-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
例 衛宮士郎《えみやしろう》。
-------------------------------------------------------
「Fate/hollow ataraxia」(present by TYPE-MOON)本編
『夜が怖い』と、彼は言った。
新都玄木坂《く ろ き ざか》四番地、蝉菜《せ み な》マンション十一階二号室。
それが彼の部屋だった。
彼の名は―――そう、仮にA氏としよう。
A氏は二十歳になったばかりの学生で、春先に新しく入居してきた。
生まれて初めての引っ越し、生まれて初めての一人暮らし、生まれて初めての知らない街。
内向的な性格をしたA氏は新しい生活に戸惑いながらも、冬木の街に少しずつ順応していった。
もとよりA氏は一人でいる方が気楽な性格で、友人が少ない事も、周りが『知らない誰か』である事も、そう苦痛ではなかったそうだ。
むしろそちらの方が有り難い。
部屋に引きこもりがちなA氏は、誰にも―――友人にも家族にも干渉されない新生活を、いたく気に入っていたらしい。
A氏の生活に不満はなかった。
ただ二つ。
玄関までの長い長い廊下と、
一ヶ月前隣に引っ越してきた家族の、度《ど》し難《がた》いまでの浅慮さを除けばだが。
春に引っ越してきた時からその不満―――いや、不安はあったのだと思う。
両親に用意させたマンションは月○×万の4LDKの部屋だった。
広さは申し分ない。
孤独を愛するといってもA氏は高級志向で、質素な生活を好んでいる訳ではない。
住居は広ければ広いほどいい。
外界を嫌う彼にとって、ここは要塞なのだ。
要塞は広く堅固でなければならない。たやすく辿り着いてはならない。深くなければ安心できない。
そう。
A氏は一人を好んでいたのではなかった。
彼は他人が傍にいる事。
自分以外の何かが侵入してくる事を、無意識に恐れていたのだ。
そんなA氏が蝉菜マンションを選んだ要因に、もう一つ、付け加える事がある。
玄関から居間までの距離。
一番初めにして最後、内部に侵《はい》る為に、外に出る為に、絶対に通らねばならない廊下の長さである。
居間から玄関までは四メートルもの直線で、途中には物置も浴室もない。
マンションにしては珍しい長廊下だが、その長さがA氏の気にいったのだろう。
理想的な広さ、理想的な進入路。
入り口を遠く隔《へだ》つ、中とも外とも言えない曖昧な境界。
その廊下こそが本当の“玄関”なのだと訴えるような、それは、不自然な路《みち》だった。
…………が。
実際に生活を始めてみると、この廊下がどうも気に掛かる。
こんなにも素晴らしい長さなのに何が気に掛かるのか、と彼は首をかしげ、数ヶ月経ってようやく思い当たった。
単純な話だ。
その長い廊下には、電灯が付けられていなかった。
構造的な欠陥らしく、付けるスペースそのものがないらしい。他の世帯の廊下には付いているのだが、この十一階二号室だけ付け忘れたというのだ。
間の抜けた話だった。
電灯を付け忘れた業者がではない。
数ヶ月も暮らしておいて、そんな事に今さら気が付く自分がおかしかった。
―――振り返ってみれば。
そんな事に気がつかない時点で、彼は既に踏み外していたのだろう。
秋になって、隣の部屋に入居者がやってきた。
何処にでも見かける幸福な家族。
若い夫婦に三歳ほどの娘が一人で、入居時に軽く挨拶をした程度の関係だった。
A氏が知っているのはその家族の名字が××という事、娘が*#という名だという事だけだ。
蝉菜マンションはワンフロアに二つの世帯しかない、L字型の建物である。
L字の中心がエントランスで、縦と横の線がそれぞれの世帯となっている。
エントランスにはエレベーターと非常階段に通じる扉があり、A氏はエントランスで××夫婦と遭遇する事もあるのだが、まれに*#だけと出会う時があった。
「お兄ちゃん。ボタン、押してくれる?」
出会うたび、少女はそう言った。
エレベーターのボタンは少女の背丈よりやや高い位置にある。
手を上げれば押せない高さでもないのだが、どうしてか、少女は肩より上に手を上げようとしなかった。
まだ三歳の少女が一人で外に出る、という事に違和感を覚えながらも、A氏は少女の頼みをきいてやった。
少女とは十一階のエントランスだけでなく、一階のエントランスで遭う事もあった。
少女はエレベーターの前でうずくまっていて、A氏が帰宅、ないし外出する為に玄関から出ると顔をあげ、上目遣いに、
そんなやりとりを何度かするうちに、A氏は少女の名前を知ったのだ。
もっとも、A氏は少女を名前では記憶していなかった。他人に興味がなかったからだろう。いつも赤いフードを被っていた事から、A氏は少女を「赤ずきん」と名付けていた。
繰り返すが、A氏は内向的な青年である。
彼は自らの生活が脅かされない限り、外界に関心を持つ事はなかった。
それは例えば、壁越しに聞こえる隣室の口論の声だったり、二日に一度の割合で聞こえてくる少女の泣き声だったり、もはや悲鳴とさえ呼べない女の叫びだったり、少女の腕が肩からあがらないのは骨折したまま放置された後遺症のせいだったり、赤いフードを被らされていたのは顔のアザを人に見られないよう父親に言い含められていたからであったりと、まあ、そういった他人事にである。
玄関から一メートルほどの隣室の騒ぎなのに、と言うなかれ。
A氏の玄関はとにかく長い。
何メートルか越しの悲鳴なのだから、テレビ画面を眺めながら聞き流したとしても仕方のない事だ。
ただ、その夜はひときわ騒がしかった。
ガラスを割るような叫び。
サイレンのような泣き声。
エントランスから響く、乱暴に開けられるドアの音。
ドンドン、とA氏の部屋に響いてくる何かの音。
時刻は午前二時。一人静かに深夜放送を楽しんでいた彼も、その夜だけは癇に障った。
常識をわきまえろ、と抗議しようと腰を上げる。
腰を上げて、すぐに下ろした。
―――まあ、すぐに収まるだろう。
隣室の家庭環境がどうなっているかなど、A氏は知らない。面倒なので考えないようにしている。ここで出しゃばって関わり合いを持つのはよくない。
何事も自己責任だ。
自分たちの問題は自分たちで解決するべきなのだ、とA氏はテレビのコントローラーを手に取り、ボリュームを五つほど上げた。
夜更かしの末に、テレビを消して眠りにつく頃には、いつも通りの静かな夜に戻っていた。
翌日、隣室の住人が一家心中によって亡くなった事を、A氏は知った。
警察から事情聴取を受けたのは初めての経験だった。
昨日の深夜、××《妻》は××■《夫》を口論の末刃物で殺害。一人娘である*#を刃物で斬りつけた後、自ら命を断ったという。
昨夜の事を尋ねる警官に、A氏は「眠っていたからわからない」と答えた。
警官は礼儀正しく去っていく。その背中に、A氏は一つだけ質問をした。
「あの、一人娘はどうなったのでしょう?」
警官はわずかに眉をよせて、
『凶器には血液反応が残っていますから、刺された事に間違いはありません。血痕からして致命傷であったと考えられます』
ただ、と。
居心地が悪そうに、若い警官は呟いた。
「遺体がないんですよ。何処にも。
部屋にも、逃げ出した後のエントランスにも」
話は簡単だった。
少女《赤ずきん》は母親に刃物で斬りつけられた後、エントランスに逃げ出したらしい。
だが、そこから少女が移動した形跡はない。
血痕はエレベーターの前で途絶えていたという。
『なぜエレベーターを使わなかったんでしょうね。
いえ、そもそもどうして隣室の貴方に助けを求めなかったのか。いくら錯乱していたからって、チャイムを押すぐらいはできたでしょうに』
A氏には、少女にはどちらのボタンも遠すぎたからだ、とは言えなかった。
警官が去り、玄関に一人残されたA氏は想像する。
午前二時。錯乱した母親から逃れてエントランスに出たものの出口はなく、崩れかけた泣き顔で、必死にA氏のドアをノックし続ける少女の姿を。
結局。
少女の遺体は、最後まで発見されなかった。
それから数日。
深夜、ある時間になると決まって妙な音が聞こえる事に、A氏は気づいた。
物音自体はとても小さい。意識しなければ聞こえないほどのボリュームだ。
それが何であるか、A氏はしばらく考えもしなかった。風が窓を揺らしているのだろうと納得する事にした。
音は毎晩やってくる。
どん、どん。
消え入りそうなほど小さいクセに神経に障る音。
それが窓からではなく玄関から響く音だと気づいて、A氏は、
長い廊下を歩いて、玄関に足を運んだ。
どなたですか、とインターフォンに呼びかける。
返事はない。
あれだけ小さかった音は、A氏が玄関に着いた途端、
覗き窓から外を調べる。
丸く歪んだ視界。こぎれいなエントランスには誰もいない。
ただ、クリーム色の床に赤いマダラが、
鼓膜が破れそうだった。エントランスには誰もいない。音は止まらない。A氏は覗き窓に眼球を近づける。誰もいないのではない。この角度では見えないだけだ。音が止まらない。覗き窓のすぐ下。視界の底になにか、
赤い、布をかぶった何かが、扉にぴったりと張り付いて―――
長い廊下を逃げ帰る。
時計は、午前二時を指していた。
深夜の訪問は定番になった。
音は毎夜やってくる。
A氏は決して扉を開けなかった。
今夜も音はやってくる。
気のせいだと無視できるほどの小さな音。
だが、それはもう脳髄に染みこんで離れない苦痛であり、神経を削っていく刃物のようだった。
日を増すごとにA氏の精神は追いつめられていった。
秋の終わり。
もう、何時であろうと音を聞いてしまうようになった彼は、
その夜、決意した。
扉に張りついたモノを、確かめるのだと。
長い廊下を歩いていく。
玄関のわずかな磨り硝子からエントランスの明かりが漏れている。
長い、明かりのない廊下を渡って、彼は
玄関を押し開けた。
そこには何も、誰もいなかった。
耳障りな、頭蓋に反響するノックも聞こえない。
当然だ。こんなバカげた話がある筈がない。初めから、音も赤い布もなかったのだ。
はは、は、は。
笑いと安堵が混ぜこぜになる。
冷え切っていた体が急速に温度を取り戻していく。
ただの幻聴だ。
どうやら思いの外、自分はあの事件を気にかけていたらしい。
気づかないうちに罪の意識でも感じて、身勝手な被害妄想を生んでいたのだ。
それももうない。
この扉を開けた時点で、全ては終わったのだから。
ふう。
額の汗をぬぐって玄関を閉める。
鍵を閉めて顔をあげる。
目の前には、
気に入っていた、長い長い暗い廊下が、
瞳孔が拡大する。
廊下の真ん中に、なにか
赤いフードを被った、
見覚えのある死体が、
それは何かを懇願したいようだった。
理由もなく、聞いたら死ぬ、とA氏は確信した。
闇に沈んだ唇が開く。
ナイフでくり抜かれたスイカみたい。
赤ずきんは、血まみれの声で、
「お兄ちゃん、ボタン―――」
「パンチパンチパンチパンチ!
なんだよそれつまんねーよ!っていうかなんでそんなに演出過多なんだ実際! 美綴《みつづり》ディテール凝りすぎ! 芝居上手すぎ! あと話長すぎ!
そもそもなんだよそのA氏、そんなヤバイ状態になったら引っ越せ、引っ越せよぅ……!」
十月十一日、午前零時過ぎ、柳洞寺合宿部屋。
秋の夜空に蒔寺楓《まき でら かえで》の奇声が響いた。
「引っ越せって、それが出来たら苦労しないでしょ。
アンタだってあんな家出ていってやるー、なんて言ってもう何年よ?
人間ね、多少の不安より愛着をとるもんなの。
みんながみんな幽霊一匹で住み家を移してたら、今頃この島はもぬけのカラになってるわ」
「ふむ、含蓄のある言葉だ。なるほど、我々と怪談は切っても切れぬ関係にある。
―――時に蒔寺。長廊下のお酌《しゃく》しさまは健在か?」
「いねぇーつの! 我が家にそんな偉そうなヤツはいないね! あと夜中になったら雨降ってないのに廊下が水に濡れたりもしないね! 祖先が瀬戸内《せとうち》で海賊なんてやってもいないね!」
「ははあん。そっか、蒔寺んとこも古い家だったっけ。なに、廊下の話は鬼門だった?」
「うるさい、廊下なんて怖くねー! 最新のオシャレなマンションに引っ越してー!
……で、その鬼門ってなんだ? 新しいチャクラか?」
「……チャクラを知っていてなぜ鬼門を知らん。
鬼門というのはよくない方角、凶兆を示す言葉だ。細かく言うのなら北東の方角。つまり、」
柳洞一成《りゅう どういっせい》。
柳洞寺住職の息子にして学園の生徒会長。
その役職から合宿のお目付け役として同伴した男は、ちらりとこちらに視線を向けた。
「ほー、さすが寺の息子。ちゃんとしてんじゃん、そういうトコ。
けど今はお断り。あたしが聞きたいのはもっとコスモな話なワケ。幽霊とかそういう話はお門違いだね」
「ほら、もっとさあ、遠坂ん家には江戸時代に隕石が落ちてたとか冬木の地下には大空洞があるとか、そういう現実的な話をしろよなー」
「いや、今のは十分に現実的な話だったと思うが。
先ほどの実話だが、廊下で少女と出会ったという事は真犯人はA氏で、廊下の壁に死体を隠蔽していた……という話だろう?」
「……えーと。鐘ちゃん、それも怪談とは趣旨が違うと思う」
「現実的な話をしろって言われてもね。怪談話をなんだと思ってるのよ蒔寺は。
ま、トンデモ話なら遠坂の管轄だから、待ってればいいの聞けるんじゃない?」
「それはありません。蒔寺さん好みのトンデモ話は知りませんから」
上品に切り返す遠坂凛。
こういった集団行動では、彼女はこのような態度をとる事が多い。
「そりゃ失礼。じゃあ間桐は? 一年の誰かが、間桐主将はああ見えてすごく怖いとか言ってたけど」
「わ、わたしですか……!? べ、別にこわい話が好きなんじゃなくて、怪談に強いだけなんですけど……。
ところで美綴先輩、そんなコト言ったのは誰でしょうか?」
「……はあ。そういうところが怖いんだって気づきなさい、桜……」
小声で漏らす。
この場で、遠坂凛と間桐桜が姉妹である事を知っている者はまだいない為だ。
「和むのはいいが、まだ始まったばかりだろう。
続けるのか続けないのか。俺としてはこれ以上蒔寺が騒ぐのなら、会を中止させなくてはならないのだが」
「そうよね、眠ってるお坊さんたちにいい迷惑だし。蒔寺がもう叫ばないって言うなら続けましょう」
「騒いでないじゃん。美綴の話がつまんないからダメ出ししただけじゃんかよー」
「問題はそのダメ出しが次にもあるか、という事でしょうね。蒔寺さんに我慢しろ、というのは呼吸をするな、という事と同義だから、わりと絶望的だけど。
どう、蒔寺さん? 呼吸、止められる?」
「止められる。わたし、陸上の次に水泳得意だし」
「だそうですので、このまま続けましょう。次は三枝《さえぐさ》さんかな」
「は、はい! ぁ……けどわたし、怪談ってしたコトなくて、その」
「大丈夫、無理に怖がらせようと思わなくていいから。
綾子のは実際あった話を脚色した質《たち》の悪い話でね。蒔寺さんが怖がったのは、蒔寺さんが蝉菜マンションの事件を知っていたからだろうし」
「そ、そうなんですか?」
「うむ。蝉菜マンションの一家心中は実際にあった話だ。その一ヶ月後、隣室の青年も行方不明になり、捜索願が出ているのも事実だぞ」
「やめろーーーー! やーめーろーよー! A氏の兄ちゃんはなんか理由あって自分探しに旅立ったんだよ! 素敵なサムシングなんだよ! いつか一回りでっかくなって帰ってくるんだよ!
そんなカッコイイ兄ちゃんにおかしな失踪理由でっちあげるたぁ、なんて性根の腐った女だ美綴綾子《みつづりあ や こ 》!」
「え……ほ、ほんとにいなくなっちゃったんですか、A氏さんって……?」
「ああ。同じマンションの住人が言うのだから間違いない。そうだろう、美綴嬢」
「そういう話だからね。
とまあ、あたしほど脚色せずとも、実際にあったうわさ話だけで十分ってコト。
蒔寺は恐がりだからね、三枝さんもその線で攻めてみるといいよ。誰かに聞いたお化けの話とかない?」
「あ、それなら何個かあります。えっと、皆さん窓辺の幽霊って知ってますか? 二学期から広まりだしたうわさなんですけど……」
「なにそれ。わたしは初耳」
「お化け洋館の人影、ですよね? 弓道部の一年生たちが話してたような」
「はい、そのお化け洋館です。
なんでも冬木のどこかに使われていない洋館があって、夜中に近づくと二階の窓辺から、こうじっっっと見つめてくる人影があるそうです」
「はあ? 人影ってどんな人影よ由紀っち。つーかさ、冬木のどこかにある洋館ってなに」
「それはわたしも知らないんだけど……あんまり人が寄りつかないお屋敷じゃないかな。
実際見た人がいるらしいんだけど、たまたま道に迷った時に洋館を見つけたんだって。なんでも周りは木ばっかりで、人気《ひ と け 》がなくて、洋館の二階にいたお化けは女の人だったとか」
「なにそれ。人気のない洋館で女が一人? そんなの遠坂ん家《ち》じゃん。
とおさかー、アンタん家お化け屋敷にされてるぞー!」
「え……そ、そうなのかなっ。ごめんなさい遠坂さん。この話って遠坂さん家のコトだったの?」
「謝らないで三枝さん。うちがご近所からそういった扱いを受けてるのは今に始まった事じゃないし、蒔寺さんのような謂われなき中傷にも慣れていますから」
謂われなき中傷、というのは間違いだ。
遠坂邸は、事実として幽霊屋敷の類である。
「じゃ、じゃあこの話はやめて、新都の話にしますっ!
ええっと、最近夜になると新都の空に何か、おっきな糸みたいのが見えるって話なんですけど……」
自信なげに周りを見渡す三枝由紀香。
……………………………………推測すると。アレは、目撃者を求めての行為なのだろう。
「……その。糸みたいなのがなんなのか、見たコトある人、います?」
「話だけは聞いているが、生憎《あいにく》とまだ怪異には出会っていない」
「空って夜空? ……その、センタービルの屋上に人影が立っていた……なんて話じゃないわよね?」
「ははあ、具体的な例えだね。そりゃセンタービルの屋上に赤い人影を見た! って話はよく聞くけど、三枝さんの話は別物じゃなくて?」
………………美綴綾子の謎の視線。
思うところがあるのか、普段着に赤色を好む遠坂凛は苦い顔をする。
第五次の聖杯戦争が終わってからもう半年。
まだ彼女は夜の巡回をしている、という事だろうか。
「蒔寺先輩は見たコトありますか?」
「ない。だがおそらくはユー・エフ・オー!」
「あたしゃ読めたよ。
蒔寺。アンタは怪談を勘違いしてる」
「そうだな。我々がしているのはオカルティックな話であってコズミックな話ではない。
蒔の字。気の毒だが、いくら待っても君好みなムームー話に出番はないぞ」
「げ。よよよ読んでない、あんな面白おかしい電波本なんて購読してないよあたし! だってあれすっげーつまんねえじゃん!」
「まあ、そのつまらないところがある意味たまらないのではあるが。
……ところで、新都上空の蜃気楼の件だが」
みな首を横に振る。
残念ながら、この中に目撃者はいないようだ。
……………………しかし。
先ほどから薄々感じ始めていたのだが、これは、なんというか。
「……そういう噂話なら俺からも一つ。
昔から郊外の森には城が建っている、という話があるだろう? それに新説が加わったそうだ。
なんでも城を目指して森に入ると旧帝国軍の亡霊が現れて、入ってきた者を戦場に送り出すらしい」
「で、幾つかの関門を乗り越えた勇者だけが幻の城で一泊できてメイド姉妹に介抱されるとかなんとか」
「柳洞くん? なに、念願の相部屋で脳みそとろけちゃった?」
「え、ええい、俺とておかしな話だと思っておるわ! だが実際に見たものがいるのだから仕方なかろう! 嘘だと思うのなら一人で郊外に特攻するがいい!」
………………なんというか、その。
やばい。
なんか面白いぞ、これ。
「衛宮は? 今の柳洞の与太話、どう思う?」
今まで静観を決め込んでいた俺に話を振る美綴。
まいったな、コメントに困るから黙っていたのだが。
「どうも何も、一成が作り話なんてする訳ないだろ。柳洞寺は森に近いし、案外本当にあるかもな」
思い当たる節がない訳でもないし。
……と、それはともかく。話の腰を折るようで申し訳ないのだが、厠《かわや》に用が出来てしまった。
「わるい、ちょっとトイレ。誰にも気づかれないようにスルッと戻ってくるんで、俺に構わず続けててくれ。
いいところで蒔寺を脅《おど》かすから」
「ぐ……! ふ、ふん、いいじゃん、やれるもんならやってみな。
あたしも女だ、衛宮にゃあ負けられないね」
相変わらず謎なリアクションをする蒔寺。
遠坂と昼飯を一緒するようになってから、蒔寺は事あるごとにこんな感じなのだった。
外に出ると肌寒かった。
山の夜気が町のそれより冷たく鋭い。
朦朧とした頭、曖昧だった思考が、冷気にさらされる事で、確かな存在として目を覚ます。
「―――ふう」
夜空を見上げて、なんとなしに大きく息をついてみた。
合宿部屋から出てもう二十メートルは歩いたか。
寺の渡り廊下で、意味もなく何かを考えようとするのは、新鮮と言えば新鮮だった。
「―――さて」
まず何を思索してみるか。
今の状況がいかにして作り出されたのかを整理してみようか。
身近な出来事から言えば、今日の合宿の話。
間近に控えた文化祭と、弓道部の主将として頑張る桜と、それを見守る美綴と、陸上部とのおかしな関係。
紆余曲折の口論の後、なし崩し的に文化祭の為の合宿が開かれてしまった。
一成は場所を提供し、俺は単純に労働力として招かれた。メシ番というヤツである。
相変わらず騒がしい日々だが、穏やかである事に違いはない。
―――半年前。
聖杯を巡る戦いと、その顛末《てんまつ》。
何かを失って何かを得たあの戦い。
それをこうして思い返せるほどには月日が経ち、気持ちも落ち着いた。
聖杯戦争は過去の話だ。
冬木市にはもう何の争いの火種もない。
聖杯がなくなり、サーヴァントが消え、故人は帰らず、何の問題もない時間が流れていく。
日々にそう変化はいらない。
日々を繋げていくファクターはあらかた出そろっている。
似たような明日と昨日を繋げて、かすかな変化を楽しむのがまっとうな人間の生き方だ。
「…………、あー――――――」
思考を止める。
……たしか他に、合宿には理由があったような……。
「―――なんだ?」
いま、確かに視界の隅に何かが立っていた。
……境内の方だ。遠くてはっきりしなかったが、人影らしきものが裏山へ走っていった。
俺は―――
―――寺の坊さんか誰かだろう。
柳洞寺にいるのは俺たちだけじゃない。
境内に誰がいようが、いちいち気にしてもしょうがない。
「そうそう。そんな事よりトイレトイレ」
ペースをあげて小走りに廊下を行く―――と。
曲がり角から出てきた誰かと肩をぶつけてしまった。
「あ、すみま―――」
「こちらこそごめんなさい。少しぼうっとしていたから」
「―――――――――」
思考が停止する。
驚きすぎて、何に驚いているのか分からない。
「けど、貴方も気をつけなさい。
廊下を走るのは感心しなくてよ、坊や」
通り過ぎていくキャスター。
上品かつ皮肉屋なのはいつもの事だが、素顔を見るのは珍しい。
しかし。驚いたのは、何に対して―――
「……そうだ。キャスターって、とんでもなく美人だったんだな」
停止した思考を独り言で再動させて、こっちも廊下をずんたか進む。
頭をからっぽにする。
用を済ませて合宿部屋に戻った。
「……そうして弥八は甦った。村人たちにいびり殺された息子、可愛い我が子にもう一度会いたいという母親の狂気が、死人を甦らせたのじゃ。
じゃが甦った弥八にはいたるところが欠けておった。手も足も臓物も脳味噌もなかった。
母親は足りない箇所を補うたび、毎晩、捕まえて閉じこめた村人たちから―――」
一成の目が輝いている。
さすが寺の子、墓場・死体・因果応報のキーワードを使わせたら右に出る者はいない。
蒔寺はもちろん、怪談に強そうな氷室や美綴、遠坂でさえ黙って怪談のオチに備えている。
みんなの様子は一様に同じで、
―――何か、今、おかしな事が、あったような。
葛木先生も、黙って一成の話を聞いている。
引率の藤ねえは
「虎は何故強いと思う。
生まれつき怖い話なんて怖くないからだ。士郎たちは生まれつき怖い話に弱いから、そんな特訓をしなければならないのだ」
などと泣きそうな顔で言って一足先に眠っている。
引率役の放棄である。
と言っても年頃の男女が暗がりで密集するこの会合を放ってもおけず、無理を言って葛木先生に引率を託したのだった。
「……そうして弥八は考える死人になった。だが悲しいかな、ようやく弥八が母親の名前を呼べるようになった頃、母親はとうに事切れておったのじゃ。邪法は母親の体を蝕んでおったのよ。
弥八は悲しんだ。甦った事はさほど嬉しくはない。ただ、苦痛に耐えて自分を甦らせた母親が不憫《ふびん》でならなかった」
「そうして―――弥八は自らと同じよう、母を甦らせようとしたのじゃが……それだけはどうしても出来なかったのじゃ。
母が自分に施した左道を丁寧に繰り返しても、村人たちの肉を二山三山、血を二河三河使おうとも、母は決して甦らなかったのじゃ」
「な、なんでだよぅ。ゾゾ、ゾンビはかってに増えるじゃんよう。かわいそうだから増やしてやれよぅ。
いまどき母ちゃんが二人になろうが十人になろうが珍しくないよぅ。
あとなんで口調かわってんだよぅ生徒会長」
「ええい、いいところで水をさすな蒔寺。この語りは柳洞家の決まりなのだ」
「……こほん。
さもありなん。母親と弥八では立ち位置が違ったのじゃ。境界の問題でな。いかな邪法、秘法を用いようと叶わぬ事が一つだけある」
「それは―――生者のみが死者は甦らせられる、という事よ。
死者が死者を食ろうて仲間にしたところで生き返らした事にならぬ。
それは既に人ではなく、死体を食うだけの化生を生み出したにすぎぬのだ」
……ためになるなあ。
確かに死者には何も叶えられない。いつだって事を起こすのは生きた息吹だ。
たとえ死者として再び生を受けたとしても、死んだものが死んだものを起こす事は絶対に出来ない。
そう、いつだって。
死者を呼び起こすのは、生者だけの役割なのだ。
「それを知らぬ弥八は永遠に血肉を集め続ける。甦らぬ母親のために、今でも竜洞《りゅうどう》で人の手足を集め続けているという話じゃ。
これが冬木に伝わる骸塚《むくろづか》の弥八郎、景山《かげやま》の臓物墓場の謂われである」
一成の話が終わる。
蝋燭が一つ消える。
くるくると順序が回る。
「……今のはそれなりにきいたわね。寺の息子が寺に泊まってる時に墓場の話をするとは思いませんでした。
その大人げなさに脱帽です」
「ふん、今日はこちらの陣地だからな。
仏敵を打ちのめす為なら、使えるものは何でも使う」
次の話は誰の話か。
合宿の定番、百物語は回り回って、
「ほら、次は衛宮の番。
生徒会長の後でタイヘンだろうけど、一つ気合いの入ったの頼むわ」
「心配には及びません美綴先輩。
先輩、怪談には強いですよ? 夏場に藤村先生を脅かすのに効果的ですから」
視線が集まる。
……怪談の一つや二つは身につけているが、これだけの人数に語るのは初めてだ。
いや、そもそも誰かに話を聞かせるなんてのは性に合わない。
ヘンな脚色もできないし、自分でも面白いのかつまらないのか判断つかないし。
「落ち着いてでいいわよ衛宮くん。
いつも通りで、ここが土蔵だと思ってればいいんだから」
……まいった、こっちが照れる。
……仕方ない。
性に合わないがこれも祭りだし。
今まで、本当に楽しかった合宿を纏める為に、
「―――それじゃ、長い話を一つ」
柄にもない、初めての物語を口にしよう。
◇◇◇
1/Heaven's feel backnight T
夜の聖杯戦争1
どのくらいの間、ワタシは、蹲《うずくま》っていたのだろう
うめき声一つない。
喉には腐った枝が刺さっている。
舌は初めに引き抜かれている。
決して言葉を吐かぬよう、大切に大切に、発声器官を壊された。
痛みにもがく体《じゆう》もない。
手足は末端から散断《さんだん》された。
心臓だけで人体《いきている》みたい。
体はとうに機能していないのに、痛覚だけは律儀に働き続けている。
生存と苦痛は同義。
たとえ心臓だけであろうとも、在り続けるかぎり痛み続ける。
長い時間。
ワタシは、そんな日溜まりに放置される。
それは極まっている希望で、行き詰まっている絶望だ。
下らない。唾棄すべき錯覚でしょう。
何もかも認識不足、経験欠如であるが故の勘違い。
……ワタシは、痛みと安らぎを繰り返す。
幼い頃に味わったらしい、完成された反復運動を思い出す。
天《うえ》へ獄《した》へ、西へ東へ。
手足がないのも、段々と欠けていくのも痛くはない。
ただ、怖い。
何もないということ。
何にもなれなくなる不実が耐えられない。
いずれ、何も実らないというのであれば。
この苦しみは、苦しむ為だけの苦しみになるでしょう。
死にかけている瀕死のカラダ。
がむしゃらに死を望みながら、しゃにむに、生き続けることを望んでいる。
その背反を。
古く、彼らは地獄と名付けた。
告白すれば。
ワタシは、死にたくなんかなかったのだ。
……音が聞こえる。
カッチッチ、カッチッチ。
小石が弾け合うような音はどことなく規則的で、陽気なポルカを連想させる。
私はぼんやりと、その音だけを聞いていた。
……何処だろう、ここは。
思い出せない。いいえ、思い出す、という行為をしたがらない。
自分のだらしなさに恥じ入る。
こうして目覚めたのに、意識、理性が目覚めようとしないなんて。
「っ、ぁ――――――」
重い頭、重い手足に力を込める。言うことをきかない肉体に鞭を入れる。
腕を立てて、うつ伏せになっていた体をわずかに起こす。
……私はソファーに横たわっていたらしい。
どのくらい眠っていたのか。
それを思い出そうとして、いや、そもそもここが何処なのか思い出そうとして、
ひどいダメージがこめかみを貫いた。
目眩がする。まるで泥酔後の朝だ。
……酒に弱いクセに見栄を張って飲み明かしてしまうのは私の悪癖だが、幸い、体内にアルコールは残っていない。
「―――ここ、は―――」
目眩でグラグラする意識で状況を確認する。
……どこかの洋館、だろうか。
見覚えはあまりない。自分がどうしてここにいるのか、どうして今まで眠っていたのか、うまく思い出す事が出来ない。
カチ、カチ、カチ。
音は続いている。
時計はない。外は深い闇だ。私の感覚では午前零時過ぎ。部屋の様子は―――ダメだ、よく見えない。
手足が重いだけでなく、視力まで衰《おとろ》えているようだ。
部屋の様子は判るのに、ところどころがぼやけて全体を見渡せない。
それでも状況を把握しようとして、ようやく私は
「え―――?」
目の前に。
何者かが、背を向けて座り込んでいる事に気が付いた。
『男……?』
明かりがなく、視力が衰えている為、明確に捉えられない。
それでも人影が男性である事は読み取れた。
男はうつむいたまま座り込んでいる。
本でも読んでいるような姿勢で私に気づきもしない。
何かに没頭しているような感じだ。
「……?」
何をしているのだろう。ゆっくり、腕立て伏せの要領で体をあげて、男の手元を覗き込む。
手足の回復は知性、視力の回復より容易かった。
一度でも動けば、後は動かすほど可動性はあがっていく。
男が没頭している物は本ではなかった。
あれは……たしか、絵柄を合わせるパズルだ。
単純なゲームで、絵を16ピースに区切り、そのうち一枚を取り外してシャッフルし、空いた一ブロックへ動かして元の絵に戻す……のだっけ。
誰だって一度ぐらいは手に取るだろう、子供向けの娯楽だ。
男はパズルに没頭している。
私は覗き込むのを止め、ソファーに座り込む形で体を起こし、
「よう、目が覚めたかマスター」
十年来の友人のように、男は声をかけてきた。
「マス、ター……?」
呟いた自分の声にびくりとする。
「ん? なんだよ、まだ寝てんのかアンタ。
ほら、いい加減目を覚ませよ。目が死んでるぜ、いつもの生真面目さはどこいった」
男はケラケラと笑う。
耳障りな笑い声だが怒りを感じない。
私は呆然と、男を不思議そうに見つめている。
「私は、どうして……?」
とにかく、まずその疑問が優先した。
自分がどうして眠っていたのか、どうしても思い出せない為だ。
男は眉をひそめて―――よく見えないというのにおかしな話だが―――部屋の隅を指さした。
そこには古い、曇《くも》った姿見《すがたみ》がある。
「自分で確認しろよ。
アンタは何でも、自分一人で出来るんだから」
「………………」
おぼつかない足取りで姿見へ向かう。
明かりはなく、青ざめた月光が闇を際だたせる。
何処とも知れない洋館の一室の、長く、もう何十年と放置された曇った鏡面。
そこに。
呆然と私を見る、見間違いようのない私の姿があった。
「あ――――――」
声が漏れる。
不可解だ。二十年以上付き合ってきた自分の姿を見て、私は何かに驚いている。
暗い色を帯びた赤い髪と瞳。
可愛げのない、人を威圧する事しか出来ない容姿。
女である事を否定するような、鎧めいた男装。
これは私だ。今まで通りの、何の代わり映えもしない、バゼット・フラガ・マクレミッツである。
「――――――」
なのに、私は私に驚いている。
鏡に映る私は、どこか間違っている気がするのだ。
何か余分なものがあって、あるべきものが欠けている。
そんな矛盾した考えが脳裏に浮かんで、
「落ち着いたか? ならてっとり早く殺しに行こう。
お互い、やられっぱなしは性に合わねえだろマスター《・・・・》」
「―――――」
その言葉で、小さな違和感は消し飛んだ。
―――マスター。
どうしてその言葉を忘れていたのか。
奇跡を巡る戦い、生き残りをかけた七人の魔術師、最強の使い魔を使役する聖杯の担い手。
私はその為にやってきた。
東洋の島国で行われる、聖杯戦争と呼ばれる大儀式に参加する為に。
聖杯とは持ち主の望みを叶えるという聖遺物だが、真実の聖杯を手にした者はいない。
所詮伝説にすぎないもの。この冬木の街に召喚される聖杯も、その伝説を模した贋作だ。
しかし、オリジナルでなくとも願望機としての力があるのならそれは“聖杯”と称される。
魔術師たちにとって真贋など二の次だ。
要はその模造品に力があるかどうかが問題であり、その例で言えば、冬木の聖杯は大いに『問題あり』と言えた。
『―――彼の地にて召喚される第七百二十六号聖杯は、真作となる可能性が秘められている。我らが理想とする秩序に基づき、これを人の世より隔離せよ―――』
私の所属する魔術協会……魔術を隠匿すべく組織された自衛団体……は、そう判を下した。
彼の地の聖杯戦争は魔術師たちによる競い合いである。
冬木の聖杯戦争は参加人数が限定されており、協会が持つ参加枠は一席だけだった。
選ばれるのは戦闘に特化した者。
魔術を学問ではなく武力として実践する者が適任である。
……極東の島国の、協会内の派閥争いには何の関係もない、ただ厄介なだけの大儀式。
敗北する事は許されないが、勝利したところで何の栄誉もない戦い。
その戦いに、私は選ばれた。
サーヴァントを召喚する触媒は、私の家に伝わる遺物を用いろとの事だ。
私は協会の威信と信頼、そして剣を背負って協会を後にした。
『我々は僅かな不安も抱かない。
そうだろうバゼット・フラガ・マクレミッツ?
君は優秀な魔術師だ。こと戦闘において、君の右に出る者はいない。いては、君の立場が危うくなるからね』
陰湿な笑みを浮かべて彼らは私を送り出した。
彼らの言う通り、戦闘技術に関してのみ、私は絶大な信頼と、軽蔑を受けていた。
伝承保菌者《ゴ ッ ズ ・ ホ ル ダ ー》。
その二つ名。私の家系が伝える、古い血を生かした魔術特性が、私の在り方を決定付けている。
「……そうだ。私はマスターとして、聖杯戦争に参加した」
協会の魔術師として聖杯戦争に挑み、これに勝利する。
それが私の任務だ。
それだけが私の任務だった筈だ。
「…………、っ…………」
……なのに、何故だろう。
私は漠然と、聖杯ではない何かを探していた気がする。
何かを。誰かを。
ともすれば、聖杯より強く、誰かに会いたいと想って、
思い出せない。
この数日の内に、私に何が起きたのか。
自分が何者であるかは認識できるのに、その後―――冬木の街に到着してからの記憶が曖昧だった。
マスターとして戦いに参加した記憶はある。
サーヴァントと共に街を巡回した記憶もある。
だが所々が欠けている。数日間……そうだ、この街に着いてからの記憶に靄《かすみ》がかかっている。
そもそもどうして、私はこんな洋館で、今まで眠っていたというのか。
「おーい。いつまでもボケッとしてんじゃねえぞ。
時間もねえんだ、さっさと片づけに行こうぜ」
「――――――」
……先ほどから話しかけてくる影。
彼はサーヴァント。過去の英雄を召喚し、形を与えて使役する者。
英霊と呼ばれる、人間が使役する類では最高位の使い魔。
マスターとサーヴァントの間には魔力を提供する為の路《パス》が通る。
私の魔力……端的に言えば生命力だ……があのサーヴァントを動かし、私という肉体が楔《くさび》となって、あのサーヴァントを現世に留めている実感がある。
彼が私のサーヴァントである事は間違いない。
しかし……私が召喚したサーヴァントは、あんなサーヴァントだったろうか……?
「おまえは……私のサーヴァントなのか?」
頭痛に悩まされながら尋ねる。
「はあ?」
いよいよ不審に思ったのか、サーヴァントは立ち上がって私を見据えた。
「へえ―――アンタさ。
その様子からすると、まだ本調子じゃねえってコト?」
ゆらりと燻《くすぶ》る影は、炎のようだった。
……直感する。
この男は私のサーヴァントであるが、決して味方ではない。
隙あらば主人を殺し自由になろうとする獣の類だ。
マスターとサーヴァントの関係は信頼による主従関係ではなく、利害の一致による協力関係にすぎない。
わずかな緩み、わずかな綻びを見せれば、その瞬間に裏切られる事もあり得てしまう。
「おい。心配して相棒さまが訊いてるんだぜ。答えるのが筋ってもんじゃねえの?」
「―――そうですね。正直に言うと、私の性能は低下しています。
運動に支障はありませんが、意識に混乱が見られます。とくに、昨日の記憶が曖昧だ」
記憶の混乱を隠したところで利点はない。
私はサーヴァントを見つめ返し、自身の不調を明らかにした。
ただし、隠すべき事は隠す。
視力が落ちている事、記憶が曖昧なのではなく記憶が欠落している、といった事は教えられない。
……それは今の私の弱点だ。語れば、このサーヴァントは即座に私に牙を剥くだろう。
私に出来るベストは、自然に振る舞いながらサーヴァントから情報を引き出し、記憶の回復に努める事だ。
「記憶が曖昧? オレを呼んでおいて何も分かってない? 聖杯戦争の事も自分が誰かも分からないってのか?
おいおい待てよ、勘弁してくれ! それじゃあズブの素人と組んだ方が幾らかマシじゃねえか!」
「いえ、自分が何者なのかははっきりしています。
貴方を召喚した事も、マスターとして聖杯戦争に参加した事も覚えている。曖昧なのはその後だ。
たとえば、どうして私がここで眠っていたのか、どうもよく思い出せない」
弱気を見せず、事実を語る。
功を奏したのか、サーヴァントが持っていた不審な匂いが薄れていく。
「質問を返しますが。
私はどうしてここで眠っていたのか、教えてもらえますか」
「なんでかって、そんなもんオレが知るか。
この洋館を隠れ家にするって言ったのはアンタだし、オレを召喚してすぐ、疲れたから休むって言ったのもアンタだ。
そのあたり、覚えてないのか?」
……む。
確かに―――冬木の街に訪れる前、協会で戦いの拠点に適した隠れ家を調べた。
その中に……そう、この洋館があった筈だ。
……意識が霞む。
記憶を呼び戻そうとすると気が遠くなる。
今はあまり無理はせず、サーヴァントから事情を聞き出さなければ。
「この洋館を隠れ家にする、と決めたのは私でしょう。それには覚えがあります。
そして―――貴方を召喚した」
……ぼんやりと覚えている。
私は確かに、この洋館でこのサーヴァントと契約したのだ。
「そうそう。で、すぐに眠ったんだよアンタは。名前だけ名乗って、私が起きるまで行動するな、なんて言いやがった。
おかげでこっちは溜まりまくりだ。
殺し合いに呼ばれたってのに、なんだってお預けくらってなきゃなんねえのかねぇ」
名前だけ……?
いや、それよりこのサーヴァントの物言いは危険だ。
好戦的なのは頼もしい限りだが、必要以上に戦いを好まれては困る。
「待ちなさい。確認しますが、私たちは基本的な戦闘方針すら話し合っていなかったのですか?」
「ないよ。きっと必要なかったんだ。
アンタは事前にこの街を調べていたろうし、オレだって聖杯戦争がどんなものか、呼び出された時点で頭にたたき込まれてる。
要はより早く、効率的に、手段を選ばず、他のマスターどもを殺していけばいいって話じゃんか。相談するコトなんてねえよ」
「――――――」
「……げ、おっそろしい顔するなぁアンタ。そう睨むなよ、おっかねえじゃん。
なに、オレ気に障るコトでも言った?」
「ええ。貴方とは相互理解が必要なようですね。私のサーヴァントがそんな考えなしでは腹が立つ。
私は協会を代表する魔術師であって、猛獣使いになる気はありませんから」
視線でサーヴァントを威圧する。
サーヴァントはへえ、と視線を逸らして、
「…………まあ。相互理解は、できないと思うけど」
他人事のように呟いた。
「いいさ。で、なに、協会の代表さまはどんな戦いがお好みで?」
「事は隠密に、無駄な戦いは行いません。
まずは敵マスターの調査を優先。今回の聖杯戦争がどういったものかを把握した後、倒すべき順番を考慮し、各個撃破に移行します」
それが協会からの指示だ。
まずは聖杯戦争を司る三家、アインツベルン、遠坂、マキリのマスターを調査しなくては。
その後、残り三人のマスターを調べ上げる。
中には話し合いでマスターを放棄する魔術師もいるかもしれないし、協会で保護すべき人材もいるかもしれない。
なんにせよ、情報が揃わないうちに行動を起こすのは協会の魔術師として恥ずべき事だ。
「はあ? 遣いっ走りの犬じゃあるまいし、なに悠長に言ってやがる。
敵は見つけたら殺せよマスター。結局は潰し合う同業だ。出会ったら最後、逃げられないし逃がさないものだろうが《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
「――――――」
……言われるまでもない。
私だってそれは同じだが、協会の方針には逆らえない。
「従いなさい。協会は神秘を隠匿する為の組織です。下手な騒ぎはできません。
それに、無秩序に戦えば一般人に犠牲が出てしまう。
聖杯を入手するのは絶対条件ですが、街の人間を巻き込む事は極力避けるべきだ」
事は魔術協会だけの話ではない。
聖杯戦争には聖堂教会も噛んでいる。
街に被害が出た場合、彼らが精力的に隠蔽を図り、儀式を円滑に進めてくれる。
が、それも度を過ぎれば敵に回る。
前回、四回目の戦いのおり、無差別に人々を殺しまわったマスターがいた。監督役の神父はそのマスターを外敵とみなし、多くのペナルティを与えたという。
「……ふーん。それは手段を選ぶってコトかな。
オレには思いつかないが、勝ち残る為の一環として殺しはしない方がいいとか?」
「勝ち残る為ではありません。私とて魔術師です。必要であれば手は下します。
ですが、それでも人として最低限守るべき良識《もの》があるでしょう」
「へえ。あー、そりゃあ、なんつーか」
気の抜けた声。
サーヴァントは無気力そうに息を吐いて、
「……アンタさ、令呪つかってくんない?
私には逆らうな、みたいな。そうしないと、アンタを真っ先に殺しそうだわ、オレ」
喉を鳴らす。
……このサーヴァントは本気だ。
後先の事なんて考えていない。
保身の為にマスターと協力する、なんてルールはこいつには適用されない。
こいつは今、本気で私の首を狙っている。
それを防ぐ為に令呪を使え、とサーヴァントは言う。
マスターが持つ三つの絶対命令権。
聖杯から与えられる強力なコマンドスペル。
たった三度しか使えない、しかしあらゆる命令を厳守させるマスターの切り札。
だからこそ、私は即答する。
「―――断ります。飼い犬に命令される主人などいないし、飼い犬に殺される者など主人ではありません。
貴方はマスタ《 わ た し》ーのサーヴァントだ。貴方がどう動くか、貴方がいつ死に挑むかは私が決める」
殺意を殺意で押し返す。
どのみち、この程度の事で令呪を使うのなら私に先はない。
右手を握り締め、いつ襲われても迎撃できるよう踵《かかと》で床にルーンを刻む。
「なるほどね。んー、なら考え方を変えてみるか。
オーケー、オレはアンタのサーヴァントだ。飼い主には従うよ」
「――――――」
あっさりとサーヴァントは折れた。
……なんというか、少し拍子抜けだ。
ここでサーヴァントの実力を知っておくのもいいと、戦いの予兆に胸が躍りかけていたのに。
「ん? なんだよぅ、それでも文句あんの?」
「い、いいえ、問題はない、けど。
……本当に、私の言葉を理解しているのですか?」
「ああ。出来るだけ死人は出すなってんだろ?
それがマスターの方針って事は理解したよ。で、他には? まだ言っておくコトってあるか?」
……細かい事はそれこそ山ほどあるが、方針として語るべき事はない。後は状況に応じて指示を出していけばいい。
「よし。なら行こうぜ。いい加減、ここにいるのも飽き飽きだ」
街に出よう、とサーヴァントが促す。
体はまだ不安定だが、町の様子も気にかかる。
それに―――長く眠っていたからなのか、とにかく、私の体は運動《ジ ユ ウ 》を欲しているようだった。
「……分かりました。細かい方針は、状況に応じて変えていきましょう」
気を取り直す。
とりあえずラックは置いていこう。
剣には限りがあるし、今の身体条件では使いこなせない。
他のマスターたちが判明してから、誰に使用するべきか考えればいい。
「しかしねえ、出来るだけ死人は出すな、か。ひひひ。いいね、そうできたら最高かもな」
楽しげにサーヴァントは繰り返す。
「……含みがあるのなら言いなさい。
私の方針に意見があるなら、ここでカタをつけましょう」
「だから理解したって。おっかねえからアンタとはまだやりあわねえよ。
けどさ、それは無理なんだマスター。
死人を出さないとか周りを巻き込まないとか関係ないよ。
アンタがどう頑張ったところで、この町は四日間しか保たないんだから」
……? 四日しか、保たない?
「…………なん、ですって?」
「外に出れば分かる。とっくにそんな状況じゃねえってな。この街の人間は、日々溢れだしてる“得体の知れない連中”にどんどん減らされていってるんだから」
「得体の知れない連中ですって……?
そんな馬鹿な。貴方、私の記憶が曖昧だからとつまらない狂言を、」
「外に出れば分かる。百聞は一見にしかずだ」
くくく、と笑いを押し殺すサーヴァント。
黒い影は、戸惑う私の手を取って歩き出す。
「さあ、聖杯戦争を続けよう、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
―――今度こそ、君の望みを見つける為に」
洋館は高い丘の上に建っていた。
周りに人家はなく、森の中に隠れるように佇んでいる。
……頭痛がする。
外の空気を吸えば幾分クリアになると思われたが、冷たい夜気はいっそう思考《わ た し 》を曖昧にする。
「どうしたマスター。まだ外に出るのは早かったか?」
私をからかうサーヴァントの声。
頭《かぶり》を振って前に進む。
意識がゆるやかに回転する。
明るい月の光に、気が眩《くら》んでいるようだった。
静かだった。
午前二時を過ぎていると言っても、街の静けさは度が過ぎている。
……すこし、故郷に似ているかもしれない。
私が幼年期を過ごした港町。
夜になると潮が町に溢れ、人々は恐れるように家に閉じこもった。
無人の町並は海底に沈んだ船のようで、子供の頃の私は、ともかくあの土地から逃げ出したがっていたものだ。
あのまま海の底に留まっていたら、誰からも忘れ去られてしまう気がしたからだろう。
もう誰も覚えていないという、古い神々と同じ末路を辿る事が、呪いに思えて仕方がなかったのだ。
「……………………」
そして今、冬木の街も深海に没している。
私が記憶している冬木とは雰囲気が違う。
静かすぎる―――これでは廃墟と変わらない。
にも拘《かか》わらず、生き物の気配だけはある。
きちんと、夥《おびただ》しいまでの息遣いを感じる。
私の周りには体験した事のない気配が満ちている。
……得体の知れない連中がいる、とサーヴァントは言った。認めがたいが、彼の言い分には信憑性があるようだ。
「お、なんだあれ」
町を歩いて二時間は経っただろうか。
サーヴァントは足を止めて、ある民家を眺めていた。
「すげえな。このあたりは見て回ったんだが、まだ残っていやがったか」
感心した声。
彼が見つめる民家は何の変哲もない建物だ。
他の民家と違う部分があるとすれば、それは―――建物に、明かりが点いている事だけ。
「アンタはそこにいろ。まだ本調子じゃねえんだろ。
一足先に、オレが様子を見てきてやるよ」
単独で歩き出すサーヴァント。
私はそれを追おうとして、
無様にも、月の光に眩んでしまった。
―――正直な話。
他の連中《サーヴ ァント》はどうだか知らないが、オレは、はじめっからやる気なんざ無いのである。
サーヴァントとは伝承の域にまで昇華した存在《えいゆう》を召喚し、人型《カ タ チ 》を与える事で使い魔とする大魔術である。
英霊の力の一端を借り受ける、なんてしみったれたコトじゃなく、本人そのものをまるまる映し出す反則技だ。
聖杯戦争中だけの蘇生。短命のクローン。現代に甦った人類の守護者。
そりゃあ実に聞こえはいい。自律兵器は便利でいいしね。
が、その内面まで複製するのはやりすぎだろう。
使い魔に知性は不要だ。それがサーヴァントなら尚更である。主人より優れた使い魔に知能があったら、反逆しない道理がない。
幸運なコトにオレを呼び出した主人《マスター》はオレ好みのいいオンナで個人的には満足しているが、やっぱり反逆らしきコトはしてしまう。
何故か。
仕方ねえよ、主人に不満がなくとも世の中に不満があるんだから。
気分は最悪、死体置き場に放置されてる気分だった。
オレが生きていた頃、世界はまだまだそれなりに瑞々しかった。
だが今じゃ死にかけ、余命数億、手遅れのご老体だ。元気だった頃を知っている身としちゃあ、少しは憤慨しとかねえと義理を欠く。
いやまあ、いずれ食い尽くすコトは明白だったんだが、ここまでペースが速いとは。
そのはしたなさに同族嫌悪しているワケだが、同時に、褒めてやりたい気持ちもある。
人間の能力は凄まじすぎる。
目まぐるしい人徳交代。今まで何世代の新人類が生まれ、何世代の新人類が淘汰されていったのか。
ここまでスピードが速いクセに、資源を食いつぶす以外の進化論を生み出せなかったコトがちょっと残念。偉いぞ、新しい循環より出来合いのシステムを増幅させる方向に頑張ったんだね。
けどそれじゃあ先がないんで、もう少ししたら、まだ猶予があるのなら、なんとか新しい成長を遂げて先に進んでほしいもんである。
せっかくここまで壊したんだ。
我々は何処に向かいたかったのか、何の為に大地を食い潰したのか、つまるところ可《ぜん》だったのか不可《あく》だったのか、誰にでも分かるように結果を出してほしいもんだ。失敗でも構わないゼ。
「あーあ。ほんと、他の連中はどう思ってんのかねー」
英霊たるもの、この時代に反感を抱かない筈がない。
それとも英霊ってのはそれ自体が人類の支持側だから、あらゆる結果を是とするのだろうか。オレが、あらゆる結果を非とするように。
仮に―――神の如き絶対者としての善がいるのなら、そいつはこの時代に召喚されて何をするか。
容認するか、擁護するか。
容認するのなら滅亡を。擁護するのなら傍観を。
まっとうな英霊ならとりあえずは擁護だろう。
ネジが一本ぐらい飛んでるヤツは喜んで手を貸すだろうし、ネジがあと一本ぐらいしか残ってないヤツは世直しに奮起したりするやもしれん。
私がこの世界を救うのだ、みたいな。
すげーな、そんなヤツとはやり合う以前に出会いたくもない。
で、かく言うオレは―――どっちにしてもやるコトは一つだ。
英霊と言ってもオレは大して強くない。世界中の伝承を見渡しても、オレより弱い英霊なんて存在しない。
イエーイ、アイムナンバーワン! ついてるねマスター、これ以上底はないぜ! いかに強者を食うかを考えるだけだから、作戦も立てやすいってもんだ。
……そもそも考えたくないんだが、純粋な戦闘能力ならオレよりあのお嬢さんの方が上なんじゃないのか実際。
人間にガチで負ける英霊かあ。ひひひ、もう消えてしまいたい。
「だよなあ―――正直いただけねえわ、あの女」
できるだけ死人を出すな、とバゼットは言った。
さすが名門の魔術師さま、実に箱入り娘で優等生な方針だ。英霊を駆るマスターに相応しい、高潔な人間性である。
けどさあ、そりゃあオレには無理ですよ。
オレに出来る事なんざ殺す事だけだし、正直、無血勝利なんてまだるっこしい。
オレはただでさえ最弱なんだから、手段を選んでいては勝てない。
仮にも戦争の名を冠するなら、徹底して人間の作り上げた殺戮技巧に頼るべきだ。
サーヴァントはともかくマスターは人間なんだから、前回の戦いみたいに地雷だの爆撃だのでオトした方が簡単だろうに。
「……ま、今はそんな時期じゃないけどな。
前は物騒な時期だったからな、命の扱いは安かったんだが―――」
今回はそうはいかない。
魔術協会の目が厳しいし、近代の人間が作り上げた治安は中々に優秀だ。下手に暴れれば、そこから他のマスター達にバゼットの所在が割れるだろう。
千客万来、早くケリがつくのはてっとり早くてよろしいのだが、連戦連夜は疲れるので避けたい。
その点において、控えめにやろう、というバゼットの方針はオレの性分に符合する。
符合するので、オレもサーヴァントらしく、出来るだけマスターの方針には従うのであった。
さて。
前後して、たった現在《いま》の話をしよう。
「待て―――何をするつもりだ、おまえは」
弱気なマスターの声を無視して民家に向かう。
調べるまでもない。
明かりが点いている以上、中には人間が生きている。
あいにく気配で人間を感知する能力なんざねえし、熱源を探知するスキルもない。
サーヴァントとしてオレが持つスキルは無。
けど大丈夫。中にいるのは人間《・・》だ。
霊体化して玄関を通過する。
凶器《エ モ ノ 》を具現化させて人のいる居間に向かう。
いつも通り、速やかに残酷に済ませましょう。
仮に、何かの間違いで中にいるのが人類史上最強の超人で、英霊を上回る戦闘力を有していても問題はない。
最弱のオレは最強の人間に勝る。
何故なら―――
―――自慢じゃないが。
人間が相手なら、オレは世界最強だ。
血飛沫が飛んでいた。
住人は死んでいた。
中年一人、少年二人、婆さん一人、血塗れの刃物を持った爺さん……はまだ生きている。
「――――――なにそれ」
拍子抜け。
オレが侵入した時、もうコトは済んでいた。
ハッ、ハッ、とそいつは呼吸を繰り返す。
都合四人を惨殺した凶悪犯。
そいつは残った爺さんを仕留めたいのか、入ってきたオレには関心がない。
「ひい、ひいい、ひいいいいい」
爺さんは壁に追いつめられながら、必死に首を振っている。
殺害現場・殺人方法は、パッと見凄惨。
皆さん原形を止《とど》めないぐらいズタズタで、景気よく血と肉片と臓物をまき散らしている。
むせ返る生き物の匂い、どろっどろに塗りたくられた生活空間、さよならさよなら一家団欒《だんらん》。
チ―――なんて清潔な殺害現場。
汚点なんざ一つもない。なにしろ殺す為に殺した事だ。
略奪も陵辱も食欲も、ここには微塵も存在しない。
「だ、誰が、だずげ……!」
頼まれたので助ける。
後ろからの不意打ちだったので、あっさりと殺人犯は始末できた。
その後に、本来の仕事に戻った。
私がその民家に飛び込んだ時、全ては終わっていた。
「―――なんて事を」
居間には五人の死体がある。鼻から上を切断された生首らしきものが五つあった為、そう判断できた。
……それ以外には何人いたのかが判らないほどの、凄惨な殺戮の跡だった。
「悪いな。先に済ませちまったぜ」
鮮血の中心にぼけっと佇みながら、サーヴァントは言った。
「――――――」
……サーヴァントの手には歪《いびつ》な短刀が握られている。
獣の爪と牙が混ざり合ったようなフォルム。逆手に握るのか、あんな使い辛そうな武器は見た事がない。
アレが彼の武器―――英霊としての宝具《シンボル》、という事か。
「おっかないぜマスター、そう睨むな。
どうだ、ひとつ状況説明でもするか?」
「必要ありません。凶器と傷跡は一致しています」
だろうな、と影が笑う。
詳しく調べるまでもない。
状況は、この惨劇の原因があのサーヴァントだと告げている。
「私からの質問は一つです。なぜ殺したのですか」
「なぜって、これもアンタの為だぜ。オレはアタリを探しているだけだ。一人一人調べるのも、一人一人殺していくのも変わらない。
要は目撃者を作らなければいいんだろ? ならよ、こうして潰していけばいつかマスターに出会えるぜ」
「――――――おまえは」
こいつは、これっぽっちも私の言葉を聞いてはいなかった。
戦いに赴いた以上、何らかの犠牲を強いる事は覚悟している。
私とて魔術師だ、殺人鬼とそう変わるところはない。
だが、それでも―――こんな、成果の残らない犠牲を望んでいる訳ではない。
「おまえは、人を殺す事が楽しいのか」
「あ? バカ言うな、オレだって好きでやってるワケじゃねえ。こうして求められた以上、自分に出来る事をやっただけだぜ。
あのさあ、人型をしてるからって勘違いするなよマスター。サーヴァントってのは、つまるところこういう道具《モン》じゃないのか?」
「質問に答えていない。
私は、人を殺すのが楽しいのかと訊いたのです」
サーヴァントを睨む。
歪な短刀を持った影は、
「とりわけ何も。第一、殺しちゃ楽しめねえだろ、色々」
ひひ、と。
愉しみを共有したがるよう、下卑た笑いを私に向けた。
「―――貴様、それでも英霊か」
感情が抑えられない。
……おかしい。こんな相手は今まで何人も見てきたというのに、私は理由もなく、この男の在り方に反感を覚えている。
この男だけは、なにか、許してはいけない気がしている。
「アンタこそ。殺し合いが向かないんならマスターになんざなるな。しらけるんだよ実際。
―――ああつまんねえ、せっかくのショウが台無しだぜ。喜んでもらえると期待してたのにさ」
「そう。……悪いけど、その期待には最後まで応えられない。いま確信したわ。私たちはそりが合わない。貴方は、私が最も嫌う人格だ」
自らのサーヴァントに敵意を向ける。
私は、真っ先に信頼を得なければならない相手に、苛立ちにも似た憎しみを向けている。
……調子がおかしい。
感情をむき出しにして誰かを憎む未熟さなど、とうの昔に脱ぎ捨てた筈なのに。
「……へえ。いいね、オレも基本的にあらゆるモノが気に入らない。
ヘタに気を許されると苛つくんで、それぐらいが丁度いい。キキ、こういうのも気が合うって言うのかねぇ」
サーヴァントは気にした風もない。
私は彼を嫌い、彼も私をなんとも思っていない。
お互いに親愛の意図はないから、嫌い合っても軋轢《あつれき》は生じないという事か。
「けどさ。アンタは、わりと好きな部類に入る」
―――と。
なのに、おかしなコトを彼は言った。
「……なぜですか。貴方はあらゆるモノが気に入らないのでしょう。
マスターとして、貴方がどのようなサーヴァントかは理解できる。貴方の方向性は、人間を好むものではない」
「とりあえずいい女だからかな。気にいらねえけど好感を抱いてるんだ」
「―――私が女だから、という理由ですか」
「女じゃなくていい女。アンタさ、えらくそそるんだよ。
体つきも好みなんだが、優等生なところとか、一般論を守ろうとしてるところとか、みっともなさすぎて見ていられない。
分かる? こんな単一機能を発揮しただけの仕事じゃなく、何らかの意味を以て殺したくなるぐらい、アンタはオレを欲情させてるってコト」
影が笑う。
繋がったパスから、受肉するほどの指向性が流れこむ。
―――このサーヴァントの言に偽りはない。
彼は、あらゆるモノを憎んでいる。
ごく自然に、何の目的も報酬もなしに、目に見えるモノ全てを殺害対象としている。
……そうでもなければ有り得ない。
魔術という発火装置を用いず、ただそこに居るだけで、呪い《カ タ チ 》になるほどの憎悪など。
……しかし、それはそれで疑問が湧く。
これほどの殺意を持つ彼が、どうして、あの時私を殺そうとしなかったのか。
「……先ほどの話ですが。
貴方はまず私を殺すと言い、それを抑えた。
私に欲情している貴方が令呪なしで、どうやって私への欲求を抑えたのですか?」
「ん? ああ、アンタはマスターだからな。アンタは人間じゃないって、さっきルールを作ったところ。
まー、要するに、この世で唯一つ殺す気になれない生き物になったってワケ。
見てくれは女だけど中身は人間じゃないっつーか、攻略対象外の生物にカテゴライズしたんだよ」
さらっと。
なにか、ひどく気分を害する返答をされた。
「……私を、人間扱いしない、と……?」
面白みがない、可愛げがない、といった評価は聞き慣れていたが、そもそも女性扱いされないのは初めてだ。
ああいや、人間として考えない、と彼は言ったのだが、私にはそういう風に聞こえたのだ。
「あれ、信用できねえか? 最大限の譲歩なんだぜ、こんなの最初で最後の特例なんだぞ?
……くそ、頭くるな、こっちは本気なのに。
はいはい、そうですか、形のない物は見えませんか。しょうがない、こういうのなら信用できる?」
私の沈黙を『不審』と捉えたのか。
血まみれの机からメモ用紙を切り取って、サーヴァントは何やら書き込んでいる。
「ほい、これあげる。誰かに譲ったりしないように」
メモ用紙には達筆な日本語で、『殺害対象外認定証。聖杯戦争終了まで有効』などと書かれている。
「―――なんですか、これは」
「なにって、人間じゃない証明書。
これなら誰が見てもアンタは攻略対象外って判るだろ」
良かったね、と紙切れを押しつけてくる。
……やはり、さっきの確信は正しかった。
私とこのサーヴァントは、絶望的なまでにそりが合わない。
いつまでも殺害現場にいる訳にはいかない。
早急に民家を後にする。
サーヴァントの独断行為に不満はあるが、済んでしまった事は戻せない。口論を続けたところで出るものは不審の念だけだ。
……ただ、一つだけ妙な感情がある。
私はこのサーヴァントを信頼できない。
マスターとサーヴァントは繋がっている。それ故に、彼が殺人を良しとして、敵であるなら容赦なく、相手が何者であろうと殺し尽くす“属性”なのだと感じ取れる。
私とは正反対だ。
私は任務に私情を挟まず目的を遂行する。
だがこのサーヴァントは、私情のみで任務を完遂する。
“人間を殺したい”という私情のみで活動するのだ。
しかし―――
「なんだ、よそに行くんじゃないのかマスター。
それともアレか、ここで異常を聞きつけてきたマスタ《まぬけ》ーどもを嵌め殺すかい?」
「そんな見え透いた罠にかかる魔術師はいませんし、戦闘は第二段階からです。
まずは調査からと言ったでしょう」
「いや、けっこういそうだぜマヌケな新人《ルーキー》は。
たとえばぁ、夜の巡回に精を出して勝手に死んでそうなヤツとかな!
下調べなんてやってたら他の連中に食われるってのが分からねえんだよ。ほんと、不治の善人だねありゃ」
「………………」
サーヴァントの軽口を無視して歩き出す。
―――しかし。
それだけのマイナス要素があるというのに、私は、このサーヴァントを不快とは感じていない。
彼は私が最も嫌う人間である。あらゆる面で私は彼を許容できない。
……なのに、なぜだろう。私は、彼を完全には嫌悪できない。
目を閉じて彼との繋がりを意識する。
……流れ込む魔力と引き替えに、時折、とても清涼なモノがあるのだ。
胸をこする郷愁、憧憬にも似た祈り。
……なんて空《むな》しい。
その空虚さが私に告げている。
明確な理由は分からないが、このサーヴァントは決して私を裏切らない。
彼は、私の聖杯《ね が い 》を叶える為に、その無秩序な意志を私に貸してくれているのだと―――
巡回を再開する。
今夜は新都を重点的に調査する事にした。
新都の調査は二時間ほどで終わった。
魔術師の痕跡は発見できず。
加えて、サーヴァントの言う“得体の知れない連中”の話が真実味を帯びてきた。
未だに半信半疑だが、確かに冬木の街は様変わりしている。
所々におかしな気配を感じる。
常に誰かに見られている。
―――街の至るところに、微妙な綻びがある。
反面、これだけ魔力の残り香があるというのに、魔術の痕跡はまったくない。
……マスターによる魔力収集、という訳でもなさそうだ。
戦いとは無関係なところで街の人間を餌食にしているモノがいる、としか思えない。
こんな事をして得をするマスターはない。
これでは逆に、聖杯戦争そのものを停止させてしまうからだ。
「そうか。聖杯戦争を聞きつけた外来の魔術師なら―――」
聖杯を欲しながらもマスターに選ばれなかった魔術師がいるとする。
そいつがネジレた復讐心で儀式を阻もうとしているか、それとも―――他の協会からの依頼で、聖杯戦争を妨害しにきたのか。
どちらにせよ、冬木の街に八人目の魔術師がいるのは確かなようだ。
「八人目? もう一人邪魔者が増えたってのか?」
「……断言はできませんが、その確率が高い。
私の知らない魔術師が第五次聖杯戦争に介入しようとしているのは確かだ。
その魔術師の目的は分かりませんが―――」
そいつは聖杯戦争のルールを壊す事から始めている。
私の敵ではなく、マスターたち全員の敵と考えた方がいいだろう。
「へえ。そいつ、どんなヤツ?」
「直接的な戦闘に自信がなく、広範囲の結界作りを得意としている。攻めより守りが向いているのでしょう。
正しく魔道を学んではいませんね……黒魔術とドルイド思想が混同されている」
「そういうんじゃなくてさ。強いか弱いかって話」
「魔術師としてのスキルは初歩です。ですが―――」
残された魔力は、非常に高密度の残り香だった。
魔力というのは魔術を起動させる為の燃料にすぎず、ソレ単体で効果を発揮する事はない。
だが特例として、魔力そのものが魔術に近い特性を持っている場合にかぎり、カタチとして残る事がある。
たとえば―――伝え聞くアインツベルンは、聖杯に人格を与えたという。
その人格が魔力を持つのなら、ソレは生まれながらにして『願いを叶える』という魔術特性を持つに至る。
生命活動と聖杯の機能が直結しているであろうソレなら、魔力を放出するだけで『魔術』めいた奇跡をカタチにするだろう。
聖堂教会が語る『受肉した魔』もこの例に当て嵌まる。
生物である前に『魔』として創造されたモノたちは、人間より高度な魔術を行使する。
魔術師《わ れわ れ 》の魔術回路は疑似神経にすぎない。人間としての神経の裏に作り上げた、後付の能力だ。
だが―――『魔』には疑似神経などない。
彼らにとって、その生体機能全てが『魔』を呼び込む為の機能なのだから。
教会ではそれを『真性悪魔』と呼ぶのだそうだ。
人間の想念を被《かぶ》って『個体名』に成る偽物とは違う、主が遣わした、人が名付ける前からそうであった本当の『悪魔』だと。
「……何にせよ、厄介な介入者のようです。
つまらない行動原理の魔術師なら取るに足りませんが、教会に雇われたフリーランスだとしたら侮れない。
……そういえば、前回の聖杯戦争で勝ち残ったのも、たしか」
アインツベルンに雇われたフリーランスの魔術師だった。
名を衛宮切嗣《えみやきりつぐ》。
私が封印指定の任についた頃には前線から退き、アインツベルンに招かれていた武闘派の魔術師だ。
衛宮切嗣という人物と私は職種がバッティングしている。彼が現役であったのなら、何度か剣を合わせていた事だろう。
状況は狂い始めているが、敵が一人増えたところで方針は変えられない。
出来うるかぎり街の人間に被害を与えないよう調査を行い、全てのマスターを把握する。
問題はその後だ。
私のサーヴァントの能力が低ランクなのは明らかだ。
まっとうな実力勝負ではいずれ力尽き、敗北する。
戦う順序を考えねばならないが、最後に挑むべき相手ははっきりとしている。
聖杯の系譜、アインツベルン。
今回、彼らは最強のマスターを用意したという。
私は過去、アインツベルンが作り上げたホムンクルスと戦った事がある。
……失敗作として廃棄される運命だったソレはアインツベルン領から逃げ出し、人の街で泥を啜《すす》り生き延びていた。
その後始末を任されたのだが、結果は苦いものだった。
当時の私が未熟だったという事を考慮しても、アインツベルン製のホムンクルスは凡百の魔術師より手強かったのである。
そのアインツベルンが『最強』と自負するマスターが、この戦いに参加している。
正直、今の段階では勝算すら見えてこない。
敵の手の内が判明するまでアインツベルンと戦うのは自殺行為だ。
郊外の森、アインツベルンが支配する古い城。
……そこにこちらから攻め込む時こそ、私の聖杯戦争に決着がつく時だろう。
最後に、丘の上の外人墓地にやってきた。
心にアインツベルンの影が差し込んだからか。
くらりと意識が落ちかけて、弱気になる。
……あまり、ここには近寄りたくない。
「どうしたマスター。考え事か?」
不安が顔に出たのだろうか。
サーヴァントはわりと真剣に、私の体を心配する。
その、唐突な心遣いに惑わされて、
「……つまらない質問ですが。
貴方は、私が勝てると思いますか……?」
意識していなかった、弱い不安を口にした。
「――――――」
サーヴァントの色が変わる。
口元を皮肉げに歪めたまま、彼は私に背を向ける。
「その不安はまだ早い。
勝つか負けるかなんざ、何を倒すかを決めてからなんだが―――」
緊迫した声。
獲物を前にした獣のような前傾姿勢。
「―――ついてねえな。
どうやら、悠長に悩む時間はないみたいだぜ」
ニヤリと笑う。
その視線の先には、一組のマスターとサーヴァントの姿があった。
「っ……!」
強い魔力を感知する。
左手には令呪の輝き。
まだ年若いだろうに、その才気は私を遙かに上回っているようだ。
「はじめまして、鄙《ひな》びた荒野の魔術師さん。
どう、お互いの名を知る必要はあるかしら?」
名門の出なのだろう、私を蔑む視線が堂に入っている。
少女の傍らにはもう一つ人のカタチがあった。
何のクラスかは判別がつかないが、マスターが連れている以上サーヴァントに違いない。
「―――――」
胸ポケットから加護のルーンを刻んだ革手袋を取り出す。
何か、硬いものが一緒に取り出された。
どうしてこんなイヤリングを持っているのか、なぜ大事そうに仕舞っていたのか。
疑問が浮かぶが、今はそれどころではない。
両拳に嵌める。
少女は礼儀正しく私の出方を待っている。
……ラックを持ってこなかった事が悔やまれる。次があるのなら、たとえ調査であろうと装備してくる事にしよう。
早々に切り札を使う訳にはいかないにしても、アレが有ると無しでは戦略の幅が違う。
「―――敵の実力を計ります。貴方はサーヴァントの相手を」
「あいよ」
様子を見る慎重さもなく、彼は少女のサーヴァントへ走りだす。
激突する二つの影。
私はその横を通り抜け、無防備な敵マスターへ走り込んだ。
「は―――名乗りあげる銘さえ持たぬ田舎者でしたのね! よろしくてよ、エーデルフェルトの手にかかる事を名誉となさい!」
散弾のようなガンド撃ち。
接近を許さない、一工程の魔術行使。
比喩ではなく、少女の魔術は炸裂銃そのものだ。
―――エーデルフェルト。
湖の国《フィンランド》の名門家系、鉱石を計る天秤、ガンドの名手を多く輩出するあのエーデルフェルト……!
今代の若当主は一族の誇りと謳われているが、なるほど、この腕前なら頷ける……!
両腿に当たる呪い《ガ ン ド 》は防がない。
足を止めず、上半身に当たるガンドだけを左拳で弾落《パ リ ィ 》する。
「―――す、素手で私のガンドを―――!?」
踏み込む。
胸元まで下げた右拳を、少女の横腹、肝臓めがけて打ち抜いた。
「ぐっ…………!?」
吹き飛ばされる。
少女の背後から現れた何者かに胴打ち《ボディブロー》を防がれたばかりか、そのまま弾き飛ばされた。
「――――――」
立ち塞がる剣士の姿。
―――サーヴァント。
間違いない、アレはサーヴァントだ。
「そんな、ならもう一人の少女は―――」
何者なのか、と視線を投げた瞬間、勝敗は着いていた。
「お願い、セイバー……!」
もう一人の少女が叫ぶ。
少女に命じられるままセイバーのサーヴァントが、私のサーヴァントを倒していた。
……あきれるほどの弱さだ。
わずか一閃、剣を合わせる事もできず、私のサーヴァントは首を貫かれ、消滅した。
「なによ、話にならないじゃない。興が醒めたわ。
セイバー、てっとり早く片づけなさい。帰って熱い珈琲を楽しみましょう」
セイバーのサーヴァントは無言で頷く。
「――――――」
剣戟を捌《さば》ききれず、倒される。
……これがセイバーのサーヴァント。
だがどういう事だ。
二人の少女は、それぞれ異なる“セイバー”を使役している。
「下調べが足りなかったようね。
エーデルフェルトの当主は常に姉妹だと、貴方の耳には届かなかったのかしら?」
姉妹―――それが彼《か》の血族の魔術特性。
本来忌み嫌われる“後継者が二人”という事柄こそが、天秤の名の由来。
とすると……彼女たちは二人で一人のマスターであり、一つの英霊を、違う側面からそれぞれ呼び出して使役している……!
「まず一人。私たちの手にかかる事を光栄に、一番初めに倒される事を恥と知りなさい。
残るマスターは、これであと五人ですわ」
少女の声が月に響く。
セイバーのサーヴァントは無言のまま、私に何の感情も向ける事なく、
その剣を、この胸に突き立てた。
―――意識が断線する。
月が白髏《ビャクロ》のように回っている。
私の聖杯戦争は、こうして、今度も。
結末を見失ったまま、終わる事なく、
その幕を落としたのだ―――
◇◇◇
サイカイ
―――そんな夢を見た。
目覚めれば朝の六時前。
窓越しの光はやや強く、隙間から差し込んでくる空気もやや冷たい。
「…………しまった。またやっちまった」
暑かった夏も過ぎ去り、気がつけばもう十月。
毛布なしで眠りこけるには辛い季節になってきた。
「昨日の夜は、えーと―――」
まだ目覚めきっていない頭を動かす。
昨夜は自転車一号の手入れをして、ついでに二号のチェーンを新品に替えて、やる事がなくなったんでのんびりしていたら眠ってしまったらしい。
「……いたた、さすがに地べたで寝るときついな……もうじき冬だし、布団一式運んでおかないと」
筋張った肩を回して一息つく。
衛宮邸の朝食は六時半から始まる。
まだ十分時間はあるが、それは食べる側の事情だ。
朝食を準備する側はもう三十分早く起きなければいけない。
「桜のヤツ、最近メシ作り終わってから起こしに来るんだもんなあ……まったく、いつから人の趣味を面白おかしく奪うような性格になったんだろ」
間違いなく姉の影響である。
ともかく、この家で朝食を作りたいのなら朝の六時に起きないと先を越されてしまうのだ。
家主として、いや師匠としてまだ弟子に席を譲る訳にはいかない。
縁側にあがると朝餉《あさげ》の匂いがした。
調子のいい包丁の音が聞こえてくる。
朝食の準備は、もう八割方終わっているようだ。
気持ちのいい朝の、いつも通りの風景。
それを当然のように噛みしめて、
「おや。おはようございますシロウ。今朝は少し寝坊ですか」
彼女の笑顔を、見つめていた。
「シロウ? どうしたのです、黙りこくって。
私の顔に何か?」
半年前。
まだ寒かった頃に、こういうコトもあった。
それを、
「……顔色が優れませんね。まったく、また土蔵で夜を明かしたのですか。
シロウ、鍛錬を欠かさぬ心構えは立派ですが、それで体を壊しては半人前だ」
ああ。だって俺はまだ半人前なんだよ。
聖杯戦争からまだ半年。
人間、そう容易く成長はできないんだ。
「聞いているのですかシロウっ。いいですか、凛に留守を任されている以上、私には貴方を監督する義務がある。
不摂生が続くようでは私にも考えがあります」
そうだった。
遠坂がいない今、我が家の風紀はセイバーが監督しているのだった。
それは、ともかく。
「セイバーの考えって、どんな?」
「シロウが一番苦手な事を。いくら言っても守らないのですから、監督として身近で指導をするしかない。
シロウが悔い改めないというのなら、今日からでも部屋をシロウの隣りに移しましょう」
「む」
笑顔で恐ろしいコトを言う。
セイバーの部屋は離れの和室にある。
俺の部屋の隣りから引っ越す際、
「お断りします。住居を変える理由がありません」
なんて頑固ぶりを発揮したが、戦いは終わったのだし、身辺警護の必要なし、というコトで承諾してもらったのだ。
それがちょっと前の話。
以来、俺は健全な青年男子にふさわしき心の平穏を取り戻したのである。
「―――反省した。明日からきちんと自分の部屋で寝る」
「結構です。……まあ、この条件が効果覿面《てきめん》というのは私としては複雑ですが、これもシロウの健康の為。
身近で警護できないのが不安ではありますが、シロウが安眠できないのでは仕方がない」
セイバーはあっさりと居間に向かう。
当然だ。いつも通りの朝の会話に、名残を惜しむヤツはいない。
でも、挨拶を忘れていた。
ここで、きちんと口にしておかないと。
「セイバー」
「おはよう。今日も一日よろしくな」
「はい。シロウも気をつけて」
セイバーと一緒に居間へ向かう。
なぜだか視界がぼやけて、何事かと目をこする。
「――――――あれ」
少しだけ目が潤んでいた。
気持ちのいい朝の、いつも通りの風景。
きっと幸福《たいくつ》すぎて、あくびでもしたのだろう。
◇◇◇
朝の一時
「いただきまーす!」
それぞれ微妙に違った合掌が響き渡る。
テーブルには焼き魚を主菜にした朝食が、実にズラッと六人前。
「はい、そんなワケで今朝は桜が早起きして作ってくれました。みんな、特にそこのぐうたら人間は桜に感謝しつつ、よく噛んで食べるよーに」
こくん、と生真面目に頷く二人。
いや、君たちのコトではなく、そこでほうれん草のおひたしといり鶏をトレードしている藤村組のコトなのだ。
「あ、また納豆があるー。
わたしのは要らないって言ってるのに、サクラも懲りないんだから。
タイガ、納豆食べるでしょ? タマゴ焼きと交換して」
「いいけど、まだ納豆苦手なの? 食べず嫌いはダメよ、と言いつつタマゴ半分なら頷くお姉ちゃんであった。
むっふっふ、納豆とゴハンの良さが分からないとはまだまだひよっ子ねー」
「半分かぁ。……いいわ、そのレートで交換してあげる。
どうせこんなに食べきれないもの。そうやって知らないうちにサクラの奸計にひっかかってなさい」
「うむ、等価交換成立。タマゴ半分でイリヤちゃんの納豆ゲットだぜー!
……あと桜ちゃんの奸計ってなんだ?」
「だいじょうぶ、ご心配には及びません。
カロリー計算はちゃんとやってますから、よく噛んでちゃんと運動すれば余分なお肉なんてつきませんっ!
ね、そうですよねセイバーさん?」
「桜の言う通りです。
体格が違うので断言はできませんが、大河だけ体重が増す、という事はないでしょう」
「ほら。セイバーさんもこう言ってますし、じゃんじゃん食べちゃってください。おかわりいっぱいありますからねー」
「言われるまでもなく。―――桜、山盛りでお願いします」
「………………」
「………………」
ライダーと視線が合う。
お互い言いたい事は一緒みたいだが、口にせぬが花のようだ。
「ライダーは? もうお茶碗カラだけど?」
「私は一杯で結構です。セイバーほどの消化器官は持ち合わせてはいませんし、燃費が悪いわけでもない。
お茶をいただいていますので、サクラも食事に専念してください」
とぽぽ、とお茶をいれるライダー。
無言で湯飲みを口に運ぶ姿がなんとも様になっている。
「……燃費が悪い、とは聞き捨てなりませんねライダー。私とて必要最低限であれば一杯で十分だ。
ですがこうして用意された以上、残すコトもないでしょう。兵糧は無駄にしてはいけませんし、なにより」
「はふはふ、ふろふき大根おいしーよねぇ。
あ、セイバーちゃん食べないならちょーだい」
「お断りします」
「ぎゃっ!?」
「なにより、せっかく桜が用意してくれた食事です。簡単に済ますのは心苦しい。美味しい料理は素直に、心のおもむくままいただくものです」
セイバーの言う事は理にかなった、とても素晴らしい意見だと思う。
おかわりです、と三杯目のお茶碗を差し出してさえいなければ。
……何事も、やりすぎはよろしくないという話。
「あれ? 今日のおみそ汁、なんか味違うね。シロウが手伝ったんじゃないでしょ? なんかバラバラな感じ。味が濃いクセにじゃがいもは細かくキレイにカットされてる。下手なのに繊細。駆け出しの彫刻師みたい」
「あ―――いや、何事も経験だし。変わった事しとかないとな」
「ふーん。わたしは前のが好きだけど、まあ、こっちも将来性はなくもないかな。
セラが作る和風料理もこんな感じだし」
ほっと胸をなで下ろすライダー。
……嘘は言ってないよな、嘘は。
何を隠そう、今朝のおみそ汁はライダー謹製なのだ。
今朝、寝過ごした俺が台所に行くと、そこには桜とライダーがいた。
俺とセイバーは食器出しを手伝いつつ、みそ汁鍋の前で悪戦苦闘するライダーを見守っていたのである。
「あ。藤村先生、そろそろ時間です。文化祭の準備会はじまっちゃいますよ」
「あちゃ。さすがに今日遅刻したら柳洞くんに怒られるわね。
うう、食後のお茶さえも楽しめないのか教員生活」
タイガー号のヘルメット片手に立ち上がる藤ねえ。
「じゃあ桜ちゃん、先に行ってるわねー。士郎も遅刻しないように来るのよ。進学しないからって、あんまり気を抜いてさぼらないよーに!」
じぁあねー、と笑顔で手を振って走り去る女英語教師二十×才、独身。
文化祭が近い為、ここんところ藤ねえの朝は早い。
弓道部の主将を引き継いだ桜も同上なのだが、文化祭前という事で朝練は軽いミーティングのみになっている。
よって、いつもより三十分ほど余裕があるのだった。
「文化祭、もうすぐですね。姉さんもそれまでに帰って来られればいいんですけど」
「そうだな。夏休み中に帰ってくる、なんて言っておきながらもう十月だし。あっちでなんかあったのかな、遠坂」
……というか、何も起こしてないといいなホント。
「ふん。リンが長期滞在してるのは自業自得よ。
だいたい一ヶ月で済むワケないじゃない。宝石剣の真似事をして失敗したのよ?
……まあリンには百年早いから万が一なんて起きないだろうけど、もし第二魔法を暴発させてたらそれこそどうなってたコトか」
イリヤは心底呆れている。
……まあ、あれだけの事を自分の城で起こされたのだから、そりゃあ根に持つってもんなのだが。
―――話は二ヶ月前にさかのぼる。
夏休み前のある日、遠坂はいつもの調子で、
「来年時計塔《ロン ド ン 》に行く身としては切り札が必要でさ。なんでも今期は奇人が多いっていうし、極東の田舎者としては貫禄の一つでも付けとかないとね」
などと軽い手つきで―――いや、遠坂の事だから細心の注意と準備をしたのだろうが―――宝石剣のミニチュアのミニチュア、並行世界からの波を観測できるというペンダントを作ろうとして、
物の見事に、ボクら一般人じゃあ想像もできないスケールで、完膚無きまでに失敗した。
結果、桜に借金までして用意した資料も機材もすべてパア。
イリヤ曰く、命があるだけでも化け物ね、という事だったのだが、その化け物は預金通帳を見て生きる屍と化してしまった。
「……衛宮くん、アルバイト先紹介して……」
なんて言っていた分にはまだ良かったのだが、ある日、とんでもない事件が起きた。
後に言うウインチェスター事件、魔法に手を出した代償である。
……で。
「……さすがに今回はピンチだわ。このままだと封印指定を受けちゃうかもしれない。その前に、ねじれちゃったところを直さないと」
魔術の総本山、ロンドンの時計塔へ旅立っていったのである。
「けどさ。アレって結局どういうコトだったんだ?
単に、イリヤの城がしっちゃかめっちゃかになっただけだろ?」
「もう、わかってないわねシロウは。リンは武器として加工していない特異点をぶっ放しちゃって、この町はちょっとしたターミナルになりかけたんだから!
因果律が狂って、事象が混線して、未来の次に過去が繋がりそうになった……って言えば分かる?」
「あー……ようするに、何でもありの世界になりかけたってコトか?」
「わかりやすく言えばね。
厳密に言うと、『この町で起こり得る可能性なら全て引き寄せられた世界』になりかけたってコト」
……むむむ。
起こり得る可能性なら全て引き寄せる、か。
宝クジで一等賞をとるとか、宇宙人が落ちてくるとか、不老不死が完成するとか、突然みんなが俺を殺しに来るとか、そういった話。
要するに、決してないとは言いきれないブラックジョークが現実に起こる、という事だ。
「……なるほど。それであんなコトに。……けどアレはそういうのとはちょっと違ったような」
まんま童話の世界だったし。
ドジスンのアリスの世界だったし。
命をかけた迷路城脱出ゲームだったし。
「……アレには私たちも驚きました。リンがしようとした事は人の手にあまる事です。事によっては聖杯戦争より大事《おおごと》になってしまう」
しみじみと語る被害者。
あの事件の被害者はライダーだけでなく、ここにいる全員プラスワンだったワケであるが。
「? どうした桜、なんかあったのか?」
「ぁ……いえ、大した事じゃないんです。いまライダーが言ってた事で、少し」
言い淀む桜。本人がそう言うのなら黙っていよう、と頷く。
―――のだが。
「聖杯戦争って言葉でしょ、桜が反応したのは。
なぁんだ、気づいてないのかと思ってたけど、まだ半信半疑だっただけか」
―――冬の娘は、見逃しはしなかった。
「……。聖杯戦争がどうしたんだよイリヤ。もう半年も前の事だろ、それは」
「そうかしら。少なくとも、サーヴァントたちはそう思っていないんじゃないかしら。
ねえセイバー、ライダー? 貴方たちならこの空気に気づいているわよね?」
「………………」
「………………」
「ライダー? セイバーさんも何か知っているんですか?」
「い、いえ、私は何も。
……ただ、イリヤの言う通り、この町の空気が張りつめている事は承知しています。
……小さな、本当に些細な違和感なので様子を見ていたのですが」
……些細な違和感……?
何を馬鹿な。
そんな―――当たり前の事を、どうして今更口にするのかライダーは。
「――――セイバーは? ライダーの言ってるコト、分かるか?」
「……はい。憶測にすぎない事ですが、よろしいですかシロウ?」
無言で頷く。
「では。
率直に言えば、殺気だっているのは街ではなく私たちサーヴァントです……そうでしょうライダー。私たちは数日前から、共に軽い敵意を抱いている。
理性ではなく本能が、互いを倒すべき敵だと告げている。それは、つまり」
「聖杯戦争時におけるサーヴァントの高揚感、ですか。
……認めたくはありませんが、私も同じ結論です」
にらみ合うセイバーとライダー。
二人の言っている事はしごく簡単。
「そうか。要するに、聖杯戦争が起きてるってコトだな」
理由とか方法とかはこの際おかまいなしだ。
結論としてそういうコトなんだから。
「そんな、ありえません……! ヘンですよ先輩、聖杯なんてもうないじゃないですかっ!
それに、えっと、ほら、聖杯戦争が起きるなら、教会からお知らせとかあるんじゃないですか!?」
「ああ。けどないよなそんなの。
それじゃあ、新しく聖杯戦争が起きたんじゃなくて、終わった戦い《もの》がなんでか再開した……っていうのはどうだろう。それなら合点がいくというか」
なにしろマスターたちはまだ生きているし、サーヴァントも残っているし、令呪だって健在だ。
俺の左手にも、使い損ねた令呪が一つだけ残っている。
「へえ。そっか、それなら十分あり得るわね。
第五次の勝者はシロウだけど、シロウは聖杯を使わなかった。サーヴァントもまだ残っている状況だし、何かの弾みで戦闘状態が再開した、という解釈はありかも」
「敗者復活戦という事ですか。
しかしイリヤ、聖杯戦争の勝者が士郎というのは誰が決めたのです。私は勝者のいない戦いだったと思うのですが」
……それは俺が勝者である事が不満なのではなく、勝者がいなかった戦い、勝者を出さなかった俺を良しとする、ライダーの不満だった。
「勝者を決めるのは他ならぬ聖杯よ。
結果はどうあれ、聖杯はシロウを勝者として捉えている。他ならぬわたしが言うんだから間違いないでしょう?」
「………………分かりました。
では聖杯としての貴方に問いましょう。この状況を、どう打開するべきなのか」
「え?」
真剣にイリヤを見据えるライダー。
戦いが始まれば桜が危険に晒される。そんな理由でライダーは真剣に“再開された聖杯戦争”に危機感を覚えているのだろう。
「ちょっと待ったライダー、別にどうもこうもないだろ。
再開したって言うが、そもそも賞品《せいはい》がないんだ。戦う理由がないじゃないか」
「よくできました。ええ、シロウの言うとおりよ。
たしかに最近の冬木はどこかおかしいけど、そう目くじらをたてる程の事じゃないわ」
「だいたいね、サーヴァントが聖杯戦争後も現界してるって時点でおかしいんだから。これぐらいの異常、容認しないとやっていけないわよ?」
「そうそう。仮にライダーたちが居る事でよからぬ企みを持ったヤツが来ても変わらない。だって、そのよからぬヤツを迎撃するのもライダー達だからな」
「強者の条件って知ってるか?
目立つヤツは敵を作りやすいけど、その敵から当然のようにみんなを守れるヤツを強者って言うんだ。
腕が立つだけの人間はただの暴れん坊。
で、俺が知るかぎり、二人は本当の意味での強者だと思うけど」
「はい、またもシロウの言うとおり。今日のシロウは物わかりがよくて百点満点です!」
……むぅ、喜んでいいものやら。
どーせ、いつもはぼんやり生きてますよーだ。
「だ・か・ら、問題があるとしたら貴方たちよセイバー、ライダー。
貴方たち、戦いを再開したいの?」
「断じてありません。……まあ、ライダーが戦うというのであれば受けて立ちますが」
「それはこちらの台詞です。貴方には幾度となく敗れてきた。貴方が私に機会をくれるのなら、借りを返してもかまいませんが」
「……うわあ……」
バチバチと火花を散らす二人。
うち解けたようでライバル同士なんだな、やっぱり。
「良かった。ま、発情期の猫じゃあるまいし、いくら貴方たちでも理由なく暴れたりしないものね。退屈だからって人間狩りをするような趣味もないだろうし」
「イリヤスフィール、その例えはどうかと思う。私はそのような悪鬼ではない。まあ、彼女には前例があるので弁護する事はできませんが」
「ぬ…………」
悔しいが反論できないライダー。
動物的、という事であればセイバーも勝るとも劣らないと思うのだが、それはさておき。
「えっと……つまり、どうなったんでしょう?」
「他の連中が襲ってくる事もないだろうし、しばらくは様子を見よう。
まだ事件なんて起きてないんだし、無理に調べてまわる事もないってコトかな」
「そ、そうですね。あ、それじゃ他のサーヴァントさんに聞いてみたらどうですか? なにかおかしな感じしませんかって。
ランサーさんとか、よく町で見かけますけど」
桜はヘンなコトを言う。
けど全然オーケー。たしかにあのランサーなら、気さくに感想を述べてくれそうだ。
「では、私たちも折を見て調べてみる事にしましょう。
それとサクラ。そろそろ登校の時間ですが」
「あ、ほんとだ……! ごめんなさい、すぐに片づけちゃいます!」
「いいえ。後片づけは私の仕事です、サクラ。貴女は落ち着いて登校してください」
「あ、うん。ありがとうライダー。それじゃよろしくね」
いそいそと支度をする桜。
こっちはあと二十分ほど余裕があるのでライダーの手伝いをしよう。
「いってきまーす! 先輩、さぼっちゃダメですよー!」
慌ただしく登校する桜。
朝の一時《ひととき》もこれでおしまいだ。
「二人とも、食器は流しに出しといてくれ。着替えてきてから一気にやっちまうから」
「……助かります。正直、洗い物はまだ苦手です」
ライダーは不器用なのではなく、力の入れ加減が掴めないのである。セイバーとはまた違ったタイプの食器ブレイカーなのであった。
とりあえずいったん部屋に戻る。
―――と。
「シロウ。……先ほどの話ですが、夜の巡回をするのなら声をかけてください。
イリヤスフィールはああ言っていましたが、私はどこか引っかかるのです」
セイバーの言葉はありがたい。
そう言ってもらえるのは嬉しいし、不謹慎だが、半年前に戻ったみたいで胸が躍る。
「……分かった。折を見て、夜に出かける時は声をかけるよ。町の様子がおかしいっていうのは確かなんだし、万が一に備えてパトロールしよう。
……まあ、そもそも。セイバー以外と巡回をするなんて考えられないけどな」
「はい。貴方ならそう言ってくれると信じていました、シロウ」
それはこっちの台詞だ。
セイバーが夜の巡回について来てくれるなら、簡単に殺されるような事はないだろう。
時刻は朝の七時半過ぎ。
さて、学校に行くかのんびり過ごすか。
微妙におかしな事態になってきたが、躍起になったところで事態を究明できる筈もなし。
「ま、気が向いたら調べてみるか」
幸い明日からは三連休だ。
享楽でこそあれ苦痛である事はなし。
あまり気を張らず、日々を埋めていけばいいさ。
◇◇◇
来訪者
気まぐれで間桐邸に寄ってみると、玄関の前できょろきょろしている桜と目があった。
「あれ、先輩だ。家に何か用ですか?」
「いや、たまたま通りかかったんだ。そう言う桜こそどうしたんだ? 家の鍵でもなくしたのか?」
「だ、だいじょうぶですよぅ、いくらわたしでもそう頻繁になくしたりしません。
それにですね、なくしても一人で開けられるからへっちゃらなんです」
おや、間桐邸はこの度オートロックを設備したのか。
遠坂んところと同じ、魔術施錠というヤツだろう。
また物騒になってきたし、それはタイヘン素晴らしいのだが。
「なあ。それ、慎二はどうするんだ?」
「どうするって、兄さんなら鍵持ってますよ? 玄関のと居間のとトイレのと自分の部屋の」
「………………」
要約すると、慎二が鍵を紛失したら路頭に迷えという事らしい。
というか、およそ館内の全てのドアにロックがかかっている模様。実に厳しい教育方針だ。
あと、きっと俺も入れない。
間桐邸に遊びに行く時は、桜からはぐれないように注意しよう。
「……ああ、最近慎二のキーホルダーが看守みたいになってたのはそういう事か。で、鍵をなくしたワケでもなく、鍵なんか必要ない桜は玄関で何してるんだ?」
「えーっと……お爺さまが、お客様が来るから玄関で待っていなさい、って。
なんでも遠方からのお客様で、本当は塩かけて追い返したいんですけど立場上持てなしてあげなくてはいけないのだ、とか」
「……複雑そうだな。臓硯の爺さんの客か?」
「それが、本来なら姉さんのところにやってくるお客様なんだそうです。でも姉さんは留守にしているから、代理としてお爺さまに挨拶をしに来るとか」
なるほど。魔術協会の人間か、教会側の人間が挨拶回りにやってくる、という事だろう。
「そりゃ邪魔したな。ヘンな因縁つけられる前に帰るよ」
「助かります。姉さん、先輩を協会の人にも教会の人にも見せちゃダメだってよく言うんです。あいつ保護指定動物だから、とかなんとか」
その保護指定動物を虐待しているのは何処の誰なのか、今度はっきり糾弾したい。
「じゃ、一足先に家《うち》に戻ってる。遅くなるようだったら電話してくれ。迎えに来るから」
「はい、かならずお電話しますね」
軽く手を振って間桐邸を後にする。
……と、野次馬根性なのだが、もうちょっとだけ詳しい話を聞いておこう。
「なあ桜。お客様って、どんな人なんだ?」
「ええーっと、新しく派遣された監督さんだって話です。
正式な辞令が下りたら教会の司祭代理として引っ越してくるかもしれないって、お爺さまが」
そうなるとディーロ爺さんは本国にお帰りか。
まあ、こんな地方都市の一教会に本職《・・》の司教が着任してるのがヘンなんだし、地方都市には地方都市に相応しい神父さんがやってくるってコトか。
「桜、爺さんがいなくなるの寂しくないか? あの人、桜を可愛がってくれてたけど」
「そうですね。けど、後任が決まるまでの間って聞いてましたから」
そうか。ディーロ爺さん、もともと聖杯戦争の事後調査に来た人だからな。特別な理由がないかぎり、そう長居はしないのだろう。
知的好奇心は満たされた。
そんな訳で、今度こそ間桐邸を後にする。
―――後日談。
結局お客さんは訪れず、桜は半日待ちぼうけだったとか。
◇◇◇
後継者
お。
教会の前にヤンキー座りする不良英霊発見。
「何してるんだランサー。もしかして日向ぼっこか?」
「んな趣味はねえよ。
追い出されたから花壇に水やって、路《みち》に水撒《ま》いて、やる事がなくなったから惚けてたんじゃねえか」
……それを世間では日向ぼっこと言うのだが……。
あんがい、この男流の日向ぼっことは浜辺の鉄板焼きレベルのものを指しているのかもしれない。アーチャーのお株を奪う真っ黒さである。
それはともかく。
「追い出されたってなんでさ。中、誰かいるのか?」
「ああ、誰か来た。ただの客か、言峰の後釜か。やぼったい僧侶の格好していたからな、教会の人間なのは間違いないんだろうが」
「……教会の人間。そいつがアンタを追い出したのか?」
「そうだよ。調べ物があるんでしばらく席を外してくれと。……なんでか苦手なタイプでな。ま、放っとけばすぐに帰るだろから、こうして暇潰ししてんのよ」
不満そうにこぼすランサー。
……しかし、意外だ。
セイバーやライダーにも気安く話しかけるこの男が『苦手』と評するヤツがいたとは。
「ランサー。中、入っていいのかな」
「いいんじゃねえか? オレぁ門番を任された訳じゃねえし」
投げやりなランサーである。
日向ぼっこにも飽きたのか、ジョウロ片手に水撒きを再開するランサーに手をふって、教会の扉を開けた。
礼拝堂には誰もいない。
半年前、ここで俺を出迎えた神父の姿も、あの戦いで消え去ったままだ。
「なんだよ、誰もいないじゃないか」
中庭、地下への階段、二階への階段、言峰の私室、と見て回ったが、教会はもぬけのからだ。
「ランサー、誰もいないぞ。裏手から帰ったんじゃ、」
……って、ランサーもいなくなっている。
水撒きにいそしむ空しさに気づき、またぞろ駅前パークにくり出したんだろう。
広場にはジョウロが残されている。
これも経験だ。
せっかくなんでジョウロに残された水を花壇にやって、俺も教会を後にした。
◇◇◇
無人館の殺人
ふと、街角でうわさ話を耳にした。
新都の郊外。教会よりもっと奥まった森の中に、誰が建てたとも知れない洋館があるのだと。
噂はあっという間に広まり、中には実際に洋館を探し当てた者もいるらしい。
「―――物好きなヤツもいるもんだ。そんな噂話をたてたヤツも、いちいち洋館を探しに行ったヤツも」
そして更に物好きなヤツがここに一名。
まったく、他にやる事あるだろうに。
「やば、一発だ」
うわさの幽霊洋館はあっさりと見つかった。
ところで、なんで幽霊洋館と呼ばれているかまでは聞き取れなかった。
こんな所に用はない。
きっと中には何もないし、そもそも不法侵入だ。
俺は―――
「まあ、せっかく見つけたんだし」
やめろ。
そこには何もない。無駄な事はするな。余計な物は見るな。
いや違う、惜しい、けど調べるならもう少し違う場所で、
「……完全な廃墟みたいだしな。中の様子を見るぐらい大目にみてもらおう」
鍵のかかっていない玄関を開ける。
長年使われていない廊下を歩く。
長い長い階段をあがっていく。
バカな俺だ。これだけ言っても好奇心を殺せなかった。
そのツケは、こうして、
「―――うわ。見事なまでに普通の家だ」
こうして、骨折り損のくたびれ儲けとして返るのである。
「……放置されていたのに綺麗なもんだ。管理人がいて、たまに掃除に来るのかな」
床の埃を調べる。
積もり具合からいって、人が使わなくなってから半年ほど経過しているようだ。
「―――嘘だ。だって、ここには」
現場には物証がない。
あれだけ散らばっていた―――何処に?―――存在の跡が、キレイさっぱりかき消えている。
ここには怪しいモノなんて一つもない。
正体不明のサーヴァントも、正体不明のマスターも、初めから存在しない。
だから、ここを調べても何の意味もないと言ったのに。
「―――――――――」
目眩がする。
一瞬、自分のものではないイメージが眼球に映し出され、すぐに霧散していった。
「……あれ? なに考えてんだ俺。別に何を探してたワケでもないのに」
一瞬の閃きは、一瞬故にあっという間に消え去った。
脈絡のない、白昼夢を見ていたようだ。
管理人がいる以上、これは紛れもなく不法侵入だ。
一刻も早く外に出なければ。この洋館には何もないんだし、他の場所に行くとしよう。
◇◇◇
営みの窓
夕方になって夕食の仕込みを始めて、ふと外を見るととっくに日は沈んでいた。
つるべ落としとはよく言ったもので、夕景を楽しむには気を抜いてはいけないらしい。
「士郎、お風呂洗っといたわよー。使ってないバスタオルどこー?」
「セイバーに訊いてくれー。洗濯物の片づけはセイバーの仕事ー」
包丁でリズムを刻みながら返答する。
背後の居間では、バタバタと複数の気配が混雑中。
「先輩、お醤油きれてますー。商店街まで買い出しに行ってきますねー」
「もう遅いし、買い出しは明日にしよう。藤ねえん家《ち》からちょっと分けて貰えばいいよ。
イリヤ、桜と一緒に―――」
―――と、イリヤの気配はない。
朝は藤ねえと一緒に攻め込んでくるのだが、夕飯は留守にしている事の方が多い。
やってくるにしても夕飯の後で、みんながまったりしている時にひょこっとやってくる事もある。
「では私が同伴しましょう。今朝の話もある。夜道の一人歩きは危険です」
「セイバー? ああ、そりゃ助かる。
ライダーが行くと藤ねえんとこの若い衆さんが怖がるからな。ささっと行って帰ってきてくれ」
はい、と頷くセイバーと桜の気配。
二人はカラの一升瓶を持って仲良く藤村組へ。
「士郎、調理中にすまないのですが」
二人と入れ替わる形でライダーがやってきた。
時間をきっかりと守るライダーは七時ジャストまで居間に現れない。それまでは自室で読書三昧なのだった。
「あいよ、なに」
「士郎の留守中、ゴシップの定期購入をしろ、と見知らぬ人物が訪ねてきました。断ったのですが、まだ諦めない、取ってくれるまで毎日来る、と不屈の闘志を燃やしているのです。
……率直に言って、アレは敵とみなしてよいのでしょうか」
「否。断じてみなしてはいけない」
なぜなら人死にが出る。
人に優しく、自分に優しく。
……ライダーは忍耐強いようで敵味方の判別に容赦がないからなあ。
こいつは敵、この人は味方、と区別するスピードが異様に速いのだ。
それと近いようで遠いのがセイバーだったりする。
セイバーは敵味方の基準は寛容なクセに、いざ敵と認定すれば容赦がないのである。
「……分かりました。自信はありませんが、明日もおとなしく彼の話を聞いています」
「無理に付き合う必要ないぞ。新聞ならもうとってるって言えば三ヶ月はやってこないから、その方向で。もしくは桜を呼べば即時解決」
「サクラですか……? しかし、ああいった手合いはサクラも苦手だと思いますが」
「苦手なものって克服できるらしい。桜の新聞勧誘のかわし方はすごいぞ。見ているこっちが怖くなるぐらい」
思わせぶりな受け身でアイテム根こそぎゲット、最後の最後で笑顔でカット。
あの笑顔で『そろそろ帰らないと警察呼びますよ?』なんて言われたら男としてショックすぎる。
京都美人のぶぶ漬け食ってけと同種の攻性防御である。
「なるほど。日ごろ穏和な分、本気で怒らせてはいけない、というのは理解できます。
……ところで、そのサクラは何処に?」
「セイバーと一緒に藤村組だ。すぐ帰ってくるから、藤ねえとテレビでも見ててくれ」
「盛りつけの手伝いはしなくてよろしいのですか?」
「いや、気持ちだけで十分。今日は大皿一枚で事足りるから」
それでは、と軽くお辞儀して居間に戻るライダー。
「きゃー!? ら、ライダーさんなにするのよぅ、せっかく手に入れた伝説のラケット・レインボゥガッデムのお披露目なのにー!」
「すみません。こちらのニュースが見たかったもので」
「ぐわ!? め、明確すぎてもはや理由になってねー!
なんでよー、退屈しないわよそのアニメ!?
ラケットのクセにフロッピーとかピザとかレーザー砲を内包したマッド兵器とか使ってね、もう面白いとかつまらないとか超越した次元の作品なんだから」
藤ねえの説明に頷きながら、やっぱり無情にチャンネルを変えるライダー。
彼女曰く、読書は生活の一部、テレビは純粋な趣味なのだとか。
「…………しかし、なんだな」
ほんと、うちも賑やかになったもんだ。
メシの前でこれなんだから、夕食になったらどれだけ賑やかになる事やら。
◇◇◇
夜の町へ《哨戒》
町の様子を見に行こう。
セイバーはああ言っていたが、一人でなければ分からない事もあるだろうし。
出来るだけ目立たないよう外へ出る。
衛宮邸の周囲はいたって平穏だ。これといって怪しい影は見られない。
「……なるほど、これは半年前の再現になるんだ」
どうして単身《ひとり》で外に出たのか。
なぜセイバーの手を借りないのか。
そのあたりの事情が傍目に理解できた。
いくらこれといった実害のない状況でも、まっとうな判断力があるなら一人では出歩かない。
敵がいなくとも、町の様子がおかしいのは事実なのだ。
にも関わらず一人で行動するのは、自分を撒き餌にして異状を引き当てようという魂胆らしい。
……我がコトながら、行動してみるまで自分の思惑が分からないというのはタイヘンだ。
「気まぐれで選んだんだけどな―――まあ、何事も経験だ」
夜空を仰ぎながら歩き始める。
危険を感じたのならすぐ衛宮邸に戻ればいい。その時は大人しく部屋に戻って明日を迎えよう。
月を見上げる。
空気が澄んでいるのか、月光は白く闇を照らしている。
さて。
鈍感な俺にも分かるような、確固たる異状が見つかってくれればいいんだが。
◇◇◇
異常なし《1》
これといって異状はない。
人通りこそ皆無だが、民家からは家族の団欒《だんらん》の声が聞こえてくる。
町並みは平穏そのもので、夜の散歩にはもってこいの月夜と言える。
「異状なし。次いってみるか」
和風の住宅地を後にする。
去り際、視界の隅にちらりと人影が見えた。
折り紙のような薄っぺらさが少しだけ印象に残ったような。
これといって異状はない。
こっちの住宅地に生活臭がないのはいつもの事だ。
辺りからは悲鳴も、獣の遠吠えも聞こえない。
白い月光のおかげか、町はいつもより明るく見える。
「異状なし。次いってみるか」
洋風の住宅地を後にする。
去り際、視界の隅に赤い色が見えた。
真新しい郵便ポストが一つ、二つ。
これといって異状はない。
遠くに見える新都に比べれば薄暗いが、耳を澄ませば人の鼓動《いとなみ》が聞こえてくる。
通り過ぎる自動車のエンジン音。
はっはっと息を乱して走っていく人影。
笑い声がこぼれてくる民家の明かり。
はっはっと舌を出して走っていく人影。
「――――――」
さて。
そろそろ、家に帰って眠るべきなのかもしれない。
◇◇◇
デッドブリッジ《T》
橋を渡って新都に向かう。
この時間、歩道橋を利用する人間は皆無だ。
今夜は道路を行く自動車もなく、海から吹き込む風の音がよく響いていた。
「ますます半年前の焼き直しだな。
あの時も、こうやって」
セイバーと遠坂と一緒に新都に向かったんだっけ。
あの頃は言葉も交わさず、何処に連れて行かれるか不安でもあり、新しい出来事を歓迎してもいたのだ。
だが今はどうだろう。
町の様子がおかしい、と誰もが気づいている。
何がおかしいのか、そもそも、それが間違った事なのかも知らず、
こうして再開された聖杯戦争に馴染んでしまっている。
「―――まあ、理由もなしに喧嘩ふっかけてくるヤツがいないのはいいコトだけど」
戦う理由はない。
だから命の危険もない。
憎み合う相手、禍根となる憎悪はしかし、
「―――、ぎっ……!!!?」
一瞬。
いや、おそらくは最期まで、何が起きたのか理解できなかっただろう。
「、ぶっ…………!」
手すりに倒れ込む。
ゴボゴボと血液と生命がこぼれ落ちていく。
もはや手遅れ。即死に近い致命傷。
「はっ―――、ぁ」
死んでいく眼球が、無意識にソレを捉える。
戦う理由がないから殺されるおそれはない、と。
間の抜けた俺を軽蔑する眼光。
「ヤ、ロウ―――」
無言で、ソレはトドメの一矢をつがえた。
避ける事も防ぐ事もできず、もとより即死だった俺に、二回目の矢が―――
◇◇◇
四夜の終末
外に出よう、と決めた途端、気分が悪くなった。
虫の知らせか、既知故の恐怖心か。
もう時間だというのに、少し臆病になっている。
「―――さて、町の様子を見に行かないと」
重い腰をあげて障子に手をかける。
……最後に。
一度だけ振り返って、部屋の様子をよく覚えておく事にした。
凍てついた夜だった。
外に出た途端、違う世界に投げ出された気がする。
衛宮の家だけが確かな現実で、冬木市は幻のように揺らいでいる。
“オマエモ消エロ オマエモ消エロ オマエモ消エロ”
霧に乗って獣の息づかいが聞こえてくる。
……町からは人間の気配が一切しない。この状況を作ったのが何者かは知らないが、ついに尻尾を出してきた。
“殺シテヤル 殺シテヤル 殺シテヤル”
「人がいない……これじゃ、ホントに」
何もかも死に絶えた世界だ。
目に映る民家はことごとく荒らされている。
壊された玄関。
割られた窓。
血塗られた庭。
中を覗《み》れば、
解体現場そのものだ。
何もかもおかしい。
特におかしいのは、バラされた肉片もコロされた命も見あたらないというコト。
だが、ここで何が行われたのかは明白だ。
「――――――」
未知の感情が脳を刺激している。
怒りと嫌悪がバランスよく混ざり合っている。
俺は、まだ見ぬ殺戮者を憎悪している。
“見エナイ 見エナイ モウナニモ見エナイ!”
「……誰だ。おまえは何だ……!」
反響する息づかいを追跡《トレース》する。
遠吠えは俺に宛てた声なき声だった。
全方位から向けられる敵意と懇願 嫌悪と羨望。
気持ち悪くて吐き気がする。
“妬《ニク》イ 妬《ニク》イ 妬《ニク》イ 妬《ニク》イ”
遠吠えが咆哮に変わる。
信じがたいが疑いようがない。目の前には遠吠えの主がうずくまる。
「なんだ―――コイツ」
どこかで見たのだが、今は思い出せない。
あと少し。日付が変わる瞬間になるか、誰かに教えて貰えれば思い出せる筈なのだが。
『        』
ギシギシと軋みながらソレは吠えた。
可聴域外の周波数。人間には聞き取れない声で、ソレは確かにうねり吠えた。
“―――ジブンダケ、助カルツモリカ”
獣が頭を上げる。
俺を見つけてギチギチと爪を鳴らし、這うように襲いかかってきた。
「っ―――!」
後ろに跳んでやり過ごす。
獣はメチャクチャに爪を振り回す。
あんな裁断機みたいな爪を食らえば命はない。
俺だって経験を積んでいる。
セイバーとの打ち合いに比べれば、こんなもの子供のお稽古と変わらない。
当たる筈もないのに、獣は執拗に繰り返す。
一撃ごとに激しさを増していく剣戟は、それこそ際限がないように思え、
“ジブンダケ、ジブンダケ、ジブンダケ……!”
吐き出される声は、同じようにドス黒さを深めていく。
「は―――しまった、つい」
まだ十分やりすごせたのに、怖くなって反撃してしまった。大振りの爪を横にかわし、ガラ空きの横っ腹を全力で蹴りつけたのだが……
……やっぱり、大した脅威じゃない。
正体不明の獣はガフガフと苦しみながら、四つんばいのまま立ち上がれない。
“…………叶…ろ”
「おい、言葉が分かるなら答えろ。町をこんなにしたのはオマエの仕業か」
そんな筈はない。
こんなカタチの獣と出会ったら、たいていの人間は無抵抗に殺される。
だがそれは局地的な事だ。
わずか一時間で町中を無人にする、なんて事はこいつには出来はしない。
“…………叶…ろ”
「……わからねえヤツだな。そんなコト訊いちゃいねえよ。俺はおまえが何者なのかって事を、」
訊きたいんだ、と唱える寸前。
「―――え?」
自分の周りが、ソレに埋め尽くされている事に気が付いた。
“………!”
“………!”
“………!”
怨恨が合唱される。
公園を埋め尽くす獣の群れ。
……くそったれ。これだけ増えていたんなら、一時間と言わず二十分で町中を掃除できる。
“…………!”
“…………!”
“…………!”
……津波がジリジリと押し寄せてくる。
蟻にたかられる死骸、針の山に落とされる亡者を思う。
「…………っ」
あの爪で俺は八つ裂きにされる。
体も目玉も頭蓋もザクザクと串刺しにされる。
合掌。
それは、もうどうしようもない事としてもだ。
“………、!”
“………、!”
“…叶…ろ!”
ああうるせえ。殺すならサッサとしろ。
さっきからバカみたいに繰り返しやがって、言いたい事があるならハッキリ言えば―――
「分かりませんか?
彼らは、“願いを叶えろ”と言っているのです」
「――――――」
反射的に顔をあげる。
美しく響く銀色の声。
世界を埋め尽くす獣の中心に、
事の、始まりの姿があった。
「―――おまえ」
知っている。俺はあの女を知っている。
だがそれはあと一時間後の話だ。
整合性がとれていない。
全てが揃っているのに全てを閉じているもどかしさ。
「でも貴方は失敗した。
まだ、ここに来るのは早かったようね」
獣の群れが迫る。
逃れられない死が訪れる。
まあ―――何処に逃げても同じ事ではあるのだが。
「消え去りなさい罪人。
貴方には、もう何処にも居場所はない」
祈りに似た最後通牒。
少女は目蓋を閉じ、獣たちは福音を合唱しながら、衛宮士郎の肉体を解体した。
……こうして増殖し続ける悪意の束。
10月11日の夜。
積み重ねられた死骸の山によって、冬木市は終末を迎えた。
◇◇◇
おしまいの夜
こうして最後の夜が終わる。
異常は正常に戻り、
戦いは幕を下ろし、
在り得なかったモノは在り得なかったモノとして、元の空白へ返っていく。
「――――――」
時計はあと三十秒ほどで零時にさしかかる。
日付が変われば四日目は完全に死に絶える。
過ぎ去った時間は、日付を越える事で完全にロストする。
これでおしまい。
目が覚めれば、いつも通りの日常に戻っているだろう。
聖杯戦争は終わった。
戦いは勝者を生むことなく、
異常は解明されることなく、
虚ろな楽園は、今もこうして回っている。
◇◇◇
2/Heaven's feel backnight U
夜の聖杯戦争2
目覚めは、常に苦痛から始まった。
日の当たらぬ暗い淵から、日の当たる地上まで落ちていく行程。
暗から明へ。産道を経由して誕生を叫《うた》う過程によく似ている。
ボロボロの体、死に瀕《ひん》する命になんとか火をつけて、再びこの世に意識を灯す。
「」
激痛にのたうちまわる。
甦った途端、血液の循環、骨の繋がり、神経の接続、内臓の運営、あらゆる生命活動が“痛み”を生み出した。
「」
苦しむ為に生きている。
とうに焼き切れた脳髄は破損しているなりの正常を模索して、痛みによって再動する機能を獲得した。
つまり。この体は痛みがあってようやく、人としての思考を持つに至れるのだ。
「」
もう何百人と増殖した自分が、パレットの上でかき回されている感じ。
もはや明確な自己などなく、数えきれず区別できなくなった自分たちがドロドロと溶け合っている。
ゼロからの蘇生とは、それほどの代価を必要とする。
その混濁。
もはや何物でもなくなった感覚に、苦痛すら混ざり合い同一化していく。
もはや我などない。
なぜ甦るのか、なぜこのような目にあっているかさえ、遠い彼岸の出来事だ。
無我の境地。
ここは喜びも悲しみもない、永遠に実らない無垢の楽土。
―――でも。まだ一つだけ、それが苦しい。
……ほほをつたう。
この完成された地の底において。
どうしてワタシは、まだ、あんなキレイなものと繋がっているのだろう―――
また一日目が始まった。
女は去り、我が麗しのマスター・バゼット嬢はソファーで眠りこけている。
ように見えて死んでいる。
理由は明白。教会を目前にして、セイバーのサーヴァントに心臓を貫かれたからである。
いずれ息を吹き返すので、無理に起こしたり埋めたりする必要はない。
オレはただ、彼女のサーヴァントとしてここを守っていればいい。
「でもなー。タイクツだなー。イタズラしちゃおうかなー」
自分の欲望には正直に、他人の欲望には徹底抗戦。
オレは自己快楽を最優先とするサーヴァントなので、バゼットを死姦する。
本来のオレなら何も考えず犯りながら食らいつき、気が付けば部屋を散らかしている。
無論、彼女《バゼット》がマスターでなかったらの話。
やってる最中に目覚められたら後々面倒だ。
憎まれるのも殺されるのも慣れっこだが、泣かれるのは愛ではない。
仕方なく、簡単な暇潰しを始めてみる。
カッチ、カッチ、カッチ、カッチ。
カッチッチ、カッチッチ、カッチッチ。
秒針に合わせてパネルをスライドさせる。
拍子を一つ増やすタイミングで、それなりに真剣にゲームに没頭する。
「―――、ぁ―――」
ソファーから艶めかしい呼吸が聞こえた。
バゼットは軽く頭を振りながら、敵を見据えるようにオレと対峙する。
「よ。目が覚めたかマスター。
まさか今度も記憶が曖昧だ、なんて言い出すんじゃないだろうな」
「……記憶は確かです。貴方が私のサーヴァントである事も、私がこの洋館を隠れ家にしているマスターである事も知っている。
以前ここで目を覚ました時、私の記憶が不確かだった事も覚えています」
「結構、話が早くていい。
んじゃあまあ、さっそく外に出て聖杯戦争の続きといこう」
「……待ちなさい。
この洋館以前の事は曖昧ですが、その後の事は全て覚えている。私と貴方が敵マスターに敗れ、殺された事もだ」
「―――それはそれは。肝心な事は覚えてないクセに、どうでもいい事は覚えてるんだな。
で、それがどうした? いま生きてるんだからいいじゃねえか。細かいコトは気にするなよ」
「よくはない。こんな不条理、放っておいたままでいられるものですか。
……答えなさいサーヴァント。私たちは斃《たお》された。それがなぜ、こうして生きているのです」
「どうしてって、生き返ったからだろ。ま、厳密に言うと一日目の夜に戻ってるってコトだけどな」
バゼットに驚いた様子はない。
目が覚めた時点で彼女なりに考えを巡らしていたようだ。
その順応力は非凡と言わざるを得ない。
問題は、その才覚を本人が気づいていないというか、卑下しているというか。
ま、そのあたりはオレがとやかく言うコトじゃないが。
「……ふん。それが事実なら私のサーヴァントは大したものだ。
死者の蘇生には時間旅行、並行世界の運営、無の否定、いずれかの魔法が絡む。
貴方は、その奇跡を可能とする英霊だと言うのですか」
なにあの顔。
まるで信じてねえ、つーかバカにしてるよな間違いなく。
はいはい、そうですよ、そんな大それた真似はオレなんかにゃできませんよ。
「まあ、その真似事をしてると思ってくれればいい。
アンタは死んでも生き返れる。オレと契約している限り何度だってやり直せる。誰に敗れようが、こうして、ここから仕切り直しが出来るってワケだ」
「……原理は判りませんが、リセット……いえ、ループしているという事ね。
どんな宝具かは見当がつかないけど、とにかく、貴方は夜になれば蘇生―――いえ、死んだ場合、生きていた頃のこの場所にスキップしてしまう。
結果、私たちはまだ生きているから死から蘇生する」
「運命に介入・改竄《かいざん》するタイプの宝具ですか―――確かに、英霊を名乗るに相応しい力だわ。
これなら、本人がどんなに弱くても納得がいく」
納得いってなかったんだね。
まあ、あんだけいいトコなしでやられちゃあ愛想尽かされるのも当然だが。
「そういうワケだ。だから安心してやられてくれ。
ああ、けど殺されるのはなるたけ夜がいい。オレは夜でないと戦えないんだ。昼間はあんまり調子がでないタチでさ」
「……。蘇生《ループ》の条件は夜中でなければならない、という事ですね。
たしかに、それぐらいの弱点がなければ強力すぎる宝具だわ」
や、ところどころ違うけど。
……まあいいか、最終的な結論は一緒だし。
「……いいでしょう、行動を起こすのは夜中だけとします。
日中はここで眠りますから、貴方も勝手な行動は控えるように」
「あいよー。けどアンタこそさ、昼間は決して外に出てくれるな。オレ、日中はホントに弱いんだ。マスターが守ってくれなきゃ簡単に殺されちまうからな」
「……分かりました。何か、著しく立場が逆な気がしますが、貴方の特性は把握しましたから。
戦闘能力こそ皆無ですが、特殊能力は他に類を見ないものです。戦闘は私が行いますから、貴方はその特異な宝具で聖杯戦争をフォローしてくれればいい」
「むむ。そりゃ助かるけど、極端すぎないかマスター?
オレだって少しは戦える。サーヴァントには勝てないと断言できるが、その気になれば足留めぐらい、」
「あの結果でですか? 戦闘面において貴方には何も期待していません。貴方はそこにいるだけでいい」
「はあ。……楽でいいけど、それじゃいつまでたっても勝てないぜ。マスターからサーヴァントを引き離すのも、何度もうまくいくとは思えないし」
結局のところ、聖杯戦争における戦闘はサーヴァントを倒す、という事になる。
サーヴァント打倒なくして、マスター殺しは成立しない。
だがサーヴァントは人間がどうこう出来る相手じゃない。
だからこそ、オレだって本気で乗り気じゃないワケだが手を貸すと言っているのだ。
が。
「いえ、マスターとサーヴァントを引き離す必要などありません。
サーヴァントなら、私が倒します」
揺るぎのない自信と根拠で、バゼットは断言した。
「――――――」
……驚いたな。
たいていの事には免疫がついたつもりだったんだが、背筋が寒くなっちまった。
「それより質問があります。
殺されたのが夜なら何度でも甦る、と言いましたが、それは何らかの代償が必要なのですか?
たとえば、私の魔術回路が失われていくとか、貴方の宝具には使用回数が決まっているとか」
「ん? いや、代償はないよ。アンタから取り立てる物は一切ない。我が属性は虚無。無がある限り何度でも甦る。
アンタは安心して、納得いくまで続ければいい」
「……確認しました。貴方と契約している限り、私は負けないという事ですね」
そうそう。ま、勝てもしないんだがね。
「となると、残る問題は一つだけですが……いえ、ここまで好条件だというのにそんな不満を口にするなど、何を考えているのか私は」
「? なんだよいきなり。他に聞きたいコトでもあんのか?」
「っ……。その、つまらない事を訊くのですが。
死亡した場合、こうして蘇生できるのは素晴らしい。反則と言っていい特典でしょう」
「ですが、その。
蘇生する際の、あの痛みは消せないものなのでしょうか? いくら死から逃れる為とは言え、この先もあの痛みを通過するかと思うと、二の足を踏むというか、」
「は? なにそれ、蘇生するとき怖い思いでもしてんのアンタ?」
「こ、怖い訳ではありません……! 不快で気味が悪いだけです!
……ええ。あれが地獄と呼ばれる地点なのかは分からない。ただ、おぞましく汚らしかった。
本来、死者に意識はない。通常の死者なら不快に思わないのでしょうが、意識のある者には、アレは最低のドブクズです」
「ああ――――――そうなんだ。
まいったな、オレは特別感じないけど。気が付いたらここにいるって感じで。人間とサーヴァントの違いかね。けどまあ、」
それぐらいは我慢してもらわないとなあ。
なんたって、本当なら死んじゃってるワケだし。
「その、なんだ。アンタ、そりゃワガママってもんですよ?」
「っ……わ、わかっています、言ってみただけですっ。
蘇生の代償なんですから、あの程度の責め苦、耐え抜いてみせましょう」
「そうそう。この先何度もお世話になるだろうし、今のうちに受け属性つくっとけよ」
「ふん、そう何度も殺されてたまるものですか。次に殺されるのはセイバーのサーヴァントだ。私がされたように、あの胸を貫いてみせます」
「ああ、それでこそオレのマスターだ。
んじゃあまあ、そのやる気が燃えてる内に聖杯戦争を続けるとしようか」
話を切って玄関へ向かう。
正直、聖杯戦争なんてどうでもいいのだが、オレもやられっぱなしというのは性に合わない。
早く、一刻も早く敵を見つけて殺したい。
オレはオレを傷つけたヤツを殺す。
オレが傷つけられていたのを止めなかったヤツを殺す。
生き続けている人間を殺す、この視界に入る全ての人間を死に至らしめる。
そうでもしなければ、とても狂気を保てない。
そうでもしなければ、とても正気に耐えられない。
「ドウシタ。いかなイのカ、マスター」
吐き出しそうな心臓を飲み込んで、つっ立ったままのバゼットに振り向く。
今《オレ》の殺気で思い出したのか。
バゼットは、血まみれの民家でオレを糾弾した時と同じ目をしていた。
「……やはり、私は半人前だ。一番大事な質問を、どうして思い出さなかったのか」
何故もない。
思い出さないのは、思い出したくないからだ。
「答えろ。おまえは、一体何のサーヴァントだ」
敵意の籠もった質問。
それに、オレは―――ようやく、恋人を待ちこがれた少女のようにニヤリと笑って、
「アヴェンジャー―――復讐のサーヴァントだよ」
憎しみと歓喜を以て、存在しない呼称《ク ラ ス 》を告げた。
高速のコンビネーション。
人間技とは思えない、むしろ敵に同情したくなるような右ストレートが、容赦なく怪物の頭蓋を打ち砕く。
既に十体もの仲間を殺された復讐か、新たな獲物が躍りかかる。
右拳を打ち抜いた直後の隙、動きようのない体勢の崩れを狙う呪詛《もうどく》の爪―――!
軽く頭を振るだけでかわし、同時に右足を怪物の側頭部に叩き込む。
シャープ&ヘヴィ。
トマトか何かのように吹き飛ぶ頭。
それを視認する事もなく、バゼットは背後に迫る新たな獲物に振り向き、またも必殺のタイミングで迎撃する。
―――まるでブレードのついたコマだ。
あらゆる方向に対応し、襲い来るものを切り払い、向かう先に容赦なく連弾を叩き込むダンスマカブル。
「呆れた。出番ないじゃん、オレ」
見とれながらも、こっちはこっちでそれなりに善戦するが、なんとか一匹バラしている間に、バゼットは三匹ほど粉砕していた。
粉砕ってのは文字通りの意味で、あのほっそい足と拳で物の見事に肉をブチ撒け骨をブチ折る。
いや、お見それした。人間の格闘技術はここまで向上していたのか。
拳と足、膝やつま先には硬化のルーンが刻んであるようだが、それにしたって基本となる体さばきは“人間”が使う為に練り上げられた理論だろう。
直感に任せて暴れ回っていた頃のオレたちとはワケが違う。
バゼットの技は、人々が積み上げてきた血と汗の遺産だ。
それを身につける為にどれほどの時間と労力を費やしたのか。年頃の女の子、もとい、成熟した大人の女だっていうのに、他に習う事はなかったのか。なかったんだろうな。
そんな人間凶器《バゼット》にとって怪物は敵ではない。
もはや狩られるだけの羊、徒党をなした獲物と同じ。ああスケサンや、そのぐらいで許しておやりなさい。
ところでスケサンってなんだ。
「―――なるほど。これが貴方の言っていた“得体の知れない連中”ですか」
ふう、と大きく息をついて、革手袋を仕舞うバゼット。
信じられねえ、二十体近くの怪物を撲殺しておいて、ふう、の一つで済ませたよこの人間凶器……!
「……使い魔の類《たぐい》、でしょうね。
知性は乏しく、人間を殺すという単一性能しかありませんが、大量に使役するには適している。
私たちの知らない、マスターではない八人目の魔術師がいるのは確かなようだ。……こんな使い魔を使って無差別に人を襲う魔術師など放置できない。
貴方は、何か心当たりがありますか?」
「え、オレ?」
「うーん。マスターの言うようなヤツは知らない。ま、そのうち出会うんじゃないか?」
なにしろ時間は山ほどある。
何をしたって終わらないんだから、偶然《いず れ 》出会う事だってあるだろうさ。
「……いいでしょう。それと、貴方を疑った事を謝ります。町の異状はこの怪物たちの主の仕業で、貴方の仕業ではなかった」
「いいさ。冤罪《えんざい》は慣れっこだし、同じ穴のムジナなんだ。
コイツらが先かオレが先かの違いだよ。
コイツらが町の人間たちを殺して回ってるもんで、オレの仕事がまったく無いだけだ」
手間が省けて楽できるのはいいが、やはり仕事をとられるのはよろしくない。ワタクシの存在意義に関わる。無職になったら生きていけない。
「―――そんな仕事はやめなさい。貴方が何処の英霊かは知りませんが、私のサーヴァントである以上、一般人を巻き込む事は許しません」
「だからー、今日は誰も殺してないだろ。さっきの屋台の兄ちゃんなんてよだれ垂らしながら見送ったんだぜ?
オデンも肉も食いたかったなー。けど言われたコトはなんとか守る優秀な犬《オレ》。ほら、褒めて褒めて」
「それが普通なのです。褒められる事ではありません」
オレの飼い主は厳しい。
いつ反発してやろうかしらん。
「それより、いい加減はっきりさせる事がある。
貴方の宝具がなんであるかは分かりましたが、まだ真名を聞いていない。
今更ですが、貴方は何処の英雄なのです」
「そんなものは初めに言ったんだがね。
覚えていないアンタの落ち度だと思うんだが、そうか―――まだ、記憶とやらは曖昧なままなのか」
「それは―――そうですね、こうなっては隠していても仕方がありません。
アヴェンジャー。私は貴方と契約した時の事を思い出せない。時間をおけば回復すると踏んでいましたが、状況は私が思っていたより厳しいようだ。何時になるか分からない記憶の回復など待っていられない」
「で、てっとり早くオレにもう一度説明しろ、と。
そう言われても、オレが知ってる事なんてたかが知れてるぜ?
アンタはオレをサーヴァントとして召喚して契約した。
気が付けばオレはあの洋館にいて、アンタに首輪つけられてこき使われてたワケだ。
そん時に真名は名乗ったが―――まあ、別にいいか、誰に聞かれてもどうってコトない」
「どうというコトはない……? それはどういう―――」
「オレ、自分の名前はないんだ。生前どんな名前だったのかなんて知らねえのさ」
「そんな馬鹿な……!? サーヴァントである以上、貴方は英霊だ! 名称のない英雄など存在しない……!」
「ああ。だから名称はある。オレには人間としての名前がないだけだ。周りが呼んでいた名称でいいなら教えられるけど、それでいい?」
「……もちろんです。契約する時、私は貴方の名前を聞いている筈だ。
結果、貴方を信頼……いえ、聖杯戦争を勝ち抜くに相応しい力を持っていると判断した。
その、私が認めた名称はなんというのです」
「アンリマユ。どこぞの、古びた風習の名前だよ」
隠していても仕方がない。
第一もったいぶる程のものでもないんで、スッパリと答えてやった。
「アンリマユ―――そんな、その名は」
英雄の名前ではないとか、
英雄には相応しくないとか、
そもそも人間に付けられる名前じゃないとか、
あの顔はそういう反応だ。
我がマスター殿の気持ちも分かる。完全に名前負けしてるからな。
アンリマユ。古代ペルシャにおける、最も強大な悪魔の名称。
拝火教における最大の敵対者であり、人間の善性を守護する光明神と九千年の間戦い続けるという悪性の容認者。
言ってしまえば悪の神様である。
しかもこの世の半分を肯定するスケールのでかさ。名付けられたこっちはいい迷惑だ。
……ホント、もっと細《こま》いジャンルで机とか壺の神さまだったら、まだ分相応ってもんなんだが。
拝火教はこの善悪二神による確執が主軸になる物語で、天使と悪魔の二元論を形にした最初の宗教だ。
もっとも、オレは天使など見たこともないし悪魔ともお知り合いじゃない。
オレはただ、そういった教えに心酔していた村の一員にすぎず、ちょっとした救罪行為をしたら英雄扱いされ、死後、英霊として奉られるようになったモノらしい。
「勘違いするなよ。別に神様本人ってワケじゃない。
たまたま持ってる属性がそいつに近かったから、仮名《かめい》として付けられただけだろう。
英霊としての格は低いし、知っての通りあまり役に立たない三流だ」
「それはとっくに承知しています。今更弁解してもらうコトでもありません」
ははは。―――なにげに辛辣だねマスター。
「しかし―――アンリマユ―――いいえ、私の呼び出したサーヴァントは、たしか―――」
もっと違った、親愛なる響きだったような、と。
バゼット・フラガ・マクレミッツは自問した。
「……ふうん、親愛なる響きねえ。
なに、アンタ他に呼び出したい英霊がいたの? オレなんかじゃなく、もっと強くて立派な英雄にアテがあったとか」
「え―――い、いいえ、そんなコトは、あまり」
ありませんが、などと小さく付け足す。
なにその丸わかりのリアクション。意中の相手が他にいる……ってのは知っていたが、まさかサーヴァントもえり好みしていたとは!
ちぇー、オレとの契約《かんけい》は妥協で出来たもんだったんだ。
わりと真剣だったのに。
まあいいけど。
「面白いなあその顔。アンタでもそんな顔するんだ。拍子抜けではあるが、まあ予想通りでもある。
で、どんな男が好みなんだアンタ?」
「な、何を言いだしますか、男性の好みなんて話《はな》していなかったでしょう! 私はただ、貴方と彼の英霊との違いを考えていただけです」
「だからぁ、それが男の話だっていうの。使い魔なんざ術者の好みが第一なんだから、女のマスターが色男を呼ぶのは当然じゃねえか。
あ。なに、それとも女の英霊でも呼ぶ気だったとか? …………そりゃ深いな。まさか、趣味と実益を兼ねた男装だったとは」
「私はそのような私情は挟みません。貴方と契約したのは、それが正しいと私が判断したからです。そこに異性への感情など挟まない。
……ですが、誤解を招く物言いだった事も認めましょう。私は確かに、貴方以外の英霊に執着していた」
「そう、それそれ。そこまで白状したなら聞かせろよ。減るもんじゃなし、隠し事は極力潰していこう。
で、マスター。アンタもともと何処の英霊を呼び出そうとしてたんだ?」
「……呼び出そう、というのは正しくはありません。
私には彼《か》の英霊を召喚できる保証はなかったし、私自身、彼の存在を信じてはいなかったのですから」
語尾が弱々しく霞む。
昔の思い出にいるのだろう。
目の前の女の心が、自戒するように退行する。
「なるほど。信じていない英雄は呼び出せない。けど、アンタはその英雄に会いたかったワケか」
「……どうでしょう。恥ずかしい話ですが、自分でも分からない」
「……子供の頃の話です。
私はその、何に対しても冷めた子供だった。
まわりの言う『楽しみ』というものがうまく飲み込めず、よく両親を困惑させたものです。
……父は言いました。おまえは作業のように一日を過ごすのだな、と。済まなそうな目をして、いつも私に謝っていた」
「負い目があったのは両親だけだったのでしょうね。
私はそういった父の罪悪感も感じ取れず、今と同じつまらない毎日を過ごしていた。
思い出の大部分は、そういった淡々とした日々です。
……けれど、一つだけ夢中になったものがあった。
本当に、どうしてそれだけが特別だったのか、今でも分からない。家の書斎でたまたま手にした、私の国なら何処にでもある昔話を読んだ時、私はとても悲しかった」
「―――昔話ねぇ。ふうん、それが」
信じていないけれど、会いたいと思った誰か。
幼い子供が夢に見て、成長すると共に忘れてしまう、この世に数多と廃棄される幻想か。
「……ええ。その童話にいる時だけ、私は同じ年頃の子たちと同じになれた。子供心にも眩しく映った、ある英雄の物語です。
けど、その話の最後は華やかなものではなかった。決して、褒め称えていい物語なんかじゃなかった」
「……そう。みんなは勇ましい話だと言うけれど、私には違った話にしか見えなかった。その時に思ったのです。私が、彼を救ってあげたいと。
……何もできない私だけど、もし許されるのなら、彼を救いたいと願ってもいいのでしょうか、と」
「……………………」
遍《あまね》く公平に、人間には“何かを救いたい”という欲求が存在し、容認されている。
なにしろこのオレにすらある。
どのように救うかは別にしても、それが願望である内は誰に咎められる事でもない。
だが、
救いたいと、願ってもいいのでしょうか。
その当たり前を、幼い少女は持っていなかった。
誰にでも出来る事を『願い』にしたバゼット。
そんな少女に唯一認められた、おとぎ話の英雄さま。
「――――――ハ」
まあいいけど、じゃねえや。
ヤロウ、今度会ったら殺してやる。
「欲がないな。それがアンタの望みってワケ? 聖杯もずいぶん安く使われるもんだ」
ケラケラと笑う。
実際なかなか面白い。英雄《おと ぎ 》話には聖杯《おと ぎ 》話で対抗なのだ。
「だ、だからそれは子供の頃の話です。今のは英霊を召喚するとしたら誰を選ぶか、という話でしょう。
もし彼《か》の英雄を呼び出せる触媒があったのなら、私には召喚する動機があった、という話です」
「ははは。でも結局、呼び出したのはオレみたいなハンパ者だったワケだ。マスターも男運ねえなあ!」
ゲラゲラ笑う。
ホント、コイツ男運なさすぎ。
「アヴェンジャー。今の私の望みは聖杯を確保し、魔術協会に持ち帰る事です。私自身、聖杯にかける願いなどありません」
「知ってるよ。アンタ、そこまで器用な人間じゃないからな」
なにしろ、無いものはかけられない。
ゼロには何をかけてもゼロだ。
「……。次は貴方の番よアヴェンジャー。私が答えたのだから教えなさい。貴方の望みは何なのです」
「へ?」
困った、形勢逆転だ。
実はマスター同様、オレも聖杯にかけるような願いはない。
いま自発的に夢中になっているモノなんて、悲しいかな一つだけだ。
「オレの望み?
んー、しいて言うと絵を完成させたいってところか」
ケケケ、なんのコトだか分からないって顔してやがる。
この後、隠れ家に帰ってやりかけのパズルを発見され、もっと真面目に答えなさい、と激怒されるオレであった。
「―――待って。いま、強い魔力を感じなかった?」
「わりぃ、魔力感知なんざ持ってない。けど発信源なら見たぜ。あのビルの屋上で何か光った」
バゼットの反応は早い。
足下に転がしたラックを背負い、着いてきなさい、の一言もなしでセンタービルへ走り出した。
律儀にバゼットを追いかける。
……しかし。
やっぱり気になる、なんだアレ。
バゼットは筒を背負っている。
てっきり武器が入っているのかと思ったが、さっきの乱戦では足下に捨てて立ち振る舞っていた。
あんな面白げな荷物、目の前で背負われたら気になって仕方がない。
「ねー、それなに」
「…………」
ビルの裏口を探すバゼット。見た目、とても緊迫している。
「ねーねー。それなんなんだよー」
こっちも執拗に訊いてみる。
「――――――はあ」
誠意が通じたのか、足を止めて荷物を見せてくれるバゼット。
観察時間、約一分。
バゼットはこちらに筒を見せたあと、
「どう、判った?」
「ああ、わかった。たぶんティーセットが入ってる」
「…………………………」
あ、怒った。
バゼットは眉間に皺を寄せて、不本意そうに筒のフタを開ける。
ごろん、と転がり出る玉。
大きさ的には陸上競技の砲丸ぐらい。重さも同じぐらいだろう。最大五つ入るらしいが、今は三つしか入ってないそうだ。
なるほど、こうして中身を見せてもらえばハッキリする。
まさかこんな品物を背負っていたとは、恐るべしバゼット・フラガ・マクレミッツ。
ところで。
「なにこれ?」
謎はますます深まったのであった。
「貴方には説明しません。少なくとも、ティーセットではない事は確認していただけたかと」
球体を仕舞って背負いなおすバゼット。
信用できない相手に切り札は教えない、という事だろう。
それはともかく。
「力持ちだな。なに、胸が重いぶん肩に負担かかって筋肉あるとか? 使いもしねえクセに無駄にでかいもんな、アンタの」
研ぎ澄まされた観察眼をもって、客観的真実を述べる。
バゼットはピタリと止まった後、錆びた人形のようにゆっくりと振り向いて、
「―――微笑ましい。貴方の洒脱さは、時に殺意を覚えるほど的確で勇敢だ」
いい緊張感だ。
マスターとサーヴァントはこうでなくてはいけない。
この緊縛感、どうせ生き返るからってそのうちオレを殺しかねない殺意なのであった。
ビルの屋上には誰もいない。
強い風の音だけがオレたちを迎え入れる。
「……遅かったか。確かに何者かがいた痕跡はありますが、ここから足取りを探るのは不可能だ」
何か思うところがあるのか、バゼットは屋上の端から町を見下ろしている。
オレはと言うと、
地面に残った血の跡を、げしげしと足で消したりしている。
ここは新都で一番高い場所。
月は幾らか低く、ハシゴか階段でもあれば手が届きそうだ。
もうほとんどの人間はいなくなったというのに、町の明かりは途絶えない。
煌びやかな、繁栄に埋もれた営みを眺める。
―――退屈はしない。
特別感じ入るものはあってはならないが、とりあえず、この風景に罪はない。
「――――アヴェンジャー」
ふと。
隣りに、バゼットがやってきていた。
「なんだよ。なにかイイモノでも見つけたのか」
「先ほどの怪物を何体か確認しました。この場所からなら、新都にいる使い魔は肉眼で発見できそうです」
思い詰めた目をしている。
町を眺めていたのではなく、新都を徘徊する怪物たちを睨んでいたらしい。
「それがなに? ここで一晩中観察して、使い魔の主人を捜してみるとか?」
「現実的ではありませんね。使い魔たちは使い捨てのようだ。主人の下には戻らないようですから、ここで監視したところで本拠地は割り出せない」
「だろうな。無駄なコトはしないにかぎる。マスターが賢明で助かった。けど、そのもの言いだと、アンタさ」
「アヴェンジャー。私はあの怪物たちを一掃したい。
その為に、貴方の力を貸しなさい」
「――――――」
やはりそうきたか。
まったく、生真面目な優等生はしょうがねえよなあ。
たまらず八つ裂きにしたくなっちまう。
「一般人を巻き込むな、なんて命令に比べればオレ向きだけどな。いいのかよマスター。アンタ、聖杯戦争に勝つ事が目的なんだろ。
連中の主人が邪魔だってんなら分かる。けどヤツラが人間を殺して回ってるから一掃する、なんてのは矛盾している。悪い子でいようと決めたのにいい子でもいたいなんて、そりゃ都合が良すぎるだろ」
さて、オレも敵意を隠してないんで、このまま殺し合いになるのは明白だった。
手を後ろに回して、愛用の短剣を具《 と》現化《り 》だす。
さっきの予想……一回ぐらい殺し合っとく……が十分後に実現するなんて予言者になれそうだ。
オレから切り出す事はないが、あっちが仕掛けてくるなら応えるのがオレの方針である。
まことに遺憾ではあるが、一度ぐらいはこうして殺しあっておくのが―――れ?
「貴方の言う通りだ。
確かに、人助けが目的ではありません」
小さな惑い。
それを賢明に飲み込み、
「ですが、間違っている事は正したい。
知った以上、私には見て見ぬフリはできません」
自分に言い聞かせるように、女は言った。
「…………ふうん。それはどんな理由で?
連中が人を殺すのがいけないってコト?
それを見逃す自分がいけないってコト?
―――それとも。
聖杯戦争より、人助けの方が大切だってコト?」
おそらくはその全てだろう。
だからこそ、バゼットはがんじがらめの矛盾に責められている。
自分が正しいと思うのなら、あんな苦しそうな顔はしまい。彼女は必死に、魔術師として矛盾した自分を抑えつけながら、
「正しいと思える行動に理由はありません。
……いえ、理由があってはいけないと思う。それを正しいと感じたのなら、」
理由、利益なんて言葉を盾にするべきではない、と言いたいんだろう。
「……うわ。独善だねー、やばいぜーその考え」
「ええ。貴方に言われなくとも承知している」
開き直りやがった。
それが彼女の信じたい“正しい”在り方なんだろうさ。
反面、今のバゼット・フラガ・マクレミッツは協会《り ゆ う 》に隷属している身でもある。
そんなどっちも取ってます、なんてバランスがとれるほど頑丈ならいいんだが。
「まあ、ご立派な思想はいいけどさ。なにもそこまで正義に付き合ってやるコトはないだろ。
ありゃあ、もとからカタチのないものだ。どんなに求愛しても、向こうから返ってくるものはないよ。それよりさ、もっといい目を見せてくれる勢力と付き合った方がよくないか?」
「……ですから、私も魔術協会に所属している。
私だって見返りは欲しい。
それとは別に、出来るかぎり正しくありたいと思うだけです」
正しくありたいと思うのは何故か。
それはその人間が、自分を正しいと思ってはいない時だ。
だから正しい行動をして、汚い自分を少しでもキレイに見せようともがいている。
まったく―――
「―――生真面目なアンタらしい。
ようするに徳の高い人間になりたいんだ」
不器用に―――無様に生きてるんだな、この人間は。
「……そう、なのかもしれませんね。
けれど私には叶わない願いだ。私は壊す事でしか感謝されない人間です。人徳とは他人に親しまれる、他人に与える事ができる人間が持ち得るもの。
決して、私に与えられるものではありません」
世間に貢献する事。人々を救う事が徳である。
彼女は壊す事しかできない。
繕《つくろ》う手を持たない人間には、真の意味で信頼は勝ち得ないのだと、彼女の目が訴える。
「それは誤認だと思うけどね」
「いいえ。私には私財をなげうって貧窮の民を救う事も、新しい組織を作る事もできない。あくまで歯車の一つで、いつまでもちっぽけな一個人から抜け出せない。
……そんな人間に、高い徳なんて得られる筈がないでしょう」
「―――まさか」
やば、思わず本気で怒っちまった。
まずいなあ、本気になってるかなあ、オレ。
「それだけは完璧に間違いだ。金で徳は買えねえよ。
徳ってのは魂の質だ。それは得るものじゃない。苦しみながら、自分の中で培《つちか》うものだろ」
「―――――――――」
どんなに矮小な人間にも、どんなに無力な人間にも、どんなに無価値な人間にも。
それは誕生から共にある平等の機能、前に進もうとする意志によって磨かれる輝きだ。
……善悪の区別なく。
生き物として高みを目指すモノのみに、唯我の悟りが開けるように。
「徳は―――自らの価値は、外的評価によるものではないと言うのですか」
「あ? いや、価値って話なら外的評価が全てだよ。
その為の徳、その為の自己錬磨だ。せいぜい高値ふっかけて、自分を自分以上に買ってくれるヤツとくっつく為のパラメーターだよ」
内的宇宙の向上は、結果的に外的宇宙の向上に繋がる。
見栄っぱりで寂しがり屋な人間ほど『いい人』である事に固執し、その浅ましさに恥じ入るのだ。
嫌われたくないからいい人であろうとするなんて、自分はなんて利己的なのだろう、と。
だが。
「―――それでいいじゃねえか。誰かに認められたいって気持ちはな、誇っていい事なんだよ。
その気持ちがあるヤツは、同じように、きっと誰かを認めてやれる。
アンタの方針が結局は自分の為だって言うんなら、間違ってなんかいねえってコト」
共に楽しもうっていう、愛情の美点がそこにある。
まだ彼女はその域に達してないし、死ぬまで気づくかどうか怪しいもんだが。
この女、とにかく要領が悪いのだ。
そのクセなまじ器用だから、こんな風に何でもできる風になっちまった。
鉄面皮で後ろ向き。
ひたすら回り道をする自己改革。
間違っていると分かっていながら、大したもんじゃないと毒づきながら、ジタバタあがいて、明るい方に向かっていく。
ああ―――そういう人間に、オレは手を貸したのか。
「…………その。
貴方らしからぬ高説でしたが、結論として今後の方針に文句はない、という解釈でいいのですか?」
「ああ。いいんじゃない、正義の味方ってのも?
気持ち良さそうだし。たまには理不尽な死から人々を守るっていうのも悪くない」
正義の味方なんて響きには反吐《ヘド》がでるが、ここはそれが一番適切だろう。
「……意外ですね。正義なんて言葉、貴方が最も嫌うものだと感じていましたが」
「嫌いだよ。けど、そういう方向性は好きなんだ」
「は?」
第一、やる事に変わりはない。
オレたちは夜の町を徘徊し、他のマスターを殺し、あの怪物どもも殺す。優先順度が等価になっただけだ。まだ、十分にオレの範囲内と言える。
冬木の街には、まだ十分な生命がある。
マスターが満腹になるまで杯が乾ききる事はない。
死を知らないオレたちは勝利を知らぬまま、敗北だけを飛び越える。
「そう、アンタの気が済むまでやろうぜマスター。
何事も経験だ。飽きるまで楽しめばいい」
ひとり、吹きすさぶ風を数える。
最も天《そこ》に近いこの塔からでは、街の明かりは絵空事のように思える。
聖杯戦争はいつまでも続いていく。
オレの殺人《ご ら く 》はいつまでも続いていく。
おそらく、明日にでもオレたちは他のマスターに敗れ、また蘇るだろう。
その時まで、バゼットが方針を変える時まで、しばらくは付き合おう。
ここは遠く深い虚ろなソラ。
得るモノなど、どうせ、全て幻に他ならない。
「アンタの気が済むまでやろうぜマスター。
何事も経験だ。飽きるまで楽しめばいい」
そう言って、サーヴァントは私から視線をきった。
どんな心境の変化か、あの軽口を塞いでおとなしく夜景を眺めている。
……サーヴァント、アヴェンジャー。
七つのクラスに該当しないクラスだが、聖杯戦争は時に例外を生んできたという。アヴェンジャーもその一つだろう。
復讐者を意味する英霊というのは矛盾しているが、そもそもアンリマユという名称そのものが不可思議だ。
英雄の中には生まれつきの名前ではなく、後に得られる称号で記録される者も多い。
私が彼に語った故郷の英雄の話も、そういった例の一つだった。
しかし、何にせよアンリマユという響きは不吉すぎる。
いずれそんな忌み名ではない、生まれた時に与えられた名前を聞き出してあげなければ。
見下ろす街には、所々に暗い影が徘徊している。
遠見《ケーナズ》のルーンを用いても、ここからでは新都の様子しか見て取れない。
冬木を二分する未遠川。大橋を越えた先の深山町がどうなっているかは、直接足を運ばなければ分からない。
あの黒い怪物は、深山町にも潜伏しているだろう。
……あの怪物は、どのような術式でくくられた使い魔なのか。
協会でもあんなタイプの使い魔は見た事がない。
不思議と統率がとれていて、知性がないようでいながら目的らしきものが見え隠れしている。
戦闘能力はそれなりに高い。大型の狩猟犬、野生化した野猿を人型に増幅させたようなものだ。
戦闘経験のない人間なら抵抗もできず即死、
武術、スポーツと十年以上向かい合ってきた人間なら、条件が良ければ数秒ほど抗戦が可能、ないし逃げ出せる可能性もあるだろう。
だが、とにかく数が多い。
くわえてあの容姿だ。生理的に嫌悪感を呼ぶフォルム、剥き出しの刃物そのものの爪、樹皮めいた堅い体。
複数のアレが人間を襲えば、火器でもないかぎり生き延びる事はできない。
それに、
「」
……あの叫び声が不快すぎる。
雄々しい獣の咆哮とはまったく異なった、聴くに堪えない金切り声。
日陰で群をなす害虫が発声器官を持っていたら、あんな鳴き声をあげるに違いない。
彼……アヴェンジャーはあの声が気にならないらしい。
先ほどの戦闘も、淡々と作業をこなすように怪物たちと渡り合っていた。
もっとも、彼の実力はそう評価できるものではない。
自称、最弱のサーヴァントというのは正しい。
……正しいのだが、英霊ともあろう者があの程度の雑兵に苦戦するなんて詐欺《さぎ》ではないのか。
「詐欺《さぎ》じゃないだろ。はじめっから最弱だって断ってんだから」
「―――待って。貴方、私の考えが読めるの?」
「読めねえよ。そんなふうな顔《つら》してたから言っただけだ。ま、読めたらさぞ面白いだろうよ。アンタは中身と外見がチグハグだからな」
無遠慮にサーヴァントは笑う。
この男のこういう野卑なところが私には合わなすぎる。弱いし。
口だけだし。
セイバーへの復讐戦は私が詰めるしかないだろう。
……しかし、そう悪い事だらけではない。
このサーヴァントは死なない事に関しては特化している。
死んでも甦るのだからそもそも“殺せない”のだが、そういった心の余裕からか、防戦はとてつもなく上手いのだ。
先ほどの乱戦。
私は敵の包囲網を秒単位で一つずつ崩していく事で立ち回った。
が、彼は囲まれたままで、私が応援に駆けつけるまで凌《しの》ぎきったのだ。
勝てはしないが負けもしない戦闘スタイル。
それは―――その、あまり認めたくないのだけど、私の戦闘方針と、抜群に、相性がいい。
一際、強い風が吹き抜けた。
視界の隅、傍らに立つサーヴァントの髪がたなびく。
「―――え?」
荒野から吹き上げる風を受ける、原始の祈祷師《シャ ー マ ン 》。
あるがままの自然を受け入れ、共に生き、共に滅びる純朴な姿を幻視した。
「―――アヴェンジャー、今の、」
「そろそろ行こうぜ。連中がたむろしている場所は把握しただろ? あんなんでも生き物だからな、バラせば気晴らしにはなってくれる」
……気の迷いだ。
アヴェンジャーは怪物たちの集まりを探していただけである。
「ああ。そうか、難しく考えるこたぁなかったんだ。
ひひ、アンタも人が悪いぜマスター。結局さ、目につく敵はすべて殺せってコトじゃねえか」
凶悪な刃物《ナ イ フ 》を器用に回しながら、彼は心底愉快そうに口元をつり上げる。
生き物を殺せればそれでいい、と。
人間も動物も変わらない。
ソレらは、もともと同じケモノであると。
「――――――」
サーヴァントを睨み付ける。
「げ。間違い間違い、人間は殺しません。やるのはマスターと怪物たちだけにするから、そう怖い顔しないでください。……ああもうつまんねえの、うちのマスターは器量小せえんだからさー。でかいのは胸だけかよー」
軽口を叩きながら、彼はビルの中に消えていった。
「―――最低ですね。アレは、何を言ってもあのままだ」
溜息をついて、私も屋上を後にする。
頭上には不吉な月、眼下には深海の街。
共に戦うサーヴァントには嫌悪と不審。
不安材料ばかりが積もっていく聖杯戦争。
……にも拘《かか》わらず、私はあのサーヴァントに、昨日よりほんの少しだけ、愛着らしきものを持っていた。
―――街を眺めていたサーヴァント。
冷淡なその姿を見て、理由もなく思ってしまった。
あの男はどうしようもないほどの悪だ。
……けれど。
同時に彼は、同じぐらい人間《せ か い 》を愛しているのではないか、なんて、矛盾した考えを。
◇◇◇
見知った子供
ぶらぶらと散歩がてらに大橋を歩いてみる。
空は快晴。
日差しはやや暖かく、海からの風がちょうどよく頬を冷ましてくれる。
三連休の一日目、土曜の天気は絶好のピクニック日和と言えた。
「お、あっちは賑やかだな」
公園には子供たちの姿がある。
かなりの大人数だ。バットやらサッカーボールやら、一日では遊びきれない程の道具を持ち込んで、東西の陣営に分かれて競い合っている。
日向ぼっこの気分で、橋の欄干《らんかん》に寄りかかって公園の一大決戦を観覧する。
紆余曲折した後、午前中の勝負はバスケットボールに決まったようだ。それぞれの陣営は自慢の人材を選りすぐり、子供と侮れない好勝負を展開させる。
応援、叱咤、感激、嘆息。
見れば公園の芝生には何人か座り込んでいて、子供たちに合わせて一喜一憂している。観客は俺だけではないようだ。
「―――あー、なんだ」
聖杯戦争の件とかでプチ警戒態勢であるものの、こうやって時間を過ごすのも悪くない。
特別楽しいワケではないが退屈でもないってのは、得ようとして得られる時間ではないと思う。
公園から、一際高い歓声が聞こえてくる。
勝負あり。緊迫したラリーゲームだったが、ゲームを制したのは小学生にあるまじき長身三人組のチームではなく、極めてオーソドックスな編成の西軍チームだった。
「やっぱりな。あの男の子、これ以上ないってぐらい試合の流れを掴んでたし」
勝利チームの選手はみな平均だったが、一人だけ飛び抜けた司令塔がいたのだ。
司令塔くんはチームメイトへの的確な指示だけでなく、動きもキビキビとしてエースとして十分すぎる輝きを放っていた。
それに加えて、外国人なのだろう、実に豪華な金髪なのである。目立たない方がおかしい。
金髪の司令塔くんは子供《な か ま 》たちのアイドルなのか、試合後にもみくちゃにされながら笑顔でみんなの善戦ぶりを讃えている。
あれだけの素養なら天狗になっても当然だというのに、実に出来た少年だ。
と。
「???」
一瞬、公園の金髪くんと目があった。
目のいい俺ならいざ知らず、あの距離から目が合う、なんてコトはこっちの錯覚だと思ったんだけど、
「あれ、こっち来る」
金髪くんは子供たちにちょっと挨拶をして、一直線に公園をつっきって、橋に通じる階段を上ってくる。
「おはようございまーす!」
「……はい?」
思わず、間の抜けた返事をしてしまう。
「あれ? この時間だともうこんにちは、ですか? それじゃあやり直しますね。
どうも、こんにちはお兄さん!」
「あ、うん。こんにちは」
つられて挨拶。
にぱ、と嬉しそうに笑う金髪くん。
「――――――」
やばい。
やばいぐらいに記憶にない。
見ず知らずの子に挨拶される覚えはなく……しかも公園からここまで、わざわざやってきてくれた……きっと会ったことがある筈だ、と頭を巡らす。
「だめだ、まったく覚えがない。ごめん、以前会ったコトあったっけ?」
「あれ、覚えてませんか?」
きょとん、と驚く金髪くん。
すごい罪悪感が湧くのだが、悲しいかな思い当たる節はない。
「うーん、そっかあ。お兄さん鈍そうだし、いきなりじゃ無理ないですね。けど、もう何度か会ってますよボクたち。その時はちょっと服装とか違ってたみたいですけど」
「服が違ってた?」
いや。服が違ってたぐらいで、これだけ特徴のある子を忘れる筈はないしなあ……。
「んー、服っていうより格好かな。まあ、その時のコトはボク自身、他人事みたいな感じなんですけど。
同じだけどあんまり接点ない、みたいな」
ますます分からない。
金髪くんは仕方ないなあ、と顔をしかめる。
「じゃあヒントをあげますね。ボク、きっとお兄さんが一番嫌いな人間です。
その分類で思い当たる人って少ないでしょ? お兄さん、苦手な人は人並みにいるけど、嫌いな人って少ないから」
少年の声に嫌味はまったくない。
自分が嫌われていると分かっているのに、なお純真な笑顔を向けてくる。
血のような赤い瞳がまっすぐに見つめて―――って、待てよ……?
赤い瞳と金の髪をしたヤツなら、一人だけ心当たりがあるようなないような。
「―――――あ」
ぜんぜん関係ない。
ぜんぜん関係ないのだが、なんとなく、この少年と外見……というか、パーツが似ているヤツを思い浮かべてしまった。
「いや、けど―――もしかして、アイツに弟とかいたのか……?」
「残念ながらボクに肉親はいません。兄弟とか伴侶には憧れますけどね」
邪気のない、天使のような笑顔。
「あ、でも安心してください。セイバーさんはまだ趣味じゃないですから。
まあ、いま負かされたらあんがいコロっといっちゃうかもしれませんけど、とりあえず求愛対象ではないです」
「――――――」
ぐわんぐわんと脳内が脱水状態。
つまりなんだ。
もしかしてこの金髪くんは、その、
「本人ですよ。なんでも
『今の状況は児戯に等しい。付き合っていられるか』
って、若返りの薬を飲んだみたいです。我ながらよく分からない人ですね」
「―――馬鹿な」
ありえない。本気でありえない。何かの間違いだとしてもほんっとーにありえない。
なにがって、アイツの子供時代がこんないい子のハズがない……っ!
「お兄さん、わかりやすい表情するなあ。まあ、いろんな人に聞いてみたけど同じ反応でしたから、ボクが悪いんだって分かってます。
……ほんと、なんでみんなに嫌われるようなコトするかなあ」
我がコトながら、否、我がコトだから難しいなあ、と溜息をつく金髪くん。
「あ、みんなが呼んでる。
それじゃお兄さん、また今度。あんまり一人で危ないコトしちゃダメですけど、んー、やっぱり色々まわってもらった方がいいのかな。
そうしてくれると、ボクも元に戻れますから」
それじゃあ、と礼儀正しくお辞儀をして去ろうとする金髪くん。
「ちょっ―――待てよ、それどういう意味だ」
「ごめんなさい、教えてあげられません。マスターから、答え《・・》を教えてはいけないって言われてるんです。
ほら、ボク前科があるじゃないですか。ランサーが死ぬまで大人しくしていろって言われてたのに、セイバーさんに会いに行っちゃったし。
―――ほんと、どうしてそういうコトするかなあ」
「な――――――」
それは、半年前の聖杯戦争でキャスターを串刺しにした時のコトか。
だが―――
「マスターって、言峰はもういない。これだけは絶対だ」
そう。たとえ全てのサーヴァントが留まっていて、いない筈のマスターがいたとしても。
言峰綺礼だけは、確実に死んでいる。
「そうですね、ボクのマスターはコトミネだ。
けど、コトミネはちゃんと死んでいる。もうこの世にはいません。
だから、コトミネキレイはこの状況とは無関係です。ボクのコトはゲームに関係ない外野だと思った方がいいですよ。うん。この事件とは、本当に何の関係もありません」
金髪の少年は階段を駆け下りていく。
アイドルの帰還に喜ぶ子供たち。
その様子を呆然と眺めながら、とにかく、あの子がヤツ本人だという事を記憶した。
……もちろん、これっぽっちも納得はできないのであるが。
◇◇◇
その未来は今
「………………」
気は乗らないが、一度は聞かねばならない話だ。
セイバーが再び始まった聖杯戦争をどう思っているのか。
出来うるかぎり感情的にならないよう自分を戒めて、障子越しに声をかけた。
「今の状況をどう思っているか、ですか?」
「ああ。こうやって面と向かって話してなかったからな。一度は聞いておこうと思って」
「それは構わないのですが。
……はたして、私の話で手がかりが掴めるものか。シロウの力になれればいいのですが」
「力にならなくてもいいよ。今日はセイバーの話を聞きにきただけなんだ。
参考意見じゃなくて、普通にセイバーの考えを知っておこうと思って」
「はあ。私の考え、ですか」
「そう。今後の方針とか誰が怪しいとか、そういうのでも構わない。
セイバーが今の状況をどう思っていて、どこがおかしくて、これからどうしたいのかを聞かせてほしい」
しばしの沈黙。
セイバーは深く考えない程度に、自分の意見をまとめているようだ。
「……………………」
わずかな期待と不安が生じる。
俺が気づけない事を、セイバーは口に出来るのだろうかと。
「……そうですね。なぜ聖杯戦争が再開されたのか私には分かりません。
ですが、戦いが再び始まったのなら勝利しなければならない。私のマスターに敗北は許しませんから」
「げ。なんか懐かしい台詞だな、それ」
「はい、意識して使ってみました。シロウが必ず勝利できるよう、願をかけてみたのです」
いや、今のは願掛けっていうよりハッパ掛けっていうか、第三者から見たら脅迫に他ならないのでは。
「私の考えはそれだけです。騒ぎが起きないうちはこうして過ごし、何者かが牙を剥くのならこれを討つ。
私たちサーヴァント自体が災いであるのなら、その災いを以て敵に思い知らせるのです。
シロウが言ってくれた通り、当然のように皆を守る力である為に」
それがセイバーの考えだった。
俺と同じ、日常を守る為の立ち位置。
それは文句なしに嬉しいのだが、やはり、根本的な疑問が抜け落ちている。
「うん、俺もその方針でいいと思う。
けどセイバー。今の状況、正しいと思うか?」
「え……それは言うまでもない事、ではないでしょうか。
聖杯戦争が再開された以上、予断を許さない状況ですし」
「そうだな。半年前みたいに全員がやる気になったらタイヘンだ。まあ、聖杯《もくてき》がないんだから、誰も競争なんてしないんだけど」
それでも、きちんと。
セイバーの口から、事の正否を聞きたかった。
「そうですね。聖杯は私たちが破壊した。それだけは正しいと言い切れる。
……最後の夜。貴方と二人で長い石段を登った事を、私は忘れません」
「ああ。その後は離ればなれになっちまったけど、最後には合流できたんだっけ。
お互い、相手には苦労したと思うけど」
「ええ。私は英雄王を、シロウは神父を。その後、私は、
凛の令呪で、聖杯を破壊した」
それが半年前の決着だ。
セイバーと共に戦って、セイバーが冬木の街に留まる結末は、その流れでしかないのだろう。
「シロウ? どうしたのです、不思議そうな顔をして。
聖杯がなければサーヴァント同士では戦わない、という考えはおかしいですか?」
「え? いや、基本的には正しいと思う。
ま、他の連中に探りをいれて、危険かどうか判断しなくちゃいけないけどな」
セイバーの考えは確認した。
あとは出来るだけ早いうちに、他のサーヴァントの考えを聞けばいい。
「シロウ? どうしました、トイレですか?」
「いや、話も聞けたし、今夜は早めに戻って休むよ。
時間を取らせてすまなかった」
「ぁ―――はい、おやすみなさいシロウ。……時間的にはまだ余裕がありますが、たしかに疲れているようですし」
「ああ。セイバーもおやすみ」
セイバーに挨拶を返して障子を閉める。
外は一面の闇。
窓越しに、カタチの悪い月を見上げる。
「―――いや、色々と都合のいい話をどうも」
ぼんやりと、月に誘われるように声が出た。新情報はなかったが、実りのある一時だった。
さて、部屋に戻って眠るとしよう。
◇◇◇
monster
ライダーの部屋に到着。
「………………」
気は進まないが、ライダーの考えを聞いておかなくてはならない。
昼間はなんとなく聞けない雰囲気だが、こうして夜も更けて真面目に向き合えば聞きやすい。
「おーい。ライダー、話があるんだけどー」
声をかけて障子を開ける。
とりあえず雑談から入って、様子を見てライダーの本音を聞いてみよう。
「そうですね。正直に言ってしまえば、サクラに危険が及ばなければそれでいい。仮に聖杯戦争が本格化し、街が崩壊したところで私は何も」
―――で。
桜がいない事がプラスに働いたのか、ライダーはクールにホントの気持ちを語ってくれた。
前言撤回、プラスじゃなくてマイナスである。あまりの迫力に背筋が凍り付きそうです。
「……そうか。えーと、なんだ、万が一にもあり得ないんだけど、仮に桜が戦う気になったら、その時点で戦闘開始ってコトかな」
「サクラが勝利を望むのであればそうなります。
私は私の出来る範囲で、今度こそ聖杯戦争を勝ち抜くでしょう。学園を血に染めたように、キャスターを上回る規模でブラッドフォートを展開させる覚悟もある。
士郎、それを阻むというのであれば、貴方が相手でも容赦はしません」
「…………」
……難しい。仮に、本当に仮に、何かの大凶殺で桜がその気になっても邪魔はしない、と言えないのが辛いところだ。
桜が道を間違えるのなら俺は阻止するだけだ。
それを承知しているから、ライダーは『サクラの味方になれ』とは言わないのだ。
「いいか、そんなもしもの話は置いておいて。
しかし意外だな。ライダーはもっと受動的な性格だと思ってた」
自分から『街の人間を犠牲にする』なんて言いだすとは思ってもいなかった。
ここ半年で俺が捉えたライダー像は、色んな事に関心はあるものの、基本的に行動には移さない女性、というものだったし。
「ええ、士郎の推測は正しいと思います。私は自分から行動する事には慣れていませんから。
けれど、機会がそちらから訪れるのなら話は別です。戦いになるのなら全力を尽くします。
殺す時は殺す。容赦なく、残酷に。二度と甦らないよう、二度と私に挑むなどと思わないように」
「―――ライダー」
……比喩ではなく、体が凍り付きそうになった。
眼鏡ごしの魔眼は、抑えているだろうに、俺の手足を麻痺させる。
「……でも、それはケンカを売られた時の話だろう。
いや、仮に桜が戦う気になっても、桜はそんな方法は許さない。違うか?」
「……でしょうね。けれど私とサクラの方針は根本が異なります。セイバーも言っていたでしょう。その時になれば私は手段を選ばない、と。
否定はしません。私はセイバーのように高潔な魂は持っていない。戦いになれば人格を変貌させ、思うままに人を殺してまわるでしょう」
……イヤな既視感だ。
自嘲めいたライダーの発言に、
ふと、不吉なイメージが重なった。
「違う―――そんな事はない、ライダー。
半年も同じ家で暮らしたんだぞ? ライダーがどんな人間かはイヤでも感じ取れる。おまえ―――あんたが、あんなのと同じだなんて言わせない」
目眩のせいだ。
バカみたく、オレらしくなく、感情を発火させた。
「……士郎。いい機会です、一つ忠告しておきましょう。
私は怪物です。貴方たちが伝え聞いた通りの、人々に恐れられた魔物なのです。
この手は血に汚れている。かつて私は神殿で多くの勇者に挑まれ、例外なく食い尽くした。
こうして今ヒトの姿をしているからと言って、それを否定する事はできません」
「……メドゥーサの伝説は知ってる。
けどあれは向こうからやってきたもんだろ。ライダーはいつだって襲われる側だったじゃないか」
醜い怪物にされたのも、人間に狙われるようになったのも、ライダーの咎《とが》じゃない。
メドゥーサという女怪は、むしろ最後まで被害者だった筈だ。
「……その証拠に、今ここにいるライダーは人を襲わない。桜を大事に思ってくれて、俺たちにだって気を遣ってくれる、ちゃんとした人間だ」
「……それは私が英霊としてのメドゥーサだからです。
サーヴァント、いえ、英霊は英雄の全盛期の姿で召喚されます。今ここにいる私は、メドゥーサと呼ばれたモノが、人のカタチをしていた頃の私にすぎません」
「……ですが、メドゥーサである以上、怪物に変貌する側面もあるのです。
私は貴方が思い描く人間ではない。
ソレは文字通りの怪物で、醜悪に変貌し、際限なく増大した、人間にとっての絶対悪と呼ばれるものです」
「…………っ」
……俺だって考えた事はある。
ギリシャ神話における女怪と、今のライダーの姿の違いを。
俺は漠然と、伝説の方が間違いなのだと思っていた。
だが―――そんな都合のいい話は、この呪詛の前では気休めにもならない。
「私は殺しました。殺す度に変わっていった。
私の名が強大になればなるほど、挑んでくる人間の数は増えていく。
人と魔と英雄は循環する勢力です。人間は魔には敵わない。何千の兵隊を差し向けようが、人《・》である限り怪物《・・》には太刀打ちできない。私はその法則に守られ、より怪物としての属性を強めていった」
人間と悪魔と英雄の三すくみ。
人は魔に勝てず、魔は英雄に倒され、英雄は人に粛正される。
その法則に守られ、怪物と化したメドゥーサは際限なく人間の群を殺戮しその度に成長し、回り回って、一人の英雄に生け贄として捧げられた―――
「―――それが私の正体です、士郎。私の大本《オリジナル》になる存在がどのような姿か、貴方は知らない。
この『私』が神殿に閉じこもり、どれほどの歳月と勇者を飲み込んでどんなモノに成長《へんぼう》してしまうかなど、貴方には分からない。
……私にだって、このあと私がどんな怪物になるか、考える事さえできないのですから」
自らの業、どんなに取り繕っても自分は怪物の分身なのだと、ライダーは告白する。
俺には、それを否定する資格も力もない。
「……なんだって、こんな時に言うんだ。
俺はライダーをそんな風に見たコトはないし、これからだって変わらない。
ただ、セイバーと同じように―――」
この先、無闇に戦わないでほしいと思い―――その答えがこの告白なのだと、後悔した。
「……なさけない。俺には、ライダーにそんな事をするなって、言う事しかできない」
「いいえ、私も意地が悪かった。どうしてか今の士郎に話して困らせたい、と思ったのです」
「けれどこれで良かった。貴方が日々私に抱いてくれる間違いは、嬉しくもあり辛くもあった。
だから、もしもの時の為に、きちんと知っておいてほしかったのです」
先ほどまでの暗い影は感じられない。
ライダーは、今まで通りのライダーとして、ぺこりと俺に頭を下げた。
「迷惑をかけてすみません。ですが忘れないでください士郎。その時になれば、私は人間を食らう怪物になるという事を」
声には、かすかな懇願がある。
「―――分かった。その時は俺も覚悟を決める。
けどそれはもしもの話だ。桜がライダーのマスターである限り、決して“その時”なんて来ないよ」
ライダーの気持ちをどれだけ汲み取れたのか。
せめてまっすぐに見返して、彼女の部屋を後にした。
◇◇◇
戦死の心得
やはり、一度はアイツの思惑を確認しておかなければ。
サーヴァントの中では好戦的な部類に入る男だ。
戦えるならなんでもいい、と喜んで今の状況に適応しかねない。
「あん? 誰かと思えばセイバーのマスターか。
オレも気を抜き過ぎかね、一瞬誰かと思ったぜ」
何が気を抜きすぎ、だ。
背後からこっそり近づいたにも関わらず、当然のように十メートル付近で気づきやがって。
「似合わねえからアサシンの真似事なんざするな。第一、盗み取ろうにもまだ一匹も釣れてねえぞ」
「……どうも今日は当たりが薄い。夕食の調達なら他をあたってくれ」
むむ。全身これサバイバル、陸でも海でも山でも好き勝手生きていけるランサーがオケラとは珍しい。
いや、問題はそこではなく。
「夕食の調達って、なんでだよ」
「そりゃおまえのところに提供してるからだろ。夕方になると元気な姉ちゃんがやってきて、活きのいいヤツちょうだいー、なんてバケツ一杯もっていくぞ?」
「う。そ、それはご迷惑をおかけしました。
……というか、藤ねえの土産に魚が多くなった原因が、こんなところに。世の中狭すぎる」
「それが人の世の腐れ縁《ふしぎ》ってもんだ。まあ、あの姉ちゃんそのものが不思議の塊だが。
で。メシが目的じゃねえなら何しに来やがった小僧」
流石、腐ってもサーヴァント。
ここんところセイバーたち以上に街に溶け込んでいたんで平和ボケしていたかと思ったが、さにあらん。
「何しにって、真面目な話をしにきたんだよ。アンタに世間話なんてしても仕方ないんで手短に訊くぞ。
ランサー。アンタ、今の状況をどう思ってる?」
いや、そもそも。
「どうして、まだこっちに留まっているんだ?」
ランサーは言峰のサーヴァントだ。
しかし言峰綺礼は半年前に死亡している。
サーヴァントはマスターなくして存在できない。故に、ランサーがここにいるのはそもそもおかしいのだ。
「どうしても何も、マスターと契約しているからだろ。
ギルガメッシュの野郎はともかく、オレにはマスターなしで現界できる力はないぜ?」
「??? 契約って、だって言峰は」
「死んでるな。確かにヤツはくたばった。が、どういう訳だか契約は続いててな。
オレもそのあたりは気になるんだが―――」
「ま、こうして在るんだからいいじゃねえか。生きてる事を悩んでもしょうがねえだろ。
汝、あるがままを行えってな。細かいコトは気にするな。悩みゴトってのはな、『どうして』じゃなく『どうやって』にすべきだろ」
「――――――」
……う、不覚にも目からウロコ。
今の状態が正常じゃないと先刻承知、それがどうした、オレはオレでしかねえんで好きなようにやるだけさという心意気。
まさにレットイッビー、不安を抱えているこっちが小さく思えるほどの潔さである。
「はあ。じゃあなんだ、アンタは言峰がいないのに契約が続いているって状況を、解明しようと思わないのか?」
「ん? ああ、無理して調べる気はねえべさ。
向こうから何も言ってこねえかぎり、気ままに過ごさせてもらうだけよ」
「それは聖杯戦争についてもか? 戦いが再開した事はアンタも感じているんだろ」
「あーそれね。たしかに“サーヴァントを倒さなければいけない”なんて衝動なら湧いてきてるが、それだけだ。
オレは中立ってところだな。
あまり乗り気はしねえが、やるってんなら相手になるさ」
ランサーの言葉に嘘はない。
好戦的と思われたランサーだが、今の状況には否定的とさえ取れた。
……そうだ。
自分でも言ったじゃないか、ランサーはセイバーより街に溶け込んでいると。それは転じて、ここでの生活を楽しんでいる、という事だ。
「そっか。ランサーにとっちゃ、もうセイバーもライダーも身内だもんな。
自分から殺し合うコトはないんだ」
「ワケねえだろ。サーヴァントは全員敵だぜ」
あっさりと返答する。
半年前に見た、俺を殺した時の冷徹さ。
「……なんでだ。アンタ、誰とでも仲いいじゃないか。なのにみんな敵だっていうのか」
「バーカ、それとこれとは話は別だ。
敵でも好きなヤツぁ好きでいいんだよ。敵だから憎まなくちゃいけねえ理由なんてねえんだから」
―――ぽかん、と口を開ける。
毎回この男の突き抜けようには呆れていたが、ここまでくると器の違いを感じざるをえない。
「―――まいった。すごいな、アンタ」
「小僧に褒められても嬉しかねえよ。
話はこれでしまいか? なら釣りに戻るぞ。そろそろ当たりがくる気配だ」
ランサーは何事もなかったように釣りに戻った。
得られた返答に満足しながら港を後にする。
「―――ああ、けどそれって」
敵を憎む必要はない、とランサーは語った。
感情と戦闘は別のところにあるのだと。
けど、逆を言えば。
相手が肉親だろうが恋人だろうが、敵であるのなら分け隔てなく殺すと、ランサーは言ったのだ。
◇◇◇
間際の夢
……珍しいな。
キャスターのヤツ、何をするでもなく物思いにふけっている。
ちょうどいい。
周りには誰もいないし、再開した聖杯戦争について訊いてみよう。
今は落ち着いたが、キャスターには町中に結界を張った前例がある。
まさかとは思うが、一応、最近何か企んでいないか確認はとっておかないと。
「キャスター。ちょっと話をしていいか?」
ばさっと重っくるしいフードを取って、ちらり、と冷たく一瞥《いちべつ》された。
「なにかしら。貴方の方から話しかけてくる以上、いい話ではないでしょうけど」
……なんか警戒されている気がする。
街で会う時はわりと愛想いいのに、まるで半年前に戻ったようだ。
「いいか悪いかはアンタ次第だ。
単刀直入に訊くけど、最近裏で何かやってないか?
こう、禁欲的な寺の生活でストレスたまって、つい昔のクセが戻ったとか」
なんとなく場が重いんで、できるだけ穏便に、キャスターを刺激しないように訊いてみた。
「ほほほ、面白いコトを訊くのね坊や。
なぁに、こんなところで話しかけてくるなんて、誰にも見つからず殺されて埋められたりしたいのかしら?」
「間違えた。最近街の様子がおかしいコトに心当たりはありませんか」
ごめんなさい背筋凍りました、半年間なまっていただろうに尋常ならざる笑顔が健在とは流石サーヴァント中最高の策士、恐れ入りました。
「はじめからそう言いなさい。
それとストレスなんてたまっていません」
……それは酔っぱらいによる『わたし酔ってないですよ』発言と同じなのであった。
……ホントに大丈夫なのかな、柳洞寺。
「そっか。けど、たまには運動してみるのもいいもんだぞ。マラソンとか、柳洞寺の階段を往復したりとか、アインツベルンの森で火力演習したりとか」
あの森ならキャスターが当たり散らせる演習場の一つや二つありそうだし、ともすればバーサーカーが仮想敵として手伝ってくれるやもしれん。
「心遣いは感謝するわ。けど、わざわざ森に出る必要もなくてよ? ここでも軽い運動はできるもの。
―――まあ、走り回るのは私じゃなく貴方になるでしょうけど」
「ぐ」
いかん。どうも俺とキャスターは相性が悪い。
このままでは半年前を再現しかねないんで、用件のみを口にしなければ。
「いや、ストレス発散の話はまた今度にしよう。
で、街の様子のコトなんだけど、」
「心当たりはないわね。
街の様子がおかしい事は気づいているけれど、その意図も原理も私の知るところではないし、興味もありませんから」
「……そうか。
まあ、すぐに判るなんて思ってなかったけど」
キャスターにお願いすれば、あるいは事態なんてあっさりと究明できるのかもしれない。
再開された聖杯戦争。
欠ける事なく存在するサーヴァントたち。
それと―――この、よく分からない既視感も。
「まあ、それはいいとして。
キャスターはこの件には関わってないって事でいいんだよな」
「ええ。信じる信じないは貴方次第ですけどね」
「信じるよ。キャスター、色々と企みごとはするけど嘘は言わないだろ」
というか、サーヴァントは決まって嘘をつかない。
そのあたり高潔と言うかフェアというか。
「キャスターは今の状況には何の関心もない、と。
関心がないって事は、他のサーヴァントとやりあう気はないって事だよな?」
「当然でしょう。得るモノがないのに魔力を消費するなんて、魔術師にあるまじき行為ですもの。
それは貴方にも―――
いいえ、坊やにはそんな観念はなかったわね」
くすくすと笑う。
馬鹿にされているのだが、これっぽっちも悪い気はしない。
キャスターの声には明るい響きしかないからだ。
なんにせよ、キャスターには事態を究明する気がまったくないようだ。今の状態が気に入っているような節さえある。
「分かったよ。ようするに、アンタは何もしないんだな?」
「ええ。坊やには悪いけど、私は一切介入しない。
聖杯戦争を再開させた犯人を捜すというのなら、自分一人でおやりなさい」
ま、そうなるよな。
「あら。あっさりと納得するのね。貴方の事だから、頭をさげてお願いしてくると思ったのに」
「いくら俺でも無理なコトは頼まないよ。
キャスター、調べる気はないんだろ? なら自分でやるさ。……それでどうしようもなくなったらまた来るから、そん時は根比べだ」
キャスターの嫌がっている通り、キャスターがいいと言うまで拝み倒して手を貸してもらうだけである。
あれ。
よっぽど意外だったのか、頼み込む俺をどう断ろうか楽しもうって算段だったのか。
キャスター、アテが外れた顔をしてるな。
「……貴方、大丈夫? 気づかないうちに衰弱死する呪いでもかけられたんじゃない?
らしくないわ、いつものしつこさはどうしたのよ」
……む。さすが希代の魔女、心配のレベルが遠坂より一《ワン》グレード上だ。
というか、仮に俺からやる気を奪う時がくるのなら、せめて無気力化する暗示とかで済ませてほしい。気合いを削ぐだけで衰弱死させられてはたまらない。
まあ、それはともかく。
「呪いなんてかけられていないよ。アンタ以外にそんなコトできるヤツはいないだろ。
それよりさ。アンタから見ると、俺はやっぱり目障りだったんだな」
嫌味でもなんでもなく、思った事が口に出た。
またも面食らうキャスター。
今度は更に無防備さを増しております。
「……はあ。まったく、何を言い出すかと思えば今更でしょうに。
ええ、はっきり言って坊やは目障りよ。貴方は勝者で私たちは敗者ですもの。どう落ち着いたところで、敗れた時の屈辱は忘れがたいわ。
……それに、貴方がいると私は安心できない。
聖杯戦争の勝者も、貴方の青臭い正義感も、気分が悪い時には見たくないわね」
キャスターの敵意は本物だ。あいつは本気で俺を邪魔だと思っている。
……しかし、なんだ。
それはキャスター本人の為ではなく、もっと違うものの為に、俺を敵視しているような節がある。
そんな事がガラにもなく分かってしまったので、キャスターの悪言にそっかー、と頷いた。柳に風とも言う。
「……ふん。せいぜい気をつけなさい坊や。
一人でいる時に貴方を見かけるとね、いっそ握り潰してやろうと思う事もあるわ。セイバーがいる以上、そんな事はできないのだけど」
「嘘つけ。セイバーの報復が怖くて手を緩める性格じゃないだろ、アンタは。周りに手を出さないのは、それ以上に大事なものがあるからだ」
それはたとえば、柳洞寺の平穏な生活とか。
「―――勝手に言ってなさい。
いいこと、貴方があと少しでも汚い人間になったら、その時は容赦なく借りを返してあげるわ。
自己嫌悪で死にたくなったのなら、欲望に負けて堕落なさいな。私が蕩《とろ》けるように殺してあげてよ」
ニヤリと笑う希代の魔女。
やはり俺たち二人きりだと相性が悪い。やる気はないのに宣戦布告らしきものを受けてしまった。
「……このあたりが潮時か。
っと、あと一つ教えてくれるかな。
今の街の様子って、別に害はないんだろ? で、これから悪化する事ってあるか?」
「ええ、害もないし悪化する事もないわ。それは私が保証してあげる。
……そう。こんなもの、一時の夢ですもの、最後まで何も起こらず、元通りになるだけよ」
……ならいい。
地道に調査を続けよう。
キャスターは何もしておらず、この先関わる気がないと判っただけでも収穫だ。
「じゃあな。次は機嫌がいい時に声をかけるよ」
「そうなさい。私も、セイバーとライダーの二人を敵に回すのは避けたいわ。
……それと、一つだけ忠告してあげる。
いい、夜の教会には近づいちゃダメよ。あれは貴方の手に負える相手じゃないわ」
……フードを被って去っていく。
あ。さっきまで素顔をさらしてたのは、もしかして気を遣ってくれてたんだろうか……?
◇◇◇
覚醒《未》
土蔵に足を運ぶ。
急いで修理しなければならないものはないが、気が向いたのでやってきたのだ。
いつものシートの上にあぐらをかいて、何をするでもなく周囲を見渡す。
「…………………………さて」
そろそろいいだろう。
別段やる事も思いつかないし、部屋に戻って眠るとしよう。
しかし、その。
なんだって夜の土蔵なんかに来るんだろう、俺は?
◇◇◇
夜の街へ《戦闘》
セイバーと巡回に行こう。
町の様子は急を要する訳でもないが、やる事がないのなら調べて回るぐらいはするべきだ。
「セイバー、ちょっといいか? 町の見回りに行きたいんだけど」
「はい、準備はできています。
事態を究明するか、もうしばらく様子を見るか。
後は貴方次第です、シロウ」
俺の考えが伝わっていたのか、セイバーは即座に出てきてくれた。
それは頼もしいのだが。
「いや、俺次第って言われてもなぁ。
巡回に行くからセイバーに声をかけたんであって、行く気がないなら大人しくしてるだろ」
セイバーの言い回しは微妙にヘンだ。
それは彼女自身も感じたのか、あ、なんて驚いていたりする。
「……そうですね。シロウが巡回に行くのなら、と同行を願ったのは私の方でした。
シロウの覚悟を試すつもりなどなかったのですが、自然に確認をとってしまった」
すまない、と頭を下げるセイバー。
いや、そんなのは別にいいけど。
俺だっていまいち乗り気じゃないんだから、念を押してもらってスッキリしたし。
「セイバーも平和ボケしたのかな。夏休みはこれといった事件もなかったし、少し気がゆるんでたんじゃないか?」
「そのような事はありませんっ。私は貴方の剣だ。シロウがまだ私を必要とする限り、決して不覚など取りませんっ」
セイバーの心構えは隙なしらしい。
それもまた頼もしいのだが、しかし。
「嬉しいけど、それって俺が半人前でいるかぎり気が休まらないってことだよな。
……はあ。セイバーにとっちゃ、俺はまだ手のかかる弟子ってコトなのか」
「え、いえ、シロウを責めている訳ではなく、あくまで私の心構えを口にしただけであってですね、言葉にはしませんが、私はシロウはよくやっていると―――」
あたふたと言い直すセイバー。
もうしばらくこの話を続けたい気もするが、廊下で騒いでいたら要らぬ第三者を招いてしまう。
「いえ、むしろ日が経つごとに感謝の念が増す一方であって―――と、聞いているのですかシロウ!」
「わるいなセイバー。その話はまた、今度ゆっくり聞かせてくれ」
「!」
会話を遮ってセイバーの手を握る。
他の住人に見つかる前に、スタスタと廊下を後にした。
出来るだけ目立たないよう外へ出る。
衛宮邸の周囲はいたって平穏だ。これといって怪しい影は見られない。
「さて―――それじゃ軽く町を見て回ろう。どこが怪しいのか、そもそも何がおかしいのかさえ不明だからな、要領を得ない巡回になるだろうけど」
そのあたりは足で稼げばいい……ん、だけど。
「セイバー?」
「はい。なんでしょう、シロウ」
どうしてこうやる気満々なのだろう?
「……あのさ、町中で武装するのはどうかと思うぞ。
まだ十時前だし、人に見られたらどうするんだ。やる気になるのは敵が出てきた時でいいじゃないか」
「いいえ。敵が分かっていない状況だからこそ、防御だけでも万全を期しておくべきです。
シロウ。人の目を気にするのは、自分で自分の身を守れるようになってからにしてください」
「ぐ」
うう、久しぶりに怒られた。
世間の目なんか気にするな、というお言葉には頷けないが、戦時におけるセイバーの直感に間違いはない。
逆に言えば彼女が警戒心を強めている以上、この巡回は“夜の散歩”程度では終わらないという事だ。
「……分かった、セイバーに任せる。けど、知ってる人が視界に入ったら即座に武装解除してくれよ」
「はい。状況によりますが、可能なかぎり善処します」
◇◇◇
異常なし《T》
こちら側の住宅地に、これといった変化は見られない。
人通りが無いだけで町並みはいたって普通。
「確かな異状はありませんが……なにか、妙な違和感を覚えますね」
違和感と言うよりは食い違いだろう。
家々からは夕食後の団欒の声が聞こえ、民家の明かりで深山町の夜はまだまだ明るい。
そんな見知った夜だと言うのに、今まで誰ともすれ違わなかった事が、どこかしっくりいかないのだろう。
「ま、危険はないんだからいいんじゃないか? 次に行こうぜ、次」
和風の住宅地を後にする。
「――お。セイバー、いまそこの家に人が入っていったぞ。お父さんが会社から帰ってきたっぽい」
呼び鈴を鳴らさず、いたってスムーズにお家に入っていく人影らしきもの。
「そうでしたか? 私は気づきませんでしたが」
「セイバー側からは見えなかったのか。まあ、とりあえずちゃんと誰かとすれ違ったってコトだな」
さて、足りないものも嵌《はま》った事だし場所を変えよう。
衛《う》宮邸《ち》とは反対側の住宅地を回る。
坂の入り口から坂の上、丘の頂上にある遠坂の家まで来たが、怪しいモノとは出会わなかった。
「唐突ですが。凛の家と桜の家の違いをどう思いますか、シロウ」
「どう思うって、別に違いなんて考えた事ないけど。
なんだよセイバー、いきなりヘンなコト言い出して。ここまででおかしな点にでも気づいたのか?」
「え? い、いえ、この巡回とは関係のない話なのです。前から疑問に思っていたのですが、本人たちの前では訊きづらいコトなので」
「訊きづらいコトねぇ。じゃあ魔術関連の質問か?」
「……そういう話ではないような、あるような。
つまりですね、凛の家と桜の家では、どう見ても桜の家の方が大きい。ですがこの土地の管理者は遠坂です。
領主たる者が、臣下の家より狭い住居に住んでいるのはどうかと思いまして」
「………………」
セイバーはお金にうるさい訳ではない。むしろもっとお金にうるさくなってほしいタイプの性格である。
が、それとは別に『もと王様』というこれまた厄介な判断基準を持っている。
土地を治める者は治めるに相応しい風格を備えなくてはならない、という王権制度の人なのだった。
それはともかく。
「どうなのでしょう。肉親から搾取したくない、という凛の気持ちは分かりますが、これも領主たる者の責務です。下らぬ軋轢《あつれき》を生む前に、遠坂邸を増築するか間桐邸を没収するよう忠告すべきなのでしょうか」
そんなコトを忠告させたら、今度こそ冬木市を崩壊させかねない姉妹ケンカに発展する。
おそろしいコトに、遠坂ならきっとセイバーの意見に賛同するからだ。
「その忠告はやめてくれ。だいたいな、領主ったってあいつは影の領主だろ。
あんまり目立っちゃまずいってコトで、あえてささやかな生活をしていると見た」
「む……言われて見ればその通りだ。
凛が普段から節制しているのは、遠坂の当主としての位を隠す為だったのですね」
「うん、そういうこと。だから間違っても遠坂に『凛はあえて貧窮に喘いでいるのですね』なんて言わないように。被害うけるのは俺だから」
「ええ。凛の友人として、彼女の努力を見て見ぬフリをするとしましょう」
遠坂は理解者に恵まれている。
無論曲解なのだが、結果が良ければ曲がり道でもオッケーなのだ。
「納得いったところで戻ろうか。こっちに異状はないだろう」
遠回りなりに、夜は段々と更けていく。
月が頭上を指す前に、他の用事を済ませてしまおう。
深山町の中心地点に到着。
新都方面に向けば、ライトアップされた大橋と新都の明かりが遙かに見える。
「異状はありませんね。まだ深山町を巡回するか、これから新都に足を伸ばすか。判断はシロウに任せます」
いずれ夜も明ける。
あまり帰りが遅くなると桜たちに心配をかけてしまうし、目的もなく散歩するのは控えなくては。
「そうだな。深山町を一通り調べてみたら、新都の方も見てみるか」
いつか夜も明ける。
セイバーと二人きりの巡回ならいつまでも続けたいが、そろそろ終わらせる方向で考えないと。
◇◇◇
デッドブリッジ《U》
橋を渡って新都に向かう。
この時間、歩道橋を利用する人間は皆無だ。
今夜は道路を行く自動車もなく、海から吹き込む風の音がよく響いていた。
「―――懐かしいな。あの時もこうやって、セイバーと教会に行ったんだっけ」
「ええ。まだマスターの自覚がなかったシロウと、まだ貴方のサーヴァントになっていなかった私と、まだ敵であった凛。
こうして振り返ると、さぞおかしな三人組だったのでしょうね」
くすりと微笑するセイバー。
彼女も俺同様、半年前の夜を懐かしんで笑っている。
今でも、いや、この先もずっと覚えている。
あの夜は特別だった。
聖杯戦争の最中、セイバーと二人でいる時はずっと特別だったけど、あの夜は、その始まりだったんだから。
「けど、セイバー不機嫌だったよな。
あの夜は初対面であんまり話せなかったけど、教会に向かう時は輪をかけて無言だったっていうか」
「不機嫌にもなります。今だから言いますが、あの扱いには怒りを覚えたものです。
変装させるのなら、他にやりようがあったのではないですかっ」
そうか。黄色いレインコートはセイバーのお気に召さなかったのか。
その割にはあのレインコートを愛用しているが、アレは俺への無言の抗議ってコトか?
「む、何やら言いたい事があるようですね。いいでしょう、あの時の謝罪をかねてここで決着を―――シロウ……!」
「なっ―――」
弾け合う剣と光。
衝突の余波が、ビリビリと大気と橋のシャフトを震わせる。
「下がって……! 敵サーヴァントの攻撃です……!」
二撃目……!
何が起きているのか把握できない。
セイバーは俺の前に立ち、何処からか飛来してくる光弾を剣で弾く。
「敵サーヴァントだって……!?
くそ、一体どこのどいつが―――」
三撃目。
またも光弾を弾くセイバー。
……まずい。明らかに今の光弾は威力を増している。
今はまだ防げるが、この後も威力を増していくというのであれば、セイバーとていつまで防げるか。
セイバーが一人であるのなら光弾を弾きながら前進し、倒される前に狙撃手を打ち倒せるかもしれない。
だが狙われているのは俺だ。
セイバーが俺から離れた瞬間、あの光弾が俺を貫く。
セイバーは俺を守っているかぎり、ここから前には進めない。
―――いや。
下手をすると深山町に撤退する事もできず、俺のせいで、何撃目かの光弾に破れる事だって―――
「シロウ、敵の攻撃は私が防ぐ……! 今はそのまま動かないでください……!」
四撃目。
セイバーの声に焦りが混じる。
敵は弱点が俺だと知っている。隙だらけの俺を攻める光弾を、セイバーは無理な体勢で弾き流す。
「――――――」
―――このままではセイバーが倒される。
やるべき事ははっきりとしている。
要は俺が、自分の身を自分で守れればいい。
神経を集中する。
さっきから光弾は見えている。見えているのなら防ぐ事もできる筈だ。
以前の俺ならいざ知らず。
聖杯戦争を生き抜いた衛宮士郎には、それを可能とする経験と力量がなくてはならない。
そして、最後の五撃目。
「つっ……!!!」
大きくバランスを崩すセイバー。
―――間違いない。
この光弾は宝具による遠距離射撃。
いかにセイバーと言え、一つ一つが“宝具”を弾丸にした狙撃を防ぎきる事はできない。
セイバー一人なら剣で弾く事などせず、いくらでもやり過ごせるのに……!
「……! セイバー、危ない……!」
「く、ダメだシロウ、私なら一撃くらい―――!」
受けられる筈がない。
セイバーは六撃目で倒される。それはもう、この防御方法から導き出された結論だった。
「なめるな、俺だって―――!」
自分の身は自分で守れる。
前方《てき》を睨む。
俺の眉間めがけて撃ち出される光。
見えている。それは見えているから、後は―――
「――――――あれ?」
ど忘れした。
後は、何をすればいいんだっけ?
「……! ………、………!!!!」
……しくじった。
なんだ、何を間違えたんだ俺は。
忘れているのか、まだ知らないのか。
衛宮士郎という人間が持つ性能、その根本的な部分をどこで拾い損ねたのか。
眉間に開いた穴から知蔵《のうみそ》がダラダラとこぼれていく。
「           」
彼女の声がよく聞こえない。
何をするべきだったのか、何を失念していたのかが分からない。
意識が遠のく。
四日目を迎えるまでもなく脱落する。
まだ足りなかった。
おそらく、当然のように知っていながら一度も試していなかったので使えなかった。
さて―――俺は何処に行けば、衛宮士郎の基本性能を把握できるだろう……?
◇◇◇
憑夜のできごと
坂を下りると、町の様子は一変していた。
明かりは途絶え、人間の気配がしない。
無人の町には、しかし、生き物の息遣いが溢れている。
“……、……、……、……―――!!!!”
囁きにも似た不快な周波。
「――――――」
理由のない憎悪が湧く。
空気に混じった獣臭のせいだろう。
まだ見てもいない敵に、激しい敵意を抱いた。
「……シロウ、民家には誰もいません。
人間というカタチが、冬木の町から消え去ってしまっている」
大規模な殺戮というより消失。
亡骸も血痕もない殺人現場をセイバーは見てきたようだ。
“……、……、……、……―――!!!!”
「不可解な現象です。これが聖杯戦争を再開させた何者かの仕業なのでしょうか」
「そうだろうな。他のサーヴァントは誰もこんな真似はしない。……それよりセイバー。さっきから聞こえるこの声をどう思う?」
「声、ですか? いえ、私にはこれといって―――
いえ、確かに何か聞こえてきますね。これは……犬の鳴き声、でしょうか」
聞き取り辛そうに目を細めるセイバー。
“……、……、……、……―――!!!!”
声は段々と大きくなる。
キンキンと、頭蓋と脳の隙間に反射して本能を刺激する。
「シロウ、何かあったのですか? 顔が土気色をしている。まさか大気に毒が……!?」
“……、……、……、……―――!!!!”
ああ。
確かに、この声は毒以外の何物でもない。
「私は武装しているので少々の毒気は弾きますが、シロウは無防備です。
……いったん衛宮邸に戻りましょう。ライダーがいる以上大事はないと思いますが、やはり気にはなります」
「いや、俺は大丈夫だ。それよりこの声をどうにかしてやる。今日が終わるまであと二時間しかない。日付が変わる前に元凶を見つけ出そう」
「シロウ。気持ちは分かりますが、見つけるといっても手がかりがない。
ここは無理をせず戻るべきでは?」
セイバーらしくない。
手がかりなんて、さっきから露骨なまでに聞こえている。
「―――家の事はライダーに任せよう。
今はこの声を追う」
「シ、シロウ!」
先だって走り出す。耳内の蝸牛《ら せ ん 》をかき乱す獣の息遣いに、平衡感覚が狂っていく。
“……、……、……、……―――!!!!”
この分ならそう遠くない。
今夜はセイバーが一緒にいてくれている。
この敵が何であろうと、遅れを取る事はない―――
遠吠えが咆哮に変わった。
「――――――」
ここに至って、セイバーと言葉を交わす必要はない。
『敵』は目の前にいる。
町の人間を一人残らず消し去ったソレ等《ら》は、
見知らぬ少女と共に、群なしていたからだ。
「あいつら、は―――」
どこかで見たのだが、今は思い出せない。
あと少し。日付が変わる瞬間になるか、誰かに教えて貰えれば思い出せる筈なのだが。
『        』
ギシギシと軋みながらソレは吠えた。
可聴域外の周波数。人間には聞き取れない声で、群衆は確かに告げた。
“―――コロシテヤル”
獣が頭をあげる。
ギチギチと爪を鳴らし、這うように襲いかかってきた。
「シロウ、下がって―――!」
弾けるように前に出るセイバー。
得体の知れない獣たちを斬り伏せる。
この怪物たちがどんなカラクリで動いているかは知らないが、所詮セイバーの敵ではない。
セイバーなら苦もなく蹴散らしてくれるだろう。
「なら、俺は―――」
公園の奥で俺たちを見つめる、あの少女を捕まえる。
この怪物たちを従えていた以上、どう見てもこの怪現象の黒幕に違いない……!
セイバーに蹴散らされていく怪物たちをすり抜ける。
「なっ、何処へ行くのですシロウ……!
ダメだ、私の傍を離れては……!」
セイバーに襲いかかる怪物たち。
この場で最も強い存在が誰であるか直感したのか、怪物たちは必死にセイバーへ群がっていく。
セイバーには悪いが、これはチャンスだ。
怪物たちでは何十匹集まろうとセイバーには敵わない。足止めをするのが精一杯だろう。
その隙に、俺は怪物たちの操り手へ肉薄できる。
少女は逃げずに俺たちの様子を見つめていた。
―――行ける。
あの少女からは脅威を感じない。
あれならひとりでも捕まえられると、俺は既に知っている。
「―――たいしたマスターね。
セイバーひとりにあの怪物たちを任せるなんて」
感情に乏しい声。
その出で立ちから、無機質な人形を連想する。
「――――――」
くだらない無駄話は後だ。
今はただ、目の前の少女を捕まえる……!
腕を握る。
「捕まえた……! おい、おまえ一体何者だ……!
いや、それより早くあいつらを止めろ。止めないのなら―――」
力ずくでも、と言葉が出かかる。それを。
「暴力で犯しますか?
別に私は構いませんが―――随分と貴方らしくない考え方をするのですね、衛宮士郎」
いつか味わった事のある重くるしい言葉で、見透かされた。
「俺を知っている―――やっぱりおまえが聖杯戦争を再開させた元凶か……!」
「―――ええ、こんなカタチで再開させたのは私です。事態の解決を望むなら、貴方は私を捕らえればいい。
……けれど今回は失敗です。私たちは、ここで出会ってはいけなかった」
「――――、な」
視界が閃く。瞬間、
「――――――『私に触れぬ《ノリ・ メ・タンゲレ》』――――――」
「っ……ぐ、が……!?」
俺の手足は、意志を持つ布によって捕縛されていた。
「はっ、ぐ―――なんだ、これ―――!?」
体の自由が効かない。
布に縛られているのは手足だけで、引いているのは少女の細腕だというのに、呼吸すらままならない……!?
「抵抗は無駄です。
男性には、このマグダラの聖骸布は破れない」
軋む体。
全身を縛り付ける拘束は、幸い、体を引き千切るほどの力はないようだ。
……というより、これは相手を“拘束”する事にのみ特化した魔術礼装と見るべきだろう。
「貴方を殺める気はありません。失敗したのですから、このままおとなしく―――、っ……!」
少女の顔がひきつる。
びしゃりという音。
小さく、肉が裂ける音と、血の匂いが漂ってきた。
「っ、ん―――……!」
少女の顔が苦痛に歪む。
―――何がどうなっているのか。
誰も傷つけていないというのに、少女の体からは、滴り落ちる血の匂いがした。
「ちょっ……だ、大丈夫かおまえ? 普通じゃないぞ、なんか」
目下捕まっているのはこっちなのだが、少女の苦しみはそれどころではないというか。
「ああもう、いいから布ほどけ! 苦しいんだろ、何もしないから楽になれ……!」
どこまで信じてくれたのか。
少女は倒れかけた体をゆっくり動かして、
「……こんなにあっけなく取り憑かれるなんて……やはり、貴方は」
なんて、思わせぶりな台詞を残し、ヨタヨタと歩み去っていく。
「っ―――無理すんなバカ、そもそも逃げんなら布ほどいてけ!」
赤い布は少女《しゅじん》が不在でも、きっちりと仕事をこなしている。
体は動かず、呼吸も満足にできず、いい加減意識が薄れようとしていた時、
「無事ですか、シロウ」
セイバーの剣が、赤い布を斬り裂いた。
……周りにはまだ群なす怪物がいた。
戦いの途中で俺を助けに来てくれたのだろう、セイバーは油断なく怪物たちに剣を向けている。
「先ほどの布はなんだったのですか?
この怪物たちにあんな能力はありませんが―――」
「俺もよくわからない。
とにかく、あの女の子を助け……じゃなくて、捕まえなくちゃ話にならない」
「は? 女の子、ですか?」
「あっちに逃げたんだ。今ならまだ追いつく。すまないセイバー、こいつらの相手を頼む……!」
セイバーに後ろを任せて走り出す。
原因不明だが少女は負傷していた。正体も気になるが、まずは手当をしてやらないと……!
血の跡が、川縁の草むらへ続いている。
かなりの出血だ。本当にすぐ手当をしないと命に関わる。
「……っ……く、……ん、ぁ―――!」
……押し殺した苦悶の声。
あの少女は草むらに隠れるように倒れ込んでいた。
「おい、そこにいるな……? 手は出さないから逃げないでくれ。訊きたい事はあるが、そっちはアンタの傷を看てからにするから」
「……っ……やめ………逃げ、て………!」
びしゃり、とまた肉の裂ける音がした。
「……!」
罠や反撃を注意している場合じゃない。
血の匂いにうながされ、草むらに踏み込む。
「は―――うあ、あ、や…………!」
少女の傷は悪化していた。
何が起きたのか、いや、何が起きるのか分からないが、このままにしておけず歩み寄る。
「っ―――やめ、て―――みない、で―――!」
苦悶はより増加していく。
俺が歩みよる度に増加していく。
「はっ……ぁ、んあ、あ……!」
どこか、性行為のようだった。
痛みにあえぐ声は、次第に熱を帯びていく。
一歩ごと、少女の体に踏み込んでいく。
少しずつ、少女の体を曝《あば》いていく。
なら、俺が到達した時こそ、少女は絶頂を迎えるだろう。
「んっっ……は、あう、っ……!」
あと一歩。
それで、傷ついた体を看てやれると思う俺と、
「いけない―――ダメです、近づい、ては……!」
死ぬから近づきたくないなあ、と知っている俺がいた。
「ぶ―――…………なんだよ、それ」
口からドボドボと赤いモノが逆流する。
腹を貫いた、禍々しい凶器を見下ろす。
「は、あ、―――それは、さすがに」
今まで色々なモノを見てきたが、少女の異常《ソレ》は、そのどれにも当て嵌まらず、上回っていた。
―――華奢な体から、巨大な爪が、生えている。
あの傷は内側からついたものだったのか。
少女は熱にあえぎながら、その怪異をカタチにして、近寄った俺の体を串刺しにしたのだ。
……意識が遠のく。
一時間後を待つまでもなく、俺はここで命を落とす。
ただ、得たものは大きかった。
ここではダメだ《・・・・・・・》。
ここで出会ってはいけない。
少女の名前を知るには、もっと原因に近い場所でなければならない。
それだけを心に刻み込んで、繋ぎ止めていた意識を手放す。
……死の間際。
凶器を生んだ少女の姿《カタチ》を見て、ふと、おとぎ話の悪魔を連想した。
◇◇◇
2/Dialogue Mobiuslink
夜の聖杯戦争
これは、何回目の蘇生だろう。
声が聞こえる。
死に没しながら、何度も抜け落ちるワタシに対する恨みごとだ。
死から抜け出せないソレ等が、蘇生するワタシを不公平だと糾弾する。
全身がいたい。あえぐほどに痛い。ふりかかる糾弾のこえ。シネ。アキラメロ。ザマアミロ。ナニモミエナイ。きこえる度につよくなる。しにたい。たえられない。ミニクイ。ミグルシイ。ナニモミエナクナル。しにイたい。ききたくない。こんなおもいをするのなら、いきかえりたくはない。
でも、それさえも慣れてしまった。
死ネ。
なら、さっさと殺してほしい。
イイ気味ダ。
なら、好きに楽しむといい。
悔イ改メロ。
はい、もう何度も改めました。
オマエノセイダ。
そう、すべては誰かのせい。
汚ラシイ。
それは飾っていないが故に。
人間ジャナイ。
……この鏡は曇っている。
コノ、悪魔。
ああ―――確かに、人間の所行じゃない。
多くの声を通り過ぎて、再び息を吹き返す。
……ここからの過程は、そう苦しいものではない。むしろ安堵さえ感じる。あの牢獄から抜け出しさえすれば、後は誕生の喜びに近いのだ。
牢獄。そう、あの位置は『牢獄』という事柄に当て嵌まる。
中傷、暴言、蔑み。
人権の剥奪、尊厳の剥奪、自由の剥奪。
そういったもので構成されている死後の世界を、人間なら誰でも聞いた事があるだろう。
間断なく永遠に続く苦しみ。
仏教では、それを無間地獄と伝えている。
……けれど、私がいた位置はそれとも微妙に違っていた。
苦しみだけではない。
あそこには永劫と空虚があった。
どちらも人の手には届かない、届いたところで意味のないもの。
それ故に苦しい。
人の手に余るものは、願っても手に入れても、永遠に消化《と 》かす事はできないのだから―――
「―――っ、う…………」
ソファーから体を起こす。
もう何度目かになった蘇生後の虚脱感をこらえながら、左腕がきちんと動くか確認する。
「よう。目覚めたかマスター」
……定番になったサーヴァントの挨拶。
彼は背中を向けて座っている。またパズルをやっていたようだ。数分あれば解ける程度の物だが、あれで気に入っているらしい。
……そういうところは子供らしい、とは思う。
その無邪気さを普段の行いに反映させてくれればいいのに。
「―――確認しますが。私はアサシンと相討ちになったのですか?」
「いや、一方的に負けたよ。
アンタの右ストレートは空振って、ヤロウの空想電脳《ザ バ ー ニー ヤ 》がアンタの頭を吹っ飛ばした。
凄かったぜー、パン、って脳味噌が破裂して上半身が吹っ飛ばされてた。
脳をまるごと火薬に変えて体を吹き飛ばす、なんて手の込んだ殺し方だよな。脳味噌掴んだならそのまま引きずり出して終わりだってのに」
はしゃぐサーヴァント。
「……う」
上半身のない自分を想像して、気分が悪くなってしまった。
……アサシンとの戦いを思い出す。
アサシンのマスターと遭遇したのは、学校の裏手にある林だった。
敵はマスター一人きり。サーヴァントの姿はなく、そのまま戦闘に突入した。
敵マスターは優れた人形遣いで、手足となる自律人形《オ ー ト マタ》を何体も従えていた。精密な殺人機巧を備えたフランス人形たちは厄介ではあったが、人形の料理法は熟知している。
町に巣くうあの怪物たちとの乱戦経験もあり、人形師《 マス タ ー 》を追いつめるのは容易かった。
―――その人形のうち一体が、髑髏《ど く ろ 》の仮面を被ってさえいなければ。
「まさか、サーヴァント……!?」
気付いた時には、毒針を何発か被弾していた。
アサシン。決まってある英霊から選抜されるというクラスだが、その能力は聖杯戦争の度に変わっていく。
アサシンの語源となった『人物名』が複数の暗殺者が襲名するモノである為、毎回異なった暗殺者がアサシンになるらしい。
アサシンとは個ではなく群であり、その中で今回選ばれた“暗殺者《アサ シ ン 》”が、この、大人の膝ほどもない小人だった。
……生前からそうだったのか、サーヴァントになる事で特徴が誇張されたのか。
アサシンは童話に現れる土小人《ドワ ー フ 》のような体型ではなく、軽業師のように洗練されたフォルムをしていた。
まるでサーカスの道化師だ。
小躯という取るに足りない英霊はしかし、アサシンというクラスにおいて申し分ない利点だった。
気配遮断だけでなく、当たる面積が圧倒的に小さい。
スピードはサーヴァント中一二を争い、木々を駆け抜ける姿は肉眼ではとても追い切れない。
加えて―――いや、それこそがアサシンの名の由来なのだろうが、敵には一撃必殺の“宝具”が存在する。
「く―――!」
地形の不利を悟った時には、毒で足が動かなかった。
遮蔽物のない平地でならいくらでも捉える自信はあったが、障害物の多い林では手の打ちようがない。
それでも、命をチップにして最後の賭けに出た。
左半身を囮《おとり》にしてアサシンを木の陰からおびき出す。
もう私に反撃の力はないと判断し、左側面から稲妻《いなづま》のように移動してくるアサシン。
それを迎撃する形で、渾身の右ストレートを打ち込んだ。
タイミングは完璧。
あの勢いで突進してきたアサシンには左右に回避する術はなく、防御《ガ ー ド 》したところで衝撃を殺しきれない。それが矮躯《わ い く 》の欠点だ。
なのに、それもあっさりと飛び越えられた。
時速八十キロを誇る私の右ストレート……しかもカウンター!……を、敵は着弾した瞬間にぽん、と冗談みたいな音をたてて、私の拳に飛び乗ったのだ。
「――――――、うそ」
私だってそれなりに豊富な戦闘経歴を持つが、自分の腕に乗って、トコトコと歩いてくる敵を見たのは初めてだ。
槍の上に乗る、なんて眉唾ものの神業を思い出す。
そうして、アサシンは私の顔に宝具《ひだりて》を伸ばし―――意識は、そこで途切れてしまった。
「…………悪夢だ」
ぼそりと呟く。
「どうした、まだ体が硬いのか?」
「いえ、調子は万全です。蘇生にも慣れましたから。
いまの胸焼けは貴方のおかげです。最後の瞬間、アサシンの手が額に触れた感触を思い出しまして」
「あ。そうか、悪い悪い。気が利かなくて申し訳ない」
けけけ、なんて笑いながらパズルを続ける。
アレは本当に私の失敗を笑っているのだ。
意地が悪いとかそういうレベルの話ではない。
あの男は相手が誰であろうと、おかしい事には笑い、悲しい事にも笑う性格破綻者なのだ。
「……いいです、そちらにも慣れましたから。
それでアヴェンジャー。貴方が私をここまで運んできたのですか?」
「いや、オレも殺された。二人一緒に一日前の今に戻ったワケだ。やられたのは零時ジャストだったからな」
「………………」
まるで進歩がない。
この洋館で目が覚めてから何日が経過したのか。
私たちはまだ、四日目の夜を越えた事がない。
……自分の不甲斐なさからか、無意識にポケットのイヤリングを握り締める。
国を発つ時に持ってきたコレは、お守りのようなものなのだろう。何の為に持ってきたかは覚えていないのだが、大事そうに仕舞ってあったからには護符《アミュ レット》か何かの筈だ。
「しかしありゃマスターのせいじゃないぜ。
あのアサシンがヘンすぎたんだよ。アンタの拳、たしかに当たってたしな。
ま、気に病む事はないんじゃない?
アンタはオレっていうハンデがあるんだ。初戦で相手に宝具を使わせたのは、賞賛に値する」
「気休めです。いくら善戦しようと、死んでしまっては何にもなら―――」
いや、プラスになるのだ。
私自身まだ利用しきれていないが、このサーヴァントは死者を甦らす。
彼と契約している限り、私は何度だって甦るのだから。
「そうか、この方法でも問題はない……いえ、むしろこれが貴方の武器だ。利用しない手はない。私たちは相討ちでいいのですね」
そうして敵の情報を引き出し、いずれ、必勝の準備を以てこれを倒す。
「―――これで有利なのは私たちだ。
アサシンの特徴が分かった以上、後はいかに平地におびき寄せるかだけ」
ぐっ、と右拳に力が籠もる。
この調子でやっていけば、敵マスターの戦力低下を待つまでもない。
完全な勝利が収められる。
一人一人真っ正面から撃破していけば、私を派遣した魔術協会だって、少しは私を―――
「へえ。わりと順応してるんだなマスター。
こんなに負けが続いてるんだ、てっきり落ち込んでるか、オレの不甲斐なさに呆れてるのかと思ったんだが」
「え―――い、いえ、それは、確かにそうなのですが」
……そうだ。
何を考えているんだ私は。いくら蘇生できるからといって、今まで何度倒されたと思っている。
……詰めが甘くなっている。
アサシンとて、その気になっていれば倒せた相手だ。
それを悠長に、相手の戦力を納得いくまで調べて、決戦を先延ばしにしている。
それではまるで―――いや、そんな筈はない。
私は協会を代表する魔術師として、決して負けない戦いをしているだけだ。
「ま、日数を重ねてるワケじゃねえからいいけどさ。時間をいくぶん無駄に使ってるよな、オレたち」
サーヴァントが立ち上がる。
パズルはやりかけのまま、玄関に向かって歩いていく。
「続けようぜマスター。まだ調べてない場所があるだろ?」
サーヴァントに促され、私もソファーから立ち上がる。
ラックを背負い、もう一度ポケットのイヤリングを握り締め、何日目かの聖杯戦争に出かけていった。
唐突な話になるが。
バゼット・フラガ・マクレミッツはヘンな女である。
まず外見と内面がヘンだ。一致していない。
見た目オレ好みの、隙のない凛としたオトナの女。
でも中身は自分に自信を持てない臆病者で、それを偽装する為に厳しく肉体と精神を鍛えてきた。
オレの憶測、いや個人的な願望なのだが、ありゃあ自分いじめが趣味みたいな女なのだ。間違いない。うん、そりゃあ人並み外れて自分を鍛えあげられるってもんである。
そんなこんなで出来上がった『できる女』という鎧は強固で、外面の良さと頑丈さは折り紙付きだ。
が、悲しいかな鎧ってのは動く為にはどうしても隙間が必要で、ときおり素のバゼットが覗けたりする。
それがどんな感じなのかは言うまでもない。長年鎧に守られた中身なんて、カラをはぎ取ったツルツルのゆで卵みたいなものだ。初々しすぎて、がぶっと噛みちぎりたいぐらい。
しかしだ。
中身がどれほど愛らしかろうと、十年以上鍛え上げた鎧は強固すぎた。
いざ任務―――戦闘態勢に入った時、どんな男であろうと妄想とか欲望をそぎ落とすだろう。
例えば、これはついさっきの話なんだが。
「空腹になりました。食事を摂りましょう」
いきなりだった。
あの怪物どもを三体ほどブチのめした後、まるで脈を計るかのようにバゼットは口にした。
「貴方も付き合いなさい。私からの魔力提供だけでは味気ないでしょう」
なんともサーヴァント思いのマスターである。
が。迷うコトなく突入したのは、目の前にあった牛丼屋だった。
「げ」
オレでも知ってる、新都で一番まずくて安くて多い食事処である。
断っておくが、いくら人が減ったからって他にも飲食店はある。バゼットに似合いそうなお高い店も百メートル先で営業している。
にも拘《かか》わらず、バゼットは目の前の店を選んだ。
間違いない。その店が、たまたま一番近かったという理由でだ。
「何か不満でも?」
「いや、不満というか、不思議というか」
「では行きましょう。実体化を忘れないように」
止めようもない。
結局、バゼットはてきぱきと食券を買い、牛丼とみそ汁を二人分頼み、カツカツと三分で平らげて外に出た。
「? やはり何か不満でも?」
「……不満っつーか、不思議っつーか。今のメシ、うまかった?」
「量は多かったですね。スープは余分でした。
ですが調理時間が一分弱、というのは素晴らしい。次からはあの店を利用しましょう」
感想それだけ。
食事はあくまで栄養摂取と割り切っている。
無骨かつ無体だった。
判明している敵マスターの本拠地の調査をする。
色々と調べた後、中に誰もいないと判明した。
「アヴェンジャー。扉にかけられたロックを解除できますか?」
「んー……まあ、わりと単純なヤツなら解析はできるかな。けどアンタがやった方が確実だぜ。協会屈指の魔術師なんだろ」
「鍵開けは得意分野ではありません。貴方に任せます」
なのだった。
うちのマスターはこういう細かいコトが不得手らしい。とことんバイオレンスに出来ているのである。
「んじゃ任された。少し時間もらうぞ、ここのはちょい厄介なんだ」
玄関の横、庭に埋められた木の根本に腕をつっこむ。
幽体はこういう時に便利だ。なんなく自分の魔術回路を魔術式に重ねられる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
四じゅ―――
「うわあああ!!!??? ななな何してんだアンタ!?」
何もクソもねえ、あのヤロウ無言で玄関を蹴破りやがった!
「侵入します。援護を」
弁明それだけ。
否、説明にもなってねえし、そもそも侵入じゃねえし。
バゼットは革手袋を両手に嵌め、躊躇《ちゅうちょ》することなく敵の本拠地に突入していく。
まことに無骨かつ無体かつ不精だった。
「――――――」
ようやく公園に辿り着いた。
肉体的には少し、精神的にかなり疲れている。
霊体化すれば肉体面での疲労はカットできるのだが、それが出来ないが故の、実体化しての徒歩であった。
「水、水―――」
公園に備え付けの水道を目指す。
坂の上からここまで、道には点々と白い液体がこぼれている。
ズバリ、オレがずっぽり被《かぶ》らされた牛乳の跡である。
「おい。離れてんなよ、オレたちゃ協力関係だろ。もっと近くによれマスター」
ぐるりと振り返る。
「―――ぷ」
すげえ。あのバゼットが笑っている。
「……あのよう。これ、アンタの無鉄砲な行動の結果なんだけどな。マスターの危機を庇《かば》ってこうなったワケ。
ついでに言うと、館の風呂もそこらの民家の風呂も使うなってんでここまで降りてきたのもアンタの指示なんだけどさあ」
そこまで言うコトきいてやった報酬がそれか。
どこのお姫様だアイツ。
「それは感謝しています。貴方が庇ってくれなかったら、私がそうなっていた」
感謝してねえよ。
くそ、このまま抱きついて仲間にしてやろうか。
「どうしましたアヴェンジャー。水道はあっちですよ、ミルクでも目に入りましたか」
殺してぇ。
牛つながりで闘牛VSマタドールとしゃれこみたいが、オレがあの人間凶器を捕まえられる筈もない。
「ちぇ。ああくそ、あんなトラップ黙っとけば良かったんだ。あーつまんねえ、イベント見逃した。
……いや、本気で損したぞなんか。マスターみたいな可愛げのない女がミルクに溺れるなんて、すげえおいしい絵面《え づ ら 》じゃんか!」
「アヴェンジャー。マスターとしての命令です。下らないコトを言っていないで、早く体を洗いなさい」
あいよ、と体中の汚れを落とす。
余分なものが落ちると同時に、霊体化が可能となる。
あの牛乳を浴びた途端、強制的に実体化させられ霊体化が不可能になったのだ。
対サーヴァント用のトラップだったのか、それとも、まっとうな人体にはもっと劇的な効果があったのか。
ともかく、あの洋館ではこれといった成果はなく、帰り際―――侵入者が出る時に発動するのだろう、玄関に仕掛けられたトラップにひっかかったのだった。
「……しっかし、なんだって牛乳なんだよ。
この国じゃ動物の乳に魔除け信仰でもあんのかよ。
ねえよな。本気でただのイヤガラセじゃねえのかコレ」
「どうでしょうね。けど相手にも慈悲はあります。
ものが取れたての、新鮮な牛乳で助かりましたねアヴェンジャー」
笑いをかみ殺して良かった探しをするマスター。
そういう問題じゃねえだろコレ。
巡回を続ける。
怪物どもを殺す為、マスターを捜す為。両方の名目でバゼットは街を徘徊する。
なんとも回りくどい話だ。
聖杯戦争に勝利する為の方針、などではない。
バゼットはそのどちらでもないモノを探している。
それをバゼット本人が気付いていないのが回りくどいのだ。
彼女が不安なのは、それを忘れきる事が出来ないからだろう。自分の能力を忘れてやがるどっかのマヌケに見習わしたいぐらいだ。
「……………………」
少し様子がおかしい。
港にイヤな思い出でもあるのか、バゼットはしばらく海を眺めたあと、
「アヴェンジャー。私たちは多くのマスターと戦ってきた。
セイバー、アーチャー、キャスター、ライダー、アサシン、そして貴方。
まだ直接出会っていない敵は、アインツベルンのマスターとサーヴァントだけです」
「そうなるな。いまんとこ、全部黒星ってのがパッとしねえ話だけど」
「……ええ。明確な勝利はまだ一度もない。いかに相手が破格の使い魔であるサーヴァントといっても、誇れた事ではありません」
ぎり、と歯を噛みしめるバゼット。
それは悔しさではなく、自分を鼓舞しようとする意志だ。
「弱気になっているのは分かっています。それでも、貴方の意見を聞かせてほしい。
……その、私たちは勝てると思う?
戦力的に劣るのが事実でも、こうして繰り返していけば、いつか」
いつか勝ち残れるのだろうか、と視線が問う。
オレたちが負けているのは、まだ経験が足りないからだ。
バゼットがオレを多少なりとも戦力として利用し、オレが本当の宝具を教えさえすれば、倒せないサーヴァントはいない。
……ま、オレたちなりの必勝パターンはイヤでも身に付くんでここで教える必要はないんだが、
「いつか、負ける事はなくなるだろう。
それよりさ。戦いに勝てるかって話が、『私』から『私たち』に変わってるぜマスター」
面白くて、ついつっこんでしまったのだった。
「ぁ―――い、いえ、そうですか? 私は別に、意識して言った訳ではないのですが」
「そりゃ余計に面白え。無意識にオレの事を信用してるってコトだもんな。
なに、愛情? 仲間として愛情が芽生えたと取っていいのか?」
「ふ、ふざけてないで話を続けますから。
それで、負けないという根拠は何ですか。隠していないで正直に報告してください」
「根拠はまだないが、そのうち結果は出る。
アンタにはサーヴァントを倒す切り札があるんだろ?
それと同じで、オレにはサーヴァントを少しだけ足止めさせる切り札がある。
これだけ揃ってればあとは立ち回り次第だ。それはこれから息を合わせればいい」
「切り札、ですか……?
宝具を複数持っているのですか、貴方は」
「いや、オレは一つしか持っていない。蘇生は、まあ、オレじゃなくてアンリマユとしての後付なんだ。
オレの宝具は“遍《 ア》く示し《ヴ ェ 》記す万象《ス タ ー 》”の偽物でね。ま、それは帰ったら教えてやるよ」
アヴェスターとは、起きた出来事をひとりでに記録する補助タイプの宝具である。タイプライターが自動化した程度のもので、戦闘にはまったく役に立たない。
利点は言葉にならない感情、本人も気付いていない感情を言葉として記録できるというコト。
全てを正しく記した書物―――経典《アヴ ェスタ》の名に相応しい、誰も傷つけない宝具と言えよう。
オレの宝具は、そいつのちょっとした贋作であるワケだが―――
「とにかく、これ以上負けたくないっていうんならアンタも本気になれ。
アンタの戦闘能力はマスター随一だ。
下手すりゃ素でサーヴァントを倒しかねないってのに、なんでそう自信がねえんだよ」
「……それは……確かに、サーヴァントであろうと後《おく》れをとる気はありませんが、私に出来るコトは戦闘だけです。
他の技術はその、マスター中最低だと思います」
「いいじゃねえかそれで。
なんで腕っ節が強いコトに罪悪感もってんのかね。わりとみっともないぜ、そういうの」
「な。わ、私は別に、罪悪感などもっていません。
今まで殺めてきた命に、未練も後悔もない」
「頼もしいね鉄の女。その意気でもっと頑張れ。
ま、これ以上頑張られるとオレの立つ瀬がねえんだけどな。アンタ、今のままでもオレの十倍は強いしさ」
「え、ええ、判りきった事ですね。
貴方が戦闘面で頼りにならない事は、初日で痛感していますから」
「そうそう。ああ、けど人間殺し競争ならオレが一番だぞ。こればっかりは向き不向きあるからな。
……って、一番じゃねえか。世界で二番か三番だった」
「? 貴方より上の人殺しがいるの?」
「いるぜー。イヌとクモ。こいつらにはまあ、どうやっても追いつけない。質はともかくスピードが違うんだよスピードが」
競い合った事も出会った事もないが、動かしがたい事実として理解している。
蜘蛛が生まれた時から紋《す》を張れるのと同じだ。
そういう決まりなのだと、アンリマユと呼ばれた時点で学習した。
「ふむ。英霊として『早さでは勝てない』という制約を受けているのですね。
アヴェンジャー。貴方はアンリマユという名称を受けていると言いましたが、それは真名ではないでしょう。貴方の生前の名はなんというのです?」
「それは分からないって言っただろ。
オレに名前は無いんだって。アンリマユってのが発音し辛かったらアンリでかまわないけど」
「そんな筈はない、自分の名前ぐらいは思い出せる筈だ。
……いえ、私も人の事は言えませんが、名前は全ての始まりです。
生まれ落ちた時に与えられた名は、振り返って人生を表すものだ。思い出せないのなら、そんな悠長に口笛など吹いてはいられない筈です」
「わかんねえヤツだな。だから、名前は『無』いんだ。英雄として扱われる時に剥奪された。
オレの村《ところ》は呪いだけは一級品でね。呪術的に剥離されたんで、生まれた時の名前も、自分がなんて呼ばれていたのかも分からない。
思い出せ、とか言われても、もうそんな記録はこの世の何処にもないワケだ」
名前は振り返って、その人物の人生となる、か。
うまい事を言うなあバゼット。オレも負けてられないんでちょっと語り入れようか。
よくある昔話だ。
ここに、友人に命を救われた男がいる。その友人は男を救う為に死んでしまった。
男は自分の為に死んでしまった友人の名前を名乗り、以後、多くの人々を救ったという。
後の世に残るであろう功績も人生も、全て、命を賭してくれた友人に与えられるようにと。
いい話でもなんでもない。
要するに、友人の名を騙ると誓った時点で、その男はとっくの昔に死んでいたのである。
「では、貴方の生前の名前は、もう」
「ないよー。けど今の呼び名は気に入ってる。生まれた時の名前より英雄名《そっち》で呼ばれたのが長いからな。
愛着もあるし、馴染みも深いさ」
「なるほど。生誕の名は失われましたが、以後の名称は英雄として呼び親しまれた物だったのですね。
称号と言えど、人々から喝采をうけた名だ。気に入らない筈がない。
……申し訳ありません。貴方に謝らなければ。早合点して、見当違いの同情などしてしまった」
「んー―――まあ、アンタが気にするコトでもないし、謝るこたぁないんだけど」
早合点はいいが同情はよくない。同情するぐらいなら愛情を持ってほしい。プリーズラブミーである。
「まあ、罰として次はアンタの番にしよう。
名前は人生なんだろ? マスターのフルネームは大仰だからな。さぞかしご立派な思い出話があるんだろうさ」
「わ、私の昔話、ですか?
いえ、止めておきましょう。きっとつまらない。貴方を喜ばすようなものでは、」
「いいんだ、つまんなくても。
ほら、謝ってくれるんだろマスター? 大丈夫、まだ知らない話なら、なんだってオレには面白いからさ」
「……分かりました。ほんとう、口は災いの元ですね」
まったくその通りだ。
ああけど、たいていの神話って災いの後になんかおいしい目があるんだよな。
うちのマスターにも、そういう特典があってくれるといいんだが。
「以上が私の経歴です。満足しましたか?」
「……まあ、客観的には理解できた」
―――バゼットの身の上話は、ひたすらに事実のみを語ったものだった。
なんでも、バゼットの家は古い魔術師の家系で、発端は神代まで遡《さかのぼ》るらしい。
もともと神々に仕えていたとかいうルーンの大家で、他の家系にはない特殊な秘儀を授かったのだそうだ。
言うなれば超エリート。
が、彼らはとんでもない田舎に居を構えていて、一族と呼べるものも存在しなかった。
エリートであっても富も名声もない。
権威だけは最高クラスだが、その実体は一子相伝でほそぼそと子孫に“秘儀”を伝えるだけの田舎道場、というのが現実である。
そんな家の跡継ぎであるバゼットは生まれた時から“秘儀”を習得する為に邁進し、先祖たちと同じよう、当然のように秘儀を再現した。
“伝承保菌者《ゴッ ズ ホル ダ ー 》”。
魔術回路とは異なる、神代から脈々と伝えられてきた魔術特性。……よくもまあ、何千年も絶やさなかったもんだと呆れる。
まあ、聞いたかぎりじゃ血筋による遺伝より、代々保管していたモノに病原体が生きていたって感じだが。
フラガの名を冠して一人前になったバゼットが、どうして魔術協会に所属しようとしたかは語らなかった。
ま、言わずとも分かる。
自分に負い目があるコイツは、より多くの目に鍛えられたかったのだ。
バゼットは両親の反対を押し切って協会と連絡をとり、協会は思いも寄らぬ新しい名門を招く事になった。
協会は失われた秘儀を伝える新しい同胞を歓迎し、バゼットは鳴り物入りで魔術協会に招かれた。
しかし。
待っていたのは形式上だけの歓迎で、協会にはバゼットの居場所はなかったっぽい。
魔術師ってのは排他的なクセに競争意識が激しい連中だ。何百年も権威を守ってきた魔術協会たるや、内部は策謀うずまく権力闘争の場でもある。
外部にアピールする為の威光は欲しいが、内部で輝きすぎる新参者は無能な部下より性質《たち》が悪い。
いやまあ、核心をついてしまえば。
魔術協会には、新しい名門が座る椅子など何世紀も前からなかったのである。
それでも頑張ってしまうのがバゼットだ。
居場所のない協会でも頑張りすぎたコイツは、成果を出せば出すだけ煙たがられて、腫れ物みたいな重鎮として扱われ、果てに、厄介払いとして最前線に送られた。
封印指定の実行者。
聖堂教会における異端審問員“代行者”と並び称される、魔術協会が誇るイッちまった魔術師の役割である。
封印指定とは類《たぐ》い希《まれ》な才能を持つ魔術師、禁を犯した魔術師を“保護”の名の下に拘束・拿捕《だほ》し、一生涯幽閉する事だ。
バゼットはその執行者に選ばれた。
あとはひたすら世界中を飛び回って事件解決、何年間も協会の命令に従っていたらしい。分相応の見返りもないのに律儀なコト。
以上がバゼット・フラガ・マクレミッツの経歴である。
色々とつっこみ所はあるのだが、その最たるものと言えば、
「しっかし男っ気ねえなあ。魔術一筋かよ。
なに、地元に恋人とかいねえの?」
「いません。別に必要ではありませんから」
「必要ってなんだそれ。必要じゃなくてもいるだろ、普通。毎日つまんなくねえか?」
「孤立には慣れていますから。
悲しくも寂しくもありませんし、自分の欠落感を埋めなくとも、今はやっていけている」
「あー―――…………」
重傷だ。
必要とか不必要とか、悲しいからとか寂しいからとか、欠落感とか半身とか、実に面倒くさい。
コイツ、男作ったことねえだろ。
「んー。アンタさ、処女?」
まじまじと相棒を見つめてみる。
それはクルミをかじる栗鼠《リス》のごとく。真摯に。勤勉に。そして時に辛辣に。
「う…………」
じり、と半歩下がるマスター。
「―――し、仕事上経験はありますが、質問の意図がわかりません。そんなの、聖杯戦争には関係のないコトじゃないですか」
あ、あるんだ。
そりゃタイヘンよろしいのですが、オレだって面白半分でからかったワケではない。
少しは関係があるから面白半分でからかったのである。
「いや、関係はある。これは人間として強いかどうかの話なんだ。
いいかマスター、愛欲を甘く見てはいけない。何しろ一番強い行動原理だ」
いや、復讐心も強くていいのだが、あっちは終わった後には何も残らない。
爆発力は強いんだが、生産性がないんで総合力でペケだ。
「な、何が言いたいのか分かりません。分かるのは、貴方が私をからかっている、というコトだけだ。
アンリマユ、悪ふざけもいいかげんに―――」
「真剣な話だろ、これ。
愛だよ愛。それが基本にして最強だ。人間、強くなれるのは愛すればこそだって言わないか?
アンタはどうも、そういう基本的な部分が抜け落ちてる。
共に戦う身として、少しばかり気になったんだよ」
真面目に返答。
「――――――」
あっちも真面目に受け取っている。
「し、信用できません。貴方の愛は邪《よこしま》なものだ。
だ、だいたいですね、そういうコトは軽々しく口にしてはダメです」
価値が下がってしまいます、と。
これまた初々しいコトを言ってくれる。
「なんでさ。軽々しく口にしていいだろ。恥ずかしい事じゃないんだから。
“愛してほしい”ってのは寂しいって感情表現じゃない。楽しいから、もっと楽しみたいから口にする言葉だ。
貴方が好きですっていう、当たり前の挨拶だろ?
それともなんだ、アンタ会う人間全部気にくわないのか? それじゃあ自分から敵を作ってるようなもんだぜ」
「いいでしょう。とりあえず、助言として聞いておきます。
……まったく。子供のクセに口が達者なんだから」
「そりゃどうも。でもガキだけど子供じゃないぜ。まあ大人ってワケでもねえけど」
単に、子供じゃなくなっただけの話。
「どうだか。私にはただの生意気な少年に見えますが。私より五歳ほど年下の」
「そう? マスター、何歳さ」
「二十三です。それが何か」
「うそ!? なに、そんな若いの!?
てっきり三十路近いかと思ってたぞオレ!?」
あ。殺意メーター急上昇。
「―――面白い。その根拠は何でしょう、アヴェンジャー」
いや、口はホントに災いのモトなのであった。
「……だってオトナ歴長そうじゃん。仕事慣れしすぎてるだろ。社会に出たのいつ頃か話してみろよ」
「…………。十五の頃ですが、早すぎるという事はありません。それまで鍛錬を積んできたのですから、能力的に問題はありませんでした」
「はあ。で、その時からそんな格好してたワケか。
なるほど、二十三年もやってりゃ堅くもなるよな」
納得納得。着込んだ鎧は年季の入った逸品なワケだ。
「何を聞いていたのですか貴方は。キャリアは八年と言いましたが」
「そりゃ鎧を着込んでた年数だろ。オレが言ってんのはアンタの不器用さ戦記ですよ。
……ったく、人間の平均的な幼年期が十年だってんなら、アンタはすでに三十三歳だっての」
「生まれた時点でもう十歳《オ ト ナ 》だったんだから、足して三十の大台オーバーじゃねえか。
今のオレより一回り上なんて流石に―――って、む……? なんだ、三十路近いだろうってオレの直感、当たってたじゃん」
ふむ、と鹿爪《しかつめ》らしく頷く。
心底呆れたのか。バゼットは言葉もなく佇《たたず》んでいる。
「休憩はここまでです。街に戻って調査を再開しましょう」
「あいよー。今まで通り、後ろ向きに頑張るとしますか」
バゼットに先だって歩き出す。
「……。貴方、私を馬鹿にしているでしょう」
「あ? だって馬鹿だろ、アンタ」
バランス的には悪くないよな。
子供じゃなくなったガキがここにいて。
始めから、子供である事を捨てていたバカがここにいる。
「あれ? おーい、マスター」
バゼットは足を止めていた。
何か見つけたのか、じっとしたまま動かない。
「なんだよ。何か見つけたのかマスター」
頭をかきながら近づく。
―――と。
「……どうかしています。
悔しいけど、貴方の言う通りですアンリマユ。
私は馬鹿だ。そうストレートに言われると、さすがに誤魔化しきれません」
自然な声で、彼女は言った。
「――――――なに。人に言われた事なかったんだ」
「はい。貴方のように面と向かって言う人間は、私の周りにはいなかった」
とことんついてない女だ。
それぐらいの優男は吐いて捨てるほどいるってのに、そんなのにも縁がなかったのか。
「知らなかった。誰かに弱さを指摘されるという事は、自分を認めてもらうという事なのですね。少々頭にきましたが、少し気が楽になりました。
……ええ。貴方の前では、これぐらいの力の抜きようがちょうどいい。私だけ気を張っていては割が合いませんからね」
「――――――」
あまり見ていてもしょうがない。
こんなのは、いずれ見飽きる風景の中でも珍しい、ここだけの話だろうし。
「では行きましょうアンリマユ。次は新都の工場地帯です」
「了解マスター。それと、名前を呼ぶならアンリって呼べよ。長いだろ、それじゃ」
「? アンリもアンリマユも変わりませんが。
……貴方が短縮してほしい、というのならアンリと略しますが、あまりにも平凡で私はどうかと思います。
よくある名前で、英霊としては相応しくない」
「ヘンなコト気にするんだな。
……ははあ。そうか、そりゃ気にするか。マスターの名前は普通じゃねえもんな。
いっそオレと逆なら良かった―――って、どっちも男の名前だったか」
確かにアンリだのヘンリーだのは凡庸な名称だが、マスターに比べれば可愛い方なのである。
バゼットというのはまことに麗しくない。刺々しいというか、女性らしい響きがないというか。
「―――アンリマユ。人の名前は人生だと言った筈です。
それを笑いものにする以上、覚悟があってのコトでしょうね?」
「いいえ、ナイです。そんな覚悟もマスターの名前への文句なんざナイですよ」
「よろしい。今後、この話題は禁止とします」
そんなこんなで聖杯の街に舞い戻る。
夜の巡回は、まあ、それなりに楽しい。
だらだらと何日も続けてしまう気持ちが少し理解できた。
しかし理解できただけで、所有できる訳ではない。
夜は望むかぎり、いつまでも続いていく。
オレと契約した女は、無意識に戦いを長引かせようとしている。
終わる事も、続く事もない繰り返しだ。
それでも、輝きはいつか消える。
形が残っていたところで、その色合いは濁っていく。
どんなに眩しくても、一度見たものに新生の輝きはない。
それは日蝕のように。
黒こげになって、二度と輝く事はない。
「――――――、ハ」
少し馬鹿らしくなった。
この願いは一体誰のモノだったのかなど、考えたところで何が変わるワケでもない。
◇◇◇
探偵二人
新都の郊外、ひときわ高い場所に隠れ建つ洋館へやってきた。
何もないと判ってはいるが、念のため、もう一度だけ調べてみたくなったのだ。
「……前はすぐに出て行っちまったし、今日はゆっくりしていこう」
不法侵入である事は先刻承知なのだが、少しぐらい、余裕を持って館内を見てみたかった。
遠坂邸や間桐邸も立派な洋館なのだが、建物自体に愛着を持った事はない。
しかし、この洋館は不思議と気に入っていた。
豪華でありながら慎ましい造りが構造好きのツボを突くというか。この洋館なら、アルバイトで管理人をしても楽しそうだ。
洋館には光が満ちている。
窓が多いのだろう。
山の頂上付近という事もあり、天気のいい日は陽射しで視界が白く霞む。
その、天上の世界を思わせる中、前回にはなかったモノが確かにあった。
「―――誰かいる―――」
二階から人の気配がする。
伝わってくるのは気配だけではない。
侵入者に対する―――いや、俺に対する明確な敵意があった。
二階の部屋に上がる。
「――――――」
……足音が近づいてくる。
白い闇の中から、そいつはゆっくりと姿を―――
「……誰かと思えばそのマヌケ面か。
まったく、とんだ無駄骨だな衛宮士郎」
―――って、それはこっちの台詞だ。
「緊張して損した。なんでおまえがここにいるんだアーチャー。それともなにか、遠坂に愛想つかされて家を追い出されでもしたか?」
「ほう。勘がいいな、あながち間違いではない。
主人に任された仕事が片づかなくてね、満足に帰れない日々なのだが……」
「しかし、今のは真実味のある推測だった。
そうかそうか、板挟みで居場所がなくなり逃げ出していく、というのは他人事ではなかろうよ。
将来の不安は無意識に口に出る。まだ進退が決められるうちに、男らしく的を絞っておけ」
「―――ぐ、余計なお世話だっ。うちの事情に口つっこまないでくれ」
なんというか、自分でも時々不安に思うんだから。
……それはともかく、確かにアーチャーはここのところ遠坂邸を留守にしている。
遠坂に任された仕事というのは、冬木の管理者としての責務―――町の治安維持なのだろう。
「……ふん。じゃあおまえも、ここに何かあるって思ったのか? そうでもなければ近づかないだろ、こんなところに」
「いや。私はこの洋館には興味はないし、そもそも存在を知らなかった。調査を終えたところだが、これといった異状もない。これ以上時間をとるつもりはない」
「??? ならなんで来たんだよ。怪しいと思うから来たんだろ?」
「理由はオマエだ。以前、オマエはこの洋館に入っていった。調査する理由はそれだけで十分だ」
「なんだそれ。俺が悪さをしてないか調べに来たって事か?」
何の根拠があって、と睨み付ける。
アーチャーは訝《いぶか》しげに俺を上から下まで眺めた後、
「オマエこそ、どんな理由でここに足を運んだ?
私はこんな洋館は知らなかった、と言ったんだぞ?」
―――アーチャーが、知らなかった。
それに何か重要な意味がありそうだな、と閃いて、
「っ―――」
強く差し込んだ陽光に、目が眩んだ。
「まあいい、いずれ明らかになる話だ。あるいはここに手がかりがあるかと期待したが、その様子ではここは外《はず》れだな。
―――やはり、私では全ての証拠は揃えられないか」
廊下に向かうアーチャー。
「そうそう。この洋館の持ち主だがな、六十年前に他界しているぞ。
持ち主の名はエーデルフェルト。遠い異国の、魔道の名門だそうだ」
「エーデルフェルト……?」
……その響きは、たしか、どこかで―――
「ではな。この洋館に何を探しに来たのかは知らんが、新しい物《ぶつ》が出たら教えてくれ。
そうだな、死体でも発見してくれると推理も盛り上がるんだが」
嫌味を残して去っていく。
「なんだあいつ。見つけても誰が教えるかってんだ」
それにお決まりの負け台詞を返して、洋館の調査を開始した。
……まあ。
アーチャーが調べて何もなかった以上、どれだけ調べても新しい物証など出てはこないのであるが。
◇◇◇
覚醒《偽》
……心臓が高鳴る。
明確な目的意識が、全身の血を濃くしていく。
「……なるほど。意味もなく土蔵に来てたのは、そういう事だったんだ」
俺本人が知らなくても、体が訴え続けていたのだ。
ここに行け。
かつての自分を取り戻せ。
おまえの武器を知っておけ、と。
それがなければ彼女《 セ イ バー》と共には戦えないと、肉体が覚えていた。
結跏趺坐《けっ か ふざ》のカタチで、神経を集中させる。
「……さて。あとは、俺がうまく使えるかどうか」
ブランクはどれほどあっただろう?
それさえも思い出せないのだから、魔術回路の起動にさえ手こずってしまうかもしれない。
……自信はない。
初心に帰ったつもりで、己の中に埋没した。
不安になったのがバカみたいだ。
魔術回路の起動も、強化の魔術も、実に簡単に成功した。
「……なんだ。気づいてしまえば、どうって事ないじゃないか」
拍子抜けだが、スランプからの脱出なんてこんなものかもしれない。
また、意外な事なのだが、これはこれで面白い。
魔術の鍛錬、使用を“楽しい”と感じた事は初めてだ。
……ようやく前に進める。
まだ見ていない筈の“狙撃者”を思い浮かべる。
ようやく自分の武器を思い出した。
今夜は時間の許す限り、この力を磨き上げよう―――
◇◇◇
残骸百景
林道から裏山を目指す。
天気は今日も快晴。この木々のカーテンを抜ければ、まっさらな青空と山々を望める筈だ。
視界が開ける。
目の前には壮観な、残骸が積もっている。
抽象的な景色に挑んでいるのは俺ではない。
衛宮士《オ レ》郎と起源を同じにする男が、忌まわしげに経文を上げていた。
視界を焼く白い陽射し。
柳洞寺にはまだ夏が残っている。
「っ、まぶし―――」
強い陽射しで目がやられたのだろう。
ネガポジが反転したように、一瞬だけ景色が黒く見えてしまったのだ。
とうに俺に気付いているだろうに、ヤツは振り向きもしない。
さっきの風景は目眩による錯覚だったが、あの男は幻ではなかったようだ。
「――――――」
お互い、無言で様子を見る。
見えたもの、見ていたものは同じだ。
先に言葉を用いた方が、自らの不純を証明する。
そんな緊迫感を、虫の鳴き声が誇張する。
「――――――」
見慣れた背中を観察する。
そういえば、なぜヤツは赤い外套を付けていないのだろう?
夏場なら暑苦しくて仕方がないが、今はもう秋だ。いや、そもそも暑い寒いで武装を解くようなヤツじゃない。
それにしても、邪魔な陽射しだ。
ここはお気に入りの場所だってのに、こんなに邪魔が多いと、いいかげん、ケンカの一つも売りたくなる。
「―――おい。
おまえさ、その格好で高い所にいなかったか?」
撃ち抜かれた額が、いずれ知る痛みを思い出す。
「いたが、なんだ。範囲内でおまえの姿を見た事はない筈だが」
「だろうな。俺だって夜におまえを見た事なんてない。そういう気がしただけだ」
とにかく、起き得る事は全て起こさなくてはならない。
倒すか倒されるか。
どちらも起こしてしまえば、後は都合のいい方を選べばいい。
「……私からも訊ねるが。おまえはまた、深夜にセイバーと巡回をしているのか」
「してるよ。なんでか新都にはまだ行ってないけどな」
正確には行けていない、のだが。
「やめておけ。夜中の新都には近づくな。深山町から橋を越えようとすれば、要らぬ攻撃を受ける事になる」
「は? なんだそれ、おまえが門番でもしてるってのか」
「新都一帯は私の射程だ。
入ろうとする者には威嚇《いかく》射撃で警告する」
既に何体ものサーヴァントを退けているらしい。
おかげで、ランサー、ライダー、キャスターの三名は夜の新都には近寄れないようだ。
ランサーのヤツは住み家が教会の筈だが、山でキャンプでもしてるのだろう。
まあ、それはともかく。
「……へえ。それは俺も?」
「おまえは例外だ。威嚇なしで眉間を撃ち抜く」
偽りはない。
弓兵の殺意は本物だ。
「呆れた、まだ俺を殺したがってたんだ。遠坂がいない今がチャンスってコトか?」
「言うまでもない。凛が絡むと込み入った話になるからな。うちのマスターは成果の出ない戦いは嫌がる質でね。好戦的ではあるのだが」
それには同意。
遠坂のヤツは勝負事は好きなクセに、積極的に争いを望むヤツじゃない。勝負が始まったら参加して、やるからには一番になる、というヤツなのだ。
「たしかに、遠坂がいたらおまえに勝手はさせないか。
あいつなら聖杯戦争が再開したからって、誰かが一戦始めるまでは様子を見る。
……そういえば、おまえにはまだ訊いてなかったな。
アーチャー、この状況をどう思ってる?」
「サーヴァントとして戦うつもりはない。
だが留守を任されている以上、見過ごす事はできん」
「……ふうん。他の連中《サーヴ ァント》に比べると少しだけ積極的だな。とりあえず、事態を解明したいってのは俺と同じなんだ」
「本意ではないがな。外套を脱いでいるのはその為だ。こんなものはオレの戦いではない」
なるほど。あの格好にはそういう意図があったのか。
アーチャーは本気ではなく、遠坂に留守を任された身として、最低限の役割をこなしている。
「再開した聖杯戦争には参加しない、って事でいいんだな? 単に新都の平和を守る正義の味方ってコトか」
「ああ。もっとも、オマエに関しては例外だがな。
――――夜を待つ必要もない。なんなら、ここで今から殺し合うか?」
こちらの殺気に応えるアーチャー。
俺は、待ってましたとばかりに口元をニヤリと歪ませ、
「―――冗談。ここで戦う気はねえよ。
それにアレだ。これが聖杯戦争の延長だって言うなら、戦いは夜じゃないと」
さらっと、ヤツの殺気を受け流した。
「話はここまでにしとこう。
じゃあ、またどっかでなアーチャー」
裏山を後にする。
「―――いいだろう。おまえに関してオレは本気だ。
果たされなかった聖杯戦争の再現として、全力でおまえたち《・・・・・》を斃《たお》しにかかる」
声には挑発と覚悟がある。
俺一人ではなく、セイバーとそのマスターを相手にする、と弓兵は言い放った。
―――上等。準備が出来たらまた会おう。
粗雑な殺意は、高潔な決意でかき消える。
互いの死を認め合う殺人許可証。
カタチのない果たし状を、確かに、俺たちは渡し合った。
◇◇◇
決戦
深山町と新都の境界に踏み入る。
いつか聞いたヤツの言葉が思い出される。
新都一帯は私の射程だ。入ろうとする者には――――
幾度撃ち抜かれたのか。
一回か、数回か。
この橋を渡る度に、
お前は例外だ。威嚇無しで眉間を――――
俺は、おまえに敗北を喫してきた。
オレは本気だ
果たされなかった聖杯戦争の再現として
全力でお前たちを斃しにかかる。
心臓の回転《こどう》が上がる。
眠っていた血潮、錆び付いていた魔術回路が起動する。
―――随分と待たせたな、相棒。
準備は整った。
これから、おまえを仕留めに行く―――
橋には俺とセイバーしかいない。
道路を行く自動車もなく、海から吹き込む風の音も、張りつめた思考には届かない。
「……懐かしいな。あの時もこうやって、セイバーと教会に行ったんだっけ」
「ええ。まだマスターの自覚がなかったシロウと、まだ貴方のサーヴァントになっていなかった私と、まだ敵であった凛。
こうして振り返ると、さぞおかしな三人組だったのでしょうね」
半年前の夜を懐かしんで笑っている。
これも大切な日々の断片だが、今は気を取られてはいけない。
「……けど、セイバー不機嫌だったよな。
あの夜は初対面であんまり話せなかったけど、教会に向かう時は輪をかけて無言だった」
「不機嫌にもなります。今だから言いますが、あの扱いには怒りを覚えたものです。
変装させるのなら他にやりようがあったのではないですかっ」
セイバーは変装にはうるさい。
前回……第四次聖杯戦争の頃、お金のかかった変装を何度もした名残らしい。
黒いスーツで男装もしたというから、切嗣も霊体化できないセイバーに色々と手を焼いたのだろう。
「む、何やら言いたい事があるようですね。いいでしょう、あの時の謝罪をかねてここで決着、を―――?」
「セイバー、上!」
遙か四キロメートル先からの狙撃を弾くセイバー。
魔術回路をスタートさせる。
眼球に強化の魔術を叩き込む。
「見えているぞ《・・・・・・》、アーチャー」
交わる筈のない視線が交わる。
互いに見える筈のない敵を認識する。
戦闘開始だ。今夜、この橋を渡りきる……!
「ぐっ―――!? シロウ、今のは一体……!?
いえ、どうやって私より早く感知したのです……!?」
「話はあとだ、次が来る!
ここじゃ狭すぎる、上まで運んでくれセイバー!」
「う、上? 上とは何処の事でしょう、シロウ?」
「ここより高くて広い場所だ。
気が利いてる、今夜はオレたちの貸し切りらしい」
「橋の上の自動車道―――確かにここなら足場も視界も確かですが―――」
「セイバー、十時の方角! 目標を確認しろ!」
―――二撃目。
射撃間隔は二十秒。たったいま脳裏を掠めた記録が、残り三発と訴える。
「か、確認しました……!
事態は掴めませんが、センタービルの屋上に狙撃手がいる……!」
さすがセイバー。
今の一撃で敵の位置を確認してもらえたのは大きい。
「どういう事です!? アレは―――いいえ、こんな事が出来るのは一人だけだ!
なぜ彼が私たちを狙うのです。まさか、アーチャーともあろう者が聖杯戦争に乗ったというのですか!?」
「知らない。俺に分かるのはあいつが本気だって事だけだ。あいつは本気で俺たちと勝負にきている。
―――今、それ以上の理由は必要か?」
「貴方の言う通りだシロウ。失態の罰は後ほど。今はアーチャーの迎撃に全力を―――!」
三撃目。
残る猶予《ゆうよ》、あと二撃。
セイバーは五撃目で膝を屈し、六撃目で俺が死ぬ。
それは、この戦法で導き出される、変えようのない結果だった。
……アーチャーの狙撃は一撃ごとに力を増している。
セイバーに防がれる度《たび》、より多くの魔力を籠めている為か。
今のが二十五秒、おそらく次は三十秒。
この射撃の間隔がヤツの弱点だ。
一撃防いだ後、次弾を装填する前にこちらから打って出れば、同じ結末は避けられる。
―――だがどうする?
直線距離にして四キロメートル、道なりに向かえばその倍はかかるだろう。
セイバーの宝具を以てすれば対抗はできるが、エクスカリバーでは範囲が広すぎる《・・・・・・・》。
センタービルばかりか周囲の建物さえなぎ払う恐れがあるし、そもそも相手はアーチャーだ。
セイバーを知り尽くしたヤツなら、エクスカリバーに対する防備もしている筈だ。
卓越した狙撃手に対して有効な手段は、接近してからの白兵戦。
しかし狙《ヤ》撃手《ツ》に気付かれないよう近づくのは不可能だ。
ならば―――狙撃手が対応する前に、超スピードをもって剣の間合いに肉薄するだけの事……!
「セイバー!」
強く、想いを込めて凝視する。
ヤツが鷹の目を持つというのなら、唇の動きで悟られてしまう。
勝負は一瞬だ。こちらの意図を読まれる訳にはいかない。
「―――可能です。ですが私の魔力だけでは足りない。
失礼ですが、シロウの魔力を足しても十分では―――」
「十分だ。こっちにはコレがある」
左手には、一つだけ残った令呪。
「シロウ……! いけない、それは最後の手段だ!
それに、うまくいったところで誰が貴方を守るのです!」
「その案には賛同できない、ここは撤退して態勢を立て直せば―――!」
「そっちこそダメなんだ。なにしろ一度試した」
セイバーだけなら退く事はできる。
けど俺がいては二人とも倒されてしまう。
この橋を越えるには、このタイミングで、この刹那に全てを賭けるしかない。
初めからのやり直しはできても、ここだけ《・・・・》のやり直しはできないのだ。
故に、持ち得る全てを注ぎ込む。
令呪を失うのは大事ではない。
重要なのは、一度でも倒したという事実のみ。
―――四撃目。
セイバーが満足に弾き返せる限界がきた。
「令呪でバックアップする。行けるなセイバー」
時間がない。
毎度の事ながら、これでも最善のスピードだ。
「……まったく、貴方の決断はいつも突然だ」
大きく構えを落とすセイバー。
その体勢は、力を溜める肉食獣そのものだ。
「―――指示をマスター。この身は貴方の剣ですから」
刀身が露《あら》わになる。
剣にかかる余分な魔力をカットし、セイバーは自らの肉体のみに全魔力を注ぎ込む。
「次弾に合わせるぞ……! あと十五秒……!」
撃鉄を落としていく。
俺がやるべき事はタイミングを合わせる事だけじゃない。
難問は二つ。
令呪を解放した後にこそ、衛宮士郎としての真価が問われる。
「―――令呪、装填」
十秒。
令呪はサーヴァントの一時的な強化を可能とする。
その膨大な魔力を、サーヴァントの活力として変換する力技だ。
セイバーの膨大な魔術回路を満たす程の力。
伝説の時代、あらゆる戦場を制した騎士王が甦る。
令呪による命令は“飛行”。
何の比喩でもない。文字通り、セイバーはここからセンタービルの屋上めがけて“跳ぼう”としている。
セイバーにはライダーと戦った前歴がある。
あの戦いの再現―――いや、移動が直線だけと限定するのなら、あとは跳躍時の魔力を増せば飛距離は向上する。
令呪の全魔力を“跳ぶ”事だけに使用すれば、この長距離をゼロにする事も不可能ではない……!
「聖杯の誓約に従い、第七のマスターが命じる」
五秒。
対するは無銘の弓兵。
投影した宝具を矢として使用する錬鉄の英霊。
今度こそはと狙う鏃《やじり》の名は『赤原猟犬《フルンディング》』。
―――修正、プラス五秒。
更に溜めが長い。限界まで引き絞った弦《ゆみ》はセイバーの魔力燃焼に対抗する為、より力を増していた。
だから、問題はタイミングだ。
先に跳んでも、同時でも危うい。
セイバー自身が矢となる以上、アーチャーが矢を放つ前に跳んではセイバーを狙い打たれてしまう。
故に狙いは射撃の直後。
ヤツが矢を放った瞬間、0.1秒の差でスタートを切る。
渾身の一撃を放ったアーチャーが次弾を装填する前に、
いや、矢を放ち終わった直後の硬直《スキ》に、
直接剣を叩き込む―――
互いの魔力が咆《こえ》をあげる。
月を揺るがすかのような両者の対峙。
五。まだ早い。
三。緊張で令呪がもげそうだ。
一。ぎし、とヤツの指が狙いを定める。
セイバー……!
「行け、あのヤロウを斬り伏せろ―――!」
―――四千メートルの時間を無にする一閃。
アーチャー渾身の魔力、渾身の魔剣を使用した一矢は、今度こそ標的を射殺さんと大気を滑る。
投影した魔剣は“赤原猟犬《フルンディング》”。
セイバーに弾かれようと、射手が狙い続ける限り標的を襲い続ける魔剣である。
セイバーが守りに入ったところで結果は変わらない。
否、セイバーが弾いた瞬間にこそ、矢は標的に向かって咆哮をあげるのだ。
セイバーが防御に徹する限り、何をしようとアーチャーの勝利は揺るがない。
そう。
セイバーが、防御に徹している限りは。
「―――――、!」
それは秒にも満たない瞬間。
狙撃手の指が矢から放たれようとした瞬間の光景だった。
橋上《ひょうてき》から守り《セイバー》が消えた。
弓兵は的の狙いを看破する。だが遅い。
矢は、既に弦から放たれている。
勝利を確信したのはどちらだったか。
数百メートル先の的を射抜く狙撃手であろうと、覆せぬ定理がある。
一度放たれた矢は標的を変えられない。
いかな必中の道具を持つ射手であろうとも、この法則には逆らえないのだ。
されど―――それを克服してこそ、弓の英霊……!
「っ―――!?」
軌道を変える、否、初めから二敵を貫く必殺の軌道。
定理は返り、放たれたセイバーに回避する術はない。
矢は直撃の魔弾と化して騎士王を粉砕する。
もはや何人たりとも覆せぬ死の運命。
―――されど。それを凌駕してこそ、剣の英霊……!
交差する光と光。
通り過ぎるかの如く傾く天秤。
青光は勝利を謳《うた》うように天上へ。
赤光は敗北を預《つげ》るよう、奈落へと直下する―――!
衝撃をともなってセイバーが解き放たれる。
タイミングは完璧だった。
だが―――令呪だけでは、この橋は突破できない。
欄干を揺るがす強風に視界を覆われながら、迫り来る魔弾を睨む。
時間が止まる。
秒に満たぬ空白、血管中に血液が疾走する。
令呪使用から実に一秒。
イメージしている時間はない。
イメージに時間は要らない。
忘れていたものは、全てこの瞬間の為に―――!
「、はっ―――、はっ」
緊張と恐怖で息が切れる。
左手が熱い。
ゼロ秒後の死が見えている。
「投影―――《トレース》」
くたびれた犬みたいに舌を出してあえいでいる。
駆け巡る物理情報・魔術理論。
構成まであとゼロ秒、直撃まであと―――
「―――終了―――《オン》!」
―――その光景を、アーチャーは確かに見た。
呼吸する力すら左腕に集結させての一撃。
火花を散らす投影宝具。
のきなみ断裂していく肉の筋。
死を恐れぬ迎撃をもって、ヤツは一度きりの防御を成功させたのだ。
勝敗で言うのなら、未だ弓兵に分がある。
ヤツの剣は折れ、弓兵の矢は弾かれたといっても健在なのだ。
矢はすぐさま翻り、少年の額を直撃する。
……そう。
矢を放った射手が、健在である限りは。
「―――第五射から二秒弱。
六射目をつがえる以前に、剣を構える事も出来ぬとは。
……少しばかり、本業に戻りすぎたようだ」
皮肉な話だ。
もとより弓兵らしからぬ弓兵がこの男のスタイルだった。
弓よりも双剣による接近戦を好んだサーヴァントは、本来の戦闘方針に戻ったが故に、セイバーの一撃に対応しきれなかったとは。
「アーチャーの名に恥じぬ一投でした。
貴方にマスターがいたのなら、この結末にはならなかったでしょう」
「―――は、馬鹿を言うなセイバー。
アレがいたのなら、そもそもおまえたちとは戦えん」
礼賛に笑いで返す。
口元に浮かんだそれは蔑むものではなく、友愛を帯びた吐露《とろ》だった。
「チ―――いかんな、もう保たん。他に言う事はないかセイバー。勝者の責務だ、疑問があるのなら問いただせ」
ざらりと、砂の散る音がする。
血液を流す不手際はない。
サーヴァントとて、まだ存命している内は血を流そう。
だが確実に命を断たれた後は、もはや灰に還るのみである。
「―――いいえ、私からは何も。
貴方が弓をとったのなら、それは然るべき理由があってのこと。私は命を奪った。これ以上のものを、貴方から取り上げる事はできない」
く、とアーチャーから笑いが漏れる。
セイバーの礼を優しさと取るか冷酷と取るか。
戦いにおいて、この騎士はその二つを内包している。
……その矛盾、人間ならば破綻する心の在り方を、美しいと感じた事もあったのだ。
否。その記憶は、こうした今も忘れ得ない。
昔、ある出会いがあった。
おそらくは一秒すらなかった光景。
されど。
その姿ならば、たとえ地獄に落ちようとも、鮮明に思い返す事ができるだろう。
月の光に濡れた髪。
……あの光景は、目を閉じれば今でも遠く胸に残る。
「今回はオレの負けか―――先に行くぞセイバー。
せいぜい、このオレに騙されていろ」
潔く散る事などせず、敗者の恨みを残してアーチャーは消滅する。
「―――――――――」
剣を納め、セイバーはかすかに唇を噛む。
頭上には黒い月。
杯のような輪郭から、ゆっくりと、勝者を蝕む毒が滴《したた》ってくるようだった。
セイバーに遅れる事一時間。
たった一撃だけで疲れ切った体を引きずって、屋上にやってきた。
セイバーはじっと空を見上げている。
張りつめた表情のせいか、話しかけるのは躊躇われた。
「―――シロウ。迎えに来てくれたのですか?」
セイバーの声には力がない。
アーチャーの姿がない……という事はヤツを倒したのか。
セイバーには傷らしきものは見られないが、やはりあの距離の跳躍は堪えたらしい。
「遅くなってすまない。セイバーは大丈夫か?」
「私は無傷です。そう言うシロウはどうなのですか。顔色が優れませんが」
「……自覚はないんだけど、そうかもしれない。
さっきから寒気がしてる。魔力がすっからかんで、体力が落ちてるんだろう」
我ながら無茶をした。
あの時は異常なほど感情が昂ぶり、後先を考えられなかったのだ。
「今夜はここで帰りましょう。
新都の巡回は明日からにすればいい。今は、シロウの体力回復が先決です」
「……そうだな。さすがに、これ以上は無理みたいだ」
屋上を後にする。
「シロウ。本当に、これで良かったのですね?」
「ああ、いいか悪いかで言えば、これでいい」
間違いはない。
また一つ、新しい出来事を通り越した。
……橋を巡る戦いは、ひとまずの終わりを告げた。
アーチャーは去り、異常は変わらずに蔓延《はびこ》り続け、四日目の夜は怠惰な眠りで更けていく。
完成は遠いが、今はゆっくり体を休めよう。
今は叶わずとも。
進めていけば、どうせ終わりは見えてくる。
◇◇◇
銀の糸
ソラが近い。
この街で一番の高層建築。その屋上は今夜も、一際強い月光に照らされている。
「――――――」
別に、何か意図があってここに訪れた訳ではない。
街を一望する事はない。
視線は常に上を向いている。
月が近い。
欠けた月齢が、どことなく杯のように見える。
ふと、ここからなら手が届くのでは、と馬鹿げた妄想を抱いた。
月に行くにはロケットが必要だ。
あるいは、気が遠くなるほど長いハシゴでもない限り辿り着けまい。
「戻ろう。一人で来てもしょうがない」
月《ぎん》の意図を後にする。
虚空《ソラ》は此処に。
高い塔をもってしても、まだ、始まりには届かない。
◇◇◇
処刑鑑賞
長い坂道を上って、教会に辿り着く。
暗い夜だ。
雲一つないのに、月は暗く。
明かりらしい明かりは、あの教会に灯った―――
「――――――」
広場には、一人の幽霊《おんな》が立っていた。
ありもしない柳を連想させる。
「おま、え―――」
……夢だ。
……いつから夢に切り替わったのか。
……オレは、初めて見るのに、まだ出会ってもいないのに、その女をよく知っている気がして、
「……、え?」
……女は、何事もなかったように、俺の真横を通り過ぎていった。
「………………」
……幽霊をぼんやりと見送る。
……あわてて追いかける必要はない。
……だって、これは夢だ。
……追いついたところで、幻のように消え去るのがオチだろうし、
追いかけようにも、コイツらが邪魔で何処にも行けない。
“―――、―――、―――!”
聞き慣れた合唱が聞こえる。
誰かが、一人では教会には近づくなと言っていたのに、それを忘れてこの始末だ。
……けど、今回は運が良かった。
都合のいいコトに、いつのまにか夢にすり替わっていたんで、目を覚ませばいつもの天井が、
「ご―――ギ」
凶悪な爪に肝臓を貫かれる。                              《腹》
フォークが刺さったイチゴみたいだ。                          《肢》
体中のいたる関節《ジョイント》、首や顔まで突き刺される。                      《首》
喉がないので悲鳴は上げず、ヒューヒューと空気が、                   《助け、》
ああぁああ。
のう、に、ザシュザシュ、くる。
あんまりにも痛いんで、ムシャクシャして、適当なぬいぐるみを報復《かいたい》したくなった。
包丁で、無抵抗なぬいぐるみを滅多刺し。誰にでもできる惨殺行為、簡単すぎてものすごく無意味《つま ら な 》い。
それはさぞかし気持ちが悪く、気色が悪く、後味なんか最悪で、つまり今のオレはそのぬいぐるみ役なのだった。
―――ああ、でもだいじょうぶ。
これは夢だ。
いま、バリバリと変わりはじめている出来事が終わってしまったら、
何事もなかったように、
何事もなくなって、
次のカタチとして目が覚めるんだから―――
◇◇◇
対決
―――予感があった。
これで、ようやく始める事が出来るのだと。
……慣れた坂道を上る。
月光は鋭く、見上げると少しだけ目が眩《くら》んだ。
今夜は星が暗いのか、月が近いのか。
手を伸ばせば虚空《ソラ》に触れられそうな静寂の中、二つの人影が、俺たちを待ち受けていた。
「―――サーヴァント―――」
セイバーは瞬時に反応する。俺を守るように前に踏み出し、視えない剣を構えている。俺は、
「また会いましたねセイバーのサーヴァント。
―――いえ、貴方にとってはこれが一度目か」
愕然と、その女魔術師を凝視していた。
「……やってきたのは貴方だけですか。何のつもりかは知りませんが、サーヴァント一人なら好都合だ。
既に他のサーヴァントは倒した。ここで貴方を倒し、王手をかけるとしましょう」
「!」
セイバーの体に火花が走る。
溢れださんばかりの戦意は、今の言葉に嘘はないと感じ取っての事か。
「貴女が、他のサーヴァントを倒した、だと?」
「……いいえ、残るは貴女とそのマスター、アインツベルンのマスターとそのサーヴァントです。
貴女を倒した後アインツベルンの城を攻略し、聖杯をこの手に掴む」
セイバーの戦意は、既に敵意へと変わっていた。
あの女性を完全に敵として認識し、背中越しに俺からの指示を待っている。
―――すなわち、“我々の敵を討て”。
だが、俺は驚きに思考が停止してしまっている。
呼吸も忘れて目前の光景を見つめている。
本当に、俺たちの知らないマスターがいた。
本当に、聖杯戦争を続けようとしている敵がいた。
本当に―――彼女は、この町に実在していた。
決して幻ではない。
だが幻でなくてはおかしい。符合しない。あまりにも矛盾が多すぎる。
そうだ、それに―――もし、本当にあの女性が実在の人物なら、その傍らには、
「……ようやくオレの出番だな。
雪辱戦だ、出し惜しみはなしで行こうぜマスター」
―――第八の、サーヴァントがいるハズ、で。
「な―――貴様、サーヴァント……なのか……?」
セイバーの驚きはもっともだ。
現れたサーヴァントは、誰でもない“何か”だった。
異状なまでの存在感と、異状なまでの現実感の無さ。
……見ているだけでおぞましい。
あんな“何か”に話しかける事も、共にいる事も、まして心を許すなど、決して、人間に出来る事ではない。
「改めて名乗りましょう。
私は魔術協会から派遣されたマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
彼は私のサーヴァント、アヴェンジャー」
のっぺらぼうの影、アヴェンジャーがニヤリと笑う。
表情など無いのに、その感情表現は何よりも明白だった。
「さあ一騎討ちだ、余計な手は入れるなよマスター。
セイバーとは相性がいいんだ。援護なんぞなくても、オレだけでいいとこまで戦える」
「―――いいでしょう。ですが引き際を間違わないように。貴方ではどうあってもセイバーにとどめは刺せない。せめて、宝具を使わせる程度に善戦なさい」
がたん、と女魔術師《バゼット》の足下で音がする。
背負っていた荷物が下ろされ、
鉛色の球体が転がり出る。
どう見ても武器にはとれないソレは、バゼットの背後、斜め後方に浮遊し、停止した。
サーヴァントに対する何らかの防御礼装と見るべきか。
水晶は鈍く光りながら、バゼットを守るように浮遊している。
「戦闘を開始します。剣を構えなさいセイバー。
私と私のサーヴァントが、今度こそ貴女を倒す」
自らのサーヴァントに前線を任せ、後ろに下がるバゼット。
「―――え」
それはおかしい。
彼女の戦闘スタイルはそんな物ではなく―――
「―――待った。セイバー、あいつは、」
「は。ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
俺の声をかき消すように、いや、かき消すために、大仰に雄叫びをあげるアヴェンジャー。
ヤツは凶悪な短剣を逆手に構え、俺たちに突進する。
「っ……! 応戦します、シロウは下がって……!」
影の突撃に応えるセイバー。
止める間もなく、二人のサーヴァントは戦闘を開始した。
セイバーとアヴェンジャー。
両者の戦いは剣の打ち合いというより、人と獣の格闘を思わせた。
人はセイバー。獣はアヴェンジャーである。
戦いは宝具・魔術を使わない、純粋な身体能力だけの攻防になっていた。
アヴェンジャーの持つ短剣は刃というより牙に近い。
それを二刀。大小の違いがある凶器を二つ、左右にそれぞれ構えてセイバーへ肉薄する。
「シャ、ハ―――!」
デタラメな、叩きつけるような剣の舞。
剣を構えたセイバーの手数が一なら、アヴェンジャーの手数は三か四。力で敵わぬ獣は、その持ち前の敏捷性でセイバーに襲いかかる。
それは、一種異様な光景だった。
アヴェンジャーのスピードは決して遅くはない。
目まぐるしく位置を変える足捌き、間断なく振るわれる二刀の牙。
熱に浮かされたかのような特攻精神。
今でも十分すぎるほど速い。
だが次の一撃。更に次の一撃と、アヴェンジャーは速度をあげていく。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハ―――!」
血走った眼光。酸素欠乏に苦しむ喉。これ以上は無理だと、悲鳴をあげる肉体。
それら一切を無視し、アヴェンジャーは戦いに没頭する。
強く。今のが防がれるのならより強く。
多く。今のが捌かれるのならより多く。
己の体に限界はない、いや、己の体の限界など知らない、と。
それは、
破滅を厭わない狂躁、脳を冒された獣そのものだ。
「―――――なに?」
目蓋をこする。
……アレがあのサーヴァントのスタイルなのか。
蒸気のように沸き上がる殺意が、ヤツの姿を曖昧に変えていく。
歪み、なお熱くなっていく殺害欲求が、蜃気楼となってアヴェンジャーの体を包む。
「ハッ、ハッ、ガ、ハヒ、ヒ、ハッ―――!」
開始時より何倍もの速さで短剣を叩きつけるアヴェンジャー。
絶え間のない剣の嵐は、しかし。
その全てを、セイバーの剣に弾かれていた。
通常、人は大型の肉食獣に太刀打ちできない。
だが今回に限り、そのバランスは逆転していた。
圧倒的に有利なのは人であるセイバーだ。
いかにアヴェンジャーが速度を増していこうと、それは最後までセイバーには届かない。
そもそもの実力が違いすぎる。
アヴェンジャーにとって、セイバーは人が作り上げた堅固な要塞に見えるだろう。
自滅覚悟、死を引き替えにしたオーバースピードを以てしても、アヴェンジャーはセイバーに及ばない。
「GA―――AAAAAAAAAAAAA!!!!!」
獣が吠える。
敵わないと、届かないと知りながらも破滅へと突き進む。
セイバーが防御に徹していたのはアヴェンジャーの自滅を待っていたからではなく、敵の様子を見る為だ。
……この暴走には意味がある。
敵もサーヴァント、基本能力が低いのならばその宝具にこそ警戒すべし、とアヴェンジャーの力を計っていたのだが、それもここまで。
アヴェンジャーに切り札はないと判断し、セイバーは反撃を開始する。
……ただ、気になるのは敵のマスターだ。
俺と同様、距離をとって戦闘を観察している。
彼女は優れた魔術師だ。
いくらでもサーヴァントを援護する術があるだろうに、なぜ傍観に徹しているのか。
あの―――背後に浮かぶ、球体はなんなのか。
「はっ―――!」
セイバーの剣が閃く。
これ以上の暴走は忍びない、と引導を渡す一閃。
その剣が、奇形の短刀に絡め取られる。
「……刀剣砕き《ソードブレイカー》……!?」
あの短剣は、本来あのように使用する。
アレは切り裂く為の武器ではなく、敵の武器を拘束する為の牙なのだ。
「ハッ、ようやく釣れたなマヌケ―――!」
罠に嵌った獲物を嘲笑する。
左の短剣でセイバーの剣を受け止めたアヴェンジャーは、残る右の短剣でセイバー自身を断ちにいき、
「―――、は?」
跡形もなく、全ての牙を粉砕された。
剣を噛み止めた左の短剣も、
鎧を断ちにいった右の短剣も、
セイバーの一息で跡形もなく砕け散ったのだ。
「――――――」
上段から滑り落ちるセイバーの剣。
「デ―――デタラメな魔力放出だなテメェ―――!!」
悲鳴をあげながら飛び退くが間に合わない。
「ギ―――!」
致命傷を受け獣が嗤う。
それは今度こそ、アヴェンジャーの体を右肩口から腰まで、文句なく一閃し、
即死寸前、完全に戦闘不能にする傷を与え、
「ギャ、ガア、ヒア、ア――――――!」
“偽り写し《ヴェルグ》”
「ア―――ギ、ギギ、ヒハハハハハハハ……!!」
“記す万象《アヴェスター》……!”
敵の宝具を、発現させた。
「っ……!? は、ぐっ……!?」
アヴェンジャーを斬り伏せたセイバーが崩れかかる。
……合わせ鏡だ。
何の外傷もないセイバーは、瀕死の傷を負ったアヴェンジャーと同じように肩口を押さえている―――!?
「これは、呪い―――傷を共有する原呪術か……!」
崩れかかる体を懸命に堪えるセイバー。
「ハ、さすがは真っ当な英霊、理解が早くていい。
ご明察の通り、今のは受けた傷を相手に返すだけの、この世で最もシンプルな呪いだ。
名を“偽り写し記す万象《ヴェ ル グ ・ア ヴ ェ ス タ ー 》”。傷を負わなければ攻撃できない、クソっタレな三流宝具さ」
「アヴェスター……? ゾロアスターの教典を宝具に、だと……!?」
「役にたたねえ写本だがな。
……まあ、二倍返しの法典には及ばねえが、こっちはこっちで利点がある。
わかるかセイバー? おまえの魂に写したその傷は、まっとうな癒しじゃ治らねえ。その痛みはな、オレの傷が治らないかぎり消えはしねえのさ」
影が嗤う。
致命傷を負いながら、まだ数分の余命を残したサーヴァントが離れていく。
「しかしまあ、おかげでオレの命はあと数分。
一方、その程度の傷じゃあおまえは死なない。そのままオレが死ぬまで動かなければいいんだが―――」
静観していたバゼットが動く。
彼女は無駄のない動きで、両手に革手袋を嵌めていく。
「―――ぼんやりしてる余裕はねえワケだ。
出し惜しみは止めとけよセイバー。うちのマスターは仕事になるとガキでも容赦はしない。
……おまえを殺せば、次はあっちの小僧だぜ?」
セイバーの体に力が戻る。
アヴェンジャーの挑発がきいたのか、それとも駆けつけようとする俺に気付いたのか。
「―――侮るな。この程度の傷で、私を止められると思うかアヴェンジャー」
セイバーの剣が露わになる。
敵は二人、距離は十分に離れている。
この位置関係では教会をなぎ払う形になるが、教会に人がいない事は確認済みだ。
「シロウ、宝具の使用許可を―――!
急いでください、敵マスターに動きがある……!」
バゼットの背後に浮かぶ球体が帯電している。
何のつもりかは判らないが、あの女魔術師はあそこからセイバーを攻撃するつもりらしい。
―――そんなもの。
小石で、津波に立ち向かうに等しいだろうに。
「―――セイバーに任せる……! 出力は出来るだけ絞ってくれ……!」
発動は、それこそ瞬間だった。
出力を抑えている、というのもあるだろうが、宝具の展開は一秒とかからない。
一度発動してしまえば、その速度と威力は宝具中随一である。
こと宝具の力勝負において、セイバーの聖剣に勝るものは英雄王が持つ乖離剣のみ。
それを正面から打たれては、人間の扱う魔術など何であろうと通用しない―――!
「“約《エ》束さ《ク》れた―――《ス》」
振り上げられる黄金の剣。
その輝きを前にして、
「“後《ア》より出《ン》でて先に《サ》立つ《ラ》もの《ー》”」
囁きかけるように、女魔術師は右拳に息吹をかけた。
「―――勝利の剣―――《カリバー》!”」
触れるもの全てを両断し蒸発させる光の剣。
その先制に、明らかに遅れるカタチで、
「“斬り抉る《フ ラ ガ ・》戦神の剣《ラ ッ ク》”―――!!」
バゼット・フラガ・マクレミッツの宝具が発動した。
からん、と鉄の落ちる音がする。
セイバーは健在。
だが、灰燼と帰す筈の風景も、また健在だった。
「―――――――――」
セイバーは剣を振り下げた状態のまま、遙か前方の敵を睨んでいる。
……約束された筈の、己が勝利を見届ける事なく。
呆然と、暗い虚空を睨み続けていた。
鎧には一点の孔。
力の収束した、最小限の致命傷。
小石ほどの傷、フィルムに焼き付いたような黒点。
それが、セイバーを斃《たお》した傷痕だった。
「っ、熱―――」
……敵マスターに視線を移す。
今の一撃で革手袋は焼け落ち、女魔術師は苦痛に顔をしかめながら、右手の甲をチロリと舐める。
球体は一度きりの使い捨てなのか、一撃を放った後、鉛の色を失っていた。
―――フラガラック。
それはケルト神話に伝わる、戦いの神ルーが持つとされた短剣。
伝説によれば、その剣は持ち主が手をかけるまでもなく鞘から放たれ、敵が抜刀する前にこれを斬り伏せたという。
先制したセイバーの宝具と、遅れて撃ち出された光の剣。
勝利すべきは間違いなくセイバーだった。
だがフラガラックはエクスカリバーを上回る速度で射出され、セイバーを破っただけでなく、エクスカリバーの光をも消滅《キャンセル》させた。
……それが、あまりにも不可解すぎる。
どのような魔術理論によって行われた奇跡なのか、人智では及びもつくまい。
読み取れる事は一つだけだ。
あの魔術礼装はサーヴァントの宝具に匹敵し、真っ向から斬り伏せる事のできる、究極の迎撃礼装―――《カウンター》
傷一つない、いや、わずか一点の傷を残したまま、セイバーの体が消えていく。
……女魔術師が歩み寄ってくる。
俺は―――セイバーを失った悔恨で、満足に動けない。
敵は目の前だ。
せめて、最後に一撃でも反撃しようと拳を握り締め、
「え?」
女魔術師は俺になど興味がない素振りで、あっけなく通り過ぎていった。
「な――――――」
思わず振り返る。
そこに、
「よう、負け犬」
あの、黒いサーヴァントが立っていた。
肩口から切り裂かれ、返す刃で首を横一文字に切断された。
ごろん、と転がる音が鼓膜に入る。
地面は近く、連続してカッチッチ、カッチッチと転がっていく。
「相棒を替えて出直してこい。
次は、アイツの切り札をよく知ってるヤツがいい」
黒いサーヴァントは、本気でそんな事を口にした。
まるで自分こそが、あの女魔術師を殺したがっているような素振り。
………ああ、意識が断線する。
月が髑髏のように回っている。
間違えた聖杯戦争は、こうして。
果たされる事なく、次の走者が走り出すのだ。
◇◇◇
4/Endless
夜の聖杯戦争4
暗闇から目を開ける。
日付はいつも通り十月八日。また始まりの日に戻ってきた。
「さて、うちのマスターは―――やっぱまだ寝てるか」
相変わらず見目麗しく、まわりにいる男、おもにオレだ、を挑発するかのような無防備さ。
こうして眠っている分には年相応の女の子っぷりで、何度見てもメチャクチャにしたくなる。
鎧を着るのは目が覚めてからなんだろう。
例の十年ルールを考えるなら、ここでスウスウ寝息たててんのは二十三ひく十の、十三才の思春期なりたてのメスガキというワケだ。
……こう、イタズラ心が沸き立たない方がおかしい。
「―――しかし、まあ」
さすがに、今はそれどころの話ではない。
今回、バゼットはよくやった。
俺の宝具とバゼットの魔術礼装、この二つを最大限に活用してマスターたちを倒しに倒した。
その終わりに、今までどうあっても返り討ちにあってきたセイバーをついに撃破したのだ。
“偽り写し記す万象《ヴェルグ・アヴェスター》”。
セイバーに致命傷……らしきものを与え、その動きを封じた宝具。
種明かしをすれば、これは報復の呪いだ。
被害者の傷を、そのまま加害者にも与える呪い。
オレが袈裟斬りにされれば、相手も袈裟斬りにされた痛みを負い、
オレが腕を切り落とされれば、相手も腕の感覚を失ってしまう。
あくまで受け身な宝具だが、最大の利点は報復を“問答無用で成立させる”という点にある。
本来、こういった呪詛返しは強い魔力抵抗を持つ英霊にはまず成立しない。
セイバーほどの魔力抵抗ならば、逆にこちらの傷が深まってしまうだろう。
だが“偽り写し記す万象《ヴェルグ・アヴェスター》”は条件さえそろえば相手の魔力抵抗などおかまいなしだ。
条件は二つだけ。
一人の相手に対して一度だけの使用であり、
呪いを行う術者がまだ死亡していない事。
バゼットはオレの宝具を聞いた時、
「貴方、本当に生き残る事に特化しているのね。そんな宝具を持っているんじゃ、誰も貴方を殺せないわ」
となぜか怒っていた。
きっと、絶対的な安全地帯にいるヤツが許せないタチなんだろう。
が、そう都合のいい話はない。
“偽り写し記す万象《ヴ ェ ルグ・アヴ ェスター》”は自動的に発動する宝具ではなく、オレが使用するタイミングを計る呪術なのだ。
術である以上、それを唱える人間は必要になる。
「ぁ……それはつまり―――即死は、いけない……?」
ご明察。
何故かは言うまでもない。死んでしまっては《・・・・・・・・》、呪いを返す事など出来ないからだ《・・・・・・・・・・・・・・・》。
「……すみません、また早合点をしてしまった。
たしかに、貴方の宝具は使い所が難しい」
そう。軽い傷を返したところで相手に与えるダメージは小さい。
かといって重い傷を狙えば、傷を負った時点でオレが死んでしまう。
このあたりのさじ加減が難しい、という事もあるが、注意すべきは“偽り写し記す万象《ヴェルグ・アヴェスター》”では敵を倒す事はできない、という点である。
オレには相討ちさえできない。
死なない程度の傷は返せるが、オレが殺されたらそもそも傷を返せないのだ。
よって、オレに出来る最大の攻撃は『致命傷に近い傷を受け、なんとか生き延びて傷を返す』という、まことに回りくどい物だったりする。
が、今回のオレはそれで十分だった。
オレのマスターには宝具クラスの破壊力を持つ切り札があったからだ。
疑似的な宝具……というのは間違いだろう。
アレは何千年という歳月を越えて現代まで残った、数少ない宝具の現物《・・・・・》だ。
サーヴァントが持つ宝具は生前持っていただけで、現代では失われた伝説にすぎない。
だがバゼット―――いや、フラガの血脈は頑《かたく》なにあの剣を保管し、現代まで伝えきったのだ。
フラガラックの能力は単純な光弾だが、その付属効果が実に面白い。
アレは魔力充填だけでは発動せず、相手の切り札が発動しなければ目覚めない《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、カウンターだけに特化した迎撃武装なのである。
そうして発動した後は、必ず相手より先にフラガラックを叩き込む。
フラガラックは時を逆光する一撃だ。
それがどのような“結果”を招くかは、敗れ去ったセイバーが証明している。
宝具の打ち合いになればバゼットに敵はいない。
あれを破れる宝具があるとすれば、それは速さでも威力でもない。フラガラックの特性を覆《くつがえ》す何かだ。
オレが知る限り、そんなデタラメな宝具を持つヤツは……まあ、あのヤロウぐらいではある。
繰り返すが、宝具の打ち合いにさえなればバゼットは鬼神に通じる。
なら後は簡単だ。
オレは自分の宝具を最大限に生かしお膳立てを調える。敵サーヴァントを追いつめ、宝具を使用させる局面に導く。
あとはバゼットの檜舞台《ひのきぶたい》だ。
フラガラックの発動のタイミング、その起動術式等の難易度はオレの知った事ではない。
人の身で神代の魔剣を再現する事がどのような苦痛、難度をもたらすかはどうでもいい。
バゼットは今まで一度もしくじってはいない。
相棒として、評価すべきはそこだろう。
そうして、コイツはセイバーまで勝ち抜いた。
残るはアインツベルンのマスターだけ。バゼットは念願の最終チケットを手に入れたのだ。
いや、こんなに上手くいくなんて夜空に見える星分の一の幸運だろう。
身も蓋もなく言うなら四千回に一回ぐらいの確率。
肉眼で見える星の数はそんな感じ。
「―――しかし、まあ、それも一からやり直しだけどな」
ぴくん、とバゼットの目蓋が動いた。
苦しげな呼吸が、ほう、と安堵するように落ち着いて静かになる。目覚めまであと二十秒ってところか。
……さて。起きたら戦争になるだろうから、部屋の隅っこでブルブル震えて隠れていよう。
下手にいつもの調子で遊んでたら後頭部から吹っ飛ばされかねない。
まともに見えるのもこれが最後か。
取るに足りない未練に額を掻きながら、安全圏へ避難した。
「っ―――、ぁ…………」
……ゆっくりと意識が浮上する。
体が鉛になったかのような倦怠感と、再び呼吸が出来る事の充実感。
もう何度も通過した蘇生の儀礼。
あの忌まわしい死の淵から、私はまた帰ってきた。
いや、帰ってきてしまった。
「―――なん、で」
どうしてなのか。
私は今度こそ、あのセイバーを倒したのに……!?
「敗れてなんていない……私たちは、一度も負けなかった、のに」
蘇生した後は視力が落ちる。
明かりのない部屋はよく見渡せない。
いつもの椅子にアンリマユはおらず、彼は部屋の隅で、やっぱりあのパズルを解こうとしている。
「よう、目が覚めたかマスター。生き返った気分はどうだ?」
「――――――」
いつもの挨拶。
私たちが敗れ、この夜に戻ってきた時にかわされる、いつも通りの確認事項。
「アヴェンジャー……私は、私たちは、一体どうしたのです。セイバーを倒して、日付が変わって、それから―――」
その先の記憶がない。
四日目の夜、セイバーを倒した後からの記憶がない。
「それからって、ここに戻ってきたんだよ。そんなの言わなくても判るだろ。もう何度も経験してるんだから《・・・・・・・・・・・・・・》」
彼の姿は影になって見えない。
気配だけが伝わってくる。
ニヤリと。人間を苦しめて愉しむ、悪魔みたいな笑い顔。
「アンリマユ……!
答えなさい、これはどういう事だ……!
私たちはセイバーを倒した。ライダーもアサシンもキャスターもアーチャーも倒した! 後はアインツベルンのバーサーカーを倒すだけだった……!
なのに、なのにどうして、また一日目に戻っているのです……!!!!」
ダン、と拳でソファーを打ち砕いた。
死後硬直で動かない体を、怒りだけで突き動かす。
サーヴァント……アンリマユは、部屋の隅から動かずに私を見つめて、笑っている。
「……なぜ答えないのです。貴方は、私のサーヴァントでしょう。お互い、協力しあって戦ってきたのに、どうして」
苛立ちと失望が堰《せき》を切る。
……そうだ。このサーヴァントは信頼できないなんて、初めから分かっていたのに、どうして私は、こんなに失望を抱いているのか。
「何故も何もないだろマスター。
言ったハズだぜ、オレたちは聖杯戦争を永遠に続けられるんだってな。
セイバーを倒したところで四日目が終われば元通りさ。アンタが殺されようと、誰が聖杯を手に入れようと、四日目が終わればこの夜に戻れる。
例外はない。オレたちは聖杯戦争に参加するかぎり、この四日間を繰り返すんだ」
「な」
「―――それをさあ、今さら何故なんて言うなよマスター。
そりゃ身勝手だろ? アンタは何度死のうがこの夜に戻ってきた。何度負けようが一からやり直す事が出来た。なのに文句なんて言わないでくれ。
アンタは―――そんな都合のいい事に何の疑いも持たず《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、今までさんざん頼ってきたんだから」
ケラケラと笑う。
「っ…………!」
立ち上がろうとして床に膝をつく。
まだ足が動かない。……情けない。アヴェンジャーの挑発に乗って激昂する私も、まだ血の巡っていない体も、まるで未熟な子供のようだ。
「……アヴェンジャー。貴方はこう言うのですね。
私たちが敗れようと勝ち残ろうと関係ない。四日目の夜になれば、強制的に一日《こ》目の夜に戻ってしまう。
……この四日間では死なないかわりに、この四日間しか存命できない。
それが―――私が得た、不死身のルールなのだと」
「大当たり、実に的を射ている!
そっか、はじめっからそう説明すれば良かったんだな!」
ひゅう、と口笛を吹いて、大げさにはしゃぐサーヴァント。
「………………」
無論、そんな説明で謎は解けない。
訊かなければならない事は山ほどある。
まず―――
「どうして四日間でリセットされるのです。それが貴方の能力の限界だからですか?」
「さあ? 理屈なんざ知らねえよ。ま、一日じゃなくて良かったんじゃないか?」
「……四日目から先に行くには、貴方の宝具に頼らなければいいのですか?」
「さあ? これはオレの宝具じゃなくて、オレと契約したアンタだけの特権だ。なんとかするのはオレじゃなくてアンタだよ」
「―――では、四日以内に聖杯戦争に勝利すればいいのですか? そうすればこの現象はストップすると?」
「さあ? まだ試してないが、それで止まってくれればいいな。このままだと、オレたちはずっと四日間から抜け出せない」
「――――」
ギリ、と歯を噛みしめる。
要領を得ない、いや、真剣に答える気がないアヴェンジャーに対してではない。
“オレたちは、ずっと四日間から抜け出せない―――”
私は今まで、自分が殺されずに勝ち抜けばいいと思っていた。
けれど実際は四日間という制限が存在し、今回ようやく、その限度に引っかかったのである。
四日。
四日で他のマスターたちを倒す事は可能か否か。
「―――不可能だ。四日では、どうやっても」
六人のマスターを倒す事はできない。
今回、いや前回のセイバー戦が限界だ。
あの四日間自体が幸運に見舞われた戦いだった。
もう何度も繰り返した私たちが導き出した、考え得る中で最高の攻略ルートだったのだ。
それでもアインツベルンには届かなかった。四日間ではどうあっても、最後の最後に敵一人を残してしまう。
「ではやり方を変える……? 馬鹿な、それこそ」
他のマスターたちの殺し合いを待っていたら四日などすぐに経ってしまうし、戦闘力に物を言わせた力任せも通用しない。
そもそも―――セイバー戦のように真っ向勝負で戦えるフラガラックを、私は三つしか持っていないのだ。
一つはアインツベルン、一つはセイバー。
もう一つはどうやってもマスターから離れないサーヴァントに使う? まさか。その戦い方で二日目を越えられた事など一度もない。
……それに、敵はマスターだけではない。
正体不明の使い魔の群と、それを操る謎の魔術師もいる。
あり得ない奇跡が起きて聖杯戦争に勝利した後、未だ姿さえ見えない、聖杯を欲しがる八人目の敵を倒さねばならないとしたら―――
「……なんてこと……これじゃ、まるで」
聖杯戦争を続ける為だけに、ずっと戦い続けているようなものだ。
アヴェンジャーと契約している限り四日目は越えられない。
じゃあ、いっそアヴェンジャーと契約を切っ―――
「どうしたマスター。なんか言いたい事でもあるのか?」
「え―――いいえ、目眩を起こしただけです。蘇生して間がないので」
……駄目だ、それだけはできない。
解決策はただ一つ。
アヴェンジャーと契約したまま、私は聖杯戦争に勝利しなければならない。
この四日間の縛りを、もう不可能と判っているのに、打破しなくてはならないのだ。
「質問は終わりか? なんだ、もっと激しくなると覚悟してたんだけどな」
……影の笑いは消え去らない。
……癇に障る。
そもそも、あの男は本当にやる気があるのか。
私を外に連れ出すクセに聖杯戦争など興味のない素振りで、ただ敵を殺せればいいと言う。
明確な目的などなく、この状況に順応している。
私の悩みなど知らずに、気軽に聖杯戦争に参加している。
まるで―――永遠に続く戦いを、楽しんでいるかのように。
「……そうだ。貴方はこう言っていた。聖杯戦争を続けよう、と。始めようでも終わらせようでもない。ただ、続けようと言ったんだ、アンリマユ」
この四日間はアヴェンジャーの能力によるものだ。
……なら。この状況は、アヴェンジャーが望んだ結果なのではないのか。
四日間の繰り返しは単に、この男が殺し合いを続けたいから―――
「……アヴェンジャー。もう一度訊きますが、四日間の縛りは貴方の意志によるものではないのですね? これはただ、マスターを蘇生させる為の副作用にすぎないと」
「ああ。死者をその場で蘇生させるなんてコトはできない。こうして一番初めに戻ってやり直すしか手はないんだ。
オレと契約している限り、マスターは死ぬ事はない。
それがどうして四日間だけなんて制限がついたのかはオレにも分からない。
……そうだな。聖杯を司《つかさど》るアインツベルンのマスターなら、そのあたりのカラクリに気付いているのかもしれないが」
アヴェンジャー……いや、アンリマユの言葉に嘘はない。
嘘はついていない、と思いたい。
「……アヴェンジャー。聖杯にかける貴方の望みはなんですか。以前はおかしな事を言っていましたが、本当は―――」
この状況こそが貴方の望みなのでは、と言葉を飲む。
……まだそれは口にできない。
確証がないし、それを明らかにした瞬間、私と彼は敵同士になると直感している―――
「オレの望みは変わってないよ。……それよりさ、アンタこそどうなんだよマスター。
聖杯戦争に勝ったら何を望む。いや、元々どんな望みをもって、アンタは冬木の街にやってきた?」
「え?」
影の笑い顔が消えた。
物陰の中で。アヴェンジャーは、ひどく真剣な顔で、私の瞳を見つめていた。
「あ―――いえ、それは」
……それは、なんだったのか。
望み。私の望み。
そんなものはない。しいて言うのなら聖杯戦争に勝ち残り、聖杯を手にする事が私の目的だ。
「いや、でも」
それは違うと、目眩がする。
私は何か―――聖杯より先に、見つけたいものがあって、
「なあ。何を探してるんだ、アンタ」
「……思い出せない。私はまだ、記憶が不確かのようです」
「本当に? 初めから無かっただけじゃなく?」
「っ―――!」
影を睨み付ける。
……痺れていた足にようやく血が巡って、満足に歩けるようになった。
「―――無駄話は終わりだアヴェンジャー。
貴方がどんなサーヴァントだったのか、初心にかえって対応する事にします」
「そりゃ残念。せっかく息が合ってきたってのに、また疑心暗鬼の日々か」
「それがイヤなら少しは―――いえ、私が気を引き締めればいいだけの話でした。
アヴェンジャー。今夜から方針を変えます。聖杯戦争に勝ち残るのは、貴方の能力がなぜ四日間に限定されているのか、その原因を突き止めてからだ」
四日間ではどうあっても勝ち残れない。
なら、どうして四日間で終わってしまうのかを判明させればいい。
「なるほど、冴えてるねマスター。
けど具体案はないぞ? オレにだって分からねえんだから」
「具体案なら、先ほど貴方が提示してくれたでしょう。
自殺行為ですが試してみる価値はある。それに、死んでもいいのが私たちの利点ですから」
手段を選んではいられない。
……今の状態ではアンリマユを信じる事ができない。
だから、英霊《かれ》以上に英霊《かれ》について詳しい人間に会わなければ。
「―――げ。ちょっと待った、さっきのは冗談だって。
やめようよー、敵の本拠地に攻め込むなんて正気じゃねえって、とんでもなく痛い思いするだけだよー」
心底イヤなのか、アンリマユは本気で反対している。
弱っている姿は子犬を連想させて愛嬌があるのだが、今の私はそんな懇願《ポ ー ズ 》で陥落されない。
「変更はありません。準備をなさいアヴェンジャー。
目的地は郊外の森。これから二日をかけて、アインツベルンの城を攻略します―――」
ラックを背負い、嫌がるアンリマユを連れて洋館を後にする。
いつものクセで、ポケットの中のイヤリングを強く握り締めた。
……どうか幸運を。
冬の城に辿り着き、私の望む解答が得られるように。
◇◇◇
凛帰国
―――そんな、まったく繋がりのない、夢を見た。
「―――、っ―――」
変則的に寝たり起きたりを繰り返したせいか、偏頭痛がする。
朝の六時前。
窓越しの光はやや力強く、隙間から差し込んでくる空気もやや冷たい。
「…………」
夜に起きているもう一つの聖杯戦争。
四日目で終わる冬木の町。
今まで存在しなかった新しい来訪者。
そんな、とりとめのない言葉が頭に浮かんで、ざらーっとキレイに消えていく。
見た覚え、聞いた覚えはないのに、それは虚構だが真実だと、隣の走者が訴えているような。
「よし、朝の支度をしに行くか」
おかしな妄想を振り払う。
今日見た夢は、文化祭の準備をしていたものだ。
あんな、よくわからない夢など見ていない。
天気は分かりきったように快晴。
今日も一日、気ままに空き部屋を埋めていこう。
「じゃ先に行くわねー。
士郎も桜ちゃんも遅刻しないで来るのよー」
慌ただしく職場に旅立つ藤ねえ。
時刻は七時過ぎ。
藤ねえが去った後の食卓はのんびりムードになるのだが、今朝は物騒な議題が持ち上がる。
「あの、先輩。最近、町の様子がおかしい気がするんですけど、これって―――」
「聖杯戦争の時と同じ空気だって言うんでしょ。そんなの、シロウはとっくに知ってるわ」
ここ数日でおかしくなったという町の空気。
セイバーとライダーの、理由のない戦闘欲求。
そのあたりの話が持ち上がるも、何も分かっていない俺たちは各々のペースで事態の究明をする、という結論で落ち着くのだった。
「サクラ。そろそろ登校の時間です」
「あ、ほんとだ。ありがとうライダー、すぐに片づけちゃうからね」
「いけません。後片づけは私と士郎で行いますから、サクラは―――」
「お客さんみたいですね。ちょっと出てきます」
「……もしや、またあの新聞勧誘でしょうか。だとするとサクラには荷が重い」
ゆらり、と殺気を漂わせて立ち上がるライダー。
ここんとこ通い詰めている新聞勧誘はよっぽど質《たち》が悪いようだ。
「いや、ライダーが出るまでもないよ。相手が新聞勧誘なら桜の圧勝だ。得意分野らしくてさ、むしろ邪魔しちゃ悪いぐらい」
「はあ……? 士郎がそう言うのなら静観しますが……本当に、サクラはああいった手合いに強いのですか?」
「もう無茶苦茶に。チャンピオン級。けど知ってる人が近くにいるとやり辛いとか言ってたんで、様子を見にいくのはナシにしよう。
大人しく桜が帰ってくるのを―――」
待っていよう、と言うまでもなかった。
所要時間、実に三十秒。
性質《たち》の悪い新聞勧誘をあっさりと退け、我らのチャンプが戻って―――
「ただいま。みんな、変わりはなさそうね」
「―――は?」
―――我らのチャンプが、戻ってきてしまった。
「なによ、みんな固まっちゃって。
……あ、もしかしてわたしの背中に悪趣味な幽霊でも憑いてる?」
「あちゃー、向こう出る時にちゃんと除霊したんだけどな……出費を渋って一年生に任せたのがまずかったか」
ぶつぶつと物騒なコトを言う遠坂凛。
その背後には、照れくさそうな桜の姿があったりする。
「で、どう? 後ろにいるのはどんな幽霊?
まさか長い黒髪で、柳の下が似合いそうな恨み系?」
どこまで分かって言っているのかこやつは。冗談にしては緊張感がありすぎだ。
「違いますよ姉さん、お化けなんて憑いてきてません。姉さんの後ろにいるわたしが言うんですから大丈夫です」
「そう? 良かった、随分と強い思念だから心配しちゃった。そっか、後ろにいたのは桜だけだものね。
ごめんなさい、幽霊なんか問題じゃなかったわ」
「はい。わたしでしたら、恨み言の前に直談判とかしたいです。いきなり出てきたクセに、大きな顔しないでくださいって」
「ふふ。たった一ヶ月で言うようになったわね間桐さん?」
「先輩こそ。一ヶ月も留守にしてたのに、家主顔しないでください」
あはははははは、と笑いあう姉妹愛。
―――怖い。
文句なしに怖い。
そして殺される。
次に二人が口を開けた時、衛宮邸は地獄と化す。
だから言ったんだ、ロンドンに助けなんか求めたら、もっと大きな災厄がやってくるんだって……!
「――――――、」
が、俺とて衛宮邸の真の家主。
切嗣から譲り受けた家を悪魔たちの戦場にするワケにはいかない。
「……えー。そこまでだ、二人とも」
玉砕覚悟、死して屍拾うものなしと腰を上げ、
「とまあ、冗談はこれぐらいにしておきましょうか桜」
「はい。ちょっと悪趣味すぎましたね、これ」
かっちこっちと時計の音が響く。
浮かした腰と伸ばした腕が、ふわふわと所在なく漂ったり。
「――――なに、今の?」
「いい先制攻撃でしょ?
向こう流のちょっとした冗談を、桜と一緒に再現してみました」
「はい。玄関に出迎えにいった時、先輩を驚かせるからって、姉さんから要請があったんです」
実に嬉しそうな二人。
なんなんだろうねこの仲良し姉妹。
「……オーケー、それは分かった。冗談は選べと抗議したいが、今のが冗談でホントに良かった。
それは別にして、だ。なんでここにいるんだよ遠坂」
うんうんと頷く面々。
「なんでって、SOSがあったからに決まってるでしょ。
わたしだって暇じゃないんだから、気晴らしで帰ってきたりしないわよ」
「? SOSって、誰が?」
「衛宮くんでしょ。なんでもいいからすぐ助けに来てくれって、しつこいぐらい書いてあったじゃない」
「??? そんなバカな。遠坂に助けを呼ぶぐらいなら死を選びかねないこの俺が? 命は渡しても魂までは渡さないぞ?」
「……ずいぶんな言い草ね。貴方、わたしのコトなんだと思ってるのよ。魂までとるなんて、それじゃ悪魔か何かじゃない」
「それだ。自分の胸に手を当てて思い返せ。
夏休み、イリヤの城でおまえがしでかした悪行を。アレが悪魔でなくてなんだというのだこの人でなし」
「う……あ、あれは緊急時における苦渋の選択よ。
わ、わたしだって好きで衛宮くんを生け贄にしたワケじゃないわ」
さすがの遠坂も申し訳ないと思っているのか、返答にキレがない。
良かった良かった。あの時はあやうく生まれ変わるところだったが、遠坂にも反省の色があるようだ。
―――まあ、それはともかく。
「とにかく、覚えはないけど俺が遠坂にSOS送って、それで帰ってきてくれたってコトか?」
「そう言ってるでしょ。衛宮くんから頼まれないかぎり、わたしが帰ってくるワケないじゃない」
「……。それは、ロンドンの用事をほっぽりだして?」
「そうよ、わるい!? 仕方ないじゃない、あんなの読んだら気になって眠れなくなったんだから!
だ、だいたい冬木はわたしの管轄地よ、頼まれなくったって様子を見に来るのは当然じゃないっ」
ぷい、と顔を逸らす遠坂。
そのまま荷物を持って廊下へ向かう。
「とにかく、しばらくこっちにいるから。
何か相談ごとがあったら、夜あたりに部屋まで来なさい。わたしも昼間のうちに、町の様子を調べておいてあげるから」
じゃあね、とズカズカ離れに突進していく。
「あはは。そういうわけですから、皆さんよろしくお願いします。姉さん、途中で帰って来ちゃって照れくさいみたいです」
未だ事態を飲み込めず、とりあえずうんうんと頷くセイバー&ライダー。
「……そっか。リンが帰ってきたんなら、もうじき解決しちゃうワケね」
どこか寂しそうに遠くを見るイリヤ。
「―――あー、えーと―――」
喜んでいいのか慌てるべきなのか、まだ気持ちが落ち着かない。
が、これで足りないピースが嵌《はま》ったのだけは確かだ。
とにかく、遠坂が帰ってきた……!
◇◇◇
角笛《響かず》
港にはおなじみの顔があった。
―――さて。
自分でもどうしてこんな結論に至るのか半信半疑なのだが、まだ見ぬ敵を倒すためには、俺たち以外の戦力が必要のようだ。
アーチャーは論外。
キャスターは不可侵。アサシンはお地蔵さん。ライダーは桜を守れればそれでいい人。
ついでにイリヤは面白がって傍観しているので、残ったアテはここしかない。
「おーい、ランサー」
手を振って挨拶をする。
あいつ相手に回りくどい勧誘をしても効果はないんで、ズバッと用件を切り出すのだ。
俺にできる範囲で事情を説明する。
この四日間の異常性。
実際には会ってないが、漠然と知っている第八のマスターの外見と戦闘スタイル。
その女魔術師が街の異状に一枚噛んでいるであろう事。
そして、俺とセイバーではどうも相性が悪く、他のサーヴァントの手を借りたいという事を。
「……………………」
ランサーは一度もこちらを見なかった。
気怠そうに空を眺める目が、少しずつ不愉快になっていくだけで。
「確認するが。その女、赤毛のショートでスーツ姿か」
「? ああ、革手袋をつけて殴ってくる」
「イヤリングはしていたか」
「え? ……たしか、してなかったかな」
「ラスト。そいつ、五体満足だったか」
「はあ? ……そりゃ、五体満足って言えばそうだけど。服の下のコトまでは断言できないぞ」
質問はそれで終わり。
ランサーはぽつりと、
「……ご苦労なこった。
くたばった後も、戦うコトはねえだろうに」
そんなコトを、ぼやいていた。
「ランサー。そいつが何者なのかはまだ分からない。
ただ敵である事は確かなんだ。
今度、俺とセイバーが夜の巡回に出る時、アンタの力を貸して―――」
「悪いな、他をあたってくれ。俺はパスだ」
口調こそ軽かったが、それは究極の拒絶だった。
この男の本当の怖さ。
笑顔のまま槍を振るえる無慈悲さを、今さら思い知った程に。
「……理由、聞いてもいいか?」
「趣味じゃねえだけだ。嫌がらせの類《たぐい》じゃねえよ。
おまえには借りがある。他の頼み事なら安請け合いもしてやりたいが、そいつは特別だ。
仮に王さまの命令でも、首を横に振るだろうさ」
「――――――」
それを言われては、もう交渉の余地はない。
生前、王の命令を一度も破らなかった男がそう言うのだ。
彼女の事に関しては、ランサーとは没交渉のままだろう。
◇◇◇
凛への相談
今の状況について相談しよう。
遠坂も町の異状を聞きつけて帰ってきたんだから、意見を聞いてみるのもいい。
「ええ、町がどうなっているかはざっと見て回ってきたわ。現状ではこれといって打つ手はなしね。
で、衛宮くんは何を知ってるの?」
とっくに準備は出来ていたらしく、遠坂はいきなり本題に入ってきた。
話が早くて助かるのだが、その前に疑問が一つ。
「なあ遠坂。アーチャーのヤツはどうしてるんだ? 遠坂が帰ってきたんだから、近くに待機してるのか?」
「アーチャーとは絶縁中よ。そもそもアイツとわたし、もうマスターとサーヴァントの関係じゃないもの」
「え? どういう事だそれ? 契約、切ったのか?」
「切った、というより切れたの。聖杯戦争が終わった時、契約は一度破棄されるのよ。サーヴァント側の意志でね」
「ライダーやセイバーは別に今のままで良かったんでしょうけど、アイツは何か思うところがあったんでしょ。
前みたいに四六時中協力態勢ってワケじゃなくて、必要な時にギブアンドテイクで手を貸してもらう状態なの。
アイツが現界する為の触媒にはなってあげてるけど、魔力提供はカットしてるわ」
「って、こんなのずっと前から知ってるじゃない。なによ、今になって聞き返すなんて」
「――――――」
そうだ。
遠坂とアーチャーはそういう状態だった。
近くにはいないが、遠坂が必要とする時だけ条件次第で手を貸すサーヴァント。
……アーチャーがどんな考えでその関係を選んだかは知らないが、そうでなければ立ち行かない。
アイツが遠坂のサーヴァントを続けるという事は、何か、決定的な矛盾を生み出しかねないからだ。
「衛宮くん? どうしたの、なんか怖い顔して。
アーチャーが苦手なのは分かるけど、話をするだけでもイヤだったっけ?」
「いや、ただの立ち眩みだ。余計な話をさせて悪かった、本題に入ろう。
遠坂、町を回ってみてどうだった? 違和感とか、何かおかしな所とかあったか?」
「んー、それがはっきりしないっていうか。確かにおかしいとは思うんだけど、別におかしくはないのよね。
我ながら抽象的な例えで申し訳ないんだけど、おかしいって感じてる時点で、何がおかしいのか気付かない仕組みになってるって言うか」
「………………」
異常は異状と感じた時点で正常になる……という事なのか。
つまり、正しいと思える事が正しくない。
では―――正しくない出来事、本来の冬木市では起きていない出来事こそが正しいと仮定したら―――
「……何か知ってそうね衛宮くん。わたしがいない間に何があったの?」
「何もなかった。何もなかったけど―――」
この余分な知識を、俺は何処で手に入れたのか。
「―――少し、聞いて欲しい事がある。
俺自身、どうしてこんな事を口にするか分からないんだが……」
出来るだけ冷静になって話を始める。
まだ起きてもいないアーチャーとの戦い。
見たこともないマスターに倒されるセイバー。
四日目で終わってしまう、冬木市の物語を。
「―――確認するけど。衛宮くんは、その出来事を知っているだけなのね? 実際に見た訳でもなくて、その四日目を体験してもいない」
「ああ。ただ知ってるだけだ。夢で見たとか、どこかで聞いたとかいうのもない」
「けれど知っている。この町で起きる事なら、なんとなく把握できる。
けど、今の衛宮くんはまだ《・・》知らないから思い出せない」
「……その時点で『やり直してる』ってワケじゃないわよね。そんな状態なのは衛宮くんだけでわたしや桜は普通なんだから、冬木市ぐるみっていうのもなし。
……ううん、今の四日間だけ冬木市がそういう状態で、衛宮くんだけ隣りが見えてる……?」
……遠坂に話したのは、なんとなく俺が知っている、四日目の終わりだけだ。
四日目から先のない衛宮士郎の話。
それだけで何が分かったのか、遠坂はぶつぶつと考えこんでいる。
「……そうか。再開してるんじゃない、再現してるんだ。それならサーヴァントが全員揃っているのも説明がつく。そうなると、えーと……みんな嘘なんじゃなくて、嘘つきは一人だけになるのか……」
遠坂の視線が険しくなっていく。
なにか、よくない事を考えついてしまったように。
「遠坂……? 何か分かったのか、今のデタラメな話で」
「……そうね。今の衛宮くんの話を一兆歩ほど譲って、仮にそういう話があると想定した上でなら、それなりに仕組みは分かったわ」
実に頼もしい。
頼もしいのだが、まったく信じて貰えていないのがちょっと寂しい。
「いい? 今から話す事は、あくまで衛宮くんの与太話を考察しただけの話だから。町の異状にはまったく、これっぽっちも、あったまくるほどに関係ないって理解した上で聞いてちょうだい」
「わかった。机上の空論って事だな」
「それ以前。衛宮くんのいうデタラメな状況に説明をつけるとしたらっていう辻褄合わせよ。
まあいいわ。ええっと、眼鏡眼鏡っと」
鞄から眼鏡を取り出す遠坂先生。
久しぶりのうんちくモード突入である。
「さて。衛宮くんの話からすると、この四日間……十月八日から十一日までの間が異状なのは明らかです。
セイバーやライダーは聖杯戦争が再開された、と言っているけど、それだと不都合が生じてしまう。
……分かるでしょ? 戦いが再開されたのなら、誰かが欠けてなきゃいけないハズよ」
そう。
これが再開だというのなら、半年前に脱落した他のパーティーは存在してはいけないのだ。
「おかしいのにおかしくないのはそこ。
きっとこの状態……この四日間だけは、本来いてはいけない人物がいたとしても、それが誰なのか特定できない状況にあるんだと思う。
だから全員が揃っていても何一つおかしくない。
いえ、全員が揃っていないとおかしいの。だってこれは、“誰か”が以前起きた聖杯戦争を再現している《・・・・・・・・・・・》結果なんだから」
「? 誰かが聖杯戦争を再現しているって……いや、それは初めから分かってたっていうか。
聖杯をほしがってるヤツが、また聖杯戦争を始めようとしたんだろ?」
「それは再開。わたしが言っているのは再現《・・》。
……いい、仮に再開したいのなら、既に欠けているサーヴァントなんていない方がいいでしょ? なのに町には全てのサーヴァントが揃っている」
「だから、なんでわたしもこんな結論に跳んだのかあったま来るんだけど、ソイツは聖杯戦争を再現したいだけなの。戦いたいだけなの。永遠に続けたいだけなの。
その為に、この四日間だけは起こり得る全ての可能性を内包しているのよ。
何度やっても楽しめるように、出来るかぎり新鮮味を失わないようにってね」
ああ、だから―――
―――さあ、聖杯戦争を続けようぜ―――
そんな言葉を、口にしたのだろうか……?
「……けど待ってくれ。それじゃ四日過ぎれば町は元通りになるってコトだよな? なんで俺は先の事を知っているんだ?
これじゃ俺だけ、一日目に戻ってるみたいじゃないか」
「戻っているならちゃんと確かな記憶として覚えてるでしょ。衛宮くんはね、きっと自分を見ちゃってるのよ。えーと、図にするとこんな感じかな」
「並行世界ってワケじゃないからね。この四日間ではあらゆる可能性は等価だから、衛宮くんはこういう風になってるの。
衛宮士郎っていう走者が合わせ鏡みたいに無限にいると仮定して、まったく同じコースを、それぞれ違ったタイムで走ってる……って分かる?」
「ええっと、あっちでテレビゲームやったんだけど、アレと同じよ。
シューティングゲームっていうの? 自機が三機いて、やられたら初めからやり直すヤツ。
アレって自機視点から見ると連続してないけど、第三者《プレイヤー》視点から見れば連続しているじゃない」
「それと同じよ。自機がいる限り、死んでも初めからやり直せる。まったく同じ性能の、まったく新しい自機が、まったく同じ面を攻略するでしょ?
今の衛宮くんはまさにそれってわけ」
「…………」
遠坂の比喩はタイヘン失礼だが、言わんとする事はなんとなく分かる。
さっき遠坂が『隣りが見えてる』と呟いたのは、走者Cである俺が、先に走った走者Bを見てしまった、という事なんだろう。
だから俺は、違う走者が迎えた結末をなんとなく知っているのだ。
経験はしてないクセに、ああ、走者Aはこのあたりでボスにやられたんだよな、と経験を並列化している……?
「んー……色々納得いかないんだが、辻褄合わせだから納得するとして。じゃあ俺、このまま大人しくしてれば四日目を越えられるって事か?」
「越えられなかった衛宮士郎はいないと思うけど。たとえ死体であっても五日目は来るんだから。
わたしも桜も衛宮くんみたいな夢は見てないから、町そのものが繰り返していないのは明白よ。
でも、もしかして……衛宮くんだけ特別で、この聖杯戦争をどうにかしないと絶対に四日目《・・・・・・》で死んじゃうのかもね」
縁起でもない事を言う。
が、そんな事はないやい、と言いきれない自分の状況がちと怖い。
「―――はあ。俺がヘンなコトを知ってる理屈は分かったよ。
けどさ、どうやって聖杯戦争の再現なんて起こしてるんだ? 聖杯を欲しがっている“何者か”ってヤツは、そんな魔法みたいな事が出来るのか?
……そもそもこんな事が出来るなら、聖杯なんかに頼らず望みを叶えられるだろうに」
「もう。言ったでしょ、そいつの目的はもう叶ってるんだって。
そいつは聖杯が欲しくて聖杯戦争を再現しているんじゃない。
殺し合いがしたいから聖杯戦争を再現している。
それは、つまり―――」
「……あ」
そうか―――順番が逆、なんだ。
「……それが、願いなんだ。
そいつは既に聖杯を手に入れていて、聖杯戦争を再現するっていう願いを叶えたとしたら―――」
「そういう事。これが誰かの望みだとしたら、聖杯の持ち主を倒さないと解除できないんでしょうね。
ま、怪しいヤツがいるとすれば、それは前回の聖杯戦争にいなかった《・・・・・・・・・・・・・》人物よ」
あまりにもシンプルな結論。
新たな登場人物は、それだけで疑わしい。
「わたしは―――帰って来るまでいなかったけど、もとからこの町にいてもいい人間だから除外して。
半年前にいなかったヤツがいたら、そいつがこの騒ぎの元凶よ」
「………………。
なあ遠坂。俺、その怪しいヤツって知ってるっぽいんだけど、出会った時はいつも死んでるみたいなんだ。
……なんか、解決策ないかな」
「……常識はずれの質問もそろそろ疲れてきたわ。
えーと、出会っても殺されるって事は、その出会い方自体が間違ってるんじゃない?」
「いい? 一番正しい出会い、一番最初に出会った場面を知っているなら、自分の手でその状況を再現なさい。衛宮くんにはそれができるんだから」
眉唾だけどねー、などとやっぱりこれっぽっちも信じていない遠坂。
……しかし、そうか。
たしかに俺は、あの少女とは違う場所で出会う事が出来るハズだ。
あの時は、確か―――
柳洞寺で、遠坂がいて、陸上部と弓道部で―――
「―――参考になった。
とりあえず、当面の目的がハッキリしたよ」
「お役に立てて光栄よ。
で、どうするの衛宮くん? その聖杯の持ち主を捜してみる?」
「まあ、出来る範囲で。
とりあえず害はないんだし、四日目を過ぎたら元に戻るんだろ? 無理しないで適当にやるよ」
お邪魔しました、と席を立つ。
予想以上に長話になってしまった。
「……まったく。
わたしたちはそんな夢とか見てないから断言できないんだけど。今のは一応、貴方の話を真剣に考えてあげた場合の答えよ」
「本音を言えば、そんな寝ぼけた妄想浮かべる暇があるならプールにでも誘えって感じだけど。
あんまり都合よく使ってると、こっちにも考えがあるわよ?」
ふふふ、と恐ろしい台詞を恐ろしい笑顔で告げる遠坂凛。
……プール、プールか。よし。
近いうち、このお礼は精神的にお返しするのでアテにしないで待っていてほしい。
「世話になった。また明日な、遠坂」
客間を後にする。
遠坂はすぐに返事をせず、密かに息をついてから、
「ねえ。みんな揃ってるのって、いいわね」
カゲロウのような笑顔で、俺の気持ちを代弁した。
◇◇◇
合宿、承認
生徒会室でぼんやりと時間を過ごす。
「……ふむ。ここで8二金で角取り、と。
いや、これだと二手多いか……?」
一成も仕事がないのか、古雑誌の詰め将棋を楽しんでいる。
将棋盤と駒があればいいのだが、生徒会室にそのような備品はない。示しがつかないので娯楽用品は極力持ち込まない、というのが一成の方針だ。
こっちも負けずに新聞部発行のクロスワード・藤村大河過去百殲《ひゃくせん》を楽しんでいたのだが、ジャンルがジャンルなだけに面白いというより世知辛い。
「むうー、この桂馬はどうにかならんのか、目障りすぎるぞ。……ええい、衛宮お茶をくれ! 脳がヒリヒリするぐらいの熱めでお願いする」
「あいよ。ああ、羊羹《ようかん》あまってたけど切るか?」
「む。魅力的な提案だが、三時の休憩まで耐えるとしよう。間食とて規則正しくとらねばな」
今は休憩時間ではなかったらしい。
三時まであと三十分。
自分に課したノルマなのか、それまでに詰め将棋上級編三問を解こうという腹づもりらしい。
お茶煎れに席を立つ。
「あれ? 一成、誰か来たぞ」
む、と素早く古雑誌を机の下に隠す一成。
「失礼します。二年B組の間桐桜ですが―――あれ、先輩だ」
「ちーす、邪魔するよ生徒会長……って、なんで衛宮がいるのよ」
来客は見知ったコンビである。
学校でこの二人が一緒、という事は弓道部関連の話だろう。
「うっす。ちょっと暇潰してただけだからお構いなく。大事な話なら外に出てるけど」
「出なくてもいいわよ。衛宮、部外者じゃないしね。
それよりお茶を煎れるところと見た。あたしと間桐のもお願いね」
「み、美綴先輩っ。いいんです先輩、お話が済み次第すぐ戻りますから、どうぞお構いなくっ」
お構いなく返しをされてしまった。
でもまあ、せっかくなので四人分のお茶を煎れよう。
「こちらのお茶請けを狙ってきた、という訳ではなさそうだな。生徒会室に何の用か、美綴綾子」
運動系の部活と仲の悪い生徒会長さまは警戒態勢に入っている。
「そ。まずはこれ、弓道部の提出物ね。時間、間に合ったでしょ?」
「うむ、四時にはまだ余裕がある。
どれ……なるほど、演劇か。競争率の低いジャンルだ、受理しない訳にもいくまい。内容監査は後日だな」
「オッケー。じゃあ本題にいきますか」
「本題だと?」
「うん、まあ簡単に確認事項よ。
黙っててもいいんだけど、一応生徒会にも話を通しておこうと思って」
「我々に話を通す? 何かまたよからぬ事でも企んでいるのか美綴主将」
「あたしゃもと主将、いまの主将はこっちの間桐よ。
弓道部は新体制になったんだから、いつまでも昔の因縁を引きずらないでほしいな。新主将は部員思いの優しい先輩なんだからさ」
などと言いながら、しっかり話の主導権を握っている美綴。
「なるほど。確かに間桐さんなら今までとは違った弓道部になるだろうな。
しかし、それが何だね。新主将の挨拶などとっくに済んでいる。まさか今になって部費を増やせやら顧問を代えろやら言うつもりではあるまいな」
「い、いえ、そんな事はありませんっ。
今年度の取り決めはきちんと考えられていて、正しいと思いますっ」
「では、他に問題が? たしか弓道部には秋大会があったが、そちらへの特別な措置が必要なのかな。
ああ、そういえば今年に入ってから弓道部の成果は記憶する事が難しいほど乏しかったな。まあ、成果がゼロでは数字を覚えるも何もないのだが」
一成、生徒会スイッチオン。
こうなると普段の寛容さはなりをひそめ、一成は容赦のない鬼会長と変貌する。
「あー、生徒会長どの。お小言は控え目にしてあげてはどうでしょうか。なにぶん、新しい体制なんで組織力の低下は避けられない宿命なのだ」
「衛宮は黙っていてくれ。
それで、用件とは何かな間桐さん。前もって断っておくと、朝練、および放課後の部活動の時間を増やす事は許可できない。学業本願が我が生徒会のモットーだからね」
「まあ、それも例外はあるのだが。
今期末、弓道部員の平均点が大きく低下したのなら、部活時間の削減は考えよう」
ニッコリ笑って死刑宣告。
ここに穂群の鬼がまた一人。なぜ遠坂と犬猿の仲なのか、その一端が伺えた。
「ちょい待ち。そりゃたしかに学生の本分は勉強だけど、それは学校にいる時の話でしょ。
まさか休日の自由時間までは干渉しないわよね?
それ、生徒の自主性を否定する事になるもの。そこまでがんじがらめにしちゃあ、自由時間を自分で自由に使えなくなってしまう人間、なんてのに育つ可能性もあるんだし」
「ふん。屁理屈だが、確かにその通りだ。休日をどう使うかは各々の自由だな。
しかし、それが何か?」
「は、はい。あのですね、弓道部員の団結と指導向上をはかるため、お休みを利用して合宿をしたいんです。
土日だけ使った、一泊二日のミニ合宿です」
「ほう。その許可がほしい、というのですね。
……しかしそれはお門違いだ。許可を取るなら職員室にどうぞ。それは先生方が監督する事です」
「藤村先生なら一つ返事よ。
けど問題なのは場所と経験でさ。この時期、アポなしで合宿させてくれる民宿なんてないのよ」
「だろうな。
ついでに言うのなら、アポなしの前に予算なしで宿泊費などないだろうが」
「そ、そうなんです!
それで、その……柳洞寺はよく穂群原の学生に大部屋を貸してくれるって―――」
「実に残念だ。
間桐さん、その制度は昨夜廃止されてしまってね」
「一成。お寺は奉仕活動をしてくれるならいくらでも泊まってけって親父さん言ってるぞ。裏山、荒れ放題なんだろ」
嘘はよくないぞ、と一成をたしなめる。
「だってさ。生徒会長、柳洞寺に話つけてくれる?
というか、生徒会長として困ってる生徒の頼みは断れないわよね?」
「たわけ、公務に私的感情は挟まん。学友だろうが戦友だろうが相応しくないと判断したのなら断るっ。
……まあ、たしかに新しい弓道部はまだ軌道にのっていない、と話は聞いている。然るに、一日二日では技術の向上は難しいが、団結ならば高まるだろう」
「そうなんですっ! いまみんなに必要なのは相互理解というか、みんなどんな人なのかとか、夜中に誰が誰を好きかとか明らかにする事なんです!」
ぐっ、と突然力が入る桜。
新主将として色々思い悩んでいたようだが、なんか微妙に方向性を間違えている気がする。
「しかしですね間桐さん。
いくらなんでも急すぎる。加えて、そこの美綴さんでさえ二度ほどしか経験していない筈だ。
そういう人間に合宿を任せるというのは―――」
「ええ、問題はそれなのよ。だからね生徒会長。
まずあたしと桜と、そこにいる衛宮で柳洞寺に合宿に行くってのはどう?」
あー……そっか、そういう話を前にしたっけ、そう言えば。
「言うなれば予行練習ね。心配なら生徒会長も参加していいわ。それで合宿がどんなものか掴んで、一週間後に正式な合宿をしようと思うの。
どう、これなら文句ないでしょ? 柳洞寺に泊まるのはあたしと桜と衛宮。
あ、もちろん衛宮は男子生徒だから男部屋も用意してね。弓道部にだって男子はいるんだから、それもいいシミュレーションになるでしょ」
「あー……ちょっと待った。美綴、あのな」
たしかもう一人、一成の天敵っぽいメンバーが参加表明をしていなかったっけ……?
「うむ。しょうがあるまい。そういう事なら許可しよう」
「にっ!?」
うむ、と頷く一成。
なんなんだその変わり身の早さ。
「ほ、本当ですか!? じゃあその、用意が出来ればすぐにでも合宿にいっていいんですね!?」
「構いません。父には話しておきます。
確認しますが、利用するのは間桐さんと美綴さんと衛宮の三名ですね」
「ええ。それに手伝いにもう一人ぐらい参加するだろうけど、一人や二人増えても構わないでしょ?」
「無論だ。本番に備え、二十人単位の部屋を空けておこう」
良かった良かった、とにこやかに笑い合う三人。
置いてけぼりの参加者一人。
そこへ、
「ちょっと待ったぁぁあああああああ!!!!!」
俺の気持ちを代弁するかのように救世主が現れ
「ストップエンジョイライフ! 弓道部にだけ合宿を許可するたぁ、この穂群の黒豹が許さねーぜ!」
なかった。
「蒔寺先輩……?」
「蒔寺……?」
「真《ま》バカ……?」
突然の乱入者に三者三様の驚きを見せる我々。
「わはははは、その通り!
ある者は蒔寺先輩と尊敬し、ある者は蒔寺と呼び捨てにし、そしてまたある者はマバカと親しみを込めて呼ぶ、陸上部のエース蒔寺楓その人よ!
ってちょっと待て、なんかヘンなの混ざってなかったか衛宮ーーーー!?」
「うわぁ痛ぇ! おまえの狙いはズレている! 正しくはそこでケラケラ笑っているヤツを狙いなさい!」
「えー。アンタ頑丈そうだから蹴りがいあんだけどなー」
ちぇっ、と足を引っ込める穂群原に出現した第二の野生動物。なんなんだ一体。
ちなみに、どう見ても割れたように見えましたが窓ガラスは割れていません。
「蒔寺。色々と文句はあるが、とりあえず目的を聞こう。いや、目的だけを話してくれ」
一成の提案は実に正しい。
蒔寺の好きにさせては、さっきまでの話が何もかもナシになりそうなのだった。
「目的? はん、そんなの言うまでもないね。
話はきかせてもらったよ生徒会長。弓道部が合宿するんだろ? けどそりゃ卑怯だ。アンタが生徒会長になってから、運動系の合宿はのきなみ却下されてたじゃんか。それを今になって、弓道部だけ許すなんて見過ごせないね」
驚いた。蒔寺、真面目な切り返しできるんだ。
「なに、ケチつける気かい蒔寺。弓道部の抜け駆けは許せないってか?」
「おうさ。あたしたちだって現役の頃なんど合宿をしたかったコトか。つーか混ぜろ。うちらだって今からでも合宿したい。弓道部より先に合宿したい。何が何でも合宿したい。
何故なら。そう、何故ならそれは―――!」
「あ! ええっと、何故ならあたしは誰よりも速い女、だからですね!?」
「あ、あんだよー、決め台詞とるなよー!
くそぅ、弓道部は後輩まで美綴の教育いきとどいてるなあー!」
ガシガシ、と悔し紛れに暴れる蒔寺。それを温かく見守る桜。
そうか。桜はこういう生物に慣れているのだった!
「……まったく。
それなら間桐さんたちと一緒に体験合宿をしろ蒔寺。陸上部も同じ条件なら文句はあるまい」
「む。……それは、弓道部と陸上部の合同合宿、というコトか?」
「そうなるわね。けどアンタ一人じゃダメよ。
そもそも陸上部の人たちが合宿したがるとは限らないし。賛同者が半数を超えるか、今の主将がオーケーださないと参加させないわよ。
蒔寺、アンタ陸上部の子たち説得できるの?」
「へ、へん、そんなの心配無用だい!
あたしが声をかければ氷室や由紀っちの一人や二人、どうとでも都合がつく!」
………………。
そっか、その二人しかいないんだな蒔寺。
「よーし、そうと決まれば善は急げ。
あたしたちもすぐに準備するから、そっちも急げよー! いえーい、次の連休から合宿だぞー!」
やっほう、と窓から去っていく蒔寺。
……今までの話を総合すると、体験合宿は俺たち四人と陸上部の三人……というコトになるの、かな?
「ところでお茶飲むか? 四人分煎れたけど」
気を取り直して、ことん、とテーブルに四人分の湯飲みと切り飾った羊羹《ようかん》を置く。
「……飲むけど。いや、アンタってわりと大人物よね。時々思うんだけど」
溜息をつきながら椅子を引く美綴。
時刻は三時ちょい前。
なんだかんだと休憩時間になってしまったのだった。
◇◇◇
5/Void
夜の聖杯戦争5
―――貴方を助けたい、と女は言った。
真摯《し ん し 》に。一片の曇りもない気持ちで、苦しみから解放したいと、泣きながら告白した。
湧き上がった感情は、悲観的なものだった。
助けが来た事には喜びも感謝もない。
厚意はひたすらに見当違いで、迷惑ですらあったからだ。
憎しみを抱くにはいたらなかったが、言ってしまえば、さっさと自分の世界に帰ってほしかった。
その女が憎かった訳ではない。
ただ、女の行動理念は間違えていて、それでは誰も救われないと知っていたからだし。
そもそも。
その女には、オレを助ける事は出来ないと分かっていた。
「         」
声にならない声で応える。
喉が潰れており声が出ないので、首を振ろうとして、それも不可能な事を思い出した。
やがて、女は諦めて地上に帰った。
何日か根比べして、ようやく、自分が話しかけているモノが、ただの残骸《し た い 》だと気付いたのだろう。
―――そんな事もあったらしい。
覚えてもいない出来事を思い出したのは、それに近い感情が現在《いま》向けられているからだ。
不審と憐憫《れんびん》。
潔癖であろうとする女が、確証もないクセに、オレに負い目を抱いている。
バゼット・フラガ・マクレミッツ。
アヴェンジャーのマスターとなったその女は、あの時の女と同じ見当違いの感情を、このオレに向けている。
「ハ―――ハァ、ハァ、ハ―――!」
心臓をいつもの五割増しでこき使って、なんとか廃屋まで辿り着いた。
喉がヒリヒリする。
右脚は限界を超えた全力疾走でひび割れそうだ。
バゼットから提供されている魔力なんざほぼ使い切って、自前の体力も底が見え始めている。
要するに、これ以上はテコでも走れないんでもう好きにしてくれという状態。
「何をしている、ここまで走りなさいアヴェンジャー……!」
一足先に廃屋の中に走り込んだバゼットが戻ってくる。
「ハ―――ハァ、ハァ、ハ―――……っと!」
両手を使って、犬コロすれすれの姿勢で廃屋へ飛び込む。
バタン、と閉じる扉。
あの怪物相手に扉もクソもないのだが、精神衛生上、扉という守りは必要なのだった。
「」
……咆哮が聞こえてくる。
オレたちを襲ったあの怪物《でかぶつ》は、手当たり次第に森を伐採しながら追ってきている。
こんな廃墟に逃げ込んだところで、追いつかれれば建物ごと粉砕されるだろう。
アレは暴風だ。いかな神秘で武装したところで、人間に太刀打ちできるモノじゃない。
あの怪物とは、森の広場で遭遇した。
いや、待ち受けていた、というのが正しいだろう。
アレは石碑のように身を固めていて、オレたちがこの領域に踏み込んだ途端、咆哮をあげて襲ってきた。
応戦は一瞬で終了した。
オレは初めからあんなのとはやり合う気はないし、バゼットも初弾を打ち込んで戦闘にはならないと理解してくれた。
戦闘に関しちゃあ負けず嫌いのバゼットだが、フラガラックを打ち込んでも死なない怪物《でかぶつ》を前にして、渋々撤退を指示してくれたのだ。
しかし、流石というべきは、あの咆哮を前にして数秒でも戦おう、と勇んだバゼットである。
怪物《でかぶつ》のウォークライでオレがびびっている時、バゼットはノータイムでフラガラックを打ち込んだのだ。
あの怪物《でかぶつ》の宝具は常備使用タイプだった為、フラガラックは即座に射出された。
フラガラックは狙い違わず心臓を撃ち抜き、怪物《でかぶつ》を仕留めた……のだが、ヤツは十秒とかからず蘇生し、突進を再開したのだ。
死亡状態からの、その場での現世復帰。
言い換えれば『死なない体』が怪物《でかぶつ》の宝具なのだろう。
フラガラックの使用でバゼットは硬直していた。
固まったバゼットは突進してくる巨体をかわしきれそうになかったんで、横から蹴り飛ばしてなんとかフォロー。
痛。ちょいかすって感覚が吹き飛ぶ。
突進をスカされた怪物《でかぶつ》は目標を変更して、目の前にいるオレに石柱みたいな斧を振り下ろす。
受けるのなんてもってのほか、かいくぐるのも一か八かという状況で、あー、こりゃ即死《ミ ン チ 》確定かあ、と腐った時、
オレに蹴り飛ばされたバゼットが、二撃目のフラガラックを怪物《でかぶつ》の顔面に放っていた。
「今のうちに逃げます、付いてきなさい……!」
二撃目のフラガラックは殺す為ではなく目を潰す為に放ったらしい。
怪物《でかぶつ》は顔面に大穴を開けながらも斧を振り回し、オレはバゼットに手を引かれて森の中に逃げ込んだ。
バゼットはフラガラックの射出によって焼け焦げた手袋を脱ぎ捨て、両脚に早駆けのルーンを刻む。
オレはと言うと、手癖が悪いんで捨てられたゴミを拾ったりする。
「グズグズしない! 距離を取るから走りなさい!」
こっちの首根っこ掴んで走り出すバゼット。
元々の身体能力とルーンの加護か、みるみるうちに怪物《でかぶつ》と距離を離していく。
だがそれも数秒間だけのアドバンテージだ。
両目を修復した怪物は、オレたちの匂いを探知するように、確実に追跡を開始したのだった。
「―――とまあ、そんな経緯で今に至るワケだけど。
なんだね、ここに逃げ込んだところであと数分持たずに追いつかれ殺される、ってのが結論だ。
あれだけ危ないからよそうぜって言ったのにさ、人の言うコト聞かないからこんな目に遭うんだぜ。
そのあたり反論あるかマスター?」
「て、敵の戦力を若干甘く見ていたのは認めます。たしかに、あんなサーヴァントがいるとは予想外でした」
反省しているのか、バゼットの反応は少しだけ柔らかい。
森に入ってからこっち、ずっと黙っていた事に比べれば雲泥の差だ。
こっちも気が楽になるんで良いことなのだが、その前に。
「いや。ありゃサーヴァントじゃねえよ。この森に棲むただの怪物だ。サーヴァントになりそこなった亡霊みたいなものだと思いな」
「何を言うのです。アレはサーヴァントだ。この時代の亡霊などではない。宝具も持っていたし、間違いなくアインツベルンのサーヴァントでしょう」
「んー…………まあ、位置づけ的にはそうなるのか。
そっかそっか、競争相手であろうとなかろうと、サーヴァントはサーヴァントだったな」
あの怪物《でかぶつ》が本来ならどんなクラスのサーヴァントなのかなんて、論じても始まらない。
いま優先すべき事はアレが何であるかではなく、アレをどうすべきか。いや、あの怪物《でかぶつ》はどうにも出来ないんだから、オレたちはどうするべきか、だな。
「で、どうするマスター。
このまま大人しく殺されてやり直すか?
それともあのサーヴァントのマスターを捜し出すか?」
「無論、アインツベルンのマスターを捜し出します。あのサーヴァントの周囲にはそれらしい気配はありませんでしたから、アインツベルンの城に潜んでいるのでしょう」
「城に潜んでるってのは同感だな。けど、城に行くって事はあの怪物《でかぶつ》をどうにかするって事だぜ?
逃げるのか、戦うのか。アンタはどうするつもりなんだ?」
「…………アヴェンジャー。正直に言うと、私は敵に背を向けるのは苦手です。戦いを挑まれたのなら、力をもって打ち破るのが私のスタイルだ」
「知ってるよ。これでも長く付き合ってきた方だからな。アンタはいつもカツカツで、嫌がるオレを平気で負け戦に投入したじゃんか」
「そ、それは貴方の能力が『ループ』だと誤解していたからです。貴方がもう少しノーマルなサーヴァントなら、私とて無理強いなどしませんでしたっ」
「どうだかな。で、今回もやるワケ? どの道、あの怪物《でかぶつ》をどうにかしないと城には辿り着けないんだから」
「……いいえ。私もそこまで無謀ではありません。
今までの戦いは勝算があったからこそ通した事です。ですが、あの相手には勝算はありません。私と貴方では、相性が悪すぎる」
ひゅう、と口笛を吹く。
バゼットの言う通り、あの怪物《でかぶつ》とオレたちの相性は最悪だ。
オレの宝具はヤツには使えない。
ヤツの一撃はその全てが致命傷で、受けた時点でオレは死んでしまう。傷を受けるイコール死、では呪いを返す事などできないのだ。
一方、バゼットはフラガラックで迎撃する事もできるが、フラガラックは三回しか使えない。
怪物の宝具が死からの蘇生であるのは明白だ。
それが何回分なのかはまだ確かめていないが、蘇生回数はフラガラックの回数を上回っているだろう。
「それじゃ戦うってのはナシだな。じゃあ、後は」
「追跡を振り切って城を目指すだけでしょう。こちらも目は低いですが、ゼロという訳ではありませんから」
それが正解だ。
ただし、バゼットの案には見落としが一つ。
あの怪物は無視できる存在ではない。
バゼットが城に辿り着くには、どんなカタチであれ、あの怪物をどうにかしなければならないのだ。
「決まりだな。オレはここに残ってあの怪物《でかぶつ》を引きつけて、アンタは一人で城に向かう。
オーケー、それなら半々だ。アンタの足ならコースアウトでもしないかぎり、きっと城に辿り着ける。
ここからアインツベルンの城は北西に十五キロほどだ。
ルーンを刻む秘爪は残ってるか? 残ってるな。なら問題なしだ。オレが稼げるのはせいぜい一分程度だが、アンタ一人だけならそれを十倍にできる」
「―――アヴェンジャー。私は、そんな事は命令していません。私は貴方と城に向かいます」
「無茶いうな。そっちの方がオレにはきつい。
正直、アンタの足には付いていけねぇんだよ。ここまで逃げてくるのが限界でさ。こっちから先、オレの足に合わせてたら間違いなく追いつかれるぜ」
「それは貴方の精神が弱いからです。
気合いを入れなさい、その気になればまだ走れる筈だ。貴方はいつも諦めが早すぎる」
「う」
痛いところをつかれた。
バゼットはわりと根性論の人なのであった。
「そりゃあまあ、意地を張れば少しは働けるけど。
それでも、アンタのスピードには付いていけないってのはホントなんだが」
「……まったく。なら戦力として考えません。いざとなれば霊体化して私についてきなさい」
冷静な意見だが、それはどちらの為にもならないやり方だ。
……どうしたもんかねぇ。
いつもならもっと簡単にお互いの役割を受け入れている。
それが出来ないのは、コイツが、つまらない勘違いをしているからだ。
「……はあ。らしくないぜマスター。霊体化してオレだけ助かってどうなる。マスターが殺されたらオレたちはそれで終わりなんだぜ? なら、どう考えても足の遅いお荷物を足留めにして、司令官《アンタ》は任務達成するべきだろ」
「……私は、貴方を荷物などと言った覚えはありませんが」
「オレがそう思ってんの。なにしろホントに、自分一人じゃ動けないからな」
ほら、と左足を前に出す。
片足はとっくにあの怪物《でかぶつ》の突進でオシャカにされていた。
ここまで走ってこられたのは、末席と言えど英霊として凄いところを見せなければと意地になったからだ。
うむ、根性論も馬鹿にできない。
「ダメだ。それなら私も残ります。ここであのサーヴァントを倒す方を取る。
私は一人では進まない。ここで―――貴方を、置き去りにする事は、できない」
迷いの混じった決意。
それは決して親愛からではなく。
いつかもらった、どうしようもないほど、見当違いの手のひらだった。
「―――それは同情から?」
「い、いいえ、同情なんてしていません。
ただ、その傷には私にも責任がある。だから、置き去りにするぐらいなら、私はその責任を取ろう、と」
「それは違う。
いいかマスター。アンタは今、自分の目的を果たす為ではなく、オレを助ける為にここに残ると言った。
それは、まあ、オレからしてみれば悪い事じゃない。助けてもらえるんなら助けてもらいたい。
けどさ、その動機が負い目からきたものなら、それは置き去りより質《たち》が悪い事なんだ」
「負い目、ですって……?」
「そ。同情とか憐憫《れんびん》とかそういうの。
いいかい人間のお嬢さん。絶望にいるモノを救おうとするのなら、負の感情で動いてはいけないんだ」
「負は正でなければ打ち消せない。悲しみに陥ったモノを哀しみで掬《すく》い上げても、癒されないものがあるんだよ。
―――ま、あれだな。救った後の社会復帰《デイケア》まで受け持つってんなら話は別だが、人間、そこまで暇なヤツぁ希《まれ》だからな。
やっぱり助けるんなら、どっちにとっても得になる理由じゃないと損ってコトだ」
ケラケラと笑う。
遠くで怪物の咆哮が聞こえる。
バゼットはきょとんとオレを見つめている。
「分かり辛かった? なら例えばの話をしよう。
ある場所に、世界で一番不幸な目にあっているヤツがいるとする。ある日、アンタはそいつの事をニュースで知って落ち込んじまうんだが、それは意味のない感傷なんだ。
遠い世界の話には関われない。自分には関わりのない所で誰かに不幸な出来事が起きたとしても、アンタは笑っていろ」
……そう。自分の世界にないものを救おうなんて、それは自分の世界を否定する事になる。
口にするまでもない世の摂理だ。
関係のない人間、反対をしない人間は、それだけであらゆる不幸を肯定している。
その不平等は覆《くつがえ》らない。なら、何者かを犠牲にして立ち行っている幸福を甘受しなくてどうする。
たとえ醜悪な生であろうと、恵まれているのなら笑って受け入れなければ嘘になる。
その矛盾、その醜さと一生涯向き合っていくのがまっとうな人間だ。
人間は自分しか救う事はできない。
他人の為に他人を救おうなんてのは死に値する言い訳だ。
そんな綺麗事では誰も救えない。
だが―――それでもなお、自分以外のものを救えると信じるのなら。
自分以外の誰かを、救いたいと囀《さえず》るのなら。
「―――そうだ。それでも何かをしたいというのなら、せめて、笑いながら救いに行け。
見捨てられないから残るとか、可哀そうだから戻るとか、そういうのは余計なお世話だ。一緒に苦楽を共にしようなんて、間違っても抱くなって言うコトでさ」
共有するのは楽だけでいい。
苦しみを伴って助けに来られても迷惑だ。
望むのは問答無用のハッピーエンド。
失い続けた日々を上回る愛と平和。
……そう。
例えば、昏く沈んだ瞳が。
差し伸べられた手に、輝かしい未来を見られるように。
「……アヴェンジャー、貴方は」
「あー、いや、脱線しちまったな。
ズバっと言うと、さっさと行けってコト。どうせ死んでもまた顔を合わせるんだ、同情で死なれたら気まずいじゃねえか。
ほら、アインツベルンのマスターに話があるんだろ? さっさと用件を済ませてこいよ。オレは先に戻ってるから」
……嵐が近づいてくる。
いいかげん、無駄話はここまでにしておかないと。
「なんだ。まだ何か言わないとダメか?」
「―――いいえ、十分です。
私の為に、敵の足留めをお願いします、アヴェンジャー」
「あいよ。んじゃ、ちょっくら気合入れて出迎えるわ。アンタは裏から出ていけよ」
バゼットに手を振って外に出る。
決めてしまえばアイツの行動は無駄がない。今頃、オレに気を遣わずに全速力で城を目指しているだろう。
じき、アインツベルンのサーヴァントが現れる。
拾っておいたバゼットの手袋を右手に嵌めた。
フラガラックを使用した為、ほとんど消し炭で用をなさないが、まあ、お守り程度にはなるだろう。
「―――さて、今度こそまっぷたつかあ。
だから来たくないって言ったのになあ、クソ」
最強に襲われる最弱ね。
まったく、聖杯戦争ってのはその手の組み合わせ多すぎる。
そうして、私は彼を置き去りにした。
確実に殺されると分かっている場所に残して、一人で森を駆けている。
負い目はない。
彼の言う通り、これは当然の選択だ。
使い魔は主を守る為に捨て石となる。サーヴァントを盾にして生き延びるのは当然だ。
負い目を感じるとしたら、それは城に辿り着けなかった時。
サーヴァントの献身に、成功をもって応えられなかった時のみだろう。
「――――、っ」
慣れている事だし、理解もしている。
加えて、アヴェンジャーは死んでも甦る。
ここで殺されても、一足先に一日目の夜に戻っているのだ。
失うものはない。
惜しむものもない。
私は今まで通り、協会の魔術師として、一流の名に相応しい行動をするだけだ。
なのに余分な痛みがある。
いつか感じた、胸をこするような感傷に歯を鳴らす。
自分と彼に対する苛立ちで、目につくものを無差別に壊したくなっている。
夜の闇も、夥《おびただ》しい樹木も、木々の向こうに見えている城壁も、気を許せば撃ち抜いてしまいそうだ。
でも、いま一番壊したいのはそんな声のないモノたちではなく、
「そうか、私も―――」
―――彼を、置き去りにしてしまったんだ。
唐突に、知らなかった全てのものに謝りたくなった。
あれが当然の選択で、彼自身がそうしろと言ったにしても。
それは憎しみや裏切りより、してはいけない仕打ちだったのに―――
城門は開いていた。
立ち止まらずに城へ急ぐ。
あの怪物は遙か後方だが、時間的な余裕は五分あるかないかだろう。
その間にアインツベルンのマスターを捜し出し、屈服させる。
……そう、冷静にならないと。
目的はマスターの殲滅ではなく、疑問点の解明だ。
聖杯戦争の要、他の誰よりも英霊を知るアインツベルンのマスターから、この四日間の謎を聞き出さなければならない。
城の玄関を蹴りあげて突入する。
あの怪物と戦った時点で来訪は知られている筈だ。今さら大人しくする必要はない。
「―――近い。二階、正面……!」
階段へ走りながら、替えの革手袋を装着する。
ここは敵陣、いつ凶刃が降ってきてもおかしくはなく、
「ふっ……!」
敵は、いかなる方角からでも襲ってくる……!
振り下ろされたのは、時代錯誤な長柄武器。
ハルバート。
聖堂教会の騎士団でも廃《すた》れつつあるその凶器を、後ろに跳び退いてやりすごす。
「―――侵入者。イリヤをいじめにきたのなら、帰れ」
感情のない声。
四十キロを越える凶器を軽々と―――いや、重さを感じていないように扱う不器用さ。
間違いない、アレは戦闘用に調整された、アインツベルンの人造人形《ホ ム ン クル ス》……!
「……帰らない? なら、仕方ない」
こちらの戦意を読み取ったのか、ホムンクルスはハルバートを振り上げる。
戦力を量っている時間はない。
初撃から全力で倒しにかかる。
アインツベルン製のホムンクルスとはこれで二度目、危険な相手だが限界は心得ている―――!
「っ―――…………!」
何度目かの攻防の末、再び距離をとる。
腕力に任せて振り回すだけの児戯。
が、それも人間離れした怪力で行われると暴風と化す。
先ほどの怪物ほどではないが、ホムンクルスの一撃は十分に致命傷だ。
完璧に受けたところで骨ごと砕かれるだろう。
その暴風をいなしながら、拳を七回ほど叩き込んだ。
いずれも内臓を背中から弾き出すに足る手応えだったが、ホムンクルスは苦しむ様子さえない。
あのメイド服は優れた魔術礼装なのか、単に痛みを感じていないだけなのか。
どちらにせよ、このホムンクルスを停止させるには骨が折れ―――
「――――――、ぁ」
……?
ホムンクルスの戦意が薄れる。
無表情ながらも強い気迫に満ちていたソレは唐突に戦意を喪失し、
「そこまでよリズ。
私のお客さまなんだから、丁重にもてなしなさいと言ったでしょう?」
階段の上には、雪のように白い髪をした少女が立っていた。
「こんばんは、見知らぬお客さま。
私はこの城の主、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。このような夜更けに、どんなご用件でいらっしゃったのかしら」
少女は可愛らしい容姿にピッタリな、愛らしい礼で私を迎え入れた。
「――――――」
あの少女が、アインツベルンのマスター……?
たしかに強い魔力を感じる。魔力の貯蔵量なら破格といっていい。
人間を越えた、生まれながらの魔術回路。
間違いない。
あの少女も、アインツベルンの手によって作られたホムンクルス―――
「あら。せっかく出てきてあげたのにご挨拶もなし?
魔術協会の魔術師は礼儀がなっていないのね。お話をする気がないのなら、早々に城を後にしてくださいな」
クスクスと笑う。
私をマスターと知っていながら、少女はまったく警戒していなかった。
……まるで。
初めから、私など敵ではないと言うかのように。
「……失礼しました。私はバゼット。魔術協会から派遣されたマスターです。ここには、マスターとしてやってきました」
「それは存じていますわ。森でサーヴァントと出遭ったでしょう?
それで、もしかしたらやってきたのは貴女かなって。
他のマスターたちは間違ってもここにはやってこないから。ようやく来てくれたのかなって喜んでいましたの」
「―――は?」
屈託のない笑顔。
……先ほどの印象は見当違いだったのかもしれない。
この少女は私を軽視しているのではなく―――本当に、敵として見ていないのではないか。
「ふふ、そうよ、私は貴女と戦う気はないわ。
ううん、他のどのマスターとも戦う気はない。私はもうマスターでもなんでもないんだもの。
貴女以外のマスターはみんなそれを知ってるから、こんな森にはやってこないの」
「な―――」
マスターではない……?
それはどういう―――
「下がりなさいリズ。バゼットは私と話がしたいみたい。森からお化けが入ってこないよう、城門を閉めてきて」
「……いいけど。イリヤ、ホントにだいじょうぶ……?」
「いいの、バゼットと二人で話したいんだから。
リズ、最近生意気よ? あんまり私に逆らわないで」
「……うん。リズ、イリヤの言うとおりにする」
リズと呼ばれたホムンクルスは、仮にも殺し合いをしていた私に何の警戒もせず通り過ぎていった。
「さあ、貴女はこっちよバゼット。
私と話をしに来たのでしょう? 私に解ることならなんだって答えてあげるわ」
少女は階段から下り、ロビーの奥へ消えていく。
「………………」
私は予想外の展開に戸惑いながら、少女の誘いに乗ることにした。
「事の顛末は知っているわ。
貴女は私の森に入ってきて、お化けに襲われて、自分のサーヴァントを囮《おとり》にしてここまでやってきた。
目的はアインツベルンのマスターを倒す事と、それ以外に知りたい事があったから。
違う? そうでもなければ、こんな忘れられた城に挑もうとは思わないもの」
「…………」
少女はゆったりと椅子に座り、私は用意された席を断った。
いかに戦意がないといってもここは敵地だ。
少女の指先一つで、部屋そのものが消失しても不思議ではない。
「用心深いのねバゼット。協会の教えなのか、それともそういう性格なのか。
ね、貴女って敵地じゃお茶も飲まないタイプ?」
「……場合によりますが、ここでは飲みません。
貴女の言う通り、私は知りたい事があって来た。世間話をしに来た訳ではありませんから」
「そう? 残念ね、それじゃお茶の用意は取りやめるわ。用件だけ済ませる方が貴女には喜ばれそうだし」
「………………」
この少女が本当にアインツベルンのマスターなのか疑わしく思えてくる。
いや、もうマスターではない、という言葉が真実なら、実際マスターではないのだが。
「……イリヤスフィール。
貴女はマスターではないと言いましたが、森にいた巨人は貴女のサーヴァントではないのですか?」
「あのお化けは私のサーヴァントよ。けどアインツベルンのサーヴァントじゃないわ。ちょっとした手違いで狂っちゃったの。
今じゃ聖杯戦争とは関係のない、私を守るだけのお化けになっちゃった」
「町に現れている怪物……とは違うけど、同じようなものと思えばいいわ。
彼は聖杯戦争には何の関わりもない、この森にやってくるマスターを殺すだけの怪物。サーヴァントでありながらサーヴァントの役からあぶれてしまった、カタチのない亡霊なの」
「役から、あぶれた……?」
「ええ。該当する役回りがなかったから、ちゃんとした出番を与えられなかったの。
彼がアインツベルンのサーヴァントなら、あんな事にはならなかったでしょうけど」
「……あの怪物はアインツベルンのサーヴァントではない、と? ではアインツベルンのサーヴァントは何処にいるのです」
「いないわ。
だって私、他のマスターにサーヴァントをとられちゃったんだもの」
「もうマスターじゃないってそういう事。
聖杯戦争が始まってから四日目の夜に、あっけなくサーヴァントが殺されてアインツベルンのマスターは敗北したの。
貴女のサーヴァントだって、アインツベルンは脱落したって一番初めに知ってた筈よ」
「――――――」
思考が凍る。
アインツベルンのマスターが脱落していた事を、アヴェンジャーは知っていた。
……それはもういい。
隠し事なんて山ほどされている。私はあんなヤツを信用していないんだから、ショックでもなんでもない。
それより、今のおかしな符合は、
「どうしたの? 何か気になる事でもあったのかしら?」
クスクスと笑う。
この少女は、もう何もかも分かっている。
「イリヤスフィール。
その、他のマスターに取られたという貴女のサーヴァントは、」
「あら、知らなかったの?
彼の名はアヴェンジャー。アンリマユの名を冠する、最も古い悪心よ」
キシ、と音をたてて意識が歪む。
無意識にポケットの中のイヤリングを握り締める。
私は、乱れそうな呼吸を抑えて、
「それは、おかしい。
アヴェンジャーなどというクラスは聞いた事がない。
第一、アンリマユの名を冠する英霊など、存在する筈がない」
以前抱いた、始まりの疑問を口にした。
「ええ、もちろんアンリマユなんてモノは実在しない。アヴェンジャーとして召喚されたソレは、アンリマユという呼称を騙《かた》るただの人間だったわ。
神話に現れる悪心とは何の関係もない、魔術も神秘も知らない一般人。
理由もなく偶像に選ばれて、その一生を魔として扱われた、ただの生け贄だったのよ」
それは、遠い世界のおとぎ話だ。
俗世の争いを嫌い、山奥に孤立した世界を築き上げた人々がいた。
人間の善性を体現しようと集まった彼らは、しかし、それでも悪性を切り離す事はできなかった。
疑い、騙し、憎しみ、恨み。
彼らがどれほど善性を賛美しようと、悪性は生まれてくる。
その醜さを、彼らは“誰か”の所為にする事で解決しようとしたのだ。
悪性は自分たちの中から生まれるのではない。
自分たちの悪性は真実のものではない。
人の悪性は魔が漏らす毒によるもの。我々は清く正しくなければならない。
故に―――
彼らは諸悪の根源を必要とした。
全ての罪を被る偶像を必要とした。
悪いのはオマエだけだ、と。
この世の全ての悪となる、一人の生贄を作り上げた。
「英霊の中には時々そういうのが混じっているの。
本人は普通に生きたつもりでも、死後、周りがその生き様を神格化して奉り、英雄を作り上げるのね。
死者は何も語らないから、都合のいい役を押しつけても文句を言わない。疑いを知らない善良な人々が信じるには格好の崇拝対象よね」
「……ただ、『彼』の場合はそれが度を過ぎていた。
人々の崇拝が怒りや憎悪だったからかしら。
『彼』は本物の悪魔として扱われ、人々はあらゆる非難を『彼』に押しつけた。
貧困、病、災害、果ては自分が死んでしまう事への恐れさえ、『彼』が居るから起こるのだとなじられ、捌《は》け口にされた」
「けど、それで人々は救われたの。
そういう悪魔がいるなら仕方がないって。イヤな事は全部そいつの所為で自分たちの所為じゃないんだからって。
だから、彼は死後に英霊として扱われた。
その手は何もしなかったし誰に敬われる事もなかったけど、『彼』は多くの人々を救ったから」
生きながらに神になる。
生きながらに人間性を剥奪される。
生まれた時に得た名前は消されて、悪心として口にされる。
“だから、名前は『無』いんだ”
何でもない事のように彼は語った。
“思い出せと言われても、もうそんな記録は”
この世の何処にもないと、何を恨むのでもなく言い放った。
それを―――
―――英雄として呼び親しまれた物だったのですね。
称号と言えど、人々から喝采をうけた名だ。気に入らない筈がない―――
私は、なんと言い返してしまったのか。
「……それがアヴェンジャー。
アンリマユという悪性に見立てられた人間、という事ですか」
「そうよ。けど能力の方はてんでダメ。
『彼』はアンリマユとして扱われる事にはなったけど、信仰だけで特別な力がつくわけじゃない」
「『彼』は生前も、英霊として扱われる事になった死後もただの人間だった。
……んー、まあ名前を『遍く写し記す《アヴェスター》万象』から除外された事で秩序からは自由になったけど、それでも“英霊”と呼ばれるにはてんで力不足。
サーヴァントとしては何の役にも立たないゴミだったわ」
「――――――ゴミ……?」
「? なに、いきなりやる気になっちゃって。私を殺しても利益はないのに。
貴女、見かけによらず危ない人?」
言われて、殺気だっていた自分に気付く。
……少女の言葉は、そう間違ってはいない。
たしかに彼は英霊としては力不足だし、その、初めは私も役に立たないと思っていたのだ。
しかしそれは私の認識不足であって、彼の長所が解り辛いものであっただけだ。
「いいえ。私の時《・・・》は本当に役立たずだったのよバゼット。
彼が人々の望んだ“英霊”になるのはもっと後の事。彼にかけられた願いが成就するまでは無力なまま。宝具の一つも使えない」
「――――――」
宝具を使えない……?
いや、アインツベルンのサーヴァントだった頃のアヴェンジャーは、宝具を使えなかったという事なのか……?
……辻褄が合わない。
サーヴァントをとられたアインツベルン。
とられた、というのなら、とったのは私になる。
これはきっと正しい。
どのような過程で契約を横取りしたかは分からないが、アヴェンジャーはこの少女《アイ ン ツベルン》から私に契約を切り替えた。
となると、四日目に死んだ、というのはどういう事なのか。
とられたと死んだは別だ。
この少女は、異なる結末を同時に語っている事になる。
「いなくなった私のサーヴァントの話なんていいでしょう?
それより貴女のサーヴァントの話が聞きたいわバゼット。魔術協会に選ばれた貴女ですもの、さぞ高名な英霊を召喚したんでしょう?」
「あ―――いえ、私のサーヴァント、は」
アヴェンジャーだと、口にするのは躊躇《た め ら 》われた。
少女から“とった”のが私だから、という事もあったが、どこかで、嘘をついている気がしたからだ。
「私のサーヴァントは?」
「……別に、マスターでなくなった貴女に話す事でもない。それに、もう」
……彼はとっくに死んでいる。
この城に着いた時、アヴェンジャーからの反応は途絶えたのだ。
彼は一足先に一日目の夜に戻って、いつものように私が起きるのを待って―――
「……そうだ。それが彼の能力だ」
死んでも蘇生する。
いや、生きていた一日目からやり直せる。
なら目の前の少女も、あの巻き戻しを知っているのではないか。
「イリヤスフィール。アヴェンジャーは宝具を使えなかった、と言いましたね。それはどちらの話ですか。アヴェスターか、それとも」
「何の話だか分かりませんけど、そのどちらも使えなかったでしょうね。言ったでしょう? アヴェンジャーは役に立たない道具だったって」
「――――――」
……では、アインツベルンのマスターはアヴェンジャーの宝具をまったく知らない事になる。
アヴェスターはともかく、死から蘇生するあの能力は宝具の中でも群を抜いている。
アレを体験したのなら、間違っても役に立たない、なんて評価は下せない。
「…………そうですね。アヴェンジャーの話などしても仕方がない。
本題に入りましょうイリヤスフィール。貴女は、この聖杯戦争をどう感じていますか」
「さあ? 私はとっくに仲間外れですもの。もう聖杯戦争に興味はないわ。既に終わったことですし、ゆっくり終わりを眺めているだけ」
「―――町に現れている使い魔たちも知らないと?」
「知らないわ。言ったでしょう、私は仲間外れなの。
でも……そうね。あの怪物たちが町に溢れるのは今夜までよ。始まってから今日までの四日間しか、あの怪物たちは存在できない」
また四日間の縛り。
私はもともと、それを解明する糸口を探しに来た。
「……イリヤスフィール。これは、私のサーヴァントの能力なのですが」
ある確信を持って、私はこれまでの出来事を説明した。
死からの蘇生。何度でもやり直せる聖杯戦争。
否、何度繰り返しても四日目を越えられない私とサーヴァントの話を。
「……聖杯戦争を繰り返している……そうなんだ。
貴方にはそう感じる……いいえ、貴方たちだけ留まっているのね」
……私たちだけ留まっている、という表現は正しい。
巻き戻しのない少女にしてみれば、四日目の後にくるものは五日目だ。
しかし私たちは一日目に戻ってしまう。
時間という大河の中で、下る事なく立ち止まり、あまつさえ上流に戻っている。
「貴女はそれを解決しにきたのね。聖杯戦争を止めて、四日目を越えたいと」
「え―――い、いや、私はただ」
聖杯戦争を止める気など微塵もない。
どうして制限が四日間だけなのか、それを解決したいだけだ。
「違うの? なら何がしたいの貴女は。今のままじゃ永遠に、」
違う。私はただ、この異状な聖杯戦争に勝って、任務を遂行するだけだ。
「そう。サーヴァントとの契約を切るのなら手を貸す事もできるけど、そっちの問題は管轄外よ。
言ったでしょ、私は仲間外れだって。
私、この城から出る気はないの。貴女の聖杯戦争がどうしてそんな事になったのか、それを調べられるのは貴女だけよ、バゼット」
席を立つ少女。
イリヤスフィールは私から興味を失ったように、ロビーへと去っていく。
「おやすみなさいバゼット。貴女の話が本当なら、今夜でまた戻るんでしょう? それまで城にいるといいわ。森に出たらお化けに殺されてしまうもの。
―――今夜は星が綺麗よ。せっかく一人になったんだから、よく考えてみる事ね。
貴女は何がしたかったのか。本当に、その違和感を解決してしまっていいのかを」
……冬の城を後にする。
少女の申し出は断った。
たとえ森に出てあの怪物に倒されるとしても、私だけここで安穏と過ごす事は出来ない。
「――――――」
空は、確かに澄んでいた。
数え切れないほどの星を見上げて、彼なら、目に見えるのなら数えきれる、なんて皮肉を言うのだろう。
「……どうして四日で終わるのかではなく。
どうして、そんな事になったのかを知るべきだ」
巻き戻しはアヴェンジャーの宝具ではない。
それは彼自身、確かに口にしていた事だ。
これは自分と契約した事による特典だ、と。
特典とは何なのか。
これほどの奇跡、宝具でなければ何が可能とするかを自問し、
脳裏に浮かんだ答えを否定する。
「―――アヴェンジャーは信用できない。
私は、私の出来る事をするだけだ」
……そうだ。次は、彼が眠りにつく日中に町に出よう。
アヴェンジャーは日中の行動はできないと言うが、私にそんな縛りはない。
今まで避けていただけで、私は別に吸血鬼でもなんでもないのだから。
「冬木の魔術師、遠坂と間桐……それに、前回生き残った衛宮切嗣」
行動を起こすとしたらそのあたりからだ。
私は、私のサーヴァントに黙って町に出る。
また余分な痛みが胸を焦がす。
……いっそ、心から信用できなければ良かったのに。
私は彼を信じたいが故に、彼に黙って、真実を知ろうとしている―――
◇◇◇
景山の一夜
あの人影を追う。
追って、今度こそ会わなくてはいけない。
―――そう。
俺が知らない、あの夜をもう起こさない為に。
境内に出る。
人影は俺から逃げるように、もしくは誘うように、裏の林へ移動していく。
……大丈夫、追いつける。
日付が変わるまであと一時間弱。
それまでに捕まえれば、ようやく四日間の異常が明らかになる―――!
視界が開ける。
木々のトンネルを抜けた先には、見知った高台が広がっている。
今宵、月は癇に障るほど美しく。
凍りつくような同色に照らされて、銀の髪の少女が、俺の到着を待っていた。
「――――――」
「おまえ、は」
脳髄に稲妻が走る。
既視感に脳細胞《シナ プ ス 》が暴走する。
知っている。
一度だけか、それとも何度か。
数え切れない夜、あの娘の前で、衛宮士郎は死んだのだ。
……足を進ませる。
今までどんな目に遭ったのかを理解していながら、敵意も警戒心もない。
俺は武器も持たずに、ゆっくりと距離を詰めて、
“――――――カレン”
あと一歩という所で、そんな声を聞いていた。
「―――なに?」
「カレン・オルテンシア。私の名前です」
機械を思わせる冷淡さ。
淡々と仕事をこなす、事務的な素っ気なさ。
にも拘《かか》わらず少女の声は、
「カレン―――オルテンシア」
人を思いやる、上質な音楽のように胸に響いた。
「あ……っと、俺の名前は、」
「知っています。衛宮士郎。セイバーのマスターにして、聖杯戦争の勝者でしょう。
貴方の事は、こちらに来る前に調べました」
「――――俺を、調べた……?」
思考が熱を取り戻す。
鈍っていた警戒心が、咄嗟に少女と距離を取らせた。
「どういう事だ。俺はアンタとは初見だろう。そのアンタが、どうして俺を調べるんだ」
「……初見だからこそ事前に調査するのですが。
衛宮士郎。貴方は自分というものを正確に把握していません。今の言いようでは、自分は無害な人間だと主張しているように聞こえます」
じろりと睨まれる。
……どうしてか、理由もなく威圧されてしまった。
さりげなく失礼なコトを言われたのに、その通りです、と謝りたくなったというか。
「う―――いや、無害……じゃないけど、有害ってワケでもないんじゃないか、俺」
「自覚はあるのですね。良いことです。
自分は無害などと主張するようでは、労働を強いるところでしたから。……一つ好感を持ちました、衛宮士郎」
「ぁ……いや、どうも」
あくまで淡々と、事実だけを述べる少女。
……妙な迫力だ。なんとなく、こっちが叱られているような気がしてやりづらい。
「……待った。どうも調子が狂う。無害か有害かは後にしてくれ。
今はそんな事より―――」
訊かなければならない事がある。
少女《カ レ ン 》の正体。
町に潜む様々な違和感。
再現された、四日間だけの聖杯戦争の真実を。
「おまえはいったい何者だ。どうして俺を調べる。
……いや、俺の事より町の事だ。あんな怪物の群を連れて、一体何をするつもりなんだ」
「私が怪物を引き連れている、ですって……?」
「な、なんだよ。すごんだって誤魔化されないぞ。
俺はたしかに見た―――いや、俺じゃないけど、アンタが怪物どもで町を埋め尽くすのを何度も見たんだ。
しらばっくれるな。他の人間なら騙せるだろうが、俺だけは騙されないからな」
「…………ぱつぃえんつぁ…………」
みし、という音。
「主よ。この者の浅慮と暴言を許したまえ。
……ついでに、私の消しがたい怒りも鎮めたまえ」
「は?」
「……失礼。余分な時間をとらせました。
聖杯戦争の勝者が、こんなに物分かりの悪い人間だとは思っていなかったもので、つい」
「……質問に答えます。私は貴方たちを調査、監督する為に派遣された者です。
貴方たちとは聖杯戦争に参加した魔術師のこと。
おもな目的は、この町に再び現れた聖杯の波動を究明する事です」
……調査、監督……?
そういえば、誰かそんな事を言っていたような。
いやいや、そんな事より聖杯の波動の究明という事は……。
「―――アンタ、敵じゃない、のか……?」
「貴方がそう思わないのなら、敵として扱われる事はないでしょう。……私は有害ですが、私を有害と捉えない者には無害ですから」
少女の言葉に嘘はない。
いや、このどこか慇懃な少女は、人を迷わせる事はあれ決して嘘は口にしない。
確証はないのだが、それだけは断言できる。
「―――いや、しかし」
少女は確かに怪物を引き連れていた。
四日目の夜。
今みたいに、月が頂点にさしかかった時―――
「……!!!!」
空気が変わった。
震動が世界を塗り替えていく。
空は黒く。
見慣れた裏山は、一瞬にして、
屍が積み重なる、この世の地獄と化していた。
「っ……!?」
カレンを睨む。
少女はいつかと同じように、血を流して苦しんでいた。
「チッ……!」
……なんて数だ。
あの不気味な怪物たちはこの場所から発生していた。
積み重なった屍は、一匹、また一匹と目を覚まし、俺たちを取り囲んでいく。
遠吠えが合唱される。
聞き取れない低周波が常識を削っていく。
耳から入ったムカデが、内部でゴソゴソ神経をかきむしる不快感。
「…………っ。
……カレンって言ったな。なんなんだコイツら。飼い主なんだろ、大人しくさせられないのか……?」
「……ですから、それは間違いです衛宮士郎。私は、彼らとは無関係です」
「む。……無関係って、本当に?」
「本当です。なんでしたら主に誓います」
謎の出血から持ち直したのか、呼吸を整えながら背中を合わせてくる。
「ちょっ……な、なんだよ、一体。怪我してるなら大人しくしてろってば」
「……今は、私の傷より貴方の安全を優先します。
私は彼らとは無関係です。いえ、彼らは私には何の関心も持っていない。彼らの視界に映るもの、いえ、彼らが自発的に害をなすのは、貴方だけなのですから」
怪物たちの包囲が狭まる。
夥《おびただ》しいまでの憎悪が俺にのみ向けられている。
「―――俺に、だけ?」
臓物にまみれた爪が、ぎちりと、俺を引き裂きたいと謳っている。
アレは知っている。
あんなのに切り裂かれたら、俺は今度も―――
「……そうだ、おまえも……」
あの怪物と同じ、いや、あの怪物を体から生み出していた。
「……すでに見ていたのですね。
ですがご安心を。ここでなら私は影響を受けない。
いいえ、この子たちでは私を変質させられない。私を変えられるのは、悪魔と呼ばれる現象だけですから」
淡々と語る。
しゅるり、と衣擦れの音がする。
俺の背中で、カレンはあの赤い聖骸布を渦巻かせる。
“―――回レ 回レ 回レ 回レ―――!”
やかましい。バカの一つ覚えの恨み言に、美しい衣の音がかき消される。
―――邪魔すぎる。
もっと冷静でいたいのに。
もっとこの少女と話していたいのに。
いや、そんな事より、今は―――
「ハ―――……影響を、受けない……?」
「そう。ここでは怪物はみんな死にますから。私も貴方も、こうして普通に話せます」
「怪物はみんな死ぬって……こいつら、動いてるんだけど」
「彼らは別です。もとから生きてはいないのです。
……見てわかるでしょう。アレはただの残骸です。一体一体の力は大したものではありません」
残骸。
積み上げられたソレは、確かに廃棄され忘れられた道具のようだ。
誰が捨てたものなのか。
無限とまでは言わないが、高く高く積み重ねられた屍の山。おそらくは億を超える、飽きる程の死の連鎖。
―――どうでもいい。
さっきから、人の鼓膜を好き勝手侵しやがって。
「―――来ます。……貴方の後ろは私が守る。
日が変わるまでの間、なんとか生き延びなさい」
「――――――」
雪崩が起きた。
屍の山が崩れていく。
星の数ほどの怪物が、俺だけを殺しに来る。
「ハ―――なんとかって、簡単に言ってくれるよな」
迷っている暇はない。
ガチン、と脳髄でスイッチが下ろされる。
牧歌的な自分は引っ込んで、敵を倒すだけの自分に入れ替わる。
思考の切り替えは、驚くほどスムーズだった。
なんて容易い。鉄板の理性を撃ち抜く、夥しい嗜虐の発露。
「投影―――《トレース》」
躊躇する事はない。
正直、ゴミどものあまりの多さに、正気などとっくに失っていたのだし、
「開始―――《オン》」
投影する凶器《てほん》は、目の前に塵芥と転がっている―――!
砂塵を巻き上げる。
殺到する爪は雲霞の如く。
天地四方、あらゆる隙間から這い飛び出す獣の凶刃。
どろついた月光に火花が踊る。
両目を串刺しにくる爪を紙一重でかわし、あやうく口吻《くちづけ》そうになった残骸の顔を短剣でかっ捌《さば》く。
のしかかってくる残骸《け も の 》の破片。
群がる敵は同胞の死体ごと、俺を雀刺しに仕留めにかかる。
「――――――、ハ……!」
蜂の巣をもって報復する。
秒間三撃。都合十二もの得物を投影し、残らず獣どもに投げ放ち四散させる。
「―――、―――、は、ぁ―――!」
呼吸があがる。
ハテのない狂気の掃射、キリのない凶器の襲撃。
裏山は悪意の絨毯爆撃だ。
絶え間なく雪崩れ込む敵を前に、心身共に限界を迎えていた。
「―――ァ、―――ハァ、―――ハ…………!!!!」
だが、この限界には終わりがない。
この夜に限り、能力の限界と体力の限界は分かたれている。
体力を置き去りに、能力は立ち止まる事なく加速していく。
短剣を振るう筋肉は、とうに伸びきり虚脱している。
反して冴えわたる頭蓋の中。
投影している武器と相性がいいのか、魔力は尽きず構成速度も衰えない。
このままなら。
三十分と言わず、俺は死ぬまで戦っていられる。
背後ではあの少女が獣どもを防いでいる。
赤い布は意志を持つ蛇のように、飛び込んでくる残骸をさとし、たしなめ、退却させる。
「フ、ハァ、ハ―――、この……!」
妬ましいほど生優しい。
獣どもを拒絶しておきながら受け入れるかのような防戦。加虐と自虐。否定と肯定。あの少女は、相容れないものを両立させている。は。お断りだ、あんなのに包まれたら温かさにふやけちまう。
俺の背中を死守する女。
おかげで俺はこうして生きている。
おかげで俺にたかる残骸どもが減っている。
―――邪魔だ。
それは定かな理由もなく。
オレは、この女がたまらなく  になった。
繰り返《かえ》す大合唱。
斬り伏《ふし》て大合掌。
「ッ、ハ―――!」
絶好調だ。この、億をも超える敵意を前にして、俺はただ一人で負けていない……!
「ハ―――ァ、ハ、ハ―――!」
うるせえ。
うるせえ。
うるせえうるせえうるせえ!
黙ってろよテメエらこんなに調子がいいのは初めてなんだ 頭が焼き焦げてくれそうなんだ ちっぽけな意識の拡大が止まらないんだ もっと間断なく作ってもっと際限なく作ってもっと限界なく駆けめぐる、ああああ、こんなにも、こんなにも、こんなにも―――
「ハ―――ハは、ハハはハ、ア―――!」
こんなにもイキそうなのに、下らねえ水を差してんじゃねえ……!
「は、ハァ、ハァ、ハ―――……あ、れ……?」
屍の山が薄れていく。
濁っていた空気が清く澄んでいき、どろついた月があどけなさを取り戻す。
魔力を維持できなくなって、手にした短剣が割散《かっさい》した。
「……いなく、なった……?」
いつのまにか、日付が変わったのだ。
あれだけ理性を焦がしていた興奮が、嘘のように冷めていく。
膝から地面に落ちた。
疲れきって、もう一歩も動けない。
理性と魔力と体力。心技体、全てを酷使した当然の結果だった。
「――――――最低」
目の前には、変わらぬ姿のカレンがいる。
見下ろす視線が何に対してのものか、疲れた頭ではわからない。
「でも合格です。これでようやく、私と貴方は出会えました」
……遠くから声が聞こえる。
これは遠坂か。
異状を察したのか、柳洞寺から駆けつけてきたらしい。
遠坂に用はないのか、カレンは森に消えようとする。
「待て。まだ、話は」
「いいえ、貴方とはここまでです。今回の貴方ではこれ以上は無理。
……けど、これでまた一つ隙間が埋まった《・・・・・・・》わ。貴方が望むなら、これからはいつでも会うことができる」
足音が近づいてくる。
裏の林道を、遠坂が駆けてくる。
「よい夢を。目を覚ました後、貴方一人で私の家に来てください」
銀色の髪が、木々の闇に消えていく。
カレンと名乗った少女は、それきり二度と、この俺の前には現れなかった。
再会する時があるとしたら、それはこの現象を解決した後。
その時はふたりとも初対面で、名前を教えあう関係だ。
「―――、は―――」
遠坂が来るなら、このまま眠ってしまっても大丈夫だよ、な。
……とにかく疲れた。もう眠りたい。
同時に走る多くの走者の中。
振り返って、衛宮士郎が大きな活躍をしたとしたら、それはこの夜を指すだろう。
目を閉じて眠りに落ちる。
俺は四日目の夜を越えた。目を覚ませば、正常《い つ も 》通りの生活に戻っている筈だ。
“マタ オマエダケ 助カルノカ”
……わずかに鼓膜に残った呪いの声。
それも、目を覚ます頃には完全に忘れている―――
◇◇◇
カレンT
広場に人影はない。
神の家は訪れる者もなく佇んでいる。
……ここは地上より遠く。
天《そら》にはなお遠い、告解の惑《まど》い場―――《じょう》
教会には俺の知らない女が待っている。
これが最初であろうが最後であろうが、この場所では意味のない事だ。
もとより存在しなかった女《もの》。何処にでもいて、何処にもいないカレと同じだ。
時間の後先は此処にはない。
俺がここに来るのは、たしか―――
一度目だ。
問いただすべき事項が溜まっている。
これから会う相手の事を、俺は何も知らない。
知っているのは名前と、張り詰めた雰囲気だけだ。
カレン。
あの細い体を想起させる、硝子《ガ ラ ス 》細工のような響き。
―――扉を開ける。
天窓からの陽射しが視界を白く焦がす。
住む者がいなくなった無人の礼拝堂。
そこに
慈愛を弾《はじ》く、一人の修道女の姿があった。
「――――――」
気付いていないのか、演奏は一指たりとも乱れない。
来訪者に気を向ける事もなく、女は自らの務めを果たしている。
……少し、目眩がした。
天井が高い為か、オルガンの音は幾重にも反響し、礼拝堂を満たしている。
「――――――」
オルガンまで歩こうとして、気が変わった。
一番後ろの椅子に座る。
どうせすぐに終わるだろう。
何時間も弾き続けるものでもないのだ、曲の終わりを待てばいい。
退屈な曲に、考える力が薄められる。
平和すぎて居眠り寸前だ。こくこくと微睡みながら、女の指遣いに身を委ねる。
よく耳にする賛美歌、特筆すべき才能もない。
別段優れた技巧もなし、奏者の感情を表す熱もない。
淡々とした調べ。
日々の労働そのものと言える作業。
それは―――祈るような、演奏だった。
「……………………」
礼拝に来る人々が胸を打たれるのはこういう仕組みか。
人の手によって作られた神の家と、
人の手によって作られた賛美の詩。
昔の人間はこの演出《し く み 》で神聖なものを表現しようと努めたのだろう。
信じる為に、信じさせる為に、みなこぞって日常とは違う空間を作り上げた。
幻想を共有する為の礎。
日々の安心と赦しを与えてくれる祈りの結晶。
その点で言えば、ここは神が目をとめるに相応しい境界だ。
無信なる人の子も、ここでなら神の気配を感じ取れる。
もっとも。
残念ながら、俺には神聖なものは感じ取れなかった。
頭を占めるのは廃墟のイメージ。
どこまでも無人の荒野しか連想できない。
「……あー、吐きそう」
座ったまま両手で顔を支え、ぼんやりと賛美歌の終わりを待つ。
……神様と廃墟、か。
まあ、どちらも空虚である事に変わりはない。
耳障りな演奏が終わった。
女は席を立ち、パイプオルガンは礼拝堂から消失する。
……そうだ。もともと、この礼拝堂にあんな立派なオルガンは無かった。
アレはあの女が持ち込んだ異物なのだろう。
あれだけでかい物を持ち込んで消しさるあたり、ミステリー度でキャスターといい勝負だ。
女は長椅子に座った俺に驚きもせず、つかつかと歩み寄ってくる。
気付いていないものだと思ったが、とっくに気付いていたらしい。
「ようこそ衛宮士郎。見ての通りの廃屋ですが、出来るかぎり歓迎します。
たしか……そう。喉が渇いているのなら、何か用意をしてあげますが」
「結構。別にお茶を飲みに来たわけじゃない」
「……そうですか。他に歓迎の作法を知らないので、必要な物があれば言ってください」
微妙に気分を害したような仕草。
……こいつ。歓迎すると言ったが、来客を持てなすのはこれが初めてなんじゃないか?
「では挨拶からはじめましょう。貴方がセイバーのマスターである事は承知していますから、貴方の素性を語る必要はありません。
貴方はどうですか。私が名乗る必要はありますか?」
「いや、それも結構。名前ならもう知ってる。
訊きたい事だけ訊いたら帰るから、自己紹介はしなくていい」
簡潔に返答する。
何に驚いているのか、会話はそれで途切れてしまった。
「……あのさ。俺から話をしていいのか?」
「……ええ。質問があるのでしたらどうぞ。
私は貴方に訊くべき事はありません。
……いえ、一つ出来ましたが、それはどうでもいい事です」
「あっそ。ならさっさと済ませよう。疑問の引き延ばしはもう沢山だ」
訊くべき事は三つ。まずは初歩から始めよう。
「それじゃ一つ目。
カレンって言ったな。アンタは何者なんだ。
何処から、何の目的で冬木にやってきたんだよ。ただの観光客だ、なんて言い訳は通らないぜ」
「私はこの教会の後任代理です。本来、私程度では教会を任される事はないのですが、今回に限り期限付きでこの教会を任されました。
貴方たち魔術師から見た、教会《てき》側の代行者と言えば判りますか?」
「代行者って、教会の実戦部隊とかいうヤツか? 異端、魔術師を一方的に糾弾して処理するっていう殺し屋?」
「いいえ、表向きの意味での代行です。私には代行者ほどの能力はありません。
この教会の前任は優れた代行者だったそうですが、私には異端を断罪する権限も、実力もない。
私は教会の命を受け、この街の調査をしに来ただけの見習いです」
「見習いねえ。なに、そんなのにお使いをさせるなんて教会ってのは人手不足なのか?
……そりゃお使いの内容にもよるけどさ。見てくるだけなら犬でも出来―――!?」
「適材適所、という事です。私はたしかに一介の修道女ですが、適任であるから派遣されたのです。
私に与えられた仕事は、再び観測された聖杯の調査。
第五次聖杯戦争において消滅した聖杯の有無を、体をもって確認する。誰にでも出来るという事ではありません」
「―――オーケー、見習いは見習いでも見込みのある見習いってコトね。
……納得いったんで、手を離してくんない?」
「貴方の口ぶりは癇に障りますが、疑いがないのはいい事です。……いいでしょう、許します」
パッ、と手を下ろして一歩引くカレン。
びっくりした。
あの女、無表情、ノーモーションで踏み込むやいなや、両手で顔を押さえ付けてきやがった。
あのまま小馬鹿にしていたら、ヘッドバットが炸裂したやもしれぬ。
「聖杯が観測された……まあ、そのあたりは教会のやる事だからな、いちいち聞かないぜ。
問題は教会がアンタを派遣したってコトだ。派遣する以上、聖杯がもう一度出てきたって確証があってのコトだよな。
……で。聖杯だけど、アンタはもう見つけたのか」
「聖杯らしきものが機能している事は確認しましたが、確保は出来ていません。
私に与えられた役割は調査ですから。これ以上の事は、私の分を越えています」
「ふーん。……それじゃ聖杯を奪取してどうこうしようって気はないのか。
ん? なんだ、聖杯があるかないかの調査っていうんなら、目的はもう果たしてるってコト?」
「ここに派遣された任務は果たしています。
ですが形式上とは言え、私はこの教会の代行を任されました。
冬木の街が異状であるのなら、これを解決しなければなりません」
「……矛盾してんなあ。
聖杯を確保する気はないけど、聖杯が起こしてる問題は解決したいってコト?」
「貴方ほどではありません。
断っておきますが、今回は二つの役職が重なった結果です。
聖杯の調査と、この街の司祭代行。
任された以上は両立しなくてはなりません」
「へえ、アンタの意志じゃなく仕事ってワケね。それで俺を呼びつけたって事か。
いいね、ビジネスライク大いに結構。安っぽい正義感より何倍もいい。
……で、聖杯は何処にあるんだ? 場所、知ってるんだろ」
「その言には邪《よこしま》なものが感じられます。貴方には教えません」
ぷい、と顔を背けられた。
どうも嫌われてしまったらしい。
「……別にいいけど。
じゃ二つ目の質問な。
あの怪物はなんなんだ? また聖杯が出てきた事と、街の異状と、あの怪物たちは関係あるんだろ?」
「……それは言えません。約束がありますから。
それに、私が教えては貴方の誇りを汚してしまう」
「………………」
誇りって、主義主張するほどのもんはないんだけどなあ。
そもそも人に訊いてる時点でプライドは泥だらけだ。満点を取るためならカンニングも辞さないというか。
「……不愉快そうですね。力ずくで聞き出しますか?」
「だから、アンタには興味ないって言ってるだろ。力ずくなんて言ったら、ほら」
苛立ちとか憎しみを原動力にして、アンタを、穢したがってるみたいじゃないか。
「いいよ、無理には聞かない。
けどアレはなんなんだよ。アンタさ、体からあの怪物を出してなかった?」
俺は知らないが、そういう事があった筈だ。
……思えば、コイツは所々おかしい。
あの怪物どもを怖がってなかったり、勝手に傷ついたり、果ては怪物を放出したり。
魔術師というより手品師の類《たぐい》なのか。
「それは誤解です。
衛宮士郎。貴方は悪魔憑き、という言葉を知っていますか?」
「悪魔憑き……?」
聞いた覚えはある。
西洋に知れ渡る霊障の一つで、日本で言うところの狐憑き、犬神憑きに近い。
人間に人間ではない『何か』が取り憑き、その内面から崩壊させていくという呪術、呪いの親戚だ。
症状は広すぎて系統化はできないが、西洋の憑きものは大抵が『悪魔』と呼ばれる概念によって発生する。
悪魔は人知の及ばぬ理由・基準のもと、善良な人間に取り憑く。
日本の憑き物が『呪う側』の意志に基づいた行いであるのに対し、西洋の『呪い《それ》』は意志を持たない、交通事故のような現象なのだ。
悪魔に取り憑かれる者は決まって善良な一般人で、取り憑かれた者は精神を病み、道徳、神の教えを罵倒し、家族や隣人を脅《おびや》かし続ける。
直接的な暴力によってではなく、人間とは理性の皮を剥ぐだけでここまで醜悪な生き物になるのだ、と人々に知らしめる事によって。
しかし、それは悪魔憑きの初期の病状にすぎない。
長く悪魔に取り憑かれた人間の崩壊は、精神面だけに留まらない。
重度の“憑き物”は肉体面さえ変化させる。
……取り憑いたものが、カタチのない己を人体で再現しようと試みる為だ。
変化は通常の人間からは考えられない人体運営から始まり、果ては体の一部が変質する段階まで。
それらの変化は取り憑いた『モノ』の階級によって定められる。強い魔であればあるほど、変質は人からかけ離れたものになる。
……もっとも、幸いな事に人体では魔の再現は不可能だ。
悪魔に取り憑かれたモノは奇怪な変形を強制され、当然のように命を落とす。
西洋の悪魔のフォルムは一様にエキセントリックだ。
双頭だの馬足だの、果ては手足で六芒星を描くだの。手足が一組づつしかない人間に真似のできるモノではない。
「………………」
だが。
希に、その変質に耐えきる人間もいると言う。
魔術師が秘奥を尽くして吸血鬼と成るように。
魂という設計図を食らわれながらも、食らいついた『モノ』を利用して生き延びる異端も存在するとか。
では、この女は、
「……それも誤解です。関係のない話ですが、私の仕事は悪魔祓い《エ クソシ ス ト 》の助手でした。
私は悪魔に取り憑かれた事などないし、この先も取り憑かれる事はないでしょう。
魔の温床は健全な肉体です。私の体では、彼らは芽を吹く事が出来ないのですから」
「? ならなんで悪魔憑きなんて言い出すんだ。
……アンタの体、悪魔憑きっていうんならわりと納得いくんだけどな」
「……P《ぽ》or《る 》ca《か 》mise《み ぜー》ria《り あ》」
「っ。なんか、いますごく口汚いコト言わなかったか?」
「せっかちな人ね、と言ったのよ。
……本題はこの後です。大人しく聞いてください」
「悪魔憑きは様々な霊障を引き起こします。
ラップ音、ポルターガイストといった周囲への干渉から、取り憑いた人体への干渉。
……それは悪魔の温床となった人間にのみ発現する病と言えるでしょう。ウイルスのように、周囲の人間には拡がらない毒です」
「当たり前だろ。憑き物が風邪のように空気感染していたら、今頃まっとうな人間はいなくなる」
「そうですね。
けれど霊感の強い人間が魔を感知できるように、魔に憑かれた人間に近づいただけ《・・・・・・》で同じ霊障を起こしてしまう人間もいます。
―――率直に言って私の事ですが。
私は悪魔と呼ばれるモノに近づくと、その悪魔が起こす霊障を再現する特異体質者です。
被虐霊媒体質、と私の師は言っていました」
さらりと。
何か、深く想像すると滅入るようなコトをカレンは言った。
「……なに? 要するに、悪魔の近くに行くと、悪魔になるってコト?」
「……頭の悪い回答ですが、正解としておきましょう。
正しくは自動的に魔の霊障を再現する、という事です」
「例えば、貴方が風邪に感染したとします。
まだ発病は先なので少し体が重い程度だとしましょう。
……そういう人の近くに行くと、私はその病気が起こすであろう病状を発現します。
言ってしまえば病人が二人に増える、という事です」
「……貴方には危害を加えてしまったようですが、根本的に人に迷惑をかける体質ではありません。
どうぞ、今後は気にしないように」
「……どうぞって言われてもなあ。
まあ、もとから気にしてないけど、騙し討ちはなしだぞ? なんか、アンタに近づくと痛い目を見るって体が怖がってる」
「そうでしょうね。私は慢性的な悪魔憑きですから。
衛《あ》宮士郎《なた》ならともかく、怪物が近くに来れば影響を受ける。怖いのなら、怪物が近くにいる時は私から離れる事です」
理解もしてないし実感も湧かないが、助言は素直に聞くコトにした。
よし、よっぽどの事がないかぎり近づいたり触ったりするのは止めておこう。
お互い、無闇に傷つけ合うのはよろしくない。
「じゃあ、あの時は」
「……おそらく、あの怪物の霊障を再現したのでしょう。
アレらは濃度は落ちていますが、悪魔に連なるものたちのようですから」
つまり、あの怪物たちが近くにいなければ、コイツがおかしくなる事はないってコトか。
……そうなると、あの怪物たちが起こす霊障というのは『同じ怪物を作り出す』という事になるのだろうか。
「私の体質の事はこれでいいでしょう。質問を続けてはいかがですか」
「あ―――ああ。じゃあ最後、三つ目。街の異状について訊きたい。
どうしてかは知らないが、聖杯がまた出てきた。
そいつを巡って聖杯戦争が再開した……と俺たちは思っていた。けど、この戦いは曖昧で、どこかおかしい。
遠坂はこれが再開ではなく再現だと言った。
仮に―――そう、仮に」
「仮に、聖杯を欲しがっているマスターがいるとしてもだ。こんな、終わりのない戦いを続けて何がしたいんだ」
「ですから、戦いを続けたいのでしょう?
終わってしまった第五次聖杯戦争を続けるコト。この街の異状は、全てそれを基点にして起こっている」
「何かがおかしい、などという言葉がおかしいのです。
この町は全てがおかしい。何者かの願いによって、偽りの四日間が作られているのです」
聖杯の調査に訪れた教会の女は、これを誰かの願いと言った。
では、やはり聖杯は使われた後だったのか。
「じゃあ、全部偽物ってコトなのか?」
瞬間、唐突に死にそうになった。
全部偽物、と。
そう口にした途端、失意だけで死にかけた。
まるで宇宙中の熱が、一気に冷めてしまったように。
「いいえ、偽物は一人だけよ。
たとえこの四日間があり得ない日常だとしても、登場人物さえ揃っていれば、それは現実にも起こりえる事なのですから。
“戦いが再現されている”という前提は間違いでも、そこで起きた出来事は幻ではありません」
「この日々は真実です。
貴方の日常は、この四日間が終わっても正しく続いていく。衛宮士郎が失うものは何もない」
「――――――」
安堵《あ ん ど 》は誰のものだったか。
たぶんオレのものじゃない。
でもいい。
女の言葉は偽りのない、絶対の真実だった。
あやうく死にそうだった意識が、ひょっこりと生気を取り戻す。
「そうか、よかった。これが続くなら、後はこの四日間をなんとかするだけだ。
―――それで。
アンタは、聖杯戦争の再現とは関わりはないんだな?」
「主《しゅ》に誓って。
話は前後しましたが、私の目的は貴方と同じです。
聖杯の調査と、冬木の街の平穏。
この二つを果たす為、貴方と協力してあげます。
もっとも、協力といっても情報を提供するだけですが。
ここでは私は物事を変えられない。解決できるのは第五次聖杯戦争に参加した貴方だけです」
「なんでだ? ……あ、いや、アンタが部外者っていうのは分かるよ。聖杯戦争を終わらせられるのは参加しているヤツだけっていうのも頷ける。
けど、それがなんで俺限定なんだ? 遠坂でも桜でも、マスターなら勝ち抜けば―――」
「これは第五次聖杯戦争の再現です。前回の勝者は貴方だった。
そういった意味で、この戦いを司るのは貴方です。
衛宮士郎だけが、第五次聖杯戦争を終わりにできる」
「いいですか。
この『再現』を解決したいのなら、それは願った者が自ら聖杯を放棄するか、前回通り、勝者たる貴方がその人物を倒さなければならない、という事です」
「……。なんか言葉遊びみたいだけど、これが第五次聖杯戦争の再現である以上、結末も同じように、俺が勝つ事にしないとダメってコト?」
「ええ。これは聖杯と聖杯の戦い。
上級の魔術は概念と概念の戦いになります。どちらが強者なのかではなく、どちらが綻びのない秩序《ル ー ル 》を有しているかの計り合いになる」
「……私には、聖杯という秩序を論破するだけの魔術《ち か ら 》はない。
助言者として介入するのが精一杯。戦いに参加したくとも、言葉の決まりに阻まれてしまうのです」
……ふーん。
なんと言うか、わりとがんじがらめなんだな。
「納得いった。とりあえず礼は言っとくぜ。何をすればいいか分かったからな」
席を立つ。
聞ける話はこんなところだろうし、もういい時間だ。早く街に戻りたい。
「もう行くのですか……? まだ訊くべき事はあるでしょうに」
「あるけど、アンタ知らないだろ。聖杯に願いをかけたヤツの居場所とか、怪物たちの消し方とか。
そっちは自分で探すからいいよ。小難しい話は犯人を見つけて直接聞き出せばいい。もう、アンタにも教会にも用はない」
じゃあ、と手を振って歩き出す。
そもそもこの教会は昔っから苦手なんだ。
長居などしたくはないし、正直、カレンという女には関わりたくないんでさっさと引き上げたい。
「待って。一つだけ質問があります。
貴方の問いには答えたのですから、一つぐらいは付き合ってください」
「む」
それを言われては弱い。
「じゃあ、出来るだけ手短にな」
……って。なんでそこで黙るんだコイツは。
「おい。質問あるんだろ。言えよ」
「…………まったく。今日は、前に比べて乱暴なのね」
「は?」
しばし思考停止。
もしや、今のが質問なんだろうか……?
「前に比べてって、何時だよ」
「貴方が知っている私との出会いです。
公園や山で出遭った時の貴方は、もう少し紳士的でした」
質問じゃなく、ただの不満だった。
……感情の読みにくい女だが、その精神構造も扱いづらい。
「今日は気が立ってんだ。場所が悪いんだよ、場所が。
教会以外でならもう少しマシになる」
「……そうですか。日中、私はここにしかいられません。
夜に出遭えるのは四日目の終わりだけですから、貴方との関係はこのままというコトですね」
「そうなんだ。けど心配するな。どの道、もうここには寄りつかない」
今度こそ教会を後にする。
……本当。ここでは、こんな風に呼び止められてばっかりだ。
扉を閉める。
「―――」
……ああ、だから関わりたくないんだよ。
頼みもしてないのに無事を祈るなって言うの。
なんて言うか、ほら。
それじゃあまるで、俺がついてないように見えるだろう?
◇◇◇
カレンU
広場に人影はない。
神の家は訪れる者もなく佇んでいる。
……ここは地上より遠く。
天《そら》にはなお遠い、告解の惑《まど》い場―――《じょう》
教会には俺の知らない女が待っている。
これが最初であろうが最後であろうが、この場所では意味のない事だ。
もとより存在しなかった女《もの》。何処にでもいて、何処にもいないカレと同じだ。
時間の後先は此処にはない。
俺がここに来るのは、たしか―――
―――二度目だ。
教会に足を向ける。
もちろん、これといった用件はない。聞き出すべき事は前回で済ませている。
あの女が全ての手札を明かしていないのは明白だが、あれ以上は口を割らないのも明白だった。
この事件の解決に、彼女の助力は必要ない。
「……本当。なんの用もないんだけどな」
グチりながら扉に手をかける。
虫の報せ、というヤツに悪いものと良いものがあるように。
この気まぐれは、オレにとって悪いものに違いない。
賛美歌は続いている。
椅子に座って、長い回想の終わりを待つ。
……ちょっとだけ昔の話。
半年前ここにいた神父は、その言動で人の心を切開した。
まわりくどく、威圧的に。
こちらの隙を見て、あけすけに深部まで踏みにじった。
あの女は神父《ソレ》と同類。
過程は違えど、この音楽は人の虚飾を剥《は》ぎとっていく。
それが、なんとなく不快だった。
おそらくは素晴らしいものである演奏を、受け入れられない自分も含めて。
心を休める、とは動力を停止させる、という事だ。
休息をとれ、と貴方は言う。
疲れているのなら此処で羽を休めればいいと。
……無責任な話だ。
初めから立ち上がる力のない者に休めだなんて、ここで終われと言っているようなもの。
止まってはいけない。
休息を求めてはいけない。
オマエは、始めたからには、ちゃんと最後まで、杯を満たさなければ。
「―――、あ」
いつの間にか演奏は終わっていた。
これ以上胸くそ悪い曲を聴かなくて済んで、ホッと胸をなで下ろす。
「……………………」
と。
これまたいつの間にか、目の前には女が立っていた。
「やあ。お疲れ、いい曲だったな」
顔をあげて、座ったまま拍手をする。
「それはどうも。―――貴方は、音楽に関心が?」
「あー、ついさっき出来たところ。
調べたなら知ってるだろうけど、わりと無趣味なんだよ俺。マジメにオルガンを聴いたのはアンタと知り合ってからか。
ええっと、なんだ。つまりそれぐらい、アンタの演奏はお上手だったってコト」
「……………………」
あからさまなおべっかが功を奏したのか、カレンは納得したように頷いて、
「――――――聴いてもいなかったクセに」
ぼそりと、これみよがしに文句を言った。
「げ、バレてた?」
「――――――」
答えるまでもない、という反応。
さて。ちょっと気まずい沈黙です。
「………………」
「………………」
なんとなく時間が過ぎる。
はじめから会話をする気はなかったんで、気まずい沈黙でも全然オッケー。
椅子に背中を預けて、天窓から差し込む陽射しに目を細める。
「…………確認するのですが。
貴方は、私をもう用済みだと言いませんでしたか?」
「言ったけど、ここは教会だろ。用がなきゃ来ちゃいけないっていうのか」
機械的な問いかけに、自動的に返答する。
「そうですね。訪れる者が迷いを抱えているのなら拒めません。
もっとも、貴方は子羊にはほど遠いですが」
「辛辣だなあ。けど何も言い返せないなあ。
うん、懺悔したいコトは見あたらないんで、やっぱりアンタに用はないや」
「……では、私との接点はありませんね」
そんなワケで会話終了。
教会は再び沈黙に包まれる。
こっちのスタンスは分かっただろうに、カレンはじっと佇んだままだ。
お互い用がないんだから、俺は放っておいて部屋に戻ればいいのに。
「他に、話はないのですか?」
「だからないって」
「――――――」
……困った。何か話さないとずっとこのままだぞ、この女。
「わかった。じゃあアンタの話」
「は?」
「は、じゃなくてさ。
こっちから話すコトはないんだから、そっちが話すしかないんじゃない?
俺、ネタはないけどアンタの話なら聞くよ」
「なるほど、それはもっともです。
ですが、話すといっても何を?」
「なんでもいいよ。
話題がない時は自分の素性とか趣味とかネタにするといい。自分が何者かを示すのは会話の基本、だぜ」
「……それは、そうですが。
そのような事で、貴方はいいのですか?」
「いい。話してくれるなら聞く」
興味はないが、この女が話をしたいのなら止められない。
それに、どんな話だろうと知らなかったコトなら大抵は面白い。
「……わかりました。
貴方には必要のない話とは思いますが、これも、何か意味がある事かもしれません」
そうして、カレンはしばし口を閉ざした。
自分の経歴を語る事に慣れていないからだろう。
過去を思い出そうとする沈黙は、重苦しい瞑想のようだった。
それは、予想通り退屈な話だった。
女はヨーロッパ南部の共和国で生を受け、すぐに両親を失った。
父親はもとから不明。
母親は病弱な女性で、彼女を出産した一年後に死亡した。
記録では物取りによる殺害とされているが、実際は自殺だったらしい。
教会において、自殺は主の教えに反する行いだ。
大罪ではないが、自ら命を絶った者は天の門をくぐる事はできず、永遠の苦痛にさいなまれる煉獄に行くという。
―――実にいい話である。
敬虔な信徒であった母親は、苦しかった人生の最期に、主に背くほどの意義を見いだしたのだ。
……もっとも、母親が見いだした意義など幼子には関係のない事だ。
その意義がどれだけ素晴らしいものであろうと、彼女が主の教えに背いた事に変わりはなく、幼子を残して先立ったのだから。
残された幼子には引き取り手がいなかった。
母親には身寄りがなく、父親は名乗りでない。
死病つきだった母親は娼婦のように行きずりの男と子をもうけたのだろう、というのが人々の通説だった。
身寄りのない幼子は、小さな教会の神父に預けられる事になる。
自ら命を絶った信徒。行きずりの男と姦淫した母親を軽蔑する、模範的で信仰深い神父の手に。
荷物一つなく神の家に預けられた幼子には、しかし一つだけ持ち物があった。
カレン。
何も残さなかった母親だったが、名前だけは決めてくれたらしい。
神父は自身の姓名は分け与えず、自殺した母親の名を少女に与えた。
母親の名はオルテンシア。
雨の日に咲く、或る花の名前である。
女と神父の生活は八年ほど続けられた。
神父は主への愛に満ちていたが、引き取った幼子に分ける愛はなかった。
養育費は預かっていたが学舎には通わせず、教会の下働きとして労働させた。
少女は、出生そのものに罪がある。
誕生時に洗礼は与えられず、幼年期に迎える洗礼まで、少女には主の愛は与えられない。
それまで、カレンという人間は神の子として認められないのだ、と神父は語る。
人一倍厳格なこの神父に、孤児に洗礼を与える寛容さがあったかどうかは疑問だが。
神父が満足な教育を与えなかった理由は二つ。
余計な出費を抑える為と、女に知恵を与えない為である。
獣の子に知恵を与えてはいけない。
それは悪を成す第一歩であり、なにより物事を考えるようになっては色々と都合が悪い。
よからぬ反抗、よからぬ事実を人々に叫ばれては神の家の沽券に関わるのだから。
神父が女に許したのは『祈り』だけ。
ただ、おまえは主に与え続ければいい、と躾けられた。
八年続いた。
痛みに慣れたのか、父のように生まれつき感情が壊れていたのか。
少女はこの生活を辛いとも思わなかった。
人間と主の在り方は、神父を見て学習した。
無心《・・》の祈りは、八年かけて完成した。
そうして、女が洗礼を受けられる年齢になった年。
女の体に聖痕《ステグマ》が現れ、神父は自らの敗北を受け入れた。
もう自分の手には負えない、と。
女を閉じこめていた教会の扉を開け、もっと広い世界へ引き渡した。
深い森に建てられた、城塞のような建物。
外界との関わりを断ち、ひたすらに主の教えを守り続ける、もっと巨大な修道院《ろ う ご く 》に。
それは一つの、独立した世界だった。
清貧、高潔、従順を旨とする彼らにとって、理想を体現する為の空間とも言える。
修道院とは熱心な信徒たちで構成された共同体で、生活に必要なものは全て院内でまかなう。
衣類も食料も院内で自給自足し、ささやかな楽しみとして僅かなワインとチーズを作る。
修道院ごとに細かな規則は違えど、根本は同じである。
そこにあるのは生きる為の労働と、主の為の祈りだけだった。
高い壁の中は完全な調和の世界。
俗世の風を拒絶した、神との合一を計る“選ばれた”信徒たちの封鎖社会。
……必然、その規律、生活はあらゆる面をおいて街の教会を上回る。
少女を受け入れたのはシトーという名門だった。
修道院の中でも古い歴史と厳しい戒律を持つその世界において、主の愛の所在は、人としての生存価値に匹敵する。
食事、労働、戒律、差別。
その、誰にでも与えられる権利さえ、主に愛されない者には与えられない程に。
その基準で言えば、少女には人権さえ存在しない。
いや、存在そのものが許されない。
由緒正しき名門、シトー修道院に孤児が入籍するなどあり得ない話である。
少女が修道院に招かれた理由は、偏《ひとえ》にその体に宿った聖痕だった。
ひとりでに傷つき、ひとりでに血を流し、ひとりでに傷を癒す。
秘儀を伝える信徒―――裏側に住む信徒たちから見れば、女が異能持ちである事は明白だ。
それが高度な霊媒―――周囲に漂う霊質を感知し、自らの肉を持って現世に実体化させる媒介法だと認知された時、少女の価値ははね上がった。
その異能は修練によって培えるものではない。
生まれ持った才能、本人の意志によるものではない生態・体質である。
希少価値が高いのは当然だ。
『カレン・オルテンシアはある儀式において、今までにない成果をあげる類い希な逸材である―――』
その報告をもって、聖堂教会は少女をシトー修道院に預けた。
もっとも。
その価値がいくら上がろうとも、教会は決して、女に主の愛を与える事はなかったのだが。
少女は部屋を与えられ、教育を受け、主の代行を成す者として鍛えられた。
いつ外に出ても教会の名を辱めないよう、完璧な信徒として振る舞えるように。
原則として、修道院に入った者は外に住む事はない。
他の修道院に移り住む事はあっても、『修道院』から出る事は許されない。
だが女は修道女としてシトーに招かれたのではない。
代行者の一人。
悪魔祓いの補佐として納品された、教会の兵装の一つである。
兵器は人の手によって運用されるもの。
女の異能が必要とされる場合にかぎり、女は修道院からの外出を許され、主の威光を知らしめるのだ。
主の威光は人の子に向けられるものではない。
それは主を恐れぬ跳梁者、人の子を脅かす魔に向けるべきものだ。
魔は悪を具現する為に人に憑く。
これを清め、神の愛を人の子に知らしめるのが女の、否、女を使う代行者の仕事だった。
女を使うのは悪魔祓い《エ ク ソ シ ス ト 》。
教区の司教から『代行』を許された、特別な司祭。
彼らは助けを求める声を聞き届け、悪魔を祓う為に悪魔憑きのいる町に訪れる。
それは、祈りではなく戦いに近い。
地獄の釜の底を洗うような作業だと、女の師はよく独白したものだ。
悪魔祓いと言っても段階があり、女の師が向かい合うのはとりわけ厳しい方の試練だった。
自己崩壊を悪魔の所行と騙る偽物、流行病の如き怪物には関わらない。
彼らの相手は、完全に『成った』モノのみである。
真性の悪魔が引き起こす惨劇は、人知に堪《こら》える事ではない。
悪魔祓い《エ ク ソ シ ス ト 》の訪れる町は、人の世界から逸脱したものばかりだった。
魔の被害は取り憑かれたモノだけに留まらず、周囲の人々にまで伝播する。
―――憑依者《ほ ん に ん 》を上回る異形に、肉体ではなく精神が、より醜悪なカタチに変わってしまうのだ。
師の言う通り、それは、地獄の観光に近かった。
悪魔祓いにおいて最も死に易い弱点とは、人としての理性に他ならない。
肉体の生存能力はそう重要ではない。
そも、人間程度の性能では『成った』悪魔には太刀打ちなどできない。
肉体《せいめい》は主の奇跡を体現する聖遺物が守護してくれる。
だが精神《たましい》は自らの意志で守り抜くしかない。
悪魔祓いに求められるものは鉄の信仰《いし》。
その点においても、女は悪魔祓いに適していた。
感情の振り幅が小さい事が幸いしたのだろう。
二度は耐えられないとされる真性の悪魔祓いを、女は淡々とこなしていった。
女は重宝された。
修道女としての生活と、教会の代行者としての役割。
過度と言えるほどの仕事量。
まっとうな人間ならば、一月《ひとつき》と耐えられなかっただろう。
だが女にとって、それは日々の労働と大差のないものだったらしい。
楽しい、という事柄をよく理解できない女にとって、どのような責め苦であろうと、それは分け隔てなく『労働』となる。
―――祈れ、働け《 O r a e t L a b o r a》。
……皮肉な事に。
修道院を象徴するその言葉は、女の人生をも象徴する物だった。
「ふーん。
要するに、教会から修道院にたらい回しにされて、そこで天職を得たってコト?」
「……。
ええ、そういうコトで間違いはありません」
ちょい不機嫌そうに頷くカレン。
しまった。あんまりな要約ぶりにご立腹召《め》されてしまったか。
「あー……なんだ。癇に障った?」
「はい、驚きました。はじめからそう説明すれば良かった。
今の纏め方ですが、次から使わせてもらっていいですか?」
本気で感心、本気で提案。
いや、本気でコイツの性格わかんねえ。
「いいよ。もとからアンタの著作権だ。使いたいならジャンジャン使ってくれ」
「感謝します。今の簡潔さは、どれをとっても真実です」
「………………」
あれだけ重苦しい話をしておいて、そういう風に喜ばれても対応に困る。
……まあ、なんとなく感じていたが。
コイツ、今までの人生をわりかし気に入っているみたいだ。
「―――それはいいけどさ。そこまで話したなら最後まで聞かせろよ。
悪魔祓いでアンタ何するの」
いや、よくはない。
よくはないけど、先にこっちをハッキリさせたい。
「何もしませんが。
私には悪魔を祓う式典《こ と ば 》も秘蹟も与えられていません。私は師に付き添って歩くだけですが」
「は? 付き添って歩くだけって、それだけ?」
なんだそりゃ。
コイツの師っていうのは臆病者か。
悪魔憑きのいる町は怖いんで、一人じゃイヤだなんて理由じゃねえだろうな。
「何に憤《いきどお》っているかは聞きませんが、その短絡は間違いです。悪魔祓い《エ ク ソ シ ス ト 》になる者は悪魔を恐れません。
恐れるのは心が折れる事だけです」
「……へえ。ご立派で結構だけど、それなら一人で祓ってればいいだろ。アンタが付き合う必要はないんじゃないのか?
だいたいなんだ、被虐霊媒体質だっけ? アンタ、悪魔の近くにいると憑依者と同じ霊障を負うんだろ?
なら助手っていうより邪魔者だ。火事場にガソリン被って飛び込んでるようなもんじゃないか」
「それが私の役割です。霊障を受けること《・・・・・・・・》。それが魔を識別する最短の方法ですから。
悪魔は人の目に見えず、取り憑かれた者は変貌するまで判らない。
いえ、真性の悪魔は巧妙に、憑依者が悪魔憑きである事を隠蔽する。育ちきるまで外敵を呼ばないよう、極力霊障を抑えるのです」
「……残念ながら、育ちきった悪魔を祓う術は教会にはありません。悪魔祓い《エ ク ソ シ ス ト 》にできる事は彼らが育ちきる前に発見し、これを祓う事だけ。
悪魔となったモノは焼却するしかない。それを可能とするのは、異端審問に特化した代行者だけでしょう」
「ああ――――そういう用途なワケ」
突発的な感情で自己が揺らぐ。
少し、胸くそが悪くなった。
悪魔は人間には見えない。悪魔に憑かれたモノは、取り憑かれた本人にしか判らない。
正体を隠す魔を探し出すのは、悪魔祓いにおいて初手にして最大の難手。
熟練の悪魔祓い《エ ク ソ シ ス ト 》であっても、魔の識別は常に綱渡りなのだ。
そこでコイツが役に立つ。
周囲の悪魔やら悪霊やらと勝手やたら、それこそ淫《みだ》らに感応し、ひとりでに霊障を起こす特異体質。
教会からしてみればとびっきりの『異端』だろう。
本来なら何の役にも立たない、生きているだけで害悪な体質だが、ある一点において画期《かっき》的な効力を発揮する。
要するに。
コイツは悪魔がいれば血を流して報せる、生きた探知機なのである。
それはバリバリと音をたてて。
内側から腕を割り、足を潰し、胎《はら》を裂いて。
カタチは戻っても機能は戻らず。
くすんだ金色の目は視力などとうに失い。
鈴のような喉《こえ》も現実だと響くかどうか。
……この女の正体は。
死に至る自傷をもって人々を救う、神の使いというワケだ。
「―――なるほど、それで」
天職、とはよく言ったものだ。
「そりゃあ、聖母《マグダラ》の聖骸布にも選ばれるわ」
理不尽な痛みに耐えるには、何らかの理由が必要だ。
想像を絶する苦痛を自ら与える。
それが望まないものだとしても、自分から傷つく以上は自虐的な行為だ。
……憎しみでは己を傷つけられない。
女の行為は、愛《しんこう》がなければ出来ないコトだ。
「……一応聞いておくけど、それって拒否権はあるのか?
ねえよな。あったら断ってる」
「それも間違いです。
教会は厳格ではありますが、非道ではありません。悪魔祓いの役職には拒否権があります」
「―――なら、なんで悪魔祓いなんか手伝うんだよ、アンタ」
「そちらの方が意味がありますから。
それに、私には外も内も変わりはありません」
悪《そ》魔祓い《と》も修《 う》道院《ち 》も変わりはない。
……ああ、そうか。
包帯だらけで消毒薬くさい女だと思ったが、そりゃあ仕方ない。
人心には魔が刺すもの。
何処にいようが、コイツは勝手に傷ついていく。
「まるでゴミ箱だ。悪魔祓いを手伝う理由になってないよ、そんなの。
アンタ、グチの一つもないの?」
「自分が人に比べてハンデを負っている事は理解していますが、それも生まれついてのコトです。
恨んだところではじまりません。このように生まれついたのなら、その定めに従うだけです」
「なんだそれ。治そうとか考えないのか。病気みたいなものなら、体質改善とかしろよ」
「治療法は発見されていませんし、治したいという希望もありません。自分は不幸なのだと嘆けるだけで充分です。
―――それに、私は確かに傷を負いますが、それは私の傷ではなく誰かのものです。憐れみこそすれ、恨む事はありません」
やべえ。
なにいってんの、この女。
「そのままで、いいってコト?」
「はい。このように生を受けたのですから、その定めに従うだけです」
全てを、あるがままを受け止めると女は言った。
他のヤツならどうとるかは知らないが。
オレは、そういうのは性に合わない。
「アンタさ、何がしたくて生きてるんだ?」
「人生に意味が必要なのですか?」
「いや、そんなものは意識しなくていいけど。
アンタはさ、何もしない為に生きてるみたいだ。そういうの、頭くるんだよね」
同じようなコトを、いつか誰かがぼやいていた。
アレは―――
頑張ったヤツが報われないのはイヤなんだ。
いつ、口にしたものだったっけ。
聖人めいた、なんてコトじゃない。
だって、聖人なんていう山師は結果を与えようとはしない。ヤツラが謳う平等はそこにはないから、最後には報われますよ、なんて決して口にしない。
だから、それはなんというコトはないただの妄言。
うさん臭い、偽善ですらない幼い願いだ。
「……また空気が変わりましたね。先ほどは苛立ちでしたが、今は明らかに怒っている」
目を閉じたままでも表情が読めるらしい。
が、残念ながらちょい外れ。
俺は今《イマ》怒ったのではなく、ここにいると常《ツネ》に機嫌が悪いのだった。
「まあいいや。アンタにもポリシーがあるだろうし、いちいち口を出すコトでもなかった。
気にくわないが、思うようにやってくれ」
「―――そう。衛《あ》宮士郎《な た》は、我慢できない人なのですね」
突き放すような声。
今度はあっちの番なのか、それとも本調子になったのか。
女はこの教会に相応しい、高慢チキな目で俺を見る。
「えーと――――――なにそれ?」
「別に。貴方とよく似た人を知っているから、比べてみただけです。もっとも、その人は“我慢できる人”ですが。
何の接点もない人間だけど、面白い共通点があるものですね」
にやりと笑う。
司祭代理のクセに、悪意を見せびらかすのはどうかと思う。
「なに言ってるか分からないけど。
アンタの知ってるヤツと共通点なんかないだろ」
「知らぬは本人ばかりなり、ね。
衛宮士郎は自身の欲望を殺し、世の不条理を許せない善人。
対して彼は自身の欲望を許し、世の不公平を黙殺する悪人。
正反対の位置付けなのに共通項が多すぎる。
……ふふ。まるで、合わせ鏡の悪魔のよう」
不愉快な微笑を浮かべる。
……少し読めてきたぞ。
カレンは俺以上に主体性がないが、人の弱点を見つけると途端に興味を持って刺激してくるのだ。
厄介なのは鼻が利くというコト。
この女、人の傷痕《ほころび》を嗅ぎ分ける嗅覚《セ ン ス 》が飛び抜けている。
「…………。その、正反対のヤツってなんだよ」
「昔話に出てくる人物です。
あるところに、国中の罪を受け持って死ぬまで罰を与えられた罪人がいました。
彼はいたって善良な青年でしたが、何の意図もなく罪人に選ばれた。人の意志による行為ですが、そこに人間の意図はなかったのですから、天の意志と言えるかもしれませんね」
「……天の意志ね。そんなものに振り回されて牢獄行きか。さぞ世の中を恨んだろうな」
「いいえ。恨んだのは初めの数年だけ。彼は最後に人々を許しました。
永《なが》く転変する世界を見て―――きっと、全てを許容《ゆる》したのです」
「―――憎しみは長く続かないってヤツか?
それはほら、なんだ。加害者側のさ、都合のいい願望だろう」
「でしょうね。彼に根付いた憎悪は、もはや永劫と言えるものです。
私たちが呼吸をするように、彼は常に人を憎む。
そういう存在になっている。その憎悪はもはや生態であって感情ではない」
「その在り方で、彼は全てを肯定した。
世界は憎むに値する。人間は千差万別、何が起ころうともそれは不条理ではない。不条理には憎しみをもって相殺するから好きにしろ、と。
大抵の出来事、大勢の人間の悪意《よくぼう》を、“それも良し”と許容したのです」
「……………………そりゃすごい。
善人、じゃなくて、聖人じゃないか、それ」
「いいえ。全てを肯定するという事は、時に最大の悪性となる。
分かりませんか?
全てを許すという事は、“強者は強く、弱者は弱い”と切り捨てる事なのです」
「……加えて、彼は個人の欲望を賛美する。
本人が良《い》いと思う事をしろ、と。善悪の観念はなく、ただそうであれと肯定している」
困った人ですね、などとカレンは付け足した。
……確かに困る。
その考え方だと、結果的に犯罪《ワルイコト》を推奨してしまうからだ。
「まずくないかそいつ。アンタ、神さまの代行なんだから今の内にしょっぴいとけよ。ほら、あの赤い布とか使ってさ。捕り物は得意だったろ」
「ご安心を、捕まえるには及びません。
確かに恐ろしい存在ですが、放っておいても構わないでしょう。
基本的に、彼は無能で無害ですから」
「…………。なに、その言い分。ずいぶん酷くない?」
「事実を言ったまでです。
なにしろ、ひたすら受動的で面倒くさがり屋な性格ですから。率先して悪を行う事はありません」
「ならいいけど。
……で、そいつと俺のどこが似てるんだ?」
「分からないのですか? 本当に?
世界を愛しながら憎むか、憎しみながら愛するかだけの話なのに?
こんなにも決定的に違っていながら、ただ順序が逆なだけの貴方たちが?」
「――――――」
分からないから聞いてるんだよ、と言いかけて、途端にバカらしくなった。
そもそも俺はこんな話をしにきたんじゃない。
ただの気まぐれで足を運んで、コイツが勝手に話をするのを聞いていただけだ。
こんな、不愉快な疑問に頭を悩ます義理はない。
「質問。なんでこんな話になったんだ?」
今のカレンは明らかにスイッチが入っている。
遠坂凛によく見られる、作為的な嗜好変更というヤツだ。
「驚いたわ、それも分からないの?
貴方、本当に厚顔なのね」
「他人の喜怒哀楽に疎《うと》い、というのであれば同感だけど。
で、人を苛立たせた理由はなんだよ」
「……呆れた。いいわ、そっちなら答えてあげる。
今のは、私を勝手に計ったお返しよ」
計った……?
そのやぼったい法衣の下を想像しようとしたコトさえないが、
何もしない為に、生きているみたいだ。
まあ、わりかし図星なコトを口にして機嫌を損ねたのかもしれない。
なんであれ、教会《ここ》に居ては更に不愉快な思いをするだろう。
「帰る。そんなに話がしたけりゃ、公園で適当なヤツを捕まえろ」
得意の赤い布で、こうババーっと。
「……ですから、私はあまり外には出られません。
貴方は暇ではないのですか?」
「アンタに会うまでは暇だったけど、今は遊んでる暇はない。とりあえず目標をくれたからな、アンタは」
ああ、と納得するカレン。
そう、俺はここで今後の方針を手に入れたのだ。
コイツは貴重な情報提供者なんでこうして付き合っていたが、手がかりがないなら早急に帰るべきだ。
「じゃあな。もし次があるなら、そん時は少しぐらい役にたってくれ」
「―――約束しましょう。
次に貴方が来た時、迷っているのなら道を示すと。
……その代わりに、もう一度聞かせてください。
貴方は何の為に、この異状を解決したがるのです」
「え―――そりゃあ、おまえ―――」
…………はて、なんでだろう?
なんで俺は、こんなにも異状の解決に執心しているのか。
どうせ四日目が過ぎれば、何もかも無かったコトになるってのに。
「――――――いや、それは」
「……愚問でしたね。
我慢できない人、と言ったのは私です。
衛宮士郎にとって、困っている人に手を差し伸べるのは当たり前のことでした」
「あ」
ぽん、と疑問が氷解する。
言われてみればそうだった。
思い返す必要のないコトだから、理由にさえなってなかったのだろう。
……信じられないが。
この頭は、そんなコトを考えるのだ。
席を立つ。
女はまだ何か言いたそうに俺を見ている。
「……そんなにこの場所が嫌いですか。
それとも、ここより街での生活の方が刺激的ですか?」
「―――半分あたりで半分外れだよ。
ここは嫌いだけど、街をブラつくよりは、まあ、新鮮味があって悪くない」
たまには違った味を食べないとご馳走も飽きてしまうと言うし。
日常はただそこにあるだけで充分なんだ。
刺激とか感動とか、そういうのは、忘れた頃にやってきてくれればいい。
「じゃあな。そんなワケなんで、ここもアンタも気にくわないけど、気が向いたらまた邪魔するよ」
日常に向かって歩き出す。
「衛《あ》宮士郎《な た》の毎日は楽しいですか?」
「―――どうだろう。
とりわけ感謝しなくちゃいけないほど、強烈に楽しいってワケじゃないが」
白状すれば。
楽しいというより、眩しくてたまに辛い。
しみったれた教会を後にする。
オルガンの毒も薄れて、ようやくマトモな思考が戻ってくる。
衛宮士郎にとって誰かを助けるコトは当たり前だ、とカレンは言った。
「……………あれ?」
しかし。
一体俺は、誰を助けようとしてるんだろう……?
◇◇◇
/Forest
フォレスト
老魔術師《ドルイド》は語った。
この日、幼き手に槍持つ者はあらゆる栄光、あらゆる賛美をほしいままにするだろうと。
この土地、この時代が海に没するその日まで、人も鳥も花でさえも、彼を忘れる事はない。
五つ国に知らぬものなく。
彼を愛さぬ女はおらず、彼を誇らぬ男はおるまい。
槍の閃きは赤枝の誉れとなり、
戦車の嘶《いなな》きは牛奪りを震えさせる。
いと崇《たか》き光の御子。
その手に掴むは栄光のみ。
命を終える刻ですら、地に膝をつく事はない。
……だが心せよ、ハシバミの幼子よ。
星の瞬きのように、その栄光は疾《と》く燃え尽きる。
何よりも高い武勲と共に。
おまえは誰よりも速く、地平の彼方に没するのだ―――
―――六年前の春。
私は、おかしな男と知り合った。
魔術協会に招かれてから二年。
私は形式だけの居場所を与えられ、何を求められるのでもなく放置された。
使い道のない骨董品と同じだ。
由緒正しいモノであるから大切に扱うが、その実、誰も手に取ろうとは思わない。倉庫の奥に仕舞われ、いずれ忘れ去られるだけの存在が私だった。
無論、それでは意味がない。
私は朽ち果てるのが怖くて故郷を後にした。
何も分からないクセに、漠然と、自分に出来る事をしたくて外に出たのだ。
骨董品である以上、私には価値がなかった。
評価を得る方法は簡単だ。何が出来るのか、どんな用途があるのかを提示すればいい。
私は私の出来る事―――多くの魔術師が嫌がる役割、血生臭い清掃を率先して引き受けた。
実戦における魔術の運用。
それが私の得意科目。今も昔も変わらない、他人《ひと》より優れた才能だった。
そうして。
何度目かの荒事をこなした後、魔術協会は私の価値を認め、一つの役職を与えてくれた。
協会を束ねる貴族《ロ ー ド 》たちは優雅に、見下すように、厄介ものを追い払うように宣言した。
まだ若輩の身ではあるが、特例として、バゼット・フラガ・マクレミッツを封印指定の実行者に任命する、と。
封印指定。
それは特別な才を持った魔術師に与えられる称号であり、協会から下される勅令である。
学問では修得できない魔術。その血、その体質のみが可能とする一代限りの魔術保有者を“貴重品”として優遇し、協会の総力をもって“保護”するという令状。
聞こえはいいが、つまるところは幽閉である。
魔術協会は後世に伝える貴重なサンプルとして封印指定を受けた魔術師を捕らえ、その性能が維持された状態のまま保存する。
端的に言えば、ホルマリン漬けの標本と大差はない。
協会にとって善意で行われる封印指定も、選ばれた魔術師からしてみれば死刑宣告に等しい。
大半の魔術師は協会の勅令を退け、逃亡する。
それが死刑宣告だからではない。
封印指定を受ける者は、みな際だった“魔術師”である。
彼らが優先するのは魔道の探求だ。自分の命なぞとうに興味はない。
日々研究に腐心する彼らにとって封印指定など言語道断。ホルマリン漬けにされては、それ以上魔術を学ぶ事ができなくなる《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
そういった理由で、彼らは協会から離れ野に下る。
何の為かは言うまでもない。
俗世にまぎれ、思う存分、やりたい放題に、己が研究《まじゅつ》を極め尽くす為である。
封印指定を受け野に下った魔術師は、大きく二つの部類に分けられる。
一つめは完全に消息を絶ち、魔術を隠匿し血族のみに伝え学ばせる隠者。
こちらは堕落した魔術師だ。
その才能が埋もれてしまう前に発見し保護しなくてはならないが、反面、危険性はゼロに近い。
よほどの才能でなければ協会も追っ手はかけない。
二つめは自らの領地に引きこもり、全力をもって魔術を極めようとする賢者。
こちらはより高みを目指す優れた魔術師だ。
その才能は一段と研ぎ澄まされ、数年を待たずして協会は大きな成果を得るだろう。
が、そこには一般の道徳や正義は存在しない。
タガが外れた賢者は神秘の成就のみを第一とし、無関係の人々を犠牲にする。
……問題はある。
問題はあるが、うまくやってくれる分には協会も様子を見る。成果が出るまで放置する。何しろ、協会《か れ ら 》の正義は魔道の探求に他ならないのだから。
だがうまくやらなかった場合―――魔術協会の大原則、“神秘は隠匿すべし”が破られた場合、早急に彼らの愚行を中断させる。
神秘《オカルト》の浸透を防ぐ為だけではない。
貴重な封印指定《ざいさん》を守る為に、彼らの肉体だけでも保護するのだ。
事が公になれば、正義の名の下に賢者を処罰する勢力が現れる。
目下の所、最大の敵は聖堂教会の異端狩りである。
彼らは賢者ばかりか賢者の築き上げた知識すら焼却する。
賢者の凶行を止めるという方針は同じだが、最終的な目的が協会《われわれ》とは正反対だ。
魔術協会と聖堂教会は不可侵を保ってはいるものの、記録に残らない程度の争いは続いている。
いや、記録に残さない事を前提に、今も殺し合いを続けている。
結果―――私の仕事は、狂った賢者たちの魔窟に挑む事と、教会の代行者たちとの戦いになっていった。
それが日常になって一年が経った頃。
私は封印指定の実行中に、敵であるその男と知り合った。
聖堂教会の代行者《エクスキューター》。
神の名の下にあらゆる咎人を肯定《だんざい》する、その神父と。
「手を組まないかお嬢さん。
お互い最後の一人だ、ここで潰し合うのは得策ではない」
ごく自然に、神父は協力を申し出た。
彼は連れ立った仲間をみな失い、私のチームもほぼ壊滅。
屍を用いて魂の再現を謀る魔術師の庭で、私たちはただ二人生き残った生者だった。
通常、いかに窮地とは言え、代行者が法王ないし司教の許しなく魔術協会と手を組む事はあり得ない。
代行者とは最高純度の信徒である。彼らは自らの信仰を守る為、異端である私たちとは交じり合わない。
だが、この神父は特殊だった。
魔術師に対して理解があるのか、軽蔑する様子もなく、むしろ同胞のように温かい笑みで私を迎えたのだ。
「……協力しあう事に異論はありません。
ですが、私たちは仲間ではない。結局、最後には奪い合う事になる。そんな相手に背中は任せられない」
私は封印指定の魔術師を回収しなければならず、
神父は魔術師の命を奪わねばならなかった。
このまま協力して事を成し遂げたところで、最後にはこの神父が敵になるのだ。
「それは要らぬ心配だな。私の仕事はあの男を殺す事だけだ。後の事はそちらに任せる。亡骸をどう扱おうと私には関係のない話だ」
神父は言った。
肉体は私にやる。
自分は、魂《いのち》さえ消せればそれでいいと。
「……いいでしょう、その言葉を信用します」
一体、あの言葉にどれだけの重みがあったのか。
私は自分でも驚くぐらい、あっさりと神父の言を信じた。
この男は危険だ。聖者とはほど遠い毒を持った男だと肌で感じていたのに、手を取ってしまった。
……後にして思えば。
たしかに、この神父は聖者ではなかったけれど。
それまで知りあってきた人間の中で、唯一尊敬できる強さを持った人間だったのだ。
「私はバゼット。魔術協会から派遣された魔術師です。貴方は―――」
仮初めの協力関係を得る為、私たちは名乗りあった。
それから二日後。
私たちは屍遊びに興じる魔術師を処理し、お互いの居場所に戻っていった。
正直に言えば、再会の予感はあった。
私は封印指定の魔術師を追う。
神父は代行者として異端を狩る。
彼には魔術に関する知識があり、死徒や悪魔憑きよりは魔術師狩りに配置されるだろう。
私たちは競争相手としてうまく噛み合う。
一度目はただの偶然。
二度目と三度目は、きっと、無意識で望んだ必然だった。
私たちが出会うのは決まって一人になった頃だった。
もっとも、私はこの頃から単独行動をしていたので、仲間を失っていたのは彼だけだったが。
私たちは三度、背中を任せて戦った。
お互い組織に報告せず、秘密裏に行った事だ。
自身の判断で信頼するに足ると判断し、手を取り合う。
そんな些細な秘め事が、少しだけ微笑ましかった。
「……そうして、その少年は自分から成人の儀を迎えたのです。
一人のドルイドが、その日に戦士になる者の未来を占った。
川瀬に映った未来は不吉なもので、今日戦士になる者は最大の栄光を得る代わりに、誰よりも早く命を亡くすというものだった」
「集まった少年たちはみな恐れて動かなかったのに、占いに無関心だった少年だけは迷う事なく王の下に駆け込んで、今すぐ自分を戦士として認めてくれと言うのです」
「王はさんざん少年を止めるのですが少年は聞かず、ついに戦士として認められました。
その後の話は神話の通りです。アルスターの猛犬の英雄譚はご存じでしょう?」
三度目の協戦の夜。
夜の静けさに耐えられず、私は仕事とは無関係の話をした。
故郷の昔語を、なんとなく口にしていたのだ。
「いや、そちらの話には疎くてね。聞き覚えがあるのは名前までだ。寝物語に語ってもらう分には構わんが、さて。本題は別の所にあると見た。
……そうだな。おそらく、君はその少年の行動に苛立ちを覚えてしまった。
こうして成長した今でも、彼の決定を怖がっているのだろう?」
陰鬱に笑って、神父は私を見る。
「――――――」
……この男に隠し事はできない。神父は容赦なく私の心を見透かしてしまう。
本来なら畏怖すべき事だ。けれど私は、この男に心を暴かれると逆に安心できたのだ。
「……恐れている訳ではありませんが、少年が何処に着目していたのかが分からない。
その日に戦士になれば最高の栄誉を約束されるが、誰よりも早く命を落とすとも予言された。
なのに少年は恐れず、何の戸惑いもなく王に“今すぐ武者立ちがしたい”と告げるのです」
「王に理由を問われても一切答えず、とにかく戦士になりたいの一点張り。
そうして成人の儀を進めていくのですが、少年には占いに対する希望も不安もまったくないのです。
占いなどどうでもよく、戦士になる喜びだけで満ちていて、戦士になろうとした理由がいつのまにか消えているようだった。
……正直。私には、彼が何を見ていたのか分からない」
短命の運命は恐ろしいが、その代償としての栄光を良しとしたのか。
栄光だけに目を奪われて、短命の運命には気を配らなかったのか。
それとも―――
「栄光か短命か、どちらに重きを置いたのかを知りたいと?
……さて。聞いた限りでは、そのどちらでもないように思えたが」
「どちらでもない……? 少年は予言を聞いて戦士になろうと決意したのに?」
「決意をしたのではないよ。予言を聞き、その内容を吟味する事なく少年は走り出したのだろう?
なら、少年は最初から《・・・・》その予言を知っていたのだ。
きっと自分はそういう風に生きると。そんな確信が生まれた時からあったからこそ、ドルイドの予言に従ったのではないかな」
「――――――」
生まれた時から確信していた。
少年はドルイドの予言を恐れず、疑わず、それが自分に与えられた責務として受け入れた。
―――そうだ。
私が怖かったのは、私が悲しみを見いだしたのはその一点。
短命と分かっても栄光を選んだ潔さではなく。
そもそも、そんな非業な運命を変えようとさえしなかった英雄を、私は畏れていたんだ―――
「……まいりました。私は何度もあの昔話を読んだのに、そんな事さえ思わなかった。
……昔話の少年と貴方は、何処か似ているのかも知れませんね」
「失敬な。私はそこまで考えなしではない」
「―――え」
目を疑う。
気に障ったのか、神父は拗ねるように呟いた。
初めて見た、人間らしい感情だったと思う。
「なんだ。異論があるとでも?」
「え、いえ、今のは失言でした。私が言いたいのは生き方の話です。少年に確信があったように、貴方も人生に確信を持っている人ですから」
「―――ほう。確信とは、どんな?」
「誰も必要としていないところ。
貴方には、最後まで自分だけで生きていく覚悟がある。
……本当は私の手を借りなくてもいいのです。ただ、効率がいいから付き合っているだけでしょうに」
「―――――――――」
もう一度、陰鬱に神父は笑った。
その肯定は、少し―――分かっていたコトでも、私には辛かった。
……三度だけの協定。十日に満たない時間だったけれど、彼がどんな人間であるかは痛いほど感じていた。
この男は、決して人と交わらない。
誰も必要とせず、誰を憎んでもいない。
人として完結した強さ、通常の道徳《かんかく》なら遠ざかりたくなる『異物』だ。
けれど、だからこそ裏表がなく、一言で“悪”と言いきれる。
……そんな危険な男のどこに惹かれたのか、今でも分からない。
ただ思ったのだ。
この、誰も必要としない男にもし必要とされたのなら、それは何物にも勝る安心なのではないかと―――
「どうした、考え事か。
……まったく、悩み事が多い女だ。話が済んだのなら眠っておけ。一時間半で交代しよう」
火に薪をくべながら神父は言う。
私は、つい
「―――生憎《あいにく》凡人なもので。私は貴方のように自信をもって生きられない。つまらない疑問だらけだ。
……時に、生きている事さえ苦しく思える」
もっと深い、古くて弱い本音を口にしてしまった。
「――――――」
二つ目の薪がくべられる。
……失言だった。きっと失望させてしまった。彼は私が機械のように役割をこなすから声をかけたのだ。
こんな、まったくの他人に弱音を吐く私など、彼は必要としまい。
……沈黙が重い。
私は怖くて彼を見る事もできない。
その中で、何事もなかったかのように、
「生きているのが苦しいのではない。
君は、呼吸をするのが厳しいのだ」
感情のない、けれど真摯な声でそう告げた。
「え……?」
「その厳しさは容易には取り除けない。自分が解らないのなら、世界を知って計る以外に方法はないからだ。
バゼット・フラガ・マクレミッツ。自身がこの世界に不要だと思うのならば―――おまえは、おまえを許す為に、多くの世界を巡らねばならない」
海を渡り、空を越えて。
ちっぽけな自分、ちっぽけな国を捨てて、旅行鞄一つで世界を巡れと彼は言った。
大航海時代。
この海の向こうには、未だ自分たちの知らない楽土があると信じた船乗りのように。
「貴方は、渡った?」
自然に声が出た。
彼流に言えば、確信があったからだ。
彼も私と同じで、息苦しい時があったのだと。
「いや、まだ途中だ。―――若い頃に躍起になったが、何年か前に大きな事件があってね。それ以来、己を許す必要はなくなった」
大きな事件……?
魔術師狩り……ではないようだ。
この神父は私の知らない所で、大きな戦争を経験したらしい。
「……それで。貴方は、何を許そうとしたの?」
「生まれつきの悪癖だよ。私はどうも、物事を愛する事ができなくてね。人並みの道徳が欠如している。その間違いを容認できなかった」
神父の言葉は過去形ではない。
この男は、今も人を愛せずにいる。
「……それは、解決しなくて良かったのですか?」
「ああ。人並みに愛情は持てずとも、物事を美しいと感じる事はできる。その基準は君たちとは違うが、愛情という物がある事に変わりはない。
我ながら間の抜けた話だ。そんな事にさえ、若い私は気付かなかった」
神父の声に迷いはない。
彼は過去を悔やみながらも、終わった事だと乗り越えていた。
「では、今はもう迷いはないと?」
「そうだな。今は己を許すのではなく、私という人間を容認した理由《ワケ》を知りたい。
私に、もし自分の人生があるのなら。
残る全ての時間を、答えを得る為に使おうと思っている」
「けど、貴方の疑問に答えられる人はいないのでしょう?」
「そうだな。まだ答えを出せるモノは生まれていない。いつか、その機会が訪れるといいのだが」
表情は温かだった。
神父は自らの赤子を愛でるように、燃えさかる火を見つめている。
「……意外ですね。貴方にもまだ悩みがあったとは。私も、少し自信がつきました」
温かな笑みが嬉しくて、私も笑みを浮かべる。
「それは結構。人生の先輩として、役に立ったのなら幸いだ」
神父は満足そうに目蓋を閉じる。
……無駄な話はこれで終わりだ。
私たちはそれぞれの役割に戻り、明日の戦いに備える。
「では、先に眠ります。時間になったら起こしてください」
「承知している。敵地だからな、あまり夢を見ないコトだ」
……目蓋を閉じる。
疲れていたのか、眠りは思いのほか深かった。
故郷の夢だ。
灰色にくすんだ廃港から、船に乗って異国に渡る夢を見た。
それがあの神父との最後の会話。
以来、私たちがバッティングする事はなくなった。
……けれど、必ず機会はやってくる。
私たちは競争相手としてうまく噛み合っている。
彼が死なない限り、そして私が封印指定を続けるかぎり。
いつかきっと、あの話の続きが出来るのだから―――
◇◇◇
その過去は既に
港にはおなじみの顔があった。
どこにでも顔を出すランサーだが、午後はこうして趣味に勤しんでいる。
さて、どう声をかけたものか。
……過去の話はどうだろう。
あいつが今の状況をどう思っているかも気になるが、昔の事をどう思っているかも気になる。
セイバーは強い自戒を持っていた。
日々飄々と生きるあいつにも、過去に未練があるのかもしれない。
「未練? 無念はあるが、まあ、未練はないわなぁ」
と。
まったく当たりのない釣り竿を眺めながら、アイルランドの非業の英雄は返答した。
「……そんな気はしてたけど。ホントにサッパリしてんだなアンタ。他のサーヴァントはさ、なんだかんだいって郷愁の念があったりするのに」
「へえ、そりゃ驚いた。今になって故郷に錦を飾りてぇ、なんて連中には見えないがねぇ。
……ああ、キャスターあたりは未練タラタラか。
ありゃあもともと箱入りのお嬢様だからな、城に閉じこもってた方が幸せだろうさ。その方が手前《テメ エ 》と世の為だ」
ふわーあ、などと大欠伸をするランサー。
当たりがないのが気にくわないのか、そもそも昔話は性に合わないのか。
ランサーはかつてないほどのやる気のなさだ。
「じゃあ、仮に聖杯を手に入れた所で望みはなかったのか。人としての二度目の生とか、過去に戻りたいとか」
「さあな。ふって湧いた望みなんざ、その時になってみねえと思いつかねえだろ」
これである。
宵越しの銭は持たないというヤツだ。
欲しいものは生きているうちにあらかた手に入れている。祭りが終わった後、“こうしておけば良かった”なんて未練を残している筈がない。
「豪快な人生だなあ……って、そうだ。
なあランサー、よかったらアンタの話を聞かせてくれないか。よく考えたら、俺アンタの逸話には詳しくないんだ」
「ああ? んなもん聞いても、今さら何の得にもならねえだろうが。それとも何か、あんがい乗り気なのか、おまえんとこは」
「いや、俺もセイバーも戦う気はないよ。
アンタが乗り出してこないのは有り難いって、前に言わなかったっけ?」
「あー……聞いたような聞かなかったような。ま、おまえさんが言ったっていうんならそうだろうさ。
じゃあなんだ。単純に他人《ひと》の身の上話が聞きたいだけか?」
「そ。下心のない、純粋な興味だよ」
「………………まあいいか。
当たりもねえし、暇潰しにザッと話してやる。おまえには叩き込んでおきたいコトもあったしな」
気怠そうだったランサーの面持ちがわずかに変化する。
リラックスしていた両肩はいっそう力が抜け、海面に注意を払っていた目はだらしなく空を眺める。
要するに、更にやる気がなくなったのだ。
ランサー。
クーフーリンは、古アイルランドに語られる英雄である。
彼の大地は五つの国に分かれ、クーフーリンは北方のアルスターの王・コノール王に仕えた戦士だ。
ケルトの神話なのでこちらでは馴染みは薄いが、あちらでは彼《か》のアーサー王を凌駕する大英雄である。
その出生は中々に込み入っている。
クーフーリンの母デヒテラはコノール王の父・赤王ロスの妃であるマガと優れたドルイドとの間に生まれた姫だった。
デヒテラ姫は誰に嫁ぐ事もなく常若の国に消え去り、そこで太陽神ルーとの間に子をもうける。
これがセタンタ―――後にクーフーリンと呼ばれる赤子である。
セタンタはコノール王の軍勢に“いずれアルスターの盾となるもの”として贈られ、その運命通りの人生を送る事になる。
セタンタがクーフーリンと呼ばれるようになったのは、彼がまだ少年の頃、刀鍛冶クランの番犬を素手で殺してしまった事に由来する。
ある日、コノール王は名高い刀鍛冶クランの館に招かれた。
王は少年であったセタンタも連れて行こうとするのだが、セタンタは仲間たちとハーリングの試合の最中だった。
ここで自分が抜けては試合に負ける。試合に勝ってから追いつくので、どうぞ先に行ってください―――
少年《セタンタ》の言葉に気を良くした王は遅れる事を許し、一足先にクランの館に向かっていった。
不幸は、クランの従者が不注意に門を閉めてしまった事から始まる。
遅れてやってきたセタンタは番犬に襲われ、これを絞め殺してしまう。
騒ぎを聞きつけ館中の人間が集まってきたが、セタンタが番犬を返り討ちにした事を知るとみな驚き、これをそろって褒め称えた。
だが自慢の番犬を失ったクランの目にはわずかな悲しみがあり、セタンタは己が浅慮を恥じ、こう告げた。
『この犬に子供はいませんか。いるのならその子を私に預けてください。父に負けぬ立派な番犬に育て上げます。その時が来るまで、私が貴方の番犬となりましょう』
刀鍛冶クランは少年の申し出に感銘を受け、確信を持って言い返した。
『その必要はない。私の館を守る番犬は私が育てる。おまえはおまえ自身を鍛えるのだ。いずれその身は、必ずやアルスター全土を守る番犬となるだろう』
集まった戦士たちは皆一様に頷いた。
以後、少年は“クランの猛犬《クーフーリン》”と呼ばれるようになる。
少年の初めての戦い。
その後にあった、尊い申し出を讃えるように。
「それぐらいは知ってるけど……その頃、アンタいくつだったんだ?」
「今のおまえよりは若かったか。まだ戦士になってなかったからな。うちの国じゃあ、赤枝の騎士になる前に幼年組ってのがあってな。まだ成人してない戦士見習いの集まりがあって、オレはそこの一員だった」
「げ。じゃあなに、十二、三ぐらいで国一番の猛犬を絞め殺したのか」
「勢いだよ勢い。命を奪うっていうのは、アレが初めてだった。以来、犬だけは食わないってのがオレの禁戒《ゲッシュ》になったがな」
どこまで本気なのか、共食いになるだろ、などと軽口を言う。
「まあ、そんなこんなで名前が変わってしばらくたった頃だ。幼年組の連中が一人のドルイドの下に集まっていてな、いつ戦士になれば良《い》い運命をもらえるか占ってくれ、なんて騒いでいやがった。
そのドルイドはまあ、なんだ、わりと力のある爺さんでよ、そいつの占いっていうのは“未来を見る”じゃなくて“未来を決める”ほど強いんだよ。爺さんは困ってな、それじゃあ今日戦士になる者だけを占おうって事になった」
「へえ。で、その結果は?」
「どうってコトぁない結果だったぜ。幼年組の連中が誰も武者立ちの儀をしようとしなかったぐらいの、しょっぼい結果だ」
「……ふうん。アンタは何してたんだ?」
「興味がなかったんで、ハシバミによりかかって魚釣ってた」
「…………わるい。今の話、どんな意味があったんだ?」
「わかんねえか?
つまりだな、オレはその日に武者立ちの儀を行ったんだよ。
王さまはカンカンでな。おまえのような子供が戦士になってどうする、成長するまですこやかに育つがよい、とかなんとか。
あったまきたんで城中の槍をへし折って戦車をぶち壊して、これでも戦士になるには力不足かって脅迫した」
「………………」
お、王様相手に脅迫ときたか。この男、もしかして、昔より随分と丸くなっているんだろうか?
セイバー曰く、バーサーカーのクラスにも該当するという話だったんで、まさかとは思っていたが。
「それで戦士になったのか。
……えっと、赤枝の騎士団だっけ?」
「ああ。セイバーあたりに言わせれば騎士道なんてもんじゃねえけどな。
なにしろ不忠さえしなけりゃ好きに戦っていい世界だ。
気が向いたら余所の領土にケンカうって、その晩には宴を開いてそれっきり忘れるなんてザラだぜ。
騎士団の面々もクセ者だらけでよ、他の国より自分の国の方が油断ならねえって所だった」
少し楽しそうに笑う。
……そうか。この自由奔放さは、生き抜いてきた世界の違いだ。
その誇りは人のように込み入ったものではなく、獣のようにシンプルなのだ。
「で、戦士になってからは戦いに明け暮れた。
そのうち一人の姫に一目惚れしてな、城まで奪いにいったんだが、この姫がまたいい女でよ。
何の誉れもない子供の炉ばたに行く気はねえ、とか言いやがんの」
「待った。子供って、アンタその時何歳だ」
「あー、たしか十六の頃だったか。で、誉れを求めて旅に出た。
影の国ってところにスカサハって女戦士がいてな、こいつが化け物みたいに強いらしい。噂じゃ多くの戦士が弟子入りしてるって話だった」
その先は知っている。
クーフーリンは魔境とも言える影の国に辿り着き、そこで女領主スカサハから跳躍の秘奥と、魔の槍ゲイボルクを授かるのだ。
「簡単に言ってくれるな。あの女のスパルタぶりっていったらおまえ、トオサカのお嬢ちゃんが裸足で逃げ出す程だぞ?
とにかくとんでもねえ女でな、オレが着いた頃には人間やめてたんだよ。……影の国ってのはまあ、幽世《かくりよ》よりの領地だったからな。あの女はそこで亡霊どもを窘《たしな》める門番になっちまってたワケだ」
「亡霊の中には神さま紛いの輩もいる。
それを人間の身で閉じこめる程の槍捌《さば》きだ、どのくらいブッ飛んでるか分かるだろ?」
「分かる。遠坂のパワーアップ版って表現で、怖いぐらいに」
「おうよ。で、その怖い師匠の下には他にも教え子がいてな。
みなスカサハに教えを受けに来た戦士なんだが、その中でも一人、オレとどっこいのヤツがいてな。
フェルディアって言うんだが、隣国コノートの戦士でね。ゲイボルクの伝授をかけて競い合ってたら、いつのまにか兄弟の誓いを交わしちまった」
「……まあ、なんだ。
オレには三人ばかり得難い親友がいたが、その中でも特別な兄貴分だった」
こうしてクーフーリンは様々な技術、魔術を学ぶ。
……しかしなんだ。今まで知っていたクーフーリンの武勇伝が、まさか十六歳の間に行われていた事だったとは。
聞いた限り、この男は毎日全速力で暴れ回っていたようだ。
それこそ、生き急ぐ駿馬のように。
「そうでもねえよ。影の国には長く滞在してたしな。
いい師匠といい競争相手がいたもんで居心地よかったんだよ。
で、その居心地のいい領地を狙うバカが現れてな。隣国のアイフェって領主が戦争しかけてきやがった。
スカサハはなんでかオレを戦場に出そうとしなくてよ、何度も言い争ったもんだ」
「まあ、それでも最後にはオレとスカサハとフェルディアで肩を並べて暴れ回って、一騎討ちの末アイフェを生け捕りにした。
だがまあ、なんだ。初めは憎い敵だったんだけどな。いざ戦って捕まえてみると、これがいい女なんだわ。
そんなワケで真剣になっちまったんだが、スカサハにバレて石投げられた。ゲイボルク風味に」
はっはっは、とやけくそ気味に笑うランサー。
そっか、敵の領主って女の人だったのか、て―――
「待った。真剣になったってそういうコトなのか!?」
「そりゃそうだろ。惚れたら抱くのは当たり前じゃねえか」
「が」
―――そうだった。英雄色を好む、このあたりの戦士たちはそれはもう節操なしなのであった……!
「それでも別れの時はやってくる。
アイフェとも別れた。もし子を成したのならコンラと名付けてアルスターに寄越してくれと。その時は三つの誓いも付けさせてな。
一つ、名を訊ねられても答えるな。
一つ、決して進む道を変えるな。
一つ、戦いを挑まれたら断るな。
ま、オレの息子としちゃあ最低限の条件だな」
「んで、オレとフェルディアは同じ日に影の国を旅立った。
城を出た時、同時に口にした言葉が“オレの国に来る気はないか?”だ。こりゃ引き抜きは無理だ、と二人して笑ったもんさ。
スカサハは―――まあ、旅立ちの日には会わなかった。全て伝授したんで教える事は何もないってな」
それが影の国の物語だ。
以後、ランサーの語りは饒舌さを失っていく。
アルスターに戻り、クーフーリンはそれはもう派手な戦ばかり起こし、またたくまにアイルランド全土に知れ渡る戦士となった。
誰も真似できぬ程の武勲をたて、約束通り姫を迎えに行き、姫を渡すまいとするフォルガル王とその軍勢を文字通り皆殺しにし、アルスター一の戦士の誉れを賭けた騎士団内の争いにも勝利する。
華々しい経歴は、同時に英雄クーフーリンの青春時代でもあった。
これ以後。
クーフーリンの戦いは、常に重い影を背負ったものとなるからだ。
「隣国のコノートってのは代々女王が実権を握っていてな。女王メーヴは戦争好きで負けず嫌いの女でよ。まあ、色々あってアルスターに進軍してきたワケだ」
「そもそもコノートが攻め込む理由の一つに、フェルグス叔父貴が離反したってのがあってな。
うちの王様も面白おかしい御仁で、まあ、若い女欲しさにフェルグス叔父貴の息子たちを殺しちまったのが原因なんだが」
「……あのさ。フェルグスって、たしかアンタをデヒテラ姫から受け取った騎士じゃなかったっけ?」
「ああ。で、赤枝騎士団の誉れである叔父貴はアルスター王憎しで敵国コノートに仕えちまった。
女王メーヴの強気は叔父貴が一枚かんでたんだな。
おまけにアルスターの人間にはちょっとした呪いがかかっていてな。他国に攻め入られると、国中の男が衰弱して戦えなくなるんだよ」
「はあ!?」
なにそれ。
つーかなんでそんな状態の国が繁栄してたんだアイルランド!
「どど、どうなったんだよそれ! 戦えないってことは、略奪され放題ってコトじゃんか!」
「泣きっ面にハチだよなあ。ただ、オレは厳密にいうとアルスター生まれじゃない。妖精塚生まれだからな。そういうワケで、オレだけは五体満足で動けたワケ」
「後は分かるだろ?
メーヴの軍を毎日殺し回って、あっちが参ってきたところで交渉したんだよ。これからの戦争は一対一の決闘に切り替えようってな」
「オレはアルスター峡谷の川瀬で一騎討ちをする。
その一騎討ちをしている間だけコノート軍は進軍していいってな。
一日五千人を殺されるか、一人の被害ですませて少しだけ軍を進めるか。
メーヴは舌打ちしながら了承して、そっから毎日決闘が始まった」
「へえ……」
それが世に言うクーフーリンの誓いのルーン。
名誉をかけた一騎討ちを約束する、四方を枝で囲んだ決戦場《アトゴウラ》か。
「考えたもんだ。
クランの番犬が一騎討ちに負けるワケがなし、コノート軍はそこで足留めか」
「いや、メーヴは条約を破って進軍したぜ。
それでもまあ、衆目の中で交わした誓いだからな。
進軍と言っても人目につかない程度の一部隊だ。結果的には最良の足留めになっただろう」
「で、問題はオレの方の一騎討ちでな。
死なすには惜しい戦士から、おかしな戦女神の妨害、二十八人《クラン・カラ ティン》の怪物と、まあ本気でやばかった。情けねえコトに、疲れからまる一日眠り続けた時もあったしな。
で、まだ戦士にもなっていない幼年組がクーフーリンを助けるんだ、なんて一致団結しちまって、逆にメーヴに皆殺しにされたのも、まあ、オレのヘマと言えるかな」
「………………」
失言だった。
川瀬の攻防は、英雄クーフーリンを以てしても死地だったのだ。
その、生涯でも一二を争う死地の結末が、
「コノートには最強の戦士がいる。
オレがこの世でただ一人、戦いたくなかった男だ」
影の国で共に学んだ戦士。
クーフーリンが兄と慕ったフェルディアとの決闘である。
この戦いはフェルディアの意志ではなく、女王メーヴの奸計だった。
両者にどれほどの葛藤があったのか、ランサーは語らなかった。
共に主君に仕える身。
おそらくは互いの友情より価値のない名誉を守る為に、その命を捨てねばならない。
実力は伯仲しており、追いつめられたクーフーリンはゲイボルクを以てフェルディアの心臓を貫く。
影の国から今までただの一度も使わなかった魔槍を、掛け替えのない親友に、この男は放ったのだ。
“―――ゲイボルクは最も優れた戦士に贈られる誉れ”
クーフーリンは倒れ伏す兄弟子を抱え、
“あの輝かしかった学舎で。おまえこそが、我々の誇りだった―――”
フェルディアは今生の別れを告げた。
……この戦いの結末は、敵国コノートの敗北で終わる。
なんとか衰弱から回復したアルスターの戦士がコノート軍を追撃し、これに大打撃を加えたからだ。
戦いの末、クーフーリンは女王メーヴを生け捕りにするが、これを殺さず、辱める事もなく、王として扱いコノートに返還したという。
「ここでも敵の大将を見逃してやってるんだ。
……アンタ、女の人を殺した事はなかったんだな」
「そういう事になるな。
拘りがあったワケじゃねえから偶々《たまたま》だが―――まあ、戦いで女を殺すのは好かねえな」
それは好く好かない以前の問題なのだろう。
愛そうが憎もうが関係はない。
サーヴァントとなった今はともかく、クーフーリンという英雄にとって、戦場で女性を殺めるのは好ましくなかったという事か。
「それからの話は?」
「あとはそう大きな戦いはねえよ。
あー……そういえば海岸にヘンなガキがやってきてな、諍《いさか》いを起こしたんだ。
生意気なガキでよ、話しかける戦士をのきなみ叩きのめしちまった。王さまもでばっちまって、この子供を倒せるのはクーフーリンだけであろう、とかな」
「……うちの姫さんがオレを止めたのはこの時と最期の時だけだったっけ。
行ってはなりませんって泣かれちまったんだが、王の勅命じゃしょうがねえ」
「で、海岸でそのガキと戦ったんだがこれが強くてな、ゲイボルクを使うしかなかったんだ。
やっちまった後でよ、『それは、教えてもらえなかった』とか言ってくたばりやがんの。スカサハの弟子だったんだろうよ。
ああ。ちなみに、そのガキの名前はコンラって言うんだけどな」
「――――――」
それが英雄クーフーリンの、黄金期の幕である。
以後は語るまでもない。
復讐を誓う女王メーヴはクーフーリンに恨みを持つ諸国の猛者を集め、様々な奸計をもってクーフーリンを追いつめる。
彼はまたも衰弱に襲われたアルスターを守る為、単身でメーヴの軍勢に挑み、十重二十重の罠を受けた末、無惨にも殺される。
あまりにも多くの武勲をあげ、アルスターの盾となった大英雄。
その栄光に比べ、彼の生涯は意外なほど短い。
少年のまま戦士となったクランの番犬は、それこそ駆け抜けるように、その人生に幕を下ろしたのである。
以上がクーフーリンの物語である。
そろそろ日没だ。
軽い気持ちで訊ねたのだが、随分と時間をくってしまった。
「そろそろ帰るよ。長話、サンキューな」
ふん、と鼻を鳴らして顔を背けるランサー。
ガラにもないコトをしたと後悔しているんだろう。
「あ。そうだ、忘れてた。
一番初めの、叩き込んでおきたいコトってなんだったんだ?」
「分からねえか? オレぁ、女殺しと主君殺しはしてこなかったってコトだ」
「あ、なるほど」
度重なる戦い、無茶な王命を一度もクーフーリンは放棄しなかった。
彼の物語は、そういった事実を告げてもいたのだ。
「参考になりました。このお礼は、いずれまた」
「おう。タイガの姉ちゃんに酒でも預けといてくれ」
港を後にする。
……いや、おみそれしました。
まさか、こんな段階で先手を打ってくるとはね―――
◇◇◇
スクールメイド
なんとはなしに屋上に来た。
天気もいいし、気晴らしに日向ぼっこでもしようかと人のいない屋上を―――
―――って、ちょっと待て。
「もしもし。何してんだよ、アンタたち」
「あ。シロウ」
「リーゼリット。無視してしまえばよかったものを」
ヒヨコのように警戒なしでこちらにやってくる黒いメイドと、露骨に敵意むき出しでやってくる青いメイド。
黒くて日本語がカタコトなのがリーゼリット……イリヤはリズと呼んでいる……と、青くてツンケンしているのがセラ。
アインツベルン城専用のメイドさん、イリヤのお世話役の二人だが、言うまでもなく学校で見かけていい人たちではない。
「よかった。シロウなら、きっと知ってる」
「待ちなさいリーゼリット。彼の手を借りる事ではありません。これは私たちの仕事です。貴女は下がっていなさい」
ピシャリと言い放つセラ。
リズはしょんぼりと身を引いてしまった。
「それではごきげんよう。
ここで私たちを見た事は他言なきようお願いします」
「……そりゃ学校のみんなには言えないけど。
そう思うなら、せめて普通の服に着替えてから来ればいいのに。俺だから良かったものの、他のヤツが来たら大騒ぎになってたぞ」
「ご心配なく。人除けの魔術はかけてあります。私たちを意識できるのは魔術を帯びた者だけです。この町では数えるほどしかおりません」
「そうだったのか。そうだよな、そうでもなけりゃ誰かに見つかってるもんな。いくら休日でも職員室には先生もいるし、陸上部の連中にだって見つかっちまうし。
そっか、基本的に二人は隠密行動だったのか―――」
……って、待てよ?
しかし、そうなるとアレはどうなのだろう……?
「えっと。それ、リズも同じ?」
「同じですが、何か?」
「いや。……その、リズは、なんていうか」
「何でしょう。差し支えなければお聞かせください」
「あー。その格好のまま商店街でケーキ買ってるんだけど、あれはいいんだよな?」
「……たいへん有意義なお話です。
重ねてお訊きしますが、それは一度きりでしょうか、それとも頻繁《ひんぱん》にでしょうか?」
「いや、頻繁《ひんぱん》にってワケじゃないぞ。
一週間に一度ぐらいだし」
「リーゼリット!」
「……だいじょうぶ。みんな、トモダチ。シロウがちゃんと通訳してくれる」
「余計問題です!
……まったく、どこであんな安物を仕入れてくるのかと思えば、まさかあのような雑多な商店街の洋菓子店からとは……」
「……そう。じゃ、もうやめとく?」
「そちらは問題ありません。カタログを取り寄せなさい、今後は配達制にしますから。
ええ、そちらの方がスマートというものです」
「…………」
仲が良いのか悪いのか微妙な二人組であるが、面白い人たちである事は明白だ。
で、その面白い人たちがどうしてこんなところにいるんだろうか。
「……まさかケーキ屋を探してるワケじゃないよな?」
お探しのケーキ屋ベコちゃんは二キロメートルの彼方だよ?
「ちがう。わたしたち、さがしものが」
「貴方には関係のない事です。誤解なきよう言っておきますが、私もリーゼリットも学舎などに関心はありません。
そもそも、私たちがこのような下賤な場所に足を運ぶ原因は貴方に―――」
しまった、と口を閉ざすセラ。
「え? 俺?」
……むむ。二人が屋上にいる事に、俺は一枚噛んでいるらしい。
「―――そうでした。このような事が繰り返されては困ります。事故を防止するには、まず原因を究明しなくては」
一人うんうんとうなずくセラ。
……なにやらイヤな予感がしてきた。人災に対する予知能力だけは上がってきたこの頃なのだった。
「……あー、じゃあ俺はこれで。何してるのかは聞かないから、引き続き屋上の絶景を楽しんでくれ」
「お待ちくださいエミヤ様。
話は変わりますが、貴方が持っている袋は、もしやお弁当というものではありませんか?」
話変わりすぎである。
それはともかく、持っているのは紛れもなく弁当箱だった。家を出る時、気まぐれで作って持ってきてしまったのだ。
「お弁当……? セラ、シロウおいしい?」
「お嬢様の話では替えの効かないものだとか。
味に厳しいお嬢様が言うのです、逸品である事は間違いないでしょう」
「………………シロウ、食べる」
「うわ、近い近い近い……!」
「………………」
「………………」
……って。
なんか、二人ともじっとこっちを見ているし。
リズは……単に弁当目当てか。
一方、セラの視線には良からぬ妖しさがある。隙あれば俺を陥れようとするライバルの目だ、アレは。
「と、とにかくまたな! 近いうちお城に行くから、そん時はまたよろしく!」
「――――――ふう」
教室まで逃げ込んで、ようやく一息つく。
別に逃げる必要はなかったのだが、屋上は地形効果的によろしくない。
あそこは衛宮士郎にとって鬼門なのだ。
いつも遠坂にからかわれるんで、負け癖がついてしまっているというか。
「その点、ここならこっちの陣地だし」
なにしろ慣れ親しんだ自分のクラスである。
ここでなら遠坂だろうが、パワー二乗の遠坂&桜の姉妹コンビだろうが、意図不明のメイドコンビだろうが敵ではない。
えー、どのくらい戦力アップかと問われれば、なんとか互角ぐらいには持ち込めます。
「―――さて」
椅子に座って一息つく。
落ち着いたら教室を出て、誰もいない弓道部で昼食でも―――
――――――なんなんだ、一体。
「もしもーし。そこで何してんだよ、アンタたち」
ダン、と机に足を投げ出しながら聞いてみる。
「……おかしいですね。女生徒の机からリコーダーを探さないのですか?」
「探すかンなもん!」
ちぇっ、と舌打ちする青メイド。
「……何故でしょう。年頃の男子生徒が休日に登校しているのですよ? それぐらいしか目的はないでしょうに」
「っ、ドコから得た知識だそれ。そんな間違った常識は捨てちまえ」
「間違っている……? ですが、リーゼリットが購入した書物にはそういった描写が三冊に一冊の割合であったのですが……」
「――――――」
絶望的に間違っている。
リズの買ってきたモノは一般常識でもなんでもない。
「……わかりました。身近な女生徒の楽器に性的興奮を覚えるのは間違いなのですね。
……残念です。女生徒の体ではなく楽器そのものに偏愛する嗜好には、少しばかり感心していたのですが」
がっかりと肩を落とすセラ。
リズはリズでずっと俺の弁当を見つめている。
「……あのさ。用がないなら他に行ってもらえないかな?」
今日はのんびりしたくて学校に来たんだ、少しはゆっくりさせてほしい。
「いえ、お気遣いなく。私たちは貴方の学園生活を観察しているだけです。どうぞ、いつも通り休日をお過ごしください。女生徒のロッカーを探るなり、お気に入りの女生徒の机で自慰行為にふけるなり、いかように」
「……………………」
結論。
この二人から逃げ出さない事には、平穏な午前は訪れないと見た。
「よし」
席を立つ。
「エミヤ様? やはりリコーダーを?」
「あ、校庭にフルールの怪獣級超特大ジャンボイチゴケーキが!?」
「モンスター級特大ケーキ……!? まさか、アテネの町を襲ったという伝説のクリーチャー!?」
窓際に走るセラと、やっぱりずっと俺の弁当を見つめているリズ。
「何処! 何処ですかエミヤ様!?
ジャンボというからには少なくとも直径十メートル以上でなくては語弊があるかと、しかも何の工夫もセンスもないクリームホイップがコピーペーストの如く続くやっつけ具合、シンメトリックなどという弁護も通用しない究極のインスタントなのでしょうね!
……ああ、そんな悪趣味で低俗なケーキが存在するなんて、想像しただけでも魔術基盤が崩壊しそう!」
きゃー、と嬉しそうに悲鳴をあげるセラ。
……その、なんだ。アインツベルンの魔術基盤には大きな欠陥があるのかもしんない。
「は!? リズ、エミヤ様は何処に!?」
「廊下。野鹿《のじ か》みたいに、たたーって」
「まさか、今のが方便だとでも……!?
く、なんと巧妙な……! 追いかけますよリーゼリット、逃がしてはなりません!」
「……俺、なんかやったっけ?」
身に覚えがないが、追ってくる以上は逃げなくては。
幸い、ここは城ではなく学校だ。不慣れなセラとリズが相手なら簡単に振りきれる―――
「―――、ふう」
呼吸を整え、額の汗を拭う。
部室棟や講堂を回って、最後に弓道場に避難する。
追っ手を完全に振り切ったものの、時刻はじき正午になろうとしており、
「うん。シロウ、おかえり」
弓道場にはリズが待っていたのだった。
「お、追いついた……ハァ、ハァ―――エ、エミヤ様、私たちの事は、どうぞ、お気遣いなく、お願い、します」
息も絶え絶えでやってくるセラ。
彼女は相当な運動音痴と聞くが、ここまで付いてくるなんてたいしたエネルギーだ。根性機能がついているのかもしれない。
……やはりアインツベルンの魔術基盤はどうかしてる。
「……わかった。もう諦めた。大人しくメシ食う。二人にも分けてやるから、それで勘弁してくれ」
……そうか。
セラはともかく、リズにはお弁当をあげれば良かったのか。
「そう、ですね……ハァ……私、も、栄養を取りたく、なりました。今日はエミヤ様の料理をリサーチする事で、調査は切り上げると、ハァ、いたしま、ハァ、しょう」
よろよろとお弁当まで歩き、ぱたん、と倒れ込むセラ。
「セラ、独り占めはやめて。
シロウのは、二人で分けないと」
そして、リズの中では俺の分はない模様。
「……まあ、それで解放してもらえるなら、いいけど」
その、なんだ。
結局なにしてたんだろうこの人たちは?
◇◇◇
ぺたぺた2
昼食を済ませて午後の校舎を歩く。
休日ではあるが、廊下にはちらほらと人影があったりする。
部活動に勤しむ生徒たちだろう。音楽室や美術室がある別棟はもっと賑やかに違いない。
なんとなく振り返る。
これといって目につく物はない。
「?」
何が不思議かって、後ろを見る理由がまったくなかったコトだ。
ふとお茶が飲みたくなって生徒会室へ向かう。
廊下から教室を覗くと、やはり何人か生徒たちの姿が見えた。
廊下は無音ではない。
ただ後ろが静かなだけだ。こうして歩いていく前《さき》は人の声が聞こえるというのに、
「――――――」
振り返った廊下は、別物のように静かだった。
「……なんで振り返ったんだろ、俺……」
これといって目につく物はない。
振り返るには理由がない。
寒気がした、なんて理由があれば納得がいくのだが、ただ漠然と後ろを見ただけというのは気味が悪い。
怪談が流行っていると言うが、見様《みよう》にしてはこれも怪談になるんだろうか。
理由もないのに後ろが気になる、という怪。
「まあ、この時期の学校らしいと言えばらしいのか」
受験も近いし、精神的に過敏になっている生徒も多い。
この四日間は考え事が多かったし、こっちも気付かないだけで疲れているのかもしれない。
「―――そうだな。大人しく帰って休もう」
生徒会室はまたの機会に。
廊下を歩く。何度も振り返りたくなるのを自制して、学校を後にした。
「って、気のせいじゃないぞコレーーー!」
何かいる。
姿は見えないがぴったりと付いてくるモノがある。
「……まさか。まだ付いてきてるんじゃないだろうな、二人とも」
じっっっっと物陰を凝視する。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………しかし、二人の気配はない。
「……気のせいか。俺も神経が過敏になってるのかな……」
やれやれと肩をすくめる。
帰りにグレープフルーツでも買って、アロマテラピーの真似事でもしてみよう、と、
「――――――、そこだっ!」
フェイントを交えて階段へ猛ダッシュ。
「…………む」
見覚えのある物が階段を駆け下りていったような。
確証は持てないが、アレは多分―――
「……しかし、それにしたってなんで?」
意図は不明だが、アレはアレで意味のあるコトなのかもしれない。
無理に追いかけても捕まえられないだろうし、ここは気づかないフリをして帰った方がいいのかな……?
◇◇◇
帰り道
「やっほー! 奇遇だねシロウー!
学校はこれで終わりーーー?」
いつのまに先回りしたのか、校門にはイリヤが待っていた。
どうして付いて回っていたのか気になったが、イリヤがああして笑っている以上、追究するのはヤボというものである。
「ああ。手がかりはないかって歩き回ってたけど、ここらで切り上げようかと思って。
イリヤは散歩の帰りか?」
「ええ。わたしも気晴らしに観察してたの。普段は人が多いから少ない時を狙ってね。
結果は―――まあ、退屈はしなかったかな」
……少し反省。
廊下をグルグル回っていないで、音楽室とか体育館とか、見て楽しいところを歩けばよかった。
「面目ない。お互い大した成果はなしか」
「それでいいんじゃない? はじめから手に残るような物は期待してなかったもの。わたしは普通に面白かったよ」
「そっか。俺も……まあ、面白かったかな?」
少なくとも退屈はしなかったか。
午前、午後、ともに何かに追っかけられていたようなものだし―――って、そう言えば。
「イリヤ、もしかして今日はお忍びか? お城の人に内緒で出てきたとか」
「そうよ。いいかげん慣れればいいのに、わたしがいなくなったぐらいですぐ大騒ぎするんだもの。
ホントはいっぱい驚かせる準備してきたのに、二人がいるから全部無駄になっちゃったわ」
「あー……それは、なんて言うか」
あの二人に感謝すべきなんだろーか。
学校ならではのイリヤの新ネタというのはちょっと怖い。
「お嬢様!」
と。噂をすればなんとやら、校庭からメイドさんがやってくる。スカートの裾をつまんでの、はしたなくも可愛らしい走り方。
「やはりこちらにいらしたのですね。
……今後は、外出する際にはお声をかけてくださるようお願いいたします」
「したくないコトはしないって言ってるでしょ。一人で出かける時は一人でいたいってコトよ。そのぐらい召使いなら配慮しなさい」
「……存じておりますが、こればかりは大旦那様からの言いつけでございます。
私どももイリヤスフィール様の身に万が一の事がなきよう、微力ではありますが身を盾にしてでも―――」
「ああもう、それが目障りだって言ってるのっ。
心配性なのよセラは。
この町には危険なコトなんてちょっとしか残ってないし、それだってわたしをどうにかできるものじゃないわ」
「……それは、おっしゃる通りなのですが……危険というものは、何も凶暴な姿をしているだけではありません。
獅子身中の虫という喩えもございます。
普段は取るに足りない存在でも、ここぞという時に造反されては大事になるかと」
待て。
なんでそこでこっちを見るのだ青メイド。
「……む。セラの言い分にしては一理あるじゃない。外敵に対して備えはあるけど、内側から攻められた場合は考えていなかったわ。
でも、それはそれで面白いかも」
待ちなさい。
だから、なんでこっちを見るのだお嬢さん。
「……敵? シロウ、敵?」
「違う。むしろ贄。どっちかって言うと被害者に分類される」
「ふん、白々しい。お嬢様をこのような場所に呼び出しておいて何を言うのです。
リーゼリット、エミヤ様は敵ではありませんが味方でもありません。今後お嬢様を悲しませるような事があれば、容赦なく折檻なさい」
……むう、事態は刻一刻と危ういバランスへ傾いている。
今後イリヤが泣くような事になったら、リズがヒットマンとして衛宮邸に放たれるのやもしれぬ。
「大丈夫、リズはああ見えてセラより節度があるんだから。そうね、シロウが相手ならいきなりまっぷたつにはしないわ」
まず捕まえて尋問よ、と心温まるフォローをしてくれる。
イリヤの言う大丈夫とは、話が通じるよ良かったねー、うまい言いワケ考えるんだぞー、という意味らしい。
「……お嬢様。私がリーゼリットより節度がない、というのは何かの勘違いかと。お嬢様の教育係を仰せつかっているこの私が、知性面でリーゼリットに劣る事はあり得ません」
「うん。セラのが頭いい」
「ほら。リズのが可愛げあるじゃない。記憶容量の差が知性の差ってワケじゃないわ。セラはもうちょっと愛嬌を覚えるべきよ」
「お言葉ですが、私どもに人間らしさなど必要ありません。私たちはお嬢様をお守りできればよいのですから」
「そ。ホント頭堅いんだから。
まあいいわ。二人とも、わたしを探しに来たのなら用は済んだでしょ。今夜は早く帰ってあげるから、先に帰ってなさい」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」
「………………」
口厳しいがイリヤの言いつけを厳守するセラ。
一方、リズは目に見えて寂しそうだ。
「待った。ちょっと聞くけど、二人ってどうやって城まで帰ってんだ?」
「商店街のパーキングに車を待たせてあります。お嬢様を送迎する為のものですが、一応、私も使用を許されています」
「使用って、運転するってコト?」
「当然でしょう。疑うようでしたら運転免許証をお見せしますが?」
「あ……いや、疑ってない、驚いただけ。そっか、そうだよな、あの城遠いもんな、そりゃ車ぐらいあるよな。
……って、じゃあイリヤがうちに来る時も……?」
「あれ、知らなかった? 一人で来る時はわたしが運転してるんだけど」
「っ!?」
い、いま明かされる衝撃の事実……!
私有地である森だけならいざ知らず、公道を爆走する謎の銀髪少女がいようとは。
……俺たちが知らないだけで、冬木市界隈の走り屋さんにはわりと有名な怪談なのやもしれぬ。
「で、どんな車に乗ってるんだ? バーサーCAR?」
「それは別の世界のスーパーカーよ。
……じゃなくて、名前はなんだっけ。セラはエンジンの音を聞く度にワルキューレのゲシュライとか呟いてウットリしてたけど」
「イリヤスフィール様。あれはメルセデス・ベンツェ300SLクーペ。十年前の聖杯戦争でもアインツベルンの為に活躍した名機です」
「あ、そうそう、そんな名前。ただ走るだけの機械のクセにエラソーなのよね。最高時速は270キロとか言ってるけど、そんなの日本の公道じゃ出せないのに。
ほんと呆れちゃう。特注好きというか、夢見がちっていうか、大量生産って言葉が嫌いなのよね、あの国の職人って」
うう、おベンツェ様ときたか。
300SLというのがどんな曰く付きの名車だかは知らないが、きっと目玉が飛び出るぐらいお高いのだろう。
「ふーん。じゃあ坂を下りるまでは一緒だよな。ならそこまで一緒に帰ろう」
「何を言うのです貴方は。不本意ではありますが、お嬢様が貴方と二人きりで帰ってもよい、とおっしゃられているのですよ? 百年に一度あるかないかの幸運をなんだと思っているのですかっ」
「そうよシロウ。今日はシロウと一緒に下校するんだから、二人には先に帰ってもらわないと。セラとリズがいたらお城の中と変わらないじゃない」
「いや、お城と一緒じゃないだろ。二人で帰るのはいつでも出来るけど、みんなで下校するのは滅多にないじゃないか」
「な? だから今日はこのまま帰ろう。
長くて登校する度に嫌気がさす坂だけど、こういう時は役に立ってくれるんだ」
「…………はあ。仕方ないわね、シロウがそうしたいっていうなら一回ぐらいは付き合ってあげるわ。
行くわよセラ、リズ。特別に、坂を下りるまで同行を許します」
「も、申し訳ありませんお嬢様っ。お心遣い、ありがたく頂戴いたしますっ……!
それとエミヤ様、今回の無礼は努々《ゆめゆめ》忘れませんように」
「わたしは嬉しい。シロウ、いい人」
「ホント、シロウはおバカさんね。二人はわたしの召使いなんだから、気を遣ってあげるコトないのに」
憎まれ口とは正反対の表情《かお》で、イリヤは坂道に向かっていく。
その後ろに付きそう二人のメイド。
おかしな展開になってしまったが、たまにはこういうのもいいだろう―――
「ところで。なんだって俺のコト追い回してたんだ?」
「なぜお嬢様が学校に向かうのか、その理由を知ろうと思いまして。何がお嬢様の気を引いているのかを知れば、今後の参考になりますから」
「ふーん。―――で、どうしてそれが俺につながるんだ?」
「身に覚えがないとでも? 要因の一端が貴方である事は明白でしょうに。貴方の学園生活を解明すれば、お嬢様を説得する方法も見つかると言うものです」
「ふむ。それはつまり、俺の失態をスクープしてイリヤに売り渡そうと、そういうコトかな?」
「理解が早くいらっしゃる。残念ながら、こちらが期待した絵は望めませんでしたが」
とんでもねー。
この人、本気で俺のコトを敵視してるぞー。
「ふーん。セラ、午前中のシロウはどうだったの?」
「期待外れもいいところです。エミヤ様の行動は退屈極まりないものでした」
「お弁当はちょっと手抜き」
「あ、二人ともシロウのお弁当食べたの!? わたしが食べようと狙ってたのにー!」
「っ! も、もうしわけありませんお嬢様、出過ぎた真似をいたしました……! ですがあの程度の腕前なら、私も研究次第でいつか再現いたします……!」
「セラには無理。アドリブ効かないもの。
あと、つまみ食いばっかりするから太る。太ったセラは見るにたえない」
「リ、リーゼリット……! アレは味見というものです、わた、私がそのような不作法な真似をすると思っているのですかっ!!」
「知らないけど。夜食は控えた方がいいと思う」
「っ!?
な、なぜ貴方がそれを知っているのですー!?」
セラとリズは口喧嘩に花を咲かせ、イリヤは笑いながら坂道を降りていく。
俺は完全にオマケだ。
イリヤがしたかった事とはズレてしまったが、今回はこれで良かったと思う。
交差点まであと数分。
夕刻の喧噪は、もうちょっとだけ続きそうだ。
◇◇◇
ボーダー
歩道橋の途中、気になる光景が目に入った。
「あれ、遠坂のクラスの三枝《さえぐさ》……?」
あのぴょこぴょこした後ろ姿は三枝だ。
目が合った訳でもなし、普段ならこのまま通り過ぎるのだが……
「驚いたな。由紀香は穂群原の人だったんだ。ボク、もっと若いかと思ってた」
「うん、実はそうなの。ゴメンねギルくん。わたし、ほんとはずっと年上なんだ」
「あ……ううん、謝るのはボクの方だ。今のは失言だった。女の人に歳を訊くなんて男性失格だからね」
「あ、けどボクはちょっと嬉しいかな。由紀香とは友達でいるより、お姉さんでいてくれた方がいい」
「ふふ、ありがとう。わたしもギルくんみたいな大人しい弟さんが羨ましいです。うちの弟たち、みんなやんちゃだから」
「はは、たしかに孝太たちは元気すぎるかな。
毎日怖いもの知らずで走り回ってるし。由紀香もタイヘンだ」
「そうなの。ギルくん、うちの弟たちが無茶しそうになったら止めてあげてね。
わたしが言っても聞いてくれないけど、ギルくんの言うコトならちゃんと聞いてくれるでしょ? あの子たち、ギルくんを尊敬してるから」
「それは違う。由紀香の言うコトはちゃんと聞いてるよ。
ボクがいなくても心配はいらない。孝太たちは由紀香を悲しませるコトはしないからね」
「……まあ、逆に困らせようとしているのが問題なんだけど。あればっかりはボクでも諫《いさ》められないからなあ」
「……和気あいあいっぽいけど……あいつ、三枝と何やってんだ……?」
ベンチに身を隠しながら様子を見る。
あの金ぴか子供は紛れもなくギルガメッシュ。
いまや深山町のお子様たちのカリスマ、ちびっこマフィアのゴッドファーザーと言われる子ギルである。
「ところで由紀香、今日は陸上部の練習はないんだよね? 午後の予定はまっしろ?」
「うん、まっしろ。お洗濯は午前中にすませちゃったから、晩ごはんまでゆっくりしようかなって」
「そっか、公園には散歩に来たんだね。
良かった。たまたま保護者に嫌気がさして公園に出てきたんだけど、風向きが変わってきた。ボクの幸運も捨てたもんじゃないね」
「? えっと……ギルくんのお母さまって、その……」
「あれ、孝太たちから聞いた? ……うーん、母親じゃなくて保護者なんだけどね。これが気難しい人で、些細なコトで怒るんだ。由紀香とは正反対。
いや、比べるコトさえ失礼かな。あっちはただの主人で、由紀香はボクの好きな人だからね。
ほーんと、どうせ保護者が要るのなら、由紀香がマスターだったら良かったのに」
「え……ますたー……? ううん、それより、えっと、」
「うん、好きな人。言ったでしょ、友達でいるよりお姉さんがいいって。
由紀香はどう? 年下は初めて?」
「えっ、えっと、ギルくん、ええ……!?」
「あいつ……! ついに本性を出しやがったな……!」
やはりあのいい子ちゃん顔《 ヅ ラ 》は仮面だったのだ!
このままでは野ウサギのような三枝がぱっくり食べられてしまう……っ!
「待てそこーーーー! 憩いの場たる公園で何する気だこの色情狂っ!」
「え、衛宮くん!?」
「あ、お兄さん」
ひゃー、と金髪子供から離れる三枝。
一方、子ギルは不満そうにこっちを見ている。
「さ、さようなら衛宮くん! えええええっと、わたしは用を思い出しちゃったので、こんにちは……!」
だだだー、と走り去っていく野ウサギ。
あまりの慌てぶりに悪いコトしちゃったかな、と反省する。
「……まったく、誰が色情狂ですか。お兄さんにだけは言われたくありませんね」
「事実だろ。なんで三枝にコナかけてんだよ、おまえ。
なんの遊びかしらないけど、世の中にはからかっていいヤツとわるいヤツがいるんだからな」
「あ、そっちのが失礼です。ボクは真剣に由紀香が好きなんだから」
「うそだあ! ……って、いや、確かにこういうのを疑うのは失礼だよな。
あー……その、ホントに本気で?」
「嘘偽りはありません。生涯の伴侶には由紀香のような女性が理想です」
……ぐっ。
恥ずかしい台詞を臆面もなく断言されては、疑うこっちが恥ずかしくなる。
「そ、それは、遊び扱いして悪かった。
……しかしだな、どんな風の吹き回しだよ。
おまえ、セイバーが好きなんじゃなかったのか」
「セイバーさんは日輪ですからね。ボクはあんまり興味ありません。
家臣としては使いようがあるでしょうけど、添い遂げる相手としては失格です」
「……おっそろしいコト言うなあ。
要するにアレか? 三枝の家庭的なところというか、包容力があるところがよいと?」
「あはは、それは勘違いですよお兄さん。由紀香は包容力があるんじゃなくて、誰かに庇護《ひご》されなくちゃいけない人です。
ボクは大輪の薔薇《ばら》より、野に咲く花の方が大事なんです。素朴な花を素朴なままでどれだけ守ってあげられるか。それが男性の包容力だと思っていますから」
「――――――」
絶句。
今のを要約すると、三枝には何の取り柄もないかもしれないけど、それってすごくいいコトじゃない?とこのお子様は言っているのだ。
……ど、どうしよう。もしかすると、コイツをすごく好きになれるかもしんない―――
「つまり、好きな相手を支配するんじゃなくて、大事に育てて見守るのがおまえの愛情表現なのか?」
「支配なんてものは支配されたい人間にしか通じないルールです。そのあたり、どうも年を取ると忘れちゃうみたいでして。願わくば、ボクはいい指導者でありたかったんですけどね。
……ほんと、どうしてみんなに怖がられるようなコトするかなあ」
うわあ……。
世のため人のため、この王様は子供のままでいた方が良い。もう絶対。間違いなく。
「あ。けどさ、それだけ手を入れて自分好みに実らなかったらどうするんだよ。
見守るってコトは強制しないってコトだろ。
見守った結果、ほら、なんだ。おまえが苦手なマスターと同じになったらどうするんだ?」
「その時は切り捨てるだけですね。ボクとは縁がなかったというコトで」
「………………」
前言撤回。やっぱり同一人物だ、コイツ。
根っこの部分で他人じゃ変えられない非情さを持っている。
「……はあ。じゃあ三枝が遠坂みたいになったら、それで愛情は冷めるワケか」
「愛情は冷めません。ただ、それ以上愛情の目盛りが増えなくなるだけです。永遠に変わらないものになるんですね。増えるコトもないけど死ぬコトもない。
一度得た愛情は消えません。可愛さ余って憎さ云々っていうのは違うんですよ。
それは単に、新しく生まれた憎しみが、いままで培った愛情を超えただけの話なんです」
「――――――」
それは例えば。
今は人間の善《よ》い所も醜《わる》い所も含めて信じている少年が。
その愛情を無価値と思えてしまうほどの、憎しみを覚えて転身するように。
「まあ、そういうケースもあるというコトです。
どんなに人道に反する男でも、困ったコトに愛情は生きている。それが人々には人間的《お な じ も の 》に見えてしまって、結果、人間として恨まれる事になる。
ええ。いっそ完全な非人間なら、その男は神様なんだって区別されるんでしょうけどね」
それじゃあ、と踵《かかと》を回す金ぴか子供。
行き先は三枝が走り去った方向ではなく、新都に向かう橋だった。
「おい。三枝を追いかけるんじゃないのか?」
「用件は果たせたからいいです。由紀香は弟思いだから、もしかしたら夜まで帰りの遅い弟たちを探しているかもしれない。
それ、危ないでしょ? 今日は四日目、夜の橋は一番危険なんだから万が一ってコトもある」
「けど、お兄さんのおかげで由紀香は家に帰ったし、少なくとも明日まではここには寄りつかない。
ちょっと惜しかったけど、ボクとしてはまあまあ許容範囲の結末でした」
非の打ち所のない笑顔で告げて、今度こそ英雄王は去っていった。
「………………」
……ふと、余計な感傷を抱いた。
あいつは気ままにこの異常に対応しているようだけど。
本当は俺たちと同じぐらい、この日常に価値を見いだしているのかもしれない、なんて。
◇◇◇
桃源の夢
キャスターがいる。
……そういえばアイツ、よくここで物思いにふけっているな……何か思うところがあるんだろうか。
「……前、聖杯戦争について訊いた時はつっぱねられたけど……」
……もしかして、今なら。
本当の話を聞けるのでは、ないだろうか。
ハ……本当の話を訊くだと……?
何を馬鹿な。
キャスターに訊くべき事は全て訊いた。
これ以上あの魔女に問いただすという事は、真相に触れるという事だ。
無謀すぎる。如何に平和な生活に順応していようと、アレは生粋の魔女。
自分の利にならぬモノがあれば容赦なく排除する。
目の前の埃を払うかのように、躊躇なく。
「……………………」
気を緩めてはならない。
生存自体が“人を害するモノ”との生活において、“襲っていい隙”を見せる事こそ最大の罪である。
「……そう。あいつは裏切りの魔女メディア。
人間の敵として奉《まつ》りあげられた反英雄―――」
その逸話を思い出す。
大魔女の教えを受けた魔道の王女。
神代《か み よ 》の昔、多くの国を死に至らしめた策謀の魔女の名を。
王女メディア。
ギリシャ世界において東の果てと言われた黒海東岸《コルキス》国の王、アイエテスの娘。
魔術の女神ヘカテに教えを受ける巫女であり、王の娘として蝶よ花よと愛でられた姫。
外の世界を知らずに育った純粋培養の姫は、ただそれだけで幸福だった。
彼女は自由になる羽を欲しがった訳でもなく、広大な外界に憧れていた訳でもない。
生まれ育った国を愛し、山の中で一生涯を終える事に満足していた。
―――だが。
栄光を求める英雄たちの到来によって、少女《メディア》の願いは霧散する。
外界から現れたアルゴー船のキャプテン。
コルキスの宝、金羊の皮を求めて現れた英雄イアソンによって、メディアは国を裏切る事になる。
メディアはイアソンを支持する女神アフロディテに呪いをかけられ、妄信的にイアソンに恋をするようになったからだ。
メディアは父王を裏切り、金羊の皮をイアソンに与え、夫となったイアソンと共にコルキスを脱出する。
コルキス王は娘を取り戻す為にアルゴー船を追うも、呪いに駆られたメディアは同行していた弟を魔術で八つ裂きにし海にバラ蒔いてしまう。
コルキス王は嘆きながら息子の亡骸を集め、その隙にイアソンたちは黒海東岸《コルキス》を後にした。
外敵はこうして振り切った。
だがアルゴー船における不穏な空気は最後まで消える事はなかったという。
自国の宝を男に貢いだ姫。
愛する男のために弟さえ手にかける女。
アルゴー船に集った英雄たちは、こぞってコルキスの王女だった娘を非難し、中傷した。
おぞましいもの、汚らわしいものを見るような目で英雄たちは少女を隔離する。
幸い、女神の呪いによって心を縛られたメディアには、男たちの非難の目など海風と変わらない物だった。
彼女にはイアソンの言葉だけあれば良かったのだ。
“すまなかった。だが、良くやってくれたメディア―――”
そう。
愛する男のそんな言葉があれば、英雄たちの蔑みにも少女は耐えられた。
国を棄てた後悔も、父を裏切った罪悪も、弟を手にかけた罰からも耐えられた、のに。
夫からはついぞ、そんな温かい言葉をかけられる事はなかったのである。
帰りの航海はさしたる波乱もなく終わった。
イアソンは異国の姫を妻にし、誓約の品である金羊の皮を手に自国イオルコスに凱旋する。
しかし、そこで待っていたのは両親の死であり、約束の反故であった。
『金羊の皮を持ち帰ればおまえの王位を認めよう―――』
そうイアソンに約束したイオルコスの王ペリアスは、卑劣にも約束をただの言葉遊びだと笑ったのだ。
怒りに走ったイアソンは連れそった妻に命令する。
―――卑劣な簒奪《さんだつ》者。
王ペリアスを殺害しろ、と。
イアソンへの恋心に捕らわれているとは言え、メディアはまだ少女であった。
弟を手にかけた事で廃人状態であった彼女に、イアソンは執拗に繰り返す。
殺せ。
殺せ。
約束を違《たが》えたペリアス王を殺せ。
王の血族を殺せ。
そうだ、王だけでは飽きたらぬ。
あの目障りな後継者、三人の王女も殺してしまえ―――
暗殺の準備は、イアソンの手によって速やかに進められた。
イアソンの家には王と娘たちが招かれる。
中心には魔女の大釜。
少女が大魔女ヘカテより授かった、神秘の基本にして秘奥の結晶。
“―――よくぞ参られた我が王よ”
気が付けば、もう終わりは始まっていた。
恋する男と女神の呪いには逆らえず、メディアは自らの魔術を王の殺害に使用する。
“ペリアス王よ。我が妻の秘術をお目にかけましょう”
愛した男が誇らしげに語る。
少女は泣き疲れた目で大釜をかき回す。
“これなるは若返りの秘術。
我が妻    の得意とする魔術でございます”
そう、いつのまにか愛していた男が語る。
少女は逆らう事も出来ず魔術を続ける。
大釜をかき回す手は疲れて疲れて鉛のようだ。
……思えば、国を後にした時から、満足に休んだ事はあっただろうか?
心も体も、何もかも消耗して霧の中にいるようだ。
こう疲れていると忘れてしまう。
こう悲しいと薄れてしまう。
……ああ。
自分はこんなコトの為に、魔術を習ったのだっけ……?
老いた羊を切り刻んで大釜へ。
ぐるぐるどちゃどちゃ とろけてきえる。
カゲもカタチもなくなった老羊は、メディアの手によって蘇生する。
肌もつややか、目もいきいきと。
老いた羊は子羊に生まれ変わる。
王は感嘆し、自分も若返らせてほしいと申し出た。
少女は語る。
愛する男が教えた通り。
“その為には、まず全身を切り刻まなくてはなりません。この術は、一度死なねばならないのです”
王は恐れず、愛してやまぬ三人の娘にその大役を命じつける。
三人の姫は父王を切り刻み、
王は大釜にくべられ、そして―――
“見たぞ見たぞ! なんという娘たちだ、自らの父を切り刻むとは!”
父王は蘇らない。
三人の王女は泣き叫ぶ。
愛する男は女たちを縛り付け、
“神は決して父殺しの罪を許さない!
ペリアス王の娘たちよ、おまえたちは自らの命をもって―――”
三人の娘は鳴き叫ぶ。
どうしてこんな事に、と。
神にではなく、殺してしまった父王に、許してくださいと泣き叫ぶ。
その、イアソンというよく分からない男は、女たちを一人として許さなかった。
女神の呪いは、その時に消えてくれた。
曇っていた心はようやく晴れてくれた。
けれどもう遅い。
国を裏切り、弟を殺し。
奸計により王を殺し、何も知らぬ三人の姫まで見殺しにし。
この日。
少女は、紛れもない魔女になった。
王座についたイアソンの栄華は一瞬だった。
王の殺害は民の知るところとなり、イアソンと異国の魔女はイオルコスを追われる事になる。
帰る場所のないイアソンは魔女を連れてギリシャを彷徨《 さ ま よ》い、放浪の果てにコリントスに辿り着いた。
コリントス王はイアソンを歓迎し、やがて娘であるグライアとの婚姻を持ちかける。
グライアと婚姻しコリントスの王座を掴むか。
魔女を妻にしたまま王の庇護を受け続けるか。
イアソンに迷いはなかった。
既に魔女との間に二児をもうけてはいたが、イアソンを引き留める絆にはなり得なかったのだ。
イアソンは魔女を捨てグライアの元に走る。
“行かないでください”“行かないでください”
“貴方の為に国を捨てたのに”“貴方の為に、何もかも捨てたのに”
“この子たちを、私を哀れと思うならどうか”
そう泣きすがる魔女に男は語る。
“何を言うかと思えば。私が国を失ったのはおまえの所為ではないか。恐ろしい異国の魔女め。私は、おまえを愛した事など一度もない”
“ああ――――――――――あああ、は”
……気が付けば、帰る国は遠く。
何の願いもないまま、彼女は異国の土を踏んだのだ。
……そうして。
長い放浪の末に、ただ一つだけ、願いが生まれた。
けれどどうして叶えようか。
もう何もかも桃源の夢。
少女は醜い魔女に変貌し、国に帰ったところで、誰一人として幼かった姫とは信じまい。
……自分は、あまりにも変わりすぎた。
幼い頃を過ごした城は、今も変わらない緑に覆われていると言うのに。
イアソンという男の婚姻の日。
国あげての祭りの中、コリントスは滅び去った。
花嫁《グライア》は炎に包まれ、新しく王になる筈だった英雄は、またも放浪の身に戻された。
その後の物語は、もはや伝説に残すところではない。
英雄たちを引き連れたアルゴー船の頭であった青年は、かつての船の残骸に思いを馳せ、倒れた船柱の下敷きとなって息絶え。
彼が連れ帰った少女は、魔女となってギリシャの地を彷徨い続けたという。
……今でも、灰色の海岸から彼方を眺める。
重ねてきた多くの罪と、
置いてきた多くの夢。
それが叶わぬ願いと知っていても、
贖罪のように、彼女は想い続けていた。
――――目眩がした。
欠けた夢を、見ていたようだ。
「……と、そうだ。話を聞くんだっけ」
大丈夫、気をつければ話ぐらいはできる。
好奇心で虎穴に飛び込むようなものだが、今回に限りあの魔女は満腹だ。
気に障る質問も、退屈しのぎと流してくれるだろう。
「また来たの? なんのつもりか知らないけど勇敢ね。
私が一人でいる時がどんなに危険か分かっているでしょうに」
本人の言う通り、周囲に人がいない時のキャスターは危険極まりない。
人の目を気にする事なく魔術を扱える、という点ではなく、他人の目がないと自分の感情を抑制できない、という点で危険なのだ。
キャスターはカッとなると抑えが効かない。
第三者がいれば冷静な魔女として振る舞えるというのに、自分だけになると感情が暴走してしまうのだ。
……まあ、その。
人それを情緒不安定とか妄想逞しいとか言うのであるが。
「いや、ちょっと気になる事があって。
今は機嫌が良さそうだから、今のうちに訊いておこうと思ったんだよ」
幽《かす》かに空気が絞まる。
こっちの様子から何を訊かれるか察したのだろう。
「なにかしら。あまりいい話ではなさそうだけど」
「ただの質問。長居するのも恐ろしいしサクっと訊くけどさ。アンタがこの状況を解決する気がないのは分かってる。それに関しちゃどうこう言う気はない。
ただ、一つだけ知りたくなったんだ。
アンタほどの魔術師なら、この四日間のコトなんて簡単に調べが付く。ならホントの話―――アンタは、本当の事《・・・・》を識《し》っているんじゃないのかって」
「面白いコトを言うのね。
私が、全ての絡繰《カラクリ》を知っていると?」
ニヤリと笑う。
先ほどの微笑みとは正反対の、死を思わせる微笑だ。
「―――フフ。残念ながらハズレよ坊や。
確かに初めは手を尽くして、危うく天を掴みそうになったわ。けど今の私はその一歩手前。
ほら、お遊戯は全てを知れば終わってしまうでしょう? だから解明するのは止めて、その前に手を放したのよ」
「…………ふうん、止めておいた、ね。
そりゃ同じコトだろ。結局知ってるようなもんじゃないか」
「ええ。でもまだ誰にも教えてはいないわ。
犯人を当ててしまったら事件はおしまいですもの。この犯人は何もできないし、無理に捕まえる義理もないですからね」
「なるほど、犠牲者は出ないから観戦してるってワケか。……そういえばわりと受け身だよな、アンタって。
じゃあ今回もずっと傍観してくれるのか?」
「……私から手を出す気はないと言ったでしょう。
でも最後の時になったら、そう言ってはいられないでしょうね。
終わるというのなら私も黙ってはいない。……いえ、私じゃなくて私のマスターが、だけど」
それも同じ意味だ、とキャスターはため息をつく。
裏切りの魔女だのなんだの言われているが、キャスターはマスターである葛木宗一郎に絶対服従である。
……まあ、ベタ惚れ状態とも言う。
本人は気づかれていないと思っているようだが、葛木とキャスター以外には周知の事実だ。
葛木宗一郎がキャスターに『手伝え』と言えば、キャスターは何であろうと従うのだった。
「…………。
アンタとしては続けたいけど、葛木先生が解決する、と言ったら手伝うってコト?」
「そうよ。犯人の邪魔はしないけど協力もしない。
いえ、出来ないのよ。終わる、終わらないは私ではどうにもならない事ですからね」
「分かる? だから貴方は目障りなの。続けたいっていうなら飽きるまで続けさせればいいのに、自分から邪魔しようとしているんだもの。
―――本当。何度貴方を殺してやろうと思ったか」
「……げ。いちおう聞いておくけど、今の冗談?」
「あら。私が冗談を口にできる女かどうか、貴方は知ってるんじゃなくて?」
「………………」
背筋が二段階で凍りついた。
やはり、ここに長居するのはよろしくない。
「……ふう。アンタはとことん傍観者だってコトは分かったよ。この話はこれっきりにしたいところだけど……なあ、どうして殺さなかったんだ? 一度ぐらいはいいだろうに」
いや、良くはないけど。
キャスターの事だから、一度ぐらいは魔が差してトスっと俺を串刺しにしそうなのだが。
「どうしても何も。
マスターが一度も、それを望まなかったからに決まっているでしょう」
きっぱりと言う。
その潔さに目を細める。
「そうか。そうだったな。
……最後にもう一つ訊いとくわ。
仮に、葛木宗一郎がこの異常に気づいたらどうすると思う? 解決しようとするかな、それともこのまま放っておこうとするかな。
―――なあ。本当の話《・・・・》、アンタらはどうなんだろう」
わずかな時間、完全に空気が凍結する。
三秒のうち四度は死ねた。
キャスターはそれこそ、視線だけで俺を殺せるほどの魔力を撓《たわ》ませ、
「―――解決するわ。
宗一郎の善悪は坊やとは違うけど、あの人は、自分が間違っていると感じた事は正す人だから」
かすかに悲哀のこもった声で、そう答えた。
「そっか。アンタのマスターは、俺に似てるんだな」
肺にたまった憂鬱を吐き出しながら、敬いを込めて独白する。
「違うわね。貴方が宗一郎に似ているのよ」
返す声には、誇らしい響きがあった。
「ああ、じゃあこのヘンで。
つまんない話をして悪かった。アンタは思う存分、ここで我関せずを貫いてくれ」
「言われなくてもそのつもりよ。
……けど、そうね。一人で頑張っている貴方に敬意を表して、全てが終わる時が来たら、見送りぐらいはしてあげるわ」
「――――――」
呆然。
あまりのコトに開いた口が塞がらない。
「なんですかその顔は。私の言っている事が分からない? 私は、最後の時になったら」
「分かってる。手伝ってやるって言ったんだよな。
…………お世辞抜きで頼りにするよ。
アンタたちに手伝って貰えるのは、もしかしたら、一番の励みになるかもしれない」
キャスターの庭を後にする。
ローブを纏い直して見送ってくれる。
イヤな話だ。
こんなにも気持ちが晴れ晴れしたというのに、
一瞬だけ、彼女の姿が不吉な過去に見えてしまった。
『―――本当の話《・・・・》、アンタらはどうなんだろう』
そう言った少年はとうに立ち去っている。
魔女は黒衣で身を隠し、消え去らず立ち尽くす。
誰かに似た誰か。
誰かと似た誰か。
『そっか。アンタのマスターは俺に―――』
現実に似た現在。
現実と似た幻想。
『違うわ。貴方が私のマスターに―――』
焦点を無くした思考が、渦を描いて溶けあっていく。
どろどろ ぐちゃぐちゃ
もはや別人の記憶になった現世《かこ》の映像。
まだ人間として生きていた頃の思い出と、
ほんの少し前に見てしまった悪い夢。
老羊をくべた大釜のように、死んだものと生きたものが混ざり合う。
「―――本当の話、ですって―――?」
魔女は忌まわしげに唇を噛む。
夕立だろうか。
遠雷が聞こえる。
木々を打つ雨の音は、出会いの日を喚起させる。
……こうして苛立ちに身を任しても、脳裏に浮かぶのは一つだけ。
―――あの日。
誰にも選ばれなかった愚かな女の手を握り返す、乾ききった男の手を。
『雨。雨が降っている―――』
ふと見下ろした手は血まみれだった。
耳を澄ませば息も荒い。
体はカチカチに凍えていて、頭は怖くなるぐらい真っ白だった。
『雨……? 雨、雨だ』
消えそうな体、崩れそうな理性。
見上げた空は高く、助けを呼んでも与えられる助けはなく、彼女は、薄れていく体温を引き留められない。
『ああ―――でも、この夜は、違う』
魔力は底を突こうとしている。
行える魔術はわずかなもので、消え去ろうとする命を繋ぎ止める術はない。
いや、そもそも―――
『冷たい雨が降っていたのは、もっと温かく、光に満ちた夜だったから―――』
彼は、ほとんど即死だった。
ある男の話をしよう。
遡《さかのぼ》る事、おおよそにして二十五年。
生きた年月とほぼ同じ年月をかけて鍛え上げられた、一つの『凶器』の物語を。
その集まりがどのようなものであるか、彼は最後まで知る事はなかった。
人里離れた山の中。修験者のように集まり、共同体として暮らす中に彼は発生した。
両親も兄弟もない、何の繋がりも持たない赤子として生まれたのだ。誕生より発生と言う方が正しいだろう。
赤子はその集まりの中で育っていった。
無垢である事は幸いだ。
そこがおよそ人の住む場所でないとしても、
それがおよそ人が住む方法でないとしても、
外界を知らぬ彼はその集まりを受け入れた。
以来二十年。
彼は与えられた十メートル四方の森《いえ》から出る事なく、与えられた一つの芸を鍛え続けた。
その集まりが工場である事を、彼は十歳の頃に教えられた。
工場とは多くの人間の手によって生活用品を量産する場所だと言う。
彼には道具《もの》を作った経験がないので、自分がどちら側《・・・・》なのかは悩むまでもなかった。
自身が生活用品である事に抵抗はなく、むしろ安心したと言っていいだろう。
そうでもなければおかしいのだ。
日がな一日、ひたすら同じ動作を繰り返す。
多様性は要らない。ただ一つの動作を完成させろ、と**たちは言った。
それは道具と同じだ。
自分たちは顔も知らない誰かの為に使われる道具なのだと納得して、彼らは更に自分の『用途』に磨きをかけていった。
逆に言えば。
そう納得できなかった者は心を病み、日課《ひび》に付いていけなくなり、道具《か れ ら 》の記憶にさえ残らず消えていった。
彼が自分の『用途』を察したのは、それからすぐの事だ。
いずれ来る時の為に、余分な学習を叩き込まれる。
彼らは人間の為の生活用品ではあるが、その用途を発揮する為には擬似的に人間にならなくてはいけない。
人間として機能する為に必要な知識。
余分なものであったが、それなくして彼らが『発揮』される事は希だ。
**たちも余分な機能をつける事には抵抗があったらしいが、これは避けては通れないこと。
彼にとっても**たちにとっても、苦渋の選択であったろう。
今まで教えられなかった知識。
知っては辻褄が合わなくなる人間としての一般常識など、スピードを緩める余計なウエイトに他ならない。
ただ、その知識のおかげで、彼は自分の『用途』の名称を知ることが出来た。
人殺し
誰にも見つかる事なく、相手にも知られる事なく息の根を止める事が、彼らに求められた『用途』だったのだ。
覚えの早かった彼は十メートル四方の森《いえ》から離れ、**たちの廟《いえ》に仕える事が多くなった。
と言っても月が一巡する間に一度程度の割合だ。
彼はそこで完成の為にかけられた費用と、
自分を使う**たちの姿を知った。
廟は、ひたすらに清潔な空間だった。
鬼が棲むとも、阿鼻叫喚の地獄だとも噂されていた建物は、一点の染みもない白い世界だった。
**の言うことをきかなかったので生きたまま解体される廃棄品も、
**に恥をかかせたとかで脳だけ動物に移植されるとかいう罰の跡も、
**の慰めに集められたとかいう子供たちの肉詰め水槽も、
何も、何もありはしなかった。
それは確かに起きた事だが、此処とは別の場所の話。
**はこの清潔な空間で、
一点の罪の意識もなく、
退屈しのぎにもならぬ退屈しのぎとして、
ただ一口、今夜の食事のメニューを増やすだけの理由で、
何の関わりもない一般人《に ん げ ん 》の人生をお金に替える。
―――助けてください。
死にたくない、逃がしてくださいという懇願を、汚らしいと愉《わら》いながら平らげる。
そうして、**らは意識さえしないが、搾取される者たちは最期に気づくのだ。
この人間《いきもの》と自分たちは、もとより言葉が違っている。同じ生物だけど心《のう》の作りが違っている。
食卓に並べられた料理の声など、人間には存在しないように。
**には、自分たち以外の人間の声は、一生涯届きはしないのだと。
それは廟だけに限った話ではない。
彼を管理する者は言った。
アレが道具《オレ》たちを使う数少ない特権者であり、
この世は、人間でない人間によって治められている。
オマエの『用途』は、彼らの為に人間を一人だけ殺す事だと教えられた。
それが『悪』だとは思わなかった。
精神面において、彼は既に完成している。
道徳観念は**に都合のいいように育てられた。
彼にとって殺人は悪ではない。
悪があるとしたら、それは理に叶わぬ行動だけだ。
道具としての理。
存在としての理。
端的に言えば、言葉を綴《つづ》る筆が用を成さなくなったのなら悪であり、人を殺す為に作られたモノが、対象を見逃してしまう事こそが不正なのだ。
その説で言えば、**は何も間違えてはいない。
彼らはもとよりそのような嗜好性と特権性を与えられた生き物だ。
それが奴隷に関心を持ったりしては世界を治める道理が立ちいかない。
そう教え込まれた彼は、**たちの非道を目の当たりにしながら、**たちを嫌悪する事はなかったのである。
……悪いコトがあったとすれば、それは一つだけ。
自己の用途を疑わない事。
それが彼にとっての正しさである筈なのに、どうしてか思ったのだ。
もし、自分が今と違う『用途』を与えられていたら。
その時は、一体どんな道具に育ったのだろう、なんて、悪としか思えないコトを。
用途に向けて、彼の日課《ひび》は続いていった。
彼に与えられた芸は“蛇”と呼ばれる腕の使い方であったが、その芸は何年も前に完成していた。
それでも彼の日課は変わらない。
新しい技法は与えられない。
彼はただ“蛇”として作られた道具だ。いかに容量があろうと、他の機能をつける意味などない。
そうして更に十年が経過した二十年目。
道具としての消費期限を間近にして、彼はようやく、自身を発揮できる『機会』を与えられた。
“おまえの養育《かんせい》には二千万の金と時間がかかっている”
その集まりが他の組織と違うとしたら、その一点が違っていた。
彼らはどのような道具、どのような機能にも一人一殺を厳守させる。
煌めくような才能にも、凡百の駄作にも同じ結末を辿らせる。
“二千万かけて育てた道具は、二千万の仕事をすればよい”
採算は取れている。二度使う事はない。用を成した後、ことごとく自害せよ―――
それが彼らの絶対のルールだった。
この人間を殺せ、と命じられ、人知を超えた修練、何十年もの歳月を用いてようやく完成した芸を一度だけ披露し、自らに止めを刺す。
その理念に彼は従った。
標的は幾重もの守りを敷いているという。
自然に接触できる為の社会的立場は**らが用意してくれる。
あとは身一つで赴けばいい。
武器を使わぬ徒手空拳は、偏《ひとえ》に要人に接触しやすくする為のもの。
彼らが森《いえ》から出る時は、死を約束されたものだ。
成否を問わず命を落とす旅路。
喜びは―――正直に言えば、かすかだがあったのだろう。
二十年の精算。
自分の用途とはどれほどの物なのか。
たとえ結末が死であっても、それは、期待するには充分なものだった。
仕事は呆気なく終わった。
想定されていた護衛も難関もない。
本番の為の下調べとして建物に訪れた時、彼は、その仕事を終えてしまった。
「――――――」
その時の感情を、どう言葉にすればいいだろう。
彼の胸に飛来したものは“無”だった。
楽しくも悲しくもない。
おぞましくもうれしくもない。
何かあると。
自分の用途には何か感情を伴うと思っていたのに、彼の心には何の波紋も立たなかった。
もし。
仮にこの時、何らかの感情が働いたのなら、彼は違ったモノになっただろう。
嬉しかったのなら自害を。
悲しかったのなら生粋の殺人鬼になっていたのだ。
だが何もなかった。
感情など―――二十年かけて鍛え上げた芸の成果は、本当に何もなかった。
人を殺した時の感触は不快でも快感でもなかった。
ただ、木偶のような標的の首の骨を折った感触が掌に残っただけである。
見返りもない。
代償もない。
人の命を奪ったという、その衝撃が何処にもない。
『用途』そのものもおかしかった。
要らない。
必要ない。
この標的の殺害には、何の芸も必要なかった。
事故のような殺人。
鍛錬など必要のない難度、そこいらの子供でもできる暗殺。
――――何一つ、不要《よ ぶ ん 》すぎる。
二十年の鍛錬など、いったい何処に必要だったのか。
何も残らない彼の用途。
初めから意味のない、その遍歴。
疑問が生じた訳ではない。
きっと理由がなかった。あらゆる事に理由がなかったのだ。
名前しか知らない死体を前にして、彼はいつも通り無感動な自分に気づく。
「――――――、乾いているな」
彼は自己に結論を下し、それじゃあ、と今までの自分を清算する事にした。
彼は自決する事なく、集まりから抜けてひとりになった。
地下に潜って身を隠す、という選択は考えもしなかった。
ごく自然に遠く離れた町に移り住み、用途の為に与えられた社会的立場を使用した。
用意されたパーソナリティは教職だったが、全うするだけの知識と技能はなんとか身につけている。
今までとまったく違う生活、役割をこなす事に支障はなかった。
ただ、一つほど些細な戸惑いがあった。
胸の隅に刺さった棘のような異物。
その違和感が何であるか、彼は最期の時まで理解できなかったのだが。
半年も続くまいと想定していた生活は、その実、五年間続く事になる。
彼を捜す者はいなかったし、彼自身、追っ手を意識せず生きていこうと決めていた。
普通の生活に憧れてのものではない。
二十年近く生きてきて、人を殺す為の芸だけを磨き上げた。
その結果があのようなモノであったのなら、あとは何も成し得ぬまま消え去るのみだと、彼は判断したのだ。
言ってしまえば。
人生に喜びを見いだす為の機会を、彼は失った。
人間は成人するまでに溜め込んだ希望を叶える為、残りの人生を使っていく。
叶う叶わないは問題ではなく、それこそが本来苦痛でしかない時間を消費できる麻酔なのだ。
それがまったくない自分は、意味もなく流れていくしかない。
理想も幻想もない。
自身の肉体が朽ちるまで、自分という道具が動かなくなるまで、“生きている”という責務を全うすると決めたのだ。
冷徹な機械のようだが、彼は周りの人々と変わるところのない人間である。
単に、『感動する心』が死んでいるだけ。
死んでいるものは蘇らない。
心の奥底に眠っているだの引っ込んでいるだの、そんなモノではない。
もう無い《・・・・》のだ。
どんなに人間らしい生き方を得ようとしても、彼が感動を得る事は生涯ない。
それを苦しいとは思わなかったし、周りの人々も彼を強い人間だと思いこんだ。
その認識に間違いはない。
……ただ、努力はした。
このまま無意味に朽ち果てようと。
死んだ心を抱えたまま、針の山を歩くように、人々の中で生きようと努めたのだ。
―――そうして、白い女に出会った。
一日の職務を終え帰路につく時だった。
山門に向かう途中、林からの物音を聞きつけた。
寺に世話になっている彼は当然の責務として様子を見に行き、血まみれの女を見つけた。
黒い外套に身を包んだ女は、今にも消えそうなほど衰弱していた。
死ぬ、ではなく消える、という言葉が似合うほど、それは弱々しい姿だった。
―――後に魔女は思う。
この出会いは奇跡だったと。
だが、それは魔女だけの物ではなく。
たとえ錯覚だったとしても、あり得ない事が起きたのだ。
「――――――」
何十年間調子《リ ズ ム 》を崩さなかった心臓が、一瞬だけ止まって戻る。
停止の反動はわずかだが鼓動を乱し、死んでいる筈のモノが、みじろぐように震えたのだ。
「そこで何をしている」
呼びかけに応える事なく女は倒れた。
夜の山林。雨。衰弱しきった体。明らかにまっとうな人間ではない。
血に濡れた外套など小さな事だ。
この女は危険だ。
一線から身を退いていようが彼とて外れた者。同種の匂いを嗅ぎ取れない筈がない。
だが、彼は女を介抱した。
同じもの、同じ殺人者としての共感から助けた訳ではない。
目の前で人が倒れたから助けた。
彼が女を助けた理由は、それだけの事だった。
一時間ほどで女は目を覚ました。
「起きたか。事情は話せるか」
女は呆然と彼を見つめる。
困惑も歓喜もない。
自分が生きている事への絶望が、涙となってこぼれ出す手前の顔だった。
「迷惑だったのなら帰るがいい。忘れろと言うなら忘れよう」
彼の言葉を、女はどう受け取ったのか。
利用できると考えたか、厚意に甘えようと緩んだのか。
女は自らの素性を明かし、彼は常識外と言える女の正体をあっけなく受け止めた。
女を抱き、聖杯戦争という殺し合いに参加する事も了承した。
さしもの魔女も驚いただろう。
彼女の状態はわずかだが回復していたのだ。
断わられた瞬間、魔術で心を操ろうとほくそ笑んでいたというのに―――たった一言で、自らの卑しい企みをかき消されてしまったのだから。
彼は魔女を恐れて頷いた訳でも、聖杯に関心を持った訳でもない。
女に協力したのは助けを求められたからだ。
もとより殺人を悪と思わない男である。マスターになる事に抵抗はなかった。
ただ―――その過去を、遠ざけようと努力していたのは事実だ。
……すれ違いがあったとすればこの一時。
今までの努力《せいかつ》を放棄して女の手を取った理由に、彼は気づく事ができなかった。
「極力、今の生活を乱さないようにしろ。手が欲しい時は言え」
それが彼の方針だった。
彼に願いはない。彼が助けた女が聖杯とやらを欲しているだけだ。
彼が戦うとしたら、それは聖杯の為ではなく女の為。
自分が助け、協力すると約束したのだから、女に力を貸す事は当然の責務である。
彼にとって聖杯戦争は異常ではあるが悪行ではない。
自分が定めた『用途』を否定する事こそが、彼にとっての悪なのだから。
そうして彼はキャスターのマスターとなった。
令呪を持たないマスターであったが、女は彼の言葉に従った。
もとより魔術など知りもしない男だ。女は彼を現界の為だけに利用し、傀儡として扱うつもりでいた。
彼も自分から聖杯戦争に参加する事はなく、戦いは女に任せていた。
彼が女を切る事があるとすれば、それは女が聖杯戦争を否定した時だけである。
彼と女の関係は、利用する者とされる者としては、理想的なまでに噛みあっていた。
だが、それ故に人間としては噛みあわない。
女の心変わりが大きくなればなるほど、彼がマスターを放棄する理由は強くなってしまい、
女の無意識に触れ続ける彼は、段々と、道具としての自分を故障させる。
……その望郷の念は。
もとより帰る場所のない彼には理解できない、否、理解してはいけない感情だったのに。
戦いは速やかに終わった。
現れた敵サーヴァントによって山門《アサシン》は破られ、迎え撃ったマスターも、剣の舞によって敗北した。
腹は無惨にも裂かれ。
二十余年かけて鍛え上げた両腕は、肘先から消失していた。
「マスター、マスター――――――!!!!!」
境内に女の声が響く。
山門のサーヴァントとマスターを始末した事で、敵は立ち去ったらしい。
残された女は、我を失って契約者の亡骸にすがりつく。
焦点はぼやけ、輪郭さえあやふやになった目で、彼は女の姿を見た。
その泣き顔を見て、彼は申し訳ない事をしたと悼んでしまった。
死に瀕した意識が見せた幻想などではなく。
無い筈の心が、死の淵で血を流した。
女は帰りたいと願った。
帰りたい場所というものを彼は知らなかった。
繰り返される望郷の念。
見たことも聞いたことも、そもそも感想さえ浮かばない桃源の夢。
それを―――彼は、どう感じてやればいいか、最期になっても分からなかった。
「ここから離れろキャスター。おまえの気配を察すれば、今のサーヴァントが戻ってくる」
淡々と口にした。
肉体の余命はともかく、精神がいまだ健在である事が奇跡だった。
長く鍛え上げられた日々の成果だろう。
脳が停止する瞬間まで、彼の意識は鮮明なのだ。
「何を言うのです……! 気を確かに、かならず治します、貴方を死なせはしませんマスター……!」
女は離れなかった。
少しだけ理がズレている。
寄り代《マ ス タ ー 》を失う事は大きな痛手だろうが、死に至る程ではない。
現に彼女は一度マスターを失っている。
もう一度あのサーヴァントに襲われる事を考えれば、ここは一刻も早くこの場を離れ、次のマスターを捜すべきだ。
「見くびらないで、私は魔女です……! 死にかけの人間の一人や二人、簡単に繕《つくろ》える……!」
奇跡は起きない。
柳洞寺に溜め込んだ魔力は敵サーヴァントによって破壊され、宝具によって傷ついた体には不治の呪《まじな》いがかけられている。
「……簡単、こんなの何度だってやってきた事なんだから……失敗なんてしない、失敗なんてしない、失敗なんてしない……! こんな簡単な治療、手こずった事なんて一度もない……!」
泣きながら、謝罪するように女は魔術を唱える。
だが効果はなく、口にする神言も、普段の力を失っている。
女の顔は、刻一刻と悲しさを増していく。
「ひ……ぁ、ああ、あ―――や、やだ、たすけて、誰か、お願い、お願いぃいい……!
たすけて、たすけてよぅ……!
こんなのうそよ、いままで、いままで失敗したコトなんて、ただの一度もなかったのに……!!!!」
傷の治療も、肉体の蘇生も間に合わない。
何一つ救えない。
魔女の役割は人を貶《おとし》めるコトだけ。
人を治し死者を動かせても、純粋に人を助ける《・・・・・・・・》事だけは出来はしないのだ。
……きっと、今まで本気で誰かを助けようとしなかったから。
そのルールを、彼女は今の今まで知らなかった。
「あ―――ああ、あああああ…………!」
魔術は作用しない。
助けを呼んでも差し伸べられる救いはない。
見上げた空は高く、彼女は、薄れていく体温を引き留められない。
「いや――――――死なな、いで。……死なないで、死なないで、死なないで宗一郎…………!!!!」
慟哭を聞く。
泣き顔を見ると頭痛がした。
それは“悲しい”からなのだと彼は知り、ようやく、自分は道具にはなれなかったのだと受け入れた。
……ただ普通に生きようと思った。
人を殺して自由になった時、そうして残りの人生を消費するしかないと達観した。
―――なんて、血のような真っ赤な嘘。
認めなかっただけで、本当は悔やんでいた。
何の意味もなかった二十年間と、殺してしまった、名前しか知らない相手をずっと心に留めていた。
名前しか知らない誰かを殺めた事を、ずっと、間違っていると思っていたのだ。
……あれは自身の目的から生まれた殺人ではなく。
……自分は、自身の意志で生まれた大人ではない。
……その過ちを、どう償えば良かったのだろう……?
楽しかった。
ひたすら一つの芸を鍛え上げる事、思考を放棄して道具でいる事は楽だった。
それにかまけて、何一つ顧みず、二つの人生を消去した。
これ以上の悪が何処にある。
罪の一端が彼を育てた者たちにあるとしても、
彼が何も知らなかったとしても。
他人を殺めたのはどうしようもなく、自分自身の腕だったのだ。
野に下ったのは償い方が分からなかったから。
唯一の意義といえた芸の修練を止めて、淡々と日常に埋没した。
何も求めず、何も得ない。
それが彼に考え得る、精一杯の贖罪だった。
……その生き方が崩れたのは、この女に出会ってからだ。
冷たい雨の中、彷徨っていた白い女。
女は単純に美しかった。
彼が見てきたどの女より美しかった。
理由はそれだけ。
その美しいものに、彼は手を差し伸べた。
……振り返れば。
今まで積み重ねてきた償い《ひび》を捨てて、彼女の力になったのは、きっと―――
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――」
女の声は泣き声に変わっていた。
雨と思ったものは、もっと温かい何かだった。
女は立ち去らない。
あの夜と同じ、血に濡れた両手で、彼の胸にすがっている。
その顔を―――もう見られない事が、本当に悲しいと彼は思った。
「――――そうか。ようやく、気がついた」
遅すぎたが、まだ、幾ばくかの猶予はある。
……彼は、ずっと何かに謝りたかった。
自分が後悔していた事、
許しを請わなくてはいけなかったモノ。
―――私は、ずっと昔から、
漠然と抱き続けてきた、
―――“誰かの為”に、なりたかった―――
その、純粋な憧れに。
「キャスター」
女は離れない。
死の足音は、すぐ近くまでやって来ているかもしれないのに。
「―――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――」
謝罪は自分に向けられたものらしい。
……十分だ。
彼はもう謝れないが、その代わりを、この女が果たしてくれた。
残る気がかりは一つだけ。
この美しい鳥を、もとの住み家に放さなくては。
「キャスター」
女は決して彼から離れない。
何も見えなくなって、何もかもが許されようとするその狭間。
「……いいから、もう行きなさい。
君は、こんな所にいてはいけない」
今まで一番穏やかな心で、自分の亡骸にすがる女に告げた。
……残された女が何処に飛び立ったかは、もう遠い物語である。
女は彼が思ったような女ではなく、
結末は、彼が願ったものではなかった。
朽ち果てた殺人鬼と魔女の話はこれで終わりだ。
……ただ救いがあったとすれば。
二人が出会った後のわずかな時間。
一月に満たなかった生活は、今までの何倍も、人間らしい平穏さに満ちていた。
――――目眩がした。
欠けた夢を、見ていたようだ。
「―――――――――」
黒衣の魔女は夕立から解放される。
軽い目眩に目を滲ませて、仄暗《ほのぐら》い空を見上げる。
「できっこない事を言われてもね。
羽なんて、初めから在りはしなかったのに」
けれど、あの男には最後までそう見えていたのだろう。
地に落ちていようと羽は軽く。
いつか、泥を弾いて空に帰るのだと。
「……本当、気の回らない人。立ち寄った場所を気に入って、空を忘れる渡り鳥だっているでしょうに。
そんな都合のいい事を、思いもしなかったなんて」
独り言にはわずかな微笑。
魔女はゆっくりと、眠るように目蓋を閉じる。
束の間の夢に埋没するように。
いずれ醒めるこの時間を、名残深く噛みしめた。 ―――これもまた、一つの欠片。
過ぎ去りし断片は裡《むね》に淀《よど》み、束の間だけ留まっては、抗えず流れていく。
心だけでは此処に居れず、
体だけでは足跡を残せないように。
訪れなかった春は、せめてこの桃源の郷で、今も人知れず謳われている。
◇◇◇
Wish.
そうだ、セイバーとの約束があった。今日は休日だし、タイミング的には申し分ない。
「セイバーの靴は……よし、あるな」
善は急げだ。まずは学校にいる藤ねえに連絡をとって、と……。
セイバーと二人、揃って屋敷を後にする。
段取りは驚くほどスムーズに終わった。
学校に電話をして弓道部に回してもらい、藤ねえに学校案内の事を切り出したら、
『ん、今日にするー? いいよー、もう教頭先生に話つけてあるからー。あ、お弁当持ってきてねー』
と、実に気軽にオーケーサインが出たのだった。
弁当作りに一時間ほど消費してしまったが、それでもまだ午前十時をすぎた頃だ。
いきなり思いついた事だし、案内は午後からでもよかったのだが……
「いえ、行くのでしたら今すぐにしましょう!
私の予定でしたら気にせずに、ええ!」
と、妙に強気なセイバーに押し切られてしまったのだ。
「しかし……急だったかな、セイバー?」
「―――? なんでしょうシロウ?」
「だから、いそぎすぎたかなって。学校案内なんて半日で終わるし、もう少し準備しても良かったのに」
「いいえ、これで十分です。
シロウも学校に行く時は気軽ではないですか。ですから気を張らず、普段通り登校してください」
「普段通りか……わかった、そうしてみる」
「はい。それでは急ぎましょうシロウ。早くしなければ昼休み、というものが始まってしまいます」
さあさあ、と先を急かすセイバー。
……うーん……一体なにが楽しみなんだろう、セイバーは?
いつも通りの足取りで坂道を上る。
ちらりと盗み見たセイバーは、
……こんな感じで、いまいち感情の読み取れない顔をしているのだった。
そんなこんなで、いまいちセイバーの真意が掴めないまま校門に到着。
「む……?」
気のせいか、今日の校舎は普段より活気があるような、ないような。
「シロウ。今日は休日の筈ですが……」
「ああ……おかしいな、部活動にしてもこんなに騒がしかったコトはないし―――あ。
そうか、文化祭か!」
そう、文化祭が近いのだ。
大がかりな出し物をするクラスなら、何人か登校していてもおかしくはない。
「文化祭……? 学園で祭りをする、というコトですか?」
「そ。年に一回、生徒だけでお祭りを開くんだ。その準備で何人か校舎にいるらしい。
けど、そう気にするほどじゃない。いるっていっても三十人ぐらいだろう」
「………………」
途端、黙り込んでしまうセイバー。
さっきまであんなに堂々としていたのに、急に落ち着きがなくなった。
「? 誰もいない校舎が見たかったとか?」
「いえ、そういうワケではないのですが……他に生徒がいるとですね、シロウに迷惑がかかるのではないかと。
……その、こうと判っていれば凛に制服を借りてきたのですが」
「―――、なんだって?」
あまりのショックに、感動を通り越して愕然とする。
セイバーが、穂群原の制服を、着る……?
な、何事だろう、その考えもしなかった現象は。
セイバーには遠坂の制服は大きいだろう、いや、それ以前に似合うだろうか、いやいや、そもそも制服を着るってコトはつまり同級生というコトであって、
「戻ろうセイバー。すぐ戻ろう。大丈夫、遠坂のが無理なら桜のが、」
「しかし、考えてみれば私は来賓の扱いでした。
穂群原の制服を着ていては、話がややこしくなってしまいますね」
「う」
シークタイムわずか三秒。
戦闘時のような冷静さで、セイバーは結論に達していた。
「申し訳ありませんでしたシロウ。
貴方には普段通りと言っておいて、私の方こそ無用な気を遣ってしまった。
シロウ、どうかしたのですか? ひどく落ち込んでいるように見えるのですが」
「……いや、何でもない。
セイバーの言う通りだ。私服だからって気にするコトはないから、中に入ろう」
妄想終了。
はあ、と肩を落として校舎に向かう。
セイバーは俺が入るのを見届けてから、ごく自然に校門をくぐってきた。
とりあえず弓道部へ行こう。
セイバーが目立つのは始めから覚悟の上だが、せめてお昼が終わるまではゆっくりと過ごしたい……の……だが……
「タースーケーテー! 衛宮、3C《うち》の衛宮が学校に金髪外人連れて来てるぅーーー!!!?」
計画は開始直後にご破算になった。
よりにもよって、校庭には人間街頭演説車・後藤某が陸上部に混じってストレッチをやっていたのである……!
「「「なぁにぃーーーー!!??」」」
どっと湧く男子陸上部。
遠目からでもセイバーの容姿は映えるのか。
可憐な女生徒に飢えた男子アスリートたちは垣根の如く円陣を組み、ガルルガルルとセイバーを観察している。
都合の悪いコトに、弓道部への道を遮るように。
「なにあれ、すっげー! モデル? 何かの撮影? それとも知らされてなかった俺の嫁!?」
「ちっけーなぁ。俺らとタメかなあ。陸上部入らねぇかなあ。うちの生徒じゃなくていいから」
「んー、ぼく女の子でなくてもいいよー」
「転入生……にしては時期が半端か。アレかね、学校関係者かね。ほら、うちの英語教師ってトンデモばっかりだろ。もしかして英語教師の補充じゃないか?」
「ちびっこ先生……!? おおおお、ハグしてー!」
「げ、やめろよな冗談でもそういうコト言うの! 俺単位ヤバイんだぞ、勢いで留年しちまうじゃねえか!」
「……………………」
騒ぐ野獣たち。
しかし根性なし。
彼らは二十メートルの距離を保ったまま、遠巻きにセイバーを観察するのみであった。
「シロウ―――アレが文化祭なのですか?」
「違う。アレはただの障害物だ」
が、断じて彼らを馬とか鹿とか蔑むコトはできない。
見た目たいへんな集団だが、彼らがああなってしまうのにも理由《ワケ》がある。
なぜなら―――
「え、うそ!? おーい由紀っち、め鐘《かね》ー!
あそこあそこ、セイバーさんだ、セイバーさんだよ! ひょー、相変わらずゴージャスだぜクッソゥ!」
ひゃっほー、と円陣を組む男子部員たちを蹴散らしながら突進してくる暴走列車。
……そう、なぜなら。
陸上部には、可憐な女生徒があまりにも少なかったのである……!
「いよう! 相変わらずヒマだな衛宮!
で、今日は何してんの? うちの馬鹿どもに、そこの美人を見せびらかしに来たのか?」
蒔寺楓。
平均的な陸上部女子部員は、今日も相変わらず元気だった。
「あ、ほんとにセイバーさんと衛宮くんだ。
どうも、お久しぶりです。衛宮くんもおはようございます」
そしてこちらが三枝由紀香。
陸上部では例外的な女子部員である。
「よ、おはよう」
「おはようございますユキカ、覚えていてくれたのですね」
「はい。セイバーさんこそ、一度しか会っていないのに嬉しいです」
慌ただしかった空気が一気に和む。
朝のグランドはかくあるべしだ。
「もっと光を! なんだよおまえら、由紀香ばっかであたしはシカトかー!」
「カエデもお久しぶりです。制服という事は、部活動は終わってしまったのですね。貴女の素晴らしい走りを見られなくて残念だ」
「え。ああ。うん。ありがと」
セイバーに話しかけられた途端、ピタリと動きを止め、オドオドと周りを気にしだす蒔寺。
あまりにも意味不明だ。
「な、なあ衛宮、ちょっといいかな」
「なんだよ。急いでるから手短にな」
「……その、セイバーさんって外国の人だよな? ご両親のどっちも日本人じゃないよな?」
「はあ?」
思わず眉を八の字にしてしまった。
いきなり何を言い出すのかこやつは。
「見てのとおりだ。生粋のイギリス人だぞ、セイバーは」
あ……いや、生粋かどうかは知らないが。人種の問題の他に、とんでもないのが混ざってるからなあ、セイバー。
「ぐ、やっぱりそうか……!
どどど、どうする、どうしよう衛宮!? あたし外国語なんて話せないよー!」
「………………」
俺に泣きつかれてもなあ。
というか、蒔寺―――
「ま、蒔ちゃん。セイバーさん、ずっと日本語話してたよ。お久しぶりですって」
「な、なにぃ!? そんなバカな、いまセイバーさんは“この学園で一番の美人を出せ、ふふふやはり貴方ですかカエデマキデラここで殺しますよ?”って言ったんじゃないの!?」
「……ある意味、それが真実であったらどれだけ楽かと思うがな」
「お。氷室、いいところに来た。頼む」
「了解した。すまないな衛宮。
……この小動物は学校に見慣れない人間が入ってきて、警戒意識が高まっているだけだ。一応無害なので気にしないでくれ」
「きぃーーー! 誰が猿だ誰がー! ……はっ、まさか由紀っちか!?」
「ところでお二人とも、今日はどうしたんですか?」
「あ、いや」
すげえ。
ナチュラルにスルーしたぞ今の。
「この学園の見学に来たのです。シロウが案内をしてくれています」
「?? シロウって誰だ? ……はっ、まさか由紀っちか!?」
「うわあ。じゃあセイバーさん、転校してくるかもしれないんですか?」
……ほんとすげえな。
三枝に悪意はまったくない。これはもう、蒔寺のコメディ体質に芯から慣れているとしか表現できない。
「うーそーだーよぅー……!
寂しいよう、誰もつっこんでくれないよぅ! あたしサルでいいからさぁ、もうちょっとかまってよー!」
「あ。蒔ちゃん、衛宮くんの名前は士郎くんって言うんだよ。クラス違うから知らなかったよね?」
「うう……由紀っちは優しいなあ……。
でもお断りサ、衛宮の名前なんざ覚えてられねー」
「……重ねてすまない。蒔寺はああやって悪者ぶらないとやっていけない小心者なのだ」
「なんだとー!? どっちの味方だよ鐘は!」
「どちらかと言うと静かな方の味方だな。
さて。セイバーさん、転入の為の見学というのは本当なのですか?」
「いえ、そういう訳ではありません。
この学園の中に入ってみたかっただけですから」
「そ、そうなんだ。藤ね……藤村先生がさ、そういう交流も大切だからって」
「藤村教諭が? ……そうか。確かに彼女は英語を受け持っている。そういう発想に行き着いても不思議ではないな」
「? それはつまりどういう事なんだ、鐘」
「簡単に言えば異文化交流という話だ。
恐らく我々とは生活環境が違ったであろうセイバーさんに、普段見る事のない生活を知ってもらおうという考えと――」
「ふむふむ」
「他にも誰、とは言わないが、海外の人と触れ合う事によって異国語に対する苦手意識をなくしていこう、という事も考えていたのではないかな」
「へえ、やるなあ藤村先生。
あたし、あの人のコトただのカッコイイ暴れん坊だと思ってた!」
……近いもの同士響きあってるんだ、蒔寺……。
「なるほど、大河は教育者としてそこまで考えていたのですね」
「…………まあ。あの人も、ちゃんとした教師だから」
人生の大半は遊び人だが、大事なところでは賢者になるというか。
今日の見学許可があっさり下りたのも、藤ねえが事前にちゃんと動いていてくれたからだし。
「ところで衛宮。その手提げは何だ?」
「これは藤村先生に頼まれた弁当。とりあえず、弓道場に届けに行く」
「そういう事なら早く持っていくといい。……あそこでたむろっている男子部員は私たちで追い払おう」
「そうだね。練習さぼってバカ話ばっかりなんだから。あんなんだから万年予選落ちなんだっつーの」
「それじゃ失礼します。セイバーさん、ゆっくりしていってくださいね」
「はい、ユキカ。あなたも無理をなさらず」
ぺこりとお辞儀をして二人の後を追う……いや、蒔寺の男子部員いじめを止めに急ぐ三枝。
奇跡のようなバランスの三人組である。
「さて。じゃあ俺達も弁当届けるか」
「はい。まずは弓道場ですね、シロウ」
今日の部活は午後からなのか、道場は閑散としていた。
まだ一般部員がやってきていない道場の真ん中で、ぐだーっと大の字で倒れていた虎がぴょこんと起きあがる。
「シロウ遅ーい。もう待ちくたびれて敷物になっちゃうかと思ったわよ」
……なってた。
いま、間違いなくそのような物になっていたぞ藤ねえ。
「お待たせー。けど、こんなに注文したのは藤ねえの方だぞ。一、二時間は待ってもらわないと」
持ってきた弁当箱を置く、というより積む。
ざっと六人前ほどの分量だ。
「上出来上出来、お疲れさま士郎。
んー、これだけあれば十分よね。私でしょ、桜ちゃんでしょ、士郎とセイバーちゃん、美綴さんのお昼ごはん」
「大河、私もここで食事をとるのですか?」
「そうよー。せっかく学校見学に来てるんだから、普段できないコトをしないとねー」
「しかし、私は部外者で――」
「細かいコトは気にしないの。
今日は見学に来たお客さんだし、部外者なんかでもないわよー。セイバーちゃんは士郎の保護者、じゃなくて家族なんだしね。うちに授業参観があったら見に来てほしいぐらいよ」
「私はシロウの親類、ですか。
たしかに、そういう事になっていますが……」
「いいのいいの。いつもはライダーさんが居るからいいけど、ライダーさんもふらりとどっか行っちゃうからねー。
そういう時、セイバーちゃん一人きりでしょ? だーかーらー、たまにはこういうコトもしないとね」
「―――大河。
ありがとう、心遣い感謝します。
先ほどの一件も含めて、今日の貴女はいつにも増して頼もしい。学校内の大河は見違えるようです」
「うんうん」
セイバーの後ろで、心の底から同意する。
「先輩、セイバーさん、いらっしゃい」
「よ、お疲れさん。悪いね、今日はご馳走してくれるんだって?」
「お邪魔しています。お二人とも、今日は部活動だったのですね」
「はい、今日は午後からなんです。午前中は文化祭の打ち合わせを美綴先輩としていました」
「まったく、これっぽっちも決まらなかったけどね。
まいったよ、飲食系はとっくに申請数オーバーしてるしさ、うちの部員たちはヘンに不器用なのばっかりでねー」
「すみません……きっと、一番不器用なのがわたしです……」
「あ、いや、なんとかなるさ。実典《みのり》もいるし、いざとなればあいつに踊らせる……いや、待った。演舞だったらここに達人がいるじゃない。
ねえセイバーさん、文化祭の日ってヒマかな? 予定がないならちょい手伝ってほしいんだけど」
「は? わ、私ですか?」
「そうそう。セイバーさんさえよければ、うちの演し物に力を貸してくれない?
セイバーさん器用だし、舞台映えもするし。なにより藤村先生が敵わないっていう剣捌き、他の誰よりあたしが見たすぎる」
「――――――」
答えに窮しているのか、セイバーは口を閉ざしている。
「待った美綴。そんなコトいきなり言われてもセイバーを困らせるだけだ。
第一、セイバーは弓道部の部員じゃないだろ」
「でも関係者でしょ。さっき藤村先生が言ってたじゃない、セイバーさんは衛宮の親類だって。
うちの文化祭に出演してもどこもおかしくないでしょ」
どうよ、と自信満々に言われてしまった。
「む……それは、だな」
「なに? それとも衛宮は反対なわけ? セイバーさんがうちの文化祭に出るコトは?」
「ば、そんなワケあるかっ!
せ、セイバーが穂群原の制服を着てくれるなら、俺の三年間に思い残すコトはないっ!」
「ほら決まりだ。
ね、セイバーさんちょっと考えてよ。藤村先生も衛宮もこう言ってるコトだしさ」
「ええ、善処させていただきます。
私でいいのでしたらよろこんで」
「――――――」
柔らかなセイバーの声。
……なぜだろう。一瞬だけ、何の不安もないのに、胸がズキリと痛くなった。
「はーい、決まったところでお昼にしましょう!
ほら士郎、お弁当広げて広げて。おなかぺこぺこなんだから早く早くー」
「くっ、いい話のオチを台無しにしやがって。
はいはい、分かりました。桜、お茶の用意手伝ってくれ」
「はい」
「いいよ衛宮、それはあたしがやるから。
こっちは昼飯をご馳走になるんだから、そんくらいはやるって」
「そうか。じゃあ……桜、弁当の準備と藤ねえの相手を頼む。……監視を怠らないように」
「む、士郎それはどういう意味なのよー」
「はい、一切れたりともフライングはさせませんっ。
それじゃあ先生、お弁当広げましょうね」
「うんうん、今日は何かなー」
昼食を終えて、弓道場を後にする。
重箱は見学の邪魔になるので置いてきた。
持ち帰るのは藤ねえに任せて、こっちは引き続き校内の見学だ。
「ごちそうさまでした。
ああいった昼食もいいものですね、シロウ」
「おそまつさまでした。
……ホントのところ、屋上で食べたかったんだけどな。それはまた次の機会でいいか」
「はい。次は是非屋上で。
凛の話では、シロウの昼食は屋上か生徒会室という話でしたから」
弓道場を後にする。
次は……そうだな、話も出たことだし生徒会室に行ってみよう。
校舎にちらほらと生徒がいるんだから、一成も登校しているだろう。
生徒会室に向かう。
廊下で生徒とすれ違ったり、教室を横ぎる度に黄色い悲鳴があがるのには慣れた。
視線には慣れているのか、それとも気づいていないのか。
セイバーは平然と休日の、ちょっと人の多い校内を歩いている。
「……む?」
「あ」
と。
ばったり、葛木教諭に出くわした。
学校なんだから当然と言えば当然だ。
「おはようございます」
「おはよう。……というには時間が過ぎているか。体は達者か、衛宮」
妙な緊張感。
セイバーの表情も心なしか硬い。
「……………………」
葛木教諭はじっとセイバーを見つめている。
魔術師ではないが彼もキャスターのマスターだ。
セイバーが校舎にいる、という事を戦いの前兆と捉えたのかもしれない。
「葛木先生、セイバーは」
「藤村先生から聞いている。門限までゆっくり案内をしてやりなさい」
「あ、はい。どうも」
……勘違いはこっちの方だった。
この人物は、目的なしで戦いを行う人ではなかった。
「その節はどうも。今後ともよろしくしてやってくれ」
「はい、時間がありましたら」
では、と葛木教諭は去っていった。
いつもながらの無音の足捌き、見事すぎる正中線の揺らぎの無さだが……。
「ちょい待った。セイバー、今のなに?」
どうして葛木がセイバーに“その節はどうも”なのかっ!?
「……どうという事はありません。
たまにキャスターに呼ばれ、彼女の内職を手伝っているだけですから」
「な、内職……!? キャスターが内職!?
なな、なんだよその怪しさ全開な説明はっ! あ、あいつがお金に困るなんてコトないだろ!?」
なにしろ希代の魔術師だ。
銅を金に変える錬金術まがいのコトはお茶の子さいさいってものなのだっ。
「私もそう思うのですが、生活を裕福にする為の労働と、精神を裕福にする為の労働は別なのだとか。
……まったく。どこから注文を受けているのか、あのようなドレス、私の時代でもそうなかったというのに」
ぶつぶつと文句を言うセイバー。
……が。
「……まあ、あれはあれで、やりがいのある仕事なのですが……」
このように、セイバーも悪い気はしていないようだった。
「失礼します、ってやっぱ一成だけか」
「おや。誰かと思えば衛宮か」
ファイルや電卓から顔を上げて、こっちを見る。
「セイバーさんもご一緒とは。
そうか、連絡のあった見学者というのはセイバーさんの事だったのだな」
うむ、と笑顔で頷く一成。
女子にはのきなみ仏頂面で対応する一成だが、セイバーだけはお気に入りのようだ。
曰く、神格を感じるとか。
「お茶を淹れよう。どうぞ、楽にしてくださいセイバーさん」
「ありがとう。お久しぶりです、一成」
「いいのか? 忙しいなら出直すけど」
「構わんさ、すべて雑務だ。すぐ片づけなくてはならない物でもない」
お茶を一成にお任せして、セイバーと椅子に座る。
窓からは部活動の喧噪が聞こえてくる。
「して衛宮。セイバーさんを連れて見学とのコトだが、何故ここに? 特に見るべきものはないと思うが」
「そのような事はありません。
生徒会室と一成の事はシロウから聞いていたので、どんな場所か興味があったのです」
「そうですか。……残念だ、二人が来ると知っていれば上等なお茶請けを買ってきたのですが」
「いいって、そんなに気を遣わなくても。
それにメシ食ったばっかりだし。喉休めのお茶が最高のご馳走だよ」
「そうか、それは良かった。
しかし昼食はどこで摂ったのだ? 食堂は休みだろう」
「弓道部です。シロウにお弁当を作っていただきました」
「なんと。……むむ、すれ違ってしまったか。
弓道場なら朝イチで訪ねたというのに」
「シロウの昼食を食べ損ねてしまいましたね」
「しかり。いや、是非も無いとしても、残念だ」
「………………」
セイバーと一成はやけに気があっている。
いまさら思ったのだが、性質的に似ているのかもしれない。
「さて。今日は文化祭前という事で多数の生徒がおりますが、彼らもセイバーさんの見学を快く迎えてくれるでしょう。
いい機会なのですから、校舎を回ってきてください。いや、生徒会《ここ》室がもう少し面白味のある所なら良かったのだが」
「いいえ、そんな事はありません。
出来れば、もう少しここで休んでいきたいのですが」
セイバーの言葉に頷く。
時間はあるんだし、もう少しゆっくりしていこう。
「そうですか。では雑談などを少し。
セイバーさんには学園の事よりも、学園での衛宮の話をしたほうがよろしいか」
おお、と感嘆の声をあげるセイバー。
が、酒の肴にされるこっちはたまったものではない。
「ま、待て一成、何を話すつもりだ」
「うろたえる事もあるまい。本来それが目的であろうに。第一、聞かれて恥ずかしい事があろうものか。衛宮は悪行をなしているのか?」
「い、いや、それはそうだけど」
「おや。シロウ、何か私に聞かれたくないような事でもあるのですか?」
「な、ないぞ、隠し事とかいっさいないぞっ」
「では決まりですね。
一成、よろしくお願いします」
「う……」
う、有無をいわさず決められてしまった……ホントに気が合うな、この二人。
「さて。そうは言ったものの、なにから話したものか。いざ選ぶとなると多すぎて難しいな」
「ここでシロウは手伝いをしている、と聞きましたがどんな事を?」
「そうですね、基本的には公共物の修繕などを。
なにぶん壊れたから直ぐに買いなおす、という余裕がないので助かっています」
「…………」
やだなあ……これって三者面談的な恥ずかしさだなあ……。
別に切嗣や藤ねえにならどうってコトないのに、セイバーに聞かれるとなると妙に恥ずかしい。
「なるほど、確かにそれはシロウの得意分野でしょう」
「他にも何、というわけではないのですが、各行事ごとに衛宮の力を貸してもらっています。
というよりも、気が付くと誰かの手伝いをしている、といった感はありますが」
「ああ、なるほど。それは確かにシロウらしい」
「はっはっは。ええ、俺もそう思うのですが、それが衛宮ですから」
「本当に困ったものです。
―――それで一成。詳しく話をすると、どんなものがあるのでしょう?」
「如何ようにも。長くなりますから、面白いものから話していきましょう」
盛り上がる優等生たち。
……いいよ、もうどうにでもしてくれ……。
……拷問のような時間は、述べ一時間も続けられた。
二人はたいそう盛り上がったが、このままでは日が暮れてしまう。まだ校舎を回っていないというコトもあり、今日はこのあたりで勘弁してもらった。
「いや、引き留めて申し訳ない。
引き続き、校内見学を楽しんでください」
「いえ、貴重なお話でした。大河の語るシロウとはまた別の面を知る事が出来ました」
「はっはっは。いや、この程度でよければいくらでもお相手します。
何かあったら今度は寺までお越しください。あそこでなら、きちんとおもてなしも出来る」
「ええ、機会があれば是非」
「……一成。おまえ、まだ喋り足りないのかよ」
「当たり前だ。三年もの心のアルバムだぞ。今日はその一冊目を紐解いたにすぎん。次は待望の二年目にだな、」
「―――行こうセイバー。
一成がこんなにお喋りとは知らなかった。このままだと最後まで付き合わされるぞ」
「そ、そうですね。
それでは一成、また後ほど」
「そう、二年目はお待ちかね、メインイベントの夏合宿が控えているのだが……って消えた!?
……と、いうかだな……なにか、調子にのってひどい醜態をさらしていなかったか、俺は……!?」
午後は緩やかに過ぎていった。
音楽室や視聴覚室といった様々な特別教室、体育館や図書室、学生食堂。
学校というものを知らないセイバーを案内するのは思っていた以上に楽しく、やりがいがあったと思う。
そうして夕刻。
生徒たちも帰り始め、俺たちも帰ろうとした時。
「最後に、シロウの教室が見たいのですが」
セイバーは今日初めて、自分から行きたい場所を口にした。
「ここがシロウの教室ですか。
…………あまり、他の教室と変わりはありませんね」
「そりゃそうだ。教室はみんな同じだって言っただろ。クラスごとに特徴が出るのは後ろの掲示板とか、机の傷ぐらいなもんだ」
「ほうほう、なるほど。
ではシロウの机は……これですね?」
どのような直感か、セイバーはピタリと俺の机を当てる。
「む。この小綺麗な机の中央に、見るも無惨なひび割れが。……鉄槌が落ちたかのような惨劇だ。
シロウ、これは一体……」
「それは藤ねえがすっ転んで、俺の机にヘッドバットした跡。血をどくどく流しながら授業を続けた」
三年になって最初の藤村伝説である。
「そ、そうでしたか。
シロウらしからぬイタズラの跡なので、不似合いだと思ったのですが……
大河がした、というのであれば、それもシロウらしいと言うべきですね」
楽しそうに言って、セイバーは教室を歩き回る。
見るべきもののない教室なのに、セイバーは今日で一番嬉しそうだった。
それが、どこかひっかかって、
「なあセイバー。
今更だけど、どうして学校に興味を持ったんだ?」
朝、かすかに抱いた疑問を口にしていた。
「そう大きな理由はありません。
ただ、シロウの学生生活とはどのようなものだろう、と興味を持っただけです。
大河とシロウのおかげで、こうして直接来る事ができました」
「――――――」
そうか。けど、それなら半分も叶えていない。
セイバーは学生生活を、と言った。
彼女が見たかったものは建物ではなく、その中の日常だ。
「平日に来るべきだったかな。セイバー、授業が見たかったんだろ」
「そうですね。のんびり眺めてみたいものです。
ですが、私は霊体化できないので」
「霊体化できなくてもいいじゃないか。
いっそ転校しちゃうのはどうだ? 戸籍とか手続きとか、遠坂あたりなら用意できそうだし」
なるほど、と頷くセイバー。
「それは素晴らしい。考えてもみませんでした」
「だろ。よし、帰ったら遠坂に相談してみよう。
あいつの事だから、こっちが驚くぐらいあっさりお膳立てしてくれるだろうし、藤ねえだって協力してくれる」
熱にうかされたように、バカみたいに話し続ける。
「はい。楽しみにしています、シロウ」
セイバーは笑顔で応える。
……それがどんな意味をもった笑顔だったのか。
約束と願望の違いを、俺はまだ知らなかった。
こうして、束の間の休息は終わった。
俺たちは始まった時と同じ気持ちで、和やかに帰り道を歩いていく。
坂道から見下ろす街は、いつもの風景とは違っていた。
いや、風景はいつも違う。
それに気づく機会が、普段はあまりにも少ないだけだ。
セイバーは歩みを止めて、優しく街を見つめている。
「何かあったのか、セイバー」
出来るだけ自然に。
楽しかった今日を汚さないように、いつも通り呼びかける。
「いいえ、目立つものは何も。
ここは私たちの知っている、いつも通りの冬木の町です」
いい風が吹いている。
金色の髪が揺れている。
楽しかった一日が、じき終わろうとしている。
「なら帰ろう。別に、珍しいものはないんだろう」
「ええ。ですがもう少しだけ眺めていたいのです。
この景色を、ずっと覚えておくために」
「大げさだな。そんな必要はないだろ。また明日、ここで見る事ができるんだから」
明日と言わず永劫に。
聖杯戦争は終わらない。
仮に、俺が死んだとしても、彼女が消え去ったとしても。
日常は、こうしてずっと回り続ける。
戦いを終わらせないかぎり、終わりを望まないかぎり、
その約束が、ただの願望に成り果てる事はない。
「―――でも、貴方はそれを許せない。我慢できない人だから」
美しい夕日だった。
……いや、違うか。
美しいのは、彼女が、
「そうでしょう?
この、誰も失われていない理想郷で。
貴方だけは、失われたものに価値を見いだそうとしている」
―――なにより彼女が、この夕日を美しいと感じているからだ。
「――――――」
ようやく分かった。
今日一日、彼女は一度も顔を伏せなかった。
望めば手に入る約束を、ただ、笑顔で見送った。
「―――そうだ。俺は聖杯戦争を解決する」
その独善。
本当は解決する必要などない。
四日目を眠って過ごせばそれでいいのだ。
この四日間だけ、目をつむって見過ごしてしまえばいい。
それだけで、この異常は終わるのだ。
でも、それは衛宮士郎にはできない。
それは失われたものを無視する事だ。
幸福を甘受し、足を止めた生き方だ。
都合のいい幸せを。
都合よく受け止められない、骨の随から捻じ曲がった正義の味方。
「はい。貴方も、多くの者も、それを批難するでしょう。
ですが私は尊いと思う。
貴方は聖杯戦争を終わらせる。私が止めようと助けようと、結果はきっと変わらない」
……だから、出来もしない約束はしなかった。
よく出来た物語を見るように、彼女は笑って明日をつむったのだ。
「……いいのかな。俺の考えは、凝り固まった意地みたいなもんだけど」
「ええ、その誇りを守り続ける。
この身は最後まで、貴方の剣として在りましょう」
けれど、これは約束だった。
共に戦うと誓いあった者として。
未練を感じさせず、鮮やかにそのユメを断ち切っていく。
「そんなに悲しい顔をしないでください。
大丈夫。仮に終わりがあるとしても、それは別れではありません」
「別れではない?」
「ええ―――私たちはそれぞれ、望んだ未来に還るのです」
それは確かに。
望んだ明日がどんなものかは、あの、明けない夜が終わった時に知るだろう。
―――恐れはない。
地上で最も輝かしい星が、背中を押してくれている。
「家に帰ろうか、セイバー。
今日は一日ありがとう」
「いいえ。私の方こそ、ありがとうシロウ」
歩みを再開する。
一日に幕を下ろす。
さあ―――目を覚ましたら、この剣《つるぎ》に相応しい、自らで在り続けないと―――
◇◇◇
サイカイ
気持ちの良い青空を眺める。
食後の一時、縁側でのんびりとお茶を飲むのは格別である。
当たり前の幸せは、なにより当たり前であるあたりが最高だ。
「―――それで、調べてみたら該当するサーヴァントとマスターがいたわ。
聖杯戦争が開始してから四日目で脱落したのはアインツベルンの―――」
「って、そこボケっとしない!
せっかく調べてきてあげたんだから、ちゃんと報告を聞きなさい!」
「は? いや、あれ? 遠坂?」
しばし混乱。
気がつけば、隣には遠坂が座っていた。
「遠坂、じゃないわよ。……まさかアンタ、今の話ぜーんぶ聞き流したって言うんじゃないでしょうねぇ?」
遠坂らしからぬ、嫌味のない直球の感情表現。
常に優雅たれ、という家訓を忘れるほど怒ってらっしゃる。
「―――すまん、聞いてなかった。
そもそも―――なんでここに遠坂がいるんだ?」
いきなりこの時間にワープしてきたような不安。
遠坂がいつから隣にいたのか、本気で失念してしまっている。
「…………なに。もしかして、私が帰ってきた事も分かってないの?」
「ば、ばか言うな、そこまでボケてないぞっ。
たぶん、遠坂が隣に座って羽を伸ばし始めたのに気付かなくて、話しかけられてもこれまた気付かなかっただけだ」
「それ、十分ボケてるけど。
……仕方ないわね。ヘンな夢っていうか、衛宮くんはまだ『四日間』に苛まれてるんでしょ。疲れてるってコトで見逃してあげるわ」
「あー……重ねてすまん。自分でも今のはちょっと怖い。それと、なんだ。別に寝ぼけてるワケじゃないから、そう覗き込まないでくれ」
「あ。そ、そうよね、ちょい近すぎた」
パッと体を起こす遠坂。
さっきまでの状態は、半ば押し倒されているに近かった。
「……じゃあ、もう一回だけ説明するわね。
貴方の言う『四日間』がなんなのかってコトだけど、それが何者かが聖杯にかけた願いだって仮定を採用するとする。
この“何者か”が何なのかを知る手がかりは、やっぱり『四日間』の縛りだと思うのよ」
「はじめ、聖杯にも限界があって四日間しか再現できないものかとも思ったんだけど、それなら一日を永遠に繰り返せばいいワケでしょ。聖杯の力を節約する、なんて意図はないと思うの」
「だよな。聖杯は持ち主―――召喚者の願いを叶えるだけのものだ。そこに、“聖杯《じ ぶ ん 》の魔力をセーブしよう”なんて考えはない」
「そう。だから四日間でセーブしている理由は他にある。
聖杯の契約者は、何らかの理由で四日間しか聖杯戦争を再現できないのよ。
で。ここで重要なのは開始でも再開でもない、再現ってコトね。衛宮くん、この意味わかる?」
「……そりゃあ、なんとなく。
そいつは一度、聖杯戦争を体験していて、そいつを再現してるってコトだよな?」
「よくできました。そこにさえ気付けば後は自明の理よ。
四日間しか再現できないのは、聖杯の力が足りないからじゃない。
そいつは四日間しか聖杯戦争を体験できなかった《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
四日目で脱落したから、そいつにとってその先の聖杯戦争は再現できないのよ」
「……“そいつ”ってのは四日目で脱落したマスターってコトか?
けど、そんなヤツいなかったぞ」
「わたしたちの聖杯戦争にはね。
で、以前の聖杯戦争の記録を調べてみたら、ちょうど四日目で退場したマスターがいて……」
「?? 以前の聖杯戦争なんて関係ないだろ。再現してるのは五回目《オレ タ チ 》の聖杯戦争なんだから」
「そう思うでしょ?
けどちょっと違うのよ。あくまで例え話なんだけど、貴方の言う『四日間』は白紙の脚本で、わたしたちは役者なんだと思う。
この脚本は白紙だから役者たちは好き勝手アドリブできるんだけど、たとえ白紙でも四日間という上演時間だけは決まってるから―――」
跳び退く遠坂。
「遠坂……?」
「―――結界が反応しかけてる。士郎、一緒に来て。外に良くないお客さんよ」
「……ホントだ、小さいけど警報が鳴ってる。鳴る前によく気付いたな、遠坂……」
あいつ、自分自身にも周囲に対する警戒網《けっ か い 》を敷いているんだろうか。
末恐ろしい。ロンドンに行ってから、遠坂はますますパワーアップしてしまったようだ。
遠坂を追って外に出る。
「――――――」
俺に背を向けたまま、背中に回した指で『すぐ後ろで待機していて』と合図する遠坂。
頷きで返して、遠坂のすぐ後ろで臨戦態勢をとる。
遠坂と向かい合っているのは、
肉眼で初めて見る、女だった。
「こんにちは。こんないい天気に何のご用かしら、魔術協会の魔術師さん?」
「それはこちらの台詞です。ここは衛宮切嗣氏の屋敷と聞きましたが、なぜ貴女が出てくるのです。
……たしか、彼には養子がいるという事ですが―――」
「衛宮くんに用ですか? 彼は貴女たち協会にはまだ関わりはない筈です。伝言があるのでしたら、わたしが代理として受け賜りますけど?」
にこにこと笑顔で拒絶を示す遠坂。それを、
「……いま貴女と戦う気はありません。
徒《いたずら》に警戒されては私も反応してしまう。ここでは人目もある―――魔術刻印を止めなさい」
事も無げに、女は封殺した。
遠坂は左腕の魔術刻印を起動させていたらしい。
奇襲された時の保険を見抜かれ、遠坂の緊張がよけい高まる。
……が、それが無意味であるコトも遠坂は思い知っている筈だ。
目前の女に戦う意志はないし、騙し討ちをするつもりもない。
何故なら、魔術師としての実力が三段ほど違う。
この女が戦うと決めたのなら、奇襲などせずとも俺たちを無力化できるからだ。
「……わかりました。今日は視察だけ、というコトでいいのですね」
「ええ。マスターとして戦いに来たのではありませんから。―――しかし、不用心なのは感心できませんね。日中だからとセイバーを連れていないとは」
「セイバーを連れていない……?」
不審げに掠れる遠坂の声。
「……そうか。お互い生きている、という事はまだ出遭っていないのか……話は簡潔にすませた方がいい、という事ですね」
聞き取れない独り言。
女性は遠坂だけを見つめている。
……二人の会話は根本的にズレがある。
それは日付の話だったり、サーヴァントの話だったり、そも女が口にする遠坂の名前だったりした。
その、ほんの少し足を踏み外せば気付ける歪みに、女も遠坂も気がつかない。
寒気がするほどのバランス感覚。
その奇跡は、千尋の谷を綱渡りで横断するに等しい。
それを無言で眺めている。
魔術協会の魔術師が来たら余計な口出しはするな、というのが遠坂の口癖だ。
俺はぼんやりと、もしくは愕然と、目の前の女を眺めている。
あの場所にはいなかった、実在しない筈の、第八のマスターを。
「……おかしな話ですね。今になって衛宮切嗣の遺産を鑑定しにきたのですか? 彼は協会には属さない、フリーランスの魔術師の筈ですが」
「衛宮氏の遺産をどうするかは私の管轄ではありません。私は前回の聖杯戦争の勝者である彼に興味があるだけです。
それは貴女とて同じでしょう? この街に眠る聖杯を得る為、こうして衛宮邸に訪れているのですから」
「え――――――?」
遠坂の不審が確信に変わる。
噛みあわない話が、ようやく噛みあったらしい。
「…………ちょっと待って。聖杯って、協会は何を勘違いしてるの?
聖杯戦争は終わったのよ。今回の儀式が大失敗して、聖杯を召喚する礎そのものが無くなった。
冬木の聖杯戦争は、第五次で終わったでしょう」
素晴らしいまでのバランス感覚。
でも足を踏み外した。
当然だ。こんな綱渡り、いつまでも続くはずがない。
わかりきった事なのに、どうしてこんな所まで来てしまったんだろう、この女は。
「―――確認するわ。
貴女、第五次聖杯戦争がもう終わったと言った?」
―――寒気がする。
もし遠坂が頷けば、その瞬間に拳が撃ち出される。
それほどの殺気を放つ女に、遠坂は真っ向から頷いた。
「ええ。この街にはもう奇跡は呼び出されない。
第五次聖杯戦争は、聖堂教会が派遣した監督役・言峰綺礼《ことみねきれい》の違法によって幕を下ろした。
協会《あ な た 》たちだけでなく、教会側も彼の死をもってこの土地から手を引いたわ」
「言峰―――綺礼?」
落ちた。
聖杯戦争が終わっている、という戯言《ざれごと》すら力で押さえつけようとした女は、
その一言だけで、
鉄の仮面を落としてしまった。
「言峰が……死ん、だ……?」
「ええ。半年前に死んでいる。彼は第五次聖杯戦争の勝者である衛宮士郎に倒されたわ」
遠坂の視線がこちらに向く。
「衛宮士郎―――そんな、そんなマスターは知らない。いえ、今回の聖杯戦争に勝者がいるなんて、そんな―――」
そんな事は。
そんなモノは認めないと、女性の眼に憎悪が灯《とも》る。
そうして数秒。
遠坂は一歩前に出て俺を庇って、
「ねえ。さっきから気になっていたんだけど、訊いていいかしら。
―――貴方。その片腕、どうしたの?」
おかしな疑問を口にした。
「―――え?」
驚きの声は二つ。
女性は思い出したように右手を左腕に伸ばし―――完全に、転落した。
「あ」
呼び止める間もない。
女性は一目散に、それこそ幽霊を見たかのように走り去っていった。
どちらかと言うと、幽霊を見たのはこっちの方な気がするのだが。
「……魔術協会も人材不足ね。末端の管理が出来ていないのかしら」
追う気はないのか、あえて追わないのか。
遠坂は芝居じみた台詞を口にして、くるりと俺に振り返った。
「……ま、今のでしばらくは寄りつかないでしょ。
なんか精神的に不安定なヤツだったけど、実力は本物よ。わたしたちだけで戦ったら返り討ちにされてたし、勝手に帰ってくれてラッキーだったわ」
「で、衛宮くん今の人知ってる? わたしは初めて見る顔だったけど」
「いや。俺も、初めて見る顔だった」
「そ。けどものの見事に無視されたわね。
凄腕の魔術師だったけど、衛宮くんが魔術師だって事は気付かなかったみたい」
「いや。今のは無視っていうより、初めから目に入っていなかった感じだった」
実力差がありすぎて眼中に入っていなかった、というヤツだ。修行不足を実感する。
「ならタイヘンね。彼女、きっと貴方の敵よ。
なんとかしたかったらセイバーの手を借りなさい」
―――と。
さっきまでの明るさから一転して、遠坂はこちらを一瞥する。
「何が言いたいのか分からないんだが。
……もし戦うなら、セイバーと二人でいけって?」
「そ。それでも無理ならランサーに相談しなさい。アイツだったら彼女の手の内は知ってるでしょうし」
この遭遇。
たった数分の会話で、遠坂は事のカラクリを見抜いた。
だがそれだけ。
解決方法も、それを解決する事も推奨しない。
「先に戻ってるわ。
……この件に関して、わたしはもう不干渉だから。解決したいのなら貴方だけで解決して」
冷たく言い捨てて、遠坂は屋敷に戻る。
「……いい女だな、アイツ……」
なぜか、そんな言葉が漏れた。
遠坂は俺を見捨てたのではない。
アイツは、アイツにできる精一杯の譲歩をして、俺に機会をくれた気がする―――
◇◇◇
6/Angra Mainyu
夜の聖杯戦争6
―――はじめの一年は、誰を憎もうかという事だった。
彼は長く、幸福の中にいた。
ごく平凡な、さほど裕福ではない家に彼は生まれた。
平凡な両親、年の離れた兄妹。朝早くに起きて、森で父の手伝いをし、一日の糧を村に持ち帰る。
ささやかな彼の世界。彼をとりまく変わらぬ日常。
その仕事は何十年と続いてきた。
彼の父も、そのまた父も、同じように森に入り山に許されて生きてきたのだろう。息子である彼も父たちと同じように、代わり映えのない人生を送り、退屈に死んでいく。
若さ故の不満はあったが、それは年月とともに風化するものである事も彼は知っていた。
確かな屋根と飢えない程度の食事、隣人との暖かな関係に守られた、それは、ありふれた生活《こうふく》だった。
なのにどうして、そんな事になったのか。
退屈な毎日は、村人に与えられた最低限の権利だった。 貧しい村だったが、誰もが平凡に生きて、静かに息を引き取れる正しさに満ちていた。
他の村人も、彼と何一つ変わらなかった。
他の村人も、彼を仲間だと思っていた。
……今でもそれが悔しい。
何も狂ってはいなかった。
何も間違ってはいなかった。
その選択は間違いなく、彼を含めた人間の意志だった。
―――だから、今でもそれが悔しい。
せめてそれが天の意志であったのなら、神さまの非情さを呪うだけでよかったのに。
“―――悪魔め―――”
それは何の前兆もなく。
当たり前に、朝の挨拶のように行われた。
“―――まずは目だ―――”
いつものように家を出て森に向かう。
すれ違う隣人に声をかけて無視される。
異変は村の真ん中で。
話した事もない村人に囲まれ、それきり、村に戻る事はなくなった。
“―――おい、左目は残しておけよ―――”
儀式は淡々と進んでいく。
なんでも、彼は悪魔だったらしい。
彼ですら初めて知る事実に村人は嘆き、嫌悪し、はては憤怒して、彼の待遇を決定した。
“―――やかましいな。喉を潰しておいた方が―――”
恐怖より疑問の方が大きかった。
なぜ、と。
どうしてそんな事をするのか。
どうしてそんな事になったのか。
どうして、よりによって自分なのか。
だってどう考えても、理由らしきものが、何処にも存在しなかった。
……それと、どうして。
“―――そうだな。息ができればいいだろう―――”
どうして、そんな事ができるのか。
“―――手足の腱を切れ。腱だけだぞ、そいつの体は村みんなの物だ、全員に残しておかないと―――”
処置は数人がかりで行われた。
大勢の知り合いに恨まれながら、手足はカタチを残したまま、手足ではなくなっていく。
オレたちの生活を豊かにしない罰だと、全身に、罪に相応しい処置を施された。
“―――舌も切っておけ。死なれてたまるか―――”
沢山の知り合いに罵られながら、泥を受けて汚物にまみれた。
私たちの生活を脅かした報いだと、全身で、彼らの不満に応えてやった。
“―――ざまあみろ。悪魔め、よくも―――”
たしかな人格はそこで終わる。
感情は肉体を損なわれた痛みで崩壊し。
理性は尊厳を消された悲しみで崩壊した。
そうして。
どのくらいの間、蹲《うずくま》っていたのだろう。
うめき声一つなく。
喉に刺さった枝は腐り。
舌はとうに引き抜かれ。
発声器官は、度重なる絶叫で一夜にして炎症し。
知らない人間も知っている人間も、こぞって彼を罵倒した。
正義を行うに理由はいらない。
彼らは正しい憤りと道徳をもって、誰に恥ずる事なく、山頂に幽閉された悪魔を憎む。
オマエなんか居なければいいと。
殺してもくれないクセに笑い続ける。
憎しみは憎しみを呼ぶ。
恐怖と疑問を越えて、彼はようやく憎悪を得る。
けれど。その憎悪は、一体誰に向ければいいのか。
どうして。
どうして。
どうして。
何度思い、何度口にしたか分からない。
片目を潰される時も、指をハサミのようなものでパチパチと切られていく時も、喉から絞り出た声は“どうして自分が”だった。
村人は誰も口にしてはくれなかった。
やめてください。
かえしてください。
たすけてください。
そんな、もう絶望的な願いは口にしなかった。
最後に残った左足の親指を、父親だったモノに切り落とされた時に受け入れていた。
もう願いは一つだけだった。
どうして自分なのか《・・・・・・・・・》。それだけが最後の願いになったのに、誰も教えてはくれなかった。
その答えに気付いた時、彼は本物の悪魔になった。
彼が悪魔である事に理由はない。
生け贄に選ばれた理由はない。
そもそも、村の長老―――権力者たちは彼の事など顔も知らない。
そんなものは誰でもよかったのだ。
悪行を重ねて誰かに恨まれたワケではなく、
善行を重ねて誰かに疎まれたワケでもない。
何の特徴もない、ありきたりの誰か《ア ナ タ 》として、彼は、コマのように選ばれた。
……顔も知らない人間が、その日かぎりの贅沢をする為だけに、顔も知らない人間の人生を終わらせる。
これはそれだけの話。
たった一夜の欲望を満たす為に、何十年と培ってきた人生を踏み潰された。
この世は、人でない人《モノ》に治められている。
それを悟った時、彼の憎むものが決定した。
―――“この世《アンリ》全ての《マユ》悪”
祭り上げられた偶像は、ここに真実の魔となった。
永遠に孵らぬ卵。
この狭い世界でのみ信じられた、救罪の反英雄として。
痛みにもがく手足《じ ゆ う 》はない。
彼は末端から散断《さんだん》されている。
もはや生きているのは心臓だけ。
手足もなく尊厳もなく。人として機能していないのに、痛覚だけは律儀に働き続けている。
数え切れない程の憎しみを受け。
数え切れない程の憎しみを生み出しながら。
崩壊した人格は、壊れたなりに秩序を得る。
彼は石だった。
岩牢から外に出られず、体はわずかとも動かせない。
残った左目は目蓋を固定され、閉じる事も許されない。
乾き割れた眼球は外界を見つめ続ける。
まるで石像になった人間。意志を持った石像か。
彼は一歩も動けず、変わらない風景を一月、一年、何十年と見つめていく。
目を逸らす事も閉じる事もできない。
退屈で精神を病む前に、自分が生きている事さえ忘れそうな仕打ちは、その実、彼が死ぬまで続くのだ。
恐ろしいのは、一日でも耐え難い拷問がこれから一生続くという事―――
まっとうな理性なら七日と持たず崩壊しよう。
それに耐え、魂を守れたのは、彼の理性がとうに壊れていたおかげだった。
同じ風景に壊れる事はない。
眼下に広がるのは彼の故郷。
彼を悪魔と呼び本当に悪魔に変えた者たち、憎悪の源たる村が一望できるのだ。
弱者《いけにえ》を以て繁栄する、おぞましい善意の群。
彼は自身が生きているかぎり憎み続ける。
この不条理。
目を覆う人間の醜悪さ。
それを容認する、寛大すぎるこの世界を。
岩牢にあるのは、焼き付いた憎しみだけ。
此処には彼と呼ばれた人格も肉体もない。
彼の肉体にいた魂《モノ》はとっくの昔に消滅している。
ソレはもう別のモノだ。
彼から生まれた憎悪だけが、今もこうして、肉体で燻《くすぶ》り続けている―――
そうして、どれほどの歳月が経ったのだろう。
時間の感覚を失った彼にとって、世界は停滞しながらも目まぐるしく変わっていく。
彼がまだ人間だった頃の接点も例外ではない。
彼を選んだ人間も、彼の手足を奪った人間も、彼の肉親だった人間も、彼を憎んだ人間も、彼が愛していた人間も。
生け贄にされた彼ほど、長く憎しみを保てなかった。
彼から全てを奪った者たちは、彼が消え去る前に、この世界から消えていった。
……流れゆく星のようだ。
瞬《またた》きの無慈悲さと、変わらず訪れる日の強さに眼球を焼く。
長い時間。
彼は、そんな日溜まりに放置された。
たくさんの命を見てきた。
あまりに多く、あまりに意味のない命の成果。
時間と空間を消費し、自身の命さえ燃やして生き急ぎ、子をなし、財を築き、何一つ残らず終わっていく。
それは空虚ではあるが虚無ではない。
終わってしまう事だが、続かないという事ではない。
月日は巡る。
命は枯れまた芽吹く。
繰り返される繁栄と衰退。
眼下の風景は目まぐるしく転輪する。
異なる信徒たちによって蹂躙される事もあった。
新たな血を受け入れて拡がっていく事もあった。
その全てを、彼は憎しみをもって見つめ続けた。
憎しみでしか、関わる術を持たなかった。
―――悪心は山頂にありて、我々に魔を吹き込む。
それが、古くから村に伝わる教えになった。
憎しみがある限り、憎まれている限り、彼が死ぬ事はない。
新しい村人たちは日々の敵として彼を憎み、崇め、感謝した。
もう、そこには悪魔であった青年すら存在しない。
何も生み出さない憎悪。
日々を円滑に進めていく為の空白。
日常に空いた穴、溢れ出す感情を受け入れる廃棄場。
なんて都合のいい―――何物にもなれない不実の虚無。
その村も、またたきの合間に消え去った。
衰退と繁栄ではない。
時代が変わり人が変わり、山奥にあった村はその役目を終え、一面の荒野になった。
憎んだものは何もかも消え去った。
名を失い体を失い、魂さえ見失って。
最後に、憎しみにすら置き去りにされたのだ。
なのに、まだ此処に繋がれている。
幾星霜。
人が滅び村が滅び、自身の肉体が死んだ後も、彼は此処から動けない。
焼き付いた憎しみは不変にして不滅。
人の世が続くかぎり永遠に在り続ける。
この何もない荒野で。
ずっと、世界の終わりを眺めている―――
―――そうして。私はようやく、目蓋を開けた。
「はっ、あ―――…………!!!!」
「うえ!?」
ソファーから飛び起きる。
ズキズキと痛む頭。混乱は収まらず、見慣れた筈のこの部屋が、爆撃中の戦場のように思える。
「あ、ぁ…………!」
立ち上がり、右腕を振り回しながら走る。
火だるまになった人間のようにメチャクチャに右手を動かし、妄想を振り払いながら部屋の隅に向かう。
「なんだよいったい。背中にクモでも入り込んだか?」
隅には、いつものように座り込んだサーヴァントがいる。
返答する余裕も愛情もない。
私は彼を押しのけ、―――自分でも意図が分からないまま―――、姿見の前に立った。
「は、は…………、あ―――」
写り込む姿は、初めてこの鏡を見た時のままだ。
異状はない。
私には何らおかしな所はない。
……けれど、たしか。
一番初めにこの鏡を見た時、私は何か違和感を―――
“貴方。その腕、どうしたの?”
「―――腕―――私の、左手―――」
クラクラする。
閉じこめていたモノが溢れ出す。
そうだ、あの時は気付いていたんだ。
鏡に映る私には、何か余分なものがあって、あるべきものが欠けていると。
その違和感をうやむやにしたのは―――
「落ち着いたか? ならさっさと続きをしようぜ。
お互い、やられっぱなしは性に合わねえだろマスター」
背後で笑う、あのサーヴァントではなかったか。
目を逸らさず鏡を見つめる。
混乱した意識が、神経の集中に耐えられず目眩を起こす。
カチカチと点滅する視界の中、
私は、よくない幻を見た。
「は……はぁ……は……、あ」
乱れていた呼吸が収まっていく。
……右手で左腕をさする。
ただの幻だ。左腕は確かにある。
が、同時に拭い去れない違和感も付きまとう。
「なに。腕、どうかしたのか?」
背後から声。
落ち着きかけた意識が、また加速していく。
「別に何も。そんな事より、貴方」
振り返る。
目蓋を開けて、しっかりと彼を見据える。
道化のように笑う少年。
その顔は―――私以外の誰かになら、見覚えのある者なのかも知れなかった。
「そうか。昼間のうちに他のマスターに会ったんだな」
―――知っている。
このサーヴァントは、初めから何もかも知っていた。
そんな事とっくに気付いていたけど、私はそれでも、
「だから昼間は出歩くなって忠告したのに。ま、しょうがねえか。あのお嬢さんの話は本当だぜ。アンタが派遣された聖杯戦争は、もう半年も前に終わっている」
このサーヴァントを、信じていたかったのに……!
「では、この聖杯戦争を起こしている、のは」
「オレたち以外に誰がいる。
いや、だいたい聡明なアンタの事だ、そんなのはすぐに気付いた筈だ。なのに自分を誤魔化して、記憶さえ閉じこめて、一生懸命おままごとを続けやがった。
「しかしまあ、それもこれでスッキリだ。
もういいだろうマスター?
この茶番はさ、聖杯戦争っていう殺し合いを続けたいアンタが、引退した連中を引き戻して遊んでいるだけってワケだ!」
ケラケラと笑う。
……癇に障る。
癇に障る、癇に障る、癇に障る……!
「私を―――私を騙していたのかアヴェンジャー……!!」
「人聞きの悪い。単にアンタが聞かなかっただけだろう。五回目の聖杯戦争がどうなったのかを訊いてくれれば、アンタがどうやってか教えてやったのに」
―――イタイ。
混乱した頭が痛い、あいつを睨む眼球が痛い、乱れていく心臓《こきゅう》が痛い。
そして何より、まるで切断されたかのように疼く、左腕の実感が痛い。
「苦し  だが、大丈夫、アンタならす  落ち着く 。きっか は呆気な たが、気付いた なら、これで」
影が手を差し伸べてくる。
左腕の実感が脳髄を串刺しにする。
「―――黙れ。よくも、今まで」
信じられる、戦友だと思えたのに。
「―――おまえも、私を裏切ったんだ……!」
言葉にした瞬間、まともな思考は出来なくなった。
そこにいる事。自分が存在する事にさえ耐えられなくなって、両脚は行くあてもなく走り出した。
逃げるように。
千切れてまとまらない記憶と、見えない血を流す左腕の痛みが、私からまっとうな思考を奪っている。
―――思い出せない。
確かに聞いたのに、あの少女との会話が思い出せない。
死んだと言った。
誰かが死んで、五回目の聖杯戦争は終わったのだと。
死んだ?
誰が?
私は、あの時も逃げ出した。
聖杯戦争が終わっている、と聞かされても動じなかったのに。
どうして、そんなどうでもいい事に、千々に乱れてしまったのか。
「はっ―――はっ、はっ、はっ―――!」
走る。
行くあてなどないのに、明確に目的地に向かって走る。
左腕が千切れそうだ。
痛覚は理性を侵し、混乱は止めようがない。
故郷を後にした私。
協会にも居場所はなかった骨董品。
価値を見いだせば見いだすほど追いつめられた。
遠く離れた後で、どれだけ故郷を愛していたのか思い知っても帰り道はなく。
確かな物もなくて、そもそも自分が曖昧で、外面だけを立派にして、あの日、初めて頼りになる強さを見た。
誰も必要としない、と。
そうあれたらどんなに楽かと、身勝手な憧れは。
「はっ、ぐっ……! うあ、あ、は、あ―――!」
痛みで歪む。
モルヒネはバッグの中だ。痛み止めがほしいのなんて初めてだ。でも左腕には打てないから、いっそ脊髄に打ってほしい。それならすぐに脳に行き渡って何もかも忘れられる。
忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ。
誰が死んだのかなんて聞きたくない。
だいたい、私はこの街にマスターとしてやってきたんだ。そんな男のコトなんてどうでもいい。
―――ああ、でもどうして私がマスターに。
バゼット・フラガ・マクレミッツは封印指定の実行者だ。こんな極東の地の聖杯戦争に派遣されるなんて、どう考えても管轄外。
何か理由。
何か理由がある筈だ。
その理由が嬉しくて、何年かぶりに再会できると嬉しくて、私は、私は―――
グチャグチャだ。《誰が死んだ》 グチャグチャだ。《誰が死んだ》      グチャグチャだ……!《誰が死んだ……!?》 辿り着いた。
今まで決して入らなかった場所。
ずっと入りたかった場所。
聞いた話では、ここは小さいながらも立派な礼拝堂だとか。
奢《おご》らないが自己には厳しい、彼らしい作りなのだろう。
遊びのない装飾、張り詰めた空気。それらは全て彼がもっていたものだ。
今では懐かしいとさえ思う、信じていた人の面影。
ああ、なんでもっと早く来なかったのか。
ここは彼の居場所。
第五次聖杯戦争において、あの神父はいつだって、この教会で訪れる者を迎え―――
―――え?
それは伝え聞いたものではなく。
ただの廃墟と、見知らぬ少女が、彼の代わりに待っていた。
「貴方、は……?」
痛みは最高潮に。
左腕が落ちそうなほど。
「神父の代役です。言峰綺礼はここにはいない。もう、この世の何処にも存在しない。
目を覚ましなさいバゼット。貴女が望むものは初めから無かった。言峰綺礼が、ただの一度も貴女を愛した事がなかったように」
「―――、あ」
選ばれたのは、彼が推薦してくれたから。
“監督役から直々に指名があるとはねぇ。なにか、個人的な交友でもあったのかなバゼット君?”
協会の野卑な皮肉も気にならなかった。
あの誰も選ばない男が、私を選んでくれたのが嬉しかった。
「―――、ああ」
でも、あの時の続きを話すコトはなかった。
公私混同をしては失望される。
彼は私の能力を評価し、マスターに推薦してくれたのだ。
だから私も、彼と出会う時は勝者として。
聖杯戦争に勝ち残った後に、再会するつもりでいたのだ。
「―――、あああ、あ」
全ては順調だった。
私は理想的なサーヴァントと契約し、以前ある魔術師が使っていた洋館を隠れ家にした。
七人のマスターはもうじき揃う。これからの戦いに身を奮わせている時、彼があの部屋に訪れ、
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
私は、彼に殺されたのだ。
思い出した。
それが私の最期。
聖杯戦争に呼ばれ、聖杯戦争に参加する事さえなかった、みじめなマスターの末路だった。
“この茶番はさ、聖杯戦争っていう殺し合いを続けたいアンタが、引退した連中を引き戻して―――”
アヴェンジャーの言う通りだ。
私は言峰に背後から騙し討ちを受け、死の間際にいた。
令呪の宿った左腕をもぎ取られ、あの洋館に放置された。
少しでも動けば死に絶える傷。
けれど動かない所で、いずれ死に至る致命傷。
瀕死状態のまま、私は出血と共に薄れていく意識の底で願ったのだ。
復讐ではない。
死に襲われる私に、裏切りに対する怒りを覚える余裕はない。
絶望でもない。
意識が途絶えつつある私に、裏切りに対する悲しみなど差し込まない。
あの時。
私の心にあったのは、ただ“死にたくない”という妄念だけだった。
こんなところで死にたくない。
こんなみじめに死にたくない。
こんな、一人きりで死ぬなんて耐えられない。
停止した時間。半ば以上に死んでいた私は、命が尽きるまで叫び続けた。
それを、
“―――オマエが、オレのマスターになるのなら”
何か、得体の知れないモノが、
“―――契約が続く限り、その望みを叶えてやろう”
聞き届けて、しまったのだ。
ソレはおそらく聖杯だったモノ。
第五次聖杯戦争の勝者によって破壊された聖杯の中にいた、カタチのない虚無だった。
本来ならソレは聖杯崩壊後、もとの英霊の座に戻る。
だが―――ソレは、聖杯の中で生きていた。
いや、人々の願いを叶える聖杯の中で、ようやく、人々の願った通りの“英雄”に成ったのだ。
ソレは聖杯の中で新生したサーヴァント。
この世全ての悪などという、人間の願いを叶える悪魔《せいはい》になったソレは、私の呼び声に反応した。
いかに聖杯の具現と言え、ソレはサーヴァントなのだ。マスターがいなくては消えてしまう。
あり得ない奇跡、二度とない偶然の果て、せっかく皆が望んだ通りの英雄になったのに、一夜と保たず消えてしまう。
先がない、という時点で私たちの利害は一致した。
……もっとも。
私は既に、終わりを迎えていたのではあるが。
私は無我夢中だった。
ソレが何であるか考える余裕もなかった。
ただ、私の死後。
この体が腐り、風化し、何物にもならなくなる事だけが恐ろしかった。
だから―――死の間際に、妄念を焼き付けた。
死にたくない。
契約を続けたい、と。
聖杯という容れ物を失ったソレは、新しい容れ物として私と契約した。
私は彼と契約した瞬間に意識を失った。
死んだ、のである。
だから、ここにいるのは私の残骸。
四日間という限界をずっと繰り返す、閉ざされた庭で遊び続ける哀れな妄念。
……仮に、最期の願いが『生き返りたい』だったとしても、それは叶えられなかったろう。
彼は言った。
死者では死者を甦らせる事はできない。
死んだモノをカタチにできるのは生者だけの特権だと。
……だから、彼に出来る事は、せいぜい魂を騙すこと。
肉体から離れた魂を保存し、契約が続くかぎり、現実を舞台にして都合のいい夢を回し続ける。
それは装飾に優れ。
微睡みの淵に築かれる、揺り籠のような空虚《ホロウ》。
……そう。
この終わらない聖杯戦争こそバゼットが望んだもの。
あのサーヴァントこそ願いを叶える、私だけの聖杯だったんだ―――
バゼットに遅れること数分、ようやく教会に到着した。
あの足の速いねーちゃんが教会に逃げ込む事は分かっている。
教会こそバゼット・フラガ・マクレミッツにとって最後の拠り所。
そして、立ち入ってはいけない鬼門でもある。
「……ちぇ、オルガンが聞こえやがる。面倒なコトになってなけりゃいいんだが」
さっきのテンションから察するに、顔を合わせた瞬間即死級のストレートが炸裂しそうだが、サーヴァントとして自暴自棄になったマスターを放ってはおけない。
首から上が無くなるのを覚悟して、手探りで扉に手をやった。
廃墟には、力なくうなだれる女の姿。
祭壇には、銀の花が咲いている。
「よう。その様子じゃほとんど思い出したってところだな」
女は答えない。
落ち着きはしたが、オレへの怒りは消えていないようだ。
「ありゃ、まだご機嫌ナナメですか。
仕方ないな、特別サービスだ。ホントは訊かれなきゃ答えねえんだが、ここは包み隠さず、正直に世界の仕組みを説明してや」
「―――必要ありません。
貴方が答えるべき事は二つだけだ」
軽口が止められる。
放たれた言葉には、感情というものがなかった。
女は機械になった。
なら、こちらが人である義理もない。
「私が望む限り、聖杯戦争は終わらない?」
―――Yes。
「聖杯戦争が続くかぎり、私は死なない?」
―――Yes。
ならいい、と。
女はオレを通り過ぎ、教会の出口へ向かっていく。
―――信じられない。
オレは今、本当に驚いている。
「……待て。ならいいってなんだ。ここまで来てふりだしに戻るのか」
「一日目に戻るのはいつもの事でしょう。今さら何を言うのです、貴方は」
……まいった。
これじゃいつもと立場が逆だ。
「分からないな。カラクリを知ったんだろう?
ならもういい筈だ。この世界は死にかけだ。終わらないが続かない。そんな所にいたって、何にもならないじゃないか」
「それは外の世界も同じ事です。
私も、私をとりまく世界も、それを許す世界そのものも、とっくに崩壊しだしている。
再生はない。後はただ、滅びをどれだけ緩やかに引き延ばすかだけの話だ」
それが怖いと。
約束された死が怖いと、彼女は言った。
「私たちは希望《み ら い 》のない世界に生きている。そんな現実に戻るなら、ここで永遠に繰り返していた方がいい。
……そうだ。もっと早く気がつけば良かった。裏切られたからって悲観する事はない。もとから私には何もなかった。あんな場所で生きるぐらいなら、四日間しか続かなくても、ここで生き続けた方がましだ」
それは違う。
弱いのはいい。けど、ここで立ち止まっちまうのは、少しばかり勿体ない。
アンタは今まで何の為に、苦しい呼吸を続けてきたのか。
「こっちのがマシか。それこそ、何を今さら口にする。
現実が厳しいなんて、そんな事、アンタは生まれた時から分かっていたんじゃないのか」
悲観するのは弱いから。
けど、その弱さを飲み込んでくたばるのが、一番の“人間らしさ”だとあの神父は言っていた。
「…………話はここまでです。戦いを続けます。
貴方は私のサーヴァントだ。私の方針に従っていればいい」
教会から立ち去るバゼット。
本当に予想外だ。
アイツが自分で記憶を取り戻せば、こんな茶番は否定するかと思っていたのだが。
「…………こりゃ、もう一押し必要かな」
しかし、その一押しがオレには考えつかなかったりする。
……まあいいか。
マスターがまだ戦うつもりなら、サーヴァントは大人しく付き合うまでだ。
最後の一押しは、やっぱり正義の味方の仕事です。
「貴方はまだ続けるのですか」
祭壇には女がいる。
あの女は敏感なので、これ以上近づくと死んでしまう。
これでも精一杯の距離なのだ。
オレとあの女は、もともと話したり触れ合ったりできる関係じゃない。
「仕方ないだろう。契約者が続けるって言うんだ、使い魔が自分から契約破棄したら、魔術師のルールが壊れる」
「わかりました。確かに、貴方の立場ではそれが最善でしょう」
淡々とした会話。
お互いの事に興味がないんで、コイツとの会話はいつも無駄がない。
しかし、どうしたコトか。
「……貴方に会いました。とても、楽しそうだった」
余分な出来事を、あの女は口にした。
「あー……―――まあ、楽しい分にはいいだろうさ」
曖昧に返答する。
喜ぶべきか妬むべきか、呆れるべきか悲しむべきか。
正直、正しい反応が分からない。
「外でマスターが待ってる。そろそろ出るぜ」
苦手な雰囲気になりそうなんで、早々に退散する。
「……忠告してあげるわ。
契約を切るか、このまま続けて終わってしまうか。どちらにせよ彼女は救われないでしょう。
なら、いっそこのまま」
その先は聞きたくない。
第一、女の発言は正しくない。
「まさか。助けを求めるのなら、救われないものはない。
どんなものであれ、最後には救われるんだ」
「……呆れた。それを貴方が言うの、アンリマユ」
「もちろん。ま、オレの言う救いは人間の救いじゃないがね」
生憎、生きているうちに与えられる救いは知らない。
絶望に落ちたモノは変えられない。
だからせめて、その絶望を意義あるものにすり替えるのだ。
あらゆる今際《いまわ》の際において。
最期の瞬間、いい人生だったと幻想に酔えるのなら、その人間は幸福だろう。
「……ねえ。今でも本当に、この願いを終わらせたい?」
「あったりまえだ。もう何億回繰り返したと思ってやがる。いいかげん、飽き飽きでお先真っ暗だよ」
「嘘つき」
女は階段を上っていく。
結局、礼拝堂にはオレ一人残された。
「―――何億回、か」
知り尽くし、見尽くした日常たち。
新しい出来事を知る度に輝明《ひ か り 》を失っていき、
何も体験していないが、同時に全てを知っている世界。
……まだ幾ばくかの隙間はあるが、その隙間も取るに足らない日常だろう。
とまあ、それはともかく。
「嘘つきって、オレを誰だと思ってやがる。復讐者《アヴェンジャー》が正直者のワケねえだろうが」
嘘つきを非難されるのはまことに遺憾である。
一体、あの女はオレをなんだと思っているんだろう?
◇◇◇
カレンV
広場に人影はない。
神の家は訪れる者もなく佇んでいる。
……ここは地上より遠く。
天《そら》にはなお遠い、告解の惑《まど》い場―――《じょう》
教会には俺の知らない女が待っている。
これが最初であろうが最後であろうが、この場所では意味のない事だ。
もとより存在しなかった女《もの》。何処にでもいて、何処にもいないカレと同じだ。
時間の後先は此処にはない。
俺がここに来るのは、たしか―――
―――三度目だ。
―――最後に、教会に寄っていこう。
こうして足を運ぶのは何度目だったか、ハッキリと思い出せない。
ここでは四日間の秩序《ル ー ル 》は成立せず、望めば何度でも出会いと別れをくり返せる。
とは言っても、女との会話はいずれ頭打ちになる。
此処には新しい要素が入ってこない。なら、いつか全ての出来事を埋めるのは当然だ。
空白を埋める為に教会に訪れる。
それも今回で最後だ。
これ以後の来訪は、あまり意味のない事になる。
「――――――ふう」
疲れたワケではないが、活力が足りなくなった。
必要なのは休息ではなく動力だ。
少し、エネルギーを生み出しにいこう。
……今回の演奏は短かった。
思いっきり期待していたので拍子抜けではあったが、多少なりとも活力は得られたので良しとする。
ギシギシした胸の熱さが心地よい。
人間、たまにはムカつかないと健康に悪いと言うし。
「――――――」
「――――――」
が、その後がいただけない。
演奏を終えたカレンは、やはり無言で俺の前に立っている。
心なしか前回より機嫌が悪そうだ。仁王立ちと言ってもいい。
「………………」
この教会には曇りが似合う。
生命を感じさせる圧倒的な陽射しより、死を身近に感じさせる灰色が似合うのだ。
この教会が建てられたのは戦前だ。歴史だけは随分と古く、三回目の聖杯戦争の折りに大幅に改築。
教会からは土地勘に優れた適任者として、言峰璃正《リ セ イ 》という人物が派遣された。
前任者・言峰綺礼の父親である。
「…………………………」
言峰璃正は若輩ながらも第三次聖杯戦争の監督役を努め、その功績を認められてこの教会を任されたという。
そうして第四次聖杯戦争において、前回の体験を元に、より良い運営に励んだのだが予期せぬトラブルによって他界。
彼が支援した地元の名門魔術師もまさかの敗退を喫し、第四次聖杯戦争は混乱のまま幕を閉じた。
第四次聖杯戦争……新都の大火災を引き起こした戦い。
ほぼ戦時下にあった五十年前の第三次と、近代化が完成間際であり経済が飽和寸前だった第四次。
そして衛宮士郎が関わった半年前の戦いで、冬木の聖杯戦争は終結した。
ここまで二百年。
こんな極東の地で、よくもそこまで秘蹟が続けられたものだ。
奇跡に至ろうとした連中の執念は狂信に近い。
取り憑かれている、というのであれば、聖堂教会も魔術協会も同類だ。
……けどまあ、なんだろう。
そんなにいいものなのかな、その彼方《ば し ょ 》っていうものは。
それはともかく。
「……………………………………」
「わかった。何か話をしよう」
「では、貴方からどうぞ。私には話題がありません。
約束は、貴方の話が終わってからです」
「む、俺からかよ」
致し方ない。沈黙《だんまり》勝負に根負けした以上、話題をあげるのはこっちの仕事だ。
……が、残念ながらネタ切れなのである。
コイツ向けの世間話は持ち合わせていないし、これといって訊く事もない。
気になっているコトと言っても、もう―――
「あ、そう言えば」
一つ、興味深いコトがあるじゃないか!
「何か?」
「いや、そう言えば服が違うなって。
アンタ、夜は法衣を着てなかったよな」
「ええ。それが何か?」
「何って、どうして着替えるのかな、と。
アレって法衣とはほど遠いだろ。今はシスター全開だけど、夜のアンタはとても神職に見えなかったぜ」
否、完全に別物だ。
法衣《カソック》と同じ黒系だから許される、なんてレベルじゃない。
「……。それは、神父にしては軽装すぎる、というコトですか?」
「軽装すぎる……んじゃなくて、イメージの問題というか。あの服、ちょい派手すぎないか? 全体的に黒いし、まるで悪役だ。アンタがずっと法衣姿だったら、ヘンな誤解をするコトもなかったのに」
「…………。アレは悪魔祓いを行う時のものです。
戦闘用の服装ですから、法衣とはイメージが異なるのは当然かと」
「あー、悪魔祓い用の戦闘服なんだ。
……ふーん、たしかに動きやすそうだったけど。ほとんど裸みたいなもんだし」
「…………つまり。私の服装に、何か個人的な意見があると?」
「意見っていうより疑問。動きやすくてもあんなんじゃ不安でしょうがないだろ。というか誰の趣味だよ。
ほら、その。下手な水着よりヤバイって言うか。むやみに扇情的というか、なんだ、言い辛いコトなんでうまく言えないんだけど、」
「―――アレ、下を履き忘れてない?」
「――――――」
返事はない。肯定というコトだろうか?
「アレは仕様です。初めからスカートはありません。邪《よこしま》な考えはやめてください」
げげ。こっちの心を本気で読んでいるぞこの女。
「そ、そうだよな。そんなワケないよな。アンタはシスターだし、誘惑は御法度だよな。
悪い、わかりきった質問だった。つい気になって訊いちまったんだが、あんな戦闘用法衣なんてマジあり得ないもんな。
―――で。アレ、誰の趣味なんだ?」
「誰の趣味でもありません。
アレは私が祭儀衣の中から選び、手を加えただけのものです」
「あ。選んだの、アンタなんだ」
「機能性を重視した結果です。私に求められるものは運動性であって守りではありません。
それと、貴方から扇情的に見えたのは当然です。アレはもともと男性を誘惑する為のものですから」
「は?」
目が点になる。
男性を誘惑する為って、本気かコイツ……!?
「なにそれ、誘惑は御法度だって言わなかった!?」
「言ったのは貴方だけです。私は一言も禁じてはいませんが」
「ぐっ……け、けど不遜って言ったじゃんか。下を履き忘れてるのはワザとだって思ったら」
「男性を惹きつける為の服を着るコトと、公衆で服を脱ぐコトは違います。
貴方の言いようでは、まるで私が露出狂のようでしたので」
不遜だって怒ったらしい。
男からして見ればどっちも大差はないんだが、確かに露出狂はまずい。なにしろ犯罪である。
「……けどさ。なんで男を惹きつけるんだよ。
シスターってのは貞淑であるべきだろ。それともアンタ、男なら誰でもいいの?」
「その男性が望むのなら、拒む事はありません。
例えば―――貴方に女性を暴《あば》きたいという渇きがあるのなら、それに応《こた》え潤《うるお》しましょう。
それも私の労働です。
この身は常に痛みに応えるもの。貴方が罰を受ける事はありません。
私は貴方に犯されるのではなく魔に犯される。人間である貴方が、罪を負う事はないのです」
そうか。
考えてみれば、コイツは何をしなくとも悪魔という穢れを帯びる。
誰かが手を汚さずとも、かってにもりあがってかってにいくワケだ。
自傷行為のような自慰行為。
あんなのが日常なら、そりゃあ、相手が何であろうと大差はない。
「うわ。つまりなんだ、日々の祈りも男に犯されるのも同じ労働ってコトか。
……まいったな、実は慢性的に誘ってたとか?」
「ええ。貴方が望むのでしたら相手をします」
「ホント!? ラッキー、助かった! 俺、望んでないから別にいいです!」
いや、女の子に恥をかかせず済んでよかったよかった。
なんと言われようとその気がまったくないので頼まれてもゴメンだったのだ。
けど、こっちがその気にならないとダメっていう条件なら問題なし。
「……それは、私が多くの異性に体を許してきたからですか? 潔白な女性が好みとか?」
「いや、そういうこだわりはない。
そいつがやりたくてやってるコトなら二十四時間とっかえひっかえ、節操なしでいいんじゃない? 汝の隣人を愛せよって、アンタらの売り文句だし」
「そ―――それと私の労働は、違うと思うのですが。
私の行為は、どちらかというと娼婦に近い」
「そりゃますます徳が高い。
ゆきずりの関係もお金と交換《とりかえ》っコの関係も悪くはないさ。お高くとまってやらせない女よりずっといい」
チラリと教会を見渡す。
この教会に偶像はない。侮辱罪で責められるコトはなさそうだ。
「わかる? 仮にアンタが娼婦だからって、それを理由に萎えたりはしないってコト。
俺がアンタを欲しがらないのは肉体面じゃなく精神面の問題でさ。欲情はしてても愛情がないから、関わりたくないんです」
もっとも、あの格好で目の前うろつかれたらどう転ぶかは分からないが。
正常な成人男性の嗜好はともかく、オレにとって、あの服装は少しきつい。
「……貴方の考えはわかりました。今後、参考にさせていただきます」
「あれ。服の話はもういいのか?」
「ええ、もう十分です。知る気はありませんでしたが、貴方のコトがよく分かった」
「―――本当、ずいぶんと弱っているのですね貴方は。
私の目には、吹けば飛んでいきそうなほど小さく見える。そんなに自分が嫌いなのですか?」
「―――は?」
あからさまな挑発に活力が増量する。
その役たたずの眼で、オレの何を見やがった、オマエ。
「なんでさ。別に俺、自分が嫌だなんて思うコトはないけど。説教なら余計なお世話だから黙ってくんない?」
「これは私の私服を褒めてくれたお礼よ。諦めて受け取りなさい。
―――それで。貴方が私を嫌うのはどうして?」
飛躍する論点。
つられて、つい、
「そりゃ、自分の欲望がないヤツは気にくわない」
細かく山ほどある苦手な部分はうっちゃって、致命的な理由を口にしてしまった。
「ほら。だから貴方は自分が嫌い。
聖杯を破壊した衛宮士郎には、自己に返る欲望がないのだもの。
自分には与えず隣人には与える献身の鑑、世界は正しくあれと祈るような在り方。それが貴方の生き方である事は間違いない」
「……なのに、どうしてかしらね。
貴方はそれを、美しいと感じられない」
「いや、だって」
美しいも何もない。
善悪を判断する以前の問題だ。
そもそもオレは、そんな下らない生き方、しようとも思わない。
「もう誰も衛宮士郎を責めていないのに、自分の欲望を持とうとしないなんて。
ねえ。……人並みの幸福は、そんなにつまらない?」
ああ―――そうか。
俺の生き方は、つまり、それでは我慢できない人生なんだ。
生命《いのち》の分だけ幸あれと。
小さな幸福では、割が合わないと叫んでいる。
「……うまいコト言うなアンタ。
さすがは司祭代理、ぐうの音も出ない逆説だ。機会があったら、今度は本気で叱ってくれ」
「ええ。私の小言で十年来の正義観が変わるとは思えませんが、貴方が望むのでしたらもう一度諭《さと》しましょう」
席を立つ。
オルガンが終わった時、さっさと外に出れば良かった。
オレが欲しかったのは活力《にくしみ》だ。
自分に対する嫌悪に気付いては、せっかくのやる気が失せてしまう。
「じゃあな。他にやるコトがありそうだし、アンタともここまでだ」
これ以上踏み込んでは俺の領分を越えてしまう。
この四日間が何者かによって再現された聖杯戦争なら、衛宮士郎とカレンという女は出逢ってはいけない。
あの戦いにいなかった人間と何度も出逢っては、衛宮士郎の在り方が崩れてしまう。
「聖杯を探しに行くのですね。
貴方は、世界の終わらせ方に気付いたのですか?」
背後で声がする。振り返るのも面倒くさい。
「さてな。遠坂凛が言うには、俺が聖杯の持ち主を倒せばいいって話だが」
今の材料では、何度やっても『倒されて』終わってしまうのだ。
「でしょうね。その為には絵を完成させなければいけない。
―――貴方は、貴方の意義を見つけないと」
意義とは自覚、自分が何をすべきかという認識だ。
女は、誰に言われるのではなく、俺自身の手でソレを見つけろと言っている。
「敵の本拠地を探しなさい。そこに始まりの鍵がある筈です」
「お言葉だけど、洋館ならとっくに調べたよ」
「見落としがあるのよ。遠坂の跡継ぎにロンドンの話を聞きなさい」
これ以上はない的確なアドバイス。
振り返りたくはないが、足を止めて首を回す。
ほらね。だから見たくなかったんだよ。
「契約違反だ。情報交換だけって話だったのに」
「今回だけは特別です。
言ったでしょう。次に貴方が来た時、迷っているのなら道を示すと」
「――――――」
そんな約束を、コイツは勝手に交わしていたっけ。
ホント、なんでもかんでもひとりでやっちまう女だコト。
「サンキュ。じゃあ、これで本当に用済みだな」
「ええ。私が衛宮士郎に関われるのはこれが限度です」
教会を後にする。
始めから、衛宮士郎はカレン・オルテンシアと出逢っていない。
もとからあり得ない出来事だ。
これが今生の別れであっても、別段惜しむ必要もない。
◇◇◇
常世の橋・右
「え―――?」
橋の途中、妙なものが視界をかすめた。
足を止めて観察するも、何をしているのか、何がしたいのかサッパリ判らない。
「……なにやってんだ、アイツ」
幸い周囲に人影なし。
不審な人物を問いつめるべく、鉄骨によじ登ってあちら側に移動した。
大橋上の道路は閑散としていた。
通行止めでもあるまいに、道行く自動車は一台もない。
そこに、この上なく不審な男が立っていた。
「……あのさ。こんなところで何してるんだよ、おまえ」
「おまえこそ。日ごろ目的もなく歩き回って、一体何がしたいのだか」
……いつもの事だが、ここまで馬があわないと逆にスッキリするものである。
「俺は常識の範囲で行動してるよ。歩道橋は下だぞ。なんだって道路《こっ ち 》側にいるんだよ。なんとかと煙じゃあるまいし、高いところが好きってワケでも―――」
あ。やだな、好きっぽいぞコイツ。
「……なんだ、無闇に好きじゃないよな、高いところ?
俺だって人並みに高い所は大丈夫だけど、毎日出張るほど好きでもないぞ」
……いや。まっとうな人間なら、あれだけの高さは無条件で怖いのではないか。
ああいう、一歩間違えれば転落死しそうな所に危機感を覚えないのは生物として間違ってると思う。
いや、誰とは言わないのだが。
「どうなんだろうそのヘン。
他人事じゃないんで、そこだけはハッキリさせてほしいんだけど」
「必要に応じた場合のみだ。どれほど年月が経とうと根本的な趣味は変わらない。原因は雇い主にある。
……まあ、なんだ。魔術師的に、高所を好むのは長所だと思っておけ」
「む」
お互いなんとも言えない顔で黙り込む。
思っておけ、というあたりに共感《シンパシ》ってしまう俺たちであった。
「よし、今の話はなかった事に。珍しくお互いの為になる」
「賢明だ。……忠告しておくが、海を渡る事になったらアレと観光は控えておけ。塔より橋が鬼門だぞ。特に、歌に出てくるような橋は命にかかわる」
「貴重な忠告ありがたい。……で、その運命って変えられるのかな?」
「さて。努力次第で先送りぐらいは出来そうだが。
自己の運命というものは、自分の努力だけでは変えられないそうだ」
決定的な変革には人様の手を借りるしかないという事らしい。
……問題は、その鬼門とかいう橋において、衛宮士郎の行動に関われそうな人様《なにもの》こそが、衛宮士郎をたたき落とす悪魔という事なのだった。
「それ忠告になってない。死刑宣告すんな」
「なに、心構えはできるだろう。冬のテムズ川は厳しいぞ? 泳ぎは達者になっておけ」
実に愉快そうに笑いやがる。クソ、もう他人事だと思いやがって。
「……ああもう、そんな先の話はいいよ。聞きたいのは今の橋の話だ。
高い所で陣取るのは考えがあっての事なんだろう。おまえ、聖杯戦争を続ける気なのか」
……もう通り過ぎた出来事。
俺たちには関わりのない対決によって、『橋を通れなかった衛宮士郎』は『橋を通れる』事になった。
衛宮士郎はもう夜の橋で立ち止まる事はないが、アーチャーは今でも、この聖杯戦争が続くまで繰り返すつもりなのか。
「聖杯戦争を続ける、か―――確かにセイバーとの勝負には執着があった。
だが、少しばかり方針が変わってな。いや、気が変わったというより、やるべき事が見えたというべきか」
「? それは、聖杯戦争を続けようってヤツと戦うってコトか?」
「オレは初めからその『敵』だけに照準をしぼってきたつもりだがな。ビルの屋上から街を監視していたのもその一環だ。新都に侵入する使い魔を、今まで何度撃ち抜いてきたか」
「使い魔って……あの犬みたいな怪物を?」
「ああ。おかしな話だが、何日も繰り返している気がする。それが無意味だと気付いたのは、さて、何時のことだったか。昨日か、それとも今か」
……アーチャー自身、それが『無意味』だと気付いた理由が分かっていないのだろう。
前回の俺と今の俺が繋がらないように、アーチャーの行動も繋がっていない。
「そうか。どちらにせよ、屋上からの狙撃は止めたんだな。何匹も狙撃したんで飽きたとか?」
「……飽きる、か。たしかに同じコトを繰り返してきたように思える。だがな。たとえ昨日と何一つ変わらぬ一日でも、意味を感じなくなるほどに飽きる、という事はない。
飽きる飽きないで狙撃を続けるのなら、俺は何十年と同じ事を繰り返しただろう」
「……。何一つ変わらない、もう新しい事が起きないとしてもか?」
「無論だ。現実は読み飽きた本とは違う。たとえ同じ事の繰り返しでも、何も無いという事はない。
もし―――仮に、あの繰り返しを飽きたと言うヤツがいるのなら、そいつは何億、いや何兆回の“聖杯戦争”を繰り返してきたのだろうな」
何兆回と繰り返す、か。
でも、言ってしまえばアーチャーは何兆回も繰り返した結果、狙撃に飽きたのかもしれない。
俺だって同じ事だ。
遠坂に言わせれば『ループ』ではなく『リスタート』であるらしいが、自分が何機目かの衛宮士郎なのか、把握する術はない。
「……まあいいや。それで、狙撃を止めたおまえはなんでここにいるんだよ。今度は橋でも壊す気か?」
「―――さて。正直、まだ確信は持てないのだが」
……彼方を睨む。
千里の敵を射抜く鷹の目は深山町……柳洞寺のお山に向けられている。
「まあ、老婆心というヤツだ。仮にそうだとしてもここに居座る義理もないしな。一応、万が一の為に地の利を確保しているだけだよ」
「地の利の確保? なんだよ、やっぱり戦う気満々じゃないか」
「危惧しているのはおまえではない。新都に群がる使い魔たちの事だ。先ほどの話では、おまえも見た事があるようだが」
見た事があるも何も、ヤツらにはもう何度殺された事か。
……正体不明の怪物。四日目の夜において、冬木市を覆い尽くす終末の黒い沁み。
アーチャーもあの怪物たちを『敵』と捉えているらしい。
「そうか。狙撃していたのはアイツらを仕留める為なんだっけ」
「ああ。だがそれも止めた。あの怪物たちは倒しきれない。いや、そもそも倒す必要がない。アレは無害だ。放っておけば勝手に消える」
「―――、は?」
そもそも、倒す必要がない―――?
「そんな訳あるか。アイツらは夜に暴れ回って、犠牲者を出しているじゃないか」
「何を言っている。そんな騒ぎになれば他の連中も黙ってはいまい。何を勘違いしているかは知らんが、犠牲者は一人も出ていない筈だが」
「――――――」
今度こそ目が点になる。
怪物に殺された人間はいない……?
いや、それはその通りだ。
あの女魔術師とサーヴァントがこの街に存在しないように。
こちらには、怪物たちに殺される人々も、初めから存在しない。
「……そう言えばそうだったな。けど無害ってのは言い過ぎだろう。アイツらは、」
「人は殺さない。ただ徘徊するだけだ。
もっとも、目的はあるようだが。あの怪物たちは何かをしたくて街に現れるように見える」
それが、今まで何千回と怪物たちを狙撃してきたサーヴァントの結論だった。
「―――さて。邪魔が入ったが、大体のポイントは掴んだ。布陣を敷くとしたらやはりあの鉄骨《ア ー チ 》の上か……」
視察が済み、アーチャーは高架道路を後にする。
「あまり道草をするなよ。この聖杯戦争はおまえが主体だ。いつまでも主役が舞台に出ないのでは、劇も終わりようがない」
霊体化したのか、アーチャーは歩道橋に降りる事なく消え去った。
「――――――」
主役《じどうしゃ》のない車線の上。
―――怪物には目的がある―――
その言葉が、頭から離れなかった。
◇◇◇
ロンドンにて
そうだ、せっかくイギリスに行ってたんだから、あっちで何があったのかを聞いてみよう。
俺だって魔術遣いのはしくれだ。魔術協会の総本山、ロンドンの“時計塔”がどんな場所なのか興味はある。
「どんな場所かって、ただの博物館だけど?
あ、お土産いる?」
はい、とぶ厚い本を取り出す遠坂。
大英博物館のディスカウントで買える、お高くてあんまりありがたみのないカタログである。
「……まあ、貰っておくけど」
ありがとう、とお礼を返しつつ受け取る。
「どういたしまして。お金に困ったら衛宮くんには頑張ってもらうんだから、いまのうちに武器以外も投影できるよう予習しといてね。彫刻はかさばるから絵画あたりねらい目よ?」
「――――――」
さすが遠坂、お土産すら先行投資なのですか。
「……犯罪には荷担しないぞ。
第一、あっちにも魔術よりの鑑定士がいるんだろ。俺の贋作なんて一発で見抜かれるぞ」
「あら、まだ自分の特技が分かってないみたいね。衛宮くんの投影を初見で見抜けるヤツはそういないわ。
構成でチェックする術者じゃまずアウト。霊媒系の術者なら違和感に気付くだろうけど、曰く付きのモノしか霊媒科にはいかないのよね。売り逃げが目的なら巨万の富が築けるわよ」
「え、ほんとか……?」
「ホントもホント。師匠としてわたしも鼻が高いぐらい」
う。内容が内容だけに複雑だが、真剣に嬉しい、かも。
「ま、そんなコトしたら後が怖いんだけどね。
ボニーとクライドじゃあるまいし、大金の代わりに指名手配なんかされたらたまらないわ」
「そりゃ俺もたまらない。お金より命だよな」
あと、脅迫されただけなのに共犯者にされてるあたりもたまらない。
「そうね。派手に稼ぐのは楽しそうだけど、すぐに見つかっちゃ意味がないわ。元手のかからない商売だし、地味にコツコツいきましょう」
「………………」
冗談。これは遠坂一流の冗談。
心の中で三度繰り返して、話題をスッパリ変えるコトにした。
「商売の話はまた後ほど。
ロンドンでの話だけど、何か印象的なコトなかったか? 物価が安いとか、料理がまずいとか、新しい友人が出来たとか」
「お土産じゃなくて土産話でいいの?
……そうね、時計塔っていうのはそのまんまの意味なんだけど、工房のほとんどは地下にあったかな。
下に行けば行くほど狂気度があがっていくダンジョンそのものよ。
エジプトの協会を穴蔵呼ばわりしてるけど、モグラ度なら負けてないんじゃない、時計塔も」
「……ふぅん。で、他には? もちっとマトモな話とかないのか?」
「他って、観光なんてしてる暇なかったわよ。
宝石剣の後始末用の材料をかき集めて、実験室の予約もして、鉱石科のお偉いさんに何度も挨拶して、スポンサーになってくれそうなお貴族さまを絞り込んで、来年から使うアパートメントを探して、一応、格安で貸してくれるっていう学生寮の様子を見に行って―――」
「どうした? 苦虫かみつぶしたような顔して」
「―――ちょっとね。学生寮の下見に行った時、イヤな女と知り合ったの。
そいつのおかげで学生寮は出禁になって、本格的にアパートメント探しをする事になったのよ、わたし」
ビキ、とこめかみに血管が浮き出ている。
口厳しい遠坂だが、人を“イヤな女”と明言するのは初めてではなかろうか。
「イヤな女って、もしかして俺たちと同い年?」
「え―――ど、どうして?」
「いや、なんとなく。遠坂がそういう風に言うのは、ほら」
対等の相手というか、ぶっちゃけ似た者同士がする悪口に聞こえたのであった。
「……まあ、士郎の言う通りだけど。
そいつとは受付でバッタリ会ってね。始めは普通に話してたのよ。挨拶も礼儀正しかったし、会話もキレがあって心地よかったしね。
まあ、あの服装はどうかと思ったけど、見るからにお金持ちだったし、まだ《・・》悪趣味とは思わなかったわ」
まだ、という部分に憎しみを感じる。
遠坂の苛立ちはボルテージをあげていき、今では青筋ばかりか魔力さえ立ち上っていた。気炎万丈というヤツである。
……さて。
ここからの遠坂の話はちょっとばかり聞き汚いフレーズの連続なので、イメージ再生でお送りしよう。
『……あれは我が学生寮史上、最悪の事件でした。
ミス・トオサカとレディ・ルヴィアゼリッタ。
いったい、このどちらが犯人なのかは論ずるところではありません。
私たちが後生に伝えるべき事は、彼女たちを決して同席させてはならない、という事実のみであり―――』
8 Aug 200×. 受付嬢 オクタヴィア・レイランドの証言より。
「はい、それではお預かりします。
条件にあった部屋を問い合わせますので、しばらくお待ちになってください」
「はあ、なんとか間に合ったかあ。
あとは査定を待つだけ……ん?」
「失礼、私《ワタクシ》もよろしい?
来年度の入居受付はこちらでしょう?」
「え、ええ、どうぞ、邪魔をしてしまってごめんなさい。入居の受付なら急いだ方が―――」
「存じています、あと七分で終了でしょう?
貴方も私《ワタクシ》も、こちらの時間には慣れていないようですね」
「貴女。必要な書類はこれでよろしくて?」
「あ、はい、十分ですレディ。
それでは受理いたしますので、今日はお帰り……あっと、定員が一人増えたんでしたっけ」
「申し訳ありませんがしばらくお待ちください。
すぐに確認をとりますので」
「………………」
「………………」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………あの、」「…………………………ねえ、」
「ごめんなさい、お先にどうぞ。
それともわたしからの方がいいかしら?」
「いえ、せっかくの心遣い、謹んで受け取ります。
私《ワタクシ》から質問をしますけど、よろしい?」
「もちろん。
お互い退屈しているようですし、こうして知り合えたのも何かの縁でしょうし」
「同感です。……ふふ。これはただの勘なのですけど、一目見た時から貴女とは気が合うと思ったの」
「第一印象の直感だけなんて、魔術に携わる者としては根拠にかける予知ですけど」
「まさか。予測ではなく予知であるのなら、直感によるものは大きいわ」
「それに―――貴女の勘は、今まで外れた事がないと思いますけど?」
「あら。それは貴女の勘、かしら?」
「ええ。わたしたちが同じものを感じて気を許そうというのなら、そうでなくてはおかしいもの。
だって、わたしも」
「外れない直感を持っている、とおっしゃるのね?」
「……ふふ。ええ、貴女の勘に間違いはありませんわ。
私《ワタクシ》、初対面でも人柄を見誤った事はありませんの」
「ずいぶんな自信ね。
じゃあ、貴女の感想はどう?
わたしはどんな人間に映るのかしら?」
「手強いけれど、尊敬にたる競争相手―――というところかしら」
「見たところ同じ新入生のようですけど、私《ワタクシ》、東洋系の方とお話をするのは初めてですの。
失礼だけど、貴女チャイニーズ?」
「本当に根拠なしね。どうしてそう思うの?」
「足の運びと重心移動、かしら。昔、そういった雰囲気の方にレッスンをしていただきました。
もっとも、その方は祖国の名手でしたが」
「なるほど。
けど貴女の祖国って……失礼、こっちの答えがまだだったわね」
「残念、日本人よ。
純血じゃなくてクオーターだけど」
「……日本人でしたの。
まあ、そういう事もありますわね。これを期にもう一度友好を深めるべき、という神託なのかも」
「よろしく、東洋の新入生さん。
私《ワタクシ》の祖国はフィンランドです」
「貴女に比べれば目と鼻の先ね。
日本というのは地の果てにあるのでしょう? 貴女、まさか一人でここまで?」
「両親は鬼籍に入っているわ。身よりがないってワケじゃないけど、来年からは時計塔に籍を置くの。
時計塔《ロ ン ド ン 》で東洋系は珍しい?」
「多くはないと聞きます。けれど、名を残している方達はみな一線級の魔術師だとか。
人種によるハンデはないと見るべきでしょうね」
「そう、良かった。
ホント言うと、少しだけ心細かったの」
「こっちには一ヶ月だけ様子見に来ただけなんだけど、会う人会う人化け物揃いでしょ?」
「天狗の鼻も折れる……って、こんなコト言ってもわからないか」
「あら、テングなら知っていてよ?
ニホンの仙人、独角でしょう?」
「テングのハナが折れる、という格言は、強力な才能が更に大きな力を前にしてお辞儀をする……というコトだったかしら?」
「そうね、意味合い的には間違ってないわ。
故郷じゃ自信満々だったけど、外に出て覚悟を決め直したって感じ」
「貴女も?
実は私《ワタクシ》も同じことを考えていましたの。
……本当に気が合うのね」
「ねえ、貴女も単身《ひ と り 》でこちらに留学するのでしょう?
でしたら―――」
「失礼します。
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト様、少しよろしいでしょうか?」
「……いいところで邪魔をして。
なに、書類に不備でもありましたの?」
「いえ、書類に不備はございませんが……その、七日前とは事情が変わりまして」
「率直に言えば、貴女の希望は通りません。
最上階を全て使用したい、との事でしたが、新たに一人、入室希望者がありまして……」
「入室希望がある……?
エーデルフェルトがこの寮を選んだ、という話はとうに知れ渡っているでしょう」
「いったいどこの田舎者が、わざわざ、この私《ワタクシ》の機嫌を損ねる為に入居希望を出したというのです?」
「その……そちらのお嬢様です。
推薦もロードの方から半年前にいただいておりますので、エーデルフェルト家の権限では消去《キャンセル》できないかと」
「…………いいでしょう。
我が家紋が劣る、というのは聞き捨てなりませんが、相部屋が彼女でしたら考えない事もありません」
「あのー……相部屋ではなくですね、ルヴィアゼリッタ様が契約した二十八部屋のうち、一部屋だけ彼女が使うだけでして―――」
「? ですから、それを相部屋というのでしょう?」
「一つの空間《フ ロ ア 》に二人の人間が住むのですから、それを相部屋と言わず何と言うのです。
彼女は私《ワタクシ》付きの使用人ではないのですよ?」
「あ……はは、は……」
「……まあ、それも致し方ありません。
本来なら許されない事ですが、幸いにも私《ワタクシ》たちはこうして親交を深める機会を得ました」
「どう? 私《ワタクシ》、貴女となら相部屋も悪くはないと思うのですけど?」
「どうも何も……わたしはなんの文句もないって言うか……随分とお金持ちなのね、貴女」
「決まりですわね。
貴女。私《ワタクシ》と彼女を相部屋に……ああ、そういえば自己紹介がまだでした」
「私《ワタクシ》はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。貴女は?」
「遠坂凛。日本から来た鉱石学科の魔術師よ」
「……トオサカ……?
待ちなさい、その響きは、確か―――」
「ではミス・トオサカ、書類にサインを」
「!? ま、待ちなさい、その契約書……!」
「ちょっ、なにするのよ、それわたしの……!」
「トオサカ……ニホン……フユキ……トオサカリン…… ト、トオサカですって―――!?」
「ちょ……ホントにどうしたのよ一体。
そりゃさっきからちょいぶっ飛んだ子だなって思ってたけど、何もそこまで―――」
「お黙りなさいっ!
よ、よよよよくも謀ってくれましたわね!」
「まさか貴女があのトオサカ―――聖杯などというデマをエサに、魔術師を呼びよせては騙し討ちにする卑怯かつ卑劣かつ卑小なトオサカの娘だなんて……!」
「ちょっと、アンタいまなんて言った?
もしかして冬木の聖杯戦争を知ってるの?」
「ええ、フユキの事はよく知っているわ。
貴女の先祖の事も、ニホンの魔術師のレベルも調べ上げていてよ」
「結果は最悪。
たまに希少種が現れるようだけど、それ以外は神秘を学ぶには足りない劣等人種でしたわ」
「―――なんですって?
どこのお貴族さまか知らないけど、今のは聞き捨てならないわね」
「聞き捨てさせるつもりなどありません。
いいこと、貴女たちには貴い血など一滴たりとも流れてはいないのです」
「なんの間違いで魔術を学び始めたか知りませんが、身の程を弁《わきま》えなさい」
「そこの貴女。今の話はなしです。
この女の部屋は私《ワタクシ》の最上階にはありません」
「いいこと?
こんな書類、我がエーデルフェルトの名の下に―――」
「あ。え。へ?」
「こうしてゴミにしてさしあげますわ!」
「ひ、エーデルフェルト様なにをなさるですか!?
ロードの推薦文を破るなんて、我が寮始まって以来の出来事ですぅーーー!」
「――――――《ぽかーん》」
「ほほほほほ!
ぐうの音も出ないようね辺境の自称魔術師さん!」
「ここは貴方のガラではなくてよ、さっさと汚くて狭苦しい島国にお帰りになられたら?」
「こ、この時代錯誤縦巻ロール……!
なに、人種差別はしないとか言ってたの、わたしの空耳だったのかしらねぇ……!?」
「ふん、東洋人でも日本人だけは別でしてよ」
「先ほどは貴女があまりにも、一人で《・・・》、捨てられた野ネズミのように《・・・・・・・・・・・・・》、さも寂しそうに《・・・・・・・》見えたので、情けをかけてあげただけですわ」
「ですがそれもここまで。
貴女があのトオサカ特産の非人間と判った今、かけるのは熱湯とガンドだけでしてよ?」
「……言ってくれるじゃない。おかげでわたしも思い出したわ」
「エーデルフェルト。
そう、どこかで聞いた響きだと思ったら、あのエーデルフェルトね」
「第三回目のエーデルフェルト。仲間割れで早々に退散したバカ貴族でしたっけ?」
「その私怨ぶりからすると、逃げ出した後にトオサカ怖い、トオサカ憎いって子供たちに伝えていたってコトかしら?」
「っ……!
笑えない冗談だけは達者のようね。
今の発言、もう取り消せませんわよ?」
「こっちの台詞よ。
土下座ぐらいじゃカンベンしないわよ、純粋培養のお嬢様?」
「―――燃えましたわ。
もう消火できませんわ。
貴女! 手袋を受け取る度胸はあって!?」
「上等。貰えるならその趣味の悪いドレスまるごと貰ってあげるわ」
「―――その意気や良し。
部屋は一つ、住人は二人。
もはや取るべき手段は一つだけですわね?」
「ええ。敗者は勝者に道を譲る。
万国共通、あったりまえのルールよね」
「かかかかってに燃え上がらないでーー!
マイルール禁止! すごく禁止!」
「何を考えているですか貴女たちは、ここは礼節と和睦を重んじるノーリッジ学生寮ですよ!? 寮内では私闘はおろか、魔術行為は一切禁止ですのーーーー!」
「安心なさい、私《ワタクシ》は誇り高きエーデルフェルト家の当主です」
「相手が何者であろうとも、魔術を使わぬのならこちらも肉体のみで応えます。
―――貴女もそれでよろしくて、ミス・トオサカ?」
「望むところよ。
けどそんなドレス姿で、魔術なしの格闘戦をやろうっての?」
「別にいいのよ、得意のガンドに頼っても。
わたしはちゃんと、礼節ある魔術師らしく徒手空拳で戦ってあげるから」
「―――その忠告、トオサカにしてはいい心がけね。
少し見直してあげます」
「ですが安心なさい。
この程度のドレス、私《ワタクシ》にかかれば―――」
「!?」
「ふ、せい……!!!!」
「どう? ごらんの通り、戦闘用にするのは造作もないコトですわ!」
「で、ですわって何そのドレス!?
は、はじめからアタッチメントでノースリーブになるようになってるの……!?」
「もちろん。このぐらいは淑女の嗜みです」
「ない。世界中探してもそんな嗜みないから」
「私《ワタクシ》があると言ったらあるのです!
第一、ケンカの度にいちいちドレスを破っていては仕立て代がもったいないじゃないですかっ!」
「……アンタ。もしかして、ケンカのたびにドレス破いてたワケ?」
「あ……いえ、こほんこほん。
いいですか、当主たる者いつどこで悪漢に襲われるともかぎりませんでしょう?」
「これはですね、そうなった時に備えたものなのです」
「……………」
「な、なんですその“超信じられねー”といった顔は…!
いいわ、信じないというのでしたら、その体に直接教え込んでさしあげます……!」
「《構えた……!
あの安定感と前傾姿勢……こいつ、やる……!》」
「ふん―――少しはやるようじゃないルヴィアゼリッタ。
ドレスの趣味はともかく、それなら遠慮なく叩きのめせるわ」
「同感ね。
板張りの廊下に感謝なさい、ミス・トオサカ」
「ひぃぃい! ハロー、ハロー、ミスターアンソニー? メーデー、学生寮に危険物が現れました! わ、わたしの残り少ないお給料がさらに減っていくですのー!」
「申し訳ありませんオクタヴィアさん。
けど心配は無用、勝負はこの一撃で終わりますから!」
「きゃああーーー!? ト、トオサカさん、年に似合わずなんて見事なコンフー!?」
「マーベラス! 自己流のアレンジが強すぎますけど、貴女の体格にあった見事な崩拳ですー!」
「《貰った……!
この間合いなら、完全にこっちの勝ち……!》」
「―――フ。甘いですわね、ミス・トオサカ!」
「!? そんな、後ろ―――!?」
「なにぃぃい、アレはーーー!?
どっしりと腰をおろした地を這うが如き戦闘態勢!
あれこそはまさにキャッチアズ・キャッチキャン!」
「イングランドいにしえの捕縛術、ランカシャースタイルだあー!」
「―――、な―――」
「バック、取りましたわ!」
「そんな―――プロレスなんて、アンタなんてマニアックなあーーーー!!!?」
「やりました! フィンランド期待の星、リングの狩猟犬、淑女のフォークリフト、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト……!」
「なんと1ラウンド13秒KO勝ち!
こ、これはとんでもない選手が現れたァーーー!」
「―――スリーカウントですわね。
ミス・トオサカ、貴女の敗因は自らの手を明かしたコトです。戦いはゴングの前から始まっていてよ?」
「きゅうぅ…………星……星が見えるスター……」
「あー………すごいな、そりゃ」
相手も凄いが、躊躇なくケンカする遠坂も。
さすがは前科持ち。
校舎と学生寮という違いはあるが、学舎で暴れるコトは一度目ではない遠坂だった。
「で、そのまま第二試合に突入して泥仕合か。
気が付けば受付は崩壊、ケンカ両成敗と。……あのさあ。それ、立ち入り禁止になったの遠坂のせいじゃんか」
「わたしだけのせいじゃないわよっ。
ルヴィアさえつっかかってこなかったら、入学前から不名誉なあだ名はつけられなかったわ!」
「………………」
不名誉なあだ名とやらには興味があるが、まあ、こっちで言うところの怪獣とか台風とかそういうものだろう。
「……なによ、ニヤニヤしちゃって。言いたいコトあるなら言いなさいよ」
「うん。けど怒るなよ。感じたままのコトだからな。
えっと、ルヴィアだっけ? その子、遠坂と合いそうじゃないか。
仲の良い友達って感じがす、あいたぁ!?」
見えた!
久しぶりに星が見えたスター!
「……く、あまりにも決まりすぎたわ。
この一撃があの時だせていれば、あんなバックドロップなんかくらわなかったのに……!」
ふるふると会心の拳を震わせる。
そっかー、ルヴィア嬢の決め技はバックドロップかぁ。
「で。なんでその一撃を俺に見舞う」
「ふふ。一番言われたくない言葉だったから、体が勝手に反応したのね」
……朱に交われば赤くなるというが。
そのルヴィア嬢と知り合ったコトで、遠坂のバイオレンス値が大幅にあがったようだ。
「……ふん。ヘンな誤解をする前に断っておくけど、ルヴィアとは絶対に仲良くなんかならないから。
あの娘の嫌いなものは日本人で、好きな事は日本人いじめだそうよ。わたし、最後に手袋投げられたし」
「うわ。手袋って、前時代的な」
けどまあ、聞いたかぎりじゃ素でやりそうな人物ではある。
遠坂もイギリスで育っていれば間違いなく俺に投げつけてただろうし。
「しかし、ちょい極端すぎないか? 日本に恨みでもあるのかその娘」
「ええ。その娘……ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトって言うんだけど、エーデルフェルトって言ったらわりと有名な名門貴族なのよ。
貴族のクセに傭兵みたいな家訓を持っていてね、争いがあれば喜んで顔を出し、おいしい所をかっさらう“地上で最も優美なハイエナ”と恐れられているとか」
「…………なんかさあ。ますます他人の気がしないんじゃない、遠坂?」
「黙って話を聞く!
でね。そんな戦い好きの連中だから、物好きにも極東の島国の儀式に参加したのよ。
今から六十年前の話ね。エーデルフェルトの当主は双子の姉妹で、名の通った魔術師だったらしいけど結果は惨敗。妹は戦死、姉はなんとか生還したんだって」
「………………」
愉快だった話が、一瞬にして違ったものに切り替わる。
エーデルフェルト。
双子の当主。
そして、極東の島国で行われたという、六十年前のある儀式。
「遠坂、それって」
「第三次聖杯戦争の事よ。それでルヴィアは大の日本人嫌いってワケ。
けど私たちも甘く見られたものね。その双子当主、尋常じゃないぐらい仲が悪かったって話だもの。妹が死んだのも、結局姉妹同士の争いが元だって噂だし」
「……そうだ。たしかアインツベルンへの当てつけでこっちに洋館を建てたのよ。森の中に隠れ家っぽくね。
それも姉妹別々に作ったらしいわ。姉妹なのに、同じ空気を吸うのもイヤだったのかしらね」
……森の中の隠れ家……?
……それも、姉妹別々に建てた、だって……?
「六十年前に建てられた洋館……じゃあ、そのルヴィアって娘、こっちに別荘を持ってるんだ?」
「あ。そっか、そういう事になるわね。
けどあそこ、とっくに空き家よ? エーデルフェルトは二度と日本の土は踏まないって言ったらしいし、洋館そのものは魔術協会に譲渡したと思うわ」
「――――――」
はまった。
何がはまったのか分からないが、とにかく、大事なピースが今、埋まった。
「……魔術師の隠れ家って、あれかな。
半年前の聖杯戦争で、言峰に騙し討ちされたっていうマスターの事か?」
「そうよ。魔術協会から派遣されて、言峰に令呪を奪われた魔術師ね。
ランサーのマスターが誰か、を捜しているうちに隠れ家を見つけたって話、衛宮くんなら知ってるでしょ?」
「ああ。血痕と、令呪を抜き取られた片腕が転がってたんだってな。……で。その洋館がエーデルフェルトの洋館だとすると、それは二つあるんだな《・・・・・・・》?」
「そういう事になるわね。例の姉妹は余所様の戦場に出向いては洋館を建ててたから、エーデルフェルトの双子館って言えば有名みたい。
ま、わたしが探し当てたのは遠坂《うち》邸の近くにある方で、もう一つの洋館が何処にあるかは知らないけど」
「待った。遠坂の家の近くって、つまり深山町にあるのか?」
「そ。灯台もと暗しよね。管理者である遠坂の鼻先に洋館を建てるなんていい度胸ってもんよ」
―――その通りだ。
振り返れば。この間違いこそが、“誰か”にとって唯一にして最大のミスリード。
「あれ、興味あるの衛宮くん?
なんなら来週の休みにでも二人で見にいってみる?」
「―――そうだな。ゴタゴタが全部済んだら、一緒に見に行くのも悪くない」
目眩を堪えながら空返事をする。
遠坂の土産話は続く。
エーデルフェルトの話は、それきり出る事はなかった。
◇◇◇
双子館の殺人
洋館が建ち並ぶ住宅地を行く。
坂道を上り、見慣れた遠坂邸を大きく迂回して林の中へ。
強い陽射しに目を潰す。
目的の洋館は、予想以上に呆気なく発見できた。
「――――――」
双子館の異名はこれか。
二つの洋館は似すぎている。
さっきまで深山町にいたのに、たった一歩で新都に瞬間移動したような錯覚。
だが、よく見れば新都のものとは違っている。
……見た記憶のない、夜の洋館の風景。
目前にあるのは、紛れもなく女魔術師とサーヴァントが潜んでいた洋館だ。
「………………誰もいない、か」
遅すぎたのだろうか。
二階はあまりにも静かだ。
もう少し早くこの洋館に辿り着いていたら、今頃、あのソファーには女魔術師が眠っていたのかもしれない。
「いや、それはないよな。この部屋、人が使ってた痕跡がない」
部屋を調べる。
新都の洋館との相違点は三つ。
床に飛び散った半年前の血痕、
血痕の近くに落ちているアクセサリ、
テーブルに残された16パズル。
「………………」
バゼットという女魔術師は存在しないが、血痕は確かにある。
考えられるとしたら今度は二つ。
一つは、あの女魔術師は自分が死んでいる事に気付いていない幽霊か―――
「ここは彼女の本拠地じゃないって事か、だな」
本当の棺は別にある。
ここは一番初めに落下してくるだけの場所だ。
誰かの願い。
聖杯戦争を再現する為の方法。
材料を揃えるだけではダメだ。
パーツを揃えただけでは世界は動かない。
ただの日常なら停止した世界でも良かった。
だが聖杯戦争を再現したいのなら、その中心になるモノに動いてもらわなければ、戦いは再現されない。
―――貴方は、貴方の意義を見つけないと。
その為に―――願いを叶えるソイツは、世界を流動させる要因のカラを被った。
視点を借りた、だけでもいいかもしれない。
そいつが日常を回し続ければ、偽りの聖杯戦争も回り続けるのだ。
昼と夜は重なってはいなかったが、その動力だけは、こうして確かに連鎖している。
この四日間があるからこそ、バゼット・フラガ・マクレミッツの聖杯戦争は続けられる。
逆に言えば、夜の聖杯戦争さえ続くのなら、この四日間の観測は永遠に続けられる。
―――いえ、偽物は一人だけよ。
ただ、一つ間違いが生まれてしまった。
あくまで日々を回すだけの日常。
新しい事など起こす必要はなく、使い古された四日間を過ごせばいいだけの単純作業。
それを、ソイツは何かの弾みで、楽しいと感じてしまった。意志を持って介入してしまったのだ。
未完成《あ な だ ら け》なら決して滅びないというのに。
もっと新しい日常《たいくつ》が見たいと、自ら穴を埋めている。
「ま、なんだ。ここにいたマスターが誰であるかは判明したんだから、あとは対策を立てるだけだ」
幸い、俺なんかよりもっと女魔術師に詳しいサーヴァントがいる。
戦神の剣を破るのは猛犬の槍の仕事だ。
洋館を後にする。
この隠れ家に辿り着いた戦果として、床に落ちていたアクセサリだけ貰っていく。
立ち去り際、もう一度だけテーブルに視線を投げた。
放置されたバラバラの絵。
決して完成しない筈のパズルは、もう少しで完成しようとしていた。
◇◇◇
角笛《確かに》
港にはおなじみの顔があった。
―――一つの結論。
まだ見ぬ敵、まだ見ぬ彼女を倒すには、ランサーの協力が不可欠だ。
他のサーヴァントとは協力態勢を結べないから、ではない。
仮に、彼女が倒されるとしたら。
それはセイバーではなく、ましてや俺などでもなく、ただあの槍兵の手でなくてはならないからだ。
「ランサー」
声をかける。
これもまた、今まで見なかった、新しい日々の断片。
俺に出来る範囲で真相を解明する。
再現されている聖杯戦争。
夜の街で戦いを続けているバゼット・フラガ・マクレミッツ。
彼女を倒す事が事態の解決であり―――彼女のサーヴァントだったランサーこそが、必勝の戦士であると。
「……………………」
ランサーは黙り込んでいる。
真相を告げたところであいつの返答は変わらない。
以前―――以前?―――と同じように、自分には関係ないとつっぱねる。
だから、その前に、
「これ、アンタに返しとくぞ。もともとアンタたちの持ち物だろ」
洋館で拾った、イヤリングを放り投げた。
―――バカ、そうじゃねえだろ。
「……どこで見つけた?
まだ出逢ってなかったんじゃないのか?」
「一つだけ落ちてたんだよ。
アンタは、あの洋館に行ってないのか」
「行く必要がないからな。それに、第一」
聖杯戦争のさなか、そんな余裕はなかったか。
―――ああくそ、仕方ねえ。
「まあ、預かっておくけどよ。いいのか、オレに渡しちまって」
「それが最善だからな。ま、正直に言えば、アンタにだけは返したくなかったけどね」
そんな事を口にしても意味がない。
いいか、要するにだな。
イヤリングは返した。
ここまでお膳立てしてもダメなら、ランサーの手は借りられない。
今まで通り、なんとか俺とセイバーで彼女に勝つ手段を考えて―――
「いいぜ。決行は何時《いつ》だ」
「考えて―――って、えええぇえ!?」
「なんだそりゃ。付き合ってやるから時間を教えろって言ってんだよ」
「――――――」
いかなる心境の変化か。
ランサーは協力要請に頷いていた。
「い、いや、助かるけど。時間は深夜、零時前に教会の広場、だけど」
「分かった、待機しておく。
……ああ、それと条件が一つな。マスター退治はオレがやってやるから、おまえは手を出すな。セイバーも連れてこなくていい。
あいつの戦法は知っているからな、一分とかからねえよ」
じゃあな、と釣り座に戻るランサー。
「あ―――いや、ちょっと待った……!」
「あんだよ。まだなんかあるのか」
「いや、ないけど。……いいのか、本当に。
頼みこんだ身でなんだけど、女殺しと主君殺しはしないんだろ?」
「んな細かいこと忘れろ。テメエの言葉に縛られてるようじゃ人生楽しめねえぞ」
「……む」
よく言う。
その細かい事を最期まで守ったのは何処のどいつだ。
「……ランサー。アンタ、禁戒《ゲッシュ》を破ったらペナルティを受けるんだろ。大丈夫なのか、二つも破っちまって」
神話の最後。
クーフーリンはメーヴの奸計により、それが犬の肉と分かっていながらも口にする事になり、左腕を封じられた。
「別に禁戒ってワケでもなし、なんとかなるだろ。
言ってなかったが、クランの猛犬が最後の最後に守ったのは友の名誉だったとか。
……まったく困ったもんだ。それじゃあ、何があっても守らねえと格好がつかねえだろ?」
皮肉げに笑って、ランサーは桟橋に消えていった。
……クランの猛犬の最期。
女王メーヴの軍勢に囲まれた彼は、吟遊詩人たちにこう歌われる。
その槍を我に与えよ。与えねば汝の恥を我は歌わん。
この時代、吟遊詩人たちの詩はたとえ偽りであろうと真実として世に伝わる。
クーフーリンは自らの槍を吟遊詩人に与え、敵の手に渡った槍は次々とクーフーリンの大切なものを奪っていった。
吟遊詩人は三人。
一人目はクーフーリンの名誉を、
二人目はアルスターの名誉を盾に槍をせがんだ。
そして三人目。
御者も愛馬も失ったクーフーリンに、吟遊詩人はまたも槍を与えよと歌いかける。
“これ以上与える槍はない。
自らの名誉の代償も、アルスターの名誉の代償も、とうに支払いは済んでいる”
声をあげるクーフーリン。
それを、
“そうかそうか。では我は汝の親族と、汝の愛する者すべての恥を歌おうか”
吟遊詩人は、笑いながら歌い返した。
この申し出にクランの猛犬は大いに笑い、では仕方がない、と最後の槍を投げ与えた。
槍は敵の手に渡り、ついに猛犬の腹を貫いたという。
「………………」
ランサーが何の為に力を貸してくれるのかは分からないが、これで準備は整った。
朧な月の下。
夜の教会にて、一つの決着がつくだろう。
◇◇◇
―アウトゴラ―
教会に続く坂道で俺たちは落ち合った。
ランサーは約束を守ったのだ。
「よ。なんだ、時間よりちょい早いじゃねえか」
軽口を叩くが、その姿は普段着ではない。
この男の武装した姿を見るのは半年ぶりだ。
……ああ、そうか。
あの戦いが終わって、もう半年も過ぎていたんだ。
「それで、どう戦うんだ。相手の戦法は知ってるって言ってたけど、対策は立ってるのか?」
いまだ見ぬ敵マスターの切り札、フラガラックをどう封じ込めるかが勝負所になる。
「いや、フラガラックは封じられねえ。ありゃあよく出来た迎撃宝具だ。真っ正直に戦えばまず負ける。
こと切り札の出し合いなら、フラガラックは最強の一つと言っていい」
ランサーは語る。
フラガラックを破る手段はない。アレは敵の切り札に反応する、相討ち前提の飛び道具だと。
故に、バゼットを倒すのなら宝具は使用しない事。
自らの切り札を封印すれば、フラガラックの効力も半減すると言うのだ。
「それだけ?」
「それだけ。こっちが宝具さえ使わなけりゃフラガラックは並の宝具だ。ま、向こうは好きに切り札を使えるんで、宝具なしじゃチトきついんだが」
その戦い方でも負ける事はない、とランサーの目が告げている。
……考えてみれば、ランサーには生半可な魔術や、投げナイフや矢といった通常の遠距離攻撃は通じない。
戦士としての基本能力でバゼットを上回っている以上、堅実に戦えば勝利し得るのだ。
だが。
「あの女とは宝具でケリをつける。
すぐに済むから、おまえは離れて様子を見てろ」
フラガラックは破れない。
そう断言しておきながら、ランサーはあの剣に挑むと言った。
坂を登り、仮初めの闘技場へ。
月光は鈍く、見上げると少しだけ目が濁った。
今夜は月が暗いのか、星が近いのか。
手を伸ばせば虚空《ソラ》をかき出せそうな暗天の中、二つの人影が、俺たちを待ち受けていた。
何度めかの同景。
黒い影《アヴェン ジャー》を従えた女魔術師は、今まで通りにやってきた敵を見据え、
「――――――」
幽霊でも見たかのように、ランサーを凝視していた。
ランサーは女魔術師を意識する事なく、人差し指で敵との間合いを計っている。
ひいふうみい、よ。
距離にして約十メートル。
槍を投げ合うに適した間合いまで歩き、槍の穂先を地面に向けた。
「、、、」
何かの呪《まじな》いか。
四隅にルーンを刻んだものの、これといった魔術の働きはない。
ランサーはその陣から一歩も動かず、ブン、と一度だけ槍を薙ぎ払う。
―――かかってこい、と。
名乗りもあげず、戦意だけを示している。
「アヴェンジャー―――アレは、何だ」
影に問うバゼット。
「何ってサーヴァントだよ。一目瞭然じゃないか」
「そんな筈はない。あんなサーヴァントは、今までいなかった。
アレは何のサーヴァントだアヴェンジャー。
セイバーでもない。
アーチャーでもない。
ライダーでもキャスターでもアサシンでもない。
アレは―――」
「それこそ一目瞭然だ。
なあマスター。あの得物を見て《・・・・・・・》、まだ何も分からないのか《・・・・・・・・・・・》」
ケラケラと影が笑う。
この時。
あの女魔術師は戦意を見失っていた。
現れた敵を見て、自分でも分からない理由で、泣き出す一歩手前だった。
―――ランサーの、非情な言葉が刺さるまでは。
「おい。今からアンタを殺す訳だが」
「え―――?」
怯えるように拳を構える。
そこに以前の気迫はない。
「待って―――待ってください、私は―――貴方と戦う理由はない。
貴方だって、私と戦う理由は」
「あるだろ。アンタは聖杯戦争に勝つ為に来た。
サーヴァントを全て倒すまで戦いは終わらない。
アンタは今、オレと殺し合う為にここにいる」
影が笑う。
その通りだと笑っている。
「ちが―――わた、私は貴方とは戦わない……!
そうだ、貴方とは戦わない、貴方とは戦わない、貴方とは戦わない……!
だって、だって―――貴方、私のコト―――知って、る……?」
「知らねえよ。アンタみたいな負け犬に覚えはない」
一言に付《ふ》す。
女魔術師は糸の切れた人形のように膝をつこうとし、
「――――――では、貴方は私の敵か」
糸の助けではなく、自らの力で踏みとどまった。
「そうだ。この“四枝の浅瀬《アトゴウラ》”、ルーン使いなら意味が分かろうよ」
「……その陣を布いた戦士に敗走は許されず。
その陣を見た戦士に、退却は許されない。
―――我ら赤枝の騎士に伝わる、一騎討ちの大禁戒だ」
その言葉こそ、ランサーの刻んだ魔術の真価だったのか。
女魔術師は戦士としての貌を取り戻し、槍兵は呪いの槍を両手に握る。
……大気が凍る。
ランサーの持つ宝具が、主の呼び声を今か今かと待っている。
遠く十メートルの彼方には、鉛色の球体を背に構える女魔術師の姿がある。
あの球体こそバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥、神代の魔術フラガラック。
その性能を知るランサーにして、破る事能《あた》わじと言わしめた究極の迎撃礼装。
だが、そう公言して尚、手を緩める事はなく。
「――――――その心臓」
槍兵の腕に力が籠もる。
投擲ではない。ランサーは自らの体さえ槍と成し、
「―――“後《ア》より出《ン 》でて先《サ 》に断つ《ラ 》もの《ー》”」
球体が展開する。
ある呪力、ある概念によって守られた神の剣が槍兵の心臓に狙いを定め、
「―――貰い受ける―――!」
跳躍と同時に明かされる真名。
先制は赤き呪い槍“ゲイボルク”。
「―――甘く見たなサーヴァント……!」
迎撃するは逆光剣“フラガラック”
“四枝の浅瀬《アトゴウラ》”の誓いに様子見はない。
両者は最大の一撃を以て、目前の敵を粉砕する……!
点と点が交差する。
一撃は共に必殺。
槍兵には剣を防ぐ盾はなく、魔術師には槍を躱《かわ》す術はない。
しかし。相討ちという条件であるならば、女魔術師が傷を負う事はない。
ほんの僅か。
ほんの僅かでも速く魔術師の剣が着弾したのなら、戦いはその瞬間に決するのだ。
逆光剣フラガラック。
この剣が斬り抉《えぐ》るのは敵の心臓にあらず。
両者相討つという運命をこそ両断する、必勝の魔剣である。
フラガラックの特性上、この宝具が先に撃たれるという事はあり得ない。
対峙した敵が切り札を使う事。それこそがフラガラックの発動条件だからである。
先制は常に敵側に。
故に、たとえフラガラックの一撃が敵を倒そうと、同時に敵の宝具も女魔術師を滅ぼしている。
必殺の迎撃はその実、己が死を前提にした相撃ちなのだ。
しかし、バゼットの剣はそれを覆す。
敵が宝具を使用した直後に発動し、相手がいかな高速を持とうと更なる高速をもって命中、絶命させる。
針の如く収斂《しゅう れん》された宝具の一撃は、それ自体確かに誇るべきだろう。
だが真に恐るべくはその特性。
後より出でて先に断つ《・・・・・・・・・・》。
フラガラックはその二つ名の通り、因果を歪ませ、自らの攻撃を『先になしたもの』に書き換えてしまうのだ。
その結果がどうなるか。
どれほどの宝具をもってしても、死者にその力は振るえないように。
先に倒された者に《・・・・・・・・》、反撃の機会はない《・・・・・・・・》。
フラガラックとはその事実を誇張する魔術礼装。
運命を歪ませる概念の呪いである。
それはあらゆる攻撃を無効化《 キャン セル 》する逆行の魔剣。
時間を武器にした、相討《そうとう》無効の神のトリック。
そして。
その呪いは、先に槍を放ったランサーにも例外はなく――
「――――――」
戦神の剣が迫る。
一度発動したフラガラックを破る手段はない。
ゲイボルクにフラガラックを合わせられた時点で負けなのだと、槍兵は熟知していた。
戦神の剣に負けないモノがあるとしたら、複数の命を持つモノか、自動的な蘇生宝具を持つモノのみ。
率直に言えば、“死してなお甦るモノ”がフラガラックの天敵と言える。
無論、ランサーにそのような宝具はない。
槍兵は始めから、この結末を理解した上で戦いに望んだのだ。
あの時。
一瞬だけ、目の前の男が揺らいで見えた。
「―――言いたかないんだけどさ。
わりとせっぱ詰まってんだわ、こっち。時間制限があるとは思っていなかった」
それが何を指しての事なのか、彼に解る筈もない。
ただ、
「頼むよ。このままだとつまらない結果になる。
彼女がそういう風になるのは、イヤなんだ」
その男の愚痴は、彼にも覚えがあったのだ。
遠い昔の話だ。
『―――私は、おまえに殺してもらいたかったのかもな―――』
穏やかな声で、影の国の魔女は、祈るように微笑んだ。
―――それは奇しくも、魔の槍を貰い受ける昔話。
その魔女は、もはや人間ではなくなっていた。
武芸に秀で、魔道に精通し、人と神と亡霊を斬りすぎた。
クランの猛犬がただ一人師と仰いだ女は、もう、自分で死ぬ事さえできぬ運命だった。
魔女の領地はいずれ現世から切り離され、死者の国に成り果てる。
人の身で神に近づきすぎた人間への報酬は、現世でも幽世でもない場所への栄転《ついほう》だったのだ。
「まいったのう。こうなる前に死んでおけばよかったか」
陰鬱とした城の庭で魔女は笑った。
彼の好きな豪快な笑いだった。
まだ少年の域を出ない愛弟子は、最短の道のりで彼女の城に辿り着いた。
それでも―――
「おぬしがもう少し早く生まれておればな。いや、若い若い」
くつくつと魔女は笑う。
愛弟子は一人前の戦士として受け止め。
「悪かったな」
自分なりに、生き急いできたつもりだったが、
「どうやら、寄り道がすぎたようだ―――」
……一人の男として、愛した女に悔いを残した。
戦神の剣が、槍兵の胸を貫く。
「っ…………!」
しばし忘れていた激痛に高揚する。
崩れゆく五指に力を籠める。
―――この槍は、一つの悔いを残している。
愛した者の命だけを奪った魔の槍。
彼の無二の親友。遠い異国で育った息子。
だがその前に、一人の女を殺める筈だった。
思えば寄り道ばかりの人生だった。
何者も何者の代わりには成り得ないが、それで救われる者がいるのなら、果たせなかった若さの悔いをここで晴らそう。
口端にのぼるは決意の冷笑。
槍兵は斬り抉られる心臓に顔をしかめ、
「ああ、しかし―――どうしてこう、いい女にばっかり縁がないのかねぇ」
今更ながら、己が縁に愚痴を言った。
「取った…………!」
そうして、女魔術師は勝利を確信した。
敵の槍を上回る速度で命中する戦神の剣。
この瞬間、敵の攻撃は『起き得ない事』となり逆行するように消滅する。
それがこの世の理。
時間という絶対的な秩序に守られた、当然の帰結である。
「―――、え?」
だが知るがいい秩序を繰《く》る者。
概念は概念によって破られる。
時間の呪いは、この槍兵にも例外なく存在するという事を。
「――――――」
破裂した。
イナズマの如き一刺は肋《あばら》をすり抜け、心臓に被弾した瞬間、千の棘となって女魔術師の内部を殲滅する。
「ぁ―――この、槍」
破裂する。
痛みと驚きが、閉じこめていた記憶をブチ撒ける。
フラガラックが順序を入れ替える呪いならば、この槍こそは因果を逆転させる呪いの槍。
真名を以て放った瞬間、ゲイボルクは『既に心臓に命中している』という結果を持つ。
ならば―――発動させる前に戻って、術者を殺しても無駄なこと。
心臓を貫く結果を持った槍は、術者が死亡したところで、その責務を果たす為に疾駆する。
……ああ、そうだった。
この敵が誰だったかは、即死寸前の頭では解らないけれど。
これはルールとルールの潰し合い。
この人は世界でただ一人、まともな秩序に還る相手―――
「アンタに、別離《わかれ》は言っていなかった」
気がつけば、槍兵は目前にいた。
少し遠い。
せいいっぱい手を伸ばしても、きっとぎりぎり届かない。
「……忘れ物だ。これは、アンタに返しておく」
槍が引き抜かれる。
カランと硬いものが地面に落ちる。
支えをなくして、魔術師の体が落ちた。
自らの血だまりに倒れ込む。
魔術師は死に往く瞳で、
「―――、あ」
地面に転がった、鉱石の耳飾りを見つけた。
思い出がある。
思い出があるので、なんとか手を伸ばして握り締めた。
それで余命が半分ぐらい減ったけど、石の手触りの方が嬉しかった。
「知ってる。これ、だって」
倒れたままポケットに手を伸ばす。
が、腕はもう動かなかったので、仕舞っていたお守りは取り出せなかった。
「あ……ねえ、待って。
わた、し、これと同じの、持って、る」
何が言いたいのか自分でも分からない。
ただ、ポケットにあるモノを見せられないのが悲しくて悲しくて、余計に分からなくなった。
槍兵は立ち去っていく。
魔術師は悲しそうな目で、嬉しそうに繰り返す。
「待っ、て。……私、持ってるの……持ってるの……持ってるの……持ってる、の―――」
その声も、十秒ほどで停止した。
都合一分。
槍兵の予告は、痛ましいほど正確だった。
「あー、割りあわねぇ」
バゼットの死体から離れ、重い溜息をつくランサー。
槍を杖がわりにして血まみれの体を支えている。
「――――――」
……ともあれ、勝敗は決した。
残るはバゼットのサーヴァント、アヴェンジャーのみ。
そのヤツもマスターを失った今、大した力は持っていないだろう。
「お見事。
で、オレとやる気力は残ってるかランサー?」
「残ってる……と言いたいが、ほら、なんだ。
こっちの問題で無理そうだな」
ランサーの体が薄れていく。
……フラガラックとゲイボルクの戦いは“相討ち”になる。
お互いに宝具を食らい、ランサーだけ生き延びる道理はない。
「悪いな、後は好きにやってくれ。
だいたい、オレの仕事はここまでだろ小僧?」
これも潔い、と言うべきなのか。
ランサーは“あー、かっこつかねぇ”などとぼやきながら、あっさりと退場した。
「――――――」
……しかし、これでどうなるのか。
聖杯戦争を再現していたと思われるバゼットは倒した。
劇的な変化はないが、これで夜が明ければ“四日間”の縛りから解放されて―――
「まさか。バゼットを殺したところで聖杯戦争は終わらない。なにしろ、オレがいる限り何度でも甦るからな、そいつは」
影が笑う。
マスターが死亡したというのに、アヴェンジャーは何のペナルティもなく存在している。
「おまえは―――」
「まあ待て、そう張り切るな。
せっかくバゼットを殺したんだ。とっておきのショウタイムが待ってるぜ」
「……!」
月が染まる。
いつの間にか、教会の周囲にはあの怪物たちが集まっている。
“失敗シタ 失敗シタ 失敗シタ―――!”
「くっ…………って、なんだ……?
コイツら、全然やる気がない……?」
怪物たちはピクリとも動かない。
爛々と光る眼は、オレではなくあのサーヴァントを見つめている。
……他人の失敗を喜ぶ、下卑た歓喜に歪みながら。
“ソウダ、ソウダ、マタ、今度モ失敗シタ―――!”
「……チキショウ。マスターを失ったからな、オレもヤツラの仲間入りかよ」
死に怯える死刑囚のような声。
ああ、イヤだ、と。
あのサーヴァントは本気で俺に助けを求め、そして。
バリバリと、おぞましい異形に変形していった。
“ヤッタ ヤッタ ヤッタ―――!”
「な―――おまえは、一体」
同じだ。
アヴェンジャーと呼ばれたサーヴァントは、全身を溶かしながら、あの怪物と同じカタチに―――
「こうしてオレは失敗する。
よく見ておけ衛宮士郎。コレが正体だ。オレは無限に失敗する。オレは無限に死に続ける。
このオレがいる限り、聖杯戦争が終わる事はない」
“オマエモ、オマエモ、オマエモ……!”
ガチガチと震えている。
アヴェンジャーだったモノは周囲の怪物たちに怯えながら、全身から血を流しながら、正気を保って叫び続ける。
「いイか、テンノサカヅキに至れ―――ハ、キ、ヒャ、ギ、ひひ、虚無を埋めろ。ヤメロ。聖杯を満たせ。ヤメロヤメロ。可能性を皆殺しにしろ。ヤメロヤメロヤメロ、見エナイ見エナイモウ何モ見エナイ……! ソウダ本物のオレを殺しに来い、ヤメテヤメテ、来ナイデヨゥ、コロシニキタラコロシテヤル……!!!!」
……黒い影が、怪物たちに飲まれていく。
その儀式が済むまで、そう時間はかからなかった。
怪物たちは一匹ずつ減っていき、最後には新しい、
知性をなくした、おぞましい怪物がうずくまっていた。
「              」
目があった。
怪物は不思議そうに首をかしげ、ぴょん、とカエルのように草むらへ跳んでいった。
「――――――」
……広場に残されたのは俺一人。
バゼットの死体は跡形もなく消えている。おそらく、一日目に戻ったのだろう。
「……テンノ、サカヅキ……?」
その言葉は聞き覚えがある。
天の杯。半年前の聖杯戦争において、そう呼ばれた少女がいた。
……残る断片は、もはやそれだけ。
夜が明け、終わりを迎えようとするその一日。
少女の待つ冬の城で、最後の道が示される―――
◇◇◇
夜の聖杯戦争
胸に穴が空いている。
傷口から温かいものがこぼれていって、代わりに冷たいものが侵《はい》り込んでくる。
恐ろしくはあるが、同時に穏やかでもある。
―――これが死。
ほんの少しの苦しみと、ほんの少しの安らぎがある、安寧の暗闇だった。
五回目の聖杯戦争が始まる八日前。
私は冬木市に到着し、戦いの下調べを開始した。
街の地形を把握し、拠点となる隠れ家を決め。
万全の準備をもって、サーヴァントを召喚した。
その過程は今までのどんな作業とも違い、胸が弾むものだった。
戦いへの高揚ではない。
ある二つの事柄が、私に初めて、自らの役割を楽しいと感じさせてくれたのだ。
海を渡れと貴方は言った。
広い世界を巡るがいいと。
自信がなくて、私が契約者で不満はないのかとおそるおそる訊ねてみた。
呼び出されたサーヴァントは、
「昔、一度だけ女戦士と肩を並べて戦った事があってな。
アンタには、あの女の面影がある」
こっちの不安がバカらしく思える程、気持ちよく笑い飛ばしてくれた。
裏切られたのではない。
彼らは、始めから揺らがない心を持っていただけの話。
私は外面ばっかりで、大人になる時に持っていなくてはいけない“自分”を、決めようともしなかった。
私は、確信なんて持てなかった。
『自律した自分』という鎧を鍛えてばかりで、生身の私を鍛えられなかった。
むき出しの自分はこんなにも弱くて臆病で、私は生まれた時から、ずっと世界を悲観している。
作業のように一日を過ごすのだな、と父は言った。
それは諦めていたからだ。
希望を持てない私は、希望を持たない事で毎日をやり過ごす。
けど、それはぜんぶ怖かったから。
本当は人一倍報われたいクセに、賢いフリをして自分を騙し続けていた。
本当は人並に毎日を楽しめたのに、いつか無くしてしまうからと目を背け続けていた。
本当は―――本当は。
そんな自分がとても楽で/そんな弱さを克服したくて、
この惨めな気持ちのまま/こんな惨めな気持ちのまま、
生きていくのだと/生きていくのは
諦めている。/耐えられない。
……告白すれば。
私は、死にたくなんかなかったのだ。
―――そして、この場所に落ちてくる。
繰り返す度に味わってきた地獄。
死者たちの怨嗟、生きているモノに対する憎悪だけで作られたこの釜の底に。
ここは、苦しい。
さっきの安寧とは比べるべくもない。
ただでさえ『死ぬ』事で苦しんだのに、死んだ後もこんな場所で苦しむなんて気が狂いそうだ。
蘇生するまでのたった数分間だが、何度やってもこの感覚は吐き気がする。
初めてここを経験した時、私はここを地獄と呼んだ。
“―――あれが地獄と呼ばれる地点なのかは分からない。
ただ、おぞましく汚らしかった。意識のある者には、アレは最低のドブクズです―――”
……けれど、それは違う。
ここは地獄ではなく、死者が落ちる場所でもない。
私の地獄、私の蘇生は先ほどの安寧だった。
だからこれは―――もう、本当は随分前から気付いてた、彼の―――
“――――――そうなんだ。
まいったな、オレは特別感じないけど。気が付いたらここにいるって感じで―――”
彼の、本来の居場所。
アンリマユというモノがカラを被る前の在り方。
ここは彼が、私と契約する前にいた場所。
そして、私との契約が終われば還らされる、不実の世界。
でも、それさえも彼にとっては苦痛ではない。
人間《わ た し 》にとっては苦痛でしかないここは、彼にとっては何でもないコトだ。
この記憶こそ彼の日常。
牢獄。略奪。暴言。蔑み。永劫―――空虚。
憎しみの果てに、人の醜さすら肯定した無我の境地。
ここは喜びも悲しみも、ましてや憎しみすらない、なにも無くなった無垢の浄土。
この世全ての悪と言われた、ある青年の生涯だった。
あれだけあった空白は、もうここまで埋まっている。
絵が完成してしまえば、彼はあの場所に戻るだけだ。
たとえ作り物だとしても、この聖杯戦争は彼にとっては理想の世界。
……もう、あんなヤツなんて信じてもいないけれど。
どうして彼は、この願いを終わらせようとしているのだろう―――
「――――――」
眠りから目を覚ます。
今までにない鮮烈な“死”だったが、気持ちは今までで一番落ち着いていた。
いや、冷め切ってるだけなのだろう。
理性も感情も凍っている。今の私なら、どんな事でも出来るに違いない。
「よう、起きたかマスター。落ち着いているようで何よりだ」
部屋の隅には、いつも通りパズルに没頭するアヴェンジャーの姿。
「――――――」
……苛々する。
私の使い魔のクセに、何一つ私の思い通りにならない。
もともとカタチのない影なら、いっそムシカゴにでも閉じ籠めてしまおうか。
「お、まだやる気満々みたいだな。打たれ強いね実際。元サーヴァントに殺されたっていうのに、全然堪えてないみたいだ」
ケラケラと笑う。
「―――っ」
冷め切った頭に、凍えた炎が灯る。
私が許せないのは軽口ではなく、そうやって悪人ぶる、その―――
「―――何故ですかアンリマユ。
この聖杯戦争は、私だけの望みではない。いえ、今では私以上に望むものがいる筈だ。
……私には、分からない。私たちの望みは同じなのに、どうして終わらせようとするのです……!」
拳を握り締めて叫ぶ。
私は裏切られた事より、その気持ちが知りたかった。
なのに、ソレは
「飽きた。つまんねえ」
あっさりと。
こんな時まで、見事なまでに自分の気持ちを消したのだ。
「―――アヴェンジャー」
「そう睨むなよ。ほら、アンタもいい加減満足しただろ? 念願の聖杯戦争を楽しんで、大抵の顛末を味わった。
けどさ、ここにはアンタに必要だったものは何一つなかった。
……まあ、なんだ。オレから切り出すのは使い魔としてルール違反なんだが、そろそろいいだろう。
―――契約を破棄しようぜマスター。それで、このお話はおしまいだ」
それが何を意味するのか知っていて、アヴェンジャーは手を差し出す。
それは、出来ない。
私は色々なすれ違いをしてきたけれど。
一度繋いだ手を、二度も放す訳にはいかない。
「アヴェンジャー。貴方、まだ私が見えている?」
「――――――」
ほんの微か、アヴェンジャーの体が揺れた。
……やっぱり。
もうほとんど、彼は無に戻っている。
「……ふん。言っておきますが、私はこの聖杯戦争を止めるつもりはありません。元の死体に戻るなどまっぴらだ」
「そうか。マスターがそう言うなら契約は続けるしかない。……しかし、こうなると聖杯戦争の本当の勝者に、また聖杯を壊してもらうしかないか」
「な―――そ、そんな事、出来る訳が」
「出来るよ。アイツは一度やってるからな。
言っただろ、これは第五回目の再現なんだって。聖杯を壊したヤツが聖杯まで辿り着いたら、そりゃあ壊れても不思議はないさ」
「――――――そう。それが」
アヴェンジャーの最後の切り札。
いえ、初めから予定されていた幕切れという事か。
「アヴェンジャー」
「ん?」
黒い影を壁に貼り付ける。
「……もっと早くから、こうすれば良かった。
貴方は、私のサーヴァントなのに、言う事を聞かなさすぎた」
反撃の余地は与えない。
そのまま令呪を用いて―――周囲に閉じこめるカゴはないか―――ああ、なら―――
「―――オマエなんて、私の左腕にでもなってしまえ《・・・・・・・・・・・・・》」
「は―――はあ、は、は―――」
……これで、彼が自分から聖杯戦争の勝者とやらに会いに行く事は出来なくなった。
私は死にたくない。
彼を殺したくもない。
だから―――後は、私が聖杯を守ってやる。
「は―――はぁ、は―――契約は、破棄しない。
……アンリ。この世界を止めるというなら、貴方であろうと私の敵だ―――」
さあ、聖杯戦争を続けよう。
聖杯は私のものだ。
この願いは私のものだ。
誰にも、壊させてなどたまるものか―――
◇◇◇
カレンW
広場に人影はない。
神の家は訪れる者もなく佇んでいる。
……ここは地上より遠く。
天《そら》にはなお遠い、告解の惑《まど》い場―――《じょう》
教会には俺の知らない女が待っている。
これが最初であろうが最後であろうが、この場所では意味のない事だ。
もとより存在しなかった女《もの》。何処にでもいて、何処にもいないカレと同じだ。
時間の後先は此処にはない。
俺がここに来るのは、たしか―――
―――四度目だ。
教会に用事はない。
衛宮士郎として、あそこでやり残したコトは、もう何一つない筈だ。
「……ま、今さら寄り道の一つや二つ、変わらないか」
少しだけ時間を無駄に。
色々なコトが立て続けに降り積もってきたんで、心身共に疲れている。
後ろ向きなやる気だが、またあの女に活力を分けて貰おう。
「――――――え?」
演奏がピタリと止まる。
カレンは幽霊でも見たかのように、ぼけっと俺を見つめている。
「……なんで中断するかな。今まで止《や》めたコトなんて一度もなかったのに」
ジロリと睨み返しながら定位置に陣取る。
ここまでくると、この長椅子もお気に入りなのだった。
「おーい。続きどうしたー。いつもみたいにかまわず演《や》ってくれー。終わるまで待ってるから」
やじを飛ばす。
「い、いえ。
話があるのでしたら、すぐそちらに伺います」
……珍しい。あの無愛想女にも、気を遣うという機能があったのか。
が、それは一度目か二度目に発揮してほしかった。
今は逆に気を遣われると困る。
いつか機会があったら空気読み《エアリ ー ド 》機能もつけてやれ、俺。
「いい。エネルギー不足なんでムカムカしたいんだ。気にせず日課を続けてくれ」
「…………演奏は続けますが。それはどういう意味でしょうか?」
ありゃ。ムカムカしたい、という表現ではお気に召さない様子。
「元気が出るってコトなんだが。
アンタのオルガンはちょうどいい充電になる。聴いてると頭がビリビリするからな」
不満そうにオルガンに向き直るカレン。
ムカムカとビリビリの関係は分かってもらえなかったらしい。
ともあれ演奏は再開された。
存在しないオルガンに、再び命が吹き込まれる。
鍵盤に触れる傷だらけの細い指先。
四度、耳障りな調べが礼拝堂に響き渡る―――
ふと、今までのものと違う気がした。
演奏者の指に熱が籠もっているのか。
漠然と苛つくだけだった音の波は、明確に神経に訴えかける。
キチリ、と。
たしかな歯応えをもって苛つきは怒りになり、やがて、飾り立てた理性を溶かしていく。
『―――美しいと思うコトがないの?』
あの女は、そんなようなコトを言っていた。
そんな気持ちはとっくに何処かに飛んでいった。
今は気楽だ。
ただあるがままに、あるがままを見ていればいい。
個人的な感傷は、持っていると色々と重苦しい。
……なのに、どうして
―――ふざけるな。
「――――――」
見知らぬ風景を垣間見る。
俺には意味が分からない。
荒れ果てただけの荒野。空気は薄く、地上とはほど遠い頂。
それを―――どうして今、こうやって思い返す。
切り捨てても離れぬ妄念。
焼き付いたものは憎悪だけでなく。
この景色も、眼球に焼き付いている。
……ふざけるな。
なんだってこんな風景を思い出す。
なかっただろう。
あそこには何もなかっただろう、何も……!
胸を揺らしてはいけない。
今さら、感傷らしきものを抱こうとする自分を許してはいけない。
思い返したところで過去が変わる訳ではない。
間違った感傷、間違えた幻想で、美しいものに仕立てあげてはならない。
オレはありのままを肯定する。
望郷の念などで、自分のものでなかったものを、自分のものに思ってはいけない。
何もないのがオマエの誇りだ。
無であるコトがオマエの意味だ。
在りもしないモノを捏造しては、オマエは本当に無意味な生け贄と変わりはなくなる。
……ああ。
それでも、確かに―――
―――確かに、ここには何も在りはしなかったけど。
そこに意味があってほしいと、俺は願っていたのではなかったか―――
いつの間にか演奏は終わっていた。
活力を得よう、という趣旨からすると期待外れと言わざるを得ない。
で。気がつくと、目の前にはカレンが立っている。
……むむ。なんとなく思い立ったのだが、コイツ、何か欲しいものでもあるんだろーか。
「貴方がここに来る事は、もうないと思っていました」
「同感。なんでかな、きっと気の迷いだったんだ。元気が出ると思ったのに脱力させられたし」
「……自分で続けろと言ったのに。私の演奏はお気に召しませんか?」
「ん? そうだな、技術レベルじゃ文句はないぜ。
その包帯だらけの体でよく体力が続くモンだ。正直感心する……って、待てよ。……アンタ、実はオルガンの演奏すごく上手い?」
「人後に落ちぬ自負はあります。自身の取り柄を鍛えるのは、私の趣味です」
「珍しく強気じゃんか。……そうか、アンタ上手かったのか」
これは失礼なコトをした。
学芸会のお遊戯みたいな気持ちで鑑賞していた、なんて言ったら何をされるか。
「理解していただけて幸いです。
ついでに、私の演奏のどこがお気に召さないのかを聞きたいのですが」
「どこって、聞いてると眠くなるところ。
電気使えとは言わねえけど、もっとわざとらしいほど盛り上げてくれないと。
あと、なんでもかんでも受け入れるような芸風もつまらない。もう少し反社会的なシャウトを聞かせてほしい。こう、感極まって鍵盤を蹴りつけるぐらいに」
そこでギャイーンとディストーションきかせてくれたら最高だ。
「……それは、私ではなく曲が悪いというコトでは?
くわえて、聴いている人間の感性も悪いかと」
「げ。なに、マナー悪いのかこの観客?」
「言語に絶するほどに。私の語彙《ごい》では言い表せるものがありません」
「―――っ」
顔を逸らして笑いを堪える。
分かりづらい女だと思っていたが、そうか、自慢に思っている部分をつつくとこういう反応を見せるのか。
「何か」
「いや、こみあげてきたモノを我慢しただけ。
アンタわりときかん坊だよな。音楽の先生も躾《しつ》けるのにさぞ苦労したろう」
「……貴方の基準で私を決めつけないでください。
それと、貴方には私の生い立ちを語った筈です。
私は孤立しているのですから、音楽は独学だと思わないのですか?」
「ん? いるだろ、音楽の先生ぐらい。
アンタの音には正しい規律がある。何人もの手を渡って受け継がれてきた、演奏者の意志みたいなものだ。
アンタのオルガンは自分の為の物じゃないだろう?
アンタの演奏は、多くの人間の為に編み込まれた、“普遍的”な音楽だ」
独学で磨けるのは技術だけだ。
時代を超える理念は天才では築けない。
才能によって輝く者が大木に咲く花だとするのなら。
系譜によって輝く者たちは、幹となって大木を育てていく。
「ま、そんな小難しい話以前に、上達したいなら人に教えてもらうのが一番てっとり早い。世間体より合理性の方を優先したんだろうさ。
きかん坊ってのはそういうコト。
アンタは、本当に好きな物の為なら最善を尽くすタイプだと思うんだが」
「…………貴方の推測には頷けませんが。
音楽を学ぶ為に、特例として時間と指導者を用意していただきました。何かと問題はありましたが」
「ほら。怒られてもめげないって言うか、あんまりダメージいかないって言うか。アンタは根っこの所に、他人じゃ動かせないものがあるんだよ。
自分がないなんてよく言ったもんだ。
ほんと。教会の神父ってのは、どいつもこいつも厚顔に出来ているんだな」
ケラケラと笑う。
……はて? オレは何が嬉しくて、こんな気分になっているんだろう?
愉快なんだか開き直っているんだか不明だが、なんにせよハイになりつつある。
「………………」
一方、女は固まったまま動かない。
こちら同様、何かツボにはまった様子。
「……あの。そんなに厚顔でしょうか、私」
「ああ。ここの前任者といい勝負」
「――――――」
言葉を探しているのか、女はどこかよそよそしい。
その、コイツにしては珍しい初々しさを観察する。
気持ちが高揚して、理性が少し緩んでいるからか。
今まで見ないフリをしていた欲求がこぞって、ドクドクと脈打ち始める。
「っ……!」
ビ、とビニールを裂くような微かな音。
血の匂いが、法衣の下からこぼれてくる。
「? どうした、生理か?」
「……………傷が開いただけです。申し訳ありませんが、その、」
「そうだな、一つ後ろにズレるわ。わるい、今のは全面的にこっちのミスだ」
よいしょ、と後ろの席に移動。
少し距離をとったので、血の匂いも薄れている。
「けどアンタもタイヘンだね。傷が開いたって、まだ夜の街を徘徊してるんだ。
……って、そうか。四日目の夜には、律儀に俺を捜してるんだっけ」
「……そうです。聖杯戦争の再現が終わるまで、四日目の夜は街にでなくてはいけません。
もっとも、疲れているのはそれだけではありませんが。
……最近、悪魔祓いの真似事もはじめましたので」
「へえ」
空返事である。
ぶっちゃけ、血の匂いが薄れたぐらいじゃ抑えが効かない。
オレの目は、たとえば、傷を隠す包帯の白さに見とれている。
押さえつければ肩が砕けそうな細腕とか。
血に濡れた白い腹は、きっと鮎の串焼きみたいに今が旬に違いないとか。
「ええっと。悪魔祓い《ほんしょく》の調子はいいのか?」
「いいえ、これがまったく。
今まで多くの悪魔祓いをこなしてきたけど。弱音を言ってしまえば、今回のようなケースは初めてです」
「ふーん。そいつ手強いんだ」
包帯に赤い斑紋が浮かぶ。
艶めかしい。生々しい。人形のような女かと思えば、アレは充分に生ものだ。
「強いか弱いかで言えば、低級の部類に入るでしょう。
でも一つだけ今までと違うところがあって、それで調子がおかしいのです。
……だって。この悪魔は、私に厳しいんだもの」
「は? 悪魔が厳しいのは当たり前じゃないのか?」
「いいえ。基本的に悪魔は優しいのです。
その結果はどうあれ、彼らは人の苦悩を理解し、取り除こうとする架空要素。見ようによっては人間の味方ですから。
間違っても、人間を叱ったりはしないのです」
「――――――」
誘っているとしか思えない。
祈りの仕草。重ね合う指。傷だらけの体が、
を、連想させるのだ。
だがコレは神に捧げられたものでも、悪魔に捧げられたものでもない。
何もしない、あるがままを受け入れるもの。
謂われのない咎を受け入れる、都合のいい生け贄だ。
「―――――、は」
まずい。頭を切り換えないと。
この衝動は、俺の殻をクズしてしまう。
「どうしたの。体調が乱れているようだけど」
「いや、ちょっと貧血。
それより今の話。初めてのケースってコトは、つまり面白い?」
「全然。予想外のコトばかりで、どちらかというと腹立たしいわ。
……そうね。正直、うんざりしてきたかも。
自分から介入した事だけど、私の手には負えそうにないし。このあたりで引き上げていいかしら?」
「別に。アンタの好きにすればいい」
「……………………」
「なんだよ。飽きっぽいなあ、とか無責任だなあ、とか言ってないぞ、俺」
「それはそうだけど。
……ほら。厳しいじゃない、貴方」
「――――――」
厳しい、と言われたのは初めてだ。
前はたしか我慢できる人とかできない人とか言われた気がするが……アレは、どっちが我慢できて、どっちが我慢できなかったんだっけ……?
……切り替えがまだ出来ていない。
今回のコイツは強敵だ。
金の瞳には、俺の姿が見えているかどうか。
まさか、たった四度の邂逅で繭が崩れかけるなんて。
「もしかして、本気にしましたか?」
「え……?」
言われて顔をあげる。
「……申し訳ありません。少し、私も貴方をからかってみたくなったのです。
ご心配なく、途中で投げ出す事はありません。
私が自分に課した役割は、貴方を導く事ですから」
「……ああ。そう言えば、もともと情報を交換する間柄だったっけ。一回目は助かったけど、二回目以降は役に立たないんで忘れてた」
「それは貴方が関係のない話をするからです。重要な話をしてもらえれば、私とて意見は返せます」
「そうなんだ。
けど―――」
訊くべき事はもうない。
衛宮士郎とカレンの関係は、三回目で全て済んでいる。
「―――悪いけど、もうほとんど終わっているんだ。
さっきの話だけど。実際、アンタはもう引き上げて構わないんじゃないかな。
悪魔祓い《ほんしょく》の方は……そうだな、諦めて次の獲物を見つけてくれ」
それが結論だ。
あともう少しで、この関係も終わりを告げる。
「愚問と分かってはいますが。貴方は、それでいいのですか」
「いいに決まってる。その為に色々やってきたんだから」
「それは貴方の意志で? 貴方はどうして、この願いを解決しようとするのです」
「決まってるだろ。俺は衛宮士郎だからな。一度ぐらいは、人助けをしてみたいんだ」
惑いはない。
二度目の答えは、偽りのない本心だった。
席を立つ。
今の言葉を口にできただけで、この時間は意味があったと思いたい。
―――待って。
さすがにもう付き合えない。
足を止める事なく外に向かう。
―――貴方は虚無よ。生まれていないもの、未知のものがあるかぎり在り続ける。
残る隙間はそう多くない。
手早く埋めてしまえばいい。
―――けど、全てが生まれてしまったら貴方の居場所はどこにもない。この日常がうまっていけばいくほど、貴方は輝きを失っていく。
失っていくのではない。それは、
―――世界への関心を失って、もとの無に戻るのよ。
元の、正しいカタチに戻るだけだ。
◇◇◇
常夜の橋・左
「え―――?」
橋の途中、妙なものが視界をかすめた。
足を止めて観察するも、何をしているのか、何の意図があってのコトなのか理解に苦しむ。
「…………なにやってんだ、アイツ」
放っておいても後が怖い。
友人として注意ぐらいはしておこう。
「ありゃ。見るからに不審なのがクモみたいによじ登ってくるかと思えば、衛宮さん家の士郎クンじゃない。
どうしたの、こんな所にやってきて。ここ車道だから危ないわよ? あ、それとも飛び込《ダ イ ブ》み?」
「……………はぁ」
どっと力が抜ける。
何がって、俺が飛び込むコトを本気で心配している遠坂の思考回路にだ。
「あのな、遠坂。友人の身を案じてやってきた人間に、その反応はないんじゃないのか。
あと、危ないのはそっちの方だ」
「え? うそ、さっきの見てたの衛宮くん!?」
「っ、じゃあ見えちゃった……? ずっと見てた……? ううん、バッチリ見てたのねコンチクショーっ!」
「は?」
遠坂の奇行に首をかしげるコト0.2秒。
くいっと傾けた顔側面に、カウンターっぽくワンパンチが炸裂した。
「―――すみません、誤解でした」
どうもっす、と胸に組んだ両腕を下げながら一礼する。
中国拳法のみならず、空手まで始めたらしい。
「……いや。すごいぞ遠坂。全身を使い切った理想的な右フックだった。頬骨にヒビ入ってるかもしんない」
ふっふっふ。
口にはしないが、気持ちだけじゃ勘弁できねーと視線でアピール。
「だ、だからゴメンってばっ。
今のは全面的にわたしが悪かったですっ。東西南北、上から下まで不注意でしたっ」
珍しく平謝りな遠坂凛。
この赤いあくまは人を困らせるコトを趣味としているが、反面、うっかりミスで人を困らせてしまうと途端に弱キャラに変貌する。
……こういう時の遠坂にはどんなワガママもし放題なのであるが、生憎《あいにく》、ここはちょっとの油断で轢き飛ばされる制限速度六十キロ車道、二車線である。
「……まあ、今後はもうちょい行動を遅めるように。考え即殴るでは、アナタの今後が心配です」
遠坂自身ではなく、周囲にいるであろう善良な人々が。
「し、失礼ね、普段はもっと冷静よ。
今のだって、見てたのが士郎じゃなかったらストップかかったわ」
「なに!? と、遠坂の中じゃあ、俺は無条件で有罪扱いなのか!?」
「え? ううん、そうじゃなくて、他の人だったら慌てなかったというか、そんなに恥ずかしくなかったというか……あ、いや、誰であろうと有罪なのは確かなんだけど、うん」
「……いまいち要領を得ないな。
つまり、さっきの誤解においては俺だけ罪が重いと?」
「そ、そうよ。えーと……そ、そう! だって士郎、目、いいじゃない」
「…………」
なるほど。
ここまでくれば俺にも事情が飲み込めてきた。
ワンパンチを食らった後、いま来たばかりなんだが、と説明すると、遠坂は自己嫌悪モードに入ってしまった。
以後、何を言っても『理由は訊かないで』の一点張りだったのだが……
「……わからんなあ。なんで鉄骨の上になんて登ってたんだ? そんなに普通の車道は退屈か?」
図星か。
どうやら俺が来るより前、遠坂はあのアーチ状の鉄骨の上で、優雅に街を見下ろしていたらしい。
「い、いつになく鋭いじゃない衛宮くん。
……やっぱり、始めから見てた……?」
「始めから見てたならすぐに止めてる。
いくら遠坂でもあそこを登っていくのは無茶だ。サーカスじゃあるまいし、落ちたらシャレじゃすまないぞ。
……まったく、あんまり心配させないでくれ」
バカモノ、と軽く遠坂の頭をこづく。
「………………」
俺の手刀《チョップ》をあまんじて受ける遠坂。
……まあ、なんだ。不謹慎ではあるが、こういう殊勝な遠坂も悪くない。
「何のつもりかは知らないけど、次は普通に歩いてくれ。それでさっきの右フックは帳消しにしよう」
「……そうね。約束はできないけど、ここぞという時以外は控えとく。
ま、下調べはもう充分だしね」
約束はできない、というのが遠坂らしい。
少なくともあと一回はあのアーチに登る可能性があるというコトだ。
「なあ。もしかして遠坂、俺が話した怪物たちを調べてるのか?」
「……! ……ちょっと、どうしたのよ一体。
今日にかぎってえらく勘がいいじゃない。鉄骨の上にいたのはともかく、なんでそれが使い魔たちと繋がるのよ」
「いや。なんていうか、それは」
……困った。
前に一人、遠坂と同じようなコトをしていたヤツがいたからなのだが、はたして口にしていいものか。
「それは?」
「それは、アーチャーのヤツが似たようなコトやってたから」
……やっぱりこうなるか。
遠坂とアーチャーの関係は、どうも一筋縄でくくれるような物ではない。
契約は解除されているものの、どちらかが破棄した様子もない。
お互い意識しないようにしているのがバレバレな訳で、ギブアンドテイクの関係と言いながら、こうして同じ事に興味を持ったりしている。
「……ふん。挨拶にすら来ないと思ったら、またつまらないお節介を焼いてるワケね。
それで。アイツはなんて言ってたの、衛宮くん」
「何って、そうだな……具体的には何も。あの怪物たちを敵視しているクセに、アレは倒してもきりがないとか、無害だから放っておけとか」
「…………他には? 衛宮くんの言う怪物たちの大本が何であるか、知ってる素振りだった?」
「それはないと思う。怪物たちの目的がなんであるか知りたいとか、そんな段階だった」
「は? ここを下調べしてるのに、まだそんなコトに気付いてないの? そいつらの目的なんて一つだけじゃない!」
「―――待った。驚くのはこっちの方だ。
遠坂はあの怪物たちの目的が分かるのか?」
「ええ。理由は分からないけど、目的なら明白じゃない。
衛宮くん。貴方から聞いた話じゃ、その怪物たちは貴方しか殺していないんでしょう?」
「ぁ――――まあ、それはそう、だけど」
「なら話は簡単よ。四日目の夜にだけ現れて、四日間の異状を感じ取ってる衛宮くんだけを狙う怪物。
そいつらはね、貴方にクリアさせない為《・・・・・・・・》に集まってきてるのよ」
……どうしてか、背筋が寒くなった。
あの怪物たちが俺だけを殺しているというのは、言われてみればその通りなので驚く事じゃない。
だが―――クリアさせない為―――その表現は、どこかおぞましくて吐き気がしたのだ。
「もっとも、だから何って感じだけど。その怪物を見たいんだけど、いくら探しても見つからないし。
……アーチャーのヤツ、どうやって見つけたのかしらね……」
アーチャーは新都センタービルの屋上に陣取り、新都に侵入しようとした怪物たちを狙撃していた。
あのビルの屋上という視界の良さ、アーチャーの鷹の目、その二つがなければ発見は困難という事なのか。
「……それで、他には何か言ってた?
一人じゃもう無理とか、そろそろ誰かの手を借りに行くとか、そういうの」
「そういうのはなかったな。
あ、口にはしないけど柳洞寺を睨んでたっけ」
「柳洞寺……? ……そっか、使い魔たちが溢れ出るのはそっちの方角なワケね」
一成の怪談を思い出した。
景山の臓物墓場。姥捨て山ならぬ、死者を土葬もせずに放置する肉捨て山。
真《まこと》、あの怪物たちの廃棄場には相応しい。
「オーケー、だいたいの状況は飲み込めたわ。怪物が見つけられないのは痛いけど、ま、最後の最後には目の当たりにするだろうし」
これ以上ここを調べても無駄かあ、と投げやりに背伸びをする遠坂。
「わたしは帰るけど、衛宮くんはどうするの? 一緒に帰る?」
「んー……いや、まだ街に用事がある。ここで別れよう」
「そ。じゃあまた後で。あんまり寄り道しないで帰ってくるのよ」
歩道橋に向かう遠坂。
跳び移るのは、まあ、遠坂の運動神経なら問題ないだろうが……アイツはもうちょっと、自分のアクティブさを考慮した格好をするべきだ。
……とまあ、それはともかく。
「おーい。アーチャーの事はいいのかー?」
「別にいいわよ。アイツが何していようとわたしには関係ないし。衛宮くんもアイツに期待なんかしちゃダメよ。思わせぶりな行動ばっかりで、いざって時は何もしないヤツなんだから」
「……んー。じゃあ遠坂には期待していいのかー?」
「もっちろん。乗りかかった船だもの。
貴方が最後まで辿り着くのなら、その時は出来る限り力を貸すわ。右フックのお返しにね」
とーん、と躊躇《ちゅうちょ》なく歩道橋へ飛び移る。
アーチャーの時とは違う。
清涼な物を残し、赤い魔術師は鮮やかに退場した。
◇◇◇
天の杯
―――これが、地上で行う最後の断片になる。
テンノサカヅキに至れとアヴェンジャーは言った。
アインツベルンの秘宝、第三魔法・天の杯《ヘブンズ フィール》。
その名を冠する冬の娘は、初めから全てのカラクリを知っていた筈だ。
長い廊下を抜けて中庭に着く。
この城の空は常に曇りだ。
いかなサカヅキとて、真なる聖杯が統べるこの城だけは侵せなかったか。
「イリヤスフィール」
声をかける。
恐れと諦観から、今の自分は感情が欠如している。
「………………」
返答はない。
もう少し近寄ろうと足をあげる。
「大丈夫、聞こえてるからそこにいて。
こんにちはシロウ。わざわざ会いに来てくれたの?」
「――――――」
足を止める。
どうやら、事は手早く済みそうだ。
「ああ、野暮用があって会いに来た。少し話を聞きたいんだが」
「シロウから誘いにくるなんて珍しいね。
それで、どんな話かしら? できれば明るい話にしてほしいけど。
せっかくのパーティーなんだもの。どうせなら楽しまなくっちゃ勿体ないでしょ?」
「それは同感。
で、やっぱり知ってたんだ、イリヤは」
「なんとなくね。けどシロウが知ったら止めちゃうだろうから、出来るだけここには来て欲しくなかったの。
わたしも、続けられるのならいつまでも続けていたいから」
……ああ。
だからこの城が行動範囲に含まれる事を、あんなにも嫌がった。
あの妨害は、イリヤなりの抵抗だったんだ。
「……いや、そのわりには趣味に走りすぎてたような」
「へへー。だって、最後にはやってきちゃうんだもの。なら、全部まとめて楽しくやろうかなって決めたんだ」
全部まとめて、か。
初めから知っていながら、この少女は付き合ってくれた。
元凶を倒す事も責める事もせず、この城で待ち続けていてくれたのだ。
「イリヤ。テンノサカヅキってのは何なんだ? それが聖杯戦争を再現してる聖杯なんだな?」
「せっかちね、いきなり本題?
けどまあ、今までじらされたんだものね。行儀の悪さは大目に見てあげる」
「いい? 冬木の聖杯戦争のご褒美だった聖杯は、聖杯の名を借りた魔力の渦でしかなかった。
その有り余る力で持ち主の願いを“広義的に見て”叶えるだけ」
「けど、今回の聖杯は違うわ。
大した力はないクセに、自分の出来る範囲で持ち主の願いを叶えようとする、ちっちゃいけど本物の聖杯なの」
「もう言うまでもないコトだけど、その正体はサーヴァント!
三回目の聖杯戦争で召喚されて、聖杯に取り込まれて、聖杯の力で“人間の願いを叶える悪魔”に成長した誰かさんなのでしたー!」
人間の願いを叶える悪魔というのは語弊ではないか。
正しくは、“人間が願ったとおりの悪魔”に成長した誰かとか。
「けど、その悪魔の名前は口にしない。
テンノサカヅキというのは、その悪魔の契約書みたいなものなんでしょうね。
そこは始まりの地点、悪魔が大事にしている契約者がいる場所じゃないかしら」
「そこに聖杯があるって事か。それは何処だ?」
「この街で一番高いところ。五回目の聖杯戦争にいなかった人は、そこから地上に落ちてくるのね。
何もかも逆さまなの。天意《ヘブンズ フィール》じゃなくて堕天《ヘブンズ フォール》なんだから」
この街で一番高いところ。
それはセンタービルではなく、
「無茶な話だ。どうすれば行けるんだよ、あんな所に」
「え? あ、そっか、普通は行けないよね、あんな場所。
―――仕方ないか。
ねえ。シロウはこの聖杯戦争をどう思ってる?」
「どうも何も。
これは作り物だ。偽りの四日間だろ」
「じゃあ四日間が過ぎたら? みんな消えてしまう?」
「あ―――いや、それは」
みんな消える、という事はない。
単に、この四日間で起きた事が消え去るだけだ。
何しろ作り物の世界で起きた幻である。
誰の記憶、何の痕跡も残るまい。
「ええ、その通りよ。
作り物の世界って言ったけど、本当は違うの。舞台は偽物でも、そこにいる人はみんな本物なんだもの。
たとえばリンね。役どころが変わったところで、何をしようとリンはリンである事に違いはない」
「この世界にいる作り物、偽物は一人だけなの。
その人はこの街にいる誰かのカラを被って、この世界で聖杯戦争を再現している。
契約者の望む通り聖杯戦争を続ける為に、自分の知らなかった五回目の戦いを体験しているのね」
……そうだ。
だからこの地上とテンノサカヅキは重ならない。
彼女は五回目の参加者を使った、三回目の脚本で戦い続ける。
しかし、時折その偽物が大ポカをして、三回目と五回目を繋げてしまうのだ。
二つの戦いはリンクなどしていない。もともと彼女の戦いと俺たちの戦いは別物だ。
「四日間が終わったらみんな元に戻るわ。
あるべきものはあるべきカタチに還る。
この四日間そのものが無かった事になるでしょうね」
「けど、その人だけは四日間と一緒に消えてしまう。
五日目に待つ現実には行けないの。
剥離された名前と同じように、世界の記憶にすら残らない」
それは、そうだろう。
そいつは元から、この街にはいない存在だったんだから。
「―――けどさ。
偽物ってコトは、元になった本物がいるだろう。
その本物はどうなるんだ?」
「偽物と入れ替わるわ。何事もなかったようにね」
そうか。
偽物が消えた後には、不純物をそぎ落とした本物が残る訳か。
「なるほど。……けど、なんだ。
おかしな言い回しなんだが、その偽物は、やっぱり偽物なんだろうか。
どんなに本物そっくりでも、本物でないかぎり、そいつが行った行動は、」
「ううん。その人は偽物だけど、紛れもない本物なの。
複製とか同一存在でもない。
その人はこの四日間だけ、本物になっただけなんだから」
……よく分からない。
理論ではなく、この少女がそうやって笑ってくれる意味が、オれには分からない。
ただ―――その笑顔だけで、
「―――そっか。
じゃあ、その行動は、自然なものだったんだ」
諦観していた心が、良かったと息をついた。
「ええ。カラを被ったって言ったけど、その人はもともとカタチのない無なの。
無は何者にもなれないし、何かを真似る事もできない。
だから―――その人が誰かの体でカタチを得るとしても、どうしようもないほど無のままなのよ」
「誰かに憑依……いえ、同化したとしても、持ち主に何の影響も与えられない。
だから、その人は偽物だけど。
その行動は、紛れもない本物だった」
スッキリした。
作り物ではあったけど、そこで起きた出来事は本物だったのだ。
しかし、なんというか。
「……けど、そいつには、自分の意志があるみたいなんだけど」
「……それは「無」の意志じゃないわ。
意志のあるカタチに同化した事で、それが自分の意志なんだと錯覚しているだけなのよ」
合点がいった。
例えるなら、お人好しのカラを被ったばっかりに、お人好しの考え方しかできなくなったのだ。
アヴェンジャーというサーヴァントも、“この世全ての悪”から分かれたモノではなく。
あの人格《アヴェンジャー》も、“無が取り憑いた人間”をサンプルに、カタチどった作り物にすぎない。
「じゃあ、そいつは」
そもそも偽物ですらなく。
ただ、存在しなかったもの。
「―――いいえ。わたしが認めてあげる。
貴方は貴方よ、アンリマユ。貴方はすぐに忘れてしまうだろうけど、わたしは最期まで覚えているわ。
貴方が自分の意志で、この願いを終わらせようとした事を」
これも因果応報と言うのだろうか。
オレを呼びつけた人間の末裔が、今、オレを解き放つ助けをしている。
「ここは、いずれ全ての結末が出そろってしまう世界。
どんなに作り込んだ箱庭だろうと、いつかは全てを知ってしまう」
「破綻は見えている。
続けたいのなら行動してはいけない。
必要最低限の日常《シー ン 》だけ繰り返して、未知の出来事を残しておかないと冷めてしまう。
未知《みらい》があるという事。それ自体が、この世界を動かす原動力だったから。
でも―――貴方たちには、それは出来なかった」
「――――――」
そう。
でも、二人ともそれは出来なかった。
持ち前の歪さから、より良い結果を求めた本物。
ただ楽しいから、新しいものを見たがった偽物。
それが、この箱庭の主人公だ。
「ああ――――――」
「わたしにしてあげられるのはこれぐらい。今まで観測者にすぎなかった貴方が、これで人に認識して貰えたわ。
あとは簡単。貴方が忘れてもわたしが覚えているんだもの。
貴方は貴方として、あの月に昇れるわ」
「――――――ようやく、ここに至ったか」
イリヤスフィールの言う通りだ。
あの月に至る為の道具などない。
聖杯に上れるのは、もとからその位置にいるアヴェンジャーの本体と、契約者であるバゼットだけなのだから。
用件は済んだ。
熱を取り戻す前にイリヤの前から立ち去る。
「楽しかった?」
「ああ。ありがとう、イリヤ」
今回の事ではなく、知っていながら楽しんでくれた事に。
「どういたしまして。
奇跡のバーゲンセールだもの、これぐらいやらなくっちゃ損だと思うわ」
偽りのない笑顔。
自分には、楽しさより眩しさが先に立つ。
「ね。もうすぐ終わりなの?」
イリヤから目を逸らす。
「そうだ。これでまた一つ、輝きを失った」
不意に、温かいものに包まれた。
それが人の体温だと気付いた時、
「強情なんだから。一度ぐらい、泣いていいんだよ」
せっかく冷ました感情が溶けかけた。
「―――なんでさ。泣くような事は一つもないだろ。
日常は続いていく。何も失われる物はない」
無が無に戻るだけの話だ。
帳尻は合っている。
中庭を後にする。
瞬間、
「あ―――、つ」
目眩がして、ほんの少しだけ、前後の記憶が曖昧になってしまった。
「ありがとう。また遊びに来てね、シロウ」
イリヤは手を振るでもなく、穏やかにお別れを口にした。
曖昧な記憶に戸惑ったものの、大きく手を振ってさよならをする。
……何を話したかは曖昧だが、別れは華やかに。
だって、あれだけ綺麗な笑顔なのだ。
この一時は、イリヤにとっても、幸福なものだったに違いない―――
◇◇◇
カレンX
広場に人影はない。
神の家は訪れる者もなく佇んでいる。
……ここは地上より遠く。
天《そら》にはなお遠い、告解の惑《まど》い場―――《じょう》
教会には俺の知らない女が待っている。
これが最初であろうが最後であろうが、この場所では意味のない事だ。
もとより存在しなかった女《もの》。何処にでもいて、何処にもいないカレと同じだ。
時間の後先は此処にはない。
俺がここに来るのは、たしか―――
―――最後だ。
演奏に淀《よど》みはない。
奏者は来訪者を歓迎するように、一度だけ口元を綻《ほころ》ばせる。
朽ち果てた長椅子に腰を下ろす。
……最後に。
この慈愛に沈まぬよう、目蓋を閉じた。
誰を憎もうか想い続けた悠久の日々。
際限のない怨念は、しかし、明確な人間《だ れ か 》を選ぶことが出来なかった。
それが人為的に作られた悪心の末路。
ソレは彼らが望んだ悪魔になど成れず、鏡として人間を映し出す。
この世全ての悪などと笑わせる。
その異名は人間の総称だ。
おまえたちが造り上げた鏡を見ろ。
我が罪はすべて人が造り上げたもの。
喜ぶがいい人の子よ。君は、あらゆる悪を再現可能だ。
恐れられたのは悪心ではなく、悪心を祭り上げた自身の脆さを恐れ続けた。
石《いし》投げる行為に愉悦を。
感覚を鈍化させ、道徳を麻痺させて、醜いモノに変わっていく。
この過酷な世界において。
我々は、憎しみなくして生きてはいけない。
未来永劫、癒される事はない。
中身《みずから》を覗けばおぞましい肉食の群。
ガチガチと牙をならし、入ってきたものを食い散らかす。
まるで怪物の水槽だ。何人であろうと、自身の深層を見れば生き汚《ぎたな》さに嘔吐する。
なのに、
―――それを、誰に否定できただろう?
汚らしいだけの生き物が、本来の機能に逆らって苦しみ続ける。
声無き苦悶。善悪を兼ね備える矛盾機巧。歯車の軋みは火花となって咲き消える。
闇夜の中で、何の道標《た よ り 》にならずとも回り続ける小さな寄る辺。
この無において。
オレには、それが眩しかった。
なんという勘違い。独りよがりな理想郷。
醜いものは醜い。
醜さ故に美しいなど、そんな感傷を抱くのは人間だけ。
その感傷すら、瞬きの合間に流れ去る。
だが―――
オレは、それでいい。
輝きは一瞬でいい。
この無限に有り続ける悪の中で。
たとえ偽りでも感傷を抱けるのなら、それは確かな明かりだった。
……そう。
古く、星という概念《コ ト バ 》が、人々の寄る辺であったように。
永遠に手を伸ばし、もう永劫に掴めないその一瞬を、ずっと眺め続けている―――
だから、せめて。
人であるうちに、人間らしいコトをしておきたいんだ。
何も残さなかった。
誰も救えなかったこの不実の虚無に、どうか、一点の意義を望む。
……そうだ。
おまえは正しい、衛宮士郎。
その誤認、その感傷の罪深さに目を焼かれるとしても。
美しいと感じたものに、オレも、そうやって憧れたかった。
ただ、憧れてみたかった―――
空には星の天幕。
長い演奏が終わり、廃墟には乾いた音が響いている。
パチ、パチ、パチ。
焚き火の爆ぜ音ではない。
乾いた音はオレの手元で鳴っている。
つまるところ、オレはなぜだか拍手をしているのだった。
で。毎度の事ながら、目の前には女が立っている。
その顔はいつもの仏頂面ではなく、
「……良かった。ご静聴、感謝します」
初めてにして、きっと見納めの、少女らしい笑顔があった。
「――――――」
なんだ。
いつも物欲しそうに立っていたが、こんな些細なもので良かったのか。
こんな気まぐれ一つで、人間は笑えるのか。
……まいった。
空気読み機能は、オレにこそ必要だったみたいだ。
「よう。今日のは随分と長かったな。
もうすっかり夜だけど、体は大丈夫か?」
「はい。今は貴方の心が穏やかですから。距離を保っていれば問題はありません」
「そうじゃねえよ。何時間もペダル踏んでたんだ。単純に疲れてないかって話」
「あ、はい。体の疲れはありません。お望みでしたら一日中でも続けられますが」
「へえ、そりゃ凄い。凄いけど遠慮しとく。さすがにそこまで暇じゃない」
数時間程度の演奏で青臭い感傷に浸ってしまったのだ。
二十四時間もぶっ通しで聞いていたら、それこそ幼児退行しかねまい。
「―――しかし、なんだな。
ものの見事に廃墟だな、ここ」
礼拝堂を見渡す。
栄え華やいでいる冬木の街の中で、唯一朽ち果てている場所。
誰も失われていない人々の中で、唯一存在しない者。
言峰綺礼。
あの男だけはこの『再現』には含まれない。
第五次聖杯戦争において、あの男が『最後まで生き延びる』可能性が、どの結末にもなかったからだ。
……あの男は、第四次聖杯戦争を生き抜いた段階で、五回目に必ず死ぬという結末を約束されていた。
それを利用して、目の前の女はこの『再現』に介入した。言峰はいないが、聖杯戦争の監督役という役割は残っている。
その空席にカレン・オルテンシアは滑り込んだというワケだ。
「なあ。本当の四日間―――じゃないな。現実の方でも教会はこうなのか?」
「ここまで荒れ果ててはいませんでした。今ごろは私が清掃をしていると思います」
「なるほど。じゃあ、此処にいるアンタはなんだ。
てっきり、本人がやって来てるのかと思ったんだが」
「私は本来いない者ですから、実体として介入はできません。この閉じた庭にカレン・オルテンシアという要因を送りこんだだけです。
四日間だけの限定存在ですが、その代わりにループやリトライの必要もなくこちらに存在できる。同時に、四日間が終わればこの私は消え去ります」
「サーヴァントみたいなもんか。
紛れもなく本物だけど、召喚が終われば記憶の受け継ぎも出来ず消え去っちゃう?」
「そうですね。ここで貴方と何を話そうと、外の私には関わりのない事です。
……衛宮士郎や遠坂凛といった、もとから存在する方たちには夢や既視感として記憶は残りますが、私の記憶はこの場かぎりです」
「ふうん。それって死ぬって事だよな。怖くないのか?」
「……貴方は夢を見ている時、目覚める事に抵抗を感じますか?」
「ないけど。そっか、現実感が希薄なんだ。
そりゃあ、あらゆる時間に居ればワケも分からなくなるか。ある意味ゴーストだもんな、アンタ」
「……私は幻ではありません。お互い触れる事はできませんが、私は実体です。
貴方だってそれは知っているでしょう。もう何度、貴方は私の爪に貫かれたか」
「そうか。そう言えばそういう関係だったっけ。
……む。ってコトは、今かなりきつくないか? 自分で言うのもなんだが、かなり曖昧になってる。
アンタには我慢できないと思うんだが」
「い、今は特別に我慢をしていますから。
……私のコトは気にしないでください。耐えるのは慣れていますし、貴方は弱っていますから、なんとか抑えきれます」
……まったく、厄介な関係だ。
導き役として現れたクセに、コイツは導く本人に近寄れない、というハンデを持っていた。
オレは衛宮士郎としてしか、この女には触《さわ》れない。
それも―――理由なくこの教会に訪れるようになってから、随分と曖昧になってしまったが。
「――――――」
「………………」
そうして沈黙。
オレは何か、これ以上話すとまずいコトになるなー、と動物的な危険感知で黙り込む。
女は……別に、どうでもいいようだ。
今までは女の方が沈黙を嫌っていた。
なのに今日にかぎって、オレの方が沈黙に耐えられない。
「あのさ。オルテンシアってどんな意味なんだ」
唐突に声が出た。
ちなみに、興味などまったくない。
「私の国の言葉で、紫陽花《あじさい》の花を意味しますが」
それが何か、と問い返す目。
何かも何も、別に意見などありはしない。
「へえ。いい名前じゃないか」
心にもないコトを言う。
「はい。母の顔は覚えていませんが、この名前は気に入っています。
カレンという名も、父の国の言葉から貰ったものだとか」
「――――――」
聞かなければよかった。
オレは皮肉を込めて告げたのだ。
紫陽花の花。
葉の下でジクジクと蝸牛にたかられる姿は、オマエには相応しいと。
なのに、それを美しいとコイツは笑った。
……もういい。
言うべき事はない。
言いたい事はない。
オレは何かしたくて此処に来た訳ではない。
もう行かないと。
これ以上は、余分なものを残してしまう。
席を立つ。
裂かれるように背を向ける。
「なあ。俺は、そろそろ教会《ここ》には来なくなるけど――」
言う必要はない。訊く必要はない。
オレは、どうして。
「アンタは、これからもそうやって生きていくのか」
分かりきった答えを聞きたがる。
「……ええ。私はこれ以外の道を知りません。
これが私の運命なら、その定めに従うまでです」
紫陽花の花。
麗しい銀色の歌。
幾度となく雨に打たれた、未明《みめい》の祈り。
「笑わせるなあ。なに、生け贄みたいな人生でもいいんだ?」
「辛いですが、意味のある犠牲です。
自分だけが、という理不尽に嘆く事もない。霊障に苦しむ人が、私の体で救われるのですから」
それで救われるのは他人だけだ。
肉を裂く苦しみだけではない。
内側から破壊された器官は、ことごとく用をなさなくなる。
そのくすんだ金の目も。
走る事もできない右腿も。
今は思い通りに祈りを弾く指先すらも。
いずれ、二度と機能しなくなる。
それでもいいと女は言った。
どこかの馬鹿と同じように受け入れると。
「―――クソ。だから、言わなきゃよかったんだ」
ああ、最後の最後で思い知らされちまった。
見覚えがある筈だ。
この女は、自分の色を持たない、白い花のようなのだと。
女の顎を掴み、強引に引き寄せる。
「手を放してください、私たちは触れ合えないとあれほど……!」
掴んだ腕をふりほどこうともがく。
自己防衛の為だけではない。
近づくだけでも危ういのだ。これだけ触れ合えば女は抑えきれず、オレの体を貫きかねない。
「我慢しろ。さかりのついた猫じゃあるまいし、勝手に独りで盛り上がるな」
「……貴方は、何を」
するつもりですか、などと可愛いコトを言う。
そんなもの、いまさら言うまでもないだろうに。
「っ……!」
捕まえた腕をねじる。
嫌がる女を胸元に抱き寄せる。
「だめ……今の貴方だと、私の体、が」
耐えられずにオレを殺すか。
そんなもの、この際どうでもいい。
殺すなら殺す、死ぬなら死ぬで構わない。
「いいさ。来る者拒まずなんだろ? オレも同じだよ。似た者同士、最後に相手をしてもらうぜ」
「っ……!」
包帯だらけの体を抱き上げ、階段を登っていく。
抱き上げるオレに抗う事もできず、苦しげに歯を食いしばっている。
「――――体が弾ける、か?
いいさ、我慢比べだ。どっちが先に壊れるかも面白い」
……自分で言ってアタマにきた。
憎悪と欲情でアタマが割れそうだ。
細長い階段を登って女の部屋へ。
予想通り、何の面白みもない灰色の部屋。
内側から裂かれようとする苦痛に耐えてのものか、 外側から与えられる恐怖に怯えてのものか。
計ったところで意味はない。
どちらにせよ、その苦痛は大きくなるだけだ。
「つまんねえ部屋だコト。
しかし、そうか―――あの明かりは、アンタの部屋のものだったのか」
抵抗する余力もない。
女は抱きかかえられたまま、必死に痛みに耐えている。
「そう上品ぶるなよ。アンタ、ここから見てたんだろ。
衛宮士郎が串刺しにされるのも、体中食い荒らされるのも、ゴム鞠みたいな生首になっちまったのも。
それを全部見下ろしながら、勝手に何を思っていた。何もしてない、なんてコトはねえよな。
なにしろ、衛宮士郎《オレ》が死ぬ時はまわりは悪魔だらけなんだからよ」
「は……何が言いたいのです、貴方、は」
かすれる声。
まるで死に瀕した熱病患者だ。それだけ余裕がないっていうのに口を出す。
「別にい。アンタが貞淑なシスターでないコトは聞いてるんだ、非難してるワケじゃない。
ただ事実を言ってるだけ。アンタは―――ここからいつも、殺される生け贄を見ていたんだろう?」
「……」
うなだれていた首が起きあがる。
「――――――」
反論はない。
女は逆らわない。
……イラだちに顔の端が痒くなる。
ガリ、と頬骨のあたりを爪で掻いて、
オレは、目の前の供物を直視した。
吐き出す息に、色がついているようだ。
「――――――」
上下する女の肩に、知らずリズムを合わされる。
……なんだコレは。
目の前のアレはなんだ。
あまりにもふざけている。
目障りな包帯。死体めいた体。短命を宿命づけられたアルビノ。
細胞がざわめいている。
堕落したサバトそのもののような、悪魔憑き
女の心はともかく、体はとうに理性は残ってない。
優れた料理は五感全てを狂わせる。
石室に響く呼吸は苦しげだ。
声にするまでもなく『やめてください』と見る者に訴えかける。
その懇願、その恐れを女はのど元で止めて、目前の罪人《オレ》を見つめている。
今まで。
何度も、こうやってやり過ごしてきたのだと示すように。
「っ……!」
女の顔がこわばる。
だが、女は苦痛に耐えきろうとする。
……カレンは拒まない。
苦しいのはオマエの方だと祈るように。
この女は、聖女のように、自らを火にくべるのだ。
「は―――」
笑っちまう。
これが笑わずにいられるか。
…だが、
「ッ―――」
イライラする。
何が癇に障るか分からない。
耐え難い分からない、衝動が駆け抜けていく。
なんだそれは。
耐え難い。
殺したい。
バラバラにしたい/なっている思考を、イライラしながらかみ砕く。
「ハ―――そうだ、頭に、くるのは」
この快楽。
その、苦悶を耐え抜く女の顔だ。
終わらせようと思えば終わる。
女は初めから限界だった。
……この行為は、女にとっては苦痛以外の何物でもない。
それを、こうして受け入れるのは何の為か。
イラつくのはその一点。
コイツはただ受け入れる。
イラだちは激痛になって女と、オレの手足を破壊する。
「………………」
力を失う。
本当に吐きそうだ。
芯に残る情欲は燻ったままで、オレはまだ何一つ満足しないまま、こみ上げる悪意を抑えつけている。
女にあるのは安堵だけだ。
女は苦行から解放されて、荒い呼吸を少しずつ和らげていく。
それでいい。それでいいのに、オレは何を。
事が終われば安堵するのは当然だというのに、何故。
「は、あ、……よかった、なんとか」
耐えられた、と言いたいのか。
女は動かない手足のまま周囲を見渡す。
「……………………」
その意図が分からない。
女はきょろきょろと、心細げに金の目を動かして、
「……あの……貴方は、大丈夫でしたか……?」
どうでもいいオレの体を、案じて言った。
「――――――チ。なんだよ、そりゃ」
それは、ほとんど落雷だった。
頭のてっぺんからつま先まで、物の見事に体を裂かれるような苛立ち。
歯を噛みながらも、胸には嘔吐寸前の、ひどく熱いものがある。
「 ……私の体の痛みは、貴方の体の痛みでもあります。……私が憑依を抑えられたのも、貴方が衛宮士郎としての自分を―――」
金色の目は、ぼんやりとこちらを見つめる。
ガラクタの目。
手足同様、傷だらけで用をなさなくなっているもの。
「――――――」
女が怯えていたのは。
単に、オレの姿が見えなかったからだけか。
それが目の前の女の正体だ。
自らを火にくべる献身。
陵辱の後も変わらず他者を思いやる博愛。
―――美しい箇所《もの》など、この女には何処にもない。
「なあ。体の方は、このあたりで限界か?」
頬が痒い。
頬骨にガリガリと爪をたてる。
「……はい。……これ以上は、耐えられなかったと思います、から―――貴方をここで貫いてしまわないで、よかった」
それは遅い。
いっそ、気付く前に貫いてくれれば良かったものを。
それでいい。この女には他に大きな役割がある。ここで食い尽くす事はできない。
「は……ぁ―――どう、して、アンリ、マユ……?」
間の抜けた話だ。
一番初めに気付くべき事を、都合よく失念していた。
“美しいと、思う事がないの―――?”
あったり前だ。
何であれ、オレは関心を持ってはいけない。
愛情を抱けば、あとは殺す事しか出来ないんだから。
温度が冷めていく。
コトを終えたオレは、壊れかけた殻を大急ぎで修復する。
幸い行き着くところまではいかなかったので、リペアははやく終わりそうだ。
「………………」
あっちも致命的なダメージは避けられたらしく、いつも通りの不機嫌さでこっちを見ている。
「……一応、言い訳として聞いておきますが。
いったいどういうつもりだったのです、貴方は」
「別に。ただの気紛れで他意はないし、後はとっとと帰るだけだ」
もの凄い殺気である。
刃物があったら刺されかねない険悪さ。
なので、ここは早々に立ち去るべきだ。
「ま、犬に噛まれたとでも思って諦めな。
どのみちこれで最後だ。もうこれ以上はアンタに関わらないから、手切れ金とでも思えばいい」
石室を後にする。
これ以上、化けの皮を剥がされる前に尻尾を巻く。
「待ちなさい。言い訳にもなってません。
……質問を変えます。貴方はどうして止めたのです。
私は、あのまま、食い尽くされると思ったのですが」
「げ、そんなコトが!?
でも申し訳ない、前後不覚だったんで覚えてません」
「最悪の回避法ですね。……貴方に質問した私は、あまりにも愚かでした」
顔を見たくない、と女は道を譲ってくれた。
………………さて。
気が変わってお仕置きされる前に、                         もう二度と、
会わないように立ち去ろう。
「――――――」
止まりたがる足を動かして、階段に向かっていく。
「それこそ冗談。オレはオンリーワンだ。
オレ以外のオレなんざ、いてもらっちゃ困る」
「でしょうね。そもそも認知するほどの甲斐性はなさそうですし」
違いない。
容赦のない女の言葉にニヤけながら、最後の邂逅をおしまいにする。
「じゃあな。アンタ」
「悔い改めなさい、ケダモノ」
―――こうして地上の道標は消えた。
もう、ここに訪れるオレが、現れる事はない。
◇◇◇
スパイラル・ラダー
幕が下りた。
終演のブザーが鳴り、屋敷は深い闇に沈んでいく。
眠りは深く、五《 あ》日目《す 》の朝が来るまで蘇生する事はない。
もう、出会う事はない。
「……そのわりにはあっさりしてるな。
ま、考えてみればたった四日だし、愛着も湧かないか」
もとから別れを告げる相手もいないし、持ち帰る荷物もない。
じゃあなー、と手を振って表舞台を後にした。
じき日付が変わる。
四日目の夜、居残る俺を殺そうと黒い月が回り出す。
これからその大本を破壊しにいく。
願いの終わり、パズルの完成。
虚無を生み出す最後の隙間を、直に行って塗りつぶす。
「――――――」
叫びを押し殺して進む。
虚空に至るのはこの塔から。
自身が何物であるか自覚した今なら、本来の居場所に、戻る道が現れるだろう―――
四日目の終演が始まる中、虚空に続く踊り場に辿り着く。
月は黒く変色し、町には骸どもが溢れ出す。
この体は刻限を迎えて、俺でもオレでもない怪物に溶けはじめる。
そこに、
「――――――驚いた」
屋上には人影が一つ。
銀の髪を揺らして、いつかのように、
「ここまで来るなんて、サービス過剰なんじゃないか?」
オレを戒める、導き役が待っていた。
「……過剰ではありません。四日目の夜に貴方と出会うのは、私の習慣のようなものですから」
相変わらずの素っ気なさ。悪びれた風もない。
「……そういやそうだったけど。じゃあ、今夜は何の用件で来たんだよ」
「貴方のエスコートをしに参りました。何処まで行けるか分かりませんが、可能なかぎりご一緒しようかと」
文句あるか、と言わんばかりの断言ぶり。
「―――、は」
つい口元がニヤけてしまう。
チクショウ。これじゃあ気合が入って仕方がない。
「やっぱりサービスしすぎだよアンタ。そこまでする義理はないと思うんだけど」
「迷惑ですか?」
「逆。ありがたくって泣けてきた。見栄を張る相手がいなくてヤバくってさ。誰でもいいから隣にいてくれると助かる。
いや、地獄に仏ってのはいるんだな」
虚空に向かって歩を進める。
聖杯に至る道は、主人を出迎えるように現れていた。
「なあ。高い所は苦手か?」
「怖くはありません。私は一度、あの月から落ちてきましたから」
「よし。なら、ちょっとそこまで付き合ってよ。俺一人じゃ足を踏み外しそうだ」
振り返って手を伸ばす。
気合が入ったので、俺はきちんと俺を保っている。
「……言われるまでもなく。
私は貴方を導く為に、こうして出逢ったのですから」
手を繋ぎ、指を重ね合う。
地上から一歩でも踏み出せば、俺はもとのオレになる。
―――舞台はハネた。
主役でいるのは、もうここでおしまいだ。
遠く深山町には、溢れかえるほどの赤い灯。
立ち止まっている時間はない。
閉館した劇場の中、最後のフィルムが回り始めた。
一歩進むたびに現実が希薄になる。
一段登るたびに時間が停滞していく。
登り始めたのはほんの数分前。
だが、その始まりの距離と時間は、もう思い出せないほど遠くに過ぎ去っている。
「――――――、」
オレは輪郭を失っている。
軋む手足、湧き上がる衝動に、たまに崩れてしまいそうになる。
だが傷を負うのはオレだけではない。
手を繋いだ女は、その度に苦痛に顔を歪ませる。
見栄を張るには充分すぎる相棒だ。
「あー―――どこまで続くんだ、コレ」
悪態をつきながら、<人間らしさを見せながら>、長い階段を登っていく。
……そう言えば。
衛宮士郎にも、これと似たような記憶があった。
二人で、長い階段を登っていく。
……アレはいつの出来事だっただろう。
つい一時間前の事なのに、ずいぶんと忘れてしまった。
「―――見て。赤い光が止まっているわ」
女にうながされて地上を見下ろす。
大挙して押し寄せていた怪物たちは、新都に入る事ができず停滞していた。
深山町を覆い尽くす赤い光。
眠りについた街に跋扈《ば っ こ 》する自身の残骸。
その、おぞましいだけの光景を、オレはずっと眺めていた。
「――――――」
階段を登る。
地上は遠く、ソラは近い。
夢の具現。誰かの願い。
求めながら与えられなかった全てが、一歩ごとに遠のいていく。
それは―――もう関わりのない、遠い彼岸の物語のようだ。
何度あの街を歩いたか。
何度日常を噛みしめたか。
知らない場所はない。
体験しなかった出来事もない。
初めは未知だった白紙は、繰り返す度に埋まっていった。
埋めれば埋めるほど光を喪っていった。
日常を愛するほど、新しい日々を求めるほど、オレは関心《かがやき》を喪っていく。
それは当然の帰結であり、初めから分かっていた事だった。
楽しみは充分すぎるほど出揃っていた。
新しい出来事は必要ない。
たった一種類の四日間でも、永遠に繰り返すという契約を守っていける。
なのにどうして、オレはしなくてもいい事をし続けたのか。
被《こうむ》った人格の影響だけではあるまい。
多分、飽きたのだ。理由はそれでいい。飽きたから終わらせたくなっただけ。そうとでもしなければ
何もかも、放り出したくなってしまう。
「っ、―――、っ―――」
輪郭が歪む。
足を踏み外しそうになる。
「―――大丈夫。貴方は、我慢できる人でしょう」
それを。
強く握り締める指が、完全に否定した。
「……そうだな。終わる事と続かない事は違う。
ここにいたら、いつまでも続きがない」
手を伸ばせば、もうすぐあの虚無に手が届く。
繋いだ指は、その頃には独りになる。
地上は雲に隠れ、星を寄る辺に歩いていく。
「……ねえ。何の為に、この願いを終わらせるの?」
ふと、風に紛れて声がした。
理由は―――もう思い出せない。
ただ、一番やりたかったコトは今も明確に覚えている。
この道の終わり。
黒い繭で、頑《かたく》なに聖杯を守る女を解放するのだ。
「彼女は貴方を殺そうとしているのに? どうして貴方は彼女にこだわるのです」
どうしても何もない。
女を抱いたのは怒りと欲情から。
彼女に構うのは、憧れと愛情からだ。
「―――意外ね。貴方は人間嫌いだと思っていたわ」
勿論嫌いだ。およそ多くの人間が同胞を憂いるように、オレは連中を憎み続ける。
この悪心は、弱さを拒む正義から生まれたもの。
敵対者として崇拝された以上、その機能を果たし続ける。
それは永遠に変わらない。
悪は生み出されるものではない。作り出されるものだ。
確かに弱い人間はいる。だが種の中であぶれ出す弱者はどのような生態系にも存在する。一つの命の悪など、自然界においてさしたる影響はない。
人間が最強で最低なのは、その機構自体が悪という事。
外道を育み、火を与える人間の情。
指導者とは特別ではない何者かであり、それになり損ねた数多の無関心が、頂点を歪めていく。
ただひたすらに生を謳歌する生命。
神さまなんてものまで持ち出して繁栄を肯定し、自らの悪性を拭ぎ払う。
この世全ての悪などと笑わせる。
それは人間の総称だ。我は人間より生まれしもの。人間である限り、君はあらゆる悪を再現可能だ。
醜悪な個人、醜悪な社会、醜悪な概念。
言い逃れはできない。同胞からして同胞を悪と見なせる生き物は、そも在り方を間違えている。
ああ、けれど―――
「―――それでも、命には価値がある。
悪を成す生き物でも。
人間に価値がなくても、今まで積み上げてきた歴史には意味がある。
いつまでも間違えたままでも―――
その手で何かが出来る以上、必ず、救えるものがあるだろう」
彼方《ほし》を目指す旅のようだ。
遠い遠いソラを目指して、長い長い階段を登っていく。
「前から思っていたけど」
かすかな安堵。
女は口元をゆるませて、
「貴方、ロックスターみたい」
歌うように、そんな言葉を口にした。
「――――――」
わからない喩えだが、星というのは悪くない。
確かにあるが、決して手の届かないもの。
それはオレに見ることの出来た、数少ない輝きだ。
ソラが近い。
人間の世界はじき終わる。
ここから先には、元からあの場所にいる者でなければ踏み込めない。
「………………」
口にする必要はない。
オレが地上から離れた時のように、女の体も、終わりを告げるように見えなくなっていく。
「あー―――」
何か言い残した事があったか、思いを巡らせてみる。
気の利いた台詞は思いつかなかったが、一つ、言い忘れを思い出す。
「オレ、アンタの父親の事を知ってるかもしれない」
「そう。別にいいです。分かりきった事だもの」
返答はあっさりしていた。
女がそう言うのなら、この件はこれでおしまいだ。
「――――――」
いよいよ会話がなくなって、風の音だけが響いている。
歩みは止まらず、視線を空から切る事もなく。
重ねた指の感触は、半分以上なくなっていた。
感触の不確かさをなくそうと強く握れば、その時点で、お互いが幻になったと気付くだろう。
幻である事は、初めから承知していた。
この街にいなかったもの。他の連中にとってこの四日間は偽りであっても残るものだが、オレたちの逢瀬だけは、何一つ残らず消え去る。
どんなにこの女が本物であろうとも。
正しい現実では、オレたちは会ってさえいないのだ。
「―――少し、未練だ」
残さないようにやってきたのに、一つ未練を作ってしまった。
思えば、オレがオレとして過ごした時間は、この女とのみあった。
それが無かった事になるのは、いささか辛い。
「……まあ、それも終わる事だ。
よし。それじゃあこのへんで」
残った感触は小指だけ。
それも半ば透けている。
女は足を止め、オレは先に進む。
繋がりは容易く、初めから無かったかのように溶けていった。
「じゃあな。オレがいなくなったら、また会ってやってくれ」
オレの為ではなく。
始めから存在せず、何の意味もない、この思い出の為に。
「……戻った後の行動は保証できません。任務が終わり次第、早々に帰国しないとは言いきれませんから」
まさか。
心に傷のあるバカをつつくのが大好きなコイツが、あんな異常者《ご ち そ う 》を前にして大人しく帰る筈がない。
「アンタにとってこの四日間はどうだった?」
「私ですか……? そうですね、この街は嫌いではありません」
なら問題はない。ここでそう思ったのなら、外にいる本物もそう思うだろう。
みっともない未練は、まあ―――それで、少しだけ軽くなった。
「そうだな。あの辛気くさい教会でも、バカみたいに騒々しい家でもかまわない。
―――また会おうぜカレン。そん時は、ご要望通り少しは紳士的になってるからさ」
口汚い悪魔は、もう取り憑いてはいないのだ。
背後の気配が消える。
「そうですね。さようならアンリマユ。貴方を祓うのは、特別に見逃してさしあげます」
わずかな温かさも、すぐ風にさらわれた。
振り返るまでもなく、白い花はいなくなった。
軽くなったというのは大嘘だ。この余分《ウェイト》が、軽くなる事はない。
―――終着駅が見えてきた。
地上に降りていた救いの糸が、段々と欠けていく。
遙かな地上。
亡者どもは守護者に阻まれながら、ソラへ登り詰めるオレを見上げているのだろう。
……遙か昔、頂から星を見上げた時のように。
流れ消える輝きに、羨望と怨嗟を込めながら。
◇◇◇
ブロードブリッジ
-Last Interlude-
無間地獄に垂れる蜘蛛の糸。
宙《ソラ》にかかる凶兆に急《せ》き立てられ、黄泉の穴から骸《むくろ》たちが這い溢《あふ》れる。
今宵は刻限。
この戦いを始まりに戻す、四夜の終末である。
“急ゲ 急ゲ 急ゲ 急ゲ―――”
蜜に群がる虫《アリ》のようだ。
骸たちは輪廻解脱を迎えんとする自身《お の れ 》を追い落とす為、縦穴より蘇る。
“逃ガスナ 逃ガスナ 逃ガスナ 逃ガスナ―――”
これより先の夜はない。
骸は際限なく増殖し、よどむ事なく街を覆い尽くしていく。
“潰セ 潰セ 潰セ 殺セ―――!”
即ち、カレらこそ阿鼻叫喚。
この夜を埋め尽くすために顕現した、“人《オノレ》を殺す”という、意志を持った地獄である―――
「―――すご。よくやるなあ。怖くないのかしらね、アレ」
遙か上空。
二千メートル以上の高みにかかる階段を見上げ、彼女は淡々と呟いた。
「……何もかもデタラメだけど。
少女趣味もあそこまで徹底するなら、文句を言う方が野暮なんでしょうね」
やれやれと肩をすくめる。
原始的で芝居のかかった大道具だが、確かにあの階段は見応《み ご た 》えがある。
天を二分する光の橋。
透ける階段を、手を繋いで歩いていく主人公とお姫さま。
そんな、今どきおとぎ話の中でさえ見かけない物語を見上げているのだ。
地上《いま》の状況が絶望的なものであったとしても、口元がほころぶのは致し方ない。
「―――にしても。数、ちょっと多すぎない?」
橋を支える鉄骨《ア ー チ 》の上に陣取りながら、彼女は視線を地上に戻す。
深山町は闇に沈んでいる。
四日目の終わりを迎え、町は急速に変貌しつつある。
明かりは消え、人々は消失し、町の生気は凍りつく。
この場、この時刻。
存在しているのは聖杯戦争に参加した者たちだけ。
今まで混ざり合う事のなかった昼と夜が入れ替わり、出会わなかった者たちが交差する。
現実と空想、実と不実の接合面。
この、わずか一時間ばかりの合間こそが、四日目と五日目を隔てる境界線―――《ボーダーライン》
「―――それは分かってたけど。
ここまでの事は、想定していなかった」
カレ等は半刻も経たず深山町を覆い尽くした。
……人間にとって、無限とは比喩である。
いかに多く、いかに人の推量範囲を超えていようと、物事には限度がある。
無限とは認識の限界が生み出した言葉にすぎない。
だが―――目の前のモノは、そういった“数え切れない”ものとは違う。
カレ等は真実“無限”なのだ。
果てのない増殖連鎖。
一《アルファ》である時点で結末《オ メ ガ 》となった終末の軍勢。
何人たりとも止められない、自らを死滅させるブレーキのない自殺回路《アポ ト ーシ ス 》。
狂った生態系の末路が、この地上を埋め尽くす―――
「五百、六百……ううん、視認できるだけでもう千は超えている―――」
かき集めたありったけの魔術礼装、両手に握りこんだ宝石の感触が、今は少しも頼りと思えない。
これでは数分程度の足留めも出来まい。
カレ等はまたたく間に橋を陥《お》とし、新都にそびえる塔を覆い、蜘蛛の糸を貪り落とすだろう。
「っ――――――」
終末を目前にして、彼女は強く歯を合わせる。
地上が地獄であり、空がおとぎ話の世界であるのなら、彼女の立つ鉄骨《ア ー チ 》はその境目。
まだどちらにも行ける領域に身を置いて、遠い海の終わりを凝視する。
宙《ソラ》にはまっすぐに刻まれた飛行機雲。
眼下には果てる事のない毒蛾の群れ。
どちらに身を置くべきかと言えば、それは―――
「迷うコトなんてない。
わたしは、この街を管理する遠坂の魔術師だ」
両掌の宝石を握りしめる。
これより、空を見上げる事はない。
彼女は自らに課した役割通り、この境界《ボーダー》を守り通す。
だが―――
「は――――――、っ、ふ―――」
正しく呼吸を刻めない。
地上を見つめれば見つめるほど、合わせた歯が軋みをあげる。
強《こわ》ばった両足にいつもの軽やかさはなく、肩は得体の知れない圧力で痺れている。
「―――、っ―――!」
骸たちの行進が始まる。
境界を突破される。
その前に、あの先頭部隊をなぎ払う。
なのに震えて、この一歩が踏み出せない。
「……っ、ああもう情けないったら―――!」
ごん、と握りこんだ拳が額を打つ。
初めから不利であるのは承知していた。
この場に立った以上、後はもう、力の続く限り戦うのみ。
「――――――、An《セ》fan《ット》g」
石の如き両足を動かして、眼下の群れに一歩踏み出す。
後退はない。
あと一歩踏み出すだけで彼女は死地に飛び込む事になり、
「―――ふむ。血気盛んなのは結構だが、肩に力が入りすぎじゃないか?
いや、戦うのなら皆殺しにする、というのは実に君らしい話だが」
「……え?」
その、あまりにも聞き慣れた声に、ものの見事に出鼻をくじかれた。
「――――ちょっと。
皆殺しがわたしらしいって、どういう意味よ。
これでもロンドンじゃ慈悲深い優等生で通ってたんですけど?」
緊迫していた心が解《ほど》ける。
彼女は足を止めて、振り向かずに悪態をつく。
「いや、言葉通りの意味だが。
競争相手がいれば周回遅れにし、ケンカを売られれば二度と刃向かえなくするのが君の流儀だ。慈悲が働くのはその前か後かの話だろう?」
「―――む」
遺憾であるが、実にその通りだ。
そう、やるからには徹底的に《・・・・》が彼女の方針。
何分持ちこたえるだの、境界を防衛するだの、そんな受け身の戦略は、そもそも彼女には合っていないのである。
「……そっか、やるからには殲滅戦ってワケね。
ここは境界線《ボーダーライン》じゃなくて最前線《フロントライン》だった。
……失敗した。そんなコトを間違えてちゃ、そりゃあ肩も重くなる」
ぐるん、とのびやかに肩を回す。
状況は九回裏無死満塁、打順は二番から、一点許せばサヨナラゲーム。
守る事だけに専念しようとして縮こまっていたピッチャーは、しかし。気合いも新たに、バッターを切って捨てる喜びに満ちていた。
「にしても多すぎるか。
負ける気はしないけど、さすがに取りこぼしは出るし―――よし、いざとなったら橋ごと沈めよう!」
「……待て待て、調子が戻ったのはいいがやりすぎだ。
橋を壊せば収拾がつかなくなるぞ。連中は単純だからな、橋が落ちれば川を渡って新都になだれ込む。だが橋があるかぎりは、馬鹿正直にここだけを通り抜けるさ」
「ぐっ……わ、分かってるわよ、景気づけに言ってみただけだってば」
ちぇっ、と不満げに舌を鳴らす。
ここまで大事《おおごと》になったのなら橋の一つや二つ、大破させた方が絵になるのにと言いたげに。
「まったく、そういうところが徹底的なんだ、君は。
半年では淑女の嗜みも身に付かなかったか」
「生まれついてのものですから。そっちだって、一言多いのは治ってないじゃない」
「私のは人に合わせてのものだ。今は偶々《たまたま》、忠告しがいのあるマスターと契約したもので」
「それは奇遇ね。わたしも偶々、小言を多くするのと縁を作っちゃってさ」
益体のない会話に、にやりと口元がほころびる。
真下には、橋の中頃まで進軍した骸たち。
火ぶたを切るには、ここが最後の機会である。
「―――OK。付き合ってくれる、アーチャー?」
「ああ、サーヴァントはマスターに従うもの。
これでようやく―――」
「―――最後に。加減なしで、戦えるというものだ」
現れる赤い外套。
弓兵は彼女を守るように、その象徴たる聖骸布を翻《ひるがえ》す。
その武装にどんな意味が込められていたのか、問いただすまでもない。
赤い象徴は纏うは相応しい戦場、仕えるべき主とある時だけ。
振り切った筈の郷愁が胸を焦がす。
これより一瞬。
夜明けまでのわずかな時間だけ、彼は、共に駆け抜けた姿に戻ったのだ。
「……バカ。ヘンなところに拘《こだわ》るんだから。律儀って言うか、キザっていうか」
「なに、律儀さでは負けている。
何しろよく分からないコトの為に、よく分からない連中と命を張りあうのだからな。
―――まったく、無関係にも程がある。君の義侠は買うがね、これではおいそれと貸しも作れない」
「はは。そうね、ホントに高くついた右フックだったかな」
敵を見据える。
魔術刻印の回転数は中頃まで抑え、五分の力で魔力を運用する。
なにしろ先は長いのだ。
あの、宙《ソラ》にかかった虹が消え去るまで、彼女はこの橋で戦い抜かなければならない。
「―――初撃は譲る。そちらの先制で群れの先頭をなぎ払った直後、橋に降りる。
あとは持久戦だ。君はここから列の腹に穴を空け続け、私は魔術掃射から逃れた連中を斬り伏せる。
何か問題はあるか、リン?」
「異論はないわ。わたしとアーチャーの二段構えでも抜け出るヤツが出てくるだろうけど、それは無視して。
わたしたちの役割は大軍の殲滅。細かい取りこぼしなんて、目の前の敵がいなくなってから考えるコトよ」
この布陣を突破するモノが何匹でてくるか分からない。
この橋を渡らず、川を渡って新都に向かうモノもいるだろう。
だが、それは何千分の一の話。
その程度の例外《イレギ ュラー》は、空を行く当事者たちに解決してもらわねば。
「……まあ、お節介焼きなら他にもいそうだし。細かいのはそっちに任せるとしましょう」
刻印が光を宿す。
彼女はしなやかに、最短の手順で宝石に秘められた魔力と魔術を解放する。
「――――――An《セ》fan《ット》g」
黒く染め上げられた地上に、大輪の花が咲く。
開幕を告げる魔術の炎。それは地上の星となって、ソラにかかる道筋を照らしあげ―――
毒蛇の牙が骸たちを粉砕する。
眉間、喉仏、心臓、背骨。
そのいずれかを的確に、かつ瞬速で打ち抜く鉄の拳。
相手が亡者の群れというのなら、立ちはだかるは鬼神の具現。
景山より這い出た亡者どもを、死を以て再び地獄にたたき落とす……!
一呼吸の内に三撃必殺。
魔女の魔術によって強化された拳は鉄塊《てっかい》となって亡者の顔を吹き飛ばす。
だが浅い。
顔を無くし肝を無くしながら、その凶爪は止まらない。
もとより亡者、その動力は心脳にあらず怨念のみ。
五体を消滅し尽くすまで、呪いの成就に狂走する―――!
「―――アサシン」
「なに、礼には及ばずだ宗一郎。殴っても怯まぬ、斬っても死なぬ相手では、互いに分が悪かろうよ」
戦場に合わぬ軽やかな声。
五尺もの長刀に月光を映し、侍は亡者の群れへと踏み進む。
切っ先は演舞のように。
亡者たちは地に転《まろ》んだ後、ようやく斬られた事を知るだろう。
「ふむ。さすがに手足を断たれては動けぬと見た。
宗一郎、面倒だが首より四肢を狙うとしよう。一撃必殺の信条には反するが、なに、木偶《デク》相手には丁度良い……!」
「――――――」
花と草。
在り方は違えど、武芸者として研ぎ澄まされた両者に言葉は不要。
交差し、巻き込みながら敵を圧倒する拳と刃。
背中を合わせ、目まぐるしく戦場を駆けながら、二体の鬼神が亡者たちを圧倒する……!
「しかしどういう気変わりかな宗一郎。昨夜までは見逃していたというのに、今宵は骸どもに打って出るとは。
や、さてはこの異常発生、おぬしの魔女めの失態か?」
「―――知らん。飽きたのなら眠れアサシン。
これは眠りにつけば消える亡霊だ。夢中にいる者には何の危害も与えない」
故に、今まで街を徘徊する影たちを見逃していた、と彼は語る。
だがそれもおかしな話だ。
その理で言うのなら、今夜も眠ってしまえばいい。
いかに数が多かろうが、床につく人間に危害を加えぬのは変わらないのだ。
「ほう。では何故このような手間をとる?
先に行くか後に戻るかは分からぬが、おとなしく眠れば日々に戻れるというのに」
「そうだな。だがこの戦いはあれの願いだ。聞き届けない訳にはいかないだろう」
「――――――」
アサシンの長刀がわずかに緩む。
侍は不意を突かれたように貌《かお》を凍らせ、
「そうかそうか、それは確かに!
はは、おぬしに甘えるなど一生出来ぬと思っていたが、少しは改心したと見えるなキャスター!
いやはや、中々どうして可愛らしいところもあるではない、」
「ええい、お黙りなさいこのでくの坊―――!」
降りそそぐ光の矢。
魔女の鉄槌はスコールとなって黒い染みを洗い流す。
「おう、やはり化生《けしょう》には外法が効くと見える。
本領発揮だなキャスター! 今宵の猫かぶり、格段生き生きと見える!」
「減らず口はそこまでになさいアサシン。貴方の役目はマスターの援護と言ったはず。それすら出来ないのなら、群がる雑魚と一緒に焼き払ってさしあげてよ」
「はは、怒るな怒るな。宗一郎と共に戦うのがおまえの念願であろう。おまえ同様、マスターの喜びは私の喜びでな。おまえが嬉しいのであれば私も嬉しいのだ。
とあれば、多少の羽目は外すというもの。なあ、男として無理なき事だろう宗一郎? おぬしも珍しく拳に力が入っているではないか」
「……すまん。連れ添いの手前だ、手は抜けん。
―――迷惑をかけるぞキャスター」
「――――――」
面を食らったのは両方か。
彼を知る者なら、今の発言がどれほど特異だったか分かるだろう。
「キャスター、新手だ。
柳洞寺を守りきるか、元凶を塞ぎに行くか。どちらにせよ話し込む暇はないようだ。
指示は任せる。おまえの望む通り戦おう。……こんな機会は、おそらくは二度とはあるまい」
「―――宗一郎様―――」
故に、悔いを残すなと言いたいのか。
葛木宗一郎は彼女の意志を抱き、
魔女は、日々の終わりを悔しげに、どこまでも残念そうに受け入れる。
「……ええ、承知していますわマスター。
ここからは迷いなく、自らの願いに添いましょう」
錫杖が鐘を鳴らす。
神代の魔術師は更なる秘蹟を紡ぎ始める。
「で、どうするのだキャスター?
このままでは飽きるぞ。どうだ、いっそ大本を潰しに行くというのは」
「ふん、外に出られない貴方が言うコトではないわねアサシン。
第一、そこまで手を貸す義理もないわ。私はこの場所を守れればいいだけ。恥知らずにも人の家に土足で上がりこむ塵芥《ちり あくた 》に、身の程を弁《わきま》えさせているだけよ」
絶え間なく現れる黒い影。
それは裏山から生じ、多くは深山町に向かって下山し、群れより押し出された骸どもは柳洞寺にまであふれ出した。
それを嫌ったのは他ならぬキャスターである。
自分の身を守るだけなら、マスターごと自らの神殿に閉じこもってしまえばよい。
亡者どもを寄せ付けぬ結界など、わずか二人分の領域で事足りる。
だが―――どのような気紛れか、彼女は理に合わぬ事をした。
進軍の途中、たまたま柳洞寺に踏み入った黒い染み。
それを一つたりとも許さず、悉《ことごと》く焼き払った。
結果、カレ等はこの場所にも障害がいると認識し、柳洞寺に集いだしたのだ。
「当然よ。下《まち》の事なんてどうでもいいけど、この家に踏み入った以上は私の敵。
―――ええ、遠慮なく焼き払ってあげるわアヴェンジャー。
それが貴方の望みでしょうし―――」
虚空に描かれる神言詠唱。
柳洞寺を守るには十分すぎる、むしろカレ等の本体に風穴を穿つほどの大魔術を掲げ、
「―――正直な話。
できるならもっと続けたかった、私の八つ当たりと知りなさい―――!」
柳洞寺を守る魔女は、街を目指す骸たちこそを焼き払う。
いかに無限と言えど、失った数を瞬時には戻せない。
神罰の如き一撃は阿鼻叫喚に綻びを作っていく。
……されど、溢れ出る染みは止まらない。
下界は半ば骸どもに覆い尽くされている。
この場所は何があろうと守りきり、あの橋も不落のまま朝を迎えるだろう。
「……けれど、深山町はどうにもならない。
頑張ってるようだけど、あの子たちはここまでね―――」
同情か哀れみか、魔女は嘆息をこぼし町を見下ろす。
……その視線は町の北部。針の穴ほどの空白を保っている、ある武家屋敷に向けられていた。
衛宮邸を飲み込む骸の波。
いかにサーヴァント・ライダーと言えど、単身で波を打ち払う事は出来ない。
それが一度きりの波であるのなら、宝具の一撃でなぎ払うか、魔眼をもって石像に貶《おとし》める事も出来ただろう。
だが敵は無限なのだ。
宝具や魔眼は魔力を大量に消費する。
一時的に優勢になったところで、魔力不足で動けなくなっては抗う事さえできなくなる。
「ライダー、後ろ……!」
主の声に反応し、ライダーの髪が流れる。
弾け合う爪と刃。
後方に跳んだところで逃げ場はない。
石垣を越えて侵入した骸たちは、功を競《きそ》うかのようにライダーへと襲いかかる。
彼女の速度を以てすれば、凶爪の一つや二つはたやすくかいくぐろう。
だが密集した爪は茨《いばら》の如く、槍衾《やりぶすま》となってライダーを取り囲む―――!
「サクラ……!?」
止まらぬ筈のライダーの足が急停止する。
今の魔術は彼女の主、間桐桜の手によるものだ。
桜とて魔術師、魔術行使の一度や二度は驚くに値しない。
だが―――いま行われた魔術は、間桐桜にとって忌むべきもの。
彼女の深層意《イ ド》識をむき出しにし、暗い負の面を刃とする禁呪ではなかったか。
「いけません、魔力そのものを武器にする魔術など、貴女にはまだ早い……! カレ等は私が迎撃します、貴女は室内で結界を維持してください!」
主を案じる声も、ここでは度し難い隙となる。
足を止めたサーヴァントへ殺到する亡者の群れ。
「Es flust《声は祈りに》ert―――Mein Nagel reist Haus《私の指は大地を削る。》er ab」
雲霞の如き侵入者を串刺しにし、取り込み、平面の世界に飲み込んでいく影の海。
あれこそは彼女が持っていた筈の、魔術師としての面《かお》。
相手が幽世《かくりよ》のモノであれば容易く彼岸に返す暗黒の渦、目に見えぬ不確定を以て対象を拘束する、虚数の魔術特性である。
「サクラ……!」
「大丈夫、これぐらいなら扱えます……!
心配はしないでライダー、わたしだって、半年間少しずつ、頑張ってきたんだからっ……!」
震える足、魔術行使の反動で弾けそうな体を抑えて、自らを鼓舞するように声を振り絞る。
「――――――」
桜《あるじ》の意志を尊重して抗戦を続けるべきか、主を抱きかかえてこの町から離脱すべきか。
今ならまだ間に合う。
彼女《ライダー》の宝具なら瞬きの間に新都まで間桐桜を運び出せる。
しかし―――
「ライダーは塀の守りに専念して。中に入ってきたのはわたしが追い返すから……!」
ライダーには、自ら戦場に赴き、必死に踏みとどまる桜の姿が頼もしくもあったのだ。
本来、間桐桜には単身で魔術を行えるほどの下地は出来ていない。
彼女は自らの闇、影を放つだけの魔術回路を表層に押し出す事で、一時的に魔術師として機能している。
それは人間としての部分を押し潰す行為だ。
あの状態の彼女は、些細な心の傾きで“負の心”に飲み込まれかねない。
それを最も恐れ、恥じている彼女が、前に出て歯を食いしばっている。
「Es flust《声は祈りに》ert―――Mein Nagel reist Haus《私の指は大地を削る。》er ab」
―――思えば。この抵抗は回避できるものだったし、そもそも回避すべきものだった。
街を覆う、あるサーヴァントの残骸たち。
夜な夜な徘徊していたソレ等が堰を切って溢れだした事を、ライダーは即座に感知していた。
だが応戦する事はない。
これは眠ってしまえば通り過ぎるもの。
いつも通り安眠を貪り、朝を迎えれば消えるものなのだ。
「Satz―――《志は確に》Mein Blut widersteht In《私の影は剣を振るう》vasionen…………!」
詠唱は繰り返すごとに苦しげになっていく。
その、血を吐くような口上が
―――負けない―――
弱々しくも、力強く聞こえてくる。
「……ないと。わたしは、ここに……!」
この夜。
終末を迎えた零時、気が付けば衛宮邸には彼女《ライダー》と桜しかいなかった。
進む者と守る者。どちらも何も告げず、桜だけを残し、それぞれの場所に足を向けていた。
―――負けない―――
それを知った時の桜の失意は目に余った。
また独り。
危険の外側に置かれる事で、自分だけが守られたと落胆した。
「っ、は、はぁ、は―――このお、まだまだぁあ……!」
そうして選んだ。
この場に留まる事、自らも戦う事。
この、大切な誰かの場所を、
「―――そうだ。わたしは置いていかれたんじゃない。
わたしは信頼されて、ここを任されたんだから―――!」
叶わなくとも、ここだけは最後まで守り通すと。
そのちっぽけな奮起を、主愛《あるじいと》しさで摘み取る事がどうしてできよう―――!
「―――まあ、実際置いていかれた訳ですが」
「だめー! くじけそうになる発言は禁止ーーー!
ほら、ライダー土蔵! 土蔵の方にいっぱいあがってきてるから……!」
塀を駆け上がる紫の蛇。
ライダーは雪崩のような襲撃者たちを迎撃する。
その背中を守る黒い炎。
残された少女は一人の魔術師として、群がる残骸たちと対峙する。
取るに足りない彼女たちの防衛は、おそらく、あと一時間は保つだろう。
たった一時間。
これは大局に何の影響ももたらさないひと飛沫《し ぶ き 》。
少女の決意はいずれ汚濁に飲み込まれる。
不幸だったのは、カレ等に理性がなかった事。
もし理性があったのなら、骸どもは必死の抵抗をあざ笑う前に、ここに攻め落とす価値はないと前線に向かったのだから。
「は―――ああ、あ……!」
体力、魔力ともに未だ半分を残していながら、少女は終着に追い込まれていく。
無理もない。
この圧倒的な数、汲めども汲めども尽きぬ悪意の天幕。
体力の前に心が折れるのは、当然の帰結だった。
……土砂降りの中にいるようだ。
嘲笑と殺意の雨あられの中、遠雷とも地響きともつかぬ終末の音が聞こえてくる。
骸の群れだけでは飽きたらず、暴走列車じみた破城槌まで放たれたのだ。
「あ、ぁ―――ライ、ダー―――」
逃げて、と形作る紫色の唇。
こうして奮戦は荼毘《だび》に付す。
願わくば、愚昧だった彼女の決意が、今際《いまわ》の悲鳴に貶められぬよう。
そして、
「あれ……この、音……?」
そして。
「突撃―――《ロ ー ス 》蹴散らしなさい、バーサーカー!」
新たな導き手の元に、その愚昧さが、心強いものに変わる事を。
「Los Los Los―――!」
吹き荒れる大暴力。
少女と巨人は障害を思う存分切り崩し、一払いごとに骸どもを巻き上げ、容赦なく衛宮邸の塀を破壊する。
「ば―――」
ライダーの絶句も当然だ。
それはもはや味方ですらない。
現れた少女と巨人は、ただ破壊するだけの存在なのだから。
「イ、イリヤさん……!? ど、どうしてここに!?」
「どうしてって、見てられないからつい立ち寄ったのよ。
わたしとしてはどっちの味方もする気はないんだけど、このままだとあんまりにも不公平だから」
艶やかな笑み。
今も骸どもを粉砕させながら、少女は舞踏会のただ中にいるようだ。
「ふ、不公平って……イリヤさん、この敵のコト知ってるんですか……!?」
「まさか。こんなコト、いちいち考えていられないでしょ。
わたしが言ってるのはサクラとリンの事よ。さっきから聞いてればバカなコトばっかりなんだもん。
ここだけは守り通すですって? ほーんとダメねサクラは。そんなだからリンに勝てないの」
「は?」
少女の言葉は、間桐桜の心を真っ白にした。
呆気にとられて目が点になったのだが、ともかく―――折れかけていた心が、ひょこっと首を起こしたのだ。
「イ、イリヤさん、それはどういう……」
「受けに回ってるかぎり勝てないってコト。
知ってる? リンはさっさと最前線に移動して、一番いいところを独り占めしてるんだから。
こんなところで無駄に意地を張ってるより、ずっと劇的で高得点な位置づけってワケ」
「あ、あの……それって高得点というより、いちばん厳しい状況なんじゃ……」
「同じコトよ。でも、結局はリンだって守ってるだけだし、それってまだるっこしいでしょ?
本拠地が分かってるんだから、そこを潰した方が早いし、なにより―――」
「……えっと……ね、姉さんよりポイント高い、ですか?」
「そういうコト。
わたしは行くわ。辿り着けるかどうかは分からないけど、リンにばかり任せておけないもの。
サクラはどうする? 一緒に行く?」
「――――――」
言葉による返答はない。
彼女は躊躇した後、静かに息を飲んで少女を見返した。
「それじゃあ行くわ。
さあ、一度きりの見せ場よバーサーカー!
遠慮はなし、立ち塞がるのはみんな壊して、貴方の強さを見せつけなさい!」
「」
運転を再開する暴走列車。
巨人は少女の導くまま、黒い雪原を突き進む。
向かうは源泉。
辿り着く保証もなく、彼女たちは骸《むくろ》重なる廃棄場を目指していく。
……たとえ、その目的が果たせずとも。
彼女たちの行動が、今度こそ飛沫ではなく、波紋となって大局を揺るがすようにと。
幕間は続く。
闇に灯る幾つかの明かり。
黒い残骸を押し留める、数値には表れない小さな抵抗。
その成果は、しかし、傷口を押さえつける程度でしかない。
開いた穴は塞がらない。
終末は彼らが死力を尽くしたところで止められるものではない。
いかに守護者が橋を死守しようが、骸どもの新都への上陸を防ぎきる手段はない。
阿鼻叫喚が顕現してより既に半刻。
橋の戦いを切り抜けた骸たちは、黒い点となって新都を徘徊し始める。
彼らの奮戦を以てしてもまだ足りない。
安穏と倦怠と、日常に座して積み重ねてきた代償はそれほどに重く深い。
故に、抵抗するにはあと一手。
残骸を阻んでいる幾組ものマスターとサーヴァント。
その全てに匹敵するだけの力なくして、夜明けを迎える事はない。
……虫のいい話である。
この、多くの者が眠りに落ちた夜の何処に、そんな救い手が存るというのか。
骸たちは高らかに勝利を合唱する。
コレデマタ元通リダ、と。
月に続く道、月を望む建築《さいだん》へ向けて笑いながら疾駆する。
だが。
「―――ストップ。
いい時間なんだから、もう少し静かにしてくれない?
子供はおとなしく寝ている時間なのに、これじゃあうるさくて眠れないよ」
ここに、あり得ない勢力が存在する。
新都に上陸し、いざ塔を目指そうとする残骸たち。
カレ等は知るまい。
この町を覆う自分たちが大波であるのなら、彼は大嵐《タイラン》。
敵対する者、彼の意にそぐわぬものを吹き飛ばす、暴虐の化身である事を。
その少年は、おかしな香に包まれていた。
足下には銀色の灰。
たちこめる香は霧のように煙《けぶ》り、少年と群がる骸たちを揺らがせている。
「やあ。何処の何かは訊かないけど、こんばんは。
こんな夜更けに大勢で出かけるなんて、何か大きな催しものでもあるのかな」
少年はいたって平静だ。
この、黄泉からあふれ出た群れを前にして、臆するところは微塵もない。
あどけない、天使のような貌は、むしろ―――
「ま、どんなイベントだろうと興味はないんだけど。
それより、リーダーはみんな? だよね、どいつもこいつも計ったように同じ面《かお》だし。
……んー、困ったなあ。こういうのってリーダーが責任をとるものでしょ? 群全体の失態は、頭をすげ替える《・・・・・・・》事で解決するものなんだけど―――」
それはどのような生態変化か。
単体の目的しか持たぬソレ等は、急速に結束を固めつつあった。
一つはやはり目的の為。
この先、あの塔を陥落するには、ここで暴力を束ねなければならない、という直感。
そして一つは―――
「―――全員がリーダーなら仕方がない。
面倒だけど、キミたちみんなに責任をとってもらおう《・・・・・・・・・・・・・・》」
そして一つは。発生より初めて感じた、目前の敵に対する恐怖から。
骸がざわめく。
少年を取り囲む輪はより広く、より密度を増していく。
見れば、中央公園は骸たちで埋まっていた。
十年前の聖杯戦争において最後の戦場となった荒れ野は、またも地獄と化していく。
「……ふうん。一匹みたらなんとやらってヤツかな……あの贋作屋《ア ー チ ャ ー 》とマスターはよくやってるけど、相手の性質《たち》が悪かったか。
まったく―――オマエたちは兵というより病気の類だ。
一ついれば際限なく増えるなんて、ボクの一番嫌いなモノじゃないか」
残骸は山となり、四方から少年を押し潰そうと積み上がる。
飲み込めば終わる。
この正体不明の生き物とて障害にすぎない。
侵略する側とされる側、その関係は変わらないのだ。
しかし。侵略するというのであれば、カレ等の目的は塔の占拠ではなかったか。
新都《ここ》は深山町とは訳が違う。
新都にまで到達した残骸は千を超えるとはいえ未だ少数。
ならば、真っ先に塔を目指すべきなのに、何故―――?
「ここに来ちゃった理由が分からない?
うん、虫にはこれが常套でね。ほんとう、反魂の香に誘われてよく集まる。オマエたちにはすぎた贅沢だけど、今夜は無礼講だし遠慮は不要だよ。
……ああ。
オマエたちが、地獄を謳うというのなら―――」
少年の頬が邪悪に歪む。
高揚と嘲笑。
頭上を覆い尽くす屍の山。
裁決は、ここに下った。
侵略者たちはスコールのように、絶え間ない散弾となって少年を八つ裂きにし、
「―――よい開幕だ。死に物狂いで謳《うた》え雑念―――!」
その罪を根絶する為。
暗黒の侵略者《カレラ》を上回る暴風となって、黄金の殲滅者が降臨する―――!
生命活動、否、存在事項を許さぬあらゆる自然《ぼう りょく》が、王の前に乱れ集《つど》う。
地獄を謳う骸どもに、圧倒的な真実が荒れ狂う。
「―――出番だエア。
おまえとて不本意だろうが、なに、これも先達としての務めよ。
真実を識《し》るものとして、一つ教授してやるがいい……!」
主人の命に従い、乖離《か い り 》剣が軋みをあげる。
これこそあらゆる死の国の原典、生命の記憶の原初。
カレ等が地獄を謳うのなら、ソレは地獄を作り上げる。
天地が開闢する以前。この大地は溶岩とガス、灼熱と極寒が入り乱れる地獄であった。
その苛烈さは語り継がれる記憶にあらずとも、目に見えぬ遺伝子に刻まれている。
……そう。
地獄とは、このおおらかな星があらゆる生命《い の ち 》を許さなかった、原初の姿そのものだと―――!
「黄泉路《よみじ》を開く。存分に謳え亡者ども。
なに、退屈はさせん。我《オレ》とてこのような気紛れは一生に一度あるかないかでな。財の出し惜しみはせぬ、夜明けまで命を賭して持ちこたえよ……!」
暴風の中心は無風などではなく、紛れもない奈落の穴。
この領域に踏み込んだ骸たちは、落下するようにもと在《い》た無へと戻っていく。
英雄王がかざす真実に、阿鼻叫喚如きが耐えられようか。
新都に編成されつつあった骸の大軍は、ここに壊滅する。
それは戦闘と呼べるものではなく、文字通り、自然による天罰そのものだった。
遠雷は止まず、暴風は今も黄泉路を開いている。
新都に上陸した一つの群は、ひとりの軍勢によって掃討された。
……だが悲しいかな、この軍勢《サーヴ ァント》にはカレ等を殲滅する意志がない。
群をなして現れる敵は討つが、単身で塔を目指す小物には関心を持たないのだ。
単騎の軍勢《サーヴ ァント》の目的は塔の死守ではなく、あくまで耳障りな害虫の駆除のみ。
何千万分の一の確率《こううん》で大嵐を逃れ、新都の中心に急ぐ骸には目もくれぬ。
……そして、その幸運な外敵はやはり無数。
一つでも塔に辿り着くモノがいるのなら、当然のように存在を許されるのが、残骸たちの最大の武器なのだ。
―――かくて、幕間はここに終わる。
無制限の軍勢をもって圧勝する筈だった骸どもは、しかし、最後には一つ一つの士となりつつも、ついに月への梯子へ辿り着いた。
あと一手。
この塔の外壁に手をかけ、這い上がってしまえば終末は完成する。
“急ゲ 急ゲ 急ゲ 急ゲ―――!”
夜の街を疾駆し、塔を視界に収め、頂上を見上げるカレ等の怨嗟に喜びが混じり始める。
それは勝利を確信した歓喜。
生き残りを果たした安堵。
裏切り者がどれほど進んでいようと構わない。
到達さえしてしまえば、カレ等は階段をかけあがり、また新たな残骸《じ ぶ ん 》を迎えるのだ。
“―――、―――、―――、―――?”
……しかし。
あらゆる障害を突破した何千目かのソレは、かすかな違和感に首をかしげる。
もはやカレ等は到達した。
塔はその時点で深紅に、カレ等の怨念で赤く染まっていなくてはならない。
されど塔はいまだ暗黒《けんざい》。
赤い光点は地上を這ったまま、塔の周りに点在しているのみである。
“―――、―――、―――、―――?”
疾駆する骸が足を止める。
塔は静かな、音一つあげぬ視えない旋風に包まれ、正面からの進入しか許さず。
駆け集ったカレ等は、その威風の前に立ち尽くすのみ。
刮目《かつもく》し覚悟せよ数多の残骸。
汝等が目にするは目映《ま ば ゆ 》い剣。
紺碧と白銀の戦装束に身を包んだ、汚れなき理想の具現。
―――ここに。
終わりにして絶対不落の、真なる守り手が存在する。
塔を包み込む不可視の守りこそ、彼《か》の聖剣の鞘たる神秘の風。
辿り着いた士たちはざわざわと色めき立つ。
カレ等に残された手段はただ一つ。否、初めからそれ以外の方法など、カレ等にありはしないのだ。
骸は骸どもとなり、目前の障害ににじり寄る。
本能が敗戦しか感じ取っていないとしても、侵略のみがカレ等の証。
「―――貴様等が何物であるか、是非は問わぬ」
騎士は動かず。
剣の輝きにはわずかたりとも濁りはない。
彼女は天を見上げず、ただ目前の残骸を見据えるのみ。
「立ち去れとは言わん。
ここは我が主の望みにして、我が信念を叶える場所。
その怨嗟が、この希望を望まぬというのであれば、互いの立場は明確だ」
紡ぎ出す声は厳しく、穏やかだった。
そこにどれほどの思いが込められているかなど、余人には知る由はない。
―――彼が、彼女に別れを告げなかったように。
彼女もまた、この在り方を、胸の内に秘めたように。
「……ここは未来を重んじる者のみが至る梯子だ。私にも、貴様等にも踏みいる余地はない。
それを傲慢と呪うのならば―――」
……迷いはない。
幕を下ろすのは彼だけではない。
この夜戦《つど》うもの全ては。
自ら望んだ未来の為に、この幻想を打ち棄てて―――
「いざ、死力を尽くして来るがいい。
この剣にかけて、貴様等の挑戦に応えよう―――!」
黄金の光が黒い汚濁を打ち消していく。
地上にも煌めく星がある事を、宙《ソラ》を行く者が知り得たか定かではない。
幕間はこれにて閉幕。
街はいまだ赤黒く胎動しているが、何よりも強い陽射《ひかり》が、いずれ闇を払うだろう。
地上で戦う者たちの中で、ソラを見上げる者は絶えた。
各々の意志、各々の再会、各々の別離がこの夜《よ》の内に終わるのだ。
……そして。
とうに役目を終えた心が、境界にあって緩慢《かんまん》に、終わろうとする再現を見届ける。
もう、口にすべき感慨《こ と ば 》もない。
外を目指して輝く逆しまの帚星《ほうきぼし》。
頼りなく寄る辺なく、それでも、なんとか終着まで届いた蜘蛛の糸を見送ろう―――
夜明けは近い。
道はああして、今も確かに続いている。
◇◇◇
天の逆月
崩れゆく手足に恐れはない。
恐ろしいのは恋い焦がれた欠片を見失う事。
光を失い、元の怪物になど戻りたくはない。
―――さあ。
彼女の夢と引き替えに、これから、ただ一つの願いを叶えにいこう。
そうして、この場所に戻ってきた。
何も無い場所。
こうして存在し、思考するモノすら許されない世界の外側。
無限であるが故に最小である懐かしの我が家において、時間も空間もあり得ない。
だが。
今は、座標らしきものがある。
こうしてオレがいる以上、位置関係が生まれるのは当然だ。
あの座標は二点の光を繋ぐもの。
この無への入口と出口を頼りに、あの地平は存在する。
「――――、ああ」
足を進める。
目の前にある光景に胸が苦しくなる。
オレが壊すべきもの。
ただ一度きりの、奇跡のような間違いは。
一つの空白《けつまつ》を残した聖杯。
この無に生まれた日常の結晶の前に、最後の観客が立っている。
聖杯の契約者。
この場所で眠り続ける唯一の人間。
同じ願いを持ちながら、違う結果を望む敵として、この聖杯を守っている。
「……よう。こっちの姿だと初めましてかな。元気そうで何よりだ」
近づかぬまま手を上げる。
オレたちの距離はこれ以上は縮まらない。
それは既に別《わか》たれた精神的な距離であり、
「止まりなさいアヴェンジャー。それ以上進めば貴方を殺します」
近寄れば殺されるという、物理的な問題でもある。
「そりゃ困る。オレがこの体でここに来たらもう戻れない。
このまま二人でずっと睨めっこをするか、また殺されて下に戻るかしかないんだが」
「―――ならここで殺すまでです。私の聖杯戦争において、貴方はもう取り込んだ。
私は私で好きにやります。貴方はその体で、望みを叶え続ければいい」
……ああ、そういう意図があったのか。
第五次聖杯戦争の勝者には関与しないから、オマエも私の戦いには関与しないでくれ、という提案だったんだ、アレ。
「……ふーん。どちらにしても殺すワケかぁ。そりゃ今までポンポン死んでたけどさ。いいかげん、蘇生回数も品切れだろうって怖くならない?」
「なりません。この聖杯に空白がある限り、貴方は何度でも甦る。
まだ見ぬ展開、まだ見ぬ未知こそが貴方の原動力だ。
このまま地上に戻って、二度とここへ訪れなければ永遠に続けられる。
……そう。永遠に続けられるのに、どうして―――」
鳶色の瞳が苛立っている。
この場を去れ。
去らなければ戦って排除するまでだ、と確固たる敵意を叩きつけられる。
「まいったな。やり合わなきゃ退いてくれないか?」
「貴方こそ。一度殺されなければ分かりませんか」
「げ、きったねえなあ。オレ、アンタとは戦えないのに。
こんな事なら、やっぱり令呪にしてもらうんだった」
「その口ぶりでは、まだ諦めていないようですね。
……アヴェンジャー。私には、貴方の考えが解らない。
たとえ同じ事の繰り返しでも、ここなら私たちは生きていられる。私たちが願った通りの現実がある。
……なのにどうして、自分で自分を、殺すような真似をするのです」
「―――そりゃアンタだけだ。オレはそもそも無だからな。生きるも死ぬも関係ない」
「同じ事です。私も貴方も、この願いが終われば消えて無くなってしまう。
……私は嫌だ。死にたくなんてない。外の現実《せ か い 》なんてどうでもいい。貴方だって、元の無になんか戻りたくないでしょう……!?」
聖杯が鳴動する。
彼女の感情は衝撃そのものだ。
―――ここは、半ば彼女の物になっている。
オレが聖杯を回す原動力だとしても、力関係は彼女に分がある。力ずくで聖杯を壊す事など、とうに出来なくなっている。
この願いを止める方法はただ一つ。
停止を拒む彼女と、本当は同意したい心。
その二つに、キレイに幕を下ろさなくては。
「そりゃオレだってもう少しぐらいは続けたい。けどさ、間違った事は正さないと気が済まないんだ。
この願いは間違ってるだろ? だから止めないと。
オレは正義の味方《・・・・・》だからな。自分の事より、どうでもいい誰かの方が大切なのさ」
彼女は呆然とオレを見つめる。
ああ、その気持ちにはいたく同感。
「―――信じられない。貴方、正気?」
「んー、どうも正気で本気みたいだな。ほんと、とんだ化け物だよ、こいつ」
肩をすくめる。
けど仕方がない。オレはそういう人間になって、そういう人間のように日常を繰り返したのだ。
最後までその精神《かんがえ》には頷けなかったが、ここまで徹底されれば一度ぐらいは納得するさ。
……まあ、なんだ。オレは本当にゴメンだが。
こういう人間が、一人ぐらいはいてもいい。
「とまあ、そういうワケなんで聖杯は壊させてくれないか。
身勝手な願いは、ここで終わりにしよう」
「違う。
それは貴方の考えじゃない。本当の貴方の願いじゃない。
……そんな見栄を張らないでよ。
ここで止めたら―――本当の貴方は、何一つ救われない」
―――ソウダ。何一ツ、救ワレナイゾ―――
「……本当のオレなんて元々いないんだがね。
まあいい。じゃあこっちから訊くけど、アンタはなんでこの願いに固執するんだ。
アンタが言うように、こっちにいれば救われるのか」
「――――――」
答えはない。
当たり前だ。ここで即答できるような女なら、そもそも救いを求めはしない。
「……あ、あるわ。ここにいるかぎり、私はこうして居続けられる」
「死なないだけだ。それは救いじゃない」
「で、でも……ここは楽だから。あんな、苦しいだけの外に比べたら、少しは―――」
「変わらないだろ。これでも長い付き合いだったんだ。アンタがどれだけ不器用かはよく知ってる。
このまま続けば、アンタは永遠に苦しみ続ける」
自分に対する不信感。
周囲に対する罪悪感。
ある一点において誰よりも特化していると自負できるのに、結局、自分は最後まで何も成し得ないだろうという確信。
……鍛えれば鍛えるほど。
努力すればするほど、自分は周りから見放されていく。
その敗北感こそが、生まれついた時から離れない、この女の心の瑕《きず》だ。
「でも、努力するしか道はない。
孤立する無様さより、努力をしない無様さの方がアンタには耐えられない。
そうして―――アンタはずっと、強者なのに一番底にいるという屈辱に苛《さいな》まれる。
その克服はここでも出来なかった。
そうだろう? どんなに勝ち残り、何人のマスターを倒したところで。
……アンタは一度も、自分を誇りに思えなかった」
「―――、それは、貴方だって」
憎んでばかりで。
愛したものを、片っ端から食い散らかすしか出来ないクセに。
「言っとくけどさ、何処であろうと無理なんだ。その惨めさは一生拭いされない。それは人間が死ぬまで抱えていくものだ。
アンタのついてないところは、その惨めさを預けられるヤツに出逢っちまったってコトだ」
ホントに男運がねえのである。
あの神父は荷物を預かり、倍にして返す鏡だった。
ヤツが悪いのではない。
ヤツに荷物を預けて楽になろうとした弱さが、結局、敗因になっただけの話。
「その荷物は誰も持ってやる事はできない。自分で抱えるしかない。
人間に支え合う事ができるのは荷物じゃなく、荷物の重さで倒れそうな体だけだ」
そして更についていない事に、この女は一人でもなんとか体を支えられる特訓マニアだったのだった。
だから倒れた経験がなく。
この荷物《く の う 》は、誰かが支えてくれる物だと誤解している。
「苦悩は誰にも理解されない。それは内だろうと外だろうと同じ事だ。
いいか、ここには救いなんてない。ただ苦しいだけだ。
目を覚ませよマスター。アンタは死なないかわりに、永遠にここで苦しみ続ける気か?」
「……は。じゃあ、なに。
貴方の言い分だと、私は一生、負け犬みたいに生きていくってこと?」
「みたいじゃなくてそのものだろう。
アンタは騙し討ちされて、負け犬のまま此処に引きこもったんだ。その念がある限り、ずっと悩み続けるさ」
「―――っ、もういい……! 裏切り者、裏切り者、裏切り者……!
ここが貴方の願いでしょう!? なら、私には苦しいだけでも構わない……!
どうせ同じ事だもの。外の世界だって、私にとっては」
―――同じ事だと。
生きていくのが厳しいと女は言った。
「―――それは違う。
厳しいなんて、そんな事、おまえは生まれた時から分かっていたんじゃないのか」
オレが肩入れしたのはその在り方。
この女は弱い。能力は申し分ないが、存在として弱すぎた。生存に疑問を持つなど致命的な欠陥だ。
今にも死にそうな精神。
常に気を張っていなければ手首を切りかねない悲観性。
だが―――
「―――それでも、ここまでやってきたじゃないか。
アンタは不器用で無様だったけど。
ずっと、少しでもマシな自分になろうと頑張ってきた」
弱くても努力して、なんとか自分を良くしていこうと足掻いてきた。
今まで苦しみながら呼吸を続けてきた。
……その誇りを。
おまえが認めてやらなくて、誰が認めてやれるだろう。
「……やめてよ。貴方の高説はもう充分、自分の事を棚に上げて偉そうなコト言わないで……!
……私の事なんて何も見えていないクセに。もう、その目には何も映っていないクセに―――!」
女は頭を振る。
願いの破棄を認めない。
ここで自分が言い負かされれば、本当に終わってしまうと、駄々をこねる子供のように。
「目だけじゃない。自分の事さえ見えていない。私だって死にたくない。けど―――貴方の未練は私の比じゃない筈よ。
貴方はずっと遊んでいたかった。隙間なんて埋めたくなかった。自分が無に戻ると分かっていたから。
なのに日常を回し続けたのは、貴方にとって」
わかんないヤツだな。
飽きたんだってば、そういうのは。
「見えていない、か。そういうアンタこそ、オレがちゃんと見えているか?」
「……影にしか見えない。もう、貴方は何物でもなくなっている」
「そうだ。それが正しい。間違えるなよマスター。
この体、このキャラクターは衛宮士郎のカラを被ったから生まれたもの。本来のオレは無だ。愛着も未練も持たない。元々オレは何も思わないし、何もしないモノなんだぜ」
だから、虚無に戻っても痛くもかゆくもない。
「……うそ。嘘、嘘、嘘……!
騙されない、私は見捨てない……!
願いを叶え続けなさいアヴェンジャー……!
飽きてしまってもいい、何一つ新しい出来事が起きなくなってもいい、一人で戦い続けろというなら付き合う……!
まだ隙間はあるんでしょう!? ならいい。小さいけれど、まだ見えるものがあるのなら、」
世界を回し続けろ。
あの黄金の日々を。
オレには決して手に入らなかった、本来与えられるべきだったモノを―――
「―――しつこいなあ。
悪いけど、その願いは叶えられねえわ。無意味な時間はここまでにしようぜ」
一歩前に出る。
……笑い話だ。結局、バゼットはオレの邪魔なんてしなかった。
こいつがあんなに怒っていたのは、つまるところ、
「……止めてよ。ここから出れば元の死体に戻るのに? ここにいればいくらでも楽しい時間を繰り返せるのに?」
願いを続けていたのはこの妄念。
一言オレがウンと言えば、とっくに壊れるところまで来ていたのだ。
「楽しくはなかった……?
私は楽しかった。苦しかったけど、その苦しさも結局は」
ならあとは簡単だ。
オレはとっくに飽きてるんだから、ありのままの結論を言えばいい。
「……結局は、生きてこその喜びだった。
あんな虚無に戻りたい筈がない。……ここは私の望みでもなんでもない。
アンリマユ。この世界は貴方のユメだった。
聖杯戦争を続けようとしたのが私の願いなら、あの平穏な日常こそが、」
―――過ぎたユメだ。
これ以上は続かない。どんなに楽しくても、全て埋まったのなら。
「そうだな。けど、もう大抵は飽きちまったから」
なにか、新しい物のために、
「終わりでも、見てみないと」
「ああ―――」
張り詰めていたものが消える。
まことに残念ながら、彼女がどんな顔をしているかは分からない。
「―――貴方は、本当に」
「諦めろマスター。これで跡形もなく消え去る。オレやアンタがどんなに望んだところで、この世界はおしまいだ」
なぜ、という声。
……むう。今まで散々説明してきたのに、どうしてそういうコト言うかなー。
「そりゃ崩れるさ。完成したんだから、あとは壊れるしかないだろう? 全部なくなれば俺もアンタも消えるだけだ」
「―――どうして? なくなるって事は0でしょう? 虚無があるのなら、貴方は何度でも蘇ると」
「それは1があってこそだ。完全な無からは何も生まれない。……1は0という空きを利用して流動する。
けど0はね、1がなければ何にもなれないんだよ」
そして、オレの中に1という概念は存在しない。
物事は虚無を使って流転する。
だがその新しい出来事に、虚無は決して関わらない。
「……そう。これで終わりなのね。あれだけの出来事を経験して。結局、何も学べなかったなんて」
穏やかな声。
かすかに恐れがあるが、死を覚悟した人間としては上出来すぎる心構えだ。
「それは今後の課題というコトで。
ま、もとから幻みたいなものだったからなあ。カタチに残る戦利品なんて」
―――あ。
そうか、それぐらいは残しておけるか。
これでも半年間在り続けたサーヴァントだ。それぐらいは都合をつけよう。
「……アヴェンジャー?」
「いや、こっちの話。それより聖杯はどうなってる?」
「……長くは保たないでしょう。所々に亀裂が走っています」
そうか。
ならこの体も満足だろう。
「―――化け物め。正気じゃねえな、ホント」
……一度だけ、バカな男の夢を見た。
生憎とそんな生き方には反吐が出るが、その歪《いびつ》な人間になれた事は感謝している。
オレとは真逆の在り方。
誰もが夢見、結局、その偽善こそが悪だと切り捨てる理想の姿。
その愚直さに―――一度ぐらいは、憧れた事があっただろう。
「―――よし。さあ、お互いの場所に帰ろうぜマスター。
この為に作り上げたんだ。最後は、綺麗さっぱりなくならないと」
「……アヴェンジャー。お互いの場所と言っても、私にはどうしていいか。
このまま、聖杯《あ な た 》と共に消えるのかと」
「そこまで付き合うコトはない。
ほら、アンタは入口《そ っ ち 》、俺は出口《あ っ ち 》だ。ここで今生の別れだな」
地平の彼方を指し示す。
入口とはこの後の世界。ようするに五日目だ。
出口はこの前の世界。ようするに虚無である。
「―――は?」
なんで、と驚くバゼット。
そんなの言うまでもないだろうに。
「いや、アンタ生きてるから。
死んでない人間はあっち側には行けないでしょ」
息を飲む気配。
まあ、いきなり言われても信じられないわなあ。
「待ってください。私は、確かに」
「死んでないよ。死にたくないってのがアンタの願いだっただろう。オレはそれを叶えただけだ。
あの時のアンタは仮死状態だった。オレは半年間、ずっとアンタをその状態で維持していたんだ」
「―――、あ」
問題はその後。
教会からやってきた女が隠し部屋のバゼットを見つけて、ご丁寧にも治療しちまったから話がこじれたのだ。
アイツさえ来なければ、もちっと長く―――は続かなかったか。
なんでもバゼットの体は限界だったらしい。あの女がバゼットの体を発見しなかったら、この四日間はある日突然終わっていただろう。
オレという延命装置が機能し続けても、バゼットの体は半年以上の仮死状態に耐えられなかったんだとか。
「で、でも……!」
「知ってるか。死者を甦らせられるのは生者だけって話。そもそもアンタが死んでたら、死者であるオレを呼ぶなんて出来ないんだよ」
―――そう。
死者には何も叶えられない。いつだって事を起こすのは生きた息吹だ。
たとえ死者として再び生を受けたとしても、死んだものが死んだものを起こす事は絶対に出来ない。
一番初めに聞かされたじゃないか。
いつだって、奇跡を呼び起こすのは、生者だけの役割だって。
……音が聞こえる。
すぐに割散《かっさい》すればいいものを、よく持ちこたえてくれる。
「急げ。いつまでも道はないぞ。外もじき夜明けだ。あそこを抜ければ、念願の五日目だぜ」
「で、でも、貴方は」
「いいから早く行けっての。言ったよな、自分の願いを叶えろって。
なら立ち止まるな。アンタに残られると、オレの願いが叶わなくなる」
願ったのはそれだけの事。
つまらない感傷だ。
「……無理です。いきなり生きている、などと言われてもどうすればいいのか。
だいたい、外も内も変わらないと言ったのは貴方だ。このまま現実に戻っても私は、」
「今まで通りにやっていくんだろ。色々口出しはしたが、その生き方自体に文句はない。アンタはおっかなびっくり生きていけばいい」
「な」
「あのバカ神父も言ってたじゃないか。行き詰まったら海を渡れってさ。
それは正しい。
……バゼット、世界は続いている。
瀕死寸前であろうが断末魔にのたうちまわろうが、今もこうして生きている。
それを―――希望《み ら い 》がないと、おまえは笑うのか」
宿主が足掻《あが》いているのに、寄生している身分で諦めるとは片腹痛い。
なんであれまだ命があるのなら、まだ十分成すべき事がある筈だ。
それが可《ぜん》でも不可《あく》でも構わない。
そもそも現在《いま》を走る生き物に判断など下せない。
全ての生命は。
後に続くものたちに価値を認めてもらうために、報酬もなく走り抜けるのだ。
「…………ずるい。貴方にそれを言われたら、言い返す事ができない」
「恨み言と思ってくれ。不実《あ く ま 》の身故、甘言で人を誑《たぶら》かすんだ」
ニヤリと笑う。
オレを象《かたど》る影が、笑いを表現できているといいのだが。
「……知らなかった。貴方、悪魔だったんですね」
声には少しだけ、活力が戻っている。
「なに言ってやがる。アンリマユってのは偉い悪魔の名前だろうが」
「それはそうですが。貴方は、とてもそんな大物には見えませんでしたから」
ついで苦笑が聞こえた。
……ったく、弱虫のクセに切り返しだけは一人前と言うか。
我が麗しのマスターは、根っこの部分で遠い入口を見つめ始めたようだ。
「ですが今は信じます。外に戻れ、というのは甘言以外の何物でもない。
要するに、貴方は私に苦しみ続けろと言うのですね」
「当たり。秘密にしてたが、アンタの藻掻《もが》きようが大好きだったんだ」
「ふ。それはそれは。随分と隠し事の下手なサーヴァントだ」
……それは、望んだ中で一番上等な別れ際だった。
オレはこの関係が気に入っていたらしい。
犯しも殺しもせず付き添ったのは、きっとそういう事だろう。
だから最後は、こういう別れが欲しかった。
今まで通りの関係で別れる。
やっていない事があるとすれば、最後まで背中を預けて戦う事がなかったという事ぐらい。
「っと、お喋りはここまでだ。アンタが行かないなら別にいいけど。オレは先に行かせてもらうぜ」
「安心なさい、とりあえず私も立ち止まる事はしません。
……ただ、その前に聞かせてほしい。その、真剣に訊くのですから、貴方も全力で答えなさい」
緊張しきった声。
今さら何を遠慮する事があるのか、と首をかしげ、
「―――なんで。何の取り柄もない私を、どうして選んでくれたのです。
私は貴方の言う通り、弱くてつまらない人間なのに」
……確かに照れくさいわなあ、と納得した。
「……わかんねえかなあ。だから、そこがいいの。オレが好きなのはアンタのそういう弱さだ。
自分が嫌いで、一生好きになれなくて、それが分かっていながら、少しでも上等な自分になりたくて足掻《あが》いてきた。
オレはそういう無様なヤツがいい。
結果はどうあれ、自分の為に進むヤツが好きなんだよ」
「―――それは、誰か《ひと》の為でなく?」
「ああ。そういうのは余裕のあるヤツに任せておけばいい。
アンタはもう少し、自分だけで手一杯だってコトを自覚するべきだ。バカなんだから」
「―――っ」
喉のつかえる音がした。
怒鳴るのを堪えたのか、笑いを堪えたのかは分からない。
「……なるほど。つまり貴方は、私がどうでもいい人間だから助けたのですね」
―――ああ。
そんな平凡な人間だからこそ、そんな弱い君だったからこそ―――
オレには、かけがえのない光だった。
「……分かりました。それでは貴方の気紛れに甘えるとしましょう」
「それでいい。んじゃまあ、一緒に別れるか」
「ええ、では背中合わせで行きましょう。……何というか、いま貴方の顔を見たらひっぱたいてしまいそうなので」
「――――――」
明るい声で言う。
最後の最後に、成し得なかったものが完成する。
「…………大丈夫かな。オレ、ちゃんと背中ある?」
「あります。ほら、踵《かかと》を回して」
背中を向ける。
触れ合える感触はないが、確かに彼女は後ろにいる。
もう温かくも何ともないが、喜びを感じる心はまだ在《い》きている。
「確かに。じゃあ行くぞ」
「せっかちですね。ここまでしたのですから、同時にスタートしましょう。三秒数えたら走り出すというコトで」
スプリンターのようだ。
号砲は各々の心の中で。
3、大きく呼吸をする。
「あ、抜け駆けして三秒前に走り出す、というのはなしですよ。決闘ではないんですから」
2、彼女らしい心配に楽しくなる。
「あっはっは。―――甘いな、オレだったら一秒目で逃げ出してる。相手が三秒待ってる頃にはトンズラだ」
1、今まで通りの切り返し。
「そうですね。私も、三秒待った後でその背中を狙い撃ちます」
高らかな笑い声。
0。
視界は無に。
背中越しに感じた喜びは名残さえない。
■《わたし》は崩れゆく音を聞く。
その音も、じきに無に戻るだろう。
走る。急かされるようにではなく、あくまで平均的に。
数時間前の自分なら風を感じたのだろうが、今はもう、そういった外的情報は得られない。
いずれ、この思考も削ぎ落ちる。
かろうじて得られる震動は、もはや崩れ落ちる音だけだ。
となると。この音は、■《わたし》の中の出来事という事になる。
走る。出口は、たしかあちらの方だったか。
まだ視界があった時、キチンと確かめておけば良かった。
舞い散る欠片の音に、かつて過ごしたざわめきを聞く。
止まりそうになる足を動かす。
咲き乱れる命の音に、かつて居たひだまりを観る。
止まりそうになる足を動かす。
出口に向かう。
自己の消滅より恋焦がれた日常の破片の中、何も見えなくなった目で走り抜ける。
……■《わたし》は、ただ新しい物が見たかった。
かつての人格が彼女の蘇生を願ったように、■《わたし》は、一つでも多くの日常を知りたかった。
それが自らを■《わたし》に戻すとしても。
十秒後の死を知りながら、一秒後の光を求めたのだ。
走る。
この無において距離はない。
足を向けて辿り着けないという事は、永遠に辿り着けないという事。
あの時見えていた出口《ひ か り 》は、■《わたし》の視界が無に戻った時点で失われてしまった。
もとより無に戻りきった■《わたし》に、行くべき場所など存在しない。
―――ああ、それでも―――
この目蓋が。眩しいと、感じている。
崩れながら回り続ける。
過ごした時間に感謝《よろこび》を。
共にあった人々にお別れを。
……良かった。
こんな■《わたし》にも、出口はあるらしい。
終わる事と続かない事は違う、とかつての人格はうそぶいた。
その希望《こ と ば 》を借りるのなら、■《わたし》は終わる事で、ようやく続きが見られるらしい。
この場に留まって永劫に止まるのではなく。
たとえ消え去るとしても、次にあるものを目指す。
その為に虚無《みずから》を埋めて、一つの絵を作り上げた。
その為に虚無《みずから》に還って、世界の絵を作り上げよう。
■《わたし》には、もうその絵を見る事は出来ないけれど。
どうかこの絵が、誰にあっても美しいものでありますように。
走る。走る。走る。
星は輝く。
道標は確かに。
千切れた体は、意志だけで前に進む。
大丈夫、辿り着けない事はない。
夢みたものが止まって、光を失ったとしても―――
この眼球が、眩しいと感じている。
最後に、この■《わたし》にもさよならを。
―――さあ、終わりの続きを見に行こう。
気のせいだろうし其処がそんなにいい所でないのは分かってはいるが、今は、眩しい方へ歩いて行く――――
◇◇◇
―epilogue―
日の陽《ひか》りが目蓋を照らす。
浮上し始めた意識が、木々のざわめきと冷たい風を感じ取る。
「っ、ん―――」
ゆっくりと巡っていく確かな血潮。
私は今、長い眠りから目を覚ました。
「っ―――、あ―――」
ソファーから体を起こす。
随分と使っていなかった体と意識は、動かす度に軋みをあげる。
正直、痛い。
腕を動かすのも、モノを考えるのにも苦痛を伴う。
けれどそれは喜びを伴った感覚だ。
私は、今まで忘れていたこの苦しさを、以前より少しだけ受け入れている。
「―――、ふう。体は、なんとか」
それなりに稼働できるようだ。
左腕は動かないが、それはもとより無いもの。
失われた腕を、私は当然のように抱きしめる。
無くなってしまったものは仕方がない。
目を逸らさず、これからはこの体で、今まで通りやっていく方法を考えよう。
「――――――」
……強い陽射しに目眩がする。
一瞬、温かさに気が緩んだ時、
『よう。目が覚めたかマスター』
背後から。
一度も耳にした事のない、親愛なる響きがした。
「アンリ―――……!」
振り返り、言葉を切る。
そこには誰もいない。始めから何もない。
続けようぜ、と。
いつも、私に言い聞かせるように繰り返した軽口も、存在しない。
ソファーから部屋の隅へ。
かつて“誰か”がいた場所には、ただ、
餞別《せんべつ》のように、置き忘れた物があった。
「――――――」
素朴な、どうという事のない白い花。
こんなものを、彼は幾度となく作りあげようとしていたのだ。
中心のない、最後まで完成しない筈のパズル。
それを―――自らを埋める事で、彼は最後に作り上げた。
「バカな男だ。こんなもの、何処にでも」
凡百の景色。
さしたる価値のない絵柄。
この程度のものが、彼にはかけがえのないものに見えていた。
賞賛される事のないもの。誰の目にもとまらないもの。
その、シンプルな美しさを、彼はここに置いていった。
「―――、ああ―――」
一滴だけ頬を伝う。
脳の芯が熱くなる。
人は喜びでも泣けるのだと、子供の頃に学ばなかったことを思い知る。
胸を締め付けるのは後悔と感謝。
もっといい方法があったのではないかという悔いと、
あのサーヴァントと過ごした日々にまなじりを熱くする。
“さあ、聖杯戦争を続けようぜバゼット。今度こそ、アンタの望みが―――”
ソラミミが聞こえる。
彼は最後まで、そんな関係を望んだ。
それが分かったから、私もなんとかやり通した。
私はうまく出来ただろうか?
彼が望んだ通り、悲しい別れではなく、信用ならない相棒として、それぞれの道に戻る事が。
……出来ていたのなら、胸を張ってお別れを言える。
―――あの見栄っぱりな男の、取るに足らないちっぽけな誇りを。
最後に守る事が出来たのなら、私たちは、きっと最高のパートナーだった筈だ。
「……それじゃあこれで。さようなら、アヴェンジャー」
太陽が高い。
時刻は正午を回ったところだろう。
私は持ち物を確認して、
「……?」
左手用の革手袋が一つ、なくなっている事に気がついた。
手癖が悪いというか、小心というか。
どうせ獲っていくのなら、一組で持っていけばいいものを。
やらなくてはいけない事は山ほどある。
半年もの間、私は音信不通だったのだ。聖杯戦争が終わっているのなら、私は死亡扱いだろう。
「……まあ。何にせよ、まずは義手を手配しないと」
魔術協会はとっくに私の席を消しているだろうし、これからどう立ち振る舞うべきか悩みは尽きな―――
「? いま、何か」
小鳥の鳴き声ではない音が聞こえたような。
……まったく、半年間のブランクで緩みきっている。
危機感の前に好奇心が先立って、こっそり窓際へ足を運ぶ。
やってきたのは一組の足音。
坂道を上り、木々を抜けて、どこか見覚えのある少年と少女が見えた。
『ふーん、ここが噂の幽霊屋敷か。……けど、見た感じそんな雰囲気でもないぞ。別に調べる必要ないんじゃないか?』
『ここまで来てなに言ってるのよ。落ち着いたら見学に行くって言ったのはそっちでしょ。それともなに、今さら怖じ気づいた?』
『そ、そんなコトあるかっ。別に幽霊の一人や二人、いまさら怖くもないっ』
『いい返事ね。なら行きましょ。実を言うとね、わたしもここには
興味があったんだ―――』
少年と少女はじゃれあいながら玄関に歩いていく。
不思議と戦意は湧いてこない。
むしろ子供のようなイタズラ心が先に立つ。
私が噂の幽霊だと言うのなら、少し脅かしてあげた方が向こうも喜ぶというものだろう―――などと楽しんでいたら、ガチャリと鍵の開く音がした。
「考える時間はないか。
―――さて、始めの挨拶はどんなものが相応しいかな」
口元を綻ばせながら、窓際で来客を待つ。
続けよう、と彼は言った。
今はそれだけで十分だ。
答えは当分見えそうにないけれど、みっともなく悩みながら走っていくのも悪くない。
苦しいのは相変わらずだろうけど、少しぐらい楽しみだってあるのだから。
「―――まずは海を渡ったこの街で。貴方が繰り返した日常を見てきます」
これからの時間に思いをはせる。
にぎやかな足音はもう近くに。
私は、私だけが知っている起こらなかった四日間に別れを告げて、新しい五《 ひ》日目《び 》に声をかけた―――
Days come,days go.
We still chanse the star, weaving the past memory into beautiful tepestry.
The endless four days has ended, once and for all.
From now on, the story is for you to create.
―――Thanks. And let us part this, holloow ataraxia.
Fate/hollow ataraxia
(C) TYPE-MOON