タイトル一覧
I knock on your door
また明日
不羈の民
乞巧奠
休息
初夏の祭典
初夢
南天の火輪
塩
夏祭り
宣言
幕間
慶東国の夜
続・慶東国の夜
昔噺
普天延景
景王の夏休み騒動記
月影の雫
木漏れ日の午後
歩み
波光
火徳の君
福音
緋牡丹
耳掻き
蒼猿夜話
薄暮
装苑
赤を持つあなたへ
闇燈す灯り
陽だまりの中で
雨糸煙柳
靴音
黎明
[I knock on your door]
あなたは、どこか華のよう。
空を目指して咲く花が、それだけで輝くように。
遙か高みを目指すその姿が、この気持ちを動かすから。
彼は宮城の一室を目指す。迷うことはない。
辿るそれは王気。
何より強く己を誘う。
皮肉にも、彼にしか分からないそれが。
嫌でも何でも、彼女が自分の主でありこの国の王であることを実感させるから。
見知らぬ者であれば迷路のようにも感じられる、広くて長い長い廊下を抜け、彼はそこに辿り着いた。
***
伝わるそれは、賑やかな雰囲気。
中に確実に彼女がいることを感じながら、扉に手を掛ける。
───と、その手が止まる。
目の前にあるのは、ごく普通の扉。
鍵のかかっていない、片手で開けられる扉。
それでいて何よりも重い。
固く閉ざされたそれは、以前に仕えた王を思わせる。
何度開けよと懇願しても。
閉ざした扉は、開かずに。
秘めやかなるそれが、開けられたとき。
国は狂気の衣を見た。
初めての自分の主。ただ一人と信じた王。
自分を失道させて解放した王。
……もう二度と会えない彼女。
馬鹿な、事だ。
軽く頭を振ると、金の髪が宙に舞う。
あの方と、彼女は違う。似た娘だと思いはしても。それに。
正直、うんざりだと思ったところで。
あの娘が己の王であり、自分があの娘の麒麟である事は変わらない。
王気を感じるこの心と、王を求めるこの魂が、本能でそう言っているのだから。
王と麒麟。自分の意思とそれは無関係に、不条理なほど無関係に、決定してしまっているのだ。
誰が王なのかという曲げようもない事実。
その事実を、麒麟はそれとして認識する能力があるというだけ。
───そして自分達はそれに逆らえない。
およそ、麒麟とは思えないくらい嫌みだな
苦笑混じりに。
かつてそう評したことがある、彼の主。
その言葉に背かず不遜な事を考えて。
彼は再び扉を押し開けようとした。
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「───ねえ陽子、あなたの身辺は勿論だけど。
台輔の身辺の警護ももっと強化した方がいいわ?」
不意に聞こえた会話に、その手が再び止まる。
この声は、祥瓊か。
やや間の抜けたような返事を返すのは己の主だろう。
「───ん?」
彼の推理通り、一音だけを返した彼女が振り返った。
***
「ああ、そうだな…。
先だっての乱で、まだごたごたが続いているから…」
狙うんなら私だけ狙えば面倒が無いのに、と。
暗殺めいた真似も多い王宮で、女王は些かうんざりと本音を漏らす。
ぴくり、と。
友人二人が眉をひそめたのには、気付かぬままで。
"全く"と。無造作にくしゃ、と乱しておろした髪は、相も変わらず赤い。
あいつ、麒麟だからか何か知らないが妙にトロいところがあるし。
呟く。
「陽子ったら!!」
「そうよ、陽子ったら!!」
どうもあまり我慢する気も無かったらしく、鈴と祥瓊二人が叫ぶ。
「何だ、二人とも…?そんな勢いで」
二人揃って叫ばれたことで、いささか驚いた気味に陽子が問う。
どうもこんな所は王には見えないが、彼女は見た目通り、16,7という年数しか生きていない。
実年齢だけで言えば、彼女よりずっと年上の二人の友人は、こんな時、どうしても優勢になる。
「陽子ったら、忘れたの!?」
強い声が、彼女の言葉を否定する。
「あなたは、王なのよ!?王と麒麟は、互いの半身なの!!台輔が死んだら、あなたも死んでしまうのよ!!」
確かに、そうだ。
先の発言の無神経さを思って、失敗したなとは思ったが。
まだ他人事のような感覚が、彼女にはある。
王と麒麟。その連帯性を知らないわけでは無いが、どうしても感覚としては身に付きにくい。
これもまた胎果というより海客としての意識の方が強い自分のせい。
そんなことを思いながら、ああ、と答えると。
その声は存外緊迫感が無くて。
思いの外、ぼうっとしたような声であるのに彼女自身も気付いたものの、発した声は取り戻せない。
やはり昨日遅く寝たのがまずかったろうか。
「陽子ったら・・・!!
あなたが、そういうことに頓着しない質なのは知っているけれど。
ちゃんと自覚して頂戴。もし、そんなことになったら、私は…!!」
気の強い彼女が、珍しくも言葉を途中で途切れさせた。
どうなるの。どうすると思うの。
喉が震えて、声が続かない。
・・・余程、心配させてしまったみたいだ。
白い肌が首筋まで紅潮した祥瓊に。
その激昂の程を見て取って陽子がその深い翠の目を伏せて。
ごめん。ぽつりと告げる。
余程の頑固は臣下にも知れ渡っているものの、こんな時の彼女は妙に素直だ。
けれど彼女は、に、と笑ってみせた。
下ろした髪を再び括り、顔を上げる。
「でも、大丈夫。
私は死なない。絶対に」
妙にきっぱりと。断言してみせた。
なぜ、と問われる前に言う。
目を閉じて。口元はいっそ楽しげに。
「私があいつを守るから。何かあったら、がむしゃらに守る。
命がけで、私がね。
だから、私が死ぬより先にあいつが死ぬなんてことはない」
ああ、何と。
自信に満ちた、言い様か。
「───」
あまりにもきっぱりと言われたから、反応が遅れた。
「でも…!!、」
私達はあなたに死んで欲しくない。
選ばなくてはならないとき、私達が何よりも生きていて欲しいのは。
残酷と思われようと、それは決して景麒ではない。
告げる声無き声。
「そう、でも。」
悲鳴のような声の言葉尻を捉えて、目を開ける。
「私は相当生き汚いから。簡単には死なない。
そう簡単に、死んでやらない。…だから、あまり心配しないでいい」
最後は友人達に向けた優しい言葉。
だから、やはりその口元は笑んでいる。
けれど、その目は。
その目は、決然とした意志を秘めたままだったから。
二人の友達は、やっぱり笑った。泣きそうになるのは堪えて。
その強さをくれたのは、彼女だったから。
彼女が最後に命がけで守るのは半身たる麒麟であっても。
この微笑みと優しい言葉とは、自分達のものだったから。
・・・ただ、やっぱり、ほんの少しだけ悔しいから。
彼女の麒麟にこのことを告げてやる気は無かったけれど。
どくん。
心臓が跳ねる。
ダメだ。
耐えられない。
"しかし二人とも、景麒をトロいとか言ったことには怒らないんだな"
軽く陽子が笑うのを聞いて、彼は扉から離れた。
***
「おや?台輔。
主上を呼びに行かれたのではありませんでしたか?」
書類待ちをしていた浩翰が呼び止める。
「…出直すことにしました」
なぜ、と問う暇を与えないうちに、足早に立ち去る。
「どうされたんでしょうね?」
部下の疑念も最もと思えるほどに、かの麒麟は些か平常ではなかったが。
そこは百戦錬磨のポーカーフェイス。
微塵の心配与えぬ余裕でもって。彼はさてな、とお茶を濁した。
***
廊下を抜け、彼に与えられている私室に入る。
そこは歴代の麒麟達が用いた部屋。
金波宮のどこよりもここの空気が静かで落ち着いている。
だが、今はその空気でさえも彼に平安を与えない。
扉を閉じ、それにもたれかかる。
足下から力が抜けていくのにまかせると、ズルズルと、背中が扉を伝い、金の髪が床に付いた。
自分でも分かる震える手で、思わず口元を覆う。
麒麟の呼吸法などあったものではない。
心なしか、頬も熱い。
やられた。
やられた。やられた。やられた。
ひたすら繰り返す。
『自分が守る』などと。
『だから自分より先に死なない』などと。よくも言えたものだ。
あんな娘が、前王と同じであるものか、と。
悔しさにも似た、歯噛みするような思いで、身体中の震えに耐える。
腰が砕ける。心臓を鷲掴みにされた。
例えどんな王に仕えようと、その側は離れない。
どんな苦しみを伴おうと、それは麒麟である自分の問題だ。
王が自分達麒麟をどう思おうと。
例え厭われようとも、自分達は最後の最後までそれぞれの王を誰よりも愛し、信じ抜くのだ。
それは、疑いようもない。それが自分達の存在そのものなのだから。
そして、自分の王への思いは、他の誰よりも強い。それが麒麟だ。
・・・そう思ってきたと言うのに。疑いようもなく、そう感じてきたというのに。
あの娘は。あの新しい主は。
───覆された。
また、全身が震える。
一人、残されるあの痛みをまだ身体は克明に記憶しているというのに。
魂の奥が忘れ得ぬ痛みと喪失感で軋みをあげているというのに。
何一つ。
何一つ、麒麟の事を理解しているとも、思い遣っているとも思えぬあの言葉に、この身は打ち震えている。
懼れと歓喜と衝撃とを以て。
抗える訳がない。
そう思うと、思わず歯噛みをする。
これは、本気で口惜しかった。
神獣にも、そんな感情があるのだとすればだが。
ただ命一つを、己の為に投げ出す程の想いを。
自分が王に捧げる、それ以上の想いと覚悟。
そんなものを、あんなにも鮮やかに目の前に晒け出されて、抗える訳が無かった。
墜ちた、と思った。
彼女の手に。
捕らえられた。
墜ちる。
彼女に。あの生命に。あの想いに、魂に。
あの熱さが、己の全てを焼き尽くすだろう。
だが、彼にもプライドがあった。
焼き尽くされるまでは仕方ないとして、その後ただの灰になるつもりは無かった。
立ち上がる。
そして、汚れてもいない衣服をぱん、と払った。
───捉えるのは、麒麟の方が手練れだ。
捉えるのにとんでもない労力がいるであろうことは分かっていたが、もう睨み合いは始まっている。
そして、逃げられる相手でないことも分かっていたので、彼は向き合うしかなかった。
そうして、彼は歩き出す。
王気を頼りに居場所を捜す。
そうして、再び辿り着く。
閉ざされた、扉。
今度こそ、手は止めなかった。
[また明日]
「よう!」
「延台輔!」
世界に十二しか存在しない――厳密に言えば十一しか存在しない金の髪の持ち主である少年が、にっと笑う。驚く陽子に、ビシッと人差し指と中指をそろえてこめかみに当て離す――蓬莱の軍隊ふうの敬礼をした。
場所は王宮。神獣である麒麟がいてもおかしくはない場所だ。
ただ――。
ただ、いる国が違う。
彼は慶東国の北、雁州国の宰輔だ。年のころは十二、三。鮮やかで明るい金色の髪に、紫の瞳。
号を延麒。名を六太という。
慶国金波宮の主、景王陽子は、目の前に現れた少年をまじまじと見、思わず周囲に目を向けた。
「延王もご一緒ではないのですか?」
それともまたどこかプラプラと歩いていたり寝ていたりするのだろうか、と思う。
陽子の考えを察したのか、六太は片目をつぶった。
「あいつは国。今日は俺だけ」
「そうですか」
陽子は微笑をもらし、小首をかしげた。
「で、どのようなご用件で?」
雁国主従が金波宮に遊びに来るのはいつものこと。金波宮でも不思議とそれを当たり前のように受け入れているから不思議だ。最も、まともに禁門から入ってくることは珍しく、どこからか忍び込んでくる彼らに対し、果たして下の者がどれほどその来訪を知っているのかは疑問だが――。金波宮でも彼らの非公式の訪問に対しては、自然と格式ばった出迎えはしないようになっていた。
陽子が無意識にしろ、雁国主従を身内と考えているのは明らかだった。
警備が厳重である金波宮の内宮・内殿に出入りが出来る――それは彼らが隣国の王と麒麟であるという以上に、それだけ信頼されているということを示す。もちろん、すべての官吏が納得しているわけではなかったが――ある意味、延麒が延王ほど警戒されていないのは確かだった。
六太は、にっと笑う。
「ちびに会いに来たんだ。いるか?」
ちび、とつぶやいて、陽子は笑う。
「桂桂なら――」
陽子の目線の先には、大きな花束を抱えて歩いている子供の姿がある。花束で前は見えず、よろよろとふらつきながらも一生懸命に働いているのが分かった。
「あいつ借りてっていいか?」
「どうぞ」
陽子はくすくすと笑った。鈴から、延台輔が桂桂に会いに来ては二人で遊んでいるらしいという話を聞いてはいたが、本当らしい。
「思いっきり遊んでやってください。ここではなかなか桂桂の相手が出来ない。……お願いする」
「うん、任せて」
六太は駆け出して、桂桂の進行方向に立つ。そのまま花束と一緒に桂桂に抱きついた。
「よう!」
「わ! 六太――! じゃなかった。延台輔」
「六太でいいって言ったろ」
「うん! 六太。久しぶりっ」
桂桂が大きく笑う。花束ごしに見える金色の髪と鮮やかな紫の瞳に首をかしげた。
「仕事はいいの?」
「いいのいいの。俺がすることってほとんどないんだよなー。これ、運ぶのか?」
「祥瓊に頼まれたの」
「半分持つ」
六太は花束を半分に裂き、脇に抱える。
「これが終わったら暇か? 金波宮、探検しようぜ」
「うん! あ、でも」
桂桂は、陽子の姿を探す。そのままパタパタと走ってきた子供に陽子は優しく笑って頷いた。桂桂の頭に手を置き、軽く撫でる。
「遊んでおいで、桂桂。ステキな場所が見つかったらこっそり教えてくれ」
「うんっ!」
「早く行こうぜ、桂桂」
「六太、待ってよ!」
六太のあとを追っていく桂桂と、合流して笑いあっている二人を見て、陽子は微笑む。実際、陽子が桂桂の遊び相手をしてあげるほどの時間はほとんどないといっても過言ではなかった。休める時は出来るだけ彼のそばにいたいと思うが、なかなかそうもいかない。
桂桂の勉強は袁甫が見てくれるものの、同年代の子供たちと一緒というわけじゃないし、陽子も王としての勉強以外の日常的勉強に関しては桂桂と同レベルなので一緒に習っても問題はないが、どうしてもそのあとで「遊ぶ」ということまでは出来ない。かといって、彼をひとり下界に降ろすつもりは毛頭なかった。
――蘭玉……。
陽子は常に忘れることの出来ない少女のことを思う。
玉璽を守って亡くなった少女。それは、自分の命をも守ってくれたのと同じことだ。
彼女の代わりに、自分が桂桂の姉となり保護者となリ、その成長を見守りたいと陽子はそう思う。そして、陽子にとっても、金波宮にとっても、すでに彼の存在は必要なものになっていた。
彼を見ていると「愛しい」という気持ちが確かなものであると分かる。その成長を見ることが「喜び」であることにも気づいていた。
彼は、目に見える、確かな力となって陽子を支えてくれていた。
「なんだ、あいつは。このところよく遊びに行くと思っていたが、桂桂に会いに来てたのか」
不意に背後で男の声がして、陽子は飛び上がった。振り返らずも、その声の主が誰かは分かる。
「延王!?」
「おう」
にっと笑う人物は、陽子に向かってのん気に片手を上げた。陽子が見上げる身長。漆黒の髪を頭上でひとつに結い、背中に流している。体格もよく、日に焼け、いかにも武人といった感じだ。
雁国延王尚隆。
延麒六太の主である――そう、国に残っているはずの。
陽子は唖然とした表情で男を見上げた。背後には苦笑する大僕虎嘯の姿が見える。
「おう……って、来ていたんですか?」
男は片眉を上げた。
「来てはならんか?」
陽子は慌てて首を振る。
「いえ、延台輔が自分ひとりで来たとおっしゃっていたので」
「あとをつけてきたのでな。てっきり抜け駆けして陽子に会いに来ているものと……そうか、ずいぶんと気に入っていたからな」
「桂桂ですか?」
「ん。素直でかわいいな、あれは。……うちにもほしいものだ」
延王はあごを撫でながら言う。その口ぶりから、それが素直な感想であることが分かる。
「あげません」
陽子はくすくすと笑った。
話を聞きつけてきたのだろうか、遠くに冢宰浩瀚の姿が見える。
「勉強はまだ始まらんのか」
「え?」
陽子が延王に振りかえる。
「勉強の時間だろう、今はちょうど」
「ああ」
陽子は目を細めた。
「遠甫が遅れているので――浩瀚、どうした」
延王は目線だけを慶国冢宰に向ける。口元に笑みが浮かんだ。
「よう」
「お久しぶりでございます、延王君」
「ちゃんと許可は取ってあるから、金波宮には苦情も捜索願いも来ないと思うが?」
延王の物言いに、陽子が笑う。浩瀚も苦笑を漏らした。
普通、許可を取るのは自国にではなく、訪問する国にであろう。
「――主上。太師は忙しくて来れないとのことで、代わりに私が参りました」
陽子は小さく笑う。
「お前のほうが忙しいんじゃないのか?」
「いつも忙しいわけではございませんよ。主上の勉強を見るのはいい暇つぶしになります」
さらりと言われて、陽子は小首をかしげた。
「暇つぶしか?」
「暇つぶしです」
浩瀚は笑う。
「それとも、今日の勉強会は取りやめにいたしましょうか。客人もいらっしゃることですし」
「いや、やる」
いいですよね、と陽子の視線を受けて、延王も頷いた。
「俺は見ているだけだがな」
「はあ」
問うような視線を浩瀚は陽子に向けた。陽子は苦笑をもらして片目をつぶる。
「気にするな、浩瀚。松伯の時もそうなんだ、いつも」
「はあ……」
それは知っているが――。
さらに困ったような顔で、浩瀚は延王を見上げる。本当にいいのか、と目線で聞いた。忍びとはいえ、他国の王の訪問に対しなんの対応もしないどころか、その存在をも無視してかまわないというのはさすがに問題があるような……。
延王は片目をつぶって笑った。
「早めに終わらせてくれ」
浩瀚は微苦笑を漏らす。さらり、と彼は言った。
「それは主上のがんばりによりますね」
「――だそうだぞ、陽子」
男二人の問うような視線が陽子に集まり、彼女は言葉に詰まる。
「う……。分かった。がんばる」
拳を握って力説する陽子に、男たちからは自然と爽やかな笑いが漏れた。
「相変わらず、忙しいそうだな、陽子」
「うん」
六太の言葉に、桂桂が頷く。その表情を覗き込むようにして、六太は微苦笑を漏らす。
「ごめんな、一緒にいられたのに連れ出して」
桂桂はきょとんとした顔をして、首を横に振った。
「なんで? 六太に会えるの、すごく嬉しいよ」
「そうか?」
「……陽子が僕といる時は、すごく疲れた時だと思うんだ。邪魔しちゃいけないなって思うの」
――甘えたらだめだなって……。
言葉にならない思いを察して、六太は目を細めた。
……六太と桂桂が仲良くなるのに時間はかからなかった。
初めて彼と出会ったとき――。
王宮では見慣れない子供の姿に驚いたものだ。
陽子が子供を引き取って育てているらしいということは聞いていたが、この子供がそうか、と思った。
何度か訪れては遊び、いつだったか桂桂の年を聞いたとき、六太は首をかしげた。その年にしては少し若い気がしたのだ。栄養不足で成長が遅れている、という感じではなく。体格的に。
子供のときの一年二年の差は大きい。
「なぁ。お前、年齢にしては少し小さくないか?」
桂桂は少しためらった表情を見せる。
六太がその表情の意味をつかむ前に子供は言った。
「仙籍に入っていたの」
――と。
瀕死の重傷を負い、仙籍に入ったことで一命を取り留めた、と。
「今は入ってないけどね」
「……仙籍のほうがよくねえ?」
「……」
子供は困ったようにうつむいた。
「あのね」
これ、陽子には内緒にしてね、と桂桂は言った。
「陽子って、王さまになったばかりでしょう? 周りの人は年もとらないし。文字や数字では国の成長が分かっても、王宮にいると目に見える変化ってわからないと思うの。でも、僕が成長することで、陽子に王様としての年月を知ってもらえたらと思う。慶の……陽子の国の子供は、こんなに成長してるよって。……それって、上にいると分からないことでしょう? 遠甫にもそう言ったら、それでいいって」
「……そうだな」
六太の、桂桂を見る目が変わったのは、たぶんその言葉。
六太もうすうすは感じていた。
景王陽子と延王尚隆の違い。
尚隆は国の成長を喜ぶ。――失いたくないのは、国。
陽子は……人の成長を喜ぶ。――失いたくないのは、人。
それは、彼らが一度祖国で――蓬莱で失ったもの。
王となったばかりの陽子には、桂桂が成長する姿を見ることが必要なのかもしれない、と六太は思った。
それは彼女の自信となり、国を支えるための喜びになるだろう。
六太は桂桂を真っ直ぐに見つめた。
――この子供は頭がいい。
本質を分かっている。
桂桂は黙り込んだ六太を見つめた。
「ごめんね」
突然、桂桂が謝り、六太は瞬きを繰り返した。
「なんで謝るんだ?」
「……」
桂桂も王宮にいるから分かる。仙籍には、本当に子供の姿がないことを。探せばいるだろうが、六太や桂桂の年で年を止めている者は本当に少ない。現に、桂桂も自分と同じ年代の子供を王宮で見たのは初めてだった。
王宮に来て、初めて出来た同じ年頃の友達だった。
――仙籍のほうがよくねえ?
そういったときの、六太のためらいがちで――でも、ちょっと期待するような瞳。
きっと、それが本音。
――ねえ鈴、六太は大人にならないって本当?
――桂桂、正確には延台輔はもう大人なのよ。あの外見のまま年を取ることはないの
六太は成獣。すでに大人として扱われるのだ。
でも、そんなのさみしい、と桂桂は思う。
陽子が王さまの仕事とは別に、鈴や祥瓊と仲良くするように。
三人でいると普通の女の子になるように。
六太にも宰輔の仕事とは別に、仲良くできる友達はいるのかしら?
普通の子供になれる――そんな友達がいるのだろうか――。
その答えは出ている。
――仙籍のほうがよくねえ?
すごく悲しそうな顔だった。
六太のために年を止めてあげたい、と思う。
でも――。
「僕……大きくなって、陽子の役にたちたいの。少しでも陽子を助けてあげたい。少しでも休ませてあげたい」
「――ああ」
六太は頷く。手を伸ばし、桂桂の頭をぐりぐりと撫でる。
「助けてやれ、きっと喜ぶ」
「……うん」
「でも、約束してくれ」
六太は、桂桂の瞳をまっすぐに見つめた。真剣な――祈るような気持ちで。
これは確信。
彼は――桂桂は、その育った環境によってではなく、その心によって陽子を支える国の重鎮の一人になるだろう。
「大きくなっても、俺のことは名前で呼ぶって」
それは、ただの子供の約束かも知れない。
大人になって、身分というものを知って、お互いの立場を知ったとき。
それが大きな壁となるかも知れない。
離れていってしまうかもしれない。
「六太こそ……」
立場上、人前では呼び名が変わることもあろう。
「六太こそ、僕が大きくなっても友達でいてくれる?」
でも――。
陽子も、鈴も、祥瓊も、人前ではちゃんと言い方を改めている。
それが礼儀。
自分たちも、二人だけのときは友達でありたい。
気の許せる。
子供のように遊べる。ふざけあえる。
そういう関係になれたらいい、と桂桂は思う。
六太が、目に涙を浮かべた桂桂の額を指でつついた。
ちょっと、涙目で。
嬉しそうに。
「名前で呼ぶってことはそういうことだろ」
「――うん」
桂桂は、花が咲くように大きく笑った。
だから六太は桂桂に会いに来る。
子供が大人になる時間は、とてもとても早いから。
今だけしか出来ないことをしよう。
今だけしか感じることの出来ない思いを共有しよう。
それは、大人になっても二人が友達でいるために大切なことだから。
室内に、たちまち花の香りが充満した。春の爽やかな風とともに子供が入ってくる。
「祥瓊、お花持ってきたよ、ここでいい?」
「ええ、ありがとう。そこに置いておいてね。ああ、いい匂いだわ」
祥瓊は走らせていた筆を一瞬止めて深呼吸をする。
以前から陽子の執務室に花を飾りたかったのだが、とにかく、陽子に危険が及ぶものは近づけることが出来ない。花の中に毒針が隠されてあったり、蜜に臭毒を発するものが仕込んであって以降、花も自分たちが育てたものしか飾ることが出来なくなっていた。なにしろ、届けに花職人そのものが刺客だったり、と油断ならない。
陽子の敵はあまりにも多すぎた。それは祥瓊が考える以上で、自分が育った環境を思えばその違いに驚きを禁じえなかった。
陽子のことはなんとしても守りたい、と思う。
それは陽子の周囲にいる者たちすべての願いであり、祈りだった。
桂桂が会話を交わす声が聞こえ、祥瓊はようやくそこにいるのが一人ではなく二人だということに気づいた。声は二つとも子供の声だった。
祥瓊はその仲が良さそうな会話に書面から顔をあげて笑う。もう一人は外に出てしまったらしい。
「お友達?」
「うん、六太だよ」
「そう、六…」
言って、王宮内に桂桂以外の子供の姿があることに心臓が高鳴った。すぐに身近に隠し置いた剣を手に取り、桂桂の腕を引く。――が、祥瓊はひょっこりとのぞかせたその顔を――髪を見て硬直した。
「え、延台輔!?」
「よ」
六太はにんまりと笑った。
「がんばってるみたいだな。桂桂借りるな」
「は、はい」
呆然としている祥瓊に、二人の子供は笑い声を残して去っていった。
桂桂と六太の姿は、昼時にいったん現れて「ご飯ご飯! お弁当にして」と言っていったという鈴の証言を残して、再び消えた。
現れたのは、夕方だ。
「尚隆! 来てたのかよ!」
庭園の中庭。少し高台になった芝生の上で座って話していた延王尚隆と景王陽子を見つけて、六太と桂桂が手をつないで現れる。どこに行っていたのか、二人は上から下まで泥だらけだ。髪には枯れ枝が絡まっている。
近寄ってきた六太に、延王は顔をしかめた。
「なんだ、お前は。野生に戻りおって。寄るな汚い」
「へん! いつものお前に言ってやれ。それより、また抜け出したのかよ。朱衡が怒っても知らねーぞー」
「お前と違ってやることはやってきておるわ」
「ふ〜ん」
「なにがふんだ。――おい、こら」
六太は胡座を組んだ延王の腕を持ち上げて、その腕の中にもぐりこむ。組んだ足の上に、どん、と座り込んだ。満足そうに、溜息をひとつ漏らし、男にもたれかかった。
「疲れた。寝る」
「おい!?」
そのまま、ことん――と意識を失ってしまっている。
残された延王と陽子は顔を見合わせた。
「――ぷ」
陽子が吹き出す。延王は憮然とした表情だ。桂桂は急な展開にどうしていいのか分からずに立ちすくんでいる。
「桂桂」
陽子が笑って桂桂に手を差し出した。
「どこに行っていたの、すごい格好だ」
陽子の目は穏やかで、服を汚すことに関して怒っている様子はまったくなかった。桂桂はほっとしながら、陽子に近づくと、そのそばにちょこんと身を落とした。
陽子は笑う。
「楽しかった?」
「うん」
「疲れた?」
「うん」
陽子はくすりと笑う。桂桂の目が眠たそうなのはすぐに見て分かる。
「ここにおいで」
桂桂は目を丸くした。
ぽんぽん、と叩かれたのは陽子の膝の上だ。
「汚れちゃうよ、陽子」
「気にしない。ほら。枕にしていいから」
桂桂はためらっていたが、男の腕の中で安らかに眠る六太を一瞬見て、小さく首をかしげた。
「いいの? 陽子、疲れない?」
「疲れない。甘えていいよ、桂桂」
陽子の笑みは優しくて。
一瞬、蘭玉の笑みと重なった――。
「桂桂、おいで――」
桂桂は浮かびそうになった涙を堪えて、うん、と頷く。紅潮した頬で笑うと、陽子の膝に頭をつけた。
陽子が桂桂の頭を撫でる。前髪をかきあげるようにして額から撫であげる。何度も、何度も。
それを、薄目で見た六太が静かに笑う。なんとなく六太のしたかったことが分かったのだろう。延王が、ポカ、と六太の頭を叩いた。
六太は無言でこめかみに青筋を浮かべた。
延王と六太は金波宮に泊まる。
最も、部屋はひとつだけ。六太は桂桂と一緒に寝るからいい、と部屋を辞退している。
「なんだ、昼間のあれは」
「あれって?」
言って、六太はああ――と頷いた。ぽりぽりとこめかみをかく。
「なんていうかさ、陽子って、甘えかたを知らないだろ? 俺たちが甘えていくぶんには応えてくれるけどさー。桂桂も甘えたくても甘えられないじゃん。だから、きっかけをつかんでやろうかと思って。……甘えてくるから変だと思ったか?」
「気持ちわるかった」
「なに!」
「嘘だ」
にっと男は笑う。
「かわいかったぞ、六太君」
「言ってろ」
六太は鼻を鳴らす。
「言っておくけど、桂桂がいなかったら、おれ、陽子の腕の中に飛び込んでいたからな」
「おい」
六太は鼻で笑う。
「かわいそうに。出・来・な・く・て」
「なにがかわいそうに、だ」
「やってみたいだろー」
六太はニヤニヤと笑う。
「は! やろうと思えばいつだって出来るわ!」
「んで、金波宮に出入り禁止になるんだ。やってみればー?」
「く……このちびが」
「そうだ、尚隆も、今日は一緒に寝るかー?」
「誰が寝るか!」
「へへん。じゃあな。……楽しみだなー、今夜は陽子も一緒に寝るんだー」
「おい!!」
にまーと笑って、六太は部屋を出た。背後からは延王の唸り声が聞こえてくる。
部屋を出て、六太はそこかしこにいる(と思われる)慶国の護衛に笑う。
「よく見張っててくれよなー。野獣が一匹いるからさ」
「「――御意」」
返ってきた複数の答えに、六太は笑った。
六太は金波宮の空を見上げる。
――甘え方を知らないから。
それは六太にしても同じだった。
陽子だけ。
陽子だけだ、甘えることが出来るのは。
子供の時から、甘えた記憶などない。
常に生意気な子供だった。
蓬莱でも、この世界でも。
陽子がこの世界に来たことで、何かが変わろうとしているのは確かだった。
それはとてもいい意味で。
いつまでも続いてくれ――。
六太は静かに願う。
その空に。
そして、祈るようにつぶやいた言葉は風に流れた。
「六太!」
桂桂が元気に走ってくる。
「迎えに行っておいでって陽子が」
乱れた呼吸を整えながら、きょろきょろと桂桂が背後を見る。
「どうした?」
「王さまがぐずるようだったら、一緒につれてきてもいいよって」
六太はぷっと吹き出す。
「陽子が?」
「うん。王さまは来ないの?」
「呼んでこいよ、桂桂。あいつ喜ぶから」
「うん、わかった」
にっこりと笑って走って行った桂桂を目で追い、六太は笑いを堪えることが出来ず、腹をかかえて笑い出す。次いで、桂桂に手をひかれて歩いてきたホクホク顔の男を見ると、無言で指差し、ひーひーと苦しそうに笑った。
くそ、と男が憎憎しげな顔でつぶやく。
男を見上げ、桂桂が首をかしげた。
「どうかしたの? 六太」
男は溜息をひとつ、次いで優しく笑い、桂桂の頭に大きな手の乗せる。
「気にするな。あいつは頭がおかしいんだ」
延王は六太を睨み、身をかがめると桂桂の身体を抱き上げた。そのまま頭を桂桂の又に通して肩に乗せる。
「わわわ」
急に開けた視界に桂桂が驚き、男の頭に抱きついた。額にぴたっと手を当てる。男の心地よい笑いが漏れた。
「目を回すなよ」
「うん」
こんなに大きくなってから肩車をしてもらうのは初めてだ。――というより、今までしてもらった記憶が桂桂にはなかった。
父親をもつ子供たちを羨ましく思ったのを思い出す。
びくりともしない男の強さに驚きながら、六太を見下ろすと、なにやら男と言い争っている。
仲がいいな、と桂桂は思う。
以前、「王さまと六太」は「陽子と景台輔」と同じ関係だと教えてもらったが、なぜかピンと来なかった。景台輔が陽子を蹴り飛ばす姿は想像できない。
六太と景台輔が同じ仕事をしているというのも、考えるととても不思議な気がした。
――明日は野遊びしよう。
陽子がそう言っていた。
今日、六太と見つけた楽しいところに、陽子を連れて行くのだ。
陽子の顔は嬉しそうだ。
「祥瓊も鈴も景麒も松伯も延王も浩瀚も、みんなさそって行こうか」
「……」
桂桂はちょっとだけ首をかしげる。
六太と二人してあんなに真っ黒に汚れた(鈴には大目玉だった)ところに連れて行っても、みんなが喜ぶかなあ、と疑問に思ったが口にはしなかった。
……なんとなく、この王さまならそれも喜びそうな気がする。
この王さまの陽子を見る目は優しくて、とても好きだった。時々、きついことも言ったりしているけど、やっぱり目が優しいと桂桂は思う。
陽子も、この人といると気持ちが楽になっているのが見ていて分かった。
他国の人だから気を張る心配がないのかしら、と桂桂は思う。それは楽俊に対しても同じだから。
「……」
……まあ、楽俊とは少し違うような気はするけれど。
彼らが来ると、自然と陽子は休むようになる。
周囲の人々が、雁国主従や楽俊の来訪を、休みなしで働く陽子を無理やり休ませることのできる絶好の口実だと思っているのは明らかだった。
それほど、陽子は休まないのだ。
――明日が楽しみだな。
広い空を見上げ、その星の輝きを見つめながら桂桂は思う。
「陽子!」
六太の声が響いた。
桂桂は陽子の姿を見つけて手を振った。
返ってくるのは笑顔。
優しい優しい笑顔だった。
了
[闇燈す灯り]1
「では、陽子をひと月借りるぞ」
「どうぞ、よろしくお願い致します」
金波宮、禁門前。
悠然と挨拶した延王に、露台に居並ぶ寵臣達が深く頭を下げる。
「そろそろ行くか、陽子。今から行けば、日が暮れる前に雁に着ける」
「ええ。じゃあ皆、留守を頼む」
六太の言葉を受けて騎上から凛と告げた陽子に、浩瀚と景麒をはじめとする一同は拱手した。
「ご無事のお帰りを、お待ちしております」
陽子が頷くと、合図を待っていたかのように、軽やかに騎獣が飛翔する。
三頭の騎獣が見る間に遠ざかり、小さな点になり――やがて見えなくなった後も尚、皆、立ち去り難い表情で陽子が去った方角を見つめていた。
「浩瀚・・・・・・」
その場の空気を代弁するかのように、不安そうに呼びかける景麒に、浩瀚は沈んだ声で返す。
「御留守をしっかり守りながら、主上のお戻りを待ちましょう。・・・・・・我等に出来ることは、それだけです」
陽子が登極して、およそ百年。
隣国の王曰く『最大の難関』である最初の十年を、慶は類を見ないほど良い形で乗り越えた。陽子は、内朝と軍の強固な支援を得て、雁・奏・範の三大国にがっしりと支えられ、それまでの人心と国土の荒廃ぶりからすると信じ難いほど僅かな時間で、内政を固め軌道にのせた。そして、十二国を見渡しても類の無いという中央と諸州の密な協力体制を治世の初期から築き上げて、着実に国を復興させていった。
結果、数十年を経た頃には陽子は『十二国一の賢帝』と称えられるまでになり、元々気候と資源に恵まれていた慶は、常世有数の活気溢れる豊かな国に成長していた。
だが。
明るい光に満ちる王宮と街をよそに、女王が塞ぎがちになったのは、いつの頃からか。
仲間達が愛しい存在の気鬱を何とか晴らそうと心砕いても、元より相談下手な陽子が打ち明ける訳はない。これで政務に綻びでも生じればそこを突破口に切り込むことも出来るのだが、真面目な陽子は、どんなに悩んでいても完璧に政務をこなしてしまう。
難攻不落の砦の向こうで独り悩む陽子に成す術も無くなりつつあった彼らを見て、
『しばらくの間、俺たちが預かろう』
と申し出たのは、女王の大切な友人でもある隣国の王と台輔だった。
そして結局、自分たちの心情や誇りはさておき、女王のことを一番に考えるならば、二人に預けるのが良いだろうという結論に至った。――何しろ彼らは、素行に問題は多々あれど、六百年も国を支え続けた存在には変わりなかったので。
「で?どうするんだ、これから」
取りあえず一晩のねぐらとして確保した宿の一室で、六太が尚隆に訊ねた。隣室の陽子を慮って、抑えた声で尚隆が答える。
「雁と慶を廻るが――陽子次第だな」
「はあ?」
思わず普通の大きさで答えてしまい、六太は慌てて口を塞いだ。
「陽子が行きたいところに行き、したい事をさせる」
「・・・・・・そんなんでいいのかよ」
六太は、慶の官吏達を思い出しながら言った。
――出来ることなら、自分たちで女王を支えぬきたいのだけれど――
そんな瞳をしながらも、彼らは陽子を預けてくれたのに。
「・・・・・・それが一番良かろう。元より、自分で片をつけるしか無いのだから」
そう言った尚隆は至極真面目な顔をしており、六太はこれまでの長い道のりを思い返して何も言えなくなった。
確かに、尚隆は何度もあった危険な時期を、独りで乗り越えてきた。
でも、それはいつだって、『いつの間にか』闇に囚われて、『いつの間にか』乗り越えてきたのだ。乗り越えたきっかけが何かなど、問われても彼にも答えられないだろう。
「ともあれ、陽子は忙し過ぎるからな。あれでは、考えをまとめるどころではない。政務を離れてゆっくり考える時間が必要だろう」
「大丈夫だよな・・・陽子は強いもんな」
祈るように呟かれた延麒の言葉に、尚隆は渋い顔をした。
「強さの問題ならよいのだがな・・・・・・」
「違うのか?」
「六太。俺が今まで乗り越えられたのは、俺が強いからではないのだ。言わば運や巡りあわせに近くてな、たまたま、乗り越えるきっかけがあったからに過ぎん。それも、針が振り切れる前に、だ。鍵が何かというのは越えてはじめて気づくもので、案外大した事で無かったりする。――俺にも、今はこれしか言えん」
「・・・・・・うん」
延麒は延王の言葉を信じるしかなく、延王もまた、陽子にも同じように、彼女の根幹が壊れる前に『何か』が巡ってくることを、祈るしかない。
二人は重い表情で、静まり返った堂室の扉を見つめた。
最初の数日は、陽子が特に行きたいという処もなく。
野原や海岸といった広い場所で、日向ぼっこをするだけだった。
膝を抱えて風景を眺める陽子に、――延王も延麒も、何も言わない。
野原を眺めるには、あまりに必死な瞳。
暗闇の中目隠しをされながらも、
必死で細い糸を手繰り寄せようとしているかのような。
一筋の光を見つけ出し、
それに縋りつこうとするかのような。
陽子の必死な背中を痛々しそうに見つめながらも。
彼らに出来ることはと言えば、
こちらを向いた時、黙って微笑んでみせるだけで。
陽子も、条件反射のように、微かに微笑むだけで。
けれど、二人の笑顔も、見えてはいない。
見つめるのはただ、自分の内側だけ。
体のうちで巡り続ける――暗い罠。
まるで頭上を塞がれているかのような、閉塞感。
このままでは駄目になる。
いつか限界が来る。
それだけは判っている。――それだけしか、判らない。
こんなところで止まりたい訳じゃないのに。
道さえわかれば、どんな努力だってするのに。
蓋をこじ開ける前に、自分が壊れてしまう――
「さて、陽子。今日はどこへ行きたい?」
朝の挨拶代わりのように訊ねた尚隆に、陽子が穏やかに答えた。
「玄浪を、見たいんですが」
「玄浪?今の時期は寒いぞ」
尚隆は気遣わしげに眉を顰めた。かの街は雁の虚海側北東部の港町で、戴の対岸にあたる。条風がまともに吹きつける、雁の海岸部では最も寒さの厳しい街だ。
「大丈夫です」
微笑んで答えてから、玻璃の外を見るふりをしてどこか遠くを見つめながら、陽子が呟いた。
「寒過ぎるくらいで・・・ちょうどいい・・・」
陽子の様子に二人はちらりと顔を見合わせたが、
「んじゃ、飯食ったら出発しようぜ」
「はい」
「ただし、防寒だけはしっかりと!だぞ」
明るく言った六太に、陽子は僅かに微笑んで頷いてみせた。
闇燈す灯り2
冬の玄浪の寒さは予想以上のものだった。
その名の通り、闇い色をした冬の虚海が見渡す限り広がり、荒い波が防波堤を容赦なく叩く。冬が来る度に強く冷たい風にさらされる石造りの街は、塀も壁も厚く、厳しい冬を耐えるに足る重厚さを湛えていた。
「雁の港町って、どっしりしてますね」
「このあたりは、雁でも北だからな。条風を防ぐためにどうしても造りがごつくなるんだ」
「そういやここって、初めて範の御仁と仕事したとこだよな」
六太が思い出したように呟いて主に目を遣ると、尚隆も頷いてみせた。
「氾王と?」
「そう。三百年くらい前だったかな」
三百年というと、登極して百年経った頃か。
今の自分と同じ時を経た氾王――想像してみたが、陽子にはどうしても今の氾王しか思い浮かばない。
正直にそう言うと、延王が苦笑しながら言った。
「あいつは、昔からあの調子だ」
「流石に最初は、猿呼ばわりされてなかったけどな」
すかさず、六太が半畳を入れる。
「喧しい。それはお前も一緒だろうが」
と言い返してから、
「丁度、匠の国として名が通り始めた頃だったのだがな、あの仕上がりの緻密さというか精密さには驚かされたものだ」
「うちは大雑把だからなあ」
六太が苦笑する。ほら、と指差されて、つられて堤に目を遣った。
「御蔭で、あれだけの波が毎年打ち寄せても、堤の内が大きな被害を受けたことは一度も無い」
激しい波と風にも少しも揺るがない堤が、氾王と――傍らの王の、どんな時も毅然と立つ彼らの姿に重なって見えた。
いつものように、街外れの野原に向けて歩きながら、尚隆が言った。
「あの野郎が登極する前に左程荒れていたという訳じゃなかったが、範は元々何も無い国だからな。慶とは別の意味で、あそこまで持っていくのは大変だったろう」
慶の場合は、資源には恵まれているが、胎果の女王という最悪に近い条件だったうえに、国土は長く荒廃していた。
ちらりと自分を見た二人の視線に気づかず、『互いに、相手がいない所では素直に認めあうんだけどな』と苦笑しながら、陽子はぼんやりと街を見て歩く。
城門を出て暫くして街を振り返ったとき、ふと、街が普通よりも少し大きいことに気がついた。
「玄浪って、普通よりも大きくありません?」
「ああ、途中で拡張したんだ。港町は、広い荷捌きや倉庫が要るからな。最初は普通の大きさだったんだが、段々と手狭になって、という訳だ」
「なるほど。うちも最近海路が増えてきてるんですよね・・・」
だが、慶と玄浪では、そもそも立地からして全く違う。慶の場合、暖かく、丁度河口に位置していることもあり虚海側でも波も比較的穏やかで、蓬莱で例えて言うと横浜のような趣に近い。
「慶は暖かいから・・・うちなら」
防寒防風だけでなく、もっと色々と考えられるかもしれない。
とにかく、街を広げて倉庫街を作って――・・・
そこで、ふと疑念が浮かんだ。
(広げるだけでいいんだろうか?)
『街の整備にあたっては、小手先のごまかしは逆効果。
難しいことだが、整備した場合の街全体の姿を、百年先の街のありようを常に考えよ』
というのが延王や氾王の持論であり、彼らは例をあげて陽子に丁寧に説明してくれた。
単に街の外れに倉庫街を作るだけ、というのは小手先の整備になるのではないか?
陽子は、ためしに街を拡張した状態を思い描き、眉を顰めた。
やっぱり、何かが違う気がする・・・・・・。
これじゃ駄目だって感じるのは、
おそらく、根本的な解決になってないからだ。
もっと何か別の視点で――
『もっといい街をつくるんだ』
という強い衝動が湧き上がってきた瞬間。
――自分を覆っていた硬い殻が、パチンと割れた気がした――。
呪縛から解き放たれたかのように、凍りついていた思考が動き出す。
一つ浮かべば、いくつもの考えが連鎖的に浮かんでくる。
世界が鮮やかに息を吹き返した気がする。
陽子は口元に手をあてて、じっと考え込んだ。
(あの街の一番良い姿って、どんなものなんだろうか?)
港町というのは、独特の活気があるものだ。
慶は幸い気象や海流に恵まれているけれど、
それらをどこまで活かせるかは、
海をいかに上手く使うかにかかっている。
そもそも、ひとつの街や州だけじゃなく、
南部全体を影響範囲として考えるべきで。
港を整えるだけじゃだめだ。
もっと色々なことを考慮しなくては。
いま思い浮かんだことだけでも、全てやれば10年はかかる。
大改革になるし解決せねばならないことも多いけれど、
実現すれば、慶南部の一大拠点が生まれるのだから、
挑戦するだけの価値はある。
腹を据えてかからねば・・・・・・
視線を感じてふっと顔をあげると、六太と尚隆がじいっと陽子を覗き込んでいた。
「何なに?」
「慶の港の話か?陽子ならどうすると?」
「ええ・・・・・・」
諸々の考えを深呼吸してまとめ、二人の意見を聞いてみようとして――思いとどまった。
「内緒です」
澄まして答えた陽子に、六太が顔を輝かせながらも唇を尖らせる。
「ええー?内緒なのか?」
「はい」
悪戯っぽく微笑んだ陽子の腕に、華奢な体が絡みついてきて、
「教えてくれたっていいじゃん。陽子ぉ」
六太がねだる。
笑いながら。
だから陽子も、おそらく彼らが一番喜ぶであろう答えを返した。
黙って見守ってくれた、感謝を込めて。
「今は、これまでにない大計画です、とだけしか言えません。
5年・・・じゃ無理かな。10年後を楽しみにしていてください。
すーっごく!いい街にしてみせますから」
夢を語る子供のような顔で言い、ふふっと朗らかに笑う。
二人は顔を見合わせた。
「景女王は吝嗇家だな。なあ、六太?」
「だよなー」
そう言って、これまで見た事がないくらい、嬉しそうに笑った。
陽子は、野原の向こうを見つめながら考え込んでいた。
泰麒を捜索した時。
延王は、『雁だけでも問題は山積している』と言った。自分は、あの言葉の意味を、百年経っても判っていなかったのではないだろうか。
このままいけば壁に当たる、と思った自分は、何と考えが甘かったことか。壁に当たるどころではない、これからが大変なのだ。基盤が整った今、漸く国を豊かにするためのスタートが切れるのだから。
今の陽子は――慶は、王として民に保証すべきことを与え、大規模な改革や整備を行うだけの体力を蓄えたに過ぎない。
かつて氾王が匠の国を目指し、成し遂げたように。
国をより良くするために。
慶の目指す姿を探し、実現するために。
全ては、これから始まるに等しい。
国には『完成形』というものは無いのだから。
陽子は風のなか、毅然と背を伸ばし、
真っ直ぐに前を見つめる。
長き道に挑むかのように。
風雨に立ち向かうかのように。
それは陽子にとって、はじめて玉座が「斃れるまで与えられる天命」ではなく、「自分の意志で座り続けるもの」だと思えた瞬間だった。
ぱらぱらと雨が髪に落ちかかり、尚隆が、空を見上げて晴れやかに言った。
「雨が降ってきたな。そろそろ街に戻るか」
陽子と六太に向き直り、
「馬車を停めてくるから、木の下で雨宿りをしていろ」
そう言い置いて歩きだす。
と、突然、強風が吹きつけてきて、自分の体を抱きしめ身を震わせる。
(うう、いきなり寒くなった・・・・・・)
心中呟いて、ふと原因に思い当たる。
「・・・あ・・・・・・」
辺りを見回すと、ざあっ・・・・・・と音を立てて、草が靡いている。
――延王の歩みの軌跡を描くかのように激しく波打つ草を見て、陽子はようやく気づいた。
彼がいつも風上に佇み、まだ冷たい早春の風から護ってくれていたことに。
弾かれたように後を追い、追いついてがっしりした腕を掴むと、尚隆が振り返った。
「延王!あのっ」
「どうした?」
訊ねられた声音と表情の優しさに、『ありがとう』の言葉が行き場を失う。
陽子は、咄嗟に襟巻きを外して差し出した。
「これ。濡れないように、頭に巻いてください」
雨は徐々に強くなり、黒髪に水の珠が貼りついている。尚隆は、微笑んで首を横に振った。
「俺はいい。それでは、おまえが寒かろう」
「私は――私は、これがあるから大丈夫です」
そう言って、帽子になっている部分をすぽんと頭に被ってにこっと笑う。
「そういえば、薄着の割に暖かそうだな」
「延は慶より寒いからって、皆が色々持たせてくれて。これ、二重になってて中に羽毛が入ってるから、軽いけどとても暖かいんですよ」
「そうか。ではありがたく借りるとしよう」
軽く笑うと、襟巻きを受け取ってくれた。
「今度、その外套を俺にも作ってくれるか」
「はい!」
力強く返事をして大きな先達を見上げると、尚隆がもう片方の手で緋色の髪をくしゃくしゃと掻き回す。
腕が陰になって、表情は見えなかったけれど。
頭を撫でてくれた掌は、優しくて、とても暖かかった。
闇燈す灯り3
木の下で雨宿りをしていると、六太が優しく手を握ってくれた。
「寒くないか?」
「ええ」
にっこり頷いてから、ふと思いついて言った。
「――六太君こそ、寒くない?大丈夫?」
いつも気遣われてばかりで、こんな言葉を返したのさえ、久しぶりな気がする。
塞ぎこむ前までは、当たり前だった言葉なのに――。
「・・・・・・ありがと」
一瞬の間の後、僅かに潤んだ声で、六太が笑った。
「麒麟って獣だから、寒さに強いんだ。だから大丈夫だよ」
そう、明るく返す。
「でも、薄着だし・・・。そうだ。これなら暖かいでしょう?」
外套で六太の体をくるみ込むと、照れながらも華奢な体が凭れかかってきた。
「・・・うん」
耳を赤く染めながらも、六太が陽子の腕をきゅっと抱く。
陽子は、雨に濡れながら遠くを見遣る男を気遣わしげに見つめた。
「延王、大丈夫でしょうか」
「んん〜?あいつなら、とらとたまに踏まれても怪我しなさそうなくらい頑丈なヤツだから、平気平気」
彼の半身はというと、至って気楽にそう言って、尚隆に向って声を張り上げる。
「尚隆!」
「なんだ?」
こちらを向いた尚隆に、にやにや笑いながら自慢する。
「ほーら、いいだろー、羨ましいだろー」
「・・・このガキ、抜け駆けを・・・」
陽子の声と同じく良く透る尚隆の声は、呟きであっても二人の耳にしっかり届く。陽子と六太は、顔を見合わせてくすりと笑った。そんな二人の様子に、尚隆はさらに拗ねる。
「お前は馬車に乗せてやらん。独りで宿まで来い」
「あ、ひでえ。麒麟虐待だぞ、それって!」
「主をないがしろにした罰だ」
「そういう寝言は、もっと主らしくなってから言え」
言いあいをはじめた主従を宥めようと、陽子が慌てて仲裁に入る。
「あの、でも、延王は背が高いから、これでは丈が足りないでしょう?」
陽子が言うと、尚隆は我が意を得たりとばかりに、にやりと笑んだ。
「では、陽子が外套を作ってくれたら、俺が陽子を包むことにしよう」
「尚隆、お前なあ・・・・・陽子が困ってるだろ」
呆れたように呟いた六太が、陽子を振り向く。
「陽子、嫌だったら蹴飛ばして逃げていいかんな」
困ったように首を傾げる陽子の無邪気な様子に、尚隆と六太はくすくすと笑った。
それからの陽子は、うってかわって、好奇心に満ちて動き回った。
尚隆と六太は、まるで子供が探検するかのようにあれこれ覗く陽子の後を、色々と教えてやりながら楽しそうについて廻る。
心地よい小春日和のもと、陽子は思い切り深呼吸して、良く晴れた空を見上げた。
次の目指す場所がほしかっただけなのだと、乗り越えた今ならば判る。
上を上をと望むのは、人としてのどうしようもない性だけど。
きっと、上を目指す気持ちが、人より強くなってしまったのだと思う。
――いつかそれが、両刃の刃となる時が来るのかもしれないけれど。
取りあえず『今』を越えられただけでいいと、そう思うことにする。
今はただ、雲が晴れてみれば未だ大層遠くにあった、遥かな高処を目指すだけだ。
金波宮を出て二週間後。
久しぶりに戻った慶は、既に春が訪れはじめていた。
「やはり慶は、春が来るのが早いな」
「ええ」
柔らかな色が広がる草原は光に溢れていて、子供達が、穏やかな春風に凧を乗せようと、元気に駆け回る。目の前にふわりと着地した可愛らしい凧をしゃがみ込んで拾うと、陽子のもとに駆けてきた子供に、
「はい」
笑顔で手渡した。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「これ、自分で作ったの?」
少し不恰好な凧には、子供らしい絵が描かれている。
「うん。お兄ちゃんが教えてくれたの」
少女にバイバイと手を振ってしゃがみ込むと、元気よく土手を下っていく子供を見送りながら、
「慶って、こんなに綺麗だったんですね・・・・・・。すっかり、忘れてた」
さらさらと流れる柔らかな若草に手を浸して、陽子が言った。
世界はこんなにも優しいのに。
ゆっくり見回せば、宝物がたくさんある筈なのに。
いつから、忘れてしまっていたのだろう。
黙って陽子を見守っていた尚隆が、静かに口を開いた。
「それは、無理もなかろう。重圧を長く受ければ身を鎧って縮こまるのは、人間の本能だ。王であってもそれは変わらん」
尚隆の声が穏やかだからこそ、自分の至らなさが身に染みる。
「でも、私は・・・・・・皆からあんなに大切に護られているのに」
皆、どれほど心配してくれていただろう。
ぽつりと呟いた陽子を包み込むように、尚隆が言った。
「外圧よりも内圧の方が厄介だぞ。己の内はそれこそ、他人には窺い知ることも手出しも出来ぬ領分だからな」
「・・・・・・内圧、ですか・・・・・・」
「己の心を守ろうとするのは、人として当然のことで、甘えでも情けないことでもない。結局のところ、自分は己にしか守れぬのだから」
労わるような声音に不意に涙が零れそうになり、陽子は唇を噛みしめた。俯く陽子を優しく見下ろしながら、尚隆が続けた。
「だが、そうなると辛いことも感じぬ代わりに、楽しいことも感じられんからな。つまらんぞ」
「はい」
俯いたまま、陽子が頷く。
「それでは余りに勿体ない」
尚隆は、そう言って明るい草原を見渡しながら言った。
「――慶は、こんなに良い国なのだからな」
どこまでも静かな口調と声。
それは、
草の流れに時の流れを見ているかのような。
渡ってきた長い長い時を噛みしめるかのような。
――この人は、こんな穏やかに話す人だったんだ――・・・。
「・・・・・・はい」
潤んだ声で微かに返事をして顔を上げると、尚隆の視線に寄り添うように、光溢れる草原の彼方を見つめた。
彼の見ているもののせめて切れ端でも、自分にも見えればと願いながら。
「陽子はさ!」
陽子の背に覆い被さるように、六太がどし!と圧し掛かってくる。
「もっと気楽にいっていいって」
そう言って主を振り仰いで問うように覗き込むと、
「その通りだ。どうせ先は長いのだからな」
尚隆は自信たっぷりに言った。
「尚隆みたいに気楽過ぎても困るけど!な?尚隆!」
「・・・・・・俺にどう答えろというのだ」
顔を顰めた尚隆に、陽子がころころと軽やかに笑う。久しぶりに見る無邪気な笑顔に、尚隆は眉間を解いて苦笑しながら、
「だそうだ、陽子」
とだけ言った。
「はい!」
頷いた陽子は、嵐の後の蒼穹のように、深く澄んだ、晴れやかな笑顔だった。
闇燈す灯り4
ひと月ぶりに金波宮に戻ってくると、出て行った時と同じように、禁門にずらりと皆が並んでいた。
「ただいま!」
弾むような笑顔で告げて騎獣からふわりと降り立つと、途端に仲間たちに取り囲まれる。
「お帰り、陽子!」
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
真っ先に声をかけた祥瓊と鈴に頷いてみせて、にぎやかな一団から一歩下がっていた浩瀚達に目を遣ると、皆嬉しそうに目を綻ばせて頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「居ない間、何か変わったことは?」
「特にございませんでしたので、明日ご報告致します」
「お疲れでしょうから、今日までごゆっくり御休みください」
浩瀚と景麒が穏やかに告げると、陽子が「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ」とにっこり笑い返す。
「まったくもうこの子は、出てる間連絡のひとつも寄越さないで。皆心配して待ってたんだからね」
「そうそう」
祥瓊が文句を言うと、隣で鈴もうんうんと頷く。
「ごめん」
「心配料として、暫くはおとなしく世話を焼かれてあげてちょうだい」
百年経っても着飾るのが苦手な陽子は、観念した表情で苦笑した。
六太に向って、明るい笑顔で訊ねる。
「お二人とも、泊まっていってくださるのでしょう?」
「うん」
その応えに、陽子が嬉しそうに微笑んだのを見て、鈴がさらに楽しい言葉を告げる。
「厨房に、ご馳走作るよう言っておくわね。料理長がまた新しい料理を考えついたとかで、腕まくりして待ってるわよ」
「新作かあ。ここの厨房は腕いいもんな。楽しみ!」
「六太君も、たくさん食べてね」
祥瓊が、陽子の肩をぽんと叩いて笑顔で提案した。
「立ち話もなんだから、まず、部屋でお茶にしましょう。お土産話を聞かせて?」
「蘭桂が、綺麗な花を見つけてきて、部屋に飾ってくれてるのよ」
鈴の言葉に、女性陣の後ろを控えめに歩いていた蘭桂を振り返って微笑んだ。
「ありがとう。蘭桂は花を見立てるのが上手だから、楽しみだな」
「もう、市場じゃ春の花が盛りだよ。宮はあと少しってとこだけど」
蘭桂が、子どもの頃と同じ、陽だまりのような笑顔で答える。
「じゃあ、満開になったら花見でもするか」
「俺!俺も呼んでくれよな陽子!」
にぎやかな集団に取り囲まれて連れ去られようとしていた陽子が、足を止めて延王の方を振り返る。と、延王は浩瀚と景麒をちらりと見て言った。
「浩瀚達と話があるから、先に行っていてくれ」
「はい」
明るい声を響かせながら去っていく集団を眺めて、延王が微笑みの滲む声音で呟いた。
「慶はいつも華やかで明るくて、気が晴れるな」
景麒と浩瀚が、揃って深々と頭を下げる。
「――ありがとうございました」
延王は二人を振り返り、面をあげさせた。
「頑張ったのは陽子だ。俺達は何もしとらんぞ」
「いえ――いいえ」
さり気なく、陽子を見守って導いてくれていたのだろう。
「十分判っていたつもりだったが――やはり、陽子は強いな」
景麒が端正に首を傾げる。
「ついに西を見ることが無かった」
西――蓬山の方角を。
「あれなら、どんな穴に落ちても這い上がろうとするだろう。頼もしい女王で良かったな」
延王は、そう言って心底嬉しそうな、快活な笑顔を浮かべた。
夜も更けた頃。
浩瀚が執務室に明朝の準備を整えにいくと、陽子が机に置かれた書類を捲っていた。
「今日はごゆっくりなさってください、と申し上げましたのに」
元気を取り戻した途端に無理をする女王を、苦笑しながら嗜める。陽子は悪戯を見つかった子どものような表情で、ぺろりと舌を出した。
「うん・・・・・・何となくね」
それでもぱたんと書類を閉じ、椅子に凭れかかって机の片隅に目を遣る。
常よりやや暗い堂室のなかで、蘭桂が花瓶に生けておいてくれた木蓮が灯火をうけ、それ自身が光を放っているかのように見えて陽子はふわりと微笑んだ。白く暖く、ほのかに輝くその姿は、昔蓬莱で馴染んだ、丸い電球のようだと思う。丸みをおびた、優しげな姿。闇を照らし、心和ませる暖かな白。
「もう、木蓮の季節なんだね」
私室には、数多の友人達が談笑する場に相応しい、色とりどりの華やかな花々を。
執務室には、ふと視線を向けると疲れを癒してくれる、淡く優しい色の木の花を。
蘭桂らしい細やかでさり気ない心遣いだなと、陽子は目を細めた。
浩瀚が静かに机に歩み寄り、文箱から二つの書信を取り出した。
「主上が御不在の間、範と奏から書信が参りました」
「どんな?」
「奏よりは宗王御夫妻と公主が、『慶の学制改革について色々とお伺いしたいので、ご足労願えないだろうか』と。範よりは王と台輔が、『木材の新しい加工法を見せたいので、都合が良ければ来てもらえぬか』と仰って来られました」
言いながら陽子にそれらの書信を手渡すと、嬉しいような申し訳ないような、複雑な顔で浩瀚を眺める。
「――が、実のところは御二方とも、『息抜きに遊びにおいで』というお誘いでございましょう」
「うん・・・・・・」
丁寧に綴られた二つの書信を読みながら、
この壁にぶつかったのは自分だけではないのだ、と陽子は改めて思った。
文字を追いながら陽子のなかに生まれたのは、
わかってくれる人がいるという安心感と、壁を乗り越えた強さへの敬意。
自分より遥かに長く国を治めてきた人達の労わりが、心を温める。
自分もいつかそんな風に、後を歩む誰かを包んであげられるようになりたい。
――そう思えるようになっただけでも、
悩んでいた時間は無駄ではなかったのかもしれない――・・・。
「休んじゃった分、仕事が溜まってるからなあ。少し後にお邪魔させてもらおう」
「それが宜しいでしょう」
浩瀚は微笑んで答えた後、笑みを深めて続けた。
「延王が先程、こう仰っていました。『これで景王も一人前だな』と」
「・・・・・・隣国どころか反対側の国にまで、心配かけてるのに?」
苦笑しながら言った陽子に、穏やかに首を振った。
「『玉座は、ただひたすらに進むだけで支え続けられるほど、単純なものでも短い時間でもない』と」
『陽子が悩んでいる、と?――それで良いのだ』
浩瀚が延王に最初に相談した時。
六百年の治世を敷く王は、そう言って太く笑んだ。
『このまま玉座に在り続けるのかと疑問を持ち、己で答えを出せてはじめて、長きに渡って国を支え続ける王になれるのだからな』
さらりと。
まるで、当たり前の事であるかのように、彼の王は言った。
「政務をこなせるようになるのは、――或いは国を復興させるだけならば、ある程度時間をかければ出来ることです。もっとも、そこまでいく事も、並大抵では叶いませんが」
そして、それを見事成し遂げた陽子に敬意を払うように、一礼した。
「ですが」
そう言って、表情を厳しいものに改める。
「それから先に進めるか否かは、自分次第です」
荒れた国の復興も、円滑な政務も、ある意味判りやすい目標だ。
それを達したその後も、さらに国を支え続けるのか否か。
命を無くすとはいえ、王はその時点で既に十分な時間を生きている。そこで満足して、国を荒らす前に退位するという選択肢もあるのだから。
「主上。これからの国の在り方として、これまでの成果を守り強化していくことに専念することと、さらに別の道を模索することと、どちらが正しいとお考えですか?」
真面目に考え込んだ陽子に笑いかけて、さらりと告げた。
「どちらも正しく、どちらを進むことも出来ると、私は思います。――けれど、2つの行く末は大きく違う」
「浩瀚・・・・・・」
「このように、これから慶が歩む道は、選択肢は多くあるうえ、標も正解もない道です。それは、一見なだらかに見えても、これまでよりも遥かに険しく長く――貴女は数百万の民と国土を背負いながら、無数の道から行く先を選び、進まなければならない」
陽子は、神妙な顔をして聞いていた。
「その段階に足を踏み入れ、長く歩んでいくならば、これまで以上に、遥か先を見通し将来を描く力と、実現する為の努力が要求されます。そのためには、玉座に『在り続ける』という覚悟と、国と自分とがうまく折り合っていける適切な距離感が要る。――延王は、そのことを仰っていたのでしょう」
「距離感?」
「例え望んで始めたことでも、良い時期ばかりが続く訳ではございません。悪い方にばかり転がっているように思える時も、それ自体が嫌になることもある。渦中にいると、それで全てが駄目になるような心持になるものですが、そこで一歩引いて『何事にも波があるものなのだ』と呑んでかかれるようにならなくては、到底長くは続けられぬのです」
暫く沈黙した後、陽子がぽつりと呟いた。
「これまでは短距離走、これからは持久走ってことか・・・・・・」
浩瀚は、笑って頷いた。
「時間をかけて、貴女と慶の『在り方』を見極めていきましょう。できるだけ長く、走れるように」
これから先は、ゆっくりであっても長く走れれば、それで良いのです。
もう、民が、災厄や飢餓や圧政に苦しむことは無いのだから。
貴女の愛する民達は、貴女の願いどおりに。
自然に恵まれた豊かなこの国で、
あまねく降り注ぐ陽光のもと、
前を向いて毅然と生きているのだから。
口に出さない浩瀚の言葉を、陽子は目を閉じて噛みしめる。
その様子を、浩瀚は微笑を湛えて見つめていた。
迷い、立ち止まったとき。
何を掴み、どういう道を選ぶかは、自分次第だ。
この女王は、躓いてもそれを糧にし、誰よりも高く飛翔するだけの、しなやかな強さと聡明さを持っている。
だから、大丈夫だ。
陽子が瞳を開けるのを待って、浩瀚は柔らかく訊ねた。
「お休みの間、何かお考えは浮かびましたか?」
「うん!」
頷きにあわせて紅の絹がふわりと揺れ、碧の瞳が宝石のように輝く。それは、久しぶりに見る、嬉しそうな笑顔だった。
「一旦離れてみると、案外色々なことが見えるでしょう。煮詰まった時は、距離と時間をおいて、冷静に眺めることも効果がありますから」
「うん。ほんとにそうだ」
重い衣を脱ぎ捨てたかのように、晴れやかに陽子が言う。
「――ですが、延王のように王宮を離れてばかり、では皆が拗ねますよ。台輔をはじめとして、皆、寂しそうにしておりましたから」
「わかった」
陽子は、ひとしきり嬉しそうにくすぐったそうに笑うと、笑いを納めた。
組んだ掌に顎を乗せ、王の微笑みを浮かべながら浩瀚を見上げてくる。
浩瀚は、居住いを正した。
「さて」
凛と響く、女王の声。
「冢宰にまた、ひと働きしてもらわねばならない」
悪戯を思いついた子供のような笑顔。
力強い、真っ直ぐな瞳。
こういう時、この女王は自分には思いもよらない素晴らしい道を示してくれることを、浩瀚は知っている。
「貴女の御望みとあらば――どのような困難も越えてみせましょう」
女王の目を見つめ返しながら、明確な声で誓う。
誇り高きこの男が心酔するただ一人の存在に、深く頭を下げた。
その夜、執務室にはいつまでも灯りが燈っていた。
――先の見えない闇の中、行く手を照らす光のように。
[雨糸煙柳]
−前編−
突然、首筋に冷たいものが落ちてきたような気がした。
天を仰ぐと、先程まで晴れていた空は鈍色の雲に覆われ、透明な無数の線が地上に向かって伸びていた。小雨だから大丈夫だろうと高を括っていたが、次第に雨足は酷くなり、利広は慌てて雨具を取り出す羽目となった。
「ついていないな……」
彼は誰に言うでもなく、ひとりごちる。
騎獣をつれているため、店の軒先を借りるということはできないのだ。
どこか雨を凌ぐ場所はないかと、頭(こうべ)を巡らせると、大人三人が通れるほどしか幅の無い、小さな橋が目に入った。
土手があるので下りれば雨宿りできるかもしれない。
利広はそう考え、土手を駆け下りる。夕暮れ時の出来事であったので、誰も居ないだろうと考えていたが、意外なことに先客が居た。先客が驚いたように息を呑んだのは、おそらく彼が連れている騎獣が、虎に似ている所為だろう。
「失礼、驚かせてしまったね」
利広が驚かせたことを詫びると、先客は短く、「いえ」とだけ答えた。
先客は利広のように雨具を持っていなかったらしく、袍の裾や、黒味を帯びた髪からは水が滴り落ちていた。見た目だけで判断するなら、自分の妹とさほど変わりはないその人物は、彼を一瞥しただけで黙り込み、腰を下ろした。
おそらく気まずいのだろう。
利広はそう推測すると騎獣の手綱を引き、橋下へ招き入れることにした。
騎獣は、漸く毛皮を乾かせる場所に来れたと安堵すると、身震いをして水気を跳ね飛ばした。すると、水の雫が周囲に飛び散り、利広だけでなく、先客にも降りかかった。
「……悪いね………」
利広は、言い知れようの無い脱力感に襲われながら再び詫びると、先客は今日二度目の災難にもう一度、「いえ」と答えた。
自分ひとりなら明かりを点けなくても良いのだが、薄暗い橋の下で互いの顔も見えないというのは大層具合が悪いものである。利広は周囲に落ちている小枝を拾い集めると、手持ちの燃料とともに燃した。
利広は先客に火に当たるように勧めるが、応(いら)えは無かった。彼は小さく肩をすくめると、火の近くに濡れた雨衣を広げ置いた。
「本当に当たらなくていいのかい? 風邪をひいてしまうよ」
「…‥結構です」
先程は気が付かなかったが、思いのほか高い声だった。その高さは、変声期を迎える前の少年の声とは全く質が異なるものである。
利広はさり気無さを装って隣に座ると、悟られぬように隣人の観察を試みることにした。
一方先客は、彼の意図など知るよしもなく、膝を崩して濡れた髪を絞り始める。黒味がかった紅の髪を絞るその手は細い。視線を移動させると、水気を含んで肌に張り付いた袍が、丸みを持った線を描いているのに気が付いた。膝を崩して僅かに捻られた腰も、柔らかな線を引いている。それはひとつの答えを彼に導き出した。
「何か?」
利広の視線に気付いたのか、“彼女”は居心地が悪そうに身じろいだ。橋の幅は狭いので、肩が触れるほどの距離である。
「いや、失礼。それより、もう少し寄らないと濡れてしまうよ」
「結構です……」
身の危険を感じているのだろう。言葉少なになるべく離れようとする彼女に、利広が苦笑していると、ふと背に冷気を感じた。肩越しに後ろを見ると、彼の騎獣が居ない。
「素雪(そせつ)」
白雪の名を持つ彼の騎獣は、主の背から離れると蘇芳色の髪の少女に擦り寄った。
「素雪。離れるんだ」
騎獣は主の命を無視し、一瞥だけくれて彼女が驚くのも構わず、膝に頤(おとがい)を乗せた。
「いい加減にしないか」
主の命令を無視した挙句、見ず知らずの人間に無礼を働く騎獣に、珍しく声を荒げると、ここで初めて先客は自発的に言葉を発した。
「そんなに…‥叱らないでやって欲しい。甘えているだけだから……」
なあ? と同意を求めるように少女が素雪の眼を覗き込むと、騎獣はそうだとばかりに鼻先を彼女の腹に擦り付けた。
「驚いたな……」
利広は敗北感に似た感情を彼女に抱きつつ、驚嘆するように息を吐いた。
「私以外には懐かなかったというのに……」
自分の騎獣が、このように人に甘えるのを見るのは初めてのことである。
生まれつきの性質か、素雪は神経質で人見知りが激しかった。それを根気よく慣らせて、漸くものにしたというのに……。
長く深い溜息が、利広の口から離れた。
「私には擦り寄ってさえ来ないよ。素雪は私より、君の方を気に入ったようだ」
薄情な奴だと、半ば恨めしげに騎獣を見ると、彼女は軽く笑った。
少年と見紛うような外見に違い、存外柔和に微笑む彼女は、雨に濡れて年不相応なほどの艶麗さを香らせていた。僅かに身じろぐ度に雨の匂いと混じって、彼女の体臭が利広の鼻腔を擽(くすぐ)る。一瞬、幻を見るような錯覚を覚えて眼を軽く見開くと、現(うつつ)のことだと証明するように少女は紅唇を弓なりに引き上げた。
「この子。“素雪”という名なのですか?」
その声にはっとした利広は、今自分が何を考えていたのか悟られたような心持ちがして、俄かにばつが悪そうに答える。
「白いからね。それに因んだ名前にしたんだ」
“素”とは白を表わす言葉で、転じて素雪とは白雪のことである。この種の騎獣は、黒い毛並みと白い毛並みが勝ったものがいる。素雪は白い毛並みが勝った方だった。
「こうしていると、まるで猫のようですね」
「まあ、猫の親戚と言えなくは無いんじゃないかな?」
少女の膝の上で、甘える騎獣はどう見ても、至高の獣と評されるようには見えない。素雪は少女に喉元を撫でられると、気持ち良さそうに喉を鳴らし、一層“猫”らしさを強調した。
「少しくらい…否定してもらいたいところだね」
あまりの情けなさに利広が呟くと、素雪は何とでも言えとばかりに、ぷいと顔を横に向けた。すると、彼女は髪を揺らしてくすくすと笑いを零した。
「この騎獣、趨虞(※)ですよね?」
利広は驚きを込めて少女を見た。
「知っているのかい?」
趨虞は余程の富豪か、王侯貴族くらいでしか持つことができない騎獣だ。見ただけではそれとは分からないだろう。
「知人が持っているので……」
よく見ると、橋の下で雨宿りするには身なりが良過ぎた。多分、裕福な家庭の出なのだろう。飾り帯や、脇に置いた太刀は、高貴な者が持つ物に見えた。
考えれば考えるほど不思議な少女である。詳しく聞いてみたい気もしたが、それは立ち入ったことだと思い直して、話題を変えることにした。
「全然止まないね」
突然振られた話題に少女は首を傾げたが、利広が「雨」と付け加えると、すぐさま理解を示して首肯した。
雨は収まるどころか、一層の激しさを見せていた。
「これは今夜中、降るかもしれない」
降り始めは夕闇も迫る頃だったので、今は夜といっていい時間帯だろう。
「今は何時くらいだろうか」
と利広が考えていると、計られたように弱まった雨足の隙を衝いて、時を告げる鐘の音が微かに耳に届いた。
「暮れ六つ(午後八時頃<※2>)ってところだね。今の鐘は」
利広がそう言うと、彼女は息を呑んで出し抜けに立ち上がった。
「どこに行くんだい?」
利広が尋ねると、少女は慌しく、青い翡翠の飾り玉の付いた太刀を腰に佩(は)きながら答える。
「…‥家の者が心配するので帰ります」
彼女は利広に暇を告げると、素雪をひと撫でした。
「遅いからね。気をつけたほうがいい。それとこれを持っていきなさい」
利広は雨衣を差し出す。
「え? でも……」
獣脂を塗りつけた雨具は高価なものだ。少女は慌てて突っ返すが、利広はいいからと手に押し込んだ。
「女の子は身体を冷やしてはいけないよ」
その言に彼女は、何故分かったのかという顔をしたが、彼がもう一度持っていくよう促すと、素直に頷いた。
「ありがとうございます……」
彼女は頭を深く下げると、申し訳なさと感謝を綯い交ぜにしたような視線を彼に残し、雨霧の立ち込める中を走り去って行った。
極上の枕を失った素雪は、実に哀しそうな鳴き声を出した。
「淋しいかい?」
利広が首筋を撫でながら尋ねると、素雪は少女の影を偲ぶように、彼女の座っていた場所に身を臥せる。
自分が死んでもこれほどは哀しまないだろう。
利広は失笑すると、雨向こうに消えた少女を想って呟いた。
彼が何を言ったかは、誰にも分からなかった。
思わぬにわか雨で足止めを受けてしまったが、幸いなことに今夜は満月で、花柳街を中心に人々が集まっていた。数少ない夜遊びの日を逃さないように、出歩く人々の顔は皆一様にして明るい。この活気は、数年前までなかったものだ。
利広が客引きをする人を、上手くあしらいながら宿を探していると、雑踏の中に見たことのある後ろ姿を見つけた。
「風漢かい?」
利広が背後から声を掛けると、予想に違わずその人物は振り返り、彼の名を呼んだ。
「利広か」
どうしてここに? という風に見る顔に、利広は人が悪そうにふっと笑みを浮かべる。
「こんな所で会うとは思わなかったな」
何気ないその言葉には、ふたりでしか通用しない皮肉がこめられていた。
「俺もだ。とっくの昔にくたばったと思っていたさ」
「随分なご挨拶だな“風漢”。どうやら、蓬莱では年上に対して敬うという習慣は無いようだね」
外見はどう見ても、風漢と呼ばれた男のほうが上である。男は内心、この化け物めが呟く。
「お前以外にはな。それよりどうした? いつもは“怪しい”所にでしか会わぬのに」
前回会ったのは、柳。二人が会うのはいつも、衰退しようとしている国でであった。
「今回は景王の政(まつりごと)を見に来たんだよ」
「ほう…?」
途端、風漢の眼が鋭い光を宿した。大抵の者なら萎縮してしまうに違いない眼光を、利広は軽く笑んで受け流す。
「そう、怖い顔をしないで欲しいね」
「お前みたいにへらへらしている奴よりましだ」
どこか子どもじみた反応に、利広はくつくつと笑みを零す。
「ところでどこに泊まっているんだい? いい宿が見つからなくてね」
趨虞は非常に高価な騎獣なので、それを任すに足る宿屋を今から探すのは至難の業である。だが、幸いなことに男は利広と同じ趨虞を騎獣にしていた。
「同じ所に泊まる気か? 誰が教えてやるか。外で寝ろ外で」
酒が入っているらしい男は、そう言って素気無く断った。だが、ここで大人しく「はいそうですか」と引き下がる利広ではない。
「おやおや。そんなことを言ってもいいのかい? やろうと思えば、“風漢”がここに居るということを、今すぐにでも知らせることが出来るんだよ」
誰にとは言わなかった。しかし、男にはそれで充分通じたらしく、渋面を作る。
「お前……」その先は言葉にはならなかった。
利広は柔和な笑みを浮かべた。
「…で、気は変わったかい?」
男は負け惜しみの代わりに、歯軋りをした。
「……変わってやった」
変わったと言わないところが彼らしい。
「この狸め……」
男は気がすまないらしく、唸るような声で言う。それに利広は軽く眉を上げてみせた。
「何を言っているのか分からないね。私は人間だよ」
ぬけぬけと言ってのける利広に、
「分かっているくせに」
と、男は毒付いた。が、彼は全く痛くも痒くもないといった態で、悠然と腕を組んだ。
どこまでも食えないのはお互い様である。
男は仕方がないと軽く頭を振ると、
「まあ、そういうことにしてやるさ」
と、半ば負け惜しみに聞こえる台詞を言って踵を返した。男は肩越しに、ついて来いと利広に言うと、酒が入っている割にしっかりとした足取りで歩き始めた。
程なくして到着した宿屋は、一階が酒場になっていた。男はまだ飲み足りないらしく、利広を誘った。
「飲みすぎは身体に毒だよ」
そのようなことを素直に聞き入れるとは思えなかったが、一応忠告を入れる。
「堅いこと言うな。付き合うだろ?」
そう言われると断る理由も無い。利広は
「まあね」
と答えると、久し振りに酒を酌み交わすことにした。
酒の席での会話は、天気のことから始まったと言うのに、何かの拍子で話が景王のことに移った。
「ところで、景王は胎果だとか?」
王の情報は、自国の者でも把握していない場合が多い。利広が景王について知っていることは全て、噂の領域を出ないものばかりであった。
「ああ。そうだ」
男はそれだけ言うと、杯をぐいと傾けた。元々、この男は饒舌(じょうぜつ)な方ではなかったが、景王のことになると、途端に口数が減る。利広はくつくつと笑う。
「延王と同じ、蓬莱の出身の王か。会ってみたいね」
「誰が会わせるか」
実は、彼が景王に会いたいと言ったのは、今回ばかりのことではなかった。その話になる度、男は不機嫌になる。余程、景王のことを気に入っているのだろう。そうなると、ますますどのような“女性”か気になるところである。利広の面に、性質(たち)の悪い笑みが浮かんだ。
「おや、良いのかい? 私は、強請(ゆす)る種なら沢山持っているんだよ」
何時もはこれで、大抵のことは通用するのだが、これだけは譲れないと男は言う。
「駄目なものは駄目だ。お前みたいな軽佻浮薄(けいちょうふはく)な輩を、会わせられるか」
「軽佻浮薄とは随分な言いようだね。それでは、あのことをお国の人に知らせようか」
男は、利広の“あのこと”という言葉に鋭く反応した。
「り…利広。“あのこと”とは……?」
平常を装っているが、狼狽の色はそれと分かる。利広は、上手い具合に罠に掛かってくれたものだと笑みを深くした。
「さて、何のことだろうね」
惚けたように答えると、男は肘をついたままの手で、額を押さえる。吐き出される溜息を聞きながら、利広が返答を待っていると、不意に男は視線を上げて言った。
「お前…やはり狸だな……」
返答は諾(だく)だった。
「私は人間だよ」
利広は満足そうに一笑すると、止めのひとことを発した。
「どうやら、余程目が悪いようだね。良い瘍者<医者>を紹介するよ」
男のやり場の無い怒りが、拳となって卓に叩きつけられた。
会うと決めたら早いものである。ふたりは翌日には、金波宮に足を踏み入れていた。
「お前がどうしても会いたいと言うから、連れてきてやったのだ。そのところを忘れるなよ」
男は相変わらず、不機嫌そうだった。
「分かっているよ」
利広は苦笑しながら答えた。
「何かしでかしたら直ぐに放り出すからな」
「分かっているって」
「いいか。本当に会うだけだからな」
「だから、分かっていると何度も言っているんだけどね。耳まで悪くなったのかい?」
あまりにしつこい問答に、利広は辟易した様子であった。
「お前は信用ならんからな」
内容も分からぬ脅迫に屈したりしなければ、決して連れて来なかったという口振りである。ここで嫌味の応酬もできるのだが、男の機嫌を完全に損ねると後々厄介なので、利広は「はいはい」と気の無い返事だけ返した。
そういう実りも何も無い会話を交わしている間に、ふたりは貴賓室に到着した。
男は物慣れた様子で部屋に入ると、早々に長椅子を陣取った。
よく、延王が金波宮を訪問すると言う噂は、本当だったらしい。利広は軽く笑うと、男に習い椅子のひとつに腰をかける。
別に、昨日のことを引き摺っているわけではないのだが、ふたりは何を話すわけでもなく、ただ沈黙の海の中に身を沈めていた。利広がいい加減、何か話題を提供しようかと考えたとき、例の渦中の人が扉を小さく叩いた。
扉向こうから、緋色が現れたとき、利広は我知らず、息を呑んだ。
女王にも関わらず、景王は官吏が通常着る朝服に身を包んでいた。しかし、それで彼女が生まれ持った麗質が覆い隠されたわけではなく、寧(むし)ろ彩りの少ない装束によって、それが引き立てられているようだった。
景女王は紅唇を綻(ほころ)ばせると、開口一番、隣邦の王への歓迎の言葉を述べる。
「延王。よくおいでくださいました」
「変わりは無いか?」
先程の不機嫌はどこへ行ったのか、男は破顔して少女に尋ねる。誰にも見せたことが無いような笑みだった。
「はい。お陰さまで」
景王は軽く笑うと、ふと視線を奥に向けた。
「そちらは……」
延王の背後に居た利広に気付いたらしい。
「ああ、こいつは宗王君の次男坊でな。利広という」
漸く延王の紹介を受けて、利広は柔らかな物腰で口上を述べる。
「お初にお目にかかります。“景女王”」
利広がゆっくりと面を上げると、景王は小さく「あっ」と言う言葉を洩らした。
思いがけないとは、こういうことを言うのだろう。
まさか、雨宿りを共にした人間と、王宮で会うとは。
驚いたまま目を白黒させる彼女に、利広が悪戯っぽく目配せをすると、景王ははっとしたように言葉を返した。
「せっ赤子と申します」
名に違わず、赤子の髪は赤かった。蓬莱の名はどれも変わっているが、この字(あざな)は髪の色からとられたのだろう。
互いに自己紹介が終えると、延王は利広と赤子の接点になるような話題を提供した。
「利広は、景麒なら会ったことがあるだろう?」
以前、泰麒捜索の際、景麒は奏に赴いた。その時に、一度だけだが顔を会わせたことがあったのだ。
「お互いに忙しくて、あまり話らしい話はできなかったけれどね」
延王は利広の言に、眉を僅かに顰める。
「“互いに”? お前は一年中旅をしている暇人そのものだろうが」
「見聞を広めるための旅と言って欲しいね」
「寝言は寝て言え」
次第に険悪になってきたと感じた赤子が、間に入るべきかどうかと悩んでいると、出し抜けに諍いを一気に払いのけるような声が響いた。
「あ〜〜!! ってんめ、やっぱこんな所に居やがったなっ!!」
三人は一斉に声の主を見た。
「ろっ六太っ?!」
六太と呼ばれた少年は、延王の側へ歩み寄ると、強(したた)かにその脛を蹴りつける。延王が痛いと言わなかったのは、更にもう一度、脛を蹴られたからだった。
「〜〜〜〜っ!!」
六太は、声にならない悲鳴を上げている主を冷たく一瞥すると、赤子に向き直った。
「今、俺が蹴った所な。強か打つとすっげ―痛いんだ。この馬鹿が何かしそうになったら、これで身を守れよ」
「は、はあ…」
六太に護身術を教授された赤子は、呆気に取られたまま答えた。
「こいつは目を離すと直ぐこれだ」
六太は小言を洩した。利広は一頻り笑うと、
「延麒。久し振りだね」
と声を掛けた。
「利広じゃないか。どうして、金波宮<ここ>に居るんだ?」
延麒は心底驚いたようだった。
「延王が景王をご紹介くださるというので、お言葉に甘えてね」
「嘘を付け。どうしても会ってみたいと言ったのは、お前だろうが」
意義ありと、出し抜けにあがった声の主は、目の端に涙を滲(にじ)ませたまま言った。
「それ、本当か?」
延麒が尋ねると、利広はやれやれと大仰に溜息を吐いて見せる。
「そんな些末(さまつ)なことに拘(こだわ)るとは、五百年王国の王とは思えないね」
「何を〜」
またもや暗雲が立ち込めてきた。赤子はどうしようかと目線で訊くと、少年は小さく肩をすくめた。どうしようもないという意味だろう。
「ある意味、恒例行事になってんだよ。気にしなくても、直ぐに終わるさ」
延麒がそう言うと、赤子は納得したように頷いた。
直ぐに終わると言われた恒例行事は、十分ほどで終了した。無事終了したのを、六太は確認すると、まだ怒り冷め止まぬ主に話し掛ける。
「ほら、もういいだろう?」
「待て。俺はまだ……」
延王がそう言うと、延麒の眼が怪しく光った……。
「“まだ”? まだ何だって?」
六太の声が怒気を帯び始めていた。
「お前。人に散々迷惑かけて、その上、帰るのを渋るつもりか?」
「いっいや、そんなことは言って…」
その先の言葉を六太が奪い取る。
「…るじゃねぇか」
延王はうっと言葉に詰まった。常に無い下僕の怒りの面に、圧倒されている。
「分かった。帰る。帰って仕事をする」
延麒は主の敗北宣言を聞くと、忽(たちま)ち笑顔になった。
「よし。じゃあ、今直ぐ帰るぞ。“たま”はもう、スタンバってんだ」
満足そうに六太は頷くと、赤子と利広に暇乞いをし、早々に主を引き摺るようにして辞していった。
途端に、貴賓室は静寂に包まれた。互いの呼吸する音だけが、居心地悪く聞こえる。嵐の後の静けさと言う言葉は無いが、今、この場を表現するにはこれほど相応しい言葉は無いと赤子は思った。
「さて、私も失礼することにしよう」
先に静寂の壁を打ち壊したのは、利広だった。
赤子は内心ほっとしていた。これ以上一緒に居ても、会話が続くとは思えなかったからだ。
「それでは禁門までですが、お送りいたします」
自ら見送ると言う赤子に、利広は一瞬、目を丸くした。そして、くつくつと笑い声を洩らす。
「あの、私。何か、変なことを申し上げましたか?」
赤子は何故、利広が笑うのか理解できないようであった。必死に、今まで自分が言ったことを思い出している彼女に、利広は笑みを残したまま詫びる。
「いや、これは失礼。景王自らのお見送りとは……身に余る光栄だな」
笑いながら利広はひとつのことを考えていた。
おそらく彼女は延王と同じく、自分と他人を隔てる壁が低いのだろう。
利広は頬を緩めたまま、慶の新王を見る。
これが初勅で伏礼を廃した王―――。
「では、景王がお見送りくださる栄誉に、与(あずか)るとしましょうか」
利広が破顔すると赤子もつられたように、紅唇の端に笑みを湛えた。
雨 糸 煙 柳
−後編−
赤子との再会に、利広の騎獣はこれ以上無いくらい喜びを露にした。
素雪(そせつ)は彼女に気付くやいなや、手綱を引いていた下男を引き摺って駆け寄った。素雪の猫のような声と共に、木綿を引き裂くような悲鳴が辺りに響き渡る。
「……悪いね………」
利広が言ったのは、引き摺られた下男に対してである。下男は蹲(うずくま)って、腹を抱えこむようにして悶(もだ)えていた。あまりに痛いのか、既にうめき声も上がっていない。
利広は溜息を吐いて素雪を見遣る。下男を悶絶せしめた至高の騎獣は、赤子の腹に鼻先を何度も擦り付けていた。というよりも押し付けている。ぐいぐいと、まるで相撲のように押された赤子はとうとう、引っくり返ってしまった。
「景王!」
利広は叫ぶと、すぐさま粗相をしでかした騎獣を睨付けた。しかし、全く意に介する様子の無い素雪は悠然と、赤子の膝の上に頤(おとがい)を乗せる。全く持って無礼な輩である。
「素雪。景王から離れるんだ」
利広は精一杯の威厳を持って命令するが、彼の騎獣は一瞥ですら寄越さなかった。それどころか、聞き耳持たぬと言うように大きな欠伸をしてみせる。
「…どこまでも憎たらしい奴だ…」
「あまり叱らないでやってください」
赤子は笑ったが、利広からはつい憎憎しげな台詞が漏れてしまう。
「申し訳ありません。景王……」
大きな呼気とともに出される声。気難しく主人でさえ御せぬ時がある騎獣と、ひと目でその騎獣を虜にしてしまった少女は、彼に溜息吐かせるのに充分な要因であった。
「お気になさらずとも結構ですよ」
「そうは仰いますがね……」
ちらりと利広は素雪を見た。
一国の王に尻餅をつかせ、膝を占領した挙句――。
「…素雪……」
利広は白い趨虞を見ると、その名を呼ぶ。
騎獣は景王の袖を咥えると、くっきりとU字の歯形を残した。
赤子は困惑していたが、それよりも何故騎獣が袖を噛んだかが気になった。
「何故、噛むんですか?」
「それは“甘噛み”と言って……甘えを表わす動作なんだよ」
利広の説明に赤子は、そう言えば、犬や猫がじゃれつくときに軽く噛んできたことがあったなと漠然と思い出す。
「景王には本当に申し訳ない。装束を台無しにしてしまった」
利広が詫びると、赤子はいいえと言う。
「誰にせよ。好かれることは嬉しいことです……」
細められた瞳は優しいが、語り口調はどこか疲れを感じさせた。気付いていたが、それは赤子自身の問題で、自分が口を挟むことではない。
だが―――。
利広は一瞬逡巡したが、意を決し、赤子の脇に腰を下ろした。
「景王は何故、あの日堯天に降りておいでだったのかな?」
心なしか、赤子の身体が震えた気がした。長い沈黙が、首を擡(もた)げてくる。僅かに青ざめた赤子に、利広は回答を諦めて口を開いた。
「話したくなければ…」
話さなくても良いと言いかけたが、赤子は
「いえ……」
と首を振った。聞かれても当然だと。
「護衛も、供も連れていませんでしたら……」
「無断で降りたんだね?」
利広が尋ねると、赤子ははいと答えた。
「ひとりで出歩くとは、あまり関心できないことだね。王の身はひとりのものじゃないんだ」
「分かっています」
彼女はそう言うと、目線を下に下ろした。膝の上には、彼女の悩みなど知らぬ虎に似た獣が喉を鳴らしている。騎獣の幸せそうな顔がより一層、赤子に落とす影を濃くしているようだった。彼は手を伸ばして素雪の頭を撫でると、次いで下から赤子の顔を覗き見て言った。
「ではどうして…」
伏せられた目線は利広と交じり合おうとしなかった。前髪でよく表情は読み取れなかったが、長い沈黙はそれ以上に、彼女の心境を物語っているようだった。
「…‥何も知らないから……」
絞り出すような声に、利広は虚を衝かれた思いをした。赤子は続ける。
「私は、蓬莱で親の庇護の下、何不自由なく生きてきました。私は世間知らずで、こちらに来てもそれは変わらなかった。世の中の仕組みも、条理も、人も、私は知らない」
何も知らない。
赤子はもう一度口の中で言うと、掌(たなごころ)に爪が食い込むほどかたく、拳を握り締める。
「知らなければ、教えてやる。分からなければ、分かるための努力を。人は私にそう言います。でも、それでは遅いんです」
白くなった指の関節が、彼女の中の焦燥を如実に物語っていた。
「だからあの日、私は黙って地上に降りたんです」
赤子は胎果だった。
常識も生活様式も全く異なる世界で、王となった少女は、一体どのような苦労を強いられているのだろうか。
「それで…分かったのかい?」
赤子は僅かに利広を見ると、そっと目を伏せ不意に立ち上がった。膝の上に居た素雪は、名残惜しそうな声を上げたが、彼女は気にかける様子も無かった。
「長いことお引き留めしてしまいましたね」
出し抜けに発した言葉は、これ以上聞いてくれるなという意味だった。
「慶の日没は御国<奏>よりも早い。日が高いうちに降りられた方が宜しいでしょう」
赤子にそう言われては引き下がるほかなかった。会話は、答えを得ぬまま終了した。
「お気を付けて」
「有難う存じます。景王」
別れの際に交わされた言葉は、それだけであった。
赤子が私室に戻ったのは、政務が全て終了した夕刻のこと。部屋は茜色に染まり、調度品が引く影との対比を色濃くしていた。
彼女は小さく溜息を吐くと、長椅子に倒れ込む。
「…疲れた……」
溜息と一緒に吐き出すと、疲れが増したような気がした。このまま寝てしまいたいが、色々まだやるべきことがある。
誘惑に負けそうになる己に鞭打ち、赤子が目線を上げると、不意に薄い帳がひとつの影を映し出したのに気付いた。
赤子の心臓がひとつ、鳴った。視線をそのままに、手近にあった太刀を引き抜く。
(誰だろう)
喉の奥で呟いて長椅子から立ち上がると、赤子は素早く窓に回り込み、帳越しに人数を素早く人数を把握した。
(ひとり?)
どうやら、侵入者は騎獣に乗って露台に下りたらしい。獣らしい影と、背の高い影がひとつづつ。
一瞬、隣国の王が脳裏を掠めたが、赤子はすぐさまその考えを否定した。
体格が違うし、何よりもわざわざ隠れて来る理由が無い。
では、暗殺者か。
心臓がまたひとつ大きな音を立てた。
俄かに張り詰めた空気に、赤子は緊張感を高める。その緊張感が最高潮に達したとき、卒然と一陣の風が、布の帳を跳ね上げた。
遮るものを失った視界の先には、真珠のような輝きを放つ獣と、ひとりの人物が佇んでいた。
赤子の目が大きく見開かれる。
「卓郎君?」
赤子の呟いた言葉は、思ったより大きく響いて奏の太子に届いた。
利広は赤子に気が付くと、気の置けない友人に対して行うように、軽く手を上げた。
「やあ」
小さく息を呑んだ赤子は、露台に歩み出た。
「お帰りになったのでは?」
確かまだ日が高いうちに金波宮を辞したはずだ。何かあったのだろうかと、考えを巡らせていると、利広は彼女の考えを見透かすように言った。
「先日、景王にお貸しした物を返して頂こうと思ってね」
赤子は、僅かに首を傾げたが、すぐさま思い出した。彼女は、少し待って欲しいと言い残すと踵を返して仏蘭西窓の中に消えていった。
「お待たせいたしました」
あまり間をおかずに戻ってきた彼女は、丁寧な礼を述べてから雨具を返却した。
利広が貸した雨衣は、几帳面な景王の性格を表わすように、折り目正しく畳まれていた。
「どういたしまして。今度地上に降りるときは、それくらい用意していたほうが良いよ」
利広の老婆心からの台詞に、赤子は自分の考えの浅さを痛感した。
「はい」
「気を悪くされましたか?」
「いいえ」
赤子は否定した。
「本当に…‥至らないから……」
自嘲気味に発せられた言葉に、利広は僅かに眉を顰める。
赤子は項垂れたまま、悔しそうに紅唇を噛んでいた。掛ける言葉が見つからない利広は、そっと赤子の肩に手を置いた。
「景王は何をお知りになりたかったのですか?」
労わるように置かれた手の重みが、赤子には重く感じた。
「…分からない……」
思いもかけない返答に利広は、驚いたようだった。赤子は、震える声で続ける。
「たった一日、市井に降りたって分かるはずが無いんです」
彼女は卒然と、顔を上げた。
「分からないことが分からない。自分の国も知らない……胎果だから」
「それはどういう意味かな?」
「そのままの意味です。延王からお聞きでしょう?」
私は慶に生まれて、慶で育ったわけではない。
そう、赤子は言った。
「私は人生の殆どを蓬莱で過ごしました。その人間がいきなり、見知らぬ国の王になるのです。国政を司る者がそれでは、官吏たちもさぞかし不安なことでしょうよ」
赤子は自嘲するかのように紅唇を歪める。
「“海客”ならば、ただの異邦人で済まされます。ですが、“胎果”は違う。こちらの人間であり、同時に蓬莱の人間。どちらでもあり、どちらでもない」
ここまで他人に言うつもりは無かった。しかし、溢れ出す言葉は止まらない。
「私はっ…私は…何時まで経っても、どこの人間でもない――!!」
言葉が口から離れた瞬間、赤子ははっとした。例え、彼女にとって重要なことであっても、他国の人間である利広には関係の無いことだ。漸くそのことに思い至って、赤子は忸怩(じくじ)たる思いで
「すみません」
と謝った。
利広は何も言わなかった。
当然だろう。呆れたに違いない。
赤子が恥じ入って、自分の影に目を落としたその瞬間、身体が浮遊感を感じた。それと同時に世界が反転して、優しげな笑みを浮かべる青年の顔が視界に飛び込んできた。
「それでは僭越ながら、私が教えて差し上げよう」
悪戯っぽく覗きこまれた瞳に、赤子はうろたえた声を上げた。
「なっ何をっ?!」
慌てる赤子に、利広は笑みをむけながら言った。
「あまり動かれぬよう。落ちますよ」
軽々と抱き上げられた赤子は、趨虞の背に下ろされた。一体、どうするつもりなのだろう。赤子は利広の意図を量りかねて、不安そうな眼を向けた。
利広は「何も取って喰うわけではないんだけどな」と苦笑めいたものを零すと、俄かに表情を引き締める。
「少し、お時間を頂くよ」
それだけを言うと、彼も趨虞の背に乗った。
「あの、どこに行かれるのですか?」
赤子が尋ねるが教えてはくれず、代わりに微かな笑みを浮かべて秘密だと言った。
猫のように甘える素雪も、一応趨虞の端くれだったらしい。さほど時間を要せずに、堯天山を降りると、天を摩するように空を飛び上がった。
「雨……」
赤子は不意に呟いた。利広が手を天に伸ばすと、冷たい滴が掌に落ちた。
「どうやら、景王は雨と縁が深いように見えるね」
利広はくつくつ笑うと、後ろに括りつけた雑嚢(ざつのう)から雨衣を取り出して、赤子に掛けた。
「結構です」
景王は慌てて被せられた雨衣を返そうとしたが、利広は笑って首を振った。
「女の子は身体を冷やしてはいけないよ」
「ありがとうございます……」
どこかで聞いたような遣り取りをしているうちに、趨虞は堯天の上空まで来ていた。
町は大分整備されていたが、貧困層が住む区画はやはり、上空から見ても荒れている。
赤子は溜息を吐いた。
「私は…本当に至らないですね」
「お隣<雁>と較べているならば、それは無意味なことだよ」
「分かっています。ですが、どうしても考えてしまうのです。私にもう少し力があれば、こうできるのではないか。ああできるのではないのかと。延王は、王は誰でも名君たる素質があると仰いますが、私にそれがあるとは思えない――」
そう言うと、彼女は黙り込んだ。
彼女は王になったばかりで、しかも若かった。不安は尽きないことだろう。王になるとは、その不安とも向き合うということでもある。
利広は、嘗て自分の父もそうだったのだろうかと思いを巡らせた。あの父も、この少女のように悩み苦しんだことがあったのだろうか?
考えれば際限なく広まることである。利広は軽く首を振って、思考を止めると、赤子に声を掛けた。
「蓬莱では字(あざな)はないそうだね。景王の本名は何と?」
「…ヨウコ……」
ヨウコと利広は口の中で反芻すると、もう一度質問を投げ掛ける。
「どういう字だい?」
「太陽の陽。子どもの子…‥」
伏せられた瞳が不意に上げられ、もう一度己の名を利広に告げる。
「…‥陽子……」
間近で見た瞳の色は、翠だった。
「陽子…‥と呼んでも良いかな?」
彼女は小さく頷いた。
「では陽子。一度に沢山のことをしようと思ってはいけない。私は以前、景王が登極なされる前にこの国<慶>に来たことがある」
「…どう、でした……?」
小さな声。焦点が曖昧な眼差し。
不安なのだろう。自分が進む道が確かなものであるか。
こればかりは誰も教えてはやれないのだ。しかし、ほんの少し。少しだけだがその不安を除いてやることはできるはずだ。
「冬だったよ……。慶は短命な王が続いて、それはもう酷い有様だった。道端に死体が転がっていて――飢えと、寒さでね。しかし、誰も気にかけることもなかった。それが平常化していたんだ。王がいない国の民は、それだけで不幸なんだよ」
「分かっています」
王を失った国がどうなるか。隣国<巧>の荒廃振りを見ればそれは歴然だ。
「そうだね。君は分かっている。だがそれだけだ。失礼だが、先日の“お忍び”では何も学ばなかったと見える」
「…何を仰りたいか?」
「結果は直ぐに見えるものではないということだよ」
ご覧と利広は、下を指差す。
急な雨を凌ぐために駆けて行く人々が見える。彼が示す、指の先には仄かな光が点在しているのが見えた。
「先ず灯りが、増えた。あれは花柳街の方だね。人が増えて、遊ぶ余裕が出来た証拠だ」
次に利広は宙の線を辿って、橋の方を指さす。川の水嵩は大分増えていたが、完全とはいえないが整備がきちんとされているので溢れるまでには至っていない。
「初めて会ったときは橋の下だったね?」
「はい」
「景王が登極する前は、橋の下に生活する者が溢れていたのだよ」
はっとして陽子が顔を上げた。利広はふっと笑むと、彼女の肩に手を置く。
「“道”は誰にも分からないものだよ。ただ自分を信じて進むしかない。だが、もう大丈夫だろう?」
「私に、できるでしょうか……?」
と尋ねる彼女の声に、自身に対する不信の色は大分薄らいでいた。
「ああ、勿論だよ」
利広は小さく笑うと、陽子の濡れた前髪を掻き分ける。現われた翠玉が漸く彼と視線を交えた。
「焦らないでいい。ゆっくり行くんだ」
聡明な王だ。
この国が緑で満たされるまで間、数多くの困難があるだろうが大丈夫だ。
彼女の元なら程なくして、この国全土に緑がその四肢を伸ばすであろう。
「ありがとうございます…」
陽子は優しい笑顔を見ながら、肩に置かれたその手は、温かかったのだなと今更ながら気付く。
そして、それが最も自分が欲しかったものだとも思いながら――。
音も無く趨虞が露台に着地すると、利広は
「お役に立てたかな?」
と尋ねた。陽子は、破顔してはいと答えた。
「雨に濡れるのはもう遠慮したいところだけど、若いお嬢さんが喜んでくれるのは、私としても嬉しいね」
利広がそう言うと、陽子はすみませんと急に畏まったように居住まいを正した。
「このお礼は何と言ったら……」
「私の勝手でしたことだから、気にせずとも良いよ」
「ですが」
やはりそれだけでは気が済まないのが、陽子である。案外頑固なんだなと利広は、景王の垣間見せた新たな面に、ある種の感動を覚えた。
「陽子」
利広は呼び掛けると、耳を貸すように言う。人もいないのに? と訝しく思いながらも、陽子は耳を彼に向けた。
その刹那、頬に何かが押し付けられた感触。
陽子は何が起こったのか分からず、頬を押さえて利広を見た。彼は、人の悪そうな笑みを浮かべると、
「報酬」
と言った。
全てを理解した陽子は、可愛らしいくらい頬を赤く染めた。一瞬、赤子は直ぐに赤くなるからついた字ではないかと、意地の悪い推測をしてしまったほどである。
「たっ卓郎君……」
「なんだい?」
利広はにっこりと笑って答える。その笑顔を見たら、何も言えなくなってしまった。結局、言いたいことは言えず、できたことは
「…‥降りませんか?」
と言って軽く睨付けることくらいだった。
怒ると案外幼く見える。
利広は口には出さなかったが、そう思った。
「そうだね」
利広は同意を示すと、趨虞から降りた。陽子もそれに続こうとしたが、その前に利広が抱き降ろしてしまった。
「ひとりでも降りられたのですが」
陽子が言うと、利広は
「それは失礼。どうやら、失念していたようだ。嫌だね。歳を取るのは」
と返した。またしても、陽子は上手い具合に煙に巻かれてしまった。
一筋縄では行かないという点においては、延王と利広は同じだった。しかし、彼の方が掴み所が無く、底が知れないような気がするのは何故だろう。
そのことについて暫く思案していたが、若輩者の彼女が分かるはずも無かった。
「それでは、もうそろそろお暇を頂くことにするよ」
利広はそう告げると趨虞に乗った。
邪魔にならないように陽子は、数歩下がるが、すぐさま何かに気付いたように駆け寄ってきた。
「卓郎君。お忘れ物です」
陽子は慌てて雨衣を脱ごうとするが、湿気のため上手く脱げない。その様子に利広は軽く笑った。
「それはお貸ししたままにしておくよ」
「ですが……」
「また会える口実が出来たしね」
そう言うと、陽子の顔が突然、華やいだものとなった。
「では、またおいでくださいますか?」
利広は噴出してしまった。何故なら、自分が言ったことは彼女が考えているような意味ではなかったからだ。
これではあの男が、手を出すに出せないはずである。
ひとり納得していると、彼女は胡乱(うろん)げに首を傾げた。その様子に利広は笑みを零し、
「喜んで」
と言って、もう一度陽子の頬に口付けた。
(了)
[塩]
「慶の塩の生産と流通について知りたい」
いつもの授業の時間に陽子の口から飛び出した言葉に遠甫は目を細めた。
「これはまた急に。何かございましたかな」
「尭天の塩の値段が随分上がっているそうだ。もちろん浩瀚たちが手を打ってくれるはずだか、そう言えば私は塩の産地とかを全く知らなかったから」
真っ直ぐに問い掛ける碧の瞳に遠甫は穏やかに笑った。
「よい心がけでございますな。もっとも主上が塩の価格についてどちらでお聞きになったのかは台輔にはお聞かせしない方がよろしいのでしょうが」
陽子はぺろりと舌を小さく出し、情報の入手先に着いての言及は避けた。遠甫も問い詰めるような真似はせずに話を続ける。
「ではまず、主上は塩はどのように作られていると思われますかな」
遠甫の授業は大抵がこのような一見遠まわしな問いかけでできている。答えは教わるものではなく、自ら考えねばならない。陽子は首を傾げながら答えた。
「海水には塩分が含まれているよな‥‥」
「左様。それは蓬莱も常世も変わりません」
「海水を乾かせば塩が取れる?」
遠甫はにっこりと頷いた。
「その通り。他に岩塩と呼ばれる塩気を多く含んだ岩を砕いて水に浸して塩を精製する方法もございますが、そも慶国では岩塩は産出されませんのでこの方法は無理ですな」
「では、海水から得ているのだな」
「いかにも。ですが、これが簡単ではございません。海水に含まれる塩分は僅かに三分ほど。残りの九割七分の水分を乾かさねばなりません。これが意外に大変なのです」
「鍋に入れて煮詰めるわけにはいかないのか」
「そのための燃料が膨大なものになりますな」
「そうか‥‥」
「南の奏などですと日差しが強く照り付けますので、粘土質の地盤に浅い穴を掘りそこに海水を溜めておくと一・二年で自然に塩の塊ができるそうですが、慶では無理でしょう」
陽子は暫く考えていたが降参したように尋ねた。
「では、一体慶の塩はどうやって賄われているのだ?」
「一部の海岸地域で細々と産してはおりますが、大部分が他国よりの輸入です」
「だって、塩は必需品だろう。それがほとんど?」
「いかに必需品であろうとも、産出しない物は輸入するより他にございません」
「そうか‥‥。輸入元は、奏ということか」
「もともとは巧の南部や奏といった南からの輸入に頼っていたのですが、現在は巧が荒れているためそちらの経路はほぼ壊滅状態でしょうな。今は雁からの物が主流になっております」
「雁から? 雁では岩塩が取れるのか?」
「いえ、柳や恭では岩塩が産するそうですが、雁にはございませんでしょう」
「ではなぜ慶よりも北にある雁で塩ができるんだ」
「さあ、あちらは乾いた条風が強い所ではありますが、それだけとも思えませんな。何か蓬莱仕込みの技術でもあるのでしょうな」
「そうか。今度延王がいらしたら聞いてみよう。とにかく、巧方面からの輸入が途絶えてしまったから価格が高騰しているんだな」
確認するように言った陽子に遠甫は含みのある表情で答えた。
「根本原因はそこにあると言えましょうな」
陽子はまじまじと遠甫の顔を見た。
「その言い方はまだ何かありそうだな」
「主上は専売という制度はご存知ですかな」
「ええと、蓬莱でも聞いたことがある気はするけれど‥‥」
「簡単に言うと、国がその品目を売買する権利を独占することです」
「?」
「普通の商品、例えば砂糖であれば、誰でも売り買いすることができます。砂糖の取れる作物を育てて成功した者がそれを売る。仲買人が買い付け転売する。そうやって物資は流通し、それを消費する者の手に渡る。専売品は違います。国に許された者のみが生産することができ、国が全て買い付け、国が運び、国に許されたもののみが販売する」
「何故そんなことを?」
「目的は大きく分けて二つありますな。そのものの利潤が大変大きい場合これを独占販売することで税の代わりに国庫が潤う。もう一つは国が介在することで安定した供給が図られる」
「なるほどな」
「蓬莱もつい近年まで塩は専売品だったと聞き及んでおりますが」
陽子の頬が赤くなった。本当に私は何も知らなかったんだな、と呟きが漏れた。遠甫は敢えて何も言おうとはしなかった。上っ面の慰めの言葉など害にしかならないことを彼は知っていた。
「慶でも塩は専売なんだ」
気を取り直した陽子が問う。
「左様でございます」
「その価格が急騰するっていうのはおかしいんじゃないか? いくら品薄だからって、供給が安定するように専売になってるんだろう」
遠甫は頷いた。
「表面的には巧からの輸入が途絶えたためと見えなくもありませんが、それだけではありませんでしょう」
「というと?」
「途中で何者かが甘い汁を吸っている恐れがありますな」
「そうか」
短く言って陽子は唇を噛んだ。
「もう一つ訊きたい」
暫く考え込んでいた陽子が顔を上げて問うた。
「それは専売をやめたからと言って解決するわけではないのだな」
遠甫は重々しく頷いた。
「急に専売制度を廃止すれば、市場の形成が不十分な慶ではごく僅かの力のある商人が僅かな塩を独占して、さらに値を吊り上げかねませんな」
「わかった。もう少し考えてみる」
数日後、決裁書類を受け取りに現れた浩瀚を陽子は呼び止めた。
「浩瀚、尭天の塩の価格が上がっていることは知っているか」
急な問いかけだったにも関わらず、有能な冢宰は即座に回答した。
「はい。今担当官の周辺を洗っているところです」
「流石だな。では、遠からず価格は下がるということか」
陽子の問いに浩瀚は僅かに困ったように溜め息を吐いた。
「現在の担当官を断罪することは簡単なのですが、その後の人事に苦慮しております。位階が低い割にうまみの多い役職だけに、相当清廉な者でないと同じ結果に繋がりましょう」
「人材が少なすぎる、ということか」
溜め息とともに陽子は呟く。
「これも私の人徳ということだな」
「そんなことはございません。官の育成には時間が掛かります。致し方ありません。当座はこちらからの監視を強めて凌ぐしかないかと‥‥」
「そしてまた浩瀚の仕事が増えるのか」
自嘲するように言った陽子の顔を浩瀚は微笑んで見下ろした。
「私のことならご心配には及びません。まだまだ余力はございますよ」
そんな浩瀚を見上げて、陽子は甘えたように笑った。
「じゃあその言葉に甘えてさ、一つ聞いてもらいたい思いつきがあるんだけど」
「よろしいですよ」
浩瀚は一度手にした決裁書類を書卓に戻し、話を聞く姿勢を見せた。
「あのさ、塩の価格が高騰したのは巧からの輸入が途絶えたせいだって遠甫から聞いた」
「左様でございます」
「今現在慶に入ってきている塩はほとんど全て雁を通ってきている。もともとが慶よりもずっと豊かでその分物価の高い雁から必需品を輸入すること自体に無理があると思うんだ。今は延王のご配慮でうんと安くしてもらっているけれどね」
浩瀚は黙って頷いて続きを促した。
「だからさ、慶でも塩が作れないかと思って」
「それは‥‥」
浩瀚は困ったように口を噤んだ。できないと頭ごなしに止めるのは彼のよしとするところではないが、といって簡単に同意のできる問題ではない。
「この前六太くんが来たから聞いてみたんだ。雁の塩はどうやって作っているのかって。そしたらやっぱり蓬莱の技術を応用しているんだと言っていた。そのやり方を教えて欲しいって言ったらいいよって」
浩瀚は呆れたように溜め息を吐いた。
「延台輔もまた‥‥。それは国家機密でしょうに」
「そうなのか」
「特産物の製法はどこの国も秘密にしておきたいものでございます。自国の大切な収入源ですから」
「そう‥‥か」
「台輔が気安くよいと仰せられたところで、あちらの官や、まず延王がお認めにならないでしょう」
「‥‥延王から鸞が来て、受け入れ態勢が整ったら技術者を送るから知らせろと言われたけど」
「なんと」
驚く浩瀚を不安そうに見上げて陽子は訊く。
「私、そんなに非常識なお願いをしてしまったんだろうか。慶がいつまでもお荷物でいるよりは自国の民の必需品くらい自分のところで作れるようになった方がいいんじゃないかと思ったんだけれど‥‥」
「あ、いえ、延王が協力してくださると仰るのでしたらもちろん構いません。すぐにどこか海岸近くに‥‥」
言いかけた浩瀚を陽子がおそるおそる遮った。
「あの、さ、聞いて欲しい思いつきっていうのはまだ言ってないんだけど‥‥」
浩瀚は目を見開いた。雁の技術支援を取り付けたというだけで十分驚くべきことなのだが。
「あの、ね、塩の工場だけれど、別に海岸の近くじゃなくてもいいと思うんだ」
「と言われると?」
海から離れれば原料の海水の輸送に膨大な労力が必要となるのは明白だが、浩瀚は敢えてそんな分かりきったことは口に出さなかった。
「常世の空は全て雲海で覆われている。州城や離宮のある凌雲山からなら雲海の水を下界へ下ろすことができる。上から下だから手間はそうかからないだろう」
「それは‥‥」
「試しに一個所でやってみて、うまくいったら慶全土に広めればいい。そうしたら輸送の手間もなくなるし、あちこちで作られるようになれば横領も買占めもできなくなるだろう」
「‥‥」
「そう思ったんだけれど、変かな」
今度こそ言葉を失った浩瀚を陽子は自信なさそうに首を傾げて見上げた。
「それはそれは」
日の当たる窓辺で茶杯を手にした遠甫は楽しげに笑った。
「流石主上は思いつかれることが違う」
「まったく。言われたすぐはこの私が言葉を失いました」
向かい側でやはり茶杯を前に浩瀚が苦笑いした。
「延王が主上に甘いことまでは予想しておりましたが、まさか雲海の水を使うとは‥‥」
「主上はこちらの常識から自由じゃ。雲の上のものを民のために使うことに躊躇いがない」
窓から流れ込む柔らかな風に目を細めて言った遠甫は、そのまま窓の外に目を遣ったまま尋ねた。
「ところで、いまだに慶はそんなに官が不足しているのかな」
茶杯に伸ばしかけた手を止めて浩瀚はにやりと笑った。
「はい。私の力が及ばずまだまだとても人材が足りのうございます」
「とはいっても塩の専売を取り仕切る官すらいないとは思えぬが」
止めた手を再び進めて茶杯を取り、ゆっくりと茶を含んでから浩瀚は笑った。
「お師匠様には何も隠せませんな。左様、その程度の官なら何とかなります。これまでの腐敗した王宮にやる気を失っていた、特に若手から志のあるよい官が現れ始めています。よい機会ですから若手を登用して様子をみようとは思っておりました」
「さては主上を試したか」
不穏なことを穏やかな口調で遠甫は問う。
「試したとはまた畏れ多い」
おどけて恐れ入ってみせたものの、浩瀚は敢えて否定はしなかった。暫し無言で茶を楽しんでから、浩瀚はぽつりと言った。
「塩の値の話題を主上から出されたとき、ふと思ったのです。もし手がないとお答えしたなら、主上は延王に泣きつかれるのだろうかと。一番簡単な解決方法は雁により多くの塩を優先的に安い値で供給してもらうことですから」
「一番簡単な愚策じゃな」
遠甫が頷いた。
「ええ。延王が主上に肩入れなさっているのはありがたいことですが、それに頼ってばかりでは慶はいつまでも自立できない。延王もああ見えてもそうそう情に流されるお方ではないでしょうから、甘えてばかりではいつ見放されるか分かりませんし。正直、今雁に見放されては困りますから」
「お前でも雁の支援は切れないか」
ほっほっほと笑いながら遠甫が言った。
「当然です」
憮然とした面持ちで浩瀚は答えた。
「あと十年、いやあと五年で慶は立ち直り、他国の援助など必要としない国になるでしょう。しかし、今はまだ駄目です」
「お前も情に流されない男でよかったのう。主上の治世は当分安泰じゃろうて」
何のことか分からないといった顔を作った浩瀚を見遣ってから、遠甫はまた窓の外に目を移して楽しげに笑った。柔らかな風がそっと遠甫の白い髭を撫でた。
(了)
[夏祭り]
「夏祭りをしよう」
つい最近蓬莱からやって来た胎果の女王は、湿気を含み暖められた風を不機嫌に受け流しながら呟いた。
茫洋と雲海を眺めやるその瞳は宝玉を填め込んだかのような翡翠に輝き、頬に落ちかかる髪は見事な真紅、二十を僅かばかり越えるかどうかの容貌は、女と言えず少女と言えず繊細な色を孕みながら、研ぎ澄まされて美しい。
荒廃の一途を辿った慶国を支え、繁栄と安寧を約束すべきその両肩はあまりに細い。儚げな四肢からは思いも寄らぬ強靱な精神が、未だ不安定ながらも「将来」を嘱望するに足るものであることを知っているのは、親しき者たちをおいて他にない。
慶に王が起ちてより数年、泰麒捜索を終え落ち着きを取り戻した国には、まだまだ問題は山積しているのだった。
常に王の傍らにあるべき慶国の麒麟――景麒は己の主を見つめつつ、訝しんだ。
「…夏祭り、とおっしゃいましたか」
「うん。お祭りをしよう。夏を吹き飛ばすくらい打ち込めるものが必要だ」
「…必要、ですか?」
「必要だろう?暑さにうだっているんじゃ、仕事の能率も上がらないし…」
「主上、何故視線が泳いでらっしゃるのですか」
「え?…いや、別に?」
「何かやましいことでもおありか」
「な、何もないってば!」
「……」
眉間に皺を寄せて表情を窺う孤高不恭の生き物は、鈍そうに見えるのに意外と感が鋭い。
高く結い上げた紅い髪の一房を弄びながら、王はそれでも食い下がる。
「ダメか?そんなに金は使わない。ホントにささやかでいいから。休日をくれないか。一日でいい」
「主上、慶国は未だ安定には程遠いことをお忘れか」
「…わかってる。けど……」
景麒は目を細めた。
己の今の主が非常に勤勉であるのは知っている。前向きに王たらんと欲していることも知っている。
本来の主の性格を考えるならば、自国の民を置いて遊びたいなどというはずがないのだ。
「…事情がおありか?」
そう聞いてやれば、歳若い女王はぱっと顔を輝かせてこくりと頷く。
非常に、好ましい。
「花火をやりたいんだ。派手で大きなヤツを」
…ハナビ?
「それは一体…」
「こっちにはないんだってな。延王にお聞きした。そもそも延王自体がよくわかってらっしゃらなかったのだから確実だ。だからこそやりたい。あれは夏の風物詩だから」
「はぁ…。延王は胎果でいらっしゃったはずでしょう」
「花火を蓬莱でやるようになったのは江戸時代だから――…延王がもうこちらにいらっしゃってた頃だ」
「なるほど。で、そのハナビというのはどのようなものなのですか」
首を傾げつつも、興味に負けて景麒は問うた。
ものによっては反対するいわれもないし、主上の望みを叶えるために協力を惜しむつもりもないのが事実。
所詮麒麟は王の為に生きているのだから。
「うん、えーと円形とか筒状の物に火薬を詰めて、火をつけて、打ち上げる…のかな?私もよく知らない」
火薬を詰めて、打ち上げる?
「お、お待ちください、それはあまりに危険すぎるのでは……」
「危険は危険だろうけど、大丈夫。やり方さえ間違わなきゃ怪我もしない」
それは十分「危険」だろう、という言葉を景麒はすんでのところで飲み込んだ。
主のこの輝かんばかりの笑顔はどうだ。
王として玉座にこの少女を迎え入れてから、これほどまでに無邪気で楽しげな笑顔を見たことがあったか。
己に向けてくれたことがあったか。
…いや、ない。
「…打ち上げるだけ、なのですか…?」
自らのツッコミに落ち込みつつも、質問は忘れない。
「うん、そうなんだけどその打ち上げられたものっていうのが……あ、」
「?」
不意に視線が外れて扉に向かう。
つられて入り口を振り返り、景麒は己が主が突然祭りをやりたいと言い出した意図を悟った。
「延王、延台輔…!」
「邪魔するぞ」
「よー!いつやるか決まったか陽子?やるならさっさとやろうぜー!俺もう楽しみで楽しみでさぁ」
「お二方の差し金ですか…」
「景麒!その言い方は失礼だろう」
「いや、構わん」
延王は鷹揚に笑ってみせ、椅子の一つに腰掛けた。
「なんだ、景麒は渋っているのか」
「えーと、花火がどういうものかわからないから戸惑っているみたいです」
「ははは、バッカだなぁ景麒!わからねーならやってみればいいんじゃんか」
「延台輔、簡単に言わないで下さい。ついでに勝手に主上の果物を食べないで下さい」
卓の上に置かれた皿に手を伸ばして突付いている金髪の少年に向かって、景麒は眉をひそめた。
「景麒!別に果物くらいいいから。それよりやっていいか?景麒。もうあとはお前だけなんだ」
「は……?」
「陽子ー!太宰と老師は大丈夫だったわよー」
「あっ延王、延台輔!!し、失礼致しました!」
「いや、構わぬ。楽にせよ」
慌てて叩頭しようとする鈴と祥瓊に向かってひらひらと手を振った延王に、「どうせ今日はお忍びだしなー」と延台輔から野次が入る。
「鈴、祥瓊…じゃぁ上手くいったんだね」
「ええもうバッチリよ!早くハナビっていうのを見たいわー」
「ほんとにねー」
「……」
それを聞いて景麒は見るからに不機嫌になった。
主上は何故自分に一番最初にお話くださらないのか。
私のことを軽んじていらっしゃるのか。
話す価値もない者だと、思ってらっしゃるのだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐる。
己の思考に嵌まり込んで暗くなった景麒に、陽子は気がついた。
周りで祭りについて楽しげに盛り上がっているが、そこだけ闇が落ちている。
しまった、と陽子は反省した。
王にのみ傅き忠実に生きる麒麟という生き物が、主である自分にないがしろにされたと思ったときの落ち込み方は半端ではない。
…そんなことないのに。
お前をないがしろにすることなんかあるはずないのに。
ちゃんと思っているからこそ、自分で景麒に相談したのに。
…まぁ確かに、周りが盛り上がりすぎて展開が思ったよりも進んでしまったことについていけなかった自分も悪いんだけど。
「景麒…」
できるだけ優しく、誠実に伝わるように言葉を選ぶ。
自分の半身ともいうべき存在を、悲しませてはいけないのだと思った。
「最初に言い出したのは私なんだけど、気がついたら周りが乗り気になってくれてた。ここのところすれ違いでゆっくりお前と話をする時間もなかったし、遅くなってすまなかった」
ちらりと景麒が目線を上げる。
視線を合わせて、陽子は笑った。
「私のたった一人の麒麟を、仲間はずれにするはずないじゃないか。だから遅くなったけど今日、ちゃんとわかってもらおうと思ったんだ。…ごめんね?」
素直に己の非を認めるのも、王者の器量。
そしてそれを受け入れるのは、麒麟の度量。
景麒は大きくため息をついて、苦笑に近い笑みをこぼした。
「…いえ、主上がなさりたいのでしたら、私は反対致しません。そのハナビとやらを、私も楽しませて頂きます」
「うん!絶対絶対、損はしないから!約束する!!」
「うわー…なんか恥ずかしい主従がいるぞー…」
離れた所で延麒六太が呟いた。
複雑な面持ちで眺める男が一人と、微笑ましく見つめる女が二人。
金波宮は平和なようだ。
夜。
蓬莱で調達してきた大量の花火が打ち上げられている。
ドーン。パラパラパラ……
金波宮でこんな場所があったのかと陽子が驚くほどの広場に、ずらりと打ち上げ筒が並んでいる。そこで火をつけているのは大僕と禁軍将軍を始めとする屈強揃いの者たちだ。
轟音に宮が揺れ、驚愕した官達が飛び出してくるが、そこで皆足が止まる。
惚けたように一様に空を食い入るように眺めているのだ。
さまざまな色が交錯しあい、空に打ち上げられては広がって消えていく。
星が軌跡を描いて、一面に鮮やかに撒き散らされたかのようだ。
色を変化させながら尾を引いていくもの、何色もの星が散りばめられて打ちあがるもの。
光の芸術とでも呼ぶべき世界が、闇夜を圧して広がっていた。
「すげー……」
六太が呆然と呟く。
「見事だな。延でもゼヒやってみたい」
延王尚隆が首肯する。
鈴と祥瓊も、ただ言葉を忘れて見入っている。
「…これが、花火」
「そう、花火」
同じく感動を込めて呟いた景麒の声に、陽子は答えた。
「暑さを忘れるだろう?綺麗だろう。私は小さい頃両親に連れて行ってもらった花火大会が忘れられない」
きらきらと、瞬間の命を生きるそれ。
「…夏になると、思い出す。今年でこちらに来てから4年目、かな」
「…主上」
「引きずってないとは言わないけど。でもどうしても見たかったんだ。夏の思い出」
ふふ、と目を伏せて陽子が笑う。
「めめしいかな?でも花火はこちらにあってもいいと思うんだ。だって、綺麗だろう?」
「…綺麗ですね」
手すりに凭れかかって、花火を見る。
雲海の上で広がる光は、果たして下界に届くだろうか。
いつかもっとこの国が豊かになったら。
やりたいんだ、花火大会。
皆がひと時、幸せになれること。
この夏を、また。
この国と、ともに。
[火徳の君]
雲海の上は地上ほど暑さも寒さも厳しくはない。それでも、北方に位置する雁のこと。二月の夜の玄英宮には、やはり冴えた空気が深と渡されている。
数日、街に降りて姿の見られなかった王が戻ってきた。そして官吏から小言をくらっている。他国ではあまり見られない光景だろう。
「明日ではいかんか」
書卓に置かれた紙の束に手を伸ばそうともせず、延王尚隆は目の前に立つ帷湍を見上げる。
「今日一日待った。急ぎ裁可が必要なものだと言っただろう」
蟀谷には青い筋が浮かんでいるようにも見えるので、仕方なく尚隆は書面に目を通し始める。帷湍は少し下がった位置に立つ朱衡とほぼ同時に嘆息した。もちろん安堵からであろうはずもなく、疲労に近い。
「六太は」
「まだお戻りではない」
帷湍がそれのみ答えると、朱衡が言を継いだ。
「慶国へ行かれております」
「慶に。……何かあったのか」
「何か、とは?」
笑みが意味深い。一瞬、尚隆は目を眇めた。
「城を出てどうしているのか知らんが、陽子は今が正念場だ。手を出すべきではない。と言ったはずだが」
誠に王らしい厳格な様子で告げるも、二人には通用しない。
「お前が雲隠れしたすぐ後だぞ。慶に乱ありと伝わったのは」
「乱か」
尚隆は沈鬱な表情で呟く。
「一昨日、乱は平定されたとの報が届いたが、内容はよく分からん」
続けられた言葉に、尚隆は帷湍から目を逸らした。
「落ち着いたのなら良い」
もどかしげに、気持ちを抑えようとするのを隠しきれない。そのような王の姿は、五百年仕えてきた二人にさえ珍しいものだ。
尚隆はしばし目を閉じた後、振り切るように書面へと意識を戻す。
「しかしお若い所為か、陽子さまは動かれるのが早いな」
帷湍が感慨深げに言う。
「城をお出になった件ですか?」
「そうだ。……そうすれば、隙を見て動き出す連中が出てくる。と、分かっておられるのかな」
さあどうでしょうと朱衡は苦笑する。
尚隆は登極して二十年、動かなかった。それはもちろん猾吏が大人しくしていたことと、国土の復興が先だったこともある。
が。
「あれは正に火徳の王だな」
結局、無視できなかったのか。書面に目を通しながらそう言った王に、帷湍は顔をしかめた。
「まさか、御髪が赤いからと言うのではないだろうな」
「……見た目から顕著だとは思うが、それだけのわけがなかろう」
尚隆は呆れて目を上げる。
火気を表す色は赤。
景王である陽子の髪は、彼女の潔さを映したように濁りのない緋色だ。
「三月に、陽子は景麒に選ばれている。」
木生火を証明するかのように、木気の月に生まれた王。
「しかし肝心の火気の三ヶ月に、巧国で追われ、たいへんな目にあっておられるだろう」
帷湍の指摘に頷いてから、尚隆は行儀悪く頬杖をつく。
「確かにな。だが、その間に王としての力をつけたのではないか?」
「ああ……そういう見方ができるか……。そして万全を期して七月に偽王を伐ち、八月に天勅をいただくわけか」
尚隆は笑う。
「万全かどうかは知らんが。雁に迎えたのは正しかっただろう」
「何故だ?」
帷湍が目をしばたたかせる。その後で朱衡が微かに笑んで言った。
「南方を目指して慶に入ったということでしょう」
見抜かれてしまった為か、尚隆は少しつまらなそうにする。それを見て朱衡が更に笑みを深めた時、扉が開いた。
衝立の陰から延麒六太が姿を現した。
「やっと帰ってきたのかよ」
主人の顔を見るや、開口一番そう言う。
一人、拱手した朱衡の前を、六太は頷いて過ぎる。
尚隆は悪びれもせず、笑んで姿勢を戻した。
「ご苦労だったな」
「お前な……」
「陽子に会ったのか」
「会ってねえよ」
六太は諦めて息を吐く。
「お会いできなかったのですか」
「景麒とは会ったけど。陽子はまだ戻っていなかった」
「左様ですか。乱は収まったとのことでしたが」
うん、と六太は二人の官に頷く。
「大分、話が違ってた」
「どういうことだ」
口を挟んできた尚隆に、六太が胡乱げに言った。
「お前もしかして、全っ然、知らねえの?」
「和州で民が蜂起した為、禁軍が平定に向かったとのことでしたが」
「概要はその通りさ」
六太は朱衡に肩を竦めてみせる。そして主の顔をちらりと意味ありげに見た。
「なんだ」
彼を見ていた尚隆は当然のことながらそれに気付く。
「禁軍は陽子の命で出陣したわけじゃなかった」
「なんだと」
「それは……」
帷湍、朱衡が息を呑む。
「冢宰が勝手に差し向けたってことだ。陽子は反乱を起こした民の中にいた」
尚隆の表情は全く変わらなかった。二人はやはり驚いたが、六太が落ち着いていることもあり、すぐに平静に戻る。
「危険なことをなさりますね」
「やれやれ、そんなところを見習われなくとも良かろうのに」
「景台輔は火種になどなられないでしょう」
その会話に、尚隆は口の端を上げる。対して六太は顔をしかめた。
「おれは真面目にしてたのに、何で今更そんなこと言われないといけないんだ。聞きたくないのか?」
「これは申し訳ございません。今となっては懐かしい思い出ですよ」
にこりとする朱衡に、不満気だった六太は嘆息してみせる。
「それで」
促す尚隆に目をやって、六太はにっとした。
「王師は上から雷を落とされて、一発で折れた」
「陽子がねじ伏せたということか」
「麒麟に騎乗して啖呵切ったってさ」
楽しげに告げられた言葉に、流石に皆、瞠目した。
「麒麟に……騎乗?」
唖然とした帷湍の呟き。
最初に我に返った尚隆は、堪らず笑い出す。
「それはまた、派手なことだ。おれでさえやったことがないぞ」
「当たり前だ。お前なんか乗せたら飛べねえよ」
六太は顔をしかめ、それから書卓に座った。
帷湍はゆるゆると頭を振る。
「すでに伝説になりそうだな」
「それで、冢宰を捕らえさせたというわけですか」
「ああ。冢宰、それに乱が起こった原因となった非道い郷長と州侯もだ。一気に朝廷の整理をやってのけるかもな」
六太が天上を見ながらそう言うと、帷湍は呟いた。
「なるほど、火徳の王か」
「あ?」
「そういう話をしていたのだ。 陽子は火徳の君だとな」
どことなく得意気な主人を見、なるほどねと六太は呟く。それから、ふと首を傾げた。
「それってさ、水禺刀と相性悪そうだよな」
途端、尚隆は苦虫を潰したような表情で、書卓の上の少年を睨んだ。
水剋火。水は火に剋つもの。そして禺も水に属する生き物だ。
互いに互いを封じている時は良し。だが、陽子は巧国で、剣の見せる幻と人の心裏を読む禺に変じた鞘に、随分苦しめられたようだ。
「なんだ。都合の悪いことには気付いてなかったのか」
どうやら図星をさされたらしく、尚隆は視線を六太から流して嘯く。
「……まあ、陽子が天に適った王であるうちは問題ないだろう」
苦笑気味な官吏に、六太は肩を竦めて言う。
「二月を越えたから、もしも次に九月に何か起こっても大丈夫ってことか」
二月と九月を合わせれば火気となる。
尚隆は片眉を上げた。
「何かなどと。お前は本当に麒麟か」
「今、主上が出向かれても邪魔になるだけですよ」
朱衡の指摘に、尚隆は大仰に息をつく。
「そのくらい、分かっている」
「王宮に行かなきゃいいと思っているんだろ」
否定することなく、尚隆はそっぽを向く。
ある意味素直なその反応に、三つの嘆息が重なった。
そうして彼の臣は、諦め気味に笑むのだった。
了
[休息]
雁国王宮――玄英宮に隣国の王、景王陽子が到着したのは深夜だった。いくら王とはいえ、他国の王宮に訪問するにはいささか失礼な時間帯だ。
だが、陽子の到着を待っていた者たちは心から彼女の到着を喜んだ。
景王に続いて、彼女を迎えに出た少年――延麒六太が使令から降りる。
「陽子」
六太につぶやくように声を掛けられ、陽子は囲まれた女官の間から顔をのぞかせる。
「延台輔?」
「……よろしく頼む」
「……」
陽子は真っ直ぐに六太を見つめ、軽くつばを飲む。
はい、と陽子は頷いた。
延王尚隆が倒れたのは十日前。
馬鹿でも風邪を引くらしい、と笑っていたのは最初の三日。
一行に良くならない症状に周囲が焦りだした五日目。もしや失道か、と焦ったものの、半身である延麒六太は極めて健康優良児。
その健康優良児が慌て出した八日目。九日目にして、もっとも早い脚で隣国へと向かったのだった。
「延王……」
陽子は、薄暗い室内へと静かに足を踏み入れた。
「延王……」
ささやきに返ってくる言葉はない。
陽子がこの部屋へと入るのは初めてではなかった。だが、いつもの匂いとは別の薬香の香りに、陽子は眉をひそめる。
それと、少し強い男の匂い。
空気がよどんでいるような気がした。
蓬莱の病院で感じるような清浄な空気とは違った、そう……。
もっと、別の――。
「延王」
寝台の中央が膨れ、そこに男がいるのは一目で分かった。
男の身体がかすかに動いて、陽子のほうへと顔が向かう。
「陽子……」
「はい」
やつれている姿を想像していた陽子は、思ったよりも変わらないその姿に、かえってドキリとした。もちろん無精ひげなどは伸びている。髪も乱れていた。――そういう意味での変化ではなく。
そう。変わったのは姿ではなく――その雰囲気。
「風邪で倒れられたと聞きました」
「……ああ」
「薬を口にしない、と女御らが心配していましたよ」
「……ああ。あんなもの、飲めるか」
陽子は寝台の横にある小台の上に載せられたコップと薬湯の入ったビンを見つめる。
くすり、と陽子が笑い、気だるげな表情の男は少し興味を示す。
「何がおかしい」
「大人でも風邪を引くと子供のようになるというが、本当のようだ」
「……何を言われても飲まんぞ」
「食事もとらないのはなぜですか」
「……食べたくないからだ」
「食べないと体力がつかないでしょう――という言葉は耳にタコが出来るくらい聞かされていると思うのであえて言いません」
「悟るな」
陽子は声を出さずに笑う。
寝台に近づくと、椅子ではなく、男が眠る横に腰をおろした。伸ばした手を男の額に当てる。
「ああ……」
熱があるのは確かだ。そんなにひどい熱というわけでもないが、体力を回復しないかぎり健康にはならない。
「なぜ薬を飲まないのです」
「飲みたくないからだ。くどい」
「……」
陽子は、飲み薬の器を手にとり、延王の口元へと運ぶ。
「飲んでください、延王」
「くどい!!」
「――ゃっあ!」
バン! と手を叩かれ、寝台に薬が飛び散った。
深緑の液体。
布団に染みないくらい濃度が高い。
鼻につく香草独特の臭いがした。
――なるほど。
見た目以上に苦いのか。
陽子は溜め息をつくと、自分の手についた薬を舐める。
「……」
渋苦いとでも言えばいいのか、陽子の眉がゆがんだ。
だが。
「誰か!」
陽子は背後に叫んだ。
「誰かある!」
慌てて女御らが入室して来た。
「景王君、お呼びで……」
「薬を」
「は?」
「薬湯を持ってきて」
高くもなく低くもない声で、淡々と陽子が言った。その目は、真っ直ぐに延王を見つめていた。
「は――はいっ」
女御は下がり、衣擦れの音と靴音。それから「薬湯を」という声が響く。
「陽子」
「黙っていてください」
陽子は延王を睨みつける。
しばらくして、先ほどと同じものであろう薬湯が用意された。
「ありがとう。下がっていいよ」
「はい――」
人の気配が消えたのを確認し、陽子は薬湯を口に含ませた。
どろりとした舌触りと、鼻につく臭い。
陽子はそれを喉に流した。
「――」
苦い――なんてものではなかった。
舌が麻痺しそうだ。苦さが口の中に残って消えない。
以前、陽子が身体の調子を崩して倒れたときも似たような薬を用意されたことがある。こういうものしか用意できないのだろう。この世界で蓬莱のような白い錠剤をもとめるのは無理だ。
陽子はもう一度、薬を口に含ませると、今度は飲まないで寝台に上り、中央に寝ている男の近くへと這っていく。
枕元に薬湯の瓶を置き、男の頭を両腕でまたぐと身体を落とした。
「――っ!」
延王が目を見開く。
男の口に、陽子は自分のそれを重ねた。
「――ッ」
男が逃げないように、頭をがっしりとつかんで離さない。
ごく、と男の喉が鳴る。重なった口を通して、薬湯が流し込まれた。
「陽子!」
「以前、あなたがしたことと同じことをしたまで」
「――お前は」
陽子は、もう一度口に含ませると、延王の頬に手を添える。今度は強引に飲ませなくても飲んでくれる――そう思った。
だが、ゆっくり重ねた唇はなかなか開こうとしない。
陽子は液体を自分で飲み干し、男の身体に乗りかかる。
「あなたは子供ですか!!」
「うるさい! 他人がどうこう言うな! 放っておけ!」
「――っ!」
陽子の瞳が怒りに震えた。彼女の気配が目に映るものであったなら、怒りにゆらぎ立ちのぼるそれを見ることが出来ただろう。
陽子はこれでもかというほど大きく息を吸うと、薬湯を口に含ませ、男の口に再び重ねた。
男はまたも口を開こうとしない。
だが、陽子はそのまま男の鼻をつまんだ。
「――!」
延王がうめく。
――ゴク。
「今日はこれくらいで許してさしあげます」
陽子は鼻で笑った。
「陽子!!」
「他人に 『陽子』 などと呼ばれる筋合いはない!」
「陽子!」
延王は半身を起こす。その頭を、陽子は片手で押し戻した。その首に、陽子は手を当てる。ぐっと力をこめた。
「また私を 『他人』 なんて言ったら、絶対に許しませんから」
「陽子……」
男の眉が歪む。
陽子は、ゆっくりと男の頬に口付ける。
「それとも、私は本当にあなたにとって他人でしかないのか……?」
「陽子」
唇を噛み締めた陽子は、次の瞬間にはその思いを――言葉を振り切るように笑う。
「それでもいいんです。――私は」
でも、あなたにとって雁国の者は他人ではないでしょう。
「皆、心配しています」
「お前は……心配したか」
「……」
陽子は男の額に、瞳に、鼻に口付ける。
「さあ……どうでしょう」
「……」
男は、先ほどの自分の失言がかなりの怒りを与えたのだと知る。
「子供を……助けたのだ」
延王はポツリと言った。
「……」
陽子は黙って頷く。
「海におちた子供を」
この真冬に。
「オレの民を助けたのだ。それなのに、あいつらは馬鹿だと抜かす。海に飛び込まなくても助ける方法などいくらでもあろう、と」
「……」
陽子は小さく笑った。
「なぜ笑う」
「私も同じようなことでよく浩瀚たちに怒られますよ」
陽子は目を細めた。
「きっと、私たちは似ているのでしょう。あなたと同じところに居合わせたら、きっと私も同じことをします。そして、皆も同じように私を責めるでしょう。もっと御身を大事になさってください、と」
言葉が違うだけ。
誰もが彼を案じているのだ。
「私たちは私たちの王道を進めばいい。彼らが心配するのは当たり前のこと。私たちに国が――民が必要なように、彼らには私たちが必要なのだから」
陽子は男の頭をぎゅっと抱きしめた。
「元気になったら、助けた子供へ会いに行きましょう。きっと、お礼が言いたいはずですよ」
私たちにはその言葉だけで十分なのではないかな、と陽子は言う。
陽子は優しい口付けを男の頭上に落とした。
「ゆっくり眠ってください。私はまだいますから」
「陽子は気持ちいいな」
「あなたが熱すぎるんです」
「そういう意味ではない」
男は笑う。
陽子は軽く首をかしげたが、延王の笑みにホッとしたように笑んだ。
「たまには休息するのもいいでしょう。あなたはずっと働いてばかりだから」
「そうだな……」
その発言には多くの者が異議を唱えそうだ、と思いながらも、延王は素直に頷いた。
「たまには休息するのもいい」
身を起こし、離れようとする陽子の腕を男はつかんだ。
「水が飲みたい」
「……はい」
にっこりと笑い、陽子は薬湯の横においてあった玻璃の器を手に取る。かぶせてあった器に水を注いだ。
「飲めますか」
延王は首を横に振った。
「先ほどのように飲ませてくれ」
きょとんとした陽子に、男は自分の唇を親指でなぞる。
「!」
かああ、と赤くなった陽子は、男を睨む。
「延王」
「でなければ飲まん」
「延王!」
男はにっこりと笑った。
「薬湯もだぞ」
「延王!?」
「元気になってほしいのだろう?」
く、と陽子は手にもつ器を強く握る。延王がいつもの調子に戻っているのは男の独特の笑みからすぐに分かった。
――もう、この人は……!!
なんだかふつふつと沸いてくる怒りがないでもないが。
陽子は溜め息をつく。
「……食事も召し上がってくださるのなら」
「うん」
子供のように男が笑った。先ほどのような気だるい表情は見えない。
「……」
やっぱり納得いかない、と陽子は思う。
「あいつ、死ぬかもしれない」
――そう言いに来た隣国の麒麟。
「どこが死ぬんですか、まったく……」
陽子は水を口に含ませると、まずはそれを自分で飲む。口の中に残っていた薬湯をすすぐように、2度、3度。
「陽子」
「うるさい」
キッと睨むと、陽子はもう一度口に含んで、男のもとへと向かった。
延王がにっこりと笑う。
――このぉ〜!
陽子が身を沈めるのと、男が陽子を引き寄せたのはどちらが早かったのだろう。
陽子の口から水を受け、男はすべてを飲む。
「延――っ」
だが、延王は陽子の身体を離そうとしなかった。そのまま陽子の口に自分の舌を差し入れる。
「んっ――」
男の息が熱い。
「延……王っ!」
「甘いのが飲みたい」
「今、用意、させ……ます」
「これでいい」
「……っ延」
「これがいい」
貪るような口付けを受けながら、陽子はひそかに思った。
絶対にだまされた、と。
「ん……っ」
男の手が陽子の足に伸ばされる。
「――!」
陽子がうめいた。だが、延王の動きは止まらない。
陽子の腕が頭上高く持ち上がった。
――ゴン!!
「やりすぎです!」
はあはあ、と息を吐いて、陽子は枕に沈んだ男を睨んだ。
男は死んだように気を失っている。だが、陽子が不安になって近づくと、その口からはクククという笑いが漏れていた。
陽子は男の頬をつねった。
「早く良くなってくださいね!」
部屋を出た陽子は小さな溜め息をついた。清浄な空気が、先ほどの室内との差を知らせる。先ほどの澱んだ空気――。
あれは何だったのだろう、と陽子は思う。
最初に感じた、あの変な感じは――。
月明かりに照らされて、自分の姿が浮きあがった。
「景王君……」
「陽子さま……」
ためらいがちに話し掛けられ、陽子は足元に目を向けた。
ああ、と目を細める。
「主上は……」
「エロオヤジは今、殺してきた」
――と、思ったが口にはしなかった。
陽子はにっこりと笑う。
「大丈夫。延王の食事を――」
用意してください、と陽子が言うと、控えていた女御らがいっせいに華やかな笑顔となった。
すでに、薬湯を飲んだことは伝わっているのだろう。
女御の誰もが感謝の言葉を口にしていく。
「陽子さま」
見慣れた女御が陽子に笑いかけた。
「着替えを」
「え?」
「薬湯でございましょう」
「ああ」
袖と胸元が汚れている。袖を鼻に当ててクンクンと嗅ぐがあまり臭いが分からない。すでにかなり麻痺しているらしい。
「延王が最初に叩いたから……。本当、わがままだ」
くすくすと女御が笑う。
「陽子さまだからこそ出来たのですわ。私どもではとてもとても。近づくことさえ許していただけませんでしたから」
女御が陽子の口元を濡れた布で拭く。どうやって薬湯を飲ませたのか察しているのだろう。
陽子の頬が赤くなるのを見て、女御は静かに微笑んだ。
「朱衡どのがご挨拶したいと申しておりました」
「朱衡さんが?」
「着替えてからになさいますか?」
「いや」
陽子は首を振った。
「今、会う」
延麒六太が「よろしく頼む」と言ったその背後で、静かに頭を下げていた人。
――延王、と陽子は脳裏でささやいた。
こんなにみんながあなたのことを心配しているんですよ、と。
「ありがとう存じます」
平伏する朱衡に、陽子は首を振った。
「私は何もしていませんから」
「いいえ……いいえ」
朱衡はただ静かに頭を下げ続けた。
ただの風邪であるのは確かだった。高熱も続いてはいるが、薬を飲めば簡単に直るようなものだと侍医などは言う。
違う、といったのは、延麒六太。
「あいつの目を見てわかんない? 違うんだ。あの目、あの目は、前に見たことがある」
その手が震えているのを何人の者が確認したのだろう。
「失道ですか」
朱衡の問いに、延麒は首を横に振る。失道かそうでないかは自分が一番よく分かっている。そうじゃない。
「何度かあるんだ。すべてを捨ててもいいって思うような、そんな目をするときが。ふざけているときも、普通にしているときも、目の奥で同じことを考えている。あれは……」
あれは、前にも見たことがある。
自嘲するような笑みに浮かぶものと似ている。
どうなってもいい、と思っている者の目と似ている。
何かを壊したいと――そう思っている者の目と。
前はどうしてそれが消えたのか、延麒には思い出すことが出来ない。
きっかけが何なのか、そんなことも分からない。
思い出したくない――のかもしれない。
「やばいよ。マジでやばい……」
手が震えた。
「陽子……。陽子を呼んでくる……」
「景王君を?」
帷湍が言った。
朱衡が静かに聞く。
「陽子さまがだめだったら?」
「……陽子がだめだったら……。きっと、もうだめだ」
そんなことは、陽子には分からないだろう。
きっと、自分たちには分からない「何か」で、確実に「何か」を救ったのだ。
「延王は」
と、陽子が言った。
「休みがほしかったんですよ」
朱衡は顔を上げた。
「休み……?」
「はい」
陽子はにっこりと笑った。
「いつもみたいに、勝手に抜け出して自由にしている 『休み』 じゃなくて。本当の意味での 『休み』 」
「本当の意味での……」
「多分、そういうことなんだと思います」
陽子は自分で口にしながら、自分でもよく分かっていない。ただ、そう思っただけ。
そう、感じただけ。
息を、休ませる。
「あ、あとそれから、私もあと2、3日、お世話になると思うんですけど……いいですか?」
実は、陽子がここにいることを知っている者は浩瀚だけだった。
「尚隆が死ぬ」――と、真っ青な顔で言いに来た延台輔を見て、取りもとりあえず雁国へやってきたのだ。その場にいた浩瀚が、とりあえず行ってくださいと言うのであとを任せてしまったが、翌朝になれば詳細を求める使者が慶国からやってくるだろう。
景麒が怒鳴りこんでくるかもしれない。
それが、ただの風邪だったと分かったときには……。
朱衡が静かに笑った。
「こちらとしては、1週間ほどはいてほしいところですが」
陽子は苦笑する。
「1週間も延王のわがままに付き合うのはいやだな。それに、あまりわがままばかり聞いているとろくな大人にならないというし」
「そうですね。2、3日でちょうどいいかもしれません。慶国へはお詫びと景王ご滞在のことを願い申し上げておきます」
「お願いします」
「それはこちらの言葉」
陽子はくすりと笑った。
「それから朱衡さん、あなたも食べてないんでしょう? 休んでくださいね」
「……」
朱衡は赤髪の少女を見上げた。見開いた瞳がゆっくりを細められる。
静かに、頭が下がっていった。
「ご来訪、雁国民すべてを代表してお礼申し上げます。――心から感謝を」
「あのう……」
女御の一人が顔をのぞかせた。
「どうした」
「主上が……」
「主上が……?」
「延王が……?」
「陽子さまを呼んでこいと」
「……」
「……」
陽子が溜め息をついた。同時に、朱衡も。
そして、二人で笑う。
「「本当にわがままだ」」
暗く澱んだ空気が、静かに晴れていく。
息を休めて。
了
[靴音]
それは、ある日の朝議の席でのこと。
秋官府に勤めるある官が出した案について、内容に不明な点のあった景王陽子が質問した時だった。
彼は、有能さで最近抜きん出ていると評判の者だった。
淀みなく流れる江水(かわ)のようにその官はすらすらと言葉を連ね、たまに様子を窺うように女王の方を見ていた。
だがその内容はなかなかに難解で、一度聞いただけでは呑み込めそうにない。
それに、陽子の常識とは異なる部分も含まれていて、根本的な部分でどうにも理解できそうになかった。
だがその官は実に熱心に自分の案について説明している。
だから、少しでも理解したくて、陽子は判らなかった部分を質問した。
それは、どうしてそのようになるのかと。
瞬間、その官の表情が傍目にも露に曇った。
明らかな、失望の色。
やや俯いて、やがて彼の口から絞り出すような声が聞こえた。
「胎果であられる主上は、ここの部分からおわかりにならないのか。」
「え・・・。」
陽子は色を失い、他の官たちが騒めいた。
それでも陽子は努めて冷静に、一座を見回してみた。
そして居並ぶ官たちの困ったような表情を見て、悟った。
わたしは、またやってしまったらしい・・・・
こちらの人々にとっては常識で、子供でもわかることを、質問してしまったらしい。
陽子は溜め息をついた。
かなりこちらのことを学んだと思って安心していた矢先に、こういうことをやらかす。
「怜林。」
冢宰が、静かに先刻の官に声をかけた。
「主上に対して、いささか礼を欠くぞ。」
六官の長の厳しい声音に、当事者の官ははっと顔を上げた。
そして、狼狽したように身じろぎした。
「あ・・・はあ・・・、た、大変失礼いたしました。」
だが、その正直な反応は陽子の胸をさらに深く抉った。
胎果でしかも因縁のよくない女王、という表面上のことだけで陽子を快く思わない狭量な官の嫌がらせやあてこすりであったなら、たいして気にも止めないし捨て置くことも出来る。 が、この優秀な官は真剣に国のことを考え、法の整備を急ぐためにこの案を作ったのに、王が根本的な部分で理解していないことに失望したのだ。
若いこの官の、先ほどのがっかりした表情がしばらく消えそうにない。
「かまわない。続けてくれ。」
辛うじてそう口にした言葉に対し、しかし若い官は首を振った。
「いえ・・・、あの、再度練り直してまいります。」
それきり、黙ってしまった。
「あの者は、主上にはやく一目置かれたいと、強く願っているだけなのです。」
憂い顔で四阿に座って庭院(なかにわ)を見ている陽子に、浩瀚が背後から声をかけた。
「浩瀚・・・?」
「あの官は、たしかに優秀ですが、他人にわかるような説明をする術(すべ)に欠けております。秋官府の上役もそうぼやいておりました。」
浩瀚の声音は表情に欠け、心なしか不本意そうにも見える。
「だがわたしは、わたしに期待している官を、失望させてしまった。」
静かに呟いて、小さな溜め息をつく女王を浩瀚は複雑な思いで見つめた。
言ったほうが、彼女は安堵するのだろうか。
心の重石をはずし、あの晴れやかな表情を見せてくれるのだろうか。
今朝のあの官は、並々ならぬ貴女の信奉者なのだと。
恩師でもある大学の学長が、苦笑しながら浩瀚に語ったこと。
それは、今年の任官試験で最優秀の成績を修めたその男の、滑稽なまでの豹変ぶりだった。
「もともと、ありし日のそなたを彷彿とさせるほどに頭の切れる男だったがの。」
しかし、愚かな上司、愚かな王のもとで官になどなっても意味がないとうそぶいていた。
授業にはほとんど出てこず、教師にも敬意を払わず、悪い仲間を引き連れて問題行動ばかり起こしていたのだった。
男が変わったのは、新王が大学を視察に訪れた時だった。
初勅で新王が伏礼を廃止してしまったので、学生たちは跪礼をもって王を迎えた。
だが、その男は跪礼もせず、ただ微動だにせずに女王を見つめていた。
礼儀知らずのその男が、王にさえ礼を失したと教師たちが青くなり、二人がかりで彼の肩を押して跪かせようとしたのを女王が笑って嗜めた。
「かまわない。人に拝されるのは、いまだ慣れないから。」
貴人とは思えぬ気さくな態度に、逆に他の学生や教師が驚いた。
「もっともわしの目には、彼は単に主上に見蕩れているように見えたがのう。」
とにかく、その男が変わったのはその日からだ。
級友たちは朝一番の講堂で書を開いている彼の姿に驚き、教師たちは彼が提出する課題や試験の完璧な答案にわが目を疑った。
浩瀚は、任官したその日から、彼の視線が常に女王を追っているのを知っている。
真剣に法の草案を練る手を止め、遠方を歩いている女王に視線を送る彼の姿をよく見る。
若い男に特有のその熱くて甘酸っぱい眼差しに、無自覚な女王は全く気付いていないのだが。
「彼は、もう一度あの草案を出してくれるだろうか。それともわたしに失望して、もう二度と出してくれないだろうか・・・。」
彼が失望したのは、彼女自身に対してではない。
自分と女王との間に横たわっている距離にだ。
自分が当たり前に話すことが、女王には全く理解できない代物であるということが、大きな衝撃だったのだ。
「出すように言っておきましょう。」
静かに浩瀚はそう言った。
あの者は貴女に心酔しているのですと、言ったほうが良いのだろうか・・・・
逡巡しながらも、浩瀚は結局、いささか面白くないその言葉を口にしなかった。
「浩瀚、浩瀚。」
愛しい声が、風に乗って背中をたたく。
「この前の秋官の男、草案を練り直してまた出してくれるって。」
久しぶりに見る、晴れやかな顔だった。
「冢宰に嗜められたと言っていたぞ。難し過ぎる草案は、いざ法に出来上がったとしても民に浸透せず、結局のところうまく動かないと言われたと。」
「そんなことまで申しましたか。」
「いま金波宮には人が足りない。わたしはまだわからないことが多いけれど学ぶように努力する。だからおまえもわたしを輔けて欲しいと言ったら、嬉しそうに頷いてくれた。」
「それは良うございました。」
言葉ではそう言いつつ、件の男の「嬉しそうな」顔を想像して浩瀚はややいまいましげに顔をしかめた。
「有能な官吏が増えて、良かった。」
ほっとしたように陽子が言う。
新女王に見込みあり、と聞いて金波宮の官吏を目指す若者も増えた。
国が落ち着くにつれ、金波宮はどんどん活気に溢れるようになった。
実は、件の秋官府の官のような女王の信奉者は、彼だけではない。
どこの府にも何人か、熱のこもった視線で若く美しい女王を見つめている官がいる。
それぞれの長がしばしば、女王に官たちを励ましてやってくれと頼みに来るのにも理由がある。
・・・・不思議な力だ。
浩瀚はしばしば、感心しながら思う。
この少女の回りで働いていると、どこからともなく力が沸いて来るのだから。
「浩瀚、街に出よう!」
「はい・・・?」
突然発せられた女王の言葉に、冢宰が訝しげな顔を見せた。
「今日は気分が良い。首都の視察だ。」
「ご機嫌がよろしいのは結構でございますが、それがなぜ街に出られることになるので?」
「もう、浩瀚は理屈っぽいんだから。気分が良いと外に出たくなるものではないか。」
陽子が、拗ねたように頬をふくらます。
「先ほどたしか冬官長から、午後にお時間があれば府を見舞って欲しいとご依頼がありませんでしたか。」
「あ・・・。」
陽子は小さく俯いた。
彼らは、この溌剌とした女王が顔を出してくれるのを心待ちにしている。
「でも今日は下も天気が良いというし・・・、見舞は明日でも出来る。それとも浩瀚は、わたしの伴は嫌なのか。」
わずかに上目遣いで問われる。
浩瀚は溜め息をひとつついた。
心待ちにしている者たちがいるのに、独り占めしてくれと、おっしゃるのか。
それはあまりに甘美な誘惑で。
「仕方がありませんね。」
浩瀚はあっさり屈した。
「え?」
自分の名前を呼ばれたような気がして、陽子は思わず立ち止まった。
「どうされました?」
隣を歩いていた浩瀚が、訝しげに陽子を見る。
「あ、いや…、なんか名前を呼ばれたような気がしたから。」
それは、有り得ないことだった。
陽子という蓬莱の名前を持つ他人など、こちらにはいない。
そして陽子を名前で呼ぶ人間に、尭天の街でそうそう出会うとも思えない。
だが。
「ようこっ!」
こんどははっきり、女の声で、叱り飛ばすような声が聞こえた。
そしてパタパタという音と共に、五歳くらいの幼い女の子が駆け抜けていった。
「待ちなさい。ようこ!」
道沿いの商家から、母親らしき女が出てくる。
そして、女の子の姿が見えないのを認めると、腰に手を当てて溜め息をついた。
その女に、浩瀚が話しかけた。
「主上のお名前をつけるとは、恐れ多いことを。」
決して咎め立てするような口調ではなかったのだが、浩瀚の言葉に女は反駁するように口を尖らせた。
「いいじゃないか。お役人さん。堅いこと言わないでも。初勅で伏礼を廃されるような主上だもの、お許しいただけると思うんだ。」
「そうかもしれないな。」
陽子が笑いながら相づちを打ってやると、女が勢いづく。
「そうだろそうだろ。主上は蓬莱のお生まれだし、常識に凝り固まったところもおありにならない。きっと、新しい方向へこの国を導いて下さると思うんだ。そんな敬意を込めて、あの子に主上のお名前をいただいたというのに。」
女が再び溜め息をつく。
「あの子はほんとにお転婆で。一つのところにじっとしてない。目を離すとすぐどこかへ飛んでってしまう。」
やれやれと言いながら女が家に戻っていくと、いきなり浩瀚が肩を震わせて笑い始めた。
「浩瀚。」
「なんでしょう。」
答えながらも、浩瀚は笑い続けている。
「笑いすぎだぞ。」
「これは失礼をば。」
そんな二人に、隣家の主らしき男が、今度は声をかけた。
いまのやりとりを、聞いていたらしい。
「主上のお名前はさすがに恐れ多いにしてもな、この界隈では蓬莱風の名前をつけるのが流行っているのさ。」
「へえ。」
感心したような陽子に、男はさらに続ける。
「このあたりは皆商家だからな、新しい動きは歓迎するんだ。ちょっと変わったこともな。今度の主上は見込みがあるってんで、新しい商売を始める家も多いし。」
男はそう言って闊達に笑った。
「庶民は、官たちよりも動きが速いよな。」
陽子は、青空を仰ぎながら言った。
街に降りると、時代の流れを作るのは市井の民なのだと実感する。
金波宮で、法が整わぬとあたふたしている間に、民は自分たちで法を作ってうまくやっている。
「主上が、希望をお与えになったからです。」
浩瀚が、静かに言った。
「民は、将来に見込みがあると思うとすぐに動き出します。見込みがないと思えば王や官が何を言っても、やろうとはしません。彼らが新しい方向へ動き出そうとしているのは、主上が希望をお与えになったからですよ。」
「うん・・・。」
力強く頷き、陽子は綻ぶような笑顔を見せた。
「慶東国は、これからです。」
浩瀚が、自らにも言い聞かせるような口調で、やはり静かに言った。
「うん。」
陽子も、自分に言い聞かせるように頷いた。
「あ、里木祠だ。」
ふいに陽子が、前方に見えたものを指差して言った。
こちらに来た頃には異様な光景にしか見えなかったそれに、嬉しそうに近付く。
「里木に子供を願う親も随分と増えたんだよ。どこの里木祠も来る度ごとに実が増えてる。」
「将来に希望の火が灯れば、親は子供を育てようという気持ちにもなります。」
浩瀚の言葉を背に祠を覗き込んだ陽子は、ちょうどもいだばかりの実を大事そうに抱える父親にぶつかりそうになり、慌ててよけた。
「あ、すまん・・・。」
とっさに謝った陽子に、男が満面の笑みを見せた。
「三人目なんだ。今度こそ女の子だ。」
嬉しくて、その幸せを国中に見せびらかしたいという風情の男が、愛しそうに抱えた実に頬を摺り寄せる。
「おめでとう。」
その気持ちが何となく伝染したような気になって、陽子も嬉しくなる。
「絶対嫁にはやらん。」
そして自信満々にそう言う男の耳を、後ろから妻らしき女が引っ張った。
「生まれる前から親馬鹿丸出しでどうするの。」
「あはは。」
その幸せそうな夫婦と一緒に笑い、陽子は心の中が温まってくるのを感じた。
わたしの民は、もう大丈夫だ・・・。
王に自信をもたらすとすれば畢竟、それは民の笑顔を置いて他にないのだと、最近悟った。
実を抱えた夫婦は本当に幸せそうだ。
彼らの幸せこそが、自分の幸せなのだとつくづく実感する。
これこそ、市井に降りてはじめてわかることだ。
ところがその時、嬉しそうにこの夫婦を見つめていた陽子の傍らで、いきなり実を抱えた男が浩瀚に話しかけた。
「お役人さん、奥方はすこぶる別嬪だな。うちの古女房と取り換えてくれないか。」
「えっ!?」
口をあんぐり開けて振り返る陽子を尻目に、浩瀚は涼やかな微笑みを浮かべた。
そして、男に答える。
「この生尽きる日まで彼女と共に在ろうと、天に誓ってしまった身でございます。」
「あはは。」
それを聞いて男が笑いながら妻を振り返った。
「おいおまえ、どうする。おれたちの幸せを分けてやってるつもりだったのに、逆に惚気られちまった。」
妻が、呆れたように溜め息をついて再び夫の耳を引っ張った。
「余計なことを言うからです。この甲斐性なし!」
「あいてて、引っ張るなよ。実を落としちまうじゃねえか。」
それほど痛くもなさそうな声で男はそう言い、妻に引き摺られていった。
「じゃあな!そっちも元気な子が成るといいな。」
その男の、人の良さそうな笑みを見送って、浩瀚が小さく笑って言う。
「とても仲の良さそうなご夫婦でしたね。」
「あ、あの…、浩瀚。」
対して陽子は、まだ何やら舌がまわっていない。
「あの、わたしたちは夫婦者だと思われたのか・・・。」
陽子の焦ったような声に、浩瀚は苦笑をひとつ漏らして言った。
「主上、里木祠に若い男と女が参っていたら、子供を願う若夫婦以外には見えません。」
「そ、そうか・・・。」
陽子の頬が上気する。
「わたしは…、またとんちんかんなこと言っちゃったんだな。」
こちらの習慣、こちらの常識が、まだまだ身についていない・・・
赤面のしどころが少々違うのでは・・・
浩瀚は心の中でだけ、もう一度苦笑を漏らす。
「あのな、浩瀚。」
陽子が再び、自信なさげに話しかけた。
「あの、ああいう時は、同じ嘘をつくにしてもだな、謙遜するものじゃないのか。」
その陽子の言葉の意図するところが解らず、浩瀚は首をかしげて見せた。
「あ、だからさっき夫婦と間違えられて取り繕っただろう。ああいう場合は嘘をつくにしても・・・。」
「嘘とは・・・?」
まるで身に覚えがないとでも言うように、浩瀚は再び首をかしげた。
先刻までと異なり、その顔は笑っていなかった。
「あのな、ああいう時蓬莱では、そう、『これはありがたい。ただし相当なジャジャ馬ですので、扱いに難儀されますよ』とか、そういう風に謙遜して言うんだ。」
どうやら女王は大まじめである。
浩瀚は、二度ほど瞬きをした。
やがて、ゆっくり微笑んで年若い主に答えた。
「もし、貴女と私がまことの夫婦であったならば、そのようにも申したでありましょう。」
その言葉に、今度は陽子が何度か瞬きをした。
そして、得心したように頷いた。
「そうか。そうだよな・・・、うん。」
一人で納得がいったという顔をしている。
そんな陽子に、浩瀚が再び尋ねた。
「では次回からはそのように申し上げてもよろしいので。」
「え?」
自分を見上げる陽子を、浩瀚はじっと見つめた。
いつになく真剣な眼差しだった。
対して陽子が、にっこり笑って答えた。
「うん。いいよ。謙遜されたほうが、くすぐったくない。」
晴れやかで、そして無邪気な笑顔。
この上なく、無邪気な。
浩瀚は、やや諦めの混ざった溜め息をついた。
「日が傾いてまいりました。そろそろお戻りになりませんと。」
「そうだな。」
浩瀚の言葉に頷きながら陽子は、自分の住まいのある天上を見上げた。
だが、ふと何かに気付いたように浩瀚を振り返った。
そして、良いことを考えた、とでも言いたげな嬉しそうな顔を見せた。
「私、浩瀚との子どもだったら欲しいな。だって、すごく優秀な子になりそう。」
「・・・・・。」
そうして、思わず立ち止まってしまい、再び歩き出すのに若干の時間がかかってしまった伴人を背に、女王は繋いである騎獣に向かって元気よく駆けていった。
タッタッと跳ねるような足音が響く。
それは、いままさに未来へ向かって駆け出そうとしているこの国の靴音だった。
[慶東国の夜]
・ 01.懐郷 ・
ここは金波宮。慶国首都尭天に位置する王宮である。下界からは雲海の上のことを窺い知ることはできない。凌雲山をただ見上げる人々は、登極して間もない王に期待と不安を抱いていた。しかし、今は期待の方が大きいかもしれない。先の和州の乱――それが原因の一つになっているのだろう。
夜――。雲海を二人の少女が眺めていた。
「まさか、本当に景王に仕えるとは思っていなかったわ」
そう言ったのは鈴という少女。海客として、伝説上の世界――蓬莱からやってきた。言葉が通じないことに絶望していたが、仙に召し上げられることによってそれを克服していた。己の自由と引き換えに。
「そうよね。その景王が、これほどくせのある人物だとも思わなかったしね」
答えたのは祥瓊。斃れた先の峯王の公主だった。宝のように大切に守られ育てられた。父王がどんな政治を行っていたか、民がどれほど父王を憎んでいたか、祥瓊は多くのことを知らなかった。
二人はある一つの運命を共にたどった。景王の国を見てみたい。その思いに至った経過はそれぞれ違う。鈴は才国から、祥瓊は芳国から、この慶国までやって来た。誰とも分からない景王に期待を寄せていた。そして、その景王に憎しみを抱いたことさえある。多くの感情が入り交じった旅。その果てに出会った二人が巻きこまれたのが、慶国和州の乱。
豺虎[けだもの]として名高かった郷長・州侯を討つために立ち上がった人々。その中に鈴・祥瓊はいた。そして、景王も。景王その人自身とは知らずに、彼女自身への想いを語った。雲の上を知らない慶の人々の声を、一人の人間という自分の声を通して伝えた。
景王の、王である以前の為人[ひととなり]を見て、王という偶像に期待していた自分を知った鈴。祥瓊は、王でありながらその無力さに己を責める景王を知った。この人なら――二人の胸の内にはある想いが生まれていた。だからこそ、乱が鎮められた後、景王の申し出を受けた。王宮に、来てほしい――。
鈴は女御として、祥瓊は女史として景王に仕えることとなった。乱の勃発を契機に、景王は朝廷の整理を行った。先王の代からのさばっていた悪吏を処分し、徳のある人物が迎え入れられた。
その朝廷に、鈴も祥瓊も慣れてきた。これは、そんな一日の出来事である。
「父と峯麟は、登極した頃は二人三脚で国を良くしていこうと頑張っていたと思うの。対立することはあっても、峯麟の性格からいって、それは多くなかったと思うわ。でも陽子と景台輔は随分違うわね」
昼間の慌ただしさが少しだけ和らぐ夜。しかし、まだ走り始めたばかりの朝廷はそれでも忙しい。合間にできたこんな一時はとても貴重なものだった。「才で采麟にお会いしたんだけど、やっぱり違う。そりゃ麒麟だって、神獣といっても一人の人間みたいなものだもの。個性はあると思うけど」
鈴は頬杖をついて雲海を眺めた。空には満点の星、そして雲海には地上の星が煌いていた。
「陽子が意志が強くて堅物だってわかってたけど、同じような麒麟じゃこうなるのも仕方ないわね」
乱で出会った景王陽子。真面目だということ、責任感が強いということ、いろいろなことが戦の中でわかった。その戦の中で、鈴は一目だけ彼女の麒麟を見た。獣の姿だったから、どんな人物かはわからなかった。召し上げられて、陽子から紹介された麒麟――景麒は、一目見てどのような人物か想像がついた。そしてそれは、今のところ実際の姿と重なっている。
麒麟は仁の獣だという。ということは、思いやりがあって、その言葉には、相手を思いやるような言葉が含まれていて当然のように思う。自分が会った采麟は、当初は自分のことをわかってはくれないのだと思っていたが、その奥では鈴が正しい道へ進めるようにそう言っていたのだと今では思う。しかし、この国の麒麟は。表情に乏しく、無口で無愛想だ。必要以上のことを口にしない、そう思えば陽子と激しく口論を繰り広げていたりする。良く分からない、というのが現状なのかもしれない。同じところで、同じ王に仕えているといっても、やはりどこか違うので関わるのが畏れ多い気がしてしまうのだ。陽子とは乱で過ごした間柄のまま、ここでも接しているのだが。 陽子は、友達だと言って鈴と接していた。それは祥瓊に対しても変わらない。普通なら考えられないことだ。そう言うと、祥瓊は笑って言う。
「ほら、前に話したことあったでしょ。陽子の友達の楽俊って人のこと。人との間には、向き合って立っている間だけの距離しか離れていない―― 言われてみればわかることだけど、とても難しいと思う。でも、陽子なら言いかねないって思わない?」
「そう、ね――」
「なんだか、考え方が違うような気がする……。蓬莱の人はみんなそうなのかしら」
祥瓊のその言葉に、鈴はくしゃりと笑う。
「ねぇ、祥瓊。私が海客だってこと、忘れてない?」
あ、と言って祥瓊も笑う。忘れていたということだけではない。生まれが違う、それだけで判断していた自分に笑った。
「陽子が特別なんだと思うわ。だからこそ、王に選ばれたのよ」
鈴は少し前を思い出していた。ただ、同じ国に生まれたから、自分を憐れんでくれる、そう思っていた。王とはどのような人物か、知りもしないで勝手に考えていた自分。自分から動き出しもしなかった。誰かから手を差し伸べられるのをずっと待っていた。百年という長い間。
「王になるって、極みまで上ることじゃない?人はそれで満足しがちだと思うの。でも、陽子は違う。民の幸せを願って、自分から動き出したでしょ?私なんかとは違うよ」
もしかしたら、と思う。百年という間に、蓬莱自体が変わってしまったのかも。環境が変われば、その価値観も変わってくる。鈴が十年育った場所と陽子が十数年育った場所はそもそも違う場所で、だから陽子の考え方が目新しいものに見えるのかも。そういう場所で育ったなら、自分もそんな人間になれただろうか。が、そこまで考えて思いなおした。
――生まれ育った世界が関係ある?清秀を思い出して。あの子は私に生きる力を与えてくれた。生まれたところが違っても、清秀とは同じ世界で暮らしていたんだもの。
くすりと、静かな笑いが隣から聞こえて鈴は我に返った。祥瓊が、優しい微笑を浮かべて鈴を見ていた。
「蓬莱のことを思い出していたのかしら?」
一瞬、心を読まれたようでどきりとした。
「どうしてわかるの?」
「だって、すごく懐かしそう……。やっぱり、帰りたいよね。故郷に」
少し考えてみて鈴は首を横に振った。
「ここにやるべきことがあるもの。懐かしむことはあっても、もうあの世界は私の知ってる世界じゃない。今帰っても、きっとこの世界に来た時みたいに取り乱しちゃう」
本当は、今の自分ならそうはならないと思っている。多くの出会いが自分を変えた。今なら、どんな世界でも生きていけるような気がした。けれど、
「陽子が好きだもの。陽子の役に立ちたい。だから今ここにいるんでしょ?」
祥瓊を見ると、彼女は頷いた。
祥瓊は視線を海へ投げかける。それに倣って、鈴も海を見た。雲海には、新円の月影が映っている。あの影に、むこうへ通じる門を開くと聞いた。ということは、あの月の向こうには、鈴と陽子の故郷がある。伝説の、蓬莱という国。
「今日、延台輔がいらっしゃったでしょ」
突然の話題転換。鈴は祥瓊の顔をまじまじと見つめた。
「東の大国。私は雁っていったらそれくらいしか知らなかった。とても豊かな、滅びることのないような国だ、って。けれども、現実って違うものね。荒民には決して豊かな国ではないし、問題も山積してるんだって。あまりに多くのことが考えていたものと違うんで、そう考えていた自分に呆れてるわ」
それは鈴も思う。景王が蓬莱の生まれだと聞いてから見ていた甘い夢。そのなかに、王宮に住まわせてくれるかしらというものがあった。それは今、現実になったといってもいい。けれども、それは決してあの夢と同じであるはずはない。あの頃の、浅はかな自分に鈴も呆れていた。
「でもね、想像と違ってて一番びっくりしたのはね、やっぱり延王と延台輔のことよ」
それを聞いて、鈴は吹き出した。祥瓊も笑っていた。
「あれだけの大国だもの。人間じゃないみたいに想像してたのかしら、初めてお会いした時、声も出なかったわ。王宮を抜け出して隣国に遊びに来るような方だとは思わないじゃない?」
「そうね。本当に気安い方達だったものね」
鈴がそう笑って言うと、祥瓊は違った意味で笑って言った。
「元気になったわね」
え?と問い返す間もなく、祥瓊はどこからか箱を取り出した。
「延台輔に頂いたの。あとで陽子と一緒に食べろって。なんでも蓬莱のお菓子らしいわよ。そんな哀しそうな顔で蓬莱のことを思い出してちゃ、折角のお菓子もおいしくないわ」
鈴に笑顔を取り戻させるために、励ますために話してくれた祥瓊の心遣いが嬉しかった。
そう、陽子が好きだからここにいる。けれどももう一つ理由がある。祥瓊がここにいるから。祥瓊に感謝の意をこめて、自分にできる最上の笑顔でありがとうと答えた。
「それで、なんていうお菓子?」
「確か、ちょこれぇととかいう……」
「ほんと!?」
チョコレートといえば、名前だけしか知らない、雲の上の食べ物だった。もちろん味わったこともない。東京に行けば、珍しいものが見れると自分を親元から連れていった男は言わなかったか。当時はそんなものには何の興味も示さなかったが、今となっては懐かしい。
ここで、ふとある考えが脳裏を過った。もう、懐かしいとしか考えられない自分がいる。蓬莱を指し示すものが目の前にあっても、もう帰りたいとは思わない。それほど自分はこちらの人間になっている。しかし、それを哀しいとは思わない。自分の世界じゃないと思っていたのは、自分の知るものが何も無かったから。けれど、今は違う。自分の世界は、自分で作れるということを知ったから。
「陽子のところに行こうか。きっと、勉強で疲れてると思うから」
そうね、と祥瓊は露台を離れた。しかし鈴は、祥瓊が行ってからもしばらく月影を見ていた。かつての自分の世界、今はどうなっているだろうか。
御伽噺の世界を想像するように考えていた。
・ 02.迷い ・
夜の長楽殿はひっそりとしている。それはもちろん、王の自室であるからだ。臣下は入ることが許されていない。特別な場合を除いては。
そこへ向かう廊下を、景麒は重い足取りで向かっていた。
――頭ではわかっているのだが……
長楽殿には明かりが灯っていた。そちらから王気も感じる。それを感じて、景麒は足を止めた。そして深い溜息をつく。
今日も景麒は主と壮絶な口論を繰り広げた。それはいつも主の不機嫌な譲歩によって終わるのだ。
胎果である主はこちらのことがまだよくわからない。どうしてもあちらの視点で物を考えがちである。例えば、王には威厳も大切だと言っても、それを根本から理解することはできないようだ。それは先日出された初勅にもよく表れている。
主の言い分ももっともだと思う。けれども、こちらではこちらの習いに従わなければならないこともある。そうして、主は一歩譲ってその戦いは終わるのだ。形式的には、主が折れたということになるのだろう。
しかし、それは景麒にとって後味が悪いどころの騒ぎではないのだ。無表情な顔はそれを表さないが、心底後悔するのだ。あんな不機嫌で哀しそうな顔を主にされては、その後の政務にも身は入らない。本当は、もっと主に笑っていて欲しいと思うのに。
先の予王はささやかな幸せを望んで政務をおろそかにした。その結果が先日の和州の乱を呼びこんだ。当時、景麒は予王に諫言したのだ。園林[ていえん]と引き換えに和州を与えるとは何を考えているのか、と。しかし、予王はそれを聞き入れなかった。
幸福そうな主の姿、それが麒麟にとって不快であるだろうか。そこから予王を政務へ連れ戻すたびに心が痛んだ。園林に行く予王、連れ戻す景麒。繰り返せば繰り返すほど、景麒は心が痛む。そして彼女の命運が尽きていくのが身に染みてわかった。
今の主――陽子の命運が尽きていく、といったようなことは感じられない。幸せながらも命運が尽きようとしていた予王と、王気に溢れながらも笑顔を見せない陽子。どちらを見ていても、景麒は苦しい。その原因を作っているのが自分だと分かっているから猶のことだ。
自分は言葉が足りないのだ。分かっている。だが、何度そう自分に言い聞かせても同じことを繰り返してきた。そして自分を疎む。もっと相手の心を汲む言葉が自分の口から出ていれば、先王に道を踏み外させなかったのではないか。このままいけば、今の主も自分が道を踏み外させてしまうのではないか。不安だけが膨らんでいく。そしていつもここに立つ。ここに立つことは立つが、これより先に進めない。
景麒はまた一つ、溜息をついた。
主はまだ自分のことを怒っているだろうか。主が強い心を持っていることは知っている。何があっても景麒だけは主を信じなければならない、と当の本人から言われた。言われるまでもなくわかっていたことだし、心に決めたことでもある。けれどもこうして信じられないでいる。信じられないでいるのは、自分の心が弱いせいだ。相手に強い心を求めておきながら、自分は弱いままでいられようか。
葛藤は続き、時間だけが過ぎていく。
今日もこのまま終わってしまうのだろうか。星空を見上げながら思っていると、かすかな足音が耳に入った。音の方を振り返ると、遠甫が長楽殿からやって来たところだった。
「おや、台輔。こんなところで何をしておいでか?」
遠甫は太師である。胎果である陽子にこちらの世界の事を教えている師でもある。朝から晩まで政務に奔走している主は、寝る間も惜しんでこちらのことを学んでいる。いち早く慶の民に幸福の日々が訪れるように。
景麒は遠甫の問いにどう答えようか迷った。迷った結果、目を逸らし何でもありません、としか答えられなかった。
そんな景麒を見て遠甫はわずかに笑みを浮かべる。
「陽子が言っておりましたぞ。今日も台輔と大層な喧嘩をやらかしたとか」
景麒には返す言葉もない。そんな景麒の心を読んでか、遠甫は続ける。
「『人』とは難しいものですな。己の道を貫くことも難しい。多くの苦悩が付き纏う。貫くことができても、それによって多くの人を傷つけていたりもする。この歳になってもそれに迷っておったが、先の乱では陽子に諭された。主上は強い心を持っておられる」
遠甫の言葉は、かえって景麒の心を抉る。強い心を持っておられる、本当に。自分と戦うことを知り、王宮を抜け出した。大切な御身でありながら、それを顧ず戦いの中に身を投じる。すべては民のため。己をどこまでも責め続ける。強い方だからこそ、逆に不安になる。
月の光は二つの影をはっきり映し出している。片方の影がその月を眺め返した。
「しかし、主上がいくら強い心を持っておられると言っても、同じく『人』であることに変わりない。そして台輔も『人』であられる。衝突することがあるのは自然なこと。そしてそこから学ぶこともあるということですな。台輔はそうして学ばれたことがあるからこそ、ここに立っておられるのだろう?台輔がそれほど気に病まれる必要もないと思うがのう」
「そう……でしょうか」
「そうですとも」
言って、遠甫は景麒の横を通りすぎる。
「今、鈴と祥瓊が来ての。茶に誘われたが断った。若者と時間を共にするのも悪くないが、その若者同士の語らいの時間を邪魔するのもどうかと思うのでな」
そして、外の園林を指す。
「暫しわしに付き合いませんかのう。月を眺めながら茶を飲むというのも悪くなかろう。迷っていた心も癒されましょう」
景麒は微笑み頷いた。そうして、久しぶりに笑うことのできた自分に気付く。笑うことが増えたのが今の主に仕えるようになってからだということにも。
心地良い香りのする茶は心を落ちつける。遠甫の言うとおり、迷っていた心も消えていくように思えた。
景麒は思った。自分が笑顔を見せることがなければ、相手も笑顔を見せてくれることはないだろう。言葉で伝えなければ何も始まらない。相手に感情を求めても、自分が表していなければ相手も表してはくれない。数年前までの自分はそうだった。だから、世界はどこも同じように見えたのだ。
だが今は違う。より大切なところができた。大切な人の存在が自分を変えたのか、自分が変われたから大切な人ができたのか、それはわからない。けれども、そんなことは重要ではないのだ。大切な人がいるという事実は変わらないのだから。
それはこの国にとって大切な人という意味だろうか?違う、と景麒は心の中で首を横に振る。己という個人にとっても大切な人だ。 そう、大切な『人』だ。笑ったり怒ったり悲しんだり。それは自分も変わらない。衝突することもある。互いに磨き合い高めていく。そうしながら生きていく。生きていきたいと思う。だから『大切な人』なのだ。
星が流れた。それを見て景麒は、今日こそは長楽殿に足を踏み入れることができるだろうと心の内で呟いた。
・ 03.月の下で ・
新円の月が天頂を過ぎた頃。景麒は陽子の自室の扉を叩いた。
自分の言葉の足りなさを詫びるため。しかしそれは自分自身の心を満たすだけの行為であることを彼は知っている。主は心の強い人。詫びるまでもなく、景麒のことを理解してくれているように思う。詫びないではいられないのは、この居た堪れない想いから逃げるためだ。
鈴と祥瓊が来ていると遠甫から聞いていた。それにしてはあまりにも静かで景麒は不審に思う。そして陽子の返答もない。明かりは灯っているし、王気も明かだ。いないはずはないのだが。
礼に欠くとは思いながらも景麒は扉を開けた。瞬間、潮の香りが景麒を包む。見ると露台に面する大きな窓が開け放れていた。
部屋に人の影はない。卓の上には茶器が三つ、見慣れない茶菓子と共に置かれている。まるで、時が止まったかのよう。今の今まで人がいたような。それを囲む三人の姿がありありと浮かんで、景麒はふっと目を細めた。
しかしその光景は、かえってその場の異様さを景麒に感じさせた。何故このような状態でこの場が保存されているのか。何故陽子はいないのか。鈴は、祥瓊は。
ことり、と音がして、景麒はその方に目を走らせた。そこは露台。月の光に、一つの影が揺れていた。外へ出ると、探していたその人はそこにいた。壁にもたれかかって座りながら、月の輝く星空と下界の煌きで飾られた雲海を眺めていた。
「ここにおいででしたか」
声に振り返った人物は、驚いたように目を見張っている。
「珍しいな。景麒がこんな時間に、私用でやってくるなんて」
静かな声だった。見る者の目を真っ先に引きつける鮮やかな緋色の髪、どこまでも吸い込まれそうな深緑の瞳。彼女が景麒の主、景王陽子。
「そんなところに立ってないで、こっちへ来たらどうだ?月がとても綺麗だぞ」
いつもとどこか違う陽子に少し戸惑いながらも、景麒は言葉に甘えて隣に腰を下ろした。陽子は笑み、視線を空に戻した。
陽子はそれきり何も言わなかった。景麒も何も言わず、沈黙の時が暫く流れた。だが、彼はそれを苦痛とは思わなかった。それどころか、なんと心地良いだろうとさえ思っていた。言葉を探すことを忘れてしまう。 黙られている時は、相手が何を考えているかわからない。自分の言葉の後なら、それが自分のせいであるような気がしてならない。気分を害してしまっただろうか。何がいけなかったのだろうか。
かつての幼い麒麟との出会いは、彼に変わる契機を与えた。それまではこのようなことを考えたことはなかった。自分とは違う他人のことだからわからないのは当たり前。わかりたいと思っても、相手が教えてくれなければそれは無理だと思っていた。だが、それは自分が真に相手をわかりたいと思っていなかったのだと気付いた。相手はきっと自分に応えてくれる。あどけない笑顔の黒麒麟がそれを教えてくれた。
そのようなことを考えないでいられるほど、沈黙を壊そうと言葉を探さないでいられるほど、そのひとときは心地良いものだったのだ。主の隣にいることが苦痛でない。むしろ安らぎを感じる。こう感じられることがあまりに久しぶりで、もしかしたら初めてのことかもしれなくて、無意識の内に景麒は微笑んでいた。
隣から、くすりと笑い声がした。今までに見たことのない顔で、陽子が見つめてきていた。
「本当に今日は珍しい。こんな景麒を見るのは初めてだな」
それは景麒も同じだった。月の光に包まれている陽子の姿が、とても美しく見えていた。
くすくすと笑っていた陽子が、ふっとその笑みを止めた。どこか悲しそうな瞳を見せる。膝を抱えこんで顔を伏せた。
どうなされた、と声をかけたかったができなかった。その姿は、かつてのあの麒麟の姿に酷似していた。蓬莱の家に帰りたいと泣いていた泰麒の姿に。
泰麒と同じ蓬莱で生まれた陽子。何の説明もなく、無理矢理こちらに連れてきたようなものだ。王になることに理解を示してこうして玉座についてはいるが、故郷が懐かしくないはずはない。陽子も『人』なのだから。
別れの言葉を言う時間さえ与えなかった。心の強い主だと思っている。けれど、その内には誰にも言えない想いを秘めているに違いない。
だから、王になったことに後悔し、故郷のことを想っているのだと思った。それは全て景麒が原因となる。王に据えたのも、こちらに連れてきたのも。
「主上……」 躊躇しながらも、そっと肩に手を触れてみた。戦いの中に身を投じていたというのに、その肩は細く思われた。細く、とても温かい。
なんでもない、と陽子は呟いた。顔を上げようとしない。
やはり今の主はどこか違う。昼間までは、どこまでも強い人に思えたのに、今はとても弱い存在のように思えた。守らなければ壊れてしまう硝子細工のように。その思いが、景麒に陽子を抱き寄せる行為に走らせた。
「景麒……?」
腕の中の陽子が問うてきた。その声に我に返った景麒だが、その腕を緩めることはなかった。先程よりも心地良く、しかし切ない思いが込み上げてくる。
陽子の心音が聞こえる。体温が伝わってくる。強い人だと思っても、この両腕で包みこめるほどに小さい。とても、愛おしく思える。
「景麒……、ごめんね……」
かすれるような声。何を謝られるのか、そう問うと陽子は続けた。
「いつも喧嘩ばっかり……。景麒は民のことを思って言っているのに。私はよく訊きもしないで、その場の感情でものを言ってるだけで、何も……考えていない……」
「そんなことはありません」
景麒は強く言った。陽子の身体を離し、肩に手を置いた。緑の瞳を見つめる。それは心なしか潤んで見えた。
「私が……、私の方こそ悪いのです。言葉とは己の気持ちを真っ直ぐに伝えるもの。私にはそれが足りないのです」
言いながら、景麒は不思議な感覚に襲われていた。これほど簡単に思っていることを言葉にすることができるなんて。この場の雰囲気がそうさせているのだろうか。
陽子の瞳の中に、じっと見つめる自分の姿があった。それを映していた目が静かに閉じられる。潤いを含んだ唇、ほのかに赤みがさした頬。
景麒は無意識の行動を止めることはできなかった。止めたいとも思わない。むしろ意識してやっていることかもしれなかった。 ――景麒は手で陽子の髪に触れ、頬に触れ、唇に触れ……。そして顔を陽子の顔に近づけ――。
すー、すー……
景麒が唇に触れる前に、陽子の顔は景麒の胸にすとんと落ちた。静かな寝息をたてながら。
またも我に返った景麒。今度は硬直して動けずにいた。事態が飲み込めないこともあるが、数秒前までの自分を思い出して愕然としていた。自分は一体何をしていたのだろう。罪を犯してしまったかのように、取り返しのつかないことをやってしまったように思える。
陽子は変わらず規則正しい寝息をたてている。景麒にもたれかかる形で。しかし景麒にとって、その姿が愛おしく思えることは変わらなかった。髪を梳き、上着をかける。もう一度、抱きしめようか。抱きしめたい。
手を伸ばし、その身体に手をかけようとした時……
「陽子、大丈夫!?」
鈴が部屋に飛び込んできた。その手には大きめの瓶が抱えこまれている。中にはたっぷりの清水が入っているようだ。
「陽……、え!?台輔!?どうしてここに……?」
その目が大きく見開かれる。景麒はうろたえるしかなかった。
「いや……その……、明かりがついていたので、まだ起きられているのかと思い……。いや、もしかしたら明かりをつけたまま眠っておられるのかと……。こ、ここに来たら、眠って、おられて……」
鈴を真っ直ぐに見ることができない。言葉もしどろもどろ。思いきり怪しいと自分でもわかる。しかし、今自分が何をしていたかなど、口が裂けても言えるはずがない。
鈴はただ訳がわからず驚いているばかりだった。そこへ祥瓊が露台に出てきた。
「あら、台輔。丁度よかったわ。台輔にこんなことをお願いするのは失礼かと思うのですが、陽子を臥牀[しんだい]までお連れしていただけないでしょうか」
祥瓊は、桓タイも虎嘯も見つからなくて、と言った。
景麒が、一体何があったのかと訊ねると、二人の少女は顔を見合わせた。口を開いたのは苦笑した祥瓊だった。
「今日、延台輔からお菓子を頂いたので、陽子と一緒に食べようということになったんです。いい香りがして、とてもおいしかったんですが……」
「……何か?異変でも?」
「いえ、一緒に食べていた私と鈴は何ともなかったんですが。 ――陽子は、そのお菓子に含まれていたお酒に酔ってしまったようで……」
景麒は目を瞬いた。くすくすと、鈴から忍び笑いが漏れる。
「初めは今までにないくらい陽気な陽子が見られてとても可笑しかったんです。陽気かと思えば、その辺にいる女性よりも女性らしくなったり」
ねぇ、と鈴は隣の祥瓊に同意を求めた。しかし、すぐに申し訳なさそうな顔をして、
「でも、いきなり落ちこみ始めて……」
「やりすぎたかな、と思ったので、露台に出て酔いを覚ますよう言ったんです。私は桓タイか虎嘯を探しに、鈴には水を持ってくるように言ったんです。その間に眠ってしまったのですね」
祥瓊は眠る陽子に触れた。その寝顔は、小さな子供のようにあどけない。
「連日の政務で疲れているのでしょう。たまには休んだ方がいいと言うのだけれど」
そこで、はたと陽子とそれを支える景麒の奇妙な体勢に目を見張る。怪訝そうな視線に気付き、景麒は目を逸らすしかない。
「と、とりあえずお運びします」
慌てて立ちあがり、危うく陽子を起こしてしまうところだった。さらに慌てふためいて陽子を抱え上げ部屋の中に入っていく景麒を、鈴と祥瓊はぽかんと見つめていた。そして顔を見合わせ、一緒になって笑い出した。
・ 04.朝の攻防 ・
ここは金波宮。慶国首都尭天に位置する王宮である。下界からは雲海の上のことを窺い知ることはできない。凌雲山をただ見上げる人々は、登極して間もない王に期待と不安を抱いていた。しかし、今は期待の方が大きいかもしれない。先の和州の乱――それが原因の一つになっているのだろう。
朝――。陽子は朝議に出るため廊下を歩いていた。頭がずきずきと痛む。
まさか、自分があそこまで酒に弱いとは思わなかった。朝一番、起きて早々鈴にそう言うと、彼女は笑って言った。
――あれだけばくばく食べてたんじゃね。
確かに自棄食い、だった。懐かしい蓬莱の食べ物が目の前にあっても、それを懐かしいと感じる余裕が陽子には無かった。昼間の景麒との争いにむしゃくしゃしていたのだ。その矛先がチョコレートに向かった。
むこうにいた頃はこんなことはしなかったのにな、と陽子は胸のうちで呟く。周りの目を気にしたり、太らないだろうかと気にしたり。
いろんな事を考えながら歩いていた陽子は、前方に金の髪の人物を見つけた。
「景麒」
呼びかけた声に、その人物はどこかびくっとして振り向いたようだった。
「昨夜は迷惑をかけたらしいな。ぜんぜん覚えていなくて」
露台に出たまでは覚えている。鈴と祥瓊が出ていって、露台に出て……それから?景麒に会って話をした気がしたのだが、鈴の話によると、陽子が眠ってから景麒はやって来たのだという。
その時の話を鈴は笑ってした。
――陽子を臥牀に、ってお願いしたんだけど。私達はてっきり使令に運ばせるのだと思ってたの。
陽子はふぅん、と言うだけで、鈴がその言葉の裏に含んでいるものに気付かなかった。だから、昨日のことを訊ねられて頬を赤くして慌てる景麒を見ても、少し変だとしか思わなかった。
「あの……何も覚えておいでではないのですか?私と話したことも……」
「話?私が寝てしまってから景麒は来たんだろう?」
違うのか?と問うと、景麒は激しい勢いで首を横に振る。安心したかのような、しかし残念そうな景麒の顔が妙に気になる。これは何かある――と、問いただそうとした時、背後から声をかけられた。
「陽子」
振り返った先には、延麒六太がいた。明るい笑顔で手を振ってくる。
「今日はお早いお越しで。昨日はお菓子をありがとうございました」
陽子が言うと、六太はいーってことよ、と笑った。
「久しぶりの蓬莱の味はどうだった?」
訊くと、陽子は困ったように笑った。
「久しぶりも何も。私はああいうチョコを食べたのは初めてだから」
六太は首を傾げた。
「言わなかったかな。親が厳しくて、普通の女の子が当たり前にやっていることもさせてくれなかった。お酒の入った食べ物なんて、言語道断って感じで」
「確か、あっちには二十歳未満は酒を飲んじゃいけないって法があったんだったな」
「そう。まぁ、成長期に酒を飲むと後に病気になりやすいとか理由があったんだけど。こっちにきて神籍に入ってしまえばそんなこともないだろうから。もう飲む分にはいいんだろうけどね」
それなら、と六太はどこからか瓶を取り出した。
「今日はこれを持ってきたんだ。果実酒。これなら飲みやすいんじゃないかと思ってさ。ほら、前に一緒に食事した時、酒を飲まなかっただろ。飲めないのかな〜と思って、それならまずお菓子に入ってるやつから…… ってことで、昨日のチョコレートだったんだが」
だめだったか?と訊く六太に、陽子はいいえ、と答えた。
「食べ過ぎて、今頭痛がするけどね。でも、そのお酒はありがたく頂きま――」
「いけません!」
受け取ろうとした陽子を景麒が遮った。いきなりのことに、陽子も六太も驚きを隠せない。
「昨夜の事をお忘れですか。したたかに酔われた後だというのに」
蔑むような景麒の口調と視線。これには陽子もむっとなる。
「いくらこちらのことについて知らないからといって、酒の存在を知らないという訳じゃない。酒を飲めば酔う事だって知っているし、そうなる前に止めることぐらいできる」
「しかし、昨夜は酔っておられましたね」
「初めてだったんだから仕方ないだろう!」
「それは言い訳にはなりません。人は酔えば、そういった分別も失います」
「だから、そうなる前に止めると言っている!」
「あ、あのさぁ、二人とも落ちつけって……」
六太が口を挟むと双方から射られるような視線が向けられて、彼はそれ以上言葉を口にすることはできなかった。
「好奇心という言葉をご存知でしょう?主上は好奇心が豊富なようで。街に出たいと言えば血で穢れた身体で戻っていらっしゃる。後先考えずに行動なさるお方にお酒など渡してしまえば、どうなるかくらい誰にでも想像はつきます」
「それとこれとは話が別だろう!」
「主上の御身体に関わる点では同じでございますが?」
「神籍に入ってしまえば病気にならないのだろう!?」
「酒は人を狂わせることもございます。酒に溺れて道を過った王もいるのですよ?」
「あのなぁ、昨日だって、あんなことになったのは元はといえば景麒のせいなんだからな」
「どうしてそう人のせいになさるのです!?ご自分の胸に手を置いて考えてみなさい。そうやって人のせいになさるからこそ、このようなことを私が言わなければならないのです!」
「他に言いようがないのか!お前が厭味ったらしく言うからそれがずるずると後を引いてくるんだ。私が酒に溺れることがあったとしても、それは景麒のせいに決まってる!」
「そうですか!それならばその元凶をさっさと取り払っておきましょう!!」
長い攻防の後、失礼、とそう言って、景麒は口を挟めずにおろおろとしている六太の手から酒瓶をひったくった。そしてその場を何も無かったかのように去っていった。
ぽかんと見つめるのは陽子と六太である。陽子はいつもに比べて手応えのない景麒の反応に、六太は酒瓶を取り上げた瞬間の景麒の表情に驚いていた。
六太は不思議でならなかった。二人の口論は、それほど珍しいものではない。むしろ、この王宮の顔と言ってもいいものかもしれない。だが、本人達からすれば、それは口論であることには変わりなく、不快なものであるはずだ。 ――見間違いではない。先ほどの景麒は、彼にしては珍しく顔が緩んでいた。口論を繰り広げていたというのに、何故あのような顔をしていたのだろう。
景麒はとりあえず、手にした酒を保管するために自室にやってきていた。すぐにまた朝議に戻らねばならない。たった今一戦を交えてきた陽子と顔を合わせることになるが、それを苦痛とは思わない。それより目的は果たせた。それで十分だ。
昨夜の陽子を知っているのは自分だけ。酒が入っていたとはいえ、とても愛しく思えた。少しの間だけでいい、独占したいという想いが生まれていた。あんな風に接してくれる、しかも自分だけに。
しばらくは、大勢の前での酒は遠ざけておかなければ。そのために多少の口論は致し方ない。
景麒は紅に煌く液体を見て微笑んだ。この酒は、二人だけのときに飲もう。昨夜のように、満天の星の下、月の輝く夜に、雲海を眺めながら――。
--- The End ---
[続・慶東国の夜]
・ 比翼連理 ・
もうすぐ冬が終わり、春がやってくる。雲海の上、そこは寒さも和らいでいて、春の訪れを一層強く感じさせる。
夜――。彼は主の私室へと向かっていた。手には二つの玻璃の杯、もう片方の手には紅の液体の湛えられた瓶。
今宵は満月。そして、特別な日――
「――主上」
景麒は陽子の私室の扉を叩いた。中からは明朗な声で返事が返ってくる。
遅い時間だったが、景麒は陽子がまだ起きているということを知っていた。使令をつかせているから、というのもある。しかし、それだけではなかった。あと半年もすれば走り出して四年を迎えるという王朝。問題は尽きることなく山積している。日に日にやつれていく主。寝る間も惜しんで政務や勉学に励んでいる。 ――景麒は、疲労困憊しながらも身体が壊れてしまうまで働き続けてしまいそうな主をこれ以上見たくなかった。国のため、それはそうかもしれなかったが。大丈夫だと言いながら、ふらりとよろける陽子を見ているのは心が痛む。
扉を開けると心地良い風が彼の横を通りすぎた。それは、陽子の髪をなびかせた風――。
「どうした、何かあったのか?」
先程と同じような明朗な声。だが、景麒にはわかった。彼女が、わざとそのような声を出していることが。周りの者に気付かせないために、こうして彼女は無理に笑顔を作ってみせる。
「いえ、大した用ではないのですが。――少し、外に出て話をしませんか」
陽子は、いつにない景麒の言葉に少し戸惑っているようだった。もちろん、景麒自身、そんな反応がかえってくるだろうことは予想していた。あまりに唐突な誘いであることは先刻承知。景麒に、さりげなく陽子を外に連れ出すという方法は思い浮かばなかったのだから仕方がない。
「構わないが……それは?」
陽子は景麒の手の中のものに目を留めた。ああ、と景麒は言って外を示す。
「これをご一緒に、と思うのです。今宵は月が出ております。それを眺めながら、というのも悪くないでしょう?」
陽子はますます目を丸くするしかなかった。
「それって、六太くんが持ってきた……」
阿舎[あずまや]には少し冷たい風が入ってくる。澄んだ空気は星の煌きをより一層美しくする。
景麒は紅の液体を注いで陽子に差し出した。
「ええ。私の部屋に保管してあったのですが、そのままにしておくのも勿体無いと思いまして。今日は月も綺麗ですし、ご一緒にどうかと」
「私が酒に溺れるからやめろと言ったのは何処の誰だった?」
薄く笑って陽子は言った。さて、誰だったでしょう――言って、景麒は自分の杯にもそれを注いだ。
「今日は特別な日ですから」
陽子が不思議そうに首を傾げる。景麒は微笑み、月を見上げた。
「覚えておいででしょうか。四年前の今日、私は初めて主上にお会いしました。四年前のあの月を通って――」
言い終らないうちに陽子は吹き出した。しばらく腹を抱えて笑っていたのだが、景麒には何が可笑しいのかさっぱりわからない。
「いや、悪い。景麒って、そういうイベントをいちいち覚えてて祝うタイプなんだなって思うと……くっ、可笑し……」
そう言って、さらに盛大に笑い出す。景麒が憮然たる表情を浮かべたのは言うまでもない。
「……あ、いや。ホントごめん。でも……嬉しいな、そうやって祝おうとしてくれるのって。ちゃんと私のこと、想ってくれてるんだ」
その言葉に、景麒は些かどきりとする。それは予王が堕ち始めた瞬間に発した言葉。自分が優しくすることで堕ち始めた予王の――。
「でも、そんなことばかりやっていると、周りから変な誤解されるぞ?ほら、前からいる官から見れば、昔のことと重なって見えて――……って、悪い。昔のことを掘り返すなんて……」
景麒の、どこか追い詰めたような表情に陽子は言葉を切った。景麒は我に返り、気にしないで下さい、と言ったが、陽子の悲痛な表情は変わらなかった。
どうしてこうなってしまったのだろう。自分はただ、主に心休まる一時を過ごしてもらいたかっただけなのに。自分のせいで、居た堪れない想いを主にさせてしまって。
彼は、自分にできる限りの笑顔を作って言った。
「確かに、予王が道を失い亡くなったことは残念なことではありますが。しかし、これだけは信じて下さい。今の私にとって大切な方はあなただけだということは」
顔は気持ちを映し出す。普段から意図して笑顔を作ったことなどなかったから、今自分がどのような顔をしているのか全く見当がつかない。ただ、今自分が発した言葉が偽りで無いということだけは伝えたい。
陽子は、ふっと笑みをこぼした。
「なんだか優しいな、今日の景麒は」
「そうでしょうか」
「うん。――ずっと、私にだけは優しくしようとしないんだと思ってた」
これには景麒は目を見開いた。そう言った陽子は、どこか寂しげで泣き出しそうな顔をしていた。潤んだ瞳で景麒を見上げてくる。
「天勅を受けに行ったとき、泰麒の話をしてくれただろう」
「……ええ」
「あの時、景麒は言った。自分が優しくすることで予王は道を失うことになったのかもしれない、と」
景麒が頷くと、陽子は悲しげな笑顔を浮かべた。
「だから、景麒は私には優しくしないだろうな、って思った。景麒は、過去の過ちを繰り返すような愚かはしないだろう?ああ、だからか――って」
「そんなことは――」
うん、と陽子は頷き、言葉を続けた。
「実際、初めて会った時からなんとなく感じていた。どこか私に対して慎重に接してるような。巧で置き去りにされた時なんか、私に恨みでもあるのかとさえ思った」
「ですから、あれは」
「わかってる。それにあの時の私は何も知らない愚か者だったから。一人で巧を旅して、いろいろ学んだ――言っただろう?たくさん勉強させてもらったって。人間である上で一番大切なこと」
景麒は陽子から聞いた話を思い出していた。自分が捕らえられるようなことがなければ、こんな苦労をかけさせずに済んだのに。そう言うと、陽子は決まってこう言っていたのだった。
何もわからずに巧国に辿り着いていた陽子は、その国の王に追われていた。自分がどうして連れてこられたのかも、どうして自分が追われているのかも、何もわからずにただ逃げ回っていた。景麒に話す時は、いつも笑っていた――それは苦い笑顔だったけれども。ずっと昔の思い出を話すように、辛そうな素振りなど見せずに。
今、陽子は心の痛みを堪えているような表情をしている。だから、これは今までとは違う話。この日、陽子が語った話は、景麒にとって初めての話となった。
「たくさんの人から裏切られた。人の愚かな所ばかり見せつけられていた。人が信じられなくなったよ。あの楽俊のことでさえ疑ってたんだから。そして――一度は口封じのために殺そうかとさえ思った」
思いつめた表情で、陽子は続ける。
「命の恩人なのにね。あの頃の私は人に対して臆病だったから。何もかも人のせいにして。誰もが自分のために生きて、他人のために生きることはできないんだ、って自分の殻に閉じこもってた。でも思ったんだ。私が人を信じることと、人が私を裏切ることは関係ないだろう?優しくされなきゃ優しくできないなんて、子供の言い訳みたい」
緑の目が景麒を映し出した。それは、とても強い目だった。
「きっと景麒は私に優しくしない。それはそれでいいと思った。だって、景麒が昔を思い出してしまうことにもなるから。でも、たとえ景麒が私に優しくしてくれなくても、私が景麒に優しくしない理由にはならないだろ。けれど、実際は顔を合わせれば口論ばかりしてたな。本当に――ごめん」
――景麒……ごめんね……
あの夜の陽子が瞼に浮かぶ。月の光の中、素直になれた自分。そして、今宵もあの夜と同じ月が上っている。
「謝っていただく必要はありません」
景麒は机越しに陽子の頬に触れた。
「しかし……」
「もうすでに、主上からはその言葉を頂いていましたから」
不思議そうにしている陽子。景麒は手許の杯に視線を落とし、そして月を見上げた。
「この御酒を頂いた前日、主上は露台で酔われてお眠りになりましたね」
「ああ。次の日、景麒に叱られたっけ」
陽子はくすくすと笑った。つられて景麒も顔が綻んでしまう。
深呼吸して景麒は言った。
「あの時は、ただ主上を部屋にお運びしただけと言いましたが、眠られる少し前に私も露台にいたのです」
「そうだったのか?全然覚えてないけど」
「あの時主上が仰ったこと――主上の記憶に残っていなくとも、私の中には確かに残っています。 ――主上は仰って下さいました。すまなかった、と」
あの時と今――陽子の口から発せられた言葉は違うけれど、その瞬間、景麒は陽子と心が繋がっていたような気がした。素直に己の気持ちを伝えられたのがその証拠。心の中を、透通る月の光が煌煌と照らしている。その光の中、陽子は口を開いた。
「そうか……。伝えられてたのなら良かった」
そう言って杯を手に取った。
「景麒。今までいろいろありがとう。それと、これからもよろしく――」
杯の、澄んだ音が阿舎に響いた。
薄暗い部屋の中、一筋の光が射しこんだ。静かに扉が開き、一つの影が現れた。 ――いや、抱きかかえられた小さな影と、それを優しく見つめる大きな影。
大きな影の、その足下の影から女の影が現れた。人ではない――彼女は彼の女怪だ。彼は彼女に無言ながら頷いて見せる。承知しました、と女の影は言葉に出さずその意を伝える。女は部屋の奥、寝所への扉を開け、中へ消えて行く。彼がその部屋に入ると、すでに臥牀の準備は整っていた。
彼は腕の中の人物を静かに下ろした。穏やかな寝息はあの時と変わらない。やつれたふうの頬も、触れてみればとてもやわらかい。
そのまま彼の手は唇へ伸び……
「ゆっくり、お休み下さい」
そっと口付け、景麒は静かに部屋を出た。
--- The End ---
[景王の夏休み騒動記]
その客は、時候の挨拶と、招待されたことに関しての感謝の意を述べると、深々と頭を下げた。それと同時に、緋の髪に挿した金の歩揺(ほよう)の飾りがきぃんと澄んだ音を立てた。
「やっぱり、陽子は別嬪さんだな」
六太が照れもなく賞賛すると、陽子の頬が仄かに赤味を帯びた。
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです……」
「お世辞じゃないさ。なあ、尚隆?」
六太は横に居る主に同意を求めるが、尚隆は登極当初以来の陽子の装いに眼を奪われて言葉を失っていた。そうとは気付かない陽子は、僅かに落胆を込めて言う。
「やはり…変ですよね。私は嫌だったのですが、祥瓊達がどうしてもと言うので……」
長い睫毛が伏せられたのを見て、尚隆は慌てた。
「そんなことはない」
言い繕うが、そのことが余計、彼女に憂いを落とす。
「延王も同じなのですね……」
陽子は溜息を吐くと、賞賛の言葉ひとつ寄越さなかった男に言った。
「私が女物の衣装を着ると、皆、急によそよそしくなっていつもと様子が違うんです……」
皆、口々に彼女を褒め称えたが、何故か素直に喜べなかった。それよりも、顔に塗りつけられた白粉の匂いや、頼りない裳裾が自分の“女”を強調しているようで、居心地が悪かった。
その様子に尚隆は内心苦笑する。
周りの態度が変わるのも当然だろう。
いつも少年と見紛うような姿をしている彼女が、月が雲に隠れ、花も恥らうような佳人に突然変身するのだから。
見惚れている延王の視線に堪えられず、陽子は恥ずかしそうに俯く。それを脇から見ていた六太は、くつくつと笑いながら主の心境を代弁した。
「尚隆はな、陽子があんまり別嬪さんだから、驚いて言葉も出ないんだぜ」
「六太っ!」
尚隆は余計なことするなと睨付けるが、六太は全く意に介さなかった。それどころか、
「本当のことじゃん」
と言って、止めを刺す。
彼の怒りは頂点に達した。
「ろ〜く〜た〜〜」
自分の名を呼ばれた少年は、突然背中に寒気を感じて、ゆっくりと背後を見た。そこには延王こと尚隆が立っていた。
「や、やあ……」
六太は愛想良く手をあげたが、主は挨拶を返す代わりに、にやりと不気味な笑みを向ける。室内は一瞬にして冷気に包まれた。
「六太」
尚隆が一歩足を前に出すと、六太は逆に後退した。
「なっ何だ?」
「分かっているな?」
そう言ってじりじりと迫ってくる主の額には、くっきりと青い筋のようなものが走っている。
これは本当にまずいかもしれない。
六太は内心ごちると、慌てて言い訳を始める。
「悪気は無かったんだ。ほら、冗談ってやつだよ」
「ほほう……それは気が合わぬな。俺は冗談が好かぬ」
指の関節を鳴らしながら近付く尚隆に、六太はなおも続ける。
「かっ寛大な心が平和を齎(もたら)すんだ。えええ雁から争いごとを無くそうっ!!」
どこかのポスターから引用したような台詞に、延王は口の片端を持ち上げると、
「陳腐な台詞だ」
と鼻でせせら笑った。そして、また一歩。また一歩と、延麒を壁際に追い詰める。
「なあ、あれくらいで怒るなよ。人間小さいぞ」
尚隆は
「喧しい」
と冷酷な一言を発して、鍛え上げたその腕を振り上げた。
陽子が思わず目を瞑ったと同時に、鈍い音が室内に響き渡る。悲鳴は聞こえなかった。
物音ひとつ聞こえないことを不審に感じた陽子は、そっと眼を開いた。
「六太君……?」
頭を押さえて蹲(うずくま)っている六太からの返答は無い。心配になった陽子は、裳裾を引き摺りながら近寄ると、
「六太君。大丈夫?」
ともう一度尋ねた。すると、微かに痛みを訴える声が洩れ聞こえた。
(御命は無事だな)
一応、麒麟もひとではないので常人よりは丈夫だ。そのことが幸いしたらしい。陽子が胸を撫で下ろすと、出し抜けに六太は立ち上がった。屈んでいた陽子は体勢を立て直す暇も無く、尻餅をついてしまった。「いってぇ〜じゃねぇかっ!!」
これは六太の台詞である。因みに陽子は、彼と較べたらはるかに小さい声で、「痛い…」と言っただけであった。
「これで死んだら、お前も死ぬんだぞ。分かってんのかっ?!」
六太は涙目で言い募る。しかし、尚隆は「それがどうかしたか?」と言っただけで、罪悪感の欠片も無いようだった。
「天帝に言いつけてやるっ!!」
六太は叫んだ。
普通なら母親に言いつけるなどが考えられるが、麒麟に親は無い。仕方がないので天帝にしたのだろう。
陽子はそう推測すると顔を顰めた。打ち付けた所が痛むのだ。
「主上」
突然呼びかけられて、陽子は顔を上げた。
「景麒か。いつ入ってきたんだ?」
「主上が転ばれたときです。大事ございませんか?」
景麒が尋ねると、陽子はああと言って、差し出された手を借りて立ち上がった。
「止めなくてもいいのか?」
何のことかと景麒が首を傾げると、陽子は彼の背後を指差す。指を指し示す方向を言われるまま肩越しに見遣ると、延王と延麒が取っ組み合っているのが目に入った。
「ああ…あれですか」
景麒は感情少なく言うと、何てことは無い風に
「いつものことです。気にするまでも無い」
と答えた。
「…‥そうかもしれないな」
陽子は下僕の言に頷くと、騒ぎが収まるまで大人しく待つことにした。
延の称号を持つ王と台輔の喧嘩は、長引きそうだった。
尚隆は肘掛けに頬杖をついたまま溜息を吐くと、横目で六太を睨付けた。
(お前が悪いのだぞ)
(人の所為にしてんじゃねぇよ)
目線だけで会話をする二人を、流石五百年共にしただけあると見るか、ただ単に間抜けと見るのかは意見が分かれるところであろう。
長引くと思われた喧嘩は、通りかかった朱衡によって止められ、事なきを得た。
しかし――
尚隆はちらりと臣を見る。
当然のことながら、朱衡は怒っていた。
「毎度のことで、主上・台輔には耳が痛い話でございましょう。ですが、ここでご忠告申し上げなくては、臣としての義務を怠ることとなります。ですから、今日も申し上げます」
朱衡は大きく息を吸い込むと、“ご忠告”を始めた。
「いいですか? 我々臣下一同は、主上と台輔に品性とか威厳とかは全く求めては居りませぬ。ですが、国家の尊厳や体裁と言ったものを考えていただきたい。大体、景王君や景台輔の前で恥ずかしくは無いのですか? ただでさえ無い評判や権威が地に落ちるだけかもしれませぬが、それでも……」
いつも彼の説教は長いのだが、今日は特に長くなりそうだった。
「折角、景王君が休暇を雁で過ごすと言うのに、お迎えした当日にその有様ですか?」
そうなのだ。
陽子はただ雁を訪問したわけでなく、登極以来の初めての長期休暇をこちらで過ごすために来たのである。
「嘆かわしい」
朱衡は心底情けないと言い放つと、きっと主と宰輔を見据える。
「恥を知りなさいっ恥をっ!!!」
朱衡が出し抜けに叫んだその時だった。先ほどから沈黙を守っていた陽子が口を開いたのは。
彼女は最初、
「他国の人間である私が言うのは、筋違いかもしれない」
と断りを入れると、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「もうそろそろ…良いのではないだろうか? 延王も延麒も反省しておられるようだし……」
陽子はさり気無く二人の弁護を試みるが、朱衡はいいえと首を振った。
「甘やかしてはつけあがります」
「だが、あまり厳しくしても結果は変わらないだろう。ここは私の顔に免じて、許してやって欲しい」
苦労は分かるがと、景王に微笑まれては彼に勝ち目は無い。朱衡は長く深い溜息を吐くと、
「…‥今回だけですよ……」
と言った。その瞬間、延王と延麒の面に喜色が走ったのを目敏く見つけた朱衡は、
「ですがっ!!」
と声を上げた。
「今度、何かやらかしましたらどうなるか……」
延主従は動きどころか、呼吸までも止めてその先の言葉を待つ。しかし、次の言葉は無かった。
朱衡は意味ありげな低い笑みを残すと、頬の筋肉を引き攣(つ)らせたまま微動だにできない主と台輔を残して部屋を去った。
朱衡の足音が、完全に途絶えたことを確かめると、景麒を除いた全員が大きく息を吐いた。
「こ…殺されるかと思った……」
ぐったりとした六太がそうごちると、尚隆も
「俺もだ」
と同意を示す。至極真面目に頷きあう二人に、陽子はまさかと軽く笑った。
「今回だけだそうですから、気をつけてくださいね」
「ああ…分かっている。それより済まないな。初日から、これでは落ち着かんだろう?」
尚隆が尋ねると、彼女はいいえと首を横に振った。
「そちらの方が賑やかでいいですよ。楽しい休暇になりそうです」
彼女がそう言って微笑むと、脇から突然
「そうでしょうね。主上は慶よりも雁の方がお好きのようですし」
という刺々しい声が聞こえた。
声の主は、相変わらず能面のように感情の少ない表情を保っている慶の麒麟。
「景麒っ!! 何てことを言うんだ。失礼だろう」
陽子が言い咎めると、景麒は素っ気無く
「事実でしょう」
と答えた。
「すみません。景麒が無礼なことを申し上げまして」
陽子は、一向に非礼を詫びる様子の無い麒麟の代わりに頭を下げた。
「気にせずとも良い。大方、主と離れるのが不満なんだろう」
鷹揚に笑った尚隆はそう言ったが、その推測は景麒自身によって否定された。しかし、その頑ななまでに否定する彼の様子が、肯定を告げている。
ひとり主を残していく慶の台輔は、非常に機嫌が悪そうだった。
(やっぱりなぁ〜〜)
先ほどから景麒を観察していた六太は苦笑した。
麒麟は王の半身。王から離れることを厭う生き物だ。二週間は長かろう。
渦巻く黒い影とは裏腹に、景麒はまるで捨てられた子犬のような眼をしている。
不機嫌な景麒に対して陽子はというと、久し振りの休暇に喜びを隠せないようであった。登極以来、休日なしで仕事仕事で通してきたので、当然と言えば当然である。
「随分嬉しそうだな」
延王が景麒には聞こえないくらいの音量で訊くと、陽子は小さく頷いた。歩揺の飾りが揺れ動いて、涼やかな音を立てた。
「景麒が居ないので、ゆっくりと羽が伸ばせそうです」
正直な感想に、尚隆は笑いを零す。
「そうかそうか。では、羽伸ばしついでに、今度、関弓の祭りにでも行くか?」
「えっ本当ですか?」
陽子の顔に喜色が走った。
「ああ、本当だ」
「ありがとうございます」
「ただし、朱衡達には内緒でな」
尚隆がそう言うと、陽子は分かっていますと軽く笑う。こういう“悪さ”も雁でなくては楽しめない。 景麒には悪いと思うが、己の半身と別れるよりも楽しみが先立つのは仕方がないことであった。 楽しい夏休みになりそうだな。
陽子は内心ごちると、零れんばかりの笑みを人々に向けた。
留守中のことは太師と冢宰に任せてきたのだが、王も台輔もいないとなれば彼らにかかる負担は大きいものになる。そういう事情があって、景麒は早々に玄英宮を辞することになった。
別れに際して彼は実に名残惜しそうに、主に言った。
「主上。どうか御身体にはお気を付けください」
「分かった。景麒も気を付けてな」
「主上はあまり強い方ではないのですから、御酒は過ごされぬように」
「分かった。分かった」
「雁は慶よりも涼しいですから、きちんと上着を……」
「……お前は私の母親か?」
次々と注意事項を連ねていく麒麟に、陽子は辟易したように額に手を当てた。
「自分の面倒くらい自分で見られる。それよりも、私の留守中は何かと大変だが、宜しく頼む」
本当は他にも言いたいことがあったのだが、主が打ち切ってしまったので景麒は渋々諦めた。
「それでは…」
景麒は大きく溜息を吐くと、とぼとぼと背を向けて歩き始めた。物悲しいその背を眺めながら、六太は陽子に言った。
「景麒に何か言ってやったら? 当分会えないんだし」
「そうだな……」
陽子は確かにと頷くと、遠ざかる麒麟の背中に声を投げ掛けた。
「景麒」
と呼びかけると、景麒は今にも泣きそうな顔をこちらに向けた。夕闇色の瞳には、僅かな期待の色が見える。
景麒がもし子犬だったら、その尾を控えめだが、嬉しそうに振ったことであろう。だが、現実とはいつも残酷なものである。
「気を付けてな」
陽子は止めのようににっこりと微笑む。哀れ景麒は、泣きながら走り去ってしまった。
「かわいそ〜〜」
六太が呟くその脇で、陽子は首を傾げた。
「どうしたんだろう?」
陽子が六太のほうを見ると、彼は小さく溜息をつき、軽く頭(かぶり)を振った。その所作は勿論、知らないという意味ではない。
景王の夏休みは景麒の涙と共にはじまった。
玄英宮が隣邦の王を迎えてから数日経過して、一部の官吏たちは、景女王が滞在することは非常に喜ばしいことだと気付いた。
彼女が居ると尚隆は玄英宮を出ない。そうすると嫌でも政務をせざるを得ない。何故ならば景王の眼があるからだ(六太曰く「陽子に格好のいいところを見せようとしてんだぜ」)。だが、この日の夜に限って、誰も彼の姿を見なかった。
「やられた……」
帷湍は唸った。
「最近、真面目に政務をなさっていましたからすっかり騙されてしまいましたね」
そう言ったのは新任の輔弼(ほひつ:王の補佐官<※>)だった。
「大体、夜やるからという見え透いた嘘を何故、見抜けなかったのだろうか……」
今更後悔しても遅かった。
宮中の居そうな所は探したが居なかった。念のため、厩を見たが“たま”はいた。
そうなると、どこにいるのか全く見当がつかなかった。たった三人で探し出せるほど、玄英宮は狭くない。女官や下官を総動員すれば探せなくもないが、尚隆が気付いて、逃げ出さないとは限らない。
一同は顔を見合わせ、大きく溜息をついた。
どうしようか……。そういう空気が流れた時、目前に金髪の少年が現れた。
「おっどうしたんだ? 皆集まって」
途方に暮れていた延王捜索隊は、俄かに活気付いた。
「台輔。あの莫迦がどこに居るか知らぬか?」
これ幸いとばかりに、帷湍は意気込んで尋ねた。その様子に、六太は怪訝そうな顔をして見せたが、今回は自分は関係ないと分かると安堵したようだ。直ぐに答えてくれた。
「尚隆か? あいつなら、将棋盤持ってどっか行ったぜ。大方、相手でも探してんじゃねーの?」
尚隆は、盤上遊戯の類がこの上なく好きだった。しかし、好きという気持ちと実力は、常に反比例の関係を結び、勝率は芳しいとは言えない。
帷湍曰く、「“精神構造が単純な”麒麟(勿論この場合、無愛想な隣国の台輔や黒い鬣の麒麟ではない)にも負けるのだから、余程弱いのか、運が悪いかのどちらかだろう」とのこと。因みに、玄英宮では前者の説が有力である。
「どうせ負けるに決まってんのによ。知ってるか? ああいうのって、『下手の横好き』って言うんだぜ」
金髪の少年は、主を笑いながら揶揄(やゆ)すると、欄干に腰を掛ける。
「外には出てないから、そのうち見つかるだろう? 心配するほどのことじゃねぇよ」
「しかし、今日中に決裁を仰ぎたい書類が……‥」
雁国の官吏にしては生真面目な、輔弼が困ったように六太を見た。
「明日でいいんじゃないか?」
「…少しでも溜まった仕事を片付けて頂きたいのです」
髪を振り乱した輔弼は、疲れきったように溜息を吐いた。あまり寝ていないのだろう、目の下には黒い隈がはっきり見える。
六太は卓上から跳び下りると、気遣うように輔弼に言った。
「尚隆は、俺が探して仕事させるからよ。お前は少し休んでいろよ」
官吏を困らせてばかりいる台輔が、珍しく殊勝なことを言ったので、輔弼を始めとした人々は驚いたように目を剥いた。
「何だよ。その目は!」
「いや、ただ珍しいなと思いまして」
「まるで、麒麟のような慈悲を示すものだから、驚いたぞ」
朱衡、帷湍が口々に言い、同意するように輔弼も頷いた。
「“麒麟”のようなじゃなく、俺は麒麟なんだよ!!」
「それくらい分かっていますよ」
朱衡は何言っているのですかとばかりに六太を見た。冷静なその物言いが腹立たしい。
「まあまあ」
雲行きが怪しくなったので、輔弼は間に入った。
「では、台輔のお言葉に甘えまして、休ませて頂きます。後のことは、お願いできますか?」
六太はまだむっとしていたが、
「ああ、いいぜ。しっかり休めよ」
と快く承諾した。輔弼は「有難うございます」と感謝の意を述べると、二・三、尚隆に関する用件を言い残して部屋を辞した。
扉向こうの足音が遠ざかると、六太はぽつりと一言漏らした。
「大変だな……」
不眠不休で職務を遂行しようとする、輔弼の真摯な態度に、六太も心を揺り動かされたらしい。神妙な面持ちである。
「我等の苦労が分かったか?」
幾分静かな口調で帷湍が尋ねると、六太は
「ん、まあな」
と、素直に答えた。若い、ひたむきな官吏の姿に、普段の職務怠慢を恥じた延麒であった。
「では、我等が主を探すとしますか」
「そうだな……」
さて、と気持ちを入れなおして、三人は延王・尚隆の探索を開始した。と言っても、至極易しい仕事であった。何せ、こちらには麒麟<王様探知機>がいる。
「王気はどの方角に?」
朱衡が尋ねると六太は僅かに目を細め、すぐさま主の居る方角を指し示した。
「ん〜と、あっち」
帷湍は指差された方角を見ると、眉根に皺を寄せた。
「本当にあっちか?」
「俺、麒麟なんだぜ。間違いないさ」
心外そうに六太は言った。王気を見ることのできる唯一の獣が言うのだ。当然、間違いは無いだろう。だがしかし―――
「あそこは確か……」
帷湍が言葉を濁すと、その先の言葉を朱衡が引き取った。
「景王の御寝所がある宮ですね」
「いくら気安い方だとはいえ、夜、男を部屋に入れると思うか?」
二人の王は、景王登極以前からの縁で、懇意にしていた。とはいえ、幾ら何でも警戒心がなさ過ぎやしないか? 帷湍はそう言いたいのである。
「さあ、それはどうでしょう。そういった方面は詳しくないようでしたからね」
「陽子だしな〜〜」
男女の恋愛事には全く免疫が無いらしく、祥瓊や鈴が恋愛談義などしているとき、彼女が頬を赤く染めていたのを思い出す。
登極前の放浪生活で色々と苦労はしたようだったが、朱衡の言う“そういう方面”に関しては何も学ばなかったようだ。
二十歳も近いのに、未だに初なところが抜けなく、擦れたところが無い。それに尚隆が触発されて……
「今頃喰ってたりして」
六太が何気なく口にした台詞に、その場に居た全員が、過剰とも言える反応を示した。
「な〜んてな。冗談だよ。冗談!」
不吉な影を振り切るように、六太は明るい声を出したが、どこか空々しかった。
横を見ると、帷湍達は顔面蒼白になっている。
彼等が考えていることは、同じ筈だった。誰も何も言わなかった。長く、重い沈黙が永遠に続くように思えたが、それを破るように、「なあ」と六太が震えた声を出した。
「はい」と朱衡がそれに答える。
六太は声をひそめて言った。
「それって、天の理(ことわり)に触れんのかな?」
その途端、三人は弾けたように景王の寝室に向かって走り出した。
身軽な延麒を先頭に、帷湍・朱衡の順に長い廊下を駆け抜けていく。
「冗談じゃねーぜ。もし、なんかあったら景麒に殺されるだけじゃ済まんぞっ!!」
「五百年続いた大王朝も、これで終わりか」帷湍が頭を抱えてうめいた。
不吉な予感を抱いたまま三人は、さらに速度をあげた。
陽子が床に就こうかと思ったとき、不意に扉を叩いた者があった。
大きな音が三回響き渡る。
その音から察するに女官でないことだけは確かだった。
このような時間に一体誰だろうと、陽子が怪訝そうにしていると、扉向こうから聞き覚えのある声がした。
「陽子。起きているか?」
扉越しなので、不鮮明な声だがそれは間違いなく延王の声だった。
「このような時間にどうかなさいました?」
陽子は僅かに扉を開くと、用件を尋ねた。すると尚隆は
「将棋でもやろうかと思ってな」
と答えて将棋盤を見せる。酒盛りでもするのかと想ったが、どうやら本当に将棋をするつもりで来たらしい。
「将棋ですか……私、指し方を知らないのですが」
相手をしたいのはやまやまだが、ルールを知らないのだから仕方がない。陽子はすみませんと謝るが、尚隆は
「なに俺が教えてやる。邪魔するぞ」
と言って、部屋の中に入ってしまった。半ば呆れる陽子を脇目に、尚隆は長椅子に将棋盤を置いてここに来いと呼び掛ける。
陽子は小さく溜息を吐いた。
(こうやって何時も、この人のペースに乗せられるんだ……)
だが、そのようなこと思っても遅い。陽子は諦めると、将棋盤を挟んで隣に腰を掛けた。
はじめは渋々と言った観が拭えなかった陽子であったが、やってみると案外面白いものである。それに延王は手加減しているのか、初心者の陽子でも渡りあえた。
陽子は慣れない手つきで駒を置くと、
「延王の番ですよ」
と言った。
「少し…少し待ってくれ……」
尚隆は長考する振りをしていたが、内心酷く動揺していた。
(おかしいっ! 絶対におかしいぞっ!!)
最初は確かに自分が優勢だったのだ。それが何時の間にか、形勢を逆転されている。
「まだですか?」
先程から唸っているだけで、一向に駒を動かそうとしない延王に焦れたのか、陽子は急かすように言った。
「もう少し待ってくれ…」
頭の中で誰かが「情けなくないか?」と尋ねるが、尚隆は黙殺することにした。
「少しだけですからね」
「ああ、すまん…」
そう言ったきり、尚隆は黙り込んでしまった。
「駒を進めたら教えてくださいね」
長くなるとみた陽子は、そう尚隆にひとこと声を掛けると、鮮やかな赤毛を一房手に取り、枝毛を捜し始めた。と言っても、艶やかな緋色の髪は手入れが行き届いているので、手持ち無沙汰な時間を埋めるための行動であった。
(延王も将棋をはじめたばかりなのだろうか?)
彼女の推測は大きく外れていた。彼がはじめたのは、碁に飽きたざっと二百年ほど前のことである。
(早くしてくれないかな…眠たくなってきた……)
陽子が堪えきれず大きく欠伸をした瞬間、盤上に尚隆の手が伸びた。
「進めたぞ」
尚隆が声を掛けると、陽子は慌てて居住まいを正した。そして盤上に目を向けて、どのように駒を進めようかと考えを巡らす。手持ちの駒を手にしようとしたとき、彼女は何かが違うことに気付いた。勘違いかもしれないと、もう一度盤上に目を走らせて確認すると、陽子は
「香車(きょうしゃ)が無い……」
と呟いた。「延王」と陽子は目を向けるが、彼は眼を合わさずに、焦ったように横を向いた。その様子で陽子は全て分かった気がした。
「延王……」
低い声だった。
「な、何だ?」
常ならぬ空気を彼女から感じ、尚隆は腰を僅かに浮かして逃亡を図る。が、陽子が彼の袖をしっかりと掴んだため立ち上がることはできなかった。
陽子は袖をぐいと引き寄せると、互いの吐息がかかるほどに顔を近づけた。
「……ずるなさいましたね?」
尚隆は陽子の気迫に圧倒されながらも
「してない。してない」
と言った。
「いいえ! なさいました!! いくら初心者でも駒が無くなれば気が付きます。さあ、潔く仰ったら如何です?」
陽子は何故か水鳥の羽が入った背座布団<クッション>を引き寄せると、今なら許して差し上げますよと言い足した。しかし、尚隆は違う。誤解だと言って容疑を否定。あくまで無罪を主張した。
「言い訳は見苦しいですよ」
陽子は尚隆の袖から手を放すと、背座布団を上に持ち上げた。尚隆が逃げるように、長椅子の上をじりじりと横に移動すると、陽子も迫るように歩み寄った。
「していないと言うておろうが。あ、待て。話せば分かる」
「問答無用っ!!」
怒った陽子は背座布団で延王を叩き始めた。怒ったときの人間は手をつけられない。尚隆が幾ら言っても、彼女は攻撃の手を止めることは無かった。尚隆の頭部を何度も叩いた背座布団の縫い目が裂けて、羽が宙に舞ったその時だった。戸口から救いの主の声が聞こえたのは。
「…しょっ尚隆様……」
声の主が朱衡だと気が付いた陽子は、慌てて背座布団を背に隠した。
「朱衡か。どうした?」
白い羽を頭に貼り付かせた尚隆は、助かったとばかりに笑みを浮かべた。よく見ると、朱衡だけでなく帷湍や六太も後ろに居た。
朱衡が用件を伝えると尚隆は
「そうか。今行く」
と答えて腰を上げた。まだ陽子は不満そうだったが、これ以上恥をさらすわけにもいかず、黙って見送ることにした。
部屋を辞去する前、尚隆は不意に思い出したように
「そうだ。陽子、手を出せ」
と言った。
陽子は訝しそうに首を傾けたが、素直に手を出した。尚隆はその細い手に駒を落とした。陽子の顔が一瞬にして怒りの形相に変わる。
「あ――やはりズルなさっておられたんですね!?」
「怒るな」
「これを怒らずして何時怒りますっ?」
陽子は背座布団を持ち直すと、また尚隆をそれで叩き始めた。
これは堪らんと逃げるように尚隆が廊下に転がり込むと、陽子は逃がさないとばかりに背座布団を投げる。計算されたように正確な曲線を描いた背座布団は、尚隆の頭部に命中した。
堪らず、三人は大笑いした。
「おはようございます」
幼さが残る顔にむっつりとした表情を浮かべて、陽子は朝食の席についた。椅子に腰を掛けるとき、目が合ったが、ぷいと逸らされてしまった。
それを見た延麒はさも愉快そうに、声を立てずに腹部を押さえて、肩を揺らせて見せた。尚隆は忌々しそうに自分の麒麟を睨付け、拳を宙で振り下ろした。後でみていろとの意である。
(まだ怒っているのか)
延王は苦笑して、どうこの少女の機嫌を取るべきか思案する。たかだか、将棋ひとつでこんなにも怒ることは無いだろうとは思うのだが、これは自業自得というものである。
仕方がない。尚隆はそう一言ごちて、おそるおそる切り出した。
「あ〜陽子。昨日のことだがな……」
「なんのことでしょう?」
分かっているのにわざと惚けてみせる。女が怒っているときの常套手段だ。
「だから、昨日の将棋のことだ」
陽子は横を向いたまま碧玉色の瞳をちらっと延王に向ける。冷たい視線に、尚隆の頬の筋肉が引きつった。
「ああ、そのことでしたか」
少女は、“そのこと”の所に力を入れて発音することで、まだ怒りが冷め止まぬことを、男に示唆した。
「そのことでしたら、全然怒ってませんよ。どうぞお気になさらずに」
(怒っているじゃないか〜〜〜!!)
内心うめいて、頭をかきむしりたい衝動に駆られたが、それは治世五百年の王様。鉄の自制心を持って堪えた。
(参ったな)
尚隆が今までに付き合ってきた女性は――多くの場合、花柳界の女性だったこともあるが――このように拗ねることは無
かった。しかも、生まれながらにして権力者の子息として生を受けた彼は、他人の機嫌を取るということをしたことがない(ただし、朱衡や帷湍達にするのは別)。 こうなったらやることはひとつしかない。全面降伏してひたすら機嫌を取ることだ。
尚隆は大きく息を吐いた。
「すまん!」
尚隆は顔の前で、両手を拝むようにして合わせた。
「悪かった。昨日のことは俺が全面的に悪かった。謝る。この通りだ」
閉じた目の片方を、うっすら開けて陽子の様子を窺うと、彼女はこちらの方を横目ながらもしっかり見ていた。
これならいける! もう一押しだ!! 尚隆は内心拳を作って確信した。
「もう二度とあんなことはせん! 悪かった。ほんっとうにすまん!!」
いつもどこか、おちゃらけた人間の殊勝な態度に、陽子の怒りも少しは和らいだらしい。先程より大分、穏やかな口調で尋ねた。
「もう、なさいませんね?」
尚隆はぱっと表情を明るくすると、激しく首を上下に振った。
「二度としない。天地神明にかけてな」
陽子は横を向いたまま、再び尚隆に一瞥をくれる。その顔を覗き込むように、尚隆は尋ねる。
「許してくれるか?」
幼い子供が、母親の機嫌を窺うようなその首の傾げ具合に、陽子は思わず笑みを零した。
「はい。それでは許して差し上げます」
もう二度としないでくださいね。と、漸くこちらを向いた陽子が、笑いながら釘を刺すと、尚隆は至極真面目に頷いて見せた。その途端、先程から静かだった六太が堪え切れないように噴出し、人目も憚らず、大声で笑い出した。
「六太っ!!」
尚隆はすぐさま延麒を見咎めるが、六太の笑い声は止まらない。
「だってよ……あ〜腹いてぇ――」
苦しそうに身体をよじり、目じりにじんわりと涙を浮かべている少年に、尚隆はつかつかと歩み寄ると、その拳を垂直に振り下ろした。鈍い音と共に、六太の悲鳴が堂内に響く。
「いってぇ〜〜」あまりの激痛に、足をばたつかせる。
六太は横暴だ、麒麟虐待だののと抗議するが、尚隆はふんと冷たく鼻であしらい、
「当然だ。このど阿呆っ!!」
と言い放った。
「阿呆に阿呆と言われたかないねっ!」
「まだ言うかっ!!」
尚隆が再び拳を振り上げたので、陽子が慌てて止めに入った。
その様子を見た女官や侍官達は、台輔が危険に晒されているにもかかわらず、安堵したようだった。そして、六太の
「いってぇ〜〜〜!」
と言う叫び声が再び聞こえると、堪えきれないようにくすくすと笑い始めた。
「それにしても陽子はすげぇな」
六太は欄干の上で感嘆した。
「何がですか?」
出し抜けに言われた言葉の意味が分からず、朱衡は首を傾げた。
「だってよ、あの尚隆を謝らせたんだぜ」
朝食の席の一件を言っているらしい。朱衡はその場には居合わせていないが、人づてに聞いて知っている。玄英宮はこの噂で持ちきりだった。
二十歳にもならぬ、若い王があの延王に頭を下げさせた。
それだけでも凄いのだが、ひたすら機嫌を取らせたというところがさらに凄い。六太は思わず笑いを零す。
「ありゃ、大物だな」
だが、彼はそれだけではないことを知っている。
「あいつさ…‥何時もおちゃらけているけど、あれで人に否と言わせない雰囲気っていうか……させないっていうか…‥そういうところがあるからな…‥」
隙があるようでない。打ち解けているようで、一線を引いている。彼が演出する“延王”を、多くの人は彼と信じ込んでいるようであったが、実際はそうではない。寧(むし)ろ時折垣間見る、“尚隆”の方が、本来の彼と考えたほうが近い。その双眸は、常に安寧とは程遠い、暗い影をちらつかせていた。
どこか他人の介入を許さないようなところがある尚隆が、ひとり少女の前では、ただの“尚隆”だった。
あの女王は良い意味で、尚隆を変えていっている。
六太はふっと笑みを零す。
「泰台輔の一件もそうですが、主上は景王に甘くていらっしゃる。いっそのこと我々が政務に縛りつけるより、景王に“お願い”して頂く方が効率的で、尚且つ、確実ではないでしょうか?」
「それはあるかもしれん」帷湍は頷いた。
「陽子にベタ惚れだもんな」六太も同意した。
「妓楼街でならした奴も、惚れた女には形無しか」
そう考えると、いつもは憎たらしい主も、三割増で可愛らしく思える。
「そういうことですね。まぁ残念なのは、景王は他国の王だということです。効果的と言っても、景王のご滞在中にしかこの手は使えません」
しかも長期滞在限定である。
「まあ、ちょくちょく来て貰えばいいことだし」
「でもその度に、主上<狼>の番をしなくてはならぬ者達の、心労も慮(おもんぱか)って欲しいものだがな」
帷湍が大仰に溜息を吐いてみせると、一同は顔を見合わせてくつくつと穏やかな笑いを零した。
一頻り笑うと、六太は庭園に目を向ける。
尚隆が抱いているだろう感情は、雁を滅ぼすかもしれない。しかし、延麒の心中には不安以上に、言い知れぬ期待感が去来していた。
明るい夏の日の光に、六太は目を細める。その下に、主と暁色の髪の少女が居るのが見えた。
「ま、何とかなるさ」
六太がひとりごちると、呼応するように、日差しが一層の輝きを増した。
<了>
[月影の雫]
-1-
「いい天気だな」
陽子はぼそりと呟いて、持っていた筆を指先でくるりと回した。 その拍子に筆に含まれていた墨が飛んで書類に小さな染みを作る。
「陽子!その癖、やめなさいっていつも言ってるでしょう?」
言って、彼女の友人兼女御である祥瓊が眉根を寄せた。
悪い、と苦笑して陽子は再び姿勢を正す。 今日の分の書類はあと半数余り。 これなら二刻程で終わるだろうかといったところだ。 散漫になっていた注意を再び目の前の紙束に向ける。
「ついつい持ってるのがシャープペンシルじゃなくて筆だってことを忘れちゃうんだよね」
「それは前にも聞いたけど。 王が裁定の書類を汚すなんてみっともないわよ」
「わかってるよ。じゃ、悪いけど、これ読んでくれる?」
ため息をつく祥瓊に、陽子はあははと笑って書類を指差した。
--------------------------------------------------------------------------------
「ご苦労様。 これで最後よ」
読み終わった書類に御璽を求めて差し出すと、頷いてぺたんと朱印を押す。
やれやれと首を回す陽子の前には紙の束がふた山あった。 祥瓊と鈴が、それぞれをそろえて文箱に入れる。
「じゃ、これは再裁定ということで。 よろしくお願いしますね」
「こちらは認可済み。 浩瀚様の所へ」
執務室の入り口近くに控えた二人の文官にそれを渡す。 受け取った二人は一人は回廊を右へ、一人は左へと歩き出した。
「こうやってやり直しをさせるから、毎日すごい量になるのよねぇ」
文官の後姿を見送りながら大きなため息をつく鈴に陽子はしごく真面目な顔で答える。
「納得できない内容に承認の印は押せない。 当たり前の事だろう?」
それはそうだけど、と鈴も賛同はするが、毎日これでは陽子の身が持たないのではとつい心配をしてしまう。
「まったく。 我らの主上様には敵いませんわね」
祥瓊がふざけた調子で言って陽子をからかう。
「いえいえ、とんでも無い。 私の方こそ毎日それに付き合ってくれるお前達の暖かーい友情にもいつもは謝しているよ」
同じような口調で陽子も返し、鈴が「やだ」と言ってくすくすと笑う。
穏やかな日々。 健全な国。
こうして笑っていても、祥瓊はふと苦しくなるときがある。
あの頃もこうやって政務に興味を持てていれば、父は倒れずに済んだのだろうか。
今、こうしているように・・・国のために立ち働いていたなら、彼の国に今も住むことが許されていただろうか。
そこまで考えて、かぶりを振る。
(いいえ。 『もし』なんて言葉は無意味。 それにこれは国のためにやってるんじゃない。 私自身のためにやっていることだもの)
『もしも』など・・・過去に起こったことを悔やんでも詮無い事だ。 過去を変えることは誰にも不可能なのだから。
(そう。 私が愚かだったのは事実。 国を追われたのも事実。 でも愚かだった私を少しでも変えたくて、今、ここにいるのだから)
ため息をついて窓の緑を眺める友人を、陽子は黙って見上げていた。
表情を隠すことが上手い祥瓊がこんなにぼんやりするのは珍しい。
「じゃ、お茶にしましょうか。 用意してくるから、ちょっと待っててね」
雰囲気を察したのか、鈴が明るく声をかける。
二人に勿論異論があるわけもなく、 祥瓊も頷いて部屋を出ようとした。
そこに突然、遠くに女官の慌てふためいた声を聞いたが飛び込んでくる。
三人は顔を見合わせるが、首をひねる二人とは別に陽子は「とうとう来たか」などと苦笑している。
「ちょっと、どういうこと?」
つい詰問するような口調になる祥瓊に陽子は「今にわかる」と、取り合わないかった。
そうこうしている内に女官の声はどんどん近くなり、ぱたぱたと数人の物と思われる足音も聞こえてきた。
そこに混じっている「台輔」という単語に、鈴は困ったように眉根を寄せた。
「陽子・・・。また何かやったのね」
「いや。 やったと言うか、今までやらなかった私が悪かったと言うか・・・」
曖昧な答えを返す陽子に、二人は重いため息を吐いた。
「あー。 二人ともここは下がっていいから。 ・・・お茶はでも貰うことにするよ」
そう苦笑して促す陽子に当然とばかりに頷いて、二人は戸口に向かうために踵を返した。
「・・・あら」
「台輔」
果たしてそこに見付けたのは、眉間にしわを寄せて苦り切った顔をした麒麟の姿だった
-2-
「それじゃ、私達はこれで失礼します。 ・・・・台輔、何があったかは存じませんが、あんまり陽子をいじめないであげてくださいね」
そう言ってさざめき笑いながら二人の少女が退出すると部屋には重苦しい沈黙が横たわった。
「その様子だと・・・聞いたか?」
苦笑する主を黙って見やる。
それが無言の圧力になっているのが判っているのかいないのか。 陽子はため息をついた。
(ため息を吐くこいつをうとましいと思ったこともあったが・・・。 私も負けず劣らず、だな)
陽子自身は『ため息』という物が好きではない。 吐くのも吐かれるのも気が滅入る。
しかし、この僕の頑固さを考えると、これから行わなくてはならない説明と説得が難航するのはあまりにも想像に難(かた)くないのだ。
「あー。 お前が不満に思う理由は何だ? 一応、聞いてやる」
卓に肘をついて苦笑を滲ませながらの主の言葉に、景麒の眉はぴくりと跳ね上がる。
「一応、で御座いますか。 では『一応』進言することにいたしましょう。 何故、一度にあれほどの 人数を解雇なされた。 しかも半数が内殿の衛士。 これでは主上の御身辺が手薄に過ぎましょう」
「・・・・と言うか、今までが厚すぎたと私は思うのだが」
ぼそりと事も無げに返されて景麒は絶句する。
陽子はまだ何かを言い募ろうとする僕を手を挙げて制した。
口元の笑みを消し去ってまっすぐに彼の瞳をのぞき込む。
「調べたんだけど。 数代前の王の時代までは内殿の衛士はこれくらいの人数だったそうだぞ。 『女王』の時代になって急速に増えたようだな。 それで先代・・・つまり余王の頃にピークになってい る」
『余王』という言葉を口にするとき躊躇(ためら)ったのだが、事実故(ゆえ)に口にする。
現にその単語を耳にした景麒の肩がほんの一瞬揺れたように見えた。 しかし陽子はそれには気 付かない振りをして話を進めることにする 。
「まぁ女性だから身を守るためにはいた仕方無いと言ったところかもしれんが。 ・・・私には必要無いからな」
そう微笑みながらうそぶく主に、景麒が深く重いため息を吐いた。
「・・・主上。 お忘れかもしれませんが貴女も女性なのですよ」
「いや、忘れてなんかいないが・・・。 冗祐のお陰で多少腕には自身がある。 確かに過信は禁物 だがな。 それに残っているのは虎嘯達が選りすぐった強者揃いだから。 ・・・お前の心配はありがたいが」
がっくりと脱力する僕の様子に慌てて言い訳じみた反論を試みる。
景麒は焦っているのか、やけに饒舌な主に非難を込めた眼差しを送った。
一瞬、主に預けてある賓満を引き上げてしまおうかと考えたのだが、それで主の意見が翻るわけでも無い事は自明の理であると、しぶしぶながら思いとどまった。
もう一度息を吐いて、この事例については後に回す事と、頭を切り換える。 主は無理でも冢宰ならば。 そちらから説得をした方が賢明だろうという結論に達したのだ。
陽子は押し黙った景麒の姿に、つかの間これで終わりかと安堵したのだが、彼が再び口を開くのを見て心持ち身構える。
「それと、解雇されたもう半数である下男、下女の件もあります」
景麒が渋い顔で告げると、「ああ、それか」と息を吐いた。
陽子は衛士達と同時に、この金波宮に勤める仙ではない人間の半数以上を解雇してしまっていた。 しかも景麒に何の相談も無く。 朝議にさえ掛けてはおらず、完全な独断だった。
景麒は解雇された人間達があらかた下山した今日になって、ようやく官吏から報告を受けた。 顛末を聞かされた彼はまず呆気に取られ、その後急いで執務室を後にした。
内殿へと向かいながら景麒は苛立ちと腹立ちを覚える。 主が何を考えているのかまるで解らない。
しかもその者達を下山をさせた昨日は、景麒が所用で閑を取っていた日。 その周到さにいささか腹が立ったとしても致し方無いだろう。
「これでは宮の維持にさえ支障をきたしましょう。 一体どのようにお考えか」
「使わない部屋など閉めておけば良い。 煌びやかな庭など必要無い。 絹も玉も私には煩わしいだけだ」
「それでは示しが付きませぬ。 宮を訪れる他国の者にうらぶれた庭を見せるおつもりか。 そのよ うな・・・慶はまだまだ立ちゆかぬと公言するようなもの」
「親書を携えてくる者達は表面(おもてつら)だけ見て判断するような人間ではあるまい。 それに、 宮城よりも民を見れば、この国の様子は分かるだろう?」
「時には体裁も必要だと私は言っているのです」
陽子はむっつりと押し黙って髪を結わえた紐を解いた。
深紅の絹糸のような髪が、はらりと背に広がる。 きちんと櫛を通してあるだろうそれに頓着などかけらも見せず、がりがりと頭を掻いた。
その、甚だ(はなはだ) 女性らしくない仕草に景麒は眉をひそめる。
(参ったな。 予想以上に骨が折れる。 この麒麟は頑固だからな)
どれだけ行っても話し合いは平行線を辿っていた。
ある程度予想していたとは言え、この状況はあまりにも疲れる。 普段は口が上手くないと周知の景麒だが、奏上の時だけは油でも挿したかのように滑らかに言い募る。
それに押し切られることを恐れた陽子は、今回はまず行動を先んじた。
早計だったかと一瞬後悔がよぎったが、撤回するつもりは露ほどもあるわけが無く。
陽子はもう一度ため息を吐いた。
「・・・・悪かったよ」
「では」
「いや、下山させた下女達を呼び戻すつもりは無い」
「・・・主上?」
一度は自分の意見を汲んだかのように見えた主の言葉に、景麒は再び眉をひそめる。
(最近私は景麒のこんな顔しか見ていないな。 まぁ、『慈悲の獣』呼ばわりされている麒麟サマの事だ。 多分私の考えに間違いは無いだろうが・・・)
「・・・確かに、宮城の生活に慣れた者達に下界の生活は苦しかろう。 それは私も承知の上だ」
景麒の頬が微かに強張った。
図星を指したのを確信して、陽子は微かに笑う。
初勅で伏礼を排した時も確かに難色を示していた彼だったが、今回の剣幕は比では無い。
常から規律や慣習を重んじる傾向が強いが、それにしても頑強に過ぎた。 だから多分、『麒麟』としての基(もとい)に関わっているのだろうと考えたのだ。
「私が謝るのはお前に黙って決めた事と、それを強行した事についてだ。 解雇については・・・・正しいと思っている」
立ち上がると、背後の窓を開け放ち、意匠を凝らされた庭園を眺めた。
順に流していった視線をふいに止めると、それが景麒からも見えるようにほんの少し体をずらす。
「見えるか? あの庭園が」
主が指し示した庭園は雲海から突き出た山の一つにあった。 薄桃の雲のように見えるそれに、景麒の顔が軽く歪む。 陽子はその様子を無表情に眺めた。
視線の先には見事な桃の庭園があった。
幾代か前の女王の時代に造られ、余王もこよなく愛していたと聞いている。
それを、今代の王である陽子が閉鎖したのだ。
永遠に。
-3-
「あの桃花(とうか)園。 私が初めて金波宮を訪れたとき、あそこを見て驚いた。 この国は隅々まで荒廃していると聞いていたのに、あそこの花だけは見事に咲き誇っていたのだから」
景麒に倣うようにして霞がかかったような薄桃の庭園に視線を戻す。
雲海から流れてくる涼やかな風に解いた髪を嬲(なぶ)らせながら、初めてこの宮を見下ろした時の事を思い出していた。
偽王を討って後、騎獣から見下ろした堯天の様子。 雲海から幾つかの山が突きだしている様子は雁国で見慣れたもの。
しかし、小振りな山の中腹に広がる見事なその庭園に驚いた。
何故、荒廃しているはずのこの国に、こんなに花が咲いているのか。
問う陽子に笑いながら答えたのは延王だった。
この庭園は数代前の王によって造られ、それ以降金波宮の豊かさを体言しているとまで言われている庭園だ。 この庭まで枯れてしまえば次王に対する言い訳が立たぬと思うたのであろう。 そのため膨大な金子を掛けて、これを維持しているのだ、と・・・。
舒栄はこの庭園のすばらしさを姉から聞くに及び、どうしても手に入れたいと切望したそうだ。
それを聞き、皆が何度も口の端に乗せていた言葉を思い出した。
『偽王は宮城に上がれない』という言葉。
それは事実なのだろう。 舒栄は金波宮に一歩たりとて立ち入ることが出来なかった。
宮城の官吏達もそれは端から承知だったのか、最初は彼女の事など取り合わなかった聞いた。
自分は王なのだから宮城を明け渡せと主張する彼女を無視し、王不在の間の慣例として宮城の維持は滞り無く行われていたそうだ。
そしてそれは戦をしている間も何の疑念も無く続けられたと言う。
(維持言えば聞こえが良いかもしれんが、なんと愚かな。 戦の間も民は飢え続けていたと言うのに)
だが、後に陽子が本格的に政務に乗り出してからそれが皮肉にも功を奏する事になる。 手入れが行き届いていた分、玉や玻璃、陽子が不要だと断じた衣服などを高値で卸すことが出来たのだ。
その時ばかりは彼らに感謝したい気分だったのだが 。
「売り払える物はあらかた売り払った。 だからそれを手入れする為の人間は必要ない。 あの桃花園だってそうだ。 あそこは一年中花を咲かせておくために、肥料を与え、土を変え、時には木を植え替えてしまうそうだな。 あの桃を一本養う為にかかる費用で一体何人の浮民が養えると思う? 私はそんなに間違ったことをしているのか?」
勁(つよ)い視線と共に問われ、景麒は思わず言葉に詰まる。
確かに主の意見は正しいのだろう。 それは良く分かる。
しかし、景麒には景麒の思惑もあるのだ。
(これでは・・・・主上の御身辺が手薄になり過ぎる。 奚(げじょ)共は、ただ下働きの為だけに雇っているのでは無いのだと申し上げてもおそらくお怒りになるだけだろうが)
景麒は拳を握りしめる。
大げさな身辺擁護を是(ぜ)としない主の安全の為にと、下働きの者達を不自然でない程度に、多めに配することにしてあったのだ。もちろん主には内密にしてある。知ればその翡翠の瞳に炎を宿らせることになると分かっていたからだ。
周りに兵では無くとも人間の目があれば襲撃の確率は格段に下がる。最悪の場合、その者達が主の盾になれば良い。
陽子が考えている『麒麟』とはかけ離れた考えだろうが、景麒にとってそれはある意味自然とも言えた。
(主上はこの国で一番重要な御方。 主上のご無事は何物にも換えられはすまい)
先ほど言い当てられた彼の者達を哀れむ心が真(まこと)ならば、この無情とも思える心もまた真。
どう答えれば主の心を変えることが出来るのか、考えはすれど答えは出ない。
言い淀む景麒の様子に何を思ったか、陽子は宙を仰いで小さくため息を吐いた。
「私とて必要な物まで手放すつもりは無い。 ただ過分な物を必要無いと言っているだけだ。 この国が隅々まで潤って後(のち)なら受け取っても良いがな」
それでは遅い、と焦りにも似た思いが景麒の胸を焼く。
今、この瞬間の彼女の安寧の為ならば何を払っても惜しくは無いのに、何故主にそれが分からないのか。
まだまだこの国には不安がつきまとうと言うのに。
『女王』を是(ぜ)としない輩。
『賢帝』を是としない輩。
もしも自分の目が届かないところで主の血が流れるような事があれば 。
ふと、爪が食い込みそうなほど強く握った拳に気が付いた。 あまりにも思い詰めている自分を自覚して苦笑を漏らす。
(・・・詮無い事を。 仮定で物事を考えるとは)
軽く頭を振ってくだらない考えを振り落とす。
叶うならば、真綿で縛ってでも主の身を守りたい。 しかし、それでは彼女が彼女で無くなってしまう。 その気性、心根、頑固さまでもが、鮮やかなまでの主の『王気』を作り出している基(もとい)なのだから。
そしてまた思考はふりだしに戻る。
(主上にも私にも、譲れない一線と言う物がある。 此度(こたび)はそれが顕著になったまでのことかもしれぬ。 かくなる上は、冢宰や老師とも図るべきであろう)
その間は自分の使令をそば近くに寄せることになるのだろうがと、諦めにも似た考えに苦笑が漏れた。
「・・・・・承知いたしました。」
やがてぽつりと紡がれた僕の言葉に、陽子は詰めていた息を吐いた。
相変わらず彼の眉間には細い縦皺が寄っていたが、自分の意見を通せた事にこっそりと安堵する。
陽子にとっても今回の勅令は一種の賭だったのだ。
常はどんな細かい事柄でも官吏や僕に測って決裁をしてきた。 自信が無いと卑屈になっている訳では無い。 客観性を第一に考えたためだった。
政(まつりごと)は決して独りよがりで執り行って良い物ではない。
己の欲のままに国を治めた時、それは容易(たやす)く滅びへの道へと続く。
それが怖かった。
過去の王達の記録を見ていると、最初はどんなに『賢帝』と呼ばれている王もいつしか独裁が目立つようになり、やがて他の王と並ぶようになる。
あの『懐達』と言われている達王でさえも 。
陽子は唇を噛んだ。
己がいつそれに倣うことになるか、自分自身では知る由も無い。 想像さえ出来ない。
しかし、延王が語るように 『いつか』 『必ず』。 それは訪れるのだ。
自分がするべきなのは、それを出来るだけ先延ばしにすること。 逆を言えば、それしか出来ないのだ。
(だから、『今』 『出来ること』 を精一杯やるんだ)
そこまで考えて くつりと自嘲したような笑みを漏らす。
(・・・・いいや。 言い訳だ)
誰にもうち明けた事は無かったが、陽子はあの庭が好きでは無かった。
あそこに入ると、いろいろな事が目について居心地が悪かった。
地に額を擦り付ける男達。肥料が撒かれているのだろう、起こされた土。 視線を空に転じれば、空を覆うように咲き誇る薄紅の花。
そこは人の手で作られた、この世の摂理から切り離された庭だった。
だが、皆は事あるごとにそこに行けと進言をする。
他の王達と同じように心安くなれるからと、そう言って。
それを正直、煩わしいとさえ感じた。
だから閉ざした。 題目だけは大層なことを並び立てて。 結果としては国の為になるのだと皆を偽って。
(ただのわがままだな。 私の)
陽子は小さくため息を吐いた。
-4-
「はい、これでおしまいっと」
呟きながら手元の書類にぺたりと御璽を押しつける。 赤々と、目にも鮮やかに押された朱印に陽子は満足気な息を吐いた。
「お疲れさま。 ・・・今日は再裁定は無し?」
文箱の一つを覗き込みながら鈴が問う。 珍しい、と語る目を見返して快活に笑った。
「たまにはそんなこともあるさ。 そもそもこの季節は冬が終わりかけで灌漑工事も一区切り付く所だからね。 ちょっと余裕が出来る」
こちらは日本と違い、一年の計は年の終わりに行う。 そのため早春のこの時節は、ほぼ前年末に立てた予定通りに国政は進み、自然と書類も少なめになる傾向がある。
それでも登極当時は目の回るほどの忙しさだったのだが・・・。 ここ数年になってようやく落ち着きを得たという感があった。
「今日は早く終わったみたいね。 一休みしましょ?」
書の道具と御璽を片づけた所に、タイミング良く祥瓊が茶を持って現れた。
湯飲みに甘い香りの茶を注ぎながら裁定済みの書類を携えた官が部屋を去るのを待って、二人は主兼友人に向き直る。
「ときに、主上。 少々進言したい事柄があるのですが?」
いたずらっぽく笑いながら人差し指を立てる祥瓊に、陽子は多少身構えもながら「なんだ?」と先を促した。
「いい加減に執務室を元の房室(へや)に戻したら? ここは手狭に過ぎるわよ?」
言われて陽子はぐるりと周囲を見回す。
主な書類は裁定や認可を済ませるとそれぞれ担当の官の元に流れて行き、陽子の執務室に残る物は少ない。 しかし少ないと言えど手元に残すべき書類もあり、在位から両手では足りないほどの年月を重ねた今は房室の壁という壁一面に棚がしつらえられ、巻物や文箱が所狭しと積み上げられている。 『こちらは地震が無くて良い』と笑うのに呆れられることもしばしばだった。
「・・・面倒だから、いい」
眉間に細かい皺を作ってぼそりと呟く『景王』に、二人はそろってため息を吐いた。
「そういうわけにはいかないでしょう。 もうここだってどこに何があるんだか。 貴方にだって分かってないでしょうに」
「いいんだってば」
いつになく頑(かたく)なな陽子にとまどいを隠せない様子で二人は顔を見合わせる。
(・・・言えるものか。 あの庭を見たくないから執務室を移動させたなどと )
憮然とした顔で腕を組んで背もたれに体を預ける。 そのままずるりと腰をずらして瞑目した。
あの桃花園を閉ざしていくらもたたない頃、陽子は執務室を別の房室に移してしまっていた。 『広すぎて落ち着かない』 『能率が悪い』 『こんなに立派な房室は必要ない』等々。 いくつも言い訳を用意して皆を納得させていた。
結果としては少ない人数で宮城を運営するために使用する区域を狭める、という主旨の元に希望は叶うこととなる。
それから十数年 あの庭の事を口にする人間はいなくなってしまった。
だが、陽子の胸にあの庭は、小さな棘のように刺さっていていつになっても消えてくれない。
今となって考えれば、自分があの庭に抱いていた一番の感情は『違和感』だった。
人の手によって作られた庭は、まるで己自身を写す鏡のように、表面だけ取り繕った不自然な存在だと感じられていた。
だから見るのが辛かったのだ。
(我ながら浅かったと言おうか、若かったと言おうか・・・・)
くつりと苦笑して、目を開いた。
「なに笑ってるの?」
「いや、何でもないよ」
首を振ってみせると、相変わらず友人達は「しょうがないわね」と呆れた顔をしながらも笑みを見せる。
こうやっていつも甘やかしてくれるから、自分は以前に比べ、少なからず我が儘になってしまったように思える。
だめだなぁと一人ごちながら、茶をすする。 ずるいと自覚しながらも、自分の浅さを二人に説明するのは止めにして、問う眼差しには気づかない振りをした。
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一緒に夕餉を摂った後、祥瓊と鈴は仕事があるから、と退出してしまった。
すでに二人はこの金波宮では『古参』の女史と女御になってしまっている。 自然、任せられる仕事も多く、三人がそろって顔を合わせることなどめっきり少なくなってしまっていた。
(昔は私の都合が一番つきにくかったのにな)
ため息を漏らして茶のおかわりを湯飲みに注ぐ。
以前は、陽子がこういった細々としたことをやろうとすると、慌てて女御達が飛んできて取り上げられてしまったものだ。 「そのような事は王の仕事では無い」と言って。
だが、『従順な女の子』として育てられた陽子には、その程度の事で他人の手を煩させることに抵抗があったため、閑があれば自分自身の事は自分でやるようにしていた。 ただ、着替えだけは手に負えずに任せきりにしていたが。
(『自分達の仕事を取り上げてくれるな』と泣かれた事もあったな)
しかし、今では陽子が呼ばない限り放っておいてくれるようになった。 この十数年の攻防が思い出されて、ちらりと笑う。
「・・・誰だ?」
さらり、と御簾がゆれる音が微かに耳に届いて振り返る。
覗いたのは金色の髪。 見慣れた色に、微かな笑みが浮かぶ。
「珍しいな。こんな時間に姿を見せるなんて。何かあったか?」
「何か・・・と言う程のこともございませんが・・・」
いつもともすれば傍若無人だと言われる程遠慮の無い下僕の、わずかに躊躇いを見せる様子に陽子は小首を傾げる。
(こいつがこんな様子を見せるのはろくでもない問題を持ってくるときかお小言かどっちかだが。 今日はどっちだ?)
「 少々お時間を頂いてもよろしいか」
遠慮がちに問われた陽子は驚いて目を見張った。 ますますもって常と違う、やけに殊勝な彼の様子に戸惑うばかりだった。
「いや。 もう寝るだけだからいいけど。 どうしたんだ? 何かあったのか?」
にわかに不安が頭をもたげ、陽子は僕の元に歩み寄った。
「・・・班渠」
「え? ・・・うわ!?」
景麒が小さく声を使令の名を呼ぶと同時に、陽子の足下から見慣れた獣がゆるりと立ち上がる。
その腹につまづいて、背に倒れ込む形になった。
「何!!??」
驚く陽子を余所に、使令は軽やかに床を蹴り、いつの間にか開けられていた大きな仏蘭西窓から飛び出して、そのままふわりと夜空に舞い上がる。
目の前に広がる夜の闇は濃く、陽子は一瞬自分が今いる場所を見失っていた。
「何を企んでいるんだ、あいつはっ」
思わず愚痴をこぼすと、獣の口からくつりと苦笑めいたものが聞こえてきた。
「おい、どういうことだ?」
「それは私からは何とも。・・・台輔にお聞きくださいませ」
曖昧な返答を返す獣にため息が漏れる。
見上げた空は相変わらず厚い雲に覆われていて、辺の様子は伺い知れない。
(なんだかなぁ)
振り返って僕の様子を知ろうとしたが、ふいに下降に転じた使令に出鼻をくじかれてしまう。
飛んだのはほんのわずかな時間だった。
例えるならば宮城の端から端まで移動するくらいの・・・・。
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さわさわと柔らかな草が風にあおられている場所に足をつけ、陽子は再び戸惑う。
雲海を抜けた気配は無かった。 つまりはここはまだ堯天山の『どこか』だと言うことだ。
濃い草の匂いと一緒に甘い香りが鼻をつく。
(花の香? 何の花の・・・)
くん、と鼻を鳴らした時、かさりと音がして見知った気配と服に焚きしめられた香の香りに気が付いた。
「景麒? これは一体どういうことだ」
やや強い口調で問うが、それには沈黙を返されて僅かに頬に朱が昇る。
陽子は景麒や使令達と違い夜目が効かない。 そのため、辺りの様子が分からず苛立ちが募る。
判っているのはここは人の手など入っていない、ごく自然な場所ということだけだ。
「景麒!」
思わず声を荒げると、小さな小さなため息のようにも聞こえる笑い声が聞こえた。
「芥瑚」
「・・・はい」
声と同時に目の前に灯りが灯った。
驚いて半歩ほど退くと、そこには燭を手にした景麒の姿があった。 その明かりは小さな物だったが、闇に慣れた目には刺すように眩く感じられる。
「なんの・・・」
つもりだ、と問おうとした瞬間。 あれほど夜空を厚く覆っていた雲が彼方に去り、月の光が射し込んできた。
そして今、自分が立っている場所を目にして陽子は絶句する。
辺りには花びらが舞っていた。 薄桃色の、ちいさな花びらがひらひらと 。
同時にやわらかな風が頬を撫で、先ほど気付いた甘い香りが鼻先をくすぐる。
昼間ならばただ『美しい』と感嘆するであろう眺めだが、燭と月の、わずかな光の中に浮かびあがったそれらは幽玄で胸に迫る。
「 ここは」
「貴方がお捨てになった桃の庭でございます」
呆然とした体の主を半ば無視するように、淡々と告げる。
「今日が盛りかと。 貴方はお忘れになっているようですのでお連れいたしましたが・・・。 ご迷惑でしたか?」
少しもそうは思っていないような口調で問う。
陽子は目を見開いて空を見上げ、ついで辺りをぐるりと見回した。
薄桃の空。 あれほど見るのが苦しかった庭。
それが、なんと美しいことか。
忘れたことなど無かった。
いつも花が咲く季節になると思い出した。
過去の王が愛でた木々。 予王が愛した花。 自分が壊した楽園を。
「・・・・景麒」
「はい」
「ここは、いつから・・・」
そのまま言葉を繋げることができない主に、ため息を一つ贈って答える。
「閉ざされてから数年の内は荒れ果て、見る影もございませんでした。 ですが・・・。 ここ数年です。 この木々がまた花を付け始めたのは。 そして、今年がもっとも美しいと存じます」
見回すと、確かに人の手は入っていない様子だった。 その証拠に二人の足元は膝丈ほどもある草についた露でしっとりと湿っている。
幹には薄い苔がこびり付いて所々緑の模様に彩られ、剪定(せんてい)のされていない枝はあらん限りの力でもって伸びたように見える。
ほんのわずかに見える土も、舞い降りた花弁に覆われて薄桃の絨毯をひいているようだ。
陽子は何故か泣きたくなった。
目の前に広がる庭は、あのころよりも何倍も美しく見えた。
人の手を借りずともただひたすらに、力強く生きているこの木々が愛しかった。
「 まだ、ここがお嫌いか」
静かに問われ、ゆっくりと振り返った。
どういう意味だと目で問い返しても、ふいと視線をはずされて答えは得られない。
陽子は小さいため息をついて瞑目する。
「ああ。 嫌い『だった』な。 今は・・・」
悪くない、と景麒が聞き取れない程小さく呟いて、甘い香りと緑の香りを大きく吸い込んだ。
そのまま無言で二人は立ちつくす。
その上には相変わらず小さい薄桃の花弁が舞っていた。
一枚、二枚と肩に、頭に降り積もるそれを手にとって、陽子は小さく微笑む。
「帰ろうか、景麒」
唐突に踵を返した主に、一瞬景麒の瞳が曇った。
「明日は執務室の引っ越しだ。 今の房室は手狭になったから。 ・・・昔使っていたあの房室に、戻すぞ」
班渠、と使令を呼ぶ声は少しだけ嬉しげに聞こえ、景麒の口元もわずかに緩む。
「景麒」
「はい」
「お前はこの庭が・・・好きか?」
問いながら振り返ると、静かに微笑む僕の姿があった。
「はい。 好いていると思います。 昔よりも、一層」
「・・・そうか。 また来よう。 今度は、昼間にな」
「はい」
見上げると、花々の間に丸い月が煌々と照っている。
そしてその光は足元をほの明るく照らし、歩みを容易くしてくれていた。
「ありがとう」
小さく呟く。
月に、花に、木々に、草に。
それから、己の半身に。
ありったけの想いを込めて。
[乞巧奠(きこうでん)]
たなばた(棚機・七夕):五節句の一。(中略)七月七日夜、星を祭る年中行事。中国伝来の乞巧奠の風習とわが国固有の「たなばたつめ」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、(中略)書道や裁縫の上達を祈る。(広辞苑より)
「いつもやっていることじゃないか。なんで今日に限って駄目なんだ」
金波宮の一角に、陽子の不機嫌な声が響いた。今日の陽子はいつも以上にあっさりした袍を来て、腰には水禺刀を差している。
「今日は乞巧奠にございます」
「知っている。乞巧奠は王の行う祭礼とは異なり、民の祭りだ。王宮に私がいなくてはならないという理由はないだろう」
「ですが、王宮にいらしていただかない理由もございません」
いつも冷静な冢宰が表情も変えずに淡々と答えた。
「私は王だ。王が民の様子を知りたいと思うのは当然だろう。この慶の国で今、民にどれほど祭りを行う力があるのか、私は知りたい」
「そのお心映えは大変ご立派なものとは存じます。しかし、乞巧奠は星の祭り、夜の祭りにございます」
「分かっている。だからこの時間になって出ようとしているのだ。今日の政務は片づけた。問題なかろう」
「いえ、それでなくとも祭りには不逞の輩が集まりがちなもの。まして夜でございます。御身にもしものことがございましたら……」
「使令は連れて行く。それで十分だろう」
「いいえ、せめて兵を一伍、いえ、二・三伍お連れください」
「そんなにぞろぞろ引き連れて歩いたら迷惑だろうが」
双方うんざりした顔で言い合っているところへ、下官が走ってきた。
「ただいま延国王がおいでに……」
言い終わらないうちに当人が姿を現す。
「勝手に通ったぞ。何をもめていたのだ?」
事情を聞いた延国王は破顔した。
「では、俺が陽子の護衛を引き受けよう」
「そんな」
「それではあまりに……」
陽子と冢宰が同時に叫ぶ。
「それとも俺の腕前では頼りにならんと?」
十二国一とうたわれる剣豪にこう言われて言い返せる者はいない。それ以上一同に口を開く余裕を与えずに、延王は陽子の手を引いた。
「では行こう」
廊下を大股で歩く延王に、陽子は小走りでついて行く。
「あ、あの、延王は何かご用事でおいでになったのでは……」
「ああ、そうだ」
延王は振り返って笑った。
「陽子を乞巧奠に誘いに来たのだ」
尭天に降り立った陽子は空を見上げた。一年中過ごし易い天上の王宮とは違い、尭天の空気は昼間の熱気を残してむっと湿っている。柔らかく吹いて来る風がその熱気を払って心地よい。紫色に染まった夕空に、一つ、二つと星が輝き始めていた。
「とても間に海があるとは思えないな」
それは一人言だったのだけれど、思いがけず返事があった。
「確かにな。俺のいた頃、蓬莱では星の中に川が流れているのだと言われていたが」
「それって、もしかして天の川……」
「そうだ。今でも蓬莱ではそう言われているのか」
延王の言葉の中には意外そうな響きがあった。延麒の話しを聞く限り、五百年という時の流れは祖国を全く違う異国にしてしまったと思っていたのだが。
少し考えてから陽子は答えた。
「川があると信じているわけではないけれど、天の川の名前は今でも使われています」
惑星だの銀河系だのといった話しを持ち出す気にはなれなかった。空に海がある世界では、まだしも天に川がある方が納得できる。
ゆっくりと歩きながら、陽子は尋ねた。
「蓬莱の昔話で、天のあちらとこちらに分けられてしまった恋人達の話し。ご存知ですか」
「ああ、七夕と言った。子供の頃、七夕の晩には、書が上手くなるようにと願わされたな」
もうとうに忘れたと思っていた、五百年前の記憶。
「へぇ。書が上手くなるように」
「そうだ。男子は書が、そして女の子は裁縫が上手くなるように願を掛けるのが習わしだった」
「私の場合、女なんですけど、裁縫よりも書をなんとかしなければいけないんですよね」
溜め息混じりに陽子は言う。
「苦労しているようだな」
「本当、自分の能力の無さが嫌になってしまう」
「何、そんなもの百年もすれば慣れる。焦らずやるのだな」
「百年ですか」
「一応星に願っておくか?」
「え?」
何のことか分からないという表情をした陽子に、延王は怪訝な顔をした。
「知らなかったのか。今日がその七夕だ。もっともこちらでは七夕とは言わず乞巧奠と言うのだがな」
「知りませんでした。ただの夏祭りかと……。」
「もっとも同じのは星の祭りという部分だけだが。そもそもこちらの人は祈るということをせんからな」
言っておいて延王は陽子の顔を覗き込んだ。
「誘わない方が良かったかな」
「え、いいえ。とんでもない。大体一人でも来ようと思っていたんだし。このくらいで里心がつくほど弱くはありません」
見上げた陽子の頭をくしゃっと撫でて、延王は陽子の手を取り、自分の腕に絡めさせた。
「人が増えて来た。はぐれないようにくっついていろ」
「延王」
「ついでにその呼び方も困る。尚隆でいい」
言われて見れば街の中心部に近づくにつれ、辺りは祭りらしい賑わいを見せ始め、往来の雑踏も密度を増してきた。
「はい……尚隆」
腕に捉まったまま見上げて微笑む。少し照れ臭い。
そんな陽子から見えないように尚隆は苦笑いをした。この屈託のなさ。恥じらいでもすればまだ脈もあるだろうに。
明るい夏の夜に、点々と灯された提灯の明かりが滲む。大通りのあちこちに出店があり、人々が冷やかすように覗いて行く。その顔は一様に明るい。よく見ればその多くの袍子はつぎを幾重にも当てられたものであり、売られているものもごくごく素朴な食べ物や玩具、質素な飾り物に過ぎないのだが、それでもその光景は陽子の心を和ませるには十分だった。
「よかった」
嬉しげな陽子に、尚隆は何がとも聞かずに言う。
「これがお前のもたらしたものだ」
陽子は心底嬉しそうに微笑んだが、ふと眉を曇らせた。
「でも、延……尚隆の目には、なんて貧しい、みすぼらしい祭りだろうと映るのでしょう?」
尚隆は苦笑した。
「焦るな。そうそう一度に全てを手に入れることはできない」
「はい……。分かってはいるのですが」
唇を噛んで下を向いた陽子に、尚隆は続けた。
「それに、祭りが華やかに輝けば、それだけ闇もまた濃くなる。皆が一様に貧しい方が、幸いの多い祭りなのかもしれない」
尚隆の目に浮かぶのは、華やかな雁の星祭り。目にも鮮やかな、夜空を焦がすような提灯の連なり。いつ果てるともわからない夜店の列。精巧な細工物を品定めする着飾った娘達。玩具を握り締めて手を引かれる子供の笑顔。……そして、その光景を暗い目で見詰める光の届かない角にうずくまる荒民達。あるいはもっと心やましい所業に及ぶ者達。どのように手を尽くしても救いきれない人々。
それらの光景が全て陽子に伝わったのではなかっただろうが、それでも陽子は尚隆を真っ直ぐに見上げた。
「王の悩みは尽きることはないのですね」
「当たり前だ。そこに民がいる限り、少しでもよい暮らしを望む心はなくならない。急いでも無駄だ。のんびり構えることだな」
「はい」
そぞろ歩いて行くと、ひときわ明るい一角が目に付いた。
「あれは、里祠ですよね」
普段は静かな里祠には、何故か沢山の蝋燭が灯され、静かに輝いている。
「七日に願った子は良い子になる。特に星祭りの夜に願った子は美しくなる。そんな言い伝えがあってな」
「へぇぇ」
二人の前を何組みもの男女が静かに廟に入って行く。
「きっと陽子を願った親も、星祭りの夜に帯をかけたのだろう」
自分の誕生を願った親がこの世界に居た。その考えはとても不思議で、暖かい。そこまで思って陽子は唐突に言われた意味を理解した。
「え」
「陽子は美人だ、と言ったのだ」
顔が火照って赤くなったのが自分でも分かった。今更のように絡めた腕の温かさが気になった。
その時、二人の後ろから声を掛けた者がいた。
「やあ、風漢じゃないか」
「利広」
名を呼んでおいて、尚隆は露骨に嫌な顔をした。
「何でこんなところにいる。慶はまだ興ったばかり、当分倒れはせんぞ」
「私は風漢と違って、これから栄えそうなところにも来るのさ。それより、そちらが例の赤髪の美少女だね。風漢が随分肩入れしていると聞いて、是非お目にかかりたいと思っていたんだ。私は運がいい」
そう言うと利広は陽子に向き直り、にっこりと笑いかけた。
「はじめまして。利広と呼んでください」
「こんな奴に挨拶などせんでいい。ただのろくでなしの風来坊だ」
「酷い言われようだな」
さして怒った風もなく利広は言った。
誰なのだろう、と陽子は思う。歳の頃は二十二、三、身なりからすると尚隆の言うようにただの風来坊とはとても思えない。何よりも会話の端々、その落ち着き払った表情から、こちらが何者なのか承知していて、それでも気軽に話し掛けてくる気配がありありと伝わって来る。
「はじめまして。陽子です」
とりあえず短く挨拶すると、利広は人の良さそうな微笑みを見せた。
「陽子は星祭りは初めてかな」
「ええ」
「じゃあ案内してあげよう」
「余計なお世話だ」
思いきり嫌な顔をした尚隆に、利広は頓着しない。
「あんな年寄り放っておいて、ほら、行こう」
陽子の空いた方の手を引く。
「何が年寄りだ。俺の方がお前より百も若いだろうが」
「え?」
聞きとがめて陽子が尚隆を見上げた。
「細かい事は気にしないの。見た目は私の方が若いんだから」
突然陽子は以前延麒に聞いた話しを思い出した。王宮に居着かず、諸国をふらつく奏の太子。ではこれが……。
驚いて顔をまじまじと見詰めた陽子を、利広は面白そうに見返した。
「ふうん。陽子はよくお勉強しているようだね。さすがだなあ。そこのろくでなしとは違うね」
「なんだと」
「ははは、冗談だよ。ほら、陽子行こう」
「だからその手を放せと言っているのだ」
「ほら陽子、おいでよ」
尚隆の渋い顔を利広は気にも留めない。
「ほら、ごらん、面白いだろう、この玩具」
「ええ。素朴だけど、よくできている」
「欲しい?」
「そうだな。桂桂……、知り合いの子にお土産にしようかな」
「じゃあお近付きの印に私が買ってあげよう」
「そんな、悪いです」
「だめだめ、こういう時はよそ者にお金をたっぷり使わせて、慶の民の懐に落とさせなきゃ。そっちの年寄りからもたっぷりふんだくってやりなさい」
「はあ」
すっかり利広のペースで歩くうち、一つの露店の前にさしかかったとたん、陽子の表情が一変した。
「あれは」
思わず駆け寄り、下を向いていた店の主人に声を掛ける。
「おじさん、おじさん海客? 大阪の人?」
提灯の下に、いくつもの丸いへこみが穿たれた鉄板があり、その上で丸くて茶色いものが焼かれていた。そう、それはどう見ても――たこ焼きだった。
焼き上がった玉を二つ、三つずつ串に刺し、木の皮を薄く削いだ器に乗せていた男が驚いて顔を上げた。不思議そうな顔を見て、陽子はすぐに自分が間違えた事を知った。男の目の色は、海客ではありえないものだったから。
「あ、ごめんなさい……」
しょんぼりとした陽子の後ろで、利広が尚隆に問いかけの視線を送ったが、尚隆も何が起こったか分からなかったらしい。首を素早く横に振った。
「どうしたの?」
優しく利広が尋ねた。
「ああ、ごめんなさい」
「焼小幸がどうかした?」
「これ、焼小幸って言うんだ。これとそっくりなのが蓬莱にもあって、縁日でよく……」
普通に話していたつもりだったのに、陽子の目からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「あ、れ、何で涙が……」
出るんだろう、と口の中で呟いたが、声は出なかった。
「蓬莱を思い出したのか」
そっと尚隆が聞いた。
「はい、……ごめんなさい、涙が勝手に……」
そんな陽子の手を引いて、尚隆はすぐ脇の暗い路地に入った。ぎゅっと抱き寄せ、優しく陽子の頭を自分の胸に押しつけた。
「大丈夫です。ごめんなさい」
「泣いていい。泣いていいんだ。ここは王宮ではないのだから」
利広はそっとその場を離れた。
王は人前では泣いてはいけない。王は常に自信に満ちて人々の前にあらねばならない。太子が泣くことは許されても、人目の多い王宮で王が泣くことは許されないのだ。
利広の背に、密やかな鳴咽が聞えてきた。
「お父さん……」
確かに、そう、聞こえた。
あれは、たしか小学生の時だった。家族三人で行った縁日。串の先でくるくると回して作るたこ焼きが面白くて、じっと見ていた。食べたいと言ったが、お父さんが首を横に振った。
「食べながら歩くなんてみっともない」
お母さんも言った。
「外で売っている物なんて不潔だから。何が入っているかわからないし」
とても残念だったけれど、それ以上欲しがることはできなかった。そうしたら数日後、お父さんが家庭用のたこ焼き器を買ってきたのだ。お母さんと二人で、いくつも失敗して、やっと上手に焼けたたこ焼きを肴に、お父さんは美味しそうにビールを飲んだ……。
ひとしきり泣いて、ふと陽子は自分が抱き締められていることに気付いた。慌てて身を離す。
「あ、ご、ごめんなさい。服、汚してしまって」
「いい、服など。落ち着いたか」
尚隆の笑顔は優しい。
「はい」
自分でも酷い顔をしているだろうと分かる。急に恥ずかしくなった。見回すと小さな井戸があった。
「顔洗ってきます」
ばしゃばしゃと音を立てて何度も顔を洗った。持っていた手巾で顔を拭う。
「気が済んだかい」
声に振り返ると利広が立っていた。手に焼小幸の皿を持っている。
「ほら、熱いうちに食べよう」
礼を言って一つ口に含んだ。
「あ、甘い」
中に餡が入っていた。見た目はたこ焼きだが、味はむしろ鯛焼きに近い。
「焼小幸は甘いものだが」
言いながら尚隆もひょいと口に入れる。
「蓬莱のは甘くないんです」
「焼小幸を最初に作ったのは海客だそうだよ」
自分も一つつまみながら利広が言った。
「まだ最近――二十年くらい前のことかな。形が丸くて面白いと広まって、今では十二国中の夜店で普通に売られている」
「そうだったんですか」
ふ、と思いを馳せる。言葉も通じない異国でたこ焼き屋を始める男の姿。型は何とか作れても、肝心の材料がない。かつお節、ソース、紅しょうが。それでは、と鯛焼きの材料を思い浮かべたのだろうか。何とか作った後も、すぐに売れるとは限らない。苦労を重ねていつしか広まる常世のたこ焼き。それを焼小幸と名づけたのは本人だろうか。
くすり、と陽子の口から笑みが零れた。
「私も頑張らなくちゃ」
呟いて陽子は背筋を伸ばし、二人を見上げた。
「泣いたりして済みませんでした。もう大丈夫です。言葉も通じない海客がこんなに頑張っているんだから、私が泣いているわけにはいかないですよね」
強く輝く碧の瞳。
「私、帰ります。まだまだやらなくてはいけないことが沢山あるから」
ああ、風漢が離れられない訳だ、と利広は得心した。いかにも頼りなく幼い風情と、一転して見せる強い意志。
「陽子。きみが私や風漢の運命を変えるんだ」
「……」
「常世は動き出した、きみを中心に」
利広は陽子の手を取り、甲に軽く口付けした。
「あ」
「おまえっ」
「おっと」
すっと伸びてきた尚隆の腕を躱し、利広は陽子の手を放して飛び下がった。
「じゃあね、陽子。頑張って」
「は、はい。今日はありがとうございました」
「風漢は悪い奴だからね。気を許しちゃ駄目だよ」
「おい」
「風漢も元気で。今度会う時は本名かもね」
ろくでなし、さっさとくたばれという答えに笑って手を振り、利広は人込みの中に消えて行った。
行きましょう、と尚隆の腕を取り、陽子は元気よく歩き出した。
こう門を目指して歩きながら、利広め、と尚隆は思う。そう、確かに常世はこの少女を中心に動き始めている。本人は何も気付かないまま。五百年間、公式には一度も会ったことのない奏の太子に、いよいよ対面する日も近いのかもしれない。この少女に出会って、自分の運命も、そしてあの風来坊の運命も動き出した気がする。
「尚隆、何か?」
不思議そうに見上げて陽子が尋ねた。
「何でもない。星が綺麗だな」
「ええ、とっても」
陽子は無邪気に笑った。その笑顔のどこにも、自分の力を自覚した様子はない。
できれば、と尚隆は願う。できれば、この少女の近くにずっといられるように。自分が少しでも盾となり、これから間違いなく降りかかるであろう少女の苦痛を少しでも和らげてやることができるように。
そして、できれば――。
尚隆はそっと少女の笑顔を盗み見た。視線に気付いて少女はにっこりともの問いたげに尚隆を見上げる。
まあいいさ、尚隆は呟く。名前も呼ばせたし、腕も組んだ。思いがけないほど華奢な身体の感触がまだ腕に残っている。今日のところはそれでよしとしよう。
尚隆は夜空を仰いで微笑んだ。
[耳掻き]
男は女に、自分の中指ほどの長さの木の棒を差し出した。女はそれだけで男の意を汲んで頷く。男は頬を紅潮させて、破顔した。
女は榻の端のほうに腰掛けて、自分の膝の上を男に示す。恥らうように俯いた顔は、ほんのりと赤く染まっていた。男は女の隣に座り、女の膝の上に自分の頭を乗せた。女は男の耳を引っ張り、そこに開いている穴を覗き込む。そして、男に渡された木の棒をその中に突っ込んだ。耳の穴のなかをかきまぜるようにしてまさぐる。男は気持ち良さそうに目を閉じた。
ここ数日、慶国国主の住居・金波宮では、こんな光景がよく見られるようになっていた。
そんなおかしな流行が金波宮に蔓延していたとき、まるでそれを嗅ぎつけてきたかのようにやってきたのは雁国主従。――と、虚海を挟んで隣の戴国主従だ。
この三国は同じ北東にあって、生まれた時代は違えど胎果が四人もいるということから誼が深く、行ったり来たりする回数が多いため、まるで隣家にお茶を飲みに行くような気安さがある。もちろん、その気安さの原因の大半は、五百年の統治をしている雁国主従が占めているのだけれど。
「主上は正寝に。そちらにご案内するよう言い付かっておりますので」
何年経っても変わらず、にこりともしない無表情の景麒に案内されて、延主従と泰主従は正寝の陽子がいるという場所へと向かった。
招かれたのは天井の高い堂室。そこの榻に陽子は腰掛けて、腰を丸めて何かをやっていた。真剣な表情の陽子の視線の先には、膝枕をされている桂桂の姿。桂桂は気持ち良さそうに目を閉じている。一同は何度も目を瞬いて、硬直した。
「陽子、なにをやっておるのだ」
はじめに声を出したのは、尚隆だった。
陽子は桂桂の耳元に落としていた視線を上げ、一同の姿を認めると、桂桂を膝の上からどかそうともせずに軽く頭を下げた。
「延王、泰王、お久しぶりです。このような姿で御前を失礼します。もうすぐ、あと少しで終わりますので」
それだけ言うと、また再び視線を桂桂の耳に戻す。
「いや、何をやっているか聞いてんだけどさ」
延麒が頬をぽりぽりと掻きながら言った言葉には、陽子ではなく、後ろから回答があった。
「あの、中嶋さんがなさっているのは耳掻きだと思うんですけど」
「耳掻き?」
その聞きなれない言葉に、延主従と驍宗が首を傾げて、一斉に泰麒にオウム返しに聞き返す。陽子の傍に突っ立っている人物から深い溜め息が聞こえた。
「主上が今持っておられるこの木の棒で耳の中をさぐって、耳の中に張り付いている垢を取る行為のことです。
先日、私が蓬莱に行ったとき持ち帰ったものの中にこの木の棒が入っていて、それを見た主上が冬官に言って木の棒を量産させたのです。それ以来、金波宮では耳掻きが流行して、どこの官吏も武官も場所をわきまえず、こぞって耳の中に木の棒を突っ込んで、喜んでいる始末。まったく、嘆かわしいことだ。主上の所為でどんどんこの金波宮の官たちが恥じらいを失っていっているのですよ。おわかりですか、主上」
尚隆たちへ耳掻きとことのあらましについて説明しているはずが、最後はほとんど陽子への説教に変わっていた。
恨むように睨めつける自分の麒麟の言葉に、陽子が怪訝そうに顔を歪めて景麒のほうを見た。
「恥じらいもなにも、耳垢がたくさんたまっているのを放っておいたら、耳の中がかゆくて気持ち悪いじゃないか」
「"こちら"では放っておくのがふつうです」
「悪かったな。わたしは"あちら"で育ったから、心情的に嫌なんだよ」
ぷくっとふぐのように頬を膨らませた陽子に、尚隆が声をあげて笑った。
「ほう、耳掻きか。俺の時代にはそんなものはなかったぞ。知っていたら、……する口実になったというのに」
「何の口実ですか?」
驍宗が眉をひそめて問うた質問に答えず、尚隆はにやにやといやらしい笑みを口元に貼り付けて陽子のほうに歩み寄った。
「陽子、その耳掻きとやら、俺にもやってくれんか?」
「だめです」
「景麒、おまえに耳掻きしてほしいと頼んだ覚えはないが」
主には指一本触れさせぬと陽子の前に立ちふさがった景麒と、五百年の王の威厳を体から立ち上らせて仁王立ちする尚隆の視線が、空中でぶつかって大きな火花がはじけた。ふたたび耳掻きに熱中していた陽子が尚隆のほうを見て、困ったように笑みを浮かべている。
「すみません、延王。今日の耳掻きは予約が満員なんです」
「満員?」
延王の火力を失って火花が消えて、景麒が勝ち誇ったような薄い笑みを浮かべた。
「主上は耳掻きをするのがお好きで、物珍しさで集まってくる下官たちに誰でもいつでも耳掻きをなされるので、先日の朝議で主上の耳掻きは一日限定三人と決まったのです。ですから、たとえ延王といえど、予約を入れていただかねば耳掻きはできません」
ばかばかしい。
尚隆を除いた三人が、皆同じことを思っていた。
「では、予約を入れる。次はいつが空いているのだ!」
地団駄を踏みそうな勢いで聞いた尚隆に、景麒は素っ気無く答えた。
「十年先まで満員です」
まさか、陽子は王なんだから、十年間ずっと予約した官たちの耳掻きをしてやる、ということはできないだろう。
呆れ果てて事態を見守っている延麒の考えていることがわかったのか、景麒が「主上は耳掻きばかりに精を出しているということもできませんし、仕事と耳掻きを丁度良くこなせる進行速度を考えると、次に予約を入れられるのは十年後という計算になるのです」と、説明を付け加えた。
そんな計算すんなよ、と言いたいのを延麒が喉の奥に飲み込んだところで、陽子が桂桂の耳から視線を外した。
桂桂は榻に両手をついて体を起こし、勢いよくそこから飛び降りると、陽子に頭を下げる。
「ありがとう、陽子。なんだかすごく耳の中がすっきりしたみたい」
「それは良かった。またかゆくなってきたらわたしに言うんだぞ」
「うん。それじゃあぼく行くね!鈴のお手伝いをするって約束してるんだ」
帰り際尚隆たちに軽く頭を下げると、桂桂は元気よく堂室を出ていった。母親のように優しく笑ってそれを見送っていた陽子は、こちらを振り返って、ふたたび特上の笑顔を浮かべる。
「それでは皆さん、こちらへどうぞ」
明るく言って歩き出した陽子を追うように、堂室に溜め息が四つ重なった。
尚隆は赤髪の女王の背を追って、堂室に招かれて酒宴を囲んだ時も、自分がいかに景王の登極を助け、雁がいかに慶を支えているか、なかば脅すように言い募ったが、慶の朝議の決定は曲げることができなかったという。
。
■耳掻き・慶主従編/前編■
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連日連夜の激務に追われ、陽子はくたびれていた。無論、一番これを心配しているのは彼女の半身である。
「一体どうすれば主上に元気になっていただけるだろうか」
彼が少し黙って毎日の小言の量を減らせば、あっという間に陽子が元気になるとは、頭の端もよぎらなかった景麒である。
さんざん悩んで景麒が出した答えは、"あちら"だった。
陽子は胎果、この十二の国がある常世の遥か彼方にある国、蓬莱で育った。元はこちらの里木に生った卵果なれど、蓬莱は陽子にとって生まれ育った郷里。恋しくないわけがない。
王が向こうに渡れば大きな蝕になるから、あちらに行くことはできないが、せめて蓬莱の道具や着物などを見れば、元気が出るのではないか。もっとも、それで蓬莱のことを思い出して、恋しくなって気落ちするという可能性もないわけではないが、景麒はそれを無視することにした。
かくして景麒は蓬莱に渡った。
月影が虚海に落ちる夜、その穴を通って異界へ。
景麒は胎果ではないから、蓬莱に行くと姿が歪んでしまう。
ただ、今回の目的を果たすためには、これのほうが丁度良い。景麒はあちこちを彷徨って、蓬莱の物を物色してまわった。店の者は景麒の姿が見えないときもあって、だから景麒は代金として常世の金銭を卓の上に置いていった。店から出ようと振り返ったとき、首を傾げてきょろきょろとあたりを見回していた店員が、景麒が見た最後の蓬莱人だった。
景麒は遁甲してその場所から離れ、再び月影を通って慶へと戻ってきた。
少し留守にすると言ってはおいたものの、目的地を主に言わなかった。
普段ならこんな礼儀知らずなことはしないのだが、無事蓬莱から帰ってきて気分が高調していたし、王に早く会いたいという麒麟の本性が騒ぐこともあり、景麒は陽子の寝所の窓の外、雲海に張り出したテラスの、小さな四阿の近くに降り立った。使令を自分の影に戻し、大きな窓を叩く。
主上は喜んでくださるだろうか。
初めて獲物を捕らえた子虎が、早く誉めてもらいたいと親元へ走ってきたかのように、わずかに――本当にわずかに、陽子にだけわかる程度頬を紅潮させた景麒が、窓の外に立っていた。窓を開くと、春とはいえまだ肌寒い風が体温を奪っていく。肩にかけた夜着用の薄い旗袍を引き寄せると、陽子は数日振りの半身の顔を見上げた。
「…おかえり。どうした、こんな時間に。いままでどこへ行ってたんだ?」
「蓬莱へ」
どこか誇らしげに胸を張ってそう言った景麒に、陽子は目を大きく見開く。
「蓬莱に…?」
景麒は後ろに置いてあったビニール袋の群れの中からひとつ持ち上げて、陽子に中身を開いて見せた。
「なにか主上のお気に入るようなものがないかとあちこちさまよっていたら、ずいぶんと時間が経ってしまいました」
景麒に近寄って、ビニール袋の中身を覗き込む。軽く触れたビニール袋は、懐かしい冷たい感触と、静まり返ったこの場所に似つかわしくない、騒々しい音をもたらした。
歯ブラシに歯磨き粉、洗剤や石鹸などの日常生活用品から、Tシャツやブラウスなどの洋服もある。食べ物は、こちらへ渡る途中に悪くなってしまうから、という理由で購入しなかったらしい。それに対して陽子は、蓬莱には何日も長持ちする"冷凍食品"という、食べ物を凍らせて売られているものもあるんだよ、などということを話して聞かせた。景麒は小首を何度も傾けて、そして何度も頷いた。景麒なりに自分を気遣い、そして理解しようとしてくれているのだとわかって、陽子は嬉しくなった。まるで雪が乗っているかのように冷たくなって感覚のない鼻の頭のことも、まったく気にならなかった。四阿の石案に広げられた手土産の数だけ、陽子と景麒の語り合いは続く。
そして、陽子はとあるひとつの木の棒に目を留めた。景麒のすらりと長い中指ほどの長さのその棒は、先のほうが何かをすくうように小さく内側に曲がっていて、後ろにはふんわりとした綿毛が冷風に吹かれて揺れている。
景麒に説明していない手土産の数は残り少なくなっていた。陽子は木の棒を自分の目の前に持ち上げて、じっと視線を注ぐ。しばらくそうしていたかと思ったら、景麒のほうを向いて、唐突にいたずらっぽく笑いかけた。
「景麒、房室の中に入ろう。ずっと外に出ていて、体が冷えただろう?ずいぶん長いことつき合わせてしまって悪かったな」
自分の寝所へと招く陽子に景麒は首を振ったが、結局背を押されて引っ張り込まれてしまった。
ぱたぱたと陽子は茶器を取り出してきて、慣れた手つきで景麒の茶杯に茶を注ぐ。茶はその芳香だけで景麒を温めた。
「それで、どうだった、蓬莱は」
紅色の液体が揺れる茶杯を引き寄せ、それを両手で包んで陽子が言った。景麒は陽子の髪をぼんやりと眺め、そして視線を茶杯に落とす。
「まえ主上をお迎えに上がったときと、目立って変わったところは見受けられませんでした」
陽子が苦笑したので、景麒は茶杯から顔を上げて主の顔を見る。
「いや、そうじゃなくて。景麒の目から見て蓬莱はどんな感じだったかってこと。前はわたしを迎えに来るので手一杯で、のんびり見物することもできなかったんだろ?」
「見物、ですか」
きょとんとした景麒に、陽子は微笑って頷いた。景麒はしばらく俯いて黙り込んでいたが、ようやく自分の中をひとつひとつ探るようにして話し始めた。「高い建築物が多くて、見上げると空が見えないのが印象的でした。…もっとも、周りを見渡しても空を見上げているひともいないし、立ち止まって何かをしているひとも少なかったように思います。
それに、建築物や人がまとっている袍子も、塞ぎこんだ空のような色が多くて驚きました。主上がこちらの着衣や建築物が派手だとおっしゃったのが、少しだけわかったような気がします」
それから景麒は、たどたどしいながらも、自分が蓬莱を見て思ったことを語った。陽子はそれらにいちいち相槌をうち、間に余計な口を挟むことなく景麒だけに話をさせた。
景麒はこんなに長く話したのは初めてだったような気がした。乾いた口内を潤そうと、ふたたび茶杯に口をつけたとき、液体はすっかり冷たくなって唇を濡らした。それに気づいた陽子が、新しい茶を注いでくれた。景麒が茶で口がふさがったので、しばらく室内に沈黙が落ちた。
沈黙を破ったのは陽子だった。椅子から立ち上がって臥牀のほうへと歩く。臥牀のそばで立ち止まった陽子を訝しげに見守っていた景麒に、主はおいで、と手招きした。
「主上、申し訳ありませんが、いくらわたしが獣であるとはいえ、女性の臥牀へ近づくわけにはいきません。そもそもこうして主上のご寝所に立ち入ること事態、大変失礼なことでございますれば」
「いいから、おいで。なにも取って食うというわけではないんだから。それに、お前はわたしのために蓬莱へ行ってくれたんだから、お礼をしないとね」
牀榻を見ながらお礼?と口の中で反復する景麒の背を、陽子は再び押した。景麒を臥牀の前に立たせると、寝台に座って自分の隣をぽんぽんと叩く。
「ほら、こっち。わたしの膝の上に頭を乗せて横になって」
「ですが…」
「はやくこい。でないと…」
勅命である、という最強の呪文を持ちいりそうな剣幕の主を呆れながら見やって、景麒は陽子の言うとおりにした。
やわらかい。
陽子の太腿に頭を乗せて、思わずそれを声に出して言いそうになった景麒は、自分の口を両手で押さえる。
「どうした?」
小首をかしげて景麒の顔を覗き込んだ陽子に、景麒は強く押さえた口の中で溜め息を漏らした。
■耳掻き・慶主従編/後編■
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陽子に言われるがままに横向きに体の向きを変え、体をこわばらせて何が起こるのか待っていると、耳に柔らかくて冷たいものが触れた。陽子の手が景麒の耳を引っ張ったのだ。
「な、なにをなさるのです?」
汗で背中に衣がはりつくのを不快に感じながら出した言葉は、露骨にうわずっていた。
「耳掻きだよ」
陽子が耳から手を離したのでそちらのほうを見上げると、主は先ほどの木の棒を、景麒の耳を引っ張っている手とは反対の手で箸を持つようにして構えている。
「この木の棒を使って、耳の中をきれいに掃除するんだ」
「掃除?」
「最初のうちは慣れなくて気持ち悪いけど、垢を取ったらすっきりして気持ちいいからさ」
そこまで言うと、陽子はこちらを向いていた景麒の顔をふたたび横に倒したので、景麒の視線は先ほど主と茶を飲んでいた卓に張り付いた。
冷たくて硬い無機質な感触が、耳の中に進入していく。ときどき木の棒の軽く曲がった先端部が肌を軽くおさえつけて、耳のそばで陽子の静かな息遣いが聞こえた。景麒には見えないが、おそらく耳の中を覗き込んでいるのだろう。
陽子の息遣いを耳元で感じて、景麒はそわそわと居心地悪く視線を彷徨わせていた。木の棒はさらに奥に入り込んで、曲がった先で耳の中の壁を掻くように動く。ぽろぽろと何かが落ちるような微かな音がして、思わずぶるっと体を振るわせた景麒に、上から「こら、動くな」というお叱りの声がかかった。
いかにくすぐったくても動かないように堪えるのは一苦労だった。
陽子の体臭(これはたぶん蘇浄――夏になると紫色の花をつける――の香りだ、と景麒は思った)の甘い香りが至近距離でして、何度もうとうととまどろむのを、目を瞬かせて堪えるのも一苦労だった。
慣れない蓬莱から帰還したばかりだというのに突然襲ってきた極度の緊張に、これなら蓬莱で一生暮らせと言われたほうがましかもしれない、と景麒は思った。――ついに景麒の体と精神が限界を訴えて、膝を折った数秒前のことである。
「よし、ずいぶん取れたな。もういいぞ、景麒」
陽子が満足して見やった先には、山積した耳垢を載せた紙があった。それを丸めながら言った言葉には、返答がない。
「景麒?」
呼んで膝の上に乗った頭を覗き込めば、金髪の青年は目を閉じて規則正しい寝息をたてている。
「寝ちゃったのか」
確認するように呟いた言葉にも、視線の先の青年は反応する気配がないのを見て取って、陽子は起こさないように気をつけながら、軽く上半身を伸ばした。
「なんだか、わたしまで眠くなってきちゃったな…」
膝の上の重みは心地よく、元より陽子の身体の部位だったかのように馴染んでいる。
今陽子が感じているのは膝の上にある感触だが、幼いころは耳が太腿に触れている温かい感触だった。その感触を思い出そうと、陽子は自分の耳に手を重ねた。あのころは自分もいつか大人になって、妻になり母になって、子供に幼い頃母にしてもらったときのように耳掻きをする光景を想像していたものだ――そんなことを考えながら、陽子は景麒を膝の上に載せたまま、上半身を衾褥の上に横たえた。
「ねえ、お帰りになってからの台輔、絶対おかしいわよね」
「なんだかとってもご機嫌がいいみたいよね。陽子がなにかしたのかしら?」
「あたりまえでしょ、台輔のご機嫌を良くするのも悪くするのも、陽子しかできないわよ」
そうよね、と鈴は祥瓊の言葉に頷いた。
ここのところの景麒といったら、そりゃあ鳥肌が立つくらい機嫌がいい。女官たちはいつもの仏頂面で近寄りがたい雰囲気の台輔が機嫌がいいと大喜びだが、これはあまり長く続かないと鈴は睨んでいる。
そして、鈴の勘は当たった。
「主上、勘弁してくださいよ、こんなところをもし台輔に見られたら、俺殺されちゃいます」
「だいじょうぶだよ、景麒が有能な禁軍左将軍を殺すわけがない」
お日柄よろしく、耳掻き日和だった。
陽子は景麒に続いて、周囲の親しい官吏や武官たちを耳掻きの餌食にしていた。
確かに耳掻きは気持ちよいけれど、してくれている相手が問題だった。この世界に十二人しかいない尊き神の位にいるお方に、耳の中をほじくりまわされて素直に礼を言える人物など、この金波宮内では白いお髭を長くたらした太師遠甫とその友人祥瓊と鈴の三人くらいなものである。
そして、現在その餌食にされている桓たいも、その例に漏れず、恐怖に身体を強張らせていた。
怖いのは主ではなく、その背後にいる人物だ。仁だ愛だと称されている神獣は、慶国の場合、主――陽子のこととなるとかなりそれらを逸脱する。
「誰に見られたら殺されるのですって?」
本当に背後から響いてきた冷たい声音に、桓たいは心臓を氷河の只中に置いてきてしまったかのように凍りつく。
「主上、何をなさっておられる」
いまや灼熱色に燃え上がっている紫色の双眸が、陽子に向けられた。
「何って、耳掻き」
それをさらっと受け流して、陽子が微笑った。
「王が臣の耳掻きなどなさる必要はありません!そもそもこんな公の場で、恥ずかしいとは思わないのですかっ!」
景麒の怒声に、あたりに群がっていた野次馬たちがびくっと肩を震わせて、蜘蛛の子のようにわらわらと散っていく。
景麒の怒りはついに――やはり、主の膝の上に頭を乗せている桓たいに及んだ。
「青将軍、主上に垂れるはずの頭を主上のお膝の上に載せているとは、ずいぶんと優雅な身分になったものだな」
桓たいはばっと陽子の太腿の上から、焚き火から跳ね上がった栗のように跳ね起き、慌てて陽子から離れて、初勅で禁じられたはずの叩頭をした。申し訳ございません、と頭を下げた桓たいは、即座にその場で回れ右をして堂室から逃げ出した。
「あーあ、まだ途中だったのに」
「主上!」
いかにも残念そうに息を吐いた陽子に、景麒の厳しい視線が向けられる。
そう、あのとき景麒は、主が自分に耳掻きをして、そして蓬莱のことを思い出して元気になってくれると思っていたのだが、それがどうやらまったく甘かった。陽子は元気になったはいいが、冬官に耳掻きをする木の棒を大量に作らせ、金波宮に勤めるもの全てにそれらを配り、「一月に一回は耳掻きをしよう!」という勅令まがいの「今年の金波宮の方針」を打ち出してしまったのだ。
耳掻きを宮内に広げるために、王自らが率先して耳掻きを官たちに施し、今や景王陽子の膝の上は、官たちの憧れのまととなった。その耳掻きの技術たるやどんな冬官をも超越し、陽子の右手を見てまさに神の手だ!と誰かが叫んだ(景麒はこの噂を聞いたとき、確かに神籍に入っているのだから、神の手という表現に間違いはないがと、とてものんきで見当違いなことを思った)。一度陽子の耳掻きを受けた官は、骨抜きにされて夢心地のまま、同僚たちに妬まれてたこ殴りにされたことを当の主は知らないが付け加えておく。
「しょうがない、まだ一週間とたってないけど、景麒、おまえまた耳掻きするか?」
陽子がつまらなさそうに一旦崩した姿勢を整えて、景麒を見上げた。
「結構です!!」
「なんだ、じゃあ他の耳掻きが必要な官のところに行くか」
「主上!!」
立ち上がって歩き出した陽子に、景麒が続く。
朝議の議題に陽子の耳掻き問題があがる、ほんの数日前のとある昼下がりの出来事である。
■耳掻き・恭国主従編■
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「主上、景王からこんなものを頂いたのですが――…」
麒麟にしては大柄でがっしりとした体躯を持つ恭国の麒麟が、おずおずと自分の主に差し出したものは、一本の木の棒だった。
「なに、これ?」
親指と人差し指で汚い布きれをつまむように木の棒を持った珠晶に、供麒は目を細めて答えた。
「耳掻き、だそうです」
「耳掻き…?」
「この木の棒を使って、耳の中にある垢を掻きとるのだそうです」
「こ、この木の棒を"この"あたしの耳の中に入れろってわけ!?」
「とっても気持ちよいのだそうですよ。百聞は一見にしかず、と蓬莱の言葉でも言うそうですし、一度試してみませんか?」
珠晶は腕を組んで俯き、何か国にとっての重大事を決めるときにも見せないような真剣さでしばらくうーんとうなっていたが、顔を上げ、凛々しい決意の表情を見せて言った。
「やるわ」
供麒は実は、こうして珠晶に耳掻きを見せる前まで、慶国は尭天、金波宮の景王のお膝元にいた。
お膝元とは言葉のあやではなく、本当に膝元にいた。
「主上に気持ちよく耳掻きをしていただきたくて、官たちに手伝ってもらって練習したのですが、どうにも上達しなくて。それで、耳掻きを送ってくださった景王なら、耳掻きの極意を知っておられるだろうと思って参ったのですが」
供麒は熱いまなざしで景王を見つめながら言った。陽子はにっこりと笑って、供麒の依頼を快諾。景麒を実験台にして、ときには供麒自身の耳を使って文字通り手取り耳取り教えてくれたのである。
陽子から供麒への耳掻き教授最終日、供麒が恭へ帰る前日の夜、陽子は供麒の瞳をまっすぐ見つめながら言った。
「供台輔、耳掻きというのは、本当はただの口実。極意なんてえらそうなものは何もないのです」
「口実、ですか?」
陽子の言葉に供麒は首を傾けた。
そんな供麒の様子に陽子は微笑って頷く。
「ええ。口実です。耳掻きをするといって、相手を膝の上に引っ張り込む、ね。耳掻きをしている間は、相手と一緒に居る時間が持てるでしょう?たとえ相手と何も話さなくても、膝の上の重みと、耳の下に感じるぬくもりが、互いの絆を深めてくれるのです」
ぽん、と軽い音を立てて、珠晶が供麒の膝の上に頭を載せた。
供麒はぎゅっと木の棒を握った拳に力を込める。――陽子が言っていた膝の上の重みとは、このことなのだ、と思った。珠晶が頭を載せている部分だけが、ほんのりと温かくなっている。――さあ、ついに景王から教えていただいた耳掻きてくにっくを披露する本番がやってきたのだ!
「い、いたっ!ちょっと、痛いわよ!」
「も、申し訳ございません。しつこくくっついている大きな耳垢があって」
「今度は、くすぐったい…どうにかならないの!?」
「す、すみません。垢がぽろぽろと落っこちてしまって」
「もう、本当に景王のところで耳掻きの極意ってやつを伝授してもらったわけ!?どうせ適当に遊ばれて追い返されただけなんじゃないの!!?」
「そのようなことはございません!景王は本当に丁寧に教えてくださいました。でもわたしが不甲斐無いあまりに、景台輔の耳孔内を傷つけて、何度も流血させてしまいましたが…。…主上?」
「なによ?」
「なぜわたしが景王に耳掻きについてご教授願ったとご存知なのですか?」
きょとんとして珠晶を見ている供麒に、主は「あっ」と口を押さえて視線を泳がせていたが、すぐにぷいっと供麒から顔を背けた。
「当たり前でしょ。あたしはあんたの飼い主なのよ。隠れてこそこそやったって、何だってわかるんだから」
それを聞いて、供麒はいつもの満面の笑みを浮かべて、幸せそうに珠晶を見る。
「…ありがとうございます。主上はいつも私のことを気にかけて下さっているのですね」
その言葉に火でもついたかのように、珠晶は態度を一変させて供麒の頭をどついた。
「この忙しいあたしが、いつもあんたのことを気にかけてやっているわけないでしょ!ただねえ、あんたが仕事をほっぽりだしてわざわざ慶にまで行ったから、何をしに行ったのか気になって調べただけよ!いい?二度とこんなくだらないことで恭を空けたら許さないんだからね!」
はい、と頷いた供麒は、元より細い目を更に細くして、にこにこといつまでも微笑い続けていた。
窓から潮の香りを乗せた暖かい風が房室の中を満たす。毎年頬を撫でるその風が今日はことさら暖かく感じたのは、供麒だけでなく珠晶も同じだったろうが、それを口の端に乗せて供麒を舞い上がらせることは絶対にしない。
「相変わらず素直じゃないなあ」
房室の中の微笑ましい二人の様子を、利広は苦笑しながら眺める。
「しかし、耳掻きっていうのは面白そうだ。帰って昭彰にやってもらおうかな。文姫じゃ危なっかしくて任せられないし…」
利広が星彩の綱を引っ張ると、騎獣はちらりと房室の中にいる珠晶を見たが、すぐに方向転換して南に向けて走り出した。
奏南国の太子卓朗君が奏へ帰り着いたのはそれから四日後。迎えに出た妹の文公主が持っていた木の棒に、太子は大層背筋を震え上がらせたという。
■耳掻き・範国主従編■
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「主上、見て!陽子からのお届け物よ!」
ばたばたと騒々しい足音を立てて正寝の王の一室に駆け込んできたのは、齢十五ほどの見た目をした少女。
それを誰も咎めないのは、彼女の髪――否、鬣が美しい金色だったからであろう。
そして、それを唯一咎められるのも、彼女の目の前の人物だけだった。
「これ梨雪、そんなにうるさくおしでないよ。鸞が怖がって隠れてしまったではないか」
梨雪――氾麟が視線を目の前の人物から横に動かすと、そこには鮮やかな羽色をした鳥が書卓にとまり、主――氾王呉藍滌の袖の後ろから尾羽だけを覗かせていた。
「あ、ごめんなさい。…その鸞、陽子から?」
藍滌は頷いて、横に置いてあった透明な破璃の容器の中から、銀色の粒を取り出して鸞にやった。鸞は一個二個と、美味しそうに銀粒をついばむ。
梨雪はそれを横目で見ながら、景王から届けられた箱の蓋を取って、中身を藍滌に見せた。
「ほう、この木の棒が耳掻きか」
「耳掻き?」
首を傾げた梨雪に、藍滌は銀粒をついばんでいる鸞の嘴の下を軽く撫でてやる。すると、鸞は若い女性の声で語りだした。
「急用もなく唐突な便りを差し上げて申し訳ありません。実は、景麒が蓬莱から持ち帰った品の中に面白いものがあったので、それを真似て冬官に作らせたものをお送りいたしました。いま、お手元に届いているでしょうか。耳掻きといって、耳の中を掃除する木の棒です。詳しい使い方は使者に届けさせた耳掻きを入れた箱の中に入っております。……」
鸞はそれから、先日氾王より送られた御物の礼などを述べて、嘴を閉じた。
「まあ、耳の中に垢が?なんてこと、ぜんぜん知らなかったわ。わたし、自分の体はいつも油断なく全身きれいにしていると思っていたけれど、まだ耳の中があったなんて、盲点だったわ…」
梨雪が箱の中から取り出した説明書に視線を落として、早口で呟いた言葉に藍滌は頷く。
「そうだねえ。とりあえず、幸いなことにその盲点に気づいたわけだし、早速耳掻きとやらを行う準備をしようか」
それから、範国の下官たち(文官、武官、奄奚問わず)全員に耳かきが量産して届けられ、主から「範国で耳掻きの腕が一番優れし者に、王と台輔の耳掻き師を命じる」、とのおふれが出た。
十二国一の工匠の国、それを統べる氾王の元で働く範国の選りすぐりたちは、もちろん毎日技術を磨くことに精を出している面々ばかりだ。このおふれに、宮内の官たち全員が燃え上がったのは言うまでもない。
しばらくすると耳掻きが上手い者の噂が氾王の耳に届き、それら噂にたった者たちを一斉に収集すると、氾王は「それぞれに耳掻きをしあって、己の技術を証明してみよ」と仰られた。
――範国一耳掻き職人決定戦の開幕である。
「見よ、このわたしの華麗なる耳掻き技術を!掻き取られた垢は黄金の輝きを放ち、被耳掻者を恍惚の滝つぼの中に落とす!」
「耳掻きは見た目の勝負ではない。いかに耳掻きをなされている者に痛みを感じさせず、素早く垢を掻き取るかが勝負なのだ!」
「おーっほっほ、甘いな小童ども!あたくしの耳掻きをご覧!この繊細な技術こそ、まさに主上と台輔の耳掻きをするのに相応しい!」
官たちの争いは熾烈を極め、ときには自分より上手に耳掻きをする相手を妬むあまり耳孔内をひどく傷つけて、相手の鼓膜を破ってしまった者もいた。
「だめよだめ、そんなに強く耳の中をかきまぜられたら、台輔のお耳の中は柔らかくて繊細なのだから、すぐに傷ついてしまうじゃないの」
氾麟は蠱蛻衫を被って、白熱して耳掻きし合う官たちの間を縫い、あれこれと横から文句をつけるのだった。
かくして。
怪我人まで出した範国一耳掻き職人決定戦は無事終結し、氾王と氾麟の耳掻き師は決まった。それはまだ幼いといえるくらいの奚(げじょ)で、耳掻きも容姿もその穏やかで少々内気な性格も氾王と氾麟の目に適って、女御に召し上げられた。その中でも、耳掻師(じそうし)という官位名を与えられて、若い奚は顔を真っ赤にして喜んだという。
「ふふ、耳掻きって耳の中がすっきりするだけじゃなくて、されている間もとーっても気持ちいいわ。わたしこれ、すっごく気に入っちゃった」
梨雪は耳掻きを終えて勢い良く榻に座ると、満足そうに藍滌の膝の上に頭を乗せた。藍滌は金色の鬣を優しく梳きながら、ちらりと窓の外を見た。燃えるような夕日が、窓を赤く染めている。
「これは陽子にお返しをしなくちゃならないねえ。あの夕日のような紅と翠の瞳に合うものを探すのは、なかなか難しいよ」
「それじゃあ明日は御庫の中を漁らなくてはなりませんね」
悪戯そうに笑う梨雪に、藍滌も笑う。
房室の入り口では耳掻師に任命されたばかりの少女が、まるで世界一美しい宝石を見るかのように、その光景を見つめていた。
慶国に氾王からの"耳掻きのお礼"が届いたのは七日後、最高の贅を尽くした衣装や御物の数々に、女史祥瓊は今にも飛び出しそうなくらい目を丸くして驚いた。
「ご覧、わたしの耳掻きも役に立つことがあったろう?」
「耳の中に木の棒を入れるなんて」と、耳掻きに対して否定的な意見を持っていた祥瓊は、陽子の言葉に何度も頷いて、これから当分は陽子の耳掻きの餌食になってあげてもいいかな、と思ったのだった。
[初夏の祭典]
それは、よく晴れた初夏の日のことだった。
初夏の祭典
少しずつ活気を取り戻してきた、十二国の1つ、慶国。
町のほうでも人々の笑い声が聞こえる。
前はこんな感じではなかった。
王が居るから、笑える。
新しい王は、胎果の女王。
慶は確実に前へ、進んでいる。
「あー!あんな高いところにー!」
「うわー・・・。木にひっかけてやんの。」
「怒られるぞー。」
町の路上の、子供達の何気ない会話。
草履をだれが1番高く飛ばせるか競争していたらく、どうやら一人木にひっかけてしまったようだ。
木は高いうえに低いところに枝もなく、登れそうな感じでもない。
おまけに幹も太くて立派な木である。
子供の力ではゆすってもびくともしないだろう。
かといって親に相談してしまったら怒られてしまう。
「俺、知−らね、っと。」
「えっ!?」
「俺もー。自分でなんとかしろよー?」
子供達は次々に、草履をとばした子供をおいてどこかいってしまった。
「そ、そんなぁ・・・・。」
少年はぽつりと小声で言葉をもらす。
(どうやってとろう・・・。)
ためしにゆすってみても、全然びくともしない。
いっそ全身全霊をこめて体当たりでもしてみるか?
少年は険しい顔つきで、木とにらめっこしながらじわじわと後ろにさがっていく。
一世一代、VS大木と男(少年)の勝負がはじまろうとしている。
しかし、その勝負は一つの声でさえぎられた。
「どうしたんだ?」
頭に手を置かれ、聞き覚えのない声に誰だろうと上を見上げて見ると、少年はびっくりした。
あまりにも、その人の髪がきれいだったからだ。
紅くて目を引くその色は、光をうけてとても鮮やかだ。
この人にとても似合っている、と少年は思った。
「一世一代、男をかけた勝負をやるとこなんだ。」
「はぁ?」
少年の言葉に、赤い髪の若者はマヌケな返答を返した。
そして、少年がにらんでいた大木に目を向けると、ああ、と納得したようにうなずいた。
「草履がひっかかったんだな。」
「とばして遊んでたんだ。誰が一番高く跳ばせるかっ、て。」
「へぇ。じゃああんな高いとこまでとばしたんだ。」
「1番間違いなしだよな。」
へへん、っと少年は鼻をこする。
若者はそんな少年に意地悪く笑った。
「たしかに。私でもあんな高くはとばせないな。・・・ところで、あれ、とれないんだろ?」
「う・・・・。」
少年は言葉をつまらせた。
若者はにやりと笑った。
「よかったら、あれ、とってやろうか?」
「え!?ほんと!?兄ちゃん!?」
若者の顔からは男か女かわからなかったが、男物を着ているから男だな、と少年は思った。
「ああ。」
若者は少年に笑いかけると、大木のほうに歩み始めた。
さて、と小さくつぶやき、大木にふれる。
(こんな大きな木が慶にあったんだ・・・・。)
目をつぶり、ふふ、と若者は少し口元をゆるめた。
「なぁ、兄ちゃん、ほんとにとれんの?」
後ろからさいそくの声が聞こえた。
若者は振り返り、少年と目を合わせると
「もちろん。」
と自信たっぷりの返事を返し、せいやぁ!、とさけんで、大木になんと、勢いよく回し蹴りをきめた。
どぉぉぉおおおおん!
大木はあまりの衝撃に大きく揺れた。
ぽて。
「あいったぁ!」
少年の頭の上に先ほどまで引っかかっていた草履が落ちてきた。
「ふふん、どうだ?」
「すっげー!兄ちゃん!あんがとー!」
少年はうれしそうな顔で、そして若者は得意げな顔でお互い視線をあわせた。
ぽんっと少年の頭に手をのせ、若者は空のほうに視線をあげ、げっ、と小さくつぶやいた。
「?どうしたの?」
少年はそのつぶやきが聞こえたらしく、続いて空を見上げる。
すると、そこには黒い、いや、近づいてくるうちにそれは金色―、とゆうのが分かる。
そう、その金の色をもつものはこちらに向かってくる。
この世界で金色をもつ生き物。
それは―。
「あいつ・・、もうきたんだ・・・・。」
「に、兄ちゃん・・・?」
はっ、と若者は我に返り、
「じゃな!もう引っ掛けるんじゃないぞ!」
と少年に言って走っていった。
金色の生き物は、その、紅い髪をした若者を追うように町の上をかけていく。
その場に残された少年はただ、呆然として
「あの人、兄ちゃんじゃなくて、姉ちゃんだったんだ・・・。」
と、今駆けていった赤い髪の若者―、慶国の女王のほうに向かってつぶやいた。
慶の女王、陽子は全速力で走っていた。
(なるべく人気がないところ・・・。町のど真ん中で景麒に来られちゃ困るっつーの。あと、なるべく大きめな布―・・・・・。)
ふと、陽子は路上の呉服屋の、大きめな、白いシーツのような布が目に入った。
(―めっけ!)
「これください!」
「え!?け、景王様!?」
「人違いです!」
と、代金のはいった袋を押し付け、白い布をとり人気の少ない方へ走って行った。
そして、その後を、上から―、金の光が紅い髪を追って駆け抜けていく。
十二国一速いその生き物は、町に姿を現せることなどめったにないのに―・・・・。
だいぶ人気が薄れてきた頃、金の光をもつ生き物、麒麟は自分の主上の横に降りてきた。
陽子はその背中に飛び乗り、空高く金色の光とともにあがっていった。
その光景にたまたまはちあわせたもの達は、ただ、口をあけてみていたそうな。
「・・・・・・主上、これは一体どういうことでしょうか?」
金色の生き物、慶の麒麟、景麒は不機嫌極まりない声で自分の主に問いかけた。
今、景王と景麒がいるのは城ではなく、町から離れた小高い丘。
景麒は陽子の命令で、獣の姿ではなく長身の長い金の髪をたらした青年の姿になっていた。
体には、さっき陽子が買ってきた布をまとって。
「おー、着替えがすんだか。」
「・・・・失礼ですが、私はこのような姿で主上の前に現れたくないのですが・・・・。」
「なんだ、私がお前のためにわざわざ買ってきてやったんだぞ?」
「・・・・・・。なぜ、わざわざ私を人形〈ヒトガタ〉に?」
陽子はただ、にやっ、と笑って丘の端に立った。
景麒はぎょっ、として、陽子の側に慌てて歩み寄る。
「主上、危険です!」
「景麒、見ろ。」
陽子はなにか言いたそうな景麒の口に人差し指を当て、目線で丘の下を指す。
景麒はそんな陽子に恨めがましい視線をなげ、いわれたとうりに下を見下ろした。
そこに映るは理想郷か。
否。
違う。
にぎわう町。
人々の笑い声。
あふれる緑。
かつて慶の麒麟が夢見た世界。
それが目の前に、ある。
「・・・・・・・・。」
ただ、ぼうっ、と下を眺める自分の麒麟に王はほほえんだ。
「ここは、慶の国が一番よくみえるところなんだ。」
景麒は目線を横に居る、自分より背の低い主上に移した。
陽子はそれに気づき、自分の手と景麒の手をからませる。
「! しゅ、主上!?」
「なんだ?照れてるのか?ん?」
意地悪そうな笑顔を下僕に向ける。
そんな主上に目をそらした景麒は、はぁ、とため息をひとつもらした。
陽子は、くくっ、とおもしろそうに笑う。
「ごめんごめん。気を悪くしたなら謝るよ。」
「いえ、そういう訳では・・・・。」
景麒は小声で、少し咳払いをし、耳まで赤くして答える。
「・・・・景麒。」
陽子は景麒とからめさせた手を、自分の額まであげた。
景麒はそんな陽子―、自分の主上に向き直る。
「景麒、私の手は、小さい。」
―何も出来ない、自分の小さな手が嫌い―
「・・・・・・主上・・・・。」
「でも―・・・・。」
陽子は握っている手に力をこめ、顔を伏せる。
景麒もまた、それに答えるように握り返した。
「でも、それでも、自分なりにがんばってると思う。そしてみんなも、ついてきてくれる。」
景麒はただ黙って、陽子から目を離さずに耳を傾ける。
「みんなとがんばったから、今、慶は少しマシな方向に進んでる。」
「・・・・少しではありませんよ・・・・。確実にだいぶ、落ち着いてきています。」
―これもあなたのおかげです―
景麒は静かに口をひらいた。
空いた手で、主の髪を撫でる。
陽子は顔を上げた。
景麒と目線が合う。
「私だけじゃ、ここまでできなかった。景麒やみんながいたから、ここまでこれた。」
そうだろ?っと言いながら、陽子は笑った。
「これからも助力よろしくな。」
「・・・・・はい、喜んで。」
景麒は顔をふせたので、いま、どんな顔をしているのか陽子にみえなかった。
「じゃ、帰ろっか。」
「そうしましょう。みな、心配されてましたから。」
「? 書置きしてあったろ?町にいってくるーって。」
「主上が町におりられるといつも色々騒ぎがおきますゆえ・・・・・。」
「・・・・・そうね・・・・。」
陽子は罰が悪そうにそっぽを向き、景麒は転変して獣の姿になっていた。
「あー、おっもいだしたー。」
景麒にまたがって空に登った陽子は、いきなり声をあげた。
「何を思い出したのです?」
獣からよく聞く声が聞こえる。
「町でさ、さっきまで一緒にいた少年。」
「ああ、子供がどうしました?」
「あの子、うちの兵士の子供だ。」
「はっ?」
陽子は、さっきまで景麒がはおっていた布を両手で広げ、両腕を上にもちあげた。
ちょうど、万歳をしているポーズである。
上に広げた布が風でばさばさと音をたてる。
「だーかーらー、兵士の子供。目とか口が大きいとことかそっくりだった。」
8歳の息子が居るって自分ででもいってたし。と陽子は確認するように、つぶやいた。
「主上、全ての兵士の容姿を覚えておいでで?」
「うん?まぁ、自分のためにってゆーか、国のためにがんばってる人たちだしね。」
「そうですか・・・・。」
「将来楽しみだな。」
くくっ、と陽子は笑う。
景麒は目線だけ陽子に向け、そしてすぐに前を見た。
ふと、景麒は鼻に緑のにおいを感じた。
下を見ると、青々とした葉が風でゆれている。
ああ、もうすぐこの王とむかえる何度目かの夏がくる―。
[初夢]
金波宮はぴりりと冷たい、夜の闇の中にあった。
昨日年が明けたばかりで、今日も一日中退屈なお祝いの行事が続いた。日が落ちてからは新年を祝い、賓客をもてなす宴会が盛大に開かれ、掌客殿の花庁(おおひろま)からは遅くまで雅楽や歓声が聞こえた。その宴も半時ほど前に終わり、宮城はやっと、いつもの静けさを取り戻す。暗い空に懸かる月はすでに西に傾き始めており、人知れずそっと落とされた溜息は白い霧になってから消えた。
金波宮は正寝の、長楽殿の裏から続く広い園林の中に建つ、小さな廂殿(はなれ)の軒先に、ここ慶国国主・中嶋陽子の姿があった。闇の中でその緋い髪は一層鮮やかに映える。陽子は軒下の細やかな細工の入った手摺に身体を預け、ぼんやりと月を見上げていた。その月の向こうには、つらつらと並ぶ金波宮の屋根を越えて、暗い青海が静かに佇む。
「主上、何をしておられるのです?」
いつも通りの、どこか不機嫌で、自分を咎めるような声に陽子は振り返る。
双つの碧玉が捉えたのは、闇の中でもぼんやりと光る、金の鬣。
「景麒か。良くここが分かったな。」
慶国の麒麟はその紫眸に薄っすらと笑む主を見とめて安心したのもつかの間、陽子の着ているものを見て驚く。陽子は薄っぺらい袍を一枚着ているだけだったのだ。
「な、なんというお姿を晒しておられるのですか。そのような薄着ではお風邪を召されます!」
あまり表情を変えない青年がそれでも血相を変えて、自分が着ていた襖(うわぎ)を脱ぐと陽子に羽織らせた。
「…過保護だな、景麒は。王は最高位の仙だろ?風邪なんかひくものか。」
苦笑しながらもおとなしく襖を羽織り、陽子にはだいぶ大きなそれをありがたそうに身体に引き寄せた。
吐く息が、白く変わる。
細やかな刺繍を施された襟を掴む手は、すこし凍えて上手く動かせなかった。
「過保護などではありません。主上…今年こそ、どうかご自愛することを学ばれませ。」
陽子は叱られた子供のように顔を顰める。
「景麒…今年こそ、小言を減らしてくれる気はないのか?」
憮然とする麒麟の足元からくつくつと笑い声が聞こえた。
「班渠もそう思うだろ?」
「…班渠。」
僅かに怒りを含んだ声に、影からの笑い声はぴたりと止む。
そのまま、渋い顔をする景麒に、陽子は微笑む。
「…さすがに夜は寒いんだね。もう春なんだろう?」
「はい。しかし、暦の上では春でも、今が一番寒い時です。さ、堂間に戻りましょう。」
「ね、雲海の下はもっと寒いんだろう?」
言われて景麒ははっと己の主を見た。
陽子の瞳はどこか遠くを見ている。
そう、今は月の光を湛える、青海の下にいる、慶の民。
それを主は見ているのだ。
景麒は胸が熱くなるのを感じた。――この方は、間違いなく、王なのだ。
「…はい。」
「松伯は凍死するほどの寒さではない、といっていた。だが、これだけ寒くて、しかも飢えていれば病を得る…。老人や子供には、つらいだろうな。」
「主上…やはり、そのお姿は…。」
陽子は苦笑する。
「ちょっと、確認したかっただけ。十分寒いって分かったからもうしないよ。…まだまだ、やることが山積みだね。」
不意に陽子の目が真っ直ぐに景麒向けられる。
「そういえば、まだ景麒には言っていなかったね。」
「…は?」
ふわり、陽子は微笑む。そして大きな声で、ぺこりとお辞儀をしながら言った。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいいたします。」
「主上は何人にも頭(こうべ)を垂れる必要などないのです。おやめください。」
予想はしていたが、いざこう帰ってくると反応に困る。陽子は苦笑いを浮かべた。
「景麒、蓬莱ではね、お互いにこう言い合うんだよ。こちらには、そういう風習はないのかな。」
「ありませんね。新年快楽(おめでとう)、とは言いますが。」
「お年玉も有るみたいだね。ええと、紅包…だっけ。」
「はい。」
景麒はやっと、手摺にもたれかかる主の心がいまだここにないことに気がついた。。
「…懐かしんでおられるのですか?」
どこを、とは言わなかった。
遠い昔、自分にしがみ付いてウチが恋しいと泣き出した、あの小さな人のことを思い出した。かの人も蓬莱で生まれ、蓬莱に父母を持っていた。それが恋しいと、景麒の膝の上で涙をこぼした。
「…新年を迎える時はね、家族や親戚がそろうんだ。…そうだね、そうかもしれない。」
景麒は、躊躇いながらもあの時小さな麒麟に問うた事と、同じ事を問う。
「家に、帰りたいと思われますか。」
泣き出したかの人とは違い、主は小さく笑った。
「お前が言うな。私を連れてきたのはお前だろう?おかしなことを言う。…心配しなくても、そういう思いはない。」
「そう…ですか。」
「そりゃ、お母さん達に会いたくないってわけじゃない。でも、私はここでいい。今はそう思うんだ。それに、もうやりかけてしまった大きな仕事が有る。それを放っては帰れないし、それが片付いた頃にはきっと、蓬莱は私の知っている蓬莱ではなくなっているだろう。だから、もういいんだ。私はここにいるから。」
そういって微笑む陽子の横顔は、ぞくりとするほど美しかった。
夜の闇よりも幾分薄い、紫の襖(うわぎ)。
それを羽織った陽子の細い肩の上を、緋色の髪が緩やかに流れる。
景麒は知らず、昨日隣国の王から届けられた、あの珊瑚の花を思い出していた。
景麒の恍惚とした表情に気づいて、陽子が顔を覗き込む。
「どうした?」
景麒は僅かに狼狽しながらも、その碧玉に向かって素直に思ったことを言ってしまう。
「お美しい…。」
言った後で、景麒の顔がしまった、と変わるのがはっきりと分かった。
「は?」
「い、いえ、あの、主上が、その、あまりにお綺麗で…。昨日延王から頂いたあの、牡丹を思い出しておりました。」
ふ、と小さく噴出すと、陽子が爆笑した。
「も、申し訳ございません。わ、私はなんと言うことを…。」
景麒はそのまま膝を折る。
「いや、謝ることないから…。」
くくく、といまだに笑いを押さえることができない。
「…そうか、ありがとう、景麒。さあ、立って。」
そういいながらも、まだ少し陽子は笑っている。
おなかを抱えて苦しそうに笑いを堪える陽子を、景麒はしゅんとうなだれて見ていた。
「あ。」
不意に、陽子がさも悔しそうな声を上げた。同時に、ようやく笑いも収まる。
「しまった。」
「ど、どうなされました?」
慌てて立ち上がった麒麟だったが、なぜか主の顔に浮かんでいるのは苦笑であった。
「お前に取られた。今年の初笑い。」
「…は?」
意を解さぬ景麒をみて、再びくつくつと笑う陽子に、景麒は訳が分からずただ茫然とする。
「あのね、景麒。年が明けてから、最初に笑うことを初笑いっていうんだよ。ほかに初夢というのもある。」
「初夢…ですか。」
「うん、初夢はね、正夢になるんだ。」
珍しく素直に”理解不能”という表情(かお)をする麒麟に、陽子は笑って、まるで小さな子供にいうように説明を始めた。
「正月の二日、つまり今晩見る夢を、初夢というんだ。この日に見た夢は、正夢になる。つまりは、現実になるってことだ。それらから、一富士ニ鷹、三なすびと言って…ああ、こっちに富士はないか。うーん…説明が難しいなあ…。まあ、とにかく、重要なのは今日夢を見ると、それが現実になるってことだ。」
「…はあ。」
ふと、陽子は真剣な表情をして、小さく囁く。
「でもね、一つ大事な決まりが有るんだ。」
「決まり…ですか?」
「そう、決まり。もし、景麒が見た夢が好い夢だったら、それが実現するまで、絶対に人にしゃべっちゃいけない。そうすると、夢は現実にならなくなってしまうから。」
「…では、悪い夢を見た場合は、人に教えてしまえば好いと?」
陽子が笑う。
「うん、それで好い。…戻ろうか。襖(うわぎ)を返さないと、こんどは景麒が風邪をひいてしまう。」
「私のことでしたらお気遣いは無用です。」
「そういうわけにはいかない。明日も明後日も、一日中祝賀行事だからな。年の初めから麒麟が病んでいては、縁起が悪い。」
「そう…でしょうか。」
「そうさ。」
そのまま、長楽殿までの僅かな距離を二人で歩いた。
「牡丹…か。」
「…はい。」
「正直ね、困ってるんだ、あの詩。」
「え?」
景麒はどきりとした。
あの詩の、裏の意味に主上は気がつかれたのだろうか。
某国の王の顔がちらりと景麒の脳裏を掠めた。
「私にはもったいなくて。だって、私はまだ何もやってないだろう?だから、今の私にとって、あの詩はプレッシャーでしかない。」
また意味の分からぬ蓬莱の言葉を聞きながらも、景麒は小さく安堵する。主がいたって真面目なのが、心から嬉しかった。
「ぷれっしゃー…すとれすとは違うのですか?」
陽子は苦笑する。こうしてこちらの人間と話していると、自国の言葉にいかに外来語が多かったのかを知る。
「…重過ぎるってこと。似たようなもんだね。…でも、あの詩に恥じない王になれるといいな。」
「なれますとも。」
景麒は珍しく、ほんの少し優しい微笑みを浮かべていた。
それは、景麒が発した言葉が心からの言葉であるという何よりの証拠。
陽子もつられて微笑んだ。
「お前がそういってくれると、心強い。」
暖かい堂間につくと、女官達の叱責を無視して陽子は襖をその場で脱ぎ、景麒に手渡す。
「お休みなさいませ、主上。」
「ああ、お休み景麒。いい夢を。」
それから、と陽子がにやりと笑う。
「綺麗って言ってくれて、ありがとう。うれしかったよ。」
言われて景麒は僅かに顔を赤らめた。
「じゃ、お休み。」
「お休みなさいませ。」
丁寧に礼をして堂間を辞すと、景麒は真っ直ぐ仁重殿へと向かった。
途中、羽織りなおした襖には陽子のぬくもりが僅かに残っていた。
僅かなはずのそれが、ひどく嬉しい。
身体が、心が、夏の日差しに照らされるかのようにかっかと熱くなるのを感じた。
当たり前のことなのだ。自分は、あの方の半身なのだから。
それをこれほど近くに感じることが、嬉しくないはずがない。
己の臥室に入ると、景麒はすぐさま臥牀に身体を横たえた。
襖を脱いでなお残る、その僅かな温もりに抱かれて。
景麒は、夢を見た。
景麒は昨日と同じ、堯天が見える露台に立っていた。
何かが起こる。
そういう確固たる予感があって、ひどく胸が騒いだ。
肌寒い風の中、景麒が露台から雲海の下を覗き込むと、僅かに紅い堯天が見えた。
何故かほっとして、景麒がそのままそれを見ていると、その、点でしかなかった紅が、見る見るうちに広がってゆく。
驚いて思わず顔を上げた景麒の目の前で、今まで蒼く輝いていた青海が、鮮やかな緋色に染まってゆく。次の瞬間、景麒は、狂おしいほどの赤い花びらが舞う中、一人花畑の中に立っていた。
一面の、赤。
見渡す限り咲き誇る、緋牡丹。
花びらを巻き上げる風は、暖かく、花芯からこぼれる芳香を運ぶ。
風に波打つ繊細な赤い襞(ひだ)にそっと触れれば、それは柔らかくしっとりと景麒の指に絡んだ。
どくん、と景麒の胸が騒ぐ。
喜び――それはあまりに大きな喜びのせいだった。
麒麟である自分には分かっていた。
ここが、この花咲き乱れる場所が一体どこなのか。
慶だ。
ここは、慶東国なのだ。
百花の王たる緋き花が君臨する、慶びの国。
――景麒
不意に名を呼ばれ、振り返ったその先には太陽のように強い光を放つ者が立っていた。
あまりに強烈な光に、景麒は軽い眩暈を覚える。
どくん、とまた景麒の胸が、喜びに騒いだ。
知っている。そこに、誰がいるのかを。
間違うはずもなく、あの方がいる――
心からの喜びに、思わず景麒は膝を折る。
幸せな気持ちで、景麒は頭を深々と垂れた。
衣擦れの音がした後、光から伸べられた、少し日に焼けた手が景麒の頭に置かれた。
――許す
「お早うございます、主上。」
丁寧に礼をして景麒が堂間に入ると、内殿の執務室では紅木の見事な椅子に腰かけた陽子が、浩瀚から今日一日執り行われる行事の説明を受けていた。景麒を見て、双つの碧玉がふわりと笑みを湛える。
「お早う景麒。昨日は好い夢を見たかい?」
陽子の問いに、麒麟はぱっと顔を赤らめた。――ように見えた。
が、いつもの表情のない声で返す。
「…お答えいたしかねます。」
陽子が笑った。
「そうか。私も、残念だが教えてやれない。…浩瀚、続けてくれ。」
そういって、陽子は朝日が差し込む卓子の上に置かれた緋い花を見る。
浩瀚の涼やかな声が、内殿に朗々と流れる中、景麒も、精密に刻まれた紅珊瑚の美しい襞(ひだ)を視線でなぞる。
永遠の、緋い花。
二人が見た夢は、あるいは同じだったのかもしれない。
[昔噺]
赤みの差す白い花をつける樹を、彼女は『桜』と呼んだ。
宮城の奥深くにひっそりと息づいていたその美しい樹。
誰の目にも留まらず、だがその樹は季節を繰り返す。
柔らかな色を花びらに一瞬映し、僅かな風に散る。
彼女が見つけなければ、誰も気に止めなかった。
蓬莱国では当たり前のように咲く有名な花を。
常世では名も忘れられた春咲きのこの花を。
「……陽子は、『桜』という花を知っている?」
一番東の国のある家で、十になろうかという幼女は旅人らしい少女の言葉に首を傾げた。
「……知らない」
そう、と少女は幼女の髪を撫でる。後方では幼女の家族の話し声が聞こえる。
「先々代の王様が好きだった花なのよ」
幼女は明らかに反応した。自分に付けられた珍しい音のこの字は二代前の王の名なのだと聞いたことがあったからだ。
「じゃあ、サクラっていう花は陽子さまのお花なの?」
「――え?」
思わぬ科白に、少女は言葉を詰まらせるが。
「陽子、陽子さまのこと聞いたことあるよ。陽子に名前をくれた王様」
焚かれた火の熱さに顔を赤くしながら、ころころと幼女は笑う。
「おばあちゃんがね、若くて別嬪な女王さまで、陽子と同じ真っ赤な髪をしていらしたんだって教えてくれたんだ」
幼女は嬉しそうに自分の紅い髪を見せる。長く良い治世で名高い上、美しい女王だったのだと繰り返し語られ、この字を誇る気持ちがあるのだろう。
「タイカっていう人だったんだって。だから、すごく苦労なさったんだよ、女王さまは」
「――ええ」
「だけど、負けないで前の悪い王様をやっつけて平和な国にしたの。こういうお礼の仕方をやめたのも、女王さまが初めてなんだって」
ゴチン、と地面に頭をつけて礼してみせる。
「コードーリョクのあるいい王様だったって、みんな言ってた。今は辛い世の中だけど、いつかまた陽子さまみたいな王様が出てくれるからって」
無邪気に笑う幼女に、少女は瞬いた。そして、後ろで笑っている幼女の家族を見た。貧しいけれど、その顔は希望を持っている。少女が見てきた人々は、みんな同じ顔をしていた。
「……本当に」
少女は、にこにこと見上げてくる幼女の紅い髪を撫でる。
「本当に、良い王だったのよ、陽子と同じ名前の景王は」
ひとしきり話をして、少女はまた旅を続けた。
思わぬところで出会ったあの懐かしい日々の忘れ形見。
「陽子の花……」
あの王宮にあった樹は今も花を咲かせているのだろうか。
『名前が忘れられたのならわたしが付けていいか?』
風に揺れる紅い髪。笑いかけた翠玉の瞳。
『蓬莱では、この花の季節になると木の下に集まって、花を愛でてお祭り騒ぎをする。それほど蓬莱の人々に愛されている花だよ』
遙か遠い蓬莱国で、春の代名詞であるという花の名前。
春は始まりの季節。
また終わりの季節。
そして真っ白な空白の季節なのだと彼女は言っていた。
継続するものがなく、
ここで全て白紙に戻る。
後ろを振り返っては驚き、
先を眺めては不安にあえぐ。
そんな不安定な季節の流れに、
一筋の希望をもたらす樹が桜だ。
彼女は、自ら名付けた樹を見つめて少女に話していた。
希望を与える、桜のような王になりたいと言っていた。
「……なれたよ、陽子」
少女は呟く。
「桜みたいに、なれてるよ陽子」
飛仙として各国を旅しながら、少女はもう何年も前に王宮で王に仕えていた日々を思い出す。赤い髪と翠玉の瞳が印象的な、若い女王。もう1人、同年くらいの外見の少女と3人で、よくいろんなことを話した。恋、愚痴、悩み……。
『桜の花は、血を吸って色づくのだと言われることがあるんだ。それほど不思議な美しさだから』
桜にまつわるそんな話を聞いたのも、3人でいたとき。
少女はふと蒼い空を見上げた。
彼女の血が咲かせた花を確かめるために、自分はこうして旅を続けているのかもしれないと思えた。
[赤を持つあなたへ]
数日前、東の国から正賓を向かえた白圭宮は、それまでの来客を迎えるための慌しさが過ぎ去り、女官も官吏も武官も、一様に気が抜けたようになっていた。
これから冬に向けて、こんな気の抜けた有様では極寒を越せないぞと朝議で諸官たちを一喝した驍宗は、しかし手本を見せるべき自分でさえいくら衣を重ねても肌寒いような気がするのだから、仕方ないかと溜め息を吐く。
訪れた賓客は慶東国の景王。赤い髪をなびかせ、澄んだ翠で白い王宮を見据えた景女王の立ち姿に、百官たちは一目で惚けたようになってしまったのである。美女と名高い景女王は、裸の木に花をつけるように、冬が訪れる前の時化たような宮内の雰囲気を吹き飛ばしていった。
ある日は庭園に出て、庭師が木を整えるのを手伝おうとした。腕まくりをして梯子を使う景王。それを傍ではらはらと見ていた庭師は、驍宗の姿を見つけると吹っ飛んできて頭を床になすりつけ、「どうか景王を止めてください」と泣きついてきた。
ある日は普段傍で見上げることも適わぬ身分である者たちに話しかけ、極北の民の暮らしや、宮内の仕事などについて聞いていた。話しかけられた奄や奚たちは、汗をだくだくと掻きながら、始終腰を折り曲げて彼女に説明していたという。
景王の気安い調子に白圭宮の官たちは最初こそ大いに困惑していたが、慣れてからは誰もかれも視界の端に景王がいないか、探すようになったのである。
官たちは突然訪れた春の陽気に浮き上がり、仕事の能率は三割り増し、これなら景王にずっと居ていただこうかと驍宗が冗談で言ったくらいであったのだが…。
春風が通り過ぎ、宮内が静かになってしまうと、百官は魂が抜けたように過ぎた春を惜しむのだった。
「本当に、景王が王でなかったら、すぐにでも主上のお后として来て頂くのですけどねえ」
「…ばかなことを言うな、正頼」
咎めると、白髭の老人はちらりと笑みを浮かべて窓の外を見る。
「ですけどね、主上。景王がお帰りになってからというもの、台輔だってとてもお寂しそうで、何だかそわそわして変な感じなのですから、他の官ばかりを責めることなんてできないでしょう?」
この堂室の窓からは、泰麒の執務室を覆う庭園が見える。驍宗もそちらへと視線を向けて、そして首を傾げて見せた。
「嵩里が変?」
泰麒の令尹であった男が視線を驍宗へと戻し、小さく頷く。
驍宗が国に戻って八年経った今、泰麒は令尹の手を借りずとも瑞州侯としての執務をこなせるようになっていた。
「ええ、宮内をふらふらして、庭園をぼーっと眺めていたり、庭師に話しかけて小紅玉を分けてもらったり、庭の草を掻き分けたりしているそうですよ。どう考えても、小草の間に景王が隠れていらっしゃる隙間はないと思うんですけどねえ」
何でも景王のことに結びつけるのはどうかと思ったが、確かに言われてみれば、景王が帰国してから泰麒はあまり覇気がないような気がする。
「主上から、遠まわしに聞いてみてくださいませんか。食も細っていらっしゃるようですし…」
正頼の言葉に、驍宗は軽く溜め息をついて頷く。
「お前に言われなくてもわかっている。まったく、白圭宮の者たちはみんな嵩里のこととなると過保護なのだからな…」
「それは主上の影響でございましょう」
それもそうか。言った驍宗の言葉に正頼が噴き出し、堂室の中に明るい笑い声が満ちた。
驍宗の姿を見つけて一斉に膝をつこうとした女官たちを手で制し、人払いをする。
そうっと扉を開けて堂室の中を見渡す。窓から続く露台の先、黒髪の後姿を見つけて、足音を潜めて歩き出した。もっとも、相手には王気がわかるから、こんなことをしてもわかってしまうのだが、視線の先の青年は真剣そうに机に向かっているから、邪魔をするのが憚られたのだ。
青年は石案に身をかがめて、しきりに腕を動かしたり、顎に手を当てたりしている。
後ろから覗き込める位置まで到着したとき、ふいに青年は振り向いた。
「驍宗様!」
目を見開き、あきらかに驚いている泰麒に、反対に驍宗のほうが驚いてしまう。
「何だ、気づいていなかったのか」
「驚かさないで下さい!」
泰麒は石案の上に広げてあった紙をくるんで、慌てて驍宗の目から隠す。石案の上には丸い石皿があって、その上には色とりどりの染料が置いてあった。細い絵筆が泰麒の肘に引っかかり、硬い音を立てて地面に落ちる。
「絵を描いていたのか」
くるんで隠してしまった絵を視界の端に留め、己の麒麟に軽く笑いかける。何かを隠している者特有の、ぎこちない笑みが返ってきた。
「ええ…、たまに絵筆を出してやらないと、かぴかぴに乾いて使いものにならなくなってしまいますからね。…それで、御用は?」
かがんで筆を拾い上げた泰麒は、水を溜めた小さな深皿に絵筆をひたす。筆から滲み出てきた染料が、水面に複雑な色をした島を作り出した。
「いや、最近お前の様子が変だと正頼から聞いてな。――草の根を掻き分けて、探し物をしているんだって?」
泰麒は一瞬きょとんとしてから、小さく笑みを浮かべた。
「え?ああ、みどりの染料を作るのに、丁度いい色をした草を探していたんです」
「それくらい、自分で探さなくても女官に言えばいいだろう」
「絵は自分の趣味ですから、忙しい女官に頼むような仕事ではありませんよ」
それに、と小さく呟いて胸元の丸めた紙に視線を落とす。
「やっぱり自分で探したほうが、イメージに合う色が見つけやすいですし」
「いめーじ?」
軽く首を傾けた驍宗に、泰麒はやんわりと笑んで説明する。
「具体化する前の、自分の頭の中にある構想のことです」
「…それで、そのイメージ通りの色は見つかったのか?」
驍宗の言葉が終わるか終わらないかのうちに、泰麒は目を伏せて俯いた。
「はい、みどりは見つかったんですけど、赤が…」
そこまで言うと、泰麒ははっと顔を上げ、口を手で覆った。
「赤?」
「…いえ、何でもありません」
黙り込んだ泰麒から無理やり聞き出すのも躊躇われて、驍宗は強いて明るく声を上げた。
「では、台輔がもう草探しをしないでいいように、お前に一つ贈り物をしよう」
「贈り物?」
「明後日の朝議が終わったあと、私の部屋に来るように。わかったな?」
「…はい」
肯定した泰麒に満足し、驍宗は部屋を退室した。
部屋に戻ると真っ先に正頼を呼ぶ。
「国中の赤を集めるように。明後日の朝議が終わる前に、必ずだ」
泰麒と約束した日の朝議の間中、驍宗は溜め息ばかり吐いていた。
良く考えてみたら、みどりと赤と聞けば、泰麒が何を描こうとしているかすぐわかる。
翠は景王の瞳の色。赤は景王の髪の色だ。
最近の泰麒の様子と合わせて考えてみれば、泰麒がなぜ食がやせ細ったか思い当たる。
泰麒も、春風に当てられた一人だったのだと。
麒麟も恋をするものなのだろうか。仁と慈悲で出来た神獣と言われ、主に絶対の忠誠を誓う麒麟も。
そう書き留めた書簡を隣国の王に送ろうとしたこと三度、飛び立とうとした青鳥が鳴いた声で目を覚まし、慌てて足を掴んで引きとめた。
わかってからというもの始終感じる疎外感に悩まされていたが、朝議が終わる頃には泰麒の保護者としての自覚が勝った。
嵩里がそれを望んでいるなら、それを叶えてやるのも王の務めであろう…。
堂室に入ると、泰麒は開口一番、感嘆の溜め息を漏らした。
国中から集められた赤の染料が、石の皿に載せられてきれいに並べられている。
「どうだ、お前の"イメージ"通りの赤は見つかりそうか?」
深い落胆を隠し、努めて明るく振舞う。
そんな驍宗の影の努力も知らず、泰麒は嬉しそうに笑みを広げた。
「はい!ありがとうございます、驍宗様。出来上がったら一番にお見せしますね!」
それから十日後、景王への親書――内容は前回の来訪への礼と、またいつか載に来て欲しいということなど――をしたためていると、外から聞きなれた穏やかな声がかかった。
「驍宗様、僕です。失礼してもよろしいですか?」
肯定の返事を返して筆をおき、紙を書類の束の下に隠す。
振り向くと、泰麒がくるんだ紙を胸に抱いて立っていた。
「絵が出来上がったんです。下手なので恥ずかしいのですが、見ていただけますか?」
ああ、ついにこのときが来てしまった。
足の横で握り締めた拳に力を込め、驍宗は頷いた。鮮やかな赤と、鋭い翠を見ても、動揺しないでいられるように。
泰麒は包まれた紙を止めていた紐をはずし、端を両手で持って縦に広げる。
鋭い赤が零れて、驍宗の目は驚きに瞠られた。
…紙に描かれていたのは赤い瞳、白い髪の人物――自分、だった。
「こ、嵩里、これは…?」
声が露骨に上ずる。口の端が笑みの形にぴくぴくとひくついた。
「驍宗様です。…やっぱり、見えませんか?」
恥ずかしそうに絵と驍宗を見比べる泰麒に、驍宗は自分の頬を掴んで引っ張った。痛い。
「もしかして、赤は私の目を描くために…?」
「ええ」
驍宗は心の中で喝采を上げた。
ああ、やはり彼は自分の麒麟だったのだと。
全ては自分の勝手な勘違いだったのだと。
深く深く、安堵の溜め息を吐いた驍宗に、泰麒は申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、何だか色々とご迷惑をおかけしたようで」
「いや、迷惑など…。とても嬉しい。ありがとう、嵩里」
素直に礼を述べると、曇っていた泰麒の瞳が嬉しそうに輝いた。
「いえ、喜んでいただけたようで僕も嬉しいです。ありがとうございます、驍宗様」
嵩里が退室すると、書類の下から親書を取り出し、丸めて屑箱へと放り投げた。
そして、改めて親書を書き始めた。
窓から入り込む陽射しが心なしかいつもより温かく感じる午、もうまとわりつくような肌寒さは感じなかった。
泰麒は傲濫の背中の上、ぶつかってくる生暖かい風を感じながら、大空を飛んでいた。
目指す金波宮の禁門前に辿り着き、門衛たちに軽く会釈をしてみせる。泰麒の正体に気づいた彼らは、膝をついて叩頭した。
「景王にお会いしたいのですが」
慌てて駆け寄ってきたこん人に否やがあろうはずもなく、すぐに室内に通され、泰麒は笑みを噛み殺す。
国に残してきた主を思うと少し申し訳ないような気がしたが、堂室に入ってきた赤い髪の少女の顔を見ると、そんな罪悪感もすぐに吹き飛んでしまった。
「お久しぶりです、中嶋さん」
「どうしたんだ、突然。…もしかして、載に何か?」
「いえ、その前お話していた絵が出来上がったので、中嶋さんに見ていただきたいと思って」
言って懐からきれいに巻いた紙を取り出し、陽子の前に広げてみせる。
「うわあ…。本人よりもきれいに描いてあるじゃないか」
言葉とは裏腹に、嬉しそうな陽子の笑顔に泰麒の口元も自然と緩む。
描かれているのは赤い髪の少女。
途中、驍宗にこれを描いているところを見つかりそうになって、ごまかすために主の絵を描いていたら完成が遅くなってしまった。
あの時はあまりにも夢中になっていて、近づいてくる王気に気がつかなかったのだ。
そんなアクシデントがあったものの、昨日無事、驍宗が集めてくれた赤を混ぜて髪を塗り、完成にこぎつけることができたのである。
あれもそれもこれもひとえに、目の前の少女の笑顔を見るためだけに。
「気に入っていただけましたか?」
絵に見入っていた陽子に声をかけると、彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「うん、とても。ありがとう、泰麒」
[宣言]
「陽子」
外套を着込み禁門に向かって小走りに渡り廊下を進んでいた陽子はよく響く声に足を止めた。
「延王」
嬉しそうに見上げた顔を覗き込み、延王は問う。
「出かけるところか」
「ええ」
僅かに困った顔を見せた陽子に延王は明るく笑いかけた。
「では護衛をして差し上げよう」
「そんな‥‥」
「それとも俺が一緒だと困るところか」
「いえ、とんでもない。でも面白いところではありませんし」
「何、陽子がいればどこでも楽しい」
延王の言葉に陽子は頬を染め、それでも嬉しそうに笑った。
延王に趨虞に同乗するように言われ、陽子は僅かに躊躇った。
「遠慮するな」
「でも‥‥。たまが可哀想です」
「俺には陽子を乗せたがっているように見えるが」
確かに耳の下を掻く陽子の手に、趨虞は嬉しそうに頭を擦りつけている。
「趨虞は気が荒くて誰にでも馴れる獣ではないのだがな」
面白そうに言う延王の横で陽子は趨虞に話し掛けた。
「じゃあ、重くて悪いけれど乗せて貰うね」
先に騎乗した延王が陽子を前に乗せ、そっと腕を回した。 それだけで陽子は真っ赤になってしまう。
「あ、あの」
くつくつと笑いながら延王が耳元で囁いた。
「くっついていた方が暖かいぞ」
禁門を出てすぐに陽子は延王の言葉が真実であったことを悟った。
趨虞はどういう仕組みなのか、風を切るわけではない。それでも早春の空気は冷たかった。ただ、延王に触れている背中だけが暖かい。
冷たい大地は茶色く乾き、緑の気配はまだ僅かだった。畑にも動くものはほとんどいない。点在する里家の周囲にだけ、多くの人の姿が遠目に見えた。
「慶はもう春の気配だな」
延王の言葉に陽子は首を傾げた。
「そうでしょうか」
「雁ではまだあちこちに雪が残っているぞ」
「ああ、慶の方が南にあるから。雪自体が少ないし」
「それだけ恵まれているんだ。そのうち雁以上に豊かな国になる」
「頑張ります」
「無理はするなよ。無理などしなくても大丈夫だ」
柔らかな声に陽子は前を向いたまま延王の胸に頭を擦りつけた。
ゆっくりと趨虞の上で語らいながら二人がやってきたのは瑛州の外れの墓地だった。
小さな塚の前に暫くしゃがんで何事かを語りかけていた陽子はややあって立ち上がり、離れたところで待っていた延王に走り寄った。
「お待たせしました」
「もういいのか」
「ええ」
それ以上延王は何も聞かなかった。ただ黙って陽子の肩を抱き、騎獣の手綱を引いてゆっくりと歩く。
冬枯れた野を乾いた風が渡る。気温はまだ低いが、光の明るさが確かに近づいている春を知らせていた。
「桂桂のお姉さんだったんです」
ぽつり、と陽子が言った。
「さっきの墓か」
「ええ」
再び黙った陽子の肩を抱く手に力を込めて、延王は言った。
「冷えるな。茶の一杯でも飲んでいくか」
「ええ」
北韋の街には人が溢れていた。
「随分な人だな」
「そろそろ畑の世話が始まるから、他国から戻ってきた人を急いで土地に割り振ったんです。その人たちが一時街に集まってしまったみたいです。畑仕事が始まってしまえば廬に散っていくからこんなことは無いはずなのですが‥‥。少し早くやりすぎたかな」
首を捻る陽子の頭を延王はくしゃりと撫でる。
「何、遅いより早い方がいい。もう半月もせずに田起こしが始まる。」
確かに街のあちらこちらにいかにも手持ち無沙汰な様子の人々が固まっていたが、よく見れば彼らは一様に明るい目をしていたし、古くからこの土地にいるらしい者にこの地に適した作物の選び方や育て方を熱心に聞いている若者達の姿もあった。
趨虞を引いて歩く二人は人目を引いたが、だからといって金品を狙うような荒んだ真似をしそうな者はいなかった。もっとも見事な刀を佩いたこの二人を襲おうなどと思う者は滅多なことでは居はしないが。
なるべく良さそうな舎館に騎獣を預け、二人は扉をくぐった。暖まれればいいだけなので堂室は取らずにそのまま込み合った食堂の隅の卓に付く。
陽子が出された茶杯で冷えた指先を暖めるのを、延王は黙って優しく見ていた。その視線に困った陽子がそっと問う。
「お酒の方がいいのではありませんか」
「酔った勢いで陽子を上に連れ込みたくなったら困るからな」
延王の言葉に陽子が赤くなって視線を茶杯に落とした時、既に随分前から呑んでいたらしい奥の席の男が、隣の若者に大声で言った。
「無駄だよ、無駄。真面目に畑に出たって、どうせ慶はまたすぐ傾くんだ」
たちまち陽子の表情が凍りついた。いや、陽子だけではない。男の言葉に、それまでざわめいていた人々が皆、口を噤んで男を見つめた。
突然静かになった中に、呂律の怪しい男の声が響く。
「どうせ田を耕したところで、さぁ収穫って頃になったら妖魔が来て逃げる嵌めになるのさ」
かたかたと細かく震えだした陽子の手を延王がそっと握った。
「だが、慶にはもう王がいるんだぞ」
男の隣に座った若者が言い返した。
「なぁに、すぐ斃れるさ」
「どんな根拠があってそんなことを言うんだ」
若者が叫ぶように言うと、周囲の人々が一様に頷いた。
「そりゃあ、慶は雁の隣にあるからさ」
「何?」
「慶は雁の隣にあるから、長続きしないんだ」
「何だと」
「慶も、巧も戴も、雁の周りにある国はみいんな長続きしないんだ。柳だってどれだけもつことやら」
思わぬ話の方向に、陽子は驚いて延王の顔を見上げた。延王は表情の窺えない顔で男をじっと見つめていたが、その内心が決して平静ではないことは、繋いだ手に不自然に力が入っていることが示していた。
「そんなのは偶然だ」
心なしか先程よりも弱い調子で若者が言った。
「偶然ではないさ。俺は巧に逃げて、阿岸で下っ端役人の下働きをしていたんだ。役人達はみんな言ってたぜ。いくら頑張ってもどうせ雁には追いつけっこない。なのに一度でも雁に行ったヤツは、自分の国が雁のようでないからといって役人がさぼっているように言いやがるってな」
「‥‥」
若者が黙ったのに力を得て、男は得意そうに周囲を見回した。
「そうやってまず役人がやる気をなくしちまうんだ。で、どうせ何をやっても駄目だって言われるなら自分がちょいと手を抜いて楽をしても同じだって思うようになるのさ。お前らだって分かるだろう。そうさ、雁から戻ってきたヤツはどれくらいる」
気まずそうにばらばらと、それでも多くの手が上がった。
「ほぉらな。お前ら、みんな知ってるんだろう。雁がどんなところか。雁の民がどんなにいい思いをしているか。羨ましいだろう。お前らがそう思っている限り、慶は駄目なのさ」
男は得意そうに酒盃を呷る。
「莫迦なことをお言いでないよ」
鋭い声がした。見れば舎館の女将らしき小柄な女が手を腰に当てて男の前に仁王立ちになっていた。
「雁がどんなにいいところだろうとね、慶が私の国なんだ。これからよくなっていく私らの国なんだよ」
そうだそうだという声が沸きあがった。
「いいかい、私らはこれからここで頑張るんだ。下らない役人がつまらないことをしでかしても、そのうちきっと王様が何とかしてくれる。今度の王様はあの昇紘を追っ払ってくださったんだからね」
人々の賛同の声に胸を張った女将は、黙り込んだ男に優しく言った。
「あんただって、本当は分かっているんだろ」
「俺は‥‥あいつと頑張りたかったんだ。なのに、巧に行く途中であっさり妖魔にやられちまって‥‥。俺一人が帰って来て‥‥」
酒盃を抱き締めるように俯いた男が呟くように漏らした。
「気持ちは分かるけどね。ここにいる者はみいんなそういう思いをして戻ってきたんだ。ね、一緒に頑張ろうじゃないか」
男が静かになるのと同時に、人々はまた自分達の会話に戻っていった。皆がそれぞれに、最前よりもより熱く、自分の体験とこれからの抱負を語り合っていた。
そんなざわめきの中で、延王はゆっくりと立ち上がった。
「出ようか」
舎館を出ようとした二人を一人の老人が呼び止めた。
「お前さんたち、雁のお人かい」
「どうしてそれを?」
陽子の問いに、老人は穏やかに笑う。
「ここらでいい服を着ているのは雁の国から来たお人に決まっておるからな。滅多におらんが」
「それが何か」
注意深く肯定も否定もせぬまま訊いた陽子に老人は軽く頭を下げた。
「雁のお人なら嫌な思いをさせてしまったの。あの男もいろいろ嫌なことが多すぎたんだろう。わしが代わりに謝るから許してやってくれ。ここにいるのは雁には何かと世話になった者ばかりだ。もう間違っても雁の悪口など言わせはしないから」
「それはかたじけない」
陽子が返事をする前に延王が老人に頭を下げた。その丁寧な礼に老人は驚いたように手を振り、笑った。
「なあに、百年もすりゃあ慶だって立派な国になるさ。その頃わしは生きてはおらんがの」
足早に暮れていく街を趨虞を引いて二人は歩いた。
「陽子はよい民を得たな」
静かに延王が言った。
「延王のおかげです」
短く陽子は答え、広途の外れで足を止めた。
真っ直ぐに延王を仰ぎ見る。
「私は斃れませんから」
それは宣言。
周囲の国が次々と斃れていく理由を六太は尚隆が疫病神だからだと笑う。軽い言葉に隠された、あるいはそれが真実かも知れないという恐れを断ち切るような、力強い宣言。
「私は斃れませんから」
一瞬言葉を失った延王にもう一度言って、陽子はにっこりと笑った。
「頼む」
短く言って延王は陽子を抱き締めた。そっと唇を重ね、囁く。
「先程言ったのは間違いだな」
「え?」
「陽子がよい民を得たのではない。慶の民がよい王を得たのだ」
嬉しそうに微笑んだ陽子の唇を軽く啄ばみ、延王は身体を離した。
身軽に騎獣に跨り、前に陽子を乗せる。
二人の王を乗せ、趨虞は夕空に駆け上がった。
(了)
[蒼猿夜話]
十二の国に十二の麒麟。麒麟が選びし十二の王。
十二国が一つ慶国は王のいない苦渋の時を経て新たな王を得た。王の亡い国は荒れ妖どもが跋扈する。新しき王を迎えなお慶国は荒れし時代の名残を夜に引きずる。
-----闇濃き夜には気を付けるがいい
しわがれた老婆らしき声が少年を呼び止めた。青を幾層にも重ねた夜の空に街を照らしてくれるものはいない。街の民は皆おのおのの家に帰り夜をやりすごす。明かりのない夜の街に少年と老婆だけがいた。少年は油断のない目で老婆を見る。闇に埋もれた老婆は闇が語りかけるかのようだ。
「最近このあたりに猿の妖が現れると聞いた」
少年は鋭い眼光からは予想できない丁寧な口の聞き方をする。珍しい色の髪をきゅっと一本にまとめ腰にはひとふりの刀を差している。深紅の髪は十二国のどの民にも類を見ない色であったが、少年が身につけている服は確かに慶国のものである。簡素だが丈夫な生地で作られている。
-----豪気なこと。妖退治かい
笑いを含んだ老婆の問いに少年は気分を害した様子もなく答えた。
「いえ------猿には心当たりがありますので」
ホッ。老婆が笑う。
------猿に知り合いかい。お前さんも普通でないの
老婆が肩を小刻みに揺らして笑う。老婆の姿は闇の中でなお濃い影であった。闇が笑っているかのようだ。
老婆から見れば少年もまた輪郭だけを残した影に見えるだろう。年老いたその目には、もはや影にさえ見えず闇に埋もれた闇そのものに見えたかもしれない。ただ気配だけを色濃く残した闇。
線細い体つきからは思いもかけず、少年は時折見るものをはっとさせる気配とでもいうものを持っていた。生気とでも名付けようか。知るものがいればこうも呼ぼう。王気、だと。
-------夜には気をおつけ。若いの。夜が恐ろしいのは妖ではない。
老婆は節くれだった指をたてた。
------闇濃き夜に目を見張れば見えもしないものが見える。耳を澄ませば聞こえもしない声が聞こえる。
「妖ではない?」
ホッ。老婆がまた笑った。
------お前さんが捨ててきて捨て切れずにいるもの。忘れ去ったもの。未練と後悔。こんな闇濃き夜には闇に溶けて話しかけてくるもんさね。
老婆はさも可笑しそうに身を震わせた。しわがれた笑い声がしんしんと響く。
------そういうわしも濃き闇にいる。わしの方こそ妖かもしれんぞ。お前さんもな。お互い気付かずうちに妖に成り果てたのかもしれんて
クックッと身を揺らす。少年はすうっと鞘から刀を抜いた。
「そのようだな------久しく会わないうちに随分とお喋りになったものではないか」
老婆は刀に驚いたふうもない。相変わらずクックッとしわがれた喉の奥で笑う。
と、老婆の影が闇に溶けた。拡散した濃き闇は更に周囲の闇を取込むかのように虚空で凝縮し、青白く光る。
少年は肩に落ちた束ねた赤い髪を片手で背中に払った。刀の先で蒼い影は猿の姿になっていた。虎ほどもある大きな獣の姿に膨れ上がったと思うと蝋燭の火が揺らぐように見る間に影は揺らいで小さな猿になる。
闇のなかで蒼く蒼く浮かび上がる。とっと地に下りて小煩く跳ね上がった。
ホッ。ホッ。ホッ。
蒼い猿は笑うかのように短く吼えて少年の周りを飛び回った。猿の描く放物線が蒼い光の尾を残す。小さき獣の残像が少年を輪で囲む。少年は無言で闇に耳を澄まし目をこらしていた。
「さあ、何を見せる」
少年が呟いた。
蒼い影がゆらりと闇に踊り上がった。
気付けば朝であった。少年はいつか閉じていた目蓋を開く。一晩の間、閉じた目にありありと幻を見せられた。人の心の弱き付け込んで幻影を見せる蒼猿によって。
だが心を狂わすことも幻に捉われることもなく少年は朝の街にいる。赤い髪の少年はふと笑んで腰の刀を撫でた。
代々の景王が受け継ぎ、王にしか従わぬ刀。少年が自分の立場も何も分からずに手にしたおり、刀は鞘を失くした。刀を離れた鞘は猿の姿をとって当時少年の前に現れ散々幻影で少年を惑わせた。あれから一年もたっていないが果てなく遠く気もするし、また昨日の出来事の気もする。
ふと、背後に不穏な気配を感じて少年は刀に手を当てたまま硬直した。まともに振り返る潔さをなくして、少年はちらりと地面に視線を落とす。涼しげな朝の光が、少し湿った地面に人影を作っていた。
影の主は誰か少年には分かっていた。分かっていたから振り返りたくはなかった。が、無視するわけにもいくまい。
意を決して振り向けば眉間に深くしわを寄せた男が一人立っている。頭に白布を幾重にも巻いて長い髪を隠している。布からこぼれた一筋の見事な金色の髪が朝の光にきらめいている。人の姿をとった麒麟、景麒である。
「御前はご自分のお立場をわきまえておられるか」
冷ややかな声が麒麟の口から漏れた。あまりに予想通りの顔に少年-------慶国の若き王は思わず微笑する。景麒の形の良い眉がぴくりと跳ね上がる。
「何がおもしろいか」
景王、陽子はいや、と慌てて神妙な顔を作る。少年のように見えても彼女は女王であった。
「すまない。猿が出ると聞いたのでもしやと思ったのだ」
「言ってくださればいくらでも私の下僕に確かめさせます」
だが、と生真面目な慶国の女王は己の麒麟を真直ぐに見て反論する。景麒は黙って城を抜け出した王の、その眼を直視することができずにふいと目をそらす。結局麒麟は王に弱い。王気にあてられ目を見ることさえまかりならない。陽子はそんなことには気付いたふうでもなく言った。
「自分の目で確かめたかった」
景麒はふと笑んだ。あまりに陽子らしい、あまりに予想通りの答えだった。
「何がおかしいか」
陽子が少しむっとしたように問う。いえ、と景麒がうそぶいた。慶国の王と麒麟、はたから見ればよくよく似たもの同士であった。
「しかし、今更何故猿が出たのでしょう。鞘の猿は一度死んだはず。調べさせましょうか」
陽子は首を振った。
「その必要はない。昨夜の昨夜の猿は代々の王が使っていた刀の鞘の化身ではない。
--------私が次いだこの国の、闇の中から新たに生まれた幻影・・・そんなところだ」
人が暮らし生きていれば幾度でも夜にうごめく、人の心の弱さが見せる幻。
「新たに生まれた、のですか」
景麒はまだよく分からないといったふうだ。
「ああ、見ろ」
陽子は刀をしめした。魂が死んで器のみとなっていた鞘に、力が戻っているのを景麒は感じた。
「これは・・・鞘が生き返った?」
陽子は笑った。
「返ったんじゃない。生まれたんだ。昨夜の猿が宿っている」
景麒は線の細い己の主を見た。
----------闇の見せる幻影を御されたか
やはり王にはかなわない。この若き王は生真面目で気難しい麒麟の想像を越えたことを一晩でやってのけた。
景麒は笑んだ。自国の麒麟から眉間のしわが消えた貴重な瞬間をあっさり見逃して、陽子は思い出したように問うた。
「いつからいたんだ?」
「昨夜、王が居られないことに気付いて方々探させました。夜明け前ここで王がお一人で立っておられるのを見つけましたので」
何故か景麒は一度口をつぐむ。
「怪しい影がちらついておりましたが迂闊に手を出さぬ方が良いと判断いたしました」
そうか、と陽子は破顔する。己の心と向き合っている途中に邪魔を入れないでくれた景麒に陽子は感謝した。
何もせずに見守るというのは辛い。昨夜の景麒の場合、状況が分からなかったのだからなおさらだ。それでもなお陽子にその場を任せてくれた景麒に陽子は心から礼を述べた。対して景麒はいえ、と短く答えただけであった。
「昨夜の猿はどのような幻を見せたのですか」
問う景麒に陽子は笑んだ。
「--------そういうお前は何を見たんだ?お前もあの猿を見たのだろう」
生真面目な麒麟は虚をつかれて一瞬たじろぐ。が、すぐに眉間にしわを寄せ答えた。
「申し上げるようなことではありませんので」
「そうだな」
陽子が首肯いて歩きだす。景麒も後に続こうとして、はたと思い出す。眉間のしわが深くなる。
「王、城に着きましたら朝餉の前に城を抜け出したこと反省していただきます」
陽子がうっと唸って振り向いた。
「またお前の小言を聞かなくてはならないのか」
「私が好んで言っているとでもお思いか」
城に着くのを待たずにすでに景麒の小言が始まってしまった。景麒から逃げるように早足に歩く新しい景王の刀には、新しい鞘がしっかりとつけられていた。
<了>
[装苑]
春節祭を控えたある日。金波宮、内殿の一角ではかまびかしい遣り取りが、先刻から続いていた。
寄せる年の瀬の気配もそこそこに、冬の冷たさも感じさせない熱気を帯びた気配である。
「違うわよ、その帯がおかしいの」
「あら。合わせの色味が良くないのよ」
「あ、あの…」
大勢の女官の声と体と、色とりどりの衣装の中心から、埋もれるようにして陽子が抜け出した。
「いけませんよ、主上。まだお衣装合わせが済んでいないのですから」
「そう言われても…」
濃い疲労の色を隠そうともせず、陽子は手近な椅子へと身を投げ出した。
昼餉を済ませて、暮れあしの速い冬の光は、はや夕刻のそれへと移り変わろうとしている。
その間ずっと女官たちの戦いをやり過ごし、着せ替え人形よろしく素直に衣装換えにつき合っていたのだ。
なのに、この事態は一向に収束する兆しを見せない。
陽子に嫌気がさしたとしても、仕方のないことだった。まして今は…。
「――もう今日の午後をずっと使っているんだぞ。このままでは政務が滞ってしまう。
夜には遠甫に勉強にお付き合いいただく約束になっているし…。なんとかならないだろうか」
鈴が気を使って運んでくれた茶を、ゆっくりゆっくり飲みながら、陽子は上目づかいで言ったものだった。
――返るのは、鈴の横合いから入った、なりません、と言うにべもない一言だったが。
「そんな…」
もともと着飾るのを得意としない陽子は、もはや疲れきっていた。
春節祭は国の正式な祭典だし、国民の前で慶賀の挨拶をすることになっているから、官服で行うのは無理だというのは、さすがに陽子でもわかっていた。だが、何も半日を(いや、この分では半日以上、酷くすれば丸一日を)費やしてまですることなのだろうか、と思ってしまうのだ。
「諦めたら?陽子」
「――え?」
幾重にも着せかけられた衣装に埋もれるようにして溜息をついた陽子に、鈴がとりなした。
「春節祭は特別なのよ。他の祭とは少し違うの」
「――とくべつ?」
「そうよ。新年になるのは、特別よ」
「そんなものかな」
よくわからない、と言った顔をした陽子を、鈴が笑った。
笑いながら、優しく陽子から湯飲みを取り上げると、着膨れた陽子が肩から着物を外すのを手伝ってくれる。
「そうね。確か陽子の話じゃ私のいた頃と暦も少し違うものね」
「うん。少しずつは判ってきたけど…とても難しい」
「でしょうねえ」
「――なあに、二人でこそこそと。駄目よ、陽子。結局何を着るか、ちっとも決まっていないんですからね」
身を寄せ合った二人の背後から、ぴしりと言い放ったのは、祥瓊だった。
彼女は、先刻から陽子の装束をあれでもない、これでもないと実に楽しそうに選んでいたのだ。
――いつのまにか静かになっていると思ったら、新しい着物を持ってきたらしい。
祥瓊は、両の腕に色とりどりの衣を抱えていた。
「なあ、祥瓊。春節祭が特別っていうのは、どういうことなんだ?」
「特別?あんた特別なんて言ったの、鈴?」
「だってそうでしょ。だから祥瓊だって、かりかりしてるんじゃない」
「あら。それは純粋に衣装が決まらないからよ。
――そうねえ、陽子。暦や新年のことは、遠甫からきちんと伺ったほうがいいと思うわ。何と言ってもどこから教えて良いのか、私たちじゃわからないんですもの。 …だいいちこんな状況じゃ、いくら陽子が一生懸命聞いたって、お話が赤だか緑だかわからなくなっちゃうわよ」
「――そんなものかな」
「そうよ。…少し休憩にいたしませんか、皆さま?」
他の女官たちに向かって、祥瓊が優雅に笑いかける。
まるで花が開くように華やかで、しかし決して押し付けるように匂いたちはしない。
見事としかいいようのない、祥瓊の微笑を視界の隅で捕らえた陽子は、誰にも気付かれないように溜息をついた。
「そうですね」
「そういたしましょうか」
「お茶を入れてまいりますわ」
祥瓊は、本当に『お姫さま』のイメージにぴったりくると思う。
綺麗な装束を纏って、ふっくらと微笑むだけで、人の心に訴えるものがあると思わせるのだ。
飾りの少ない今の女官装束では、意思的な瞳が印象的に映るが、祥瓊は豪奢な飾りにも負けない『華』があった。
――ひきかえ陽子はどこか直線的だし、いまさら飾り立てたところで、とさえ考えてしまう。
「…陽子?」
「うん…」
「――そんなに嫌?」
心配そうに鈴が覗き込んでくるのに、なんとか苦笑いして返した。
「陽子」
「嫌とか、そう言うのじゃない。だけど…うん。ごめん」
俯いて、祥瓊の視線から逃れると、頭の上で盛大な溜息が聞こえた。
「――祥瓊」
「違うわよ、陽子」
「そうよ。断然違うわよ」
右と、左と。
そっと陽子が顔を上げると、両側から怖い顔をした二人の少女が睨んでいた。
「ええ?あの、ちょっと…」
身を翻した鈴が、ばたん、と音をたてて扉を閉めると、同じく高く音をたてて鍵を掛ける。
反対側に遠ざかった祥瓊は、そこかしこに広げられた衣装を腕に抱え上げると、大きな櫃に委細構わず投げ込んだ。
入りきらない飾りは、彼女らしからぬ雑さで(この三人の中で、最もその価値を知るのは、間違いなく祥瓊だ。)集められ、重ねられた帯や何とかと言った薄い布の上で一つに纏められ、どこかへと追いやられてしまった。
「――さ、これでいいわ」
「あの…」
陽子はただ目を丸くして、部屋を縦横に動き回る鈴と祥瓊とを眺めていた。
「さあ陽子」
黒檀の椅子を重そうに運んできた鈴が、陽子の右側にぴったりとそれを据え付けるとすとん、と勢いよく座った。
「――ええと…なに?」
「なに、じゃないわよ!」
同じように椅子を抱えてきた祥瓊が(こちらは脚に繊細な螺鈿模様が入っている。)、だん、と陽子を挟んだ左側にそれを据え付けて一喝する。
「――あ、あの…」
「ねえ陽子」
そっと鈴が暖かな茶碗を差し出しながら、陽子を覗き込んだ。
「鈴?」
「祥瓊はね、陽子が暗い顔してる理由を、私たちになら話してくれてもいいんじゃないかしら、って言ってるのよ」
「え…」
「……」
無言のまま、祥瓊は椅子に落ち着けた。
陽子がぽかん、と見ているのは分かっているのだろう。意識的に目線を外しているのが、頬のあたりにうかがえた。
そんな祥瓊と陽子を、くすくすと鈴が笑う。
優しい笑顔に導かれるように、陽子はひとくち、鈴が新しく淹れたばかりのお茶を飲む。
緑茶でもない、紅茶でも、ウーロン茶でもない。
こちらに来るまでは、陽子の知らなかった味のお茶が、今は柔らかな香りとともに心を寛がせてくれていた。
(――楽俊、どうしてるかな)
小さな手で、器用に同じ茶を陽子に差し出してくれた友人を、ふと思い出した。
「陽子?」
気がつくと、味がおかしかった?と鈴が心配げに眉を寄せていた。
「――あ、とても美味しいよ。どうもありがとう」
「どういたしまして」
「祥瓊も…ありがとう」
「……」
(一人ぼっちなのだと、思ってた)
あのころには、こうして誰かが淹れてくれたお茶を味わうことが出来ていただろうか。
――焦っても仕方がないのだ、とは思う。
一杯のお茶を呑むことでさえ、疎かだったころに比べれば、自分はずっと恵まれているのだ。
(鈴がいて、祥瓊がいて)
拙いながらも、なんとか玉座に座っている。居場所を、与えられている。
「――陽子?」
「うん…」
ほう、と深く息をつくと、陽子の動きにつれて青磁が揺れ、ゆらゆらと茶も揺れた。
穏やかな手の中の風景をみて、けれど陽子は『そこ』で立ち止まってしまうのだ。いつも。
「私にはまだまだやることがたくさんあるんだ」
自らに言い聞かせるように、低く吐き出した陽子を、祥瓊も鈴も遮らなかった。
「祭は大切だと思うけど、正直最初は祭自体を取りやめようかと思ったくらいだった」
「――陽子…」
「まだまだ慶国は貧しいんだ。…そこで私がきらきらしく飾り立てて出て行って、それで何の意味があるんだろう。
景麒が余りうるさく言うし、こちらにはこちらの流儀があるからと思って我慢してるけど」
静かに話そうと思うのに、抑えようとする心が勝った陽子の声は少し震えていた。
「それで本当にいいのかな、と思う」
「……」
「私が、着飾って皆に手を振って、それで何かが良くなるならそうする。――だけど今の慶は、貧しいから。
冬はなんとか越せそうでも、こうやって安穏とお茶を飲むことさえできない人が、まだ大勢いるんじゃないのかな…」
御庫の宝物は可能な限り処分して、冬の備えに回した。出来る限りのことをしたつもりだった。
官から出た反発を無視してまで行った。敢えて断行した、そう思っていた。
――それなのに、まだ一抱え以上も陽子を飾ることが出来る着物や宝飾品は残っているのだ。
陽子は温くなってきた茶を飲むことで、重ねそうになった溜息をやり過ごした。
俯いた陽子の上で、祥瓊と鈴は静かに視線を交わす。――どちらともなく溜息がでた。
「――王さまも、大変ねぇ…」
「そうじゃなくて、この場合、『陽子が』大変なのよ」
「そうかもね」
「…ひどい」
陽子を飛び越して祥瓊と鈴が話すのに、思わず顔をあげた。
すかさず両側から、首を傾げた二人が陽子を覗き込む。
「酷くなんかないわよ。ねぇ陽子?」
「なに?」
「新年のご挨拶に行くなら、誰でもきっと身綺麗にすると思わない?」
ごく自然なようすで問いかける鈴に、陽子も素直に頷いた。
「――それは、そうだと思う」
蓬莱で過ごした正月を思い返して、陽子は違和感なく鈴の声に頷いていた。
挨拶に行く予定がなくても、新年には新しい服や少し良い服を着た。例えば…そう、部屋着を着ることはなかった。
(『あら陽子。そんなのじゃなくて、新しい靴下を出しなさい。お父さんにはご挨拶したの?』)
正月の冴えた空気。雑煮から放たれるだしの香りと、温かな湯気。
「――ねぇ陽子?」
「ああ…、うん」
ひどく遠くなってしまった記憶のなかの季節から、祥瓊の声で呼び戻された。
祥瓊の肩から紺青の髪が一房滑り落ちて、、陽子の意識を寄せるように視界の端で揺れた。
「慶国は、牧畜や林業よりも農耕が盛んだわ。農作業の一年って、年明けと同じに始まるのよ」
「…うん」
「春蒔きのものが多いから、年が明けたら土を拵えて、農具も水路も整え直して」
「……」
「忙しくなるのよ。…だけどそれって嬉しいことじゃない」
「――そう、かな」
「そうよ。今までとは違うわ。陽子がいるんですもの」
ぴしりと言った祥瓊に、陽子のどこかが痛む感じがした。
こちらの王さまは、向こうで陽子が考えていた王さまとは少し感覚が違うのだ。
むしろ、より神に近かった。それを思うたび、陽子の胸は重い物を抱えてしまう。
――いつかは納得しなければ、やっていけないとは分かっているのだが。
「…ちょっと、祥瓊。それじゃ陽子が縮こまるだけよ」
再び俯いてしまった陽子に、鈴が慌てていた。
「縮こまらせるために言ってるんじゃないもの」
「ないものって言ったって…」
「鈴、ありがとう。大丈夫だから」
それでも陽子は少し笑って顔をあげる。
祥瓊が意味もなく強い言葉を使うわけではないと、知っているからだ。
それは自分が神さまだとか王さまだとか言う状況よりは、陽子にとってずっと信じられるものだった。
「陽子…」
「だって、ねぇ?…去年までは、田畑を投げ出して逃げるしかなかった人だって大勢いるわ。
――戦に巻き込まれなかったとしても、妖魔が出てきたとき、開けた田畑にいたんじゃひとたまりもないもの。
頑張って作ったって蝗害でやられたりね。長雨や日照りだって、王さまがいるのといないのとじゃ規模が違うって言うし。それが来年は違うの。絶対に今年よりも収穫が上がるのよ」
「……」
「――ね、陽子。収穫が思ったよりずっと少なくても、良いの。大丈夫って思って持つ鍬は軽いと思う」
右から、鈴が。
「陽子の姿を見て、それで皆が私たちには王さまがいるんだ、今年は違うんだって思えればいいじゃない」
左から、祥瓊が。
「――でも、」
「だったら着飾らなくても良い?」
陽子の台詞を、一呼吸先に祥瓊が継いだ。
「そんなのおかしいわ。皆きっと出来るだけ綺麗にしてくるのよ?」
「……」
「一張羅で来てる人に会うのに、陽子がそれなり、じゃあ失礼だと思うわ」
軽く跳ね上げるように言葉を終わった祥瓊が、お茶淹れなおすわ、と付け足して立ち上がった。
そっと陽子の手から茶碗を取り上げていく。
「それは、…え?」
陽子がその背中に言い募ろうとしたところで、不意に鈴が傾げた首の角度を変えて、耳元にそっと囁いた。
「あんなこと言ってるけどね、陽子。祥瓊は残念なのよ」
「残念」
「そうよ。身の回りの世話って言ったって、毎日官服、髪は括るだけ、皆は陽子の世話を焼きたいのにね」
目配せをして、くすくすと鈴は笑う。
小声で話してはいるものの、聞こえれば祥瓊は気分を悪くするかもしれない。
陽子もまた、鈴に身を寄せるようにした。
「…そんな」
「だから、たまには満足させてあげなくちゃ。祥瓊は美のしもべなの。昨日からずっと他の人たちと相談してたわ」
「……」
ぽかんとした陽子を、ちょうど振りかえった祥瓊がいぶかしげに眺める。
「なあに?」
「ううん、何でも…ない」
「――鈴…。また何か言ったんでしょ」
「ちょっとだけ」
素直な鈴の申告に溜息をつきながらも、祥瓊は新しい茶碗を鈴と陽子に手渡した。
そして最後に自分の分を手にとると、再び陽子の左側へ陣取った。
「まあいいわ。陽子はお仕事優先みたいだから、もう一つ駄目押ししてあげる」
「なに?」
祥瓊はちょっと人の悪そうな微笑が浮かべた。
――まあいいわ、とは言ったが、鈴と陽子の内緒話が気になっているのかもしれない。
「慶賀の使節が範からいらっしゃるんでしょ?」
「ああ、それは…。うん」
「範国はね、陽子を審査しに来ると思っておいたほうがいいわよ」
「審査?」
「そうよ。趣味は悪くない、ぐらいには思わせなくちゃね。
それで将来の商売相手として期待できる、となればこっちのものよ。いざってときの援助が少しくらい期待できるわ。
――範は治世も三百年を超えて、安定した大国だから、先行投資する余裕くらいあるもの」
「……」
「分かった?陽子に皆は未来を見るのよ」
「未来」
祥瓊の言葉を、口の中で転がしてみる。
それは酷く自分にはそぐわない気がしたが、陽子は悪いものではないと思った。
重い責任は、痛みをつれてくるけれど、誰かしらの願いや、希望もそこには確かに込められているのだ。
「そう。慶の未来を見るの。だから陽子は綺麗にして、笑わなくちゃ駄目」
「……」
「陽子…」
「――わかった」
陽子は新しく、少し微笑んだ。
「――あのね、陽子」
「うん。分かってる。大丈夫だよ。私には祥瓊や、鈴や…皆がいるから」
「……」
「ありがとう。――そろそろ皆も戻ってくるだろう、仕度をしないとね」
「――そうね」
それでも憂鬱な顔になるのが見えたのだろう、先程祥瓊が衣装を詰めた櫃を見つめて言った陽子を笑い声が包んだ。
笑いながら、両脇の二人が立ち上がって、それぞれ重い椅子を手にした。
「でも、本当に夕餉までには終わらせて欲しい。遠甫にご指導いただくまえに、読んでおきたい書類があるから」
「仕事熱心ねぇ」
「本当にね」
「陽子の好きなもの、何か夜食に用意しておいてあげる」
「ありがとう」
軽く伸びをした陽子に、鈴が笑って言った。
手早く椅子と茶碗を片付けた祥瓊も、笑っていた。
「さ、着物を出してこなくちゃ」
「用意が出来るまで、陽子は座ってて」
「うん。ありがとう」
この部屋で、初めての春を迎えるのだ。
雑然とした、色彩ばかりは早い春のような室内を眺め回して、陽子は思っていた。
新しい季節を、新しい一年を、ここで始めるのだ。
窓の外、すでに夜に埋もれようとしている、まだ堅い梅の枝を眺めて、陽子は春になったら花見をしよう、と思っていた。
満開になって、ほろほろと散る花の下で、皆で一緒にお茶を飲むのだ。
[南天の火輪]
「失礼いたします」
入り口で声を掛けるが返答はない。構わず、朱衡は足を踏み入れた。
隣国慶に立った王が偽王であるらしいと、様子を見に行った延麒はまだ戻らない。すぐに話を聞けるように、王も出掛けずにいた。そうすると必然、これ幸いと仕事を持ち込まれる。昼まではそれなりに捌いていた尚隆だが、結局その後は雲隠れしてしまっていた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
内殿奥の書房。公務の合間の休憩をするところだが、却って誰も探さなかったのか、それとも探した後に戻ったのか。
「なんだ、朱衡か」
声で分かっていた筈である。尚隆はげんなりした様子で朱衡を見た。
「帷湍も捜しておりましたよ」
「……別に隠れてなどいないが」
左様でございますか、と笑むその表情が全く自然であることそのものが嫌味である。そんなことは自分でも承知しているが、如何せん最も効いてほしい相手は大概気にしない。稀に効き目があるので、決してやめる気はないが。
何か言い掛けた尚隆の視線が、朱衡の携えた物を捕らえた。
「それは?」
「はい。容昌から台輔への書状が届いたのですが、慶からいつお戻りになるか分かりませんので、主上へお渡ししようと。それでお捜ししておりました」
「台輔へ、か」
目を眇め、呟く。
雁は長く落ち着き、今のところ傾く様子もない国だ。そんな中で宰輔へ直接、訴えを起こす者はほとんどいなくなっていた。
「余程重大なことか、それともくだらぬことか」
言いながら受け取って開く。
表情が豊かなようでいて、その実、この王は驚いたり慌てたりすることがない。そして計算されたように、怒りや哀しみも見せない。五百年経ったからというわけでもなく、おそらく常世に戻る以前からだ。元より、人の上に立つという意味を知る者。
その王が、微かに目を見張ったようだった。
珍しいことだとは思ったが、朱衡は自分からは決して訊かない。
目を上げた尚隆はどこか楽しげだった。
「慶の状況を打開できるかもしれんな」
読んでみろ、と文書を渡される。宰輔宛てのものに先に目を通すのはどうかと思うが、結局、従うことにする。
「では、失礼して」
尚隆には説明する気がなさそうなので、仕方がない。事情を知っておいた方が良いだろうと判断した。
なかなか良い文書だと思いながら読み進めて、朱衡は息を呑んだ。
「これは……事実でしょうか?」
「さあな」
だが、肩を竦める尚隆に疑っている様子はない。
「景麒が蓬來へ王を捜しに行ったことを知っている者は、玄英宮にしかいない」
おかしな話だが、慶国の者でそれを知るのは、景麒当人だけであろう。
「しかも慶には王が立ったことになっている。その海客が景王だなどと延麒に書状を出すのは、確信あってのことだ」
それはその通りなのだ。
しかし、朱衡は溜め息をついた。
「それで、お行きになられるのですか」
黙って、尚隆は片眉を上げる。
「夏官の者でもお迎えに上がらせた方が、景王には怪しまれないと思われますが」
「俺が怪しいとでも言うのか。全く。……塙王の要請のことがある。万が一にも覚られるわけにはゆかん。派手なことは避ける」
「承知いたしました」
普通は王が動いた方が目立つものだが。
朱衡は溜め息交じりに言った。
「興味がおありなだけでしょう」
口調だけなら決して嫌味らしく聞こえない。
それに対し、尚隆は楽しげに言い放った。
「当然だ。突然、王が出てくるとは思わないだろうしな」
すぐに出掛けるつもりらしく、立ち上がる。
「くれぐれも失礼のないようにお願いいたしますよ」
「心配するな」
どの口が言うのか、という気分で書房を出ていく王を見送り、結局戻ってきた書状を仕舞いながら、朱衡は三度目の溜め息をついていた。
「そちらにもおられなかったのか?」
途中の道で行き会った帷湍に問われ、朱衡は笑んで答えた。
「これから出掛けられますので、今ならばまだ、正寝におられるでしょう」
「……少し大人しくされていると思えば、それか」
悪態をついてから、ふと不審気に朱衡を見る。
「お会いしたのだろう。止めなかったのか」
「お止めして聞かれるなら、五百年も同じ苦労はしていませんよ。ですが、この件については仕方ないかと」
「この件?……何処へ行かれるのだ?」
「容昌ですよ。景王をお迎えする為に」
にこりと告げられ、帷湍は唖然とした。
「……景王……?真のか?」
「確認できれば、極秘にお迎えすることになるでしょう」
帷湍は諦めたように息を吐き、来た道を朱衡に並んで歩き出す。
「その書状か。どこに糸口があるか、分からんものだな」
ええ、と朱衡は頷く。
長く落ち着かぬ隣国から、ここ数十年は常に雁に荒民が流入している。慶の行く末は、雁にとっても非常な関心事だ。
その、命運を握る新王。
「男か?」
「それは書かれておりませんでした」
慶では無能な女王が続き、偽王もまた、女だ。本来なら女でも男でも問題はないのだが、彼の国の民にとってはそうではないだろう。
「確認すると言えば聞こえは良いが、要は試しに行かれたのではないか?女王ならば、少しは加減するか」
「手加減などなさらないでしょう。特に女王ならば、主上が加減して扱わなければならないのでは、民の信を得、国を建て直すことなど不可能に近いですよ」
手厳しい言い様に、帷湍は一瞬瞠目した後、そうだなと首肯する。
朱衡はそれを見ながら、ただ、と言を継いだ。
「景王はやはり胎果であらせられるようですから、主上も他の者に任せておけないのでしょうね」
と。
その、夜。
内宮の私室で、主は少しばかり不機嫌な空気を漂わせていた。
「間違いなく景王にあらせられたのだろう?」
帷湍の問いに、尚隆はああと答える。
「景麒でなくとも分かる。陽子は正に王の器だ。……それなのに、できないなどと言う。巧でどういう目に合ったのか、あれは本気で死すら怖れていない!」
黒瞳に見えるのは苛立ち。
口惜しげな口調は、説得できないことをもどかしがっているようで。
朱衡と帷湍はちらりと視線を交わした。
こんな尚隆は記憶にない。五百年分の記憶全てが残っているはずはないが、このような珍しい姿を見ていたなら、決して忘れないだろう。
「死ぬのを怖れて玉座につくのもどうかと思いますが」
「……冷静だな、お前……」
帷湍は呆れ気味に隣の男を見る。
「確かに、良き王となられる可能性は高いでしょう」
言うと、尚隆が片眉を上げた。その様子が明らかに不快そうで、それに対して朱衡は首を傾げたい気分になった。
「陽子に会ったのか?」
「景王の御名か?」
帷湍が、何故名前で呼んでいるんだという疑問を言外に含ませて尋ねる。
「そのようですね。……先程、ご挨拶いたしました」
その言葉に、尚隆は更に不愉快げに顔を背けた。
「それで?」
低い声で促され、内心驚きながら口を開く。
「自分のような愚かな者が王となれば、民にとって不幸だと仰いました」
新しい景王はまだ少女と呼び得る年頃だが、その言葉には深い響きがあった。
王宮の灯りよりも目映い、燃ゆるような緋色の髪。
そして、清廉な意志をそのまま映したかの如き翠玉の瞳。
これまでの女王とは、明らかに一線を画する勁さ。
女王に対する慶の民の不信を除けるのは良き女王しかしない。彼女が王になることを拒めば、まるでその機会が永遠になくなるかのような、そんな闇を朱衡は見た。だが、同時に感じたのだ。
「ですがあの方はきっと、民をお見捨てになったり、自らの責任を放棄されたりすることはないでしょう。」
「だと良いがな。尚隆、何とか説得できないのか」
「……苦しいところを脱してから、手を差しのべた者ではな……」
ぽつり、呟くように言うので、帷湍は眉をしかめた。
反応を見るかのように、朱衡は笑んで指摘する。
「楽俊殿には、可能かもしれませんね」
尚隆は完全に、ふてくされたようであった。
「あれは何なのだ」
内宮を退出してから、帷湍は問うた。
「あれ、とは?」
「尚隆だ。分かっているのに訊くな」
朱衡は軽く肩をすくめた。
「お気に召されたということでしょう」
帷湍は一瞬、疑わしそうに微妙に首を傾けた。
「……まあ、今とやかく言うことではないか。……それにしても珍しいものを見たな。成笙も誘ってやるんだった」
これにはただ笑う。
ふと目にした灯りに、脳裏に焼き付いた少女の姿が鮮明に映し出された。
彼女ならば、慶を変えられるかもしれない。
炎の王。
太陽の子。
朱衡には眩しすぎて見詰めることなどできないが、彼の仕える王はきっと、その目を逸らすことはしないだろう。
それが分かってしまった理由を自らの内に探るのは、詮無きことだ。
だから、帷湍に見られないように、庭院の薄闇へと目を向ける。
そうしなければ、自嘲的な笑みを、隠しきれそうになかった……。
・
了
[波光]
露台に波が寄せる。
角度を変えて、際限なく光の反射を繰り返す雲海の風景を、陽子は静かに眺めていた。
泰麒を蓬莱から連れ帰り、西王母のもとから再び帰って二日。まだ件の麒麟は目を覚まさない。
範の主従や廉麟らは、それぞれの国へと戻り、いくらかの日常が金波宮にも戻りつつあった。
「――聞きたいか」
「はい?」
陽子と肩を並べて、黙ったままだった尚隆が、唐突に口を開いた。
何を、と問うつもりで、陽子は軽く首を傾げて延王を見る。
常なら飄々とした表情を浮かべているはずの尚隆が、珍しくこめかみのあたりに緊張を漂わせていた。
陽子の視線は感じているだろうに、遥か雲海を見据えて、微動だにしない。
「…おまえの故郷の様子だ。まあ班渠が振り落とすつもりの凄い速度でとばすからな、しかとは見ておらんが」
台詞の最後になって、尚隆はようやく人の悪い笑みを浮かべた。
見慣れた、いつもの延王の顔だ。
「――『振り落とす』?」
眉根を寄せて、陽子は呟いた。おそらくは今も自分に張り付いているだろう、景麒の使令に向けて。
足元の影から、くつくつと忍び笑いが漏れた。
「班渠」
(まったく…)
笑い声が聞こえて、尚隆はどう思うことだろうと陽子は気が気でなかった。
(いくら鷹揚な方でも、本来ならこうして並び立つような気軽な立場ではないんだぞ)
苦々しく思った。しかし班渠に話しかければまた、尚隆にも聞かせる危険を冒すことになる。
それがわかっているのか、班渠の地の底から響くような笑い声は治まる気配を見せなかった。
――陽子はまたひとつ、溜息をついた。
班渠の『難しさ』は景麒とは違った、『難しさ』で、陽子を苛立たせはしない。
しかし懐かない動物にからかわれている気分が拭えない陽子は、疲労するのを止められなかった。
「落ちるまえには御衣を咥えましょうよ」
「班渠!」
思わず影に向かって怒鳴ってしまう。
班渠に着物の端を咥えられ、連れ帰られている延王の姿を思わず想像してしまった。
どことなく間が抜けていて、他人事なら面白いだろうと思うのだが、目の前に堂々とした尚隆の姿があってはその想像さえままならない。
「陽子、どうした?」
「――いいえ。失礼しました」
班渠の声は、延王にはかろうじて聞こえなかったらしい。陽子は慌てて居住まいを正した。
「…で?」
軽く首を傾けて、尚隆は陽子の返答を待っている。
(故郷)
遥か、視界を埋める雲海を見つめて、陽子はその言葉を胸中で転がしてみた。
不思議な感覚だった。
確かに、そこには父が居り、母が居る。
懐かしい町並みも、あるだろう。
露台に寄せる波音に導かれるように、陽子の心がざわつく。
しかし陽子の傍らに立っている男が――500年という長大な施政をしいてきた雁王が言う『故郷』と、自らの『故郷』とがどうしても重ならない。
(感覚が)
(風景が重ならない)
苛立ちではなかった。
憤りではなかった。
――悲しいほどに羨望でもなかった。
ただ、陽子は静かに何度も味わってきた感覚を確かめていた。
虚海を渡り、目の回るような日々を夢中で過ごし、物慣れない『日常』を何とか送っている今でも。
(今だからこそ、か)
「――陽子」
(今だからこそ、だ)
眇めるように彼方へ視線を投げ、意識を遠ざけていた陽子は、一度強く瞬く。
迷いはなかった。
傍らに立つ男が、いつのまにか優しげな瞳をして、陽子と同じように雲海の果てへと視線をやっていた。
泰然と、陽子には及びもつかぬ長い生を生き抜いてきた王。
それが陽子の故郷のさまを聞きたいかと、問うていた。
「延王」
「…何だ」
陽子の呼びかけに、つかの間波間を漂った延王の目線が、するりと傍らに戻る。
「蝕は、ひどかったのでしょうか」
「――さてな。はっきりした被害はこれからわかるだろうが。王が渡ったからな…」
「そうですか」
それきり話の接ぎ穂を失って、黙り込んだ陽子を察したのだろうか、延王が一人語りのように続けた。
情に流されず、冷静な声。しかし重さを失わない響き。
まさしくこれが王たるものの風格なのだろうな、と陽子は聞きながら考えていた。
そうですか、と呟いたきり、言葉を失った陽子をそのままに、尚隆は台詞を続ける。
黙ったところで、『起こされた』蝕が鎮まるわけではない。
ましてその蝕は、泰麒を獲得するために、王自らが起こしたものだった。
結果を把握するのは当然の責任だったし、被害への対応も、目を瞑ったままで進むものではないのだ。
「むしろあちらのほうが酷い。川の堤を水が逆流しているようだった。
雨も風も酷かったし、上からの流れとぶつかって高い渦が出来ていたからな。街の一つや二つ、沈んだかもしれん」
「それほど…」
陽子の緑色の瞳に、強い陰が走った。
その昏さに、尚隆は叩きつけるような風雨のなかで垣間見た、かつての故郷の姿を思い起こしていた。
揃えたように四角く切り取られた窓。固められた海岸線。
それでさえ防ぎきれないほど、水は荒れていた。
もはや今の自分は、この世界にとっての異物であるのだと、尚隆は実感していた。
受け入れられることのない、存在だと。
(当然だ)
(俺が『死んで』何年になる)
初めて雁の地を踏んだとき、眼前に広がっていた焦土を、あの感触を今も覚えている。
あのとき子供だったものも、とうに地に還った。
(あれから下界では何代を経た)
もはやそれは過去の映像でしかないのだ。ただしく、尚隆の胸にしかないものでしか。
同じだけの時を、この今はただ黒布のように乱れるばかりの世界もまた、刻み込んできたのだ。
――見たこともないような箱型の高楼が、夜よりも更に暗く、嵐の風景に突き刺さっていた。
「…俺にはまるで異国(とつくに)のようだったが、」
そこまで思わず口に出して、それが傍らの若い女王にどう聞こえたものかと尚隆は思った。
(言っても詮ないことだ)
皮肉に思って、途切らせた言葉を尚隆は自らのうちで噛み潰した。
口の端に苦く笑いをくゆらせながら、陽子を見、そこで初めて尚隆は気付く。
――いつも強い光を放つ陽子の瞳が、しっかりと閉ざされ、それでもなお一心に雲海の向こうを目指していた。
「……」
何を、と問うまでもなかった。
あの嵐のなかで、確かに自らも執った仕草ではないか。
――遥か、失われた命と、街と…国への弔いに向けて。
(あるいは故郷への)
この若い王は一人で背負うと言うのか。
やがてゆっくりと目蓋をあげて、陽子が決然と首を持ち上げる姿を、尚隆は感嘆に満ちて見つめていた。
共に偽王軍と戦い、戦場を駆け抜けたときから、その鮮やかな緋色の髪は群を抜いて活力に満ちていた。
――まさに軍神のかたちを写し取ったかのような、炎のような。
自ら先陣をきる若い王の姿に、どれほど兵が励まされたか。
しかし陽子の瞳の色は、朝露に輝く葉の色をしているのだ。
500年前、荒れ果てた雁の大地を踏んだ尚隆と六太が、渇望さえしたものの色を。
人を潤し、育て、癒すものの色を。
滅びと生、相対する二つを二つながら身に染めた陽子は、まさに稀有な存在と尚隆には見えた。
その陽子が、今、尚隆の心を、時間を変え、場所を変えてなぞっている。
「――陽子」
「……」
「失礼いたします」
何と言うつもりだったのかは、急に訪れた冢宰の声で消された。
「浩瀚、どうした」
「太師がお探しです。急ぎ奏上したいことがあるとの…」
「今行く」
静かに入り口で控えた冢宰の言葉を遮って、陽子が応えた。
陽子は延王に一瞬向き直り、中座を詫びる礼もそこそこに、機敏に身を返した。
「遠甫はどちらに」
「大僕がご案内申し上げます」
「そうか――そうだ」
「――主上?」
露台から、駆け出しそうな早足で部屋を抜け、すい、と廊下へ抜け出ようとしていた背中が唐突に止まる。
――陽子が、くるりと半身だけ尚隆を振り返った。
「延王。さっきのお話ですが」
(もはや王の顔だな)
装飾に欠ける官服を、ものともしない鮮やかな気配。
尚隆は苦笑いには見えないように、苦笑いをした。
「…何だ」
「ここもまた、私の国です」
「…そうか」
では、と一礼して、今度こそ陽子は出て行った。
――後には笑いを堪えきれなくなった大国の王が一人。
くつくつと、波間に紛れて静かな笑い声が消えていった。
[薄暮]
(1)
赤楽二年四月──主上は民の貧しきを哀れみ、御庫の財を以て民を養う穀物を購った。使者として遣わされたのは台輔と冢宰、先日大役を無事果たし帰還した。
この民を救う穀物の分配方法について連日の朝議は紛糾する。
主上の表情は疲れが色濃い。主上は口を堅く閉ざし論議の行方を見守っていたが、次第に迷走する議論の行方に微かな溜息が漏れる。溜息に誘われるように背を流れる髪が揺れる。その字の由来となった鮮やかな紅は鈍色の官服によく映り、ひときわ目を惹いた。
主上の傍らには景麒が控えている。景麒は主上の表情が優れない様を無言で見守っていた。景麒は主上の王気に不安定な揺らぎを感じる。常には夏の日射しのように感ぜられるその王気がここ数日弱まっていた。鮮やかに笑う主上をここのところ拝していない……体調が優れなくておいでか……。景麒は柳眉を顰め、諸官を見渡し同じく溜息を零す。
──常には「陽子」の御名の通り陽の光のように際だつ笑みをお見せ下さるものを。
陽子はこの席全体が煙っているような気さえしていた。白熱する議論。白熱と言えば聞こえもいいが、単なる喧噪としか思えない。それほど朝議の席上は乱れていた。諸官は口々に意見を発し、或いは中傷誹謗すること甚だしい。
耳を覆いたいほどの騒音。冢宰の制止も役には立たない。
諸官の興味は各地へ給される穀物の配分量に尽き、分配する手法に関しては関心が薄い。今日の朝議も論点は移ろい、諸官は己の封じる土地への穀物の分配量を巡って躍起になり、互いに牽制しあっている。
さらり、と音をたてて景麒が立ち上がる。普段は滅多な挙措をとらない景麒の動きに、激昂していた諸官の動きが止まる。
「畏れ多くも主上の御前、それも公の朝議でありながらなんたる有様か」
景麒の声に、朝議の間は水を打ったように静まり返る。
陽子は痛む頭を押さえながら、呟く。
「……不様だな。諸官は一体何年官吏を務めてきたのだ……議論一つまともに出来ないのか?今日は心に留めるべき意見がまるで見あたらない。子供の喧嘩をしているのではないのだぞ……まったく」
陽子は玉座から立ち上がり、よく透る声を響かせる。
「私の出した議題を記憶している者は、この中に一体何人いるのだ。私は、穀物の輸送・分配についての手法を議題とした。決して各地の分配量についてではない」
***
「畏れながら主上、我々一同此度の玉米の給付に付いて、その量をしかとは伺っておりません」
朝議の間の隅から甲高い声が発せられる。
ざわ、とざわめく席上に背を押され、その声の主は言葉を続ける。
「我々民を束ねる者は、民より責任を負うております故、穀物の配分を少しでも多く勝ち取らねば、民に申し訳が立ちますまい」
そうだ、との声が背後から掛かる。官は気をよくしたのか、更に声を大きくする。
「まだ登極なさって日も浅い主上に於かれましては、九州への穀物の配分は難儀にございましょう。さればこそ我々に穀物の配分について論じる機会をお与え下さるよう」
……勝ち取る……?何を言っている。
陽子はその官を眺めた。甲高い声は少々神経質そうな響きを持っており、小柄な体にはおよそに合わぬ忙しない大きな挙措が、底の浅さを感じさせる。年の頃は四十半ば、しかし表情には中年に備わるべき落ち着き、余裕といったものが欠けている。今も諸官の声に押し出されるように意見したのはいいが、陽子がすぐさま返答しない様子に、おどおどと瞳を動かす様は滑稽にも映る。
溜息を一つつくと玉座に座り直す。そのまま諸官を見回す。 「今の意見と同様のものは何名いるのだ、挙手願おうか」
幾人かの手がぱらぱらと上がる。
「──そうか、わかった。ならば、私の考えを少々述べさせてもらう。諸官は勿論、己の封じる土地へ暮らす民の数はわかっておろう。戸籍に載っている数のみではなく、浮民、荒民を含めた数だ。それに一人頭一日三升の米を給す。期間は今年の実りを迎えるまでのおよそ、半年。給付は人数に応じて均等に行う。大人・子ども、身分などは一切考えに入れない」
諸官が静まりかえる中、陽子は淡々と言葉を続ける。
「そして、雁・奏両国から届けられる穀物の総量が当初の見積りよりも下回った場合は、仙籍あるものの給付を打ち切る。加えて国官から穀物の供出を募る可能性もある。……この度の穀物の給付は、この慶を支える民たちを対象としたものだから」
ばかな、との声があがる。陽子の瞳は、その声の主を静かに捕らえる。
「諸官は国官となって長い。もちろん、この慶の内情には私よりも詳しいだろう。──だが、私が見たところ、慶は荒廃しているとはいえ、諸官はみな絹の袍を誂え、煌びやかな剣を帯びているようだ。ならば、国官にある者は、私の救済などなくとも当面の暮らしには困るまい。──だから今回の穀物の給付は救済がなくてはならない者だけを、対象とする。その場合、穀物の配分量など単純な算術にすぎない。……それが諸官に議論するに能わぬ、とした理由だ」
陽子の言葉に、再び諸官の声がこだまする。その声の多くは『納得しかねる』というものだった。
陽子は表情を引き締め、言葉を続ける。
「一体、なにが納得できないと言うのだ。たかが一日三升の米が惜しいとでも?微々たる給付に目くじらをたてる諸官ではあるまい。……それとも、穀物の供出についてか?どちらも可能性を述べただけだ。今から心配するには及ばない。また、諸官が嫌がるのに無理に供出させるつもりもない。民を救う誠意のある官から自発的に寄付してもらうつもりだ」
陽子はここで一旦言葉を切る。未だ諸官の顔色は晴れず、不満も顕わなその様子に……陽子は溜息と共に微かな笑いを零した。
「まさか、今回の穀物の幾割かを諸官への給付としないとはどういうことだ、というのではあるまいな」
陽子の瞳は冷ややかだった。官の何割かは顔色を失い、陽子の視線を受け止めきれず瞳を逸らした。
「私は諸官に媚びるつもりでこの度の措置をとったわけではない。今、慶の民に必要だと判断したからに過ぎない。『民に責任を負うている』……先程の言葉、肝に銘じて貰いたい。ならば諸官の示すべき道は自ずと限られていよう」
(2)
「この度の主上のご英断、まことに結構なことと存じます」
更なる声が陽子に向けられた。
「拙がご心配申し上げておりますのは、あまりにも広く民への施しをお与えになりますと、民は働く意欲を失うのではないか、ということです」
壮年と呼ぶべき貫禄を身につけた初老の冬官である。たじろぐことなく陽子に目を向ける様は先程の官と違い、堂々としている。その隙のない表情を見つめ、陽子は先を促す。
「── 続けてくれ」
「民は常に怠けるもの。何かしら理由を見つけては税を納めず、夫役を休む。行きすぎた施しは民の勤労意欲を失わせます。また、仮に民が今回の主上の温情を真摯に受け止める知恵を持っていたとしても…」
口許をかすかに歪ませたその表情は、嗤っているようにも見える。
「民は死するもの、かりそめの間しか生きてはいられない。主上の御意志は保って一世代、およそ3〜40年の間しか伝わりませぬ」
「何が言いたいのだ」
陽子の声は怒りを含み、その表情には痙攣がはしる。
冬官は宥めるように陽子に笑いかける。
「いや、怒りをお鎮め下さい。主上は登極なされて間もなく、胎果でさえあられる。こちらのことは未だ我ら官の方が遙かに詳しい。──民は死するもの。田を耕すことにのみ日々を過ごし、何も知らず、何も学ばない。さよう、民草とはよく言ったもので、彼らは少々数が減ろうが飢えようが…また暫くすると増えてまいります。ならば……かりそめの頼りない一生をおくる民草に、広く浅い施しを与える代わりに我々官にお任せ下されば──」
「任せて…一体どうしようというのだ。今『民は死するもの』と言ったが──民とは違うとでも言いたげだな」
「我々は仙でございますれば、民草とは違います」
その声は誇らかな響きを持つ。陽子は目の前が暗くなり指先が痺れてゆくのを感じた。思わず両手を握りしめ、深く大きな息をする。
「……よく、分かった。ところでひとつ訊きたいのだが」
「何でございましょう」
「お前は冬官である前に慶の民だとばかり思っていたが。そうではなかったのか」
「……そ、それは──」
「民は死するもの、確かにそうだ。仙籍にある者は老いと病から逃れている…それも真実。──だが明日も仙である保証はどこにあるのだ」
官は顔色を失った。何か言いたげに開かれたままの口は震え、一向に声が出ない。
陽子は厳しい声音で続ける。
「私は民のために王座に就いた。──諸官が慶の民ではないと言うのなら、私は考え違いをしていたことになる。『民は暫くすると増えるもの』この者と同じ考えの者はこの中にもいるのか?確かに私はこちらを知らない。だが、これだけは言わせてもらう。諸官が、自身が慶の民であることを否定するなら──国官の資格など持つべきではない。すぐさま返上するのだな」
言い捨てて陽子は玉座をたつ。
「……主上……」
陽子にしか聞こえない、控えめな景麒の言葉が心に浸みる。陽子は背を向けたまま掠れた声で囁いた。
「……すこし言い過ぎてしまった。ひとりになって頭を冷やしてみる」
身を翻して足早に去る陽子が見えなくなると、景麒の瞳は色を変える。
***
朝議の間を後にした陽子は視界が霞み、堅く引き結んだ唇からは、時折短い呻きが漏れる。
無性に憤ろしく、そして虚しかった。
──まったく不甲斐ない。これではまるで子どもだ──
激する官をたしなめておきながら……諸官を御しきれずただ戸惑うばかりの私は、私は……一体何ほどの役に立っているというのか。
陽子はやみくもに足を運ぶ。いつしか穀物庫の前へ辿り着いていた。陽子は鍵を開け、重い扉を押し開け中に入る。穀物庫の中は陽の光が満足に届かず、ひんやりとした空気が漂う。厚い壁に囲まれた薄暗いその空間には朝議の喧噪も届かない。
気を緩めれば溢れ出そうとする涙を押しとどめて、自らを鼓舞する。
──嘆くな、嘆いたとて何になる?民にとっては何も変わらない。安っぽい自己満足に浸れるだけだ。
自らを律する心とは裏腹に、熱いものが頬を濡らしてゆくのを感じていた。身体の内側が痙攣し、溢れ出す呻きを押さえられない。ギリッと唇を噛み、漏れる嗚咽を必死に飲み込む──。
暫くそうして泣き続けた後ふと浮かんだ考えに、自嘲気味の笑みを零す。
煌びやかな宮殿、忠誠を誓う数々の官……。だが、自分は暗く閉ざされたこんな場所で途方に暮れている。
目の前には見上げるばかりに積み上げられた麻袋。この中には穀物が詰まっている。
ようやく手に入れた穀物。数日おきに雁、あるいは奏から着々と送られ、王宮の一角にある穀物庫は、ほぼ満杯になりつつあるというのに……未だ一粒も飢えた民の許へは届いていないのだ。
陽子は無造作に床に座り込み、腕を組んだ。
── 一体どうやれば民の許に届くのか ──
陽子は一心に考え続ける。
優秀な冢宰を迎え太師に学んでも……政は難しい。登極直後の朝廷よりは遙かにましだが、諸官はともすれば互いに権を争い利を求め──。
このままでは例えこの穀物を民に開放するよう手配をしても、行き渡りはしないだろう。おそらく何処ともなく穀物は消えてしまう。一体、どうすれば……。
(3)
主上を失った朝議の間は、重苦しい雰囲気に満たされていた。景麒の瞳は冷たく、無言の重圧を諸官に与えている。立ち去る気配が全くない景麒に、浩瀚は腹を括った。本音を言えば浩瀚とて主上の後を追い、自らの失態を詫びたい気持ちでいっぱいなのだ。だが、朝議の間に依然台輔が臨席の以上、朝議の継続は責務である。浩瀚は辺りを見渡した。
それぞれの顔は一見苦渋に満ちているように見受けられる。声高に朝議を乱していた者たちは一様に顔色を変えて沈黙していた。
そこへ静かな声が降る。
「──先程の討議にあった、諸侯の封じる土地の窮乏について詳しく述べてもらう。──後に私のほうから主上に申し上げる」
浩瀚は思わぬ景麒の提案に、息を呑んだ。
「恐れながら…台輔、主上の議題をこそまず話し合うべきかと存じますが……」
冷めた薄紫の瞳が浩瀚に注がれる。
「冢宰の言葉はもっともだが、慶内部の実状をその前に聞き知っても、主上はお叱りにはなるまい」
諸官の顔の中にはぎらぎらとした輝きが見える。景麒は一瞥を投げかけ諸官の言葉を促す。
「……ただ諸官は節度ある態度で臨むように」
景麒の言葉に力を得た諸官は、自分の治める土地の実状を語る。ある者は苦しそうに、ある者は勢い込んで早口に──。果ては、芝居がかって涙を零す者まで。
景麒はその様を無表情に見つめていた。
先日雁に出向いた折、景麒はささやかな遊学期間を持った。そこで学んだことが今、役立っていると実感していた。諸官の表情、言葉の端々に邪な心を感じる。特に大袈裟に実状を語る者に多い。
愚かな。己が治める土地の窮乏は自身の無能をさらけ出すことに等しいとは気付かないのか。おそらく麒麟の慈悲を利用する腹であろうが……。
── 私の慈悲を求めるのなら、主上に申し出るがいい ──
先日慶に立ち戻った日から、景麒は己の心境の変化に気付いていた。はじめは微細な変化であったが、日々鮮明になってゆく。景麒は戸惑いながらも、それは決して厭わしいものではない、と感じていた。今も諸官の言葉に耳を傾けていながら……彼らを子細漏らさず観察するもう一人の自分の存在を認める。
一通り諸官の奏上を聞き終え、景麒は朝議の終了を告げる。
景麒の手元には諸官の名簿──先程の奏上はこの名簿に沿って行われた──それには景麒の手で細かな書き込みが為されていた。
「台輔、主上のお側においでになりましょうか」
控えめな浩瀚の声に、台輔は表情を和らげた。
そう言えば先程女官が主上のお姿が消えた、と告げていた。
「……付いてきなさい」
異例の長きにわたった朝議に、陽はすっかり傾いている。
景麒は王気を頼りに陽子の姿を求める。景麒の足がピタリと止まった。
「この中におられるようだ……浩瀚、灯りを」
***
目の前に聳えるのは穀物庫。浩瀚はまさかこのようなところに…と呟いた。景麒は確かに感ずる王気に扉を開ける。重い音と共に扉が開く。鍵は掛かっていなかった。
「主上…どちらにおられます」
景麒は主を呼んだ。
中は暗く──足許もよくは見えない。浩瀚の持つ手燭の灯りは、却って周囲の闇を深くしていた。陽の光の届かぬここは、底冷えがする。微かに身震いをして主を捜す。
「主上お答えあれ、何処においでですか」
浩瀚の声も次第に張りつめてくる。
ふいに景麒が身を屈めた。躊躇いのないその動作に、浩瀚は慌てて倣い、膝をつく。
「こちらだ……眠っておられる」
細工物を扱うように…そっと抱き起こす景麒。その腕の中には陽子が安らかに眠っている。
手燭の頼りない灯りに照らされた、驚くほどのあどけない寝顔に浩瀚は胸を轟かせた。
──主上はこんなにも幼くておられるのか──
先程の朝議で主上から頂いた叱責が苦くこみ上げる。
『不様だな。諸官は一体何年官吏を務めてきたのだ』
蓬莱からひとりお戻りになった主上。登極の前には巧国で御苦労を重ねられたとか。巧国は海客や胎果に厳しい国、その話を漏れ聞いたとき「よくぞご無事で」と胸をなで下ろしたものだ。主上は巧で死線をくぐり、自力で延王の助力を得た。偽王軍と戦い台輔を救出し……先日は拓峰の乱に乗じて乱れた朝廷を見事治めた。
ひきかえ、私は……。
浩瀚も短くはない年月を国官として過ごしてきた。諸官にしてもそうだ。主上の御代に新たに国官として召し抱えられたのは女官と禁軍のごく一部、残る殆どが予王以前の官吏の筈。
それが、この様。
景麒が音もなく主上を抱きかかえる。
零れた王の御手が大きく揺れる。浩瀚は袍の袖を長く取り、主上の御手に触れぬよう気を付けながら、景麒の腕の中に納めて差し上げる。
「!?」
さぞ、冷たくておられるだろう──。
その予想を反して、袍の衣を通して感じられるのは思いがけないほどの熱さ。咄嗟に景麒を見上げる。
景麒の顔は闇に紛れてよくは見えないが、明らかに先を急いでいる様子に、浩瀚は先に女官に告げて参ります、と駆けだした。
(4)
景麒は狼狽していた。腕の中の主上は熱く燃えるようで、その息づかいは短く速い。それに、主上の身体は思ったよりもずっとか細く、生身を感じぬほどに軽いのだ。
予王もお痩せになる一方だったが、主上は見た目にはそうと判らなかった。主上はいつも周囲を圧倒させるほどの覇気を身に備えており、身のこなしも軽やかで……これほど御弱りとは思いもよらないことだった。
そう言えば、一月余り前……私室に参じてみれば瘍医にかかっておられた。
「祥瓊に押し切られて、一日寝てた」とは主上の言だったが。
だが、あの後……。
夜半の事件に主上は傷つき、景麒は雁へ追いやられた。続けての奏への訪問。冢宰・台輔の不在中、金波宮の職務の比重は主上にかかる。傍らに控えるのは太師である松柏のみ。このところ、随分と主上の顔色が優れないとは思っていた。今日も難しいお顔で額を押さえておられた。思い合わせれば、近頃は採決する際「すまないが、読んでくれ」と仰らなくなった。太師に訊いておられるのかと得手勝手に想像していたが、昨日などはさらさらと書類をしたためておいでだった。
主上は自らを削り、慶に尽くしておいでなのだ──。
ふと先程の朝議でみた官吏の顔が思い浮かぶ。
……主上の言葉に耳を貸さず、詭弁を労し、己のことのみに汲々としている愚かな者ども。あの者たちのくだらない愁訴を聞いている間中、誰一人としてお探しできず……主上はこのような暗く冷たい場所で一人倒れておられたのだ。
景麒の瞳が閃く。身の内に…得体の知れぬ感情がゆったりと現れるのを、戦慄とともに自覚する。
穀物庫を後にし、外殿につづく回廊を抜け、内宮にある陽子の私室を目指す。女官たちが煩く群がるのを目で制し、一言もなく私室の中に辿り着いた。
火の気のない陽子の臥室は随分と寒々しい。陽子を牀榻に静かに横たえさせると、女官が薄い錦の衾褥を丁寧に掛ける。すこしも暖かそうには見えないその様を景麒は眉根を寄せて見守る。
暫くして瘍医が室内に現れ、陽子と景麒に跪礼する。
ゆっくりと景麒が牀榻の側を離れると、瘍医が恭しく水禺刀の宝珠を捧げる。付き従うように女官がしたり顔で近づき、宝珠を絹の小布で支えながら陽子の手中に納めた。
そして──丁寧に跪礼をして房室を辞したのである。
ばかな、と景麒は拳を震わせた。主上の容態を確かめることもせず、ただ宝玉の奇蹟をもって治療とするとは……!
あれほどの高熱、歯の根があわぬほどに冷え切った穀物庫……せめて暖めて差し上げるのが本来ではないのか。いくら神籍にあられるとは言え、疲労もすれば、倒れもする。痛みも苦しみも感じるのだ。景王たる陽子にかしずく者たちは、一体どのように日々のお世話を申し上げているというのか。
景麒は陽子の臥室を辞し、女官を呼ぶ。最も早く駆けつけたのは祥瓊と鈴であった。
景麒の口から溜息が洩れる。……慶の官吏も女官も一体どうなっているのだ。
***
軽い物音を耳にした気がして、陽子は目を開けた。ぼんやりと目の端に金色の光を見る。
ふと、自分の手の中に水禺刀の宝玉があるのに気付き、枕元の剣の横に揃えて置いた。
「……へんだな……いつの間に」
目に映るのは自身の臥室。窓から光が射さない、ということはおそらく深夜であろう。
「お目覚めですか、主上」
房室の隅から聞き慣れた静かな声がする。陽子は声の主を捕らえるべく、瞳を巡らした。
「景麒?どうしたんだお前、そんなところで。風邪をひくぞ」
景麒は臥室の隅にある榻に腰を下ろしている。
景麒は控えめな声で、問いかける。
「お側に伺ってもよろしいか」
「──何だ、あらたまって。別に訊くほどの事でもないだろう?どうした」
何気ない陽子の言葉に、景麒は言いようのない不安を感じる。
──本当にこの方はお分かりになっておられるのか──
景麒は牀榻のすぐ側に控える。陽子は起きあがり、腕を伸ばして天蓋から下がる薄布を押しやった。 まっすぐに陽子の翠の瞳を見ながら、景麒は言葉を紡ぐ。
「主上、あなたは慶国の王でおられるのです。それは、お分かりか」
「そのつもりだが。……そうでなくては、こんな所に居るはずはない」
「それならばもう少し御自身のお体をお考え下さい」
「からだ?…なぜ?」
景麒は息をつく。
「今日は主上はどこにおられました?」
「……穀物庫、だな」
「わたしがお探ししなければ、あのまま凍えておしまいです。もう少し、ご自分のお立場をわきまえて頂きたい」
「凍えはすまい?わたしの身体は仙なのだから。少々具合を悪くしても、宝玉があれば何とでもなる」
「主上!御自身はかけがえのない、慶国の王でおられるのですよ」
「わかっている。……お前は一体、なにが言いたいのだ」
陽子は静かに景麒を見遣った。
一体なにが気に入らなくて、この麒麟は言い募っているのだろう……?
穀物庫まで探しにこさせてしまったようだが、その苦情を言いに来たのでは無いらしい。
「それでは申し上げますが、主上付きの女官の数がずいぶん少ないように見受けられます。いかがなさいました?それに祥瓊殿と鈴殿は正式な女官ではない。ご友人としてここに留まられるのは一向に差し支えありませんが、身の回りのお世話の大半をお二人に任せてしまわれるのは好ましくありません」
陽子は呆れ声で問い返す。
「なんだそんなことか。そんなこと、景麒が心配するようなことではない。わたしは別に女官の手を煩わせなくとも生活できる。だから女官たちは違う職場に移ってもらった。わたしは…かしずかれることに慣れていない。いや、却って側に人がいないほうが気が散らなくていい。それに祥瓊と鈴は、自分から役目を引き受けてくれているのだ。わたしも別に不自由を感じていないし、このままでいいと思うが?」
陽子の全く取り合わない様子に景麒は沈黙する。
「麒麟は、民意の具現なのだろう?何を些末な事で頭を悩ませているんだ。わたしが蝶よ花よとかしずかれていれば満足するのか?そうではないだろう。……今日、穀物庫に籠もってしまって済まなかったな。実はあの中で考えたんだが──」
既に陽子は話題を移してしまった。頭の中は民の救済のことでいっぱいのようだ。
──全くこの方は無防備すぎる──
主上のお身回りの世話を申し上げる女官が少ないということは、それだけ御身の安全の保証が難しい、ということだ。側近くの女官の一部は夏官を兼ねていることが慣例となっている。それを煩わしい、気散じがする、とあっさり追い出すとは……今までご無事であるのが不思議なほどだ。
全く、実に主上らしいと言おうか……。景麒の頬に苦笑が漏れる。
主上は決して民を虐げたりはなさるまい……だが、このままでは長命な王にもおなりになるまい……。道を踏み外し天命を失うからではなく、邪な何者かに弑されることによって。
先日から感じている己の変容。心の奥深くがゆったりと大きく胎動する感覚。
今まで、民も官吏も皆等しく善良だと思っていた。罪人であっても、時代が悪いからなのだと。国が荒れ果てているから心が荒み、罪を犯し、他を虐げてしまうのだと。だが、それならばなぜ…無私に慶に尽くす主上に対して、何者かが害を為そうとするのか。今日の諸官の態度は取るに足りないことかもしれぬが…先日の刺客の出所は巧妙に隠されていて未だ判明していない。つまりはこの官の中から放たれた可能性も残っているのだ。
景麒は一心に語る陽子を見つめた。陽子は景麒の考えなど念頭にも無い様子で、快活に語り続ける。
その様に景麒は瞳を細め、心に唯一つの言葉を刻みつけた。
──御前を離れず、勅命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる
私の全てを以て主上をお守り申し上げる──
(5)
「景麒、景麒、聞いているのか!?」
「……聞いております」
「ならば意見を聞かせてほしい。どう思う?」
「どう、と申されますと?」
陽子は大仰に息を吐いた。チラリと景麒を睨め付ける。
「やはり聞いてなかったな。どうしたんだ、ぼんやりして。体調でも悪いのか?」
「いえ、特には。申し訳ありませんが、もう一度仰っていただきたい」
聞いていなくても態度のでかい奴、と心の中で罵って陽子は言葉を繰り返す。
「だから、穀物の搬送についてだが、穀物が確実に民の手に渡るようにするには、まず、この穀物に関しては売買出来ないようにしてしまったらどうかと思う、と言ったんだ」
「売買出来ないと申しますと、罰則を設けるとか?」
「いや、明らかな罰則は設けたくない。例えば穀物に付加価値を付けるんだ。単なる穀物、単なる米ではなく『景王自ら下されたありがたい玉米』とね。先日松柏に伺ったのだが、近来、王自ら民に対して何かを下賜したことは無いそうだ。……この世界では麒麟と王は絶対の存在だろう?ならば、それを十二分に利用する。王から民へ給付するに当たって、郷毎にささやかな儀式を執り行い、それには私かお前が出席する。なに、一カ所小半時もあればいいだろう。そこで里家の閭胥に対して今回の措置に関する説明を行い、それをしたためた書状とともに第一回目の穀物を給付する。そうすれば、少なくとも私の意図は伝わるだろう。……うまくすれば、給付された穀物を売買することは畏れ多いこと、との風潮がたつかもしれない。そうなれば、だれも買う者などいなくなる。ま、そのへんは松柏と浩瀚に骨を折って貰おう」
「畏れながら、わたしは主上のお側をはなれません」
「……景麒?」
「その儀式には主上と同席させていただきます」
景麒の態度はいつになく強い。陽子は眉をひそめた。
「いや、だけど景麒。できれば一斉に穀物の給付を始めたい。そうしなければ均等に配布できないから。儀式を開催する単位を大きくすると民との距離が離れすぎて十分な効果が得られない。郷単位に執り行うとすると、かなり苛酷な日程になる。だからね、わたしとお前が同席することは……」
「何と仰られようと、私は主上のお側をはなれません。穀物の給付は一斉になさるがよろしいでしょう。ですが、何も儀式は一斉に取り行わなくともよいのではありませんか?民にとっては王と麒麟は対を為すもの。順々に州を廻られ……給付後の儀式においては、抜き打ちで里家を見回りになられるとよい。そうすれば州候も郷長も邪なことはできないでしょう。──いかがなされた」
陽子は毒気を抜かれ、いや、と首を振った。
「お前の口から、抜き打ちなんて言葉が出るとは思わなかったから……」
「左様ですか?ところで、私のほうからも主上に奏上したいことがございます。……この名簿をご覧下さい」
目の前に開かれた名簿は、普段見慣れた、朝議に出席する諸官の席次をしたためたものだ。よくよくみれば、ひとつひとつに細かな書き込みがされており、氏名の上に朱や黒で印が点けられているものもある。
「何だ、これは」
「本日の朝議で私が感じた諸官の印象を書き連ねてあります。氏名の上に印があるものは主上に対して反意が見受けられる者、黒は小者ですが、朱の印がある者は警戒してください。今暫くは様子を見ますが、これらの官に改善が見られない場合は──いずれ冢宰にも計り、黒の者は適当な閑職を、朱の者は名目のみの高職に押し上げてもらいます。ですが、急いては仕損じる可能性がありますから、時をかけます。主上におかれては決してご油断なきよう。……先程のお話にありました各州のご訪問にも、禁軍特師を護衛に付かせますが、これらの州へおいでの際にはそれなりの用意をして頂きます」
陽子は何か得体の知れない者を相手にしている気がしていた。幾度が口を開きかけ……ようやく言葉を絞り出す。
「お前……、今何を言ったか分かっているのか。宰輔には実権を与えないのが定めではなかったか?」
「私は単に私の考えを申し上げたまで。それをどう解釈なさるかは主上にお任せします」
景麒の言葉は至極あっさりとしていて、いつもと何ら変わりがない。それだけに陽子はただならない迫力を感じ、身震いした。
「景麒、お前、気は確かか?これは聞きようによっては、讒言ととられても仕方のない内容だぞ」
「心外な。讒言と同列に扱われるなど。私は平等に諸官を観察して、その見解を述べたにすぎません。それに……暫くは猶予を与えると申しました。改めればよし、改めなければ閑職へ追いやるよう冢宰と計るだけのこと。何も罷免したり追放するわけではありません」
穏やかなものです、との言葉に陽子は眩暈をおぼえた。
「お、お前……麒麟、だよな。髪、金色だし……麒麟って慈悲の生き物の筈じゃ無かったのか?……景麒、お前、慈悲の意味は分かっているよな」
「無論、存じております。ただ、慈悲を与える者を選んでいるだけのこと」
景麒はにべもなく言い放つ。陽子は呆然と呟いた。
「私はこの世界のことは詳しくない。詳しくないが、何だか異常だということだけは分かる。……麒麟がこうでいいんだろうか……?」
「主上がとかく無邪気でいらっしゃるから、これくらいでよろしいのです」
夜が明けて参りましたね、の声に陽子は窓の外を見る。
それほど眠っていない筈だが不思議と頭は冴えていた。朝焼けを眩しそうに見つめる景麒は口元に笑みを浮かべている。
お世辞にも穏やかと言えないその表情に、陽子はふと記憶をたぐり寄せ、嘆息する。
そう言えば、あちらでの景麒はこんな感じだった。以前の陽子はろくに口もきけなかった。
── 本領発揮、ってやつだろうか。苦労しそうだな ──
でも、と陽子は景麒を見る。こちらに来てからというもの景麒は常に一歩下がって陽子に接している感があった。言葉も少なく、反応も乏しく……口を開けば溜息と小言。まともな会話も成立せず、陽子は砂を噛む思いをした。だが今は明らかに違う。陽子の考えをきちんと聞き、景麒自身の言葉を返してくる。 たとえそれが麒麟にあるまじき──驚くべき内容であったとしても。
陽子は景麒を明るい瞳で見返し、鮮やかに笑った。
── ここにいるのは麒麟ではなく景麒、だ。私の半身。
やっと、出会えた ──
(6)
「どなたか主上をご存じないでしょうか」
もう先程から幾度繰り返したか判らない言葉を口にする。陽子とは対照的な紺青の髪に彩られた表情は堅く、その息は弾んでいた。周囲の反応は相変わらず冷ややかだった。
──宮殿内の祥瓊と鈴に対する空気は決して暖かなものではない──
祥瓊は一言礼を口にして踵を返す。もう時間がない。冢宰は火急の用件と言っていた。祥瓊は一瞬唇を噛んで、内宮を目指す。
「台輔、お願いがございます。主上がいずれにおいでか、お教え下さい」
景麒の私室の入口で声をかける。言い終わるが早いか、幾つかの無粋な音と共に景麒が私室から姿を表す。
「主上に何か」
景麒の髪がサラサラと体に沿う。景麒にしては珍しく必死ともとれるその表情に気を引かれるが、努めて平静に言葉を連ねる。
「冢宰、浩瀚さまがお急ぎのご用件とのこと、太師、松柏さまも御同席にてお待ち申し上げております。主上はどちらにいらっしゃいますか」
「いや、こちらにはおいでではない」
景麒の要領を得ない受け答えに内心舌打ちしながら、祥瓊は辛抱強く重ねて問う。景麒の瞳を見つめながら、ゆっくりと。
「どちらにおいでかお分かりになりませんか。お教えください」
「──おそらく堯天に降りておられる。太師と冢宰はこちらに、使令に急ぎ伝えよう」
景麒の私室に二人が通される。祥瓊は景麒付きの女官を待ちかね、傍らで茶菓の用意をする。
程なく陽子が姿を現した。
「どうした。みんな揃って……祥瓊まで」
陽子が房室に足を踏み入れると、新鮮な風が通る。祥瓊は手を止め微笑を零す。陽子が側を通るときはいつも風を感じる。すっきりとした涼やかな風。祥瓊はその風を陽子のようだと思う。祥瓊は茶菓を供し終えるとそっと房室を辞した。
「先日の朝議にあった議題について諸官の意見をまとめました。本日は太師の意見も含めてご相談に」
「うん、私もそう思っていた。そろそろ軌道に乗せないと…もうかれこれ半月になる」
「こちらをご覧下さい」
浩瀚が小卓の上に書類を広げる。それには各州の土地の特性と穀物輸送に関する諸官の意見が記されていた。陽子は食い入るように見つめ、頁を繰る。
各州その手段はまちまちだが、全体に一貫した傾向が見える。それは穀物の搬送全般は州師もしくは複数の郷師に任されたい、という意見だった。
「なるほど…王師の派遣は皆一様に辞退しているな。だが、よくもここまで揃ったものだ。ここまで揃うと何か含むところがあるのかと思ってしまうが。浩瀚はどう見る?」
呆れ口調の主上の問いに、浩瀚は腹に力を入れる。
「は、王師の派遣を辞退したのは、畏れ多きことと遠慮したものではなく、むしろ穀物の流通を明らかにしたくない何らかの理由があるものと思われます。……おそらくこのままでは、残念ながら民の手に渡るのはごく一部かと」
「残る大半は官吏の懐、か」
陽子は一つ吐息をついて瞑目する。傍らで静かに見守っていた松柏が陽子に声をかける。
「力を落とされることはありませんぞ。なに、未だ可能性に過ぎないことを思い悩んでも何の役にも立ちますまい。それより知恵を出し合うことじゃ。今の官吏は、先代、先々代の御代に召し抱えられた官と聞き及んでおります。かつて、みすみす王を玉座から遠ざけるよう勧めたとも。未だ眼(まなこ)の曇った連中が多い。ならば目を覚まさせれば、少しは変わりましょう」
松柏の声は飄々として柔らかく、どこか滑稽な響きを含んでいる。陽子はその声音に心休まる気持ちがする。陽子は諸官を一斉に取り締まるつもりは毛頭ない。
倭でもそうだったが、とかく権力を有するものは不正を働きやすいもの。
……それはわかっている。わかってはいるのだが……。
***
陽子が瞳を上げると浩瀚と目があった。何処までも澄んだ瞳が底光りしている。
「浩瀚、何か思うところがありそうだな」
「はい。主上に申し上げるべきか否か判断がつきかねるのですが、心鎮めてお聞き下さい。これから諸官に私から説得してまわってはどうでしょうか。つまり、『今回の玉米は民に全てふるまうように。主上は玉米で精をつけた民に、秋の実りのために十分働くようおっしゃっておられる。諸官はその命を十二分に生かされるほうが賢明と思うが。荒れ果てた耕地の実りは微々たるもの。玉米とて今年限り。だが、肥沃な大地は毎年の確実な実りをもたらす』と」
「……」
陽子は方眉をあげて瞳を見開いたが、その唇は引き結ばれたまま、沈黙を守った。
浩瀚はその沈黙に言いようのない重みを感じ冷や汗をかく。ともすれば言葉を見失いそうになる自分を叱咤して続ける。
「──更に『主上は暗愚ではあらせられない。いたずらに目を盗み策を弄するよりも、寵を受け懐深く入り込んだ方が得策』……」
「冢宰!それはあまりに」
堪らず声を荒げる景麒を、陽子がたしなめる。
「静かに、景麒。浩瀚の話を最後まできけ」
「……そして私が『私は州庫から幾ばくかの穀物を主上に捧げるつもりだ。そして、州内の民には存分に働いて貰う。開墾に関しては主上はなにもおっしゃっていない。多くを切り開く分には寧ろお喜びになるだろう』と囁けば、おそらく諸官の空気は変わるものと思われます。さらに民を酷く扱いそうな官には前もって釘をさします。『民は施しに狂喜し進んで恩に報いようとするだろう。それは強制された労働の何倍もの糧を得るに違いない。さすれば徳高く仁篤い官との名声と、民からの信頼、そして主上からの寵がやすやすと手に入る』──いかがでしょうか」
「……」
陽子は息を吸い、静かに吐いた。
浩瀚は耐え難い沈黙に、身じろぎする。
「……泥を被ってくれるか──浩瀚、済まない」
その声は低く、掠れていた。陽子は浩瀚に頭を下げた。
浩瀚は陽子を仰ぎ反射的に椅子を辞すと、がばと伏礼する。その顔には安堵の色が広がり、次第に笑みも零れる。
「いえ、有り難きことと感謝しております。普通であればこのようなこと、主上たる御方には申せません。心ならずも主上の意に背き、隠れて諸官を唆さねばならないところを…主上に前もってご相談できるとは思いもよりませんでした」
陽子は太師である松柏を見上げた。松柏はおおらかに笑み、ゆっくりと頷いた。
「そう、わしじゃよ。冢宰が逡巡しておるのが何やら気の毒でな…。里家にいたころから主上は真実を見る目をお持ちじゃった。そして、希有なことにそれは未だに損なわれてはおらぬ。主上であれば浩瀚の気持ちを汲んで下さるじゃろう、そう思って浩瀚を言い含めて連れて来た」
「あなたがたがいて下さって、本当によかった。これでどうにかなりそうだ。景麒、昨日の案も含めてもらったほうがいいんじゃないか……景麒、どうした?」
「いえ、何でもありません。ただ、諸官にそのように勧めて…主上を侮ることになっては、と」
「まあいいんじゃないか、侮るくらい。所詮私はその程度のものだし、そのくらいのほうがやりやすい」
「主上!何ということをおっしゃるのです。御身に何かあれば……」
景麒の声に陽子が振り返る。
「お前この間から少し変だぞ。一体何が気がかりなんだ。浩瀚が搦め手を使って自ら汚名を被ってくれるのだぞ、これ以上のことは望めまい?」
「しかし、諸官が増長して主上に害を為すようになったら、何とします」
「直接押さえつけるより、今回の搦め手でいったほうが可能性は低いだろう?」
「ですが、今現在も反意の見える官が大勢おります。何か事を企む前に排除しなくては」
「企む前に排除?何を言ってる」
「主上を心から信頼申し上げる者でないと…側近くに控えさせるには不安がある、と申し上げているのです」
「側近くには、な。──景麒、お前は少し間違ってるぞ。お前は私の周りに、私の意見に同調するものばかりを集めようとしているように思える。……判っていると思うが、官吏全体にそんなことを望むわけにはいかない。確かにそれは一面心地よいかもしれないが、私が道を誤ったときはどうする?皆が私と同じような考え方をしていれば、誰も過ちに気づけない。官吏の全てが皆同じ方向を向いているというのは却って危険なんだよ、多分」
「それならば、官吏に反意があった場合はいかがなされるおつもりか」
「行動が発覚次第、弾劾する」
「未然には防がれない、と?」
「行動を起こす前に罪に問え、というのか?人の心の中を律するのは己自身の良心のみ。ばかなことを言うな、景麒。──たとえ麒麟たるお前でも……他人の心の中までは罰することはできまいよ」
陽子は景麒を見、鮮やかに笑った。
「大丈夫、お前の主は簡単に死にはしない。お前は気が遠くなるほどの長い間、私にこき使われるんだ。覚悟しといたほうがいいぞ。ほら、昨日の案を松柏と浩瀚に説明してくれ」
景麒は渋々といった体で書類を取り出し、深い深い溜息をついた。
(7)
「松柏、本当に近頃の景麒は少し変なのです、そうは思われませんか」
景麒の私室を出た陽子は、松柏を誘って院子を散策する。
足許の枯れ落ちた木の葉が乾いた音をたてる。
「台輔は主上がご心配なのでしょうな。この間のこともある。無理もない……我々とて同じ気持ちですからな。私も蘭玉や桂桂と同じように、畏れながら主上のことを愛しく思っております。おそらく浩瀚も仕えるべき主君である以上にお慕いしておるじゃろう。じゃが、麒麟とはそのような情とはまた別な次元で主を求める、ときいておりますよ。麒麟はその存在全てが主上に捧げられておりますのでな、生半可なことではありますまい。まして、台輔は一度主を失っておられる。主上の御身の周りに神経を尖らせるのも頷けます」
「麒麟は慈悲の生き物であるときいていますが、時折景麒はそれに外れた言葉を言うのでいささか気になって……」
ほう、と松柏は白い眉をあげた。陽子は先日の一件をかいつまんで説明する。
松柏はゆるゆると足を運ぶ。時折足を引きずるさまが胸に迫る。長い沈黙の後松柏はおもむろに口を開く。
「──台輔も随分と変わられた。以前の台輔は決してご自分から意見などはなさらなかった。……確かに主上は驚かれたことじゃろう。じゃが、私はもっと驚いております。反意のある臣下を見極めることなど、今までの台輔にはおできになれまいよ。その台輔が主上をお守りするため、とおっしゃったか」
松柏の言葉には緊迫感がない。ただただゆったりと……却って安堵の響きさえある。
「これは、麒麟にあるまじき事、悪くすれば天命を失うことに繋がるのではありませんか」
松柏は瞑目して陽子の言葉を反芻する。
先程台輔に仰っていた様とはあまりにも違うこの不安定さはどうしたことか。双の手に絶対の天秤と、血塗れた剣とを持つ主上。他者にその責の一端を任せることさえ諾としないその潔癖さ。己を律することに厳しく他者には鷹揚に暖かく接するその様子に、これで慶は救われる、と快哉を叫んだ。
だが、台輔の些細な言葉一つがこれほど主上の内面に波紋を喚んでいようとは……。
「いやいや、急いて結論づけてはなりませんぞ。麒麟と雖も人と同じく個性がありましょう。畏れながら、隣国の雁台輔と台輔とお較べしても、いささか違いがあるように思われる。ましてや、台輔がおっしゃったのは主上のお身を護らんとしてのこと、たしかに慈悲溢れる言葉ではないが、主上がお心にとどめておられれば、それで十分じゃろう」
「──そう、でしょうか」
「いかにも。自ら望んで道を外れた麒麟の話など聞いたこともありませんのでな。それは麒麟の本性に悖る。心配めさるな」
今ひとつ納得しかねる陽子の様子に、松柏は陽子の潔癖さと共に幼さを見る。未だこの世に生を受けて十余年の少女であれば致し方ないのであろう。
──主上は清水を好まれる、それは王たるものの重要な資質。しかし御身とその傍らの台輔については、少々それが甚だしい。諸官や民に対しては寛容に……常に鷹揚に構えておられるが、その矛先が御身や台輔であった場合は妥協することを決してお許しにはならない。
しかし、と傍らの主上を見る。幾たびか逡巡し……ようやく言葉にする。
「主上は時折、何やら生き急いでおられるようにお見受けするが……玉座は苦しくておられますかな」
陽子がハッと顔を上げる。そこには隠しきれぬ憔悴が見て取れる。
「……よくわかりません。未だ右往左往してばかりで。ですが、登極直後よりは楽に呼吸ができるようになりました。ただ私には、なぜ私自身が王としてここにあるのか……その意義が見いだせないのです」
「……確たる証を求めておいでじゃったか……。主上はそれがなくてはならぬ、とお考えか?」
「いえ、そうではありません。ただ、時々無性に考えてしまうのです。おそらく私は弱いのでしょうね。何か理由を求めて、それを拠り所として立とうとしているのでしょう。何らかの意図で必然的にここに存在する、と安心したいのですよ多分」
苦笑を零す陽子の表情は、脆く危ういがピンと張りつめた強いものを感じさせる。
ただびとが容易く触れてはならぬその問いに、松柏は一心に言葉を探す。
「『天意』と言ってしまえばそれまでじゃが、それでは主上は納得なさるまい。元々主上は誰にも問いかけてはおられない。御自身で探そうとなされておるのじゃろうし……。ただ、時間はたっぷりと用意されておる。焦りは禁物じゃよ」
「そうですね。そもそも答えがあるのかどうかも私には判りません。おそらくは時間がそれを教えてくれるのでしょうが。……松柏には答えは見えておいでてすか」
松柏はくしゃりと笑って陽子を見る。
「なに、見つけたと思っても答えは変化し、風化する。儂とて常に探しておるよ。そして時折忘れておる。年と共に耄碌するのかの、主上のような根気はありはせぬ」
笑って一礼し院子を去る陽子に、寂しげなこどもの姿が重なる。あるいは微かな心の澱が。
「悩むる王──それもよい」
翌朝、外殿に出た陽子は諸官の態度の違いを肌で感じる。
お世辞にも居心地のいいものではなかったが、表向きの穀物配布についての各議題は拍子抜けするほど呆気なく取り決められる。
景麒は相変わらずの仏頂面ではあったが、次々と消化される諸手続に陽子は一人安堵の吐息を漏らした。
──まずは民に一口なりとも食物を──
そのために私がいるのだから。
(8)
その日は雲一つない青空となった。
金波宮から次々と運び出される麻袋の山。それを運ぶ人々は重くおびただしいその荷に圧倒されながらも不服一つ零さずに手足を動かす。事前の冢宰・太師の手配が功を奏し、その作業は至って順調に進んでいた。
荷を穀物庫から受け取り終えた州の州候は主上の側に拝謁する。傍らの冢宰・台輔からこの度の趣旨を告げられ、書簡と共に一つの箱を受け取る。無垢の木で作られたその箱には蓋がない。杯にしては大きく、箱にしてはいささか小さい。疑問に思って冢宰を仰ぐと、冢宰は微かに頷き説明する。
「それは升という。この度の玉米の配布に際し、主上自らお指図なさったものだ。州城に還り次第、すぐさまそれを郷の数だけ作るように。素材は同じく桐木で、それと全く同じ厚み、深さ、大きさとしてほしい。なにも装飾する必要はないができるだけ急ぐように。そして各郷に一つずつそれを渡すよう、お分かりか?」
「は、はい」
「郷ではさらに各里家の分の升を作ってほしい。そして最終的には各里家にひとつずつその升が行き渡らなくてはならない。この度の穀物は、その升でもって一人あたり一日三升とする。そして、裏を見るよう」
州候は升を押し頂いて、裏を返すと黒々とした御名と御璽を見ることができた。
「州候の指示で作った升には州候の名と印を押すように。そしてそれは郷長も同じく。大きさが狂ってしまうとこの度の『みなに広く均等に』との主上の御意志に沿わぬ事となる。そのため後に係りのものが等しく同じか調べてまわる。その際、大きさの異なるものがあれば、裏書きをした者の体面を汚すことになるので気をつけてほしい。特に各郷長にはこの指示を確実に伝えてもらいたい」
「畏まりまして……」
州候は息も絶え絶えにその間を辞す。走り寄る州宰に、先程の冢宰の言葉を繰り返し、足の速い綺獣をもつ者を州城に向かわせる。
「いかがなされました」
傍らに控えた侍者が顔色優れぬ州候に言葉をかける。
州候は溜息を零した。
「どうやら主上と冢宰殿は本気でいらしたようだ。この度の玉米はここ一月分だそうだ。半月後には次なる穀物についてお知らせ下さると」
「ようございましたね、民も潤いましょう」
「そう思うか?郷長等が馬鹿正直に里家に配るものかのう……。おそらくは半分と配られまいよ。だが、冢宰殿が仰るには後に主上と台輔が各郷をご視察なさるそうだ。その折りに民が飢えておれば、私の立場はどうなるのか」
「簡単な事ではございませんか」
「簡単な事だと?馬鹿なことを言ってくれるな。妙案などありはせん」
侍者は静かな……だが快活な声で語り出す。
「州城に民の代表が入ることをお許しなさいませ。この度の主上のお計らいに民は心動かされ、此度の我々の動きに固唾を呑んで見守っております。おそらく民が郷長の運ぶ荷を護ってくれます。私の居た里では、閭胥が各家々に諭していました。『この度の玉米は有り難くも主上が下賜なさったもの。全ての民が飢えることの無いよう、御庫の品々を虚しくしてまで購われたと伺っている。一粒たりとも疎かにしてはならん。そして決して他者に譲ったりしてはならん。この度の計らいは広く浮民荒民にまで及ぶそうだ。譲らずともその者にも恵みがある。ましてや、断じて他者に売ってはならん。それは天意を欺くに等しいと心得よ。また、有り難いからと大切にして眺めているばかりでも主上の御意志に背くことになる。頂いた玉米は有り難く頂き、力の漲ったその手で鋤や鍬の手入れをしておきなさい』と」
州候は不思議そうな顔をして傍らの侍者をみる。単なる子どものような顔をしてはいるが、その言葉は賢者の語りを思わせる。年の頃は十四、五。怜悧な瞳と伸びやかな四肢をもち、その表情は晴れやかだ。
「そなた──。……いや、いい」
問いかけた言葉を飲み込み、華軒に乗り込む。
雲一つなく晴れ上がった空。吹きつける風にも微かな暖かさが感じられる。
州までの道のりは決して短いものではない。幾たびも繰り返し、飽いているはずのその道々が新鮮に瞳に映る。
『先ずは民を励まし土地を豊かにするが懸命』そう囁いたのは冢宰。思いを巡らしていると──微かな謡が聞こえる。
どうやらどこからか民たちが現れて前後の玉米の荷を押すのを手伝っているようだ。その謡声は言祝ぎの唄、ここ慶に古くから伝わる唄が戸外でこれほどの大人数によって謡われる様には出会ったことがない。州候は眼を閉じ、吐息をつく。
──こういったのも、悪くはない──
その日の夜遅く、九州最後の荷を運び出した。最後の荷は黄領へのもの。程近く、台輔が治める土地とはいえ、念のため禁軍の一部が護衛につく。
***
「ようやく、始まりましたね」
「まずは、第一歩だな。いささか不安ではあるが……」
小さくなる護衛の松明の明かりを名残惜しげに見送る陽子を、景麒は静かに見つめた。
「しかし、官吏の変わり様は凄まじかったな。手のひらを返す、とはああいう様をいうのだろうな」
僅かに俯き呟く陽子は黄昏時の雲のように儚げにうつる。
「主上は、ご自身よりも民を選ばれた。今から己が行為を後悔なされるようでは、先が思いやられます」
「……言ってくれるな。後悔はしていない。ただ、心が痛むだけだ」
「同じことです。この度のことで一体どれだけの物を失われたか、主上はお分かりであられるのか」
陽子は瞬き始めた星空を見上げて、溜息のように言葉を綴る。
「おそらくは、な。……最早、諸官の大半は私に真実を語らなくなるだろう。冢宰の言により私を欺くことを勧められたのだから。朝議は形骸化する。全ては水面下の諸官の調整で取り決められるだろうな。万一冢宰が道に迷うようなことがあれば、いや、そうでなくとも冢宰以外の実力者が現れればもう手がつけられなくなる」
「承知の上であのようなことを?」
「多くの民が飢えて苦しんでいる。それを放ってはおけまい。それに、心根がどうであれ民には良い領主であり続けるならば、こちらのほうがずっとましだ。そうじゃないか?」
「……」
「景麒?」
「否とお答えしたところで我が主はお聞き届けにはなりますまい。ならばどこまでもおつきするしか方法は残されておりません」
陽子は彼方を見上げたまま寂しげに笑む。景麒は堅い口調で言葉を続けた。
「この度の主上のやり方は、懸命ではありません。初勅では最上の礼を廃され、この度は諸官に主上を欺き取り入ることを奨励なされた。それに、民に広く施しを与えるのは結構ですが、浮民と荒民も対象となさるとは。分かっておいでか?隣国巧は乱れているのです。今はまだ些細なことかもしれませんが、これから先荒民は確実に増えるでしょう。それをこの脆弱な国力でいかがなされるおつもりか」
「まだ考えてない」
「主上!」
陽子の悪びれぬ言葉に、景麒は開いた口がふさがらない。
「悪い。本当にまだ考えてないんだ。だが、巧国が傾いているのなら何らかの策を講じなければなるまい。巧国には恩がある。疎かにはできない」
なにを愚かなことを……と言いかけ、景麒はふと一人の存在を思い合わせる。『赤楽』の中にもある主上の友。
「楽俊殿のことをお言いか?楽俊殿は雁にて遊学中とか。なにもそこまで義理立てなさる必要は」
「巧で受けた恩義は何も楽俊ひとりによるものではないよ。だから、何かせずにはいられない。それだけだ」
「どなたかお聞きしてもよろしいか」
「?珍しいな。だがほとんど名はきいていない。ただ単に細々と暮らしていた巧国の民だ。そうだな ……一人は名をあげられるが、もうこの世にはいない」
彼方を見上げて動こうとしない陽子に、景麒はその視線の先を探す。
「主上がお覚悟の上でなされたのなら、よろしいのです。これから先……主上がいかなる暗き淵に沈まれようと、傍らには必ず私が控えておりましょう」
陽子は景麒を振り向き、ふ、と笑みを零す。
「暗き淵に、か。お前が沈まない事を祈ってるよ。近頃の景麒は物騒だからな」
「主上ほどではございません」
「お互い様、とでも言いたげだな」
「さあ、蓬莱の言葉ははかりしれませんね」
減らず口をたたき合うことで、ようやく胸の内にわだかまった息を吐き出す。
──ふと、思考が沈む。身の内深く棲みついた声がこだまする──
陽子の中に言いしれぬ暗い空間があることを、景麒は知っているのだろうか。
それは何ともしれない暗い澱。
──玉座などは血で購うもの──そう言ったのは隣国の王。
あの賢君は五百年もの長い間どうやって治世をつづけたというのか。このような暗い意識は抱かなかったのか。陽子は自らを叱咤し、努めて意識しないようにと心を閉じる。
自身で手に掛けた人の数はもう両手では数え切れない。妖魔などはその数を憶えてもいない。かつての国であれば絶対に許されない、罪。死刑を求刑されて当然。
なのになぜ、私は許されているのだろうか。王としてかしずかれ、人々に護られ、仰がれる。この血塗れた両手を一体どう償えというのだろう。
だからこそ──休むことなど、できはしない。民のために働き、この罪を償わなければ。この限りない重さに耐えられなくなる前に、どうか。
「……上、主上!いったいどうなされたのです」
「……景麒……どうした」
「どうした、ではございません。急に私の言葉にお応えにならなくなって……心配致しました」
景麒の必死の形相に、微かに笑みをはく。
「すなまい、すこし考え事を」
「それほどに、お疲れか。明日の朝議はお休み下さい。ここの所働きづめでおられましたし……雁にでもお行きになりますか」
「いや、いい。朝議には定め通り出席しよう。これといって体調が悪い訳ではないし」
──忙しく毎日を送っていれば、それほどこの暗い澱みに囚われずに済む──
だが、時折その考えは脳裏をよぎり、ふっと気を緩めた瞬間に入り込んで陽子を苦しめる。
天帝よ、いるのなら応えてほしい。あなたは私に一体何を求めているというのか。このように罪にまみれた体で、衆生の王たる責を負わせるとはどういうことか。
少しずつその負債を返している、とそう思った瞬間、また人を切らねばならない状況に陥る。玉座に在り続ければその罪は増えるばかり。かといって玉座を辞すと必然的に国は荒れ、民は苦しむ。
四面楚歌なこの状況に陽子の溜息は深くなる。
景麒は不安げな顔で陽子を見つめ、溜息をついた。
(9)
「祥瓊殿、よろしいか」
陽子の衣装を整理しているその手を止めて、祥瓊が振り返る。
周りの女官から羨望とも妬みともとれる視線を浴びながら、祥瓊は景麒の近くに跪礼する。
「少々相談したいことが」
「わかりました、すぐ参ります」
祥瓊は陽子の衣装を放り出す訳にもいかず、一旦陽子の私室に向かう。
景麒は自室で祥瓊の訪れを待った。
「失礼いたします」
程なく祥瓊が訪れる。
景麒は何と切り出したものかと暫く逡巡していたが、思い切って口火を切る。
「近頃の主上はずいぶん不安定にお見受けするが、どこかお変わりのところがないか教えてほしい」
「不安定……ですか。毎日のご様子でしたら、いささかございます。ここ数日食が細く、あまりお眠りにもなれないご様子で、日々鬱々とお過ごしのように拝見いたします」
「何か気にかかったことは」
「いえ、特には。……そういえば時折両手をじっと眺めていらっしゃることがございます。身動き一つなさらずに、こう、じっと。そのような時は周りの声も届かないようで、お声をおかけしてもお応えが頂けないことが多うございます」
景麒がハッと顔を上げる。真剣な眼差しで祥瓊の瞳を捕らえる。
「祥瓊殿、主上は何か思い煩っておいでだ。だが、私にはおっしゃって下さらない。──主上の悩みを訊いてほしい。主上は私にはあまり心を開いては下さらない。しかし、年も近く同じ女性のあなたなら、主上の力になれるかもしれない。頼めまいか」
祥瓊の表情がすうっと堅く、真顔になる。祥瓊は景麒の顔を一瞥する。
この麒麟は一体何を考えているの……!
「お断り、致します」
「祥瓊殿!」
「そのようなこと、よくも恥ずかしげも無く他国の私にご依頼なさったこと。呆れますわね」
「何を……」
「主上は私にはあまり心を開いては下さらない?──ならば台輔は主上の、陽子の心を開こうと努力なさったことがおありなの」
「無論──」
「そうかしら。陽子は決して近づきがたい人柄ではないわ。本気で陽子に接すれば、心を開いて貰えないことなどありえない」
ぴしゃりと言い放つ声は、景麒を前によどみもしない。
「陽子の悩みは台輔、貴方がお訊きするべきです。私では役不足……。私は一介の民に過ぎない。国を背負う重圧などわかりはしない。父のその苦しみさえ、分かち合ってあげられなかった」
景麒は祥瓊の思わぬ言葉に息を詰める。そうだ、祥瓊殿はかつての公主──。
祥瓊は言葉を続ける。
「今更、と人々は思うでしょうね。でも、思わずにはいられない。あのとき、もっと私がしっかりしていれば、もっと母が、冢宰が──芳麟が──父を支えてあげられていたら、と」
自嘲するような静かな声は微かに震えている。視線を巡らした祥瓊の瞳が景麒と出会う。
「陽子は胎果。こちらには誰一人頼るべきひとがいない。──そんな陽子を蓬莱から連れてきたのは、台輔、貴方ではないの?勝手に王に据えるだけ据えて、王の悩みを訊くことさえしない。それならばあの芳麟と変わらないわ。……台輔、貴方は陽子の半身でしょう。王の苦しみを分かち合うのになにを躊躇うことがあるの」
景麒は目の前の少女を食い入るように見つめる。
「とにかく私はお断りするわ。それは台輔の役目だと思うから」
それに、と祥瓊は言葉をつづける。
「陽子は何も気にしていないでしょうけど……ましてや他国の私が言うべき事ではないと百も承知の上だけど、敢えて言わせて貰うわ。慶の内宮に努める官吏の教育はどうなっているの。あれでは陽子の身に何かあったとしても機敏に対応できない。あまりにもひどいと思うわ。──倒れた芳と較べるのは心外でしょうが」
祥瓊は小卓を離れながら、小さな声で呟く。
「ご努力なさいませ、台輔。遅すぎないことを祈っております」
***
祥瓊は景麒の私室を辞し、足早に廊下をすすむ。
わけもなく喉が塞がって、熱い息が唇から漏れる。奥歯を噛みしめて喉をそらす。
──このような人前で、それも内宮で涙など零すものか──
今更こんな些細なことで──それもかつてを振り返ることで──心痛む訳はない。過去は悔やまないと心に決めた、今更悔やんだとて何になろう。私は愚かだった。愚かな自分に気付きさえしなかった。ただ、それだけ。なのになぜ、これほどに苦しいのか。
陽子が何かに苦しんでいることは察していた。そして、それが私の理解をこえる部分であろうことも。陽子の苦しみを和らげることなどできはしない。
「あっ!」
「む!」
どしん、と鈍い音がして祥瓊は片膝をつく。
回廊の曲がり角、出会い頭に誰とも知らぬ人間とぶつかったのだ。回廊で片手片膝をついてしまったことに祥瓊の顔に朱が奔る。きり、と歯を噛みしめてにこやかな笑みを作る。
──悪いことは重なるものだわ──
「申し訳ない……大丈夫か」
「浩瀚殿!」
「すまないな、祥瓊殿。少々急いでいたものだから」
「いえ、こちらこそ申し訳ございません。お恥ずかしい」
謝罪の言葉を述べながら祥瓊は浩瀚の表情を探る。ここは内宮の外れ、この回廊の先には台輔の私室のみ。おそらくは台輔に急ぎ召されたのだろう。浩瀚の表情はいつも通りの穏やかなもの、挙措も静かで常と変わるところはなく衣装にも乱れはない。陽子の異変は知らされていないと見える。
慶東国冢宰、浩瀚。未だ若々しい怜悧な風貌のこの男が、先日穀物配布に関する諸官の調整を行ったという。浩瀚の明るい表情に祥瓊は歯がみする。この男は気付いているのか?陽子の礎を揺るがす策を弄したことに。
──いくら民のためとは言え…官吏に上を侮れ、とはよくも言えたものだわ──
祥瓊は一瞥を投げかけて礼を取り、その場を辞す。再び急ぎ歩を進めた。
同じ轍は踏みたくない。
無性に陽子の笑顔を見たかった。
(10)
──水音がする──
韻韻たる響きを伴って微かに、しかしはっきりと水滴がしたたり落ちる音がする。 陽子は半ば朦朧とした状態で水音の源を追う。その水音は奇妙に不定期に繰り返され、陽子はその水音に集中している自分を見いだす。
──この音には覚えがある──
ようやく瞳を巡らし枕元の愛刀を捕らえる。
水禺刀は燐光を発し、その未だ不完全な鞘からは蒼い光が洩れている。陽子の身体は沈み込んだように硬直し、指一本さえ思うままにできない。もはや瞼さえ閉じることは叶わない。
するりとその鞘が奔り、刀身がその姿を顕わす。
房室中に蒼が満ちる。陽子の中を蒼い光が駸々と浸してゆく。
──ああ、またか──
陽子は次に何が起こるのかを知っている。
連日の同じ光景は改めて疑問を抱けないほど……陽子に馴染んでしまっていた。この蒼の中で繰り返し繰り返し過去を体験する自分を見る。
正しくは偽王軍を殺め、拓峰の乱で敵対していた人を殺める自分を。
陽子は時に景麒の使令となって、人々を爪に掻ける。
水禺刀も使令の爪も──あまりにも鋭すぎた。それらを前に──人とはなんと脆いのだろう。
頭上には白く輝く里木。それにはたわわに実る黄金の果実。
卵果はもがれるその時を待つことなく自然に落ちる。それはひび割れ、小さな人を生み出す。
絶えることなく繰り返されるその光景に、呼吸が逼迫する。
──ああ、早く。急がなければ。間に合わない──
陽子は必死に土を掻く。小さな人々が群がる前に、この土で山を造らなくてはならないのだ。
ようやく土を盛り上げ、安堵の息をつこうとしたその時──その土が何者かに抉られたのを知る。陽子は再び土を掻く。
土は硬く、両手の爪は欠け…獣のそれに酷く似ていた。次第に朱く染まる指先。だが手を休めることは許されない。
目前には人々を爪に掻ける自分自身がいる。あるいは嬉々として剣を振るう姿が。
盛り上げた土は押し寄せる蒼い水にさらわれる。
──息が、苦しい──
里木は営々と小さな人を生み出し続け、陽子の周りに群がり始めた。
──誰か、私を──
ふと、土の感触が常と違うことに気付く。手にはおびただしい朱。それは半ば乾き、鮮やかな朱は暗い紅と変じていた。その下には朱に染まった小さな人々。
──そんな、ばかな!──
陽子は衝撃に絶えきれず反射的に立ち上がる。刹那響き渡る悲鳴。
のろのろと眼を転ずると、足許の惨憺たる有様を見ることができる。
──ああ、そうだ。身動きしてはならなかったのだ──
身の中が蒼で浸されてゆく。
──こんなつもりではなかった──
『なんという、おろかな』
景麒の声が臓腑を抉る。
『あれほどまでに私の使令をお汚しになるとは』
目前には朱に染まった班渠。前足と口許はそれと判るほどに重く湿っている。
──すまない、私の、せいだ──
班渠の周りにも小さな人々が群がり始める。
陽子は絶えきれず両手で眼を覆おうとする。だが、既に身体は何かに縛められているかのように動かせない。
目前に蘭玉の姿。くるくるとよく働く、明るい瞳の。
──ああ、見たくない──
朱に染まり、力無く横たわった蘭玉の掌からは重い御璽がまろびでる。
──やはり、私は王であらねばならないのか──
──!!──
突き抜ける衝撃に眼を見開くと、目前には血しぶく男の姿。 陽子の右肩には磨き上げられた一本の剣。
『主…主上!?主上っ!!』
──景麒──
『班渠、瘍医を!早く!!』
──私には瘍医など無用。望まなくとも放っておけば治る──
『主上、しっかりしなさい!』
──景麒、よせ。お前までが汚れてしまう──
目前の景麒が朱に染まってゆく。
陽子はその光景に足許が脆く崩れていくのを感じていた。
──景麒、お前は──
──お前だけは、と思っていたのに──
***
ほとほとと扉が鳴る。祥瓊は躊躇いがちに扉を押し開く。
「主上……主上朝でございます。主上、お起き下さいませ」
牀榻の中の陽子は身じろぎもしない。
祥瓊は陽子を起こす際に度々繰り返している台詞を口に上らせる。
「主上、朝議に遅れます。お起き下さいませ」
陽子の瞼がぴくりと震え眼を見開く。
「主上……陽子、具合はどう?」
「……祥瓊か……。いや、とくに体調が悪いわけではないんだ……」
ただ、酷く体が怠い。幾ら眠っても身体の疲れがとれないのだ。 なんだか覚醒がしっくりこない。いつまでも半分眠っているような気さえする。手足が冷え切って氷のようだ。
──しっかりしなければ飲み込まれてしまう──
「……え?」
「どうしたの、陽子。さ、用意を急ぎましょう」
「あ、う、うん」
どこからともなく聞こえた声に陽子は首を傾げる。
飲み込まれる……何に?
陽子の顔色が優れない。表情にも冴えが無く……その瞳にも光が乏しい。
祥瓊は陽子の衣装を整える手を止めて正面に回り込み、その瞳を覗き込んだ。
「陽子、何か悩んでいるの?」
「悩み……?なぜ?」
「何となく……お父様も時折そんな顔をしてらしたから。多分、お父様も何かを悩んでいらした……私には何もおっしゃって下さらなかったけれど、ね」
「悩み……そうなのかな……」
「私の父は数十万の民の命を奪ったわ。作り続け、膨らみすぎた法典によって。──父は臣下に弑逆されたけれど、私にはお優しい方だった。父も麒麟に選ばれたほどの人だもの、王たる資質に初めから欠けていたわけではないわ。ただ、ほんの少し方法を誤ったのよ……。そして周囲の私たちが何もお役に立てなかったから。そして父は時折今の陽子のような表情をして苦しんでいらした……今でも夢に見るのよ。あの時、こうしていれば、と」
「数十万……」
祥瓊は、ふふ、と溜息のように呟く。
「直接手を下したわけではないわ。ただ、最後の御代にはそれほどの民が失われたらしいの。残念だけれど父の責は確実でしょうね……陽子?」
「祥瓊の父上」
「そう、先の芳王よ。膨大な法典を作り、民を虐げること甚だしい、といわれているわ。私も母もその罪を勧めたそうよ。私も母も何も知らなかった……そのことが、罪、ですって。──陽子は何を思い悩んでいるの?」
陽子はふう、と吐息を零す。
「──どの国の王も、多かれ少なかれ民を殺めるものなのかな……。それなのに、王の資格があると言えるのだろうか」
祥瓊はやはり、と息を詰める。
「陽子、あなたは刑を執行する人を恨むかしら?」
「──いや、それは……」
「その罪を裁く人は?」
「……いや……祥瓊、私は……」
言って陽子は思う。
──それでは『慶のため』と称して人を殺めた私は──
──私はやはり──
どこかで微かな水音がする。
(11)
景麒は朝議の終了を告げる。
陽子は朝議の間を後にしながら景麒に話しかける。その足取りは軽やかで口調にも乱れはない。
「景麒、今の議題にあった五穀の割合についてだが、みな食用の穀物を作ってしまってはまずいんじゃないか?皆が米と小麦ばかりに偏ってしまっては、家畜に与える穀類はどうするつもりなんだ」
陽子はいつも通りの冴え冴えとした、閃く瞳で景麒の前に立つ。
「ですが……雑穀は実っても残りを食用とできないため、雑穀と米、麦とを交換する必要があるのですよ。その折り、雑穀と米は等価交換されるわけではありませんので……」
「雑穀を栽培する家は不利というわけだな。──浩瀚」
「は」
「各家々の栽培する穀物の決定は誰が行っているのだ」
「いえ、各州内に於いて栽培する穀物の収穫割合は定められておりますので」
「浩瀚も知らないのか?」
「……申し訳ありません」
陽子の呆れ顔に浩瀚は恐縮する。そして傍らに控えた台輔を見上げ思いを巡らす。先日主上のご様子が芳しくない、との台輔のお言葉は杞憂であられるようだ。
「まあ、いい。次回からは栽培する穀物が雑穀である場合は、米、小麦と同等の価値となるよう、差分の土地を与えよう。だが、その期間は一年とし、次の年に雑穀を栽培する家がそれを受け継ぐ……どう思う?」
浩瀚は、恐縮しながらも言葉を探す。
「畏れながら、豊作の年はそれ以上の策はございませんでしょうが、不作であれば雑穀と米との価値の差は開くばかりかと」
「うーん、そうか……難しいな」
「主上、納める租税以外の穀物は、民の自由になるように計らえばよろしいのでは」
控えめに景麒が言の葉を挟む。
陽子はふと笑んで傍らの景麒を振り返る。
景麒はその陽子の笑顔に胸を轟かせる。
「うん。民の自由裁量に任せるわけだな。そうすればいい具合に雑穀と米・小麦との交換が行われて需要も均されそうだ」
「需要……でございますか」
浩瀚の心許ない声に陽子は朗らかに説明する。
「うん、需要だ。ああ、必要とする量とでも言えばいいのかな。雑穀を納める際、多く収穫できたりできなかったりするだろう?そこで雑穀が予定の量を満たさなかった者は雑穀を余らせてしまった者と穀物を交換する。それで取引成立、というわけだな。──さて、その差分の土地の広さは後で調整するとして、難問が一つあるな。その土地は何処で捻出すればいいのか……」
「それは冢宰が捻出してくれましょう」
悪びれない景麒の言葉に陽子は苦笑する。
「それもそうだな。頼んだぞ、浩瀚」
「……畏まりまして」
外殿を退出する陽子と景麒を、浩瀚は安堵の吐息と共に見送る。
玉座に君臨するその姿をいつまでも、と希わずにはいられない。
それほどに──浩瀚が永く待ち望んだ王たるものの理想の姿に酷似していた。
景麒は内宮への路を辿りながら陽子に尋ねる。
「主上、本日のご予定はいかがか」
「うん?いつもと変わらない。書類に目を通して採決をして……午後からは太師の授業を受ける予定だ」
「太師の授業は明日に延ばして頂けますか」
「別にかまわないが……何か急ぎの事か?」
「少々お時間を頂けますか。ご覧頂きたいものがございますので」
陽子は不審そうにしながらも、頷く。
景麒は私室へ向かう陽子の後ろ姿を見つめる。
杞憂であればいいのだが……。
***
私室に戻った陽子は一通りの政務を終え、祥瓊のいれてくれた白茶を口にする。
ここ最近、記憶が途切れる瞬間がある。
陽の高い間も時折空白の時間があるのだ。最初は居眠りでもしているのかと思っていたが、景麒と祥瓊の尋常ではない態度によると……どうやらそうではないらしい。
そして朝のあの倦怠感。一体どうかしたというのか……。
「祥瓊、私はどうかしていると思うか?」
「なあに、急に。そうね、深夜と朝方はちょっと変ではあるわね」
「例えば?」
祥瓊の言葉を聞く限り、それほど深刻なようには思われない。だが、その空白の時間がいつから顕著になってきたのかは既に記憶にない。
今は特に政務には支障はない。だが──空白の時間が徐々に長くなっている現実に改めて気付く。
今はよくても明日は、来年は、十年後は──?
陽子は身震いし、両腕を抱きしめる。
祥瓊の暖かな手のひらが両肩にそっとあてられる。
「今朝も言ったけれど貴方は一人ではないのよ、陽子。落ち着いて周りを見て。王は神ではあるけれど人にあらずとは何処にもないわ。悩みも迷いも周りにもっとぶつけるべきよ、ね、陽子。そうしてちょうだい。私の父にはもう為す術は無い。でも陽子なら。そうでしょう?」
「うん……ありがとう」
祥瓊の言葉が心に浸みる。肩に添えられた手は涙が出るほど暖かだった。
──民のために、私を欲する全ての人のために。
私はよい王となりたい──
(12)
昼下がり、陽子は景麒に促され院子に降り立つ。
目の前には班渠がいる。
「主上……御前失礼致します」
「なんだ?どこかに出かけるのか?おい、景麒!」
景麒は黙して応えない。
綺獣ではなく班渠に騎乗させられた陽子は、居心地悪いことこの上ない。
「行く先はどこなんだ、班渠」
「台輔に睨まれます」
「嘘をつけ、今更お前が景麒の心証を気にするものか。行き先くらい──うわっ!」
班渠はくつくつと笑いながら応えず、一層その速度を上げた。
班渠の背から見下ろす慶は久方ぶりだった。眼下に広がる光景の遙か彼方にささやかな淡い色を見ることができる。
咲き遅れた桃の花か──?
降り立つ先は岳高く聳える山の中腹。民家も無く、あるのは未だ芽生えぬ木々のみ。その一角に霞のように広がる春の色彩。
先に降り立った景麒が陽子が降りるのを手助けする間も、陽子は眼前の樹を見つめたまま動かない。
「桜、だ。──そうだろう?景麒」
「私はこの樹の名を知りません。ただ、ここにたった一本だけあるのです。近頃の主上には何やらお悩みがおありの様子、少しでも心慰めることができるならと」
目前にあるのは桜の老木。堂々としたその樺を隠すかのように満開の花びらを咲き誇らせている。
陽子は桜の樹に触れる。この樹皮は確かに樺桜。
「この樹はここに一本だけあるのです。前王も愛でられて金波宮に根付かせようとなさいましたが、何度試みても叶いませんでした。おそらくはかつての王のどなたかが蓬莱から持ち帰られたものでしょう」
陽子は傍らの景麒を振り返る。常にないあからさまな優しさに、陽子は嬉しさよりも申し訳なさを感じる。
「私は本当に、至らない……お前にまで気を揉ませて。済まない、景麒。こちらで桜を見ることができるとは思わなかった。嬉しい」
夜桜はもっと美しいだろうか……。
そう思い合わせて、いや、と首を振る。近頃の夜の記憶は定かでない。何者かにそっと塗りつぶされでもしたかのように何処かに消えてしまっている。
ザァ、と風が吹く。はらはらと舞い散る花びらに、眩暈を起こす。
「主、主上!主上っ!?」
ぐらりと傾いだ陽子の身体を景麒が支える。
陽子の顔が蒼い。
「あ、すまない。大丈夫だ。桜を見上げていたら目が回った」
ふふ、と笑うその姿も儚い。
景麒は袍を滑らせ手近な土の上に広げると、陽子を休ませる。景麒は傍らに膝をつく。汚れるぞ、との陽子の声もどこか弱々しい。
「主上、どこかお悪くていられるのか。瘍医にお見せした方がよろしいか」
蒼白な景麒の顔に、陽子は大丈夫だ、と手を振る。
「──景麒、もしも私が一日の幾割かしかこちらに居られないとしたら、お前はどう思う?主上にあるまじき、と怒るのかな……」
「主上!」
「私には所々記憶がない。おそらくは屍(かばね)のようになっている間の記憶が。そしてそれは日々長くなっているようだ」
「主上……」
「政に関わっている時間は己を取り戻していられるのだが、こういったふとした折りに、記憶がなくなる。これでも、私は王であるのかな……民たちのためにその存在を肯定していいのだろうか。お前にも苦労をかける。ふふ、『暗き淵』に沈むのはどうやら私のほうらしい」
「先ずは、瘍医に。それでも叶わなければ私が仙水を頂いて参ります」
陽子は微睡むように言葉を紡ぐ。
「そうだな、景麒に任せよう。ああ、そうだ。水禺刀の宝重は役に立たなかった…あれも流石に肉体以外の部分を癒すことはできないらしい。──水音が、する──」
陽子の身体がくたりと力無く投げ出される。
景麒は陽子の側に膝をついたまま、凍り付いたように身体を強張らせた。
動くことが、できなかった。
(13)
ほたほたと、足音がする。
ああ、きっと尻尾がバランスを取るように動いているに違いない──陽子は笑んで出迎える。
「陽子ぉ、起きてるかー?」
「楽俊か、うん、今日は調子がいいみたい。もう少し大丈夫そうだ」
「主上、御機嫌麗しく……安堵いたしました」
「景麒にも苦労をかけるな」
いえ、と首を振る景麒は柔和な表情をしている。
陽子の私室には明るい採光が溢れ、吹き抜ける風にも春めいた兆しが感じられる。
「そうだ、どう?久々の獣型は。やっぱりどこか違う?」
「世界が大きく見える。視線が下がるから当然だけどもな」
「慶の人間は景麒を初め頭が固いから、一つずつ慣れさせないとならないんだ。当然時間も長くかかる」
「これは心外な」
憮然とする景麒に、ふ、と笑みを零す。
「違うか?初勅にあからさまに反対したのは景麒、お前だけだぞ。半獣と浮民、荒民の待遇差を撤廃するのには賛成していたが、今回の獣型での伺候を許可する法令に反対したのはお前もだろう。そう言えば景麒、お前も獣型になってかまわないよ」
「……お戯れを……」
「気持ちいい、昼下がりだね……あの桜はまだ咲いているかな」
「かなりの老木ではございましたが、去年は花を付けておりました。後でとりに行って参ります」
あれから、幾年月──。
景麒は嬉しく主上を見る。陽子の容態は一進一退を繰り返して小康状態を保っている。朝議の前にお目覚めになり、朝議を終えると間もなく眠りに入られる。日々衰弱する体は水禺刀の宝玉の力により、やっと繋ぎ止められている。
「延王の御代600年のお祝いはいかがなさいますか」
「そうだな、伺いたいのはやまやまだが──この身体ではかなうまい。景麒、行ってくれるか」
「畏れ多い事ながら……」
「ふふ、そうだろうと思ったよ。冢宰と楽俊に行ってもらおう」
片時も離れようとせぬこの麒麟を陽子はしみじみと見遣る。辛うじて玉座を保ち続けたこの永い年月、景麒にとっては幸せだったろうか。今はもう馴染んでしまったこの蒼い水音に身体を浸しながら傍らの景麒を想う。
──今日のような、たわいないやり取りも…
今度はいつ、叶うことか──
陽子は己の魂の残りが食い破られるのを感じる。身の中の何かが音を立てて蝕んでいくのを。
水音の彼方の世界を記憶するようになったのはいつからだろう?彼方の世界も最早この身に親しいものとなり果てている。もう、苦痛を感じることさえ満足にはいかない。
この意識が完全に無くなったとき、私はどうすればよいのだろう。傀儡のように政のみを行うものは王足りうるのか──。
未だ答えのでない問いを心の中で繰り返す。
唯一、慶が復興しつつあることが慰め。
今ではこの私室と朝議の間以外を訪れることはかなわない。景麒や楽俊が報せてくれる外の様子のみが、陽子の知る慶の姿。
これでは正しい政には程遠い。
だが、と陽子は思う。
どうやらこのまま行けば景麒は失道にはかかるまい。私が傀儡であろうが無かろうが、官吏たちが国を上手く運営してくれれば、それでいい。私が私である理由など、何処にあるのだ。民にとって私は王でありさえすればよいのだ。道を外れなければ……民を虐げさえしなければそれで十分。
かつて交わした景麒との約束。
「景麒──約束は憶えているな──?」
陽子は囁くように呟いて瞳を閉じる。
「──憶えております、主上……」
景麒は苦い思いを噛みしめる。
***
桜は月明かりを浴びて禍々しいほど美しい。
満開を迎えた古木は今年も一斉に花を付けていた。散り落ちる花びらがその微かな風を報せる。
花びらは景麒の淡く光る髪の上にも舞い落ちる。
あの時、主上は殊の外お喜びだった……。
景麒は美しく咲き誇る満開の枝ではなく、未だ蕾の多い枝を探す自分に苦笑する。
今度はいつ、今日のようにお起きになられるだろうか。最近は朝議の間にも御自身で歩いてお行きになることは稀だ。
一枝を切り取り、衣にくるんで風を遮る。
ご覧に入れることが叶えばいいが──。
綺獣の背から見る慶。芽吹く季節には今少しだが、山々はなだらかな線を見せ、眼下には点在する里家の灯りが目に映る。
目立つ戦乱も災害も数えるほど。近年はこれといった乱れはない。
……慶は順調に育まれている。その主の衰弱を知らずに。
主上は、安らかにお休みだろうか──。
陽子の私室に手折った桜を携えて伺候する。控えの間の祥瓊に許しを得、私室の扉の前に立つ。
「主上……失礼いたします」
私室を横切り、用意してきた花器に桜の枝を挿す。
花器の置き場に迷い房室を見回すと、臥室の扉から微かな水音が聞こえる。
「……?……水音がするが」
「水禺刀から洩れ聞こえます」
班渠の声に頷き、臥室の扉を開ける。
「なっ……!」
一瞬、蒼い光が満ちているかのように見えた──。瞬きする間に房室は漆黒の闇に変わる。
今のは一体何だったのだろう。陽子の枕元には片時も手放したことのない慶国の宝重、水禺刀。
その鞘から微かな燐光が発しているような気がして、ふと手を伸ばす。
「景麒、やめろっ!!」
その刀に触れる寸前、陽子の絶叫が響いた。景麒は呆然とその主を見る。
「景麒、駄目だ、水禺刀には近づくな。……絶対だぞ、いいな?」
牀榻の上、肩で息をし肘をついて身を起こそうとする眼光鋭い陽子に、その苦しみの一端を見る。
「主上……お苦しくていられるのか?」
その無理な姿勢を和らげようと、景麒は手を伸ばす。
「よせ。お前までが穢れてしまう……」
「穢れ?なにをおっしゃる」
──陽子の身辺に血の匂いなどはかけらもない。
陽子の身体を助け起こそうとすると、懸命に陽子がもがく。
「よせ、お前まで……この澱みに足を踏み入れては」
「お静かに」
「──仕方ないな、わかったよ。ただ、約束してくれ、水禺刀にだけは近づかない、と」
「わかりました。お約束いたしましょう。その代わり、主上にもお応えいただきたい。お眠りの間、お苦しくていらっしゃるのか」
「ふふ、今更、なにを……」
「お応えあれ」
景麒の真摯な瞳に陽子はため息をつく。この麒麟は時折、手に負えない──。
「少々、苦しいこともあるさ。だが、その苦しみも最早親しい隣人のようだ。別段気にするほどでもない」
「それでいて、最後の一瞬まで王で在られようと希まれるのか?」
そうだ、と陽子は笑う。
「最後の一雫まで。景麒には済まないが……」
陽子はかつて交わした約束を言い含める。
「私に三王に仕えよ、と……?」
景麒の絞り出すような声に、陽子は思わずその髪を撫でる。その髪はサラサラとしてひんやりと冷たく、月の光のように儚い輝きを秘めている。
「嘆くな、景麒。私のこの身はいずれ無くなる。だが、お前がいれば……お前の中に私のかけらが残るだろう」
「主上は私に何の感情もない、とお考えか!?」
「──景麒は私に仕えて後悔したか?私にはそうは見えなかったよ。景麒は時折笑っていた──」
「主上……」
「我ながら酷い主だな。景麒にはいつも苦労をかける。最後の一瞬まで……共にあろう。そして私の意識が無くなったその時には、お前以外の……誰かに始末して貰ってくれ」
「……主上、私の誓いをお忘れか!?我が身を持ってお救い申し上げる、と申したではありませんか!」
「その誓いに縛られることはない……それに、今すぐ意識が無くなるというわけでもなさそうだし……まだ先は長い。景麒、次はよい主に恵まれるよう幸運を祈ってる……」
「何ということをおっしゃる……」
陽子はやんわりと笑んで、眠りに落ちる。
──景麒は両手で顔を覆ったまま、身じろぎひとつしなかった──
(14)
延王の御代600年の祝賀は華やかに行われている。
街々は美々しく飾り立てられ、玄英宮もいつになく華やいでいる。接見の間には諸国からの慶賀の使者が列を作り、浩瀚と楽俊もその末尾に列する。
うんざりするほどの長さの列は遅々として進まず、楽俊の視界は前に並ぶ浩瀚の衣装に埋め尽くされる。数時間が経過しても、進んでいるのかどうかも把握できない人の波に、楽俊は項垂れた。少しは違う風景を見ようと首を巡らせると、振り返った先には、眼前にあるのと同じくらいの人の波。楽俊は大きく息を吸い込み、やるせない吐息を零す。
「よぉ、暫くだな楽俊。どうだ慶の住み心地は」
思いがけない言葉に、楽俊は礼も忘れて笑み零れる。
人混みに疲れていた視界には、延麒の明るい金の髪と人なつこいその表情を一際嬉しく見る。
「雁台輔にもつつがなく……」
慌てて礼をとろうとした楽俊は、延麒にあっさりと遮られた。
「あー、かったるい話はよそうぜ、奥に行こう。浩瀚はどうする?」
「いえ、私はこちらで控えております。諸国の祝辞はまだまだ終わりそうにありませんので」
「んじゃ、楽俊は借りてくぜー。尚隆がんばれな」
その列のずっと先、やや小さく映る延王尚隆。何度か大きく身動きしたと思うと、数人の官吏に取り囲まれる。
惟端に羽交い締めにされた尚隆は唸るように頷いた。
「どうだ、陽子の様子は。慶は随分と落ち着いたようだけど」
「今は随分いい、と思う。……でも詳しくは台輔にもお分かりでは無いらしいし。おいらには正直言ってよく判らない」
「眠り病、って噂だが。ただ眠ってしまうのとは違うんだろう?」
延麒の私室に落ち着いて、ひっそりと座る楽俊はしおしおと髭をそよがせた。
「眠る、と言うよりは意識を失う、と言った方が正しいんじゃねぇかと思う。一旦眠りに落ちると次の日の朝までぴくりともしないらしいし」
「ふーん。水禺刀の宝玉でもどうにもならないのか?」
「どうやらそうらしい。だから台輔も仙水は敢えて求めるのを留まられた、と聞いてる」
「ふーん。どうにかならないもんかなー」
「おいら、瘍医になろうかな……陽子は笑って最近は瘍医にかかろうとしないんだ」
「なんで」
「こちらの医学の程度では範囲外だよ、って笑ってた。確かにおいらは陽子に王になってほしかった。だけどこんな風になってほしかったわけじゃない……おいら、くやしいよ」
背を丸めた楽俊はきゅぅぅと声を洩らす。
「確かに倭とこちらには差がありすぎるかもな。おれがこちらに来た当時からこちらは殆ど変わってないが、倭は行く度に様子が違うもんなー。ひょっとすると倭では治せるのかもしれない……」
楽俊の背が一瞬にして硬直し、両耳と尻尾がぴん、と立った。黒々とした眼が延麒に注がれる。
「台輔、今の……」
「んー、たぶん、だけどもな」
「おいら慶に戻って……」
「おい、ちょっとまて。楽俊」
ジタバタもがく楽俊を、延麒が必死に押しとどめる。
「楽俊、まてって。陽子が頷くわけないんだから、早まんな」
ねずみは力無く項垂れる。
「台輔ぉ。陽子を説得して下さいよぉ」
「おれがー?いやだぜ。王が虚海を渡るなんてすすめんの」
「あっ……そうか。災害が起こる……うっかりしてた」
「おれよりも、陽子のほうが倭のことはよく知ってる。そのへんは陽子も考えた上だろうな」
大きく取られた窓の向こうに雲海が見える。その陽は傾き、鮮やかな色彩を投げかけている。
延麒と楽俊は黙ったまま、その景色を眺める。
「あー、やっと終わったぞ。酒でも持たせよう。浩瀚、入れ」
不意に間近で聞こえた大らかな大きな声に、延麒と楽俊はそっと吐息を零した。
***
「主上……延王と延台輔がお見えです。お目覚めになれませんか」
牀榻のなかの陽子は何の反応も見せない。景麒は囁くように続ける。
「では私と冢宰とでお相手を致しますゆえ、お許しを……」
陽子の臥室を後にした景麒は、その隣室である陽子の私室に招かれざる客の姿を見つけ、柳眉を顰めた。
「邪魔しているぞ。……その様子では陽子の見舞いはできまい、な」
「延王、よろしければ院子をご案内致しますが」
「まあ、そう邪険にするな。どうなんだ、あれから随分経つが容態の方は。相変わらずか」
勧められもせぬのにゆったりと榻に座を占める。
景麒はこの場から延王を追い出すことを諦め、ふっと息を抜いた。
──延王とてこれ以上礼儀に外れた振る舞いはすまい。
「……」
口を閉じる景麒の顔には微かな憔悴の色がよぎる。
だが、と尚隆は思い返す。出会った当初からは考えも及ばぬほど表情に深みを増した。聞き及んでいる所によると、ここ数十年は陽子が政務を表立って行うことも稀だという。そして、この麒麟はその主の側を片時も離れぬ、と。慶は順調に発展している。当初の周囲を驚かせるような政策は無くなったが、概ね穏やかな進展を遂げていると言ってよいだろう。
今日の様子では、陽子は最早……内宮深いここより出ることは叶わないようだ。ならば慶は王不在のまま、官吏で運営していることにほかならない。
「景台輔、そなたも苦労をするな──それとも苦労とは感じておらぬか?」
「私は主上にお会いできたことを悔やんだことはございません。それは雁台輔も御同様かと」
さらりと切り返すその鋭さは、かつての陽子を思い出させる。
尚隆は、ふ、と笑みを零す。
「台輔、そなたの調子はどうだ?」
「何をおっしゃるかと思えば。常と変わりなく、何ら不調はございません」
「そうか?ならば景王、陽子の知古として訊こう。陽子の意はその政に残りなく汲まれているか?陽子が台輔に……景麒に陽子の現身たれと望んだとは思えないが」
景麒は尚隆の双眸を見据え、不敵に笑んだ。
「私は麒麟です。麒麟が失道するのは主上が道を失した時のみ。私が何をしようと天帝に善悪を計られるなど耳にした覚えはありません。それに私の行動全ては畏れながら主上の御為と思えばこそ……他意はございません」
その言葉は澱みもなく景麒の唇から発せられる。その声音は十分に熟成された重みを伴っている。
「全ては陽子のため、か。ならばもう、何も訊くまい──」
(15)
あれから随分長い年月が過ぎ去った。
景麒は通い慣れた陽子の臥室を訪なう。その手には桜の一枝。
牀榻の帳を押しやり、その姿を止めたままの主の姿を見つめる。
「今年はどうにか咲いておりました。ですが来年は難しいやもしれません。主上、貴方はこの花をお好みでした……悲しまれましょうか」
陽子の髪に、短く切った一枝を挿す。
「貴方がお望みなら、蓬莱に探しに行って参りましょう。ですがお応えも頂けないのですね」
陽子の容貌はかつてと何ら変わることはない。だが、その鮮やかな瞳が見開かれることも絶えてしまった。
「お言葉を頂けなくなってから……もう幾年……おわかりか、今年で主上が御登極当時の延王の御代の長さに並ぶのですよ。浩瀚が随分な張り切りようで、盛大な祝賀を催すとのことです。その折りにはどんなお言葉をお伝えいたしましょう」
景麒の頬に透明な滴がこぼれ落ちる。もはや、主上の意識が完全に戻らなくなって久しい。主と交わした約束の期限はとうに過ぎている。だが、それでも……景麒には思い切ることができなかった。一度だけ目にした…主上の苦しみ。主上がその身を切られているかもしれない、その考えは常に景麒の臓腑を抉った、けれど。
主上の指示の通り、近年の豊かな国情で蓄えも万全を期している。妖魔の襲来に備えて街々は強固な要塞ともなる。官吏も心明るい者が揃っており……十分すぎるほどのその備え。
──だが、私は──
──私は次王に心から仕えることができるだろうか──
『生きていれば、いいこともあるさ』
──鮮やかすぎるその笑み。
『景麒は私に仕えて後悔したか?私にはそうは見えなかったよ。景麒は時折笑っていた──』
──焼け付く、この胸の痛み。
『最後の一瞬まで……共にあろう』
──甘美な響きは続く言葉に裏切られる。
『そして私の意識が無くなったその時には、お前以外の……誰かに始末して貰ってくれ』
「最後まで、共に、とお誓い申したではありませんか……」
透明な滴が桜の花びらの上で儚い音をたてる。
『慶がよければ、それでいいんだよ。王なんて特別な意味はない』
主上がよく口にしていた言葉。
──だが、私は──
──私は最早──
景麒の瞳に暗い光が閃く。
(16)
主上、と夢の中で繰り返す。せめて夢なれば逢えはしまいかと。そんな願いも最早無駄と知り尽くしているというのに。この愚かな僕の声な ど彼の主に届きはしないのだ。声枯れるまで呼んだとて最早繋ぎ止める手だてはない。
五百にも及ぶ春越えて、この主だけを想って来たが、この世に従属する生き物には為す術がない。妖魔がそして内に抱えた使令が求める 麒麟としてのこの肉が、主を目覚めさせ得る物ならば、この身体など万回でも刻み捨てようものを。だが、景麒が麒麟の身体を損なえば 其れはただ主の未だ果て切れぬ身体までを失うに過ぎぬ。何時かはと思う心の拠り所を壊してしまうに過ぎぬ。
今更何を信じ、何に祈れば良いのか景麒には知れない。この麒麟は既に主より他に寄る辺を持つつもりが無い。
慶を豊かに其ればかりを願った主の傍らで、麒麟は主の幸いばかりを願ってきた。慶が富み、民潤えば、主が顔に笑みが登る。それ故に 尽くし仕えてきた慶という国。天帝の御命の為などでは有りはしない。ただ主が為のみをもって……。
「主上――。」
牀榻の傍らにしつらえられた椅子に座ってもうどれ程費やしたか。人が一生でもつ時間など比べるべくもない。起きることは愚か身じろぎ 一つ無く、眠り続ける顔は変わること無い。無に近しい眠りに、憤ろしさと遣り切れ無さで気が狂いそうだ。
お応えあれ、と。慣例も何も一蹴して強く統べる王の姿を何故この僕に見せないか、と。
「この闇に捕らわれかけた不甲斐ない獣を何故叱咤しようとはなさらない。」
これは裏切りだと、景麒の心の奥底で囁く者がある。これ程に魂ごと捉えておきながら、顧みもしないとは手ひどい裏切りだ。
景麒は陽子の傍らで口許だけに弓月の笑みを佩いた。
慶国の伝説に語られる女王は、その語りが通り民の前には姿を見せない。しかしながら地は安らかなりて水は穏やかに治まり、妖魔の襲来も 久しく聞いたことがない。民は大いなる女王の存在に頭を垂れ、里木に希って子を戴き、国栄えて滞り無い。
重く頭を垂れた稲穂を騎獣の上から見おろして、楽俊はしおしおと髭を泳がせた。
「なぁ祥瓊。」
呼ばれて祥瓊は先に進めた騎獣の背から、遅れがちな楽俊を振り返る。しかし呼びかけておいて楽俊はぼんやりとした視線を田に向けたまま それきり黙り込んだ。
近頃はこの実直で前向きな半獣もこんな風に思い煩っている姿を見せることが多い。楽俊ばかりではない。おそらく鈴は鈴で祥瓊に対し 同様の感想を抱いているに違いない。景王の登極当時からの臣は皆そうだ。
着々と進む在位五百年の慶賀の式典。しかし彼等は皆その目出度い席に主役たる王が出られないことを知っている。
生きている唯それだけの王。国傾けず、玉座を埋める為だけにある王。其れが今の陽子の姿だ。陽子の必死さによって集められた官はもはや その採決無しに平穏な国を紡ぐことを常と成し、穏やかな内に国は静かに生きている。
「こんな田を陽子は欲しがってたんだけどなぁ。」
しみじみとした声が耳に痛い。
祥瓊も陽子に望んだのだ。寒いのや、ひもじいのは嫌だと。陽子はそれを叶えると約束し、殆どの民は最早飢えることも凍えることも無い。 王は期待通りに一国を国民に返した。
さやさやと稲穂がたわんで揺れる。
女王は代々の王が積んだ借財を精算し豊かな国を捧げる。そしてその結果、王は王自身を失った――
「陽子は今の陽子なんて望んで無いんでしょうね……。」
こぼした声は横風にさらわれて逃げた。
王の身体はその宝玉でかろうじて保たれているのだと瘍医が告げる。
まさにかろうじて。身体に受けた傷なれば瘍医でも癒せる。まして神仙はそうした怪我に対してひどくしぶとい。度重なる動乱の合間も そう思えばこそ主の暴挙とも思える行為を忍んだ。仙も妖魔も易々と切り裂く慶国が宝重。しかしその癒しの玉はどうやら肉の範囲でしか 役には立たぬ。今の主が窮状を畢竟玉は救わない。
ふと耳に届く陽炎が如き水音。嘲笑に思えるそればかりが陽子の臥室で景麒の耳に木霊する。
寄せて返すその水は波と言うのだと陽子は言った。海は恵みの母でありその母が繰り替えず子守歌が波であるのだと。しかしこの途切れ がちな水の音は、とてもそうは思われぬ。主の海恋しがる心から流れ寄せるとはとても思えぬ。桜木が花弁撒き散らす音なればどれ程心安 らかであろう。愛おしい懐かしい花なのだと、差し出す景麒に笑みこぼれていたではないか。
そうして繰り返した永の月、忘れはてて主は白い面を晒す。あの覇気は幻かと思わせる無防備な姿。頼りなさが悲しくて愛しくて遣りきれなくて堪らない。
傾いていく感情でいっそ崩れそうだといつも思う。
冷静な、時に冷徹とさえ囁かれる怜悧な麒麟。王現れぬ王宮で誰よりも冷静な政を謀る麒麟。全て主が望むまま。
しかし、その仮面にももう倦んだ。
『景麒、誰が何と言おうと私だけはずっとお前を信じているから。お前の語る言葉はいつも嘘がないと信じているから。』
登極して間もない頃に、諸官との折り合い悪く孤立しがちな宰輔を傍らに呼んで、陽子は力強い声で励ました。
「ずっととあなたはおっしゃったのに。」
御代続く限り、生きる限りずっと、と。
だのに、生きていながら心閉じ耳塞いで、信じると言った景麒の言葉さえ聞こうとはしない。
魅せられた碧の眼も開きはしない。
全てが過去で呪いのようだ。
「それでも、まだ私に三王にまみえよとおっしゃるか。それほど私が心ない生き物と思し召しか。」
何を見ていたのだ。誰を見ていたというのだ。何のためにこれ程の苦痛を持ってこの長い年月この国に宰輔として在ったと言うのだ。 誰に誉められたかったわけでもない。感謝など何ほどのもの。この身に宿ると定められた慈悲などどこにも残りはしない。共にと願うことが それほどの贅沢なのか。ただその心酔した王の最も近くで共に国を見ていきたいと願うことが、咎められるほどの罪とでも言うか。
民より王を思うことが麒として許されないことだと誰が言う。
「天帝よ、あなたが吾が王を奪うというのならば。」
これ程罪なくわが身も省みず、民の幸だけを思う己が王を鞭打つというのならば。
これはたぶん禁忌と呼ばれるものなのだろう。許されざる大罪と刻印押され、十二が国の隅々までも大逆の麒として指さされる。
景麒は艶やかに笑み上げる。
耳元で波はにわかに強く泣く。
「あの折りあなたは決してこれを手に取るなとおっしゃられた。」
ふわりと笑んで景麒は陽子の傍らに添えられた水禺刀に手を伸ばす。必死の形相が脳裏で鮮やかに甦る。苦痛など何ほどのものと、 馴染でいるから構わないと。いつもそうして無理を当たり前の顔で甘受する。痛みも苦しみも飲んで飲み尽くしてこの有様。 賢王などと誰が呼ぶか。物知らずの子供のように頑固で聞き分けが無かっただけではないか。
剣はまるで吸い付くようにそれは景麒の手の中に収まる。
手の中でそれが高く笑うように如何にも嬉しげに震える。
――ついに、麒を捕らえた。
確かに、水禺刀は景麒に柄を取られ喜びに打ち震えた。
望んでも望んでも得られなかった絶大なる力抱く神獣、麒麟。いつも直ぐそこにいたものを喰らい尽くしたはずの王気が守って阻んだ。 しかしそれも今この時まで、封じられた痛みと屈辱、知らしめずには置かない。
――させない。
力がにわかに切り替わる。灼熱の意志が麒麟を取り込まんとする妖魔が剣を打ち据える。決して渡しはしないと告げる灼けるような叫び。
景麒の手に握られた剣の中で、刃と王は繰り返された戦いを続ける。王が下でのみ従う刀。それは王以上の意志を誰も抱けぬが故の封印。 心削り身を削り、それでも国安んじるために王達はそれと戦い握りしめて御代を作る。その魂の一滴まで絞り尽くして外に内に闘うが王。 麒麟も臣も天帝すら気付かぬ世の狭間で陽子は最後の戦いに力尽くす。今は愛しい片割れの為に。
「主上。」
静かに景麒は語りかける。手の内で起こることも知らず、その心を聞くことも叶わず、けれど不思議と満たされた思いで景麒は刀を握る手に 力を込めた。
「もっと早くにこうして差し上げるべきだった。」
華やかで美しい彼の女王。その姿はこんな奥まった室内に閉じこめられて在るべきではない。風を纏い、空翔て誰よりも艶やかに行くべき なのだ。あの閑地で彼に騎乗し全軍を一言のもとに下した王。それこそが本質であったろうに。民さえ安んじれば満足と。
深く牀榻に沈んだ主が身体を抱き寄せる。
触れた肉は枯れ木のように軽い。
そしてまた、耳の奥には昨日のことのように主の言葉が甦る。
『我ながら酷い主だな。景麒にはいつも苦労をかける。最後の一瞬まで……共にあろう。そして私の意識が無くなったその時には、 お前以外の……誰かに始末して貰ってくれ』
始末して貰えと。景麒がそれを為すに及ばずと。血に病むことは無いからと。優しくて残酷な主の言葉。だがそれは御前を離れずと叩頭した 誓いよりも遙かに重く景麒の内側に存在する。共にと告げたそれを寄る辺にその時はと繰り返し己に定めて来たのだから。
景麒は腕の中で力無い陽子の身体を抱えなおし、もう一方の手の中の水禺刀へ視線を泳がす。
――だめだ、景麒っ。
嵐雷のように轟く。
はっとして景麒は眠り続ける主の顔を見おろした。
「……そこにおあすか。」
呟いて、ふっと和らいだ空気を纏う。
「そうしてそこにおいでになるか。」
共にと言った言葉違えず、碧の瞳を離すことなく。未だ分かたれてはいなかったのだと安堵の息を深く付く。
愛おしい欠け難い己が半身。己で見付け定めた相手。既に時遅しと絶望の淵を彷徨ってきたけれど。漆黒の闇ばかりで水禺刀を手に取った 自分ではあったけれど。――ずっと物さえ言えぬ身体でも添っていたのだと。お前との約束を違えたりはしないと。
「吾が王よ。」
信じてみたいと今は思える。試す我が身が大罪は担う。主は一度とて道を過ちはしなかった。己は僅かばかりも失道などしなかった。
「あなたはわたしに手を下すなと言われたが。」
水音はいつの間にかふっつりと静まり返る。
おめき立つべき使令も不思議と静まり返って一言もない。
「今一度、あなたが僕の言葉をお信じあれ。どうか。」
するりと水禺刀の仮鞘を払う。
満ち足りた笑みを浮かべ、景麒は抱きしめた陽子の背を一息に突いた。
まるで水を真っ直ぐに突き出もしたかの手応えの軽さ。
陽子の身体が手の中で反り返りぐったりと景麒にもたれかかる。ずるずるとそのまま主をその腕に床へ崩折れ、景麒は柄を握りしめた手を ばったりと落とす。
陽子の心臓を貫いて溢れた血がそのまま水禺刀を伝って景麒の腹に流れ込む。
焼け付く痛みと、それ以上の甘美。至上の甘い痛みを全身で味わう。
「やはりあなたはあたたかいな。」
ごほごほと咽せて、口の端から血を吐く。
失せていく力を掻き集め、身体ずらして景麒は安らかな顔をし、今度こそ永遠の眠りについた主を見つめた。
「あなたに、出会えて良かった。これ以上の主はありませんでした。」
麒としてこれ以上望むものなどない。未来永劫己こそが幸いなる麒麟。
「いつも、ずっと楽しかった……。」
「陽子……。」
その傍らに獣型のまましゃがみこみ、楽俊は仕方ないなと言うような、微苦笑を浮かべた。
奥勤めの女官が異変に気付いてそれを見付け大慌てで松柏のもとに駆け込んだのが半時前。主立った寵臣たちが今は事切れた主の前に 言い尽くせぬ思いを噛みしめて立ち尽くす。
「馬鹿よ。」
つんっと鼻をそびやかし祥瓊は赤い目元で言い放つ。親友の肩を優しく叩いて鈴は王と宰輔の亡骸に手を伸べた。
「せめて牀榻に寝かせて上げましょう。陽子はもう寝飽きたと言うかも知れないけれど。」
麒麟が主を弑逆するなど考えられない事態に違いない。そうとしか言いようのない姿に、だからこそ見付けた女官は驚き慌てたのだろう。 恐怖深い娘を諭して鎮めて、松柏はようやく房室に足を運んだ。
白い柔らかな布で血の汚れを拭う。衣服はそのまま傷を隠すように牀榻にかけた布で覆う。刺し傷と刀とが見えなくなると王も台輔も随分 幸せそうに見える。
「何も麒麟がしなくたってあたしがいくらでもやってあげたのに。」
口惜しげに唇を噛んで尚も言う。今度もまた大切な物を守れなかったと悔いる心は果てがない。
「……もう充分だと思うけどな。」
虚しく呟いて、松柏を仰ぐ。
「そうじゃな。ここまで成した王はわしも聞いたことがない。天命に背いてまで王を安らか無さしめた麒麟というのも、ことによれば天晴れ と言うことやもしれぬしの。」
教えを請うて陽子が里家をおとのうた頃を思い返す。眠り続けて傀儡となり果てそれでも玉座を埋め続けた誇り高い女王。
御代こそ延、宋の両王には及ばなくとも、この王を愚王とは誰も呼ばない。
心砕けた王を弱かったとは誰も言わない。
「……もう休ませてやるがよかろうかの。」
老い耄ればかりが生き延びてと苦く思う。達王を見取り、その他数多王が行き過ぎる。これぞと思った王さえも今は失われて戻らない。
「なぁ。」
気心の知れた彼等とは今も以前と変わらない口調で話す楽俊が、呼びかけて自分よりも揃って高い位置にある頭を見回す。
「このまま慶賀の祝いを遣っちゃどうだろうか。陽子が姿を見せないのも景麒がそれに従ってるのもこの国ゃもう珍しか無いし。葬儀なんざ 内々で済ませりゃあいい。」
「……王が死んだとなれば民が動揺する、か。」
渋い声で浩瀚は唸る。
「まして麒麟もですものね。」
見たこともないほど穏やかな顔をしている景麒を眺め遣って鈴は呟く。大切な親友。愛おしい仲間。陽子を殺したこの麒麟を怨んでもいい 筈だと思っても、鈴の心内にそれは生まれない。ただ寂しさが募るだけだ。
「何かあれば此処にいる皆で簒奪者の汚名を被ればいい。陽子は絶対に盛大な葬儀なんか欲しがりゃしないんだから。」
蓬山に麒麟旗が立てば民も安んじる。麒麟旗がこの嘘を暴き天帝によって裁かれるまで、陽子の残した国を護る。それが王を傀儡とまで なさしめた不甲斐ない臣下のせめてもの勤めだ。
「お墓作ろう。」
「あの桜のところね。」
二人は寂しげに笑い合う。
「桜。」
不信そうに尋ねた浩瀚にこっくりと頷く。
「あの景麒が陽子のために見付けてきてね、蓬莱の花なんですって。陽子の房室に良く飾られていた薄い色の樹花があったでしょ。といっても 男の人は気付かないかしら。」
ふふ、と笑み崩れる。
「二人一緒に眠らせてやりたいな。こいつまるっきり色気なかったから。」
剣を振るって闘うか、難しい顔で書簡と首っ引きでいるか。たおやかな衣服すら身に纏わず、少年のような匂いさえ放って逝ってしまった。 どんな心でこの主従が繋がっていたか、他者は知る術も無い。それでも長い天命の最後に選んだ相手だ。共に眠らせて遣っても否やはあるまい 。ゆっくりとその鮮やかさを失わない髪を撫で付けて楽俊は是非を問う。無言の了解が返って楽俊は髭をそよがせた。
季節外れの桜、桜。咲き乱れるそれを、どこか当然だと思う。潔く散る古木も不思議と今日は色深く薫る。
仰ぎ見る空は晴れやかで、葬儀よりも祝いに似つかわしい。それともこの蒼さ故にどこまでも遠く消え果てたか。
今日金波宮では在位五百年の祝いが盛大に催され、太師、冢宰、禁軍三将、ことごとく式典に列席して此処には居ない。 祥瓊と鈴二人のみの送りだ。
男手が必要ならせめて楽俊には付き添って貰うつもりだった。しかし、二人共にと些か感傷的にしつらえた柩は今朝方その役目を失った。 院子にこっそり騎獣を引き入れ、さあ連れていこう、寵臣皆揃って最後の別れをしようと柩を開けると、景王も宰輔も姿がない。まさか奇跡が 起きて起き出したかと皆が皆己の正気を疑った。
呆然と立ちすくみ見おろす柩の白い寝具の上に残る一振りの刀。それが何であるか見まごう愚か者はこの中にいない。見知った物と姿は 違えど、正しく慶国が宝重、水禺刀。主が色彩を纏うた如き、朱金の地紋が見事に咲く。結ばれた宝玉は濡れ濡れと碧に輝いた。
遠く祝いの花火が轟いて薄い雲を空に残す。
「変なとこまで気を使って、あの子は。最後くらい手間かけさせりゃいいじゃないの。」
あんな刀一つに姿変えて、手向け一つもさせてはくれない。
罵声を繰り返して憤る友を、鈴は穏やかに宥める。
「陽子らしいと思うわよ。人の感情にいつも何だか鈍くって。」
誰がどんなに思い寄せても、この生真面目な王は一度も気付かず何時も相手は肩を落とした。雄々しさと潔さで縁取られて輝いた希なる女王。 愛用の剣は姿変え、楽俊が式典に参じている。そうして陽子は形代すら残さず、今は残された思い埋めるために桜木を訪れる。
「願わくは、花のもとにて 春死なむ かぁ。」
「何よそれ。」
「ん、蓬莱の詩なの。春にね桜のもとで死んでいきたいって願った賢者が書いたのよ。」
ふわふわと風に流れる淡い色の花弁を、無くした友の代わりに見送る。
この国をもう少し皆で守るからとそれに誓う。
そして――
――願わくは……。
「なぁ……尚隆よぉ。落ち込むなって。おれ、景麒の気持ちもわかるよ。陽子もあのままじゃあんまりだった」
延麒もどこか元気がない。
玄英宮の延王の私室。
尚隆は露台から雲海を眺めたまま身じろぎもしない。
風は既に初夏の風情。蒼穹も真夏の鮮やかな蒼。白い雲も眩しいばかり。
延麒は尚隆を宥めるのを諦め、榻にごろりと横になる。
延王、延麒も景王、景麒との交流は殆ど途絶えてしまっていた。臣下との交流は盛んであっても慶賀の使節さえ尚隆は足を運ばなかったのだ。一つは景王の状態を聞き及んでいたためと、もう一つは景麒がそれを望んでいないと察していたがためだった。
──先日内々に慶国冢宰が玄英宮に来た。浩瀚は少々やつれてはいたが、常と変わらない佇まいをしていた。浩瀚に気軽な挨拶をした尚隆は、思いがけないことを聞くことになる。
『これは内密にお願い申し上げます──景王、崩御。並びに景台輔もお亡くなりに』
尚隆は我が耳を疑った。
いつかは、と予想していたとはいえ、現実のものとは思えない。すぐには返答もできないほどの衝撃に、浩瀚は追い打ちをかける。
『景台輔が景王を弑し奉られ、台輔も景王のお供をなさいました。これより後、我々官はこのことを内密のまま、今まで通りの政を進めてまいります。期限は、蓬山に麒麟旗が揚がるまで。長年我が慶にお力添え頂いた延王にはお伝え致しますが、重ねて内密に願います』
景麒が陽子を弑した……、そんな、ばかな。麒麟は仁の生き物。主をその手に掛けることなど出来る筈はないというのに。
尚隆は混乱した頭で言葉を絞る。
『だが、景麒失道の報せは入っていないぞ』
尚隆は納得がいかない。今までの踏まれるべき手順が尽く抜け落ちている。景麒失道の報せはおろか、白雉が末声を発したことさえ。
それらはこの世界の混沌に定められた古よりの決めごと、隠しおおせるたぐいのものではない。
浩瀚は苦く笑う。
『それらは我々も耳にしておりません』
『そんなことがあるのか?』
何かの間違いではないか、という尚隆の言葉に、浩瀚は顔を歪める。
『我々官の目の前で主上と台輔は冷たくなっておいででした。水禺刀を以て王の心の臓と台輔の身体が貫かれて──辺りは凄惨な状況でしたが、お二方のお顔は眠るがごとくうっすらと笑んでおられたのです』
浩瀚は言葉を紡ぐ。密やかに、囁くように。
『主上と台輔のこと、決して盛大な葬儀などお望みではない。ただひたすら我が慶を安からしめることばかりを望んでおられたことを思えば、葬儀よりは御代五百年の慶賀をするがよろしかろうと話し合い、我々臣下は内々にお見送りすることとしたのですが……』
『どうかしたのか』
浩瀚の唇が震え、なかなか言葉が出ない様子に、尚隆の喉も迫ってくる。
『剣に貫かれたまま御寝かせ申し上げるのはあまりに、と水禺刀を主上と台輔の玉体から差し抜き、主上のお側にお納めしました。そのお命の最後を吸った禍き剣とはいえ、主上が片時も手放そうとはなさらなかった愛剣でもあるのですから。ですが、主上のおためには……そうしてはならなかった』
尚隆は浩瀚の言葉に眉を顰める。
『お二方は夢見るように微笑んでそっと寄り添っておいでてした。お幸せそうなそのご様子に、我々臣下はどれほど救われたか。お二人をそのまま同じ柩にお納めし、お別れを惜しんでその夜はずっとお側にお付き申し上げました。皆お側を離れ難く傍らで偲んでいたのです。──ですが、翌朝お二人にお別れ申し上げようと柩を開けると──お二人のお体はどこかに消えておしまいに』
『そんな、ばかな。一国の王の遺骸が消えるなど聞いたことがない。誰かに盗まれたのではないのか!?』
『そのような不届きな者は、我々側近の者にはおりません!』
浩瀚の間髪入れぬ鋭い声に、尚隆は息を呑む。
──かの女王はその身体を虚しくしてなお、何と強く臣下の心を掴んでいることか──
『すまない、取り乱した。ではどこかに……』
気を取り直した尚隆の言葉を、浩瀚の乾いた声が追う。
『我々もそう思いました。叶うなら、それこそ草の根を分けてもお探ししたでしょう。ですが、お二人は心ない者に盗まれたわけでも、ましてや息を吹き返されたわけでもなかったのです。柩の寝具の上に……姿を変じた水禺刀が遺されておりましたゆえ』
『姿を変じて?ならば王が代替わりした、ということか……?』
浩瀚は微かに首を振る。
『それはわかりません。ただ分かるのは……仮鞘だった水禺刀の鞘が消え、新たな鞘がその刀身を覆っていたことです。──鞘は金の地金に濃き朱の紋。宝玉は更に深き蒼翠、飾りは翡翠と薄金』
そのあまりにも象徴的な色合い。消失した二つの骸。
麒麟は消え失せるのが常とはいえ、王は蓬山に昇らぬ限りその肉の器が失せることはあり得ない筈だというのに。
白雉は未だ二声を鳴かず、蓬山から景麒失道の報せもない。
浩瀚によれば、慶の天地は穏やかに治まったまま、妖魔の影もないという。
尚隆の許を去り際、浩瀚は言った。
『水禺刀は慶国秘蔵の宝重、ですが我々には如何なる宝重よりも主上と台輔こそが至宝。台輔の玉体が失せてしまうのは致し方ないのかもしれませんが、主上の玉体を損ねるのなら、宝重など、取るに足りないことと思っておりましたのに……最後まであの方々はこの慶のことばかりを案じておいでだったのでしょうか──その形代も遺しては下さらず満足にお別れを申し上げる事さえ』
微かに笑む浩瀚の頬に、静かに流れ落ちるものがある。
『主上はよく仰せでした。「慶がよければそれでいい、王なんて特別な意味はない」と。我々官は主上こそが全て。全てはあの方故に捧げるもの。ですが主上と台輔がお隠れになられた今となっては、ご指示の通り官で知恵を出し合い慶を傾けぬよう全力で治めて参ります。麒麟旗が揚がり、次王がお立ちになるまで。その後我々側近は喜んで主上を弑した罪を拝します』
台輔の罪ではあり得ない。我々官が及ばぬ故、と浩瀚は静かに目を伏せた。
一人去って行く浩瀚を見ながら、尚隆は思う。
──慶は、変わった。慶は最早…王を必要としていない。
かつての初勅にある言葉通り、慶は不羈の民となろうとしている。
朝廷には王が無くとも挫けることなく国を思う官が揃い、土地を均し水を治める。
「こんなおろかな私が王になっていいのだろうか」
時折、途方に暮れた表情を覗かせていた陽子。いまは記憶の中にしかないその微笑み。
慶は常に波乱の国、陽子も当初は官吏に恵まれず苦労をしていた。
だが、と尚隆は思う。
「傀儡なんだ」と苦く呟いた声は戦渦の音に掻き消される。内に秘めた強さは周囲を焼き尽くすほど。怯むことなく頭を挙げて、光る鎧と冬器の中を疾駆するその姿。舞い上がる砂埃、翻る朱の髪。土にまみれ返り血を浴びながら、顔を顰めて剣を繰り出す。戦が佳境になるにつれ、蒼白な顔色で歯を食いしばって剣を振るうその姿は、哀れにも見えた。
「無事か」と思わず声をかけると、陽子はちょっと驚いた顔をし…なお曇り無い瞳を輝かせ鮮やかに笑む。
絶えなかった内乱も、年を重ねるに連れ次第に影をひそめる。慶の民たちは驚くほど的確に災禍の火種を炙り出してゆく。
避けられぬ戦乱に於いてはその要としての役を果たし、国安んじてからは国を慈しみ、人を育てた。病に蝕まれながらも、その魂の一滴まで慶のために捧げたというのか。陽子は自らの無き後を視野に入れて穀物の管理と街の整備を命じていたという。それは傍らの景麒によって成し遂げられ、頑ななまでに守られている。
尚隆は嘆息する。
少年のように朗らかで快活、自らの責務については潔癖なほど。
周囲の期待を一身に背負って、怯むことはなかった。
だが、いつだったろうか。
曇りない瞳で善悪を計るその影に…傷つきやすい子どものような表情があると知ったのは。
寂しげな瞳で膝をかかえ、堯天を見つめていたのはいつのことか。
玉座が苦しい、と絞り出すように呟いたのはいつだったのか。
澄みわたる泉のような瞳が問いかける。
──分からないのです。王が民の下僕であるとするなら、
ただ民のためにあれというなら……私自身は一体何なのでしょうか──
決して安穏と時を紡いだ王ではなかった。微睡みの中に過ごし続けたこの長き年月。その眠り安らかであったなら、景麒は悩みはしなかっただろう。見舞う度、その背に庇うように立ちはだかった傍らの麒麟。本来なら凪いでいるべき瞳の中に、時折狂気が鬩ぎ合うのを幾度も見た。
景麒が何を想って陽子を弑したのか、最早それを知る術はない。おそらくは冢宰が言っていたような理由ばかりではあるまい。
──だが、それも、もうよい。
あの王故に景麒はああまで踏みとどまり、陽子の御代を支え続け、耐え続けた。
その最後の瞬間まで王と共にあれた景麒は幸せそうではなかったか。
その最後の顔は笑んでいたという。
景麒は言っていた。『私は主上にお会いできたことを悔やんだことはございません』と。
陽子はあまりにも鮮やかに、その隣を走り抜けた。
際だつ笑みと共に、いまにも声が聞こえてきそうだ。
「延王──」と。
… fin …
[緋牡丹]
赤楽五年元旦、慶東国首都、堯天――
未明から続く爆竹の音は、昼餉を済ませたこの時間になっても止むことはない。
春風とは名ばかりの、微かな梅の香を空へと巻き上げる風にはまだ温(ぬく)さが足りず、街を歩く人々は風が吹くたびに薄い外套をぎゅっと引き寄せた。
ここ数年で堯天の人間はずいぶんと増えた。家々の軒先にはびっしりと赤い吉祥対聯(かざり)がつけられ、戸と言う戸には朱墨で書かれた倒福や雙喜など、縁起の良い文字が踊る。民は笑顔で酒を酌み交わし、共に新たにやってきた年を祝う。
街を埋める慶びの赤い色は、まるで赤子の字を持つ女王そのものを顕しているかのようにも見えた。
その、紅に染まる街は、遠く雲海の上からでも見て取れるほど。
春の訪れに歓び浮かれる首都堯天の西側には、雲を貫いて凌雲山が聳(そび)え、堯天山の山頂には景王の居城、金波宮を戴く。
その金波宮の、青海に面した露台から、一人の青年が下界を見下ろしていた。
今の季節一層透明な、雲海を透かしてみえる堯天は、赤い。
まだ冷たい風にさらりとなびく、腰まで伸びたその髪の色は、金。
僅かに晒す肌は白く、瞳は深い紫。人並みはずれた麗人は、果たして人ではない。天からこの慶へと使わされた神獣、麒麟である。
景麒はその赤い街を静かに見つめながら、人知れず微笑んだ。――もっとも、端正な唇の端がほんの少しばかり動いただけで、とても笑ったようには見えないのだが。
その、深い紫の瞳には柔らかな悦びの色が浮かぶ。
景麒がここ金波宮へきてから、もうこれで十度目の新年になるのだろうか。だが、この眼下の街が赤く染まり、新年を祝う歓声を聞くことができたのは、ほんの数回だけである。下界の民を想う事もなく宴に遊ぶ官吏達と、政務を完全に放棄した王。ここで一人、活気のない街を見下ろして溜息を落とすことしか、景麒にはできなかったのだ。
だが、新しい主が再びこの街を赤く染めた。
慶びの、赤に。
麒麟の本能というものだろうか。特になんでもない眺めだというのに、この赤い街は見ていて少しも飽きることがない。じわり、と国が回復に向かい、民の顔に笑顔が戻ってきた。それを、この赤い街が実感させてくれるからだろう。
景麒はさらに目を細め、同じ風景に見入る。
足元に落ちる影からはけだるそうな欠伸が聞こえた。が、それを咎める気にもならない。
それほどまでに、このときの景麒は幸せであったのだ。
ふと、景麒は思い出したかのように目を閉じる。そしてそのまま、光を探した。
目を閉じたまま、焼けるように強い光を感じて景麒はその光のほうを、自分の主がいる方角を向く。
僅かばかり目を開け、人が居ないことを確認してから、景麒は深々と頭を垂れた。
新年を祝うことができる喜びと、未来への希望。
それを民と自分に与えてくれた主に、景麒は心からの感謝を捧げたのだった。
そして、誰にともなく、ひそやかに祈る。
今年も、どうか主上が健やかでありますように。
仁重殿に戻ろうとして、自分を探しに来た女官と出会った。
「こちらにおられたのですか、台輔。そろそろ、お召し物を改めませんと…今日は正装でございますから。御章(おしるし)もつけていただきますよ。最近は台輔まで主上に習われてか、お召し物が簡素でいらっしゃいましたけれど、今日ばかりはそうは行きませんから。」
位を表す、章。最高位の王は十二位、そして、慶東国の麒麟たる景麒は王に次ぐ十一位の章を戴く。
「…そういうつもりはなかったのだが。主上はどうされている?」
やんわりと女官が笑む。
「長楽殿で、お召し替えをなさっておいでですよ。今日ばかりは、大裘(だいきゅう)をお召しになっていただかないといけませんので。」
「…なるほど。」
麒麟は表情を変えずに笑った。大裘...王の第一礼装。主上がもっとも嫌われる衣服であるから、今頃は女御とああでもないこうでもないと盛大に言い争いをしている頃だろう。それでも元旦である今日だけはとても主上に勝ち目はない。
ふ、と景麒の瞳に優しい色が宿る。...大裘を纏われた主上は、さぞや美しかろう。あの、玄(くろ)い衣に緋い髪が映えて。
「主上はお若く、美しくあられますから、やはり華やかさが違いますわね。女官は喜んでおりますよ。もっとも、主上におかれては、今頃歩揺(かんざし)が重い、などと、愚痴をこぼされているのでしょうね。さあ、台輔も。」
小さく頷くと、そのまま女官と連れ立って仁重殿へと足を向ける。
女官の一言が、ちくりと胸に刺さった。
女王だから、女官は喜んでいる?
ここ宮城は、王さえいれば、光が溢れる。王の世話をするものたちが活気付くのは当たり前のことだ。そう、王がたとえ昏君であろうとも。宮城が光を失うことはないのだ。
――では、民は。
民は、主上をどう思っているのだろう。
小さないざこざがまだ続いていたものの、国はその基盤に於いて確実に固まりつつあり、良い方向に向かっている。他国へ逃げていた民は徐々に戻り、それに伴い邨(むら)や里がゆるりと復興されてゆく。まだ、ほんの少しでは有るけれど。
この国は、甦ろうとしている。
それでも、胎果の女王への、民の、そして官の根強い不信は払拭しきれていない。
それほどまでに、民を深く絶望させた女王が、長く続いたためだ。
先の主を想って、麒麟の心がまたちくりと痛んだ。
景麒は今年初めての、小さな小さな溜息をついた。
主上が影でどれほどの苦労と努力とを重ねておいでか。それを皆に知らしめても何の意味もない。
どうすれば皆主上を認めるというのだろう?
隣国の主従には時間がかかることだ、と言われた。
そんなことは言われなくとも理解っている。
それでも、自分は主のために、なにかできないものだろうか。
あの方の肩はあまりにも細いのだ。
主上お一人に、すべてを背負わせるわけには行かない。
私は麒麟なのだから。
なにか、できるはずなのだ。
こうしてここから、健やかであれと祈る以外に、――何か。
自分は、あの方の半身なのだから。
午後の美しい光が差し込む外殿で、陽子は正直退屈をしていた。
元旦を迎え、今日来たばかりの春の陽射しはまだ弱かったが、硝子の張られた大きな窓を持つ外殿の中は温室のようにぬくぬくと温かく、いやでも陽子の眠気を誘った。普段ならば御簾をおろすことも可能だが、新年の祝賀行事の折には特別に拝顔を許すのが慣例である、と浩瀚がいうので、この強烈な眠気をどうにかしなくてはいけない。
六官・諸侯がずらりとそろう外殿には、先ほどから途切れることなく慶賀の使節がやってくる。
みな女王に新年のお祝いを申し上げに来るのだ。その、一人一人のお祝いの言葉を聞き、お祝いの品を受け取り、さらに労いの言葉をかける――
大して内容の変わらぬ長い口上を玉座の上で聞きながら、陽子は必死で欠伸を抑えていた。
柔らかな陽光に照らされる女王の緋い髪は複雑に結い上げられ、しゃらしゃらと涼やかな音で囁く金の歩揺が何本もそれを彩る。緻密で豪奢な朱雀の刺繍も見事な正装に身を包んだ陽子は、まさに陽光のごとき笑みを湛え、輝かんばかりの美しさである。他ならぬ景麒でさえ、この日の陽子に一瞬呆けたほどであり、その、極めて稀な顔を見逃さなかった女史と女御がにやり、としたのは言うまでもない。
美しい主の傍らに寄り添う麒麟と、粛々と典礼を務める冢宰もまた、玄(くろ)い正装にその身を包む。秀麗な面立ちの二人を両脇に侍らせなお中央の玉座で輝きを放つ、緋き女王。
この日の外殿は、まさに光に溢れていた。
ふと、向こうから墻壁(かべ)際を小走りにかけてくる男が目に入った。男が何事かを浩瀚に耳打ちすると、珍しくこの男が顔色を変えた。
「浩瀚、どうした?」
陽子がちらりと浩瀚を見やる。
「主上…おそれながら、雁より慶賀の使節が参られた、との報告が。」
「…雁。」
常世では国交を結ぶ国はあまりない。
それでも慶にとって、隣国の雁はなくてはならない存在であった。現在陽子が玉座の上にいるのも、他ならぬその雁州国の王君の手助けがあったからに他ならない。国交が有る以上、慶賀の使節を派遣するのは当然のことであるが、それは普通、新年が明けて早くても十日は過ぎてからのことである。それより前は普通、どちらの国も国中から訪れる客や使節の応対にてんてこまいであるので、この時期に使節を送ることは失礼にあたる、と、一般には避けられるものなのだが。
「どういうことでしょう。まさか、元旦に使節をよこすなんて…。」
困惑の表情を浮かべる景麒をよそに、女王は笑みを浮かべた。
「…浩瀚、お通しして。」
「主上、しかし…。」
「来てしまったものは、しょうがないだろう?それに、他国の使節を後回しにはできない。」
そうあっけらかんと言う己の主人を見て、景麒の胸に小さな不安がよぎった。
確かにその通りなのだが、真面目な主人はあの非常に楽天家で破天荒な延王から、多少なりとも影響を受けているらしい。ここで自分が踏ん張って、主上を正しく導かねば、と密かに新年の誓いを立てる麒麟をよそに、浩瀚は雁からの使節を通すように命じる。
外殿に通された使節を見て、陽子たちはまた驚いた。
皆見知った顔である。天官長の朱衡に、地官長の帷湍、そして左将軍の成笙。微妙にげんなりとした表情が浮かんでいるのは、恐らく陽子の気のせいではないだろう。浩瀚はこの三人を欠いた白沢の苦労をおもって独り溜息を漏らす。雁ほどの大国ともなれば、新年の式典はそれはそれは盛大であるだろうから。それでも王宮の行事をつかさどる春官を出さなかったのは、まだよしとするか。
「謹んで、新年の万歳をお祈り申し上げます…。」
やはり同じような口上を述べ、目の前に平伏する三人を麒麟は少しだけ哀れに思った。おそらく、いやどう考えても延王が勅命をだして、嫌がるこの三人をここまで使わしたのだろう。
「ありがとう。顔を上げてください。」
陽子に声をかけられて、は、とかしこまって三人が頭を上げる。
その顔はまだ下を向いたまま、帷湍が口を開く。
「景女王に、わが君よりのささやかな贈り物をお持ちいたしました。」
そのまま、小ぶりな箱を前に押し出した。
浩瀚が進み出て、その箱を開けた。
堂間を埋める一堂から、おお、と感嘆の声が上がる。
姿を現したのは、見事な緋牡丹。しかし、本物の花ではない。
永遠に、その花弁を散らすことのない花。
ゆるりと波打つ緋い花びらは紅珊瑚。
青々とした艶やかな葉は最高級の玉。
その緋色の花弁は陽子の髪を思わせ、
その深い緑は陽子の双眸を思わせた。
繊細で、あまりに鮮烈なそれは、箱をあけたその一瞬で、堂間を埋める一同を支配したのだった。
玉座の王も、思わず言葉を失う。
朱衡がす、と懐から何かを差し出した。
「わが君、延王尚隆よりの親書をお持ちいたしました。」
再び浩瀚が進み出てそれを受け取ると、また三人は平伏した。
浩瀚は美しいすかし模様が入ったそれを開いた。上等の紙の上には、よく言えば大らかな、悪く言えばミミズがのたくったような延王の字が躍る。
落尽残紅始吐芳
佳名喚作百花王
競誇天下無双艶
独占人間第一香
浩瀚の顔が僅かに歪む。
が、すぐにそれを元に戻すと、涼やかな声でそれを読み上げた。――いや、正確には、詠んだ。
残紅落ち尽くして始めて芳(はな)を吐く
佳名(かめい)喚(よ)びて百花の王と作(な)す
競い誇る 天下無双の艶(えん)
独り占(し)む 人間(じんかん)第一の香り
ざわざわと、潮騒のようなどよめきがおこった。
一人、玉座の陽子は、柔らかく微笑む。
この外殿に来る前に、麒麟と冢宰から今日だけは何があっても笑っていなさいと口うるさく言われていたのだ。そう、たとえ詩の意味が分からなくても、笑っていなくてはいけない…
そうしていれば、麒麟と冢宰が果たすべき役目を果たすのだ。
ほう、といかにも感動した、という溜息をついて、まずは浩瀚が口を開いた。
「延王もお上手であられますな。わが君を百花の王とたとえられるか。」
涼やかに笑みを作る冢宰に、景麒も頷く。
「新年とはいえ、まさか延王から天下無双の王であるとのお言葉をいただくとは。」
「わが君がこの世に於いて唯一最上の王とまで...もったいないお言葉を賜りました。」
二人にさりげなく解釈してもらって、陽子は今度は安堵の笑みを浮かべた。
このような文の内容にも動じる気配のない女王に、堂間を埋める諸侯はただ顔を見合わせることしかできなかった。
陽光を受けて微笑む緋色の女王と、きらりと輝く永遠の華。
誰にとってもそれは、あまりにも眩しい光景だった。
その、咲きそろう二輪の華の一方が、艶やかに微笑む。
「...本当に、綺麗。ねえ景麒、内殿に飾ろうと思うんだが、どうかな。これを卓子の上に置いて、頂いた詩に恥じぬ王になるように、との戒めとしようと思うんだ。」
麒麟が頷く。
「そのようにいたしましょう。」
「延王には、後で私が親書をしたためよう。あなたたちからも、私がお礼を申し上げていたと伝えてください。天官長、雁の方々に堂室を用意して差し上げて。」
は、と天官長が一礼をして、雁の使節と共に御前を辞す。
景麒は去ってゆく三人の背中を黙って見送っていた。だが、景麒が思うは彼らの主の事。
よくもまあ、このような手を考える。かの王であればこそ、できたことか。
これで、雁が主上に一目置いていることを、国中のものに強烈に知らしめた。大国雁の、六官のうち二官の長を出し、あのような詩までつけて一堂の前で披露させた。他ならぬ五百年の治世をしく王が、四年しか玉座に座っていない女王を天下無双の王であると讃える詩を詠んだのだ。あの延王がここまで褒めれば、反抗する候も減ることだろう。…そう、切に願う。
――もっとも、
と景麒は自身を諫めるように小さく呟く。
あの詩が、王としての主上に贈られたものであればよいが。
解釈の仕方によっては、あれは単に女の艶(あで)やかさを褒める男の詩。かの王の真意は、果たしてどちらにあったのか。
それでも詩を解(かい)せぬ主上が相手では、意味のないことだ。
麒麟は再び視線を己が主へと向けた。
この詩は、主上によくお似合いになる。
経験浅き、胎果の女王。
今はまだ、小さな蕾かもしれない。いや、蕾すらまだつけていないのかもしれない。
それでも、この方はきっと、大輪の華としてこの慶に君臨されるのだ。
そのときは慶中の街が赤く染まることだろう。
慶びの、赤に。
主上…貴女の色に染まるのですよ。
いつか慶は、主上によって、本当の慶びの国となるのだ。
それまで、自分はこの華を護るために生きよう。
この身の、すべてを捧げて。
きっと、この華を咲かせて見せる。
ふと、主を挟んで反対側に立つ冢宰と目があう。
その、いつもと変わらぬ涼やかな瞳の奥に、僅かに浮かぶ笑みを景麒は敏感に感じ取った。おそらく同じことを考えていたのだろう。
別の意味での不安を残しながらも、浩瀚の、そして景麒の端整な唇は同時に微笑む。
その後二人は何事もなかったかのように、再び式典を執り行う。
その後も慶賀に訪れる客は絶えず、夜の帳が下りてもそれは延々と続いた。
この日、陽子が玉座から開放されたのは、それからずっとずっとあとのこと。
赤楽五年、元旦――
今年も、みなさまにとってよい年でありますように。
[不羈の民]
「だって、王様は斃れてはいけないんだって、おばあちゃんが言っていたわ」
思わず酷いことを言ってしまったのは、目の前の男が私の目の色と髪の色ばかり見て、私自身を見ようとしないから。
生まれてからずっと、私はこの赤い髪と緑の目のせいで、とっくの昔に死んでしまった王様と比べられ続けている。そんな視線にはとっくに慣れたと思っていたけれど、でもこの不思議な旅人が私の後ろの誰かを見つめていることは、私を酷く苛立たせた。
「そうだね……」
軒下から降りしきる雨を見ながら、男は少し悲しそうに言った。
「そんなにいい王様だったなら、どうして斃れたりしたのよ。そのせいで妖魔が沢山出て、おばあちゃんは巧まで逃げなきゃならなかったんだって」
男は遠い目で静かに言う。
「人は……、永遠には生きられないものなんだよ。特に王はね。……でもね、きみはおばあちゃんに、巧の義倉の話しを聞いたことはないかい」
「巧の義倉……。あ、知ってる。食べ物をくれて、他にもいろいろ相談に乗ってくれたって」
「王が斃れた後のために、よその国に義倉を作ろうって言い出したのは、赤子だったんだよ」
「……」
「赤子はただ長い王朝を築いたから偉いんじゃないんだ。自分が死んだ後のことを考えて、よその国も動かしてそれに備えた。だから偉いんだ」
「ふうん……」
「それに、もっと大切なことがある。きみは伏礼って知ってる?」
「ふくれい?」
「そう。こうやってする挨拶」
言うと男は地べたに這いつくばり、額を地面に擦り付けた。
「変なの。それで挨拶なんだ」
「うん。赤子が即位するまでは、どこの国でも身分の高い人に対する挨拶はこうだった」
「へえぇ、汚れそう。」
ここはまだ軒下だからいいが、すぐ目の前にはもう水溜まりができている。あんなところでこんな挨拶をすることになったらどうするのだろう。
「そうさ。それにこの挨拶は気持ちまで卑屈になる。だからね、赤子はこの礼を止めさせたんだ。今ではこんな礼をする人は常世にはいない」
「知らなかった。……偉かったのね、赤子って」
認めるのは少し悔しいが、仕方ない。男の口調は穏やかで、本当に赤子を敬愛していることが伝わって来る。何者だろう、この男。まるで赤子に会ったことのあるような口ぶり。仙なのだろうか。
男は優しく微笑む。
「赤子はね、人は皆、自分自身の王であるようにって言ったんだよ」
「自分自身の?」
「そう。きみもね、赤子と自分を引き比べる必要なんかないんだ。きみはきみらしく生きればいい」
「……うん」
男の話しは不思議と心に染みとおった。そう、私は私の王だ。私の思うとおりに生きればいい。
「雨が止んだね。じゃあ、気を付けて」
歩み去る男を見送り、私は別の方向へ頭を上げて歩き出した。
[普天延景]
天延景〜並べて世は事もなし〜
――退屈そうですね。
と澄んだ声が聞こえた。振り向くと、真紅の髪を風になびかせ天を仰ぐ慶東国国主の姿があった。蓬莱育ちの、胎果の王。延王である尚隆と、同じく。
「おお、退屈だぞ」
尚隆は太い声で応えて、己の座る縁台の端を指で示した。小さく笑んで、景王陽子は腰をおろす。
「相変わらず、雁はのどかで豊かで平和だからな。……うらやましかろう?」
言ってのぞきこんだ陽子の顔には、苦笑が浮かんでいる。
「うらやましいですね」
「うちは官吏が優秀だからな。……もっとも、国なんてものは基となる仕組みさえちゃんと出来上がってしまえば、長につくものが多少ぼんくらでもなんとかやっていけるものだが」
ちなみにそのぼんくらの筆頭がこの俺だ、と己を指差して見せる。陽子は、笑顔のまま首を傾げた。
「あなたがそんな風におおらかだから国がもっている、と見えますが」
「違うな。ここまで順風満帆だと、俺くらいぼんくらでないと王が勤まらんのだ」
思わずもらした本音に、陽子の笑顔が深くなる。
「――本当に、随分と退屈しておられる」
「わかるか」
苦笑とともに思い出す。この歳若い慶国国主には、その登極当時にも同じようにうっかり本音を漏らしてしまったことがあった。
――あまりにも何事もない平和が続けば、自分は国を滅ぼしてしまいたくなるだろう、と。
成り行きから、尚隆はこの若年の王が偽王を征伐し即位に至るまでを、ほとんど付きっ切りに近い状態で助力した。それとて最初は、単なる退屈しのぎであったのだ。
女であることを、あるいは胎果であることを盾に、雁国王師の陰に隠れて己の身の安全を第一に考える……強国の助力を得た途端にそんなまねをするような王であったなら、いかに酔狂な尚隆とても、適当なところで手を引いていただろう。
だが、この王は違った。己の手を血で汚す事も厭わず、自ら矢面に立つことすら躊躇わず、常に全軍の先頭に立って剣を振るった。それ故、尚隆も共に闘う気になったのだ。
親が子を思う気持とは、このようなものかも知れん――陽子の事を思うたび、尚隆はそんなことを考えてもみる。ただし、当の陽子は、二人のそんな微妙な距離を、不意に縮めてしまうような聡明さを見せる事がある。今のように……即位登極の、あの日のように。
亡国を願うような戯れ言に、即位したての若い王はさぞかし呆れ、面食らっただろう。そう思いながら振り返った尚隆に、陽子はただじっとその澄んだ翠の眼差しを注ぎ――それから、ひどく透明で淡い笑顔を見せたのだった。
「――まだ、国を滅ぼしたいとまでは思いませんか?」
己の物思いを見透かしたような陽子の声に、尚隆は苦笑を深くした。
「そうだな……。まあ、ただ一口に国を滅ぼすといっても、いろんなやりかたがあるのでな。国中の女に手を出す、税を重くして王宮に金銀財宝を積み上げる、退屈しのぎにありとあらゆる刑罰を考案して人民の命を奪う――。だが、どれもありきたりで、俺の趣味ではないな」
それに女ならば、この5百年余りの内に飽きるほど抱いてきたし、とは胸の中でのみつぶやく。
なんだ、存外手がないものだな、と指折り数えたとき、陽子がふい、と立ち上がった。
「もう一つ、ありませんか」
紅の髪が、風に広がる。陽光が透け、まるで鮮血のように輝くさまを、尚隆は目を細めて見上げる。
「――他国の実権を、掌握する」
かすかな笑いを含んだその言に、尚隆は、ほう、と笑んだ。
「そいつは面白そうだが、派手な事をすればたちまちのうちに失道だな。色々と根回しも必要な割には、あまり長くは楽しめそうもない」
「楽しみたいのですか」
「そりゃ、折角ならばな。何せ、この一命と国とを賭けるのだぞ。手間は少なく、得るものは多くというのが一番ではないか」
瞑目しながらもっともらしく言ってみせると、陽子はくす、と笑った。
「……そう。そういう方法なら、無いでもないと思いますが」
「ほう……?」
その、いつになく悪戯めかしたその声に興をそそられ、たとえばどんな、と言いかけた尚隆は、はっ、として眼を見開いた。
その視線の先、息が掛かるくらい間近なところに、慶東国国主の、いっそ晴れやかなまでに透明で、静かな笑顔があった。
「――たとえば、その国の王を、あなたのものにしてしまう、とか」
――奇妙に穏やかな沈黙が、二人の間に漂った。
「……それは、なかなか良い考えだな……」
うなずいて、尚隆も静かな笑みを返す。
しばし見詰め合った後。
陽子は、笑顔のまま一歩引いて、天を仰いだ。
吹きすぎていく風が樹木の枝葉を鳴らし、天空に舞う鳥の声が、あたりにのどかに響き渡る――。
「――が、俺にはちと難しいな」
そうですか、と聞き返す陽子の眼差しはあくまでも静かで、尚隆はわずかに苦笑する。
「俺はわがままでな……。たとえそれが一時の逢瀬であったとしても、俺の腕に抱くからには、その時その瞬間だけは、相手にとってただ一人の者と思われたい。そう考えてしまうのでな」
立てた膝に片腕を預け、空いた片手で、風に舞う真紅の髪を一房引き寄せる。
「そこのところが、難しい。たとえば、陽子、お前ならば、たとえ俺の腕に抱かれたとても、己の心をそう簡単には手放しはしまい。……心を他所に置いたままの相手を本気で己のものに出来るほど、俺はお人好しでも人でなしでもないぞ」
「本気で、ですか」
くすり、と笑って、陽子は髪をもてあそぶ尚隆の手を取った。
「ずるいですね。相手には無条件であなたの本気を信じろという訳ですか」
「だから言ったろう? 俺は、わがままなんだ……」
尚隆は、陽子の髪を開放した。同時に、陽子の手も離れてゆく。己の手の甲に残るそのぬくもりに、尚隆は軽く唇を寄せながら、薄く笑った。
「そのわがままが挫けるぐらいに退屈が極まれば、考えるかもしれんがな」
「そうですね」
陽子は、頬に落ちかかる髪を軽く払いながら、再び天を仰ぐ。
「……ではわたしも、それまでは自分の本気を見失わないよう、精進するとします」
言って、振り返る。その澄み切った瞳に、尚隆は、静かで力強い笑みを送った。
普天延景――。今のところは、雁も慶も、平和で穏やかな時代の中にある。
―― 了 ――
[福音]
翻るのは、真紅の旗。
大きな街市から、小さな邑へ。大通りから路地裏へ。
その喜びを伝えながら、歓声が拡がっていく。
大人たちの顔からほころぶ喜びの表情を縫いながら、子供たちは旗を振る。
燃えるような真紅の、旗を。
「王が立ったぞ!」
「新王の践祚だ!」
その報せは、人々の口から口へと伝わって、堪えきれない歓喜の調べを奏でていく。
人々は肩を抱きあい、時には涙を流して、自分たちに与えられた僥倖を寿ぎ合った。
いま、十二国で最も幸福な瞬間を迎えているのは自分たちなのだという、疑いのない誇りを胸に彼らは、その最も確実な根拠を確かめ合うように口にする。
「女王だ!」
「新王は女王だ!」
「景女王万歳!」
旅人は、浮足立った街を舎館の軒先から眺めながら、小さく苦笑した。
「想像以上だな。慶の民の、女王信仰は。」
自分が部外漢であることを少し口惜しく思いながら、それでもいま幸せの絶頂にある慶の民のために喜んだ。
そんな彼の杯は、いつの間にか酒が並々と注がれていた。
「旅の方、是非とも飲んでくれ。俺たちに女王が立ったんだ。慶国は、あと500年は安泰だぞ!」
既に出来上がった舎館の主人が抱き付かんばかりに旅人の手を握る。
「赤王朝の繁栄が還って来るんだ。いや、俺たちの手で繁栄を復活させるんだ。出来るさ。何しろ、女王が立ったんだからな。」
「景女王万歳!」
子供たちが紅い旗を振りながら、市井を駆け抜けていく。その、希望に満ちた輝き。
「すごいな。」
旅人は感心するしかない。
女王が立った、ただそれだけのことが、これほどの希望を慶の民に与えるのか。
かつて、赤王朝の名で慶に長い繁栄をもたらした伝説の女王は、これほどの時を経ても尚、民に希望をもたらし続けているのか。
「旗を上げるぞ!」
舎館の主人が、通りに面した軒先に真紅の旗を掲げた。
慶の民はいつの頃からか、火が燃え立つような緋色の旗を必ず一家に一枚は持っているという。
彼らは人生最良の日に、それを高々と掲げるのだという。
慶国にとって最も美しく、最も高貴で、最も縁起が良いとされるその色を、誇り高く掲げるのだという。
紅い寿ぎ。
歓喜の声は街じゅうを隅々まで埋め尽くすと、それを隣の街へと溢れさせていく。
その、堰を切った濁流。
黄海側から旅をして来た旅人は、次の街の城門をくぐった瞬間に息を飲んだ。そして再び苦笑する。
「ついに、追い越されたか。」
寿ぐ声の、その疾風のごとき流れ。
・・・・旅人が見たのは、屋根をも軒先をも覆い尽くした真紅の旗の群、群、群。
「女王万歳!」
叫んだ旅人に、怒濤のような歓喜の声が覆いかぶさった。
[歩み]
冷たく強い、風が吹いた。
冬小麦の葉が、音をたてて揺れる。
前から吹きつけてくる霙混じりの冷たい風に、大切な女王に風邪を引かせてはと周りの者がおたおたするなか、女王は背筋を伸ばして颯爽と歩く。
畑の側まで行くとくるりと振り向き、
「今年の出来は、どんな感じなのだろうか」
寒さなど全く感じさせない穏やかな声音で、里の長老に語りかけた。長老が慌ててすっとんで行き、汗をかきながら説明する。
「は、はい・・・今年は天候がちょうど良い具合でしたので、質もよく、収穫量も十分だと皆が言っております」
「そう。よかった」
孫娘のような年頃の女王の暖かな笑顔に、長老も顔を綻ばせた。まるで、女王の周りの陽だまりに、彼もまた包まれているかのように。
「春先には、綺麗な金色の絨毯が見られるでしょう」
「そう?じゃあ、その頃また来なくっちゃ」
女王が快活に答える。
「土が大分落ち着いてきましたので、米麦ばかりでなく、野菜類も栽培できるだろうということで、来年から数種類野菜を植えてみようかと、話しております」
「それは来年が楽しみだね。このあたりだと何を植えるの?」
儀礼とは明らかに違う熱心な少女の様子に、長老も丁寧に答えを返す。
「このあたりですと、栽培期間の短いものか寒さに強いもので、かつ土があまり肥沃でなくとも育つものになりますして、今のところ、南瓜に大根、とうもろこしや・・・」
「大根やとうもろこしなら、いざって時は主食の代わりにもなるね」
冷たい風のなかで、浩瀚や小臣たちに見守られて、女王と長老は来年やもっと先に植える作物の話、穏やかだった今年の天候の話、土や水の話を、楽しげに語り合っていた。
里家に落ち着いて温められた部屋に入った途端、浩瀚は女王が座る榻の脇に火鉢を動かし、自分の外套を脱いで女王を厳重にくるみこんだ。
「こんなことして、浩瀚は寒くないのか?」
「私は大丈夫です」
温かい羹を手渡すときに氷のように冷え切った細い指に触れ、浩瀚は形の良い眉を心配げに顰めた。「ああ、やはり随分冷えておられます。暖かくなさらないと・・・」
「ありがと」
にこっと浩瀚に笑いかけた笑顔に、先程の寒風を苦にしない快活な笑顔が思い起こされる。手を温めながらゆっくりと椀を啜る少女に、
「主上は寒さにお強くていらっしゃいますが、北国でお育ちだったのですか?」
そう訊ねると、
「え?うちは蓬莱のなかじゃ平均的な地方だったと思うよ。寒さに強いっていうか――ほら、私は慶の鑑だから」
思いがけない答えが返ってきた。
「慶の鑑、ですか?」
「蓬莱では、『子は親の鑑』といったんだ。私の子どもは慶だろう?」
そう。
荒れた大地に生まれた我が子を健やかに育てるために、女王がどれほどの努力を払っているか。我が子をどれほど慈しんでいるか。――常に傍にいる自分は、よく知っている。それが例え僅かなことでも、我が子の成長をまるで自分のことのように喜ぶことも。
「だから、私が縮こまると国まで縮こまってしまうんじゃないかと思って。だから、いつも背筋を伸ばすようにしてるんだ。風なんかに負けないぞって」
どこまでも前向きで己を律することを忘れない、この少女らしい言葉だと思った。
「背を丸めて歩くと、気分まで凍える気がしない?背筋を伸ばしてしっかり歩くとさ、寒さも平気になる気がするんだ。その方が、見た目も気持ちいいしね」
浩瀚は、先程の光景を思い返した。
女王の歩みは力強く、彼女につられて周りの者も自然と背筋を伸ばして歩いていた。
太陽を中心に北風の中颯爽と歩くその姿は、里の者たちにも力強いものと映ったに違いない。
「まだまだ厳しい時が続くけど、前を向いて背筋伸ばして、しっかり歩き続けなきゃね」
「そうですね。それに慶に吹く風は寒風ばかりではございません」
慶には、内からも外からも、暖かな風が吹いている。
活気を取り戻してきた民たちの顔。そして、延、奏、範――伸びやかな若木の成長を楽しみにしているかのような、他国の王達。こういう人だから、皆がこの方を助けたいと思うのだろう。
「そう遠くない将来、意識しなくとも伸びやかに歩ける季節になるでしょう」
慶は少しずつ、だが確実に、未来へと進んでいる。
「失礼致します」
緊張しきったか細い声がかけられ、里家の娘が羹の椀を運んできた。
「どうもありがとう」
震える手から椀を受け取り、女王が暖かく微笑みかける。そして、椀を浩瀚に差し出した。
「はい、浩瀚の分。美味しいよ」
羹より遥かに心を温めてくれる、無邪気な笑顔。
「私に、でございますか」
「うん。浩瀚は私と二人三脚で歩いていくんだから。まだまだ改革しないといけないこともいっぱいあるし、しっかり歩けるよう、力つけといてもらわないとね!」
「では、ありがたく」
一礼して椀を受け取りながら、
寒風も柵もあっさり吹き飛ばす、女王の笑顔を微笑んで見つめた。
太陽に導かれて進んでいく幼い国は、
光溢れる楽園へと育つに違いない。
誰も見たことのない、新しい楽園へ。
[幕間]
慶国から帰国した彼を出迎えた三人は、怖いくらいの笑顔だった。
「お帰りなさいませ」
朱衡、帷湍、成笙。雁国六官長の二人に禁軍左将軍がそろって笑っている。
にこやかさに爽やかさまで加えての挨拶に、延王尚隆は一瞬硬直した。
「お……おう」
いやな予感というものは当たるもの。彼より先に帰っているはずの子供の姿を横目で探すも、この国にただひとつしかない金髪の頭は見つからなかった。
――くそ、六太のやつ。またよけいなことを……!
「主上」
「尚隆さま」
にこにこにこ……。
「ななな、何だ」
思わず身構えてしまうのは、今までの経験がそうさせるのだろう。背筋を走る悪寒は、確実に悪い予感というものを知らせていた。
「台輔にお聞きいたしましたが」
「なにを」
「主上がわが国のためにそれほどまでに御身をつくしていらっしゃるとは存じませんでした。我々、慧眼のなさを恥ずばかりでございます。その寛大な御心にて、いたらぬ我らを許していただきたく存じます」
「……」
頭でも打ったか、と尚隆は思う。
「なんのことだ」
三人は答えない。
「戴国のために動くことを聞いたのか? そんな嫌味を言わずとも、戴を救うは雁を救うも同様のことだろうが」
「泰台輔をお探しになることに関して否応はずがございません」
「では何をそんなに怒っている」
「怒ってなどおりません」
「帷湍のこめかみに浮かぶのが青筋以外のなんだというんだ。朱衡と違って、笑顔がこわばってるぞ」
「……帷湍」
朱衡に見られて、帷湍は咳払いをする。朱衡が溜め息をついた。もっと嫌味で応酬してやろうかと思っていたが、そうもいかないらしい。
「粉骨砕身して働いている、とか?」
「あ? なんのことだ」
「景王の御前にて主上がそのように申されたと」
「六太が言ったのか?」
尚隆は眉を寄せた。――記憶にない。
「陽子の前で?」
――ああ。
尚隆は昨日の出来事を思い出して大きくうなずいた。ご機嫌に笑う。
「言った。言ったな。そうだ、言った」
ドン! と卓を叩いたのは帷湍だ。弾けたように叫ぶ。
「お前がいつ粉骨砕身努力しているというんだ!」
尚隆は冷静に帷湍を見、鼻を鳴らす。
「何を言う。しているだろうが」
三人が反撃しようとした瞬間。
尚隆の口から飛び出した言葉に、三人は言葉を失う。
「慶のために」
唖然、という言葉はこのためにあるのかもしれない。
三人の様子には気づかずに、尚隆は腕を組み、目を瞑る。
「今回とて、陽子の頼みがあったからどうしても動くのだぞ。他の者がなんと言おうが動くつもりはないが。まあ、胎果の誼というやつだ」
朱衡も帷湍も、思わず唸る。その言葉に反論できる者はここにはいなかった。
「……そうだな、しているな」
と、帷湍。
「していますね」
と朱衡。
成笙は相変わらず無言だったが、納得してうなずいてしまっている。
「働いているな」
尚隆はすることがある、と冢宰白沢の元へと向かい、残された三人は苦笑とも取れる笑いを漏らす。
溜め息に呆れた様子は残るものの、先ほどのような怒りは見えない。
「あそこまで堂々と言われると言葉を失うな」
「思わず納得してしまいましたね」
「あれはただのアホだ」
成笙の言葉に、二人はうんうん、と頷く。
粉骨砕身努力している。
慶国のために――。
普通なら反対に怒鳴るところだが、尚隆の言には真実味があった。――ありすぎた。
尚隆の行動が結果的に雁の国益にも関係しているから、慶にかまうな、とも言えない。慶国の――景王陽子のために動く尚隆が、事実、今までに見せたことのないほどの誠意と意力を漲らせているのは事実だ。
問題は、その努力が自国ではなく、隣国に向かっているということなのだが。
不思議と、尚隆は景王に対して勤勉さをみせ、それは玄英宮としても歓迎すべき出来事で……。
今回の戴国のことに関しても、景王が動かなければ、雁国としては不干渉を貫いただろう。それは隣国を見捨てるというよりも、それが今までの常であったから。
雁国においての一番の問題は、隣国からの難民。
分かっていても、それ以上のことはしようとしなかった。
景王の存在が尚隆を変えているのか。
それが後に、吉と出るか凶と出るかは分からない。
ただ今は――。
「あれー? 尚隆はー?」
延麒六太がひょっこりと現れて左右を見回した。
「主上でしたら冢宰の元へと行かれましたが」
「…………なんか、穏やかじゃん?」
「なにがです?」
「あ……、いや、その、もっとネチネチと言ってるものかと思ってさ……。空気もドロドロしてないじゃん。あいつ、なんか言ってた?」
ええ、と朱衡は笑う。
「粉骨砕身努力していると」
「――げ。尚隆のやつ、図々しくもそんなこと言ったのか!? お前たちの前で?」
勇気あるなぁ、と感心してしまう六太は、次の言葉に目を丸くした。
「慶国のために粉骨砕身努力しているそうです」
「……」
「……」
「…………」
「台輔。顔がゆがんでいらっしゃいますよ」
六太は卓の上に身を乗り出した。その瞳は輝いている。
「マジ? マジで?」
「マジでマジです」
「――ぷ!」
ぶはははは!
腹をおさえて豪快に笑う六太を見、朱衡も怖いくらい朗らかに笑った。
「馬鹿ですよねえ」
「ああ、馬鹿馬鹿」
「ご自分で陽子さまの下僕と宣言なさったようなものですよ」
「下僕ー!」
げらげらと六太は笑う。
「おれと一緒じゃん」
「たぶんご自身では気づいていらっしゃらないでしょうね。胎果の誼とか誇らしげにおっしゃっておりましたから」
「よく言うよ。ちびだって胎果だぞ。それなのにぜんぜん動かなかったくせにさ」
「教えて差し上げたらどうです、台輔」
「やだよ、そんなん」
帷湍が溜め息をついた。
「惚れた弱味というやつだな。やりとりの詳しい状況は分からんが、だいたい想像はつく。今ごろは景王に借りを作るもの悪くない、とか考えているぞ、あいつは。ことが片付いたら、どんなことを言い出すやら。下僕は下僕らしく、見返りを求めず無償で働けばよかろうに」
ポツリ、と成笙がつぶやく。
「ということは、俺たちは、下僕の下僕か?」
帷湍の動きが止まり、朱衡が微苦笑をもらす。
「そういうことになりますね」
六太だけが爆笑した。
笑いは止まらない。
冢宰府へ向かった六太は自分の主を見つけ、その背を叩いて「同士同士」と笑って去っていった。
「なにをしに来たんだ? あいつは。目に涙をためてたぞ」
怪訝な顔をして、六太の背を見送っていた尚隆が振り返る。
「同士? なんのことだ?」
白沢に聞くが、彼にもそんなことが分かるはずもない。
「さあ……なんのことでございましょう」
その八日後、雁国主従は再び慶国へと向けて玄英宮を発った。
見送りに出た朱衡らが「お早いお帰りを」と言いながら笑いを堪えているように見えるのは気のせいか。
「頭でも打ったのか、あいつらは」
「悪い菌でも入ったんじゃねーの?」
くすくすと六太は笑う。
景王陽子の下僕になりつつある無自覚な尚隆を六太は笑えない、と思う。六太自身、陽子のためにならできる限りのことをしたいと思うから。
「陽子、びっくりするだろうな。五国も動くんだから」
自分と景麒を入れて七国。
――待ってよろよ、ちび。
陽子という存在がいなければ――陽子でなければ尚隆を動かせなかった。
それは間違いのない事実。
そして、尚隆が動かなければ他の五国も動かせなかっただろう。
絶対に見つける。
六太はとらの首元を叩いた。
「とら、急いでくれ。ちびに……泰麒を見つけに行くんだ。会ったことがあるだろう? あのちびだ」
くおん、ととらが鳴く。速度が少し増したのは気のせいではないだろう。
少し遅れて、たまに乗った尚隆がそれに気づいて笑みを浮かべる。
暑い夏になりそうだ、と二人は思った。
願わくは。
陽子の望みが――泰麒の無事を祈る者、すべての望みがかなえられるよう。
二つの騎獣は雁と慶の国境である凌雲山を越えた。
慶国までは、もう、すぐ。
[木漏れ日の午後]
木洩れ日の午后
さわさわ、と耳に触る音はひそやかに。
目を閉じて静かに息を吸い込むと、少し懐かしいような草の匂いに満ちて。
彼女は微笑んだ。
のどかな初夏の午後、浩瀚は冢宰府から内殿に戻る途中、ふと思い立って、脇にある小径へと入った。
何故そうしたかと問われても、確たる理由などない。
敢えて言うなら、遠くに聞こえる小川のせせらぎがひどく気持ちよさそうだと思ったからだ。
歩を進めるごとに緑が濃くなってゆく。
常緑樹は大きく枝を伸ばして眩しいような緑を彩り、ゆるやかな風に揺れて優しい音を発していた。
片手に各州の資料を束ねて、彼は水音の元へと歩む。
時々見上げると、木立の間から陽光が差していてその美しさに目を細める。
『神様が降りてくるんだって』
ぽつりと呟いた少女の声が忘れられない。
今の金波宮の主であるところの景王は、こちらの世界では伝説の国だと言われるところで生まれ育った。そして、こちらに帰還してからの年月は、彼女が蓬莱人として生きてきたそれよりも、ずっと短い。
登極して数年、彼女は常に王としての政務に没頭してきた。そうでなかった時などない。いっそ頑ななほど、蓬莱を振り返らなかった。常に勤勉であり、前だけをみつめ、一切の妥協も赦さない。
その彼女が唯一蓬莱を語ったのがそれだった。
『蓬莱のある国では、木々の間から洩れる陽光を、神が降りてくる光だっていうんだって』
執務室から窓の外を見ながら言った彼女の瞳は、何の感情も映していないように見えた。
しかし、浩瀚が彼女のなかに感じる違和感……それは概して不快な種類のものではなく、寧ろ心地よいような純粋さの根元にある何かを感じる瞬間であったのかもしれない。
日毎に感じる、思い。
彼女が纏った澄んだ空気。
唯一無二の、存在。
初めて知った己の感情。
触れるほどに溢れてくるような思いを、感じたことなどなかったのに。
ほどなく小川の畔にたどり着き、浩瀚は岩場に腰を下ろして持っていた書面を開く。
全てに目を通して再び閉じ、座ったままの体勢で腕を伸ばして川面に手を浸してみた。思ったとおりにひんやりしていて、さらさらと流れる水は酷く気持ちよかった。僅かに浅く深淵さえ認められないこの人工の水辺にさえ溢れる自然の営み。
浩瀚の目の前で、二羽の水鳥が戯れるようにして水面を弾き、やがて飛び立つその光景を眺めていると、その先に何かが見えて、彼は立ち上がる。
……まさか、こんなところに。
近づく程に鮮やかに見える緋色。
浩瀚は、その緋色を持つ者を、彼女の他には知らない。
知らず急いていく自分に、自嘲することさえ叶わない。
「……主上?」
彼女は小川に程近いその場処で、四肢を投げ出して眠っていた。
周りは高い木々に囲まれて、足下は草が生い茂り、ところどころに小花が咲いている。
注意深く足音を消して近寄ると、なるほど午睡には丁度よい場処だと、浩瀚は苦笑した。
いくぶん強くなった日差しは木々に遮られ、静やかな水音は耳に心地よく、腰を下ろして彼女を覗き込むと、気持ちよさそうに口許を微笑ませていた。
こうして眠る彼女の穏やかな表情に、浩瀚は安堵する自分を認めた。
日々前だけをみつめる彼女の、何事も見落とさないように開かれた強い瞳が、こんな午後のほんのひとときであれ、穏やかなものに包まれているのに、救われるような思いを抱く。
触れれば壊れてしまいそうなこのか細い肩に、どれだけのものを背負っているのか。
手を伸ばして、彼女の頬に触れようとして。
意志の力でそれを止めた。
………そんなことですら。
強い意志が必要な己が、可笑しくもある。
ふわり。
そんな微かな風が吹いて、彼女の長い髪が揺れて、彼女の頬を擽った。
少し顔を顰めて、彼女がその指を伸ばして。
そのまま、浩瀚の手に触れた。
……どうしてこの方は。
私の心を揺らすのか。
浩瀚の手の温もりを求めるように放さない彼女に、自分がその安らかな休息ですら奪いそうになるのを、止めることすら難しい。
今は穏やかに閉じられた彼女の双眸に、自分だけを映そうという利己的な欲求が芽生えるのを、どうして止めることができようか。
「主上……」
顔を寄せて、耳元に囁いた。
ふわりと薫る彼女の花のような香りの欠片に、僅かに残った自制心が揺れる。
残されたもう一方の手で、ゆっくり彼女の頬を包む。
「……愛しています」
きっと貴方の想像すら及ばないほどに。
「……んん……」
薄く開いた瞳が、一瞬の後に驚いたように見開かれても。
もう、遅すぎるから。
「……浩瀚?」
忍ぶような声は、耳を擽るだけ。
「……あ、あの……」
戸惑いに揺れる瞳を間近に捉えて。
そのまま、彼女の唇に触れた。
「……浩瀚」
そっと唇を離すと、困り切ったような声音と眼差しが浩瀚を見て。
浩瀚は、微笑んだ。
「……主上があまり気持ちよさそうに眠っておられたので、つい」
「……つい?!」
浩瀚に腕を引かれて起きあがりながら、陽子は真っ赤になって睨んでくる。
「……いつから居たんだ?」
「少し前です」
「何故起こしてくれないんだ」
「ですから、とても気持ちよさそうでしたので」
「……そんなの!」
関係ないのに、と小さく言って陽子は目を逸らした。
暫く黙って何かを考えるようにじっと浩瀚の手許に視線を落とす。
「さっき……」
陽子が、顔を上げて浩瀚を見上げる。
ほんのりと赤く染まった唇が、言葉を紡ごうと少し動く。
翠の双眸が、何かを問うかのように、じっとみつめて。
ふい、と逸らされた。
「なんでしょうか?」
陽子のほのかに赤い頬を見ながら、浩瀚は問う。
「いや、何でもない」
小さく呟いた彼女の顔に。
いつの間にか傾いた西日が木々の間から差して。
彼女は眩しそうに目を細めた。
「そういえば」
暫くの後、彼女は口を開く。
「あちらの方に、野苺が生っていたんだ。結構甘くて。それを食べながら寝ころんで空を眺めていたら、すっかり眠ってしまった」
浩瀚は、照れくさそうにはにかんでいる陽子を振り返る。
「でも、金波宮にはこんな場所もあるんだな。今までは寄り道なんてしてる余裕なんてなかったから知らなかった」
「私も存じておりませんでした」
「うん……」
だが。
知らないことなど後で知ればよい。
彼女が政務を離れて安らげる場処が、ここにあるなら。
「あ、浩瀚。野苺食べる? あちらに沢山生っているよ」
曇りのない笑顔を向けてくる彼女に、ふと、微苦笑を返す。
あの、少し甘酸っぱいような芳香ならば。
「先程いただきました」
浩瀚の言葉に、そうなの、と言葉通りに捉えて疑わない彼女の無垢さを、どこか晴れ晴れとした気分で聞く。
「じゃあ、そろそろ戻ろう、浩瀚」
凛とした微笑みをたたえた少女に、浩瀚は拱手する。
あなたに私の全てを捧げよう。
[陽だまりの中で]
「半獣っていいな」
厳しい寒さをのぞかせる慶にあって、久々に見るまろやかな日差しの中に
腰掛けた若き女王は呟いた。
赤楽二年、拓峰の乱より数ヶ月が過ぎた。
混乱を極めたあの内乱を経て、急速に慶は復興を遂げつつあった。
昇紘や呀峰の圧政から解放された人々の表情は明るく、荒れた土地に鍬を
入れる動きにも力が入り、子供達は圧政者の非道を気にせず外で遊べるように
なった。
地上から遥か上空に隔離された金波宮においても、景王・陽子の女王としての
権威は、周囲の者に軽視されぬばかりには認知されたかに見える。
それは陽子が泥にまみれつつも獲得した信頼できる官と、友を得た余裕から
来るものであったかもしれない。
これでようやくまともな政治が行える。
まだまだ問題は山積みだけれど、進み行くための一歩が整ったのだ。
女王自らの手によって切り開かれた誇り高き道。
楽俊は穏やかになった陽子の瞳を真っ直ぐ見つめながら、誇らしくさえ思いつつ。
「・・・そうかなあ」
所在なげにかりかりと耳の後ろをかく癖は、人間の姿になっても変わらない。
陽子は変わった。
出会った頃に比べれば、ずいぶん・・・いや、かなり落ち着いたようだ。
妖魔に命を脅かされ、人に裏切られて信頼できずに荒んだ瞳も今はなく。
「うん。だって人にも獣にもなれるなんて便利じゃないか」
ティーカップを唇に寄せながら微笑う女王は、ほんの少し前まで朝廷すらも
御し得なかった力弱き為政者には到底見えない。
実は。
楽俊は延の大学まで訪ねてくれた祥瓊の話を聞いて、思わず心配で
飛んできてしまったのだった。祥瓊は陽子自らが陣頭に立って戦ったことは
伏せていたのだが・・・まさか、と思い、陽子に直接会って確信した。
女王になってもその行動力と探究心はなんら変わるところはなかった。
無茶もするけど女王らしくなってきた。
「そんなこと言われたのは初めてだなあ」
楽俊は感慨深く思いやる。
「今までずっと差別と偏見の中で生きてきたから、いまさら便利と
思えるもんでもないけどなあ。別に生まれに後悔してるわけじゃないけどさ。」
「功も、この慶も・・・まだまだ差別があるというのは知ってるけど。
でも暑ければ人型になれて、寒ければ獣型で過ごせば、一年が実に
快適に過ごせるんじゃない?と思ったんだけどな」
愛すべきその純粋さ。
延台補六太などに言わせれば『過保護』と一笑に付されてしまうこと
うけあいなんだけれども。
「陽子は簡単だなあ」
「そう?・・・単純だとは思うけど、簡単、かなあ・・・」
「怒ったか?」
そっと唇を尖らせて不満顔の陽子は、けれどももちろん本気で怒っている
わけではなく。苦笑しながら問えば、柔らかなため息が一つこぼれる。
陽子は変わった。
けれど、陽子が陽子のままで良かったと思う。
女王になっても変わらず接してくれる。
友として扱ってくれる。さすがにまだ金波宮では獣型は遠慮して
しまうけれども、主が暖かく歓迎してくれるから、人型でも居心地が良い。
「なあ陽子」
ん?と目を上げる彼女の髪が風に揺れる。換気の為にと開かれた窓から
入ってくる風はまだまだ冷たい。
「おいらが今日来たのは・・・」
「知ってる。心配して様子を見に来てくれたんだろう?・・・違う?」
言いさした楽俊の機先を制して、小首を傾げた陽子がいたずらっぽく笑う。
「違わない」
「楽俊は心配性だな。でも、窮屈な人型を取ってまで会いに来てくれたから、
私は嬉しいんだ、すごく。わかる?」
「・・・わかる、と思う」
「うん。・・・だから楽俊は大切なんだ」
じわり、と楽俊は暖かいものが胸に広がるのを感じる。
「そう言ってくれると、ここまで来て良かったって思うぞ。ちょっと会わない
間に成長したんだな、おいらも嬉しい。」
目を見交わして笑う。
このささやかな時が幸せ。
すぐに楽俊は大学へ、陽子はいつものように政務に戻らなければ
ならないことはわかっていても。
今この瞬間が至玉のものに思えるから。
このまま、二人で。
緩やかな風が二人の間を吹き抜けていく。
「楽俊。大学を卒業したら・・・」
先に沈黙を破ったのは真紅の髪の女王。常に似合わぬ不安定に揺れる
瞳を楽俊に向けて。
「陽子?」
陽子の腕が楽俊の袖を遠慮がちに掴んだ。
「卒業したら、ここに来ないか?」
「・・・!本気で言ってんのか?」
思わず袖にかけられた腕を取れば。
瞬間強い瞳に射抜かれた。・・・どこか、心の深い所を抉られるほどに
真摯で、視線を外すことが出来なくなった。
・・・呼吸が止まる。
美しい二つの碧玉に魅せられた。
まるでここだけ、時間が止まってしまったかのような静寂が落ちる。
「・・・本気だ。私には楽俊が必要だから」
捕まったのはどちらが先か。
「・・・それはすごい口説き文句だなあ・・・おいらに拒否権はあるのかい?」
「あると思う?」
至近で微笑まれたら、楽俊の負け。
くすくすとそれは嬉しそうに女王が笑う。楽俊の腕の中にすっぽりと
収まるその身体は驚くほど華奢で。
「あ〜あ〜・・・延台補にまた『過保護』って言われちまうなあ〜」
「気にするな。半獣差別の法だって変えてやるから」
「・・・陽子はホントにやっちまいそうだから、怖いんだよな〜。
まあ景王様だし?」
捕まったのは楽俊が先か。
それとも・・・。
「やると決めたらやるよ、絶対。楽俊が来てくれる頃には、そうだな、
もっと居心地のいい場所になってる。だから・・・」
「だから?」
ぎゅっと細身の男を確かめるように抱いて。
「・・・今度来てくれるときには獣型がいいな」
「・・・なんでだ?」
「だって鼠な楽俊は、すごく抱き心地がいいんだもの!ふかふかしていて
あったかいし」
「抱くな!」
あわあわと離れようとする楽俊を捕まえて。
晴れやかに陽子が笑う。
それはまるで春の陽だまりのように暖かな。
冬の冷気も、陽子の微笑みにはきっと敵わない。
・・・おいらが勝てるわけない。
ため息の代わりに出てくるのは、心地よい敗北感。
陽子と共に在るのは悪くない。
真夏の香りのする、陽だまりの女王と共に、歩む己の姿を脳裏に描いて。
「全ては陽子の御心のままに・・・」
[黎明]
(1)
蒼穹に跳びゆく小さな影は思いがけない軌跡を描いて昇ってゆく。
互いに追いかけながらその歌声は遠く小さくなってゆき、吹きつける冷たい風に掻き消された。
堯天の隔壁から身を捩るようにして空中を目指している数本の枝は冬枯れ、寄り添うべき一枚の葉もない。
かさり、と足下で鳴った木の葉を拾い上げる。
ところどころ破れ、色づく間もなく枯れ落ちた葉にこの国の現在(いま)を見る。
以前は賑わったであろう露店の跡に佇む小さな影が嘆息する。
飾りのない紐で無造作に束ねられた髪が、風に煽られ背を叩く。
風は白く砂を含んで舞い上がり、その姿を霞ませる。
暗褐色の簡素な袍から覗く細い手が、ギュッと握りしめられる。
「春が近づいている…。急がなくては」
拓峰の乱を凌ぎ朝廷をようやく整えたのはつい先日。混乱を極めた政も新たな冢宰のおかげで落ち着きを取り戻しつつある。
景麒に頼み込んで政務の合間を縫うように、いくつかの州を密かに見て廻った。視察と言えるほどの内容ではない。そこまでこの国のことを識っているわけではない。
しかし、とため息をつく。
州候や郷長の専横の有無を識ることが目的だったが、そこで見たのはあまりにも貧しい民の生活だった。
凍てつく風を防ぐ家はおろか、纏う衣服さえ満足にない。粗末な衣服からは傷つき痩せ細った手足を覗かせ山野の乏しい恵みを求めて彷徨っていた。
とりわけ幼い子供が傷ついた足を引きずって木の根を掘る光景は胸に迫った。
──こんなにもこの国は貧しい。
陽子は蓬莱に育ち、飢えというものを知らなかった。巧国で味わった飢餓でさえ、神仙の躰と宝玉に護られていた。
「何とか、しなくては」
まずは民の命を繋ぐことが先決だ。里家が機能している州はまだいい。だが、黄領でさえも家を追われ、路上で躰を寄せ合う人たちがいるのだ。いま食べるものがないというのに、秋の実りまで持つわけがない。いや、たとえ永らえたとしても春に種を蒔くことなどできはしない。あれほどの彼らが春のための種籾を持っているとは到底思えない。
このままでは次の秋も期待できない。
──金波宮の穀物庫には幾ばくかの蓄えがある。
あれを種籾として解放しようか──
いや、だめだ。国を挙げて種を蒔いたところで、彼ら自身が飢えていれば実るその時を悠長に待ってなどいられはしない。穂が出るやいなや先を争って刈り入れてしまうのは火を見るより明らかだ。それでは来年また同じ事を繰り返す。そんな小手先のことでは解決しない。
……ならば……。
陽子は幾度か自身の中で検討を繰り返し、時期尚早と思いとどまってきた件を思い返した。あの時は踏み切れなかった。諸官の中に信頼を置ける者が見つけられなかった。
だが、今なら。
陽子は踵を返す。半ば走るようにして金波宮を目指した。
驚いたことに慶の国庫は空ではない。長年の波乱で国土はここまで荒れ果てているというのに、多くはないがある程度の蓄えがある。穀物庫も十分に満たされており……とりわけ、御庫は贅沢な飾りで溢れるばかり。
大半は真新しい煌びやかな品々。
ここ何代かは女王が続いた。
……おそらくは官たちが争って贈り続けた賄(まいない)の数々。
……一体、何故。
そればかりか女官たちは女王を彩る衣装や飾りの選択に余念がない。呆れるほどのとりどりの衣装。食事の度に所狭しと小卓に列ぶ、贅を凝らした皿。何をするにも付き従う下僕。女王のための衣装はずっしりと重く見動きもままならない。微かな所作にも、煌めき清しい音をたてる歩揺。どの房室にも立ち上る薫香はむせ返るほど。
ここにいては「慶国」が感じられない。
(2)
『誂えた豪奢な衣装を嫌がり主上は簡素な袍を好まれる』贅沢な食事もあまり喉を通らない様子に、周囲は目配せしあい頷きあう。
『やはり女王は胎果の生まれ、こちらにお慣れになっていない』と。
『ただし御庫に眠る煌びやかな宝石だけは別と見えて、官に命じて目録を作らせるそうな』密やかな嗤いと共に囁かれる言葉。
『決して身には付けなくとも美しき品々はお好きと見える』
……一体、何故。
浩瀚はそっとため息を零した。
先程漸く御庫宝物の目録が完成したのだ。息もできないほどの鮮烈な衝撃を与えた女王、この方こそ、と胸躍らせた初勅を拝した日。
先日初めて主上から私的なお言葉を頂いたが、その内容は「御庫内の宝物を選別、整理し目録にしたためてほしい」というものだった。腑に落ちないその言葉に、彼の主は微笑みを持って答えた。「できる限り早く。ただし、年代の選別と鑑定は確実に」
御庫の中はきらめく色の洪水。浩瀚は決して暇ではない自分の部下を三名割いて、女官と共に事に当たらせたのだ。
このような目録、今必要なものにも思えぬが、な。
折れ曲がる回廊を抜け内宮を目指す。取り次ぎを頼もうとして不審な人影を誰何する。
「誰だっ!ここを内宮と知って……!主上!」
一体どこで手に入れたのか、褞袍とも見えぬただの襤褸を纏った陽子は貧しい少年そのままだった。鮮やかな翠の瞳。蒼白な頬に一瞬、笑みが零れる。
「ああ、浩瀚か。」
慌てて礼を取る浩瀚をあっさり遮って促す。
「ご苦労だな、私に何か用か?」
所々ほつれて汚れた褞袍を外す。褞袍の中もほぼ変わらぬ擦り切れた袍子。背に深紅の髪が流れ落ちる。
浩瀚は先程の蒼白な顔色の訳を識った。
「どちらにお出でだったのですか。まさか、お一人で?」
このような衣装で寒風の中、お忍びで一体どこに行っておられたというのか。
「心配いらない。堯天からは出ていないから」
こともなげに言い放つ主に苛立ちを押さえられない。悪びれる様子もない主上に、怒りは募る。
「たとえ金波宮内であっても、お一人での散策は危険でございます。ましてや堯天など、もってのほか。台輔はご存じでおられるのか!」
「用件は、何だ」
「主上!主上はただお一人だけのお命ではありません。慶の民全ての命と…」
「わかっている。だから、急いでいる。用が無いのなら帰れ」
主の瞳に剣呑な光が宿る。浩瀚は主の勘気を知り、言葉に詰まった。
「……用件は、何なのだ」
小さく吐息をつき、重ねて問う言葉はただ穏やかなばかり。その静かな佇まいに浩瀚は眼を瞠った。……そうだ……。理由もなく語気を荒げ、心のままに振る舞うようなお方ではない。
「……失礼を、致しました。先日の目録が出来上がりましたので、お持ち致しました」
一瞬の満面の笑み。それはすぐさま強い意志を秘めた瞳に彩られる。
「そうか、やっとできたか!私室につきあえ。相談がある。」
***
金波宮の中でも最古参の下官が呼ばれ、浩瀚の前で伏礼する。浩瀚はあわてて遮った。
「この度の主上の初勅を知らぬ訳でもあるまい?伏礼は廃されたのだ、跪礼でよい。改めよ」
下官は面を上げぬよう注意しているのであろう、恐る恐る跪礼する。
浩瀚も困惑していた。ここはおそれ多くも内宮、このような下賤のものが自らの職務以外で立ち入ることはあってはならない。本来なら冢宰であっても気安く訪れるべきではないというのに。そこへ簡素な袍に着替え、髪を無造作に束ねた主上が現れる。浩瀚も下官に倣って跪礼する。
「あぁ待たせてすなまい、よく来てくれたね。堅苦しいことは抜きにしよう。さ、掛けて」
「主上!」
堪らず浩瀚が声をあげる。下官も恐縮して身動きもままならない様子だが、浩瀚とて驚きを隠せない。
「なに?」
まっすぐに見つめる翠の輝きはどこまでも澄んでいる。
「主上と恐れながら私めが一つ卓を同じくするのは……そのうえ、椅子まで賜るなど」
「なぜ」
「なぜ…と仰せられましても……この者もこのように恐縮しきっておりますれば」
陽子は大きく息をつき、浩瀚の瞳を見つめる。大股にふたりの前にすすむと、下官は更に身を縮めた。
「だから、何だ。……私はそなたらを信頼している。心やましくなければ顔を上げてほしい」その言葉は下官の肩を優しく叩きながら。
「私は王である前に一人の人間だ、そなたらと何ら変わりの無い。……王であるからといって隔てを置くな。下官であるからといって己を貶めることはない。無論、冢宰だからといって傲ることも無いだろう?心に影のあるものは眼を遭わせられないものだが、心明るい者ならば臆することなく私に眼を見せてほしい。私はこちらに来て未だ日が浅い。言葉だけでは理解し切れぬ部分があるのだ。判ってくれないか」
染み渡る声は静かに、響く。いつの間にか二人は陽子の瞳に吸い寄せられていた。それでいい、と満足げに呟くと、さあ、と椅子をすすめる。おずおずと腰を下ろすと
「立ったままだと疲れてしまうからね。じゃ始めようか」
快活な言葉が溢れだした。
(3)
──前代未聞だ。
浩瀚は驚きながらも確かな手応えを感じていた。その顔は紅潮し、瞳はなぜか潤んでいた。陽はすっかり傾き、外殿内も警備の者ばかりが目に映る。足早に帰途につきながら口許が弛むのを押さえられない。
「目録は、まさに今必要だったのだ」
下官の記憶は大いに役立ち、主上は御庫の品々を二つに分類した。慶国に縁深き代々の王が愛した品々と、比較的新しいただ美しいものとを。陽子はありふれた飾りの価値を米に置き換えてたずねている。下官は訊かれるまま、首を傾げながら丁寧に簡潔に答えていく。おおよその価値を調べ終わると「ご苦労様」と労って下官を下がらせた。
膨大なその品々の内、由緒ある物はその数僅かに一割足らず。陽子は頷き、残り九割を指し示してあっさりと言ってのけた。
「これらの品は私の自由にさせてもらう。浩瀚、雁と奏に売ってきてくれ」
「は、それは」
「必ず同等の穀物を手に入れて来るのだぞ」
「……主上」
「穀物の二割は五穀全てを満たすように。それぞれの割合は収穫高の割合に倣い係りの者とよくよく調整してくれ。残る八割は食用だ。種類はまかせるが……そうだな、松柏にお聞きするのが穏当だろうな。ただし、なるべく嵩が増えるように配慮してくれ」
ここまでくると主上の謂わんとしていることがはっきりと判るが、何とこの方は躊躇いもなく仰るのだろうか。
──先王はいつも女性らしく美しい御衣に身を包んでいた。
官はこぞって美しい飾りを贈っていた──
この方は物欲などとは無縁でおられるのか。それとも、未だ無邪気でいらっしゃるのか……。
「……台輔が何と仰ることか」
呆然と漏らす浩瀚に、陽子がはにかんだように微笑う。
「なにも言いはしないよ。言いたくても言えないはずだし。何しろ、私の命運がかかっているのだからな」
「命運」
不吉な言葉にどきりとする。
「浩瀚は今年の収穫高をどう見る?」
「は……去年の二割り増し、と見ております」
これは少々酷かもしれない。だが、一朝一夕では国土は回復する筈がないのだ。天候が去年ほど乱れないなら妥当だろう。
陽子が立ち上がり、窓を開けた。雲海の風が吹き込んでくる。
「──浩瀚は楽天的だな……。私は毎夜慶の子供の夢を見る……」
絞り出す言葉は、はっとするほど張りつめ、湿っていた。陽子は雲海を眺めたまま言葉を紡ぐ。
「里家を失い寒さに震え、身に纏う褞袍は名ばかり靴も片方失っている。おそらく父母も亡くして身寄りもなく…飢えた瞳も曇り、ただ樹の幹に凭れている。その子は時折空腹に耐えかねて樹の根を掘るのだ。その子だけではない。この国には一体どれほどの者が父母を、家を、……土地を失っているのだろう」
おそらく、夢では無かろう。この言葉の重みは夢などから生まれる物では到底あり得ない。
「──浩瀚」
陽子は浩瀚を振り返り翠の瞳で射抜くように見つめる。その言葉は低く透り力強く響いた。
「はっ」
「ここで失敗れば慶の民は秋まで保たず、芋づる的に秋の収穫も望めず悪循環になる。国庫も貧弱だから機会は一度きりだ。ここが正念場だぞ、存分に腕を振るってくれ。国庫にあるものは何を持ち出してもかまわない。……私も骨を惜しまないつもりだが、王とは不自由なもの、民のためには大して役にたたない。──浩瀚、慶の民を頼んだぞ」
「肝に銘じまして」
思わず小卓を離れ感極まったように、がばと伏礼する浩瀚を陽子は咎めなかった。寧ろ微笑んで見守っていた。
「おそくなったね、気をつけて」
浩瀚は足早に私邸を目指す。
『──真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには、しぜんに頭が下がるものだ──』
唇がふるえ瞳が熱く潤むのを止めることはできなかった。
***
景麒の私室は内宮の外れに位置する。陽子の私室からは少々離れているが院子をつっきるとそれほどでもない。
房室の中に灯りを見つけ、扉の外から声をかける。
「景麒、ちょっといいか?」
景麒は一瞬瞳を見開き、静かな所作で出迎える。
「このような時刻に、またお一人でいらしたのか」
「うん。伝えたいことがあって、ね。」
房室の中に招き入れ、椅子をすすめる。
「院子を通ってこられたのですね」
陽子は腰をおろしながら、驚いたように零した。
「まったく、よく判るな。なぜだ?」
「主上の纏う空気から、それに夜露に濡れておられます」
そうかな、と呟きながら足許を見る。陽はすでに沈んでおり、房室の明かりも乏しくてそうとは見えなかった。やはり麒麟は夜目が利くのか。差し出された柔らかい布を素直に受け取りながら、陽子は切り出した。
「御庫の品々の一部を、売ろうと思う」
「…主上」
「以前から考えていたんだが、やっと実行できそうだと思って」
「売るにしてもたやすくできるとは思えませんが……それでいかがなされるおつもりですか」
「穀物を手に入れる」
「穀物を?」
「この国は貧しい。大半の民は飢え疲弊しきっている。このままでは秋の実りを期待できないと思うんだ」
その瞳に強い光が浮かぶ。声に力が宿る。景麒はこの主に魅せられている己を認識した。
「秋に実りを迎えるためには、春に種を蒔かなくてはならないだろう?種を蒔くには耕さなくてはならないし、耕すには民に奮起してもらわなくてはならない。それには、来るべき秋まで生活が保障されなければ適わない」
景麒は己を恥じた。主上を戴いてさえいれば秋には地が実りを与えてくれる、そんな気がしていた。
「幸い、慶は雁と奏に程近いこともある。頼み込めば穀物と交換してもらえるだろう。……おそらくあちらは穀物があり余っているだろうから」
「……まさか、御庫内全てを売り払うおつもりではありませんね?」
陽子はやれやれと息をついた。先程の目録を景麒の前に広げる。目録は年代順に纏められ、由緒ある品々はその由来が付記されていた。目録を繰る景麒の手を見やりながら陽子は説明する。
「朱で印がついている物は残すつもりだ。景麒も中を一通り見て、残すべきと思う物は印をつけてほしい」
言い残して陽子は去ろうとする。景麒は慌てて後を追った。
「主上、お待ちを。このような時刻にお一人では」
「今日の警備は優秀だから心配いらない。目録はできれば今日中に見てしまってくれないか。それじゃおやすみ」
夜目にも赤く照り映える髪が闇に紛れるのは一瞬とかからなかった。
「まったく、あの御方は──」
開け放った扉から風が吹き込む。目録が煽られぱらぱらと音をたてた。御庫の中を整理するにあたって、目録を持参した陽子の配慮にようやく気付く。予王の頁には、思い悩んだような朱の染みを見ることができた。
景麒はおもむろに筆をとり、かの王が好んでいた冠ひとつだけに印を付ける。
「……予王、もうこの国のことを憂えるには及びません。あの方はきっとこの国を護ってくださる」
(4)
「祥瓊、ちょっといいか?頼みたいことがあるんだけど」
控えめに陽子が手招きする。陽子の朝食の後片付けをしていた手を止めて祥瓊が眉を上げる。
「あらめずらしい、なあに改まって」
ここのところ政務に追われ会話らしい会話をしていなかったこともあり、祥瓊の声は明るいものだった。
「実はまだこれは内密なんだが……」
祥瓊の顔が興味津々に輝くのと、私室の扉をさりげなく閉じるのとは同時だった。陽子はそのそつのなさに半ば呆れながら、更に声を落とした。
「ふうん、そう……。まあ陽子らしいと言えばそれまでだけど、そうね、民の生活を支えるにはやむを得ないかしらね」
陽子は祥瓊の言葉にほっとする。臣下ではなく友人という立場から忌憚のない意見をきかせてくれるこの友の言葉を、浩瀚とは違う意味で尊重していた。
「だけど、ほんとうに陽子って物に執着しないのねえ。以前の私とは大違い……なんだか変な感じ」
祥瓊は陽子の隣にいると時折こんな気分にさせられる。陽子は何にもとらわれない。胎果ということもあるのだろうが、いつもさらりとしていて限りなく自由に見える。豪奢な衣装も、飾りも、権力も──溢れる程与えられているというのに、それを手にして戸惑っている感さえある。
そのふるまいの思い切りの良さに小気味よさと……一抹の不安を覚える。
御庫の品々を手放すということは、王の資産をなげうつ事に等しい。由緒ある品は残したと言ってはいるが、その数僅かに一割という。ここで内乱にでもなれば冬器を整える事さえ出来るかどうか。確かに今のまま何も手を打たなければ、今年の収穫は去年と変わりばえしないだろう。去年から今年の冬にかけて人口が減った分、田を耕す者の数が減っているだろうから。だけど、放っておけば酷吏が率先して浮民、荒民をかき集めて私腹を肥やしてくれる。そこを見計らって酷吏を押さえれば……おそらくこんなことはせずにすむ。──確かに和州は行き過ぎだったけど……。
チラリと祥瓊は陽子を盗み見た。陽子は至極まじめな顔をして目録を見つめている。
──こんなことを陽子に言ったらどんな顔をするかしらね。でも、今陽子の持つ資産を丸裸にするのは危険すぎる気がする。酷吏を野放しにしろ、とはとても言えないし…言ったとしても聞き入れないだろうし。
祥瓊が腕を組んでため息をつくのを陽子はただじっと見守っていた。祥瓊は考えが纏まったのか堅い声音で切り出した。
「陽子、御庫の中の価値は調べてあるの?」
「ああ、もちろん……ここにある」
目録の末尾に記された数とその額に呆然とする。
「……随分と多いわね」
「だろう?私も半信半疑なんだが、ただ、数だけは膨大にあった。やっぱり多いと思うか?」
「ええ、数だけでも芳の御庫にあるおよそ七〜八倍だわね。数からいくと額も妥当じゃないかしら」
うん、と頷きながら陽子はぽつりと呟いた。
「短命な女王が続くとこうなるものなのかな……」
「それだけ官との癒着が激しかった、ということねぇ」
目録の上に長嘆息が重なる。至近から突如おこった一陣の風に最後の頁は耐えきれず、ぱらりと自身を閉じてしまった。
「…………」
「…………」
目録はぴったりと閉じたまま微動だにしない。
二人は目録をのぞき込むのをやめ、瞳交ぜしてどちらからともなく笑いあった。
ひとしきり笑った後、痛む腹筋を抱えながら祥瓊が白状する。
「ひどいわ陽子。わたしさんざん悩んで、『酷吏を野放しにしたら』と言おうとまで思ったのよ。今、慶の国庫を空にする訳にはいかないわ。まだこんなに内情が不安定なんですもの。罷免になった官が逆上して何をするか判ったものじゃないし、冬器の備えも考えなきゃならない。それに、朝廷内の諸官を養うのにも費用はかかるわ。酷吏なら放っておいても自発的に私腹を肥やすけど、馬鹿正直な官であればあるだけ朝廷から多く支給しなければやっていけないわよ」
「……」
「陽子?」
いや、とちょっと首を振る。
「結構物入りなんだな……。民さえ良ければいいと思ってた」
「あなたねぇ……まったく陽子らしいわね!」
なんだか力が抜けたわ、とつぶやく祥瓊に陽子は笑いかけた。
「ところで、頼みがあるんだ」
「なに?まだあったの」
「さっきも言ったが、この件はまだ景麒と浩瀚しか知らない」
陽子の瞳が珍しく空を彷徨う。言葉も逡巡したように歯切れが悪い。
一体何を言い出すつもりなのか。
「実は…この三人で目録だけを頼りに、御庫に残す飾りを一応取り決めた」
「……えぇ!?」
「……そうなんだ。この三人は、飾りなどにはからきし弱い。だけど女官に話せば大変になることは目に見えてる」
それはそうだろう。他国の公主であった自分でさえ『よくも物惜しげもなく』と呆れたのだ。
女官などは飾りひとつひとつを把握するのはもちろん、季節や主人の衣装といかに上手く調和させるかに苦心する。心砕いて仕上げられた己の主人の美しさに喜びを感ずるもの。それだけ装身具などに関しては主人よりも詳しく思い入れが深い。…ましてや着飾るのを厭い男装を好む主人では…役目を果たす隙もあらばこそ、大方は官服で済ましてしまうので腕の見せようがない。
──本来の役目を奪われた女官たちはどうやって主人の気を惹こうかと御庫内の品々の研究に余念がないという。
そのためか折々の儀式で纏う陽子の衣装や品々は、驚くほど趣味がいい。おそらく女官たちは、その日を楽しみに長い間熟考に熟考を重ねたに違いないのだ。
話の見えた祥瓊は陽子を睨め付ける。
「つまり──女官たちが納得するように──わたしに、一通りの飾りを見立ててほしいということ?」
得たり!と陽子は頷く。祥瓊は思わず天を仰いだ。
「頼む!祥瓊にしか頼めないんだ。祥瓊なら季節の行事にも詳しいし、見立ても確かだし……筋違いな頼みだとはわかっている。嫌な気持ちもするかもしれない、だけど……」
祥瓊はやれやれと吐息をついた。祥瓊も装身具に関してはうるさい方だが、当然ながら本職の女官ほどには詳しくない。しかし、元公主である自分が女官などに侮られてなるものか。しかも、めったにない陽子の頼みなのだ。
「わかったわ、見立てるわよ。だけど条件が一つあるわ」
「なに?」
「見立てたものについて文句は言わないこと。見立てるからには最高のものを見立てるんだから、わざわざ陽子の好みになんか合わせないわよ」
──陽子は渋々頷いた──。
祥瓊の見立ては手際よくすすみ、ほんの二〜三日で終わってしまった。その報せを受けて陽子はこの件を朝議にかけた。もともと御庫内のものは王の私物ということもあり、特に何の障害もなく受け入れられた。女官のため息と共に荷造りがすすむ。陽子の依頼で祥瓊が両国に持ち込む飾りを振り分ける。より優美で繊細な飾りは王后と女性の公主のいる奏に、より力強い趣向のものを雁に。
陽子は初挑戦の作文に苦闘している。文字の方は幼い頃から書道を習わされていたため問題ないが、やはり漢文には馴染みがうすい。松柏も手取り足取り教えてくれるわけではない。
「ふむ。意味は通っております。少々読み上げてみますが、『登極して未だ日が浅く、国土は疲弊し穀物も不足し、民は飢えております』ここまでは大変よくできております。『貴国には穀物が豊かにあると聞き及んでおり……』ここもなかなかですが、次の『穀物くれ、品物やる』は、ちとおかしいと思いますぞ。たしかに延王はお喜びだろうが、一面識もない奏国にお送りするのは、いささか……」
今日も陽子の私室からは明け方まで灯りが消えることはない。
(5)
「慶国よりの使者とか。よく来たな」
謁見の間に延王が現れる。華美ではないが上質の衣装をゆったりと着こなし、中央に座を占める。
「景麒、久しぶりだな。そなた、主君に付き従っていなくてよいのか?」
雁と慶は少なからず交流がある。つい先日も延王は慶を訪れたばかり、自然と使者にも見知った顔が揃う。公の席であっても延王の口調はくだけたものとなる。
景麒は延王その人から自身の主と同じ匂いを少なからず感じていた。
「本日は主上の命によりまかり越しました」
特に何の感情も示さない景麒に、これは陽子もしんどいだろうと息をつく。ふと目を転ずると、傍らに叩頭した姿はどこかで見た覚えがある。
「そなたが浩瀚か。顔を上げよ」
は、と一言発し、躊躇いなく躰を起こした男の顔は、力強い瞳と怜悧な容貌とを併せ持っていた。
「景王からの命とは?浩瀚、答えよ」
「は、先ずはこちらに我が景王よりの書状をお持ち致しておりますれば、ご覧下さい」
そう言って傍らの侍従に書簡を渡す。
ほう、これは陽子もなかなかやる。
その浩瀚のそつのなさに尚隆は唸った。並の使者であればここ雁の謁見の間に入るだけで、雰囲気に圧倒される。通常の手順を忘れてしまうことも少なくない。先のように名指しで口頭での返答を迫った場合はなおさらである。殆どの場合、恐縮してしどろもどろに口頭で説明をし、主の書簡はその役を奪われるものなのだ。その点浩瀚は相手の心証を損ねることもなく、口頭での説明の前に主の書簡を以て用件を伝えている。しかもごく自然に。相手にその意図を気取らせない。
尚隆は手早く書を読み、ため息を零した。
「……景王の仰ること、あい分かった。穀物が不足し民が飢える辛さは我が国にも覚えがある。幸い近年穀物は豊富だ。書状の通り穀物をお送りするよう早速手配をしよう」
「貴国には我が主君登極の際にもひとかたならぬお力添えを頂き、感謝の念も耐えません。重ねてこの度の我が国の申し出をお受け下さり、伏して御礼申し上げます…!」
「いや、そんなに堅苦しく考えずともよい。まずは、ゆるりとくつろがれよ」
言って尚隆は景麒を見る。
「景台輔、景王はお元気か」
「つつがなくお過ごしでいらっしゃいます」
「この度の我が国への訪問は公のものか?」
「はい」
まずいな、と尚隆は呟く。聞き及んでいた慶の政は、自分でさえ驚くほどの性急で激しいものだ。さらにまずいことに、未だ旧官吏からの報復が為されていない。今現在、虎視眈々と玉座の隙を狙っていると考えてよいだろう。
「失礼を承知で訊くが……金波宮の警備は十分であろうな?」
「……それは……」
「慶では大幅な官吏の移動を行ったそうだな。さぞかし官の抵抗は大きかっただろう、よく乗り切ったな」
尚隆は景麒をひた、と見つめて逸らさない。
「…………」
景麒は官の報復が未だ皆無であると、今更ながらに気がついた。
「権に長く君臨した者の妄執は凄まじいものだ。私でさえ年に数度は刺客につけ狙われる。ましてや慶が戴くのは女王、台輔と冢宰が併せて不在、それも公に知られている」
尚隆はなおも言い募る。
景麒は喉が凄まじい勢いで干上がっていくのを感じていた。
「……先程の書状、よくできている。景王御自らしたためたものだな、景王は一体何日で書き上げられた?寝る間も惜しんで書き上げてはいまいな。いくら剣の腕が良くとも、疲労し眠っておらぬでは技は鈍る」
景麒の顔から血の気が失せる。景麒は夢中で王気をたどった。だが焦りが勝り、気を澄ますことが難しい。堯天はあまりに遠い…思うように王気を感じることができない。
「王の私室までの警護が十分であったとしても、朝議の間はどうだ。外殿内に不審な人間は入り込んではいまいな。──初勅で叩頭は廃止されたと聞くが、跪礼から心の臓を突くのは容易いな……」
もう、何も考えられない。
「──景台輔、いかがいたした。まだ話は終わっておらんぞ」
景麒がふいに身動きし微かな燐光を発した。
──次の瞬間には景麒の纏っていた衣装だけが残されていた──
「ふん、素早いな。あの男とも思えぬ」
「延王、申し訳もございません失礼を致しました」
叩頭して景麒の非礼を詫びる浩瀚に、尚隆はあっさりと言ってのけた。
「いや、表情を変えぬあの男の狼狽える様が見たくてな」
「…は…?」
尚隆は不敵な笑みを浮かべ、言い放つ。だが、と語気を強めた。
「ときに浩瀚、本当に警備は厳重であろうな?」
「は、禁軍左軍の特師が特別警備に当たっております。主上にはいささか窮屈でございましょうが、仕方ございませんね」
「禁軍特師?」
「殊恩党、と申せばお分かりでしょうか」
「……なるほど、な」
拓峰の反で、専横を極めた時の郷長と戦った連中か。……噂では陽子も身分を隠して寝食を共にし、先陣を切って戦ったという。陽子の、慶の転機となったあの争乱。ならば胞輩としての結束は堅い。なんだかんだといって、よい臣下を短期間に集めている。かく言う自分も陽子にはいささか甘い。
「浩瀚、良い主人に恵まれたな」
「はい。これ以上は無いほどに」
浩瀚の間髪入れぬ答えに、ふ、と尚隆は息を漏らした。
「だが陽子は若い、待つことを知らぬ。あるいは妥協に慣れておらぬ。あの性格では『清濁併せのむ』ことは叶うまい…。そこが陽子の魅力でもあり、欠点でもある。おまえの主は諸刃の剣だ。一つ誤れば己の身をも傷つける」
尚隆の瞳が遠くを見つめる。
「浩瀚……泥にまみれろよ」
「覚悟いたしております」
歯切れのいい返答に、尚隆は意表を突かれた。内容とは裏腹に浩瀚の表情は晴れ晴れとしていた。
(6)
主上はどちらにおられるのか──
景麒は強まる王気に安堵しながらも未だ見えぬ主の姿を求めて空を彷徨う。王気は金波宮の外殿を僅かに逸れた場所から。政務を執っておられる筈の時間だが、王気は王の私室付近から感じられる。血の匂いはない。王気も鮮やかに、靱い。
景麒は獣型のまま陽子の私室を目指した。
「景麒!?」
「主上、ご無事でおられたか」
「何だ、雁で何か大事が起こったか!?」
陽子は重い身体を引きずるようにして駆け寄った。
何だ、何があった?雁と奏であれば滅多なことはおこるまいと踏んでいた己が浅はかだったのか。景麒が転変し衣装を着ける間もなく、直接私室を訪れるなど余程のことだ。
景麒は後悔した。
陽子は自分の振る舞いに驚き、蒼白な顔で駆け寄り詰め寄っている。よく見れば房室の中には松柏と祥瓊、それに恐らくは瘍医がいるではないか。麒麟の視線に合わせて膝を折る陽子の顔は色を失い、いつも身につけている官服は急いだためか乱れている。視線を移せば、臥室の扉が開け放たれており、天蓋の更紗が風を孕んだように舞い上がっていた。
「主上、御寝みの所をお起こししてしまいましたか」
「何を言っている、何があったんだ!浩瀚が見えないが、彼がどうかしたのか?」
「…………」
景麒は言うべき言葉が見つからず言葉に詰まった。ひっそりと祥瓊と瘍医が席を外し、扉を閉めた。
「さあ、人払いはした。松柏は同席していただいた方がよいだろう?…何があった」
「…………」
「景麒?」
何があったか…?──雁で何か起こっただろうか。ただ延王に言葉を掛けられただけだ。よく来た、と労われ、慶の…特に主上の様子を気遣う言葉と、宮の警備は厳重かとの問い。そして……。
──そして転変して慶に立ち戻ってしまった。
「景麒」
陽子の言葉が殊のほか胸に刺さる。あれほどに心配した陽子は別段変わった様子もなく、金波宮も普段と同じ落ち着きを見せている。景麒はじわりと冷や汗をかいた。
「……特に何も」
漸く絞り出された言葉は憮然としたもの。
「何も?そんな筈はあるまい」
獣型の麒麟は人の形をしたそれよりも更に表情が乏しい。
「御前、失礼させて頂く」
くるりと向きを変えた麒麟をあわてて追う。
「景麒、どこへ行くつもりだ!」
「衣装を改めて参る」
「……わかった。説明はその後だ」
陽子のため息が耳に痛い。分かるように説明してもらうぞ、との言葉が追い打ちをかける。
(7)
……一体、何故。
景麒は一通りの衣装を身につけ、ひとりごちた。何故あれほどに不安に駆られ、主上のお側を目指してしまったのか──。
確かに不安は感じていた。麒麟が側に居るべく運命付けられたその主人を離れるなど、本性に悖る。しかし、『今回の雁と奏の訪問は慶の命運を左右するから』と陽子に自身の代理を請われれば、断ることなど出来なかった。断れない主の頼み、それも多くの民を救うための。必要性も、使者の意味も分かりすぎるほど理解していた筈だ。
この国を発つ前に、冢宰と王の身辺について相談した。常にない禁軍の常駐を以て警備に充てることと取り決めた。陽子は大げさすぎると不満も顕わだったが、冢宰がその危険性について縷々述べ続け、とうとう陽子の首を縦に振らせたのだ。
「景麒、いいか?」
控えめな声が唐突に聞こえ、景麒はぎょっとする。扉を開けると艶やかな赤い髪が日ざしを浴びて眩しいほど。思わず瞳を細める景麒を陽子は院子に連れ出す。四阿にどちらからともなく腰掛けて、陽子は静かに口を開いた。
「景麒、本当になにも無かったのか?松柏はおまえは私の顔を見に寄っただけだと仰る」
「…………」
物言わぬ麒麟に、陽子はゆったりと院子を見遣っている──
陽子は未だ太師である松柏に対して礼を失わない。
ただの里家の閭胥であった松柏を師として、教えを請うていた頃から…変わらず自然にとられる礼は陽子の心根を端的に示している。
──人の間に序列あることが好きではない──
王となった今も変わらぬ主人。そのせいか陽子は気軽に一人で出歩く。宮殿内は勿論、院子などは常のこと。果ては堯天の外れまで。視察をかねるその行為を一概に禁じるわけにも行かず、常に使令を付けることで折り合っているのだ。使令は報告を絶やさないが、主に似たのか景麒の使令は言葉を惜しみ、細部までは把握できない。
私こそが最も主上を知らないのではないか、ふと不安に駆られ自問する。班渠でさえ景麒よりも陽子に附いている時間が長い。
──冗祐などは主上から片時も離れたことがないというのに。
……主上を主としたのは直感。理由など無かった。
惹かれるままに蓬莱へ行き、衝撃と共に主と知った。半ば強引に交わした契約。そのまま景麒は主を見失った。捕らえられ封じられる中、微かに感じられる王気は日々細くなる。絶えかけた王気と変わらぬ囚われの身に望みを失いかけた頃、かの人は現れた。
鮮やかな赤い髪と翠に輝く靱い瞳、姿の変容は胎果であることを示している。
容貌の変化よりもその佇まいに景麒は舌を巻いた。以前の頼りなげな顔など微塵もない、穏やかで靱くしなやかな主。景麒はその王足るべく変化した陽子を、喜ばしいこととしてすんなり受け入れた。
景麒はその変容を遂げた経緯をまるで知らなかったし、知ろうともしなかった。ただ漫然と苦労を重ねられたかと推し量ったにすぎない。そのことに関して未だ唯一つの問いも、言葉も投げかけてはいない。
──その後の互いに権を争う官に翻弄された朝廷では、この世界のことに疎い主上に対して、本当に心を砕いたことがあっただろうか。顔を合わせると互いの言葉はすれ違うばかり、見当違いの主の質問を持て余してはいなかったか。陽子は次第に言葉少なになり…景麒とすすんで会話をしなくなった。前王と同様、官の拮抗に疲れ玉座を疎んじる気配に景麒が焦りを感じたとき、とうとう主上は自らの心情を吐露した。
この国のことが判らない、金波宮から離れ民の暮らしを学びたい、と。それは景麒の側を離れ、民草に混じって暮らすことに他ならない。
──慶は未だ安定を欠き、巷に豺虎は跋扈する──危険極まりない場所で陽子は一人暮らすという。『日銭仕事でも何でもいいから働いてみたい』その瞳は澄みわたる泉のように静かで、どんな感情の波も探せなかった。陽子は全てを受け入れている。荒民や浮民のように、雨露をしのぐ家さえ持たない生活を厭いはしなかった。……景麒には陽子の望みを止めることはできなかった……。
せめてもと、自身で陽子の逗留先を手配する。
陽子が景麒の側を離れて幾日かたった頃、景麒は陽子の様子を見に行った。市井に降りた陽子は民に混じって生き生きとしていた。その後、巻き込まれた乱に臨んでも、民と共に行動を起こし信頼に足る人々を集めた。
その折の拓峰の乱でさえ、もう少しで道を誤るところだったのだ。
生臭い血の匂いと死臭が澱む拓峰に呼ばれた時、あまりの苦痛に発した言葉は、主を責める心ないものばかり。
『言わせてもらうが、禁軍を出したのは、おまえの責任だぞ』
──そう陽子に指摘されなければ、あの場を離れていたかもしれなかった──
今更ながら、主人の苦しみの一端さえ共有していない自分に愕然とする。
巧国の、楽俊という半獣に対する主上の親しさに…漠然とした不快を感じ、延王、延麒の砕けた口調には憤りを感ずる。あの折延王の言に惑わされたのも、後ろめたさがあったからだ。
──私は主上を理解しようと努力したことがないのではないか?
だからあれしきの言葉に惑わされる。主上との間にはどれほどの絆も未だ築けてはいない。
「……主上……」
逡巡から醒めた景麒の言葉は、酷くかすれていた。
うん?と振り返る瞳はやさしく、穏やかだ。
「延王がお元気か、と仰っていました。書状の通り手配して下さるとのことです」
「そうか……。……それだけか?」
「はい。ただ、延王は私と冢宰が共に主上のお側を離れることを危惧しておられたので」
景麒は困ったような瞳で陽子を見た。
「にわかに心騒ぎ、主上のお顔を拝しに参ったまで」
「…………」
陽子は唖然と言葉もない。確かに麒麟は最も速く空を駆ける。隣国の雁と慶を行き来するくらい造作もないことなのだろう。だからといって、一日と経たぬ間にとって返すなど聞いたこともない。
「……お怒りか」
「呆れている」
「それほどおまえは心配性には見えなかったが……延王に何を言われたのだ」
「主上のお側を離れてよいのか、冢宰と共に主上の側を離れることが公になっているが警備は十分なのか、主上の身に危険は無いのか、と」
「……他には」
「いえ、特には」
「……それだけ、なのか?」
それだけで、この取り澄ました麒麟があんな失態を晒すだろうか。あれほど切羽詰まった様子で、混乱して。陽子はまじまじと景麒を見つめたが、景麒の乏しい表情からはとくに何も読みとれなかった。
……まあ、いい。いずれ延王に訊いてみよう。
院子に佇む影が長く伸びる。空が色づき始めるのも間もなくだ。
「これから、どうするんだ?雁に戻るのか?落ち合う場所はどこなんだ」
「いえ…一旦雁に戻ります。ですが、主上、今日は瘍医にかかられたのか」
「ああ、少々貧血気味だったものだから。疲れが出たのかな。祥瓊に押し切られて今日は一日寝てた」
『疲れていては技も鈍る』ふいに延王の言葉が蘇る。
……警鐘が鳴る。なにかが景麒の神経をとらえる。
──今は主上のお側をはなれてはならぬ──
夜が更ける。陽子は臥室の灯りをそっと吹き消した。今日は月明かりが眩しい。
満月かもしれないな…。
瞼を閉じると、月明かりがぼんやりと明るく感じられる。
──景麒は側から離れぬ、と言い張った。そのあまりに真剣な瞳に、陽子は強く断れなかった。
今は臥室の隅にある榻にその身を横たえている。
……ま、今日だけだ。景麒は翌朝早く雁へとって返す。
陽子は未だ残る疲れに助けられ、すぐさま深い眠りに就いた。
(8)
微かに、風が澱む。
ごく薄く血の匂いが感じられる。
──やはり、来たか。
「……台輔」
「わかっている」
使令の声を遮って、足早に牀榻に近づく。
月明かりを浴びた陽子は、どきりとするほど蒼ざめていた。
「主上、主上、お目覚め下さい」
控えめに声をかけ、すぐには覚醒しない主を揺り起こす。
「う……ん…?なに、……何事」
ようやく目覚めた陽子は眼を瞬く。
景麒の瞳が微かな月明かりを吸って閃く。
「血の、匂いが。聞き慣れぬ足音が近づいております。お早く」
陽子は急き立てられるまま、宝剣をつかむ。臥室から房室を通り院子に抜ける。
今宵は月が明るい。
「景麒、離れていろ怪我をする」
「そう言うわけには」
「班渠を貸してくれ。頼むからおまえは離れて身を隠していろ」
麒麟は血に病むという。
偽王軍との戦の折りも、拓峰の乱の時も…景麒は陽子の身体に染みついた血と死臭とに病んだ。まる一月は不調といって床を離れられなかった。陽子は景麒を一度も訪れなかった──否、訪れることが出来なかった。陽子が近づくほど景麒の容態は悪くなるだろうから。
──景麒は陽子の罪に今、苦しんでいるのだ──
そう感じ、心は鬱々として晴れることはなかった。
胸が、痛かった。
景麒をこんなところに置いていられない。景麒は渋々、といった体で灌木の茂みに身を隠した。それを瞳で確認しながら、息をつく。
いざとなれば転変してでも逃げてくれよ──
「──主上」
「班渠か。まずは景麒の身を守れ」
「台輔を?」
「私が死んでも景麒は死なないが、景麒が死ぬと共倒れだ」
──行け、と命じる。
私室の周りを取り囲む人影が見える。
おそらく頭目であろう人間の指示に機敏に反応する影。数えられるのは五…六人、反対側も含めると、おそらく十人は下るまい。影たちは未だ一言も漏らさない。
──素人ではない──
動きに統制がある。どこかの軍に所属していた者たちか…。一人がするりと私室に入る。
静寂が満ちる。
陽子は呼吸を整えてその時を待つ。
私室から先程の人間が出てくると、影たちの動きが乱れた。
「私になにか用か」
陽子は四阿の影から姿を顕わした。
影たちが一斉に振り返る。その手には冴えた輝き。──剣を持っている。やはり、刺客なのか?
「何用だ?ずいぶん物騒だな」
「主上のお命、頂戴する…!」
振り下ろされる刃をかいくぐり、鍔で受け止める。幾度か斬り結び、相手が下がったところを背で殴打する。狙った鳩尾に一撃を見舞う。そのままよろめいてうずくまるのを見向きもせず、次の刺客を目指す。
景麒は息を詰めて見守っていた。
陽子はあろうことか自ら刺客の前に姿を晒し、剣の前に立ちはだかった。取り囲む影はおよそ十人、それを苦もなく倒してゆく。月明かりの中閃く剣戟、剣花を散らして戦う姿はどこか軽やかな舞にも見える。
見る間に影はことごとく地を這い、その数を減らしてゆく。
七人、五人、…三人…。
あと、二人。
──陽子は疲労を感じていた──
相手は人間、それもおそらくは慶国の民。できれば傷をつけたくない。傷つけぬよう背で痛打を与えるのは、真剣の何倍もの力がいる。反動が倍加して腕に伝わり痺れを誘う。ここのところ政務に忙しく、まともに剣を握っていなかったせいもある。汗で滑る柄を握り、肩で息をして剣を振るう。渾身の力を込めて斬撃を受け止める。もはや両手でなくては受け止めきれない。刷り上げて流し、首に正確な一打を入れる。
あと、一人。
「だれの、命だ」
陽子の息が、上がる。
「…………くっ!」
答える代わりに鋭い切っ先が向けられる。剣戟をかわし、踏み込んでゆくうちに灌木の茂みの前へ出た。
……まずい。だがまさか、あのままここに隠れている訳でもあるまい──?
「言えっ!」
男を、隙間なく立ち並ぶ樹々の前に追いつめる。──この機会を逃すともう、後がない。最後の力を振り絞り、間合いを詰めて踏み込んだ──。
「!!」
陽子の刃をかわした男の躰が突然前に傾いた。灌木に足を取られたか──!?
──刹那。男の足許に金色の糸。狙いを定める男の視線は陽子を微妙に外れている。
男の剣に一瞬の逡巡。迷いを断ち切る勢いで振り下ろされる剣。
──陽子はそれを酷くゆっくりと体感していた。
迫る刃をかいくぐり宝剣を握る躰ごと、どうにかねじ込む。飛び散る剣花。渾身の一閃。
かろうじて一撃は免れたが、重い剣尖に跳ね飛ばされる。陽子は樹の幹に、背と頭とをしたたか打ちつけ、顔を顰めた。
休む間もなく繰り出される剣戟。背を冷たいものが流れ落ちる。斬り結んだ切っ先は、その均衡を失いつつあった。
「景、麒。何を、しているっ!」
我に返った景麒は使令の名を鋭く喚んだ。
「班渠!」
「違う!」
傍らに立ちつくす麒麟を容赦なく叱りつける。
「お前、だ!」
「……」
景麒には主の言うことが理解できない。
陽子は業を煮やし吐き捨てるように怒鳴る。
「どいててくれ、頼むから!」
──お前だけは、何があっても死んではならない──
男は疲れを知らぬかのように攻め続ける。男と対峙しながらの言葉は明らかに息切れしており、剣を持つ手は危ういほどに震えている。次第に狭まり色を失っていく視界に──陽子は己の限界が近いことを知る。不意に態勢を崩した男に、ありったけの力を込めて、躰ごとぶつかってゆく。
「!!」
「班渠っ!」
遠い景麒の声と共に……目の前にある男の躰が、揺らぐ。
──それと時を同じくして陽子は己の躰が縛められていることに気がついた──
血しぶく鮮血は男のもの。
……私は身動きもままならないというのに……?
──とろりと意識が遠ざかるのを何かが呼び止める──
暖かいものが肩と背を濡らしてゆく感覚。
鉄の、匂いが、する。
耳許で、誰かが、叫んで、いる。
剣を取り落としそうになって思わず右手に力を込める。
「──!!──」
突き抜ける激痛に陽子は呻き、瞳を見開く。
視界に飛び込む白い、輝き。
──陽子の右肩からは…磨き上げられた一本の剣が伸びていた──
(9)
「主…主上!?主上っ!!」
景麒の絶叫。ああ、煩いと感じる自分に、奮い立つ。
まだ、大丈夫。ここには景麒も……臣下もいる。あの時ほど酷くはない。
「…景、麒……無事、か……?」
陽子は顔を顰めた。急所を外れているとは言え、吐き気がするほどの猛烈な痛み。
「班渠、瘍医を!早く!!」
陽子の顔から血の気が失せる。震える手で剣の宝玉を肩に当てる様が痛々しい。
「主上!しっかりなさい!!」
「景麒、離れて……。汚れる、ぞ……。お前まで……倒、れて、は」
「このような時に、何を仰るのか!!」
「だい、じょう、ぶ…手を、や…られた時…よりは、痛ま…ない」
……手をやられたときよりは、痛まない……?
景麒はこの主の言葉に呆然とする。
──主上……あなたは一体、どれほどの苦しみをくぐり抜けてこられたのか──
班渠が戻ってきた気配に、陽子が唸るように命ずる。院子に倒れている者は冬器を奪って牢に入れておくこと、気付いたら秋官に取り調べさせること……
そして、息絶えた者は弔ってやること。
***
祥瓊は不安な夜を過ごしていた。夜半の騒ぎで目覚め、陽子の私室に駆けつけてみれば、陽子が牀榻に運び込まれる所だった。瘍医が難しい顔をして枕元を取り巻いている。
──陽子が、どうか──?
看護を申し出て陽子の側近くに来ると、肩に幾重にも布が巻かれており……そしてその布は、本来の色を忘れたかのように真っ赤に染まっていた。瘍医が言うには、陽子の剣についている宝玉は癒しの力を与えるもの。ひとときも離さぬよう、宝玉を肩口に当てておくように、とのことだった。
──あれから既に一刻が過ぎようとしている。
「陽子……しっかりね。景麒が蒼白な顔をしていたわよ……」
ぽつり、と声をかける。
うん、と微かに頷く陽子。一体意識はあるのだろうか……?
「……祥瓊……」
掠れて声も小さいが、思ったよりもしっかりと呼ぶその声に、祥瓊は驚きの声を上げた。
「陽子!?」
「大丈夫……心配、いらない」
宝玉を、と促され陽子の左手に宝玉を握らせる。手が強張ってうまく握れない様子に、宝玉を握らせた左手の上から両手で包んでやる。陽子は軽く吐息を漏らす。
「具合はどう?」
「……うん、大分いい。……この宝玉の効き目は絶大なんだ。巧で何度も助けられた……」
これが無ければ陽子はとうの昔に命を落としている。
過酷だった巧での毎日。辛かった。幾度も己を失いそうになった。挫けずにいられたのは、唯の偶然のような気もしてくる。……あのころほど生き抜くことに懸命だった日々は無い……。陽子の心の底を常に占めている、苦くかけがえのない経験。陽子の目を開かせてくれた巧国の塙王──今となっては恨めしさよりも、感謝が勝る。
あんなにも弱く怠惰で、全てのことにおざなりだった自分に、気付く機会を与えてくれた。生きる事に全力を注ぐこと、必死に限界までやり抜くこと、無私に何かに没頭すること
──。ぎりぎりの忍耐も、やむなく何かを切り捨てることも、人を疑うことも。
──その上で人を信じることも──。
……楽俊、元気かな……。
陽子は静かに息を整える。宝重の奇蹟は陽子の痛みを速やかに和らげている。ただ、失った血はすぐにはもどらない。失血による眩暈と吐き気が酷い。
「景麒は大丈夫かな……すまないが、鈴に様子を見てきてもらってくれないか。あと、どうにか無事だ心配するなと伝えてほしい」
「分かったわ…他には?」
「松柏は宮に詰めておられるか?」
「多分……どうするの?」
微かに笑うと、すこし傷に響いたらしく顔を顰める。
「……こういった場合、どうすればいいか判断がつかないんだ。動けるようだったら、何事もなく朝議に顔を出したいんだけど……」
「犯人は驚くでしょうねぇ」
「やっぱり、そう思うか?──それでこんな真似は無駄だと思ってくれれば──」
「そうね。それができれば一番いいでしょうけど──とにかく、呼んでくる。まってて」
祥瓊の姿が扉の向こうに消えると、陽子は枕元にあった宝剣を布団の中に引っ張り込んだ。
「班渠、いるか?」
「ここに」
足許から班渠が姿を表した。やっぱり、いたか。陽子はやれやれと苦笑いする。
「景麒の様子は?」
「少々、御不調で。主上ほどではありませんが」
「おまえには、血の匂いは染みついているのかな」
「多少は」
そうだろうな。男を始末したのは、おそらく班渠だ。
陽子は──あの矜持の恐ろしく高く、思いがけず不器用な──今は己の失態を酷く恥じているだろう麒麟に対して……言葉を探した。
「言葉だけをなるべく遠くから伝えてくれるか。『延王、特に延麒に(臨機応変)と(機転)について教えを請うてこい』とね。『お前の融通の無さは天下一品だ。主のことを少しでも気遣うなら…戦況に応じて、身を潜める場所を変える位の判断が、できるようになるまでは戻ってくるな』それから、『忘れずに昨日の失態もきちんとお詫びするように』と。……これくらい言っておけば言うことをきくかな」
班渠はくつくつと笑っている。
この使令は主に対して比較的自由に振る舞う。そこが面白いと陽子は思う。
「班渠の血の匂いがどれくらいで無くなるのかよく判らないが、できれば景麒のいない間…ここの警護に当たってほしい。ちょっと景麒と相談してみてくれ」
「承知。……以上で?」
「うん、ああ祥瓊が戻ってきたな。頼む」
班渠は音もなく側を離れた。
景麒は今頃……己の無様さに後悔している事だろう。それとも私の言葉を真に受けて憤っているか……?
陽子は顔を顰めながらひっそりと笑った。
怒りつつ、憮然としながらも……あの麒麟は私の言葉を守るだろう。雁で王と延麒にあしらわれるのは気の毒だか、二人に揉まれれば奏に出向くのにもきっと役立つ。
馬鹿がつくほど生真面目な景麒。狼狽える景麒には何だか親近感を覚える。
苦労をしておいで、景麒。そうすれば、きっと楽になる。
──その頃ならば私の傷も院子も…以前のままに違いない──
(10)
尚隆は私室でくつろいでいた。榻に半ば凭れるようにし見るともなく書類をめくる。細部まで目を通すことは、決して叶わない速さで書類を繰る。欠伸を一つ噛み殺して頬杖をつく。
「……どうしたものかな」
その書類は、とある州の運河の拡張に関する陳情だった。
その州都は大河の畔に位置し、長い間豊かな穀倉地帯であった。そこがここ数年で急激に発展したのだ。運河の使用頻度が増大したため、物資の流通に悪影響を及ぼしている。
書類の束は二つある。一つは運河を拡張してほしいという商人たちからのもの。もう一つは運河の周りに居を構えている住民たちからのものであった。
尚隆は吐息を一つつくと、腕を組み、目を閉じる。
「景台輔がお戻りになられました。主上にお目通りを、と申し出ておられます」
眠っているようにも見受けられる延王に、女官がひっそりと告げる。
尚隆は片目を開け──もう一方は瞑ったまま──唸った。
「わかった。では、こちらから伺おう」
女官はやんわりと微笑んで、告げる。
「台輔はお出ましになりたい、とのことでしたが」
尚隆はようやく両目をあけ、榻の上に起き上がった。
「こちらにか?……では、六太を呼んでくれ」
尚隆は腕を組み、考え込んだ。
景麒が雁を発ったのは昨日の昼下がり。今は夕刻である。どう考えてもおかしい。慶で何事も無かったのなら、おそらく今日の朝早くに戻っているはず。そして何事かあったのなら──こんなに早く戻るはずはないのだ。
現れた景麒を見るなり更に困惑が深まる。
景麒の顔は蒼ざめ、これまでになく複雑な表情をしていた。
怒っているようでもあり、悲しんでいるようにも見える。そして、何か…意を決しているかのようにも感じられるのだ。
──景麒は所謂麒麟らしい麒麟だった。延麒とはまるで違い、表情が硬く乏しい。感情を顔に出すこともなく、声も冷ややかに冷淡だった。それが……今は少々違っている。
景麒は軽く腰を折ると、静かに言葉を紡ぐ。
「延王、昨日はご無礼を致しました」
尚隆は眉を上げた。景麒の声には言いようのない苦みが込められていた。
──なにか、あったな──
「いや、私の方こそ失礼した。私の話で不快なめにお合わせしたようだ。許されよ」
景麒は驚いたように顔をあげた。
その瞳には憔悴の色が見えていた。
かたり、と軽い音がした。潮の香りが満ちる。
「景麒が戻ったって?」
延麒は躊躇いもなく景麒をぞんざいに扱う。尚隆は苦笑した。
「六太、その言葉遣いはどうにかならんのか」
「なんで。何か障りがあるのか?──景麒?ずいぶんとしょぼくれた顔をしてんのな」
延麒は景麒の側にくると、ぴたりと身体の動きを止めた。
「!……おまえ……」
血の匂いがする、と延麒はかすかに呟いた。
景麒の顔に衝撃がはしる。震える手で書簡を差し出す。
「主上からの書状をお持ちしました」
絞り出す声は酷く掠れ、消え入るほどに弱い。
景麒が届けた書簡は、景王直筆ではなく誰かの…おそらくは女官の代筆によるものだった。
昨晩、堯天金波宮にて事故が発生した。王宮の人間に被害はなかったが、景麒の身には障りがあるため暫く景麒を玄英宮で預かってもらえないか、との打診。そして、二枚目には昨日景麒の身体に起こったこととその身を案じる言葉が細々と綴られ、尚隆に対する詫びの言葉と感謝の言葉で締めくくられていた。
のぞき込んで盗み読んでいた延麒が、尚隆の顔を見る。
尚隆は頷き、景麒に問う。
「昨晩、景王はいかがなされたのだ」
景麒の喉は震えたが、声にはならなかった。
「ご無事でいられるのか」
重ねた問いに、景麒は頷く。
「……今は、命に別状はない、と瘍医は申しております。……主上も……」
苦しそうに顔を顰めながら、掠れる声で続ける。
「主上も、大事ない、と」
「ふむ」
尚隆はゆっくりと瞳を巡らせ、言葉を促す。
「今は、命に別状は無くておられるのだな」
「はい」
「……よかったな、あー、あせった。陽子がどうかしたのかと思った。慶には、水禺刀があっただろ?なら、すこしたてば元通りになるな。よかったな、景麒」
明るい延麒の言葉に、景麒は素直に同意できないでいる。ここで喜んでは、いけないような気がしていた。延麒は景麒を元気づけようと、背を叩く。
「なんだよ、命に別状はないんじゃなかったのかよ」
「それは、そうですが……」
「景台輔、この書状には昨日景台輔が危険なめに遭った、と書いてある。多くは無いが血に病んだ、と」
尚隆の声は穏やかで暖かく、深みがある。景麒はその声を快く感じている自分に、初めて気付いた。景麒は陽子の言葉を思い出す。──延王と延麒に学んでこい──あの、怒りも顕わな陽子の言葉…その真意はこれではないのか…。景麒は自分を鼓舞し、少しずつ語りだした。
(11)
「そ、それで陽子はどうしたんだ?」
身を乗り出して訊くのは延麒。明るい声でせき込むように先を急ぐその様子に、景麒は憮然と黙り込んだ。尚隆は溜息を零して延麒をたしなめる。
「六太。事は景王の身に起こった一大事だぞ。そのように軽々しくきくものではない」
「だ、だってよー、尚隆はそれから先が気にならねーのかよ、落ち着き払いやがって」
薄情もん、と罵る声に、景麒は息をのむ。
時折、陽子が漏らしていた、言葉。登極直後に多かった──
「お前は、いつも冷静だな。気にならないのだな……」
儚く笑って発せられるその言葉を聞くたび、心が僅かに痛んだのを覚えている。
「そうだな、お前に訊いてもらっても何にもならないことだ。自分で考えねばな……」
そう言う陽子はいつも、途方に暮れた子供のような顔をしていた……。
「延台輔」
「なんだよ、イキナリ」
「常に冷静で、落ち着いて振る舞うことは…薄情なことなのでしょうか?」
「へ?」
思いもよらぬ問いかけに延麒は唖然と口をあけた。
景麒は、躊躇いながら問いかける。
「以前…、登極直後の主上が時折、同じような事を漏らしておられたので」
延麒と尚隆は顔を見合わせる。尚隆が口を開いた。
「ものにもよるが……例えば私が何かを思い悩んでいたとする。だが、王たるもの、そう気安く誰にでも相談出来るものではない。しかし、己自身でどうしても判断が付かないとき……その場合は六太に問いかけることがある。六太の言葉がもう一度思考を深めるのに役立つことがあるのでな。だが、こちらがいくら話しかけても、相手の態度が冷淡であれば……相手は自分の問題に対して興味が薄いと感じる。──この場合は陽子の受難に対して、興味が薄いということだな。飛躍すれば、陽子がどんな目に遭おうと気にならない、ということにもなり得る」
景麒は顔色を変えた。うわずった声で、せき込んで反駁する。
「…そんな、それでは……いえ、しかし、王御自身で判断して頂きたいと願えばこそ、わたしは……」
延麒がするりと景麒の横に座り込む。未だ子供のような延麒の仕草。
「景麒ぃ、おまえ、陽子が胎果だってこと、忘れてない?」
「そのくらい知っています。蓬莱に主をお迎えにあがったのに、胎果でない筈はない」
憮然とした言葉に、延麒の言葉は冷たい。
「あのなぁ、景麒。おまえが言ってるのは『陽子が胎果であることを知っている』ってことだろ。胎果であることは何か、胎果は何が違うのか、考えたことはあるか?」
「胎果は蓬莱に生まれ育たれた方のことをいう。蓬莱にのみ住まっておられたため、こちらのことは何ひとつお分かりでない」
「ふん、模範解答だな。こっちのことが何にも分からない、っていうことがどういうことなのか、考えたことがあるかって訊いてんだよ」
「…………」
返答に窮した景麒は、唇を噛んだ。
「陽子は右も左も分からない、赤ん坊だったってことだ。赤ん坊に何でもかんでも自分で判断しろなんて、おまえ、それはちょっと酷じゃねーか?」
「ですが……」
「なんだよ」
「……」
そうなのだろうか。
私は主上に、強く正しい王になっていただきたかった。決して酷いことをしようなどとは思っていない。全ては主上のおためを思ってのこと。訊かれたことには丁寧に答えてきたつもりだ。何事にも主上の考えを尊重して主上の判断を仰いだ。確かに、時折の主上の風変わりな言葉や質問に驚きもしたが……。
はた、と景麒は振り返る。── 一瞬思考が止まる。
驚いて……。どうしただろうか。驚いて、ただ、主上を見つめただけのような気がする。
それは、薄情なことなのだろうか?
主上に関心がない、と思われていたのだろうか。
ふと浮かぶ、陽子の寂しげな顔。気にならないのだな、と呟く声は囁くように小さかった。
「間違って、いたのでしょうか?私の…不明で主上には──」
「ふん……もう、済んじまったことだけどな」
延麒はそっぽをむいてつぶやく。見れば、景麒の表情は今にも崩れてしまいそうだ。
まったく、どこまでも生真面目なやつよ、と尚隆は息を吐いた。
「だが…そのおかげで、陽子は自ら変わった。手を差し伸べられぬのは辛いものだが、だからこそ自らの手でつかもうとする。変わろうと努力する。──陽子には却ってそのほうがよかったかもしれん」
ハッと顔を上げた景麒は縋るような目をしていた。
「物事は二面性を持つ。悪いことがあれば、良いことも必ずあるものだ。景麒が突き放したかどうかは知らぬが…例えそうだとしても、そのおかげで陽子は自ら変わった、とも言えるのではないか?」
尚隆は景麒の方へ向き直る。
「景台輔、そなたの主はそのように頼りないか」
「いえ!……いいえ、そのようなことは決して」
間髪入れず語気を強めて言い切る景麒に、尚隆は大きく頷く。
「ならば、今更何を悩む。悔やんだとて問題は解決せぬ。誤ったと気付いたのなら、改めればよい」
悔やまなくなったらお終いだけどな、と呟く延麒がとうとう痺れを切らした。
「取り込み中悪いけど、結局陽子はどうなったんだよ」
延麒の声に急かされて、景麒は戸惑いながら昨日の一部始終を語る。
──いつの間にか月の光が明るく房室を照らしだす。
物語を終えた景麒は、微かな喉の痛みを覚えていた。いままで、これほど長く語ったことがなかったのである。
「ふーん、『臨機応変』と『機転』かあ。景麒にはおよそ似合わない言葉だな」
景麒はあっさりと断じられ、言葉もない。
「尚隆、どう思う?」
「確かに、刺客と斬り結んでる間中、一つ所に潜んでいるとはずいぶんと我慢がきくものだな。俺には到底真似できん」
「だが、戦況に応じて身を潜める場所くらい変えろ、とは至極当然の物言いだな」
「そうでしょうか」
景麒はよく事態を飲み込めない。尚隆は続ける。
「麒麟が側にいたいと言う。主が隠れていろと言う。麒麟はそこで隠れる──。ここの隠れていろ、と言うのは主人の優しさだな。本音を言うなら危険のないところへいてほしいのだ。なぜなら、麒麟は血に病むのだから。剣とは、斬るため、殺すためにあるものだ。だが麒麟が側にいては難しい。何であれ、陽子は刺客を殺めていない。ことごとく背で昏倒させたに過ぎない。そして、最後は力尽きた……陽子ほどの腕であっても。それは至極当然のことだ」
頷く景麒に尚隆は慌てて言葉を挟む。
「違う、早合点するな、体力の差ではない。背打ちとは驕りの剣だ、それだけ相手との力量の差が求められる。対峙する存在には『斬られた』と信じさせねばならぬ。それでいて、相手に触れる一瞬前に刃を返して背で叩く。つまり、昏倒させるほどの衝撃を与えながら、斬らないのだ。衝撃はそのまま自らの腕に、身体に跳ね返る。体力が削がれるほどに難しくなっていく。背打ちが更に難しくなったその時、隣に麒麟がいたのでは、陽子でなくとも苦情の一つも漏らすだろう。転変すれば千里を翔るその身で──なぜ今ここにいるのかと」
項垂れる景麒を一瞥して、尚隆は立ち上がる。
「臨機応変も機転も、理解をしたところで役にはたたん。実践で覚えるのだな。先程の書簡にも『景麒には課題を持たせた故、解決しない間は慶に帰ることはまかりならぬ』とあった。景王のたっての望みだ。及ばずながら力添えをさせてもらおう。何、浩瀚は一足先に慶に戻してある、穀物と共にな。景台輔はゆるりと学ばれよ」
景麒は眩暈をおぼえた──
それからおよそ十日。文字通り延王と延麒に玩ばれた景麒は課題に対する及第点をようやく手にする。ここ何日かというもの、休むことなく引き起こされる小さな事件に翻弄され続けたのだった。景麒がすっかり面変わりしていく中、生き生きとその勤めに励んだのは尚隆であった──
「何だ、もう帰るのか、景麒」
景麒は落胆も顕わな尚隆の声に苦笑する。
「このままこちらに留まっていては、身が持ちません。あなたもそろそろ政務に戻られた方がよろしいでしょうし。先程から冢宰が睨んでおられますよ。……延王?」
先程まで政務を執っていたのだろう、正殿の御座から尚隆は立ち上がり、景麒を促す。
「よいのだ、いつものことだからな」
急き立てられて、内宮にある一室へ招かれる。
そこは瀟洒な一室だった。窓辺に大きく設けられた露台が潮の香りを運んでくる。延王は景麒を露台へ誘った。
「ここは、陽子が雁を訪れたとき滞在した房室だ。陽子は雲海が珍しいと喜んでいた。ここで王の必要性を説いては見たが、陽子は酷く逡巡していた。こんなおろかな私が、王になってよいのだろうかと──」
景麒はその言葉を胸に刻む。
「景台輔、雁に滞在を強いられた理由は見当がついているのか?」
「僅かながら、判った気がします」
「陽子は台輔を案じていたぞ」
「……わたしを……?」
「先の事件で院子は穢れ、陽子は傷ついた、そうだな」
「はい」
景麒の顔に苦渋が満ちる。
「景麒を守ろうにも身体は満足に動かず、血と死臭にまみれた身体では景麒をみすみす病ませる事になる。雁にて景麒をお預かり頂けないか──それが先の書簡の主な内容だ」
「……そう、でしたか……」
「景麒にそのまま言ったところで従うまい?そこで、陽子は不快を装い景麒に課題を与え、慶に戻ることを禁じた。課題の内容も、台輔には必要なものだ。特に政情不安な国を束ねて行くにはな。だが、その真意は…景麒によけいな心痛を与えたくない、といった所か」
「…………」
景麒は言葉を返すことができなかった。
「そなたの主の機転は、ずいぶんと優しいな……」
尚隆は掠れた声で囁いた。それきり黙ったまま、眩しそうに目を細め遠くを見つめていた。
翌日、景麒は雁を発つ。奏国への使者として、主の望みを叶えるために。
雁と慶の国境では浩瀚が先に到着して景麒を待っている。
妖獣に騎乗する景麒を見つけ、浩瀚は跪礼する。
「台輔、お待ちしておりました。ご無事なご様子、安堵致しました。奏国への道のりですが……」
顔を上げて、景麒を見た浩瀚は続けるべき言葉を見失った。
「……どうかしたか?」
「あ、は……い、いえ」
浩瀚はいささか青ざめ、複雑な表情で目を逸らし、俯く。
──景麒が微笑んでいたのである──
(12)
眼下に小さく金波宮がうつる。
一層強まる王気に景麒は身体が震えるのを感じていた。景麒が慶を発ってからおよそ一月。
──主上はどのようにお過ごしだろうか──
景麒は王気の在処を目指す。
院子の、陽子の存在を手に取るように感じながら、景麒は逸る心を抑え私室へ戻る。ごく簡単に着衣を改めて踵を返す。粟立つほどの強く激しい王気に景麒は吐息をついた。
ああ、やっとお側に戻ってきた。
声をかけるよりも先に陽子が振り返る。
「ああ、久しぶりだな、元気だったか?この度はご苦労だったな」
明るく笑みながらの主の言葉は暖かく、心に浸みた。鮮やかな笑みが、眩しい。
「……どうした?息が上がっているぞ」
陽子の言葉に景麒は苦笑する。知らぬ間に足を早めていたようだ。
「ようやく、お側に戻って参りました」
陽子の王気は夏の日射しのようだ。景麒は思わず目を細める。
「雁と奏はどうだった?」
「雁は……美しい賑やかな街でした。たいへんな活気がありますね。──隣国でありながら、これほどつぶさに目の当たりにしたことはなかったのですが、緑も豊かで街も整備され、大変な豊かさです。延王、延台輔にもずいぶんと心を配っていただいた」
快活に話す景麒を珍しそうに眺めて、陽子は先を促す。
「ふうん?──実は、いいように遊ばれると思っていたんだが」
素直に白状する陽子の言葉に、景麒は苦笑する。
「……ええ、私にとっては驚くことばかりで……。ですが、大切なことを教えていただいた」
陽子は不思議そうに瞳を上げる。今日の景麒はいつになく言葉が多い。
頑なで融通のきかない景麒を、少しは変わるかと雁に送り込んだのは確かに陽子だった。だが、予想していたよりもずっと景麒は変わったような気がする。なんだか以前と全く違うのだ。慶に戻れたのがそれほど嬉しいのか、それとも雁で余程辛かったのか……。景麒はまるで別人のようだ。常よりも言葉が多いが、そのほかに決定的に違う何かが感じられる。
……何だ、何が違うんだろう……?
一拍おいて、陽子は呟く。
「……表情、だ」
今日の景麒は随分と笑みが多い。
「……何か?」
陽子の言葉に不思議そうに首を傾げた景麒が問う。サラリと金色の糸が揺れる。
いや、と陽子は首を振る。
「笑った顔を初めて見た」
「そのような……そうでしょうか……?」
「うん、絶対だ。私が言うんだから間違いない」
きっぱりと言い切る陽子に景麒は笑む。
──そうかも、しれない──
景麒の静かで柔らかい表情に、陽子もつられて頬が弛む。
「穀物の手配が気になるだろうが、今諸官と検討中だ。延王は、こちらが予測したより多く穀物を手配して下さったようだ、安心していい。仕事の話は明日にしよう。──奏の話を聞かせてくれないか?どんな国だった?」
瞳を輝かせて問いかける陽子に、景麒は快く語りはじめる。
──冢宰である浩瀚が慶に立ち戻るには更に三日を要した──