坪田 譲治
新編 坪田譲治童話集
目 次
正太樹をめぐる
枝にかかった金輪
マタメガネ
樹の下の宝
小川の葦
雪という字
母ちゃん
熊
異人屋敷
笛
お馬
どろぼう
魔法
デンデン虫
狐狩り
善太と三平
ビワの実
おどる魚
善太の手紙
早い時計
太郎の望み
リスとカシのみ
森のてじなし
谷間の池
桃の実
きつねとぶどう
サバクの虹
ひるの夢よるの夢
金の梅・銀の梅
森の中の塔
おかあさんの字引き
天狗の酒
イタチのいる学校
[#改ページ]
正太樹をめぐる
平原の村に一本の松の樹が生えていた。
古い松の樹で、幹には荒いウロコのような皮の上に乾いた苔《こけ》が生えていた。頂は高い秋の空の上に聳《そび》え、幽《かす》かな風にも針のようなその葉を震わせて、低い厳かな音を立てていた。秋の白い雲はその上を飄々《ひようひよう》として飛んでいた。
松の根許《ねもと》は樽《たる》のように太くて、しっかり土の中に入っていた。夏にはその土から蝉《せみ》の幼虫が穴を開けて出て来て、幹に登り殻をぬぎ棄てた。秋になってもその干枯《ひから》びた蝉殻は荒い樹の皮の処々《ところどころ》に残っていた。
ある秋の午後、一人の子供がその幹に片手をかけ、グルグル樹の周囲を廻っていた。子供は学校の帰りで、身体《からだ》の半分もあるようなカバンを背中に掛けていた。廻る度にそのカバンの中で弁当箱がカチャカチャと音を立てた。それでも子供はわざと音を立てるように、ずり下った袴《はかま》の裾を蹴《け》って、サッサと歩き続けていた。
子供は正太。正太の家は直ぐ彼方にあった。クルリと樹を一廻りすると、彼方に見えるのが正太の家だ。白壁の土蔵、茅葺《かやぶき》の大きな屋根、築地《ついじ》の塀《へい》に、屋根のある門。クルリと廻ると、正太の家。正太はそれが面白い。隠れたと思うと、また出て来る家。自分の家、母の家、弟の家、お爺さんの家。クルリ、クルリ、隠れたと思うとまた出て来る家、正太の家、正太の家。何度廻っても面白い。次から次へ、何度でも出て来る家、正太の家。
先刻《さつき》まで正太は学校にいた。学校の時間は永かった。何時《いつ》も、何時も、いや、生れるときからこうして家を離れて、永年教室にいるような気がして来た。こんなにして家を離れて学校にいる間に、お爺さんもお母さんも、歳をとって、白髪《しらが》になって死んでしまうのではあるまいか。教室の午後正太のいつもする心配である。今日もまた、その心配が始まった。
これからいつ迄《まで》たったら家に帰れるのだろう。正太はもう帰れないのかもしれない。だって、机の上に窓からさし込んでいる日影は光も弱く、斜めになって机の端に一寸《ちよつと》ばかりさしているきりだ。もう日の暮れるのも近い。
習字の時間だが、書いても書いても鈴が鳴らないのだ。窓の外の空は蒼《あお》く遠く澄み渡り、その空の遠い処、玩具《おもちや》のように小さく空が地上に近づいている処、そこに正太の村が小さく可愛ゆく浮び上って見えるではないか。遠くからは竹藪《たけやぶ》に埋まって見える村。その屋根の上に、空際に高々とさしあげられた柿の枝に粒々になって見える柿の実の数々。また、その空に砂を投げたようにバラバラと小さく飛んでいる小鳥の群れ。
やがて、正太の心に一本の柿の樹が活動の大写しになって近づいて来た。曲りくねって高く空に跳ね上った枝の上に、テラテラ光る一つの柿の実がなっている。それを枝をゆりゆり一羽の鴉《からす》がつついている。鴉の嘴《くちばし》は馬鹿に大きい。枝が鴉の重みで大きくゆれると、鴉は黒い翼を拡げバサバサとそれを動かす。
コラッ
と、正太は呼んでみたい。そんなにハッキリと、眼の前に明るい空際に、鴉は浮んで見える。だが、樹の下には子供がいる。二人も三人も。彼等は長い棹《さお》をもってためつすがめつ葉蔭《はかげ》の柿を狙っている。そこへ一人の子供が走って来る。それは善太だ。善太は金輪を廻している。
シャンシャン、シャンシャン
金輪の音は今この教室で習字をしている正太の耳に響いて来る。善太は今柿の樹の周囲を廻っている。何度も何度も廻っている。金輪の輪は円くその線は鉛筆でひいた紙の上の筋のように細い。空中に消えそうにさえ思われる。だが、それを廻す善太の姿の快さ。
「あいつ金輪は上手だ。」
善太は村の道を走り出した。
「あいつ何処《どこ》へ行くんだろう。」
善太は道を遠くへ、金輪を廻して走り去った。小さくなるまで、家の蔭に隠れる迄、正太は善太の後姿を追いつづける。
友達は村でこんなに遊んでいるのに、先生は教壇の上で椅子に腰をかけて、何か小型の書を読んでいる。先生があんなにして書を読むので、尚さら時間が永くなるのだ。
「帰りたいなあ。」
先生の様子を眺めると、こんな言葉が正太の心を衝きあげて来た。そこで、正太は筆を投げすて、ゴシゴシと墨をとってすり出した。
「アッ、半鐘だ、火事だな。」
正太は耳の中でカンカンという音を聞いたように思って、この時墨の手をとめた。耳をすました。と、音は幽かに、そして遠く、やがて何処かへ薄れて消えた。それなのに今度は遠い空の下で火の見の上で黒い小さい半鐘がカンカンカンカンと物狂わしく暴れ出した。ああして半鐘は鳴っているのだ。キットああして鳴っているのだ。
煙!
正太は窓を見た。遠くにムクムクと白い煙が上っていた。
ウチだ。正太のウチだ。
正太は眼の前に真紅《まつか》な火を見た。それから、怒り、わめき、荒れ狂うているものが眼に映った。
ウチだ。
正太の家が燃えている。燃えながら家は怒っている。燃えながら、家は戦っている。火と、風と、煙と、炎と、火の渦巻と、煙の渦巻と。怒り、わめき、荒れ狂うて――。
ゴ――、ゴ――、ゴ――ッ
と、いう音を正太は耳にするように思った。だが、もう火事は止《や》んでいた。そこは早や焼跡だ。黒い黒い焼跡だ。方々にいぶっている灰。ただようている煙。ところで何とそこの明るくなったことだろう。窓が開いたように、明るい空虚が出来たのだ。風もそこを自由に吹いて行くだろう。
けれども、家がなくなったら、お母さんやお爺さんはどうするのだろう。今晩何処にねるのだろう。早く帰りたい。帰らなければ、みんなは何処かへ行ってしまう。そしたら正太には帰っても行く処がなくなるのだ。家には黒い灰と石ころだけが転がっている。みんなは正太が後から来ると思って行ってしまうのに違いない。だけど正太は火事の時に行く処を知らない。
あッ、そうだ。
正太は伯母さんの処へ行きさえすればいい。伯母さんは火事の時にみんなの行った処を教えてくれるに違いない。帰りを直ぐ伯母さんの方へ廻ればいい。
だけど、家はホントに焼けたのかしらん。村に帰って、家が焼けたか見なければなるまい。でも、伯母さんの内は遠いのだ。行く内に日が暮れる。村に帰っていては間に合わない。直ぐ行こうか直ぐ。が、伯母さんは、どうして来たと聞くだろう。
フト、正太はボンヤリして机に向いている自分に気がついて、また墨をとってすり出した。ゴシゴシ、ゴシゴシ。
学校はどうしてこんなに永いんだろう。日が暮れる迄、学校の鈴が鳴らなかったらどうしよう。それとも、もう直ぐ日が暮れるのではあるまいか。見れば、校庭に列んだポプラの葉がヒラヒラと吹く風に斜めの線を引いて飛んでいる。ポプラの樹は黒い影を長々と裾のように地上に引いて、その影と影の間には傾いた秋の日が斜めに明るくさしている。
先生はいつ迄もいつ迄も書を読んでいて、時間の来たのを知らないんだ。それとも、小使さんが鈴を鳴らすのを忘れているのか。いや! 鈴はもう先刻《さつき》鳴ったのだ。誰もそれに気がつかなかったのだ。そうだ! 先刻もう鈴は鳴った。早く手をあげて先生に知らせればよかった。
「先生――。」
正太は危うく手をあげようとした。だが、彼は躊躇《ちゆうちよ》した。
家が焼けたのなら、お母さんが呼びに来てくれればいいのに、いつもこんなことには気のつかないお母さんだ。今日もきっとお母さんは正太のことを忘れているのだ。
今は正太はお母さんに腹が立って来た。早く呼びに来てくれればいいのに、そうしないと、もう日は暮れてしまうのだ。伯母さんの内に行こうにも、暗くなったらあの大川の橋の処には追剥が出て来るのだ。あの墓のある丘の辺には人をばかす狐もいるんだ。
「早く早く、早く早く。」
正太はその時小便のはずんでいるのに気がついた。彼は一刻もじっと腰がかけていられないような気になった。ドンドンと|地蹈※[#「韋+備のつくり」]《じたたら》をふまないではいられない。
「先生――。」
彼はまた危うくあがりそうになった手を引っこめた。その時、ガヤガヤバタバタという音が学校中に湧《わ》き起った。正太は不思議そうに周囲を見廻した。みんな立上って、道具をしまって、カバンに入れている。何のことだ。時間は終ったのだ。さあ、早く帰ろう。正太も道具をカバンに入れ、カバンを肩にかけて立上る。みんなと出口で下駄を争う。ガヤガヤガヤガヤで校庭に列ぶ。礼をして別れる。
さあ、急がなくてはならない。彼には周囲にいる友達も、友達の声も解らなくて唯だ多勢のガヤガヤばかりが感じられる。彼は前のものに突き当り、横のものの中に割込み前へ前へと急《せ》き立てる。何しろ正太は小便がしたいのだ。それなのに、多勢は見るだろうし、からかうだろう。正太は逃げ遅れた鼠のように戸惑《とまど》いして、みんなの間をチョロチョロと駈けぬける。
こうして、やっと皆から少し離れた時、彼はずり落ちた袴を後に引きずって、大きな帽子をアミダにして、トット、トット、と走り出した。それから振返り振返り大分みんなから離れたのを知って、正太は堪《こら》えきれなくなって、道端の草に向いて前を拡げた。だが、余り大急ぎで前を拡げたので、小便が袴の裾にかかり、足の甲に飛び散った。足にかからせまいと、正太はそこで出来る限り大股《おおまた》に踏張って、前を一層引きあげて反り返った。その時、フト道の彼方を大急ぎにやって来る一人の大人が眼に映った。紺の襦袢《じゆばん》に、紺の股引《ももひき》、跣足《はだし》足袋《たび》で、帽子も冠《かぶ》らない。その人は百姓の田圃《たんぼ》姿で急いでいる。
正太を迎えにやって来たのではあるまいか。正太はその方に一層顔をねじ向ける。
オヤ、善太とこのおじさんだ。じゃ、きっと正太を迎えに来てくれたんだ。
正太は益々顔をねじ向ける。ところが余りその方に身体をねじったので、倒れそうになってヒョロヒョロした。だが、おじさんは正太には眼もくれない。フーフー云い云い行き過ぎる。
聞いてみようか。正太は僕だと云ってみようか。
正太は何もよう云わない。ただ、その方に顔をねじ向け突き出し、見てもらおう解ってもらおうと、おじさんを注視する。おじさんの方では、正太などには眼もくれない。何しろ先を急ぐと見えて、正太の側は急ぎ足で通り、通り過ぎると走り出した。正太はおじさんを呼び止める方も知らず、たよりない気持で、小便を終ったまま、一寸《ちよつと》立っておじさんを見送っていた。が、また思い出した。家は焼けたのだ。そこで、小便にぬれた袴をつまみあげ、村をさして走り出した。正太の身体の半分もあるようなカバンは、一足ごとに彼の背中をどやし付け、中の弁当箱がカチャカチャ鳴った。そこで正太は息が迫った。息が迫ると、悲しくなった。お母さんが迎えに来てくれればいいのに、来ないばかりに袴がぬれた。
松の樹の手前まで来た時、正太はソロソロと歩き出した。何しろ、直ぐもう家が、焼けた正太の家が見えるのだ。正太は松の樹の手前の家の角で立止った。その角から少し頭を突き出した。
はて、何のことだ。
松の樹はそこに立っている。彼方には白壁の土蔵だ。茅葺の大屋根だ。見なれた正太のなつかしい家だ。何の変りもありはしない。そこで、正太は家の角から走り出て、松の樹に片手をかけると、クルリ、クルリ、と廻り始めた。一廻りしては彼方を見る。一廻りしては彼方を見る。そこには明るい正太の家。クルリ、クルリ、正太は廻る。正太は廻る。
フト、この時正太は後ろに人の気勢《きせい》を感じて、振向いた。正太は何しろはにかみやだ。こんな処を人に見られては恥ずかしい。だが、後ろに立っていたのはお母さんだ。ニコニコ笑ったお母さんだ。お母さんだって、正太にはやはり恥ずかしい。そこで、正太はスタスタと駈け出し、母親の膝《ひざ》の処にとり縋《すが》った。
「お母さん――。」
「お帰り。」
「何処へ行ったん。」
「西の畑へ。」
「何をとりにな。」
「お芋をとりに。」
「芋? さつま芋じゃなあ。」
「いんや、里芋。」
「里芋? さつま芋の方がええわ。」
「そねえな事を云うて、さつま芋はもう無《の》うなったぞ。」
「無《ね》え? 無うなったんなら、何かつかあさい。」
「何か云うて、何がありぁ。」
「それでも、さつま芋がないんじぁもの、何かつかあさい。」
「それなら、裏の柿をおとり。」
「柿は駄目、他の何か。」
「他にと――他には何もない。」
母親はこう云うと、正太の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「何か、何か、何かくれにゃ動かん。」
正太は今は全く甘えて、母親の片手に両手でもってブラ下った。
「さ、帰ろう帰ろう。こんなにしていては、晩の御飯が遅くなる。」
「ウンニャ、さつま芋が無いから駄目。」
正太はカブリを振りつづける。母親はもて余す。が、正太は何も欲しい訳ではない。ただ先刻《さつき》恥ずかしかったばかりに、いや、正太の家が焼けていなかったばかりに、こうして母親に甘えなければならなかった。
「そんなにブラ下ると、お母さんは転げてしまうぞ。」
「ええ! 転げてもええ。さつま芋をくれんのだもの。」
「アッ、正太、お爺さんが呼んどられる。な、それ、正太、正太。」
正太が立つと、母親はニコニコして歩き出した。
「嘘だ嘘だ、お母さんは嘘をついたな。」
正太は母親を追いかけ、またその手にブラ下る。
「まあ――転げるが転げるが。」
母親はそう云い云い、身体を円めてブラ下る正太を引いて、家の門を入って行く。
それから一月とたたないある日の午後、正太の母はその松の樹の処にやって来てハッとして立ちすくんだ。
クルリ、クルリ
正太が松の樹を廻っている。片手を樽のような樹の幹にかけて、小さいあの正太が。だが、今ではもうこの世にいない筈であるあの正太が。
母親は立ちすくんで、その姿をじっと眺めた。だが、眺めている内に、その姿は煙のように消えてしまった。後には荒いウロコのような樹の皮の処々に、干乾びた蝉の殻が幾つも幾つもくっ付いていた。彼女は暫《しばら》く佇《たたず》んで、透明な秋の空気の中に立っているその松の樹の幹を眺め入った。しかしもう正太の姿は現われなかった。大気が移りつつあるのか、冷たい風が吹くともなく、松の幹を吹いていた。その時その松の幹が、母親に何と淋しく味気なく見えたことであったろう。正太はいない。いなくなったのだ。そこには干乾びた幾つかの蝉殻ばかり。
それから何日かたち。
それからまた幾月かたち。
母親は樹の周囲を廻っている正太の姿を見たのである。
クルリ、クルリ、と、小さい正太の姿。
枝にかかった金輪
正太のお母さんは今日は朝からお洗濯だ。椎《しい》の樹の下で、若葉を翻《ひるがえ》す風の音を聞きながら、大きな盥《たらい》に向いてお洗濯だ。葉蔭をもれる春の日が、お母さんの耳の上や、盥の隅のシャボンの泡《あわ》や、後ろに垂れたメリンスの帯の上などに、黄いろい縞を作ってチラチラしていた。
その時フト、お母さんにシャンシャンと鳴る金輪の音が聞えて来た。
「正太はまあ今日も朝から金輪廻し、何処《どこ》を廻して駈けていることやら。」
お母さんはこう思った。が、実際正太は金輪を廻すのは上手だった。村の道という道は、どんなに細い処であろうと、どんなに曲りくねった処であろうと、正太の金輪を廻して駈けて行く得意げな小さい姿の見られない処はなかった。
シャンシャン、シャンシャン
また金輪の音が聞えて来た。正太が門から金輪を廻して入って来た。
「お母さん、もう御飯かな。」
駈けながら正太は大きな声。
「何を云うてなら。」
お母さんは今忙しい。お母さんの手許《てもと》でシャボンの泡が四方に散っている。だから正太の方は振向きもしないで小さな声。
「せえでも、お腹がすいたんで。」
「すいても、御飯はまだなかなか。」
この間に、正太は金輪を廻して、椎の樹とお母さんの周囲を一廻り。金輪の音がシャンシャンシャン。
「御飯のおかずはな?」
「何にしょうか。あげにお菜でも煮とこうか。」
「あげ? 魚の方がええなあ。」
正太はこう云いながら、またもお母さんの周囲を金輪で一廻り。金輪の音は鳴りつづける。
「魚は晩、お父さんと一緒。」
お母さんがこう云うと、俄《にわ》かに金輪の音が高まった。
「魚は晩、お父さんと一緒。」
こう繰返して、正太はもう門の方に駈けていた。彼はこれから村のどこへ駈けて行こうとするのか。しかし、何しろ正太は金輪は上手だ。村のどんな小道であろうと駈けて行くその小さな姿の見られない処はなかった。
午《ひる》すぎお母さんは手拭を姉さん冠《かぶ》り、樹の下に張板を立てて、お張ものに忙しい。正太は座敷で絵雑誌を前に腹這《はらば》いになっていた。友達のない午後、お母さんの忙しい午後は永かった。先生のお父さんは中々《なかなか》学校から帰って来なかった。
「正太、金輪はもう止《や》めたんか。」
退屈そうな正太を見て、お母さんが話しかけた。でも、お母さんは忙しい。湯気の立上る張板を白い手で撫《な》でながら、正太の方は見もしない。その時正太は顔を上げお母さんの方に向いたのだが、それから庭の隅の若葉の鮮やかな一本の柿の樹の方に眼をやった。そこには葉隠れに正太の金輪が懸っている。村を廻して歩いたあの金輪。今朝門を入ると、得意になって上に投げあげたそれが、今若葉の間に円をなして懸っていた。正太はそれを見ると、黙って頭を垂れた。だが、直ぐ、
「オット、ええことがあったぞ。」
正太は飛び起きた。もう金輪なぞどうでもいい。やがて、座敷の奥から下げ出たのは、布で作った一つの人形。パッチリした眼に、四つの手足、人形の歳はいま三つか四つ。彼は弟のように正太に片手をとられ、他の手足を下にブラ下げてやって来た。だが、縁側までやって来ると、正太はその手をもって、人形を椎の樹目がけて投げ飛ばした。人形は頭と足とで、クルクル廻りながら、樹の下の土、いや、しゃがんでるお母さんの尻の下の方に行って、大の字なりに寝ころんだ。
「よしッ。」
正太はこれを見ると、直ぐ下駄をはいて駈け出した。何さま永い午後である。それにお母さんは忙しい。正太だってあばれないではいられない。足をもって、人形をお母さんの尻の下から引出すと、こん度は空に向けて、ピョ――ンと高く投げあげた。人形はやはり頭と足とでクルクル舞いながら飛んで行ったが、落ちる時には頭を下にしてやって来たのか、見上げる正太の前に、椎の樹の枝の端っこに、片足をかけてブラ下っていた。
「コラ、落ちい。」
正太は短い棒切れをもって来て、両手を下げている人形の頭を力一杯|撲《なぐ》りつけた。ボテッという音と共に、人形は土の上に落ちて来た。
「まあ、可哀そうに。」
お母さんは云うのに違いないのだけれども、いや、正太もそう云ってもらいたいのだけれども、何分お母さんは忙しい。
「よしッ。」
正太は今得意だ。人形の撲られてボテッというのが気に入った。そこで人形の片足をもって、また樹の下枝にブラ下げ、ボールを打つ選手のような形をして、短い棒を力一杯振廻した。思った通りにまたボテッ――。こん度は人形は余り激しく撲られて、廻る余裕もなく逆立ちをした身体《からだ》をそのまま、両手を垂れた身体をそのまま、ス――ッと空中を飛行して、彼方の塀《へい》に行って身体を打《ぶ》ッ付けた。そしてまた音がボテッ――。正太は益々得意である。大急ぎでそこに駈けつけ、立っている棒の上に、こん度は人形を腹這いに載せた。人形の手足が四つダラリと下に垂れ下った。
「飛べえ!」
棒を振る。ボテッと音がする。人形が飛ぶ。だが、こん度は四這いの飛行だ。そして彼方の納屋の壁に行って頭を打ッつける。こうして正太は人形を追いかけ、あちらに走りこちらに走り何処でも人形を撲りつけた。何さま永い午後で、しかもお母さんは正太の勇ましい姿を見てくれないのだ。正太は暴れないではいられない。だが、実を云えば、正太ももう人形に飽きた。
「お母さん、何ぞつかあさい。」
お母さんの処へ行って、肩に手をかける。
「何もないのお。」
お母さんは気のぬけた返事だ。と――。
「そうだッ。」
もう、正太はいいことを思いついた。三輪車に乗ろう。そこでこの時足許に転がっていた人形を彼方に蹴《け》り飛ばして走り出した。人形は土の上を滑って、座敷の前で二三度コロコロして、それから手足を拡げて、大の字なりに寝ころんだ。彼はやはり子供らしく、パッチリ眼を開いて、お日様を仰いでいた。正太に撲られたことなど、もうスッカリ忘れていた。自分でも正太の弟だと思っているのかもしれない。「ピリピリッ、公園行き、公園行きでありまあす。」
だが、もうこの時正太はこの声と共に納屋の方から三輪車に乗って現われ出た。座敷の前を通って、椎の樹の下のお母さんを廻って、後ろに三筋の跡をつけて、また納屋の方に帰って来る。これが公園行きの軌道である。三輪車も正太は上手だ。足を繰ることが誠に速い。だが、不幸なことに、人形は公園行きの軌道の上に寝ていた。そしてお日様を眺めて動こうとしなかった。その上に、正太は今は人形の首を轢《ひ》くなど平気の平左に考えていた。それどころか、却《かえ》ってそれが面白い。それだけでさえ、彼の足はペタルの上を躍るように踏みつける。では仕方がない。車輪は嫌でも人形の首の上に上らなければなるまい。ギッチリコ、車輪は首を轢いてしまった。帰りも同じに、ギッチリコ、しかしこん度は足の方だ。車輪はこんなに思っていてもしかし人形の方は楽天家だ。それとも無邪気で痛みを知らないのか。首を縮めようともしないで円い眼をパッチリ開けて、やって来る車輪をほほ笑みかけて迎えている。それどころか、おへそを空に向けてボッテリしたその腹を車輪の過ぎるに任せていた。
「ピリピリッ、停車場行き停車場行きでありまあす」
三輪車は後ろに三筋の跡を引いて庭を目まぐるしく往来する。その度に人形を一度ずつ轢いて行く。人形は何度轢かれてもそのあどけない表情を変えなかったのだけれども、余りに激しい三輪車の往来に、到頭彼も首をダラリと、土の上に垂れてしまった。首と体とを結びつけていた糸が解けたのだ。それから体と足とをつないでいた糸もゆるんで来た。そして人形は遂に敗残者となって疲れて死にかかって、力なく土の上に自分の身体を投げ棄てていた。
何十回となく公園行き停車場行きを繰返した正太に、また午後の日が永くなった。そこで三輪車を椎の樹の下に乗りつける。
「お母さん、お父さんはまだかな。」
「まだまだ。」
「それでも善さんは帰ったぞな。」
「善さんは生徒じぁもの。」
「先生の方が遅いんかな。」
「そうとも。」
「フウ――ン。」
仕方がない。午後が永いから、こん度は三輪車は最大急行だ。無茶苦茶乗りだ。
「ピ――ピ――ッ、ピ――ピ――ッ。」
だが、この最大急行も二三回で直ぐ椎の樹の下に停車する。
「お母さん、もう何ぞ貰うても宜《よ》かろうがな。」
「――――」
「なあ、お母さんッ。」
「そうじぁなあ。」
「お母さん。」
「そうじぁなあ。」
仕方がない。正太はまた最大急行だ。
「ピ――ピ――ッ、ピ――ピ――ッ。」
二三回でまた椎の樹の下の停車。
「お母さんッ。」
「――――」
「何ぞッ。」
「へいへい。」
「早くッ。」
「よしよし。」
――これでもききめのないのを知ると、正太はヒドク考え込んで、三輪車を下りて、人形を拾いあげた。そして、縁側に腰をかけて、静かに人形を弄《いじ》くり廻した。垂れ下った頭をくっ付けてみたり、二本の足をプラプラ振らせてみたり、それからまみれている土を叩いたり吹いたり、自分の着物にこすり付けてみたり。その末糸のついた針をもって来て、首と足とを縫いつけにかかった。もとより正太に縫えよう筈がなかった。縫えないのが解ると、また大きな声をあげた。今度は少し悲しみと怒りの混った声を。
「お母さんッ。」
ビスケットの皿に向って、口をモグモグしながら正太は腹這いになっていた。
「あのなあ、お母さん。」
正太は足をバタンバタンと打っている。
「あのなあ、お母さん。」
正太はビスケットを一杯口に頬ばったままこん度は仰向《あおむ》けになって、側のお母さんに話しかける。その方がお母さんの顔がよく見える。
「人形でも死ぬるんかな。」
「まあまあ。」
お母さんは側にあった人形をとりあげた。
「可哀そうに、どうしたんなら。」
こう云われると、正太は背中を土にすりつける犬のように、上にあげた両足を両方の手で掴《つか》んで、畳の上をゴロゴロと転び始めた。
「のう、どうしたんなら、正太。」
「ウウン――。」
正太はニヤニヤして唯だころげていた。
「せえでも縫いつける気じぁったんじぁのお。」
お母さんはさしてある針を使って、首と足とを縫いつけた。
「さあ、忙しい。」
お母さんは手拭を冠る。エプロンをつける。そして椎の樹の方に立って行く。
「人形をねかそうッ。」
正太もこう云って立上る。座蒲団《ざぶとん》を二枚持って来て、一枚を敷かせ、一枚をかける。
「ねとれえよ。」
正太は仰向けにねかせた人形を覗《のぞ》いて、こう云ってきかす。もとより人形はおとなしくねている。可愛らしい眼をして、天井を見上げている。
「お母さん、人形をねさした。」
「そうかな。」
正太はお父さんの机の上から一輪ざしの草花をもって来る。机の抽斗《ひきだし》から検温器を出して来る。それから残ったビスケットも一緒に、人形の枕もとを飾ってやる。側に正太も横になる。
「お母さん、人形は熱があるぞな。」
「そうか、よしよし。」
だが、正太は横になってみると俄かに眠くなった。そこでいつもお母さんの懐ろに顔を埋めるように、人形の蒲団に顔を押しつけた。すると何となく人形が可愛ゆくなって片手を人形の上に載せかけた。それで今迄そぐわなかった気持が安らかになって、正太は直ぐスヤスヤと眠りに入った。
正太が眼がさめた時にはいつの間にか傾いた日ざしが椎の樹の幹を黄金色に染めていた。樹はまた黒い影を長々と地上に引いていた。お母さんの姿は庭には見えなかった。台所の方でコトコト音がしていた。
畳の上にボンヤリ坐っていた正太はフト眼を移すと、押入れのフスマの陰から、如何《いか》にもイタズラものらしく、少し顔を覗けている蒲団の端に気がついた。自然に正太の口の辺に微笑が浮んだ。次第にそれが大きくなった。
「フフフフフフ隠れてやろう。」
お母さんが、寝ていた正太がいつの間にかいなくなったとビックリするだろう。そこで、四辺《あたり》を見廻した末、ソット押入れのフスマを開ける。開ける内にも度々《たびたび》振返る。振返る度に笑いが次第にこみあげる。
フフフフ、フフフフ
さて身体を屈《かが》めて頭から――だが自然に正太の首が縮む。尻がまだ押入れの外にあるのに、彼はまた振返らないではいられない。フスマをしめにかかっても、また首を突き出して、四辺を見廻さないではいられない。何と嬉しいことだろう。だって、お母さんは知らないんだ。フスマがしまる。中が暗くなる。フフフフ、クククク笑いがグットこみ上げる。堪えても堪えても、フフフフ、クククク、中の蒲団に腰をかけ自分で自分の口に手をあて身体をゆすって、正太は笑いつづけた。はては蒲団の上に顔を埋め、蒲団の間にもぐり込み、足をバタバタやって笑いつづけた。終《しま》いにはとうとう堪えきれなくなって、フスマをサッと開け放し、外に飛び出て大声をあげた。
ハハハハハ、ハハハハハ
身体を折り曲げ折り曲げ笑いつづけた。
「お母さん、お母さん。」
それから正太はお母さんの処に出かけた。
「お母さん、正太は何処に居った。寐《ね》とったか?」
「そうじぁのお。」
「云うてみられえ。」
「何処じぁろう。」
お母さんは首を傾けた。が、そうされてみると、またしても吹き出して来る正太の笑い、喜び。
「押入れじゃあないんぞな。」
「そうか。――けえど、押入れのようじぁなあ。」
「押入れじゃあないんじぁて。お母さんッ。」
「押入れのようじぁなあ。」
「押入れじゃあない云うたら! お母さんッ。」
「押入れ押入れ。」
お母さんに顔を指ざされて、正太は遂に吹出してしまった。
「ハハハハハ ハハハハハ。」
「そうら、押入れじぁろうが。」
「ハハハハハ ハハハハハ。お母さん、正太が隠れたのが、どうして解ったらな。え! どうして解ったらな。」
「それは解るぞ。」
「どうしてな。」
「せえでも、正太は笑おうがな。笑うたら、お母さんには直ぐ判る。」
「それではこん度は笑わんぞな。隠れるからあててみられ。ええかな、隠れるぞな。」
もう正太は駈け出した。こんなにお母さんに遊んで貰えるのだ。正太は駈け出さないではいられない。
座敷まで来ると、正太はもうぬき足さし足、四辺《あたり》をしきりに振返る。が、もう何かが彼の心をくすぐり始めた。クックックックッ、どうもおかしくて堪らない。そこで手取り早く、そこに吊《つる》してあるお父さんの着物の中に隠れる。隠れたものの、堪えれば堪える程、こみあげて来る笑い、喜び。とうとう正太は畳の上に頭を下にさげて行き、終《つい》にゴロリと転んでしまう。おかしくて、とても立っていられない。下に転ぶと、足をピンピン跳ねあげた。それからポンと跳ね起きて、ア――ア、ア――アと、大きな吐息をつき、笑いを殺して、またお母さんの台所へ。
「お母さん、正太は何処に隠れとった。」
「そうじゃあなあ。」
お母さんはこう云ってニコニコして、正太の顔をじっと見る。見られると、正太は笑わないではいられない。
「何処! 早う云われい。」
お母さんの袖をとる。
「そうじゃあなあ。」
また、お母さんは正太の顔を見る。見た上に覗き込む。
「ハハハハハ お母さんはいかん。正太の顔を見るんじゃあもの。」
「でも、見にゃ解らんが。」
「見ずに、見ずにあててみられい。」
「よしよし、それじゃあ、ええっと、座敷の方と――。」
「あ、見とる見とる、横目で見とる。ハハハハ。」
「見りゃせんぞ。ええと、座敷は何処かな。顔を見ると解るんじぁがなあ。ええとええと。」
「ハハハハハ 着物の処じゃあないぞな。」
「解った解った。着物ではないと、そうすると、床の間かな。」
「ハハハハ 床でもないぞ。床でもないぞ。」
正太は歌のようにはやし出した。身体をゆすって、手を叩いて。
「床の間でもないと、それじゃあ、――着物ッ。」
他を向いて考えていたお母さんが、こう云うと、振向いて正太の顔の前に顔を突き出した。
「ハハハハハ ハハハハハ。」
正太は笑いこけた。
「お母さん、どうして解るん? ええ、どうして。」
「そりゃ解るとも、お母さんにゃ、正太が何処に隠れても解る。」
「面白いなあ――。」
正太はもう心から面白くなった。
「それじゃあ、お母さん、隠れるぞなッ。」
もう正太は駈出した。クックックックッ、何か解らないものにくすぐられ、解らないものに追いたてられ、彼は座敷を駈け、茶の間を走り、床の間の隅に身体を縮め、縁側の端に笑いを忍んだ。が、とうとう彼はそこにも忍びきれなくて、玄関から下駄をつッかけて外に走り出た。
「正太、正太。」
度をはずれたこの騒ぎように、お母さんは一寸困って、台所から正太を呼び立てた。が、こう呼ばれてみると、何と正太の嬉しいことだろう。クックッ、クックッと正太はこの声に追い立てられるように駈けつづけた。あわてたり、狼狽《うろた》えたりして、庭を駈ける正太に、この時塀にたてかけた一つの梯子《はしご》が目についた。正太はそれに手をかける。と、この時また、
「正太、正太。」
と、お母さんの声。正太は考える暇もなく、あわてて梯子に駈けのぼる。クックッ、クックッ、と笑いを堪えて、綱渡りのように塀の上を伝うて行く。
「正太ッ、正太ッ。」
お母さんには正太の声の遠くなったのが気懸りで、台所でしきりにまたこう呼び立てる。だが、呼び立てられれば呼び立てられる程、正太は狼狽えないではいられない。さて塀に上ったものの、見れば正太には隠れる処がない。ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと、正太は両手を拡げて危なかしく塀の上を伝っているのに。やっと、正太が塀の上に延びている椎の樹の枝にたどりついた時、玄関の方に出て来るらしいお母さんの跫音《あしおと》が聞えて来た。これではいけない。正太は椎の枝にとりすがって、その上に登りつく。そして玄関の方を振向いてみる。あ、お母さんはそこに出て、庭をキョロキョロ眺めている。これはいけない。また上の枝にすがりつく。そして上に登りつく。
「正太――。」
お母さんが呼ぶ。また正太はおかしくなる。嬉しさと、笑いとがこみあげて来る。そこでまた一登り。
「正太、何処に居るんなら?」
「クックッ クックッ。」
「まあ、正太ッ。」
お母さんはビックリして、樹の下に駈けて来る。
「正太ッ危ないッ。」
正太もビックリした。お母さんのこの声に。だが、正太の嬉しさは消えない。それどころか、正太は今は得意にさえなって来たのだ。そこでまたクックックックッと、上の枝に登って行く。
「正太ッ、正太ッ。」
お母さんはもう顔色を変えて、樹の下で身体を折り曲げ折り曲げ、小さいながら声に必死の力をこめて呼び立てた。だが、呼べば呼ぶ程、正太は上に登って行って、終いには高い椎の樹の頂、葉に隠れて見えない処、空の上の方の飛ぶ雲に近いような処に登ってしまった。そして、そこからクックッと笑い声だけが聞えた。お母さんは樹の周囲をあちらに行き、こちらに行き、正太を見ようとグルグル廻り、背延びをし爪立ちをして、上を仰いだ。
冬の初め、空がカラリと晴れて、木枯しがその空を渡っていた。正太のお母さんは座敷の前で洗濯をしていた。盥の中のお母さんの手もとでは白いシャボンの泡が冬の日光の中を四方に飛び散っていた。正太の声はもう聞かれなかった。椎の樹の影も庭にさしていなかった。正太が椎の樹から落ちて、生命《いのち》をおとしたので、椎の樹は切り倒されてしまった。だが、庭には柿の樹が残っていた。葉が落ち尽して、黒々とした骨々しいその枝を空際にさし上げている柿の樹だけが。しかしその枝には一つの金輪が懸っていた。正太が夏の初め得意になって上に投げあげたあの金輪だ。葉が落ちたので、その金輪が空際に円《まる》い円をなして懸っていた。その円を通して、彼方の空の見えることは、正太のお母さんには淋しかった。でもその金輪が正太が自分でそこに懸けた金輪がそこに懸っていることは、正太のお母さんの慰めであった。そこにもまだ正太の生活が残っていたから、あのイタズラものの正太の生活が。
風が吹く度にチャリチャリチャリチャリと、金輪の鳴り輪がすれ合って音を立てた。その度にお母さんは金輪の方を振返った。金輪が落ちはしないかと心配になったからである。時には夜ふけて、その音が聞えて来た。お母さんは床の中でどんなに淋しい気持になったことだろう。金輪をもう落してしまおうかと思った位である。時には鴉《からす》がその枝に来て、大きな嘴《くちばし》で金輪をコツコツつついていた。それどころでなく時にはその鴉は金輪の中に入ってとまっていた。これを見ると、お母さんは狼狽えた。
「シッ シッ。」
と、手をあげて追い立てた。金輪が落ちたらどうしよう。正太のものとては、たった一つ残ったそれである。だから、落しては正太にすまない、正太が可哀相だ。
それにしても、今日は風が強い。空が晴れているのに、何処からかドッと木枯しが吹き寄せる。その度にチャリチャリと鳴り輪がきしる。またその度にお母さんはその方を向かなければならない。
正太は金輪が上手で村のどんな小道であろうと、駈けて行くその小さな姿の見られない処はなかったのだが、お母さんは洗濯をしていると、村の小道を何処か正太が金輪を廻して駈けているように思えてならなかった。
その時、チャリ――ンという音を聞いて、お母さんはサッと立上った。金輪が跳ねている。大きく、そして小さく小さく、それから地上をくるりと廻って、お母さんの側でハタリと横に倒れてしまった。
どうしたんだ?
お母さんは初め金輪が枝から飛び下りたのかと思った。いや! ドッと大きな木枯しが吹いたのだ。お母さんは足もとの金輪をじっと見下ろした。何とその錆《さ》びたことだろう。一面に真赤に錆がついていた。空にある頃はそれは唯だ黒くだけ見えていたのだが。
「そうじぁなあ。あれからもう半年になるんじぁもの。」
お母さんは暫く立ったまま、指を折って数えてみた。
「錆びる筈じぁ。」
金輪を壁に立てかけて、お母さんはまたお洗濯だ。白い泡が四方に散る。その内フトお母さんは金輪を廻してみる気になって納屋の壁にかけてあった正太の廻し棒をとって来た。そして金輪に棒の先の曲った処をかけて、ソロソロと前に押してみた。チャリチャリと鳴り輪の音がする。だが、二三歩でもう金輪は横に倒れる。また起してやってみる。また二三歩で横に倒れる。お母さんは首を傾けた。
「なる程、正太は金輪は上手だ。」
またお母さんは盥に向った。木枯しが何度も吹き寄せる。木枯しの間々に、お母さんは折々金輪の音を遠くで聞くような気がした。そしてまたしても考えつづけた。
「正太はホントに金輪は上手だ。」
マタメガネ
国から子供等のおばあさんがくるというので、郊外の岡の上へその汽車を見にと十一になる善太をだしてやった。暫《しばら》くして彼は浮ぬ顔をして帰って来た。聞けば彼は汽車が原の遠くから白い煙を吐いてウネウネと動いてくるのを、岡の上でマタメガネをして待っていたというのである。
「そうしたらお父さん、汽車の窓から女学生のような人がだれかに突き落されたよ。そうしたらね、下に自動車が待っていて、その人を乗っけて、『ププププ――』って飛んでっちぁったよ。」
「ホントかい。」
「ホントウ。」
子供は大まじめである。しかしその時私は考えた。恐らく子供のマタメガネをしている間に、活動写真か何かで見たものをイメージとしてくり返したのだ。それに違いない。だってそれについては、私もまた幼い頃に不思議な記憶を有《も》っている。
秋の午後。
村端ずれの小高い岡の上で三四人の子供がモグラモチの穴を掘るのに夢中になっていた。その時、村の方から「ドン、ジャラン――。」という音が聞えて来た。草の葉かげからのぞくと、今葬れんが村を出ようとしているところだ。風に吹かれている白いのぼりにつづいて、棺《ひつぎ》の上に金のほうおうが屋根と屋根の間からユラユラと現われ出た。つづいて、黒装束の四人の担ぎ屋が長い足をそろえて、サッサッサッサッとやって来た。
「葬れん、葬れん。」
子供等は岡の上に立って、一せいにその方を打ち眺めた。棺につづいてテラテラの坊主頭。けさが金魚のようにキラキラ光る。その後がかみしもをつけた人、白むくを着た女、つづいてふなのようにゾロゾロと黒い人々の行列。
「ドン、ジャラン――。」鐘がしきりに鳴って、その行列が村からウネウネと遠い野原の方へ動いて行った時、今まで黙っていた子供の一人がこう叫んだ。
「オイ、こうしてみい。面白えぞ。面白えもんが見えら。」
子供の一人が葬れんに向って、岡の上からマタメガネをやっている。これを見ると他の子供もわれ勝ちにマタをのぞき込んで、ズラリと一列に尻を葬れんの方へ向けて立てならべた。
「見えらあ見えらあ。」
「ウン、葬れんが行きょうるぞ。」
「あれゃ、お墓山か、あの白えのは?」
墓の累々と立列んだ白ッポイ山の上には、一本の松の樹が鮮やかな影絵のように立っていた。ところが、その山の空を小さい黒い二三の点のようなものが飛んでいた。からすである。
「墓山の松の樹が見えるのう。」
「ウン、見える。」
「松の樹の上のからすが見えるか。」
「ウン、見える見える。」
「何ぼおりゃ?」
「一つ二つ。五羽じゃあ。」
「ウン。」
その時である。一人の子供が他の方で彼のマタの間から呼びかけた。
「何も見えりゃせんが、葬れんも墓山も。お前らどこを見ゅんなら?」
他の子供等がこれもみなマタの間から口々に答えた。
「あねえに見えるのに!」
「のう、あねえに!」
「どこを見ゅんなら?」
やがてこういって、一人の子供がマタから頭をぬいた。
「そっちじぁない。こっちじぁが。そら。」
こういって、その子供は友達の尻を墓山の方に向けさせてやった。
「見ょうが。」
「ウン。」
「葬れんが橋を渡っとろうが。」
「ウン。」
そこで、その子供は自分もまた尻を墓山に向って突き立てようとして、また一人の友達があらぬ方角にマタメガネでのぞいているのを発見した。
「正公、お前どこを見とんなら?」
しかし正公は返事をしないで一心に他の方角にマタメガネを見いっている。
「正公、何を見とんなら? オイ。」
やはり正公は返事をしないので、仕方なく彼はまた墓山に向ってマタメガネを突き立てた。
「アアアアア、オイ、からすがぎょうさんになったぜ。」
「ウン、ずんずんずんずんふえてくらあ。」
「もう、三十も四十も居るのう。」
「鳴きょるんが聞えるか?」
「ウンニャ。」
「聞いてみい。のう、ガヤガヤガヤガヤ鳴いとろうが。」
「ウン、鳴いとる鳴いとる。」
こうして皆が遠い墓山のからすの声にマタの間で耳をすましている時である。葬れんがウネウネと墓山の方に次第に小さくなって動いている時である。子供等の後ろで「モウ――。」という牛の鳴き声を聞いて、彼等はビックリ立上った。見れば、後ろには真黒な岩のような大きな一頭の牛がいつの間にくくられたのか、そこの一本のくいにくくられて、鼻づらを空にあげて低い声で鳴いていたのである。「モウ――。」
それから牛はくいの周囲を身体《からだ》に波を打たせ、よだれをタラタラと垂らせ「フウフウ。」と息をつき、そしてはえに向ってか、少し角を振ってまわって歩いた。それを見ると、一人の子供がバラバラと岡を下った。つづいて、また一人後を駆け下りた。また一人がそれにつづいた。
「のう、きょうとい牛じぁのう。ありゃ突くぜ。」
「ウン、ありゃコッテイじぁ。」
「のう!」
「のう!」
日はもう暮れかかっていた。彼等はそれから各自の家の方角へ散り散りに走り去った。しかし一人正公と呼ばれた、別の方角にマタメガネを向けていた子供だけは考え深そうに首を傾け傾け走りもせず、ソロソロ家路についた。
その翌日のことである。正公と呼ばれた子供が友達に話しかけていた。
「昨日のう、わしゃチンチン坊主を見たんだぜ。ホントウだぜ。マタメガネをしたろうが、あの時、彼方《むこう》の方の道を馬に乗って駆けっとった。」
その正公というのは実は幼時の頃の私である。私は実際見た。野原の白い道のウネウネの遠い彼方から、トルコ帽に似た帽子の後ろに垂れ下った長い辮髪《べんぱつ》を躍らせながら支那兵は馬に必死の駆け足をさせていた。服は黄いろく、手には青竜刀《せいりゆうとう》を持って、それを振上げ振上げ駆けていた。その後から一人の日本の騎兵が胸には赤い肋骨《ろつこつ》形の飾りのついた服を着て、背中には鉄砲を負い、これも馬に駆け足をさせていた。が、その馬の足の何と高く上ることか! それに見ろ! 日本兵はもう長い軍刀を前かがみになって振りかぶった。今、目の前であの支那兵の首は空中に飛びはしないだろうか。血が煙花のようにパッとはねはしないだろうか。私はそんなことを考えた。何にしても、秋の日暮れであるにかかわらず、それらの光景はまるで夏のように鮮やかな背景の上に映っていた。雲の峰のように白い煙が地平線にムクムクと浮んでさえいたのだ。
だが、今から考えれば、善太のマタメガネから見た女が活動写真の幻影であるように、私の幼時に見たこの支那兵も、あの頃はやっぱりのぞき眼鏡の幻影に違いない。しかし、それにしても、時代の移りを考えずにはいられない。子供等の中にも、いや、恐らく青年の中にも、日清戦争を頭に描くものなどはもう一人もいないのだ。時代も移れば、世界も変った。
樹の下の宝
一
お爺さんは煙草《たばこ》が好きで、いつもよく日のあたる椽側《えんがわ》で、ながながと煙草をふかしておりました。椽側の前には一本の年とった樫《かし》の樹があって、お爺さんの煙草の煙を見ていました。いいえ、お爺さんの方でその樫の樹を気永にながめていたのです。でも、お爺さんは煙草の煙が煙草盆からスウと、高くのぼっているそばで、よくコクリコクリと居眠りをしていましたので、やはり樫の樹の方でお爺さんを見ていたのでありましょう。
さてある日のことです。お爺さんはそうして居眠りをしていて、不思議な夢を見たのです。どこから来たのか、一人の子供がやって来て、その樫の樹の下の土をしきりに掘りかえしておりました。どうするのかと見ていると、子供はそこに大きな一つの穴を掘りました。穴が出来ると、どこから持って来たのか、色々なものを、子供はその穴の中にかくしました。そして穴の上には一枚の板を蓋にして、それに土をかぶせてしまいました。土をかぶせると、ふところから小刀を出して、樹の幹に何か彫りつけにかかりました。
「この樹の下に宝あり。」
久しくかかって、子供はその幹にこんな字を彫りつけたのであります。これを見ると、お爺さんは不思議でなりません、夢の中でもはずれそうな眼鏡をかけなおして、この樹の下に宝あり、と読みなおしました。
それから、フーンと、首をかたむけて考えこみました。ところが、不思議がって余り首をかたむけたものですから、その拍子にハッと眼があいてしまいました。が、眼がさめて見れば、樫の樹には何の変りもありません。でも、お爺さんはどうも不思議でなりませんので、この樹の下に宝あり、としきりにくり返しておりました。
二
ところが、その次の日のことであります。お爺さんがこの椽側で煙草をすっておりますと、コクリコクリといつのまにかまた居眠りがはじまりました。居眠りがはじまりますと昨日の夢のつづきが出て来ました。子供がその樹の下から、樹の下の土の穴から、板を押しあげて出て来たのでありました。
子供は手に一つの金輪とその押し棒とを下げていました。それから、すぐその押し棒を金輪にあてて、ソロソロと廻しはじめました。すると、金輪についている小さな鳴り輪がチャラチャラと鳴り出しました。
この鳴り輪の音を聞くと、子供はにわかに愉快になったのでしょうか、トットと走り出しました。お爺さんもその鳴り輪の音で一そう気持よくなって、コクリコクリと居眠りをつづけました。子供はお爺さんの眠っているのをいいことにして、樹のまわりをチャラチャラチャラチャラ、いやクルクルクルクルと、何度も何度も廻りました。それでも折々|一寸《ちよつと》お爺さんの方へ首を向けて、お爺さんの眠っているのを見ては、またトットと樹のまわりを走りました。
あまり子供が愉快そうなので、お爺さんもつい、にっこりしてしまいました。そして何だか子供にものを言ってやりたくなりました。ところが、ものを言おうとした拍子に、どうしたのでしょう、もう目がさめておりました。鳴り輪の音がどこか遠くでしているように思われるのでしたけれども、もう子供の影も形も見えません。で、まずお爺さんは煙草を一服やりました。
さて、その次の日、お爺さんは椽側の日向《ひなた》で煙草をふかして、またコクリコクリとやっていました。すると、同じような子供が同じように樹の下の土の中から出て来ました。今日は子供は竹トンボを持っていました。樹の下から、晴れてまっ青な空に向けて、それをすりあげて遊んでいました。
竹トンボはまるで花火のように、シューと空に向ってのぼって行きました。のぼったと思うと、クルクルと舞うて落ちて来ました。落ちて来ると、子供はそこに駆けて行って、すぐまた空にすり上げました。
空には、その時一羽の大きな白い鳥が両方に翼をひろげて飛んでいました。ずいぶん高いところを飛んでいるのに、その白い羽根の一本一本が、はっきり見えるように思われました。子供はその鳥のところまで竹トンボをすり上げようというのでしょうか、一生けんめいに上げ上げしました。
そのうち、子供は落ちて来た竹トンボを見失ってウロウロと樹のまわりをさがしはじめました。足もとに落ちているのに、どうしてそれが分らないのでしょう。今にも足で踏みそうなんです。そこでお爺さんは、じれったくなって、
「そこそこ、そこだよ。」と言おうとすると、おや、もう目がさめておりました。子供なんかどこにもいません。お爺さんは不思議そうに眼をパチクリやって、やれやれと、まず一服吸いつけました。
次の日、お爺さんはまた夢を見ました。同じ子供が同じように出て来たのですが、今度は子供は帽子をかぶっておりました。それがビロードで出来た鳥打帽子というのです。両方の耳のところに、耳をかくせるように垂れるものがついていました。それを上にかえして、頭の上で結んでいました。今頃は見ることも出来ない古い帽子でありました。しかも子供は手に小さい弓と矢を持っていました。両方とも自分でつくった不細工なもので、矢の先には、釘《くぎ》がさしこんでありました。
子供はそれを持って樹の下に立ち、かなたへ向けて弓を引きしぼり、じっとねらいを定めておりました。
その子供の矢の向いているところには、不思議や、古ぼけた一つの土蔵があって、その土蔵の石垣の前に一匹の|いたち《ヽヽヽ》がいました。|いたち《ヽヽヽ》は今逃げようか今逃げようかと、隙をねらって子供の方を見て、キョトキョトしておりました。そこへヒュンと子供の矢が飛んで行きました。けれども、その時にはもう|いたち《ヽヽヽ》は石垣の前をチョロチョロッと向うへ駆けこんでしまいました。
駆けこんだと思うと、|いたち《ヽヽヽ》は子供を馬鹿にしているのでしょうか、また向うの石垣のはしに、そのキョロキョロした顔をもう一度のぞかせました。子供はこれを見ると、大まじめで腰にさしていたもう一本の矢をぬきとり弓につがえて引きしぼりました。子供はまじめでも、|いたち《ヽヽヽ》は不まじめです。笑いたそうな顔をして、子供の様子を眺めていました。
お爺さんもこれを見ると、何だか笑いたくなってしまいました。だって、子供の様子がお爺さんの小さい時そっくりだったからであります。それでつい、
「やってるな。」と、こんなことを言ってしまいました。すると、そのはずみに目がさめてしまいました。でも、お爺さんはまだニコニコしておりました。
三
次の日の夢では、その子供はやはり鳥打帽をかぶって出て来ましたが、出て来たと思うと、土蔵の蔭《かげ》に駆けこんでしまいました。けれども、間もなくその蔭から高い竹馬に乗ってピョコリピョコリとやって来ました。と、その後から子供の友だちらしいのが、やはり高い竹馬に乗って、ピョコリピョコリとやって来ました。
と、その後からも、後からも、同じような子供が十人ぐらいも列をつくって、みな同じような竹馬に乗って、ピョコリピョコリとやって来ました。先頭の子供は樫の樹のところまで来ると、そこを一まわりして、すぐまた土蔵の蔭の方へ引きかえしました。
すると、つづく連中もみな樫の樹を一まわりして、じゅんじゅんに土蔵の蔭に入って行きました。みんなが入ってしまうと、また子供が先頭で出て来ました。みんな何やら話しているらしく、愉快そうにニコニコした顔であります。そして出たり入ったり、何度も何度もしました。これを見て、お爺さんは初めて何かが分ったらしく、
「うん、そうか。」と言いました。が、それで夢はさめてしまいました。さめてもお爺さんは、
「なるほど、そうだったのか。」と、さも感心したように言っていました。と、そこへ丁度正太がやってまいりました。
「お爺さん、何を言ってるの。」
正太がお爺さんのひとり言をききとがめました。お爺さんはまたそれをいいことにして話し出しました。
「うん、まあお聞き。な、お爺さんはこの間からここにいて夢ばかり見ていたんだ。それがね、その夢にいつも子供が出て来るんだ。あの樹の下から出て来てさ、金輪を廻したり、竹馬に乗ったり――。」
「ほんとう、お爺さん、ほんとうに出て来るの。」
「いいや、それが夢なんだ。夢なんだが、ほんとうなんだ。お爺さんの国の家にも、丁度あの通りの古い樫の樹があったんだ。その樹の下に、お爺さんは小さい頃、大きな穴を掘った。そしてその穴の中に色々のものを埋めたんだ。大きくなって掘り出そうと思ってね。
ところがそれからもう五十年も時がたった。今までお爺さんは忘れていたんだよ。今頃になって、その穴から色々のものが出て来るんだ。この椽側でコクリコクリとやってると。」
「ほんとに出てくるの。」
「ほんとにさ。」
「あの樹のところに。」
「うん、そうだよ。」
「それじゃあやってごらん、コクリコクリを。正太が見ているから。」
「いいや、それはお爺さんにだけ見えるんだ。正太になど見えやしないよ。」
「なあんだ。」
つまらなそうに正太が言いました。するとお爺さんが、また話し出しました。
「いいや、それがなかなか面白いんだよ。今こそお爺さんはこんなお爺さんだろう。しかし穴から出て来るお爺さんは丁度正太、お前ぐらいだよ。それが色々なことをして遊んでいるよ。弓で|いたち《ヽヽヽ》をうったり、竹トンボを空へ上げたり――国へ行ったら、何だか、そんなお爺さんが、まだ遊んでいるような気がするよ。」
「うそだ。」
「いや、うそでないよ。考えてごらん。今、正太はこんな家に住んで、こんな着物を着て、こんなものを持って遊んでいるだろう。」
お爺さんはそう言った時、正太の丁度持っていた自動車の玩具《おもちや》をとりあげて正太に見せました。それからまた話し出しました。
「それがそっくりそのまま、この今の正太お前まで戸棚の中にしまって置けて、お前が大きくなった時とり出してこられたら、え、どんなに面白いことだろう。まあ、今だってさ。お母さんの乳をのんだ頃のお前を今ここに取り出して見れるものだったら、え、面白いと思わないか。――何だい。こんなにちっぽけなのか。まだ乳をのんでやがらあ、そんなことを言うだろうなあ。」
「フーン。」
はじめて分ったらしく、正太はこう言ってにっこりしました。
「だからさ、お爺さんはそれをやろうと思って、|くに《ヽヽ》の樫の樹の下に、小さい頃、色々のものを埋めたんだ。下駄や帽子や小刀や笛や、コマなんかも埋めたよ。それから池から捕って来た蟹《かに》なんかまで入れたんだ。それに銀杏《いちよう》の種、朝顔の種、何から何まで入れたんだ。」
「今でも生きてる、その蟹。」
正太がききました。
「そりあ死んでるさ。だけど、お爺さんには|くに《ヽヽ》へ行けば、その穴から色々なものが、いや、小さい頃のお爺さんまで出て来るように思われる。いいや、あの樹のところには今でも出て来て遊んでいるように思われる。」
「行ってみればいいじゃあないか。」
「ウン、行ってみよう。」
「ほんとに。」
「ほんとにさ。お爺さんも、にわかに行きたくなって来た。」
これを聞いて、正太がどんなに喜んだことでしょう。
「僕も一しょにね。一しょにね。」と、よくお爺さんに頼みました。ところで、お爺さんは|くに《ヽヽ》を出てから四十年にもなりますのに、今まで一度も|くに《ヽヽ》へ行ったことがありませんでした。
それで、にわかに思いたって、小さい頃の自分の家を見るために、それからまた、夢に見たあの樫の樹の根元を掘ってみるために、正太をつれて、間もなく|くに《ヽヽ》へと立ちました。
四
お爺さんの|くに《ヽヽ》は何日《いくか》も汽車に乗って行く、遠い遠い野原のかなたの方にありました。もっとも昔は野原であった|くに《ヽヽ》の村も、今では大へんにぎやかな町になっていると聞いておりました。
しかし、いよいよ楽しみにして来た|くに《ヽヽ》の町へついてみますと、もうどこもかしこも変ってしまって、お爺さんの家どころか、村のあったところさえ分りません。そこら一面が大きな大きな工場と、たくさんの人や自動車が、道を横ぎる暇もないほど往来している大きな町になってしまっていました。
それでも、せっかく来たのだからと、お爺さんは町の役場に行って、昔の家をさがしてもらいました。ところがどうでしょう。あの樫の樹のあった家のところには大きな大きな紡績の工場が出来ていました。それは何千人というたくさんの職工のいる会社で、コンクリート造りの工場は何町四方ともいうような大きなものでした。
その中ではガチャガチャと話し声も聞えないほど、たくさんの機械の音がしておりました。
それに空にそびえて、突き立っている大煙突からは黒雲のような恐ろしい煙が吐き出されておりました。このとき、
「お爺さん――。」
と、正太が心細そうな顔をしました。すると、お爺さんは、
「いいや、これはところがちがってるんだ、どこかに、きっとあの樫の樹はあるにちがいないんだ。」
と、言いました。けれども、とうとう分らなくて、二人はまた自分の家に帰って来ました。
それから幾年か後のこと、正太は樫の樹の下を掘っておりました。正太もそこへ色々のものを埋めて置こうというのであります。が、正太がお爺さんになる頃には、この正太の家もどんなところと変っていることでありましょう。何分お爺さんの小さい頃は紡績さえもなかったのですが、正太がお爺さんになる頃には、飛行機の工場でも出来るでしょうか。けれども、そんなこともなくて、正太がその埋めたものを、また掘り出して、
「何だ、こんなもので遊んでいたのか。」と、自分の小さい頃を面白がって思い出すことが出来るようでしたら、正太もどんなに幸福なことでありましょう。
けれども、世の中というものは変りやすいものですから、ほんとうにどうなるか、それは分ったものではありません。
小川の葦《あし》
明治のつい前までは、方々に、まだ天狗《てんぐ》や河童《かつぱ》というものがおりました。野原では、狐の嫁入りなんかも見られました。だからそのころは、面白い話がたくさんありました。でも、私は今そんな話をするのではありません。その頃小川の岸に生えていた一むらのあしの話をいたしましょう。
岡山に近く、草深い野原の中に、小さい村がありました。村のかたわらを一すじの川が流れておりました。その岸に一むらの|あし《ヽヽ》が、二十坪くらい、そばのたんぼの方へかけて、まんまるく生え茂っていました。白い茎の上に、穂をまるで小旗のようにおし立てて、いつも一ように風に吹かれておりました。
他の|あし《ヽヽ》はみなきれいに刈り取られるのに、ここの|あし《ヽヽ》ばかりは、誰一人鎌を入れるものがありません。またたんぼの二十坪といえば、そこからは二斗近いお米がとれるのでしたが、お百姓はそこに稲を植えるのでもありませんでした。これは一体どうしたことでしょう。それがこの話です。
その頃から何十年という昔のこと、刀を二本も腰にさした武士が道を歩いていた頃のことでした。この村に庄屋甚七というおじいさんがいました。このおじいさんには、太一という孫がありました。太一はお父さんもお母さんもない子供でした。
ある日のこと、太一は村の子供を集めて、土蔵のそばでネッキをして遊んでいました。ネッキというのは、一尺くらいの棒の先をとがらせ、それを地にかいた輪の中に投げつけて、そこに突立っている相手の棒を倒し、そして自分の棒を突き立てるという遊びであります。だが、一時間もそうやっていると、いつでも、棒が倒れたの倒れないのという言い合いが持ち上って来るのでした。そしてその次が「負けたろう。」「負けるかい。」という喧嘩《けんか》になり、そのすえがなぐり合いになって、どっちかがアーンアーンでおしまいになるのでした。
今日もちょうど、そのなぐり合いのところまで来たときのことでした。
「やッ、ありゃ何なら? ヒョンなものがあるぜ、ヒョンな。」
ふざけものの佐平が、こんなことを言うので、みんな喧嘩など忘れて、佐平の指さす方をながめました。納屋ののき下に、みの笠に頬かむりという七つ八つのかがしが、みんな弓をもって、ずらりとならべてありました。
「はッはははははは。」
みんなはもう腹をかかえて笑いました。
「おい、ええことをして遊ばんか。」
佐平がすぐ言い出しました。
「あのかがしをのう、一つ土蔵の前に立てるんじぁ。それからあの弓をとって、みんなで、こちらからねらって射るんじぁ。一番あてたものが、あの柿をとるんじぁ。」
佐平が見上げたところには、柿が鈴なりにぶら下っておりました。
「うんうんうん。」
みんながうなずいて、にこにこしました。さっそく立てられた一つのかがしに向って、こちらは一列になって弓をかまえました。みんな色々にしてねらいをさだめました。ぴょんぴょんと矢が飛びました。しかし何分弓も矢も同じような丸竹で、その上|弦《つる》が太い縄ですから、三四間のところでも矢がとどきません。
「だめじゃあ、この矢は。ええ矢はないんか。」
実は、ええ矢は納屋の中にありました。あしすだれにするあしがたくさん束にして、積んでありました。
「おい、太一さん、あれを取って来い。」
「うーん、あれはおじいさんに叱られらあ。」
「ええが、十本や二十本、わかるもんか。」
それでも太一がぐずぐずしていますと、
「叱られたら、なんぼでも、たんぼから取って来て返したらあ。」
みんなにこんなことを言われて、不承不承に太一は納屋のあしを一束とって来ました。弦には、太い凧糸《たこいと》を持ち出しました。それから盛んな弓合戦がはじまりました。矢がまるで秋の田を飛ぶ|いなご《ヽヽヽ》のように、かがしに向って飛びました。
「那須の与一でござる。」というものもあれば、
「三十三間堂の通し矢でござる。」と、おかしな身ぶりをして、矢つぎ早に射るものもありました。見る間に一束のあしはうちつくして、かがしの|みの《ヽヽ》や笠にたくさんの矢が突き立ちました。下に乱れてかさなり合ったあしは、どんなにはげしい戦争があったんだろうかと思われるようでありました。だから、子供等もしばらく、
「はげしかったのう。」と感心してながめたくらいでした。が、すぐ、
「もう一ぺんやろうえい。」と佐平が、また言い出しました。
「やろうやろう。」
みんなは思うつぼだったのです。けれども、太一だけはむつかしい顔をして、そんな話は耳に入らないらしく、一心に弓をひくまねをしておりました。おじいさんに叱られることが、にわかに心配になり出したのです。そのとき、みんながあまりげらげら笑うので、ふと納屋の方を見ますと、いたずらものの佐平が抜足|指足《さしあし》で、納屋の戸口をうかがっています。どろぼうのまねをして、あしをねらっているところです。思わず太一もにっこりしました。するとこのとき、
「こりゃッ。」という大きな声が、みんなのうしろでいたしました。とびあがるように、びっくりして後ろを向くと、おじいさんの庄屋甚七が、一本の刀をさして大口をあけて、どなり立てておりました。
「おのれは、おのれは、何をしくさるんじゃあ。大事なあしをむだにしやがって。みんなでもと通り刈ってくるならよし。来ぬのなら、一本残らずみんなの手を引き抜くぞ。」
みんな真青になってしまいました。一番大きい善六が、それでもふるえ声で、やっとこう|ことわり《ヽヽヽヽ》をいたしました。
「刈って来ますから、こらえてつかあさい。」
「うん、早く刈って来い。」
そこで、みんなは、ぞろぞろ太一の家を出ましたが、少し行くと、善六は腹を立てて言いました。
「佐平があんなことをしようというからじゃ。」
「わしが言うか。|あし《ヽヽ》を矢にしたのはお前じゃないか。」
二人のなすくり合いがはじまりました。それについて、ほかのものも、佐平だ、善六だと、言い合いました。すると佐平が腹を立てて、
「そんなに言うのなら、わしゃもうあしを刈らん。」と言いだしました。すると、こんどは善六が、
「佐平が刈らんのなら、わしも刈らん。」と言い出しました。
それにつづいて、わしも、わしもと、誰一人刈るものがなくなりました。だが、太一一人はどうしたらいいのでしょう。刈らないで家に帰れば、おじいさんに手をぬかれます。
「のう、刈っておくれよ。」
そこで、みんなにたのんでみました。
「それでも、みんな刈らんのじゃもの。」
みんなが、そんなことを言って、そろそろと後すさりをして、少し離れると、くるりと後ろに向き、それなりばたばたッと駆けて行ってしまいました。そこで太一は一人ぼろぼろと涙を流し流し、風の吹くたんぼ道を、あしをさがして行きました。
さてその晩のこと、太一はいつまでたっても帰りません。村中大さわぎになって、狐に化かされたんだろうというので、太鼓を鳴らしてさがしに出ました。
「返せい、もどせい、あずき餅を三つやろう――。」
と大きな声をして呼びまわりました。けれども、どうしても太一は出て来ません。
翌日の朝になって、やっと、川のふちのあしの中で、小さい下駄の片方だけが見つかりました。では太一は狐に化かされたのでしょうか。河童にとられたのでしょうか。いいえ、その川の川下の方に、一束のあしをかたく握りしめて、あしの根もとに流れついておりました。
これを知ったおじいさんは、どんなに太一をかあいそうに思ったことでしょう。すぐその下駄の落ちていたあしのところのたんぼを買いとって、そのあしを大切にいたしました。茂り放題に茂らせて決して鎌を入れなかったのです。
やがてそれは、村一番のいいあしになって、みんなに太一のあし場と言われました。それから永い年月がたって、そのたんぼは何度も持主がかわりましたけれども、みな|あし《ヽヽ》を大切にして、たんぼの方へ茂るままにいたしました。それなら、今はもう|あし《ヽヽ》の大きな原っぱが出来ていることでしょう。が、それが、そういかなかったのです。山に天狗がいなくなり、野原に狐が出なくなると、世の中が大へん暮しにくいものになりました。
今の人には、もう一坪の土地だってむだに出来なくなったのです。そこでいつの間にか、その太一の|あし《ヽヽ》場もきれいに耕されて、一本の|あし《ヽヽ》も見られなくなってしまいました。それと一しょに、太一の話も一人だって覚えている人がなくなってしまいました。
雪という字
岡にも畑にも、一面に雪が降っていた。通る人もなくて、ドンヨリ曇った空が雪の原の上に垂れ下っていた。その原の上を一羽のからすが飛んでいた。疲れているのか低い空を飛んでは雪の上に下り、低い空を飛んでは下りしていた。
その原の一方に岡の上に雪を冠《かぶ》って二階の家が立っていた。その二階の窓を開けて一人の子供が顔をのぞけ、久しく外の景色を眺めていた。煙が土煙のような雲間をもれて、その時夕陽がかすかに子供の顔を照らした。子供は善太といった。
その晩、茶の間の明るい電燈の下で、善太の兄と姉とがいい合っていた。
「姉さん、山っていう字知ってるかい。」
「知ってるわ。そんな字なんか。やさしいじゃあないの。」
「それじゃあ、人って字知ってるかい。」
「猶《なお》やさしいじゃあないの。」
「ええと、それじゃあ――。」
善太の兄の正太は考え込んだ。彼は今小学校の二年で本字を習い始めたばかりである。と、善太が側から口を出した。
「兄チャン、雪っていう字知ってるかい。」
「ゆき?」
正太は一寸《ちよつと》返事につまった。
「そうれ、知らないだろう。」
善太が面白がってひやかした。
「じゃあ、善太知ってるかい。」
「知ってるさ。」
「こいつ、母さんに教わったな。」
「母さんなんかに教わるかい。」
「じゃあ、姉さんに教わったな。」
「だれにも教わらないよ。」
「教わらなくて解るかい。」
「それが解ったんだ、僕今日見たんだもの。」
善太は頭を振立てて大得意である。
「ヘッおかしな奴だなあ。見て解ったの。」
すると、善太がいうのである。
「僕ね、今日、二階の窓からのぞいてたんだよ。そうすると、外の原っぱに書いてあったよ、大きな字で、ゆきって。こんなに大きな字で。」
善太は両手を一杯に拡げて見せた。
「ホ、ホウ、こいつ旨くうそついてやがるなあ。そんなことあるかい。」
正太は信じなかった。
「ホントだよ。ホントなんだよ。」
善太は大真面目である。結局母に双方から訴えた。
「母さん、そんなことがあるかねえ。」
「あるねえ、母さん僕見たんだもの。」
「さあ――。」
お母さんは唯だニコニコしていた。そこで正太は勢いこんでいいだした。
「じゃあ、ゆきっていう字書いてみろ。」
「ウン、書いてみる。」
「ようし、書かなかったら承知しないから。」
正太は机の所に駆けつけ、紙と鉛筆をとって来た。
「ソラ!」
「書くとも、見たんだもの。」
ここまでは大変な元気だったが、さて紙に向ってみると、善太は頭を傾けた。
「えええと、うううん。」
しきりに鉛筆をなめ始めた。
「そうら、書けんじゃあないか。」
正太が側で口をとがらせた。
善太にはどうも不思議でならない。学校へあがらない彼であったが、今日の日暮れ、外の原っぱに実際ゆきという字を見たのである。真白な雪の野原、いや、少し薄ずみ色の雪の原に、大きな大きな字を見たのだ。その時、
「あ、これがゆきっていう字か。」
と、善太は思いさえしたのである。で、今でも忘れている訳ではない。目さえつぶれば、ハッキリ浮んでくる字なんだが――。
「早く書けよ。」
正太が急がしくいった。そこで善太は何度か鉛筆をなめ何度か頭を傾けた後、とにかく紙の上に恐る恐る横に一本筋を引いてみた。
「こうだったかなあ。」
そしてまた首を傾けた。
「馬鹿ッ。」
これを見ると、正太は善太をどなり付け、その紙を引きたくって駆けだした。
「母さん、善太はこれがゆきっていう字だって、今日原っぱに書いてあったんだって――。」
母さんも笑った。正太も笑った。姉さんも笑った。しかしその大笑いの中で、善太はどうしても、書いてあったといってきかない。
「じゃあ兄チャン、今でも二階から見て御覧。キット書いてあらあ。」
「よし、じゃあ、善太も来い。二人で見よう。」
「ウン、見よう。あ、姉さんも来てみて頂戴。」
「ええ、ホントウなのかしらん。」
こんなことをいいいい姉も立上った。
さて三人は二階に上って、原っぱに向いて窓を開けた。外は曇った空にぼんやり月がかかっていた。無言で三人は暫《しばら》く原を眺めた。薄ずみ色の夜霧の底に沈んだような雪の野原、果てしなく遠く人一人通っていない、何だかたよりない気持を起さす雪の野原。
「書いてない?」
善太が聞くのであった。が、姉も正太も字をさがす気にはなれなかった。外に広がる景色は恐ろしく、吹きいる風は寒い。
「ねえ?」
善太は二人の後ろから、尚も返事を迫るのであったが、
「もういいもういい。」
こういって、姉は戸をしめてしまった。
「おお寒い、おお寒い。」
こういって、三人は二階を駆け下りた。その後で、善太は雪という字を教わったけれども、うそだといって信じなかった。
母ちゃん
いく日もいく日もふっていた雨が、やっとあがりました。お日さまはうれしそうに、まっ黄いろになって、かんかんてっています。正太のお母さんはおせんたくでたいへんです。張物板を縁がわの戸袋にもたせかけて、そばに大きなたらいをおいて、ジャブジャブジャブジャブとシャボンの泡《あわ》を立ててあらっています。張物板からは湯気が立ちのぼっています。
正太は今日はあたらしいお靴をはかせてもらったのでとてもうれしいのです。
「母ちゃん。」と言い言い、そのへんをよちよち歩いてはたちどまり歩いてはたちどまりしています。
「なアに、正ちゃん。」
「あんあんあん。」
正太は足を、けるように上げてお靴のさきを見て、それからお母さんの方を見て、そしてお母さんのまわりをくるくる廻ってみます。
「母ちゃん、ぼくの足、よろこんでるの。」
「そう、足もよろこんでるの。」
正太はもう少し遠くへ歩いていきたくなって三四間、門の方へよちよちといきましたが、ふと気になって立止りました。
「母ちゃんは? いる。いる。」そこでまた三四間よちよちすすみました。母ちゃんは? いた。いた。ですが、よく見ると、母ちゃんをもうこんなに遠くはなれてしまいました。
「母ちゃアん。」と、さけんで、正太は小走りにもどって来ました。靴のことなぞはもう忘れて、ただ、お母さんだけを目あてに走りました。お母さんは両手をひろげて待っていました。正太はその手の中にとびこんで、お母さんの胸に顔をうずめて、ほッと、あんしんしました。
「母ちゃん。」と言い言いそっと顔を上げてみました。やはりお母さんです。正太のお母さんです。それでまた顔をうずめました。
「さあ、もういいの。」
お母さんにそういわれて、正太はまたかけ出しました。二間いってはふりかえり、三間いってはまたふりかえり、五間目にはかけもどって、お母さんにしっかりだきつきます。そして又かけ出しました。何てうれしいことでしょう。こんなに遠くへ来られるようになりました。こんなに遠くに来てもお母さんはどこへもいきません。でもお母さんがいなくなったら、たいへんです。用心しないではいられません。
「やっぱり、母ちゃんだ。」と、正太はかえって来るたびにそうおもいました。こうしてだんだんと正太は、お母さんからはなれても、お母さんがいなくなることはないと分りました。そこでだんだんに遠くへいき、しまいにはとうとう庭の一ばんはしっこにある鶏小屋のところまでかけていきました。そこは今まで正太が一人では行ったこともない遠いところです。
「母ちゃん。母ちゃん。」とよんでみました。遠くへ来たでしょうというばかりではありません。もし、あのおせんたくをしている人がお母ちゃんでなかったら、どうしようと思ったからです。が、やっぱりそれは正太の母さんでした。ああよかった。そんなら一つこの鶏小屋を廻ってやろう。正太は鶏小屋のかげにかくれました。それと一しょにお母さんが見えなくなりました。お母さんのいないところは何てさびしいんでしょう。お母さんにもう会えないのだったらどうしましょう。だってこうしてる間にお母さんはひょいと見えなくなってしまうかもしれません。正太のいけないところへいってしまうかも知れません。正太はうろたえました。どきんどきんと動《どう》きが打つような気がしました。引き返そうか。前へいこうか。やはり前へいきました。とり小屋のかげから出てみると、おお、いた、いた。お母さんがちゃんといました。
正太は心も身体もおどるようです。で、はねるようにかけ出して、お母さんの腕の中にとびこみました。うれしくてうれしくてからだ中をゆすってわらいました。もうだいじょうぶです。お母さんはなかなかふいにいなくなってしまいはしません。そこでまた正太はかけだしました。また、鶏小屋を一とまわりしました。いるかしらん。いないかしらん。いた。いた。いた。またもどって、お母さんにだきつきました。
「母ちゃん、いたのね。」
お母さんは笑いました。
「いるわよ。お母さんは、どこへもいきやしませんよ。」
「ほんとう。」
「ほんとうですとも。」
「ぼくが大きくなっても。」
「ええええ。正ちゃんをおいて、どこへいくもんですか。」
「ぼく、お父さんのようになっても。」
「ええええ。」
それを聞いて、正太はすっかり安神《あんしん》して、おちついてそこいらであそびはじめました。しかし少したつと、お母さんのそばへ来て、目をつぶりました。目をつぶっている間に、お母さんがいなくなるかどうかを試すつもりなのです。永く永くつぶっていようと思いましたが、でも心配になって、そうっと細目にあけました。いた、いた。正太は口の内で言って、またしっかり目をつぶりました。正太は、これでいよいよお母さんがいなくなりはしないのを知って、お午ごろまで一人でかけまわってあそびました。
それから後も、正太はお母さんのそばでよく目をつぶっては、ためしてみました。そしてそれが正太が学校へいくころまでのいつものくせになりました。
熊
「みんなお聞き。」
晩の御飯の時にお父さんがいいました。
「今日アメリカの叔父《おじ》さんから手紙が来たんだ。来年になったらいよいよ日本へ帰って来るって、それで、みんなに、どんなお土産を買って行こうかって――。」
これを聞くと、善人も富士子も、圭介も、御茶碗を口の側にくっつけながら、みんな一度にニコニコしました。
「何がいいだろう。」
まず善人が茶碗を置いていいました。しかし富士子も圭介もニコニコしているばかりで、中々何ともいいません。
「富士チャン何にする?」
「わたし――。」
茶碗を置いたが、富士子はいつ迄もニコニコしております。
「早くいいなさい。」
「わたし? いいもんよ。」
「いいもんて、何だい?」
「いいもん。」
「じゃあ、圭介何だい。」
「僕? 何にしようかな。」
圭介は頭を傾《かし》げました。
「ウン、そうだ。僕、オートバイだ。子供のオートバイだ。あ、違う違う。オートバイは止《よ》しだ。僕、飛行機だ。子供の飛行機だ。乗れる奴だ。僕それに、乗って飛ぶんだ。僕んちの屋根から学校の方へぶーんって飛んで行くんだ。面白いぞう。」
圭介はもう一人で面白がって、手真似で飛行機の飛ぶ恰好《かつこう》などをやりました。
「馬鹿ッ。」
兄さんがこれを見ると、こう叱りつけました。
「圭介に飛行機なんか乗れるかい。」
「乗れるよ。子供のだもの。だって、島田の忠ちゃんがいったんだもの。」
「馬鹿っ。そんな子供飛行機なんてありゃしないよ。」
「ないの!」
圭介は目を見張って暫《しばら》く考え込みました。その間に兄チャンは富士子にたずね出しました。
「わたし?」
富士子は富士子で、また色々なものが頭に浮んで、どれがいいんだか、全く困ってしまいました。
「だって、お人形がいいのはいいんだけれど――綺麗な鋏《はさみ》もいるでしょう。それに靴だって、それから美しい手箱だって欲しいんだもの。」
「駄目だ。一つでなくちあ駄目だ。ねえ、お父さん、そうでしょう。三つも四つもいっちゃ、叔父さんに怒られちまうでしょう。」
お父さんは笑っていました。そこでとにかくその晩はみんなで考え明日の朝何か一つ定めて、兄チャンから叔父さんへ手紙を書くことにきまりました。
さて翌日の朝、みんなが御飯を食べておりますと、寝坊をした圭介が床の中から大きな声で呼びかけました。
「兄チャン、僕ぁ熊だあ! 熊にする、熊がいいんだッ。」
みんなは、一寸《ちよつと》何のことだか分りませんでした。それで兄さんが聞きました。
「圭介、何を云ってるの。早く起きて御飯にしなさい。」
だけど、圭介は聞きません。大変な意気込みです。
「ウウン、熊だッ。熊でなくちあいやッ。熊でなかったら駄目だからあ。」
みんなは吹き出しました。
「何をいっているんだい。夢を見たんだろう。」
兄チャンが云いました。だが、圭介はききません。
「熊だよ、熊だよ、熊だよ。」
もう圭介は床の中で一人であばれております。そこで母さんが飛んで行きました。
「まあ、圭介は何をいってるの。さあ、起きなさい。母さんが顔をふいたげますから。今朝はあんたの好きなお卵があるんだよ。」
母さんは圭介を抱き起すようにしました。しかし圭介は、それでもききません。
「熊でなくちあいや、僕、熊でなくちあいや。」
しきりに頭を振っております。
「よしよしよし。じゃあ熊にしたげますよ。熊にしたげたらいいでしょう。さ、さー。」
お母さんは熊がアメリカの叔父さんのお土産とも分らず、とにかく熊々とやかましく云うもんで、こんな返事をしてしまいました。するともうニコニコして、圭介は食事にやって来ました。
「ヘン――、僕なんか熊だあ。いいなあ、熊に乗ってその辺を歩くんだ。兄チャンなんか、一遍に食べられてしまうよ。わあーッていってかかって行くから――。」
こんなことを云って、兄チャンにかかって行く真似をしました。
「馬鹿ッ、おつゆがこぼれるじゃあないか。」
兄チャンに叱られても、圭介は大機嫌です。これでもまだみんなは圭介が昨晩中遅く迄考えぬいて、金太郎の話から思いついた熊――叔父さんのお土産とは気がつきませんでした。それで、
「圭介は馬鹿な奴だなあ。」
そんなことをいいながら御飯を食べていました。すると、圭介が聞きました。
「兄チャン、いつ手紙書くの。」
「手紙って?」
「アメリカのおじさんじゃあないか。」
「ウン、あれか、直ぐ書くよ。」
「フン。」
そういうと、圭介はまた嬉しそうにニコニコしました。
「僕なんか熊だ。いいなあ。お父さん、早く熊のお家造って頂戴。」
「ウン? 熊?」
これを聞いて、お父さんのみならず、みんなビックリしてしまいました。しかし圭介は大得意です。
「ウン、熊、僕、おさかななんか釣って来てやるんだ。お父さん、熊は何を食べるでしょう。」
みんな顔を見合せましたが、今さら何といいようもありません。
「ウン、熊だと、何でも食べるね。牛だって馬だって。」
「|はや《ヽヽ》だの、鮒《ふな》だのは。」
「そりゃ食べるよ。」
これを聞くと、圭介は大喜びで、直ぐ鮒釣りに行く仕度にかかりました。
「僕なんか熊だ! 姉さんなんか人形だろう。人形なんか直ぐ熊が食べてしまうから。」
そう云うと、圭介は四つ這《ば》いになり、
「ウオー、ウオー。」
と熊の鳴声をして、姉さんの富士子や、兄さんの善人の方へ頭を振り振り恐ろしい顔をして這って行きました。
異人屋敷
幼いころ、私たちは西洋人のことを異人とよんでいました。私たちの村には女の異人が住んでいました。
その異人の犬は胴が細くて、足がとても長かったのです。毛はラシャのようで、黒いのも、茶褐色のも、ようかん色のもありました。黒いのはピカピカ光っていて、海軍の軍人が着ている外套《がいとう》の軍艦ラシャというのにそっくりでした。だからとても|えらく《ヽヽヽ》見えました。もしかしたら、異人の海軍の軍人があの女の異人に魔法を使われて、犬になって、駆けているのではないかと、一人で思ったりしました。
茶褐色の奴は年よりじみていました。きっと異人の年よりが、あんな犬にされたのです。眼だって、異人のような青い眼をしています。古ぼけた異人帽をかぶせたら、年よりの異人になって、杖《つえ》をついて歩き出すかも知れません。
ようかん色のはとてもよく走る奴です。いつもどんどん駆けていました。あっちへ駆け、こっちへ駆け、方々の土の中に鼻を突っこみくの字のように、8の字のように、からだをひねって、それはいそがしく駆け廻っていました。
これは狼《おおかみ》が犬になったのだと、私は考えました。第一、こいつは私たちを見ると、一番さきに駆け寄って来るのです。そして黙って一二間先に立止り、そこから鼻を突き出して、フンフン言い言い側に寄って来るのです。ほえも、うなりもしませんが、それでもとても恐かったのです。
異人屋敷は周囲がトタン塀《べい》で囲ってありました。そしてその外に大きなポプラの木が茂っていました。その塀に私たちはよく小便をひっかけました。だって、バリバリという音が面白かったのですもの。すると、じき、ようかん犬がやって来て、塀の下から長い頭をのぞけます。足をくいつかれるかと思って、びっくりして、私は飛びのきました。
すると、犬の方でもびっくりして、頭を引っこめようとしましたが、今度は頭がトタンに引っかかって引っこめなくなってしまいました。
私たちは二間も離れて、それを眺めておりました。犬はあせって、頭を右に向け、左に向け、眼を白黒させていましたが、そのうちに、私たちがワナにかけたとでも思ったのでしょうか。首を斜め上に向けて、ギャッというような声を出すと、大きな口を開けて、上のトタンに噛《か》みつきました。白い歯が鋸《のこぎり》の歯のようにギザギザに列んだ、それは、ものすごい口でした。それからは私たちは、その犬を狼々と呼んで、みんなで恐がりました。
こんな犬が走り廻っているのですから、異人屋敷はそれは不気味なところだったのです。
異人の家は小高い壇の上にありました。その下に広い芝生があって、その中に大きな花畑がありました。色々な花がさいていました。紅い小さなコップ型の花や、小指ほどしかない白い百合や、実がつるつる坊主のようになる気味の悪い草などと、何十という種類があって一々覚えていることは出来ません。鮮やかな色をした、黄色や、紫や、白や、紅やの花が、一色ずつかためて植えてあります。それぞれ美しい一枚ずつの色紙を見るように思えました。
屋敷の外を通ると、風につれてとてもいい匂いがして来るので、みんな鼻をふんふん言わせたり、息を深く吸いこんだりしました。そのうちにだれかしら、異人はその花から薬をとるんだと言いはじめました。
「この花、ジキタリスと言います。心臓の薬とれます。死ぬ人、この葉で生きかえります。この円い実、これから出る乳から、モルヒネという薬とれます。眠り薬。だれでも飲むと眠ります。」
異人がこんなことを言ったというのです。それから私たちはこの花畑をも恐がり出しました。鮮やかだった花の色も、毒々しい色に見えて来ました。いい匂いも気味の悪い匂いになりました。それが匂って来るときには鼻をおさえて駆け通りました。匂いをかいだので眠くなりはしまいかと心配したり、眼がまいそうになったといって困ったりするものもありました。
異人は顔のぐるりに真白なかぶりものをしておりました。ちょうど白いものの中から顔をのぞけているような形です。そして体には真黒なふわふわしたものを着ていました。見れば見るほど、私たちには魔法使いのようにしか思えませんでした。
それに首から、金のピカピカ光ってる鎖を下げ、その先から、これもピカピカの十の字の形の金具を胸の上につるしていました。これが魔法使いの|しるし《ヽヽヽ》のように思われました。
ある日のことでした。私は三四人の友だちと一しょに、異人屋敷へ遊びにいきました。そこの料理人になって来た人の子供が私たちの学校へ新しく入って来たのです。それが異人屋敷を見せてやろうというので、恐々《こわごわ》ついていきました。
門から見ると、異人は花畑の真中で、高いいすに腰をかけていました。側には高い机があって、その上に木の枝でつくった止り木にとまったハトのような鳥が置いてありました。でもハトとはちがい長い頸《くび》のところの羽根が紫色に光っており、あとは黄色や赤や黒色の斑《まだら》になっていました。はじめ、じっとして動かなかったので、私はこれを造った玩具《おもちや》の鳥かと思いました。
ところが異人が人さし指を立てて鳥の前へ出し、何かペチャクチャ言い出すと、その鳥は首を傾げ傾げしはじめました。
それを見て私は、もしかしたらこれは動く玩具ではないかと思いました。けれども、異人が話を終ると、今度は鳥が、分らない異人の言葉でいろんなことを言いはじめたのにはおどろきました。鳥が一しきり話すと、異人がまた何か言いました。今度鳥が何かを言うと、異人はほほほと笑って、机の上の綺麗なふた物に手をかけました。鳥はそれを見るとフワリと止り木から机の上へ下りて、ふた物の側へ来て大きく口を開けました。
異人はまたほほほほと笑って、ふた物の中から円いものをつまみ出して、鳥の口に入れてやりました。鳥は首を上げ下げしてそれをのみこむと、また大きく口を開けました。異人はまた一つ円い餌《えさ》を入れてやりました。そしてふた物へふたをしました。
でも鳥はいつまでもそのまま立っていて、口ばしでふたをつッついたり、足で引っかいてみたりしながら、不思議そうに首を傾げていました。
それから異人は机の上から小形な本をとって片手にもって、しばらく読んでいましたが、いつまでも鳥がふた物をつッつくので、鳥を見て、何か叱るようなことを言いました。
すると、鳥はその意味が分ったのでしょう。ピョンと止り木の上へ飛び上り、その上をあちこちと歩き廻りながら、異人の言葉で、分らないことを、くりかえしくりかえし言い散らしました。異人は、もうそれにかまわず、一心に本に見入っていました。そのときになって、私たちはやっと気がついたように、
「何て鳥だろう。」と、言い合いました。料理人の子の話では、九官鳥って言うんだそうでした。
また或るとき、私たちは異人屋敷へいって、異人から二三間も離れて立っていました。異人は芝生にいすを出して腰をかけていました。そしてみんなに向って何かしきりに話しかけました。みんなは分らないので、たがいに顔を見合せて、
「何だい。」
「何言っているんだい。」
「え?」
と、こそこそ言い合いました。すると、料理人の子が、
「うん、分った。」と言って駆けだしました。みんなも、それについて駆け出そうとしますと、
「そこに待っているんだよう。」と、その子が言ったので、仕方なくそこに立っていました。でも、異人が、また何か言やアしないか、恐いことにでもなったらなお困るしと、みんな心細い気がしました。中には異人の方へ背中を向けて花畑を見るような|ふり《ヽヽ》をするものもありました。
少したつと、料理人の子は帰って来ました。見ると、カバンのような、箱のようなものをさげています。異人はそれを受けとると、にっこりして何か言いました。それが何だか「キュウ・キュウ。」というように聞えたので、みんなクックッと笑いました。後で料理人の子に聞いたら、それは、ありがとうッて言ったんだというので、みんなの間で、キュウキュウッていう言葉がはやりました。サンク、ユウっていう言葉のクユウばかりを聞きかじったのです。
異人は料理人の子が持って来た箱を開きはじめました。みんなは何が出るかと、だんだんに側へよっていきました。金ちゃんという子は、みんなをおしのけて、前へ前へと出るので、高さんという子が後ろから、とっと、おして「ほらあ。」と、おどかしました。金ちゃんはびっくりして思わず「キャッ。」と大声を出しました。それから二人は、小さい声で喧嘩《けんか》をしたりしました。
そのうちに箱が開いて、中から不思議な機械が出て来ました。それは幻燈の機械よりももっと立派で、もっと入り組んでいました。異人は、それへ三本の木の脚をつけて、地べたへすえつけました。
「あれ、きっと遠眼鏡だよ。僕たちに星を見せてくれるんだよ。」
金ちゃんがこんなことを言いましたが、料理人の子に聞いてみると、それは写真をとる機械だったのです。
それを聞くと、みんなはもじもじし始めました。そのころは写真をうつすと、寿命がちぢまると言って、村ではだれもうつしたものはありません。異人が何か言うと料理人の子はみんなに列べ列べと言いました。
それで、もう仕方なく、みんなは不承不承に五人で一列に列びました。異人は機械をみんなの前にすえつけ、硝子《ガラス》玉の側へ来て、みんなの方をねらいました。玉はまるで水のようにすきとおっています。その奥は暗くなっているようです。私たちはへんに気味がわるくなって来ました。
それから異人は、箱の後ろへまわって黒い布をかぶり、越後獅子《えちごじし》のような、かっこうをして、私たちの方をねらいました。あたりが暗くなって来るようなきがしました。きっと異人は、あの中で頭に角を生やし、口を耳まで裂《さ》きひろげ、狼のように目をむいて私たちの方をねらっているのだと私はおもいました。
だって、そうでなければ、あんな黒い布の中へ顔や頭をかくさなくてもいいはずです。
でも間もなくカチリと音がしたとおもうと、異人は、にっこりして顔を出しました。私たちは、ほうっと、ため息をつきました。
雪がとけた春のはじめでした。ある日みんなで異人屋敷の側を通っていると中からオルガンの音が聞えて来ました。それで私たちは屋敷の中へ入っていきました。そのころは、いくらか異人にもなれて恐さも少し減っていました。
そこへ料理人の子がやって来ました。聞くと、今日は異人の家で礼拝があるんだというのです。異人たちがたくさん集まって、あの家の中でキリストを拝んでいるというのです。何のお祭だったのでしょう。屋根の上には異人の旗が高く上っていました。旗には、黄色と赤とで、不思議な絵がかいてあるようでした。それが風にあおられて、バタバタと音を立てていました。日は暖かく光ってその赤れんがの高い家全体に当っていました。地面からは湯気が煙のように立上り、その後から陽炎《かげろう》がユラユラと、炎のようにゆらいでいました。
「どんなお祭をしているんだろうな。」
などと話し話し、みんなで異人の家をながめていました。異人たちは家の中で分らない歌をうたっています。姿は見えなくても私には、何だか、その一人一人が烏のように思えて来ました。だってみな黒い、ふわりとした服を着ているのでしょう。そしてみな高い鼻をしているのでしょう。烏天狗《からすてんぐ》っていうのは、もしかしたら、あんなのかも知れないと考えたりしました。歌の声だって、人間らしくなく、まるで魔ものの声のようでした。
と、そのとき、じっと異人の家を見つめていた一人が、
「おい、見てみろ。見てみろ。異人の家がユラユラゆれるぞ。」と、言い出しました。みんなは目をとがらせて見つめました。と、どうでしょう。ぐるりに陽炎がもえているので家がユラユラゆれているように見えました。
「ゆれてる。ゆれてる。」
一人が、びっくりして言ったので、みんなも本気になって、いかにも不思議そうに顔を見合せました。家がゆれているのは、異人がお祈りをしているせいだと料理人の子が言いました。それでみんなは、また家を見つめました。異人の歌はいよいよ高くひびいて来ました。
私は夏休に親類へ泊りにいって、いく日かして帰って来ました。帰ってみると、異人屋敷が二三日前に火事で焼けたという話を聞きました。それで、その翌朝、すぐ屋敷へ駆けていきました。
門に立ってながめると、ほんとに家は焼けており、屋根も落ちて、れんがの壁だけが残って煙で真黒になっていました。なぜ焼あとを片づけないのでしょう。家のあった壇の上には色々のものが炭になって崩れ散ったり、高く盛り上ったりしていました。門も開いたままで、花畑なぞもめちゃめちゃにふみ荒されていました。私は恐くて中へははいれませんでした。ふと見ると、門の側のポプラの木の下にきれいな鳥の羽根が三本散らばって風でかすかに動いていました。あのものを言う鳥の羽根でしょう。私はそれを三本とも拾って駆けて帰りました。その後も異人屋敷はいつまでもそのままで、煤《すす》けたれんがの壁に、さびしい雨がふったりしていました。
笛
一
夜はふけていた。
何処《いずこ》ともなく激しい笛の音が起った。ピリピリ――。とても激しい呼子笛の音である。それは一つ処《ところ》で起ったと思うと、非常な速さで他の方へ移って行った。直ぐ側で高く響いたと思うと、もう遠くでかすかに鳴っていた。笛の音が高いせいか。夜が静かであったせいか。耳をすませば、十分も二十分も遠くかすかに、絶え絶えに聞えていた。どうしたのだ。何が起ったのか。人々は床の中で耳をそば立て、暗闇の中で眼を見開いた。後から起る事件を待っていた。しかし笛の音が聞えなくなった後は、四辺《あたり》は闇が深いばかりであった。それから何時間たったであろうか。暁方《あけがた》のことである。笛の音は近づいて来た。そしてまた元の方へ駆け去った。不思議な呼子。奇妙な警笛。
トラックの運転手に聞かせて貰ったこの探偵小説の一節が、とても深く善太の頭の中に残って、どうしてもこの呼子が買って貰いたくてならなくなった。人の寝静まった深夜、不思議な呼子を吹いてみたくて堪らなくなった。だから、それからの夜々、善太はよく眼がさめた。何だか微《かす》かに遠く呼子の音がきれぎれに聞えて来るような気がする。そこで闇の中に目を開き、枕から頭を上げて、じっと耳をすませたりした。やはり笛の音はしていない。すると、彼は口の中でピリピリ――と云ってみる。そして耳を傾ける。何度聞いても笛の音はしていない。で、やっと彼は枕に頭をつける。そんな時、もし側の三平が眼をさましているものなら、何時であろうと構わず、彼は三平に話しかける。
「三平チャン、何が欲しい? ウン?」
「何も欲しくない。」
夜ふけに三平何が欲しかろう。しかし善太は云うのである。
「ボク、笛が欲しいや。呼子笛だ、ピリピリ――って鳴るんだぞ。」
このピリピリが大きいもので、側のお母さんが驚いて目をさまし、
「何云ってるんだ。」
と叱りつける。
二
善太が学校から帰って、背嚢《はいのう》を机の上に置こうとすると、台所の方でピリピリと笛の音が聞えて来た。あれっと、背嚢を置く手をとめ、聞耳を立てると、
「中野、中野――。」
三平の声である。直ぐ台所に駆けてってみると、三平が台所の戸を電車の戸に見立てて、電車ゴッコをやっている。
まず右手を上げて、笛を吹く。ピリピリ。それから中に入って、戸をしめる。
「ガタン、シューッ、カタカタカタ。」
これで電車は発車したことになる。
「この電車は急行であります。東中野大久保は止りません。」
三平はもう車掌である。と、舞台は新宿乗場になっている。
「三番線に東京行きが参りまあす。」
拡声機が呼んでいる。
「シューッ、ガタン。」
電車は止った。台所の戸はゴロゴロ開く。
「新宿新宿。」
三平は呼ぶ。
「お早く願いまあす。」
そこで右手を上げて発車の合図。
「ピリピリ。」
中に入って、戸をしめる。
「ガタン、シュー。」
もう発車である。
「三平チャン。」
暫《しばら》く立って見ていてから善太が呼ぶ。しかし三平は忙しい。何しろ車掌なんだから電車が発車したら直ぐ呼ばなければならない。
「次は代々木であります。千駄ヶ谷信濃町は止りません。」
「三平チャン。」
「カタカタ、ゴー、カタカタ。」
「三平チャン。」
「ゴーゴー、カタカタ。」
三平は得意なのだ。仕方なく善太は戸の側に飛び下り、車掌の笛に手をかける。
「一寸《ちよつと》これ見せろい。」
「いやだい。」
三平は馬鹿に大きい声を立てる。
「見せたっていいじゃあないか。」
善太は喧嘩《けんか》腰である。自然笛にかけた手に力がはいる。
「お母さん――。」
三平が呼ぶ。
「見せろったら、見せろ。」
善太の声が高くなる。二人が争うので、台所の戸がガタガタ大きい音を立てる。
「まあ、何してるの。もう喧嘩?」
お母さんがやって来る。
「だって、だってさ。」
少しドモリの善太はこうなると、言葉がせき込んで来る。しかしお母さんには聞く迄もなく、事情はよく解っている。
「兄チャンもそんなにしなくたっていいじゃあないか。」
「ウン。」
それで善太がおとなしく手をはなす。
「三平チャンもおとなしく兄チャンに見せたげなさい。」
「だって、ボク、見せようと思ってる内、兄チャンとろうとするんだもん。」
三平が口をとがらす。
「いいから、さ、見せたげなさい。」
「ホラ。」
三平が笛持つ手を善太の前に突き出す。
「いいやい。そんな笛なんかいいや。」
今更見られないいきさつだ。そこで善太は勇ましく机の処に帰って来る。すると、三平はまた笛を吹いて始めた。聞いてると、何と面白く電車の進行することだろう。まるで自分も電車の中に居るようだ。見る間に中野から東京駅に来てしまう。自由自在だ。
「ここで一休みでありまあす。」
そんなこと迄三平は云っている。これで善太はどうも落付けない。机の抽出しを掻《か》き廻した末、秘蔵の飛行機の絵葉書を五枚持って出かけて行く。
「三平チャン、これ、いらない。」
三平が顔をあげる。
「飛行機だぞ。五枚もあらあ。ブウブウっていってるんだ。愛国号だ。ウン、白鳩号だ。ブルブルっていってるんだ。」
これには興味を引かれ、三平は側に寄って来る。
「ね、こいつ爆弾機だぞ。バクダンを五つも積んでるんだ。いいだろう。ドカン、ドカンって落すんだ。この家なんか、木ッ葉|微塵《みじん》だ。」
これに三平はまいった。
「くれる?」
とおとなしく善太の顔をのぞき込む。
「ウン、あげらあ。五枚だぞ。」
善太はあっさり、その五枚の絵葉書を三平の前にさし出す。そうしておいて、三平に聞き始めた。
「その笛どうしたの? 買ったの、貰ったの。」
「ウン、今朝三河屋の小僧がくれたんだ。」
「フーン、一寸貸して。」
借りると、直ぐ口にあて、むさぼるように吹き始める。とても大きな音が出て、家中が笛の音で一杯になる。
「ああああやかましい。」
お母さんが堪え切れない。そこで善太は三平に提議する。
「三平チャン、ビワの木のところへ行こう。」
小さい声で云って、笛を喰わえたまま、ビワの木のところへ行き、そこでもう思いのままに吹き鳴らす。
「ピリピリ――。ピリピリ、ピリピリ――。」
いくら吹いても吹き足りない。吹く度に心が躍る。それなのに、三平は直ぐ側で今にも手を出しそうに待っている。それを見ると、いつ迄たってもやめられない。そこで三平に云う。
「三平チャン、明治のおカネいらない? あれ上げようか。」
明治のおカネというのは古い一銭銅貨である。
「ウン。」
と、云ったものの、三平は気のすすまない顔をしている。善太の真意が解らないのだ。
「大きいおカネだぞ。あれ三つ、いや、四つあげら。」
「ウン。」
「そしたら、この笛くれる?」
「いやだあ。」
「ウウン、五つ、五つあげら。」
「いや。」
「いやいやって、あれ五つありゃ、こんな笛なんか幾つだって買えるんだぞ。」
「ほんとう?」
「ほんとうとも。」
「じゃあいいや。」
善太は机の処へ駆けもどり、抽出しからありったけの五つの銅貨を握って、ビワの木の下へ駆けつける。何とその嬉しそうな顔。それに比べて、三平のつまらなそうな顔。しかし善太は兄さんだ。三平が返して欲しいという前に先手を打つ。
「三平ちゃん、この笛貸したげら、電車ゴッコして遊びなさい。」
これで三平はまた楽しそうに台所の戸をあけたりしめたりし始めた。こん度は善太もそれを聞いて心が楽しい。
三
その夜、善太は笛を握って、蒲団《ふとん》にもぐった。蒲団を頭から冠《かぶ》っていると、深夜のような心持がして、いつか聞かして貰った探偵小説そっくりの光景が感じられた――夜が更けていた。と、何処からともなく笛の音が起って来た――この笛の音を心の中に描くのであった。そして蒲団の中で笛を口にあて、ソロソロと吹いてみるのであった。ヒューヒューと心細い音がした。それでも誰か聞いてはいないかと、蒲団から首を出して、四辺《あたり》を見廻したが、誰も注意してないのを知ると、また首を引っこめ、ヒューヒューとやってみる。こうして楽しんでる内、いつの間にか眠ってしまった。
それから何時間たったか知らない。彼は床の上に跳ね起きた。キョロキョロ周囲を見廻した。じっと物音を聞きすました。首傾けて考えてみた。今、激しい笛の音がしたんだ。それも枕もとでしたようなんだが――でも、誰も寝しずまっているのを見ると、善太はまた蒲団にもぐり、笛を手にして眼をつぶった。眼をつぶったままヒューヒュー小さい音をさせ、それからまた眠ってしまった。
また何時間たったか解らない。善太は床の上に跳ね起きた。こん度は、
「誰だ。」
というお父さんの声を聞いた。
「善太かっ。」
「ウン?」
「今、笛吹いたろう。」
「ウン?」
「笛吹いたのはお前だろう。」
どうも吹いたようにも、吹かないようにも思えるのだが、
「笛鳴った?」
「ビックリするじゃあないか、早くねろよ。」
次に眼がさめた時には、善太は床の上に立っていた。部屋には電燈が明々とついていた。家中のものが起きているのだ。みな床の上に座って、善太の方を見ている。前にはお父さんが立って、善太の手から笛をとろうとしているのだ。どうしたことか、善太は泣いている。
「馬鹿めが、何度ビックリさしやがるんだ。」
お父さんは怒っている。
「ほんとに恐かった。私、何事が起ったのかと思った。まだ胸がドキドキしてるわ。」
お母さんだ。
「そうだ。眠りかけりゃピリピリと来るんだ。何度飛び起きたか。」
しかし善太はおとなしく笛をお父さんに渡し、直ぐ床の上に横になった。お父さんお母さんの恐かったという話を聞き聞き直ぐまた眠ってしまった。
朝、飯台の周囲は昨夜の笛の話で賑《にぎ》やかだ。
「ほんとに夜中の笛の音って、とても気味の悪いもんね。」
これはお母さん。そしてとうとう笛は取り上げられ、どこか、タンスの抽出しの中へでも投げ込まれたようである。
午後、善太は笛を楽しみにして、学校から帰って来た。玄関を開けると、大声で聞いた。
「お母さん、笛。」
「あれ? あれは見ると気味が悪くなるんで、向いのケンチャンにやっちゃったよ。」
「フン――。」
と、云ったものの、善太にはその日が面白くないものになってしまった。家の内も外も灰色で、退屈なものになってしまった。ボンヤリ立ってると、向いの内でもう賑やかに笛の音がしてるではないか。やっぱり電車ゴッコをやってんのだろうな。
「新宿、新宿。」
やってる。やってる。三平も行ってるのか。笑声が聞えて来る。聞けば聞く程、何てみんな楽しそうなんだろう。笛って、あんなに面白いものなんだ。
そこで何度か考え直した末、思い切って、善太は机の抽出しから一丁の小刀を取出し、それを持って、玄関の処へやって来た。機会があったら、その小刀と笛と取り換えっこしようというのである。が、ケンチャン達台所でやっていて、中々玄関へやって来ない。それに今向いでは面白さが頂点に達しているのだ。善太は敷居の上に腰をかけ、いつ迄も彼等の出て来るのを待っていた。
四
とうとう善太は笛を手に入れた。その代り惜しい小刀をケンチャンにやってしまった。それでその笛は飛行機の絵葉書五枚、明治のおカネ五つ、小刀一丁と取り換えっこしたことになった。そんなに大切なものと取り換えた笛なんだ。こん度こそ大切にしなければならない、めったに吹いたりなんか出来ることでない。ウカウカ持ってる処をお母さんなぞに見つかろうものなら、きっと、気味が悪いなぞ云われて、取り上げられてしまうに決っている。だから、こん度は机の抽出しの奥深く紙に包んでしまい込んでしまった。でも、折々人のいない時を見て、大急ぎで出しては眺め、口にあててそっと吹く真似をして、また直ぐ大急ぎでしまい込んだ。でも、しまい込むと直ぐまた見たくなり、見ると口にあてたくなり、口にあてると、吹きたくなり、ソロソロ息を入れていると、ついピリピリ――と鳴りそうになって来て、あわてて机の抽出しにしまい込まなければならなかった。何にしてもよく鳴る笛だ。
善太はビワの木の下に立っていた。手には笛を握っていた。善太は考える。この笛を思うさま吹くことが出来たらなあ。そしてビワの木を見上げて考える。あの上の葉の間に隠れて吹こうかしらん。そうだ。それはいい思いつきだ。
ピリピリと不思議な笛の音が起って来た。夜のことだ。みんなはビックリして外に出る。笛の鳴る方へ集まってくる。しかし何処で鳴ったのか解らない。
「何処だろう、何処だろう。」
と、ウロウロその辺をさがし廻る。すると、またピリピリと笛の音だ。
「この辺だったらしい。」
と、ビワの木の下へ集まって来る。しかし何処だか解らない。みんなはまた行ってしまう。と、また笛の音だ。激しい、長い、いつ迄も続く音だ。
考えてみるだけでも、善太は面白い。
五
善太はいいことを思いついた。電車だ。停留場だ。あそこでは乗場で車掌さんが笛を吹くと、ほんとうの電車が発車している。あの笛を善太が善太の笛でやってみたら――。車掌さんの吹く前、ピリピリと鳴らしてみたら――きっと電車はぽうっと出て行くに違いない。面白いぞ。でも、出るだろうか。出ないだろうか。だって同じ笛なんだもの、出ないってことないだろう。
「ピリピリ。」
おお、つい善太は自分の笛を吹いてしまった。机の前で、また笛を一人でいじっている時だった。善太は笛に長い紐《ひも》をつけていたのだ。
堪らなくなって、善太は笛につけた紐を首にかけると、笛を懐ろ深く挿《さ》し込んで、急いで家を駆け出した。停留場で車掌さんが笛吹く処を見てくるだけと、自分で自分に云い訳して停留場へ行く道を、駆けたり歩いたりしたのである。
停留場の乗場の前の柵の処にやって来ると、それに寄りかかって、線路のこちら側から、直ぐ前に着く電車を眺めていた。それは非常な勢いでシューッとつくと、間もなくポーッガタンとゆるやかに発車した。何度もそれを眺めた後、善太は車掌さんの真似を始めた。家で電車ゴッコするため、それをよく習っておかねばならない。車掌さんが手を上げる時は、善太も手を上げ、笛鳴らす時は、善太も口でピリピリをやった。どんなにそれが面白かったか。何度やっても飽きなかった。その内、笛を口に喰わえてみたくなって来た。そうだ。喰わえるだけだもの。鳴らしさえしなければ構わない。そこで笛を喰わえてやり始めた。とても面白い。ついニコニコしてしまうではないか。気がつけば、乗場の人がこちらを見てる。見て、ニコニコ笑っている。一寸恥ずかしいが、嬉しくもある。嬉しさに善太は得意になって来た。得意と共に大胆になって来た。思わず笛がピリピリ――と鳴った。何と華やかな音だろう。周囲が一時に明るくなったようだ。さあ始めるぞ。善太は本気で電車の来るのを待った。もう車掌さんになったような気がするんだ。
シューッと大変な勢いで電車がやって来た。電車は乗場の向う側へついた。だから善太の処から車掌さんがよく見える。善太は一生懸命にそれを見つめる。一寸でも見のがしてはならない。さあ、車掌さんが電車から出て来た。
「目白、目白。」
車掌さんは呼んで歩く。その間に乗る人が戸口に押合いをする。
「お早く願いまあす。」
乗る人が入ってしまうと、右手を上げる、笛を吹く、戸がしまる。善太も遅れてはならない。車掌さんにつれて、右手を上げる、笛を吹く。そして電車へ乗る代りに、善太は前の柵の上に足をかけて登り上る。それから電車が遠くなる迄見送っている。ところで、気がつくと、乗場にまた三四人の人が集まって善太の方を眺めている。善太が見ると、その人達声を上げて笑った。
「旨いぞ、少年車掌。」
その中の一人の大学生が声をかけた。と、丁度そこへ友達の宮田君がやって来た。そこで善太は益々愉快になり、二人で代る代る吹くことにした。宮田君は恐々《こわごわ》小さく笛を吹いたが、善太はとても大きな音で、それも長々と吹き鳴らした。
「今の電車、僕の笛で動いたんだよ。」
そんなことを云ったりした。だから善太はもう電車がつくと吹くのであった。何でも車掌さんが吹く前吹いて、自分の笛で電車を動かさなくては――。余り面白くて、電車を待つ間柵を叩いて歌を謡った。
ところで、その時善太は柵の横木の上に乗っかり、身体《からだ》を前に乗り出して、手を高く上げて笛を吹いていた。笛の音が小鳥のように空に舞い上っていた。すると、尻の処に障る手があるので、宮田君かと思って、片手でそれを払いのけた。だって大切な時なんだもの。と、こん度はそれが肩の所をがっしり掴《つか》んだ。振返ってみると、停車場の人ではないか。帽子に赤い筋が入ってる。
「何してる。」
強い調子でその人は云った。善太は顔から血が引いて行くように思った。それでどうしていいか解らず、柵から下りて下を向いて立っていた。身体が震えて来て、何も云わないのに、ドモリの口がモグモグした。
「黙っておれば、いつ迄だってやってるじゃあないか。電車に事故でも起きたらどうするんだ。」
その人は手を前へ突き出して、笛を寄こせという格好をした。が、善太は笛をシッカリ握った。
「笛を出すんだ。」
善太はいよいよシッカリ笛を握って、一生懸命下を向いていた。
「笛を出すんだよっ。」
ポロポロと善太の頬を涙が流れ落ちて来た。すると、暫《しばら》くそれを眺めた後、その人は云うのであった。
「ほんとに、仕方のない奴だ。先生に云いつけてやる。」
そしてそれなり彼方《むこう》へ歩いて行った。
「笛をとられなくてよかったねえ。」
暫くして宮田君が云うのであった。これに気持を引き立てられ、善太はそこをバタバタと駆け出した。ちらっと見た乗場の人の視線が善太には恥ずかしかったので、
「宮田君、早く行こう。」
と、宮田君を急がせた。
停留場を離れて、二人が歩き出した時、
「この笛君にやらあ。」
と、善太が云い出した。
「どうして?」
「ウン、僕、いらないや。」
善太は、駅の人が先生に云いつけると云ったのが恐くなった。それで笛を宮田君の手の中に握らせた。
別れる時、宮田君はもう笛を吹き――駆けて行くのであった。その音は善太が家に入る迄聞えていた。それから善太はしょんぼり机の前に立っていたが、いつ迄も宮田君の笛の音が聞えるような気がして、遠くに気をとられていた。
「人が持つと、あんなに面白いものが、自分が持つと、何でこんなに困ることばかり起るんだろう。」
そんなことが思われ、善太は不思議でならなかった。
六
善太が朝学校へ急ぐ途中、踏切の処へ行くと、あの通せん棒が下りて来た。その時、眼の前のレールの側に落ちている光ったものが眼についた。首を延ばして覗《のぞ》き込むと、笛だ。あの呼子なんだ。宮田君が落したんだろうか。いや、あれとは違う。よく見たいと思うけれども、その間にも誰かに拾われそうでならない。足を棒の下にさし入れ、手許《てもと》にかき寄せようかとも思ったが、踏切番のおじさんに叱られそうだ。それに足どころでは届かないようである。そこで一心に光った笛を見つめていた。その時側に自転車を引いた酒屋の小僧と、カバンをかけた中学生と、それから二三人の学生がいた。だから、善太は独《ひと》り言《ごと》を云ってみた。
「あの笛、僕んだ。」
でも、誰も何とも云わなかった。その時、丁度シューッと電車が通ったので、棒の上るのも待たず、下をくぐって、笛に手を延ばした。
「こらっ。」
踏切番のおじさんがどなった。でもよかった。笛をポケットにつっ込むと、踏切を駆けぬけた。駆けぬけると、笛がどんなに見たかったことだろう。しかし周囲に沢山人が通っているし、小学生だって幾人もいるんだから、
「あ、君、それ拾ったの? あ……。」
そんなことを云われても困るから、それなり学校へ来てしまった。学校へ来ると尚おそれを見る折がなく、いつもポケットの中で握りしめているばかりだった。でも、嬉しく楽しく、休み時間など誰とも遊ばないで、一人ポケットの笛をいじりながら、運動場の隅に立っていた。その時笑えそうでならなかった。
その日、家は引越すことになっていた。何処へ引越すのか知らなかったけれど、善太が帰る頃、お父さんの友達が来てトラックに荷と善太とお父さんと三平を乗せて行くことになっていた。
トラックに乗って笛を吹いたら、どんなに面白いだろう。善太は運転台に乗せて貰うんだ。発車の時にまず吹く。と、ゴトゴトと出て行く。曲り角が来たら、また吹く。と、そこは徐行ということになる。それからトラックのブウブウって云うあのラッパも鳴らさせて貰う。と、きっと道で友達に会う。その時はそれを二度も三度も鳴らしてやる。友達がビックリして見ると、そこには善太が乗っているということになる。みんな善太たちのトラックと思うかも知れない。友達が岸本君や末光君だったら、笛を吹いて止めて貰い、みんな善太の側へ乗せてやる。そうしてみんなで笛を吹いたり、ラッパを鳴らしたりして行くんだ。猛烈なスピードが出るといいな。それから道が随分遠いと尚おいいな。
こんなことを考えて、教室に入り、また運動場に出て、一時間二時間とうとう四時間の時間がたった。いよいよ終りの五時間目だ。教室に入って読本を出したが、先生の言葉も聞えず、眼の前の読本の字も見えず、唯だポケットで笛をシッカリ握りしめていた。その内、誰か後ろで立って、本を読み出した。そうだ! この間に――と善太は思った。だって朝踏切で拾ってから、もう四時間一度だって眼の前に持って来て見たことさえないんだもの。どんな笛だったか。宮田君にやったあの笛だろうか。宮田君に聞けば見なくたって解るんだけども、宮田君は今日欠席しているんだし、何だか笛の形を忘れてしまったような気さえするのだ。もしかしたら、笛でなかったかも知れないぞ。唯だのブリキの管だったらどうしよう。頭のとれた鳴らない笛だったらどうしよう。そう思うと、胸がドキドキするようだ。
でも、見ることにしよう。どうしても見ることにきめた。そこで一寸先生の方を上目で見て、ポケットから握った拳《こぶし》をさっと出す。それを膝の上に置いて考える。この中から何が出るだろう。パッと開いて、パッと閉《ふさ》ぐ。笛だ。やっぱり笛なんだ。光ってる。で、また開いて、閉ぐ。それから先生の方と、側の岸本君の方を横目で見る。誰一人こちらを見てるものはない。こん度はソロソロと開いて行く。
全く大きな笛だ。宮田君にやった笛なんかと比べものにならない笛だ。頭に円い環さえ付いている。掌の上でそっと転がしてみる。おお大変、も少しで落すところだった。そこでこん度はその頭を持って吹口を唇にあててみる。次に唇を押し入れる。こん度は歯で噛《か》んでみる。と、突然|焦《じ》れったくなって、カリカリ噛み砕きたいような気がして来た。でも、それを堪えて、そうっと息を吹き入れる。ほんの一寸、息が出てるか、出ていないくらい。だって、鳴ったら大変だ。吹く真似だけしてみるんだ。嬉しく、恐く、動悸《どうき》がして、身体がほてって来た。
ああ、恐かった。恐かった。笛が鳴ったような気がしたんだ。大急ぎで笛をポケットに突込み、手を膝に置き、読本を覗き込んだ。だけど、どうしても落付けない。ポケットに手が入れたくなる。外へ出してる手は何だか空っぽのような気がするんだもの。それで中に入れると、笛が握りたく、握ると出して見なければ、見ると唇にあてなければ、あてると、息がひとりでに出て来るんだ。
その出て来る息でソロソロと吹いている時だった。善太はハッとして周囲を見廻した。今、激しい笛の音が聞えたんだ。誰が吹いたんだろう。しかし大変なことになった。みんなの顔がみな善太の方に向いている。すると、吹かなかったように思うけれど、きっと笛が自分で鳴ったんだ。
「松山ッ。」
先生の厳しい声と顔だ。善太は直ぐ突立った。笛を持って先生の前へ行き、お辞儀をして、それを先生の机の上に置いた。
「先生、御免なさい。」
云おうと思ったけれど、ドモる善太はこんな時何も云えず唯だ黙ってお辞儀をした。そして帰りかけると、先生の手が後ろから善太の肩を掴んだ。その手に引き戻されて、善太は黒板の側へつれて行かれ、そこの壁の前に立たされた。
「さ、ここに立っていなさい。笛が吹きたかったら、幾らでも吹くがいい。」
先生は笛を取って来て、善太の手に握らせた。だけど、どうしてこんな処で笛が吹けよう。唯だ笛を持っていた。すると、先生はまた来て、笛を善太の口に喰わえさせた。
「さ、吹かないかっ。」
「もう致しませんから――。」
善太はそう云いたかったんだけれども、どもるばかりで、一口も云えなかった。仕方なく、笛を喰わえて、壁の前に立っていた。方々でクスクス笑うものがあった。でも一生懸命なので、そんなことは何でもなかった。しかしその内口が次第に疲れて来て、笛を喰わえている口角からタラタラよだれが垂れて来た。
それを拭こうとした時、もうよだれが床の上に落ちていた。
「あ、よだれを垂らした。」
こう云うものがあったので、みんなが一度にどっと笑った。それで善太はポロポロ涙が落ちて来た。それでも笛は口に喰わえていた。
永い時間だった。やっとベルが鳴った。善太はほうっと大息をついた。何でもいい、早く帰って、トラックに乗せて貰うんだ。みんながガヤガヤ帰る用意を始めたので、今に先生が「帰っていい」と云うだろうと思って、先生の顔を見つめていた。だけど、先生は何も云わない。
「れいっ!」
級長が号令をかけて、みんな廊下へ出はじめた。でもまだ先生は何も云わない。善太は次第に心細くなって来た。
「先生、僕んち今日引越しなんです。」
云いたかったんだけれど、やはりそれも云えずに、おどおどするばかりだった。
「松山は笛が吹き足りる迄立っていなさい。足りたら先生の処へ云って来なさい。」
そう云うと、善太が口をモグモグさせている間に、先生は出て行ってしまった。後には当番の連中が残った。だが、その連中誰一人善太に話しかけようとしない。知らない人間のような振りをしている。
善太は次第に顔がほてって来て、拭いても拭いても涙が止らない。早く帰らなければ、内は引越してしまうのだ。もう内の前にトラックが来てとまる頃だ。いや、荷物を積んでしまって、ゴトゴト機械が動き始めている頃だ。こうしておれない。善太は自動車の機械のように身体をゆすった。それから自動車が走り出すように、教員室の方へ走り出した。
あれっ、一寸の間と思ったのに、もう教員室には先生がいないのだ。そこで便所の方をうろついたり、方々の教室の前を駆け廻ってみたり、小使さんの部屋にも行ってみた。何処にもいない。
次第に気は焦って来る。家には貸家札がはられて、戸がしまったに違いないと考える。
「どうしたらいいだろう。帰っても行く処がなくなるぞ。」
その時善太は玄関の下駄箱の処へ立っていた。そこで身体をゆすりながら、あれやこれやと思い惑うていた。暫くそうしていると、もう堪らなくなったか、競争のようにスタートを切って、校門目がけて一直線に走り出した。校門を出るとそこであわててポケットから笛を取出し、大急ぎに口に押し込み、
「ピリピリ、ピリピリ、ピリピリ。」
と、息の続く限り吹き鳴らした。今朝からの喜び恐れ怒りを今笛の中に叫び入れた。何度も腰を折るようにし、顔を地につけるようにして吹きに吹いた。すると、気が一層むしゃくしゃして来て、笛を奥歯でカリカリ噛んだ。噛んでも、それが噛み砕けないと、手をあげて、それを力一杯アスファルトの上に投げつけた。何度投げつけても、笛がどうもならないので、靴でもって、力をこめて踏み付けた。それでも、笛が固いのを知ると、こん度はそれを拾って、家の方へ駆け出した。直ぐ電車の線路の処へやって来た。すると、善太は笛を持つ手を上げて、両足を拡げて踏んばり、手でも振り切るような勢いで、笛を線路の上に投げ付けた。笛は線路の石の上に当って跳ね上りそれから彼方《むこう》のレールとレールの間に落ちころがった。善太は立って見てみたが、笛はもうそれきり動かなかった。すると、こん度はそこへ電車が非常な勢いで走って来た。これを見ると、善太は何を思ったのか、その電車の前へ大声で叫びながら駆け込んだ。
「先生の馬鹿野郎っ。」
その声は少しもどもっていなかった。
お馬
もと庄屋をしていたお祖父《じい》さんは、その頃でもまだ頭に髷《まげ》を結っていました。断髪令と言って、髷を切って、今頃のみんなの頭のようにせよという規則が出来てから、十年も立っておりましたが、お祖父さんは昔のままの髷を頭の上に乗っけて、それを自慢にしていました。
お祖父さんは一風変った咳《せき》をしました。
「えっへえん――。」
とても物々しい咳き方なのですが、これがまた自慢の一つでした。でも、えへんはいいのですが、くしゃみと来たら、村中へ響くような大きなものでした。
「はっくしょうん――ん。」
初めは普通なのですが、終りのんを長く引張って、もう一つんをつけ加えるようなくしゃみでした。この咳き方や、くしゃみの仕方で、ライオンが一声で狐や兎をふるえさすように村のものみんなを恐れさせると思っていたのでありましょう。
お祖父さんは槍《やり》や刀が好きでした。床の間にはいつも鎧甲《よろいかぶと》が飾ってありました。そしてその側に、鹿の角の刀かけに刀が大小二振のせてありました。長押《なげし》には槍、長刀《なぎなた》、弓などがかけてありました。その下には昔の和鞍《わぐら》と言う、侍《さむらい》の使った鞍が台に乗せて飾ってありました。
その中に坐って、お祖父さんは煙草《たばこ》を吸っては、お茶を飲んでいました。そしてその合間合間に槍や刀の手入れをしていました。お祖父さんは刀を磨《と》ぐのがとても上手で、またその効能を言うことも大変なものでした。お祖父さんは煙草を煙管《きせる》で飲みました。煙管で灰吹きを叩く音がまた中々ぎょうぎょうしいものでした。その叩き方でお祖父さんのその日の機嫌が分るとみんなは言っていました。
お祖父さんが怒ると、それは大変でした。怒ることはめずらしく、一年に一度か二度のことでしたが、おこったとなると、きちんと坐って、側にちゃんと刀を置いていました。これまでまだ一度もそれを抜いたことはないのですが、それには誰でもまいってしまいました。あるとき、町から来た屋根職人が、酔っぱらって、お祖父さんの前へ出ました。そして、お祖父さんのやかましいことを知らないで、つい失礼なことを言いました。すると、お祖父さんは、「無礼ものッ。」と大声でどなって、直ぐ立膝《たてひざ》になり、側の刀を取り上げました。職人はびっくりして、わっと言って逃げていきました。だからもう、刀を側に置いている前へ呼び付けられるとなったら、誰でも始めから両手をついて丁寧にお詫《わ》びをしました。
お祖父さんには仲のいい友だちが一人ありました。それがまたおなじように頭に髷を残していました。その人はその頃馬の先生をしていました。もっとも馬の稽古《けいこ》をする人は他に誰もなくて、ただお祖父さんばかりの先生でした。それでも昔は殿様の馬の先生だったそうであります。
その人は月に何回か、お祖父さんのところへやって来ました。お祖父さんは馬を三頭も持っていました。それでその日になると、作男が二頭の馬をつなぐものへつなぎました。それは今頃の機械体操の金棒のような形をしていて、両側の柱に環がついていました。その環へ馬の手綱を結びました。馬には金銀の模様のついた和風の馬具を乗せました。鐙《あぶみ》などは昔の絵にある佐々木高綱や梶原景季《かじわらかげすえ》の使ったものと同じかっこうでした。
その馬へお祖父さんと馬の先生とが羽織|袴《はかま》で乗りました。手には竹の根で作った鞭《むち》をにぎっていました。
お祖父さんの屋敷の周囲へは広い道が造ってありました。そこを馬場に使っていたのです。道の両側には松が植わっていました。その間を二人の老人がぱっぱっぱっぱっと馬に乗って走りました。ぱっぱっというのは普通の馬の歩き方ではありません。馬に右の前後、左の前後と、片側の両足を一度に上げさせて歩かす歩き方です。これは昔、儀式のときに、殿様の前などでやった乗り方なのでしょうか。こうして乗ると、胸がい、尻がいなどという馬具の飾りがひらひらゆれ、轡《くつわ》がしゃんしゃんと、にぎやかな音を立てました。すると、馬の先生は根鞭で鞍下の革具を打ってはげしい音を立てました。ときには、はいよう、はいようと、とてもすごいかけ声をかけました。
村の子供たちはそんなときいつでも道の両側の松の木にのぼって、枝に鈴なりになって見物しました。それは、こんな二人の侍が馬に乗るのが面白いばかりではありません。お祖父さんは人が見物するのがとても好きでした。馬乗りがすむと、見物していた子供たちにおせんべいを幾枚かずつくれるのがきまりでした。
「おお、よく見てくれたなあ。また来て見てくれるんだぞ。」と、お祖父さんはとてもいい機嫌です。
お祖父さんの馬好きは五里も十里も遠くまで有名でした。馬の甚七さんと言えば、大人はだれでも知っていました。
お祖父さんは若い頃は特にお酒が好きでした。酔っぱらうと、冬でも夏でも真裸になりました。そして褌《ふんどし》一つに刀を一本さしこみました。それで鞍も置かない裸の馬に乗りました。そんなときは馬場などでなく、村の道を乗り廻しました。そして、「若いときからお馬にめして、手綱さばきのほどのよさ。」と、こんな歌を謡《うた》いました。あるとき、それは明治の前で、侍が刀をさして、道を歩いている頃のことだったそうです。お祖父さんは酔っぱらって、この裸の馬乗りをやっていました。春のことでしたが、お祖父さんが馬に乗っていく道の彼方に、一人の人が草の上に寝ころんでいました。
お祖父さんは、それも酒に酔うて寝ているのだろう、ぐらいに考えて、駆けていきました。側を通り過ぎるとき、よく見ると、それはどこかの侍でした。お祖父さんも名字帯刀を許されている庄屋の子でしたけれども、相手が侍ならば、馬から下りて、お辞儀をして通らなければなりません。しかしその侍は眠っているらしいし、馬は駆け足でかけているのですから、えい、かまうものかと思って、そのまま通り過ぎました。通り過ぎたかと思うと、後ろで大きな声がしました。
「こら、待てッ。」
後ろを振向くと、侍は起き上って、刀の柄《つか》に手をかけていました。お祖父さんは困ったことになったと思いましたが、馬は駆けつづけているので、ちぇッ、逃げろと思って、侍が大きな声でどなるのを、聞えないふりをして競馬のように馬を走らせて逃げてしまいました。
それから遠廻りをして家へ帰り、馬を廐《うまや》に入れ、轡を納屋に置こうとして、納屋に入りますと、後ろでまたさっきの侍の声がしました。有名な馬の甚七のことですから、逃げても侍は家を知っていました。そこで大変な勢いで追っかけて来たのでした。侍はもうそのときには刀をぬき放していました。
これを見ると、お祖父さんはその納屋の大きな戸を内からごろごろっと締めてしまいました。すると、追っかけて来た侍は目の前で戸がしまったので、その戸を蹴《け》ったり叩いたりしました。しかし大きな戸ですからびくともしません。侍は、しまいには気狂《きちが》いのように怒りたけって、何をというなり持っている刀をその戸の板へぐっと突きさしました。
「こらっ、これでも開けんかッ。」
侍はそう言って、刀を根元までつッこんで切尖《きつさき》を上げ下げして、どなりたてました。するとお祖父さんは持っていた轡をその刀の先に引っかけ、その上へ手綱をぐるぐる巻きにしました。そして、そこにあった大きな杵《きね》で刀を上から二三度打ち下ろしました。刀は戸の厚い横木に喰い入って、外から引張っても、めったに動かないようになってしまいました。
そうしておいて、お祖父さんはその納屋の別の戸口をそっと開いて、侍から見えない、壁の方へ出て来ました。そこから顔を覗《のぞ》けてうかがうと、侍はぶつぶつひとりごとを言いながら、一生けんめいにその刀を引き抜こうとしています。その間にお祖父さんはしのび足で、そこを逃げだし、裸のまま村のお医者さんのところへ駆けつけました。
このお医者さんはその頃有名な長崎帰りの洋医で、殿様の病気も診る御典医というのでした。その人に侍への仲裁を頼んだのです。お医者さんは直ぐに家来をつれてやって来ました。家来と言っても侍で、刀を二本さしていました。お祖父さんも刀をさして、お医者さんの家来のように側についていきました。
「あなたはどなたですか。私は典医、山川平九郎ですが。」
まだ刀を抜こうと焦っている侍にお医者さんは呼びかけました。これを聞くと、侍は顔色を変えました。
「いや、これはこれは、少し酒興が過ぎましてな、とんだところをお目にかけました。」
これでもう訳なく仲裁がすみました。お祖父さんは知らぬ顔をして、戸を開けたり、刀をとってやったりしました。
この侍がつけた刀の跡が明治になっても、はっきり戸の板に残っていました。これがまたお祖父さん自慢の一つで、いつ頃かいたものか、その刀傷の側に、筆で、こうかきつけてありました。
「嘉永参年参月二十日、甚七遭難の跡。」
でも、お祖父さんは誰に聞かれても、くわしい話はしませんでした。ただ、人にその跡が見えるように、いつも戸をしめて置くことや、その側を通るときのお祖父さんのいかめしい容子《ようす》などで、みんなが、お祖父さんの得意さを察しるだけでした。
日清戦争の終り頃、お祖父さんのただ一人の友だちの、馬の先生が亡くなりました。先生には騎兵中尉になる一人息子がありましたが、これが戦争で死にました。すると、間もなく先生も病気になって死にました。先生は親一人、子一人だったのです。それで先生が死んでしまえば、お墓を建てる人さえありません。
お祖父さんはそれを大変気の毒に思って、先生が死ぬと、自分の髷を切り取って、それを先生と一しょに墓に埋めました。墓も騎兵中尉のと一しょにお祖父さんが建てました。墓には漢文で、お祖父さんと仲がよくて、一しょに馬に乗って遊んだということを彫らせました。
馬の先生が亡くなり、頭の髷を切り落すとお祖父さんはすっかり年をとって、もう馬にも乗れなくなりました。それでお祖父さんは考えた末、屋敷の隅に小屋を建て、その中へ木馬を造らせてすえつけました。その背中の上には昔の鞍を置きました。そしてお祖父さんは羽織袴でそれに乗り、根鞭を叩いて、掛声をかけました。
「はいよう。はいよう。」
馬の首が動くようになっていましたので、
「どうどう。どうどう。」
そんなことを言って、手綱を引っぱりました。その度に木の首ががっちゃんがっちゃんと言いました。でも、生きた馬に乗っていたときより、この木馬のときの方が不思議とお祖父さんは勇ましく見えました。鞭を絶えず馬具の上で鳴らして、すごい掛声で、どなりました。
そのうちにお祖父さんの体は鞍の上で躍り上りはね上りました。じっとしている木馬なのに、これは不思議なことでした。あるときなど、お祖父さんはその木馬から落ちまでしました。これは稽古があまり激しかったせいかも知れません。
お祖父さんはそうした稽古を、子供たちに見られるのをきらいました。小屋にはちゃんと戸をしめ、戸にはちゃんと内から錠を下ろしました。ところが、子供の方では生きた馬より、ずっとずっとこの方が好きで、お祖父さんの掛声を聞くと、小屋の戸口にたかって、節穴や、板の隙間からのぞきました。そしてにッと滑稽な顔をし合ったり、くすくすとしのび笑いをしたりしました。
お祖父さんが稽古を終り、内から戸の錠をはずしかけると、子供らはぞろぞろつながって、納屋や倉の間のようなところへ隠れていき、お祖父さんが、汗だくだくになって家の中へ入ると、またそこから出て来ました。そして、みんなで、こっそり戸をあけて鼠のように中へもぐりこみ、馬の背中へ、一どに五人も六人もかたまって跨《また》がりました。一とうまえの子は、おし出されて、首に抱きつきます。一とうあとの一人は後ろへすべり落ちそうになるので、後ろ向きになって、尻のところを両手でつかんだりしていました。
始めの内はみんなは声を立てないようにして、手綱だけを引いて、首をぎっこんばったんと動かすばかりでしたが、そのうちには、いつでも喧嘩《けんか》を始めました。何にしても手綱を引張るのが一番面白いので、僕が持つ、僕に持たせろ、と争い始めるのです。
みんなは、かわるがわる少しの間ずつしか持てないので、自然引張り方が荒っぽくなり、しまいには「はいよう――。」などと、お祖父さんの掛声を真似るものさえ出て来ました。
すると、木馬に乗れないでいる一人が節穴から外を見て、そらっ、お祖父さんだ、とおどかします。みんなはばらばらと木馬から下りて、その腹の下に縮こまってしゃがみ、声を殺していました。でも、木馬の腹を下からみると、中ががらんどうで、何だか滑稽なのでそのまままた、そこで遊び始めるのでした。
お祖父さんはこんなときには、子供らが馬具をこわすのを心配して、座敷の方で、「えへ――ん。」「えへ――ん。」と言いました。でも、しまいには負けて、子供たちが小屋の中へはいっても、だまっていました。それからつぎには自分で子供らのところへやって来て、馬の乗り方を教えたりするようになりました。自分でも乗って子供に見せました。
お祖父さんの部屋の側にある松の木に鳩が巣を造ったことがありました。お祖父さんはこれをとても喜びました。折々縁側へ出て木の上を舞うている大きな鳥を眺めていました。
ところが、ふとその頃から病気になりました。そして子供らが木馬で騒ぐ声を聞きながら、鳩の子がまだ巣立たないうちに亡くなってしまいました。お祖父さんの葬式には馬が三頭、昔風の美しい鞍をおいて、お供をしました。
どろぼう
おばあさんのことを、いつも善太は、ただおばあさんおばあさんと呼んでいて、名前のことなど気がつかないでおりました。けれども、聞いてみると、やっぱり名前はありました。松山お米というのでした。お米と書いても、およねと読むのだそうであります。ふしぎな名前と思って、聞いてみますと、これには訳がありました。
おばあさんの生れたのは、万延《まんえん》元年三月、ちょうど井伊大老が桜田門の外で水戸の浪士に殺されたあの年あの月だったそうであります。あの頃は世の中がとても物騒で、町にも田舎にも方々にどろぼうが出たりしました。
それである夜のこと、おばあさんのお父さん松山甚七はふと目をさまし、遠いお寺の鐘の音を、何時《なんどき》になるかと数えていました。まだそのときはおばあさんは生れていなかったと言いますから、安政六年という年でありましょう。松山甚七は門の方で重い足音がするように思えて、床の上に起き上りました。こんなとき、昔の人は心持を静めるため、まず|きせる《ヽヽヽ》で煙草を吸うたものであります。それで甚七爺さんも手さぐりで火打ち石を取り上げ、カッチカッチとすりました。火打ち石には必ずほくちというものがついております。
石と石とすれ合って出る火花が、その|ほくち《ヽヽヽ》という布切れのようなものにつくのであります。そしてそれは枯芝についた火のように静かに燃え出すのでありました。で、甚七爺さんは今そのほくちから煙草を吸いつけ、パッパッと二三服吸うと、煙草盆の灰吹きの上でコッチコッチと叩きました。それでお爺さんは気が静まって、首を傾けて、外の物音に耳をすましました。どうやら米倉にどろぼうが入ったらしいのです。
お爺さんは立上って、敷居の上にかけてある弓張|提灯《ぢようちん》に手をかけました。けれども、その夜が九月の十七日で、まだ空にお月さまが照ってることを思うて、提灯をとるのをやめました。それから床の間にかかっている長い刀を手にとり、それを提げて玄関の方へ出て行きました。途中で、次の間にねているおばあさんのお母さんを起しました。
「おみね、おみね、ちょっと米倉を見てくるぞ。後で栄三を起しとけ。」
玄関に行くと、お爺さんはまず格子になっている玄関脇の窓の戸をあけました。そこから月の光に照らされた門の方を眺めました。すると、門の戸があいております。その上、ちらっとその戸の陰へ、隠れて行く人影が見えました。そこでお爺さんは大急ぎで、玄関の大戸を開きました。門の方へ駆け出しました。門を出てみると、どうでしょう、彼方へ沈みかけた月の下の田圃《たんぼ》道を、三人の男が駆けて行きます。しかも三人が三人とも一俵ずつの米俵を荷《かつ》いでおります。これを見るとお爺さんは思わず、右手を刀の|つか《ヽヽ》にかけて、五六間も勢いこんで駆け出しました。それから大変な大声でその三人のどろぼうにさけびました。
「こうらあ、どろぼうめい。米を盗むとは何のことじぁ。」
すると、どろぼうは思いがけない大声にあわてふためき、まるで今にも転びそうに、ひょろひょろして、互いにかち合ったり致しましたが、それでも俵を捨てもせず、まだどんどん逃げて行きました。そこでお爺さんがまたさけびかけました。
「こうらあ、米どろぼう。俵をそこへ置いとけえ。置かんと馬で追いかけるぞう。追いかけて、刀でぶち切るぞう。」
すると、どろぼうも正直ものと見えまして、一番後の男が俵を道に投げすてました。前の二人はしかしまだ俵を荷いで、とっととっとと逃げて行きました。それでお爺さんはまた大きな声で呼びかけました。
「こうらあ、まだ置かんかあ。置かんと、鉄砲で打ち殺すぞう。」
馬や刀に怖《おそ》れなかったどろぼうも、鉄砲は怖ろしいと見えまして、次の男がまた俵を道の上に投げました。それでも残る一俵だけは惜しいと見え、三人でそれを担ぐようにして、とっととっとと逃げて行きました。お爺さんはそれでまた声をかけました。
「こうらあ、こんなに言ってもまだ置かんかあ。命が惜しいのか、惜しゅうないのかあ。」
どろぼうも、一俵だけは命にもかえられなかったのでしょうか、もう何と言っても捨てもせず、三人で代る代る担ぎ上げ、次第に遠くなって行きました。しまいには「よっ、ほっ、よっほっ。」などと掛声をかけているのが幽《かす》かに聞えました。
そのとき、お爺さんの家の作男、栄三が起きて出て来ました。
「旦那、どうしました。」
「うん、どろぼうを逃がした。おしいことをしたわい。」
「どの辺まで逃げました。」
「うん、あそこだ。俵をかついで行くだろう。」
二人は月の光に手をかざして、遠い彼方の村の方を眺めました。
「あ、あれなら旦那、馬で追っかけりゃ間に合いますぞ。」
言うか言わないに、もう栄三は門の中へ駆け込んで、鞍《くら》も置かない裸馬を引出して来ました。
「どうどうどう。」
はやり立てる馬をなだめ、栄三はそこで馬に飛び乗ろうと致しました。
「待て待て、待て。」
お爺さんは尻からげをし、手に下げていた刀を腰にさしました。それから栄三の手綱をとって、ぴょんと馬に飛び乗りました。
「一追いして来る。」
こう言いますと、栄三が馬の口をとらえて、
「旦那、それは危のうござんす。」ととめました。
「何を、三人や四人の米どろぼう、お前は後から走って来い。」
こう言うと、馬の腹を両足で蹴《け》って、道の上に駆け出しました。馬の背中で体をすくめ、前の方をすかすようにして見ているお爺さんの姿は、中々勇ましいものだったそうであります。馬は風のように走りました。栄三も後から一生懸命に駆けました。どろぼうはそのときもう隣村の家の陰へ入っていて、影も形も見えませんでした。
ところで、お爺さんが隣村へ馬の足音高く駆け込んで、そこの村端れへ出ようと、川の橋の近くへやって来ますと、ちょうど橋の彼方のたもとで休んでいる三人の男があります。俵のようなものを真中に何か話し合っているようです。それでお爺さんはまた大きな声をあげました。
「こうらあ、どろぼうめい。」
しかしどろぼうは少しも逃げようといたしません。まるでお爺さんの来るのを待ってるようにじっとしております。それでお爺さんは、どろぼうがもう動けなくなったので、お爺さんにお詫《わ》びでもするのかと考えました。それで馬を少し静かにして、歩かせながら橋を渡って行きました。馬がちょうど橋の真中に行ったとき、お爺さんはどろぼうに、声をかけようといたしました。
すると、そのときでした。橋の下の水の上にとても大きな音が起りました。そして|しぶき《ヽヽヽ》がどっと上に上って来ました。それで馬がびっくりして、とっと棹《さお》を立てたように前足を上げて立上りました。立上ったと思うと、それなり、くるりと後ろ向きになり、それから今来た家の方をさして、鉄砲玉のように走り出しました。止めようにも、どうしようにも馬はこうなっては、力に及びません。
「どうどう、どうどう。」
お爺さんは一生懸命手綱を引き引き、何度も何度も叫びつづけました。それを見て、どろぼうたちはハッハッハッハッと腹をかかえて笑いました。
お爺さんの馬はそれでも後から来る栄三のところまで駆けて来ると、そこの道に両手を拡げて突立っていた栄三にとめられました。
「どうどうどう。」
何度もそう言って、首のところを叩いて、栄三とお爺さんとで、まだ怖れてたじたじする馬をなだめました。それから馬には乗らず二人で両側から手綱を引いて、また橋の方に引き返しました。
「どろぼうの奴、とうとう俵を川の中へ捨てて行ったよ。仕方のない奴だ。置いてくなら道の上へ置いとけばいいものを。」
二人はそんなことを言い合いながら、橋のところに来てみますと、もうどろぼうはおりません。川の水も静かになっております。水の中を月の光ですかして見ますと、ちょうど俵のようなものが、その底の方に転がっております。しかし何だか少し小さく見えるようで、栄三が竹の棒を拾って来て、上からそれを突ついて見ました。コチコチと堅い手答えがいたします。
「旦那、こりゃ石ですぜ。」
栄三が言いますので、お爺さんも突ついてみました。頭の方や胴の方や、どこをついても堅い石の手答えです。
「ほんとうだ。こりゃ、どろぼうに一杯くわされた。」
そう言って、ふと橋のたもとを見ますと、そこにいつも立っていたお地蔵さまが見えません。
「やっ、これだこれだ。お地蔵さまも御迷惑に。」
お爺さんも栄三もついおかしくなって笑いました。どろぼうにとうとう旨くだまされた訳であります。それで仕方なく、二人はそこから引返し、道で二俵の米を拾い、それを馬の背中につけて帰りました。
ところで、翌日のことであります。一人の植木屋が板の上に沢山鉢植の牡丹《ぼたん》を載《の》せて、それを担ぎ棒で前後にかついでやって来ました。側にはその親方のような植木屋がついております。その男は襟《えり》に芳翠園と書かれた法被《はつぴ》を着ていました。
「へい、今日は、町の香蘭園さんで聞いてまいりました。こちらの旦那様は牡丹が大変お好きだそうでございまして。上方の牡丹商人でございます。今日は珍種、上もの、飛切りの種類をそろえて持ってまいりました。お買上げが叶《かな》いませんでも、ただ旦那さまの御覧を戴くだけでも結構でございます。」
植木屋は玄関でそう口上を言っておりましたが、庭の開き戸の開いているのを見ると、もうずんずん庭の方へ入ってまいりました。
「おおお、これは結構なお庭だ。おい、きさまもこちらへ入れ。入って、お庭を拝見するがいい。何とあの滝口のこしらえから、築山の雪見|燈籠《どうろう》のあたり、何とも言えない眺めじゃあないか。石の色といい、松の寂《さ》びといい、どうしても庭をこれだけにするのには百年がとこはかかるだろう。」
親分らしいのは、一人で感心し、一人でしゃべっております。そこへお爺さんが縁側に出て来ました。すると、植木屋はまた何度かお辞儀をして、庭をほめたり、牡丹の効能を言ったり、長長としゃべり立てました。そしてお爺さんにはろくろく話もさせないで、庭の踏石の上や、松の木の根元、岩の陰などに牡丹の鉢を列べました。牡丹はみんなで十鉢ばかりでしたが、その青々とした葉陰から少し色づきかけている莟《つぼみ》をのぞかせていました。
植木屋はその一鉢一鉢に就いて、花の美しさからその木の名前などをまた上手にしゃべり立てました。「狂い獅子《じし》」というのは乱れ咲きの花で、花びらが房のようにたれるのだというのでした。「蜀江《しよつこう》の錦《にしき》」と言いますのは真紅な花で、そのさし渡し五寸からある大輪だと言いました。「雪山」と言うのは、雪のように白いのだそうであります。
お爺さんはその間ただ「ふん、ふん。」と言うきりで、むつかしい顔をして聞いていました。ほんとうはお爺さんはそれらの牡丹がほしくてならなかったのです。しかし上方から来た商人ですし、それにその牡丹の植わっている鉢を見るとみなそれがシナ焼の上もので、鉢だけでも中々大変な値打に思われました。それで値段を聞いてやめるよりはと思って、植木屋のしゃべるに任せて、いつまでも黙っていました。
すると、おしまいになって、とうとう植木屋は自分の方から値段を言いました。ところが、その値段の安いことと言ったら、それは鉢の値段にも足りない位に思えました。お爺さんはそれで直ぐにも、その十鉢全部を買いとりたいと思いましたけれども、何だか不思議な気がして考え込みました。牡丹のはやっているときでしたから、そんな値段のある筈がないと思われたのであります。それで、もしかしたら、これはどこかで盗んで来た牡丹かも知れない。そんなことがふと考えられたのであります。それでまた買おうと言い兼ねて、ふうん、ふうん、言いながらしきりに煙草を吸っておりました。おしゃべりの植木屋もこれには困ったと見えまして、とうとう少し腹を立てたような顔になって言いました。
「旦那は牡丹のよしあしがお分りにならないんじゃあありませんか。これ程の名木を一たいどんな値段でお買いなさろうというのです。菜っ葉や人参とは違いますぜ。」
そう言うと、腹だたしそうにどんどん鉢を片づけ、また板の上に乗せ始めました。これを見ると、お爺さんは盗んで来たなどという疑いもなくなり、初めて煙草をやめて声をかけました。
「まあそう立腹しなさんな。それじゃあ、お前さんの言い値で、この鉢全部買いとろう。折角だから置いて行きなさい。」
植木屋は愉快そうな声を上げました。
「いや、有難う存じます。やっぱり旦那は目がおありです。いずれ、私もこの花の咲く頃にもう一度まいりまして、花つくりの秘伝とでもいうようなものを申上ることに致しましょう。」
こんな有様で、植木屋はお金をもらうと喜んで帰って行きました。
ところが、それから四五日して、牡丹の花が美しく開き始めた朝のことでした。お爺さんが屋敷の中を見廻っておりますと、米倉の前に短冊が一枚落ちていました。それにはこんなことが書いてあります。
「花の秘伝、何事も用心第一、用心第一、あした嵐の吹かぬものかは。」
お爺さんがふしぎそうにしてこれを見ていますと、外から門内に駆け込んで来たものがありました。
「旦那旦那、米倉が空ですぜ。」
栄三がうろたえて呼んでおりました。
昨夜の間に、どろぼうは米倉の外側を流れている川に一|艘《そう》の船を引いて来て、倉の壁を切り破り、そこから五十俵もの米を盗んでしまったのでした。さて、その夜のことお爺さんの子に、松山お米、即ち善太のおばあさんが生れました。お米をとられたというので、こんな名をつけたのだそうであります。
魔法
「兄ちゃん、おやつ。」と、さけんで、三平が庭へ駆けこんでいきますと、
「馬鹿ッ。だまってろ。今、おれ、魔法を使ってるところなんだぞ。」
兄の善太が手を上げて、三平をとめました。
「魔法?」
三平は何のことだか解らず、ただびっくりしましたが、善太は大得意で、ひげをひねるような真似をして言いました。
「へん、魔法だぞう。」
「魔法って何さ。」
「魔法を知らないのかい。童話によく出てくるじゃあないか。魔法使いっていうのがあるだろう。人間を羊《ひつじ》にしたり、犬にしたり、それから自分で小鳥になったり、鷲《わし》になったりさ。鷲になるのいいなあ。飛行機のように空が飛べるんだ。」
「ふうん、それで兄ちゃん、今、鷲になるところなの。」
「そうじゃあないよ。まあ、いいから兄ちゃんが見てる方を見ていなさい。」
それで三平は黙って、日の静かに照っている庭の方を眺めました。そこにはけしの花が咲いていました。真紅な大きなけしの花。黄色な小さなけしの花。白い白いけしの花。何十と列んで咲いていました。
その花の上を一羽の蝶が飛んでいました。小さな、白い、五銭玉のような蝶々です。ひらひら、ひらひら。紅い花のまわりを飛んでいるかと思うと、もう白い花の上の方へ。黄色の花の中へもぐりこんだかと思うと、もう三メートルも四メートルも上の空へ舞い上り、ちらちら、ちらちら。今度は葉っぱの中へもぐりこんで、どことも知れず見えなくなってしまいます。しかし、またいつの間にか、どこからかしら舞い出て来るのでありました。
「兄ちゃん、もう魔法使ったの。」
また三平がききました。
「黙ってろ。」
そこで三平は目の前の蝶を眺めました。蝶は今けし坊主の上にとまっております。けしの花は美しくても、このけし坊主は気味の悪いものであります。まるで花の中に河童の子が立って列んでいるように思えます。その坊主の上で蝶々は羽根を開いたり閉じたりしていました。
そこで三平は顔を近よせて、その蝶の羽根を詳しく見ようとのぞきこみました。その羽根には不思議なことに、眉毛のついた、目のような模様が一つずつ奇麗についていました。
「兄ちゃん、蝶には羽根に目があるのね。」と、三平が言いました。
「馬鹿。蝶だって、目は頭についてるよ。」
「だってさ。」
そう言って、三平がもう一度顔を近よせようとしたとき、蝶はひらひらと舞い立って、三平の鼻や目の上を、その小さな翼でたたくようにして飛んでいきました。三平が口を開けていたら、その中へ入ってしまったかも分らないくらいでした。
三平は驚いて、顔をそむけ、手をあげて蝶をたたこうとしましたが、蝶はやはりひらひらひらひらと、見る間に空の上にのぼり、それからどことも知れず、見えなくなってしまいました。そのとき、はじめて、
「あああ、とうとう飛んでってしまった。」と善太が大息をついて言いました。しかし、それは何のことでしょう。三平は不思議でならず、また聞いてみました。
「今のが魔法なの。」
「そうさあ。」
「ふうん。」と言ったものの、やはり三平には分りません。
「どうして魔法なの。」
「分んない奴だなあ。」
そう言ってるところへ、またさっきの蝶が舞いもどって来ました。
「しッ。」と兄ちゃんが言いますので、三平はまた黙って蝶のとぶのを見ていました。すると蝶はまたけし坊主の上にとまりました。そこで三平はまた顔を近よせました。どこに魔法があるのか、よく見たいと思ったからであります。しかし蝶の方では見られては困るのか、羽根を急がしく開いたり閉じたりしたとおもうと、またひらひらと三平の顔とすれすれに空へ飛んでしまいました。すると善太が話し出しました。
「三平ちゃん、魔法教えてやらあ。」
「うんッ。」
三平は大喜びで、兄ちゃんの側へよって来ました。
「どうするの。」
「まあ、ききなさい。僕ね、さっきここへやって来るとね。けしの花がこんなにたくさん咲いてるだろう。これを見てると、何だか、こう魔法が使えそうな気がして来たんだよ。それでね、まず第一に蝶をここへ呼び寄せることにしたんだよ。ね、目をつぶってさ、蝶よ、来いって、口の内で言ったんだよ。それから、もういいかなあと思って、目をあけたら、ちゃんと蝶が来て花の上を飛んでんのさ。」
「ふうん。」
三平は感心してしまいました。
「そうかあ。それが魔法か、目をつぶって、蝶よ来いって言うんだね。なあんだ。僕んだって出来らあ。」
これを聞くと、善太が笑い出しました。
「駄目だい。三平ちゃんなんかに出来るかい。僕なんか、魔法の話をずいぶん読んでるんだもの。アラビヤン・ナイト、グリム童話集、アンデルセン、何十って知ってらあ。知っているから出来るんじゃあないか。三平ちゃんなんか、何も知らないんだろう。」
「いいや知らなくたっていいや。目をつぶって、言いさえすりゃいいんだもの。ようし、やろうッ。――小さい蝶々、もう一度出て来うい。来ないと、石ぶつけるぞう。」
「来るかい、そんなことで。蝶々、来ちゃ駄目だぞう。来たら、棒でたたき落すぞう。」
とうとう魔法の喧嘩《けんか》になって、二人でこんなことをさけび合いました。それから二人は、蝶が来るか来るかと待っていましたが、蝶は中々姿を見せません。ただ、けしの花ばかりが静かな日光の中に、美しく咲いているきりです。
「そうらね。兄ちゃんが言う通りだろう。魔法の蝶なんだもの、来るなって言ったら、どんなことがあっても来やしない。だって、あの蝶、人間がなってんだぞ。だから、人間の言葉が分るんだぞ。」
善太は得意になりましたが、三平はききません。
「嘘だい。蝶は毛虫がなるんじゃあないか。」
「嘘なもんか。そんなこと言うと、三平ちゃんだって、直ぐ蝶にしっちまうぞ。」
これを聞くと、三平がかえって喜んでしまいました。
「うん、蝶にしてよ。すぐしてよ。僕、蝶大好きなんだ。」
今度は善太の方で困ってしまいました。そこで言いました。
「だって、蝶んなったら、もう人間になれないんだぞ。」
「いいや。空が飛べるからいいや。」
「家になんぞ帰れないぞ。」
「いいや。飛んで帰ってしまうよ。」
「帰ったって駄目だ。蝶だもの。だれも相手にしてくれりゃしない。追い出せ、追い出せッて、たたき出してしまうさ。」
「いいや。いいから蝶にしてよ。すぐしてよ。」
三平がそう言って、善太の手を引張っているときでありました。垣根の外を一人の坊さんが通りかかりました。坊さんは黒い着物に黄色い袈裟《けさ》をかけていました。それを見ると、善太が小さい声で言いました。
「三平ちゃん、見な。あすこを坊さんがいくだろう。ね。あれを僕今、蝶にしてみせるから。」
「うん、すぐして。すぐしてみせてよ。」
「待ってろ。待ってろ。」
「ならないじゃあないか、兄ちゃん。早くしないと、あっちへいっちゃうじゃあないか。」
そう言ってる間に、坊さんは向うへいってしまいました。
「とうとう行っちゃッた。駄目だよ、兄ちゃんなんか。早くしないからいっちゃったじゃないか。僕、人間が蝶になるところが見たかったんだ。」
「だって、そりゃ駄目だ。あの人、蝶にするって言ったら怒っちまうだろう。だから、分らないようにして、やるんだ。どこにいたって出来るんだから、目の前にいない方がかえっていいんだよ。」
ちょうどそう言ってるところでした。一羽の黒|あげは《ヽヽヽ》がひらひらと風に乗って飛んで来ました。
「そうらあ、来た、来た。」
善太がそれを見て、大きな声を出しました。
「ね、これ、今の坊さんなんだよ。もう蝶になって飛んで来ちゃった。早いもんだ。」
これで三平も少し不思議になって来ました。ほんとに、このあげはの蝶と、今の坊さんと、どこか似たところがあるようです。そこで聞いてみました。
「ほんとう、兄ちゃん。ほんとに魔法使ったの。」
「そうさあ、大魔法を使ったんだ。」
「ふうん、いつ使ったの。」
「今さ。」
「今って、何もしなかったじゃあないの。」
「それがしたのさ。三平ちゃんなんかに分んないようにやったんだ。だから魔法なんだ。」
「ふうん、そうかねえ。」
三平はすっかり感心してしまいました。それから善太は通る人ごとに魔法を使って、トンボにしたり、バッタにしたり、蝉《せみ》なんかにまでしてしまいました。自動車を運転手ごと魔法をかけたら、これはカブト虫になって、樫《かし》の木の枝の上にとまりました。運転手がいないのでさがしていたら、その角の先に油虫のような小さな虫が乗っかっていたので、それだということにきめました。
背の途方もなく高いチンドン屋が通ったので、それに魔法をかけたら、それはカマキリになって、いつの間にか、けしの花の葉っぱの中にぶら下っていました。三河屋の小僧はイナゴにし、肉屋の小僧はミミズにしてやりました。ところがミミズにした肉屋の小僧は、土の中にいるので、とうとうさがし出せませんでした。
二人は、そのカブト虫やカマキリやバッタやトンボをつかまえて来て、縁側に行列をつくらせておやつを食べ食べ遊びました。
ところで、その翌日のことでありました。善太が学校へいく前に言いました。
「三平ちゃん、僕今日学校から魔法を使って帰って来るぞ。」
「ふうん、じゃア、トンボになって来るの。」
「トンボになんかなるかい。」
「じゃア、蝶がいいよ。奇麗な奇麗な蝶々。」
「駄目だい。蝶なんかきらいだよ。」
「じぁア、何になるの。」
「そうだなあ。僕、もしかしたらつばめになるかも分んないよ。早いからね。空を一飛びだ。つうッ。」
善太はもう両手をひろげて、つばめの飛ぶ真似をしはじめました。そして座敷を一廻りするとまた言いました。
「もしかしたら、鳩だ。白鳩。伝書鳩。パタパタッ、パタパタッ、飛行機より早いんだぞ。」
今度は鳩の飛ぶ真似をして座敷を廻りました。一ど廻ると、また言いました。
「でも、家へ入って来るときは三平ちゃんに分んないように、門のとこから蟻《あり》になってはって来るかも知れないよ。そして、そうっと三平ちゃんの背中へはい上って、手の届かないところをチクッとさしてやるんだ。わあ、面白いなあ。」
それを聞くと、三平も黙っていません。
「蟻なんかなら何でもないや。すぐ着物をぬいで、指でひねりつぶしてしまうから。」
「だったら蛇になって来る。三平ちゃんが庭へ出てるところへ、はっていって、ガブッと手でも足でもかみついてしまうぞ。そうら、蛇だ、蛇だあ。」
今度は善太は蛇のような真似をして、三平を追い廻しました。
その日の午後のことであります。三平は庭へ出て兄ちゃんを待っていました。魔法を使って帰って来るというのだから、何になって帰って来るかと、それが楽しみで、空の方を見たり、道の方を見たり、樫や檜《ひのき》の茂みの中をさがし廻ったり、けしの花の中をのぞきこんだりしていました。蝶が飛び立つと、もしかしたら、それかも分らないと追っかけてみたり、道から犬が駆けこんで来ると、これも怪しいと、捕えてみたりしました。
「こら、兄ちゃんだろう。僕には分ってるぞう。」
こんなことを言ってみました。しかし、犬はただ不思議そうに目をパチクリさせ、何か食べものでもくれるかと、尾っぽをしきりに振り立てました。放してやると、大急ぎでどっかへ駆けてってしまいました。
そのうちに、三平は庭の隅でデンデン虫を見つけました。それを見ると、また、もしかしたらと考えて、話しかけてみました。
「こら、兄ちゃんか。もう逃しっこはないぞ。」
そしてそれを捕えると、縁側へ持って来て、
「槍《やり》出せ、角出せ。」と、いじって遊びました。いつの間にか魔法のことも忘れて、大分久しく遊んでいました。と、玄関で、兄ちゃんの声がしました。駆けてってみると、兄ちゃんが靴をぬいでいます。
「兄ちゃん、魔法は。」
「あっ、魔法か。今、門まで風になって吹いて来たんだけど、門からもうやめて入って来たんだよ。」
しかし兄ちゃんが何だか、くすぐったそうな顔をして、ニコニコ笑っているので、
「嘘だい。」と、三平は言ってしまいました。すると、
「ほんとうは兄ちゃんは風なんだよ。それが魔法を使って人間になってんだよ。」
そんなことを言って、兄ちゃんがハッハッ笑うので、とうとう嘘だということが分りました。
「やアい、嘘だい嘘だい。」と、三平がとびかかっていきました。それで二人は座敷で大相撲をはじめました。
デンデン虫
お母さんはお使いにいって留守でした。美代ちゃんは熱があってねていました。正太は、お母さんの言いつけで、美代ちゃんの枕もとへすわってお話をしてやっていました。すると善太と三平が外から「兄ちゃアん。」と呼び呼び縁がわへかけつけて来ました。
「兄ちゃん、鮒《ふな》だ。大鮒だ。こんなにいるんだよ。鯉《こい》だ。ううん、鯉の子だ。十ぴき、二十ぴき。ねえ、三平ちゃん、三十ぴきもいたねえ。あすこの、川の藻《も》の中ッ。えッどうする。」
善太は両手で網をうつ真似なんかしたりして、とてもせきこんでいるのです。どうするッたって、と正太はちょっと考えてみましたが、こうなっては、とりにいくよりほか、しかたがありません。そこで美代ちゃんに言いました。
「ね、美代ちゃん、鮒をとって来て上げようね。」
が、美代ちゃんは、けだるそうに、正太の顔を見上げたまま、返事をしようともしません。
「え、美代ちゃん、大きな鮒だよ。十ぴきも二十ぴきもだよ。洗面器へ水を入れて、泳がせて遊ぼうよ。面白いよう。」
それでも、美代ちゃんはやっぱり黙っています。
「どうオ、美代ちゃん、いらないの。いるでしょう。」
正太は、こんどは顔を、じっくり美代ちゃんの額ぎわに近よせて、何度も言ってみました。すると、美代ちゃんが、やっとのこと、かすかに、こっくりをしました。
「ああ、よかった。じゃア、兄ちゃんすぐいってとって来てあげるよ。大きな大きな鮒、二十も三十もだよ、だから、ちょっとお留守番をしててよ、ね。じき帰って来るからね。そうだな。美代ちゃんが一つ二つと、十まで数えたら、そうら、鮒だ、鮒だって、帰って来るよ。いいでしょう。」
ところが、また美代ちゃんは、それきり、顔を縦にも横にも振らないで、ただ目をぱちぱちさせて、壁の方ばかり見ています。
善太と三平はもういらいらして、枕もとへ上って来て、よウ、よウと足ぶみをします。で、正太は二人を縁側の方へつれていき、そこで小さな声で言いました。
「ね、二人で先に門のところへいって待ってろよ。兄ちゃん、後からいくからね。静かにしてるんだぞ。さわいだらいけなくなるからな。」
これを聞くと、二人は美代ちゃんの方を見かえり見かえり、まるで泥棒のように足音をしのばせて、出ていきました。で、正太は美代ちゃんのところに帰って、首をかしげて考えこみました。美代ちゃんに留守番をさせる法はないかなア。――うん、そうだ。正太はいいことを思いつきました。
「美代ちゃん、でんでん虫好き。」
美代ちゃんは、こんどはすぐにこっくりをしました。
「好きだろう。ねえ、面白いよ、でんでん虫は。頭からニュウッと、こんな角を出してね、机の上でも、畳の上でも、のそりのそり歩き出すからね。背中に大きなお家を背負って、えんこらさ、えんこらさッて歩くよ。」
正太は片手の人さし指を立てて、頭の上に角をこしらえ、片手を後ろへ廻して、からを背負うようなかっこうをしながら、膝《ひざ》で畳の上を歩いて見せました。そして、角出せ、槍出せと謡《うた》いました。美代ちゃんは、口もとと頬に、かすかな笑いをうかべました。そこで、すかさず正太が言いました。
「美代ちゃん、でんでん虫とって来ようね。」
しかし、そう言うと、美代ちゃんは、またうかない顔をして、黙ってしまいました。
美代ちゃんは、熱で、ずきんずきんと頭が痛いのです。胸も苦しいのでした。お母さんに側にいてほしいのですけれど、中々帰って来てくれません。それなのに、兄ちゃんまでが、外へいこうとするのです。美代ちゃんの目には少し涙が浮んで来ました。涙は頬をつたわってホロリとおちこぼれました。それを見ると、正太はかわいそうになって言いました。
「兄ちゃんがいないと淋しい?」
美代ちゃんは、うんと、目で言いました。
「じゃあ、鮒とりにいくのよそうね。だけど、でんでん虫はお庭にいるからとって来てあげるよ。まっててね。」
ほんとにでんでん虫は庭の青桐《あおぎり》の木にいるのです。さっき正太は見つけておいたのです。そこで立上ると、跣足《はだし》のまま縁側から飛び下りて、青桐の下へ駆けていきました。そして上から下、横から横へと、目の玉をクリクリさせて見廻しました。と、何のこった、目の前の枝にとまっていました。正太はそれをつかんで、飛んでかえりました。
「美代ちゃん、でんでん虫、ほらほら。」と、枕もとのお盆の上にのせて、
「見てらっしゃい。今に角を出して、はい出すから。」
そう言ってから、正太は、角出せ槍出せと謡いました。美代ちゃんは、もう泣くのをやめて、おふとんの上に腹んばいになって、じっと見ていました。でんでん虫は全く正太の言った通り、すぐに角を立てて、そろりそろりと、はいはじめました。
「ね、面白いだろう。さわるとすぐ角ひっこめるよ。」
正太は、そっと|から《ヽヽ》にさわって角をひっこめさせて、また歌を謡って、はわせました。でんでん虫はお盆の縁をのたりのたりと廻りました。美代ちゃんは次第に笑顔をして、おふとんから乗り出すようにして見入りました。
そのとき、門の方から善太と三平が待ちくたびれて、声をそろえて呼びたてました。
「兄ちゃアんッ。鮒とりにいこうよッ。」
それで正太は言いました。
「美代ちゃん、でんでん虫もいいけども、鮒も面白いんだよ。洗面器の中へ金や銀の鮒を入れとくだろう。そうすると、それがぴょいぴょいはねて泳ぐんだよ。そこへ兄ちゃん、また蟹《かに》をとって来て入れたげら。すると蟹がね、大きなはさみをおっ立てて、はさむぞう、はさむぞうって、鮒を追っかけるの。」
そう言うと、正太は右手ではさみをこしらえて、美代ちゃんの柔いお手てをチョキンチョキンとはさんでみせました。
「ね、蟹はこうして鮒をはさむんだよ。すると、鮒がね、痛いよう、痛いようって逃げ廻るの、おおんおおんッて、泣く鮒もいるよ。」
美代ちゃんは、お手てがくすぐったかったのか、つい、ニッコリしてしまいました。
「ね、美代ちゃん、鮒すきだろう。」
これで美代ちゃんは、また、こっくりをしてしまいました。
「じゃア、兄ちゃん、鮒とって来てあげよう。蟹もね。だから、一つ二つッて数えていらっしゃい。十になったら十ッて言うんですよ。そしたら、鮒と蟹もって、飛んで帰ってくるから。」
美代ちゃんは、かすかに笑いました。そこで正太は、
「じゃ、行って来るよ。」と、早口に言ったと思うと、もう玄関の外へ駆け出していました。正太が出て来たのを見ると、善太と三平は、いそいで田圃《たんぼ》の方へかけつけました。三人が家から百メートルも離れたときのことです。一とうあとにいた善太が心配そうに二人をよびとめて言いました。
「ね、美代ちゃん、泣いてやしないかなア。」
これで、三平が立止って、家の方へ耳を傾《かし》げて、
「あ、泣いてる。」と言いました。
「嘘だい。」と、正太と善太が言いました。泣いていたってここまで聞える筈がありません。でも、正太は少し心配になって、一人で家の方へ駆けていき、門の中へ頭を突っこんで、何度も耳を傾げました。それからまた二人のところへ駆けもどって来ました。
「泣いてた?」と三平が聞きました。
「ううん。」
正太は、かぶりをふりました。それから三人は、またドンドン走りました。川の縁へ来て、少し上手へ歩くと、川をのぞきのぞきしていた善太が突然立止って、
「あッ、あすこだ。鮒、鮒、鮒。」
三人は頭を、こちんこちんするように列べて、水の中を覗《のぞ》きました。全く、鮒がいます。大きいのや小さいのが、十も二十も藻の蔭《かげ》に休んだり泳いだりしています。
「どうしよう。」と、三平がまた言いました。それで気がついたのですが、三人とも釣竿《つりざお》も網も持ってはいません。どうしたって言うのでしょう。あんまり急いで、なにももたないで来たのです。三人は顔を見合せました。
「善太、とって来い。」
「僕?」と言ったものの、こんどは善太が使いをする番でした。しかたなく、善太は網をとりに、家の方へ駆け出しました。それで正太と三平は鮒を眺めながら、数を数えたり、大鮒が隠れているところを見つけたりして待っていました。
ところが、善太はいつまでたってもかえって来ません。二人は待ちくたびれて、こんどは、家の方へ向いて、草の上に尻をすえて、しゃがんでいました。それでも、中々もどって来ません。何十分と待ったような気がしました。やっと善太が網をかついで、バケツをさげてやって来ました。そこで正太が、
「どうしたんだ。」と聞いてみますと、善太が門まで帰ると美代ちゃんが火がつくように泣いていたというのです。びっくりして、部屋へ駆けあがってみると、美代ちゃんは蒲団を離れて、畳の上に立って、からだをふるわせて泣いているのでした。それで聞いてみると、
「でんでん虫が、でんでん虫が……。」と言います。見ると、でんでん虫が美代ちゃんの氷枕の上にとまって、角を立てていました。詳しく聞いてみますと、はじめ美代ちゃんはおとなしく、でんでん虫のはい廻るのを見ていたのでした。すると、でんでん虫は盆の上から次第に美代ちゃんの枕の方へ、はって来て、追っても追っても、角を立てて枕の上へ、あがって来るのだそうです。
それで美代ちゃんは少しずつ頭をよけたり、蒲団の中へもぐったりして逃げていたのですが、でんでん虫は、しまいには蒲団の中まで入って来そうになりました。美代ちゃんはそれが怖くて、泣き出したのでした。善太は、でんでん虫を、縁がわへもち出して、そこへおいて来たと言います。
「なあんだい。」と、正太も三平も言いましたが、考えると美代ちゃんが、かわいそうになりました。何だか家の方で美代ちゃんの泣声がしているように思われました。
「よ、よ、かえろうよ。美代ちゃん泣いてるよ。」
三平も心配そうに言いました。そこで三人は、鮒の方はそっちのけにして、川ッぷちに立って、家の方に首を延ばして、何度も耳を傾げました。泣声がするようにも思われれば、しないような気もします。
「鮒とる?」
しばらくして三平が聞きました。
「帰ろうよ。」と正太が言いました。
「帰ろうよ。」と善太も言いました。三人はその方をのぞきこみました。三平がそこいらの石ころを拾うと、正太も善太も大きなのを拾いました。そして三人で、一二三ッ、ドブンと、鮒を目がけて投げこんで、うわアと言って駆けて帰りました。
美代ちゃんは、涙をふきふき、ふとんの上にすわっていました。三人は、鮒の話を面白く美代ちゃんに話して聞かせました。でんでん虫は、縁がわで、はっていました。美代ちゃんがもういらないと言うので、善太は庭の木をめがけて、力一ぱい投げすてました。
「よせよ。」と三平が言いました。ベッと言って、善太はふざけて舌を出しました。ベッベッ、べえエ。
狐狩り
一
鷹使《たかつか》いの名人で、「鷹の平八」でとおっていたおじいさんは、大声で謡《うたい》をうたいながら川岸の道を帰っていきました。空には星がちらちら光っていました。おじいさんは片手に提灯《ちようちん》をもち、片手に重箱をさげていました。重箱の中には御馳走がいっぱいはいっていました。今日は近くの村の親類の秋祭によばれて、おいしくお酒をのみ、いい気持になって、今、家へ帰っていくところです。
やがて、向うがわへわたる、石橋のところへやって来ました。そこは昔から狐が出たり河童《かつぱ》が出たり、ときには幽霊さえ出るという恐ろしいところであります。しかしおじいさんは腰に刀をさしていました。この近辺で「鷹の平八」と言えば、知らぬもののないおじいさんです。そんな、狐や河童なぞは気にもしませんでした。
と、ちょうど橋の真中まで来たとおもいますと、ふと、後ろの方でピチャピチャという、かすかな足音のようなものが聞えました。人間ならば、跣足《はだし》で歩いてる足音です。
「は、はあ。」
おじいさんは、そうひとりで言って立ちどまりました。そして後ろの暗い闇の中へ向って、おだやかな声で言いました。
「この重箱がほしいと見えるの。これはやれんのじぁ。娘がたんせいした御馳走でのう。家では孫どもが待ッとんのじゃ。」
おじいさんは狐がもう何町となく後をつけて来ているのだと、かんづいたのでした。おじいさんは百姓の家柄でも、殿様から苗字帯刀を許されている身分です。狐なぞがいたずらをするのを、だまって見すごすわけにはいきません。
おじいさんは橋の上に提灯を置き、その側へ重箱を置きました。そして腰から煙草《たばこ》入れをぬき出すと、そこにしゃがんで、カッチカッチと火打石をうちました。おじいさんは、この不心得な狐を、一つ、叱っておこうと考えたのでした。
村を通っていく他村の人でも、見知らぬ他国の人であろうとも、悪いことをしているところが目についたら、何町追いかけて行ってでも叱らずにはおけないのがおじいさんの性分でした。よく道端で、帯の結び方が悪かったり、羽織の襟《えり》が立っていたりして、おじいさんに注意される人さえありました。
おじいさんは煙草をすいながら、狐の近よって来るのを待っていました。もしかしたら狐は人間に化けて来るかも分りません。そうしたら、なおのこと叱りやすいわけであります。しかし狐もそれを知ってか、なかなか近よって来ません。
一服煙草をすうと、その灰殻をおじいさんは手の平に吹き出しました。その灰の火の消えないうちに、つぎの煙草をすいつけようとして、急いで煙管《きせる》をつめていました。するとそのときです。風も吹かないのに、提灯の火がふっと消えました。すると、おじいさんはいきなり、
「無礼ものッ。」と、大声でどなッて、刀のつかに手をかけました。近くに狐のけはいでもしたら、すぐ切りつけようと、身構えをしていました。しかし、それきり何の音もしません。片手をのばしてさぐってみると、火は消えても提灯もあります。重箱も前のままです。
「いたずらは承知せんぞッ。鷹の平八を知らんのかッ。」
力のこもった声でおじいさんは言いました。すると、すぐ側で、クンクンという、犬の甘えるような鼻声が聞えました。
「野山に餌《えさ》はないのかい。」
おじいさんがききました。と、またクンクンと言いました。
「そうか。そうか。分った。分った。しかし、これはやれんのじゃ。明日まで待てい。明日になったら、家の屋敷の柿の木の下に、油揚を三枚おいといてやるでな。」
おじいさんがこう言いますと、また、二た声、三声、クンクンという声がし、ピチャピチャという足音が聞えました。狐が重箱の方へ鼻をよせて、そっと寄って来ては、またさっと飛びのくさまが、その足音や空気の動きで、手にとるように分ります。
「駄目じゃ駄目じゃ。人が言ってきかせるのが分らんのか。すなおに言うことをきくもんじゃよ。」
ここまでは静かに言いましたが、そのうちに、狐が重箱の、ふろしきのむすび目を引ッ喰わえるところが、目に見えるような気がしました。そこでおじいさんはまた大きな声をあげました。
「馬鹿ものッ。おれを平八と知ってかかるのかッ。」
ところが、その声と一しょに、川の中でドブーンと大きな音がしました。何が落ちたのでしょう。狐でしょうか。
おじいさんは重箱のおいてあったところをさぐりましたが、もう重箱はありませんでした。それでは狐が重箱を川へ落したのでしょうか。おじいさんは、しばらく耳をすましていましたが、もうそれきり何の音もしません。狐も姿をかくしてしまったようでした。
二
翌朝のことであります。
おじいさんは座敷の縁側にすわって、煙草をすいすい庭をながめていました。庭には池があり、池の向うには築山があって、その築山の上には大きな岩の側に楓《かえで》が真紅に紅葉していました。
池の手前には一本の松の木が枝を縁側の方へさし出しています。その側には燈籠《とうろう》が一つ立っていました。その燈籠へ向って出ばった松の枝に、一羽の大きな鷹がとまっております。
これは「たまふさ」という有名な鷹で、おじいさんはこの鷹を使って、鴨《かも》や雁《がん》や、兎までもとるのでした。とても猛しい鷹でしたが、おじいさんにはとてもよくなれていて、おじいさんの指図なら、どんなことでもすぐのみこみ、どんなことでもしました。
鷹は今|籠《かご》から出されて、朝日のさしている枝の上で翼をひろげたり、くちばしで身体《からだ》の方々をつついたりしているところでした。
そこへ金十という下男が庭の柴折戸《しおりど》から入って来ました。それを見ると、|たまふさ《ヽヽヽヽ》は大きな翼をひろげて、バサバサと羽ばたきをして、今にも飛び立ちそうな様子を見せました。
「待て待て待て。」
金十が言うのでした。金十はザルに入れた四五羽の雀を持っていました。雀はカスミ網でとったもので、みな生きていて、ザルの中でバタバタあばれています。でも、もうみんな羽根が折ってあるので、あばれても飛び立つことは出来ません。
「金十。」とおじいさんがよびました。
「今朝はもしかしたら狐狩りにいくかも知れんぞ。雀は三羽だけにしておこう。」
すると、金十が言いました。
「へい、では、犬の方も。」
「うん、犬も朝めしをへらしとけ。」
それで金十はザルの中から雀を一羽つかみ出し、これを松の下へ投げてやりました。それを見ると|たまふさ《ヽヽヽヽ》は、ひょいと枝から地べたへ下りて、土の上にころんでもがいている雀を、しばらくいかめしい目付をして見下ろしていました。やがて片足の爪で、それをグイとつかみ、鋭く曲った嘴《くちばし》でくわッと喰わえて、頭を振って食べはじめました。そこら中へ雀の毛が散りました。金十はその側へあとの二羽の雀を置いて、また柴折戸から出ていきました。
こんどは納屋の方で犬のなき声が聞えました。声はこっちへ近づいて来ました。と、二ひきの犬が勢いよく庭へ飛びこんで来ました。これは四郎に九郎という犬たちでありました。四郎は白、九郎は黒犬でした。
二ひきは尾っぽをピンピン振りながら、築山の方から池のぐるりへかけて、土の上に鼻をつけて嗅《か》ぎ嗅ぎ、いそがしく駆け廻りました。築山の岩の上にのぼって、そこから首をのぞけて、鷹の方やおじいさんの方を見たりしました。
そのうちに、二ひきは松の下の鷹のところへやって来て、一間ばかり離れたところから、ものほしそうに鼻を突き出しながら、少しずつ鷹の方へ寄っていきました。すると、鷹はとても恐い目付をして犬をにらみつけ、クワックワッと、叱るように鳴きました。
これで犬たちは鼻を近よせるのはよして、そのままそこへ、しりをすえてすわりこみ、尾っぽを振り振り鷹の御馳走を見入っていました。鷹はこんな無遠慮な見物人に困ってか、それからは見る間に雀を食べてしまい、大きな翼をひろげると、築山から池の上の方をずうッと低くまいくぐり、二三度舞うと、また松の枝にもどって、そこへじっととまりました。
二ひきの犬は鷹が飛び立つと、後の土の上に残った雀の羽根のかたまりの中へ、頭をまっさかさにして鼻を突ッこみ、ふんふんふんふんかぎ廻しました。鷹は枝へかえると、何か残していたかしら、というように頭をかしげながら、犬の様子を見下ろしました。しかしもう何一つ残ってなどはいません。犬がふんふん言う度に、羽根がパッパッ飛び立つばかりでありました。
ところが、そのときであります。柴折戸からまた犬が一ぴきかけこんで来ました。これは白黒まだらの二郎という犬でした。その後から、権という下男が入って来ました。それを見ると、おじいさんがすぐ言いました。
「うん、権や、もどったか。どうじゃった。」
権が言いました。
「へい、重箱はやっぱり橋の近くにありました。御馳走はもうさんざんに食べ荒し、風呂敷などは幾つにも引きさいてありました。それでも重箱だけは、そのままありましたので、今お|さん《ヽヽ》どんに渡しておきました。いまに洗ってもらってお目にかけます。」
「ふーん。それで、穴は見つけたか。」
おじいさんが言いました。
「へい、橋のところで御馳走のあとをよく二郎にかがせまして、それから、そこいら中をさがさせましたところ、やっぱりあの櫟林《くぬぎばやし》の塚の下の穴らしゅうございますわい。」
「うん、そうかあ。」
おじいさんは思わず前へのり出すようにしました。
「あそこに一つ、昔から穴があるのを知っていましたから、今日は犬を近づけては悪いと思いまして、側まで行って、引きかえしてまいりました。」
それを聞くと、おじいさんは二三度、大きくうなずきました。
「ウン、ウン、御苦労御苦労。」
それから三十分たつか、たたないうちに、おじいさんは、腰には一本長い刀をさし、肩に大鷹をとまらせて、大門を出ていきました。足には脚絆《きやはん》にわらじ、手には手甲をつけていました。後には金十と権が、やはり、手甲、わらじがけで、供につきました。二郎、四郎、九郎の三びきは、後になり先になり、急しく駆け廻ったりして、ついていきます。村の子供たちがたくさん、一ところにかたまって、それを見送っていました。金十が言いました。
「旦那、だれに聞きましたか、今日は櫟林の狐狩りだというので、村のものが後のたたりを恐れておりますが。」
「ハハハ、何を言うか。後のたたりのないように、今日は退治てやるんじゃないか。」
おじいさんが笑って言いました。
三
その日、子供たちは狐狩りというので、恐くてついてもいけず、ただ道ばたにかたまって、櫟林のある、西の方の空ばかりを眺めていました。すると、そちらの空の上を大鷹がクルリクルリと、輪をかいて舞っているのを、見て来たという人がいました。舞っているうちに、首をつッと下に向けて、まるで矢のように落ちていったと言います。それと一しょに犬がワンワンワンワンと、はげしく、なき立てたそうでした。
そのうちに、午《ひる》近くにはもうおじいさんが、鷹を肩にとまらせて帰って来ました。後には金十と権が、狐を二ひき、荒縄で首をしばって、棒につる下げてかついでいました。鷹はひどく苦闘したと見え、背中の羽毛をむしり取られていました。犬も、四郎は尾っぽの真中に血をにじませており、ときどき立ちどまっては、そこをなめるので、みんなからおくれおくれしました。
狐は割合小さな狐でしたが、首をつるされているので、からだが伸びて、ばかに細長く見えました。それが棒の下で、ぷらぷらと、たがいちがいにゆれました。やはり櫟林の塚にいた牡《おす》と牝《めす》の狐だったそうであります。その穴にはまだ子狐が二ひきいたのだそうです。が、親狐をとってる間に、その子狐の方はうっかり、逃がしてしまったのだそうであります。ところで、その晩のこと、おじいさんは変な夢を見ました。
家の土蔵の外の柿の木の根もとに、薄黄色い衣を着た小僧が二人すわって、土蔵の窓に向って手を合わせて、お経をあげております。おじいさんは夢の中で、はてな、と考えました。よく見ると、小僧たちの衣の尻のところに、小さな尾っぽの先がのぞいていました。
おじいさんはそれで目がさめましたが、まだどこからかお経の声が聞えるような気がして、もう眠れません。考えてみますと、土蔵の窓の下には今日とった狐が釘《くぎ》にぶら下げてあるのです。しかし、まさか狐の子が小僧に化けて来てはいないだろうとおもいながら、そっと便所へ立っていきました。
便所の窓からはその柿の木が見えるので、音を立てないように、のぞいてみますと、どうでしょう、ほんとに柿の木の下に小犬のような小さな狐の子が二ひき、ぽつねんとすわって土蔵の窓の方を見上げていました。沈みかけた三日月の光で、それが、かすかながら、ちゃんと見えました。
おじいさんは子狐を、しみじみかわいそうにおもいました。と、二ひきとも疲れて来たものか、急にころりと横になって、土を枕に眠りはじめました。これを見るとおじいさんは孫のねているのを見ているようで、蒲団でもかけてやりたいくらいに、いじらしくなって来ました。おじいさんは、その子狐をそっと生けどって、大事に飼ってやろうかとおもいました。そっと、ざしきへかえって、つぎの間に寝ているおばあさんを、こっそり、よびおこしました。
ほんとにいるんだよ、あすこに寝てるんだよと話して、また一人で便所の窓へ見にいきましたが、便所の入口で足をすべらして、どたんと板戸へぶつかりました。子狐はその音で、びっくりして、にげてしまったものか、いくら見さぐっても、もうどこにも姿が見えませんでした。
善太と三平
それは田圃《たんぼ》の片隅である。太い松の木が空高く聳《そび》えていた。ガッシリしたその枝には烏が来てとまったり、鳶《とび》が休んでいたりした。頂が高いので、その辺は空気も澄んでいて、きっと温度も低く、息もらくのように思われた。その土地は善太の家のものであったので彼はよく来て、樹の下から高い頂上の方を見上げたのである。
ある日、そこに、高い枝の上に白い鳥がとまっていた。白い鳥は行者か何かを思わせて神秘的な気もするものである。鳩くらいもある白い鳥である、善太は恐ろしい気がした。
しかし善太は言ったのである。
「あんなの恐くないやい。」
すると、声が聞えた。
「恐くない?」
「恐くないとも。」
善太は即座に答え、そして耳をすました。
いざとあれば、喧嘩《けんか》しなければならないし、また場合によっては逃げもしなければならない。しかしそれきり声が聞えない。それでもう一度言ってみた。
「ああ、恐くないとも! ちょっとも恐くないや。」
そしてまた耳をすましていた。やっぱり声は聞えなかった。すると、相手はどうしたのだろう、もう逃げたか。強くて、もう身辺に迫っているのか。
「ええい、石、ぶっつけてやれい。」
木から三四間離れて、善太は石を拾った。これをもって身構えると、樹の上を見上げて、それから周囲に気を配った。が、やはり何の答えもなかった。そこで善太は樹に二三歩駈け寄り、その勢いで上に石を投げた。石が枝にあたって、落ちて来る音を聞きながら、彼は後をも見ずに逃げ出した。白い鳥は身じろぎもしないで、じっとその様子を眺めていた。
善太は勝ったような気もすれば負けたような気もしたのである。しかし家に帰って来ると、三平に言って聞かせた。
「三平チャン、今日、とても大変だったんだぜ。あそこの田圃の松の樹のとこね。あそこに大きい白い鳥がいてね。クワア、クワア、クワアって鳴いているんだ。とっても大きな鳥なんだぜ、タカくらい。ウウン、ワシくらい。白い大ワシだ。おれ、石をぶっつけてやった。」
「フーン。」
三平は感心したのである。そして暫《しばら》くして言ったのである。
「それでどうした? 死んだ?」
「死なないや。」
「どうして殺さなかったの?」
「殺さないように石ぶっつけたんじゃないか。あんな白い鳥なんか神様の手下なんだぞ、殺したら、それこそ大変だあ、たたられてしまうから。」
「フーン。」
松の樹の下には、根本に小さい祠《ほこら》があった。瓦《かわら》で出来た玩具《おもちや》のような形をしていた、片手でもさげられるくらいのものである。何が祭ってあるのか、永年そこに立っていて、雨にうたれ、風に吹かれ、そして草の中に埋まっていた。それでも、一年の内の何かの日には善太達のお母さんがそこにお詣《まい》りして、その前で何かブツブツ言いながら、火のついた線香をお供えしたのである。
けむりがモウモウと立って、松の樹の幹に沿うて上に昇った。中途で幹の裏へ廻りかけると、そこでスッスッと風に吹き散らされた。しかしそれを見ていると、善太にも三平にも、何かもの凄《すご》いことが思い出された。いつかあった村の火事のことが思い出されたり、またいつか村を騒がした気狂《きちが》い女の髪を振乱した姿が思い出されたりした。煙というものは気味悪いものである。それが一層この田圃の片隅を神秘的なものとした。
兄の善太は白い鳥を見たという処だし、お母さんは線香を立てておがむ処だし、三平も何か不思議なものを見るに違いない。そう思って、恐い処だけれども、ある日三平はそこにやって来た。
「ちょっとも恐くないや。」
家を出るから、彼はそう口に出して言ったのである。
「走ってやれい。」
その証拠には、彼はこう言って走りさえしたのである。そうして樹の下に駆けつけると、樹の周囲をグルリと廻って、上から下まで見上げ見下ろししたのである。それから、祠の前に立って、その瓦の小さいお宮をじっと眺めた。何にもない。鳥もいなければ、声も聞えない。でも、もっとよく聞いてみなければ、また、もっとよく見てみなければ、何かがあるかも知れないぞ。それで、三平は立ったまま、じっと耳をすましていた。
と、そうだ。チリ、チリ、チリ、虫の声が聞えて来た。コオロギの声である。声を尋ねて見廻すと、これは祠の中から聞えている。そこでしゃがんで、身体《からだ》をすくめて覗《のぞ》き込むと、小暗い瓦のお宮の中の片隅に、コオロギはまぶたのない二つの目を開き、長いヒゲを前にさし出し、鳴くのをやめて、三平の方をじっと見ている。祠の中は瓦も土も白く乾いている。
さて、この時三平は思ったのである。
「これが神様かも知れない。」
そこで三平はそのコオロギの前に頭を下げた。自然に目がつぶられ、自然に手が合わされた。次に目をあけて見たが、コオロギはやはり前の通り、まぶたのない二つの目で、三平の方を眺め、長いヒゲを前につき出していた。三平は満足して立上り、ゆっくり家の方に歩いて来た。
「お母さん。」
家に戻ると、彼は言ったのである。
「僕、今日神様見ちゃった。」
「へえ、どんなだった。」
「松の樹んとこでね。」
「松の樹?」
「ウウン、あの田圃の松の樹のとこでよ。」
「ああ、あそこ。」
「ウン、あの松の樹の下にお宮があるでしょう。」
「ああ、ある、ある。」
「あのお宮を覗いたら、いるのさ。」
「何が。」
「神さまさ。」
「フーン。」
「チリチリ、チリチリって鳴いていた。」
「へえ、面白い神様ね。」
「ウン、とても面白いの。僕を見て、ヒゲを動かしたり、ピンピン飛んで見せたりするのさ。」
「へえ、全く面白い神さまね。」
「ウン、そりゃ面白いんだ。ヒゲが長いのさ。足だって、とても長いんだよ。だから跳ねたら、二メートルくらい一飛びさ。」
「へえ――。」
母さんは全く驚いてしまった。
夏のある日、雨が降って雷が鳴った。大きな雷で、空の上で何か大変なものが引き裂かれたりしたような音であった。その一つが松の樹の上に落ちた――と、そう思われた。何しろ金のキラキラする線が松の樹の上の空から、そこの岩のような雲の塊から、下へ向けて地図の国境のような線を引いたのである。
「松の樹だ。きっと松の樹だ。」
みんなが口々に言った。
善太と三平は雷のやむのを待っていた。やんだら直ぐ松の樹の処へ行ってみよう。雷はどんなにして落ちているだろう。というより落ちてどんなになっているだろう。土に穴を開けて、中にもぐり込んでしまっているか。それとも! といってみたところでも解らない。雷の正体を知っているものはないのだから。みんなは雷獣ってものがいるというのだし、学校の先生は、雷とは電気の作用であるというのだし、だから、一時も早く雷の落ちたところを見たいものである。そう考えて、善太と三平は二階の窓から松の樹の方を眺め、トントン足踏みをして待っていたのである。
ト、雷がやんで、雨があがった。そして松の樹の上あたりにうっすらと虹《にじ》が立った。それを見ると、そら行けと、二人は競争で門を駆け出した。道のたまり水を跳ね飛ばして駆けつけてみると、何のことだろう。虹は遠くの空へ行って、見えるか見えないくらいに、はかなげに消えかかり、松の樹の何処《どこ》にも雷の跡はない。
道に立ち、樹を見上げて、二人はちょっとぼんやりした。と、その時、三平が善太を肘《ひじ》で小さくこづいた。
「え?」
善太が三平の方に顔を傾けた。三平がそっと指でさし示した。祠の彼方《むこう》の草の中である。
「お?」
善太は驚いたような表情をする、まだ解らないでいるのである。
「草の中で、魚がはねてるだろう。」
三平が小さい声で知らせてやる。
「ウン? ああ、あれか。何だい。おれア雷かと思ったあ。」
が、雷でないにしても、これは不思議なことである。雨のあとで水かさが増した田圃のすぐ側であるとは言え、何にしても陸の草の中である。そこで大きな魚がピンピン上に、一尺も二尺も跳ね上っているのである。しかも、雷さまの落ちた後である。
「兄チャン、どうする?」
「とるさあ。」
「とってもいい?」
「いいさあ。」
「雷が怒るよ。」
「馬鹿ッ。」
善太は一人でいる時より、弟といる時の方が大人らしくて、大胆で常識家である。
「じゃ、何でとる?」
三平はまた善太といる時の方が子供らしく小胆である。
「手でとるさ。」
「じゃ、とって御覧。」
「わけないや。」
善太は露にぬれた草を分けて進み入った。
「やあ、大きいぞう。鯉だ。鯉だ。」
わけなく彼は鯉を両手で押さえ付けた。バタバタするのを前に抱えて、道の方へ出て来たのである。一尺もある鯉である。何だか、目を白黒させているようである。口をパクパクさせていることは確かだ。尻《し》ッぽもパタリパタリするのである。
「ねえ。」
大得意で、善太は三平にそれを示した。それから、
「行こう。」
と善太が帰りを促して行きかかった時、また三平が言ったのである。
「兄チャン。」
振返ると、おや、また三平は松の下の祠の近くに立ち、何かそこにいるような様子を示しているのである。
近よってみると、何と、これは一匹の蟹《かに》である。しかも、大きな川蟹である。身体に毛の生えているような奴である。それが祠の上にのっかり、爪を高くさし上げて、じりじりと動こうとしているのである。
「なあんだ。」
善太は言いました。
「どうする?」
また三平は聞くのである。
「ウン。」
と言ったものの、こん度は善太も一寸《ちよつと》恐ろしい。毛の生えた蟹である。しかも爪を立てている。その上、神さまの祠の上にかまえているのだ。
「どうする?」
三平はまた聞くのである。
「いいや、あんなの、捨てとこう。」
こうなれば、帰りが急《せ》かれる二人は道をまた水を跳ね散らかして駆け駆けした。
大分駆けてから、二人が歩き始めた時、三平が言った。
「僕にも持たせてよ。」
「ウン、落すなよ。」
鯉を持つと、三平は俄かにおしゃべりになった。
「ねえ、さっきの蟹ね、あれ、きっと雷の家来だよ。」
「馬鹿ッ。」
「どうして?」
「どうしてって、そんなことあるかい。」
「ありますよッ。」
「じゃ、その訳を言ってみろ。その訳を。」
「だって、雷が落ちたろう。そこへ行ってみたら、その落ちた処にいたんだろう。それがその訳さ。」
「そんな訳って、あるかい。」
「ありますよッ。」
「じゃア、お母さんに聞いてみよう。」
「ああ、聞いてみよう。もし、雷の家来だったらどうする。」
「どうもしないよ。だってさ、雷の家来なんてありっこないもん。」
「あるさ。あるとも、きっとある。」
「じゃ、もし、なかったら、拳骨《げんこつ》だぞ。」
「ああ、あったら、僕の方も拳骨だよ。」
「あああ。」
「あああ。」
二人は大急行で、お母さんのいる家の方へ駆け出した。そして二人は門の前から、
「お母さん――。」
「お母さん――。」
と大声で呼びながら駆け込んで行った。
「拳骨だから――。」
「拳骨だから――。」
二人とも、相手に勝つことばかり考えて、こんなことを言い合いながら、台所の方でお母さんをさがした。
ビワの実
山の麓《ふもと》の藪陰《やぶかげ》に一人の木こりが住んでいました。名を金十と言いました。ある春の夜のことでした。金十は窓の下でぐうぐうぐうぐうねていました。すると、夜中頃に月の光がその窓からあかあかと金十の上にさして来ました。金十はそれで目がさめました。目がさめると、ビワの実のことを思い出しました。
そのビワの実というのは桃くらいもある大きなビワの実でした。そして金色に光って、薄い粉がふいていました。それを今朝金十は山へ行く途中、朝日の輝く道端の草の中に見付けました。
「はて、何の実だろう。」
金十は驚いてしまって、一時は手にも取り上げず、首をかしげて眺め入りました。
「桃にしては色が違う。ミカンにしては皮が薄い。何か怖《おそ》ろしい山の鳥の卵とでもいうのではないだろうか。鳳凰《ほうおう》の卵というのはまだ見たことも聞いたこともないけれど、もしかしたら、こんな美しい木の実のようなものではないだろうか。そうででもなけりゃ、こんなところに、こんなものの落ちている筈がないじゃないか。」
金十は一人で考えました。
「が、待て待て。手にとってみるくらい構やしないだろう。卵などだったら、もとのところへ置いとくばかりだ。」
そこで金十はあたりを見廻して言いました。
「へい、ちょいと、見せて貰います。見るばかりです。盗《と》ったりなんどするのじゃありません。」
で、拾い上げて、目の前に持って来ました。鼻の前に持って来て、匂いをかいでもみたのです。いい匂いです。それに何て重いことでしょう。まるでほんものの金のような重さです。しかし尻のところを返してみると、ちゃんと果物についている|へた《ヽヽ》が喰っついておりました。
「やっぱり木の実だな。すると、この実のなる木がこの辺に、この山の中にあるという訳だ。もしないとするなれば、この実を喰わえて大きな鳥が、いや、小さい鳥なんかでこの実の喰わえられる訳がないから、それはどうしても鷹《たか》や鷲《わし》くらいの鳥が、これを喰わえて飛んで来た。いやいや、これも一つじゃないだろう。これが房のようになっている十も二十もの枝を喰わえて飛んでたろう。すると、丁度この上の辺で、その中の一つが何かの拍子で、ポロリと一つ落っこちた。これがそれ、この美しいこの実なのだ。とすると、この一つくらいおれが貰ったからと言っても罰はあたらない。放っておけば、他の鳥に喰われるか、それとも雨に打たれて腐ってしまうか、とにかくいいことになる筈はないのだから。」
こんなことを長々と金十は一人で考えました。そしてここ迄《まで》思いつづけると腰の手拭を引きぬきました。その端でその実をシッカリ包みました。包んだ上に一つの結目をつくりました。そしてこれをまた腰のところに結びつけました。
木を切るところに行ってからも、金十はその実を大切にして、手拭のまま近くの木の枝にぶら下げて置きました。間もなく、一本の木を切り倒して、一ぷくしようとして気がつきますと、大切な木の実の下げてある枝の上に、一匹の栗鼠《りす》がやって来て、しきりにチョロチョロ駆け廻っております。
「あれ、奴さん、何してやがる。」
こう言ったのですが、栗鼠はその手拭の結目を噛《か》み切ろうとしておりました。
「大変大変、そんなことさせて、堪るものかい。」と、金十は大急ぎで、その手拭を枝からはずし今度は長い竹の棒の上にくくり付けて、その棒を土の上に突き立てて置きました。
「どうだい。もう栗鼠が何べん来たって取れっこない。」
こんなことを言ったのでしたが、しばらくして気がつくと、今度はどうでしょう、沢山の、いや三羽ばかりの山雀《やまがら》が、その竿《さお》の上でバタバタ、バタバタやっておりました。やはり手拭からその木の実を取って逃げようとしているのでした。これを見ると、
「こうらあ、雀の馬鹿野郎。」
金十は大きな声をして、持っていた斧《おの》を雀の方に高く振りかざして見せました。
「どうもこりゃ油断ならん。」
金十は雀を追っ払らうと、今度は斧で土を掘って、その中に木の実を入れました。そしてその上に大きな石を手にして載せかけて置きました。そうしておけば大丈夫です。それから晩まで、仕事の切れ目切れ目に、金十は石をのけて覗き込みましたが、栗鼠も雀ももうそこ迄は力が及びません。
日暮れになったとき、金十は朝来たときのように斧をかつぎ、腰にはその実をぶら下げて上機嫌で、麓の藪陰の藁屋《わらや》の家に帰って来ました。
「まず斧をしまって、晩めしを食べて、それからゆるゆるこの木の実を食べるとしよう。」
金十はそう思って、それを大切に戸棚の中にしまいこみました。そして晩めしの仕度にかかりました。ところが、晩めしがすむと、どうしたことでしょう。もう眠くて眠くて、美しい木の実なんか、思い出しもしない程で、とうとう蒲団もしかないで、窓の下に横になってしまいました。そうすると、もうそれきりぐうぐう眠ってしまいました。
それが今、夜中頃に月の光がさして来るとふと目がさめて来ました。目がさめると、その不思議な木の実を思い出しました。
「おお、そうじゃ、あれを食べてみなくちゃ。」
こう言うと、跳ねるように起き上って、戸棚の戸を引き開けました。もしかしたら、鼠なんかに齧じられていはしないかと心配しましたが、やっぱり朝の通り、金色に光って、白い皿の上に、とてもいい匂いで載っかっておりました。
「あったぞ。あったぞ。」
金十はこれを皿ごと取出して、月の照らす窓のところへ持って来て、しばらくじっと眺めました。どうもそのまま食べてしまうのは、惜しいような気がしてなりません。
「だが、実は食べても、種をまいとけばいいだろう。そうだ。そうだ。」
自分で言って、自分で答えて、それから思い切って、金十はそれを口へ持って行きました。そして歯形を立てたか立てないに、もう口の内は果物の汁で一杯になりました。甘くて、酸っぱくて、そしていい匂いがして、ちょうどそれはビワの実のような味でした。それを金十はゴクリゴクリと飲みほしました。そしてまたその実を口に持って行くと、やはり歯形を立てるか立てないかに、もう口の内がおいしい汁で一杯になりました。一杯になった上、早く飲まないと、胸の方へ流れ落ちそうになりました。金十は息をする間もなく、それを何度飲みほしたことでしょう。十度も二十度も飲んだようにも思えれば、ほんのちょっと、いえ、たった一度飲んだようにも思えました。何にしても、そのおいしさは、くらべるものもありません。しかしそれが何と、見る間に種ばかりになってしまったのです。金十はそれでしばらくその種を皿の上に載っけて、その皿を窓の敷居の上に置いたままじっと考えつづけておりました。
「あああ、おいしかった。何にしても、おいしい果物だ。」
そんなことばかりを考えつづけたのです。しかしいつ迄もそうもしてはいられません。そこで皿の上にあった一つの種を手にとると、月の光に照らされた前の庭へ下りて行きました。そしてそこの真中の、ちょうど窓の前になるところに鍬《くわ》でもって土を少し掘って、その種を中に埋めました。埋めると、上の土をよく足で踏みつけて、それからまた窓の下に帰りました。
「もうこれでいい。明日ぐらい芽を出すかもしれないぞ。」
そんなことを思って、横になって目をつぶりました。ところが、少しするとどうでしょう。その種を埋めた土の上に、もう木の芽生えが小さい二葉をのぞけました。二葉がのぞいたと思うと、それはもうパッと四つの葉になりました。
四つの葉になったと思うと、今度は幹がすいすいと延び始めました。延びるに従って、何枚もの葉がパッパッと開きます。葉が開くにつれて、今度は枝がチョキン、チョキンとついて行きます。
いや、どうも不思議なことです。とうとうその木は見ている間に、見上げるような大木になってしまいました。大木になったばかりか、見ていると、それが一時にパッと空一面に花を開きました。白くそして桃色の、ちょうど桜の花のようでありました。
と、それが十分間とたたないうちに、ホロホロと、まるで雨が降るように散り始めました。花が散ってしまうと次にはサッと枝々に枝もたわむほど沢山のそして美事に金色のビワの実のようなその不思議な木の実がなりました。月の光を受けて、何百何千というその実がどんなに美しかったことでありましょう。金十はただもう息もつけずに、これをじっと眺めているばかりでありました。すると、そのときバタバタと音がしまして、一羽の鳥がその木の下へ飛んで来ました。
これが鳳凰というのでしょうか。お宮のお祭のときの御輿《みこし》の上についているあの飾りのような鳥でした。それが木の下をキラキラ光りながら歩き始めました。と、またバタバタと音がしました。また一羽の鳳凰が飛んで来たのです。
それが木の下に下りると、つづいてまた音がしました。そうして、鳳凰はとうとう二十羽ばかりも飛んで来ました。それが木の下を歩き廻る様子はこれこそ金屏風《きんびようぶ》に画かれた絵であるかと思われるようでありました。
ところが、その次にとんだことが起りました。その鳳凰が一時にバッとたち上ったのです。みんな木の上の、あちらこちらの枝の上にとまってしまったのです。そして急がしく首を動かせて、その金色の実を食べ始めたのです。どうしたらいいでしょう。と言っても、どうすることも出来ません。何しろ神様のように尊い見たこともない鳥のことです。金十はやはりじっと眺めているばかりでした。
金色の実は一つ一つ、しかも見る間に枝の上から消えて行きました。そしてそれが一つ残らず無くなってしまうと、バッと大きな、大風のような音がしました。一時に二十羽の鳳凰が飛び立ったのです。それは月の光の中をキラキラ光りながら、空の遠くへ金色の雲のようになって飛んで行ってしまいました。
後には大きな幹とその枝と、それからだらりと垂れたまばらな葉ばかり残りました。まるで夢のようなことでした。しばらく経って、
「もう一つもないのかしらん。」
金十はそう言って、初めて窓のところから立上りました。そして木の下へ行って、ぐるりをぐるぐる廻りながら、その枝や葉の間を見上げて歩きました。
「あれえ。」
金十は一ところで足をとめました。何だか一枚の葉の陰に小さな小さな豆のような小粒の実がまだ一つ残っているようです。
「違うかしらん。」
そう言っているうちに、あれあれ、それが次第に大きくなり始めました。もう桃ぐらいになりました。もう夏ミカンほどになりました。もう、西瓜《すいか》のようになりました。それにつれて、その細い枝が段々下にたわんで来ました。
これはこうしておれません。放っておくと枝が折れるか、実が下に落ちて来て、土の上でつぶれるか、大変なことになりそうです。
そこで金十は大急ぎで、家の中から長い杭《くい》と槌《つち》とを持って来て、その実の下に四本柱のやぐらのようなものを造りました。そしてその上に板を渡して、それで、その実を支えました。こうしておけば、実が樽《たる》のように大きくなっても大丈夫です。いやいや、それどころでありません。その実は、そのときもう樽のようになっておりました。樽も樽、四斗入の樽のようになっていました。そしてまだまだぐんぐんぐんぐんぐんぐんふくらまって行きました。
「や、どうも大変なことになってしまった。」
金十はうろたえました。今にやぐらが金色のまん円い家のような実の下で押しつぶされてしまうかも知れません。と言ったところでもう今となっては、どうすることも出来ません。
それを見上げて、はあー、はあーと大息をついているばかりです。ところがまた不思議なことが起りました。大人三人で、やっと抱えられるくらいの大きさになったときでした。その実はふと大きくなるのを止《や》めました。
「ああ、やれやれ。」
金十はやっと安心しました。安心すると、一時に疲れが出て来ました。そこに立っておれないほど、身体がだるくなって来ました。そこで、
「何もかも明日のことだい。」
そんなことを言って、また家の中の窓の側に帰って行きました。そこで横になって眠ろうとしたときであります。ドシーンと大きな音が外でしました。びっくりして覗いてみると、おやおや、今度は大きな大きな蟇《がま》が一匹、金の実の下に大ように両手をついて、目をパチクリやりながらひかえております。
「ハッハハハハ。」
金十はつい笑い出してしまいました。蟇の様子が何としてもおかしいのです。しかし蟇はニッコリともせず、両手は両方に拡げてついたまま、すまし返って動きません。どうしようと言うのでしょう。あの大きな口を開けて、金の実をパクリと一口にやってしまおうというのでしょうか。いえいえ、そうではありません。そのとき例の藪陰から一匹の大狐がピョンと一跳ね飛んで出て、金の実のやぐらの上に跳ね上りそうにいたしました。と、これを見た蟇が、ワッと大きな口を開けました。狐の十匹も入りそうな大口です。や、これを見た狐が一方どんなに驚いたことでしょう。キャンと啼声《なきごえ》を出すと一緒に、また元の藪の中へ大急ぎで跳ね入ってしまいました。
狐が入ると、今度こそというのでしょうか、三メートルもある一匹の大蛇が蟇の後ろからそろりそろりと這《は》い寄りました。すると今度は蟇がよちよちと向きを変えて、蛇の方に向いたと思うと、やはり大きな口をパクッと開けました。蛇もまた驚きました。起していた鎌首を宙に高く立てましたが、それと同時に、やはり元来た方へ、飛びつくように跳ね入りました。
つまり蟇は何処から来たのか、この金の実の番を引受けることになったのです。
これを見ると、金十は一層疲れがまして来てもう立ってもいてもいられなくなり、とうとうそこに横になり、月の光に照らされながら、ぐうぐうぐうぐういびきをかいて、深い眠りに入りました。
ところで、どうでしょう。今迄のことはすべて金十の夢ではありますまいか。夢でなければ、目がさめても、その金の実がある訳ですが。
あるでしょうか?
ないでしょうか?
どっちでしょうか?
おどる魚
雨があがりました。そして遠くの丘の上に美しい虹《にじ》が立ちました。これを見ると、三平は俄《にわ》かに外へ出たくなりました。だって、こんな虹の日には、川や溝《みぞ》にそれは沢山の魚が居るのですもの。
三平は網をかつぎました。籠《かご》を腰に下げました。そして跣足《はだし》になって、外へ飛び出しました。川へ行く道々、三平は考えました。
「今日はどんな魚がとれるだろう。鯛《たい》、章魚《たこ》。」
いいえ、こんな鯛だの、章魚だのは川に住んではおりません。
「じゃ、鯨《くじら》。」
いいえ、いいえ、鯨となると、大海も大海、太平洋のような大きな海でないと住んでいません。それに長さ十メートルも二十メートルもある大きなものですから、三平なんぞに、とても取れっこありません。
「じゃ、やっぱり鯉にしよう。一メートルもある大鯉。跳ねるだろうな。もしかしたら、五メートルも十メートルも跳ね上るかも知れないぞ。だって構わないや。落ちて来る処に籠を受けさえすれば、網をつかわなくても、どんどん籠の中へ入ってしまわあ。」
一人でそんなことを考えたり言ったりしている内に、もう川の側へやって来ました。川には両岸にところどころ柳が生えていて、青々と茂ったその葉が川の上で幾つもトンネルのようになっていました。そのトンネルの下を水が一杯、もり上るようになって流れていました。しかし雨の後なもので、今日はその水が少し濁っていました。濁っていなければ、きっと沢山の魚が、そうです、一メートルの鯉や、それから、ひげを生やした鯰《なまず》や、大きなハサミを持ってる蟹《かに》や、それから子供のような鮒《ふな》などが運動会のように喜んで遊んでいるのが見られるのです。でも、この川は幅も広く、底も深く、三平の網ではどうすることも出来ません。三平の魚をとるのは、この川から側の田圃《たんぼ》の方へついている小さな溝なんです。それは田圃へ水を入れる水口で、幅も長さも五十センチくらいなものでした。その一方に網を受け、一方から足を入れて、ザブザブザブと追い立てるのです。逃げ場を失った魚が網の中へ飛び込むという訳でした。
「さあ、どうだ。ザブザブザブ、鯉入ってろ。」
まず第一の水口をやってみました。網を上げると、や、いました、いました。鯰です。ヒゲをはやした鯰です。網の中でおどっております。ピンピン跳ねております。そこで三平は道の上に網を置き、両手でその鯰を押さえ付けました。押さえ付けてみると、長さ十センチ、思った程大きくありません。ヒゲは生やしていても、今年生れたばかりのまだ一つの鯰の子供です。でも、それを籠に入れました。
「さあ、こん度はどうだ。」
次の水口へ行きました。
「ザブザブザブ、鰻《うなぎ》入ってろ。一メートルの大うなぎ。焼いてもらって食べてやる。」
網を上げると、何だか二匹も三匹も跳ねてるものが入っています。何でしょう。何だか小さい魚らしいです。網を道の上に置いてみますと、三匹の子供の鮒です。五センチほどもありません。でも、まあいいことにいたしましょう。三匹も入っていたのですもの。また籠の中に入れました。
「次は蟹だ。どうしても蟹を取る。」
三平は言いました。しかし考えてみますと、蟹にはハサム爪があります。大きな爪で指をはさまれたら、チョキンと切れてしまうかも知れません。だったら、亀の方がいいでしょうか。小さい可愛らしい亀。それなら幾匹とれてもよろしいが、でもまた亀の中にはスッポンというものがいて、これは人間に噛《か》み付きます。噛んだら、亀の首がちぎれてもはなさないそうです。じゃ、やっぱり鯉の方がよろしい。
「鯉よおれい、鯉。」
こうして三平は溝口を次から次へ、網を受けては追い、受けては追いして行きました。そして一つの石橋の処まで来た時には、もう籠の中に鮒を二十、鯰を三匹もとっていました。鮒の中には二十センチからある大鮒もいました。そんなのがみな一緒になって、籠の中でバタバタと跳ねたりおどったりしていました。鯉はいなくても、こんなにとれたら、いいではありませんか。それで三平は橋の上に腰をかけ、足を水の上に垂らして、しばらく休むことにいたしました。籠も水の中につけて、魚を泳がせてやりました。
そうして川下の方を眺めますと、いつの間に立ったのでしょう。川岸の柳の木の上にうすく一筋の虹が、まるで消えかかるようにして残っておりました。
「今消える。今消える。今消える。」
三平は口の内で言ってみました。その内、だんだん虹は消えて行きました。丁度虹が消えてしまった時であります。その虹の立っていた柳の木の根元の草の中で、何だか銀色に光っているものが見えました。何でしょう。大きなものです。しかも、これが跳ねております。ポンポン一メートルも上へ跳ね上っております。
「鯉だッ。きっと、そうだ。」
三平は籠を下げて、網をかついで駈け出しました。近よれば近よる程、とても大きなほんとうの鯉です。やはりポンポン跳ねております。そこを駈け寄って、網をばさりと冠《かぶ》せました。「やあい、大鯉だあ。」
ところが、冠せた網の上からシッカリ押さえ付けて、よく見ますと、側の草の中で動くものがあります。それが大きな蟹でした。蟹は大きな爪を立てて、ハサミを開いておりました。鯉と戦争でもしていたのでしょうか。それとも鯉と二人で草の中で遊んでいたのでありましょうか。でも、三平は蟹は恐いので捨てておいて、鯉だけ網に入れ、大喜びで家に帰ってまいりました。
善太の手紙
善太の処へある日|樺太《からふと》へ行っているお父さんから手紙が来ました。
「お父さんは近い内に東京へ帰ります。それで善太に何をお土産にしようかと考えています。しかし田舎のことだから立派な玩具《おもちや》なぞはありません。田舎のもので欲しいものがあったら云って来なさい。」
善太は直ぐ返事を書きました。
「僕はもう四年生ですから、玩具などはいりません。それより狐を一匹捕って来て下さい。生きた狐を箱に入れて来て下さい。小さい狐でかまいません。僕この間本を読んでいたら狐の嫁入りというのが書いてありました。田舎では日が照っている時雨が降ると狐らが行列をつくって、森から森へ嫁入りというのをするのだそうですね。お嫁さんはカゴに乗って前には提灯《ちようちん》を持った狐が二匹人間に化けて歩くんだそうですね。後にはタンスやナガモチや沢山の荷物をかついだ狐がつづいて行くのだそうですね。僕、狐がそんな遊戯をするのを見たくてたまりません。そんな化ける狐を一匹是非捕えて来て下さい。活動写真や芝居なんかより、その方がどんなに面白いか解りません。僕、友達にも話したので、みんなでそれは楽しみにして待っております。」
間もなく、お父さんから返事が来ました。
「困ったことに、この樺太の田舎にもそういう狐はもういなくなったのです。昔は狐もノンキでそんなことをして遊んだようですけれど、今頃は鉄砲が出来たせいか、狐は村どころか、人間の目につく処へも出て来ません。それに化けるということにもずいぶん練習がいると見え、今頃のように早く鉄砲で打たれては、狐も上手になる暇がないのでしょう。お父さんもまだここで一度も狐の嫁入りを見たことがないのです。それで、狐より、生きたものなら、鯉や鳥などはどうだろう。急いで返事を下さい。」
これを見ると、善太は直ぐまた返事を書きました。
「お父さん、鯉でもかまいません。しかし鯉なら、僕が背中に乗れるようなのを持って帰って下さい。お話の本を見ると、鯉の滝上りとか云って、子供が鯉に跨《また》がって、大きな滝にのぼって行くのがあるではありませんか。僕、この頃近くのプールへ通っているので、鯉に乗って泳いだらどんなに面白いだろうと考えました。もし、そんなのが二匹いたら、二匹持って帰って下さい。僕、清水君にも貸してやって二人で競争したいと思います。」
お父さんからの返事が来ました。
「どうも困ったことです。鯉もいつ頃からか人間と仲が悪くなったと見え、人間を見ると逃げてばかりいるのです。昔のように子供と仲よくする鯉など何処《どこ》をさがしてもいないようです。これは鯉をとってはさしみにしたり吸物にしたりする人間が悪いのだから仕方がありません。お父さんは鳥ならいいと思うのだが、どうでしょう。」
それで善太は返事を書きました。
「お父さん、僕もやはり鳥がいいと思います。それでもう他に何もいりませんから、大きな鳥を捕って来て下さい。昔の狐のように化けなくても、昔の鯉のように人間と仲よしでなくともよろしい。でも首が長くて、羽根の大きい鳥にして下さい。あれはきっと鶴という鳥だと思うのですけれども、昔は仙人と云って、髯《ひげ》の長いおじいさんが、杖《つえ》をもってその背中に腰をかけ、雲の上などを飛んだらしいのです。僕、そんなに高く飛ぼうとは思いません。ついらくしたら危ないですから。しかし池の上から二三尺の低空飛行をやってみたいのです。」
お父さんはそれから間もなく帰って来ました。お土産は何だったでしょう。それは大きな犬でした。そりを引く犬で、東京でも善太のために自転車の前の綱を引いて走りました。
早い時計
青山君は小学校の三年生でしたが、学校の時間が永くて困りました。ことに、三時間目の丁度おひるの前の時間など、お腹がすいているのに、とてもたち方がのろいのです。どうしてでしょう。これは時計の針の廻り方がおそいせいでしょうか。どうかして、この時計というものを早く廻るようにすることは出来ませんでしょうか。それには、学校の時計ばかりが早くなっても、何の役にもたちません。直ぐ、
「これは時計がくるった。」
と言って直されてしまいます。どうしたらいいでしょう。それで、お父さんにおたずねしてみますと、
「ウン、そんなことは、天文台の人に聞いてみなさい。」
と言われました。天文台には、色々な機械があって、いつも太陽や星が空をうごいて行くのをしらべていました。つまり時間というのは、太陽の廻り方がもとになっているのでした。
それで、ある日、青山君は天文台へ出かけて行きました。そこでえらい天文の博士にあいました。そして、
「おじさん、僕、時間がのろくて仕方がないのです。も少し早くたつようにして下さい。」
そう言って頼みました。すると、
「ふーん、それは大変むつかしいことだな。が、しかし十年だけならやってもいい。」
その博士が言うのでした。
「十年って、おじさん、何ですか。」
そう聞きますと、
「ウン、今の時計でね、一時間の間に十年たってしまう訳だな。」
「へえ、すると、僕、一時間の中《うち》に二十になるんですね。やあ、面白い。」
「じゃ、一つやってみるかね。」
「え、一つやってみて下さい。」
それから青山君は博士につれられて、奥の方の高い建物の上へ登って行きました。そこには空を見る望遠鏡という大きな大砲のような眼鏡がありました。博士に言われて、それを覗《のぞ》いてみますと、
「あれあれ。」
大きな空が見えるではありませんか、その空の真中にギラギラ光っているものがあります。それから二本の針が出ております。丁度時計のように長いのと短い針です。その針のさしているところに、ピカリピカリ、とても美しく光っているものがあります。その真中で光っているのは、それはお日様だそうであります。そのまわりを囲んで、まん円く幾つとなく小さく光っているのは、それはお星様だそうであります。つまり、太陽と星なのです。その太陽がまわるにつれて、針が動くしかけです。長い針が一廻りするのが一年だそうです。短い針が一廻りするのが十年だそうです。
「解ったかね。」
博士はそう言いました。
「解ったら、これを持って、下の庭の芝生の側におきなさい、その上に少し土をかけてね、君はじっと見てるんだよ。どんなことがあっても、決してビックリするんじゃないよ。何しろ、一度に十年たてるのだからね。」
青山君は博士に樫《かし》の木の種のようなものを貰いました。そこでそれを持って、下に見える庭へ下りて行きました。言われた通りに、芝生の側の土の上に置き、ちょっと土をかけました。そして側にしゃがんで、じっとこれを眺めていました。
と、大変です。何だか、大風でも起ったように、まわりのものが動き始めたのです。何とも解らない大きな音も起って来たのです。ビックリするなと言われていても、ビックリせずにはいられません。それで顔をあげて、空を見ますと、今迄真上にあった太陽がまるで流れ星のような勢いでスーと西の方へ飛んで行きます。そして直ぐ西の山の彼方へ隠れてしまいました。それと同時に、まるで電燈がつくように空にパッとお星様が出ました。それがキラキラ光りました。光ったと思うと、どうでしょう。もう太陽が東の山からのぞきました。朝になったのです。星の光はサッと消えました。蒼《あお》い空です。その上をまた太陽が流星のようにスーッと西の山へ飛んで行きます。それが入ると、またパッと何万という星の電燈、と、またすぐに朝の太陽です。
あっという間もありません。
ところが、目の前の木の種はどうでしょう。見ている前で、ムクムク土が動きました。もう二葉の芽生えが出て来ました。これは直ぐ一センチ二センチ、いや十センチ二十センチと延びました。延びる間に、青葉がパッパッと枝につきました。いや、枝だって、まるで手をつきだすように活溌《かつぱつ》に出て来ました。枝が出ると、直ぐ葉がつくのです。葉が出ると、花が咲くのです。咲いた花は直ぐ散るのです。花が散ると、葉も散ります。葉が散ると、おやおや、その上に白いものがチラチラ、雪が降って来たのです。と、思う間に、もう暑くなりました。
その時でした。上の建物から博士の声が聞えて来ました。
「青山君、一年たったぜ。」
しかしどうでしょう。これでは勉強する間がないではありませんか。青山君は困ってしまって、
「先生もういいですいいです。」と答えました。これから青山君はよく勉強するよい子供になりました。
太郎の望み
昔のお話を読みますと、沢山面白いことが書いてあります。神様が人間の処へやって来て、「お前何になりたいか。それとも何が欲しいか。三つだけは叶《かな》えてやる」こんなことを云ったものです。しかし今はもう神様なんてなくなったのでしょうか。学校でも家でも、村の中でも、そんなことを話している人は一人もありません。新聞にだって、こんなことの書いてあったことは一度もないそうです。神様は死んでしまったのでしょうか。それとも人間を棄てて、何処《どこ》かへ行ってしまったのでしょうか。それともまたもう人間を相手にすることをやめてしまったのでしょうか。
一度でいいから、神様に云われてみたいものです。
「何でもお前の欲しいものを云ってみなさい。」
太郎は村の牛乳屋の小僧でした。朝は三時から起き、晩は九時にねるのです。仕事がえらくてなりません。そうして、その眠いことと云ったら、一寸《ちよつと》でも腰を下ろせば、直ぐもう目がふさがって、コクリコクリと居眠りがつきます。そこへ持って来て、そこの親方のやかましさと来たら、――これを考えるだけでも、神様があったらなあ、と思わずにいられません。
ある日のこと、彼は籠《かご》を背負って、山の池へ出かけました。池の土手の草を刈るのです。それに三匹の山羊《やぎ》をつれておりました。これも草をどっさり食べさせなければなりません。朝七時頃のことでした。まず土手の上に山羊を放してやりました。それから背中の籠を下ろし、鎌と砥石《といし》を側に置き、長々と草の上に身を伸ばしました。あああ、ちょっと、十分ほど休みたい。極楽極楽。そう思って、露で着物や顔がぬれるのもかまわず、太郎は仰向《あおむ》けになって、晴れた空を見上げました。すると、自然に目がふさがって来ました。
昔ならこんな時、神様はやって来られました。
「草刈の太郎、お前は正直か。」
もし神様が聞かれたら?
「へえ、私は不正直が恐ろしゅうてなりません。けれど、神様、正直一つに頼っていればええので御座んしょうか。」
「ええとも、しかしお前は怠けたいか。」
「どういたしまして、怠けるどころか。朝三時から夜九時迄、三十分と休むことはありません。」
「よろしい。」
「へえ、よろしゅう御座いますか。正直で働いておれば、それでもうよろしいので御座いますか。」
「ウン、それでええ。」
「へ、へい。」
太郎は待っていました。その次、神様が何と云われるかと――。しかし神様はそれきり何とも云われません。待っても待っても、云われません。云われない筈です。神様なんか何処にも居られないのです。唯だちょっと、太郎がこんなことを考えてみたばかりです。そこで太郎ががっかりして、寝返りを致しました。そしてひとりごとを云いました。
「あああ、正直で働くのか。働くばかりなんか。」
その時のことです。池の上に虹《にじ》が立ちました。虹の中に鶴のように白いものが見えました。太郎はまぶしくて目が開けていられません。
「草刈りの太郎。」
おお、今度はほんとうの神様のようです。
「何が欲しいか。何になりたいか。一つだけ、かなえてやるぞ。」
「へい。」
これは有難い。ほんとうの神様が来て下さった。こんなだったら、お願いすることを何か考えておけばよかった。着物がいいだろうか。下駄がいいだろうか。|ようかん《ヽヽヽヽ》がいいだろうか。キャラメルがいいだろうか。いやいや、そんなことより巡査になったものか。兵隊になったものか。それとも、内の旦那のように、お金持になったものだろうか。こまったなあ。今直ぐ返事をすると云っても、直ぐには、考えつかないもの。
「神様、どうも直ぐ直ぐ云っては、何が何だか考えつきませんが、しばらく考えさせて下さいませんか。」
「よしよし、いくらでも考えるがいい。」
「ああ、ありがたい。それでは、何でもよろしゅう御座いましょうか。」
「ウン、何でも、お前の望みのこと、一つは、かならず叶えてやる。」
「へい、それでは、お金でも戴けましょうか。」
「ウン、お金であろうと、家であろうと、この国でさえ、お前が望みなら、お前のものにしてやるぞ。」
「ああ、有難い。この国でもですか。」
「そうじゃ。」
「この山でも、この森でも、この川でも、この池でも――。」
「そうじぁ。」
「ああ、有難い。しかし神様、この国を戴いて、私はどうしましたらよろしいのでしょう。」
「さあ、それはお前のものじゃ。思う通りにするがよい。」
「困ったなあ。どうしていいか解りゃしない。そうすりゃ国なんてつまらないものじぁ。やっぱりお金がいいかしらん。お金がありゃ欲しいものは何でも買える。しかしお金で兵隊さんになる訳にゃ行かない。そうすると、兵隊さんのえらいのがいいかしらん。しかし|おれ《ヽヽ》が兵隊さんになったって何が出来る。そうじぁ。」
こんなことを考えている時、池の水の上を一羽の雀が飛んで行きました。
「ああ、あの雀がいい。空が飛べて、森の中で勝手気ままにねたり起きたり――しかし。」
と、また太郎は考え始めました。考えに考えても、これはというものがありません。その間神様は池の上に立って、じっと太郎の言葉を待っておられます。太郎は困ってしまいました。
「あああ、神様、私はもうここで眠るだけで結構です。もう五分、いえ、もう一分でもよろしゅう御座います。心配なしにここで眠らせて下さいませ。」
つい、太郎はこう云ってしまいました。そして、それなり目をつぶり、草の中に顔を埋め、ぐっすり寝こんでしまいました。
涼しい風が池の水の上をわたり、林の木枝を吹いて、それから太郎の周囲の草をなでて行きました。
リスとカシのみ
もりのなかのくさのしたに、カシのみがひとつおちていました。カシのみははやくめをだして、はやく大きなカシの木になって、たくさんのカシのみをならしたいと、かんがえていました。
すると、そこへ一ぴきのリスがとおりかかりました。リスはおなかがすいていました。それで、「おなかがすいたおなかがすいた。」といいながらはしっていました。だからカシのみをみつけるとすぐいいました。
「おやこれはごちそうだ。」
そして大きな口をあけました。
これをみるとカシのみがいいました。
「リスさんかんにんしてください。」
リスがいいました。
「かんにんできない。おれはおなかがすいているんだ。」
でもカシのみはたのみました。
「まってくださいリスさん、このつぎもりに花がさき、そしてみのなるころになったらわたくしは大きな木になって、あなたにたくさんみをあげます。」
もりに花がさきました。それから花がちってみがなりました。
リスはカシのみのやくそくをおもいだしました。またおなかがすいていたのです。おおいそぎでカシのみのところへやってきました。
あれ、大きなカシの木なんてどこにもありません。
「カシのみくん、どこでカシの木になっているんだい。」リスはよびました。
「リスさんここです。」
みればなんと小さい小さいカシの木が、くさのあいだにのぞいております。
「どうしたんだい。」リスがききました。
「リスさん、すみません。わたしいっしょうけんめい大きくなろうとしたのですが、どうしてもこれだけにしかなれなかったのです。もういちど、花がさきみがなるころまで、まっててください。」
「こんどはきっとだよ。」
リスはまたやくそくして、かえっていきました。
もりに花がさきました。
花がちってみがなりました。リスはカシの木のやくそくをおもいだしました。また、おなかがすいていたのです。カシの木のところへかけていきました。ところが、おやおやだいぶん大きなカシの木がたっておりました。
「カシの木くん大きくなったね。」
リスがいいました。
「リスさんすみません、もう一どまってください。こんどはきっとです。カシのみをたくさんあげます。」
「よしよし。」
リスはかえっていきました。
それからなんねんたったでしょうか。
もりに大きなカシの木がたっていました。それにはたくさんのカシのみがなっていました。リスがなんびきとなく、えだにのぼって、そのカシのみをたべていました。たべてもたべてもたべきれません。そのリスの一ぴきが、おおいばりでこういっていました。
「このカシの木ぼくのカシの木なんだよ。」
「そうです。そうです。」
カシの木もそういっていました。
森のてじなし
花のさいている木の下です。三平が大きな木の箱に向いて、てじなをやっております。友だちがたくさんけんぶつしております。
「えへん。今ここに小さい紙の箱があります。中には何もはいっていません。そこから白いちょうを出します。」
三平は、紙箱をだいの木箱の上にふせました。
そのそこのあなから中をのぞきました。
「出ろ、出ろ。白ちょう出ろ。あれ、白といったのに、黒が出て来ました。しかたがありません。」
三平が紙箱をあけると、ほんとうに黒いちょうが、ひらひらとんで行きました。
みんなびっくりしました。
「えへん。今度こそ、白いちょうです。」
紙箱をふせ、あなをのぞいて、三平はいいました。
「出ろ、出ろ、白ちょう。あっ、またしまった。ちょうというのに、とんぼが出て来た。」
箱をあけると、とんぼがとんで行きました。
「えへん。今度は、ちょうと、やんまと、二つ出します。」
また、あなをのぞきました。
「しまった。ちょうがせみになりました。」
ほんとうにやんまと、せみがとび出しました。
「えへん。おしまいに人間を出します。」
これにはみんなおどろいて、にげようとするものもありました。
けれども、箱をひっくりかえして、善太が出て来ましたので、みんなは、
「わっ。」
と笑いました。
善太は、木箱の下で、あけたて出来るあなから、ちょうや、とんぼを出していました。
「えへん。えへん。」
てじなのお話も、これでおしまい。
谷間の池
今から四十年も昔、明治の頃の話であります。
ある夏の日の朝早く、岡山の町から三キロばかり離れた草深い田舎の田圃《たんぼ》道を、おじいさんと子供が歩いておりました。おじいさんは、竿《さお》をかつぎ、子供は籠《かご》をさげておりました。二人はこれから山の彼方の谷間の池に鯉《こい》や鮒《ふな》を釣りに行くところであります。
さて、道が二つに分れているところに来ました。すると、先に立っていた子供がききました。
「おじいさん、どっちへ行くんならな。」
おじいさんが言いました。
「まて、まて、こういう時こそ、じいさん、ばあさんをやってみにゃならん。のう、そうじゃろうが、ハッハハハ。」
そして二つの道を指でさしさし「じいさん、ばあさん、どっちの道にしようかなあ。そうれは、われの勝手にしゃらんせい。」と言いました。すると指が右の方に止りました。
「ほほう、右の方へ行けえと、じいさん、ばあさんがおっしゃるぞ。さあ、金太郎、右へすすめっ。」
おじいさんはまたこんなじょうだんを言いました。金太郎というのは子供のことです。
「だけど、おじいさん、右でええのかな。道を間違えりゃせんのかな。」
「ええとも、ええとも。ほんとうは、どっちの道でも行けるんじゃ。右は山道、左は野道、な。山道は近いが、えらい。野道はらくじゃが、遠い。」
「そんなら、近い方がええわ。」
金太郎はどんどん、その山に向って道を歩きました。間もなく道は山を上り始めました。赤土の砂まじりの、急な坂です。金太郎はサッサと登りましたが、おじいさんは、五六歩あるくと止り、八九歩あるくと、腰をのばして休みました。休むたびに、
「ああ、やれやれ山道は近いがえらい。」と言いました。すると、金太郎が、
「ああ、やれやれ、野道の方はらくじゃが遠い。」
と、あとをつけ、ハッハと二人で笑い合いました。しかし、十分もたたないうちに二人は山の上に登りつくことが出来ました。そこには割合広い道があって、峰伝いに山奥の方にウネウネと続いておりました。その道の両側には大きな松が立っていて、風がその枝を鳴らしておりました。おじいさんはその道に出ると、すぐその松の下の一つの石に腰をおろしました。
「やれやれやれ。」
おじいさんはそのやれやればかり言うのでした。曇り日で、しかも朝早くでしたから、まだ日はさして来ませんでした。しかしおじいさんは疲れたらしく、石の上に腰をおろしたまま、なかなか動こうとしませんでした。金太郎は腰もかけず、おじいさんの立上るのを待っていましたが、おじいさんがじっとしているので、ソロソロさいそくを始めました。
「おじいさん、早く行かんと、鯉も鮒も逃げてしまうぞな。」
「ウム、行く行く。しかしもうすぐぞ。向うの岩、なあ、あの大きな岩のところを下れば、谷に三つの池が見える。そこが鯉や鮒の住みかじゃ。だから、ここでもう少し休んで行こう。」
こう言って、おじいさんは腰から煙草入れなどぬき出して、パッパと煙草の煙を立てました。そしてじっと耳をすましたり、その辺を見まわしました。おじいさんは疲れてもいましたが、実は色々のことを考えてもいたのです。だって、側に立っている松の幹には白いコケが生えていましたし、彼方の松の枝にはツタやカズラがかかっていました。そして、耳をすませば、何ともいえない松風の音が聞えて来ました。その松風の音が、何か昔のことを語っているように、おじいさんには思われたのであります。おじいさんはその時もう七十に近く、明治も三十幾年で、岡山にも汽車も通っていましたし、電信というものも出来ていました。そんな世の中になっていましたが、松風の音ばかりは、おじいさんが幼い頃、そうです、明治の前二十年の昔に聞いたのと、少しも変らぬ調子で鳴っておりました。それにこの辺の景色が、またその昔と少しも変らぬ景色でありました。だからおじいさんは耳をすまし、あたりを何度も見まわしたのです。その末、とうとうおじいさんは感心して言いました。
「なるほどなあ。」
これを聞くと、金太郎がたずねました。
「おじいさん、何がなるほどなんで。」
「ウーン、金太郎にはわかるまいが、この辺が少しも昔と変らんのじゃ。な、見なさい。松があって、岩があって、松の上には雲が浮んで、な、山は幾つもそこら中に立っていて。おじいさんは見ていると、あちらの岩陰にお鷹匠《たかじよう》がコブシに鷹をのせて隠れているような気がして来る。」
「え、おたかじょう。おたかじょうって、なになんです。」
「お鷹匠か。お鷹匠というのは、大きな鷹をならしてな、それに雉《きじ》や山鳥をとらしたものだよ。五十年も昔には、村にその鷹匠さんが住んでいて、おじいさんはお供をして、この辺によく雉や山鳩をとりに来た。目に見えるようじゃがなあ。」
「ヘーエ。」
金太郎はわからないまま、こんなことを言っておりましたが、おじいさんは一人で感心していて、またも煙草を吸いつけました。そこで金太郎は仕方がないので、側の岩に登りました。一メートルばかりの小岩でしたが、それに登ると、山の下の一軒の家が眼にはいりました。小さな藁屋《わらや》ですが、竹藪《たけやぶ》に囲まれていて、前に乾庭《ほしにわ》がありました。そこへ二人子供が出て、隅の井戸端で顔を洗っておりました。これを見ると、金太郎はフトおじいさんに聞いた、山姥《やまんば》の話を思い出しました。それで、岩の上からおじいさんに声をかけました。
「おじいさん、その時分、この辺には山姥がおったんかな。」
「フムフム、山姥。山姥はもうおらなんだなあ。」
「へえ――、それじゃ、山父《やまちち》はな。」
「ハッハハハ、山父もおらなんだな。」
「へえ――。」
金太郎は少し物たりない気持がしました。ところで、山姥の話はきっと皆さんも知っておられると思いますが、山父というのはどうですか。おじいさんが煙草を吸っている間に、その話をちょっと私がいたしましょう。
山父というのは一つ目で一本足という恐ろしい怪物であります。ある時|桶屋《おけや》が外に出て仕事をしておりました。きっと金太郎が山の下に見ている藁屋の乾庭のようなところでありましょう。そこで桶にタガをはめておりました。そこへその一つ目一本足が山の方から下りて来ました。これを見ると、桶屋さんは恐ろしさにビックリしながら、これが話にきいていた山父というものだな、と思いました。すると、桶屋の前に立って、じっと桶屋を見ていた山父が言いました。
「おい桶屋、これが山父というものだな、と今思ったな。」
これを聞くと、桶屋はまた思いました。これは大変だ。こちらの思ってることをすぐ言いあてる。すると山父は、
「おい桶屋。これは大変だ。こちらの思ってることをすぐ言いあてる、と思ったろう。」
と言うのでした。それで桶屋は、何を思ってもすぐさとられるので、ただもうふるえるばかりで、一生懸命に仕事をしておりました。すると、寒い日なので、かじかんだ手がすべってタガの竹のはしがはねて、山父の顔をパチンと打ちました。山父はこれには驚きました。だって桶屋が思ってもいないことをしたのですから。それで、人間というやつは時々思ってもいないことをするから油断できない。ここにいると、どんな目にあうかも知れないと言って、一本足でどんどん山の方へ逃げてってしまいました。
これが山父の話であります。しかしこの山父も、その金太郎がおじいさんに話を聞いた頃はもういなかったのだそうですし、またおじいさんが幼い頃、その辺に鷹匠がいた頃にも、もういなかったそうであります。では仕方がありません。おじいさんをせき立てて、早く谷間の池へ行きましょう。そこで、
「おじいさん――。」
と、金太郎が大きな声で呼びました。
「おっととととと。」
と、おじいさんは腰を上げました。金太郎は、岩の上から飛び下り、先に立って走りました。谷の方に下りる岩のところにはすぐ来ました。見れば、なるほど、そこで細道が左に分れ、それが山の中腹を谷に沿うて曲り曲り下りております。谷はあちらの山と、こちらの山との間に大きく開け、その中に池が三つ、上から、小、中、大、と三段になって鏡のように光っておりました。一番上の小の池は松の林の中に埋もれて、その枝の中から光る小さい鏡でした。中の池はまわりをグルリと水草でふちどった、中くらいの鏡でした。一番下の池は、これは大きくて、蒼々《あおあお》とひろがり、時々波さえ立っていました。昔、鷹匠のいた頃は、この谷に雁《がん》や鴨《かも》がたくさん下りたのだそうであります。鶴や鷺《さぎ》も遊んでいたのだそうであります。それをその岩陰から鷹匠が鷹を飛ばせて捕ったというのであります。けれども今はそんな鷹も飛んでいなければ、鶴も鷺も舞うてはおりません。ただ、そこで金太郎が、
「オーイ、谷の池の鯉や鮒――。」
と呼びましたら、遠くの山彦が、
「オーイ、タニノイケノ、コイヤ、フナー。」
と答えました。それでもう一度金太郎が呼ぼうとしました。
「さあ、急いだ急いだ。」
そこで金太郎は籠を肩にかけて、それを背中でおどらせ、その道を下へかけ下りました。
さて、金太郎とおじいさんは一番下の大池で釣ることとなりました。大きな松林を後ろにして、南に向って、岸の草の上に腰を下ろしました。前には叉になった木の枝を立て、それに竿をのせかけました。竿は五メートルもあり、それにやはり五メートルの糸がついておりますから、ウキはずいぶん遠くの方へ投げこまれました。おじいさんのウキは白黒まだら。金太郎のは白と赤のまだら。えさはミミズ。ところで、おや、もう金太郎のウキが動き出しました。チョイチョイチョイ、ウキは上下しながら横の方へ動いてゆきます。
「ひいとる。ひいとる。金太郎、これは鮒だよ。そら、上げた。」
おじいさんの声で、金太郎は竿を上にあげました。大きな鮒、十五センチもあるような鮒がピンピンはねながら、金太郎の目の前にブランコをして飛んで来ました。それをつかまえて籠に入れますと、
「さあ、こんどはおじいさんの番だ。」
と、おじいさんが言って、竿に手をかけました。ウキがチョイチョイチョイとうれしそうに面白そうにおどっております。それがグッと引きこまれたところで、
「そーれ、来た。」
と、おじいさんは竿を上げます。
「おや、こいつは大きいぞ。」
おじいさんは言いましたが、魚がなかなか水の上に浮んで来ません。糸を引いて、あっちへゆき、こっちへ行きします。時々水を煙のように、上にもり上げます。きっと大きなその尾っぽで跳ねているのです。竿が中ほどから円くしなっております。
「こーれは大きい、鯉かも知れんぞ。網がいるよ。」
そういって、おじいさんは竿をしなわせたまま、側の網を片手で引寄せました。その時魚がやっと水の上に現われて来ました。まだ鯉か鮒かわかりません。そこで魚は一はねして、大きな音を立てて、水のしぶきを飛ばせました。また水中にもぐり入ろうとしたのです。しかしもう力がなくなり、頭だけを水の上に出して、糸にぶら下ったような形になりました。そこをおじいさんはスーと手もとに引寄せて、すぐ網ですくい取りました。
「鮒だ、しかも大きな鮒だなあ。」
網の中であばれる鮒を金太郎の方へ見せながら、おじいさんが言いました。それは二十五センチもあり、籠に入れても、水音を立て、勇ましく跳ねていました。
「そら、もう来たぞ。金太郎さん。」
おじいさんは自分の鉤《はり》にミミズをつけながら、金太郎のウキを見て言いました。ほんとにもう金太郎の赤白ウキが動いております。金太郎はこんどは二十センチ近い鮒をつりました。金太郎が釣ると、おじいさんも釣りました。おじいさんが釣ると、金太郎も、という工合で、二人は夢中でいそがしく立働きました。とった魚を鉤からはずして籠に入れ、はずした鉤にはミミズをつけて、池の中に投げ込みました。竿をふって、そのミミズのついた糸を池の中に投げ込む時、ヒュッという音がしました。ヒュッヒュッ、ヒュッヒュッ、その音がつづきました。いつの間にか空が晴れ、日が明るくあつく、二人の上に照って来ました。その頃、池の上に少し風が出て来て、小さな波が立ち出しました。ウキが鮒に引かれておどることも少なくなりました。おじいさんも煙草入れを出して、煙草を吸い始めました。そこで金太郎はウキを見つめるのをやめて、籠を水から引上げて、中の魚をのぞきました。すると、そこではバタバタ、バタバタ、鮒が大さわぎではねました。しかし、もうその大きな籠に半分以上も鮒やハエ、タナゴなどがとれていました。
「おじいさん、もう何匹ぐらいおるじゃろうなあ。」
金太郎がさげるのに重いくらいの籠を、おじいさんの前へ持って行って見せました。
「さあ、七八十もおろうか。」
「ずいぶん、とれたなあ。」
「そうじゃ、大りょうじゃ。」
「だけど、一つもウキを引かんようになったなあ。」
「ウン、まあ一休みじゃ。三時頃までは、こんなものかな。」
そこで金太郎は籠をもとのところにつけ、ウキはおじいさんに見てもらうことにして、池の岸を歩きました。七八メートルも行くと、大きな木が水の上に枝をさし出しているところに来ました。その下の水ぎわには太い木の切株があって、ちょうど腰をかけるのにいいようになっていました。そこは風もソヨソヨと吹き、木の下の水も枝をもれる日光をうつして、美しく澄んでいました。金太郎は大息をついて、そこで帽子をとり、その切株に腰をかけました。胸をあけるようにして、風を入れました。それから草履《ぞうり》をぬいで、池の水に足をつけました。
「ああ、すずしい。」
思わず、そう言いました。
「おじいさん、ここはすずしいぞな。さあ、来てみられい。」
おじいさんにも声をかけました。
「ウム、そうかあ。それじゃ、このへんでおべんとうにしようか。」
おじいさんも竿を捨てておいて、風呂敷包みを持って来ました。二人はそこの木の下で、竹の皮包みのおにぎりを開きました。おにぎりの中には、梅干がはいっております。おにぎりを食べながら、金太郎が聞きました。
「おじいさん、この池にはぬしはおらんのかな。」
「そうじゃな、昔はおったかも知れんがな、今はもうそんなものはおらんようになった。」
「へえ。それで、昔はどんなぬしがおったんで。」
「さあこの池のは知らんがな。大ていは大きな亀の子とかな、大きな|おろち《ヽヽヽ》とかな。」
「フーム。おろち言って、何ならな。」
「大蛇のことじゃ。」
「へえー。河童《かつぱ》はな。」
「河童も昔はおったが、今はもうおらんようになった。」
「フーム。それでは水蜘蛛《みずぐも》はな。」
「水蜘蛛。水蜘蛛はおる。」
「えッ水蜘蛛はまだおるんかな。」
「おるとも。」
これには金太郎はビックリしました。
「この池にでもおるかな。」
それで、そう聞いてみました。
「おるとも。」
そう言って、おじいさんは立上り、切株に近い、木の下の水の上をのぞきました。
「それ、ほら、そこに水の上を歩いている足の長い蜘蛛がおるじゃないか。あれが水蜘蛛じゃ。」
そう言われれば、二三匹の大きな水蜘蛛が水の上をあっちへゆき、こっちへゆき、歩いておりました。
「なーんだ、あれかな、ちょっとも恐いことはないなあ。」
金太郎はそう言いましたが、みなさんは水蜘蛛を御存じですか。夏になると、川や池の水の上を足の細い、大きな蚊のような虫が歩いております。あれが、水蜘蛛というものです。しかし、何で金太郎はその水蜘蛛を恐ろしそうにいったのでしょう。それにはまた一つのお話があります。それは金太郎がおじいさんから聞いていた話であります。それをちょっと、ここに書いてみることといたします。
むかし奥州の半田山《はんだやま》の沼で、夏の頃ある人が釣りをしていました。珍しくその日はたくさんの魚が釣れて、わずかな間に魚籠《びく》一ぱいになりました。暑い日だったので、その人ははだしになって、足を沼の中につけました。すると、一匹の水蜘蛛が来て、その足の指に糸を引っかけてゆきました。そして間もなく又来て、同じところに糸をかけました。不思議に思って、その糸をそっとはずし、そばの大きな楊《やなぎ》の株にまきつけておきました。すると、やがて沼の底で、大きな声が聞えました。
「次郎も来い。太郎も来い。みんな来い。」ビックリしていましたら、魚籠の魚が一度にみんなはね出して逃げて行ってしまいました。そのうちに沼で大勢のかけ声がし始めました。
「えんとえんやらさあ。」それと共に、その蜘蛛の糸を引き始め、見ている前で太い株が根元からポッキと折れてしまいました。それから後、この半田山の沼へは、一人も釣りにゆく者がなくなりました。
と、こういう話であります。だから金太郎は水蜘蛛を恐がったのであります。だからまた金太郎はおじいさんに言いました。
「おじいさん、水の中へ足をつけてみようかな。水蜘蛛が糸をかけに来りゃせんじゃろうか。」
「ウムそうじゃな。ありゃ昔の話だからな。今はもうそんなことはない。しかし、話にあることを何でもためしてみたりするもんじゃないぞ。もしかあったら大変だからな。」
そう言われてみると金太郎は何か気味が悪く、足をつけるのを思い切りました。
ところで、三時頃が来ると、また大りょうとなりまして、二人はいそがしく竿をヒュッヒュッ鳴らしつづけました。そして五時頃には籠が一ぱいになるほどになりました。それでもう大満足して、余り一ぱいにしては、籠が重くて、持って帰れなくなりますので、二人は腰をあげました。こんどは、代りばんこに籠をかついで、もと来た道を坂を登り、坂を下り、草深い田圃道を歩いて、岡山に近い村の二人の家へ帰って来ました。今から四十年も昔の明治の頃であります。
ところで、その時から十年ばかりたった時でありました。もうおじいさんはこの世におりませんでしたが、金太郎は、この谷の上の峰伝いの道を、通ったことがありました。その時、その道から、その谷間を眺めましたら、十年昔と少しも変らず、三つの池はシーンとして、谷間に、松林の中に鏡のように光っていました。そしてその上の空に二羽の白い鳥が見えました。一羽は翼を上下して飛んでおり、一羽は静かに輪をかいて舞うていました。
それからまた十年たち、こんどは金太郎は薬屋になって、薬の荷物を負うて、その道を通りました。谷間の景色は少しも変りませんでしたが、谷へ下りる岩のところでその岩陰のくぼみの中に、二匹のガマのいるのを見つけました。一匹は大きく、一匹は小さく、二匹並んで、いつまでも両手をついて、谷間の方を見つめていました。
その後金太郎は用事がなくて、そのへんを通ることもありません。
桃の実
山の林の中に一本の桃の木がありました。その一つの枝が道の方へずっとさし出ていました。道といっても、そこから二十メートルもありました。その枝に大きな桃の実が五つ、一かたまりになってみのっていました。りっぱな桃、美しい実だったのです。桃の木はそれがじまんで、わざと枝を道の方にさし出しているかと思えるほどでした。しかし花のようにきれいで、赤ちゃんのようにかわゆく見えましたので、誰もこれをとって食べる気はありませんでした。
ある日のこと、道を三人の子どもが通りかかりました。みよ子と四郎と八郎です。三人はきょうだいでした。
「アア桃じゃ。」
八郎が一ばんに見つけました。三人は木の下へかけて行き、しばらくはものも言わずに、じっとその実を見あげました。
「どうして、ここに、こんな桃があるんじゃろう。」
まずみよ子が言いました。
「あの桃、姉さん、食べられんぞな。きっと。」
八郎がゆびさして言いました。すると四郎がいうのでした。
「人間は、えんりょしてとらないけど、山からきつねなんぞ出てきてな、オット、ええ桃があるなんぞいうて、食べてしまやせんじゃろうか。」
と、八郎が言い出しました。
「ウウン、おれ思うな。あの桃、|てんぐ《ヽヽヽ》の桃なんぜ。鼻のたかあい、てんぐがいるだろう。あれが山からとんで来て、これは不老不死の桃であるなんかいうてさ、あれを枝ごと折りとって、遠くの山へとんで行く。そしてそこの岩のてっぺんのてんぐのすの上へ友だちを集めてな、これはうまい、ワッハッハなんて、大笑いしながら食べるんぜ。そんな桃じゃな、この桃、な、そうじゃろう。」
みよ子がいいました。
「だけど、姉さんはちがうな。」
「どうちがうん。」
八郎がききました。
「姉さんはてんぐの桃でも、きつねの桃でも、あの桃ほしいと思うん。」
みよ子がいうと、八郎がいうのでした。
「食べると、鼻がてんぐのように高くなるぞな。」
みよ子がホッホと笑いました。そして、
「食べやせんよ。あのたねをうちの庭にまいて、桃の木をはやすんじゃ。枝でもええわ。他の木につぎ木をするから。そうすると、この桃の木が生えて、こんな桃の実がなろうがな。その下に池をつくるんじゃ。そしてその池にふなやこいをいかすの。そうすると、水の上に枝がつき出て、それにこんな桃がなろうがな。すると、その下にこいやふなが集まって来て、アア、オイシイ、アップ。オオ、ウツクシイ、アップいうてな、水にうつった桃の実をどんなに喜んで食べるじゃろう。きれいじゃなあ。小さい虹《にじ》なんぞ、その池の上に立ち、その虹の上に小鳥が来てとまりそうにしたりするぞな。」
そんなことをいうのでした。これをきくと、八郎はいいました。
「姉さんのバカ、そんなことをしたら、そのさかなみな鼻が高くなって、てんぐざかなになってしもうて、羽なんぞ生えてきてな、バタバタって、池からとび立ち、みんな山へとんで行ってしまいますぞな。」
これを聞いて、みよ子と四郎は、
「ハッハッハ。」
「ホッホッホ。」
と笑ってしまいました。しかしみよ子はながめればながめるほど美しい桃なんで、上の枝をあかずながめつづけました。
するとこんどは四郎が、
「行こうな、姉さん、みんなてんぐにならんうちに行こうな。鼻が高くなったら大へんじゃないかな。」
と、せきたてました。
「そうじゃ、そうじゃ。きつねが出て来て、おれたちばかしても大へんじゃからな。もう少しばかしかけているかも知れんぞな。」
八郎がいいました。と四郎が、
「そうじゃ。ばかしかけておるんぞな。それでこの桃こんなにきれいに見えるんぞ。きつねの桃じゃ、この桃。ばけ桃じゃ、この桃、そうれ、きつねが出てきたあ――。」
そういってかけ出しました。みよ子も八郎も、これで一ぺんにこわくなり、ころげそうに道へ走り出て、ワッハッいいながら逃げて行きました。
ところで、それから間もなく、道を一人のおじいさんがやって来ました。どこかの帰りでしょう。てんびんぼうを一本、てっぽうのようにかたにかついでおりました。そして、何かブツブツひとりごとをいっていました。
「こんなにヒデリがつづいちゃ、ことしの稲もしんぱいだな。」
そんなことをいっていたのかも知れません。いやいや実は今、おじいさんはたんぼのクロでもぐらもちを見つけたのです。それがクロの中に穴をあけ、そこから新しい土をさかんにかき出していたのです。そこでおじいさん、
「このやろう、そんなことをしては、たんぼの水が出てしまうじゃないか。」
そう大おこりにおこって、てんびんぼうでそのもぐらもちをポーンと遠くにはねとばしました。もぐらもちは遠くの道の上におちましたが、あわててチョロチョロと走り出し、すぐ草かげの穴の中にもぐりこんでしまいました。それでおじいさんはブツブツ小言をいいながら歩いて来たのです。すると桃です。きつねのばけたような、てんぐの食べるような桃がなっていたのです。で、おじいさんは、
「何じゃ。」
そういって、桃の木の下へ近づいて行きました。そして、
「フーン。」
と、ためいきをついてながめいりました。それから、
「なるほど。」
と、感心してしまって、桃を見あげたまま、動こうとしませんでした。しばらくそうしていたのち、おじいさんはその桃の木にせなかを向け、枝の下の草の上にドッカリこしをすえました。てんびんぼうはそばに横たえ、立てた両足の間に首をたれ、おじいさんは何かすっかり考えこんでしまったのです。
どうしたのでしょう。
むすこさんのことを思い出したのです。むすこさんは三年前、しょうしゅうされてへいたいに行きました。そして一枚――お父さんどうか元気にやってください。――というハガキをよこしたきり、今にどうしているかわかりません。近頃かえって来た同じ村のふくいんへいの一人の話では、|ごうしゅう《ヽヽヽヽヽ》に近い小スンダ列島という島々の一つに、きっとまだ残ってるだろうということでありました。しかし三年もたよりがないので、生死のほどはまったくわかりませんでした。
ところが、このごろふくいんのへいたいさんが次々と帰って来るものですから、おじいさんはむすこのことが思われてしかたなくなりました。むすこにあいたく、むすこの顔が見たく、その話がききたく、その笑いごえが耳にしたくて、ならないのでした。今もこの美しい桃を見ると、フッとむすこのすがたが目に浮びました。それもむすこが死んでるようには思えなくて、生きてるすがたばかりが目に浮びます。
「スンダ列島というのはあついところというそうじゃが、今ごろどうしていることじゃろう。」
そう思うと、おじいさんが今こうして、両足の間に頭をたれているすがたがむすこのように心に浮んで来ました。そうだ、むすこは今ごろこんなにてっぽうを草の中にほうり出し、やしの林の中か、コーヒーの木の下に、こんなにして国のことを思っているだろ、そう、そうにちがいない。そう思った時、プーンと、桃のにおいがして来ました。ああ、いいにおいだ。おじいさんはそのにおいを鼻一ぱいにすい込んで、むすこに一目こんな桃を見せてやりたいものだ、そんなことを思いました。
その時です。近くに話しごえがして来ました。顔をあげると、道に三人の青年が立っていました。村の若いしゅうです。一人がせなかに何かおうております。赤くテラテラ光ったものです。三人は立止ってこちらを見ております。
「や、桃がなっとるぞ。」
「ウン、キレイな桃じゃなあ。」
三人はそういうとおじいさんの方に歩いて来ました。
「おじいさん、どうしました。」
一人がいいました。その時見ると、せなかにおうているのは、ししまいをする時かぶるあのししがしらでした。そこでおじいさんは、
「ししまいでもやるのかね。」
と、ききました。
「そうです。雨が降らんので、近く雨ごいをやるんじゃそうです。夏祭りをかねてな。それで今からこのけいこをするんです。」
一人がいいました。
「フーン。」
「おじいさんも若いころししまいはずい分うまかったそうですな。」
「ウン、一時それにこってな。方々の村へたのまれて行ったこともあるぞ。」
「へえ。」
そんなことをいいながらも、三人は桃をながめつづけておりました。と、中の一人が、
「オイ、ここで一つ、一おどりやってみようじゃないか。おじいさんにも見てもらおう。」
そういいました。
「ここでか。こんな山の中でか。」
「いいじゃないか。ちょうど桃なぞもあってな。中々いいけしきだ。ぶたいとしてもってこいだ。」
「じゃ、やっつけよう。おじいさん見とってください。」
そういうと、一人がさっそくそのししがしらをせなかからおろしました。一人はたいこをおろしました。一人は笛をこしからぬきました。
「ピューッ。」
笛が鳴り出しました。
「トントコ、トントコ。」
たいこも鳴り出しました。
ししがしらは頭の毛を一ふりすると、キッとばかりに勇ましくみがまえました。それからたいこと笛の音につれて、頭をゆりゆり、あちらに行き、こちらに行き、上をあおぎ、下にうつ向き、パクパク大きな口を開けたりふさいだりして、面白くおどり始めました。桃の木のまわりを歩いたり、桃の実に向いてのびあがったり、大きなその金の目を日にキラキラかがやかせたりいたしました。
おじいさんはわきによけて、やはり草の中にこしをおろしておりましたが、どうしたことか、そのうち、ほおをつとうて、涙を流し始めました。やっぱりむすこのことを考えていたのです。――こんなにくにでは、山の中でも、おししがもうているのに、あいつばかりは何千キロの海の遠くにいて――。そう思わずにはいられなかったのです。
一おどりすむと、ししがしらをかむった人は、それをぬいで桃の木の下に立てかけ、ハアハア大いきをつきました。てぬぐいで汗をふきました。そしておじいさんにききました。
「おじいさん、どうだったろうな。」
「ウン。おもしろかったよ。つい涙が出てしもうたよ。」
おじいさんは鼻をすすりながらいいました。
「じゃ、このへんで帰るとしようか。」
三人は一やすみすると、そういって歩き出しました。
おじいさんも、それでこしをあげました。
この四人が行ってしまうと、あとには道を通る人はなく、この桃の木のあたりがシーンと静かになりました。と、どうでしょう。桃の木に三びきのリスがチョロチョロッとかけよって来ました。そしてみきに両足をかけ、のぼろうか、のぼるまいかと、あたりを見まわしました。すると、あとからイタチが二ひき出て来て、木の下にこしをすえ、ならんで、それを眺めました。と、またそのあとから兎が、そうです、三びきも子兎をつれて出て来て、これもこしをすえて、桃の木とリスをながめました。きっと、これらイタチや兎、リスたちはししまいの笛とたいこの音で森のおくからあつまって来て、遠くから人間のすることをながめていたのです。人間が桃をとりはしないかとしんぱいになったのか、それともししまいがおもしろかったのか、どっちかだったでしょう。
しかしそれから何日かたちました。みよ子、四郎、八郎の三人が又そこを通りかかりました。ところが、その時みると、その美しい五つの桃がもうその枝にありませんでした。その代り、そこには白い三羽の小鳥がとまっていました。桃が鳥になったのでしょうか。もとよりこんなことはありません。で、八郎はいいました。
「なあ、あの桃、きつねがばけとるんじゃと、おれがいうたろうが。やっぱりそうじゃったんだ。じゃからもう一つもありゃせんぜ。あまりきれいじゃったものなあ。気味がわるいくらいじゃった。今、あそこにいる鳥じゃってわかりゃせんぜ。きつねかもしれんぞ。」
そして八郎は、
「ワッワッ。」
と、大声をたててその鳥を追いました。鳥はパッと羽をひろげてとび立ちましたが、又バタバタとはねを立て、あやうく枝にとまりなおしました。きつねにもなりませんでした。
「ハ、やっぱりほんとうの鳥でおりやがらあ。」
八郎はそういい、三人で家の方へ帰って行きました。
「こんど桃がなっとったら、おれどうしてもとって食べるんじゃ。てんぐになってもかまやせんや。」
八郎は歩きながら、まだそう言いつづけておりました。メデタシ、メデタシ。
きつねとぶどう
山の中のきつねのすで、きつねの子がないていました。
「こーんこん、おなかがすいた。」
すると、おやぎつねがいいました。
「待っておいで、今おかあさんがおいしいものをとってきてあげる。」
こぎつねはなくのをやめて、おとなしく待っていました。一時間待ちました。おやぎつねは帰ってきません。二時間待ちました。まだ帰りません。三時間待ちました。それでも帰ってきませんでした。こぎつねはとうとうなきだしました。
「またおなかがすいてきたあ。」
おやぎつねはどうしたのでしょう。じつはその時、村へ行ってぶどうを一ふさとってこようと一生けんめいかけていました。
一つ山をこしました。二つ山をこしました。三つの山をこした時、やっとぶどうの村へつきました。
「おなかがすいて子どもがないているのです。すみませんが、ぶどうを一ふさいただきます。」
おやぎつねはそういって、ぶどうの木にとびあがり、大きなふさを取りました。それをくわえて、大いそぎで山の方へもどりました。一つ山こえ、二つ山こえ、又三つの山をこしました。きつねのすは、もうすぐ近くになりました。るすのうちにおそろしいわしなどに、あの子はさらわれはしなかったろうか。でも、あれ、こーんこんなきごえがしております。おやぎつねは安心しました。と、にわかにつかれがでてきました。持ったぶどうが、重くて重くてたまらなくなったのです。で、一本の木の下にそのぶどうの一ふさをおいて、やれくたびれたとやすみました。
ところがその時、やすむまもなく、すぐそばでわんわん犬のこえがしました。りょうしが犬をつれてもうそこにきているのです。どうしましょう。ぶどうどころではありません。こぎつねがてっぽうでうたれます。思わずおやぎつねは、大きなこえで呼びました。
「こーんあぶない。はやくにげなさい。」
こぎつねはこのこえにびっくりして、あなをとび出し、かけてかけて山のおくへにげて行きました。
それから何年たったでしょうか。長い月日がたちました。しかしおやぎつねは、とうとう帰ってきませんでした。おかあさんをさがして、山の中を歩いているうち、こぎつねは大きくなりました。
ある時、昔おかあさんとすんでいたすの近くへやってきました。すると一本の木の下にぶどうがはえていました。そのつるが木にまきのぼり、たくさんのみごとなふさをさがらせていました。
「こんなところにぶどうがあったかしら。」
こぎつねはふしぎに思いながら、そのひとつぶをたべました。何とおいしいぶどうでしょう。
「ああおいしい。ああおいしい。」
こぎつねはのどをならして、次から次へとたべました。しかしその時、ふとおかあさんのこえを思いだしました。
「まっておいで、おいしいものをとってきてあげる。」
すると、そこにぶどうのなっているわけがわかりました。
「そうだ。」
そう思うと、今はどこにいるかわからないおかあさんに、こえをあげておれいをいいました。
「おかあさん、ありがとうございました。」
サバクの虹《にじ》
広い野原がありました。木も草も、一本もはえておりません。その向うに山がありました。山はいくつも重なり合って、遠い空の果てまでつづいていました。野原だって、遠くまでつづいていて、どこがおしまいなのかわかりません。
こんな草も木もない山と原とでは、動物だって住むことができません。だからねずみ一ぴき、虫一つさえおりませんでした。ただ、ときどき、風が空からおりてきて、その野原の上をつちけむりをおこして、あちらに走り、こちらに走りして遊んでいました。夜になると、山のかどばった岩かげに、月がじっとその光をとぎすまして、下界を見つめておりました。
「なんてさびしいところだろう。おそろしいようにさびしいところだ。」
月はかんがえていたかもしれません。
ある年の、夏のある日のことでした。このさびしい――そこはサバクだったのですが――山と野原の世界をかこんで、ぎんいろにかがやく雲のみねがたちました。雲のみねはむくむくもり上っていて、高いとうのように見えたり、大きなおおにゅうどうのような形をしていたり、ほとけさまがはすの花の上にすわっている姿になったりしていました。地上もものすごいさびしさなのに、空がこんなに美しかったので、もしこのサバクに人間の一人でも住んでいたら、
「これは天国のお祭が始まったのかもしれないぞ。」
と、そんなことをおもったにちがいありません。
その空のお祭が三日もつづくと、四日目から、今まで雨というものが、何年となくふったことのないこのサバクに、ザアザアザアザア雨がふりだしました。雨は一分のこやみもなく、実に七日七晩ふりとおしました。しかし、何年と雨を知らない土地のことですから、そんなになっても、こう水になるでもなく、そのたくさんの水を、土がみんな地のそこへすいとってしまいました。
七日たって雨がやむと、フシギなことがおこりました。サバクの草も木もない山の中の一つの谷間に、大きな虹が立ったのです。こちらの山の中腹から、むこうの山のいただきへかけて、空に五色の橋をかけました。人もケモノも、鳥も虫も、それからさかな一ぴきいない山の中ですから、虹はほんとにフシギなほど美しかったのです。しかも、その虹が夜も昼もきえないで、何と、三日も立っていたということです。
四日目の朝のことです。虹はゆうべのうちにきえたのですが、朝日が、――おそろしいほどさびしい谷間のけしきをまた見ることと思って、そーっと山かげから、その谷間にさし入りますと、あれ、これはどうしたことでしょう。虹のねもとになっていた山の中腹に、一本の大きな木がはえていました。それこそ、高さ何十メートル、太さ十何メートルという大木です。その上、その木は八方にはっている大枝という大枝、茂っている小枝という小枝に、むすうの花を、つけていました。さくらの花のようにうっすらとあかく、しかも、花びらは、はすの花のように大きな花です。それが一本の木で、そこにこんもりした花の森ができたように咲きほこっていました。朝日は山かげから、その花の木に光をなげ、ハッとしておどろいたのであります。それでひるになるにしたがって、だんだん強い光で、その谷間をてらしましたが、強い光でてらせばてらすほど、その花の木は一そう美しく光りかがやき、なんともいえない、いいにおいさえはっさんさせました。それは木から空へ、むらさきのけむりのようになって、立ちのぼるように見えました。
ところで、その午後のことです。夕日が西の山にかかり、あかい夕ばえ色に谷々山々をそめたころ、風が一吹き、空からその花の木の谷間へ吹きおりて来ました。つちけむりをあげるようなそんな強い風ではなかったのですが、しかし花の木の花はパラパラパラパラ、その風に吹かれてちりました。はじめは、三つ四つとちったのですが、やがてふぶきのように真白になり、ひとかたまりになり、一つの白い流れになってちって行きました。そして空をヒラヒラもうて、谷のあちらこちらへと落ちて行きました。中には、山のてっぺんにかかったり、またその山をこして、むこうの谷の方へちって行くものもありました。そして夕日の光が山のてっぺんからきえて行くころには、花の木は花一つない枝ばかりのはだかの木になって立っていました。
そのあくる日のことです。朝日がまた心配そうに、山かげからそっと、花の木のあった谷間をのぞきました。
「昨日は風がむざんにあの花の木の花をちらしたが、今日、あの木はどんなすがたで、どんなきもちで立ってるだろう。」
朝日はそんなことを思ったことでありましょう。でも、朝日は谷間に光をさしてみて、ついにっこりしたほど安心しました。だって花の木は花がちって、花をつけた枝は一枝もありませんでしたけれど、そのかわり、大枝という大枝、小枝という小枝に、青いはっぱが枝もみきもかくしてしまうほどしげっていました。しかも、そのははそよ風に吹かれて、さも涼しそうにさわさわと音を立て、そよいでいました。
「なるほど、こうなればほんものだ。心配することはない。」
朝日はそう口にだしていったかもしれません。それからあと、その木は枯れもせず、風に吹かれても、はを落しもせず、何年も何十年も、そのままの姿で立っていました。
で、それからのち、何十年のことだったでしょう。その木の下の大きな岩のねもとから、きれいな泉がわき出しました。その泉は夏が来ても、秋が来ても、少しもかれないで、いっときのやすみもなく、こんこんとわきつづけました。それでやがてそれは小さな川になり、山をくだって谷を流れ、谷をくだってまた谷に入り、いくまがりしたのち、それは野原に出て行きました。そしてひろいその原を流れ流れて、遠い空のむこうまでつづきました。おしまいはきっと海に流れこんだことでありましょう。
そうして、また何年かたちました。すると、こんどはその谷の小川の岸に、ぽつりぽつりと木がはえだしました。やがて、それは大きな木になり、花を咲かせて、青ばを茂らせました。まるで杉の木のように高い木だったのです。そんな木が谷間のほうぼうにつき立って、風に吹かれるようになったのです。
と、ある日のこと、どこからか、鳥が一羽とんで来ました。白い鳥です。頭にはカンムリのような羽がはえているし、おばねはまた長い三本のリボンのようにひらひらしていました。それがとんで来て、谷川のきしの一本の木のてっぺんにとまり、そこでクワアー、クワ、クワ、クワと鳴きました。すると、空のむこうからおなじような鳥が、おばねをひらひらさせて、なんばもなんばもとんで来ました。しかも、白いのばかりではありません。金色の羽をしたのや、まっかな羽をしたのや、中にはむらさきの羽のものなどもありました。きっとそれは鳳凰《ほうおう》という鳥だったかもしれません。それらの鳳凰が谷間の木のあちらにもこちらにもとまりますと、それはまるで、そこに大きな美しい花が咲いているように見えました。しかもその鳳凰は、花のような白や赤のつばさをひろげて、木から木へ、あるいはその谷間の空を高く雲の上のほうへまいあがったりとびうつったりいたしました。木から木へうつって行く時は、金やむらさきの太い糸をひいているように見え、空の上高くまい上った時には、風に吹かれて行く花の一ひらのように見えたりしました。
ところで、その鳥が来て谷間の木々にすむようになってから、泉の水がだんだんふえ出して来ました。よく雨がふるようになったせいでしょうか。それとも、鳥が鳴きかわすこえに、泉の水がよび出されてくるのでありましょうか。とにかく水が、大へんないきおいでふき出しはじめました。それで谷間の川もだんだん大きくなり、しまいにはとちゅうにだんができて、そこが大きな滝になり、どうどうとシブキをあげて流れおちるようになりました。それからその下流の川が、はばもふかさも何十ばいとなったことはいうまでもありません。野原の中などでは、そこに大きな湖水が一つ出来たりしました。
それから、また、何年かたちました。と、またふしぎなことがおこりました。その泉のそばにいつのまにか、大きながまが住むようになったのです。せいの高さ三メートル、まるで大きな岩のようながまなのです。それが、知らないものがみたら、岩とまちがえるような形をして、じっと、泉のそばにしゃがみました。
どうしてでしょう。
それはきっと水のかみさまで、泉の水をにごしたり、よごしたりするものを番するために、そこへやって来たのでしょう。ほんとにそれもありましたが、その頃になって、この谷間にはとてもたくさん動物がふえ、泉へ水をのみに来るものがひきもきらないありさまでした。それでがまは、そこにいて、そこにたくさんよって来る動物を、次から次へパクリパクリとたべていました。その中でも、海にいるサケやマスというさかなは、その泉の水の美しくすんでつめたくあまいのをしたって、滝のしぶきもおどりこえて、そこに卵をうみに年々のぼって来たのです。すると、がまはそれをまちかまえていて、パクパクパクパクたべました。そしてがまは年々大きくなり、ついには十メートルもある大きな、大きな岩のようながまになってしまいました。
それからまた、何年かたちました。そして、雨のふらない年がつづきました。すると、泉の水がだんだんかれて来て、やがて、谷川の流れもほそくなり、草や木も枯れて来ました。谷間の動物もどこへ行くのか、いつとなくいなくなってしまいました。泉のそばのがまもやせおとろえ、骨と皮ばかりになりました。風が吹いてきて、谷間の土をまき上げ、これをけむりのようにして、あちらこちらとはこんで行って遊ぶようになりました。いつのまにか、その谷間が、昔のサバクの姿にかえってきたのです。
そしてある年のこと、何十年か昔のようにこのサバクのまわりにまたぎんいろの雲のみねが立ちました。とうのような、おおにゅうどうのような、はすの花の上のほとけさまのような、雲のみねがサバクをかこんで、空の上にならびました。そしてその後また雨がふりました。雨がやむと虹が立ちました。虹はやっぱり夜となく昼となく三日も、このさびしいサバクの谷の上にかかっていました。その時、その谷にはもう草も木も、泉も川も、それから動物もがまも、何一つなくて、いちめんはいいろの土ばかりでした。人ひとり通らず、このサバクの虹を知っている人もありませんでした。
やがて虹はきえて行きました。そしてそれから後、何十年、いや何百年か、ついに虹はその谷間の上に二度とたたなかったということです。
ひるの夢よるの夢
ボクは夢を見た。家で、おとうさんおかあさんたちといっしょに御飯を食べてる夢だった。おとうともいたし、いもうともいた。御飯は白メシだった。お茶碗につけると、ユゲがモヤモヤあがった。おつゆだってユゲが立っていた。おつゆの実はおとうとの好きなナッパが入っていた。それでおとうとはまだおとうさんに、「頂きます。」をしないで、その中にハシを入れてかき廻し、
「ハ、ナッパだ。」
なんて言っていた。そこへおとうさんが洋服を着て出て来られ、みんなはハンダイのまわりに坐った。ボクは、
「頂きます。」
と言った。みんなもそう言った。
おかずはおつゆの他に干イワシがついていた。イワシのやける匂いはとてもいい匂いだった。ボクはイワシが大好きだから、何本も何本もつぎからつぎへ食べた。食べるごとに、おとうとが、
「一つ――二つ――三つ――。」
と、勘定した。ボクは勘定されるのがイヤで、
「オイ、よせよ。かあさん、よさせてよ。」
そう言った。すると、おとうとは、
「だって、にいちゃんもう四つも食べるんだもの。」
そう言った時、門の方で自動車の音がブウブウ聞えた。
「さあ、自動車が来ましたよ。早く食べて行きなさい。」
おかあさんに言われて、ボクは直ぐ御飯をすまして、背おいカバンを背中にかけた。その時、おかあさんが、
「おひるにはパンを焼いといてあげますからね、早く帰っていらっしゃい。」
そう言われた。おとうともその時急いでカバンを背中にかけた。そしておとうさんについて、玄関を出た。二人はキョウソウで自動車の方にかけてった。自動車はいつものようにピカピカ光っていた。運転手の三田さんがドアをあけて待っててくれた。ボクは早くとびこんで窓の側に腰をかけた。勢いよく腰かけたもんで、ピョンとボクははねあがった。おとうともボクのマネをしてピョンピョン何度もはねあがっていた。直ぐおとうさんが来られて、自動車はスーッと動き出した。通りに出て、いつもの橋の処に来ると、自動車がとまって、ボクは外に出た。おとうともおりると思って待ってたら、自動車の戸がバタンとしまって煙のように自動車が行ってしまった。
「アレッ。」
ボクは全くおどろいた。しばらく立っていて、フト、
「そうだ。おれは浮浪児だ。だから、おとうさんもおとうともボクをすてて行ってしまったんだ。」
そう気がついた。ボクは自動車を追いかけたいと思った。しかしもう自動車の影も形もなかった。ボクはうろたえて、家の方にかけ帰った。途中の通りにも町々にもヨソの家があったか、無かったか覚えていない。とにかく、ボクの家の処にイッショウケンメイかけてってみた。だけど、ボクの家はなかった。焼跡には草がボウボウ生えていた。
いつの間にそうなったのか、ボクはフシギでならなかった。それでもボクは、一言、
「おかあさん。」
と呼んでみた。その声でボクは目がさめた。目がさめても、ボクはまだフシギで、家へ行ってみようかと考えていた。そしてボクはホントウに浮浪児なのかしらんと考え考え、いつまでもウトウトしていた。
ボクは夢を見た。いつ見た夢か、もう忘れてしまった。とにかく、入江のようなトコロだったよ。海の入江か、もしかしたら湖の入江かもしれない。彼方に山がたくさんあった。山の上には雪が白くつもっていた。波は立っていなかった。ピシャ、ピシャと岸をなめるような小波《さざなみ》が来るばかりだった。
柳の木が一本あった。その下で遠山くんが釣りをしていた。ボクは側に尻をすえて、それを見ていた。すぐウキが動き出した。
「おッ、動いている。遠山くん引いているぞ。」
ボクは教えてやった。しかし遠山くんは、ボクに返事もせず、スーッと竿《さお》をあげた。ピンピンはねてハヤがあがって来た。
「や、大きいぞ。ハヤだ。ハヤだ。遠山くんおれがはずしてやる。」
そういったら、遠山くん、ボクの方を見て、変な顔をした。
「遠山くんどうしたんだい。」
一番仲よしの遠山くんだったから、ボクはきいてやった。しかし遠山くんは返事もせず、竿を倒し、空でおどっていたハヤを、草の上におろしてしまった。そして自分でハリからハヤをはずした。ボクがそばに行って、
「大きなハヤだ。よかったねえ。」
のぞきこんでそういったけれども、やはり遠山くんは何もいわなかった。ボクはどうも変でならなかった。それでも、やはりそこに尻をすえて、遠山くんの釣りを見ていた。遠山くんはサッサとミミズをハリにつけて、直ぐ水の中に糸を投げこんだ。ボクは、遠山くん何か怒ってるんだなと思ったから何ももういわなかった。間もなくウキが動き出したけれども、今度は黙っていた。すると、遠山くんは、また大ハヤを釣り上げて、これをハリからはずしにかかった。と、これをはずし、はずし、ボクの方も見ないで、ヒトリゴトのように遠山くんがいった。
「お前、浮浪児だろう。」
「えッ。」
ボクはビックリした。でも、直ぐ、
「そうだ。浮浪児だった。」
と気がついた。とても淋しかったよ。どうしていいか解らなかった。しかしまた直ぐ遠山くんに腹が立って来た。そこで、
「浮浪児だったら、どうしたんだい。」
そう遠山くんにいってやった。だけども、遠山くんはもう何もいわない。返事もせず、直ぐミミズをつけて、また糸を水に投げこんだ。ボクはまたウキを見つめた。見つめたけれども、もう見ているのがチョットもおもしろくなくなった。何だか、涙が出て来そうになった。でも、一方では遠山くんにとりかかって行って、とっくみ合いをしようかと考えた。ホントに腹が立ってならなかったよ。一番仲よしの遠山くんまでそんなことをいうんだもの。それで気がついてみたら、
「ボクが浮浪児だったら、どうしたんだい。」
そういって、涙を流して泣いていた。
そこでボクは目がさめた。目がさめた時、いつもそうなんだが、どこにねているのか解らなかった。少したったら、やっぱり川岸の柳の木の下にねていた。草の中にねていた。三日月が柳の枝の葉の上の方で光っていた。ボクは起きて水のない川原に出て、そこの石を一つ拾って、遠くに光ってる水の中に投げてやった。水がわれてキラキラ光った。そこでボクは「バカッ」って大声でどなってやった。
これもボクの夢だ。いい夢だったよ。
ボクは学校の教室の中にいた。
遠山くんと列んでいた。算数の時間だった。先生が黒板に題を出された。初めタシザンで、大きな数字がとてもたくさん列んだ。それを十分間で計算するんだ。
「ハイ、始めて。」
先生がいわれた。ボクはズンズンやった。だって面白いほど早く、しかも、とても正確に出来るんだ。見る間にボクはやってしまった。そして手をあげた。先生はコックリをなさって、時計を見て、紙に何か書かれた。ボクがやった時間を書かれたらしかった。ボクは手をおろして、みんなのやるのを待っていた。みんなはズイブン時間をとった。それでも、二番目は遠山くんだった。三番目が岩川くんだった。それから手がドンドンあがった。
「ハイ、十分。」
先生がいわれた。それからボクが答えをいうことになった。問題は二十問もあった。だけど、ボクは一つも間違えていなかった。その上、時間がたった五分だった。
「よく出来ました。」
先生はほめて下さった。ボクは顔が赤くなるようだった。
次は、カケザンの問題が出た。これも十分で、大きな数字だった。それがボクにはエンピツも使わないで、暗算でスラスラ、スラスラ出来た。式の次に答を書きさえすればよかった。時間は五分とかからなかった。
「どうして、こんなによく出来るんだろう。」
ボクはフシギでならなかった。
「もうこれからは算数にクロウすることはないぞ。」
そう思うと、ボクはうれしくてならなかった。そのうちベルが鳴って、みんな校庭に出た。ボクも一緒に出た。すると、みんなはボクの処に集まって来て、
「野村くん、どうして、あんなに早く算数が出来たんだい。」
ときいた。
「ワケないよ。」
ボクはそういって、土の上に小石でさっきの問題の中のムズカシイのを一つ書いてセツメイしてやった。ボクはその時頭がすきとおってるようで、何でもかでもよくわかった。
「フーン、フーン。」
と、みんなはとても感心した。
それからみんなでドッジボールをすることになった。これでもボクはすばらしかった。ボクのとれないボールはなく、またボクの投げたボールで、相手にあたらないボールもなかった。ボクは一メートルからとびあがれたし、どんな強いボールでも、とても上手に身体をかわすことが出来た。面白かったよ。
ところが、そのドッジボールのサイチュウにベルが鳴った。すると、みんなは馳《か》けるようにして教室に入り、直ぐ荷物を持って帰り出した。ボクはおどろいて、
「どうしたんだい。」
ときいたが、誰も返事をしてくれない。みんなドンドン帰ってしまう。それでボクも荷物を持って教室を出た。教室を出たけれど、どうしたんだろう、ボクは帰る家がわからなくなってしまった。ナゼ家を忘れてしまったんだろうと思って、一生ケンメイ思い出そうとしたけれども、どうしても思い出せない。ボクはどうしようかと思ってうろたえた。そしてロウカを一人でアッチへ行ったり、コッチへ行ったりしていた。気がついたら学校はシーンとして、一人も人がいなかった。その時ボクはホントに淋しかった。だけど、これはボクの夢で目がさめたら、もっと淋しかった。
ボクはまた夢を見た。その夢のことを書いてみよう。
その時ボクは公園の桜の木の下のベンチの上にむしろをかぶってねていた。木には桜の花がマッ白に咲いていたよ。ボクはいいキモチだった。それで、そんな夢見たんだろう。とにかく、収容所の先生のような人が、その桜の花の下に机をおいて、イスに腰をかけていた。先生というのは、あの占師というのによく似ていた。机の上にはノートとペンを置いていた。その前にボクは立ち、他の友達は近くのベンチに列んで腰をかけていた。先生は連想検査というのをするんだといった。で、先生はいった。
「おれのいう言葉を聞いて、キミの頭に浮んだことを何でもいい直ぐいうのだよ。いいか。山といったら、川といってもいい。おとうさんといったら、いいおとうさんといってもいい。又は、おとうさんはこわいといってもいい。わかったか。」
「ハイ。」
「ではきくぞ。貰う。」
「え?」
「ものを貰うんだよ。」
「貰うの? 貰うの恥ずかしいな。」
「そうか。」
そういって、先生はノートにそのことを書きつけた。
「では、雪。空から降ってくる雪だ。白い雪だ。」
「雪はつめたいな。そうだ、ボクはこの冬、雪の中をハダシで歩いたことがあった。その時とてもつめたくて、足が痛かった。」
「ウン、それではケンカ。」
「ケンカ、ケンカはこわいや。ボクケンカ大嫌いだ。」
「よし、それではフトン。」
「フトン? フトンは温いね。ボクフトンの中にねたいよ。」
「では友達。」
「友達なら遠山くんだ。いい友達だった。どうしてるかと思うよ。あいたいな。やっぱりボクのように浮浪児になってるかしらん。だって、遠山くんの家もやけたんだよ。」
「よしよし、ではごはん。温いごはん。」
「ごはん! 温いごはんが食べたいよ。おかあさんがいつもよそってくださった。」
「よしよし、おかあさんはやさしいからな。では、本はどうだい。」
「本? 本もよみたいよ。いつか、おかあさんに童話の本を買って貰ったよ。」
「フーン、では、かゆい。」
「そう、ボクいつもカラダがかいいんだ。シラミやノミがとっついてるんだ。おかあさんが前はよく洗濯して下さったから、ノミもシラミもいなかった。」
「そうか、そうだったんだね。では白い。」
「そうだ。おかあさんの手は白かったよ。やさしい柔い手だった。」
「今度は星。空の星だ。」
「星ね。ボク、星を見るといつもおかあさんのことを思い出す。」
「そうか。何でもかでもおかあさんのことを思い出すんだね。」
先生はそういって、ボクの番はすんだ。次には北山が先生の前に行った。それから原田が行った。順々にみんな行った。ボクはベンチの上にねて、ウトウトしながら聞いていた。他のことは聞えなかったが、みんな何でもおかあさん、おかあさんっていってるようだった。ボクは「おかあさん、おかあさん」って一晩中聞いてるような気がして、子守歌を聞いているようにうれしくて、とても温かに眠った。花がチラチラ散っていい晩だった。
「おかあさんの処へ行きたいか。」
その人がいった。ボクは、
「行きたいです。」
と答えた。すると、
「では、つれてってやるから、ついて来い。」
その人はそういうのだ。ボクはフシギでならなかった。だって、おかあさんは三年も前センサイでなくなっているのだから。
「でも、ボクはおかあさんはいないんですよ。」
そういうと、
「いるよ。」
その人はそういう。
「じゃ、どこにいるんですか。」
「ヤマヤマケン、タニタニグンのモリモリムラのガケシタという処にいる。」
「へえー。」
ボクは考えた。どうも聞いたこともないような県だ。
「これはいったい何処《どこ》にあるんですか。」
とたずねた。
「すぐ近くだよ。行きたければつれてってやるよ。」
その人にいわれて、
「ホントかなあ、ホントかなあ。」
と、何度もいってみたけれど、その人は、
「ホントだよ。ホントだよ。」
という。それでトウトウついて行くことにした。
その人はとても早く歩く。ボクはおくれてはならないと思ってフッフかけるようにしてついて行った。気がついたら何処を見ても山ばかりの山の上を歩いていた。
「そうか、ここがヤマヤマ県なんだな。」
とボクは思った。でも、何百とニョキニョキ立っているのがみんなハゲ山ばかりで、木は一本もなかった。少し行くと、今度は谷ばかりの処へ出た。あれは台地というのだろうか。高原というのだろうか。大きな山のテッペンに原っぱのような処がつづいていた。そこには岩がたくさん、それも大岩がゴロゴロころがっていた。その中に、土がわれて四方八方が谷になり、これが深く大きく下の方へ広がっていた。
「ここがタニタニ郡だ。」
その人は教えてくれた。それからまた少し行くと、そんな谷いっぱいに森の茂っている処へ来た。森の上を大きな鳥が舞っていた。
「もうモリモリ村だな。」
ボクは思った。すると、その台地の端っこへ出た。そこは高い崖《がけ》になっていた。崖は切り立った一ツの大きな岩だった。下まで何百メートルあるかわからなかった。でも、その下にも森は一面に茂っていた。村もなければ、人間なんかすんでいるようにも思えなかった。
「あそこがガケシタという処だ。」
その森の方をむいて、その人は教えてくれた。
「おかあさん、あそこにいるんですか。」
ボクが聞いた。
「そうだ。」
その人がいった。
「あそこへはどう行ったらいいんですか。」
そういったら、その人はキノドクそうな顔をした。
「ここからトビ下りるんだな。仕方がない。元気を出せ。」
そういうんだ。
「ここからですか。」
ボクにはとてもトベそうに思えなかった。
「目をつぶってとべば恐くないよ。」
ボクは目をつぶった。
「ソラッ。」
そういって、その人はボクをつきとばした。
「アッ。」
といったら、ボクは目がさめた。おそろしかったのか、ドウキがドキドキ打っていた。
とても寒くなったので、気がついてみたら、ボクはいつの間にか、雪の中に立っていた。どこも、かしこも一面白い雪の世界だ。しかも見渡す限り山ばかりだ。遠い山、近い山、みんなおサトウの山のようにマッ白だった。でも、ボクは雪をフトンの綿のようにかぶった一本の大木の下に立っていた。
ボクの側にはリョウシのおじさんがいた。おじさんはスキー帽をかぶり、肩から網袋をカバンのようにぶらさげていた。その中に捕った鳥やケモノを入れるんだそうだ。足にはワラ靴をはいていた。ボクはどんな風をしていたのか、わからなかった。しかしとにかく寒かったから、やっぱりパンツとシャツぐらいでいたのか知れない。
「では、ウサギのとり方を教えてやる。」
おじさんがいった。おじさんはリョウシなのにテッポウは持っていなかった。その代り、手に一本の長い木の枝を持っていた。それはマッスグで、釣竿《つりざお》のように長かった。
「見てろ。」
そういって、おじさんはその棒をビューッ、ビューッと振り廻した。
「これは、タカが空から下りて来る羽根の音だ。これをきくと、下にいるウサギは恐ろしさに縮みあがり、身動きが出来なくなってしまう。そこをスバヤク両手でおさえ、この網の中に入れてしまうんだ。いいか、わかったか。では、やってみよう。」
おじさんが先に歩き出した。ボクは後について行った。百メートルばかり行くと、もう雪の上にチョンチョン小さいウサギの足跡がついていた。おじさんはそれをジッと見て、小さい声でいった。
「見ろ。これは今歩いたばかりの足跡だ。二十メートルとは行っていない。」
おじさんは手でアイズをした。ボクにそこで待ってろというらしい。ボクはそこに立止っていた。と、おじさんはソロソロ歩いた。ムコウに一本の大きな木があった。その根元に枝ばかりの茂った低い木が雪をかぶってヤネのようになっている。おじさんはそこへ目をつけているらしい。ソロリソロリ十メートルばかり歩くと大廻りをして、今度はその茂った木の後ろの方へ歩いた。ボクはキンチョウして寒さも忘れ、目をサラのようにして見ていた。おじさんは木の後ろで立止り、そこで枝を高く振上げた。やるな! と思う間もなく、
「ビューッ。」
恐ろしい音がした。と、同時におじさんは枝をすてて、雪中にとびこんだのだ。雪が水のシブキのようにはね散った。小枝がピンピンして、雪をはね飛ばしたのだ。しかしもうおじさんはその雪の中から一匹の白ウサギを両手でつかんで胸のところに抱えていた。ボクはそこへ馳けてって、いった。
「おじさん、うまいねえ、とてもじょうずにとるじゃないか。」
「フン。」
おじさんはそういって、ちょっと口をゆがめて笑った。それから肩の網を前に回して、ウサギをその中に入れた。ウサギはその中でアオムケになったまま足をちぢめて動かなかった。
「おじさん、ウサギもう死んじゃった?」
ボクは聞いてみた。
「ウム、今、首をしめたんだ。」
「かあいそうだなあ。」
「だって、生かしといたら大変だ。網の中であばれて、とても提げてなど行かれるものでない。」
おじさんはもういなかった。ボクはホラ穴のある大きな木の後ろにかくれて待っていた。ホラ穴の中へウサギがヒルネにやって来るのを待っていた。ヒルネではない。もう日暮れだったからヨルネという方がいいね。
風も吹かない静かな晩だった。やがて月が出て来た。冷たい光の月だった。しかしマンまるくてよく光った。その辺ヒルマのように明るかった。すると、間もなくウサギがやって来た。ピョンッ、ピョンッと、とんでやって来た。一ピキ。大きなウサギだったよ。初めはまるい白い影のように見えていた。それが直ぐ、ハッキリして来て、まず黒い目が見えた。次に長い耳が見えた。これが十メートルばかりのところで立止り、前足を立てて、尻をすえて、あたりをちょいと見廻した。ボクは竿を立てたまま、辛いのもこらえて待っていた。
誰もいないと安心したのか、ウサギはまたピョンッ、ピョンッとやって来た。ボクは木の陰から首をのばして、よく見ていた。ウサギはホラ穴の口で立止り、暗い穴の中をやはり首をのばして見ているようだった。それから今度は後ろ向きになって、穴の方に尻を入れ外に首を出して、その辺を見廻した。そこで、ボクは竿をそーッとさしあげた。
「ビューッ。」
ウサギはブルッと身体をふるわせたようだった。二本の長耳も後ろに倒し、首を縮めてすくんでしまった。それをつかまえるのに少しの苦労もいらなかった。ボクはラクラクと、両耳をもってぶらさげた。それでもウサギはじっとしていた。おとなしさはまるで飼いウサギとかわらなかった。
木の陰の方に、大分はなれたところに、雪に埋めて、一つの箱がおいてあった。その中にボクはその大ウサギをつれてって入れた。そして上から板のフタをして、その上に石の重しをおいた。ウサギはちょっとジッとしていたが、直ぐあばれ出した。中でとんでるのかはねているのか、方方で頭を打ってるような音をさせ、それからガリガリ引っかくような音もさせた。ボクは、
「おとなしくしていろよ。」
そういって、また元の木の陰に来て身体を隠して待っていた。
「来たぞう。」二、三十メートルばかり先にまたもや影のような白い円いものが、見え出した。ピョンッ、ピョンッとやって来たのだ。
「おや一ピキではないらしい。」
どうやら小さい子供のウサギが二三ビキ、道についてとんでいる。
「ハ、来るぞ。来るぞ。」
「ピョンッ、ピョンッ。」
途中でキョロキョロしたり、穴をのぞきこんだり、穴の前に尻をすえて、一時外を眺めていたり、みんな前のウサギと同じことをやる。そこを見すまして、またボクは竿を振る。
「ビューッ。」
ウサギは親ウサギも小ウサギもみんなで五ヒキ列んだまま耳をふせ、首をちぢめてすくんでいた。そこをボクは耳をつかんでぶらさげ、片手に三ビキ、片手に二ヒキもって、雪の中の箱のところへ運んだ。そして箱の中にポンポンほうりこんで、前と同じにフタをして、重しを置いた。
「どんなもんだい。もう白ウサギ六ピキだ。」
ボクは嬉しくてならなかった。
またボクは木の陰にかくれた。木の枝の棒は考えてみれば魔法の杖《つえ》のようなものだ。ビューッと音を立てさえすれば、ウサギがとれるんだ。そこでボクは考えた。
「もしかしたら、この竿でシカやイノシシや、キツネやタヌキがとれるかもしれない。そうだ。今度シカやイノシシが来たら、ビューッとやってみよう。」
しかし、そうだ。ウサギの箱はもう一パイになっている。もしシカやイノシシがとれたら、どうしよう。その時ソバの木を見たら、何本も藤のツルが上から下からブラさがったり、はいのぼったりしていた。
「これだ。これでイノシシをしばってやろう。」
ボクは藤ヅルを引っぱり、それを切って、何本も綱をつくった。もういい。これなら何ビキのシカ、イノシシが来てもいい。というくらい綱が出来た。そこで、ボクは木の陰に忍んで待っていた。
「来い来い。早く来い。シカとイノシシと、キツネとタヌキ。」
間もなくやって来た。二十メートル先を、何だか知れない犬のようなものが、くびをさげて、雪道をかぎかぎ馳けて来る。フンフンいうそのはなをならす音が聞える。
「はてな。こいつ何だろう。もし狼《おおかみ》や山犬なんかだったら困るな。」
ボクはくびを傾けた。しかし近よったところを見ると、そんなに大きな動物ではない。まあ小犬ぐらいだ。トットと馳けている。
「よし来た! 元気にやろうぜ。」
ボクは竿をあげた。木の前に来たところでそれッ、ビューッと来た。一たまりもない。その小犬のような奴がキュッと首をすくめ、雪の上にちぢこまってしまった。そこをとび出して行って、藤ヅルでガンジガラメに、首から胴をしばりあげた。そして、これを引きずって、大分離れた木のところにいき、その幹にツルのハシをくくり付けた。その時よく見たら、どうもソイツはタヌキらしかった。とてもヘンチキリンな顔をしていた。
大分おもしろくなって来た。ボクはまた木のところに帰って来てその後ろに隠れていた。今度は何が来るだろう。もしクマなんかが来たら、どうしたらいいだろう。今迄クマについては考えていなかったので、そう思うと、ボクは俄《にわ》かにおそろしくなった。タヌキが来た以上、クマも来ると考えられないことはない。さて、どうしたら――と考えていると、あれ、もう何かやって来た。ここはケモノの通り路になっているらしい。キット、やつらの国道筋なんだ。だが、今度来たヤツは、そうだ背の高い足の長い首も相当に長いケモノだ。トットと軽快に走って来る。月の光の中で、頭をガムシャラに振るのが見える。
「何だろう。」
そうだ。シカだ。今光った枝のように見えたのは、あれはツノだ。サッサッ、トットッ走ってくるぞ。首を振り振り、おう、もう木の前に来た。大シカだ。ツノの形の立派で、勇ましい大シカだ。どうしよう。どうしよう。ええい! 元気を出せ。そこで、ボクは魔法の竿をビューッ、ビューッと二回も振った。どうだ。どんなもんだ。その大シカが雪の上に膝《ひざ》を折って、小さくすくみこんでしまったではないか。
こうしてボクは、ウサギ、タヌキのほかにシカをとり、イノシシをとり、キツネをとりした。みんな雪の中の杉の木にくくりつけたのち、町へ仲間を呼びに行った。仲間は何十人と来た。これらの仲間とボクはそれらのケモノを綱で引きつれて、町へ行列をつくって入って行った。町は黒山の人だかりだった。
これはボクの夢だ。ホントウはヒルに見た夢なんだ。
金の梅・銀の梅
梅ヤシキには、梅の木が何百本かうわっているのです。三月になると、その梅の木にいっぱい花がさいて、ウグイスがそこで、ホウホケキョウとなきます。だから、そのヤシキのおくの方へ行くと、なんだか、夢でもみてるような気分になります。ことしの三月も親類のケンちゃんが泊りがけできたので、ボクはあんないして、そこへ遊びに行きました。ホントは入るとしかられるんだけど、ボクたちは、そうっと、そこの杉のイケガキの間からもぐって、梅の林のおくの、おくの方へ行きました。そして木の下の石にこしをかけて、ふたりで、キャラメルを食べました。
そうしていると、ウグイスの声がしました。ホウホ、ケキョ、ケキョ。気をつけていたら、花のむこうの方に、枝から枝へとんで行く一羽のウグイスが見えました。その時、ケンちゃんがいったのです。
「この梅の木、実がなる?」
「なるとも!」
ボクがいいました。
「どんな実?」
ケンちゃんがきくから、ボクはオヤユビとヒトサシユビで、カッコウをして見せました。
「なんだい。小さいじゃないか。」
ケンちゃんがいうのです。そこでボク、
「梅の実、小さい方がいいんだよ。だって、梅はみんなウメボシにするんだろう。これくらいが、ちょうどころあいなんだとさ。」
といったのです。すると、
「フーン。」
ケンちゃんはそんな返事をするのです。それでボクはしばらくだまっていました。ケンちゃんも、なにもいいません。ところが、ボクしだいにハラが立ってきました。ホントウのことを教えてやっているのに、わざとフーンなんていうんですもの。それでボク、少しメチャクチャになって、いってやったんです。
「ケンちゃん、金の梅、銀の梅って知ってるかい。」
「知らない。」
そこで、ボク、
「フーン。」
て、いってやったんです。と、ケンちゃんがいうんです。
「金の梅、銀の梅って、なんだい。」
「金の梅は金の梅、銀の梅は銀の梅。」
「じゃ、それ食べられるの。」
「どうかなあ。ボク知らないや。」
「見たことあるの。」
「あるよ。」
「どこで見たの。」
こうなっては、シカタがないもんで、
「ここで見たよ。ここの木になっていたよ。」
そういってしまったんです。
「いつ?」
「きょねん。」
「ことしもなる?」
「なるだろう。」
「いくつ? いくつくらいなる?」
「一つか、二つ。でも、ならない年もある。」
これはウソです。みんなウソなんだけど、つい、そういってしまったのです。
それから三月、ちょうど梅のうれるころ、ケンちゃんちから手紙がきました。
「ケンスケが病気になりました。熱の高い時、金の梅、銀の梅がほしいと、ウワゴトに申します。そういうものが、絵にでも、お話の本にでも、あるのでしょうか。もしありましたら、おかし下さい。」
お母さんに、この手紙を読み聞かされ、ボクほんとうにこまりました。でも梅ヤシキの人にたのんで、そこの梅を一ショウほど売ってもらい、それをもって、ケンちゃんを見まいに行きました。途中にお宮がありましたから、ボクそこをおがんで、ボクのウソをおゆるし下さい、ケンちゃんの病気を、おなおし下さいと、神さまにたのみました。
「ごめんなさい。シマダのキンタロウです。ケンちゃんのおみまいにきました。」
教わったとおりに、ボクが玄関でいうと、おばさんが走るように出てきました。
「まあ、よくきて下さった。」
大喜びして、ボクを奥の間につれて行きました。そこにケンちゃんはねていました。
「ケンちゃん、キンちゃんがおみまいにきてくださったよ。」
おばさんがいうので、ボクはまず梅のカゴをケンちゃんの枕もとにおき、
「梅屋敷の梅ですが――。」
そういいました。それからウソのおわびをしようとすると、おばさんがいわれました。
「あの梅屋敷の梅ですか。ケンちゃんがそれを待っていたのですよ。」
それから、ケンちゃんの耳近くへ口をよせて、
「ケンちゃん、あの金の梅、銀の梅ですよ。キンちゃんが持ってきてくださったよ。見せたげましょうか。」
そういわれるのです。ボクはおどろいてしまいました。しかしそこへすわった時からケンちゃんのようすが、どうもヘンに思えてしかたがなかったのです。目をつぶってあおむけにねていて、ボクなんかに、気がつかないようなんです。ケンちゃんでなくて、ベツの人かと思えるくらいです。
あとで聞いたら、その時ケンちゃんは病気のため、目もよく見えないようになっていたということです。それで、おばさんは、梅をカゴから出して、一つをケンちゃんの右手に、一つをその左手ににぎらせました。そして、
「ケンちゃん、こちらが金の梅よ、こっちは銀の梅。わかりましたか。」
こういいました。ケンちゃんは目をつぶったまま、右手と左手とをかわるがわる上にあげてこういいながら、耳の近くでふって見せました。
「こっちが金の梅。それから、こっちが銀の梅。」
これは人にいうより、自分で自分にたしかめているようでした。おばさんはそれにつれて、
「そうよ。そちらが金の梅。そうだよ。それが銀の梅。」
そういいました。
「キレイなの?」
ケンちゃんがきくのでした。
「そうとも、とてもキレイよ。」
「フーン、光ってる?」
「光ってるよ。ピカピカ、ピカピカ。」
「フーン。」
ケンちゃんはそういいいい、こんどは両手をあわせ、その中で二つの梅をもむようにしていました。その間にも、
「金の梅、銀の梅。」
と、ひとりごとをいって、それがさもうれしそうに、さもたのしそうに、見えました。だからおばさんまで、
「ケンちゃん、よかったねえ。」
なんていいました。
「なってるところを見たいなあ。」
ケンちゃんはいうのでした。
だけどもボクは、そう信じこんでるケンちゃんの有様が、気のどくでなりませんでした。まるで赤ちゃんのようにだまされているのです。いいえ、ボクだっておばさんといっしょに、ケンちゃんをだましているのです。それで、
「ボク、かえります。ケンちゃん、早くよくなって遊びにおいでよ。」
そう早口にいって、そこを立ってきてしまいました。おばさんがとめても、ドンドン帰ってきてしまったのです。あとできくとケンちゃんは、その梅が、おお気に入りで、手からはなさず「金の梅、銀の梅」といいつづけていたそうですが、それから一月ばかりでなくなりました。
ケンちゃんのお墓の前には、その梅の種からはえた梅の木が二本植えてあって、それをあとあとまで、家の人たちはキンの梅、ギンの梅っていいました。ケンちゃんがそう信じていたからでしょうが、ボクは、あとあとまでケンちゃんをだましているようで、気もちがよくありませんでした。
できるものなら、そのお墓の前の梅の木に、ホントウに金銀の実をならせたかったのです。もっとも、その二本の梅の木には毎年毎年、それはよく花が咲き、それはよい実がなったそうです。でも金の梅、銀の梅は、ならなかったようです。
森の中の塔
一
昔々、遠いロシヤの片いなかに、古い古い塔が一つ立っておりました。つたかずらのまきついたくずれかかった塔であります。それはミランの塔と呼ばれました。その塔のはなしを、これからいたしましょう。
さてあるところに、ひげの長い王さまがありました。その王さまはある日馬にのって、猟に出かけました。ところが、広い野原のまん中で、とても、のどがかわいてたまらなくなりました。
「わしは水がほしいぞ。」
そうまわりの家来を見まわしていいましたが、なにぶん広い広い野原のことです。ちょっと見わたしたところ、川も泉もありそうにありません。
「ハイ、私がくんでまいります。」
それでも、ひとりの家来がそういって、馬にのってかけて行きました。しかしその家来を見ておりますと、それはどこまで行っても水がないのか、それこそ野原のはてまでかけて行きます。そしてとうとう、野原のかなたに小さくなって見えなくなってしまいました。これを見ると王さまは、たまらなくなって、じぶんで馬にのると、ひとりで、家来のいったと反対のほうへ、矢のように馬を走らせて行きました。
「水、水、水。」
王さまは口のなかでいいました。ところが、どれくらい走ったかわかりません。とにかく、いつのまにか、馬は林の中をかけておりました。と、あたりがパッと明るくなったとおもうと、林の間のあき地の一つの|しばふ《ヽヽヽ》のところに、出ておりました。見れば、そのしばふのまん中に、水! 水! 石でたたんだ大きな泉があって、水があふれるようにもりあがっております。
馬からとびおりるが早いか、王さまはその泉の上にかがみこみました。かがみこんでみれば、そこに、水にうかんで一つの金のおわんがあります。しかも、水は水晶のようにすんでおります。王さまはすぐ、そのおわんに手をのばしました。
ところがこれはどうしたことでしょう。おわんはヒョイとむこうへすべって行くのです。で、こんどは、左の手をのばしました。と、またヒョイと一方へ浮いて行くのです。泉には波も立っておりません。それがまるで、生きものででもあるように、おわんは王さまの手につかまれないのです。
王さまはいらいらしました。なにぶん、もう口につばきもないほど、のどがかわいておるのです。
「ええッ。」
と、ひとりごとをいいながら、こんどは両手でそのおわんをおいかけました。が、やはりおわんは右や左に浮き沈みするのです。
「ええッ。」
と、また王さまはひとりごとをいうと、もうおわんなどすてておいて、あふれでるほど一ぱいになっている泉の上に口をつけました。そしてゴクリゴクリと、もう腹いっぱいになるほど水をのみました。そのうまさ、ちょっと息がつけないくらいでした。が、さて、たらふくのんで起きあがろうとすると、これは?
こまったことになりました。王さまの長いひげが水の中にしずんで、底の何かにからまったのでしょうか。かおをあげようとしても、どうしても、あがらないのです。じっさい、ひげが引っかかっているのです。
「チェッ。」
と、王さまは舌打ちをしました。と、その時です。水の底からおそろしい声が聞えてきました。
「ハッハハハハ、水だって、ただじゃあげられませんぞ。」
二
ビックリして、王さまが水の底を見ますと、底の底のほうで、大きな手がシッカリと、王さまのひげをつかんでおります。
「何がほしいんだ。」
王さまがいいました。と、水の底から、またおそろしい声が、聞えてきました。
「今までは何も、ごぞんじないもの。あなたが御殿に帰って、きょうはじめてごらんになるもの。それが私はほしいのだ。」
王さまはちょっと考えてみましたが、王さまの御殿で、王さまのしらないものなんか、一つだってありません。
「なあんだ。そんなものか。それなら望みにまかせるぞ。」
王さまがそういうと、ひげがスーッと水からあがってまいりました。
「やれ、やれ。」
王さまはかがんでいて、いたくなった腰をのばしました。それから、馬にとびのると、また全速力でかけてかえりました。途中でちょっと水の中の怪物のいったことが気にかかりましたが、まったく、御殿でしらないものは、一つだってありません。まあ、てんじょう裏のねずみの子か、それとも、庭の木の上の小鳥くらいのものでしょう。そんなものなら、いくらだってやると、また馬をはやく走らせました。
さて、こうして王さまがたくさんの家来と、たくさんのえものをあとに、王さまの御殿に帰ってきました時、玄関に王さまをまっていたのは、はたしてどんなものでありましたろう。それは、今日、しかもさっき生れたばかりの、かわいい王さまの子供だったのです。
「あなたが、ごぞんじないもの。きょうはじめてごらんになるもの。」
水の底の怪物のいったのは、ああ、まったくこの王子のことだったのです。
「王さま、おめでとうございます。」
「王子さまのおたんじょうでございます。」
玄関におむかえにでた家来たちが口々にこういったのも、今は王さまの耳にはいりませんでした。
「王子さまを、ごらんくださいませ。」
こういって、ひとりの老女中が王さまの目のまえに王子をだいてまいりました。が王子のほうを見ると、王さまの目は、クラクラくらむようなこころもちがいたしました。
「ああッ。」
王さまは、部屋にはいると、おもわず両手でかおをかくし、涙を滝のように流しました。
「あのかわいい王子を、わしは一ぱいの水と、とりかえっこをしたのだ。」
王さまは心のなかでおもいました。しかし口にだしては、だれにもいいませんでした。
三
それから、しかし何年という年月がたちました。王子はしだいしだいに大きくなり、もうまったくりっぱな青年になりました。王さまも年をとりました。その間、おりおり水の怪物との約束のことをおもいだしましたが、それでもしだいにそんなことはわすれて、みんな幸福な日をおくっておりました。
ところが、ある日のこと、王子は馬にのって猟に出ました。昔、王さまがやったように、あの広い広い野原のなかへ猟に出ました。すると、やはり王さまのように、のどがかわいてまいりました。そしてまた王さまのように、ひとりで林のあいだのあき地の|しばふ《ヽヽヽ》に、出てしまいました。あふれるような泉がわいておりました。そこで馬からおりて、その水を浮いている金のわんで、たらふく腹につめこみました。それから、
「ああ、うまかった。」
と、立ちあがって、馬に乗ろうとしますと、そこに、ひとりの老人が、立っていました。
「や、ミラン王子、こんにちは。」
老人はそうあいさつしました。しかし王子は、まったく見もしらない老人のことですから、ふしぎそうにして立っておりました。
「ながい間まったものだ。もう何年になるだろうか、いよいよ時がやってきた。わしのところに来るがいいぞ。」
老人は、こんなことをいいました。
「そういう君は、いったい何ものだ。名前をいえ、名前を――。」
王子がいいました。
「いや、いわなくってもわかっている。家にかえって、父の王にいうがいい。時がきた、約束によって、王子をもらうとな。で、きょうはこれでわかれる。すぐまたあおうぜ。」
老人はこんなことをいうと、ふっと煙のようにきえてしまいました。ふしぎなこともあるものだと、王子はあやしいことに思い思い、馬をじぶんの御殿のほうへと急がせました。
さて帰って、父の王さまにこのことをはなしますと、王さまがどんなに悲しんだことでありましょうか。かおを土色にかえてもうしました。
「王子よ、王子よ、時がきたのだ。まったく老人のいうとおりだ。私はお前がうまれる前、お前をやると約束したのだ。しかし、今さら、どうしてお前がやれるだろう。」
そして王子の手をとって、王さまは涙をながしました。
「いえいえ、おとうさま。」
この時、王子はいいました。
「けっしてご心配なさいますな。私に一頭の馬をください。私はいっても、かならずぶじに帰ってまいります。」
そこで王さまは、王子に金の馬具をおいた、たくましい一頭の馬と、一振りの刀をやりました。また、おかあさんの王妃は、金の十字架をやりました。王子はその馬にのり、金の十字架をくびにさげ、腰には刀をつるして、とても勇ましく出て行きました。
四
王さまと王妃とは御殿の高い塔の上にのぼって、王子のすがたが、かなたの野原のはてに見えなくなるまで、涙をふきふき見おくりました。いいえ、王子のすがたが見えなくなっても、まだ塔のうえの窓のそばから、はなれませんでした。
やがて、日がかたむき、西の空がまっかになり、その野原のはてに日は沈みました。それでも王さまと王妃は、そこをはなれませんでした。星が出て、それから月が出ました。そうしてその月さえも、その野原のはてに、沈みました。それでも二人は、王子のかえりをまって、そこから一時もはなれようとしませんでした。
なにぶん昔の昔の、森にはまだ怪物などがおった遠い時代のことであります。ロシヤの草ふかいいなかに、そんな古い塔が、立っておりました。王子は帰ってきましたろうか。本には、まだつぎからつぎへと、いろいろのことが、書いてあります。しかし私は、そんな古い古い塔の上で、年をとった王さまと王妃が、いつまでも、王子のかえりをまっていたとしか思われません。遠くから、とんでくる雲を見ても、遠くから羽打ってくる鳥を見ても、
「もう王子はかえってくるだろう。あれから何年になるだろう。」
王さまは、そんなことを考えたにそういありません。
そのうち、塔の下にからみついてのぼっていた|つた《ヽヽ》やかずらが、だんだん上のほうにはって行き、やがて塔をスッカリおおいかくしてしまいました。
それからまた、何年か後には、塔はしだいに壁がくずれて、やがて礎《いしずえ》の石をのこして、みんな風やあらしに、たおれ落ちてしまいました。そしてまた、何年か後には、そのいたましい王と王子の話だけがのこりました。塔のあとには、野いばらの白い花が、春ごとにさいていたということであります。ついに、たれしも、王子がかえってきたかどうかを、しるものはありませんでした。
おかあさんの字引き
わたくしの母は、万延《まんえん》元年、備前《びぜん》の国、御野郡《みのぐん》島田村というところで生れました。いまは岡山市島田本町となっているところです。万延元年というと、日本の汽船|咸臨《かんりん》丸というのが、はじめて太平洋をわたってアメリカにいった年です。そしてまた、井伊大老という、いまの総理大臣のような人が、桜田門のところで殺されるという、世の中のそうぞうしかったときであります。明治時代になる八年前のことでもあります。
母の生れた家はいなかの名主、いまの村長さんのような家でしたけれども、母が生れると、すぐそのおかあさんがなくなり、べつのおかあさんがきました。それで、じゅうぶんよみ書きそろばん、すなわち、いまの国語や習字や算数を、ならうことができませんでした。
明治三十年というと、いまから五十六年もむかしですが、わたくしの父がなくなりました。そのとき母は三十七でした。子どもが五人おりました。わたくしはその三番めで年が八つでした。一番下の弟はまだ二つでした。母はそのときからこの五人の子どもをそだてながら、家をまもっていくことになりました。しかし、母は心もつよく、からだもつよく、苦労をじっとたえしのんでいく人でありました。だからそのころ東京の学校へきていた十八の兄は、よびもどしましたけれども、姉もわたくしも弟も、みなそれぞれ小学校へも中学校へも、また、その上の学校へもいかせました。
ところが、そんな母も、ひとつこまったことがありました。三十年も、字一字書くこともなかったものですから、ほとんどその字というものをわすれてしまっておりました。そこへ子どもたちが上の学校へいくようになって、東京だの、熊本だの、ときにはアメリカと、とおくはなれました。そうなると、子どものことのわかるのは、手紙のほかはありません。で、その手紙ですが、書いてみると、そんなにへたではなかったのですが、なにぶん字をわすれていて、かなのほかはあまり知った字がありません。
そこで、母の字引きというのがはじまりました。半紙を何枚かとじたものですが、まんなかに線が引いてあって、上下二段にわかれております。むかし、言海なんていう字引きがありましたが、それでもまねたのでしょうか。それに手あたりしだいに、筆で字をかき、かなをつけ、わけを書くというしくみであります。ふつうの字引きは五十音順にならんでおりますが、母の字引きは、そんな順序はありません。だから、これはおぼえ書きというようなものです。それでもわたくしたちはみんな「おかあさんの字引き」とよんでおりました。
鯛 たい。 これはさかなのたいです。
橋 はし。 わたるはしです。
箸 はし。 これはものをたべる、あのはしです。
こんな調子でありました。なかにはおもしろいのもあって、
恥 はじ。 これは、たびのはじはかきすてのあのはじのことです。
新聞 しんぶん。 まいにちくばってくるあのしんぶんです。よのなかのことがいろいろおもしろくかいてあります。
などというのもありました。わたくしなどはそのころもう中学を出ていましたから、こんな字引きなら手つだいのできないことはなかったのです。それでも母にきかれれば、書いたりおしえたりはしましたが、すすんで手つだいはせず、こんなところをよんでおもしろがるばかりでした。いまから思えば、すこしばかりもうしわけなく、すまない気持がいたします。
さきにも書いたように、母の字引きは手紙用のものでしたから、よむためでなく書くためにつくったわけであります。漢和字引きというのでなくて、和漢字引きというのであります。当用漢字というのは、千何百かあるそうですが、母の字引きには千もなかったように思われます。
昭和五年、母は七十二でなくなりましたが、そのまえ五、六年、学校へかよいました。もとより先生などではありません。しかもそれが小学校五年生くらいだったと思います。わたくしが東京から帰っていますと、家のうらで、
「おばあさん、坪田のおばあさん。」
という小学生の声をききました。母の同級生がさそいにきたわけです。母は、
「はあい、いま行きますよ。」
などと返事をして、大急ぎで、本のつつみとおべんとうをもって、小ばしりに出かけておりました。それからはじめて、その小学校の補習科も卒業しました。その補習科は高等女学校という名になっておりましたから、母は、
「わたしもこんど女学校を卒業してね。」
と、大じまんで、また大よろこびしておりました。かんがえてみると、ちょうど、わたくしのいまの年ごろです。六十五、六のときでしょうか。いまのわたくしにはとてもできそうに思えません。
天狗の酒
てんぐというのを知っていますか。高い高いハナ、赤い赤い顔、おそろしい目玉、それにハネがあって、羽ウチワをもっていて、空をとんだり、山おくでは人をかくしたり、とにかくおそろしい、人間か、神さまか、そんなものです。そのてんぐをボクは見たのです。そういうと、キミたち、
「ウソだ。ウソだ。」
と、いうかもしれないが、ホントに見たのです。だから、その話をこれからする。まあ、聞いてください。
ボクが山おくへいってたら、ナニ、ナンだって、山おくって、どこだって。山おくは山おくだよ。村でも、町でもないよ。何山のおくだって。テング山だよ。そんな山ないって。あるよ。だってボク、その山で、てんぐを見たんだもの。とにかく、山おくなんだ。いままで一どもいったことのないような山のおくの、おくの、そのまた、おくのおくなんだ。そこをある日、ボクが歩いていたんだ。すると、ワッハッハッという声が聞えてきた。こりゃ、てんぐだ、ボクはすぐ思った。この笑い声はてんぐわらいだ。ボクにはすぐわかったんだ。でね、木のかげにかくれて、そうっとうかがってみると、まったくてんぐなんだ。それも、きょうはてんぐ大会ででもあるのか、カラスてんぐ、ハナてんぐ、青てんぐ、赤てんぐ、大てんぐ、小てんぐ、たくさんのテングどもがウジャウジャあつまっておる。それが、なんと、みんな、口を空へ向けて、ワァハッハッハ、ワァハッハと笑っていた。おどろいたね。びっくりしたね。まったくおおびっくりだ。もし、その時、ボクがヒャーッとか、キャーッとか、そんなことを言っていたら、今、ここでキミたちにお目にかかることなんか、できはしない。
どうして?
どうしてだって、てんぐの|八つざき《ヽヽヽヽ》ってことを、いうじゃないか。見るまにつるしあげられて、大木の上かなんかで、バリバリバリッと、八つにひきさかれてしまうんだ。てんぐって、そんなものなんだ。それに、てんぐって、山おくで、相談していたり、会をしていたりするところを見られるの、だいきらいなんだってね。今まで、てんぐかくしにあった人なんか、みんな、そんなところを見てしまった人なんだ。そしてあまりこわいもので、こわ――いなんて大声を出した人なんだ。それでてんぐにさらわれたんだ。これを知ってるから、ボク、シッカリ口をつむって、ひとことも、ものを言わなかった。木のかげにかくれて、てんぐはおろか、神さまにだって見つからないくらいにしていた。すると、ひとりのてんぐが言ったんだ。
「フンフンフン、人間のにおいがするじゃないか。」
すると、またひとりのてんぐが、
「そう言えば、そうだ。フンフンフン。」
すると、またひとりが、
「まったくくさいな。フンフンフン。」
それで、そこにいたてんぐがみんな、あの高いハナを風のほうにむけて、
「フンフン。」
「フンフン。」
「フンフン。」
いや、その時のこわかったことといったら、いつ見つかるか。いつ、そこからひき出されるか。いつ八つざきにされることとなるか。そう思って、実はブルブルふるえていた。その時だよ。もうれつなツムジ風がおこったんだ。
「ゴーッ。」
そんな音がどっかからしてきたと思うと、そのへんの草木がザアア、ザアアと音を立てて、さわいだ。気がついたら、てんぐがいないんだ。
「あれっ。」
ボクはこう、つい言って、空をあおいだ。なんと青あおとした空いっぱいに、そのてんぐたちがハネをひろげて飛んでるじゃないか。クル、クル、そこをまわってるじゃないか。してみると、ツムジ風がおこったので、てんぐたちが空にまいあがったのか。それとも、てんぐがまいあがったので、ツムジ風がおこったのか。ボクにはわからなかった。しかし、てんぐは空高くまいあがり、そこで夕日に照らされ、カリのように、カギになったり、サオになったり、とおいかなたの空の下にある山をさして消えていった。
それから、ボクは木のかげを出た。おそる、おそる出て、てんぐたちのいたところへいってみた。すると、どうだ。びっくりしちゃった。だって、ひとりのてんぐが石に腰をかけ、そばの木にもたれ、グウグウ眠っている。やはり夕日に照らされながら、大イビキなんだよ。赤い顔を、いっそう赤くしてる。見ると、ソバに一つ、ヒョウタンがころがっている。お酒がすこしこぼれていて、いいにおいがしている。このてんぐさん、お酒によって、ほかのてんぐたちにすてていかれたんだね。そこでボク考えたんだ。
「てんぐのカクレミノっていうんだが。」
カクレミノなんか、そのへんにないものかと、考えたんだよ。見まわしても、見まわしても、そんなものはなかった。そこで、こんどは、
「てんぐの羽ウチワ。」
と、かんがえたんだ。見ると、それは、そのよっぱらいてんぐの首からヒモでぶらさげられて、ヒザの前にある。ようし。しめたぞ。しかしその羽ウチワを、てんぐさん軽く左手でにぎってるんだ。ボク、すこしそっちへ手をのばしかけたけれど、やめたねえ。もし気づかれたら、八つざきだからね。しかたなし、ヒョウタンでもちょうだいということにして、そこにころがってる、ヒョウタンをとりあげた。それからヌキ足、サシ足、もとの木のかげに帰ってきた。そこにかくれて、そのヒョウタンを見なおした。手でなでてみたり、口にはなを近づけてかいでみたり。べつに変った、ヒョウタンではない。いい|つや《ヽヽ》で、いい色で、ふってみると、ちゃんとお酒もある。
「もしかしたら、いくら飲んでも、あとから、あとから、お酒の出てくる宝ヒョウタンかもしれない。」
ボクはそう思った。で、まず、一口なめてみた。そう言っても、ぞんがいしぶい味かもしれない。てんぐの酒なんて、今まで聞いたことないからね。ところが、うまいんだ。くちびるのへんがしびれるくらい強くもあり、口のおくからツバキがわき出すくらい甘くもある。そこで一口、また一口、ゴクリ、ゴクリとやったんだ。いく口のんだか、ボクはおぼえていない。いつねむったかもおぼえていない。あのてんぐさんのように、赤い顔をして、ゴウゴウ、イビキをかいて、ねむっていたと思われる。とにかく、水ものまず、|めし《ヽヽ》も食べずに、なん日ねむっていたものか。目がさめた時、ふところへんに何かいるようなんだ。ネコといっしょにねていたんだな。ボクはまず、そう思った。しかし、よく見ると、どうやら、それが鳥らしい。キジか、山ドリか、そんな鳥なんだ。ボクはおどろいた。その鳥もおどろいたらしい。首を立てて、ひらいたボクの目を、フシギそうに見入っている。ボクはかんがえた。
「これはどうしたことなんだ。」
なんども、なんども、かんがえなおし、かんがえなおしして、やっとてんぐのことを思いだした。そこで、ここにこうしておれない。早く家へ帰らなければ――。そう思いついたんだ。家のものがしんぱいしてるだろうと思われてきたんだ。それで鳥にはきのどくだったが、そろそろ立ちあがった。すると、おどろいたことに、ボクのふところから四わか、五わか、ヒナドリがピヨピヨ、ピヨピヨとなきだしている。してみると、ボクがねているあいだに、鳥が巣をつくって、たまごをうんで、ヒナをかえしたと思われた。いや、まったく、ボクはおどろいてしまった。
むかしのむかしの、山おくの山おくの子どものつくった話ですが、こんなこともあったかもしれません。子どものつくった話ですから、もう|とりとめ《ヽヽヽヽ》がありません。
イタチのいる学校
わたくしは六十八年もむかし、学校にあがりました。そのころの生徒は、みんな着物で、ぞうりをはいていました。先生はつめえり服で、山高帽にひげをはやしていました。
えらい先生ばかりでした。だから、先生が門からはいってこられると、生徒たちは、われさきにかけよって、げんかんまでずっとならんで、おじぎをしました。
時間を知らせるのは、あつい四角な板を、小使いさんが木のツチでたたきました。カーン、カーンと、それは遠くまできこえました。一キロもある、わたくしの村にもきこえました。
そのころ、学校にいくのには、村むらから一列にならんでいきました。いちばん年上の子どもが、組長になって、号令をかけました。わたくしたちの学校は、八つの小村のまんなかにありました。それでも、生徒は八十人しかありません。先生は四人でした。
年に二回、春と秋に、遠足がありました。ピクニックです。竹の皮に入れた大べんとうを、ふろしきで、せなかにくくりました。そして、木のてっぽうをかつぎました。てっぽうの形をしたぼうなんです。それでも、それをかつぐ上級生は、とても大いばりで、声をそろえて、軍歌をうたいました。たいてい、近くの城あとや、有名なお寺なんかに、へいたいのように、足なみそろえていきました。ラッパなんかもふいていったものです。
夏になると、よく村の川で泳ぎました。はば四、五メートルの川ですが、それでもカッパがいるといわれて、子どもたちは、おそれていました。ひとりで泳ぐことはありません。泳ぎじまいにはカッパにあいさつしました。
「ごんごのおんじまい、またきて泳ぐ。」
そういって、橋から川へドブンと、とびこみます。これがあいさつです。村のおかあさんがたは、そこの石橋のたもとにセンコウをたてて、朝ばん水神さまをおがみました。子どもが水難にあわないようにおがみました。
この川は小さくても、さかなが、ふしぎなほどたくさんいました。フナ、ハヤ、ナマズ、ウナギにコイ、タナゴにドジョウ、エビとカニとカメ。そんなのを、六月から十月にかけて、わたくしたちは、小さなあみをさげて、たんぼや小みぞの口で追いまわしました。
一度なんか、セキを切って、たんぼの水を落し、その落ち口にあみを受けて、わたくしは小ブナを二斗おけに一ぱいとったことがありました。また、流しバリというのをして、大ナマズを一度に五ひきも、とったことがありました。
しかし、なんといってもおもしろいのは、八月二十四日の夏祭りです。たいこをダンジリの上にのせて、ドンドンチンチンたたきながら、子ども総出で、村じゅう、それを引きまわるのです。それに、遠い近い親類がとまりがけで、みんな集まってきて、ごちそうを食べます。そのごちそうは、さかな屋さんが、大きなタイやヒラメやアナゴやハモなんか、なんびきも一度に投げこんでゆくほどのゴウセイさです。ざしきには、そんなさかなで作ったおすしが、ハンボウに一ぱい、やまもりになっていました。
お祭りにくる露店も、とてもおもしろかったのです。アメざいく、ゴム風船、それから花火やおうぎ、ピストルなどのおもちゃ屋。
そのなかに、水をはったおけの上を、水鳥を走らせているおばさんがありました。その水鳥、とてもかっぱつに泳ぎまわり、ときどき、水にもぐったりするのです。
おかあさんにおねだりして買ってもらいましたが、その水鳥の泳がせ方を書いた紙をよむと、ドジョウを糸で水鳥にくくりつけろと書いてありました。つまり、ドジョウに引かれて走ったりもぐったり、水鳥がしていたわけです。
お祭りの翌日、わたくしたちは学校のかえり道、お宮へ、つまらなそうな顔をして集まりました。みんなポケットから、きのう買った風船をだしました。みな空気がぬけて、しぼんでおります。
どうすることもできず、がっかりしていました。そこで、わたくしは、きのうの水鳥で思いつき、飛んできたヤンマをつかまえました。それに息でふくらませた風船をむすびつけてはなしたのです。ヤンマは空高く飛んで、みんなをよろこばせました。風船をもってるほかの連中も、つぎつぎそれをやりました。
学校へいく道に、大川というのがありました。その橋は、毎年、秋の川ぼしのときには、よそ村からきて、大あみを受けるところです。川ぼしというのは、川が一ばんで、ひあがる日なのです。
だから、そこのあみには、川上のさかなが、一ばんで、一ぴきのこらず、はいってしまいます。四斗だるになんばいも、ウナギ、ナマズ、コイ、フナなんかが、はいっていました。それを見て、わたくしは、その大あみをつくろうと、十回も二十回もつくりはじめたことがありました。しかし、十メートルもある大あみを、いつも十センチほどでやめるのでした。根気がつづかなかったのです。
学校は、たんぼのなかにありました。それで、えんの下に、イタチが巣をつくりました。
子がなんびきも生れました。親イタチがたんぼからエサを運んでいました。わたくしたちの教室の、いちばんうしろの席にいたのはカゲヤマくんです。カゲヤマは、つりばりにカエルをつけて、まどからぶらさげました。すると、それにイタチが食いつきました。
時間中、カゲヤマはイタチをつりあげ、教室のなかを走らせました。みんな大さわぎをしました。タケナミクラゾウの家には、馬をかっていました。おとうさんが病気したもので、その馬のせわをするのが、タケナミの仕事になりました。タケナミは学校へ馬をつれてきました。時間中は教室の近くにつないで、休みのときは外へつれてでて、道の草を食べさせました。おとなしい馬でしたから、みんなが、かわいがって、生徒たちが草を刈ってくるようになりました。そのうち、小牛をつれてくる生徒ができて、学校ではこまりました。
近くに、城山という山がありました。むかし、そこには、城があったのだそうですが、敵にせめられて、焼け落ちました。いまでもそのいただきには、焼けたお米のツブがあります。岩のあいだには、ぬけあながあって、ふもとのお寺へつづいていると、いわれていました。どこかに、金のカブトがうめられているとも、いいつたえられていました。わたくしは、よくその山にのぼって、焼け米のツブをひろったり、ぬけあなをのぞいてみたりしました。
わたくしたちは、学校を卒業するまえ、学校のうらに、クスノキのなえを植えました。二十人くらいですから、二十本を植えたわけです。その後、学校へいったことは、六十年のあいだに、二度や三度はありましたが、すっかり、そのクスノキのことはわすれていました。
二、三年まえ、学校で、むかしの同級生にあいました。イタチをつったカゲヤマです。それで、むかしの話をしました。すると、一本の大きなクスノキをさして、それがあのクスノキだと、いいました。クスノキも大きくなっていましたが、学校も大きくなっていました。生徒は、いま、千五百人で、先生は四十人だそうです。日本の人間も、それだけ多くなったのでしょう。
この作品は昭和五十四年二月新潮文庫版が刊行された。