Decoration Disorder Disconnection. HandS
奈須きのこ
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昨日|出遭《であ》った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
挿絵
こやまひろかず/TYPE-MOON
本文使用書体
漢字部分:I−OTF新隷書 StdM
かな部分:KRくれたけM
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
ねえ石杖さん。
仮に、神さまに形を与えるとしたら何を想像します?
僕は手です。
神さまが人間に知恵を与えたモノとするなら、
人間の手こそ神さまだと思うんです―――
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
■■■
―――何をやっても、うまくいかなかった。
ある夏の夜。お日さまの下でお化けに見つかった後、二段ベッドの上でぼんやりと気が付いた。もしかしたら自分は今までとんでもない勘違いをしてきて、おまけにその勘違いは一生かけても治せないのではないか、と。
翌朝、不安は的中した。
今まで好意的に捉えていた父の笑顔は、フィルタを剥《は》がせば打算に満ちた笑顔で、優しかった母の目は慈《いつく》しみではなく、憐《あわ》れみに濁《にご》っていた。
瞬間。一段踏み違えただけで、階段から転落した友達を思い出す。
成績だけ見れば非の打ち所のない子供で、評判だけ聞けば誰もが感心する優等生だったのに。
昨日|出遭《であ》ったお化けが笑う。
思い知れ。うまくいった事などない。
おまえはずっと失敗し続けてきた[#「失敗し続けてきた」に傍点]。
……挽回はやっぱりうまくいかなかった。
自分のやり方は、物事を滑らかに回すパーツが致命的なまでに欠けている。どんなに速くても、ブレーキのない車は欠陥品。いずれカーブを曲がりきれない。
気が付いた事で、食い違いは一段と大きくなった。
もう自分だけでは、いや、自分のやり方ではみんなに嫌われるだけだと気が付いて、それなら―――
そうして、彼は。
何をやっても、うまくいかなくなったのだ。
[#地付き]――― HandS
[#改ページ]
久織《ひさおり》伸也《しんや 》、男性、十六歳。
久織家で起きた久織|巻菜《まきな 》暴行事件の当事者であり、犯行後、精神状態が不確かであった事から責任能力の有無《うむ》を問われ、治療の為に当院に運ばれた患者である。
「名前ですか…? そんなの、今さら聞かれても困ります。その名前に意味があったのは昔の事で、もうほとんど取られた後ですから。それでも、まあ……そっか、書類とか検査結果とか、そういう記録に残るものなら、僕は間違いなく久織伸也なんだっけ」
入院当初、久織伸也は調書に非協力的であり、犯行の有無ばかりか、そもそも自身が久織伸也である事を認めようとはしなかった。
罪から逃れる為の供述ではないかと検察側は問いただすも、精神科医らによる診察結果は強制的な措置《そち》入院が必要と一致。三名の医師は、彼が自分を久織伸也である事を認めたくても信じられない、という特殊な精神状態である事を報告した。
「……僕はどうあっても僕だって、言われなくても分かってますよ。けどしょうがないじゃないですか。気が付いたら僕は椅子《いす》から落ちてて、僕は何一つ変わってないのに、自分の居場所ってヤツを無くしてたんだから」
久織伸也の供述には、自己の喪失、侵略といった単語が多く含まれている。担当医師は彼が視線恐怖症、常に何者かに監視されているという強迫観念に苛《さいな》まれていると診断。
「だからさ。僕が落ちた後の椅子には、得体のしれない悪魔[#「悪魔」に傍点]が居座ってたんだよ。それをアンタらが、いつまでも野放しにしたんじゃないか」
死者二名、重傷一名もの惨事であったものの、久織伸也の精神状態と年齢を考慮し、医師の判断通り措置入院が決定された。
事件から二週間後、久織伸也は犯行を認め、自らの罪を悔《く》いている。犯行当時の凶暴性は一時的なもので、正しい精神治療を行えば完治の見込みはあり、寛大な判決を望む、と担当医師はカルテに記している。
ただし。
「……は? やだな、元の生活に戻ろうなんて思ってません。だいたい、こんなところに連れ込まれた時点で僕の名前に価値なんてなくなったでしょう。居場所がないのに残ってるなんて気持ち悪いじゃないですか。仲間ハズレはゴメンです」
久織伸也は両親を殺害した事実を認め、姉への暴行を認めた上で、
「だから、今は一刻も早く死にたい。けど、このままじゃ死ねない。憎たらしいというのもあるけど、これは僕の使命ですよね。野放しにしたのは僕自身だし。……そうだ。僕はこれから、この一生をうまく使って、あの悪魔を倒さないと」
未だに、自分は被害者だったと訴えている。
以上か三年前に起きた久織|浩二《こうじ 》、および久織|加代《かよ》殺害事件における、久織伸也の当時の調書である。
「……3号室の久織さんって例の模範生でしょ? たしか退院の決まった。ふーん、あの子そんな事件起こしてたんだ。けど可哀《か わ い》そうだなー。せっかく外に出られるのに、二人も殺してたらそのまま少年院行き?」
「半年前まではね。けどほら、例の悪魔|憑《つ》きってヤツ? あれのおかげで、ご両親の件は事故扱いになったらしいよ?」
「ええー!? わたし、そっちは冤罪《えんざい》だったって聞いたけどなー、逆上して暴行したのはホントらしいけど、どっちかって言うと死体損壊罪、みたいな」
「そうなんだ。……けどさあ。そもそも事件の原因ってなんだったの?」
「あれ、知らなかったの?
それがね、久織くんのお姉さんが―――」
[#改ページ]
0/Hand(A)
その病院の正面玄関は、一面コンクリートで覆われていた。
十メートル近いガラスの入口が外側から塞《ふさ》がれている光景は、入院している身からすれば悪い夢の象徴でしかなく、唯一の出入り口が物理的に封鎖されているのは現実問題としても質《たち》が悪いと思う。
自分を含めた院内の患者たちが外に出られない、という事ではなく、この建物はこんなにも大きな医療施設なのに外来―――外から訪れる病人が一人もいない、という事なのだ。外来を拒む大病院というのは、なんかもう病院じゃない気がする。
もちろんそんなのは個人的なイメージの問題で、ここは紛《まぎ》れもなく病院だった。広大な敷地と五つの病棟、そのわりには少ない百人単位のスタッフからなる県下一の大病院。もっとも、ここがどこなのか入院患者は誰も知らない。北陸のどこかというのが通説だったが、まあ、何処《どこ》であろうと外に出られないのだからどこでもいい話ではある。
ここの患者になる前、まだまともに社会の一員だった頃、悪魔憑きは研究施設に送られる、なんて話を聞いた事があった。たしかオリガとかキヌイとか、そんな名前の研究施設だったっけ。もちろんここはそんな物騒な場所ではなく、正真正銘の病院で、今日も今日とて患者の体質改善のため、多くのお医者さんが誠心誠意尽くしてくださる。
白で統一された建物には染《し》みひとつない。
ゆったりとした通路、清潔な病室、開け放たれた中庭ただし四方は高い壁、一面ガラスばりの陽射《ひざ》しに包まれた待合室。どれをとっても文句の付け所のない、正常な&洛iだ。
だからこそ正面玄関は際《きわ》だって異常で、けどまあ、院内唯一の灰色をおがめるあたり、玄関こそが自分たちが何者であるか正しく言い聞かせてくれる場所な気がする。
正面玄関からこの病院で唯一の中庭を持つB棟に戻った頃、院内に音楽が鳴り響いた。
アルビノーニのアダージョ。
同時にB棟の待合室にいた何人かの患者が、無気力に病室に戻っていく。
どこかの病棟の、自由時間が終わったのだ。
各病棟から他の病棟に出る時、患者は今日の音楽を聴かされる。それが聞こえたら自分の病室に戻りなさい、という報せである。スピーカーで「何々病棟の患者さま、貴方《あなた》の自由時間は終わりですよ」というのは体裁《ていさい》が悪いし、誰が何病棟の患者なのか、他の患者たちに知られるのはよろしくないからだろう。
今日の音楽はアダージョで統一らしい。C病棟の患者である自分は、出る際にブラームスのアダージョを聴かされた。という事は、いま戻っていったのはB棟かA棟の患者という事だ。D棟の患者は|B棟《ここ》まで入ってこれないので除外できる。
このように、毎日音楽を変えたところでその気になれば誰が何病棟の患者なのかは読み取れるのだが、ここの患者にはそんな無駄なコトをしたがるヤツはいない。病院側も承知の上というヤツだ。
病室から出る事を許可された患者はみんな死人のように無害なので、待合室は目眩《め まい》がするほど神々《こうごう》しい。開院以来埋まったコトのないであろうソファーの列に、ぽつりぽつりと患者が座っている。
午後の陽射しでましろく染まった待合室は礼拝堂のようだ。くらくらする。お日さまの下に、死人が座って祈りを捧げている光景。
「…………」
ある夏の日を連想して、つい死人の仲間入りをしてしまった。目眩に耐えきれず、ぼすん、とソファーに倒れ込んだ。
その隔離病院が開かれたのは、今から十年前の話だ。
A異常症患者……俗に言う悪魔憑きである……の感染者確認より十年後にようやく造られた専門治療施設で、その話を鵜呑《うの》みにすると、もっとも早く……もしくは古く……確認された発病者はおおよそ二十年前という事になる。
あまりにも現実離れした……もしくは想定外の……感染症の発症だった為、医療機関の対応は遅れに遅れた。
結果、N県の郊外に建設中だった市立病院を国が買い取り、彼らの為の治療機関として用意したのが件《くだん》の施設である。
以後、A異常症患者はこの施設に入院、専門的な治療を受ける義務と権利が与えられた。
国で唯一にして最高の治療施設であるこの病院には、日本中の感染症患者が運び込まれる。……感染の規模は東日本に留まる為、日本中というのは語弊《ご へい》があるが。
原則として、A異常症と判定された患者は国に保護された後、この病院に運び込まれ、A棟からD棟いずれかの患者となる。
一度入院した患者は完治するまで外出できず、肉親による面会も許可されない。これは社会への間違った情報の流出防止や患者たちのプライバシーの保護の為、致し方ない事だろう。
開院から十年経った今もその機密性の高さは問題視されているが、当の患者たちには関わりのない事である。
外界から完全に隔離されたこの上なく清潔な空間。
自分たち以外の人間はみな死に絶えているのではないかと妄想させるほどの小世界は、彼ら感染症患者にとって、現在考えられる最良の環境だった。
「……さん? 久織《ひさおり》さん、ご気分が悪いのですか?」
優しく語りかけられて、目眩から回復する。ソファーに倒れ込んだ体を起こして、大丈夫です、と返答する。
慣れたもので、待合室に詰めているお医者さんはサラッと左の脈拍と瞳孔《どうこう》の検査をして、異常なし、と診断してくれた。
「うん。あまり無理はしないように。部屋に戻れないようでしたら、遠慮なく声をかけてください」
相変わらずの紳士っぷりを発揮して、ドクターロマンことキヌイ医師は去っていった。
感染症と言っても、この病気は空気感染もしなければ接触感染もしない。経口や経皮感染もせず、人間以外からの感染も、また、ない。原則として、発病した人は決して仲間を増やさない[#「発病した人は決して仲間を増やさない」に傍点]。それぞれ病状が異なるA異常症の、それが唯一の共通項だ。
ドクターロマンはその説を証明するように、何の恐れもなく患者たちに接している。もちろん他の医師たちはドクターロマンほど暢気《のんき 》でもないし、博愛主義でもない。
A異常症を発病した者は、巷《ちまた》では悪魔憑きと呼ばれる。ミもフタもない呼び名だが、人間扱いするべきじゃない、という意味ではまったくその通りだった。
なんでも脳の仕組みが少しだけ偏執的《へんしつてき》になって、体のどこかに新しい内臓が造られるのだとか。軽度のものは、体の機能が強くなったり弱くなったりする程度だが、重度のものは体の機能を増やしてしまう。単純に言って見た目が変わる。
たとえば、自分は顔の皮膚《ひふ》神経が人よりデリケートになったぐらいで、これといって変化はない。
けれど待合室にいる患者の中には、六本目の指があったり得体の知れない突起物があったりと、見た目実に分かりやすい。もとからある性能が上下するものと、身体そのものが|変貌《へんぼう》するものに分けられる、という事だ。
後者はもう完全なフリークスで、そういった患者にも親身になれるキヌイ医師は地獄に仏だ。ドクターロマンのあだ名は伊達《だて》ではない。彼と話していると、もしかして本当にこの病気が治るのでは、と錯覚するほどなのだから。
もっとも、仮に完治したところで犯した罪に変わりはなく。この病院に入れられた時点で、僕の人生は終わっているのだが。
「……ちょっとやりすぎたよな。あそこまでするコトは、なかったんだ」
もう二年も前の話だ。僕はドジをやって捕まってしまった。どうせなら完全犯罪ってヤツを真似てみようと気合いをいれて、一切自分の手は汚さず、両親に大怪我《おおけ が 》をしてもらったのた。
同じ家に住む人間が半年間、それだけに執心して張り続けた伏線《ワナ》だ。そう回避できるもんじゃない。お父さんとお母さんは物の見事に地雷を踏んだのだが、ちょっと当たり所が悪かった。結果、うちには他殺死体が二つ並ぶ事になった。
「……おしいなあ。結果はどうあれ、仕掛け自体は完璧だったんだけど」
しかしそんな小細工とは関係なしに、僕はあっけなく悪魔憑きと見抜かれて捕まった。
きっとバチがあたったのだ。手順は本当に完璧だった。ドジというのは目的を持ってしまったコトで、結局、その代償として僕はこの病棟に囚《とら》われている。
けどまあ、他の患者に比べれば僕には希望がある。
あの事件から二年が経って、両親の死が事故と認められ、僕の無実はそれなりに立証された。まだ誰も殺してないワケだし、少しは前向きになってもいいと思う。
当面の悩みは病気の完治と、はたして、治ったところでこの病院から外に出られるのか、というコトだ。
僕は社会に復帰したい。もともとその為に手を凝《こ》らした。もともとそれだけが僕の目的だった筈だ。お父さんとお母さんの事故で寄り道してしまったが、そのあたり、初心に返って自分を造り直そう。
僕は反省している。今度はもっと、誰も傷つかない方法で人間らしく生きていくのだ。その為にはまず新しい生き方を見つけ―――ないと、いけないのだ、が。
「……?」
気持ちを前向きにして顔をあげると、おかしな物が視界をよぎった。中庭に通じるガラス戸の前に、ここではあり得ない日常がある。
陽射しにとけ込むように、筆を片手にキャンバスに向かっている男の姿。年の頃は僕と同じなのに髪が白い。その白髪の青年は、けだるそうな顔で、うまくもない絵を描いている。
二年ぶりに、自然に頬《ほお》が緩《ゆる》んだ。
| 唇 《くちびる》をとがらせながら筆を進める青年。それがもう、誰からみてもただの暇潰《ひまつぶ》しと分かるお絵かき遊びだったからだ。どうしよう。なんだあれ。興味は尽きず、そろそろと近づいていく。
「あの、隣りいいですか?」
「うん?」
悩む前に話しかけていた。この病棟で他の患者に話しかけるのはうまくない。禁止行為なのではなく、話しかけても答えは返ってこないからだ。
そんな、もう二年間染みついたセオリーをクラッと忘れさせるほど、青年は暢気に見えたのか。
「いいけど。イス、俺のしかないよ」
こちらの想像以上に暢気だった。忘れかけていた、もう何年も前に聴いたきりの、何でもない自然な会話を思い出す。
「いいです、床に座りますから。少し眺めていていいですか?」
「邪魔しない分には。物好きだな、アンタ」
ふーん、とちょっとだけこっちを見た後、白髪の彼はキャンバスに没頭する。
視線がちょっと怖い。青年はそれが素なんだろうけど、視線がやぶにらみっぽいのだ。自分は童顔なので憧《あこが》れてみたりする。街の不良さんみたいで、そのパーソナリティは新鮮だ。
彼はどこの病棟の患者だろうか。C棟では見た事がない。B棟かA棟のどちらか。きっとA棟だろう。これだけ健康的な顔をする人が、B棟の住人とは考えづらい。
「あの、貴方はどこの病棟に?」
「A棟だよ。わるいな、B棟のスペースを使っちまって。|A棟《あ っ ち》には怖い姉御《あねご 》がいてさ。できれば、目の届かないところに逃げていたいんだ」
見れば、彼は痣《あざ》だらけだった。……僕は模範生だから噂《うわさ》でしか知らないが、反抗的な患者には鬼のような監察医が地獄のような検査をするという。なんとなく、彼はそこの常連のように思えた。
「あれ? あの、片腕、ないんですか?」
「ああ、ここに来る前に落としちまった。目下、それで入院中」
「……うわ。いいなあ、すごく病院らしい理由です」
思わず口にしてしまった。でも本当にそうなのだ。ここにいる患者は何かが増えた[#「何かが増えた」に傍点]事で運び込まれる。なのに白髪の彼は、まっとうに怪我をして、まっとうに入院した、まっとうな患者だったのだ。
「あ、いえ、今のは考えなしの感想で、あの」
彼は目を白黒させて僕を見る。
ついで、いいよ、と愉快そうにニヤついた。
「なるほど。後ろ向きなのに前向きだ。言われてみれば、俺が入院するのは当然だよな」
筆を握る右手が、勢いよく線を描く。
しばらく彼の動きを観察する。描きたいものがあって描いているのではない。単にやるコトがなく、たまたま絵の道具一式を見つけたから使っているだけだ。描きたいモチーフがあるのではなく、絵を描くという作業に没頭している。自然、描き上がるものは彼にとってどうでもよくて、同じぐらい頭から離れない何かだろう。
「あの。その手、どうしたんですか?」
「ん? 手ってどっちの? ある方? ない方?」
「ある方です。貴方の手、すごく器用に動くから。ほれぼれしました」
また目を白黒させてこちらを見る。……この人、実はすごく可愛い人なのではないだろうか?
「ある方ねえ。普通さ、どうして左腕を落としたんですかって訊《き》かない?」
「無いものを話しても意味ないです。それより僕には右腕の方が気になる。片腕だけなのに、そんなに器用にやっていけるもんなんですか?」
白髪の彼はきしし、と笑う。
「そりゃ一本しかねえからな、キレイに動かしますよ」
生まれつきそうであったかのような自然さだ。
もっと話したくなったが、音楽が聞こえてきた。
ブラームスのアダージョ。C棟の患者の、自由を潰す悠長なクラッシック。
「あの。明日もここに来ます?」
「まあ、検査の後に満足に動けたら。この絵、しばらくかかりそうだし」
安心して立ち上がる。挨拶《あいさつ》をしてC棟に戻る。
「ちょっと待った。メモとるから、名前教えてくれ」
「はい?」
なんでも、彼はものすごく忘れっぽいらしい。昼間に起きた新しいコト、大事なコトはきちんとメモに取る習慣なのだそうだ。
「僕は久織伸也です。貴方は?」
「シンヤ? ……合わねえ名前だな。まあ、俺も人のコトは言えないけど」
白髪の彼はキャンバスの隅に所在と書いた。
「な、ヘンな名前だろ。これでアリカって読むんだぜ」
白髪の彼は皮肉げに、でも少しだけ誇らしげに笑って言った。
こうして入院二年目にして、僕は石杖《いしづえ》所在《ア リ カ》と知り合った。
振り返って見れば、僕にとって数少ない友人の内二人と、この病院で知り合えた事になる。
一人は言うまでもなく、この白髪の彼。
それともう二人は、後にこの病院を真っ赤に染める、彼の妹さんである。
■■■
AからDに分けられた病棟は、それぞれの出入り口に厳重なチェックが設けられている。
患者に与えられた自由は二つのレベルがあり、一つは自分の病室から出る自由。これは僕や石杖さんのような、過去に暴力的な事件を起こしていない患者に許されるものだ。
さらに病院側の覚えがよくなると、隣りの病棟に散歩する事が可能になる。これが二つめの自由。感染症患者同士のコミュニケーションを目的とした、社会復帰へのリハビリという訳だ。本当、ズレている。彼らは自分を抑えるだけで精一杯なんだから、他人と触れ合う事はない。例外は僕と石杖さんだが、石杖さんは僕より一段階上のとんでもない人である。何しろ、相手がどんな病状だろうと構わずに話しかけるのだ。それが原因で何度か殺されかけたらしいが、本人はまったく懲りていない。基本的に、あの人は危機感というものがゼロなのだ。
「仕方ねえだろ。マトさんにさ、できるだけ多くの患者と話せって言われてるんだから」
いつものB棟の待合室。今日こそは絵を描き上げる、と心底イヤそうに、石杖さんは張り切っている。
「石杖さん、絵が嫌いなの?」
「嫌いっていうか、面白さが分からない。ドクターがさ、暇なら貸してくれるっていうんでやり始めただけ。それも今日でおしまいだ。次はアレだ、キャッチボールとかしてみねえ?」
石杖さんはわりと律儀な人で、やり始めたコトは途中で投げない。曰《いわ》く、きっちり終わらせておかないと| 甦 《よみがえ》ってきそうで怖い、だそうだ。
「いいなあ、A棟の人はそういうの借りられて。待合室に行けばテレビも見られるって話だけど?」
「つまんねえ民放だけな。それに希望者が多くて競争率高いし、あんまりいいもんじゃないぜ。外の映像を見て俺たちがどんな反応するか、壁の向こうでかりかりレポートしてるんだ」
「……娯楽提供じゃなくて研究材料なんだ。提供してるのは僕たちの方か。たしかに、それは面白くない」
「だろ。こっちからしてみればアンタの病棟の方が楽しそうだ。いやまあ、D棟には死んでも行きたくねえが」
誰が決めたのか、病棟間の自由行動には一つのルールがあって、移動できるのは隣りの病棟だけだった。
僕はC棟なので、B棟とD棟に移動できる。
けど石杖さんはA棟の患者なので、移動できるのはここB棟止まりなのだ。
逆に言えば、A棟とD棟の患者はどうあっても出会えない事になる。
AからDの分類は、無論、A異常症の進行具合を示している。Aが軽度、Dが重度だ。
A棟に組み込まれるのは、患部はあるものの、新部が見られない患者。もしくはA異常症患者によって傷を負い、後遺症を持ってしまったまっとう[#「まっとう」に傍点]な患者さん。石杖さんはどうもまっとうな方なんじゃないか、と睨《にら》んでいる。
外来がない事、自由時間が限られている事を除けば普通の入院生活らしい。日に三度の検査……内容は多岐にわたるとか……と、任意による他患者とのコミュニケーションが日課。石杖さんの話では患者は二十人前後。棟内の施設もいたって正常で、おかしいのは監察医専用の尋問部屋だけだとか。
B棟の患者の基準は分からない。僕が見たかぎり、新部は見られるものの精神が比較的安定している患者で、ぎりぎり治療が現実的であり、手術に許可がおりそうな人たちだ。
治療は患部の切除イコール死にならないレベル。的確な手術法が発見され次第、患部を切除される、とドクターロマンの口ぶりから推測できる。
もっともそれぞれ病状が違うのだから、研究は遅々《ちち》として進まない。一人一人に新しい手術法を作り上げるようなものだ。そう簡単に劇的な新薬も技法も開発されないだろうから、手術なんて滅多《めった 》にない。人数はここが一番多い。待合室が一番豪華なのもここB棟だ。
そして我がC棟には、A異常症……悪魔憑きという病状が安定してしまった患者が組み込まれる。
実はB棟の患者より危険度は低い。心が壊れたまま戻らない患者は決して病室から出られないし、自由行動を許可された患者はもう安定しているので暴れだす事もないのだ。
ただし、身体が変異している患者は心が穏やかだろうと部屋から出ようとしないので、結果的に監獄じみた無人病棟に見える。
D棟は、一度しか入った事がない。
C棟が監獄なら、D棟は廃墟だと思う。お医者さんも警備員も出入り口にしかいない。患者の多くは光を怖がるというので病棟内は薄暗かった。まるで洞窟か何かだ。当時は脱走を考えていたからD棟の造りも把握《は あく》しようと中に入ったが、とても待合室まで行けなかった。
調べたところによると、基準は末期の患者。
治療、切除不可能。もしくは成体。生きているのは三人程度で、他、四十体ほど「入室」している。
そう言えば半年ほど前、D棟に運び込まれた患者がいた。あれはここ二年間で一番大きな事件だった。病院中が大騒ぎで、三日間におよぶ大手術の末、ほとんど死体状態だった件の患者は一命をとりとめ、D棟に運ばれた。
手術を担当した医師たちは、何かの間違いでミキサーに落ちてしまい、何かの間違いでそれでも生きていた人体、と称したとか。そういう怪物が分類されるのが前人未踏、人外魔境のD棟である。
「石杖さんは、悪魔憑きってなんだと思ってる? 運悪くひどい病気にかかった人間か、それとも、もう人間じゃない生き物だと思う?」
死体だらけの待合室で、唯一生きている人間に訊いてみた。D棟の事を思い出して、きっと弱気になったのだ。
「さあな。俺は医者じゃないんで、人体の定義なんざ分からない。中とか外が変わってももともとどんなカタチかを知らないんだから、コレとコレは違うものです、なんて分けられないだろ」
もっともな例え話だ。お医者さんですら、体の中身は開いてみるまで分からないんだし。
「俺たちみたいに普通に生きてるヤツには、そうだな。まあ、お互い話が通じるのなら人間なんじゃないか?」
医学的に人体を語るか、哲学的に人間を語るかの違いだった。石杖さんは精神論を大事にする人のようだ。というか、ロジックをないがしろにしすぎだった。
「……いいなあ。僕、石杖さんみたいな先輩ほしかったなあ。そうすればちゃんと学校行ってたかも。だってすげえいい加減なんだもん。お金とか借りても、次の日には忘れてくれそう」
「そりゃ忘れるけど。大丈夫、そういうのはちゃんとメモにとるから」
ずしゃずしゃと筆が走る。キャンバスは八割が真っ黒だ。何も描きたいものがない上に失敗ばかりしてるから、絵の具が何重にも重なって抽象派もびっくりのオブジェ完成まであと一歩というところ。
「ま。あんまり深刻に考えるコトはないだろ。悪魔憑きなんて風邪《かぜ》みたいなもんだ。かかったヤツに罪はない。問題は、そうなった後に何をするかどうかだしな」
石杖さんの言葉は安全地帯から述べられる、まったくもって気の抜けた理想論だ。けど。今の表現は共感できる。
「うん。風邪っていうのはいいですね」
「だろ。運次第で誰でもかかるってコトで」
……やっぱり分かってないなあ。もとから弱っている人間しか、風邪なんていう流行病にはかからないのに。
「で、なんでそんなこと話すんだよ。悪魔憑きって言い方、ここじゃ禁句じゃなかったっけ?」
「いえ、ちょっとD棟のコトを思い出して。本当に自分たちが人間なのか疑問に思ったというか」
ぴたりと筆が止まる。石杖さんはいつもの魅力的な、苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「あのな久織。あんな怪獣墓場に運び込まれるヤツらは別物だ、忘れろ、考えるな、金輪際《こんりんざい》話題にすんな。あそこに入るのは正真正銘の悪魔だ。きっと、医学的に見たら宇宙生物みたいなもんだ」
「うそだあ。ドクターの話じゃ花のような女の子だったって話ですよ。半年前に連れ込まれた患者さんなんですけど。十四歳ぐらいの。ゴシックロリータのドレスが鬼のように似合ってた、とかなんとか」
「ロマンの言うコト真に受けるな。あいつはただの幼児偏愛者だ。ロリコンという名の癒《いや》されない病気なんだ。あとゴシックじゃなくてウエディングドレスだぞ。血で真っ黒に見えただけな」
「え? なんで知ってるんですか?」
「そりゃおまえ、俺も半年前に入院したからだろ」
あ、なるほど。そういうコトなら納得だ。豪快な筆使いが再開される。本当に不思議だ。あれだけ下手糞《へ た くそ》な絵を描いているのに、石杖さんの右腕の動きは非の打ち所がないぐらい、瑞々しい。
石杖さんには警戒心というものが希薄で、何を訊いても答えてくれる。返答の八割はイヤな顔をしながらのものだが、そういう表情の変化、発言の機微を見るのは楽しい。
「石杖さん、外でなにやったの?」
「別に。フツーに生きて、フツーに怪我して、フツーに怪物にトドメくれてやっただけ」
その仕草《し ぐさ》を、皺《しわ》の一つ一つまで観察する。
手足から意識を削《そ》いで、その分、両目に意識を注《そそ》ぐ。自分が眼球だけの生き物になった気分になる。
「それまでは? 見た感じ二十歳《はたち》前だけど、学歴はどこまで?」
「大学を半年ほどだよ。ようやく新しい人間関係をレポートにまとめたのに、全部無駄になっちまった」
脈拍、呼吸のリズムを計る。
意味のない会話と、意義のある会話。彼が好む話と嫌う話を交互に出題して、現実の彼と僕の頭の中の彼との齟齬《そご》をその都度修正。
「恋人はいないよね。石杖さん、愛想ないし」
「さあねえ。いたっぽいけど覚えてない」
む、それすらも覚えてないのですかこの男はっ。
……けど今の反応は貴重だったので、怒るのは後にしておく。見るべきものは山ほどある。沈黙の時間も大切だ。少しずつ、自分の想像に石杖さんを一致させる[#「自分の想像に石杖さんを一致させる」に傍点]。こういう地味な作業は楽しい。
音楽が流れてくる。待合室から死体たちが流れていく。石杖さんは気にしていないから、今のはB棟患者の為のソナタだろう。
今日も、あと数分でお別れだ。
「ねえ石杖さん。神さまってどう思う?」
彼を見習うべきかどうか、最後の質問をしてみる。
もう友人として永久保存なのは確定しているけど、どうしても許容できない一線はあるし。今のうちに、これだけは確かめておかないと。
「……脈絡ねえなあ。なんでそんな話に?」
「いやほら、悪魔ときたら神さまですし」
「あ、そういう繋《つな》がり。けどうちはそういうのなかったからなあ。ホトケさまも知らないし。神さまの話をしたかったらドクターが一晩中語ってくれるぞ?」
「いえ、神さまの定義とか本当に信じているとか、そういうコトじゃなくて。神さまって単語から、石杖さんは何を想像するのかなって」
「なにも。からっぽ。影も形も、匂《にお》いも手触りもないでしょ」
皮肉じゃなくて、この人は神さまをそういう風に捉えている。神さまなんてからっぽじゃないか、と蔑《さげす》むのではなく、からっぽなのが神さまなんじゃない? と半信半疑。僕とは違うとらえ方だけど、ぎりぎり許容範囲だ。彼の考え方は共感できずとも理解はできる。
「そういう久織は? アンタ、神さま信じてる人?」
「信じているというよりは崇拝ですね。神さまじゃなくて、それを象徴するものをですけど。ねえ石杖さん。仮に、神さまに形を与えるとしたら何を想像します?」
「……空に絵を描けって難問だな。まあ、なに? 仮にそれが偉大なものとするなら、目とか、光とか?」
まったく悩まない。興味のない事には愛想笑いもしない、僕の想像する石杖さんそのものの返答だ。
「僕は手です。神さまが人間に知恵を与えたモノとするなら、人間の手こそ神さまだと思うんです」
「はあ? なに、擬人化ってやつ?」
「……英知の結晶という意味です。人間にあって動物にないのは、五本の指を備えた手じゃないですか」
「ますます分かんねえな。英知っていうんなら脳味噌《のうみ そ 》じゃねえの? 知恵、つまってるし」
「失礼ですね。動物にだって脳はあります。だいたい、人間の英知なんて動物にとっては利用価値のないものでしょう。機能の差は優劣にはなりません。脳なんて所詮、手を動かす為だけの付属品じゃないですか」
しまった。不思議なものを見るような目をされてしまった。少し傷ついたが、新しい反応なのでやっぱり怒るのは後にしよう。今は楽しさが優先する。
「……いいけどさ。そうなると、俺たちは神さまを見失ってるってコトになるな」
「はい。でもまあ、悪魔憑きなんだから当然ですよね」
それ単体で生き物のようだった片腕が止まる。石杖さんは筆を納めて、まあこんなもんか、と呟《つぶや》いた。
「あれ、完成したんですか」
「これ以上やると真っ黒になるからな。そろそろ呼び出しのかかる時間だし、ここが潮時だろ」
ここ一週間、待合室に置きっぱなしだった画材を片づけ始める。……もしかして、さっきの話で怒らせてしまったんだろうか。
「あの。石杖さん、その絵どうするの?」
「どうもこうも、俺いらないし。ドクターに預けて、数年後には焼却炉ってのがオチかな」
「うわ、なんて愛着のない。ならください。大事にはしませんけど、僕の部屋に飾りますから」
またも目を白黒させる。
石杖さんはどうするか迷って、イヤそうな顔をしながら、結局、自分の部屋までキャンバスを持っていく手間を惜しんだようだ。
「あいよ。言っとくけど、返却はお断りだからな」
「はい。そっちこそ、後で所有権を主張しないでくださいね」
石杖さんは右手だけで器用に後片づけをしてA棟に戻っていった。
完成したらしい絵を眺める。……キャンバスの八割を埋める黒い絵の具。羽を広げた蝶《ちょう》かと思ったが、よく見れば素朴《そ ぼく》なテーマだった。隅っこに所在という走り書きと、手を繋いだ二人の子供。
患者の日課は、病状が重くなるほど穴あきになる。
六時起床、七時朝食。食後に診察があり、以後は昼食、夕食まで放っておかれる。C棟の自分でさえそうなのだから、D棟には食事すら与えられていないのでは、と訝《いぶか》しむほどだ。
入院患者らしい生活を送っているのはB棟、A棟の患者たちである。石杖さんはいつものんびりしているけど、僕とは違って一日の自由時間は昼休みだけだった。
あの人の一日は起床、朝食まで僕と一緒で、その後は内科、外科とたらい回しにされて、サイコセラピーから他の患者との会話、基礎体力維持の為の運動、監察医による検査と称する尋問等々、わりと分刻みのスケジュールを持っている。病院側から強制されたものなのでさぼるワケにもいかない。診察はともかくマラソンが何の後に立つかは疑問だけど、石杖さん一人に無理をされるとこっちも居心地が悪い。あの人と話を合わせる為、可能なかぎり僕も同じようなスケジュールを行う事にした。
で、その願いが通じたのか。入院して初めてA棟にある拷問室、もとい、診療室に通された。
「初めまして、は違うか。入院時に一度会っているからな。さっさと座れ、時間の無駄だ」
診察室と呼ぶにはあまりに広く、あまりに物がない。天井も高く、二階あたりの壁にはガラス張りの覗き部屋がある。オセロ盤の真ん中に、ぽつんと置かれた白|駒《こま》になった気分だ。部屋は全体が傾《かし》いでいて、患者用の出入り口は下方にあり、あの女の出入り口は上方にある。
傾いた部屋の中心には机が一つと、はさむように椅子が二つ。上部の椅子にはスーツ姿の女が座っている。
戸馬《と うま》的《まと》。石杖さんはマトさんとかトマトさんとか呼んでいるが、僕から見れば色気のない、三十近いおばさんにすぎない。
戸馬的は罪人を睨み付ける地獄の大王のようにふんぞり返っている。たいていの人間なら部屋の広さに縮こまるのだろうが、彼女は逆に部屋の広さを威圧に変えていた。診察室のマトさんは当社比三倍に見える、とは聞いていたけど、まさか本当とは思わなかった。
「まったく、姉弟《きょうだい》そろって手間をかけさせる。ご両親の話は聞いたか? 昨日、最終的な判決が下された。久織浩二、ならびに久織加代は事故死として扱う。喜べよ。おまえたちは晴れて自由の身になったワケだ。よって本人が望むなら、病状の改善いかんによっては退院の許可も出してやれる」
「――――――」
突然の事に目を白黒させる。驚いた、という意思表示はうまくいった筈だ。
「……あの。どういう、意味でしょうか。病状の改善って……僕の病気、治るんですか?」
「馬鹿だねおまえ。治るワケがないだろう。私が言っているのは心の話だ。人を一人壊しかけて反省しているか、と聞いているんだよ」
……恐ろしい。話の内容ではなく、この女の目が怖い。とんでもない好条件を出している戸馬的の目は、完全に僕を人間扱いしていない。指一本でも動かせば椅子のスイッチをいれる、という油断のなさなのに、僕をこれっぽっちも見ていないのだ。ゴミとかクズ扱いされる方がまだましだ。
「……精神鑑定で正常と判断してもらえれば、通院できるという事ですか?」
「ああ。気味が悪いほどいい話だろう? こちらも慈善事業でもなし、まっとうな国民の金を無駄には使えん。こちらに回す余分があるなら、自分の口座額を増やしたい方々が大部分でな。分かるか久織。おまえたちのような役たたずを一人維持するのにどれだけの金がかかっているか。私にしてみれば、治る見込みのないC棟の患者を囲っておく理由が分からない」
囲っておくと生かしておくは同義。……こんなのと一秒だって話したくはないが、石杖さんに出来ている以上、自分も負けるワケにはいかない。
「……退院後の生活の保証はされるんですよね? 感染症患者が社会復帰できる、というアピールに使われるんですし」
「―――悪知恵は回るんだな。そうか、二年前といえば人権保護でやりあっていた頃だしな。おまえの考え通り、これは患者を思っての事ではなく、この病院を思っての決定だ。入院と称して国中から悪魔憑きを集めていたワケだしな。十年間、退院したモノが一人もいないでは世間体が悪い」
納得がいった。外に出しても安全であろう患者を数名ピックアップしていて、その候補に僕が選ばれたのか。
二年前。感染症患者を被害者≠ニして見るべきだ、という保護団体と、加害者≠ノすぎないと訴える団体で論争が起こった。一説によると保護団体の裏には何人かの有力者がいて、この病院は解体寸前までいったとか。水面下の抗争はいまだ続いているらしい。
「まあ、それは理由の一つにすぎないよ。メインは金だ。なにしろ当初の予算は今年までしか組まれていなくてな。サンプルケースとしても、金食い虫としても、不十分な患者は切り捨てたい。時間も金も、まあ、意味があるうちはほとんど無限だが、できる事なら節約したいのが本音だからね」
言わなくてもいい事をあえて言うのは、僕たちに現実を分からせる為だろう。勘違いするな。病院はおまえたちを真人間《ま にんげん》だと認めていない。外に出ても、決して自分がマトモなのだと思い上がるな、と。
「……分かりました。このまま模範生を続けていれば、その候補に選ばれるんですね?」
「ああ。こちらも最低五人は確保したい。あと一年、このまま優等生を演じていれば私が推薦してやるよ。いいな、別に反省はしなくていい。ボロはだすな」
「……別に。僕は、本当に反省してます、けど」
「それは結構。貫井さんの努力のたまものだ。だがね久織。おまえ、最近生気に溢《あふ》れているじゃないか。モニター越しでもはっきりと分かる。なあ、新しい玩具でも見つけたか[#「新しい玩具でも見つけたか」に傍点]?」
……視線だけで吐き気がする。
いつか、本当に外に出られる事になったら、僕らはまずこの女を殺しておくべきだ。根拠のない予感は苦手とする僕にも分かる。こいつは、殺しておかないとこっちが殺される類《たぐい》の敵だ。
「あの……石杖さんも、その候補なんでしょうか?」
「なに?」
閻魔《えんま 》じみた戸馬的の威圧感がちょっとだけ萎《しぼ》んだ。
院内には噂があって、石杖さんはこの女の『お気に入りのオモチャだ』とか言われていたけど……今の反応は、ちょっと違う気がする。
「最有力だが、私はアレを外に出すのは反対だ」
吐き捨てるように言う。とりつくろっても表情は誤魔化せない。僕以外では見逃すほど些細《さ さい》な筋肉の動きだったが、たしかにいま、戸馬的は同情していた。戸馬的が石杖さんの退院を反対するのは、危険だからではなく、哀れだからだ。
「戸馬先生、僕はどうですか? 推薦と賛成は違いますよね。候補《サンプル》としては申し分ないけど、外に出すの反対してます?」
「あ、おまえはいいよ。充分に強《したた》かだし、なにより便利だ。どこに紛れ込んでもやっていけるだろう。この騒ぎが終わったら、私専用の駒として飼っておきたいぐらい」
口元を邪悪にゆがめて戸馬的は僕を見据える。
本当におっかない。今のも紛れもない本音で、ようするにこのおばさんは感染症患者であろうと嘘は一切口にせず、同情や良心といった感情の揺らぎで判断を間違える事はない。僕らが一つでもヘマをすれば、あらゆる言い訳を切り捨てて鉄槌《てっつい》を下す司法の化身。それが戸馬的という人間である。ともあれ、話は予想以上にいいものだった。詳しく訊いてみたところ、石杖さんはあと半年ほどで、僕は一年ほどで退院の許可が下りるらしい。突然の幸運に感謝する。
「―――ああそれともう一つ、病院側から要請があってな。D病棟にいる患者が是非《ぜひ》おまえに会いたいそうだ。面会許可はおりているから明日中に見舞いにいってやれ。ほら、紙と墨。遺書を書くなら貸してやるぞ?」
当然、要請ではなく命令だ。二年近く入院してたんで忘れてた。うまい話には、相応の見返りを要求されるんだっけ。
■■■
院長先生とドクター、看守……ではなく警備員三人に連れられて、D棟に面会に行く。どうせ拒否権はないし、点数稼ぎにもなるし、少しだけ興味があったのだ。
僕に会いたがっているのは、例の半年前に運び込まれた新人だ。
戸馬的は関心なさげだったが、病院側は死活問題だったらしい。あの後。病室に戻ったら院長先生とやらに半日も説得された。この病院に院長がいたコトも驚きだったし、本来従わせるハズの病院側がその患者に従わされている、というのも驚異的と言えるだろう。
院長先生はD棟の待合室まで付き添って、逃げるようにC棟に戻っていった。……あのC棟が安全地帯に思えるほど、D棟は異質なんだろう。まず、目につく全てがガサついている。他の病棟と同じ床や壁なのに、廃墟をモチーフにした壁紙を貼りつくしたかのように脆《もろ》そうだ。
「では行きましょう。他の患者さんもいますから私語は控えてください」
さすがのドクターロマンも緊張している。警備員たちは堂々と銃器を構えている。サブマシンガンというヤツだ。ここまでくると滑稽《こっけい》である。凱旋門《がいせんもん》前かここは。
ずずん。
取り壊しが始まって倒壊寸前のビルに踏み入る感じ。
一歩前に進むと、棟内のどこかがザザッと音をたてて崩れていく気配がする。もちろん錯覚だ。D棟はこの病院で一番お金がかかっている施設で、そんな柔《やわ》な造りでは末期の患者を閉じこめてはおけない。
細長い、距離感を見失いそうな通路が続く。通路は六メートルごとに十字路になり、どの方角を見ても同じ風景が広がっている。D病棟は十字路のみで構成された迷路らしい。……まるで賽子《さいころ》の内側だ。わずかな電灯に照らされた灰色のせ界。窓も扉も、病室すら見あたらない。それは灰の壁だけで構成された単純さで、奇怪な絵画そのものの世界だった。ここが絵の中なら、ここを歩く自分も、いずれ絵の中の一部になる。
三度、ドクターが道を曲がっていく。今度は左。帰り道はとうに見失っている。ふと、ドクターに付いていくのが一秒ほど遅れてしまい、正面の通路を見てしまった。
ずずん。
赤黒い通路だった。よくみれば色々な死体で出来た道だった。コンクリートの部分は肉のチューブに変わっていて、その中に、お腹が血まみれのお母さんと、首もとから噴き出しているお父さんの姿があった。
ああ―――となると、そのうち僕もあの隣りに現れなくては都合が合わず、期待通り、泣き崩れそうな久織伸也の姿も映し出され、
「久織さん、そちらではなくこちらです」
ドクターの声で、そちら[#「そちら」に傍点]に踏み出す前に目を逸らせた。
ずずん。
「関係のない通路は見ないように。私たちは感じないのですが、感染症の方にはよくない影響を与える患者もいますから」
よくない影響とはどんなものか尋ねてみる。
「……そうですね。例えばいま久織さんが見ていた病室の患者は、これまで二人ほど行方不明者を出しています」
今の僕のように、うっかり他の通路を見てしまった患者がいたのだ。彼らはそのまま病室に入っていって、その後、忽然《こつぜん》と姿を消してしまったという。……D棟患者が彼らを隠したのは明白だ。問題はどこに、どのように隠したか。人体をコンパクトにしてベッドの下にでも押し込んだのか、それとも、体の内側に消化《かく》したのか。
問いつめる医師に、そいつはニヤけながら、
あいつらなら、俺の脳《あたま》ん中でもがいてるぜ
そんな答えを、返したらしい。
ずずん。
ドクターを見失わないように歩く。これから会うのは十四歳の少女だ。全身をズタズタにされて運び込まれた感染症患者。手足はほとんど残っておらず、体もほとんどミンチ状態。
何かの間違いで一命を取り留めたというが、いかにA異常症患者……悪魔憑きといっても、殺されれば死ぬのが道理。その少女は良くて一生ベッドの上での生活か、あるいは、病院側が『生きている』と定義しているだけで水槽に脳味噌が浮かんでいる……というのもあり得る話だ。
ずずん。
実際、そういう噂話はここD棟には事欠かない。D棟にある室内プールはみっちりと内臓らしき物で満たされているが、もとは一人の患者であり、困ったコトにまだ生きているから取り出せない、なんて怪談もある。室内プールへの扉は厳重にロックされているので真相は定かではない、というか誰も真偽なんか確かめたくない。
ともあれ、会ってみたい、というコトは話ができる、というコトだ。脳味噌とか内臓だけの怪物というワケでもなし、最悪首だけの少女が迎えてくれても顔だけは驚かないよう、表情を造っておく。
ずずん。
ドクターが何枚目かの扉を開ける。
細長い通路が現れる。ここが終点らしい。十メートルほど先には、もう一枚鋼鉄の扉がある。
「久織さんが中に入った時点で、この扉を封鎖します。我々はここで待機していますから、気兼ねなくお喋りしてください。あ、この扉が閉まったら一分後に奥の扉が開きますから」
徹底している。これ、ホントは死刑なんじゃないだろうか。
「……あの、ダメもとで言うんですけど、警備員さんが持ってるの。貸してもらえません? ほら、護身用に」
「ははは、大丈夫ですよ、そんな猛獣と会うワケでもないんですし。それに、彼らも発砲する事はないんですよ。だってあんなの、彼女には威嚇《い かく》にもなりませんからね。本当に効き目があるのは、ごらんの通り何重もの鉄の壁だけです」
「…………」
ずずん。
軽率だったと後悔する。好奇心と命を引き替えにしてしまった。
通路に進む。真後ろで扉が閉まる。ずずん。一分後、最後の扉が開かれる。ズズン。
「―――は?」
知らず、タイムスリップしたかと思った。それとも気が付かないうち死んでいて空想《しご》の世界に跳んでいたか。
扉の向こうは体育館だった。ただしやっぱり廃墟風。
廃校の体育館の、壁という壁をコンクリートで塗り固めたような部屋の真ん中には、八メートル近い天井から人間大の蓑虫《みのむし》がつり下がっている。ズズン。あ、飛んだ。長いチェーンに繋がれた蓑虫は振り子のように横に飛ばされて、コンクリートの壁に激突する。ズズン。振り子なので当然返ってくる蓑虫。
それを―――体育館の真ん中にいる人間が、よっと声をあげて受け止める。蓑虫はサンドバッグで、グローブをつけて殴りつけているのは、これ以上はないというぐらいの、花のような―――
「あ、もう来たんだ。はあい、初めまして久織さん! ごめんねー、ちょっとそのヘンにかけててくれる? あと少しで今日のノルマが終わるからさ」
ズズン。深く踏み込んで右拳《みぎこぶし》を叩き込む。サンドバッグは垂直に、イルカみたいに、八メートル上の天井まで舞い上がった。
それが半年前に運び込まれた、再起不能と言われた感染症患者。どう見ても二十歳にしか見えない十四歳の女の子で、石杖さんの実の妹さんだった。
×××
「全体的に、頑丈《がんじょう》に出来ているんじゃないかな」
感染症患者のコトを、彼女は一言で表現した。
意気投合するのに時間はかからなかった。そのコメントは、ずっと僕が抱いていた感想と同じだったからだ。
「私? 私は発病した次の日にあの女に捕まった。もうめった撃ちでめった刺し。あいつがサンプルを取る気じゃなかったら、頭を串刺《くしざ 》しにされて終わってたんじゃないかなー」
彼女はあまりにも存在感があって、現実感がなかった。C棟の患者たちが幽霊や死人だとするなら、彼女は文字通り怪物だ。この、曲がりなりにも現実であるD棟においてさえ、漫画の中のキャラクターじみたデタラメさ。後に石杖さんは言う。マトさんが達人ならうちのアレは超人だ、と。そのカテゴリは実に正しい。医学的に見て、彼女は既に人間ではない。
そんな怪物が、半年前、戸馬的の手によって死の寸前まで追い込まれたのか。
「そうね。子供だったからって言い訳はできない。あそこであの女がやってきたのは、現実ってものを見下していた私への天罰だった」
ボクシングのグローブを外しながら、照れ隠しのように微笑《ほ ほ え》む。黒絹《くろきぬ》のような長髪。石杖さんとは正反対だ。絶世の美女、というのはこういうのを言うんだろう。
「以上が私がここにきた顛末《てんまつ》。得た教訓は一つだけかな。命がおしいなら、私以外の生き物はあの女に逆らうな。―――で、久織さんは?」
二年前の事件を話す。彼女には全て知ってほしくなったので、コトのはじまりからきちんと説明した。
両親を殺した、いや、今はちゃんと事故死だったって認められたから、両親を見殺しにして、両親を助けようとした姉である久織巻菜もマンションから突き落とした、という、久織伸也の物語を。
姉は一命を取り留めたが、落下のさい、右腕をおしゃかにした。命の代わりに片腕が不随《ふ ずい》になったのだ。
「それは災難だったね。うまくいかなかったんだ、久織さんは」
そう。昔から何をやってもうまくいかない。
事件の時だって何もかもうまくいったのに、全部終わったところでスタート地点に戻された。
なんていうか、ゴールの賞品が破産だったようなものだ。参加したゲーム自体、誰も幸福になれないように出来ている。
「ふ〜ん。久織さんは、椅子取りゲームは好き?」
ゲーム全般、面白みが分からない。
椅子取りゲームだって、あんな単純な遊びなのに勝てた覚えがない。どうせ負けるのだから、ゲームに参加するより観察している方が自分向きだ。
たとえば、自分は椅子に座りたいワケでもないし、椅子を勝ち取った人間に憧れているワケでもない。床に座ったまま、うまく勝ち残った人間を見習っているだけで良かった。
ばあか――――ばいばい、伸也―――
それが、おかしなコトになったのは、
「そっか。じゃあ、この先注意しないとね。どうか、理想的な椅子に出遭わないように」
「え?」
「だって、貴方は観客なんでしょう? もう椅子には誰かが座っている。久織さんにとって空いている椅子はないんだもの。なのに理想的な椅子に出遭ったら、もう座っている人を消さないかぎり椅子には座れないじゃない。ね? 見習うだけなら健全なのに、憧れてしまったら、アナタは元の醜悪《しゅうあく》な悪魔憑きに戻ってしまう。
貴方は我慢がきかないからここに閉じこめられたんだし。もし椅子に座りたいと思っちゃったら、タイヘンだ」
だから気をつけなさい、と僕より五歳も年下の少女に窘《たしな》められた。
……もといた誰か。本物を消さないかぎり、座れない。けれどその心配は不要だ。今までどんな椅子をみたって、憧れたコトなんてないんだから。
×××
その後の談話は、実に女の子らしい内容になった。小一時間も話して、一週間に一度は面会するコトを約束して床から腰を上げる。
「あ。けど、どうして僕のコトを知ってたんだ? キミ、ここから出られないのに」
「あ、それ? だって久織さん、うちの兄貴と話したでしょ。それでこの人ならって直感したんだ。ちょっと頼みたいことがあって」
ぺろりと舌をだす。
成人した女性らしく落ち着いていた彼女は、最後に小悪魔のように笑って、
「ね。うちの兄貴の退院、なんとか延ばせない?」
■■■
もちろん、そんな頼み事は聞けなかった。
石杖さんに問題を起こしてもらう事は可能だったし、妹さんの頼みなら手足の一本でも差し出しても良かったのだけど、我が身を犠牲にしたトリックでは僕自身の退院時期も延びてしまう。いや、あの戸馬的《お ば さ ん》の事だから永久に候補から外すだろう。
僕は石杖さんと妹さんの間で板挟みになりながらも、最後までその頼み事を果たせなかった。……まあ。その件に関しては、僕が手を出すまでもなかったのだが。
「こんにちは石杖さん。今日は将棋?」
「……?」
詰め将棋をしていた石杖さんは、困った顔で僕を眺める。初対面のような反応だった。
「大丈夫? 僕、久織だけど」
「久織……? そっか、言われてみれば久織の特徴だ。悪いな、照合に時間がかかった。アンタとは昼間にしか会わないからさ。で、どうしたんだよそれ。事故か?」
「ああこれ? 手術の結果。前から悪かったところを切除してもらっただけ」
そうか、と頷《うなず》きながらメモをとる石杖さん。片手なのに実に器用だ。
「今日はお別れの挨拶に。もうじき会えなくなるだろ、僕たち」
病棟の毎日に変化はなくとも、月日は当たり前に過ぎていく。世界を排斥《はいせき》し続けた僕らだが、向こうは思いの外《ほか》面倒見がよく、無責任にも脱落者に手を伸ばしてくれるらしい。
「そうか。アンタは変わったヤツだったな。ここじゃあ他の患者に声をかけるのは御法度《ご は っ と》だったのに。感染者同士が話をすると、話しかけた方に悪魔が取り憑くって言われただろ?」
「石杖さんは僕のコトは言えないでしょう。僕は話が成立しそうな人にしか話しかけないけど、貴方は見境なしじゃないですか。……前から聞こうと思ってたんですけど、どうしてそう危機感がないんですか?」
「そうだな。だから、そのあたりが欠陥なんだ」
「……忘れっぽいのは欠陥じゃないんですか?」
「そっちは対処できるから、まあ、なんとか。悪いコトだけでもないし」
……悪いコトしかないのに、なんて大雑把さだ。妹さんがヤキモキする理由が、ちょっと理解できた。
「それよりさ、そっちの理由を聞かせろよ久織。アンタこそどうして俺に話しかけた。基本的に、ここには他人に興味を持てないヤツしかいないんだけどな」
正しくは、自分だけで手一杯の人たちだと思う。
「そうですね。けど、僕は他人にしか興味ないんです」
へえ、と石杖さんの独り遊びが止まる。片腕で白髪の彼は、これっぽっちも興味なさそうな目で僕を見た。
「それは、どうして?」
「考えてはいけないから、じゃないかな。癇癪《かんしゃく》持ちって言うんでしょうか。僕は子供の頃から、うまく感情の抑制《よくせい》ができなかったんです。怒ったり悲しんだりしたら、その原因が解決するまで、途中で止めるコトができなかった」
たとえば、悲しい物語を読んで心を揺さぶられたら自分では心の揺れ幅を止められない。その、悲しい気持ちにさせた物語自体を解決、ないし解体しなくてはずっと悲しいままだった。
子供の頃はそれでも人間として成立していたけど、小学校の終わりには個人として破綻《は たん》してしまった。自分の気持ちが最大の敵だったんだから、応急処置として、自分の事を自分から切り離したというワケだ。
「そりゃ難儀だ。癇癪は生まれつきか?」
「素質はあったと思います。でも、はっきりと現れたのは小学五年の頃でした。よく覚えてないんですけど、姉貴が言うには真っ昼間にお化けを見てからおかしくなったって。うち、団地の三階なんですけどね。ベランダで、お父さんお父さん、すごい、あそこで人が燃えてるよってずっと繰り返してたんです」
「……すごい話だな。燃えてる人って、その、生きたまま?」
「生きたまま。平然と、真っ黒に燃えながら団地の広場を横断していったんですよ。今なら何か、現実的な推測もできるんでしょうけど。子供が見たらお化け以外の何物でもないかな、と」
石杖さんは眉間《み けん》に皺をよせている。
……一番の友人は妹さんに切り替えた後だったけど、少し、未練ができた。彼は今の話をホラ話ではなく、本当にあった話として聞いてくれている。難しい顔をしているのは、そんな目にあった子供に同情してのものだった。
そうしてアダージョ。
初めて会った時と同じ、退屈で安らかな音楽が流れてくる。
「―――ああ、もう戻らなくちゃ。
お別れですね。最後に、握手してくれませんか?」
右手を差し出す。
「悪い。握手はしない主義なんだ」
石杖さんはきっぱりと拒絶した。久織伸也をではなく、握手という行為そのものを、彼は禁じているらしい。
そういうコトなら仕方がない。誰だって苦手なものはあるんだし、どのみち、今の僕たちではまともな握手はできないだろう。
僕らは触れ合う事なく、言葉だけでお別れをした。
■■■
後日。最後だからと、彼が昼間の記憶を失う病状なのだとドクターに聞かされた。
なるほど、といくつかの疑問が解決する。どうしても法則性を見いだせなかった彼の忘れっぽさは、そういうコトだったのか。
「――――――」
会えなくなってから、彼もこの病棟に相応《ふ さ わ》しい人間だったのだと思い知る。
石杖アリカは一日ごとに新生しているのだ。
半端ではあるが、彼は「今日」しかない人間だ。そんな人間が、ああも人間らしく生きていた。たしかな現在がない人間が、未来《あ し た》を目的に過ごしている。
……妹さんは、物理的に怪物だったけど。
石杖アリカは、精神的に最強だったのかもしれない。
それは私にはない機能で、もしかしたら、私に必要な機能だった。
ともあれ、これで病院での話はおしまいだ。
自分の退院はもう少し先だろう。いつか自分も退院する時がきたら、その時は真っ先に、石杖さんを訪ねに行こう。幸い彼とは同じ県の出身だし。お互いそれまで生きていれば、わりかし、あっさりと出会えてしまうのが人生だ。
[#改ページ]
1/Hide
自分で言うのも何なんだが。
それは最高で最悪の社会復帰だった。
「はい。今日で出て行っていいよ、おまえ」
マトさんはそれだけ告げて、忙《いそが》しいからまた後で、と去っていった。ううぅ、あまりにも簡単すぎないか? もっと色々波乱含みかと思っていたのに、これがもうあっさり退院手続きは済んでしまった。借りてきた猫を返す感じに。
「……なあドクター。出て行く身で言うのもなんだけどさ、あまりにも簡単すぎない?」
退院まであと一時間。
最後の挨拶というコトでドクターの懺悔《ざんげ 》室《しつ》に立ち寄って、つまんないグチをたれてみる。
「いいじゃないですか。戸馬さんも戸馬さんなりに貴方を気遣っているんですよ。あの人、弱い立場の人には優しいんです」
「げ。なにそのまるわかりな嘘。俺はアンタの方が心配だよドク。女を見る目なさすぎる」
あれで弱者に優しいというのなら、戸馬的は根本的に愛情表現が崩壊している。あいつの方こそ悪魔憑きじゃねえのか実際。
「まあ、戸馬さんの事はまた機会があれば。それよりここに寄ったからには、相談事があるんでしょう?」
「……当たり。入院生活長かったからさ、臆病になってるんだ。気楽にやっていきたいんだけどね」
「ははは。世の中にうまくとけ込めない。それが、入院当時の貴方の口癖でしたからね」
「笑いゴトじゃない。今でも苦手なんだから。ほら、外に出たらさ。誰もが名誉とか成功を手に入れたがってるじゃんか。……そりゃあ分かってますよ、うまくやっていくにはそれだけでいいんだって。自分もそういう事に躍起《やっき 》になるだけで、混ざるコトだけなら出来るって言われたからな。けどさ―――俺にはどうしても、そういう真似事だけは出来なかった」
……女々《めめ》しいったらない。戸馬的が罵詈雑言《ば り ぞうごん》で後押ししてくれなかったから、今度は優しい言葉で希望を持とうというのだ、この俺は。
「それは困った。貴方はこれからそういう真似事をこそうまくやらないといけないんですが。……まあ、何ですね。人が人を押さえつけようとする動機。お金や名誉、権力を得ようとするのは、偏《ひとえ》に自分を認めてもらいたいからです。自分がどれほど他者より優れているか、自分の価値を明確にしたいからです。それは分かりますか?」
「知ってるよ。けど俺には、それが重要な事には思えない」
「当然です。そもそも、君は自分に価値があると思っていない」
「…………」
失敗したかなあ。ドクター、今日は辛辣《しんらつ》じゃん。
「いいですか。無条件に愛されなかったもの、社会に迫害された人間は、総じて自身の価値を喪失している。愛されなかったから、居場所を与えられなかったから。自分に価値があると思えない。一生|卑屈《ひ くつ》に生きていく。
その欠落、マイナスを取り戻す事はできません。このディスアドバンテージは本人には決して埋められない。
―――解決方法は一つだけ。自身に価値を見出せないのなら、君の価値を認めてくれる者に触れなければいけない。君には自信ではなく、君を必要とする者こそが必要なのです。一生をかけて探しなさい。その為に、君は生きていくべきだ」
「…………」
……圧巻だ。俺は長年ドクターを侮《あなど》っていた。あまりのロマンティックさに赤面《せきめん》すらできない。彼をドクターロマンと名付けたヤツは、もしや天才ではなかろうか。
まあ、それはともかく。ドクターの言葉は、それなりに胸にきた。理解はできないがいい方針だったからだ。なにしろ明確で分かりやすい。
「とりあえず気の合うヤツを探せってコトか。けどそんな都合のいいの、見つかるもんですかね」
「ははは。そこまでは保証のかぎりではありません。あ、病院内で友人はできましたか?」
はい、と答える。
それなら大丈夫、可能性はあるじゃないですかとドクターは気楽に笑った。けどなあ。できたにはできたけど、きっと忘れてるから意味ないとは思うんだ。
「と、呼び出しがかかってますね。それではA棟の屋上に向かってください。よろしければヘリポートまで付き添いましょうか? 荷物、一人じゃ大変でしょう」
「いいですよ、子供じゃあるまいし、鞄一つきりだし。それより今、なんか凄《すご》いコト言いませんでした? ヘリとか聞こえたんですけど」
「あれ、戸馬さんから聞いてません? この病院、空からでないと入れないんですよ。言ってしまえば、屋上が正面玄関なんです」
「―――なるほど。そりゃ、脱走者が出ないワケだ」
というか。
今さらだけど、ここ病院じゃなくて本気で監獄だったんだ。
A異常症患者は住居を他県に移す事はできない。危険人物はきちんと国が管理・監視・運営するというワケで、退院した俺は古巣であるC県|支倉《し くら》市に送られる。
ヘリから自動車に乗り換えて、都合三時間の旅である。目隠しとかされるのかな、と期待していたが、そんな事はなくいたって普通に送り返される。保護観察中の不良少年のようなものだ。
高速を使ったにしろ、たった三時間で古巣に戻って来られるあたり、あの隔離病棟も充分に現実だった。別世界なんて、その気になれば二時間で辿《たど》り着《つ》けるのが今の現実というワケだ。
「ご親族は受け入れを拒否していますので、施設の方に。運転免許は全て破棄《はき》させていただきます。住民票、保険証といった書類は後日、指定の役所に取りに来てください」
隣りに座った黒スーツサングラス角刈りのダンナが抑揚なく説明してくれる。
国はA異常症患者、およびA異常症患者によって傷害を受けた者に住居を貸し出していた。市営住宅のようなものだろう。市が運営する年期の入った一棟きりの団地で、障害者、低所得者の為の共同施設をこちら用に切り替えたものらしい。と言っても、病院帰りの利用者は俺が一人目。これから何人か受け入れるのだろうが、基本的にはもとのまま、社会的にちょい弱い同胞の住み家である。
月々の家賃は奥さま驚きの四桁価格。働き先がない感染症の方々には最低限の食費も支給。そのかわりに隣りの角さんみたいな監察医をあてがわれて、近隣でやばめな事件が起こる度《たび》に取り調べをうけるというオマケつきだ。
「それでは、後の手続きは管理人に引き継ぎます。一日に一回、午前九時か午後六時に、こちらの番号に連絡してください」
電話しなかったらどうなるか、という一番大事な部分は口にせず、角さんは古びた団地から去っていった。
さて、と鞄を持ち直しておんぼろビルを見上げる。
鉄筋コンクリ六階建て、マンションというよりアパートのような窓の密集ぶりからして、各階八部屋はあるだろうか。入口は狭く汚くむさ苦しく。ヤクザもの以外お断り、という淀んだ空気満杯である。
「―――うん。いいじゃないか、ここ」
あの病院に比べれば外見《そとみ 》や中身の汚さなどどうでもいい。
ヒャッホー、おめでとうだよ俺! さらば我が灰色の入院生活、俺の新生活はこのオンボロマンション・支倉第十三号福祉施設から始まるのだった!
「ああ。新しい入居者? ……ふーん。どんな格好でも文句言わないけど、もめ事は起こさないでくれる? はい、これ鍵。電気と水道は明日から通すから。今日は文句言わないでね」
しかし、心機一転は入って数秒で台無しにされたのだった。
「……愛想のねえババアだなぁ……」
でもまあ、それはやっぱり都合がいい。
見た目通り、マンションは杜撰《ず さん》な管理で杜撰な管理者で、こっちから出向かないかぎり、あの管理人が部屋に来る事はないだろう。あまりの好条件に鼻歌などたしなみつつ、三階の部屋に向かう。表札も何もねえし。扉は築三十年の重みをヒシヒシと伝えてくれる。
「あれ? 新しいお隣りさん?」
うまく回らないドアノブと格闘していると、ひょろっとしたおっさんがやってきた。こんなマンションに住んでいるにしては愛想のいい、極楽島に住んでそうな、ケバい化粧をした三十男。そのアロハシャツやめろ、似合いすぎだから。
「そっかー、ついにあたしんところにもお隣りさんができたかー。あたし新島《にいじま》。そっちは?」
「ども、こっちは石杖。名前の方は所在と書いてアリカです」
「あら。若い子らしいすっとぼけた名前ねぇ」
ふふふ、と笑う新島。後に、この男の名前の方がよっぽどすっとぼけてると判明するのだが、それは別の物語である。
「今日からよろしく。困った事があったら、また」
「はいはい。若い子が入ってくれたのは華やかでいいけどねえ。アリカちゃんは、ちょっとあたしのタイプじゃないかなー」
それは良かった。俺もアロハシャツ着たゲイは、ちょっとタイプじゃなかったし。
■■■
気が付けば一ヶ月も経っていた。
生活用品の買い出し。マンション周りの探索、職探しから自由の満喫《まんきつ》。新しい生活への順応に夢中になりすぎて、やるべき事を忘れていた程だ。
少し、気楽に振る舞いすぎたと反省する。
昔の知り合いに会わないよう、昔の行動範囲に重ならないよう、注意に注意を重ねてやってきたが、俺は根本的な忘れ物をしていたのだった。
「……だよなあ。一度ぐらいは家に帰っておかないと」
石杖家は支倉坂二丁目にある一軒家。駅を挟んで反対側の住宅地で、距離的には徒歩一時間強、バスなら二十分強、車なら二十分程度、という位置関係だ。
町なんてものは狭いようで広い。駅の反対側の住人なんざ、知り合いでもないかぎり関心を待たないのが現代社会の特徴だ。そりゃあね、コンビニ一つで生きていけるんだから、行動範囲は職場と自宅とコンビニと、贅沢言うなら駅前の本屋と酒場とデパートで充分だし。
そんなワケで石杖邸に戻る理由はゼロなのだが、一度ぐらいは足を運んでおかないと後々困る。
人目につかない深夜、歩いて支倉坂へ向かう。
名前の通り、眠っちまいそうな気の抜けた坂が続く住宅地は、午前零時を過ぎれば軒並み眠りについている。
しけた街灯の下をとぼとぼ歩く。えーと、木崎、石森、月見里《や ま な し》、石杖、と。このあたりはみんな夜更かしさんなのか、どこも明かりがついている。その中でぽつんと闇に沈んでいる石杖邸。協調性ないのである。
「げ。鍵、かかってる」
しまった、考えてみれば当然だ。今から戻るのも面倒だし、いいか、どうせ無人なんだし。裏手に回って台所の窓に手をかけると、あっさり開いた。不幸中の幸いだ。窓ガラスを割ったりしたら、さすがにご近所の皆さんが不審に思う。集まってきた人たちにお久しぶりですと挨拶をしてもいいが、病院帰りな俺にどんな対応をしてくださるか想像に難《かた》くない。ただでさえ慣れない片手の生活で苦労してるんだし、ストレスは溜めたくないよな。
「はい、お邪魔しますよ、と」
事件以来、無人であろう我が家に入る。
「? なんだ、ちゃんと直されてるじゃないか。たしかここ、一面血の海じゃなかったっけ?」
とりあえずリフォームしといて、ほとぼりが冷めた頃に売りに出す算段か。この分なら俺の部屋も直されてるだろう。階段から二階へ。部屋の扉は新品だ。そうだよなあ、マトさんのショットガンで粉々にされたって話だし。
「……へえ。中は、あんまり手を付けてないんだな」
石杖アリカの部屋だった空間を眺める。
ばたん、とベッドに寝っ転がって、天井を眺めてみたりもする。
「―――あ、銃痕《じゅうこん》みっけ」
手を抜くなリフォーマーども。これじゃ高値で売れないぞ。
三時間ほど家の中で過ごして、ホームシックは解決した。かつての生活がどんな物だったか、家の中を調べれば把握できる。俺は長く使われず、今では新しく飾られたかつての家を後にする。俺だって新生活を始めたんだ。家だっていつまでも操《みさお》を守ってはいられなかったんだろう。
まあいいよね。どうせ、俺には関係のない事だし。
二ヶ月も経てば、慣れない生活も安定する。
十三号マンションの2DKの安部屋にも愛着が湧《わ》いてきたし、この町での暮らし方も掴《つか》めてきた。快適とまではいかないまでも、充分に満足できる生活である。
こうなると、残る問題はあと一つ。
あの隔離病棟で石杖アリカは積極的に義手を試すものの、結局ひとつも体に合わず片腕のままで過ごしていたのだ。退院したのなら、当然この問題に取り組むだろう。無意味に終わるだろうが、だからといって無視する訳にはいかない。
とりあえず近場の医療関係を回って、義手の条件を発注して、のんびりと帰宅する。と。錆《さ》びた郵便受けに、なにやら不審な郵便物発見。
「? 差出人も何もないぞ、これ」
大きめの封筒だ。糊《のり》で厳重に閉じられていて、封筒自体も現金を送る為の、ちょい高めで厚手の物である。
首をかしげながら部屋に戻って、ベッドに寝っ転がって封筒を開封する。
現れる、一万円札の大盤振る舞い。―――喜ぶ前に、身に覚えがなさすぎる。
「――――――」
頭を真っ白にしつつ、片腕で札束を数える。枚数ざっと八十枚。俺の年収を上回る額だった。
「捨て―――る前に、ほら、あれだ、新島ちゃんにお金借りてたっけ」
悲しいかな、病院帰りはつねに金欠なのだった。貧しさが生んだ悲劇なのだった。こんなあからさまなトラブルの素《もと》を、時に容認しなくてはならないとは……!
「……ま。実際、警察に届けるのも問題だし」
記憶に残るような事ならいいが、記録に残る[#「記録に残る」に傍点]事はできない。俺の生活が破綻する。
「一応、半月ぐらいは様子を見ればいいでしょ」
そんな訳で着服決定。何かの間違いなのは確実だから、それぐらいは預かっておこう。騒ぎになったら返してやればいいし、ほら、落とし物だって半年経ったら拾った人間に贈呈されるんだから。
「あー、一年だっけ、全額だっけ?」
もっとも、そんな事は些細な問題だった。
なにしろ翌月。今度は部屋の新聞受けに直接、同じ封筒がつっこまれていやがった。
「アリカちゃん、なんか物騒なのに関わってんじゃないのぅ?」
「……はい、おはようございます」
朝から滅入《めい》る。
ドアをサンドバッグのようにノックして現れた新島ちゃんは、人のすっぴん見るなりつまらないコトを言い出すのだ。謎の封筒事件が続いている今、訊きたいのはコッチの方だ。
「何のご用ですかね新島ちゃん。俺、今から朝メシなんすけど」
「あ、もうグッドタイミングすぎ! 良かったわねぇ、朝ごはん浮くわよアリカちゃん!」
「……話わかんねえ。至急、用件を述べて出て行ってください新島ちゃん」
「だからあ。アリカちゃん、その片手を埋める義手探してるんでしょ? その件で話があるって、お客さんが来てるんですって」
「―――あ?」
……ばりばりと片手で頭を掻く。わざわざマンションまで来るなんて、どこの暇なセールスマンだ。
「……イヤな予感するなあ。そいつ、ロビーで待ってんの?」
「ううん、向かいのマリオンで待ってるって。ほら。モーニング、ぎりぎり間に合う時間でしょ?」
「………了解。ホントならすっぽかすけど、マリオンのモーニングなら、食べる」
つーか奢らせる。
至急着替えて、相変わらず顔を出さない管理人室の前を通って玄関へ。十三号マンションの向かいには、わりかし趣味のいい喫茶店・マリオンがある。難点はお値段が平均八百円もするってコトだ。
いらっしゃい、と渋めのマスターに挨拶されて店内に入る。セールスマンはすぐに見つかった。この時間、常連でない顔はそいつだけだ。
「……どうも。石杖ですけど、義手を売りつけに来たのってアンタ?」
「はい。山田と言います。こんにちは、石杖くん」
性別、男。歳は三十代後半。これといって特徴のない、平凡な紳士。とりあえずモーニングセットを頼んで対面に腰を下ろす。
「それで、どこの病院の人ですか?」
義手を発注してから一ヶ月経っているが、どこも届くのはもう少し後の予定だ。
「いいえ、私は病院の人間ではありません。言ってしまえば別件です。石杖さんが出来の良い義手を探している、と聞いたもので」
うわあ。こりゃあ朝から新島ちゃんが怪しむワケだ。この紳士、あまりにも怪しすぎる。
「……とりあえず、話だけは聞くけど。ささっと説明してくれる?」
断る気満々だけど、モーニングセットを頼んだ手前、この紳士に伝票押しつけないといけないからね。
そして、紳士の話は怪しいを通り越して、ちょっと面白い話だった。
要約すると、支倉市の郊外には世にも珍しい義手や義足を持っている子供がいて、そいつの義手なら石杖さんに合うのではないか、という話だった。そんな高そうな義手に出す金はないが、なんでもその子供は世話役を募集中で、世話役をしている間は無料で義手を貸し出してくれるらしい。
「……で。なんでアンタがそんなコト知ってんの?」
「昨日まで、私がその子供の世話をしていたからです。残念ながら解雇されましたが」
本当に残念そうに語る。
「クビにされたってコト? ……ふーん。事情は聞かないけど、なんで俺にそんな話するワケ? クビにされたんならさ、わりと恨むもんじゃないの?」
「そうですね。このまま忘れてもいいのですが、やはりあの子が哀れだからでしょうか。せめて後任を見つけなくては、と罪の意識を感じまして」
紳士は世話役とやらの職務内容と、その給金を説明した。……真偽はともかく、その仕事内容で月二十万はおいしい。なにより、昔の知り合いには絶対に会わない、という点が素晴らしい。
「……訊くけど。なんで俺なの? 俺みたいな素性のヤツに声をかける時点で怪しいとか思わない?」
「その子供は、貴方と同じ悪魔憑きです」
……ああ、そういうコトか。それならまあ、俺に声をかけるのも筋が通る。世の中、誰が好きこのんで感染症患者の世話を見たがるのか。
「……そいつ、暴れないんだろうな」
「ご自分では指一本動かせません。石杖さんの安全は保証します。貴方もあの子を見れば納得できるでしょう」
またも好奇心に負ける。俺は細かく話を聞き出し、モーニングセットを余裕で平らげ、紅茶のお代わりまでしてしまった。
要するに、とりあえず職場を見学してみよう、という気になったのだ。金には困ってなかったが、職にありつけて、かつ義手が手に入るなんて話、この先まずあり得ない。その子供が住んでいるのは支倉市の郊外で、おまけに私有地だった。……どうやらとんでもない金持ちの子女らしい。
それじゃあ明日にでも向かう、と約束して席を立つ。
「ありがとう。では一つ、前任者としてアドバイスを」
ニコリと笑う。紳士は祈るように両手を合わせる。
「……あの子は人間が大好きだから、どんな無礼な発言も、どんな虐待《ぎゃくたい》にも文句は言わない。けれど注意しなさい。仮に、あの子とどんなに親しくなっても口にしてはいけない言葉がある」
背筋がひりつく。温厚で平凡だった男は歪《いびつ》に唇をつり上げて、
「いいかい。決して、外に出よう、と言わないこと。
その類の言葉を口にした瞬間、君は取り返しのつかない、完全な敵として認識されてしまうからね」
悪魔のように、笑っていた。
■■■
支倉市は極端な町である。駅前付近は平均的な郡市風景だが、ビルディングが立ち並ぶのは市の中心だけで、周りは物の見事に森と畑ばっかりだ。
駅前から支倉坂の住宅地に向かって二キロほど歩いて、住宅地のはじっこまで行けば、見渡すかぎりの田園風景が広がっている。
で。その殺風景な郊外には所々に森があって、そのうちの一つに義手を持つ子供が住んでいるのだそうだ。
市営バスに近場まで乗せていってもらい、私有地にしては広すぎる森に入る。森には街灯が道標のように立っており、ほどなくして目的地に到着した。
巨大なサイコロを連想する建物だ。木々を伐採して造られた人工の広場に、十メートル四方の立方体が鎮座している。山田……間違いなく偽名……の話ではあれは貯水庫で、きちんと水で満たされているらしい。
鉄製の扉に、鍵はかかっていなかった。中は暗く、陽射しが地下に続く階段を照らしている。わりと深い。
「やばいって。これ、D棟どころの話じゃない」
これでも目端は利く方だ。ここが猛獣のお家だとひしひしと感じ取れる。未知や死に対する感知能力は、人間共通の機能である。
「……けど面会するって言っちまったしなあ……」
大雑把なのが石杖アリカ風なのだが、一度した約束はそれなりに守っていた。我が身かわいさで変える事はできない。
階段を下りる。扉が閉まる。ひとりでにだ! 真っ暗な通路を歩く。すぐに扉に行き当たる。手探りでノブらしきものを見つけて、回す。ぎい、とクラッシックな扉が開く。
途端、
「――――――、ああ」
天を仰ぐ。生まれて初めて、運命というものを感じてしまった。……夢見る乙女じゃあるまいし。ああもう、これからはドクターを馬鹿にできない。
その部屋は、大昔の一室だった。西洋の城から、ちょいと暗めで人気のない部屋をくるっとスプーンで掬《すく》い上げたような感じ。
チェス盤のような白と黒が交差する床。煉瓦の壁。お高い家具。部屋の隅に積み上げられたガラクタの山。電灯なんて無粋なものはなく、天井は一面のガラス張りで、おまけに水槽だった。ゆらゆらと揺られながら、陽射しは地下室を照らしている。
「こんにちは。石杖所在さんですか?」
部屋の中心にある、天蓋付きのベッドから声がする。
背中の寒気は収まらない。一瞬、自分が誰であるかも忘れてしまったが、ぐっと腹に力をいれてベッドに向かう。見たかった。今の、この世のものと思えないキレイな声の主を、はっきりと見たかったんだ。
「あ、そこで止まってもらえますか? うわあ。本当に片腕なんですね。聞いていた通りです」
ベッドまであと一メートル、という所で止められた。
天蓋からたれるヴェールの向こうに、ベッドに身を沈めた人型、人型、が―――
「う、おおおおおお!?」
メメメメメチャクチャ可愛いじゃん! なにあれなにこれ、あんな人間いていいワケ!? 見とれるくらいの美女なら見てきたけど、言語を絶するほどの美少女なんて見たコトない! というか、そんなファンタジーほんとにこの世にあったのか!
「もしもし。石杖所在さん、ですよね?」
長い黒髪の少女が、不安そうにこっちを見る。
……脳死しそうだ。ふかふかのベッドに身を沈めているのは、十四歳ほどの少女だった。色素の薄い目と、これ以上ないほどの深い黒髪。
俺たちでは一生着る機会のなさそうな、なんかドレスみたいな寝間着が高級な人形を思わせる。異様に小さい体が、よけい人形を連想―――
「――――うそ」
そこで、舞い上がっていた頭が止まった。体が小さいのではない。形が足りないのだ。
無い。
まったく無い。
この人形には、両手と両脚が存在しない。
世話役、という言葉をようやく理解する。たしかに、これでは指一本動かせないし、誰かを傷つけるなどありえない。
完璧だ。完全に、膝《ひざ》を屈した。
誰がこの生き物を外に出そうだなんて思うものか。少女はこの部屋を含めて、完全な形だった。手足のない少女。人の寄りつかない森。水槽の地下室。あまりにも理想的な閉じた世界。ああ、なんて意味がない。素晴らしい。そうか、自分もこうすれば良かったんだ……!
「石杖さん? あ、そっか。まずは義手ですよね。ちょっと待ってくれますか? ……なんか、いきなり機嫌悪くなっちゃって。さっきまで机の上にあったんですけど」
少女は、自分では顔を起こす事しかできない。
釣られて部屋を眺める。
ソファーの下には、ドーベルマンみたいな黒い犬が退屈そうに| 蹲 《うずくま》っている。俺が入って来ても、まったく関心なさげにお眠り中だ。
不意に部屋が暗くなる。見上げると、水槽には鮫《さめ》のような魚が泳いでいて、その影が落ちたらしい。
……どこから疑問に思えばいいものやら。あの天井、ガラスだよな。水深も十メートルはある。……透明度の高い水だが、そんな水で魚って生きていられたっけ。いや、そもそも鮫ってなんだ。
「……しまったな。せっかく来てもらったのに、石杖さんに合う義手はどうも眠ってるみたいだ。これじゃあ、取引は成立しませんね」
黒髪の少女は残念そうに目を伏せる。待て待て、そそりすぎだぞキミ。まっとうな男なら問答無用で抱き寄せるか、あるいは首を絞《し》めかねない。
「いや、受ける。アンタの世話をすればいいんだろ」
「? あの、詳しい話、してないですよ?」
「いいんだ。受ける。楽な仕事だ」
実は今も怖い。犬だの鮫だの、この部屋はまともじゃない。けど、この少女のキレイさっていうのは、きっとこの怖さ込みなのだ。
「そっか。ありがとう石杖さん。聞いていると思うけど、僕が迦遼《かりょう》海江《カイエ 》です。じゃ、しばらくよろしくお願いします」
「――――――」
本日三度目の稲妻が走る。
少女は俺を信じきった、極上の笑顔で挨拶をする。握手できないのが本当にもったいない。
しかし、なんだ。気のせいか今、僕とか言わなかったかコイツ?
「って、おまえ男じゃねえか―――!」
詐ー欺ーだー! そりゃ胸《うえ》は十四歳にしては発育不足だなあって思ったけど、下、下にちゃんと付いてるよぅこのクソガキ……!
「あはははは。……酷《ひど》いなあ、下心つきで世話役引き受けたんだね、石杖さんは」
無邪気に笑う黒い悪魔。
そんな顔はやっぱりどうしようもなく魅力的で。着替えさせているこっちもドキドキしてしまうのだった。
世話役になってから二日目の昼。ごくナチュラルに、
「汗かいちゃった。石杖さん、着替えさせて」
なんて誘われた時は、もうどうなるものかと思ったのに……!
「……というかさ。なにこれ。チャイナドレス? 寝間着にこんなの着るの?」
勿体《もったい》なくない? とジト目で抗議する。
「そのように見える、ただのガウンです。シルク製なのは単純に着心他の問題です。ちなみに、一度|袖《そで》を通したものは二回使う事もないです」
マジかよ。為されるがまま為すがままの状態で、迦遼カイエはこれっぽっちも動じない。
……くそ、悔《くや》しいがそれでも赤面してしまう。服を脱がす時は背徳感《はいとくかん》に目眩がしたものだ。両手両脚のない美少女の服を脱がす。何をしても逆らえないと体験済みの少女は抗《あらが》う事はせず、ただじっと、羞恥心を飲み込みながら俺という余所者《よ そ もの》の陵辱《りょうじょく》に耐えている。人形遊びにも似た後ろめたさに、ボタンを外す指が震えたりしたもんだ。
現れた裸体《ら たい》は自分の体が恥ずかしくなるほど白く繊細で、ここで犯罪者になってしまおうかと前後不覚に陥《おちい》った矢先、股間の一物を視認した俺の気持ちを誰か分かってくれ……ないだろうなあ、やっぱり。
「はい、おしまい。文句ないか? 背中の方、ズレたりしてない?」
「いいえ、丁寧《ていねい》な仕事でした。石杖さん、気が利くんですね。片腕なのに器用だし」
「そりゃあな。一本しかねえんだから、キレイに動かすよう努力したの」
ベッドから離れて、ソファー……はあの黒犬がいるので敬遠して、ペタッと床に座る。迦遼カイエは無意識に毒をまき散らすアゲハなワケで、これ以上近くにいたら致死量に達してしまう。こういうのは、毎日少しずつ耐性をつけていかないと。
■■■
生活は大きく変わっていった。日中はほとんどカイエの地下室で過ごし、マンションには眠りに帰るだけになっている。たまに帰るのが面倒になって泊まっていいかと訊くと、
「夜は危ないからダメ。だいたい、こんなところに一日もいられるかって言ったの石杖さんでしょ。夜ぐらいは外の空気吸ってきたら?」
と、絶対に泊まらせてはくれなかった。
仕事はあくびがでるほど楽だ。食事の世話から、たまに義手義足をつけての室内散歩、暇潰しの話し相手。体を拭いてあげるのは今もって最大の悩みだが、さらに悩みそうな下の世話は、
「石杖さん、そこの義足とって」
と、自分でトコトコとトイレに向かってくれたりする。
手応えのない日々は、あっという間に一月が経過した。初の給金を貰い、ホントにこんなんで金を貰っていいのかと不安になる。仕事ってのは辛いもので、こんなにも楽しいと、ほら、揺り返しが怖くて落ち着かない。
……バランスが崩れだしているのは、自分でも分かっていた。マンションに帰って、今まで何より気が楽だった一人きりの時間を送っても鬱《うつ》になる。狭いながらも愛しい我が家は、今じゃぜんぜん素敵に見えない。誰にも干渉《かんしょう》されたくないというなら、あの地下室は理想的だ。あの部屋を知った以上、こんなのは仮寝の宿だ。下々《しもじも》の者がお城の舞踏会に出たら、そりゃあ自分の人生が空《むな》しくなるってもんなのだ。
テレビのスイッチを入れて、面白くもないニュースを流して、ベッドの上で今日の地下室を思い返す。
「石杖さんって、名前負けしてるよね」
実に気に食わない。何様のつもりなのかっ。時々、あのクソガキを本気で憎たらしいと思ってしまう。だって、こんなにもこっちは気を遣ってやってるのに、あっちはまったくこっちに関心がないのだ。
「石杖さんは、もっと酷い人かと思ってたけど」
「え?」
「優しいでしょ、僕に気を遣ってるんだから。こんなイビツなカタチなのに、ちゃんと人間扱いしてあげようって一生懸命だ」
冷たくされるのが好きなのだ。マゾめ!
けどそれはこっちにはない強さで、カイエは物扱いされても全然平気、他人が何を言おうと気にしない孤高さを持っている。……成れなかったもの、憧れていたものの近くにいようとするのは、どうしてだろう。……ふん。きっと、そのおこぼれに与《あず》かりたいからだ。特別な感情はない。
「……くそ、綱渡りみたいだ。バランスが崩れた時は、慌《あわ》てずに対処しないと」
急いで体を戻しては転落してしまう。大丈夫、ゆっくりと元に戻そう。出来るかぎり彼の世話役を続けたいのも、あの地下室が頭から離れないのも、一時の毒にやられているだけ。
こんなのはハシカと同じだ。一月も経てば、あっさり熱は下がってくれるだろう。
しかし、そんな希望的観測は甘々だった。
風邪をこじらせて、熱は下がるどころか上がる一方になった。情けないが、まあ、人生こんなもんだ。運が悪い時は、裏目裏目に出るもんだしね。
「そうだ。石杖さんのマンションって支倉の北の方だよね?」
「そうだけど。なんだよいきなり。買ってきてほしいもんでもあるのか?」
「手に入るなら、どんなものかは見てみたいかな。石杖さん知らない? なんと、この田舎町にもついにロックンロールの世界がやってきたのです!」
……今日は体調がいいのか、カイエは左腕と両脚に義肢をつけている。その影響か、初めて見る芸風だった。
「ロックンロールってなんだよ。化石?」
漫画本を閉じる。暇潰しがしたいなら本を買おう、と経費扱いで買って貰ったのだ。カイエはちっとも読まないので、もはや俺の備品と化している。今度は『三国志』を全巻買って貰おう、と画策しているのは内緒。
「化石ってひどいなあ。ロックを体現してるようなフォルムでそういうコト言うんだもんなー。石杖さん、音楽聴かないの?」
「聴かない。音楽をやってみる分には出来そうだけど、人が作ったのを聴くのは苦手」
「ふーん。じゃあロックンロールって言っても分かんないか。あのね。支倉の北の若い子中心に、薬局じゃ取り扱ってない薬が、それなりの値段で手に入るんだって」
「は……?」
寝耳に水だ。どうでもいい話だけど、と地下室の地獄耳は語り続ける。
「でもまあ、そんな格好のいい話じゃない。質の悪いゴロ屋が精力的に働いてて、二十歳前の子たちがはしゃいでるだけらしいよ。組織だった薬の販売だけじゃなく、支払いの滞った子への追い込みとか、見せしめがうまいんだって。借金の重なった子を車で轢《ひ》いたりするらしいよ。事故ではなく故意の轢き逃げは捕まえづらいって、知り合いの刑事さんがグチ言ってた」
「…………」
まったく俺には関係のない話だが、なんだその、さっきまで読んでた漫画みたいな馬鹿《ばか》話は。
「……あのさあ。知らないけど、そういうのって表だった時点で終わってない? 夢みたきゃハルシオンで充分だし、それ以上のは慎《つつ》ましく狭苦しく、顧客は一定量から増やさないもんでしょ? 精力的にバラまいたら、すぐに捕まるのがオチじゃんか」
「うん。なのに捕まらないのが問題でね。そのゴロ屋、顔を出さないのは当然として、何から何まで過去の事件を模倣しているんだって。比較的長く、うまく続いた小事件を見習って活動している。そんなワケで、警察側としては犯人像が掴めないそうなんだ」
「…………」
おかしな話だった。
模倣犯というのは、これ以上はない特徴の筈だ。
なのに他人の真似しかしない犯人だから、本人の顔が見えない。そいつには特徴はおろか、自分の顔はないというのだ。
「ヘンな犯人だな。模倣するコトに、何か目的があるとか」
「さあ。まあ、本物になりたいワケじゃないのは確かだよ。とにかくそういうのが横行してるから、石杖さん知ってるのかなって。そういう話、ひょいひょい付いていっちゃうタイプでしょ?」
「まさか。たかが薬の売り子が、あのマンションに近づくと思うか?」
「あ」
なるほど、と納得するカイエ。ふん、こっちは泣く子も黙る十三号マンションの住人である。危険度も高ければお金もないと有名だ。けどまあ、今の話はわりと嬉《うれ》しい。
「? 楽しそうだね石杖さん。やっぱり知ってるの?」
「いや、本当に知らない。けどあれだろ。今の話、俺の心配をしたからでしょ?」
危ない事には近づくな、という忠告だったんだろう。
カイエはあっさりと、眉一つ動かさず、
「なんで? 興味があるのは模倣犯の方だよ。石杖さんがどうなろうと、僕にはまったく関係ないじゃない」
ワン、と吠える黒い犬。
■■■
それでも充実した毎日だった。
あの病院から退院して五ヶ月。このまま順風に今年も終わるだろう、と楽観しながらマンションに戻る。今日も地下室の彼はこっちに無関心で、近頃はそれもアリかと思っている。時間は幾らでもあるのだし、最終的にはこっちの方が立場は上なのだ。本当に我慢できなくなったら、力ずくで言うコトをきかせればいい。
「あ、お帰りなさいアリカちゃん」
部屋の前には新島ちゃんが待っていた。ぴくり、とここのところ弛緩していたレーダーが反応する。
「……何かあったんですか?」
「いえね、さっきまでアリカちゃんの部屋に誰かいたみたいなのよぅ。アリカちゃん、七時まで帰ってこないでしょ? おかしいなあって様子見てたら、ヘンな男の子が出てきてね。アリカちゃんとは入院前からの知り合いだから、お構いなくって帰っちゃったの」
「なんだそりゃ。それだけ? 他には何も?」
「ないわよう。でもアリカちゃんの所に誰か訪ねに来るなんて、初めてね」
そりゃそうだ。昔の知り合いには退院したなんて知らせてないからね。新島ちゃんにお礼を言って部屋に入る。
「―――クソ。身に覚えなさすぎる」
部屋はものの見事に家捜《や さが》しされた後だった。
とりあえずベッドとテレビは無事なので、ベッドに倒れ込んで心当たりを考えてみる。もちろん。いくら考えても心当たりなんざない。思いついたコトと言えば、明日朝イチで鍵の修理を頼むコトぐらい。
「身に覚えのない恨みごと? なんだかなあ。今日はそんなのばっかりだね」
翌日、午後二時。ドア修理の立ち会いに時間をくつて、遅れて出勤。
ジュースばかりでは潤《うるお》いがないので、カイエにはリンゴを切ってあげて、こっちはブドウをぷちぷち食べる。片腕でのリンゴ切りは、ひとえにカイエの為に覚えた技だ。
「あのな、真剣な話なの。昨日さ、部屋に戻ったら家捜しされてた。退院してからこっち、誰かに恨まれるようなコトはしてないんだけど」
どうしたもんだろう、と相談する。
あーん。と口をあけるカイエ。丁寧にリンゴを食べさせる。テーブルには左の義手があるのに、今日はつける気がないようだ。
「えーと、ただの空き巣とかじゃなくて?」
「何も盗まれてないし。俺、預金通帳は持ち歩く主義」
というか、財産は全部持ち歩く主義だ。ひょんなコトから誰かに通帳を見られたら、俺の生活は破綻する。
「ふうん。けどまあ、考えても仕方ないと思うよ。だって石杖さん、昼間の記憶はないんでしょ? 昨日なにをやったかなんて分からないんじゃない?」
「まあ―――それは、そうだけど」
……けど、ちょっと待った。その話、カイエにしたコトあったっけ……?
「ごちそうさま。ありがとう、片づけていいよ」
トレイを持って洗面所に向かう。
この部屋にはキッチンがないんで、洗い物はトイレ横の洗面所で片づけなくてはいけない。
地上の貯水庫が立方体なら、この部屋も立方体だ。四方の壁にはそれぞれドアがあって、入口である森のドアの横に洗面所がある。ちなみに扉はない。南以外のドアは、文字通り開かずの扉だ。
「……あれ。なぜにカップが二つ、洗面所に置いてある?」
何故も何もない。
今日。俺が来る前に、来客があったのだ。
「おーい。誰か来たのかー?」
果物ナイフと皿を洗いながら声をかける。
「えー? 石杖さんが紹介したんじゃないのー? 悩みゴトがあるから、どうしても聞いてほしいって来たんだけどー」
水道を止めて、果物ナイフをポケットにしまって、両手の水を切って、できるだけ自然に部屋に戻る。
「どんなヤツだよ。ちょっと、思い当たる節がないんだけど」
「石杖さんよりちょっと年下。久織伸也って名前だったけど」
「久織、伸也?」
「知り合いでしょ?」
そりゃ知り合いだ。知らない筈がない。
けど、どうしてアイツが?
もしかしてもう退院しているのか?
「相変わらず唐突なヤツ。で、どんな相談だったんだ?」
「これが物騒な話でさ。なんでもお姉さんに復讐したいんだって。石杖さんは久織伸也が捕まった事件、知ってるんだよね」
「概要ぐらいは聞いてるよ」
久織伸也。両親を見殺しにし、ついでに姉を殺そうとした高校生。しかしそれも三年前の話で、今は入院中の筈だ。もし退院できたにしろ、なんていうか、その場合は改心してるだろうから姉に復讐しよう、なんて考えは浮かばないと思うんだが。
「で。カイエ、そいつをどうしたんだ?」
「これが全然、まったく話が通じなかった。石杖さんは知ってるかな。悪魔憑きを殺したかったら森に住む悪魔に頼めって話。や、ここのコトなんだけど。久織さんは、困った事にそれを本気にしてたみたいだ」
天井の魚が泳ぐ。
ソファーの黒犬がフンフンと鼻を鳴らす。
……そんな噂は初めて聞いたが。確かにこのクソガキなら、それぐらいの頼み事は聞きそうだ。
「そっか。伸也の姉貴は悪魔憑きだもんな。それで、今度こそ復讐するって来たおけか。カイエはどんなアドバイスを?」
「返り討ちにならないように、としか言えないよ。久織伸也は五体満足だから義手も貸してあげられないし。どうやったら復讐できるかって聞かれたから、殺すしかないんじゃない、とは言ったけと」
ワン、ワン。
今まで一度も懐《なつ》かなかった黒犬が、俺の足にすり寄ってくる。
「……厄介《やっかい》な。そいつが帰ったのって何時?」
「石杖さんがやって来る一時間前かな」
顔見知りのよしみだ。そんな危なっかしいヤツを野放しにはしておけない。
「悪い、今日は早退させてくれ。久織伸也を追いかけないと」
けど大丈夫かな。荒事になったら片腕じゃあ心許ない。
「ああ。ちょっと待って。テーブルの義手、持っていっていいよ。―――君にはまだ自分の感情がないから、動かせるのはそれぐらいだ」
ワケが分からない。義手って、テーブルにある左手用の義手……?
「遠慮なくどうぞ。石杖さんは、そもそも義手がほしくてきた[#「そもそも義手がほしくてきた」に傍点]んだから」
「あ。ああ……そうだな、借りてく。何の役にも立たないだろうけど」
そう言われては断れない。
俺は触りたくもない、俺には合いそうもない、白い左手を手にして、地下室を後にした。
率直に言って、探し出すアテはあった。
三年前から変わっていなければ、久織伸也の家は能図《のうず 》にある団地である。
駅前まで戻って、能図行きのバスに乗る。……通院してから初めて行く地域なので、あまり目立つ事はしたくない。バスの中でカイエから借りた義手を嵌《は》める。カイエの見様見真似だ。あまり考えないようにしていたが、この義手が種も仕掛けもない『不思議』である事は承知している。
白い義手は、俺の腕の切断面に合わせるだけでぴったりと張り付いた。石膏《せっこう》を付けたようなもので、当然動かない。……何が不思議かと言うと、カイエの場合はこれが神のように[#「神のように」に傍点]動くのだ。
「……ホント。どんな仕組みなんだ、これ」
愚痴《ぐち》りながらもバスは行く。
ほどなくして能図に到着。日は翳《かげ》りだし、支倉市三大怪談の一つ、妄想団地は赤く染まりつつあった。
久織の家は三号棟の303号室。
表札は空白。新しい家族は入居していないようだ。悪魔憑きを出した部屋だ、その後入居者はなかったんだろう。
鍵を開けて中に入る。逃げられてはたまらないので呼び鈴を押さずに押し入ったが、中は何もかも空っぽだった。能図の団地は3LDKで、少し手狭ではあったが、父母姉弟が住むにはちょうどいい距離感だったのだろう。
じき日も沈む。いっさいがっさい無かった事にされた居間からベランダを眺める。
―――さて。
ここにいないとなると、久織伸也を探し出す術はない。可能であるなら避けたいが、戻り次第病院に電話をして退院先を聞いてみよう。
×××
タイミングは、計ったように完璧だった。
午後九時過ぎ。能図から支倉の駅に戻り、さびれた十三号マンションの前で、突然、後頭部を鈍器で強打された。
眼球に火花が散る。
気を失いはしないものの、前のめりに倒れかかる。
容赦《ようしゃ》なく、背中を蹴《け》り飛ばされて倒れ込む。
「おい。アンタだろ、石杖アリカって」
ぐらんぐらんと揺れる頭を掴まれて、暗がりに連れ込まれる。なんだよそれ。目の前に民家があるのに、誰も助けに来てくれないのかよ。
「うえ、なに、こいつがそうなの!? なんだよ、オレらよりヤサいじゃんか! こんなんに今まで追い込みかけられてたワケ!?」
また火花。顔を横から蹴り飛ばされたらしい。もう本気で処理が追いつかない。三人以上六人未満のガキどもは、木材片手に俺を取り囲んでいる。
「あのー、だいじょうぶですかー? だいじょうぶですよねー? まあ、どっちでもいいんだけどぉ。ね、ターくん、あたしもいいかな? もう一発いっていい?」
「いいんじゃね? 見た感じ血も出てねえし。あ、けど顔はやめとけよ。おまえ加減しねえから、下手すると殺しちまうぞ?」
笑い声が聞こえる。
ばかん、と後頭部が派手に鳴る。ゴルフよろしく、フルスイングされたようだ。
「バカだろおまえ、後頭部も顔も同じだって! うわ、赤! ホントにやめろよなー、死んじまうじゃんコイツ!」
「えー、死んでも構わないんじゃないの? コイツら、どうせ生きててもしょうがないんだし」
「そっか! 悪魔憑きなら道ばたでくたばっても問題ないんだ。こいつら病人扱いなんだしな!」
そんなワケでリンチ開始。
羽交《はが》い締めにされて、何やら色々と文句を言われながらサンドバッグになる。度重なる強打で頭蓋《ず がい》の中はキンキンと点滅し、ガキどもの顔も、口上も聞こえない。はっきりと分かるのは、彼らが先出しだったという事。
「―――、ハ」
左の義腕が蠢動《しゅんどう》する。取り付いてただけのモノに、どくどくと血が巡っていく、ざしゅ。
「―――あれ……ターくん。その手、どうしたの?」
悲鳴があがったのは、そのすぐ後だ。
本当に酷いもんだ。目と鼻の先に民家があるのに、誰も出てきやしないんだから。
クズみたいな弱者に反撃された事による激情、激昂《げっこう》、数による暴力。次いで、これを| 覆 《くつがえ》す圧倒的な性能差による蹂躙《じゅうりん》、陵辱、阿鼻叫喚《あびきょうかん》。
「ひ―――や、ご、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさぁい……!」
残った一人、同い年ぐらいの女、の懇願《こんがん》に爆笑する。
告白すると、俺は暴力はたまらなく嫌いだが。
被虐の後の加虐は[#「被虐の後の加虐は」に傍点]、たまらなく気持ちがいい[#「たまらなく気持ちがいい」に傍点]―――。
「ははは、ははは。ははは、ははは、ははは、ははは」
笑い声を必死に抑える。
周りには五人、いや六人か、少年たちが倒れている。色々と血まみれだが、みんなそれなりに息災《そくさい》だ。
「やば。でもまあ、まだ生きてるよな」
ははは。軽い後悔。
なんて事だ。ようやくこれから新生活が始まって、真人間になろうとしたのに、ワケも分からないまま過剰防衛をしてしまった。ははは。下手すると病院に逆戻りだ。でも楽しくて嬉しくて仕方がない。そうだよな。こういう心的状態の人間を退院させる方も悪いんだ。責任は折半《せっぱん》というコトで。
「おいターくん。救急車いる? いらない? ハッキリしてほしいなあ。ヒューヒュー言ってるだけじゃ分からないからさ」
ほっとけば二人ほど死ぬかもしれないが、まあ、そのうち誰か通るだろう。こんな道ばたで襲ってきた浅慮さが、紙一重でターくんたちを助けるのだ。
「良かった良かった。ひとりでも死んでたらバラして隠さなくちゃいけなかった。お互いラッキーだったよね」
ははは、ははは。まずいなあ、喜びすぎて表情の制御ができない。ここに立っているのも何だし、さっさと部屋に戻るとしよう。
×××
「はい、ただいま帰ったよ、と」
途中、ちょっとしたトラブルはあったものの、何事もなく能図から自分の部屋に帰ってきた。
泥だらけになった上着を脱いで、テレビのスイッチを入れて、ばたんとベッドに寝転がって、流れてきたニュースに我が耳を疑った。
「は―――?」
飛び起きてテレビを見る。見間違いようがない。
いつもボクらとは別世界のニュースを報せるニュースキャスターが、聞き覚えのある名前を連呼する。
『本日午後六時頃、支倉市能図工業団地で遺体として発見された青年は支倉市在中の久織伸也さん(十九歳)と判明しました。現場からの証言と伸也さんの経歴から、同時刻に目撃されている××××さんが伸也さん殺害に関わっているのではないかと―――』
「そんな、バカな」
今度こそ、頭の中が真っ白になる。
気絶寸前の衝撃の中、俺はなんとか意識を保って、
「なんで、俺が殺したコトになってんの?」
久織伸也の殺害容疑者として読み上げられる、自分の名前を聞くのだった。
[#地付き]1/hide.end
[#底本ではここで「TO BE CONTINUED SIDE-B」]
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
「ああ、歓喜《それ》≠ヘしばらく貸してあげるよ。
これからの君は厳しそうだし。
頼りになる手は、いくつあっても足りないでしょ?」
「いいの? 永遠に返しに来ないよ?」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
■■■
私は、何をやってもうまくいっていなかった。
成績だけ見れば非の打ち所のない子供で、評判だけ聞けば誰もが感心する優等生だったのに。
周りの人たちは消えてほしいと願うほど、私を怖がり続けていた。理由なら分かっている。私は物事の止《や》め時が、他の子たちとは違っていたからだ。
簡単な買い物から両親との対話。学校の行事から体の管理まで。今の自分が考え得る最高の結果を迎えなければ、手を止める事ができなかった。私はその度に両親を呆《あき》れさせて、でも成果だけは最良だから、よくやったと褒《ほ》められていただけだった。
挽回は、当然のように成功して、失敗した。
私のやり方では結果は出せても、同時に多くの人を傷つける。マイナスよりプラスの数が多いから、誰も私を責めないだけ。いつか比率は逆転する。
でも他にやり方を知らなかった。何もするなとお父さんに叱られた。私は根本的におかしかった。目障りだったとお母さんに告白された。私では絶対に、私を直す事はできなかった。
出口はなくて、塞《ふさ》ぎ込むのは当然で、私は外に出る事さえできなくなった。もうスプーンを持つ方法《じ ぶ ん》さえ恐ろしい。
でも、ある日お母さんが教えてくれた。自分の行動が怖いのなら、私以外の誰かの行動をそっくりそのまま真似《まね》てしまえば、私はうまくいくのだと。
そして私は。
やっぱり、自分を止める術《すべ》をもたなかった。
[#地付き]――― HandS
[#改ページ]
「おめでとう石杖《いしづえ》所在《ア リ カ》さん。以上の検査結果から貴方は陰性と認められました。アゴニスト異常症患者としての治療プロセスはこれで終了です。半年間、よく頑《がん》張《ば》りましたね」
入院から半年後の二〇〇三年七月某日。
心電図やら脈拍やら血液やら、はては脳内臓神経皮膜と様々な正常値《ハ ー ド ル》をクリアしたのであった。俺の無実は証明されて、納得いっていないのはガラス戸の向こうで睨むマトさんだけである。
「ありがとうございます。それじゃあ、晴れて退院でしょうか?」
「いえ、石杖さんには感染症患者につけられた外傷がありますから、今後はこちらの治療に移行します。引き続き当院での診察を受けていただきますが、病室は通常のものに移しますので―――」
悪魔憑きではないと判明したらすぐに退院、とはいかないようだ。鬼トマトはうむうむと頷《うなず》いている。我慢強かった俺に技あり、けどそれ以上に高圧的だったマトさんが最後に一本決めたというところ。すごいなあの人、まだ俺をいびり足りないのかよ。
「詳しい事は戸馬《と うま》先生から連絡があると思いますが、今後はこういった日課になります。……いえ、私たちも石杖さんのようなケースは初めてなので、もう少し治療に専念してほしいとは思うのですが」
A病棟のスタッフには比較的マトモなお医者さんが多い。ちょっと人が良さそうな彼は、気まずそうに契約書みたいな書類を持ち出した。
「あ、これに名前書くんです、ね―――」
……万年筆片手に、これからのスケジュールに絶句する。一日の半分はA病棟の上から下まで歩かされる診察コースなのはいいとして。あとの半分は他の患者と会話をしろだの、基礎体力を保《たも》てだの、果ては今日で終わった筈の戸馬先生によるドキドキ精神検査上級編とかあるんですけど!
「すみません質問です。なんですか、この基本項目にある当病院への奉仕の義務って」
こういう病院において、奉仕されるのって患者《おれ》の方じゃなかったっけ?
「そ、そのですね、石杖さんは記憶障害はあるものの、健康な男性でしょう? ですので、いずれくる社会復帰を見据《みす》えてのリハビリテーションの一環として、このような治療法もするべきだろう、と」
……はあ。病院側が指定する患者と同室して、会話やら介護に協力するのがリハビリになるんだろうか。なるんだよな。俺の安全はともかく、相手側には効果|覿面《てきめん》の筈だ。そうでないとこっちも命の張り甲斐《がい》がない。
「場合によっては拒否権とかあります?」
「いえ、それが。……その、任意ではなく規則だと言え、と戸馬先生から」
かわいそうに、しどろもどろだよこの人。ちなみに。この隔離病院でもっとも多い死亡ケースは手術による生命活動の停止ではなく、患者間の不慣れなコミュニケーションから発生する暴力|沙汰《ざた》だったりする。
「了解しました。ところで先生。あくまで確認なんですけど、奉仕ってボランティアって意味でしたよね?」
「はい、広義的に言えば。忠義や殉死《じゅんし》という意味合いも含みますが」
なるほど。退院はまだまだずっと先らしい。
生きて出るにはマトさんの胸三寸《むねさんずん》、死んで出る分には明日からでも充分あり得るワケで、可能性としては五分五分だ。つまり、希望は持つなというコト。
観念して診療室を出るとマトさんが待っていた。白衣は着ていないのですぐにお出かけなんだろう。
「所在《しょざい》。言っておくが、ボランティアではないからな」
「……会話筒抜けだし。はいはい、分かってますよ、強制だって言うんでしょ」
「ああ。役割があるうちは人間扱いしてやれる。まあ、こちらで尻《しり》を叩くまでもないんだがね。おまえは放っておいても地雷を踏む間抜けだからな」
じゃあまた来週、とクールに去る鬼トマト。気をつけろ絶望は来週来るぞ、とメモっておく。それでも病棟を歩けるだけの自由を手に入れたので、まっ先にドクターの懺悔室に足を向けた。ドクターロマンことキヌイ医師は悩める患者の味方なのだ。
「絶望的だなんてとんでもない。私は充分に希望的だと思いますよ。アリカくんの場合、妹さんがD判定ですからね。病院側としては陰性だろうと簡単には異常なしと判は押せない。それが半年で済んだのは、戸馬先生が力を尽くしたからでしょうし」
「そりゃあな。マトさん曰《いわ》く、おまえは死ぬ寸前まで追い込んでも夜には忘れるから助かる、だもんなあ」
そりゃあ嬉々《きき》として力を尽くしまくっただろうさ。
戸馬|的《まと》監察医、通称マトさん。うちの妹が悪魔憑きとして発症した際、ご近所に迷惑をかける前にとっ捕まえてくれた大恩人だ。
これが後に監察医兼監察官、A異常症感染者を取り締まる為に派遣された公安のエリートと判明する。頻繁《ひんぱん》に病院にやって来ては患者たちを検査したり、新しい患者を引き連れてくる働き者だ。
「……ああ。アリカくん、日中の記憶を夜に引き継げないんでしたっけ。正確に言うと、何時から何時までの記憶をロストするんです?」
「朝はわりと体調によりますよ。えーと、平均とると午前九時から午後六時あたりまでの記憶をスッパリ忘れます。あと時間に関係なく、日が沈むと完全アウト」
逆に夕方から朝までの記憶は覚えていられるので、コツさえ掴《つか》めば生活はしていける。昼間に起きた重要な出来事はメモにとって、夜の内に暗記してしまえばいいのだ。ただし文字によるインプットなので、映像に頼る情報は細かい誤差を生んでしまう。
「厄介《やっかい》ですね。異状は沈殿《ちんでん》していく一方なのに、問題なく生活できてしまうんですから。戸馬先生が出したがらない訳です。戸馬先生、アリカくんの記憶障害を治したかったんじゃないですか?」
「まっさかあ。ありゃあ、いいかげん拷問に疲れただけだぜ」
「それこそあり得ません。アリカくん、あの人が拷問疲れなんてすると思います?」
ニッコリ笑顔で諭《さと》される。……イヤな現実を思い知らされてしまった。
「そうでした、俺がバカでした。ところでドクター。明日からいくらか暇《ひま》なんだけど、面白いコトある?」
「読書……は向きませんね。日中に読んでも忘れてしまうでしょうし。読むのなら夜でないと」
「うん。ある意味、とんでもなく幸せなコトですが」
「では絵を描くのはどうですか? あれならキャンバスに記録が残りますから。再開する時も、そう困る事はないでしょう」
「そりゃそうだけどさ。絵を描くのって面白いか?」
「真面目《まじめ》に取り組む分には苦痛を伴いますが。アリカくん、子供の頃ラクガキとかしませんでした?」
ドクターは埃《ほこり》を被《かぶ》っていた画材を持ってくる。
……まあ。たしかにラクガキぐらいはした覚えがある。あれは誰に褒めてもらう為でもなく、誰に見せる訳でもない筆遊びだ。はじめから何の目的もないから、苦い思いもしなくて済むか。
アトリエはB病棟の待合室をチョイス。病院の中で唯一中庭に面したまっとうな場所である。そんなこんなでベッタベッタと筆を動かしていると、おかしなヤツが話しかけてきた。
「あの、隣りいいですか?」
「うん?」
久織伸也《ひさおりしんや 》と名乗ったそいつは、ぺたんと床に座って俺を観察した。初めて人間に出遭った小動物みたいだ。キレイな目で、興味|津々《しんしん》に俺の一挙一動を眺めている。
邪気に溢《あふ》れてはいるが悪気はなさそうなので、のんべんだらりとコミュニケーションをとってみた。マトさんの指摘《し てき》通り、俺はほいほい地雷を踏む性分らしい。
「片腕だけなのに、そんなに器用にやっていけるもんなんですか?」
「そりゃ一本しかねえからな、キレイに動かしますよ」
きしし、と笑うと、久織も楽しそうにきししと笑った。久織はこれといって特徴のないヤツで、当たり障りのない話をして、そのまま友人となった。
印象に残ったのは、しきりに俺の片腕を気に入っていた事か。俺は左腕を無くしているんで右腕しかない。その、一本きりの右腕を眺めていたのは、おそらく―――
「こんにちは石杖さん。今日は将棋?」
「……?」
それから半年後の二〇〇四年、初頭。
院内で起きたつまんねえトラブルに巻き込まれて退院を夏まで延ばされた俺の前に、見知らぬ患者が現れた。
「大丈夫? 僕、久織だけど」
……久織? ……そう言えば目の前の人物の特徴と、メモから考えた久織伸也の特徴は一致する。久織とは日中にしか会わないから映像で記憶していなかったのだ。
俺が久織を久織として認識する手段は、テキストで分かる身体的特徴に依《よ》る。髪の長さやら背格好やら性別やら。そういった特徴から照合するのが遅れたのは、目の前の久織には今までの久織≠ニは決定的に違う、新しい特徴が出来ていたからだ。
「どうしたんだよそれ。事故か?」
「ああこれ? 手術の結果。前から悪かったところを切除してもらっただけ」
左腕のない俺と同じ。今日からの久織には右腕が欠けていた。
しばらく話した後。自由時間の終わりを告げる音楽が流れ出して、さようなら、と久織は去っていく。
「おや。こんにちはアリカくん」
そんな時、都合よく通りかかるドクターロマン。訊けばなんでも答えてくれるのがいいところ。
「なあドクター。久織ってもうじき退院?」
「そうですよ。アリカくん同様、積極的に奉仕に参加してくれたので、予定が半年間早まったそうです。今月には一人退院させなくてはいけませんでしたしね。アリカくんさえ大人しくしていたら、今ごろは貴方が退院していたのですが」
「ははは。マトさんカンカンだったもんな。おかげで明日からまた独房入りっぽい。……それよりさ。久織の病状ってなに? あいつC棟の患者なのに、おかしいところなんて全然なかったぞ?」
「久織さんの新部は珍しいケースでして。外面に変化が現れていながら、他人には認識できない病状なんです。これ、なんだか分かりますか?」
降参、と手をあげる。見えてるのに分からない、という謎かけは面倒だし、実のところ、久織の病状に興味はなかった。
「表情ですよ。久織さんは顔の皮膚《ひふ》神経、筋肉|繊維《せんい 》がまったく新しい[#「まったく新しい」に傍点]ものになっている。久織さんは自分の意志で、自分の思い描いた通りの表情を作る事ができるんです」
「は? それって普通じゃねえ? ムカついたら顔なんて険悪になるでしょ」
「そうですね。怒っている時は笑えない。ですが久織さんが特別なのは、怒っているのに悲しそうな顔ができる、という点です。顔の作りこそ変わりませんが、久織さんは人間がするであろうあらゆる表情、仕草《し ぐさ》を再現する事ができる。アリカくんの、その生気の無さぶりも正確に表現できるでしょう」
「……ふうん。微妙な新部だコト。でも、それなら治らずとも退院できるか。どこも危険じゃないからな」
「いや、どうでしょうねぇ。生物としては弱い力ですが、社会においては優れた才能なんじゃないですか? まあ、アナログに限った話ですが」
作り笑いに見えない作り笑いは恐ろしい、というコトか。ドクター、外で結婚|詐欺《さぎ》にでも遭《あ》った事があるのかな。
「まあ、新部の話はどうでもいいとして。あいつが悪魔憑きになった原因って何なの?」
核心を問う。興味があるのはこっちの方で、どんなに久織がマトモに見えてもここの患者である以上、一度は壊れた経験がある筈なのだ。
「……異常なまでの依存症、と言いましょうか。久織さんは人生に明確な目的を持つ事ができない。自分を客観視するあまり認識できなくなったと言うか。彼女は、誰かの行動をお手本にしないと歩く事さえ出来ないんです」
「……ふうん。それさ、入るところ間違えてない? こんな監獄より精神病院が先だろ」
「いえいえ、確かに問題はありますが、別にお手本にしている本人になりきっている訳ではないんです。あくまで彼女―――久織|巻菜《マキナ 》がうまくやっていく為に、他人の生活を参考にしているだけですから。
それにアリカくん。そちらの方面の病院に入院しているのは、弟の久織伸也さんの方でして―――」
[#改ページ]
1/Hand (A)
二〇〇四年初頭。
精神病院への強制的な措置入院から三年後。二年半にわたる精神治療から回復し、中等少年院に収容されていた久織伸也(十九)は保護観察扱いではあるものの、社会復帰を認められた。
親族は久織伸也の受け入れを承諾。余談ではあるが、奇《く》しくも姉である久鮫巻菜はほぼ同時期にオリガ記念病院を退院。こちらは身元を受け入れる親族が現れず、支倉《し くら》市の運営する福祉施設に入居した。
久織伸也は担当医、担当指導員も判を押す模範生で、その精神状態、健康状態は良好であり、事件当時の錯乱状態を知る担当医は彼の三年間の努力を賞賛している。
しかし事件に対する供述は回復した後も曖昧《あいまい》なままである。当時は久織巻菜が加害者であり自身は被害者であると主張していたが、数日後、久後巻菜がA異常症患者と判明してからは自分の過失を認め、現在に至っている。
以後、彼が姉である久織巻菜について語る事はなく、二年間もの調査と裁判の末、久織家の事件は故意ではなく事故である事が判明した。
通院から半年後。久織伸也はかつて久織家が生活していた能図《のうず 》工業団地の一室で死体として発見される。
死因は頸部《けいぶ 》裂傷による出血死。
両親を失い、姉を三階のベランダから突き落としてからの三年間。彼が何を思い何を恐れていたか、今となっては知る由《よし》はない。
その半日前。
地下室で彼が語った物語を聞き届けた者以外は。
■■■
姉貴の話をするんだけど、聞いてくれますか。
僕は一度も姉貴を人間として見た事はありません。今ははっきりと理由があるけど、幼い頃は不思議だったんです。姉貴はあんなにも完璧で、僕の理想だったのに。どうして同じくらい、あんなにも気味が悪いんだろうかと―――
訪れた彼は、穏やかな顔で語り出した。
姉は巻き、僕は伸ばす。
伸也という名前は姉から生まれたものなんだと、母はよく言っていた。
巻菜と伸也。両親は仲睦《なかむつ》まじい姉弟《きょうだい》を夢見ていた。僕だってそうなる事を願っていた。けれど肝心《かんじん》の姉貴は、そんな人間らしい惰性《だ せい》を理解できるモノではなかった。
優れた才能は、それを正しく運営できる環境にあってこそ才能たり得る。未開の南国に近代兵器があっても害悪にしかならないように、うちのようなささやかな家族に神さまはいらなかった。久織マキナは、つまり、久織家にとってそういう類《たぐい》の天災だったのだ。
ねえ伸也、お姉ちゃんは時々ひとりになりたがるでしょう? そうなったらすぐにお父さんかお母さんに教えてね。取り返しがつかなくなる前に―――
子供の頃。姉貴と遊びに出るたび、母はこっそりと僕だけに耳打ちした。あまりにも繰り返されたからか、今では原初の記憶にさえなっている。けど物心がついたばかりの自分は首をかしげるばかりで、母が何を言いたかったのか、てんで理解できなかった。その頃の自分は姉貴を無条件で慕《した》っていたし、どこにいっても可愛《か わ い》がられている姉貴がひたすらに羨《うらや》ましかったからだ。
むしろ母に不満を覚える。あんなに周りから好かれていて、姉貴のおかげで団地のみんなから声をかけられるようになったのに。どうしてそんな、他人を見るような目でお姉ちゃんを見るのかと。
―――そう。伸也くん、巻菜ちゃんの弟さんなんだ
様子が変わりだしたのは小学校にあがってからだ。
二年生になった時、担任の先生は僕がマキナの弟という事だけで差別した。イヤなものを見る目で、はっきりと拒絶したのだ。聞けば、先生は去年姉貴の担任だったらしい。一年前のマキナはあまり真面目な子供ではなく、勉強にあまり興味を持っていなかった。
だって、こんなの覚えるだけでしょう。遊びに真剣になるなんて、やだ、みっともない
マキナは子供げなかったけと、先生も大人げなかった。遊びと授業をバカにされた先生は、なら全部覚えてきなさい、それまで教室には入れません、と反撃してしまったのだ。この日から数日、マキナは部屋から出なくなった。僕と姉貴は中学にあがるまでは一緒の部屋だったので、この時の事はよく知っている。二段ベッドの上で、マキナは昼夜問わず外界を遮断《しゃだん》して、先生に言われた通り勉強≠ノ没頭した。
三日ほどでマキナは教室に復帰し、二年生の全教科を暗唱した。この話にはまだ続きがあって、マキナは一週間単位で学年を上げていき、担任の先生の権威とか常識とかをボロボロにしながら、六年生の科目でようやく停止した。理由は簡単、そこから上のマニュアルは小学生では手に入らなかったからだ。
先生の過ちは二つ。マキナに明確な目的を与えてしまった事と、勉強とは暗記なのだと教えてしまった事。幸いだったのは、まわりがまだ小学二年の子供たちだった事か。マキナがどれほど馬鹿げた事をしていたのか、クラスメイトたちは正しく理解できなかったのだ。まる一日授業を潰してくれる女の子、としか思わなかったのだろう。本当に運がいい。あと一年上だったら、マキナの頭の出来と自分の出来を比べてしまっていただろう。
以後、この先生はマキナを教え子にするという拷問みたいな一年間を過ごした。マキナに耐えきれなくなってうちに詰め寄って来た事もあるらしい。
お子さんはたいへん優秀な生徒です。我が校には相応《ふ さ わ》しくありません。もっと優れた進学校を紹介しますから―――等々。転校するなら推薦状《すいせんじょう》は出すけど、決して学校側から他校には売り込まない……というあたり、学校側も姉貴のおかしさを分かっていたんだろう。優秀なだけの生徒ならいいが、人間として問題のある厄介者を押しつけては責任問題だ。転校はあくまで久織家の意志で行われねばならない。けど、こういう時の父の言葉はいつも一緒で、
「転校と言われても、遠くに行かせるだけのお金はありませんし。うちの巻菜は、今のままで結構です」
結局、姉貴というライオンは、子猫たちの小社会に通い続ける事になった。
……ああ。そんなトラウマがあるなら、先生がマキナの弟である僕を嫌うのも当然だ。
もっとも、その先生は僕が仲間外れにされている、と噂《うわさ》になってからすぐに学校を辞めてしまった。カッコイイ車で学校にやってくるいい先生だったのに。最後には車なんてボロボロで、生徒たちに笑われ続けて、自分のマンションに引きこもったらしい。その後、新聞を見て父が気まずそうに、首吊り自殺、と呟《つぶや》いたのを覚えている。上級生たちはマキナに嫌われたから≠ニ、当然のように話していた。……考えたくもないが。マキナの取り巻きの誰かが、敵は排除するものだ、なんて無責任なコトを言ったんだろう。
母の気持ちが分かったのは、そんな事件が起きてからだ。人間はある程度の知識がないと、その分野の偉業が理解できない。革新的な内燃機関も、自動車を乗り物としか考えない人には普通の車と変わらない。それと同じで、僕がマキナを正しく認識するには、少なくともあいつのつま先ぐらいの知性が必要だった。
今では思いあがりと笑い話にできるけど、僕だってクラスじゃ一番の成績で、自分が平均より優れていると気付いていた。……まあ、高校一年まではトップの成績だったし、優秀ではあった事は確かなんだろう。けど、僕には優越感にひたる時間はなかった。幸か不幸か、そんな楽しみは僕には与えられなかった。
なんていうか、天狗《てんぐ 》になる前に、天狗なんかじゃかないっこない化け物がすぐ隣りで居眠りしていた感じ。下手に鼻を伸ばしていたら、間違いなく自信ごと削《そ》ぎ落とされていただろう。それが僕の幼年期の話であり、久織マキナの姿だった。
マキナは何をやらせても大人たちを驚かせた。神童だの天才だの、能図で知らないヤツはいなかったぐらいだ。けどよく見れば手を抜きまくっているのがミエミエで、それでもやっぱり充分すぎるほど独走状態なものだから、凡人としては目をつむりたくなる。太陽を直視してもいいコトなんてまるでない。
「姉ちゃんさ、本気でやってないだろ」
「うん。そうしないと、一人きりになっちゃうから」
おやすみの前。二段ベッドの上に話しかけたら、そんな声が返ってきた。まったくズレてる。マキナは自分の事に関しては鈍感だった。なにが一人きりになっちゃう、だ。マキナはとっくに一人きりなのに、そんな事に、自分だけ気付いていない。
マキナの学年があがるにつれ、両親は醜《みにく》くなっていった。僕の目から見ても分かる。言葉ではマキナを褒めているけど、顔は厄介者を見る目付きだった。当然だ。マキナは必ず成功するけど、同時に多くのものを失わせる。一番分かりやすいのがお金の問題。マキナは支倉市で一番の成績を修める代わりに、うちの財産を食い尽くした。あいつは一度学習を始めたら求める資料に際限がない。片《かた》っ端《ぱし》から本を買って、片っ端から暗記して、用済みになったらどうしてか燃やしてしまう。おかげで家計は火の車だ。貧乏人が高級車を持つようなもの。両親にとっては自慢の子供は、同時に貧しい暮らしを余儀なくする金食い虫だったのだ。
でも外から見ればマキナはこれ以上ない優等生なので、父も母もマキナを叱れない。腫《は》れ物扱いしているクセに、必死に娘を愛しています、と振る舞っている。気味が悪い。小学五年の娘にへりくだる両親も、そのあからさまな作り笑いを本気で信じきっていた姉貴にも。あいつはホントに、自分の事だけは鈍感なのだ。
学校でも家でも、あいつにできない事はなかった。
学業を学ばせるのが学校の役割で、家事をこなすのが母の役割で、給金を得るのが父の役割と言うのなら、あいつはもう誰も必要としていなかった。きっと全てを自分だけでこなしただろう。そうならなかったのはあいつが子供だったから。どんなに優れていようと子供であるうちは社会的な制約が付きまとう。僕らはそろってあいつが子供である事に安堵して、同じぐらい、歳をとって子供でなくなるのを恐れていた。あいつは無敵だった代わりに、味方さえいなかったのだ。
それでもマキナは完璧な姉だった。どんなに僕が努力しても追いつけない、どんなに僕がいい成績を残しても色あせる、素晴らしい障害。永久に僕の脳に君臨する、わずらわしい癌《がん》のよう。
僕はマキナを人間として見た事は一度もなかった。神さまと同じだ。あいつは完全なものへの憧れと、偉大なものへの畏《おそ》れを両立させる。神さまっていうのは、つまりそういう物だろう。
でも、マキナが小学五年生の夏。うちの神さまは、唐突におかしくなった。
お父さん、見て、お化けが歩いてるよ―――
白昼に、マキナが父を呼んでいる。たまの休日で疲れていた父はマキナの呼びかけに応えず、母も自分も、マキナに駆けよる事はしなかった。……いいかげん、うちの家族はみんなマキナに疲れていたからだ。
燃えてる。燃えてる。真っ黒、真っ黒―――
ベランダで騒ぐマキナの声は落ち着いている。ただの冗談か、見間違いか。とにかくベランダに行くほどの事じゃないと思わせる、女の子らしい、可愛らしい声だった。
思えば。マキナが地の声で喋《しゃべ》ったのはこの時だけだ。
……時々、アレは精一杯《せいいっぱい》の悲鳴で、マキナは初めて家族に助けを求めていたのではないかと悔《く》やんでしまう。だってそうだろう? この日、父がマキナをすぐベランダから助けだしてさえいれば。ずっと間違えたままでも、姉貴は踏み外す事はなかったのに。
マキナはそのまま夕方までベランダにいて、母に連れられて部屋に戻ってきた。翌日。マキナはいつものように朝の食卓で父と母に笑いかけて、ぎこちなく返された作り笑いを見て、小さく悲鳴をあげていた。
「……は」
つられて僕も小さく笑ってしまった。おかしなヤツ。なんだって出来るクセに、そんな事に、ようやく気が付いたんだから。
そうして、マキナは喜劇の主人公になった。
あいつは自分がどれだけ嫌われているか気が付いてしまって、一生懸命、今まで自分が思っていた通り[#「自分が思っていた通り」に傍点]の世界に戻るよう手を尽くした。今まで通りの、自分が優れていると誇示するやり方で、みんなに仲良くなってくれと詰め寄ったのだ。ここまでくると悲劇である。マキナは約束もしていないのに、一人でいる時を狙って遊びにくる。そいつの好物を押しつけたり、悩みを強引に解決してやる。本人でさえ知らない欠点とか性格まで、親切に親切に教えてやるのだ。ますます取り巻きたちは怖がるようになったが、マキナはそんな事はおかまいなしで走り続ける。
いい子であるようにとご近所中に挨拶に行く。同い年の子供ばかりか、その両親にまで同じ親切を繰り返す。そんな事を学年規模、団地規模でマキナはやり続けた。一度決めてしまったら、それ以外に方法を知らなかった。……まったく逆効果だ。頭に火がついて踊る人形みたい。みんなと仲良くなりたいのなら、もっと手を抜けば良かっただけなのに。
うちに苦情がくるのは日常|茶飯事《さ はんじ 》になった。おたくの子をどうにかしてくれ。あの子はおかしいんじゃないか。そんな苦情を母から聞く度にマキナは余計必死になって、いつも通り、その方法での終点に辿り着いた。
「もう沢山よ! ……アンタおかしいんじゃないの!? オトナを馬鹿にするのもいい加減にしなさい……!」
堰《せき》を切ったのは母だ。今までずっとマキナに振り回されてきたのはこの人だったし、
「あ、あ。お、お父さん、わた、しは」
マキナは、母より父に懐《なつ》いていたからだ。
その父は母以上に落胆して、
「巻菜。これからはずっと家にいなさい。オマエみたいな悪い子はな、自分から何かをしちゃダメなんだ」
姉貴を巻菜と呼ばなくなった。父と母からは作り笑いが消え、この点に関してのみ、マキナの方法はうまくいったと言えるだろう。父は評判の娘を上司の家に連れて行く事はなくなり、母は今まで見落としていた弟の普通[#「普通」に傍点]な優秀さに喜び、僕の名前しか口にしなくなった。
マキナは学校でも居ないものとして扱われた。一年から六年まで、目に見えない生徒として無視された。僕も同じ扱いを受けそうになったが、マキナの一番の被害者として振る舞って事なきを得た。悪いが事実だ。今までずっとマキナの輝きに目を潰されていた僕が、どうして味方になる必要がある? それに、みんなも思っていた筈だ。あいつはあのまま、子供のままでいるべきだって。
マキナが中学にあがってからの四年間は、僕の人生最高の時間だった。
中学生になった、という理由でマキナは物置として使っていた部屋に移らされ、姉弟で過ごしていた広い部屋は僕だけのものになった。
中学生になってからのマキナはまったくパッとしないヤツで、いつも俯|《うつむ》いて、幽霊みたいに大人しかった。父や母に話しかけられると悲鳴をあげる。時々、心細そうにこちらを見る事もあったが、睨み返すとすぐに部屋に逃げていった。マキナは破綻《は たん》していた。あいつにとって周りは怖いものだらけで、もう自分だけでは解決できない袋小路に入り込んでいたのだ。
「……はあ。どうにかならないの、巻菜は。伸也、助けてあげなさいよ。弟なんだから」
「やだよメンドくさい。母さん、面倒だからって僕に押しつけないでよね。あ、そうだ。メシのコトだけど、あいつだけ部屋で食べさせたら? いちいち姉貴呼びに行くのうざいし、親父だってその方が機嫌いいじゃん」
狭い部屋で幽霊のように蹲《うずくま》っているマキナは気味が悪くて、気味が良《い》い。
マキナは次第に何も出来なくなっていって、かつての神童は久織家の恥《はじ》にまでなったのだ。もちろん、そうする為にこちらも少しは努力した。同じ中学校にあがって、精一杯努力する。それだけで何もできないマキナは僕に比較されて学校でも弧立してくれる。マキナは何度も僕の教室まで逃げてきたが、睨み返すとやっぱり逃げていく。学校でもマキナは疎まれて、僕の知らないところで色々あったようだ。いちいち知るまでもない事なので、解決する事も両親に報告する事もしなかった。
こうしてマキナは社会からも排斥《はいせき》された。
「ああ―――やっと」
怪物を、閉じこめる事ができた。
そうだ。僕はずっと怖かった。憧れていたのと同じくらい、心の底で、あいつに消えてほしくてしょうがなかったんだ―――
高校生になったマキナは一学期から休みがちで、夏休みを迎える前に不登校になっていた。暗い部屋に閉じこもって、メシの時しか顔を見せない。末期だ。マキナは日に日に性能を落としていき、ついには普通に話す事さえままならなくなった。
まさに生まれたばかりの赤ん坊だ。このままでは呼吸の仕方も忘れるだろう。母はマキナの世話が面倒になってきて、父に養護施設に任せられないかとも相談した。もちろん父の答えは変わらない。
うちにそんな金はない。おまえたちで面倒をみろ
僕は高校受験で忙しく、母は団地中の噂になっているマキナに愛想を尽かしていた。マキナの世話は最低限のものになっていく。母は久織家の子供は弟の伸也だけなのだと、自分に言い聞かせるように僕の世話ばかりした。
半年間。僕の受験が終わるまで、マキナは暗い部屋に放置された。……それで、愚かにも気を抜いた。合格祝いだった事もあったけど、僕は根本が甘いのだ。曲がりなりにも、アレを神さま扱いしていたクセに。もうマキナが口を開く事はないと、あいつを、自分と同じ程度の秤《はかり》で見てるなんて。
「それでね、伸也。先生が気を遣って、お姉ちゃんと同じクラスにしてくれたんですって」
「は―――?」
ビクリ、とマキナが震える。
合格祝いの食卓で、母は六年ぶりに作り笑いを浮かべていた。
「なにそれ。どういうコト? 姉貴、まだ学校行く気あんの?」
不登校だったマキナが進級できる筈もなく、自主退学か留年かを迫られていた筈だ。厄介者扱いしているクセに世間体が大事な母は、なんとか高校ぐらいは出てほしいと留年させたらしい。
「いい話じゃないか。伸也が一緒なら、この子も学校に行けるだろう」
親父は何も分かってないクセに、分かったような口をきく。的はずれもいいところだ。留年した姉を弟と同じクラスにする? なにそれ。痛すぎる。親父も教師も馬鹿じゃないのか。気の遣い方を間違えている。
「なんだよそれ、ふざけんなよ。僕、面倒なんて見ないからな」
この時。面倒を見ない、などと言わず、同じクラスにされる事を全力で嫌がっていれば。
いや、そもそも、
「―――、あ」
ここで、マキナがスプーンなんて落とさなければ、何事もうまくいっていた筈なのに。
「……拾いなさい巻菜。いま落としたでしょう。なに? 黙ってちゃ分からないでしょ。聞こえないの? スプーンを落としたでしょ? お母さんは、自分で拾いなさい、と言ったのよ」
母の命令を聞いて、ゆっくりとマキナはスプーンを拾う。父は見ないフリだ。マキナはスプーンを持ったまま、心細そうに母を見る。
「……あの。お母さん、食べさせて」
ギシ、と食卓の空気が軋む。マキナはご飯さえ自分では食べられないらしい。
母は苛立《いらだ 》ち、テーブルに八つ当たりをする。
「もう、甘えるんじゃありません! 貴方ね、そんなコトもできないの!? バカ!? いつからそこまでグズになったのよ!? お手本なら目の前にいるじゃない! 何もできないなら、伸也を見習えばいいでしょうに!」
……ああ。でもさ、母さん。
その言葉だけは、口にしてはいけない事だったんだ。
「―――え?」
きりきりとマキナの首が動く。
マキナは、レンズのような目を輝かせて、
「お母さん。私、自分から何かしていいの?」
「当たり前でしょう。子供じゃないんだから、分からなくなったら伸也のマネをしてみなさい。それなら誰にも迷惑はかからないし、アンタにはそれぐらいが丁度いいわ」
目的を与えてはいけない。
方法を教えてはいけない。
機械仕掛けの、ネジを巻いてはいけなかった。
「そっか。分かった。―――今から、そうするね」
久織家の物語はここから反転する。
そうして、僕は。
何をやっても、うまくいかなくなったのだ。
高校からマキナと同じクラスになる。正直に言えば最悪の気分だった。
不登校で留年した姉がいる、なんて肩書きは僕には似合わない。父の貧乏性がここでも災いした。進学に金を使いたくない父は、地元の高校しか受験を許してくれなかったのだ。
マキナはきっと僕の足を引っ張るだろう。あんな、一人でメシも食べられないヤツがみんなに嫌われるのは当然だ。教室というのは弱者から徹底的に人権を奪う。品格、体格、成績の差、あと、こいつなら責められても当然という空気。その全てをマキナは持っている。仮にマキナがいじめられても、あいつを助けようとするヤツは現れない。だって、労力を費やして助ける価値がない。助けてやったところでそいつが心底グズなら、返ってくるのは面倒だけだ。肉親でもなければ、そんな無償の行為はあり得ない。
しかし。拍子《ひょうし》抜けな事に不安と共に始まった高校生活は、フタを開ければ素晴らしいものだった。
初めの一ヶ月、マキナは不登校のままでいてくれた。
地元の高校だったので中学からの知り合いも多く、入試の成績から先生方の覚えも良かった僕はごく自然な流れでクラスの中心になって、多くの友人と信頼を獲得した。たまに不登校である姉の話題があがったが、マキナの話を逸らすのは慣れている。久織伸也は中学に続き、高校でも華々《はなばな》しい一歩を踏み出した。
……ただ。一つ、気持ちの悪いコトがある。マキナが、自分の部屋から出てくるようになったのだ。
家で視線を感じて振り向くと、かならずマキナが僕を見ていた。あいつと目が合わない日はなかったぐらいだ。目障りなので睨み返す。今までのあいつならすぐに部屋に逃げ戻った。……なのに。マキナは僕と目が合っても逃げずに、ずっとこちらを観察する。ただの比喩《ひゆ》にすぎないが、それこそカメラのレンズのように、瞬《まばた》きをするのも惜《お》しむほど、久織伸也を見つめていた。
違和感に気付いたのは五月になってからだ。
夕食時、めずらしく父の機嫌が良く、マキナとあれこれ話している。なんでも今日はマキナのおかげで仕事がうまくいったとかなんとか。……面白くない。小学生だった頃の食卓を思い出す。
「巻菜。鳥カゴを買ったのはいいが、鳥はいいのか?」
「うん。もうあるから、中身はいらない」
父は楽しそうに笑う。マキナが物を買って貰う、というのも珍しいが、父が訊いてやるのも珍しい。それを他人事のように眺めながら、そう言えば、と気が付いた。
父がマキナを名前で呼んで、一言も話せなくなっていたマキナは、父と普通に笑いあっている事に。
父とマキナの関係は不自然なぐらい好転していった。日曜日、部活から帰ってくるとマキナと父が団地の広場でキャッチボールをしている。頻繁に買い物に出かける。風呂上がりに仲良くテレビを見ていたりする。
「伸也のおかげよ。巻菜、明るくなってきたわ」
母は懐かしそうにマキナと父の姿を見ている。誓って僕は何もしていない。なのに、マキナが明るくなっていくのは、母曰く僕のおかげらしいのだ。……何か、ひどく気持ち悪い。
実はな巻菜。お父さん、巻菜みたいな男の子がほしかったんだ
父は嬉しそうにマキナの頭を撫《な》でる。誓ってマキナは男の子じゃない。
……気持ち悪い、気持ち悪い。当たり前だ。あれだけ自閉していた人間が、たった一ヶ月であそこまで回復するものなのか。あれだけ両親に嫌われていた娘が、こんなにも早く和解できるものなのか。それが気持ち悪すぎて、僕は、本当は何が一番気色悪いのか気付かなかった。
そうして六月。マキナはあっさりと、不登校から回復した。
悪い夢を見るようになったのはこの頃からです。
言いようのない閉塞感にうなされて目が覚めます。
明かりの絶えた真夜中の出来事でした。ふとドアを見ると、少しだけ開いています。
何かが覗いている[#「何かが覗いている」に傍点]のは明白です。
ドアの向こうは部屋より一段深い闇と、隠そうともしない息遣いと、カチカチと鳴るネジの音と。
ドアの隙間《すきま 》には。
レンズのような眼をした、眼球だけの生き物が―――
客観的に見れば、僕とマキナは仲の良い姉弟だった。マキナは少しずつクラスに馴染《なじ》み、友人を作り、今までの汚名を払拭《ふっしょく》していく。
「不登校だった生徒」なら責められるべき弱者。
けれど「不登校から立ち直ろうとしてる生徒」なら保護すべき弱者になる。
そんな健気《けなげ 》な姉を無視しては、責められるのはこちらの方だ。僕は出来のいい弟として、マキナの回復を静観するしかない。たとえそれが、怖気《おぞけ 》がするほど気味の悪いものだとしても。
マヰナは円滑《えんかつ》に、スムーズにクラスに溶け込んでいく。らしくない。あんな、見るからに凡人な立ち振る舞いは、僕の知っているマキナじゃない。……吐き出しそうだ。あんな怪物が、僕たち人間とうまくいくなんてあり得ない。あんな見え見えの愛想笑いで人気者になるなんて嘘くさすぎる。あんな新参者がたやすく信頼を勝ち取るなんて、あまりにも浅すぎる。僕が維持してきた世界は、そんな易《やす》いものではなかった筈だ。
「だって話しやすいじゃん。久織さん、女子だけど男くさいって言うか。話してて気持ちいいし」
「伸也と巻菜ってホントよく似た姉弟だよな」
「え、そう? どっちかっていうと逆じゃない? 伸也くんの方が、巻菜さんに似て―――」
中学からの友人が語る。おまえたちはソックリで、久織伸也が二人いるようだと。
何もできないのなら、伸也を見習えばいいでしょう
ああ―――言われなくても、分かっていた。
この教室には、もう一人の僕がいる。生活習慣から学習、成績のレベル。相手を持ち上げながらも最後は自分に戻す話術から、提供する話題と他人の気を引く趣味嗜好。その全ては、もともとは僕のものだ。
……本当に、今すぐ止めろ[#「今すぐ止めろ」に傍点]と吐き出しそう。あいつの新生活は、僕が積み重ねてきた二ヶ月間の、完全な焼き直しだったのだ。
マキナの模倣《も ほう》は、日に日にピントが合っていった。
学習から精密な複写へ。
参考から完全な再現へ。
あくまで久織伸也を模倣し続ける。
意味が分からない。あいつは僕より何倍も頭がいい。何かの気紛れで僕の手法を取り入れたにしろ、結果はもっと優れた、別の個性になる答なのに。あいつは模倣という手段にだけ関心があるようだった。
本当にどうかしてる。尊敬する人間の趣味嗜好をマネるのなら理解できる。動力は憧れで、自分もそうなりたいという目的が存在する。けどマキナにとって僕は近くにいただけの人間だ。道ばたですれ違う他人と変わらない。そんな人間の行動をマネる事が精神的に可能なのか。まったく興味も尊敬も持てない人間になろうなんて、どこにも目的が見あたらない。手間暇かけても得るものが何もない。そんなの―――本当に、生き物の思考なのか。怪物にだって、自分の欲望《いし》ぐらいはあるだろうに。
でも、不満は飲み込むしかなかった。
誰が見ても明るく理知的で人を惹きつける優等生になったマキナを、僕は、僕だけがマキナの気味悪さを知りながら、仲の良い姉弟を演じるしかなかった。
まったく無駄な努力だ。そんな事をしなくてもバランスは日々入れ替わっていき、不登校で留年した落ちこぼれは、僕と同じようにクラスの中心になっていた。マキナは女子のリーダーで僕は男子のまとめ役。さぞ幸せな姉弟に見えた事だろう。
家ではもう、中心は一つきりだった。
たった二ヶ月で久織家は造り変えられた。父も母も伸也を見る事はなくなり、マキナの笑顔と、あいつが持ち込んでくる家族の団欒《だんらん》だけを楽しみにしていた。僕の居場所は日々小さくなっていく。
ねえ伸也。お姉ちゃんに部屋を譲《ゆず》ってあげないの?
冗談じゃない。あの部屋は僕が勝ち取ったものだ。物置に逃げ込んだマキナが、どのツラ下げて帰ってくる。
巻菜。来週の休み空いてるかな? お父さん、出かけたい所があるんだが
たいした正直者だ。以前は作り笑いで媚《こび》を売っていたのに、今じゃ恥も外聞もなく真顔ですがってやがる。
やかましい食卓。さっさと部屋に戻ろうと席を立つ。
「ちょい伸也。右肩、気をつけなさい。寝る前にほぐしておかないと、明日クビ寝違えるよ」
そして。父と母に幸福を振りまきながら、マキナは僕も知らない久織伸也の体の異状を言い当てる。カチカチと音をたてるような、感情のないマキナの目。
返事なんかせず、目を逸らして部屋に急いだ。マキナの事で余裕をなくしてたからだろう。整理|整頓《せいとん》を心がけていた僕の部屋は、段々と散らかりだしていた。今日も何もかも放り出してベッドに倒れ込む。
翌朝。あいつの忠告を無視したら、ホントに首を寝違えた。もちろん。
「おはよう巻菜。あら、肩こり? 大丈夫?」
食卓には。僕が忠告を無視する事までお見通しの、首を寝違えたマキナがいた。
いきすぎた模倣は、オリジナルへの侵略に他ならない。二学期になってから、久織伸也の椅子は、僕をふるい落としにかかってきた。
その日、中学からの友人に約束を断られた。急な用事で遊べなくなったらしい。誘いを断られるのは珍しいが、まあそういう事もあるだろう。気にせず町に買い物に出ると偶然マキナを見かけて、
「……なんだよ、それ」
マキナの周りには、僕の約束を断った、友人たちの笑い顔があふれていた。
この時の気持ちなんて思い出したくもない。約束を破ったのはあいつらだ。嘘をついたのはあいつらだ。なのに、正しいのは僕の方なのに、僕は完膚なきまでに邪魔者だった。咄嗟《とっさ 》に家に逃げ帰る。だって、あいつらに見つかったら恥をかくのは僕の方だ。
よ、よう伸也。そこでさ、偶然マキナと会ったんだ
やめてくれ。そんな言い訳をされても困る。謝られたら、明日からますます距離を置かれるだろうし。
……ちぇっ、空気読めっての。しかたねえなあ。いいよ、ついでだし伸也も来たら?
考えたくもない……! そんなの、まるで。避けられているのに顔を出す、友達のいない落ちこぼれみたいじゃないか……!
「はっ、はっ、はっ、あ―――!」
部屋に駆け込んで、ドアを閉めて、喉《のど》まで込み上がった叫びを堪《こら》える。殴りつけたい。このどうしようもないみじめさを払拭する為に八つ当たりをしたい。けど、自尊心が歯止めをかける。待て。待て。待て。代償を探す必要はない。僕は何も失っていない。失っていないんだから、そんな事をすれば、自分から転がり落ちるようなものだ。今はただ呼吸を整えればいい。けどなかなか落ち着かない。喘息《ぜんそく》になったみたい。頭まで痛くなってきて、目眩《め まい》で倒れそうになった頃。ガチャリと、閉めた筈のドアが開いた。
「―――姉貴」
マキナが侵《はい》ってくる。ベッドまで後じさる。散らかった部屋の真ん中で、マキナはじっと立ち尽くす。
「な。なんだよ。勝手に人の部屋に入るなよ」
「うん。けど伸也を見かけたから。いきなり走っていっちゃうから。どうしたのかなって」
喘息は治まった。目眩は消え去った。代わりに、脳を燃やすような感情がちろちろと燻《くすぶ》った。
「は……どうって、おまえこそ。いったいさ、どこまで本気なんだよ」
舌が痺《しび》れる。いけない。喉が熱い。あぶない。気持ちは分かるけど、問いつめるのは賢くない。昔から言うだろう。その手の怪物《れんちゅう》は、正体を見抜かれた途端、人間に襲いかかるって。
「本気って、何が? 私、伸也に何かした?」
「……してるだろ、露骨《ろ こつ》にさ。……さっきの何だよ。なんで斉藤たちと一緒にいるんだよ姉貴は。女なんだから女と遊べばいいだろ? なんで―――なんで、わざわざ俺のダチとつるむんだよ……!」
でも止まらない。苛立ちと、きっとそれ以上に恐くて、躁り出す声が止まらない。
「ああ、それか」
なんでもない事のように目を閉じる。
そうして、マキナは、
「だって、斉藤くんたちの方から誘ってきたんだよ。伸也はつまらない。もう珍しくもない[#「珍しくもない」に傍点]。伸也と遊ぶぐらいなら、私と遊んだ方が面白いって」
僕を哀れむように、小さく笑ったのだ。
「っ、……!」
ごっ、と鈍い音がする。
目の前が真っ白になって、握った右手が熱くなった。
マキナは声をあげなかった。無抵抗に体を崩して、どたん、と散らかった床に尻餅《しりもち》をつく。
「あ―――、……え?」
人間らしい理性が、砂のようにこぼれていく。快感なんてない。初めての暴力は、時間を巻き戻したくなるぐらい最悪だった。マキナは顔を伏せて、殴られた右頬《みぎほお》に触れている。弟に殴られた痛みと驚きで黙り込んでいるんじゃない。こいつは。いま。もしかして、微笑《わら》っている……?
「おまえ、気持ち悪い」
弱いのはマキナで、暴力を振るっているのはこっちなのに。僕の足は震えていて、マキナの肩は、くつくつと震えている。
「うるさい、笑うな! 何が楽しいんだよ、ヘンだよおまえ、前みたいに怯えてろよ……!」
「何って、別に。私、今まで楽しいって思ったコト、ないから」
ゆっくりと顔をあげる。怪物は、レンズのような眼を輝かせて、
「だから自分から何かするってコトが出来なかったんだけど―――そうだな。試しに伸也の居場所に座ってみるのは、面白いのかも[#「面白いのかも」に傍点]しれないね」
くすりと。
確かに、初めて、嬉しそうに笑っていた。
子供の頃からの疑問がとける。コイツのどこが気味悪かったのか。簡単だ。マキナは泣いたり怒ったりはするクセに。自分から喜んだコトが、ただの一度もなかったのだ。
「面白いって、なん、で?」
ただ怖くて、そんなコトしか口にできない。……なんて手遅れ。もうやめてくださいと懇願したのなら、まだ、聞いてくれたかもしれないのに。
「だって。その方がみんな面白がってくれるでしょ。伸也はもう消えていいよ。あとは私が伸也になってあげる。だって、ほら。私の方が[#「私の方が」に傍点]、うまく伸也をこなせるんだし[#「うまく伸也をこなせるんだし」に傍点]」
もう止まらなかった。気が付けば、僕の右手はマキナの鼻血で真っ赤だった。笑うな。笑うな、笑うな、笑うな。好かれてるのはおまえじゃない。うまくいってるのは巻菜《お ま え》じゃない。マネるな。動くな。なんだよ、なんだよ、おまえなんか、おまえなんか、
「おまえなんか、僕のマネしかできないクセに……!」
殴りつけた衝撃は、部屋中に伝わった。壁にぶつかるマキナ。支えが外れて落ちるつり棚。載せていた本がマキナの頭に落ちる。軽い出血。ちょっとでもズレていたら、マキナの右目を傷つけていた。
崩壊はどれくらい続いたのか。気がつけば母が帰ってきていて、マキナは手当されていた。マキナの頭の傷は軽く、瘡蓋《かさぶた》程度で済んでくれた。代わりに、家での僕の居場所は完全になくなった。
父に叱られる。マキナが取りなす。母は姉の優しさに感じ入る。僕はぼんやりと、落ちたつり棚を眺めている。……ああ。あれは子供の頃、姉弟で一緒に作った、お気に入りの工作だったのに。
趨勢《すうせい》は決した。
後の事なんて語るまでもない、当然の結果だけが連鎖していく。両親はマキナに心酔し、友人は減っていった。段々とはじっこに追いやられていく事が怖くて、必死に挽回しようとあがきもした。けど、なにをやってもうまくいかない。久織伸也としての振る舞いは、マキナの方がうますぎたからだ。
今までどうやって成功していたかすら分からなくなって、結局、マキナを手本にするしかなかった。
マネているのはあいつなのに、追いかけているのは僕になった。僕自身、あいつの思い描く久織伸也を手本にしている。僕にはもう、元の僕というものが分からない。
終わりはあっさりと訪れた。
それでもかろうじて居場所が残っていた教室、僕は自分から転げ落ちた。きっかけは些細《さ さい》なこと。朝、教室に入ったらマキナがプリントを配っていた。それはクラス委員の僕の役目で、決しておまえの役目じゃないと口論して、家でするように、みんなの前でマキナに手をあげた。
なんでおまえがそんな事をしているんだ、と怒鳴ってみたら。その言葉は、そっくりそのまま、みんなから返ってきた。
翌日、教室に入った時、僕の机は捨てられていた。
■■■
……ええーっと……あれ、はじめ不登校だったのは誰だったっけ。まあいいか。
僕は二学期から学校に行かなくなって、部屋に閉じこもるようになった。部屋は散らかり放題で、汚らしい廃墟のようだ。父は最後の一度だけ、母は時々、僕を心配して入ってくる。
マキナは―――きっといつでも、この部屋にいた筈だ。
僕は随分前のマキナを思い出して、同じように時間に耐えた。何も見ないで、何も考えない。マキナは、たしかそういう風に生きていた。……そうだ。だから、久織伸也には何の価値もない。模倣する意味もない。放っておいてほしい。僕はもう、何も出来ない役立たずだ。
「あ―――」
なのに両親が寝静まった深夜の台所とか、トイレに続く廊下とか、ふと振り向くと、マキナが無言で立っていた。カチカチと観察している。あの眼で、ガラクタになった僕を見つめて、機械みたいな冷たい声で、
「―――ねえ。何か[#「何か」に傍点]、新しいコトしないの[#「新しいコトしないの」に傍点]?」
悲鳴をあげて部屋に逃げ込む。ドアを閉める。ベッドの中に潜り込む。電灯なんてとっくに壊していた。窓も雨戸を閉めて遮断してある。僕の部屋は、ドアの隙間からしか明かりの入らない暗闇だ。
でもあいつには何もかもお見通しで、部屋に立てこもっても、あいつは僕の全てを観察している。……そうだ。ずっとそうだった。どうして気が付かなかったのか。部屋に連げ込むコト自体が間違いだった。ここは烏龍《とりかご》だ。僕は毎日、ここであいつに観察されていた。どうやって? は。あの怪物に不可能なんてあるものか。きっと雨戸をあければ、巨大な眼が部屋を覗いている。
「いやだ―――いやだ、いやだ、いやだ―――」
模倣されているうちはまだ良かった。でも提供するものがなくなったら、マキナにとって、僕は本当に用済みになる。用の無くなった教科書はただのゴミ。マキナはいつも、覚えたマニュアルを燃やしてしまう。だから、見抜かれないように隠れているのに。
「だめだよ伸也。そんなので手首を切っても痛いだけだってば。どうせやるなら昨日こっそり盗んできた、頑丈《がんじょう》そうなナイフでないと」
……誰か助けて。
この部屋は、あいつの眼球の中みたいだ。
■■■
―――結局。僕は、マキナにはなれなかった。
何も考えないという生活は、正常な心では到達できない。僕は亀裂だらけだったけど、そこまで壊れてはいなかったのだ。僕はマキナに怯えて、怯えるのにも疲れて、この環境から逃げ出す事だけを必死に考えた。
……はじめは、マキナにどう許してもらうかを。あいつが僕のマネをする理由は、いじめられていた時に助けてやらなかったからだ。これはマキナの復讐だ。僕が謝ればあいつは許してくれるかも知れないと望みを持って、ベッドの中から、すぐ傍にいるだろうマキナに話しかける。
なんで? 私、伸也を恨《うら》んだ事なんて一度もないよ。
僕が壊したつり棚を直しながらそいつは語る。台所からは久織家の話し声。
ねえお父さん。あの鳥カゴ、そろそろゴミにしていいかな
ああ、巻菜の好きにしなさい。しかし、どうして棄てるんだ? 大切にしていると思ったのに
ううん。私、一度も大切に思ったコトはないよ。中に入れてたのはどうでもいい虫ケラだし。それも、本当につまらなかったけどね
「―――は。は、は」
殺してやりたい。心の底からそう思った。閉じこめられた体と、奪われ続けた心が、限界を迎えていた。何を平然と。もう終わった事みたいに。久織伸也を横取りしておいて、そんなのどうでもいいって言うのかよ……!
「……そうだ。僕が、甘かった―――」
復讐とか恨みとか、あいつはそんな人間らしい理由で動いていない。謝っても無駄。そもそも僕に何の感情も抱いていない。だから、与えないと。
あいつがもう、僕を用済みだって言うなら。
その前に、こっちが恨みを晴らしてやる。
火がついた決意は止まらない。昂ぶったまま深夜を待って、午前二時になったのを確かめて、部屋から適度な道具を探す。……都合がいい。子供用だが、押し入れには野球のバットが用意されていた。
「は――――、ぁ」
子供用といっても金属バット。こんなので殴られたら、きっと痛いに違いなく。
「は―――、っ―――」
でも仕方のないコトだ。今までのコトを思い出して憎しみを絞り出す。グリップに吸い付く掌。……よし。なんだ、思ったより軽いじゃないか。これなら僕でも扱える。
呼吸を落ち着かせながら、静かに、足音を立てずにドアを開ける。後は廊下に出て、台所を通過して、マキナの部屋に忍び込むだけだ。……まったく、初めからこうしていれば良かった。体力なら負けないんだ。マキナだって女だし、バットで殴りつけて、痛い思いをさせて、う、腕の一本も折っちゃえば、これ以上は僕を追いつめたら危ないって考え直してくれるだろう。
「は―――っ、はっ―――」
廊下に出る。四歩も進めば台所に出る。
明かりは一切ない。台所は闇に落ちている。人の気配はまったくない。
一歩に何分もかけて、ゆっくりと台所に出る。
同時、に。
「―――え?」
台所の向こう。きい、と開いた物置の扉の前に。
久織マキナが、立っていた。
合わせ鏡のようだ。僕が台所に入ったのとまったく同じタイミングで、マキナは部屋から出てきたのだ。僕の手には金属バット。あいつの手には、研ぎ澄まされた包丁が握られていた。
「――――――」
それは、完全な模倣だった。久織伸也の精神状態と、その限界を把握《は あく》し、久織伸也として再現する。
なのに包丁とバット。脅そう[#「脅そう」に傍点]と考えていた僕の伸也と、殺そう[#「殺そう」に傍点]と考えていたマキナの伸也。
「ちぇっ」
恥ずかしそうにマキナが笑う。
「あーあ、久しぶりに間違えちゃった。ごめん伸也。アンタは、もう少し小物だった」
―――きっとこの時。
僕だったものは、ようやく瓦解《が かい》してくれた。
アレには勝てない。もう何をやっても、僕の久織伸也ではあいつの伸也には敵《かな》わない。気づいていなかっただけで、僕はとっくに、踏み潰されて消されるだけの、虫の抜《ぬ》け殻《がら》だったのだ。
二〇〇一年初頭。僕が入院する前の最後の話。
その日はマキナの誕生日だった。去年まで話題にもあげなかったクセに、父と母は夕方からお祝いの準備に夢中。僕は自分の部屋《くらやみ》に閉じこもって、明日が来る事を必死に祈る。
……久織伸也はとっくにマキナに所有されていた。あいつがその気になれば僕はすぐに消されてしまう。マキナの誕生日。今まで死んでいたあいつが久織伸也として再生するのにうってつけの聖誕祭。
見えば、朝からマキナは積極的だった。何度も僕に参加するように呼びかける。今日ぐらいみんなで夕食を食べようと。冗談じゃない。この部屋で見つめられるだけでも消えてしまいそうなのに、明かりの下でマキナと眼があったら心臓が停止する。
「もう。いいかげん出てきなさい伸也。今日はお姉ちゃんの誕生日なのよ―――」
無視し続ける僕に業を煮《に》やしたのか。母は滅多に開けないドアを開けて、僕の部屋《くらやみ》に入ってきた。無遠慮に真ん中まで。いつもマキナが立って監視している、ガラクタの真ん中に。
寝てばっかりなんだから。部屋も散らかし放題で、いったい何時になったらアンタは―――
お姉ちゃんみたいになるのかしら[#「お姉ちゃんみたいになるのかしら」に傍点]。
うるさい。廊下からの明かりが眩《まぶ》しい。ドアを閉めろと怒鳴る。……暗闇に戻る。母はまだ出て行かない。
聞いてるの? お姉ちゃんの誕生日なのよ? 巻菜、伸也が来ないとイヤだって。伸也と一緒に祝いたいんだって言ってくれてるのよ?
うるさい。マキナ。マキナ。マキナ。母は誇らしげにそいつの名前を口にする。本当にうるさい。僕の事なんてどうでもよくて、ただマキナの期待に応えようとベッドから引っ張り出す。やめろ。やめて。いやなんです。マキナに会うのも、幸せそうにマキナと話しているアンタたちを見るのも悲しくて。そんなにマキナが大切なら、
ほら―――さっきから、お姉ちゃんが待ってるから
お願いだから。僕の事は見逃してくださいよぅ……!
「ひっ……!?」
突き飛ばす。異物が入ってきたドアに向かって、マキナの手下を突き飛ばす。だん、と異物が閉じたドアにぶつかる音と、どすん、と尻餅をつく音。
「っ、伸也、アンク―――」
苛立った母の声がする。なんか、前にもこんな事があった、と思った瞬間。パキッと音がして、
「へ―――、ひゃ?」
母の喉から、大量の血が噴き出していた。
その他、ドサドサと落ちていく雑多な荷物。ドアの隙間から差し込む明かりで、状況はなんとか見て取れる。
ドアの真上に、いつから場所を変えたんだろう、あったつり棚の足が外れて、載せていた荷物が母に落ちただけなのに。母の喉には輝く刃物が刺さって、いい感じで喉を裂いたあと、トスンと床に転がった。
美しいと言わざるをえない。刃物は垂直に落ちたのに、まるで吸い込まれるように、母の喉に切っ先だけ引っかけて、ざっくりと切り抜けたのだ。
「あの………母さん……?」
返事はない。苦しげな呼吸が聞こえる。出血がすごい。すごすぎて、生きているのか死んでいるのか分からない。
「し、し、て、て」
シンヤ、タスケテ。聞こえないよそんなの。母さん、腹話術でも習ってれば良かったのに。
「――――――」
凶器を見る。包丁。いつか見た、僕を殺す為の包丁だった。それが何を意味しているか思い至る前に、
騒がしい二人とも。何かあったのか?
廊下には父の声。ドアノブが回る。母が邪魔でドアは開かない。父は乱暴にドアをあけて、まだ呼吸をしている母の体が、ごろりと床に転がった。
―――母さん?
父の目からは、どんな惨状《さんじょう》に見えたのか。
この時の父の対応は、見直して然《しか》るべき冷静さだったと思う。まず、呆然と立ち尽くす僕を殴りつけ、すぐに倒れた母の様子を見る。服をやぶって喉に押し当てる。動かすのは危険だと判断して、おまえはそこを一歩も動くなと怒鳴って廊下へ走る。ドタドタ。……でも、やっぱり正常ではなかったのだ。一刻も早く病院に電話をしようとした父は、この狭い家の中、電話のある台所へ走っていって―――
っ、ぐ……!
どたん、と何かにつまずいて転んだらしい。倒れた音が僕の部屋まで届いてくる。問題はその後。いくら待っても、立ち上がる足音も、電話を取る音もしなかった。
静かだ。母の呼吸音だけが聞こえる。
のそのそと部屋を出る。明るい電灯の下、廊下を抜ける。もっと明るい、夕方の食卓には。
左目に深々と刃物を突き刺して動かない、父の体が転がっていた。
「いつまでもそんなの持ってると危ないよ、伸也」
テーブルの向こう、電話の前には、返り血一つないマキナが笑っている。
そんなもの、と言われて手を見ると、僕は包丁を握っていた。あわてて指から引きはがす。とすん、と落ちて床に刺さる斑《まだら》な刃先。
「―――姉貴」
何があったのか、考える事もできない。
父が母と同じように死にかけているのか、もう死んでいるのか、それぐらいしか考えつかない。
「―――姉貴」
愚かにも、まだ希望を持っていた。僕は、なんとか事情を説明しようとして、いますぐ病院に電話をしてほしくて、
「ご苦労さま伸也。で、ソレはお母さんの何処《どこ》に刺さった? 右目あたり、それとも首筋?」
目の前で喋るアレが。転んだ父に、トドメを刺したのだと思い知った。
「聞こえない? お母さんの容態を訊いているの。つり棚、外れたんでしよ? 私は見てないんだから、容態ぐらい教えてよ。刺さったのは右目か右の喉か、どっち?」
気が遠くなる。マキナは何が起こったのかなんて聞くまでもないと。母の生死より、包丁がどこに刺さったかを聞きたがる。
「―――なんで、分かるんだよ」
父と母の窮地より、恐怖の方が勝った。
いい。あのつり棚も、あるはずのない包丁も、倒れている父の事もいい。そんなのはもう訊くまでもない。
だけど、どうして。なんでコイツは、さも当然のように、母の容態が分かるのか―――
「呆れた。こんなの数学と物理の応用でしよ。お母さんの身長と体重、歩幅も分かってるんだもん。きっちり数式《か た ち》にはまったんだから、結果《こ た え》は分かりきってるのに。もう、今まで学校で何を習っていたの、伸也?」
……ああ、そういう事か。
僕の部屋は、僕が作ったんじゃない。ああなるようにコイツに仕向けられていただけ。散らかり放題の床も、壊した電灯も、マキナがいつも話しかけていた場所も、全てはこの結果の為にちりばめられたものだ。
あとは条件が揃《そろ》う時を待てばいい。今日が決行のタイミングだったのではなく、あいつは、いつでもいいから、僕がスイッチを押すのを待っていた。久織伸也が母親を傷つける事実が起きるのを、ずっと座して待っていたんだ。
「でもさ―――なんで。やめてよ。それなら、もっと優しい方法で、よかったのに」
僕は小物だって。殺す覚悟なんてないって、僕以上に知っていたのはアナタなのに。
「へえ。そっか、お母さん致命傷かぁ。立ったままかお尻をつくかで生死は違ったんだけどね。できるだけ重さがかかるように組んでおいたけど、落下距離だけはお母さんと伸也次弟だから。運がないね、伸也もお母さんも」
僕の力が弱く、母がもう少し踏み留まって、部屋が散らかってなければ、尻餅をつく事はなかったのか。けどさ、マキナ。その言い分だと、そこで転がってる父さんは運次第じゃないんだよな。
「うん、お母さんの容態は分かった。これでようやく次に移れる」
背を向けるマキナ。受話器に手をかける。
「何を、するの」
「何って、警察に電話。うち、タイヘンな事になったからって」
理解が追いつかない。
警察に電話? 病院じゃなくて? だって、そんなコトしたらマキナが捕まる。誰がどう見たって、この惨状を起こしたのは―――あ。
「気付いた? 伸也、返り血ばっちりだもんね。さて問題。ここ半年間の久織家の状況は周知の事実で、キミは私に何度も暴力をふるっていた」
「――――――」
自己損失による視野狭窄《しやきょうさく》。パノラマだってレンズは魚眼に変わる。目眩でグラグラして、肉体と意識が分離する。脳が頭蓋《ず がい》からスライドしたみたい。マキナはボタンをプッシュする。
「客観的に見て、どっちが犯人かは言うまでもないよね。あ、繋《つな》がった。もしもし、警察ですか」
「あ」
止めないと。止めないと。止めないと。バット。どうしてか台所にも都合よくバットがあって、あの夜の焼き直しで、腕、腕ぐらい、そうだ、あいつの腕ぐらい、あの時折っておけば良かったのに―――!
「あああああああああああ―――!」
全力で振った。受話器を持つマキナの右手にフルスイング。ものすごい、世界が割れる音がする。落ちる受話器。返すバットで電話ごと粉砕する。
「あ―――あ、はは、ぁ」
バットを杖にして、崩れそうな体を支える。……助かった。いま警察に電話されるのはまずい。マキナの思い通りになる。けど、それもギリギリで阻止できたとホッとして、
「あーあ。電話、壊しちゃったね」
右手を折られたクセに。マキナは軽い足取りで、ベランダに向かっていく。
「恐いなあ伸也は。そんなに、警察に電話されるのがイヤだったの[#「警察に電話されるのがイヤだったの」に傍点]?」
は……はは。ははは。あははははははははははは!
「はい、これでキミはおしまい。ようやく椅子が空席になってくれた」
カラカラと窓が開く。外はキレイな夕日だった。マキナがお化けを見たという日、誰も助けてやらなかった赤いベランダ。
「でも気にしないでいいよ。伸也は社会から追い出されるけど。伸也のやり方は、私が続けてあげるから」
……そうだ。久織伸也の居場所に座るって事は、僕を何者でもなくすという事だった。椅子には一人しか座れない。マキナが座るには、どんなに弱くても、取るに足りないとしても、元からいた僕を消すしかない。
「姉ちゃん――姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん―――」
自分でも何が言いたいか分からない。
許してほしいのか助けてほしいのか、まだ、アレが姉であるコトを信じたかったのか。
ソレは、最後にくすりと笑って、
「ばあか―――ばいばい、伸也」
客観的に見れば僕から逃げるように、笑いながら、三楷のベランダから飛び降りた。
―――ぐしゃ。
■■■
両親の殺害容疑、姉への暴行罪で久織伸也が逮捕されてから三年後の、二〇〇四年初頭。
僕は保護観察扱いではあるものの、社会への復帰を許された。もう一度、機会を与えられた。
あの時。あいつはもちろん転落死などしておらず、右腕を不随《ふ ずい》にしただけで生き延びた。本当は五体満足で済む算段があったのだろうが、折れた右腕が足を引っ張ったのだろう。あいつも万能ではないという事だ。それが祟《たた》ったのかどうかは分からないが、その後の精密検査であいつは僕と同じように、一般社会から隔離された。
僕を空っぽに、久織伸也というカタチから追い出す計画は完璧だったのに、終わった後で悪魔憑きと診断されたのだ。まったく遅すぎる。あいつが人間じゃないのは何年も前から分かっていただろうに。
もっとも、そのおかげで僕は酌量《しゃくりょう》の余地が与えられた。A異常症患者と共に暮らしていた事で、精神に多大なストレスを与えられたと弁護されたからだ。
退院してみれば親族は| 快 《こころよ》く受け入れてくれたし、両親の生命保険が下りていたので、しばらくは働かなくても生きていけそうだ。
もっとも、僕にそういった目的はない。入院していた三年間で、僕は別の生き物になっている。
最後の機会だ。今度こそ間違えない。自分に与えられた責任を果たして、一秒でも早く楽になりたい。幸い、最大のネックだった資金面はクリアされていた。机上の空論はとたんに現実味を増してきた。不安材料は多いが才能と金は等価。僕程度の能力でも、金を使えば才能は埋められるだろう。ま、運が悪くなければ成功するさ。ほら。お金とか幸福とか増やす事を考えなければ、わりかし思い通りになるのが人生だ。
[#改ページ]
2/Self (B)
自分で言うのも何なんだが。
それは、最悪の社会復帰だった。
「―――以上だ。石杖所在は本日をもって当病院から退院。以後は専属の監察官がその生活を保護、記録する事になる。言うまでもないが、陰性と判別されたところで石杖所在の扱いはA異常症患者と同じだ。日常生活に何らかの不備があると判明した場合、その処遇は専属の監察官に一任される。他に質問はあるか?」
黒スーツでビシッと決めた戸馬的監察医は、蔑《さげす》みのこもった視線で受け持ちの患者を威圧する。
二〇〇四年、八月。俺はこれで最後になるだろうオリガ記念病院の診察室で、ポンポン気軽に退院の手続きを行っている。
「……所在《しょざい》。他に質問は?」
「いいえ。まったくありません、監察官殿」
サー、とマトさんに敬礼する。むっと眉間《み けん》に皺《しわ》を寄せるシャレの通じない我が上官。まあなんだ。どのあたりが最悪かと言うと、退院後もこの人に命運握られているあたり誰かたすけて。
「……まったく。よりにもよってこの時期に無罪放免とはな。どうしてこう空気が読めないんだおまえ達は」
「退院の日はそっちが決めた事でしょう。なんでもかんでも俺のせいにしないでください」
断っておくが、俺は犯罪に手を染めた事はない。……ああいや、真っ昼間の記憶はきれいさっぱり忘れるんで自信はないが、とりあえずそういうボロは出していない筈である。なのにマトさんは人を犯罪者扱いする。妹憎けりゃ兄まで憎いというヤツだ。
「ん? おまえ達って言いました、いま?」
「言ったよ。本当はね所在。おまえの退院は、なんだ、もっと堂々としたものになる筈だったんだ。それが咋夜、問答無用に変更された。退院は決定事項なので是《ぜ》が非でも行わせるが、できるだけ穏便に、人目につかないように追い出せとさ。どういう事か分かるか?」
マトさんは俺と目を合わさず、くるくるとボールペンを回している。決して遊んでいるのではない。アレは単に、
「ぜんぜん。でもまあ、客観的に見たら俺って犯罪者みたいですね」
「みたいじゃない。犯罪者そのものだ」 バキッ。トマトん怒りのボールペン折り。これで三本目、備品にも優しくないマトさんだった。
「……穏やかじゃないなあ。でも、それ俺の事じゃないですよね。退院は許すが今は公表したくない……ああ、先に出たヤツがなんかしたとか?」
「正解。昼間のおまえは話が早くていい。あ、そこの君、ボールペン持ってきて。できれば硬いヤツお願い」
診察室の奥で息を潜めていた看護婦ちゃんは、慌ててマトさんに自分のボールペンを贈呈する。……四本目かあ。マトさん、イライラを抑えたいなら煙草《た ば こ》でも吸えばいいのに。吸ったところ見たコトないけど。
「ところで所在。半年前に退院した久織を覚えているか?」
「顔は覚えてないですけど、どんなヤツだったかは知ってます。久織のページ、提出しましょうか?」
「いいよ、朝のうちに参考にさせてもらったから。おまえと久織巻菜に繋がりがないのは確認済みだよ。……まったく。あちらがおまえを参考にしただけで、おまえは無関係なんだが……」
ギュインギュイン回る円形ノコギリ、じゃなくてボールペン。万年筆を渡した方が最終的には被害が少ないのではなかろうか。
「どうも、世間では退院患者は一括りらしくてな。あいつの不手際がおまえにまで飛び火したという事だ。外に出た時、少しばかり世間の目が冷たくなっているだろうが、そこは持ち前の厚顔さで乗りきれ。久織の件は明日にでも片づける」
「…………」
どうも、久織は何らかの事件に巻き込まれているらしい。ちょうど一年前。俺は久織伸也[#「伸也」に傍点]と名乗った、久織巻菜[#「巻菜」に傍点]と知り合った。日中にしか出会えなかったので記憶は残ってないのだが、ノートには多くのメモが残っている。俺は左手、あいつは右手が不自由なお仲間として話し相手になっていた。メモはいつも久織。おかしなヤツ≠ニ締めくくられる。
理由が分かったのはあいつが退院した半年前。ドクの話から、久織巻菜は自分では何もできないので、弟の久織伸也の模倣をして生活していると知ったのだ。おかしくて当然だ。あいつは女なのに、まるっきり男の口調と態度だったんだから。
「で。久織、大丈夫なんですか。マトさん、ちょい目が怖いんですけど」
「クマだよクマ。久織のおかげで徹夜なだけだ。調書を見たかぎり冤罪《えんざい》だし。おまえを送った後、所轄の警部補にケンカを売りにいくよ。悪魔憑きの擁護なんてしたくもないが、無能な身内よりはましだ。……ほんとう、ここ数年の検視は酷《ひど》いんだぞ。事件は年々増えているのに予算だけ追いついていない。死体の検視も臨床も紙切れ一枚でおしまいだ。もっと金をかけろとあれほど―――」
マトさんの愚痴《ぐち》を黙って聞き届ける。この人、無敵であるが故に味方もいないんだよなあ。
「……まあいい。私が言いたいのはな、所在」
「はい。なんでしょう、戸馬監察官どの」
「間違っても、私の面子《メ ン ツ》に泥を塗るなよ。仮に、私が久織巻菜の監察官だったのなら」
聞くまでもないよそんなの。久織のヤツ、今ごろ三途《さんず 》の川渡ってる。
「承知しました。退院しても慎ましく大人しく、社会の隅っこで生きていきます」
「よろしい。退院まであと一時間だな。どうする、時間までここで休むか?」
「あー……いえ、ドクのところに挨拶《あいさつ》行きたいんで、ちょい外します。マトさんも行きます?」
「行かない。時間を無駄に使う気はないよ。一人で行ってきなさい。―――ああ、それと所在。おまえ、義手探しまだ諦《あきら》めてない?」
席を立った俺を呼び止める。マトさんにしては珍しく、迷いのこもった声。
「諦めてませんけど。それが何か?」
「いや……その、なんだ。どうしてもと言うなら一人だけ有望なのを紹介できるんだが。正直、私は気が進まないんだけど……先方がね、どうしても本物のおまえに会ってみたいとか言っててさ」
心底|憂鬱《ゆううつ》そうに溜息をつく。義手の話より、この無敵キャラがここまでブルーになる方が驚きだよね。
「いいですかアリカくん。君には自信ではなく、君を必要とする者こそが必要なのです。一生をかけて探しなさい。その為に、君は生きていくべきだ」
「――――――」
別れの挨拶に寄った懺悔室。ドクターはいつも通りロマン節全開なのであった。
「……むう。なにかなアリカくん。その白けきった、早く退院時間にならねーかな、という顔は」
「そんなコトねーですよ。ドクターの話は旅立ちの門出に相応しい名言でした」
でもなあ。俺自身、自分の価値とか認めてもらわなくてもいいんだよなあ。そんなの無くてもどうしようもなくやっていけるのが人間だし。どう考えても、そっちの方が楽でいい。
「……はあ。久織さんは素直に頷いてくれたのに。アリカくん、ここ半年でひねくれたんじゃないですか?」
「ドクターの扱いが分かってきたと思ってほしい。それより、久織? あいつも最後に立ち寄ったの?」
「ええ。アリカくんと同じように、外に出たらどうしようかと相談に来ましたよ」
「……俺と同じねえ。あいつ、外のコトなんて気にするような柄だったのか。なあドク。久織って誰かのマネしないとダメなヤツなんだろ? なら―――ここに立ち寄った久織は、どんな久織だったのかな」
「それは言えません。患者のプライバシーに関わる事ですから」
にっこり笑うドクターロマン。どんなに聖人で患者の味方でも、根っこではオリガの一員。ドクターにとって優先すべきは患者の健康。それがどのような方法であれ、正常であるのなら見逃すおっかないお医者さんである。
「ま、いいか。間違っても俺には関わらない話だし。そろそろ行くよドクター。一年半、世話になりました」
おもに暇潰しに。再会があるかどうかは俺の運勢と、マトさんの気分次第。
「こちらこそ。それよりアリカくん。戸馬先生とは、お別れは?」
「したいけどできない。言ってなかったけど。俺の監察官って泣く子も心筋|梗塞《こうそく》するトマトちゃん」
ソッコー破顔するドクター。俺の処遇がツボに嵌《はま》ったらしい。
「いや、色々心配ですね、アリカくん」
「俺はアンタのセンスが心配だよドク。いまの笑うところじゃなくて同情してくれるシーンなのに」
「それはもう、心から同情しているんですけど……トマトちゃんって、それ、戸馬先生の前で言いました?」
「あー……一度だけ。つい口を滑らせた」
思い出したくもない記憶である。それは夕方。運悪く日が沈んでしまった後の、戦慄のホラーショウ。
「ほう。ぜひ聞かせてください。今後の参考にします。はたして戸馬先生に冗談が通じるかどうか」
「……いいけどさ。うっかりトマトちゃん発言の後、いきなり真顔になって、席を外す、そこにいろ、ってどっか行ったんだよ。で、厨房《ちゅうぼう》から実物持ってきてさ。俺の前で、こう、グチャっと容赦なくミートソースにして、一言」
所在。それは、こうなりたいという意味か?
「どうよ。……いや、シャレになんねえほど怖いんすけどあの人!」
ドクターはついに爆笑した。話してみるもんである。ドクターが腹を抱えて笑うなんて、さっきのブルーマトと同じぐらい珍しい。
「いや、それはそれは! アリカくんは本当に怖いものしらずだなあ!」
「おかげさまで。記憶の喪失より、俺はこっちの方をなんとかしたかった」
石杖所在は度胸があるのではなく、単に脅威≠感じる機能が失われているだけだ。危険信号を察知できない動物は、飛んで火にいるアレと変わらない。赤ん坊が平気の平左《へいざ 》でアスファルトを横断するのと同じである。
「じゃ、そういうコトで。これからも迷える子羊を導いてやってくれ」
ええ、と柔らかく微笑むドクターロマン。できれば二度と会いませんように。
「ところで、知ってましたかアリカくん。戸馬先生、ああ見えてトマト苦手なんですよ。触《さわ》るのも遠慮《えんりょ》したいって」
……ふむ。嫌いではなく苦手というのがミソだった。
退院はあっさり済んで、俺は約一年半ぶりに古巣である支倉市支倉坂の石杖家に舞い戻る。
運転はマトさん、車は赤いロードスターである。仮にも病院から退院した患者をオープンカーで送る精神が信じられない。
ちなみに、退院の際に請求された入院費は、こちらの想像よりちょい安かった。おかしいなあ、とマトさんに質問すると。
「一年半の給金だよ。おまえの手伝いは無料奉仕《ボランティア》ではないと言っただろう」
……ほんと困る。これだからマトさんを敬遠しつつも信頼してしまうのだ。
「それと、石杖家には買い手がついているからな。入院費の清算として来月には売り払うから、そのつもりで」
運転しながらこれである。いちおう、相続税とかそういう問題はマトさんが済ませてくれたらしい。強引に。
「あの。家売っぱらった後、野宿とかしていいんですかね、俺」
「いい訳ないでしょう。福祉施設にはいつでも入居できるようにしてある。その気なら今日からでも可能だ。ああ、私はそちらを勧《すす》めるぞ。おまえ達のようなアウトローは纏《まと》めた方が管理しやすいからな」
……すげえ困る。これだから鬼トマトから逃げ出したくてもやっぱ無理だと諦めてしまうのです。
「私への連絡は四日に一度ね。途切れた場合は野たれ死んだか、逃亡したものと考えるよ」
俺を石杖邸の前に下ろして、それじゃあ、とスピンターンで走り去るロードスター。
A異常症患者に提供される市営住宅は支倉市の北、支倉坂とは駅を挟んで真逆にあった。支倉市第十三号福祉施設。覚えやすいナンバリングに目眩がする。
皹《ひび》の入ったコンクリの玄関を抜けて、カーテンの閉まった管理人室を素通りして、四階の空き部屋へ向かう。石杖所在に割り振られた部屋の下見をして、キャンキャンうるさい隣室の犬に一抹《いちまつ》の不安を覚え、あと一ヶ月でここに押し込まれるのかと鬱になった三階階段。
「?」
三階の廊下は、なにやら物騒な人たちで賑やいでいた。ブルーの制服に帽子がよく似合う、俗に言うお巡りさんという人たちである。ただ今、家宅捜索の真っ最中。
関わるのは賢くないが、なにしろ一月後には我が家になる住み家の事だ。その危険度は把握しておかねばなるまい。ほら、ちょうどお巡りさんをかき分けてアロハシャツのお兄ちゃんがこっちに来るし。アレ、どう見てもお巡りさんには見えないよね。
「こんにちは。アンタ、ここの人?」
アロハシャツ、よく見ると化粧をしている、は呆然と俺を見る。
「もしもし? 俺、来月からここに入居するんだけど。ここ、毎日あんなんなの?」
「え、いえ、違うのよぅ、こんなのあたしも初めてだもの。あのポリ公どもアリカちゃんの部屋を勝手に家捜《や さが》ししてさぁ」
今度はこっちが呆然とする番だ。アロハシャツはまたも意外そうな顔。
「……ねえ。アナタ、アリカちゃんの弟さんかお兄さん? おっかしいわねえ。顔はぜんぜん違うのに、なんかそっくりよ、アナタたち」
「……妹は一人いるけど、たぶんアンタの言ってるのはそいつじゃない。ついでに言っとくと、俺の名前もアリカって言うんだ。石杖所在。まさかとは思うけど、これ、いま家捜しされてる部屋にいたヤツと同じ名前?」
「うそ、しかも同姓同名!?」
驚きながらもアロハシャツは俺を観察し、なにやら思い悩んだ後。
「……えっとぉ。つまり、アナタ、本物?」
「知るか。けどアンタ、回転早いな」
「え。いやねえ、そんなに褒めないでよバカ! そりゃあたしもね、アリカちゃんのコトはヘンだとは思ってたのよ。女の子なのに俺口調だし。なんかワケありなんじゃないかなって。けどそっかあ、アリカちゃんってばちゃんと男の子だったのねぇ。ほら、あたしが言うのなんだけどさ。女の子は、やっぱり女の子らしくしないとダメじゃない?」
「そうだな。男も男らしくあるべきだ」
「そうよねぇ。……んー。けど、そうなると前のアリカちゃんは誰だったのかしら。あたし、あの子はあの子で気に入ってたのよ。タイプじゃないけど」
「さあ。俺が本人ってことは、石杖所在以外の誰かだろ」
……アロハシャツからの話を纏めると、半年前に石杖アリカを名乗る女が入居し、数ヶ月前から厄介事に巻き込まれている節があって、昨夜、ついに行方を晦《くら》ましたのだそうだ。半年間住んでいた石杖アリカはやっぱり片腕で、俺と顔は違うのにそっくりだったらしい。隣室のアロハシャツが太鼓判を押すんだから間違いない。
「でもさ。偽名なんて、すぐバレないか」
「バレないわよ。表札さげてるワケじゃないし、あなた、いちいち隣りに引っ越してきた子の戸籍抄本とか取り寄せるタイプ?」
どんなタイプだ。
「郵便とかは? 管理人は?」
「ばっかねえ。そんなのアテになんないわよ。あ、あたし新島《にいじま》って言うんだけど、うちに届く手紙はたいてい花園《はなぞの》って名義で届くし。偽名よ偽名。公共料金の方は、管理人が一括して払ってるしねぇ」
ナチュラルに偽名を使うのがここの住人か。そして管理人は新島ちゃんに輪をかけたダメ人間で、住人の事にはてんで不干渉《ふかんしょう》らしい。今日日《き ょ う び》、不動産屋やオーナーが住人と親しくするのは珍しい。住人同士の交友なら偽名で通しても問題ないという事か。
「にしてもさ、何か他にあるだろ、記録に残るようなものは。免許とか、預金通帳とか」
と、退院する時に免許は取り上げられるんだっけ。預金通帳は、まあ、他人はあまり見ないわなあ。
「ちょっといいかな。そこの君、石杖所在さん?」
「……しまった」
ピンチ! 退院した日に刑事から職務質問! 新島ちゃんとバカ話をしていたのがまずかった。廊下に張っていたお巡りさんが俺の名前を聞きつけ、中の刑事にチクッたのだ。なんだよマトさん、お巡りさんたちマジメに働いてるじゃんかー
「はい。来月この施設に入居予定の石杖所在です。前もって言っておくと、そこの部屋に住んでいたのは別人ですから」
誤認逮捕は避けたいので宣言する。が、警察だって中々にやる。俺が今日まで支倉市にいなかった事、家宅捜索中の部屋に住んでいたのが石杖所在を名乗っていた別人である事は調査済みだった。
「助かったぁ……ああ、けどいいですか。その、俺の名前を騙《かた》っていたのは誰なんですか?」
「久織巻菜という女の子で、君とほぼ同い年だ。……しかしなんだな。そこの彼は君と彼女がそっくりだと言うが、一致するのは片腕という事だけだろうに。……と、すまない、悪気はないんだ」
「いいですよ、片腕なのは事実ですから。ところで、その、久織巻菜? そいつ、俺の名前使って何やってたんですか?」
刑事さんがいい人なので、こっちも白《しら》をきって探ってみる。
「ああ。恐喝《きょうかつ》、詐欺《さぎ》……他にはまあ、ちょっとした違法販売の容疑者として手配されている。まだ二十歳そこそこなのに随分《ずいぶん》と性質《たち》の悪いタタキもしていたらしいね。ああ、それと―――」
らしい、という言い回しは引っかかるが、その先も興味深い。
「それと、なんですか?」
人畜無害、名を騙られた犠牲者《ぎ せいしゃ》っぽく質問する。
若い刑事は、既に報道されているからいいか、と息をついて、
「これが本命なんだが。彼女には昨日殺された、久織伸也の殺人容疑がかかっていてね」
完全に石杖《お》所在《れ》とは無関係の、もう昨日のうちに完結した、ある事件を口にした。
[#改ページ]
2/Self (B)
■■■
そうして私の―――いや、俺の蜜月《みつげつ》は唐突に、不意打ち気味に終わりを告げた。
『本日午後六時頃。支倉市能図工業団地で遺体として発見された青年は支倉市在住の久織伸也さん(十九)と判明しました。現場からの証言と伸也さんの経歴から、同時刻に目撃されている久織巻菜さんが伸也さん殺害に関わっているのではないかと―――」
ちょっとした乱闘騒ぎでハイになっていた気持ちが一撃で粉砕される。
「そんな。バカな」
無責任な特報は止まらない。
久織伸也は空き家だった旧久織家で刺殺死体として発見され、今のところ、最有力容疑者は伸也の姉である久織巻菜であるらしい。理解不能すぎて前後不覚。巻菜が伸也を殺した? そんな、どうして、
「なんで、俺が殺したコトになってんの?」
けど状況は揃いすぎている。能図の工業団地にはちょうど二時間前まで訪れてしまっていた。
旧久織家に入った時、中はもぬけのカラだった。伸也の死体は俺が帰った後に現れた事になる。誰が用意したかは不明。明らかなのは、部屋に踏み入った俺の立場が最悪という事だけ。指紋。毛髪、目撃者。俺がそこに居たという物証は隠しきれない。
「奇しくも今回の事件は三年前、伸也さんのご両親が亡くなられた303号室で行われました。伸也さんはご両親と同じように、刃物によって命を落とした模様です。この繰り返された悲劇にはどのような経緯があったのか、当番姐ではA異常症に関わる事件として―――』
久織伸也の経歴が語られる。三年前の暴行事件。両親の事故死。ベランダから転落させられた姉は後にA異常症と判明した。
そこが番組の売りらしい。隔離病院から半年前に退院した久織巻菜の経歴がスピーカーから流れてくる。ほんと恩知らずのニュースキャスター。暇潰しになるから今まで贔屓《ひいき 》にしてやっていたのに、よくもまあベラベラと。
「バカじゃないの? 久織巻菜《わ た し》が、悪魔憑きをバラされた恨みで、久織伸也を殺しただって?」
ゴシップだ。呆れてものが言えない。俺、いや、もう石杖所在の皮はいいか。私は三年前から伸也に会った事もないし、伸也を恨んだ事なんて一度もない。
そう、何もかも理由がないのだ。
さっきみたいに、見も知らずのガキどもからリンチされる理由はない。私は石杖所在だったんだから、おまえたちに巻菜を語られる理由もない。そもそも。私に復讐する資格なんて[#「私に復讐する資格なんて」に傍点]、他の誰も持っていない[#「他の誰も持っていない」に傍点]。
「……いい。判らないのは、足りないからだ」
頭を切り替える。何がどうなっているかは分からないけど、石杖所在《こ れ ま で の 私》はもうダメだ。記憶に残る事件ならいいが、記録に残る事件に関わった以上、すぐに警察がやってくる。この団地の住人たちは私を石杖所在だと認識していても、書類上では隠しようもなく久織巻菜なんだ。住所は調べるまでもない。その時―――石杖所在を名乗っていた私はあまりにも挙動不審で、間の悪いコトに、つい三十分前六人ほど血祭りにあげていた。
「信じらんない! ああもう、どうして―――!」
上着を羽織る。預金通帳―――はもういらない。ため込んでいた現金をポケットにしまい込んで、額縁に飾った久織巻菜としての唯一の荷物を抱えて、半年間暮らした部屋を後にする。
「バカ伸也。もっと続けられる筈だったのに……!」
今のニュースはどこまで報道許可をとってあるのか。久織伸也が死体で発見された、というのは本当だろうけど、巻菜についての話は番組側の推測にすぎないのではないか。これが公式見解なら、私の部屋はとっくに警察に踏み込まれている。それがないんだから警察はまだ久織伸也の遺体をのんびり検視中なんだろう。……いずれ久織巻菜が参考人にされるとしても、幸か不幸か、決めつけるのはゴシップの方が先だったという事だ。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう―――!」
息を切らして団地を後にする。
私は冷静に状況を把握していて、別に、自分が伸也殺しの犯人扱いされる事に何の脅威も抱いていない。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》であるのは明らかだし、仮に私が殺した事にされても病院に戻るだけだ。たいした痛手じゃない。だから。
「ああ―――ああ、ああ―――!」
こんな風に、みっともなく混乱している理由は一つだけ。
「どうしよう。早く、次のお手本を探さないと……!」
そう。石杖所在でなくなった私は、何をやってもうまくいかない、久織巻菜に戻ってしまったんだから―――。
悪魔憑きの福祉施設から逃げ出して、朝を迎えるまでの十時間。私は混乱しながらもなんとか姿を隠し通した。いつか取りに来られるように荷物を隠して、表情は誰から見ても好意的な、けど印象に残らないありきたりの笑顔で人波をやり過ごして、郊外の田園地帯へ。点在する森に身を隠した時は、もう日付は変わっていたと思う。
懐かしい夜だった。
こんなふうに、自分の頭に戻るのは何年ぶりだろう。
思い出す必要のないコトばかり頭に浮かぶ。
子供の頃に見たお化けとか。
真っ青になって台所に入ってきたお父さんとか。
ちょっと後ろから足をかけたら、仰向《あおむ 》けに転んだ音とか。頭を打った痛みに堪える顔が、ヒュン、と落ちてくるナイフを不思議そうに見る顔とか。
……右腕が痛い。こうやって巻菜になると、あの頃の自分が不思議で仕方がない。なんで私はあそこまで進んだのだろう。いくらなんでも、あそこまでする事はなかったのに。
「でも。誰かの居場所をなくすって事は、そういう事だし」
……それでも、私はやりすぎたのだろうか?
私のギアには上限がなくて、ブレーキも付いていない。車ならいずれカーブを曲がりきれず、列車ならやがてレールから脱線する。
踏み外したのは今じゃなくてとっくの昔。
成績だけ見れば非の打ち所のない子供で、
噂話だけ聞けば誰もが感心する子供だった。
けど欲しかったのは褒め言葉じゃないし、そもそも名声というヤツがどういったものか、私にはどうにも実感が湧《わ》かなかった。そんなカタチのないものより、もっとはっきりした、気安い温かみの方がありがたい。
……たぶんそこでも、私は生き物としてチグハグだった。体は飛行機として作られたクセに、心は手足をつかって歩く動物だったのだ。
だから、どうか神さま。
こういう小さな心には、小さな器を与えてください。
「……いた。おかしいな、これ……」
右腕が痛い。そういえば義手をつけっぱなしだった。
六人の暴漢を撃退する時は動いたのに、今はまったく動かない。邪魔ではないけど、気持ちが悪いから外そうとしたのだが、どうやっても外れない。
「……あれ。あれ、あれ―――?」
久織巻菜だから、こんな事もうまくいかない。
情けなくて泣きそうになる。
早くネジを巻かないと。このままだとすぐに見つかってしまう。私は、私がいま一番ほしいものを考えて、
「―――そっか。そもそも、こんな事になったのは」
行きたくもなかった能図の工業団地に行くきっかけを作ったヤツ。姉に復讐したがる久織伸也と話をした、迦遼《かりょう》カイエの地下室が残っていた。
「や、おはよう。今日は早いんだね」
暗い階段を抜けて、扉を開けた瞬間。
天井の海から差し込む灰色の陽射《ひざ》しを浴びて、私と私の意識は、完全に洗浄された。今まで誰かの皮膚でしかここに来ていなかった私は、よりにもよってこんな時に素《す》の私で、見てはいけないものを直視したのだ。
……目的を忘れそうになる。この地下室を思い出してからここまでの一時間、八つ当たりに近い報復の念に凝り固まっていた心が、一撃で洗い流される。
「ん? どうしたの、泥だらけだけど。洗面所、使っていいよ」
水がたゆたう。灰色の陽射しが揺れる。地下にして深海にある天蓋《てんがい》付きのベッドから、美しい声が聞こえてくる。完璧なまでの隔離空間。衛生的すぎる空気。醜いものを一切《いっさい》廃した部屋の中心には、当然のように、
「ほら、早くあがって。楽しい話を聞かせてよ」
これ以上ないほど、美《おぞま》しい生き物が置かれていた。
思わず自分の両手を見る。天然の指と人工の指。より優れ、滑《なめ》らかな指は借り物の右手であり。それ以上に、あの生き物の手は偉大に見えた。カタチのない、大いなる見えざる手。
「迦遼、カイエ」
……私は、もうズタズタだった。完全にノックダウンだ。誰が見ても勝ち目なんかないのに、みっともなく試合を続けようとするボクサーみたい。
「とりあえずドアを閉めて、こっちに座ったら? 君、昨日から寝てないでしょ」
……惨《みじ》めになる。この半年間、ずっと羨ましく思っていた。どうしたらあんな歪《いびつ》な姿で、あんなに健全でいられるのか。どうしたらあんな風に穏やかでいられるのか。私は逆だ。素の自分でいる事が、これほど苦しいと忘れていた。
「……そりゃあ。寝てない、けど」
……しっかりしろ。ここに来た理由は、こいつに久織伸也の話を聞き出す事だ。
私は弱っていて、だから、最悪の選択を続行中。洗い流された時、全力で逃げれば良かったのに。火に誘われる蛾のように、おぼつかない足取りで前に進む。
「うわ。ひどいな、息遣いから疲れきってるものだと思ったけど、心の方がすり減ってたんだ。ごめんね、話は後にしよう。しばらく誰も来ないから、ソファーに横になるといい」
後悔で泣きたくなる。どうして石杖所在の皮膚を被っていられなかったんだろう。私ではここにはいられない。捕まったらここには戻れない。
……愚かにも認めよう。
久織マキナは、この生き物に恋をしている。この地下室に憧れている。あのお化けを見てしまう前に。素のままの自分で、この部屋に来たかったんだ―――。
「……いや、いい。つまんねぇいざこざに巻き込まれて、呆れてるだけだ。洗面所、借してくれる?」
私は一度|剥《は》いだ皮膚を被る。三文芝居以下。マスクが頭につかえて前も見えない。
「――――――」
沈黙。下手《へた》な芝居に迦遼さんは白けきった顔をする。
「……ま、いっか。いいよ、どうぞご自由に。ついでに武器も忘れずにね」
洗面所に向かう。顔を洗う。果物ナイフを後ろのポケットに仕舞う。私は、石杖所在《い つ も ど お り》の振る舞いでソファーの前の床に腰を下ろす。
「あの。昨日の、久織伸也の事だけど」
おずおずと話しかける。……うまくいかない。考えながら話をすると、どうしてもつまってしまう。それでもなんとか、できるだけ自然に切り出したのに。
「ああ。お気の毒に、久織巻菜に殺されたね[#「久織巻菜に殺されたね」に傍点]」
はっきりと迦遼カイエは断言した。
「―――うそ。なんで、知ってる、んだ?」
「今朝ニュースでやっていたから。君が来る少し前の話だ。警察は久織伸也の遺体の件で、重要参考人として久織巻菜に出頭を呼びかけている」
……なにそれ。無能どもめ。私は指一本関係ないのに、本当に、私が殺した事になったのか?
「―――違う。俺はやってない」
「うん。石杖さんは、関係ないね」
「そうだ。だから、証言してほしい。昨日から俺はずっとここにいたって。いや、そうじゃなくて、」
ここに匿《かくま》ってもらえば、外での事なんかに煩《わずら》わされる事もない。
「証言? 別にいいけど。ちょっと、話が合わないね」
くすりと笑う。
黒髪の生き物は愉快そうに私を見て、
「久織伸也の事なんて石杖所在には関係ないじゃないか。伸也を殺したのは姉のマキナだ。世間では、もうそういう事になっているんでしょ?」
一番聞きたくない事を、一番言ってほしくない声で宣言した。
「だから、私は殺してなんかない―――!」
つっかえていたマスクは簡単に脱げ落ちる。
咄嗟に口をつぐむ。けど―――ベッドに横たわるソレは、私の失言をまったく意に介さなかった。
「ならいいじゃない。君がアリカだろうがマキナだろうが、殺してないなら冤罪だよ。こと明確な殺人なら警察の調査は筋金入りだ。物証があるならはっきりと、確かな物証がないならよりはっきりと、真相にいたるまで手は抜かない。とかく、こういう事件はね。なにしろ記録に残るから[#「なにしろ記録に残るから」に傍点]」
「――――――、は」
なんだ。全部知ってるんだ、この生き物。
どくん、とガラクタだった右腕が疼《うず》く。私の口元は、いびつに釣り上がっている。
「……なにそれ。おまえ、今なんて言ったの?」
「久織マキナの冤罪はすぐに晴れるって言ったんだ。でもまあ、その後はうまくはいかないだろうけどね。一時的にしろ拘束されれば病院行きで、たとえ本人に非がなくても、一度失敗した悪魔憑きを赦《ゆる》すほど、あの病院は寛大じゃない」
言われるまでもない。ワンワンワン。ソファーの下で眠っていた黒犬が、私の敵意《こえ》で目を覚ます。そっか。あの犬は、そういうの[#「そういうの」に傍点]に反応していたんだ。
「―――ね。伸也とグル?」
「彼が昨日やって来た時、後始末を頼まれただけだよ。全てが終わった後、もし君に会う事があったら自分の代わりに説明してほしいって。故人の頼みは、まあ、聞いてあげないと寝覚めが悪いし」
無防備だ。赤ん坊だってもう少し生きやすい。耳障りなお喋りなんて止《と》めてしまおうとも思ったけど、アレに出来るのは喋る事だけなので、もう少し話をしよう。
「いつから私が久織巻菜だって知ってたの?」
「名前を知ったのは今で、本人じゃないコトは初めから。名前が分からないから、石杖さんと呼ぶしかなかった」
「……わかんないなあ。カイエ、石杖さんの写真でも持ってた?」
「持ってないよ。一年半、いやそろそろ二年前か。彼の事件はちゃんとニュースになっていたから、情報として知っていただけだ」
二年前か。既に私は隔離病院の住人だった。
「で、それが? どうして私が本人じゃない事に繋がるの? 私、石杖さんと同じで片腕だけど。あ、右と左の問題?」
「左右どちらかは僕も知らない。どちらかというとイメージの問題だ。石杖アリカは被害者でしょ。君は強すぎて、とても殺される側になんて見えなかっただけだよ。ちなみに性別も関係ない。そんなの幾らでも変えられるしね」
「うわ、なんだ。よりにもよって、記録じゃなくて記憶《イメージ》の方で、偽物だって判ったんだ」
嬉しくて悔しすぎる。ああ―――この生き物には、作り笑いは通じないんだ。
「あれ、質問はおしまい? ……わりと淡泊だね君は。なら、伸也さんの頼まれ事を済ませたいんだけど」
「いいよそんなの。いま話してるのは私とカイエだもん。これが最後だしね。私が質問して、カイエはちゃんと答える。それができなくなったら、おしまい」
「んー……まあ、それでもいいかな。どうせ結果は同じだし」
迦遼さんはよく分かっている。私に従おうと逆らおうと、何をしようとオチは一緒。多少話が長引いたところで、この地下室には誰もやっては来ない。今日にかぎって来客のアテがあるのかもしれないけど、それならそれでせいぜい時間稼ぎをしてもらおう。今まで散々無視されてきたお返しだ。少しは私のご機嫌もとってほしい。
「うん、それじゃ続き。昨日、伸也に何を聞いた?」
「君の事は何も。伸也さん曰く、マキナの事はなに一つ分からないから自分の話だけをするって。久織巻菜の過去を語るから、その感想を君に伝えてほしいそうだ」
そうして、私は伸也が語った長話を聞かされる。
伸也が語った久織巻菜の経歴は、主観が入っているにしろおおよそ間違ってはいなかった。
他の子供との違いに気付かなかった幼年期。
小学五年から踏み間違えた階段。中学から自閉症扱いされて、高校二年目から、他人の生き方をマネる事で私は蘇生した。
私が悪魔憑きである事。伸也の仕草、考え方から学力運動のレベルまで模倣していた事。その中でも人間離れしていたのは表情の作り方で、久織巻菜は、相手が印象による記憶に頼る生き物なら、顔の作りがまったく違う他人であろうと成りすます事ができる、という伸也の推測。
「……見直した。やるじゃん伸也。当たり」
「うん。それが君の新部だ。きっと悪魔憑きの中では一番小さい、人格に支障をきたさない機能だね。でもこんなものは、今のレベルじゃ取るに足りない。君の異常性は悪魔憑きとは関係がない。それは、今の久織マキナを語るには些細な事だ」
彼は正しい。模倣なんてその気になれば誰でもできる。私は生まれつき最高の役者だったという事だけで、久織マキナの中身は、とり憑かれる前から壊れていた。
「……それで? 伸也の話から、カイエはどう思ったのかな。私は普遍じゃなくて、両親を見殺しにして、弟を追い詰めた悪魔憑き?」
「うん。君は精神が異常で、両親を利用して、弟を追い詰めた悪魔憑きだ。久織家の事件に関してはそれだけだよ。どちらが悪いとも思わない。結果だけ見るなら君は正しい。久織伸也を社会的に排除する、その目論見《もくろ み 》は、ちゃんと成功[#「成功」に傍点]したんだから」
「―――あのさ。命乞いならやめて。幻滅したくないんだ。私は、誰が見たって、」
「悪いけど、罰してほしいのなら専門家を当たってくれ。善悪なんて時価みたいにクルクル変わるもの、ここから動かない僕には下せないよ」
「……じゃあ、カイエから見たら、私は悪くないの?」
「悪魔憑きである時点で好きじゃないけど、嫌いってほどでもない」
は。つまり、どうでもいいってコトね。
「でも言うべき事はある。久織マキナの行動はたいていは正しかったけど。君は、ある一点において、致命的に間違えていた。伸也さんの話から僕が得た感想はそれだけだ」
背筋が凍る。私は強がって、口元に笑みを作らせる。
「なに。その間違いって。やっぱりお父さんたちを殺したコト? 私が伸也に復讐されて、破滅寸前なのもそのせい?」
「バカだな久織さんは。そんなの、目的を持ってしまった事[#「目的を持ってしまった事」に傍点]に決まってるでしょ」
……目的を、持ってしまった……?
「あと伸也さんの名誉の為に言うと、彼も君を恨んではいなかった。君が伸也さんをなんとも思っていなかったように、伸也さんは自分の事だけ考えてここに来た。そこも間違えないようにね」
ますます分からない。伸也は私を恨んでいて、復讐の為にここを訪れたんじゃない……?
「嘘。伸也は、私を憎んでいたよ」
「それは入院するまでの話だよ。たしかに三年前までの伸也さんは君を憎んでいた。君の模倣が不完全だったからね。その気になればピッタリ同じになれるのに、君は本物より一歩上の結果を出してしまう。本当は何倍も優れた久織伸也になれるのに、あえてその位置で留まってしまう。
結果、君は誰から見ても久織伸也でありながら、本物の久織伸也をないがしろにする作り物になった。君自身に何の悪意がなくとも、模倣される側からみれば、それは究極の侵略行為だ。久織伸也としては自衛手段をとるしかない。君を憎むようになったのは、自分を守る為の理由として必要だっただけだよ。でも伸也さんはこの三年で、憎しみでは無効と悟った。久織マキナを打ち倒す。奪われた自分を取り返すには、君と直接戦ってはいけないと気が付いた」
性能が違うからね、とカイエは微笑《ほ ほ え》む。
……ああもう、分からなすぎてだんだんイラついてきた。いいや、そろそろやっちゃおうか、コイツ。
「ふうん。私と正面きって戦わないのはいい判断だけど、その結果があのワケ分かんない事件? まあ伸也にしちゃあ大したものかな。事実、私は追いつめられてるし。……で。こういう風になるように吹き込んだのは、カイエ?」
伸也はここに相談に来た。悪魔憑きを殺してくれるという地下室の悪魔を頼って。
なら、私を追いつめたのは伸也ではなく―――
「違うよ。言ったでしょ、アドバイスはできなかったって。だって彼、何を言っても君のマネは止めなかったんだから[#「マネは止めなかったんだから」に傍点]」
「は? 私の、マネ?」
「うん、他人の行動を模倣するという君のマネだ。半年前に精神病院から退院した久織伸也は君を参考にして、君のように振る舞った。はじめは久織マキナとして軽犯罪に手を染めて、報復が君と自分に行くようにしたかったんじゃないかな。けどほら、君、退院した時から石杖所在として振る舞っていただろう? 伸也さんは退院した君を調べて、驚きながらも納得した。なるほど、さすがは久織マキナだって。そこで計画を修正した。君の作り上げる石杖所在としてのパーソナルと、久織マキナの人権を同時に無くそうとしたんだろうね。どっちかが生きてたら、そっちに逃げられてしまうから」
昨日のリンチ。アレはやっぱり石杖所在を狙ってのものだった。ただ、私に覚えがない以上、私以外の石杖所在が、彼らに狙われるような事をしていただけ。
「そっか。伸也のヤツ、石杖さんの名前でつまんないコトしてたんだ。でも、そんな物騒な事、臆病な伸也にできたのかな」
「そのあたりは色々な前任者を参考にしたんだろう。それに彼の目的はマイナスを生む事だけだった。ひたすら出費して一銭も得ようと思わなければ、毒をまき散らす事は誰でもできる」
……なるほど。伸也のヤツ、派手にお金使ったんだろうなあ。お父さんたちの生命保険があったっけ。
「それに昨日のニュースも変だった。警察より先に久織マキナの名前が出るなんて出来すぎでしょ。あれは伸也さんの死体が発見される前に、そういった情報提供があったと見るべきだ。共犯者がいるとは思えないから、伸也さん本人が電話でもしたんだろう。彼は死ぬ前に、自分を殺した犯人を久織マキナと指名したんだ」
「……信じらんない。伸也のヤツ、もしかして」
「ああ。どうやったらマキナに復警できるって訊かれて、勝てないなら戦わないコト、自分の気持ちを殺すしかないんじゃないとは言ったけど。どうも、殺すのは気持ちだけじゃ我慢できなかったみたいだ」
「――――――」
なにそれ、自殺? そんな簡単に言わないでよ。自殺なんて、私に勝つコトより難しいじゃない……!
「伸也さんの事件はそれだけだ。彼は自殺して、犯人だけが残された。でもね久織さん。彼は見事復讐を果たしたけど、それでも彼に動機はないんだ。死んだのは久織伸也だけど、殺したのは久織巻菜。これはやっぱり、全部君が起こした、君の犯した犯罪なんだ」
意味が分からない。私は何もしていないのに、弟を殺した悪魔憑きとして扱われている。こんなのどう見ても伸也が仕組んだ事件なのに。
「ふざけないで。私は嵌《は》められただけよ。……どうして。ひどいよカイエ。分かっていたなら、なんで助けてくれなかったの」
「―――不可能だったから。僕にも君にも、久織伸也を止める事はできなかった」
嘘ばっかりだ。伸也なんて簡単に止められるのに。
「カ、カイエはそうかもしれないけど。私なら。昨日、私に教えてくれていたら、」
「君でも同じだ。君には彼を凌駕《りょうが》する性能はあっても、彼に対抗するだけのエネルギーはない。昨日知ったところで、彼との差は埋められなかっただろう。昨日の久織マキナでは、久織伸也が三年間かけて行った模倣を止める事はできなかった」
それほど昨日までの伸也は強かった、と迦遼さんは言う。伸也の模倣は私とは比べものにならないぐらい下手だったけど、比べようもないほど魅力的だったと。
「どんなに上手な芝居でも、自然にやられては冷めてしまう。久織伸也は三文役者だったけど、その熱は本物だった。いいかな。目的もなく、自分ではない他人の生い立ち、人格を真剣にイメージする事は、それ自体が苦痛に近い作業だ。すれ違った他人を観察し、それを元にどれだけ想像力を広げられるか。まっとうに自分がある人間なら、そんなものは五分と続かない。模倣というのは、本来それぐらい燃費の悪いコトなんだ」
「は?」
私はちっとも同意できない。
だってそんな事。今まで、難しいと思った事さえないんだから。
「ああ。初めから反対[#「初めから反対」に傍点]の君には分からないんだろうけどね。自分には何の関わりもない他人の人生を想像する。久織伸也はそんな、誰もが投げ出す事を執拗に、懸命にやり遂げた。三年間、君に居場所を台無しにされてから、一秒も休まずひたすらに考え続けた。娯楽も息抜きもせず、全ての時間を他人の模倣に費やしたんだ。マネごとが大好きな君が、じゃない。他人の真似なんて考えるのも|億劫《おっくう》なまとも[#「まとも」に傍点]な人間が、あらゆるものを投げ捨てて没頭した。かけられた執念、密度は想像を絶する。エネルギーが違う[#「エネルギーが違う」に傍点]というのはそういう事だ。逆に言えばさ。一日、一週間、一ヶ月、一年と全ての時間をかけて考え続けた人間の行為を、日々雑多に他人として生きてきただけ[#「だけ」に傍点]の人間《キミ》に止められる筈がないじゃないか」
「――――――」
……背筋が冷たい。
三日月《み か づき》みたいな迦遼さんの笑みが怖いのか、それとも、伸也のエネルギーとやらに怖気がしたのか。そんな執念なんてどうでもいいけど。三年間自分の中に閉じこもる、というのはかつての私を想起させる。
……ああ。伸也があの時の私と同じになったのなら、確かに、それは一日では打倒できない。……えっと、せめて四日は必要だよね。
「止めたかったら、昨日の時点じゃ遅かったって事?」
「そうだ。加えて伸也さんの方法は申し分なかった。保身の為の計画ならいくらでも手が出せるけど、自分が助かるつもりのない計画は止めようがない。自殺こそもっとも非効率にして、実現可能な計画だからね。自分の人生を殺された久織伸也は、自分の命をもって、久織マキナの人生を殺しにかかった」
……もういいよ。黙ってよ。言われなくても充分だってば。そりゃあさ、どっかで勝手に野たれ死にされたら、私だって止めようがない。
「―――けど。それにしたって自殺なんて」
でも、それだけは理解できない。理解できないものは恐ろしい。私は今、本当に伸也に脅威を感じている。
だって、私はその解決法を選べなかった。それが誰も傷つかない幕引きだって分かっていたけど、怖くて考える事もしなかった。それをすんなり出来ただけで、伸也は私より強かった……?
「伸也は、私も殺せないほど、臆病だったのに」
そんな人間が、本当に自殺できるものなのか。
だって自殺って痛いよ? 健常者だろうが悪魔憑きだろうが関係ない。心が生きている内は、死はひたすらに遠ざけるものでしょう?
「伸也はちゃんと話をしてたんだよね? 退院したって事は、マトモになったって事なんだし」
「さあ。久織伸也の精神状態がどんなものだったかは分からない。確かに正常な思考ができるほど回復していたのなら自殺はできないだろう。けど君、逆に言うと、久織伸也はどうやって精神を回復させたと思う?」
……そうだ。私の計画は成功した、と迦遼さんは言った。伸也は社会から排斥《はいせき》されたんだから、そもそも復活する方がおかしい。普通、死んだものは| 蘇 《よみがえ》らないのが世の習わしだ。
「そう。久織伸也の心は君によって完全に破壊された。彼はその時点で死にたかったんだ。でも君への復讐心が死を許さなかった。君を倒すまで久織伸也は死ねなかった。だって伸也は君に取られたままなんだから、彼が死んでも久織伸也は消えてくれない。死にたいけど死にきれない[#「死にたいけど死にきれない」に傍点]。そうして―――どうしても死にたい彼は、終着駅に辿り着く為にまともな思考を取り戻す事にした。まともになって死んだんじゃなくて、死ぬ為に正常に戻ったんだ。心を入れ替えたと言うか。ちょっと詩的に言えば、久織伸也は久織マキナを倒す為に、悪魔に| 魂 《たましい》を売ったのさ」
「――――――」
能力に差はあれ、私たちは、本当に似たもの姉弟だった。きっと、伸也が| 甦 《よみがえ》ったのは伸也の力じゃない。私のおかしたたった一つの間違いとやらが、この復讐を生んだのだ。
「……自分が死ぬ為に私を倒す、か。はは。うん、それは確かに、憎しみで動いてないや。ねえカイエ。私の間違いって、ひょっとして、伸也に似てる?」
「順序が逆、という点では同じだよ。間違いは一つだけ。三年前、君は初めて自分の意思で、目的ではなく手段として、久織伸也の模倣をした。それまでは違ったのに。君は面白半分で[#「君は面白半分で」に傍点]、生きる手段を快楽の手段として用いてしまった[#「生きる手段を快楽の手段として用いてしまった」に傍点]」
私、今まで楽しいって思ったコト、ないから。
―――試しに伸也の居場所に座ってみるのは、面白いのかもしれないね―――
ああ。そういう事、だったんだ。
「君の模倣が正しかったのは、それ自体が目的だったからなんだよ。それが終点だったから、誰のマネをしようと何の結果[#「結果」に傍点]も生まなかった。なのに君は、弟を蹴落とす為の手段[#「手段」に傍点]として使ってしまった。必然、手段には目的《け っ か》が付きまとう」
ばあか―――ばいばい、伸也
……認めよう。私は、楽しんでいた。ベランダから飛び降りる時でさえ、伸也の泣き顔を愉《たの》しんでいた。自分でも口にしていたじゃないか。悪魔憑きとして入院させられた時、あれは自分の、ただ一度の失敗の代償だったと。
「そうか。つまり私は、過去《じ ぶ ん》に復讐されたんだ」
ご名答。
地下室の少年は、華《はな》のような笑みを浮かべる。
ま、自業自得とも言うけどね。
「あー―――バカだったな、私」
ここに来たのは最悪だったけど、同時に最良だったのかも。昨日突然に始まった私の破滅は理解できた。今は頭がサッパリして、色々な事がどうでもいい。
うん。過去のコトをうだうだ考えるのはヤメヤメ。久織マキナが頭を悩ますのは、いつだって別の事だし。
「伸也さんに頼まれた事はこれで全部かな。で、どうするの君。あとは逃げるか捕まるか。捕まるなら、余罪がなければいいんだけど」
余罪? 昨日のガキどもはどうかな。だいじょうぶ、きっと誰か助けてあげたよね。伸也が石杖さん名義でやった事だって、最後には伸也に返ってくれるだろう。
「あとこれがトドメかな。石杖さん、昨日退院したんだって。今頃は福祉施設に行ってるんじゃない?」
いいよそんなの。もう要らない。
私は後ろのポケットに仕舞ったナイフを手に取る。
硬い手触りにゾクゾクする。外れない白い右手にどんどんどんどん血が通っていく。どうするのかって? 病院に戻る? 悪くないけど、もうダメだよ迦遼さん。あそこより居心地のいい場所を知った以上、より優れた方を求めるのは当然だし。
「ね。わたし、次のコピー対象がほしいんだけど」
もしかしたらこれは、生まれてはじめて、私が自分から願った事かもしれないんだし。
「……なに?」
ベッドに横たわったまま、ソレは私を見上げてくる。手足がないから逃げられない。ほら。やっぱりこういうオチになった。
「うん。とりあえず、死んでくれないかな」
歓喜の腕が再動する。憎悪の犬は沈黙する。
「……なんで? 僕のマネをするなら、どこか、誰も君を知らないところで同じ生き方をすればいいだろうに。本物になる必要はない。それが久織マキナじゃなかったの?」
「そうなんだけど。だって、こんな部屋他の何処《どこ》にもないし。迦遼さん、すごい金持ちじゃない」
「……そりゃあお金はあるけど。なに、僕を殺して、自分の手足を切って、ここに入るの? そんなんで成り代わるのは不可能じゃない?」
「そうでもないよ。……まあ、色々不都合はあるだろうけど。とりあえず、殺してから考えようかなって」
手段は幾らでもある。私はこの部屋が欲しいだけ。本物は必要ない。それに、ほら。
「なんて言うかさ。やっぱり私、アンタに嵌められたようなもんじゃない?」
それとも。この理由のない殺意と歓喜は、憧れから来るものなんだろうか?
ナイフを振り落とす。世界が崩壊する。殺す前に殺される。私の手足は、瞬きの間に貪《むさぼ》られる。
「―――って、マジ?」
私は、ばしゃん、と。
灰の空から、海《死》が落ちてくる音を聞いた。
[#改ページ]
2/Self (C)
「え? 朝に言ってた義手の件?」
支倉市郊外のとある森には地図に載っていない貯水庫がある。で。そのまた地下には、誰も知らない地下室があるのだそうだ。
「……それはまた随分と。マトさんって、わりと、ほら、なんつーか」
ロマンチックだったんですね、などとは口が裂けても言えない。受話器越しとは言え相手は鬼トマト、千里離れていようが鼓膜を破るぐらいはやる。絶対。
「……私もどうかと思うけど、これは真面目な話だよ。いい? 今から住所教えるから、今日のうちに済ませておくこと」
教えられた住所と地図を照らし合わせる。現在、福祉施設十三号前の電話ボックス。目的地は支倉坂まで戻って、さらに郊外に向かった田園だ。
「あれ。ここでっかい家だぜマトさん。……なんて読むんだこの字。えーと、か、りょう?」
「いつの地図かは知らんが、その屋敷はとっくに取り壊されているよ。私有地であるのは変わらないが、おまえが訪ねに行く事は報せてあるから気にするな」
「ラジャ。今から行ったら夜になりますけど、先方さんはご機嫌ですかね」
「アレはいつもご機嫌だ。日が落ちている時は特にな。それと所在。話が済んだら連絡を忘れるなよ」
「……はあ。いいですけど、商談が流れてもですか? マトさん、無駄な電話すると好感度下げる人でしょ」
「今回は特別だ。何時だろうと構わんぞ。生死に関わる問題だからな。おまえが生きているか確認しておかないと、満足に酒も飲めん」
じゃあな、とぶっきらぼうに切られる電話。
はたして、マトさんの乙女《お と め》チックな妄想は実在した。
雲が去った夜空は高く、八月《なつ》の月明かりは黄色で温かみがある。
巨大なキューブ状の貯水庫には重苦しい鉄の扉。鍵は開いている。地下に続く階段と狭い通路。明かりは一切ない。手探りで階段を下り、通路を進み、突き当たりの扉を開ける。
中は―――狭苦しく、空虚に広い、現実離れした城の一室だった。天井は一面の水槽で、月がゆらゆらとうねっている。
「もしもし、ごめんください」
見るからに不気味な地下室にお邪魔する。……まっとうな精神なら即座に逃げ出すのだろうが、悲しいかな、俺にはそういう警戒電気は流れないのだ。
部屋の中心には天蓋付きのベッドがある。なんの冗談か、ベッドのすぐ横には果物ナイフが落ちていた。
「はい、夜分遅くご苦労様です。貴方が石杖所在さんですか?」
ベッドから透明な目が覗く。月明かりに照らされたそいつは、紛れもなく絶世の美女だった。
「あ。そっか、本物は髪が白いんだ」
黒髪の美女、もとい、子供だから少女は嬉しそうに声をあげる。……どこに隠れていたのか、犬らしき生き物がふんふんと足下に懐いてくる。
「こんばんは。アンタが迦遼さん? 出来のいい義手を何個も持ってるって聞いて来たんだけど」
「はい。そう数は多くないですけど、珍しい物なら何個か。人を選ぶものばかりなんですけど……よかった、石杖さんには、もう文句なしに合うみたいだ」
ワンワン、と元気よく吠える黒い犬。人なつっこい飼い犬だなあ、と感心して足が止まった。
「―――ちょっと、おまえ」
ベッドに寝そべった部屋の主は、まっとうな生き物ではなかった。手足がないのは関係ない。ぐるん、と全身の細胞が裏返ったような悪寒《お かん》。病院ですら感じなかった脅威≠、目の前のガキから感じ取る。
「―――なに、ホントに人間?」
ソレはきょとんと目を開かせる。この世のものとも思えない小綺麗《こ ぎ れい》な顔は、心底嬉しそうに笑みを浮かべて、
「ようやくイメージと一致した。はじめまして石杖アリカ。僕が迦遼|海江《カイエ 》です。うん。やっぱり表情だけじゃ、キャラ作りは不完全だよね」
「は?」
正体不明の存在は、理解不能な挨拶をする。
これが退院してすぐに出会ったクソガキの話。
以後、文字通り切っても切れない関係になる、地下室の悪魔との馴《な》れ初《そ》めだった。
[#改ページ]
3/Hide and self.
「以上がアリカが僕のところにやって来た日に終わった出来事。偽装の悪魔憑き、久織マキナの話だよ」
「いや。だよ、とか言われてもなあ」
八月某日。久織マキナとやらの事件が終わってから約一ヶ月弱。日が沈んで温度の下がった迦遼カイエの地下室で、つまんねえ長話はようやく終わったのだった。
「俺、久織の事はメモでしか知らないしさ。あいつがどんなヤツだったか聞かされても、おまえ好みの思い出話はできねえぞ」
カイエはあんまりにも空腹になると、代償行為として病院での思い出話をせがんでくる。わざわざ久織の話をしたのは、あいつの病院生活を聞き出したかったからだろう。
「へ? いいよ、そんなのしなくて。アリカにとって久織マキナの話は重要だから覚えておいてほしいだけ。僕、あの人にぜんぜん興味ないし」
「おまえ、悪魔憑きは何であろうと大好物なんじゃなかったっけ?」
「大きさによるよ。アリカだってステーキは最低200グラムはないと物足りないでしょ。彼女の新部は小さすぎてどうでもいいんだ」
というかステーキそのものを退院してから拝んでない。俺がカイエの世話役に就職してからじき一ヶ月。早く初任給くれないものかこのクソガキは。
「で。なんで久織の話が俺に関わるんだ?」
「久織マキナはアリカのマネをしていた、数少ない退院仲間じゃないか。アリカ、まだこっちの生活に慣れてないみたいだし。半年間先に出ていた彼女の話は、人生の参考になるかと思って」
「……参考ねえ。久織の罪状ってどうなったんだ? やっぱり伸也殺しの犯人扱い?」
「うん? いや、そっちはちゃんと久織伸也の自殺と判明したよ。彼女の最終的な罪状は、A異常症患者における身体機能報告義務の放棄《ほうき 》。ようするに監察官から逃げ出して、目下《もっか 》行方不明中ってコト。ほんと、何処に行っちゃったんだろうね[#「何処に行っちゃったんだろうね」に傍点]」
「……いいなあ。俺がやったら次の日ここの貯水庫あたりに浮かんでるよなあ」
「やだ。マトさんから逃げるなら逆方向に逃げてよね。うちで死なれたら水が濁っちゃう」
これである。何処に消えたかは知らないが、久織は運がいい。担当がマトさんでなければ命ぐらいはあるだろう。
「―――ね。久織マキナが羨ましい?」
思わせぶりに流し目で微笑むカイエ。く。慣れたつもりでもドキドキする。騙されるな。実に蠱惑的《こ わくてき》だが所詮《しょせん》アレは男ですよファッキンジーザス。
「別に。単にめんどくさいヤツだったんだなって。つーかさ、模倣ってなんだよ。他人の人生なんて見るだけに留めるものだ。いちいち考えちゃダメだろう」
感想はそれぐらいだ。
久織マキナは、悪魔憑きには相応しくない。
人間なんてのは手前《て めえ》の事だけで手一杯なんだ。他人の情報なんて表層部分しか記憶しないし、ましてや内面なんざ考えつかない。考える必要がない。
なのにあいつは、他人の全てを明確に捉えてしまった。久織伸也が執念で織り上げた他人の人生の仮想再現≠チてヤツを、無意識にやってしまう怪物だった。言ってしまえば想像力がありすぎたのである。だからうまくいってない、なんてバカな強迫観念に取り憑かれる。物事は差し引きゼロになるように出来ている。大きく成功する代わりに大きく失敗するなんて、実に健全な人生じゃないか。
……俺は知らないが。子供の頃のあいつは、本当に誰から見ても理想的な優等生だったのではないか。あいつのそもそもの間違いは悪魔憑きでも生まれながらの高い知性でもない。できるだけ多くの人間に好かれる事と、できるだけ多くの人間に嫌われないようにする事。その二つの、実はまったく正反対の生き方を、同じものだと勘違いしただけではないか―――
「いいなあ。うんうん。僕、アリカのそういうところ、たまんないなあ」
「……。俺はおまえのそういう口ぶりがたまらない」
新島ちゃんの仲間になんてなりたくないし。その、人を小馬鹿《こばか》にした顔もやめてほしい。なにこっちの心見透かしてやがる。
「じゃあ、そんな優しいアリカに質問です。もしアリカが誰かの模倣をするとしたら、どんな理由からマネをする?」
誰[#「誰」に傍点]ではなく何故[#「何故」に傍点]を訊くあたり意地が悪い。
「さあな。した事ないから分からない。……まあ、憧れとか、そうなりたいって願望からか?」
本物になりたい、というアレだ。久織マキナはずっと偽《つく》り笑いに囲まれていたから、本物になろうとしたのだし。
「まさか。本物になりたい、なんて願望があるならもっと簡単な話だったよ。単に、そういう人のように成功すればいいだけの話だ。わざわざ模倣する必要はない」
オリジナルに憧れてのものじゃないのか。となると。
「……そうか。自分で物事を考えるのがめんどくさいから、他人のやり方を模倣する?」
つまり、思考を放棄するという事だ。物真似とは、機械的になるという事である。
「うん。それが久織マキナの正体だ。彼女は他人の人生をとことんまで考察して、その結果として、考える事を放棄する。
思考の順序が逆なんだろうね。僕たちはこうして雑多に、優先順位を常に切り替えながら、思考しながら生きている。いわば自転車だ。けど彼女はネジを巻く事から始める。他人の人生、おそらく僕らにとって年単位に相当する思考を| 予 《あらかじ》め行っておいて、その後に走り出す。
たとえば久織伸也の模倣。彼女は毎朝数分だけ久織伸也≠ニいう思考《ネジ》を巻いて他人の模倣をし続ける。そこにかかるエネルギーだけは、まあ、悪魔憑きの中でもトップの部類に入ると思うよ。使い方さえ間違わなければ、彼女は万能のうちの一人だろう」
「……わかんねえな。それ、何の意味があるんだ?」
「だから、何も考えないようにする為にひたすらに思考する[#「何も考えないようにする為にひたすらに思考する」に傍点]のさ。まさに機械仕掛けだ。どんな故障が起きてそうなったかは知らないけど、久織マキナはそういう風に誰かのマネをしないと、夢とか希望とか持てなかった」
カイエの言葉には裏がある。
久織の理由は夢とか希望とか、そんな二次的なものではない。久織マキナは自分を消さなければ、そもそも生きてはいけなかった、と言っている。
「――――――」
……なんてめんどくさい生き方だ。それじゃあまるで、苦しむ為に生きているみたいじゃないか。
「あれ、どこ行くの? 話、ここからが本題なんだけど。あのねアリカ。どうしてわざわざ久織マキナの話をしたかと言うと―――」
「いいよ。そういう話は昼にしてくれ。俺、これからツラヌイとメシ」
地下室唯一の美点、安眠ソファーに別れを告げる。
陰鬱な話だったが、たしかに参考にはなった。退院してからはや一ヶ月。漠然《ばくぜん》と抱いていた人生の指針というヤツを、久織マキナは反面に思い知らせてくれたらしい。
「こんにちは。石杖所在さんでしょうか?」
「はい。石杖ですが、どなたでしょうか?」
「僕、いや俺、じゃなくて今はあたしか。お久しぶり。お元気だった?」
「まあそれなりには。そう言うアンタは? 元気?」
「おかげさまで。ちょっと右腕の調子が悪いけど、それなりに。でもおかげで一段階レベルアップしたんだよ。いいでしょ。もし次の機会があったら、その時はより正確に模倣してあげるね石杖さん」
「……なに、悪魔憑きってレベルアップすんの? 何で? パンとか血?」
「天性と才能で、かな。どっちが欠けても無理みたい。石杖さんはどっちもないよ。まあ、そもそも悪魔憑きじゃないけど」
「そりゃ良かった。で、何なんだよ一体。別に、俺に好意があるってワケでもないんだよな、アンタ」
「もちろん。石杖さんの事は心底どうでもいいんです。模倣に理由はありません。あたしはただ、そうでもしないと生きられないだけなんだから」
「……どっかで聞いた話だなそりゃ。アンタ重症? というか末期だよな。病的なまでの行動原理が、アンタらの必須条件だし」
「絶望的、という意味でなら末期だけど。石杖さんだって、あたしとそう変わらないでしょ。なんだってそう邪険《じゃけん》にするの?」
「近づきたくないんだよ。そうでもしないと生きられない、なんて、冗談じゃない。おまえたちは順序が逆だ。人生なんざまず生きる。目的なんてその後だろうに」
「……。じゃあ石杖さんは、そういうのないの?」
「ない。おまえたちのおかげでハッキリした。俺は、できるだけ楽に生きたい。息をする事にも理由が必要なんて、まっぴらだ」
「ふうん。石杖さん、ちょっと変わったね。前はもっと悲観的だったと思うけど。まあいっか。用件は別にあるし。あのね、昨日の夕刊あるでしょ? あれ捨てないでチェックするコト。半年もたなかったけど、一応役に立つコト書いといたから」
「……レポート? おい、なんだよこのカロリー計算も食べ物の好き嫌いだの買ってほしい漫画《まんが 》だの。何の役に立つんだ?」
「ご機嫌取り、かな。あ、けど全然ダメだったから効果はないかも。やんなるなあ。あたし、なんでこんなコトやってんだろ」
「そりゃこっちの台詞《せ り ふ》だ。なんで俺に電話した?」
「そりゃあ迦遼さんの最後のお願いでしたから。きちんと叶《かな》えてあげないと。あと妹さんから伝言です。もうちょっと強くなったら出て行くから、それまで殺されないでねお兄ちゃん=Bはい、それじゃバイバイ、石杖さん」
「はいバイバイ。―――ところでアンタ。一体どこの誰だっけ?」
「……もう。やっぱり忘れてたか、あの唐変木《とうへんぼく》」
チェッ、と舌打ちして電話ボックスから出る。
とりあえずの義務は果たした。けど悔しいから私が山田《やまだ 》、やっぱり偽名だった、から引き継いだ、一番大切な言葉だけは伝えない。
石杖さんの事は本人と同じぐらい分かっている。私の頭《なか》の石杖所在は、最後の最後で地雷を踏んだ。私の模倣に間違いがなければ、彼らの友情は長続きしないのだ。
「妹さんに殺される前にそっちが先か。一年|保《も》てばいい方だよ、石杖さん」
そろそろ頭を切り替えよう。私は私のままで考えていると破滅する。私は静かにネジを巻く。
さて。えり好みしてる余裕はないし、とりあえず、どうでもいい他人の人生を仕入れに行こう。
[#地付き]/HandS.end
[#改ページ]
/2.7
私は、ばしゃん、と。
灰の空から、海《死》が落ちてくる音を聞いた。
全身を侵《おか》される。炎の中に落ちたようだ。皮膚という皮膚、肉という肉、細胞のいたるところまで透過していく酸性の雨。脳天から踵《かかと》まで、巨大なミキサーに細切れにされたみたい。
「ヒ―――、あ―――!」
快感に近い拷問。うめき声すら散断される。
私はキューブ状に分解した眼球で、細切れになっていく灰色の陽射《ひざ》しと海と、三日月みたいな笑い顔と、地下室に泳ぐ大きな魚の幻影を見る。
「あ―――、……れ?」
そう、幻影だ。
私は溶解されても分解されてもいない。
見上げれば水槽に変化はなく、海が落ちてきた痕跡もない。床も壁も水気《みずけ 》はなし。でも。面白く恐ろしい事に、私はズブ濡れ[#「ズブ濡れ」に傍点]なのだった。
「ちょっ―――いま、ガラス、割れたよね?」
「ガラス?」
手足のない子供が首をかしげる。
私と彼では認識が違っている。どうやら私がガラスと思っていたもの、私が水だと思っていたものは、彼にしてみるとそういう名前ではない[#「そういう名前ではない」に傍点]らしい。
「君は悲哀≠フ口に合わないみたいだ。……そっか。君、とっくの昔に唾をつけられていたんだね」
灰色の陽射しが陰る。頭上の水槽に、いつのまにか大きな魚が現れる。魚影は、まるでそれ自体が目玉のように、じっと私を見据えている。
「は―――は。なにあの魚、あのお化けにそっくりだ。そっか。そうだよね。おかしいとは、思ったんだ」
だいたいさ。空が見えるぐらい透明な水に魚が棲めるかどうかより。あんな魚、どんな図鑑にも載っていない。
「ね。私、また間違えちゃった?」
殺せる筈がない。少なくとも、この地下室ではこいつは無敵だ。だから殺される。手を出したからには、反撃されるのが自然界のセオリーだ。
「ああ。呆れたよ久織マキナ。僕のマネをするのはいいけどさ。オリジナルがいたら本物になれないなんて、誰に吹き込まれたんだい?」
ナイフを床に落とす。私は濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》のまま、首を洗って迦遼さんの説教を聞く。
「そもそも本物に成り代わったら、それは模倣でもなんでもない。うまくいっている人間のマネをする事。それ自体が君の目的だったのに。本物になってしまったら、その後は一体なんのマネをする気だい?」
その通りだ。一分の間違いもなく他人のマネができても、その本人が死んでいては模倣でもなんでもない。それは再現だ。私がするのは他人の模倣。もう存在しないモノのマネをしたら、存在を引き継いだ久織マキナになるだけだ。
「そうだよね。私は椅子に座るんじゃなくて、椅子を眺めてるだけでいいんだ。ごめん、次から気をつける。気をつけるから、見逃してくれるかな?」
「いいよ。口に合わなかったのは君のせいじゃない。殺し合いは、今のでおあいこだ」
「はあ―――」
ほっと一息。ともあれ、一刻も早くここから逃げだそう。足の震えが止まらない。私ではまだ、この椅子を眺める資格がない。
「じゃ、さよなら。この仕事、今日で辞めさせてもらうから」
そうだ。この、癒着《ゆちゃく》して外れない右腕を返さないと。
「ねえカイエ。この義手だけど」
「ああ、歓喜《それ》≠ヘしばらく貸してあげるよ。これからの君は厳しそうだし。頼りになる手は、いくつあっても足りないでしょ?」
「いいの? 永遠に返しに来ないよ?」
「だいじょうぶ。代わりなら憎悪だけでもなんとかなるし。返しに来なくても、君が死んだら帰ってくる[#「君が死んだら帰ってくる」に傍点]」
足の震えが一段階ヒートアップ。恐ろしいなあ。やっぱり私、コイツのコト好きなんだなー。
「それよりアテはある? お金でいいなら今までのボーナス出すけど」
「いいよ。金には困ってない。伸也が稼いでくれたからね。あとは……まあ、逃げるにしても県越えは難しい。というより不可能だし。この街で、ほとぼりがさめるまで姿を隠すさ」
出口に向かう。逃げると決めたら即行動。警察がここに来るとは思えないけど、迦遼さんの知り合いらしい警察官はやって来るだろう。
「あ、待って。最後にもう一つ。落ち着いたら、石杖アリカに電話をかけてもらえないかな」
「なんで?」
ちょっと意外。私が石杖さんに電話をかけるなんて、そんなありえない事をいちいち頼む人だったっけ?
「なんでもなにも、君はここで半年間働いてたんだ。前任者として、引き継ぎをする義務があるんじゃない?」
迦遼さんはにっこり笑う。出会った時と同じ、私を信じきった極上の笑顔。
地下室を去る。仕事の話はそれで終わり。
「……ちぇっ」
結局私は、一度も彼に話しかけてはもらえなかった。
思い知らせてやりたいけど、今は全然敵わない。人気のない森を歩きながら、ふと、一年半前の会話を思い出した。ずずん、と震動する体育館。D病棟期待のルーキー、石杖さんの妹さんとの出来事を。
「ねえ。妹さんは悪魔憑きをどう思う? やっぱり閉じこめられなくちゃいけない病人だと思う? まっとうな生き方ができないのは、それだけで弱者だって」
黒髪の美女、ただし私より年下、はお兄さん譲りの、きょとんとした顔で私を見た。
「そんなふうに考えた事はないけどなぁ。強いか弱いかで言えば間違いなく強いんだし。私たちは、全体的に頑丈に出来ているんじゃないかな」
ずずん。悪夢のようにサンドバッグが宙を舞う。八メートルの鎖と60キロの重量が、悲鳴をあげるように軋んでいる。
「頑丈って、何が? そりゃ妹さんは見た感じ頑丈だけど」
「体じゃなくて心の話よ。私も久織さんも頑丈でしょ。肉親の死とか種の疎外感《そ がいかん》とか、そんなんじゃ傷つかないぐらい心が鈍感なの。あらゆるものがどうでもいいぐらいにね」
ずずん。殴りつける拳《こぶし》に、少しだけ殺意がまじる。
悪魔憑きは心の弱さから腫れあがる脳|腫瘍《しゅよう》と言われるのに。彼女はそれを、弱いが故に生まれたものだと断言する。
「でも―――きっついよね。私たちは同じぐらい、どうでもいいままじゃ耐えられないんだ。このままで何の問題もない。周囲に迷惑はかけるけど、自分にはなんの迷惑もかからない。なのに―――何の理由もなく、そんな自分をどうにかしたくてたまらない」
よせばいいのにねー、なんて笑いながら、楽しそうにサンドバッグを跳ね上げる。苦悩と愉悦。彼女はそんな自分を心底愛しているようだ。
「ところで。どうしてそんなコトしてるの?」
「ん、これ? やっぱ、人間|鍛《きた》えないとダメっつ−か」
彼女は戸馬的に拘束されて病院に運び込まれた。
とんでもない|衝撃《ダメージ》だったらしい。体の傷ではなく心の方が。生物として絶対的に勝っていたのに、彼女はボロボロに打ち負かされた。特別である事に溺《おぼ》れて、ただの人間に、鍛え方で敗北したのだ。
「しょうがないよね。私たちは心ばっかりいじめぬいて、自分の性能《か ら だ》をちっとも鍛えていなかった。だから今はこっちを伸ばそうかなって。ホントは今のままでも出られるんだけど。もう少し変わらない[#「もう少し変わらない」に傍点]と、あの女には太刀打《たちう》ちできないから」
ずずん、ぶちん。とどめに放ったミドルキックで、サンドバッグは壁にぶつかったまま帰らず仕舞い。
「……ほんと。すごいよね、あの子」
あんなにも前向きな悪魔憑きは彼女ぐらいだろう。あの時は自分の異常を弱点と思っていたから聞き流していたけど、今はなるほどって頷ける。人間、持つべきものは目標である。
「私、理想の椅子を見つけちゃったよ。気を付けてたけど、ダメだった」
このままでいいと思ったけど、私も鍛えるコトにしよう。今までデフォルトの才能に頼りすぎていた。どうせ変えるならきめ細かく。中身だけじゃ全然足りない。私は新しいネジを手に入れる。外見まで完全に模倣できる、何者でもなく何者でもある、機械仕掛けになってる。
ふんだ。今に見てろよ、あのクソガキめ。
[#地付き]/Hide and Self.cut
■■■
地下室の悪魔に代弁を頼んで、バス停を見張ること数時間。マキナが去った後、僕はゆっくりと団地に向かって、何もなくなった303号室に踏み入った。
奇しくも、むかし台所だった部屋は緋《ひ》で一色。窓から見える狭いベランダには、膝《ひざ》を抱えて助けを呼ぶ、神さまだった頃の幼いマキナの| 幻 《まぼろし》がいた。
「―――ああ」
三年前はもの悲しく映っただろう赤色は、今は祝杯の輝きに見える。なんて輝かしい。なんて痛々しい。何が人が燃えてるよ、だ。燃えているのは幼い姉貴そのものじゃないか。
「でも悪いなマキナ。おまえがここに来ちゃった時点で、僕の勝ちだ」
台所に腰をおろして、盗んできたナイフを喉に当てる。間際。三年前の走馬燈。
お姉ちゃんを見習いなさい
伸也さ、姉貴のマネしすぎだろ
違う。違う違う違う、偽物はあいつだ、そのやり方は僕の物だ。伸也は僕だ、そいつは作り物なんです、聞いてください、本物は僕の方なんですよぅ……!
「―――――は」
かつての悲鳴が反響する。それもここまで。僕が考える方法ではうまくいかないだろうけど、この方法なら決着がつく。だって、これはマキナが教えてくれた事だ。誰かをこの世から消したいなら、自分を犠牲にすればいい。ようやく悪魔に打ち勝った。| 掌 《てのひら》はグリップに吸い付くように。痛みや断絶による恐怖はない。これは結果ではなく手段にすぎない。むしろ解放感が先に来る。
部屋はどこまでも赤いまま。
最期に自分を取り戻す。
それじゃあ―――ばいばい、伸也。
[#改ページ]
底本:講談社刊「ファウスト」2005 WINTER (2分冊)
SIDE-A 2005(平成17)年 11月28日第1刷発行
SIDE-B 2005(平成17)年 12月22日第1刷発行
入力:TJMO
校正:TJMO
2006年02月11日作成