ったヤツが報われないのはイヤなんだ」
そうでなければ意味がないし、あまりにも報われない。
ガキくさい理想論だって分かっているけど、人間ってのは頑張れば頑張るほど、幸せになれるのだと信じていたい。
「……他のマスターには負けない。
聖杯は必ず手に入れる。
……だから、セイバーは自分の望みを叶えてくれ。
それなら俺は―――このバカげた戦いに、初めて意味を見いだせる」
「――――――――」
それが、今の自分の結論だった。
聖杯がなんなのかは判らないし、聖杯を得る事が正しいのかも判らない。
ただ、勝ち残る事で少しでもセイバーが救われるのなら、俺は全力でこの戦いに――――
「!?」
重い鈴の音が響くのと、屋敷が闇に落ちたのは同時だった。
場の空気が一変する。
突然電気が落ちたというのに、俺もセイバーも遠坂も一言も漏らさず、感覚だけで周囲の気配を察していた。
重い鈴の音は止んで、居間はひたすらに無音だった。
だが。
何か、軽い物がこすれ合うような音が、さざ波のように響いてくる。
「……今の警告音、この屋敷の結界……?」
無言で頷く。
今の音はランサーが侵入してきた時と同じだ。
ならば、これは言うまでもなく――――
「――――!」
音は多く、近くなってきている。
……ガシャガシャという音。
誘蛾灯に群がる虫を想像させる。
音がしていないのはこの居間だけだ。
電気が落ちてから一分と経たず、居間は正体不明の音に取り囲まれていた。
「―――敵か。けどサーヴァントにしては、これは」
数が多すぎる。
俺だって魔術師の端くれだ。
周りを取り囲んでいる魔力が、複数の人間によるモノだってのは感じ取れる。
ざっと感じ取れるだけでも二十。
……しかし、それにしたっておかしな軽さだ。
人の意思を感じない。
カシャカシャと音をたてているソレは、がらんどうの人形じみている。
「なぁんだ、やっぱり来たんだ。
いままでさんざんわたしから逃げ回ってたクセに、バーサーカーがいなくなったら飛んでくるんだもの。
ほんと、現金なサーヴァントね」
―――と。
緊迫した俺たちとは裏腹に、イリヤはやけに落ち着き払っていた。
「イリヤ、判るのか!?」
「当然でしょ。わたしに判らないサーヴァントなんていないわ。外にいるのはキャスターで、なにかいっぱい引き連れてきてる。―――なんだ、竜の歯でくくった安物《ゴーレム》みたい」
あっさりと告げるイリヤ。
と―――同時に、耳障りだった音が止んだ。
「――――――――」
居間に置いておいた木刀を手に取る。
……セイバーも遠坂も、こっちの出方を待っているようだ。
俺は――――
敵が何者であるかははっきりしている。
敵のサーヴァント……キャスターが手勢を連れて襲撃してきたのなら、やるべき事は一つだけだ。
「……ここにいても始まらない。セイバー、一緒に来てくれ。遠坂はイリヤを」
「ええー、なんでー!? やだ、わたしリンのおもりなんておことわりよ!」
「そんなのわたしだって願い下げよ。けどアンタ、士郎の言うコトなら聞くって言ったでしょう。あいつがああ言ってるんだから、大人しく従いなさい」
「そんなの知らない!
セイバーなんかよりわたしの方が役にた――――」
駄々をこねるイリヤを、遠坂は後ろから羽交い締めにして口を塞ぐ。
「……! ……!!!! …………!!!!!」
もがもがと、なにやら聞くに堪えない罵詈雑言を繰り出すイリヤ。
「判ってる、イリヤはわたしが守りきるわ。その間に貴方はキャスターを倒しなさい」
「頼む。けど、出来るだけ無理はするなよ。敵を倒す事より逃げる事を考えろ」
言われるまでもない、と遠坂は頷いてくれた。
遠坂に背を向けて、縁側に通じる廊下へと急ぐ。
「セイバー」
「分かっています。シロウは私が」
遠坂に頷きを返して、セイバーは俺の後に付いてきた。
瞬間。
我が目を疑った。
剣が振り下ろされる。
呆然と立ちつくした俺の脳天めがけて、容赦のない、避けようのない凶撃が炸裂した。
「っ――――――――!」
それを、咄嗟に体をひねりつつ木刀で弾いた。
自分でも信じられない。
ただ自然に、死んだ、と思った瞬間、体の方で反応していた。
ソレは躊躇うことなく次弾を放ってきた。
なめらかな機械のような動作。
無駄のない的確な剣戟。
―――だがそれだけ。
的確なだけで洗練されてもいなければ、必殺を思わせる激しさもない。
セイバーに比べれば愚鈍すぎる一撃、バーサーカーに比べれば羽毛のそれだ。
「――――」
壁に背を付けながら弾く。
その、こちらが身を退けて空いた空間に、
稲妻のような、セイバーの一撃が叩き下ろされた。
「シロウ、無事ですか」
「見ての通りだ。肝を冷やしたけどなんとかなった」
「なんとかなった、ではありません。このような時は私の後について来なければ駄目です。今後は気をつけてください」
むっ、と俺の軽率さを叱るセイバー。
それはセイバーの言う通りなんだが、後ろに付いていくっていうのはイヤだったのだ。
「シロウ? 私の話を聞いていますか?」
「ちゃんと聞いてる。……それよりセイバー、今のヤツは――――」
廊下には何もない。
セイバーの一撃でバラバラに吹き飛ばされたさっきの異形は、幻のように消えていた。
「今のはイリヤスフィールの言っていた通り、魔物の体を触媒にして象った兵士です。自動人形《オートマタ》というよりゴーレムのようですが、質は低いですね。今のゴーレム程度なら、取り囲まれても問題はありませんが――――」
「…………!」
どこに隠れていたのか、いや、いつのまにここまで侵《はい》り込んでいたのか。
なにか、出来の悪い積み木じみたソレは、蜘蛛を思わせる動作で集まりだしていた。
くわえて、質の悪い事に気配はこれだけではない。
目の前にいる何倍もの骨が、この屋敷を取り囲んでいる――――
「シロウ、横です!」
「――――!」
咄嗟に壁から離れる。
「くっ、この――――!」
にじりよってくる骨を木刀で払う。
その直後、隙だらけの俺の背中を守って、セイバーはにじり寄ってきた骨を薙ぎ払う……!
骨どもは散漫な動きで俺たちににじり寄り、どいつもこいつも同じような動作で襲いかかってくる。
捌くのは難しい事ではないが、その度に屋敷のあちこちが壊されていく。
いや、セイバーはともかく、こっちはただの木刀だ。
咄嗟に“強化”を施したところで、そう長くは保たない。
……それに、まさかとは思うのだが、骨の数はそれこそ限りがないのかもしれない。
下手をすればこちらが倒れるまで、こんな小競り合いを続ける事に――――
「チッ、どっから沸いてやがるんだコイツら……!」
セイバーに背中を預けながら毒づく。
俺に寄ってくる骨は少ない。
ヤツらは室内にも沸いているようだが、だいたい庭から侵入してきている。
セイバーは庭から侵入してくる骨を次から次ぎへと薙ぎ払っていた。
……連中の目的は居間だ。
居間にイリヤと遠坂がいる以上、セイバーもそちらの対処に追われているのだが――――
「――――」
セイバーは剣を構え直す。
彼女の剣は、既に透明ではない。
隠す必要がなくなったのか、黄金の剣はその真の力を発揮せんと輝いていた。
「―――ま、待てセイバー! だめだ、エクスカリバーは使うな! うちが吹っ飛ぶ分には構わな……ああいや、構うけど、それでも周りは住宅地だ。ここでそんなものを使われたらどうなるか判るだろう……!」
目前ににじりよった骨を払いながら叫ぶ。
「……マスターの指示ならば従いますが―――これだけの数をまともに相手にするのは面倒です。一掃しなければ、いずれ窮地に立たされます」
「分かってる。ようするにアレは使い魔の類だろう。なら操り手を叩けば一網打尽だ。セイバー、キャスターの気配は探れるか?」
「探るまでもありません。キャスターは庭にいます。
……気配を隠しもしない、という事は、私たちを誘っているようですが」
「構わない、誘いに乗ろう。どっちにしたって、こんなコトを続けてたらこっちが先にまいっちまう」
「私は一向に構わないのですが。では、このままキャスターを?」
「――――」
ここからなら庭は目の前だ。
キャスターが庭にいるのなら、辿り着くのはそう難しい事じゃない。
ただ、それはここの守りを無くすという事。
今はセイバーがいるからいいが、セイバーが庭に行ってしまえば、骨どもを止める壁がなくなってしまう。
ここは――――
「――――!」
ガラスの割れる音。
居間から、激しく争う物音が聞こえてくる。
「シロウ、指示を。迷っている時間はありません」
分かっている。
どちらにしたって、遅れた分だけ取り返しのつかない事になるだけだ。
「―――キャスターを叩く。イリヤは遠坂に任せると言ったんだ」
「では行きましょう。マスター、私の背中を任せます」
群がる骨どもを薙ぎ払いながらセイバーは疾走する。
その様は、雪をかき分ける雪上車のようでもあった。
骨の兵士はセイバーに近寄る事も出来ず霧散していく。
雪花、とはこの事か。
散らばっていく骨があまりにも多すぎて、まるで吹雪の中にいるようだった。
「――――――はあ」
背中を任せるとは言われたが、これでは守る必要もない。
今更ながら、セイバーがどれだけ優れた剣士なのか思い知らされた。
セイバーは迷いなく突き進む。
この骨どもの大本。
屋敷に侵入した、未だ見ぬ六人目のサーヴァントをうち倒す為に。
セイバーが足を止める。
あれだけ群がってきた兵士たちの姿もない。
ここが終着なのか、目前には何かが立っていた。
歪な人影。
ローブか何かを羽織ったソイツは、そこだけ黒く塗り潰されたように、姿というものが見えなかった。
……黒い影。
それを見た瞬間、なんともいえない不安に襲われた。
「貴女がセイバー? ……なるほど、確かにこれならあの怪物《バーサーカー》を倒し得るわね。私の雑兵では足止めにもならないでしょう」
クスクスという忍び笑い。
黒く塗り潰されたアレが骨どもの主……キャスターのサーヴァントらしい。
だが――――
「マスターがいない……」
近くにマスターらしき姿はない。
こいつもランサーと同じで、マスターから離れて行動するタイプなのだろうか……?
「―――貴様。契約が、切れているのか」
不快そうにセイバーが問う。
「ええ。彼は私の主に相応しくなかった。だから消えてもらったし、消えてしまったわ」
黒いローブはどんな表情をしているか判らない。
それでも、ひどく冷たい声で、キャスターはそう答えた。
「マスター殺し―――では、貴様のマスターは」
「とっくに死んだわ。けれど問題はないのよセイバー。
私たちは魂喰いでしょう? 魔力の供給源なんていくらでも溢れている。マスターがいなくとも、聖杯がある限りこうして留まる手段は幾らでもあるわ。
あとは、そう――――聖杯さえ手に入れてしまえば、そんな杞憂もなくなるでしょうね」
「……貴様も現世への復活を望むのか。どこの英霊かは知らぬが、その為にかつての誇りを捨てたのか」
「あら。人間風情に使われるのは、誇りを捨てるとは言わないのかしらね。
私はそれが我慢ならなかっただけよ。今も昔も、誰かの手足になるのはこりごりなの。だから使う側に回っただけ。貴女に非難される謂われはないわ」
「―――だろうな。私も、貴様の非業になど興味はない」
セイバーの体が、わずかに傾く。
―――キャスターまでの距離は十メートルほど。
それなら、セイバーは一息で間合いをつめ、キャスターを仕留めるだろう。
「物騒ね、せっかく話し合いに来たのに問答無用だなんて。これでも手加減はしたつもりなのですよ?」
「貴様と話す事などない。潔くここで散れ」
セイバーは倒す気になっている。
……反対はしない。
キャスターには血の匂いしかしない。
自らの手でマスターを殺したというが、それは間違いなく真実だろう。
この襲撃だって、屋敷にいる人間を皆殺しにしようとしたものだ。
「…………」
故に、セイバーを止める理由はない。
そもそもセイバーとキャスターでは勝負にならない。
キャスターの能力ぐらい感じ取れる。
アレは一対一では最弱のサーヴァントだ。
この状況になってしまえば、もはやセイバーに倒される以外にない。
「…………だめだ、セイバー」
だが、言いようのない不安を振り払えない。
バーサーカーが持っていた、絶望的な死の予感でもない。
生理的な嫌悪感か、よくないモノへの警鐘か。
俺はともかく、セイバーはアレに近寄ってはならないと、この左手が疼いている――――
「!」
その迷いが余分だった。
セイバーは地を蹴って黒い影へと疾走する。
歪な影が微笑する。
キャスターは走り寄るセイバーに慌てた風もなく、
「――――――」
『圧迫《アトラス》』と。
俺たちには聞き取れない言語で、言葉以上に脳に訴える呪文を呟いた。
途端、世界が歪んだ。
いや、セイバーの周囲だけ、空気の密度が変化した。
「な――――!」
ドン、という衝撃。
地面は沈み、何か巨大なモノが、セイバーめがけて落下したとしか思えない。
「そんな―――なんの動作もなしで魔術を――――!?」
いや、詠唱らしき呟きはあった。
確かに詠唱は短縮できる。簡単な魔術であればあるほど、自己を変革させる呪文は少なくできる。
だが、目の前で起きているモノは大魔術に属するものだ。
それを一言で発現させるなんて魔術師はいない。
可能だとしても、遠坂のように予め触媒を作っておく以外にないだろう。
にも関わらず、キャスターは呟くだけで大魔術を発動させた。
……桁違い、どころの話じゃない。
今のがキャスターの魔術だとすると、アイツは魔術師なんて簡単な役割《クラス》ではない――――
「セイバー……!」
セイバーは固まっている。
その足は地面を蹴ったままだ。
今、彼女は空間に縫いつけられている。
いや、セイバーの周囲の空気が透明なゼラチンのように変化している。
「――――!」
近寄りたくても、ぶにゃりとした見えない膜に弾かれる。
この濁りはセイバーの周りだけのようだが、地に足がついていない以上、セイバーは動けない。
「侮ったようねセイバー。貴女の時代の魔術師がどれほどだったかは知らないけど、この指は神代に生きたもの。
こんな末世の魔術師たちから見れば、私の業は魔法のそれでしょう」
黒いローブから嘲笑が漏れる。
セイバーは空間に縫い止められたまま、
「―――なんだ。本当にこの程度ですか、魔術師《キャスター》」
そう、つまらなそうに言い捨てた。
「対魔力……!? そんな、私の魔術すら弾くというのか――――!?」
黒いローブが後じさる。
一息でキャスターの魔術を無効化《キャンセル》したセイバーは、今度こそ、稲妻めいた速度でキャスターへと間合いを詰める。
「――――――――」
だが、俺は、
セイバーが剣を振り上げる。
既に彼女はキャスターに肉薄していた。
「――――違う。だめだ、セイバー」
それでも、胸の動悸に促されるように、必死にセイバーへと走り出し、
「なに?」
不意に、セイバーの動きが止まった。
キャスターが何かをした訳ではない。
セイバー自身、キャスターに“何か”を感じて強張ったのだ。
「貴様、それは――――」
咄嗟に身を翻そうとするセイバー。
が。
地中に潜ませていたのか、後退しようとするセイバーの両足に、骨の腕が絡みつく――――!
「―――ふん、予知直感まで持っているとは予想外だったけれど、これで詰みねセイバー!」
キャスターの黒いローブから刃物が飛び出る。
それはおかしな形の短刀だった。
細く、脆く、およそ人を殺すには不適切な刃物。
それでもセイバーはそれを嫌悪し、キャスターは勝機とばかりに振りかぶる。
地中から足を取られた、という驚きもあったのか。
セイバーは振り下ろされる短刀を弾く事もせず、呆然とそれを受け入れ――――
「こ――――のぉぉぉおお…………!」
「な―――」
背中で、キャスターの声を聞く。
ヤツがどんな顔をしているかは見えない。
俺に出来る事といったら、セイバーの前に立って、代わりに刃を受ける事ぐらいしかなかった。
「ぐ――――痛ぅ…………!!!!」
……っ、それにしても巧くない。
俺には正面からキャスターの短刀を捉える自信がなかった。
だから短刀を受けるより、セイバーを庇った方が確実だと判断して、セイバーを隠すように抱きしめた。
結果として、キャスターの短刀は俺の背中――――とりわけとんでもなく痛い、背骨をスッパリと抉り切ったのだ。
「っ、が………………!!!!」
あまりの痛みに泣きそうになるのを堪えて、セイバーを抱く腕に力を込める。
「シロ、ウ……?」
耳元の声も、今はなんと言っているか判らない。
「はな、れろ――――セイバー、後ろ、に」
声を絞って、跳べ、と言うより先に、セイバーはこちらの意を汲んでくれたらしい。
ひゅん、と大きく体が泳ぐ。
セイバーは両足を掴んだ骨を振り払うように後ろに跳躍し、セイバーを抱いていた俺も一緒に運ばれた。
「シロウ、傷を――――!」
切迫したセイバーの声。
優しく地面におろされたものの、背中の痛みは増すばかりだ。
こう、背骨をハサミでジョキジョキと切られて、むりやり鉛をつっこまれている。
ゴリゴリとした痛みからして、そうそう、ちょうど携帯電話を押し込まれているような感じ――――
「シロウ、しっかりしてください、シロウ――――!」
……取り乱している訳ではない、のだろう。
それにしても、セイバーにしては珍しいぐらいの大声で、逆にこっちが冷静になる。
「―――ばか、そんな大声出さなくても聞こえてる。
こんなの、痛いだけでどうってコトない。今は俺より、キャスター、を」
顔を下げたまま、キャスターがいるであろう場所を指さす。
「――――はい。すぐに決着をつけます。少しのあいだだけ辛抱をしてください」
……セイバーはキャスターへと向き直る。
「今のが貴様の宝具か、キャスター」
険のあるセイバーの声。
黒い影は忌々しげに舌を鳴らし、手にした歪な短刀を持ち上げた。
「……ええ。見ての通りナマクラで、人間一人殺せない物ですけどね。貴女が直感した通り、ある事柄に関してのみ万能とされる魔法の符よ。
……触れたくないのなら、私には近寄らないことねセイバー」
そうは言うものの、キャスターには先ほどまでの余裕は感じられない。
キャスターほどの魔術師であろうと、魔術である限りセイバーには傷をつけられない。
あの短刀がどんな宝具であれ、もはや奇襲をもってしてもセイバーには通用しないだろう。
「……構うな、セイバー。アイツの種は割れたんだ。おまえなら、あとは問題なく倒せ、るハズ、だ」
歯を食いしばって指示を送る。
「あら、それでいいのセイバー? 確かに貴女なら私を追い詰められるわ。けど、その間に誰がそこの男を守るのかしらねぇ。
言うまでもないでしょうけど、私の魔術が通じないのはあくまで貴女だけ。貴女がそこの坊やから離れれば、追い詰められた私が何をするか、予想がつくのではなくて?」
「――――貴様」
肺から絞り出すような、セイバーの声。
―――骨どもの音が増えていく。
地面に膝をついた俺と、俺を守るように剣を構えるセイバーを取り囲んでいく。
「く――――そ」
……失敗した。
幾らセイバーを助けられても、俺がこの様では意味がない。
こんな満足に動けない状態じゃ、セイバーの足を引っ張るだけだ。
事実、セイバーだけならキャスターは敵でさえないという、のに――――
「……話し合いにきた、と言ったなキャスター」
「な―――セイ、バー」
「マスターは黙っていてください。今は、これが正しい選択です」
セイバーが剣を下げる。
周囲を取り囲む骨の音にまじって、キャスターの忍び笑いが聞こえた気がした。
「話を聞こうキャスター。条件によっては見逃してやってもいい」
「正気? 貴女たちの命は私が握っているのですよ?
そんな強気な態度に出られると、つい握りつぶしてしまいそうだわ」
「間違えるな。貴様が握っているのは私ではなく、私のマスターの命だけだ。
―――だが、それを潰すというのなら私も容赦はしない。この身が消え去る前に、我が剣の全てを以って貴様を焼き尽くす」
場が凍り付く。
セイバーの言葉の前に、キャスターばかりか周囲の骨どもさえ威圧された。
「……いいわ、そこの坊やには手を出さない。もともと私の目的は貴女だもの。一人ぐらいマスターを見逃しても支障はないわ」
「? 初めから私が目的……?」
「そうよ。バーサーカーを倒したほどの英霊を見逃す手はないわ。残るサーヴァントは私と貴女、それにランサーだけ。貴女を味方に引き入れれば、ランサーなど敵ではないもの」
「―――残り三人? では、アサシンは既に倒されたのか」
「さあ? もういないのだから倒されたのでしょう。主も守れないサーヴァントは消えて当然よ」
「――――――――っ」
アサシンが倒された……?
じゃあ柳洞寺にいたマスターはもういないのか。
直接戦うどころか正体を知る事もなかったが、これでまた一人、マスターが消えた事になる。
残るサーヴァントはセイバーとキャスター、それと、あの夜から姿を見せないランサーだけという事だ―――
「……ふん。くだらない無駄話はそこまでよ。
私が欲しいのは貴女のその宝具だけ。マスターを殺されたくなければ、大人しくその剣を渡しなさい」
「―――それこそ無意な。この剣を扱えるのは私だけだ。
宝具はその持ち主でなければ使えないと、英霊ならば判っていよう」
「ああ、そうだったわね。けど、それなら貴女ごといただくまでの話よセイバー。
どんなに優れた騎士でも、捕えてしまえばどうとでも懐柔できるし……なにより、貴女は私の好みですからね。
躾るのは楽しそうだわ」
心底愉しげな声。
「っ……!」
切れ切れになっていた意識が沸騰する。
背中の痛みを端に蹴っ飛ばして、感覚のない足で立ち上がる。
「ふざけ、やがって――――」
俺のせいでセイバーを囚われの身になどさせられない。
セイバーを守ると決めたんだから、この程度の傷で倒れてなんていられるか――――!
木刀を握り直し、俺たちを取り囲む骨どもに斬りかかる。
「いけない、シロウ……!」
切迫したセイバーの声。
「そう。自殺したいのなら、止めはしないわ」
嘲笑うキャスターの声。
カシャカシャと蠢く無数の骨たちの音。
それらを、一斉にかき消すように。
豪雨じみた弓矢によって、瞬きの間に、骨どもは一掃されていた。
「な――――」
呆然と立ち尽くす。
雨のように降り注いだ弓矢は、幻だったかのように消え去っていた。
だが、それが幻の訳がない。
数え切れぬほど群がっていた骨どもは、一匹たりとも存在してはいないのだから。
「く、誰だ――――!?」
キャスターが視線をあげる。
「――――――――」
セイバーは既に気が付いていたのか。
彼女はキャスターより早く、塀の上にいる“ソレ”を、呆然と見上げていた。
「――――――――」
そこに、予想外のモノがいた。
月を背にした姿は黄金。
金色の甲冑で武装したその男は、酷薄な笑みを浮かべて庭を見下ろしていた――――
「な、何者――――」
アレが自らの手勢を一掃したのだと直感したのか、キャスターは声を上げる。
「――――――――」
男は答えない。いや、初めからキャスターを見ていない。
アイツが見据えているのはただ一人。
俺の傍らにいる、銀の騎士だけだった。
「答えなさい、何者かと訊いているのです……!」
感情の高ぶったキャスターの声。
それで、男はようやくキャスターへと視線を向けた。
「っ――――――」
赤い瞳に見据えられ、キャスターは息を呑む。
男の視線は、どうしようもなく冷たかった。
―――アレは、キャスターを人間扱いしていない。
離れた俺ですらそう判るのだ。
向けられているキャスターが、あまりの威圧に心を裂かれていても不思議ではない。
「あ、貴方は、なぜ私の邪魔を――――」
震える声で問う。
そうしなければ飲まれる、と判っていたのだろう。
―――だが。
「雑種に名乗る謂われはない。失せるがいい、道化」
男は、死の宣告でそれに応えた。
パチン、という音。
それが指を鳴らしたものだと気づいた時には、もう、惨劇は始まっていた。
突如空中に現れた無数の凶器は、それこそ機関銃のようにキャスターへと叩き込まれる。
「――――――!」
キャスターが腕を上げる。
『盾《アルゴス》』の概念。
黒いローブの上空に、ガラスのような膜が作り上げられる。
―――おそらく、あの守りはバーサーカーの肉体のそれに匹敵するだろう。
だが、ガラスというのが不味かったのか。
水晶で展開されたソレは、降りそそぐ武具の一撃すら防げず、粉々に砕け散った。
「え――――?」
呆然とした声。
哀れに首を傾げるキャスターなどお構いなしで、それらは黒いローブを貫いた。
容赦など初めからない。
槍に貫かれ、吹き飛ばされるローブをさらに槍が刺し貫く。
倒れそうになる体を剣が、地に落ちようとする腕を矢が、無惨な痛みを訴えようとする首を斧が、それぞれ必死の断頭台となって斬殺する。
生き残れる可能性など皆無だ。
完全に切り刻まれ解体しつくされたキャスターは、もはや人型ではなく、赤い肉の山でしかなかった。
……風が吹いた。
主を失った黒いローブが散っていく。
ふわり、ふわり。
ズタズタに引き裂かれたローブは、それでもかろうじて原型を留めている。
……今では、そんな物だけが、キャスターだったものの名残だった。
「――――――――」
あまりの光景に言葉がない。
張りつめた意識は、ただ哀れに散っていく黒いローブだけを見つめていた。
その時。
「―――無礼者。我《オレ》が失せろと言ったのだ。疾《と》く自害するが礼であろう!」
侮蔑の籠もった声で、金色の男が吠えた。
「な―――」
目の錯覚、ではない。
黒いローブは蛇のようにうねったかと思うと、黒い翼を生やして飛び去ろうとする。
だが遅い。
男が何をしたかは判らない。
ただ、夜空に亀裂が走っただけ。
海が割れるように、空に出来た断層は黒いローブを巻き込んでいく。
その様は、ローラーに巻き込まれていく人間を連想させた。
「あ――――あ…………!」
黒いローブが落ちる。
その下には傷ひとつないキャスターの姿がある。
そこへ。
今度こそ、魔剣の嵐が降り注いだ。
「ひ、あ、あああああああああああああ!」
……絶叫が響く。
絶叫に呼応して剣は数を増し、その数に応じて絶叫は高く大きくなっていく。
「あ、は、いた、ぬいて、いたい、ぬいて、おねが、い…………!!!」
キャスターにはセイバーと同じく、自己再生の力があるのか。
剣に貫かれようと死に至れない分、その様は無惨すぎた。
……雨は止まない。
凶器はそれぞれ形が違い、同じ物など何もない。
そして、認めたくないのだが――――その一本一本が、サーヴァントたちの“宝具”に匹敵する魔剣、魔槍の類だった。
「うそ、こんなコト、あるハズ、ない―――こんなバカげた数、ある、ワケ――――」
無尽蔵とも言える宝具の雨。
その下でもがくキャスターは、あまりに――――
「くっ、あう、死、ぬ……? 私、死んじゃう? こんな、こんな、デタラメで、死ぬなんて、そんな、あは、おかし、ひ、おかしくて、こんなの、うそ、あは、あははは、あははは、あははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははあああああああああああああああああああああああああ――――――――!!!!!」
……それで終わった。
キャスターの姿を隠していた黒い霧と共に、魔術師のサーヴァントは消え去った。
際限なく続くと思われた無限循環の拷問は、真実、わずか十秒足らず。
その間。
セイバーはただ、塀の上に立つ黄金の騎士を睨んでいた。
「ふん。魔術師風情が騎士王を捕えるなどと、口にするのも大罪よ。
アレは王である我《オレ》の物だ。王の宝に手を出す輩には、かような串刺しが似合っていよう」
「さて、久しいなセイバー。覚えているか、我《オレ》が下した決定を」
親しげに男は言う。
「――――――」
セイバーは答えない。
ただ、男を睨むその気迫は、今までの比ではなかった。「なんだその顔は。未だ覚悟が出来ていないと言うのか?
あれから十年だぞ。
既に心を決めていてもよい頃だが―――ああ、もっともそれは我《オレ》だけの話なのか。おまえにとってはつい先日の話であった。
……まったく、男を待たせるとはたわけた女だ」
愉快そうに男は笑う。
……胸が軋む。
今の惨劇を見せられた、という事もあるだろう。
だがそれ以上に、あんなふざけた目でセイバーを見下ろすアイツに吐き気がする――――
「――――。まだ雑種が残っていたか」
不愉快げに言って、男は屋敷へと視線を向ける。
「?」
その先―――居間に続く縁側には、イリヤと遠坂の姿があった。
「…………なに、あれ」
お化けでも見るように、イリヤは男を見上げている。
イリヤは必死に目を凝らした後、信じられない、とかぶりを振った。
「うそ―――あなた、誰なの」
「ふん? たわけ、見て判らぬか。この身はおまえがよく知る英霊の一人であろう」
「――――うそ!」
イリヤは縁側から飛び出すと、挑むように男を睨む。
「知らない。わたし、あなたなんて知らない。わたしが知らないサーヴァントなんて、存在しちゃいけないんだから……………!」
「な――――待て、イリヤ……!」
制止の声も間に合わない。
イリヤから放たれた魔力の塊は、一直線に男へと炸裂した。
きぃん、という音。
男は何をした訳でもない。
ヤツの目前には鏡のような盾が出現し、イリヤの放った魔力の塊を反射しただけだ。
「え――――?」
魔力を放ったのが無我夢中だったのなら、その出来事に反応できる筈がない。
イリヤは自ら放った魔力の塊を前にして、呆然と立ちつくし――――
「っ――――効いたぁ…………」
咄嗟に割って入った遠坂によって、なんとか助けられていた。
「……ふむ。なるほど、今回はまた変わり種だな。
前回の轍《てつ》を踏まぬよう、少しは工夫したという事か」
男は舐めるようにイリヤを見つめる。
セイバーに向けるものと同じ、自らの所有物を愛玩するだけの冷たい視線。
「……やだ。やだ、やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだ……! わたし、わたしはアナタなんて嫌いなんだから……!」
遠坂に羽交い締めにされながら、イリヤはまだ男を睨み付けている。
「貴様の事情なぞ知らん。いいから早く開け。そら、せっかくの五人目なのだからな」
淡々とした男の声。
それにどんな効果があったのか。
「あ――――や、んっ――――」
イリヤは大きく震えた後、がくりと頭を垂れて意識を失った。
それで終わり。
これ以上、起きる事など何もない。
俺と遠坂は、男を見上げている事しか出来ない。
……俺も、遠坂も判っている。
アイツは俺たちを見ていない。
ここで俺か遠坂が声をあげれば、その瞬間にキャスターと同じ運命を辿るだけだ。
「――――――――」
ただ、セイバーだけは違う。
彼女は俺たちとは違った沈黙をもって、黄金の騎士を見据えていた。
「―――一つ訊きます。なぜ貴方が現界しているのです、アーチャー《・・・・・》」
押し殺したセイバーの声。
それに、俺と遠坂は驚く事しか出来なかった。
「何故も何もなかろう。聖杯は我《オレ》の物だ。自らの持ち物を取りに来て何が悪い」
「ふざけた事を。貴方はそのような英雄ではない。いや、そもそも――――」
「やめておけ。その先を口にしては、戦わざるを得なくなるぞ騎士王よ。
―――いや、もとよりそのつもりであったが、興が削がれた。再会を祝すにしては、此処はみすぼらしすぎるからな」
言って、男は踵を返す。
堂々と、俺たちなど歯牙にもかけぬと背中を見せて。
「いずれ会うぞセイバー。
あの時から我《オレ》の決定は変わらぬ。次に出向くまでに、心を決めておくがいい」
男の姿が消える。
それだけで張りつめていた空気は解け、庭はいつもの静寂を取り戻した。
……だが、戻ったのはそれだけだ。
衛宮邸は荒らされ、イリヤは気を失い。
無言で俺たちに背を向けるセイバーは、重苦しい沈黙を背負ったままだった。
◇◇◇
居間に布団を敷いて、気絶したイリヤを寝かしつける。
気を失っているとはいえ、イリヤの寝顔は穏やかそうで、問題はないように見えた。
「ほら、よそ見しない! 包帯がズレるじゃない」
パン、と背中を叩かれる。
「痛っ……! 遠坂、おまえ怪我人になんてコトしやがるんだっ!」
「うるさい、人がせっかく手当してあげてるんだから、少しは大人しくしてなさいっての。
ほら、右手あげて。もう必要ないとは思うけど、一応こっちにも薬塗っとくから」
「っ――――冷たいって、それ」
「触覚があるってコトは平気な証拠よ。はい、つぎ包帯ね」
ぐるぐると右肩から器用に包帯を巻いていく。
時刻は十時過ぎ。
キャスターとの一件の後、居間に戻るなり遠坂は俺の傷の治療を始めた。
始めたのだが、傷はもう大部分が塞がっており、あとは形だけの処置を施すだけだった。
「はいおしまい。にしても、ほんとデタラメな体ね。それだけの治癒能力をもってるのは吸血鬼ぐらいなものよ。
貴方、本当に人間?」
……なんか、似たようなコトを前にも言わなかったか、おまえ。
「あのな、オレはまっとうな人間だよ。
オレだってどうしてこんななのか知らないんだから、訊かれたって判るもんか」
「冗談、まっとうな人間が脊髄切られてピンシャンしてるかっていうのよ。
便利だからあえて追究しなかったけど、いい加減不気味になってきたわ。もしかしてアンタ、首を切られないかぎり死なない土地の出だったりしない?」
「………………」
何が厄介かって、遠坂がわりと本気で疑っているのが恐ろしい。
こやつ、いつか手斧を持って俺の首を狙ってくるやもしれぬ。
「ね、セイバーだってそう思うでしょ。
原因はセイバーだとは思うんだけど、それにしたって不死身すぎるっていうか」
「は……? シロウの治癒能力はシロウの物ではないのですか?」
「そんなワケないじゃない。“強化”の一つ覚えの士郎が、そんな高等技術をマスターしてると思う?
こいつのデタラメぶりは、間違いなく貴女と繋がってるからよ。セイバーの自己回復能力が、そのまま士郎に流れてるんじゃない?」
「……そう、なのでしょうか。今までそのような繋がりは感じませんでしたが。それならば今も私の魔力はシロウに流れていなければおかしいですし、第一、私の自然治癒はシロウほど強くはありま――――」
「セイバー? どうしたの、いきなり青ざめた顔しちゃって」
「――――」
遠坂の声が耳に入っていないのか、セイバーは虚空を見つめている。
「……まさか、そんな筈は」
軽く首を振って、セイバーは視線を下げた。
「?」
「?」
思わず遠坂と顔を合わせる。
セイバーの態度は、さっきからどこかおかしい。
……いや、その原因は判っている。
あの黄金の騎士が現れてから、セイバーにはいつもの覇気が薄れているのだ。
「……ま、士郎の事は保留しておきましょう。
それよりセイバー、貴女さっきのヤツと顔見知りだったの? あの金ピカ、セイバーが自分の物だとか言ってたけど」
「………………」
セイバーは答えない。
それが言いにくい事であるのは、もはや火を見るより明らかだろう。
それでも、その答えが知りたかった。
遠坂の問いは、そのまま俺の問いでもある。
「―――セイバー。知っているなら教えてくれ。さっきのあいつは何だったんだ。セイバーは、あいつの事をアーチャーと言っていただろ」
「………はい。認めたくはありませんが、私は彼を知っています。ですがそれは有り得ない。サーヴァントは七人だけです。彼が召喚される筈がない」
「サーヴァント―――やっぱり、あいつサーヴァントなのか」
いや、そんなのは一目で判る事だ。
ただその場合、大きな問題が出てきてしまう。
「彼のクラスはアーチャーです。もちろん凛が契約したアーチャーとはまったく別の英霊で、その能力も、英雄としての気質もあまりに違いますが」
……それも判ってる。
ほんの少しだったが、アレがどんな化け物なのかは十分すぎるほど感じ取れたんだから。
「ちょっと待って。おかしいわよ、それ。
アイツがアーチャーのサーヴァントなら、それで八人目よ。
一つの期間で召喚できるサーヴァントは七人が限度の筈でしょ。数が減ったから補充する、なんて事は絶対にない。そもそも七人以上の召喚は聖杯だって魔力が持たないわ」
「サーヴァントが七人っていうのは、それが初めから一度に呼び出せる限度数だからでしょ。なら八人目はどうしたって呼び出せ――――って、待った。
セイバー。貴女、前回の戦いでアイツと出会ったの?」
「……その通りです、凛。前回の聖杯戦争における最後の一日、火の海の中で、私は彼と戦った」
「――――」
一瞬、体が強ばった。
セイバーが、火の海の中で戦った……?
……何を、今更。
あの火事が聖杯戦争による物だなんて、とっくに言峰神父から聞いていた。
なら驚く事はない。
何故なら―――今までそれを考えないよう、無意識に努めていたのだから。
「決着は? 貴女、アイツをきちんと倒したの?」
「倒してはいません。……いいえ、倒す事はできなかった。何故なら、私は」
「―――逆にアイツに負かされた。
士郎《こんかい》とは違う、きちんと召喚されて敵なしだった貴女が勝てなかった相手ね?」
セイバーは俯いたまま答えない。
それは肯定の意に他ならなかった。
「セイバーが――――勝てなかった?」
今の不完全なセイバーではなく、なんの足枷もないセイバーが?
……そんな事があり得るのか。
確かに剣士としての強さを問うのならば、セイバーとて敵無しというワケじゃない。
事実、バーサーカー相手ならセイバーは劣っていた。
だがセイバーにはあの宝具がある。
他のサーヴァントたちの宝具も強力だが、セイバーの宝具はそれらを遙かに上回る。
その聖剣を持ってして倒せない英雄など、この世界にいるとは思えない――――
「それじゃ決まりよ。
アイツ、今回の戦いで呼ばれたサーヴァントじゃなくて、前回《・・・・》からそのまま残ったサーヴァントなんじゃない?
そうでなければ辻褄が合わないもの」
「――――!」
思考が中断される。
遠坂の言い分に納得したワケじゃない。
ただ今のは、俺が昨日から思い描いていた希望のカタチだった。
「……ですが、それは」
「ですがも何もないわ。それ以外に説明がつかないんだから。一度の聖杯戦争で呼び出せるのは七人だけ。それ以外のサーヴァントがいるとしたら、それは前回生き残った『勝者』だけじゃなくて?」
……重苦しい沈黙。
だというのに、
こいつは、どうしてこうご機嫌なのか。
「遠坂。なにが嬉しいんだよ、おまえ」
「当然じゃない。だって前例がいてくれたのよ?
アイツが何者か知らないけど、ようするに前回の戦いで最後まで勝ち残ったサーヴァントなんでしょう?
ならアイツは聖杯を手に入れたのよ。で、その恩恵でずっと世界に残ってる」
「――――」
「つまり聖杯さえ手に入れれば、サーヴァントを世界に留めておけるっていう見本じゃない。アイツをとっ捕まえて詳しい話を聞きたいぐらいよ」
――――ああ、その通りだ遠坂。
あいつが何者なのかは判らないが、あいつはサーヴァントで、前回の戦いから今まで残っている。
なら、セイバーだって同じように、こっちに残れる方法があるって事だ。
「とまあ、アイツが何者で何が目的かは不明だけど、倒すべき敵には変わりなさそうね。
セイバー、それでアイツの正体はなんなの?」
「……それが判らないのです。前回の戦いでも、私は最後まで彼の正体が掴めなかった。
あの英雄には、シンボルとなる宝具が存在しなかった」
「シンボルとなる宝具が存在しない……? そんな馬鹿な話があるもんか。宝具がないサーヴァントなんてサーヴァントじゃないだろ。
なによりあいつは、さっき――ー」
「そうよ、さっき山ほど使ってたじゃない。あれだけあれば正体を探るなんて造作もないでしょう? 宝具の形状から、該当する英雄を探せばいいんだから」
「では訊きますが。凛は先程の宝具に、一つでも見覚えはありましたか」
「そんなの当然じゃない。えっと……」
どれどれ、と考え込む遠坂。
腕を組んで物思いにふけること一分。
あれ? と遠坂は首をかしげた。
「――――嘘。そんな筈、ない」
「? どうした遠坂。何が嘘なんだ?」
「―――信じられない。あの血に濡れてたのはたぶんダインスレフで、鎌っぽいのはハルペーよね。
なんか中華っぽいヤツもあったし、お不動さんのアレもあったような―――」
一人呟く遠坂は、目に見えてやばい。
考えれば考えるほど深みに嵌る、というのはこういう事ではあるまいか。
「ええっと、あれなんかセイバーの剣に似てたけど別物の筈よ。ああゆう素朴なデザインは北欧っぽかったし、そういえばたいていの魔剣の原型って北欧だって話だけど――――」
ギリギリと歯ぎしりまでしだしやがった。
「おい、遠坂」
放っておいても百害あって一利なし。
ここらで止めておかなければ、間違いなく被害をこうむる事になるだろう。
言うまでもないが、主に俺が。
「遠坂、遠坂ー。いいから戻ってこーい」
「ああもう、黙っててよ士郎! アンタが茶々いれるから頭が混乱してきたじゃないっ!」
「いや、茶々をいれるつもりはない。あいつの宝具の事だろ?
形状だけで言うなら、ダインスレフとハルペー、デュランダルにヴァジュラにカラドボルグ、ああ、あとゲイボルクもあったか。
なんか中華っぽかったのは流石に判らないけど、有名どころはそんな物じゃなかったか?」
「う……それ、あってる」
悔しそうにこっちを睨む。
そんな顔をされると困るというか、申し訳ないというか。
俺だって詳しいワケじゃなくて、なんとなく頭に浮かんだだけなんだから。
「けど、それってどういう事よ!?
そんなデタラメな数の宝具を持ってる英雄なんていないわ。いえ、そもそも出典がごちゃまぜで、もう何がなんだか――――」
「ええ。ですから私も彼の正体は判らなかった。
英雄の証となる宝具を、あの男は湯水のように持っているのです。あまりにも数がありすぎる為、アーチャーの正体を絞り込む事はできなかった」
うーん、と悩みこむ二人。
まあ、たしかにあれだけ持ち出されちゃ確かめようがない。
木の葉を隠すなら森の葉の中、というヤツだろうか。
「士郎。アンタ、何かないの」
キッ、と腹だたしげに睨んでくる。うん、間違いなく八つ当たりだ。
「何かないのって、何だよ」
「だから、気づいた事とか推理とか、とにかく瞬間的な閃きよ。
わたしたちに必要なものは意外性のある意見なの。行き詰まった事態を解決するのは偶然だけなんだから」
ふむ。そりゃ確かにそうかもしれないけどな。
「ははは、なるほど。―――おまえ、俺のコト馬鹿にしてるだろ」
「失礼ね、戦力外だと思ってるだけよ。で、どうなの」
「お手上げ」
素直にばんざいをする。
うー、と無念げにうなる遠坂。
「……となると結論は一つね。セイバー、あいつが使ってた宝具はみんな偽物だと思わない? そうでもなければ説明がつかないでしょ」
「同意見です。ですが――――」
「? いや、あれ偽物じゃないぞ」
なんだってそんな結論に達するんだ。
そもそも偽物の宝具でキャスターの魔術を貫通できるワケないじゃないか。
「ふうん。衛宮くん、その根拠は?」
「だからアレは本物だって。むしろ他のが偽物っぽい」
「はあ?」
「いや、あくまで直感なんだ。……その、うまく説明できないんだけど、アレは全部本物だぞ。
ランサーの持ってるゲイボルクはもちろん本物だけど、さっきのヤツが使った槍もゲイボルクの本物だと思う」
「???」
うわ、そんな顔されると益々説明しづらくなる。
いや、そもそもなんでそんな事を思ったのか。
ただ、あいつの使っていた宝具はみんな本物なんだ。
それだけは実感できる。
……バーサーカーとの戦いで“投影”を行ったからだろうか。
あの、山のような宝具を見て、それぞれが間違いなく本物だと読みとれた。
優れた武器には想念が宿り、形だけ真似た物には何かが欠けている。
それはセイバーの剣を模造した時に思い知った事だ。
その例で言えば、あのサーヴァントの宝具は全て完璧なカタチを持っていたと思うのだが――――
「……ま、士郎の発言はとりあえず置いておいて。
アイツの正体が判らない以上、次は目的なんだけど」
ちらり、と遠坂はセイバーを盗み見る。
「アイツも聖杯を狙ってるのは当然として、気になる点がもう一つあるのよね。
セイバー、はっきり訊いていいかしら?」
うわ。どうしてそう、この手の話になるとそういう邪悪な笑みをうかべるのかコイツは。
「……それはどういう意味でしょうか、凛。
訊ねたい事があるのならば、遠慮をする事はありませんが」
「そ? なら訊くけど、セイバーはアイツをどう思ってるの? アイツの言いぶりからすると、どうもセイバーにお熱のようだったけど」
「…………」
……遠坂に習うワケじゃないが、セイバーの顔を盗み見た。
遠坂の言い方は微妙に間違っていると思うが、あいつがセイバーに執着していたのは確かな事だ。
いや、あれは執着なんてものじゃない。
あいつは初めから、セイバーを自分の物としか見ていなかった。
「彼が何を考えているかなど、私の知るところではありません。……ですが前回の戦いのおり、求婚された覚えはあります。無論、剣と共に斬って捨てましたが」
きゅ、求婚って、あの求婚―――!?
「な―――――――」
なに考えてんだあのサーヴァント―――!
「うわ。この場合喜ぶべきか微妙だけど、それなりに悪い気はしないんじゃない?
サーヴァントになってからも求愛されるなんて、女冥利につきるってもんじゃない」
「そのような事はありません。もとより私にそんな自由はない。私の目的は聖杯を手に入れる事です。
―――正直、あのような戯言《ざれごと》は癇に触ります」
「そう? セイバーはそうでもアイツはかなりご執心だったじゃない。あの手のタイプはね、相手が断っても一向に堪えないんだから。
セイバーも頑固だし、いっそああいうヤツの方がお似合いかもよ?」
何が楽しいのか、遠坂は無責任なコトを言う。
遠坂はセイバーとそういう話が出来て嬉しいらしく、セイバーも興味なさそうなクセに、
「ですからそのような事に関心はないと言っているでしょう。彼は確かに優れた英霊ですが、私とは考え方が違いすぎる」
なんて、真面目に答えているし。
「へえー、だってさ士郎。セイバーは男なんて関心がないんだってー。安心した?」
「凛、今のはシロウには関係のない話だと思います。
今の発言は、どこかおかしい」
「でしょうねー。今のは私の失言だったわ。けど何がおかしいかって、おかしい事がおかしいわけ」
ふふふふふ、と意地の悪い忍び笑いを漏らす遠坂。
その目はセイバーだけじゃなく、黙ってる俺まで肴にしている気がする。
「――――――――」
どうしてか癇に触って、無言で席を立った。
「あれ? ちょっと、どこ行くのよ士郎」
「お茶。喉が渇いたから。ついでだから人数分煎れてくる」
ふん、と言い捨てて台所に向かう。
理由は判らないが気にくわないんで、遠坂には思いっきり渋いお茶をくらわせてやろうと思ったのだ。
「それじゃ、とりあえず部屋に戻るわ。込み入った話は明日、イリヤが起きてからにしましょう」
散々セイバーに絡んだ後、遠坂は渋めのお茶を一気飲みして立ち上がった。
「ああ、さっさと寝ちまえ。間違っても戻ってくるなよ」
「はいはい。それじゃあとはよろしくね」
何が楽しいのか、最後まで上機嫌の体で遠坂は別棟へ去っていった。
「――シロウはどうするのです。
傷が癒えたといっても無理は禁物ですから、今夜は休むべきではないでしょうか」
「ああ、そのつもりだ。けどもう少しイリヤを看ている。
問題がないようだったら和室に移して、そうしたら寝るよ」
「そうですか。それでは、それまで私も付き添います」
それきり、会話は途絶えてしまった。
遠坂が騒がしかった事もあって、こうして静かになると途端に居づらくなる。
……いや、居づらい、というのは違うか。
気になっている事、言わなくてはいけない事があるから、こう心が焦るのだ。
思えば、セイバーにするべき話はまったく出来ていない。
聖杯の事。
未だ死んでいないという彼女。
……結局聖杯を手に入れたところで、アルトリアという少女にはなんの救いもない。
その理由は言うまでもない。
彼女はここに至ってまだ、自分の願いを持ち得ていないのだ――――
「……セイバー、さっきの話なんだが」
セイバーと視線がぶつかる。
気まずそうな目は、俺の言いたい事を察しているようだった。
「はい。なんでしょうか、シロウ」
静かな声で、俺の言い分を牽制する。
……それでも、口にしない訳にはいかない。
「だからさっきの話だ。
遠坂も言っていたけど、聖杯を手に入れればサーヴァントはこっちに残れるんだろ。なら――――」
「いいえ、私は残るつもりはありません。聖杯を手に入れれば元の私に戻るだけです」
「それで王の選定をやり直すっていうのか。死にかけた王《じぶん》を救わずに、初めからやり直すのか」
「はい。国を守るのは王の責務です。私の力が及ばなかったのですから、せめて、相応しい王を選び直さなければなりません」
まるで遠い他人事のように彼女は断言する。
「――――」
その言葉の、何が頭にきたのか。
「っ―――このバカ、いい加減目を覚ませ……!
王の責務なんて関係ないっ、セイバーはこうしてここにいるんだから、あとは自分のやりたい事だけやってればいいんだ――――!」
「――――」
「それ以外の目的なんて認めない。セイバーは強いんだろ。ならさっさと戦いを終わらせて、聖杯を手に入れて、サーヴァントなんて辞めればいい……!
願い事があるんなら、昔に戻ってやり直しなんかするな。自分を変えたいんなら、昔じゃなくて今から取り戻す方法を取れってんだ―――!」
……セイバーは答えない。
彼女は小さく溜息をついた後、
「シロウ、しつこいです。その話は、もう止めてほしい」
きっぱりと、俺の言葉を拒絶した。
「それに、聖杯があればこの時代に残れる、という訳でもありません。
アーチャー……あのサーヴァントは聖杯を手に入れたから残っている訳ではない。なぜなら、前回の戦いで聖杯を手に入れられる筈がないのですから」
「……? セイバー、それはどういう――――」
「無いものは手に入れようがないでしょう。あの日。街が炎に包まれた時、聖杯は破壊されたのです。
―――私を裏切ったマスター、衛宮切嗣によって」
「―――――」
視界が狭まる。
がたん、と後ろに倒れそうになる体を、手をついて押さえつけた。
「衛宮、切嗣、だって……?」
「はい。十年前、前回の聖杯戦争における私のマスターは彼でした。私と切嗣は最後まで勝ち残り、聖杯は切嗣の手に渡った。
アーチャーとそのマスターはまだ残っていましたから、あとは彼らを倒すだけで聖杯戦争は終了する筈だった」
「ですが、切嗣は聖杯を捨てたのです。
その結果、町は火に包まれました。
……あの男は私に命じて聖杯を破壊させた。聖杯に触れられるのはサーヴァントだけですから。
切嗣は最後の令呪を使って、私の手で強制的に聖杯を破壊させたのです」
「聖杯が失われてはサーヴァントはこの世に留まれない。
切嗣も私を留めようとは思わなかった。
私の記憶はそこまでです。あの黄金の騎《アーチャー》士との決着も、私を裏切った切嗣を問いただす事も出来なかった」
「――――――――」
そりゃあ、少しは考えなかったワケでもない。
親父だって魔術師だ。ずっとこの町に住んでいたのなら、聖杯戦争に関わっていない筈がない。
にしたって、これは――――
「なんでそれを言わなかったんだ、セイバー。切嗣《オヤジ》が、前のマスターだったって」
「……通常、サーヴァントというのは以前の記憶など持ちませんし、同じ英霊がサーヴァントとして召喚される事もない。
私はサーヴァントとしては異例です。ですから、この件に関しては口に出すべきではないと判断したのです。
……それにシロウには、切嗣がどんなマスターだったのかを語るのは、気が進まなかった」
「……? 気が進まなかったって、どうして」
「シロウ。貴方が私の過去を夢見たように、私も貴方の過去を見てしまった。
……貴方の事にも驚きましたが、切嗣の変わり様も、私には信じられなかった。
シロウの記憶にいる衛宮切嗣は立派な人物です。ですが、私の記憶にある彼はそのような人物ではなかった」
「……一言で言ってしまえば、彼は典型的な魔術師だった。己が目的にしか興味はなく、阻むモノは何であろうと排除する。およそ人間らしい感情など、彼には見あたらなかった。
私が戦いを通して話しかけられたのは三度だけです。
……それがなんであるかは、言うまでもないとは思いますが」
「――――――――」
「残忍という訳ではなかったし、殺人鬼という訳でもなかった。
けれど、彼には情というものが存在しなかった。
切嗣が私を道具として扱ったように、彼本人もまた、自身を道具としてしか見ていなかった」
「……切嗣はあらゆる感情を殺し、あらゆる敵を殺した。
そこまでして信じたモノがなんであったのかは、私には判らない。ただ、その目的であった聖杯を前にして、彼は私に破壊を命じた。
……告白すれば。
あの時ほど令呪の存在を呪った事も、私を裏切った相手を呪った事もありません」
―――セイバーの言葉には真実がある。
いや、真実しかないのだろう。
思えば、切嗣がどんな人間だったのかなんて、俺は十年前のあの時からしか知らない。
その前の切嗣がどんな人間だったのか知る事はできなかったし―――そんなもの、知る必要さえない。
衛宮切嗣が冷酷な男でも変わらない。
衛宮士郎を引き取ってくれた男は、ほんとうにバカみたいに子供だった。
だから、俺にとってはそれだけが真実だ。
ただ、わずかに胸が痛むのは。
切嗣が本当に冷酷な人間だったのなら、あの最期は、あまりにも空しすぎるという事だけで―――
「……そうか。じゃあ俺がセイバーを呼び出せたのも、切嗣の息子だったからなのか」
「……判りません。切嗣は正規の手順で私を呼び寄せました。マスターとして適性の高かった切嗣は、歴史のある魔術師の家系に雇われ、聖杯戦争に参加したらしいのです。
マスターとしての準備は、その家系が全て揃えたといいます」
「彼らはアーサー王《わたし》の遺品をコーンウォールから発掘し、切嗣に委ねて聖杯戦争に臨ませた。切嗣はそれを触媒にしてア《わ》ーサー《たし》王を召喚したのです。
ですから切嗣本人には私を呼び寄せる因子もなければ、属性が近いという訳でもありません。シロウが私を引き寄せたのは、何か別の力が働いたからでしょう」
……話は判った。
切嗣《オヤジ》がマスターだった事は、そう驚く事じゃなかった。
意外だったのは、その時のサーヴァントがアーサー王……今こうして目の前にいるセイバーだったという事だけだ。
それともう一つ。
聖杯は破壊された、とセイバーは言った。
なら―――この戦いは、初めから無意味だったのではないか。
「……分からないな。聖杯がもうないって、セイバーは初めから知っていたんだろう。なら、どうしてこんな馬鹿げた戦いをする気になったんだよ」
「……確かに聖杯の有無は私には判りません。けれど私が呼ばれた以上、聖杯はなければおかしい。
忘れたのですかシロウ。私は聖杯を手に入れる為にサーヴァントになった。逆に言えば、聖杯がない場所に私は呼ばれないのです」
「あ――――いや、でも。
じゃあ聖杯ってのは壊れても直ってるものなのか」
「いいえ。聖杯はそう簡単に代えがきく物ではない。
一度壊れた聖杯が直る事などないでしょう」
「なら――――」
「ですが有る筈です。サーヴァントは聖杯の磁力に引かれて現れる。聖杯がなければサーヴァントは現れない。
それはあの神父も語っていたのではありませんか」
「神父――――そうか、あいつ」
教会に住む、聖杯戦争の監督役。
聖杯を管理しているというあの男なら、全ての疑問に答えられる筈だ。
前回の戦いの終わり。
破壊された聖杯の行方と、未だ残っているアーチャーのサーヴァント。
それと、そう―――切嗣が戦いの果てに何を見て、聖杯を破壊したかを。
◇◇◇
一人、目を覚ました。
体調が回復しても、セイバーは定期的に睡眠を取らなくてはならない。
あれから部屋に戻ってすぐにセイバーは眠り、俺も彼女を安心させる為に床についた。
それが一時間前の話だ。
時刻は十二時過ぎ。……この時間なら、セイバーと遠坂に見つかる事なく外に出られる。
物音を立てないように外に出た。
自転車を使おうとも思ったが、それで二人を起こしては面倒だ。
ここは歩いて向かう事にしよう。
人の気配がしない。
いくら深夜だからといって、この静けさは異常だった。
空気は凍り付き、建物には生気というものが感じられない。
反面、足の下、地面の中では、何か黒々としたものが渦巻いているような、矛盾した熱を感じる。
……イリヤに捕まっていた数日の間に、町はどうかしてしまったのか。
なにか、よくない事が起こる兆しが、そこかしこに溢れている気がした。
「………………気のせい、じゃないな」
ふと、遠くのお山を見上げる。
町から離れた柳洞寺は、ここから見れば黒い塊にしか見えなかった。
ただ、それが。
夜気にゆられて、どくん、と鳴動するように見えた。
暗い川を渡って、新都へ歩いていく。
「――――そうか。あれから、もう十日経ってるのか」
あの日。
初めてセイバーと出逢った夜、遠坂と三人でこの橋を歩いた事が、随分と昔に感じられた。
―――教会が見える。
『今まで、一度も行った事はない』 そう遠坂に答えたものの、自分はあの教会とは少なからず縁があった。
なにしろ、本当なら俺はあの教会に預けられ、どこぞの養子縁組に組み込まれた筈なんだから。
「……衛宮の家か、あの教会か。思えば、とんでもない分かれ道だったんだな」
十年前。
あの病室にいた子供たちはみんな孤児で、一時的に教会に預けられた。
俺はそんな孤児たちの中でただ一人、病室から養子として貰われた。
だからだろう。
なんだか申し訳なくって、無意識にあの教会を避け続けたのは。
十一日前の夜、教会に行くのは初めてだ、と遠坂に答えたのはそういう訳だった。
教会に明かりは点いていた。
……あの神父は苦手だが、あいつには訊かなければならない事がある。
「――――さあ、行くぞ」
ふう、と軽く深呼吸をして、重苦しい扉に手をかけた。
「言峰神父、いるか」
声をかけながら歩を進める。
礼拝堂に人の気配はない。
明かりは点いているものの、こう無闇に広くて静かだと、下手な暗闇より緊張する。
「おい。誰かいないのか」
……返事はない。
これ以上奥に行くわけにもいかないし、今夜は諦めて帰るべきなのか――――
「っ……!」
咄嗟に物音へと振り返る。
「衛宮士郎か。こんな時間に何の用だ」
「――――――――」
突然の対面で、うまい言葉が見つからない。
「夜も更けた。後は眠るだけだったのだが―――その顔では懺悔の真似事でもしたかったと見えるな、衛宮士郎」
言峰はつまらなげに言って、やってきた扉へと踵を返す。
「あ―――いや、待ってくれ。その、アンタに訊きたい事があって来た」
「そんな事は判っている。時間外だからといって、訪れた者を追い返す事などせん」
言って、言峰は奥に通じる扉を開けた。
「ついてこい。話といっても聖杯戦争の件だろう。そんな血生臭い話をここでする訳にもいかん」
こっちの返事も待たず、言峰は奥へ消えていった。
「――――っ」
ここまで来たんだ、何もせずには帰れない。
言峰の雰囲気に威圧されないよう気合いを入れ直して、教会の奥へと向かった。
「わ―――外も凄かったけど、中も凝ってるっていうか……」
中庭、だろうか。
言峰一人が住むにはあまりにも立派な庭園と渡り廊下が広がっている。
「なにをしている。話をするのならこちらに来い」
神父は何個めかの曲がり角を進んでいく。
「……くそ、ホントにまったなしなんだな、アイツ」
愚痴をこぼしつつ、言峰の後を追う。
教会はちょっとした迷路で、今は大人しく言峰に従うしかなかった。
「――――――――」
質素な石造りの部屋だった。
あの礼拝堂や中庭の優雅さとはかけ離れたここが、言峰神父の私室らしい。
「生憎と酒をきらしていてな。持てなす物はないが、許せ」
ずっしりとソファーに身を預けながら、神父はそんな事を言う。
「――――――――」
……微かに匂うのはワインか何かの香りか。
匂いが部屋に染みついているぐらいなんだから、相当の好き者なのだろう。
「どうした、話があるのではなかったか。そこで惚けられていても迷惑だが」
「―――だ、誰も惚けてなんかいないっ! この部屋が意外だったから驚いてただけで、すぐに用件を済ませて帰る……!」
「それはなにより。私も子供に付き合うほど暇ではない。
質問は手短かにして貰おう」
「っ…………」
……やはりこの男は苦手だ。
心を見透かされているようで、正面から対峙すると気圧されてしまう。
「それで、話はなんだ衛宮士郎。一応、教えられる事は全て教えたつもりだが」
「……嘘つけ、アンタは知ってた筈だ。
親父がセイバーのマスターだったこと、最後に聖杯を壊しちまったことを。アンタは聖杯を管理している監督役なんだからな……!」
「ほう。セイバー自身がそう言ったのか」
「あ……ああ、前回の聖杯戦争はそうして終わったって、聞いた」
「――――――――」
神父は思案するように黙り込む。
「……ふむ。サーヴァントが前回の記憶を受け継いでいる、というのは異常だ。セイバーは故障しているのか、それともあのセイバーそのものが異常なのか。
なんにせよ、通常のサーヴァントとは言えないな」
「英霊は記憶など持たない。
過去、現在、未来、いかなる時代にも呼び出される連中に、記憶があっては矛盾が生じる。
奴らにあるものは生前の記録だけだ。死後、英霊となってからの出来事は一切記憶されない筈だが――――」
納得がいかないのか、神父は思案している。
……そうか。
セイバーがまだ英霊になりきっていないと知らないから、その問題から抜けきれないのか。
「いや、それが違うんだ。セイバーは他のサーヴァントとは事情が違うらしい」
「事情が違う? ……なるほど、わざわざ訪れた用件はそれか。いいだろう、話してみろ」
「――――――――」
尊大な態度が鼻につくが、今は反発している場合じゃない。
気にくわないが、この神父なら何か明確な答えを出してくれるかもしれない。
「それが、セイバーは死んでないらしいんだ。
あいつはまだ英霊になる契約をしていない。死の淵であいつが願ったのが聖杯を手に入れる事で、その代償として英霊になる事を認めたとか。
だからあいつはまだ死んだ訳じゃないんだ。聖杯を手に入れるまでは死なず、手に入れてしまえば完全な英霊《サーヴァント》になるって言ってた」
「死んでいない……ではセイバーはまだ輪廻の枠に留まっているという事か。他の英霊のように時間から外れた訳ではないと?」
「ああ、そういう事だと思う。遠坂は、セイバーは一人で時間に止まっているとも言ってた」
「―――そうか。英霊のように事が済めば消えるのではなく、聖杯を手に入れるまでは英霊として駆り出されるという事か」
「だが、アレはいまだ聖杯を手に入れていない為、失敗する度に死の直前にいる自身に戻ってしまう。そうして前回の記憶を持ったまま、今回も呼び出された。
―――ふん。わざわざ死ぬ為に聖杯を求めるとは、英雄というのは分からぬな。
そうして手に入れたところで、待っているのはサーヴァントとして使役される事だけだろうに」
「……そうだ。たとえ聖杯を手に入れて、あいつが望みを叶えたところで―――あいつは他の連中《サーヴァント》と同じになっちまうんだろ。
……俺にはそれが納得いかない。そもそもサーヴァントってなんなんだ。英霊を使い魔にするっていうが、セイバーみたいに矛盾した英霊もあり得るのか」
「さあ、そのあたりのシステムなど知らんよ。
……魂の永続。その秘法を真似て作られたのがサーヴァントシステムだ。こればかりは立案者であった当時の人間しか知るまい」
「?―――魂の、永続……?」
「いや、元々はそういうモノだっただけ、という話だ。
関係のない話だ、忘れろ」
「それで衛宮士郎。
つまるところ、おまえはあのセイバーをサーヴァントではなくしたい、というのだな?」
「――――」
図星、なのだろうか。
そりゃあセイバーの状況はおかしいと思う。
聖杯を手に入れようとするのはいい。
けど、その後に待っているものは自己の消滅だ。
アーサー王ではない王が選ばれて、アーサー王がこの歴史から消え去った時。
それでもアーサー王という英雄として、彼女が使役されるなんていうのは、ひどく間違っていると思うのだ。
だから―――彼女がサーヴァントでなくなって、普通の人間として生きていけるとしたら―――
「それは不可能だ。
死者は蘇らない。いかに時間に止まっていようと、私たちにとってセイバーは死んだ者だ。
彼女を現世に呼びだしているのは聖杯の力であり、彼女が英霊になる交換条件を飲んだからだろう。
聖杯を求めない彼女は、サーヴァントとして召喚される事はない。そして聖杯を求める以上、遅かれ早かれ彼女は完全なサーヴァントになるだろう」
「……たとえ今回が失敗に終わっても、彼女にはチャンスなど無限にある。
セイバーは未だ時間軸に留まっている為、“聖杯を手に入れる機会”を同時に行えるという訳でもないし、一度失敗した試練をやり直す、という事もできない。
一度失敗した試練は、何度やり直そうと失敗する。結果を体験しているからといって、決定した結果は変えられないからな」
「だがそれでも、聖杯を手に入れるのは時間の問題だろう。聖杯を手に入れる機会は、この聖杯戦争だけではない。
“聖杯”に関する試練はあらゆる時代に存在する。
その全てを虱潰しに続けていけば、必ず聖杯は手に入れられる」
「……そもそも彼女は『結果として聖杯を手に入れる』からこそ、英霊として召喚されているのだ。
おまえのセイバーをサーヴァントでなくす方法など、アレがおまえの前に現れた時点で存在しまいよ」
「――――」
……やはり、そうか。
セイバーが聖杯を求める以上、サーヴァントでなくす手段はない。
結局、セイバー自身が聖杯を自分の為に使わないかぎり、あいつは一生あのままなんだ。
この聖杯戦争が終わって、戦う必要がなくなっても。
聖杯が手に入らなければ次の機会に赴くだけだし、
手に入ってしまえば、英霊なんて得体の知れないモノになって、あらゆる時代に駆り出される―――
「……じゃあ。聖杯を手に入れようが手に入れまいが、あいつはずっとサーヴァントのままなのか」
「いや、そうとは限らんだろう。聖杯が本当に万能の杯であるのなら、セイバーを救う事はできる」
「え―――?
けど、アンタはさっき、それは不可能だと―――」
「ああ、セイバーをサーヴァントでなくすのは不可能だ。
だがおまえが望んでいるのは、セイバーを人としてこの世に留まらせる事だろう。
ならばそう難しい事ではない。
聖杯戦争が終わった後、サーヴァントを人として生かす事もできる。もっとも、死んでしまえば死の直前にいる彼女に戻る事になるが」
「―――それは、どうやって」
「英霊とサーヴァントは似て非なるモノ、という事だ。
通常、英霊として召喚されるモノには意思などない。
連中はただ、目的を果す為だけの道具として召喚され、消え去っていく」
「だがサーヴァントは別だ。
アレは聖杯によって呼びだされた“本体”だからな。
それならば、世界に留めておくだけで人として生きていこう」
「そんな事、できるのか。
前回、セイバーは聖杯が壊れた時点で消えたと言っていた。聖杯がなくなってしまえば、サーヴァントは残っていられないんじゃないのか」
「無論だ。サーヴァントを呼び出すのは聖杯であり、その後に彼らを維持させるのがマスターの役割だ。
だが、それも聖杯がマスターの後押しをしているからでね。本来、魔術師一人程度の魔力ではサーヴァントを維持できない。聖杯という強大な魔力提供源がなければ、サーヴァントは消えてしまう」
「……だろうな。なら」
「いや。足りないのならば補えばいいだけの話だろう。
サーヴァントにとって、魔力提供など代償行為にすぎない。連中の本質は魂喰いだ。存在濃度が薄れ始めたのなら、他人の魂で補充すればよい」
「な――――」
それは慎二のように、無差別に人を襲えという事か。
「ふざけるな、そんな事できるものか……!
だいたいな、セイバー自身そこまでして残ろうとは思ってない……!」
「そうか。ならば、あとは聖杯の中身を使うしかあるまい。―――簡単な話だ。おまえが真実セイバーを人として生かしたいのなら、聖杯をセイバーに飲ませればいい」
俺の反発など予測していたのか。
神父の目は、初めからこの結論に達したかった、と告げていた。
「―――それは、聖杯で俺の願いを、叶えろってコトか」
「いいや。それはおまえの願いとは関係がない。聖杯の中身はそういうモノだ。
凛から聞かなかったか? サーヴァントは杯に満ちた水を飲むコトによって、現世で二度目の生を授けられるのだと。
もっとも、それはこの時代の使い魔として立場を確立したにすぎぬがな。肉体は依然サーヴァントのままだが、マスターさえ存命ならばこの世界に留まれるようになる」
「――――けど、それは」
結局、なんの解決にもなってないんじゃないのか。
いくらこの世に留まれるようになったからって、サーヴァントのままじゃ意味がない。
マスターからの魔力提供がなければ存在できず、そうして長くこの世に留まっても、死んでしまえばまたあの丘に戻るだけだ。
……それに、セイバーがそんな事をする筈がない。
あいつは二度目の生になんて関心はないし、聖杯を別の事に使うと言うのだから。
ああ、いや、そもそも―――全ての鍵となる聖杯は、まだこの世に残っているのか。
「……話は判った。結局、聖杯を手に入れるしかないって事だろう。けど、聖杯はあるのか。親父が壊したんなら、もう」
「もう、なにかね」
「……聖杯がないのなら、戦う理由がない。こんな馬鹿げた殺し合いは無意味だ」
「戦う理由はない、か。何を今更。
――――もとより、君に理由などない」
言われて。
ピタリ、と時間が止まった。
―――戦う理由などない。
それは以前、この神父が口にした事だ。
あの時―――あの時は、まだマスターになったばかりで、戦う理由が希薄だった。
だから聞き流した。ただの皮肉と無視していた。
だが、今はどうだ。
戦う理由はある。もし聖杯があるのなら、こんな戦いは終わらせて、それで、出来るのなら、セイバーに聖杯を渡してやるんだ。
戦う理由はある。
ちゃんと理由はある。
なのに、どうして――――こんな何でもない言葉で、胸の中のモノを吐き出しそうなほど、体が震えてしまうのか―――
「―――まあよかろう。今は衛宮士郎の傷を切開する時ではない」
……声がした。
あまり聞きたくない男の声。
だが、今はそれで、正体不明の吐き気が収まってくれた。
「聖杯は有る。もとより聖杯は受け皿にすぎぬからな。
なくなれば、用意した者が新しい聖杯を用意する」
「?……用意した者が新しい聖杯を用意するって……聖杯ってそんな簡単に作れるものなのか」
「器を作るだけならば、な。
無論、相応の技術が必要となってくるが、もとよりその技術なくして聖杯戦争は成り立たなかった」
「……元々、聖杯とは神の血を受け継いだ杯ではなく、古来より伝わる魔法の釜が原形なのだ。
おまえも魔術師のはしくれならば知っていよう。
理想郷《ユートピア》。ギリシア語で“たどり着けない場所”という意味を持つそこには、願いを叶える“万能の釜”があるとされた。
この、あらゆる神話の根底にある“万能の釜”を再現しようとした魔術師たちがいた」
「それがアインツベルン、マキリ、遠坂の三家だ。
連中は何代かに渡って“万能の釜”を再現する儀式を模索し、二百年前にそれを完成させた。
それが一度目の聖杯戦争―――人工物に過ぎない聖杯に“万能の釜”を降霊させ、道を開こうとした儀式だった」
「アインツベルン……? それって、イリヤの家の事か?」
「そうだ。アインツベルンはラインの黄金とやらの伝承に長けていてな。こと、聖杯の模造品を作る技術は神業だった。
だがそれだけでは聖杯を呼び出す事はできん。
相応しい土地と、強力な呪縛が必要となる。
それらを提供したのが遠坂とマキリだ」
「当時、教会と魔術協会は殺し合いの真っ最中だったからな。儀式は教会の目が届かない極東の地が選ばれた。
アインツベルンはそれを見越して遠坂を仲間に引き入れたのだろう。遠坂はここ一帯の霊地の持ち主であり、その師は降霊術の大家だった。
アインツベルンとしては、遠坂なくして聖杯召喚は不可能だった」
「だが、二つの家だけでは容易に裏切りが起きてしまう。
事は三すくみにすべきだ、と考えたのか、遠坂はマキリの家系にもこの話を持ち込んだ。
マキリも長い年月を持つ名門でな。
こと使い魔に関しては優れた技法を持っていた。サーヴァントを縛る令呪を作り上げたのもマキリだ」
「……そうして連中は聖杯召喚の為に一致団結した訳だが、いざ成功してみれば残ったのは殺し合いだ。
一度目の聖杯の降霊は、連中が殺し合いをしている間に終わってしまったらしいな。
そうして代を重ね、聖杯戦争というルールを作り、カタチだけはもとの協力関係に戻った」
「遠坂はこの土地とサーヴァントを象るシステムを提供し、マキリはサーヴァントを縛る令呪を提供した。
そしてアインツベルンは聖杯が宿る器を用意する。
それが彼らの敷いた協力関係という訳だ」
……何が愉しいのか、神父は嬉しそうに続ける。
しかし、そうか……聖杯戦争は儀式だって言っていたが、その発案者がイリヤや遠坂の家だったのか。
「そういう訳だ。聖杯を用意したのはアインツベルンだからな。
前回切嗣に裏切られた彼等は、最強の切り札を投入してきた。おそらくアインツベルンの娘が聖杯を持っているのだろう」
「――――?」
イリヤが聖杯を持っている……?
……おかしいな、そんな荷物はなかった筈だが……。
「さて、これで気は済んだか。おまえが何を悩むのかは私には知り得ない。
だが、解決する手段は聖杯のみだ。それが解ったのなら早々に帰るがいい。
戦いはまだ終わっていない。セイバーもつけずに出歩くのは正気の沙汰ではないぞ」
「余計なお世話だ。まだランサーのマスターが残ってる事ぐらい――――」
と、待て。
まだ一つ、訊かなければならない事があった。
「―――言峰。聖杯が消えればサーヴァントも消える。
アンタはそう言ったな」
「言ったが。何か問題でも?」
「大ありだ。何者かは知らないが、八人目のサーヴァントがいた。セイバーの話じゃ、あいつは前回からずっとこの場に残ってるって話だぞ」
「な、に――――?」
よほど意外だったのか。
言峰は目を見張ったまま、何を馬鹿な、と呟いた。
「どういう事だ言峰。アンタなら少しは判ると思って来たんだぞ」
「…………。消えなかったサーヴァントがいる、という事だな。
そう不思議ではあるまい。前回の戦いは、セイバーが聖杯を破壊する事で終わったのだ。
つまりセイバーの他にもう一人、サーヴァントは残っていた」
「セイバーは潔く消えたが、そのサーヴァントが現界する事を望んだのなら話は容易い。
ソレは足りない魔力を魂を喰う事で補い、この十年間生き続けたのだろう」
「―――そんなバカな。あいつの気配は異常だった。
あんなのが十年間もいたら、親父だってアンタだって気が付くはずだ」
「……分かっている。おそらく匿っている者がいたのだろう。そのサーヴァントのマスターか、もしくは……」
「もしくは、なんだよ」
「聖杯戦争を知りながら、マスターの資格を持ち得なかった魔術師だ。
そういった人物には一人心当たりがあるのだが、それもないな。マキリのご老体はとうに隠居している」
納得がいったのか、言峰はソファーから立ち上がる。
「話はここまでだ。今の話を聞いては、監督役として放ってはおけん。
そのサーヴァントに関しては私が調べよう。おまえは残るランサーとの戦いに専念するがいい」
これ以上話すことはない、と言峰は出口へと歩いていく。
「――――――――」
……確かに、これ以上ここにいても得る物はない。
無言で出口へ案内する言峰を追って、この暗い石室を後にした。
教会を後にする。
その背中に、
「聖杯を手に入れればセイバーは死ぬ。その意味が解っているのだろうな、衛宮士郎」
確認するように、そんな言葉が投げられた。
「――――」
神父は扉の前から、地上にいる俺を見下ろしていた。
……聖杯を手に入れればセイバーは死ぬ。
そんな事、言われるまでもなく解っている。
セイバーの目的は聖杯を手に入れる事だけで、聖杯の力を欲していない。
そうして聖杯さえ手に入れば、セイバーを縛るモノはなくなる。
彼女は死の直前で此処にいる、という立場から解放され、そして―――あの丘で、報われない死を迎えるだろう。
「どういう風の吹き回しだ。アンタがそんな忠告をする玉か」
「なに、おまえがセイバーに肩入れしている様は喜ばしいのでな。私なりの厚意として忠告しているのだよ。
聖杯を手に入れてしまえばセイバーは消える。
彼女と共にいたいのならば、聖杯は諦めるべきだろう、とな」
「……それこそ矛盾してる。聖杯がなかったらセイバーを留めておけない」
「聖杯に頼る事はあるまい。先ほどのサーヴァントの話もある。セイバーを存命させたいのなら、魂を与え続ければいいだけではないか?」
「――――ふざけるな。そんな事、できるもんか」
神父を睨む。
「そうか。それは残念だ」
俺の凝視など堪えていないのか、神父は愉快そうに笑っていた。
「ならば聖杯の中身に期待するしかないな。
おまえのサーヴァントが望まないにしても、令呪を一つ残しておけばそれでいい。おまえの望みは、それで叶う」
―――神父は言う。
セイバーが嫌がろうと構わない。
マスターであるのなら、令呪の力で無理遣り聖杯を飲ませてしまえばいいと。
「――――――――」
「おや、失言だったか。そう睨むな、あくまで今のは忠告にすぎぬ。
まあセイバーの意思を尊重するのもよかろう。彼女の人生だ、我々が口を出す権利はない」
「例のサーヴァントに関しては明日中に調べ上げよう。
気が向いたのならもう一度訪れるがいい」
教会の扉が閉まる。
聳《そび》える伽藍《がらん》を見上げながら、二度と来るかと歯を鳴らした。
◇◇◇
夜の橋を渡る。
いつかセイバーと歩いた場所。
あの時は何も考えず、ただ、この夜景を眺めていた。
“聖杯を手に入れればセイバーは死ぬ。
その意味が解っているのだろうな、衛宮士郎―――”
「っ――――」
解ってる。
そんなコト、言われるまでもなく理解してる。
……なのに、なんでこんなにこんがらがっちまってるのか。
セイバーは聖杯を手に入れてはいけない。
だというのに、あいつを救えるのは聖杯の力だけときた。
“彼女と共にいたいのならば聖杯は諦めるべきだろう。
それでも存命させたいのなら、彼女に魂を与え続ければいい――――”
……出来るか、そんなコト。
仮に―――もし俺が望んでも、セイバーは望まない。
そんな事をするぐらいなら、あいつは自分から消える。
自分から消えて、それで―――また、聖杯戦争《こんなこと》を繰り返すのか。
“ならば、令呪を一つ残しておけばそれでいい。
―――おまえの望みは、それで叶う”
「っ……! この、黙りやがれクソ神父……!」
足を止めて、呪縛を振り払うように手すりを殴りつけた。
きいーん、という音が夜に響く。
……周囲の物音はそれだけ。
通りには人の気配も、道を通る自動車もない。
「くそ……何をその気になってんだ、一体」
手すりに体を預けて、吐き出すように呟いた。
言峰の言い分なんて無視すべき物だって分かってる。
だが、あいつの言葉には否定できない魔力があった。
……俺は何がしたくて、何の為に戦おうとしたのか。
初めは聖杯戦争を終わらせる為だった。
それが薄れていって、二の次になったのはいつからだろう。
自分だけで戦おうと意地を張っていた時からか。
己の無力さを痛感して、セイバーと手を重ねた時からか。
それとも。
廃墟の夜、肌を合わせた後、彼女の為に剣を作り上げた時からか。
―――そんなもの、全て誤魔化しだ。
考えるまでもない。
俺は、あの時。
あの土蔵で、月の光に照らされたあいつと出逢った時から、とっくに心が決まっていた―――
「――――」
ただ、それだけなら良かった。
夢に落ちて、知らなければ、おそらく気が付かぬうちに終わっていただろう。
だが知ってしまった。
放っておけないと思って、失いたくないと願ってしまった。
まだ、こうしていたいと。
あの笑顔を、まだ見ていたいのだと願っている―――
「―――痛」
剣の丘で独り、夕日を見つめていた少女。
その姿を思い返すと胸が痛い。
彼女には自分の時間は一つもなかった。
……俺は、それがたまらなくイヤだったのだ。
女の子は泣かせるな、と切嗣は言った。
俺も泣き顔より笑顔の方が格段にいいと思う。
だから笑わないセイバーには苛々していた。
なのに、彼女は言っていた。
笑えと言う自分に、笑っている俺を見ている方がいいと。
―――それは。
望遠鏡から覗く、届かない星と同じ。
「―――――――くそ」
夜空を見上げる。
決して手の届かない星を見て、
ぽたり、と。
頬に、正体の掴めない涙が落ちた。
「――――俺、あいつが好きだ」
誰に言うでもなく、そう口にした。
いくら鈍感な自分でも、こうなっては認めるしかない。
もうどうしようもない。
俺は訳もなく泣けてしまうぐらい、あいつのコトが好きなのだと。
「お帰り。随分と遅かったわね」
――――と。
玄関には、遠坂が立っていた。
「と、遠坂……? おまえ、なんで――――」
「玄関で立ち話もなんでしょう。疲れてるみたいだし、こっち来なさいよ」
むんず、と問答無用で人の腕を引っ張って、遠坂はずんずんと歩き出して、
自分の部屋まで連れてきてしまった。
「はいお茶。外寒かったでしょ」
ぶっきらぼうに言いながらも、なにかと気が利いている。
「……ああ、サンキュ」
正直、熱いお茶は嬉しかった。
隣町からここまで一時間強。
ゆっくり歩いてきたため、体は芯から冷え切っていた。
「で。綺礼のとこに行ってたの?」
単刀直入に訊いてくる。
……そうか。遠坂のヤツ、初めから気づいていたワケか。
なのに止めもせず、帰ってくるのを待って、こうしてお茶を煎れてくれている。
……気持ちが固まった事もあったし、遠坂の屈折した心遣いも嬉しい。
だからだろう。
「ああ、行ってきた。訊きたい事があったから」
隠し事はせず、素直に返答した。
「そっか。じゃ、何をしてきたかは訊かない。士郎もそれでいいでしょ?」
「そうだな。それに、あんまり実のある話じゃなかった。
ただ今の状況を確認しただけだったし」
「そ。でも驚いたな、セイバーがまだサーヴァントになりきってないだなんて。最強のサーヴァントが、その実一番半端なサーヴァントだったなんて悪い冗談じゃない」
「そうだな。セイバーはサーヴァントになんてならなければ良かったんだ」
素直に頷く。
「意外ね。士郎とアーチャー、もしかしたら気があったのかもしれないな。アイツもね、士郎と同じこと言ってたから」
「……え。アーチャーって、あいつが?」
「そ。アーチャーも言ってたわ、自分は後悔してるから、セイバーにはそうなってほしくないって」
「……? なんであいつがセイバーの心配をするんだよ。
あいつ、セイバーを嫌ってたじゃないか」
「そうなんだけどねー。やっぱりさ、アイツってセイバーに縁《ゆかり》の騎士だったんじゃないかな。
初めてセイバーと戦った時、アイツ明らかに手を抜いてたでしょ。あの時から怪しいって思ってたんだ」
「そうなのか。けど、セイバーはアーチャーに見覚えはないようだったぞ」
「そうなの? けどセイバーは王様だったんでしょ?
なら国民を全て把握していた訳でもないし、忘れてる事だってあるんじゃない?」
「……あのな。そういうコト言い出したらそれこそキリがないじゃないか。顔を見て思い出せないようなヤツなら、それは知らないって事だと思うけど」
「そうでもないわよ。伝説だとさ、アーサー王の臣下には運が悪くて王都《カメロット》を追われた騎士も多いでしょ。アイツ、その一人だったのかもしれないわ。
アイツが正体を隠していたのはわたしにじゃなくてセイバーに対してだった――っていうんなら、わりと納得がいくんだけど」
遠坂はいつになく積極的に話しかけてくる。
「――――――――」
これもこいつ流の気の使い方なんだろうか。
あんまり効果はないと思うけど、遠坂はいいヤツだ。
普段は容赦ないクセに、弱ってるヤツを見ると助けようとするあたり、生粋の姉御肌というか。
……そうして、二人でお茶を飲むこと数十分。
ついに根負けしたのか、遠坂は真顔で向き直ってきた。
「で。貴方はどうしたいの、士郎」
「うん。とりあえず明日はデートする」
それ以外考えつかないし、帰り道に決めたんだから当たり前だ。
……と。
さっきまでのしんみり度は何処にいったのか、遠坂はとんでもなく失礼な顔をしたあと。
「ぷっ―――はは、あはははははははは!」
さらにとんでもなさ上乗せで大笑いしはじめやがった。
「ひひ、ちょっと待って、こころ、心の準備が、あは、あははは、すごいってば、すごいワガママぶりよ士郎!」
……くそ、冷静に考えればこうなるって判ってたのに俺のバカっ……!
「う、うるさいっ! わがままで悪いかっ。そんな場合じゃないってわかってるけど、絶対に邪魔はさせないからなっ!」
「ち、ちがうちがう、士郎、士郎がおかしくて、ひー」
お腹を抱えながら、バンバンと人の背中を叩く遠坂。
「くっ…………」
なんか、これって今までで一番ひどい扱いではなかろうか。
「ひ、ひひ、は――――あー、心底笑ったわー」
はあはあと呼吸を整える。
「……そりゃ良かったな。こっちは全然笑えなかったけど」
口をとがらせて文句を言う。
と。
「デート、がんばんなさい。わたし、貴方たちのこと好きよ」
さっきまでの態度とは一変した穏やかさで、遠坂はそんな事を口にした。
「あ……う。おう、がんばる」
かろうじてそれだけ口にする。
……まったく、今のは不意打ちだ。
あんな顔でそんな事を言われたら、こっちは頷くぐらいしかできないじゃないか――――
部屋に戻る。
セイバーは眠ったままで、屋敷は何事もなかったように平穏だった。
今日はあいにくの雨だったが、明日はどうなるだろう。
ゆっくりと流れていく雲を見上げながら、明日は晴れますように、なんて、ガラにもない事を口にした。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
―――で。
気が付けば、もう朝になっていた。
「……なさけない。けっきょく一睡もできなかった」
溜息をつきながら目覚まし時計を止める。
今日は、セイバーがなんと言おうがデートなのだ。
今まで行かなかった場所、色々な遊び場に連れ回して、親切の押し売りとばかりに楽しませるのが最優先事項なのだ。
そのために無い知恵しぼってデートコースなんぞを考えこんでいたのに、気が付けば目覚まし時計が鳴っていた。
「…………」
目覚まし時計は、万が一の為セットしていた。
昨夜、いくら考えてもこれといった具体案が浮かばず、これは長丁場になるな、と遠坂から借り受けたものだ。
信念を曲げてセットしたわりには、まったく役には立たなかったが。
「……考えて見れば。俺、デートなんてしたコトなかったっけ」
はあ、ともう一度溜息をつく。
ようするにそういうコトなのだ。
緊張して一睡もできなかった事より、一晩考えて女の子が喜びそうなデートコースが思いつかなかったのがショックなのだ。
「―――いい。こうなったら出たトコ勝負だ。手当たり次第連れ回して、あいつに楽しみってヤツを思い知らせてやる……!」
そう、セイバーだって女の子なのだ。
ともかく可愛らしい店をハシゴしていけば楽しくないワケがない。
いや、どこかこの作戦には欠点があるような気がするが、ともかくそうと決めたらそーなのだ。
他に案があるワケでもなし、今日はセイバーが根を上げるまで娯楽まみれにしてやるのだ。
「では、イリヤスフィールはまだ目を覚ましていないのですか?」
「ええ、まだ眠ったままよ。あの様子なら目を覚ますのにもうしばらくかかりそうだけど、今日はそれが幸いしたわね。
イリヤ、起きてれば士郎の後について回って邪魔してただろうし」
「そうですね。今までのようにシロウに同行されてはたまらない。
昨夜はああなってしまいましたが、今日からは本気で残るマスターを捜すのです。シロウにはイリヤスフィールに構っている余裕はありません」
「ああ、そっちの邪魔じゃないんだけど……ま、いっか。
わたしが言っても仕方ないし、これは士郎とセイバーの問題だし」
きしし、と笑いを押さえる遠坂。
「は? 私とシロウの問題、ですか……?」
セイバーは視線で疑問を訴えてくる。
「――――――――」
朝食は済んだし、時間としては頃合いだ。
セイバーはマスターを捜す気満々だが、こっちだって気力なら負けていない。
ここはもうスッパリと、男らしく切り出すだけである。
「その事だけどな、セイバー。
今日は隣町に出るから、支度があるなら今のうちに済ませておいてくれ」
「マスター捜しですか? それでしたら隣町ではなく郊外の方が確実だと思いますが―――」
「そんなんじゃない。二人で遊びに行くんだから、郊外になんて行っても仕方がないだろ」
「は――――?」
セイバーが固まる。
……後ろの方で笑いを堪えているヤツには、あとで絶対仕返ししてやらねばなるまい。
「あの、シロウ……それはどういう意味でしょうか。遊びに行く、とはシロウと凛ではなく、その」
「俺が行くんだから、付いてくるのはセイバー以外いないだろ。遠坂はうちでイリヤの面倒を見て貰うから関係ない」
「―――何を馬鹿な。私とシロウが隣町を探索したところで成果は薄い。そのような事をしても意味がない。一体何をしようというのですが、貴方は」
まっすぐに不満をぶつけてくるセイバー。
……予想通りと言えば予想通りだが、これだけハッキリ言っても“マスターを捜す為に町に出る”と思っているあたり、前途は多難だ。
「……まいった。ここまで言っても判らないんだなセイバーは。ようするに、俺はデートしようって言ってるんだけど、どうかな」
遠坂の視線を無視しながら告げる。
どこまで判ってくれたのか、セイバーは「そのような言い方では判りません。具体的な内容を提示してくれませんか、シロウ」
なんて、ますます不機嫌そうに訊いてくる。
「――――――――」
それで、カチン、とスイッチが入った。
……こういう事に関して、気を遣うのは逆効果だ。
セイバーにはきっちりかっちり、判りやすく言った方がお互いの為っぽい。
「シロウ。町に出るというのなら従いますが、デートをしようとはどういう事なのか、説明してください。
いくらこの時代に馴れているといっても、私にも知らない単語はあります。あまり専門的な略語は使わないでほしい」
「別に専門的な単語じゃないぞ。
知らないなら教えてやるけど、デートってのは、女の子と遊びに行くって意味だ」
「は――――?」
ぴたり、と固まるセイバー。
「……? 女の子、とは、私の事を言っているのでしょうか……?」
呆然としたまま呟く。
もちろん、と頷くと、セイバーはますます不思議そうに顔をしかめた。
「……言葉の意味は判りましたが、意図がまったく判りません。そんな事をする理由はなんですか」
「――――む」
そう来るとは予想外だった。
デートの意図なんて判りきっているのだが、面と向かってセイバーに言うのは憚られるというか――――
「ああもう、そんならしくない単語を使うから勘違いさせるのよ。デートなんて言わずに、もっと判りやすい言葉で説明すればいいのに」
見るに見かねたのか、口を挟んでくる遠坂。
「いいセイバー? デートってのはね、ようするに逢い引きのコトなの。
士郎は遊びに行くって言うけど、つまるところ、男の子が好きな女の子にアピールするチャンスってワケ」
「っ――――!」
思わず咳き込む。
そりゃ遠坂の言い分は正しいが、デートと逢い引きとでは激しく違う気がする。
「――――――――」
……けど、口だしするまでもない。
あの様子からして、セイバーもデートの意味をようやく理解してくれたようだし。
「―――そういうコトだセイバー。
今日一日は戦わないで町に行く。そもそも、昼間は人目につくから戦えないだろ。ならどう過ごしてもいいはずだ」
「―――それはそうですが……しかし、あまりに意味がありません。そのような事をしても、シロウには何ら得るものがないのではありませんか」
「そんな事はないけど、別にそうでも構わないぞ。
今日はセイバーの為に使うって決めたんだから、俺の事は気にするな。
とにかく、今日は絶対に町に行く。こればっかりは何を言われても変えないからな、セイバー」
キッ、と正面からセイバーを見つめる。
「――――――――」
セイバーは難しい顔で思案したあと。
「……では、私が反対した場合でも、シロウは一人で町に出るのですか?」
「ああ、絶対に行く。そうでなきゃ一晩考え抜いたのがバカみたいだ」
「…………それでは、私が付き添わない訳にはいきません。サーヴァントとして、マスターを一人にする事はできないのですから」
はあ、と深呼吸をした後。
いつもの調子で、セイバーはそう答えていた。
「――――――――」
サーヴァントだから行動を共にする、というのは、正直ガツンと来た。
それでもセイバーを連れ出す事には成功したのだ。
なら後は、細かいことを考えずセイバーを連れ回してやるだけだ――――
「行ってらっしゃい。お土産よろしくねー」
などと、最後まで人を肴にして楽しむ遠坂に“地獄へ堕ちろ”とジェスチャーして外に出る。
「―――それで。
具体的にはこれからどうするのですか、シロウ」
「どうするって、とりあえず隣町に出る。交差点からバスが出てるから、それに乗って行こう」
坂道は妙に静かだった。
平日の朝九時過ぎ、町は段々と活気づいてきているが、まだ出かけるには些か早いのだろう。
道に人影はなく、通りは貸し切り状態だ。
「……そういえば、学校を休むのに抵抗がなくなってるな。ここんところずっと家にこもってたし」
「当然でしょう。シロウはマスターなのですから、おいそれと出歩く方がおかしいのです」
ぴしゃり、とつっこんでくる。
……無言で背後に控えている、というのはいつもの事だけど、今日は様子が違う。
控えめに言って、背中にピリピリと威圧を感じるというか。
ともかく、セイバーは普段に増して手強さを増している。
バスに乗る。
ほんの一時間前までなら乗客でぎゅうぎゅう詰めなのだが、この時間の利用者は数えるほどしかいない。
椅子に座っているのは子供連れのおばあさんぐらいで、ここもほとんど貸し切り状態だった。
「セイバー、一番後ろに座ろう」
なぜか一番前に座ろうとするセイバーに声をかけて、後ろの大きな座席に座る。
「…………」
セイバーは黙ったまま、流れていく景色を挑むように見つめている。
……その姿を盗み見て、今更ながらに、自分がどれだけとんでもないコトを実行しているのか思い知った。
隣町に向かうバスっていうのは、自分にとって当たり前の日常だ。
その日常の中に、あり得る筈のない非日常が混入している。
……まあその、つまり。
有り体に言えば、これからホントにデートなんてするのかー! と頭ん中がガシガシと六面体パズルのように変形し始めたというか。
「――――――――」
―――あ。
やば、ちょっと、本格的に、手のつけられないぐらい緊張してきたぞ。
「――――――――」
すう、とセイバーに気づかれないように深呼吸をする。
で。よせばいいのに、もう一度セイバーの横顔を盗み見る。
「っ――――」
どくん、と一際高く心臓が鳴る。
……座席に座ったセイバーは、俺の知らないセイバーだった。
いや、セイバー自身はいつも通りで、違うのはこの場所だけ。
だというのに。
……それだけで否応なしに、彼女が『別物』なのだと再確認してしまったのだ。
衛宮の家では気が付かなかった事。
こんな、自分にとって当たり前の日常は、セイバーがいるだけで別世界のように思える。
金砂のような髪も、緑の瞳も、それだけで他を圧倒する美しさだと思う。
今まで比較するモノが少なかったから、そんなコトも忘れていた。
……セイバーと出会ったばかりの頃を思い出す。
セイバーが苦手で避けていたのは、きっと、セイバーに見とれてしまうのが恥ずかしかったからだ。
セイバーがなんて言おうと、俺にとってはセイバーは剣士である前に女の子だったのだし。
そんな彼女にどう接していいのか判らず、自分の気持ちにも気づかなかった。
「……………………」
どうにも順番があべこべだ。
もう後戻りできないところまでセイバーを信じるようになって、その後にデートをすると決めた。
それだけでも順番が逆だっていうのに、このバスから下りたら一日が始まるっていう段階で、ようやく、好きな女の子とデートをするってコトがどれほど大事件なのか気づいたってんだから。
が、それがどうした。
もともと出来る事を全力でやるしか能がないんだから、今更怖じ気付いてなんていられない。
「――――――――」
心を落ち着かせて、くだらない弱気を振り払う。
バスは橋を渡りきって、ビルの立ち並ぶ開発地区に入っていく。
よし、と笛のように息を吐いて覚悟を決める。
聞き慣れたアナウンスが、次は新都駅前と告げていた。
◇◇◇
まだ午前九時の中頃だというのに、駅前のパークには人の姿が多かった。
大抵の店は十時開店なのだが、カフェテラスやちょっとした本屋などはもう店を開けている。
それだけでも人の数は深山町とは比べ物にならず、パークの賑わいは休日のそれと同じだった。
「……………………」
バスから下りて、セイバーは不機嫌そうにパークを眺めている。
……それも当然。
セイバーはデートには賛成していなかったし、なおかつ、通り過ぎていく連中はそろってセイバーを物珍しげに眺めていくのだ。
セイバーだって気分がいい筈がない。
「…………まずったな。考えてみれば、朝からセイバーを連れてくれば当然こうなる」
だが、そんなのは今日一日ついて回るコトだ。
和らげる方法があるとしたら、人の視線が気にならないぐらいセイバーを楽しませるしかない。
「――――よし」
ぱん、と拳を打ってセイバーに振り返る。
「セイバー。初めに聞いておくけど、どこか行ってみたい所はあるか? せっかく来たんだから、今日ぐらいは好きなコトをしてもいいだろ」
「さあ。別に、これといって興味のある場所はありませんから。そもそも、私にそのような選択をする知識はありません」
「ほんとか? ……そりゃ参ったな。じゃあホントに、ここからは出たトコ勝負な訳か。セイバーに行きたいトコロがなくて、こっちもドコに行っていいか判らないんじゃ前途多難だ」
「……まさかとは思うのですが、何の計画も立てていないのですか、シロウ?」
「ん? いや、少しはあるけど、中身はガラガラ。とりあえず手当たり次第に店をハシゴしよう」
いやまあ、それも難しいと言えば難しい。
俺が入って退屈しない場所なら知っているのだが、女の子が喜ぶ店なんて想像もつかないし。
……まったく、こんなコトなら一度ぐらいはクラスの女子に付き合っておくんだった。
「……まったく。反論する訳ではありませんが、シロウはどうかしています。休憩をとろうという考えはまだいい。ですが、その休憩すら明確な予定を立てていないとは何事ですか」
あ。セイバーが説教モードに入った。
……道場以外でセイバーがこう連々《つらつら》と文句を言いだすのはこれが初めてだ。
もとから気乗りのしなかったコトにくわえ、道行く人々の好奇の目でピリピリしているとは思ったが、まさかこれほどとは。
「かねてから貴方の見積もりの甘さには一言したかったのです。貴方は周りの事は目に入ってるクセに、どうも自身に対する扱いがぞんざいです。
結果、齟齬《そご》を埋める為に貴方自身が代価を払わなくてはならなくなる。
―――と、聞いているのですかシロウ!」
「聞いてるよ。ようするに今こうしているのが納得いかないんだろ、セイバー。
まあ俺に連れ回されてもつまらないのは目に見えてるし、嫌がるのは当然だろうけど」
「え―――いえ、そういう事ではなく、私は―――今は、このような事をしている場合ではないと」
「それも判ってる。けどきかない。俺は今日一日、セイバーに付き合ってもらうって決めたんだ。
こればっかりはなんて言われようと曲げない。絶対だ」
正面からセイバーを見据える。
セイバーは呆然とこっちを見返してくるだけだった。
「―――ただ、言いたい事があるなら聞く。
文句もあるだろうし、そういう事は今のうちに言っておいてくれ。その方がお互い気兼ねしなくて済む。
セイバーが俺とデートするのが嫌だっていうんなら、別の方法だって考える」
「ぁ……いえ、なにもそこまでする必要はないと言いますか……私は、その」
らしくなく、視線を泳がせて言葉を濁すセイバー。
「なら文句はないんだな。じゃあ行くぞ。
セイバーにリクエストがないんだから、どこ行ったって怒るなよ」
まずは水族館とか、そういったよく聞く定番だろう。
よし、と意を決してセイバーの手を握る。
「あ、あの、シロウ! も、文句はありませんが、何も手を掴む必要はないのではありませんかっ」
「? いや、時間も勿体ないし、少し走るからな。案内するから、はぐれないように付いてこい」
「え……いえ、こんな状態では、その……!」
セイバーの答えを待たずに走り出した。
セイバーにタンカをきった以上、もう情けないところは見せられない。
あとは思いつくかぎりのエスコートをするだけだ。
セイバーの手を握ったまま、人混みを避けて走っていく。
観念したのか、なにやら色々と文句を言っていたセイバーも大人しくなってくれた。
さて、時刻は午前十時前。
正午の昼飯時までの二時間、有意義に使ってセイバーの度肝を抜いてやろう――――
一言で表すと、嵐のような二時間だった。
普段いかないブティックにも足を運んだし、ルールを教えながらボウリングを嗜んだりもした。
水族館は見つからなかったが公園で鳥に餌をやったりもした。
趣味で骨董品屋に立ち寄ったのはご愛敬だし、映画を避けたのは賢明だったと今でも確信している。
ともかく、とことん女の子が喜ぶような場所へアタックを繰り返し、撃沈したり玉砕したりした二時間だった。
……だが、これは間違っても世間一般でいうデートじゃないと思う。
どっちかっていうと真剣勝負で、根を上げた方が負けっていうデスマッチだ。
セイバーはどこに連れて行ってもいつもの調子だし、時には本気で怒っているのでは、と不安になるほど黙り込む事もあった。
お世辞にも楽しんでいた、と説明するのは憚られるぐらいの無反応ぶりに対して、こっちは次こそは次こそはと躍起になる。
結果、セイバーを笑わせようと意地になってあちこち駆け回ったワケだが、さしたる成果も得られずに正午になってしまった。
で。
セイバーの『シロウ、お昼の時間です』というつっこみで昼飯時なのだと思い至り、とりあえず小休止をとる事にしたのだが。
「…………なんだ、ここ」
テーブルに案内されて、思わずごちた。
“昼食なら川沿いの喫茶店がお薦めよ” それが昨夜、遠坂が俺にした唯一のアドバイスである。
それに従って店を選んだものの、まさかこんな気難しそうな店とは思ってもみなかった。
「……………………」
とりあえずメニューを手に取る。
幸い、お品書きには日本語訳も入っていたんで読み上げる分には困らない。
困るのは聞いた事のない料理名ばかりという事と、値段が法外だという事だけだ。
「……火星かここは。なにを頼んでいいのかまったく判らないぞ、本気で……」
むー、とメニューを見てうなる。
「シロウ……? ここには昼食を摂るために立ち寄ったのではないのですか?」
対面の席から妙に弱々しい声が一つ。
「そうなんだが、いかんせん勝手が違うというか」
顔をあげる。
と。
そこには、追い詰められたウサギのようなセイバーの顔があった。
「セイバー……?」
「ここでは昼食にならないのなら、今だけでも屋敷に戻りましょう。シロウが用意してくれる物の方が、私は好みです」
「え……それは家に帰りたいって事か?」
「いえ、屋敷に帰りたいわけではなくですね、その……今日はひどく緊張したので、普段より疲れてしまったのです」
「ほんとか? ……そっか、ここで飯にして一息ついたら、また町を出歩こうと思ったんだけど……セイバーが疲れたんなら、しばらくここで休憩しようか」
「まさか、そのような事はありません! 疲れたというのは語弊がありました。その、正しくはですね」
セイバーの口が止まる。
きゅう、という小さな音は、幸い俺の耳にしか届かなかったようだ。
……なんだ、お腹が減ってたんなら減ってたって言えばいいのに、セイバーのヤツ。
「申し訳ありません。つまり、昼食は早めにしてもらえると助かる、という事です」
「了解。そうだな、面白みがないけど無難なところを頼んでみて、さっさと飯にありつこうか」
軽食でいいんなら話は早い。
ランチメニューらしき物を二つ選んで、てっとり早く昼食を摂る事にした。
食後のコーヒーを飲みながら、午後の予定を考えてみる。
午前中で学んだのは、ボウリングだのなんだのという、体を動かす遊びはあまりよろしくない、という事だ。
セイバー本人は勝負事になると途端に真面目になる。
それはそれで嬉しいのだが、只でさえ目立つセイバーが余計に目立ってしまうのだ。
で、一ゲーム終えた後、人目につくのを避けたがっていたセイバーは、周囲からの注目の眼差しにむーっとヘソを曲げてしまった。
「そんなワケで体を動かすのは避ける、と……。
なあセイバー。二度目になるけど、どこか行きたい所ってあるか?」
「私にですか? いえ、特にはありません。私では分かりませんから、このままシロウにお任せします」
言って、セイバーはティーカップを手に取った。
セイバーが食後に頼んだのは紅茶で、味の方も随分と気に入ったらしい。
うちでは紅茶は滅多に出さないし、出したところでインスタントだ。
どうも紅茶党らしいセイバーからみれば、こと飲み物に関して不満があったみたいだ。
いや、今晩からは気をつけよう。
「――――――――」
セイバーは何をするでもなく、ただ紅茶を飲んでいる。
嬉しそうという訳でもないし、退屈そうという訳でもない。
一言でいうなら自然、だろうか。
窓から差し込む陽射しの影で、凛とした姿勢でティーカップを口に運ぶ。
その姿は初めて見るクセに違和感がなく、以前から知っているようにさえ思えた。
……何故そんな錯覚を覚えたのか。
俺が知っているセイバーは、常に剣を持って戦う、張りつめた少女だというのに。
「――――――ああ、そうか」
けど、当然と言えば当然だ。
俺が知っているのは、剣を手にした後の彼女でしかない。
剣から手を離せば、セイバーはいつだって穏やかだった。
この光景が新鮮に映らず、自然に感じられるのは、それが彼女の本質だからだろう。
いくら剣士として優れていようが、セイバーはこうしているのが普通なんだ。
むしろ剣を持っている方が、この少女には異常な事なのかもしれない。
……いつか、彼女は戦いになど向いていない、と夢に思った。
それは間違いではないと思う。
どんなに優れた剣技を持とうと、どれほどの戦場を駆け抜けてこようと。
彼女が彼女である限り、それは、決して居心地のいい場所ではなかった筈だ。
……だから、これは当然のこと。
剣を持たず、緊張を解いて体を休めるセイバー。
その穏やかな風景こそ、彼女がいるべき場所なんだから。
◇◇◇
午後になってもやる事は変わらない。
こっちは思いつくかぎりの店に向かって、セイバーは黙って付いてくる。
ただ、それは午前中に比べるとそう辛いものではなくなっていた。
俺が馴れてきたのか、セイバーも観念してくれたのか。
セイバーは相変わらず無口だが、よく見れば怒っていない顔と怒っている顔とで微妙に違っていたりする。
店から出た時にセイバーの足取りが軽かったりすると達成感があるというか、純粋に嬉しかった。
―――で。
様々な角度からセイバーが気に入りそうな要因を検証した結果。
自分でも半信半疑ではあるのだが、ここが一番セイバー受けしそうな店だと判断した。
「なっ――――」
ががーん、と立ちつくすセイバー。
その肩がふるふると震えているのは、怒っているからなのか感動しているからなのか、やっぱり俺じゃ判別がつかない。
「シ、シロウ、ここは」
「町で一番品揃えのいいぬいぐるみ屋だってさ。男子禁制らしいんで、立ち寄った事はなかったけど」
勿論、男子禁制などという規則はない。
ただ利用客が女の子ばっかりで男がいない為、そんな暗黙の了解が出来ているだけだ。
事実、こうしている今もまわりには年頃の女の子たちしかいない。
金髪であるセイバーもじろじろと見られているが、男である俺はギロギロと睨まれている。
あたしたちの聖域に入ってくるなー! と言いたいんだろう。
……まったく同感だ。
俺も、こんなトコに足を踏み入れるヤツは男として認めない。
「ま、せっかく来たんだからまわりは気にせず見て回ろう。セイバー、好きな動物っているか?」
「え……その、おもに獅子や豹などは、愛らしいと思っているのですが……おかしいでしょうか?」
上目遣いで訊ねてくる。
「っ――――」
それで、咄嗟に顔を逸らして笑いを堪えた。
いや何がおかしいって、ライオンが可愛いと思っている自分がおかしいと思っているセイバーがおかしい。
「……シロウ、今の行為は不自然です。なにか、いわれのない怒りを覚えるのですが、私の気のせいでしょうか?」
「あ、いや、わるいわるい。ライオンってのがあんまりにもセイバーらしかったんで、つい笑っちまった」
「っ……! ひ、人の趣味を笑うのはよくないコトです、シロウ! それにライオンも悪くありません!」
「だからすまなかったって。お詫びにいいトコに連れていくから、それで機嫌をなおしてくれ」
笑いをかみ殺しながら店の中に入っていく。
ええっと、見た感じ動物系のぬいぐるみはあっちの方か。
で。
店の最深部から入り口まで戻ってくるのに一時間弱。
セイバーとぬいぐるみの睨めっこを無言で見守ったり、いったいどこからやってくるんだっていうぐらいの女の子の数に神経をすり減らしたり、とにかく今までで一番疲れた一時間だった。
だが恐ろしいコトに、これで店の半分しか回っていない。
セイバーが頻繁に金縛り……ぬいぐるみと睨めっこ状態である……にあうんで、たった半分見て回るだけでこれだけかかったのだ。
セイバーは残った半分に興味津々のようだし、まあ、付き合うしかない訳だけど。
「シロウ……? どうしたのです、溜息をついて。歩き通して疲れてしまったとか……?」
「ん……? ああ、ちょっと疲れた。こんな程度で根を上げるほどやわじゃないんだけどな、ここは特別だ。やっぱり慣れない事はするもんじゃないのか」
はあ、と大きく溜息をつく。
セイバーと歩いて人にじろじろ見られるのは構わないが、こういう女の子だけの店というのはやはり落ち着かない。
気疲れっていうのは、時に足にくるものなのだ。
「そういうセイバーは大丈夫か? こういう店、初めてだろ。疲れたんなら言ってくれ」
「たしかに私も落ち着きませんが、シロウの方が居心地が悪そうです。ここだけではなく、先ほどの店もその前の店でもそうでした。
……まさかとは思うのですが、シロウは自分で行きたくない場所を選んでいるのではないですか?」
「――――――――」
俺にとっては。
なんていうか、セイバーのその言葉だけで、そんな気苦労は吹っ飛んでしまった。
「そうだな。正直に言えば、あえて苦手なところを選んでるけど」
「……やはり。どうかしています、シロウ。慣れないと判っていて、なぜこのような場所ばかり選ぶのです。それでは貴方が」
「いや、だって女の子にはこういう場所のが似合うだろ。
遊びに行こうって連れ出したのは俺なんだから、今日はセイバーの日な訳だし」
「――――」
「それに、そう居心地悪くないぞ。セイバーがいるから大丈夫。となりにこれだけ美人がいるんだから、妬まれるコトはあれ、場違いだって思われるコトもないし」
「な……なにを、馬鹿な。武装していなくても、私はサーヴァントです。いかに非戦闘時だからといって、私を女性扱いする必要はありません。普段通り、サーヴァントとして扱ってください」
「バカはそっちだ。普段通りもなにも、セイバーははじめっから女の子じゃないか。別に今日だけ気を遣ってるワケじゃないし、今日の俺っていつもと違うか?」
「ぁ――――」
呆然と。
今更何かに気づいたように、セイバーは口を開けた。
「いえ、同じです。
貴方は、いつも通りの、シロウでした」
「だろ。だから俺に気を遣う必要なんてないぞ。
ほら、それじゃあ行こう。一番気に入った物を買うんだから、あと半分も見ないとダメだろう」
セイバーの手を取る。
セイバーは黙ったまま俺に腕を引かれて、
「……そうでした。初めからそうだったのに、今になって、気が付くなんて」
ぼうっとしたまま、そんなコトを呟いた。
◇◇◇
馴れない一日は慌ただしく過ぎていった。
セイバーは最後まで声をあげて笑わず、俺も心から笑えるコトなどなかった。
印象に残るほど楽しい出来事があった訳ではないし、 後悔するほどつまらない時間ではなかった。
言ってしまえば、なんでもないコトだったのだ。
これなら屋敷に残って、道場でセイバーと剣の鍛錬をしていた方がセイバーは喜んだかもしれない。
それでも、この一日は悪くなかった。
つまらなくとも面白くなくとも、セイバーをこうして連れ回した事を、俺は最後に誇れる筈だ。
……戦いが終わって、何もかも元通りになった後。
セイバーと過ごした時間が戦いだけだったなんて、そんなのは空しすぎる。
たとえ愚かな行為でも、戦い以外の時間を重ねなくては彼女がここにいる意味がない。
だから、今は胸を張っていい。
……終わりは近い。
全てが終わって、もう戦う必要がなくなった時。
こんなコトもあった、とセイバーが思い出してくれるなら、それは十分に誇れる事なんだから――――
帰り道は徒歩だった。
バスで帰ろうとした矢先、
「帰りは歩いていきましょう」
とセイバーが提案した為である。
風が出ていた。
鮮やかな夕日が橋を赤く照らしている。
「――――あ」
セイバーは何かに気が付いたのか、足を止めて川の中程を見つめていた。
その視線の先にあるのは、ちょっとした瓦礫の山だ。
瓦礫の山、といっても高さはない。
水面より少し低い程度に積み重なった鉄骨やら何やらが、川の流れをわずかだけ歪めている。
事情は知らないが、ずいぶん昔に停泊していた船が沈没したとかで破片が流れ、溜まって山になったのだそうだ。
美観を損ねるので撤去してほしい、という近隣住民の要望が、もう長いコト続いているらしい。
「? なんだよセイバー。アレが気になったのか?」
「いえ、まだ残っていたのかと。アレの原因は私ですから。前回の戦いで水上戦を余儀なくされ、ここで宝具を使ってしまった。
被害は川を干上がらせただけでしたが、運悪く停泊していた船を巻き込んでしまったのです」
「はあ――――? 巻き込んだって、まさかエクスカリバーにか!?」
「そ、そうなのですが、幸い乗客はいませんでしたし、被害も大きくなかったんです。川だって今では元通りですし、そう怒らなくともいいではありませんか。
……私だって、その、反省しているのですから」
「………………」
……気をつけよう。
エクスカリバーを使う時は、せめてこれぐらい広いところじゃないとシャレにならない。
「シロウ……? まだ怒っていますか?」
「え? いや、別に怒ってない。ただびっくりしただけだ。あとはまあ、前回の名残ってけっこうあるんだなって。
中央公園の荒れ野に比べたら、川の瓦礫なんて問題じゃないだろ。ま、船の持ち主は災難だったとは思うが」
「それはご安心を。船の持ち主には保険が下りたと切嗣が言っていましたし、もともと緩衝材にするつもりで船を止めさせたのですから。船体を壁にみたてて、宝具の威力を削いだのですね」
「……なんだ。じゃあ初めから承知で船を壊したってコトか」
「承知していた訳ではありませんっ。アレは切嗣が私に黙って用意していた物です。
……そうですね。切嗣には初めから戦いがどう流れるか読めていたのでしょう。船を用意する前もその後も、一言も口にしなかったので気が付きませんでしたが」
そうして、懐かしそうにセイバーは川を見下ろした。
キラキラと夕日を反射させる水面。
川から吹き上がってくる風はやや強く、セイバーの髪を揺らしていた。
……その姿が、あまりにも綺麗だったからだろうか。
「セイバー。今日は楽しかったか」
このままセイバーが消えてしまいそうな不安に駆られて、訊かなくてもいい事を訊いていた。
「はい? なにか言いましたか、シロウ?」
「言った。今日は楽しかったか、訊いた」
……息を呑む。
セイバーはきょとん、と目を開いたあと。
「そうですね。新鮮でないと言えば嘘になります」
もう、それが起き得ない事のように。
憧れを含んだ声で、そう言った。
「――――」
……だから、答えなど分かっていたのだ。
あと出来る事といえば、そうか、と頷いて帰るだけ。
それだけなら、まだ―――取り返しがつく筈だ。
「そうか」
セイバーの目を見据えたまま頷いて。
「ならまた行こう。こんなの、別に今回限りってワケじゃないんだから」
おそらく、取り返しのつかなくなる言葉を口にした。
「――――――――」
セイバーの表情が固まる。
……俺の言いたい事が分かったのだろう。
彼女は俺をはっきりと見据えたまま、静かに首を横に振った。
二度目はない、と。
これは、今日だけの間違いだと言うかのように。
「―――それは、何故」
セイバーの返答なんて分かっている。
それでも、思った通りのセイバーの答えに納得がいかなくて聞き返した。
「何故も何もない。サーヴァントは戦う為に存在する者です。今日のような行為は、自らの存在を否定する事になる。
シロウが休憩すべきだと判断したから従いましたが、もうこの先は、体を休める必要はないでしょう。
残る敵は少ない。シロウが命じてくれるのなら、今すぐにでもランサーを捜し出したいほどですが」
闘志の籠もった目で見つめてくる。
命令さえあればこの場で戦いに赴くのに、とセイバーは言っている。
それが。
今まで納得のいかなかった部分に、カチンと火をつけてしまった。
「―――なんだよそれ。そんなに戦いたいのか、おまえは」
「当然でしょう。戦えば戦うほど聖杯に近づくのです。
私にとって、戦闘は何よりも優先すべき事です。それはシロウとて解っている筈ですが」
「ああ、解ってる。だからおかしいんだ。
前から言いたかったんだけどな、矛盾してるぞおまえ。
セイバーは戦いが大事だっていうわりに、自分から戦いたいなんて思ってないだろ。他に手段がないから、嫌々戦ってるにすぎないんじゃないのか」
「な……そんな事はありません。私は戦闘を躊躇わない。
勝利する為ならば、手段は選ばないと言ったでしょう」
ああ、たしかに言った。
けどそんな物、戦闘を好む理由にさえなりはしない。
「出来る範囲でだろ。……いいかセイバー。
単純に他のマスターを倒して聖杯を手に入れるっていうんならさ、ライダーみたいに人を襲って力を得ればいい。だけどセイバーはそれがイヤなんだろう」
「―――それは」
「無関係な人間を巻き込みたくないんじゃない。いざ戦いになれば人は死ぬものだとおまえはよく解っている。
そう、だからこそおまえは戦闘を最小限に抑えたがっていた。戦えば死者は出る。だから早く終わらせたいって。―――つまりさ。おまえは、犠牲者が出る戦いってヤツが、たまらなく怖いんだ」
「――――――――」
息を呑む音。
セイバーは幽霊でも見るかのように目を見開いた後、キッ、と歯を噛んで視線を正した。
「違います。私は、戦いを怖がってなどいません」
「……そうだな。確かにおまえは初めから怖がってなんていなかったと思う。そんな個人の恐怖なんて、王の使命とやらで塗り潰されてたんだろうから」
「っ――――」
「だけど、それでもおまえは戦いを嫌ってる。
おまえは、単に強くて、戦いが巧かっただけだ。けど、それはおまえが望んだ才能じゃないだろう。
―――ハッキリ言うぞ。おまえは戦いになんて向いていない。本当は剣を取る事さえ嫌だった筈だ。
戦う事だけが目的だっていうのは、おまえ自身が、おまえを誤魔化すための言い分にすぎない」
―――そんなことに。
どうして周りのヤツらも、おまえ自身も、最後まで気づいてやれなかったのか。
「―――シロウ。いくら貴方でも、それ以上の侮辱は許しません」
「図星だから我慢できないんだろ。認めたら戦えなくなるからな」
ぎり、という音。
セイバーは怒りをかみ殺して俺を睨む。
「――――――――」
それでも引き下がる訳にはいかない。
自分が正しいと信じるのなら、ここで逃げる訳にはいかない。
「……だから、止めろよ。おまえだって止めたがってるんだろ。剣なんて自分に向いてないって分かってるんだろ。なら止めてしまえばいい。
サーヴァントなんて止めて、もっと自分に向いた事をしろ」
本来掴むはずだった人間らしい幸福ってヤツを、今からでも取り戻せばいい。
その為だったら、俺は――――
「―――馬鹿な事を。私に戦う以外の選択肢などありません。この私は聖杯を手に入れる為だけのモノです。
王の誓いを守る為にこの身を差し出した。それ以外の自分の使い道など、私には許されない」
「ば――――」
聖杯を手に入れるだけのモノ。
何が頭にきたって、それが一番頭にきた。
なんだってそう、自分自身に言い聞かせるように下らない事を言うのか。
そんなコトばっかり言うから―――周りだって、その言葉を鵜呑みにしてしまったんだ。
「ばか、そんなコトあるか……! 道なんていくらでもある! おまえはここにいるんだ、昔のおまえとは違う……!
なら―――これからは自分の為に生きなきゃダメだ。
間違っても。間違っても、聖杯を」
―――その、最後に許された自分の望みを。
「……どうでもいい、他人の為なんかには使うな。
ここにいるなら、セイバーはここで幸せにならなきゃダメだ」
風の音が耳に響く。
セイバーは応えない。
頷きもしない。
ただ、まっすぐに俺の目を見返して、
「―――その言葉には頷けない。
私は貴方に従うと契約した。だが心まで預けた訳ではありません、マスター」
そう、強い声で返答した。
「王の誓いは破れない。私には王として果たさなければならない責務がある。
アーサー王の目的は聖杯の入手です。それが叶おうとも、私はアルトリアに戻る事はないでしょう。
私の望みは初めから一つだけ。―――剣を手にした時から、この誓いは永遠に変わらないのですから」
「……なんでだよ。セイバーがやらなくちゃいけない事はそんなんじゃないだろ。
そんな―――最後まで報われないなんて間違ってる。
おまえには聖杯なんて必要ない。それに」
……それに、セイバーの願いは叶わない。
起きてしまった事を帳消しにするなんて、そんな事はできっこないんだから。
「セイバー。起きてしまった事をやり直すなんて出来ないんだ。……いや。それは、やってはいけない事だと思う。そんな事ぐらい、おまえだって気づいているんじゃないのか」
「……いいえ。決して、そんな事は」
「―――なら言ってやる。
たとえどんなに酷い結末だろうと、起きてしまった事を変えるなんて出来ない。
出来なかったからやり直しがしたいなんて、そんなのは子供の我が儘と同じじゃないか……!」
……そこで言葉は途切れた。
セイバーは何も言わず、俺も、言うべき言葉はない。
耳に響く風の音も止んだ。
いや。
風は止んでなどいなく、少しの間止まっただけだ。
ひゅう、という音。
頬に風を感じたその時。
「―――シロウなら、解ってくれると思っていた」
それは、向かい風に変わっていた。
「今日一日無意に過ごし、言いたかった事はそれだけですか」
冷たい声。
そこには、もう拒絶しか残っていない。
「思い上がらないでほしい。貴方程度の人間に、私の何が解るというのです。
貴方に、私に踏み入る権利などない。
戦うな、ですか? 私に守られなければならない未熟なマスターが何を。そのような世迷い言を吐くのは一人で戦えるようになってからにしてください。
―――ふん。まあ、そんな事は永遠に有り得ないでしょうが」
「ちが――――世迷い言って、俺は……!」
「ですから世迷い言でしょう。自分の事を考えろ、ですって? それはシロウとて同じではありませんか。
貴方は自分の命が勘定に入っていない。
貴方は私が間違っていると言いますが、貴方の方こそ何かを間違えている。
……自身より他人を優先するなど死者の考えだ。
自身の命の重みも知らない大馬鹿者が、よくもそんな事を言えたものです」
「な――――セイバー、おまえ」
「癇に触りましたか。なら、いっそのこと契約を解除しても構いません。どうせ貴方は聖杯を必要としていない。
あとは私一人でマスターを破り、聖杯を手に入れるだけですから。
……そんなに戦うのが嫌ならば、貴方は遠くで隠れていればいいでしょう」
「セイバー。おまえ、それ本気で言ってるのか」
震える声で問う。
ガチガチと歯が鳴っているのは、自分でも驚くほど、感情を押し殺している為だった。
「当然です。私の目的は聖杯だけ。それ以外の事など余計だ。
―――シロウ。それは貴方も例外ではありません」
撃鉄が落ちた。
目の前が真っ白になるのを堪えて、振り上げかけた拳もなんとか堪えた。
「この分からず屋……! いい、そんなに戦いたいってんなら勝手にしろ! もう俺は知らないからな!」
ただ、感情だけは抑えられなかった。
逃げ口上めいたコトを怒鳴って、そのままセイバーから駆けだした。
離れていく姿。
ただ、一瞬だけ ぼんやりと立ちつくすセイバーの姿が、見えた気がした。
「くそ、くそ、くそ……!」
ただ走った。
何が悔しいのか、何が頭にきているのか分からないまま、激情に任せて走った。
“それ以外の事など余計だ。シロウ、それは貴方も”
「っ……!」
砕きそうなぐらい歯を噛んで、暴れだしそうな声を抑えた。
正直、思い出すだけで目の前がクラクラして、このまま電柱か何かに体当たりしかねない。
……いや、今はそうできたらどんなに楽か。
単純にセイバーに頭がきたってだけなら、バカみたいに八つ当たりをして終わりでいい。
だが、この激情の正体はそんなんじゃない。
頭にきているのはセイバーだけじゃない。
こんなに悔しくて、走って走って、息継ぎさえ許さないほど走り続けるのは、自分自身が不甲斐ないからだ。
……ぼんやりと立ちつくすセイバーの姿。
風向きが変わる合間、一度だけこぼした言葉。
“シロウなら、解ってくれると思っていた―――”
「っ……! くそ、そんなの解るか、ばか……!」
吐き出して、あまりの後悔に転びそうになった。
……あれは、どんな吐露だったのか。
決別するような声は、同時に泣きそうな響きでもあった。
振り返って見れば、あの言葉だけが真実だったのではないか。
顔を伏せて呟かれた言葉。
期待と失望と、懇願の混じった声。
―――なら。
裏切ったのはどっちで、裏切られたのはどちらだったのか。
部屋に駆け込んで、ピシャリ、と障子を閉める。
そのまま大の字に倒れた。
立っているのももどかしい。
今はただ、寝っ転がって眠ってしまいたい。
「ハア――――ハア、ハア、ハ――――」
が、横になったところで体は熱いままだ。
心臓は張り裂けそうで、肺は死にものぐるいで酸素を求めている。
橋からここまで、休む事なく全力疾走だ。体がまいらない筈がない。
感情的にはまだ走り足りないが、体の方が、いい加減落ち着けと訴えている。
「ハア……ハア、ハア、ハ――――あ」
少しずつ落ち着いていく。
大きく息を吸って、吐いた。
「はあ……はあ……は、あ」
そうして呼吸が整ったあと。
頭の中を占めるのは、自分が何に憤っていたのかという事だけだった。
「――――――――」
……そんなもの、考えるまでもない。
何かを振り払うように走ったのは、自分があまりにも無力だったからだ。
……俺では、セイバーを助けられない。
それが悔しくて、自分自身に腹がたった。
何も出来ない自分。
あいつを笑わせてやると。
セイバーを守ると決めたクセに、何も出来ない自分が、ひたすらに腹立たしかった。
「……けど、どうしろってんだ。セイバー自身が自分の幸せを求めていないかぎり、他人がどうこう言っても無駄だってのに」
だからセイバー自身が、自分の幸せってヤツを見つけられるようにと、似合わない努力をしてみた。
それも無意だと言われて、あげくの果てに大馬鹿扱いだ。
「自身の命の重みも知らない大馬鹿者、か――――」
……そんなコトを言われてもどうしろってんだ。
俺だって自分の命は大切だし、自分から死ぬような真似はしたくない。
それとセイバーの事は別問題だ。
あそこで俺の事を言いだすのは反則だと思う。
俺がどんなにバカでも、セイバーが間違っている事だけは確かなんだ。
それをあんな風に否定されたら、もう手の施しようがないじゃないか――――
「……くそ。ああもう勝手にしろ……!」
ばたん、と仰向けから俯せになる。
視界が畳だけになったんで、いっそ目を閉じて頭の中も真っ暗にする。
「………………」
それで終わりだ。
もうセイバーのコトなんて知るものか。
そんなに聖杯が大事だっていうんなら聖杯と結婚しろって言うのだ。
こんなに言っても分からない頑固者に、これ以上関わっていたら火傷する。
いや、火傷どころか、取り返しのつかないぐらいのダメージを――――
「――――っ」
そんなの、とうに負っていた。
火傷どころの話じゃない。
あいつと出会って、なんども衝突して、生き残る為とはいえ肌を重ねた。
あの晩の熱さは、火傷どころか脳死寸前だった。
なんだって、こう――――滅茶苦茶頭にきてる時に、あの時のコトを思い返してしまうのか。
あんなモノを思い返してしまったら、セイバーが何を言おうと関係なくなってしまう。
「……何が戦うだけのモノだ。それなら半端に弱い部分なんて見せるなって言うんだ」
……とにかく、セイバーは卑怯だ。
何が卑怯かは知らないが、分からないあたり反則だと思うのだ。
これだけ頭にきてるっていうのに憎めず、放っておこうと思えば思うほど放っておけなくなるなんて、そんなの矛盾している。
言うなれば存在自体が反則だ。
もう問答無用で、あいつを嫌いになれないんだから。
「―――ちくしょう、惚れた方が負けってこういうコトか」
……けど仕方がないじゃないか。
どんなに無駄だって言われても諦めきれないのなら、最後まで貫き通すだけだ。
セイバーがどんなに嫌がって拒絶しようとも、自分が正しいと信じたのなら――――
“シロウなら、解ってくれると思っていた―――”
「……っ」
泣きそうだった顔を思い出す。
この先。
俺が繰り返す度に、あいつはあんな顔をするのだろうか。
「……それでもだ。どんな事になっても、頷く訳にはいかない」
……俺が間違えていて、セイバーが正しかったとしても。
あいつが本当に大切なら、絶対に、謝ってなんてやれないんだ――――
◇◇◇
物音が聞こえた気がした。
……いつのまに日が落ちたのか、部屋は闇に落ちている。
寸分も狂わずに響く秒針の音が、やけに耳障りだ。
「ちょっと、いつまで寝ぼけてるのよ。いいかげん起きてもらわないと困るんだけど」
「――――?」
「だから起きなさいって。もう十時過ぎよ。ご飯を食べさせろってイリヤがうるさいんだから、起きて相手をしてあげなさい」
不機嫌そうな声。
それで、完全に目が覚めた。
「じゅ、十時過ぎ――――!?」
ガバッ、と体を起こす。
「そ、正確には二十二時十七分。夕飯の時間にしては論外ね」
で、目の前にはあきれ顔をした遠坂がいた。
「っ……すまん、寝てた。すぐに行くから、居間で待っててくれ」
「それはいいけど。士郎、セイバーは?」
「? いや、ここにいないんなら道場か居間じゃないのか?」
「士郎。わたしはセイバーがいないから訊いてるの」
「――――」
遠坂の目は真剣だ。
それで――――それがどういう事なのか、一瞬で把握した。
「まさか―――あいつ、帰ってきていないのか……!?」
「ちょっと士郎! 帰ってきてないってどういうコトよ……!」
遅れて部屋から飛び出してくる遠坂。
が、説明する余裕なんてない。
背中で遠坂の怒鳴り声を受け流しながら、脇目もふらずに外へ向かった。
町は静かだった。
昨日と同じ、人の気配というものが完全に絶えた世界。
それを不審に思う余裕も、今はない。
セイバーが帰ってこない。
……考えてみれば、それは当然だ。
あれだけの言い合いをした。
一人でも戦うと言った。
なら―――あいつの性格から言って、本当に一人で戦うだろう。
セイバーは何処にもいない。
捜し出す事は出来ず、今頃、最後のサーヴァントであるランサーと戦っている可能性だってある。
……だというのに、真っ先にここに来た。
川縁の空気は冷たい。
一段と冷え込む夜、公園は霜を敷き詰めたように冷たかった。
息は真白で、頬や耳は引きつって痛い。
ここでさえそうなのだから、川からの風が吹く橋は、どれほど凍えているだろう。
そこに、彼女の姿があった。
俺が走り去った時と同じ。
橋の手すりに寄って、セイバーは何をするでもなく川を見つめている。
……とうに沈んだ夕日を追っているのか。
遠くに向けられた視線は、有りもしない赤い地平を見ているようだった。
「――――――――」
それで、思い知った。
強いクセに、こんなにも弱い。
凛とした姿は、誰の手も借りずに生きていける証だろう。
それなのに、手を伸ばせばすり抜けてしまいそうなほど儚い。
一人でなんかやっていけないクセに、おそらくは最後まで、その誇りを守り続ける。
―――だから。
届かない星を見ているのは、こっちだって同じだったのだ。
……それしか知らないとでも言うかのように、遠い落日を見つめる少女。
その姿を、放っておけない。
負けと言うのなら、とっくに完全敗北していた。
何があろうと―――あんな顔はさせないと、決意させられたんだから。
橋を渡っていく。
足音を立てているのにセイバーは気が付かない。
「――――――――」
無言で歩いていって、さっきと同じ場所、セイバーの傍らで立ち止まった。
「セイバー。体、冷えるぞ」
びくん、と震える体。
……そこまでしてようやく気が付いたのか。
「―――シロウ?」
問うように、セイバーは振り返った。
「なにしてんだよ、こんな時間まで。
いつまでも帰って来ないから、遠坂が心配してたぞ」
「―――そうですか。それは、悪いことをした」
「……別にいいけどな。けど、なんだってこんなところにいたんだ、おまえは。……いやまあ、捜すの楽だったからいいけどさ」
「……はい。ここにいたのは、まだ行き先が決まっていなかったからです。
シロウは勝手にしろと言ったでしょう。ですから勝手にしようと思ったのです。
けれど何をするべきか、何をしたいのか、何処に行きたいのか思い浮かばず、ずっと、どこに行くべきかを考えていました」
迷い子のように呟く。
負い目があるのか、セイバーは俺から視線を逸らしてばかりだ。
……たしかに、あれだけの口喧嘩をしたんだ。
俺が怒っていると思うのは当然だろう。
「……申し訳ありません。凛には世話になったと伝えてください。
ランサーを倒し、聖杯を手に入れたのならシロウの元に戻ります。ですから、それまで――――」
一人で、帰る場所もなく彷徨っているとでも言うのか、ばか。
「なに言ってるんだ。おまえが帰るところは俺んちだろ。
メシだって布団だって、ちゃんとセイバーの分を用意してんだから」
「―――ですが、士郎はもう私の事など知らない、と」
「そうだよ。セイバーがなに考えてるか、俺には分からない」
言って。
ほら、とセイバーの手を握った。
「ぁ――――シロウ」
「うちに帰るぞ。いくらサーヴァントだからって、こんなに冷えたら風邪を引く。早く戻って、あったかい物でも食べよう」
「――――あ、あの、ですが、私は」
「それと、言っとくけど俺は謝らないからな。
文句があるなら今の内に言っとけよ」
ぶしつけに、出来るだけセイバーから目を逸らして言った。
「――――――――」
呆然と見つめてくる。
セイバーはいかにも謝りたがっている顔だったが、そんなものは知らないと無視をする。
……それが、少しはプラスになったのか。
セイバーは何も言わず、俺に手を握られたまま大人しく付いてきてくれた。
橋を下りて、公園に出る。
……時刻は十一時。
公園には人気などまったくないのに、噴水やら街灯やら、必要以上に飾った物が多かった。
「――――――――」
「――――――――」
ずかずかと歩く。
セイバーの歩みは緩慢だった。
……思えば五時間以上、あの橋の上で立ち続けていたのだ。
体は冷え切っているだろうし、疲れもたまっているのかもしれない。
手を引いて歩いていると、ときおり転びそうにつんのめったりしているし。
「セイバー、もう少しゆっくり歩こうか? なんか調子がよくなさそうだし」
振り返って様子を見る。
「い、いえ、体はとても元気です……!
ただ、その……凛の言葉に踊らされるワケではありませんが、こうして手を繋いでいると本当に逢い引きのようだな、と」
「え――――?」
で。
言われた俺自身、その言葉で一気に頬が熱くなった。
「そ、そうだな。……その、手、離そうか? えっと、セイバーが迷惑だったらの話、だけど」
「いいえ、私もこうしているほうがいいです。シロウの手は温かくて、安心します」
……会話はそれきり途切れてしまった。
こっちは気恥ずかしさを誤魔化すように歩いて、
セイバーは黙って俺に付き合ってくれる。
屋敷まで、あとこれからどのくらいあるだろう。
繋いだ手の温かさに頬を掻きつつ、公園を後にする。
……今日一日、色々と波乱が続いた。
けれどその終わりがこの温かさであるなら、今日から宗旨変えしてあの神父に祈ってもいい、なんて感謝した時。
「―――何処に行く。
勝手に人の物を持っていくな、小僧」
―――決して出会ってはならないモノに、俺たちは出遭ってしまった。
舞い上がっていた意識が、一瞬にして凍り付いた。
全身には鳥肌が立ち、喉は呼吸を忘れたように動かない。
「…………シロ、ウ」
それは後ろにいるセイバーも同じなのか。
重ねた指が強く握られる。
―――俺が逃れようのない死を感じているように。
セイバーもまた、覆しようのない絶望を、その身に感じ取っていた。
「待たせたなセイバー。
約束通り、こうして迎えに来てやったぞ」
……それは、嘲笑うような声だった。
尊大で無慈悲。
他人の思惑など考慮した事もないという傲慢さには、およそ人間らしい感情が見あたらない。
「アー、チャー――――――――」
こぼした言葉は、みっともないほど震えていた。
―――黄金のサーヴァント。
昨夜、キャスターの骨どもを一掃し、逃げようとするキャスターすら、事も無げに始末した正体不明の英霊。
その怪物が、俺たちの前にいる。
こんなにも近く。
その気になればすぐにでも斬り合いを始められる距離に、バーサーカー以上の“死”が立っていた。
「どうしたセイバー。我《オレ》がわざわざ出向いてやったのだ。
いつまでも黙っているのは無礼であろう?
それとも―――我《オレ》の物になる前に少しばかり遊ぶつもりか、騎士王よ」
愉しげに笑いをかみ殺すアーチャー。
その目は俺を見ていない。
あいつはセイバーだけを見ている。
あの無遠慮な赤い目で、気に入った美術品の品定めをするように。
セイバーの気配が変わる。
……覚悟を決めたのか。
まだ指一本動かせない俺とは違い、彼女は既に、あのサーヴァントを敵として凝視していた。
「……シロウ、なんとしても初撃だけは防ぎます。その隙に、貴方だけは離脱してください。
……それがどれほど困難かは判っていますが、あのサーヴァント相手ではそれが精一杯なのです」
それを許してほしい、と彼女の背中が言っていた。
……彼女を以ってしても、防げるのは初撃のみ。
そんな相手から逃げるなんて、あまりにも成功率が低すぎる。
その不明を、セイバーは許せと言った。
……おそらく。
彼女自身、あのサーヴァントを打倒する手段がないと判っているが故に。
「―――――――」
それは、だめだ。
バーサーカーの時とは違う。
あのサーヴァントとセイバーを戦わせるのはまずい、と確証もなく思った。
……いや、確証はあったのか。
昨夜、あいつの宝具を見て直感したのだ。
―――今のセイバーでは、決してあの男に勝てない。
それは騎士としての実力云々の話ではない。
そもそも前提が間違っている。
英霊である以上、全ての英霊は、ヤツを超える事は出来ないと判ってしまった―――
「―――違う。逃げるのはおまえの方だ、セイバー」
「な、シロウ……!?」
セイバーを庇って、アーチャーと対峙する。
「ほう―――そうか、マスターがいたのだったな。あまりの見窄らしさ故、犬か何かだと思ったぞ」
愉快げに言って。
男は片手をあげ、ゆっくりと指を合わせた。「――――」
―――吐き気がする。
今すぐ退かなければ殺される。
理由も理屈もない。
ただ、あいつの正面にいては殺されると直感し―――
「―――行けセイバー……!
ここからなら教会が近い。あいつなら、アレが相手でもおまえを匿ってくれる筈だ――――!」
セイバーを突き飛ばして、全身を刺す死の予感を振り払うように走った。
狙いは一つ。
いちかばちか懐まで走り込んで、バーサーカー戦と同じように、もう一度セイバーの剣を“投影”し――――
「――――」
体が吹き飛ぶ。
―――何が起きたのか。
ヤツが指を鳴らした瞬間、真横から何かが現れた。
「あ――――つ」
それが巨大な鉄槌であり、自分がゴミのように吹き飛ばされ、地面に落ちた事だけ、判る。
「は――――あ」
体は動かない。
全身の骨がバラバラになったような虚無感。
手足の感覚はとっくになく、痛みも鈍くて、自分が生きているかさえ、よく判らない。
「殺しはせん。今ここで貴様を潰せばセイバーも消えてしまうからな。不本意ではあるが、聖杯を呼ぶまでは生かしておいてやろう」
男が笑う。
「あ――――く――――」
立ち上がろうと手を動かすが、体は何一つ言うことを聞かなかった。
血が通っていない。
肉体を動かす動力《けつえき》が、手足にまで伝わっていないよう。
「だが思い上がるなよ雑種。貴様なぞいなくともサーヴァントを存命させる方法はある。単に今の状態が最も手が掛からぬだけだ。それ以上さえずるのなら殺すぞ?」
「ぁ――――」
それで、心が死んだ。
ヤツは殺す。
俺がこれ以上動けば、それこそなんの苦労もかけずに実行するだろう。
「――――――――」
そんな事実を見せつけられて、どうして、これ以上体が動くというのだろう――――
「シロウ――――!」
倒れた俺へ駆けつけようとするセイバー。
「何処に行く。邪魔物はいなくなったのだ。おまえが向かうべきは、そのような屑ではなかろう」
だが、男はそれを許さない。
倒れた俺の前に立ち、駆け寄ろうとするセイバーを待ち受ける。
「っ――――」
足を止め、男を睨むセイバー。
……両者の距離は十メートルほど。
アーチャーはともかく、セイバーならば一息で詰められる間合いだが――――
「……ふん。その様子ではまだ我《オレ》に下る気はないようだな。理解に苦しむ。おまえほどの英霊ならば、我《オレ》に選ばれる事がどれほどの価値か判ろうに」
「―――世迷い事を。英霊になろうと私は王だ。貴様の軍門になど下らぬ」
「そうか? いかに王であろうと、おまえは女だ。
組み伏せられ、蹂躙されるが女の幸せであろう。だというのに何を拒む。まさか生娘でもあるまいし、我《オレ》の女になるのは恐ろしいか?」
「貴様―――」
「そう憤るな。我《オレ》は奪うだけではない。等しく快楽も与えよう。我《オレ》の物になるというのならば、文字通りこの世の全てを与えてやる。
誇るがいい、おまえにはそれだけの価値があると認めたのだ」
……男が動く。
両手を広げ、セイバーを迎えるように歩き出す。
「そう、守護者になどなる事もなく、死に逝く運命に戻る事もない。
もう一度だけ言うぞセイバー。このまま我《オレ》の物になれ。
この世界で、共に二度目の生を謳歌しようではないか」
「―――断る。
そのような事に興味はないし、なにより―――貴様と共に生きるなど、気が違ってもありえません」
頷かず、後退する事もせず。
セイバーは正面からアーチャーを見据えている。
「く――――ふ、はは、はははははははは!」
足が止まる。
何が愉しいのか、男は腹を抱えて笑い出した。
「いいぞ、それでこそ我《オレ》の見こんだ女よ!
ああ、この世に一つ程度は、我《オレ》に従わぬモノがいなければな……!」
「よし、では力ずくだ。聖杯を手に入れた後、その身に中身をぶちまけてやろう」
「―――喜べよセイバー、そうなればマスターなど不要となる。
万能の器である聖杯、その力全てを飲み干すのだからな。サーヴァントなどと、人間の使い魔に甘んじる事もなくなるだろう」
満足げに男は言う。
それに。
「……アーチャー。貴様の目的はなんだ」
もはや戦うだけと踏み切ったのか。
セイバーは最後に、敵の理由を問いただす。
―――が。
男の返答は、あまりにも予想外だった。
「目的か。さあ、なんだったか。生憎この世の財は全て手に入れた身でな。望むモノなどとうにない」
「な―――聖杯を、求めてはいないというのか」
「聖杯? ああ、不老不死か。ふん、そんなものは蛇にくれてやった」
「――――不老不死を、蛇に譲った……?」
セイバーの気迫が凍り付く。
……今のやりとりに何があったのか。
セイバーは僅かに首を振って、呟いた言葉を否定した。
「―――だが、この世界は面白いぞ。
根本は変わらぬが、装飾もここまで凝れば別物だ。これならば、再びこの世で君臨するのも悪くない。
……そうだな、我《オレ》の目的といえばそんなところか。それを効率よく進めるというのであらば、聖杯の力も悪くはないな」
「……支配欲か。見下げ果てたな、アーチャー。そんな事の為に聖杯を欲するとは」
「欲するのではない。世の財は全て我の物。自分の物を他人に使われるのが我慢ならんだけよ。
おまえとて、その聖剣を人に使われては腹立たしいだろう、騎士王よ」
「――――――――」
―――セイバーの体が霞む。
一瞬の閃光のあと、セイバーは銀の鎧に包まれていた。
「ほう――――」
男は微動だにしない。
間髪入れず、セイバーの体が奔《はし》った。
わずか一息の合間に男へと踏み込み、必殺の速度で不可視の剣を叩き込む――――!
「っ――――!」
弾かれ、大きく後方に跳ぶセイバー。
セイバーの鎧が魔力による具現ならば、ヤツの鎧も同意なのか。
一瞬の攻防の合間に、敵は武装を済ませていた。
「――――――――」
構えたまま、セイバーは冷静にアーチャーを見据える。
その視線を受け止めてなお嘲笑を崩さず、
「―――よいぞ。刃向かう事を許す、セイバー」
敵は、愉しげに死闘の開幕を告げていた。
白光が奔る。
躊躇する事なく黄金の騎士へと跳びこんだセイバーの剣が、雷光を帯びて打ち下ろされる――――
一撃。二撃。三撃。四撃――――!
セイバーの剣が敵を捉える度、目を潰すほどの光が炸裂する。
閃光装置《ストロボ》を見るかのような連撃。
初めてセイバーを見たあの夜、ランサーを相手にした時と同じ。
セイバーは有り余る魔力を剣に載せ、稲妻そのものとも言える剣戟を繰り出している。
剣と鎧がぶつかる音。
男は帯剣していない。セイバーの剣を前にして、その両手でかろうじて頭を守っているだけだ。
あの男には、セイバーの剣を受けきるだけの技量はない。
剣技で言うのならば、セイバーは圧倒的に男より優れている。
加えて、セイバーの剣は不可視だ。
たとえ男が帯剣していたところで、あの視えない剣を防ぐ事など出来ないだろう。
不可視の剣は、面白いように、男の鎧に直撃する。
剣は鎧の表面を叩き、削り、雷光めいた火花を散らす。
男に出来る事は、セイバーの剣から両手で顔を守る事だけだ。
勝負にさえなっていない。
これでは一方的な殲滅戦に他ならない。
―――だが。
にも関わらず、黄金の甲冑は未だ原型を留めている。
セイバーの剣戟をあれほど受け、なお無傷だというのなら。
ヤツの“宝具”は、あの黄金の甲冑に他ならないのではないか―――
「……ふん。流石にこれ以上はまずいか。相変わらず底なしの魔力よな。我《オレ》の鎧が軋みをあげるなど、そうあり得る事ではないのだが――――」
防戦一方だった敵が片腕をあげる。
それはセイバーにではなく。
何の真似か、男は何もない、ただ夜が広がるだけの空間に腕を伸ばし――
「戯れは終わりだ。その肢体、ここで我《オレ》に捧げるがいい」
―――目の錯覚か。
その腕に、何か。
手のひらに収まる程度の、鍵のような短剣が握られていた。
「っ――――!」
一際大きく構えをとり、セイバーは渾身の一撃を放つ。
それを、
敵は、赤黒い剣で弾き返した。
「っ―――今のは、復讐の呪詛を含んだ宝具か―――!」
二度間合いを離し、敵が手にした剣を睨むセイバー。
……敵が帯剣した事は、確かに脅威だ。
だが同時に手の内が見えた事でもある。
ヤツの宝具が鎧であろうと剣であろうと、そのカタチさえ見えていれば対処のしようがあるからだ。
セイバーが構えを正す。
……男が言った通り、ヤツの鎧も限界が近い。
もう一度セイバーが今の猛攻を繰り出せば、鎧ごとヤツを両断するだろう。
いかに宝具を持ち出したところで、次の一撃で勝敗が決する事に変わりはない。
「―――最後だ。前回つけられなかった決着をつけよう、アーチャー」
手にした剣は不可視のまま。
風で封印した聖剣を構え、セイバーは敵を見据える。
……セイバーはあの“宝具”の正体を知っているようだ。
故に咄嗟に間合いを外したのだし、対処する術を知っているからこそ、正面から敵と対峙している。
お互いの宝具が剣であり、その能力が互角ならば、あとは剣技のみの勝負だ。
その法則に従うのなら、セイバーの勝利は動かない。
「よかろう―――では来るがいいセイバー。
その剣に免じ、我《オレ》の全てを見せてやる」
男が笑う。
「ならば―――!」
臆する事なく駆けるセイバー。
―――今度こそセイバーの剣が鎧を断つ。
そう確信した瞬間。
「――――“王《ゲート・オブ・バビロン》の財宝”」
男の背後で、何か、目に視えない“扉”が開いた。
「な―――に…………!?」
セイバーの体がズレる。
敵が手にしたソレは、赤黒い剣とは違うモノだった。
一個目はセイバーと同じ、透明の剣。
それをセイバーが防いだ途端、男の手には違う剣が握られていた。
繰り出された剣は氷。
身をひねって躱すが、振るわれた空間そのものが固まっている。
氷に覆われながらも咄嗟に後退するセイバー。
張り付いた氷が砕け散っていく中、敵の手には、死神の鎌めいた凶器が握られていた。
「――――――!」
首にせまる凶器を、咄嗟に片腕の籠手で防ぎに入る。
だが無意味。
鎌はセイバーの籠手などないように貫通し、ぞぶり、と、魔力を奪い去っていった。
……血や肉ではなく、狙った箇所の骨そのものを抜き取るかのように。
「ぁ―――く……!」
たたらを踏みながら、なんとか持ちこたえるセイバー。
……それは今までの後退とは違った。
間合いを離し、次の攻撃に備える為の行為ではなく。
ただ、敵から逃れる為だけの必死の後退――――
「そんな―――馬鹿な」
麻痺した片腕に魔力を通しながら、セイバーは敵を睨む。
……男の周囲には、無数の柄が浮かんでいた。
それがキャスターを屠ったモノの正体であり、
セイバーを追い詰めた、黄金の騎士の“宝具”だった。
それは、離れてみている俺でさえ、目を疑いたくなる光景だった。
男の背後に浮かぶそれは、間違いなく“宝具”の柄だ。
十や二十ではきかない。
いや、視えてはいないものの、その数はそれこそ底なしなのだと実感できる。
古今東西。
ありとあらゆる伝承に潜む神秘の全てを、あのサーヴァントは持っているとでも言うように――――
「アーチャー。貴方は、何者だ」
セイバーの声は震えていた。
サーヴァントが真名を問われ、答える筈がない。
それでも問わずにはいられないほど、あの敵の宝具は異常だった。
「答えなさいアーチャー……! 英霊が持つ宝具は一つだけの筈。いえ、中には複数の宝具を持っていた者もいますが、だとしても二つが限度だ。
―――そのように、際限なく宝具を持つ英霊など存在する筈がない……!」
「存在する筈がない……? それは早計だなセイバー。
英霊は生前持ち得た武器を宝具とする。ならば単純な話ではないか。この宝具は全て、我《オレ》が生前に集めたものという事ではないか?」
「――――私を侮っているのかアーチャー。それこそ絶対にあり得ない。
貴方が何者であろうと、他の英霊たちのシンボルたる宝具を揃えられる筈がない。そのような英霊は、この世界に存在しない」
セイバーの言う通りだ。
ヤツが持つ宝具はその全てが本物である。
北欧に伝わる魔剣があれば、南米あたりに伝わる魔剣もある。
そんな広範囲に渡って活躍した英雄などいないし、そもそも―――ゲイボルクを持つのはランサーだけだ。
英霊は、生前愛用した武器を宝具とする。
そのルールで言うのならば、ゲイボルクを持っている時点で、ヤツは槍の持ち主《クーフーリン》でなければならない。
だがアイツはクーフーリンではない。
となるとあの槍はゲイボルクでは有りえないのだが、厄介な事に間違いなく本物のゲイボルクなのだ。
仮に、あの宝具が全て偽物であったのならまだ説明はつく。だがオリジナルである以上、この矛盾は……………………………………………………………いや、待て。
オリジナル――――原型の、武器……?
「――――まさか。いや、けど」
そういう事もある。
伝承、神話っていうのはゼロから生まれた訳じゃない。
あらゆる神話に共通項があるのは、モデルとなった大本があるからだ。
信仰として完成する伝承は、その土地に帰順した物だけだ。魔剣、聖剣の類が能力を発揮するのもそのあたりからだと思う。
だから、仮にその前。
あらゆる神話で宝具と呼ばれるモノが、そう呼ばれる前のカタチがあるのだとしたら―――?
「ほう。おまえのマスターも捨てたものではないな。どうやら我《オレ》の正体に心当たりがあるらしい」
「え――――?」
セイバーがこちらに視線を向ける。
……遠い。
こう距離があると助けに入る事もできない。
手足。体はようやく、歯を食いしばって指が動く程度にしか回復していない。
「逃げ、ろ、セイバー――――そいつの、宝具は」
「本物だと言うのだろう?
そう、単純な話だセイバー。
最も古い時代、まだ世界が一つだった頃の話をしよう。
その国は栄え、王はあらゆる財宝を収集した。
集められぬ物などなく、足りぬ物などなかった。
王は完璧な宝物庫を持ち、その中にある有象無象の武器は使われる事なく、王と共に眠りについた」
「―――要はそれだけの話だ。
王の死後、宝物庫の中身は世界に散らばり、名剣であるが故に重宝され活躍し、いずれ宝具として扱われた。
……ふん、わかるか騎士王よ。
おまえたちの扱う宝具とやらは、元々はその王の持ち物にすぎないのだと」
……それは、遺産のような物だ。
系譜、時代を遡っていけば必ず“原型”は存在する。
ならば各国に伝わる神話、伝承、宝具の原型《ほったん》があるのは道理だ。
そして―――遙かな過去、それらの原型を集める事が可能だったのなら、全ての宝具を所有した事になる。
それに該当する英雄は一人だけ。
セイバー《アーサー》やバーサーカー《ヘラクレス》より古い伝説を起源とする者。
かつて古代メソポタミアに君臨したという魔人。
己が欲望のまま財宝を集め、その果てに不老不死を求めた半神半人の王の名は、たしか――――
「ギルガメッシュ―――人類最古の英雄王――――」
呆然としたセイバーの声。
黄金の騎士―――ギルガメッシュは、その響きを満足げに受け止める。
「――――いかにも。この身は貴様らでは敵うべくもない、最強の英霊だ」
そして、黄金の騎士は前進した。
―――もはや語るべき事はない。
残ったものは、その有り余る宝具を以って敵を粉砕するのみである。
「ほう? 我の名を知った上でまだ抗うか。今度こそ勝ち目がないと悟った筈だが」
「――――やってみなければ判りません。
いかに英雄王と言えど、超えられぬ物がある筈だ」
セイバーの周囲が揺れる。
吹き始めた風は渦を巻き、旋風となって彼女を守る。
同時に現れる黄金の剣。
「――――だめだ、セイバー」
……なんて事だ。
セイバーのヤツ、ここでエクスカリバーを使う気か……!?
ギルガメッシュの足が止まる。
ヤツもセイバーの聖剣の力は知っているのか、目に見えて余裕というものが消えていった。
セイバーはギルガメッシュを見据えたまま、一度だけこちらに視線を投げる。
「………………」
今のうちに逃げろ、と言うのか。
ギルガメッシュは川を背にしている。
対してセイバーはこちら側。
先ほどの剣戟の間だろう。
気が付けば、セイバーは俺を守るようにギルガメッシュと対峙していた。
「――――違う。だめだ、こんなところで――――」
体に力を込める。
麻痺しきった体に鞭をうっても、動くのは片腕だけだった。
それでも、その片腕で体を起こそうと全身の魔力を動員する―――
「つ――――こ、の――――!」
感覚などなかったクセに、いざ動こうとすると骨という骨が軋んだ。
その痛みは警告だ。
体中にはしった罅《ひび》が、これ以上動けば砕けてしまうと訴えている。
「―――――っ…………!」
無視して、なんとか上体を起こす。
「あ――――はあ、は――――あ……!」
痛みをかみ殺す。
構っている暇はない。
今は一秒でも早く立ち上がって、セイバーを守らないと。
―――だって、悪寒がするんだ。
あの敵と対峙した時に感じた予感。
何をしても勝てないと。
アイツとだけはセイバーを戦わせてはいけないという直感が、どうしても離れない――――
「――――ふん。音に聞こえし聖剣か。いいだろう」
渦巻く風は、すでに暴風と化していた。
その中で輝く聖剣を前にしても、黄金の騎士は怯まない。
あまつさえ。
「では、こちらも相応しい物を出さなければな」
ひどく異質な“剣”を、背後の門から引き出した。
――――それが、悪寒の正体だった。
現れた剣は、どんな伝承にも存在しない。
ヤツの背後にあった宝具、その全ての形状を看破できる自分でさえ、あの剣がなんなのか判らない。
「我《オレ》は全ての宝具の原形を持つ。だがそれらは全て無名であり、我《オレ》しか持ち得ぬ武具という訳ではない」
円柱のような剣。
三つのパーツで作られた刃は、それぞれ別方向にゆっくりと回転している。
その様は、固い岩盤を貫いていく削岩機のようでもあった。
「だがこれは違う。正真正銘、この英雄王しか持ち得ぬ剣だ。
―――銘などないのでな。我《オレ》はエアとだけ呼んでいるが」
「っ――――純粋な宝具の力比べをする、と……?」
収束する光。
二人の距離はたった十メートル程度。
その間合いならば、ギルガメッシュは避ける事さえできはしまい。
「そうだ。なに、遠慮する事はないぞ。最強と呼ばれるその剣、一度味わってみたくもあったからな」
押し殺した笑いが響く。
それを挑発と受け止めたのか。
「―――いいだろう。
ならば我が剣、見事受けきってみるがいい……!」
セイバーの剣が動く。
その唇が、聖剣の真名を紡ぎだす。
もはや逃げ道はない。
所有者によって名を解放された宝具は、その力を容赦なくギルガメッシュへと叩きつける。
「出番だ。起きるがいい、エア」
円柱の剣、エアが吠える。
ギルガメッシュの言葉に呼応して、三つの刃が音を立てて回転する。
セイバーのエクスカリバーが、風を払う事によって旋風を呼ぶのなら。
ギルガメッシュのエアは、風を巻き込む事によって暴風を作り出す――――
「“約《エ》束《クス》された――――”」 だが、こと対城宝具の扱いならばセイバーに一日の長がある。
エアの咆哮よりなお迅い。
セイバーはわずか数秒で魔力を臨界まで注ぎ込み、最大の力で――――「“勝利の剣《カリバー》―――――!”」 そこに躊躇いなどない。
一振りで大河を断つ聖剣を、セイバーは気合いと共に解放する――――!
直前。
「“天地乖離《エヌマ》す、開闢《エリシュ》の星――――”」
まったく同位の光が、エクスカリバーの一閃を受け止めた。
その、凄まじいまでの衝突――――!
吹き荒れる烈風は木々をなぎ払い、ぶつかりあう閃光は爆発する太陽となって目蓋を焼く……!
「は………そんな、体、が――――」
倒れた体が、風に吹き飛ばされかける。
片腕でなんとか地面にへばりつきながら、光と熱の洪水の中で、必死に耐えた。
―――衝突はどれほど続くのか。
世界を二つに割るのではないか、と危惧するほど拮抗した両者の奔流は、しかし。
「く――――あ…………!」
白い光に包まれていく彼女の姿で、唐突に終わりを告げた。
がしゃん、と。
すぐ近くで、何かが落ちる音がした。
「―――――セイ、バー……?」
それが何であるか。
光で鈍った目であっても、見間違う事はなかった。
――――死んでいる、と思った。
そう思ってしまったほど、セイバーはズタズタだった。
「ふ――――はは、くははははははははははは!」
遠くでは。
傷一つない黄金の騎士が、狂ったように笑っていた。
「く、人類最強の聖剣とやらもその程度か! 人間の幻想など所詮子供だましよな!」
哄笑《こうしょう》は高く、焦げた大気を超えて、天に届くかのよう。
―――それほどに愉しいのか。
ヤツは倒れ伏したセイバーを見ようともせず、ただ、己の為に笑っていた。
◇◇◇
「セイ、バー――――」
……返事はない。
ただ、喘ぐように開いた口から、こほっ、と赤いものが吐き出された。
「――――――――」
目の前が、真っ赤になる。
――――何をしていたのか、俺は。
こうなる事は判っていた。
セイバーではギルガメッシュに勝てないのだと判っていたクセに、どうして―――令呪を使ってでも、セイバーを止めなかったのか。
「しかし味気ない、完全にこちらの圧勝か!
相殺する事も出来ぬとは拍子抜けだぞセイバー。ああ、そうか、少しは手加減してやるべきだった。なにしろ相手は女子供だったのだ!」
耳障りな笑い声。
その責任は俺にある。
……勝てる、と思った。
いくら悪い予感がしようと、セイバーのエクスカリバーなら勝てると思った。
だから口では止めろと言っても、令呪は反応しなかった。
―――本気では、なかったのだ。
本気で守りたかったのなら、令呪でセイバーだけでも逃がせば良かったのだし―――俺だけで戦う方法なんて、幾らでも、あった筈だ。
「さて、では頂くとするか。汚れてしまったが、なに、いずれ同じ目に遭うのだ。ここで傷つこうと問題はあるまいよ」
笑い声が近づいてくる。
「――――」
それで気が付いたのか、セイバーはうっすらと目を開けた。
「! セイバー、無事か……!?」
こうしてあいつの息遣いまで見えるというのに、手を伸ばしても届かない距離。
体は依然動かず、駆け寄る事さえできない。
だから、必死になって声をかけるしかなかった。
「セイバー……! セイバー、セイバー……!」
「…………ぁ…………っ」
セイバーの唇が開く。
救いを求めるように息を吸って、それも苦しいと、小さく咳き込んだあと。
「……シロウ……? そこに、いるのですか……?」
目の前にいる俺が判らないと、弱々しく声をあげた。
「っ――――待ってろ。すぐに――――」
手を貸してやる、とは言えなかった。
倒れているのは俺も同じで、体は腕しか動かない。
セイバーを元気づける言葉さえかけられない。
……そんな、俺の無様な姿が見えないのか。
「……ああ、そうか。負けたのですね、私は」
ぼんやりとした声で、光のない目で俺を見て。
「―――申し訳ありません……どうか、貴方だけでも逃げてください、マスター」
血を吐きながら、ふざけた事を言いやがった。
「――――――――」
怒りで、視界が真っ赤になった。
無意識にセイバーに頼りきり、その結果がこれか。
不用意に一撃を受けて、まだ立ち上がる事も出来ないかの。
―――ガチリ、と唯一動く片腕で、自らの頭を掴む。
本気で、自分を殺したくなって。
握り潰す気で、力を込めた。
撃鉄が下りる。
自身を魔術師へと切り替えるスイッチを、指ではなくハンマーで叩き変えた。
“―――二度と使わないようにね。投影は、アンタの手に余るから―――” 遠坂の言葉。
度を過ぎた魔術は、術者そのものを廃人にするという。
それがなんだ。
そんな事よりあいつの方が大切で、それさえ守れないっていうんなら、こんな頭なんてなくていい。
今まで数え切れないほど助けられてきた。
今までこれほど放っておけないヤツはいなかった。
なら。
あいつを守れないのなら、衛宮士郎はここで死んでしまえばいい――――!
……鉄の音がする。
体中の骨、砕けた箇所を、鉄製の魔力が補強していく。
出し惜しみはなしだ。
ギアはトップに、始めから最高速で、限界など無視してありったけの魔力を生成し回転させる……!
「――――――――、ギ」
背骨に火が点いて、体中が赤熱する。
その、まず脳から溶けちまいそうな感覚に、舌を咬んで耐えた。
ピンク色の肉を噛み潰す。
舌に穴が開く程度で意識が保てるのなら、問題なんて一つもない――――
「――――なに」
足音が止まる。
あれだけ愉快そうだった男の哄笑が止まる。
「な―――シロウ……?
な、なにをしているのです……!? だめだ、そんな事したら、体が……!」
見えずとも感じるのか。
必死に体を起こそうとしながら、セイバーが叫んでいる。
―――それで、最後の力が灯った。
立ち上がる。
言うことを聞かない体は、限界以上に注がれた魔力によって動き出す。
それは火をつけられ、生き延びる為に水源へ走ろうとする行為に近い。
それでも構わない。
あんなセイバーの姿を見続けるよりはましだ。
……ああ、そうだ。
燃え尽きようとする思考で、こんなにも強く思い知った。
もとから俺は。
あいつが傷つくのがイヤで、剣を握ると誓ったのだ。
「な――――逃げてと言っているのに、どうして……!」
敵を阻む。
背後には倒れたセイバーがいる。
もはや。
ここから、一歩たりとも引き下がる訳にはいかない。
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
……火が点いて転がり回る脳髄を押さえつけ、意識を束ねる。
イメージするものはただ一つ。
投影を八節に分け、失われた剣を複製する――――
左手に固い感触。
……肉眼で確かめるまでもない。
二度目の剣製は、ただ一度の減速もなく成功した。
「私の、剣――――い、いえ、それでも駄目だ。シロウも判っている筈です、それでは彼には勝てないと……!
動けるのなら、今は逃げるのが――――」
「逃げない。セイバーを迎えに来たんだ。なのに、一人で帰る事なんて出来るもんか」
剣を構える。
竹刀より遙かに重い剣《てつ》を両手に握り、目前の敵を睨む。
「ば―――止めてシロウ、この男はそんな――――」
セイバーの声を振り払って、一歩前に出る。
……間合いは三間《九メートル》。
全力で踏み込めばヤツに斬りかかれる距離。
敵は動かなかった。
ギルガメッシュはわずかに目を見張った後、くっ、と愉快げに笑い。
「――――殺すか」
感情のない声でそう言った。
「――――!」
うち下ろされた一撃を咄嗟に防ぐ――――!
「っ――――この――――!」
体を横に泳がして奇襲から逃れる。
「――――っっっっ!」
だがそれも間に合わない。
初撃が突風だったのなら、続く連撃は暴風だった。
「はっ――――く、つ、ぐ…………!」
弾くだけで精一杯。
いや、俺だけならば初撃さえ防げなかっただろう。
剣を複製する際、その記憶まで再現したのが幸いした。
長く戦い抜いた剣には意思と経験が宿る。
この名剣は、この程度の剣舞はとうに熟知しているらしい。
俺にはギルガメッシュの剣筋など判らないが、この剣は既に把握していた。
故に、俺が腕を振るう前に、剣の切っ先がヤツの一撃に呼応する。
その先見に遅れぬよう必死に剣を振るい、結果として、剣はギルガメッシュの猛攻を払っていた。
「は――――はあ、つ――――!」
だが長くは続かない。
剣を払う度に指先が痺れ、段々と剣の先見に間に合わなくなる。
「――――雑種。見苦しいにも程がある」
そんな一時の抵抗さえ許せないのか。
ヤツは腹ただしげに俺を睨み、わずかに後退した。
「あ……はあ、はあ、は――――」
……助かった。
あのまま続けられていたら、あと数秒と持たなかっただろう。
大きく息を吐いて、なんとか呼吸を整える。
――――と。
「薄汚い偽物め。それほどソレが気に入ったのならば、本物を見せてやろう」
ヤツは、一振りの剣を持ち出した。
「な――――」
それは、見覚えのある剣だった。
装飾は違う。
だが物の本質、作られた理念、その魂が、あまりにもこの剣と似すぎている――――
「まさか――――この剣の、原型」
「そうだ。だが、宝具としての精度は比べるまでもないぞ。
おまえが持つ“王を選定する岩に刺さった剣”は、北欧に伝わる“支配を与える樹に刺された剣”が流れた物だが―――これはその原型、王を選定するという“聖権”の大本だ」
支配を与える樹に刺さった剣―――北欧の英雄シグムントの魔剣グラム―――その原型、だと……?
「子は親には勝てん。転輪を続ける毎に劣化する複製は、原型には敵わぬという事だ――――!」
光が走る。
それがバーサーカーを一撃の下に葬り去ったあの一撃と同じなのだと、何よりこの剣自体が理解した。
「――――っ!」
主を守る為か。
手にした剣はかつてないほどの力で、自ら敵の剣へ奔る。
宝具の名は“勝《カ》利《リ》すべき黄金《バーン》の剣”。だがそれは、
原罪《メロダック》と言う剣の前に、跡形もなく砕け散った。
地面を滑っていく音がする。
ざざざざざ。
まっ平らな公園はよく滑るのか。
風に飛ばされたゴミのように路面を転がり、止まった。
「シロウ―――シロウ、シロウ…………っ!!!!」
その声のおかげで、自分がまだ生きていると気が付いた。
「なんだ。セイバー、わりと近くに」
いるんだ、なんて気軽に思って、安心した。
なんだか吹き飛ばされた感じだが、セイバーが近くにいるならいい。
それなら立ち上がれば、すぐにセイバーまで駆け寄る事が出来る――――
「あ――――れ」
倒れたまま腕を見てみる。
真っ赤だった。
ねっとりとした赤い粘膜に包まれた腕は、それ自体に出血はない。
「動くな……! もういい、いいから動かないでくれ、シロウ……!」
……セイバーの声が聞こえる。
傷を負ったのは胴体らしい。
さっきの一撃。
ギルガメッシュの剣を受けて吹っ飛ばされたのは確かだ。
なら傷は―――ああ、なるほど。
これなら、セイバーが、あそこまで取り乱すのも、判る気がする。
動くのは右手だけだった。
左手は動かない。
そもそも、左肩が、胴体に付いていない。
「――――――――は」
息も出来ない。
左肩から斜めにばっさり。
袈裟に切られた体は、かみ合わない積み木のように分かれていた。
銀杏の葉っぱに似ている。
肩口から腰まで切られたのだ。
これで生きているというのは、我ながら不気味なぐらい。
……だが、その奇蹟もいいかげん打ち止めだろう。
今はかろうじて意識があるが、段々と視界が狭まっている。
そもそも、少しでも動けば中身がごっそりこぼれ落ちるのだ。
実はとっくに死んでいて、意識だけが、幽霊のように残っているだけかもしれない。
「ふ、ははははははは! なんだ、見事に散らばったと思ったが存外にしぶといのだな! なるほど、生き汚さだけが雑種の取り柄というワケか!」
ヤツが笑う。
―――正直、有り難い。
それが耳障りであればあるほど、消えていく意識が、しっかりと体にしがみつく。
「だがそこまでだ。貴様に獅子は似合わん。その女は我《オレ》が貰う」
足音。
今度こそセイバーを手に入れようと、ヤツが歩き出した音。
◇◇◇
「は…………あ――――!」
右腕に力を込める。
ずるり、と滑る腕で地面を掴み、切断しかけた体を起こす。
「――――!」
一瞬、セイバーの顔が見えた。
その、泣きそうな顔で。
彼女に惚れたことは間違いではないと、自分自身に胸を張れた。
「――――待て。まだ終わっていない」
片腕だけで体を起こす。
両足は動かない。
むりやり体を動かしていた魔力も切れた。
残ったものはかすかな心臓の鼓動と、ギチギチと音をたてる、傷ついた内臓だけ。
「ほう、未練か。だろうな、アレはおまえには過ぎた宝だ。その気持ちは分からんでもない。ならばこそ他の男の手に奪われるのは悔しかろう」
それで切れた。
これ以上、その口上は我慢ならない――――
「だから―――奪うとか奪われるとか、セイバーを、物みたい、に――――」
右腕に力を込める。
鉄でも入っているのか。
体は鈍い音をたてながら、それでも、俺の意思に応えてくれた。
「は――――あ、ぐ――――!」
片膝をつく。
「く――――この、言うこと、を――――」
力を込める。
その度に傷口から、何か生きていくのに必要なものがごっそりとこぼれ落ちていく。
「――――なぜ。もう無理だと、どうして判らないのです……!」
セイバーの声は、罵倒に近かった。
彼女は、遠く。
離れたところから、悔しげに俺を見ている。
「は――――ぐ、つ――――!」
無視をして力を込める。
セイバーの声は邪魔だ。
こんな体より、俺のあがきを嘲笑っているギルガメッシュより、今はセイバーが最大の敵だった。 だって、あんな顔で文句を言われたら、この心が折れて、しまう。
ようやく。
ようやく片膝に力が入って、あとは立ち上がるだけだっていうのに――――「……いらない。貴方の助けなどいりません。敗北した以上、私は既に貴方の剣ではないんです……!
このまま―――このまま消えるのが、サーヴァントとして当然の結末ではないですか……!」 セイバーの声。
……くそ。
これ以上邪魔をしたら、おまえでも怒るからな……!「やだ―――止めてくださいシロウ、それ以上はダメだ……! 本当に、本当に死んでしまう。こんな、こんな事で貴方に死なれたら、私は―――」 ――――っ。
この、人の気も知らずに、よくも言いたい放題……!「―――うるさい、いいから少しは黙ってろ……! こういう時ぐらい頼っていいんだよ、おまえは……!」「それは違う、シロウ、優先順序を間違えないでほしい。
私の身などどうでもいい。そんな物より、貴方は自身の命を第一にするべきだ―――」 懇願するような声。
……そんな声を俺が出させているのかと思うと、本当に、心が折れそうになった。
それでも――――「―――断る。俺には、セイバー以上に欲しいものなんて、ない」
その言葉には、頷いてやる訳にはいかなかった。「な――――」
呆然と、セイバーは俺を見つめている。
……どうしてそんな顔をするのかは分からない。
ただ、思い出した。
彼女は俺に、自分の命の重みを知らない大馬鹿者と言った。 それは真実だと思う。
自分の事さえ考えられないようなヤツが、他人に手を差し出すなんて思い上がりだ。
そんなものは独りよがりの幸せで、相手からしてみれば不安定な喜びでしかない。 一番大事なものは自分自身。
そういう人間が、きっと迷うことなく幸せになれて、その幸せを分けられる。「……ああ。俺は確かに、自分の命を勘定にいれてない大馬鹿だ」
俺は、一番大事なものを間違えている。
―――あの日から。
その席が、ぽっかりと空いている。 ……でも、その歪《いびつ》さに感謝している。
今はその空席に。
心の底から救いたいと思えるヤツが、ちゃんと居座っているんだから。「けどな、セイバー。もし俺が、自分の命が一番大事だったとしても変わらない。
きっとそれ以上に、セイバーはキレイなんだ。おまえに代わるモノなんて、俺の中には一つもない」 ―――それで、気が付いた。
俺はあいつに同情していた訳じゃない。 夢で見た一人の少女。
独りで戦い抜き、独りきりで死んでいった彼女を報われないと思いつつも、俺は見とれていたのだ。
ただ綺麗だと。
剣を手に取り、一度も振り返る事なく駆け抜けた彼女の生き方そのものが、憧れるほど鮮やかだった。「――――そうだ。だから」
だから、守らないと。
孤独のままだったおまえが、最期に、その闇に囚われないよう。 ……そう。全てが終わって、その死の際で。
己の人生は誇れるものだったのだと、胸を張って眠れるように―――― ―――迷いは消えた。
俺のやるべき事は、こんなにもはっきりしている。
「―――ごめんな。俺、セイバーが一番好きだ。
だから、あんなヤツにおまえは渡さない」
そう呟いて、謝っちまったな、と後悔した。
だが口にしたかったのだ。
この時。なんの不純物も混ざらない今だからこそ、言葉にしておきたかった。
「―――――――」
息を呑む気配だけがした。
振り返って見たかったが、セイバーがどんな顔をしているか、もうよく見えないんで止めておこう。
立ち上がる。
心臓の鼓動があるのならまだ戦える。
魔力とは、すなわち命だ。
鼓動があるかぎり、何度でも彼女の剣を作り上げる。
「よく立った。―――で? その後は何があるのだ?」
―――右手に灼熱を感じる。
死が身近にあるからか、十年前を思い出した。
……ひどい錯覚だ。
この身が、今もあの火事の中で、生を求めて手を伸ばしているかのよう。
「失せろ。おまえに、セイバーは任せられない」
右手を掲げて告げる。
「たわけ。誰が貴様の許しを得るか」
敵が剣を振り上げる。
「伏せろ、シロウ――――!」
背後からはセイバーの声。
それに逆らって、残った全ての魔力で、もう一度剣を“投影”し――――
その光に、阻まれた。
エクスカリバーには及ばないものの、触れるモノを焼き払う光の渦が繰り出される。
「――――――――」
体に灼熱を感じながら、思った事は自身の死ではなく、背後にいるセイバーの事だった。
「――――――――」
これではあいつも巻き込まれる。
なら、せめて守らないと。
セイバーを守ると言った。そう、俺はセイバーを守りたかった。
……あいつは強いけど、同時にいつ折れてもおかしくはなかったのだ。
だから俺がしっかりしないと。
いつも抜き身の剣のような彼女が傷つかないよう、彼女の為にならなければ――――
―――と。
気が付けば、右手には、剣のようなものが握られていた。
「な――――に?」
それは誰の声だったか。
躊躇は一瞬。
絶対の勝利者である黄金の騎士がわずかに後退したのと同時に、
「シロウ、それを――――!」
セイバーが、俺の手を取っていた。
―――巻き起こった光が止む。
傍らには寄り添ったセイバーの姿。
目前には目を見開き、わずかに血を流すギルガメッシュの姿があった。
「――――――――」
何が起きたのかは判らない。
ただ、これがバーサーカー戦の焼き直しだという事だけは気づいていた。
俺が作り出した何かをセイバーが使い、ギルガメッシュの剣《グラム》をうち破ったのだ。
光は光を押し返し、今まで無傷だったヤツに深手を負わせたのか。
「――――――――」
―――恐ろしいまでの殺意。
目に見える物、その全てを殺さねば気が済まぬという殺気を放ったまま、
黄金の騎士は、無言でこの場から立ち去った。
「……え?」
驚く暇もない。
なぜヤツが立ち去ったかなど知らない。
ただ、戦いが終わってくれた事だけは、薄れかけた意識でも実感できた――――
膝が落ちる。
緊張の糸が切れて、体が地面に倒れ込む。
「と、シロウ……!」
咄嗟にセイバーが支えてくれた。
尻餅をついた状態で、セイバーに背中を支えられながら、ぼんやりと自分の体を見下す。
「は――――」
思わず声が漏れた。
傷はもう、どうしようもない状態だった。
「ぁ――――はぁ、はぁ、は――――」
左肩からバッサリと断ち切られた体は、本来なら即死の傷だ。
「つ――――あ。こいつは、さすがに」
それが曲がりなりにも生きているのは例の治癒のおかげだが、それにも限度があるだろう。
ほとんど二つになりかけている体。
ここまで分かれた体を治す事などできまい。
……もう自分が呼吸をしているかさえ判らないし、意識も段々と細くなっていっている。
―――終わりが近い。
ただ、幸いなのはセイバーの事だ。
俺は致命傷だが、セイバーは疲労だけらしい。
今では武装を解いていて、傷も完全に治っている。
なら―――あとは、ここで俺がリタイアしても、遠坂がなんとかしてくれるだろう――――
また、この音だ。
骨が軋むような音は、俺の体から発している。
気になって傷口を見下ろす。
「―――――――な」
それは、無数の剣だった。
いや、剣の刀身のようなものが幾重にも重なり合い、ひしめき合い、ギチギチと音をたてて、分かれた体をつなぎ合わせようとしている。
目眩がした。
体中の骨という骨、筋肉という筋肉が、剣で出来ているような錯覚――――
「――――え?」
そんなものはなかった。
さっきのは幻か、体はいたってノーマルだ。
その証拠に別れていた肉は繋がりはじめ、傷口はみるみるうちに塞がっていく。
治癒というよりは復元に近い。
その様は、不思議を通り越して不気味だった。
「な――――」
どうやら助かるようだ。
が、いくらなんでもこれは――――
「――――良かった。この分なら死ぬ事はなさそうですね、マスター」
耳元でセイバーの声がした。
その、すごく近い。
「いや……それは、助かる、けど――――俺の体、いったい」
どうなっているんだろう、と言いかけて、目眩に襲われた。
―――と。
体は、ふわりと柔らかな腕に包まれていた。
「え――――セイ、バー……?」
「いいえ。私には判りました。傷が癒やされるのは当然です」
……意識が持たない。
魔力を生成しすぎた為だ。摩耗しつくした精神は、いますぐに眠りを欲している。
……それは、どのくらいの強さだったのか。
セイバーはより深く腕を回して、ぎゅっと、俺の体を抱きしめ。
「―――やっと気づいた。シロウは、私の鞘だったのですね」 ……そう、深く染みいるような声で、彼女は言った。
その感触が心地よくて、残っていた意識が閉じる。
とにかく助かったと安心して、眠りに身を委ねる。
……と、その前に。
この立場が逆だったらもう文句はないのにな、なんて、つまらないグチをこぼしていた――――
◇◇◇
――――最後に。
もう一度、あの赤い丘を見る。
赤い記憶。
以前より深く彼女の記憶に沈んで、同時に、これが最後なのだと感じていた。
それはもう何度も見てきた、ある騎士の記憶。
国王となり、自分の意志を殺して国の意思となり、信頼できる騎士《とも》たちから疎まれるようになった日々。
戦に勝利する度に、望まぬ戦いを望まれたアルトリア。
女性である事を隠し続け、不審を買い、孤立した彼女に待っていたものは、肉親による謀反だった。
遠征に出た王の留守を狙い、国を乗っ取った若い騎士。
男の名はモードレット。
騎士王の姉ギネヴィアの息子であるその騎士は、その実、騎士王の息子だった。
―――結論から言えば、女性であるアルトリアに子を作る事はできなかった。
だが、確かにモードレットはアルトリアの血を受け継いではいたのだ。
アルトリアの姉であるギネヴィア―――妹でありながら王となったアルトリアを恨む彼女の妄念が、どのような手を尽くしたか定かではない。
彼女の分身として作られたモードレットは、父を明かせぬ騎士として王に仕え、その座を簒奪《さんだつ》する日を待ち、ついに反旗を翻した。
―――後にカムランの戦いと呼ばれる、
アーサー王の最期である。
遠征先でモードレットの裏切りを知ったアーサー王は、疲れ切った兵を連れて国に戻り、自らの領土へ侵攻した。
かつて従えていた騎士をことごとく斬り伏せ、
自身が守ってきた土地に攻め入った。
かろうじて自分に付き従ってくれた騎士たちも散っていき、最後に残った者は、自身と、息子である騎士《モードレット》だけだった。
両者の一騎打ちは、王の勝利で幕を下ろした。
……だが、無傷だったという訳ではない。
強い呪いでくくられたモードレットは死してなお剣を振るい、王に、もはや癒せない傷を残したからだ。
それがこの戦いの終わり。
騎士王と言われた彼女の、最後の姿だった。
―――辛くなかった筈はない。
思えば、彼女の戦いで辛くなかったものなどなかった。
十二もの戦はそのどれもが身を削《さ》くような戦いであり、これは、その最後に相応しい、もっとも大きな傷痕に他ならない。
ブリテンに戻り、自国の軍を蹴散らし。
臣下であった騎士たちを自らの手で処罰し、従ってくれた騎士たちをみな死なせ。
その果てに、カタチの上であれ、息子であった騎士を倒さねばならなかった。
……その胸に去来したものが何であるか、俺には知るよしもない。
ただ、願ってしまった。
最期まで王として有り続けようとした独りの騎士。
その死の直前に見た夢が、せめて―――アルトリアという少女が望んだ、当たり前の夢であるようにと。
「ん…………」
目蓋を開ける。
いつのまに帰ってきたのか、自分の部屋にいて、体は布団の上に寝かされていた。
「――――ああ。気が付いたのですね、シロウ」
「……セイバー。俺は、どうして」
「ええ、あれから今まで眠っていたのです。体の方はほぼ完治していますから、心配には及びません」
「……そうか。それは、いいけど」
セイバーの方はどうなのか。
俺は傷さえ治ってしまえば、あとはどうとでもなる。
けどセイバーは違う。いくら傷を治せるといっても、セイバーの魔力は無限じゃない。
いや、普通に戦う分には問題ないだろうが、今はエクスカリバーを使った後だ。
「……セイバー。その、ずっと俺の手当を……?」
「手当といっても汗を拭く程度です。私には凛のように、人の傷を看る事はできませんから」
「―――ばか。そんな事しなくていいんだ。
今は俺なんかより、セイバーの方が辛いだろう」
「そのような事はありません。シロウに比べれば私は軽傷です。
しかし、今のは聞き捨てなりませんね。いくら傷が塞がったといっても、シロウは死んでいてもおかしくない傷だったのです。今は自分の体を案じてください」
言いながら、セイバーは近くの洗面器に手を伸ばす。
洗面器には冷やしたタオルがあって、セイバーはタオルを絞ってから、汗をかいている体を拭いてくれる。
「――――――――っ」
それが、とんでもなく照れくさかった。
「? シロウ、傷が痛むのですか? また熱が出てきたようですが――――」
「ね、熱なんか出てないっ……! いや、そうじゃなくて、いいからセイバーは休んでいてくれ。
今は元気かもしれないけど、エクスカリバーを使ったんだ。なら、今はセイバーの方こそ休んでいなくちゃダメじゃないか。そんなんじゃまた倒れちまうだろう」
「え……まあ、それは、そうなのですが」
何か言い淀みつつ、セイバーはタオルを絞る。
「けれど、今は私の方が元気ですから。
マスターの傷が癒えるまでは、私が守るのは当然でしょう」
「―――――」
……なんだよそれ。
そんな顔でそんな事を言われたら、文句なんて言えなくなる。
「……。じゃあ、俺が落ち着いたら休むんだな、セイバー」
「当然です。私とて、睡眠をとらなければ保てない身ですから」
セイバーはいつもの調子で、あっさりとそんなコトを言う。
……そうして、照れくささを堪えながらセイバーの看病を見守った。
「――――――――」
……ゆっくりと、時間だけが過ぎていく。
こんなに近くで、何もせずにセイバーを見るなんて事、今まであっただろうか。
セイバーはいつもの調子で、月明かりだけが彼女の体を照らしている。
「――――――――」
……こうして見ると、セイバーは本当に女の子だった。
白い指、華奢な腕。
戦いなんて出来そうもなく、倒れれば立ち上がれそうにないほど可憐だと思う。
……だから余計に、冷静でいられなくなる。
その細い体で、ずっと、今まで戦ってきたのだから。
「シロウ……? どうしました、人の腕をじっと見て。
……まさかとは思いますが、凛の腕と比べているのではないですか?」
……怒っているのか、拗ねているのか。
あんなに華奢な腕をしているクセに、セイバーは自分の腕が可愛くないと思っている。
筋肉がついているからだろうが、そんなの、俺からしてみれば十分可愛らしいのだが。
「違うよ。傷も痛まないし、ただぼんやりとしてただけだ。別にセイバーの腕に一言あるわけじゃないし」
「そうですか。それなら良しです」
ほう、と胸をなで下ろすセイバー。
その後。
何がひっかかったのか、セイバーは目を閉じて小さく頷いて、
「傷はもう大丈夫なのですね。あの時は真剣に怒りましたが、無事なら不問にします。
……遅くなってしまいましたが、礼を言いますシロウ。
それに、貴方が助かって、本当に良かった」
嬉しそうに。
俺にとってはあまりにも儚げに、彼女は笑った。
「ば――――――――」
そんな事で、彼女は笑った。
……夢で見た彼女の記憶を思い出す。
喜びを知らず、満足な楽しみなど知らなかったクセに、こんな事で笑うのか。
―――いや。
こんなつまらない事で、自分の事でもなくて、ただ他人の無事でしか、そんな風に笑えない。
いつか呟いていた言葉。
俺が笑っていてくれた方が嬉しい、と。
満ち足りた顔で、そんな事を言っていた。
「――――――――」
気が触れる。
それで、本当に気が狂いそうになって、
「っ、シロウ……!?」
力の限り、セイバーを抱きしめていた。
「シ、シロウ……! と、とと突然なにを……!」
抱きしめられたまま、俺の体を引き離そうともがく。
それを無視して、一層強くセイバーを抱きしめた。
「っ―――! シロウ、止めてください……!
なんのつもりかは知りませんが、悪ふざけにも限度があるでしょう……!」
拒んでくる腕。
だが、今更。
そんな声が、聞こえるものか。
「シロウ、いい加減に――――!」
セイバーの腕が上がって、俺の顔を打とうとする。
それに。
「―――もういい。いいから、自分の為に、笑わないと」
精一杯の気持ちを込めて、絞り出すように口にした。
「え―――――シロ、ウ……?」
彼女がどうして躊躇ったのかは知らない。
俺はただ、ため込んだものを吐き出すだけだ。
「―――そんな、どうして」
……彼女が聖杯に拘るのは解る。
けど納得なんて出来ない。
俺はセイバーに人間らしい楽しみを知ってもらいたいし、知らなければ、それは嘘だと思うんだ。
だって、みんなの為に戦い続けたのなら。
幸せにした人間の分、おまえは幸せになっていいんだから。
「貴方が、泣いているの、ですか――――」
「――――――――っ」
言われて、目が滲んでいる事に気が付いた。
悲しいからじゃない。
ただ悔しいだけだ。
他人の為にしか笑えないセイバーが悔しくて、あんまりにも頭にくるから、頭がいかれただけの話――――
「……セイバー。もう十分なんじゃないのか。おまえは頑張ったんだろう。一人でも戦い抜いたんだろう。
なら―――セイバーが幸せにならないなんて嘘だ。
おまえは立派に誓いを果した。なら、このままアルトリアに戻ってもいい筈だ」
「な――――何を言うかと思えば、まだ、そんな事を言うのですか、貴方は」
「ああ、ずっと言い続ける……! そんなの、惚れちまったんだから仕方ないだろう……! おまえが考えを変えるまで、絶対に諦めてなんかやらないからな……!」
怒鳴って、暴れるセイバーを押さえつけるように抱き寄せる。
「な――――」
……引き離そうとするセイバーの力が、弱い。
彼女は俺の腕の中で体を縮めて、逃げるように視線を逸らした。
「……シロウ。私を困らせないでほしい。
……いくらマスターとはいえ、このような事をされるのは、不快だ」
「セイバーが嫌だっていうんならすぐに離れる。
……俺は好きだってちゃんと言ったからな。セイバーが俺じゃ駄目だって言うんなら、このまま手を離す」
「っ…………」
セイバーは答えない。
ただ顔を俯かせて、俺の視線から逃れていた。
「……シロウは卑怯です。私の過去を知って、私の中に何度も入ってきた。私の答えなど貴方は知っている筈なのに、どうして―――そこまで、私に構うのです。
……私が。どれほど罪を重ねてきたか、貴方は見てきた筈なのに」
―――ああ、見てきた。
王の名の下に多くの人間を犠牲にして、多くの敵を殺してきた事を。
それを見過ごす事も、無かった事にする気もない。
それでも、それを知った上でなお、アルトリアという少女に、幸せになってほしい。
「―――それがどうした。この感情が何かは知らない。
俺はただ、セイバーをこのままにしておけないだけだ。
セイバーは笑ってくれ。俺はもっと、ずっとセイバーと一緒にいたい」
子供じみた一方的な告白。
セイバーは俯いたまま唇を噛んだあと。
「……私の答えは変わりません。王の誓いは破れない。
相応しくなかったとはいえ、私は王として国を任せられた。
その責務を果たせなかったというのに、こんな……こんな自由は、許されない」
今にも泣きそうな顔をあげて、まっすぐに俺を見た。
「――――――――」
視線が絡む。
拒絶する言葉と、逆らわない体。
気が付けば。
震えるセイバーを抱きしめながら、彼女の唇を奪っていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
目を覚ますと、日は昇りきっていた。
外から差し込んでくる陽射しは暗く、部屋は薄暗い。
まだ昨夜の続きにいるような気がして、ぶん、と勢いよく首を振った。
「……外は曇りか。どうりで目が覚めない筈だ」
寝不足だった体は、部屋の暗さを幸いにと十分睡眠をとったらしい。
見れば時計は午後一時を過ぎている。
ここまで寝過ごすと、もはや寝坊ですらない。
「セイバー、起きてるか……?」
「――――――――――――」
返事はない。
セイバーは俺の傍らで、わずかに背を丸めて眠っていた。
こっちは眠気さえ取れれば目を覚ますが、セイバーには魔力の回復もある。今までの睡眠時間からいって、夕方になるまでは起きないだろう。
セイバーを起こさないよう部屋を出た。
今は無理に起こす必要はないだろう。
勝負は夜になってからだ。
ランサーにしろギルガメッシュにしろ、日が昇っているうちに現れる事はないだろう。
「…………」
だから、対策を立てなければ。
ランサーはともかく、ギルガメッシュは必ず今夜も現れる。
去り際に見せたあの殺気と、ヤツの性格からすれば考えるまでもない。
……だがどうする。
無限とも言える数の宝具を持ち、その中の一つはセイバーのエクスカリバーをも上回っている。
例えば、確かにバーサーカーは倒すのが困難な強敵だったが、たとえ劣勢でも戦いにはなったのだ。
徐々に圧されていく戦況で、逆転の可能性を追い求める事もできた。
だがヤツは違う。
今の俺たちでは戦いにさえならない。
あのエアという宝具を真っ向から使われたら、それだけで全滅だ。
「――――手を考えないと。日没まで時間がない」
一人で悩んでいても出口はない。
俺にもセイバーにも遠坂にも対抗策がないというのなら、後は――――
「……教会。監督役である神父《アイツ》なら、何か」
現状を打開する策を持っているのではないか。
英雄王ギルガメッシュ。
前回の聖杯戦争の生き残りであるあのサーヴァントに関して、言峰綺礼は何らかの対策を立てると言っていた。
俺たちでは対抗策が見つからないが、あの神父なら、既に何らかの手段を講じているかもしれない。
……坂道を上っていく。
空は灰色の雲に覆われていた。
「――――――――」
……丘の上には、教会しかなかった。
人の姿はなく、鳥の囀《さえず》りも聞こえない。
仄かに暗い空のせいか。
ソレは神聖なものではなく、何か不吉なものに見えた。
喩えるのなら処刑場。
あの長い坂を上り、この広い広場を越えて、神前に罪を告発されて地獄に落ちる。
「なんだ。たとえ話になってないな、それ」
もとより教会は人が死ぬところだ。
病院は人を生かす所だが、同時に人が死を迎える所でもある。
教会も同じだ。
そういった意味で言えば、ここほど死に浸された場所もあるまい。
「――――――――」
風が冷たい。
襟元を締めて、教会の階段を上っていった。
「言峰、話があって来た」
礼拝堂に足を踏み入れる。
広場と同じく、ここにも人の姿がない。
「――――言峰?」
また奥にいるのだろうか。
椅子の合間を抜けて、祭壇へと歩いていく。
かつん、かつん。かつん、かつん。
乾いた音が礼拝堂に木霊する。
音が響きやすい作りになっているのか、たった一人分の足音が、恐ろしいほど空間を占めていく。
「……言峰。いないのか」
声を潜めて神父の名を呼ぶ。
……おかしな話だ。
人を呼ぶのなら大声でなければならない。
相手は奥にいるのだろうから、大声でなければ聞こえないのも判っている。
なのに声は出ず、足音も小さく、気配も押し殺して進んでいた。
……この礼拝堂があまりにも厳かだからなのか。
自分の存在を明らかにした途端、何かよく判らないモノに取り囲まれ、神を汚した罪か何かで首を斬られてしまいそうな――――
礼拝堂を抜けて中庭に出た。
「……たしか、言峰の部屋は――――」
足音を殺しながら通路を行く。
教会の内部は入り組んでいて、言峰の部屋が何処にあるかなど判らない。
一度だけの記憶は曖昧で、正直、自分でも辿り着けないと分かっていた。
「――――――――」
なにか、
呼吸を整える。
喉はカラカラに乾いて、息苦しい。
どうして、
通路は冷えているというのに、額には汗が浮かぶ。
声を殺し、全身で周囲の気配を探る。
こんなにも、
……理由が分からない。
なぜ声を殺して歩いているのか、なぜこんなにも心臓が動悸するのか。なぜ――――
ここで、厭な予感などしているのか。
「――――――――」
頭の中では、さっきから同じ言葉がループしている。
戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。
言峰は留守だ。ならばここに用はない。一人なんだから家に帰れ。おまえの選択は間違いだ。おまえの行動は間違いだ。おまえの悪寒は間違いだ。戻れ。戻れ。戻れ。
戻れ。悪いことは言わない。悪いことは何もない。ここには、教会《・・・・・・・・》には何もないから家に帰れ――――!
「っ――――、は――――」
気持ちが悪い。
吐き気がする。
こういう時、自分の悪寒は正しい。
“身の危険”を察する感覚は、半人前の魔術師としては上出来だ。
だから、足が止まらない。
心拍数をあげていく心臓を押さえながら、言峰の部屋を探す。
そうして、その闇に突き当たった。
「――――地下…………?」
闇に見えたのは階段だった。
壁と壁の間、建物の影になっていて、普通なら見落としてしまうくぼみに、細い細い階段がある。
「――――――――」
下りてはならない。
賭けてもいい。
そこに言峰はいない。
そこには誰もいない。
そこに   などない。
そこにシ  などない。
そこに  イなどない。
そこに タ などない。
そこに踏み入ってはいけない――――!
「――――ッ」
首筋が引きつる。
俺は――――
◇◇◇
その闇に、足を踏み入れた。
石造りの部屋だった。
明かりは消されているのに、部屋はそれ自体が生き物のように、薄青い燐光を帯びている。
「―――地下の……聖堂……?」
頻繁に使われているのか、聖堂には埃や黴といった汚れがない。
……どのくらいの深さなのか。
下りてきた階段を見上げる。
階段は壁づたいに作られていて、ぐるりと弧を描いていた。
ちょうど半月を描いているのか、正面のシンボルの真上―――高さにして十メートルほどの位置に、降りてきた階段の入り口が見えた。
「――――――――」
明かりがないからか。
なだらかに弧を描いて地上と地下を繋ぐ階段は、この聖堂を這いずるムカデか何かを連想させる。
「…………ん?」
そうして、その扉に気が付いた。
階段の下。
正面のシンボル。その正反対の壁に、黒い闇が穿《あ》いている――――
引き寄せられるように、その闇に近づいた。
入り口らしきモノをくぐり、その室内に足を置く。
湿っているのか。
床はぬたりとした感触で、ひどく歩きづらい。
以前、学校でプール掃除をした時に似ている。
水苔が床いっぱいにこびりついていて、歩くたびに、踝まで腐っていくような感覚。
「――――――――っ」
踏み入れた足が止まる。
床の気色悪さに怖じ気付いた事もあるが、それ以上に、強い刺激臭がしたからだ。
思わず鼻を塞ぐ。
匂いは瞬間的なものでなく、永続的な物のようだ。
……生臭い匂いではない。
かといって火薬でもない。
これは―――ホルマリン、だろうか。
ともすれば酔ってしまうほどの薬品の匂いが、この部屋には泥のように沈殿している――――
「―――――――」
地下に足を運んだ時点で、感覚などとっくに麻痺していた。
緊張も悪寒も、とっくに感じなくなっている。
―――だというのに。
心臓は二倍に膨れあがるかのように拡縮を繰り返し、 手足の感覚は粉々に砕けていきそうなほど蠕動《ぜんどう》している。
そして、もっとも最悪な事は。
この闇に、目が慣れてしまったという事だった。
―――闇が薄れる。
ぽたり、とどこかで水滴が落ちる。
それが開幕の合図だったのか。
今まで見えなかったソレが、一瞬にして、網膜に焼き付いた。
「あ――――――――――――――――――」
それは。
どこか見覚えのある、生きて見る地獄だった。
死体がある。
死体がある。
死体がある。
死体がある。
前後左右あらゆるところに死体がある。
たちこめる死臭を、幾重もの薬香が塗り潰す。
水滴の音は点滴のそれだ。
ぽたりぽたりと落ちる水は、死体たちの唇へ伝っている。
だらしなく開かれた口は水滴を受け入れ、もう何年もそのままだろう、唇はふやけ、腐り、中にはアゴの肉が腐乱したモノまであった。
「あ――――――――あ」
嘘だ、と思った。
こんなものは嘘なのだと思いたかった。
だが自分を騙せない。
そんなコト、一目で気づいた。
これほどの亡骸があるというのに。
ここには、死者など一人もいないというコトに。
「――――――――生き、てる」
生きていた。
死体にしか見えないソレら、かつてヒトのカタチをしていたソレらは、今も、立派《・・・・・》に生きていた。
……昔、どこかで見たニュースを思い出す。
あれはクジラの話だった。
クジラに飲まれて一ヶ月生き続けた男の話だ。
あのバカでかい生き物は、そのバカでかさを維持する為に、バカでかい消化器官を持っている。
傑作なのは、それが二つあるというコト。
一つめの胃は、飲み込んだ魚を保存するメシ袋。
その次にあるのが胃袋で、メシ袋に溜め込んだ大量の生き物を消化する大本命。
で、クジラに飲み込まれた男は、一切の光が差し込まぬ、酸素が希薄で生臭い生温かい肉袋の中、ゆっくりと体を溶かされながら一月生き続けたとかなんとか。
魚の死体が山積みの胃《メシ》袋の中、服も体毛も溶かされながら一ヶ月、いつ胃袋に送られるか分からないドキドキの中一ヶ月だ。
で、どこぞの漁師たちがクジラを仕留め、中身をバラしていたら胃袋から宇宙人みたいにツルツルでドロドロの人間が出てきて驚いたとかいう話。
―――ああ。
それも悲惨な話だが、こっちだって負けてはいない。
「―――――――――――、あ」
どうして生きているのか。
死体はそのどれもが奇形で、あまりにも、ヒトとして欠損が多すぎた。
手足がない。
断ち斬られたもの、
末端から腐敗し骨だけを残したもの、
すり潰され石畳の床の隙間に落ち込んだもの、
壁に打ち付けられ虫たちの苗床になったもの。
その経緯はどうあれ、彼らには胴と頭しか存在せず、それすらも枯れ木のようにボロボロだった。
「――――――――――――」
理由《ワケ》を調《ミ》るまでもない。
死体は、あの棺に喰われている。
どのような仕組みなのかは知らない。
死体は棺に溶接され、棺は死体から養分を吸い上げているだけだ。
―――命の流れ。
魔力、いや魂に近いものを棺は搾取している。
少しずつ少しずつ。
寄生したモノを殺さぬよう、寄生したモノを生かさぬように。
……すすり泣くような風の音。
それは死体の口から漏れている悲鳴らしい。
彼らの喉はとっくに退化し、声をあげるだけの機能はない。それは既に、生きながらえるだけの気管になり下がっている。
それでも、死体は泣き叫んでいた。
蚊の泣くような声で、精一杯の絶叫をあげ続ける。
―――痛みと不安か。
生きながらにして体を咀嚼され、少しずつ自分のカタチを失っていく事に耐えられず、彼らは断末魔をあげ続ける。
「」
音がした。
手前の棺が喘ぐ。
どろり、と。
首をこちらに傾けた拍子で、眼球がこぼれ落ちる。
それでも―――ソレは、俺に視線を向けていた。
「――――――――――――」
ふやけきった唇が、かすかに揺れる。
ソレは、声にならない声で、
ここは どこ と訊いてきた。
「―――――――――――――――」
叫び出す一歩手前。
いや、叫ぶ事さえ、とっくに出来ない。
此処は何処。
痛いでもなく、助けてでもなく、ソレは、なぜ自分がこんな場所にいるか判らない、と訊いてきた。
つまり、あれか。
あの子は、気が付いたらああだったのか。
普通に生きてきて、当たり前のように眠って、目が覚めたらこんな場所で喘いでいた。
手足はとうになく、あんな棺に収納され、動く事もできず末端から腐って――――こんなコトは悪い夢なのだと、信じるしかない質問。
「――――――――――――」
気が、狂いそうだ。
この光景にも、この惨状にも。
ただ、どうして。
見覚えが、あるのだろう。
見たこともないのに、死体の顔はどれも見覚えがある。
初めて見るのに。
知るはずもない相手なのに。
自分とは関わりのない人間なのに、何故。
みんな、俺を知っているかのように、
俺が知っているかのように 見つめてくるのか――――
「あ――――――――あ、あ――――」
それと、疑問はもう一つある。
ただの偶然なのか、それが共通項なのか、生け贄はそうでなくてはならないのか。
どうして、ここにある死体は、みな同い年の子供なのか――――
――――と。
「いや――――よく来てくれた、衛宮士郎」
突然。
背後から、親しい友人に挨拶をするかのように、バン、と両肩を叩かれた。
「―――――――!」
あまりのコトに体が硬直し、振り向く事さえできない。
だが、背後に立つ男が何者なのかは見るまでもなかった。
言峰綺礼。
この教会の神父、目の前の地獄を作った男、
そして――――今、最も出会ってはいけない悪魔。
「まったく間が悪い。そろそろおまえが来る頃だと思ってな、食事の準備をしに行ったのが拙かった。
そら、前回はろくなもてなしが出来なかっただろう?
私なりに気を遣ったのだが、入れ違いになってしまったか」
「――――――――」
声が出ない。
両肩にはずっしりと重く、神父の手が置かれている。
「だが不法侵入は感心しないな。そのような事をすると、見なければいいものを見てしまうハメになる。
例えば、そう。お互いの関係を白紙に戻さざるを得ない真実を知ってしまうとか」
神父の声は、聞いた事もないほど愉しげだった。
背後に立ち、俺の両肩に手を置いた言峰綺礼は、間違いなく笑っている。
「――――――――」
だから。
それが、喩えようもなく恐ろしかった。
「どうした衛宮士郎。話をしに来たのだろう、黙っていては意味がないぞ。拍子抜けだな。それほどこの光景は奇怪かね」
神父は親しげな声で、人間味のない言葉を口にした。
この男は、この光景を前にして何も感じてはいないというのか。
「う――――――――」
これが奇怪かなんて、そんなコトは言うまでもないだろうに――――!
「なんだ、それは冷たいな。おまえにとっては不快でも、そんな事はないと言ってやるのが情けだろう。
そもそも、彼等とおまえは兄弟のような物だ。おまえがそのような態度では、彼等も救われないと思うのだが」
「――――――――え?」
今。
この男は、愉しげに何を、口にしたのか。
「――――おまえ。今、なんて」
「この死体たちとおまえは仲間《・・・・・・・・・・・・・・・・》だった、と言ったのだ。
カタチはどうあれ、おまえたちはあの地獄から生還した者達だ。血肉の繋がりはなくとも、その絆は兄弟のそれに近いと思うのだが、どうかな」
「――――――――」
そうか。見覚えがあると思ったのは、そういう事か。
これは十年前の続きで、
ここは、あの病室の続きだった。
――――頭が回る。
家も両親も失った子供達。
引き取り手が見つかるまで孤児院に預けられるという話。
その前に俺は衛宮切嗣に引き取られ、その後、彼らがどうなったのかは知らなかった。
知ることも避けていた。
孤児院は丘の上にある教会で、その気になればいつでも様子を見に行く事はできる。
それでも足を運ぶのは躊躇われた。
引き取り手がいる自分が、引き取り手のいない子供に会うのはフェアではない気がした。
だから、出会うのなら町中でだ。
偶然町中で出会って、当たり前のように話せて、火事の事など振り切れている。
そういう再会を楽しみにして、狭い町だからいつか顔を合わす事もあるだろうと思っていて――――なぜ今まで、ただの一人とも出会わなかったのか。
「――――――――言、峰」
「そうだ衛宮士郎。衛宮切嗣に引き取られていなければ、おまえも彼らの一員となっていた。
解るか? おまえはまたも一人だけで助《・・・・・・・・・》かったのだ。
まわりの誰もが平等に死んでいくというのに、おまえだけが和を乱して生きのびた。どうかね。自分自身、大した不平等だとは思わないか」
―――鼓動が戻る。
凍っていた体が、瞬時にして解凍される。
「いや、私は責めている訳ではないぞ。むしろおまえのソレは喜ばしい。衛宮士郎の生き延びる才能は大したものだ。実際、私もおまえが最後まで残るとは思ってもいなかった。
だからこそ―――最期は、こうして兄弟たちに再会させてやったのだ」
「――――――テ」
「おまえは本当に運がいい。ここは今日かぎりで閉める予定だったのだが、ギリギリで間に合ったな。
―――今まで十年間。サーヴァントのエサにするために彼等を生かし続けたが、それも終わりだ。やり初めた時ほどの濃い苦痛《たましい》の摘出は望めぬし、もはやエサの必要もない。あとはおまえと、おまえのサーヴァントを仕留めるだけになったのだから」
「――――テメエ…………っ!!!!!」
その言葉で、全ての戒めを吹き飛ばした。
金縛りにあっていた体を動かす。
両肩に置かれた腕を振り払い、前へ飛び退き、すぐさま神父へと振り返る――――!
「言峰、おまえが――――!」
十分な距離をとって対峙する。
瞬間。
なにか、後ろから、強い衝撃を受けた。
「あ………………ぐ?」
……ヘンだ。
息が出来ない。
胸から鋭い角が生えている。
角は、どう見ても槍の穂先だった。
……おかしな話だ。
一体どんなカラクリで、俺の胸から槍なんかが、生えて、く――――
「ああ、そういえば言っていなかったな。
改めて紹介しよう。彼が、私のサーヴァントだ」
「――――、――――」
後ろに振り返る。
そこには 俺の胸を串刺しにする、青い槍兵の姿があった。
胸に刺さった槍が引き抜かれる。
同時に。
脳髄を焼き切らんとばかりに、激しい痛みが駆けめぐった。
「あ――――が、ご…………!」
……床が真っ赤になっていく。
水苔でぬるぬるした地面に倒れている。
立ち上がろうと腕を立てるが、自分の体が重すぎて持ち上げられなかった。
……動けない。
金縛りではなく、もう、人間として活動するのに、必要なモノが欠けているのだ。
「ぎ―――! つ、は――――!」
出血による意識の喪失よりも、胸の痛みの方が強い。
気絶などできない。
今まで、死に至る傷は何度か負った。
それらはみな痛覚さえ麻痺させる物だったと思う。
だが、これは違う。
死に至る傷だというのに、あまりにも痛みがリアルすぎた。
「はっ――――あ、は、づ、ぅ――――!」
視界が狂う。
痛みによって意識が真っ白になった途端、次の痛みで目が覚める。
手足の感覚がない。
自分がどこにいるのかさえ掴めない。
あるのは吐き気と痛みと、いっそ、このまま消えてしまえばどれほど楽かという誘惑だけ――――
「殺してはいないだろうなランサー。それでは今まで残していた甲斐がない」
声だけしか聞こえない。
目は、開けているのに何も見えない。
「―――命令は守るさ。たとえ、それがいけ好かねえ物でもな」
感情を殺したランサーの声。
それも、今ではよく聞こえない。
「よろしい。では支度をするぞランサー。マスターの窮地はサーヴァントに伝わる。セイバーが到着するまで、およそ半時というところか」
「言峰。このガキ、そこまでは持たねえよ。死なせたくねえんなら血止めぐらいはしとけ」
「不要だ。死ぬのならそれでかまわん」
……意識が遠のく。
痛みはついに脳の許容量を超え、失神する事を許してくれる。
「づ、あ――――!」
それを、胸の傷をえぐる事で、止めた。
―――痛みがぶり返す。
消えかけようとした意識が、また灼熱の世界に戻ってくる。
死にたい。
こんな痛みが続くのならすぐに死にたい。
そんな事は分かってる。
分かっているが、ここで意識を失えば、もう目覚める事はないとも判っていた。
もう、自分が何をしているかさえ思い出せない。
ただ真っ白い、黒こげになりそうな痛みの中で浮遊しているだけの気がする。
「は――――セイ、バー――――」
それでも、歯を食いしばって痛みに耐え、消えかける意識を押さえた。
―――ここで終わる訳にはいかない。
こんな簡単に、自分からリタイアする事なんて出来ない。
まだ果していない約束がある。
あいつが何よりも大切だと思うのならば。
衛宮士《オレ》郎は、こんなところで、消える訳にはいかない筈だ――――
◇◇◇
目を覚ますと士郎の姿はなかった。
遅れた昼食の支度でもしているのかと居間に向かったが、士郎の姿はおろか昼食さえ発見できなかった。
「……また一人で出歩いて。出かけるのなら声をかけてと言ったのに、どうしてシロウは人の話を聞かないのか」
ひとりごちて、縁側に腰を下ろす。
「……まったく。一人で出歩くのが好きなのは判りますが、これでは協力している意味がないではありませんか」
所在なげに足をぶらつかせる。
それもいつしか飽きて、物思いにふけるように視線をあげた。
空は一面の灰色だった。
天蓋めいた雲はゆっくりと流れており、遠くの空には切れ間が見えた。
この分なら、夜になれば晴れるだろう。
星が見えるようになったのなら、明日の事を占える。
昔、自分付きの魔術師に教わった星読みを、彼女はまだ覚えていた。
今まで自分の道が正しいか、などという堅苦しい事にしか使っていなかったが、今夜ぐらいは、特定された人物の明日を占いたいと思ったのだ。
それも、出来れば輝く明日を。
群がる危険を察しておいて、最も善き道を進ませるのだ。
彼女が心配する相手はともかく危なっかしいので、それぐらいはしないと安心して眠れないのである。
「―――さて。問題はこの町から観測できる星の位置ですが」
思えば、この日まで夜空を見上げた事はなかった。
彼女にとって優先すべきは聖杯戦争に勝ち残る事であり、誰かの為に星を読む事などではなかったからだ。
自分らしくないとは彼女だって分かっている。
それでも、それを知った上で星読みをしようとして、夜の帳《とばり》を今か今かと待っている。
……まったく、凄まじいまでの心境の変化と言えよう。
これではまるで、物語に聞く恋する少女ではないかと苦笑し、遠くの空を眺め続ける。
「あ、セイバー。士郎が何処に行ったか知らない?」
「――――――!」
と。
唐突に、遠坂凛が現れた。
「り、凛……!」
がばり、とゼンマイ仕掛けのように立ち上がる。
「な、なんでしょう、私は別に、シロウの軍門に下ったワケではありませんがっ……!」
顔を真っ赤にして言い立てる。
「あれ? もしかしてお邪魔だった?」
にやり、と意地悪く笑う凛。
同じ屋根の下に住んでいる事もあるのだが、衛宮士郎とセイバーの反応はとにかく判りやすい。
他人の事に関してのみ勘のいい彼女は、二人が色々と立て込んでいる事などお見通しだ。
そういう訳なので、無論、昨夜の出来事もそれとなく気が付いている。
否、朝方起こしにいったおり二人は同衾《どうきん》していたのだから、気が付くも何もないのだが。
「――ま、からかうのは後にしておいて。冗談抜きで士郎を知らない? イリヤの熱が上がっているみたいだから、ちょっと手伝って貰おうと思ったんだけど」
「イリヤスフィールが……? 彼女の容態は落ち着いたのではないのですか?」
「……それがどうにもね。士郎には黙ってたけど、あの子そろそろ限界よ。聖杯戦争っていう儀式が終わらないかぎり元には戻らない。あの子のキャパは破格だけど、それでももう一杯なの。
今はまだかろうじて容量が空いてるから、余分な機能が働いている。けど、満ちてしまえば一番不要な“人間としての機能”を棄てるしかない。イリヤスフィールはね、聖杯戦争が進めば進むほど壊れていくように作られているのよ」
忌々しげに凛は語るが、セイバーには彼女の言わんとするところが掴めなかった。
「―――あ、いいのよ、今のは判らないように言ったんだから。イリヤの事は置いておきましょ。それよりランサーの事だけどね。あいつのマスター、誰だか判ったんだけど」
「! ランサーのマスターが判明したのですか?」
「うん、まあ……判ったっていうか、前から判ってたっていうか。
実はね、ランサーのマスターは魔術協会から派遣された外来のマスターなのよ。それ自体はとっくに判ってて、ついさっきそいつのねぐらを見つけてきたんだけど……」
「凛。そのような危険な事は避けるべきです。敵の陣地が判ったのなら、私に言ってくれればいい」
「私だってそのつもりだったわよ。けどさ、外から様子を探ってたらどうもおかしいのよ。で、どうも留守っぽいなって中に入ってみたら、あったのは血の跡と、令呪がなくなった左腕だけだった。
それ以外は何もなかった。腕は切り落とされたんだろうけど、あの出血量じゃ生存は絶望的でしょうね。……ランサーのマスターは、とっくにやられてたのよ」
「―――? ではランサーは既にいないのですか? 十日前、シロウを襲った後に他のサーヴァントに倒されたと……?」
「……だったらいいんだけどね。血痕はもっと前のものだった。これ、どういう事か判る……?」
「―――サーヴァントを倒さず、先にマスターを倒した。
そうしてマスターから片腕……令呪を奪い、ランサーと契約したマスターがいる、という事ですか?
ですが――――」
「残っているマスターは私と士郎だけでしょ。けどランサーはまだ残っている。
って事は、マスターじゃない魔術師が令呪を奪ってマスターになってるって事だけど……セイバー、そういうのって出来るものなの?」
「いいえ。令呪の移植はマスターかサーヴァント、そのどちらかによるものだけです。いかに優れた魔術師と言えど、令呪を奪ったところでマスターにはなれません」
「……そう。じゃあもう一つ。マスターっていうのはさ、聖杯が消えてなくなっても令呪が残っていて、かつ、サーヴァントさえ残っていればいつまでもマスターなの?」
「え……そ、そうですね、凛の言う通りです。令呪とサーヴァントさえ残っていれば、聖杯戦争が終わったとしても、その魔術師はマスターとしての権利を――――」
凛の質問の意図に気づいて、セイバーは言葉を飲む。
「では、凛は……ランサーのマスターを殺し、ランサーと再契約したのは、その」
「……ええ。それ以外ないと思う。そう思うとランサーの行動にも納得がいくのよ。
あいつさ、他のサーヴァントの様子を探るのが役割みたいだったじゃない。戦えば自分の正体を明かしてしまうっていうのに、あいつは自分の正体を隠すでもなく他のサーヴァントにちょっかいだしてた。
それってつまり、あいつは諜報専門だったって事でしょ」
「―――同感です。私と戦った時も、彼は最後まで戦わなかった。宝具を使った以上、見せた相手は倒すのが私たちの定石だというのに」
「そう。だからランサーのマスターには、もう一人サーヴァントがいたのよ。ランサーに敵の正体を探らせておいて、その後に正体不明の戦闘専用のサーヴァントをぶつける。これって必勝法でしょ。
……ま、ランサーにして見ればいい迷惑だったろうけど。六人のサーヴァント全員と戦って、その手口を調べあげた上で主の元に帰るんだもの。
六人全てと引き分けなんて、ある意味とんでもないヤツよね、あいつ」
凛は口を閉ざして思案にふける。
その重い表情につられたのか。
「――――――――」
理由もなく、セイバーは寒気を覚えた。
既に殺されていたランサーのマスター。
あれだけの英霊を諜報活動だけに使う、正体不明のマスター。
……そして思惑通り、残ったサーヴァントは自分とランサーだけとなった。
そんな相手が敵だというのならば、たとえ昼間であっても士郎を一人にさせるのは危険ではないのか。
今まで、敵は複数いた。
だが今では、もう他に倒すべき相手がいない。
あと一人、自分と士郎を倒すだけという状況ならば、敵は今までのような“規定通り”の戦いなど守らないのではないか――――
「凛。士郎は何処に行ったのか、知りませんか」
一度思ってしまえば、あとはもう止まらなかった。
士郎を一人にしてはおけない。
こうしている間にも、彼女のマスターは取り返しの付かない状況に陥っているかもしれないのだ。
「……え? ……んー、どうだろう。知らないから訊いたんだけど、もしかしたら綺礼のトコかな。あいつ、このあいだも綺礼なんかに相談しに行ったんだし」
「あの教会に――――?」
「ん? なによセイバー、怖い顔して。言峰教会に含むところでもあるの?」
「……いえ。そういう訳ではないのですが」
あの教会は、決して聖なる場所などではない。
死の淀み、空気が淀んでいるという点で言えば、あの柳洞寺と同格だ。
そんなところに士郎が一人でいるのか、と悔やんだ瞬間。
彼女の脳裏に、ここではない映像が浮かび上がった。
「―――――――」
―――虚空を睨む。
方角はただ一点、丘の上に聳《そび》える言峰教会。
余裕などない。
庭に飛び出したセイバーはそのまま庭を駆け、塀の上へと飛び乗った。
「ちょっ、ちょっとセイバー! いきなり何よ……!?」
「―――教会に向かいます。あとの事は任せました、凛」
駆けつけてくる凛に振り返りもせず、塀から跳躍する。
一瞬にして駆け抜けていった少女の姿は、それこそ弾丸のようだった。
「――――」
一度たりとも立ち止まらず、失速さえなくこの場所まで辿り着いた。
見た者がいたとすれば、彼女の姿は突風にしか見えなかっただろう。
その突風は、既に銀と青の甲冑に包まれている。
坂を上りきり、目指す敵地を視界に納めた途端、セイバーは武装していた。
「――――――――」
彼女に武装するつもりなどなかった。
鎧を纏うのは教会に入ってからだと決めていたのだ。
しかし歯止めがきかなかった。
教会を視界に納めた途端、理性が白熱し全身を武装していた。
―――胸が熱い。
先ほどからこみ上げてくる吐き気は、決して彼女自身の物ではない。
それは彼女のマスターから伝わってくる悪寒であり、もはや絶望的なまでの死の匂いだった。
何が起きているかなど判らない。
確かな事は、衛宮士郎が死にかけているという事だけだ。
それも猶予などまったくない。
一秒後には絶命していてもおかしくない傷。
その痛みと悪寒は、いまや耐えきれない吐き気となって彼女の全身を駆けめぐっている。
それは衛宮士郎が受けている苦痛の何千分の一にも満たない物だ。
それでも、彼女は吐き気を堪えきれなかった。
つまり、彼女のマスターはそれだけの傷を負っているのだ。
……助からない。
こればかりは、たとえ神速で駆けつけようと間に合わない。
こうしている間にも彼は息絶え、自分は目の前でマスターを失う事になるのではないか――――
その光景を想像した瞬間、彼女の理性はかき消えた。
今はただ全力で主の元に駆けつけるだけ。
神速で間に合わぬのであらば、神の道理を斬り伏せるのみ。
そして都合のいい事に、敵地は神の家であり、相手はその徒《つか》いに他ならなかった。
「――――――――――――」
怒りを押し殺した瞳が教会を射抜く。
固く閉ざされた扉を吹き飛ばし、礼拝堂に突入した。
椅子など見えない。
道を無視して礼拝堂を突っ切り、中庭を越え、地下へ通じる階段を駆け抜ける。
―――その後に残ったものは、デタラメに破壊された教会の壁や床だった。
断っておくが、彼女とてそこまで乱暴ではない。
扉は冷静に開けたつもりだし、地を駆ける足にそこまで魔力を込めた覚えはない。
ただ、それが制御できなかっただけの話だ。
階段を転がり落ちるように抜け、地下聖堂に辿り着く。
―――死の気配が近い。
そうして、視界にソレを捉えて、怒りは限度を超えてしまった。
自身に対する怒りと、ソレをした敵に対する怒り。
「―――よう。悪いがそこまでだ、セイバー」
立ち塞がる槍兵の声も聞こえない。
手足の力《りき》みは最高潮に達し、どうやっても、力の加減など出来そうになかった。
彼女の主は、闇の中に沈んでいた。
奥の部屋。
生きた死体が安置された部屋のただ中で、うつぶせになって倒れている。
……その下は赤い血で濡れ、必死に喘ぐ息遣いは、この聖堂にまで届いていた。
――――ああ、生きている。
そう安堵した反面、あれだけの傷を受け、今まで放置させてしまったのかと身を震わす。
「シロウ――――――――」
奥の部屋へと踏み出すセイバー。
だが、部屋の前には番人がいる。
長槍を背後に携え、青い槍兵は不敵な眼差しでセイバーを見据えていた。
「よう。悪いがそこまでだ、セイバー」
「―――――――」
声など聞こえない。
故に、彼女は止まらなかった。
「っ……! テメエ、いきなり見境なしか……!」
罵倒しつつ、受けたのは流石というべきか。
セイバーの奇襲を槍で防いだランサーは、その威力を殺しきれず壁際まで後退していた。
「――――――――」
だが、それで邪魔は退《の》いた。
今はランサーの相手をしている暇はない。
彼女は一秒でも早く、死に直面した主を救わねばならないのだ。
「ハッ、そんなに坊主が大事か。
それは構わねえが―――なら尚のこと、オレを放っておく訳にはいかないぜセイバー?」
奥の部屋へ向かうセイバーの足が止まる。
「――――それは、どういう意味ですかランサー」
「いや、なにな。そいつの胸を串刺しにしたのはオレなんだが、実はこれは二度目でね。以前は確かに殺したってのに生きてやがったもんだからな、今回は念を入れて“刺して”やったワケだ」
「貴様―――シロウにゲイボルクを使ったのか……!」
「安心しろ、心臓は外してやった。だが呪いはそのままだぞ。
―――セイバー、貴様とてこの槍の呪いは知っていよう。因果を逆転させる“原因の槍”。コイツの呪いを受けた者は、よっぽどの幸運がないかぎり運命を変えられない」
「まあ単純に言ってしまえば、ゲイボルクによってつけられた傷は癒される事はない。
呪いを受けたものは決して回復できず、死に至るまで傷を背負う事になる。―――この世に、この槍がある限りはな」
それで、場の空気は一変した。
主以外は何物も許さぬという彼女の瞳に、ようやく理知の光が戻る。
「―――フン、ようやく理解できたか。そこの坊主を助けたいんだろ? ならまず、オレとの決着をつけなくっちゃあな」
獣じみたランサーの殺気が、セイバーの圏内に侵入する。
ランサーが本気である事は明白だ。
だが――――
「正気ですかランサー。この狭い室内で、槍兵である貴方が剣士である私と戦うと? そのような愚考、貴方の考えとは思えない。
……今ならば見逃します。その槍を置いて去りなさい。
このような不本意な戦いで、貴方の首を獲る気はない」
「それこそ愚考じゃねえのか? いったいどこの英霊が自分の相棒を置いてくってんだよ。
オレは何も取引をする為にそいつを刺したワケじゃない。
―――オレはな、おまえと殺し合いをする為に此処にいる」
その言葉に偽りはない。
ランサーには二人を生かして帰す気などなかった。
彼にとって、これが最初にして最後の“本気”の戦いなのだ。
ランサーの望みは聖杯などにはない。
彼の望みは、ただ英雄として相応しい戦いのみ。
そんな単純な、サーヴァントならば当然のように与えられるべき望みが、彼には今まで叶えられなかった。
故に―――その機会、おそらくは最後であろうこの瞬間を逃がす気など微塵もない。
それがたとえ、彼にとってこの上なく不利な状況であったとしても。
「―――いいでしょう。ならばその槍、御身ごと叩き斬って捨てるだけだ」
セイバーは風王結界を構え、青い騎士と向かい合う。
「よく言った。白状するとな、貴様が最後に残ってくれて嬉しいぜセイバー……!」
ランサーの槍が閃光となって迸る。
それに正面から立ち向かうセイバー。
再戦は、互いに必殺の一撃を以って開始された。
◇◇◇
『痛い 痛い 痛い 痛い』
「あ――――はあ、はあ、はあ、あ――――」
もう、自分の呼吸音しか聞こえない。
人を黒こげにするほどの熱病にでもかかったのか、頭の中はとっくに溶けて、耳から流れ出してしまったかのよう。
『止めて 止めて 止めて 止めて』
「は――――はあ、あ、はあ、は、あ――――」
どうかしている。もう脳みそはないっていうのに、体は痛みを訴え続け、空っぽの頭は律儀にそれを受け入れている。
『助けて 助けて 助けて 助けて』
「あ――――はは、あ、はあ、は、は――――」
空洞なのは頭だけじゃない。
胃も心臓も所在は不明。
堪えきれない吐き気、吐く物など残っておらず、吐き気は際限なく増していく。
その無限循環に、歯を噛んで耐え続ける。
……意識は保てる。自分だけの痛みなら、自分だけが耐えればいいだけ。そんな事なら、問題はない。
『返して 返して 返して 返して』
「は――――あ、あ、はあ、は、あ――――」
だから、問題はこの声だった。
聞こえるのは己の呼吸だけで、頭の中は空になって久しいのに、声はずっと響いてくる。
それが誰の声なのか、考えるまでもなかった。
『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』
「は――――ああ、はあ、あ、あ――――」
気が狂う。
彼らの声を聞く度に胸が深く抉《えぐ》られる。
恐ろしくはない。
俺には、ただ、贖《あがな》う術が足り無すぎた。
『ねえ ねえ ねえ ねえ』
「ああ―――あ、はあ、はあ、あ――――」
どんなに助けを求められても、どんなに助けたいと思っても、俺には助ける事などできない。
呼びかけるのは止めろなんて言わない。
ただ、どれほど請われたところで、応えてやる事ができないだけ。
―――だから。
このまま続けば、きっと気が狂うと思った。
『戻して 戻して 戻して 戻して』
「っ―――……はあ、あ、あ、ぐっ――――!」
いくら請われても、頷く事などできない。
俺に出来る事は、せめて終わらせる事だけだ。
生かされている死体という矛盾を、正循に戻すだけ。
この地獄を作り上げた原因に、償いをさせるだけ。
俺には。
悲しい出来事、悲惨な死を、元に戻す事は出来ない。
―――それが限界。
正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片づけるだけの存在だ。
……そう言っていたのは誰だったか。
それを否定した自分に、こうして追い詰められている。
正直、逃げ出したかった。
俺には彼らに報いる術がない。
こうして声を聞くだけで、叶えてやれる奇蹟など持たない。
正義の味方なんてそんなものだと、吐き捨てたあいつを否定する力もない。
……なら、仮に。
もし彼らを助けてやれる“奇蹟”があるとしたら、俺はそれを、使うのだろうか――――
「―――来たか。そら、目を覚ませ衛宮士郎。おまえのサーヴァントがやって来たぞ」
……声が聞こえた。
頭の真後ろから聞こえた声。
だが、それが何を言ってるのか、よく聞き取れない。
……視界が霞む。
目前には何もない。
あるのはただ、助けを求める彼らの声と、とうに死体となっている、彼らの姿だけだった。
「……ふむ。よくやっているが、やはりセイバーには敵わぬか。どちらにせよあと一人分のサーヴァントは必要なのだ。それがセイバーであろうとランサーであろうと構わないのだが―――その前に、選定をしなくてはなるまい」
……何も聞こえない。
だというのに、何故、この男の声は俺の頭に響いてくるのか。
「さて、出番だ。もう少し前に行こうか、衛宮士郎」
―――頭があがる。
男は俺の頭を掴み、ずるずると引っ張っていく。
―――それで、背後の人間が何物なのか感じ取れた。
男は、黒い汚濁を飲み込んでいた。
心臓は黒く、何か、得体の知れない闇に包まれている。
黒い汚濁は外界から伸びていて、男を戒める鎖のようでもあった。
「――――――――」
それが何を意味しているのかは判らない。
はっきりしている事は一つだけ。
男―――言峰綺礼は、衛宮士《じぶん》郎と同じだった。
ヤツの体にはひどい致命傷があって、それを、得体の知れない“何か”で補っている。
衛宮士郎がセイバーの力で傷を治すように、
言峰綺礼は、死体に近い肉体を、黒い汚濁によって維持している――――
「そこまでだセイバー。己が主を救いたいのならば、その剣を納めるがいい」
……何が起きているのか。
視界はいまだ朦朧として、顔をあげる事さえできない。
「ランサーも引け。もともと私たちは聖杯を求める同志ではないか。そう無闇に殺し合いなどするものではないぞ。セイバーがこの男を引き取りに来ただけというのならば、喜んで引き渡そう」
陰鬱な笑い声。
「―――それを信じろというのですか。ランサーのマスターを殺し、今また私のマスターをその手にかけようとする、貴様の言葉を信じろと」
……その相手は誰なのか。
声こそ聞こえないものの、その音は、朦朧とした意識の中で、鈴のように響いてくる。
「信じたまえ。私はおまえたちと争う気はない。期せずしてこのような形になってしまったが、おまえたちが聖杯を獲ろうというのなら邪魔はしない。
もとより、私の役割は聖杯の持ち主を見極める事だ。
ここまで残ったおまえたちには十分すぎるほど資格がある。故に―――望むのならば、今ここで聖杯を与えてやってもよいのだが」
「―――! ここに聖杯が有るというのか、貴様は」
「有るとも。聖杯は何処にでもある。
聖杯とは、もとよりカタチのない器だ。いつ、どこで、何に呼び出すかによって完成度が変わるのだが、呼び出すだけならばこの教会《とち》にも資格はある」
「無論、サーヴァントが残り一人にならなければ聖杯は未完成だが、その出来でも大抵の願いは叶えられるだろう。それで満足がいかぬのならば、その時こそ最後の殺し合いを始めればよい。
いや、私としては気乗りがしないが、おまえたちが望むのならば付き合おう。決着をつけるのはその時でいいのではないかな、ランサー」
「……よくはねえ。そんな回りくどい事をする必要はない。白黒つけるなら今すぐ出来るだろう」
「この状況でか? 室内ではおまえには不利だろうし、セイバーとて主が気になって戦えまい。これではおまえにとって満足のいく戦いとは言えないが」
チッ、と唾を吐く音。
不承不承に、その男は頷いたようだ。
「……いいさ、なら一つ訊かせろ。聖杯ってのはなんだ。
アレは残り一人にならなければ現れない物じゃなかったのか。オレたちを呼んだ連中は、初めからペテンにかけてたった事か?」
「いや、事実ではある。聖杯はサーヴァントが残り一人にならなければ現れない。
だが―――聖杯を降ろす器は別だ。
アレは初めからカタチある物として用意され、聖杯召喚の時まで力を流し込まれていく」
「残るサーヴァントがあと二人だけという状況ならば、すでに聖杯としての力を持ち始めていよう。
そうであろうセイバー? おまえとて前回最後まで残ったサーヴァントだ。この土地に召喚される“聖杯”が何であるか、薄々判っているのではないか?」
「――――――――」
「そう、聖杯は常に此処にあり、生け贄の血で満つる時を持つ。
だが、それは空しいとは思わないか。何も残り一人になるまで付き合う事はない。おまえたちの“望み”を叶えるだけならば、今の状態でも可能だろう。
ならば、ここで意味のない殺生をする事もあるまい」
「……そうですね。確かに貴様の言い分は正しい。
だが、だとしたら貴様は何者だ。貴様の目的は、聖杯を手に入れる事ではないのか」
「私は選定役だと言っただろう。相応しい人間がいるのならば、喜んで聖杯は譲る。
その為に――――まずはおまえの言葉を聞きたいのだ、衛宮士郎」
体が動く。
後ろから頭を掴まれて、体を持ち上げられたのか。
いた、い。
胸の傷が開く。
痛みで、かろうじて生きていた視界が真白に戻る。
「貴様――――!」
「案ずるな。ただ返事を聞くだけだ。
聖杯は求める者にのみ応える。己れのマスターが聖杯に相応しいかどうか、おまえとて興味はあろう」
「―――それは、無駄だ。シロウは聖杯を欲しがらない。
私のマスターは、おまえのような下衆ではない」
「ああ、この男は初めからそう言っていたな。
―――だがそれは本心ではあるまい。あらゆる人間に闇があるよう、この男にも影はある。
例えば、そう。十年前のあの日、この少年は本当に何も恨まなかったのか。その先にあったものを、忘れる事で振り払っているのではないか」
――――。
待て。
何を言っているんだ、こいつ。
十年前の火事なんて関係ない。
そんな事をしても意味がない。
その先にあるものなんて、有るはずがない。
「その傷を切開する。
さあ―――懺悔の時だ、衛宮士郎」
がくん、と体が反れる。
首の後ろに電流を流されたように、意識が裏返る。
―――消える意識と、入れ替わりで赤い映像がやってくる。
止めろ。
止めろ。
止めろ。
止めろ。止めろ。止めろ。
止めろ、止めろ、止めろ、止めろ、止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ……………!!!!
そんな事、本当に意味はない。
今さら―――今さら思い返したところで、誰が救われる訳でもないんだから――――!
みな死んだ。
みな死んでいた。
炎の中、彷徨《さまよ》っていたのは自分だけ。
家々は燃え尽き、瓦礫の下には黒こげになったトカゲみたいな死体があり、いたるところから泣き声が聞こえていた。
―――――――。
『痛い 痛い 痛い 痛い』
一人で歩いた。
助けを求めて、誰でもいいから助けてほしくて、脇目も振らずに歩き続けた。
――――止めろ。
そのあいだ。
どうして、そうやって動ける自分に、助けを求める声がなかったと思えるのか。
――――止めろ。
『助けて 助けて 助けて 助けて』
ああ気づいていた。
気づかない筈がなかった……!
その中を歩いたんだ。
痛い、とすすり泣く声も無視して、
出してくれ、と狂う音も無視して、
死にたくない、という絶叫も無視して、
この子も一緒に連れて行ってほしいという母親の懇願も無視して、
助けを求める事さえできない死に逝く瞳さえ無視して、 ただ、ただ自分だけが助けを求めて歩き続けた―――!
『待って 待って 待って 待って』
死体なんて見飽きている。
苦しんで死んでいく人間なんて見飽きている。
どうせ自分には助けられないと思った。
何をしてもみんな死ぬと思った。
だから、立ち止まる事もしなかった。
――――止めろ。
『返して 返して 返して 返して』
そこまでしたからには、一秒でも長く生きていなければ嘘だと思った。
為す術もなく死んだ人間がいるのならば。
為す術がある限り、自分は生きていなければ嘘だと思った。
――――止めろ。
でも、挫けそうだった。
涙を堪えながら出口を探して歩き回った。
助けを求める声を無視して、生きているのが辛かった。
ごめんなさいと。
謝ってしまえば心が楽になると知っていたから、謝る事だけはしなかった。
それが。
何もできなかった自分の、唯一の誠意だと信じて歩き続けた。
――――止めろ。
『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』
……そうして、望み通り、一人だけ助かった。
病室にいたのは火事が起きた周りの家、飛び火を受けて不幸にあった家の子供たちだ。
知りたくはなかったのに、白衣の男が教えてくれた。
あの地区で。
生きていたのは、君だけだと。
――――もう、止めろ。
苦しんで死んだ人々も見た。
それと同じぐらい、哀しんでいた人々も見た。
大きな建物で、死んでしまった人たちの葬式が行われたからだ。
あらゆる悲しみ、喪われた者への未練。
その全てを。
―――いいから、止めてくれ。
『ねえ ねえ ねえ ねえ』
自分は、記憶しなくちゃいけないと思った。
だってそうだろう。
あれだけの人間が助けを願って、誰一人叶えられなかった。
なら―――その願いを叶えられた俺が、彼らの死を受け持つのは当然だと思ったのだ。
否。
そう思わなければ、とても、顔をあげてなどいられなかった。
―――それ以上。
『帰して 帰して 帰して 帰して』
だから必死に切嗣の後を追った。
出来なかった事の為に、救えなかった物の為に、“誰かを救う”という正義の味方に憧れた。
自分だったものなど、助けを求める声を無視するたびに削れていって、跡形もなくなっていた。
空っぽになった心で、それでも前に進まなければ許されないと。
―――それ以上は。
『お願い お願い お願い お願い……!』
救わなかった、多くの死に教えられた。
……その影で、なくなった物はなんだっただろう。
死んでいった人たちの代わりに、胸を張って前に進む事だけを考えていた。
他の事なんて思い返す余裕もなかった。
だから、ただの一度も考えないようにと、それ以前の記憶を閉じた。
誰よりも優しかった誰か。
誰よりも近いところにいた、両親だったひとたちの記憶。
それを思い返して後戻りしないように。
自分は死んだようなものだからと、固く固くフタをした。
―――開けるな。
それは辛いことじゃない。
衛宮切嗣に引き取られて、衛宮士郎は幸福だった。
だから、もう――――
「―――それを。
間違いだと思った事が、一度もなかったというのかね?」
その窓を、開けるなと言ってるだろう――――!
「つっ――――!」
痛み。
胸に開いた傷の痛みで、現実に引き戻された。
「は――――あ、づ――――!」
吐き気が止まらない。
手足は痺れて、頭は沸騰しそうなほど熱い。
呼吸はだらしなく途切れ、
『戻して 戻して 戻して 戻して』
彼らの声が、頭の中で反響している。
「は――――ご、ふ…………!」
……血を吐いた。
体が死にかけているのか、あの声に耐えきれないのか。
胸が痛い。
胸が痛い。
胸が痛い。
だが、塞いでも塞げない。
痛むのは中の傷だ。
あの記憶がある限り痛み続け、腫れ上がり、癒える事などありえない。
「――――――――」
幻覚か。
一瞬、いるはずのない彼女の姿が見えた。
「つ――――、ぐ――――」
なら、耐えないと。
いっそ死にたいなんて思うものか。
たとえ幻覚でもあいつがいるんなら――――大丈夫だって、胸を、張らないと――――
「―――深い傷だ。これでは、癒されぬままでは苦しかろう。衛宮士郎。おまえは、そのままで一生を終えるべきではない」
神父の声。
それはヤツらしくない、慈悲に満ちた声だった。
「おまえは聖杯など要らぬと言ったな。
……だがどうだ。仮に、十年前の出来事をやり直せるとしたら、おまえは聖杯を欲するのではないか。
あの出来事で失われたもの全てを救うのだ。
あの事故を無くし、衛宮切嗣などに関わらず、本来の自分に戻れる。
それこそが――――おまえ自身を救う、唯一の方法ではないのかな」
十年前の出来事をやり直す……?
誰一人救わずに生き延びた自分をやり直す?
いやそもそも、そんな目にあわないよう、誰一人として死なないように、あの地獄を無かった事に出来るとしたら――――
「――――――――なんで、そんな」
頭を振り払う。
加熱した頭で、何も考えられなくなった思考で、その光景を否定した。
自分の弱さに唾を吐く。
だって、それは――――
『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』
……声が聞こえる。
痛みに耐える指が、びちゃりと湿った床に触れる。
……助けて、と。
死んでいる筈の彼らは、声を揃えて、あの日に戻りたいと願っている。
「――――――――」
……ああ。おまえたちにはおよびもしないだろうけど、俺だって、それを夢見なかった事はない。
切嗣に引き取られたあと。
何度も何度も焼け野原に足を運んで、ずっと景色を眺めていた。
何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
……あの日の前に戻れて。
何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。
それも叶わず、現実を受け入れたけど。
誰も傷つかず、何も起きなかった世界が掴めるのなら、それはどんなに――――
「さあ応えよ。おまえが望むのならば、聖杯を与えよう」
聖杯を司る神父が言う。
『戻して 戻して 戻して 戻して』
俺が望めば、この声も消えてなくなる。
自分と同じ孤児たち。少し運命が違っていれば、俺もそうであった死者の海。
ならば考えるまでもない。
考えるまでも、ない、のに。
「―――いらない。そんな事は、望めない」
まっすぐに死者《かれら》を見て。
歯を食いしばって、否定した。
―――それが答えだ。
聖杯がなんであろうとも変わらない。
死者を蘇らせる事も、過去を変える事も、そんな事は望めない。
「……そうだ。やりなおしなんか、できない。
死者は蘇らない。起きた事は戻せない。そんなおかしな望みなんて、持てない」
頬が熱い。
そんな奇蹟などあり得ないと口にする度に、ただ悔しくて涙がこぼれた。
そんな、当たり前の幸せを望む“奇蹟”は、どうして、人の手にはあまるのかと。
「―――それを可能とするのが聖杯だ。万物全て、君の望むままとなる」
神父は言う。
けど、そんな言葉には頷けない。
たとえ過去をやり直せたとしても―――それでも、起きた事を戻してはならないんだ。
だって、そうなったら嘘になる。
あの涙も。
あの痛みも。
あの記憶も。
―――胸を抉った、あの、現実の冷たさも。
苦しみながら死んでいった人がいた。
誰かを助ける為に命を賭した人がいた。
彼らの死を悼み、長い日々を越えてきた人がいた。
だというのに、何もかもが無かった事になってしまったら、一体それらは何処に行けばいいと言うのか。
死者は戻らない。
現実は覆らない。
その痛みと重さを抱えて進む事が、失われたモノを残すという事ではないのか。
……人はいつか死ぬし、死はそれだけで悲しい。
けれど、残るものは痛みだけの筈がない。
死は悲しく、同時に、輝かしいまでの思い出を残していく。
俺が彼らの死に縛られているように。
俺が、衛宮切嗣という人間の思い出に守られているように。
だから思い出は礎となって、今を生きている人間を変えていくのだと信じている。
……たとえそれが。
いつかは、忘れ去られる記憶だとしても。
「―――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている」
「―――そうか。つまり、おまえは」
「聖杯なんて要らない。俺は―――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事なんて、出来ない」
痛みを堪えて告げた。
消え去り、倒れそうになる意識を必死に押さえて、なんとか地面に蹲《うずくま》る。
そこで、ようやく気が付いた。
……声が聞こえない。
彼らの声は、もう響かない。
……今の答えをどうとったのかは知らない。
ただ、最後まで俺に恨み言を残さず、目を閉じてくれた事が、悲しいと言えば悲しかった。
◇◇◇
――――それが。
彼女のマスターが出した、傷だらけの答えだった。
「――――――――」
先ほどまで全身を支配していた怒りは消えていた。
彼女は言葉を失い、ただ己の主を見つめている。
“―――その道が。
今までの自分が、間違ってなかったって信じている”
血まみれの体で。
ろくに目も見えず、呼吸もままならず。
流れる涙を懸命にかみ殺して。
“―――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事なんて出来ない”
自分が踏みつけてきたもの全てに頭を下げて、それでも、彼は道を曲げないと言い切った。
「――――――――」
視界が歪む。
満足に息ができないのは彼女も同じだ。
彼女は、彼の過去を知っていた。
衛宮士郎がセイバーの過去を共有したように、彼女も彼の過去を共有したからだ。
だから、必ず頷くと思った。
いや、頷かなければいけないと思った。
アレは貴方のせいではないと。
衛宮士郎が背負うべきものではないと、聞こえているのなら言ってやりたかった。
だというのに、彼は否定した。
どんなに苦しい過去でも。
それは、やり直す事などできないのだと。
「――――――――」
ぐらり、と体が倒れかかる。
……その言葉が、今はあまりにも重い。
自身に誓いをたて、その達成に全てをかける。
そんな在り方が似ている、と彼女は感じていた。
だがそんなものは自惚れだった。
―――似ていると思ったのは自分だけ。
似ている筈などなかったのだ。
あの少年の心は強く。
彼の言葉を否定するだけだった自分こそが、その道を間違えていた――――
「―――自らの救いではなく、自らの願いを取ったか」
神父は少年から手を離す。
彼は忌々しげに少年を見下ろした後、もはや興味は尽きたと、その横を通り過ぎた。
「―――では、おまえはどうだセイバー。
小僧は聖杯などいらぬと言う。だがおまえは違うのではないか。おまえの目的は聖杯による世界の救罪だ。よもや英霊であるおまえまで、小僧のようにエゴはかざすまい?」
その問いに、彼女の理性は揺さぶられた。
神父は聖杯を譲るという。
その目的、叶えるべき願いがあるのならば、聖杯を譲り渡すと。
「そ―――それ、は」
拒む理由などない。
その為だけに戦ってきた。
その為だけにサーヴァントになったのだ。
ならば――――シロウが何を言おうと、私には関係ない。
聖杯が手に入るのなら、私は――――
「では交換条件だ。
セイバー。己が目的の為、その手で自らのマスターを殺せ。そのあかつきには聖杯を与えよう」
―――私は、どんな事だってやると決めたのだから。
「え――――――――?」
それは、あまりにも予想外の言葉だった。
正直、理解できなかったといっていい。
神父の言葉が理解できないのではなく、彼女の中には、そんな選択肢は存在すらしていなかったのだ。
「どうした? 迷う事はあるまい。今の小僧ならば、死んだという事にも気が付かないうちに殺せるぞ。
……第一、もはや助からない命だ。ここでおまえが引導を渡してやるのも情けではないかな」
神父が道を開ける。
彼女の前には、地下墓地に通じる扉と、その奥で蹲《うずくま》る少年の姿がある。
「あ――――あ」
吸い込まれるように歩く。
神父の横を通りすぎ、湿った室内に入っていく。
「――――――――」
……室内は、地獄だった。
この中でのたうちまわり、自己の闇を見せつけられ、 なお――――彼は、神父の言葉をはね除けた。
「――――――――」
剣に手をかける。
足下には、苦しげに呼吸をする、彼女の主が倒れている。
「――――――――」
長かった旅の終わり。
自らを代償にして願った聖杯。
それが、ただ剣を振り落とすだけで叶う。
もとより、マスターとサーヴァントは聖杯を手に入れるまでの協力関係だ。
ここでそれが終わっても、それは――――
◇◇◇
「どうした、何を躊躇《ためら》う。聖杯と引き替えなのだぞ? 交換条件としては破格だと思うのだが」
神父の言葉はもっともだ。
ここで躊躇する事はおかしい。
ただ、それでも。
“―――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている” その言葉が、頭から離れない。
「私―――私は」
……悔しいけれど、シロウとは違う。
彼女はなかった事にしたい。
あの日。岩から剣を抜く人物、自分より王に相応しい人物は他にいて、
その人物ならば、平和な国を長く築けたのではないか―――
それは国を思う彼女の心。
剣を手にする前の、アルトリアという少女の迷い。
あの日。
剣を引き抜いた岩の前に、永遠に置き去りにしてきた自分の心。
「――――――――」
……それに、どうして気が付かなかったのか。
“――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事は――”
それは国を想う彼女の心。王になる前の、一人の少女だった頃の心だ。
けれど、それは王である彼女の心ではない。
王である彼女が信じるモノは、王であった自分のみ。
それを否定する事は、彼女が奪った多くのモノを否定する事になる。
―――無くした物は戻らない、と。
痛みにのたうちまわりながら、彼女の主は訴え続けた。
「――――――――」
その姿が、こんなにも胸に痛い。
そんな彼に自分はなんと言っていたのか。
新しい生活など出来ない、と。
自分には王としての責務があると、頑なに拒み続けた。
それはなんだ。
滅びた国を蘇らせる事か。
自分より相応しい王を選び直す事か。
それとも―――私はただ、あの滅びを無かった事にしたいだけなのか。
「―――それは、違う」
そう、それは違う。
王として育ち、王として生きてきた。
そこに間違いなどなかった。
だから―――その結果が滅びであったのなら、何故、それを受け入れられなかったのか。
後悔などないと。
己の一生を誇れるのならば、やり直しなど求めてはならないのに。
「―――そういう事なのですね、シロウ」
士郎の慟哭が胸に響く。
あの涙も消えると。
あの痛みも消えると。
胸を抉った、残酷な重さも消える、と。
それはこの上ない赦し、消去による自己の救罪だ。
けれど。
何もかもが無かった事になってしまったら、一体、奪われた全ての想いは、何処に行ってしまうのだろう。
私は多くの物を奪い、多くの死を重ねてきた。
その痛みに耐え、悔いる事が、失われたものへの鎮魂に他ならない。
故に、もしやり直しを求めるのならば、それは過去ではなく今からだろう。
やり残した事があるのならば。
それは過去に戻ってやり直すのではなく、この瞬間から、成し得なかった願いを、築いていかなければならないのだ。
「――――――――」
けれど国を失った彼女には、もはや王としての資格はない。
ならば、これから叶える願いは、彼の言う通り自分の為に―――
――――否。
それは、有ってはならない願いだ。
王となったのは自身の意思。
それが苦しかった事などない。
たとえ誰にも理解されず、受け入れられる事などなくとも。
自ら望んだその行為は、決して、顔を伏せるものではなかったと信じている。
少なくとも。
それを承知で、あの少女は剣を執ったのだから。
―――それが答え。
彼と同じ、胸を張れる、ただ一つの答えだった。
「ああ――――」
……遠い誓いを思い出した。
胸に抉られた一つの言葉。
……戦うと決めた。
何もかも失って、みんなにきらわれることになったとしても。
「――――私が、愚かだった」
それでも、戦うと決めた王の誓い。
王は国を守った。
けれど国は王を守らなかった。
ただそれだけ。結果は無残だったけれど、その過程に一点の曇りもないのなら、それは―――
「――――求める必要など、なかった」
彼女は王としての責務をまっとうすると誓った。
たとえ結末が滅びであろうとも、その誓いは最後まで守られたのだ。
なら―――自分には、それ以上必要なモノなどない。
―――そうだ。
私は全てが欲しかった訳じゃない。
初めから欲しかったものは一つだけ。
それを手に入れる為に多くのモノをこぼしてきて、それでも、最後まで守ったモノがある。
それを胸に納めたまま、せめて。
叶わなかったこの夢を、最後まで見続けよう。
「―――聖杯は欲しい。けれど、シロウは殺せない」
剣を敵に向けて、偽りのない心で言った。
「な――――に?」
「判らぬか、下郎。そのような物より、私はシロウが欲しいと言ったのだ」
……だから、私の役割は決まっている。
彼の剣となり、その盾となる。
故に――――もう、迷いなど抱いていられない。
「―――聖杯は要らぬというのか、セイバー」
「聖杯が私を汚す物ならば要らない。私が欲しかったものは、もう、全て揃っていたのだから」
……そう、全て揃っていた。
騎士としての誇りも、王としての誓いも。
アルトリアという少女が見た、ただ一度のとうといユメも。
その言葉を、確かに聞いた。
聖杯を求めていた彼女の告白。
そんな物は必要ないのだと告げた、迷いのないその言葉を。
「――――セイ、バー――――」
乱れた呼吸を押さえて、彼女の名を口にする。
……姿は見えなくても、セイバーが傍にいる事だけは判っていた。
傷の痛みは治まってきている。
セイバーが近くにいるからなのか、あれほど塞がらなかった傷は徐々に小さくなっていた。
「……立てますか、シロウ。動けるのなら、私の手に触れてください」
「っ――――ああ、なん、とか――――」
囁く声に応えて、セイバーの手を握る。
――――っ。
視界が回復していく。
失血で朦朧としていた頭に、段々と活力が戻ってくる。
「っ―――セイバー、これ、は」
「はい。いかにゲイボルクの呪いと言えど、今のシロウには通じません。私の傍にいてくれればじき完治するでしょう。
それより、今は」
セイバーは視線を聖堂へと向ける。
……扉の向こう。
この地下室の出口には最後のマスター―――言峰綺礼とランサーの姿があった。
「そうか」
ヤツは何か、初めて見るように俺とセイバーを観察した後。
「おまえたちは、つまらない」
そう、何の感情もない声で言い捨てた。
「これではやはり、聖杯は私が預かるしかないな。
―――だが、そうなると少々手荒い話になる。
私の望みを叶えるのであらば、聖杯は完全でなければならない。衛宮士郎。悪いが、おまえたちにはここで死んで貰わなくてはならなくなった」
「――――っ」
咄嗟に身構えるが、体はまだ言うことをきかない。
セイバーの手を握っていればなんとか立ち上がれる程度だ。
これじゃあ戦えないし、なによりセイバーの足手まといになってしまう――――
「その心配は無用です、シロウ。貴方はここにいてください。あのマスターとランサーは、私一人で十分です」
「ほう。それは大きく出たな。これは逃げた方が懸命かな、ランサー」
「――――――――」
ランサーは答えない。
そもそも、言峰の言葉には危機感などまるでない。
ヤツが俺たちを恐れているなんて口だけだ。
「コトミネ、と言いましたね。倒す前に訊いておきましょう。貴方の目的は何なのです。聖杯の選定役である身で、何を望むと言うのですか」
「―――さて。言ってしまえば“娯楽”の為だが、それほど急を要している訳ではなくてね。
実を言うとなセイバー。私も、聖杯にはそう関心はないのだ。ただ、アレは私の趣味にあっている。私以外に相応しい持ち主がいないのであらば、貰い受けてやるのが世の為だろう」
「戯れ言を。マスターを殺し、自らマスターになった男が何を。貴様は初めから聖杯を手にするつもりだった筈だ」
「――――なに、ただの拾い物だよ。ランサーのマスターを始末したのは、外からの魔術師は何かと厄介だったからだ。聖杯がああいうモノなのだと協会《がいぶ》には知られたくないのでね。早めに退場して貰ったのだが、せっかくのサーヴァントを消してしまうのも巧くない。
ちょうど円滑に殺し合いを進めさせる手駒が入り用だった事もあり、少しばかりランサーのマスター権を拝借しただけだが」
な――――じゃあ言峰は、ランサーのマスターを殺してマスターになったっていうのか……!?
「―――そうか。貴様が何者であるかはもう訊かない。
だが、選定役として責務は果たしてもらうぞ。今回の器、魂の杯は何処にある」
「なに? まさか、知らずに匿っていたというのか」
意表をつかれたのか、言峰は息を呑む。
だがそれも一瞬だ。
ヤツは愉快げに俺たちを一瞥した後、パチンと指を鳴らして、最後の登場人物を招き入れた。
「な――――」
二人の体が強ばる。
頭上からは、かつん、かつん、という固い足音が下りてくる。
「―――さて。おまえたちには不要だろうが、紹介ぐらいはしておこう。彼はアーチャーのサーヴァント。前回の聖杯戦争で、私のパートナーだった英霊だよ」
……現れる黄金の騎士。
それは紛れもなく、ギルガメッシュという英雄王だった。
――――空気が一変する。
悠然と現れたギルガメッシュは、何事もなかったかのように聖堂を横切り、言峰の真横についた。
「―――で? これからどうするのだ言峰。このような場所で、しかも邪魔者を交えて決着をつけるのか?
おまえにしては、あまりいい演出とは言えないが」
「それを言うな。私とて予想外なのだ。文句は後で聞いてやるから、許せ」
「なんだ、承知しているのならばいい。
だが、その野卑《やひ》な男はどうにかならんのか。あまり睨まれると殺してしまいそうになるぞ」
「――――どういう事だ、言峰。その男がおまえのサーヴァントだと……?」
「ああ、おまえには説明していなかったな。彼は前回の私のサーヴァントだ。聖杯戦争が終結した後、意見を同じくしてな。
彼は私に従い、私も彼が留まるに相応しい食事を用意する事で、こうして協力関係になったという訳だ」
「……それが、あのいけすかねえ部屋ってワケか。それはいいが、何故オレに黙っていた」
「言う必要があるとでも? それとも何か、積極的に彼と共同戦線を張りたかったのか、おまえは」
「―――冗談。そんな野郎と手を組むなんざ、死んでもお断りだ」
「――――――――」
……これで、三人。
地上へ続く階段にはランサーが、聖堂にはギルガメッシュが立ち塞がった。
「っ―――――――」
勝ち目などどこにもない。
ギルガメッシュ一人にさえ敵わないというのに、ランサーまで加わっては逃げる事さえ出来ない。
「言峰、おまえ――――ヤツの事は、知らないって」
「人聞きが悪いな。私はこれでも神父だぞ? 虚言など口に出来ぬよ」
「っ……! そんな事あるか! おまえは確かに、前回から残ったサーヴァントは放っておけないって……!」
「ああ、私とて驚いたのだ。アーチャーには待機を命じていたというのに、指示を破っておまえたちを襲ったのだからな。
アーチャーを調べればいずれ私に突き当たるのは道理だ。故に、今後の対策を練らねばならなかった。どうだ、何一つとしておまえを謀ってはいまい?」
「っ……!」
あ、頭にくる……!
こんなヤツの口車に乗せられて、自分から敵の本拠地に乗り込んでしまったなんて……!
「―――貴様が、アーチャーのマスターだというのか」
「そうだ。十年前の再現になったなセイバー。
もっとも、あの時私は既に切嗣に倒され、最後の場面には立ち会えなかった。おまえと顔を合わせるのはこれが二度目で、そして最後になる」
「―――答えろ。アーチャーはなぜ残っている。あの火事は何故起きた。切嗣に倒されたというおまえは、なぜ今も生きている……!」
憎しみの籠もった声で、セイバーはそう檄昂していた。
……長年の疑問。
十年前の惨事の罪を問うように。
「そのような事、言うまでもなかろう。
十年前―――不完全ながらも聖杯は満ち、手に取る事が可能だった。
私はそれに触れただけだ。切嗣とおまえは強力だったのでな、分断させる為の目眩《めくら》ましが欲しいと願ったのだが、あのような目眩ましが起きるとは私も驚いた」
「――――――――」
待て。
それは、まさか。
「―――では。あの火災は、貴様が聖杯の力で起こした物だと言うのか……!」
「さあな。思うのだが、私でなくとも聖杯は同じ事をしただろう。アレはそういう物だ。万能の杯と言うが、その中に満ちたモノは血と闇と呪いでしかない。
おまえも見たのだろう? 聖杯を破壊したおり、そこから溢れ出した闇を。アーチャーはそれを浴びてしまっただけだ。おまえが聖杯さえ壊さなければ、アーチャーとてこのように迷いはしなかっただろうよ」
「……世迷い事を。聖杯は持ち主の願いを叶える魔法の釜だ。ならば、あの火災はおまえの願望ではなかったのか……!」
「結果だけはな。だがその過程は私が想像していたものとは違う。私はただ、あの土地から人がいなくなればいい、と思っただけだ。
そもそもおまえたちは想像力が貧困だぞ。
願いが叶う? それはいいが、では願いとはどうやって叶えるのだ? まさか願った瞬間に世界が変わるとでも思っていたのではあるまいな?」
「――――」
「元の聖杯はどうあれ、今の聖杯は“力の渦”にすぎぬ。
精密な計算、相互作用による矛盾の修正など論外だ。アレはな、ただ純粋な力に過ぎない。
巨大な兵器と同じだ。持ち主が富を願えば、周囲の人間を悉《ことごと》く殺害し、主人に幸福を与える」
「判るか。あの底なしの魔力の釜はな、持ち主の願いを『破壊』という手段でしか叶えられぬ欠陥品なのだ」
「な―――それでは話が違う……!
万能の力、持ち主の望み通りに世界を変革するのが聖杯ではなかったのか……!」
「違うものか。聖杯の手段は実に理に適っている。
人を生かすという事は、人を殺すという事だろう。
この世は全て等価交換によって成り立っている。その中で特出した出来事を望むのならば、何かを食いつぶして飛び上がるしかあるまい。
調和など気にしていては願いなど叶わぬ。
つまりは弱者からの略奪による変動だ。それこそが、最も効率のよい変革だろう」
「――――――――」
……セイバーが息を呑むのも分かる。
言峰の言葉が真実だとするなら、それは彼女が求めていた聖杯とはかけ離れすぎている。
持ち主の望みだけを叶える力。
持ち主の望みを、他の全てを犠牲にして現実とする簒《さん》奪者《だつしゃ》。
それが―――マスターとサーヴァントに与えられる、万能の力の正体か。
「ならば――――聖杯と、いうのは」
「持ち主以外のモノを排除する、この上ない毒の壺だ。
おまえも見れば判る。アレはな、際限のない呪いの塊だ」
「―――そしてそれは、私にとっても喜ばしい。
聖杯に触れるのは聖職者の夢だがね。人を殺す為だけの聖杯が存在し、ましてそれを扱えるなど―――まさに、天上の夢でも見ているかのようだ」
そう言って、神父は笑った。
今までのような慇懃な笑みではない。
心からの感謝を表す、邪気のない聖者の笑み。
―――その笑顔を向けられて、悟った。
この男は、人間じゃない。
他の誰よりも、この男に聖杯など与えてはならないと。
「―――ではお別れだ。
ゴミを始末しろ。ランサーは小僧を、アーチャーはセイバーだ」
神父は背を向け、一度たりとも振り返らずに階段を上っていく。
……残されたのは二人のサーヴァントと、傷ついて満足に動けない自分。
そして、俺を庇うように立ち、決死の面持ちで敵を見据えるセイバーだけだった。
―――時間が過ぎていく。
地上に戻る為には、ランサーとギルガメッシュを振り払わなければならない。
二人を倒す事など端から度外視だ。
ここは何とか突破し、態勢を立て直さなければならないのだが――――
「――――――シロウ」
敵を見据えたままセイバーが呟く。
「無理を承知で言います。決して、私の傍から離れないでください」
わずかに強く、握った手に力を込めてくる。
―――それで、彼女が覚悟を決めたのだと理解できた。
「―――分かった。意地でも付いていくから、俺の事は気にかけるなよ」
頷きで返す。
……今の俺は、歩くので精一杯だ。
それは俺も、セイバーも承知している。
その上で―――彼女は、ここを突破すると言ったのだ。
なら俺が頷かなくてどうするってんだ。
「…………はい。信頼、しています」
小さな声でそう応えて。
「――――いざ――――!」
繋いだ手を離して、セイバーは聖堂へと躍り出た。
飛び出してきたセイバーに反応する二つの影。
「っ――――!?」
「な――――!?」
驚きは、俺とセイバーの物だけ。
―――何が起きたのか。
俺を襲うはずだったランサーの槍はギルガメッシュに、 それに続く筈だったギルガメッシュの長剣は、読んでいたかのようにランサーの槍を弾いていた――――
「悪いな。手元が狂った」
「そうか。随分と軽い槍なのだな、貴様のそれは」
敵意も感じさせないまま、二人はわずかに間合いを外す。
「言っておくが、貴様の標的はあの雑種だ。セイバーは我《オレ》に任された物だと覚えているか?」
「ああ、それね―――悪いが、気が変わった。令呪で命令されたワケじゃねえしな、オレは降ろさせてもらうぜ」
そう言って。
ランサーは、俺たちを庇うようにギルガメッシュと対峙した。
「な――――ランサー、貴方は」
「くだらねえコトなら口にするなよ。別に貴様に肩入れしている訳じゃねえ。オレは、オレの信条に肩入れしてるだけなんだからよ」
ランサーの槍がギルガメッシュに向けられる。
あいつ、本気で―――俺たちを、逃がすつもりだ。
「ま、いい加減我慢の限界でもあったしな。ここまで舐められて、おいそれと命令を聞くほど良くできた人間じゃねえってコトだ。言峰《ヤツ》とは、ここで縁切りだな」
「ほう―――では契約を切るという事か。聖杯は目の前だというのに。貴様は、このまま消えても構わないのか」
「テメェと一緒にするな。もとよりな、オレは二度目の生なんぞに興味はない。……いや。英雄なんて連中はな、どいつもこいつもそんな物に興味はねえんだよ。
オレたちはこの世に固執してるんじゃない。果たせなかった未練に固執するのみだ。
まあ、テメェみてえに欲の皮がつっぱった怨霊には分からないだろうがな」
「―――なるほど。死に際が鮮やかだった男は言う事が違う。この裏切りも、英雄の誇りとやらに沿った物か。
まったく、己《おの》が信念を貫くのは厳しいな、ランサー」
……ヤツの背後が歪む。
何もない空間に、次々と無数の武器が現れていく―――
「――――」
「……ランサー。アレはあらゆる宝具の原型を持つ者、我らの中で最も古い歴史を持つ英雄王です。いくら貴方でも一対一では――――」
「……チッ、そうかよ。なるほど、どうりで偉そうなワケだ。やりたい放題やって国を滅ぼしたって野郎だからな、そりゃ性根が腐ってる」
「ランサー、強がりを言っている場合では―――!」
「いいからさっさと失せろ。助言なんざしやがって何様のつもりだ、庇った程度で仲間意識を持ちやがって。
……ったく、これだから育ちのいい騎士さまってのは気にくわねえ」
セイバーに脱出を促すランサー。
「――――――――」
セイバーは苦しげに俯いたあと、
「……ご武運を。この恩は、必ず」
俺の手をとって、階段へと走り出した。
「――――しまった。逃がしてしまったか」
追う気配も見せず、ギルガメッシュは逃げていく俺たちを傍観する。
「……なんだ。セイバーはテメェの獲物じゃなかったのかよ」
「いや。実はな、我《オレ》もこのような決着は好みではなかったのだ。貴様がやらなければ、我《・・・・・・・・・・・》が同じ事《・・》をしていただろう」
階段を上がっていく。
……ろくに走れない俺を気遣っての事だろう、セイバーの歩みはそう速くはない。
ゆっくりと地上へ上がっていく俺たちを余所に、地下の両者は対峙を止めなかった。
聖堂に満ちていく殺気は、際限なく濃く深くなっていく。
「―――どういう事だ、そりゃあ。テメェもセイバーを逃がすつもりだったのか」
「当然だろう。我《オレ》にセイバーを殺す気はない。アレは我《オレ》の物だ。
だが―――聖杯を呼ぶ為にはそういう訳にもいかん。
儀式の完成には、あと一人《・・・・》サーヴァントに死んで貰わなければならぬからな」
千の剣が現れる。
黄金の騎士の口元が歪に歪む。
それがランサーの不意打ちを防げた理由だ。
仲間である筈の相手を狙ったのは、ランサーだけではなかったのだ。
「チィ―――初めからそのつもりかよ、テメエ」
「言ったであろう? 貴様がしなければ我《オレ》がそうするつもりだったと。
褒めてやるぞクーフーリン。これは、我《オレ》にとって理想の展開だ」
両者の間合いが狭まる。
その激突を見届ける前に、俺たちは階段を上りきった。
◇◇◇
「っ――――あ」
足が止まる。
教会からこっち、なんとか続いていた体力が、もう限界だと訴える。
「シロウ、ここで休みましょう。これ以上は、貴方の体が保たない」
「っ――――そう、だな。悔しいけど、これじゃセイバーに迷惑をかける、一方だ」
セイバーに借りていた肩から離れて、草むらに腰を下ろす。
「っ――――」
胸の傷はいまだ健在だ。
出血が止まったものの、胸には穴が開いている。
「……気持ち、悪い……」
痛みこそ薄れているものの、体に穴が開いているのだ。
見ているだけで気持ちが悪くなるし、なにより、それでも生きているという自分に疑問を持ってしまう。
「シロウ、傷を見せてください」
しゃがみ込んで胸を覗きこんでくるセイバー。
……なんていうか、妙に気恥ずかしい。
「あ――――いや、いい、けど」
「では失礼します―――少し痛みますが、耐えてください」
セイバーの指が胸を滑る。
―――と。
なんのつもりか、セイバーは胸の傷に手をあてて、体の中に手を――――
「あ――――っ――――!」
体が跳ねる。
セイバーの手は容赦なく、体の中をまさ、ぐ―――
「ば、なに、を――――!?」
素手で内臓に触れられているのだ。
痛くない筈がない。
痛くない筈がないのだ、が――――
「あ――――れ?」
痛みはまったくない。
逆に、セイバーに触れられているところを中心にして、痛みが和らいでいくような――――
「終わりました、シロウ。鞘に魔力を補充しましたから、半日もすれば傷は癒えるでしょう」
胸から手を離して、セイバーはホッと胸を撫でおろしている。
「鞘――――?」
が、こっちは判らない事だらけだ。
「セイバー。鞘って何だ。前もそんな事を言ってた気がするけど……もしかして、その。鞘って、おまえの鞘の事か?」
セイバーの鞘。
それはエクスカリバーの鞘に他ならない。
彼女の剣の鞘は、風王結界などではない。
伝説で言うエクスカリバーの鞘は、持ち主を不死にするという守りの宝具だ。
だがそれは彼女の手にはない筈のもの。
アーサー王はその鞘を失ったからこそ、カムランの戦いで命を落とした。
今のセイバーがエクスカリバーの鞘を持っている筈がないのだが――――
「はい。私の鞘は、貴方の体の中にあります。それを確信したのは昨夜というのは、私の落ち度でしたが」
「俺の体の中に……? なんだよそれ。そんな覚えはないし、あんまりにも突拍子がないぞ、それ」
「そうでしょうか。思えば簡単な事だったのです。シロウは私を召喚した。今までそれを偶然だと考えた事が愚かでした」
「英霊を呼ぶには、英霊に縁があるシンボルがなければならない。マスターとしての知識もなく、魔術師としても未熟だったシロウが私を呼ぶには、それを補ってあまりある“接点”がなければならない。
それが私の鞘―――失われたエクスカリバーの鞘だったのです」
「あ――――いや、それはそうかもしれないけど。
だから、なんだってそんな物が俺の中にあるってんだよ」
「……それは、おそらく切嗣が行った事でしょう。
前回の戦いで、衛宮切嗣は聖剣《エクスカリバー》の鞘を触媒にして私を召喚した。聖剣の鞘は持ち主の傷を癒す宝具です。切嗣はそれを私に返すより、自身が持っていた方が有利と判断したのでしょう」
「私には治癒能力があるし、死ににくい。
それより死にやすいマスターが鞘を持つ方が、戦いには勝ち残れる」
「……。じゃあ切嗣《オヤジ》も、今の俺と同じような状態で戦いを勝ち残ったって訳か……?」
「おそらくは。そして戦いが終わり、私が消えた後。
切嗣は焼け跡の中を彷徨い、死にかけている子供を見つけた。切嗣には治療の力はありませんでしたし、あったところで手の施しようがなかったのでしょう。
……だから、その子供を助ける手段は、彼には一つしかなかったと思うのです」
「――――――――」
知らず、胸に手を当てていた。
……十年前のあの日。
曇った空を見上げながら死を受け入れた。
体中火傷だらけで、もしかしたら、本当に黒こげだったのかもしれない。
それでもかろうじて息のある子供を見つけた時、切嗣はその手にある物に頼るしかなかった。
持ち主の命を守る聖剣の鞘。
それを植え付ける事で―――彼は、死にかけた命を救ったのか。
「……じゃあ、本当に……?」
「はい。分解され、原型を留めてはいませんが、確かにシロウの中には鞘があります。それが貴方の治癒能力の源です」
「――――け、けど。俺、一度死にかけたぞ。学校でランサーに刺されて、それで――――」
……そうだ。
あの時、誰かに助けられた。
気が付いた時には誰もいなく、廊下には石ころだけが落ちていた。
何か大切な物のような気がして石は持ち帰ったが、アレはまだ家にあるだろうか……?
「それは私と契約する前の話でしょう。
鞘は私の宝具です。私が現界し、魔力を注がなければ“宝具”として能力を発揮しない。シロウは私というサーヴァントと契約しなければ、その不死身性を得られないのです」
「……まあ多少は、魔力さえ注げば持ち主の命を保護するでしょう。ですが、それも微弱なものです。死にかけた人間を救うには、鞘そのものと同化させるしかなかった筈です」
「…………そうか。その、すまんセイバー。おまえの鞘を、こんな事で使っちまって」
「何を言うのです。シロウは私のマスターなのですから、私の物を使うのは当然ではないですか。
それに―――シロウがそうなのだと知って、私は嬉しかった。何も守れなかった私でも、貴方の命を救えていたのですから」
「――――――――っ」
その笑顔があんまりにも眩しくて、思わず顔を逸らしてしまった。
「――――シロウ? あの、傷が痛むのですか?」
「いや、そうじゃない! いいんだ、気にしないでくれ、セイバーは何も悪くないっ」
赤面する顔を手で隠して、とにかく黙り込む。
…………気まずい。
黙っていた方が痛みもないんで楽なのだが、とにかく気まずい。
……そうして、どのくらいの時間が過ぎただろう。
こっちの気持ちもようやく落ち着いてきた時。
セイバーは静かに、
「切嗣は正しかった。彼は、私を裏切ってなどいなかったのですね」
自身の過去を悔いるように、呟いた。
「……セイバー?」
「あの聖杯は、私の求める物ではなかった。……いえ、もとより聖杯など必要ではなかったのです。切嗣は、それに気が付いていたのでしょう」
……その呟きは、懺悔に似ていた。
セイバーはもう謝れない相手に言葉をかけ、
ずっと抱いていた思いと決別する為に、こうして自らを見つめている。
それは言葉にしなくても。
こうして傍にいるだけで、確かに心に響いてくる。
……聖杯を求めたアルトリア。
聖杯さえあれば滅びなどなかったと信じるしかなかった孤独な王。
―――もし。
あの、剣を引き抜く時からやり直せたのなら、と願った一人の少女。
「セイバー、それは」
「……解っていました。やり直しなんてできないのだと。
私はそれを知りながら、必死に自身を偽り続けてきたのです」
……それも終わり。
長かった彼女の戦いは、これで本当に―――
「ありがとう、シロウ。貴方のおかげで、ようやくとるべき道が分かりました。
……ええ。あの聖杯もこの私も、有り得てはいけない夢だったのです」
それでも―――どうか許してほしい、と彼女は呟く。
間違えた望み、叶えられない日々ではあったけれど。
この弱さは、ある少女が見た、一時《いっとき》の理想《ユメ》郷だったのだと――――
「――――――――」
それを、どんな気持ちで聞けただろう。
セイバーの答えは、綺麗だった。
彼女らしい潔癖さと尊厳に満ちた決断。
自らの過去を誇り、その先にある結末を受け入れた。
―――そうして、セイバーは。
自身が立てた誓いを、最後まで守り通すと頷いたのだ。
「――――――――」
それがどんな意味を持つのかなんて、言われるまでもない。
彼女はもう迷わない。
そして俺は、その姿を美しいと感じたのだ。
暗い夜。月明かりの下で出会い、その姿に見惚れた時から―――今のセイバーを愛した。
なら。
この先にあるものが何であれ、するべき事は決まっている――――
「―――セイバー。聖杯を壊そう」
未練を断って、自分の我が儘を蹴飛ばして、断言した。
「―――はい。貴方ならそう決断すると信じていました、マスター」
力強く頷くセイバー。
……今は笑顔でなんて返せない。
嫌だ、と崩れそうになるまなじりを、懸命に抑えるコトで精一杯だ。
それでも―――向けられたこの信頼を、いつか誇れる日が来るだろう。
「――――――――」
立ち上がる。
そうと決まれば休んでいる暇はない。
やるべき事ははっきりしているし、倒すべき相手も判っている。
回り道はなしだ。
今日一日。明日を迎える前に、長かった戦いに決着をつけてやる――――
◇◇◇
セイバーに肩を借りて、なんとかここまで戻ってきた。
胸の傷はまだ完治しない。
セイバー曰く、あと数時間は大人しくしていろとの事だ。
「―――――――」
唇を噛む。
やるべき事が決まったっていうのに、言うことをきかない体が恨めしい。
「……シロウ。何かいま、よからぬ事を考えませんでしたか?」
「え――――? い、いや、別に何も考えていないぞ、うん」
「まったく、あまり無茶を言うと怒りますからね。
戦いは傷が完治してからです。―――最後の戦いになるのですから、お互い万全の態勢で臨みましょう」
「……そうだな。焦るより、今は準備を整えないと」
―――消えた言峰の行き先。
ギルガメッシュを破る手段。
考えるべき事は山ほどある。
今は体を休めて、夜が深まるのを待たなければ。
瞬間、意識が凍り付いた。
「え――――?」
人の気配がない。
空気が違う。
焦げた匂いに混じって、強い香水のような、赤い赤い血の薫りがする――――
「――――」
走った。
胸の傷もおかまいなしで、背中に走る悪寒を振り払うように走った。
廊下を抜けて、曲がり角をまがって、見慣れたのれんをくぐる。
――――そうして。
目の前に広がる景色は、見慣れた居間とはかけ離れていた。
「遠――――坂」
声が震える。
ここで何が起きたのかなんて知らない。
判るのは、ただ、今にも消えそうな息遣いで、こっちを見据えている遠坂だけだった。
「……あ、やっと帰ってきた……まったく、もうちょっとで寝ちゃうところだったじゃない、ばか」
―――何のつもりか。
話す事さえ出来なさそうな体で、遠坂は、いつも通りの言葉を返して、きた。
「な――――喋るなばかっ……! くそ、とにかく血を止めないと……! セイバー、風呂場からタオルとお湯と洗面器……!」
自分でも訳の分からないまま、とにかく指示を出す。
セイバーは無言で頷き、すぐさま脱衣場へと走っていく。
「―――包帯。包帯と血止め―――血止めだけですむかバカ、医者、医者を呼んでどうにかしないと―――!」
混乱した頭で救急箱を引っ張り出す。
「……いい。手当は自分でしたから、医者はいらない。
それより、もっと大事なことが、あるでしょ」
「な――――」
はあはあと息をこぼしながら、遠坂はじっと俺を見つめてくる。
「―――――――遠坂?」
……あいつが何を訴えているのか、俺には判らない。
判らないけど、今はあいつの言う通りにするべきだと頷いた。
「……本当に傷はいいのか、遠坂。
おまえ、これは――――」
「いいの。血止めぐらい自分で出来る。
それより―――ごめん。留守を任されてたのに、わたし、イリヤを守れなかった」
「え――――?」
それで、ようやく冷静になれた。
……傷ついた遠坂。
……ズタズタにされている居間。
それと。
いるべき筈の、イリヤの姿がない事に。
「…………やってきたのは言峰か?」
「―――――――」
こくん、と頷く。
……残った敵はヤツだけなんだから、訊くまでもない事だ。
それでも、言峰が敵だと知っているのは俺とセイバーだけだった。
遠坂にして見れば、これは完全な不意打ちだったのだろう。
師弟であり後継人だった男が、七人目のマスターだったというのだから。
「……謝るな。いくらおまえでも、騙し討ちされたらどうしようもないだろ。……おまえ、なんだかんだって言峰を信頼してたしさ」
「―――そうね。正直、甘く見てた。自分一人でもなんとかなるって、自惚れてた、みたい」
ごふ、と咳き込む。
……まずい。やっぱり喋らせる訳にはいかない。
「……話は後にしよう。今は動くな。すぐに手当をして、休ませてやるから」
「―――うん、お願い。けどその前に、伝えておかないとダメっぽい。
……いい士郎。これが最後の助言だから、きちんと聞きなさい」
「――――――――」
縁起でもない事を言う。
だが、黙ってそれに頷いた。
こんな体で、こんな真剣な目をされているのだ。
一体どこの誰に、今のこいつを黙らせられるっていうのか。
「……まず一つ目。言峰の目的はイリヤよ。あの娘が今回の聖杯の器だって、あいつは初めから知ってたんでしょうね」
「な――――イリヤが、聖杯……!?」
「……正確には、あの子の心臓ね。魔術師っていうのは魔術回路を持った人間だけど、イリヤは魔術回路を人間にした子なの。
サーヴァントが残り一人になった時、あの子自体が聖杯を降ろす器になると思う」
「―――――じゃあ、イリヤは言峰に……?」
「連れて行かれたわ。でも……ぐっ……! セイバーがまだ健在なら、道は開かない。言峰だって、器になるイリヤをどうにかしようなんて、考えない、はず」
「――――――――」
……今は、それを願うしかない。
ランサーだって一筋縄ではいかないサーヴァントだ。
ギルガメッシュに敵わないまでも、逃げ出す事は出来ているのではないか。
……今はそれに賭けるしかなく、そんな事、今の遠坂に言える筈もなかった。
「わかった。イリヤは俺が助け出すから、安心しろ」
「……そう。じゃあ二つ目。
言峰の居場所だけど、きっと柳洞寺だと思う。
聖杯の降霊場所として、あそこ以上の場所はないもの。
教会はもう引き払ってるだろうし、隠れてるとしたらあの寺だから」
「――――ああ。言峰がいるのは柳洞寺だな」
……もう首を動かす事さえ出来ないのか。
それでも確かに、遠坂は頷いた。
「じゃあ最後。―――貴方じゃ綺礼には敵わない。それでも、戦う?」
それは。
友人としての遠坂凛ではなく、純粋に状況を判断する、魔術師としての問いだった。
◇◇◇
「――――――――」
答えは決まっている。
勝算はなく、事態は最悪だ。
それでも――――
「―――戦う。ヤツには借りが山ほどある。
何があろうと引く事はできない。言峰綺礼は、衛宮士郎が倒すべき敵だからな」
俺は、あいつと決着をつけなくてはいけない。
十年前の生き残りとして。
あの孤児たちの一人として。
そして、衛宮切嗣の息子として。
「……そう。なら、これあげる。護身用の物だけど、何もないより役に立つわ」
言って、遠坂は背中に手を伸ばし、気だるそうに一振りの短剣を取り出した。
……それは、有名と言えばあまりにも有名な短剣だ。
戦闘用ではなく儀式用の短剣で、魔法陣の形成や固体化した神秘への介入などに使われるという、剣の形をした魔杖。
柄にはめ込まれた宝玉には、ただAZOTHと彫られている。
刃渡りは遠坂の趣味らしく、通常の物よりやや短い。
ちょっとした昔、わりと一世を風靡した神秘学者が愛用していたというそれは、アゾット剣と呼ばれている。
魔術師にとっては一人前の証というか、入学祝いに買って貰えるご褒美的な物だというが――――
「遠坂、これは……?」
「見れば判るでしょ、わたしの短剣よ。……宝石に比べれば微々たる物だけど、それでも気が向いた時には魔力を込めてた。“lt”って叫んで、ありったけの魔力を流し込めば発動するから」
……渡された短剣は、ずしりと重い。
それは物質的な重さじゃなく、この剣に込められた遠坂の思い出の深さだった。
「―――遠坂。いいのか、これを預かって」
「……いいのよ。綺礼に勝てないって判って、最後まで隠し通したんだから。このまま使わないのも癪だし、アンタが使って」
「……わかった。遠慮なく貰っとく。正直、武器は多いに越した事はない」
「なんだ、判ってるじゃない。なら……もう、いいかな。
いいかげん、もう眠くて眠くて」
はは、と照れくさそうに笑う。
……気が付けば。
背後にはセイバーがいて、遠坂の手当をしようと待っていた。
「ああ、寝ろ寝ろ。朝になったら起こしてやるから。そしたら腹一杯メシ食わせてやる」
「――――そうする。
……と、最後に、これは忠告じゃなくて命令。
士郎。やるからには死んでも勝ちなさい。わたしが起きた時、アンタがくたばってたら許さないから」
そう、言うだけ言って満足したのか。
遠坂はもうごうごうと、遠慮も容赦もなく寝入ってしまった。
その様は健康そのもので、心配したこっちが馬鹿みたいに思えるほどだ。
……だが、まあ。
それが遠坂流の応援で、勇気を分けて貰ったのは確かなこと。
「――――ああ。まかせとけ、遠坂」
眠りに入った遠坂に声をかける。
……お膳立ては全て整った。
あとはこの傷が癒えるまでの数時間を、悔いなく過ごす事だけだ――――
―――日付が変わった。
遠坂の手当をして、部屋に休ませて、夕食を作って、セイバーと会話のないままそれを済ませた。
「……あと、少し」
傷は八割方癒えている。
残された時間は、あと一時間か二時間といったところだろう。
その時間を、俺は
◇◇◇
――――ああ、そうだ。
やるべき事なんて一つだけ。
俺たちはいつだってそうしてきたんだ。
なら、最後までそれを守ろう。
色気もなく風情もなく、顔をつき合わせてああだこうだと作戦会議をした方が、よっぽど俺とセイバーらしいじゃないか――――
「シロウ、対策を練るのはいいのですが……何もここでなくともよいのではないですか?」
「いや、ここじゃないと調子が出ない。いいから中に入ろう。考え無しってワケじゃないんだ」
「……はあ。シロウがそう言うのでしたら、従いますが」
セイバーは渋々と土蔵へ入っていく。
――――さて。
セイバーを蔵に案内したのは、それなりに理由がある。
今の俺たちにギルガメッシュを打倒する手段はない。
プラスアルファが必要なのは、もう言うまでもないだろう。
だから――――
―――相応しい持ち主に、この鞘を返そう。
出来るかどうかはやってみないと判らない。
ただ、セイバーは俺の体に手を入れて“鞘”の存在を確かめていた。
なら、それを取り出すという事もあながち不可能ではない筈だ。
「な――――それは本気ですか、シロウ」
「本気だよ。もともとアレはセイバーの物だろ。ならセイバーに返すのは当然だし、この鞘があれば、あいつにだって勝てるかもしれない」
「……たしかに、鞘が戻れば私の魔力もあがります。
ですが、それでもギルガメッシュに勝てる保証はありません。それに―――鞘を摘出してしまったら、シロウはどうするのです。
鞘を取ってしまえば、もう――――」
傷を負っても、回復する事はないだろう。
けどそれが普通なんだ。
今まで自分でも気づかないうちに、この体に頼りすぎてた。
人は殺されれば死ぬんだ。
そんな当たり前の事から、ここにきて守られる訳にはいかない。
「鞘を取ってくれ、セイバー。これは、俺たちが勝つ為の、絶対の条件だ」
「――――――――」
苦しげに唇を噛んだまま、セイバーは答えない。
……それがどれほど続いただろう。
空を覆っていた雲が流れ、窓から月光が差し込みだした頃。
「……分かりましたマスター。貴方の心を、お借りします」
迷いを断って、セイバーは頷いてくれた。
「……それでは始めます。準備はいいですか、シロウ」
「―――いいぞ。遠慮なく始めてくれ」
では、という声。
そのままセイバーの手が俺の胸に触れ――――
「っ――――」
ずぶり、と俺の体に沈み込んだ。
……俺がする事は簡単な事だ。
鞘の摘出は、“投影”の工程に似ている。
聖剣の鞘は、いまや俺の体に溶け込んでいる。
それを一つの場所に集め、以前と変わらぬ姿に戻すだけ。
もちろん、それはイメージだけの話だ。
かつての姿になるといっても、それは魔力という波がそういった輪郭を作るだけ。
それに形を与えるのはセイバー自身だ。
形のない、しかし原型に戻った魔力の束は、持ち主であるセイバーが手に取る事で具現化する。
俺がするべき事は、その手伝いに他ならない。
無から有を作るように。
バラバラに散らばった聖剣の鞘を、精密に丹念に、一片の間違いなく再現する――――
「――――――――っ」
……体が熱い。
投影は、それだけで俺の手に余る。
使えば確実に身体を侵していく魔術。
神経を破壊し、肌を焼き、その都度、脳を圧迫して廃人に追い込む力。
だが、今はそれが衛宮士郎にとって唯一の武器であり、セイバーに報いる方法でもある。
……イメージする。
夢で見た彼女の姿を。
戦場を行く騎士王に相応しい黄金の鞘。
主を守り、幾たびもの勝利をもたらした証を、鮮明に、狂いもなく、あの時の美しさのままで。
―――たとえ、この先。
どんな終わりが待っていようと忘れぬように、永遠に、この心に焼き付ける――――
「っ――――!」
セイバーの声が聞こえた。
……体からは、何か、長く自分を縛っていた物が抜けていく。
「凄い……見事ですシロウ! こんなに完全な姿に戻せるなんて、他の誰にも出来ません……!」
会心の手応えだったのか、セイバーはこっちがびっくりするぐらい喜んでいる。
「――――――――」
体の余熱にのぼせて、ぺたん、と地面に座り込む。
「うわ、シロウ……! すごい汗です、いま拭く物を持ってきます……!」
……セイバーが屋敷へと駆けていく。
その足音を聞きながら、ほう、と大きく息を吐いた。
会心の手応えはこっちも同じだ。
今のは、完璧だった。
この先どんなに投影を行おうと、これを越える複製はできないだろう。
「……じゃあな。いままで、ありがとう」
自分の半身だった物に別れを告げる。
――――彼女を守り続けた黄金の鞘。
忘れる事など永劫にない。
この体から失われても、その姿は、この胸に刻み込まれたのだから。
◇◇◇
……これが最後になるかもしれない。
十年前の火災。
その生き残りであり、聖杯を破壊した衛宮切嗣の後を継ぐというのなら、ちゃんと、一言告げておくべきだ。
“じいさんのユメは、俺が”
……昔、そう口にした子供がいた。
あの時は男が残した想いも知らず、自分が目指したがっているモノの正体さえ知らなかった。
十年間。
自分が目指し続けたモノの正体、
あの光景から一人生き延びた意味が、もうじきカタチになろうとしている。
「……今までありがとう。行ってくるよ、切嗣《オヤジ》」
恐れと迷いは、それで断ち切れた。
―――勝算はない。
それでも、俺が衛宮士郎を名乗るのなら、胸を張って決着をつけなくてはいけなかった。
◇◇◇
―――月が遠い。
雲は晴れ、夜の闇は青みを帯びる。
じき黎明。
長かった夜は、これで終わろうとしていた。
―――それが最後。
闇夜を越えて、セイバーと共に、この場所に辿り着いた。
「――――シロウ、これは」
セイバーの声に緊張が混じる。
……それは俺も同じだ。
無言で頷いた首筋に、冷たい汗が流れている。
……山は、それ自体が生き物のようだった。
山門から吹き下ろす風は生温かく、揺れる木々は呼吸をする肺のよう。
一歩踏み出す度に走る悪寒と、息苦しいまでの圧迫感。
いや―――実際、大気は濃く湿っている。
「……魔力《マナ》の密度が高い。十年前と同じです。おそらく、上ではもう」
……聖杯の召喚が始まっているか、終わったか。
どちらにせよ、ランサーはギルガメッシュに破れたという事か。
「―――確認するぞ、セイバー。
上に着いたら、あとは戦うだけだ。セイバーはギルガメッシュの相手を頼む。俺はマスター―――言峰を討つ。
お互いの戦いには手を出さない。……どちらかが相手を倒せば、それで終わりだ」
「ええ。今回だけは、私は自分の戦いに専念します。それに、コトミネは貴方が倒すべき敵だ」
「……そうだな。よし、任せとけ。セイバーの方こそ、あんなヤツにやられるんじゃないぞ」
「……はい。誇りにかけて、彼には負ける訳にはいかない。サーヴァントとしてではなく、英霊として彼《か》の王に膝を屈する事はできません」
強く断言するセイバーに、迷いや憂いはなかった。
なら、もう言うべき事は何もない。
俺たちは戦いに赴き、最後のマスターとして雌雄を決する。
―――その過程。
どちらかが命を落としても、残った一方が敵を討つだけ。
俺が倒れてもセイバーがギルガメッシュさえ倒せば、言峰は聖杯を手に入れられない。
同時に、もしセイバーが倒れたとしても―――俺が言峰を倒せば、ギルガメッシュも現界していられない。
……だから、お互いを庇う必要はない。
この戦いはもう、それぞれの物に別れているのだから。
……そうして、石段を登っていく。
山門に近づけば近づくほど、空気の密度はあがっていった。
背筋に伝わる汗。
肌を刺す不吉な予感。
この石段の終わりには、お互いにとって最強の敵が待ち受けている。
―――だが。
そんなもの、本当はどうでも良かった。
階段を上っていく。
山門が近づいてくる。
……そうすれば、それで終わりだ。
この戦いがどちらの勝利に終わろうと、セイバーは消える。
長く、一瞬だった戦いの日々は終わって、セイバーはこの世界から消滅する。
彼女は、本来あるべき、正しい時間に帰るのだ。
――――それに。
悔いがないなんて、言えるはずがない。
セイバーを失う。
守ると。幸せになってほしいと思った相手を失う。
それがどれほど辛い事か、俺はまだ知らない。
こうして共に歩いて、まだ傍らに彼女を感じられる。
失う覚悟なんて、出来ている筈がなかった。
何日も前に。
彼女と出会ったその日から、最後には別れがあるのだと知らされていたとしても。
「――――――――」
思い返せば、数え切れない思い出があった。
共に歩いた夜もあったし、共に戦った時もあった。
初めは女の子であるセイバーに戦わせられるかと勝手に奮戦したし、道場でさんざんしごかれた。
隣りの部屋で眠るのが苦手で土蔵で眠った事もあったし、一緒に昼飯だって食べた。
セイバーは風呂が好きだったり、メシが旨いと満足そうだったり、遠坂が用意した服を気に入ったり、藤ねえとテンポの合わない会話をしてた。
無理をして、自分だけで苦労を背負いこんで、あげくに倒れて―――くすんだ廃墟で、肌を重ねた。
……もう、その段階でどうかしてた。
セイバーの事しか考えられなくなって、戦う目的が変わって、どうしようもなく好きなんだと気が付いた。
そんな相手を――――どうやって、失えるというのだろう。
「――――――――」
セイバーは何も語らない。
俺も、声をかける事ができない。
この階段が終わって、
このまま登り切ってしまえば、もうお互い言葉を交わす事はない。
セイバーを失い、別れるのはまだ先だ。
けれど。
俺たちに許された別れの時間は、この瞬間しか与えられていなかった。
「――――――――」
……階段を登っていく。
別れを告げるのが嫌なら、なんでもないコトを、今まで通りに話せばいい。
たとえば、そう。
帰ったらもう一度町に行こう、とか。
明日の朝食は何がいい、とか。
そんな、なんでもない、コトを。
「――――――――」
……そんなコトさえ、口に出来ない。
何か言葉にすれば、それが別れの言葉になる。
明確な終わり。
明確なさよならを、俺もセイバーも、口にする事が出来なかった。
―――そうして、山門に辿り着いた。
これが最後の選択。
進めば終わる。
だが戻れば―――まだ、彼女を失わないで済む方法が見つかるかもしれない。
「――――セイバー」
立ち止まって、セイバーへ振り向いた。
セイバーはいつも通りだ。
平気そうな顔で、何かを堪えているような、張りつめた瞳。
それを見た瞬間、ありとあらゆる誘惑が駆けめぐった。
逃げてしまえ、と。
失いたくないのなら引き返していいと。
彼女なら、おまえがそうしたいと言えば受け入れてくれると。
「――――――――」
意思が揺らぐ。
のど元まで、その誘惑がせり上がる。
それをかみ殺して、
「―――――行こう。これが最後の戦いだ」
今まで通りに、マスターとして告げていた。
セイバーは無言で頷く。
それは今まで通りの、強い意志を持ったセイバーの瞳だった。
「――――――――」
なら、後悔などしない。
彼女が俺を信じたように。
俺も、自らの選択が正しいと信じよう。
山門へと足を進める。
もう戻れない戦いに向かっていく。
何も言えず、本当に言いたい事も言えなかった。
それでも、このもどかしかった沈黙は、深く気持ちを伝えられたと信じたい。
―――二人で登り詰めた、長い長い石の階段。
それが彼女と共に過ごした、地上《ここ》で最後の思い出だった。
赤い光が、山頂を包み込んでいる。
吹き荒ぶ風は勢いを増し、その源はあの光―――境内の奥のようだ。
赤い燐光は風に乗って舞い散り、境内は夜だというのに明るすぎる。
淀んだ空気と充満した死の気配。
―――それは。
まるで、遠い日の火事のように。
「――――――――」
だが、これはそんなモノではない。
赤い光に混じって、今にもあふれ出そうとしているモノがある。
……建物の向こう。
鮮やかな赤色に滲む、粘液のような黒い闇。
この境内が清らかな湖だとすると、あの泥はばらまかれた重油のようだ。
広がり、地面を汚染し、飲み込まれたモノを殺さずにはおかない泥。
それは視覚できる程の呪いに他ならない。
俺とて魔術師のはしくれだ。
アレが、人の精神にのみ作用し、人間の体だけを飲み込むモノだと直感できる。
「―――来たか。待ちわびたぞ、セイバー」
その極彩色の中に、ヤツがいた。
血のような赤色も、死を帯びた黒色も知らぬと。
金色《こんじき》に武装したサーヴァントは、境内のただ中で俺たち―――いや、セイバーを待ち受けていた。
「頃合いも良い。聖杯もようやく重い腰をあげ、孔が開いたところだ。
この呪いこそが聖杯の中身。我らサーヴァントをこの世に留める第三要素。
―――十年前、おまえが我《オレ》に浴びせたモノだ」
ギルガメッシュはセイバーしか見ていない。
セイバーもそれは同じ。
彼女は一歩踏み込み、その剣を、目前の騎士へと向ける。
「ギルガメッシュ。貴方の目的はなんだ。
あの呪い―――聖杯と偽っていたモノを使って、何を望む」
「望みなどないと言っただろう。言峰が聖杯をどう扱おうと我《オレ》は知らん。
今のところ、我《オレ》の関心はおまえだけだ」
セイバーに応えるように、黄金の騎士が片腕をあげる。
―――同時に、ヤツの背後が陽炎と揺らぐ。
王の財宝、百を超える“宝具”が、弾丸として装填される。
「……ああ、ようやくこの時が来たか。今までずっと考えていたぞセイバー。
嫌がるおまえをどう組み伏せアレを飲ませるか。
泣き噎ぶ顔を踏み付けその腹が身籠もるほどの泥を飲ませ、狂い死ぬに耐えきれず我《オレ》の足下にすがりつく、その穢《けが》れきった姿をな―――!」
「―――よく言った。ならば、その身が同じ末路を辿ろうと異論はないな、英雄王」
さらに一歩。
無数の宝具の射程距離へと踏み込んでいくセイバー。
……それはもう、俺がどうこう出来る戦いじゃない。
セイバーとギルガメッシュの戦いは、人の身で立ち入れる物ではないのだから。
「―――ふん、それでこそセイバーよ。
我《オレ》には勝てないと知った上でなおその気概。宴の終わりを飾るに相応しいが――――」
「邪魔は要らぬ。そこの雑種、言峰に用があるのなら早々に消えろ。ヤツは祭壇で貴様を待っている」
「――――!」
言峰が、待っている。
……セイバーに視線を投げる。
彼女はギルガメッシュを見据えながら、わずかに頷いた。
無事を祈る、と。
その後ろ姿が告げていた。
―――背を向ける。
俺が向かう相手は他にいる。
その背後。
駆けていく背中に、死闘の開始を聞いていた。
境内の奥。
柳洞寺の本堂の裏には、大きな池があった。
人の手は入れられず、神聖な趣きをした、龍神でも棲んでいそうな池だ。
澄んだ青色の水質は清らかで、濁りのない綺麗な池だった。
だが、それは昨日までの話。
池は、もはや見る影もない。
目前に広がるのは赤い燐光。
黒く濁ったタールの海。
――――そして――――
中空に穿たれた『孔』と、捧げられた少女の姿。
「――――言、峰…………!」
冷静を演じてきた思考が、一瞬にして通常値《レート》を振り切る。
駆けてきた足を止め敵を凝視する。
「よく来たな衛宮士郎。最後まで残った、ただ一人のマスターよ」
皮肉げに口元を歪め、ヤツは両手を広げて俺を出迎える。
……ここが、決着の場所。
今回の聖杯戦争における、召喚の祭壇だった。
「―――イリヤを降ろせ。おまえをぶちのめすのはその後だ」
目前の言峰を睨む。
……ヤツまでの距離は十メートルほど。
これ以上先に踏み込めば、戦いが始まるだろう。
言峰がどんな魔術師かは知らないが、おそらくは遠坂と同じ飛び道具を扱うに違いない。
対して、こっちはぶん殴るだけだ。
背中には遠坂から預かった短剣を隠しているといっても、やはり近寄らなければ話にならない。
……戦いになれば、最短距離でヤツへと走り、その胸を断つしかない。
その前に、イリヤをなんとかしてやらないと――――
「おい。聞こえなかったのか。イリヤを降ろせって言ったんだ。いい歳して、子供をいじめて何が楽しい」
「気持ちは分かるが、それは出来ない相談だな。聖杯は現れたが、その『孔』は未だ不安定だ。
接点である彼女には命の続く限り耐えてもらわねば、私の願いは叶わない」
命の続く限り――――じゃあ、イリヤはまだ生きている……!
「……そうか。おまえに降ろす気がないってんなら、力ずくで降ろすだけだ。
おまえの願い―――その黒い泥を、今すぐに止めてやる」
「……ほう。なるほど、おまえにはコレが私の望みに見える訳か。―――流石は切嗣の息子だな。
よもや、二代に渡って思い違いを続けるとは」
「な―――んだと?」
「この泥は私の手による物ではない。
これは聖杯より溢れる力、本来は万能である筈の“無色の力”だ。
それを黒く染めるなど人の力では出来ぬ。
この聖杯はな、初めからこうなのだ。開けてしまえば最後、際限なく溢れ出し災厄を巻き起こす」
「それがこの聖杯の正体だ。
この中にはあらゆる悪性、人の世を分け隔てなく呪うモノが詰まっている。
それを操る事など、誰にも出来ん」
「――――――――」
……何を、言っているのかあの男は。
もしそれが本当だとしたら、あいつは自分の望みの為じゃなくて―――コレを開ける為だけにマスターになったっていうのか……!?
「…………言峰。おまえの望みはなんだ」
奥歯を噛んで、黒い神父を睨む。
ヤツはさて、と口元を釣り上げたあと。
「そうだな。しいていうのならば娯楽だよ」
あまりにも単純な答えを、当然のように返してきた。
「な……んだって……?」
「―――解らないのか。例えば音楽だ。歌を楽しいと思うのは何故だと思う、衛宮士郎」
「え――――な、なんだって、そんな」
「では本はどうだ。物語が人を惹きつけるのは何故だと思う」
何故かって、そんな事―――考えた事も、ないけど。
「そう、考えるまでもない。あらゆる娯楽。人間を悦ばせるモノ。それらが愉しいのは、単に人間が作った物だからだ」
「よいか。あらゆる創造物は人間の内より生じる物。つまるところ、この世でもっとも愉快なモノとは人間に他ならない。剥《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》き出しの人間こそが最高の娯楽となる」
「それに比べれば、人間《かれら》が生み出す娯楽など二次的なものだ。
……そう、音楽も物語も、愛憎も憐憫も信頼も裏切りも道徳も背徳も幻想も真実も……! 全て、全て唾棄すべき不純物にすぎん。
そのようなもの、所詮は残り殻《カス》にすぎぬ二流の娯楽。
私が楽しみたいのは人間そのものでな。そのような余分なモノなど、もはや口にあわん」
「その為には、営みなどという贅肉は削ぎ落とさなければならない。
走馬燈というものがあるだろう? それと同じだ。人間は死の瞬間にのみ価値がある。生存という助走距離を以って高く跳び、宙《ソラ》に届き尊《とうと》く輝くもの。その瞬きこそが私の望みだ」
「それがおまえの求めた質問の答えだ。
おまえたちが平穏を糧にするように。
―――この身は、星の光を食べて生きている」
「――――――――」
両手を広げて演説する神父の姿は、異常だった。
寒気がするのは、ヤツの発言にではない。
人間を愉しみたいと語るヤツそのものが、神聖な存在に見えて寒気がしたのだ。
「つまり、おまえは――――」
「ああ、十年前の火災は悪くなかった。小規模ではあったが、通常ではありえない刺激に満ちていたからな。
……そう、私が望むものなどその程度だ。
あのような地獄にこそ魂の炸裂、ヒトにおける最高の煌めきがある。それはおまえ自身も体験した事ではないかな衛宮士郎。
どうだ。無念《・・・・・・・・・・・・・・》のまま朽ちる人間の叫びは、胸《・・・・・》に迫《・・・・・・・・》るものがあっただろう?」
「て――――」
ふざ、けるな。
あの時間が。
あの地獄が、そんな一言で。
「理解してくれたか。歪なカタチではあるが、私ほど人間を愛しているモノはいない。故に、私ほど聖杯に相応しい人間もいまい」
そうして、神父は満足そうに笑った。
あの出来事を。
為す術もなく死んでいった人たちの姿を、心の底から素晴らしいと言うかのように――――!
「――――ああ、そういうコトか」
つま先に意識を集中する。
地を蹴ろうとする足に力を込める。
「――――つまり、殺していいんだな、テメェ……!」
全力で地面を蹴った。
ヤツまでは十メートル弱、このまま一直線に間合いをつめて、そのまま――――
「――――――――」
真横に跳んだ。
それはアイツを殺してやる、という理性より、
死にたくないという本能が勝った結果だった。「っ――――!」
横っ滑りで地面に転がる。
それもすぐに止めて、すぐさま顔を上げた。
「っ、今、の――――!」
さっきまで自分が走っていたルートを見据える。
地面を焼く音。
じゅうじゅうと湯気を立てているのは、池から伸びてきた黒い泥だった。
……まるで黒い絨毯だ。
泥は鞭のようにしなり、言峰に迫った俺を迎撃し、そのままだらしなく大地に跡を残している。
「言い忘れていたが、既におまえは私の射程に入っている。加えてコレは生き物に敏感でな。
―――動き回るのは勝手だが、不用意に動くと死ぬぞ」
「――――っ!」
容赦なく伸びてくる黒い泥を跳んで躱す。
不用意に動くもクソもない、あの野郎、殺る気満々なんじゃないか……!
「く―――このエセ神父……!」
池に気を配りつつ態勢を立て直す。
……言峰までの距離は依然変わらない。
この十メートルが、あいつにとって近寄らせたくないラインって事だ。
……だが、あの泥の触手は際限なく伸びる。
その気になれば何処まで引いても追ってくるだろうし、その数だって、一本だけという事もあるまい――――
「ほう、やる気か。それは喜ばしい。
このまま立ち去るのなら殺しようがなかったが、おまえ本人が争うのであらば問題はない。
なにしろこれでも神に仕える身だ。助けを求める者を殺める訳にもいかなくてな」
「―――よく言う。人を背中から襲ったヤツがな、そんな言葉を吐くんじゃない」
言われて、ランサーの一件を思い出したのか。
言峰は感心したように笑いやがった。
「そうだったな。おまえには、アレで愛想がつきていた。
これ以上先延ばしにする必要はない」
「……正直に言うとな、衛宮士郎。私はおまえに期待していたのだ。凛がおまえを教会に導いた夜、運命すら感じた。おまえがあの切嗣《おとこ》の息子と判り、内面まで似通っていると知った時の喜びなど判るまい。
十年前に叶わなかった望み。衛宮切嗣という男に、こうしてもう一度引導を渡せるとは思わなかった」
……触手がうねる。
池から鎌首をあげて揺らめくそれは、黒い蛇そのものだ。
「――――――――」
……唇を噛む。
思った通り、最悪の状態になった。
蛇の数は際限なく増えていく。
これでは言峰に近づくどころか、どのくらい生き延びられるかさえ定かじゃない――――
「勝機がないのは当然だ。
おまえの生きた年数と、私の生きた年数では大きく開きがある。何かで掛け算でもしないかぎり、埋められる数《さ》値ではあるまい」
神父の両手が上がる。
ヤツは、それこそ楽団を率いる指揮者のように天を睨み。
「―――命をかけろ。
或いは、この身に届くかもしれん―――!」
一斉に、黒い蛇たちを解放した。
奔る火花。
かつてない気迫で打ち込まれる連撃を前に、黄金の騎士が後退する。
それを好機と取ったか。
セイバーは振るわれた剣をくぐり抜け、一歩深く敵の間合いへと侵入する――――!
「いゃああああ―――――!」
気合いが裂帛《れっぱく》ならば、叩き込まれた剣は彗星の如く。
敵を甲冑ごと圧し、たたらを踏む黄金の騎士へ、彼女は更に追撃する。
繰り出される剣の舞。
いかな大岩でも砕き散らし、いかな城壁であろうと突破してきたそれは、しかし。
「チイ――――!」
敵の背後から現れた無数の凶器に、悉くを防がれた。「ええい、しつこい――――!」
窮地を脱した黄金の騎士――――ギルガメッシュの手には、またぞろ新たな剣が握られている。
「っ――――!」
それを弾く事など彼女には容易い。
だが、真っ正直には受けられぬ。
敵の武器はどれもが未知の能力を秘めている。
それを知らずに受けるなど、それこそ自殺行為だろう。
「はぁ――――はぁ――――はぁ――――」
追い詰めた敵から一足で間合いを外し、呼吸を整えるセイバー。
対して、ギルガメッシュは慌てた風もなく、倒れかけた体を起こす。
「懲りぬ女よ。何度やっても無駄だと判らぬか」
ギルガメッシュに疲労の影はない。
彼にとってみれば、この戦いはあくまで余興だ。
初めから勝つと判りきったものに、緊張も疲労もある筈がない。
「はあ――――はあ――――は――――」
だがセイバーにとっては違う。
彼女にとって、勝利の可能性は今しかあり得ない。
敵が本気になる前。
ギルガメッシュがエアを取り出す前に斬り伏せなければ、倒されるのは自分の方だ。
故に無理を承知で、余力など考えずに猛攻を続けてきた。
今のように敵を追い詰めたのも一度や二度ではない。
だが、それでも―――あの男が持つ宝具の壁を、突破する事は叶わなかった。
「まだ続けるのか。主に忠誠を誓うのはいいが、それも限度があろう。今頃あの雑種は言峰に殺されている。もはや、おまえが戦う理由はなかろうよ」
「……私の主は健在だ。あのようなマスター相手に、シロウが膝を屈するなどありえない」
「それも時間の問題だ。おまえは聖杯を知らぬ。アレの相手は我《オレ》でも手こずるのだぞ? おまえならいざ知らず、あのような小僧が一分と持つものか」
「―――――――」
「おまえは我《オレ》には勝てぬし、あやつでは言峰に勝てん。
配役を誤ったな。おまえが聖杯に挑んでいれば、この戦いはおまえの勝利だったろうに」
黄金の騎士の目は笑っていない。
彼は存外本気で言っているのだろう。
―――だが、それは否だ。
セイバーにとって、その選択こそが間違いである。
「―――まさか。これが正しい選択だ。私は貴様になど負けぬし、シロウはあのような死者には負けない。
まだ出てもいない結果を期待するとは、英雄王の名も地に落ちたというものだ」
「――――ほう。減らず口を言うだけの体力は残っていたか」
―――空間が歪む。
ギルガメッシュの背後に点在する宝具の数が、目に見えて増していく。
“――――――――来るか” 聖剣を握り直す。
……実を言えば、手はあるのだ。
一つだけだが、あの黄金の騎士を打倒する手段はある。
“――――――だが、それには” 幾つかの条件が揃わなければ成功しない。
いかにエアを破ったところで敵に余力があれば防がれ、肝心のエアを破る手段も、もう一度直撃を受けてみなければ判らない。
“――――エアを受ける……? まさか。いかに鞘が戻ろうと、アレを受けては立ち上がれない” しかし、それ以外に勝利する手段はない。
その細い糸をどう引き寄せ、どう紡ぐか。
普段ならば最も優れた選択を“直感”し、そのイメージ通りに行動するだけだ。
だが、今はその直感さえ湧かない。
勝利の確率があまりにも薄く、逆転の可能性が今はまだ有り得ないからだろう。
「――――――――っ」
それでも戦わなければ。
自らの守りを捨て、鞘を返還した士郎の為にも―――ここで、この男に膝を屈する事はできない。
「……そうか。どうやら決定的な敗北でなければ納得がいかぬと見える」
増えていく武装。
それはギルガメッシュが触れずとも動きだし、次々とその姿をセイバーへと向けていた。
今まで柄しか見えなかった物が、刃を露わにして主の命を待っている。
それが、この騎士の本来の戦い方である。
元々ギルガメッシュは剣士ではない。
この無数の宝具は、空間に“展開”され、主の命によって自らが弾丸となる。
故にアーチャー。
このサーヴァントは、最強の魔弾の射手なのだ。
「巧《うま》く避けろ。
なに、運が良ければ手足を串刺す程度であろう―――!」
「――――!」
号令一下、神速を以って放たれる剣の雨。
それぞれが必殺の威力を秘めるそれを、
「っ…………!」
舞い散る木の葉のように、悉《ことごと》くを受け流す――――!
正面からの剣、
左翼からの槍、
下方、および頭上同時によるポールウエポン、
弧を描いて後方から奇襲する三枚刃、
彼女を上回るほど巨大な鉄槌の薙ぎ払い――――!
受け、弾き、躱し、最後に迫った一撃から身をひねる……!
「は――――ぁ、ア――――!」
呼吸を乱しながら、無理矢理に崩した体勢を立て直すセイバー。
―――その瞬間。
彼女は、敵の背後にあるソレを見た。
ギルガメッシュの背後、
既に展開した宝具、その数実《じつ》に四十七―――!
「く――――、つっ…………!」
全力で跳ぶ。
推進剤でも使ったかのような跳躍を逃がすまいと、無数の宝具が大地に突き刺さっていく。
宝具の雨の中、次々と被弾していく。
鎧は砕かれ、籠手を貫かれ、足下を守る衣服さえ串刺しになっていく。
その窮地においてなお致命傷を避けるセイバーの目に、最悪の光景が飛び込んでくる。
宝具の雨の向こう。
逃げ惑う獲物に王手《トドメ》を刺すように、英雄王は己が愛剣を引き抜いている――――!
“乖《エ》離剣《ア》――――!” 跳躍を止める。
即座に着地し、聖剣に魔力を叩き込む。
だが間に合うか。
風が鳴る。光と化した刀身を露わにし、風が解けきるのも待たずに剣を振り上げる。
「“約《エク》束《ス》された――――”」
降り注ぐ宝具の雨を払いもせず、全速で聖剣を振り下ろす。
「“天《エ》地乖離《ヌマ》す、開闢《エリシュ》の星――――!”」
だが遅い。
自らの宝具を蹴散らして、ギルガメッシュは乖離剣《かいりけん》を一閃した―――
「ぐっ――――!」
足首に粘り着いた粘液を払う。
じゅう、と音をたてて焼ける服と、むき出しになった肌。
「っ――――ぐ、う――――!」
振り下ろされる触手から飛び退く。
粘液が張り付いた右の足首は感覚がなく、カカトから先がくっついているかさえ判らなかったが、ともかく目前の空き地へ飛び込んだ。
「た――――は、はぁ、は、あ――――!」
転がりながら自分の体を確認する。
足首。よし、足首はついてる。単に感覚がなくなっただけだ。くっついているのなら、なんとか走る事もできるだろう。
「あ――――はあ、はあ、あ――――!」
幾重にも重なって落ちてくる泥を、転がっていた別方向へ飛び退いて躱す。
すぐ真横でべちゃり、という音。
地面を焼く匂いで目眩を起こす頭をしぼって、立ち上がって、それから――――
「っ――――!!!!!!」
背中に灼熱が走る。
「は、こ、こ、の――――!」
振り払って、何もない場所へ飛び退いた。
それで追撃は止んだのか。
あれだけ周囲で蠢いていた黒い泥は、とりあえず視界にはなく――――
「は――――あ…………あ」
……唇を噛む。
あれだけ走り回って、結局、
ここに追い返されちまったのか。
「は――――はあ、はあ、は――――」
呼吸を整えて、せめて気勢だけは負けないようにヤツを見据える。
……言峰はあの場所から一歩も動かず、逃げ回る俺の姿を観察していた。
「はあ……はあ、はあ、はあ、はあ――――」
……どれだけ深呼吸をしても、心臓は落ち着いてくれなかった。
もう限界だ、休ませろ、おまえが休ませないなら俺が出ていくとばかりに、喉から這い上がってきそうな勢い。
「く――――は、はあ、は、あ――――」
どうしようも、ない。
言峰に近づく事も出来なければ、あの黒い泥を黙らせる事も出来ない。
……頼みの綱の“投影”も、出し惜しみなんてしていない。
ここから先に進めないんなら、セイバーの剣をもう一度複製すればいい。
アレならあんな黒い泥なんて切り裂いて、まっすぐに言峰まで突き進んでいけるだろう。
「ん? なんだ、それで終わりか。諦めたのならそうと言え」
そう、ヤツの声がした瞬間「は――――あ、は、っ――――!?」
止まる事など許さない、と無数の泥が振り下ろされた。
「くっ――――!」
アゴをあげて、ギリギリで泥を躱す。
……泥自体は、そう、大したものじゃない。
セイバーの竹刀に比べたら遅いし、バカ正直に狙った場所にしかやってこないんで、躱すのは簡単だ。
だがそれも一本だけの話。
何十という泥、躱した瞬間に背中に落ちてくるものまでは対処しきれない。
結果として動き回るしかなく、その間にも少しずつ体は泥で汚れていく。
「は、っ、こぉのぉ――――!」
休む暇がない。
こんな状態じゃ投影なんて出来ない。
一から武器をイメージする“投影”は、最短でも一分近い精神集中が必要だ。
そんな隙を見せれば、俺はとっくに骨になっている。
「はっ――――はっ、はっ、はっ、あ――――!」
体の節々、避けられずに泥を浴びた箇所は、感覚が失われていた。
痛みもないのが唯一の救いだが、これが全身に渡った時、俺は自分が生きているか死んでいるかさえ判らなくなるだろう。
そうなったら終わりだし、なにより――――その頃にはアレに溶かされ、骨さえ残っていない筈だ。
「はっ――――はっ、はっ、はっ、あ――――!」
走るしかない。
そうしていても力尽きるのは時間の問題だと判っているが、今は走るしかない。
黒い泥を避けているうちに言峰に近づける、なんて幸運は絶対にない。
逆に、今は近づけない。ヤツの背後にはそれこそ泥が滝になっているのだ。
ヤツに近づくチャンスが来るとしたら、それはこの泥に対して、何らかの対策を――――
「て――――つ、あ――――!?」
「――――――――!」
し、信じられない……! ここ、この状況で転ぶかフツー!?
「――――――――」
無様に倒れ込んだ俺を、言峰はゴミのように見下げる。
その指が倒れた俺へと差し向けられ、無数の蛇が鎌首をもたげた。
「っ………………!」
起きあがる。
起きあがろうとして、また転んだ。
「――――え?」
転ぶ。
転ぶ。
蛇たちが迫ってくる。
でも転ぶ。
なんで?
なんで?
なんで?
首筋に黒い泥が。
なんで?
なんだ、よく見れば。
右足が、信じられないぐらい真っ黒だった――――
「―――そこまでか。
少しは愉しめると期待したが、所詮は切嗣の息子。つくづく益にならぬ連中だ」
「な――――」
……顔を上げる。
……意識はまだ有る。
手首や首筋に鎖めいた泥がまとわりついているが、体はまだ感覚が残っている。
「っ……なんで、とどめを刺さない」
「無論、すぐに終わらせるとも。だがそれでは芸がなかろう。おまえは切嗣の贋作だからな。ヤツに受けた十年前の負債は、おまえの死で返してもらう」
「――――――――」
……泥のついた肌が熱い。
じくり、と毛穴から少しずつ硫酸を流されているようだ。
それに歯を食いしばって耐えて、右足の状態を確認した。
……結果は黒。
感覚もなければ動きもしない。体を黒く染めた泥を体外に出すか、魔力を流し込んで、凝固した血液をぶちまけるしかない。
……どちらにせよ、動かした途端右足の筋肉は全て断線するだろう。
「そうかよ。そりゃ構わないが―――おまえ、なんだってそこまで切嗣を目の仇にするんだ。切嗣に聖杯を壊された事がよっぽど悔しかったのか」
「なに、近親憎悪というヤツだ。私と切嗣は似ていたからな。ヤツの行為は全てが癇に触ったよ。ちょうど、おまえが私に嫌悪を抱くのと変わらない」
「な―――ふざけるな……! 切嗣とおまえが似ているなんて、間違っても口にするな……!」
体を腕だけで起こして言峰を睨む。
ヤツは何が愉しいのか、あの厭な笑みを浮かべていた。
「なるほど、おまえにとってはそうだろう。
なにしろヤツは私を見逃すほどの善人だったからな。
あの大火災を引き起こした私を倒しただけで、命までは獲らなかった。
それが間違いだった事を、おまえは知っている筈だ。
切嗣さえ私を殺しておけば、あの孤児たちは穏やかな日常を送れたのだろうからな」
「――――テ、」
「反論できまい。だが私にとっても、それは不快な事実だった。私がではない。
あれほど冷酷な魔術師だった男が、敵を助けたという事実こそが不快だった」
……またその話。
セイバーも言っていた。切嗣は魔術師として一流で、目的の為にはどんな手段もとる男だったと。
けど、それは――――
「だが、ヤツの過ちはそんな事ではない。
ヤツが犯した過ちはな、聖杯を壊しただけでこの戦いが終わったと思いこんだ事だ。
故に、ヤツはおまえには何も伝えず、聖杯戦争は終わったのだと楽観し、この呪いに侵されたまま人生を終えた」
「道化と言えば道化だな。ヤツは自身を呪った私を見逃し、その果てに数年足らずで命を落とした。
自分は事を成したと。聖杯戦争を終わらせたのだと、勘違いの達成感を得たままでな」
「――――――――テ」
待て。
じゃあ何か。
切嗣が死んだのはコイツのせいで。
最期の夜、安心したと浮かべたあの穏やかな顔は。
「そうだ、最後に訊いておこう。
切嗣の最期はどうだったのだ衛宮士郎? 息子であるおまえに後を託し、なにやら満足して逝った訳か?
ふ、なんという道化ぶりだ。
何一つとして成せず、息子であるおまえに責任を押しつけ、さぞ滑稽に消えたのだろうな……!」
「――――テメエ――――!」
地を蹴った。
動かない片足に魔力をブチこんで、強引に活動させた。
「ギ――――!」
ブチブチと断線していく筋肉を無視して、四つ足で、犬のように地を駆ける――――!
「―――そうだ。
その程度の気概がなくては話にならん」
言峰は、背後の滝に手をかざした。
「――――――――」
何を考えているのか。
アレは、目に見えるほど濃密な『呪い』だ。
人間を壊す事だけに特化した魔力の束と言っていい。
そこには手を加える余地はなく、形を変える事もできない。
あの泥に触れた人間は全身を『呪い』という魔力に汚染され、消化されるように溶けていく。
その過程。
死に至る中での苦痛と恐怖は魔力として残留し、次の『呪い』となって生きている人間を求め続ける。
つまり、触れれば死ぬ。
体内に浸食したあの泥を掻き出さない限り、触れた者は死に至る。
……そんな毒の源たるあの滝に手を触れて、なお神父は笑みを絶やさない。
「褒美だ。切嗣と同じ末路を辿れ」
手にした黒い闇。
それが今までの物とは種別が違う、と直感し―――
世界に、激しい閃光が襲いかかった。
それが境内から届いたセイバーの宝具の光だと理解した時――――
「―――“この世《ア》の、全《ンリマユ》ての悪”―――」
神父の言葉が、世界を一瞬にして黒に染め変えた。
◇◇◇
―――光で眩んでいた視界が闇に埋れた。
もし彼女の意識があったのなら、それが黒い極光だと見て取れただろう。
「――――――――」
闇は一瞬だった。
だがそれは闇などではなく、小さな、砂の粒ほどの呪文の群れだ。
闇は彼女の体をくまなく浚《さら》っていき、その不快感で、彼女の意識は覚醒した。
「あ――――」
吐息が漏れる。
意識が戻って、始めに感じたものは痛み。
鎧で守られていなかった肌は焼かれ、体のあちこちは貫かれ切り裂かれ、無惨な姿を晒している。
“そう、か――――私、は――――”
エアの前に、破れたのだ。
ギルガメッシュの宝具に追い詰められ、防ぎきる事も出来ず、エアによる追い打ちを受けた。
エクスカリバーでかろうじて相殺したものの、体の損傷は激しすぎる。
魔力を動員せずとも傷は塞がっていくが、聖剣の鞘の加護とて、今すぐ彼女を復帰させられまい。
―――そこへ。
「ここまでだセイバー。よもやその体で、まだ敗北を認めぬなどと言わぬだろうな」
傷一つない甲冑と共に、ギルガメッシュが歩み寄る。
「………………」
倒れたまま、セイバーは敵を見上げた。
今の彼女には何も出来ない。
この男が望めば望むだけ、彼女の体は汚されるだろう。
「……ギルガメッシュ。今の、光は」
にも関わらず、彼女にはそれ《・・》が気になった。
今の極光。
境内の奥から一瞬だけ世界を覆った、あの黒い闇。
……考えたくはないが。あの闇は、士郎を襲った物だったのかと。
「今の光か。おまえならば判ろう。アレは極大の呪いだ。
言峰が聖杯から直接呼び出したのだろうな。聖杯の中にはこの世の全てを呪う、などというモノがあるのだそうだ。
先ほどから見えているあの汚濁はな、聖杯から漏れている残りカスにすぎん。
その本体を出されたのだ。おまえのマスターとて、もはやこの世にはおるまい」
「――――そんな。そんな、事、は」
倒れた体に力を込める。
……動く体でない事は、セイバーも判っていた。
だが、ここで倒れている事など、彼女に出来よう筈がない。
「嘘だ―――シロウは生きている。まだ、ちゃんと―――」
確かに、マスターとの繋がりを感じている。
とても弱く、今にも消え去りそうな火ではあるけれど、衛宮士郎は生きている。
ならば行かなければ。
相手がそんな、考えもしていなかったモノだとしたら、士郎だけでは太刀打ちできない――――
「く――――っ――――!」
その温かみだけを頼りに、彼女は四肢に力を込める。
「あ――――く、あ…………」
それも無意に終わった。
いかに聖剣の鞘とは言え、彼女を復元するにはまだ数分の時間を要する。
「もはや手遅れだ。大人しくしていろよセイバー。
おまえが何をしようが、じき聖杯は溢れ出す。十年前の再来だ。ただし、此度《こたび》の儀は我《オレ》ではなくおまえに与えられたものだがな」
赤く燃える空を見上げ、黄金の騎士は口元を釣り上げる。
「喜べセイバー。アレを浴びれば、おまえも我《オレ》と同じになれる。この世で肉を持ち、第二の生を謳歌できよう。
まあ尤《もっと》も―――我《オレ》のように自我を保てるとは限らんが」
「な――――」
セイバーは呆然と敵を見上げる。
アレが極大の呪いである事はセイバーにも判る。
確かに魔力の束としては破格であり、あれだけの貯蔵があればどのような魔術でも使える。……おそらくキャスターであれば、それこそ不可能はなくなるだろう。
だが、それは諸刃の剣だ。
アレは人を呪うだけのもの。
あんなものを浴びれば、いかに英霊とて自分が自分でなくなってしまう。
「…………」
それで、気づいた。
目前のサーヴァント。
人類最古の英雄王と言われるこの騎士は、十年前あの汚濁に飲まれている。
ならば――――
「ギルガメッシュ、貴方は――――」
彼は、既に正気ではない――――
「――――ほう。そう思うか、騎士王」
愉快げに笑い、セイバーを見下ろすギルガメッシュ。
その顔は狂っているようでもあり―――この上なく、この男に相応しい貌だった。
「侮るな。あの程度の呪い、飲み干せなくて何が英雄か。
この世全ての悪? は、我《オレ》を染めたければその三倍は持ってこいというのだ。
よいかセイバー。英雄とはな、己が視界に入る全ての人間を背負うもの。
―――この世の全てなぞ、とうの昔に背負っている」
「――――――――」
その答えに、セイバーは微かに息を飲んだ。
……彼女は、この英霊とは絶対に相容れない。
傍若無人な考え、天地には我のみという強大な自我、他者を省みぬ無慈悲な選定。
それは彼女の信じた王の道とは別の物、交わる事さえない信念だ。
それでも、この男は王だった。
セイバーとて断言できる。
いかなサーヴァントと言えど、あの極大の呪いを浴びて自我を保てる者は、この男以外にはおるまいと。
「―――うむ。そうだな、泥を飲ませるのはいいが、それで自我を失われては愉しみがない。どれ、今のうちに婚姻を決めておくか」
「っ――――!」
「ギルガメッシュ、貴様――――!」
「なんだ、手荒く扱われるのは趣味ではないか?
ならば馴れておけ。女と食事に出し惜しみはしない主義でな。気の向くままに奪い、食らうだけだ」
「っ――――!」
逆さ吊りにされたまま、セイバーはギルガメッシュを凝視する。
「……ふん。サーヴァントとしてマスターに操を立てているワケか。くだらんな。たかが令呪の縛りで、この体をくれてやっていたとは」
「―――それは違う。勘違いをするなギルガメッシュ。
私は誰にも従わない。初めから、この体にそんな自由はないのだ」
「……ほう。では、どうあっても我《オレ》の物にはならないと言うのか」
赤い瞳がセイバーを射抜く。
そこに、人間らしい感情は一切ない。
逆らえば殺す。どれほど執着した物であろうと、従わぬのなら殺すだけ。
それがこの英霊の本心、ギルガメッシュという男の真実だ。
「――――――――」
その視線から逃れる事なく、セイバーはギルガメッシュを敵視する。
「―――ギルガメッシュ。私は誰のモノにもならない。
私は既に国の物だ。この身は、女である前に王なのだから」
誰に言い聞かせるでもなく。
ただ、まだ胸に灯っている小さな温かさを抱きながら、彼女は言った。「は、何を言うかと思えば!
笑わせるなセイバー。王にとって、国とは己の物にすぎない。何もかも支配できぬのならば、王などという超越者は不要なのだ。
まったく――――アーサー王よ。そんなだから、オマエは国によって滅ぼされたのだ」 未熟さを嘲笑う黄金の騎士。
「――――――――」
……それで、彼女の心は固まった。
「ああ、その通りだ。―――だが英雄王よ。
そんなだから、貴様は自らの国を滅ぼしたのだ―――!」
猛る気合。
セイバーは全身をバネにして、残った片足でギルガメッシュの顔面を蹴り飛ばす―――!
「な――――!?」
ギルガメッシュの指が離れる。
セイバーは逆立ちのまま体を反転させ、腕の力だけで大きく跳んだ。
「男子を足蹴に!? おのれ、どうやら本格的に躾られたいらしいなセイバァァァァア…………!!」
彼女は目を閉じて、心を見る。
“そんなだから、自らの国に滅ぼされた” ……そんな事、今更だった。
セイバーとして召喚され、同じ言葉を何度も何度も聞いてきた。
だが、それはあの男とは違う。
自分の事のように怒りながら、それでも―――それが誇れる事なのだと、思ってくれた。 ならばやるべき事は一つだけ。
万に一つほどの勝算がなくとも、ここで立ち止まる事はできない。
この胸に、まだ温かさが残っているうちに。
一刻も早く、主の元に駆けつけなくてはならないのだから。
「――――っ」
「――――――――」
ギルガメッシュから八メートルほどの距離。
先ほど身をもって体験した、最も迎撃に適した間合いに体を置く。
……体の自由は利かないも同然。
両足の機能とて本来の十分の一ほどもなく、剣を振るう両腕は力さえ籠もらない。
打ち込まれれば、どんな凡庸な一撃でさえ受けきれずに倒されるだろう。
されど―――セイバーには一部の隙もなく、迷いさえも見いだせなかった。
「………………。
一言、訊いておくが」
ギルガメッシュとて、それを前にして構えられぬ筈がない。
黄金の騎士は愛剣《エア》を携え、目前の敵へと向き直る。
「それは、正気か?」
「――――――――」
セイバーは応えず。
その瞳だけが、決死の覚悟を告げていた。
「――――よかろう。ならば加減はなしだ」
大気が吠える。
乖離剣《かいりけん》エア――――古代メソポタミアにおいて、天地を切り裂き世界を創造したとされる剣《つるぎ》。
英雄王ギルガメッシュが覇王剣は、今度こそ敵を霧散させようと唸りをあげる。
その大気の渦、収束する魔力の量は、セイバーのエクスカリバーを遥かに上回っていた。
「――――消えろ。目障りだ、女」
エアが振り上げられる。
合わせるよう、セイバーは剣を振り上げた。
「――――――――」
「――――――――」
絡み合った視線は一瞬。
「――――“天地乖離《エヌマ》す開闢《エリシュ》の星”――――」
ギルガメッシュの剣が振るわれる。
「っ、く――――!?」
だがセイバーの剣は力無く落ち、“宝具”としての発動さえままならない。
――――全てを切断する光が走る。
為す術もなく、彼女は光の中に飲み込まれた。
闇に飲まれた瞬間。
脳裏に、地獄が印刷された。
始まりの刑罰は五種、生命刑、身体刑、自由刑、名誉刑、財産刑、様々な罪と泥と闇と悪意が回り周り続ける刑罰を与えよ『断首、追放、去勢による人権排除』『肉体を呵責し嗜虐する事の溜飲降下』『名誉栄誉を没収する群
体総意による抹殺』『資産財産を凍結する我欲と裁決による嘲笑』死刑懲役禁固拘留罰金科料、私怨による罪、私欲による罪、無意識を被る罪、自意識を謳う罪、内乱、勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、爆破、侵害、過失致死、集団暴力、業務致死、過信による
事故、誤診による事故、隠蔽。益を得る為に犯す。己を得る為に犯す。愛を得る為に犯す。徳を得る為に犯す 自分の為にす。窃盗罪横領罪詐欺罪隠蔽罪殺人罪器物犯罪犯罪犯罪私怨による攻撃攻撃攻撃攻撃汚い汚い汚い汚いおまえは汚い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『この世は、人でない人に支配されている』 罪を正す為の良心を知れ
罪を正す為の刑罰を知れ。人の良性は此処にあり、余りにも多く有り触れるが故にその総量に気付かない。罪を隠す為の暴力を知れ。罪を隠す為の権力を知れ。人の悪性は此処にあり、余りにも少なく有り辛いが故に、その存在が浮き彫りになる。百の良性と一の悪性。バランスをとる為に悪性は強く輝き有象無象の良性と拮抗する為強大で凶悪な『悪』として君臨する。始まりの刑罰は五
にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす自分の為にす勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、侵害、汚い汚い汚い汚いおまえは汚い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『死んで』償え!!!!!! 「――――、ア」
脳が、破裂する。
全身に食らいついた泥は剥がれず、容赦なく体温を奪っていく。
五感すべてから注ぎ込まれるモノで潰されていく。
正視できない闇。
認められない醜さ。
逃げ出してしまいたい罪。
この世全てにある、人の罪業と呼べるもの。
だから死ぬ。
この闇に捕らわれた者は、苦痛と嫌悪によって自分自身を食い潰す。
――――だが。
言峰は言ったのだ。
この呪いは、切嗣を殺したものだと。
その事実が、あらゆる闇を吹き飛ばした。
―――全身に熱が戻る。
満身創痍だった体に、立ち上がる為の血が巡る。
だってそうだろう。
こんなものを。
衛宮切嗣はこんなものを、何年間も背負わされてたっていうのか。
あんな償いの声に圧され続けて、自分の思いを果たせずに死んだというのか。
正義の味方になりたかったと。
誰かの為になりたかったとバカみたいに走り回って、結局そんな許しなど誰からも得られず、それでも自分に出来る事を、諦めていた理想を追い求めた。
その果てに、つまらない子供《ガキ》が答えたなんでもない言葉に安心して、最期に、良かったなんて頷いたんだ。
「あ――――あ、あ――――」
なら立たないと。
俺がなるって言って、切嗣を安心させた。
衛宮士郎が、本当に衛宮切嗣《せいぎのみかた》の息子なら、なにがあっても、悪い奴には負けられない。
―――遠坂は言っていた。
死んでも勝てと。
――――セイバーは言った。
コイツは俺が倒すべき敵だと。
―――言峰さえ言いやがった。
戦うのなら命をかけろと。
その通りだ。命を賭けないで何を賭ける。
もとより俺には、それ以外に上乗せする物がないんだから――――!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
黒い塊、濃密な泥の中から、ただ必死に飛び退いた。
「っ――――!?」
ヤツの戸惑いが聞こえる。
喉が焼けている。
呼吸をする度に気管が裂け、ガラスの破片でも飲んでいるかのよう。
「ひぎ――――ぎ、あぶ、あ――――」
そんなもの、知らない。
悔しくて涙が滲む。
呪いに発狂する前に、この怒りで狂いそうだ。
「――――馬鹿な。アレを振り払ったというのか、おまえが――――!?」
「言峰綺礼――――!」
全身に喝を入れて、ただ走った。
片手は背中に。
最後まで隠し持った短剣を握りしめる。
「―――呆れたな、アレから逃れたかと思えばその短絡思考、もはや万策尽きたというところか――――」
「うるさい、初めから万策なんて持ってねえ……!」
走る。
言峰は背後の黒い滝に手を伸ばし、ずる、と音をたてて黒い塊を摘出する。
「ではサーヴァントの後を追うがいい。先の光はセイバーが敗れた物だ。おまえには、もはや誰の助けもない」
「――――――――」
一切の迷いが消えた。
もしこの後、俺が言峰に届いたとしたら、ヤツの最大の間違いは今の台詞に違いない。
だって、左手には令呪がある。
ほとんど死に体で、自分が生きているかさえ判らない俺が感じられる、ただ一つの証がそれだ。
令呪がある限り、セイバーはちゃんといる。
あいつがいるなら―――今頃はギルガメッシュなんてやっつけて、こっちに向かっている筈だ。
その時に手をあげて迎えてやらないと、セイバーが怒ると思う。
―――だから、ここでおまえを倒す。
あいつと取り決めた、最後の約束を守るために。
闇が迫る。
言峰の腕から、極大の呪いが放たれる。
……体が、指先から、溶けていく。
「――――――――!」
目を逸らさない。
これが俺の役割なら――――まだ、出来る事が残っている――――!
「“天地乖離《エヌマ》す開闢《エリシュ》の星”――――!」
空間に断層が走る。
目を潰す閃光、耳を覆う暴風を伴って、エアの作り出す破壊の渦が放たれる。
「っ、く――――!」
それを前にして、セイバーは自らの“宝具《つるぎ》”を使う事さえままならなかった。
振り上げた剣を下げ、倒れ込むように前方へと体を倒す。
――――閃光が迫る。
傷ついた足では避ける事も出来ず、エアを防ぐ盾などこの世には存在しない。
巻き込まれれば跡形もなく消滅する光と風の乱舞。
エアの真名に対抗する手段などない。
それは両者に共通した確信だった。
―――そう。
たった、数時間前までは。
「――――!?」
驚愕を漏らしたのはセイバーではなく、エアの担い手たる黄金の騎士だった。
エアは未だ魔力を放ち続け、容赦ない破壊を行っている。
だというのに、セイバーは光の奔流の中へ、自ら足を踏み入れていた。
「――――!」
銀の鎧が悲鳴をあげる。
彼女を守るありとあらゆる魔力防壁に亀裂が走る。
一秒すら保つまいというその合間、彼女はギルガメッシュへと間合いを詰め、
「“約束《エクス》された、勝利《カリバー》の剣”――――!」
許された最大出力で、エアの破壊に対抗する――――!
荒れ狂う閃光と灼熱。
頂点に位置する剣の激突は、互いを力のみで押し合い、空間に境界線を作り上げる。
だが―――それは無駄ではないのか。
エクスカリバーではエアには敵わない。
いかに捨て身で間合いを詰めたところで、押し返せるのはわずか一足。
天秤は容易くエアへと傾き、エクスカリバーの光はセイバーもろとも弾き返される。
「――――そうか、血迷ったかセイバー……!」
エアを振り抜き、無謀にも走り寄ろうとした敵を見据え、黄金の騎士はなおエアに魔力を込める。
もはやこの後はない。
ここで完全に、全ての力を以ってセイバーを消滅させるのみ。
エアの回転が臨界に達し、セイバーを包む閃光はエクスカリバーを薙ぎ伏せる。
――――その直前。
セイバーの体が駆けた。
エクスカリバーによってわずかに圧した空間、もう一足だけ踏み込める位置。
そこに、セイバーが到達した瞬間。
彼女の宝具が、その姿を現した。
闇は吹き抜ける風となって衛宮士郎を包み込んだ。
避ける事は出来ず、空間そのものを塗り潰していく呪いには『防ぐ』という概念は通用しない。
飲み込まれた者は、塗り潰された空間同様、この闇に食われ同化していくのみ。
「っ、あ――――!」
体が、指先から、溶けていく。
前へと進む足は宙を泳ぎ、伸ばした腕は黒い泥に飲まれ、とうに視えなくなっていた。
外側からまるごと消されていくのか。
体が縮んでいくような感覚に襲われながら、それでも、衛宮士郎は死を受け入れようとはしなかった。
「は――――――あ、ぐ――――!」
目を逸らさず、全力で拒み続ける。
体を覆う闇にも、体を溶かそうとする痛みにも、心を融かそうとする呪いにも。
「つ――――っ、――――――――」
それも叶わぬ試みだった。
人の身でこの汚濁に抗う術はない。
体はまだ動いている。
何かを掴もうと突き出された腕も上がったまま。
だが、既に心が壊れていた。
思考は闇に塗り潰され、じき、その肉体も闇に消えるだろう。
その、刹那。
“――――貴方が、私の” その声が、なぜ思い出されたのか。
「――――――――」
暗闇に光りが灯る。
それが“あの光”なのだと眼球が捉えた時、全てが逆転した。
「――――――――」
撃鉄が落ちる。
思考は円還状に速度を増し、火花を散らし軋みをあげて、そのカタチを、悪魔めいた速度で作り上げていく。
「――――投影《トレース》、開始《オン》」
投影開始の呪文を口にする。
瞬間。
それは、あらゆる工程を省いて完成していた。
……そう、一から作る必要などなかったのだ。
何故ならこのカタチだけは胸に刻み込んだもの、完全に記憶し、一身となった、衛宮士郎の半身故。  “――――貴方が、私の鞘だったのですね―――” 懸命に伸ばした指先が、まだ動く。
精神集中も呪文詠唱もすっ飛ばして作り上げたそのカタチを握りしめる。
世界は一転し、闇は黄金の光に駆逐され、そして―――衛宮士郎の手には、完全に複製された、彼女の鞘が握られていた。
――――そうして。
エアの断層を前にして、彼女の“宝具”が展開された。
「な――――に――――!?」
彼女の目前に放たれ、四散したものは、紛れもなく聖剣の鞘だった。
如何なる神秘で編まれたものか、鞘はエアの光を悉く弾き返す。
否、防御などというレベルではない。
それは遮断。
外界の汚れを寄せ付けない妖精郷の壁、この世とは隔離された、辿り着けぬ一つの世界。
聖剣の鞘に守られたセイバーは、この一瞬のみ、この世の全ての理《ことわり》から断絶される。
この世界における最強の守り。
五つの魔法すら寄せ付けぬ、何者にも侵害されぬ究極の一。
故に、鞘《そ》の名は“全《ア》て遠き理想郷《ヴァロン》”。
アーサー王が死後に辿り着くとされる、彼《か》の王が夢見た、はや辿り着けぬ理想郷――――
「――――――――」
背筋に走る死神を、ギルガメッシュは確かに見た。
だが間に合わない。
振り下げたエアは回転を止めず、ギルガメッシュ自身、跳び退く事すらままならない。
当然である。
よもや―――よもやこれほどの全力、これほどの魔力を放った一撃が防がれようなどと誰が思おう……!
「ぬぅぅぅ……!! おのれ、そのような小細工で―――!」
「――――――――」
駆け抜ける青い衣。
セイバーの体に防具はない。
己を守る鎧を解除し、その分の魔力を彼女は手にした剣に籠め――――
「“約束《エクス》された――――”」
「セイバーァァアアアアアアア――――!!!!!」
英雄王の絶叫。
それを目前にし、
「“勝利の《カリバー》剣”――――!」
渾身の一撃を以って、剣は黄金の騎士を両断した。
その鞘を手にした瞬間、闇は全て払われた。
衛宮士郎を取り囲んでいた闇も、彼の体内を汚染していた闇も、その全てが霧散した。
「な――――に?」
だが驚くに値しない。
聖剣の鞘は持ち主を守る物。
彼女が追い求めた理想郷の具現が、こんな薄汚い泥に遅れを取る筈がない――――!
駆ける。
闇から解放された分、そのスピードは流星すら思わせた。
「投影魔術――――貴様、何者――――!」
己の力を過信していた者と、過信する余裕などなかった者。
その差はわずか一瞬、だが命運を分ける一刹那。「言峰綺礼――――!」
地面に倒れかけながら、両腕で地を弾いて、衛宮士郎は疾走した。
片手には短剣。
地を這う姿勢のまま黒い神父へと走り、「っ――――!」
立ち止まる事なく、報いの剣を胸に突き立てた。
「っ――――」
ゆらり、と神父が振り向く。
その前に。
片足で地面に杭を打ち、走り抜いた勢いのまま衛宮士郎は身を翻す。
旋風が薙いだ。
己が胸を刺した敵へと振り向いた神父。
それとまったく同時に、衝撃が二度、言峰綺礼を貫いた。
独楽のように反転させた体と、右手に籠めたありったけの魔力。
それを、神父の胸の短剣めがけて殴りつけ――――
「“lt”――――!」
解放の意味を持つ言葉と共に、アゾット剣へと流し込んだ。
振り抜かれた黄金の剣。
体勢を立て直す力も、今は無いのか。
セイバーは剣を下げたまま顔を上げず、
男は切り裂かれたまま、自身を打倒した騎士の姿だけを見た。
「――――――――」
風の音だけが、境内に響いている。
洪水のようだった光の波は、その面影さえない。
二人の騎士は何の言霊も口はしに乗せず、ただ、決着という別離に身を置いた。
「――――――――、」
そうして、男は息を漏らした。
だらりと下げた腕をあげ、目前の騎士を確かめるように、彼女の頬を指でなぞる。
「―――憎らしい女だ。最後まで、この我《オレ》に刃向かうか」
黄金の甲冑が薄れていく。
血を流し、肉の感触を持っていた英雄王の存在が消えていく。
「だが許そう。手に入らぬからこそ、美しいものもある」
指が滑る。
上がっていた腕が、力無く地に落ちる。
「ふん―――ならばこそ、我《オレ》がおまえに敗れるは必定だったか」
不機嫌に舌を鳴らす。
そうして、最後に。
「ではな騎士王。―――いや、中々に愉しかったぞ」
口元に皮肉げな笑みを作り、黄金の騎士はかき消えた。
青白い火花が、黒い神父服に咲き散った。
胸に刺さった短剣と、そこから四方に散った火花。
肉片は跳ばず、出血らしき物もない。
それでも―――ここに、戦いは終わっていた。
「――――――――」
ヤツは俺になど目もくれない。
ただ不思議そうに、自身の胸に刺さった短剣を見下ろすのみだ。
「――――――――」
風が吹いていた。
頭上の『孔』から吐き出される烈風が、鼓膜を打って周囲の音を消していく。
その、轟々とした静寂の中で。
「――――なぜ、おまえがこの剣を持っている」
何より耳に届く声で、言峰綺礼は呟いた。
「それは俺のじゃない。遠坂から預かったものだ」
「――――――――」
思案は、どれほどの時をかけたのだろう。
ヤツは深く息をつき、ようやく―――対峙してから一歩も動かなかった体を、ぐらりと揺らした。
「そうか。以前、気紛れでどこぞの娘にくれてやった事があった。あれはたしか十年前か。
―――なるほど。私も、衰える筈だ」
倒れる。
言峰綺礼という神父の体が、力無く倒れていく。
「―――――――」
……それを、最後まで見届けた。
死の淵でさえ、他人事のように自らのカタチを語り。
今まで使役していたモノ、自らが望んだモノの中へ神父は沈んでいく。
それが言峰綺礼という男の最期であり。
―――長かった戦いの、本当の終わりだった。
◇◇◇
明確な敵がいなくなり、ようやく、最後の大仕事と対面した。
頭上に穿いた黒い『孔』。
あの泥こそ止まったものの、不気味な空洞は今も胎動を続けている。
―――アレが聖杯。
この戦いの勝者に与えられると言われた物、あらゆる願いを叶える万能の杯――――。
風が吹いている。
言峰が消えて、イリヤを縛っていた力がなくなったのか。
イリヤはあの『孔』から解放され、今は俺のすぐ傍で眠っている。
イリヤがどんな状態なのかは俺には判らないが、命に別状はなさそうだ。
家に帰って、遠坂に看てもらえばきっと目を覚ますだろう。
……戦いは、終わったのだ。
もう誰も傷つく事はないし、誰も失う事もない。
マスターはいなくなり、サーヴァントもその役目を終え、この世界から姿を消す。
既に判っていた事だ。
長い階段を、彼女と一緒に歩いてきた。
別れはもう済んでいる。
あとはただ、最後の幕を下ろすだけだ。
「――――――――」
『孔』を見上げながら、何もないからっぽの心で待ち続ける。
……そうして、彼女はやってきた。
出会った時と何も変わらない姿で、まっすぐに、俺の元へと歩いてくる――――
「――――――――」
手が触れあえる距離で、彼女は立ち止まった。
無事を確かめる言葉も、勝利を祝う言葉もない。
これはもう決めていた事。
ならば、やるべき事も一つだけ。
「……聖杯を破壊します。それが、私の役割です」
そう告げて、彼女は歩き出した。
『孔』から吹き付ける強風を物ともせず、一歩一歩進んでいく。
「――――――――」
間合いになったのか。
彼女は静かに剣を構え、黒い『孔』へと視線を向ける。
……その背中を、眺めていた。
血が滲むほど拳を握りしめ、唇を噛んで、口からこぼれてしまいそうな気持ちを殺して、彼女の姿を焼き付ける。
そうして。
「マスター、命令を。貴方の命がなければ、アレは破壊できない」
背を向けたままで、彼女は、最後の令呪を使えと言った。
聖杯を破壊すればセイバーは消える。
いや―――聖杯を自らの手で破壊したセイバーは、もうサーヴァントになる事もない。
セイバーは、聖杯に固執したからこそサーヴァントとなった。
その彼女が自らの意思で聖杯を壊すという事は、契約を断つという事。
―――ここで聖杯を破壊してしまえば。
彼女は永遠に王のまま、その生涯を終えるのだ。
「――――シロウ。貴方の声で聞かせてほしい」
セイバーの声。
それを聞く度に叫び出しそうになる。
―――行くな、と。
ここに残ってくれと、見栄もプライドも捨てて、剥き出しの心を叫びたくなる。
「――――――――」
だが。
それは、死んでもしてはいけない事だ。
セイバーを愛している。
誰よりも幸せになってほしいと思うし、一緒に居続けたいと願っている。
けれど、本当に彼女を愛しているのなら、それは違う。
傷つき、それでも戦い抜いたセイバーを愛した。
全てを捨てて、傷だらけになりながらも、それを守り抜いた少女がいた。
―――それを美しいと感じ、守りたいと思ったのなら。
彼女の人生を、俺のわがままで台無しにする事は、できない。
王として生まれ、王として生きてきた。
何がなくなろうとそれは変わらず、剣を持つと誓った時から、少女は王以外の何者でもなくなった。
それが彼女の誇り。
最期に、己の信じた道が間違いではなかったと迎える為に、戦場を走り続けた。
アルトリアという少女の夢。
自らの人生を捨てて王を選んだ心。
戦うと。
その最期が報われない物だと知らされても、なお剣を執り、王の誓いを守ったのだ。
―――何年も。
おそらくは死ぬ時まで続いたその誇りを、汚す事だけは、してはならない。
「――――セイバー。その責務を、果たしてくれ」
万感の思いを籠めて告げた。
―――溢れる光。
空に穿たれた『孔』は光の線に両断され、跡形もなく消滅した。
あたりには何もない。
何もかも吹き飛んだ山頂は、まったいらな荒野に変わっていた。
遠くには夜明け。
地平線には、うっすらと黄金が射している。
「――――っ」
左手が痛む。
最後の令呪が消えていく。
―――それで。
本当に、幕は下りたのだと受け入れた。
「――――これで、終わったのですね」
「……ああ。これで終わりだ。もう、何も残ってない」
「そうですか。では私たちの契約もここまでですね。貴方の剣となり、敵を討ち、御身を守った。
……この約束を、果たせて良かった」
「……そうだな。セイバーはよくやってくれた」
それで、口に出せる言葉がなくなった。
セイバーは遠く、俺は彼女に駆け寄ることもしない。
朝日が昇る。
止んでいた風が立ち始める。
永遠とも思える黄金。
その中で、
「最後に、一つだけ伝えないと」
強く、意思の籠もった声で彼女は言った。
「……ああ、どんな?」
精一杯の強がりで、いつも通りに聞き返す。
セイバーの体が揺れる。
振り向いた姿。
彼女はまっすぐな瞳で、後悔のない声で、
「シロウ――――貴方を、愛している」
そんな言葉を、口にした。
風が吹いた。
朝日で眩んでいた目をわずかに閉じて、開く。
「――――――――」
驚きはなかったと思う。
そんな気がしていたのだ。
別れは。
消える時は、きっとこうじゃないかと思っていた。
視界に広がるのは、ただ一面の荒野だけ。
駆け抜けた風と共に、騎士の姿はかき消えていた。
現れた時と同じ。
ただ潔く、面影さえ残さない。
「ああ――――本当に、おまえらしい」
呟く声に悔いはない。
失ったもの、残ったものを胸に抱いて、ただ、昇る光に目を細める。
忘れえぬよう、どうか長く色褪せぬよう、強く願って地平線を見つめ続けた。
――――遠い、朝焼けの大地。
彼女が駆け抜けた、黄金の草原に似た。
――――――――
音がした。
古い、たてつけが悪くて蝶番《つがい》も錆びて無闇に重い、土蔵の扉が開く音がした。
暗かった土蔵に光が差し込んでくる。
「――――」
意識が眠りから覚めていく。
「先輩、起きてますか?」
近づいてくる足音が誰なのかは、確かめるまでもない。
―――ああ、もうそんな時間なのか。
ほう、と息をついて目蓋を開けた。
「おはようございます先輩。そろそろ時間ですよ」
「ん―――そうみたいだ。おはよう桜。起こしにきてくれてサンキューな」
「いえ、お礼を言われる事じゃありません。先輩ならきちんと起きてくれるって判ってましたから、わたしは余計な事をしただけなんです」
「そっか。……けど、ならなんでわざわざ起こしに来てくれたんだ?」
「わざわざじゃありません。今朝は先輩を起こしたくなって、いつもより三十分も早起きしたんです。今日は特別な日ですから」
「――――あ」
それで気が付いた。
そうだ。今日は特別な日だったんだ。
「桜。訊くまでもないと思うんだが、藤ねえはまだ来てないよな?」
「はい、藤村先生はまだ。あ、でもイリヤちゃんは先に来てます」
――――やっぱり。
イリヤだけ来ているというコトは、つまりはそういうコトなのだ。
「―――まずい。桜、すまないんだけど朝食の支度を頼む。俺、ひとっ走りして藤ねえをたたき起こしてくる」
「あ、はい。ごくろうさまです、先輩」
幸い、昨夜も遅くまで作業していたんで作業服のままだ。
着替えなくとも外に飛び出せるのは有り難い。
「十分で戻るから、後はよろしく頼む」
「はい、まかせちゃってください」
「あれ、シロウ起きてる」
「ああ、いま起きた。ちょっと藤ねえ起こしてくるから、桜の手伝いをしてやってくれ」
ぽん、とイリヤの肩に手を置いて、そのまま玄関へ向かっていく。
「―――やられた。もう、シロウはわたしが起こしに行くって言ったでしょ、さくらー!」
イリヤは怒鳴りながら土蔵へ走っていく。
そんな光景も、今ではそう珍しくない。
イリヤが国《いえ》には帰らないと言いだしたんで、ならうちで預かろうと藤ねえに相談した。
藤ねえは猛反対しつつ、それなら藤村《わたし》のうちのがいい、とイリヤを預かってくれたのだ。
以来、イリヤは藤村の家で居候しながら、藤ねえと一緒に朝夕と襲撃にくる。
言うまでもなく、狙いは朝飯と晩飯だ。
同居を初めて二ヶ月、二人は既に一心同体っぽい。
土蔵の裏側を通りかかると、塀の向こうから声が聞こえてきた。
桜とイリヤの話し声だ。
イリヤはああいう遠慮のない性格だから桜とは合わないと思ったが、これがそうでもないらしい。
でこぼこコンビというか、きびきびしたイリヤとのんびりした桜は、騒がしいながらも仲がいいみたいだ。
実際、イリヤのおかげで桜は元気を取り戻しつつある。
……桜の兄、間桐慎二が姿を消し、行方不明扱いになってから桜は笑わなくなった。
例の学校での集団昏睡事件との関わりを、桜も薄々感じていたのだろう。
桜は行方の知れない慎二を気に病んで、長いこと塞ぎ込んでいた。
そんな桜を強引に立ち直らせたのがイリヤで、イリヤがいると桜も明るさを取り戻す。
「―――うん。桜、笑えるようになったよな」
それが純粋に嬉しい。
やっぱり桜には、ああいうふんわりとした笑顔が似合うんだから。
「うう、酷いよぅイリヤちゃん。何があっても起こしてって臨時ボーナスまであげたのにあげたのに」
よよよ、と泣き崩れながら朝食をかっこむ藤ねえ。
「当然よ。タイガを待ってたらわたしまで遅れるし、給金分は義理を果したわ。あれ以上の働きを要求するなら、臨時じゃなくて基本給をアップさせるコトね」
「……むむ。わたしだけじゃなくお爺さまからも貰ってるクセに、どうしてこうこの子は守銭奴なのかしら。
若い頃からお金にうるさいとまわりの子に嫌われちゃうぞー」
「嫌われて結構よ。好きな人以外なら何を思われても関係ないもの。それよりタイガ、貸したお金ちゃんと返してよね。給料日、五日前だったんでしょ」
「―――え。な、なんでそんなコト知ってるのよあなた!」
「ライガに聞いたわ。お望みなら明細まで話してあげてよ」
にやり、と不敵な笑みをうかべるイリヤ。
桜とは正反対で、イリヤと藤ねえの相性は最悪だ。
加えて、イリヤは藤ねえ相手だととんでもなく意地悪になる。今の笑い方なんてどこかの誰かさんそっくりだし。
「返済は明日までね。出来なかったらタイガのおこづかいから引いていくから」
「……! お、お爺さま、そんなコトまであなたに話したの!?」
「ええ、お昼はずっと一緒だもん。ライガね、タイガより可愛いって褒めてくれたわ」
「あわわわ……! どうしてくれるのよ士郎、この子とんだ悪魔っ娘じゃない! このままじゃ藤村組が乗っ取られるわ!」
「――――――――」
いや、そんな事より。
その歳になってまだ爺さんからこづかい貰ってたのか、アンタは……。
「行ってらっしゃいシロウ。今日は早いんでしょ? ならここで待ってるから、すぐに帰ってきてね」
「ん、努力する。留守番よろしくな、イリヤ」
「……ふん。いっそのコトここの子になっちゃえ、ばか」
俺の背中に隠れつつ、拗ねる藤ねえ。
「はいはい。タイガも気を引き締めなさいよね。外でシロウに迷惑かけちゃダメなんだから」
あっさりと受け流すイリヤ。
力関係は、もはや藤ねえでは押し返せない位置にあるらしい。
「じゃあ先に行ってるけど、のんびり歩いて遅刻しちゃダメよ士郎」
ぶろろろぎゃいーん、と排気音をまき散らし、藤ねえは弾丸のように消えていった。
藤ねえが免許をとったのが一ヶ月前。
以来、遅刻は革命的に減ったものの、ロケットタイガー、もとい、ロケットダイバーというあだ名が追加された事を、本人だけ知らなかったりする。
「ふう」
大きく背を伸ばして、深呼吸をする。
桜は一足先に登校している。
ごはんを大盛りにしていたところを見ると、たいそう気合いが入っているようだった。
弓道部にとって今日は天王山。
桜も副主将として頑張る、と張り切っているのだろう。
「――――さて、それじゃ」
学校に行こう。
今日は四月七日。
学校では入学式があって、季節は寒い冬を越えて春になっている。
あれから二ヶ月。
彼女がいなくなってから随分と変わった気がするが、変化なんて些細なものなのだと思う。
冬が終わって、春になった。
変わったものはそれだけ。
少しは成長した気になったものの、そんな事で、見違える自分に成れた訳でもない。
だから変わった物などそうないのだ。
衛宮士郎は相変わらず、不器用に切嗣の後を目指して走っている。
「おはよう衛宮くん。朝から顔を合わせるなんて奇遇ね」
「おっす。今日もいい天気だな、遠坂」
手をあげて挨拶をする。
「けど奇遇か? ここ最近よくニアミスするだろ。
ああいや、そりゃあ今までこう頻繁に出くわす事はなかったけど」
「……出くわすって、貴方ね」
いたく気に入らないのか、じろりと半眼で睨み付けてくる遠坂。
朝っぱらから、ここで会ったが百年目、なんてオーラをちらつかせるのはよくないと思う。
「遠坂、もしかして登校時間変えたのか? 前はもうちょっと遅かっただろ。早すぎず遅すぎずって時間だった」
「そんな事ないわよ。今まで顔を合わせなかったのは偶然でしょ。
知ってる? 衛宮くんの家とわたしの家、きっかり正反対の位置にあるの。だから、普通に起きて普通に坂を下りれば、ここで顔を合わせるのは当然ってワケ」
「―――へえ。
それは初耳だ。そうか、それなら確かに―――」
……いや、ちょっと待て。
それは生活サイクルが同じだったら、という場合じゃないか。
遠坂がこの時間に交差点に下りてくるには、朝の六時には起きてなくてはいけない。
が、それは……
「遠坂。おまえ、眠くない?」
単刀直入に訊いた。
「……なによその言い分。わたしは眠くもないし無理もしてないわ。
なんだってそんなコト訊くわけ、貴方」
「いや、おまえ朝弱かったから。
寝不足で学校に行くと化けの皮が剥がれるぞ。授業中に居眠りなんかしたら大変だ。
下手に起こそうものなら、寝起きの悪魔みたいな顔した遠坂が暴れるんだからな」
こう、我が眠りヲ妨げる者ニぶっ殺す、みたいな。
「そ、そんなコトしないわよっ! たかだか三十分の早起きで不覚なんて取るものですかっ!」
「ほら。早起きしてるじゃないか、やっぱり」
「――――っ。
もう、人の起床時間なんてどうでもいいでしょう。つまんない詮索をしてる暇があるなら、さっさと学校に行きなさいっ」
ふい、と顔を逸らして怒る遠坂。
その言い分はもっともなので、挨拶はこのヘンにして登校を再開した。
坂道を上っていく。
眼下に広がる町並みは、すっかり春の趣きに変わっていた。
風は心地よく、時折、高台にある校舎から桜の葉が舞い散ってくる。
目に映るもの、肌に感じるもの全てが微笑ましい。
「なに、今週はほとんどバイトなの?
……まあ衛宮くんの時間だから文句はないけど、そんなんで体壊さない?」
「え―――? いや、今日ぐらいは休みをもらったよ。
弓道部で新入部員の歓迎会をやるっていうから、イリヤを連れて遊びに行こうかなと」
「うわ。なんか、さりげに凄い度胸してるわよね、貴方って。平気な顔してイリヤを学校に連れていくあたり大物だわ」
「? なんかまずいか? イリヤだって暇つぶしになるって喜ぶと思うんだが」
「まずいわよ。まずいけど、そういう事ならわたしもお邪魔しようかな。イリヤがいるなら退屈しないし、なにより危なっかしくて放っておけない」
そう言ってくれるのは有り難い。
イリヤを一番良く分かってやれるのは俺でも桜でもなく遠坂なのだ。
イリヤの体を定期的に看てくれている、という事もあるが、なによりイリヤと遠坂は生粋の魔術師である。
魔術師である事を隠して生きていく、という事をいまいち実感していないイリヤにとって、遠坂はいい先生になると思うのだ。
「――――――――」
こうして、事はそれぞれの形に収まりつつあった。
聖杯戦争によって起きた被害は、教会に派遣された新しい神父によって元の形に戻りつつあるし、俺たちの日常もこうして問題なく帰ってきた。
失ったもの、戻らないものは確かにある。
それでも傷痕は少しずつ塞がり、後悔が薄れていくのは喜ぶべき事だろう。
「――――けど、意外だったな」
と。
眼下に広がる町を見下ろして、どこか深刻な声で、遠坂は呟いた。
「? 意外だったって、何が」
「……うん。わたし、士郎はもっと落ち込むと思ってた。
しばらくは立ち直れないだろうなって思ってたのよ」
それは、もういない彼女の事だった。
あれから二ヶ月―――それだけの月日が経って初めて口にした、金の髪をした少女の話。
「そうだな。俺もそうなるだろうって思ってた。その後の事なんて、考えるだけでどうかしそうだった」
「―――けどフタを開けてみれば、士郎ったら今まで通りだったでしょ。落ち込むどころの話じゃなくて、次の日にはもうケロリとしてた」
「……その時にね、こいつ大丈夫かなー、とも思ったのよ。うまく言えないんだけど、次の日にはあっさり事故で死んじゃうような雰囲気だった」
「なんだそりゃ。なんで平気なのにあっさり死ぬんだよ」
「そういう事もあるの。人間ってのはね、何かの手違いで一生涯の目標を叶えちゃうと、それでぽっくり逝くものなのよ。
もう生きるのはいいやー、と思った途端、青信号なのに車がつっこんできたり、あっさりと階段から落ちたりするんだから」
……はあ。
遠坂の喩えは難解だ。
大往生とか成仏とか、そういうコトを言いたいのかも知れない。
「だから、わたしはそれが心配だった。ああいう時はね、いっそ派手に落ち込んでくれた方が周りは安心するものなの」
「なんだ。じゃあ落ち込んでたら慰めてくれたのか、遠坂」
「―――まさか。背中に蹴り入れて一日で立ち直らせてやったわよ。それが出来なくて残念だって話」
ふん、と不機嫌そうにそっぽを向く。
その様子がおかしくて、つい吹き出してしまった。
「なによ、おかしい?」
「いや、とにかく遠坂らしい厳しい台詞だったんで、安心した」
お互い、春の陽射しを見上げながら歩く。
坂道は長く、このまま果てのない青空に続いていそうだ。
そうして、なんでもない事を言うように、
「じゃあもう未練はないんだ。セイバーが、いなくなってもさ」
空を見上げたまま、遠坂は呟いた。
「―――ああ。未練なんて、きっと無い」
強がりでもなく、自分でも驚くぐらい穏やかな心で告げた。
後悔なんてないし、言い残した事もなかった。
あの別れには、全てがあった。
俺がしたかった事。
あいつが夢見たもの。
それは意地の張り合いで、本当はあいつの手を掴まえて、少女の夢を叶えるべきだったのかもしれない。
それでも―――お互いが美しいと感じたものがあって、それを必死に、最後まで守り通した。
悔いる事はない。
あいつが自分の時間をきちんと終えたように。
俺も、この思い出に留まっている訳にはいかないんだから。
「……ふうん。士郎の中では決着をつけたってコトね。
だから落ち込む事もなく、思い出に浸る事もないってわけ」
「ああ。けど、今も夢に見る。これから先も、ずっとあいつの事を思い出すよ。
いつか記憶が薄れて、あいつの声もあいつの仕草も忘れていく。
それでも―――こんな事があったと、セイバーっていうヤツが好きだったって事だけは、ずっとずっと覚えてる」
遠坂は何も言わない。
ただ、訳もなく上機嫌な体で、弾むような足取りをし始める。
「どうしたんだよ遠坂。そんなに急いで、何かあったのか?」
「別に。ただ早く学校に着きたいなって。
さ、そういうワケだから士郎も急ぐ! のんびりしてると置いていくわよ!」
くるり、と身を翻して坂道を駆け上がっていく。
「――――なんだあいつ。朝弱いクセに無理して」
ぼやきながら、鞄を背負って走り出した。
時刻はまだ七時半。
部活をやっていないぐうたら生徒には早すぎる時刻だが、まあ、早く着く分には悪いことはないと思う。
空に登っていくような坂道を走って、いつもより早く校舎へと辿り着く。
今日は新しい一年の始まる日だ。
それを祝う気持ちがあるのなら、古い思い出を振りきって急がないと。
名残は尽きず。
胸を打つ空虚に、泪しそうになったとしても。
―――遠くには青い空。
こんなにも近くに感じるのに、
手を伸ばしても掴めない。
いつか、星を眺めた。
手の届かない星と、叶う事のない願いを。
共に残せた物など無く、
故に、面影も記憶もいつかは消える。
「――――――――」
それでも。
届かなくとも、胸に残る物はあるだろう。
手に残る物はないけれど、同じ時間にいて、同じ物を見上げた。
それを覚えているのなら―――遠く離れていても、共に有ると信じられる。
なくなる物があるように、なくならない物だってあると頷けるのだ。
だから、今は走り続ける。
遠くを目指していれば、いつかは、目指していたものに、手が届く日が来るだろう。
―――冬を越えた始まりの春。
いつか彼女も見ただろう青空の下、坂道を上っていく。
◇◇◇
――――戦いは終わった。
彼女の最後の戦場、国を二つに分けて行われた戦いは、王の勝利で幕を下ろした。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハ――――!」
騎士は走っていた。
戦いは終わり、血のように赤かった夕日も沈み、今では夜の闇が戦場を支配していた。
亡骸で埋め尽くされた丘は呪いに満ち、生き残った者を連れて行こうと怨嗟《えんさ》をあげる。
その中を、騎士は息を切らして走っていた。
騎士の手には手綱が握られ、傷ついた白馬が懸命に付いていく。
生き残ったものは騎士と白馬。
そして白馬の背に倒れ伏した、一人の王だけだった。
「王……! アーサー王、こちらに――――!」
自身も傷を負っているであろうに、騎士は全力で戦場を駆けていく。
騎士《かれ》が仕える王は、死に捕らわれていた。
敵軍の王を一騎打ちの末破ったものの、王自身も致命傷を負っていたのだ。
その傷は、騎士の目から見ても絶望的な物だ。
彼らが仕えた王は、まもなく死を迎えるだろう。
「お気を確かに……! あの森まで辿り着けば、必ず……!」
必死に呼びかける。
―――或いは、騎士は真実思っていたのかもしれない。
彼らの王は不滅だと。
聖剣の導きがある限り、王は決して滅びないと。
「ハッ――――ハア、ハア、ハア、ハ――――!」
息を切らし、屍の山を越え、騎士は血に濡れていない森を目指す。
彼は王の不死身性を知っていた。
故に、この呪われた戦場を抜け、どこか清らかな場まで抜けられたのなら、王の傷は癒えるのではと信じたのだ。
否―――そう信じるしか、出来なかった。
彼は他の騎士たちと違い、自らの王を信じていた。
宮廷では孤立し、騎士からは疎まれ、民からは恐れられた。
その窮地において私情を見せず、常に理想であり続けた若い王を誇りにさえ思った。
彼は国に仕えたのではない。
彼はこの王だからこそ剣を預け、力になろうと邁進し、若輩の身でありながら王の近衛にまで上り詰めたのだ。
素顔の見えない王。
私情を挟まず、公平無私であろとした少年。
或いは、身近にまで行けば、王の素顔が見られるのではと期待した。
彼はただ、王の素顔が見たかったのだ。
王城や戦場で見せる顔ではなく、素顔の、人間としての笑い顔が見たかった。
それは宮廷の中、王がその責務から解放される時に表れるだろう。
いかに完璧な王とて、四六時中気を張っている事はできないのだから。
だが、その考えは間違っていた。
彼が知ったのは、期待とは裏腹の事実だけ。
近衛を任され、王の身辺を守るに至った。
他のどの騎士よりも身近に控え、その振る舞いを見続けてきた。
だというのに、一度もなかった。
彼の王が笑った事など、ただの一度もなかったのだ。
「ハッ――――ハア、ハア、ハア、ハ――――!」
それに怒りを覚えたのはいつからだろう。
これだけの偉業を成し遂げ、栄光の中にいる筈の王が。
その実、一時も安らかな顔を見せなかったのだ。
許せなかった。
そんな事はあってはならないと信じたかった。
だからこそ、いつか―――この王のかんばせに、光が与えられる事を願ったのだ。
それはまだ成し得ていない。
王はまだ孤独のまま。
故に、騎士は王の死を拒み続けた。
ここで終わらせる事は出来ない。
それではあまりにも、この偉大な王が報われないではないか、と。
「王、今はこちらに。すぐに兵を呼んでまいります」
辿り着いた森で、騎士は王の体を大樹に預けた。
事態は一刻を争う。
港に残してきた自軍まで、どれほど馬を早めようと半日。
王の命が明け方まで保つかどうかなど、目のある者ならば一目で看破しえるだろう。
「どうかそれまで辛抱を。必ず兵を連れて戻ります」
もはや意識のない王に礼をし、騎士は白馬へとって返す。
「――――ベディヴィエール」
その前に。
意識のない筈の王が、騎士の名を口にした。
「王!? 意識が戻られましたか……!?」
「……うむ。少し、夢を見ていた」
朦朧とした声。
ただ、その声がひどく―――騎士には、温かな物に聞こえた。
「夢、ですか……?」
探るように声をかける。
王の意識は確かではない。こうして聞き返さねば、また闇の中へ落ちるだろう。
「そうだ。あまり見た事がないのでな。貴重な体験をした」
「……それは。では、どうぞお気遣いなくお休みください。私はその間に兵を呼んで参ります」
「――――」
息を呑む気配。
騎士の言葉に、何か意外なものでもあったかのように。
「……王? 何かご無礼な点でも……?」
「―――いや。そなたの言い分に驚いた。夢とは、目を覚ました後でも見れるものなのか。違う夢ではなく、目を瞑れば、また同じものが現れると……?」
今度は騎士が驚く番である。
彼は言葉に詰まった後、それが偽りと知りながらも返答する。
「―――はい。強く思えば、同じ夢を見続ける事も出来るでしょう。私にも経験があります」
そのような事はない。
夢とは元々、一度きりで連続しないものを言う。
それでも騎士は偽った。
これが最初で最後の、王に対する不正と詫びて。
「そうか。そなたは博識だな、ベディヴィエール」
王は感心するように呟く。
その顔は伏せたままで、騎士を見上げる事もしない。
王は、もはやしている事さえ判らないほど小さな息遣いのまま、静かに、
「ベディヴィエール。我が名剣をもて」
掠れた声で、最後の命を口にした。
「よいか。この森を抜け、あの血塗られた丘を越えるのだ。その先には深い湖がある。そこに、我が剣を投げ入れよ」
「―――! 王、それは……!」
それがどういう事なのか、騎士には判っていた。
湖の剣。
今まで王を守り、王の証であった剣を手放すという事は、彼が仕えた王の終わりを意味するのだから。
「―――行くのだ。事を成し得たのならばここに戻り、そなたが見た事を伝えてほしい」
王の言葉は変わらない。
騎士は聖剣を手にし、迷いを断ち切れぬまま丘を越えた。
―――そうして。
騎士は三度に渡り、剣の返還を躊躇《ためら》った。
湖は確かにあった。
だが剣を投げ入れる事ができなかった。
剣を投げ入れれば、王はいなくなる。
騎士は王を惜しむあまり剣を捨てられず、踵を返し、王の元へと立ち帰る。
王は騎士に繰り返す。
剣を捨てたと嘘述する騎士に、“命を守るがいい”とだけ返答する。
王の命を破る、という事は騎士にとっては大罪に等しい。
それでも彼は二度に渡り命に背いた。
湖を前にする度に、王の命を惜しんだのだ。
―――だがそれも終わり。
もはや王の意思を変えられぬと悟った騎士は、三度目にして、剣を湖へと投げ入れた。
聖剣は湖に還る。
水面より現れた皓《しろ》い腕が剣を受け止め、三度空を巡ったあと、聖剣はこの世界から消失した。
「――――――――」
そうして、騎士は受け入れた。
王の終わり。
その、あまりに長かった責務が、ここにこうして終わったのだと。
三度に渡り丘を越えた頃、森は朝日に煙っていた。
戦場跡は遠く。
血塗られた戦いの面影などない、清らかな薄靄《うすもや》の中。
「―――湖に剣を投げ入れてまいりました。剣は湖の婦人の手に、確かに」
騎士の言葉に、王は瞑っていた目蓋を開けた。
「……そうか。ならば胸を張るがよい。そなたは、そなたの王の命を守ったのだ」
死を迎えたその声に、騎士は静かに頷いた。
―――全ては終わったと。
この先、彼らの国の動乱は続くだろう。戦いは終わらず、遠からず滅びの日がやってくる。
だが、王の戦いはこれで終わりだ。
彼―――いや、彼女はその役目を、最後まで果したのだから。
……光が消える。
事を為し遂げ、彼女を保っていた最後の力が失われたのか。
「―――すまないなベディヴィエール。
今度の眠りは、少し、永く――――」
ゆっくりと眠るように。
彼女は、その瞳を閉じていった。
……朝焼けの陽射しが零れる。
森は静かに佇み、彼の王は眠りについた。
「――――――――」
騎士はその姿を見守り続ける。
彼が望んだ王の姿。
たった一人の騎士に看取られた孤独な王。
だが―――その顔は、彼が望んだものだった。
穏やかな眠り。
王は最期に、今まで得られなかった安らぎを得られたのだ。
それが、ただひたすらに嬉しかった。
騎士はその安らぎを与えてくれた誰かに感謝し、誇らしい気持ちのまま王を見守る。
天は遠く、晴れかかった空は青い。
戦いは、これで本当に終わったのだ。
「――――見ているのですか、アーサー王」
呟いた言葉は風に乗る。
眠りに落ちた王は、果てのない青に沈むように。
「夢の、続きを――――」
遠い、遠い夢を見た。
(C) TYPE-MOON