[#表紙(表紙.jpg)]
中野順一
セカンド・サイト
目 次
セカンド・サイト
第20回サントリーミステリー大賞の選考経過
[#改ページ]
「タクト、亜樹ちゃん指名だ。四番の上田さん」
梅島の声が喧噪の間を縫って耳に飛び込んできた。無言で頷《うなず》き、待機室へ向かう。厨房の脇を抜けてすぐのドアだ。金色に縁取られた金属製のプレート。仰々しい文字で〈PRIVATE〉と刻印されている。そのドアを引き開けて素早く身体を滑り込ませた。目の前にちらついていた虚構の世界が立ち消え、たちまち現実に引き戻される。
そこは待機室というより物置部屋と呼んだほうが似つかわしい空間だった。部屋の片隅には、捨てるには忍びなく、かといって他に置き場所のない数々の品物が、埃《ほこり》を被って朽《く》ち果てるのを待っていた。
十年前のコンポ。百科事典。開店一周年を記念して作られた看板。スーツやドレスなど色とりどりの衣装。ドライフラワーと化した花束の数々──誕生日や記念日などに届けられる花束は、彼女たちの人気の度合を示すバロメーターでもある。もらえないよりはもらったほうが当然嬉しいのだろうが、内心は複雑な思いが働くらしい。花より団子。どうせもらうのならやはりアクセサリーやブランド品のほうがいいようだ。しかももらった花束をそのまま店内に飾るのは、何かと不都合がある。
こんなものに大枚|叩《はた》くくらいなら、もっと店に来てくれればいいのに──。
ごもっとも。とはいえ、キャストと客の間にこうした意識のズレがあるからこそ、この商売は成り立っているのだろう。客の目的──お気に入りのキャストを落とすこと。キャストの目的──金、金、金。その二つは付かず離れずの適度な間隔を保ちながら、永遠に平行線を辿っていく。
待機中のキャストは二人だった。亜樹と花梨《かりん》。女性二人が座れるくらいの空間を挟んで、壁際のソファに座っている。つい十分ほど前まで、その空間にはキコが収まっていた。間隔が狭まっていないところを見ると、二人の間には気まずい沈黙が埋まっていたらしい。心なしか空気も淀んでいる。いや、これは亜樹の煙草のせいか。
亜樹に顔を向けた。
「ご指名だよ。四番」
亜樹は余韻を楽しむように紫煙を吐き出すと、灰皿に煙草を押しつけて気怠《けだる》そうに立ち上がった。髪を掻《か》き上げてスカートの皺《しわ》を伸ばす。
「誰? 上田さん?」
「当たり」
「あの人、酔っぱらうとただのスケベ親父になるのよねえ。今日はどのくらい飲んで来たんだろ」
「さあ」
「まいっか。たぶんこれが最後だもんね」
亜樹は今日すでに七件の指名を取っている。時刻は閉店九十分前の午前零時半。肉体的にも精神的にも、疲労はピークに達しているはずだ。
腫《は》れぼったい一重|瞼《まぶた》に太い眉。しゃくれ気味の顎《あご》に存在感の薄い鼻。顔立ちは十人並み──というより、この店では下から数えたほうが早いくらいだ。それでも彼女は入店以来、指名の多さでベスト5から外れたことはない。客を楽しませる術《すべ》とマメな営業活動。この二つさえ心得ていれば、この世界は充分やっていけるのだ。もっとも彼女に関しては、抜群のプロポーションという武器も併《あわ》せ持っているのだが。
亜樹は在籍九ヶ月。この店では古株といっていいだろう。はっきりした年齢は知らないが、この世界に入ってまもなく三年になるというから、二十二、三といったところか。この店に移ってくる前は、区役所通りの大バコに勤めていたらしい。
「……行ってらっしゃい」
一人残された花梨が亜樹の背中に声をかける。亜樹は小さく頷いただけだった。
おれは居心地悪そうに俯《うつむ》く花梨に視線を向けた。小振りな瓜実顔《うりざねがお》にライトブラウンのショートヘア。大きくて真っ直ぐな鳶《とび》色の瞳。尖った顎と艶《つや》やかな口唇の隙間から覗く八重歯。こんな店よりは、アイドルのオーディション会場にでも行ったほうがいい。明らかに場違いだった。
それでもどこか惹《ひ》かれるものを感じてしまうのは、いつも高慢なジコチュー女ばかりを見ているせいだろうか。見た目は限りなく好みのタイプ。胸がキュンとなる──とまでは言わないが、気になる存在であることは確かだ。中坊の頃はこれをときめきと言った。今は胸が疼く前に下半身のほうが反応してしまう。
いずれにしろ、外見の可愛らしさに惑わされるのは危険だ。おれ自身も何度その虚像に裏切られたことか。
いつだったか、少女のようにあどけない顔立ちをした短大生に、ベッドをともにした後でこんなことを言われた憶えがある。
──男性経験はあなたが九十八人目。あと二人で百人斬り達成ね。
屈託のないあっけらかんとした物言い。その言葉を聞いたときは開いた口が塞がらなかった。あれ以来おれは、天使の存在を信じなくなった。
花梨の性格はまだわからないが、事情はともかくこういう店で働き始めた以上、その本性は推して知るべしだ。今はまだ猫を被っているだけなのだろう。
気の利いた言葉でもかけようと思ったが、適当な言葉が思い浮かばない。何をするでもなく俯き加減に座るその姿は、何かを堪え忍んでいるようにしか見えなかった。
「どうしたの? 行かないの?」
背中をつつかれた。振り返る。亜樹が怪訝《けげん》そうな表情でおれの顔を覗き込んでいた。
「いや、行くよ」
呟きながらドアを閉める。亜樹が含み笑いを漏らした。
「なに笑ってんだよ」
「いや、意外だなあって思って」
「なにが」
「ああいうのも好みなんだ。確かに可愛い顔してるけどね」
素直に認めるほど純情でもないし、慌てて否定するほどガキでもない。
「見た目はいい線いってんじゃないかな。ちょっと重たい感じはするけど」
「やっぱり? 私もそう思った」
「ところで、どうなの?」
「なにが?」
「仕事だよ。ちゃんとできてるの?」
「さあ。でもあの顔なら黙って座ってるだけでいいんじゃないの」
最初はそれでもいいだろう。しかし当然のことながら、置物の人形ではこの仕事は勤まらない。可愛い女を間近に見たいだけなら、アルタ前をうろつくだけで事足りる。
「今日限りかもね。ま、どうせ辞めるんなら早いに越したことはないけど」
亜樹は吐き捨てるように呟いてフロアに出ていった。四番テーブルの上田を見るなり、「本当に来てくれたんだあ。嬉しい」と猫撫で声をあげて駆け寄る。先ほどまでの倦怠感は微塵も見せなかった。
おれはカウンターで空の灰皿を五つほど積み上げると、薄暗いフロアを見渡した。テーブル席は十八。規模的には中バコということになるだろう。空いているテーブルは一つしかない。ご盛況で結構なことだ。
客層は三十代から五十代のリーマンが中心で、実業家や職業不詳の人間もちらほら混じっている。中には明らかにそれとわかる裏の世界の住人もいるが、彼らのほとんどは常連なのでどうってことはない。困るのはむしろ、こういうところでの遊び方を知らない素人のほうだ。
先週もちょっとしたトラブルがあった。一度か二度来たことがあるだけの四十代のリーマン。ふらふらっとやってきて麻里を指名したのはいいが、あいにく麻里はそのとき指名が重なっていた。最初の二十分ほどは麻里が相手をしたが、いつまでも他の指名客を放っておくわけにはいかない。そこでヘルプのリサにバトンタッチして席を移った。男が喚きだしたのはそれから十分ほど経った頃だ。
「──なんで麻里はあんなところに座ってるんだ。早くここへ呼べ」
決して珍しいことではない。遊び慣れていないことを公言しているようなものだが、悪意がないだけまだマシだ。かといってこういうところの仕組みをくどくどと説明してやるのも無意味だった。説明したところで傾聴してくれるとは思えなかったからだ。彼はそのときひどく酔っぱらっていた。
麻里を指名していたもう一人の客は、話のわかる常連だった。麻里は男の席に戻って彼を取りなした。だが一度火のついた男の怒りは収まらなかった。
「ずいぶんと楽しそうに話してたじゃねえか。あいつのことが好きなんだろ。もうヤラれちまったんじゃないのか?」
麻里はこのとき嘘でも「はい、その通りです」と答えておくべきだった。そうすれば不愉快な時間が少しは短縮できたはずだ。だが彼女の頭には男の怒りを静めることしかなかった。
「なあ、おい、おれにもヤラせてくれよ。いいだろ? 別に減るもんじゃねえんだし」
男の執拗な口説きに対し、麻里はしばらく泣き笑いのような表情を浮かべていたが、男が直接的な行為──胸や太股に触る──に至ると、ついに堪忍袋の緒が切れた。
「ちょっと──なにするんですか、やめてください」
ピシリと言って男の手を振り払った。周囲の注目が二人のテーブルに集まる。
男も引っ込みがつかなくなっていた。
「なんだその態度は。それが客に対する態度か。何様のつもりだ」
もう少し余興を見ていたかったが、麻里の目が助けを求めていたので、おれは仕方なくマネージャーの梅島を呼びにいった。梅島が男をなだめすかし、奥の部屋へと連れて行く。
男は梅島の説得を聞き入れて、店を出ることには同意したものの、料金は払わないと答えたらしかった。指名料はもちろんのこと、基本のセット料金についてもだ。そこで梅島はおれともう一人のチーフ──別に偉いわけじゃない。要するにボーイだ──の安部を呼んだ。
「このお客様がどうしてもお金を払いたくないとおっしゃるんだ。説得してくれないか」
梅島が部屋を出ていくと、おれと安部は男の背広から名刺と免許証を抜き出した。免許証のほうは住所だけ書き写して再び戻してやる。
男の名刺──聞いたこともないカタカナの会社だった。肩書きは部長。払えない額ではないはずだ。傷つけられたプライドと酔いの勢いが、彼を頑《かたく》なにさせているのだろう。冷水でもぶっかけてやりたいところだが、後で難癖を付けられては厄介だ。
「なにをするつもりだ」
男は喚いた。口臭がひどい。安部は慇懃無礼に腰を折って微笑んだ。
「まだかなり酔っておられるようですので、会社の方にお迎えをお願いしようと思いまして」
安部は携帯電話を取り出して名刺の番号をプッシュし始めた。所在地は千駄ヶ谷。この時間まで残業している人間がいるとは思えなかったが、男は血相を変えて安部に躍りかかった。
「やめろ、勝手なことをするな。迎えなんかいらん。一人で帰れる」
「そうはおっしゃられましても……」
男と安部が揉み合っている間に、おれも携帯電話を取り出した。104をプッシュして男の住所と名前を告げる。
「おい、おまえ、なにしてるんだ」
幸い男は電話帳に自宅の番号を掲載していたらしく、オペレーターはすぐに十桁の番号を告げた。それを書き留めて再び番号をプッシュする。
男は安部を突き放しておれのほうに突進してきた。携帯電話を奪い取ろうとする。
「もう酔ってない。一人で帰れるから余計なことはするな」
「いや、しかしですね……」
今度は安部が携帯電話をプッシュし始めた。男はまだそれに気付いていない。
「──あ、もしもし。夜分遅く大変申し訳ありません。こちらは──」
安部はこういうことをやらせたら格段に巧い。明日の天気予報を聞きながら、真面目くさった顔で淡々と言葉を続ける。
男は再び安部に飛びかかり、彼の携帯を叩き落とした。むろんこれも安部がそうなるように仕向けたのだが。
男が安部の携帯電話に手を伸ばす。しかし敏捷な安部にかなうはずがなかった。見た目はどこにでもいる中途半端なプータローだが、安部は新宿をシマにしている五成会の連中と繋がりがあり、おれとは違って根性が据わっている。場数もかなり踏んでいるはずだ。
おれは携帯を耳に押し当てたまま、部屋を出る素振りを見せた。
男はついに観念した。
「──わかった。もうやめてくれ。金は払う」
おれと安部の特別手当も請求したい気分だったが、梅島は規定通りの金額だけ受け取って、男を解放した。とにかく一刻も早く消えて欲しかったのだろう。
帰り際、男は負け犬の遠吠えを残していった。
「バカ野郎。二度と来ねえぞ、こんな店」
それはこっちの台詞《せりふ》だった。
客同士、キャスト同士、客とキャスト、キャストとスタッフ。トラブルは枚挙にいとまがない。それでもここにはいろんな人間が群がってくる。欲望と金。すべての元凶ともいうべきその二つが、混沌のバランスを辛うじて保っていた。
「お願いしまあす」
十番テーブルのキャストに呼び止められた。瑠美だ。胸元のダイヤがダウンライトの光を受けて輝いている。おれはテーブルの前で跪《ひざまず》き、瑠美に耳を寄せた。
「ミネ二本お願い。あとCCも」
頷いて視線を落とすと、瑠美の太股をまさぐる客の右手が見えた。見なかった振りをして静かに立ち上がる。お触りはご法度だが、瑠美が涼しい顔をしている間は、余計な口出しはしないほうがいい。
四番テーブルについた亜樹からもオーダーを聞き、厨房に向かった。カウンターの上にメモを置いてオーダーを読み上げる。
「CC、ハムサラ、レディースビア、オールワンです」
CCはチーズ&クラッカー、ハムサラは生ハムとサラミの盛り合わせ、レディースビアはキャスト用のビールのことだ。セット料金にはウイスキーのハウスボトルの飲み放題も含まれているが、基本的にキャストがそれを飲むことは許されない。店側にとって何の得にもならないからだ。
しかもこの店ではオーダーバックシステム──セット料金以外に発生した売上の何割かを、キャストに還元するという仕組み──を採用している。別料金のドリンクをおねだりすることは、彼女たち自身の給料を増やすことでもあった。むろん客はそれを拒むこともできるのだが、普通の神経の持ち主ならまず拒否することはない。指名したキャストのドリンク代をケチるような客は、そもそもこういう店に来るべきではないのだ。
厨房の奥で氷を砕いていた梶井が、オーダーの声を聞いて小さく頷いた。五分刈りの頭と鋭い眼光を持つ寡黙な四十男。キレたらかなりヤバいらしいが、普段はいたって温厚だ。ムショ帰りという噂もあるが、真偽のほどは定かではない。
「タクト、一番と二番、フラワーだ」
梅島に言われて再びフロアに出た。フリーで入ってきた四人組のリーマン。接待を受けているらしい恰幅《かつぷく》のいい中年男が、両側にキャストを従えて上機嫌に喋っている。艶のいい丸顔は恵比須のようだ。以前はあちこちでこういう光景を見かけたらしいが、最近はめっきり少なくなった。
バブルの頃はなあ──梅島の口癖。別に羨ましくもなんともなかった。その頃のおれはバイクで日本中を駆けずり回っていた。何ものにも代え難い有意義な経験の数々。梅島には決して理解できないだろうが、あの経験に勝るものがあるとは思えなかった。
一番テーブルの前で跪き、接待側のリーダーと思《おぼ》しき男に声をかけた。
「──そろそろお時間になりますが、延長されますか?」
恵比須男にも聞こえるように、やや大きめの声で言った。梓《あずさ》とキコが口を噤《つぐ》み、無言で決断を求める。
「どうしますか? かなり遅くなってしまいましたし、そろそろ……」
リーダー格がお伺いを立てるように一同を見渡した。彼らはすでに三十分の延長を二回し、二時間も居座り続けている。経費的にも精神的にも、かなり厳しい状況に追い込まれているはずだ。
しかし恵比須男は容赦なかった。
「もうちょっといいじゃない。どうせもう電車も終わってるんだから。なあ?」
「そうですよ。もう少しいてくださいよ」
「そうそう。今日は奥さんがいないからゆっくり飲めるって言ってたじゃない」
梓とキコが声を合わせて恵比須男に加勢した。延長料金にはバックはないが、三十分の延長が取れれば〇・五ポイントが加算される。キャストの基本給はポイント制なので、これも給料アップに繋がるのだ。
男は悲壮な顔をおれに向けた。
「……じゃあ、あと三十分だけ」
「ありがとうございます」
嫌味にならない程度の微笑みを浮かべ、立ち上がった。灰皿を交換して踵《きびす》を返す。
カウンターで梅島に延長の旨を伝え、厨房の脇に向かった。乱雑に積み上げられた使用済みの灰皿。乾いた雑巾で一つずつ汚れを拭い取っていく。
「待機室、花梨ちゃん一人きりなんだろ?」
背中に声をかけられた。もう一人のチーフ、矢崎だ。勤続九ヶ月。安部よりは長い付き合いになるが、この男とはどうも馬が合わない。
「ああ、そのはずだ」
背中を向けたまま答えた。あれ以来キャストの入れ替わりはない。花梨はいま、どんな思いであの部屋にいるのだろう。経験のあるキャストなら営業電話をかけまくるところだが、彼女のそんな姿は想像もできなかった。
「キコちゃんとこにつけてあげればいいのに。四対二だぜ。いくらフリーの団体客とはいえ、あれじゃああんまりだと思わないか?」
フリーであろうが団体客であろうが、店の方針はマンツーマン接客だ。確かに団体客よりは常連の個人客のほうが心情的に優遇されることが多いが、それでも四人の客に二人しかつかないというのはあまり見たことがない。
「花梨ちゃん今日が初めてなんだから、どんどん経験を積ませるべきだよ。団体の席で他のキャストの仕事ぶりを見てるだけでも勉強になるんだし」
知ったような口振りで矢崎が呟いた。あらためて店内を見渡す。平日のこんな時間なのに結構席が埋まっていた。延長が多いせいだろう。キャストが足りなくなってしまったのもそのためだ。いつもなら待機室のキャストが二人以下になることは滅多にない。
「マネージャーにはマネージャーの考えがあるんだろうよ」
「考え? どんな?」
やはり矢崎は少し鈍い。説明するのが面倒だった。腕時計を見る。午前零時五十分。どうせあと十分もすればわかることだ。おれは肩を竦《すく》めて誤魔化した。
矢崎は話題を変えた。
「なあ、聞いたか、通り魔のこと」
「通り魔?」
最近何か大きなニュースがあっただろうか。あったのかもしれないが知らなかった。おれの日常は世間からワンテンポ遅れている。
「〈ギャラン〉の美幸、知ってるだろ?」
無言で頷く。隣のビルにある大バコのキャバクラだ。金曜日になると決まって行列ができている。美幸はそこの五指に入る人気キャストだ。
「昨日店がひけて遊びに行こうとしたときに、突然襲われたらしい。ま、これといった怪我はなかったみたいだけど」
「襲われたって、どんなふうに?」
「詳しいことはよくわからない。昨日の今日だからな。今日は大事をとって店を休んでるらしいよ」
「それ、通り魔じゃなくて、ストーカーなんじゃねえの? 彼女に騙された男が恨みを晴らしにきたんだよ、きっと」
矢崎は首を振った。
「少なくとも〈ギャラン〉では通り魔ということになってるらしい。警察にも届け出たそうだから、やっぱ客じゃないんだよ。他のキャストにも注意を促すって──」
そのとき、甲高い声が矢崎の話を遮《さえぎ》った。
「──CCとハムサラ、あがったよ」
厨房の梶井だ。矢崎は小さく頷いて厨房へ向かった。邪魔が入ったことを悔しがってはいない。時間つぶしに他愛もない話をしたかっただけなのだろう。
通り魔。別に驚きはなかった。傷害、喧嘩、詐欺、ぼったくり、ストーカー……。この街ではありとあらゆるトラブルが、二十四時間営業で起こっている。殺人こそあまり聞かないが、それは単に死体が見つからないだけのことだ。先月はここから五十メートルも離れていないところで発砲事件があった。斜向《はすむ》かいのビルでドラッグの売人が逮捕されたのは、先週のことだ。トラブルの種ならその辺にごろごろ転がっている。
「──ねえ、今日予定ある?」
横から突然声をかけられた。先週のナンバーワン、エリカだ。ついこの間まではベスト5に入るのも稀《まれ》だったのに、先々週あたりから指名数をぐんぐん伸ばしてきて、ついにトップの座を勝ち取ってしまった。そうなると不思議なもので、瞳は輝きだし、所作にも自信が漲《みなぎ》っているように見える。
彼女はミニ冷蔵庫からツメシボを取り出した。トイレに立った客に渡すために、ここまで取りに来たのだ。しかし気まぐれで呼び止めたにしては表情が真剣だった。
「予定って……店が終わった後?」
「そうよ」
黒目がちの大きな瞳。見上げると少し怒ったような顔つきになるが、そこがまた彼女の魅力だった。
我知らず頬が緩む。おれに話しかけるタイミングを見計らっていた? そう考えるのは自惚《うぬぼ》れだろうか。しかしこんなふうに誘われるほど親しい間柄ではない。
「別にないけど……何かあるの?」
「よかった、ちょっと付き合ってほしいの」
喜びと同時に猜疑心が頭をもたげた。おいしい話はまず疑え──裏の世界に住む人間の鉄則。
「どういうこと?」
彼女はそれには答えず、トイレのほうを見て「あ」と呟いた。客が戻ってきたらしい。
「ごめん、詳しい話はあとで。〈デプス〉、知ってるわよね? あそこで待ってて」
頷くしかなかった。しかしエリカはおれの反応を確かめもせず、跳ねるように客席へ戻っていった。この強引さが彼女をナンバーワンに押し上げたのかもしれない。
「エリカちゃん、ますます綺麗になったな。いい人でもできたんだろうか」
フロアから戻ってきた矢崎が恨めしそうに呟いた。矢崎は彼女に気があるらしい。何度かアプローチをかけたこともあるようだが、風紀を理由に断られ続けている。
風紀とは言うまでもなく従業員同士の恋愛を禁ずるという原則のことだが、そんなものを律儀に守るキャストなど一人もいない。なにせおれや安部はもちろん、マネージャーの梅島自らその禁を破っているのだから。
「──いらっしゃいませ」
背後で梅島の声。反射的に腕時計を見る。午前一時ちょうど。今日も呆れるほど時間に正確だ。エントランスに足を向ける。
「いらっしゃいませ、鈴木さま」
客の名前を呼んで出迎えるのも店の方針だ。もちろん限られた常連くらいしか憶えられないが、それでもキャストと同じくらいの努力が必要となる。
「お預かりするものはございますか?」
鈴木はスラックスのポケットから手を出し、広げて見せた。
「見りゃわかるだろ? 何もないよ」
焦げ茶色の開襟シャツにグレーのスラックス。平家ガニを思わせる四角い顔の上に、やや乱れたパンチパーマが乗っかっている。落ち窪んだ眼窩《がんか》から鋭い光を放つ二つの目。こういう目を持つ人間は、おれの知る限り二種類しかいない。
「今日もいつも通りで?」
横から梅島がお伺いを立てる。鈴木は含羞《はにか》むように微笑んで頷いた。
「頼む。いつも悪いな」
鈴木はそう言ってポケットから裸の札束を取り出し、千円札を二枚引き抜いた。梅島とおれに一枚ずつ手渡す。
「ありがたく頂戴します」
梅島が受け取ったのを確認してからそれに倣《なら》った。三日ぶりのチップ収入だ。
鈴木がおれたちに気を遣うのは、彼が指名を入れないからだ。しかし初めてだろうと常連だろうと、キャストを指名するしないは客の自由。指名しないからといって、マネージャーやスタッフにチップを払う義理はない。
だがチップは別にしても、この世界には暗黙のルールやマナーといったものが存在する。その最たるものが、キャストの指名に関する不文律だ。
何度も来ているのになかなか指名を入れない客は、店側の対応も次第に粗略になる。フリー客よりはメンバー客のほうが、利鞘《りざや》がはるかに大きいからだ。フリーはあくまでも客がオキニ──お気に入りのキャスト──を見つけるための、体験コースという位置づけでしかない。指名を入れるメンバー客になって初めて、店はその人間を客として認めるのだ。
強引にフリーを押し通せば、キャストの心理状態にも影響は出てくる。どんなに頑張ってもこの人から指名は取れない≠ニいう意識があれば、自然と接客もおざなりになってしまう。
だが鈴木と名乗るこの男は、かれこれ十回近くこの店に来ているが、まだ一度も指名を入れたことがない。にも拘らず彼がこの店に受け入れられているのは、巧みな交渉で店側の機先を制したからだ。
通常フリー客には何人ものキャストが入れ替わり立ち替わりでつく。基本的にフリー客はその中から自分のオキニを見つけ出すのだ。
しかし鈴木は、一人目と二人目が交替しようとしたとき、マネージャーを席に呼びつけてこんなことを言った。
「──これから定期的に通おうと思うが、おれはいろんな女と話がしたいから、当分指名は入れないつもりだ。鬱陶《うつとう》しいだろうが、大目に見てやってくれないか」
おそらく梅島は、破格のチップを手渡されたのだろう。彼はあっさりとこれを了承し、それ以来鈴木は堂々と店に通い続けている。
しかしマネージャー一人を言いくるめたところで、すべての問題が解消されるわけではない。実際に接客するのはキャストなのだ。ともすればそれが逆効果となって、彼女たちから総スカンを食らう恐れもある。
しかし鈴木は抜かりなかった。彼は気分よく酒が飲めたときには、惜しみなくキャストにチップを振る舞ったのだ。本指名は一時間あたり千円バックプラス一ポイント。鈴木のチップは二、三十分で千円。時間単位で換算すれば鈴木のチップのほうが得だ。しかも鈴木はのべつ幕なしにチップを放出するわけではなく、自分を心地よくさせてくれたキャストにしかチップを渡さない。これがキャストたちの競争心に火をつけたらしく、鈴木のチップ≠ヘたちまち話題となった。
鈴木が来店するのは毎週火曜日の午前一時。初めて来店したときからこのペースは一度も崩れていない。平日のこんな時間だからこそ、鈴木もわがままを通せると踏んだのだろう。
それにしても不思議な人だ。おれのような人間にまでチップをくれるくらいなのだから、結果的に出費はメンバーと同じかそれ以上になっているに違いない。指名を入れたくないというのは、少なくとも金を惜しんでのことではないようだ。梅島に告げた通り、ただ単にいろんな女と喋りたいだけなのか、それとも他に何か目的があるのか──わからなかった。
梅島がおれに目配せした。頷いて踵を返す。厨房の脇を抜けて待機室へ向かった。
ドアを開けて上半身を滑り込ませた。花梨はハッと顔を上げておれを凝視する。視線が交錯した。
花梨ちゃん──言葉を飲み込んだ。中にいるのは彼女だけ。別に名前を呼ぶことはない。
「……フリーの客。十七番。よろしく」
本心とは裏腹にぶっきらぼうな口調になった。何を気取ってるんだ? まるで中坊じゃないか。気恥ずかしさを誤魔化すために苦笑しようとしたが、それすらもうまくできなかった。
「──あ、はい」
花梨は弾かれたように勢いよく立ち上がった。しかし勢いが良すぎた。気持ちばかりが焦って、足がついてこなかったのだろう。
蹴躓《けつまず》いて身体がよろめいた。そのままおれのほうに倒れ込んでくる。宙を掻く腕を掴まえ、彼女を引き起こした。
ひんやりとして吸い付くような肌。柑橘《かんきつ》系の仄《ほの》かな芳香。くそっ、頭がくらくらしやがる。
「大丈夫か?」
辛うじて言葉にした。彼女の横顔を覗き込む。
おやっ、と思った。なんだこの顔は。
驚きの表情。しかしおれが予想していたのとは微妙に違っていた。
次の瞬間、彼女はおれに顔を向けて、支離滅裂な言葉を口走った。
「──あ、おめでとうございます」
「えっ?」
いったい何を言っているのか。おれはあからさまに眉を顰《ひそ》めた。まったく思い当たる節がない。おめでたいヤツだと言われたことはあるが、おめでたいことにはまるで縁がなかった。
「あ……いえ、そうじゃなくて……ごめんなさい」
花梨は頬を赤く染めながら、慌てて前言を取り消した。ちょこんと頭を下げて、逃げるように待機室を出ていく。
「ちょっと──」
その後ろ姿を見送りながら、おれは小さく首を傾《かし》げた。
彼女、本当に大丈夫なのか?
ネイビーブルーのダウンライト。橙《だいだい》色の柔らかな間接照明。細かい気泡が踊る水槽。磨き込まれた黒|御影《みかげ》のカウンター。闇に浮かび上がるカクテルグラス。たおやかで厳粛なインストルメンタル。
そこはまさしく深海の底だった。目の前をリュウグウノツカイが横切っても不思議じゃない。それにしても、このまどろみを誘うような安心感はいったいどこからくるのだろう。まるで母親の胎内にいるみたいだ。
苦笑した。胎内にいたときの記憶が残っているわけでもあるまいし──。
グラスを傾けてシーバスリーガルのロックを舐《な》める。丸く削られた氷がカランと音を立てた。この氷も海洋深層水を凍らせてつくったものだという。そのこだわりようは半端ではない。
腕時計に目をやる。午前二時三十分。エリカはまだ来ない。
店がひけてからのキャストたちは、思い思いの方法で深夜の街に散っていく。客に誘われてアフターに出かけるものもいれば、気の合う仲間だけで繰り出すものもいる。むろん|送り《ヽヽ》を利用してまっすぐ家に帰るものもいるし、店に残って始発までダベり続けるキャストもいる。
おれ自身は──そのときの気分次第だ。機嫌が良ければ亜樹やキコを誘って飲みに行くし、ムシャクシャしていればやはり暇なキャストを見つけて飲みに行く。とはいえ、そう何度も飲みに行ってたら懐も身体も保《も》たない。二日に一度はまっすぐマンションに帰って、一人|侘《わび》しく酒を飲むというのが実情だ。少なくとも一人でこんな店に来て、自己陶酔しながらグラスを傾けるような真似は、絶対にしない。
それがわかっているからだろう、カウンターの向こうでグラスを拭いていたマスターが、珍しく話しかけてきた。
「今日はお待ち合わせですか?」
痩せこけた頬に立派な口髭。鼻先に乗っかった小さな丸眼鏡。後ろで束ねられた長い黒髪。まさに深海魚を地でいくような男だ。オーダーのときには当然言葉を交わすが、私的なことを訊かれたのはこれが初めてだった。
「ん……ちょっとね」
言葉を濁し、苦笑して誤魔化す。明言を避けたのは、エリカが必ずやってくるという確証がなかったからだ。すっぽかされたのならまだいい。単にからかわれただけなのかもしれない。
マスターは小さく微笑んで頷くと、再びグラスを拭き始めた。彼の心遣いを拒絶してしまったようで、なんだか居心地が悪い。おれは気まずい沈黙を振り払うために、ふと思いついたことを口走った。
「──ねえ、通り魔の話、知ってる?」
彼は手を動かし続けたまま、顔だけこちらに向けた。右の眉がピクリと動く。
「ええ、知ってますよ。〈ギャラン〉のコが襲われたんでしょ?」
やはり通り魔か。矢崎の話は本当だったらしい。
「よく知らないんだけど、いったいどんな事件だったの?」
マスターはグラスを拭く手を止め、こちらに向き直った。
「それほど複雑な話じゃありません。店がひけて彼氏のところへ向かう途中、建物の陰から出てきた男に襲われたんです。幸い未遂で終わったみたいですが」
「場所は?」
マスターは大通りへ出る近道となる、細い路地の名前を告げた。眠らない街の数少ないエアポケット。確かにあそこなら通り魔に襲われても不思議はない。
「目的は? 強盗? それともレイプ?」
「後者のようです。服を脱がされかかったそうですから」
「まさか、その場で?」
「さあ、そこまでは私にもわかりません。最後までやるつもりだったのかもしれませんし、とりあえず脱がして逃げられないようにしてから、別の場所へ連れて行くつもりだったのかもしれません」
人通りがなくなるとはいえ、路地の両側には低層ビルが立ち並んでいる。悲鳴を上げられたら必ず誰かが気付くはずだ。そんなところで強姦を目論むなんて、正気の沙汰じゃない。
「犯人の年格好は?」
「二十代後半の小柄な男だったそうです。見憶えのある顔じゃなかったそうですから、少なくとも〈ギャラン〉の客じゃなかったんでしょうね」
キャストは自分を指名してくれる客はもちろんだが、他のキャストの指名客やフリー客の顔も、驚くほどよく覚えている。美幸がそう言うのなら間違いないだろう。
「未遂で終わった理由は?」
マスターは苦笑した。
「すいません。そこまでは……」
「いや、謝ることはないんだけど」
時間つぶしに興味本位で訊いただけなのに、余計なことまで根ほり葉ほり訊いてしまった。照れ隠しにシーバスリーガルを呷《あお》り、お代わりを注文する。なぜ通り魔のことがこんなに気になるのだろう。美幸とは直接面識があるわけでもないのに。
琥珀《こはく》の液を満たしたロックグラスが再び置かれたとき、二十分ぶりに重いスチールドアが開いた。
臙脂《えんじ》色のスーツ、膝上十五センチのミニスカート。エリカだ。目を合わせてもニコリともせず、不貞腐《ふてくさ》れたような表情で近づいてくる。
「おせーよ。アフターにでも誘われたのか? 電話一本くれれば日を改めたのに」
エリカはそれには答えず、無言でエルメスのバッグをカウンターにおいた。しかしスツールにはよじ登らず、マスターに顔を向けて壁際のテーブル席を指差した。
「ねえマスター、あっちに移ってもいい?」
「ええ、構いませんよ。あ、飲み物は私が運びますから」
誰にも聞かれたくない話らしい。おれに目配せして奥へと向かう。壁と水槽に挟まれた、海溝を思わせるテーブル席だ。
おれのグラスを運んできたマスターに、エリカは迷うことなくソルティドッグを注文した。ここのソルティドッグは絶品と言われている。やはり塩にこだわりがあるのだろう。
「ごめんね、こっちから誘ったのに遅れちゃって」
エリカは髪を掻き上げてカールトンのメンソールに火を点《とも》した。表情の険しさは変わっていない。かなりご立腹のようだ。
「何をそんなにムクれてんだよ」
「……しつこいのよ、あいつ」
「あいつ?」
「ああ、もう、思い出すだけでムカつく。なんであたしってこんなに男運が悪いんだろ」
意味がよくわからなかった。しかしあまりしつこく訊くと、今度はこっちにとばっちりが来る。おれは苦笑を浮かべ、無言のままグラスを傾けた。
「タクトも何とか言ってやってよ。あいつ、なぜかタクトのこと慕ってるみたいだから、タクトの言うことなら素直に聞くかもしんない」
ようやく得心がいった。
「矢崎か……何をされたんだ?」
エリカはフーッと勢いよく紫煙を吐き出すと、荒々しく煙草を灰皿に押しつけた。
「別になんかされたわけじゃないんだけど、飲みに行こう飲みに行こうってしつこいのよ。さっきも帰り際に誘われたんだけど、約束があるからって断ったら、『それなら待ち合わせの場所まで送ってく』とか言いだすし……ふつうあんだけ断られれば気付くわよねえ。やっぱ精神年齢低いのよ。帰ってママのオッパイでも吸ってろっつーの。
ああ疲れた。これなら客の相手してるほうがまだマシだわ。客ならちょっと我慢してればお金になるけど、あいつの相手しても一銭にもならないもんね」
「それほどしつこいとは思わなかったな。どうやって逃げてきたんだ?」
「仕方ないからタクシー拾ったのよ。千円損しちゃった」
矢崎は恋愛における駆け引きというものがわかっていないらしい。今まではそんなものは必要なかったのかもしれないが、相手がキャストとなれば話は別だ。彼女たちほど愛に飢えている人間はいない。
矢崎は昨年の春に都内の大学を卒業し、いくつかの職を転々としたあとで、うちの店──〈クラレンス〉で働きだしたと聞いている。生まれてこの方親元を離れて暮らした経験がないせいか、彼は何に関しても甘ちゃんで、自意識が強い。キャストたちからの受けが悪いのも、どこか女を見下すような雰囲気があるからだろう。
卒業した大学は一流とまではいかないが、そこそこ名の知れたところだ。以前在籍していたキャストの中にも、その大学の在学生が何人かいた。
おれには彼のような学はないが、彼よりは使える人間だという自負がある。有名大学卒の男と辛うじて高卒の半端な男。その二人が同じ店、同じ待遇で働いているのだから、世の中は不思議なものだ。
「ねえ、どうすればいいと思う?」
マスターの運んできたソルティドッグを舐めると、エリカは軽く小首を傾げておれの目を覗き込んだ。こんな顔をされたら、誰だって勘違いしてしまう。
「どうするも何も、自分の気持ちをはっきり伝えるしかねえじゃん。私はあなたのこと嫌いです。あまり付きまとわないでください──って」
「そんなことできないよ。それであっさり引き下がってくれればいいけど、あいつ、そういうタイプじゃないでしょ? 下手に刺激して根に持たれたら、仕事もやりにくくなるだろうし……めんどいなあ。なんでこんなことで悩まなきゃいけないんだろ」
エリカの嘆きを聞いて急に馬鹿らしくなった。彼女の言う通りだ。なんでおれがこんなことで悩まなきゃいけない?
「矢崎がいるときはおとなしく|送り《ヽヽ》で家に帰るしかないんじゃねえの。それでもしつこいようならおれに言ってくれ。大したことはできねえけど、それとなく言い含めてみるから。……ところで今日おれを誘ったのは、そのことを相談するため?」
「ああ……ううん、違うの。あいつのことはまだそんなに深刻じゃない。所詮まだ予備軍の段階だから」
「予備軍? 何の?」
エリカは真顔になり、真っ直ぐな目でおれの顔を見据えた。
「ストーカーよ。あいつは確かにうざったいけど、今のところ実害はないわ」
「え……?」
「実はあたし、かなりヤバいヤツに付きまとわれてるの。モノホンのストーカーにね」
ついさっき「男運が悪い」とこぼしていたのは、そういう事情があったからか。シーバスリーガルを舐めて視線を逸らす。なんだか嫌な予感がしてきた。
「でね、そのストーカーなんだけど──」
「ちょっと待った」おれはエリカの話を遮った。「話を聞く前にはっきりさせておきたい。なんでおれにそんな話をするんだ?」
エリカは妖しい微笑みを浮かべた。
「決まってるじゃない。そのストーカーを撃退してほしいの。タクトなら楽勝でしょ?」
エリカはこともなげに言う。おれはかぶりを振って、大仰に溜息を漏らした。いくらエリカの頼みとはいえ、できることとできないことがある。
「ゴキブリ退治とはわけが違うんだぞ。だいいち、なんでおれがそんなことしなくちゃいけねえんだよ。警察に頼めばいいじゃないか。警察が嫌なら、そういうのを専門に扱う業者がいるはずだから、そこに依頼すればいい。いずれにしろ、おれは面倒なのはごめんだ」
「もちろんタダでとは言わない。経費も日当もちゃんと払うわ。バイトだと思って、引き受けてくれない?」
「だから、なんでおれに頼むんだよ。おれはただのフリーターだぞ。ストーカーの撃退なんてできっこない」
「嘘」
「嘘? 嘘ってなんだよ」
エリカは煙草に火をつけ、足を組み替えた。挑むような目でおれを睨み付ける。
「知ってるわよ。クルミちゃんに付きまとってたストーカーのこと。タクトがやっつけちゃったんでしょ? 余計な小細工はしなくていいから、あのときと同じように痛めつけて、二度とあたしの前に現れないようにしてほしいの。お願い。こう見えてもあたし、精神的にかなり参ってるんだから」
「くっ……」
おれは言葉に詰まった。クルミのヤツ、あれほど他言するなと念を押しておいたのに。この様子だと、他にもあのことを知っているキャストがいるのかもしれない。
クルミ。三ヶ月ほど前に店を辞めたキャスト。その後の消息はよくわからないが、池袋の大型系列店で見かけたという噂もある。
クルミが店を辞める直前まで、おれは彼女と付き合っていた。交際期間はおよそ四ヶ月。しかしおれたちの関係は、恋人というにはあまりにもお粗末で、ドライだった。
確かに彼女と過ごす時間は楽しかったし、他の女に手を出そうという気もあまり起こらなかった。それは彼女も同じだったようで、暇さえあればおれに付き合ってくれた。
しかし裏を返せばそれだけのことだった。おれは彼女に「店を辞めてほしい」とは言わなかったし、彼女もおれに「他のコと遊びに行かないで」とは言わなかった。
お互いの自由を尊重したといえば聞こえはいいが、要するにそこまで要求するほど愛し合っていなかったのだろう。おれとクルミは、身体を重ね合うことで心の疵《きず》を舐め合っていただけなのだ。
そんな関係が三ヶ月ほど続いたある日、おれは彼女から妙な相談を受けた。変なヤツに付きまとわれてるから、なんとかしてほしい──という趣旨の相談だ。
一晩五十本以上の無言電話。家の前にバラ撒かれた中傷ビラ。彼女の一日の行動を克明に記録した手紙。窓に投げつけられる小石。
そのときのおれにとって、クルミの敵はすなわち自分の敵だった。今となっては少々短絡的な気もするが、とにかくおれはクルミを付け狙うストーカーが許せなかった。
クルミのマンションに張り付いて二日目、ヤツは姿を現した。三十代後半のスーツ姿の男。見憶えがあった。最近あまり顔を見せなくなったが、クルミの指名客だった男だ。
おれはサングラスと帽子を身につけ、ヤツに歩み寄った。顔を隠したのはおれ自身の保身のためではない。店のことを慮《おもんぱか》ったのだ。
余計な口を利く必要はなかった。おれはいきなりヤツに殴りかかった。一発、二発、三発。悲鳴を上げることさえできずに、無様に逃げ惑うストーカー。反撃どころか防御すらままならない。
ヤツの口から血が流れ出たのを見て、おれは攻撃の手を止めた。目的は報復じゃない、脅しだ。おれは息を整えて口を開いた。
「──これ以上彼女に付きまとったら、今度はこんなもんじゃ済まないからな」
ヤツの首が小刻みに上下に動くのを見て、おれはその場を立ち去った。
その日を境に、ストーカー行為はいっさいなくなった。他にもっとやり方があったのかもしれないが、目的は達せられたのだから、これでよかったのだろう。
目障《めざわ》りだった。鬱陶しかった。だから排除した──それだけのことだ。もちろん報酬をもらったわけでもない。好きこのんで見知らぬ人間を痛めつけたわけでもない。
だが──あのときの感触。蛆虫《うじむし》を捻り潰した瞬間の恍惚感。気分が良くなかったと言えば嘘になる。
女を脅かして悦に入るストーカー。人間の屑。害虫。それを駆除する。叩きのめす。それを望んでいる女がいる。報酬を得る。爽快感。決して悪いことじゃない。
「……とりあえず話だけは聞こう。ヤバそうな相手なのか?」
「ストーカーだよ。ヤバいに決まってんじゃん」
「いや、そういう意味じゃなくて……そいつの正体はわかってるの?」
エリカは困惑の表情を浮かべ、小さく頷いた。思い出すのも不快なのだろう。
「知り合いなのか?」
「うん。タクトも憶えてるんじゃない? クラさんよ」
「クラさん? えっ? 大倉さん?」
「そう。あの人に付きまとわれてるの」
大倉──通称クラさん。エリカにご執心で、一時期は毎週のように店に通っていた男だ。
三十代前半の会社員と聞いているが、店に来るときはいつもラフな格好だった。そういう格好でも差し支えない仕事をしているのか、それとも一度家に帰って着替えてから来ているのか。勤務先の業種が謎に包まれていたため、詳しいことはわからない。
それにしても、あのクラさんが? にわかには信じられなかった。
決して金回りがいいわけではなかったし、容姿もとりたてて優れているわけではなかったが、遊び方はきちんと心得ていたし、何よりも話術が巧みで、キャストを乗せるのがうまかった。梅島を始め男性スタッフの受けもよく、エリカが不満を漏らすのも聞いたことがない。客としてはかなり良質なほうだったはずだ。
「そういえばここんとこ店に来てないな。かれこれ二ヶ月……いや、三ヶ月くらいになるか。どうしてそんなことになったんだ?」
エリカは再びカールトン・メンソールを取り出すと、慣れた手つきで火を点した。
「……何度目かのアフターのときに、デートに誘われたのよ。あんまし気は進まなかったんだけど、悪い人じゃないし、彼とも別れたばっかだったから、何となくOKしちゃったの。デートは可もなく不可もなく終わったんだけど、それからが大変。なんかすっかりその気になっちゃったらしくて、毎日のように電話がかかってくるの。『店でゆっくり話しましょ』って言っても、『あそこじゃ二人っきりになれないし、余計なお金がかかるじゃないか』なんて言うのよ。あんまりしつこいからだんだん無視するようになったんだけど、そしたらストーカーになっちゃったってわけ」
金で買う愛情。金で売る愛情。客とキャストはそれを承知のうえで、疑似恋愛の時間を楽しむ。店という舞台なしでは、決して成り立たない虚構の世界だ。
その舞台が取り外されたらどうなるか──たった一度のデート。エリカにとっては仕事の延長に過ぎなかった。しかし大倉の受け止め方は違っていた。彼は二人の間に存在していた疑似という障害を、意識の奥に閉じこめてしまったのだ。非はむろん大倉にある。しかし、軽率な行動をとったエリカにも問題はあった。
「電話は? 今も続いてるのか」
「着信拒否ができるようになったから、以前ほどではなくなったけど、ときどきかかってくる。たぶん公衆電話からかけてるのね」
「仕事用の携帯のほう?」
エリカは無言で頷いた。ほとんどのキャストは仕事用と私用の携帯を使い分けている。私用のほうにかかってこないだけ、まだマシというべきだろう。
「話の内容は?」
「前は会いたい、会いたい、ばっかだったけど、最近はおかしなこと言うの。『今日のスーツはよく似合ってる』とか、『今日同伴した客は借金取りに追われてるぞ』とか。まるで監視されてるみたいで、気味が悪いわ」
みたい≠ヘ必要なかった。彼女は間違いなく大倉に監視されている。自分でもそれがわかっているからだろう、エリカは小さく身震いして腕を掻き抱いた。
「実際に後を尾《つ》けられたことはあるのか?」
「うん。尾けられるどころか、腕を掴まれて『これからデートしよう』って誘われたこともある。そのときは何とか振り切って逃げたけど」
「なるほど。かなり重症だな。他には?」
エリカは視線を逸らし、遠い目をした。指の間に挟まれた煙草の先から、紫煙が昇り竜のようにくねくねと立ち上っていく。
「何度か部屋の前まで来られたこともあるわ。変な手紙置いてったり、ノックしてあたしを呼んだり……こないだなんか、帰ってきたらあいつが部屋の前にいて、ドアスコープを覗いてたの。薄気味悪くてその日は家に帰れなかったわ。よく考えたらどうってことないんだけどね。外からドアスコープ覗いても、何にも見えないんだから」
真実を告げるべきかどうか一瞬|躊躇《ちゆうちよ》した。しかし、放っておいたら危険が増すばかりだ。
「……いや、見えるんだよ。そういう道具があるんだ。その辺にあるいかがわしい店でも売ってるだろうし、ネットの通販でも簡単に手に入る。使ったことないからよく知らないけど、内側から普通に覗くのと同じように見えるらしい。パンツ一丁でウロウロしてるとことか、酔い潰れてゲロってるとことか、見られてたかもしれないぜ」
最後のほうは冗談めかした口調で言ったが、エリカの青ざめた表情は変わらなかった。
「そんなこと、しないわよ……」
パンツ一丁で部屋をうろついたり、だらしなく酔い潰れたことはないだろうが、男を招き入れたことくらいはあるだろう。情事の一部始終を覗かれていたのだとしたら──確かにゾッとしない。エリカが顔色を失うのも無理はなかった。
「部屋の前まで来るようになったのは、いつ頃から?」
「一ヶ月前くらいかなあ」
「どれくらいのペースで?」
「週一くらいだと思うんだけど、ほんとはもっと来てるのかもしんない」
「監視してるようなことを電話で言いだしたのも? 一ヶ月前?」
「そうね。それくらいだと思う」
何かが引っ掛かった。シーバスリーガルを舐めて頭を整理する。
「ええと……つまり、デートしたのが一ヶ月前ってことか」
「違う。デートは二ヶ月前よ」
「えっ? ということは、デートの直後からストーカー行為がエスカレートするまでの間に、一ヶ月もブランクがあったってこと?」
「別にブランクってわけじゃないわよ。会いたい、っていう電話は毎日かかってきてたんだから」
どうも釈然としない。だがストーカーにはストーカーなりの事情というものがあるのだろう。いくら追及したところで、彼らの心理状態を理解できるはずがなかった。
おれは質問の矛先を変えた。
「マンションはオートロックじゃないのか」
「まったく出入り自由よ。場所柄学生や水商売関係の人が多いみたいだから、どんなヤツがうろついていようと気にも留めない」
「引っ越すつもりは?」
「ないわ。あたしあのマンション結構気に入ってるの。店にも近いし、コンビニは目の前にあるし、家賃も意外と安いし。だいいち引っ越したところで、あいつの執念なら絶対に転居先を見つけ出しちゃうに決まってる。逃げても無駄よ」
逃げても無駄、ではなく、逃げたくないのだろう。エリカは自分に落ち度があったとは微塵も思っていない。だからこそおれに「痛めつけて」くれと頼んでいるのだ。徹底抗戦──彼女は円満解決など望んでいなかった。
「クラさんってリーマンじゃなかった?」
「転職したって話は聞いてないから、まだ勤めてるはずよ」
「なんて会社?」
「井手産業。井戸の井に手足の手」
エリカは乱暴に煙草を押し消して、吐き捨てるように言った。
「何してる会社だっけ」
「それが、あたしにもよくわからないの。仕事に関することは何を訊いても答えてくれなかったから。いずれにしろまっとうな会社とは思えないわ。普通のリーマンにはストーカーする暇なんてないもんね」
そもそも大倉がリーマンかどうかも怪しいところだ。名刺くらいなら誰にだって簡単に作れる。
沈黙が流れた。
細かいところまでは確認できていないが、とりあえず大まかな状況は把握できた。確かにかなり深刻なようだ。と同時に、そんな状況でよくナンバーワンを勝ち得たものだと、妙な感心をしてしまう。
「……じゃあ費用のことを決めてしまおう。金絡みのことははっきりさせといたほうがいい。後で揉めたくないからな」
曇りがちだったエリカの瞳がわずかに煌《きら》めいた。彼女にはやはり笑顔が似合う。
「じゃあ、引き受けてくれるの? ありがとう、タクト」
ここまで聞いておいて断ったら、後で何を言われるか知れたもんじゃない。キャストたちの耳にも当然入るだろう。彼女たちを敵に回すくらいなら、ストーカーと戦うほうがよほどマシだ。
「相場なんて知らないし、知ってたとしても関係ない。いくらでおれを雇いたいのか、エリカの希望を言ってくれ」
「そうね……」
エリカは首を傾けるようにして天を仰いだ。具体的な金額までは想定していなかったらしい。
やがて彼女はおれに視線を戻して、悪戯《いたずら》っぽく微笑んだ。
「必要経費別で、日当一万。成功報酬は別途十万。これでどう?」
金額に不服はなかったが、ちょっとだけ彼女をからかってみたくなった。
「OK、充分だ。ところで、成功報酬を現物支給にする気はないか?」
エリカは眉を顰《ひそ》めた。
「現物支給って?」
「ほら、わかるだろ? おれもいちおう男だからな」
「ああ……そういうこと」
腹を立てるか一笑に付すかのどちらかだと思っていたが、エリカは何も言わずにソルティドッグを舐めると、複雑な表情を浮かべて水槽を見つめた。青いネオンの光を浴びて、彼女の横顔が氷像のように輝く。
水商売の女は意外と身持ちが堅い。特にキャバクラで働くキャストは、客から簡単にヤラせてくれる商売女≠ニ勘違いされることが多いので、それに対する反発心もあるのだろう。むろんキャストの中には、指名を取るために簡単に客と寝るマクラ≠烽「るが、そんなのはごく僅かだし、結局長続きしない。
まさか彼女がこれほど真剣に悩むとは思わなかった。これじゃあ弱みにつけ込んでいるみたいだ。おれは慌てて撤回した。
「──冗談だよ、冗談。ちょっと言ってみただけだ」
「ごめん、タクトなら別にいいんだけど……考えとくわ」
重苦しい空気を追い払うために、おれは努めて明るい声で話題を変えた。
「じゃあ今日から早速始めよう。一緒に帰ったりすると余計な刺激を与えるかもしれないから、少し距離をおいて、見張りながら後を尾けていく。それでいい?」
「うん、やり方はタクトに任す。でも、今日は大丈夫だから、明日からでいいわ」
「え? どうして?」
「火曜日──正確にはもう水曜日になっちゃったけど、火曜の夜はなぜか一度も接触してこないの。何か用事があるのかもしれない。タクトにこんなことを相談できたのも、今夜が火曜の夜だったからよ」
火曜の夜はストーカー行為ができない──頭の中に叩き込んだ。後々重要な意味を持つことになるかもしれない。
「ところで、他にもこのこと知ってる人はいるの?」
「店の中で?」
無言で頷く。エリカは大きな瞳をぐるっと回した。
「樹利亜《じゆりあ》さんとリサさんは知ってるわ。クラさんだとは言ってないけど……。あと、花梨ちゃんもなんか知ってるみたいだった」
意外な名前が出てきた。危うくグラスを倒しそうになる。
「花梨ちゃん? 今日が初対面だろ? なんで彼女がそんなこと知ってんだよ」
「そんな気がしただけよ。たまたま二人で話してたら、花梨ちゃんが突然、『トラブルを抱えてるなら、早めに手を打ったほうがいいですよ。放っておいたら大変なことになります』──なんて言い出したの。それらしいことを仄めかしたつもりはないけど、あたしの様子を見て何か感じ取ったのかもしれない」
あり得ない、と思った。性格から私生活まで知りつくした親友同士ならまだしも、エリカと花梨はまったくの初対面だ。二言三言話しただけで、そこまで見抜けるはずがない。
「ひょっとして、今日突然おれに声をかけたのも──」
「別にそういうわけじゃないんだけど……ま、気にならなかったと言えば嘘になるわね。彼女、すごく真剣に心配してくれてたから」
花梨──不思議なコだ。ますます興味が湧いてきた。
今日限りかもね──亜樹の言葉が蘇る。その予測が外れることを、おれは心の底から願っていた。
一眠りして目覚めたとき、時刻はまだ十二時五分前だった。いつもより少し早い。エリカに依頼された仕事のことが、意識の片隅に引っ掛かっていたせいだろう。
おれはベッドを降りて勢いよくカーテンを開けた。窓の外で待機していた光の渦がなだれ込んでくる。思わず顔を顰《しか》めた。真っ昼間の陽光は、寝起きの頭には刺激が強すぎる。いったん窓から離れて、テーブルの上にあるパソコンの電源を入れた。
起ち上がるまでの時間を利用して、歯磨きと洗顔に勤《いそ》しむ。
ようやく目が慣れてきた。窓の向こう──いつもと変わらぬ薄汚れた路地。アジア系の女が一人、ハイヒールの音を響かせながら颯爽《さつそう》と歩いている。正面のアパート。婆さんの洗濯物が風に揺れていた。
携帯電話をチェックする。メールが二件。
一通目──『コウジ退院。近いうちに退院祝いやってやろうぜ』
アキラには別件で話したいことがある。あとで電話すればいいだろう。
二通目──『すごいよ、これ。こんなの初めて。すごい。ちょーいい感じ。一緒にやらない? ブッ飛んじゃう。タクトならきっとハマると思うよ』
首を捻った。意味がよくわからない。
署名は〈たま〉となっているが、そんなふざけた名前の人物は、おれの知り合いには存在しなかった。しかし向こうはおれのことを知っているようだ。悪戯だろうか。
文面を見る限りは女のようだが、ちょっとヤバそうな匂いもする。とりあえず放置することにして、おれはパソコンの前に座った。
インターネット・エクスプローラーを起ち上げ、検索エンジンを呼び出す。キーボードで「井手産業」と打ち込み、検索ボタンをクリックした。
八件ヒット。重複しているページがあったため、実際に「井手産業」を名乗っている会社は、四社だった。
岩手県の造園業者、福岡県のシロアリ駆除業者、同じく福岡県の塗装業者、そして埼玉県の家具製造業者。
全国展開している企業はない。一番近いのは埼玉県所沢市の「井手産業」だが、ここも川越市に営業所があるだけで、都内に手を伸ばしている様子はなかった。
エリカにもらった大倉の名刺を取り出した。住所と電話番号もしっかり明記されている。井出産業の所在地は新宿。四社ともハズレだ。しかしこれはある程度予想していたことだった。ウェブで簡単に検索できるのは、まともな会社だけだ。
携帯でアキラを呼び出した。
「──はい」
三コール目で繋がった。雑踏の音。屋外にいるらしい。
「メール見たぞ。コウジは元気か?」
「さすがにまだ少しショックの後遺症が残ってるみたいだけど、あいつはあれくらいがちょうどいいんじゃないか? あれじゃあ女ともヤれないだろうし」
コウジは一ヶ月ほど前にバイクで自損事故を起こしている。右膝前十字|靭帯《じんたい》の断裂。四週間の入院。ギプスは外れているが、当分はリハビリが必要らしい。確かにあいつにはいいクスリだ。
「退院祝いするのは構わないが、本人は大丈夫なのか」
「大丈夫もなにも、言い出しっぺは本人なんだ。思うように動けないから、ヒマでヒマで死にそうなんだとよ。どうだ? 時間取れそうか?」
「それが、ちょっと面倒なバイトを引き受けちまって、明日くらいしか時間が取れそうもないんだ」
「明日? 上出来じゃないか。明日にしよう。八時でいいか?」
「OKだ。どこに行けばいい?」
「〈龍の巣〉にしよう。コウジのヤツ、きっと喜ぶぞ」
アキラは電話では無駄話をしない。切られそうな気配がしたので、慌ててもう一つの用件を切り出した。
「待ってくれ。訊きたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「井手産業って知ってるか?」
「井手産業? さあ、聞いたことないな」
アキラは筋金入りのフリーターだ。同じ仕事は長くても半年も続かない。それは裏を返せば、ありとあらゆる仕事を経験しているということでもあった。
コンビニ、居酒屋、レストランなどは言うに及ばず、他にもバーテン、カラオケボックス、引っ越し屋、バイク便、運転手、道路工事、交通整理、ステカン、ティッシュ配り、ピザ屋、酒屋、呼び込み、ゲーセン、ボウリング場、ハウスクリーニング、興信所、ホストと、数え上げたらキリがない。やり残しているのは警官とやくざ、ゲイバーくらいのものだ。
この街には星の数ほどの事務所や店舗が存在し、しかもひっきりなしに入れ替わっている。すべてを把握するのは事実上不可能と言われているが、アキラの持つ情報量は半端じゃない。この街は彼の人生そのものなのだ。
しかしそのアキラも、井手産業については聞いたことがないという。かなり小さい会社か、個人商店の類なのだろう。
「その会社がどうかしたのか?」
「頼まれてちょっと調べてるんだが……どんな会社なのか、今ひとつわからないんだ」
住所を告げると、アキラは小さく唸った。
「吉田ビルの近くだな。あの辺にはワケのわかんねえ事務所が腐るほどある。なんなら格安で調べてやろうか?」
少し考えた。そこまでやる必要があるだろうか。クルミに付きまとったストーカーと同様、一発ぶちのめしてやれば済むような気もする。
しかし、大倉のストーキングはかなり陰湿だ。排除するのは容易《たやす》いだろうが、そのあとが怖い。できれば弱みを見つけておきたかった。
「──じゃあ頼むよ。大倉ってヤツがいるはずなんだが、そいつを重点的に」
「わかった。じゃあ明日、八時に」
電話が切れた。言葉を返すヒマもなかった。
アキラに無駄骨を折らせるつもりはない。そのまま井手産業の電話番号をプッシュした。
六コール、七コール、八コール。
時計を見る。一時五分前。昼休み中は電話を取らないのだろうか。それとも、やはり──。
嫌な予感を覚えたとき、突然受話器が取り上げられた。声色を使って「もしもし」と話しかける。
「はい、ナンですか」
苛立たしげな中年男の声。コール音がうるさいから仕方なく電話を取った、という感じだ。しかし問題はそんなことではなかった。
たどたどしい喋り方と妙なアクセント──賭けてもいい。この男は日本人じゃない。
「あ、あの……大倉さんはいらっしゃいますか」
「ダレですか?」
「大倉さんです」
「イエ、あなたは?」
「あ、私はゴールデン・アローの高橋と申します。井手産業さんですよね?」
「ゴールデン・アロー? 知らないデス。用件は?」
南米系か、それともアジア系か。声だけではなんとも判断がつかない。おれは声色を使うのをやめて、ゆっくりと言葉を継いだ。
「大倉さんに替わっていただけませんか」
「大倉、今、イナイです。用件、どうぞ」
「大倉さんに用があるんです。何時頃お戻りですか」
「ワカリません。ワタシ伝えておきます。どんなコトですか」
「じゃあ、電話があったことだけ伝えておいてください。またかけます」
そう告げると、電話は一方的に切られた。携帯を放り投げてベッドに倒れ込む。
名刺に嘘偽りはなかった。井手産業かどうかは確認できなかったが、電話は確かに繋がったし、大倉という社員も在籍しているようだ。しかしそれ以外のことは何もわからなかった。むしろ謎が増えただけだ。
何の会社なのか。なぜ外国人が電話に出たのか。そして大倉はどこで何をしているのか。
アキラの報告を待つしかないが、勤務先関係から弱みを引き出すのは難しいかもしれない。普通のリーマンならストーカー行為を会社にバラす≠ニ脅せば、かなり高い確率で抑止効果が期待できる。しかし大倉にそれが通用するとは思えなかった。居直られるだけのような気がする。
携帯が鳴った。メールのほうだ。
コウジからだった。
『アキラに聞いた。明日よろしくな。二次会は〈ブーザー〉にしようぜ。もちろんおまえたちの奢《おご》りで。楽しみにしてるよ』
苦笑して再び携帯を放り投げた。〈ブーザー〉──三丁目にある高級クラブ。一流のホステスと一流の接客を売りにしている。もちろん飲食代も一流だ。一度行けば半月分の給料が吹っ飛ぶ。宝くじにでも当たらない限り、おれたちが足を踏み入れることはないだろう。
宝くじか──そう呟いた瞬間、ふと思い出した。ベッドから起き上がってパソコンに向かう。ディスプレイはまだ、所沢市内にある「井手産業」のホームページを開いていた。
スポーツニュースのページを呼び出し、Jリーグの試合結果を確認する。ジュビロ──勝利。FC東京──勝利。レッズ──勝利。
「おいおい、マジかよ」
独り言を呟きながら、財布に挟んでおいたtotoのチケットを取り出した。先日安部に勧められて、初めて購入したサッカーくじだ。ランダム1000と呼ばれる仕組みを利用して、ジュビロとレッズ、それにFC東京の勝利だけ予想し、あとの十試合はコンピュータの判断に任せて、十口購入した。自分で予想した三試合が的中したのだから、当たっている可能性はある。
totoの公式ページに飛んだ。結果情報のページにジャンプして、自分のチケットと照合する。
結果は「2121212110011」。「1」はホームチームの勝利、「2」はアウェイチームの勝利を示し、「0」は引き分けを示す。
一口め──ハズレ、二口め──ハズレ……。見ているうちに、自分の考えが浅はかだったことに気付いた。
三試合的中したといっても、確率が3の13乗分の1から3の10乗分の1になっただけの話だ。3の10乗分の1というと……バカバカしい。計算する気にもならなかった。
半ば諦めかけて、惰性で数字を追っていたそのとき──おれは目を疑った。
八口めの数字──「2121212110211」。指定試合番号十一のベルマーレ対アルティージャの予想が外れていたが、それ以外はすべて的中していた。十三試合中十二試合的中──つまり、二等。
二等の当選金額を見る。当選口数七四三。当選金額三一〇三三八円。ちなみに一等の当選金額は約四八〇〇万円だった。
信じられなかった。目を擦り、指で追いながらもう一度再確認する。間違いない。
「当たっちまった……」
喜びがジワジワと背中を這い上がってきた。三十一万円。狂喜乱舞するほどの額ではないが、冷静さを保てるほどの端《はし》た金《がね》でもなかった。
再び携帯を拾い上げた。誰かとこの喜びを共有したい。真っ先に浮かんだのはコウジの顔だ。これだけあれば充分〈ブーザー〉に連れて行ける。
親指でメールを打ち始めた。頭の奥で彼女の声がしたのは、そのときだった。
──おめでとうございます。
まさか。偶然に決まってる。
指先に意識を集中し、幻聴を振り払う。
できなかった。それどころか、あの場面の映像までもが鮮明に蘇ってきた。
──あ、おめでとうございます。
おれに倒れ込んできたときの花梨の言葉。あれはこのことを示していたのだろうか?
待機室に彼女を呼びに行ったのが午前一時過ぎ。当然のことながら試合はすべて終わっていた。つまり、あのときすでにくじの結果は出ていたのだ。
しかし、おれのくじが的中しているという事実を、彼女が知る機会はあっただろうか。何しろ本人が知らなかったくらいなのだから、他の誰かから聞いたとは考えられない。そもそもおれがサッカーくじを購入したことを知っていたのは安部だけだし、その安部は昨日は休みだった。
残された可能性はただ一つ──それは、何かの折にたまたまおれの財布の中身を見て、チケットの予想を記憶していたということだ。いや何かの折だとかたまたまはあり得ない。おれの財布を盗みでもしない限り、そんなチャンスは一度もなかったはずだ。
「──どうかしてる。ただの偶然だ」
自分に言い聞かせるように呟いて、妄想を払いのけた。あれが花梨じゃなかったら、別になんとも思わなかったのだろう。どうも花梨の影に惑わされているようだ。
チケットを戻しながら、何気なく財布の中身を点検した。
盗まれている物はなかった。
午後六時二十分。幡ヶ谷駅近くのハンバーガーショップは混み始めていた。外回りのリーマンや帰宅途中の学生の姿が目立つ。
おれは二階の窓際の席で、商店街の往来を見下ろしていた。コーヒーはとっくに飲み干してしまっている。お代わりは無料らしいが、店員に申し出てまで飲みたいとは思わなかった。
再び時計を見る。六時二十一分。針の進みが遅い。
六時半まで待っても来なかったら、いったん店を出て場所を変えるか──そう思いかけたとき、商店街と交差する路地の陰から、派手な感じの女が姿を現した。
襟刳《えりぐ》りの深い濃紺のブラウス、芥子《からし》色のタイトミニ、豹柄のバッグ、ライトブラウンのセミロングヘア、肉感的でいながら無駄のない二本の脚。エリカだ。
慌てる必要はなかった。行き先はわかっている。おれは座ったままエリカの後方に注意を向けた。
自転車に乗った親子、群れた学生、疲れ顔のリーマン、買い物帰りの主婦──どこにでもある商店街の風景。これといって不審な点は見られない。
エリカが店の前を通過したのを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。ゴミとトレイを片づけて階段を降りる。
店を出てまず最初に、エリカが歩いてきた方向に視線を向けた。薄闇に包まれた小さな商店街。大倉が潜んでいる様子はない。
駅の方角に顔を向けると、辛うじてエリカの後ろ姿が見えた。その距離約三十メートル。追尾を始める。
エリカはまっすぐ駅構内に入っていった。堂々とした後ろ姿は店にいるときと変わらない。怯えや焦りは感じられなかった。今日はまだ何も起きていないのだろう。
そのまま彼女が店に着くまで尾行を続けたが、大倉は姿を現さなかった。おれの存在に気付いたとしたら大したものだが、感情の赴《おもむ》くまま行動しているストーカーに、そんな余裕があるとは思えない。ターゲットを監視するだけで精一杯のはずだ。
エリカに続いてビルの中に入っていくと、彼女はエレベーターの階数表示板を睨み付けていた。おれの姿を認めて目を見開く。
「タクト──ひょっとして、ずっと後を尾けてたの?」
「契約は今日からじゃなかったっけ?」
「……ごめん、ちょっとビックリしただけ。え? ということは、家を出たときから?」
「正確には家を出る二時間前から」
エリカは複雑な表情を浮かべた。
「あまり変なことはできないってわけね。ま、あたし自身が望んだことだから、文句は言えないけど」
「一週間以内にはケリをつける。少しだけ辛抱してくれ」
「あ、そういう意味で言ったんじゃないのよ。タクトは自分の思うように──」
エレベーターが降りてきた。二人でそれに乗り込み、店のある七階のボタンを押す。
扉が閉じられ、エレベーターが上昇し始めた。狭い密室で二人きり。せっかくの機会を気まずい沈黙で埋めるつもりはなかった。
「盗聴バスターは? 連絡したのか?」
「あっ、そうそう。まずそれを報告すべきだったわね。朝一で連絡したら、すぐ来てくれたよ。盗聴器は見つからなかった。とりあえず一安心ね」
ストーカーの常套手段、盗聴。昨夜の別れ際、おれはエリカに盗聴バスターの手配を提案した。大倉を部屋に入れたことはないから大丈夫、とエリカは楽観的だったが、盗聴器は思わぬ場所に思わぬ方法で仕掛けられている。極端な話、大倉とは無関係の第三者が盗聴器を仕掛け、それを大倉が傍受している可能性もあった。専門家に依頼すれば費用はかかるが、それで安心が手に入るのなら安いものだ。
「よかった。これで符牒を考える手間が省けた」
「フチョウ? 何それ?」
「仲間うちだけで通じる言葉のこと。まあ、暗号みたいなもんだ」
「ええっ、本気でそんなこと考えてたの?」
おれはエリカを睨み付けた。
「当たり前だろ。おれを雇ったことが本人にバレたらどうなると思う。ビビってエリカのことを諦めてくれればいいけど、逆上して強硬手段に出る可能性だってある。そうなったら撃退なんてとても無理だ。本気で大倉を遠ざけたいのなら、おれの存在を気取られないほうがいい」
「そっか……ごめん。タクトがそこまで真剣に考えてくれてるとは思わなかった」
エレベーターが七階についた。そのまま店のエントランスを潜《くぐ》る。カウンターで電卓をうつ梅島の姿が見えた。
「じゃあ、何かあったら携帯にメールしてくれ。今日のアフターの予定は?」
「わからない。お客さん次第ね」
エリカを先に行かせた。彼女が「おはようございます」と梅島に声をかける。梅島は唸るような返事をして顔を上げた。
続いておれが挨拶すると、梅島は躯を起こして下卑た笑みを浮かべた。
「遅刻の理由は訊かないでおこう。でも、あまり目立ったことはしないでくれよ。エリカはウチのナンバーワンなんだから」
エリカが振り返った。
「大丈夫よ、マネージャー。タクトは誰かさんと違って、すっごく要領がいいんだから」
「そりゃどういう意味だよ」
エリカはフフッと明るく笑うと、軽やかな足取りで奥のほうへと消えていった。それを見て梅島がポツリと呟く。
「最近ちょっと元気がなかったけど、今日はご機嫌じゃないか。なんかいいことでもあったのか?」
おれは慌てて手を振った。
「知りませんよ。下で偶然一緒になっただけなんだから」
梅島は興味を失ったように顎をしゃくった。
「わかってるよ。早く着替えてこい」
ウナギの──というより、ドジョウの寝床のようなロッカールームに入っていくと、一足先に着替えを終えた安部が、煙草を吹かしていた。
「昨日なんかあったのか?」
「いや、特に変わったことは……あ、そうだ。おまえに礼を言っておかなきゃな」
「礼? なんのことだ?」
安部は眉を顰めて警戒心をあらわにした。他人の言葉を素直に受け取らないのは、こいつの悪い癖だ。
「当たったんだよ、totoが」
「うそっ、あのとき買ったやつか? マジかよ。えっ、一等?」
「ちげーよ。一等は四八〇〇万だぜ。当たってたらこんなところにいるわけねえじゃん。二等だよ」
「配当金は?」
「約三十一万。今までギャンブルには手を出さないようにしてたけど、のめり込むヤツの気持ちがよくわかった。とにかくおまえには感謝してるよ。ほんとうにありがとう」
腰を折って深々と頭を下げた。しかし安部は誤魔化されなかった。
「ジイさんの遺言で、形のない誠意は受け取らないようにしてるんだ。言葉や気持ちなんて、所詮信用できないからな」
安部のジイさんはまだ健在のはずだ。かといって彼の言葉に反発するつもりはなかった。おれだって礼の仕方くらい心得ている。コウジには〈ブーザー〉を諦めてもらうしかないだろう。幸いタイミングを逃してしまったおかげで、totoの当選の件はまだ伝えていない。
顔を上げて安部に笑いかけた。
「わかってるよ。何を奢ってほしい?」
安部も相好を崩した。
「焼き肉。〈莫耶《バクヤ》〉がいいな。もちろん一番高いコースだ。いつにする?」
平日と土曜の夜は、おれと安部の休みが重なることはない。閉店後という手もないではないが、どうせなら店のない日曜の夜がいいだろう。
問題は、エリカに依頼された仕事のほうだった。今日を入れてあと四日。微妙なところだが、大倉は今日か明日には姿を見せるはずだ。四日もあればなんとかなる。
「今度の日曜日はどうだ?」
「大丈夫だと思う。そうだ、せっかくだから店のコにも声かけようぜ。ヒマそうなヤツ何人か見繕って」
おれは「うーん」と曖昧な返事をして頭を掻いた。
「誘うのはいいけど、二人までにしてくれないか。あんまり大袈裟にしたくないんだ。マネージャーがうるさいからな」
「わかったわかった。キコと久美あたりでいいか?」
「あれ? 梓は誘わないのか?」
梓は安部のオキニだ。まだモノにはできていないようだが、安部の言葉を借りればそれも「時間の問題」らしい。彼女も付き合いはいいほうだから、予定がなければ来てくれるはずだ。
しかし安部は沈鬱《ちんうつ》な表情を浮かべて、不可解なことを呟いた。
「……さすがに誘いづらいな。いつ出てくるかもわからないし」
「何言ってんだよ。今日は出勤日だろ?」
「知らないのか? 彼女は今日当欠だ」
「当欠? なんで?」
当日欠勤は罰金の対象となる。事情に拘らず日給の半額分が給料から差し引かれるのだ。それを承知のうえで休むのだから、よほど切羽詰まった事情があるのだろう。
「詳しいことはわからないが、何かトラブルがあったらしい。それを知りたかったから、おまえに昨日のことを訊いたんだ。まあいいや。久美に訊けば何かわかるだろうし」
開店五分前、梅島が従業員全員をフロアに集めた。店長から話があるのだという。
テーブルを拭いていたおれは、灰皿を置きにきた安部と顔を見合わせた。終礼は毎日行っているが、始業前の招集は異例だ。少なくともおれには憶えがない。
ピンときた──梓のことだ。
梅島の周りにキャストたちが集まってきた。どの顔にも不安と困惑の色が浮かんでいる。その数およそ二十五人。今日は三十人態勢と聞いているから、残り数人は同伴出勤なのだろう。
言い知れぬ緊張感に包まれながらも、おれの目は無意識のうちに彼女の姿を捜していた──いた。花梨だ。
真っ直ぐな瞳が、今は憂いを湛《たた》えて僅かに潤んでいる。躯は決して大きくないが、その存在感は樹利亜やエリカにも負けてはいなかった。
なぜこれほど気になるのか──自分の心情を正しく分析できないことに、おれはもどかしさを感じ始めていた。確かに彼女は好みのタイプだが、こんな気持ちになるほどの上玉じゃない。そもそもおれは、いわゆる一目惚れをするような人間じゃなかったはずだ。
「──おはようございます」
梅島の声で我に返った。従業員たちが覇気のない挨拶を返す。
「まもなく開店ですが、店長のほうからお話があるそうです。それでは店長、お願いします」
梅島が一歩後ろに退くと、地味なグレーのスーツに身を包んだ三十過ぎの女が、隙のない視線を走らせながら歩み出た。
店長──客の間では麗子ママで通っている。クラブと違い、この手の店にはママをおかないのが普通だが、オーナーが彼女を店長として迎え入れたため、結果的にママのような存在になってしまったのだ。
店長として引き抜かれる前は、銀座の高級クラブでホステスをしていたらしい。物腰、話術、仕種、駆け引き──接客のテクニックはどれをとっても一級品で、あえて彼女を指名する客もいるほどだ。
アップにした髪、知性的な銀縁眼鏡、スモーキーローズの口紅。キャリアウーマン然とした抑圧的な姿が、香り立つ色香をいっそう際立たせている。彼女は小さな咳払いをして、ゆっくりと口を開いた。
「おはようございます。あまり時間がありませんから、早速本題に入らせていただきます。
すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、実は昨日──正確には今日の未明になりますが、帰宅途中の梓さんが何者かに襲われました。幸い梓さんに怪我はなく、これといった被害もなかったようですが、今日は大事をとって店をお休みするそうです。躯のほうは大丈夫でも、やはり精神的なショックが大きかったんでしょう。明日か明後日にはまた元気に復帰してくれると思いますが、そういう事情ですから、余計な詮索をしたり無神経なことは言わないよう、配慮してあげてください。
それから、ここ最近キャストやホステスを狙った通り魔事件が多発しています。特にこの近辺で働くコが狙われているみたいなので、みなさんくれぐれも注意してください。店がひけた後のことまでとやかく言うつもりはありませんが、終業後はできるだけ|送り《ヽヽ》を利用して、まっすぐ家に帰るように。自分の身は自分で守るしかないのですから。
私からは以上です。何か質問は?」
激しい怒りと驚きを覚える一方で、何の違和感もなくその事実を受け入れている自分がいた。〈ギャラン〉の美幸が襲われたと聞いたときから、頭のどこかでこうなることを予感していたのかもしれない。
横目で花梨の様子を窺《うかが》う。樹利亜の陰に隠れてよく見えなかったが、かなりショックを受けているようだ。遠目にも顔が青ざめているのがわかる。
麻里がおずおずと手を挙げた。
「あの、梓さん、どこで襲われたんですか? この近く?」
「詳しい場所までは知らないけど西口のほうみたいね。朝までやってるおいしい沖縄料理屋があるとかで、友達と店で落ち合う約束をしてたんですって。タクシーで乗りつければよかったのに、ケチって歩いたりするから……」
「警察には届けを出したの?」
「本人はそう言ってたわ」
「〈ギャラン〉の美幸を襲ったのと同じヤツなんですか?」
「それは警察に訊いてちょうだい。さあ、もういいかしら」
「あの……」梓と一番仲のいい久美が、おそるおそるといった感じで手を挙げた。「梓は当欠扱いになるんでしょうか?」
店長は一瞬|怪訝《けげん》そうに眉を顰めたが、久美の真意を悟って、口許を綻《ほころ》ばせた。
「心配しないで。罰金は取らないわ。事情が事情だもの。その代わり久美さんには彼女の分も稼いでもらうわよ」
「はあい」
久美が安堵の表情を浮かべると、店長は小さく頷き、これで終わり、とでもいうように手を打ち鳴らした。
「──さあ、開店するわよ。今日も頑張りましょう」
平日にしては客の出足はまあまあだった。開店一時間後には、テーブル席の半分ほどが埋まっていた。
「──いらっしゃいませ」
また一人、新たな客が入ってきた。四十前後のリーマン。年の割には金回りがよさそうな感じだ。
見憶えがあった。昨日も店に来てたような気がする。間違いない。フリーで来店した二人組の片割れだ。
少し意外な気がした。常連客でさえ二日続けて来ることは滅多にない。何日も続けて通っていたら、話題も金もすぐに底をついてしまうからだ。彼はよほどこの店が気に入ったと見える。
昨日が二人で今日は一人。この世界の魔力に搦《から》め取られた哀れな獲物。他人事ながら同情を禁じ得なかった。
「ご指名はございますか」
微笑みを浮かべながら問いかけると、彼は強張った表情で口早に言った。
「ええと……花梨ちゃんを」
「花梨──ですね。それではお席にご案内いたします」
安部に花梨を呼んでくるよう頼み、男を席に案内する。表面上は平静を装っていたが、内心ではかなり驚いていた。まさか花梨を指名するとは──しかも場内指名ではなく、本指名で。
確かに花梨は昨日、彼の席についていた。しかしフリー客につくキャストは一定時間ごとに入れ替わるから、花梨が彼の席にいたのはせいぜい二十分くらいのはずだ。
外見では決して引けを取らない花梨だが、並み居るキャストを出し抜くほどのアピール力はない。しかも昨日の今日だ。おれは彼が花梨を指名した理由に、強い興味を覚えた。
「いらっしゃいませ。あれ、近藤さんじゃないですか。ご指名ありがとうございます。まさか今日も来てくれるなんて」
花梨が鼻にかかった声で男の手を取る。客の名前を忘れてしまったのではないか、と内心ヒヤヒヤしたが、どうやらそれは杞憂に過ぎなかったようだ。
おれは黙礼して席を離れ、ツメシボとメニューを取りに行った。もちろんその間も耳をダンボにして、花梨と客のやり取りに意識を集中させる。
「いやあ、どうしてもお礼が言いたくてね。こんな顔、二日も続けて見たくないだろうけど、早いほうがいいと思ったから」
近藤が乾いた笑い声を上げた。花梨も追従笑いを浮かべる。
おれは再び彼らのもとに歩み寄り、ツメシボとメニューをテーブルの上に置いた。花梨はツメシボを近藤に手渡して、彼の顔を覗き込んだ。
「ねえ近藤さん、私、ビールいただいてもいいですか?」
「好きなのを飲みなさい。今日はお礼をしに来たんだから。あ、僕は水割りで」
「かしこまりました」
あっさりオーダーが決まってしまったため、そこに突っ立っている理由がなくなってしまった。おれは深々と頭を下げ、仕方なく踵を返した。
「……さっきからお礼お礼って言ってるけど、何のことですか? 私、全然心当たりがないんですけど」
花梨が話を続ける。厨房の梶井にオーダーを伝えると、おれは二人の話し声が聞こえるところまで引き返し、フロアを見渡すようなふりをした。もちろん目には何も映っていない。正常に機能しているのは聴覚だけだ。
「半信半疑だったんだけど、やっぱり花梨ちゃんの言う通りにしてよかったよ。なんで知ってたの? 昨日あのカジノが摘発されるってこと」
「え? 何のことですか?」
「またあ、惚《とぼ》けちゃって。昨日石田と〈マラカイト〉の話をしてたら、『他の日はいいけど、今夜だけは絶対にやめておいたほうがいい』って、すごく真剣な顔して言ってたじゃない。とても冗談には見えなかった。だから僕は花梨ちゃんの忠告に従って、昨日はあそこに行くのを止めたんだよ。でも石田はどうしても行くってきかなかった。それがあのざまさ」
「あのざま……?」
「手入れだよ。警察が踏み込んだとき、石田はバカラに夢中だった。結局逃げ切れなくて、あえなく御用さ。ねえ、本当のところ、なんで知ってたの? 警察関係者に知り合いでもいるの?」
「いるわけないじゃないですか。なんとなくそんな気がしただけです。そもそもその〈マラカイト〉がカジノだってことも、そのカジノが昨日摘発されたってことも、今聞いて初めて知ったんですから」
「そんな見え透いた嘘つかないでよ。ひょっとして花梨ちゃんて、予言者なの?」
「なんでそうなるんですか。違いますよ。もう少しいてほしかったから出任せを言っただけです。別に深い意味なんてありません」
「そうは見えなかったけどなあ……まあいいか。いずれにしろ花梨ちゃんのおかげで助かったんだし」
おれは聞き耳を立てるのをやめて、その場を離れた。目に映るものすべてが現実味を失っていく。激しい動悸──息が苦しい。
頭の中では、先ほど耳にした言葉が、壊れたテープレコーダーのように何度も繰り返されていた。
──予言者、予言者、予言者、予言者……
彼女は何か隠している。それだけは間違いなかった。
麗子ママが「お疲れさまでした」とねぎらいの言葉をかけて、閉店後のミーティングを締めくくった。キャストたちが三々五々店を出ていく。
おれは花梨の後ろ姿を目で追っていた。エントランス手前のクローク。彼女は他のキャストに先を譲るばかりで、なかなか帰ろうとしない。さすがにまだ遠慮があるのだろう。
おれたちチーフにはまだ後片付けが残っているが、声をかけるなら今しかなかった。タイミングを見計らい、意を決して彼女のほうへ歩み寄る。
「──タクト、ちょっと付き合わない?」
不意に横から肩を叩かれた。反射的にそちらを振り向く。
樹利亜だった。その背後にリサの姿も見える。
「付き合うって?」
「決まってんじゃない。居酒屋かカラオケよ。今日はどっちにする? なんなら両方でもいいけど」
樹利亜──先週エリカにその座を奪われるまで、半年近くもこの店のナンバーワンとして君臨し続けた女。一位の座を奪われたといっても、両者の差はほとんどなく、事実今週の指名獲得数も拮抗《きつこう》している。
派手な顔立ちに成熟した肢体。どんな場所にいても目立つ存在だ。満席に埋まった東京ドームの中にいても、彼女なら一目で見つかるだろう。
そんな外見が影響したのかどうか知らないが、彼女は恋愛や性に関する経験もかなり豊富だ。しかも彼女はそれらの経験を、臆することなく話のネタにしてしまう。彼女の人気を支えているのは、客を飽きさせない機知に富んだ話術と、飾り気のない大らかな性格だった。
もともとは銀座でホステスとして働いていたところを、麗子ママに引き抜かれたらしい。麗子ママの信任も厚く、キャストのまとめ役的な立場にある。
幾分馴れ馴れしすぎるきらいはあるが、客が彼女の接客にケチを付けたことは一度もない。この客ならここまでは許される、という見極めが的確なのだろう。
昨日がエリカで今日が樹利亜。店の人気を二分する二人に、立て続けに誘われたことになる。思わず頬が緩んだが、あまりにもタイミングが悪すぎた。
「悪い、今日はダメなんだ」
軽くいなして逃れようとしたが、そうはいかなかった。樹利亜がおれの右腕を掴んで引き止める。
「お金のことなら心配しなくていいよ。奢ってあげるから」
「いや、そういう問題じゃないんだ。ちょっとヤボ用でね……安部を誘えばいいじゃないか」
「安部くんは久美たちと飲みに行くんだって。なんか約束してたみたい」
目を逸らしてエントランスのほうを見やると、花梨が店から出ていくところだった。胸の中で舌打ちする。
しかしこういう展開になってしまった以上、今日は諦めるしかないだろう。こんな状況で花梨を呼び止めたら、樹利亜に何を言われるか知れたもんじゃない。
「わかった。コレんとこへ行くのね」
樹利亜は妖艶な笑みを浮かべながら、右手の小指を立てた。来る日も来る日も中年男の相手ばかりしているせいか、最近の彼女はオヤジに感化されてしまっている。
「ま、そんなところだ」
説明するのが面倒だったから、彼女の勘違いに乗じることにした。あながち的外れというわけでもない。もっとも、おれが行くのは家の前までだが。
「誰? ひょっとして、お店のコ?」
樹利亜は執拗だった。目の縁が赤く染まっているところを見ると、今日もかなり飲んだのだろう。酔っぱらうとクドくなるのもオヤジの特徴だ。
「誰だっていいじゃんか。それより、今日はおとなしく帰ったほうがいいんじゃねえの? ヤバいヤツがうろついてるみたいだし」
「通り魔のこと? タクト、ひょっとしてビビってんの?」
「なんでおれがビビんなきゃいけねえんだよ。とにかく、今日はダメなんだ。また今度にしよう」
一方的に告げてその場を離れた。厨房の脇にあるロッカーからモップを取り出し、床掃除を始める。樹利亜はさすがに諦めたらしく、リサを伴って店を出ていった。
エリカの仕事引き受けたの、やっぱ失敗だったかな──。
悔悟の念を脇に押しやりながら、おれは黙々と床を磨き続けた。
千鳥足の酔っぱらい。客を見送るホステス。地べたに座って悪態をつく若い女。徒党を組んで路地を闊歩《かつぽ》するガキども。道端で喚き合う中国人。鋭い眼光で周囲を牽制するチンピラ──。
そいつらを横目に見ながら、通りかかったタクシーに乗り込む。無愛想な運転手に自宅の住所を告げた。このままエリカの家に向かってもいいのだが、そうすると咄嗟のときに動けなくなる。いったん家に帰り、バイクを駆り出すつもりだった。
靖国通りに入ったところで、エリカの携帯を呼び出す。
「──もしもしぃ?」
緊張感のかけらもない声。飲み屋にでもいるのか、周囲がやけに騒々しい。
「さっき店を出た。いまどこだ?」
「ええっ? 〈和居和居《わいわい》〉よ。麻里ちゃんと飲んでるの。もう帰ったほうがいい?」
〈和居和居〉──朝まで営業している居酒屋。道理で騒がしいはずだ。
「別に慌てることはないけど、適当に切り上げてくれ。あんまり遅くなると、居眠りしちゃうかもしんないから」
「じゃあお言葉に甘えて、あと一杯だけ。そっちはどうすんの?」
「先に行って待ってる。お開きになったら連絡してくれ。できればメールで」
「わかった。それじゃ」
電話を切ってシートに背中をあずける。おれの家は西武新宿線下落合駅から徒歩圏内。この時間なら、十分もあれば着けるはずだ。
エリカが言っていた通り、マンションの目の前にコンビニがあった。駐車場の隅にバイクを止め、いったん店に入る。
まもなく午前三時になろうというのに、店内には二人の客がいた。雑誌を立ち読みする学生風の男と、ジャージ姿で飲み物を物色する中年男。就寝前のようにも見えるし、起き抜けのようにも見える。
小腹が減っていたので、サンドイッチと紙パックのコーヒーを買った。店を出て目の前のマンションを見上げる。
四階建ての、やや横長の建物。こちら側が正面らしく、同じ大きさの窓が整然と並んでいる。学生や同業者が多いと言っていたから、すべてワンルームなのだろう。
エリカの住まいは三階の、西から数えて二番目の部屋と聞いている。窓は遮光性と思《おぼ》しきカーテンに閉ざされていた。
闇の向こうから何かが近付いてきた。自転車だ。見る見る迫ってきたかと思うと、耳障りなブレーキ音を立ててコンビニの駐車場に乗り入れた。髪を逆立てた若い男が、胡散臭そうにおれを一瞥《いちべつ》して、店に入っていく。
こんなところに突っ立っていたら、怪しまれるのも無理はない。おれはコンビニの前を離れて、マンションの裏側に回った。
マンションの北側に位置する路地。総菜屋や文具店などが建ち並んでいたが、どの店もシャッターを下ろして寝静まっていた。辺りを見渡したが、人目を忍べるような場所はどこにもない。
やむなくブロック塀を乗り越えて、民家の敷地に足を踏み入れた。狭い庭を突っ切ってフェンスによじ登る。降りたところがマンションの裏庭だった。
建物に沿って東側へと向かう。思ったほど暗くない。各階の廊下に、等間隔で常夜灯が設けられているからだ。しかし裏を返せばそれは、マンションのほうからもおれの姿が丸見えだということを意味する。おれは身をかがめて歩調を早めた。大倉に気付かれては元も子もない。
さらに奥へと進んでいくと、居住者用と思しき駐車場があった。六台分の駐車スペースが区切ってあり、今は四台が止まっている。
縁石に腰を下ろしてマンションを見上げた。
三階。エリカの部屋。辛うじてドアが確認できた。とりあえずここでエリカの帰りを待つことにしよう。
コンビニで買ったサンドイッチを広げた。三階のドアを睨み付けたまま頬張る。二、三回|咀嚼《そしやく》しただけで、コーヒーと一緒に流し込んだ。
心地よい緊張感。あのとき──クルミの家を見張っていたときと同じだ。心臓がせり上がり、身体中の血が騒ぎ出す。五感が研ぎ澄まされていくようなこの感覚。
エリカには朝七時まで見張っていると言ったが、本気でそんな時間まで粘るつもりはなかった。ストーカーは相手の女性が怖がったり、怯えたりする様子を見て悦に入る。ヤツが行動を起こすとしたら、エリカが帰宅した直後のはずだ。
確信があった。大倉はすでにこの近くに潜んでいる。舌なめずりをしながら、エリカの帰りを今か今かと待ちわびているに違いない。
おれは軽く首を回した。頭の中でメンデルスゾーンが鳴り響いている。気分が高揚している証拠だ。最近はクラシックなどほとんど聴かなくなったが、気持ちが高ぶると決まってこの曲が脳裡に蘇る。
バイオリン協奏曲ホ短調──親父が一番好きだった曲。
親父はそこそこ名の知れた音楽家だった。お袋もおれを産むまでは、親父のいるオーケストラに所属していたらしい。
音楽家の家に生まれた子どもは、本人の意向に関係なく、幼いうちから音楽家を目指すものと相場が決まっている。おれは年端《としは》の行かぬ頃から徹底的にクラシックを叩き込まれた。物心ついたときにはすでに、音楽家以外の道は選択肢になかったのだ。
楽器は一通り教え込まれたが、おれが最も得意としていたのはピアノだった。両親から受け継いだ天性のセンスと、最高の指導者による英才教育。小三から中学卒業までの七年間で、取れる賞はすべて取ったと言っても過言ではない。
将来を嘱望された天才少年音楽家──それが、おれだった。
しかし高校に進学した直後、おれはふとしたことで右手に大怪我を負ってしまった。原因は先輩との喧嘩。天才ピアニストともてはやされ、いかにも成功者然としたおれの態度が、彼らには気に入らなかったらしい。
怪我は一、二ヶ月ほどで完治したが、以前と同じ状態を取り戻すことはできなかった。滑らかで繊細な指使い。力強くメリハリのある打鍵。周りの人間は奇跡の復活だと賞賛したが、おれにしてみればとても満足のいくレベルではなかった。
怪我をしてから四ヶ月後、おれはピアノを捨てた。両親はそれならとバイオリンを勧めてくれたが、今さら別の楽器を始めようとは思わなかった。
音楽との別離──それはおれがおれでなくなる瞬間でもあった。
挫折して道を踏み外したガキの行く末。それが今のおれだ。
拓人〈タクト〉──息子が立派なコンダクターになれるようにと、両親の切なる思いが込められた名前。おれはその思いを踏みにじった挙げ句、こんなところでストーカーを待ち伏せしている。
後悔はしていない。だが胸の奥にできた痼《しこり》は、一生消えることはないだろう。
携帯の着信バイブで我に返った。メールだ。エリカからだった。
──『いまタクシー乗った。五分もすれば着くと思う』
ゴミをまとめて立ち上がる。ニット帽をかぶり、マスクをつけた。大倉はおれの顔を知っている。用心するに越したことはない。
駐車場に面した階段。不審な気配がないか探りながら、ゆっくりと上っていく。
三階についた。まっすぐに延びた通路。静まり返っている。階下の様子を窺いながら、適度な速さで歩を進めた。
エリカの部屋。注意だけ向けて素通りする。特に変わった様子はない。
すべてのドアの前を素通りし、マンションの西側に辿り着いた。こちら側にも階段が設けられている。立ち止まって気配を窺った。
異常なし。おれは階段を下りて、いったん建物の外へ出た。
煌々《こうこう》と明かりを放つコンビニ。ゴミを捨てながら店内を覗き見る。やはり大倉の姿はない。駐車場の片隅では、おれのバイク──ホンダCB400SFが周囲に睨みをきかせていた。
路地にこだまするエンジン音。顔を向けると、こちらに向かってくる二つのヘッドライトが目に入った。タクシーのようだ。おれはコンビニの陰に身を寄せて、煙草を取り出した。エリカに見つかってしまったら、せっかくの作戦が台無しだ。
タクシーがマンションの前で止まった。ドアが開く。「どーもー」と聞き憶えのある声がして、ケバい女がクルマから出てきた。
エリカだ。こちらのほうを見向きもせず、足早にエントランスに入っていく。酔ってはいても、自分がどういう状況に置かれているのか、ちゃんとわかっているようだ。
おれは周囲に視線を走らせた。不審な人影はない。
先ほど見回ったときは、マンション内に大倉が潜んでいる気配はなかった。今日は来ないのだろうか。それともヤツは、エリカが帰宅したのを確認してから、行動を起こすつもりなのだろうか。
路地をわたってマンションに戻る。コツコツコツコツ──エリカの足音。上から聞こえてくる。しっかりした足取りだ。
おれはエリカの後を追って階段を上り始めた。彼女が無事帰宅するのを見届けなければならない。今日の靴はナイキのエアジョーダン。気配は殺しているから、気付かれるおそれはなかった。
一段飛びで三階を目指す。不意にヒールの音が途絶え、かすかに金属の触れあう音がした。エリカがキーケースを取り出したのだろう。
ガチャリ。鍵が開いた。
そのとき、乱れた足音が耳に飛び込んできて、辺りが突然不穏な気配に包まれた。
短い悲鳴──エリカ。
くそっ。おれは慌てて階段を駆け上った。
三階。エリカの部屋の前。男と女が揉み合っている。息が止まりそうになった。
間違いない。大倉だ。あいつ、いったいどこに潜んでやがったんだ。
しかし今はそんなことを考えてる場合じゃない。おれは床を蹴って駆けだした。こうなったらこの場でヤツをぶちのめしてやる。
「やめて、やめてったら──」
「エリカ、おい、いい加減に──」
二人はドアの取り合いをしていた。部屋の中に押し入ろうとする大倉を、エリカが懸命に閉め出そうとしている。
「やめろ!」
走りながら叫ぶと、二人が同時にこちらを振り向いた。安堵の顔を見せるエリカ。ギョッとして凍り付く大倉。
大倉は手にしていた紙袋をエリカの部屋に投げ込むと、慌てて踵を返した。さすがにマズいと思ったのだろう。脇目もふらずに全速力で逃げていく。
「もう、何してたのよ」
エリカが非難の目を向ける。おれは切迫した声で彼女の言葉を遮った。
「中に入って鍵をかけろ。おれはあいつを追っかける」
「えっ、でも──」
「いいから早く。あいつ何か投げ込んでったぜ。気をつけろよ」
一方的にそう告げると、おれは喚き立てるエリカを無視して再び走りだした。ヤツはたぶん、通りがかりの人間が本気で追いかけてくるはずはないと、勝手に思いこんでいる。とりあえずあきらめはしただろうが、まだそう遠くへは行っていないはずだ。
手すりを使い、五段飛ばしで階段を駆け下りる。怒り──常軌を逸した大倉の暴挙。期待──蛆虫をこの手で捻り潰す悦び。
一階の踊り場でターンが決まったとき、絶叫が夜陰を切り裂いた。
「きゃあっーー!」
エリカだ。
くそっ。なんなんだ、いったい。今度は何があった。
「きゃあっ、いやああっ」
エリカは断続的に叫び続けている。
思い出した。逃げる間際に大倉がエリカの部屋に投げ入れていったもの──あれのせいじゃないのか。
迷っている場合ではなかった。エリカの安全が最優先だ。チャンスは今日限りではない。
おれは回れ右をしてスロープを駆け上がった。勢いに任せて、一段飛ばしで階段を上る。
どこかでドアの開く音がした。一階の住人のようだ。エリカの絶叫を聞きつけて、好奇心の虫が騒いだのだろう。
エリカの部屋に辿り着いた。ドアノブを回す──開かない。
「エリカ! おれだ、ドアを開けろ。何があった? おい!」
激しくドアを叩くと、ドアの向こうでエリカが悲壮な声を上げた。
「……タクト? きゃっ! 早く助けて」
「わかってる。とにかくドアを開けろ」
エリカが内側からドアチェーンとロックを外した。おれは思いきりドアを引き開けた。
「タクト──」
エリカが胸に飛び込んできた。甘い芳香がおれの鼻腔を擽《くすぐ》る。むしゃぶりつきたい衝動を理性で押さえつけ、彼女の顔を覗きこんだ。
「どうした? 何があった?」
「ヘビ……ヘビが……」
「えっ? ヘビ? 生きてるのか?」
無言で頷くエリカ。軽い恐慌状態に陥っているらしく、肩が小刻みに震えていた。
「ここにいろ。おれが何とかする」
エリカを外に連れ出し、ドアの脇に座らせた。靴を脱いで部屋に上がる。
エリカの家に上がるのはこれが初めてだが、中の様子を見る余裕はなかった。彼女には大見得を切ったものの、おれ自身ヘビはあまり得意なほうじゃない。子どものころ自転車でヘビを踏んづけたことがあったが、その夜は悪夢にうなされて眠れなかったほどだ。
「どこだ、どっちへ行った?」
背中越しにエリカに訊く。ヘビの行方を知るためではなく、緊張を紛らすための問いかけだった。
「寝室。ベッドの下に入っていったの」
最悪だった。とてもベッドの下を覗く勇気はない。覗いた瞬間に飛び出してきたら、間違いなく腰を抜かしてしまう。
ベッドの脇に落ちていた新聞紙を拾い上げ、丸めて棒状にした。そいつをベッドの下に突っ込み、威嚇《いかく》攻撃を繰り返す。
「くそっ、こいつ、出てこい」
罵りながらベッドの下を小突いているうちに、細長いものがシュルシュルッと這い出してきた。思わず飛び上がり、後ずさりながら身構える。ビビらなかったと言えば嘘になるが、相手を観察するくらいの余裕はあった。
体長一メートルあまり。光沢のある暗緑色の皮膚に、おぼろげな縦縞。
見憶えがあった。こいつは──アオダイショウだ。
安堵の吐息を漏らす。マムシやヤマカガシだったら手に負えないが、無毒で温順なアオダイショウなら何とかなる。しかもこいつは、アオダイショウにしてはかなり小さい。
ベッドの下から抜け出したアオダイショウは、テレビの裏に逃げ場を求めようとしていた。もうたくさんだ。おれは一刻も早くこの馬鹿げた捕物劇を終えたかった。
勇気を振り絞ってヤツの尻尾に飛びつく。ヒヤリとした固い鱗《うろこ》の感触と、その下にあるクニュッとした筋肉の躍動。手の触感をなるべく意識しないようにしながら、もう片方の手で窓を開いた。
掴まれた尻尾を振り解《ほど》こうと、ヤツが鎌首を擡《もた》げる。おれは意味不明な奇声を発しながら、アオダイショウを窓の外に放り投げた。すぐに窓を閉める。
安堵の溜息をついてベッドに座り込んだ。放心状態のまま額の脂汗を拭い、虚ろな視線をドアのほうに向ける。玄関先にいるエリカが、こわごわとこちらを覗き込んでいた。
「もう大丈夫だ。入ってきな」
ニット帽とマスクを外して、エリカを手招く。
彼女はこちらに歩み寄りながら恐る恐るといった表情で室内を見回した。
「心配するな。何も壊しちゃいないよ」
「……ヘビは? ヘビはどうしたの?」
おれは窓のほうに顎をしゃくった。
「そっから放り投げた。下手に殺したりしたら、祟《たた》られるかもしれないから」
嘘だった。単に度胸がなかっただけのことだ。
おれはベッドから立ち上がると、その場にエリカを座らせた。
「説明してくれ。何があった?」
「説明してほしいのはこっちよ。なんであたしがこんな目に遭わなきゃならないの?」
落ち着きを取り戻したことで、今まで抑え込まれていた怒りが、一気に湧き上がってきたのだろう。エリカは肩を震わせて声を荒らげた。
「大倉が投げ入れてった袋の中に、あのヘビが入ってたのか」
「そうみたい。あたしが見たときにはもう、紙袋の中には何もなかったけど。床に落ちたはずみで飛び出してきたのね、たぶん」
「マジかよ……」
おれは溜息混じりにかぶりを振った。
ターゲットの帰りを狙って部屋に押し入ろうとした挙げ句、失敗した腹いせに生きたヘビを投げ込んでいく──。
正気の沙汰じゃない。っていうかこれ、完全に犯罪じゃねえか。
ストーカー行為に良いも悪いもないが、今日のやり口は度を過ぎているような気がした。もはや愛情の裏返しという次元の問題ではない。大倉はエリカに対して、明らかに敵意を抱いている。
「今までにもこういうことはあったのか?」
「ゴム製のトカゲを入れられたことはあったけど、本物は初めて」
おれはエリカの顔を見つめた。憤怒と恐怖の入り混じった、はかなくも妖艶な表情。その裏に隠された本心を読みとることはできなかった。
「何か隠してないか?」
「え? どういうこと?」
「クラさんが本気でエリカのことを想ってるのなら、ここまでひどいことをするはずがない。他に理由があるんじゃないのか?」
「何言ってんの? あたしがタクトを騙してるって言うわけ?」
エリカはマジで腹を立てたらしく、険しい眼差しでおれを睨み付けてきた。
「いや、それならいいんだ」
苦笑してかぶりを振る。別に根拠があったわけじゃない。かまをかけてみただけなのだ。確かに愛情と憎悪は表裏一体。可愛さ余って憎さ百倍という言葉もある。
おれはエリカから視線を逸らし、ドアに歩み寄った。
「え? もう帰っちゃうの?」
ともすれば誤解を招きそうな言葉を背中にぶつけられ、おれは一瞬たじろいだ。しかしおれにはまだ、やらなければいけないことがある。
足を止めずに首だけ後ろに向けた。
「帰るわけじゃない。あいつを探しに行くんだ。まだそれほど遠くには行ってないはずだから。それに──」
「それに?」
「戻ってくる可能性がないとは言い切れない。この部屋に男がいるところを、あまり見られたくないんだ。理由は……わかるだろ?」
エリカは神妙な顔をして大きく頷いた。大倉のストーカー行為がエスカレートして一番困るのは、エリカ自身だ。
「じゃあな。眠れというのは酷かもしれないけど、無理してでも横になってたほうがいい。変に思い悩んだりしたら、それこそ相手の思う壺だ」
「うん……わかった」
ドアを開けて外に出る。
その直後、背中に妙な視線を感じた。慌てて後ろを振り返る。
隣の部屋のドアが僅かに開き、その隙間から学生風の男の顔が覗いていた。胡散臭そうな表情でおれを見つめている。エリカの叫び声を聞いて、何事かと様子を窺っていたのだろう。
おれが小さく会釈すると、男は部屋に引っ込んでドアをバタンと閉じた。もう少しエリカが騒ぎ続けていたら、彼は警察に通報しただろうか。今後のことを考えれば、むしろそうしてくれたほうがありがたいのだが、残念ながらそういうタイプじゃなさそうだ。
マンションを出てコンビニの駐車場へ。ヘルメットを被り、バイクに跨《またが》ってエンジンをかける。
鋭い破裂音を轟かせて、CB400SFが息を吹き返した。エンジンを暖めている余裕はない。二、三度アクセルを空吹かしして、相棒のご機嫌を伺う。
エンジン音は極めて良好だった。おれはクラッチを繋いで、薄闇を切り裂いた。
それから一時間以上も辺りを探索したが、大倉の姿はどこにもなかった。せめてその痕跡だけでもと思ったが、道を流すだけでは収穫など得られるはずもない。
最後にもう一度だけエリカのマンションの前に立ち寄り、異状がないのを確認してから帰途に就いた。
すべては明日から──そう割り切るしかなかった。
前日と同じように、午後五時頃から幡ヶ谷で張り込みを開始し、出勤するエリカの後を尾けた。若干の疲れは見えたが、前夜のショックはほとんど残っていないようだ。
大倉は姿を現さなかった。昨夜のヘビ作戦に気をよくして、また新たな作戦でも練っているのだろうか。そう思うと取り逃したことが悔やまれるが、今のおれにできることは何もなかった。
エリカの出勤を見届けたおれは、踵を返して店の前を離れた。今日はオフだから店に顔を出す必要はない。
腕時計を見る──六時五十八分。
今日はアキラとともにコウジの退院祝いをすることになっている。〈龍の巣〉に八時。まだ時間はある。
おれは職安通り方面に足を向けた。空いた時間を無為に過ごすつもりはない。井手産業の所在場所を確認し、その実態をある程度把握しておこうと思ったのだ。
住所は頭の中に叩き込んである。職安通り沿いにしばらく歩くと、やがて全面マジックミラー張りの、八階建ての建物が見えてきた。吉田ビルだ。住所からいけば、井手産業はこのビルの裏手に位置していることになる。
おれは通りを渡って、吉田ビルの脇にある路地を曲がろうとした。すると、反対側からこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
ひょっとしたら、大倉かもしれない──おれは咄嗟《とつさ》にクルッと方向転換し、吉田ビルのエントランスに身を潜めた。よく確かめもしないのに躯が勝手に動いたのは、そのシルエットになんとなく見憶えがあったからだ。
やがてその人影が姿を現した。大倉とは似ても似つかない中年男──だがおれは、思わず声を上げそうになった。
丸めた頭と猛禽《もうきん》を思わせる鋭い目。心持ち背中を丸めて首を前に突き出す歩き方。
梶井──間違いない。店の厨房担当の梶井だ。あの人がなぜこんなところに? おれは混乱した。
梶井はしきりに辺りを気にしていたが、おれの存在に気付いた様子はなかった。何度も後ろを振り返りながら、足早に職安通りを渡っていく。その姿は何かに追われているようにも見えた。
梶井の姿が完全に見えなくなると、おれは吉田ビルのエントランスを出て、梶井が歩いてきた路地を覗き込んだ。
狭くて日当たりの悪い、どこにでもあるような名もない路地。二十メートルほど奥にある四つ辻を曲がれば、井手産業のある桑江第一ビルに行き着くはずだ。
井手産業と梶井。単なる偶然とは思えなかった。しかし大倉とエリカの関係には、梶井が割り込むスキなどありそうもない。そもそも大倉のストーカー行為が、梶井とどう結びつくというのか。
梶井は今日も出勤のはずだ。時間的にいって、彼が店に向かっていたのは間違いない。やはりたまたま通りかかっただけなのだろうか。
いくら考えてもキリがなかった。梶井の人となりをほとんど知らないのだから、的確な推論など導き出せるはずがない。おれは梶井のことを頭から追いやり、路地に足を踏み入れた。とにかく今は井手産業だ。
桑江第一ビルはすぐに見つかった。四階建ての雑居ビル。吉田ビルの陰に隠れるように、ひっそりと佇《たたず》んでいる。
時代がかった看板に、会社や事務所の名前が四つほど表記されていた。ワンフロアに二つずつテナントが入っているらしい。看板に井手産業の文字はなかったが、名刺には3Fと刷り込まれていた。
十分ほどビルの前で様子を窺ってみたが、人の出入りはまったくなかった。ビル全体にどことなく殺伐とした雰囲気が漂っている。路地に面したすべての窓が閉じられ、人のいる気配がまったく感じられない。この桑江第一ビルは、本当にテナントビルとして機能しているのだろうか。
痺れを切らしたおれは、意を決してビルの中に入ってみた。饐《す》えた臭い。ひび割れた壁。ジメッとした薄暗い廊下。
紙くずや埃の散乱する階段を、一段置きに駆け上がる。履き慣れて足と一体化したエアジョーダン。ちょっとやそっと飛び跳ねたくらいでは、コソリとも足音がしない。
三階に辿り着いた。お香を焚いたような、妙な匂いが漂っている。
しかしそれだけだった。やはり人の気配がない。
廊下に面してドアが二つ並んでいた。見るからに頑丈そうな鋼鉄製のドアだ。手前のドアの前には、広告やらチラシやらが散乱している。長い間空き部屋になっているのだろう。
奥に位置するもう一つのドアの前は、綺麗に掃き清められていた。広告やチラシはもちろん、紙くずや塵さえも落ちていない。人の出入りがある証拠だ。
ドアには小さなプレートがついていた。
──〈井手産業〉
やはりここで間違いないようだ。それにしても静かすぎる。誰もいないのだろうか。
忍び足でドアに近寄り、耳を澄ませた。ブーン、と機械が唸っている。空調の音だ。しかし普通の事務所なら当然漏れ聞こえるはずの、人の話し声や電話の呼び出し音が聞こえてこない。パソコンのキーボードを叩く音、コピーの音、資料を捲《めく》る音、引き出しを開ける音、煙草に火をつける音、人が歩き回る音──皆無だった。
ノックして中を覗いてみたいという衝動が湧き上がってきたが、それを実行に移すわけにはいかなかった。中に大倉がいるかもしれないからだ。万が一彼に出くわしたら、ここに来た理由を説明しなきゃならない。うまく誤魔化す自信はなかった。
おれは仕方なくドアの前から離れ、階段を降り始めた。ここに長居をするのは危険だ。ビルの外で様子を窺うことにしよう。
二階まで降りてきたとき、下から階段を登ってくる足音に気付いた。思わず躯が強張る。どうすればいい──逃げるべきか、このまま降り続けるべきか。
判断を下すより先に、足音の主が踊り場に姿を現した。
Tシャツにバンダナ。ブレスレットにピアス。無精髭を生やした、二十代前半のヒップホップ系──。
安堵の溜息が漏れる。彼は冷たい目でおれを一瞥すると、顔色一つ変えずにすれ違っていった。両手をバミューダパンツのポケットに突っ込んだまま、階段を登っていく。
ふと気になった。彼はいったい、どの階に用事があるのだろう。
ゆっくりと階段を降りながら、彼の足音に意識を向ける。次の瞬間、彼の歩調が変わった。階段から廊下に曲がったのだ。
立ち止まって頭上を見上げる。三階? 彼は井手産業に行ったのか? おれは息を潜め、耳をそばだてた。
ドアをノックする音。迷いのある音ではなかった。音だけで判断するのは早計かもしれないが、なんとなく通い慣れているような感じがする。
階段を登り、踊り場まで戻った。中に誰かいるのであれば、何らかのやり取りがなされるはずだ。それを聞き逃すわけにはいかない。
物音が途絶えた。ヒップホップ野郎は辛抱強く応答を待っているらしい。やはり誰もいないのだろうか。
重苦しい沈黙が一分ほど続いた。なぜ彼はもう一度ノックをしないのか──そんな疑問が頭に浮かんだとき、動きがあった。
ガチャリ──ドアの開いた音。
耳を澄ます。ドアを開けた人間とヒップホップ野郎が、そこで言葉を交わすはずだ。
しかし次に聞こえてきたのは、バタンというドアの閉じられる音だった。あのヒップホップ野郎は、ドアの隙間に躯を滑り込ませて、素早く室内に入ったらしい。やはり彼は井手産業に何度も来ているのだ。
ビルを出て三階を見上げる。窓がしっかりと閉じられたうえ、カーテンも引かれていて中の様子が見えない。
井手産業には何かある。直感的にそう感じた。危機管理といえば聞こえは良いが、それにしては警戒心が強すぎる。やはりまっとうな会社ではないようだ。
五分後、ヒップホップ野郎がビルから出てきた。外見は先ほど見たときと変わっていない。もともと荷物は持っていなかったが、今も両手をバミューダパンツのポケットに突っ込んだままだ。
しかし、さっきよりも明らかに表情が険しくなっていた。機嫌が悪いというのではなく、何か心配事を抱えているような感じだ。周囲に鋭い眼光を飛ばしながら、ゆっくりと歩いている。
その視線が自販機の前で缶コーヒーを啜っていたおれに向けられた。今度は見逃してはくれないらしい。足を左右に蹴り出すような歩き方をしながら、まっすぐこちらに向かってきた。
「何してんだ? こんなところで」
甲高いしわがれ声だった。口唇の間から欠けた前歯が覗いている。
おれは肩を竦《すく》めて苦笑した。
「見てわからないか? 咽喉《のど》が渇いたからコーヒーを飲んでるんだ」
ヤツの形相が変わった。目を見開いてポケットから両手を引き抜く。
「てめえ……馬鹿にしてんのか?」
「ホントだって。他に何をしてるように見える?」
彼は言葉に詰まった。しかし生意気な受け答えをしたのは、失敗だったかもしれない。心証を悪くすれば、それだけ追っ払うのが面倒になる。
「──とにかく、ここにいると目障りなんだよ。とっとと失せろ」
目障り。その言葉が妙に引っ掛かった。
窓もカーテンも閉めて、視界を完全に遮っているように見えるが、実は中にいる人間が外の様子を監視しているのかもしれない。だとしたら大きな失態だ。背筋を冷たいものが走った。
おれはとっくに空になっていた缶をゴミ箱に放り投げ、のろのろと立ち上がった。別に怖くなったわけじゃない。下手に粘って警戒心を抱かれるのは、得策じゃないと思ったからだ。
「そろそろ動こうと思ってたところなんだ。悪かったな、目障りなところにいて」
嫌味たっぷりの口調で言い捨てたが、彼はもう食いついてこなかった。フン、と鼻を鳴らしたかと思うと、回れ右をして立ち去っていく。自分から因縁を付けてきた割には、不自然なほどあっさり引き下がっていった。
うざったいヤツはいなくなったが、その場で張り込みを続けようとは思わなかった。ほんの思いつきで様子を見に来ただけなのだ。何も危ない橋を渡ることはない。
先ほど歩いてきた路地を戻りながら考えた。
隙間なく閉ざされたカーテン。静まりかえった事務所。電話に出た外国人。得体の知れないヒップホップ野郎。仕事そっちのけでエリカに付きまとう大倉。
考えがまとまらない。井手産業とはいったい何なのか?
アキラの調査結果に期待するしかなかった。
「女の部屋でヘビ退治か。ははっ、面白そうだな。今度はおれも連れてってくれよ。アオダイショウならいくらでも遊んでやる」
「マジで言ってんのか? 頼むよ。おれ、ああいう細長いのは苦手なんだ」
「女の部屋? タクト、また店のコに手ぇ出したのか?」
おれの話にはまるで興味を示さなかったコウジが、突然横から口を挟んできた。隣の席で飲んでいた女たちが席を立ったため、仕方なくこっちの会話に割り込んできたのだ。
アキラが呆れたように苦笑した。
「おまえは寝ても覚めても女のことばっかだな。入院して少しはマシになるかと思ったのに」
「誤解してるみたいだから言っとくけど、おれは脚の靭帯を切っただけで、あっちのほうは至って正常だったんだ。それなのにまる一ヶ月も禁欲してたんだぜ。褒めてくれとは言わないが、せめてもっと別の言い方があるだろうに」
「でも、看護婦にヌいてもらったりしてたんだろ?」
「看護婦はババアばっかりだった。あれじゃあどんなに欲求不満でも萎《な》えちまう」
「そのまましばらく入院して、そっちの病気も治してもらえばよかったんだ」
「うるせえ。おれは愛に飢えているだけなんだ。ま、おまえらにはおれの気持ちなんかわかんねえだろうけどな」
冗談と本音が綯《な》い交ぜになった言葉だった。コウジは早くに母親を亡くし、男手一つで育てられてきた。彼の女好きは、歪んだマザーコンプレックスの一つの表現型なのかもしれない。
おれもアキラも口を噤《つぐ》み、それぞれのグラスに手を伸ばした。おれは生ビール、アキラは赤ワイン、コウジはジントニックを飲んでいる。
気まずい沈黙を振り払うように、コウジが二つ向こうのテーブルに声をかけた。もちろん、女だ。
「キョウコ、そっちに行ってもいいか? 一緒に飲もうぜ」
キョウコともう一人の女、ユカが、互いの顔を見合わせる。
「えーっ。ここ、五人も座れないよ」
「バカ、そっちへ行くのはおれだけだ」コウジはキョウコたちの許しも得ていないのに、右足を引きずるようにして立ち上がった。「ちょっと行ってくる」
アキラは野良犬でも追い払うように手を振った。
「勝手にしな。ただし、間違ってもおれを巻き込むなよ。あいつらは苦手だ」
キョウコとユカ。この辺ではそこそこ名の知れたコンビだ。昼間は滅多に見かけることはないが、陽が落ちたあとは必ずこの街のどこかにいる。
年齢はキョウコが十九でユカが二十。二人はお世辞にも容姿に恵まれているとは言えない。しかしコウジのような下半身本位の男にとっては、実にありがたい、女神のような存在だった。
尻軽とか淫猥《いんわい》という表現は正確ではない。彼女たちは他人からものを頼まれると、決して断れない性格なのだ。それが結果的に誰とでも寝る無節操な女≠ニいうイメージを植え付けてしまっている。
他人から頼られ、喜ばれることでしか、自分の存在価値を見出せない女。同情もするし理解もできるが、おれもアキラと同様、彼女たちと親しくなりたいとは思わなかった。
足を引きずりながら席を移動するコウジの背中に、アキラが思い出したように声をかけた。
「──そうそう、今日はおまえの退院祝いだから、ここの飲み代は出しといてやる。でも、あっちの分までは面倒みないからな」
「わかってるよ」
コウジは振り返りもせず、軽く左手を挙げただけだった。
アキラがグラスに半分ほど残っていたワインを一気に呷った。コウジが席を移ったのが気に入らないらしく、乱暴な手つきでボトルのワインを手酌する。
しかしコウジがいなくなったのは、おれにとっては好都合だった。コウジは普段からあんな調子で、あまり口が堅い方じゃない。それが気になっていたから、なかなか切り出せずにいたのだ。
おれはすかさず口を開いた。
「──ところで、調べてくれたか? 井手産業のこと」
アキラは一瞬怪訝そうに眉を顰《ひそ》めたが、すぐに表情を緩めて頷いた。
「ああ、ヤンさんの店のことか。一通りのことは調べといた。さすがに内部事情までは探り出せなかったが」
今度はおれのほうが眉を顰める番だった。
「ヤンさんの店? なんのことだ?」
アキラは煙草に火をつけ、腕組みしながら紫煙を吐き出した。
「表向きは──というか、登記上は井手産業を名乗っているが、この辺の連中はあの店のことをヤンさんの店≠ニ呼んでる」
「ヤンさん……何者なんだ?」
「爪楊枝の楊と書いてヤン。中国人だ。それ以上のことはおれにもよくわからない」
「業務内容は? 店というからには、何か売ってるんだろ?」
アキラは勿体ぶるように煙草を吹かすと、射抜くような視線をおれに向けた。
「その前に聞かせてくれ。楊さんの店のことなんか調べてどうするつもりだ? あのときは電話だったから、ちゃんと聞いてなかったんだ」
「別にその店をどうこうしようってつもりはない。おれはただ、そこに勤務してるはずの、大倉って男のことを知りたいだけなんだ」
「理由は?」
そこまで話すつもりはなかったのだが、アキラの表情は真剣で、とてもお茶を濁せるような雰囲気ではなかった。おれはこれまでの経緯を掻《か》い摘《つま》んで説明した。
話を聞き終えたアキラは、小さくかぶりを振って煙草を揉み消した。
「悪いことは言わねえ。そいつのことはともかく、楊さんの店には近付かないほうがいい。深入りすると後悔するぞ」
なぜ? とは訊かなかった。井手産業を動かしているのが中国人と聞いたときから、薄々そんな気はしていたのだ。闇の世界に疎《うと》いおれでも、それくらいのことはわかっていた。
アジア人──特に中国人は、この街のかなり奥深いところにまで、その勢力を張り巡らせている。中国クラブを母体とした管理売春、偽造テレホンカードと覚醒剤の密売、強盗、旅券偽造、不法入国の幇助《ほうじよ》、パチンコ関連のさまざまな不正。この一帯は中国人の犯罪の巣窟《そうくつ》とさえ言われている。
この街で一番恐ろしいのは、実は警察でもやくざでもなく、中国人マフィアなのだ。彼らに目を付けられたら最後、この街では生きていけなくなる。むろんこれは比喩ではない。
「……わかった。肝に銘じておくよ。しかし、せめて井手産業の実態くらいは教えてくれないか。でないとこっちも動きにくい」
「もちろんだ。別に教えないと言ってるわけじゃない。忠告したかっただけだ」
おれはぬるくなった生ビールを舐め、小さく頷いた。アキラも赤ワインのグラスを傾けて、咽喉を湿らせた。
「一言でいえば、楊さんの店──つまり井手産業は、輸入業者だ。扱い品目は書画骨董、服飾品、宝飾品、乾物、家具など。当然のことながら、中国から仕入れた品物がほとんどだ」
「つまり、まともな会社ってことか?」
アキラは口唇の端を歪めて、おれを嘲《あざけ》るように苦笑した。
「まともな会社が、あんなところにあんな事務所を構えると思うか? しかも楊さんの店は、基本的に一見《いちげん》さんお断りだ。情報漏れにはかなり神経を使ってる。わかるだろ? 表には出せない品物を扱ってるんだよ」
「表に出せない……たとえば?」
アキラは周囲を見回して、自分たちの会話に注意を向けるものがいないことを確認してから、声を潜めて言った。
「……たとえば盗品、密輸品、クスリ。もちろん確たる証拠があるわけじゃない。あくまでもたとえばの話だ」
アキラは確証がないことを強調したが、裏を返せばそれは、確信があるという意味でもあった。盗品、密輸品、クスリ。よりによってヤバいものが三つも揃っている。思わず背筋が寒くなった。つい二、三時間ほど前、おれはその井手産業に探りを入れようとしていたのだ。下手な気を起こしてドアをノックでもしていたら、おそらく〈龍の巣〉には来られなかっただろう。
「わかった。おれだってまだ生命は惜しい。井手産業には近付かないようにするよ」
「賢明だな。たかがストーカー退治のために、何も生命まで賭ける必要はない」
「そのストーカーのことだけど、井手産業に大倉って男がいるはずなんだ。何か出てこなかったか?」
アキラは苦虫を噛み潰したような顔を作ると、ワイングラスを傾けて時間を稼いだ。おれは無言のまま、彼の口が再び開くのを待った。
「……実は、そこまで調べてないんだ。というか、井手産業ってのが楊さんの店のことだとわかった時点で、調査を打ち切ったんだよ。あんまり嗅ぎ回ると、こっちの身にも危険が及ぶと思ったから」
「そうか……」
アキラを責めるつもりはなかった。井手産業の正体を知っていたら、最初からこんなことを頼みはしなかっただろう。
「大倉からも手を引くべきなのかな……」
自分に問いかけるように呟いた。井手産業が中国マフィアと関係しているのなら、大倉にも下手な手出しはできない。
「日本人なんだろう? そいつ」
「そのはずだ。帰化した可能性は……いや、確か鹿児島出身とか言ってたような……うん、間違いない。ヤツは生粋の日本人だ」
「それなら心配ないんじゃないか? 楊さん本人ならまだしも、日本人の従業員が、しかも仕事とは何の関係もないところで起こしたトラブルに、ヤバい連中が首を突っ込んでくるとは思えない。それに楊さん自身も、マフィアに顔が利くというだけで、ファミリーの一員というわけじゃないんだ。利害や怨恨が絡めば別だが、そいつの個人的なトラブルのために、楊さんがマフィアの手を借りるとは思えないけどな」
「マジでそう思ってんのか?」
アキラは大きく頷いて目元を綻《ほころ》ばせた。
「マジマジ。おれはいつだってマジだぜ」
不思議な魅力を持つ男、アキラ。ボサボサの茶髪にキングサイズの黒いTシャツ。磨き込まれたショートブーツに迷彩色のズボン。
顔立ちはどちらかといえば端整なほうだろう。尖った顎、凜々《りり》しい眉、薄い口唇。全体的に怜悧《れいり》な雰囲気を漂わせているが、左目の下にあるゴマ粒大の泣きぼくろが、ちょっとした愛嬌を醸《かも》し出していた。彼はそれを嫌悪しているが、そこに泣きぼくろがなかったら、おれたちがこんなふうに親しくなることはなかったかもしれない。
「アキラがそこまで言うんなら、行き着くとこまで行ってみるか。どうせ乗りかかった船だからな」
「おれにも手伝わせてくれ。もちろん、邪魔になるのなら遠慮するが」
「いや、そうしてくれると助かる。昨日もおれ一人だったから──」そのときふと気がついた。「そういえば、調査料をまだ払ってなかったな。いくら渡せばいい?」
アキラは含羞《はにか》むような笑みを浮かべた。
「さっき言ったじゃないか、楊さんの店とわかった時点で調査を打ち切ったと。実質的には何もしてないんだ。金はいらない」
「でも、おまえのおかげで井手産業の実態がわかったのは確かなんだし……」
「やめてくれ。それを言うなら、おれのほうだっておまえにいくらでも借りがある。お互い様だよ」
「それはそうだが──」
そのとき、ポケットの中が小刻みに振動した。着信のバイブレーション機能が働いたのだ。エリカの顔が思い浮かぶ。おれはアキラに断って携帯を取り出し、液晶画面を見つめた。
メールだ。差出人は──〈たま〉。
まただ。昨日は心当たりがないので放っておいたが、いったい誰なんだろう。やはり思い出せない。
──『なんでレスくれないのぉ? 一緒に楽しもうよ〜。ホントにすごいんだよ、コレ。MMなんて目じゃないって感じ。レスくれないと、死刑にするぞぉ』
おれは溜息を漏らした。昨日にもまして意味不明だ。支離滅裂とはこういうことをいうのだろう。しかし〈たま〉が伝えようとしていることは、なんとなくわかってきた。だからこそ余計不可解だった。
「どうした? 何かあったのか」
おれの浮かない顔を見て、アキラが心配そうに声をかけてきた。おれは小さく肩を竦め、携帯をアキラに手渡した。見られて困るものじゃない。むしろ、彼の意見を聞きたかった。
メッセージに目を通すや否や、アキラの表情が夜叉のように険しくなった。液晶画面を睨み付けたまま、高ぶる気持ちを抑え付けるようにワインを流し込む。
「誰なんだ? こいつ」
アキラが吐き捨てるように呟いた。おれは小さく首を振る。
「心当たりがないんだ。昨日来たメールにはおれの名前がはっきり書いてあったから、間違いや悪戯とは思えないし……」
「かなりキメてるみたいだな」
「ああ、完全にイっちまってる」
昨日メールを受け取ったときも、なんとなくヤバい感じがして無視を決め込んだ。やはりその直観は間違っていなかったらしい。
〈たま〉はドラッグ常用者で、おれを引き込もうとしているのだ。善意に基づくものか悪意に基づくものか知らないが、なぜおれなんかに目を付けたのだろう。
「……一つだけわからないんだが、〈MM〉って何のことだ?」
おれが訊くと、アキラは煙草を銜えてつまらなそうに呟いた。
「──マジックマッシュルーム。知ってんだろ?」
「ああ……」
万引き、空き巣、喧嘩、カツアゲ……殺人や強盗といった重犯罪を別にすれば、一通りの悪事に手を染めてきたおれだが、一つだけ手を出さなかったものがある。クスリだ。好むと好まざるとに拘らず、クスリに手を出したら一巻の終わり──身近なところにいたドラッグ常用者たちが、身をもってそれを証明してくれたからだ。
クスリに関する知識は通り一遍のものしか持ちあわせていないが、そんなおれもマジックマッシュルームの名前くらいはさすがに知っていた。合法的でしかも依存性の低いクスリとして、おれたち──いや、おれたちよりずっとガキの世代にまで、広く蔓延《まんえん》しているからだ。
マジックマッシュルームの原点は、世界のあちこちで宗教儀礼に用いられていた「幻覚キノコ」だ。日本の場合は、バリ島を訪れた観光客が、現地で宗教儀礼に用いられていたマジックマッシュルームを、トリップできるキノコとしてもてはやすようになったのがきっかけらしい。それを現地で試した旅行者が帰国してから話を広め、様々なルートから国内に持ち込み、果てはインターネットを介しておおっぴらに販売されるようになったのだ。
マジックマッシュルームの薬効成分は、主にサイロシビン。純粋なサイロシビンは「麻薬及び向精神薬取締法」に抵触するが、マジックマッシュルームそのものを取り締まる法律は存在しない。合法ドラッグと言われる所以だ。
「MMなんて目じゃない≠チてのは、どういう意味なんだ? マジックマッシュルームよりも効果があるってことか?」
「素直に受け止めれば、そういうことなんだろうな」
「具体的には?」
アキラは顔を顰めて嫌悪感をあらわにした。クスリのことなど口にしたくもないといった感じだ。
アキラがクスリを憎悪するのにはわけがある。彼の父親は薬物依存症だった。若い頃から精神病院や施設の入退院を繰り返し、アキラが物心ついたときにはすでに、廃人寸前の状態だったという。家族にさんざん苦労をかけた挙げ句、四年前に施設を飛び出し、現在は行方知れずだ。
父親という忌まわしい存在に対する憎悪。その憎悪がクスリそのものに向けられるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
「……MMの主な薬効は幻覚だ。体験者の話によれば、色が聞こえたり、音が見えたり、幽体離脱が起きたりするらしい。中には自分が鳥になったと勘違いしてビルから飛び降りたり、バッドトリップに陥って発狂するものもいる。これとよく似た効果を示すのがペーパー≠ニかアシッド≠ニ称されるLSDだ。むろんLSDのほうが効き目が強くて、マジックマッシュルームのトリップが三、四時間しか続かないのに対し、LSDによるトリップは十時間にも及ぶ」
「LSDは違法だったよな」
「もちろんだ。というか、勘違いしないでほしいんだが、MMのほうもまだ取締りの対象になってないだけで、別に法律によって認められてるわけじゃない。合法的なドラッグなんてこの世に存在しないんだ」
おれは無言で頷き、話題を元に戻した。
「……要するにこの〈たま〉ってヤツは、LSDをキメてるってことか?」
アキラは肩を竦めた。
「さあな。そこまでは何とも言えない。クスリは日進月歩でいろんなものが出回ってるから。新種のドラッグの可能性もある」
「いずれにしても、関わり合いにならないほうがよさそうだな。〈たま〉ってのが何者なのか少し気になるが」
当然賛同してくれるかと思いきや、アキラは視線を逸らして小首を傾げた。
「そのメール……書いてあることを額面通り受け取っていいんだろうか」
「どういう意味だ?」
「それを読んだ限りでは、いかにもタクトを誘ってるみたいだけど、本当は違うのかもしれない。そいつがタクトのことをよく知っているのなら、そんな誘いに乗るはずがないってこともわかってるはずだ」
「……わからないな。何が言いたいんだ?」
「そのメールの内容は本心じゃないってことだよ。ひょっとしたらそいつは、おまえに救いを求めてるのかもしれない」
〈龍の巣〉を出たとき、時刻はまだ十一時にもなっていなかった。今日もエリカの家を見張るつもりだが、彼女は二時まで店に出ている。それまでの時間をどう潰すか──。
「アキラ、このあとどうする?」
「そうだな……もう一軒行ってもいいぜ。特に予定はないから」
アキラは抑揚を欠いた声で応えると、手櫛で髪を整えた。主役がいなくなってしまったせいか、どこか投げやりな表情を浮かべている。コウジは三十分ほど前に、キョウコとユカを引き連れて〈龍の巣〉を出ていってしまった。今頃はお楽しみの真っ最中に違いない。
「じゃあ付き合ってくれ。行きたい店があるんだ」
携帯を取り出して電話をかけ、彼女が出勤していることを確認する。それを聞いてアキラが訝《いぶか》しげに眉を顰めた。
「どこへ行くつもりなんだ?」
「〈ギャラン〉だよ。たまには客の立場も味わってみないとな」
〈ギャラン〉は相変わらず盛況だったが、空席待ちが出るほどではなかった。案内係の後を追いながら、客の入り具合を確認する。
店内は薄暗いうえにテニスができそうなくらい広く、しかもところどころに衝立《ついたて》の役割を果たすオブジェが飾ってあるため、席がどの程度埋まっているのかよくわからなかった。しかしキャストやチーフが慌ただしく通路を行き交っているところを見ると、八割がたは埋まっているのだろう。
「──いらっしゃいませぇ。コノミでぇす。ごめんなさぁい、美幸さん、指名が重なってるんです。今しばらくお待ちくださぁい」
鼻にかかった声で言いながら、ヘルプのキャストがおれの右隣に座った。もう一人のキャストも「ミミでーす」と名乗り、おれの左隣──つまりアキラの右隣に腰を落ち着けた。
アキラの頬が僅かに緩む。〈ギャラン〉に誘ったときはあまり気が乗らないような顔をしていたが、ミミは彼のお眼鏡に適《かな》ったらしい。おれは安堵の溜息を漏らしてコノミの横顔を見つめた。
存在感のある大きな目。高く突き出した鼻梁《びりよう》。歯並びの良い情熱的な口。顔そのものは小振りだが、パーツの一つひとつが大きく、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。ショーダンサーにでもなったらさぞかし映えることだろう。
「あれ? なんか見覚えある。初めてじゃないよね?」
ハウスボトルの水割りを作りながら、コノミがさっそく社交辞令の質問を投げかけてきた。むろん彼女とは初対面だ。
「……半年ぶりかな。稼ぎが悪いから、そう何度も来られないんだ」
これはホントだ。
「何してるの?」
「無職だよ」
「えっ?」
「定職には就いてない。いわゆるフリーターってヤツだ。あんまり好きな言葉じゃないけどな」
「えっと、あの人も?」
戸惑いの表情を浮かべながらアキラを指さした。
「そう。おれなんか足元にも及ばない、筋金入りのプータローだ」
アキラがこちらを振り向いておれを睨《にら》み付けた。もちろん、マジで怒っているわけではない。
「誰の話してんだ?」
「気にすんな。おまえのことじゃない」
噂、お世辞、揶揄《やゆ》、迎合──嘘と見栄で塗り固められた会話を続けながら、主役のお出ましを待った。盛り上がりには今ひとつ欠けたが、コノミもミミも男の自尊心を擽《くすぐ》るのが巧みで、居心地は決して悪くなかった。むしろヘルプをやらせるのが勿体ないくらいだ。それだけ〈ギャラン〉はキャストの層が厚いということなのだろう。
他愛もない話を二十分ほど続けた頃、本指名の美幸がようやくおれたちの前に姿を現した。瞬時にその場がパッと華やぐ。ピンスポに浮かび上がった舞台女優のようだ。
「ご指名ありがとうございます。すいません、お待たせしちゃって。ええっと──」
美幸は人差し指を鼻の頭に置いて、記憶を手繰り寄せるような表情を作った。本指名の客なのに顔を思い出せなくて、戸惑っているらしい。
「どんなに頑張っても思い出せないと思うよ。初対面なんだから」
「じゃあ、初めてなのに指名してくださったんですか? うわぁ、ありがとうございます……ええっと、何とお呼びすれば?」
「タクトだ。呼び捨てで構わない」
「タクトさん……ですね。あの……飲み物いただいてもよろしいですか?」
おれが無言で頷くと、美幸はチーフを呼び止めてジントニックを注文した。
「……誰に聞いたんですか? 私のこと」
美幸が少し首を回しただけで、甘美で切ない芳香が漂ってきた。水割りを啜って動揺を誤魔化す。
ヘルプについていたコノミとは対照的に、顔の造作は地味で、目などは笑うと線になってしまうほどだ。どこか危なっかしくて頼りないその雰囲気が、男たちの庇護欲を煽《あお》るのだろう。しかし美幸は、その外見こそが自分の最大の武器であるということを充分理解し、それを最大限に活用していた。
おれは腕時計を見て少し考えた。美幸は指名が重なっている。ここで欺瞞《ぎまん》に満ちた会話を楽しむのも一興だが、美幸が別の席に移ってしまう前に、本来の目的を果たしておかなければならない。
おれは単刀直入に切り出した。
「──実は、通り魔事件のことを訊きに来たんだ。話せる範囲内のことでいいから、そのときのことを教えてくれないか」
意外にも美幸は驚きを顔に出さなかった。ひょっとしたら他の客にも、同じ質問をされたことがあるのかもしれない。
美幸は妖しげな微笑みを浮かべると、思いがけないことを言った。
「その前に一つ教えてくれませんか?……タクトさんって、〈クラレンス〉のチーフじゃない?」
おれは否定しなかった。敵情視察をする同業者は、当然のことながら招かれざる客ということになるが、彼女の言葉には非難の響きが感じられない。そんなことよりもおれは、美幸の洞察力の鋭さに感嘆していた。
「いつ気付いたんだ?」
「最初に会った瞬間かな。初めてにしてはいやに落ち着いてたから。それに、この辺りで何度か見かけたような気もしたし」
おれの正体を知るや、美幸の言葉遣いは少しくだけたものになった。しかし決して不愉快な気分ではない。むしろ彼女との距離感が縮まって、より親密になれたような気がする。むろんこれも彼女のテクニックなのだが。
「それなら話が早い。実は、一昨日、君が襲われた次の日なんだが、うちのキャストも同じ目に遭ったんだ」
「知ってる。梓ってコでしょ?」
これまた意外だった。うちが〈ギャラン〉のことを知ってるのは当然としても、〈ギャラン〉の美幸が梓のことを知ってるとは。
「なんで知ってんだよ?」
「警察から連絡があったの。『同一犯の仕業と思われますが、何か心当たりはありませんか』って」
思わず肩の力が抜けた。まあそんなものだろう。
「それで?」
「心当たり? 全然。っていうか、そのコに話を訊いたほうが早いんじゃない?」
「もちろん訊くつもりだけど、先に君の話を聞きたかったんだ。話したくないのか?」
「別にそういうわけじゃないんだけど……そんなこと聞いてどうするつもり?」
「ん……別に目的があるわけじゃない。ただなんとなく気味が悪いし、このままじゃおちおちナンパもできないから、なんとかして追っ払えないかなあと思ってね。もちろん警察が犯人を捕まえてくれれば、それに越したことはないんだけど」
言ってから自己嫌悪に陥った。おれはなぜこう余計なことに首を突っ込んでしまうのだろう。まだエリカの件だって決着がついたわけじゃないのに。
チーフがジントニックを運んできた。美幸が「いただきます」としなを作り、低い位置でグラスを掲げる。
「ええっと……それで何を話せばいいの?」
美幸がおれの顔を覗き込んで言った。
「全部だ。起きたことをすべて話してくれ」
全部といっても、すべてを話し終えるのにさほど時間はかからなかった。そもそも事件そのものが、アッという間の出来事だったらしい。
美幸の話は、おおよそ次のような内容だった。
その日の仕事を終えた美幸は、男のマンションへ向かうため、近道を通って大通りを目指していた。タクシーを拾うためだ。
やがて美幸は問題の路地に足を踏み入れた。時刻は午前二時五十分頃。不夜城と称されるこの街も、歓楽街を一歩外れると、その時間帯はぱったりと人通りが途絶えてしまう。事実そのときも、辺りは水を打ったような静寂に包まれていた。
少しだけ不安になって歩調を速めようとしたそのとき──建物の陰から突然何かが躍り出て、美幸の躯を羽交い締めにした。
声を出して助けを求めようとしたが、できなかった。自分を羽交い締めする犯人の手の先に、ナイフのようなものが光っていたからだ。
「怪我したくなかったら声を出すな」
くぐもった男の声。後になって何度も思い起こしてみたが、聞き憶えのある声ではなかったという。
「おとなしくしてれば何もしない。ジッとしてろ」
美幸は恐怖に顔を引きつらせたまま、壊れた人形のように何度も頷いた。言われなくても躯が竦んでいて、とても動ける状態ではなかった。
犯人は羽交い締めを解き、美幸の背中にナイフを突きつけた。もう片方の手は腰の辺りに伸びて、なにやらゴソゴソやっている。さっきは何もしないといったが、それが自分を落ち着かせるための口実であることは明らかだった。
こいつの目的は、自分の躯なのだ──美幸はそう確信し、我が身に降りかかった災難を嘆いた。なんとかして逃れる方法はないものか。
犯人はブラウスの裾を引っ張り出して、そのまま捲り上げた。美幸の背中が剥き出しになる。冷や汗が夜風に晒《さら》され、背筋を冷たいモノが伝っていった。
そして次の瞬間──。
背後で小さな舌打ちが聞こえた。ブラウスが放されたらしく、背中にシルクの感触が戻ってくる。
「えっ?」
美幸が振り返ろうとすると、犯人はそれを制して再びナイフを突きつけた。
「そのまま目をつぶって三十数えろ。ゆっくりとだ」
美幸は言われた通りにした。三を数えたところで犯人が走り去っていき、七を数える頃には完全に気配が消えていた。
美幸は二十二で数えるのを止め、バッグから携帯電話を取り出した。そして、迷うことなく警察に通報した──。
「──それだけ?」
眉を顰《ひそ》めながら訊くと、美幸は心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「そうよ。通り魔の一件は今ので全部。物足りなかった?」
おれは水割りを呷《あお》って頭の中を整理した。当初予想していたものとは、事件の性格がかなり違っている。道理で新聞やテレビに取り上げられなかったわけだ。
「未遂事件と聞いてたけど、少し意味合いが違うみたいだな。なぜ犯人は何もしないで逃げちまったんだろう。邪魔が入ったわけでもないのに」
「私にもよくわからないの。私の背中が気に入らなかったのかなあ。結構いいセンいってると思うんだけど。何もされなくてよかったと思う反面、ちょっとだけ悔しいような気もするのよね。なんか侮辱されたみたいで」
おれは肩を竦めてその言葉を聞き流した。事件に対する興味が、穴の空いた風船みたいに萎《しぼ》んでいく。おれは〈ギャラン〉に来たことを後悔し始めていた。
「結局犯人は何がしたかったんだと思う?」
おれの気持ちなどお構いなしに、美幸は嬉々とした表情で続ける。おれは溜息を漏らして煙草を取り出した。美幸が絶妙のタイミングでライターを近付ける。
「さあね。縛ろうと思ったら紐を忘れたことに気付いて、仕方なく諦めたんじゃないの? 考えるだけ無駄だよ。どうせバカの考えるコトなんて、わかりっこないんだから」
「そうか……紐、紐よ。きっとそうだわ」
美幸はおれの冗談を真に受けたらしく、自分を納得させるように何度も頷いた。苦笑しながら紫煙を吐き出すと、少し離れたところから別の声が割り込んできた。
「そんな簡単なことがわからないのか?」
アキラだった。場内指名を入れたミミとの会話が一段落して、おれたちの話に聞き耳を立てていたらしい。
「じゃあ言ってみろよ」
「別に難しく考えることなんてない。犯人の行動から素直に判断すればいいんだよ」
一瞬考えるふりをしてみせたが、すぐに諦めた。頭を悩ますほどの価値があるとも思えない。
「降参だ。教えてくれ」
アキラは勿体を付けるようにグラスを傾けると、煙草を取り出して口角に詰め込んだ。すかさずミミがライターを近付ける。
「教えるというほどのことじゃない。観点を変えればいいんだ」
「というと?」
「こう考えたらどうだ──犯人は志半ばで諦めたのではなく、充分に目的を果たしたから彼女を解放したのだ、と」
「目的を果たした? なに言ってんだ。彼女の話をちゃんと聞いてたのか? 犯人は背中を見ただけなんだぞ」
「それだよ。犯人の目的は彼女の背中を見ることだった──そう考えればすべての辻褄が合うんじゃないのか」
なるほど、確かにその通りだ。しかしそれだけでは到底納得できない。
「百歩譲ってそれが正しかったとして、犯人は何のために背中を見たりしたんだ? まさか『犯人は背中フェチだった』とか言い出すんじゃねえだろうな」
アキラは苦笑して髪を掻きあげた。
「その可能性も絶対にないとは言い切れない。でもそんな答えじゃおまえは納得できないだろ? おれの解釈はもっと現実的だ。とはいえ具体的な根拠があるわけじゃないから、あくまでも憶測に過ぎないんだが」
「構わない。聞かせてくれ」
先を促すと、アキラは小さく頷いて水割りを嘗《な》めた。
「彼女が襲われた次の日、タクトの店の女の子も同じように襲われている。詳しい状況は知らないが、十中八九同一犯の仕業と見て間違いないだろう。つまり犯人は彼女を襲った次の日、別の女性に同じことをしたということになる。これはいったい何を意味しているのか──」
アキラはいったん言葉を切って、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「焦《じ》らさないでくれよ」
「別に焦らしてるわけじゃない。ところでおまえの店のコ──梓とかいったな、身長はどのくらいなんだ?」
質問の意図がわからずにおれは眉を顰めた。
「百六十くらいのはずだが……」
「体型は? ぽっちゃり型? モデル系?」
「どちらでもないな。健康的な感じだから、強いて言えば体育会系ってところか」
「髪型は? ショート? ロング? 髪の色は?」
「一言で説明するのは難しいけど……」
いいながら首を回して、周囲にいるキャストたちを物色した。言葉で説明するよりも、それに近いヘアスタイルをしたキャストを探したほうが、手っ取り早いと思ったからだ。
しかしわざわざ辺りを見回す必要はなかった。軽くウェーブのかかったライトブラウンのセミロングヘア。梓とそっくりな髪型をした女性が、すぐ隣に座っていた。
「そうそう、ちょうどこんな感じ──」
そのときになってようやく、おれはアキラの意図を理解した。指摘されるまで気付かなかったが、確かに美幸と梓はよく似ている。顔立ちは明らかに違うのだが、全身の雰囲気がそっくりなのだ。
美幸の背中を見たときに犯人が漏らした舌打ち──なんとなく見えてきた。
「そうか……犯人はただ闇雲に女性を襲ってたわけじゃないんだ」
「そういうこと。つまり犯人の目的は──」
「──人を捜してるのね?」
横から美幸が割り込んできた。それは文字通りの割り込みで、肉感的な躯を押しつけるように体重を預けてくる。おれはその感触を楽しみながら、アキラの言葉に耳を傾けた。
「たぶんね。ターゲットの背中には特徴的な傷痕か痣《あざ》みたいなものがあるんだろう。そこで本人かどうか確かめるために、ブラウスを捲って背中をチェックしたんだ」
「でも、背中の傷のことまで知ってるくらいなら、当然その人の顔もよく知ってるんじゃないの? 襲いかかる前にちゃんと確かめればいいのに」
「いや、それは違うと思うな。たぶん犯人は、ターゲットの顔をよく知らないんだ。背中を見ることでしか、本人を特定する術《すべ》がないんだよ。もっとも身長や体型、髪型などについては、ある程度絞り込んでるみたいだけど」
マジな顔をして喋るアキラに、隣のミミが熱い眼差しを注いでいた。どうやら彼女も、アキラの放つ妖しいフェロモンに当てられたらしい。
ふと梓のことが気になった。大事には至らなかったと聞いているが、詳しいことは何もわからない。やはり彼女もハズレ≠セったのだろうか。
「ところでその犯人なんだが、顔は見たんだろ?」
美幸は弱々しく首を振った。
「後ろからいきなりだもん、とてもそんな余裕なかったわ。一瞬だけ視界に入ったけど、マスクとサングラスで顔を隠してたから、ほとんどわからなかった」
「おかしいな。ある人から、犯人は二十代後半の小柄な男で、見憶えのある顔ではなかったらしい──と聞いたんだが」
情報源は〈デプス〉のマスターだ。
「少し違うわ。確かに犯人は二十代から三十代の小柄な男だったけど、憶えがないと言ったのは顔じゃなくて声のことよ」
「二十代から三十代と判断した根拠は?」
「声も若かったんだけど、後ろから抱きつかれたときになんとなくわかったの。ダテにこんな仕事してるわけじゃないわ。四十過ぎのおじさんには独特の臭いがあるし」
おれは左隣に座るミミに視線を向けた。
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ。タクトさんだって後ろから女の人に抱きつかれたら、だいたいの年齢は想像がつくんじゃない?」
思い浮かべてみた。なるほど。確かにそんな気もする。
そのとき、先ほどまでヘルプについていたコノミが音もなく現れ、美幸の耳元で何かを囁いた。見当はつく。別の指名客のところへ行かなければならないのだろう。
「ごめんなさい、指名が重なっちゃってるの。もう少し待っててくれれば、ゆっくりお話しできると思うんだけど」
美幸は営業用のスマイルを浮かべて、言外に延長を仄《ほの》めかした。だが通り魔事件に関しては、これ以上有意義な情報が引き出せるとは思えない。おれは腕時計に目を落とした。
午前零時十分。まもなくフラワータイムだ。
「ありがとう、とても参考になったよ。一度襲った女性をもう一度襲うとは思えないけど、しばらくは気を付けたほうがいい。何かわかったら連絡するよ」
美幸は口を尖らせてそれを聞き流した。何がなんでも延長させたいらしい。
「じゃあコノミちゃん、お願いね。すぐ戻ってくるから」
美幸が立ち上がり、入れ替わりにコノミが再びおれの右隣に座った。口許を綻ばせながらおれの顔を覗き込む。
「延長しないのぉ? もう少しいてよぉ」
「残念だけど、まだ仕事が残ってるんだ。これ以上ここにいたら、働く気がなくなっちゃうよ」
「いいじゃん、一日くらい。どうってことないって。休んじゃえ休んじゃえ」
コノミは必死におれを引き留めようとする。おれは苦笑を浮かべながら、別のテーブルへ向かう美幸の後ろ姿を眺めた。
弾むように揺れる後ろ髪。くびれたウエスト。張りのある上向きのヒップ。はち切れんばかりの太股にキュッと引き締まった足首。
瓜二つというほどではないが、確かに後ろ姿は梓にそっくりだ。これなら間違えられても不思議はない。
しかし次の瞬間、おれは奇妙な錯覚を憶えた。美幸の後ろ姿が、思いがけない人物の後ろ姿を彷彿とさせたのだ。もちろんそれは梓じゃない。
花梨。
おれは狼狽《うろた》えた。いくらなんでも気にし過ぎだ。頭がおかしくなっちまったんじゃないのか?
しかし見れば見るほど、その直感は現実味を帯びてくる。震《ふる》いつきたくなるような後ろ姿。髪型はまったく違うが、体型や肉付きは確かあんな感じだったはずだ。決して錯覚なんかじゃない。
ロン毛のチーフがフラワーを告げに来た。おれはアキラと顔を見合わせ、小さく頷いた。
「えーっ、帰っちゃうのぉ?」
コノミとミミが甘えた声で合唱する。
「行かなきゃいけないところがあるんだ。また来るよ」
真実と嘘を一つずつ言い残して、おれとアキラは席を立った。
美幸とミミに見送られてビルの外に出ると、隣のビルの前で同じように客を見送る、亜樹と真澄の姿が見えた。おれの存在にはまだ気付いていない。おれは回れ右をすると、そそくさと店の前を離れた。後ろからアキラの声が追いかけてくる。
「どうするつもりなんだ?」
「店の連中に見つかりたくないんだ。別に悪いことをしてるわけじゃねえけど、こんなことで妙な噂を立てられたくない」
「ちげーよ、そのことじゃない。通り魔事件のことなんか訊いて、いったい何をするつもりなのかと訊いてるんだ」
店から死角となる場所まで来ると、おれは顎をしゃくってアキラをガードレールに促した。並んで浅く腰かける。
「別に目的があったわけじゃない。ちょっと興味があったから訊いてみただけだ。ただの暇つぶしだよ」
「そうか? そのわりにはいやに熱心に訊いてたみたいだけど」
「おまえだって人のこと言えねえだろ。おれたちの話を盗み聞きしてたくせに」
アキラはクックッと声を押し殺して笑った。この男にしては珍しい仕種だ。
「なにがおかしい」
「おまえはホントにおかしなヤツだな」
「どういう意味だ」
アキラは煙草を取り出して火をつけた。
「普通はトラブルがあればそれを避けようとするもんだが、おまえはまるで自分からトラブルの中に突っ込んでいきたがってるみたいだ」
「そんなことはない。たまたまそんなふうに見えただけだ。ひょっとしておまえ、バカにしてんのか?」
「いや、そうじゃない。おまえらしくていいなあと思っただけだ」
アキラの本心はよくわからなかったが、少なくとも嫌味を言ってるわけではないらしい。瞳の奥に優しい光が点《とも》っている。
アキラはガードレールから立ち上がり、おれに向かって敬礼した。
「さあ、そろそろ悪者退治に出かけましょうか。正義のヒーロー殿」
気合いが入りすぎたのだろうか。
早起きのカラスが白み始めた空をついと横切った。朝刊の配達はとっくに終わっている。
午前五時四十分。
これといった動きもないまま、平穏な夜が明けようとしていた。エリカからは二時半頃に一度メールが入っただけだ。今頃はぐっすり眠っているに違いない。
これ以上粘っても大倉が現れるとは思えなかった。朝の早い連中はそろそろ起き出している。こんな状況でエリカの部屋を訪れるとは思えない。
「引き上げよう。これ以上張り込みを続けても意味がない」
おれが打ち切りを告げると、アキラは大儀そうに立ち上がって、腰の辺りを軽く叩いた。
「空振りか」
「そういうことだ。おまえに恐れをなしたのかもしれないな」
アキラは小さくかぶりを振った。
「なんで来なかったかわかるか?」
「知るか。それがわかるくらいだったら苦労はしない」
「教えてやろうか」
冷笑を浮かべるアキラに、おれは無言で頷《うなず》いた。何か知っているのだろうか──期待が高まる。
「考えられる理由はただ一つ、準備不足だ」
「準備不足?」
「そう。昨日はアオダイショウが捕れなかったんだよ、きっと」
翌日の開店直後、おれはようやく花梨と言葉を交わすチャンスに恵まれた。
金曜日とはいえ、開店早々入ってくる客はほとんどいない。混雑してくるのはやはり九時を過ぎてからだ。かといって店を開けている以上は、一人でも多くの客に来てもらわなければならない。高い時給を払って待機させているキャストを、遊ばせておくわけにはいかないのだ。
マネージャーの梅島は、待機室に控えていた二人のキャストに客引きを命じた。瑠美と花梨。花梨の可愛らしさに惹かれて寄ってきた男どもを、瑠美の強引さで釣り上げようという魂胆らしかった。
ずっと店の中にいたおれには、花梨たちがどんなふうに客引きをしていたのかはわからない。結果的にフリーの客は二組しか入ってこなかったが、彼女たちを責めるのは酷というものだろう。おれだってこんな時間からこんな店で飲みたいとは思わない。
開店直後の慌ただしさが一段落すると、完全に手持ち無沙汰になった。ホールの片隅で安部と肩を並べる。
「よお、梓はどうした? 今日も休みか」
「いや、今日は同伴だ」
「昨日は出てきたのか?」
「ああ。意外とケロッとしてた。心配して損したよ」
美幸と同じだ。彼女も通り魔に襲われたとは思えないくらい、屈託なく振る舞っていた。ということは──。
「事件の話は訊いたか?」
安部はおれから視線を逸らして頷いた。
「昨日、店が終わってから軽く飲みに行ったんだ。そのときに少しだけ訊いた」
「なんて言ってた?」
「事件のことか? 別に大騒ぎするほどじゃなかったみたいだな。結局何もされなかったようだし。もっとも本人がそう言ってるだけで、本当のところはわかんねえけど」
「後ろから襲われたと言ってなかったか?」
「さあ。そこまでは訊いてない」
「ブラウスを脱がされそうになったんじゃないのか? 背中側から」
安部は弾かれたようにおれの顔を見つめた。
「なんでそんなこと知ってんだ?」
「そしてその直後、犯人は邪魔が入ったわけでもないのに、そのまま何もせず立ち去っていった──違うか?」
安部は大きく目を見開いて、躯《からだ》ごとおれに向き直った。ビンゴだったようだ。
安部は驚きを隠そうともしなかったが、実はおれ自身もかなり驚いていた。アキラの推理がこれほど的を射ていたとは──。少しだけヤツのことを見直した。
「誰に聞いたんだ? ひょっとして、梓?」
「いや、あれ以来彼女とは話してない」
「じゃあいったいどうして──」
そのとき、カウンターのほうからおれを呼ぶ声が聞こえてきた。梅島だ。
「続きはまた後で」
安部にそう告げて踵を返した。梅島は勤務表に目を落としたまま、平坦な口調で呟くように言った。
「下へ行って瑠美と花梨を呼んできてくれ」
時計を見た。二人が客引きを始めてからおよそ四十分。イヤに中途半端な時間だ。
おれは訝った。開店直後に比べたらだいぶ席は埋まってきたが、手が足りないということはない。事実待機室には、まだ数人のキャストが出番を待っている。
すると梅島が、おれの疑問を読み取ったかのように理由を説明した。
「ついさっきお客さんから、花梨の出《ヽ》を確認する電話があったんだ。八時半頃来店するらしい」
「じゃあ、代わりに誰かを?」
梅島は少し考えてから、「いや、もういい」とかぶりを振った。
おれは頷いてエントランスに向かった。エレベーターに乗り込み、一階に降りる。
太陽は没していたが、西の空はまだ茜《あかね》色に染まっていた。ポーチの脇に設けられた看板灯も、どこか精彩を欠いている。
二人の姿はすぐに見つかった。正確な数値までは知らないが、客引きができる範囲は店の入り口から何メートルまでと、条例で厳密に定められている。逆に言えば、何十メートルも離れたところで客引きをしているような店は、あまり健全な店とはいえない。花梨も瑠美も、その点については梅島からきつく言い渡されているはずだ。
花梨と瑠美は少し距離をおいて、それぞれのやり方で客引きをしていた。協力し合って成功率を上げようという意識は微塵も感じられない。梅島の目論見はうまく伝わっていなかったようだ。しかしそのほうがおれにとっては好都合だった。
瑠美に気付かれないよう、背後から花梨の様子を窺う。
客引き──積極的に声をかけてはいるのだが、訴えかける力が弱いせいか、道行く人は花梨に見向きもしない。客引きは手当たり次第に声をかけるよりも、これと睨んだ相手に粘り強く交渉したほうがいいのだが、そういった裁量は持ち合わせていないようだ。
今日の花梨は肩を出した濃紺のワンピースに、同系色のパンプスという出で立ち。装飾品はプラチナのネックレスに右手薬指のデザインリングだけ。装いそのものは地味だが、肌の白さとのコントラストが絶妙で、清楚な華やかさがある。
スカート丈は瑠美に比べたらかなり長めだが、張りのある花梨の太股を覆い隠すには力不足だった。脹《ふく》ら脛《はぎ》に淡く浮かび上がった血管が、眩暈《めまい》しそうなほど艶《つや》めかしい。
クラブ上がりの店長──麗子ママは、キャストたちにパンストの着用を義務づけたかったようだが、梅島たちの反対にあってこれを断念している。クラブのホステスに比べれば、キャバ嬢の平均年齢はかなり低い。若さの特権であるナマ足を隠すことは、彼女たちの商品価値を下げるようなもの──というのが梅島たちの言い分だった。結局パンストの着用については、個々人の意思に委ねられている。
ウエストから足首にかけての優美なラインは、美幸や梓に負けないくらい魅力的だ。やはり思った通りだった。
「お客さぁん、お店決まってるんですかぁ」
瑠美が通りがかりのリーマンに声をかける。それを聞いておれは我に返り、本来の目的を思い出した。
場所を変えて花梨の視界に入る。彼女がこちらに気付いたところで、小さく手招きした。花梨はやや訝しげな顔で近寄ってくる。
「……なんですか?」
「マネージャーが戻ってこいってさ。お客さんから電話があったみたいだよ」
花梨は口許を綻ばせた。
「そうですか。わざわざすいません」
ぴょこんとお辞儀をして、おれの脇を擦り抜けようとした。清涼感のある甘酸っぱい匂い。おれは手を伸ばして花梨の右腕を掴み、彼女を引き止めた。
「ちょっと待って。五分ばかりいいかな」
そう切り出すと、花梨は再び顔色を曇らせた。
「……なんですか?」
「明後日、店が休みだろ? それで何人か誘って焼き肉に行くことになってるんだけど、よかったら一緒に行かない?」
花梨は笑顔一つ見せなかった。それどころか躯全体を強張らせて、警戒心をあらわにしている。予想外の反応だった。
決して自惚れるわけではないが、女の受けは悪くないほうだと自負している。キャストたちから飲み会やカラオケに誘われることも多いし、ナンパの成功率もコウジに比べたらかなり高いはずだ。裏を返せば単に男として見られていないだけかもしれないが、それにしても花梨の反応は不可解だった。
人見知りが激しい? だがそんなことではこの仕事は勤まらない。おれに関する悪い噂を聞いた? だとしたら他のキャストの態度も変わってくるはずだ。生理的な嫌悪感? それともただの思い過ごし?
ひょっとして鼻毛が飛び出しているのかも──そんなことまで考え、鼻の下を擦りつけたが、花梨の表情に変化はなかった。
「あの……どうして私なんかを?」
「ん……いや、まあ、立場は少し違うけど、一緒に働いてる仲間だからさ、親交を深めようと思って。別に深い意味はないよ。歓迎会と思ってくれればいい。どうかな。もちろん無理にとは言わないけど」
あえて相手の都合は訊かなかった。重要なのは本人に来る気があるかどうかだ。
花梨は困惑気味に視線を逸らした。
「私の歓迎会なんですか?」
「えっ? ああ、そうそう、要するに歓迎会」
そういう意図で企画したわけではないが、おれは彼女の勘違いをそのまま採用することにした。歓迎会にしてしまえば、花梨は断れなくなる。
「何人くらい参加されるんですか?」
「あんまり大袈裟になってもアレだから、四、五人くらいでやろうと思うんだけど……やっぱもう少し大勢いたほうがいいかな?」
「いえ、少ないほうが気が楽でいいです」
「誰か誘いたい人はいる? 従業員の中で」
「それは特にないんですけど……あの、店長とかマネージャーとかも来るんですか?」
「内輪で軽くやるだけだから、偉いさんを呼ぶつもりはない。休みの日くらい、羽根を伸ばしたいし。それとも、いちおう声かけてみる?」
「いえ、いいんです、いいんです。ちょっと訊いてみただけですから」
花梨は激しく首を振っておれの提案を退けた。表情が少し和らいでいる。麗子ママや梅島が来ないと聞いてホッとしたのだろう。
「──ねえ、どうしたの?」
背後から瑠美がいきなり現れ、思わず飛び上がりそうになった。話に熱中するあまり、こいつの存在をすっかり忘れていた。
「わかった。また口説いてたのね。ダメよ、仕事中に店のコに手ぇ出しちゃあ」
「そんなんじゃないって。誤解を招くようなこと言わないでくれ」
瑠美は花梨に顔を向けた。
「あなたも気を付けたほうがいいわよ。この男には風紀なんて関係ないんだから」
花梨は小首を傾げて、曖昧に微笑むだけだった。
「あのなあ……そんなことより、そろそろ店に戻ってくれ。客引きはもういいから。マネージャーがそう言ってた」
「花梨ちゃんは?」
「もちろん一緒だ。瑠美を待ってたんだよ」
「またぁ。どうせなら、もう少しうまい嘘をつけばいいのに。まあいいわ」
瑠美は独り言のように言い捨てると、先に立って歩き始めた。慌てて後を追う。
おれは小声で花梨に話しかけた。最後の一押しだ。
「……そういうことだから、日曜日は空けといてくれ。待ち合わせの時間と場所は追って連絡する。おれの携帯の番号とアドレス」
前もって用意しておいた紙片を手渡す。花梨がそれを素直に受け取ったのを見て、おれの心はガキのようにさざめいた。
「とにかく一度メールしてくれ。あとはこっちから連絡するから」
「まだ行けるかどうかわからないんですけど……」
「そのときはそのときさ。無理強いするつもりはないから、あまり気にしないで」
「あの、それから……」
花梨は言い淀んだ。何か言いにくいことがあるらしい。
「なに? 遠慮すんなよ」
花梨は小さくかぶりを振った。
「──いえ。やっぱりいいです」
おれは眉を顰めた。一番イヤなパターン。はいそうですかと受け流せるほど、おれは淡泊な人間じゃない。
「嫌いだな、そういうの。言いたいことがあるならはっきり──」
「──どうするの? 乗らないの?」
瑠美の言葉に遮られた。振り返ると、彼女はすでにエレベーターに乗り込んでいた。扉を押さえておれたちが乗るのを待っている。
「すいません、今行きます」
花梨が小走りでエレベーターに向かう。おれも仕方なく後を追い、エレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まると、瑠美が横目でおれを睨み付けてきた。
「あんまり花梨ちゃんを困らせないでね。まだ馴れてないんだから」
閉店後。
片付けを終えたおれは、先ほど訊きそびれたことを確かめようと、花梨の姿を探し求めた。彼女はいったい何を言いかけたのか──仕事中もずっとそのことばかり気になっていた。
しかし彼女の姿はどこにもなかった。帰り支度をしていた亜樹を呼び止め、花梨の行方を訊く。
「花梨ちゃん? もう帰っちゃったんじゃないの? ミーティングが終わると、いっつも速攻で消えちゃうから」
おれは諦めて店を出、アキラの待つ駐車場へと向かった。五分おきに携帯を取り出し、メールの着信を確認する。
その日、花梨からのメールはなかった。
夜明け少し前に、雨が降り始めた。エリカのマンションを見張るようになってから、初めての雨だ。
「今日も現れそうにないな」
アキラがぽつりと呟《つぶや》いた。今夜も最初から付き合ってくれている。
「ああ。もう五時半になる。そろそろ引き上げよう。空振り続きで悪いな」
「別におまえのせいじゃない。それに、このままストーカーが来なくなれば、それに越したことはないわけだし」
おれは首を振った。
「いや、それはないと思う。ヤツにしてみれば、エリカのマンションに来るのはいわば習慣みたいなもんだ。その習慣を理由もなくやめるはずがない」
「ヤツのほうに個人的な事情ができたのかもしれない。たとえば、新しいターゲットが見つかったとか」
「そういう移り気なタイプは、そもそもストーカーなんかになりゃしねえんだよ」
アキラは言葉を詰まらせた。
「……確かに」
「ともかく今日は帰ろう。勝負は明日だ」
「明日も来なかったらどうする?」
「いや、明日は必ず来る。来てもらわなければ困る」
「どうして?」
「日曜日はどうしても外せない用事があるんだ。明日中には決着をつけたい」
開店してしばらくすると、矢崎が卑屈な笑みを浮かべて近寄ってきた。
「聞いたか? また出たんだってな」
「出た? なにが?」
「決まってるじゃないか、通り魔だよ。梓ちゃんを襲ったヤツだ」
「通り魔……」
美幸、梓に続き、これで三人目。もちろんおれの耳に入ってこないだけで、他にも被害者がいるのかもしれない。
「襲われたのは?」
「〈カーニバル〉の瞳。詳しい状況は聞いてないけど、これといった被害はなかったらしい。梓ちゃんのときと一緒だな」
〈カーニバル〉。通り一本隔てたところにあるショークラブだ。この界隈では最大級の規模を誇る。瞳という名前に聞き覚えはなかったが、〈カーニバル〉所属ということは、おそらくダンサーなのだろう。
「つまり、未遂に終わったということか?」
矢崎はぎこちなく肩を竦めた。
「さあ。おれも小耳に挟んだだけなんだ。詳しいことはわからないが、梓ちゃんが襲われたときとまったく同じだっていうから、たぶんそうなんじゃないかな」
「知ってるのか? そのコのこと」
「うん……まあな」矢崎は気まずそうに口ごもった。「フリーで行ったときに、一度ついてもらったことがある」
矢崎のキャバクラ好きは今に始まったことじゃない。彼はキャバクラで稼いだ金を、別のキャバクラにばらまいているのだ。世の中は実にうまくできている。
「身長はどれぐらいだった?」
「身長? よく憶えてないな」
「体型は? 痩せ形? ぽっちゃり型?」
「痩せ形ってほどじゃないが……普通だよ。中肉中背」
「背格好は梓と同じくらい?」
「そうそう、梓ちゃんと同じような──ん? ちょっと待てよ。それどういう意味だ?」
片付けを終えて店を後にした。歩きながら携帯をチェックする。
メールの着信が二通。
一通目──『日曜の件、店の場所と時間を教えてください──』
花梨からだ。一瞬胸が高鳴ったが、その後に続く奇妙な文章を見て、おれは首を捻った。
『それと、余計なことかもしれないけど、ピアノ、練習しといたほうがいいですよ』
花梨はもちろん、店の人間には誰一人として過去のことは話していない。どういうつもりか知らないが、おれには関係のないことだ。
返信のメール。時間と場所を打ち込んだ後、最後にこう書き加えた。
──『ところでピアノって何のことだ? からかってんの?』
二通目──『やっほー。今日もキメてるよ。タクトもいっしょにやろーよー。そういえばわたし、すっかり勘違いしてた。〈たま〉は今の店で使ってる名前なのだ。わたし、クルミだよ。今日もちょーいい感じ。レスくれレスくれ』
クルミ?
愕然とした。思わず足が止まる。
馬鹿な、そんなはずはない。何かの間違いだ。悪質な冗談かもしれない。
眩暈がした。地面にぽっかりと穴が空き、どこまでも滑落していくような感覚。
クルミ──つい三ヶ月ほど前まで、恋人同然に付き合っていた女。しつこく付きまとうストーカーから助け出してやった女。
アドレス──おれの知るクルミのアドレスではなかった。しかしそのアドレスには確かに見憶えがあった。〈たま〉の名前で送られてきたメール。アドレスが完全に一致している。
半ば呆然としながら返信を打つ。クルミがクスリに嵌《はま》っている? あのクルミが? やはり信じられない。
祈るような思いで送信ボタンを押した。
──『おまえ、ホントにクルミか? 一度会わないか? 来週なら平日の昼間はいつでも空いている。都合のいい日を教えてくれ』
焦りと苛立ちがおれを感情的にしていた。
焦り──花梨の歓迎会と称した飲み会は明日に迫っている。せっかくのチャンスを無駄にしたくなかった。そのためには、今日中に決着をつけなければならない。
苛立ち──クルミからのメール。彼女がクスリをキメている姿など、想像したくもなかった。いったい何があったというのか。その後メールは届いていない。
駐車場についた。一階の片隅に停められた黒のセドリック。アキラがシートを起こして、ドアのロックを解除した。
助手席に乗り込んでドアを閉める。アキラがイグニッションキーを捻りながら、ポツリと呟いた。
「……ついさっき、ヤツが現れたぞ」
ギクリとした。キャストは終礼が済めばすぐに帰れるが、おれたちは片付けが終わるまで店を出られない。そのわずかな隙をつかれないよう、アキラに代役を頼んでおいたのだ。大倉の特徴は詳しく伝えてあるから、アキラの勘違いとは思えなかった。
「マジで? エリカに接触してきたのか?」
アキラは首を横に振った。
「いや、遠巻きに様子を窺ってただけだ。同僚と一緒に居酒屋へ入っていくところを見たら、すぐにどっかへ行っちまったよ」
おそらく、アフターの有無を確かめにきたのだろう。何のために? 考えられる理由は一つしかない。
「エリカは? 気付いてたのか」
「いや、たぶん気付いてないと思う。ずっと友達と喋りっぱなしだったから」
「そうか……いよいよだな。とりあえず彼女のマンションに向かおう」
おれは助手席に座ったままワイシャツを脱ぎ、派手な色合いのアロハシャツを羽織った。この日のためにわざわざ買っておいたものだ。シャツに似た色調のバンダナを頭に巻き付け、拳をテーピングで保護する。
アキラが眉を顰めた。
「イヤに気合いが入ってるじゃないか。何の真似だよ、そりゃ?」
「変装だよ。おれは面が割れてるから」
「そこまでしなくてもいいんじゃねえの? 真っ昼間じゃねえんだから」
「深い意味はないんだ。別にいいだろ? おまえに迷惑がかかるわけでもないし」
そう。自分でもこの変装に意味があるなんて思っちゃいない。翌日に遠足を控えた子どもが、興奮のあまり妙な言動をするのと一緒だ。何かせずにはおれないほど、おれの精神は落ち着きを失っていた。
「どうしたんだ? なんか変だぞ、今日のタクト。いつもの冷静さがない」
「満月だからだよ」
アキラは躯を前に倒して、フロントガラス越しに夜空を見上げた。
「思いっきり三日月だぞ」
聞こえなかったふりをして携帯を取り出した。エリカの携帯を呼び出す。
「──はぁい、タクト?」
「今どこ?」
「〈和居和居〉だよ。そっちは?」
「マンションに向かってるところだ。十分もあれば着くと思う」
「じゃあそろそろ帰るね。今夜も来なけゃいいんだけど」
「いや、ヤツは今夜、間違いなく現れる。タクシーに乗るまでは一人きりになるなよ」
「う、うん。わかった」
声がわずかに震えていた。今の一言で酔いも醒めたようだ。
「心配するな。今夜決着をつけてやる」
「……わかった。気をつけてね、タクト」
電話を切ると、アキラが正面を向いたまま口を開いた。
「──で、作戦は?」
「うん。作戦というほどじゃないが、シナリオはいちおう考えてある。挟み撃ちにするんだ」
ひっそりと静まり返った路地にクルマを停め、おれとアキラはエリカからのメールを待った。大倉の狙いはエリカとの接触。とりあえず彼女の帰りを待つしかない。
午前三時十二分。携帯が震えた。
エリカからのメール──『今タクシー。あと十分くらいかな』
クルマを降り、徒歩でマンションに向かう。エントランスが見えたところで、アキラにマスクを差し出した。ついさっきまでは「顔を隠す必要なんてない」と強がっていたが、おれの真意は伝わってるはずだ。
おれたちはかなりヤバいことをしようとしている。大倉はアキラのことなど当然知らないが、顔を憶えられたら厄介だ。善意で手を貸してくれているアキラを、余計なトラブルに巻き込みたくなかった。むろんおれが恐れているのは、警察ではなく、報復のほうだ。
アキラは無言でマスクを受け取り、コンビニの中に入っていった。おれはそのまま路地を進み、東側にあるスロープからマンションの敷地内に侵入した。駐車場の片隅に身を潜め、その瞬間が訪れるのを待つ。
頭の中のメンデルスゾーンが佳境を迎えたとき、エントランスのほうでクルマが止まる気配がした。
エリカが帰ってきたのだろう。
全神経を聴覚に集中させる。ドアの閉まる音、タクシーが走り去る音、エリカが階段を上る音、コンビニのドアが開く音、アキラが階段を上り始める音──。
もちろんすべてが聞こえていたわけではない。しかしおれには、そのときの状況が手に取るように見えていた。わからないのは大倉の出方だけだ。
やがて、三階の通路にエリカが姿を現した。さっきの脅しが利いたのか、表情がかなり強張っている。足の運びも速い。後方からアキラが来ているはずだが、ここからではその姿を捉えることはできなかった。
エリカが部屋の前に辿り着いた。
バッグからキーケースが取り出される。
そのとき、通路のこちら側から別の人影が飛び出してきた。
野球帽を目深にかぶった男。漆黒に染まった悪意。間違いない──大倉だ。
大倉は目にもとまらぬ速さで駆け寄り、エリカに襲いかかった。エリカの口から声にならない悲鳴が漏れる。
くそっ。ドス黒い怒りがおれを苛立たせる。しかし今はジッと耐えるしかない。
通路の西側に三つ目の人影が現れた。三日前のおれ──アキラだ。まるであのときの再現フィルムを見ているような気分だった。
アキラは無言のまま通路を駆け抜けた。大倉とエリカがそれに気付き、動きを止める。
大倉はもちろんだが、エリカのほうも驚いたに違いなかった。鼻から下がマスクで覆われているものの、あの人物がおれでないことはひと目見ればわかる。
しかしエリカは気丈だった。怯《ひる》むことなく「助けて!」と声を絞り出し、アキラに救いを求める。
大倉の口から舌打ちが漏れた。エリカを突き倒して脱兎のごとく逃げ出す。
さあ、出番だ。バンダナを巻き直し、両耳にマスクのゴムを引っかける。
足音を忍ばせて階段の下り口に移動した。大倉の気配が急速に近付いてくる。
三日前とまったく同じタイミングで現れたマスク姿の男。さすがに偶然とは思わないだろう。慌てふためく大倉の姿が目に浮かぶようだ。
──タタタタッ
来た。
階段の陰から飛び出し、下りてきた男の腕を背後から掴む。男は金縛りにでもあったかのように、躯を硬直させた。ゆっくりとこちらを振り向く。
筋の通った鼻梁。二重瞼の大きな目。しゃくれ気味の顎──間違いない。大倉だ。
ヤツの表情が凍り付いた。おれの姿はどう見ても常軌を逸している。当然の反応だった。
逃げることを思い出される前に、ヤツの顔面に拳をブチ込んだ。グチッという音とともに、蛙の鳴き声のような悲鳴が漏れる。
ヤツは腰を抜かして尻餅をついた。転んだ拍子に手にしていた紙袋を取り落とす。
辺りに異臭が漂った。イヤな予感。中身ごと紙袋を蹴り飛ばす。
黒々とした毛の塊が飛び出した。いや──違う。
歩み寄って顔を近付けた。思わず目を見張る。
黒猫の死骸だ。触って確かめるまでもなく、臭いだけでかなり腐乱していることがわかる。
生きたヘビの次は、腐乱した黒猫の死骸。こんなものを持ってきて、いったいどうするつもりだったのか。そうまでしてエリカを苦しめたいのか──。
おれの中で、固く張り詰めていたモノがブチンと音を立てて千切れた。メンデルスゾーンがフェードアウトする。
「てめえっ──」
鼻血を垂れ流す大倉。その目にあるのは恐怖や怯えではなく、純粋な疑問だった。躯を捻って立ち上がろうとしている。その脇腹を思い切り蹴飛ばした。
俯《うつぶ》せに転がった大倉の髪を掴み、上体を反らせる。呻き声が漏れた。顔面をアスファルトに叩きつける。一回、二回、三回。悲鳴が上がったのは二回目までだった。
起き上がらせて鳩尾《みぞおち》に膝蹴りをくらわす。立て続けに頬を平手打ちし、相手の戦意を喪失させる。
それまで眠っていた感情が、むくむくと鎌首をもたげていた。自覚はなかった。
害虫駆除。勧善懲悪。正義の名のもとに下される鉄槌。爽快感が躯を駆け巡り、頭の芯がじんと痺れてくる。
いつしかおれは、本来の目的を見失っていた。陶酔と恍惚。その快感に酔いしれながら、惰性で大倉を痛めつけていた。
「──おい、やめろ」
肩を掴まれて我に返った。アキラが険しい形相でおれを睨み付けている。
「もういいだろ。それ以上続けたら、気を失っちまうぞ」
手を放すと、大倉は壊れた人形のように、グニャリとアスファルトに転がった。顔面は腫れ上がって原形をとどめておらず、鼻血や涎《よだれ》が飛び散っていて、見るも無惨だ。胸はかすかに上下している。どうやら人殺しにはならずにすんだらしい。
おれを押しのけ、アキラが大倉の顔を覗き込んだ。中腰になってヤツの躯をあらためる。ポケットの中からカードケースを見つけ出し、そこから名刺を一枚引き抜いた。
「井手産業、大倉……おまえのことか?」
「う……」
大倉は小さく呻き、苦しそうに顎を引いた。アキラがおれに名刺を見せる。エリカにもらったのと同じものだ。アキラはおれの耳元に顔を寄せた。
「免許でもあれば住所がわかるんだが、今はそれしか持ってないようだ。どうする?」
おれは口を閉じたまま首を横に振った。住処の確認に手間をかけるよりは、一刻も早く姿を消したほうがいい。
アキラは再び屈み込んで、大倉の頬を軽く叩いた。
「おい、聞こえるか。あの女には二度と近付くんじゃねぇぞ。わかったな」
アキラはそう言い捨てて立ち上がった。大倉の頭がわずかに頷いたように見えたが、気のせいかもしれない。
おれはアキラに手を引かれて、その場を離れた。大倉の躯は、隣に転がっている猫の死骸と同様、ピクリとも動かなかった。
「どうしたんだよ。なんかおかしいぜ、今日のタクト」
クルマが甲州街道に入ったところで、アキラがおもむろに口を開いた。
「見なかったのか? あいつは猫の死骸を用意してたんだぜ。あんなもん見せられたら、誰だって頭に血が上るさ」
「それにしてもやりすぎだ。おれが止めなかったら、殺しかねない勢いだった。ヤツに個人的な恨みでもあったのか?」
おれは応えなかった。自分でも説明がつかなかったからだ。理性で制御できない暴力的な衝動──そんなものがおれの中に潜んでいるとは、絶対に認めたくなかった。
アキラの追及から逃れるために、携帯電話を取り出した。エリカが報告を待っているはずだ。
「──はい。あ、タクト?」
間延びした声が応えた。思わず舌打ちが漏れる。
「なんだよ、寝てたのか?」
「ん? 違う、寝てないわよ。どうなったの、結局?」
「お望み通りボコボコにしてやったよ。もう大丈夫だ。普通の神経してれば、二度と近付かない」
「ありがとう。ごめんね、変なこと頼んで」
「こんなことは今回限りにしてくれ。それから、わかってると思うけど、店の連中にも内緒にしといてくれよ」
「うん、わかった……それで、どうする? 今から受け取りに来る?」
「受け取り? ああ、報酬のことか」
「今からでもいいわよ。現物支給」
面食らった。先日は難色を示していたのに、まさか自分のほうから言い出すとは──。心境の変化でもあったのだろうか。
しかし、おれは肉体的にも精神的にも、かなり疲れていた。それに今はアキラがいる。引き返す口実を考えるのも面倒だった。
「いや、今日はやめとくよ……というか、あれは冗談だ。ちょっと調子に乗りすぎた」
「そう……じゃあ代わりにいいモノあげましょうか」
「いいモノ?」
「そう。ムーガンよ。どう?」
「ムーガン?」聞き返すと、アキラが弾かれたようにおれのほうを振り向いた。「なんだよ、ムーガンって?」
「……知らないの? ふーん。ちょっと意外。タクトなら知ってると思ったんだけど」
「おい、それどういう──」
「それじゃ、またね。お礼はちゃんとするから。おやすみなさい」
唐突に電話が切れた。失言に気付いて、それを誤魔化そうとしたような感じだ。
「──ムーガンがどうしたって?」
アキラの口調には棘《とげ》があった。その瞬間、おれはムーガンの正体を理解していた。
「クスリなのか?」
「そうだ。夢に丸と書いて〈ムーガン〉。ここにきて流行の兆しを見せている」
「いわゆる合法ドラッグ?」
アキラは溜息混じりに頷いた。
「ああ、そういうことになってる。台湾辺りから入ってきてるらしいんだが、キャバ嬢にまで蔓延してるとはな……何と言ってたんだ、彼女?」
「最初はおれにくれると言ってたんだが、知らないと言ったら切られちまった」
「他人に分け与えるくらい、手元にあるってことか」
「だろうな。それにしてもエリカが……知らなかった。思いもしなかったよ」
アキラは忌々しげにハンドルを叩いた。
「くそっ、後味が悪いな。知ってたら引き受けなかったのに」
「……おれもだ」
調子を合わせたわけではなかった。合法だろうが非合法だろうが、クスリに逃げるような人間は畜生以下だと思っている。エリカがクスリをやると知っていたら、どんなに甘い言葉で誘われても、決して〈デプス〉には行かなかったはずだ。
さっきの電話。言葉遣いも雰囲気も、明らかにいつものエリカとは違っていた。彼女はすでにムーガンをキメていたのだろう。
おそらくは、大倉の恐怖から逃れるために──。
〈莫耶〉に揃ったのは五人だった。おれ、安部、梓、久美、そして花梨。当初はキコを誘う予定だったが、梓に打診したところあっさりOKが出たので、キコには声をかけなかった。最初は緊張気味に頬を引きつらせていた花梨も、酒が進むにつれて次第にうち解け、やがて本物の笑顔を見せるようになっていた。おれの問いかけに対しても、朗らかな表情で応えてくれる。先日の頑なな態度が嘘のようだった。
「ここ、結構高いんでしょ? 大丈夫なの、タクト? 無理しなくてもいいのよ」
石焼きビビンバを取り分けながら、久美が心配そうな目でおれを見つめた。梓がそれに同調する。
「そうよ。そもそもなんで私たちがタクトに奢られなきゃなんないの? なんかよからぬことでも企んでんじゃない?」
彼女たちには「焼肉を奢る」と言って誘っただけで、詳しい事情までは伝えていない。花梨に至っては奢られることすら初耳のはずだ。案の定彼女は、戸惑ったようにおれたちの顔を眺め回している。
「いつも世話になってばかりだからな。たまには奢らなきゃと思って」
「じゃあ安部くんは? なんで安部くんまでその恩恵に与《あずか》るのよ? むしろ折半すべき立場じゃない」
「なに言ってんだ。おれだっていろいろとタクトに協力してる。一度くらい奢られても罰は当たらないさ」
「それはお互い様でしょ」梓は誤魔化されなかった。「ねえ、何か弱みでも握られてるんじゃないの? こんなヤツの脅しに屈しちゃダメよ。私たちが味方になるから、正直に話しちゃえば」
おれは安部と顔を見合わせた。呆れたように肩を竦める安部。他の連中にバレると鬱陶しいから、内緒にしといてくれと頼んだのは、おれのほうだ。しかし梓も久美も、生半可な言い訳では納得してくれそうにない。
おれは真実を告げることにした。こんなことで場の雰囲気を壊したくない。
「そんなんじゃない。実はこの間、安部に勧められてサッカーくじ──totoを買ったんだけど、それが当たっちまったんだ」
梓と久美が二人揃って驚きの声をあげた。いつ? どうやって当てたの? 当選金は? あれってそんな簡単に当たるもんなの? 矢のような質問攻勢に一つずつ答えていく。
花梨を見た。おれたちのやり取りを興味深そうに聞いてはいるが、さほど驚いた様子はない。
──あ、おめでとうございます。
あのときの言葉の意味を問いただしたかったが、今は安部たちの耳がある。この場で訊いても、花梨が真実を話してくれるとは思えなかった。彼女は自分の能力が表沙汰になることを、あまり望んでいないようだ。
デザートが運ばれてきた。マンゴープリンだ。話をするのも忘れてその味を堪能していると、花梨が呟くように言った。
「──意外でした。ああいう店で働いてる人たちって、結構ドライじゃないですか。それなのにみなさんこんなに仲が良くて、しかも私なんかのために歓迎会まで開いてくれるなんて……。前の店だったら絶対にあり得ないことです」
意外だったのはこっちのほうだ。
「え? 花梨ちゃん、うちの店が初めてじゃなかったの?」
「この仕事ですか? ええ。もう二年近くやってます。〈クラレンス〉が三店目になります。最初の店は一年半くらい続いたんですけど、次のお店は半年も保ちませんでした。待遇とかお客の質はまあまあだったんだけど、なんかお店の人間関係で疲れちゃって」
久美が訳知り顔で大きく頷いた。彼女も別の店に勤めていた経験がある。花梨の話に思い当たる節があったのだろう。
「人間関係っていうと、やっぱキャスト同士のいざこざ? 客の取り合いとか、古株の新人いびりとか」
安部が揶揄するように訊く。
「まあそうですね。他にも男性従業員を巡るトラブルや、派閥抗争みたいなことをやってる人もいましたけど」
人が多くなれば、それだけ問題やトラブルも多くなる。花梨が以前勤めていたのは、大バコの部類に入る店だったのだろう。
「じゃあ私はまだ恵まれてるほうなのね」
梓が複雑な表情を浮かべながら、溜息混じりに言った。彼女は他の二人と違い、他の店で働いた経験がない。他店の内実を知ってホッとすると同時に、少し残念そうでもあった。条件次第では店を移ろうと考えていたのかもしれない。
「そういうの、全然ないんですか? あの店には」
おれを含め、花梨を除く四人が、示し合わせたように顔を見合わせた。安部が含み笑いを漏らす。
「ないことはない。人間が二人以上集まって何かをすれば、それはもう立派な社会だ。社会が形成されれば必ず何らかの問題が生じてくる。人間が人間として生きていく以上、その宿命からは逃れられない」
「はあ……そうなんですか」
「なにワケのわかんないこと言ってんのよ。違うでしょ。彼女はもっと具体的なことを訊いてんの」久美は安部の肩を軽く小突いて、花梨のほうを向いた。「彼の言う通り、みんながみんな仲良しというわけじゃない。たとえばママとエリカ。エリカのほうはそれほどでもないんだけど、ママは彼女のことをあんまり快く思ってないみたい」
おれにとっても初耳だった。
「そうなのか。どうして? 今やうちの稼ぎ頭なのに」
「それが気に入らないのかもよ。ほら、樹利亜さんとの絡みがあるから。樹利亜さんはママ自身が引き抜いてきた子飼いのキャストでしょ。店でもママの懐刀《ふところがたな》みたいな立場にある。キャスト全体を掌握するという意味でも、オーナーに対して自分の能力をアピールするという意味でも、樹利亜さんがナンバーワンでいてくれたほうが、ママにとっては都合がいいんじゃないかしら」
「エリカ自身の問題じゃないってことか」
「ちょっと違うんじゃないの、それ」梓が口を挟んだ。「ママがエリカを毛嫌いしてるのは、やっぱ個人的な感情が原因だと思うよ。仮に他のコがナンバーワンになったとしても、ママがそのコに対して悪い感情を抱くとは思えない」
「実際のところ、どうなんだ? エリカは不当な扱いを受けてるのか」
おれが訊くと、梓はかぶりを振った。
「待遇面での差別や表立ったイジメ行為はないみたい。基本的にはシカトね。ああ見えて麗子ママって、結構従業員には気ぃ配ってて、私たちにも気さくに話しかけてくれるじゃない。でもエリカに対してはそれがないみたい。ここ三ヶ月ばかり、ママとは一度も口を利いてないって言ってた。なんかエリカの存在を認めてないって感じなのよね」
存在を認めない──ふと思った。麗子ママは、エリカがクスリに溺れていることを、知っているのではないだろうか。
しかしこの場でその話題を出すのは憚《はばか》られた。ここにいるメンバーは信頼がおけるヤツばかりだが、何から何まで打ち明けられるほど親しいわけじゃない。逆に言えばそこまで親しくないからこそ、信頼関係が維持できているのかもしれなかった。
「他にもあるのよ」久美が目を輝かせながら話題を転じた。「意外と敵が多いのが亜樹。あのコああいう性格だから、思ったことをなんでもかんでもずけずけ言っちゃうのよね。本人には悪気も他意もないの。でも彼女のことをよく知らない人にとっては、それが嫌味や侮辱に聞こえるときがある。女って結構根に持つタイプが多いから、一度ヤなヤツだって思っちゃったら、そう簡単にはこころを開いてくれない。麻里ちゃんとか瑠美がそう。いまだに亜樹に対しては、距離をおいた接し方しかしないわ。花梨ちゃんはどう? 気に障《さわ》ること言われたりしなかった」
花梨は曖昧に微笑んだ。
「いえ、別に……大丈夫でした」
「店では指名客も多くて態度もデカいけど、世渡りはあんまり上手じゃないみたい。友だちも少なくて、気が合うのは異性ばっかりなんだって。無器用なのよね、きっと。なんかわざと嫌われようとしてるみたいな印象を受けるもの」
「そうそう。目に見えないバリアを張り巡らせてるって感じ」
梓が同意する。女というのは恐ろしい生き物だ。果たしておれは、陰でどんなことを言われているのだろうか。
「あとは、やっぱマネージャーかな。あの人も……」
精算が終わって店を追い出されるまで、久美の暴露話は延々と続いた。最後まで辛抱強く付き合ったが、結局クスリに関する話題は一度も出てこなかった。
〈莫耶〉を出たおれたちは、近くにあるカラオケボックスになだれ込んだ。お決まりのコースというわけだ。
花梨は流行《はや》りの歌を三曲ほど披露した。特別うまくはないが、なんとなく聞き入ってしまうという、不思議な魅力を持っている。何度か音程を外したが、そんなときはちろっと舌を出して、照れ隠しのように小首を傾げた。その仕種におれは思わず見惚れてしまった。
うーん。やっぱり可愛い。
もう自分の気持ちを偽るのはやめよう。この感覚はどんな言い訳をしたって誤魔化せるもんじゃない。クルミと付き合ってた頃は、こんな気分になることは一度もなかった。
花梨、花梨、花梨。おれの頭の中は、彼女のことで埋めつくされていた。この異常事態を解明するには、恋という言葉を持ち出すしかない。恥ずかしいことだが、それは紛れもない事実だった。
「──ほら、次、タクトの番よ」
梓にマイクを押しつけられ、我に返った。適当に選曲してマイクを握る。
久美の姿はすでになかった。彼女は〈莫耶〉を出たあと、そのまま帰ってしまったのだ。
──休みの日くらい、子どもと一緒に寝てあげたいじゃない。
久美には二歳になる一人娘がいる。店長や梅島は当然知っているが、ほとんどの客と半分以上のキャストは、彼女が母親であることを知らない。
母親になるキャバ嬢。キャバ嬢になる母親。どちらもそれほど珍しいことではない。久美の場合は前者だが、中には人知れず妊娠、出産をし、店も客も欺《あざむ》きながらキャバ嬢を続ける女もいる。
それが悪いことだとは思わない。魅力的な母親もいれば、ウザいだけの独身女もいる。この世界は実力がすべてだ。子ども云々に関係なく、適性がなければ自然に淘汰されていく。客を欺くことに後ろめたさを感じるようでは、この仕事はやっていけない。
一時間半後、おれたちはカラオケボックスを後にした。代金は梓の意向に従い、おれと安部で折半した。
「──じゃあおれ、梓を送ってくから」
安部は一方的にそういうと、梓の手を引いて雑踏の中に消えていった。こころの中で礼を言う。カラオケが終わったらおれと花梨を二人きりにしてくれと、前もって頼んでおいたのだ。むろん梓を落とそうと目論んでいる彼にとって、おれの申し出は渡りに船だったわけだが。
「ありがとう。今日は楽しかった。また飲みましょうね」
わずかに頬を赤らめた花梨が、眠そうな目をして右手を振った。その手を掴んで軽く引き寄せる。花梨は一瞬躯を強張らせたが、手をふりほどこうとはしなかった。
「家まで送るよ。通り魔のこともあるし」
これ以上はない大義名分。このときばかりはあの憎むべき通り魔に感謝した。
「大丈夫、大丈夫。タクシー乗って帰るから」
前後に躯を揺らしながら、花梨は左手に持ったバッグを振り回した。意外と酔いが回っているようだ。通り魔のことは抜きにしても、一人で帰すわけにはいかなかった。
おれは聞こえなかったふりをして、通りかかった空車のタクシーに手を挙げた。
「ホントにだいじょうぶだって。タクトさん、下落合でしょ? 方向違うし」
酔った勢いもあってか、花梨は知らず知らずのうちに、おれに対してタメ口を使うようになっていた。いい傾向だ。
おれは緩みそうになる頬を引き締め、花梨をタクシーに押し込んだ。その横に躯を滑り込ませる。
「呼び捨てでいいよ。花梨ちゃんて、どこ住んでんだっけ?」
花梨が「四谷」と答えると、タクシーはゆっくりと動き始めた。
花梨は新宿区舟町にある建物の前でタクシーを停めた。六階建てのマンション。〈パステルハイム四谷〉とある。
金を払ってタクシーを降りると、花梨が慌てておれの後を追ってきた。腕を掴んで引き止める。
「もう大丈夫。ホントにありがとう。乗ってったほうがいいんじゃない?」
花梨はタクシーを指さしたが、おれはそれを無視してマンションに足を向けた。
「ねえ、ほんとうにもう──」
「実は、話があるんだ。ちょっとだけでいいから、部屋にあげてくれないか」
宣言するように言うと、花梨は目を見開いて立ち止まった。
「え……これから? 私の部屋で? 明日とかじゃダメなの?」
一気に酔いが醒めたようだった。花梨は警戒心をあらわにして、身構えるようにバッグを抱きかかえた。
「できれば今日のほうがいい」
「話って……何の話?」
「……君の力≠ノ関することだ」
「チカラ? チカラって?」
「予知能力。未来が見えるんだろ?」
「はぁ? 何のこと?」
花梨はおれの臆断を笑い飛ばそうとした。しかしうまくできなかった。引きつった笑いに動揺が滲み出ている。
「それだけじゃない。もう一つ訊いておきたいことがある」
花梨は言葉を交わすのもうんざりといった表情で、イヤイヤをするように首を振った。
「ずっと気になってたんだけど、なんでおれを避けようとしてたの? 今日はそれほどでもなかったけど、このあいだ声をかけたときなんか、明らかに迷惑そうだった。ロクに話もしてないのに嫌われるってのは、どうしても納得できない。理由があるなら教えてくれ。おれのどこが気に入らないんだ?」
花梨は上目遣いにおれを睨み付けると、小さくかぶりを振って嘆息した。
「タクト……酔ってるの?」
「もちろんだ。酔ってなかったらこんなこと言えないさ」
力強く頷いてそう言うと、花梨は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「なんかいろいろと誤解されてるみたいね……わかった。送ってくれたお礼にコーヒーでも出します。でも、変なことしたら承知しないから」
花梨はおれの返事も聞かずに、険しい表情を浮かべて踵を返した。確かな足取りでエントランスに向かっていく。おれはその背中を見つめながら、こころの中で自問した。
──どこからどこまでが変なこと≠ノあたるんだろう?
花梨の部屋は二階の203号室だった。見られて困るようなものは最初からなかったらしく、彼女はすぐにおれを中に入れてくれた。
ソファ、テーブル、ベッド、テレビ、ドレッサー、タンス。室内は思いのほか整然としている。ぬいぐるみやポスターといった余計な装飾はいっさいない。彼女らしいといえば彼女らしいが、キャバ嬢の一人暮らしにしては、あまりにも殺風景な部屋だった。むろん男の影を感じさせるものも見あたらない。
花梨はおれに椅子を勧めもせず、まっすぐキッチンへと向かった。気怠そうにケトルを火にかけ、マグカップとインスタントコーヒーを取り出す。
おれはソファに腰を下ろすと、頬杖をついてぼんやりと壁のクロスを見つめた。
ちょっと強引すぎただろうか。期待を膨らませる一方で、おれは後悔を感じてもいた。拒絶されなかったのだから見込みはあるが、花梨はおれを心から歓迎しているわけではなさそうだった。
居心地が悪くなり、思わず煙草をくわえた。
〈クラレンス〉で働きはじめてからは極端に本数が減ったが、酒の席や気詰まりを感じたときなどは、どうしても手が伸びてしまう。
くそっ。舌打ちが漏れた。ライターを持っていないことに気付いたからだ。〈莫耶〉とカラオケボックスでも何本か煙草を吸ったが、あのときは周りの連中に火を借りたんだった。
「──これ使って。あんまりこの部屋で吸ってほしくないんだけど、今日だけは特別」
顔を上げると、花梨が目の前に立って右手を突き出していた。何かを握っている。
鈍色に輝くシンプルなZIPPO製のライター。ブランド名が刻印されているだけの廉価品だ。
「……あげます。お客さんからもらったんだけど、処分に困ってたの。私、煙草吸わないから」
本人が煙草を吸う吸わないに関係なく、ライターはキャストの七つ道具の一つだ。しかしキャストが所持するライターとしては、目の前のZIPPOはあまりにも不適切だった。こんなライターで火を付けられたら、客のほうが引いてしまう。
断る理由はなかった。おれは花梨の手からZIPPOを受け取ると、蓋を開けて早速煙草に火をつけた。独特の臭いが鼻をつく。いつの間にかテーブルの上には、湯気のたつコーヒーと灰皿が並べられていた。
「それで……何の話だっけ」
花梨がベッドの端に腰掛けて、溜息混じりに呟いた。右手には汗をかいたグラスが握られている。中身はおそらく氷水。
「予知能力のことだよ」
即座に答えると、花梨は強張った笑みを浮かべた。
「まだそんなこと言ってるの? どうせならもう少しマシな──」
「とぼけるなって。ネタはあがってるんだから。むしろあれが全部偶然だとしたら、そっちのほうが怖いよ」
「あれ? あれって何のこと?」
花梨が眉を顰《ひそ》めて聞き返す。おれは溜息を飲み込んでマグカップを傾けた。
「数日前──おれと君が初めて会った日のことだ。待機室に控えていた君を呼びにいったとき、君は何かのはずみで転びそうになり、おれに倒れ込んできた。憶えてるか? そのとき君はこう言ったんだ──あ、おめでとうございます、とね。
最初は単に気が動転して言い間違えただけだろうって思ってた。でもそうじゃなかった。聞いてただろ? さっき〈莫耶〉で話したこと。なんで知ってたんだ? おれの買ったtotoが当たってるってことを」
花梨は苦笑を浮かべてグラスを傾けた。
「考えすぎだって。そんなことくらいで予言者扱いされちゃうの?」
「まだある。ここだけの話だが、おれはエリカからあることを頼まれていた。ストーカー退治だ。そのとき彼女は、花梨ちゃんから妙なことを言われたと言ってた。──トラブルを抱えてるなら、早めに手を打ったほうがいい。放っておいたら大変なことになる、と。
結局彼女はおれに相談を持ちかけ、『早めに手を打った』わけだが、君の懸念は決して間違ってなかった。詳しい説明は省くけど、ストーカーの手口は日増しにエスカレートしてたんだ。確かにあのまま放っておいたら、大変なことになってたかもしれない。
さあ、説明してもらおうか。なぜエリカにあんな忠告をした。誰かに聞いたのか?」
花梨は小さく首を振り、おれの目を見据えた。
「違う違う、私が心配してたのはそんなことじゃなくて──」
そこまで言うと、花梨はハッとしたように言葉を切り、口を噤《つぐ》んだ。落ち着きのない仕種で氷水を飲み込み、決まり悪そうに顔を伏せる。
「またぁ。一度言いかけたことは最後まで言っちゃいなよ。そういうのって、なんかこう、背筋がゾゾってするんだ。君だってすっきりしないだろ」
「エリカさん、なんか疲れてるみたいだったから……待機室とかで考え事してるときの顔なんか、まるで魂が抜け落ちたみたいだった。やっぱ悩みごと抱えてたんだ……でも、ストーカーのことはホントに知らなかった。確かにちょっと暗示的な言い方だったかもしれないけど、そういう抽象的な発言まで拡大解釈されたら、誰だってノストラダムスになれちゃうんじゃない?」
返す言葉がなかった。エリカについての所見には異論があったが、それも結局は個人の主観の問題だ。花梨がそう言い張るのであれば、それを覆《くつがえ》すことはできない。
灰皿で煙草を揉み消し、花梨を見つめた。大きな瞳の奥に宿る感情。その正体が掴めない。ローズピンクのルージュで彩られた、張りのある口唇。そしてその隙間から覗く、愛らしい二本の八重歯。
できることならこんな殺伐とした会話は今すぐやめて、思い切り彼女を抱きしめたい。しかし胸の奥で燻る欲望とは裏腹に、おれの口はさらに彼女を追い込もうとしていた。
「もう一つある……気を悪くするかもしれないが、実は一度だけ、君と客のやり取りを聞いてたことがあるんだ」
「盗み聞きしてたの? 最低……」
怒りに満ちた眼差し。痛みはあまり感じなかった。作り物でない純粋な感情の発露に、おれはむしろ嗜虐《しぎやく》的な快感さえ覚えていた。酔いが回って感覚が麻痺してしまったらしい。
「確かに褒められたことじゃない。なんとでも言ってくれ」肩を竦めて虚勢を張ったが、花梨は眉毛一つ動かさなかった。「──あれは確か、梓が仕事を休んだ日のことだ。前の日にフリーで来ていた客が、次の日も来店して君を指名したことがあっただろ? 礼を言いにきたとかなんとかいって」
花梨は無表情のまま視線を逸らしたが、否定の意思表示はなかった。思い当たる節があるのだ。おれは言葉を継いだ。
「その客は、君の忠告のおかげでカジノの摘発に巻き込まれずにすんだ、と礼を言い、なぜあの日手入れがあるのを知っていたのか、と訊いた。
それに対して君はなんとなくそんな気がしただけと答えた。
当然そんな返事じゃ相手は納得しない。客がさらに食い下がると、君はこう言った。
──もう少しいてほしかったから出任せを言っただけです。別に深い意味なんてありません。
彼は釈然としない様子だったが、それ以上追及しようとはしなかった。君に真実を話す気がないのを読み取ったからだ。
だがおれは騙されない。いくらなんでもできすぎてる。知ってたんだろ? そのカジノに手入れが入ることを」
花梨はそっぽを向いたまま口を開いた。
「……そのお客さんに話した通りとしか説明できない。確かに行かないほうがいいとは言ったけど、手入れのことなんて一言も言わなかったし。私の発言がたまたま──」
「たまたま≠熈偶然≠熾キき飽きた。ゲップが出そうだ」おれは花梨の話を遮った。「偶然は滅多に起きないからこそ偶然なんだ。三度も立て続けに起きたら、それはもう偶然じゃない。いい加減素直に認めちゃえば? いったい何を恐れてんだよ」
花梨はわずかに口を開きかけたが、結局言葉は発せられなかった。グラスを傾けて、水とともに抗弁の言葉を飲み下す。
沈黙が流れた。
手を伸ばせば触れられる場所にいるのに、気まずい空気がおれたちの間に見えない壁を作っていた。息苦しさを紛らそうと、マグカップに手を伸ばす。冷めたコーヒーを啜りながら、横目で彼女の様子を窺った。
下唇を噛みしめ、壁の一点を睨み付ける花梨。その瞳がわずかに揺れ動き、おれの視線と交錯した。なんとなくうるんでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
すると次の瞬間、花梨は不意に頬を緩めて、力なく吐息を漏らした。肩を竦めて虚空を見上げる。
「……やっぱりこうなっちゃうんだなぁ。結構気を付けてたつもりなのに……失敗しちゃった」
返答や相槌を求めているわけではなかった。おれは頷きもせず花梨の横顔を見つめ続けた。白磁を思わせる顎のライン。触りたくなる衝動をぐっとこらえる。
花梨はこちらに顔を向け、言葉を継いだ。
「……正確に言うと、予知能力とはちょっと違うの。私に見えるのは、見えた時点で最もそうなる可能性の高い、その人の未来の姿──私はそれをビジョン≠ニ呼んでるけど」
「ビジョン?」
眉を顰めた。酔いは醒めていたが、頭の中にはまだ薄もやがかかっている。今ひとつピンとこない。
「そう。私の見るビジョンには、不確定要素がいっぱい混ざってるの。たとえば明日の夜。明日の夜は出勤でしょ?」
無言で頷く。
「明日の夜は店で仕事──現時点ではその可能性が最も高い。でもそれは、絶対ってわけじゃない。今夜食中毒を起こして入院するかもしれないし、どこかで事故に遭うかもしれない。家族や友人にご不幸があるかもしれないし、何らかの理由でお店そのものが休みになるかもしれない。でも運命はある程度決まってる……。勘違いしないでほしいんだけど、別に運命論を振りかざそうってわけじゃないの。いくつもの要因が積み重なった帰結として導かれる事象──それが運命なんだってことを、わかってほしかっただけ。だから私の見るビジョンには、その時点で≠ニいう注釈がつくの。新たな要因が作用すれば、現実はビジョン通りにはならないから。つまり、運命は変えられるってこと」
おれは言葉を失った。言っていることはわかるが、それを素直に認め、受け入れることができない。頭が拒絶しているのだ。
反応に窮していると、花梨は続けて口を開いた。説明が足りないと思ったのだろう。
「もっとわかりやすく説明するね。私のビジョンはいわば舞台のシナリオなの。でも実際の舞台は、シナリオ通りに進むことなんて滅多にない。演出家が脚色を加えることもあれば、本番でアドリブが入ることもある。舞台装置が壊れることもあるだろうし、主演俳優が倒れることだってある。そしてもちろん、脚本家自身が書き換えることもあるでしょう。さっきの、カジノのケースのように」
おれは再び煙草を取りだし、花梨にもらったZIPPOで火をつけた。胸の裡《うち》で燻る戸惑いと苛立ち──紫煙とともに吐き出す。
「……それは、どういうときに見えるの? 呪文かなんか唱えれば、誰のビジョンでも見えちゃうのか?」
「ううん。見えるのはその人に直接触れたときだけ。しかも触れたからといって、必ずしも見えるわけじゃないの。どんなに集中してもまったく見えない人もいれば、私にその気がなくても見えてしまう人もいる」
得心がいった。彼女の躯を支えた瞬間に飛び出してきたあの言葉。おれの場合は後者──わかりやすい人間ということらしい。
「どれくらい先のことまで見えるんだ?」
「自分でもよくわからないの。経験上は数時間から数日先のビジョンがほとんどで、一年以上先のビジョンを見ることは滅多にないけど。あんまり先のことだと、不確定要素が多すぎるからじゃないかな」
「でもカジノの客には、『今日は行かないほうがいい』ってはっきり言ったんだろ? なんでそのときに限って、それが数時間後のビジョンだってことがわかったんだよ」
「ビジョンの中で、その人が──近藤さんが、腕時計を見る場面があったの。その時計は日付も表示するタイプのヤツだったから……」
「……それはどういうふうに見えるんだ? 頭の中に映像が浮かぶのか」
「なんていうか……まるで自分が経験した記憶のように、一つひとつの場面が引き出されてくるの。細かいところまで鮮明に見える場合もあれば、おぼろげにしか見えない場合もある。近い将来にインプットされるであろう他人の記憶を、一足先に私が覗き見てる……そんな感じかな」
「その人の視点で見てるってこと?」
花梨は小さく唸った。
「うーん……一概には言えないな。その人の視点で見てることもあるし、俯瞰《ふかん》するような感じで、客観的に見てることもあるから」
「話を戻そう」おれは灰皿に煙草を押しつけて、指を組み合わせた。「カジノの手入れを免れた客のことだけど、君が見たのは、彼が摘発に巻き込まれるビジョンだったってことか」
花梨は小さく頷いた。
「でも結局そのビジョンは実現しなかった。私が彼の運命を、意図的に変えてしまったから……」
「運命を変えた……」
完全に酔いが醒めた。彼女は平然とした顔で語っているが、よく考えてみたらとんでもないことだ。
たまたま誰かに触れたときに、その人が自動車事故で死ぬビジョンを見たとする。花梨が何らかのアクションを起こせば事故を回避できるだろうが、何もしなければそのままあの世行きだ。
彼女のポケットの中には、他人の生殺与奪を思いのままにできるチケットが、無造作に詰め込まれている。しかもほとんどの人間はその事実を知らない。それは脅威や戦慄といった言葉では表現しきれない、空恐ろしい現実だった。
「いつごろから見えるようになったの?」
「物心ついたときには見えてた。子どもの頃はそれが当たり前だと思ってたから、余計なことを言って変人扱いされたこともある」
「楽しいだろうな。他人の運命を意のままに操るのは」
イヤミをぶつけてみると、花梨の表情がにわかにかき曇った。怒りとも哀しみともつかないまっすぐな目が、何かを訴えかけるようにおれを捉える。
ヤバい。軽い気持ちで言っただけなのに、花梨はそれを真に受けてしまったようだ。
「やっぱりそう見えちゃうんだ……そんなつもりはまったくないんだけどなぁ……。
そのまま進んだら崖に落ちちゃうから、こっちの道を行ったほうがいい──そう忠告してるだけなのに……タクトならきっとわかってくれると思ったのに……」
最後のほうは言葉になっていなかった。瞳から大粒の感情がこぼれ落ちる。決壊を防ごうと天を仰ぎ見たが、あふれ出す勢いにはかなわず、むしろ逆効果だった。
「いや、その……ごめん。別に深い意味はなかったんだけど……」
こういうときって、どうすればいいんだっけ? おれは困惑し、狼狽した。
そもそも花梨は、なんで突然泣き出したんだ? 底意地の悪い発言だったことは認めるが、別に泣くほどのことじゃない。他に理由があるはずだ。
おれはソファから立ち上がり、花梨の隣に腰を下ろした。ポケットからハンカチを取り出し、彼女の手に握らせる。引き替えに氷水の入ったグラスを受け取り、テーブルの上に置いた。
「ヤなことを思い出させちゃったみたいだな。よかったら話してみなよ。こう見えてもおれ、結構聞き上手なんだぜ」
自分の意思とは関係なく見えてしまう他人のビジョン。傍《はた》から見れば羨ましい気もするが、本人にとっては決して楽しいことばかりではないはずだ。花梨はその特殊な能力のせいで、よほどイヤな思いをしたことがあるのだろう。それ以外考えられない。
花梨はハンカチで目元を押さえ、嗚咽を漏らした。次々と押し寄せる激情の波に翻弄され、自分を制御できなくなっている。
おれは震える背中にそっと腕を回した。下心がなかったと言えば嘘になるが、明確な意図があったわけじゃない。手が勝手に伸びてしまったのだ。
花梨は一瞬ビクッと躯を強張らせたが、逃れようとする素振りは見せなかった。おれは柔らかなその背中を撫で回しながら、花梨が落ち着きを取り戻すのを待った。
小刻みに痙攣《けいれん》する背中。アキラの推理とおれの直観が正しければ、ここに何らかの身体的特徴があるはずだ。しかし今はそんなことを考えてる場合じゃなかった。
花梨の嗚咽が啜り泣きに変わる。背中の震えも収まってきたようだ。おれは花梨の顔を覗き込みながら、再び口を開いた。
「……喋っちまえば少しは気がラクになると思うけどな。あるだろ? そういう経験」
花梨が顔を上げてこちらを振り向いた。充血した目。赤みを帯びた鼻頭。メイクが少し崩れていたが、おれは全然気にならなかった。
花梨は目を潤ませながら、涙まじりの声で呟いた。
「私……二度とあんな思いをしたくないの……もちろん他の人にも、あんな思いはさせたくない……」
「え……どういうこと?」
花梨は口唇を噛みしめ、かぶりを振った。苦しげな目が追及を拒絶している。今はそれ以上話すつもりはないらしい。
うなだれる花梨の背を撫でながら、おれは考えを巡らせた。
他人の運命に介入したことを悔いているのなら、花梨はそれを封印するに違いない。しかし彼女はその力を積極的に活かそうとしている。
おそらく花梨は、ビジョンが見えていたにも拘らず、その悲劇を回避できなかった経験があるのだろう。彼女はそれを激しく悔やんでいる。だから他人の運命に介入しようとするのだ。
その悲劇とは、いったいどんなことだったのか。
花梨が再び顔を上げた。涙をこらえ、懸命に笑顔を浮かべようとしている。
「ははは……ごめん。なんか私、ちょっとおかしいよね……タクトは何も悪くないから、気にしないで……大丈夫だから……へへ」
そのとき、熱い潮流がおれの全身を駆けめぐった。情欲とは違う何かがおれを突き動かす。
空いている手を花梨の顎に添え、こちらを振り向かせた。突然の出来事に硬直する花梨。言葉を失ったその口に、自分の口唇を押しつける。
感触を楽しむ余裕などなかった。おれは腹を空かした雛鳥のように、本能のおもむくまま、無我夢中で花梨の口を吸った。
やがて花梨は、身悶えするように半身を捻り、顔を背けた。驚きと戸惑いと羞恥が入り混じった複雑な表情。そこに嫌悪感を匂わせるものはなかった。
おれは平静さを装いながら口を開いた。
「こういうときでも見えるのか? その……ビジョンが」
花梨は何か言おうとしていったん口を開きかけたが、結局何も言わずに口を閉ざすと、おれを見つめたままこくりと頷いた。
気恥ずかしさを紛らすため、さらに言葉を続ける。
「さっき聞き忘れたけど、それって、その人が考えてることもわかるの? つまり、心の中まで見えるかってことなんだけど」
花梨が目元を綻ばせた。
「心配しないで。見えるのはその場面の映像だけだから。考えてることまでわかっちゃったら、とてもやってらんない」
「そうか、残念だな」
「残念?」
「うん。心の中まで読みとってくれれば、この気持ちを伝える手間が省けるのに」
「え……」
花梨の瞳が小さく左右に揺れ動く。
女に自分の気持ちを打ち明けるなんて、青臭い中坊のすること──ずっとそう思っていたが、このときばかりはなぜか言わずにはいられなかった。
「……おれ、マジだから。花梨のこと、もっとよく知りたいんだ」
頭の中がじわっと熱くなり、本能が理性を押しのける。おれは花梨を引き寄せ、再び口唇を押しつけた。
おれの腕から逃れようと、身をよじる花梨。しかしそれは本気の抵抗ではなかった。少なくとも死に物狂いの拒絶ではなかった。
そのまま花梨を押し倒し、全身で彼女の躯を包み込む。首筋に舌を這わすと、花梨の口から「ダメ……」と声が漏れたが、おれはそれを無視して、服の中に手を滑り込ませた。
そこから先のことはよく憶えていない。花梨は激しく乱れることこそなかったものの、感じる姿を見せまいとするほどガキじゃなかった。おれはおれでスマートに振る舞おうと努力したつもりだが、高揚しっぱなしの頭が躯をうまく制御できず、冷静さを取り戻したときにはすべて終わっていた。
しかしそれを差し引いても、おれと花梨の相性はピッタリだった──少なくともおれはそう感じていた。
シーツにくるまって、恥ずかしそうに背中を向ける花梨。その背中──右肩甲骨のあたりに、手のひら大の痣があることはすでに確認済みだ。
おれは花梨の髪を撫でながら、口を開いた。
「そういえば、もう一つの質問にまだ答えてもらってなかったな」
花梨がゆっくりとこちらを振り向く。感情を映さぬ瞳。冷たくはないが、どこか超然としたものを感じさせる。
「……もう一つの質問?」
「なんでおれを避けようとしてたのか。今さらこんなことを訊くのもヘンかもしんないけど、ずっと気になってたんだ」
「ホント今さらって感じね」花梨は目を細めた。「確かに最初はちょっと警戒してたかもしれない。ほら、前のお店で人間関係がギクシャクしてたから。でも、そんなに強く意識してたわけじゃない。考えすぎよ」
「一つ考えてたことがあるんだけど」
「何を?」
「おれが君に触れたのは、一度きりじゃないだろ? 君はそのたびにいろんなビジョンを見てたはずだ。もちろんtotoのときのように、めでたいビジョンばかりじゃない。中には不吉なものも含まれていた。おれと深く関わり合うとロクなことはない。だからおれを避けようとしてたんじゃないのか?」
花梨は眉を顰めた。
「えっと……言ってることの意味がよくわかんないんだけど」
「またそうやってとぼける。つまり、おれの存在が君に災いをもたらすんだ。災いというほどじゃないかもしれないけど、いずれにしろおれと親しくなるのは、あまり芳《かんば》しいことじゃない。だからおれを避けようとしたんだ。違うか?」
花梨はしばらくの間じっとおれを見つめていたが、やがて視線を逸らすと、自嘲するように苦笑いを浮かべた。
「なんか全部見抜かれてたみたいね……私、演技力ゼロなのかなぁ。ちょっとショック……」花梨は小首を傾げ、弱々しく嘆息した。「でも、厳密に言うとちょっと違うんだ。私、自分のビジョンは見えないの。見えたらきっと頭がおかしくなっちゃうと思うけど」
今度はおれが眉を顰める番だった。
「どういうこと?」
「私たちが親しくなることで災いを蒙るのは、私じゃない。タクトのほうよ」
「え……」
背筋を冷たいものが通り抜けた。今まで考えもしなかったが、確かにそういうことであれば花梨の態度も頷ける。彼女はおれに危害が及ぶのを防ぐために、おれと距離を取ろうとしていたのだ。
しかしたった今、おれと花梨は一線を越えてしまった。ということは──。
「でももう大丈夫。心配しないで」
おれの不安を読みとったかのように、花梨が自信に満ちた顔で頷きかける。おれは思わず半身を起こした。
「おい、それってどういう──」
花梨はおれの言葉を遮り、再び力強く頷いた。
「もう大丈夫だから。あとは私がなんとかするから」
「ちょっと待てよ。いったい何の話をしてんだ? もっとわかりやすく説明してくれよ」
大丈夫、何も心配しないで──同じ台詞を繰り返す花梨。声を荒らげてしつこく詰め寄ったが、花梨は頑として口を割ろうとしなかった。
何が彼女をそこまで駆り立てているのだろう──これ以上ないところまで近付けたのに、おれはまだ花梨という人間を、ほとんど理解できていなかった。
食中毒で入院することも、事故に遭うこともなかったので、翌日は予定通り出勤した。
花梨も出てきていたが、あいにくとゆっくり言葉を交わす時間はなかった。時折目が合うと、口許に笑みを浮かべて気恥ずかしそうに視線をそらす。その仕種がおれの胸を締めつけた。
おれが探し求めていたのは、こういう恋愛だったのかもしれない。
しかし花梨のほうはまだ、気持ちの整理がついていないようだ。やはりおれに降りかかる災厄のことが引っかかっているのだろう。だが焦りは禁物だ。時間をかけて、ゆっくりと距離を縮めていけばいい。しばらくは駆け引きを楽しもうじゃないか。
仕事を終えて携帯の電源を入れると、メールが一通届いていた。
──『レスありがとう。返事が遅くなってごめん。三時以降ならいつでもいいから、時間と場所決めて。そいじゃ、楽しみにしてるよ』
クルミからだ。今までと違い、かなりまともな文章になっている。少なくとも二十四時間クスリ漬けというわけではないらしい。実際に会うまでは安心できないが、いくらか気持ちが軽くなった。
折り返しレスを打つ。水曜は出勤だが、夕方までは何の予定もない。四時に待ち合わせることにした。
問題は場所のほうだった。店の近くは何かと不都合が多い。あの辺には売人やヤク中がごろごろいる。クスリをやめろと説教するのには、最も相応しくない環境だ。
かといってクルミの目的がわからない以上、土地勘のない場所には行きたくない。明るく、人目が多く、しかもある程度行き馴れたところ──タカシマヤタイムズスクエアの中にある、開放的なカフェが思い浮かんだ。あそこなら一時的にせよ、クスリのことが頭から離れるに違いない。
余計なことは書かずに、用件だけを簡潔にまとめて送信した。言いたいことは山ほどあったが、本心をぶつけたら彼女の気が変わってしまうかもしれない。まずは直接会って話をすることだ。
クスリといえば、エリカはどうしてるだろうか。彼女は今日休みだった。当欠ではなく、前もって予定されていた休みだ。今頃は大倉を排除した喜びに浸りながら、思い切り鬱憤を晴らしているに違いない。
あの夜以来エリカとは一度も連絡を取っていない。何かあれば連絡が入るはずだが、不意に彼女の安否が気になった。あれだけ痛めつけたのだから、二度と現れるはずがないと思う一方で、復讐の鬼と化した大倉の報復を、心の片隅で恐れている自分がいる。
バイクに跨ったまま携帯を取り出した。今すぐ声を聞きたかったが、さすがに電話をかけるのは憚られた。まもなく午前三時。普段の彼女なら起きている時間だが、今夜は男と一緒にいる公算が大きい。無粋な真似はしたくなかった。
仕方なくメールを飛ばす。
──『アフターサービスだ。その後変わったことはないか。あってもなくても返事をくれ』
自宅に戻ってシャワーを浴び、深夜番組を見ながらビールを飲んだ。途中からテレビをパソコンに、ビールをバーボンに切り替えたが、エリカからのメールはなかった。
空が白み始めた午前五時半。おれは床に就いた。
エリカの安否を知ったのは、それから四時間後のことだった。
陽炎《かげろう》が立ち上るアスファルトの上を、おれは目的もなくぶらぶらと歩いていた。
高校二年の夏。渋谷センター街。
夏休みのはずだが、連れはいなかった。目に入るものすべてに悪態をつきながら、苛立ちを撒き散らしている。おおかた仲間と喧嘩でもしたのだろう。
ゲーセンに入り、物言わぬ相手に怒りをぶつける。格闘ゲーム、シューティング、クレーンゲーム、レーシングゲーム……。
溜まっていたものが少しは吐き出せたが、憤懣が和らいでくると、今度は急に虚しくなってきた。おれはこんなところで何をしているのだろう。
「タクトくん?」と呼びかけられたのは、そんなときだった。
振り返ると、小柄な若い女がおれの顔を覗き込んでいた。
綺麗な弧を描く作り物の眉。髪の隙間から覗くルビーのピアス。青灰色のアイシャドウにローズレッドのルージュ。派手な化粧と大人びた装いで飾り立てているが、間違いなく未成年だった。見た目はいい線いってるのだが、なんとなく違和感がある。
向こうはおれのことを知っているらしいが、おれのほうにはまったく心当たりがなかった。新手のキャッチセールスかと思い、ぶっきらぼうに言葉を返す。
「誰だっけ?」
「河本小百合。中三のとき同じクラスだったじゃない。憶えてないかなあ」
名前を言われてもピンとこなかった。よほど目立たない生徒だったのか。いや、そんなはずはない。これだけ派手ならイヤでも憶えているはずだ。
次の瞬間、脳裡に一つの顔が浮かび上がってきた。センスのない眼鏡に野暮ったいおさげ。成績優秀でありながら、自分の内側で世界を完結させるコンプレックスの塊。
仰天した。風采の上がらないガリ勉女と、尻の軽そうな今風のコギャル。どう考えても結びつかない。どこかで隠しカメラが回っているんじゃないだろうか。
言葉を失って凝視していると、彼女は断りもなくおれの隣に腰を下ろした。
「……よく来るの? 渋谷」
本格的に話し込むつもりらしい。ますます信じられなかった。よく整形手術をすると性格まで変わるというが、目もロクに合わせられなかった引っ込み思案の女が、わずか一年半でこれほど積極的になるとは。
「たまに、な」
「今日は一人?」
小さく頷いて質問を返す。「そっちは?」
「今は一人よ」その気になれば友だちの二、三人くらい、いつでも呼べるという口振りだった。「ねえ、最近なにしてるの?」
「なにって……別に。中学ンときと大して変わんないよ。クロベエとかマサルとつるんで、悪さばっかしてる」
「高校は? まだ行ってるの?」
「もちろんだ。他にすることもないし。そっちだって行ってんだろ? 春女《はるじよ》=v
神奈川県にある私立春山女子高校。女子校としては県内屈指の進学率を誇る。受験は来年とはいえ、上を目指すのならこんなところで遊んでいるヒマはないはずだ。
小百合の口許に冷たい嘲笑が浮かんだ。
「高校入ってからいろいろあってね……最近はほとんど行ってないんだ。まだ籍は残ってるけど、たぶん中退することになると思う」
「そうか……」
おれは目を逸らした。あまり深入りしないほうがよさそうだ。いま目の前にいる女は、おれの知る河本小百合ではない。頭の中で警報がわんわん鳴り響いている。
しかし彼女はなかなか腰を上げようとしなかった。
「倉田恵子って覚えてる? あたしあのコと幼なじみなの。中学までずっと一緒だった」
名前は聞いたことがある。小百合と同様、地味で目立たなかった生徒だ。
「高校は別々になっちゃったんだけど、去年の夏休みに再会したらビックリ。ファッションもメイクもビシッときめて、すっかり見違えちゃったの。彼氏までいるっていうから二度ビックリ。まるで別人みたいだった。それであたしも開眼しちゃったのよね。このままじゃいけない。あたしも今を楽しもうって──」
本人は嬉々として話しているのだが、おれのほうはだんだん居たたまれない気持ちになってきた。こういうタイプが一番|躓《つまず》きやすいのだ。
おれは悪いことを悪いこととして、リスクを負っていることも承知の上でやっている。しかし彼女のように他人の影響を受けやすいタイプは、罪の意識もないまま悪事に手を出すことが多い。それに気が付いて抜け出そうと思ったときは、すでに手遅れなのだ。
一気に自分の近況を話し終わると、小百合は右手で自分の顔を扇ぎながら、鼻にかかった声で言った。
「……ねえ、時間ある? もっと涼しいとこ行かない?」
「涼しいとこ? どこ?」
「円山町のほう……」
息を飲んだ。円山町といえば、いわずと知れたホテル街だ。男と女が連れ立って向かうとすれば、目的は一つしかない。
思わず小百合の肢体に視線がいった。当時はパンパンに膨れ上がっていた躯も、今はすっかり肉が落ち、軽く抱き締めただけで壊れてしまいそうだ。病的なまでに痩せ細った躯。鎖骨の窪みが痛々しい。
メイクで体裁を取り繕っているものの、顔色の悪さも尋常ではなかった。ガサガサの肌。無数の引っ掻き傷で赤く腫れた両腕。眼窩《がんか》の奥に垣間見える、狂気を宿した光──。
何もかも普通じゃなかった。
「どう? タクトくんなら安くしとくよ」
疑いようがなかった。こいつは完全にイッちまってる。
逃げ出すこともできずに押し黙っていると、小百合が突然小さな悲鳴を上げて、腕を掻きむしり始めた。癒《い》える間もなく繰り返し傷つけられた皮膚から、鮮血が滲み出してくる。
小百合の顔は苦渋に歪んでいた。痛みによるものではない。痛みなど問題にならない何かが、彼女を苦しめているのだった。
「おい、やめろよ、血が出てるぞ」
「もうっ、なんなのよ、これ。ヤダッ、ヤダッ……やめてよ」
小百合はおれの言葉など耳に入らないらしく、一心不乱に腕を掻きむしっている。何かに取り憑かれたみたいだ。
「なにしてんだ、やめろよ」
止めさせようと腕を掴んだが、恐ろしい力で振り解《ほど》かれた。爪で破かれた血管から、タラタラと血が流れ出している。このまま放っておいたら、肉まで抉《えぐ》りかねない。
「ムカつく……なんでこんなとっから虫が湧いてくるのよ。こいつっ、こいつっ……なんとかしてよもう」
「虫……?」
もちろん虫の姿などどこにもない。彼女が見ているのは、彼女自身にしか見えない、特殊な虫なのだ。
「見えるでしょ? ほら、どんなに強く擦っても、後から後から湧き出てくるの。白い蛆虫みたいのが……」
ボリボリボリボリ……。
指先も腕も血で真っ赤に染まっているのに、痛みは感じないらしい。やめさせなければと思うのだが、鬼気迫る勢いに気《け》おされ、触れることもできなかった。
直視に堪えないおぞましさ。自分で蒔いた種だと割り切ることもできなければ、頬を叩いて目を覚まさせる勇気もなかった。
選択肢はただ一つ──関わり合いになるのを避け、ただちにこの場から逃げ出すこと。
周りの人間が小百合の奇行に気付き始めた。あるものは汚いものでも見るように顔を顰め、あるものは期待に満ちた目で、小百合の一挙一動を見つめている。
我慢の限界だった。これ以上こいつと一緒にいたら、こっちまで壊れちまう。
おれは無言で立ち上がった。小百合は虫退治に夢中で、おれのことなど見向きもしない。
逃げるようにその場を離れ、ゲーセンの外に出た。
──タクトくん、虫をなんとかして。
ギョッとして振り返る。誰もいない。空耳だ。罪の意識が幻聴を聞かせたのだろう。
放っておいていいのか──内なる声がおれを難詰する。しかしおれは引き返さなかった。所詮どうすることもできないんだ──何度も自分に言い聞かせ、駅への道を急ぐ。
河本小百合が自分の腕に火をつけたという噂を聞いたのは、その三週間後のことだった。彼女は自分の中にいた虫を、すべて焼き殺すことができたのだろうか。
遠くのほうで軽やかなチャイムの音が鳴り響いている。一回、二回、三回……次第に近付いてくるようだ。最初は心地よかったのだが、だんだん耳障りになってきた。
現世に引き戻された。うっすらと目を開ける。遮光カーテンで覆われた窓。朝なのか夜なのかも判然としない。
再びドアチャイムが鳴った。しつこいヤツだ。半身を捻って壁に掛けられた時計を見上げる。
九時三十五分。
横になって再び目を閉じた。こんな時間にいきなりやってくるヤツは、ほとんどが招かれざる客だ。訪問販売のセールス。あるいは宗教の勧誘。居留守を装っていれば、そのうち諦めるだろう。
しかしそいつはなかなか諦めなかった。
──ドンドン、ドンドン。
指ではなく、拳《こぶし》を使ってノックしている。ドア枠がビリビリと悲鳴のような音を立てた。
完全に覚醒した。うるさいからではなく、腹が立ったからだ。目を擦りながら躯を起こし、忍び足で玄関に向かう。
気配を殺してドアの前に立ち、慎重にドアスコープを覗いた。
男が二人。どちらもスーツ姿だ。
直観が働いた。慌ててドアから飛び退く。招かれざる客であることは確かだが、少なくとも新聞の勧誘などではない。
──ドンドンドン。
激しいノックの音が響き渡る。ドアを破らんばかりの勢いだ。このまま無視し続けたら、本当に蹴破るかもしれない。
これ以上居留守を使うのは得策ではなかった。この場はやり過ごせるかもしれないが、それでは何の解決にもならない。こいつらはおれと接触できるまで、何度でもここにやってくるはずだ。
腹を括《くく》った。施錠したまま、ドアの向こうに声をかける。
「──どなたですか」
息を飲む気配。半ば諦めかけていたのだろう。顔を見合わせる二人の姿が目に浮かぶようだ。
「──警察のものです。ちょっとよろしいでしょうか」
やはり──。冷や汗が背筋を伝う。どうやら大倉を少し甘く見過ぎたようだ。
今さら逃げも隠れもできない。この期《ご》に及んで、みっともない真似はしたくなかった。
ロックを外し、ゆっくりとドアノブを回す。彼らは引ったくるようにしてドアを引き開けると、素早く躯を滑り込ませて、おれの眼前に立ちはだかった。
四十代前半と二十代後半のコンビ。お揃いのような紺のスーツに身を包み、二人揃って額に汗を滲ませている。私服──すなわち刑事というわけだ。
主導権を握るのは、小柄で髭の濃い年かさのほうらしい。額が狭く、顎が大きめなので、否が応でもチンパンジーを彷彿させる。眼光は鋭く、身のこなしにも隙がなかった。
それに引き替え後ろに控える若いほうは、なよっとしていていかにも頼りない。上背はかなりあるのに、薄い胸板と猫背気味の姿勢のせいで、どこか萎縮しているように見えた。突風が吹いたら飛んでいってしまいそうだ。
「檜山《ひやま》拓人だな?」
年かさの刑事が口を開いた。檜山拓人──フルネームを呼ばれたのは何年ぶりだろうか。
高圧的な態度が気に入らなかったが、それを表に出すほど間抜けじゃない。おれは無言で頷き、次の言葉を待った。訊かれたことだけ応える──警官と話すときの鉄則。
「代々木署の村瀬だ。こっちは谷」
素早く頭を働かせた。ここ──つまりおれのアパートは、新宿区下落合にある。この一帯を管轄するのは戸塚警察署。やはりただの聞き込みではない。
谷が手帳を広げてペンを手に取った。尋問は村瀬、メモは谷、と役割が決まっているのだろう。
村瀬はいきなり本題に入った。
「間宮和江──知ってるな?」
「……えっ?」
眉を顰《ひそ》めた。むろん演技ではない。
初めて聞く名前だった。いや、初めてではないのかもしれないが、少なくとも今はまったく記憶にない。反応が遅れたのは、大倉の名前を出されたらどう答えようかと考えていたところに、突然聞き覚えのない名前を出されたからだ。
しかしそんな言い訳は彼らには通用しない。村瀬は疑い深そうな目をおれに向けた。
「間宮和江だ。間《あいだ》にお宮《みや》の宮。昭和の和に江戸の江。知らないとは言わせないぞ」
惚けていると決めつけるような言《い》い種《ぐさ》。おれは大仰に肩を竦めた。
「知りませんよ。聞いたこともない」
「店──〈クラレンス〉ではエリカ≠ニ名乗っていた」
村瀬がどうでもいいような口調で付け加える。ギクリとした。動揺が顔に出てしまったかもしれない。さすがはプロ。効果的な尋問の方法を心得ている。
それにしてもあのエリカの本名が間宮和江とは──。こういう場面じゃなかったら吹き出してたところだ。
「エリカならもちろん知ってますよ。最初からそう言ってくれればいいのに」
「親しかったんだろ? 彼女と。本名も知らずに付き合ってたのか」
「別に付き合っちゃいませんよ。誰がそんなこと言ったんですか」
村瀬は薄笑いを浮かべた。カマをかけただけなのだろう。
だがおれはそんなことより、たった今彼が放った言葉のほうに気を取られていた。
──親し|かった《ヽヽヽ》んだろ?
胸騒ぎがした。なぜ過去形なんだ?
「どうしたんです? エリカに何かあったんですか」
村瀬は眉間に皺を寄せて険しい表情を作ると、おもむろに口を開いた。
「……亡くなった」
「えっ? 死んだ? エリカが?」
絶句──。視界に靄《もや》がかかる。錯乱、そして困惑。鈍器で後頭部を殴られたような感じだ。
信じられなかった。というより、意味がよくわからなかった。音としては認識できているのに、脳が情報処理を拒んでいる。
村瀬も谷も神妙な面持ちで口を閉ざしていたが、目だけは真っ直ぐこちらを向いていた。おれの反応を確かめていたのだろう。
「死んだって……殺されたんですか?」
言ってからしまった≠ニ思った。ショックで冷静さを失っている。村瀬の双眸《そうぼう》が妖しく輝いた。
「なぜそう思うんだ? 心当たりでもあるのか?」
開き直るしかなかった。
「あなたたちが来たからですよ。事故とか病気が原因なら、刑事がこんなところまで来るはずがない。事件性がなければ、警察は動いてくれませんから」
村瀬はおれの皮肉にも顔色一つ変えない。
「それだけか?」
「そうですよ。これくらいの理屈、小学生にだってわかる。それとも彼女の死を家族や知人に伝えて回るのが、あなたたちの仕事なんですか?」
村瀬はケロッとした表情でおれの質問を無視すると、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭い始めた。食えない男だ。
村瀬の不躾《ぶしつけ》な質問に憤慨する一方で、おれはようやく冷静さを取り戻していた。目の前にある事実が、現実として認識されていく。
エリカの死──それが意味するもの。
大倉。
他殺だとしたら、ヤツ以外に犯人はあり得ない。そのときになって初めて、おれは全身の血が逆流するような衝撃を覚えた。
──彼女自身が望んだこととはいえ、大倉をそこまで追いつめてしまった原因はおれにある。おれのせいで、彼女が死んだ。おれがエリカを死なせてしまったのだ。
大倉は捕まったのだろうか。いや、捕まっているのなら、村瀬がこんな目でおれを見たりはしないだろう。犯人はまだ捕まっていないのだ。ことによると警察は、大倉の存在すら掴んでいないのかもしれない。
どうやらおれは、かなり微妙な立場に置かれているようだ。犯人に関する重要な情報。それを握っているのはおれとアキラの二人だけということになる。おれが黙っていれば、警察がアキラに行き着くことはないだろう。
つまりすべての鍵は、この手中にあるということだ。
「本当に付き合ってなかったのか?」
村瀬の問いかけが、おれを現実に引き戻した。ここで非協力的な態度を見せるのは、あまり賢明ではない。おれは素直に応えた。
「ただの仕事仲間ですよ。店以外の場所で会ったことは、数えるほどしかありません」
村瀬は懐から手帳を取り出し、メモを見ながら質問を続けた。
「昨夜……というか、正確には今朝の未明、午前三時頃、彼女の携帯にメールを送ってるな」
溜息が漏れそうになった。寸前でそれを飲み込んだのは、その事実が自分に有利に働く可能性があることに気付いたからだ。
「確かにメールしましたが、それが何か?」
「いつもあんな時間にメールのやり取りをするのか?」
「店は二時までやってますから、片付けを終えて一息つくと、だいたいそれぐらいの時間になっちゃうんです」
「毎晩彼女とメールを?」
どう答えるべきか迷った。しかし彼らはおそらく、エリカの携帯の通話記録を調べている。嘘はできるだけ少ないほうがいい。
「最近はほぼ毎晩でしたね」
「最近? 最近というと」
「ここ一週間ほど。いや、五日くらいかな」
「なにをそんなにやり取りしてたんだ? 店でも毎日のように会ってたんだろ?」
「だから、店では話せないようなことですよ。待遇に関する不満とか、客に対する文句とか。まあ、他愛ないことです。ところで、彼女はいつ殺されたんですか」
村瀬は後ろを振り返り、谷と顔を見合わせた。口許に冷笑が浮かぶ。
「気になるか?」
「そりゃあ……まあ」
「こっちの質問が一通り終わったら、答えられる範囲内で答えてやる。だが、仮に殺されたのが今朝の三時以前だとしても、そのメールが免罪符になるとは思わないことだ。あんなもんは状況証拠にすらならん」
思惑を完全に読まれていた。死んでいるのがわかっていたら、あんなメールを出すはずがない──そう言い逃れようと思っていたのだ。確かに考えようによっては、そういう心理の裏をかいて、あえてメールを送ったとも受け取れる。
「文中に『アフターサービス』という言葉があった。あれはどういう意味だ?」
「別に深い意味はありません。先日彼女からちょっとした相談を受けたんですが、ここ二日ほど連絡がなかったんで、どうしてるかなと思っただけです」
村瀬は肩を竦《すく》めた。まるで信じていない。
「……ところで最近、彼女の家に行かなかったか?」
質問ではなく、確認を求めるような口調だった。すでにウラが取れているのだろう。しかしおれはあえて惚けてみることにした。こうでもしなければ、彼らは手持ちのカードを見せてくれない。
「最近って、いつのことですか? 一緒に酒を飲んだときに、家まで送ってったことはありますけど……」
「実は、先週水曜日の深夜──正しくは木曜日の未明、隣の部屋の住人が、彼女の部屋から出てくる不審人物を目撃してる。身長170センチ強。二十代前半。中肉中背でやや面長。肌は浅黒く、髪は白に近いグレーで、耳が隠れるくらいの長髪──これ、おまえのことだろ? 鏡を持ってきてやろうか」
歯軋《はぎし》りしたい気分だった。確かにおれはあのとき、隣の住人に顔を見られている。
どう答えようか考えあぐねていると、村瀬は得意げな表情で追い討ちをかけてきた。
「目撃者の話によると、不審な男を見かける直前、彼女の部屋から大きな物音と悲鳴のような声が聞こえたらしいんだが、これはどういうことなんだ?」
村瀬はその不審人物がおれだと決めてかかっている。その読みは正しいのだが、そこから先の推理は完全に的はずれだ。騒ぎの原因がアオダイショウだと知ったら、村瀬はどんな顔をするだろう。
おれは口を閉ざしたまま曖昧な笑みを浮かべた。人違いだと否定しても、首実検をされたらすぐにバレてしまう。喧嘩をしたと答えれば納得してくれるだろうが、彼らはそれをエリカ殺しの動機に結びつけようとするだろう。どう答えても不利になるばかりだ。
沈黙を降参と受け取ったのか、村瀬はここが落としどころとばかりに、おれの胸元に人差し指を突き立てた。
「──昨日の早朝、午前四時から八時くらいまでのあいだ、どこで何をしてた?」
現場不在証明の確認。昨日の早朝──花梨の歓迎会があった日の翌朝だ。これでエリカの死亡推定時刻を訊き出す手間が省けた。
「ぐっすり寝てましたよ。前の晩に飲み会があったんです」
「どこで?」
「新宿」
「飲み会の場所じゃない。どこで寝たのかと訊いてるんだ」
一瞬花梨の顔が思い浮かんだが、あの夜はちゃんと家に帰ってきた。
「もちろんここですよ」
「それを証明できる人は?」
「ここに帰ってきたのが深夜三時。目覚めてコンビニに弁当を買いに行ったのが昼の十二時。その間、誰にも会ってません」
村瀬はちらりと谷を一瞥した。無言のまま目で頷き合う。
「長くなりそうだ。署まで来てもらおうか」
くそっ──心の中で毒づいた。完全に容疑者扱いだ。自分では殊勝に振る舞ったつもりなのに、彼らにはおれの誠意が伝わらなかったらしい。
「えっと……令状はあるんですか」
抵抗を試みた次の瞬間、村瀬の形相が一変した。
「──なめた口たたくんじゃねぇぞ。任意同行に決まってんだろが」
この恫喝は効果的だった。さすがのおれも一歩退いてしまった。
「おれ、疑われてるんですか?」
「署に来れば答えてやる」
おれのように定職にも就かないでその日暮らしをしている人間は、圧倒的に警察の受けが悪い。職質される頻度も、他の連中に比べたらかなり高いはずだ。軽薄で短絡的なイメージが、癇に障るのだろう。
証拠があろうとなかろうと、彼らがおれを虐《しいた》げるのは目に見えている。花梨の力を借りなくても、それくらいのことは容易に予見できた。
この辺が潮時だろう。殺人の容疑であれこれ突っつき回されるよりは、傷害と脅迫の罪を認めてしまったほうが、遥かに気が楽だ。それに、大倉がエリカ殺しの犯人であることが立証されれば、おれの罪が不問に付される可能性もある。
「……ちょっと待ってください。おれ、まだ話してないことがあるんです」
「わかってる。続きは署のほうで聞こう」
村瀬の返答はにべもない。口許に浮かぶ冷笑がなんとも不気味だった。
「勘弁してくださいよ。洗いざらい正直に話しますから。もちろん、犯人のことも」
「犯人? 何の犯人だ」
「決まってるじゃないですか、エリカを殺害した犯人ですよ」
村瀬は再び谷と顔を見合わせた。
「いいだろう。話してみろ」
「少し長くなります。場所を変えませんか。起き抜けなんで、突っ立ったままだとちょっとしんどい。すぐ近くに、うまいコーヒーを飲ませる喫茶店があるんです」
主導権を握るための提案だったが、躯がコーヒーを欲していたのも事実だった。
村瀬は険しい眼差しでおれを睨み付けた。発言の裏に潜む魂胆を見抜こうとしているらしい。別に何も企んじゃいないが、どんな些細なことでも疑ってかかるのが刑事の本分だ。
少々厚かましすぎたかと諦めかけたそのとき、村瀬がドアノブに手をかけながら口を開いた。
「割り勘でよければ付き合おう。その代わり、もしいい加減な話だったら、容赦なく偽証罪でしょっ引くからな。覚悟しとけよ」
望むところだ。
モーニングには遅すぎ、一服入れるには早すぎる時間帯。脱サラした夫婦が経営する小さな喫茶店には、背広姿の中年男が一人いるだけだった。村瀬が顎をしゃくって、カウンターから一番遠い窓際の席を示す。
歩きながらマスターにブレンドを注文すると、村瀬が「おれも」と同調した。谷は立ち止まって壁に掛かったメニューを見つめると、少し考えてから「モカ」を注文した。こういう状況だと普通は上司に合わせるものだが、彼にそういう常識は通用しないらしい。
こんな男に刑事など勤まるのだろうか。いらぬ心配をして、村瀬の正面に腰を落ち着ける。
「──あまりのんびりしてる時間はない。さっそく話してもらおう。犯人が誰だかわかってるのか?」
谷が席につくのも待たずに、村瀬が険しい顔で口を開いた。切迫した表情の奥に、期待と興奮が見え隠れしている。
「断言はできませんが、少なくともおれよりはずっと犯人に相応しい男がいます。おそらく間違いないでしょう。明確な動機もありますしね」
「そいつの名前は?」
おれは軽く肩を竦めて、村瀬と谷の顔を交互に眺めた。勿体ぶるわけではないが、それなりの覚悟をもって告白する以上、見返りを要求してもバチは当たらないだろう。
「ギブアンドテーク。約束してください。そいつのことを話したら、おれにも事件の概要を話してくれますか?」
村瀬は忌々しそうに口許を歪《ゆが》めたが、声を荒らげて恫喝することはなかった。この店に連れてきた甲斐があったようだ。
「……くどいぞ。さっきも言った通り、こっちの質問が終わったら、ある程度のことは教えてやる。さあ、教えてくれ。そいつの名前は?」
「大倉──大倉勝広です。大きいに倉敷の倉。勝ち負けの勝に広い。知りませんか?」
村瀬は手帳を見ようともせず、即座に「知らん」と答えた。本当に知らなかったようだ。
「被害者との関係は?」
「もともとは〈クラレンス〉の常連だったんです。おれも何度か会ったことがあります」
「目当ては彼女?」
「ええ。一時期は毎週のように店に来てました。かなりご執心だったようです」
「なるほど。本気で惚れちまったってことか。しかし彼女のほうには全然そんな気はなかった……」
さすがは第一線の刑事。触りの部分を説明しただけで、エリカと大倉の関係を把握してしまった。
おれは彼に促されるまま説明を続けた。絶妙の間合いで挟まれる相槌。話の流れを計算したうえで放たれる質問。気付いたときには、村瀬のペースにすっかり乗せられていた。
その流れが澱みに嵌《はま》ったのは、ストーカー退治のことを話し始めたときだった。
「……なぜ警察に届けなかったんだ」
彼らの常套句。何か問題が起きるとおれたちの怠慢を責め、問題が表面化するまでは何もしてくれない。おれは語気を強めた。
「おれに言われても困ります。決めたのはエリカなんですから。念のため言っときますが、おれもそういうのは警察に頼めって、一度は断ったんですよ」
「でも結局最後は引き受けたんだろ?」
「ええ、まあ……だって仕方ないじゃないですか。彼女ほんとに困ってるみたいだったし、警察は実害がなきゃ何もしてくれないし」
村瀬は溜息を漏らした。
「そんなことはない。ちゃんと被害届を出してくれれば、我々は──」
「やめましょう。今さらそんなことを蒸し返しても時間の無駄だ」
村瀬の反駁《はんばく》を遮り、おれは説明を続けた。エリカに盗聴器のチェックを指示したこと。依頼を受けた翌日からエリカの監視を始めたこと。そして最初の夜に大倉が現れ、部屋の中にアオダイショウを放り込んでいったこと──。
「そのとき、隣の住人に顔を見られたんです」
「証拠は残ってるか?」
「証拠って、ヘビのことですか? 残ってるわけないでしょう。窓から放り出してやりましたよ。生きたまま」
村瀬はコーヒーを啜った。
「……ストーカー行為の内容についてはだいたいわかった。それで、最後はどうしたんだ? 手を下したのか」
おれは小さく頷いた。
「土曜の夜──いや、日曜の未明といったほうがいいのかな。彼女のマンションを見張ってたところに、ヤツが現れたんです。今度は猫の死骸を持って。それでおれもカーッときちゃったんです。動けなくなるくらいまで痛めつけてやりました。ほんの五分くらいですけど」
「一人で?」
ギクッとした。さすがに鋭いところをついてくる。
「もちろんです。あんなヤツ、おれ一人で充分ですよ」
村瀬はおれの顔をジッと見つめると、複雑な表情を浮かべて口を開いた。
「……猫の死骸があったことは、マンションの管理者から話を聞いている。いちおう辻褄は合ってるようだな。その後のことは?」
「知りません。日曜は店が休みだから、エリカとは会ってないんです。何かあれば携帯に連絡が入ると思ってたんですが……それでもちょっと気になったんで、あんなメールを送ったんです」
「その大倉って男が犯人なら、彼女より先に、君のほうを狙うんじゃないのか?」
「いや、大倉はたぶん、襲ったのがおれだとは気付いてないはずです。こっちは顔を隠してたし、ヤツには相手の顔を確かめる余裕なんてなかったから」
「恨みの矛先が向けられるのは、彼女しかいないというわけか……そいつについて知っていることを、一つ残らず教えてくれ」
村瀬が険しい表情で谷に目配せした。谷が背筋を伸ばして、ペンを握り直す。
「実は、お話しできるようなことはあまりないんです。身長は165くらい。やや痩せ形。顔の特徴は綺麗な鼻筋、二重瞼の大きな目、ややしゃくれ気味の顎──」
「年齢は?」
「三十代前半。本人がそう言ってました」
「勤務先は」
「井手産業。詳しいことは知りませんが、中国産の書画骨董などを扱う、輸入業者だそうです。通称〈楊さんの店〉」
「ヤンさん? なんだそりゃ」
演技には見えなかった。あの一帯の管轄は新宿署。知らないのも無理はない。
「それ以上のことはわかりませんでした。新宿署の方に訊けば、もう少し詳しい情報が得られるかもしれませんが」
訝しげな顔をする村瀬に、井手産業の電話番号と所在地を告げた。電話番号は携帯のメモリーに、所在地は記憶のメモリーに残っていた。
「大倉の住まいは?」
思わず顔を顰めた。決着を焦りすぎたことが、こんな形で影響してくるとは──。
「確認してないんです。確かめておかなきゃとは思ってたんですが……」
村瀬に落胆の色はなかった。勤務先がわかればどうにかなると思っているのだろう。
「他には? どんな些細なことでもいい」
十秒ほど考えたが、考えるだけ無駄なことだった。おれは大倉のことを何も知らない。
かぶりを振ると、村瀬が谷に向かって顎をしゃくった。谷が弾かれたように立ち上がり、店の外へ飛び出していく。おそらく大倉の件を本部に伝えに行ったのだろう。
今度は村瀬が手帳を広げた。
「他に何か気付いたことはないか? 異性関係、客とのトラブル、従業員同士の不和、なんでもいい」
考えるまでもなかった。矢崎の執拗な口説き。麗子ママの冷遇。ナンバーワンに対する同僚たちの妬《ねた》み。ああ見えてエリカは、結構敵を作りやすいタイプだったのかもしれない。
そしてもう一つ──夢丸《ムーガン》の問題がある。エリカはおそらく夢丸の常習者だ。部屋に隠し持っていたことは想像に難くない。警察は夢丸を見つけたのだろうか。
関心はあったが、おれのほうから持ち出す話題ではなかった。余計なことを言ったら藪蛇になりかねない。
「……いいえ。特にありません」
「そうか」
村瀬は素っ気なく言って煙草を取り出した。窓の向こうに視線を移し、ゆっくりと火をつける。一仕事終えたあとの一服。沈黙が彼の意図を語っていた。
ようやくこっちの番が回ってきたらしい。
「……死亡推定時刻は、昨日の午前四時から八時までの間と考えていいんですか?」
「正確には五時から七時までの間だそうだ。ちょっとサバを読ませてもらった」
「教えてください。どういう状況だったんですか」
村瀬は大きく紫煙を吐き出し、タンブラーの水を飲み干した。
「発見者は彼女の友人。昨日の午後一時に渋谷で会う約束をしてたんだが、一時半になっても彼女は現れなかった。携帯電話も不通。腹を立てた友人は、彼女のマンションに押し掛けたんだ。
彼女の家についたのが午後二時半頃。しかしチャイムを鳴らしてもノックをしても、まったく返事がない。二日酔いで寝てるんじゃないか──そう思いながらドアノブに手をかけたら、あっさりドアが開いた。おそるおそる部屋に上がった友人が見たのは、彼女の変わり果てた姿だった──というわけだ」
「犯行が行われたのも、彼女の部屋?」
「ほぼ間違いない」
おや、と思った。相手が大倉とわかっていれば、エリカがドアを開けるはずがない。ヤツはどうやって部屋の中に入ったのだろう。
「部屋の中の様子は?」
「多少荒らされてはいたが、カムフラージュの可能性もある。とはいえ、物盗りの線がまったくないわけじゃない」
「友人というのは、男?」
紫煙の向こうで、村瀬の双眸が鋭く光った。
「心当たりがあるのか?」
「いえ、そういうわけじゃありませんが」
村瀬は不服そうに鼻の頭を掻いた。
「下手に隠し事をすると、自分が不利になるだけだぞ」
「ホントですよ。男と別れたばっかとは言ってましたけど、詳しいことは知りません」
「とりあえずその言葉を信じよう……ちなみに友人というのは女性だ。高校時代の同級生と聞いている。事件に関与している可能性は、限りなく低い」
この猿オヤジめ──心の中で悪態をついた。
「死因は何だったんですか」
「直接の死因は絞殺だが、後頭部に鈍器で殴られた痕があった。殴り倒してから絞め殺したようだ」
「目撃者は?」
村瀬は苦笑を浮かべた。
「いたら苦労しないさ。別のチームが走り回ってるはずだが、いまだ有力な目撃情報は得られていない」
答えられる範囲内で、と予防線を張っていた割には、テンポよく質問に答えてくれる。おれに対する疑いが晴れたのだろうか。
店のドアが開き、うらなりの谷が戻ってきた。肩で息をし、額に汗を滲ませている。駆け足で帰ってきたらしい。つかつかと村瀬のほうに歩み寄ると、突っ立ったまま腰を屈め、何事かを耳打ちした。
村瀬はコーヒーを飲み干して、おれに向き直った。
「……さて、そろそろいいかな。こっちもまだ手探りの状態で、情報不足なんだ。捜査は始まったばかりだし」
そう言われては返す言葉もない。とりあえず最低限必要なことは訊き出せたので、小さく頷いて物分かりのいい青年を演じた。
「参考になった。また何か思い出したら教えてくれ」
村瀬が名刺を差し出した。代々木警察署刑事課強行犯係長。階級は警部補となっている。
「念のため言っておくが、君をシロだと認めたわけじゃない。今日のところはこれで引き上げるが、身に憶えがあるのなら早めにそう言ってくれ。ま、これから何度か顔を合わせることになりそうだがな」
冗談じゃない──と思ったが、顔には出さなかった。鬱憤を晴らすのは、こいつらが消えてからでいい。
村瀬と谷は、まるで示し合わせたように二人同時に立ち上がった。それぞれ財布を取り出し、消費税の分まで耳を揃えて小銭を置く。警察官のモラルが取り沙汰されている昨今、この辺の教育は徹底しているようだ。
金を払い終えた村瀬が、不意にその顔をこちらに向けた。
「──ところでMMPって知ってるか」
眠そうな目で無関心を装っているが、村瀬の意図は明白だった。
「さあ……MVPとは違いますよね。何かの略ですか?」
「いや、知らなきゃいいんだ」
カマを掛ける相手を間違えたことに気付いたらしく、村瀬は小さく手を挙げてクルリと背を向けた。そそくさと店を出ていく彼を、谷が慌てて追いかける。マスターが「ありがとうございました」と声をかけたときには、二人の姿はすでになかった。
村瀬が最後に残していったヒント──MMP。エリカの殺害と無関係のはずがない。
冷たくなったコーヒーを啜りながら考えたが、何も浮かんでこなかった。あまりにも漠然としすぎている。今は頭の片隅に置いておくしかないだろう。
それにしてもあのエリカが──。張り詰めていたものが緩むと、悪夢のような現実が、心の痛みを伴ってのしかかってきた。
喪失感と憐憫《れんびん》。悔恨と憤怒。大倉の暴挙は、おれに対する汚辱でもある。
このまま済ませるつもりはなかった。
10
貴重な睡眠時間を削られてしまったが、今さらそれを取り返そうとは思わなかった。そこまで図太い神経は持ち合わせていない。
こういう場合、いつもなら真っ先に携帯を取り出すところだが、今はそんな気分でもなかった。この憤りを誰かに伝えたいと思う一方で、しばらくは誰とも話したくないと、内に引き籠もろうとする自分がいる。
部屋に戻り、ベッドに転がった。沈黙が重い。エリカの呪詛《じゆそ》が聞こえたような気がして、思わずテレビのリモコンを掴んだ。
火曜日の午前十一時。早口で捲《まく》し立てる男性レポーター。ワイドショーが話題性のある事件を、扇情的に報道していた。関心はないが、沈黙に押し潰されるよりはマシだ。
『……被害者は勤務先のクラブでも一番の人気者で、指名客は数十名に及ぶと見られています。これだけ指名客を抱えていれば、その中に凶悪な人間がいたとしても不思議ではなく、警察は強盗と怨恨の両面から……』
跳ね起きて画面に目を向けた。女の顔写真──エリカとは似ても似つかない。しかし黒目がちの大きな瞳に、辛うじて面影を見つけることができた。写真の下に〈殺害された間宮和江さん〉とテロップが出ている。
おれの知らないエリカ。純粋さのかけらを残していた頃の写真。血色のいい両頬に、夢と希望の残滓《ざんし》が詰まっていた。
美人キャバ嬢殺人事件。強盗か、はたまた男女関係のもつれか──ワイドショーにはうってつけの話題だ。彼らが見過ごすはずがない。
『……有力な物証や目撃情報もなく、捜査は難航しそうな模様です。以上、現場からでした』
場面が切り替わり、天気図が映し出された。気象衛星の映像が、雲一つない日本列島を浮かび上がらせている。今日も快晴のようだ。
コメンテーターの発言もなく、現場からの短いレポートだけで終わってしまったのは、じっくり検証するだけの材料が揃っていないからだろう。容疑者がある程度絞られてくれば、世間の関心も高まり、扱いも大きくなるに違いない。
しかしそのときのおれは、まったく別のことで腹を立てていた。
「あの猿オヤジ……」
なんのことはない。村瀬が事件に関する情報をあっさりと漏らしたのは、こうなることがわかっていたからなのだ。中継はたったの三分ほどだったが、レポーターは村瀬から訊きだした情報のほとんどを押さえていた。あの苦労はいったい何だったのか。
携帯が鳴った。この時間に起きていて、ワイドショーの視聴を日課とし、間宮和江の正体をエリカと見抜ける人間──さほど多くはない。
「もしもし──あ、タクト? ねえねえ、今テレビ見てたら、渋谷区に住むホステスが自宅で殺されたんだって。それで被害者の顔写真が映ったんだけど、それがなんとなくエリカに似てたの。ねえ、あのコってどこに住んでるんだっけ」
一児の母、久美。不安を募らせる声の狭間に、好奇心が見え隠れしている。人間とは哀しい生き物だ。むろんおれも例外ではない。
「おれも見てた。あれはエリカだ。間違いない」
「どういうこと? どうしてエリカが──」
おれは久美の言葉を遮った。
「悪いが、いまちょっと手が離せないんだ。その話はまたあとでしよう」
そう言って一方的に電話を切った。
他の連中が知るのも時間の問題だろう。おれは携帯の電源を切って、再びベッドに倒れ込んだ。
今夜は騒がしくなりそうだ。
開店準備のあるおれたちとは違い、キャストは開店間際まで出てこないのが常だが、その日はいつもと違っていた。待機室から漏れてくる煙草の臭いと喧噪。おれが店に入ったときには、すでに十人以上のキャストが顔を揃えていた。
「瑠美、樹利亜、久美、麻里、リサ、キコ、マリア……主立《おもだ》ったメンバーはほとんど集まってる。エリカの死を悼むためじゃない。互いの無事を喜び合い、好奇心を満たし、噂話に花を咲かせるためだ。もっともエリカにとっては、それが一番の供養になるのかもしれないがな」
梅島は呆れたように吐き捨てたが、その目にあるのはエリカを失った損失を埋めるための算段と今後予想される煩わしさに対する不安だった。おれは肩を竦めてそれを聞き流し、ロッカールームに足を向けた。おれには彼女たちの薄情を責める権利はない。ここで働く連中はみな、自分のことで手一杯なのだ。
安部が慌てふためいた様子でロッカールームに飛び込んできたのは、鏡を見ながらネクタイの位置を直しているときだった。
「ほんとなのか? エリカが死んだって」
「何言ってんだよ、今頃」
「今日は一日中パチンコやってたから、完全に浦島なんだ。マネージャーは殺されたって言ってたけど……まさか店ぐるみでおれを騙《だま》してるんじゃないだろうな」
「おまえを騙しても何の得にもならない。残念ながら事実だよ」
安部は目を逸らして吐息を漏らすと、戸惑いの苦笑を浮かべた。
「……嘘だろ?」
自分自身に向けられた問いかけ。おれは沈黙を返して、鏡に向き直った。
「どこまで知ってるんだ? タクトは」
「どこまでって──」
どう答えるべきか考えあぐねていると、不意にドアが開き、憔悴した梅島の顔が現れた。
「早くしてくれ。開店五分前には準備を終えてほしいんだ」
理由は訊くまでもなかったが、安部が条件反射のように聞き返した。
「ひょっとして……招集?」
「そういうことだ。頼んだぞ」
梅島は短く答え、顔を引っ込めた。安部がポツリと呟く。
「いい女だったのに……もったいないな」
麗子ママにはいつもの精彩がなかった。ファンデーションと口紅だけのメイク。無造作に後ろで束ねただけの頭髪。心労が全身から滲み出ていた。
「もうみなさんご存じのことと思いますが、昨日、エリカさんが亡くなられました。あまりに突然のことで、私もまだ気持ちの整理ができていませんが、嘆いてばかりもいられません。これまでのエリカさんの功績に感謝するとともに、謹んで冥福を祈りたいと思います」
麗子ママはそこでいったん言葉を切り、そっと目を閉じた。黙祷《もくとう》を捧げているのだろう。キャストたちがそれに倣うのを見て、おれも慌てて目を閉じた。
「……エリカさんの死に関しては、あまり詳しいことはわかっていません。何者かに殺害された疑いが濃厚のようですが、まだ容疑者も特定できていないのが現状です。みなさんのところにも警察の方が来られるかもしれませんが、できるだけ協力してあげてください。私たちにはそれくらいのことしかできませんから……」
エリカのキャバクラ勤務を、親が歓迎していたとは思えない。通夜や告別式の手伝いはもちろん、花輪や弔電が拒絶されることも充分考えられる。
ましてやエリカの死は他殺。キャバクラ勤務が彼女を死に至らしめたと、店そのものに恨みを抱いているかもしれない。確かにそう考えてみると、おれたちにできることは限られていた。黙祷を捧げることと捜査への協力──その二つだけだ。
「お客さまへの対応についてですが、あまり余計な刺激を与えたくないので、基本的には『店を辞めた』という説明で統一してください。もちろんなかには昵懇《じつこん》の常連さんや、すでに事情をご存じの方もいらっしゃるでしょうから、そういう方には臨機応変に対応してくださって構いません。判断に困ったときは、私かマネージャーを呼んでください」
キャストたちが複雑な表情で顔を見合わせた。麗子ママの指示に異議があるらしい。しかし彼女の指示は責任者としては当然の判断だった。ナンバーワンキャストの他殺事件。おおっぴらになれば興味本位で店に来る客の数より、面倒を嫌って店を避ける客のほうが多くなるに決まってる。
それがわかっているからだろう、結局キャストたちから反論の言葉が出ることはなかった。どの顔にも納得はできないが理解はする≠ニいった苦悩が浮かんでいる。
全員の顔を一通り眺め回し、麗子ママが決然と口を開いた。
「エリカさんのことはとても残念ですが、この店へ癒しを求めてやってくるお客さまには、不愉快な思いはさせられません。みなさんも辛《つら》いでしょうけど、お客さまにはいつも通り接してください。その点だけは念を押しておきます。
私からは以上です。それでは、今日もよろしくお願いします」
麗子ママは一方的にそう告げると、短く一礼して踵《きびす》を返した。小さな背中がいっさいの質問を拒絶している。ママの姿が見えなくなると、キャストたちのあいだから諦めとも憤りともつかない吐息が漏れた。
ざわつく集団に背を向け、持ち場に向かう。何かが欠落しているような違和感。振り返ってその正体を確認する。
いない。花梨の姿が見えない。
今日は出勤日のはずだ。同伴なのだろうか。
イヤな予感が脳裡をよぎる。おれを呼ぶ声が聞こえたのは、そのときだった。
「──タクト、ちょっと来てくれ」
梅島が手招きしていた。眉間に刻まれた二本の縦皺。日頃の刻苦精励をねぎらってくれるわけではないらしい。
「なんですか?」
「ちょっと来てくれ」
梅島に導かれるまま奥へと向かう。用件はエリカの殺害に関することだろう。他に思い当たる節はない。
梅島は〈STAFF ONLY〉のプレートがかかったドアの前で立ち止まると、素早く三回ノックしてそのドアを引き開けた。失礼しますと声を掛け、おれを中に押し込む。
三畳にも満たない圧迫感のある部屋。そこが店長──麗子ママの城だった。壁向きに設置された安物のデスク。中古のノート型PC。床に直接積み上げられた数々の資料や書籍。錆《さび》の浮かんだロッカーと化粧品で埋め尽くされた鏡台。窓のない空間に奥行きを生み出しているのは、セピアカラーでまとめられたヒロ・ヤマガタのポスターだけだった。
麗子ママはあくまでも裏方という立場に徹している。むろん彼女に会いたいという客がいれば喜んで出ていくし、日に何度かは店の中を見て回ったりもするが、それ以外のときは大抵この部屋に閉じこもって、経理や人事関連の雑事をこなしている。おれが採用の面接を受けたのもこの部屋だった。もう少し整頓したほうがいいと思うのだが、麗子ママにとってはこのほうが落ち着くのかもしれない。
「椅子がなくて悪いんだけど、適当に座ってくれる?」
声をかけられて我に返った。麗子ママが後れ毛を直しながらこちらを見上げている。
確かに椅子は見当たらなかったが、空のビールケースが目に入った。それを引き寄せて腰を落ち着ける。梅島はちゃっかり折り畳み椅子を確保していた。
「突然呼び出してごめんなさい。あなたに訊きたいことがあるの」
「はあ……」
「わかってんだろ? エリカのことだよ」
梅島が横からおれを睨み付ける。
「刑事が来たでしょ? あなたのところに」
なるほど、と思った。目撃者の証言やメールの受発信記録だけで、あんなに早くおれの身元が割れるはずがない。村瀬たちはこの二人からおれに関する情報を引き出したのだ。
「なんで知ってるんですか?」
「私のところにも来たのよ、村瀬って刑事が。エリカさんのこといろいろ訊かれたんだけど、不意に『二十代前半で身長170、長髪をシルバーグレーに染めた男を知らないか』って訊かれたもんだから、バカ正直にあなたのこと喋っちゃったの。いきなりだったから誤魔化しきれなくて……」
「言い訳する必要なんてありませんよ。店長は訊かれたことに対して素直に答えただけなんですから。店の従業員だからって下手に庇ったりしたら、犯人なんか捕まりっこない」
梅島がすかさずフォローする。麗子ママはおれを「売った」ことに引け目を感じているらしいが、梅島はそれを当然の対処と捉えていた。いや、それだけじゃない。彼の目は、おれに対する過剰な疑惑に満ちていた。
「本当のところ、どうなんだ……おまえがやったのか?」
梅島はマジだった。目に見えるヒントを無理矢理繋ぎ合わせて、強引に答えを導き出そうとする短絡的な思考は、いかにも梅島らしい。おれは苦笑するしかなかった。
「バカなこと言わないでください。なんでおれがエリカを殺さなきゃいけないんですか」
「じゃあどうしてエリカさんのマンションにいたの? 刑事が言ってたわよ。あなたを見た人がいるって」
「だからそれは、事件があったのとは別の日で──」
「別の日って……じゃあおまえ、エリカと付き合ってたのか?」
梅島が非難というより羨望に近い眼差しでおれを見つめる。もはや呆れてモノも言えなかった。
「違いますよ。その日彼女のマンションに行ったのは、あることを頼まれてたからです」
「あることって?」
「……ネズミ退治」
「ネズミ? どういう意味だ。もっとわかりやすく説明してくれ」
「そのまんまですよ。家にネズミが出るから、駆除してくれって頼まれたんです」
麗子ママと梅島は顔を見合わせた。どう判断すべきか戸惑っているようだ。突拍子のない見え見えの嘘は、ときに真実味を帯びることがある。
麗子ママが吐息を漏らした。
「……まあいいわ。そういうことにしておきましょう。で、刑事には何を訊かれたの?」
「詳しく訊かれたのは、そのこと──ネズミ退治のことだけです。あとは、犯人の心当たりとか、エリカの近況とか……ありきたりのことばかりでした」
「何と答えたんだ?」
「捜査の役に立つようなことはなにも。ネズミ退治の一件を除けば、個人的な付き合いはほとんどなかったから」
梅島は訝しげに眉を顰めたが、麗子ママはおれの言葉を信じてくれたらしく、安堵の表情を浮かべて頷いた。
「アリバイのことは? 訊かれなかったか」
「訊かれましたけど、あんな時間にアリバイなんてありませんよ。家で寝てましたから。マネージャーたちも訊かれたんですか?」
「いちおうな。おれもその時間はまだ眠ってた。妻と息子は起きてたんだが、家族の証言は参考にならないらしい」
「店長は?」
「同じよ。私も一人暮らしだから、アリバイは成立しないわ」
夜の世界に生きる人間たちは、生活のリズムがほぼ半日ズレている。一般人にとっては一日の始まりを意味する早朝も、おれたちの感覚では真夜中なのだ。むしろそんな時間にアリバイのあるほうがおかしい。大倉はそこまで計算に入れたうえで、あの時間帯を選んだのだろうか。
「ほんとは何か隠してるんじゃないのか?」
梅島がしつこく食い下がる。しかし根拠があってのことではなかった。態度や発言の端々から、なんとなく不審を抱いたのだろう。
「何もありませんよ。マネージャーこそ何か知ってるんじゃありませんか? エリカの異性関係とか、犯人の目星とか」
「少なくともおれは何も知らない。仮に知ってたとしても、おまえには教えてやらん」
「そういえばテレビのワイドショーで、常連客の中に凶悪な人間がいたとしても不思議じゃない、とか言ってましたけど、エリカの指名客にも捜査の手は伸びてるんですか?」
「だからおれに訊くなって。ただ、一つだけはっきりしてることがある。我々は客に関する情報はいっさい流してない。マスコミはもちろん、警察にもな」
梅島は得意満面に言い放ったが、そんなものは何の自慢にもならなかった。顧客管理はキャスト個々人の裁量に任されている。情報を提供したくとも、店には顧客データが存在しないのだ。
逆に言えば、エリカの客に関する情報は、エリカ自身の手元にしかない。すでに警察が押収したのだろう。
「……もういいわ。二人とも仕事に戻って」
麗子ママは急に興味を失ったらしく、椅子を回してデスクに向き直った。ノートPCの電源を入れ、ウィンドウズを起ち上げる。
梅島が立ち上がり、椅子を折り畳んで壁に立てかけた。
「失礼します……おい、戻るぞ」
おれも立ち上がってビールケースを元の位置に戻した。黙礼してドアを押し開ける。部屋を出ていこうとしたとき、麗子ママに呼び止められた。
「一つお願いがあるんだけど……」
「──はい。なんですか?」
「何かわかったら、私にも逐一報告してくれない? もちろん、自分に不利なことまで話してくれとは言わないけど」
一瞬ためらってから、おれはこう答えた。
「……心に留めておきます」
敵か味方か──おれはまだ麗子ママという人間の本性を、完全に理解したわけではなかった。
花梨は店を休んでいた。梅島には昨日の業務中に届けがあったらしく、当欠の扱いにはなっていない。
エリカに警告を発していた花梨。彼女の危惧は現実のものとなってしまった。前日に届けがあったとはいえ、突然の休みであることに変わりはない。エリカの死に結びつけずにはいられなかった。
僅かな休憩時間を利用してメールを打つ。
──『エリカのこと、聞いた? 残念だけど、君のせいじゃない。とにかく一度連絡くれ』
メールを送信して吐息を漏らす。何をしているんだという自責の念と、泡立つように湧き上がってくる疑心。気を逸らそうと、壁にかけられた小さなカレンダーに意識を向けた。
不意に蘇るエリカの声。
──大倉は火曜の夜はなぜか一度も接触してこないの。何か用事があるのかもしれない。
今夜がその火曜の夜だった。
携帯のメモリーを呼び出して通話ボタンを押す。ただの思いつきに過ぎなかったが、何かしなければという焦燥感が、おれの背中を押していた。
「──はい」
電話口のアキラは相変わらず素っ気なかった。エリカの殺害についてはまだ何も話していないが、詳しい説明をしている余裕はない。おれは前置きもなく用件をぶつけた。
「おれだ。今夜の予定は?」
「今夜ぁ? 今夜はダメだ。今も仕事中なんだよ。切るぞ」
「何時まで?」
「……一時までだ」
「問題ない。全然余裕だ」
「待ってくれよ。おれだっていろいろとなぁ……」
語尾を濁らせるアキラ。しかしその中途半端な受け答えが、交渉の余地があることを示していた。
「頼むよ、アキラ。おまえしか頼めるヤツがいないんだ」
「明日じゃダメなのか」
「今夜じゃなきゃ意味がない。頼む。報酬ははずむから」
「金の問題じゃないんだよ……まあいい。いちおう話してみな。楽そうな仕事なら引き受けてやる。内容次第だ」
「別に面倒でも困難でもない。アキラなら目をつぶっててもできる仕事だ」
「いいから早く話してくれ」
アキラがおれの言葉を遮るようにして訴える。仕事中という言葉は本当だったらしい。
「後を尾《つ》けてほしいヤツがいるんだ。尾行開始は二時頃」
「二時? なんだ。またあの女か」
早とちりした彼は、ジャンキーに手を貸すつもりはないと息巻き、再び電話を切ろうとした。
「ちょっと待ってくれ。違うんだよ。尾けてほしいのはエリカじゃない。といっても、店の従業員であることに変わりはないんだけどな」
険しい顔をした梅島に呼び止められたのは、空席の目立ち始めた零時半過ぎのことだった。ミスでもしたかと慌てて歩み寄っていくと、彼は怒気を孕《はら》んだ眼差しのまま、無言でエントランスのほうに顎をしゃくった。
スーツ姿の男が二人。客かと思ったがそうではなかった。逆光になっていて顔はよく見えなかったが、背の高いひょろっとしたシルエットには見憶えがある。
まさか──と思い、再度時計を確かめた。間違いない。時刻はすでに午前零時半を回っている。正気の沙汰じゃなかった。
「おまえに用があるそうだ。証拠でも見つかったんじゃないのか?」
梅島が冗談とも本気ともつかぬ口調で言う。口許には嘲笑が浮かんでいたが、目は笑っていなかった。
「営業時間中にあんな連中を店に入れるわけにはいかない。時間がかかりそうなら、外へ連れ出してくれないか。店のほうは心配しなくていいから」
見る人が見れば、彼らが刑事であることはひとめでわかってしまう。後ろめたいことをしているわけではないが、客にしてみれば確かに気分のいいものではなかった。
わかりましたと答えてエントランスを出る。脂ぎった猿オヤジと生気を失ったうらなりが、二人同時に形ばかりの会釈を寄越した。
村瀬が口を開く。
「仕事中に悪いな。早急に確認したいことがあるんだ」
おれは眉間に皺を寄せ、呆れたように肩を竦めた。
「仕事熱心なのはわかりますけど、何もこんな時間に来ることないじゃありませんか。解決が一日二日遅れたところで、どうせエリカは戻ってこないんだから」
「急ぐ理由があるから来たんだ。好きこのんでこんな時間に来たわけじゃない」
村瀬がきっぱり言い放つ。悪びれた様子はなかった。
「おれ、仕事中なんですけど……時間かかります?」
「おまえ次第だ。まあ、早ければ五分くらいで済むだろうがな」
早くても五分。つまり最低でも十分はかかるということだ。おれは適当な理由をつけて二人をエレベーターに乗せ、ビルの外に連れ出した。近くに誰もいないことを確かめ、煙草の自販機の前で立ち止まる。
「ここなら明るいからメモもできますよね……それで、話ってのは?」
谷が自販機の明かりを頼りに、早速メモを取り始めた。それを横目に見ながら、村瀬が口を開く。
「他でもない、大倉勝広のことだ」
おれは小さく頷いて先を促した。
「捕まったんですか?」
「いいや。捕まえるどころか、まだ居場所さえ掴めてない。逃亡したのかもしれん」
「逃亡って……え? 大倉がですか」
「逃亡という表現が適切かどうか知らんが、行方がわからなくなってるのは事実だ。あれこれ手を尽くしてはいるが、まだ有力な情報は得られてない」
「井手産業には行ったんですよね」
「行くには行ったんだが、大倉勝広は四日前──金曜日に、あそこを退職してた」
「退職? 理由は?」
「一身上の都合──だと。それ以上のことは聞き出せなかった」
おれが大倉を襲ったのは土曜日の夜。つまり大倉の退職とおれの襲撃には、直接の関わり合いはないということだ。しかしそうなると新たな疑問が湧き上がってくる。大倉はなぜ会社を辞めたのだろう。
「辞めたっていっても、住所くらいわかるんじゃありませんか? 何年も前の話じゃないんだし」
「もちろんだ。住所はすぐにわかった。渋谷区西原。1DKのマンションだ」
おれは唾を飲み込んだ。
「それで?」
「もぬけの殻だったよ。大倉はすでにその家を引き払ってた」
「転居したんですか? いつ?」
「正確な日付はわからないが、やはり四日くらい前らしい。管理人は転居先の住所を聞いていたが、その住所もデタラメ。大倉の行方を辿る糸は、そこでプッツリと切れちまった。ヤツは本気だ。自分の痕跡を消そうと躍起になってる」
くそっ──拳を固く握りしめた。襲撃前に住処を突き止めていても、結局は同じだったということか。
ふと別の可能性に思い至った。大倉は自分の意志で辞めたのではなく、辞めさせられたのではないか。
「社内での評判は?」
「あまり真面目な社員じゃなかったみたいだが、そこそこ無難にこなしてたらしい。これといった問題はなかったようだ。ああいう会社だから、かなり融通が利いたんだろうな」
「そうですか……」
会社を退職し、マンションを引き払って雲隠れした大倉。村瀬たちの顔には困惑の色が浮かんでいたが、この事実はおれにとっても大きな打撃だった。このままおめおめと逃げられたら、エリカに合わせる顔がない。
ヤツを炙《あぶ》り出す手段はないだろうか──思案しながら何気なく向けた視線の先に、見憶えのある影を見つけた。乱れたパンチパーマに四角い顔。開襟シャツとゴールドのネックレス。ズボンのポケットに右手を突っ込み、こちらに向かって俯き加減に歩いてくる。
火曜深夜一時の男、鈴木だ。
視線を感じたのか、鈴木が顔を上げてこちらを向いた。おれが頭を下げると、彼もつられたように会釈を返す。感情を殺した目が、村瀬たちの姿を認めて僅かに揺れ動いたのを、おれは見逃さなかった。
鈴木は再び視線を落とすと、ゆったりとした足取りでおれたちの前を通り過ぎていった。店のあるビルには見向きもせず、そのまま素通りしていく。
ここまで来ておきながら店に入るのをやめたのは、村瀬と谷の存在に不穏な気配を感じたからだろう。過敏な嗅覚。やはりただ者ではない。逆に言えば、彼のほうにも慎重にならざるを得ない理由があるということだ。
村瀬も鈴木の持つ独特の雰囲気から、何かを感じ取ったらしい。
「知り合いか?」
「え? ああ、常連さんです。名前は知りませんけど」
「間宮和江を指名したことは?」
間宮和江。どうも違和感がある。エリカはエリカだ。少なくともおれにとっては。
「いえ、エリカを指名したことは一度もありません」
首を振って否定すると、村瀬は興味を失ったように視線を戻し、携帯灰皿で煙草を揉み消した。充血した目でおれを見据え、溜息混じりに口を開く。
「──さて、そろそろこっちの質問にも答えてもらおうか。おまえの好奇心を満たすために来たわけじゃないんだ」
言われて初めて気が付いた。そういえば村瀬はずっと、おれの質問に答える役に徹していた。心理的な効果を狙った戦術。ギブアンドテークの精神を逆手に取ったのだろう。
「大倉の行方に心当たりは?」
おれは肩を竦《すく》めた。
「隠してるわけじゃなく、ほんとうに知らないんです。店では何度か会いましたけど、二言三言しか話してませんし」
「なんでもいい。なんかあるだろう」
村瀬が恫喝するような口調で詰め寄る。そのとき、心の片隅に引っ掛かっていたことを一つ思い出した。
「……大倉はまだ、おれにやられたときの傷が完治してないはずです。ほとんどボロ雑巾の状態でしたから。だからきっと、何らかの形で医者の世話になってるんじゃないかな」
村瀬が目を細めて頷き、谷がペンを走らせる。我ながらいい指摘だったようだ。
「なるほど……他には?」
「本人がそう言ってただけなので、本当かどうか知りませんが、大倉は鹿児島の出身だそうです。もし逃亡するとしたら、やはり西へ向かうんじゃないでしょうか。頼れる知人や友人は、西のほうに固まってるだろうし」
「鹿児島出身という話は楊社長からも聞いている。そのうち実家も割り出せるはずだ。他には?」
おれは首を振った。
「あとはキャストにでも訊いてください。ヘルプでついたコが何人かいるはずだから、何か聞いてるかもしれない」
「ちなみに、店のほうはどうなんだ? 客の反応とかは」
「ほとんどの客はまだエリカが殺されたことを知らないようです。常連には『一身上の都合で辞めた』と説明してますけど、バレるのは時間の問題でしょうね。マスコミはこういう事件好きそうだし」
「それは誰の指示だ? 店長?」
「おれたちは店長からそう言われました。そうでもしなきゃ収拾がつかないんじゃないかな……ところで、エリカの常連もやっぱ捜査の対象になるんですか?」
村瀬は苦笑を漏らした。
「まったくおまえは……ノーコメントだ。何か思い出してくれたら、話してやってもいいけどな」
もちろんおれのほうにはもうネタがない。小さく首を振ると、村瀬は谷に目配せしておれに向き直った。
「突然邪魔して悪かったな。今度からはもう少し早い時間に来るよ」
「来ても無駄ですよ。知ってることはすべて話しましたから」
「まあ、来ないに越したことはないんだが……そうそう、老婆心ながら一つ忠告しておこう。少し気をつけたほうがいい。大倉が姿を消したのは、おまえに報復するためかもしれないから」
何を言い出すかと思えば──思わず失笑した。
「それはありませんよ。今朝も言ったじゃないですか。大倉はやったのがおれだとは気付いてないはずです」
しかし村瀬の真顔は変わらなかった。
「しかし被害者は当然知ってたんだろ?」
「そりゃそうですよ。おれはエリカに頼まれて──」
絶句した。そうだ。大倉にはそれを知る方法が、一つだけあった。
「彼女を殺したのが大倉なら、ヤツは自分を襲った人間のことを、彼女から聞き出してるはずだ。『おれをあんな目に遭わせたのはどこのどいつだ。教えてくれれば生命だけは助けてやる』──そうやって脅《おど》すだけでいいんだから」
11
片付けを終えて店を出たとき、時計の針は二時半の少し手前を示していた。肌にまとわりつく霧雨。街全体がどんよりと滲んでいる。
携帯を取り出し、電源を入れた。新着メールが二通。
──『早く来い。〈九龍〉の近くにいる』
いつも通りの簡潔な文面。アキラだ。〈九龍〉は海鮮料理に定評のある中華料理店で、花園神社の西側に位置している。おれは傘も差さずに区役所通り方面に足を向けた。
歩きながらもう一通のメールを確認する。
──『エリカさんのことすごく残念です。何時でもいいので電話ください』
花梨だ。記された携帯の番号を登録し、すかさずコールする。
「──タクト?」
二コール目を聞き終える前に、花梨の声が耳に飛び込んできた。思わず安堵の吐息が漏れる。
「よぉ、元気か? なんで今日休んだんだよ」
まずは雰囲気を和ませようと、いつもの五割増しの明るい声で切り出したが、花梨はすでに悲愴モードに入っていた。
「どうしよう……やっぱり守れなかった……エリカさん……」
うわずった半べその声。今すぐ飛んでいって抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、さすがにそれはできない。
「気にすんなって。エリカが殺されたの、実はおれのせいなんだ。この前話しただろ? ストーカーのこと。退治するにはしたんだけど、ちょっとやりすぎちゃってさ。たぶんそのせいだと思うんだ。だから花梨が責任を感じることなんて、全然ないんだよ」
「なんでみんな、私の忠告聞き入れてくれないんだろう……あんなに必死に訴えたのに……」
「花梨……」
──二度とあんな思いはしたくない。他の人にもあんな思いはさせたくない。
花梨の心に昏い影を落とすもの。それが彼女の行動基準を決定づけている。その信念の前では、おれの慰めなど雑音でしかない。
二の句が継げずに押し黙っていると、不意に花梨が声音を変えて「ねえ、タクト」と呼びかけてきた。
「ん……なに?」
「一つだけお願いがあるの。約束してくれる?」
「約束?」
「〈ホウライコウシ〉って聞いたことある?」
「ホウライコウシ? 何それ。どんな字書くの?」
「ホウライは中国で仙人が住むと伝えられる山のこと。コウシは中国語読みではコンス。会社とか企業を意味する言葉ね」
〈蓬莱公司〉。自信はないが、たぶんこれで合ってるだろう。確か〈蓬莱〉という銘柄の日本酒があったはずだ。
「もう一つ。〈ブラックパール〉は?」
「〈ブラックパール〉? さあ。聞いたことないな。それがどうかしたの?」
「約束して。その二つには、絶対に近寄らないと」
さっきまでの半べそが嘘のような、頑とした険しい口調だった。苦笑が漏れる。
「約束するも何も、いま初めてその名前聞いたんだぜ? 正体もわかんねえのに、近寄りようがねえじゃん」
「それでいいの。それさえ守ってくれたら、最悪の事態だけは避けられると思うから」
「最悪の事態って──」
「今は何も訊かないで。お願い」花梨はおれの言葉を遮った。「ねえ、約束してくれる?」
突然そんなこと言われても……おれは一瞬たじろいだが、迷う必要などなかった。おれが花梨を困らせてどうする。
「わかった。なんだかよくわかんねえけど、約束するよ。その二つには近寄らない」
「ありがと。絶対だからね」
「お、おい、花梨──」
電話は切れていた。慌ててかけ直すが繋がらない。電源も切ってしまったようだ。
夜空を仰ぎ見ながら、たった今交わした会話の内容を反芻《はんすう》する。
〈蓬莱公司〉と〈ブラックパール〉。どちらも聞き憶えはない。いずれも店か事務所の類だとは思うが、ヤバそうな匂いがぷんぷん漂ってる。特に〈蓬莱公司〉のほうは、いかにも中国マフィアが絡んでいそうな感じだ。
最悪の事態──花梨は明言を避けたが、それが意味するところは一つしかない。
死だ。
花梨はエリカの死を嘆いていたが、彼女の苦悩はエリカを救えなかったことだけに起因しているのではない。おそらくエリカが殺されることは、おれのビジョンのシナリオにも含まれていたのだろう。彼女が殺されさえしなければ、おれが死の危険にさらされる確率も低くなる。だからこそ花梨は、懸命にエリカを守ろうとした──。
もちろんすべて憶測に過ぎない。しかしおれは勝手にそう思い込むことにした。少なくともさっきの切実な願いは、間違いなく本心から発せられた言葉だ。拒む理由は何一つなかった。誰だって訳もわからぬまま犬死になんてしたくない。
花梨が何を考えているのかは気になるが、エリカの死に衝撃を受けている今は、そっとしておいたほうがいいだろう。こっちはこっちで、目先のことを一つ一つ片付けていくしかない。
アキラの携帯をコールした。
「──はい」
「おれだ。今どこにいる?」
「〈九龍〉の前だ。なんかの店に入ってったんだが、なかなか出てこない」
「なんかの店?」
「電話じゃうまく説明できない。こっちに来たら話すよ」
電話を切り、〈九龍〉を目指した。
雨のせいか、普段より人通りが少ない。道端にたむろするガキや、アフターに向かうホステスの姿も疎《まば》らだ。区役所通りにはタクシーが連なっている。
〈九龍〉のある路地に入った。ほとんどの店が明かりを落とし、ひっそりと静まりかえっている。雨に煙った街灯が、心許ない光を路面に落としていた。もちろんひと気はない。
目指す建物の陰から、長い手がおれを手招きした。黒いTシャツに黒いジーンズ。闇に同化したアキラ。
ビルとビルの間にある、僅かな隙間に躯を滑り込ませた。散乱したゴミ。饐えた臭い。目でアキラに説明を求める。
「……美容院の隣に雑居ビルがあるだろ? 五階建てくらいの。ここからだと見えないけど、エントランスの横に地下へ降りる階段があるんだ。ヤツは一人でそこへ入っていった。四十分以上経ったのに出てこないところを見ると、まだ当分かかりそうだな」
顔だけ路地に出して、十五メートルほど先に視線を送る。闇に閉ざされた雑居ビル。明かりのついている部屋はない。窓ガラスに貼られた紙から「麻雀」や「サロン」といった言葉が読み取れた。
エントランス脇にある開口部。あそこに階段があるのだろう。ビルに入らずとも、直接地下へ行ける構造になっているらしい。
「人の出入りは?」
「入っていくヤツは何人かいたが、出てきたヤツは一人もいない」
「入ってったのは? どんなヤツだった」
「ホステスが五、六人と、ヤバそうなガキが二人。ちなみにホステスのほうは全員中国系だった。確信はないけどな」
「中国系……」
また中国だ。この街に根付いているのは確かだが、いくらなんでも多すぎる。
「近くまで行ってみたか?」
アキラは苦笑混じりに首を振った。
「まさか。ヤツらに見つかったらタダじゃすまねえ。不用意に近付かないほうがいい」
「ヤツら? 誰のことだ」
「なに寝惚けたこと言ってんだ。流氓《リウマン》に決まってんだろうが」
流氓──中国マフィア。この街で最も危険な存在。おれの当惑を歯牙《しが》にもかけず、アキラは言葉を続けた。
「何者なんだ? あの男。ただの調理師にしては胡散臭すぎる。仕事を終えてどこへ行くのかと思いきや、やってきたのは案の定|曰《いわ》くありげなあの店だ。説明してもらおうか。なぜあいつの後を尾けさせた?」
闇の中にアキラの白目が浮かび上がる。静かな怒りを湛えた目。事情も知らされず危ない橋を渡らされたことに、かなりご立腹のようだ。
「勘違いするな。おれだってまさかこんなところへ来るとは思ってなかったんだ。こっちが訊きたいくらいだよ」
「いいから理由を教えろ。なんであいつに目を付けた?」
アキラの怒りを静めるために、尾行を頼んだ理由を簡潔に説明した。井手産業の近くで梶井を見かけたこと。火曜の夜は大倉がエリカに接触してこなかったこと。そして極論すれば、何の根拠もないただの思いつきに過ぎなかったこと。
しかしアキラの表情は変わらなかった。
「ストーカーの一件は決着がついたんじゃなかったのか? あれじゃあ物足りなかったなんて言わないでくれよ」
「そんなんじゃない……実は、エリカが殺されたんだ。昨日……いや、一昨日の早朝のことになる。犯人はまだ捕まってないが、状況からして大倉以外考えられない。その大倉は現在行方知れずだ。ヤツが本気なら次のターゲットは間違いなくこのおれ。だからジッとしていられなかったんだよ」
エリカの死を知っても、アキラは眉毛一つ動かさなかった。彼はドラッグ常用者を同じ人間だとは思っていない。
「その結果があの店ってわけか。しかしわからないな……なぜそんなヤツに流氓が手を貸すんだ? 弱みでも握られてるのか?」
「知るか。そんなことより、あそこは本当に流氓の息がかかった店なのか?」
顎をしゃくって梶井が入っていった店を示す。アキラは苦々しい表情を浮かべた。
「たぶんな。中国系のホステスが仕事の憂さ晴らしに集まるとすれば、やることは一つしかない」
「やること?」
「ヤオトウパーティーだ」
「ヤオトウ……それって……」
「そう、ドラッグだ。揺れる頭と書いて〈ヤオトウ〉。文字通り錠剤を服用して頭を揺らすだけで、幻覚系の作用が得られる。エクスタシーに代表されるMDMAの一種だが、日本にはまだこれを取り締まる法律がない。しかし揺頭が中国人たちの鬱積を吸収して緩衝剤の役割を果たしてるのも事実だ。もちろん流氓にとっては重要な資金源でもある」
揺頭の名前は耳にしたことがある。しかしそこへ梶井が絡んでくるのはどういうわけだ。
「揺頭が夢丸に代わってる可能性は──」
「もちろん充分にある。揺頭はかなり知られちまったからな。多少値は張るが、まだ目を付けられてない夢丸のほうが、彼らには扱いやすいはずだ」
エリカと大倉、そして梶井を結びつけるもの──楊さんの店。流氓。夢丸。
ハッとした。おれはとんでもない勘違いをしていたのではないか。
路地の向こうに視線を戻し、辺りの様子を窺う。相変わらず人の気配はない。おれはビルの隙間から躯を捻り出した。
「おい、どうするつもりだ」
「このままじゃ埒《らち》が明かない。近くまで行って様子を見てくる」
「やめろって。見つかったらどうするんだ」
「なんとかなるさ。これでも言い逃れは得意なほうなんだ。さんざん修羅場をくぐり抜けてきたから」
アキラは呆れ気味に苦笑した。
「じゃあ勝手にしな。念のため言っておくが、日本語は使わないほうがいい。日本人だとバレた時点で、アウトだ」
「わかった。ニーハオとシェイシェイだけで、なんとか切り抜けてくる」
アキラは大仰に嘆息すると、やれやれといった表情で外に出てきた。一緒に来てくれるつもりらしい。意外といいヤツじゃないか。
「どうなっても知らねえからな」
「駆けっこは得意なほうか?」
「クスリ漬けの連中には負けないさ。さあ、さっさと終わらせて飲みに行こう」
周囲に誰もいないことをあらためて確認し、濡れたアスファルトをひたひたと駆け抜ける。エントランスに辿り着くまで、十秒とかからなかった。
ぽっかりと口を開けた地下への階段。常夜灯の弱々しい光が、辛うじて足下を照らしている。音楽も話し声も聞こえないが、ヤツらの存在を示す独特の気配が、下のほうからはっきりと伝わってきた。
アキラに目配せし、ゆっくりと階段を下りる。突き当たりは踊り場。しかしそこまで行く必要はなかった。手すりから身を乗り出せば、ある程度は様子がわかるはずだ。
足音を忍ばせて三段下りた。手すりに身を乗り出し、慎重に下を覗き込む。
角度が悪い。黒ずんだフロアが見えるだけだ。
さらに二段下り、再度覗き込む。
見えた。重厚な木製のドア。下から三分の一ほどが視界に入っている。そして──二本の足。
慌てて頭を引っ込めた。全身から冷や汗が噴き出す。息を殺して意識を耳に集中した。気付かれた様子はない。
おれのような人間を追い返したり、万一の場合に少しでも時間を稼ぐための門番。アキラの読みは正しかったようだ。辺りには背徳と虚妄の匂いが充満している。
気を取り直し、もう一度階下を覗き込んだ。心配ない。人間の目はふつう顔についている。向こうからはこちらの姿は見えないはずだ。
ドアと足。さっきとまったく同じ位置にあった。椅子か何かに座っているのだろう。
考えを巡らせた。選択肢は二つ。このまますごすごと帰るか、なんとかして中に潜り込むか──。悩むまでもない。この機会を逃したら、次のチャンスは一週間後だ。中に大倉がいるかもしれないのに、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。
問題はどうやって中に入るかだ。堂々と正面突破を図るか、アキラを説得して一芝居打つか、あるいはまったく別のルートから侵入を試みるか。
ヒントになりそうなものはないかと、慎重に視線を巡らす。ドアの手前一メートルほどの位置に、スタンド式の小さな看板が置かれていた。何気なくその文字を読む。
──本日貸切 BLACK PEARL
血の気が引いた。動揺が三半規管を狂わせる。しまった、と思ったときには、足がたたらを踏んでいた。
階段は思いのほか音が響く。今の音を聞いて異変を察知できないヤツには、見張りをやる資格がない。
案の定下から誰何《すいか》の声が上がった。むろん中国語だが、それくらいはニュアンスでわかる。
アキラに「行こう」と鋭く告げ、おれは階段を駆け上がった。誤魔化そうとか戦おうという意思は、完全に消え失せていた。
ブラックパール──死の呪文。冗談じゃない。こんなところで殺されてたまるか。
階段を上ってくる足音。交錯する怒号。追っ手は一人じゃなかった。死角に別の見張りがいたのだろう。
外に出た。さっきより雨脚が強くなっている。迷わず右に向かった。根拠はない。自然に足がそっちに向いただけだ。
アキラの息遣いがすぐ後ろに聞こえる。言いたいことは山ほどあるはずだが、口を開く気配はなかった。とにかく今は逃げるのが先決だ。
五十メートルほど走ったところで、速度を落として後ろを振り向いた。特別ヤバいことをしたわけじゃない。死に物狂いで追いかけてくるとは思えなかった。しかもこの天気だ。
しかし二人の追っ手は諦めていなかった。死に物狂いというほどではないが、雨に濡れるのも厭わず、執拗に追尾してくる。慌てて逃げ出したのがマズかったのだろう。もう少し冷静に対処していれば、うまく切り抜けられたかもしれない。
いずれにしろ、後の祭りだ。雑念を振り払い、逃げることに意識を集中する。
前方から別の人影が躍り出たのは、その直後だった。おれとの距離はわずかに五メートル。ヤツらの仲間なら万事休すだ。どこにも逃げ場がない。思わず足が止まる。
人影がさらに一歩歩み出た。霞んだ街灯に浮かび上がる顔。
「え……なんで……」
知っている顔だった。しかもつい二、三時間ほど前に、顔を合わせたばかりだ。
乱れたパンチパーマ。エラの張った四角い顔。そして開襟シャツ。
火曜深夜一時の男、鈴木だ。
敵なのか、味方なのか──幾多の可能性が思い浮かぶ。しかし混乱した頭の中を整理する余裕はなかった。偶然居合わせただけだと自分に言い聞かせ、鈴木の横を突破しようと試みる。仮に鈴木が敵だとしても、二対一ならなんとかなるはずだ。
「──おい」
路地にこだまする鋭い声。鈴木がおれを呼び止めたのだ。無視して走り去ることもできたが、おれは反射的に立ち止まっていた。
無言のまま首だけ彼のほうに向けた。無数の水滴をまとって輝く頭髪。感情を映さぬガラス玉のような瞳。
彼はこちらに近付いてくると、何の前触れもなくいきなり声を張り上げた。
「ばかやろう! ここへは来るなってさんざん言っただろうが!」
耳元でダンプのクラクションを鳴らされた気分だった。全身が総毛立ち、目の前が真っ白になる。
ワケがわからないまま立ち竦んでいると、鈴木はさらに距離を縮めて言葉を続けた。ただし──今度は囁くような声で。
「余計なことに首を突っ込むんじゃない。殴るぞ」
「え──」
意味を問いただす間もなく、鈴木の右腕がしなった。左頬に強烈な衝撃。不意打ちを食らったおれは、そのまま後方に倒れ込んだ。霞んだ視界に星が舞う。
くそっ、なんなんだ、いったい。鈴木は何を考えてる?
おれの頭を占めていたのは、殴られたことに対する怒りではなく、鈴木への疑念と不安だった。おれたちはいったいどうなるのか。
「このっ……」
アキラが気色ばむ。それを遮るかのように、鈴木が再び怒鳴り声を上げた。
「いい加減にしろっ! このクズがっ!」
鈴木が必要以上に声を張り上げる理由──理解した。
彼は意味もなく怒号を発しているのではなく、ヤツらに聞かせるために声を荒らげているのだ。もちろんいきなり殴りつけたのも、ヤツらの目を欺くため。
ヤツら──〈ブラックパール〉の見張りが、鈴木の背後に歩み寄る。
鈴木はくるっと振り向いて、軽く会釈した。
「すまんね。こいつら、何かやらかしたの?」
「知り合いですか?」
かたことの日本語。探るような目で鈴木を見つめている。
「義理の弟なんだ。|でき《ヽヽ》が悪くて手を焼いてるがね」
アキラが目を見張る。彼もようやく鈴木の意図を察したらしい。
「店の入り口でこそこそやってました。話、訊こう思ったら急に逃げ出した。怪しかったから追いかけたです」
「おれに会いに来たんだ。誤解を招くようなことをしてすまなかった。おれに免じて許してやってくれないか」
見張りがおれとアキラを交互に見つめる。おれは目を逸らしてふてくされた顔を作った。できの悪い義弟は礼儀を知らない。
やがて彼は、無表情のまま鈴木に視線を戻した。
「わかりました。これから気を付ける、お願いします」
鈴木は「すまねえな」と苦笑しながら、ポケットに手を伸ばして財布を取り出した。無造作に紙幣を何枚か掴み出す。ヤツらに渡すのかと思いきや、彼はその金をおれの胸元に突きつけた。
「おらあっ! いつまで寝ころんでるつもりだ! これ持ってさっさと消えろ、このボケ!」
できの悪い義弟は金の無心に来たことになっているらしい。そういうことなら遠慮は無用だ。おれは突き出された金を素早く奪い取り、急いで立ち上がった。
「──行こう」
顎をしゃくってアキラを促し、脱兎のごとく駆け出す。とにかく一刻も早くこの状況から逃れたかった。難しいことはあとからゆっくり考えればいい。
しばらく走り、曲がり角を折れるところで後ろを振り返った。鈴木と二人の追っ手は、適度な距離を保ちながら反対方向へ歩いている。剣呑な雰囲気はない。
「ワケわかんねえ。何なんだよ、あいつ」
路地を折れて彼らの視界から外れると、アキラが焦れたように説明を求めてきた。おれの失態をなじるのも忘れている。
「〈クラレンス〉の常連だ。鈴木と名乗っているが、本名かどうかはわからん。素性も謎だ」
「なんでおれたちを助けてくれたんだ? あんな芝居までうって」
「さあな。少なくとも彼には、おれを助ける義理なんてこれっぽっちもなかった」
「あいつらと顔見知りってことは、あの店にもちょくちょく顔を出してるってことだろ? ヤク中なのか」
おれは首を捻った。それ以外説明のつけようがないが、鈴木がトリップしている姿はあまり想像できない。
「……しかし、客として店に出入りしてるのなら、おれたちを助けたりはしないだろう。こそこそ嗅ぎ回られるのは、あまり気分のいいもんじゃない」
アキラは煙草を取り出して火をつけた。うまそうに目を細め、紫煙の行方を見つめる。
「それにしても、すごい迫力だったな。その筋の人間なんじゃないのか?」
おれは首を横に振った。
「まさか。三島組も五成会も、中国系のマフィアとは敵対関係にあるんだぜ。あり得ねえよ」
そういえば、三島組と五成会は揺頭や夢丸の台頭をどう受け止めているのだろう。あまり表立った動きはないようだが、それがかえって不気味だった。近いうちに一度、安部にそれとなく探りを入れてみようか。
おれがそんなことを考えていると、アキラは我が意を得たとばかりに頷いた。
「だからだよ。あいつは何か企んでるんだ。自分の素性を隠してヤツらに接近し、情報を集めてるのかもしれない」
なるほど。そういう考え方もある。しかしどうもしっくりこない。
「仮にそうだとしても、おれたちを助けた理由にはならない。何か企んでるならなおさらだ。目障りなハエは早いうちに追っ払うに限る」
「確かにな……まあ、どうでもいいけど」
アキラはあくびを漏らした。平然としているように見えるが、内心ではかなりビビっていたのだろう。
鈴木に殴られた左の頬。張り詰めていたものが緩んだせいか、今頃になって痛み始めた。痛みというよりは麻痺に近い。
おれは頬をさすりながら、もう一つの可能性を口にした。
「……刑事とは考えられないか?」
「刑事?」アキラは呆れ顔で吸い殻を揉み消した。「潜入捜査ってか? それこそあり得ねえよ。キャバクラ好きの潜入捜査員がまかり通るのは、二時間ドラマの中だけだ」
あっさり否定されてしまった。もちろんおれも、本気でそんなことを考えていたわけではない。頭の片隅に鈴木の正体はやくざか刑事に違いない≠ニいう、根拠のない思い込みがあっただけだ。
〈クラレンス〉の前で鈴木と村瀬が顔を合わせたとき、彼らはお互いにこれといった反応を見せなかった。所轄が違っていても、長年勤めていれば少しは面識ができるはずだ。やはり鈴木が刑事である可能性は、限りなくゼロに近い。
鈴木はいったい何者なのか。堅気でないことは確かだが、そこから先の推理が進まない。
「考えるだけ無駄だ。イヤなことは忘れてさっさと飲みに行こうぜ。臨時収入もあったことだし」
アキラがおれの手元を指さして、狡猾な笑みを浮かべる。彼の視線の先にあるのは、鈴木に渡された数枚の紙幣だった。
窓から差し込んでくる陽光が、左の頬をジリジリと焦がす。二日酔いの身には少々応える日差しだ。
タカシマヤタイムズスクエアの十二階。壁を取り払ったオープンスタイルのカフェ。時計の針は四時二十分を指している。
生あくびを噛み殺し、冷めたコーヒーを飲み下す。多少は覚悟していたが、さすがに苛立ってきた。待たされるのは嫌いだ。いざとなれば携帯があるからと、確信犯的に遅れてくるヤツはもっと嫌いだ。
冷め切ったコーヒー。再び時計を見る。四時二十三分。
どうしても会いたいってわけじゃない。四時半になっても来なかったら店を出よう──そう決意したとき、後ろから声をかけられた。
「──ごめんね、遅くなっちゃって」
振り返ると、モスグリーンのスーツに身を包んだ女が、顔の前で両手を合わせていた。
枝毛の目立つライトブラウンのロングヘア。毒々しい光沢を放つ真っ赤なルージュ。血管を浮かび上がらせた弱々しい腕。痩せこけた頬と干からびた肌。
クルミの面影を見出すまでに、数秒の時間を要した。街ですれ違っただけなら、気付かなかったかもしれない。
「よお……久しぶりだな」
さんざん嫌味を言ってやろうと思っていたのに、最初に口をついて出たのは、何の捻りもない挨拶の言葉だった。三ヶ月もあれば女はいくらでも変われるが、それにしてもあまりの変わり様だ。
クルミはぎこちない動きで椅子に座ると、通りかかったウエイトレスにアイスティーを注文した。こういう店に来ると、クルミは決まってアイスティーをオーダーしたものだ。外見は変わっても嗜好《しこう》は変わっていないらしい。
「久しぶりね。どう? その後」
「どうって……別に何も変わっちゃいないよ。あの頃のまんまだ」
「彼女はできた?」
クルミは屈託のない表情で訊く。こういう話題を何気なく持ち出せるのは、おれとの関係を過去のものとして割り切っているからだろう。おれは心の奥に僅かな痛みを感じながら、含みのない笑顔を浮かべた。
「いや、ずっとフリーだ。おまえみたいな物好きにはなかなか巡り会えない」
「ホントに相変わらずね。嘘が下手だわ」
「おまえのほうはどうなんだ? いるのか」
「ご想像にお任せするわ」彼女は煙草に火をつけて煙幕を張った。「そんなことより、お店のほうはどうなの? 何か変わったことあった?」
おれは返答に窮した。エリカのことを話せば、その話題でかなりの時間が取られるのは目に見えている。その前に確かめておかなければならないことがあった。
「……近況報告にかこつけて本題を先延ばしにするの、やめようぜ。おまえもこれから仕事なんだろ? あまり時間がない」
クルミは視線を逸らした。運ばれてきたアイスティーにストローを突き刺す。
「なんのことだっけ?」
惚ける彼女を無視して核心を突く。
「なんであんなメールを寄越したんだ? おれのクスリ嫌いを忘れたわけじゃないだろ」
クルミは目を逸らしたまま紫煙を吹き飛ばし、煙草を揉み消した。
「別に深い意味なんかない。トリップしてたときの戯言《たわごと》をマジに受け取らないでよ。携帯で遊んでたらタクトのアドレスが出てきて、そんでちょっと懐かしくなっただけ」
「それにしちゃあ、いやに熱心に誘ってたじゃないか。一緒にやろうとか、タクトもきっとハマるとか。あれ、本気だったんだろ?」
クルミは鬱陶しそうに髪を掻き上げた。
「そのときはね。でも、醒めたらなんでこんなメール送ったんだろうって、いっぱい後悔しちゃった。こんなの送ったってタクトを怒らせるだけじゃん、て」
クルミの目はガラス玉のように冷たい光を放っている。嘘かどうかを見破ることはできなかった。
「いつからやってんだ? クスリ」
「二ヶ月くらい前から。でも、そんなにしょっちゅうやってるわけじゃないよ。クサクサしたときだけ」
そんなはずはない。痩せ細った躯と張りを失った肌が、常用者であることを如実に物語っていた。
「きっかけは? 自分から手ぇ出したのか」
「違うよ。騙されたの。高校んときの友だちに。ビタミン剤だって言われて飲んだのが、ドラッグだったってわけ。それできっぱりやめればよかったんだけど、合法ドラッグだし、中毒にもならないって言われたから……」
錠剤。合法ドラッグ。エリカの影がダブる。
「……夢丸か?」
クルミは心持ち目を見開いた。
「ええっ、タクト、夢丸知ってんの? 意外だなぁ。まさかタクトが知ってるとは思わなかった。そんなに有名?」
「たまたま知ってただけだ。で、最初からずっと夢丸なのか?」
「ううん。最初は揺頭。揺頭は知ってる?」無言で頷き、続きを促す。「何回か揺頭やってるうちに、他のも試してみたくなっちゃって、マジックマッシュルームとかスマートドラッグとかもやるようになったの。夢丸は最近始めたばっかり。タクトに変なメール送ったときが最初かな」
──こんなの初めて。すごい。ちょーいい感じ。
〈たま〉の名前で届いた最初のメール。あれが初体験の感想だったというわけか。
「どこから手に入れるんだ? 夢丸は」
クルミの表情が強張る。
「それは言えないよ。マジで一緒にトリップしてくれたら、教えてあげてもいいけど」
カマをかけてみることにした。
「MMPにも行ったりするの?」
表情を曇らせるクルミ。動揺を隠すように煙草を取り出し、再び火をつけた。
「……なんでそんなことまで知ってんの?」
「〈クラレンス〉の梶井さん」
「梶井さんって、厨房の梶井さん? あの人がどうかしたの?」
「ときどき行くらしいんだ。MMPに」
「へえぇ、そうなの。知らなかった。確かにいかにもって感じだけど」
本当に知らなかったのだろうか。表情から読み取ることはできなかった。
さらにカマをかける。
「大倉っていただろ? 店の連中はクラさんって呼んでた」
「ああ、エリカちゃんの客ね。まさか、あの人もそうなの?」
「らしいな。よく知らないけど」
「ふーん。意外ね。なんかそういう世界とは無縁な人だと思ってた」
クルミの反応は素っ気なく、期待したような反応ではなかった。しかし村瀬が言い残した「MMP」という言葉の意味については、おれの推理が的を射ていたらしい。
ヒントになったのは、昨夜アキラの口から出た「揺頭パーティー」という言葉だ。それを「夢丸パーティー」に置き換えて「MP」を導き出すのに、さほど時間はかからなかった。もう一つのMはよくわからないが、大した意味があるとは思えない。「夢丸・ミッドナイト・パーティー」。そんなところだろう。
「ところで……アキラ、憶えてるか?」
話題が変わったと思ったのか、クルミの表情がパッと明るくなった。
「もちろん。あの筋金入りのフリーターでしょ? また変な仕事始めたの?」
「救いを求めてるんじゃないかって言ってた」
「え? 何の話?」
「メール見せたんだよ。二回目に来たヤツを。悪く思うなよ。誰からのメールだかわかんなくて、気味が悪かったんだ。そしたらアキラのヤツ、『そいつは、おまえに救いを求めてるのかもしれない』なんて言い出した。ああ見えてあいつは結構鋭いところがある。だからひょっとして、と思ったんだが……」
クルミはきょとんとした表情を浮かべた。意味がよくわからなかったらしい。
「救いを求めるって……私が? タクトに? わからないわ。いったい何のこと?」
虚勢を張っているわけでも、演技をしているわけでもなさそうだった。さっきから薄々そんな気はしていた。クルミはドラッグをやることに対して、恐怖心や罪悪感といったものはいっさい感じていない。
救いが必要なのは、おれのほうだった。
「やめるつもりはないのか?」
クルミは煙草を揉み消して、小さくかぶりを振った。
「たぶんね。こんな生活してるうちは、やめられないと思う。でも、そんなに悪いもんじゃないよ。エスとかクラックだとヤバいけど、合法ドラッグなら躯にも影響ないし、中毒にもならない。タクトも一度やってみなよ。なんでこんなに楽しいことを我慢してたんだって、きっと後悔するから」
眩暈がした。クルミは完全に一線を越えてしまっている。生きるに値しないクズ──おれやアキラが最も忌み嫌う種類の人間に成り下がっていた。
クルミの胸元に目をやる。矯正下着をつければ演出できた胸の谷間が、今は痕跡すら見つからない。一方で痛々しいほどに抉《えぐ》れた鎖骨の窪みが、存在感を強くしていた。
躯への影響がない? 本気でそう思ってるのだろうか。付き合っていた頃の写真を持ってくればよかった。比べてみれば、今の自分がいかに不健康な躯をしているかわかるはずだ。
しかしおれは結局何も言わなかった。クルミが本気でそう信じているのであれば、未経験者の言葉など聞く耳を持たないだろう。
それにしてもわからない。クルミはなぜあんなメールを寄越したのか。会おうと誘ったのはおれのほうだが、そう仕向けたのは彼女のほうだ。ただ単に昔の恋人に会ってみたくなっただけなのか。それにしてはおれに未練があるわけでもなさそうだった。
押し黙ったまま考えこんでいると、クルミは焦れたように溜息を漏らした。
「……まあいいや。別に無理強いするつもりはないし。そんなことよりさあ、話題変えない? もっと楽しい話にしようよ。せっかく久しぶりに会ったんだから」
勘繰りすぎたのかもしれない。誰にだって理由もなく行動を起こしてしまうことはある。何もかも理屈で解決できると思ったら大間違いだ。
おれは肩の力を抜いた。もう話してもいいだろう。
「話題を変えてもいいけど、あまり楽しい話じゃないぞ」
「いいよ、何でも。なんかあったの?」
「エリカが死んだ」
「ええっ? エリカが? どうして」
「殺されたんだ」
「うそ……どうして」
クルミは絶句し、口許を手で覆った。
「詳しいことは不明だ。犯人もわかってない」
「なんで……なんで殺されたの?」
「なんでって……犯人が特定できてないんだから、動機もわからないよ。恋愛の縺《もつ》れかもしれないし、口封じかもしれない。強盗殺人の可能性だってある」
「タクトはどう思ってるの? 心当たりはあるんじゃない?」
僅かに逡巡した。胸の片隅にぽっかりと浮かんだ違和感。旧知の仲とはいえ、クスリに溺れた人間は信用できない。無防備に何もかも話してしまうのは危険だ。
「まあ、ないことはないが……個人的にそう感じてるだけで、根拠も何もないんだ」
「それでもいいわ。誰にも言わないから、こっそり教えてくれない?」
迷うような振りをして、躊躇《ためら》いがちに大倉の名を挙げた。クルミが眉を顰める。
「なんで大倉さんなの? あんなにエリカのこと贔屓《ひいき》にしてたのに」
「それがいけなかったんだよ。ヤツは日に日にエリカへの想いを募らせ、最後はストーカーになっちまったんだ。客なら多少の我慢はするだろうが、気味の悪いストーカーにまで愛嬌を振りまくほど、エリカはお人好しじゃなかった。想いが伝わらないことに腹を立てた大倉は、次第にエリカへの憎悪を募らせていったんだろうな」
「ふーん、そうなんだ。かなり具体的じゃない」クルミは得心がいったように大きく頷く。「警察は知ってるの? そのこと」
「知ってるよ。おれが話したから。もっとも、大倉が消息を絶ったせいで、捜査は滞ってるみたいだけど」
「消息を絶ったって、逃げたってこと?」
「そう考えるのが一番自然だな」
「じゃあ時間の問題じゃない。逃げた時点で、クラさんは自分が犯人だってことを認めたようなものなんだから」
「その通りだ。犯人はあいつしか考えられない」
──でも、そう思ってたのは昨日の夜までだ。
心の中でそう付け加える。これまで断片的に浮かんでいたいくつもの疑念が、いまになってようやく形を結んだ。
エリカと大倉を結ぶ糸は一本きりじゃない。夢丸、梶井、流氓、〈ブラックパール〉……いくつもの要因が複雑に絡み合っている。
当初の推測通り、おれの制裁が引き金となって、大倉がエリカを殺《あや》めた可能性は否定できない。しかしこの事件はそんな単純なものではないような気がした。もちろん大倉は何らかの形で関わってはいるのだろうが、事件の本質はもっと奥深いところにある。大倉のストーカー行為も、行為そのものは紛れもない事実だが、その理由がエリカの言葉通りだったとは限らない。エリカの殺害が報復や怨恨といった感情的な動機によるものではなく、さまざまな思惑が絡み合った末の、打算的な動機によるものだとしたら──。
「まさか、エリカも夢丸やってたなんて言わないでしょうね」
クルミの言葉が思索を断ち切る。鋭いところを突かれたが、顔には出さなかった。
「いや、特にそういう噂は聞いてないけど……なんでそう思うの?」
「クラさんも夢丸やってたんでしょ? だからなんとなくそんな気がしただけ」クルミは小さな口を尖らせた。「……また話が変な方向にいっちゃったわね。ねえ、他の人はどうなの? 久美とか、樹利亜とか、亜樹とか。あと安部くんも」
「別に。あいつらも相変わらずだよ」
気怠さを感じ始めていたが、クルミの期待に応えないわけにはいかなかった。店の連中の近況を報告し、その話題でひとしきり盛り上がる。
気付いたときには五時半を回っていた。二杯目のコーヒーは空になり、灰皿には短くなった煙草が堆《うずたか》く積まれている。
わずかな沈黙が下りた頃合いを見計らって、おれのほうからデートの終了を切り出した。クルミは残念そうな素振りも見せず、平然とした面持ちで同意する。
「そういえば、おまえのことを全然聞いてなかったな。今どこで働いてんだ? 池袋か」
「そう。〈エル〉の池袋店よ」
全国展開している大型店だ。新宿にも系列店があるが、そこの在籍者は百名にも及ぶ。
「なんで〈たま〉なんだ?」
「私もよくわかんないの。店長が勝手に決めちゃったから。私は結構気に入ってるんだけどね」クルミは自嘲気味に微笑んだ。「今度遊びに来てよ。サービスするから」
エレベーターで一階まで下り、タイムズスクエアの前で別れた。貧弱なクルミの背中を見送り、空いたベンチに腰を下ろす。
新たな疑念がおれを苛《さいな》んでいた。
クルミがおれに接触してきた理由。一つだけ考えられることがあった。
おれが何をどこまで知っているかを確かめるため。あるいは、おれの持っている情報そのもの──。
考えすぎだろうか。しかしそうでも考えなければ、クルミがあんなメールを寄越してきた理由が説明できない。
ふと思い立ち、公衆電話に歩み寄った。104をプッシュし、〈エル〉池袋店の電話番号を聞き出す。いったん電話を切り、そのまま教えられた番号をコールした。
「──はい、〈エル〉池袋でございます」
男の声。店長かマネージャーあたりだろう。前置きもせず切り出した。
「今日たまちゃんは出てきますか?」
「はい? すいません、もう一度おっしゃっていただけますか」
「たまちゃん、です。た、ま」
一瞬の沈黙の後、男は気の毒そうな口調でこう答えた。
「当店には〈たま〉という人間はおりませんが……店をお間違えじゃありませんか?」
「辞めたんですか?」
「いえ、少なくとも当店では、そういう名前の女性が在籍していたことはありません。失礼ですが、名前を聞き間違えたのではありませんか?」
それだけわかれば充分だった。適当に誤魔化して電話を切る。
腹立たしさはなかった。むしろ自分の直観が当たっていたことに、満足感のようなものさえ覚えていた。
それにしても──と訝る。
クルミ、エリカ、そして花梨。
最近は男を騙すのが流行りなのだろうか。
12
翌日も花梨は姿を見せなかった。当欠ではなく、無断欠勤だ。当然のことながら、無断欠勤に科せられるペナルティは、当欠よりも遥かに厳しいものとなっている。
昨日の夜電話で話したときは、休むなんてこと全然言ってなかった。心配になって何度も彼女の携帯を呼び出したが、いっこうにつながらない。
意外にも花梨の無断欠勤を一番嘆いていたのは、マネージャーの梅島だった。
「今どき珍しく、真面目で責任感の強いコだったのになあ……」
同感だった。この店での経験は浅いが、彼女は水商売の素人じゃない。無断欠勤がどれだけ店や同僚たちに迷惑をかけるか、充分わかっているはずだ。
それを承知のうえで無断欠勤ができるほど、花梨は図太い神経の持ち主ではない。やはり何らかのトラブルに巻き込まれたと考えるべきだろう。
花梨の無断欠勤は翌日も続いた。梅島が開店前にキャストたちを招集し、花梨の無断欠勤について心当たりはないかと問いかけたが、誰からも答えはなかった。
開店して一時間が経過した頃、梅島が安部を手招きした。連れだって奥へと消えていく。店長のところへ行ったのだろう。
五分後、フロアに戻ってきた安部は、おれのほうにまっすぐ歩み寄ってきた。
「なんか悪さでもしたのか?」
「ちげーよ。花梨ちゃんのことだ」
「花梨ちゃん? なんかわかったのか?」
思わず安部に詰め寄る。
「さすがに放っておくのはマズいと思ったんだろうな。様子を見に行ってくれとさ」
キャストが突然いなくなってしまうことは、決して珍しいことではない。駆け落ち、引き抜き、不意に訪れる自己嫌悪……。中には神隠しにでもあったように、忽然と姿を消してしまうものもいる。
むしろ安部への指示は、かなり異例の対応といえた。それだけ花梨は信用されているのだろう。
「これから出かけるのか?」
「いや、タクトを推薦しといた。おれよりもタクトのほうが彼女と親しいからって」
「え? なんだよそれ」
「麗子ママと梅島が待ってる。早く独房≠ノ行ったほうがいい」
安部が背中を押す。あまり要領を得なかったが、とりあえず店長室に向かうしかなかった。
ドアを開けると、梅島が無言で顎をしゃくり、中へ入れと促した。座っていいとは言われなかったが、先日と同じように空のビールケースを引っ張り出して、勝手に腰掛けさせてもらう。一晩中立ちっぱなしなだけに、たとえ三分でも座れる時間は貴重だ。
「安部に聞いたか?」
「まあ、ほんのさわりだけ。花梨ちゃんのことだって言ってましたけど」
「そうだ。彼女が些細な理由で二日も無断欠勤するはずがない。何かあったと考えるべきだ。とりあえず家の様子を見に行ってもらおうと思うんだが、安部はタクトのほうが適任だと言って引き受けてくれなかった。おまえ、彼女とも親しいのか?」
彼女|とも《ヽヽ》、という言い回しにはカチンときたが、ぐっと堪《こら》えて作り笑いを浮かべた。
「それほど親しいわけじゃありませんが、安部よりは話す機会が多かったと思います」
「悪いけど、行ってきてくれない? ちょっと心配なの。エリカのこともあったから」
麗子ママが眉で八の字を作る。断る理由が思い浮かばなかった。いや、それ以上に、おれ自身がそれを引き受けたがっていた。
「わかりました。えっと……店が終わってからですか?」
麗子ママが腕時計を眺める。
「早いほうがいいわ。彼女の家四谷だから、一時間もあれば戻ってこられるでしょ?」
「そうですね。この時間なら二人くらい抜けてもそんなに影響ないし」
思わず聞き返した。
「二人? やっぱ安部も一緒なんですか?」
「おまえと安部を一緒に行かせたら、ホールやるヤツがいなくなっちまうだろうが。久美だよ。彼女と一緒に行ってもらう」
「おれは別に一人でも構いませんけど……」
「勘違いすんな。おまえはただの付き添いだ。久美の用心棒に徹してればいい。もっとも、久美のほうは迷惑がるかもしれないけどな」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。まだエリカのことが頭の片隅に引っ掛かっているのだ。
「それじゃあ、早速行ってくれる? 久美さんと話はついてるから」
立ち上がり、ビールケースを元の位置に戻した。梅島が険しい表情で、おれの胸元に指を突きつける。
「いいか。余計なことはするなよ。何かあったら必ず連絡を入れろ。勝手なマネはするんじゃないぞ」
タクシーを拾い、久美と一緒に乗り込んだ。道筋は当然憶えていたが、彼女の部屋に行ったことを久美に知られるわけにはいかない。おれは道案内を久美に任せた。久美の住居は麹町。通り道なので、花梨と一緒に帰ったことが何度かあるのだという。
「どうしちゃったのかしらね、花梨ちゃん」
流れゆくネオンを眺めながら、久美があくびを噛み殺して呟く。本気で心配しているようには見えなかった。
「携帯は不通。メールもいっこうにレスが返ってこない。普通に考えれば、やはりトラブルに巻き込まれたと考えるべきだろうな」
「どんなトラブル?」
「それがわからないから様子を見に行くんだ」
「意外と自分の意志で消えたのかもよ。あのコ、結構思い詰めるタイプじゃなかった?」
「仮にそうだとしても、何も言わずに消えたりするかなぁ。一言『店を辞める』と電話すれば済むことだし、電話がイヤならメールって手もある。店長やマネージャーに言いづらければ、誰かに言伝《ことづて》を頼めばいいんだから」
「そりゃそうだけどさ……」
久美は小さく溜息を漏らした。様々な光に彩られた新宿通りを見つめながら、投げやりな表情で言葉を続ける。
「……なんか災難続きじゃない? 最近。梓は通り魔に襲われるし、エリカはあんなことになっちゃったし、花梨ちゃんも……。一度お祓《はら》いしてもらったほうがいいかもね」
おれは答えなかった。立て続けに降りかかる災厄。果たして偶然と言い切れるだろうか。
久美がこちらを振り向く。
「……ねえ、ここだけの話だけど、エリカに変なもの勧められなかった?」
久美にしては歯切れが悪い。
「変なモノ?」
久美は運転手をチラリと見やった。彼はナイター中継に聴き入っていて、おれたちの存在など忘れているかのようだ。久美は心持ちおれに顔を近付け、声を潜めた。
「……夢丸って聞いたことない?」
すぐには言葉が出なかった。久美の顔を見つめながら、返答の言葉を模索する。
「ええっと……なんか聞いたことあるような気がする。何なんだ、それ?」
「クスリよ。ドラッグ。合法だって言ってたけど、ホントかしらね」
「試してみたのか?」
「まさか。娘がいるのにクスリなんかやってらんないわよ」
苦笑が漏れた。確かに母親をやっていれば、呑気にトリップしている余裕などないだろう。
「あいつ、クスリやってたんだ……知らなかったな。他にもいるの? クスリやってるキャスト」
できるだけさり気なく訊いた。久美は小さくかぶりを振る。
「私もよくわかんない。でも、いても不思議じゃないと思う。特にキコや梓なんかは怪しいわね」
「梓?」
「ときどきおかしなこと言うのよ、キコも梓も。直接本人から聞いたわけじゃないけど、たぶんやってるわね、あの二人は」
安部のオキニ、梓。あいつはその事実を知っているのだろうか。
久美はおれの動揺など気にもかけず、得意げな表情で続けた。
「私が気付かないだけで、本当はもっといるのかもしれない。エリカに夢丸勧められたコ、他にも何人かいたみたいだから」
目の前を朧《おぼろ》げな発光体が横切ったような気がした。そうか、そういうことか──。
「エリカは……夢丸を売り捌《さば》いてたのか?」
「そりゃそうでしょ」久美は意外そうに眉を顰めた。「詳しいことはわからないけど、ボランティアじゃないんだから、タダで配るわけないじゃない。まあ、最初の一個くらいは試供品としてあげてたかもしんないけど」
「エリカが……売人……」
眩暈がした。クルミ、そしてエリカ。彼女たちはおれに恨みでもあるのだろうか。信念を踏みにじられた気分だった。
「確かこの辺のはずなんだけど……」
久美の呟きで我に返る。右手前方に見憶えのある建物があった。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、キョロキョロと辺りを眺め回す。
十メートルほど通り過ぎたところで、久美がようやくタクシーを止めた。
「あ、ここよ。ここでいいわ。ありがとう」
タクシーを降り、目の前の建物を見上げる。
六階建てのマンション。この前は外観を確かめる余裕などなかったが、こうして見るとモルタルのひび割れや水垢の汚れが目立ち、お世辞にも見栄えのいい住まいとは言えなかった。築二十年は下らないだろう。
「意外だな。もう少しいいとこに住んでると思ったのに」
「ウチだって似たようなもんよ。夜はほとんど仕事だし、昼は寝てるか出かけてるかのどっちかだから、ぐっすり眠れるベッドさえあれば、それでいいんじゃないの?」
「家庭持ちと一緒にすんなよ。若い女の一人暮らしなんだから、それなりに体裁ってもんが必要だろ?」
久美は肩を竦めた。
「どうでもいいじゃない、そんなこと。さ、行きましょ」
薄暗いエントランスを潜り、ズラッと並んだ郵便受けに近寄る。花梨の部屋は203号室。居住者の名前の表記がないが、これは防犯上の理由によるものだろう。チラシやダイレクトメールが溜まっているところを見ると、やはりここ数日は家に帰っていないようだ。
久美が目で行こうと促す。エレベーターには見向きもせず、階段を上り始めた。なかなか頼もしい姿だ。用心棒など必要なかったのかもしれない。
203号室の前に辿り着いた。耳を澄まして室内の気配を窺う。
やはり誰もいないようだ。久美がドアチャイムに人差し指を伸ばした。それを制してハンカチを差し出す。
「そんなにヤバいの? 私イヤよ、第一発見者になるのは」
「考えすぎだよ。心配しなくてもいい。今残ってる指紋を消したくないだけだ」
「ホント? ホントに大丈夫?」
「大丈夫だって……臭いがしないから」
久美はおれの手からハンカチを受け取ると、無言のままドアチャイムを押した。室内に響く虚しい呼び出し音が、ドア越しに辛うじて聞こえる。
さらにチャイムを三回ほど鳴らし、ノックを数回重ねたが、中から反応が返ってくることはなかった。
久美がぎこちなく微笑む。
「やっぱりいないみたいね。帰ろっか」
「そうだな……」
久美に返されたハンカチでドアの取っ手をくるむ。レバー状のそれを何気なく捻ると、何の抵抗もなくクルッと半回転した。
思わず久美と顔を見合わせる。
「どうするの?」
「どうするも何も、入ってみるしかないじゃないか。開いてるんだから」
「でも、勝手に入ったりしたら……」
「勝手に店を休むよりはマシだろ?」
久美の返事も聞かずに、ドアを引き開けた。
暗い。花梨は日のあるうちにここを出ていったのか。仮に夜だとしても、電気を消す余裕くらいはあったようだ。
「ねえ、タクト……」
遠慮と怯えが入り混じった久美の声を聞きながら、室内に足を踏み入れる。ハンカチを巻いた手で壁を探り、電灯のスイッチを入れた。
蛍光灯に照らし出される玄関。その向こうにベッドの置かれた部屋が見える。
まず最初に臭いを嗅いだ。微かな悪臭。しかし馴染みのある臭いだ。回収車に乗り遅れた生ゴミが、腐敗を始めたのだろう。
「花梨? いないのか? 上がるぞ」
呼びかけながら靴を脱ぎ、廊下を進む。返事がないのはわかっていても、無断で他人の家に上がり込む引け目が、おれに声を出させていた。
奥の部屋に入り、スイッチを押して灯りを点す。
室内の様子は、一見したところ四日前とまったく変わっていなかった。なくなっているものも、増えているものもなさそうだ。
ベッドに目をやる。花梨──いったいどこへいったのか。胸が締め付けられる。
「なんか、モデルルームみたいね」
自分の家とのギャップに驚いたのか、久美が嘆くように呟いた。確かにこの部屋には、生活感というものが欠如している。家具は木製のものが多く、巧みに温もりを演出しているのだが、全体に漂う雰囲気がどことなく他人行儀なのだ。
「ヒッ──」
声にならない悲鳴が、室内の淀んだ空気を切り裂く。振り返ると、久美が顔面を蒼白にして、テーブルの下を指さしていた。
「なに? ……あれ」
毛足の短い固めのカーペット。テーブルの下に手の平大のシミができている。比較的最近のものらしく、黒々と存在感を誇示していた。
ひざまずいてそのシミをハンカチで擦る。茶色い汚れがうっすらと乗り移った。まだ乾ききっていないようだ。
鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。かなり弱くなっているが、覚えのある香ばしい匂いが、辛うじて残っていた。
「ねえ、なんなの、それ? ひょっとして……」
「違う。コーヒーだ」
「コーヒー?」
久美が拍子抜けしように首を傾げる。
「うっかりコーヒーをこぼしたんだろう。しかし、それにしては……」
違和感があった。その正体を確かめるため、キッチンへ足を向けた。
間口一メートル強のコンパクトキッチン。使い込まれているが、掃除が行き届いていて、油はね一つない。調味料や調理用具の類も、機能的に収納されている。
しかしその場にそぐわないものが一つだけあった。ピカピカに磨き込まれたシンク。その中にぽつんと取り残された、陶器製のマグカップ──あの日花梨が、おれにインスタントコーヒーをいれてくれたヤツだ。中身は空だが、底のほうに茶色い汚れがこびりついている。
ろくに拭かれもせず、汚れたまま放置されたカーペットのシミ。水で洗い流すこともなく、シンクに置かれただけのマグカップ。
「……警察に届けたほうがいいな」
一人ごちるように呟くと、久美は怪訝そうに眉を顰めた。
「なんで? まだ事件なのかどうかもわかんないのに」
「見ての通り、花梨はかなり几帳面な性格らしい。潔癖性といってもいいくらいだ。それなのになぜ、彼女はこのマグカップを洗っていかなかったんだろう。おかしいとは思わないか?
それだけじゃない。もっと不可解なのが、カーペットについたあのシミだ。ああいうシミは、時間が経てば経つほど落ちにくくなる。それを放っておくなんて、普通の感覚じゃちょっと考えられない。たとえ仕事やデートに遅れる羽目になっても、彼女なら何らかの処置を施していたはずだ」
「確かに、言われてみれば……」
「そもそも、鍵がかかってないこと自体がおかしいんだ。賭けてもいい。花梨はいま、間違いなくヤバい状況に置かれている」
久美はおれから目を逸らし、あらためて部屋の中を見回した。まるで花梨の身に降りかかった災難の痕跡を、そこから見つけ出そうとするかのように──。
「……誰かに連れ去られたってこと?」
「そう考えるのが一番自然だろうな。そこから先のことは、考えたくもないけど」
「いったい誰が……」
一瞬|躊躇《ためら》ったが、考えを明かすことにした。久美の意見も聞いておきたい。
「梓を襲った通り魔、いたよな? あいつの仕業じゃないかと思うんだが……」
〈ギャラン〉の美幸、〈カーニバル〉の瞳、そして梓。襲われたキャストたちの体型や髪型──特に後ろ姿が、花梨と似通っていたことを説明し、通り魔の関与を示唆する。
「ふーん、知らなかった。ただ闇雲に襲ってたわけじゃないんだ。でも、花梨ちゃんは違うわよ。通り魔は関係ないわ」
自信ありげに断言する久美。おれの当惑を見て小さく微笑み、さらに言葉を続けた。
「捕まったのよ、例の通り魔。梓のところに連絡があったんだって。知らなかった?」
「捕まった? いつ?」
「昨日のお昼頃、警察から連絡があったそうよ。捕まったのは昨日の午前中か、一昨日《おととい》あたりじゃない?」
携帯で花梨と最後に話したのが火曜の深夜、問題は、通り魔がいつ逮捕されたのかということだ。火曜の夜以前であれば物理的に無理だが、昨日なら花梨を襲うチャンスは充分あったはずだ。
すぐにでも梓と連絡を取りたかったが、勤務中の彼女を呼び出すわけにはいかない。
苛立ちが募る。自分の無力さを骨身に感じつつも、何かせずにはおれない気分だった。
「そろそろ戻りましょ。あんまり遅くなると、マネージャーに嫌味言われるわよ。警察に届けるかどうかは、ママの判断に委ねるしかないわ」
久美の提案に同意し、最後にもう一度家の中を見て回った。浴室、トイレ、クロゼット、下駄箱……。渋る久美を説き伏せ、思いつく限りの場所をチェックしてもらう。
彼女の行方を暗示するものは出てこなかったが、タンスの中から預金通帳が二冊見つかった。残高は両方合わせて約百万。自分の意志で消えたのなら、こんな大事なものを忘れていくはずがない。
〈パステルハイム四谷〉を後にし、通りかかったタクシーを拾う。ふと思いついて携帯電話を取り出し、コールした。自分からかけることになるとは、夢にも思わなかった相手だ。
予想通り、先方は出かけていた。折り返し電話をくれるよう言付けを頼むと、驚いたことに五分と待たずに電話がかかってきた。最近の警察は、犯人の検挙を除けば、迅速な対応を心がけるようになったらしい。
「何か思い出したのか?」
村瀬の声は少し嗄《しわが》れていた。捜査に進展がないのか、疲労感が漂っている。
「思い出すことは思い出したんですが、なんか肝心な部分が抜けてるみたいで……ご迷惑でしたか?」
「いや、別に迷惑ってことはないが……」村瀬はおれの真意を測りかねているようだった。「これといって話せることはない。大倉の所在はまだ掴めてないし、有力な目撃情報も皆無。思いのほか苦戦を強いられてる」
「MMPのことは?」
「ほお、覚えてたか」村瀬が感嘆の声を上げる。「何か思い出したのか?」
「ええ、まあ……刑事さんがヒントをくれれば、有益な情報が提供できると思うんですけど」
村瀬は一瞬沈黙した。こちらの意図を察知したらしい。
「取引するつもりか? 誤解のないように言っておくが、我々も決して無駄な時間を過ごしてたわけじゃない。MMPの意味くらい、とっくにわかってる」
「じゃあ、店のことも?」
「なに? 何か知ってるのか?」
村瀬は声を荒らげた。やはり〈ブラックパール〉の存在までは掴んでいなかったようだ。
「もう少しで思い出せそうなんですけどねぇ……ヒントくれませんか。そしたら思い出せると思うんですよ」
「舐めやがって……」村瀬が怒りを押し殺した声で呟いた。「公務執行妨害でしょっ引いてもいいんだぞ」
「ホントに思い出せないんですよ。思い出したらいくらでも協力しますって」
受話器の向こうから盛大な溜息が漏れる。
「別に隠してるわけじゃなく、実際に進展がないんだ。夢丸のほうは流氓《リウマン》が絡んでるから、迂闊《うかつ》には手が出せないし、大倉のほうも完全に潜っちまったらしくて、痕跡を見つけることすらできない。ヒントが欲しいのはこっちのほうだよ」
「違うんです。教えてほしいのは、そっちの事件のことじゃありません。新宿で起きた連続通り魔事件、ご存じありませんか?」
「通り魔? 何の話だ」
新聞の地域版すら取り上げない小さな事件。管外の刑事が知らないのも無理はなかった。これまでの経緯を説明し、自分の要求を率直に告げる。
「……こっちの事件との関連は?」
「そんなものありませんよ。実は、店のコが一人いなくなっちゃったんです。通り魔に襲われた可能性もあるんで、犯人が逮捕された日時とか、犯行の動機なんかを調べてもらおうと思って」
「犯行の動機なんて訊くまでもない。金か女。あるいはその両方だ」
「とにかく知りたいんです。お願いします」
村瀬は黙り込んだ。おれの話をどこまで信用すべきか、頭を悩ませているのだろう。
「……その条件を呑んだら、思い出してくれるのか?」
「もちろんです。協力は惜しみませんよ」
「わかった。その言葉、信じよう。明日の朝までには確認しておく。十時に、この前の喫茶店に来てくれ」村瀬はいったん言葉を切り、小さく舌打ちした。「それにしても、こんな若造に取引を持ちかけられるとは……我々も舐められたもんだ」
「取引だなんて、人聞きの悪いこと言わないでください。忘れたんですか? ギブアンドテークですよ」
店に戻り、麗子ママと梅島に状況を報告した。麗子ママは紫煙を燻《くゆ》らせながら、困惑したように目頭を揉んだ。
「……タクトの説はともかく、鍵を開けたままにはしておけないわね。貴重品とかも残ってたんでしょ?」
「預金通帳が二冊ありました。勝手に持ち出すわけにもいかないから、そのままにしてあります。あとは……」
首を捻って頭を掻いた。それ以外の貴重品については、あったのかどうかすら憶えていない。完全に意識から外れていた。
「指輪、ネックレス、ブレスレットの類が十点ほど。数は多くないけど、結構いいもんが揃ってました。あとはバッグかな。大小取り混ぜて七点。全部ブランドものだったから、そこそこいい値段がつくと思います」
横から久美が割り込んできた。さすがに目の付けどころが違う。仕事仲間の安否を気遣いながらも、金目のものはしっかりチェックしていたらしい。
麗子ママは大きく溜息をついた。厄介ごとはもううんざりといった表情だ。
「いずれにしても放ってはおけないか……仕方ない。警察に届け出ましょう。お願いね、マネージャー」
待ち合わせの時間より五分も早く着いたというのに、村瀬はすでに窓際の席に陣取って、悠然とコーヒーを啜っていた。
「もう一人の刑事さんは?」
谷の姿が見えなかった。トイレに行ってるわけでもないらしい。
「今日は別行動だ。どこへ何しに行くのかも話してない。あまり褒められたことでもないんでな」
やはり幾ばくかの罪悪感があるのだろう。おれのようなフリーターとの取引に応じてしまったことに、忸怩《じくじ》たる思いがあるのかもしれない。
「早速話してもらおうか。何を知ってる?」
村瀬が当然のような顔をして促す。意地でも自分のほうから手の内を明かす気はないらしい。話が違うと思ったが、この期に及んで意地の張り合いをするつもりはなかった。
「〈ブラックパール〉って店、聞いたことありませんか? おれもついこの間初めて知ったんですけど……」
村瀬は首を振り、目で先を促した。
「その店、毎週火曜日の深夜に、中国人ホステスとかを集めてMMPをやってるみたいなんです。三十人くらいで」
「どこにある?」
「新宿です。場所は……」
村瀬は手帳を取り出しておれの前に置くと、白紙のページを開いてペンを差し出した。ここに地図を描けということらしい。あの夜のことを思い出しながら、大まかな道順を書き込んだ。
「被害者も通ってたのか?」
被害者──エリカのことだ。
「確証はありませんが、おそらく」
「誰に聞いた? この店のことを」
一瞬躊躇ったが、すべて打ち明けることにした。相手は流氓。もはやおれ一人の力では、どうすることもできない。
井手産業の近くで梶井を見かけたこと。火曜の深夜に梶井の後を尾けたら、〈ブラックパール〉に辿り着いたこと。店先に流氓らしき見張りが二人いて、危うく捕まりそうになったこと──。
アキラの協力と鈴木の闖入《ちんにゆう》については言及を避けたが、それ以外の事実に関しては、時系列に沿って包み隠さず打ち明けた。
「……探偵気取りか。そのうち大怪我するぞ。ま、怪我で済めば御の字だけどな」
聞こえなかったふりをして言葉を継いだ。
「おれ、勘違いしてたのかもしれません。ひょっとしたら、エリカを殺したのは──」
「余計な心配はしなくてもいい。そこから先は我々の仕事だ」
村瀬が険しい口調でおれの言葉を遮った。聞く耳を持たないといった感じだ。無理もないだろう。警察にしてみれば、おれの行為は単に目障りなだけでなく、ある意味で捜査妨害だ。はらわたが煮えくり返っていてもおかしくない。
気まずい沈黙から逃れるため、質問を繰り出した。
「夢丸は……出てきたんですか? エリカの部屋から」
村瀬は渋々といった感じで頷き、「二十錠ほど押収した」と呟いた。
二十錠。一人で使うには多すぎるが、売り捌くには少々中途半端な数だ。足りなくなればいつでも仕入れることができたということか。そもそも彼女は、どこから夢丸を仕入れていたのだろう。
その疑問を口にすると、村瀬は苦虫を噛み潰したような表情を作った。
「さっきも言った通り、捜査は暗礁に乗り上げてる。たとえ何か掴んでいたとしても、捜査の邪魔ばかりしている探偵気取りの若造に、重要な情報を漏らすつもりはない」
雲行きが怪しくなってきた。やはり通り魔のことを先に訊くべきだったかもしれない。
「他に思い出したことは? 今のうちに全部吐き出しといたほうがいいぞ。また今回みたいなことがあったら、次は容赦なくしょっ引くからな」
冗談には聞こえなかった。彼ならきっとやるだろう。コケにされたまま黙っているようなタイプじゃない。
おれは「それだけです」と応えてコーヒーを啜った。考えてることはいくつかあるが、これといった根拠があるわけじゃない。彼が求めているのは事実に基づく情報だけだ。
「……今度はそっちの番だ。とっとと済ませてくれ」
村瀬が攻守交代を告げた。態度にこそ出さないが、おれの情報は取引に応じるだけの価値があったらしい。
テーブルに肘をつき、身を乗り出す。
「……じゃあまず、犯人の素性から」
村瀬は手帳を繰った。
「──芝原勇樹。二十一歳。都内の専門学校に通ってる。犯罪歴、補導歴なし。どちらかといえば、真面目でおとなしいタイプだ」
まるで聞き憶えのない名前だった。やはりただの変質者に過ぎないのだろうか。
「逮捕されたときの状況を」
「月曜の深夜──正しくは火曜日の午前一時四十分頃、西武新宿駅近くの路地で、勤め帰りの若い女性が襲われた。たまたま付近を通りかかった男性が犯人を取り押さえ、警察に連絡。あえなく逮捕となった。今まで捕まらなかったのが不思議なくらい、呆気ない幕切れだったらしい」
月曜の夜。二時前なら、花梨はまだ店にいたはずだ。
これで花梨の失踪に通り魔が関与している可能性は完全になくなった。しかし、だとしたらいったい、誰が花梨を連れ去ったのだろう。安堵と不安が同時に押し寄せてくる。やがて不安が安堵を飲み込み、胸の裡は重苦しい感情に満たされた。動悸が激しくなり、視界に靄《もや》がかかる。それを気取られないように、質問を続けた。
「……犯行を認めてるんですか? ほかの事件についても」
「そのときの事件も含めて計五件、すべて自分がやったと自供している」
「動機は?」
村瀬は勿体ぶるようにコーヒーを啜ると、吐き捨てるように呟いた。
「……精神鑑定を受けさせるつもりらしい」
「は? なんですって?」
「精神鑑定だよ。動機についてはいちおう筋が通ってるが、供述内容はかなり眉唾もので、デタラメとしか思えない。しかし本人はいたって真剣なんだそうだ。たぶん、現実と空想の区別がつかなくなってるんだろうな。まあ、よくある話だが」
「教えてください。犯行の目的を」
村瀬は顔を顰め、面倒臭そうに口を開いた。
「犯行の目的は人捜し──そう言ってるらしい。高校ンときの同級生を捜してたと供述してる。それなら顔を見れば済むじゃないかと言いたいところだが、相手はホステスになってだいぶ印象が変わってるはずだから、顔を見ただけじゃ見分けがつかないかもしれない、背中に特徴的な痣があるから、それで確認したほうが手っ取り早い──そう判断して、これはと思う女を片っ端から襲ったようなんだ。確かに調べてみたところ、通り魔に襲われた女性たちは皆、背中を見られただけで解放されている。その点に関しては信じてやってもいいみたいだな」
驚いた。アキラの推理通りじゃないか。
「高校時代の同級生……名前は?」
「そこまでは聞いてない。そんなこと訊いてどうするんだ?」
おれはその質問を無視した。
「背中に痣があるのを知ってるくらいだから、かなり親密だったんでしょう? もっと他にやり方があっただろうに」
「ところが、そういうわけでもないらしいんだ」村瀬は嘲笑を浮かべた。「背中に痣があるのを知ったのは、水着姿を見たからだと言ってる。どこまでホントか知らんが、親密というにはほど遠い関係だったらしい」
「……じゃあ、そいつが──芝原が、そこまでしてその同級生を捜してた理由は?」
「そこなんだが……芝原の言葉を借りれば、『自分の運命を変えるため』なんだとよ」
背筋に震えが走った。やはり──花梨だ。
平静を装って質問を続ける。
「どういう意味です?」
村瀬はかぶりを振り、うんざりした表情で煙草をくわえた。
「その同級生には、予知能力みたいなものが備わっていて、場合によってはその力が、他人の運命を変えることすらある……どういう意味かよくわからんが、とにかくそう言ってるらしい。
芝原は精神的にかなり追い詰められてたようだ。何が原因でそうなったのか知らんが、要するに彼は救い──というか、助言を求めていたんだろう。神様のお告げでもあったんじゃないのか」
その気持ちはわからないでもなかった。おれ自身も花梨に対しては、まだ畏怖の念が残っている。
それにしても釈然としない。数多《あまた》いる水商売の女の中から、背中の痣だけを頼りに知人を見つけ出す──まるで雲を掴むような話だ。もう少し現実味のある話なら、危険を冒すだけの価値はあったかもしれない。しかしいくら切羽詰まっていたとはいえ、あまりにも無謀すぎる。
「高校時代の同級生なら、実家の電話番号とかも知ってるはずですよね。なんで親に訊かなかったんだろ。同窓会の幹事だって偽れば、携帯の番号くらい簡単に教えてくれるのに」
「親はいないんだ。中学二年のときに、事故で亡くなったらしい。その後叔父夫婦が面倒を見てたんだが、高校を卒業してからは一人暮らしを始め、今では完全に没交渉。新宿でホステスやってるって話は、別の同級生から聞いたんだそうだ。もちろん教えられた店にも行ってみたが、彼女はすでに辞めていた。ヤツにしてみれば、通り魔は最後の手段だったんだよ」
傍から見れば無思慮な行動だが、本人の中では気持ちの整理がついていたらしい。そんなことよりもおれは、花梨の過去のほうに興味を惹かれていた。
「事故で亡くなったって……両親同時にですか?」
「そうだ。芝原の話によると、ダンプと正面衝突したらしい」
中学二年の少女を容赦なく襲った過酷な運命。花梨の胸の奥に潜むものが、垣間見えたような気がした。
花梨はなぜ、両親を救うことができなかったのか──。一緒に暮らしていれば、ビジョンを見る機会などいくらでもあったはずだ。当時の花梨にはまだ、力≠ェ備わっていなかったということか。
いや、それはない。彼女は『物心ついたときには見えてた』と自ら証言している。相手によって見えやすさの差はあるらしいが、両親が二人とも見えにくかったとは、ちょっと考えられない。
残る可能性は二つ。見えていたのに言わなかったか、言ったのに信じてもらえなかったかの、どちらかだ。
真実を見極める術はない。いずれにしても、一つだけ確実に言えることがある。
花梨は両親を救えなかったことを、激しく悔やんだはずだ。自分を責め、罵り、嫌悪し、懊悩《おうのう》したに違いない。死を考えたことすらあっただろう。
悔恨と苦悩の末に、彼女が辿り着いた一つの結論──それは、自らの力≠駆使して、他人の運命に介入することだった。
花梨が見せた大粒の涙。心の奥に秘められた信念。すべての疑問が氷解する。
もう二度とあんな思いはしたくない。そして自分の周りの人間にも、あんな思いはさせたくない。そのために自分の特異な能力を駆使して、何が悪いというのか。
花梨はただ徒《いたずら》に、他人の運命を弄《もてあそ》んでいたわけじゃなかった。彼女は不幸の芽を一つずつ摘み取っていくことで、両親を見殺しにしてしまった罪を、償おうとしていたのだ。
すなわち──贖罪《しよくざい》。
その花梨がいま、窮地に立たされている。彼女自身に原因があるとは思えなかった。
その人にとって不幸なビジョンが見えれば、花梨は躊躇うことなく運命に介入するだろう。清濁併せのむといえば聞こえはいいが、彼女は相手の人となりにはあまり拘泥しない。たとえその人が極悪非道な人物だとしても、救いの手を差し伸べずにはいられないはずだ。
──『トラブルを抱えてるなら、早めに手を打ったほうがいいですよ。放っておいたら大変なことになります』
花梨はエリカにそう警告した。あのときは何とも思わなかったが、エリカが夢丸の売人だったのなら、受け取り方も当然違ってくる。
後ろ暗いところのあったエリカが、花梨の好意を警告と逆読みし、悪意を持って解釈したとしたら──。
充分あり得ることだった。
13
午後二時。都内の気温はピークに達していた。日差しはぎらぎらというほどではないが、湿度が高いせいか、体感温度は真夏並みだ。
信濃町駅を出て、慶応病院を左に見ながら外苑東通りを北へ向かう。郵便局の手前で右折し、人気のない路地に入り込んだ。
ネットから取り出した地図を頼りに五分ほど歩くと、やがてレンガ調のタイルで彩られた、八階建てのマンションが見えてきた。植え込みに埋もれた看板に〈ヒルズ・フローリア〉とある。ここだ。
思ったよりも大きなマンションだった。部屋数は優に五十以上。エントランスはオートロックになっていて、セキュリティも万全のようだ。
インターホンに歩み寄り、訪問先の部屋番号──512を押す。呼びかけに応じた彼女の第一声は、「ほんとに来たの?」だった。訪ねることは三十分ほど前に連絡してあったのだが、本気とは思っていなかったらしい。
ドアのロックが解除されたのを確認し、エントランスをくぐる。広々としたホール。左右の壁を飾る大きな風景画。意匠を凝らしたオブジェの数々。
高級感溢れるインテリアを横目に見ながら、ホールを横切ってエレベーターに乗り込んだ。ふわりと浮き上がるような感触で、音もなく滑らかに上昇していく。
五階に降り立つと、目指す部屋はすぐに見つかった。512号室。ドアの脇に〈山口〉と記されたネームプレートが見える。
インターホンを押すと、三秒とおかずにドアが開いた。上がってくる頃合いを見計らって、玄関先で待ち構えていたのだろう。
「まさか本当に来るとはね……まあいいわ。とにかく上がって」
スッピンでこそなかったが、麗子ママはほとんど化粧をしていなかった。服装もトレーナーにジーンズというラフなスタイル。ママの私生活に踏み込んでしまったような気分になり、思わずたじろぐ。
今になって自分のデリカシーのなさに呆れた。こちらにその気がないとはいえ、相手は妙齢の独身女性だ。普通の神経の持ち主なら、一人暮らしの部屋に突然押し掛けたりしない。
靴を脱ぎ、ママの後ろを遠慮がちについていく。ゆったりとした造りの2LDK。昨夜訪れた花梨の部屋が、軽く五つは入ってしまいそうな広さだ。
内装や調度品にも金がかかっているのだろうが、床に放り出されたままの衣類や、散乱したCD、ぬいぐるみなどが、それを台無しにしていた。麗子ママは見かけによらず、掃除や片付けが苦手らしい。その思いを読み取ったのか、ママは「突然来るから片付けるヒマがなかったのよ」と、当てつけるように弁解した。
ざっと見る限り、男の影を匂わせるものは見当たらない。少なくともここに入り浸れるような、名誉ある男はいないのだろう。ますます居心地が悪くなってきた。
リビングに通され、二人掛けの大きなソファを勧められる。本革張りのそれに腰を下ろすと、ママはキッチンに向かいながら明るい口調で言った。
「なんか飲む? コーヒーはインスタントしかないわよ。そうだ、ビール飲もっか。蒸し暑いもんね。少しくらいなら、店が始まるころには醒めるでしょ」
そんな気分ではなかったが、ママが飲みたそうな顔をしていたので、あえて断らなかった。最初からそのつもりだったのかもしれない。ママは冷蔵庫から取り出した二本の缶ビールを、そのままテーブルの上に並べた。手振りでおれに勧めたかと思うと、自らプルタブを開けて咽喉に流し込む。ごくごくと三口ほど飲み、旨そうに溜息を漏らした。
「飲まないの? 遠慮しなくてもいいわよ」
「話が済んだらいただきます」
ママは再度ビールを呷り、窓の外に目を向けた。五階からの眺めは、隣のマンションで繰り広げられる夫婦喧嘩を観察するのには最適だが、ママの目は僅かに顔を覗かせている、霞んだ青空に向けられていた。
「……何かわかったの? 花梨ちゃんのこと」
「仮説は一つあります。でもそれを確かめるためには、ママの──店長の協力が必要なんです」
「ママでいいわよ」彼女はおれのほうを向いて、小さく微笑んだ。「で、何をすればいいの? 有給休暇はあげられないわよ。たとえ花梨ちゃんを捜すためでも」
「そんなんじゃありません。質問に答えてくれればいいんです。ただし、正直に」
ママは小さく肩を竦め、再びビールを流し込んだ。平静を装ってはいるが、動揺は隠しきれない。
「まず、エリカのことです。ママは知ってたんですね? 彼女が夢丸を売り捌いてたってことを」
ママの表情が曇った。不快感をあらわしたのではなく、質問の意図が理解できなかったのだ。
「花梨ちゃんのことじゃなかったの?」
「とりあえず質問に答えてください。あとで説明します」
「わかったわ。でもその前に訊かせて。なぜそう思うの?」
「あるキャストが『ママはエリカを毛嫌いしてるみたいだ』って言ってました。性格的な面での好き嫌いはあるでしょうけど、店長という立場にある人間が、ナンバーワンキャストを邪険に扱うのは不自然です。エリカの裏の顔を知ってたからこそ、無言の圧力をかけてたんでしょ?」
ママはおれの顔を見つめ返し、意味深な笑みを浮かべた。
「その通りよ。彼女は自分のクスリ代欲しさに、夢丸を売り捌いてたの。プライベートなことには口出ししないっていうのが私の主義なんだけど、店のコたちまで引きずり込もうとする、あの無神経さが許せなかった。もちろん悪い噂を立てられたくないっていう、切実で現実的な理由もあったんだけど」
「そこがわからないんです。なぜエリカを放っておいたんですか。店長として見過ごすわけにはいかないと、はっきり言ってやればよかったのに。場合によっては解雇することだってできた。なぜそうしなかったんですか」
麗子ママはおれから目を逸らし、無表情な横顔を晒した。
「……面倒を起こしたくなかったのよ。仕事以外のことについては、あまり口出ししたくなかったし」
本心とは思えなかった。そんな単純な理由で、エリカの傍若無人な振る舞いを見逃すはずがない。
「夢丸といえば、梶井さんもハマってるみたいですね」
ママは煙草を取り出し、火をつけた。気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。
「梶井って……ウチの梶井さん? 知らなかったわ。誰がそんなこと言ってるの?」
少しカチンときた。嘘も一つくらいなら可愛げがあるが、二つ三つと積み重なってくると、馬鹿にされているような気持ちになる。
「惚けないでください。ママは知ってるはずだ。梶井さんは井手産業──楊さんの店にも出入りしてるし、〈ブラックパール〉にも毎週顔を出してる。エリカに強い態度をとれなかったのは、あの人のせいなんでしょう」
ママは目を見開いた。まさかおれがそこまで調べ上げているとは、思いもしなかったようだ。自信のない部分ははったりで補ったが、あながち間違いでもなかったらしい。
「見くびってたみたいね、あなたのこと……誰に聞いたの?」
「実際にこの目で確かめたんです。もっとも、最初のきっかけは偶然でしたけどね……そんなことより、梶井さんのことを詳しく教えてください。あの人はいったい、どういう人なんですか」
ママは紫煙とともに、大きな溜息を吐き出した。足を組み替え、背もたれに体重を預ける。心の中で繰り広げられる激しい葛藤が、目に見えるようだった。
やがて彼女は、意を決したように躯を起こすと、煙草を消して缶ビールの残りを一気に飲み干した。
「……昔の亭主よ。七年前に結婚して、一年と保たずに別れちゃったけどね。あの人、傷害罪で逮捕されて、二年ばかりお勤めしてたのよ。出所してフラッと現れたのが二年半前。仕事を世話してくれって泣きつかれたから、オーナーに頼み込んで雇ってもらったの」
今度はおれが目を丸くする番だった。ママと梶井の関係は思ったより親密だ。ということは、つまり──。
「大丈夫よ、そんな顔しなくても。今は何の関係もないんだから」
ママがおれを見てクスッと笑う。狼狽が顔に出てしまったようだ。
「関係ないって言われても……」
「確かにいろいろと情報は入ってくるけど、以前のように親しく付き合ってるわけじゃないわ。お互い相手のやることには干渉しないようにしてるし……。もちろんクスリのことは知ってたけど、私がとやかく言っても聞かないだろうから、放っておいたの」
「梶井さんも夢丸の売人を?」
「それはないわ。あの人は気晴らしでクスリをやってるだけなの。クスリ欲しさに危険を冒すほど、のめり込んではいないはずよ」
「でも、エリカに夢丸を勧めたのは梶井さんなんでしょう?」
ママは僅かに顎を引いた。
「厳密に言うと勧めたわけじゃないのよ。彼女が『いいクスリないですか?』って訊いてきたから、夢丸を教えてあげたんだって」
経緯はどうあれ、エリカが夢丸の売人を始めたきっかけは、梶井の何気ない一言が原因だったということになる。ママがエリカに気兼ねしていた理由が、ようやく見えてきた。
ママにとっての唯一のアキレス腱──それが梶井だ。エリカを非難すれば、彼女は当然のように梶井の庇護を求めるだろう。そうなるとママは立場上やりづらくなる。梶井を敵に回すくらいなら、見て見ぬ振りをして無視を決め込むほうがマシ──そう判断したのではないか。
「エリカは、夢丸を巡るトラブルが原因で殺されたんですか?」
「私に訊かないでよ。ホントに知らないんだから。まあ、可能性は否定しないけどね」
「梶井さんは? 何か言ってませんでしたか、事件のこと」
「『彼女は深く関わりすぎたんだ』──そう言ってたわ。でも、特に思い当たる節はないみたい。余計なことまで知る必要はないってのが、あの人の持論だから。ただ、一つ気になることを言ってたけど」
「気になること?」
「ええ。なんで彼女は売人になったんだろうって、すごく不思議がってた。顧客をつかまえるのって結構大変なのよ。リストか何かあればある程度の儲けは見込めるみたいだけど。それにしたって常に危険と背中合わせだから、よほどの覚悟がなきゃできないわ。
そもそもクスリの売人なんて、そう簡単になれるもんじゃないはずなの。しかも扱ってるのは夢丸でしょ? 生粋の日本人である彼女が、あんな短期間でどうやって彼らの信頼を勝ち取ったのか──そこがどうしてもわからないって、しきりに首を傾げてたわ」
確かに夢丸のユーザーは圧倒的に中国人が多いはずだ。そこへ入り込んでいくのはまず不可能だろう。エリカに残された道はただ一つ──新規客の開拓だ。むろん相手は日本人ということになる。
だが日本人の間で夢丸の知名度はそれほど高くない。顧客の獲得は決して楽ではないはずだ。それともエリカは、ただの道楽で売人の真似事をしていただけなのだろうか。
ママが立ち上がり、キッチンへ足を向けた。冷蔵庫から二本目の缶ビールを取り出し、小気味よい音を立ててプルタブを開ける。
立ったまま咽喉に流し込むと、ふと思いついたように口を開いた。
「まあ、大倉さんみたいな例もあるから、絶対無理だとは言い切れないけどね」
聞き逃せない言葉だった。すかさず「どういう意味ですか?」と問い返す。ママは自分の迂闊さを責めるように顔を顰めた。
「誰にも言わないでくれる?」
「もちろん。その件に限らず、ここでママに聞いた話は誰にも話しませんよ。そのために押し掛けてきたんですから」
ママは弱々しく微笑んで、ソファに腰を下ろした。
「察しは付いてるかもしれないけど、大倉さんもクスリの売人なの。あの人、本業を通じて中国人と知り合う機会が多いから、その伝手《つて》で揺頭とか夢丸も扱うようになったみたい。エリカが売人になれたのも、あの人が手を貸したからかもね」
「じゃあ、梶井さんもあの人から?」
「ときどき買ってたみたいね。でも、いつもはパーティーの場でクスリを調達してたわ。『ピザじゃないんだから、電話一本で買えるなんておかしい』って、変なことにこだわってた」
「電話一本って……売人との取引が?」
「そ。最近はメールでいいみたい。近頃はみんなそうでしょ?」
みんな≠ニいうのは、大麻や覚醒剤などを含む、ドラッグ全般のことを意味する。携帯を使っての取引は、直接顔を合わせる必要がないので、売るほうにとっても買うほうにとっても都合がいいのだ。
「夢丸は合法だから、インターネットとかでも買えるんですよね? もっと堂々とやればいいのに」
ママは怪訝そうな顔をした。
「マジで言ってんの? タクト」
「え? なんかおかしなこと言いました?」
「夢丸が合法だって吹聴してるのは、一部の売人とそれを鵜呑みにした素人だけよ。警察は口が裂けても合法だなんて言わないだろうし、たとえ夢丸そのものを取り締まる法律がなくても、しょっ引く口実なんていくらでも作れると思うわ。もちろんネット上で買えるなんて話、聞いたこともない。たぶん夢丸には、違法な成分が含まれてるのよ。
仮に夢丸が噂通りの合法ドラッグだとしても、不特定多数の人がトリップを目的に使うようになったら、たちまち目を付けられて取締りの対象にされちゃうでしょうね。彼らが夢丸の拡販に本腰を入れないのは、夢丸の合法性を堅守するためだと思うわ」
「夢丸の合法性……」
当初は合法ドラッグとして公然と取引されていた合法ドラッグが、その後「麻薬及び向精神薬取締法」の対象薬物とされ、違法ドラッグの仲間入りをするケースは、前例としていくつもある。MDA、MDMA、2CBなどがそうだ。そういったドラッグと同じ轍《てつ》を踏まないために、流氓は夢丸が余計な注目を集めないよう、細心の注意を払っていたのだろう。
しかしそこへ、彼らの思惑など知らない能天気な女が迷い込んできた。エリカだ。クスリ代欲しさに売人の真似事を始めた彼女の存在は、流氓にとって厄介者以外の何者でもなかった。そこで彼らはエリカを処分し、その罪を大倉に着せようとした──。
これが真相なのではないか。そう考えれば、大倉の行方が掴めないのも説明がつく。ヤツはすでに抹殺され、埋められたか沈められたかされたのだろう。死人に口なしというわけだ。
「──それで? 花梨ちゃんの失踪はどう関係してくるの」
ママの一言が本来の目的を思い出させた。そう。問題は花梨だ。今さらエリカの死の謎を解き明かしたところで、得られるものはさほど多くない。自分の好奇心を満たすためだけに、危ない橋を渡るなんて馬鹿げてる。
しかし花梨のためなら話は別だ。彼女を救い出せるのなら、おれはどんな代償も厭わないだろう。たとえ自分の生命が引き替えになろうとも──。
「……エリカは殺される直前、花梨からこんなことを言われてるんです。──トラブルを抱えてるなら、早めに手を打ったほうがいい。放っておいたら大変なことになる、と」
「どういうこと? 彼女は何か知ってたのかしら」
「いや、エリカはその頃ストーカーに付きまとわれてましたから、花梨は励ましの意味も含めて、注意を促しただけなんでしょう。でも、エリカのほうは後ろ暗いところがあったから、花梨の意図とはまったく違う受け取り方をしてしまった。エリカはそれを、自分に対する警告と解釈してしまったんです」
「警告?」
「ええ。極端に言えばクスリの売人なんてやめろ≠ニ、ケチを付けられたような気になったんでしょう。当然エリカにしてみれば面白くない。憎悪というほどじゃないだろうけど、彼女は善人面して自分に意見した花梨を、疎ましく思うようになった」
「わからないわ。いったい何が言いたいの?」
ママが訝しそうに眉根を寄せた。
「エリカは夢丸を通じて知り合った誰かに、花梨は危険だ、放っておいたら面倒なことになる──というような意味のことを言ったんじゃないでしょうか。それを真に受けたヤツが花梨を拉致監禁して、情報源と発言の真意を糺《ただ》そうとしている」
「それって全部憶測でしょ? 裏付けや根拠が弱いから、説得力に欠けるのよ」
返す言葉がなかった。ママに言われるまでもなく、おれ自身も強くそれを感じていた。
数少ない断片情報を繋ぎ合わせて、頭の中で強引に構築した仮説。思い込みと直観でこね上げた、現実味のない虚しい空論。しかし八方塞がりのこの状況では、自分の直観を信じるしかなかった。所詮警察は当てにはならない。
汗をかいた缶ビールを取り上げ、プルタブを引き開ける。一気に流し込むと、咽喉の奥でいくつもの粒子が弾け飛んだ。少しぬるくなっていたが、気持ちを落ち着けるにはこれくらいが丁度いい。
「……結局のところ、花梨ちゃんの行方はわからないってこと?」
じゃあ何しに来たんだといわんばかりの表情で、麗子ママが悠然と足を組み替える。
おれは口許を手の甲で拭い、最後の質問をぶつけた。
「〈蓬莱公司〉──どこにあるんですか?」
猫を思わせる麗子ママの瞳が、奥のほうで細波《さざなみ》のように揺れ動いた。動揺や狼狽といった単純な反応ではない。
「なにそれ? 最近できたお店?」
顔を逸らし、煙草をくわえてポーカーフェイスを試みたが、不自然さが余計に際立つばかりだった。ライターを持つ手もどこかぎこちない。ママは明らかに、何かに怯えていた。
「絶対に迷惑はかけません。お願いします。場所を教えてくれるだけでいいんです」
返事はなかった。ママはそっぽを向いたまま、呆然と紫煙の行方を見つめている。
〈蓬莱公司〉。おれに残された最後のカード。
〈蓬莱公司〉と〈ブラックパール〉には近寄らない──という約束を交わした直後に、花梨は忽然と姿を消してしまった。おれだってまだ死にたくない。こんなことにならなければ、おとなしく彼女の言いつけを守っていたはずだ。
しかし花梨はいなくなってしまった。その現実に直面したときから、おれはある疑念を抱き続けていた。果たして彼女の言葉を、額面通りに受け取っていいのだろうか。
近寄らないと約束して──実はあれこそが、SOSの信号だったのではないか。もちろん彼女はそんなことを望んではいないだろうが、心の奥深いところでは、おれの助けを求めているのではないか。
何らかの理由で危険に晒された花梨を、おれが助けに行く。しかしおれは返り討ちにあい、あっけなく殺されてしまう──それが花梨の見た、おれのビジョンだったのではないか。
曲解だとは思わなかった。花梨には他人を救う力は備わっているが、自分の身を守る力はない。だとすれば彼女を救い出せるのは、おれしかいないはずだ。
麗子ママの白い指が、半分ほどの長さになった煙草を灰皿に押しつけた。未練がましそうに吸い殻を見つめながら、静かに口を開く。
「……念のため訊くけど、そんなこと知ってどうするつもり?」
「決まってるじゃないですか。確かめに行くんですよ、花梨の安否を」
「本気で言ってるの? タクト」ママは呆れたように苦笑を漏らした。「結構賢いと思ってたんだけど、少し買い被りすぎたみたいね。正気の沙汰とは思えないわ。死にに行くようなもんよ」
死にに行く──まさしくその通りだった。すでにおれは死を覚悟している。いや、覚悟というよりむしろ、志願しているというべきだろう。
何も知らないおれがのうのうと生き長らえ、運命に介入した花梨が生贄《いけにえ》となる──こんな不条理が許されるはずがない。他人の屍《しかばね》を踏み台にして生き延びるなんて、考えただけで反吐《へど》が出る。
しつこく懇願したが、麗子ママはなかなか口を割ろうとしなかった。おれのことを心配して、というよりは、累が及ぶのを恐れているようだ。
ママを相手に姑息な手は使いたくなかったが、このままでは埒が明かない。気付いたときには、苛立ちがおれの口を動かしていた。
「梶井さんに訊いたほうが早いか……」
麗子ママが眉を吊り上げ、険しい表情で睨み付けた。
「それ、威しのつもり? なかなかいい度胸してるじゃない」
口許には笑みさえ浮かべていたが、その迫力は背筋が凍るほどだった。今でこそ安穏な雇われ店長に過ぎないが、その昔はいくつもの修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。美貌と要領だけで伸《の》し上がっていけるほど、彼女たちの世界は甘くない。
「違いますよ。威しなんかじゃありません。ママが答えてくれないのなら、梶井さんに当たってみるしかないと思っただけです。他に心当たりはないし、かといって諦めるつもりもありませんから」
そう抗弁してビールを呷ると、驚いたことにママはクスッと忍び笑いを漏らした。夜叉を思わせる険しい表情は跡形もなく消え、今は気恥ずかしそうに笑いを噛み殺している。
「あなた……そっくりね、あの人に」
「あの人?」
ママはビールを飲んで一息つくと、「タクトの知らない人よ」と呟いて目を逸らした。
遠くを見つめる瞳は、少女の輝きを取り戻している。彼女の胸の裡に去来するもの。そこは部外者が立ち入ってはならない領域だ。
おれはそれ以上の追及を避け、缶ビールを手にした。残り少なくなったビールを舐めるように飲み、気まずい沈黙を埋める。
やがてママは小さく吐息を漏らすと、おれの目を覗き込みながら口を開いた。
「……考え直すつもりはないの?」
間髪を入れずに頷く。ここへ来る前から決めていたことだ。他人に言われて気が変わるくらいなら、最初からママに迷惑をかけたりしない。
「……仕方ない。教えてあげるわ。別に勿体ぶるほどのことでもないしね。その気になれば調べられることだから」
麗子ママは覚悟を決めたらしく、淡々とその場所を説明し始めた。表情はやや青ざめているが、何かを吹っ切ったような清々しさがある。
〈ブラックパール〉の北東約三百メートル。見るからに胡散臭い三階建ての小さな建物が、〈蓬莱公司〉の事務所らしい。あの界隈は流氓の巣窟と言われているだけに、疑いを差し挟む要素はなかった。
「……公司≠ニいうからには、会社としての体裁は整ってるんですよね? 表向きには何をしてることになってるんですか」
「クラブ経営と人材の斡旋よ。この街で働く中国人のほとんどは、何らかの形で彼らと関わってるんじゃないかしら」
人材の斡旋。それを蛇頭と結びつけるのに、大した時間はかからなかった。
おれはビールを飲み干し、空になった缶を握り潰した。情報は多ければいいというものではない。余計なことを知ったばかりに、決意が鈍ってしまうこともある。
「最後に一つだけ……今夜は仕事を休ませてください。いろいろとやらなきゃいけないことがあるんで」
ママは背筋を伸ばして、店長の顔を取り戻した。
「それはいいけど、一つ約束してくれる?」
「え? 何をですか?」
「今夜は休んでもいいけど、明日は必ず出てくること。無断欠勤なんかしたら、ただじゃおかないからね」
目指す建物はすぐに見つかった。無駄な意匠や見栄を排除し、床面積の広さだけを追求した直方体のビル。外壁のモルタルはひび割れ、ところどころ黒いシミを浮かび上がらせている。両隣のビルが真新しいだけに、みすぼらしさがいっそう際立っていた。
窓は極端に少なく、そのすべてに遮光カーテンが引かれている。一階は駐車スペースになっており、高級外車と国産の軽トラが仲良く肩を並べていた。妙な取り合わせだが、違和感はあまりない。
蓬莱公司の文字はどこにも見えないが、ここで間違いなさそうだ。彼らは素性のわからない客は相手にしないから、このほうが何かと都合がいいのだろう。
時刻は七時二十分。出入りする人の姿はなく、建物はひっそりと静まり返っていた。人がいるのかどうかすら判然としないが、二階の遮光カーテンの隙間から光が漏れている。少なくとも無人というわけではないらしい。
路上に目を転じる。ヒールを打ち鳴らして颯爽と店に向かうホステス。自販機の釣り銭を漁るホームレス。仕事を終えて帰路に就くリーマン。違和感はなかった。どこにでもある見慣れた光景だ。
建物の陰に身を潜め、少し様子を見る。直観に任せてここまで来たのはいいが、そこから先のことは何も考えていなかった。成り行きや勢いで突っ込んでいって、どうにかなるような相手じゃない。
手持ちの情報は皆無。この状態で乗り込んでいくのはあまりにも無謀だ。少なくとも花梨の失踪に彼らが関わっていることを、何らかの方法で確かめておく必要がある。
高鳴る鼓動。さっきまでは何ともなかったのに、今頃になって躯が反応を始めたようだ。気持ちを落ち着かせるために、胸の辺りを右手でそっと押さえる。
指先に固いものが触れた。ライターだ。花梨の部屋に押しかけたときに、彼女がくれたZIPPOのライター。
ポケット越しにそれを握りしめて、心の中で呟く。
──悪いな、花梨。おまえとの約束、守れそうもない。
二十分後。一階の出入り口から男が一人出てきた。スーツ姿にアタッシェケース。年齢は四十歳前後で、見た目はどこにでもいるただのリーマンだ。しかしその目は、猛禽のように鋭く、異様な冷気を放っていた。ただ者ではない。おそらく──流氓。
男はおれをチラッと一瞥したが、関心を示すような素振りは見せなかった。無表情のまま、足早に駅の方向へ歩いていく。
男の姿が視界から消えると、おれは肩の力を抜いて吐息を漏らした。あの存在感。あの威圧感。ヤツに睨まれた瞬間、おれは完全にビビっていた。ヘビに睨まれたカエルのような気分だった。
他にもああいうヤツがごろごろいるのだろうか。そんなところへ乗り込んでいって、いったい何ができるというのか。
いや、余計なことは考えるな。相手は同じ人間。きっと活路は見出せるはず──。
花梨の顔を思い浮かべ、萎えそうになる気持ちを奮い立たせる。逡巡している場合ではなかった。決断が遅くなればなるほど、彼女が受ける苦痛は多くなるのだ。
しかし、犬死にはしたくなかった。花梨を救い出せるのならおれはどうなっても構わないが、目的を果たす前に殺されてしまったら、おれの行動は無意味になってしまう。
十分、二十分、三十分……。
何の考えも浮かばぬまま、時間だけが無為に過ぎていく。焦りが募った。自分の無力さに腹が立った。
どうすればいい? やはり警察の力を借りるしかないのか。しかし証拠もないのに警察が動いてくれるとは思えない。
そのとき──一階のドアが開いて、男が二人出てきた。どちらもまだ若い。マフィアというよりは、コマ劇の前あたりで粋がってるほうがお似合いのタイプだ。おれの存在には気付きもせず、声高に談笑しながら路地を歩いていく。
冷静な判断を下す間もなく、気付いたときには足が勝手に動いていた。すでに日は没し、街はもう一つの顔を見せ始めている。やるなら今しかない。おれはポケットに忍ばせたバタフライナイフを、固く握りしめた。
ターゲットは右側の男──楊さんの店の前でおれに難癖を付けてきた、あのヒップホップ野郎だ。
14
風林会館の近くで友人と別れたヒップホップ野郎は、そのまま職安通り方面に足を向けた。待ち合わせでもしているのか、頻繁に腕時計を確認しながら、わき目もふらずに歩いていく。おれは沸き立つ興奮を抑えつつ、慎重にその後を追った。ヤツの被っている赤いバンダナは、ごった返す人混みの中でもかなり目立つ。見失うおそれはない。
大久保方面に向かってくれることは、おれにとっても都合がよかった。夜になって本来の顔を取り戻した歌舞伎町は、欲望を追い求める人間たちで溢れかえっている。こんな状態では手の出しようがない。しかし職安通りの向こう側に行けば、この喧噪から逃れられるはずだ。仕掛けるチャンスは必ずある。
ヒップホップ野郎は職安通りを渡り、なおも淀みない足取りで歩いていく。その先には街の明かりをくっきりと映し出す、全面マジックミラー張りの大きな建物が見えていた。吉田ビルだ。
ヤツの目的地に察しがついた瞬間、赤いバンダナが視界からふっと消えた。吉田ビルの手前にある路地を右に曲がったのだ。やはりヤツは、楊さんの店に行こうとしている。
おれは曲がり角でいったん立ち止まり、左目だけで路地を覗き込んだ。ヤツは四つ角を左に曲がり、吉田ビルの裏手に当たる路地に入っていった。間違いない。その先には桑江第一ビルがある。
そうとわかれば焦る必要はない。おれはその場にとどまり、大きく深呼吸した。前後左右を見渡し、頭を働かせる。
職安通りはクルマも通行人もひっきりなしに行き交っているが、路地に入れば人影は疎らだ。さすがに無人というわけにはいかないが、時間帯を考えればこれ以上の条件は望めないだろう。
よし、決めた。楊さんの店から出てきたら、ヤツと接触しよう。このチャンスを逃す手はない。
路地に足を踏み入れ、最初の角を左に曲がる。辺りは闇に包まれていた。小料理屋と美容院が営業を続けていたが、それ以外の店はすでにシャッターを下ろしている。一定の間隔で設置された街灯も、弱々しい光を投げかけるばかりで、路地を照らし出すほどの力はない。
おれは路上駐車の陰に身を潜め、前方の様子を窺った。赤いバンダナは見当たらない。桑江第一ビルの前には、先日と同じように不気味な静けさが漂っている。
周到な計画を練るだけの時間的余裕はなかった。先日と同じ用件で訪れたのなら、ヤツが中にいるのはせいぜい五分。まもなく出てくるはずだ。
無謀なことだとは充分わかっていた。一度その線を越えたら、二度と後戻りはできない。しかし今さら考え直すつもりはなかった。
河本小百合、クルミ、エリカ、そして花梨──直接・間接的にドラッグの犠牲となった女たち。彼女たちの顔を思い起こして、恐怖心と理性を頭から振り払う。大量に放出されたアドレナリンが、身体中を駆けめぐっておれを奮い立たせようとしていた。
少しでも怯んだらこっちの負けだ。いっそのこと、内なる狂気を呼び覚まして、自分を見失ってしまいたかった。大倉を襲撃した、あのときのように──。
視界の端を赤いものがかすめた。ヤツが出てきたのだ。心臓がドクンと大きく拍動する。
ヤツは一人きりだった。周囲に視線を走らせながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
音を立てずにバタフライナイフの刃を取り出し、ヤツが近付いてくるのを待った。生温《なまぬる》い汗が頬を伝う。僅か数十秒の時間が、数十分にも数時間にも感じられた。
──キュッ、キュッ、キュッ。
スニーカーの音が迫ってきた。路上駐車の商用ワゴンは、おれの姿をすっぽりと隠してくれている。少し身を屈めると、シャシーの下からヤツの足を覗き見ることができた。これならタイミングを逃がすこともない。
ヤツがクルマの脇に差し掛かった。逸《はや》る気持ちを抑えて、三秒だけ我慢する。ヤツがクルマの横を通り過ぎ、気配を察知してこちらに顔を向けようとした瞬間、おれは飛びかかった。
「うわっ──」
情けない悲鳴が路地に谺《こだま》する。腰を抜かしてよろめく足に足払いをかけ、倒れた躯をワゴンの陰に引きずり込んだ。
むろんヤツも黙っちゃいない。状況が理解できなくても危険は察知できたらしく、激しく抵抗しながら声を張り上げた。
「なんだっ、てめぇ──」
おれはすかさずバタフライナイフを閃かせ、その刃を喉元に突きつけた。ヤツは目を大きく見開き、言葉を飲み込む。
「静かにしろ。声を出すな」
自分が発したものとは思えない声だった。誰かがおれの口を借りて喋っている。スイッチが入ってしまったらしい。
ヤツは動じなかった。とりあえず抵抗するのを止めておとなしくはなったが、口許には嘲るような笑みが浮かんでいた。
「おまえ、自分が何をしてるのかわかってんのか? 何をしたいのか知らねぇが、生命が惜しかったらおれには近付かないほうがいい。今なら人違いだったってことで、クリーニング代だけで勘弁してやる。とにかくそのウザいナイフをどけろ」
おれはナイフを持つ手に軽く力を入れ、その切っ先を顎に差し込んだ。皮膚が小さく裂け、赤い球体がじわりと姿を現す。
「黙れと言っただろう。死にたいのか」
あどけなさの残る目に凶暴な光が宿った。無精髭に誤魔化されていたが、こうして近くで見るとかなり若い。
おれの警告を無視して、男はなおも虚勢を張った。
「おまえ、何もわかってないみたいだな。こう見えてもおれは──」
わかってないのは向こうのほうだった。ナイフを滑らせ、ヤツの頬を軽く撫でてやる。頬に深紅の筋が走り、鮮血が溢れ出してきた。
「すべて承知のうえだ。だからこそおまえに目を付けた。他人のことを心配するヒマがあったら、自分のことを心配したほうがいい」
「バカいうな。おれの素性がわかってたら、こんな真似できっこない──」
喉仏にナイフの柄を突き立て、その口を封じた。苦しげな呻き声が漏れる。
「何度も同じことを言わせるな。流氓だろうが何だろうが、おれには関係ない」
男は目を剥いた。化け物でも見るような目でおれを凝視する。流氓に楯突く人間がいるとは、夢にも思わなかったのだろう。
「な……なんなんだ、おまえは……何が望みなんだ」
「質問に答えろ。正直に答えれば、生命だけは助けてやる」
「質問……?」
悠長なことはしていられない。辺りに人の気配はなかったが、いつ誰が通りかかってもおかしくないし、さっきの悲鳴を聞いて異変を察知した住人が、警察に通報する可能性もある。おれは単刀直入に切り出した。
「──〈蓬莱公司〉のことだ。あそこに女がいるな?」
〈蓬莱公司〉の名を出した途端、ヤツは躯を強張らせ、顔を背けた。固く結ばれた口唇が、何をされても絶対に喋らないぞという、強い決意を表している。
しかし今のおれにそんなポーズは通用しなかった。バンダナごとヤツの髪を掴んで、強引にこちらを向かせる。三白眼がおれを睨み付けた。
「……知らねぇよ、そんなこと」
こいつはまだ、自分の置かれている状況がよくわかっていないようだ。
「いいか? 今回はたまたまおまえを選んだが、こっちは別におまえじゃなくてもいいんだ。代わりはいくらでもいる。喋って生き延びるか、死んで義理を通すか──好きなほうを選んでくれ。決めるのはおまえ自身だ」
男の目が微妙に揺れ動き、怯えの色を見せ始めた。良い傾向だ。
「……で、できねぇよ。余計なこと喋ったら、組織に殺されちまう」
「同じ殺されるにしても、とりあえずこの場を切り抜けて、望みを繋いだほうがいいんじゃないのか? うまくやれば逃げおおせるかもしれない」
「おまえは組織のことを知らないからそんなことが言えるんだ。逃げ切れるわけがない」
「そうか……それなら仕方がない。別のヤツに当たってみよう。悪く思うなよ。おまえが自分で決めたことなんだから」
おれはナイフを持つ手に力を加え、切っ先を咽喉に突き立てた。もう止められない。おれに取り憑いたなにかが、おれに人殺しをさせようとしていた。
「──ま、待て。喋る、喋るから」
懸命の命乞い。慌てて手を止める。名残惜しそうに震える右手を、左手で引き剥がした。ナイフの先から真っ赤な雫《しずく》が滴《したた》り落ちる。
「いるんだな? 女が」
「ああ、いることはいる……しかし全員のことを詳しく知ってるわけじゃない」
「全員? 一人じゃないのか?」
「幹部の愛人と、ワケあって軟禁してる女が何人か。正確な数はわからないが、五、六人ってところだ」
「ワケあって軟禁? どういうことだ」
「ヤク中とか、病気とか、警察に追われてるとか……要するにそのままの状態じゃ外に出せない連中を、一時的に監視下に置いてるんだよ」
「ぜんぶ中国人?」
ヤツは怪訝そうに眉を顰めた。当たり前だと言わんばかりに大きく頷く。
「別に保護したくてしてるわけじゃない。他に行くところがないから、仕方なく置いてやってるんだ」
〈蓬莱公司〉の表の顔は、クラブ経営とホステスの斡旋だ。体面上、トラブルを抱えたホステスを野放しにしておくわけにはいかないのだろう。
「日本人はいなかったか? キャバ嬢だ。名前は花梨」
「日本人? それはねえ。あそこに日本人を連れてくるはずが──。いや、待てよ。ひょっとしたらあのときの女が……」
記憶を探るような表情を浮かべ、言葉を濁した。おれは左手でヤツの胸倉を掴み、顔を引き寄せた。
「いたのか? 花梨が」
「いや、ちらっと見ただけだから、日本人かどうかまではわからない。ただ、初めて見る顔だったし、他の女にはない異質な雰囲気を持ってたから、ちょっと気になったんだ」
「見たって……いつ?」
「二日前。ちょうど今くらいの時間だ」
二日前といえば、花梨が最初に無断欠勤した日だ。いちおう筋道は通っている。
「顔は憶えてるか? そのコの」
「憶えてるわけねぇだろうが。ほんの一瞬見ただけなんだから」
その目にうっすらと浮かんだ嘲笑を、おれは見逃さなかった。この男はたったいま、花梨のことを「初めて見る顔」で「異質な雰囲気を持ってた」と評したばかりだ。顔も憶えていない女のことを、そんなふうに分析できるはずがない。
血に飢えたナイフが、再びヤツの顔を切り裂いた。今度は左の頬だ。スパッと開いた傷口から、ドクドクと鮮血が溢れ出てくる。
「今さら悪あがきしたところで、おまえが組織を裏切ったという事実は変わらない。もう諦めろ。中途半端に義理立てしても、意味のない苦痛が増えるだけだ」
男は口唇を噛み締めて痛みを堪えると、大切な宝物をなくした子どものような、恨めしそうな目で天空を見上げた。
おれは言葉を継いだ。花梨の顔や髪型、体型などを簡単に説明し、一致しているかどうか確かめる。
「……おまえが見た女も、そんな感じじゃなかったか?」
「タイプ的にはかなり近いと思うんだが、断言はできない。写真かなんかないのか?」
無言で首を振る。考えてみればおれは、キャストの写真を一枚も持っていない。
しかしそこまで裏付けがとれれば充分だった。間違いない。花梨だ。
「彼女はどういう状態だったんだ? やはり軟禁されてたのか」
「おれが見たときは、幹部の一人と何か話し込んでた。その後どうなったのか知らないが、まったく姿を見せないところをみると、たぶん軟禁されてんだろうな。ことによると……いや、なんでもない」
「なんだ? 最後まで話せ」
男はおれの顔色を窺いながら、おずおずと口を開いた。
「……何もしないで帰すつもりなら、幹部が顔を見せるはずがない。結構いい女だったから、しばらく自分たちで楽しんでから、頃合いを見て処分するつもりなんだろう。
生きたまま出られる可能性もないことはないが、その場合はまず間違いなくクスリ漬けにされてる。快楽の虜《とりこ》になったところで、海外に売り払うんだ。あの女が何をしたのか知らんが、もうこの世にはいないものと思って、諦めたほうがいい」
陵辱。処分。クスリ漬け。眩暈がした。ある程度予想できたことだが、他人から言われるとショックも倍増する。しかも目の前にいる男は、末端とはいえ組織の関係者だ。信憑性はかなり高い。胸の奥底に秘めていた淡い期待が、粉々に破砕する思いだった。
いくつもの悪意に貫かれ、廃人と化した花梨。そんな彼女を見たくはなかった。それならいっそ、死んでくれていたほうがマシだ──。砕け散った期待の中から、本音が顔を覗かせる。
「何人いるんだ? あの建物の中には」
男は僅かに逡巡したが、抗う素振りは見せなかった。他人事のような顔で、淡々と答える。
「……そんなに多くない。女を除けば五人くらいだ」
「中はどうなってる? 一階は駐車場と物置、二階は事務所だろ? 女たちは三階にいるのか?」
「おまえまさか……あそこに乗り込むつもりなのか?」
「余計なことは考えなくていい。質問に答えろ」
言いながら右の耳朶にあるピアスを引っ張る。ヤツは苦痛に顔を歪めた。
「……その通りだ。三階には女たちの居室がある。幹部と愛人がいるのも三階だ」
「二階にいる連中は? 腕利きなのか?」
「当たり前だ。中には軍隊経験者もいる。マジな話、ゴキブリ一匹通れやしない」
「じゃあ、武器も……」
「実際にこの目で見たことはないが、一通り揃ってるはずだ。少なくともナイフ一本でどうにかなるような相手じゃない」
わかっていた。それくらいのことは言われなくてもわかっていた。しかし下へ戻るための梯子は、とっくに取り払われている。たとえ行く手に地獄が待ち構えていたとしても、このまま突き進んでいくしかない。
そのとき、風に乗って誰かの声が聞こえてきた。中年男二、三人の話し声。小料理屋から出てきた客のようだ。ヤツの口を手で塞ぎ、彼らが遠ざかるのを待つ。
やがて路地は再び静寂を取り戻した。ヤツの口から手を放す。べったりと血のついた掌を、男のバミューダパンツに擦りつけた。
少し時間をかけすぎたようだ。そろそろ切り上げたほうがいいだろう。
「……ところで、楊さんの店には何しに行ったんだ?」
話題を変えると、男は怪訝そうに眉を顰め、「使いだよ」と吐き捨てた。
「使い? 夢丸か?」
ヤツは無言のまま、苛立たしげに顔を背けた。図星だったようだ。
「〈蓬莱公司〉が楊さんの店にクスリを卸してるのか?」
男は再び貝になろうとしていたが、鼻の穴にナイフを突っ込むと、慌てて口を開いた。
「……逆だ。楊さんが台湾からクスリを仕入れ、それを組織が買い取ってる。もちろん、主導権を握ってるのは組織のほうで、楊さんは体のいい隠れ蓑に過ぎないんだが」
クスリの密輸には大きなリスクが伴う。少々割高にはなるが、密輸にはノータッチで、国内に入ってきたものを取引したほうが遥かに安全だ。しかも楊さんの店は輸入業者。隠れ蓑とするには格好の条件を備えている。
何か引っかかるものを感じた。しかし冷静な分析力を失った今のおれには、次々と湧き上がる疑問をぶつけることしかできなかった。
「大倉はどこへ消えた? おまえらが処分したのか?」
「知らねえよ。店は辞めたんだろ? ヤバいことでもやって逃げたんじゃねえのか」
嘘ではなさそうだった。仮に〈蓬莱公司〉が大倉の失踪に関わっていたとしても、こいつは組織の末端にいるただの使いっ走りだ。詳細を把握しているとは思えない。
それはもう一つの疑念についても同じことが言えた。しかし聞かずにはいられなかった。
「……エリカは? なぜ殺した?」
「エリカ? ああ、あの女か。勘違いするな。確かに目障りな女だったが、あれを殺したのは組織じゃない。組織だったら文字通り彼女の存在を消し去ったはずだ」
「……見せしめのために、あえて死体を残してったんじゃないのか?」
男は口許を歪め、醒めた嘲笑を浮かべた。
「組織の怖さは誰もがよくわかってる。死体が見つからなくても、組織に消されたという噂が回るだけで充分だ。自殺に見せかけるならまだしも、明らかに他殺とわかる遺体を差し出して、警察に出番を与えることはない」
わからなくなってきた。今さら組織を庇っても何の意味もないし、何よりこの男の言葉には説得力がある。事実かどうかは別にしても、それがこいつの本心であることは疑いようがなかった。
いったい誰がエリカを殺したのか。やはり当初の推測通り、大倉が犯人だったのか。それとも今までの調査では俎上にのぼることもなかった、未知の第三者が彼女を葬ったのか。
考えるだけ無駄なことだった。もう時間がない。できればすべてを解明して、気持ちをすっきりさせておきたかったが、この謎だけは墓場まで持っていくしかなさそうだ。
最後に残された問題──このヒップホップ野郎をどうするか。殺すつもりはないが、かといってこのまま解放するわけにもいかない。
「……使いに来たと言ったな?」
「あ……ああ」
「じゃあおまえ、ひょっとして夢丸を──」
「残念だな。今日は金を届けに来ただけだ。今は何も持ってない。もっとも、ヤバいもん持ってたら一人で出歩くはずないから、こんな目に遭うこともなかったんだろうけど」
ヤツは悔しそうに拳を握りしめ、口を噤んだ。表面的な怒りは収まっているが、憤懣が解消されたわけではない。熾火《おきび》はまだ燻《くすぶ》っている。軽く息を吹きかけただけで、激しい炎を燃え立たせるはずだ。
おれはポケットから麻縄を取り出し、ヤツを俯せに寝かせた。ナイフを口にくわえ、後ろ手にした手首をきつく縛り上げる。
「──お、おいっ、何の真似だ」
「心配するな。ただの時間稼ぎだ。ヤツらに連絡されたら、完全にお手上げだからな」
「約束が違うじゃねぇか。おれだって早く逃げたいんだ。なあ、頼むよ。誰にも言わないから、このまま逃がしてくれ」
「生命を取られないだけでも感謝しろ。こっちは報復を覚悟のうえで、あえておまえを生かしておくんだ。不服ならおれと一緒に来てもらったっていいんだぜ。いい盾になる」
「報復なんて考えてない。信じてくれ……うあっ」
バンダナをむしり取り、結び目を解く。それをヤツの口に回して、猿ぐつわを咬ませた。これで少しは静かになるだろう。
両足首を麻縄で縛ると、無様な芋虫ができあがった。俯せのまま放っておくのはさすがに気が引けたので、仰向けに戻してやる。アスファルトに擦られた両頬の傷が、血と泥にまみれて惨憺《さんたん》たる有様になっていた。
うぐうぐと、バンダナの猿ぐつわから苦しげな声が漏れる。かなり念入りに緊縛したから、ちょっとやそっとでは解けるはずがない。しかし場所が場所だけに、付近の住人か通行人に気付かれるのは時間の問題だった。
長い時間は必要ない。三十分。三十分だけこのまま見つからずにいてくれ──おれは朧月に願を掛けると、男を置き去りにして路地を駆け出した。
〈蓬莱公司〉を取り巻く闇は、先ほどよりも色濃くなっていた。煌《きら》めく光をまとったビルの狭間で、そこだけが墨で塗り潰されたように、暗鬱に沈み込んでいる。
まるで冥界の入り口だな──そう呟いた直後、それが単なる感慨では済まされないことに気付いた。まるで≠ヘ必要ない。まもなくここは、おれの死に場所となる。冥界の入り口というよりは、墓場と言ったほうが現実的だ。
いや──おれは目を閉じて首を振った。突っ込む前からそんな弱気になってどうする。花梨のような特殊な力こそないが、おれだってそれに負けないものを持ってるじゃないか。
花梨を想う気持ち──そう。愛の力ってヤツだ。
時計の針は九時を回っている。
一階の駐車場──軽トラックが消えていた。
二階の窓──先刻と同様、遮光カーテンの隙間から光が漏れている。
三階──陵辱される花梨の姿がちらつき、直視に耐えられなかった。憤怒と苦悩が判断力を蝕《むしば》んでいく。
計画を練る時間的余裕も、様子を窺う気持ちの余裕もなかった。ヒップホップ野郎を置き去りにしてきたのが二十分前。決行が遅くなればなるほど、ヤツが自由を取り戻す確率は高くなる。
覚悟を決め、足を踏み出す。一階の出入り口までは約百メートル。駆け足で行けば二十秒とかからない。
頭の奥がジンと痺れた。何度も経験したことのあるこの感覚──。
バイオリンの早弾きが興奮に拍車をかける。激しく髪を振り乱しながら、寸分の狂いもなく自在に弓を操る奏者。ソロの盛り上がりが最高潮に達した瞬間、金管楽器の荘厳な響きが炸裂した。
メンデルスゾーン──バイオリン協奏曲ホ短調。親父が一番好きだった曲。
本当のおれはピアノを捨てた瞬間に死んでいる。自分を偽りながらここまで生きてきたこと自体が、間違いだったのだ。
いつもは耳障りなコンチェルトが、今日に限ってはなぜか心地よかった。恐怖も、後悔も、憤怒も、焦燥も、すべて消し去ってくれる。自分が自分でなくなったような、スクリーンの向こうから自分の出演作品を見ているような、そんな気分だった。
気付いたときには、目の前に〈蓬莱公司〉のドアがあった。何の躊躇《ためら》いもなくその取っ手に手を伸ばす。
そのとき、右の頬に強烈な視線を感じた。反射的に視線を向けると、まっすぐこちらへ向かってくる男の姿が飛び込んできた。
薄汚い服、垢で黒ずんだ肌、脂と泥で固まった髪──さっきまで所在なく路上を行き来していたホームレスが、別人のような足取りで近付いてくる。
おれは凍り付いた。変装はほぼ完璧だったが、その目だけは誤魔化しようがなかった。
鈴木──火曜深夜一時の男。〈ブラックパール〉の前で、おれとアキラを窮地から救ってくれた男。
訳がわからなかった。ここから〈ブラックパール〉までは目と鼻の間だ。先日のこともあるから、ここで会ったのは決して偶然とは言い切れない。しかしホームレスに変装している理由は、まったくわからなかった。
考えている場合ではなかった。鈴木はずんずん歩み寄ってくる。ただでさえ威圧的な目が、怒気を孕んで吊り上がっていた。
余計なことに首を突っ込むな──彼はそう警告した。おれはその戒めを破ろうとしている。彼はおれの暴挙を止めようとしているのだ。
ここで阻止されたら、花梨を助け出すチャンスは二度と巡ってこない。あいつにおれを止める権利などないはずだ。
ドアの取っ手を掴み、捻った。鍵は掛かっていない。一気に引き開ける。
「──おい、待て」
たまらず鈴木が声をかけたが、聞こえない振りをして躯を滑り込ませた。これでいい。さすがにあいつも諦めるだろう。
いっそのこと施錠してしまおうかとも思ったが、逃げるときのことを考えたら、鍵は掛かっていないほうがいい。鈴木が中まで入ってくることはないと判断し、そのままドアの前から離れた。
屋内に意識を向ける。目の前には二階へと続く階段。右手は闇に閉ざされた狭い通路。ダンボール箱が山積しているところを見ると、やはり奥に物置部屋があるのだろう。
一刻も早く花梨の顔を見たい──その思いがおれを突き動かす。
突き刺さる視線を感じたのは、階段を半分ほど上ったときだった。冷徹で精緻ないくつもの目。顔を上げると、案の定監視カメラがこちらにレンズを向けていた。さすがに厳重な警備だ。
しかし驚くには当たらなかった。ここへ来る前からある程度予想していたことだ。それどころか、うまくいけばこれを逆手に取ることができるかもしれない。
階段は二階までだった。鋼鉄製のドアが行く手を阻んでいる。このドアの向こうに〈蓬莱公司〉の事務所があり、その向こうに三階へと通じる階段があるのだろう。
一階のドアは自由に出入りできたが、このドアは間違いなく施錠されている。確かめるまでもない。下手にドアノブを捻って音を立てたりしたら、中にいる連中を刺激するばかりだ。かといって馬鹿正直にノックするのも憚られる。おそらく居留守を使われるだろうし、仮に反応があったとしても、ドア越しにあしらわれるのは目に見えている。
正攻法ではこのドアは開けられない。おれはドアの前で蹲《うずくま》り、ポケットからバタフライナイフを取り出した。薄汚れたリノリウムの床を、音が響かない程度にゆっくりと叩く。
一つの賭だった。こうしていればおれの姿を捉えることはできても、何をしているかまではわからないはずだ。
ふらっとやってきて怪しい作業を始めた得体の知れない男。不審に思わないはずがない。爆弾か何か仕掛けてるんじゃないか──そう思わせることができれば、こっちにも勝機はある。
一分。二分。三分──。
水を打ったような静寂が続く。
くそっ、何をしてる。早く出てこい。
暑さと緊張で溢れ出す汗を拭いながら、辛抱強く疑似作業を続ける。監視カメラを見てるヤツがいないのか? それともあれはただの飾りなのか? 相手の反応が見えないだけに、不安と苛立ちばかりが膨らんでいく。
こんな馬鹿馬鹿しいことは早くやめて、別の方法を考えろ──もう一人の自分が囁きかける。しかし他にどんな手があるというのか。思い浮かぶのは、本物の爆弾でドアを吹っ飛ばすことくらいだった。
五分経過。おれは立ち上がって肩をほぐすと、これ見よがしに腕時計を眺めた。
安全圏に逃れるために必要な時間は三分。少し余裕を見て五分後に爆破するとしたら、設定時刻は──。
眉間に皺を寄せたまま再び屈み込む。あと三分だけ待つことにした。これだけやっても動きがないのなら、この方法は諦めるしかない。もう少し現実味のあるやり方を考えよう。
と、諦めかけたそのとき──。
カチッ、カチッ。
ロックの外される音がした。素早く立ち上がり、ドアに張り付く。
次の瞬間、鋼鉄の扉が動いた。不快な音を立てながら、勿体をつけるようにジリジリと開いていく。数センチだけ開いたドアの隙間から、光とともに人の気配が漏れてきた。
男の声が何かを呟く。理解不能。中国語のようだ。
おれは唾を飲み込み、息を止めた。相手はまだ扉の陰にいる。こちらの意図が読めないだけに、迂闊には手が出せないのだろう。最初にして最後のチャンス。失敗は許されなかった。
張り詰めた緊張感のなか、ドアの向こうから再び声がした。さっきとは違う男の声だ。事務所の奥にいる誰かが、何か指示を与えたらしい。
ドア一枚隔てたところから声が聞こえた。
「──何してるですか? ここ日本人来るとこじゃない。出ていきなさい」
ぎこちなさの残る日本語。口調は丁寧だが、それは明らかに威しの言葉だった。逸る気持ちを抑え、なおも無言の行を続ける。
「そこにいるの、わかってますよ。返事しなさい」
──ギッ。
再びドアが軋んだ。とうとう痺れを切らしたらしい。恐る恐るといった感じでドアが開いていく。おれは取っ手を掴んで、それを思い切り手前に引き寄せた。
「──ウワッ」
驚きの悲鳴とともに、バランスを崩した男が飛び出してきた。すかさず彼の持ち物を確認する。
左手は取っ手を掴んでいたが、右手は警棒によく似た棒状のものを握っていた。右肘を蹴り上げ、その物騒な武器を払い落とす。そのまま背後に回り込み、喉元にバタフライナイフを突き立てた。
「ま、待て……落ち着け……」
狼狽する男を盾にしながら、ゆっくりと前に進み出る。躯が完全に中に入ると、背後で鋼鉄製のドアがバタンと音を立てて閉まった。第一関門突破だ。
室内に注意を向ける。二十坪程度の薄暗い事務所。書棚、ファイルラック、パソコン、プリンタ、コピー機、ファックス、デスク──オフィスとしての体裁は整っているが、機能しているようには見えなかった。書棚はガラ空きだし、デスクはいつでも卓球ができる状態になっている。
その閑散とした事務所の奥に、男が二人いた。一人はポロシャツにスラックス、もう一人はTシャツにジーンズというラフなスタイル。いずれも三十代の半ばくらいで、拍子抜けするくらい普通の壮年だった。
思い描いていた流氓のイメージとはかけ離れていたが、気を緩めるわけにはいかない。見た目や言動だけで他人を威圧し、面子《メンツ》を守ることを矜持《きようじ》とする日本のやくざとは違い、本物の中国マフィアは生活の中に溶け込んでいて、外見だけでは見分けがつかないという。末端はもちろん幹部でさえも表の顔と裏の顔を持っており、それを時と場合に応じて効果的に使い分けるのだ。そういう意味ではマフィアよりは秘密結社といったほうが、ニュアンス的には近いのかもしれない。
ポロシャツが立ち上がった。無表情の仮面を被って感情を押し殺してはいるが、瞳の奥では怒りの炎が燃え盛っている。人質を盾にしたまま近付いていくと、彼は面倒臭そうに口を開いた。
「そんな威しが通用すると思うか? 何が目的か知らんが、無駄なことだ。殺したければ殺せばいい。本人もそれを望んでいるはずだ。そうだな?」
流暢な日本語が室内に谺すると、人質の男が「そうだ……早く殺せ」と声を絞り出した。はったりとは思えない。組織の損失と兵隊一人の生命を秤にかければ、重いのは間違いなく組織の損失のほうだ。おれと同年代の小柄な人質は、自分の生命の価値を痛ましいほど自覚していた。
おれはその挑発を無視し、ポロシャツ男の暗い双眸を見つめた。年の割に貫禄が備わっている。
「……あんたが幹部か?」
「幹部? なんのことだ。押し入る先を間違えたんじゃないのか?」
「まあ誰だっていい……花梨を出せ。ここにいるのはわかってるんだ」
「カリン? 何のことだ? やっぱり何か勘違いしてるみたいだな」
ポロシャツは空惚けたが、口許に酷薄な笑みが浮かんだのを、おれは見逃さなかった。
「そうか……それなら仕方ない。勝手にやらせてもらおう」
人質の右腕を捻り上げ、前進を促す。仁王立ちするポロシャツの背後に、三階へと通じる階段が見えていた。あの先に花梨がいるはずだ。
「やはり痛い目を見ないとわかってもらえないらしいな」
ポロシャツが顎をしゃくると、Tシャツの男が右腕を突き出した。その手の先にあるもの──拳銃。銃口を向けられるのはもちろん、本物を間近で見るのも初めてだった。
不思議と恐怖心はなかった。あれに撃たれたら痛いだろうなと、他人事のように漠然と思っただけだ。
「それ以上進んだら容赦なく撃つ。先に言っておくが、こいつは軍隊経験者だ。狙撃に関しては右に出るものがいない。この距離ならその男を傷つけることなく、おまえだけを無力化することも可能だ。もっとも、そんな小細工を弄《ろう》する必要などないだろうがな」
ポロシャツがもう一度顎をしゃくると、Tシャツは銃を構えたまま横に動き始めた。背後に回ろうとしているようだ。
ヤツの動きに合わせて躯の向きを変える。圧倒的に分が悪かった。このままではポロシャツに無防備な背中を晒すことになる。大した武器もないのに相手が三人ではとても勝ち目はない。おれは声を張り上げ、最後の抵抗を試みた。
「──動くな。それ以上動いたらこいつの咽喉を掻っきるぞ」
Tシャツは動きを止めたが、その目に動揺の色はなかった。ポロシャツが含み笑いを漏らす。
「だから好きにしろと言ってるだろうが。遠慮はいらん。早く楽にしてやってくれ。そのほうがこっちも──ん?」
何かの気配を感じ取ったらしく、ポロシャツが唐突に言葉を切った。振り返って階段のほうに視線を向ける。三階から誰か下りてきたようだ。
「花梨? 花梨か?」
女の脚が見えた瞬間、おれは思わず叫んでいた。自由に動けるはずがないとわかっていながらも、確かめずにはいられなかったのだ。
しかしその脚の持ち主は、案の定花梨とは似ても似つかぬ女だった。派手に塗りたくったメイクに骨張った痩せぎすの躯。二十代のようにも四十過ぎのようにも見える。せっかくの美貌が、卑屈な目と頽廃的な物腰のせいで台無しになっていた。
幹部の愛人──そう気付いたときには、彼女の口から切迫した中国語が飛び出していた。かなり興奮している。ポロシャツもにわかに顔色を曇らせ、呻くように言葉を発した。
いったい何があったのか。花梨の身に何か起きたのではないか。
言葉を解せないもどかしさと、窮地に追い込まれたという焦燥感が、おれの不安を増幅する。敵はおれの心に生じたその一瞬の隙を、見逃さなかった。
それまでおとなしくしていた人質が、おれの腕の中で突然跳ねた。躯を大きく後ろに反らして、後頭部でおれの顔面を打ち据える。白濁する視界。乱舞する星々。
完全に虚を衝《つ》かれた。ヤツは器用に躯を捻って右手を振りほどくと、素早い動きで躯を沈めた。逃がすものかと伸ばした腕が、虚しく空を切る。
すべてがあっという間の出来事だった。錯乱したおれは、離れていくヤツの躯にナイフを振り下ろしていた。
空振り。自由を取り戻した肉体が、バネ仕掛けのように跳躍する。
くそっ、舐めやがって──本能と理性の乖離《かいり》。無意識の領域が、性懲りもなく次の攻撃を繰り出す。
ハッとしたときには手遅れだった。気配を察して顔を上げた瞬間、火を噴く銃口が目の中に飛び込んできた。
乾いた銃声、女の悲鳴、男の怒号、ドアの軋む音──。
花梨の身を案じる余裕も、自分の浅薄さを悔いる余裕も、短い人生を振り返る余裕もなく、ただ無条件に死の受け入れを傍観している自分がいた。
運命は本線に戻った。これで花梨も救われるはず──。
衝撃が胸を貫く。射撃の腕前に感嘆する間もなく、おれの意識は漆黒の淵の中へ飲み込まれていった。
15
瞼を刺激するまばゆい光が、心地よいまどろみを妨げる。全身を包み込む違和感。朦朧《もうろう》とした意識のまま、うっすらと目を開けた。
蛍光灯。白い天井。窓から差し込む陽光。
ここは、どこだ? 覚束《おぼつか》ない頭で考える。
次の瞬間、一気に記憶が甦った。
火を噴く銃口。激しい衝撃。掠れていく意識。
間違いない。おれは〈蓬莱公司〉で胸を撃ち抜かれた。あのときの衝撃はまだ生々しい記憶となって残っている。決して夢や幻なんかじゃない。
おれは、死んだのか──?
見知らぬ部屋。寝心地の悪いベッド。刺激性のある匂い。五感は生きているときとまったく変わらない。
そのとき、胸の辺りに差し込むような痛みを感じた。肉体を失った存在にはあり得ない感覚。明瞭な現実感を伴っている。
死んではいないようだ。
それにしても、と思い起こす。銃弾が胸を撃ち抜いたのは間違いない。至近距離から撃たれて、一命を取り留めるとは──。どこか腑に落ちないような気がしつつも、自分の悪運の強さに半ば呆れる思いだった。
あらためて室内を見回す。殺風景な六畳ほどの空間。ポツンと置かれたベッドの他には、テレビを収納した縦長の棚があるだけ。それはどこにでもある病室の光景だった。
彼らはなぜとどめを刺さなかったのか。あの後いったいどうなったのか。そして花梨の安否は──。いくつもの疑問が渦を巻いて湧き上がったとき、部屋の中に自分以外の存在を感じた。誰かいる。
「──よお、大丈夫か? 具合はどうだ」
聞き憶えのある太い声。動けることを不思議に思いながら、上半身を起こした。
謎のベールに包まれた男、鈴木。揶揄するような笑みを浮かべて、折り畳み椅子にどっかりと腰を下ろしている。
なぜこの人が? ますます混乱した。あのときの金を取り戻しにきたのだろうか。命拾いしたことを喜ぶ間もなく、不安と疑念ばかりが募っていく。少なくとも、死の淵から帰還して最初に顔を見たい相手ではなかった。
「状況がよくわかってないみたいだな……喜べ、おまえは助かったんだ。怪我も大したことなかった。今日にも退院できるそうだ」
大したことなかった? そんなはずはない。これが軽傷なら骨折はかすり傷だ。
彼の勘違いを無視し、声を絞り出した。
「え、と……ここは?」
「ここ? 見りゃわかるだろうが。病院だよ」
鈴木はそう言って、新宿区富久町にある総合病院の名を挙げた。救急指定の病院で、〈クラレンス〉のキャストも何人か世話になったことがある。
「……いつから、ここに?」
「昨晩からだ。運び込まれてから、かれこれ十二時間近くになる」
おれは首を捻った。昏睡状態で何日も眠り続けた、というわけでもないらしい。半日で退院できるのなら、確かに軽傷だ。
「大したことなかったって話ですけど、だましてるんじゃないでしょうね。確かおれ、胸を銃で撃たれたはずなんですが……」
「よく憶えてるな。その通りだ。おまえは胸を撃たれて気を失い、ここへ運び込まれたんだ」
「じゃあ、なんで……」
「こいつだよ。これがおまえの生命を救ったんだ」
鈴木はポケットから何かを取り出し、腕を伸ばして高々と掲げた。手のひら大のビニール袋。その中に得体の知れない物体が収まっていた。
奇妙に歪んだ金属片。一点の曇りもなかった白銀が、見るも無惨に引き裂かれている。ロゴの刻印はひしゃげて跡形もないが、それがZIPPOのライターだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
「おれもまさかとは思ったんだが、現実におまえがピンピンしてるんだから、これはもう信じるしかない。よほど悪運が強いと見えるな。いったいどんな魔法を使ったんだ?」
「……ひょっとして、ライターに弾が?」
「そういうことだ。あと三センチずれてたら、間違いなくあの世へ行ってた。医者も驚いてたよ、こんなケースは初めてだって。さすがに無傷というわけにはいかなかったようだが、口径が小さかったおかげで骨にも内臓にも異常はなし。しばらくは鈍痛が残るだろうが、放っときゃそのうち治るとさ。まさしく奇跡だな。マスコミが喜びそうな話だ」
違う。奇跡なんかじゃない。
シーツをギュッと握りしめた。花梨の意に背いて運命を元通りにしたつもりが、なんのことはない、彼女は周到にいくつもの予防線を張っていたのだ。結局おれは、彼女の手の内から抜け出せなかったということか。
ハッとした。そうだ、花梨は? 花梨はどうなった?
「花梨は? 花梨がどうなったか知りませんか?」
鈴木は口許を歪めたまま、潰れたライターをポケットに戻した。
「それが理由か?」
「理由? 何の」
「あそこに押し入った理由だよ。彼女を救い出すために、あんな馬鹿な真似をしたのか」
和やかな表情とは裏腹に、その声には非難の響きがあった。結果的に撃たれはしたものの、非は明らかにおれのほうにある。相手がどういう連中であろうと、犯罪をおかしたという事実に変わりはなかった。
どのみち一度は捨てた生命だ。今さら見苦しい言い逃れをするつもりはない。しかしすべてを打ち明けてしまう前に、もう一つ確かめておかなければならないことがあった。
「……あなたはいったい何なんですか? あんな格好で何してたんです」
鈴木は苦笑を浮かべた。
「麻取だよ」
「マトリ? まさか……麻薬取締官?」
「そう。だからおいそれと素性を明かすわけにはいかなかったんだ。実は鈴木って名前も……いや、この際名前なんてどうでもいいか。好きなように呼んでくれ」
麻薬取締官。厚生労働大臣の指揮監督下にある国家公務員。刑事訴訟法に基づく特別司法警察職員として、薬物犯罪にかかる捜査・情報収集活動を行い、逮捕権も有している。
道理で村瀬たちとも面識がなかったはずだ。彼が〈蓬莱公司〉の前でホームレスに変装していた理由も説明がつく。〈ブラックパール〉の見張りと面識があったのは、潜入捜査をしていたからに違いない。おそらく夢丸の流行に懸念を抱き、彼らの動静を窺っていたのだろう。
「……まったく、無茶な真似をしたもんだ。知ってたんだろ? あそこがどういうところなのか。大した算段もなく、ちゃちなナイフ一本で単身乗り込むなんて、丸腰で猛獣の檻に飛び込んでくようなもんだ。正気の沙汰じゃない」
改めて言われるまでもなかった。そんなことはおれ自身が一番よくわかっている。彼の苦言を聞き流し、目脂《めやに》を剥《は》ぎ落とした。
「……さっきの質問ですけど、答えはイエス≠ナす。理由は聞かないでください。たぶん話してもわかってもらえないでしょうから……それで、彼女はどうなったんですか? あそこにいたんでしょう?」
「心配するな。無事保護されたよ」
「無事? 本当ですか?」
思わず身を乗り出しかけると、胸の辺りがズキンと痛んだ。喜びというよりは、驚きに近い感情が胸の中を満たしていく。そのときになって初めて、おれは花梨との再会を半ば諦めていたことに気付いた。
「それで、花梨はどこに?」
「別の病院で手当てを受けてる。彼女のほうは出てくるのに二、三日かかりそうだがな」
胸をチクリと刺す別の痛み。嬲《なぶ》られ、辱《はずかし》められ、壊されていく花梨──固く目を閉じて、その心象を閉め出す。
「その……どんな具合なんですか、彼女は」
「体力をかなり消耗してるが、これといった外傷はなかった。おまえが想像してるような、手酷い扱いは受けてなかったらしい。ただ、躯の中を一度綺麗にする必要があって……」
「クスリ──ですか」
肩を落として確認を求めると、鈴木は小さく頷いて頬を引き締めた。
「クスリといっても、おまえが考えてるのとはちょっと違う。いわゆる麻酔薬の一種だ」
「麻酔? なんでそんなものが……」
「まだはっきりしたことは言えんが、おそらく自白剤として使ったんだろうな」
自白剤? 耳を疑った。ますますわけがわからない。
「どういうことです。ヤツらにとって重要な情報を、花梨が握ってたってことですか?」
鈴木は即答を避け、立ち上がった。軽々と持ち上げた椅子をベッドのすぐ側に置き、ドカッと腰を下ろす。
「……おまえ、どこまで知ってるんだ」
「どこって言われても……」
「楊さんの店がウラで何をやってたのかは?」
「海外から密輸したクスリを〈蓬莱公司〉に卸してる……」
末端にいる男を脅して仕入れた情報だけに信頼性は低かったが、デマではなかったようだ。鈴木は「その通りだ」と頷くと、口唇を舐めて言葉を続けた。
「しかしそこから金儲けの匂いを感じ取り、盲点をついて私利を貪《むさぼ》ってたヤツがいた。大倉だ。ヤツは仕入れの帳簿を書き換えてクスリをかすめ取り、それを自ら売り捌いて懐に収めてたんだ」
「でも、そんなことをしたらすぐにバレて──」
「いや、大倉はクスリの常用者で、すでに売人としてのキャリアもあった。不正に入手したクスリを売り捌く一方で、組織から割り振られたクスリを捌き、アガリを納める。誰も気付きゃしないさ。しかしヤツは、うっかりそのことを他人に喋っちまった」
「エリカ……ですか」
「そうだ。彼女はその話に俄然興味を示し、強引に協力を申し出た。しばらくは仲良くやってたみたいだが、あるとき二人の間に亀裂が生じた。何が原因だったのか知らんが、とにかく二人は喧嘩別れの形で決別し、今度は反目しあう関係になった。しかしここで、大倉は取り返しのつかないミスを犯してしまったんだ。携帯を奪われるという、致命的なミスをな」
「携帯……」
売人にとって携帯電話は命綱だ。極端な言い方をすれば、売人はもはや「人」である必要性を失っている。実質的には客との唯一の接点である携帯電話こそが、売人の役割を果たしているといっていいだろう。携帯をなくした売人は、その時点で売人としての存在価値を剥奪されるのだ。実際日本の暴力団においても、売人用の携帯は数百万円の単位で売買されているという。
待ち伏せ、強引な接触、悪質な嫌がらせ。ストーカーにしては度が過ぎていると思ったが、すべてはエリカから携帯を取り戻すためだったのだ。おれを利用したエリカにも腹が立ったが、それ以上にまんまと騙された自分の愚かさが情けなかった。
「……彼女が派手な販促活動を行ったために、大倉の不正は組織の連中にも露見することとなった。しかもヤツが扱ってたクスリは主に夢丸。日本人の間に夢丸が浸透するのを避けたかった組織は、制裁の意味も込めて大倉を抹殺したんだ」
「抹殺……」
「今頃は海の底か土の中だろうな」
「じゃあ、エリカを殺《や》ったのも──」
鈴木は眉間に皺を寄せ、小さく唸った。
「……実は、そこのところが今ひとつはっきりしないんだ。ヤツらにその意思があったのは間違いないが、おれの個人的な考えを言わせてもらえば、彼女を殺害したのはヤツらじゃない。ヤツらにしては手口が杜撰《ずさん》すぎる」
あのヒップホップ野郎もエリカの殺害に関しては組織の関与を否定していた。ヤツらはエリカの排除も予定していたが、何者かに先を越されてしまったのだろう。しかし、いったい誰が──?
「……大倉が犯人という可能性は?」
「組織は携帯が彼女の手に渡っていたことを知らなかったはずだ。大倉の口からその事実を聞き出し、用済みになったところで処分したのであれば、大倉には彼女を殺害するチャンスがない。まだ生きてるのならあり得ないこともないが、可能性は低いだろうな」
鈴木は淡々と言って口を噤んだ。狭い病室が沈黙で満たされると、血腥《ちなまぐさ》い話題を嘲笑うかのように、小鳥たちの囀《さえず》りが聞こえてきた。その声に耳を傾けながら、窓に切り取られた青空に視線を向ける。
何かが見えてきたような気もするが、とりとめのない思いは錯綜を招くだけだった。鈴木に視線を戻し、「エリカの件は後回しにしましょう」と先を促す。まずは花梨だ。
「それで、なぜヤツらは花梨を?」
「ああ、そうだったな……さっきも言った通り、結局ヤツらは大倉の携帯を取り戻せなかった。切り替えるのは簡単だが、大倉の携帯には顧客の電話番号がぎっしり詰まってる。そのまま捨て置くわけにもいかず、ヤツらは血眼になって携帯の行方を追った。調べ回っているうちに浮かび上がってきたのが、彼女──花梨だったというわけだ」
「なんで彼女が? 彼女は関係ない」
「わかってる。しかしどういうわけか彼女は、部外者が知るはずのない情報を知ってたらしいんだ。たとえ噂の域を出ない話であっても、ヤツらにしてみれば確かめないわけにはいかなかったんだろう」
花梨の特殊能力──ビジョンを見る力。エリカの悲惨な最期を知った花梨は、彼女に対して遠回しな警告を発した。ことによると花梨の働きかけは、一度や二度ではなかったのかもしれない。麗子ママには「説得力に欠ける」と一蹴されたが、おれの推理もあながち的外れではなかったようだ。
「その結果が拉致監禁、自白剤の強制投与というわけですか」
「そういうことだ。結局ヤツらは何も引き出せず、彼女の潔白を認めざるを得なかったわけだが、最初から生かして帰すつもりなどさらさらなかった。処分するか売り飛ばすかの算段をしていたところで、おまえが乱入してきたってわけだ」
内容はどうあれ、結果的にはあの暴挙が彼女を救うことになったらしい。押し入る直前──いや、撃たれて意識をなくす瞬間まで、ずっと自分の決断に疑念を抱いていたおれとしては、胸のつかえが下りるような気分だった。
夢丸を巡る思惑と権謀術数、そして花梨が拉致された理由については、これでいちおう得心がいった。しかしまだ肝心なことを聞いていない。
「……鈴木さんは、花梨が捕らわれてたことを知ってたんですか?」
「まさか。知ってたらもっと早い段階で踏み込んでたさ。秘密にしとく理由なんてどこにもない」
昏《くら》い光を宿す瞳からは、その奥にある感情を読み取ることはできなかった。警察と麻取の間に縄張り意識のようなものが存在するのなら、故意に情報を秘匿する可能性も充分考えられる。しかし彼の目はそれ以上の追及を拒絶していた。
「今までの説明は、すべてヤツらの供述から導き出した推論だ。勘違いするんじゃない」
「供述? 捕まったんですか? ヤツらは」
鈴木が当然だと言わんばかりに頷く。おれは言葉を継いだ。
「あのあと、いったい何があったんです?」
鈴木はいったんおれから目を逸らすと、軽く咳払いをして語り始めた。
「……おまえがあの中に入ってから、しばらく外で様子を窺ってたんだ。何をするつもりかわからなかったんで、迂闊には手が出せない。しかし五分経っても十分経っても、おまえが戻ってくる様子はなかった。さすがにこいつはヤバいと思い、仲間を伴って二階に向かったところ、突然銃声が聞こえたってわけさ。
慌てて踏み込んだら、銃を持って突っ立ってる男と、床にぶっ倒れてるおまえがいた。取り押さえると同時に警察に通報し、男のほうは殺人未遂と銃刀法違反の現行犯で即刻逮捕。銃器の捜索という名目で家宅捜索を行ったところ、二階から短銃が三丁、三階からは軟禁状態の女性が四人と、違法ドラッグ──夢丸が発見された」
「夢丸? やっぱり違法だったんですか?」
「二ヶ月ほど前に押収された夢丸を詳しく分析したところ、『麻薬及び向精神薬取締法』に抵触する成分が認められた。夢丸は歴とした違法ドラッグだ」
麗子ママの言った通りだった。これでヤツらの目論見は瓦解したも同然だ。
「残る三人もその場で逮捕され、今は新宿署で取り調べを受けてる。殺人未遂のほうは正当防衛が認められるだろうが、それ以外に関しては言い逃れる余地はない。いずれにしろ、あいつらはもう終わりだ」
不意にあの瞬間の光景が甦った。突然現れて、捲し立てるように何かを訴え始めた中国女。幹部の愛人と思しきその女に気を取られたせいで、おれは人質を取り逃がしてしまった。今にして思えばあれは、三階で監視カメラの映像を見ていた彼女が、鈴木たちの侵入を知らせていたのだろう。消えゆく意識の中で聞いたドアの軋みも、幻聴ではなかったのだ。
「あそこで張り込んでたのは、鈴木さんだけじゃなかったんですか?」
「……おれも含めて五人待機してた。いずれも麻取だ。実は、昨日おれたちがあそこに踏み込んだのは、おまえがあんな真似をしたからじゃない。強制捜査の手が入ることは、数日前から決まってたんだ。使いに出た下っ端が戻ってくるのを待ってたら、その前におまえが現れたんだよ」
下っ端──あのヒップホップ野郎のことだ。彼が戻れなかった理由については、さすがにまだ調べがついていないらしい。
「……じゃあ、おれがあんなことをしなくても、花梨は救出されてたってことですか?」
「結果的にはそういうことになる。だが、おまえの行為は決して無駄じゃなかった。踏み込むきっかけになったのは確かだし、銃刀法違反という事実があったからこそ、そのあとの捜査もスムーズに運んだんだ。行為そのものは褒められたことじゃないが、個人的には感謝してるよ」
複雑な心境だったが、後悔は感じなかった。運命という観点に立てば、結果論には何の意味もない。ここにある現実はおれが「動いた」ために導かれた帰結であって、「動かなかった」場合にはまったく別のシナリオが用意されていたはずだ。
おれも花梨も死なずに済んだうえ、クスリの販売拠点の一つを叩き潰すというおまけまでついた。花梨の顔を見るまでは実感が湧きそうもないが、結果を見る限りでは最高の結末と言えるだろう。
しかしおれの心は、窓の向こうに広がる青空ほどは晴れ渡っていなかった。胸の片隅にぽっかりと浮かんだ黒雲。済んでしまったこととはいえ、やはり頬被りをするわけにはいかない。わだかまりを残しておいたら、いつかきっと後悔する。
「……話を戻しますが、結局のところ、エリカは誰に殺されたんだと思いますか?」
鈴木は不本意そうに眉を顰めると、視線を逸らして小さく肩を竦めた。
「おれは麻取だ。そっちの捜査は警察に任せてある。必要な情報は提示してあるから、そのうち何らかの答えが出るはずだ」
「鈴木さんの個人的な意見で構いませんから、教えてください」
彼の表情は変わらなかった。
「……実は、容疑者は何人かに絞ったんだが、なかなかこれといった決め手がなくて、まだ考えがまとまってないんだ。それに、たとえ私見であっても、根拠もないのに個人名を出すわけにはいかない」
「じゃあ動機は? 大倉も組織も関与してないのに、なぜエリカは殺されたんです。私怨ですか? それとも単なる行きずり?」
「その可能性はもちろんある。だが殺されたタイミングを考えると、やはりクスリ絡みと考えたほうが自然だ」
「というと……?」
「仲間割れだよ。彼女は大倉と喧嘩別れしたあとも、携帯を使って商売を続けようとしてた。考えてみりゃおかしな話だ。携帯があれば注文は入ってくるだろうが、クスリはどうやって調達する? 彼女にそんなコネはない。そもそも一介のキャバ嬢に過ぎない彼女が、何の後ろ盾もないのに一人で売人を続けられると思うか?
彼女にはきっと仲間がいたはずだ。仲間というよりは、首謀者というべきかもしれんがな。大倉に接近して売人の真似事を始めさせたのも、携帯を奪い取ったうえで大倉と縁を切らせたのも、すべてそいつの策略だ。携帯さえ手に入れてしまえば彼女の利用価値はない。むしろ生かしておくことのほうが危険だと判断して、彼女の口を封じたんだ」
同感だった。確かにそう考えれば、彼女が自宅内で殺されていた理由も、大倉の携帯がいまだに見つからない理由も説明がつく。彼女は最も信頼を寄せていた人物に利用され、騙され、殺されたのだ。
「流氓と敵対関係にあって、クスリを調達できる人間……ということは……」
「三島組、あるいは五成会……その辺と関わりのあるヤツだ。もちろんこれといった確証があるわけじゃないがな」
三島組。五成会。新宿を根城にしのぎを削り合う暴力団だ。このところ大陸系のマフィアに押され気味だが、甘い汁を吸われるのをただ指をくわえて眺めてるような連中じゃない。この辺で流氓に一泡吹かせてやろうと、水面下で動いていた可能性は大いにある。
そのとき、思いがけない顔が脳裡に浮かび上がってきた。馬鹿な、そんなはずはない──懸命に拒絶するが、否定する要素はなかった。考えれば考えるほど、その直観が現実味を帯びてくる。
「……そいつは〈クラレンス〉にいるんですね?」
鈴木が怪訝そうに眉を顰める。
「なぜそう思う。心当たりでもあるのか?」
「だって鈴木さん、毎週店に顔を出してたじゃないですか。単にエリカの動向を窺うだけなら、何もあそこまでする必要はなかった。あえて指名を入れずに何人ものキャストを席に着かせたのも、情報収集のためだったんでしょ?」
鈴木は反論の言葉もなく、険しい眼差しでおれを睨み付けた。図星だったようだ。
目的のためには手段を選ばない卑劣な人間。そいつはおれの身近なところにいる。そう思うといても立ってもいられなかった。
考えることを放棄し、すべてを忘れ去ってしまいたい──逃避の二文字が頭にちらつき始めたとき、鈴木が腕時計を眺めやった。
「……そろそろ戻らなきゃならない。こう見えても結構忙しい身なんだ。ヤツらの取り調べもこれからが本番だしな」
鈴木が腰を浮かせた。それを呼び止め、ダメもとで災いの根源となった携帯電話の番号を教えてくれと頼んでみる。
「また何か企んでんじゃないだろうな」
そう釘を刺しながらも、鈴木は驚くほどあっさりと十一桁の番号を教えてくれた。
「通じるんですか?」
「電源は切られてないみたいだ。といっても、誰も出やしないけどな。登録された客からの電話じゃないと、取らないんだろう」
「電源が入ってるのなら、ある程度居所が絞りこめるんじゃありませんか」
「その番号は昨日判明したばかりなんだ。いずれ警察がやるんじゃねえのか?」
自分の携帯にその番号を打ち込みながら、ずっと感じていた疑問をぶつけた。
「麻取ってのはいつもこんなふうに、事件の背後関係を詳しく説明してくれるもんなんですか? 警察だったら絶対に教えてくれないと思うけど」
鈴木は「今回は特別だよ」と応えて苦笑を浮かべた。
「正直なところ、これ以上引っかき回されたくないんだ。中途半端な説明じゃおまえの気持ちも収まらないだろうから、あえてこういうかたちを取らせてもらった。昨日のことで懲りたと思うが、あらためて念を押しておく。二度とあんな馬鹿な真似はしないでくれ」
おれは曖昧に頷き、頭を掻いた。確かに筋は通っているが、それはあくまでも表向きの理由だろう。少なくとも〈ブラックパール〉の前でおれとアキラを救ってくれた背中には、もっと明確な意志があった。
「……ひょっとして、花梨に何か言われてたんじゃありませんか?」
ブラフをかけると、鈴木は一瞬言葉を失い、忌々しそうに舌打ちした。
「なんだ、知ってたのか」
「いや、そんな気がしただけです。いったい何を言われたんですか?」
「……十日ほど前、店で初めて彼女に会ったときのことだ。しばらくは他愛のない話題で盛り上がってたんだが、突然一人のチーフを指差して、そいつを──つまりおまえを、守ってくれと言い出した。
『あの人は正義感が強いんだけど、後先考えずに突っ走ってしまう傾向がある。トラブルに巻き込まれてるのを見たら、助けてやってほしい』──とね。
初対面の、しかも新顔のキャストにいきなりそんなことを言われて、おれは呆気にとられると同時に彼女の精神状態を疑ったよ。あのときは何のことだかさっぱりわからず、適当に相槌を打って誤魔化したんだが、まさかこんなことになるとはな……。
彼女の言葉を素直に受け止めてたら、おまえの暴走を食い止められたかもしれない。別に引け目を感じてるわけじゃないが、何もしてやれなかったことを悔やんでるのは確かだ。だからおまえにはすべて話しておこうと思ったんだよ」
花梨の特殊能力に気付いてる? 一瞬胸が高鳴ったが、その期待は次に続いた言葉で脆《もろ》くも崩れ去った。
「……それにしても、なんでおれが目を付けられたんだろ? 偶然ってのは恐ろしいもんだな」
16
鈴木が病室を立ち去ると、おれは大急ぎで身支度を始めた。鈴木がおれの覚醒を待っていたのは、昨日の経緯を確認するためではなく、事件の背景を説明するためだった。警察の事情聴取が始まったら接触するのが困難になると思い、おれが目覚めるのを辛抱強く待っていたのだろう。
鈴木が警察に連絡するとは思えないが、彼らがここへ来るのは時間の問題だ。軽傷で済んだことは当然知ってるだろうから、下手をすればそのまま拘束されるかもしれない。この期に及んでじたばたするつもりはないが、いま捕まるわけにはいかなかった。
昨日着ていた衣服に着替え、寝間着をベッドに押し込む。胸ポケットに穿《うが》たれた着弾の痕がなまなましい。隠しようがなかったので、力ずくで穴の開いたポケットを剥ぎ取った。
靴も履き替え、そっと病室を抜け出る。何人かの看護婦とすれ違ったが、見舞客とでも思ったのか、誰もおれに注意を払おうとはしなかった。
時折胸に激痛が走るが、我慢できないほどではない。外来患者でごった返す一階のフロアを抜け、おれは照りつける日差しに身を晒した。
決着をつけなければならない。
浅葱《あさぎ》色の羅紗《らしや》の上で、十個の玉が弾け飛んだ。ブレイクショット。会心の一撃は3番、4番、8番ボールをポケットに沈めたが、肝心の手玉もコーナーポケットに吸い込まれ、スクラッチとなってしまった。小さく舌打ちして散り散りになった玉を集める。一人きりだからこのまま続けても構わないのだが、なぜかそういう気分にはなれなかった。
下北沢のビリヤード場。プールバーなどとは決して呼ばせない、頑固なまでの古めかしさがある。剥がれかけた床板、色褪せたポスター、アルミ製の歪んだ灰皿。五年や十年といったレベルではなかった。
ポケットが六台にキャロムが二台。まだ昼前だからか、おれ以外の客は学生と思しきカップル一組だけだった。女のほうは初心者らしく、男が脂下《やにさ》がった顔で手ほどきしている。
ここを選んだのは正解だった。この状況なら周りの耳を気にすることなく話ができるし、たとえ相手がブチ切れたとしても、最悪の事態は免れるはずだ。
九つの玉を並べ終え、再びブレイクを放つ。ガキンと小気味よい音が羅紗の上を跳ね、十個の玉が乱舞した。2番と6番がポケットに落ちる。手玉はセンタースポットの近くで動きを止めた。反対側に回り込んで1番に狙いを定める。
〈クラレンス〉で働き始めるまでは毎週のように玉を突いていたが、最近は二ヶ月に一度くらいしかやらなくなった。忙しくなったからではなく、飽きたのだ。なんでこんなものにあれほど熱中したのかと、自分でも不思議に思うくらい醒めている。
しかし十分も経つと、おれは人を待っていることも忘れて、すっかりのめり込んでいた。一年前にできたことができなくなっている。それが無性に悔しかった。失われた勘を取り戻すため、おれは躍起になって玉を打ち続けた。
背中から声をかけられたのは、お得意のキャノンショットが決まって、9番ボールがコーナーポケットに飲み込まれた瞬間だった。
「──今の、狙ってたのか?」
振り返ると、眠そうな目をした安部が突っ立っていた。無地の白いTシャツにデニムの半ズボン。寝ぐせの残った髪と無精髭。庭先をぶらつくならともかく、街中を出歩くのに相応しい格好ではないが、彼にとってこの辺りはまさしく庭だった。安部のアパートはここから徒歩二分。おれがここまで出向いてきたのも、安部が「出てくのかったりいよ」と、下北で落ち合うことを望んだからだ。
「悪かったな、突然呼び出したりして」
「ホントだよ。なんでこんな朝っぱらからビリヤードなんか……」
安部は口を尖らせた。時刻はすでに十一時半を回っているが、おれたちにとってはまだ早朝にあたる時間帯だ。事実三十分ほど前に連絡を入れたときも、安部は惰眠を貪っていたらしく、なかなか電話に出てくれなかった。
「なんかわかったのか? 花梨ちゃんのこと」
安部が心配そうな目でおれを覗き込む。呼び出された理由がビリヤードだけではないことを、薄々感付いているのだろう。
「見つかるには見つかったんだが……」
「見つかった? どこにいたんだ、彼女」
「実は、しばらく監禁されてたんだ。昨日助け出されて、今は病院で手当てを受けてる」
「監禁? マジで? 誰がそんなことを」
それには答えず、おれはキューの並んだ壁を顎で示した。
「やらないのか? せっかくだから、ゲームしながら話そうぜ」
安部は何か言いたそうだったが、小さく頷いて壁に歩み寄ると、無造作にキューを選び取った。
「叩き起こしたことを後悔させてやる。1ゲーム千円でどうだ?」
「おれはいいけど……あとで泣きを見るのはおまえのほうだぞ」
「馬鹿言うな、それはこっちの台詞だ」
急な呼び出しに応じてくれた礼として、先攻は安部に譲った。タップにチョークを擦りつけ、キューを構える。その動きに無駄はなく、格好も様になっていた。
ブレイクショット──力強さはおれと互角だった。1番と4番、7番が台の上から消える。安部はどうだと言わんばかりの笑みを浮かべ、2番に狙いを定めた。的玉とポケットの間には9番が転がっている。反射角を考えればコンビネーションを狙えない位置ではなかったが、彼は無難に2番を沈めた。
「意外と巧いじゃないか。コールショットにするか?」
コールショット。撞《つ》く前に、どの玉をどこに落とすかを指定するやり方だ。フロックで勝敗が決するということがなくなるので、上級者が競い合う場面でよく用いられる。
「そんなことしたらおまえの勝ち目がなくなるだろが。面倒だからこのままでいいよ」
実際安部の腕はおれの想像以上だった。彼はその後も3番、5番を立て続けに落とし、おれに順番が回ってきたときにはもう、残りの玉は三つしかなかった。しかも狙うべき6番には巧みにセーフティがかかっている。
おれは当てるのが精一杯だった。安部は余裕の笑みを浮かべて6番を沈め、続く8番もねじ込んだ。
残るは9番。手玉からは少し遠いが、難しい角度じゃない。安部の技量なら目を瞑《つむ》ってでも入れられるはずだ。
おれはフットレールのほうに回り込んだ。ゲームに負けた人間は、次のゲームのために玉を並べなければならない。そこに立つということは、半ば勝負を諦めたという意思表示でもあった。
安部が慎重に狙いを定める。おれは何気なさを装って口を開いた。
「……花梨を監禁してたのは〈蓬莱公司〉だ。彼女から携帯の行方を訊き出そうとしてたらしい」
安部はキューをしごくのを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……ホウライコウシ? 聞いたことないな。ところで携帯って何の話だよ。最初から説明してくんなきゃわかんねえじゃん」
「ああ、そうだったな……じゃあ、ケリが付いたら説明するよ」
安部は頷いて再びキューを構えた。コン、と軽い音がして、タップが手玉を押し出す。
──カツン。
手玉から運動エネルギーを受け取った9番が、コーナーポケット目指してまっすぐ突き進んでいく。しかし次の瞬間、玉は意外な動きを見せた。ポケットの手前でクッションエッジに触れた9番が、イヤイヤをするように左右に揺れ動き、そのまま止まってしまったのだ。心の内奥に生じた細波が、コンマ数ミリのミスを招いたのだろう。
安部は小さく舌打ちすると、照れ隠しの苦笑いを浮かべた。
「余計な力が入っちまった……まあいっか。一つくらいハンディをあげないとな」
見苦しい言い訳。付き合う価値のない茶番。おれは難なく9番を沈め、安部に向き直った。
「……〈蓬莱公司〉は麻取の手入れを受け、全員逮捕された。おまえにとっちゃ朗報かもしれんが、夢丸が違法ドラッグに指定された今となっては、もはや何の意味もない。次はおまえの番だ。もう諦めろ」
安部はラックの中で玉を並べ替えながら、強張った笑みを浮かべた。
「何の話だ? さっぱりわかんねえよ」
「常連の鈴木さん……いるよな? 火曜深夜一時の男。チップの鈴木さんだ」
「それがどうした」
「知ってたか? あの人は麻取──麻薬取締官なんだ。おまえはとっくに目を付けられてる。もう逃げられやしない」
安部の顔色が変わった。目を見張り、頬を震わせている。
おれは安部から目を逸らし、キューを構えた。胸の裡に燻るさまざまな思い。それをタップの先に凝縮して、一気に放出した。
鈍い音を残して、九つの玉で作られた菱形が破砕する。2番がコーナーポケットに吸い込まれるのを見ながら、おれは言葉を継いだ。
「なぜおれを巻き込んだ? 大倉の排除をおれにやらせたのも、おまえの差し金だったんだろ? おれをはめようとしたのか」
安部はうっすらと微笑んだ。背筋が寒くなるような、狂気を孕んだ笑みだ。
「誰に何を吹き込まれたのか知らんが、いい加減にしろよな。そんな話をするために、わざわざ呼び出したのか?」
「……エリカは自宅で殺害された。直接の死因は絞殺だが、彼女はその直前に後頭部を鈍器で殴られてる。無防備に背中を向けるくらいだから、犯人はエリカとかなり親密な関係にあったんだろう。店の男でそうなる可能性がありそうなのは、おれを除けばおまえしかいない。矢崎は毛嫌いされてたからな」
「なんで店の男に限定するんだよ」安部は声を荒らげた。「客かもしれねえし、どっかで知り合った男かもしれねえだろ」
「すべては〈クラレンス〉から始まってるんだ。大倉しかり、梶井さんしかり、エリカしかり……。鈴木さんがあの店に目を付けたのも、夢丸の情報源を辿ってったら、〈クラレンス〉に行き着いたからに違いない」
「それだけ? たったそれだけの理由でおれを疑ってるのか?」
「五成会」
「五成会? 五成会がどうした」
「エリカは大倉と手を切った後も、奪った携帯を使って売人を続けようとしてた。しかし売人を続けるためには、クスリをどっかから調達しなきゃならない。あのエリカにそんな伝手があったと思うか? 流氓以外の外国人から、という手もないわけじゃないが、おれの知る限りじゃ彼女はそんなネットワークを持っちゃいなかった。となればあとは三島組か五成会くらいしかない。つまり、おまえだ。
おまえと五成会、どっちが考え出したのか知らんが、五成会の思惑はだいたい予想がつく。ヤツらは莫大な富を生むドラッグ市場に参入して、勢力の巻き返しを図ろうとしたんだ。しかしおおっぴらに動けばすぐ流氓にバレちまう。できれば衝突を避け、秘密裡にことを運びたい。そこでおまえを使うことにしたんだ。おまえは純粋な構成員じゃないから、万一流氓にバレても、五成会は知らん顔を決めればいい」
安部は無言だった。うんざりといった表情を浮かべてはいるが、動揺は隠しきれない。核心を突かれたのだろう。
おれは再びキューを構えた。手玉と1番を結ぶ線上に、5番と8番が転がっている。おれの技術ではとても手に負えない。空クッションで手玉を1番に当て、ファウルを免れるのがやっとだった。
「……もう一つ。クルミのことがある」
おれが言葉を継いでも、安部は反応を示さなかった。彼はこちらを見ようともせず、反対側に回り込んでキューを構えた。
「偽名を使ってメールを寄越し、何度かクスリを勧めてきたが、おれにその気がないとわかると、今度は正体を明かして接触を図ってきた。あれもおまえの指図だったんだろ? おれが事件の本質をどこまで見抜いてるか、探りを入れようとしたんだ」
安部はおれに背中を向けたまま、静かに手玉を撞いた。1番が音もなく台上から消える。おれは言葉を続けながら、安部に気付かれないよう、こっそりと携帯を取り出した。
「……どうやってクルミを手懐《てなず》けた? やっぱりクスリを使ったのか? もしそうならおれは、おまえを絶対許さない」
クルミは〈クラレンス〉で働いていたから、安部との面識は当然ある。彼女はおれと別れ、店を辞めた後も、安部と連絡を取り合っていたのだろう。クスリに手を出したきっかけが、おれとの別離だとは思いたくなかった。
「証拠もないのに犯人扱いか? どうしたんだよ、タクト……おまえ、イタすぎるぞ」
安部は虚勢を張りながら、慎重に狙いを定めた。手玉と3番、9番を結ぶイメージラインには、障害となる玉がない。コンビネーションで一気に片を付けるつもりなのだろう。
携帯の液晶画面に、さっき入力したばかりの番号を呼び出す。おれが通話ボタンを押した直後、安部はキューのしごきを止め、構えを決めた。
「……これを決めて帰るよ。おまえとの付き合いもこれまでだな」
安部がキューを押し出す。そのとき、彼の躯がビクッと震えた。
──カチィ
割れた竹を叩き合わせたような、情けない音が響き渡る。ミスキュー。手玉があらぬ方向へと転がっていく。
顔面を蒼白にしてズボンのポケットを押さえ付ける安部。ミスキューの原因はその中にある。執拗な痙攣は今も続いてるはずだ。
「それが証拠だ。データだけ吸い出してとっくに処分してると思ったんだが、まだ持ってたんだな……そんなに金儲けがしたかったのか?」
おれは携帯の電源を切り、安部に歩み寄った。大倉の携帯は決定的な証拠だ。どんな言い逃れも通用しない。
彼の形相が一変した。血走った目で憤怒と焦燥をあらわにし、手にしたキューを振りかぶる。咄嗟にうずくまったおれの頭上を、安部の投げたキューがかすめ飛んでいった。
背後で何かが薙《な》ぎ倒され、けたたましい音を立てる。向こうの台にいた女が、それに負けないくらいの大きな悲鳴を上げた。
顔を上げたときにはもう、安部の背中はドアの向こうに消えかかっていた。カップルと店員がその姿を呆然と見送っている。
後を追う気にはならなかった。それどころか、彼の逃亡を歓迎する気持ちさえあった。
最後に裏切られはしたものの、おれにとっての安部は、やはり気の置けない友人の一人だ。その思いはそう簡単に拭い去れるものではない。できれば諍《いさか》いは避けたかったし、彼を警察に引き渡すようなこともしたくなかった。
その思いは安部も同じだったに違いない。だからこそ彼はロクに反撃もせず、逃亡を図ったのだろう。
罪を償わせるべきなのだろうが、おれの気持ちは早くも醒め始めていた。エリカの殺害は大罪だが、エリカ自身に非がなかったわけじゃない。所詮自業自得だ。クルミのことについても、力ずくで引きずり込んだとは思えなかった。甘い言葉に惑わされた彼女が、興味本位でクスリに手を出したのだろう。
花梨を生贄にしようとしたことは許せなかったが、結果的に花梨は無事救出された。おれを巻き込んだのも、捜査の攪乱《かくらん》を図るためだったと考えれば説明は付く。エリカ殺しの罪を大倉に着せるために、おれを証人に仕立てようとしたのだ。
刑務所生活も逃亡生活も、贖罪という意味では大した違いはない。中国人の同胞意識や報復の恐ろしさを考えれば、むしろ自首したほうがよかったのではないか──そんな気さえする。
いずれにしろ、もうたくさんだ。疲労感が頭のてっぺんから爪の先までを埋め尽くしている。花梨が保護され、真相を突き止めた今となっては、犯人の糾弾などどうでもよかった。
視線が突き刺さる感覚。アルバイトらしき店員と若いカップルが、遠巻きにおれの様子を窺っていた。彼らの緊張を解くために、苦笑を返してやる。
倒れたテーブルを起こし、小さな黒板と灰皿、チョークを元に戻した。安部が投げつけたキューは、見たところ折れても曲がってもいないようだ。自分を見失いながらも、思わず手加減してしまったのだろう。いかにも彼らしい。
おれは壁のラックに歩み寄ってキューを収めると、その隣に自分の使っていたキューを押し込んだ。これでまたしばらく、ビリヤードから遠ざかることになりそうだ。
ドアが開く気配を感じたのは、玉を片付け終えて、帰り支度を始めたときだった。何気なくそちらに視線を向ける。
ワイシャツ姿の中年男が一人。どういうことだ? おれは混乱した。
だらしなく緩めたネクタイの上に、見覚えのある猿顔──代々木署の村瀬だ。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
わからなかった。なぜ村瀬がここにいるのか。おれを捕らえにきたのだろうか。しかし〈蓬莱公司〉の一件は新宿署が扱っている。村瀬は関係ないはずだ。
眼窩の奥からこちらを見据える双眸。険しい眼差しではあるが、そこにあるのは苛立ちや怒りだけではなかった。
「陰でこそこそ邪魔ばっかしやがって……そんなにイヤなのか? 警察に協力するのが。あやうく取り逃がすとこだったぞ」
それですべてを理解した。村瀬の目的は、おれの捕獲ではなかったのだ。
「じゃあ……安部は……」
「ビルを飛び出してきたところを取り押さえた。もう署に向かってる」
「いつわかったんですか? あいつが犯人だって」
村瀬は眉間に皺を寄せ、言いにくそうに目を逸らした。
「……実は、ついさっき通報があったんだ。おまえが間宮和江さんを殺害した犯人と接触する可能性があるってな。駆けつけてしばらくすると、果たして見覚えのある男が出てきた。安部だ。様子がおかしかったんで声をかけてみたら、ヤツは何を血迷ったのか、おれを押し倒して逃げ出したんだ。とりあえず公務執行妨害の現行犯で緊急逮捕したんだが……なあ、あいつが犯人なのか?」
鈴木だ。素性の知れない第三者からの通報で、警察がこれほど素早い動きを見せるはずがない。鈴木が必要最低限の事情を説明し、村瀬たちをここへ向かわせたのだろう。
おれの思惑は完全に読まれていた。帰ると見せかけておいて、おれの行動を監視していたらしい。道理で簡単に病院を抜け出せたはずだ。それとなく後ろを気にしたつもりだが、さすがは麻取、まったく気付かなかった。
「……今日は逃さないからな。おまえには訊きたいことが山ほどある。さあ、署まで来てもらおうか」
おれは素直に頷いた。別にどうってことはない。行く先が新宿署から代々木署に変わっただけのことだ。
身柄送検、勾留を経て不起訴処分となり、晴れて自由の身となったのは、逮捕されてから四日目の昼のことだった。正確には「起訴猶予」らしいが、詳しいことはわからない。悪いのはどう見てもヤツらのほうだし、おれ自身も銃で撃たれたから、裁判に持ち込むほどではないと判断されたのだろう。
とはいえ、新宿署のみならず代々木署の刑事にまでさんざん絞られ、おれは心身共にかなり困憊《こんぱい》していた。おかげで警察嫌いは直らずに済んだが、店を休むなという麗子ママの言い付けは守れなかった。安部も抜けてしまったから、店は大変だったに違いない。悪態をつく梅島の顔が目に浮かぶようだ。
新宿署を出たおれは、その足で駅に向かい、中央線に乗り込んだ。西国分寺駅で電車を降り、南口からタクシーに乗り込む。行く先を告げると運転手はチラッとこちらを見たが、結局その口が開かれることはなかった。
府中街道を南下すること十分。右折して百メートルほど走ったところが目的地だった。広大な敷地に鬱蒼とした緑が広がっている。エントランスの前でタクシーを降りると、爽やかな薫風が首筋を通り抜けていった。昨日までの蒸し暑さが嘘のようだ。
府中武蔵病院。精神・神経科専門の病院だ。
〈蓬莱公司〉から助け出された花梨は、外傷よりも精神的ダメージのほうが大きく、また自白剤として投与されたのが麻酔薬ということもあって、この病院で検査・治療を受けているらしい。
入院してすでに五日。思ったより時間がかかったが、新宿署の刑事によると、今日にも退院できるそうだ。おれは受付に歩み寄り、花梨の病室を確認した。
二階の218号室。逸る気持ちを抑えて階段を上り、廊下を進む。
218号室のドアは全開になっていた。覗き込むまでもなく、ベッドは空だ。念のため中に入ってみたが、やはり誰もいない。カーテンが虚しくはためいていた。
部屋を離れているだけなのだろう。サイドテーブルには雑誌やお菓子などが所狭しとのっかっている。よく見ると珍しい果物や綺麗な花束もあった。久美かキコあたりが見舞いに来たのかもしれない。
それにしても、花梨はどこへ行ったのだろう。トイレだろうか。
風に乗って笑い声が聞こえてきた。外からだ。部屋を横切り、窓の向こうを眺めやる。
そこはちょっとした広場になっていた。目にも鮮やかな緑色の芝生。陽気に誘われた数人の患者たちが、思い思いの格好でくつろいでいる。
広場にいるのはすべて男性だった。ほとんどが四十代、五十代の中年だ。その光景はおれの知る公園の昼下がりと何ら変わらなかったが、一人ひとりをよく観察すると、やはり健常者とは何かが少しずつ違っていた。
彼らを見ているのが辛くなり、視線を移した。広場の片隅。木陰のベンチに若い女性が座っている。見憶えのある横顔に、木漏れ日が揺らめいていた。
──花梨だ。
おれは病室を飛び出し、階段を駆け下りた。場所はわかっているのに、あそこまでどうやって行くのかわからない。通りかかった看護婦を呼び止めた。
「広場? ああ、裏庭のことですか。その奥に外へ出る扉がありますから、そこを出て左に行けばわかりますよ」
礼を言い、言われた通りに進んだ。スリッパのままだったが、それに気付いたのはずっと後のことだ。
裏庭の光景はさっきと変わっていなかった。一人二人入れ替わったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。おれの目には花梨の後ろ姿しか映っていなかった。
芝生の端を通り、木陰のベンチに向かう。降り注ぐ木漏れ日が、おれのシャツにまだら模様を描いた。
気配を察した花梨が、ゆっくりとこちらを向く。大きくて真っ直ぐな鳶色の瞳が、おれを認めてさらに大きく見開かれた。
一陣の風が吹き抜け、花梨の髪を乱した。
「……今日退院なんだろ? ずいぶんのんびりしてるじゃないか」
努めて明るい声を出した。言いたいこと、訊きたいことは他にいくらでもあったが、今はあまり余計な刺激を与えたくなかった。
「まさかホントに来るとは思わなかった。大丈夫なの? 怪我は」
花梨は驚きの表情を引っ込め、屈託のない微笑みを浮かべた。口許が綻び、眩しい八重歯が覗く。よかった。元気そうだ。おれは胸を撫で下ろした。花梨は入院中に事情聴取を受けている。おれが迎えに来ることも、刑事から聞いていたのだろう。
「……まだ少し痛むが、大したことはない。あのライターのおかげだよ」
花梨は「よかった」と小さく呟くと、再び広場に視線を戻した。約束を破ったことを詰《なじ》られるに違いないと思っていたが、そんな様子は微塵も感じられない。おれはやや拍子抜けした気分で、話を元に戻した。
「……で、退院は? まだ帰れないのか」
「許可は下りたんだけど、二時までは居てもいいって言われたから……急いで帰っても別にすることないし」
おれが迎えに来るのを待ってた──そう思うのは自惚れだろうか。しかしいつもの憂いを取り戻した横顔からは、本心を読み取ることはできなかった。
花梨は広場でくつろぐ患者たちの様子を、慈母のような目で見守っている。見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、ときに虚構と現実の区別がつかなくなり、周りから変人扱いされる彼ら。少しでも歯車が狂っていたら、花梨も同じ立場になっていたはずだ。彼らが直面している現実に、彼女は自分の姿を投影しているのかもしれない。
躯の具合は? 仕事はどうする? エリカに何を言った? ヤツらに何を訊かれた? おれは運命を変えることができたのか?
いくつもの疑問が溢れてきたが、それを確かめたいとは思わなかった。気が向けばそのうち話してくれるだろうし、話してくれなくても一向に構わない。
問題は今後のことだ。
ずっと心地よい沈黙を共有していたかったが、時間は止まってはくれない。そろそろ帰り支度を始めないと、リミットの二時に間に合わなくなる。
それを告げようとすると、花梨が思い出したようにおれのほうを振り向いた。まるで心が通じたみたいだ。
「……家まで送ってくれるの?」
「もちろん。そのために来たんだから」
花梨は気恥ずかしそうな笑みを浮かべて、おれから目を逸らした。名残惜しそうに広場を眺め回し、ゆっくりと立ち上がる。
歩き出そうとしたとき、彼女の足が雑草に搦め取られた。そのままバランスを崩し、おれのほうへ倒れ込んでくる。
〈クラレンス〉の待機室。初めて言葉を交わしたあのときと同じだ。記憶がフラッシュバックする。
ひんやりとして吸い付くような肌。柑橘系の仄かな芳香。
──あ、おめでとうございます。
彼女の顔を覗き込んだ。見開かれた瞳の奥に、戸惑いの色が見える。
「何が見えた?」
腕を掴んで詰め寄る。済んだことを今さら蒸し返しても仕方がないが、今後のこととなれば話は別だ。
「どうせ一度は捨てた生命だ。何を言われても驚きやしない。頼む、話してくれ」
マジな顔で懇願すると、花梨は口許に拳をあてて吹き出した。
「ごめんごめん。そういうんじゃないの。タクトが辞めるのなら、私も辞めちゃおっかなって思って。いつまでもあんなこと続けてらんないしね」
明るい笑顔にほっとしたのもつかの間、おれは眉を顰めて聞き返した。
「辞める? 辞めるって……なにを?」
「決まってるじゃない、お店よ、当座をしのぐくらいのお金はできたから、そろそろ足を洗おっかなって思ってたの。私、ほんとうはああいうの苦手なんだ。とっくに気付いてたと思うけど」
「辞める? 〈クラレンス〉を?」
愕然とした。おれには彼女を引き止める権利などないが、できることなら考え直してほしかった。花梨のいない〈クラレンス〉なんて──いや、そうじゃない。彼女はその前に何か言ってなかったか?
思い出した。花梨は何か勘違いしてる。
「おれが店を辞めるだって? 誰がそんなこと言ったんだ」
花梨は苛立たしげにかぶりを振った。
「見えたの。そう遠い先の話じゃないよ」
思い当たることがあった。麗子ママとの約束──無断欠勤なんかしたら、ただじゃおかないからね。
くそっ、おれはクビになるのか。確かに約束は守れなかったが、ママならきっと許してくれると思ったのに。
携帯が鳴った。液晶の表示──アキラ。
花梨に目配せして通話ボタンを押す。
「──はいよ」
「タクトか。今どこにいる?」
「府中だ」
「府中? なんだってそんなところに……まあいいや。ところでおまえ、音楽関係に詳しかったよな」
「音楽関係? インディーズとかR&Bとかなら、おまえのほうがよっぽど詳しいじゃねえか」
「そうじゃなくて……三丁目に〈CLOUD〉っていうバーがあるだろ?」
〈CLOUD〉。モルトの品揃えとピアノの生演奏が評判の、大人向けのバーだ。
「ああ、知ってる。それがどうした」
「専属のピアニストが脳梗塞で倒れちまったんだ。そんで代わりのピアニストを探してくれって頼まれたんだけど、おれ、そっち方面ウトいからなかなか使い物になりそうなヤツが見つからなくって。誰か知らねえか? ピアノが弾けてそれなりに礼儀を心得てるヤツ。若くて見た目もよけりゃなおさらいい」
ハッとして花梨を見つめた。
──『ピアノ、練習しといたほうがいいですよ』
あのときのメールはこのことを指していたのか。
悪戯っぽく微笑む花梨。そのときおれは、胸の奥で押さえつけられていた衝動が、奔流となって沸き上がってくるのを自覚した。
──弾きたい、弾きたい。
BGMでも酒の肴でもなんでもいい。とにかくおれは、今の素直な気持ちをピアノにぶつけたかった。誰かに──いや、花梨に、おれの演奏を聴いてもらいたかった。
自分の心境の変化に驚く。以前のおれなら「ピアノ」と聞いただけで耳を閉ざしていたはずだ。とっくに涸れたと思っていたピアノへの思いが、まだこんなにも残っていたなんて。
「……一人だけ心当たりがある。いつまでに連絡すればいい?」
「できれば今日からでも出てほしいんだ。早ければ早いほどいい」
「わかった。三十分以内に連絡する」
電話を切って花梨に向き直る。
花梨は屈託のない笑顔でおれの視線を受け止めた。
「聴きに行ってもいい? タクトのピアノ」
おれは小さく頷いた。
「もちろん、その代わり、居眠りなんかするんじゃねえぞ」
特殊な能力を持つ女、花梨。
しかしそんな特別な力に頼らなくても、花梨には他人を救う力が備わっている。彼女はそのことに気付いているのだろうか。
花梨、今度はおまえを、過去の呪縛から解き放ってやるからな。
おれは心の中でそう誓うと、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。
[#改ページ]
●第20回サントリーミステリー大賞の選考経過[#「●第20回サントリーミステリー大賞の選考経過」はゴシック体]
一九八一年、サントリー、文藝春秋、朝日放送の三社により設立されたサントリーミステリー大賞は、今年で二十回目を迎えました。今回をもってその歴史に幕を閉じる本大賞に、本年は全国から二百八十六篇の力作が寄せられ、数次の予備選考を経て、鈴木凜太朗「視えない大きな鳥」、中野順一「セカンド・サイト」、藤森益弘「春の砦」の三作品が最終候補として残りました。
恒例の公開選考会は去る二月十九日、サントリーホール・小ホールを会場として行われ、浅田次郎、逢坂剛、北村薫、篠田節子、藤原伊織の五人の選考委員が白熱の論議を展開した末、大賞に「セカンド・サイト」、公募と作文審査による委員と、各大学のミステリー研究会の代表からなる五十名の読者選考委員が選出する読者賞に「視えない大きな鳥」が、そして優秀作品賞に「春の砦」が決定いたしました。
サントリーミステリー大賞運営委員会
単行本 二〇〇三年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年四月十日刊