世界史の十二の出来事
中野好夫
[#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)]
目 次
ある悲喜劇役者 ラッサールの死
沙漠の叛乱 アラビアのロレンス
蒼竜窟 河井継之助と北越戦争
恐るべき児 悪魔ウィルクス
一粒の麦 奴隷解放の殉教者ジョン・ブラウン
血の決算報告書 ロスチャイルド王国の勃興
狂信と殉教 怒りの予言者サヴォナローラ
世界最悪の旅 南極のスコット
聖者と悪魔 大審問官トマース・デ・トルケマーダ
北方の悍婦 女帝エカテリーナ二世と寵臣たち
芽月十六日・熱月九日 ダントンの死からロベスピエールの死まで
最初の世界市民 トマス・ペイン
ローマ殺人事件 チェンチ家の人々
初出誌等一覧
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ある悲喜劇役者
――ラッサールの死――
一八六四年七月も、なかばをすぎたある午後。
かれこれもう二週間というもの、リギは、くる日もくる日も終日雨ばかりであった。今日もやっと雨だけはやんだが、暗澹とした雨雲は、相変らずまるで濡れ毛布のように低くたれさがり、ミルクのような濃い霧が、ほとんど眼の前にさし出された指先をさえ、隠さんばかりにたれこめていた。
うちつづく遊説旅行に、身も魂もともに疲れはてたフェルディナンド・ラッサールは、ようやくこの数日、スイスはルツェルン湖に近い風光明媚のこの鉱泉に、休息を求めて滞在していたのだったが、ことさらその神経をいらだたせようとでもいうかのように、毎日の天候は、彼の孤独感をいよいよやり場のないものにするばかりだった。数年前、彼がその主著『既得権の体系、実定法と法哲学との宥和』を執筆中の無理からえたリュウマチの再発か、身体の節々が、またしてもひどく痛んだ。
裕福なユダヤ商人の家に生れたラッサールが、この景勝の地を訪れたのは、もうこれで幾度目だったろう? はじめはまだ学生のころ、級友のヴォルフとであった。まだ血管には、どうかすればはずみだしそうな青春の生命が脈うっていた。いっしょに山にも登った。まるでそれは彼の野心の一つ一つを征服していくような歓喜であった。だが、もうそのヴォルフもいない。それから両親と来たこともあるが、その父親も、いまはすでに故人になっていた。
だが、なによりも思い出の深いのは、もちろん彼にとってあの第二の母親ともいうべきハッツフェルト伯爵夫人とともに、やはり幾度か、このおなじ宿の窓から眺めた、はるかアイガー、ユングフラウの峻峰、そしてまた大きく、崩れ落ちるようにルツェルン湖へと傾いている、雄大な緑の景観であった。
それにしても、なぜこうひどく気が萎えるのだろう?
彼は窓際の椅子から立ち上って、じっと鏡の前に立った。三十九歳――まだもちろん老いこむ齢ではない。鏡の中にうつった姿も、けっして老いの名をもって呼ぶべきものではなかった。ちぢれた鳶色の髪、高い前額、濃碧の眼、釣りあいのとれた形のよい鼻、口、円い顎、――かつてまだ二十三歳という青年の身で、あのハッツフェルト伯爵夫人をめぐるいっさいの権力――貴族、門閥、官僚、そして軍閥――を敵として、九年間にわたる、それこそ英雄的闘いを闘いぬいた任侠の闘士、美貌の伊達男《だておとこ》フェルディナンドの面影は、まだそのままそこにあった。濃い碧い瞳などは、その後十数年にわたる弾圧の風雪をはね返して、むしろいっそうの鋭さと光とを加えているくらいであった。
だのに、なぜかどうにもならないこの心の弱り、――まるであの狂気のようにわいた闘魂と野心は、いったいどこへいってしまったのだ?
われながら不思議だった。
考えてみると、理由は一つとしてないのだ。そうだ、いまやお前は栄誉と名声との、ほとんど絶頂にいるはずではないか? 彼はわれとわが胸にいい聞かせてみた。
一八六三年五月二十三日、――まだ一年と、ほんのわずか前だが――ハンブルク以下十一都市の労働者が、それぞれの代表者を送り、ライプチッヒでの大会で記念すべき全ドイツ労働者同盟の結成に成功した。そして彼らは、ラッサールの起草にかかる綱領規約をそのまま採用したばかりか、さらに彼の頭上に、任期五年間という輝かしい初代総裁の栄誉をさえ、満場一致をもって贈ったではないか! 最初若い彼を社会主義革命思想へと導いてくれたマルクスとは、すでに理念的にも離れていたが、華々しい名声(虚名?)では、むしろその師をしのぐものすらあった!
それから改めて、彼のうちつづく支部遊説の旅がはじまったのだ。現にこの春も五月から七月にかけて、ライプチッヒ、デュッセルドルフ、ゾーリンゲン、ケルン、ロンスドルフ等々と、ライン諸都市への旅がつづいた。
人気という点だけからいえば、成功は圧倒的であった。市という市は、さながら凱旋将軍でも迎えるかのような熱狂ぶりをしめした。緑門《アーチ》、花環、讃辞、歓呼、――そうでなくても強烈な彼の虚栄心を刺激する、いっさいのものがそこにあった。行く先々の市に、彼を囲んで組合歌《ブンデスリート》の高唱がわいた。老いも若きも、労働者たちは、彼の馬車を取り巻いて、ひしめいた。われらが戦士、救い主! 若い女工たちは、あらそって崇敬の花束を投げた。母親たちは、この「人民の王」を、せめて一目でも見せてやりたいというので、その幼児たちを高々と肩の上に抱きあげた。
――われわれは、断乎として全意志を結集しなければならない。しかしその鉄槌を、われら同志は、その智、その意志、その性格において、もっとも信頼しうる人間の手にゆだねなければならない。彼は、やがて鉄槌をあげて、粉微塵に敵を粉砕し去るであろう!――わきおこる歓呼、そして歓呼のどよめき、天成の煽動家として許された彼の舌端は、いよいよ鋭く火と燃えた。
歓声を聞きながら、ラッサールは、いつのまにか、あの長く待ちのぞんだ鉄槌が、ついにいよいよ彼の手のなかに握られているかのような錯覚におちいっていた。なんというそれは、すばらしい一撃だろう! だが、だが――それにもかかわらず、敵は強力であった。
全ドイツ労働者同盟結成の日、ひそかに彼が期待していた幻影は、日ならずして達成されるであろう。十万の組合員と、そしてその事実が彼にあたえるであろう強大な政治的権力ということであった。彼の頭には、おなじく独裁的権力者としてのビスマルクの面影が去来していたのだ。
ある悲喜劇役者 だが、表面の華やかさにもかかわらず、その後の事実は、いたずらに彼の期待を裏切るものばかりであった。同盟の態勢そのものが、意外に伸びなやんだ。労働者の未自覚ということもあったろう。同志たちの非協力ということもあったろう。だがしかし、最大の原因は、実にラッサール自身の性格の中にあったのであり、しかも悲劇の皮肉は、彼自身そのことに、完全に気づいていなかったということである。
そういえば、奇怪なまでに矛盾をはらんだ性格であった。
本能的ともいうべき正義感。権力者、圧迫者への叛骨、弱者への任侠。その意味で、彼が終生人民のために献身した理想そのものは、手段の欠点にもかかわらず、まぎれもなく高貴、純粋なものであり、行動もまた大胆きわまるものであった。だが、その半面――彼の虚栄心、名誉欲は、いわば宿命の痼疾といってもよかった。さらにもっとも悪いことは、いかに同志協力者といえども、一切その反対者をいれないかわりに、子供だましのような阿諛へつらいにすら簡単に乗じられる、その独裁者的偏狭さであった。
失望は焦躁にかわった。局面の転換をはかるために、いかに戦術上の権謀とはいえ、前年一八六三年の冬から春にかけて、むしろ彼の方から積極的に、款《かん》をプロシャ的保守反動権力の象徴ビスマルクに通じたというのは、彼のいわば最悪の性格面を露呈したものといってよかった。
焦躁は、やがて倦怠に定着した。
政治的実践そのものが、妙に白々しくうとましいものに思えるのだった。知的貴族主義者でもある彼のもう一つのペルソナが、われにもなく顔をだすのである。そうした倦怠のある日のこと、彼がある年少の崇拝者に語ったという言葉がつたえられている。
――僕はね、このままアジ運動をつづけて行こうというには、かなりの克己心がいると思うのだ。ところで、そのためには、僕の全時間、全エネルギーを傾けつくす必要があるとしてだが、もしそれが書斎のなかだけから指導できるものであれば、僕はちっとも苦になんかしないつもりだ。だが、あのろくに呼吸もできないような外気のなかで、何千人という人間を相手にしゃべること、それからあの歓呼に一々こたえることには、実際もうたまらなくなることさえよくある。肉体的接触という奴は、僕にはまっぴらだ。労働者代表なんて、思ってもゾッとする。だが、それもみんな我慢しなけりゃいけないんだね。――
もちろんこれは社会主義者ラッサールの言葉ではなかった。だが、こうしたユダヤ的個人主義者、知的貴族もまた疑いもなく彼のなかにいたのだった。
焦躁と疲労と倦怠――そうした錯雑した気持をいだいて、七月十五日、思い切って彼はフランクフルトを後にしたのだった。
目的はアルプスの麓のリギ鉱泉、ただむしょうに一人になりたかったのだ。
彼は、ふたたび投げ出すように、椅子に身をうずめた。
予期とはちがって、心は少しもはずまなかった。たしかに天候も悪かった。だが、それよりも一人きりでいることが、かえっていけなかったのだ。この数日、日の目というものを見たことがない。晴れ間のない霧が、咽喉《のど》や肺に妙にこたえた。深い悔いにただいらいらするばかりであった。
――一人旅がいけなかったのだ。俺の性にあわないのだ。――彼は低く、呟くようにいった。そんなとき、おのずと思いだされるのは、またしてもハッツフェルト伯爵夫人のことであった。
二十歳年長、したがってもう六十に近いゾフィー、――考えてみると、すでに二十年に近い不思議な宿命のつながりであった。
彼が友人を介して、はじめてハッツフェルト伯爵夫人ゾフィーを知ったのは一八四六年、彼がまだベルリン大学の学生時代であった。フォン・ハッツフェルト家は、ドイツ貴族の中にあっても屈指の名門、嘘のような巨富を擁し、その政治的権勢には、したがって恐るべきものがあった。だが、十七歳で伯爵家若夫人になったゾフィーは、まもなく世にも不幸な女性として、彼女自身を発見しなければならなかった。理由は、夫の放蕩に原因する、心身ともに極度の虐待であった。結婚生活十四年、すでに数人の子供さえあるにもかかわらず、彼女はついに離婚を決意した。そしてその法律相談を持ちこまれたのが、ラッサールの友人、若い判事補である某であった。
ところが、事態は意外な発展をたどることになった。たまたまこの離婚話を聞かされた青年ラッサール、法律家でもなんでもない、一介の哲学書生にしかすぎぬ彼が、いっさい引っつかまえて横取りしてしまったのである。
以来、実に九年間にわたる英雄的闘いがはじめられた。こと闘いということになると、夫人の立場を有利にするためにとった彼のやり口は、もはや手段をえらばない、執拗きわまるマキァヴェリスト的権謀のそれであった。夫ハッツフェルト伯爵の身辺にたいして加えた彼の攻撃は、スパイ、買収、監視、譎詐《けつさ》、ほとんどいたらざるものがなかった。なかでも有名なのは、その友人某をたきつけて、伯爵情人の金箱を盗ませた事件であった。目的は、てっきりそのなかに伯爵から情人あての財産譲渡証明書が秘められているものとにらんで、それが入手をはかったのであったが、ことは発覚して、友人たちとともに、彼もまた投獄の憂き目をみた。
だが、このときの法廷闘争こそ一世の観物《みもの》であった。検事にたいして、彼の態度は終始、被告というよりも、むしろ告発者のそれであったといわれる。これが、最初は法律になど完全にズブの素人だったという一白面青年の奮闘だったのだからおどろくが、長い闘争の九年間は、一八五四年になってついにラッサールの勝利に終った。そして彼は、美貌、富貴の伯爵夫人の絶対的信頼と、毎年四千ターレルという感謝の報酬金をもあわせ獲《え》たのであった。
なぜこの離婚問題に、彼がその終生の目的であった哲学研究をまで放擲して献身したか、理由はいろいろに推測されている。
事件のなかに、すばやく彼が虚栄心と権勢欲満足のための絶好のチャンスを見てとったというのも、たしかに一つの真実であろう。現にこれによって彼の名は、たちまち全ベルリンに高まったばかりか、彼のもっとも好む貴顕社会への接近のみちを、一朝にして開拓してくれたからであった。
だが、それだからといって、はたしてそれだけですべてがわり切れるものであろうか?
ユダヤ人出身という劣等感もおおいにあったろうが、異常とおもわれるまでの狂熱的な正義感もまた、少年時から彼のまぎれもない特徴の一つだった。彼が十四歳の日記に残している、「現在の悲境からユダヤ人を救いだすためには、生命を捨ててもよい。ユダヤ人をふたたび尊敬される民族にするためには、あえて断頭台も辞するものでない」という一節は、三つ児の魂百までとでもいうか、そのまま彼の一生をつらぬいた、ややもすれば抑制を欠く、奔馬のような叛骨精神のそのまま主導音であったといってもよい。おそらく彼の眼には、ハッツフェルト伯爵とその支持者たち、それらがすべて圧制者、迫害者、搾取者の権化、いや、さらにすすんでは、いっさいの悪の結晶としてうつっていたのかもしれぬ。後年、彼がある女性にあてて書いた長文の告白書簡のなかの言葉を、これまたある程度すなおに受けとっていいのではなかろうか。
いずれにせよけっして単純な動機だけではなかった。理想と計算と、正義感と名誉心と、叛骨と権勢欲と、――そうした、それ自身では完全に矛盾したものが、彼自身にも判別しがたいまでに錯綜していたというのが、おそらく真実であろうし、また事実そうした人間がラッサールそのものだったのである。しかも、さらに驚くべきことは、これより早く一八四四年ごろには、すでにはっきり社会主義者であり、急進運動の果敢な指導者として、投獄の経験さえもなめていたのである! 同年突発した有名なシレジアの織工暴動に関しては、「これは貧者の富者に対する戦いの端緒であり、理論的にも実践的にも共産主義の最初の活動である」と、正確に事件の歴史的意義をとらえているばかりか、やはりおなじ年に書かれた、いわゆる「工業書簡」では、今日でこそ批判の余地はあれ、とにかく明確に資本主義の終焉をみとおし、共産主義の必然を哲学的に基礎づけてさえいるのである。
閑話休題、この事件によって、このユダヤ人青年学徒と名門貴族の女性との間に、もはや切りはなすことのできぬ宿命的つながりができあがったのは、当然であった。彼はこの二十歳年長の夫人を、終生「第二の母」と呼びつづけ、彼が不慮の死の日まで、不思議なほどに形影あいともなっている。彼が最後まで独身(すくなくとも形式上は)をつづけたこととあいまって、両者の間のスキャンダルがしばしば問題になったのは当然だが、そのどこまでが真実であったかはわからない。が、かりにもし真実であったとしても、案外深いものではなかったというのが、むしろ真相なのではあるまいか。すくなくとも彼女の夫が、つねにラッサールの恋愛問題の相談相手であったという奇妙な一事は、すくなからずこの推測を裏書するものであろう。
心屈したときいつもするように、ラッサールは、彼の前に紙をひろげた。心の記録をハッツフェルト夫人に書き送るためであった。
だが、彼がペンを取り上げようとしたとき、扉にノックがあって、ボーイが顔をだした。
「ご婦人のお客さまでございます」
「女の? こんなスイスまで来て?」いっこうに心あたりはなかった。
「はい。馬でおいでになっていらっしゃいます」
心あたりのないままに、玄関口におり立ったとき、彼は、突然眼の前に立つ、燃えんばかり美しい金髪の少女の姿に、一瞬われとわが眼を疑った。が、次ぎの瞬間には、まるで生き返ったような微笑を浮かべると、
「ああ、ヘレーネ!」とさけんだ。
ヘレーネと呼ばれた乗馬服の女性も、まるで再会の恋人にでもするような微笑を返した。
彼女――ヘレーネ・フォン・デニンゲスが口早に話し出した来意は、こうであった。
彼女は、一家とともにジュネーヴに滞在していたのだが、はからずも彼がリギに来ていることを知らされて、とりあえず女友達たちをさそい、乗馬ピクニックを口実に、会いに来たのだという。
「ご一緒にいらっしゃいません?」
もちろん否《ナイン》のあるべきはずもなかった。すべての人間にたいして、命令者でなければ我慢できない彼も、ヘレーネにたいしてだけは、すべて柔順な奴隷であった。
新しくラッサールを加えた一行は、リギの頂上にのぼって、その晩はそこで楽しく夜をあかした。
ヘレーネ・フォン・デニンゲス、金髪の少女――それは二年ばかり前、ある友人の家ではじめて会って、たしかに一時は、彼にとって忘れがたい女性の一人であった。だが、その後まもなく婚約者ができたということを知らされて、忘れるともなく忘れてしまっていた少女だったのである。
情熱の児ラッサールは、女性関係においても、けっして清潔な男性とはいえなかった。ハッツフェルト伯爵夫人はしばらくおくとしても、女店員、人妻、小間使、娘、女優、――深浅の差はあれ、彼が一時的の、しかも魂のない交渉を持った女性の数は、かならずしもすくなくなかった。だが、それらはおしなべてことごとく迷妄であり、幻影であった。ただ女の肉体にしかすぎなかった。このころ彼が心から求めていたのは、心情《ハート》をもった女、彼の魂をゆさぶって、平和と休息をあたえてくれるような女だった。
そのくせ彼の恋愛は、不思議とすべて不首尾に終っていた。
一八六〇年、彼が、著述と運動との過労からえたリュウマチ療養のために、エェ・ラ・シャペルに転地していたとき、ロシアの知事ゾンツェフと名のる一家のものとあい知った。往来しあううちに、ゾフィーと呼ぶ十九歳のその娘と、彼は趣味、好尚において、はなはだあい通じるもののあることを発見した。求婚がはじまった。彼は今日も残る有名な長文の告白書簡を物して、愛の手を求めたのだが、けっきょく彼の獲たものは、
「ラッサールさま、わたしはあなたを愛してはいません。本当は愛など感じてもおりません。もうこれっきりにいたしましょう。すみませんが、あなたにたいして、わたしは友情以上のものはなにも感じていません」
という、はっきり拒絶の一言だけであった。彼ら一家が出発するとき、彼も駅まで見送ったが、列車が動きだすと、彼は思わず列車を追うて駈けだした。だが、ハッと思いとどまると、そのまま立って手を振っていた。そして、やがてヨロヨロとなると、崩れるように歩廊の柱に身をささえた。
つぎは一八六三年の三月、彼は、銀行家の娘でミンナ・リリエンタールという十七歳の少女にまたしても求愛した。この悪戯っぽい小娘は、一応彼を相手にして遊びはしたが、結婚という真剣な話になると、悪評高いこの社会主義者よりは、大急ぎでベルギーの男爵という美貌、快活の青年と結婚してしまった。
彼がはじめてヘレーネを見たのは、この第二の失恋に先だつ一年ばかり前であった。ヘレーネの父親というのは、バヴァリアの官吏、そして歴史家だということであった。ヘレーネとは、はじめて会った瞬間から、たがいに、強くひきあうものを感じた。親しさは、目にみえて急速に深まったが、なんと思ったか、彼女を紹介した友人は、君は社会注目の的であるのだから、君と恋愛関係があるといえば、娘はなにかと世間の噂になる。ヘレーネをそんな目にあわしたくないのだ。もっとも正式に結婚したいというなら、仲にたってもよいと、それとない諫告《かんこく》をしたのだった。ラッサールは、幾分ためらったようだが、そのせいか数カ月すると、彼女はヤンコ・フォン・ラコヴィッツと呼ぶルーマニア貴族との間に婚約が成立したと教えてくれるものがあった。彼の記憶からは、ヘレーネの名はいつとなく薄れてしまっていたが、彼女のほうでは、そうでなかったのである。
山上で一夜をあかした一行は、翌朝はうって変って美しいアルプスの日の出を賞しながら、山をくだった。西欧の詩人は歌っている、「かつて一目にして成らざりし恋はなし」と。ラッサールの眼は、昨日までとは別人のように歓びに輝いていた。こたえる彼女の瞳もまた、妖しい光に燃えていた。すでに恋の放電は、朝明けの爽涼をついて、紫の火花を飛ばしていたのだった。
翌日、彼は記念すべきその日の印象を、恋の興奮のみがあたえる美しい感動の言葉をもって、ハッツフェルト伯爵夫人に書き送っている。
「昨夕、七時少し前でした。貴女への手紙を書きながら、私はふと窓を見あげました。霧も雲も、まるで凍ったように解けおちて、それこそ全山が、威容のかぎりを見せて姿をあらわしていました。私は大急ぎで十五分ばかり歩き、ケンツリへ行ってみました。そこはとても景色がいいのです。愛する伯爵夫人、私はあんなにも美しい山々、あんなにも壮大な日没を見たことがありません。アイガーがバラ色に輝きわたっています。日が入ってしまっても、まだ長い間私は立ち去ることができませんでした。私の苦悩はすべて魔法のように消えてしまい、私の心は、なにもかもすべて満ち足りたように、喜びに躍っています」
だが、不幸にしてそれは、彼が一切の政治に訣別をつげ、革命の旗幟をおろし、彼の権勢欲と虚栄心とのすべてが、たった一人の少女の魂を征服するためだけの、ひどくつつましい壺中に蔵《おさ》められたときの幸福にしかすぎなかった。一方ヘレーネにとっては、「人民の王」「労働者の救世主」、詩人ハイネが「メシア」と呼び、宰相ビスマルクすら彼の議論に傾聴したというそのことだけで、もう十二分の魅力であった。愛情は急湍《きゆうたん》を下る木の葉のように進行した。
数日後の二十六日には、ヘレーネはつぎのように書きしるしている。
「わたしはあなたの妻、ええ、きっとなってみせるわ。たびたび家へ来てくださらなければ駄目。二人で、なんとかお父さまやお母さまの印象をよくしましょうね。すれば、きっと同意は得られると思うの。でも、どうしても肯《き》いてくださらなければ、いつだって、エジプトへ逃げるだけだわ」
彼は一度は笑いながら、自分がユダヤ人であることをいった。だが、恋する少女にとって、そんなことはなんの障害でもなかった。二人はその後ベルンへも一緒に行った。酔い痴れたような恋の日がつづいた。ラッサールは、いくどかこのままいっそパリへ逃げてしまおうといった。だが、ヘレーネは、まだ、両親の同意を得る自信がある。駈落ちは万策つきてからのことだ、といいはってきかなかった。
けっきょく、二人は最後の計画に落ちついた。八月三日、二人があい前後して両親のいるジュネーヴへ行き、あらためて同意への努力をしてみようというのだった。それにしても、ヘレーネの逡巡は、ついに永遠の謎というよりほかにない――運命は、すでに人知れず破局の糸をつむいでいたのかもしれぬ。
八月三日の朝、ヘレーネは一足先にジュネーヴへ帰って行った。正午、彼もまた後を追った。客車の片隅に、深く頭を倚《よ》りかからせたまま、彼は深い溜息をついた。二人に、一つの運命! いくどか山の溪流が、白い瀬波をあげて窓の外を通ってすぎた。彼の頭のなかにも、時といういま一つの流れが、おそろしい勢いで流れすぎていた。みずからなんの努力もなしに動いて行くこの進行! そのまま彼には、抵抗しがたい運命の手のようにさえ思えた。
ジュネーヴへ着くと、彼は取りあえずデニンゲス一家の宿に近いパンション・ボヴェに部屋を取った。が、驚いたことに、そこにはすでにヘレーネが来て待っていた。彼の姿を見ると、いきなり脚もとに身を投げて、つぎの汽車でパリへ逃げよう、と泣き崩れながらに迫るのであった。
ようやく事情を聞くと、彼女は家に着くと、その脚ですぐと両親に会い、ラッサールとの結婚の許諾を迫ったのだという。彼らの驚きもさることながら、母親の答は、あの「王位と社会を覆《くつがえ》し、己れが邪欲を満足させようという唾棄すべき輩《やから》の巨魁」などとの結婚にたいして、考慮の余地などもちろんない、いわば絶対のノーであった。
「それに、お前、あの身持の悪い、伯爵夫人とも古い噂のあるあんな男などと、とんでもありません。それにあの男ときたら、泥棒で――しかもユダヤ人じゃありませんか」
父親の見解も、もちろん同じであった。ただ彼の場合は、呪詛がもっと猛烈で、万一強要でもすれば勘当という威嚇をもって脅かして来たという、ただそれだけがちがいだった。
希望の綱は断たれた。いまはおくれて来るラッサールの訪問を、むしろ先手をうって止めるよりほかなかった。まだ時間はある。強要して、かえってこのまま監禁の身になる愚かさを避けようためか、彼女は一応納得したかのように見せると、大急ぎで書置きをのこし、そのまま家出の決心で、彼の到着するパンションへと先廻りしていたのだった。
「わたしは、あなたの妻よ――なにもかもいっさい! ね、愛して下さるなら、このままどこかへ連れてって! すぐに、パリへでも、――どこへでも!」彼女は、彼の両脚を抱いて泣いた。
が、そのときであった。彼の愚かな誇大妄想自信《メガロマニア》が、またしても頭をもたげたのは。一ユダヤ商人の子に生れて、いまではドイツ労働者何万の魂を、一瞬にして革命の情熱に立ち上らせうると自ら過信していた彼ラッサール! 独裁宰相ビスマルクをさえ傾聴せしめたと妄信している彼! たかがバヴァリアの古手官吏を説得するのに、彼は、ほとんどなんの困難も予想できなかったらしい。
「お父さんに会う。僕はラッサールだよ。なぜ僕にまかしておけないのだ? このラッサールという男に――」
女中が来て、ヘレーネの頼んでおいた馬車が来たとつげた。パリ行きの汽車は、十五分後に出るはずだった。だが、依然としてラッサールは動かない。機会は永久に去った。
死人のように蒼白になったヘレーネを、取りあえずその知人だと聞いた某女の家に預けると、このフロックコートのドン・キホーテは、満々たる自信を抱いて出ていった。だが、彼がその恐るべき過誤を思い知るのに、ほとんど時間はかからなかった。そのとき早く、怒りに燃えた父親が姿を現したからだった。いまはすでに紳士の慎みもなにも忘れた父親は、人前もはばからず、ヘレーネの髪をつかんでなかば引きずるようにして、家へ連れ戻していった。
ヘレーネを奪われたラッサールは、ほとんど狂乱状態になった。興奮にとり乱した手紙が、夜に日をついで送られた。が、もちろんヘレーネからの応答はあるはずがない。彼の不可解きわまる滑稽な行動がはじまったのは、まさにそのときからであった。彼は、司祭某、バヴァリアの外相某、最後にはリヒァルト・ヴァクナーにまで手をのばして、斡旋方の依頼に狂奔したのだった。しかも皮肉なことに、彼の友人たち、とりわけ伯爵夫人までが、ひどく冷淡なばかりか、二人の手切れ話という意向すら洩らしたことであった。
彼はすでに狂人であった。錯乱の二十日間あまり、そして最後に彼がやっと成功したのは、二十五日、ヘレーネと十分間だけの会見を許すという約束を、父親から取りつけえたことだけであった。だが、意外にもヘレーネの答は、「いつラッサールが、たった十分間の話で満足したことがあって?」という嘲笑にも似た拒絶であったとつたえられる。最後の打撃は翌二十六日に来た。その午後、彼の受け取ったものは、言葉こそ鄭重だが、彼女自身の筆になる形式的な、あまりにも形式的な絶縁状であった(この間の事情については、一切両親が脅迫同様の状態でさせた芝居であると、彼女は後日弁解しているが、真相は残念ながら不明というよりほかない)。
その晩、彼はデニンゲスと婚約者ラコヴィッツあてに決闘状を書いた。皮肉にも平生決闘否定論者であったはずの彼が、すすんで挑戦者になったのである。もちろんすでに理性の人間ではなかった。挑戦にはラコヴィッツの方が応じた。
決闘は二十八日早朝を期しておこなわれることになった。二十七日、彼は遺書と数通の手紙と遺稿整理人とを決定した。傷ついたあと彼の胸から発見された、おそらく絶筆と思われる紙片には、ただ一行「余の生命を絶ちしものは余自身なることを、ここに宣言す」という言葉が読まれた。
が、それにもかかわらず決闘にのぞむ彼の態度は、水のように平静だったといわれる。前日介添役のリュストフがピストルの練習をすすめたが、彼は笑って応じなかった(ラコヴィッツの方は、同じ日百五十発の試射をしたということだ)。
「あんな奴の弾丸で、僕がやられると思うか? 僕の運命はそんなもんじゃない!」
誇大妄信《メガロマニア》の最後の閃きだった。彼もまた運命の星を信ずる人間だったらしい。翌朝、リュストフが訪ねたときにも、彼は静かに眠っていたという。
決闘場はカルージュの村外れ、小さな森の中であった。射撃は、リュストフの合図から五秒後に、まずラコヴィッツが射ち、さらに一秒後にラッサールということにきまった。
取りきめ通り、まずラコヴィッツのピストルが火を吹いた。瞬間、ラッサールの身体がフラフラとよろめいて、つづいてまた一発、轟音が静寂をやぶった。が、もちろん弾丸は目標をはずれていた。
発射後、彼は泳ぐように左へ二歩よろめいた。
「やられた?」誰かの声が聞いた。
「うむ」うめくような声が答えた。
人々は、取りあえず彼を横にして、応急の繃帯をした。一時間後、ほとんど無言のままホテルに運びこまれたが、彼は待っていた伯爵夫人を驚かせないように、あくまで階段を歩いて上るといって手を焼かせた。眼だけはまだ光を失わなかったが、頬は土気色に蒼ざめ、眼の縁にはすでに黒い隈取りが濃くあらわれていた。
三日間、名状しがたい苦痛に苦しんだのち、三十一日に息を引き取った。
――少年の頃、私の天職は偉大な俳優になることだと信じていました。その後長ずるにおよんで、私は、舞台の上で演じたかったその役割を、人生そのもののなかで演じるのが、定められた私の運命だと考えるようになりました――
彼は、その書簡の一つで述べている。彼もまたおのれを知るものだったのだろうか? フロックコートのドン・キホーテ――「社会主義者で、そして出来そこないの貴族」フェルディナンド・ラッサールの悲喜劇は、こうしてその幕を閉じたのであった。
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沙漠の叛乱
――アラビアのロレンス――
人間には、いわば神話的感覚《ミシカル・センス》ともいうべきものがある。たとえば、なにか常人の常識を絶した非凡な行動をなしとげた人間があらわれると、たちまちこの感覚は、彼の生涯のこの神秘的一コマだけを取りあげて、そこに一つの神話をつくりあげ、さらにこんどは、そのつくられた神話にたいして狂信的な信仰を傾けつくすことがある。おそらくそれは、現実生活の平板さ、単調さにたいして、浪漫的情熱がおこなう一つの抗議だと見ていいのではなかろうか。だからこそ歴史は、ときどき気まぐれの犠牲を、このいわゆる神話的感覚の祭壇に捧げなければおかないのであり、わが『無冠の帝王』、『神秘の人』、『人間カメレオン』、『国王製造者』アラビアのロレンスもまた、そうした不幸な小羊の一匹だったといってよかろう。
スエズを東にすぎると紅海。東北岸は、五千年来の神秘を秘めたアラビアの沙漠が、背後深く、かぎりもなく遠くひろがっている。海岸を南へくだって、回教の二聖地メッカとメディナをつなぐ線を底辺とする扁平二等辺三角形を横に倒した、ほぼその頂点とおぼしいあたりに、ラベックと呼ぶ小さな港町がある。
そのラベックから北に数時間の行程、沈み残った半月の光を浴びながら、沙漠の丘陵にかこまれた峡間を下ってゆく、三人の駱駝上の人影があった。
一九一六年十月十七日の深夜。
かすかに砂をふむ駱駝の足音以外には、物音一つ聞えない、死のような暑い晩であった。左右には、尖った丘陵のつらなりが、ぐったり疲れきった夜空に、墨絵のように浮き出ている。伸びなやんだ灌木のしげみが、白々と流れる月明りのなかに、病菌に蝕《むしば》まれた皮膚のように、黒い斑紋をえがいていた。
長い峡間をやっとすぎると、にわかに平原がひらけて、ようやく沙漠の空が白みかかった。平滑な砂面の上を、いくたびか突風が、いらだたしげに砂を烈しく輪にまいてすぎた。
刻一刻と明るさをます朝の光が、ようやく三つの人影の輪廓を明らかにしだした。先頭に立つ男は、夜目にもしろい純白のアラビア風長衣、緋の頭飾をつけて、どうやら主人らしい人物とみえた。まるで寄りそうように両側を進む二つの人影、これは明らかに護衛とおぼしいベドウィン土民の兵士と見える。だが、ただ奇怪なのは、先頭に立つ男の風貌であった。全身、それはまぎれもない上流アラビア人の盛装であるにもかかわらず、頭飾の下から無造作にはみ出ている頭髪は、白々明りの中にもいちじるしいあざやかな金髪であり、そういえば顔色こそあか黒く陽に焼けていたが、その奥からいきいきと輝いている二つの眼は、刺すような光の中に、なんともいえぬ柔和さをたたえた青灰色の瞳だった。しかも、なによりもまず気がつく異相は、ほとんど無恰好なまでに大きなその頭と、むしろ冷酷さをさえ思わせる頑丈な顎の形であった。
すっかり夜の引き明けるころ、一行の行手には、すぐ右手に小さな部落が見えだした。スブの黒い断崖の影を大きく背後に背負い、鳶色と白のまじった、ひどくちっぽけな家々が、まるでぴったりと身を寄せて、たがいに衛《まも》りあうかのように、行儀よく、玩具のようにならんでいた。それは、なにか無人の沙漠というよりも、はるかにもっと孤独な寂寥感を思わせた。
一行は、小さな樹立の間を抜けて、丘陵の頂きに出た。とある一軒、低い家の木戸の傍で駱駝を下りた。迎えにあらわれた奴隷に、護衛らしい一人がなにか口早にささやくと、奴隷は先に立って、一行を中庭にみちびいた。見ると庭の奥、ちょうど黒い入口の石柱を額縁にして、真白い人影が一つ、石のように立っていた。痩躯《そうく》鶴のような長身。長い純白の絹衣をまとい、緑色の頭飾を緋と金色の紐で結んでいる。瞼《まぶた》は静かに垂れ、漆黒《しつこく》の髯と蒼白の顔とが、異様に物静かな、一分の隙もない姿勢と対照して、なにか不思議な仮面のようにさえみえた。両手は、じっと胸の前の小刀のうえで組みあわされている。
簡単な挨拶の言葉がかわされると、金髪の客は、そのまま奥の部屋に招じ入れられ、二人は扉口に近い絨緞の上に座を占めた。が、やがて暗さに眼がなれてみると、小部屋のなかには、まだまだ多くの人間が、黙々として、主役二人の姿を見まもっていることがわかった。主人の指は、無心に脚の小刀をもてあそんでいたが、やがて静かな調子で、客に言葉をかけた。
「いかがでした? それに、このワディ・サフラは?」(ワディは峡間ほどの意)
「まことに結構」ハッとするような静かなアラブ語、そして言いようもない魅力をおびた声であった。「ただ残念なことは、まだまだダマスカスへの途が遠いことで」
が、この最後の一句は、並みいる人々の間に、まるで一閃の白刃のように落ちたらしい。あきらかに動揺の色がみえた。一座は、一瞬石のように息をのんだ。だが、ついに長身の主人は、静かに瞳をあげると、客をかえりみてにっこり笑った。
「有難うございます。だが、なにしろまだトルコ人どもが間にいるものですから」
微笑の波が、静かに一座の人たちの上を流れた。客はつと立って、しばらくの暇をこうた。
痩身の主人、これこそはメッカのシェリフ、フッセイン・イブン・アリの第三子、そして後のイラク王ファイザル一世その人であり、金髪の客は、いうまでもなくトマス・エドワード・ロレンスであった。ロレンス二十八歳、ファイザル三十一歳。そしてこの日、両者の出会いの一瞬こそは、アラブ民族、屈辱実に五百年にわたる悪夢を破る黎明の一閃、まさしく歴史がつくる運命的出会いの一つだったのである。いや、ロレンス自身にしてすらが、おそらくやがて彼の後半生を支配することになる運命のドラマを、はたして予感していたであろうかどうか。冥々のうちに運命の手は、すでにその糸をつむぎはじめていたのだった。
一九一六年といえば、いうまでもなく第一次世界大戦も勃発後すでに二年あまり、欧洲戦線はおしなべて一種の膠着状態におちいり、戦局の前途には容易に予測をゆるさないものがあった。この間にあって、一応は脇舞台であるにしても、安心を許さないものに、中東戦局があったのだ。という意味は、これに先だつ一九一四年末、回教国トルコがにわかにドイツ側にたって参戦するにおよび、連合国側、とりわけイギリスにとっては、東洋への要路ともいうべきエジプト、スエズが、たちまち側面からする重大な脅威に見舞われることになった。しかも当時の欧洲戦局の形勢からして、とうていただちに強力な兵力を中東に割《さ》くことは、不可能に近い冒険であった。この危機に際して、にわかに新しい意義をおびて、連合軍軍事指導者たちの視界に浮びあがって来たのが、アラブ諸民族の向背《こうはい》であった。
いうまでもなくアラブ民族は、その遠い過去の華々しい栄光にもかかわらず、最近ほぼ五世紀間というものは、オットマン・トルコの支配下に、完全な隷属状態を余儀なくさせられていたのである。ところが、十九世紀後半以来、トルコの衰運に乗じて、解放をもとめる被征服民族の独立運動は、ようやくその勢いを加えていた。そして二十世紀に入ると、たびかさなる猛烈な弾圧にもかかわらず、すでに鬱然たる国民運動の潜勢力にまで成長をとげていた。そして、それら反抗勢力のもっとも有力なものの一つに、モハメットの後裔、メッカのシェリフ、フッセイン・イブン・アリの一家があったのである。フッセインその人の人物については、とかくの批評はあるにせよ、たしかに沙漠の一傑物たることには疑いなかった。彼にはアリ、アブドゥラ、ファイザル、ゼイドと四人の男子があったが、彼の大アラブ連邦建設の夢は、まず数百年来の伝統をすてて、これら子弟に大胆なヨーロッパ式新教育をほどこすことからはじめられた。いまやあらためてこの一家に注目したのが、イギリス陸相キッチナー元帥であった。
すなわち元帥の構想は、フッセイン一家の勢力下にあるアラブ諸部族に、この際独立の好餌をあたえて誘い、アラビア、シリア、メソポタミアにわたるアラブ民族独立国家を建設させ、それらを巧みにイギリス勢力下におくことによって、東はインドへの、そして南はスエズ、エジプトへの安全保障をつくりあげようというものであった。フッセインにとっても、もとよりある意味で望むところであったことはいうまでもない。こうして一九一五年夏ごろから、イギリス・アラブ間に、ひそかな取引交渉が開始されていたのであった。
最初のこの交渉にあたったイギリス側代表は、エジプト駐在高等弁務官マクマホンであった。ところが、交渉が開始されてみると、事情はけっして簡単でなかった。まず第一には、中東、とりわけシリアにたいして重大な関心をもつフランスとの利害関係の衝突ということがあった。第二には、アラブ民族の強力化は願いながらも、これに完全な独立をあたえることには多大な躊躇《ちゆうちよ》を感じる、イギリス側のエゴイズムがあった。したがって、交渉は半年あまりにおよんで、なお容易に妥結にいたらなかったが、いっぽうでは近東、中東の危機は日に日に切迫するばかりであり、ついにこの脅威の圧力が、一九一五年になって、やっと老獪なイギリス側の一見譲歩によって、協定にまで到達させたのであった。事実その保障のいかに曖昧《あいまい》なものであったかという一例は、フッセインの要求するアラビアの独立を、一応表面上は公約しながらも、それには、たとえば「保障は、フランスの権益を害することなしに[#「フランスの権益を害することなしに」に傍点]、イギリスがその行動の自由をもっている地域[#「イギリスがその行動の自由をもっている地域」に傍点]に限る」というような、きわめて曖昧な条件さえともなっていたのである。この公約が実際にあたっていかに曖昧、不明瞭なものであるかは、マクマホン自身、たびたび本国政府にむかって、その危険を警告したほどであり、フッセイン自身とても、疑念のないわけではなかったが、形勢の緊迫は、もはや逡巡を許さないものがあり、わずかにイギリス、その他の紳士的言質を信じて、すべてを呑んだのであった。このようにして翌一九一六年六月、フッセインはメッカにおいて、第三子ファイザルはメディナ郊外において、ついに真紅の新月旗をアラビアの空高くひるがえしたのであった。
だが、もとより近代軍隊としては、ほとんど烏合《うごう》の雑軍にひとしいアラブ軍が、イギリスによる兵器、資材の援助にもかかわらず、ドイツ軍部指導下にあるトルコ軍の前に、手も足も出なかったのは当然であり、蹶起後わずかに数カ月、上述ロレンス、ファイザルの歴史的会見のあった十月には、運命はすでに風前の灯火だったのである。
このような概観的叙述が、いかに読者諸君を退屈させるものであるかは、筆者自身もっともよく知っているつもりである。だが、それにもかかわらず、舞台を変える前に、まだもう一つ、それは今日まで依然としてつづいている近代権謀政治というものの、おそるべき舞台裏をあきらかにするためにも、そしてまたこの一事こそは、ロレンス後半生の運命を決定する最大の悲劇的要因であったという理由においても、いましばらく読者諸君の忍耐をねがわなければならないようである。
一事とは?――一九一五年夏からほとんど一年間にわたり、いわゆるフッセイン・マクマホン交渉なるものが行われ、それが保障を唯一の頼みにして、アラブ民族が立ちあがったことは、すでに上に述べた。ところが、時もまさに同じ、一九一五年末から翌年春にかけてであるが、なんぞ知らん、本国ロンドンにあっては、かんじんのフッセインはもちろん、マクマホンその人すらいっさい知らされることなしに、実は英仏間の舞台裏取引が、完全に秘密裡に進行していたのであった。今日外交史上では、両国代表者の名前をとってサイクス・ピコ協定と呼ばれているものであるが、それはきわめて皮肉な一枚の歴史的中東地図と五つの条項からなる闇取引であった。すなわち、これら権謀外交の手先どもは、上記の地図を、あるいは赤に、あるいは青に塗りたくりながら、戦勝後における英、仏、並びに露の取り分を舌なめずりしながら分けあっていたのである。驚くべきことに、そこでは肝心のアラブ人にたいしては、ほとんど食卓からおちるパン屑すらも与えられていなかった。
この協定を評して、ある政治評論家は、英仏は七面鳥《ターキー》のそれぞれ両翼をとった。ロシアは胸を取った。そしてアラブ人に与えられたものは、臓物と脚とにすぎなかった、という辛辣《しんらつ》きわまる批評をさえ現にくだしているのだ。いや、あのキリスト磔刑の日に、まだ呼吸も絶えぬその十字架の下で、彼の着衣をくじ分けしていたというローマ兵士の姿さえ、なおこれほど我執にみちたものではなかったであろう。まことイギリスの外交こそは、その左手のなすことを、けっして右手には知らすなというイエスの聖訓を、文字通り実践していたのであった。
マクマホンすら知らなかった協定を、もとよりフッセインの、ましてロレンスの、知るはずがなかった。だが、このただ一片の紙片のために、戦後いかにアラブ人の失望が大きかったか、またそのために、イギリス自身いかに高価な復讐を受けなければならなかったか、はたまたロレンス自身いかに苦しみ、懐疑し、絶望するにいたったかは、やがてくわしくふれる機会がこよう。
第一次大戦勃発までのロレンスは、単に嘱望された一種個性的な青年考古学徒の一人というにすぎなかった。一八八八年、ウェールズ生れというところに、多少の変り種を思わせるものがあるかもしれぬが、ハイスクールからオックスフォード大学にいたるコースには、取りたてて異常というほどの特徴はなにもなかったといわれる。もちろん平凡、万人なみの学生でなかったことはいうまでもない。羊の群に伍するよりも、孤独の獅子たるを選ぶ不羈《ふき》の性格は、すでにこの頃からあらわれていたといってよかった。終始もっとも優秀な学生ではあったが、けっしていうところの模範学生ではなかった。むしろ「立って歩ける幾月か前に、すでに物につかまって身体を吊しあげることができた」という膂力《りよりよく》の異常さのほうが、むしろ注目されてよかろう。乗馬、自転車、水泳、舟漕、その他個人的な肉体訓練には、天才的な適性の持主であったが、スポーツも団体競技類はいっさい軽蔑して、自分ですることはむろん、見ることさえしなかったという。
知的関心もまたはなはだ気ままきわまるものであった。唯一の興味は歴史と考古学、それも中世史にほとんど限られていたという。ことに中世築城術については、ハイスクール時代からすでに驚くべき知識を蔵していた。休暇といえば、自転車をとばして、イギリスじゅうの中世の城址を実測してまわった。大学生時代には、足跡はフランスにまでおよんでいた。大学時代にすでに『欧洲中世築城術に与えた十字軍の影響』という研究テーマを選んでいる。
が、彼の生涯に最初の決定的影響を与えたのは、大学生活の最後の年、卒業論文を仕あげるために、当時メソポタミアにおいて進行中であった発掘の見学に出かけた最初のアラビア行であろうか。しかもこの未知の中近東旅行に、彼はわずか写真機一個のほかには、「ポケットに歯ブラシ一本を抛《ほう》り込んだだけで」飄然と出かけたといわれる。先輩学者が、現地の風土的悪条件、交通の困難を説《と》いて止めたときにも、彼はケロリとして、「僕は一人で歩きます[#「歩きます」に傍点]」と、ただ一言答えただけであったという。しかも、事実わずか二カ月余という短時日間に、千百マイルという嘘のような距離を踏破しているのだ。
この旅行で彼のえた最大の収穫は、驚くべきアラビア語の習熟と、沙漠地帯の悪疫にたえる不思議な体質とであった。
彼の旅行の特徴は、土民たちの生活習慣と完全に同化することであった。後年の彼は、アラブ人のあらゆる方言を聞きわけて、その生地を言いあてるのに、けっして二十マイルと狂いはなかったといわれるが、その最初の基礎はあきらかにこの旅行にあった。
つぎには、時疫。この旅行中、彼は赤痢にも、マラリアにも幾度かやられている。だが、彼の体質は不思議とそれらにたいして不死身であった。この体質こそ、後年彼が沙漠における活躍時代にあって、その耐久力においては、一歩もアラブ人に遜色を見せなかったといわれることの原動力であったと見なければならぬ。
一九一〇年『十字軍城砦』と題する論文をまとめて、大学を出ると、たまたま大英博物館からユーフラテス上流地方に送られることになった学術発掘隊に、その体験と造詣《ぞうけい》を買われて、一員に加えられることになった(もっともこの学術探検隊、一面ではイギリス陸軍の旨《むね》を受けた地理的スパイ団でもあったことは有名である)。かくして一九一一年、彼はふたたび中東の地を踏《ふ》むことになるが、以後大戦勃発の直前まで、ほとんど三年半にわたる第二回目の中東時代がはじまった。発掘隊での彼の仕事は、もっぱら発掘品の整理とその写真撮影であったが、その間もちろん閑暇みては、彼の足跡はアラビア全地域にわたった。そんなふうで一九一四年六月には、もはや押しも押されぬ青年考古学徒として、久しぶりに本国の土を踏んだわけだが、たまたま大戦の勃発したのが、その一カ月後だったのである。
彼のような中東関係の生字引を、もとより軍がそのままにしておくはずがない。ただちに陸軍作戦部地図班というのに採用され、ついでトルコの参戦とともに、地図将校としてエジプト、カイロの陸軍情報部に送られた。彼の有能ぶりは、いたるところでたちまち鋭鋒をあらわしたが、彼自身にとっては、完全に忿懣《ふんまん》と不平の二年間であった。もっとも原因は、彼の側にもあったともいえよう。すでにアラブ人たちの悲酸をもって、もはや異邦人のそれとは感じえなくなっていた彼にとって、アラブ人解放というロレンスの夢と、いっさいをイギリスの利害という一事だけで測る出先機関の考え方との間には、あまりにもはなはだしい矛盾、背馳があった。加えて軍将校の無能ぶりである。これにこたえるのに彼は、傍若無人、あらゆる露骨な反抗とふてくされとをもってした。
だが、その間にも彼のために、運命の舞台は着々として準備されていたのだった。すなわち一九一六年春の訪れとともに、中東戦局の頽勢は、上にも述べたように、ようやく軍首脳部の間にも、彼とおなじ対アラブ構想を抱かせるようになっていた。そしてその気運は、ついに現地カイロに、宣伝謀略機関としてアラビア局なるものを創設させ、十月にはロレンスもそれに移されることになった。折も折、ロレンスは十日間の休暇を取ると、エジプトをあとに、飄然とアラビアにむかった。彼には彼なりの構想が、ようやく熟しつつあったのである。
最初に述べたファイザルとの会見は、その半月後に起ったのであった。
ファイザルの中に、ロレンスは何を見たか?
「私は一目見るなり直感した、そうだ、これこそその人物だ。私がはるばるアラビアまで捜しもとめて来た、このアラブ民族の叛乱を栄光の勝利に導きうる、まさにその人だと。……三十一という齢よりは、かなり老《ふ》けて見えた。顔にやや斜についた、黒い、訴えるような瞳は、血の色をおび、こけてくぼんだ両頬には、内省的な深い皺がきざみこまれていた。彼は単なる思惟を喜ばなかった。それは行動を鈍らせるばかりだからだ。行動の労苦から、彼の容貌は、苦痛をたたえたけわしい線になっていた。長身で、閑雅で、しかも旺盛な気力を思わせる。歩くときの姿は実に美しく、頭から肩へかけては、王者の威厳を遺憾なくしめしていた」(『智慧の七柱』から)
「出発の合図が鳴った。だが、それは私たちと親衛隊のためだけで、他の諸隊は、すべて一人一人うずくまった駱駝のそばに立って、道の左右を埋めていた。そしてファイザルが通ると、黙々と敬礼をささげるのだ。彼は晴々と、『汝等に平和を』という祝福の言葉を投げかけてやる。と、隊長たちは、つぎつぎとおなじ言葉をくりかえして行くのだ。私たちが通りすぎると、彼らもそれぞれ隊長の合図で駱駝にまたがる。こうして私たちの隊列は、蜿蜒《えんえん》として長く長く、人と駱駝と、眼路《めじ》のおよぶかぎり、細い隘路《あいろ》をこえて、はるかに分水嶺までつづいた。……やがてにわかに軍鼓の響がおこると、人々はいっせいに咽喉もさけよと、エミール・ファイザルと彼の一家を讃える歌を高唱しはじめるのだった」
「進軍はむしろ原始的な壮観をおびてきた。先頭には白衣のファイザルが、そして右には赤の頭飾と、ヘナ染め長衣をまとったシャラッフと、左には白と緋の私自身が進んで行く。私たちのあとには、金色の穂尖をつけた、褪紅色の軍旗が三旒《さんりゆう》、その後には行進曲を奏しながら進む軍鼓隊、そして最後には、気負い立った一千二百騎の親衛駱駝隊の騒然たる一団がつづいて行く。ぎっしりと、それこそ目白押しに、色さまざまの騎《の》り手が、百花のような衣裳の絢爛さを誇れば、駱駝もまたそれぞれの飾りもので、劣らない華やかさであった。峡間は、もう両側の傾斜にいたるまで、目もあやな私たちの流れに埋まってしまっていた」
一九一七年一月三日にはじまり、そして翌一八年十月三日に終った、沙漠の一大英雄叙事詩の開幕であり、遠く一千数百マイルのかなた、ダマスクスを目指すアラブ解放軍のヤンボー出発の光景を、その著『智慧の七柱』の中で、ロレンスはこのように書きおこしている。好むと好まないにかかわらず、運命は彼を戦闘の嵐の中に投じ、これまでは単に知的興味として研究していたにすぎない軍事的知識を、いまや実践的戦略、戦術指導者としておこなわなければならないことになったのであった。
一年九カ月にわたるロレンスの英雄的行動は、七月六日アカバの攻略を界として、二つの段階にわけることができよう。前半のそれは、まずヤンボーから海岸沿いに北上して、ウェジを攻略し、ここから今度は順礼鉄道をこえて、はるか沙漠の奥地を大迂回し、ネブクから急に反転して、シナイ半島の咽喉部を扼《やく》する要衝アカバを、背後から逆に急襲、見事これをおとしいれたのであった。とりわけその華ともいうべきは、上述の大迂回行軍であった。いかに沙漠を家とする剽悍《ひようかん》なベドウィン族とはいえ、わずか五十人にもみたぬ小駱駝隊を率いて、炎暑の沙漠を迂回実に六百マイル、その間あるいは鉄道を、あるいは通信線を、破壊しながら進む壮途は、宛《えん》として古代の英雄叙事詩を、現代に見る思いであった。アカバ行の詳細は、のちに彼自身『智慧の七柱』の中で、百頁余にわたり、一種不可思議な情熱をたたえた名文をもって語っているが、ここではただ一節、最後のアカバ急襲の激闘のあとの静けさをうつした部分、そこだけを引用することにとどめる。
夜である。
「死骸は驚くほど美しく見えた。静かな夜の光に、それはまるであたらしい象牙のように、つややかであった。着衣におおわれた部分のトルコ人の皮膚は、真白で、アラブ人よりもはるかに白いのだ。みんな若い兵士たちだった。死骸の周囲には、すっかり夜露にぬれたニガヨモギがおおい包むように茂っている。葉末に光る月明りは、まるで海の水沫《しぶき》のように白かった。死骸は低く押し重なるように、みじめに投げだされている。私は、一人一人、そっときれいにならべ直してやった。私自身ひどくものうい気持を、どうすることもできなかった。あの峡のかなたで、掠奪品を争い、敏捷さを誇り、こうした困苦、苦痛に、いくらでもたえうる彼等の体力を誇示しあっている、あの騒々しい連中の一人になるよりも、私はどれだけこの静かな人々の一人になることを望んだかしれない。勝つも、負けるも、やがては死の手が、いっさいの歴史に終止符を打とうとしているのだ」
が、この行、彼が完全にアラブ人たちの信服をうるにいたったもっとも大きな理由は、一に彼の超人的な体力にあったといわれる。焼けつく夏の太陽、ギラギラ光る砂と巌、しかも時には駱駝さえたおれる隘路の上り下りを、彼はベドウィン戦士たちの誰にもおとらず率先した。いくどか熱病、赤痢に倒れている。しかも彼の肉体は、ほとんど原始動物にも似た回復力をそなえていた。一度口から溢れるまで水を飲むと、あと数日間はほとんど一滴の水なしに耐ええたとか、熱砂の上を素足で歩いて平気だったという異常な肉体的強靱さ、さらには疾走する駱駝から飛び降りて、そのままふたたび片手には銃、片手は鞍にかけて、ヒラリと飛び乗るというアラブ戦士たちの特技、それらをもロレンスは完全に彼等同様にやってのけたという。この時期ほど、彼の個人的才幹と人間的魅力が、十二分に発揮された時期はなかった。彼自身にとっても、おそらくそれは全生涯において、もっとも幸福感に溢れた時期だったかもしれぬ。後年みずからも回想して、「それはまるで朝の空気のように爽かであった。未来の世界を想って、私たちは酔いしれていたのだ」と書いているほどであった。
それに反して、後半、すなわち一九一七年十一月から翌年十月にわたるダマスクス進軍のほうは、アラブ軍としては、アレンビー将軍の率いるイギリス中東派遣部隊との協同作戦であり、ダマスクスへの先陣突入をはじめ、戦果の数々こそ華々しかったが、もはやロレンスの役割としては、直接遊撃隊の指揮よりも、戦略家乃至政治家としての役割のほうが大きかった。
だが、全局を通じて書き落してはならないのは、むろんロレンスの名とほとんど同意語になり、彼のために「|タイナマイト王《エミール・ダイナマイト》」という綽名《あだな》をさえもたらすにいたった鉄道爆破のゲリラ戦であった。全アラビア戦局を通じて、ロレンスには確乎たる一つの目標があったが、それはけっして都市を占領しないということ。むしろ彼は、順礼鉄道の全沿線にわたって、間断なくその交通路を脅かしながら、できるだけ多数のトルコ軍を、これら地点に釘付けにしておくことであった。
そこで考えついたのが、ゲリラ機動戦であった。
ロレンスは、一九一八年九月十八日、最後の鉄橋爆破をおこなうまで、前後七十九回の爆発計画に直接手を下し、いずれも見事な成功を収めた。彼の首に、生擒《いけどり》で二万ポンド、死骸で一万ポンドという懸賞金のかかったのも、このころであった。ここでは典型的な爆破行の一つを、ロレンス自身のペンをかりて要約してみよう。
「爆薬を埋めるのは容易でなかった。堤防は急な上に、堤防と丘腹との間の凹地には、風でできた大きな砂の吹溜りがつづいている。用心して私だけが越え、しかも足もとには注意したのだが、それでも滑らかな砂面には、大きな足痕が点々とついてしまった。……掘って、爆薬を埋めるだけに、二時間はかかった。だが、そのあとにはさらに困難な仕事が残っていた。重い電線を解いて、丘の上まで引っぱって来なければならない。砂の表面は堅くクラストしているので、埋めるには、まずこれを掘り返さなければならないし、その上に電線は固いときている。風のために美しい小波《さざなみ》模様になっている砂面の上に、それはまるで重い蛇でもはったような痕をはっきりつけてしまった。……埋めたあとは、砂袋でうまく痕を小波模様に掃き返さなければならなかったし、さらに最後には、フイゴと上衣とで、いかにも風の仕業であるかのように、そっと滑らかにしなければならなかった。けっきょく前後を通じて五時間はかかった。だが、仕上げはきわめて上出来で、私自身はもちろん、誰が見ても、どこに爆薬が装置されているか、あるいはこの砂の下に二本の電線が敷かれているか、まったくわからないまでになった。……
「突然見張りの男が、停車場から煙が上っていると叫びだした。……薪焚き機関車二輛のその列車は、けたたましい汽笛を鳴らしながら、カーブを曲って視野の中に入ってきた。とっさに私は、二輛目の機関車をやっつけようと決心した。第二の機関車の前部主動輪が鉄橋にかかった瞬間、私はサレムにむかって、サッと手をあげた。おそろしい爆音が轟いた。一瞬間、線路は、縦横百フィートばかりもある真黒な奔騰する土と煙のなかに見えなくなった。真黒ななかから、物の砕ける轟音、裂け散る無数の鉄片、板片の触れあう響が聞えた。かと思うと突然、機関車の車輛が一つ、雲のなかから空高くクルクルと舞って、美しい輪を描きながら、はるか私たちの頭上を越えて、背後の沙漠のなかへゆっくり落ちていった。こうした物の飛び散る以外、しばらくは死のような沈黙がつづいた。人の叫び、小銃の射撃一つ聞えず、やがて灰色の爆煙が私たちのほうへ流れて、丘の背を越えると、静かに丘陵の間に吸い込まれていった」
だが、忘れてならぬことは、アラビアにおけるロレンスの行動が、もし最後までこのような「朝の空気のように爽かな」ものに終始したならば、おそらく彼の『智慧の七柱』は、現代の英雄的冒険伝奇にはなったかもしれぬが、けっして今日あるような悲痛な幻滅と、執拗な懐疑と、痛ましい自己分裂との、深刻な人間悲劇の書とはなりえなかったろうということである。
凶兆は、まずアカバ攻略の直前頃から萌《きざ》しはじめていた。というのは、ロレンスは、奥地沙漠にあって、はじめてサイクス・ピコ秘密協定の風聞を耳にしたからであった。二月革命に成功したロシア革命政府が、旧帝政政府の公文書秘庫からこれを暴露し、トルコ政府がたちまち英ア離間策として、この好材料を利用した。当然の結果として、アラブ人たちはロレンスを詰問した。もちろん、ロレンス自身が寝耳に水であった。やむをえない、彼は良心を殺し、ただイギリスの信義だけを説いて、彼らを説得するよりほかに仕方がなかった。だが、それは毫《ごう》も彼の良心の負債を支払うことにはならなかった。イギリスの欺瞞と裏切りにたいする痛憤が、深く彼の胸を噛んだ。しかも、そうした苦悩のなかにも、彼は一瞬間として行動者としての活動を中止することは許されなかった。そこに二重の苦痛があった。
まもなくサイクス・ピコ秘密協定の存在は、もはや疑うことのできない事実として確認された。しかもその中にあって、イギリス外交は、またしても取り返しのつかぬ二つの大きな誤謬を付け加えたのである。一つは、一九一七年十一月の有名なバルフォア宣言であり、第二は翌一八年六月、カイロにおけるシリア委員会にたいしてイギリス政府の与えた保障であった。すなわち前者は、ユダヤ人たちの戦争協力との交換に、戦後は彼等の念願であるパレスチナの地を彼等に与える公約をしたものであり、しかも後者はまた、奇怪なことに、まるでマクマホン協定の強力な裏書ともいうべき、「戦争中、アラブ人がその武力によって解放した地域は、すべて完全な独立国たること」を保障するというのであった。このようなことがいかに不可能であるかは、イギリス政府自身もっともよく知っていたはずにもかかわらず、では、なぜこのような自家撞着の保障をあえてしたのであろうか? ロレンスは、要するに「ただ差し迫った当面の軍事的必要にすぎない」と評しているが、また一面には、ほとんど雑軍にもひとしいアラブ軍が、まさかその数カ月後、イギリス軍に後塵をあびせて、枯葉をまくが如くダマスクスに殺到しようなどとは、夢にも予想しなかったからかもしれぬ。しかし、いずれにしても「イギリスという国は、まるで相手の数だけ別々の約定を与えることができるとでも考えているらしい」というロレンス自身の言葉こそ、祖国の欺瞞にたいする彼の胸奥からする批判と嫌悪でなければならなかった。
しかも、さらに悪いことに、こうした祖国嫌悪の鋒先《ほこさき》は、さらに反転して彼自身の良心の上にむけられ、ついにはほとんど自虐的な執拗さをもって、自己分裂の冷嘲に定着して行ったことであった。
ダマスクス進撃が開始されると、前線におけるロレンスの行動は、いっそう大胆果敢になり、ときにはことさら危険に身をさらそうとする行動さえしばしばであった。しかも半面、自虐的な自己分裂は、いよいよその執拗さを加えているのに気がつく。ふつうの人間の場合、むしろ行動本能を麻痺させるためだけに役立つ反省、自己分析が、彼の場合は、かえってもっとも激しい行動、実践と、そのまま背中合せに同居していたことである。『智慧の七柱』、あるいは友人宛の書簡などによると、この頃からにわかにそうした幻滅と懐疑との苦悩が目立ちはじめる。
「アラブ人の間にあって、私の胸は幻滅と懐疑とでいっぱいであった。……彼らは、私たちに欺かれながら、全心を捧げて戦っている。……この欺瞞を私が黙認したという事実は、かならずしも私の性格の弱さ、イギリス的偽善というだけの理由に帰することはできぬ。私自身に詐欺師的素質、傾向のあったことは疑いない。でなければ、どうして彼らをこんなにも巧みに偽り、二年間、他人の企て設けた欺瞞を、見事な成功にまで導くことができたろうか?……私はこの運動にまき込まれたことを、烈しく悔いるようになった。悔いの傷手は、なにもしないでじっとしているときほど、たまらなく私の胸を噛む。そのくせ、完全に運動と手を切ることもできないのだ」(『智慧の七柱』から)
自虐は一九一八年八月十五日、彼の三十歳の誕生日の瞑想(『智慧の七柱』の中の「自己」と題する一章)にいたって、最悪の状態に達している。
「私はふと思った、四年前、私は三十になるまでに将軍になり、勲爵士《ナイト》の栄誉をえてみせようと思ったころのことを。いまやその現世的栄誉は、もしあと四週間さえ私の生命があれば、もうこの手中にあるのだ――だが、アラブ人叛乱における私自身の虚位の意識が、そうした子供じみた野心の夢を完全に抹殺してしまった」
「私の演技に対する賞讃という報酬は、いまやこばむことができないものになった。いかに私が真実の抗議をくりかえそうとも、人はそれを謙譲と呼び、卑下と呼ぶ。世間という奴は、つねに浪漫的な物語を信じていたいのだ」(以上いずれも『智慧の七柱』から)
「僕自身は、いわば激しく根こぎにされ、われながら手にあまる仕事に深入りしすぎてしまった。なにもかもが夢のように思える。……僕は異様な仮装をまとい、異国人の言葉をあやつって、日夜芝居をしつづけているのだ。……すべてが芝居なのだ。……前線に出るのもいやだし、といって後方にいるのもいやだ。責任もいやだし、命令に従うのもいやだ。いまはなにもかもが駄目だ。長い静寂、そして静かな将来の途を考えること、それだけが心からの願いだ。……戦闘の終ったあとの気持、それはまったくたまらない。……変装、首にかかった懸賞金、浪漫的な功業、それも畢竟はポーズの一つなのだ」(友人リチャーズ宛書簡、一九一八年七月十五日)
九月二十日から月末にいたるデルラ、ダマスクスの総攻撃は、中東戦局の雄渾なフィナーレであった。イギリス軍と協力するアラブ軍部隊の目的は、もともと単に敵トルコ軍にたいする牽制にあったのだが、ここでロレンスは、英軍参謀将校との最後の大激論をやったのち、敢然としてアラブ軍の総進軍を命じた。こうしてほとんど誰一人予想もしなかった結果が生れてしまったのだ。三十日夜、彼らは、英軍をはるか尻目にダマスクスの一番乗りをやりとげ、市役所の屋上高く、その新月旗をひるがえしたのだった。夜があけると、戦は終っていた。ロレンスが最後のせめてもの念願だけは成就した。しかも彼は入城直後の感慨を記して、
「やがて私はただひとり部屋に坐って、今日一日の騒然たる記憶の糸をたぐってみた。そのときであった、勤行を告げるミュエジンの声が、勝利に湧き立つ市の湿った夜空を通して、人々を最後の祈祷に呼び立てていた。……騒ぎはやんだ。誰も彼も、今日この完全な解放の第一夜を、黙々と勤行の促しに従って行ったのであろう。だが、ただ私の思いは、この休息の中にあって、私自身の寂寥《せきりよう》と、彼等の行動の無理性さとを、いっそうひしひしと感じていた。あの声を聞いたすべての人々の中にあって、私だけには、それは悲しい出来事であり、無意味な言葉だったのだ」
そして四日後には、すでにひとり飄然とダマスクスをあとに、一路カイロにむかって出発している彼自身を見いだしていた。枯葉をまくアラブ軍が、北へ北へとその戦果を拡張しているという快報を、はるかに遠く耳にしながらだ。
十一月十一日、ついに大戦は終った。
その直前、ロレンスは四年ぶりに本国の土を踏んでいたが、いまや彼の武器は、剣からペンに変るときが来た。その後三年間、彼の活動は、それこそあらゆる手段をつくして、あるいは政府当局に、あるいは大衆を対象に、もっぱら中東事情の真相を暴露し、イギリスの国民の良心覚醒を乱打しつづけることにあったといってよい。
ことにパリ平和会議においては、彼自身、東方問題顧問として全権団の一員でもあった関係上、アラビアの独立、いや、むしろイギリスの良心のために、死闘のかぎりをつくして闘ったが、ついに敗れた。結局強国の我慾だけが跳梁をほしいままにしたのだった。ロレンス自身の言葉を借りるならば、「あの激しい戦いの間、われわれは一身の利害をかえりみず、いくど死生の境をくぐったかしれぬ。しかも、ようやく目的が達せられ、新しい世界の曙光が見え出すやいなや、ふたたび古い人間どもが立ちあらわれて、われわれから勝利を奪い去り、またしても彼らの旧世界そのままの世界を作り上げてしまったのだ。青年たちは勝利をえた。だが、勝利を守ることを知らず、老人にたいしてあまりにも弱かった」(『智慧の七柱』序文から)
パリから帰ったロレンスは、もはや完全に幻滅の人であった。以後数年間の彼の私生活は、むしろ懺悔者の苦行にも似ていた。彼自身[#「彼自身」に傍点]の欺瞞によって成就されたアラブ叛乱から、なに一物も受けてはならないというのが信条であった。勲章などはむろん頑として受けなかった。国王ジョージ五世から勲章親授の沙汰があったときも、彼は、「いまやイギリスが、みずからの名においてアラブ人に与えた誓約を裏切ろうとしているとき、私は陛下からいかなる栄誉も受けることはできません」と答えて、ついに固辞し通した(ただ一つだけフランス勲章をもらっていたが、但し、それは愛犬の頸輪にぶらさげて、毎日散歩に連れて歩いていたといわれる)。一時、ロレンス狂せりという風評がたったのもこのころであるが、生来の傍若無人さに、失望の忿懣も加わって、ときに奇矯の行動があったことも、かならずしも嘘ではなかった。
だが、この国際的背信によって、もっとも痛烈な復讐を受けたのは、英仏両国それ自身であった。もはや欺瞞によって、アラブ人の民族的覚醒を抑圧することは不可能であった。シリアもメソポタミアも、民族主義者の不満増大は、ただちに社会的不安となって反映され、政府当局は、治安維持のために、いたずらに国費と人命を底知れぬ泥沼に投じるばかりであった。これが解決に乗りだしたのは、やっと一九二一年ウィンストン・チャーチルの植民相就任以来のことであった。彼は旧知のロレンスを抜擢して植民省顧問にあげ、三月カイロ会議を開いて、ついにファイザルをもって独立国イラクの王(メソポタミアの古名)として承認することに決した。これがはたしてどこまでロレンスの良心を満足させるに足りたか、問題はあるが、とにかく一応の解決ではあった。が、ここでもまた彼は、その使命がはたされるとともに、風のように植民省を去ったのである。
一九二二年も暮近い十二月二十二日の「デイリ・エキスプレス」紙は、その第一頁に、「『無冠の帝王』、一兵卒となる」と題する段抜き大見出しで、驚くべき特ダネを抜いたのである。ロレンスが、なんとジョン・ヒューム・ロスなる偽名のもとに、空軍の一兵卒となっているというのである。はたしてイギリス全土は一大センセーションに包まれた。そして以後一九三五年の死まで、彼の奇怪な自己追放の物語、ガーネットのいわゆる「隠れん坊遊び」がはじまるのだが、いわばそれは、いかに彼が虚偽の名声から逃れようとして逃れえなかったか、笑い切れない歴史でもあった。
同年七月植民省を去った彼は、翌八月、いっさい前身を秘し、前記の偽名にかくれて、空軍入りをしたのだった。だが、秘密の保たれたのはわずか数カ月にしかすぎなかった。早くも新聞記者の嗅ぎつけるところとなり、さてこそ前述の特ダネになったのである。その結果、翌年二月には空軍除隊を命ぜられ、かわりに陸軍タンク隊に入った。このとき彼は、はじめてトマス・エドワード・ショーを名乗り、のちには正式に改名手続さえしている。が、タンク隊は、精神的野蛮さ、卑陋さにおいて、ほとんどたえられないものであったらしい。彼がここで、終始最下級兵卒に甘じ、頑として昇進を拒絶したのは有名な話だが、理由は、彼自身の言葉をかりると、「愚劣な命令に服従するのはなんともないが、自分がそれを他人にくださなければならないのはたまらないから」というのだった。
が、二五年十二月には、幸い空軍復帰が許され、ついで翌年十二月には、インドのカラチ駐在空軍付きに移された。が、ここでも、彼はインド政庁からたえずスパイ嫌疑の監視を受け、ほとんど外出もできず、不快をきわめたらしい。さらに一九二八年六月、アフガニスタン国境のさる要塞付きに転補されたが、「名声」という復讐鬼は、この辺境にまで彼を追ってやめなかった。ロレンスのあるところ、つねにスパイという疑念のつきまとうというのも、不幸な因縁だが、ここでも彼の存在は、たちまち世界的ニュースの注意を惹いた。しかも、たまたまアフガニスタンに暴動事件がおこったのが、いっそういけなかった。全世界の神経が集中した。暴動の背後にはイギリスがいる。しかもその秘密指導者は誰あろう、ロレンスであるというのだ。本国の労働党までが、問題を取りあげて政府攻撃を開始した。
ここにいたって、ついにインド政庁も、彼の本国送還を決定した。彼はほとんど護送囚人も同様の状態で、ボンベイを出発した。このときほど、彼が深い苦悩と憤りとを感じたことはなかったらしい。本国で彼を迎えた友人の一人は、ほとんど彼が生存を呪うかのような深い絶望にあったと記している。
が、その後の六年間は、どこか夕映の残照にも似て、むしろ最後の幸福な一時期だったともいえよう。もちろんその間、彼が空軍の爆弾投下演習で、みずから標的船を操縦し、肉弾ならぬ肉標的になっているという風説が、まことしやかに伝えられ、またしてもセンセーションを起こしたりしたこともあるが、それはもちろんデマであった。
一九三五年二月には、十年間の兵役満期で除隊になり、かねて入手しておいた南英クラウズ・ヒルの静かな家に、はじめて安らぎを期待した。が、早くも除隊を嗅ぎつけたジャーナリズムは、またしても執拗な追及を開始した。そのころ友人に送っている手紙には、「奇妙な不安に悩みながら、ロンドン付近を転々しています。心は少しも楽しんでいません。空軍を去ったことを悲しく思っています」という悲痛な感想さえ記されている。ようやく三月末、追われるようにクラウズ・ヒルの家に落ち着いたが、もはや夢は完全に砕かれて、心境は冬枯れの蕭条さにも似ていたらしい。彼自身の作った名声が、復讐鬼となって彼を追いもとめていたのである。「このごろ僕は、早く僕の幕がおりてくれるのを祈るばかりです。僕の芝居はもう終ったような気がするのです」とも、また「いまなにをしているかって? 僕にもわからないのだ。朝が来て、日が出て、やがて夜が来て、僕も眠る。なにをしたか、なにをしているか、なにをするつもりか、僕自身にもわからない。そうだ、こんな気持ちが君にはわかるかね?――君は一枚の木の葉だよ、秋が来て枝から落ちる、その時の気持ちをほんとうに考えてみたことがあるかね? つまり、それはなんだ、僕のいまの気持ちは」とも書いている。名声に敗れた四十七歳のロレンスの感情である。
そしてその一週間後であった。五月十三日の午後、愛用のオートバイを駆って所用に出かけた。帰り途、彼は前方を自転車で行く二人の少年を見た。避けようとして激しくハンドルを切った瞬間、彼の車は安定を失った。彼の身体はもんどりうって前方へはね飛んでいた。頭部を強打して昏睡におちた彼が、病院に収容されたのは、それからまもなくだった。体力の強壮さは最後まで医者を驚かせたが、ついに十九日、昏睡からさめないままで息を引きとった。遺骸は翌々二十一日に葬られた。
不幸な魂は、はじめて最後の平安をえたのだった。
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蒼竜窟
――河井継之助と北越戦争――
明治戊辰戦争のひとつに、北越戦争というのがある。明治元年五月から八月にわたって、ほとんど五カ月ちかく、越後長岡藩を中心として戦われたものだが、その立役者は長岡藩の総督蒼竜窟河井継之助であり、また戦争の直接原因をなしたものは、河井のいわゆる独立特行論であった。
いうまでもなく長岡は、明治維新まで、ひきつづき牧野侯の封土であった。元和四年、初代忠成がおなじく越後の長峯から移封されて入国して以来、明治二年、十三代忠毅による版籍奉還にいたるまで、徳川治政二百五十余年を通じ、終始一城主の治下にあったということは、全国を通じてけっしてあまり多い例ではない。後述する北越戦争における長岡藩の鞏固《きようこ》な一致結束も、その大きな原因のひとつは、おそらくこうした事情にもとづくものであろう。
長岡藩の表高は、七万四千石、けっして大藩とはいえなかったが、そこは例の徳川幕府の政策。つまり、牧野家は早くから徳川家康に帰属して、のちには徳川十七将の一人にさえ数えられたという譜代の家柄だったから、取高などとは別に、自然家格は隠然として重かった。ことに九代忠精が、享和元年、英才の故をもって老中にあげられて以来は、もはや牧野侯は単なる地方藩主だけではなかった。以下十代忠雅、十一代忠恭と、あいついで幕府の要職につき、幕末多難の政局にあたっていたのである。
さらに上述もしたように、表高こそ七万四千石にとどまっていたが、初代以来、代々その治政に見るべきものがあり、新田の開発などとあいまって、幕末時には、ほぼ表高に倍する実収を有していたといわれる。一口にいえば、小藩にもかかわらず、内証はむしろ裕福な藩といって差支えなかった。ただ中期以後、とくに藩侯が中央政界に進出するようになってからは、そのための支出が自然いちじるしく増大したうえに、信濃川氾濫があいつぐなどのことがあって、幕末時の藩財政はかなり窮乏をつげていたらしい。後にいう河井が、藩政改革にまずその卓拔した手腕を発揮したなども、まったくこうした背景によるものといってよい。
北越戦争とは、この眇《びよう》たる長岡藩が、はからずもあくなき戦争挑発屋のために、心なくも欲せざる戦争にまきこまれ、しかも一度まきこまれるや否や、薩長を主力とする二十藩に近い混成軍(それだけに、ほとんど使いものにならぬ部隊も続出したらしいが)、数からいっても、味方の五千にたいするほとんど四倍に及ぶ西軍(官軍とはとうてい申すまい)を引きうけて、抗戦八旬にわたったばかりか、一度などは、後年の山県元帥、当時の参謀山県狂介をして、深夜周章、戎衣《じゆうい》を着ける暇もなく、寝衣のまま敗軍を指揮して退却させたという、痛快な一幕まで演出しているのであった。
北越戦争の活舞台は、小千谷会談をもってはじまる。
明治元年(慶応四年)一月、伏見、鳥羽の遭遇戦は、はからずも天下逆転の形勢をいっきに激化することになった。薩長と岩倉の合作(というよりも、岩倉はむしろ大きな傀儡と見たほうが正しいかもしれぬ)による政権欲は、ここに俄然旧幕勢力の一挙掃蕩の好辞柄をあたえ、慶喜東走のあとを追って、ただちに東海、東山、北陸、山陰などの各道へ、それぞれ、名は鎮撫とはいえ、事実はあきらかに征討軍をくり出したことは、周知の通りである。いわゆる「幼帝を劫制し」王師を名とする政権欲の跳梁がはじまったのである。もはや敵か、しからずんば味方か、中立は許さない、あの不幸な「奥羽皆敵」論は、実にこうした野心から生れたものといわねばならぬ。
慶喜征討の東征軍が、これだけは西郷、勝という、とにかく千両役者の登場により(もっとも、これには国際的環境ということも十分考慮に入れなければ、とうてい正当な評価は期待できないが)、とにかくちょっと日本人ばなれのした会談で、四月、無事江戸城の無血接収に成功したことは、いまさらここに書くまでもあるまいが、いっぽう北陸道のほうも、正月二十日にはまず鎮撫総督高倉永祐が、兵を率いて京都を進発し、三月十五日には高田まで到着した。ここにいたって、はじめて長岡藩と西軍との直接交渉のキッカケがつくられたのであった。
が、それにはまず東西二つの陣営にはさまれた当年の長岡藩政情を、簡単に紹介しておく必要があろう。内からは綱紀の弛緩、財政のガタガタ、外からは諸外国からする開港の要求にあって、いわば内外挟撃の幕府崩壊期にあたって、牧野忠雅は、閣老阿部正弘の片腕として次席老中の要位にあり、当面諸難問の処理にあたっていた。その意味で、小藩ながら、すでに天下の注目を浴びていたといってよい。しかも幕府の頽勢いよいよ急となり、とどのつまりの崩壊時に際して、長岡藩の動向をいくらか独裁的なまでに指導していたのは、忠恭、忠訓の抜擢によって登用されていた重臣河井継之助であった。そして慶応三年十月十四日(旧暦。新暦ならば十一月九日)、例の大政奉還の政治危機から、伏見鳥羽役、江戸開城をへて、北越戦争にいたるまで、長岡藩の動きは、ほとんどひとつとして河井の献言にいでざるはなかったといってもよい。
が、それについて忘れてならないのは、官といい、賊といい、尊王といい、佐幕というが、それら名分対立の真実は、その後明治政府になって、半世紀にわたり、権勢を握った薩長閥の御用史家たちが支配者のためにつくりなおし、しかも昭和の超国家主義の風潮とあいまって、あたかもそれだけが唯一の真実であったかのごとく、国民子弟の頭に叩きこんだ、そんなものではけっしてなかったということである。尊王は結局するところ利用の方便だったといってまちがいない。もちろん天皇家というものが、そうした利用的価値を包蔵していたという事実や、またその旗印が、民族国家の形成期にあたって一応きわめて合理的な旗印であったこと、その意味で薩長方が、如何ともできぬ世界史動向の大勢に乗じていたという事実は、十分これを認めなければならぬにせよ、なおそれはけっして善と悪との倫理的対立などでは夢にもなかった。ことに岩倉以下指導者が、維新とともに掌を返すような攘夷から崇外への権謀的変節振りをみせたり、さらに北越戦争の直接因にもそれが出るのだが、時に乗じた新政府方末輩の暴状ぶりは、大義名分とは別に、それだけでも徳川家縁故の諸藩にたいし、憎悪と反感をあおり立たせるにじゅうぶんであったのは当然である。当時米沢藩の叛骨児雲井竜雄が諸藩に飛ばした檄文にみても、前者については、
「初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻りに外国と和親開市するを以て其罪とし、己れは専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮りて天眷《てんけん》を僥倖す。……然るに己れ朝政を専断するを得るに及びて、翻然局変じ、百方外国に諂諛《てんゆ》し、遂に英仏の公使をして、紫宸に参朝せしむるに至る……。何ぞ夫れ前後を相反するや。因是《これによつて》観是《これをみるに》、其十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾け、邪謀を済《な》さんと欲するに在ること、昭々《しようしよう》可知《しるべし》」
とある。筆者は別に幕府方でもなければ、英仏公使の参内に眼くじらたてるものでもないが、薩長の譎詐《けつさ》という大忿懣にいたっては、ほぼこのとおりであり、まことに同情を禁じえない。さらに、官軍便乗者の暴状にいたっては、
「薩賊の兵、東下以来、所過《すぐるところ》の地、侵掠せざることなく、所見の財、剽窃《ひようせつ》せざることなく、或は人の鶏牛を攘《ぬす》み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極る其醜穢、狗鼠《くそ》も其余を不食、猶且|靦然《てんぜん》として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是今上陛下をして桀紂《けつちゆう》の名を負はしむる者也。其罪何ぞ問はざるを得んや」とある。
これまたまさにそのとおりであり、事例は単に「東下以来」といわず、いわゆる自称官軍、自称志士群の足迹のいたるところ、枚挙にいとまなしといってよい。
このような情勢のもとにあっては、いかに大政奉還の事実があったとはいえ、諸藩の動向が区々として一定しなかったのは、すこしも不思議でない。長岡藩もまたその例にもれなかった。もともと長岡藩の動きは、ひとくちにいっていわゆる公武合体の線であり、それは累代の牧野侯が、閣老の一人として外国との折衝の消息に通じていただけに、開国論は当然であったろう。しかもいっぽうすでに尊王という名分の合理性は理解し、幕府の非力も知りつくしながら、さりとて多年譜代の義理上からも、とうてい倒幕に加担しえようはずがなかった。後世の批判はともかく、公武合体の妥協的斡旋は当然といってよかろう。継之助執政の時代になっても、もちろんこの本筋には変りなかった。
ところで慶応三年、大政奉還の飛報に接すると、当時まだ河井は御年寄役にすぎなかったが、深く決するところあり、藩侯忠訓を説いて、ただちに藩侯とともに大阪にむかった。公武斡旋に関する献言書を奉呈するためであったが、彼が京阪の地に見たものは、薩長のいうかたない僭上の暴状と、彼らの策動によってつくられた、いかんともしがたい公武反目の溝であった。しかも、伏見鳥羽の砲声は、河井らの意図を水泡に帰せしめた。いまは施すべき策もなく、彼らは急遽江戸に引き返したのだが、帰ってみれば、ここもまた決戦論か恭順論かのテンヤワンヤ騒ぎである。
河井の独立特行論は、ここにいたって、はっきり形を取りはじめた。すなわち、このままもし江戸滞留をつづけていれば、牧野侯もまた紛争の渦中にまきこまれて、玉石ともに焚《や》かれる危険の公算が、きわめて大である。それよりも、この際一応帰国して、形勢の帰趨をおもむろに観望するのが得策だとしたのである。忠訓はこれをいれて、明治元年(慶応四年)二月下旬、東征軍のいたるに先立って、長岡に帰り、河井もまたまもなく、後始末をすませて国入りをしたが、帰ってみると、ここもまた決戦か恭順かの対立でゴッタ返していた。
これよりさき、北陸道鎮撫総督高倉らは、高田へ入ると、長岡藩に対しても出兵の要求をした。しかも藩がこれを斥けると、さらに追っかけて、代るに軍資金三万両の献納をもってした。が、すでに家老上席に上り、帰国していた河井は、深く期するところあって、これをもほとんど独断で蹴ってしまった。事態は急に悪化した。そうでなくてさえ、長岡藩が河井の指導下に着々と兵制改革の実をあげていることが、注目をうけていた。またこんど江戸引上げにあたっては、藩侯の財産をことごとく処分したうえ、その金で洋式兵器を購入して帰ったということも、西軍の猜疑を刺激するにじゅうぶんであった。さらに反薩長の総本山会津、桑名の二藩の如きは、頑として奥羽同盟に加わらない長岡藩にたいして、これを引くに引かれぬ立場に追いこむべく、しばしば挑戦的行動に出たことも事実である。あるいは兵を長岡藩内に入れるとか、あるいはその辺境地域で、ことさら西軍との戦闘行為に出るとか、とりわけその戦闘の跡に長岡藩印のある武器を遺棄して去るなど、きわめて巧妙な手段をとった。長岡藩としては迷惑千万な話だが、西軍にあたえる効果については、なんとも防ぎようの手段がない。もっとも藩内の反薩長熱もけっしてただごとではなかった。彼らが集れば、痛飲淋漓、剣を抜き、樽を叩いて高唱した歌が、
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薩摩長州を俎にのせて、大根切るようにチョキチョキと
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というのだから、相当なものだったにちがいない。
この形勢のなかにあって、河井が出兵、献金を断るかわりに、会桑以下幕兵の入領も堅く防いで、独立特行の実をしめしたからといって、西軍からは、むしろ首鼠両端の奸策と睨まれたというのも、一部無理からぬ点もある。まして最初から敵としてマークされていたにおいてをやであろう。もっとも、誤解の根源には、河井の性格ということもひとつの理由をなしていた。おそろしく自我が強く、自信満点の性格にしばしばありがちな、いっさいを自家の腹中に呑みこんで、どうせいってもわからん小人には話しても無駄という倨傲が、河井にもたしかにあったようである。それがことさら藩士たちの不安をつのらせ、ひいては外にたいする誤解の因になったこともまた事実であった。
長岡藩の非恭順に業を煮やした西軍は、四月下旬いよいよ高田を進発して、海岸沿いの海道と、信濃川沿いの山道と、二方面から行動をおこした。長の山県狂介と薩の黒田了介(のちの清隆)とが参謀であった。が、それでも河井はまだ動かない。もし出戦の意志があれば、当然派兵して衛《まも》るべき要衝も、彼は平然と敵の手にゆだねた。ただ戦乱の領内に波及するのを防ぐために、要所に兵を出したにすぎなかった。深く期するところがあったからであろうが、それにしてもこの期におよんでなお、重臣の一人が、戦意の有無いかんをただしたのにたいして、相変らず笑って答えずというのは、いくらなんでもひどすぎるようにも思える。
閑話休題、こうして山道進軍の西軍は、閏四月二十七日には、ついに長岡から目と鼻の先の小千谷に拠った。まさに一触即発である。俄然河井は動いた。好機到れりと見たのであろうか。五月一日、長岡藩の一用人と名乗るものが、小千谷の本営を訪ねて、「重役河井継之助歎願の[#「歎願の」に傍点]筋あって出頭したいから、許容ありたい」と申し入れた。西軍の応答はイエスであったばかりか、待遇きわめて手厚かったので、翌二日黎明、おそらく河井は満腔の希望と自信を秘めて出発したらしい。同行は二見某と従僕二人きり。彼の服装が麻裃だったというのも、おそらく平和使節としての心構えをしめすためであったろうか。誠意を敵の腹中に託するのが彼の本意であったらしいのだ。
この運命的小千谷談判について、維新史家渡辺幾治郎氏は、
「江戸では、西郷と勝が、江戸開城という大芝居を打って、大向《おおむこう》の喝采ならで、都下百万の生霊を救うた。が、この小千谷談判ときては、田舎芝居にもならぬ馬鹿らしさ、餓鬼がお山の大将で威張っていたようなもので、いかに北越の名優河井継之助でも芝居が出来なかった。ために北越数十万の人民は、四カ月の間|兵戈《へいか》に苦しんだのである」と評している。
会見は小千谷在、慈眼寺というので行われたが、相手に出たのは監軍岩村精一郎(高俊。土佐人、当時二十二歳。これがお山の餓鬼大将なのだが、明治政府では男爵になった。ついでにいえば、のちに明治七年、江藤新平佐賀の乱の直前に佐賀権令に任ぜられ、こともあるに鎮台兵を率いて入県しようとして、江藤らを不要に激発させたのも、この男である。木戸にキョロマと冷嘲されたが、これでも薩長閥にさえ取りいれば、けっこう華族にまでなれたのである)。河井は、まず出兵、献金の違命を謝したのち、さらに藩論分裂の実情、朝幕の間に挟まれた長岡藩の困難などを述べたうえで、「かすに時をもってせられよ、しかれば、まず藩論を一定し、また一方には会桑米等諸藩を説得して、無事に時局を結ぶに至らしめん。いま直ちに軍兵を進めらるるに至りては、たちまち大乱を惹き起し、人民塗炭の苦を受ける」からということをあげて、藩主忠訓の歎願書を差出したのであった。だが、なにしろ相手は世間知らずの驕慢児、歎願書を検討するまでもなく、頭ごなしにきめつけて座を立ってしまった。河井も一度は袖を押えて引き留めた。だが、いよいよにべ[#「にべ」に傍点]もなく相手岩村がふり切って、奥へ入るのとともに、会談は午後二時ごろ、わずかに三十分たらずで終ってしまった。
小千谷会談は、まことにあっけなかった。その晩彼は、二見とともに小千谷の町はずれ、信濃川畔の旅亭に宿を取った。酒肴を命じ、談笑平生に変らなかったと当時の実見者は語っているが、おそらく彼の孤独感が、その絶頂に達したのは、この一夜ではなかったろうか。
剛腹不覊、長上を凌ぎ、繩墨《じようぼく》に服さぬというのが、河井の少年時からのいわばレッテルであった。学問、武芸すべてそのやり口であった。百二十石という大した身分でもない出身から、一代にして家老上席にまで抜擢された英才であるにもかかわらず、藩中からたえず、なにをしでかすかしれぬということで敬遠され、恐れられたのは、一にその故であった。人を人とも思わず、法を法とも思わぬ彼の面目をつたえる逸話は無数にあるが、そのもっとも躍如たる一事だけをあげるとすれば、まだ青年河井が古賀茶溪の久敬舎に在塾中のことであった。一日、藩から呼び出されて、横浜非常警備の隊長を命じられたことがある。彼は重役に問い返した。曰く、生殺与奪の大権までおまかせ願えるか? 願えればよし、でなければ、せっかくだがお断りするというのである。重役などというものが、形式主義の小心者であるのは、どこでもいつでもおなじである。相手に逡巡の色ありと見ると、河井はサッサと断って帰ってしまった。かりにも戦場? に出るのに、一々そう藩庁へ伺いを立てなければ、人一人殺せぬというのでは、とうてい委任を全うすることはできぬというのだ。だが、再度召出しがあったときには、とにかく引き受けて出かけたらしいが、途中品川の妓楼前まで来ると、彼はサッサと馬をおりて登楼してしまった。そして部下の一人を呼ぶと、俺はゆっくりここで遊ぶつもりだ。屋敷へ帰りたいものは帰れ。横浜へ行って固めたいものは、固めるがよい。ともに女郎買したいものはしろ。なんでも自由にまかす、という申し渡しであった。このことが聞えて、驚いたのは藩庁であった。さっそく呼び返されて罷免されたのはむろんだが、河井自身は、生殺与奪の権を委任された上は、俺の勝手ではないか、と空嘯《そらうそぶ》いて鼻で笑っていたという。形式主義、事なかれ主義の重役諸公にたいする面あてもあったろうが、外人といえばすぐ戦争と眼の色をかえる、幕政そのものへの無言の批判ででもあったわけだ。
したがって、その河井が郡奉行となり、家老となり、平素抱懐する藩政改革を実行するにあたっては、その強引さ、ほとんど一種の革命といってもよかった。吏道の粛正、とりわけ賄賂の一掃、民力の涵養などは驚くにあたらぬとしても、賭博の厳禁、遊廓の廃止(遊び好きでは名代の河井がやったのだから、なおさら妙だ)、牢獄の改善などは、さすがに炯眼だったといわねばならぬ。ことに慶応四年、牧野侯帰国の直後に実施した禄高改正のごときは、百石取り以上はすべて減禄、反対に百石取り以下はことごとく増禄。旧制では最高二千石から最低二十石にわたったものを、一挙に最高五百石から最低五十石に改変してしまったのである。社会主義革命とはいわぬが、いまならさしずめ赤の思想であろう。しかもそのやり方がまた、例によって河井式であった。一部に猛烈な反河井感情のあったことも事実である。落首がある。
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河井河井と今朝までおもい、いまは愛想も継之助
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だが、彼の剛腹と自信とは微動だもしなかった。身辺の危険を憂えて忠告した知人にたいしても、彼は、二、三度水ッ溜りへ叩きこまれるくらいはあるかもしれぬが、俺を殺すほどの気概のある奴は一匹もいまい、と笑ってかえりみなかったという。
話はもどるが、河井、齢ようやく四十を越して、まさに男の働きざかり、たとえ小藩とはいえ、家老上席として威望衆人を圧したはずの彼が、小千谷会談のこのときばかりは、まだ、嘴《くちばし》も黄色い二十二歳の若造にたいし、辞を低うし、袖を押さえてまで、局面打開の談判をこうたのである。しかも、つたえるところによれば、この日彼は、談判を蹴られたのちも、なお思い切れぬもののごとく、いくどか西軍本陣の門へ引き返し、あらためて取次ぎを求めたというのだが、そのつど衛卒の拒絶にあって、夜におよんで空しくついに引きとったという。よくせきのことといわねばならぬ。
その夜、彼は、二見と酒を酌み、愛誦する杜甫の一節を朗吟して、挙措平生と変らなかったというが、おそらく彼の胸を蝮のように噛んでいた思いは、豎子《じゆし》ついに事を誤るという感慨であったはずだ。一度、私欲が大義の美名をかりたときの恐ろしさを、この晩ほど身にしみて痛感した日はなかったであろう。月もない信濃川の川波は、人間永遠の痴愚をのせて、黒々と夜の闇を流れていた。
なぜ小千谷会談は失敗に終ったか? 後年品川彌二郎が語ったという、「いったい黒田や山県が河井にあわないで、岩村のような小僧を出したのが誤りだ。黒田ならば、あんな気風の男だからなおよかったろうし、山県があっても、戦争せずにすんだかもしれぬ」という評言こそは、品川ならずとも、そのとおりの感慨だったに相違ない。豎子にして冠するほど危険なことはない。当時河井といえば、かつて古賀塾の逸材、象山の門にも出入りしたことがあり、その後諸国を巡歴しては、備中の山田方谷のもとに滞留したり、長崎に海外の知識を求めたり、交友知己の点においても、相当その存在は注目されていたはずである。だが、岩村自身も後年述懐しているように、悲しいかな、この土佐の山猿青年は、河井の何者なるやなど、ついになにも知らなかったのである。しかも、その彼が、和戦選択の鍵を握っていたことになる。ああ、危い哉。
かくして豎子ことを誤り、小千谷談判はむなしく終った。あとは無用の戦いだけであった。
だが、筆者はここで、しばらく河井の心事を探ってみたいと思う。なぜ彼は戦争を欲しなかったのか?
河井が心から戦争を欲しなかったことは、疑いない。彼は年少、古賀茶溪に学んで、すでに経済立国の構想に目ざめていたばかりか、その後も海外通とはいかないまでも、西洋知識にたいしては、つねに大きく眼を開いていた河井である。しかも、ようやく彼の経綸が、藩政の上にあらわれようとしているいま、戦争などは、まことに迷惑千万だったに相違ない。しかも、朝幕対立の戦争そのものが、河井の識見からすれば、実に嗤《わら》うべき無用の流血とうつっていたに相違ない。彼が鋭意改革をはかった兵備は、一に花園を荒す暴徒にたいする備えであって、それ以上のものでは毛頭なかったはずだ。
現に上述、江戸藩邸引き払いに際しても、そのときも触れたように、有金ことごとくを兵器にかえて帰ったにもかかわらず、彼がそのとき出迎えの藩士に語った言葉には、「戦争はしたくない。せめてもう四、五年戦争せずにすめば、汽船の二、三隻も買い入れ、新潟を足溜りにし、家中の次男三男を商人、それも海外相手の商人に仕立てるのだが」と、戦争気配をかえりみて、憂心むしろしきりであったという。いや、小千谷会談の直前にすら、河井の心中を測りかねて、和戦の決意いかんを問うものにたいして、彼が口癖のように答えたのは、「いや、戦《いくさ》をしてはならぬ。戦してはならぬでや」という一言であったという。有名な逸話である。
河井としてはいわゆる独立特行、厳正中立をとるほかになかった。攘夷などということについては、長崎遊歴当時すでに、「攘夷などの愚蒙なる」と、たった一言でかたづけている彼である。といって、幕制の心酔者でもない。例の長州征伐に対しては、「毛を吹いて疵《きず》を求める」ものと冷評し去っているばかりか、おそらくは「第二第三の長州侯が出るだけだ」とさえ見事に予見していた。
大勢としては、いまの言葉でいう民族国家成立の必然さを、河井はむしろはっきり洞察していた。しかし、さればとて、いまさら情勢論だけで、恭順論の一辺倒になることも許さない、一片なにか眈々《たんたん》たるものが彼にはあったのである。譜代の閣老牧野侯の重臣という不自由さもあったろうが、それよりも筆者は、長岡藩の藩学がおおむね朱子学であったにもかかわらず、河井は好んで陽明学に親しみ、また唐の陸宣公奏議、宋の李忠定公集等が、その最大の愛読書であったという点に求めたいように思う。いいかえれば、才はあるいは勝(海舟)を凌いだかもしれぬが、不幸? にして、勝に見るいわゆる「奸雄の資」は、河井になかった。まして当時の彼の眼から見れば、薩長の権謀、私心はあまりにも露骨であり、まして尊王などを言いふらす志士、浪人どもの暴状は、いやほど眼にしていたからであろう。
河井としては、厳正中立を取るほかなかったのではないか。いまさら会津、桑名と同列になるほどの馬鹿ではない。彼は、西軍にたいして毅然として独立特行であったごとく、会桑にたいしても、彼らが河井の非協力を難詰したのにたいし、「それほど長岡が欲しくば、勝手にお取りなされ。会桑の腕前なら朝飯前の仕事でござろう」と冷嘲し去ったという。
結局において河井の独立特行論は敗れた。だが、はたして河井の中立論が責められるべきか、それとも戦争挑発屋の薩長が褒められるべきか、問題は、今日すでに歴史が判決を与えているように思える。
五月三日、河井は小千谷を去って、長岡郊外摂田屋の自軍本陣に引き取った。小千谷の旅亭は西軍蝟集のただなかであった。宿を出ると、薩長兵の営所が並んでいる。とおりかかると、聞えよがしに、長岡は、なんでぐずぐずしてるのかなあ。早く戦の用意をしろ、などとしゃべっているのが耳に入った。だが、この期におよんでさえ、なお河井は、「いや、戦はしたくないからなあ」と独語のように呟いていたという。
しかし摂田屋に帰ると、彼ははじめて決然たる戦意を明らかにした。が、これにも逸話がある。摂田屋に入る直前、彼はこれも藩の逸材川島億二郎をひそかに呼んで、いまはすでに一戦のやむなきをつげた。恭順派の川島は、河井平生の持説とことなるを知って、しきりに再考を求めた。河井はしばらく黙考していたが、やおら容を改めると、それほどいうなら、僕の首を斬り、三万両を添えて西軍に差し出し給え。それならあるいは事なきをえるかもしれぬ、といった。これには川島も驚いて、それほどいわれるなら仕方がない。君だけを死地に陥れることはできぬ。死なば諸共というわけで、ついに一戦に協力を誓ったというのである。
戦闘は、河井が帰った翌日、四日から火蓋がきられた。これまで拒みつづけてきた奥羽同盟にも加盟した。精鋭をこぞっての戦闘による一時的勝利の希望はあれ(また事実その通りだった)、戦争の終局的勝利は、もとより最初から望むべくもなかった。そのことは河井もよく知っていた。藩士たちといえども、よくよくの猪武者でもないかぎりは、覚悟のうえであったにちがいない。ただ公論を百年の後にまつ希望だけを力に、売られた喧嘩に立ちあがらなければならなかったのである。
こうして戦闘は、五月四日にはじまり、七月二十九日、長岡城の再陥落をもって、ほぼ終局をつげ、あとは西軍の追撃戦に移るのであるが、本稿は戦争史でないから、戦闘について逐次的に述べるつもりはない。だが、この三カ月にわたる戦争中、眼目ともいうべき戦闘は五つある。
第一は、五月十一日から十三日にわたる榎峠方面の戦闘。
第二は、五月十八日の長岡城陥落。
第三は、六月一日から翌二日にわたった今町付近の戦闘。
第四は、七月二十四日から翌二十五日朝にかけての長岡城奪回戦。
そして第五は、長岡城の再陥落であった。
兵数は必ずしも正確とはいえぬが、東軍は、長岡藩を主軸として、これに会津、桑名、米沢、およびその他の諸小藩が加わって、約五千。西軍は薩長を主戦部隊として、これに十をこえる諸藩の出兵を加えて、延べ二万におよんだといわれる。もちろん西軍といえども、戦争目的を自覚した精鋭部隊は、ほとんど薩長だけで、あとはたいてい便乗恭順藩のお義理だから、イザとなった場合、ほとんど役にたたなかったというようなことはあったにしても、とにかくこの眇たる一小藩が三カ月にわたって抵抗し、一時は山県参謀をして、「援兵の到着するを待つこと、大旱《たいかん》に雲霓《うんげい》を望むより急なり」との思いまでさせ、はじめは高倉永祐が総督であったのを、あわてて西園寺公望を総指揮官として送るやら、それでもたりず、さらに仁和寺宮嘉彰親王を大総督として派遣させるというところまで、西軍首脳を動揺させたというのは、なんとしても見事であった。
長岡から十キロあまり、三国街道を南へ下ると、連丘が急に信濃川岸にせまって、榎峠と呼ぶ険要がある。南方からの敵を防ぐとすれば、ここは第一の要衝でなければならぬ。ところが、本来戦意のなかった長岡藩が、さて戦争の蓋をあけてみると、要衝はすでに敵の手に落ちてしまっていた。当然戦闘は、まずこの方面から開始され、彼らは奮戦、西軍を後退させ、一度はこれら要衝を奪回したのであった。山県参謀は、ただちにこの方面からの反撃を命じた。攻撃にあたったのは歴戦の精鋭、隊長時山直八の率いる長州奇兵隊であった。
おりから信濃川は、数日来の豪雨で増水状態にあり、渡河は極度に困難であったが、勇将時山は、五月十一日以来、小千谷の前面で漸次渡河を強行して北上し、十三日早朝には、朝霧にまぎれて、朝日山の堡塁に殺到した。この戦闘では、長岡藩の安田多膳隊と桑名藩の立見鑑三郎隊が勇戦して、西軍を破った。彼らは隊長時山を失ったうえに、その屍体を収容する暇さえなく、旧戦線に敗退したのであった。これが第一戦。
あとは連日、陰雨ないし曇天のなかを、砲撃こそたえまなくかわされたが、戦況はおおむね持久戦に入った。山県は、兵力の休養、士気の激励にしきりにつとめながらも、おもむろに次期の作戦を練っていたのである。彼が終生しばしば自慢の種に披露したという、
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あだ守る砦のかゞり影ふけて 夏も身にしむ越の山風
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の一首は、すなわちこのときのことであるという。
が、そのうちにも西軍の陣容は、日一日と整うばかりであった。このころになると、海岸沿いから進出した西軍も、ようやく長岡に迫り、月なかばには、信濃川を挟んで左岸関原に本営をおき、小千谷方面の友軍と連繋して、全線約十五キロ、なかば長岡城包囲の態勢を整えることに成功した。そして十八日、山県の奇策にしたがって、東軍の虚をつき、ただちに長岡城にたいし渡河攻撃作戦がおこなわれた。
これは見事に成功した。信濃川の増水に安心していたせいもあろうが、主力はほとんど榎峠方面に牽制されていた留守に、長藩三好軍太郎の率いる西軍は、暁の濛霧をついて、忽然として長岡城の真正面に渡河、殺到して、町に火をはなったのである。寡兵にくわえるに油断、長岡藩の諸隊は随所に敗れて、ついに城中に引き退いた。報を聞いた河井は、ただちに火砲隊を率いて督戦におもむき、彼自身も手ずから砲を連射して、敵数人をたおしたが、戦勢はいかんともしがたく、みずからも流丸《ながれだま》に左肩を傷つけたが、勇戦して、とにかく敗兵を城内に収容することだけはできた。が、いまはすでに頽勢をささえるによしなく、はやる藩士たちをなだめるとともに、藩侯には、むしろ後図をはかるために、一応涙を呑んで開城、撤退することを説得した。藩侯ら一同が、森立峠をこえて、栃尾に退くのを見とどけると(のちに彼らは、さらに八十里越を経て会津に落ち着いた)、河井もまた敗兵をおさめて、森立峠へと退いた。森立峠は長岡の東方八キロ、山道の要地で、頂上からは長岡平野一帯が、一望の下に俯瞰できる。河井の肚は、ここで一戦試みるつもりであったが、味方の収容すら心にまかせず、かたがた後方の不安もあったので、ふたたび兵をおさめて、栃尾方面に退き、さらにその東方十二キロ、葎谷附近にその全兵力を集結することに変更した。これが第二戦。
だが、西軍もまたあえて急追せず、かえって兵の休養を策したので、形勢はふたたび持久戦態勢にかえった。しかし、いまや西軍の前線は、長岡の東から北へとはるかに進出し、森立峠から見附町、今里町、さらに與板、出雲崎をつらねる、ほぼ四十キロにおよぶ線に展開した。だが、こうした兵力の分散こそ、虎視眈々、長岡城の奪回を窺っていた河井にとっては絶好の機会であった。葎谷に陣容をたて直した彼は、まずその第一歩として、今町攻略の中央突破作戦をたてた。すなわち、東においては栃尾、見附、西にあっては與板、彌彦の各地に牽制攻撃をおこない、西軍の援兵をそれら両翼にひきつけた隙をねらい、六月一日、いよいよ本格作戦である今町総攻撃を開始した。当日は数日来の降雨で、河川はあふれ、泥濘膝を没する有様であったが、この日は河井みずから紺|飛白《かすり》の軍衣、平袴、大座の下駄、手には日の丸の軍扇という扮装《いでたち》で、主力部隊の先頭にたった。二日には、三方から当の目標、今町にたいして分進攻撃をくわえ、西軍は随所に敗れ去って、夜八時ごろには完全に占領をおえた。これが第三戦。
この逆襲は、戦略的にも効果すこぶる大であった。攻防の位置は一瞬にして逆転した。戦線整備のために、西軍は戦わずして見附を撤退するなど、逆に東軍が長岡城を圧迫する形勢になった。勝に乗じた長岡藩兵は、一挙に失城奪回をはやったが、さすがに河井はこれを制して、いったん兵をおさめた。後年山県が、「すでに今町を取り返されたりといはば、占領地全体の人心に影響すること容易ならず」と書いたのも真実であれば、前述彼が「大旱に雲霓を望む」ように、京都に援兵をこうたのもこのときであった。しかし、戦術家河井の真骨頂をうたわれる最後の花々しい舞台は、つぎにくる長岡城奪回の快挙にあった。
この間、西軍とても、手を束ねていたわけではもちろんない。むしろ山県は、増援隊の到着、弾薬の充実を待つと、こんどは別軍を一隊、海路から新潟に迂回上陸させ、前後腹背からする挟撃の策をたてた。しかも、南からする総攻撃は、七月二十五日を期して、まず薩兵は今町口から、長兵は栃尾口から、いっせいに行動を開始するはずであった。故意か偶然か、河井の桶狭間的なぐりこみは、実にその前夜、二十四日深夜をもって決行されたのであった。
長岡を東北へ四キロばかり離れると、ちょうど見附との中間に、いまはもう見るよしもないが、通称八丁沖と呼ばれた大沼沢地があった。河井の奪回作戦は、いっさい通常の攻撃路をさけ、暗夜みずから決死の兵を率いて、この沼沢地を一文字に突き切り、ただちに長岡城の虚をつくことであった。彼は七月十七日にいたって、はじめてこの秘策を明らかにし、最初の攻撃予定日は二十日であったというが、おりから連日の雨で、そうでなくてさえ危険な八丁沖の小径は、ことごとく水面下に没してしまった。やむなく二十四日に延ばしたのだが、後述もするように、物はなにが倖せになるかわからない。
二十四日になった。すでに今町から本道方面には牽制攻撃がかけられ、敵の注意をそらせてあった。見附に勢揃いした決死の参加者約七百人。午後五時に一同腹ごしらえをすませ、午後六時には隊形を整え、午後七時、三番太鼓の音とともに、粛然として枚《ばい》をふくんだ進発が開始された。携帯品は各人弾薬百五十発に、青竹一本、これは沼沢を越えるためであった。糧食は切餅三食分二十一個、決死の兵に弾薬こそ必要なれ、糧食の多きを要しないからであった。
午後十時には、八丁沖に達した。いまだ満水の沼沢は、小径ことごとく水に沈んで、ところどころ決壊さえみせている。暗夜ではあり、前進は困難をきわめたが、さいわい前哨の数士は、平素ここでしばしば漁業にしたがった男であり、あらかじめ精密な偵察もしてあったので、戸板、梯子などを利用して、とにかく全員あやまりなく徒渉しおわった。
すでに敵軍警戒部隊の篝火《かがりび》は目睫の間にあった。深夜ちかく半弦の月が上った。目にたつのをおそれて、一同は畦《あぜ》の畔《くろ》に身を伏せて待つことしばし、やがて月が雲に入るのを待って、ふたたび前進を開始したが、宮下村に入ると、またしても前進をやめて、全隊の集結を待つのに二時間をついやした。すでに大黒口、田井口方面では戦闘が開始されたものとみえ、射ちあう弾丸の跡が、流星のように尾を曳いては夜空に消えた。ときどき響くラッパの音、いや、喊声らしい人声さえ手にとるように聞えるのだった。
月はようやく中天にかかり、短い夏の夜は、すでに東の地平線に鉛のような白みをさえみせはじめていた。先頭部隊のごときは、敵の塁前わずかに二、三百メートル、闇にうごく人影さえ指摘できるほどであった。すでにして突撃の命令がくだった。くわしい戦闘経過は省略するが、とにかく完全に虚をつかれた西軍は、這々《ほうほう》の態で長岡をすてた。突入と同時に火をはなったので、燃えあがる火焔とともに、近郊一帯は、たちまち相呼応する乱射の中に修羅場と化したが、町民たち、そして村民たちは、狂気のように相抱いて、郷人を迎えた。戦いは深夜二時すぎにはじまり、夜明けまでに一応完全な勝利に終ったのであった。
西軍としては、これほど見事に虚をつかれたことはなかった。なにしろ翌二十五日には、彼ら自身が総攻撃開始の手筈であった。したがって、薩長の主力部隊は、二十四日夜までにすべて前線にむかって長岡を去り、あと城内には、わずかに移動中の部隊若干が残っているきりであった。山県自身も、当夜は奇兵隊本部にあり、京都から来ていた慰問使森某と、別宴の歓をつくして、深夜ちかくひとり就寝した。が、就寝後まもなく、急報を聞いてとび起きてみると、長岡勢すでに城下に迫っているという有様であった。彼が寝衣《ねまき》のまま指揮をとったというのは、この夜のことであるが、そこはさすがに山県であった。総督宿陣にいた西園寺と錦旗とを擁して、とりあえず南方、妙見方面に撤退することに成功したのである。
が、この輝かしい勝利も、けっして無償では獲られなかった。すなわち、この朝の戦闘で、長岡北部の部隊は、優勢な西軍の逆襲をうけ、新町方面へ敗退せざるをえなくなった。急を聞いた河井は、前夜の疲労にもかかわらず、ただちに督戦におもむいたが、たまたま途中で流弾にあたり、左足膝下に骨折銃創をおった。ついに生命とりの重傷になったわけだが、全戦局にとっては、けっきょく長岡城奪回そのものよりも、はるかに大きな打撃であった。
はたして四日後、二十九日の払暁を期して西軍は強行渡河、たちまち長岡城はふたたび敵手に落ち、西軍はただちに追撃戦にうつった。勝利の栄光は、まことにつかの間であった。だが、全局の戦争からいえば、やがては必然に来る運命であったともいえよう。河井自身も、それくらいのことはすでに覚悟の上であったろうが、せめては彼の死花だったといってもよい。後年山県が記した、「二十九日に長岡恢復がさまで困難ならざりしと、敵兵の抵抗力が著しく減退したるとは、海路より進発したる官軍が松ケ崎附近に上陸して、その背後に入り込みたるもの、その重なる原因たるに相違なしといへども、河井の重傷を負ひたるもののまた与《あずか》りて力ありしならんか」という一節は、おそらく河井にたいする最高の頌辞かもしれない。
負傷後の河井については、多くをいう必要はない。重傷は、彼の戦闘指揮能力を完全に奪い去った。翌日、軍病院に収容され、ついで敗兵とともに見附へ逃れた。以後しばしば自決を訴えたが、止められて、八月四日にはついに、
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八十里こしぬけ武士の越す峠
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と自嘲しながら、八十里峠を越え、翌五日には会津領に入った。このころになると、傷は化膿し、激痛たえがたいものがあったらしい。従僕をかえりみて、「死は最初から覚悟していたが、こんなに痛いとは覚悟しなかった」と苦笑したという。
八月十三日、塩沢村に到着したが、病勢はいよいよ重く、十五日には死期を悟ったか、従僕に棺と骨箱の作製を命じている。翌十六日午後、睡気をもよおしたからとて傍人を遠ざけ、そのまま昏睡に陥って、夜八時ごろついに息を引きとった。享年四十二。直接死因は膿毒であった。
河井の負傷とともに、三カ月の抗戦は完全に瓦解し、西軍本営はすでに北方遠く、新潟から新発田へと一路すすんでいた。
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|恐るべき児《アンフアン・テリーブル》
――悪魔ウィルクス――
悪魔ウィルクス――ことわっておくが、べつに怪力乱神を語ろうというのではない。ジョン・ウィルクスは、歴とした十八世紀イギリスの紳士――ただし、いくぶんか「街の」――である。稀代の醜男で、好色家で、蕩児で、ときには悖徳《はいとく》の無頼漢ですら彼はあった。そのくせ、おそらく彼ほど民衆、いや仇敵にさえ深く愛された、不思議な人間的魅惑の持主はなかったかもしれぬ。しかも、終生一貫して、果敢きわまる自由のための闘士であった。イギリス王室が人民の上にふるおうとした専制権力回復の野望にたいして、最後的打撃をあたえた人間の一人は、うたがいもなく彼であったろう。いや、彼個人の力ではなくとも、すくなくとも彼を愛し、彼を支持しつづけたイギリス民衆の圧力であったといってよい。あらゆる意味で、十八世紀イギリス社会が生んだ一個の「|恐るべき児《アンフアン・テリーブル》」であった。
十八世紀第三の四半世紀――一七五一―七五年は、イギリス史の二千年間を通じて、おそらくもっとも劇的波瀾にとんだ、一口にいえばダイナミックな一時期であった。同世紀前半期における議会主義政治と責任内閣制の確立、そしてまたできるかぎり大陸諸国間の紛争の渦中にまきこまれることを避けた中立平和政策、――それらがもたらした潜勢国力の蓄積は、後半期に入るや否や、たちまちめざましい国家発展の動力として爆発した。すなわち、まず一七五六年プロシャ王フリードリヒの支援を口実にして、七年戦争の渦中に投じ、ヨーロッパにおいてこそ、かならずしも見るべき成果はえられなかったにせよ、付随しておこったインド、北アメリカにおける植民地戦争では、いたるところ徹底的にフランス勢力を駆逐し去り、いわゆる大英帝国の基礎を完全に築きあげた。その意味での国民的大政治家、のちのチャタム伯ウィリアム・ピットの天才を上中流市民《アツパーミドルクラス》のなかから見いだした時代でもあった。
だがいっぽう、まもなくこの国家的栄光は、アメリカ植民地独立という歴史的事件によって、屈辱的失墜を甘受しなければならなかったことも周知のとおりだが、いわば栄光は、そのまま失政のはじまりでもあったのだ。そうしたあらゆる意味で歴史的脚光をあびた舞台の片隅で、これはまた痛烈な政府攻撃と国王攻撃との故をもって、二度まで国会議員を除名されながら、しかもそのつど、三度まで熱狂的国民の支持をえて、国会に送り返された人物がいた。その主人公が、ほかならぬ「悪魔」ジョン・ウィルクスであったのだ。したがって、ジョン・ウィルクスを語ることは、そのまま「ウィルクスと、そして自由を」Wilkes and Liberty という、当時不朽のスローガンとともに、ロンドン市中をわきたたせたイギリス市民そのものの叛骨、抵抗の精神を語ることでなければならぬ。歴史は舞台の片隅でつくられる。
一七六三年五月三日の午後――
それはロンドン高等民事裁判所の法廷であった。満員の傍聴者にかこまれながら、まるで法そのものを冷笑し去るかのように、傲然と坐っている精悍な表情の男がいた。年のころは三十五、六であろうか。おそろしく魁偉な、いや、むしろ醜怪といってもよいその容貌が、まずなによりも注目をひいた。才槌《さいづち》頭を思わせるつきだした高い前額、ひしゃげたような平べったい鼻、おそろしくしゃくれかえった顎。だが、それにもまして悪魔じみた相貌をあたえていたのは、まるで氷のような冷笑と火のような情熱とをあわせたたえたかにみえる、ひどい斜視と、これはまた悪魔の角そっくりに縮らせた風変りな鬘《かつら》であった。
はじめて見る傍聴者市民たちは、これがあの女|蕩《たら》し、快楽児として悪名の高いジョン・ウィルクスの正体だとは、いまさらのように、一応は目を疑ってみたものだった。
裁判長プラットの訊問にたいしても、答える彼の態度は、勝利の自信に燃える、むしろ逆に攻撃者のような感じさえあたえた。しゃくれた顎のあたりには、たえず意地悪そうな微笑がただよい、心なしか斜視にゆがんだ片方の眼は、あたかも裁くものの無能を嗤《わら》うかのように、ときどき傍聴者席のほうにむかって、キラリと妖しい光をはなつのであった。
蕩児だからといって、女出入りの訴訟事と早まってきめてしまってはいけない。硬派も硬派、すぐる四月二十三日発行という彼の主宰する政治機関誌「|北ブリトン《ノース・ブリトン》」第四十五号誌上で、彼は、ちかくおこなわれるはずであった国王ジョージ三世の国会演説の草稿を槍玉にあげ、傀儡内閣の外交政策を、正面きってこっぴどくやっつけたのであった。政府攻撃の間はまだよかった。だが、ひとたび鋭鋒が国王個人にまでおよぶにいたっては、当時のイギリス、とりわけみずから「哲学者国王」をもって任じ、王権回復に余念のなかったジョージ三世治下のイギリスでは、どうして無事ではおさまりようがなかった。政敵たちは、好機逸すべからずとしていきりたつし、王もまたそれに支持をあたえた結果、問題の「北ブリトン」誌は、「国民を煽動し、彼らの心を国王から離隔し、政府にたいする反抗暴動を教唆する不穏、不逞の危険文書」ということにきまった。さてこそ政府は、ただちに「概括逮捕令状《ゼネラル・ウオラント》」というのをだした。それによって彼は、四月三十日に捕えられて、ロンドン塔監獄へ拘禁の身となり、翌々五月二日から裁判がはじまっていたのである。
ジョン・ウィルクスは、一七二七年、ロンドンも中心部、クラークンウェルの裕福な酒造業者の次男坊として生れた(長男チャールズ・ウィルクスは、のちにアメリカに渡り、海軍に入って昇進、艦隊を率いて、南洋及び南氷洋方面の探検、測量航海で名を馳せた男である。大きな著述もある)。母が熱心な非国教会派の信徒であり、富裕なままに、学校教育はもとよりのこと、もっぱらオランダ出身の長老派牧師を家庭教師として、特別の教育をうけたばかりか、普通のイギリス青年の学歴とはことなって、そのままこの牧師にともなわれ、ただちにオランダのライデン大学へ遊学した。あまり勉強はしなかったが、成績はよかった。後年ジョンソン博士をさえ感心させたほどの古典の学殖は、ほぼこの時期に基礎をおかれたといってよい。
彼が後年あらわした複雑、矛盾をきわめた性格要因のうち、叛骨はおそらくこの非国教会派プロテスタント(抗議するもの)主義によって培われたものであろうし、また彼が、まもなくあるいは手におえぬ蕩児となり、あるいは政治的迫害に流竄《りゆうざん》、追放の悲境に沈んでも、終生ついにおおらかな楽天主義と、根は善良な人間的魅力とをうしなうことのなかったのは、これまたおそらく少年時の順境と、人の好い両親たちの溺愛とが、ある意味で決定因であったかもしれぬ。
一七四七年、オランダ遊学から帰ると、すでにようやく享楽児的傾向をあらわしかけていた二十歳の息子にたいし、この好人物の父親は、とにかく早く結婚して、身を固めさせるに如《し》くはないとでも考えたらしい。しかも、彼が選んできたのは、息子よりも十二も年長という、器量の悪い、陰気な、隣町エイルズベリのオールドミスであった。薬種屋の娘で、相当の資産家の跡取り娘というのが、おそらく世俗的父親の好みに合ったのであろう。
だが、そうした結婚が、最初からして不幸に宿命づけられていたのはいうまでもない。親を納得させるために我慢して妻にした、と彼自身告白しているが、「いわばそれはプルートス(富の神)への人身御供になることであり、ヴィーナスの祭壇へのそれではなかった。私は、ハイメン(結婚の神)の神殿の入口で、すでにすべってころんだのだ」という彼の自嘲も、むしろ当然であったかもしれぬ。
それでも当分はおさまっていたばかりか、ポリーという一生溺愛の娘さえ一人生れた。だが、やがて彼が、もっぱら細君の財産を足場に政界へ足を踏み入れるに及んで、夫婦仲には完全にひびが入った。一七五四年、彼が完全に蕩児としての面目を発揮しだしたときには、夫婦は永久に別居生活に入ってしまった。
政界進出といったが、もちろん早々にウダツなど上るはずがない。青年ウィルクスが、まずその名をあらわしたのは、政治家としてよりも、むしろ手におえぬ快楽児、放恣無頼の蕩児としてであった。指導役は、これも近所の選挙区から出ていた議員トマス・ポッターと呼ぶ青年であった。家庭などという灰色の枯草は棄てて、黄金なす人生の果実をあじわえと、しきりに彼にすすめた。下地は好きなり、御意はよし、青年ウィルクスは、たちまち師匠はだしの蕩児になりすましたのである。
彼の青年時代と切って離せない有名な一コマは、秘密結社「|地獄の火クラブ《ヘル・フアイヤ・クラブ》」員としての放埒振りであった。結社といっても、むろん政治結社などではない。まったくいうところの桃色秘密クラブであった。「地獄の火クラブ」――あるいは彼らが、しばしばテムズ河畔メドメナムの修道院跡に集って狂態を演じたために、「メドメナムの僧団」とも呼ばれるが――については、その後まもなく社会風教問題として摘発され、ごうごうたる非難の的になったために、その際会員名簿をはじめ、いっさいの記録が破棄されてしまったので、詳細はついにわからない。だが、クラブの最高指導者がサ・フランシス・ダッシュウッドであったことはあきらかであり、彼をめぐってサンドウィッチ卿のごとき青年貴族、また諷刺詩人として相当に鳴らした、そして生涯ウィルクスの盟友でもあったチャールズ・チャーチル(驚くべきことに、チャーチルは国教会の牧師であった)、同じく詩人のロバート・ボイル、成り上り者の金持で、一時宮廷の寵臣でもあったというバブ・ドディントン等々といった連中が集っていたものらしい。その意味では、有閑不良上流子弟たちのエロ遊びとかたづけられても、まず仕方がない。
だがしかし、このエロ遊び、凝ったという点からいえば、どうして古典的教養豊かなものでもあった。もっともよく集ったのは、サ・フランシス・ダッシュウッドの所領のメドメナム修道院跡であったが、入口の門扉には、例のフランソア・ラブレエつくる有名なテレマの僧院の標語「汝の欲するところを為せ」が高々と掲げられてあり、ひとたび門を入れば、テムズ河の岸辺には、わざわざヴェニスから取り寄せたというゴンドラが舫《もや》ってあり、広々とした荘園は、森、小径、池沼の配合とたたずまい、ニンフとバッカスの徒が情痴の狂態を演ずるには、まさにうってつけの舞台であった。しかも装飾、彫刻類は、すべてこれ痴態をきわめたものばかり、その中を院長《プライアー》役のダッシュウッドが、これはまた兎革つきの真赤な帽子という、ひときわ目をひく風態でもっぱら音頭をとったものだという。不良有閑貴族どもの悪ふざけも、ここまでくると馬鹿にできぬ。
もっとも桃色クラブとはいったが、ありようは単にそれだけでは彼らに可哀想である。つまり彼らの痴行、狂態も、もうひとつ深く掘り下げれば、実は彼ら自身すらはっきりとは意識しなかった、時代にたいする鬱勃たる反抗ででもあったのだ。
十八世紀イギリス社会は、一応理性と、秩序と、そして古典的整斉の時代であったとされている。キリスト教もまた、ようやく因襲形式化された国教会のもとに、その強い倫理的強制力を社会の上に持ちつづけていた。だが、一面そうした安定相の下に、鬱勃たる反発の潜勢力が胎動していたことも見逃してはならぬ。そのことがまた十八世紀イギリス社会に、とうていその後の社会には見られぬ男性的様相をおびさせていたことも事実であった。十九世紀のような感傷的人道主義は、ほとんどまだ見られない。人間人生に失敗すれば、強いものは泥棒、強盗になり、弱いものは自殺するか、乞食になる。それは当然のこととして怪しまれなかった。したがって大盗は、むしろ国民的英雄ですらあった。十八世紀のはじめごろ、ジャック・シェパードと呼ぶ侠盗がいた。富者から奪って、貧者にほどこすのが得意であり、その奪《と》り方の紳士的なのと、金ばなれぶりの見事さは、長くロンドン市民たちの語り草になった。しかも彼が、最後の絞首台にひかれるときは、市内はさながら凱旋将軍の行進にも似ていたとつたえられる。
ウィルクス自身も実は両三度やるのだが、男子ひとたび辱しめをうければ、決闘はおきまりの解決手段であった。故伊藤整作『得能五郎の生活と意見』の元祖である世紀の奇書『トリストラム・シャンディの生活と意見』の作者ロレンス・スターンの父親ロジャー・スターンというのに有名な逸話がある。彼もまた奔放、奇行の若い軍人であったが、一日つまらぬことから同僚将校との決闘になった。ところで、武運つたなく、彼は相手の剣に見事胴体を芋刺しにされ、力あまって剣尖は、深く背後の壁に突き刺さった。が、そのときロジャー先生少しも騒がず、その言い草がいいではないか。すまんが、抜くとき、剣尖の壁土だけはよく気をつけて抜いてくれ! と。いや、そうした嬉しい洒落っ気のある時代でもあったのだ。
が、それはさておき、「地獄の火クラブ」そのものが、やはり一種の叛骨精神であった。それは彼らの狂態、情痴の形式にみてもわかるように、ひとくちでいえば、キリスト教にたいする冷嘲逆説的反逆であった。かの中世以来の悪魔《サタン》崇拝「黒ミサ」の形式を復活させたものであったからだ。まず異様な物々しい服装をした道化司祭が、もっともらしい呪文を唱えて、悪魔の降臨を祈念する。さてそれから、男女入り乱れての狂態、痴戯がくりひろげられたものらしいが、上述のように、それ以上に正確な詳細は、残念ながら今日わからない。が、それはとにかく、悪魔ウィルクスが、まずその頭角をあらわしたのが、この「地獄の火クラブ」であったというのは面白い。
が、他方、政界進出のほうは、けっしてそう順調ではなかった。むしろ生涯のもっとも大きな性格的欠陥であったともいうべき、道徳的無感覚という汚点にはじまったといってもよい。
最初まず彼は、当年の国民的英雄ウィリアム・ピットに紹介され、ついでその義弟である、これも政界の大立者テンプル卿を庇護者として進出をくわだてた。が、最初の選挙は、四千ポンドという巨額の運動費を使い、ことに愉快なのは、ある船長を買収して、ロンドンから帰郷してくる相手がた候補者支持の有権者一団を、そのまま船もろともノルウェーへ送りつけるという奇想天外の放れ業までやってのけたのだが、結果はあえなく落選であった。つぎは、しかし細君の実家の地盤エイルズベリから出て、七千ポンドという、当時としては法外の金をばらまいた結果、こんどはやっと下院へ出ることができた。一七五七年、三十歳のときであった。
が、それにしても彼の才能は、かならずしも正統の政治家的手腕にはなかった。彼自身もよく知っていたらしい。そのころ、財産はほとんど傾け尽してしまっていたし、だいぶ困っていたので、彼としては、むしろこのへんで、固定収入のある官途につきたかった。コンスタンチノープル、いまのイスタンブル駐在のイギリス大使、あるいは新領土のカナダ総督などというところがまず狙いで、例によって一時は極力手を廻して運動してみたが、いずれも結果は徒労におわった。
あれやこれや、そうした事情で腐りきっていた彼に、はからずも機会をあたえたのが、政治ジャーナリズムであった。当時は、政党各派が争って知名の御用文士を抱えこみ、それぞれ機関紙の筆陣を張った時代である。たまたま国王ジョージ三世の寵臣政治家ビュート卿が、小説家スモレットを主筆として機関誌「ブリトン」を発行していたのにたいして、対抗上、反対党もまた機関紙の創刊を考えていた。機運に乗じたのが、ウィルクスであった。一七六二年六月、ついに彼を主筆とする問題の「北ブリトン」誌第一号が出た。創刊号の巻頭には、「言論の自由こそはイギリス人生得の権利であり、一切の自由にたいするもっとも堅固なる防壁たるはもとより論をまたず」という彼自身の筆になる闘争宣言が、高々とかかげられていたが、こうして以後十数年にわたる彼と国王ジョージ三世との対決は、文字どおり火蓋が切られたのだった。
ここで、多少傍道になるが、彼にとって宿命の仇敵ともいうべきジョージ三世の性格と思想について、簡単に述べておく必要があろう。王は、先王ジヨージ二世の孫であるが、父である皇太子フリデリックが、祖父に先立って早逝したために、一七六〇年、先王の死とともに、ただちに彼が王位をついだ。
少年時代、青年時代を通じて、彼の教育にあたったのは、父皇太子よりも、むしろ勝気、利かん気の母親、皇太子妃だったといわれる。しかも彼らが、この将来の後継者の頭に叩きこんだものは、いわゆる「愛国王《パトリオテイク・キング》」と呼ばれる専制君主の帝王学であった。終始母のあたえた訓戒が、「ジョージ、王になりなさい」ということであったといわれる。
周知のように、彼の曾祖父ジョージ一世を始祖とする現イギリス王朝は、一七一四年、ジョージ一世が、旧スチュアート王家とのかすかな血のつながりを理由に、ドイツ・ハノヴァー選挙侯から迎えられて、イギリス王位についたわけであった。だが、齡すでに五十をこして、突然異国の王位についた彼は、英語が一つわかるでなく、感情的にも、とうていイギリスを祖国と考える親近感のわかないのも無理はなかった。自然イギリス王とは名前だけで、大半は旧領ハノヴァーに住み、イギリスの政治は万事内閣まかせということになった。その子ジョージ二世もまた、イギリスよりもハノヴァー領をむしろ尊重するという有様で、いうところのイギリスの責任内閣政治制も、実はこうした特殊事情から発達したものであることを見逃してはならぬ。そんなわけで、ジョージ三世即位のころには、政治は完全に民党《ホイツグ》下の寡頭政治になり、王権そのものは、議会があたえる数々の制限下に、いわば一種のお飾り物にすぎなかった。ところで青年ジョージに、彼ら両親が叩きこんだ帝王学というのは、ひとくちにいえば、まず王権にはじまる失地回復の要求だったといってもよい。
もっとも、この種の政治思想は、十八世紀後半のヨーロッパにおける、いわば共通思潮であったといってもよい。まずその範をしめしたのは、例のプロシャのフリードリヒ大王が奉じた啓蒙主義的専制政治、言葉をかえていえば国民ないし人民のための専制政治という思想であった。フリードリヒの率いる目ざましいプロシャ興隆を目の前にして、青年ジョージもまた多少これにかぶれたことは疑いない。しかも曾祖父以来の異国人的感情も、彼の時代になると、すでに少年時代に、もはや地図の上でハノヴァー領の位置を指ししめすことができなかったという有名な逸話が語るように、はっきり祖国イギリスという国民感情に変っていた。「この国に生れ、この国に育ち、朕は祖国イギリスの名を光栄とした」のであった。
生来の性格的強情さにくわえて、上述のような帝王学に教育された彼は、当然その即位とともに、着々として民党による寡頭政治をおさえ、議会のあたえる制限内でこそあれ、強力な王権の回復をはかった。だが、その際残念なことに、功を焦りすぎたとでもいうか、彼はもっとも悪い、またもっとも拙劣な方法を選んでしまったのであった。すなわち、彼は買収その他のあらゆる権道を利用して、「国王側近派《キングス・フレンズ》」なる王党《トリー》内分派を育成し、その領袖として、もっとも不人気なスコットランド出身の政治家であり、そしてまた母親である皇太子妃と、とかくの関係さえ疑われていたビュート伯ジョン・スチュアートを選んでしまったのである。
啓蒙主義的専制君主を理想とする彼は、国民意識の代表者としての限りでは、たしかに一部国民の強い支持をかちえていた。しかし、ひとたび彼が、「国王側近派」なる御用党を手先に、議会権限の抑圧という野望を露骨にあらわすや否や、たちまちそれは、自由と人権を死守しようというイギリス国民の本能的感情から、痛烈な反撃をうけなければならなかった。やがて到来する国王とウィルクスとの対決は、言葉をかえていえば、むしろ国民意識と市民的自由感情との対決といってよかったのである。
話を元に戻す。ジャーナリズムは、にわかにウィルクス天成の才能鉱脈を掘りあてたかの観があった。辛辣きわまる彼の毒舌は、たちまち敵側機関紙を沈黙させたばかりか、ついにはビュート内閣をして、失脚、辞職せしめるにいたった。が、その間には筆禍をまねいて、生命の危険すらも一再でなかった。一度などは、彼の槍玉にあげられた一貴族が、火のように怒って決闘を申しこんだ。彼は前夜ちょうど徹宵で「地獄の火クラブ」の乱酔、狂歓から帰ったばかりであったが、ふらつく宿酔の足を踏みしめながらも、談笑少しも平生と変らず、わずか八ヤードの近距離でピストルを射ちあった。さいわい双方ともに弾丸ははずれたが、終ると、たちまち彼は相手のもとに駈けよって手を握り、そのままその足で酒を酌みかわし、歓談まるで旧友のごとくであったといわれる。ウィルクス得意の芸当だったのである。
が、まもなく問題の「北ブリトン」誌第四十五号の筆禍事件がおこった。ちかくおこなわれるはずの国王の議会演説草稿を、たまたまあるところで内見すると、たちまち彼は、好機逸すべからずとして、痛烈きわまる国王攻撃に出たのである。
「今週、吾人は、かつて人類の上にくわえられたもっとも恥ずべき政府の鉄面皮ぶりを見た。……人格高潔、国民敬愛の的たる国王が、かくも恥ずべき条約案に、その神聖なる裁可署名をあたえたこと、そしてまた真実、名誉、無垢の徳をもってなる王座よりして、およそもっとも許すべからざる勅語を聞くがごときにいたっては、まさに国民のすべてが、衷心悲しまざるをえないところである」というような書出しで、以下、上述もしたように、痛烈に御用政府の外交策をこきおろし、進むにしたがって、言辞いよいよ激越をきわめたのであった(恥ずべき条約とは、一七六三年フランスとの間に七年戦争の局を結んだパリ和約のことであり、実は屈辱的どころか、イギリスを一躍植民地国家にした栄光のそれだったのだが、戦勝に酔ったイギリス国民は、かつて日露戦後のポーツマス条約の場合と同様、これをはなはだしく不満としたばかりか、ビユート卿はフランスから賄賂で買収されたなどとまで疑われ、一挙に人気をうしなうことになったのである)。
さすがに彼も、「通例国王の演説は、議会としても、また国民一般としても、これを国務大臣の演説として了解するのが慣例であるが」という、一応は慎重な逃げ道もくわえているのだが、ジョージ三世自身は、はっきりこれを彼にたいする個人的誹謗とうけとった。そして、さっそく政府にたいして処置を迫ったのである。
しかたがない、内相ハリファックス卿は、彼にたいする逮捕令状をだした。が、問題はこの逮捕令状がまずかった。「概括逮捕令状《ゼネラル・ウオラント》」と呼ばれるもので、そこには被逮捕者の名前はいっさい明記されず(この事件の場合は、印刷人の名前だけが指定されていたという)、事件関係の疑わしいものは、誰でも勝手に逮捕できるという、今日からみれば、たしかに危険きわまるしろものであった。おかげで、この事件でも、結局ウィルクスのほかに、筆者、印刷人、発行人にいたるまで、大量四十八人があげられているのである。おそらくこの基本的人権の侵害が、なによりも強くイギリス市民の自由感情を傷つけたとみてよい。やがて、ウィルクス株が急上昇をみたというのも、最大の原因のひとつは、あきらかにこの点にあったはずだ。
グレート・ジョージ街にあるウィルクスの家も、当然令状執行吏に襲われた。が、彼は逮捕令状の不法性を主張して、頑として執行に応じないばかりか、逆に剣を按じて追い返さんばかりの剣幕であった。多勢の応援が駈けつけるやら、最後には警官、兵隊まで呼びよせんばかりの気配をみせて、やっと召喚だけには応じたが、そのときですら、彼は傲然として迎えの輿《こし》を要求し、それに乗って、まるで凱旋将軍のように市民歓呼のなかを、ハリファックス邸へとむかったのである。しかし、ここでも彼は、あくまで逮捕令状の人権侵害を叫びつづけて、脅しにも、賺《すか》しにも応じなかった。ついに、これにはハリファックスのほうが兜をぬぎ、改めてウィルクス指名の逮捕令状を出しなおして、やっとロンドン塔へ入ってもらった。一七六三年四月三十日、三十六歳の春である。
さて、私たちが冒頭にみた法廷場面こそは、その数日後、五月三日から開かれた高等民事裁判所《コート・オブ・コモン・プリーズ》における法廷闘争の一景だったのだ。ウィルクスは、もはや言葉本来の意味での被告ではなかった。すでに敵を呑み、勝利を確信するものの不敵な姿であった。
「本裁判の係争点は、国民一人一人の将来に重大なる関係をもつものであります。なんとなれば、それは単にすべての貴族、紳士たちの自由ばかりでなく、被告のもっとも痛感するところでありますが、もっとも保護の必要を感じている中流、下層市民たちの自由に関する問題であります」
不法逮捕の非違を糾弾する彼の声は、来る日も来る日も、あくことを知らずつづいた。眼中すでに裁判長の姿はなかった。彼がただちに訴えかけていたのは、彼をかこむ満廷の傍聴者市民、いや、はるかにその背後につづく、いっさいの特権から切りはなされた無数市民群にたいしてであったのだ。
数日後(五月六日)、裁判長プラットは、ついに彼の釈放を宣した。さすがに「概括逮捕令状」の違法性についてまでは断じえなかったが、そこは国会議員の自由を理由として釈放したのであった。市民たちは歓呼して、彼等の「護民官」を彼の家まで送り届けたが、そのとき人々は、はじめて群集の中から、誰いうとなく、「ウィルクスと自由を」という叫びが、潮のようにわきおこるのを耳にしたのだった。ついでに「概括逮捕令状」の運命についてもいえば、翌々一七六五年、高等裁判所はついにその違法性を正式に宣告し、翌六六年には下院もまたそれを確認した。かくして人権無視のこの悪法は、イギリス法制史上に永久に跡を絶ったわけだが、そのキッカケをつくったのが、このウィルクス事件であったことはいうまでもない。
第一戦は、完全にウィルクスの勝利であった。だが、第二戦は、ひそかに敵方によって、陰険きわまる、だが、ひどく滑稽な悲喜劇の形で用意されていた。というのは、そのころすでに彼の身辺は、危険人物の一人として、あらゆる政府スパイたちによって監視されていたばかりか、「北ブリトン」印刷所の使用人たちまで、賄賂によって買収されている有様であった。
直接危険を目の前にしては、無類に果敢な自由の闘士であった彼も、ひとたび危機が去り、桜草咲く享楽への途が開けだすと、まことに他愛なくタガのゆるみだすのがのんきな彼の好人物性とでもいうか、いわば彼の性格的弱点であった。
釈放から半年あまり、つぎの議会の召集まで、勝利の美酒に酔った彼は、問題の第四十五号を含む全「北ブリトン」誌の再版を用意していたのである。だが、どうした調子のはずみであろうか、ついでに「女性論《エツセイ・オン・ウーマン》」と題した一片の戯詩を、ほんの十二部ばかり、おそらく知友にわけるだけの目的だったのであろうが、刷ってしまったのである。「女性論」と聞くと、いかにももっともらしいが、ありようは、かつて例の「地獄の火クラブ」で、会員たちの合作した猥雑きわまる戯作詩にすぎなかった(当時、大詩人ポープ作の「人間論《エツセイ・オン・マン》」が大好評であったところから、それをもじってやったものであることはいうまでもない)。もちろんはじめは、筆写の形で会員間に回覧したにすぎなかったのだが、なんと思ったか、こんどはそれを活字にしたのである。はたしてスパイの嗅ぎつけるところとなった。たまたまウィルクスがパリに遊んでいる不在中に、買収、脅迫とおさだまりの手段で、問題の書一部を手に入れた彼らは、さっそく政府へ送りとどけた。すわこそ報復の機いたる! 喜んだのは、かつてしたたかな目にあった王とその側近派|王党《トリー》閥であった。
十一月十五日、ウィルクスの帰国を待ちかねるように、彼にたいする弾劾国会が開かれた。まず下院では、王の要求ということで、「北ブリトン」誌第四十五号問題がふたたび蒸しかえされ、堂々たるピットの反対演説にもかかわらず、大多数の賛成をもって、問題の第四十五号は公衆の前で焼却さるべきことを議決した。そしてウィルクス自身が、最後に権利侵害の抗議に登壇したときには、すでに疲れはてて放心したような議員たちが、寥々として議席に残っているにすぎなかった。
だが、もっと皮肉な一幅のポンチ絵は、むしろ上院議場でみごとに展開されていた。問題の「女性論」が、議場にむかって高々と朗読されようというのである。なんのことはない、「チャタレー夫人」が日本の国会議事堂で、公然と満員の議場を前に朗読されたものと思えばまちがいない。しかも、驚くべきことは、その朗読者が誰あろう、「地獄の火クラブ」時代のウィルクスの旧悪友、イギリス遊蕩児列伝中に今日もなおもっとも光彩ある名前をとどめており、そしてまたおそらくは、「女性論」合作者の一人であったろうにちがいないサンドウィッチ卿その人だったというのだから、話はいよいよわからなくなる。
彼は、意気揚々として、あるいは嫌悪の表情に顔をゆがめながら、あるいは驚きのしぐさに眉をつりあげながら、表情たっぷりに読みあげたのである。演技はまさに満点であった。だが、同時にイギリス的偽善もまた、ここにいたってまことに遺憾なかったといってよい。朗読中止を叫ぶものもいれば、おそらく脛に疵もつ議員たちも議場には多かったはず、苦虫でもかみつぶしたような顔で憤慨するものもいた。だが、議場の声は、不思議にも朗読継続が絶対多数であったという。
けっきょく、上院は「もっとも淫猥、鄙陋、冒涜のワイセツ文書」としてこれを議決した。つぎにくるものは、当然ワイセツ文書頒布という理由による起訴であった。裁判長は「国王側近派」のマンスフィールド卿であった。運命は日に非であった。取引場前でおこなわれるはずであった「北ブリトン」誌焚書の一件こそ、民衆の蜂起、妨害にあって、執行役人は袋叩きにあうし、馬車は焼きはらわれるで、不可能に終ったが、もはやすでに頽勢をまわす力はなかった。そのころから彼は、ひそかにイギリス脱出を考えていたらしい。
が、これよりさき、またしても彼は決闘事件をひきおこし、こんどは危うく落命に瀕する事態を招いた。相手は、これも政府から四万ポンドをこえる買収資金をもらって、秘密工作にしたがったという容疑で、痛烈なウィルクスの槍玉にあげられていた下院議員、しかし一度は蔵相までつとめたことのあるサミュエル・マーチンなる人物であった。いくどか悪罵にみちた私信交換の結果は、マーチンのほうから、ハイド・パークで決闘をという挑戦状を叩きつけてきた。もちろんウィルクスは喜んで応じた。決闘は、十四歩の距離を隔てておこなわれ、最初の発砲は双方ともにはずれたが、マーチンの射った二発目の弾丸は、ウィルクスの外套のボタンをかすめて、鼠蹊部を貫いた。崩れるように倒れたが、相手マーチンの駈けよるのをみると、彼は手をあげて、早く逃げろとうながした。そして、まもなく介添人たちによってかつぎ帰られると、まずその召使に命じたのは、マーチンにとって犯罪証拠になるおそれのある挑戦状を、一刻も早く送り返せとの一言であった。
彼自身致命傷と信じていたにもかかわらず、傷は案外に軽かった。二日目には、医者ももう大丈夫だといった。だが、例の「女性論」問題以来、頼みにしていた唯一の庇護者ピットからさえ見捨てられたことを知ると、ついにはっきりイギリス脱出を決意した。パリにいる娘、いまは彼にとって唯一の愛情の対象であるポリーに対して、クリスマスまでにはパリに行く、と手紙を書いている。
そのころすでに彼の家には、政府機関による監視の眼が、網の目のように張りめぐらされており、手紙はことごとく途中で検閲をうけた。下院からの出頭命令にも、病気と称して応ぜず、議会が送った二人の医師にたいしても、頑として彼は診察をこばんだからである。だが、クリスマス前夜には、予定どおり、どこからともなく監視の眼をくぐり抜け、まだ癒え切らぬ傷の痛みに苦しみながらも、ドーヴァ海峡をこえ、まんまとフランスへ逃げのびていた。が、さらに追い討ちでもかけるように、翌一七六四年一月二十日、下院はついに彼の除名を可決した。一方、高等裁判所もまた有罪の判決を下したが、それでも帰国しない彼に業を煮やしたとでもいうのか、十一月には正式に法律保護の剥奪(outlawry) を宣告した。
それから四年間、のんきな彼の大陸生活がつづく。もちろん、ときには失意の悲境を歎息することもあった。だが、とうてい絶望しきったり、意地悪い厭人家になりきれるウィルクスではなかった。ことにパリには、最愛の娘ポリーと、そして彼にはとうてい抵抗しえない快楽の誘惑があふれていた。劇場に、サロンに、さては娼家の閨房に、ほとんど夜ごと彼の姿がみられた。そして、そうでなければ、きまってそれはフランス、スイス、イタリアへと、あいつぐ各地への旅行であった。しかも行く先々の市には、南国の美女、情熱の商売女が待っている。なかでも、もっとも高名な情事は、パリで知りあったイタリア生れの踊り子ジェルトルーデ・コルラディーニとの痴情であった。
ウィルクス自身の回想録によると、彼女はボローニャの生れ、ヴェニスで育ち、そこではじめて舞台にたったが、たまたまイギリス領事某に愛されて、情婦になったという。一方出世を求めてパリにあらわれたが、おりから男が故あって破産に瀕したところへ、たまたまあらわれたのが、ウィルクスであった。もちろんたちまち出来てしまった。
これもウィルクス自身、惚気《のろけ》半分の回想だが、それによると、彼女は一見あどけない、まるで男を知らぬ処女のような美貌を持ちながら、しかも「天成、神秘の淫蕩」と彼が呼んでいる閨房秘技を心得た女であったらしい。知能は白痴にちかかったが、それがまたえもいわれぬ男への魅力であったとは、これももちろんウィルクス自身の口からする惚気である。娼婦に多い、利己的で、打算的で、けっこう利口に立ちまわろうと思いながら、そのくせつぎつぎと男に欺されていく、彼女もそんな女のひとりであった。
最初の数週間、彼ら二人の同棲生活は、パレエ・ロアイヤールを見おろす瀟洒たる貸室で、夢のように幸福な毎日をおくった。だが、まもなく胸の病にやられるのとともに、彼女は、愚鈍、貪欲、淫蕩というかねてからの素質のうえに、またひとつさらに、嫉妬という徳目までしめしはじめた。二人の間には、しばしば猛烈な喧嘩が演じられたが、やがて女が、療養のために故郷ボローニャに帰って行ったために、関係は一時中断された。
が、ここでさらに後日談を簡単に付けくわえておくとすれば、その後二人は、ウィルクスのイタリア旅行の途中、ふたたびボローニャでめぐりあうことになる。あいかわらず「処女のようなあどけなさ」で彼を迎えたコルラディーニと、再会の交歓ぶりは省略するとして、二人はそれからまた手を取りあってフロレンス、ローマ、カプア、ナポリと旅行しているが、そうした浪漫的背景は、すべて表面だけの綺麗事で、そのころから彼女のじゃじゃ馬ぶりは、いよいよ目立ってひどくなったらしい。そして揚句のはては、ナポリの宿で、彼がちょっと留守をした間に、彼女は、しこたま鞄につまるかぎりの銀器類をつめこんで、故郷ボローニャへと逃げ帰ってしまった。
生来「諦念の哲学者」と自称する彼だけに、さすがにそのときの彼は立派であった。怒りを抑えて、やさしい手紙と百ポンドの手切金を送ると、彼自身はそのまま南仏、スイスの各地をまわり、――もちろんその間にも、女道楽だけはあいかわらず忘れていない――一七六五年初夏には、ふたたびパリに帰っていた。思うに、ロンドン政界の雲ゆきが、ようやく彼にとって好転しつつあったからであろう。
すなわち、彼がのんきに情熱の果実をむさぼっている間に、ロンドンでは「国王側近派」政府が倒れて、ふたたび民党《ホイツグ》内閣が政権を取っていた。ウィルクスにも、希望の曙光らしいものが見えだしたのだ。市民権剥奪と除名がゆるされるばかりか、むしろ自由の闘士という栄光のうちに迎えられるのではないかと、ひそかに期待していたようである。だが、それらはすべて甘すぎた。王の不興は頑としてとけていなかった。かつての支持者、民党の連中にも、それをおかしてまで、彼のためにとりなしてくれるものはいなかった。彼は、三度までひそかに帰国して運動したが、もはやそれも望みなしとわかると、ついに一七六八年、いわば乾坤一擲の大賭博にでた。すなわち、居直りとでもいうか、市民権剥奪の身をもって、堂々とあらかじめ帰国宣言をしたうえで、同年春の総選挙に出馬したのである。
選挙区は、ロンドンの商業区《シテイ》であった。人民選挙にもちかい、もっとも民主的な選挙区だと見こんだからである。だが、残念ながら、それは見こみちがいであった。むしろ事実は、強力な財界ボスどもの勢力地帯だったからである。みごとに敗れた。だが、それでへこたれるようでは彼でない。すでにもう傷をおった猛獣であった。こんどは河岸をかえて、ミドルセックスから出馬した。こここそは民衆、人民の区だったのである。中商工業有権者たちのほかに、当時ようやく賃下げと失業の脅威におびやかされていた船員、織工らの支持が絶対に彼にあった。「ウィルクスと自由を」のスローガン、そしてまた「四五」のマークは、いつのまにか彼の人気の旗印になっていた。家々の窓硝子には、ことごとく「四五」のマークが白く印されていた。でないと、いつ襲われて壊されるかしれないからであった。
当選の日の騒ぎにいたっては、もはや狂気沙汰というよりほかなかった。「四五」マークのない馬車などは、とうてい街を通行できなかったという。当時欧洲一の専制国と見られたオーストリア大使のごときは、その日たまたま通りかかったおかげで、馬車から引きずりおろされて胴上げにあったばかりか、靴の裏に「四五」とチョークで書かれたという、嘘のような話さえある。
市民権喪失者が議員になるという、まさに前代未聞の珍事がおこったわけだが、まだ国会に返り咲く前には、問題の裁判が待っていた。法の前には、彼はまず逮捕、投獄されなければならなかった。だが、監獄への途中、民衆はついに馬車を襲って、彼を奪い返してしまった。むしろ彼は、民衆の暴力からやっと逃れて、みずからすすんで監獄にたどり着くよりほかなかったくらいであった。
だが他方、騒ぎは大きくなるばかり。監獄の門は、連日興奮した民衆の群にかこまれて、石を投げられた。五月十日には、鎮圧に出動した軍隊との間に発砲騒ぎまでひきおこす始末。ついに六人の死者をだすという、いわゆる「セント・ジョージ・フィールズの虐殺」事件にまで発展した。ここにいたって、ついに彼の市民権剥奪も、理由をもうけてはっきり無効が宣せられ、裁判のほうも六月十八日には、ワイセツ文書事件のほうは禁錮一年十カ月、第四十五号再版の件は、一千ポンドの罰金ということで、なんとかとにかくケリをつけた形であった。
ウィルクスは承服した。だが、おさまらないのはむしろ市民大衆のほうであった。いまや彼の人気は絶頂であった。もはや単なる個人ウィルクスでなかった。民衆の求める自由の大義、それがそのまま彼ウィルクスに象徴されていたといってよい。監獄への面会客は、無数の女性をさえまじえて、連日引きも切らないし、彼の独房は、遠くアメリカ植民地からの到来物をも含めて、酒、タバコ、その他山海の珍味の山であったという。しかも、彼の政府攻撃は、獄中にあってもなお依然として痛烈にくりかえされた。
政府もついにしびれを切らしたとでもいうか、一七六九年二月四日になると、下院はふたたび彼への除名案を可決したが、彼は欣然として挑戦をうけた。ミドルセックスの民衆もまた政府と議会を愚弄するかのごとく、二月、三月、四月と、この獄中の不在候補者は、三度国会に送り返されて、四度除名処分をうけた。ことに最後の場合のごときは、政府みずから対立候補を持ちこんだばかりか、露骨な強権の圧迫さえちらつかせたが、なお民衆は、ほとんど四倍の大多数をもってウィルクスを送り返した。こうなれば下院も下院だが、窮したあげく、これはまた「当然当選すべきはずであった」という珍論理のもとに、厚顔にも相手落選候補のほうに議席をあたえるという、まことに珍無類、嘘のような措置さえあえてしてしまったのである。
だが、ウィルクス自身もかつてある人に答えたように、|神の声たる民の声《ヴオクス・デイ・ヴオクス・ポプリ》に勝利の日がついにきた。「ウィルクスと自由を」のスローガンは全国を風靡し、ロンドン下層中流市民たちの家々は、ほとんど戸ごとに「四五」のマークをつけた。さらにウィルクスの釈放を求める民衆の暴動、労働者のストライキは、各地に頻発するありさまで、ついには「ウィルクス党」と称する、急進的選挙法改正と言論の絶対自由を標榜する新政党まで、全国的に結成される形勢になった。
いっぽうウィルクス自身はといえば、一七六九年、これも獄中のままロンドン市参事会員に選ばれていたが、翌七〇年、晴れていよいよ自由の身になると、一七七四年にはついにロンドン市長にあげられた。ここにいたっては、下院もついに我を折ったらしい。もはや彼を議席から拒むことの愚を悟ったとでもいうのか、やはり同じ年の総選挙で当選したときには、ついに十年ぶりにふたたび、議席をあたえることに同意した。
ウィルクスの闘いは一応終った。一七九〇年、いっさいの公的生活から退くまで、なお自由のために闘った輝かしい記録はあるが、同時に彼が、すでに往年の彼ではなく、むしろ上中流階級の代表者として、民衆からはすでに浮きあがってしまっていたことも事実である。すでに余白もないが、語る必要もあるまい。
一言でいえば、ウィルクス個人は、偉人でもなければ、高士でもない。かつて政敵から「絞首台か梅毒かで死ぬ男」とののしられたという、それだけの人物だったといってもよい(ただし、不正直と卑劣と偽善だけは彼になかった。それから「たとえ一文なしのときでも」、かつて公金にはビタ一文手をつけなかったという、金銭的潔白さは注意されてよい)。だが、ただひとつ、彼には刻々に動く民衆の欲求を、そのままピタリと嗅ぎわける天成の感覚があった。「はからずも」それが、彼を自由の闘士にしたというにすぎぬ。言葉をかえていえば、歴史は個人ウィルクスによって動かされたのではすこしもない。むしろ逆に、民衆そのものが、彼等の要求する人間的自由への代弁者を、たまたまジョン・ウィルクスなる天成のデマゴーグのなかに見いだしたというにすぎないのである。そして、おそらくそうした人間歴史の機微を、彼の闘いの跡ほど忠実にうつしだしているものはないように思える。
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一粒の麦
――奴隷解放の殉教者ジョン・ブラウン――
幌馬車が、ガクリとかしいで、大きく揺れた。こづかれたように、ジョン・ブラウンは、思わず我にかえった。
星一つない空。秋。
とっぷり暮れ落ちるのを待って、ケネディ農場を出発したのだが、それからでも、もうかれこれ一時間はたったろう。目ざすハーパーズフェリは、もう一息だ。出発したころからは、さらに一段と雲量をました雨雲が、わずかに行く手のボリヴァー丘陵の稜線あたりを、黒々と浮びあがらせているだけで、あとは一面に、重く、低く、屍衣のようにおしひろがっていた。
そよとの風もない。
静まりかえった秋の山気のなかに、馬車の輪のきしりと、すぐ背後につづく、規則正しい一団の靴音ばかりが、鋭いほど耳にたつ。
無造作に投げこまれた手槍、鉄梃《かなてこ》、大鉄槌、薪束などの積荷の上に身を伸ばして、うかがい見るように、彼は闇の中をすかし見た。人数はわずか二十二人たらず、めいめい小銃を肩に、押しつぶさんばかりに台尻を握りしめて、黙々と進む二列縦隊の小隊伍。
だが、ザク、ザク、ザク……いまはもうみじんの疑いもない。ただあたえられた運命にむかって、まっしぐらに進んでいるかにみえる、確信にみちた靴音。烈しい意志を思わせる角ばった顎から、顔の下半分にかけて深々と伸びた鬚髯《ひげ》、貝の蓋のように結ばれた唇、古ぼけた開拓地帽《カンサス》の下から盛りあがった半白の髪、――馬車の上の頑丈な老人は、あらためて満足そうに微笑をほころばせた。
「おお、神よ、御心ならば、わがことを成らせ給え」
彼は、はっきり聞えるように、口のなかで呟いた。
彼の瞼の底には、さっきから想像に描きつづけていた旧約聖書のなかの一場景が、いまだに鮮かな残像として残っていたのだ。
「かくて三百人を三隊《みて》にわかち、手に手にラッパおよび空瓶《からつぼ》をとらせ、その瓶のなかに灯火《ともしび》をおかしめ、これにいいけるは、我を視て、わが為すところにならえ。我が敵陣の辺《ほとり》に至らんときに為すごとく、汝らも為すべし。我およびわれらとともに在るものすべてラッパを吹かば、汝らもまたすべて陣営の四方にてラッパを吹き、これエホバのためなり、ギデオンのためなりといえと。而してギデオンおよび、これとともなる百人、中更《ちゆうこう》の初に陣営の辺《ほとり》に至るに、おりしも番兵を更代《おきかえ》たるときなりければ、ラッパを吹き、手に携えたる瓶《つぼ》をうちくだけり。即ち、三隊《みくみ》の兵隊《つわもの》ラッパを吹き、瓶をうちくだき、左の手には灯火《ともしび》を執り、右の手にはラッパをもちて、これを吹き、エホバの剣、ギデオンの剣なるぞと叫べり。かくておのおのその持場に立ち、陣営を取り囲みたれば、敵軍みな走り叫びてにげゆけり」(「士師記」第七章)
車のきしりと、そして沈黙の進軍とは、依然として山峡の小径をくだっていた。
一八五九年、もう秋も深い十月十六日の夜。時刻は、かれこれ十時にちかかったろうか。
ここは、アメリカ合衆国の東部、アレガニー、アパラチアの諸丘陵脈が、東北にむかって走り終り、やがて大西洋へと急に傾き落ちようという、ウェスト・ヴァージニアの東北隅、ポトマク河とシェナンドア河が落ちあう合流点、ハーパーズフェリ(フェリは渡し場の意)と呼ばれる小村にちかい、うち開けた山峡の小径であった。
幌馬車と武装した十八人。それにしても、異様な夜のこの行進は、なにを目ざし、なにを意味していたのであろうか。
ハーパーズフェリ、そしてそこの兵器庫であった、目ざす目標は! 急襲、占領、――そしてあとは山にたてこもってのゲリラ戦! 黒人《ニグロ》のための地上天国、そして白人も黒人も、文字どおりすべての人間が神の前に平等であるという、聖書に語られている神の言葉をそのままに実現するという――長かったジョン・ブラウンの夢も、もうあと数時間、新しい日の夜明けとともに、美しい希望の虹を約束しているかのようにみえた。
ジョン・ブラウンが、ひそかにハーパーズフェリ兵器庫の急襲、奪取を思いついたのは、けっして昨日今日のことではない。
いわゆるポタワトミー虐殺事件(詳しくは後述)以来、あいつぐ南部奴隷所有者たちとの直接闘争により、もっとも果敢な戦闘的奴隷解放論者として、突然彼の名がアメリカ全土に鳴りひびいたのは、まだほんの三年ばかり前のことであった。だが、まもなく彼は、ただそうした辺境における無計画な抗争だけでは、解放の実はほとんどあがらないことに気づいた。と同時に、この幻想の人ブラウンの胸には、もっとはるかに大規模な、しかも、ある意味では途方もないある計画が、ようやく形をとりつつあったのである。
どこか山岳地帯の開拓地域を手に入れること、そしてそこを逃亡奴隷のための自由の天国につくりあげようというのだ。だが、当然それには、政府権力と軍隊とを握っている南部支配層のゴロツキどもとの武力闘争を覚悟しなければならぬ。自由は実力によってのみえられる。彼がついに暴力蜂起を決意し、ナポレオン戦史の研究などによって、ひそかにゲリラ戦術の研究をはじめたのも、そのころからであった。
そうした彼の意図からして、やがてまずはっきり浮んできたのが、このウェスト・ヴァージニアの奥地、二つの河を前にして、アレガニー山脈の末端ボリヴァー丘陵を背後におった山峡地一帯であった。さいわい目と鼻のさきのハーパーズフェリには、政府の兵器弾薬庫まであるではないか。これをまず急襲し、兵器を奪って、山地にたてこもる。そして討伐軍を迎えてゲリラ戦を闘う間に――それにはすでに自信があった――ぞくぞく逃亡奴隷たちの来り投じることは、期して待つべしであろう。彼らのための天国実現は、おそらく大奴隷所有者たちにとって、一大恐慌、一大打撃に相違ない。私有財産権の不安――やがてそれは、不安な財産権そのものの無意義と悪を悟るにちがいない。そのときこそは、まさに神の栄光の勝利の日だ……。
計画そのものが空想的であればあるほど、かえって神の人ジョン・ブラウンにとっては、すぐにも実行可能の夢であるかのように思えてくるのだった。
すでに二年前(一八五七年)にも、彼は決起寸前にまでいったことがある。このときは、時期尚早を諫《いさ》められて思いとどまったのだが、もちろん断念したわけではない。断念どころか、狂信的奴隷解放運動者としての彼の名を一躍高名にしたカンザスの辺境を去って、もっぱら東部を東奔西走、同志と軍資金の調達に熱中した。面白いのはそのころ、彼の主唱で急進解放運動者ばかりが五十人たらず、カナダの某地に集って結社を結んだことがある。が、これなどすっかり一個の国家機構気どりで、「アメリカ人民仮憲法」と称するものまで起草する始末。国務長官、財務長官、国防長官等々を任命するやら、そしてブラウン自身は総司令官というわけであった。しかし、当時すでに北部諸州における解放熱は、ようやく高潮に達し、したがって、ブラウンの実力蜂起計画を実は知りながら、知らぬ態で資金を出してくれる同志なども相当にいたという。
一八五九年の六月には、いよいよ同志とともにハーパーズフェリのちかく、ケネディ・ファームというのに、土地を買ってうつり住んだ。目ざす兵器庫はほんの目と鼻のさき、距離は六マイルそこそこにすぎなかった。表むきはただの農場という触れこみであったが、もちろんブラウンの肚は、蜂起の場合、ここを基地とも兵站本部ともするつもりであった。
機の熟するのを待つこと四カ月、ついに機会はきた。十月十六日日曜日、彼は、彼自身の三人の息子、そして五人の自由黒人をまじえた二十人の誓約同志とともに、起ちあがったのである。
日の暮れるのを待ちかねて、彼らは首途《かどで》の宴を張った。ほとんど全員が清教徒信仰の持主であるというだけに、痛飲とこそはいかなかったが、まるで決死の冒険への首途とは見えないほど、誰も彼も喜ばしげにはしゃいでいた。歓声と歌声とが、あとからあとからと湧いた。
だが、まもなくブラウンの最後の祈りが、ようやく深まる夜の闇をついて響くと、たちまち喧騒は、沈黙のなかに呑まれていった。
「出発、前進!」祈り終ったブラウンの命令が、せきとめられていた人々の感情に、水口をでも切って落すように響いた。黒い人影がにわかにざわめき立ち、最後の焚き火が踏み消された。
今夜の尖兵役をつとめるクック、ティッドと呼ぶ二人の大尉、ブラウンのもっとも深い信頼を受けている二人が、まもなく軽く手を振りながら、闇の中に消えた。それからしばらく間隔をおいて、まずブラウンの乗った幌馬車が、そしてすぐそのあとからは、十八人の本隊が二列縦隊で、影のように闇の小径に吸いこまれていった。あとには、基地をまもる三人の同志たちが、いつまでも農場の入口に立ちつくして名残りを惜しんでいた。
尖兵の二人、クックとティッドが河岸に着いたのは、十時もなかばにちかいころであった。河には、一本細い橋がかかっている。渡れば、そこはもうハーパーズフェリ、目ざす兵器庫は、黒々と闇のなかにもそれとはっきり見わけられた。
橋のたもとには、村の夜警らしい男が、ぼんやりのんきそうな顔をして立っていた。クックが、すかさず銃口を胸もとにつきつけて、
「手を上げろッ!」と、低く叫んだ。
男は、ほとんど信じられないもののように、ニタリと笑った。だが、つぎの瞬間、ハッと気づいたときには、あっけなく後手にしばられていた。
対岸のたもとには、相棒の夜警が一人立っていた。気配におびえて、いち早く逃げ出そうとするのを、これもティッドが、威嚇射撃の姿勢をしめすと、他愛なく捕虜になった。ただひどくおびえて慄えているにもかかわらず、兵器庫の鍵をという要求には、あくまで知らぬと言い張って渡さない。
そのうちには、ブラウンの幌馬車を先頭に本隊も到着した。彼らは、なんの抵抗もなく橋を渡り、たちまち兵器庫に殺到した。気の早いのが、バラバラと駈けていって、難なく鉄梃で錠前をねじ切った。重い扉が、一ぱいに押しひろげられた。いまにも歓声になって爆発しそうな勝利の喜びを、やっと顔いっぱいの表情に押し殺していた。
こうして念願のハーパーズフェリ急襲は、彼ら自身すら予期しなかったほど期待はずれのあっけなさで、みごとな無血占領に終ったのであった。天国はちかづいた。彼らは、あらためて心から神の加護を感謝した。すでに明日にも迫っていた幻滅と急変については、成功に酔った彼らとして、もちろん夢にも予想しえなかったのである。
だが、その夜から、翌日の午後にかけてのブラウンの行動ほど、およそ行動人のそれとして説明のつかぬ奇妙なものはない。
そもそも最初から彼の作戦計画は、もし兵器庫奪取に成功した場合は、ただちに運べるかぎりの兵器、弾薬を収めて、基地ケネディ・ファームに後退する。あとは山にこもって、得意のゲリラ戦術で抵抗する。するうちには、ニュースを聞いた奴隷たちが、ぞくぞくとして来り投じるに相違ない。さすれば、当分は討伐隊にたいしても自信はある。あとは彼らの壮挙によって、国内の良心を力として結集を呼びかけることだけだ。甘いといえば甘いかもしれぬ。だが、とにかく捨石戦略としては、一応筋がとおっていた。すくなくとも唯一の退路ともいうべき河と橋を背にして、ぼんやり時を空費するほど危険なことはないはずであった。
それにもかかわらず――
兵器庫の占領を終えると、彼はわずかに二名の守衛を残しただけで、余力はあげて、ようやく寝ぼけ眼で起きだしてきた市民たちを、片っ端から捕虜にすることばかりに懸命であった。将来取引きのためにする人質のつもりだったらしいのだが、まもなく途方もない足手纏いになることには、迂闊にも気がついていなかった。
それもまだよかった。が、つぎには彼は、一部の兵をさいて、五マイルも離れた山地に住む富農で、奴隷所有者であるルイス・ワシントン大佐なる男を、わざわざ拉致のために派遣したのであった。ワシントン大佐なる人物は、例のアメリカ独立の英雄、国父ジョージ・ワシントンの曾孫であったからだが、それもまだよい。拉致のために、ブラウンがわざわざ兵力をさいた理由というのは、もっと子供じみたほかの理由からであったらしいというのは、この大佐が、独立戦争のとき、例のフランス貴族で革命闘士であったラファイエット侯爵から国父ワシントンへ贈られたというピストル一梃と、そしてこれもまたおなじ経路をへて所有に帰した、かつてはフレデリック大王の佩刀であったという長剣|一口《ひとふり》とを、曾祖父から受けついで珍蔵しているということが、誰も知る著名の事実であった。つまり、直接の目的は、由緒つきのこの宝器? にあった。ブラウンは、彼のこの壮挙が、やがて偉大ないま一つの革命の導火線であることを、固く、深く信じていた。それには、この二つのシンボルが、いかに士気の昂揚に役だつか、彼としては、彼なりに冷静な計算を立てていたつもりであった。宝器は手に入り、奴隷たちは解放された。だが、そのために費された数時間の遷延が、どんな意味をもつものであるかは、不幸にして計画の中に入っていなかったのだ。
宝器を入手、解放奴隷には武器をあたえて、彼らが凱歌をあげて帰ってきたときには、事態はすでに一変していた。
さらに過誤はまだあった。叛乱軍が、ハーパーズフェリを占領したとき、駅にはたまたまその夜の終列車が入っていた。ブラウンは、さっそくそれが出発中止を命令した。だが、どうしたことか、翌日夜が明けると、急に心を翻して出発を許した。列車は去った。ニュースはたちまち、飛報となって四方につたわった。ヴァージニア州知事も、ワシントンの大統領も、翌十七日十一時には、すでに「百五十人の大叛乱」という急報を受けとっていた(この疑問の計画変更については、のちに捕われてから彼自身、なにも知らぬ乗客や家族たちの心配を思うと、あれ以上抑留しておくに忍びなかった、と答えている)。
その間にも、村内の恐慌は、ようやくたかまっていた。ついに不幸な銃火が切ってはなたれた。しかも最大の運命の皮肉は、その第一弾の犠牲者というのが、ほかならぬ解放された自由黒人であったということだ。彼は駅の手荷物係であった。勤務中、叛乱軍の一人から誰何《すいか》をうけ、義務遂行の責任感から止まらなかったという理由だけで、闇夜のまぎれとはいえ、その場で射殺されてしまったのである。この偶発事は、たちまち村民の感情を離反させるのに大きな役割をはたした。
八マイルばかり西南へゆくと、郡の首邑チャールズタウンがある。十七日朝、ようやく夜の引き明けるころ、市民たちは、けたたましい警鐘の乱打によって、朝食後の平静を破られた。まもなくハーパーズフェリの異変は、多分に誇張されたデマをもまじえて、口から口へと野火のようにひろがっていった。一時間後には、すでに思い思いの軍装に身を固めた民兵の一隊が、ハーパーズフェリへと街道を飛ぶように急いでいた。
だが、この重大な瞬間におよんで、なによりもブラウンの心を苦しめたのは、意外にも黒人奴隷のすべてが、かならずしも喜んで彼の陣営に投じてこないことであった。ある一人のごときは、自由をあたえられたのにたいして、はっきり主人のもとへ帰してもらいたいと、泣いて訴えた。それどころか、あるものなどは、残った村民たちと一緒になって、反撃の気勢にさえでてくるのであった。ジョンの心は重かった。だが、北部人である彼には、長い年月にわたる隷属と無知の生活が、これら不幸な犠牲者たちのなかに、いわば第二の習性ともいうべき自由への無感覚、そして、それなりには一応美しい人情につながる主従間の隷属道徳を、いつのまにかつくりあげていたという、そうした南部独特の伝統にまだよく気づいていなかったのである。苦い失望が胸を噛んだ。
時間は過ぎる。だが、まだブラウンは、本拠ときめた兵器庫付属の消防ポンプ置場を動かなかった。急げ、ジョン、まだ間にあう! 戦果はそれでじゅうぶんだ。兵を収めて、早く後図をはかれ! おそらく運命の天使は、もう何時間も前から、そう彼の耳に囁きつづけていたに相違ない。いや、彼がもっとも信頼する部下の一人すらも、まだ退却の可能性が残されているうちにこそ、一刻も早くケネディ・ファームへ撤退すべきだとして、しきりにすすめた。貴重な時は、指の間から落ちる砂金のように失われてゆく。だが、あいかわらず彼は動かない。
彼と彼の兵たちは、昨夜から一片の食物も口にしていなかった。まず腹ごしらえをしなければならぬ。この生死巌頭の危機にたって、なおのんきというか、鈍感というか、悠然として兵たちと、そして人質たち(そのころには、あわせてすでに五十人あまりになっていた)との朝食の支度を命じているのである。
正午近く、もはや退却は完全に不可能になった。チャールズタウンから急行した民兵、そしてその後もぞくぞくとして付近の村々から到着する増援隊によって、唯一の退路は迂回切断され、いまは文字どおり釜中の魚も同然であった。いわば彼は、いっさいを神の手にゆだねていた。だが、ことひとたび戦闘となっては、神すら有能な軍人にゆずらなければならないはずだったのだが。まもなく猛烈な戦闘が開始された。両軍ともに死傷者をだした。かつて彼に「オサワトミー」なる光栄の綽名《あだな》をあたえる結果になった、カンザス州同名の地での戦闘でも、寡をもって衆にあたることには自信があった。が、それにしても、刻々にくわわる討伐隊の増強には、兵器庫も、小銃工場も、その他すべての付属建物がつぎつぎと奪回され、いまはもう残るものとては、ブラウンみずから、二人の息子たちを含む七人をもって守るポンプ置場だけになってしまった。それでも終日、彼らは何百人の敵をむこうにまわして、よく闘い抜いた。フレデリック大王伝来の長剣を腰につって、ブラウンは水のような冷静さで指揮をつづけたという。
やがて夜に入って、戦闘は一応中止された。そのうち攻撃軍の指揮者シン大尉というのから降伏勧告の軍使があり、両三度双方から交渉の軍使が往復したが、全部隊の後退というブラウンの申出条件にたいして、もちろん攻撃側の応諾するはずもなかった。あまつさえブラウン側の軍使が、闇のなかで誤って射殺されるという偶発の不幸事までおこることになって、けっきょく交渉は決裂した。が、その間にあって、ただひとつ残る騎士道的美談というのは、昼間の戦闘で瀕死の重傷をおったブラウンの息子ワトソンにたいして、シン大尉が進んで外科医の派遣を申しでたことであった。
夜も更けて、ポンプ置場は静けさにかえった。灯火一つない闇。十月の寒気は、ひしひしと迫ってくる。傷ついた兵士の呻き、かすかに身動きするらしい鈍い音。人質も兵士たちも、冷たい煉瓦敷きの上に無造作にゴロ寝して、わずかに眠れない夢を結ぼうと努めた。
「父さん、撃ってください、僕を!」
突然、闇を裂いて呻くような声が叫んだ。これも傷ついているもう一人の息子オリヴァーの声であった。
「我慢しろ、なおる!」低い、突きはなすような答。
「ねえ、父さん、撃ってくださいよ、ねえ」からみつくように、訴えはもう一度高く響いた。
「うむ。死ぬなら、男らしく死ね!」うとうととしていた人々も、思わずハッと聴き耳を立てた。震えひとつない冷たい声だが、気のせいか、内側でなにかプツリと切れたような響きだった。
そのまま答はなかった。が、やがて苦しそうな呻き声は、細る虫の音のように、だんだんと静かになっていった。
間。
「オリヴァー!」なにか部下のひとりと話しあっていたブラウンの口から、抑えるような低い声が聞えた。答はなかった。
「こときれたらしいな」あいかわらず震えひとつおびない厳しい声。冷たくなった骸《むくろ》の傍には、これも瀕死のワトソンが、そして数歩離れた闇のなかには、これも重傷のカナダ人同志が、なかば意識をうしなって横たわっている。六フィートをこえる、痩せて鋼鉄のような体躯、聖書に読むイスラエルの族長をでも思わせるような雄姿――人々は、なんとなくそんな映像を闇のなかに思い描いていた。
夜はさらに更けて、冬ちかい寒さが床の煉瓦から、扉の隙間から、ひしひしと身にしみた。無傷のままで残っている味方は、ブラウンをあわせて、もはやわずかに五人。
「キャプテン、われわれは反逆罪を犯しているのでしょうか?」残った一人が、突然思いつめたようにきいた。
「そうだ、そうだとも」
「それならば」と、彼は、まるで生存者の意志でも代表するかのように、たたみかけた、「わたしたちは、もう闘うのはいやです。私たちは、奴隷を解放するのだと思ってきたのです。反逆罪を犯すつもりできたのではありません」
だが、時はすでにおそかった。二日目の夜半がすぎるのとともに、彼等にとって形勢は急転直下に悪化した。やがてまもなく南北戦争における悲劇的英雄の役割をつとめることになるロバート・リー大佐が、海兵隊一個中隊を率いて到着したからであった。一応ふたたび降伏勧告がおこなわれたが、またしても冷たい拒絶にあうと、やがていよいよ最後の総攻撃が開始された。だが、攻撃側にも困難はあった。問題は、人質としてポンプ置場に抑留されている村民たちの生命安全の問題であった。やむなくリー大佐は、いっさい銃撃の停止、そして銃剣による突撃だけを命令した。まっさきに進んだのは、グリーン中尉の率いる海兵隊の一分隊であった。
三人の海兵が挺身して、大鉄槌で表扉の破壊にかかった。置場の中では、衛《まも》るものも、人質も、ついに最後の瞬間がちかづいたことを知った。だが、頑丈な扉はいっかな破れない。ブラウンはオリヴァーの骸をまもるように坐り、左手では、すでに虫の息のワトソンの脈を押えながら、残る右手は、しっかと銃を握って、いつでも発射できる姿勢に身構えていた。まもなくふたたび、家全体をゆすぶるような轟音が、表扉に連続的に聞えだした。鉄槌ではたりず、破城槌がわりに大梯子を使って、最後の攻撃をはじめていたのだった。二十秒、三十秒、ついに扉板の左側下部が、大きく破れて、明るい光がサッと流れこんだ。
間髪を入れず、ジョンは、押えていたワトソンの手首をはなすと、折敷きの姿勢で、しっかり引金を引いた。が、弾丸は、破孔をかすめて抜けただけで、誰をも傷つけなかった。
そのときだった、グリーン中尉は、佩刀を腰のあたりで押えると、そのまま匍《は》いつくばうように、闇にまぎれて破れた孔の間をくぐり抜けた。内側にはポンプが二台、行儀よく並んで置かれている。彼は立ちあがって、すばやく扉の蔭のポンプの右側にまわりこむと、その背後をまわって、二台のポンプの間に出た。見ると、すぐ左手の目と鼻の先に、男が一人、折敷きのまま、銃を引いて、いましも新しく装填しようとしている。人質の一人が、顎をしゃくって、
「オサワトミー!」と小声にささやいた。
次の瞬間、グリーン中尉は、佩剣を抜きはなつと、力一ぱい折敷き男の頭をなぐりつけていた。
が、ここでもまた皮肉な運命の脚色者は、ほとんど常識では考えられない落丁を一ページ、用意していたのだった。軽率にもほどがあるが、前日兵舎を出発するとき、こともあろうにこの青年士官は、本身の軍刀のかわりに、あの閲兵式用の指揮刀を帯びていたのだった。打ちおろした一太刀は、骨に当ったか、金具にでも命中したか、アッと見る間にへし曲ってしまった。が、それでも彼は、曲った軍刀を持ち直すと、こんどは諸手打ちに、相手の頭を滅多打ちにした。ジョンの姿勢が、崩れるように傾いて、たちまち頭からは真赤な血がふいた。
ところで、もしこの指揮刀が、本身の軍刀だったなら、どうなっていたろうか。おそらくブラウンには、最初の一撃が致命傷であったにちがいない。そうなれば、以下人類の歴史が誇る自由の殉教者ジョン・ブラウンは、もちろんそのまま存在しなかったであろうし、彼の死のごときも、要するに、よくて一個狂信者の末路、もっと悪ければ、単に暴徒、兇漢の死というだけでかたづけられていたかもしれぬ。思えば、歴史も皮肉な演出家であったのだ。
数名の海兵たちが、グリーン中尉につづいた。最後の死闘があり、双方それぞれに多少の死傷者は出たが、三、四分後には、あっけなくいっさいが終っていた。昏倒して倒れていたブラウンも、すでに死んだものとして、まもなく担ぎ出された。ようやく夜が白みかけていた。
死者十名、捕虜七名、逃亡者五名、攻撃側もまた死者五名、傷者九名という――これが、二晩一日にわたった、いわゆるハーパーズフェリ襲撃事件の考課表であった。
たちこめた深い乳色の霧の中を、彼は、いつまでもいつまでも落ちつづけていた。どこかで山鳩でも啼くような、かすかな声がたえず聞えている。ときどき頭のほうで、ガクンと引きつりでもするような気がする以外、奇妙なまでに軽い、さわやかな気持であった。神は新しい光をあたえ給うたのだ。甘美な忘却、永遠の時間……静かに眼を閉じたまま、彼は考えた。俺は、いったいジョン・ブラウンなのだろうか? いや、そんなはずはない……快いばかりの懶《ものう》さの中で、彼はふと眼を開けてみたいような衝動を感じた。そっとなかば眼を開いてみた。だが、そのまままた、なんとなく瞼を閉じた。
が、そのときであった。彼は、さっきから聞えていた山鳩の声が、いつのまにか人声のようなものにかわっているのに気がついた。もう一度はっきり眼を開けてみた。突然、引きつるような頭のほうの感じが、なにか一面に鋭い、しびれるような痛みにかわっているのを知った。かすかに頭をずらせて、眺めまわしてみた。どこか寒々とした広い部屋、見なれぬ軍服らしい男たちが、忙しそうに歩きまわったり、声高に話しあっている。奇妙だ……。
死んでいたはずのジョン・ブラウンが、重傷ながら、とにかく生命だけはとりとめているらしいことのわかったのは、それからまもなくであった。応急の手当が終ると、意識も案外しっかりしていることが確認された。しばらくして落着くと、彼は、リー大佐、ヴァージニア州知事以下、当事者たちの訊問に答えなければならなかった。
上述もしたように、いわゆる襲撃事件は、むしろあっけなく終った。だが、ジョン・ブラウン六十年の生涯の、おそらくもっとも輝かしい歴史の一コマは、まさにその失敗の瞬間にはじまったといってもよかった。
彼の肉体を流れる血の系譜は、かつて信仰の自由を求めて祖国を棄てた、あのメイフラワー号の清教徒にまでさかのぼることができる。祖父もまた独立戦争の勇敢な戦士だった。彼自身もまた、そうした信仰の伝統にしたがって、一応は組合派牧師として立つ教育をうけたのだが、十八歳のころ、不満を感じてやめてしまった。それからの二十年は、まことに能なしの困りものとさえ評されたほど、数奇と変転の半生であった。従事した職業だけでも、土地測量師から鞣皮業、牧羊、羊毛商人等々と転々し、しかもそのことごとくが完全な失敗であった。居所なども、州から州へと、浮草のようにかえた。
が、そのころから彼は、いわば宿命ともいうべき献身的使命を自覚しはじめていたのだった。彼の父が、すでに奴隷解放、逃亡奴隷保護の勇敢な実践者として有名であった。彼もまた、清教徒信仰による人間平等の観念にくわえて、あるとき直接目撃した、奴隷の子供の虐待されるありさまを見て、心深く「奴隷制度に対する永遠の闘い」を神の前に誓ったのであった。
最初はまず穏健な黒人教化への熱中ではじまった。が、まもなくそうしたなまぬるい方法に不満を感じだすとともに、正義にたいする激しい狂熱は、おのずから彼を、果敢な直接行動者へと仕立てあげていったのであった。一八五五年、五十五歳の彼は、またしても辺境カンザス州のオサワトミーと呼ぶ開拓地へ移住した。当時カンザスは、まだ州の形も整わぬ新しい辺境であり、奴隷制度を支持する南部諸州からの入植者と、おなじく奴隷制反対の北部諸州からの入植者とが、たがいに将来の支配勢力を狙って、文字どおり流血、無政府の混乱、闘争状態にあった。彼が移住の一応の理由は、前年すでに五人の息子が入植していたので、彼もまたそのあとを追っていったというだけのことだが、事実は、息子たちの入植にしてからが、明らかに開拓そのものよりも、奴隷制度との闘いのためであった。彼自身の移住については、もちろんであろう。
はたしてブラウンの名は、カンザス移住とともに、全アメリカを震撼させるようになった。まず手はじめは、翌一八五六年五月二十五日、彼がやってのけた、奴隷解放史にものこるいわゆるポタワトミー虐殺事件であった。奴隷制度支持派の無頼漢どもによって、五人の自由派開拓民が殺されたのにたいして、その復讐として、眼には眼を、歯には歯を、彼みずから首謀者となって、これも相手がたの五人を、なんの容赦もなく冷然と殺してしまったのであった。つづいて七月二日には、またしても奴隷制度支持派の大物二十三人を襲撃、拉致してしまうし、さらに翌月の八月三十日には、彼の開拓地オサワトミーを報復襲撃した敵にたいして、味方はいうにたりぬ小勢、しかし、彼みずから銃をとって指揮、力戦ののちこれを撃退してしまったのである。これら思いがけない機会は、彼のうちにあったゲリラ戦士的軍事手腕を、にわかにあきらかにした。と同時に、彼自身もまた、あきらかに一種の自信をえたらしかった。そしてそれらの成功が、ついに彼をして、実力行使による黒人のための自由境建設という非常手段を思いたたせたのであった。
この日、虜囚の辱しめをうけての訊問と、および十月二十五日から開かれた州裁判における彼の答弁とその態度とは、そのとった手段への批判はあれ、神への信仰にたつ殉教者ブラウンのしめした、おそらくもっとも崇高な、もっとも偉大な一面をみせた赤熱の瞬間であったろう。余人をしばらく退けようといった、俘囚の義人にたいするリー大佐の深い心遣いにたいしても、彼は昂然と、「いや、余は余と余の動機とを、社会にたいして訴えるのだ」と答えて、鄭重に謝絶した。
誰が資金を供給したかという質問にたいしては、大部分は彼一人で調達した、この種事件について、他人に迷惑をかけたくなかったからだ、と答えた。後退の機をあやまって、おめおめ繩目の恥をうけたことに関しては、はっきり彼自身の失敗を認めた。だが、三人の人質たちの生命と、ことにその妻女たちの涙をうかべての歎願を思うと、心を動かさざるをえなかった。それが過誤の原因であった、とも述べた。背後の黒幕関係は何人かと問うたある議員の質問にたいしては、「余は、余自身に関することなら、いっさいありのままに申し述べる。――だが、こと他人に関しては、何事もお答えすることはできぬ」と、きっぱり答えて黙秘権を貫いた。
だが、彼の面目をもっとも躍如たらしめたのは、おそらく同じ議員との次の応答であろう。
「貴下は、なにを目的できたのか?」
「奴隷の解放、ただそれだけだ」
「貴下は、これを信仰にでた行動と考えられるか?」
「そのとおり。神にたいして人間がなしうる最大の奉仕であると考える」
「しからば、貴下は神の御手によって動いたといわれるのだな?」
「そのとおり」
「だが、では何をもって貴下の行動を正しとされるか?」
「黄金律《ゴールデン・ルール》によってである。助けるものもなく、奴隷の桎梏に苦しむあわれな人々にたいして、余は心からの同情を禁じえない。だから、余はここへきたのである。なんら個人的復讐心、個人的憎悪があったためではない。神の前においては毫もかわりない善良な人々が、不当な圧迫に苦しむのをみて、それにたいして心からの同情を感じた、それ以外になんの理由もない」
そして、
「見られよ、貴下の銀髪は、見るも醜い罪の血に汚れている。怒りと反抗は慎んで、そろそろ死後のことを考えられてしかるべき齢ごろではないのか?」
という多少侮蔑にみちたワイズ知事の揶揄にたいしては、いかにも彼らしく、
「御親切なる忠告は感謝する。だが、貴下のいう永遠への旅路において、余が多少貴下に先立つとはいえ、せいぜいそれは十五年か二十年の先後にすぎぬ。いま余に残されたこの世の生命が、よし十五カ月にせよ、十五日にせよ、いな十五時間にせよ、余の覚悟は、それによって微塵もかわるものでない。永遠の未来、永遠の過去、その間に介在する一小点のごときは、たとえ長いといっても、わずかに一分時のことではないか。貴下の余生と余の余生と、その相距ることそもいくばくぞというのだ。余は、貴下にこそ来世への覚悟を希望するものである。余の覚悟はすでにできている。貴下たちこそ重い負債《おいめ》のもとにあることを思い知られるがよい。貴下たちこそ早々来世への心構えをされてしかるべきであろう」
数日間の療養後、彼は、同志の俘虜たちとともに、州の首邑チャールズタウンへと護送された。確信に微動はなかった。だが、彼等を見おくる物見高い群集の中から、「私刑《リンチ》にしろ! 私刑にしろ!」という叫びのわきおこったときだけは、さすがに彼の胸にも、先駆者の悲しみと、神の事業への困難さが、とめどもなく深い感慨になってわいた。
裁判は、十月二十五日からチャールズタウンの州裁判所法廷で開かれた。だが、重要なことは、公平なるべき裁判官自体が、最初からしてすでに彼の有罪をはっきり先入見的に確信していたことであった。勝利者による裁判であった。さすがに一応公平という見せかけのためだけに、南部出身の二人の弁護人をつけたが、真実の意図は、ブラウン自身がいちばんよく知っていた。
六尺有余、鋼鉄線のような痩躯、青年時代以来「鷲」と綽名をとっていた碧い鋭い眼は、いまはいっさいの毀誉褒貶への顧慮をこえて、深淵のような静けさと、聖者のごとき清浄さをたたえていた。そしてまもなく欺瞞の弁護人たちを拒絶してしまった。
「諸君、余は捕われたときも、けっして生命ごいはしなかった。州知事は、余に公平なる裁判を確約された。だが、もはやいかなる事情においても、とうてい公平なる裁きがなされようとは信じえない。もし諸君が余の血をもとめられるなら、いつなりと取られるがよい。茶番裁判のごときはいっさい不要である。……もし諸君にして単なる外形に拘泥しておられるならば、この機会にはっきり申しあげたい、いっさい無駄であると。余はただ余の運命を待っているだけである。裁判など不要であろう。茶番裁判などという侮辱は、余の衷心潔しとしないところ。ただ余の申しあげたいことは、卑劣な野蛮人のみが、捕えたその俘囚を辱しめる、それにも似た愚劣な侮辱は御免こうむりたいという、ただその一事だけである」
生も死も、もはや彼の心を動かすにはたりなかった。すでに彼は、法廷にむかって語っているのではなかった。あつい壁をこえて、法廷のかなたの全世界にたいして叫びつづけていたのだった。わずか一週間そこそこの裁判(しかも、深い政治的考慮が含まれていた)、けっして長いとはいえなかったが、その間にも彼の吐く言葉のひとつひとつは、無数の豊かな種子となって、西に東に、南に北に、あらゆる「良き地」へと飛び散っていたのだった。
十一月二日、最初からすでに予想されていたとおり、法廷は、「奴隷ならびに逆徒どもとの共同謀議による反逆罪、第一級殺人罪」という罪名のもとに、おごそかに絞首刑の判決をくだした。猿芝居は終った。
死刑執行は、まる一月後の十二月二日であった。その間妻子たちとも最後の別れをつげた。が、その機会においてすら、彼は私事を語るよりも、はるかに多く世界にむかって語った。当日、独房を出るとき、彼は一枚の紙片を看守の一人に手渡した。
「余は確信す、この罪深き国の犯せる犯罪は、血による以外、断じて浄めらるることなかるべし。余もまた愚かにも、多量の流血なくしてなしうるものと信じいたりしが、いまにして思えば、すべては妄想なりき」遺書であり、そして最後のメッセージでもあった。
牢獄から刑場まで、沿道は滑稽なまでにものものしい軍隊によって固められていた。権力悪の不安は、つねに恐怖の幻像であるからだ。ブラウンを乗せた幌馬車は、二頭の白馬によってひかれ、彼自身は、やがてそのなかに納められるべき棺の上に、静かに腰を下していた。晴れた美しい日であった。ふと彼は空を仰いで呟くようにいった。
「美しい国。だが、わたしにはそれさえ眺める暇がなかった」
というのが、最後の言葉であったという。
彼を迎える新しい絞首台は、冬空の下に静かに立って待っていた。彼が高く死の階段を上り終ったとき、やがてまもなく南北戦争における悲劇の名将になるはずの「ストーンウォール」ジャクソンは、仰ぎ見て、心に深く、「神よ、この義人の魂を救い給え」と祈ったという。が、おなじ瞬間、これもおなじヴァージニア出身のプレストン大佐は、「ヴァージニアの敵、連邦の敵、そして全人類の敵よ、すべてこのように亡び去れ」と、大声に叫んだといわれる。
が、そのとき早く死刑執行人の手にした小斧が、キラリと白く冬の陽に光って、ブラウンの長身が、グラリと宙に浮いた。
信仰の人ジョン・ブラウンは、こうして暴動、反逆の首謀者、大罪人として生を終えた。だが、彼が青年時代、戦争と暴力の徹底した否定者であり、オハイオ在住の時代など、市民の義務である民兵の訓練までも、毎年罰金を支払って、服務を拒みつづけていたという事実については、あまり人は知らない。また事実、彼の奴隷解放運動のごときも、はじめは至極穏健な黒人教育の方法だとか、せいぜいが土地をあたえて、逃亡奴隷の保護をはかることくらいであった。
だが、その彼が、では、なぜ直接の実力行使、暴力の信奉者に変節したのであろうか。
一八五〇年代といえば、やがてまもなく南北戦争という形で頂点に達する、北部対南部の経済利害の対立が、いわば加速度的に危機にまで盛りあがっていた時期であった。しかもこの対立が、奴隷制度の是非という大きな道徳的旗印をめぐって戦われたところに、大きな歴史的特徴があるのだが、その抗争が、もっとも露骨、もっとも野蛮な暴力手段に訴えてまで激突をくりかえしていたのが、辺境というあたらしい開拓地域においてであった。北部も南部もそれらあたらしい辺境をひとつでも自家勢力のもとに収めようとして、血眼になっていた。
その意味で、ブラウンのカンザス移住は、彼の生涯の一大転機を画したといってよい。多数の奴隷を所有する南部出身の大農たちは、あらゆる欺瞞と暴力とをもって、権力の掌握に狂奔した。彼等の金で雇われた無頼漢、ゴロツキどもは、北部出身者たちの町を焼き、家を掠め、人を殺し、ほとんどあらゆる暴状のかぎりをつくしていたのである。しかも、悪権力下にある法もまた、これら犯人にたいしては、平気で法を曲げることをかえりみなかった。この実状を目のあたりに見たことが、いわば追いつめられたものとして、ブラウンを暴力信仰者にかえたのであった。「殺すなかれ。だが、汝の生命が奪われそうなときには、敢然として相手の生命を奪え」というのが、彼のスローガンであった。そして平和、穏健な解放運動者にたいしては、「水とミルクの原理」と呼んでもっとも激しく罵倒、攻撃するようになっていた。
たとえ彼のハーパーズフェリ襲撃がなくとも、遅かれ早かれ、奴隷解放はまもなくおこなわれていたであろうというのが、彼のこの決起にたいする現在のほぼ定説である。おそらくそのとおりであったろう。だが、彼はけっして歴史の傍観者ではありえなかった。たとえ翌年には解放の実があがったと仮定しても、彼としては、許すべからざる強大な悪の存在が目の前にあるかぎり、ひとつの捨石としてでも立たずにはいられなかったのである。その意味で、ハーパーズフェリ襲撃の挙は、動機の点からいっても、結果からみても、わが中斎大塩平八郎の天保の乱にはなはだよく似ていた。信仰こそことなれ、性格の点においてまで、狂信、情熱的性格など実に酷似している。
なお彼は再度結婚し、二十人の子供をもうけた。うち八人までは夭折しているが、その妻子たちが最後まで完全に父の主義に信従し、息子のごときは三人までが壮挙にくわわり、二人はそのために闘死しているなど、一家緊密な意志の一致という点でも、史上きわめてまれな例であろう。
ブラウンは敗れた。だが、それからまもなく北部諸州では、何人の作詞ともわからない、
[#ここから1字下げ]
John Brown's body lies amouldering in the grave,
But his soul goes marching on !
(ジョン・ブラウン、骸《むくろ》は墓に朽つるとも、進みてやまじ、魂は!)
[#ここで字下げ終わり]
という単調なくりかえしの歌曲が、まるで嵐のように風靡していった。そして二年後、ついに南北戦争が勃発したとき、南を指して進む北軍兵士の隊伍から、いたるところホーハイとしてわきおこったのは、実にこの小歌曲であり、そしてまた項羽が聴いたあの楚歌のように、大空をみたして響くこの歌声のなかに、日に迫る南部の悲運を歎じなければならなかったのは、皮肉にもかつてブラウン討伐隊の指揮官、そしてのちの南軍主将ロバート・リー将軍その人であったのだ。
[#改ページ]
血の決算報告書
――ロスチャイルド王国の勃興――
一七九〇年代。それは十八世紀という名の世紀が、ようやく歴史の黄昏のなかに送りこまれようとしているひとつの時期であった。
一七八九年七月、突如としてパリはバスティーユの一角にあがった革命の烽火は、数年後には、たちまち全ヨーロッパを情熱と恐怖のルツボにたたきこんでいた。王政の廃止、共和制の成立、ルイ十六世王の処刑、恐怖政治の出現――「自由、平等、友愛」の革命スローガンは、またたくまに燎原の火のようにひろがって、上は帝王から下は一農民にいたるまで、直接間接その訴えに胸をゆすぶられないものはなかったといってよい。ただことなる点は、それを耳にするひとびとが、それぞれ属する階級の差異にしたがって、あるものはそこに解放と希望との天来の福音を聞いたのにひきかえ、他のものには、ただおそるべき破壊の悪魔の呪詛としてしか響かなかったというだけにすぎぬ。
ひたすら革命の伝播をおそれる旧支配勢力は、もちろんあい協力して、いちはやく弾圧の手をうった。特権擁護のためには、祖国と民族を売ることも平気であえてする亡命貴族どもと結託して、プロシャ、オーストリアの連合軍は、ぞくぞく国境をこえて、フランスへ侵入した(一七九二年八月)。だが、彼らが、武器弾薬こそ劣勢であれ、理想と使命感に燃えるフランス民兵の前に、あえなく敗退し去ったのは当然であろう。第一次対フランス大同盟ができあがったのが、それからまもなくであった。こうして二十数年にわたる激動と不安の時代がはじまるわけだが、さて、このフランス打倒の大同盟も、わずかにイギリス一国だけが、終始ゆるがぬ決意を貫きつづけただけで、オーストリア、ロシアを含む諸大国すらが、けっきょく向背を決する動機といえば、自家の現実的利害のほかにはなにもなかったのだから、とかく足なみは乱れがちであった。そして平和、開戦、また平和という、いくどかくりかえされた複雑奇怪な政局の動きのなかに、やがて彼らは思いもかけぬ梟雄ナポレオンの出現を知って、いまさらのように目をみはらなければならなかった。
ところで、そうした動揺と混乱のまっただなかで――
いわばフランスへの最前線ともいうべきライン地帯の要衝フランクフルトのユダヤ人区《ゲツトー》に、ロスチャイルド(以下家名の読み方は、便宜上英語読みで統一することにする)と名乗るささやかな両替屋があった。
ラインの支流マイン河にのぞむフランクフルトは、はるかに遠く中世以来、はじめは東フランクの首都として、のちには神聖ローマ帝国の直轄領として、前面はフランス、ネザーランドにちかく、背後にはドイツ諸都市を背負って、商業交易に殷盛をきわめていた。十八世紀末には、人口すでに三万五千をこえていたというから、当時としては相当の都市であったといってよい。が、ただユダヤ人だけは(人口の十分の一をしめていた)、市内の居住権もあたえられず、ユダヤ人区と名前だけはいいが、ありようは市城壁の外側、濠堀との間に挾まれた、幅二間ばかりの狭い、不潔な一筋の小路、ただそれだけが、三百年来彼らに許されていた居住区域であった。
土地の所有は許されず、農工商いっさいの正業は禁じられていた彼らにとって、金貸業は、いわば追いつめられた唯一の宿命的活計といってよかった。ロスチャイルド家もまた、もちろんその例にもれなかった。主人の名は、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド。すでに五十をこえた働き盛りの男であった。家族は妻のほかに、五人の息子と五人の娘という大世帯。両替というのが表の名目であったが、もちろんむしろ金利による収入が大であったことはいうまでもない。くわえて当代のマイヤーは、骨董、ことに古銭の蒐集でも名高かった。
ロスチャイルド発祥の家は、そのままいまも残っているという。ユダヤ人区特有の不潔なゴッタ返しの一角、これまたユダヤ人区独特の屋根裏二階、本屋四階という、妙に上にばかり伸びた家並が、文字どおり隙き間なしにひしめきあっている。その一軒がそれなのだ。もっとも内部は、二世帯共住の割家屋であったという。つまり、六つ横にならんだ正面の窓の、右の三つ分だけが、ロスチャイルドの住居だったのだ。表の扉には、やがてロスチャイルドの名前とともに不朽になった、小さな緑色の楯の紋が、ほとんど人目につかぬほどに打たれている。
記録によると、フランクフルトでの彼等の家名は、遠く十六世紀までさかのぼることができるといわれるが、もちろんロスチャイルド家興隆の機をつかんだのは、一も二もなくマイヤー・アムシェルその人の俊敏さにあった。筆者が、いまこの稿の筆を起している一七九〇年代のなかごろ、彼の年収は二千グルデンをはるかにこえ(この数字は、当時同市で有数の名望家であったというゲーテの生家のそれに匹敵した)、すでにフランクフルトの長者番付のベスト・テンに入っていたといわれるが、それをもってしてすら、なお彼らの住居は、上述のような陋屋にすぎなかった。が、いまや彼らの前に、ようやく新しい機会が生れつつあった。そしてその機会とは、いうまでもなくフランス革命につづいて、いわゆるナポレオン戦争と呼ばれるあの大量出血の戦であったのである。
ヘッセ方伯《ラントグラーフエ》ヴィルヘルム九世、いわゆる選挙侯として、中世以来ハノヴァー侯につぐ有力な世襲特権をもっていたばかりでなく、彼自身イギリス王ジョージ三世の孫であり、デンマーク王フリードリヒ五世の女婿でもあるという二重の血縁的理由によって、ドイツ封建諸侯のなかではもっとも注目をあびた人物であった。当時の封建侯伯としては、きわめて自由な思想の持主であり、勤勉で、精力的で(一生に四十数人の私生児をうませた)、そして歴史の論文をものしたり、下手ながら、とにかくエッチングや塑像などもできるくらいの教養は身につけていた。が、そうしたいかなる理由よりも、彼の名をもっとも名高くした理由のひとつは、彼がまだ父の封を襲《つ》がぬ公儲《こうちよ》時代からすでに、情熱のすべてを貨殖の一事に傾けつくしていたという奇妙な性格にあった。いまでいえば立派にビジネスマンであり、金融資本家であった。単に諸侯相手に大口の貸付けをするばかりでない。小は職人、仕立屋などの庶民相手に、文字どおり烏金《からすがね》ともいうべきわずかに数ターレルの小口扱いまで、とにかく金貸しという金貸しなら、いっさいなんでもやったというのだから驚くが、それにもまして彼の最大の企業は、傭兵引受業であった。当時の各国君主が、他国からの傭兵を使って戦争をするのは、むしろ常識といってよかった。そしてこの有利な企業に、たちまち目をつけたのが、ヴィルヘルムであった。彼は、しゃれた、垢ぬけのした兵隊をせっせと養成しては、諸公、諸王たちに貸しつけた。イギリスなどは最大の顧客であった。貸賃そのものももちろんだが、ひとたび戦傷したり、戦死すれば、これまた莫大な損傷金が取れるのだから、およそこれほど割りのいい商売はない。彼がこれで儲けた利益だけでも、当時の金で三百五十万マルクは下らなかったといわれる。
ところで、このモズの好餌を、さらにその背後からひそかに狙っていた鷹こそは、青年マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドであった。
ヴィルヘルムの国際金融、国際企業については、当然巨額の現金乃至為替手形が、たえず国境をこえて動いていたことになる。そこに目をつけたのが彼であった。もちろん直接ヴィルヘルムとの関係などあるはずがない。が、意志のあるところ、かならず途はある。この諺の意味を、この青年ロスチャイルドほどよく心得ていた人間はいなかった。まず彼は、古銭蒐集にたいするヴィルヘルムの熱心な趣味を知っていた。たちまち彼は、ヴィルヘルム側近のなかでも、もっとも有力な大蔵官吏、カール・フリードリヒ・ブーデルスなる人物を籠絡すると(結局ブーデルスは、その後死ぬまでロスチャイルド家最大の庇護者のひとりになった)、これを通じて、すばらしい古銭蒐集品の提供を申しでたのである。
当時それこそおびただしい数の封建侯国、自由市などに分裂していたドイツにあっては、ほんのちょっとした旅行者にとってさえ、両替ということは、ほとんど絶対不可欠の必要事であった。当然そこにユダヤ人両替業者たちの期待できる利潤のチャンスは、想像以上に大きかったわけである。わずか十歳を出たばかりの子供のころから、家業を手伝わされていたという青年マイヤー・アムシェルに、おのずと貨幣鑑定の眼と古銭蒐集の趣味とが養われていたのは、すこしも不思議でない。事実その蒐集は、すばらしいものであった。が、それを、なんの未練もなく彼は、ヴィルヘルムに提供したばかりでなく、しかも驚くべき安価で譲ってしまったのである。
趣味からはじまるまじわりは深い。まもなく彼は、ヘッセ方伯御用係として、手形割引などいっさいの銀行業務を、ほとんどロスチャイルド家の独占におさめてしまった。しかも、生来の誠実さと几帳面さと勉強ぶりとは、日とともに方伯の信用をくわえるばかりであった。家運はとみに栄えた。彼こそは、アリストテレス的徳目のすべてを厳格に守りながら、しかも利潤は一銭といえども見逃さなかったのである。
(これはもっとのちの話だが、ナポレオン戦争がはじまると、前線ともいうべきヘッセは、もちろんフランス軍の占領をうけ、まもなくそこには衛星国ライン同盟ができあがった。ヴィルヘルムは、山のような財宝をひたかくしに隠したうえ、フランス軍の到着前数分という、まさに危機一髪の瞬間をみごとに逃げのびて、その後はシュレスヴィヒの各地を転々し、最後にはプラハに落ち着いて、ナポレオン没落による旧領復帰まで、ほとんど二十年に近い亡命生活がつづいたのだが、その間ただひたすら封土と財宝の安全を求めて、オーストリア皇帝フランツとナポレオンの双方にたいして、彼がおこなった哀願ぶりは、もはや敵味方の区別など眼中になく、ただもうなりふりかまわぬ醜態といってもよかった。しかし、その間にも、フランクフルトに残ったロスチャイルドが、この落ち目の旧恩顧者にたいしてつくした終始かわらぬ誠実ぶりには、たしかに特筆されてよいものがあった。フランス官憲による監視という危険をおかしながら、彼はついに最後まで寄託された財宝の秘匿を守りとおしたのであった。もっともその間、相変らずヴィルヘルム金貸業の片棒をかついで、けっして利潤を忘れていたわけでないことはいうまでもない。)
が、それにしてもロスチャイルド家の画期的勃興をうながした最大因は、革命につづいて全ヨーロッパを包んだナポレオン戦争の戦火そのものにあった。
一七九三年の第一回同盟にはじまって、その後一七九九年、一八〇五年、一八〇六年と、四度まで結ばれた対仏同盟戦争は、その間バーゼル、カンポフォルミオ、リュネヴィル、アミアン、プレスブルグ、ティルジットなどのそれぞれ和約に、わずかに局部的、一時的の平和を見いだすことはあっても、大勢は英仏の決定的抗争をめぐっての、一貫してめまぐるしい戦火の連続であった。戦争は国庫の窮乏をまねき、国庫の窮乏は、ただちに戦火の裏に踊る国際金融業者たちの活躍をうながす。ナポレオン戦争という大量出血の連続が、幾多の英雄や勇将の名を、一応はなやかに歴史の頁に刻みこんでいる間に、背後においては、これら暗黒の触手がせっせとみずからを肥らせていたのである。ナポレオン戦争こそは、まさに国際金融業者の黄金時代であった。
そうした意味で、フランクフルトは、もっとも恵まれた位置にあった。従来とてもアムステルダムとともに、国際金融、貿易の中心であったが、ナポレオンのネザーランド侵入以来、アムステルダム取引所の急激に衰えたのにひきかえ、フランクフルトのほうは、ほとんど独占的優位をえて、いよいよ発展の一路をたどった。ことに一八〇六年ライン同盟の成立以後は、その新首府として未曾有の繁栄をみせていた。
そうしたなかで、とりわけマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド家の発展ぶりはめざましかった。例によってブーデルスを通じ、プラハにあるヘッセ方伯ヴィルヘルムとの結びつきは、いよいよ緊密になった。いずれも戦費の調達に苦しむ同盟諸国にとって、当然ヴィルヘルムの富は垂涎の的であった。彼があたえる借款にたいし、ロスチャイルドは、ほとんど独占的にその運送の手数料や手形の割引きを引きうけて、急速に先輩、同輩の金融業者たちをしのいでいった。
なぜとくにロスチャイルドだけが、天与の機会を最大限に利用しえたか。一言でいえば、それは彼が他の同業者たちよりも、つねに必ず一歩(けっして十歩ではない)を先んじていたという炯眼であり、そしてまた彼が、敵味方いずれの特定一国にたいしても、完全に祖国的感情を持たないという、いわば岡目八目的な絶対強味であったといってよい。終始彼は、ヴィルヘルム九世をはじめ、あらゆる政治的有力者たちにたいして、積極的に接近の手をうつことを忘れなかったが、もちろんそれは政治的野心からでもなければ、政治的党派心からでもない。一に彼らを通じて一日でも早く、一片でも多く、国際情勢に関する情報をつかみたいという一心からだったことはいうまでもない。しかも、さらに驚くべきことは、逆に彼自身こそ各国の君主、外交官たちにとって、つねにもっともあたらしい、もっとも正確な情報の供給者として珍重されていたことであった。あきらかにギヴ・アンド・テイクの関係だが、そのためには彼がいかに巧妙な、そしてまたいかに大きな努力を払っていたか、まさに得意の壇上であったはずである。
さらにマイヤー・アムシェルは、一八〇〇年一月、オーストリア国王フランツ二世から、神聖ローマ帝国皇帝という資格において、帝室御用係という特許状をえている。神聖ローマ帝国の権威は、すでに一片の空名に化していた(名誉をあたえる権能だけが残された力であった)当時にあって、いまさらなにをこんな虚名などもとめたのであろうか。だが、狙いははるかに遠いところにあった。彼はこの名誉特権をえるとともに、こんどはただちにそれを利用して、中世以来神聖ローマ帝国の宿駅郵便《ポスト》長官《マスター》の特権を世襲してきているテュルン・タキシス侯カール・アンセルムなる人物と深くあい結んだのである。そもそもテュルン・タキシス家というのは、もとはミラノの出身だが、十五世紀の終りころ、駅馬乗継ぎの郵便制というのを発案して、みずからそれを経営した。まもなく利便が認められ、皇帝マキシミリアン一世の勅命で、ウィーン・ブラッセル間の同様郵便を開設したのが一五一六年であったが、以後その長官は、同家後継者の独占的特権になり、十九世紀のはじめには、その路線もまた全中央ヨーロッパに伸びていた。
しかも、さらに当時は、まだ信書の秘密ということがすこしも確立されていなかった。むしろ逆に一切の信書は、かならずまず開封され、内容は書き取られ、そのあとではじめて送り届けられるものと覚悟しなければならなかった。そしてテュルン・タキシス家はこれをやっていたのだ。いいかえれば、あたえられた特権の代償として、このえられた情報を皇帝に供給することが、いわば最大の義務のひとつだったのである。ロスチャイルドが目をつけたのはこれであった。彼は上述カール・アンセルムに深く取りいることによって、ほとんど皇帝同様に情報の秘密にあずかっていたのだった。
のちに彼が、息子たちをして(むしろ息子たち自身の積極的発意でもあったが)、つぎつぎとロンドン、パリ、ウィーンに支店を開設させ、さらにほかにも残りの息子たち、ときには女婿たちまでも動員して、しきりにヨーロッパ各地を旅行させたというのも、商売の目的ももとよりあったろうが、より重要な目的は、むしろ情報網の完成にあった。現にナポレオン戦争終結以後は、ロスチャイルド家専用の私設郵便までつくっている。そしてオーストリアその他の諸国から、もっとも秘密を要求される外交文書などは、しばしば逆にこのロスチャイルド便に託して送られているのだから世話はない。
そうしたロスチャイルド一家の情報機能が、世界を驚かせた有名な挿話は、例のワーテルローの戦役にある。運命の決戦は一八一五年六月十八日に戦われた。戦前、勝敗の予測はまったく不明であった。むしろ情報はナポレオンの優勢をさえつたえていた。だが、いずれにせよ、この勝敗の第一報ほど、各国こぞって首を長くして待ち望んでいたニュースはなかったはずだ。ところが、ナポレオン敗るのまず第一報をロンドンで受けとったのは、政府でもなければ、新聞でもない。実にネイサン・ロスチャイルド(あとでも出るが、マイヤー・アムシェルの第三男)その人だったのである。彼が報告に接したのは、二十日もまだ暗い早朝であった。そしてウェリントンからの急使が政府へ到着したのは、一日以上もおそい、やっと二十一日になってからであったという。
奇蹟は当然伝説をうんだ。伝書鳩を使ったというのがそのひとつ。あるいはもっと愉快なのは、ネイサンみずからひそかに戦場に忍んでいて、勝敗の決定と同時に、全速力で飛ばして帰ったのだというのさえある。さらにもっと深刻なのは、彼がこの生命がけのニュースを材料にして、見事乾坤一擲の株の思惑に成功し、かくしてロスチャイルド家の巨富は一挙に成ったというのが、もっとも名高い伝説だが、けっきょくどれも張扇《はりおうぎ》的想像を出ないものであることはいうまでもない。
ありようは奇蹟でもなんでもない。種はきわめて平凡であった。ただそこはネイサンの抜目なさで、あらかじめまずとびきり高額の懸賞金をかけて、絶対秘密にあらゆる速報競争の手がうってあったのである。大当りは、ロスワースと呼ぶ彼の店の代理人のひとりであった。彼は最初から海峡の対岸オステンドに待機していて、戦況をのせたあるオランダ新聞の一枚を、印刷所から引ったくるように受けとると、そのままロンドン向けの急行船にとび乗ったというにすぎぬという、いまから思えば、お話にもなんにもならぬ、きわめて平凡、なんの変哲もない正攻法にしかすぎなかったわけだ。
だが、当時としては、この種ロスチャイルド家独特の早耳が、いかに各国政府から信頼され、またそのことが、逆にいかに彼らの商取引に大きなプラスになったかは、いまさらあらためて説明するまでもあるまい。
話はいささか先走りすぎたから、このへんでまたもとにもどす。マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、一八〇八年に六十四歳に達した。この年大患をやって、大きな外科手術をうけ、やっと回復はしたが、さすがにようやく頽齢を思わせるようになった。舞台はようやく移りかけていたのである。だが、そのときすでにすぐれた彼の後継者たちは、ほとんど全西ヨーロッパを股にかけてかけまわっていた。彼ら一家の前途に、もはや無限の繁栄は約束ずみかに見えた。
一八一〇年九月――さしもの第四次対仏大同盟も、前年七月ワグラムの一撃によるオーストリアの脱落で、完全にその力をうしない、いまはただあいかわらず不屈のイギリスと、その間しきりに漁夫の利を狙うロシアとの目障りはあったにしても、ナポレオンの勢威はまさに絶頂にあったといってよい。――ようやく死期のちかいのを悟ったとでもいうか、マイヤー・アムシェルは、五人の息子たちを集めて、死後の一家経営について、はっきり契約書を作製した。商社名も「マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド父子商会」とあらためた。
この契約書は、たまたまこの年における一家の資産評価をはっきりしめしているので、参考のために引いてみるが、全資産を八十万グルデンとふんで、うち三十七万グルデンは父マイヤーに、あと長男アムシェルと次男ソロモンとがそれぞれ十八万五千グルデンずつ、まだ未成年の四男カール、五男ジェームズは、それぞれ三万グルデンずつという資産分配になっている(三男ネイサンの名がないのが目につくが、これは彼がロンドンにいたためと、フランス政府の感情をはばかって、父親マイヤーの取分の中にひそかに隠されていたのである。それを考慮にいれると父子まったくの均等分配という、実に彼らの強靱な個人主義的本能がよくみえて面白い)。
一八一二年九月十六日は、ユダヤ教の聖日であった。一生敬虔な信仰の持主であった老マイヤーは、いつものとおり厳格な断食をおこなった。が、その夜、彼はかつて手術をした腹部のあたりに、突然激痛をおぼえた。ただちにベッドについたが、容態は急激に悪化した。ちょうどナポレオンが歴史的モスコウ入城をとげてから二日目であった。西ヨーロッパは、輝かしいその進軍振りにわきかえっていた。だが、彼は、パリ進発の光栄の日、四十万と号した大遠征軍《グラン・ダルメ》が、モスコウ入城時にはすでに十万たらずに激減していたという途々の苦戦ぶりをつたえる情報を聞いていた。そしてこのニュースのなかに、彼は傍観者特有の直感力をもって、喜ぶべき不吉の前兆をすばやく嗅ぎつけていたのだった。
だが、容態はついに好転しなかった。あいかわらずつづく激痛に、高熱さえくわわった。死を期したものであろう、十七日にあたらしく遺言書を書きなおした。彼自身所有の株、商品、その他いっさいの財産を十九万グルデンで子供たちに売り渡し、こんどは全財産を完全に五等分して、子供たちに譲った。面白いのは、娘や女婿たちがひとり残らず、完全に将来の経営機構から除かれているばかりでなく、なんにも知らされていないことであった。そして彼らや残る妻にたいする遺贈には、すべて上述彼自身の財産処分によってえられた十九万グルデンをもってあてた。合理主義もここまでゆくとみごとといわねばならぬ。
遺言の最後は、子供たちの「一致《ユニテイ》、愛《ラブ》、友情《フレンドシツプ》」の強調で結んでいる。ここにも、わが毛利元就と三人の息子の故事めいた伝承がおこなわれているが、あいにくそれは事実でない。五人の息子のうちすくなくとも三人は、死期に間にあわなかったらしいというほうがより確実であるからだ。
翌々九月十九日の夜、ついにナポレオン没落の朗報を聞くまもなく、七十年の生涯を閉じた。
出来物《できぶつ》という言葉があるが、およそマイヤーの五人の息子たちほど、ひとりの屑もなく、しかも全員こぞって父の業を、むしろ父以上の情熱と努力とをもって継承した例もまれであろう。長男アムシェル・マイヤー(父の名を逆にした)が、フランクフルトの本拠にとどまったのは当然であるとして、三男ネイサンは、もっとも早くイギリスに渡り、一八〇四年にはロンドン支店を開店して、まもなく帰化してしまった。一八一一年には、同じく末弟五男のジェームズが、わずか十九歳の弱冠でパリに、そしてウィーンには、困難もあって、もっともおくれたが、一八二〇年次男ソロモンが、それぞれロスチャイルド商会を開店した。フランクフルトを中核として、ロンドン、パリ、ウィーンと、ここに亡父マイヤーの長い夢であったロスチャイルド王国はついに成立した。試みに地図を開いてみるがよい。西ヨーロッパの大動脈とその重要拠点とは、完全に彼らの手によって押えられた形である。ある意味でいえば、中世時代あの大いなるカトリック教権の上においてのみ、わずかに実現された西ヨーロッパの統一が、マモンの神の金権のもと、はからずもふたたび成立したのであった。
五人の兄弟中、なんといってもとび離れた逸材は、三男ネイサンであろう。一七九八年、彼はまだ二十一の若造の身をもって、一言の英語も解しないまま、イギリスへとび出していった。敢為の企画力は、彼の天性であった。上陸すると、ただちに大陸戦争による軍用衣料のおびただしい需要を見こして、まずマンチェスターに落ち着いたというのも、さすがであった。まもなくロンドンに移って、思いきって帰化したことは上述のとおり。彼らしい決断のあらわれである。ユダヤ人にあたえられたイギリスでの社会的自由ということも、たしかに有利な条件のひとつではあったろうが、彼の場合は、家業の金融だけに執着することなく、広くあらゆる商品の取引に乗りだした。ことに従来はそれぞれ別の企業体の手でおこなわれていた、繊維工業における原料の輸入と紡織と染色加工と、そして最後には製品の販売にいたるまで、これらを一貫した企業として一手に収めたというのは、驚くべき着眼であり、それによってえられた莫大な利益は、ほとんど底知れぬものがあったといわれる。
つぎに彼が巨利を収めたのは、大陸諸国にたいするイギリスの経済援助にたいして、その輸送の役目をほとんど一手に引きうけたことであった。周知のように、ナポレオン戦争を通じて、終始イギリスの政策は、陸上戦のかぎり、ほとんど大陸諸国にまかせ、イギリス自身はもっぱら経済援助にまわることにあった。大陸諸国としては、咽喉から手が出んばかりの金である。危険をおかしての輸送引きうけということによって、ロスチャイルド家のえた手数料と手形割引による利益とは、一、二年にして彼等の財産を優に倍化させるにたりた。その際フランクフルトとロンドンをつなぐこの確実な経済ルートの確立は、つぎつぎと競争者を駆逐し去るのにじゅうぶんであった。
つぎにもっとも有利なビジネスのひとつは、英仏間の公然たる[#「公然たる」に傍点]密輸貿易を大口に受持ったことである。イギリスの対仏経済封鎖にたいして、一八〇六年、ナポレオンもまた大陸封鎖令による報復手段に出たことは、周知のとおりであるが、まもなく結果は皮肉にも、むしろフランス経済にとって、よりはるかに大きな打撃であることがわかってきた。まず第一に、イギリスというフランス製品最大の顧客を、みずから進んで閉めだしたことになる。つぎには金銀以下、フランスにとってもっとも必要な物資が、にわかに欠乏をつげだした。悲鳴をあげたのはフランスであった。一八一〇年には、ついにナポレオンも我を折って、実に奇妙きわまる緩和令が公布された。なんのことはない、国家公認の密貿易である。すなわち、一定量を限って、五割という高関税をかけてだが、とにかくそれでバーター制による英仏間の密貿易を奨励した。密貿易品が、堂々と政府特設の税関を通って、流れこみ、流れ出すのだから、およそ世にこれほど珍妙な風景はない。だが、イギリスもまた懸賞金つきで封鎖破りを奨励するのだから、もとよりこんな網でからめつくせるはずがない。そして、ここでもまた顔を出すのがロスチャイルドの緊密な事業網であり、どんなに大きな利潤をつかんだかは想像にかたくない。
ロスチャイルド王国の金権は、完全につねに国家的政治権力の上にあった。名目はとにかく、事実は完全にそのとおりだったのである。彼等は一度として、どの国にたいしても一辺倒ではなかった。感情的にはナポレオンその人に冷淡であり、またオーストリアにおけるユダヤ人圧迫に激しい忿懣を感じてはいても、利潤のあるところ、彼等の金は水のように流れていった。
彼らの活動が、政府当局や軍部当局から深い疑惑をもって眺められたことは一再でない。むしろたえず厳重な警察監視下にあったとさえいってよい。フランクフルトの商会が家宅捜索をうけたこともあれば、むしろ兄弟を兵役に強制徴用しようという計画の考えられたこともある。だが、けっきょくそれらは、巧妙きわまるロスチャイルド一家の言い逃れもあったにせよ、主たる理由は、もはや彼らの金なしにはとうてい運営できぬ国家の戦時財政という立場からする、皇帝みずからの、あるいはまた大蔵当局の、それぞれ強力な発言によって、むなしくお流れになるよりほかなかったのであった。彼らの金権王国の前に、政治権力は気の毒なほどに翻弄された。
こんな話がある。
一八〇八年、ナポレオンはイベリア半島を征服して、弟ジョセフをスペイン王にした。だが、その結果は、この措置を不満とする民族抵抗運動となり、好機逸すべからずとしたイギリスは、すぐさま後年の名将ウェリントンの率いる一軍を送って、これを援助させた。いうところの半島戦争がこれである。
半島戦争は、いちじるしくナポレオンの行動を牽制し、ある意味では没落の遠因をなしたとさえ評価されるが、ありようはウェリントン軍もまた、極度の軍資欠乏に喘《あえ》いでいたのであった。例の大陸封鎖令のために、海上輸送が困難であったばかりか、音に高いビスケー湾の風浪もまた、当時の商船にとっては、きわめてリスクをともなうものであり、かりに可能だとしても、とうてい巨額な保険にたえうるものでなかった。
ウェリントンからの救援状は、櫛の歯をひくように本国へ届いた。「兵隊の給料すら、すでに二月遅配のありさまに御座候。政府はもはや当地区の作戦にたいし無関心なるやとさえ疑わるる次第にて、このまま救援不可能とならば、むしろこの際全面的に作戦を放棄するに如かずと愚考仕候」というような悲鳴に似た手紙さえ残っている。こんな状態が二年ちかくもつづいていた。ついに仕方なく、ウェリントンは、マルタ、シシリ、スペインと、手当り次第いかがわしい金貸連中からさえ、驚くべき高利の金を借りて、かろうじて急場をしのいでいたのである。彼ら金貸どもは、それらウェリントン振出しの政府手形を、ロンドンの大蔵省で現金にかえるのだが、その際の損失というものは容易でなかった。
はからずもこの困難を引きうけて、完全に解決したのが、ネイサンとその兄弟たちであった。では、どうしたか。彼はまず金(多くの場合イギリス金貨)を、場所もあるに、海峡をこえて敵地のド真中パリにむけて送るのである。パリには、弟たち(主としてジェームズ)が待っていて、それを受け取ると、そのままパリの銀行に預け入れる。そしてそれを、こんどはスペイン、マルタ、シシリなどの各地銀行引出の手形にかえると、あとはただビジネスの連絡だけで、それらはもっとも安全にウェリントンの手に届くわけ。彼は最寄りで、それぞれふたたび現金に戻しさえすればよいのである。
こうしてフランスの敵を養うはずの戦費が、場所もあるに敵地の心臓部を通り、もっとも安全に、しかももっとも近道に、あやまりなく味方の手に届いていたのである。愚弄される政治も、ここまでゆくときわまる。だが、金権王国の前には事実なんの防止力もなかったのだ。
この奇術をやりとげたのが、ロスチャイルド王国であった。だが、早まってはいけない、ネイサンが、祖国イギリスへの無私無欲の功労者だなどと思ったら大間違いである。彼にとっては、これもまたきわめて有利な金融企業のひとつにすぎなかったのだ。すなわち彼は、まずスペインその他の金貸業者から、例のウェリントン振出しの手形を、大量に叩いて買い上げると、それをイギリス政府について金にかえ、ここでまず大きく一儲けした上で、こんどはそのままその金をパリに送り、ここでもまた当然きわめて高い手数料をせしめるのだ。
ある意味からいえば、ロスチャイルド家の商法は、実に簡単であった。常識でさえあった。競争者があるとみれば、また将来より莫大な利益が見こされるとさえみれば、当座はほとんど損失確実という条件でもあえて呑むし、そのかわり相手がたに、彼らなしにはやっていけぬという弱味をひとたび看破すれば、これはまた因業なばかりの高利も平気で持ち出すのだが、ただ一般の同種業者たちとちがうのは、それらの商行為のいずれもが、まことに類まれな誠実さと正確の美徳によって貫かれていたということであろう。
たとえば一八一四年七月、オーストリア政府が、ベルギー政府から受け取る九百五十万フランの金を、ウィーンまで現送する必要がおきた。引き受けに乗り出した多くの金融業者のなかには、もちろんロスチャイルドも一枚くわわっていた。そのとき所管のオーストリア官吏のひとりに送られた、手紙の一節だが「手前共の手数料は一・五%、それ以上は一文もいただきません。……無事安着の節、かりにより以上の好条件をお申し出いただきましても、当商会と致しましては、いかにいっさい利益抜きでお引受け致しましたかを、ぜひともお目にかけたいと存じます」とあるのなど、さしずめ前者の好例とでもいえようか。「利益抜き」とは笑わせるが、たしかに安い。だが、もちろんこれを餌として、その後に大きな利益を見込んでいたからのことだったのはいうまでもない。
逆に後者の例としては、一八一六年、オーストリア政府が、いくどかのインフレ危機から、財政立直しを企図したときの逸話である。蔵相スタディオン伯は、まず紙幣の回収と国債償還によって財政の緊縮策をはかったが、あいにくそれだけの金がない。フランスからの賠償金という将来の見込みはあるのだが、とにかく応急の金がない。仕方がない。弁務官某をやって、ロスチャイルド商会に立替金の融通を申しこませたのだ。ところが、彼等の反応はきわめて冷淡であった。以下は、某がスタディオン伯に送っている手紙の一節であるが、「いっこうに反応はありませんでした。だが、つい先だって兄弟の一人が申すには、話次第では、この四年間のオーストリア分賠償金を、一挙にお立替えできないものでもない。ただし、それには小官が、ちゃんと必要な正式権能をまかせられているのでなければ困る、というのです。では、その旨書面にしてほしいと申しますと、それは困る。小官がちゃんと本国政府から、そうした商談に入っていいという訓令を受けてからでないとできぬと、まことにニベもない話なのです。……ただし、彼ロスチャイルドは、四割という途方もない割引率を申してはおりましたが。(下略)」
もとより話にならなかったが、この交渉は、実は意外な副産物をうんだのである。高利率は、もちろん足もとをみての話である。といって、当面ぜひとも必要な巨額の金額を、一度に立替えうるものとては、すでにロスチャイルド商会をおいてない。ついに蔵相スタディオンは、金も手に入る、利率も値切るという苦肉の策を考えた。というのは、戦争中イギリスからの援助金を滞りなく送り届け、オーストリアの戦争遂行に多大な功があった事実をあげ、この際授爵の栄に浴したいという運動が、しばらく前からロスチャイルド家側でおこなわれていたのだった。スタディオンは、この金のかからぬ恩恵を利用することを考えた。反ユダヤ感情のもっとも深いオーストリアのこととて、反対の声もすこぶる強く、最後はやっと宰相メッテルニッヒの裁決できまったというのだが、とにかく同年九月には、まず長男アムシェル、次男ソロモンが伯爵に叙せられ、ついで翌十月には、四男カール、五男ジェームズもまたおなじ貴族に挙げられた。
いまさら貴族などと笑ってはいけない。彼らの場合、それは社会的勝利のシンボルであったのだ。人種的偏見の伝統がもっとも強く、彼ら兄弟の進出をもっとも長く阻んでいたオーストリアにおいて、彼らのこの授爵は、けっして単にそれだけのことでない。ユダヤ人全種族の社会的解放、勝利の鐘であったのだ。僅々二十年前までは、ドイツ名流に伍する富をもちながら、なお忌むべきシャイロックの後裔として、彼らにあのユダヤ人区の不潔な陋屋生活を強制していた社会的差別そのものが、まさにいま破れ去ったのだ。
ロスチャイルド家二代の人々を評した当時の資料が、例外なく彼らにあたえている形容詞は、誠実で、精力的で、紳士的《オナラブル》で、信頼ができる。契約期日はけっしてたがえない、等々ということであった。その点では、不思議なほど符節をあわせるように一致している。もちろん無学で、無教養であった。父マイヤーはいうまでもないとしても、息子たち五人もまた、その点はすこしもかわっていない。老マイヤーの書簡、筆蹟は、今日そのおびただしい誤綴、誤文脈の故をもって、かえって大いに珍重されているという。しかし面白いことは、そうした場合、通常は署名を除いて、本文は代筆させるのが例であるにもかかわらず、彼はどんな人間を相手にでも、平気でその悪文、誤文を書き送った。
無教養ではあっても、馬鹿ではなかった。むしろ逆に、一族すべてきわめて聡明な印象をあたえたらしく、またきわめて魅力的な性格でもあったらしい。ことにネイサンにたいする絶対的信頼者の一人に、外交家、哲学者、自然科学者として、当時ヨーロッパ第一流の人物として高名だったヴィルヘルム・フンボルトがいる。彼は、ロンドン駐在大使時代、自身経済のことを知らず、一家の私経済まで、ネイサンにまかせきりだったというほどだが、その彼が、ネイサンについて記している一節には、「実際信頼のできる人物です。また私の知る限り、正しい、聡明な、そして極度に正直な男です。ただ一言つけくわえておくことは、もし彼に仕事を託すなら、やはり彼の考え方そのものに同調してやることが必要でしょう。というのは、富もあり、またこの国(イギリス)に長く住んでいるせいか、非常に強い独立精神の持主のようですから」と、ほとんど最大の讃辞をもって、その人間像を伝えている。
ただ興味深いことは、今日彼ら一家に関する資料は、ほとんどあますところなく渉猟しつくされ、相当詳細な伝記もいくつか出ているが、不思議と彼らの家庭生活、とりわけ彼ら二代のそれぞれ配偶者に関して伝えられた材料がほとんどない。家系と結婚と出産くらいが、ほとんどすべてであるといってよい。金、金、金の記録が大半、いな、ほとんど全部をしめるのはやむをえないが、おそらく彼女たちの生活は、ひたすら夫たちの烈しい生活の裏に静かに隠れてしまっていたのであろう。
十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、もちろん国家間にそれぞれ先後のズレはあるにしても、産業革命の過程をへて、近代資本主義機構が確立されていったこの時期には、すでに超国家的経済が、はっきり国家的な政治の上にその優位をしめかけていた。おそらく資本主義のもつ運命ともいうべきものであろう。したがって、ロスチャイルド家のそれに匹敵する金融、金権の超国家組織が、その後ぞくぞくとして生れ出たについては、すこしも不思議はない。だが、そのなかにあってロスチャイルド王国は、いわばもっとも早く、もっとも巨大な形で、まずそのモデルをしめしてくれた典型的先例であったのだ。
フランス革命の狂瀾怒濤もおさまり、西ヨーロッパは、ふたたび区々たる「正統的《レジテイメイト》」な王権国家のひしめきあう旧態依然の世界に帰ろうとしていたとき、すでにフランクフルト、ロンドン、パリ、ウィーンと、この西欧の生命的動脈を一つに結ぶあたらしい見えない帝国の構造は、牢固としてその基盤を深くうちたてていたのだった。そして戦争につぐ戦争の二十年、ようやく人々がなかばその悪夢から醒め出したとき、そこにはっきり見たものは、実にこの血で書かれた決算報告書だったのである。
[#改ページ]
狂信と殉教
――怒りの予言者サヴォナローラ――
一四九八年四月七日の朝。そして、ここはフィレンツェ(フロレンス)。
市の中心|シニョーリア広場《ピアツツア・デルラ・シニヨーリア》は、早朝から、奇妙な群集でひしめきあっていた。貴賤、貧富、ほとんどあらゆる職業、身分の市民たちをあつめたかと思える群集が、地上はもとより、広場を囲む家々の窓といわず、屋根といわず、文字通り鈴なりに埋まっていた。円柱の上、彫像の上まで、かろうじて人のつかまれるところは、ほとんどぶらさがらんばかりにして、人々の顔、顔、顔があった。そればかりではない、それら群集のひしめきにまじって、ここかしこ、厳めしい武装に身を固めた警備傭兵が、何百人となく、緊張に身を強《こわ》ばらせながら対峙しているのも、なにごとか、ただならぬ今朝の気配を思わせた。
が、それもそのはず、市民群集の好奇心は、けっして不思議でなかったのだ。フィレンツェ二百五十年の自由の歴史にあっても、これはまたまったく前例のないすばらしい観物《みもの》が、この日、この朝を期して、まさにおこなわれようとしていたのだった。そういえば、武装兵によって、辛くも押しわけられた中央の空間には、市政庁《パラツツオ・デイ・プリオーリ》の正面階段、大理石獅子像《マルソツコー》のあたりから、八十フィートばかり、一直線に広場を横切って、見なれぬカマボコ形の堤防ようのものが築き上げられている。底面で幅十フィートはあったろうか。高さは二フィート半ばかり。煉瓦と土で平らに塗り固められた小堤防の上は、真中にようやく人ひとり歩いて通れる幅二フィートばかりの空間を、一筋残しただけで、両側には、薪、油、火薬、松脂《まつやに》という、およそただならぬ可燃物が、うず高く積み重ねられているのだった。
用意は万端、すでにでき上ったようであった。北の方、はるかにフィエゾーレ丘陵を望むあたりに、わずかに一塊の雲のたたずまいを見るばかり、南欧の春の空は輝くばかりに澄みわたっていた。だが、どうしたわけか、主役の姿はまだあらわれない。群集の期待は、ようやくたえきれぬ興奮と焦躁とにかわっていた。
ところで、問題の主役とは? 一方は、ドミニコ派の修道士《フラ》ドメニコ、そして相手の主役は、これまたフランシスコ派の修道士《フラ》ジュリアーノと呼ぶ人物であった。だが、それにしても、これら主役どもの演じようという前代未聞の狂言とは、いったいなんだったのであろうか? 燃えさかる焔の中をくぐり抜けて、それぞれ彼らの信ずる教義、教条の真理を、神と市民との前に証明しようという、これはまた中世暗黒の時代にも、あるいは未開蛮地の陋習においてさえ、けっしてそうそうは見られぬ狂言の一幕が、いまやルネサンスの華咲くフィレンツェの真中でおこなわれようというのであった。
だが、見落してならないのは、見える主役は、けっして真実の主役ではなかった。真の主役、そしてまたこのおそるべき計謀、奸計の当の目標は、前サン・マルコ修道院長、そしてわずか三年前まではフィレンツェの救世主、自由の回復者として、市民たちの絶対帰依と信頼とをかちえていた熱火の人、怒りの予言者ジロラーモ・サヴォナローラその人であったのだ。
一四九二年、|大ロレンゾ《イル・マグニフイコ》の死を境として、メディチ家独裁の下に繁栄をきわめたフィレンツェ共和市の運命にも、ようやく落日の影がさしそめていた。二年後の九四年には、フランス王シャルル八世の大軍が、早くもアルプスをこえてイタリアの平野に雪崩れこんでいた。フィレンツェもまた、もとよりその蹂躙をまぬかれるよしもなかった。サヴォナローラが、焔の言葉をもって予言しつづけていた神の剣は、あまりにも早く浮華と頽廃の市フィレンツェの頭上に落ちかかっていたのだった。国難を前にして、ようやく本来の自由精神に目ざめた市民たちは、かろうじて売国奴メディチ家を追放し、フランス軍を退けたものの、ひとたび指導者をうしなったフィレンツェは、いたずらに政争と陰謀との混沌であった。
サヴォナローラが、彼をめぐる民主党派ピアニョーニを率いて、なかばわれにもなく地上の政治に中心的役割を演じなければならなくなったのは、このときであった。彼自身は、今日から見れば、とうてい民主的とはいえないにしても、とにかく選挙制による立法、司法の最高機関「大委員会《コンシリオ・グランデ》」を創設し、よくフィレンツェ旧来の市民的自由を回復した。だが、あまりにも理想的な彼の清教徒的神政政治が、長く地上的享楽に麻痺していた富裕市民たちの反動を買わぬわけはなかった。おまけに、年とともにいよいよその糾弾の厳しさをくわえるにいたった彼のローマ教会攻撃は、ついに法王アレキサンドロ六世の最後的怒りを買った。だが、すでに使命感の過信に酔っていたサヴォナローラは、孤剣よく法王の権威を相手に闘いうるものと自信していた。再三の召喚状にも、頑として応じなかった。ついに切り札の破門がきた。が、それでも屈するどころか、彼は逆に、ヨーロッパの諸国に檄をとばして、法王廃立の宗教会議を開く計画をさえたてた。密書が奪われて、法王の手に達するにおよんで、事態は急激に悪化した。一四九八年三月十八日には、ついにいっさいの説教を禁じられた。これを機会に、さらに彼の徹底的没落を企図する政敵、宗敵の暗躍が、にわかにその激しさをくわえたのも不思議でない。
そうした形勢のなかに、三月も終りになった。そのときであった、フラ・フランツェスコと呼ぶフランシスコ派修道士のひとりが、にわかにサヴォナローラ攻撃をはじめたかと思うと、突如としてこの突飛な「火の裁判」を挑んできたのである。同様の挑戦は、以前にもなかったわけではない。だが、サヴォナローラは、正面切って応えるにたらずとして、そのたびに、むしろ黙殺の態度をとってきていた。だが、この場合は、彼の片腕ともいうべき、もっとも信頼する修道士のフラ・ドメニコが、敢然挑戦に応じて立つと称して、いきり立った。サヴォナローラには、もっと大きな使命がある。だとすれば、自分が身代りに立つのは当然だというのである。このときもサヴォナローラは、極力その無用な狂信を戒めた。そのせいか、一時はこの珍しい挑戦も、ほとんどお流れにみえたのだったが、そのとき、この挑戦を利用して、もっとも卑劣な策謀に出てきたのが、かねてからサヴォナローラに宿怨を含む政敵、メディチ家党のコンパニャッチであった。
サヴォナローラ失脚のためには、願ってもない好機会である。もし火中に入れば、落命はきまっている。といって、もし拒めば、民衆への信用失墜は目にみえている。そのあと計画的に混乱をさえおこせば、逮捕はおろか、うまく運べば、ていよく生命を奪ってしまうこともできる、というのだった。彼らはさっそく市政府《シニヨーリア》に働きかけた。すでに自由をまもることさえ忘れていた腐敗政府は、驚くべきことに、ただちにこの陰謀に応じて出たのである。が、もっと呆れるのは、手袋を投げたはずのフランシスコ派の連中には、実は最初から本気でやってみる気は全然なかったということであった。いざとなると、彼らは、さまざまの遁辞をもうけて逃げた。せっぱつまって、けっきょく出したのが、身代りのフラ・ジュリアーノであり、その彼もまた、もしサヴォナローラが火をくぐるなら、自分もくぐる。しかもそのことは、「一に政府の要望によっておこなうものである」というような、情ない、恥の上塗り同然の署名入り一札をさえ残していることである。いよいよ火入りは、四月六日ときまって、準備は予定通り完了した。にもかかわらず実行は、さらに間際になって、一日また延期されたのである。だが、この間の当事者、策謀者たちの心理は、それぞれ実に興味深く伝えられている。もっとも張り切っていたのは、フラ・ドメニコであった。終始彼は、勝利を信じて微塵も疑わなかった。はじめはむしろ反対であったサヴォナローラをすら、最後には深い確信に導いている。サヴォナローラ自身は、幻の人であった。いくどか彼は、奇蹟の真実を強調してきていた。修道院の同志たち、忠実なピアニョーニたちの気勢もまた、もはや日ましに勝利への期待にたかまるばかりであった。それだけに、フラ・ドメニコのおかす危険への不安も、彼としてはしいても確信の一途へと抑えないわけにいかなくなった。それにひきかえ、逃げ腰の大将は、いうまでもなくフランシスコ派側であった。ひたすらサヴォナローラの失脚を待つ政敵メディチ党コンパニャッチと富裕市民党のアルラビアーティはもとより、いまとなっては当の市政府《シニヨーリア》すらが、なにか故障でも出て取りやめになることを、むしろ心から願い出すような始末であった。
七日朝、サヴォナローラは、サン・マルコ修道院にその信徒たちを集めて、ミサを修した。終って、一場の奨励をあたえた。高々とかかげられた十字架を先頭に、二百人に近い修道士たちが、粛然と修道院を出たのは、午後もだいぶすぎてからであった。真紅のビロードの外袍《ローブ》をまとい、大きな十字架を捧げて進むのは、今日の戦士ともいうべきフラ・ドメニコであった。そのあとからは、これも聖餅《ホスト》を奉じたサヴォナローラがつづいた。行列のあとには、炬火を手にし、聖歌「主は蘇り、その敵は亡ぼされ終りぬ」を唱和する群集が、いつはてるともなくつづいていた。やがて彼らは広場に姿をあらわした。待ちくたびれた群集の間から、歓呼にも似たどよめきが、大地を動かして響いた。
だが、奇怪にもこの日の大観は、まさにこの瞬間を頂点として、あとは完全に竜頭蛇尾に終ってしまったのである。というのは、このときになっても、相手方のフランシスコ派は、依然として姿をあらわさない。当の主役ジュリアーノをはじめ、彼らは、まだなにか政庁《パラツツオ》の奥で、政府の連中と談合中なのであった。そればかりか、つぎつぎと、滑稽きわまる難癖ばかりつけて来た。第一には、ドメニコの真紅の外袍には、なにか秘法の魔術でもかかっているのではないかというのだ。はじめは笑って拒絶したが、あまりにもうるさいので、ドメニコは、要求をいれて脱いだ。つぎには、法衣もついでに怪しいという。ドメニコは、これにも応じて、別の修道士のと法衣をかえた。が、最後には、彼がサヴォナローラの傍に立つことをすら忌避してきた。彼が呪術をかけるおそれありというのだった。勝利の確信の前には、この不条理きわまる難癖さえ聞きいれた。ドメニコは、敵方フランシスコ派修道士たちによって、厳重に周囲を固められることになったのである。
時間は容赦なくたっていた。なにも知らぬ群集の不満は、ゴウゴウたる怒りにかわった。機をうかがっていた政敵アルラビアーティの一味が、流言をはなった。広場は一時、完全な混乱に陥った。サヴォナローラ自身も、混乱にまぎれて暴行をくわえようとした政敵の手を、かろうじて危うく逃れたほどであった。ようやく秩序が回復されたころに、いままで晴れていた大空が、たちまち篠つく大夕立になり、またたちまちはれた。依然としてジュリアーノはあらわれない。引き延し戦術は、いよいよ露骨をきわめてきた。つぎは、ドメニコが手にしている十字架を棄てよというのだった。十字架をおいて、かわりに聖餅を持てば、聖餅を焼く冒涜をおかすからと、これまた文句をつける。あとはもうただ文句のための文句であった。そのうちに、四辺《あたり》がたそがれてきた。やがて夕闇のために、けっきょく今日の試煉は中止という、驚くべき政府の発表のあったのは、それからまもなくであった。
暮れ残るアルノ河畔を引きあげる群集の声は、完全に怒りと忿懣にかわっていた。しかも驚いたことに、それらの大多数は、ことごとくサヴォナローラへの激しい非難と悪罵であったといってよい。事の真相を知る興味よりも、異常な観物への期待を裏切られたという失望のほうが、はるかに切実であった好奇の群集にとっては、姿をあらわさなかった卑怯者よりも、現在目の前にあらわれながら、あえて実行にいたらなかったサヴォナローラ一派の行動のほうが、はるかに直接非難の対象に選ばれるという不思議な心理だったのだ。そしてその心理こそは、陰険きわまる政敵どもの乗じる絶好の機会であった。あらゆるデマが、その晩からとんだ。厚顔なフランシスコ派は、盛んに勝利を揚言した。与党であるピアニョーニの一部ですらが、よし単独でも敢行しなかった予言者にたいして、その欺瞞と怯懦とを攻撃しはじめたのである。サヴォナローラ没落の運命は、もはや決定的であった。
南欧ルネサンスの華やかな開花は、いつもそのもっとも明るい陽射しと背中あわせに、もっとも暗い頽廃の黒い影を宿しているのが常であった。一四九〇年、メディチ家の大ロレンゾが、学芸の奨励者、芸術の庇護者、そしてまた人生のあくなき享楽者として、望月ならぬ、かけることのない繁栄と文華とを誇っていたかにみえたフィレンツェも、一皮剥げば、すでに罪悪と堕落と頽廃の都ゴモラであったのだ。しかも十五世紀末、フィレンツェの文華と頽廃は、そのまままたロレンゾ自身の文華と頽廃とでもあった。
本来メディチ家は、一介の銀行家にすぎなかった。もともと、フィレンツェは、イタリア諸都市の中にあっても、もっとも早く十三世紀末には、すでにその商工業の発達によって、封建支配への隷属を脱し、さらに農奴的制約から解放された農民群を、付近農村からその勢力下に吸収することによって、はっきり市民的自由を確立し、共和制をしいた。だが、その後まもなくあらわれたものは、市民層のなかにおける有産、無産両市民層の対立であった。そして富裕市民群は、その財力にものをいわせて、漸次政治権力を独占し、名と一応形とだけは依然として共和制をとりながらも、実質は完全に金権寡頭政治へと移行していった。メディチ家とは、そうした商業貴族の典型的なものだったのだ。彼らは、代々政治的手腕にすぐれた野心家であった。巧みに無産市民層の不満を利用しながら、特権的地位を固めてゆき、十五世紀中頃には、すでに実質上の独裁的権力を確立していた。ロレンゾが、そのメディチ家累代のなかにあって最大の偉材、イタリア・ルネサンスの歴史から抹消し去ることのできぬ、興味ある人物であったことは疑いない。
たしかにメディチ家、とりわけ大ロレンゾの支配下にあって、フィレンツェは繁栄の頂上をきわめ、ルネサンスの花を咲かせた。学芸、芸術の庇護者としても、歴史上最大の名前の一つであった。だが同時に、フィレンツェの自由を扼殺し、頽廃と淫靡のソドムにかえてしまったのもまた、彼らが直接の原因であった。
長年にわたったフィレンツェの政治的対立抗争を、一挙に解消し去って、久しぶりに平和をもたらしたのは、あきらかにロレンゾであった。だが、ただその方法は、政敵にたいする仮借ない投獄と追放と死とによるものであった。学芸、芸術の庇護者、そして彼自身もまた、おそらく当代最高の教養の持主であったが、そのくせ一方では、もっとも粗野、猥雑な官能欲の追求者でもあった。政敵を葬る血の判決に署名したその足で、すぐ一時間後には、ポリツィアーノ、フィチーノら当代最高の碩学と、平然として道徳を論じ、魂の不死を論じていられる男であった。彼の創作といわれる、およそ卑猥聞くにたえぬ「謝肉祭歌《カンテイ・カルナヴアレスキ》」を、酒池肉林の蕩児どもとともに歌い興ずるロレンゾは、同時にまた親しく禁欲、厳修の修道士サヴォナローラを引見して、罪の糾弾に静かに耳傾ける奇怪な信徒でもあった。芸術も、享楽も、哲学も、いや、宗教でさえもが、この奇怪なルネサンス的性格の前には、すべてことごとくただ好奇という等質価値に還元されるのであった。
そして、いうなれば頽廃期フィレンツェの文化そのものが、ロレンゾその人の性格の中に象徴されていたといってよかった。浪費の市、享楽の市、罪の市、そしてまた美の市、学芸の市、文化の市であった。だが、ただその文化も、もはやすでに実質よりも、形式、技巧の妙に堕していた。ダンテの『神曲』よりも、ロレンゾの「謝肉祭歌」が、上位に評価される文化であった。それどころか、教会の説教でさえもが、神の言葉そのものを伝えるよりは、むしろいかに巧みに古典異教の美辞佳句をちりばめるかに腐心された時代であった。
そうしたフィレンツェで――
ここ二、三年、タスカニーはおろか、遠く北ロンバルディアのかなたまで、にわかにその名を伝えられてきた四十がらみの説教者がいた。説教すらが、すでに繊細、典雅な一種の芸術になってしまっていたフィレンツェにおいて、これはまたおよそ不協和音の野の叫びであった。甲高い、抑制のきかぬ声、修辞をなさぬその言葉、粗野とさえいえる、型になずまぬそのゼスチュア――どの点からみても雄弁ではなかった。だが、それにもかかわらず、その舌は、彼のあらわれるところ、たちまち人々の胸をゆさぶり、焔のようにその魂を焼いたのであった。哲学も語らない、異教の文学も説かない。ただ彼の口をついてほとばしるものは、聖書に語られた神の言葉であり、そしてまた時代の堕落と、ローマ教会の腐敗を糾弾する焔のような言説であった。厳修に痩せ衰えた身体には、ときには説教壇をあがる力さえなかったという。しかも、ひとたび壇上に立てば、大きな鷲鼻、頑丈な顎、厚い唇、それでいて、どこか妙に女性的な一抹の印象をさえあたえるその容貌は、にわかに異様な生気をおび、雷霆《らいてい》にも似た獅子吼をほとばしり出させるのであった。悔い改めよ、審判《さばき》の日はちかづいた! 荒野に主の降臨を予言した浸礼者ヨハネのように、彼もまたただそれだけを説いた。彼の糾弾の前には、フィレンツェの堕落も、ローマの腐敗も、ほとんどあますところなく面皮を剥がれて行った。
「|主の剣は、今直ちにこの世界に落ちん《グラデイウス・ドミニ・イン・テルラム・キトー・エト・ヴエロキシル》!」このまま進む堕落のフィレンツェに、彼は、はっきりちかい将来の外敵侵入をあげて予言した。しかも彼の場合は、予言は単に観念抽象のそれではなかった。それは彼が、しばしば陥るといわれた失神恍惚のなかで視る、鮮かな幻の具象性をもって語られた。神の剣は、彼がそのまま深夜の大空に見た、大いなる剣を持つ手の異象として、目のあたり見るがごとく語られたのであった。
説教者の名は、フラ・ジロラーモ・サヴォナローラ、――ドミニコ派サン・マルコ修道院の修道士であった。
フェルラーラ生れというこの修道士の前身について、はっきり知っているものは、ほとんどいなかった。医を業とする家に生れながら、医を好まず、もっぱらアリストテレスや聖トマスの著述に読みふけったという孤独、籠居の青年であったこと、すでに早くからフェルラーラの浮華と虚飾を厭い、二十三歳のときには、ついに家出して、ボローニャのドミニコ派僧院に投じたこと、そして最後には、一四八一年フェルラーラ対法王との戦禍を避けて、フィレンツェへ来、学僧としてサン・マルコ修道院に落ち着いたということ、それらがほとんど全部の知識であった。
生得の孤独的性格ということもあろうが、彼がいわゆる現世厭忌《コンテンプトウ・ムンデイ》を深く抱くようになったのは、きわめて早いころからだったといわれる。それには第一に、フェルラーラ公エステ家のおそるべき浪費と享楽とがあった。ことにエステ公エルコーレとナポリの王女レオノーラとの間に取りおこなわれた婚儀のごときは、その豪華、僣上、世人を驚倒させたといわれる。これら神を怖れぬ所業が、青年サヴォナローラの怒りを買ったのも事実だが、さらにそれにもまして、彼をして深く世を厭わしめたものは、法王とその宗教の、目をおおいたくなるばかりの堕落であった。
十五世紀の後半、パオロ二世から、シクストゥス四世、インノケント八世、アレキサンドロ六世へとあい伝えた法王庁の腐敗は、およそ神に仕えるものが堕落しうる限りの堕落といってよかった。浪費、貪慾、買官、淫慾、陰謀、戦争――その他、およそ七大罪悪の地獄が、法王とその周囲であった。第一、法王選挙そのものが、腐敗の極であった。くわえるに、あくない浪費と奢侈の誘惑は、当然目にあまる近親寵愛、ネポティズモと呼ばれるものをうんだ(法王がその私生子たちを甥と呼んで、重用した)。教会こそは、まさに文字通りサヴォナローラの呪った「傲りと偽りの娼婦」だったのである。
二十三歳の青年サヴォナローラが、ついに無断家出して、ドミニコ派修道院に投じたことは、すでに述べた。ここでの彼の修道は、峻厳をきわめた。絶対の沈黙と、断食、苦行、その肢体は枯木のごとく、面容は亡霊のごとく、ほとんど生きたものの面影はなかったとさえ伝えられる。そのころから、彼の神聖な失神忘我、そしてそのなかで黙示の幻を見ることが、ようやく頻繁になったといわれるのだ。
一四八一年フィレンツェへ移り、サン・マルコ修道院に入った当初は、彼の心にもはじめて平安と落着きがえられた。だが、むろん長つづきはしなかった。ここでも、上述メディチ家の背徳に導かれた滔々たる淫風は、たちまち彼の怒りに油をそそいだ。最初はむしろ新入修道士たちの教育の仕事にあたっていた彼が、ついに野に叫ぶ予言者として立ちあらわれたのは、それからまもなくであった。だが、フィレンツェでの初期の説教は、ほとんどなんの感銘もあたえなかった。神を説く言葉が、すでに罪と信仰の問題でなく、ただ単に教養と修辞の妙を誇る一場の言葉の遊戯に堕し去っていた頽廃ルネサンスのこの市では、直指ただちに罪と悔い改めを説く彼の声は、あまりにも粗野、あまりにも野蛮、いたずらに騒々しい不協和音として響くばかりであった。だが、まもなく説教者としての彼の名は、かえって遠く、シエナやロンバルディア地方などで、にわかに上ったばかりか、彼への深い帰依者の中には、かの高名なルネサンスの「|恐るべき児《アンフアン・テリーブル》」ピコ・デルラ・ミランドーラや、人もあるにメディチ家の大ロレンゾその人の名さえ見出されるようになった。一四八九年以後、彼の名は高まるばかりであった。そしてこの予言者の説教は、故国フィレンツェにおいてさえ、サン・マルコでは入り切れず、大教会《ドウオーモ》をもってして、やっと収容しうるほどの大聴衆を引きつけるようになった。
だが、そのころから彼の説教は、ようやく個人の救いの問題よりも、より激しく、ローマ教会そのものへの糾弾にむけられるようになった。やがてローマ教会の上に下るべき天譴、そしてそれを通してのみ、教会の真の再生をと迫る彼の絶叫は、いよいよその激しさをくわえた。一四九一年には、ついに衆望をになって、サン・マルコ修道院長にあげられたばかりか、翌九二年、大ロレンゾの死に際しては、彼は親しくその臨終の病床に侍して、最後の聖餐をもとめられた。しかもそのときでさえ、彼はあくまで権威に屈しなかった。死を前にしたこの驕慢の蕩児が、さすがに最後の罪の赦しをこうたときにも、サヴォナローラの声は厳かに響いた。「公よ、しからば公は市民に自由を返さなければならぬ」一瞬、すでに光を失いかけていたロレンゾの瞳が、最後の力をふりしぼるかのように、キラリと光った。そして無言のまま、静かに背をむけて寝返りをうった。数秒後には、ついに最後の赦しをあたえることなく、病室を後にする予言者の後姿が見られたという。
名声の絶頂は、一四九四年にきた。だが同時に、殉教という運命の陥穽もまた、ようやくこのころにはじまったといってよい。すでに彼が幾十度か、声をからして予言しつづけていたフィレンツェへの天譴、いまやそれが、フランス王シャルル八世の侵攻という外患になって、アペニン山脈の彼方、目と鼻の間に迫ったからであった。とりあえずフィレンツェは、ピサにいるシャルルのもとへ折衝のために二人の代表者を送った。侵攻そのものの予言者であった以上、サヴォナローラがその一人に選ばれたのは当然であろう。折衝の結果は、ほぼ成功であった。屈辱の入城はまぬかれなかったが、市内の劫掠は許さなかったばかりか、まもなくシャルル自身、「神聖なる使命」完成のために、さらに軍を率いて南へと去った。
が、このころからサヴォナローラの説教は、にわかに強い政治的色彩をおびるようになった。もはや単に罪と悔い改めへの叫びだけではなかった。むしろそれらは、あきらかに一種の政治的改革を説いた。そして、事実まもなく、彼は、一種の平民的党派ピアニョーニを率いて、その実践にすら乗り出していたのであった。メディチ家は、すでに国を売って逃亡していた。市民たちは、あたらしく一種の民主的最高政治機関「大委員会《コンシリオ・グランデ》」をつくったが、これはヴェニスの「大委員会《マツジヨール・コンシリオ》」にならったもので、サヴォナローラの提言によるものであったことはいうまでもない。
好むと好まないにかかわらず、いつのまにか彼は、一種の独裁者的地位に祭りあげられていた。峻厳きわまる清教徒的神政政治がはじまった。ことに有名なのは、一四九七、九八両年の謝肉祭最終日におこなわれた、物々しい「邪教物焼却《ブルチアメンテイ・デツレ・ヴアニータ》」であった。仮装衣裳、仮面、付鬚など、その他奢侈品類は致しかたないとしても、淫風を助長すると見なされるものは、文学、絵画類まで、惜しげもなく火中に投じられた。が、そのなかには、さきの淫らなロレンゾの詩歌類はもとより、ボッカチオ、ペトラルカの作品、バッチオその他の裸婦から、その他たとえ裸体ではなくとも、いやしくも美女の媚態とみられる絵画類は、いずれも同じ運命をまぬかれなかった。さらに白衣をした特別少年、少女団が組織され、彼らは、個人の家庭生活にまで干渉して、その奢侈、淫風を戒めて歩いたものであった。ようやく市民たちは、聖徒の政治が、ときには悪魔の政治よりもおそるべきものであることを知った。メディチ家時代に対する郷愁すらあらわれた。それらの不満は、メディチ家党、富裕市民党というごとき政敵をつくって、サヴォナローラ失脚の陰謀に暗躍させた。民心もまたようやく彼を棄てはじめた。
思い上りは、しばしば天使をさえ人間にする。いわんや衆望の絶頂に立たされたこのころから、サヴォナローラ自身の行動にも、明らかに過度の得意がもたらす人間らしい過誤が現われはじめた。第一には、ようやく自己の無謬性という過信に酔っていた。そして、それが行動指針への反省欠如にもなった。たとえば、天譴の外敵を彼が予言しつづけ、しかもそれがそのとおり実現したといういまとなっては、シャルル八世という単なる野心家を、われにもなくそのまま神からの救済者と混同してしまった形跡がある。そのせいであろう、やがて全イタリア民族主義の結束が、首尾よくシャルルの侵略軍を国外に追ったときにも、サヴォナローラ指導下のフィレンツェだけは、ひとり同盟の圏外に立って、むしろ侵略者と取引きをくりかえしていたきらいすらある。大きな過誤であったことは疑えない。第二には、彼の民主的自由への信念にも致命的限界があった。なるほど、たしかに彼は一応民衆を信頼した。教会の堕落、フィレンツェの腐敗、それらにたいする改革の希望を、たしかに彼は民衆にかけたのであり、だからこそ、民主的改革もやってのけたのだが、「大委員会」は決して真の民主的組織ではなかった。現に真の人民会議《アレンゴ》の召集が提案されたとき、サヴォナローラは、委員会は「神の御業」たるべしという理由で、激しく反対してつぶしている。そして最後には、民衆本来の気まぐれということすら、あまりにも知らなかった。
こうして、やがて火の試煉が来たのだった。
火の試煉は、サヴォナローラにとって、決定的な瞬間であった。翌八日の朝、目をさまして見ると、ほとんどフィレンツェ全市が敵であった。昨日の同志ピアニョーニすら黙して、一人として立つものがいなかった。形勢は、急坂を転がる石のように悪化した。
八日は、復活祭前日曜日《パーム・サンデイ》であった。吉例のように、サヴォナローラは、短い、だが、悲痛な説教をした。静かに午前のときはすぎた。だが、ちょうどサン・マルコ教会で、夕の祈りが捧げられているときであった。午前からすでにただならぬ気配だった情勢は、ついに爆発した。その日の午後、街でおこった政敵同士の小さな口論が、思わぬ刃傷沙汰になったかと思うと、血を見て興奮した群集は、ぞくぞくとして広場《ピアツツア》に集まってきた。好機逸すべからずとした政敵どもは、たちまち猛烈な煽動をかけた。
「サン・マルコへ、サン・マルコへ! 火をつけろ!」
騒ぎは、いつのまにか暴動のスローガンにかわっていた。血に狂った群集が、みちみち無辜の市民を血祭りにあげながら、目ざすサン・マルコへ殺到したのは、日没前二時間ころであった。まず教会が、つぎには修道院が襲われた。
が、いっぽう少数ながら、サヴォナローラに献身的な信徒たちは、すでに数日前から形勢を憂慮して、万一のために、彼には知らせず、無断で、刀槍類から火繩銃までひそかに運んでいたのであった。居あわせた信徒も修道士たちも、意外に勇敢に抵抗した。急を聞いたサヴォナローラは、厳重に無抵抗を命令し、むしろみずから敵の手に渡されることを願ったが、すでに興奮した信徒、修道士たちはききいれなかった。僧兵ならぬ、法衣の上に胸甲をつけ、形相も凄まじく武器をふるう神の僕《しもべ》たちの姿は、悲壮ではあるが、滑稽でもあった。
闘いは教会から移って、修道院の攻防戦になった。一時はサヴォナローラの命令によって、ほとんど戈《ほこ》を収めた修道士たちも、夜に入って敵の攻撃が猛烈さをくわえるとともに、ふたたび武器をとって死闘した。まるで小さな市街戦であった。いまではもうサヴォナローラも、無抵抗の命令こそ断じてかえなかったが、もはや制止のしようもなかった。やがて彼は、腹心の修道士たちだけを従えて、最後の拠り所である書庫に退いた。が、そのときであった。市政府《シニヨーリア》から、彼と、そしてフラ・ドメニコ、フラ・シルヴェストロの三人にたいして、抗戦停止と即刻出頭の厳命がきた。彼は居あわせた修道士たちを集めて、最後の言葉を述べた。
「愛する兄弟たち、私は、神とその聖餅の御前に確言する、すでに敵は修道院を犯しているが、なお私の教義の真理に毫もかわりはない、と。私の言葉はすべて神からきた。けっして虚言者でないことは、神が証人になってくださるであろう。こうも早く全市が敵になるとは考えなかった[#「こうも早く全市が敵になるとは考えなかった」に傍点]が、いまは、神よ、ただ御意《みこころ》のままをなさせたまえ。私の最後の言葉は、ただこれだけだ、――信仰と祈りと忍耐と、これだけが諸君の武器なのだ」
そのあと彼は、フラ・ドメニコからあらためて秘蹟を受け、兄弟たちに最後の接吻と抱擁をあたえると、宿縁の盟友フラ・ドメニコとともに、静かに敵の手に渡された(面白いのは、フラ・シルヴェストロである。このときは、どこかへ隠れてしまって、ついに見つからなかったが、のちに、これもある修道士の裏切り密告によって、捕えられた)。
サヴォナローラ以下(ドメニコ、シルヴェストロのほかに、僧俗十九人のものが捕えられていた)の裁判は、翌十日から五月下旬にかけて、三回にわたって行われた。だが、この裁判ほどデタラメきわまる、つくられた裁判もない。拷問と作為と、――完全にあの治安維持法下におけるわが思想断罪のやり口の粉本であったと思えば間違いない。三回の裁判にもかかわらず、最後までついに有罪とする根拠はあげることができなかった。だが、ローマから送られていた委員の一人が、正直に言明したように、最初から「なんとしてでも、彼を殺さなければならなかった」のである。証拠がなければ、これもまた主任公証人のツェッコーネなる男が放言したように、「もし訴訟事実がなければ、こしらえあげればよかった」のである。事実この裁判におけるサヴォナローラの供述の真実は、今日ついに厳密につきとめることはできない。自筆による多くの文書は、完全に破棄されているばかりか、ときには拷問中に失神状態で発した譫語《せんご》を、やはりこのツェッコーネなる人物が、巧みに辻褄をつけてつくりあげ、しばしば根も葉もない主観的挿入句までくわえた証拠さえあがっているのである。正当な裁判手続きとしては、供述書は、最後の断罪の前に、被告同席の上で、公開法廷で読みあげられなければならないのだが、それもほんの一部分のほかは完全に省略された。しかも被告自身怖れて出なかったという虚偽の理由のもとに。事実は彼の出廷さえ禁じられているのである。だが、大要はもちろん推測できる。
裁判中、サヴォナローラの信念が、ある種の動揺になやんだことは事実らしい。最悪の試煉は、やはり拷問にあった。本来彼は強壮な体格でなかったうえに、長年にわたる断食苦行は、はなはだしく肉体を弱らせていた。しかも彼の神経は、表にあらわれた激しさ、強烈さにもかかわらず、内面はむしろ痛ましいまでに傷つきやすいものであった。そのときの獄吏のひとりが、のちに、「あれほどすぐ拷問の利く男も知らない」と語っているように、彼の精神は、意外に簡単に譫妄状態に陥った。しかも醒めたあとでは、錯乱のなかで発した断片的な譫語のことが、二重の苦悩になって、彼を責めるのであった。が、さらにもっと悪かったのは、ただひとり独房にある沈黙のときであった。「神、神、爾はわが予言者の魂を奪い給えり」彼にとって、これほど苦痛の瞬間はなかった。
彼にくらべて、むしろより確乎たる信念に終始したのは、フラ・ドメニコであった。数次の拷問にもついに屈しなかった。拷問の威嚇にたいしても、彼は毅然として、「これ以上は知らず。もし信ぜざれば、所詮は無駄なれども、さらに拷問をくわえらるるもよからん」と筆答している。さらにおなじく拷問をもって、サヴォナローラを棄てることを求められたときなどは、死の痛みにふるえる手をわずかに動かして、「余はかつて師が虚言者なりと疑いしこと微塵もなし。むしろ師こそは、完全なる正義の人、稀なる信念の人たることを確信す」という、驚くべき供述書をのこしているのである。それにひきかえ、予想のように、見苦しかったのは、フラ・シルヴェストロであった。彼の願いは、ただいかにかして死をまぬかれることであった。サヴォナローラの弱点について、あること、ないことまで供述しているばかりか、最後にははっきり、欺されていたと述べている。人さまざま、こればかりは時と所とを異にしない、というよりほかない。しかもその彼もまた、けっきょくはおなじ死の運命をたどらなければならなかったというのは、あまりにも冷酷な皮肉といわなければならぬ。
判決は最初からわかっていた。面白いことに、シルヴェストロにたいしてだけは一時助命論も出たが、ローマ特使の一人の、「糞坊主の一人くらい、どちらになってもおなじだ。いっそ殺してしまえ」という発言で、あわれ彼の運命もまたきまってしまった。判決は、五月二十二日夜、ひそかに三人の犠牲者たちに読み聞かされた。終夜祈りあかした彼らは、夜が明けると、静かに最後の聖体をうけた。サヴォナローラが祈り終ったころ、迎えの兵士たちが入ってきた。
一カ月半前、あの運命的な火の試煉のおこなわれようとした、そのおなじ広場に、これまた形までほとんどおなじに、政庁《パラツツオ》から広場を四分の一ほど横切って、木組の急造歩廊がつくられていた。その突端に頑丈な柱が一本たち、その尖端ちかく、皮肉にもまるで十字架を思わせるような腕木が、左右にずっと伸びている。腕木からは、絞首繩と鉄鎖と、それぞれ一組になったものが、三つ下っており、台上には、すでに薪がうず高くつまれていた。鎖は、絞首後の焚刑の際、死体の落ちるのをささえるためであった。歩廊を取り巻いてひしめく群集もまた、先の日とかわりなかったが、ただ妙に無気味な沈黙が守られている、それだけが、ただちがいであった。やがて三人の犠牲《いけにえ》の姿が、政庁の玄関階段にあらわれた。群集のなかからは、呻きにも似た吐息と、まるで狂った野獣のような罵声とが、いっせいにわきおこった。
サヴォナローラたちは、歩廊に上ると、まずヴァゾーナの司教から、法衣を剥がれて、教会除籍《デクラデーシヨン》の式を受けなければならなかった。司教はサヴォナローラの腕をとると、憎しみにふるえる声で、「|爾を戦闘と勝利の教会より除籍す《セパーレ・テ・アブ・エクレジア・ミリタンテ・アトケ・トリウムフアンテ》」と述べた。だが、その瞬間、間一髪をいれぬ殉教者の声が高々と響いていた。
「|戦闘、そうだ、だが、勝利ではない《ミリタンテ・ノン・トリウムフアンテ》」
つぎに、彼等は、八人委員会の前に引きだされた。判決を上程して、全員一致の票決を採るのである。もちろん一場の茶番にすぎない。
すべての準備は終った。ふたたびおこる罵声のなかを、彼らは静かに天国への歩廊を歩いた。最初に縊られたのは、シルヴェストロであった。彼もまた最後の瞬間には、殉教者の平静を取り戻していた。彼がこときれ終ったとき、ドメニコが、まるで天国の扉を仰ぎ望むかのように、軽々とした足取りで、死の階段を上っていった。最後はサヴォナローラであった。彼は二人の同志の間に位置をとった。脚許まで押し寄せてひしめく群集の顔の動きを、彼は、なにか遠い世界のことのような気持で、静かに眺めなおした。
「予言者よ、奇蹟は今だ!」
甲高い声が、突然喧騒を圧して彼の耳をうった。冷い麻繩の感触を、ヒヤリと顎の下に感じたとき、彼は輝く空がはっきり二つにわかれるのを見た。一四九八年五月二十三日午前十時。四十五年の殉教者の生涯であった。
執行人が階段を降りおわるまもなく、狂気の興奮にかられた群集の一人が、早くも薪に火をはなっていた。一瞬、突風がおこって、しばらくまるで殉教者たちの遺骸を保護するかのように見えた。「奇蹟! 奇蹟!」誰からともなく、そんな叫びすら聞えた。だが、それもまもなく風が落ちると、焔は、すでに魂を父の手に託し終った三つの形骸を、なめるように包んだ。火をみて一段と狂った群集が、やがて没落へと急ぐフィレンツェの運命も知らず、狂気のように叫び、そして踊り狂っていた。ただ居あわせた幾人かの市民たちが、サヴォナローラの腕を縛した綱のついに焼け落ちたとき、燃えさかる焔の中に、殉教者の手は、ありありと天を指して動いたと、のちのちまでも語り伝えた。
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世界最悪の旅
――南極のスコット――
一九一二年(明治四十五年)一月十六日午後。
だが、南極は夏の真盛り。
見わたすかぎり、白、白、白、眼もくらむような白一色の氷雪原を、ひたすら南を指して進む一台の雪ゾリと、防寒服、防寒帽、防寒靴に、深々と身をつつんだ五人の人影とがあった。うち四人は、遠目にも明らかにスキーばきの姿、二人ずつ、二列に並んで、背後につづく雪ゾリの曳綱を、がっしり肩越しにひいている。ただ残るひとり、目に見えて小男の人物だけは、どうした理由か、スキーさえはかないらしく、それでも重そうな防寒靴を、力強く踏みしめながら、まるでまつわるように、四人の行進につづいていた。
今日もまた、空は晴れたが、風は強い。南極の夏は、来る日も来る日も、判でおしたように、特有の西南西の強風が、真向正面から吹きつのっている。毛皮や布を顔にまき、獣のように、この強い向い風と闘っている五つの前傾した人影は、ただ茫々とひろがる真白な背景の中に、まるで芥子粒のように、黒々とうごめいていた。
顧みると、やっと眼の高さをこえるかこえぬかの低い空に、黄色い金属のような南極の太陽が、転がるようにかかっており、地平線のあたりからは、これも晴れた日にはかならずあらわれる虹色の巻雲が、美しい条線をひいて、八方にひろがっていた。
緯度は、すでに南緯八十九度を越えている。標高三〇〇〇メートルに迫るこの高原。温度は、今日も依然として零下二十数度という目盛りをしめしており、烈しい風に切りこまれて、まるでハリエニシダの分枝をでも思わせるような波状雪の表面は、さらに吹き飛ばされてくる粗い砂雪の堆積までくわわって、みるまにスキーもソリも滑らなくなってしまう。行進は、いよいよ難渋さをくわえていた。
黙々として、誰ひとり口を利かぬ。ただときどき思い出したように言葉がかわされると、これはまた思いなしか、妙に楽しい期待にでも弾むかのような、短いが、力強い言葉であった。同様に、行進に悩む足取りもまた、よそ目にはいちじるしい疲労の重さにもかかわらず、それとは妙に矛盾した、いわば勝利への進軍とでもいったようなものをさえ思わせた。
この不思議な五人の一隊、これこそは人類未踏の処女地南極へと、いまやその歴史的第一歩を印そうというイギリスの探検家スコット大佐とその四人の部下たちであった。氷原の行進は、今日もすでに朝の八時から数時間、鈍重な機械のようにつづけられていた。行く手は、ゆるやかな下り傾斜がつづいており、午前の行程は思いがけなく順調にはかどって、一時すぎまでに、すでに一四キロを進み、そこで中食、あらためて勇気にみちて出発したのは、かれこれ二時ちかい時刻であった。そして、それからまた一時間ばかり。が、そのときであった。ふと例の最後の靴穿きの小男の眼は、彼らからいくらも離れない氷原の上に、あきらかに氷塊を積み重ねたとしか思えない、堆石標《ケルン》に似たものを一基、みたのである。瞬間、なにか鳥影のように、不吉なある予感が、彼の頭をかすめて閃くのを、どうしようもなかった。だが、やはり次の瞬間には、強いてそれを打ち消すかのように、強くひとつ頭を横に振った。
行進は依然としてつづいてゆく。
それからさらに三十分、中食の休止からでも、すでに九・八キロの行進をしめしていた。が、ちょうどそこで、これまで下りいっぽうであった行進が、一度だけ西寄りに心持ち上り、ふたたび軽い下りにかかって、浅い凹みをやや東に向って進んでいたときであった。例の小男は、ふたたびハッと胸を衝かれたように、一瞬、眼を疑った。吹きつけられる行手の氷原の一点、まさしくそれは黒い旗とおぼしいものが一本、へんぽんと風にはためいているではないか。
もはや断じて自然のいたずらではない! 彼の右手が、瞬間高くあがって行手を指し、なにか一声けたたましく叫んだのと、突然一隊の行進が、まるで電気にでも撃たれたように、ピタリと止ったのとが、ほとんど同時であった。
つぎの瞬間、歩調はにわかに早められた。
だが、ちかづけばちかづくほど、彼らの不安は、もはや一点疑う余地のない事実へとかわった。旗と見えたのは、あきらかにソリから取り外したらしいソリ台の木材に、なにか有りあわせの黒布片を括りつけたものであった。
が、それらにもまして彼らを驚かせたのは、よく見ると、あたり一面、まぎれもないソリやスキーの踏み跡と、そしておびただしい犬の足跡が、入り乱れて点々とつづいていることであった。いや、そればかりではない。旗のすぐ傍には、あきらかにキャンプを設営した生々しい跡まで、はっきり残されているではないか。
南極心まで、あますところわずか二六キロ。もちろんそれは、地球の歴史はじまって以来、いまだ一度として人類の足跡をゆるしていないはずの処女地であった。いまその処女地にこの足跡、さらには明らかに人間生活の跡!
そのまま行進は、ハタと止ってしまった。たちまち五人の姿は分散すると、思い思いに痕跡の調査にかかった。誰の足取りにも、みるみる激しい失望と焦燥の色が濃くなった。まもなく三角のテントが張られると、人々は興奮した面持で、はげしい議論をはじめた。
が、それにしてもスコット大佐とその四人の同志たち、彼らは、いまこのとき、なんの目的があって、この南極の氷原上に立っているのであろうか? そしてまた変哲もない一本の黒旗が、なぜこの人たちに、かくもいちじるしい動揺と、はげしい失望をあたえたのであろうか? いや、けっして変哲もない旗ではなかったのだ。それどころか、実にこの一瞬間こそは、人類の長い冒険と探検の歴史の中にあって、おそらく最大の運命的悲劇が、わずかに一本の旗、この無造作な黒い旗によって、織り出されていたのだった。
地球の歴史何億年、人類の歴史何十万年、この永劫にちかい時間を、ほとんど最後まで神秘をまもりつづけ、人類のうかがい見ることを許さなかったもののひとつに、南極があった。ところが、皮肉な運命の戯れは、年も同じ一九一二年の夏(南半球での)を期して、はからずも世界屈指の二名の名探検家をして、火の出るような一番乗りの競争を演じさせていたのであった。二人の探検家とは、――一人はむろん、いまここに挙げたイギリスのスコット大佐。そしてもう一人は、これもすでに幾度かの北極探検によって、その名声をうたわれていたノルウェイのロアルド・アムンゼンその人であったのだ。
われわれの知る世界地図において、すくなくとも人類の生活をゆるす地域については、ほぼ十九世紀終りまでに、すべて神秘の帷《とばり》を剥ぎ取られてしまったといってよい。海岸線という海岸線は、幾多大航海者の輩出によって、確実に跡づけられ、暗黒大陸と呼ばれたアフリカや中央アジアの内部まで、つぎつぎと明るみに出されていた。そうしたなかで、最後まで残されたのが、南極といい、北極という、ともに永遠の氷雪に閉ざされた二つの極地域だけであった。そしてこれら処女地域が、いよいよ最後の処女地として、にわかに注目を浴びたのが、十九世紀初頭頃からであった。
二つの極地探検の歴史で、まずその先頭を切られたのは、北極であった。十八世紀の悲劇的探検家ジョン・フランクリンをはじめとして、その後いくどかの企てがなされたが、その後十九世紀後半になると、北極探検の花形は、地理的便宜からも自然ノルウェイとアメリカに移り、最後の栄冠をしとめたのは、一八九三―九八年のノルウェイ人ナンセンの冒険行、ついでは一九〇九年アメリカ人ピアリーによる極心到達であった。
北極の先陣争いが終わると、当然新しい関心は、残る一点、南極心に集中した。南極が航海者の注意をひいたのは、かなり古い。十八世紀イギリスの大航海家ジェイムズ・クックが、すでにいくどか南極圏を航し、南緯七十一度にまで達している。が、はじめて南極大陸の存在を確認したのは、なんといってもイギリス人ジェイムズ・ロス――今日もなお南極に、ロス湾、エレバス活火山、テラー休火山などの地名を、不朽の記念として残している一八三九年の探検であった。だが、その後半世紀、北極への関心の盛んなのにひきかえ、南極は一時忘れられた形であったが、今世紀に入るとともに、にわかに南極熱は復活した。きっかけは一九〇一年、イギリスがほとんど国家的事業としておこなった、いわゆる「ディスカヴァリ号の探検航海」として知られる画期的なものであり、このときの隊長が、当時まだ海軍中佐であったロバート・スコットであったが、探検家としての彼の名は、この一挙によって世界的に確立されたといってよい。
だが、ディスカヴァリ号の探検は、南極大陸の科学的調査の方が第一目的で、極地到達はむしろ従であった。それでもとにかく一九〇三年の暮、一度は極地突進を試みたが、壊血病発生のために、空しく八十二度十六分というところで引き返した。次の花形はシャクルトンであった。彼の場合は、もちろん極地一番乗りが目的で、一九〇八年十月、四人の同志とともに決行、有名な世界最大の氷河ビアドモアの発見に成功し、さらに翌九年一月九日には、いま一息という八十八度二十三分まで到着したが、食糧欠乏のために、これまた涙を呑んで引き返した。またしても南極は、その深い神秘をまもり抜いたのであった。
ところがおなじ年の九月、ロンドンの新聞は、いっせいに三たび南極探検の新しい計画を報道した。計画者はスコット大佐。そして目的は、問題の極地一番乗りと、さらにきわめて大がかりな科学的探検を同時に行うという、非常に野心的なものであった。こうして、ふたたびスコットの夢をのせた探検船「テラ・ノヴァ」号が、イギリス本国をあとにしたのは、翌一九一〇年の六月一日であった。もちろんそれが「世界最悪の旅」になるなどとは、夢にも想像しないでだ。
「テラ・ノヴァ」号は、アフリカ西海岸を南下、喜望峰を廻って、一路東進、十月十二日には濠州メルボルンに安着した。だが、悲劇の黒い影は、このときはじめてその不吉な姿を、ちらと水平線上にのぞかせたのであった。それは、ここでスコットを待っていた一通の電報であった。電文はきわめて簡単だが、
「南極にむかう。アムンゼン、マデイラ島発信」
いわずと知れたノルウェイのロアルド・アムンゼンであった。齢もスコットよりは二つ若い四十一歳、男の働き盛りといえよう。これより早く、彼がいくど目かの北極探検行を計画しているという情報は、すでにスコットも本国で耳にしていた。事実アムンゼン自身も、そう言いふらしていたのである。その彼が、いよいよ故国をあとにして海上に出ると、急に隊員たちを集めて、真の目的は南極にあることを発表したばかりか、マデイラ島に到着すると、ただちに上記電報になったのである。この彼のやり方にたいしては、その後いろいろと批判があったばかりか、スコット自身もけっして心平らかでなかったことは、妻への手紙でも明らかである。だが、それよりもはるかに重大なことは、それでなくてさえ重かった彼の精神的重荷に、またひとつ容易ならぬ負担を増しくわえたことであろう。
前に、さきの「ディスカヴァリ号」探検は、事実上の国家的事業であったことをいった。スコットとしては、隊長とはいえ、それは選ばれて使命を受けただけで、計画そのものの責任は政府であった。ところが今度の壮挙は、一にスコットの全責任で立案され、計画され、実現したものであった。資金の奔走のごときも、すべて彼自身が当った。いくらイギリスのような国だといって、そう簡単に金の集まるものではない。科学的探検というだけでは、決して十分な魅力でなかった。そこへ行くと、より卑俗な興味に訴える一番乗りというスポーツ的要素の方が、はるかに人々の心をそそった。現に彼は、いくつかの新聞から、半ばは一番乗りのニュース提供を交換に、相当の資金を確保したくらいだった。それでも資金は、けっして潤沢でなかった。すでに「テラ・ノヴァ」号が、本国を出発してからも、なお彼は、アフリカで、濠州で、「物乞い」(妻への手紙の中で、資金集めを自嘲的にそう呼んでいる)に東奔西走しているのだ。してみると、彼としては、いわば追い詰められるもののように、一番乗りをかけたも同然であった。そうした彼に、今この意外の電報が、そしてまたおそるべき競争者の出現が、大きな負担と焦慮をもたらしたであろうことは、想像にかたくない。
準備は成った。スコット以下幹部隊員七名、科学班八名、技術班四名、平隊員十四名、ほかにシベリア馬十九頭、犬三十三頭、モーター・ソリ三台という、驚くべき大規模の編成になる探検隊を載せた「テラ・ノヴァ」号が、いよいよ南極にむけ、ニュージーランドの最後の港デュネディンを出帆したのは、一九一〇年十一月二十九日午後三時前であった。雲もなく晴れた南半球の夏、日脚もようやく西に傾きかけたころ、希望の船は、新緑のニュージーランドをあとに、大きな白鳥のように、一路南への帆走をつづけた。
が、もちろん机上で考えるような容易な航海ではなかった。二日目にはすでに、名高い南半球の暴風圏に突入している。ことにそれは、最悪にちかいものだった。数日間にわたる悪闘の後ようやく凌ぎぬいた時には、犬を一頭波にさらわれ、馬もまた一頭死亡、二頭重態という打撃をうけていた。
暴風圏をぬけて、十二月九日、南緯六十五度をこえると、これも南氷洋特有の群氷海域に入った。船は終日、卓状氷山と流氷の間を進んだ。来る日も来る日も、ちぎれ雲の多い空を、太陽はサンサンと光を投げている。浮氷の上から、ヒョウキンもののペンギンが、キョトンと船を眺めてたっていることもあれば、時には体長三〇メートルを越える白ナガスクジラが、ポッカリ船の舷側ちかく浮びあがって、魚油の香のプンと鼻をつく潮を、白々と高く吹きあげることもある。
風景もまた忘れ難い印象的なものだった。曇っている朝の空が、やがて輝かしい青空に晴れあがったかと思うと、水平線のあたりでは、その空の青が、淡紅色にかすかに溶けこんでいる。紺青の海に漂う流氷は、これも淡紅色に光り、影という影はすべて紫色にかげるのだった。が、それにもまして夢のようなのは、夜の景観だった。深夜といっても、太陽はわずかにいま水平線に沈んだばかりだ。北の空は、文字通りバラ色に燃えたち、それが氷間の海面に照り映えると、水は磨きあげた銅の表面か、あの鮭の肉にも似た鮮かな淡紅色にかがやくのだった。氷山や流氷は、一面淡紅色にいろどられ、しかもそれが一つ一つ濃い紫の影をつける。空はサフラン色と淡紅色になかば暮れ、その美観には、人々もみな連日の苦しさを忘れて、思わずいつまでも見とれるのだった。
が、航海は群氷海域で意外に暇どり、思い出多いクリスマスも、流氷の中で祝った。最後の流氷群をすぎたのは、すでに年も迫った十二月三十日、あとはふたたび満々たる不凍の南氷洋海面だった。いまや六〇〇キロの前方には、夢に見た南極の大陸が、横たわっているのだ。
十二月三十一日午後十時すぎ。明ければ一九一一年の新年だ。めいめい楽しい期待に心を躍らせながら、そろそろベッドに入ったものもいた。そのときだった。突然「陸! 陸!」という叫びに、一瞬間、船の中はたちまち歓喜のルツボに一変した。二日の夜には、すでに目的地ロス島のたたずまいが、はっきり視界に入ってきた。島第一の高峰エレバス火山の頂からは、静かに噴煙が斜になびき、火山特有のなだらかな曲線が、広く裾をひいて尽きるあたりからは、夜目にも著しい氷壁の縁辺が、果てを遠く水平線の彼方に没するまで、ただ雪白一色の直線に延びていた。
五日には、基地テント建設地のエヴァンズ岬に投錨し、ただちに上陸作業にかかった。
南極では、五月になると冬がくる。あとは、ほとんど四カ月間にわたる、長い長い、太陽を見ない南極の冬籠りだった。極地征服は、その後のあたらしい春の到来とともに決行の予定だったが、もちろんそのことは、無為の生活ということではない。第一には、基地小屋の建設の仕事があり、第二には、冬の訪れまでに急がなければならない、いわゆる極地法と呼ばれる前進基地の設営があった。二月半ばまでには、スコット自身指揮の下に、エヴァンズ基地から二五〇キロばかりの間に、四つのキャンプをもうけ、ことに最後のものは「一トン貯蔵所」と通称された、もっとも鞏固《きようこ》な食糧、燃料、飼料などの貯蔵所だった。
二月といえば、もう秋であった。深夜の太陽は、わずかに地平線上を、まるでころがるように横ざまにめぐり、空には季節の変り目をつげる低い層雲が、垣根のように厚くたなびいている。そしてやがてその低い太陽が、一日のうちほんのしばらく地平線上に浮かぶようになると、それはすでに冬のくる先ぶれだった。スコット以下、前進基地設営に出ていた人々も、四月なかばまでには、まるでネグラを求める鳥のように、つぎつぎとエヴァンズ岬の基地小屋に帰り着いたが、一日のうち太陽の出る時間は、みるみる減って、四月二十三日、わずかにその影をチラリと地平線上にのぞかせたかと思うと、ついに以後四カ月間、最後の太陽になった。
が、この秋の出来事について、ぜひとも書き落してならないことが二つある。
ひとつは、例の強敵アムンゼンの南極到着が確認されたことであった。二月二日の早朝、近海測量のために出ていた「テラ・ノヴァ」号が、東方約五〇〇キロ、鯨湾上に見なれぬ一隻の船を発見したのであった。アムンゼンの乗船であることは、すぐとわかった。さらによく見ると、氷礁上にも、なにか設営物が見えるではないか。まもなくアムンゼン自身もまじえて交歓がおこなわれたが、すでにこちらでも、発進準備は着々として進められていた。同様に来夏を待って決行という話は、一面には多少の安堵感をあたえてくれたにもせよ、他方では、それぞれ祖国の名誉を賭けた先陣争いが、すでに運命的に決定されたといってもよい。
第二は、極地到達にスコットのもっとも力とたのんだシベリア馬が、極地の風土にあまりにも弱いことを証明したことであった。基地設営の労働だけで、相次いでたおれて行き、越冬のときには、すでに本国を出た十八頭中、九頭までは死ぬか、廃馬になってしまっていた。彼の計画にとって、第一の大きな誤算、そして蹉跌であった。
冬籠りの四カ月については省略する。もちろん無為の生活ではなかった。科学調査は、一日の休みもなくおこなわれていた。六月から七月にかけてなどは、僚友ウィルソンを隊長とする一隊が、非常な危険をあえてしてまで、ロス島南部への冬季科学調査旅行を強行していた。だが、長い冬もようやく八月になると、基地の空気は、自然と春への期待に燃えはじめた。
八月二十五日には、待ちに待たれた太陽が、チラリとその上縁を水平線上にのぞかせた。激しい吹雪のせいであろうか、暦の予定よりも、二日おくれた。極地の春は、まるで「陽光の突撃」であった。基地の空気は、にわかに色めきたった。科学調査班も、もちろんそれぞれの計画に移ったが、なんといっても最大の懸案は、目ざす極心への突進であった。が、ここでもまた出発直前に思わぬ故障で暇どって、むしろ幾分かの焦慮のうちに、やっとスコット以下八名の本隊が、荒涼とした雪原のはてに姿を消していったのは、十月も暮れて、ようやく十一月一日だった。
エヴァンズ基地から極心まで、ざっと見積って一五〇〇キロ、行程は、はっきり三つの部分にわかれていた。第一行程は、エヴァンズ基地からビアドモア氷河に達するまで、すべて氷礁上の行進であった。第二行程は、ビアドモア氷河の登攀、距離こそ短いが、おそらく最大の困難が予想されるものであった。第三の最後の行程は、氷河を越して極心まで、これはただ白皚々《はくがいがい》たる高原地帯の行進だった。
が、彼らの一行は、ふたたび最初から大きな誤算にぶつかってしまった。一つは、出発後まもなく、モーター・ソリが二台とも、故障して動かなくなってしまったことだった。しかも検査の結果は、修理不可能と判明した。すくなくとも第一の行程において、人間と動物の労力負担を軽くするため、スコットは、最初からモーター・ソリに大きな期待をかけていたのである。それだけに、この蹉跌は、致命的な違算といってよかった。そして予定外の負担は、当然人間にかかってきた。
第二は、前にも述べた、シベリア馬が意外にも弱かったことだった。もともと馬は、途中まで荷を運ばせた上で、途々殺して食用にする、いわば自ら動く糧食のつもりもあったのだが、それにしてはあまりにも弱すぎた。出発後一カ月、十二月二日には、いまだ氷河にも達しない前に、すでに最後の馬を射ち殺さなければならなかった。皮肉にも、人力への負担は、またしてもくわわった。
それやこれやで、氷礁上の前進は意外に暇どり、いよいよビアドモア氷河の難関にむかって進発したのは、十二月十日だった。四人曳行のソリ三台、犬ソリ二台、それが彼らの一行だった。ビアドモア氷河は、南緯八十四度から八十五度にわたる地点で、急に東北から西南にむかって落下している世界最大の氷河である。この最悪の難路を、いまや彼らは、人がソリを曳いて登らなければならなかった。ときどきスキーのきかぬ時は、それを脱いで、かえって荷物にして登らねばならなかった。しかもその間には、途々帰途のための食糧貯蔵所をつくりながら進むのであり、やっと氷河を登りつめ、高原地帯の入口に第三氷河貯蔵所を設けたのは、もうその年も暮れかかるクリスマスのころだった。
いよいよ残されたのは、最後の行程、高原地帯の前進であった。すでにその前から、食糧運搬と前進基地設営のために同行していた、一部隊員の後方帰還がはじまっていた。十二月十一日には犬ソリ隊が、二十二日には第一次帰還隊が、それぞれ北に向って袂を分っていった。だが、残る二隊の八人は、これはもうクリスマスも新年もなかった。一日二十四時間、日の出もなければ、日の入りもない、ただ頭上を大きく回転するだけの南極真夏の太陽を仰いで、白銀高原の前進がつづけられていた。明けて新年には、「三度貯蔵所」という名で知られている第八基地を設けた。そして一月三日には、ついに八十七度三十二分、海抜三〇〇〇メートルを越える南極高原にたった。
いよいよ最後の突撃に対する準備を整えなければならなかった。それにはまず最後の突撃隊だけを残して、残りの隊員は、すべてここから後退させることだった。一月四日には、ついにその最後の別れの時がきた。そして最後の突撃隊は、スコット以下、彼の親友として、「ディスカヴァリ号」の探検にも行をともにした科学班長の動物学者エドワード・ウィルソン、海軍少佐ヘンリ・バワーズ、陸軍大尉ロレンス・オーツ、水兵のエヴァンズの五人と発表された。副隊長ともいうべきエヴァンズ少佐以下三名は、すべて基地に帰還することになった。
四日の朝は、美しく明けた。天候快晴、気温は零下十六度から十七度をしめしていた。南緯八十七度三十二分、目的地極心まで、あますところは、わずかに二四〇キロ余にすぎない。準備の都合で、出発はややおくれた。が、やがてオーツとエヴァンズ、ウィルソンとスコットという二組が、前後に並んで、スキー穿きでソリを曳く。そしてその中間に挾まって、徒歩で進むのが、バワーズだった。ソリは軽く氷上を滑りはじめた。袂をわかつエヴァンズ少佐たちも、前途を気づかったものか、九キロばかりは、そのまま同行をつづけた。万事は意外なほどに快調だった。いよいよ最後に、彼らは成功を祈って、かたく手を握り合った。それから三度歓声を唱えあうと、もう一度しっかり手を握った。
南進のソリは、静かに滑りはじめた。みるみる互いの距離はへだたって行き、ふりかえると、満目ただ白一色の雪原の中に、いつまでも立ちつくす三人の人影は、刻一刻と小さくなってゆき、やがてそれもなだらかな稜線のかげに見失われてしまった。
これが、人々の目撃したスコット大佐の最後の姿だった。われわれもまた、しばらく彼ら五人の運命を、運命の手にゆだねておくより仕方がない。なぜならば、この最後の訣別があった一月四日以後の消息は、すべて一年ばかりものち、十一月十二日にいたって、やっと人々の前に明らかにされたものだったからである。それまでは、基地に残った隊員たちにとって、スコット以下五人の運命は、完全に消息を絶ったという不安の一語に尽きていた。
いま少し詳しくいえば、途中スコットと別れて後退した各部隊は、ほぼ二月の終りまでには、すべて本部基地に到着した。したがって、最初のうちは、スコットの安危についても、それほど心配はしていなかった。だが、秋も深い三月末になっても、何一つ消息が聞かれないというにおよんで、ようやく基地の不安は高まってきた。四月に入ると、やがてもう二度目の冬の到来だ。四月二十三日には、ふたたび最後の太陽が、地平線下に没し去った。帰らない五人の人々の上に、なにか最悪の運命が訪れたらしいことは、もはや疑いたくも疑えない確実な事実になってきた。
ふたたび長い冬営生活がはじまった。が、前の年にひきかえ、たとえようのない不安の中に送る半年は、基地の人たちにとって、どんなに長いものだったろう。だが、それも八月になると、ふたたび春はめぐって来た。まずなすべきことは、捜索だった。だが、捜索と一口にいっても、そこらの迷子探しとは、話がちがう。ソリの準備から食糧の手配にいたるまで、捜索隊の出動そのものが、どうして大仕事だった。それでもなんとか八人から成る捜索隊が、いよいよ基地をあとにしたのは、十月も末、二十八日のことであった。
彼らは、南進すること約半月、十一月十二日の正午近くだった。例の「一トン貯蔵所」から二〇キロばかり進んだあたり、捜索隊の走路から一キロばかり西にはずれた氷原の中に、半ば雪の吹きだまりに埋ったテントが一張、そしてそのすぐそばには、明らかにスキーの杖とおぼしいものが二組、竹竿かと思えるものが一本、雪の上に頭を出して立っているのが見えた。
はじめは、むしろ半信半疑で雪をかきのけてみた捜索隊員の眼に、まず最初に映ったものは、テントの緑色をした換気窓の垂れだった。ついでその下から、入口も発見された。二重テントの中は、真暗でなにも見えなかったが、やがてテント全体を掘り出してみると、すでに予期していたこととはいえ、果して変り果てた三人の悲しい姿が、明るみへ出された。
三人とも寝袋に入ったまま、隊長スコットを中央に、その左にはウィルソンが、入口の方に頭を向け、そしてまた右側にはバワーズが、これは逆に入口の方を足にして、横たわっていた。しかもスコットの左手は、まるで一生の盟友ウィルソンを、最後まで掻き抱くかのように、静かにその胸にかけたままの姿勢で、こときれていた。
テントのなかは、きれいに整頓されていた。寝袋の頭のほう、下敷きとの間には、彼がいつも日記帳を入れていた緑色の袋があった。袋のなかからは、はたして褐色の日記帳と、そしてまた下敷きの上には、数通の手紙が発見された。これもスコットの傍には、空罐でつくったランプが一つと、毛皮靴をほぐしとった灯芯とが、そのままになっていたが、おそらく最後まで残っていたメチルアルコールを燃して、わずかに明りをとっていたらしい形跡さえ、アリアリとそこに見えるのだった。刻々に迫る死を前にして、なお最後まで彼は、このかすかな光をたよりに、貴重な手記を綴りつづけていたものと見える。持ち物もほとんどそのまま発見されたばかりか、出発に際して、隊員の一人から借りて行った一冊の書物さえ、彼はちゃんと最後の地点まで運んでいるのだった。
さらに雪の下を掘ってゆくと、竹竿の下からは、ソリも掘り出された。ソリの上には、スキー、スキー杖、曳綱、気象日誌、さらに驚くべきことは、重量十四キロ以上に達する、もっとも貴重な地質学採集標本まで、何ひとつ失うことなしに、ここまで持ち帰っていたことであった。
あとは悲しい埋葬の仕事だった。三つの遺骸はそのままの位置で、上からテントの幕布で覆うようにし、その上に大きな雪塚を築いた。雪塚ができると、その頂にスキーでつくった急造の十字架をたてた。またかたわらの帆柱の竿には、五人の英雄的な死を記念する言葉を刻んだ標識を残した。悲しみの言葉は、「神与え、神取り給う。神の名は頌《ほ》むべきかな」という聖句で結ばれた。そして捜索隊全員の署名が終ったころには、もう真夜中をすぎていた。太陽は、低く空にかかり、氷礁は大地をおおう影の中に沈み、ただ大空だけが、つぎつぎと流れる虹色の雲の中に燃えるようにかがやいていた。そして金色の輝きを背景に、新しい雪塚と十字架とが、くろぐろとそそり立っているのが見えた。
スコット、四十三歳。ウィルソン、三十九歳。水兵エヴァンズ、三十七歳。オーツ、三十二歳。バワーズ、二十八歳。水兵エヴァンズとオーツ大尉の遺骸は、スコットの日記の記載をたよりに、さらに捜索がつづけられたが、ついに発見されなかった。やむをえずただそれらしい地点に、これも記念の雪塚と十字架と、そしてまた同じ標識を残して引き返した。
われわれは、スコットの運命について語り終えた。ただ残るところは、あの一月四日の訣別以後、ついに消息を絶って死にいたるまで、スコットとその隊員たちの死の行進は、どうであったか、ただその一点につきるだろう。だが、はからずもその消息は、最後のテントから発見されたスコット、ウィルソン、バワーズらの日記によって、ほとんど手に取るように明らかになったのであった。それは、ほとんど想像されうる限りの悪条件の中で、いかに彼らが美しい友愛をもって、またいかに英雄的な行動をもって終始したか、おそらく人類の筆になったもっとも美しいものの一つであろう。
一月四日、エヴァンズ少佐らと最後の別れをして以来、最初の十日ほどは天候にも恵まれ、毎日意外なほど快適な高原の行進がつづいた。彼らの日記は語っている。
「午後風なぎ、今夜はまったく静穏。日は温かく、気温こそ低いが、外に出ていると、この上もなく快い」(スコット)
「テントの外へ出て、陽光を浴びて立っていると、快い気持。こんな静かな時間は、高原地帯へ来てはじめてなり」(バワーズ)
「豊かな陽光、重い雪面、虹色の雲――一日中温暖。仕事気持よくできる。ただスキーの杖の紐を握る手の冷たさ」(ウィルソン)
一月九日には、ついにかつてシャクルトンが引き返した八十八度二十三分の線を完全にこえた。今や一歩一歩は、文字通り人跡未踏の処女地、処女雪だった。一月十日には、極心から一度半という地点に、最後の前進基地を設けた。それから高原は、いよいよ最後の緩かな下りにかかったのだが、その頃から雪面は、にわかに悪化し、おまけに寒気さえとみにくわわって、とりわけエヴァンズに、いちじるしい疲労があらわれはじめた。
そして一月十五日の夜のスコットの日記には、突如として、まるで悪夢のように、「九日分の食糧をもって一度半貯蔵所を出た。だから極心到達は確実だが、もしただ一つ、おそるべき可能が考えられるとすれば、それはわれわれに先んじて翻っているかもしれないノルウェイ国旗である」という、意外の一句に逢着するのである。この唐突さ! なにがこの日にいたって突然、彼に競争敵アムンゼンのことを思い出させたのであろうか。厳密にいえば永久の謎である。
昨秋来アムンゼンが、鯨湾にあって、虎視眈々、先陣の機会を狙っていることは、スコットも知っていた。上にも述べたとおりである。今日の無線通信、航空機時代なら知らぬこと、当時にあっては、わずか五〇〇キロをへだてる両者の行動については、たがいになんの消息も届かなかったはずである。
いわばおたがいまったく見えない敵を相手に、必死の功名を賭けていたのだった。ほぼ時を同じゅうして、アムンゼンもまた行動を起しているだろうくらいのことは、もちろんスコットといえどもじゅうぶん想像していたに相違ない。だが、むしろ不思議なまでに、そのことはこれまでまったく日記にあらわれていなかったのが、突然この日にいたって、不吉な予想として彼を脅かしたのも、運命といえば運命といえようか。日もあるに、すでに翌日には、予感は完全に現実になったのである。
運命の日、一九一二年一月十六日については、ふたたびここにくりかえすにたえぬ。その日のスコットの日記を引用するだけでじゅうぶんであろう。
「おそろしい失望。忠実なる隊員諸君には、心からすまぬと思う。万感こもごもいたり、いろいろと議論もつくしたが、けっきょく明日は極心まで行くつもり。あとは全速力で帰還。すべての夢は終った。帰路の倦怠が思われる」
翌十七日には、予定通り極心に到着。さらに天測によって、厳密な極点の位置を確認、ユニオン・ジャックを空高くひるがえしたのは、十八日もすでに正午近くであった。だが、その宿望達成の喜びよりも、おそらくは何十倍の強さで彼らの胸をうったのは、ちょうど極点から三キロばかりの地点に、これはもはや疑う余地もなく残された、生々しい幕営の跡であった。小形のテントさえそのままに残され、その支柱の頂には、ノルウェイ国旗と、乗船フラム号の白旗が、へんぽんとひるがえっていた。テントのなかには、寝袋、靴下、上着、機械類などのほかに、五人の隊員名、さらにノルウェイ国王あてのアムンゼンの手紙、しかも最後のものは、皮肉にもスコットにその伝達方を依頼したものであった(彼は、まだスコットが、ビアドモア氷河で悪闘中の十二月十四日、一番乗りに成功していたのであった)。
「おお、神よ、ここはただ恐怖の場所なり。この甚だしい労苦の後、一番乗りの名誉さえ報いられず、おそろしき極みなり。……いまは野心のゴールをあとに、ふたたび一三〇〇キロの曳行をなさざるべからず――さらば白日夢のすべてよ!」(スコット、一月十七日、十八日)
十二月十四日と一月十七日――だが、わずかに一カ月の先後、と簡単に片付けることはできない。永劫の時のなかに、一カ月といえば、ほとんど一瞬間にすら値しないかもしれない。だが、よし一日にせよ、一時間にせよ、いや、たとえ一瞬間の先後にせよ、二着はあくまで二着であり、人類探検の歴史にあって、一着と二着とは、決してただ一番の違いではない。いっさいか、しからずんば無か、の賭けなのである。ありとあらゆる勝利の栄光は、先着者の頭上に飾られるのに反して、後着者に弁解はゆるされない。いっさいの努力も忍耐も、すべては水泡に帰するのである。劫初以来頑として人間の接近を拒みつづけていた極地の秘密が、わずか一カ月という束の間を挾んで、二度までもその神秘の帷をかかげられたというのも、運命の皮肉だが、スコットにしてみれば、正直な話、一番乗りという名誉の約束だけが、この探検隊計画に多額の資金をあつめてくれたのだった。それを思うと「さらば白日夢のすべてよ!」この日のスコットの心事は察しられよう。
倦怠の帰路がはじまった。くわえるに、しばらく前から、オーツ、エヴァンズ、バワーズの三人が禁物の凍傷に悩みはじめていた。前途の困難は最初から予想された。もっとも、南風さえ吹けば、ソリに帆をかけての、雪上帆走という楽しい行進の日もあった。最初の数日間は、思いの外に順調であった。だが、そのころから、ようやくエヴァンズの衰弱がはなはだしくなり、悪性の凍傷さえくわわった。つぎにはオーツがいけなかった。天候さえも悪化して、目もあけられぬ猛吹雪がつづくようになった。スコットの日記にも、
「脹れ上ったオーツの足先、蒼黒くなる」「エヴァンズの指の爪、ことごとく剥がれ、痛みはなはだし」「オーツの足黒くなり、鼻と頬、ともに黄色に死んでいる」「エヴァンズの指、膿みつぶれ、醜くコチコチになる」「エヴァンズの手、とみに悪化。さらに気力銷沈、怏々《おうおう》として楽しまず」「隊員の健康状態好転せず。特にエヴァンズは倦怠、気力まったくなし」等々といった記事が、毎日のごとく出るようになる。
だが、それでもやっと二月のはじめには、氷河の頂上まで辿り着き、いよいよ氷河下降の難路がはじまった。ウィルソン、バワーズにも、故障がおこり出した。が、もちろん一番の問題は、エヴァンズであった。二月十六日には、もうソリに従ってくる気力も失った。「頭やや異常の様子。まるで別人のごとし。今日など、なにかと口実をつくっては、足を休める」(スコット)。そして翌十七日には、ついに彼にとって最後の日が来た。
いつものようにソリを引いて出発したが、靴が脱げたと訴えて、いくどか落伍した。そのたびに僚友たちはとって返して、気力をつけてやっていたが、午後にはあきらかに乱心の兆候をしめして、譫言を発しはじめた。なんとかやっとテントに収容だけはできたが、そのときはすでに完全な昏睡状態に落ちていた。そしてそのまま夜おそく、三十七年の生涯を閉じた。
翌々十九日には、ついに氷河を降りつくして、ふたたび氷礁に出た。あと七〇〇キロだが、その間に四カ所まで食糧、油の貯蔵基地がある。僚友の一人を失った悲しみはあったにしても、心はおのずから帰還への期待に燃えていた。
だが、運命はついにどこまでも彼らに冷酷であった。氷礁の行進がはじまるころから、南極においてさえ異常的としか思えない荒天が、これまた珍しいほど毎日のようにつづきはじめた。温度も急激に下り、昼間零下三十四―五度、夜になると、零下四十度というような寒気が、来る日も来る日もつづいた。まだ三月というのに、ほとんど想像もつかぬほどの酷寒だった。オーツの凍傷が、不安を思わせるまでに悪化した。が、さらにいけなかったのは、燃料油の欠乏であった。
燃料油といえば、保温のためにも、栄養補給のためにも、ほとんど生命の親であった。あたかも運命の危機をでも予告するように、スコットの日記は、連日その欠乏を訴えている。
オーツの衰弱も、いよいよひどかった。
「オーツ、疲労の極」(三月五日)、「オーツの危機近きを、みな感じおれり」(七日)、「左足はもはや用をなさず。靴を穿くときの様子など悲惨なり」(八日)、「オーツの臨終迫れるを感ず」(十一日)。
そして運命の十五日が来た。死期を予感したらしい。みずからすすんで棄てられることを申しでた。それでもその夜は、なんとか眠ったが、翌朝早く眼をさますと、「ちょっと外へ出てくる」と一言、幽鬼のように立ちあがって、そのまま烈風吹きすさぶテントの外へ姿を消した。ついに誰もふたたび彼の姿を見ることはできなかった。
エヴァンズ、オーツの死を語ったわれわれは、いまやいよいよスコット以下三人の英雄的最期について、語らなければならぬ。
不幸はつねに単独ではこない。稀有な荒天、食糧、そして油の欠乏、凍傷の続発、もはや一日の行程はガタ落ちになっていた。三月に入ったころから、すでにスコットは、ある程度暗い運命を予感していたらしい。
「神よ、助け給え、もはや曳行をつづけえざること明らかなり。一同かぎりなく楽しげに振舞いおれど、心は察すべきなり」(三月三日)
「いまはただ、神よ、助け給えと祈るのみ」(五日)
「事態は悪化の一路のみ――もはや帰還しうるや疑わし。ほとんど希望尽く」(十日)
「もはや最期のちかきは必定。せめてその時の安らかならんことを」(十四日)
オーツの重態に陥った日には、ウィルソンとともに、真剣に自決の方法を語りあっている。
「一トン貯蔵所まで四五キロ。いよいよ悪化すれど、好転なしともいえず。人間の立ち向いうる風にあらず」(十八日)
二十一日には、ついに最後になったテントを張った。
「吹雪いよいよ猛烈、出発しえず。燃料皆無。食糧あとわずかに一、二回分。死期近し」(二十二日、二十三日)
空しく運命から見放された幕営はつづく。日記も、翌日からはプッツリと絶えて、二十九日、突如として最後の日記があらわれる。
「二十一日以来、烈風やむことなし。もはや好転の希望ありと思えず。衰弱甚だしく、最期も遠からずと思う」
日記は、これでいっさいが終っている。一トン貯蔵所を、目と鼻のさき、わずかに二〇キロの前にしてたおれたのであった。テントのなかから発見されたものには、日記のほかに、母や妻や、盟友ウィルソンの妻、バワーズの母などにあてた十三通の手紙のほか、「社会に訴える」と題する、佐久間艇長の遺書にも比すべき、冷静、周到な遭難事情とその原因についての報告書があった。
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聖者と悪魔
――大審問官トマース・デ・トルケマーダ――
一四七四年、カスティリアの女王イサベルとアラゴン王フェルナンド五世との結婚は、ほとんど三世紀余にわたって戦禍と抗争の荒廃に帰していたスペインに、はじめて国民的統一の希望をあたえた。フェルナンド支配下のアラゴン、シシリー、サルディニア、ナポリ、おなじくイサベル治下のカスティリア、レオン――それらをあわせて、統一スペイン王国は成立したものの、彼らの力は遠く八世紀以来の異教徒サラセン人の支配をやっと駆逐しえたのがせいぜいで、国内はまだ混沌と無政府と下剋上とが事実上の支配者であった。「法はゆるみ、都市でも強盗追剥は天下御免だったし、金を借りて、かえす所存の人間は、ひとりもいなかった。犯罪は犯し放題だし、服従心などというものは完全に地をはらっていた。なにしろ戦争つづきで、治安は、混乱のほうがむしろ常態だったので、人を斬ったり、殴ったりできないような人間は、碌でなしとされた」というのが、編年史家エルナンド・デル・プルガールの記録している当年の世相であった。
フェルナンドとの結婚がなったとき、イサベルは、まだわずかに二十三歳の少女あがりにすぎなかった。だが、新誕生の王国は、白皙、美貌、聡明な魅力に溢れたこの年少女王のなかに、ここ何世紀かついに求めてえられなかった卓抜な指導者的性格を見いだしていたのだった。彼女のもっとも特異的な性格は、文字通り喜怒を色にあらわさない、そして、あらゆる感情を偽りうるという自己抑制にあったといわれる。他人の言を聴くことには寛容であったが、決定はほとんどすべて、彼女ひとりの果断にあった。さらに、いまひとつの特徴は、その敬虔なカトリック教信仰と、清教徒的なまでに激しい道徳的潔癖さであった。みずからにたいして峻厳であったように、他人にたいしてもおなじことを求めた。夫フェルナンドにたいするほとんど嫉妬にちかい愛情の濃《こま》やかさは、今日まで佳話として伝えられるところであるが、同時に、たとえ冗談にもせよ、夫の好意ある視線が注がれたような女性は、きまってまもなく彼女によって宮廷から遠ざけられた。
即位二年後には、混乱に乗じて半島支配をうかがうポルトガルを撃破し、早くも王位を百年の安きに置いた。ついで彼女が手をつけたのは、国家財政の粛正であった。昨日の混沌は、今日の秩序とかわった。まもなくその余力を投じて、コロンブスの新世界航海を後援することにより、近世史の黎明にその不朽の名を刻んだ進取開明のこの女王も、だが、その反面にはまた、ユダヤ人迫害の名において、その後長く十九世紀の中葉までつづくスペイン暗黒史の、もっとも強力な庇護者だったのである。そしてこの暗黒の歴史のなかに、女王の名とともに鮮かに浮び出るのが、トマース・デ・トルケマーダその人であった。
一四九〇年、春ももうおそいある日であった。北スペイン、アストルガと呼ぶ村のわびしい旅宿に、ふらりと投宿した六十がらみの男がいた。ベニト・ガルシアと名のり、職は、旅から旅を渡り歩く羊毛|梳《す》きだといった。
ところが、その晩、宿の酒場で、土地の連中たちという数人の男と酒を飲みかわしているうちに、酒のうえのいたずらか、それとも盗みを業とするいかがわしい連中であったものか、とにかく彼らはひそかにこの男の雑嚢をかきまわしたのであった。もとより金目のものなどは出なかったが、たまたま見つけたのが、小さな薬草の包みと、物もあろうにミサに使用する|聖※[#「食+孛」、unicode9911]《ウエフアーズ》(パン種を入れずに焼いたパンのようなもの)であった。聖※[#「食+孛」、unicode9911]といえば、かりにも俗人などに手のふれうるはずがない、神聖な品物。ましてそれが、こんな薄汚い老人の雑嚢から出たとあっては、尋常のことでない。聖物泥棒! という叫びとともに、たちまち宿屋中は、蜂の巣をつっついたような騒ぎになった。他人の荷物をこっそりあけたことなどは棚にあげて、彼等は、六十男に襲いかかった。蹴るやら、打つやら、殴るやら、とどのつまりは寄って集《たか》って頸に繩をかけ、アストルガ村の司教代理の前に、彼を引き立てていったのは、それからまもなくであった。
身柄は、取りあえずアビラの牢獄に送られて、異端審問《インクイジシヨン》の手に渡された。
最初は頑として口を割らなかったが、鞭打ち、水責めの拷問をくりかえされるうちに、ついに苦痛にたえかねてか、ポツリポツリと自供をはじめたのである。ところが、審問官自身も、はじめはむしろ単純な聖物窃盗くらいに考えていたのだが、それがヒョウタンから駒が出るとでもいうか、調べているうちに、これはまたもっとも暗い異端審問史のなかにあって、今日なお幾多の謎を残しているもっとも暗い神秘の事件、いわゆる「聖幼児《サント・ニーニヨ》」の伝説にまで発展したのであった。
ベニト・ガルシアと名乗る羊毛梳きを洗ってみると、改宗ユダヤ人であることがわかった。四十年ばかり前、ユダヤ人迫害にたえかねて、一応父祖伝来のユダヤ教を棄てて、キリスト教に「ころんだ」のだが、五年ほど前から非を悔いて、ひそかにユダヤ教にもどっていたばかりか、キリスト教にたいして、はっきり積極的に侮辱と敵意をいだいていることがわかった。ただ表面だけは迫害をおそれて、さりげなくキリスト教徒を装っているにすぎなかったのだ。
訊問の目標は、まず何者が彼の再度の「ころび」を使嗾《しそう》したか、その一点にむけられた。流石にこれには容易に口を割らなかったが、またしても拷問とスパイと秘密監視と誘惑と、あの手この手の糾問が、ついに彼の口をひらかせたのだった。
まずホセ・フランコという二十歳の靴屋と、八十歳になるその父サ・フランコ、兄モーゼ・フランコという三人家族と、ファン・デ・オカーニャと呼ぶ男の名前があらわれて、ただちに捕えられた。ついでこれも芋蔓式に、ラグァルディアの別のフランコ兄弟――上からアロンゾ、ローぺ、ガルシア、ファンと呼ぶ粉屋兼運送業の兄弟、およびほかに一名の男とがあげられた。
ここまではよかったのだが、たまたま挙げられた上記のホセ・フランコが、たまたま獄中で病をえて、瀕死の重態におちいった。淋しさのあまり、せめて末期の祈りをともにしたいというので、ユダヤ人をひとり呼び入れてもらいたいと申しでた。奇貨おくべしとなした審問官は、さっそくユダヤ語を巧みに操るドミニコ派修道士エンリケスなるものを、ユダヤ人に変装させ、スパイとしてホセのもとに送ったのである。名はアブラハム。ユダヤ立法学士《ラビ》と称して、言葉巧みにホセにちかづいた。病気からくる気力の衰えもあったのであろうが、親切な慰めの祈りと言葉とに、あたかも藁にでも取りすがるような気持だったのだろう、われにもなく心を許してしまったらしい。そして一日、なに食わぬ顔の彼の質問にたいして、うかつにもある少年を殺して、その容疑で捕っているのだという意外な事実をつげた。
情報は、もちろん時を移さず審問官に伝えられた。審問官自身にとっても、思いもかけぬ新事実であった。事件の重大さに驚いた彼は、さっそく大審問官トルケマーダの指揮をあおぐとともに、容疑者たちは、取りあえずセゴビアの牢獄に移され、ここであらためて新しい糾問がはじまったのである。
この事件、前にも述べたように、その後長く正確な資料というべきものはなにもなく、ために、いろいろと利用する宗教宣伝の意図もあって、真偽取り混ぜ、張扇《はりおうぎ》めいた尾ヒレまでついて、多分に殉教聖徒奇蹟物語に仕立てられていたのだが、ようやく十九世紀も末になって、上記ホセ・フランコの裁判記録だけが、そのまま完全に発見されて公刊を見た。もちろん他の共犯者たちの調書が、まだ一通も出ていない今日、正確な全体的真実があきらかになったとはとうていいえないが、幾多の疑点はなお残しながらも、とにかくある程度の客観的裏付けだけはもって、事件の輪郭もほぼ跡づけられるようになったといってよい。
以下、それによって事件の大要を述べてみると、容疑者たちは、ふたたびアビラの牢獄に移され、裁判はその年の十二月から翌年十一月にわたり、その間、後でも述べるが、異端審問特有のあらゆる特高的スパイ方式と拷問とによっておこなわれたものだが、その結果、彼らから引きだしえたものは、個人によって多少供述の矛盾はあるにしても、ほぼつぎのような事実だったらしい。
まず第一に、彼らはいずれも改宗ユダヤ人であった。しかも改宗後も、心は依然としてユダヤ教の信仰を棄て切ることができず、むしろひそかに再改宗の機をうかがっていた連中であり、またその共通のノスタルジアが、自然彼らを一つの陰謀に結びつけたといってもよかった。
そもそも陰謀が、何人によって最初発議されたかは、ついにはっきりしない(前述の通り、今日発見されている調書は、ホセ・フランコのものだけであり、また裁判当時すでに重要人物と目さるべきホセの兄モーゼ・フランコや医師ホセ・タサールテのごとき人物が、すでに故人になってしまっていたからである)。だが、そもそも陰謀の動機というのが、彼らがもし再改宗の場合、当然予想される残酷きわまる異端迫害にたいして、それが防止のための呪符になるという、今日からみれば、実に野蛮とも蒙昧とも形容のできぬある迷信に基づくものだったことだけはたしかであった。すなわち、おそらく発議者は、医師のホセ・タサールテだったろうと思われるが、ミサ用の|聖※[#「食+孛」、unicode9911]《ウエフアーズ》にキリスト教信徒男児の心臓をあわせて、これにある種の呪術をかけると、「もはや異端審問官の力も、なんら彼らの身体に危害をおよぼすことができない。もし強いてくわえようとすれば、かえって審問官自身のほうが気が狂って、かならず一年以内に死んでしまう」という、驚くべき俗間迷信に基づいたものであった(これも張扇式伝説によると、聖※[#「食+孛」、unicode9911]と心臓とをいっしょに焼いて、呪文を唱えながら、粉にして河水にまいておくと、審問官たちが、それを飲んで、発狂して死ぬというのだが、もちろん眉唾物であることはいうまでもない)。
それはとにかく、謀議はいよいよ実行ということにきまった。三年ばかり前の、復活祭にちかいある日であった。ホセ・フランコの兄モーゼが、キンタナールという近所の村から、四つばかりになる可愛い男の子を一人、驢馬に乗せて連れてきた(もちろんこれもホセ・フランコによる自供だが、別にフランコ四人兄弟の一人、ファンがのちに自白したところによると、子供を連れて来たのはファン自身でありそれもトレドの町から連れてきたことになっている。が、こうした細部のことになると、以下も同じだが、正確なことはとうていわからない)。
聖※[#「食+孛」、unicode9911]の方は、一味の医師タサールテが、事件発覚のキッカケをつくった例のベニト・ガルシア、これに頼んで、すでにあらかじめ手に入れていた。ベニトは、ラグァルディア村の教会から、鍵を手に入れて盗み出してきたのだという。
用意は整った。ホセ・フランコ父子三人、粉屋のフランコ兄弟四人、医師のホセ・タサールテ、ベニト・ガルシア、ファン・デ・オカーニャ、それにいまひとり、ダビード・ペレホンと呼ぶ合計十一人の男が、その夜の深更、件《くだん》の男児を連れてひそかに集まったのは、ラグァルディア村(トレドの西すぐ近くにある)から西北へ、これもドスバリオスと呼ぶ小さな村へ通じる街道の途中、ちょっと右側へ入ったあたりの洞穴であった。
ここで彼らは、奇怪きわまる呪術を修しようというのであった。裸ローソクをともし、洞穴の入口には、火のもれぬよう、めいめいの上衣をつるした。そして奇怪な模擬磔刑が、おもむろにはじめられたのである。まず子供を裸にして、めいめい悪罵を浴せながら鞭打った。鞭打ちがすむと、おどけた茨の冠を頭にかぶせて、磔刑にかかった。いうまでもなく、古来ユダヤ人たちがしばしばその憎むべき犯行として疑われてきた小児磔刑――キリスト教にたいする彼らの憎悪と侮辱とをこめておこなわれる、キリスト磔刑の道化化であったのだ。
十字架は、有り合せの木片二本を直角に打ちつけたものにすぎない。それに彼らは、すでに鞭打ちによって気をうしなっている裸の子供を縛りつけた(これも別の供述は、十字架上のキリストそのままに、手足を釘づけにしたともいう)。激しい苦痛に思わず意識をとり戻して叫ぶのを、猿グツワをはめて黙らせた。あとはホセ・フランコの供述をそのままに借りると、
「アロンゾ・フランコが、子供の腕の静脈を剖《さ》いて、半時間ばかりも出血するままにしておいた。やがてファン・フランコが、曲った刀を抜いて、脇腹を切り裂くと、ガルシア・フランコが、傍から手伝って心臓を取りだし、塩をいっぱいふりかけた。……子供が絶命すると、彼らは死体を取り下し、ファン・フランコが両腕、そしてガルシア・フランコが両脚を、それぞれ持って、洞穴の外へ担いでいった。私(ホセ・フランコ)は、そのままどこへ持っていったかみなかったが、やがて担いでいった二人が、医者のタサールテに、そばの河の峡間に埋めてきたと話しているのを聞いた。問題の心臓は、翌朝までアロンゾ・フランコが持っていたが、朝になって、聖※[#「食+孛」、unicode9911]と一緒にタサールテに渡した」というのである。
おおむね右のとおりであったらしい。もちろんこのとおりの人間が、このとおりの役を演じたかどうかの保証はない。たとえば、すこしでも注意してこの供述を読めば、犯行の直接下手人は、ほとんどすべて粉屋のフランコ四兄弟の責任になっており、ホセをはじめ、片方のフランコ父子は、完全に傍観者の脇役であったかのようにみえるが、もちろんこれは責任転嫁の疑いが濃い。
現にホセ以外の連中も、一人一人別に拷問による自白を強要されているが、それらによると、こんどはホセ・フランコが主役になって活動しているし、埋めた場所などは、むしろそれらの自供によるサンタ・マリア・デラ・ペーラに近い葡萄畑というほうが、どうやら正しいらしいのだ。
それはとにかく、心臓と聖※[#「食+孛」、unicode9911]を手にいれた医者のタサールテは、もちろん問題の呪術をおこなったらしい。だが、はたしてどのような効験があったか、残念ながらあきらかでない。すくなくとも一年以内という効験の期限内に、彼ら犯人たちのほうがまずあげられてしまったからである。
裁判一年で彼らの運命はきまった。一四九一年十一月十六日、異端審問の最後の場面は、アビラ市の広場を舞台にして上演された。聖ペテロ教会を前に、二つの仮設棧敷が高々と組まれていた。いっぽうには、審問官をはじめ審問官側の人々が居ならび、もういっぽうには、サン・ベニトと呼ばれる、恥辱と堕地獄のシンボルである黄色い陣羽織ようのものを着せられた八人の被告と、三つの等身大人形(モーゼ・フランコをはじめ、三人はすでに判決前に故人になっていたために、その形代《かたしろ》として、人形が焼かれることになったのだ)がならんでいる。火刑のことは、すでに数日前から公告されていた。アビラの町はもとより、近郊近在から集まった物見高い群衆は、棧敷をめぐって、文字通り広場いっぱいにあふれていた。
やがて書記役から、被告ひとりひとりの罪状があらためて読みあげられると、あとはいよいよ焚殺の宣告であった。宣告のあと、さらに型通りの訓戒があり、それもすむと、被告たちは、身辺をまもられながら、市外の刑場へと連れられていった。めいめいの火刑の模様は、これも偶然伝わっているが、たいていの被告たちが、最後の瞬間には恐怖に「ころんで」、ローマ教会の慰めをうけいれ、おかげで点火に先だって絞《くび》られるという恵みに浴しているが、ひとり最後まで背教を拒み、伝統の信仰に死んでいったのは、八十歳のサ・フランコ、およびその息子のホセ・フランコのふたりだけであった。彼らふたりは、弱い火にじりじりとあぶり殺され、しかも息の絶えるまもなく、その肉は赤熱したペンチ挾みで無慙に引き裂かれた。「彼らは、神の名も、処女マリアの名も呼ぶことを拒んだ。十字を切ることすらしなかった。彼らのために祈ってはならない。地獄に埋められる人間だからである」と目撃者の記録はしるしている。
ほぼ以上が、その後まもなくこうした事件にありがちで、数々の奇蹟伝説をうみ、その記憶のためにいくつかの聖堂まで捧げられている、名高い「聖幼児」伝説の起源であった。
ところで、筆者は長々と寄り道をしたが、もともとこの事件は、長い間一部の反カトリック史家やユダヤ人史家などによって、完全に一つの|デッチあげ《フレイム・アツプ》であると主張されていたものである。上にも述べたように、十九世紀末にいたって、はからずもホセ・フランコの裁判記録が世にでることになり、それによってデッチあげの疑いは、ほぼ解消したと見てよいが、なおそれでもまだこの事件の背景については、きまって暗い大きな名前が連想されて浮びでるのをどうしようもないのである。そして、そのデッチあげの容疑者、ユダヤ人迫害の歴史とともに永久に抹消することのできぬ名前が、大審問官トマース・デ・トルケマーダその人であった。
トルケマーダは、北スペインから出た屈指の名家の出身であった(Torquemada というこの名前、いかにもラテン語の動詞 torquo「ねじ曲げる」と、スペイン語の形容詞 quemado「焼けた、焦げた」との複合語を思わせるので、さてこそ拷問と火刑の象徴ともいうべき一生をおくったこの人物、まことに名は体をあらわすそのものズバリの仮名かとも一応うけとれるが、事実はけっしてそうでない。トルケマーダは、そのまま北スペインの地名なのである)。遠い祖先には、騎士の栄誉を授けられたものもいれば、わがトマースの伯父、ファン・デ・トルケマーダのごときは、最後は枢機官という顕要の地位にまで累進し、神学者としても、聖トマス以来の第一人者とまで称せられた。
一四二〇年バリアドリードにうまれたトマースもまた、この伯父の人生コースをそのまま追ったといってよい。神学、哲学の学位をとると、予定通り故郷の市のドミニコ派聖パウロ修道院というのに入り、厳修の誉れはたちまち高く、やがて衆望を担って、セゴビア市のサンタ・クルス修道院長に選ばれた。そしておそらくそれからまもなくであろうが、当時まだほんの少女にすぎなかった将来の女王イサベルの告解司祭にまでなっている。ついでイサベルの結婚とともに、彼はあらためて王、女王両者の告解司祭となり、その信任はいよいよ篤いものがあったらしい。
が、そのころからすでにトマースの心には、ほとんど一念発起ともいうべき深い異端ユダヤ人への憎悪がきざまれていた。彼にとっては、異端絶滅ということが、そのまま信仰であり、最高の献身であった。おそらく彼がイサベルの信任をえた最初からの念願のひとつは、すでにイタリアでは十三世紀初頭以来、法王インノケント三世によって強化され、しばしばフランス、スペインなどにも検問の手をのばしていた異端審問所《インクイジシヨン》を、スペインにおいても恒久的に開設しようということであった。彼は、機会あるごとに、女王に入説した。
女王がきわめて敬虔忠実なカトリック信徒であったことは、すでに述べた。トマースが彼女の深い信任をえた理由のひとつは、おそらく彼がけっして肉食せず、着衣にもベッドにも亜麻類はたえて用いず、また清貧の戒律のごときも、極端なまでに厳修したという、性格の生得的高潔さにあったのであろう。その意味で、異端根絶にたいする彼の熱意は、けっしてわからないわけでなかった。
だが、ひとたびひるがえって、地上的支配者としての政治的身分にたつと、彼女は、そうした猛烈、苛酷な手段を、けっして賢明な政策と考えることはできなかった。つまり、彼女は狂信者ではなかった。異端の絶滅はむろん望ましいにしても、もっと時間を藉《か》した、穏健な方法もありそうなものにというのが、彼女の正直の心であった。くわえるに、もし恒久的異端審問所が置かれるとなれば、それはスペイン全土に対する法王権の画期的伸長を意味するものでなければならぬ(たとえば異端として焚殺されれば、そのものの財産は、ことごとく法王庁に没収されてしまう。現に巨富を擁した異端ユダヤ人がおびただしかっただけに、このことは国家財政上の大きな頭痛であった)。信仰の女王イサベルも、一面はまた逞ましい現実主義者であり、あきらかに彼女の半分の本音は、信仰すらも政治的支配の方便として利用したいということであった。
そのせいであろう、重なるトマースの懇請にもかかわらず、女王は容易に許さなかった。だが、大義名分を楯にとっての要求には黙し難く、やっとイサベルも首を縦にふった。法王シクストス四世から審問所開設許可の教書をうけたのは、一四七八年十一月のことであった。だが、それでもまだ女王は躊躇して、現実に審問の実がはじまったのは、さらにそれから二年も後の一四八〇年九月からであったという。
トレド、バリアドリード、アビラ、セゴビアなどには、すでに以前から法王直属の審問官が駐在していたが、さらにあらたにセビリア、コルドバ、ハエン、ビリアシアールの四市に常設審問法廷が開かれ、いっぽうそれらの監督命令機関としては、一四八四年、異端審問|最高会議《スプレーマ》なるものがもうけられ、トマース・デ・トルケマーダは、当然その議長に任命された。これよりさき彼は、法王シクストスからカスティリア初代の大審問官《グラーン・インクイジドール》という任命をうけていたから、いままたそれに最高会議議長の権限をくわえて、すくなくとも異端審問のことに関するかぎりは、もちろん正確には法王からの受託によるものとはいえ、事実上スペイン全土にわたる一種の独裁者的権限を掌握しえたわけであった(最初は名目上カスティリアだけに限られていたが、まもなくその権限はアラゴンにもおよんだ)。
念願は達せられた。得意想うべしである。彼の場合、最大の強味は、いっさいの非人間的行為――拷問も、スパイも、焚殺も、それらがすべて神の名において、したがって、なんの良心的呵責もなく実行できるという点にあった。いかなる残虐も蛮行も、彼にとっては、すべて人類への慈悲から出る行為であった。人類を永遠の滅亡から救うために、ひとりの人間を焼くことは、直ちに何百、何千の魂を地獄の劫火からまもる最善の途でなければならぬ、というのが彼の論理と信念であった。そして「ひとりの罪ある人間がまぬかれてあるよりは、一個の無辜の魂が焼かれることは、なお忍ぶべし」という十六世紀の異端審問法注釈学者フランチェスコ・ペーニャの有名な金言を、そのまま文字どおり信念をもって実行したのが、トルケマーダであった。審問所開設の翌年、すなわち一四八一年中に、カスティリアだけでも、焚殺されたもの実に八千人(雨が降っても、日が照っても、毎日かならず二十何人かずつ焚き殺されていた勘定になる)、公衆の前に悔悛の苦行を強制されたものにいたっては、一万七千人に達している。もってその盛況が察しられよう。
イベリア半島に、いつごろユダヤ人があらわれたか、正確にはわからない。スペイン在住ユダヤ人の古い伝承では、ヤペテの子テュバルをもってスペインの建国者と伝えているが、もちろんこれは一片の神話であり、現実にはおそらくサラセン人によるエルサレム陥落の直後からだったろうといわれている。キリスト教徒とのいわば宿命的相互敵視は、もちろんそのころからかわりなかったが、それでもサラセン支配下の時代にあっては、同じ異教徒同士の共感からか、ときに小さな局地的迫害はまぬかれなかったにせよ、大勢からいって、むしろ例外的ともいうべき大幅の自由と繁栄とを享受していた。その後十三世紀中頃まで、サラセンの衰退と勢力交代の時期がきても、ほぼ情勢はかわらなかったといってよい。一時はトレドだけでも、一万二千人以上のユダヤ人が住んでいたという。
ところが、十三世紀中頃から転機がきた。罪はユダヤ人側にもあったといわれる。もっとも大きな原因は、ようやく人目につき出した彼らの奢侈、贅沢振りであった。商業、ことに東方との貿易が活発になるのとともに、けっきょく最後に懐を肥したのは、もっぱら金融業者としてのユダヤ人であった。彼らの生活は、単に奢侈というばかりでなく、王侯のような威容をさえつくろいはじめた。キリスト教市民たちの強い反感を刺激したのは当然であったといってよい。それにもうひとつ、これに付随して、反感の火勢を激しくあおったのは、上にも述べた小児磔刑という、根拠のほどはかならずしも正確でないが、とにかくユダヤ人一般にたいする根強い古くからの疑いであった。小児磔刑が、キリスト教への憎悪に原因する、いわゆる道化祭式の一種であることはすでに述べた。この種の疑いは古くからすでに風聞の程度では絶えなかったのだが、他方に反ユダヤ感情の素地ができあがるとともに、にわかに恰好の旗印として人の口にのぼりはじめた。それかあらぬか、十三世紀から十五世紀にかけて、スペイン全土にわたり、今日なお記録に残っている顕著なものだけでも、数件が数えられる。この種の風聞の常で、なかにはおそらくデッチあげもあったものと思える。だが、全体の形勢がすでに反ユダヤ感情に傾いてしまってからは、嘘まで真実になるのもやむをえない。十四世紀末から十五世紀初頭にかけては、国内をあげて完全に反ユダヤ暴動に化した。一三九一年セビリアで起った暴動だけでも、四千人のユダヤ人がたちまち血祭にあげられた。
暴動状態はやがておさまった。だが、ついできたものは、暴力にかわる法の弾圧であった。ユダヤ人は、これまで享受していた特権を、一つ一つ奪われて行った。居住は厳重に|ユダヤ人地区《ゲツトー》に限られ、自由な交通さえ禁じられ、職業の制限、|ユダヤ教会《シナゴーグ》の破毀、屈辱的標識の強制(たとえば髪を剃ることが許されず、長衣の肩に赤い布片をつけさせられるなど)、しかもそれを犯すものは、たちまち死をもって酬いられた。
ことここにいたっては、一つには生命の恐怖もあり、二つには直接生活の問題もあって、ユダヤ人たちにも、こころならずキリスト教に改宗するものが、ぞくぞくとしてあらわれた。「新キリスト教徒」、あるいは「ころび」の名をもって呼ばれたのが、それである。
面白いことに、「ころび」は、改宗とともに、本来のキリスト教徒と完全に対等の諸権利があたえられることになる。なかには高官にのぼるものさえ珍しくなかった。小康が来た。だが、そんなこともあって、弾圧の諸法規の励行が、いくらか弛んだとみると、こんどはまた別のあたらしい反ユダヤ感情があらわれたのであった。いう意味は、一度は改宗したユダヤ人たちも、こうしてとにかく平和な生活がかえってきてみると、そこは人情の常で、ふたたび父祖伝来の信仰、そしてまたその生活慣習がなつかしくなるのはやむをえなかった。郷愁であった。生活慣習の惰性でもあった。といって、表だった再改宗は、もちろん許されない道理、いきおい成りゆきは、表面はどこまでもキリスト教徒を装いながら、裏ではひそかにユダヤ教信仰を守りつづけるという、いわゆる「かくれ」ユダヤ教徒であった。それも少数の間は問題もなかったが、十五世紀末、イサベル即位のころには、ようやく世間的にも目に余るものが見えだして来た。
これが、ローマ教会内の狂信者たちの目にふれなかったら、そのほうが不思議である。トルケマーダよりも前に、すでにイサベルにたいして、強く異端審問所の設置を要望したものもいる。だが、彼女が、いろいろと政治的考慮から抑えていたことは、前にも述べたとおりである。だが、最後についに、おそるべき悪魔の聖者トルケマーダがあらわれた。かくして三百年にわたるスペイン暗黒史のページは書かれたのである。
トルケマーダは、けっして一介の感情的狂信者というだけではなかった。わたしたちが彼のなかにみるものは、驚くべき冷静、細緻な構成的知性と、これはまた焔のような狂信の激情との、まことに奇怪きわまる結びつきである。彼が異端審問|最高会議《スプレーマ》の議長に任命されて、まず最初に手がけたのは、いわゆる異端審問管理要綱、通常略して「要綱《インストルクテイオーネス》」と呼ばれるものの制定であった。一四八四年、それは最初の成文化を見た。二十八カ条からなる「要綱」は、その後一四八五年、八八年、九八年と、三たびにわたって追加された条項もあわせて、ここで詳細な紹介をしている暇のないのが残念だが、おそらくその範型になったと信じられる、十四世紀のニコラウス・エイメリックのつくる「審問要会《デイレクトーリウム》」とともに、異端審問の憲法であり、バイブルであろう。これはもはや、おそるべき明晰、透徹の頭脳と、悪魔のような人間洞察とがなければ、とうていできないほどの周到整然たるものであり、いわばこの憲法を基礎にして、今日からみても舌をまくばかりの特高的糾問の綱目が、もちろんトルケマーダだけの成果ではないかもしれぬが、とにかく長い伝統の下で、一点の隙もなくつくりあげられたのであった。
訊問心得帳ともいうべき、おそるべき悪意と詭弁にみちた人間心理の弱点洞察のなかから、ほんの一、二例を手あたり次第に拾ってみよう。
曰く、訊問はけっして明確すぎてはいけない。漠然としたほうがよろしい。あまりに正確だと、相手に答の仕方を教える惧れがあるからだ。それにいまひとつ、曖昧、漠然と訊いていると、相手の答が思いもかけぬ新事実を語ってくることがあるからだ。
曰く、容疑者の術策には、術策をもって応じるがよい。真実を知るためには、偽善も虚偽もない(そしてご丁寧にも、容疑者の常用する術策十種類をあげて、それに応じるそれぞれの術策を十種まで教えている)。
曰く、容疑者が頑として口を開かぬ決心とみえたときは、甘い、やさしい言葉をもって、おおむね次のように説くがよい。「君は実にいい人間で、欺されているのだ。本当に気の毒だと思う。君はたしかに誤っている。だが、もっと悪い奴は、君にそうしたことを教えた人間だ。だから他人の罪を、君が背負い込むのは馬鹿げている。ほんの端役にすぎない君が、わざわざ主役になるのはよしたまえ。私はみんな知っているのだ。なにもかも言ってしまいたまえ」
曰く、それでもまだ泥を吐かないときは、一応態度をやわらげてかかるがよい。そして御馳走などあたえるのも一法だろう。また誰か偉い人にでも頼んで容疑者を訪ねてもらい、白状するように、すすめてもらう。そして、白状さえすれば赦されるにきまっている、私もきっととりなし役になってあげるから、などと言ってもらうがよい。
曰く、共犯の一人か、または容疑者が心服している人間を一人買収して、たびたび容疑者を訪れさせること、これからきっと秘密がとれる。必要なら、自分もおなじ異端だったが、自分はみんな白状してしまったのだというふりくらいさせてもよい(もちろんスパイ政策だが、もっとも、そのあとで、「スパイが同類のようなふり[#「ふり」に傍点]をするまではよいが、はっきりとそう言葉に出してはいけない。それでは、すくなくとも自分も虚言の微罪を犯したことになるからだ」という条項などは、悪魔の良心じみてむしろ滑稽でさえある)。
おそらくはるかにもっと悪質なのは、しばしばもちいられた詭弁であろう。もっともいちじるしい例は、スペイン語の gratia(英語の grace)である。ラテン、スペイン、英語すべて共通だが、すくなくとも gratia には(一)完全な宥免、(二)刑の軽減、(三)神の恩寵、すなわち罪人が神によって救われる意、等々の意味がある。たとえば審問官が容疑者にむかって、自白さえすれば、gratia をあたえることを約束するとする。藁をもつかむ気持の容疑者は、もちろん第一の意味にとるであろう。だが、審問官の腹は、第二のそれにすぎない。刑の軽減という意味の gratia からいえば、さきに「聖幼児」伝説の焚殺にもみたように、薪に点火する一瞬前に、まず絞殺して生不動の苦痛をまぬかれさせてやるだけでも、立派に gratia なのである。詭弁のおかげで、彼らはなんら良心の呵責と神の前への責任を負うことなく、自由に、勝手に、gratia の空約束をあたえることもできたのであった。
限りがないからよすが、最後に拷問についてだけ一言述べておこう。拷問はおおむね三種類が常用されていた。
一番軽く、もっとも普及していたのは、いわゆる拷問台《ラツク》である。台のうえに寝かされて、手足をそれぞれ四隅から出た鎖に縛りつける。あとは機械仕掛けでこの鎖を引っ張ると、身体は四方に引き裂かれる恰好になるわけで、巧みに力を按排して自白を強要するわけである。
第二は、いわゆる|吊し上《カルツチヤ》げ、イタリア語でトラッタ・ディ・コルダと呼ぶものである。容疑者の両手首を後手に縛り、天井の滑車から垂れている綱に結えつける。あとはゆるゆる滑車仕掛けで吊しあげればいいのだが、たいてい爪先だちくらいのところで往生する。それでもいけなければ、いよいよ宙にうかして、その姿勢で訊問をくりかえすのだ。それでもいけなければ、最後の段階――高々と天井まで吊りあげておいて、二、三尺ドカリと落す。そしていきなりピタリと止める。たいていは、肩から腕にかけての関節がすべて、一度に脱臼してしまうのが常だが、そのまま宙で訊問をくりかえし、きかねば落下差を縮めたり伸したり、幾度でもくりかえすらしいのだった。数度やられればたいていは意識を失ってしまう。二、三日独房に抛りこんでおいて、恢復を待って、またくりかえす。
第三は、|梯子責め《エスカレーラ》、または|水責め《ボトロ》と呼ばれるものだが、これは少々手がこんでいる。梯子様の拷問台に、頭から足までまったく身動きもできぬように縛りつけ、わずかに頭のほうを低く、斜めにたてかける。そして一つは、上膊または大腿部、ときには胴のまわりを、ほとんど肉に食いこむばかりに麻紐でしばる。麻紐の下に棍棒をとおして、ちょうど止血でもするときのように、ねじまわすのである。終戦前、わが特高の拷問でもよくやった手だから、珍しくはないが、ひどい場合には、紐が筋肉、神経をさいて、骨まで達することさえある。おなじくいまひとつは、頭の下った姿勢で、無理に容疑者の口を開かせ、鉄棒をかませてふさがらないようにする。あとは開いた口の中に、咽喉の奥まで長い布片《トーカ》を押し込んで、この布片づたいに、すこしずつ根気よく水を注ぎ込むのだ。相手はたちまち窒息しかかる。そこは本能で、すこしでも空気をとおさんものと、必死になって水を嚥下しようと苦しむのだが、頭部は逆に低くなっているし、その苦しみ方は、ほとんど目もあてられぬということである。これを上記の棒でこじるのと、かわるがわる併用するわけだが、生かさず殺さず、もっとも残忍な方法であり、異端審問ではとりわけ愛用された方法であったという。
今日わたしたちは、トルケマーダの肖像を、いくつか知っている。が、それらをみて、むしろ意外さに驚くのは、彼の容貌が、まるで女のようなやさしさをさえおびていることであり、白法衣、黒マント――ドミニコ派修道士の制服を着けた彼の姿は、背こそ高いが、けっして偉丈夫などという柄でない。むしろ禁慾、苦行に痩せ衰え、肩のあたりを心もち猫背にさえして、むしろ貧相と評してもけっしてあたらなくはない。ただ流石に顔だけは、澄んだ眼、秀でた鼻、比類ない知性をおもわせるが、それすら顔の下半部にかけて、削《そ》げたように細くなった輪郭、心もち尖りめにしゃくれた顎、神経質そうにひそめた瞳、気高いまでにやさしい眉、そしてまた少女の含羞をさえ思わせそうな可愛らしい口許――どこまでも女性的な印象であるが、そこにこそ、あるいは世の多くの狂信者にみられる目的の純一さ、そしてその実現への直進という特徴的容貌をしめしているのではあるまいか。
一四八五年から、彼の命令下でおこなわれる異端火刑は、いよいよ熾烈さをくわえた。すでに七十歳にちかく、その神への献身は、悪魔の舌にも似た火刑柱の焔とともに、いよいよ白熱のような純粋さで燃えさかっていった。
だが、そのころから彼に対する反感、反抗も、ようやくつのりはじめていた。改宗ユダヤ人たちの恐怖は、やがて猛烈な反抗にかわった。そのもっとも顕著なあらわれは、一四八五年九月十五日の深夜、アラゴンのサラゴッサ市メトロポリタン教会で、突如としておこった審問官ペドロ・アルブエース・デ・エピラの暗殺事件であった。あいつぐ火刑におびえた同市の改宗ユダヤ人たちは、最初女王と法王に保護を求めたが、それら請願の効ないことを知ると、こんどはむしろ逆テロの恐怖を狙って、非常手段に出たのであった。不幸にしてトルケマーダの性格を完全に評価し損ねた挙ではあったが、六人の刺客は、同日深夜の勤行にあらわれたペドロを襲って、みごとに致命傷をあたえたのであった(ペドロは、四十八時間後に息を引きとった)。
敵の数はいよいよふえていった。彼自身すら、身の安全のために、外出時は厳重な警衛なしには出られなくなった。毎日食卓に坐るときには、かならず毒消しと信じられた一角獣の角なるものを、座右において放さないありさまであった。が、もとより彼の憎悪と闘志は、微塵もゆるがない。ついにはスペイン全土から、すべてのユダヤ人を追放しないかぎり、平和は永久にないと決心した。しかもいったん決心したとなると、国王フェルナンドにたいし、追放令発布の要求は、彼一流の執拗さでつづけた。だが、フェルナンドはためらった。彼にしてみれば、国内ユダヤ人の握っている財力は、けっして無視しえないばかりか、現にサラセン人最後の拠点たるグラナダ攻略の戦争のために、彼らの有力者は、三万ダカットという戦費をさえ供給してくれているではないか。
だが、一日トルケマーダは、国王、女王を前にして、色をなして面詰した。「ユダはかつて銀三十枚をもって、主を売り渡した。陛下たちはふたたび三万ダカットをもって、主を売ろうとなさるのか!」言い終ると、激しく十字架を卓上に叩きつけるようにして、驚きあきれるフェルナンドらをあとに、怫然《ふつぜん》として席をたった。
一四九二年三月三十一日、ついに国王はユダヤ人追放令に署名した。グラナダの陥落とコロンブスの凱旋と、この二つの光栄ある歴史的勝利をスペインにもたらしたこのおなじ年は、トルケマーダにもまた最後の輝かしい勝利をもたらしていた。
だが、けっきょくは彼にとって最後の残暉《ざんき》といってもよかった。晩年の彼は、権力に傲って驕慢のそしりがいちじるしかったといわれる。たしかに、しまいには法王の教書にたいしてさえあきらかに反抗に出た。だが、厄介なことに彼の場合は、ひたすら神への絶対的謙虚の確信が、人間にたいしては限りない倨傲となってあらわれるのであった。老いの一徹とでもいうか、ひたすらただおそるべき非寛容の途を急ぐばかりであった。悪声が、敵意が、憎悪が、身辺につのるのに比例して、彼自身はいよいよ深く神の前に嘉《よみ》せられているという栄光感のなかに、いわば全心をあげて酔っていたのである。
が、栄光感の高まりとともに、孤独感もまたいよいよ深くなっていった。異端追及は、もはや多少狂気じみてさえみえた。権力濫用にたいする苦情が、しきりにローマにむかって訴えられた。単に被迫害者のそればかりではない。スペイン大司教ほか、教会内の有力者たちからさえ、櫛の歯を引くように訴えがなされた。いまはもう法王アレキサンドロ六世も、大審問官への支持を撤回せざるをえない羽目になった。まだ篤いフェルナンド、イサベル両者の信任をはばかって、いまさら解任という思いきった手段はとれなかったが、第二の手段として、アビラの司教サンチェス・デラ・フルエンテなる人物を、訴願判事に任命して、事実上は審問所運営の責任にあたらせた。さらに一四九五年二月の法王教書は、彼からその名目上の独裁権力をすら大きく削ってしまった。翌年には、ほとんど二十年間にわたり、ときには国王をさえしのぐ権威を擁していた彼も、痛風になやむ老いの肉体をわずかにささえて、永久に審問所を去った。
が、神はまだ二年間の生命を、この老残の聖者にあたえていたのだった。退いた彼は、なつかしいアビラの修道院に隠棲して、ふたたび外へは出なかった。痛風にくわえて、数々の肉体的病患があいついで彼を苦しめたが、良心だけは、いよいよ不思議な平和と清澄さとをくわえていった。ただ興味あることに、一四九八年五月には、最後の精神力を奮いおこして、十六カ条からなる第四次「審問要綱」の追加を発表したが、それらは第三次までのその峻厳さを、相当幅にやわらげていたというから面白い。
それから四カ月後、九月十六日の夕方であった、かつての光栄ある大審問官、ユダヤ人の最大の敵、トマース・デ・トルケマーダは、美しいアビラの修道院で、仔羊のようにその魂を神の手にゆだねていたのである。
[#改ページ]
北方の悍婦《メツサリーナ》
――女帝エカテリーナ二世と寵臣たち――
十八世紀中頃のペテルスブルグは、名こそ新興ロシア帝国の首都とはいうものの、まだ深い森林につつまれて、ひどい沼沢地のなかの田舎町にすぎなかった。ヴェルサイユ宮殿にその範をとったといわれ、一九一七年のロシア革命まで、長くその豪華と壮麗を誇った冬宮も、まだ完成にいたらず、ネヴスキー街にあった旧王宮は、建てつけの悪い木造建物にすぎなかった。町には、石造の建物などまったくみられない。いまでもロシアの村々にみられるような、角材を組みあわせた素朴な民家、そのつらなりが、わずかに首都の町なみであった。一七〇三年、ピョートル一世(大帝)が、一帯の地域を宿敵スウェーデンから強奪すると同時に、ただちに首都としての礎石をおいたのであるが、はっきりロシア領としての確定をみたのは、やっと一七二一年の光栄ある和約以来であった。発展のおそいのは、無理もなかった。そのかわり名物は火事であった。黒々とひろがる森を背景に、北の夜空に赤々と舞いあがる火の粉の雨は、ほとんど年ごとにみられる、ときならぬ華やかな花であった。そのかわり火事ごとに、首都はより美しく、そして壮麗に、うまれかわっていった。
一七四四年二月、吹雪に狂うある日のことであった。この首都ペテルスブルグに荒天をついて到着した、華麗な一台の大ゾリがあった。まもなく王宮の前にピタリと止まり、深々と外套につつまれたひとびとが降りたったとき、あきらかに賓客とおぼしいそのひとりは、まだわずかに十三、四歳かと思える少女と、その母親らしい中年の女とであった。
「フィーケ、よかったわねえ。王宮ですよ、ここが」
安堵と不安の入りまじったような表情をうかべて、母親らしい女がいった。が、フィーケと呼ばれた少女は、それには答えないで、深く顎のところで頷くだけであった。大きく張った円瞳《つぶらひとみ》と、そして小さく、盛りあがるように厚い唇のあたりに、聡明そうな知性と、ちょっと魅惑的な官能を思わせるものはあったが、そのほかには、どこといって眼をひくようなものはなにもない、むしろ地味な田舎娘とさえみえる少女であった。
が、それからわずかに一年半、一七四五年八月には、この田舎娘然たる映えない少女が、名もあたらしくエカテリーナ・アレキセイエヴナとあらためられ、信仰も父祖以来のルーテル派新教はサラリと捨てて、ときめくロシア皇太子妃として、なんにも知らぬ世間をあっけにとらせていた。
フィーケ、正しくはゾフィー・アウグステ・フリードリーケという名がしめすように、どんな意味でも彼女はロシア人でなかった。一応身分的には、父はアンハルト・ツェルプスト公、母は、これもホルシュタイン・ゴットルプ公家というドイツ貴族の血をひいていたが、その父親というのは、わずかにプロシャ軍隊の連隊長程度で、経済的にはけっして裕福でなかった。すくなくとも少女時代のフィーケに、将来のロシア皇太子妃などを約束するものは、なに一つとしてなかった。しかも、このシンデレラの夢を、はからずも実現させたのは、クモの巣のようにからまりあった西欧王族間の政略的閨閥の糸と、そしてもちろんその細い一本の糸を、すかさず掴むことに成功した母親ヨハンナ・エリザベートの機略にほかならなかった。
ロシア三代目の女帝エリザベータは、その後継者として、ひそかに外甥であるホルシュタイン・ゴットルプ公子カール・ペーター・ウルリッヒを、はるばるドイツのキールから迎えいれた。のちのピョートル三世である。母はピョートル大帝の娘、したがって女帝エリザベータの妹であった。運命というものは、どこから開けるものかわからない。このピョートル三世の父が、またフィーケの母ヨハンナ・エリザベートの従兄弟であったのだ。野心の女ヨハンナが、どうしてこれを見逃そうはずがない。縁のつながりをたよりに、夫その他の反対を押しきり、すでにこのころからロシア宮廷にむかって、周到な裏面工作の手を打っていたのだった。
こう書いてしまえば話は簡単だが、それにはまず一七二五年ピョートル大帝の死後から、一七六二年フィーケ、あらためてエカテリーナ・アレキセイエヴナの即位にいたるまでのロシア帝位継承史、というよりは、典型的なアジア的絶対主義帝国における宮廷裏面の陰謀と乱倫の歴史を、述べておく必要があろう。
ピョートル大帝が、軍事的に、経済的に、そしてまた文化的にも、北方の後進国ロシアを、わずか半世紀たらずして北欧の一大強国たらしめた天才的改革者であったことはいうまでもあるまい。彼の改革政策が一貫して、徹底的な西欧化にあったことは、ある意味でわが明治の改革に似ているが、ここでもまたわが国におけると同様、急激な西欧化政策の影響は、もっぱら上層支配階級にとどまり、その結果として、社会の頂点と底、いいかえれば西欧化した上層階級と、とうていそれを受入れる準備などできていなかったロシア大衆との間に、以後ロシア革命にまでつづく不幸な疎隔をつくることになった。またこうした事情と、さらにくわえてピョートル大帝自身の独裁者的性格ということもあって、彼個人としては西欧的自由思想の信奉者であったにもかかわらず、出来あがったものは、驚くべきアジア的絶対主義的帝国であった。
が、それだけに彼の一生は、権力の競争者に対する不断の粛清、弾圧の連続であった。十七歳にして帝位を確保したのが、まず異母兄イヴァン五世に強制退位を迫り、おなじく摂政の異母姉ソフィアをむりやり尼院に押しこめるというやり方であった。しかも、まもなくストレルツィと呼ばれる旧軍隊の叛乱があり、それにたいしてソフィアの連累が疑われると、彼は叛乱首謀者たちを捕え、ソフィアのいる尼院の窓さきで、みずから剣をふるって首を刎ねた。
晩年の悲劇は、有名な皇太子アレクセイの謀殺事件である。アレクセイは、ピョートル大帝第一の結婚による皇太子であったが、しばしば反ピョートル保守派勢力によって担がれることになった。その結果、父子の間も気まずくなり、アレクセイは外国に難を逃れたが、ここでもピョートルは、彼が外国勢力の利用するところとなるのを怖れて、巧みに詭計をもって呼びかえし、急に捕えて死刑を宣告した。皇太子は、処刑の直前、拷問と精神的懊悩の末に死んだ。しかも、これらピョートル晩年の黒幕にあって、ナンバーワン的側近として政策のほとんどすべてを動かしていたのは、メンシコフと呼ぶ菓子職上りの男であったというにいたっては、独裁者の孤独、まことに胸を噛むものがある。
一七二五年ピョートルの死後は、後妻エカテリーナ一世がついだ。彼女の前身は、軍隊とともに移動する娼婦群の一人であったが、ついに寵をまっとうして、帝位にまで上った。したがって、終生ついに目に一丁字もなかったといわれるが、さらに道徳的頽廃においても、いっぽうではピョートルとの間に十一人の子供までうむほどの寵をうけながら、同時に他方では(これは多分に皇帝との了解ずみの上でだったが)、長く上述メンシコフの情婦でもあったというスキャンダルの持主であった。
彼女は在位わずかに二年間で歿したが、遺書によって、帝位は思いがけぬ、悲劇の皇太子アレクセイの遺児、十二歳の小童に譲られた。ピョートル二世がそれである。彼女自身の子は、十一人中わずかに二人の女子が成長しただけで、それも姉アンナは、ホルシュタイン公に嫁して去り、いま一人のエリザベータは、子なくして若い寡婦となっていたからである。だが、ピョートル二世もまた在位わずかに二年で夭折したので、帝位は再転して、かつてピョートル大帝のために強制退位させられた、白痴の異母兄イヴァン五世の娘イヴァノーヴナに落ちた。彼女もすでにバルト沿海のクルランド公夫人として、外国にいたが、あらためて迎えいれられて、第二代の女帝になったのである。
が、彼女もまた子供がなかったために、実の姪で、すでにブルンシュヴィック公夫人になっていたアンナ・レオポルドーヴナを養女にした。そしてまもなくその長男がうまれると同時に、女帝アンナは歿したので、遺志によって、帝位は名目だけだが当歳の嬰児イヴァン六世のものとなり、そして母親アンナに摂政が託された。だが、このアンナ・レオポルドーヴナという女は、まったく政治に興味がなく、そのうえ人前に出ることが大のきらいで、ひたすら後宮にあって寵臣とのスキャンダルをまき散らすのに忙しいという有様だったので、摂政どころの騒ぎでない。はたしてわずか一年後におこったのが、一七四一年の革命であった。
これよりさきピョートル大帝の娘、そしてすでに若い寡婦であったエリザベータ・ペトローヴナが、帝位を甥のピョートル二世に譲ったことは、前に述べたが、それ以来は、まったく帝位継承のことには野心をしめさなかった。ところで、次の女帝アンナ・イヴァノーヴナというのは、稀代の醜女であったといわれるが、それにひきかえ、寡婦のエリザベータは天下に名高い美貌の持主であった。それにたいする嫉妬も手伝ったものか、女帝アンナは彼女を憎んで、首都の外へと追放してしまった。
由来エリザベータは、父ピョートル晩年の子として、鍾愛のなかに完全な甘え子として育てられた。聖書以外には本など読んだことはあるまいとさえいわれるほどの、どうみても頭のよい子供ではなかったが、ただ天成の美貌のうえに、快楽児でもあった。派手好きで、遊び好きで、いま述べた追放中の田舎暮しの間でも、好んで異様な男装に身をやつし、同棲の愛人といっしょに、村の祭りなどには庶民たちの先頭にたって歓をつくした。平民的といえば平民的であったが、のちに帝位についてからも、おそるべきいわゆる面食いとでもいうか、美貌の男とさえみれば、下士官でも、馬丁でも、教会合唱隊歌手でも、手当り次第に情人にするというので、海外でまで問題になったくらいであった。しかし、彼女もまたつきない人間的興味の対象の一人であった。というのは、中年以後の彼女は、ときどき猛烈な憂鬱症に襲われるようになり、そうなるとまた彼女は、ほとんど悶絶せんばかりになって、罪を悔い、赦しを祈るのであった。断食、苦行、いたらざるなしといった有様で、女帝の身をもって、はだしで遠く聖徒廟まで贖罪の巡礼をしたことすら珍しくない。そのくせそのあとでは、またしても反動のように荒淫、惑溺の日がつづくのであった。
革命の機はようやく熟した。幼帝イヴァンを擁したアンナの摂政は、完全に民心をうしなった。ここにいたって、エリザベータの心を背後から説得に成功したのは、ピョートル大帝以来の宮廷顧問医であった野心家のドイツ人医師レストックと呼ぶ人物であった。民衆の間におけるエリザベータの奇妙な人気、くわえるにまだ父ピョートルの余映もある。事は一挙に成すべしとみたのである。一七四一年十二月五日、彼女は、レストック等に擁されて、深夜ひそかに首都にまぎれこみ、深夜のミサをうけ終ると、ただちにある兵営にむかった。黙々として闇の中に整列した三百人ばかりの近衛兵の前に、つぎの瞬間には、目もさめるようなきらびやかな軍装に身を固め、指揮杖を手にした、三十二歳、美貌の寡婦エリザベータの姿が立っていた。一時間後、冬宮の中では、ブルンヒルデに率いられた軍隊が、一滴の流血もなく、完全にクーデタを成功させていた。ある西欧外交官が、「まこと一包みの金と、一袋の酒と、そして一握りの兵隊とで、完全にいっさいは終っていた」と報告を送っている、そうしたこれは革命であった。
第三代目の女帝エリザベータの治世がはじまった。彼女もまた寡婦、そして子供はなかった。三年後、ホルシュタイン公子ウルリッヒを、はるか遠くキールから迎えて、皇儲《こうちよ》としたことはすでに述べたが、そのことこそはやがてわが女主人公フィーケ、改めエカテリーナ・アレキセイエヴナ登場の舞台であった。項をあらためて述べよう。
一七五五年の秋であった。新しいイギリス大使サ・チャールズ・H・ウィリアムズというのが、ペテルスブルグに到着した。が、この新任大使は、前任地ポーランドから赴任する際、たまたまワルシャワで知りあったという美貌の青年秘書をともなっていた。名前はスタニスラフ・ポニアトフスキー。伯爵であった。
当時のヨーロッパ情勢は、例のフリードリヒ大王の率いる軍事国家プロシャの勃興を前に、列国ともに厳重な包囲態勢を整えつつある時期であった。したがって、新イギリス大使の赴任は、大陸のイギリス領ハノヴァーにたいするプロシャの野心を警戒したイギリス王ジョージ二世が、ひそかにロシアと結んで背後からの牽制をくわえようということにあった。大使は、さっそく万一の場合の軍事経済援助というのを引出物に、秘密協定締結に成功した。だが、この期におよんで困ったのは、本国の大陸政策が百八十度の転換をとげ、逆にイギリスはプロシャと結んで、かえって仏露両国を仮装敵国とすることになったことであった。驚くべきフリードリヒ外交の成功ではあったが、困ったのは駐露イギリス大使であった。こんどは逆に親プロシャ筋の勢力を開拓しなければならない。が、女帝エリザベータは、すでに完全な親仏一辺倒で、とうてい手をうつ余地はない。窮した彼のようやくみいだしたのが、狂信的なまでのフリードリヒ崇拝者である皇太子ピョートルであった。はからずもこのことが、彼とエカテリーナとを接近させることになったのである。
だが、これは公事である。大使との初会見で、完全にエカテリーナの心をとらえてしまったのは、青年秘書ポニアトフスキーの美貌であった。もっとも、事情は、その逆の方向においても同様であったのはいうまでもない。
「髪は黒く、肌は抜けるような白さに、いきいきした血色をたたえていた。おそろしく表情にとんだ碧い円瞳《つぶらひとみ》、長い真黒な睫毛《まつげ》、ギリシャ風の鼻、まるで接吻を誘いかけるような口。肩から胸にかけてなんともいえぬ美しい、高い優雅な立ち姿。歩きつきは、威厳をうしなうことなく、しかも軽快。快い声、そして、笑う声は人柄をそのままに朗かであった」
もちろん惚れた男の回想である。多少の割引はしなければならぬにしても、二十三歳の青年貴族が、ようやく爛熟期にちかづいた二十六歳のエカテリーナからうけた初印象の記録である。
二人の交情は、互いに堰をきられた流れのように、深まっていった。けっきょく、関係は一七五八年七月までつづいているが、前年十二月にうまれた皇女アンナは、あきらかに彼とのあいだにできた子供であった。エカテリーナにしてみれば、長く求めていた浪漫的な愛人を、三つ年下の青年ポニアトフスキーのなかに、はじめて見いだしたのであった。
エカテリーナは、晩年書かれた回想録の一節に、「わたしは、一刻も愛なくしていきられない女でした」と、正直に告白しているが、そのひたすら男の愛を求めていきた彼女であったにもかかわらず、考えてみれば、三十年間一度として真の愛情がえられたことはなかったのだ。そもそも皇太子ピョートルとの結婚からしてが、愛のない、ただ野心と政略とのための結婚にしかすぎなかったのはいうまでもない。
ピョートルは、家格こそホルシュタイン公とものものしかったが、肺病の生母には生後わずか三カ月で死に別れ、最初から愛のなかった父親にも、十歳のときに先だたれた。天涯の孤児になった彼は、軍人あがりのスウェーデン人知事某の手で養われたが、彼は、孤児ピョートルが将来敵国ロシアの帝位継承権の有資格者だと知ると、極端な放任と苛酷との入りまじった、ことさら彼の心身を堕落させるような教育をほどこしたとさえいわれる。真偽はとにかく、彼は心身ともにひどく虚弱で、臆病で、しかも弱者にたいしては、完全に傲岸、冷酷な変質的少年に成長して行った。十四歳のとき、ロシア宮廷に迎えられ、十七歳の一七四五年八月に、ようやく結婚式をあげたが、それによって心から勝利の喜びに胸おどらせたのは、エカテリーナの母親ヨハンナだけであり、逆にまだ若い十七歳の花嫁にとっては、長いそれは悲しみの日のはじまりであった。
二人の間は、はじめからよくなかった。九年後の一七五四年になって、やっと第一皇子パーヴェル(のちのパーヴェル一世)が生れた。パーヴェルについては、父親のピョートルと、その半痴呆的容貌の酷似ということをあげて、実子であると認める史家もいるが、流説は、これを他の男との子だと取沙汰したばかりか、エカテリーナ自身すら進んでそれを認めているのである。だが、この不倫には、彼女としても多少の言い分はあった。すなわち、皇太子夫婦に子供のできるのがおそいのを見ると、宮廷内では、ふたたび将来の帝位継承者問題が重大な関心をひきはじめた。皇太子をめぐる側近たちは、ようやく焦慮に駈られだしたのである。ついに側近某は、誰か他の男子によって皇子をという、驚くべきことまで献策した。今日の倫理的規範からみれば、不倫おどろくべきことに相違ないが、往時の支配者階級間にこの種の苦肉策がおこなわれた事実は、東西ともにけっして珍しくない。エカテリーナも、それを承認した。というよりは、おそらく承認させられたのであろう。そして選ばれたのは、セルゲイ・サルティコフと呼ぶ、平凡きわまる青年であった。ふたたび愛のない結合により、彼女は、サルティコフとの間に、二度まで流産をくりかえしたのち、やっと三度目に上述の皇子パーヴェルがうまれたといわれる。が、なかば公然のこの事実は、夫ピョートルとの関係を、完全に名目だけの夫婦にしてしまった。以後八年間、彼の死にいたるまで、ついに二度と妻の肉体には接しなかった。そして不幸なことに、エカテリーナにとってもまた、悲しい女ドン・ファンの放浪がはじまったのである。
ポニアトフスキーとの関係は、一七五八年彼の帰国によって一応終止符が打たれたが、どちらの側にも、愛情はまだ消えていなかった。のち一七六二年、エカテリーナが帝位につくと、彼は歓びのあまり、ふたたびペテルスブルグへ呼び戻されるよう、切々とした訴えを寄せた。だが、すでにそのときは、彼に代る新しい情人グレゴリ・オルロフができていたばかりか、くわえるに政治家として成長していた彼女の意中には、すでにはっきりポーランド分割の構想が描かれており、むしろ将来ポーランド王としての利用価値のほうが、はるかに大きくうつった。彼女の返事はひどく冷淡なものであった。「わたくしはまっすぐに進まなければなりません。疑われてはなりませんから」と、書き送っている。
政治家的成長ということからいえば、彼女は、けっして情事にだけ呆けていたわけではない。イギリス大使らとの政治的折衝は、彼女のなかに隠されていた権謀政治家的素質を、にわかに引きだすのに役立った。そればかりか、古来の政治思想なども積極的に勉強した。ヴォルテール、モンテスキューなど啓蒙思想家とならんで、彼女座右の愛読書のひとつは、奇しくもフリードリヒとおなじマキアヴェリの『君主論』であったといわれる。
このころから、ロシア民衆への接触が、目だっていちじるしくなるのも、すでにはっきり彼女の胸に形をとりつつあった、大きな政治的構想への正確な計算をほかにしては考えられない。また、あの七年戦争の真最中、突如としておこったアブラクシン将軍麾下の露軍退却という謎の事件に関しても、すくなくとも彼女の政治的権謀が大きく裏に動いていたことは否定できまい。すなわち、一七五七年の春、破竹の勢いでメーメルその他を占領していたアブラクシン将軍の露軍が、突然にわかに謎の退却を開始したのであった。破局の関頭にあったフリードリヒにとっては、まさに救いの神であったかもしれぬが、首都ペテルスブルグの騒ぎもたいへんであった。兵站線ののびすぎというのが、一応の弁解であったが、あきらかに計画的退却としかみえなかった。アブラクシン以下責任者は捕えられ、軍法会議に付せられたが、究極的にはついに疑問の事件というままで葬られた。だが、その背後にフリードリヒ崇拝の皇太子と、またさきのイギリス大使との、これも単なる政治的交渉以上のものがあったろうことが疑われる。エカテリーナの政治的賭博が、反プロシャ一辺倒の女帝エリザベータの死を早くもみこして、英普同盟の利益のために、ひそかに糸を操っていたという、いわば先物買いの嫌疑は、今日もなお完全には払拭されていない。
というのは、一七五六年から、女帝エリザベータは、しばしばヒステリー発作の痙攣に襲われるようになっていた。そして以後、一進一退の病状をつづけていたが、一七六一年になると、急速に悪化しはじめ、同年クリスマスにいたって、ついに五十二年の生涯を閉じた。当然後継者はピョートルであったが、そのころから、彼の奇行はますますひどくなった。亡女帝大葬の日の行動は、ことに内外の参列者たちを驚かせた。彼は、当然の義務として、柩の直後を進んだが、喪服の長い裾をひき、その末端を貴族の一人に捧持させていた彼が、ときどき突然立ち止るかと思うと、またチョコチョコと駈けだすのである。機《はず》みを食って捧持する男が、思わずそれを取り落すと、裾は風に吹かれてハタハタとひるがえる。それが面白いといっては、大声に笑うのである。しかも、またしてもそれをくりかえすので、ついには葬列そのものまでが、一時ではあったが、混乱におちいってしまった。それにしても、最近の亡義母に対するエカテリーナの手厚い奉仕ぶりにひきかえ、あまりにもこれは対照的であった。当然国民の心は大きく動揺した。
彼の軍事狂も、いよいよ膏肓《こうこう》に入った。というよりは、とうてい常人の所業とは思えなかった。彼の部屋には、いつも無数の鉛細工、木彫細工、さては蝋細工などの玩具の兵隊が、あたりいっぱいに散らばっている。それらをいろいろと卓の上にならべて、これも彼の工夫になる精巧な機械仕掛けで動かしながら、戦争ごっこをするのだが、それが無上の楽しみであった。これが大の三十男のすることだから、もはや正気の沙汰ではない。
さらに彼の最後的運命を決したといってもよいのは、即位数カ月後のことであったが、待望のプロシャとの講和成立祝賀の大晩餐会場で、故吉田首相ならぬバカヤロー呼ばわりを、しかも皇妃エカテリーナ相手にやってのけたのである。コースも進んで、いよいよ皇帝の発声で皇室万歳の乾杯がなされる段取りになった。が、ふと見ると、エカテリーナが坐ったままでいる。彼は、背後にたっていた副官に命じて、さっそく理由を詰問させた。復命は、「わたしは皇族の一人ですから」というのだった。とたんに彼の身体が一段前に乗り出したかと見ると、大喝一声、「|バカヤロー《ドウーラ》」という大声が広間の空気をつんざいた。彼女は、いっぱい涙を浮べながらも、じっと黙ってよく堪えた。外国使臣をも含めて、内外貴顕の集まりの真唯中だったからたまらない。民心はもはや決定的に彼を去ったといってよかった。
はたしてまもなくエカテリーナをめぐって、新帝を見棄てた心ある貴族、軍人たちの陰謀が進みつつあった。
機は熟した。一七六二年六月二十八日の早朝であった。ペテルスブルグの郊外、フィンランド湾にのぞむペーテルホフ離宮に泊っていたエカテリーナは、たちまち軍隊に擁されて、冬宮にむかって進軍を開始した。前夜、都内の軍隊は総動員され、あくればピョートル三世みずから統率して、デンマルクとの戦いに出発するはずであったが、軍隊はこの戦いを好まず、ことに統率者として、ドイツ出身の新帝をこころよしとしなかったのだ。それやこれやで、動員されていた軍隊が、そのまま戈を逆にして革命軍になってしまっていたのだった。
エカテリーナは、みずから白馬にまたがって、革命軍の先頭にたった。華やかな近衛士官制服に身を固め、右手には剣、そして髪には勝利の標である樫の嫩葉《わかば》をさしていた。この日の扮装には、彼女自身もよほど満足であったらしい。のちに画家エリクセンに命じて筆をふるわせ、いまもそのまま颯爽たる英姿をつたえている。
革命はわずか数時間にして完了した。この危機に際して、ピョートルの無為、そして無策ぶりはまさに遺憾なく発揮された。翌二十九日朝には、まったくなんのなすところもなく、妻の手に捕虜の身になっていた。いまはいっさいの地位と権力を剥奪され、首都の郊外プロシャの小離宮に監禁されることになった。一応表向きの待遇は、あわれな囚人のほとんどあらゆる希望をいれたという、きわめて寛大なものであったが、いっぽうでは厳重をきわめた監視下に、運動のためにすら、部屋を出ることはもちろん、窓のカーテンを開けることさえ許されなかった。監禁六日、エカテリーナ新女帝の政府は、ピョートルの死を公表した。死因は痔疾による出血のためとあったが、この死因ほど今日なお深く疑われているものはない。が、それはとにかくピョートル三世の治世は、ついにその戴冠式にすらいたらずして、わずかに六カ月の短時日をもって終った。そして同年九月二十三日には、新女帝の戴冠式が、モスクワで盛大におこなわれた。四月には、ネヴァ河を見おろした、あの壮麗、宏壮な新王宮「冬宮」も、ついに工事完了をつげていた。十八年前、ゆくりなくもペテルスブルグに現われたステッティンうまれの田舎貴族娘は、こうしていまや大ロシア帝国に君臨する、エカテリーナ二世へと化身していたのだった。
これよりさきエカテリーナは、四月十一日、玉のような男の子を生んでいた。父親はグレゴリ・オルロフと呼ぶ若い美貌の近衛砲兵大尉、もはや天下公然の事実であった。もっとも、さすがに子供のできたことだけは秘密にして、他の子供たちと同様、手もとから離して育てさせたが、命名だけは公然と、アレクセイ・グレゴレヴィッチ・ボブリンスキーと、父系をあきらかにした名をつけた。
グレゴリ・オルロフは、軍人ぞろいのオルロフ家五人兄弟の次男であった。兄弟中おそらくいちばんの傑物は、長兄アレクセイであり、これは一七六二年のクーデタその他にも、相当の役割をつとめた人物だが、次兄グレゴリの方は、女帝の情人という以外、別にこれといった取得のある人物ではなかった。だが、エカテリーナにとっては、おそらく彼女が生涯もっとも溺愛した情人であったらしい。十年間以上にわたって、愛情を傾けつくして変らなかった。一時は真面目に結婚を考えたことさえあった。現にさきに述べた男児以外、その後二人の女児をもその間にもうけているくらいである。後年エカテリーナは、奇怪きわまる愛欲懺悔めいた文章を遺しているが、そのなかでも、「もし彼のほうで飽きさえこなかったら、おそらく永久につづいていたでしょう」とまで回想させているのは、このオルロフである。エカテリーナの即位とともに伯爵にあげられ、寵愛の全盛時に、彼がしめした豪奢、贅沢、濫費ぶりは、天をも恐れざるものがあったといわれる。
だが、さすがの彼にもやがて凋落の秋《とき》がきた。理由は正確にはわからない。オルロフに不貞の行為があったからだともいうし、またオルロフのほうから離れていったからだともいわれる。だが、すくなくともエカテリーナ自身は、真面目に後者を信じていたらしく、後年までもそれを主張していた。だが、すくなくとも表面にあらわれた事実はこうである。
一七七四年、彼は、トルコにたいする軍事的、政治的両面の使命を帯びて、南ロシアに派遣されていた。ところが、その不在中、風聞は、エカテリーナの身辺に、ヴァシリチコフと呼ぶあたらしい若い情人のあらわれたことを彼に伝えた。驚いた彼は、使命もなにもほったらかして、急遽ペテルスブルグへ引き返したが、天然痘流行地からの帰来ということを口実に、むなしく首都入りを阻まれてしまった。四週間後、やっと女帝との会見を許されたときには、彼女のかたわらには、すでにあたらしい別の青年が、かつて彼の演じたそのままの役割をうけ持っていた。
オルロフも、このときすでに四十歳をこえていた。この齢になって、突然寵を失ったこの伊達男騎士は、もはや木から落ちた猿も同然であった。悶々の極、わずかに街頭の娼婦相手に憂悶をやっている風聞すら、いくどかスキャンダル種になって市民たちの耳をよろこばせた。まもなく外国へいって自暴自棄の浪費生活をつづけたらしいが、それも食いつめると、また悄然と尾羽打ち枯して帰ってきた。その後、従妹という十九歳の少女と結婚して、ようやく安住をえたが、それも新妻は、そのときすでに深く胸を蝕まれていた。しかし彼自身は、この若い病妻の死ぬ以前に、すでにはっきり頭が狂い、悲しい衰残の身をさらしていたという。
かりにも「大帝」と呼ばれるエカテリーナが、単に情痴、逸楽だけの女でなかったことは、もちろんである。彼女の女ドン・ファン、北方のメッサリーナ的半面は、それが同時に他の一面、いわば表芸ともいうべき政治的経綸、内政的手腕と楯の両面、あるいはいわゆる絶対値の大きな振幅をしめしたという意味において、かぎりない人間的興味をそそるものがある。だが、たとえば一七七二年にはじまり、前後三回にわたっておこなわれた有名なポーランド分割問題――権謀的野心といってしまえばそれまでだが、これにはおそらく彼女がもっとも積極的な推進者、立役者であったろうこと、また懸案のクルランド併合の成功、トルコ、オーストリア、プロシャなどとのあいつぐ戦争と勝利、一七八三年にはついにクリミア半島をあわせて、鷲章旗を黒海のほとりにうちたてたこと、あるいはアメリカ革命、フランス革命に関してしめした、端倪《たんげい》すべからざる外交的手腕、等々については、すでに一般史書に語りつくされている。また内政に関しても、彼女が修道院を廃して、一般女子教育機関にかえたこと、反対を排して国勢調査をはじめて断行したこと、自身まず率先して、種痘術をいち早く輸入し、防疫対策に著効をあらわしたこと、さては性病治療所(もっとも、これは直接彼女自身もっとも怖れていたからだともいわれる)、孤児収容所等を開設して、いまでいう厚生事業の先駆者的役割をはたしたことなどは、彼女が、ヴォルテール、ディドロ、モンテスキューなどの忠実な思想的弟子であったという進歩主義的面目を語るものであろう。これを要するに、対外的にはおそるべきマキアヴェリスト、対内的には進歩的な啓蒙主義政治家、自由思想家であったということができよう。
中年にちかづくにしたがって、エカテリーナは、ようやく肥満型女性の特徴をしめしはじめた。容色の衰えについては、彼女は、ほとんど異常なまでの不安をいだいていた。容貌に関する阿諛は、彼女にとっていわばジークフリードの背中であった。目にみえて喜んだ。当時ペテルスブルグに赴任する西欧外交官たちには、外交技術の要訣として、このことが申し伝えられていたとさえいわれる。程度をこした興奮剤、コーヒーや嗅煙草の使用が、多分に容色の衰えを早めていた。それに、今日でいえばさしずめ歯槽膿漏であろうか、意外に早く歯なみがぬけ落ちた。が、頬肉に悲しいたるみがあらわれればあらわれるほど、頬紅《ルージユ》の色は、いよいよ鮮かさをくわえていった。
一七七二年ごろであった。すでに四十代のなかばにちかいエカテリーナ身辺のひとりに、ようやく宮廷の関心を集めはじめていた、三十歳あまりの奔放、そして野性的な魅惑をもつ独眼の青年軍人がいた。名前は、グリゴリ・ポチョムキン。彼こそは、やがてオルロフを退け、ヴァシリチコフを押し退け、ついにはエカテリーナの寵愛を一身にあつめて、女帝晩年の情艶史をかざることになる最大の数奇的人物であった。
ポチョムキンの前身については、いまだにあきらかでない点が多い。だが、彼がウクライナ生れの卑賤な家の出身であり、そうした出身の野心的少年の常で、彼もまた早くから僧院入りをし、各地の僧院を歩きまわっていたらしい。そうした関係から、ひとかど教会神学にも通じてしまったが、たまたまそのことが、やがてエカテリーナに接近する機縁になったといわれる。
彼の風貌は、どう考えてみても、きわめて特異なものであった。どんな意味でもいわゆる女好きのする好男子ではない。エカテリーナの歴代情人に絶対必須の条件であった、背の高い、かっぷくのよい体格こそしていたが、ほかにはこれといって魅力的な男ぶりは、なに一つなかった。たえず顔を引きつらせる神経性痙攣があり、それに、なにかといえば指を噛む無作法な癖があった。さらにくわえて独眼である。いつどうしてうしなったか、いまもって正確にはわからない。撞球技を遊びながら、喧嘩で突かれて盲いたという説もあるが、また彼が生来の藪睨みか、そのほかなにか片眼に故障があったために、ことさら自分でつぶしてしまったのだという伝承さえある。彼の場合、後者の可能性もじゅうぶんある。平生服装などにはいっこうお構いなく、のちに女帝の寵をえてからも、しばしば蓬髪、跣足、よれよれの服を着て宮中を横行し、人目を驚かしたことも珍しくない。だが、それでいてこの野人、田舎者には、いうにいわれぬ天性の人間的魅力があったらしい。ほとんどすべての女性が、一目でたちまち心をひかれたという。
風貌がそうであるように、性格もまた矛盾の塊りであった。無口で、不機嫌で、皮肉屋だった。そしてまたある意味で怠け者でもあった。それだけに、彼の浴せる冷嘲は、しばしばすばらしい機智にみちていた。エカテリーナを魅了したのも、最初はまずこれであったらしい。のちには軍人としても一応の成功はしたが、なにしろ大砲の音を聞いただけで、胆を消してしまうほどの臆病者であったともいう。のちには「猛虎のように」戦闘の指揮もしたとあるが、この癖だけはついに終生なおらなかった。そうかと思うと、歌をよくし、作曲もした。エカテリーナのために捧げた、「一目、君を見てしより、恋うるはただに君のみぞ」という一行にはじまる恋愛小曲のごときは、その後も長く人々の愛誦歌であったという。後でも述べるが、またある意味では天才的演出家でもあった。
彼がエカテリーナにちかづいたのは、かなり早くからであった。一七六二年の革命のときにも、すでに叛乱陰謀の一味にくわわって、相当の働きをしている。だが、彼がオルロフ、ヴァシリチコフなどを排して、公然といわゆる第五番目の情人になったのは、一七七四年、彼三十五歳、エカテリーナ四十五歳のときであった。
積極的に働きかけたのは、エカテリーナのほうであったらしい。当時すでに彼女の行状は、相当に誇張されて伝わっていたらしく、さればこそ彼女は、みずから過去の情艶史を惚気《のろけ》まじりに告白して、この新しい愛人の誤解をといたという珍書翰まで残っている。それによると、彼女は、順番にサルティコフ、ポニアトフスキー、オルロフ、ヴァシリチコフの四人をあげて、はっきりポチョムキンをもって五人目に数えている。彼女の情艶史を通じて、あきらかにポチョムキンとの関係はもっとも長い。蜿蜒として実に十五年間におよんでいる。
だが、ここでひとつ見落せないのは、ポチョムキンとの関係には、いままでの彼女の情史にかつてみられなかった、奇怪きわまる一事が絡まっていることである。というのは、この十五年間の関係中、実はその間に他方では、同時にザヴァドフスキー、ゾリッチ、コルサコフ、ランスコイ、イェルマロフ、マモノフ、ズボフという、実に七人の情人がつぎつぎと登場するのである。後でも述べるように、ポチョムキンは、外交代表として、また軍人として、しばしば宮廷を留守にした。これら七人の情人が、すべてその間に登場した人物であることはいうまでもないが、それにしても、これら身代りの情人たちは、すべてポチョムキンみずからが仲にたって取持ったという流説さえあることである。妙な話だが、ポチョムキンには、自分が帰ってきさえすれば、絶対これら身代りの情人どもを一蹴し去る自信があったらしい。そして事実、最後のズボフの場合を除いては、たしかにいつもそのとおりに成功しているのである。
エカテリーナは、一七六八年トルコと戦端を開き、その後、二度短い休戦期(一七七四年と一七八三年)を挾んだだけで、一七九一年まで戦争状態がつづいていた。ポチョムキンは、軍人、外交家であると同時に、詩人、夢想家でもあった。『プリュタルコス英雄伝』の愛読者であり、アレキサンダー大王の夢想的崇拝者であった。そして現実的には、トルコの首都コンスタンチノープル(現在のイスタンブル)を奪還し、ヨーロッパ大陸から異教徒を掃蕩し去ること、それが彼のいわば憑かれた一生の夢であった。たまたまそれが、エカテリーナの政治的野心と一致したということもある。この期間が、ポチョムキンにとっての勢威絶頂の時代であったことも、おそらくこの理由によるのであろう。
閑話休題、はじめポチョムキンは、ルミアンツォフ将軍麾下の一部隊長として出征したが、五年後には、特にこれという戦功もないくせに、司令官の位置にまで経《へ》昇っている。が、軍事よりも彼の卓抜した手腕は、もっぱら政治外交折衝のかけひきにあった。一七七四年のいわゆるクッチュク・カイナルディ和約と、これも一七八三年の露土間の平和条約は、いわば彼が会心の傑作であった。ことに後者は、トルコをして宿願の地クリミア半島を割譲せざるをえなくさせた点において、彼は功によって古典的香りもゆかしいタウリス(クリミアの古名)公爵にあげられたばかりか、その首都入りは、さながら凱旋将軍の観があった。
彼の特異な演出家的才能、そしてまた誇大妄想狂的性格の一面を示す代表的な挿話は、一七七七年の春、エカテリーナを動かしていった、狂気じみた南露巡遊の挙であった。一行は、目もあやに飾りたてた二十隻の新造船に分乗し、はるかにドニエプル河をくだって、河口のケルソンに達し、さらに当時露土の国境であったボグ河の河口まで足をのばした。それこそ豪奢、華美、ペテルスブルグの宮廷をそのまま南露に移動したかの観があった。しかも、もっと奇怪なことは、巡幸の街道にそうて、彼は、舞台の大道具同然の急造ハリボテ家屋を、蜿蜒として建てならべたのであった。「ポチョムキン村」と呼ばれて、後々まで長く笑い草になった。そして最後の到達点、目と鼻の先にトルコ領を望むボグ河口のニコライエフ村には、高々と凱旋門をしつらえて、「この道コンスタンチノープルへ到る」というギリシャ文字が、鮮かに書かれていたという。児戯にちかい稚気の沙汰といってはいけない。彼としては大真面目なのであった。彼にこれをさせたのは、やはりアレキサンダー大王の雄図を夢みる彼の空想であり、そしてその沿道の馬鹿げたハリボテ家屋のみせかけ殷賑も彼にとっては、南露、中東帝国実現の日の盛観を託した夢の構想であったのだ。
だが、得意の頂点は、やがてそのまま転落への第一歩でもあった。一七八三年の和議が破れると、ふたたび露土間には戦端が開かれた。ポチョムキンも、ふたたび司令官として南露に転戦したが、戦闘はかならずしも彼に有利というばかりでなかった。憂悶と懊悩の彼をわずかに慰めたのは、はるばる毎週二通はかならず届く女帝からの手紙であった。が、一七九一年になると、形勢はいよいよ悪化した。スウェーデンが、突然背後から宣戦布告に出たのであった。流石のエカテリーナも、とうてい二面作戦にたえうる自信はなかった。トルコに和議を申入れたが、足もとを見すかした敵は、容易に応じない。ポチョムキンは、攻撃することも、和議を結ぶこともできぬ窮境におちいった。しかも折も折、宮廷ではズボフなる「黒坊小僧」が、とみに老女帝の愛を独占しているとの報さえ聞えてきた。矢も楯もたまらなくなった彼は、ついに部隊を棄てて馳せ戻った。
だが、すでに時代は移っていた。待っていたものは、かつてあのオルロフを待っていたのと同じ運命であった。もはやいつものような彼の懇願と恫喝とにもかかわらず、女帝の身辺からズボフを退けることはできなかった。最初の誤算が、同時に最後の誤算であった。
以後、一度去った女帝の愛情をふたたび引き戻すために、彼が払った努力というのは、いかにも彼らしい、滑稽でもあるが、また悲痛なものでもあった。途方もない奇想を考えついたのである。すなわち、彼はありとあらゆる全財産を傾けて、それによって女帝の歓心を買うという、いわば彼なりには背水の陣を布いたのであった。まず宮廷のちかくに、金にあかして宏壮な邸館を新築すると、女帝を迎えて、それこそ彼の権力をもって企てうる、可能なかぎりの盛宴、舞踏会を、ほとんど連日にわたってもよおした。供される食卓がまた、リガの牡蠣《かき》、アストラハンのメロン、クリミアの葡萄等々――文字どおり世界の珍味が、選り抜き腕利きの料理人たちによって整えられた。さすがの彼の財産も、日を追うてみるみるちぢまっていった。が、畢竟それも絶望に狂う失意の中年男が、なんとかして女の愛をかえすための必死の努力だと思えば、笑えない悲喜劇であった。
が、もはや老女帝の胸はあくまでも冷たかった。一日、エカテリーナから呼ばれていってみると、彼は招宴への感謝とともに、静かに一通の前線出動命令を手渡された、いっさいはわかった。友人たちに、もはや二度と帰ることはあるまいことをつげると、鉛のような心を抱いて、南へと出発した。前線、いまのルーマニアのヤッシーにあったロシア軍のキャンプに着くと、彼はその日から発熱した。ただちに軍医が見舞った。だが、彼はもはや医者の禁じることばかりをあえてした。餓鬼のように食べた。最後の日などは、夥しい量のハムと生ビート、さらに鵞鳥二羽を、葡萄酒とクヮス酒と一緒に、鯨のように流し込んだという。てきめん容態は悪化した。最後の願いとして、彼はニコライエフへ後送されることを求めた。|ホロ車《キピーカ》で後送される途中、危篤におちいった。仕方なしに従兵たちは、彼を路傍に抱えおろしたが、やがてそのままそこで息を引きとった。大食いで死んだ将軍という、彼の名はむしろ嘲笑をもって西欧にまで喧伝されたが、考えてみれば、ペテルスブルグを永久にあとにしたとき、すでに彼はいける骸であったのだ。
エカテリーナの性生活は、死後いわば一種の伝説化し、生涯の情人三百人というような張扇式流説もあり、ロシアでは長く、いかがわしい春本の女主人公には、彼女がかならず引きだされたものだという。だが、正確なところは、夫ピョートルをも含めて十三人、かりに疑わしいのをくわえても、二十人は出まいといわれる。また上記公認の十三人にしても、晩年のランスコイ、最後のズボフなどは、あるいはついにプラトニックな関係に終ったかもしれぬという好意的見方もある。だが、由来彼女の情事は、どんな意味でも秘密をおびたスキャンダルではなく、公明正大、まことに大ぴらのものであった。したがって、晩年六十歳をこえてから、きわめて率直な回想録を遺しているが、その中の一節に、
「もしわたしが若いとき、愛することのできる夫が与えられていたら、一生夫に貞淑を尽して生きたでしょうに」とある。この告白こそ、彼女もまた頭をめぐらせば案外平凡な世の常の女であったという、切々たるなにか響を伝えてはいまいか。
一七九六年十一月六日朝、彼女は突然脳出血で倒れ、翌日の夕刻、六十七年の生涯を閉じた。直後、彼女の死を報じたイギリス大使の手紙の一節には、「ついに愛を知らぬ女」という言葉がある。そういえば、生涯十三人の情人を重ねた彼女も、あるいは生涯、ついに真の愛を知らない不幸な女性の一人だったかもしれないのだ。なおもひたすら愛を求めているうちに、ついに死の手が彼女を奪い去ったのであった。
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芽月《ジエルミナル》十六日・熱月《テルミドール》九日
――ダントンの死からロベスピエールの死まで――
一七九三年十一月十九日、ジョルジュ・ジャック・ダントンは、新婚四カ月、まだ再婚したばかりの十六歳の若妻ルイズと、二人の子供、下男一人、下婢一人をともなって、ほとんど一月ぶりに、ふたたびパリにむかって出発した。
わずか四十日! だが、パリの革命情勢は、めまぐるしいばかりの変化をしめしていた。公安委員会は、ほとんど独裁的権力をその手に握るような法案を、矢つぎばやに議決し、その強大な権力の頂点に、いよいよ大きく浮びあがっていたのが、「あの大馬鹿者」マキシミリアン・マリー・イシドール・ド・ロベスピエールであった。
久方ぶりにみる故郷アルシの田園風景も、失意の人ダントンの心をなぐさめるにはたりなかった。あかるい東フランスの秋の日は、「霧月《ブリユメール》」(十月二十二日―十一月二十日)から「霙月《フリメール》」(十一月二十一日―十二月二十日)へと流れていった。が、そうした静かな時の流れも、憤悶の巨人には、日々パリに渦まいている激しい彼への敵意を、痛いほど毎日彼の身辺へと伝えてきてくれるのであった。
四月一日、彼が新しく創設された公安委員会《コミテ・ド・サリユ・ピユブリーク》に選出されたことは、完全に彼の返り咲きを約束するかにみえた。いうまでもなく公安委員会は、同年一月ついに国王ルイをギロチンにおくって以来、急激に悪化した内外からする反革命の恐慌的危機のなかで、なんとかそれを切抜けるために、きわめて広範囲の独裁的権力まであたえられて、国民公会《コンヴアンシオン・ナシオナール》が創設した一種の秘密少数内閣制であった。しかもそのなかで、はじめ彼の声望は、委員会そのものが「ダントン委員会」の異名で呼ばれたほど、大きかった。いまやこの声望と権力とを背景に、彼は、近来持論の中庸政策をいっきに実現に移そうとしたのであった。当面の危機を救うのに、これ以外の方法はないと、彼は深く確信していた。国王処刑という飛報は、全欧洲の君主諸国に異常な衝撃をあたえたばかりか、これまで革命にたいしてむしろ同情的であった一部海外世論をすら、いっきょにして覆してしまった。そして、このことに絶好の侵略口実を見いだしたイギリス、オランダ、スペイン等の外国軍隊は、ぞくぞくとしてフランス国境に迫っていた。
が、それよりもさらに悪いことは、地方王党派の陰謀により、あいついでおこされた各地の反革命内乱であった。なかでも三月からはじまったリヨン、ヴァンデのそれらは、もっとも有名なものだが、さらに事態は、六月ジロンド党の敗北とともに、彼ら敗残党員が地方に逃れて、反革命組織に参加するにおよんで、格段と悪化した。
この危機の収拾策として、ダントンの主張したのが中庸政策であった。公安委員会発足早々の四月十日、彼は、「われわれは、革命の敵を粉砕するとともに、国境内にふたたび秩序を恢復し、よき憲法を作らねばならぬ」ということを根本綱領としておごそかに宣言した。しかも具体的政策として、彼と彼の一派が考えたことは、外国にたいしては穏健政策への転換を匂わせて、国際危機の緩和をはかる。とりわけ小国群にはできるだけ親善関係を呼びかけて、反革命同盟の勢力を削ぐこと、一方国内政策としては、対宗教政策や政敵ジロンド党にたいする追及に、多少のこれまた寛容さを加えること、等々であった。
だが、ダントン一派のこの根本方針にたいして、もっとも強硬な反対は、意外にも同じジャコバン党内からおこった。そして、この反対勢力のうえに乗っかって、急激に強力な勢力を擁しはじめたのが、ロベスピエールであったのだ。宿命的な対立は、ここに最後的な様相をあらわしはじめた。もちろん、こういえばとて、この悲劇は、けっしてこのような個人的対立という関係だけでかたづけられるべき性質のものでない。あとでも述べるように、体質的にも、性格的にも、この両者がとうてい協和を許さない不幸な反対物をもって生れついていたという事実は否定できぬが、さればとてこの危機的瞬間にあって、その悲劇的宿命をこのようにまで決定的な形で押しだしたものは、単なる性格というような理由だけではけっしてない。
すべての革命的運動が、ある時期においてかならずいわゆる「|向う側《ウルトラ》」と「|こちら側《キトラ》」の、死にいたるまでの対立抗争を、それみずからの陣営内部で闘わなければならないというのは、およそこれほど冷酷な運命の悪戯というものもあるまい。ひとつは、いまだ徹底せずとして突進する党派であり、いまひとつは、ゆきすぎを咎めるそれである。そして一七九三年の夏にあって、この宿命的役割をはたしたのは、前者は、パリ・コンミューンを背景に、ジャック・エベール、ピエール・ショメットらに率いられる党内極左派であり、後者は、ダントンをめぐる穏健派であった。そしてそのきわめて微妙な中間にあって、巧みにあるときは左をもって右を制し、またあるときは右と結んで左を攻撃しながら、着々として強大な権力をその手に収めていったのが、ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン等の一派だったのである。
だが、これだけの解説でもまだ足りない。というのは、この内部抗争は、けっきょく党内政治家だけの対立ではなかったからである。上にも述べたように、エベール派の背後にあったものは、パリ・コンミューンであった。コンミューンは、いうまでもなく革命勃発後まもなく、パリ民衆のなかから選ばれた代表者たちでつくられた市民自治団体であるが、革命の進行とともに、最初にはくわわっていた中産階級《ブルジヨアジー》の脱落とともに、漸次プロレタリア民衆を基盤とする、もっとも尖鋭な革命勢力に成長していた。いっぽうダントン派の拠りどころは、もっぱら革命によってある程度の満足をえた中産階級の上にあった。彼等が、まず秩序とよき憲法を主張したことは、けっきょくにおいてはこの中産階級の利益と心理を代弁するものであり、その意味でジロンド党が落していった旗印を、彼等がかわって拾いあげたといってもよい。それに反して、ロベスピエールは、ときには批判的でありながらも、とにかく最後まで民衆への忠誠だけは裏切らなかった。
こうした情勢のなかにあって、ことにダントンの立場を急速に悪化させたのは、彼が外国勢力との交渉に際して、一種の通謀的取引をおこなったというスキャンダルの流布であり、いまひとつは、それに関連して、寡婦になった王妃マリ・アントアネットの保護を、ひそかにオーストリア政府に約束したという風聞であった。外国との取引については、金銭の提供ははっきり拒絶したらしいが、一種の取引をおこなったことは事実であり、またマリ・アントアネットに関しては、みずから実際政治家をもって任じる彼として、むしろ進んで外交交渉を有利に運ぶ餌として利用した形跡はたしかにあった。
が、独裁権力をめぐっての微妙な党派抗争が相|鬩《せめ》ぎあっている政治情勢のなかで、こうした事情は反対材料にこそなれ、理解をえるはずはもとよりなかった。醜怪、粗暴、噴火山を思わせるような政敵マラのごときは、ダントン支配の公安委員会を、「公壊委員会」と呼んで痛罵した。そして七月二十七日、ロベスピエールの公安委員会入りとともに、ダントンの運命は事実上決定された。
火の出るような両者の抗争は、完全にダントンの敗北に終った。九月に入ると、彼は、病気と称して委員会にもあらわれなくなった。そして、ついに病気休養の許可を乞うて、故郷アルシへ帰ってしまったのが、十月十三日であった。
しばらく後だが、例のバルザックが、オーブ河に臨んだ「この小さな町は眠りに落ちている。その深い静けさ、これほどよく田舎町の生活というものをしめしているところはない。ここでは生活が完全に因襲化してしまっており、日曜日ででもなければ、訪れた人は、往来でもどこでも、おそらく人っ子一人見かけないであろう!」としるしている。だが、そのなつかしい故郷の町も、いまはもう忿懣の彼に休息をあたえるにはたりなかった。
パリの情勢は、血に渇えた神々のように、狂乱の歯車を回転させはじめた。彼がパリを去って以来、公安委員会は、その独裁権力を強化する手段を、あいついで矢つぎばやに講じていた。そしてその頂点には、つねにロベスピエールがいた。十月十六日には、ついに王妃をギロチンにおくった。「恐怖《テロル》」の怪物は、いよいよ本格的に動きはじめた。半月後の三十日には、ジロンド党領袖の二十二名が、「フランス国民の幸福と安全を危くした陰謀」によって、これまた同じ途をおくられていった。こえて十一月六日にはオルレアン公フィリップ、八日にはローラン夫人があとを追った。パリ前市長バイイも、デュプレも、バルナーヴも、そしてまた彼らとともに、おびただしい男女、子供たちが、処刑台の階段を上らされていた。
そうした十一月のある午後であった。メルジェと呼ぶ甥の一人が、突然パリから訪れて、一通の手紙をダントンに手渡した。「同志は、至急貴下のパリ帰還を待ち望んでいる! ロベスピエールとその一党は、いまや全力を傾けて貴下の没落を計っている」とあった。
「俺の生命を狙うというのか? できるならやってみろ!」彼は、ピクリと肩をすくめて呟いた。
だが、まもなくその彼も、ついに立ちあがらなければならなかったのである。
十一月十九日、ダントン一家をのせた駅馬車は、秋の陽を浴びながら、トロアからセーヌ河沿いにパリ街道を急いでいた。
ふと彼は、一年と少し前、一七九二年八月八日の午後、夏空の下のやはりこの同じ街道を、パリにむけて急いでいた彼自身の姿を思い出した。
「あの日の俺は、ブルボン王家覆滅の決意を胸にして、アルシをあとにしたのだった。そしてみごとそれを成就し、俺は一躍八月十日の英雄になったのではなかったか。そうだ、それならこんども、たかがあのロベスピエール輩、どうして打倒しえないはずがあろうか!」
彼は、幻に酔う人間のように、声高く呟いた。
まるで突進を前にした猛牛を思わせるような風貌――牡牛のような巨大な顔、猪首、むき出しの大きな前額、不恰好にゆがんだ口、ゲジゲジのような濃い眉、その下から焔をでもはなつかのように光る小さな眼、溢れる野性と知性とが奇妙にいりまじったおそろしい形相、――何カ月ぶりかに、ふたたび公安委員会でみられた彼の姿は、たしかにその風貌だけでも、議場を威圧するだけのものはあった。しかも、彼がもつ最大の政治的魅力は、あの大きな鰐口から、ひとたび口を開けば、轟きわたる情熱そのもののような熱弁であった。かつてプロシャ軍の侵攻を前にして彼がふるった熱弁は、それによって侵攻の敵を追い返したとまでいわれた歴史的雄弁であった。「断行、そしてまた断行、永久に吾人は断行しなければならぬ」と叫んだその時の一句は、その後ついに伝説的名句にさえなってしまったほどであった。しかも、彼の返り咲きは、意外にもロベスピエール側からの妥協申し出によって、彼の勢威はふたたび昔日の観をとり戻すかにすらみえた。
こうした機会を、はからずも彼にあたえるかにみえたのは、党内左派エベール派と、さらにこの一派と微妙、複雑な関係にあったテロリスト、直接行動派の存在であった。そしてダントン派にたいすると同様、これらの過激派にたいしても、深い警戒と憎悪をいだいていたのがロベスピエールであった。彼は、ダントンの徒をもって、「自由」を娼婦に堕落させた革命の裏切者であると確信していたように、他方エベールの徒もまた、同じく「自由」を血に渇く獣と化することによって、やがては革命そのものを破壊するにいたる危険分子として憎んでいた。またエベールらの徹底的無神論も、国民の倫理的、政治的支柱として、一種最高普遍の存在を信じようとする彼の信条からは、きわめて不満であった。
革命と共和国の名において、その左右両側に倒すべき敵を見出した彼は、とりあえずまず撃つべき当面の敵として、左のエベール派とテロリストたちを選んだのだ。ダントンにたいして意外にも親愛の手が差しのべられたのも、まったくそれだけの理由にほかならなかったのである。
一応両者の提携が成った十二月三日から、やがてついにエベール一派の失脚によって終る三月十日にいたるまで、表面は妥協、協力を見せながら、しかも裏面にあっては、両派たがいに機会さえあれば相手の打倒をうかがっていたといってもよい。この四カ月間の死闘の錯雑さは、とうていこのような短い紙面で述べつくせるものでない。前にも述べた大きな階級的利害というものをそれぞれ背景にし、しかも抗争の各局面にあっては、実はほとんど革命の大義すら、ときにはそっちのけにして、人間的性格の相違、権力への渇望、すでに同志の間にさえはなはだしくなっていた不安と猜疑、それらのものが、複雑混沌として錯綜しあっていたのだ。はじめは自由と解放の美しい名においてなされた、また事実そのとおりでもあったはずの革命が、いまではすでに血が血を呼ぶ「恐怖政治」の乱舞のなかに、まことにあさましい末期的症状を呈していたのであった。
だが、それらのなかで、一応表面に浮きでて目につくものは、運命の最大皮肉ともいうべき主役二人の性格的対照のいちじるしさであった。
どんな集まりでも群を抜いてそびえる大男、衝立《ついたて》のような肩、厚板のような胸、盛りあがった猪首、まだ三十を出たばかりだというに、すっかり肉がついて、少なくとも十歳は年長にみえたというダントン。赤銅色と評された醜怪な容貌については、すでに述べたが、くわえるに子供のとき受けた怪我で、鼻は曲り、縫い傷はあり、おまけに満面天然痘のあとまであるというのだから、たいていそれは想像にあまろう。はじめ彼を愛し、彼を引きたてていた革命前期の大立者ミラボーは、「わが醜もまた一つの力である」と豪語したほどの容貌の持主であったが、ダントンもまたその点では、まことに得難い後継者であった。しかも、あわせ持つものに、あまりにも有名な百雷の咆哮ともいうべき弁舌があった。「巨人《タイタン》」といい、「一眼巨人《サイクロツプス》」といい、「アトラス」といい、「ヘラクレス」という、いずれもすべて英雄神話的|綽名《あだな》だが、それらがそのまま当時の人々が彼から受けていた印象であったとみてよかろう。彼がはたした偉大な煽動者としての成功の秘密も、また大いにこのへんにあったものと思われる。
それに反して、ロベスピエールは、齢こそダントンよりも一年の年長であったが、身長は五尺二、三寸を出なかったというから、彼等の間では見栄えのしない、むしろ小男だったにちがいない。そのせいか、つねに頭を真直ぐにもたげて、のびあがるような姿勢をけっして忘れなかったといわれる。動作は、無愛想で、せっかちで、悠揚とした様子などさらさらなかったらしい。肉のつかぬ顔が、妙に角張った感じをあたえて、小さく尖った顎と、ひどく飛び出した頬骨とが、特に強い印象をのこした。顔色も多少蒼白さをおびて、「まるで病人か、不眠に疲れはてた人を思わせた」という記事もある。薄いアバタがあったが、醜いというほどのものではなかったらしい。コメカミの張った、広い、秀でた前額、冷酷とまではいかぬが、なにか冷いものの光る灰緑色の眼、鼻筋のとおった、強い感じの鼻、大きな、薄い唇の口もと――たいていはそこに、妙なやさしさと皮肉とのまじった微笑が、かすかに浮んでいるが、それが消えると、なにかちかづきがたい厳しさを感じさせる。甲高い声。が、抑揚に美しい節度があり、芝居めいた身ぶりなどはほとんどなかったが、細心に選ばれた言葉とともに、説得性においては、ダントンのそれとはまた異った意味で、屈指の雄弁家の一人であった。おそらくこれなしには、晩年の独裁的権力をあつめることはできなかったであろう(筆者には、不思議と徳田球一の演説と野坂参三のそれとが思い出される)。彼については、挙動上のいろいろな奇癖が伝えられている。神経質そうに両こぶしを握り締める癖、両肩をたえずピクピクさせる癖、眼をしょぼつかせる癖、これはおそらく後年しばしば身辺の危険にさらされるにつれてついたものであろうが、ときどきすばやくチラと頭を左右にまわしてみる癖、等々。だが、そこには一貫して、背後にあるひとつの精神像をありありと浮びあがらせてくれるものがあったのではあるまいか。
体格、容貌の対照は、そのまま性格の対照でもあった。
裕福な良家にうまれ、高い教育も受けてはいたが、結局するところ、ダントンは、強烈な情感の人であった。暴風のような兇暴と、いかにも男性らしい心の大きさ。屈託なさと冷嘲的皮肉。ラブレー風の享楽好きと途方もない奇想。道徳的には放埒無慙であったが、いっぽうには誰もあげる友情の厚さ。言語、挙動におけるひどい粗暴さにもかかわらず、一面には、家庭人として妻や子供にたいする愛情の濃《こまや》かさ。
彼の狂的な感情生活を伝える有名な挿話は、一七九三年二月、最初の妻ガブリエルの死に関してである。夫の愛情だけでいきていたこの平凡な妻は、革命運動に狂奔する夫の身を案じるあまり、焦心の末、生命をちぢめたといわれる。妻の死に居あわせなかった彼は、七日目に急ぎ帰宅すると、墓を掘らせ、すでに死後七日になる愛妻の柩を開かせて、屍衣をかかげながら、最後の熱い接吻をその額にあたえたといわれる。しかも、わずか半年の後、七月には早くも十六歳の少女ルイズと結婚して、愛撫いたらざるなかったというのも、いかにもダントンらしい。
ただ一つ、彼のうけた攻撃のうち、彼のためにもっとも惜しむべきは、金銭に関する不明朗さにあった。そのために、彼の政治的生涯にわたり、いくどか糾弾をうけているが、それは積極的な貪欲というよりも、浪費家ののんきさからくる不潔癖さであった。晩年から死後にかけて、彼の上に浴せかけられた攻撃は、数を知らない。九月虐殺事件を蔭で操った人物だとか、王室、のちにはイギリスのために、秘密暴動挑発者《アジヤン・ブロヴオカトウール》の役をつとめたとか、しかも、それらのほとんどに金銭の授受、買収の疑いがかかっていたのである。今日そのほとんどすべては、証拠不明ということになっているが、容疑そのことがすでに、彼の生涯における大きな汚点であったことは疑いない。
それに反して、ロベスピエールの不朽の綽名が「清廉家《アンコリユブテイーブル》」というのであったことは、もちろん個人的倫理の点において、はるかに彼をダントンの上に置くものであるに相違ないが、しかも実際政治家としては、このことがかえって大きなマイナスになっていた事実もまた、虚心に承認すべきであろう。
まるで清教徒的な潔癖さ。律儀いっぽうの、ときには杓子定規にすらなりかねない理想家肌。よい意味にも悪い意味にも、ダントンのような幅の広い政治的動きなどは、とうてい彼にはできなかった。そのかわり私生活においては、性的にも、金銭的にも、一点の道徳的汚点もなかった。一口でいえば、いわゆる堅造なのである。終生独身で、行状においておよそ正反対のダントンのごときは、ひそかに彼を「宦官《かんがん》」と呼んで軽蔑していたくらいであった。直線的な正義派で、そのことが、典型的な小市民階級出身であるにもかかわらず、最後まである程度民衆の味方として歩むことをさせたのであろうが、同時にそれが冷く、狭い独善的な衒学屋に仕立てあげたことも事実であった。彼の名は、かつてブルジョア史家たちによって、不当なまでに恐怖政治の推進者であったかのごとくゆがめられたために、あたかもなにか酷薄無比の冷血漢といった先入見がつくられてしまったが、事実はむしろきわめて心やさしい感傷家でさえあった。子供のときから彼の愛鳥趣味は有名な話で、すでに革命の大立者になってからでさえ、チュイルリで反動派弾圧の非常策にたいし、冷然と断をくだした直後に、ひとり庭に出て雀の群に餌をやっていたという話は名高い。カナリアをことに愛し、それについては美しい手紙が幾通か残っている。ダントンの妻が死んだときの慰めの手紙なども、すでにおたがい両立しえない抗争関係にありながら、行間にあふれる真率の情は、惻々として胸に迫るものがある。
ゲーテはナポレオンを評して、文学青年に失敗したことが、彼を独裁者にしたという有名な警句を吐いているが、偶然にもロベスピエールについても、そのとおりであった。彼もまた青年時代には、文学を志して、詩、散文と、あらゆるものを書いたが、成功しなかった。しかも彼の文学は、気の毒なほど修辞の彫琢だけに腐心しているが、かんじんの情感において、凡庸、稀薄で、とうてい見込みはなかったという。
まだまだ対照を拾いあげていけば限りがないが、これだけでもこの二人の出あいが、いかに宿命的な悲劇を孕むものであったかは、想像ができよう。裸で二人を結びつけておくだけでも、この両者の心身の対照は、相互にきわめて複雑な劣等感と優越感の入りまじったものを、おのずから生み出したにちがいない。それぞれ二人が代表する階級的利害が、両者を運命的な死闘に導いたものか、それとも二人の資質上の対立が、それぞれをその代表する背景的市民層にむけて結びつけたものか、けっしてそれは単純な割切りだけで説明しつくせないように思える。
一七九四年三月十三日(風月《ヴアントーズ》二十三日)、冷たい冬空の光に明けたパリの民衆たちは、たちまち青天の霹靂ともいえる風聞に、朝の夢を破られた。エベールと、そして彼をめぐる一派の指導者たちが、それこそ十把一からげに、夜の間に逮捕されてしまったというのである。
ロベスピエールにとって、勝利の機会は案外無造作にやってきたのだった。反エベール勢力の結束を、もちろんエベール自身とても気づいていないではなかった。いや、むしろ先制反撃に出ようとさえした。三月四日、コルドリエ・クラブにおける集まりでは、根は案外臆病なエベールも、流石に立って痛烈なロベスピエール弾劾演説をやった。「飽くなき権力欲に飢えている徒輩」とまで痛罵した。そして、もちろん先手をうって、民衆蜂起を煽動した。だが、意外にも彼が発見したものは、彼の煽動にたいして、いっかな動かない聡明な民衆であった。もはや真の革命のためではなく、単に党内政権欲にからまる私闘にしかすぎないものにたいして、ほとんど直感的にその欺瞞を見破るところまで、革命は彼等を成長させていたのだった。
まもなく彼等の運命はきまった。三月二十六日(芽月《ジエルミナル》五日)、革命裁判所は、ほんの形だけの裁判のあと、残らず彼らをギロチンへ送った。生前、もっとも多く他人の頸を求めつづけてきたエベールだけが、自分の場合は、もっとも醜い死に態《ざま》を見せた。
エベール派の失脚は、そのころ病気でほとんど公開の席にこそ姿を見せなかったが、すべて有名な、ロベスピエールのいわゆる青い密室での構想がもたらした勝利であった。だが、一面には、それはダントン一派の輝かしい勝利とも見えた。「虎どもは、森の中でたがいに噛みあわせておけばよい」と平生豪語していたダントンの言葉が、みごとに成功したかにも見えたからである。ことに悪かったのは、ブルジョアジーどもが、その階級的利害からもあって、このクーデタを完全にダントン派そのものの勝利と勘ちがいしたことであった。
だが、両虎のいっぽうが倒れてしまったあと、ダントンの運命のきまる日も意外に早かった。まず新しいこの形勢は、ひどくロベスピエールを刺激した。ダントンをめぐる幾多の節操上、金銭上のスキャンダルにたいしても、これまでは一応むしろ弁護の立場をとって来た彼であったが、それから数週間後には、すでにはっきりダントン打倒を決意している。なにが急にこの決意を促したか? 実は厳密にいうと、今日もなお大きな謎の一頁である。それだけに穿《うが》ったいくつかの解釈もある。
たとえば 「 堅造《アンコリユプテイーブル》 」
ロベスピエールの生涯にも、わずかにただひとつ、薄桃色にもならぬほどだが、とにかく色彩を添える挿話がなかったわけではない。デュプレエ姉妹との友情がそれである。ところで、姉妹のひとりエリザベートというのが、ある日、地方のさる別荘で、はからずもダントンにあった。おたがい未知の初対面だったが、そこは女とあっては目のないダントンのこと、しばらくたって二人きりになると、たちまち暴力に訴えて、挑みかかったというのである。女のほうは、ようやくふり切って逃れたというが、たまたまこの話を彼女から訴えられたことが、ついに最後の決意をロベスピエールにとらせたのだという説もある。
もっとも、さすがにダントン自身も、迫りつつある身辺の危機は察していた。そのころこうした悪化する両者の抗争を心配して、ひそかに二人をあわせて和解を策した共通の友人があった。が、結果は不幸にして無駄であった。「大理石のような」ロベスピエールの冷たさは、最後までついに解けなかったという。さきに席を立って帰ったのは彼であったが、送り出したダントンは、扉を閉めるのといっしょに、噛んで吐き出すように言いはなった。
「畜生! こうしてはおれんぞ。一刻も大事だ!」
だが、彼は、衝動的行動の英雄ではあっても、緻密、周到な計画的実践の人間ではおよそなかった。それに、さらに悪いことは、いかにも彼らしい粗笨《そほん》な東洋流豪傑気取りで、豎子《じゆし》なにするものぞという、くだらない虚栄心が終始わざわいした。
「ロベスピエール! なに、あんな小僧、俺のこの拇指《おやゆび》の腹にのせて、コマのようにキリキリ舞いさせてやるから!」と、かつて公然豪語したことさえある。だが、その報いを受けなければならなかったのは、誰あろう、彼自身であったのだ。すでに三月七日ごろから、身辺の危険について、同志たちからの警告が再三あった。例によって、すくなくとも表面は、なにするものぞ、と笑って一蹴していたが、内心はかならずしも不安な予感を感じていないわけでなかった。そして運命の日は、ついに三月三十日(芽月九日)にきた。
その晩おそく、彼は、住み馴れたクール・デュ・コンメルスの自宅で、美しいルイズとともに、炉端に坐って、静かに燃える赤い火を眺めていた。そのときだった。あわただしい同志からの使いが訪れて、保安、公安両委員会が、同夜ついにダントン派一括逮捕の決議案に、わずか二人を除いて、全員の署名をえたことをつげた。最初はほとんど興味なさそうな様子で、言葉もなくオキ火をかきおこしていたが、やがて立ちあがると、肱椅子に腰をおろして、そのままウトウト眠ってしまった。ベッドで臥ているところを襲われたくなかったからである。
三十一日、早朝とはいえ、まだ春寒い夜の闇の濃いころ、彼は、ひとしきり舗道に乱れる靴音がして、やがてかすかに表の扉口をノックするもののいるのを聞いた。予期したもののように立ちあがると、静かにルイズをかえりみて、
「捕えにきた!」
堰《せき》をきったように、若い女のむせび泣きがあがった。が、それには、またしてもいつものような機械的な言葉が答えただけであった。
「なに、怖がることはない。奴らになにができるものか」
そして数分後には、なにひとつ抵抗をしめすこともなく、静かに近所のリュクサンブール監獄へひかれていった。ほかにデムラン、ドラクロア、フィリポー、ファーブル、ラクロアなどの同志が、運命をともにしたことはいうまでもない。
裁判は、四月三日(芽月十三日)から開かれた。同日、彼らは、リュクサンブールから、すでに何百人かの政治犯人がおなじ運命へと急いだコンシェルジュリ牢獄へと移送され、そのまま革命裁判に付せられたのであった。起訴理由は、「王政を再興し、国会並にフランス共和制を破壊せんとする陰謀」というのであった。革命裁判所の門を入るとき、ダントンは、憮然として呟いたといわれる。
「そうだ、これはちょうど一年前の、しかも今日、自分がすすめて創らせた革命裁判であった。こんなものを創った私を、神も、そして世の人々も、許し給え。私は、またしてもあの九月虐殺のようなことのおこるのを、防ぐために創ったのだが……」
法廷――それは、いまでこそ壁掛織《タペストリー》も絨毯もはぎとられ、ただ粗末な腰掛が形ばかりならんでいるだけだが、かつてルイ王朝華やかであった頃には、パリ最高法院の大法廷だったものであった。一段高い壇上には玉座がおごそかに鎮《しず》もり、床には百合の花模様を浮織した豪華な絨毯がしきつめられている。そして背後の壁面からは、デュラーの傑作「キリスト」が、その深い憐憫の視線をたえず裁く罪の人、裁かれる罪の人の上に注いでいたものであった。だが、いまはすべての旧い光栄ははぎとられ、わずかに残る青と金の大天井、黒白の床の大理石、それらがかえって墓場にも似た重苦しい陰惨さを印象づけていた。
裁判長はエルマン、検事は、そのおそるべき悪名によって不朽であるフキエ・タンヴィル。そして審理は三日間にわたっておこなわれた。だが、それには、かつてジロンド党裁判中に立法された「審理促進に関する法」というものを、まず頭において考えなければならぬ。それは、裁判に十分の審問をつくす必要はない。三日間審問をつづければ、あとはうちきって、ただちに陪審員の答を要求してよいという、最初からあまりにもあきらかな政治裁判であった。
このような裁判について、細々と跡を追うことは、余裕もないが、無駄であろう。ただ目につくのは、こうした絶好の機会をとらえては爆発する、ダントン得意の百パーセントの大演技者ぶりと、そしてまた独裁権力者がつくり上げるデッチあげ裁判のおそろしさである。
ダントンは叫んだ。
「かつては、あまりにもしばしば人民のために、そしてまた人民の利益を守るために、叫ばれた余のこの声が、たかがこのような中傷を破り去るになんの造作があろう。余を誹謗する卑怯者たちよ、面と向って余を攻撃する勇気のあるものがいるか? かつて余が叫んだ言葉を、もう一度ここにくりかえす。やがてまもなく、暗黒の空虚が、余の住家となるであろう。だが、余の名は、必ずや歴史のパンテオンに刻まれるに相違ない。余が頭はここにある。一切の責任は、この頭がおうであろう」と。そして怒りとおごりにみちた身ぶりで、大きく一つ法廷を眺めまわしながら、「余はすでにあまりにも長く働きすぎた。生きることが重荷になった。あえて要求するが、すべからく公会は人民委員を任命して、独裁者機構にたいする余の糾弾を受理されんことを。しかり、余、ダントンは、いまやその正体をあらわしつつある独裁者の面皮を、あますところなくはぎとってみせるであろう」
ダントンを先頭とする被告たちの、果敢な、しかもまた正当な抵抗は、一時裁判そのものをすら動揺させ、ひいては民衆蜂起の情勢さえ伝えられて、さすがの検事フキエも、ついになんらかの処置を請う手紙をひそかに公会におくっているほどである。だが、最後の瞬間に彼等の運命を決したのは、突如として奇蹟のようにあらわれた一通の文書と、そして陪審員への大きな政治的圧力とであった。
一つは、ラフレットと呼ぶリュクサンブール在獄中の一無名青年が、獄中における政府顛覆の反革命共同謀議の証拠書類なるものを提出し、それが背後においてダントン一派につながるものであることをつげた。この文書が、きわめて疑わしいものであることは、今日では明瞭だが、当面の効果はテキメンであった。さらに陪審員にたいする圧力については、ある一人のごときは、「ダントンとロベスピエールと、どちらが共和国のためにより大事か?」「ロベスピエールです」「よろしい! では、ダントンは、ギロチンへおくるほかあるまい」というような誘導的質問さえうけたといわれる。判決の猿芝居は、四月六日(芽月十六日)の午前、おごそかにくだされた。もちろん被告十四名のことごとくが死刑。処刑は、その午後ただちに行われた。
すばらしい快晴であった。澄みとおるような蒼空。いっせいに花をつけた樹々。かつての日の英雄の死をみるために、街々を埋めつくした民衆の上に、傾く春の陽が流れていた。死刑囚たちをのせた護送車が、コンシェルジュリを軋り出たのは、もう四時に近いころであった。ゆっくり街々をまわって、刑場の革命広場《プラース・ド・ラ・レヴオルーシオン》に着いたときには、もうすでに夕陽が背後の空を赤く染めかけていた。死刑執行人は、ひどく彼等を急《せ》き立てた。急がなければならない。日没までに十四の頸を切り落さなければならないのだ。
車からの降りぎわに、同志の一人がダントンに最後の抱擁を求めようとして、刑吏にへだてられた。ダントンはかすかに笑った。
「馬鹿な奴さ。僕等の頭が、あの籠の中で接吻しあうのを邪魔できるとでも思っているのか?」
彼は、一番最後に同志たちの血を渡って、ギロチンにあがった。胸いっぱいにこみ上げるように、「ああ、愛する妻よ、もう二度とあい見ることはできないのか?」が、また思い返したように、「さあ、ダントン、弱気はダメだぞ!」と叫ぶと、刑吏に向って、「俺の首を民衆に見せろ! じゅうぶんそれだけの値打ちのある首だからな」だが、次の瞬間には、巨大な頭は、永久に胴体を離れて、籠の中に転落した。あたりはほとんど暗くなっていた。
エベール仆《たお》れ、ダントン亡きあと、ロベスピエールの独裁は、完全に絶頂に達した。いっさいの権力が、ただひとつの公安委員会に集中したことは、そのままほとんどロベスピエール個人に集中したもおなじであった。しかも四月末以後、ギロチンはいよいよ血に狂った。もはや政治関係者にとどまらなかった。有名な化学者ラヴァジェ、ルイ王の妹エリザベートとその可憐な姪まで、その毒刃の犠牲になった。一七九三年四月、革命裁判所が開設されて以来、翌九四年六月までに、それは三千人ちかい犠牲者をギロチンにおくり、ひどいときは、一日五十数名を一からげに処刑した日さえあった。
だが、血によってたつものは、血によって復讐される。ロベスピエール独裁への抵抗は、単に王党、反動派ばかりでなく、血に飽満しつくした民衆そのものによって育てられていった。彼らは、ようやく秩序を求めはじめていた。抵抗運動の露顕は、五月末、あいついでおこった彼の生命を狙う暗殺未遂事件となってあらわれた。そして、それはまもなく保安委員会の中に、ようやく大きな政治的動きになって発展しはじめたのであった。が、それだけにロベスピエール、およびその盟友であるサン・ジュストらによって促進される弾圧も、輪をかけて血迷ってきた。ことに前に述べた暗殺未遂事件などに怯えたものか、六月十日(草月《プレリアル》二十二日)に強行成立させた改正革命裁判法のごときは、なかでも悪法の最大のものであった。ここではすでに証拠裁判は棚あげされて、裁判官はもっぱら心証によって、勝手に死刑を宣告することができるというのである。はたしてこの法の成立以後、恐怖政治は最後の末期的狂乱状態に入り、七月二十八日のロベスピエールの死まで、わずか四十日あまりに、実に千四百人ちかい人間をギロチンにおくったという数字をみても明らかであろう。
自由の名において生れた革命にとって、これは終幕の一大悲劇であった。民衆の幸福を目的に立ちあがった人々が、もはや民衆を、いや、自分以外の誰をも信用しなくなったのである。それはもうどうしようもない悪魔の大きなメカニズムに似ていた。プレリアル法案とともに、ロベスピエール一派の施政にもっとも悪名高い「風月《ヴアンドーズ》法案」なるものがある(一七九四年二月制定)。この法など、提案者の動機においては、完全に正しいものであった。すなわち、ロベスピエールは、おそらく当時の革命家中、革命の経済的意義についてもっとも正しい洞察をもっていた一人であろう。彼は、いかに革命が一応成功しても、富が社会的に旧貴族やブルジョアに握られているかぎり、いいかえれば、民衆の貧乏がなくならないかぎり、真の成果は期せられないことを知っていた。だからこそ、同法は、そうした特権をいっさい破壊するもっとも革命的な立法であったが、しかも、いまや民衆を信ぜず、民衆に信じられなくなっては、立法者自身によって、いたずらに濫用されるばかりであった。
ここにいたっては、崩壊は意外に早く、かつ脆かった。熱月《テルミドール》八日(七月二十六日)、彼は国民公会で政敵の陰謀を痛撃する演説をおこなったが、完全に弥次り倒された。いまや公会に対する操縦力はうしなわれた。さらに翌九日の公会は、ついに圧倒的な数で、彼の逮捕を可決してしまった。まさに午後六時、いっさいは終った。「革命裁判に出よう。言い開きの自信はある」という一語を残して、同志サン・ジュスト、クートン等とともに牢獄へ引かれていった。
だが、彼の運命には、まだ最後の数奇な変転の幾コマかが用意されていた。なお彼の革命的精神に心服する少数同志は、その夜おそく彼らを救いだして、とりあえずコンミューンの本拠であるパリ市庁に立てこもった。市庁の内外には、彼らをまもる市民兵と群集が集まって、気勢をあげていた。ふたたび運命は、彼の上に微笑みかけるかに見えた。が、それからまもなく、おそらく歴史上永遠の謎かもしれぬ、いくつかの奇妙な出来事が、あいついで起ったのであった。
深夜一時すぎ、どうした理由か(おそらく事なしとみて、明日への休養にでも引き取ったものか)、集まっていた市民兵と群集は、ほとんど四散してしまい、あとはきわめて小部隊の武装兵が残っていただけであった。しかも、まもなく二時前ごろ、ロベスピエールは、市庁の奥の一室で、五十人近くの同志に囲まれていながら、下顎をピストルで無慙に砕かれたまま、血に塗れて横たわっていたのだった。暗殺犯人は、護衛兵の一人メルダと呼ぶ十九歳の青年であった(因《ちなみ》に、この場面は最大の謎であり、マチエの如きロベスピエール研究の最高権威学者すら、自殺未遂説をとっている)。
翌二十八日の夕方、型どおり同志とともに市民たちの嘲笑のなかを革命広場へおくられた。瀕死の重傷にもかかわらず、しっかりした足取りで、介添人ひとりもなく刑場の階段を上ったが、執行人が手荒く繃帯をむしりとったときだけは、さすがに一瞬苦痛の声をあげた。
刃は落ちた。ギロチンの背後には、ダントンのときもそうであったように、かつてあのローラン夫人をして、やはり死に臨んで、「自由」の名において、いかに多くの悪がおこなわれるかを嗟歎せしめたという、「自由」の女神像が、静かに見なれた光景を見まもっていた。
革命は終った。
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最初の世界市民
――トマス・ペイン――
一七七四年十一月三十日。
秋晴れにすみわたった午後、デラウェア河の川波を、フィラデルフィアに向ってさかのぼってゆく一隻のイギリス船があった。街の赤屋根が点々として指呼の間に現れはじめ、やがて船が九週間の長い船旅に疲れた船体を、静かに埠頭に横たえおわったとき、ひさかたぶりに踏む大地の感触を思い描きながら、足どりも軽く船腹を流れ出した人群にまじり、これはひとり、病人用担架で運び出される男がいた。弊衣、破靴、薄汚れた顔には、見るからに無精髯を伸びほうだいに残した中背の四十男だった。上衣の腕下にはところどころ裂けめさえ見え、ズボンの膝のあたりは見る目もしるく、紙のようにうすくすりへっている。頑丈な肩、節くれだった太い指などは、明らかに粗い労働の鍛えを思わせたが、そのくせ全身をつつむ濃い疲労の影には、目に見えて憔悴が著しい。しかも航海中に船内で発生したチフスに彼もやられ、一時は生命のほども危かったのである。浮浪者? 人生の敗残者?
だが、ただきわだって特徴的な鷲鼻、濃い険しい眉の下に、異様に光る鳶色の二重瞼の眼――それだけが、でなければ、めずらしくもなんともない、この一介の衰残者のなかに、なにかただならぬものを強く印象させるのであった。
とても身動きなどできる状態でなかった。だが、何かをもう一度たしかめるかのように、重たげな片手を動かして、そっと上衣の内懐のあたりを押えた。
そこには古ぼけた、シワだらけの大きな封筒がひとつ。片隅にはベンジャミン・フランクリンという差出人の名前が、例の特徴ある書体で鮮かに浮き出ていた。
それから一年と一カ月あまり後。
一七七六年一月十日であった。フィラデルフィアの一出版書肆ロバート・ベルというのから、『コモン・センス』と題する一冊、匿名のパンフレットが出版された。定価は二シリング。やっと五十頁そこそこの片々たる小冊子にすぎなかった。
俄然奇蹟がおこったのである。匿名のこの小冊子は、まるで物にでも憑かれたかのように、みるみる暴風のような売行をしめしはじめた。数カ月後には、植民地軍司令官ジョージ・ワシントンの野戦行営の机上にもちゃんと見出されたし、同時にまた、奥地森林開拓地の丸太小屋のなかででも、あたかもそれは餓えたものへの水のように、手から手へと、ページのすりきれるまで、貪るように読まれていた。ほとんど手刷りにちかい当時の印刷術のこととて、出版書肆ベルはいくら追刷りをかけても、とうてい需要に応じきれなかった。いくつかヒョウセツ版も現れた。通俗小説の売行をもってしてさえ、千五百ないし二千部をせいぜいとしたそのころの植民地社会で、発売わずか二週間にしてたちまち一千部を売り切り、三カ月後には早くも十二万部を売りつくしていた。さらに後世伝記者の推定によると、売行はイギリス本国からフランスにまでもおよび、結局するところ、ほとんど五十万部は売れたであろうといわれている。よしこの厖大な数字が多少の誇張であるとしても、なおその奇蹟的売行であった事実にはすこしも変りない。
当時のアメリカ植民地は、まさに文字どおり革命の前夜にあった。十数年来ことごとに険悪さを加えていたイギリス本国対植民地の関係は、前年(一七七五年)以来もはや平和的収拾は絶望という段階にまで追いつめられていた。同年四月、あいついで突発したいわゆる「レキシントン虐殺事件」、「コンコード橋の衝突」は、ついに両軍の間に銃火の交換と、その犠牲とを出すにいたっていた。従来の単なる抗議、抵抗という基本方針は、さらに進んで本国からの分離という方向に急激に変化しつつあった。しかしながら、なおそれにもかかわらず、大陸会議(Continental Congress) に集った植民地指導者群である上層階級の態度は、完全独立といい、共和制というごとき、ラディカルな決断などにはとうてい達していなかった。心情的には、まだまだイギリス本国は、そしてまた王室は、なつかしい祖国であり、深い紐帯であったのだ。
ところが、ある意味では不徹底なこの中間階段を、極端にいえば、一日にして革命、独立、共和制へと変えてしまったといわれるのが、上述の実に片々たる匿名の一小冊子『コモン・センス』であったというのだ。ある史家は、「アメリカ革命の真の製造者は英王ジョージ三世と『コモン・センス』であった」とまで極言している。かりに多少の修辞的誇張は考慮に入れるとしても、すくなくとも『コモン・センス』が今日のアメリカ合衆国形成を決定した最大要因のひとつであったという評価は厳として動くまい。近代の奇蹟がおこったのであった。
閑話休題、小冊子『コモン・センス』の著者が新来の一イギリス人、そしてフィラデルフィアのジャーナリスト、トマス・ペインなる人物であることは、当然まもなく広く知れわたった。彼の名はたちまち、農家の炉辺といわず、軍隊行旅の間といわず、奥地森林の開拓地といわず、植民地という植民地の「家庭語」になり、まもなく彼のために「ミスター・コモン・センス」なる諧謔的通称さえうまれたほどであった。文字どおり、一朝眼覚むれば、その名|宇内《うだい》に高きを知って、彼自身まず驚いたほどであった。だが、トマス・ペイン――その彼が、わずかに一年前、孤影悄然、完全に尾羽打ち枯した人生の落伍者として、はじめてフィラデルフィア市埠頭の土を踏んだあの中背の四十男と、まさかに同人であると気づいたものは、おそらく一人としていなかったであろう。
革命児トマス・ペイン、市民トム・ペイン、そしてまた不朽の著『人権論』(Rights of Man)、『理性の時代』(The Age of Reason) の著者としてのペイン、革命に生き、革命に死んだペイン、――だが、奇妙なことに、棺を蓋ってすでに百年、彼をめぐる評価ほど、今日なお毀誉褒貶、その差のひどい人物もめずらしい。悪評は、かつての大統領シオダー・ローズヴェルトの「けがらわしい小人」(filthy dirty man) というのを筆頭に、悪意的伝記者の側から投げかけられたものはすべて、無神論者、煽動家、乱酔者、性的倒錯者、イカサマ師、等々という評語であった。いっぽうまた好意ある伝記者のそれは、あたかも彼を一個不幸なまでに純粋な理想家、ヒューマニストとして持ちあげる。もっとも、近年の歴史的評価は、むしろ彼のためにきわめて好意的であるのを特徴とするようであるが、それすら今日なおもっとも権威的な伝記者とされるコンウェイをもってしてさえ、いささか無批判的なまでの過褒に溺れているありさまだから、いよいよもって始末が悪い。
結局するところ公平にみて、彼がアメリカ革命を通じ、ある意味ではアメリカ人以上に純粋に革命の理想に奉仕した人間であったことは疑いないし、また後年フランス革命の渦中に投じてからも、それはすでにジロンド党的小市民の立場ではあったにせよ、それはそれとして、時にはギロチンの脅威を冒してまでも、終始ヒューマニスティックな政治的節義に殉じた点には変りなかった。さらにはまた七十年の生涯を通じて、彼がある場合には時代に先んじてすら、共和主義と徹底した平民主義とに終生一貫した理想家であったことも事実である。だが、さればといって、彼が思想家としてけっして一流の独創的人物でなかったことも疑いない。多少極端な言い方をすれば、要するに傑れた一個の政論家であったというにすぎぬかもしれぬ。そして彼が有徳善良ないわゆる模範的市民であったなどということは、どうヒイキ目に見てもいえぬ。蓬髪、弊衣、まことに礼にならわぬ野人振りは、いわば宿命的な彼の天性であった。加えるに酒という彼にとっての終生の悪魔がいた。さらに生れつき平凡な結婚をして、平凡な家庭に平凡な平和を見出しうるていの人間でも彼はなかった。
ところが、由来革命というような暴風雨の時代には、えてしてこうした必ずしも第一流(と、もしそうした言い方があるとすればだが)ではないが、型破りの特異的な人物を、あたかも時代の最大の指導者ででもあるかのごとく、たちまちにして華やかな脚光の下に登場させる運命の悪戯が決してめずらしくないのである。と同時にまた、いわゆるブルジョア民主革命の常として、当面革命の暴風一過、ようやく建設的反動期に入り、ふたたびお上品な紳士階級たちの支配機構が整備されはじめるとともに、往々この種性格が実際以上に「イカガワシイ」人物として非難排斥をこうむることになるのも、ある意味でやむをえないといえばいえる。ペインもまたまさにそうした一人であったのである。しかも加えるに彼の場合は、アメリカ清教主義《ピユーリタニズム》という厄介きわまる特殊事情までがからまった。ニューイングランドにおける神政政治の支配こそ、すでにほとんど崩壊していたとはいえ、なお清教主義伝統の浸潤は、容易に磨消しきれぬ、想像以上に根強いものを、その社会的モラルのなかに植えつけていた。こうした場合、既成宗教への挑戦は、ただちに彼自身社会の敵として烙印される運命を当然覚悟しなければならなかった。しかもペインは実にそれを大胆率直にあえてした。後述するように、今日彼の著書のどこをみても彼を無神論者とする証拠はひとつもない。しかし他面彼が理神論《デイーズム》を奉じて、既成キリスト教の、わけてもその支配機構を攻撃することにおいては、彼独特の歯に衣着せぬ痛烈、明快な修辞をもって、毫も仮借するところなかった。聖職者と、および善良な清教徒市民を音頭取りにして、たちまちあらゆる誹謗と醜名とが彼の頭上に落ちきたったことは少しも不思議でない。
ところで前置きが長すぎた。一七三七年、最初の世界市民、天性のコスモポリタン、トマス・ペインの誕生へと急ごう。
南イングランドはノーフォク州の小さな町セットフォード――、一七三七年一月二十九日、町の貧しいコルセット職人ジョゼフ・ペインに男の子が生れた。トマスと名づけられた。未来の革命家の誕生である。父は母親より数歳の年下。彼はクェーカーだったが、妻は国教会派信徒であった。半農、半工、わずかな畑から乏しい収入をあげるいっぽう、婦人用コルセット作りが家業でもあった。父親はしごく平凡な好人物だったらしいが、母親のほうはひどく気難し屋の変人であったという。だが、それよりも重要なのは、彼が幼時から厳しいクェーカー教派の道徳教育を施されたことであった。むろん後年の彼は、いっさい既成キリスト教を認めず、クェーカー教派に対しても、その慈善愛他行為のほかには、むしろ冷罵を浴せかけているが、しかし生涯彼がほとんど劇場に出入りせず、カルタの趣味をついに解しなかったなどは、この幼時の家庭教育の余殃《よおう》であったかもしれぬ。
「一シリングの小遣いをもらうにも、両親は工面に苦心した」と後年回想している彼の家庭が、彼にじゅうぶんな学校教育を施しうるはずはなかった。十三の時にはすでに学校を退いて、家業のコルセット作りを仕込まれている。ついに学校教育は後にも先にもこれだけ。「語学の勉強は嫌いだったが、自然科学の課目には生れつき興味があった」と、これも彼自身の回想にみえるが、数学はことに得意であったという。家業の見習いはそれでもおとなしく四年あまりつづいたが、やがて痼疾たるべき放浪癖と、晏居《あんご》を許さぬ「神聖な焦躁」とは、このころからようやく彼の身内にあって動きはじめていた。
だが、四十歳までの彼の半生は、一口にいえば完全な人生の失敗者であった。
十六の時にはついに家を飛び出して船乗りになった。一度は船のうえから追手の父親に引きもどされたが、素志断ちがたく、またしても私掠船《プライヴエテイア》にボーイとして乗組んだ。しかもこの海上生活から彼がえたものといえば、それは彼にとっての終生の悪魔、酒の味を覚えたことだけであった。当時の野蛮な船乗り稼業では、船長以下幹部乗組員たちは飲んだくれては下級船員を殴る、蹴るの地獄船生活であった。少年トマスの身体はほとんど生傷の絶え間がなかった。苦痛を忘れるただ唯一のみちは、こっそり船長のラム酒をチョロまかしては、乱酔することだけだったのだ。しかもそれとてもふたたび新しい殴打の口実をつくるに役立つだけ。ついに苦痛に堪えかねて、一日船がロンドン郊外に仮泊した隙に、テムズ河に身を投じて脱船した。十九歳。だが、それから数週間の彼の生活というのは、この大都市の貧民窟のドン底において、泥棒とスリと売笑婦と、そしてまた夜を日についでの泥酔の日であった。
だが一日、彼は断乎として禁酒を決心すると、面白いことに再びあの嫌いなコルセット職人の徒弟奉公に住み込んだ。しかも一度行状あらたまるとなると、今度はシェイクスピアはもとより、スウィフト、デフォー、フィールディング、その他あらゆる当代文学の耽読がはじまった。そればかりではない。地球儀を買い込んだり、哲学、機械工学の講義を熱心に聴講したり、王立協会《ロイヤル・ソサイテイ》の会員で、当時一流の天文学者ベヴィス博士に識られたなども、すべてこのころの彼の一面であった。だが、同時に彼の双面神《ヤヌス》的性格がいよいよ歴然と現れはじめたのもこのころからであった。禁酒一年、決心はたわいもなく崩れた。一面には稀に見るこの好学の秀才も、頭を回せばたちまち巷間不良のグレン隊のひとりにすぎなかった。しかもその間いちばん相棒の不良仲間が盗みをして捕えられ、目のあたり絞首台に吊し上げられるのを見せられたり、親方の細君に懸想されてみたり、身辺はなはだ多事であったが、かれこれするうちに、またしてもコルセット作りも嫌になり、靴屋の徒弟に鞍がえした。いや、この怖ろしく、見事なまでに腰のすわらぬ青年の経歴を、これ以上順序をおうて述べる煩にたえないが、とにかく三年後の一七五九年、ようやく一人前のコルセット職人として独立するまで、彼がかじってみた職業だけでも、なにしろ上記のほかにまだ職工、彫師、裁縫師、土工、植木職、等々におよんでいるという始末であり、したがって、当然その間転々として歩いた町村の数だけでも、ロンドンをはじめ、実に八つに達しているのだから、ただもうこれは呆れるよりほかにない。だが、故郷忘じ難しとでもいうのか、職を変えるごとに、何度か窮すれば、またしても家業のコルセット作りの修業に帰っているのは面白い。
だが、お蔭で二十二歳の春にはとにかく一人前の職人になり、サンドウィチという南英の小さな町で独立で店を持ったことは前述のとおり。そしてまもなく、かりそめの縁で知りあった、さる家に女中奉公をしているという孤児の娘と結婚した。だが、商売の方はたちまち左前、一年とはたたぬ新夫婦は、てもなく夜逃げ同様のていたらくで逃げ出したばかりか、途々飢餓に迫られた彼は、まず殺人だけを除いて、ほかはほとんどあらゆることをやったらしい形跡がある。そしてまもなく、この不幸な若い妻は、同棲わずか一年、妊娠と栄養不良と熱病とで死んでしまった。
さすがの彼も一時は途方に暮れたが、幸いある知人の世話で、こんどはひどく見当ちがいの収税官吏にしてもらった。柄にもなさそうな仕事だが、不思議とこれが案外につづいた。もっとも、五年目の一七六五年にはいちど首になっている。理由は、当時の税吏の風習であったとはいえ、倉庫の現場は調べないで、商人どもを喜ばすように好い加減な徴税帳簿をこさえていたのがたまたま露見しての免職だった。しかたなしにふたたびコルセット職人に舞い戻ってみたり、学校教師をしてみたりしたが、三年後にはどうやら運動がかなって収税吏に復職した。そしてこれも南英のルイスという町に在勤中、彼は町の社交界にも出入りしたり、今ならさしずめ組合運動であろうが、職員の増俸運動を国会に訴願するその指導者になって奔走したり、やっとはじめて人並みの生活になったらしい。しかも下宿先のタバコ屋の未亡人の娘、十歳下の娘エリザベスというのと二度目の結婚までしているが、これまた三年後の一七七四年六月には、合意のうえで別居している。この結婚、元来が単なる同情から駒が出てしまったもので、したがって、最初から夫婦の実はないじまいだったとの説もあるが、とにかく離婚の理由は双方ともに語らず、いまもって謎である。それだけに後年ペインが攻撃されたときには、あること、ないこと、スキャンダルの種にされた。
だが、彼としては空前の、かれこれ十年もつづいた収税吏にも、やがて終止符を打たれるときが来た。一七七四年四月、債鬼を逃れるために、無断欠勤、任地を離れたという、いかにも彼らしい愉快な理由でふたたび首になった。
時すでに三十七歳(西洋流で)。生活にも敗れた。結婚にも敗れた。いっさいに敗れたそのころのイギリス人が、誰しもいちどは思いつくように、彼もまたここまで追いつめられて、はじめて海外移住のことを思い浮かべた。瞬間ふと念頭に浮かんだのは、かつて増俸運動の際、偶然ロンドンで知りあったアメリカ紳士ベンジャミン・フランクリンという名前であった。
一七七四年初秋のある朝、フランクリンのロンドン仮寓の事務所の一室。主人はさっきから怖ろしく薄汚い、そのくせなにか狂犬をでも思わせるような叛骨を漂わせたひとりの中年男の客と相対していた。二人の間には、
「どんなところです。アメリカとは?」
「まずいわば希望の国かな」
「大きいですか?」
「まだ探検もされていない、測量もされていない」
「そうだろうとは思ってましたが」
「それに第一賃銀がよい。働く気さえあれば、飢えるものはいないのだ」
というような会話が交されていた。
「飢えるものはいない――」客は噛みしめるように、最後の主人の言葉をもういちどくりかえした。
客は零落のペイン。そして主人は――いうまでもない、タコ揚げのフランクリン、格言のフランクリン、哲学者、科学者、外交家、いや、そればかりではない、新開の植民地から忽然と渡来して、その閑雅な態度、魅惑的な微笑、洗練された機智、いわば完全な紳士としてたちまち英仏両国社交界の人気をさらってしまっていたベンジャミン・フランクリンであった。植民地代表としてすでにヨーロッパ滞在十数年、いまやもっとも高名な名士のひとりであった。それだけに奇妙な取りあわせのこの会見――しかし老フランクリンの好意は、けっきょく女婿リチャード・ベイチに宛てた一通の紹介状という形で、ペインに与えられた。
「本状持参のトマス・ペイン君は、きわめて聡明有為の青年[#「青年」に傍点]として、推薦有之候人物に御座候。ペンシルヴァニアに永住したき決心の由、何分無縁の土地なること、何卒貴下の好意をもって宜敷御援助御引立の程懇願仕候。事務員なり、助教師なり、測量助手なり、適当なる勤め口有之候者、当人屹度有能の材と愚考仕候。左様候而当分兎も角糊口之道相立候者、追々其内には貴地にも馴染出来候事と被存候間、何卒呉々も宜敷御骨折乞願度」
やがてその秋も暮れる頃、この一通の紹介状だけをたよりに、彼がはじめて大西洋を越え、文字どおり天涯の孤客としてフィラデルフィアの埠頭におりたった経緯については、すでに最初に述べた。
だが、いまや新大陸が彼のために用意してくれていた運命の骰子《さいころ》は、彼自身はもちろんのこと、あの聡明な老フランクリンすらも、予測しえなかったものであった。というのは、たまたまそのころフィラデルフィアでは、ある印刷出版書肆によって新雑誌の発刊が計画されていた。といって、書肆の主人というのは、編輯にはいっこう素人だったので、適当な主筆を求めているところであったが、新来のペインを迎えたベイチは、最初は別に深い意味もなく彼をこの印刷屋の親父に紹介した。雑誌は一七七五年の新春とともに華々しく創刊号をだしたが、ペインも求められるままに、一、二エッセイ風のものを寄稿してみた。ところが、はからずもこれが大いにうけた。まもなく懇望されて、彼は週給一ポンド、とにかく一躍して「ペンシルヴァニア・マガジン」の主筆ということになった。事務員でもなければ、助教師でもない、測量助手でもない、彼自身すらまったく予測しなかった天成のジャーナリストの才能が、彼にまったくあたらしい運命を開拓してくれることになったのであった。はからずも偶然隠された才能の鉱脈を掘りあてたとでもいうか、時論風のエッセイ、科学記事類に、さらにはちょっと味な詩歌までくわえて、彼のペンは目まぐるしく活動をはじめた。いくつも匿名を使っては、毎号縦横に書きまくった。たとえば最初の数カ月に彼が取りあげた時論の題目だけからみても、奴隷売買制度の攻撃、動物愛護の主唱、女権の主張等々と、いまからみていずれもじゅうぶん先駆者的意義をもった玄人はだしのジャーナリスト的感覚であった。しかもその所論の直截、明快なこと、さらにそれを盛るスタイルの実に平明で、しかも天成の煽動者的才能を思わせるキビキビと肺腑をつく的確さ――まことに人間才能というものはどこに隠れているか、わからないものであった。ことに成功したのは、毎号かならずイギリス本国で成功した新発明実用機械類の懇切丁寧な紹介を連載したことであった。周知のように、フィラデルフィアといえばフランクリンにとっては第二の故郷、彼が年来率先指導しておいた実用科学熱は、いわば市民たちの熱情になっていた。予約読者六百そこそこだった「ペンシルヴァニア・マガジン」は、彼の手でたちまち三倍から四倍の売行にはね上った。
自信満々の主筆生活一年半、しかし運命の手は再びここで彼のために、思いもかけぬ新しい機会を用意していたのである。
ペインがフィラデルフィアにそのあたらしい運命を託することになった一七七四年という年、それは文字どおりアメリカ革命の前夜であったという事実を忘れてはならぬ。もとよりここで革命の歴史を述べることは、余裕もなければ、筆者の任でもない。ただ必要上数言でこれをいえば、一七六三年、新大陸における英仏争覇戦(ヨーロッパでの呼称では七年戦争)が完全なイギリスの勝利に終り、カナダからミシシッピー河谷にわたるあの広大な背後地帯を一挙フランスから奪ったまさにその日から、実は皮肉にもアメリカ植民地喪失の運命的コースは必至的に決定せられたといってもよい。まず本国政府の失政は、戦後財政疲弊の立直しを、植民地保護という美名との交換に、つぎつぎと植民地にたいする重圧課税という形で求めてきた。砂糖条令、印紙条令、タウンゼンド条令などは、それぞれこの失政をつたえる一連の歴史的悪法の名前であるが、印紙条令はついに条令反対のヴァージニア決議を成立させ、あいつぐ悪法はイギリス本国においてさえ多くの植民地同情者を生みだしたほどだった。「代表なきところに課税なし」No taxation without representation の声は猛然と湧きおこった。革命は最初決してイデオロギーの対立や、信仰の相違から生れたのではなかった。怖るべき人間研究者マキャヴェリがいみじくも喝破したように、「たとえ人の生命は奪っても、財布に手をかけてはならぬ。人は父親の殺されたのは忘れても、財産の失われたことを忘れることはないからだ」という。まさにその植民地の財布の紐に本国政府は、手をかけたのであった。一七七〇年ボストン虐殺事件(実状は市民五人が殺された)、一七七一年北カロライナにおける衝突(植民地人二百が死に、主謀者は死刑)、一七七三年|ボストン港に茶投入事件《ボストン・テイー・パーテイー》と、不幸な事件があいつぐにおよんでは、雲ゆきは漸次険悪になり、その間ジョン・ハンコック、サミュエル・アダムズ等という天才的煽動家の暗躍はいよいよ烈しさをくわえるばかりであった。
しかもわがペインが、はじめて新大陸にその足跡を印したまさに数カ月前、フィラデルフィアの大通りにはいずれも沈痛な憂慮の表情を浮かべた、平生見なれぬ人々の乗馬姿がしきりに往来した。はじめて各植民地から集まった代表者たち――いわゆる第一回大陸会議の前触れであったのだ。この会議ではまだむろん独立などは全然論議されず、むしろ戦争を極力回避するために、本国議会にむかって植民地にたいする公正な取扱いを要求するという穏和な訴願の決議におわったというものの、とにかく従来は相互間の利害対立により、とうてい結束など不可能と信じられていた各植民地に、はじめて同一目的にむかっての歩調の一致が実現されたことは、将来にむかって重大な警告でなければならなかった。だが、もとより状勢は好転するどころか、最後の危機をはらんで、破局に急ぐばかりであった。しかしただひとつ忘れてならぬことは、ほぼ一七七四年の終りまでというもの、まだ独立ということはほとんど植民地人の考えのなかになかった。「そうした言葉は酔っぱらいの口からさえけっして聞かれなかった」(同年三月、フランクリン)し、「かりにもし私がそんな決議にくわわったと聞かれたら、私は極悪人と思われてよろし」(同年五月、ワシントン)かったのである。十一月末フィラデルフィアの土を踏んだペインの第一印象もまた、はっきり「独立を口にするなどは大逆罪にもひとしい」といった、なお一般の強い親英的心情をつたえている。
一七七五年が明けた。いわゆる「蹴つまずくように」発見された新しい才能は、この半生の放浪者ペインの生活にも、はじめて平和な明るい未来を約束しつつあるかにみえた。だが、ふたたび運命は意外な場所にその爆弾をかくしていた。四月十九日早朝、突如としてボストン郊外、レキシントンおよびコンコードでおこった、あまりにも有名なイギリス正規兵対植民地市民義勇兵との衝突がそれであった。驚天動地の歴史的ドラマが、しばしばいかに気紛れな小さな火花によって点火されてきたかは、いわば常にくりかえされる歴史の皮肉といってもよかろう。ある評価のごときは、アメリカ独立宣言は正しくはレキシントンの血によって書かれたとまで極言するこの早朝の一事件のごときも、原因はといえば、市民兵への火器火薬供給所と目されたコンコードにたいして、その押収にむかった一隊のイギリス正規兵が、たまたまレキシントンの小村で、急を聞いて集まった農民群と対峙した。もとより形勢は険悪だったとはいえ、双方ともに発砲の意志はけっしてなかった。ついに群集にむかって隊長が解散を命じたのにたいして、面白いことにかんじんの下手人はいまもってわからないのだが、とにかく群集のなかから、突如一発、銃声が轟いて、次の瞬間には赤衣の正規兵がひとり、胸を貫かれていた。矢は弦を離れた。正規兵の一斉射撃がつづいた。そして八人の「愛国兵」の血が流された。これがレキシントン虐殺事件のすべてであったのだ。
だが、状勢は一変した。あとは急坂をおちる転石だった。五月には第二回大陸会議が、場所もおなじフィラデルフィアで開かれた。しかも事実上すでに小戦闘は、北部マサチュセッツにおいて、シャンプラン湖畔において、続々として繰り返されていた。微温的な大陸会議も、ついにワシントンを総司令官に任命することを決定した。しかも彼がまだ任地に到着する直前には、ボストン郊外、いわゆるバンカー・ヒルの戦が突発した。烏合の衆であるはずの植民地軍千二百は、実に二度までイギリス正規軍の攻撃を撃退し、三回目にはついに弾薬つきて撤退したが、その勇気と進退とは、報知をうけたワシントンをして、思わず「自由は成れり」と叫ばしめたほどであった。
不安と騒擾のうちに一七七五年は暮れた。明くれば七六年一月、前述ペインの『コモン・センス』が現れたのは、実にこうした状勢のさ中であったことを忘れてはならぬのである。この片々たる小冊子がいかに読まれ、ひいては革命の大方針に決定的方向をあたえたとさえ称せられる所以は、すでに前に述べた。全篇四章、それは実に徹底的、いささかの疑念も残さぬまでに、継承君主制の不合理性、また本国との和解の百害あって一利ない所以を究明し、和解論者の論拠をあますところなく爆砕したものであった。
「イギリスをみよ。国王とは戦争を製造し、椅子を振りまく以外には、なんの能もない人間なのだ。おなじ一個のひとりに、年八十万ポンドの金を壟断され、しかもまだその上にこれを神扱いにするなどとは、なんという情ない為体《ていたらく》だ。古今東西、世界中のこの王冠をいただいた悪党ども、それを束にしたよりも、社会にとって、また神の前に、たったひとりの正直な市民のほうがはるかに貴いのだ」
「おお、諸君、人類を愛する人々よ! 専制のみならず、専制者そのものに抗する勇気のあるものは、いまこそ立て! いまや旧世界は残る隈なく重圧の下に喘いでいる。自由はいまや世界中から狩りたてられているのだ。アジアとアフリカとは、すでに遠くの昔に自由を放逐してしまった。ヨーロッパはあたかも他人のごとく彼女を遇し、いまやイギリスまでが彼女に退去命令を発した。おお、いまこそ亡命の自由を迎えるのだ。そして人類のための温かい収容所を備えるのだ!」
野に叫ぶ声は、いまや植民地の隅々にまで鳴り響いた。半歳後(七月四日)、はたして独立宣言は成った。「その創造において、いっさいの人間は平等である。創造主によって、彼らはいくつかの奪うべからざる権利、とりわけ生命と自由と幸福の追求という権利を賦与されている」
かくして人類の歴史にはじめて、「自由」の言葉《ロゴス》はその肉体を与えられたのであった。
『コモン・センス』出版後のペインの行動に関しては、むしろ多くを述べる必要はない。とりあえずはまず同書をめぐって、王党派論客との論争があった。だが、まもなく本格的な戦闘の開始とともに、戦況はようやく植民地軍に非となり、まもなくニューヨークは陥落。敗残軍をまとめて有名なワシントンのニュージャージー退却がはじまると、もはやペインは机上の筆戦だけに晏如《あんじよ》たることはできなかった。主筆の職を辞すると、ペンを剣にかえてたちまち退却軍に参加した。だが、冬の到来とともに、脱走兵あいつぐ乞食軍隊同然の敗戦軍を擁して、ワシントンの苦境はドン底においこまれた。士気も極端に沮喪した。十一月、全軍は極端な飢えと寒気に脅やかされながら、ようやくにしてニューワークに撤退を完了した。そのときだった、ふたたびペインが彼のペンを取りあげたのは。
『コモン・センス』のペインはふたたびたった。執筆は夜しかできなかった。昼間は彼にも軍人としての義務があった。かくして続稿半月、幕営の暗い光をたよりに書きあげたのが、有名な『危機』の第一篇であった。十二月十九日には週刊紙「ペンシルヴァニア・ジャーナル」に、そして二十三日にはパンフレットとして現れた。冒頭に、彼はふたたび後年不朽になった名句を吐いた。
「いまやこれ人間、魂の試練のときであるのだ」These are the times that try men's souls.「夏日の兵士、好天の愛国者だけが、この危機に際して、その祖国への奉仕をおそれる。だが、いまにしてこの危機にたえうる者こそ、人々の愛と感謝に値するのだ。圧制は、地獄と同様、易々として克ちうる敵ではない。だが、戦いは苦しければ苦しいほど、それだけ勝利の光栄もまた大きいのだ。そこにこそわれわれの慰めはある。易きに獲られたものには、評価もまた軽い。物に価値を与えるものは、一に払われた犠牲の高価さにあるのだ。……もしいまを苦しと観ずるならば、これをわれらの世代にとどめようではないか、ただわれらが子供たちの平和を享《う》けんがために……」
士気はあがった。こればかりはもっとも反ペイン的伝記者のチータムですらが、「これらはあらゆる幕営のなかで読まれた。そして軍隊のなかでも、外でも、まったく思いがけない効果をあげた」と記しているほどであった。それかあらぬか、わずか数日後のクリスマスの翌夜、植民地軍は浮氷の流れるデラウェア河を渡河、イギリス軍を襲って捕虜一千という、はじめての本格的勝利をえた。後年全戦局の転回点となったとまで評されるトレントンの勝利であった。
その後も剣とペン、彼の二刀使いはつづく。一七八三年末の最後の一篇まで、前後実に十六篇の『危機』を草して士気を鼓舞し、大義の宣明を新たにしたのであった。
戦局は俄然長期戦化した。まもなく彼は外交的使命にも抜擢されることになった。それは主として外交委員会なる秘密機関に属して、フランスからの財政ならびに武器援助を確保することであった。二十年前の敗戦にたいする復讐の絶好機として、当然最初からフランスは強力な支持者であった。後には公然同盟関係を結んで、参戦したが、ペインが直接関係したのはむしろその以前、隠密の援助が求められた時期であった。複雑な外交取引の詳細は省略するが、厄介な問題は、この交渉間に、例の『フィガロの結婚』の作者ボマルシェという札つきの政商が介在したことにあった。つまり、フランスとしても公然の援助はならず、いちおう資金をボマルシェに渡し、彼の手でそれを火器、弾薬にかえてアメリカ側に送るという形をとった。しかもルイ王以下政府要人は、一度ならずこれら援助は完全な「贈与」である旨を内示したが、それにしてもなお表面は国際的な考慮から、あくまで交換としてアメリカタバコを輸入するという貿易取引の形になっていた。ところが、この弱点に乗じて、ボマルシェという仕事師、強硬にこの代償をアメリカ側に要求したのである。俄然これがアメリカ側朝野の問題になり、外交要人間の論争に、ペインもついに捲きこまれた。しかもひたむき革命的情熱に殉ずるペインとしては、「贈与」というフランス側の内示を必要以上に過信して、フランス弁護論を、そこは例の怖るべき論争的才能をもってテキパキやりすぎたのがいけなかった。フランス側からの買収金が入っているというデマさえ真剣に信じられたほどで、ある種の軽い責任をとらされた。後年ペインがアメリカに敵をつくったひとつの原因は、たしかにここにあったといえよう。さらに後半期に入っては、ペンシルヴァニアから外交使節のひとりとして直接フランスに派遣され、見事に援助獲得の使命をはたして帰った功労などもあるが、いまそれらはいっさい省略する。
一七八三年パリ条約とともに独立は達成され、長い革命戦争は終った。革命にたいするペインの情熱に関しては、よほど意地悪い見方でもしない限り、一応その純粋さを疑うことはできないであろう。たんなる煽動家だけではなかった。事実私生活のいっさいをあげて革命に捧げたのであった。
『コモン・センス』から上った利益のごときも、本屋にゴマかされた以外は事実上一文も私しなかった。俸給の未払い分は当り前として、戦争末期には率先俸給の三分の一近い額をさいて、軍隊の援助資金に投じている。戦後、ワシントン以下の赫々たる栄誉に引きかえ、つぎに述べるような金銭的紛争を植民地議会《コングレス》との間で起さなければならなかったほど、文字通り無一文になっていたのである。もはやこれは美挙というよりも、革命的熱情であったのだ。
ミスター・コモン・センス――いまや彼の名はアメリカはいうにおよばず、ヨーロッパにまで鳴り響いたにもかかわらず、驚くべきことに報いられたものは、意外なまでに乏しかったのである。一七八三年のワシントンは、国から贈られた宏壮なロッキ・ヒルの邸館に、全世界からの心からなる祝福を受けていたとき、ペインは依然として昔ながらの薄汚い貧乏市民だった。
彼の心境がどうであったかは詳細にはわからない。だが、とにかく彼はまもなく議会にあてて賞与の請求訴願なるものを提出した。ことに奇妙なのは、使節として各種の公職に歴任中受けた、俸給未払いその他不当取扱いに対して、損害賠償というような要求までした。結果は、改めて国会からボーデンタウン、ニュー・ロシェルという二つの小さい土地を与えられたり(後者は後に彼の永眠の地になった)、ペンシルヴァニアほか一、二の州も、彼のために若干の金を贈与することを決議した。物慾には淡泊な彼としては、身を容るるにたる小さな家と、こればかりは好物の酒と、簡単な食と、そしていまひとつ、もっとも彼の心を楽しませてくれる機械工作場さえあれば、それでけっこう満足できたのだが、しかし他方公人としては、この一事は以後彼の敵どもにいわば絶好の攻撃口実を与えることになった。
すなわち、反ペイン論者の主張は、この一事を強調して、彼の行動が終始けっきょくは不純な報酬目的のものであったというのである。むろんこれはあまりにも酷であるとしても、一度咽喉もとすぎては熱さ忘れたアメリカ側の無視ぶりにたいして、彼としても内心穏やかでなかったことだけは否定できぬ。その頃ワシントンあての手紙の一節に、
「この我物顔な烏合の衆ども(議会《コングレス》のこと)の無視ぶりは不愉快です。私の気持などはわからないのでしょう。それは私のこれまでの奉仕が全然注意に値しないということなのか、それとも彼らの態度のほうが誤っているか、そのどちらかです。とにかく彼らの沈黙は、私にとって何か断罪をでも受けているような気持です。私の名声失墜によって、やはり彼らの無視ぶりのほうが正しかったことになるか、それとも彼らが罰を受けることによって、私の名声が支持されるか、ぜひとも明らかにしなければなりません。だが、それは、どちらにしても私には苦痛なのです」というようなのもある。
もし小説家的推測を許されるならば、かならずしも報償そのものが目的ではなかったとしても、かといって忘恩ともいうべき(と、彼も聖人でない限り、思ったかもしれぬ)無視ぶりには、腹に据えかねるものがあったことであろう。その結果が、あるいは結局彼自身を傷つけることも覚悟の上での、上述のようないくらか突飛な、厭がらせ手段に出させたのではあるまいか。彼はけっしてフランクリンやワシントンやジェファソンのような良識の紳士ではなかった。世には内なる激情のあまり、円満な良識からすれば、みすみす馬鹿げたような非常行為に出て、われとみずから運命を破壊してしまう人間というものが、いつの世にもいるものだ。ペインもまたある意味では常にそうした激情の奴隷であった。せっかくある州議会が賞与金支出を可決すれば、わざわざ「贈与」はいやだ、要求するのは「損害賠償」だなどと厭がらせをごねて、かえってみずからの立場を悪くしたなどというのも、その現れではあるまいか。
ともあれ、革命にたいする貢献と見透しには没することのできぬ功績が彼にはあった。後年にはワシントンを平民の敵としてもっとも憎むようになるが、このころまではまだ彼およびフランクリン、ジェファソンらとの美しいまでの親交がよくそれらを証していると思う。早くから共和主義の目的を卓然と掲げて動かなかったことは前にも述べたが、今日の「アメリカ合衆国」という構想は、すでに早く独立宣言以前に彼の頭のなかにあったともいわれ、すくなくともそれが文字の形で現れたかぎりでは、開戦の翌年一月、例の『危機』第二篇のなかに現れているものが、アメリカ側に関するかぎり、その最初のものであったといわれる。すなわち、傍目八目《おかめはちもく》もあったろうが、植民地の根強い州権的思想が、直接戦争の上の大きな障害であるばかりか、新国家将来の見透しに関しても、きわめて危険なものであることを早くから看破して、ひたすら「国民の創生」を主張していたのであった。
ある論者は、革命の終りとともに、アメリカにおけるペインの役割は終ったと酷評している。だが、事実彼が人間の組織的|激情《パツシヨン》に関しては稀にみる天才的洞察者ではあっても、いわゆる普通の[#「普通の」に傍点]人間性の研究においてはむしろ子供のごとくであった点に見て、この評言にもたしかに一部の真実はある。破壊と革命の児ペインにとって、革命後の保守建設期にほとんど活躍の余地はなかった。新しく贈与されたボーデンタウンの新居で、好きな酒と、そして機械工作場内での生活とがはじまった。いまや情熱の吐け口を、少年以来の夢である機械発明の構想に見出したのである。
最初の夢は鉄橋の発明であった。当時の橋はまだむろん主として石ならびに木であったが、彼は堅牢持久の上からも、経済的理由からも、鉄橋のはるかに有利なことを予見した。夢はまもなく一応実現した。いくつかのモデルさえ出来あがり、すでに帰米していた科学者フランクリンのごときは一見大いにその価値を認め、その推薦によってフィラデルフィアには早くも橋梁建設委員会さえ生れたほどであった。しかしいっぽうその頃の新国家アメリカ社会は、橋よりももっと焦眉の新憲法制定のことでゴッタ返していたのである。ペインにたいしては、もはやすでに憲法会議への招請も来なかったし、彼の方にもいっこう出たい気はなかった。鉄橋設計のかたわら、一七八六年には、一人の専制にかわる多数者の専制の危険を指摘し、より合理論的な中央政府機構の構想を述べ、それに関連して強力な中央聯邦銀行の必要を強調した小冊子『政府論、銀行論、紙幣論』を著したが、憲法会議の現実は、多くの点でとうてい彼の見解をいれる段階には達していなかった。彼自身をもって、どの特定国の市民でもなく、むしろ世界の市民として考えるようになったのも、このころからであった。「わが祖国は世界、わが宗教は人に善をなすこと」という有名な標語がつくられた時期である。
それやこれやでアメリカでは、急速に鉄橋実現の希望も乏しかったので、久しぶりにイギリスを訪問してみたい気持もあり、二つには彼の発明品を当時の先進国である英仏の技術界に認めてもらいたい熱望もあり、さらに最後ではあるが最小ではなく、彼のいわば痼疾である、ただじっとしてはいられぬ焦躁もあって、一七八七年には実に十三年ぶりでかつての祖国の土を踏んだ。五月にまずフランスに渡り、ついでイギリスに帰ったが、フランスではかつての同志ラファイエット、コンドルセはもちろん、ダントン、ドブリアンらの、そしてまたイギリスではフォックス、バークら自由主義者たちの熱烈な歓迎が待っていた。そればかりではない、往年のこの不良児、放浪児は、いまや錦を飾って故郷セットフォードに帰った。父はすでに死んでいなかったが、母は九十歳の長寿を保って存命していた。その年は年末まで母のもとにとどまり、母のために、当時としては莫大な週九シリングの老後生活費を残してきた。以後二年間こそはある意味で彼にとって「生涯の最良の年」であったかもしれぬ。パリの、ロンドンの、社交界にも一応人なみに出入りした。弊衣、破靴、無精髯のペインで、はじめてなくなったのだ。
一七八九年七月、彼はヨークシアにあってあい変らず鉄橋実現の夢に懸命になって賭けていた。そのときであった。運命の飛報はまたしてもヨーロッパを震撼させて飛んだ。十四日のパリ、バスチーユ牢獄の陥落であった。皮肉にも一カ年後の翌年八月には、ペイン設計になる鉄橋の最初の作品は、見事にロンドンの一画にその美しい姿をみせていた。しかしいまやもう橋どころの騒ぎではなかった。思いもかけぬ活舞台がふたたび彼のために開けたのだ。ときにペイン、五十二歳。秋になるのを待ちかねて、彼はふたたびパリへ渡った。アメリカ公使ジェファソンはこの直前すでにパリを去っていたが、さっそくラファイエットら指導者たちは、光栄をもってこの自由の闘士をアメリカの代表者として承認したばかりか、何よりもまず大統領ワシントンへの贈物として、不朽の革命記念品、破壊されたバスチーユの古ぼけた鍵をペインの手に伝達したのであった。彼としてはまさに光栄の絶頂、――彼の言葉をかりていえば、「アメリカの原理がバスチーユを開いた」のであった。
魚は水に返った。以後の彼はふたたび革命の使徒になった。いわばみずから革命の宣伝役を買って出たのである。二年間の紳士ペインは、ふたたび身辺をかまわぬ薄汚い無精髯の野人ペイン、本来の面目に逆戻りしたのである。ことに翌一七九〇年の秋、革命の狂暴に恐るべき脅威を予感したエドマンド・バークが、例の有名なフランス革命攻撃論を公にするや否や、ふたたび彼のペンは神聖な疼きにふるえた。彼はただちに、一種の使命感をもってペンを取りあげた。反駁である。徹底的な反駁である。在ロンドン仮寓の一室では、たえず机辺におかれたブランディの瓶を空にしながら、筆は狂熱と怒りをおびて滑った。ふたたび彼は青年であった。
「今や外国人部隊のひとつが動きはじめたのだ。ランベスク公の指揮するドイツ軍騎兵の一隊は、ルイ十五世宮にそうて進んできた。途中、彼はひとりの老人を侮辱し、剣を持って彼を打った。もとよりフランス人は敬老をもって称せられる国民である。この倨傲なる態度は、ときたまたま沸きに沸いていた民衆の熱狂とあいまって、たちまち驚くべき反響をうんだ。『武器を! 武器を!』の叫びは一瞬にして全群集にひろまった。彼らは武器などひとりとして持っているものはなかった。よしあったとしても、これを使用しうる者などはひとりもいなかった。しかも必死の決意は、しばしば武器の欠乏を補ってあまりある。たまたまランベスク隊のならんでいたそばに、新橋建設のために集められた大きな石塊の堆積があった。民衆はこれをもって騎兵隊にむかって突進したのである。銃火を聞きつけた一隊のフランス守備兵が、その屯所からかけつけると、たちまち彼らは民衆の味方になった。やがて夜がきた。騎兵隊は退却した。……」
事実を、彼がパリで見聞して来たその事実だけを、書けばよかったのだ。ことさらにする正義づけなど何がいろう。ペンはおのずからにして滑ったのだ。
かくして翌九一年二月に公にされたのが、後に彼の主著となった『人権論』第一部であり、翌年二月にはつづいて第二部も出た。本書はひとつにはフランス革命の弁明にすぎないが、むろんしかしそれだけではない。政府とは、ただ個人の基本的権利、――平等、自由、財産、安全、圧制への抵抗など――を正当に保障するためにのみ必要な存在であり、しかもかかる目的の保障は、共和体制による以外にはない。そしてそのための絶対要件として、権利章程、成文憲法、普通選挙、三権分立、信教の自由等々の必要を主張している。十八世紀の代表的政治論のひとつでもあるのだ。彼の目的は本書をもって、イギリスのための『コモン・センス』たらしめることにあった。事実進歩的な人々の間ではあらそって読まれ、三年以内に二十万部は売れた。だが、いっぽう急速に反動化していったイギリス政府は、ついにピット内閣の手によって禁止処分に附し、彼自身はパリ滞在中だったために危うく逮捕はまぬかれたが、欠席のまま謀叛罪に問われ、一七九二年十二月にはいっさいの法の保護を剥奪された。
だが、彼はイギリスにおいて失ったものをフランスにおいて獲た。これより前八月、フランス立法議会は、ワシントン、ハミルトン、マディソンらとともに、彼に名誉市民権を贈ったばかりか、さらに九月には彼は、パ・ド・カレー県代表として、市民の歓呼裡に国民公会《コンヴアンシオン》への議席をさえ与えられていた。もっとも、少年時代から語学嫌いだった彼らしく、終生ついにフランス語はほとんど上達せず、その演説さえ代読してもらわなければならぬ有様だったので、この代表資格は要するに名目的のみにすぎなかったといってよい。
フランス革命におけるペインの運命は、一七九二年秋が順風満帆の絶頂であった。ようやくわれわれは晩年の彼の逆境と孤独――だが同時に、どこまでもそれは世界市民ペインなりに一貫した――について語らなければならぬときがきた。
そもそも革命の進行に際して、ペインはコンドルセらとの以前からの知人関係もあり、もっぱらジロンド党に接近しやすかった。ところが、周知のようにジロンド党の支配的勢力は、一七九二年春のころを頂点として、同年後半期にはすでにその頽勢はおおいがたく、代ってジャコバン党の擡頭はもはや必至といって差支えなかった。この間に処して、ペインの遭遇した一大試練、と同時に、あくまでも彼の独往的ヒューマニズムの真骨頂をしめして遺憾なかったのは、ルイ十六世処刑の問題であった。裁判は一七九二年十二月にはじまり、翌年一月十六日には一票というきわどい差で死刑を宣告した。ロベスピエールのいわゆる「政治上の必要による処刑」が大勢を制して、ついにこの結果になったことはいうまでもないが、しかもなお終始死刑に反対した幾人かのジロンド党員とともに、ペインもまた彼独自の死刑反対論者であった。彼の主張は一月十五日、文書の形で議長の手許にまで提出された。意外に早く討論が打切られ、ついにそれは読まれる暇はなかったが、要旨はこうである。
「余が経験に徴するかぎり、その意図においても、目的においても、人民大衆はつねに正しかった。だが、そうした目的を達成する方法において、かならずしもつねに正しい方法が現れるとは限らない。英国民はスチュアート王家専制下に呻吟した。その故をもってチャールズ一世は処刑されたのだが、その子チャールズ二世は、父の失った権力をことごとく恢復した。その後四十年、同王家はふたたびその圧制を確立しようとしたが、こんどは国民は王家眷属一類をひとり残らず国外に放逐した。効果はテキメンであった。以後同王家は零落し、大衆のなかに没して、今日では絶滅してしまった」
つまりひと口にいえば、「国王」を殺せ、だが「人」は殺すな、というのであった。ことに面白い着眼は、いまルイ王を殺せば、現在国外にある二人の兄弟に、わざわざ正統な王位要求権を与えてやるようなものであり、これを擁して外国勢力が入寇《にゆうこう》して来た場合はどうするか。その点からも生かしておいたほうがはるかに安全である。したがって、革命戦の終結まで監禁しておいて、あとは終身追放にしてしまえというのであった。つまり、かつては『コモン・センス』で「悪党ども」と痛罵したこの国王憎悪者も、けっして人間としての王を憎んでいるのではなかった。敵は王によって代表される権力そのものにすぎなかった。ここにもやはりアングロ・サクソンらしいヒューマニスティックな非合理の合理主義が窺われるのではないか。
一七九三年六月、ジロンド党の没落は、そのまま「恐怖時代」の開幕であった。もっとも、それも最初のうちはそれほどでもなかったが、十月ジロンド党領袖たちの大量処刑をきっかけに、完全に血は血を求めて荒れ狂った。来る日も来る日も、新しい犠牲を腹いっぱいにふくらませた粗末な囚人馬車が、まるで呻くように車輪をきしらせながら、パリの街々を革命裁判所へと急いだ。来る日も来る日も、幾十度と知らず大きな三角の刃が枠台の頂上高く吊りあげられては、新しい頸の上に落された。上は王妃、公爵から、下は酒亭の亭主、市井の産婆にいたるまで、そしてペインのなつかしい知人たちも、ひとりまたひとり、まるで歯の抜けるように消えていった。
「これが革命なのであろうか? これが自由なのであろうか?」ペインは自問した。
共和制は死んだのだ。自由は死んだのだ。それでもまだしばらくは公会にも出席していたが、ほとんど一言も発言はしなかった。歴史の変化はあまりにも早すぎた。彼は呆然として取り残された心境であった。しかしやがてはそれにも堪えられなくなった。居をパリ郊外の農家に移して、せめては身辺の小さな平和だけでも守ろうとした。だが、もとよりいつ危難がこないものでない。けっして安心はできなかった。こうしたいわば死の影の揺曳するなかで、ペインはあたかも遺言をでも書き綴るように、最後の大著を起稿した。後に『理性の時代』として完成されるものの第一部であった。ときにはブランディの乱酔に、やっと不眠と憤悶とをまぎらしながらも、なにかひそかな予感でもあったものか、十二月二十六日には最後の一頁にいたるまで見事に書きあげていた。そしてその翌日、十二月二十七日、はたして彼は突如フランス市民権を奪われ、こんどは交戦国イギリスの市民ということで投獄されることになった(この投獄、ペイン贔屓の伝記者たちは、当時のアメリカ公使で、ペインの急進思想に強い反感を持つ保守派の某なる人物の陰謀だとするのだが、これはヒイキの引倒しで、むしろ逆の証拠さえある誹謗にすぎないようである)。
リュクサンブールの牢獄生活は、彼の場合、苛酷というほどではなかった。幸いにまた予想に反して、生命の危険もまずありそうにはみえなかった。だが、日々ここでみる光景はけっして楽しいものでなかった。今日は二十、明日は四十、いや、ときには一時に二百人という人間が、二度と帰らぬ姿を静かに室から消していった。ダントンもいった、リュソンもいった、クローツもいった。最後にダントンは、静かにペインの手を求めながら、むしろ悲しげな微笑さえ浮べて呟いた。
「なんてくだらない馬鹿な世の中だ、子供と馬鹿だけの住むところさ!」と。
まもなくペインは烈しい熱病を病んで、幾週間か生死の境を彷徨した。辛うじて生命だけはとりとめ、ようやく快復期に向ったころ、はからずも彼はロベスピエールの死の報を耳にした。さしもの恐怖政治もここに終った。一七九四年十一月になってはじめて、彼は新アメリカ公使モンロー(後の大統領)の奔走によって、衰弱の身を解放されたのであった。
自由は恢復され、再び国会に議席を与えられたものの、一度失われた健康は容易に元へは返らなかった。あまつさえ経済的困難さえくわわって、もはや昔日のペインの面影はなく、わずかに『理性の時代』の出版(第一部一七九四年、第二部一七九六年)が最後の光芒を放ったにすぎなかった。
『理性の時代』は、誤って「無神論者の聖書」とまで通称され、最後に彼のためにもっとも多くの敵をつくった書物であるが、真意はおよそこれほど遠いものはなかった。なるほど、キリスト教の教義や、聖書の矛盾にたいしてこそ徹底的な批判をくわえているが、さればとて簡単に彼を無神論者とすることはあたらぬ。彼はまず冒頭で断言する。――
「余はただひとつなる神を信ずるのみ、而してまた来世の幸福を望むもの。余は人類の平等を信じ、また宗教的義務とは、正義をおこない、慈悲を愛し、而して隣人の幸福のために努むるにあることを信ず。……余はユダヤ教会、ローマ教会、ギリシャ教会、トルコ教会、プロテスタント教会、その他余の知るいっさいの教会の掲げる教条をひとつとして信じない。余の心、これが余の教会である」
要するに当時流行の理神論《デイーズム》と、それに彼が少年時代からうけた宗教教育、クェーカリズムが濃厚に加味されたものにすぎないのである。
いまやペインは失意の人として、他人の庇護をうける以外にはなかった。最初は前述した公使モンローの、つぎにはペインの旧知であり、崇拝者でもあるパリの自由主義ジャーナリスト、ニコラス・ド・ボヌヴィルの家庭が、この老革命家を迎える温かい心の宿であった。わけてもボヌヴィル夫人は、この我儘な、汚い、飲んだくれ老人を実に快く遇したが、これがやがて彼の晩年にたいしもっとも悪質的な醜聞を印する因縁になろうとは、もとより知る由もなかった。どうヒイキ目にみても、ようやく老醜的な狷介さがいちじるしくなってきた。一七九六年に物した『ワシントンへの公開状』のごときは、かねがね独立達成後のこの大統領の保守穏健ぶりにたいして、ペインとしては当然嫌厭たるものがあり、また多分に誤解ではあったが、彼の投獄中、ワシントン以下アメリカ政府当局がたしかに冷淡であったことに深く含むところはあったにもせよ、とにかくかつてはあの美しい信頼を託し合った同志にむかって、例の調子で仮借なき攻撃をくわえてみたり、ついでには恩人モンローにまで八当りするにいたっては、なんとしても拙《まず》かった。失意の僻《ひが》み、老来の狷介といえばそれまでだが、いたずらに彼のために新しい敵をつくるにすぎなかった。
一八〇二年十一月一日、迎えられざる客として、ペインはアメリカに帰ってきた。十五年ぶりであった。いまやふたたびなつかしげにボルティモアの埠頭におりたった、世路に疲れたこの六十五歳の老革命家の胸を、この日この時、去来した感慨はなんであったろうか。おそらくは二十八年前、やはりこのようにしてフィラデルフィアの埠頭に辿りついた彼自身の若き日の姿だったのではあるまいか。あのときも失意の人であった。いまもまた失意の人である。が、あのときのそれにはまだ未来にむかって何物かを待ち望む希望と弾力とがあった。だが、いまは――しかもそこには怖るべき危険人物、堕地獄の無神論者として、彼を白眼視する敵が待っているのだ。かつての日のミスター・コモン・センスは、いまや社会のどの側からも爪弾き者として迎えられるばかりだった。
だが、神はまだこの不幸な老人に七年の余生を貸すのだった。貧に追われ、社会に疎《うと》んじられながら、ニューヨークを中心とする目まぐるしい転々の生活であった。筆力も完全に涸渇した。しかももっともいけないことに、一八〇三年の夏、突然パリから三児を抱えたボヌヴィル夫人がころげこんできたのである。しかも跡をおってくるはずの夫ニコラスは、ナポレオンの忌諱《きき》にふれて出国を許されない。たちまち妻子は食に窮した。そうなるとまたペインである、義侠か無鉄砲か、とにかく自分ひとりすら碌に食えぬくせに、親子四人の生活を引受けてしまった。酔いどれ、無神論者、危険人物等々という悪名のほかに、さらに姦通者という誹謗まで取沙汰されたのはこのときである。彼の敵どもは、好機会とばかりに、この六十六の老人と三十五の人妻とを結びつけ、小説的な物語を仮構した。曰く、夫人の長男はペインの不義の子である。曰く、ペインは夫人の夫を身代りにギロチンに送り、その妻を奪ったのだ、と。今日でこそ死後の調査によりこれら事実のすべてが無根であることを証されたが、この種の中傷というのは、その性質上、生前においてはほとんど言開きの不可能な種類のものであった。それだけに彼を苦しめた。
当時の彼の孤独を語る悲痛な挿話がある。一八〇六年大統領ジェファソンの第二期選挙のときであった。かつてはペインとともに革命の同志であった彼も、いまはまさに華やかな声望の絶頂にあった。自然どちらからともなく疎遠になっていたが、選挙といえばこの旧同志に一票を投ずることは、ペインとしてはやはり心からの喜びだった。すでにようやく衰えかけていた老躯をかって、ニュー・ロシェルの選挙場へ赴いたのである。行列にならんで、やがて彼の番が来た。
「トマス・ペイン」彼は管理人の前にたって言った。
「で、何御用です」
「投票場でしょう。登録してもらいたいのです」
だが、彼らは顔を見あわせて笑ったと思うと、「投票は市民権のあるものだけですよ」
老人は苛立たしげに頭を振った。「わしはトマス・ペインだ」
「わかっています。でも、あなたはアメリカ市民ではありません」
彼は怒りとも悲しみともつかぬものがこみあげてくるのを感じた。人々は一斉に大声に笑った。膝のすり切れた服、シワだらけの靴下、煙草のヤニだらけのシャツ、そしてブルブル手を慄わせながら昂奮しているこの老人を、彼らは笑ったのだった。
「お帰り下さい。邪魔になりますから」
途端に彼は、ふたたび湧き起る人々の哄笑を、痛いばかりに背中に感じた。
彼にとってこの事件は、よほどの打撃であったらしい。急に健康の衰えをしめしはじめた。もっとも、彼が肉体的不安を感じだしたのは、同じ年の夏ごろからで、八月には、まもなく恢復したが、軽い脳溢血に襲われている。階段の途中で突然起ったので、そのままころげ落ちて、助けを呼んだが、あいにく家中留守で駈けつけるものもいない。しばらくころがったままでいたが、幸いしばらくすると、やっと匍《は》えるようにまで気力がもどり、なんとかひとりで寝床に辿りついたというようなこともあった。案外軽くて、一応は恢復したが、いつかまたかならず再発すると医者から言われてみると、いよいよ不安になった。
ひとりおれば、過去がひとつひとつおそろしい幻影になって彼を苦しめた。雇人もしたが、ほとんど居つかない。一八〇八年の半ばから、同じ年の暮にかけて、一時ひどく快調で、いわば残燭の最後の輝きをみせたが、翌九年に入るとにわかに悪化した。死を覚悟したものか、一月十八日には遺言書を作成した。いまはもう死の恐怖はほとんどなかった。むしろ生きることのほうが苦しかった。たえずつき添う人間といっては、ボヌヴィル夫人と、このころ偶然知りあって最後の心の友になった時計屋で、クェーカーの説教者でもあったヒックスという男だけであった。しかも臨終の瞬間まで、ついに沈黙を守って死前の懺悔をさえ拒んだといわれる彼が、最後に求めた一事は何であったか。「父はよきクェーカーであった。自分は今日まで彼らに何ひとつ求めたことはなかったが、せめて最後の願いには、クェーカー墓地に埋められることを許されたい」だが、彼を冒涜不信の無神論者と疑う彼らは、いろいろと理由は微妙だったらしいが、とにかく拒んだ。彼がその半生の生命をかけて奉仕したその国は、いまや彼に六尺の寸土をさえ惜しんだのだ。やがて骨は焼かれ、塵芥のごとく風にまき散らされることであろう。いまはもう生きることは屈辱でしかなかった。
かくして一八〇九年六月八日午前八時、波瀾多い七十二年の長い生涯はついに閉じられた。
だが、奇妙なことに、数奇な運命は死後の形骸にまでまつわるのであった。埋葬の地を拒まれた遺骸は、翌々十日、やむなくニュー・ロシェルの彼の所有地の片隅に埋められた。墓石にはただ簡単に、故人自撰の「トマス・ペイン、『コモン・センス』の著者」とだけ。周囲にはボヌヴィル夫人が最後の心づくしの柳とイチイとが植えられた。
だが、不幸にも運命の悪戯は、死後の平和な眠りをさえ許さなかった。というのは、十年後の一八一九年、有名なイギリスの政治家、政論家ウィリアム・コベットがたまたまこの墓を訪れた。そして乱暴にも墓をあばき、遺骨を持って帰英してしまったのである。もっとも、彼のつもりでは、故人が生前受けた誤解による誹謗を深く憐れんで、むしろ自由の発祥地イギリスにおいてこそ、この不屈の闘士の遺骨を各都市に展覧し、最後には彼のためにふさわしい記念碑の建立を考えたのだった。だが、意外にもそれはイギリス政府によって禁止された。碑もついに建たなかった。遺骨だけはコベットのもとに保管されていたが、一八三五年彼の死とともに、それは彼の家財もろとも管財人の手に引き渡された。だが、法廷もさすがに遺骨だけは、財産と認めなかったので、可哀想に邪魔物扱いされ、某なる老日傭人夫の手許に放置されていた。一八四四年まではそこにあったことが判明しているが、同年これも某なるロンドンの古家具商人の手に渡ったというきりで、ついに今日まで杳《よう》として行方は失われてしまった。
祖国は世界――ああ、ついに彼はその遺骨にまで国籍を失ってしまったのだった。だが、それもまたいかにも世界市民ペインらしい死後の運命ではなかったのか。
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ローマ殺人事件
――チェンチ家の人々――
一五九八年九月十日の朝まだき、当時のナポリ王国、南アペニノ山脈沿いにあったラ・ペトレツラ城でのこと。
ローマの貴族、富豪、そして法王クレメント八世の寵を恣《ほしいまま》にして、当時飛ぶ鳥をも落すといわれた老フランチェスコ・チェンチ伯爵が、見るも無残な惨死体になって、その庭先で発見されたのだった。
九月十日といえば、前々夜の八日は、誰も知る聖母マリアの降誕祭。イタリア全土は、敬虔と歓楽との不思議な交錯に湧き返っていた。そしてそのほとぼりがようやく醒めかかった、いわば静寂の一瞬間だった。凶報は、家人の叫喚にはじまって、たちまち市内につたわり、ナポリはこの不意の椿事の噂話で持ちきりだった。
死体の発見された場所は、本館と外厠をつなぐ小さな高廊の直下、大きなニワトコの木の根方だった。単なる墜落死にしてはおかしい。死体は朱にそまり、ことに片方の眼と、咽喉元のあたりに、はっきり突傷のあるのが不審だったが、なににせよ、その頃の原始的な検視ではあり、貴族の家の名誉もあって、死因は、深夜、彼が高廊をわたって上厠した際に、名だたる頑健さとはいえ、なにしろすでに七十の老体、どうかしたはずみでよろめいたのが運の尽き、つかんだ脆い欄干がたおれて、そのまま非業の墜死となったものであろう。眼の傷も、頸の傷も、落下の際、あやまってニワトコの枝でみずから傷ついたといえば、一応なんとか説明はつく。
と、まあいうようなことになり、遺骸は、まもなくローマの本邸に引き取られ、盛大な葬儀も無事にすんだ。あとは、人の噂も七十五日、ただそのいつとなく消えるのを待つばかりという風にさえ見えた。
が、そのころナポリでは、誰いうとなく、奇怪な風評がひろがりはじめていた。時もあるに、変死のあったその翌朝、フランチェスコの末娘で、美人の聞え高いベアトリーチェというのが、ひどく血に塗れたシーツを、洗濯女に出して洗わせたというのである。卑俗な好奇心は、人間原始の本能とでもいおうか。噂はあたかも野火のように、口から口へと伝わり、やがてナポリ司法当局の耳にまで届いたのだった。
当局の活動がはじまった。城館出入りのものは、一応みんな取調べを受けたが、疑問の節はなにもなかった。ただ問題は、例の洗濯女の供述であった。夥しい血染めのシーツを渡されて驚いた彼女に対して、ベアトリーチェは、実は昨夜、生理的出血が例になくひどくて、つい粗相をしてしまったのだ、と説明したという。が、それにしても生理的出血に、こんなにも夥しいことがあるのだろうか、という重ねての係官の問に対して、洗濯女は、はっきり、そんなはずはないし、しかも血の色は、あまりにも鮮かな紅だった、と答えた。一点とはいえ、疑問は深まった。
仔細は、さっそくにローマ法王の法廷に報告された。だが、不思議なことに、当局の手は少しも動かない。幾月か経った。疑惑の雲は、ようやくチェンチ一家を包んで、世上の取沙汰にまでなった。それには死んだフランチェスコなる人物に関する、過去幾度かのスキャンダルも、たしかに油を注いでいたに相違ない。
チェンチ家というのは、フランチェスコの父の代に、にわかに興った一家であった。彼は、法王ピウス五世の下にあって、大蔵大臣《トレゾリエーレ》のような役を勤め、一挙にして巨富をなした。その一人息子が、フランチェスコだった。父から相続した財産だけで、年収十六万ピアストロ(今の金でなら、さしずめ数億円は下らないだろう)はあったというし、さらにさる富豪の娘をめとって、七人の子を生ませた。ベアトリーチェは、その末娘だった。が、この妻は、まもなく死んだので、彼は、これもさる名家から、後妻ルクレツィアを迎えた。これには、ついに子はなかった。
フランチェスコは、いわゆる典型的なルネサンス型の人間であった。若いころは、聡明さと勇気とをもって鳴った。時には、見事な男性的寛宏さを示すかと思えば、復讐心の残忍さは、周囲の人々をふるえ上らせた。こうした才幹が、彼にいっそうの富と権勢とを約束したのは、当然だが、それだけに、天使と悪魔との複合体であるこの奇怪な人間は、なんの拘束も知らずに、権勢の波に乗っていった。地位に保証されて、たいていの悪は許されるという結果は、齢とともに、しらずしらず彼の中の悪魔を肥らせていたのだった。が、ことに最大の悪として伝えられるものは、その不敵な無神論と、男色癖と、そして肉親に対する奇怪きわまる憎悪とであった。
たった一度だけ、彼は本邸の庭に、聖トマスのために小さな礼拝堂《チヤペル》を建立したことがある。だが、その真意を聞けば、人は驚いて開いた口が塞がらなかったであろう。彼は、その亡妻の子供たちが、一日でも早く死ぬことを祈り、その死骸を床下に埋めて(当時の風習は、肉親の遺骸を礼拝堂の床下に葬った)、踏みつけたいという願いだった。現に、彼は、建築中の石工たちに、薄気味悪い笑いとともに、その意向をはっきり放言したとさえいわれる。
一度彼は、その三人の息子たちを、厄介払い同然に、サラマンカの大学に遊学させたことがある。遊学といえば、名前はよいが、そのくせ、この百万長者は、一文の仕送りさえ拒絶したのである。とうとう息子たちは、乞食同然に食いつめた揚句、仕方なく、ふたたび呪いの実家へ帰りついたというような話も、当然市民たちの眉をひそめさせた。
男色といえば、彼は、三たびそのために投獄され、そのつど多額の罰金を払って、釈放されたが、それらは当然市民たちのために恰好の醜聞になった。
最後の投獄中に、長男ジャコモは、とうとうたまりかねて、ひそかに法王に対して、家名を辱しめるこの父親の死罪を請願した。法王も子供たちに同情はしたが、さすがにそれもなりかねて、こんども罰金刑に妥協した。まもなく二男と三男が、ある奇禍で、相ついで落命したが、父親の喜び方というのはなかった。葬儀費用などは、もちろん頑として一文も出さぬ。いっそみんな死んでしまったら、この邸館に火を放って、祝火《ボンフアイア》をあげるのだ、とまで公言した。
長女は、これも堪えかねて、直接法王に修道院入りのことを願い出た。だが、法王は憐れんで、彼女のために、若い夫を世話してやり、父フランチェスコに対して、持参金を与えることを命令した。こうして長女だけは、辛うじて悪魔の凶手を逃れることができたが、こうした相続く肉親たちの反噬《はんぜい》は、当然また彼の凶暴を刺戟して、募らせるばかりでもあった。ある意味であらゆる悪徳の自由を許された彼は、かえってなにか目に見えぬ敵とでも闘うかのように、いよいよ悪徳の情熱に溺れながら、七十の老齢へと急いでいった。
が、悪徳の最大なるものは、末娘ベアトリーチェに対してであった。長女に逃げられたこの父親は、こんどこそは嗜虐の対象を取逃すまいために、彼女を完全に監禁してしまった。一切人に会わせぬばかりか、その食事さえも、彼自身で運び入れた。ことに言語道断だったのは、頽齢とともにいよいよ募った変態的嗜好だった。彼は、年中幾人かの娘、あるいは娼婦を邸内において、これらを妻との閨房中に臥せさせるのが、趣味であったが、ついにその悪趣味は、実の娘ベアトリーチェにまで及んだ。彼女は、時すでに二十に近く(一本には十六歳とつくる)、生来の美貌は、肉体的成熟とともに、いよいよその美を加えていた。彼女の肖像は、今日もなおギドー・レニの筆といわれるのがローマ市はバルベリーニ宮画廊に伝えられているが、鮮かなまでの金髪、白皙、豊頬にはかすかなエクボさえたたえて、それは、不思議な清純さと官能性の入りまじった奇怪な魅力を示している。背丈も人並よりはやや高く、ことに長々と波打った金髪は、見るほどのものの目を完全に奪ったと、当時の人の筆はつたえている。濃麗の眼は、妖しい情熱をたたえて輝き、しかも嫣然と微笑む時などは、豊頬のエクボと相まって、「魅了されざるものなし」とは、これも身びいきかはしらぬが、とにかく時人の形容である。
それはとにかく、フランチェスコの悪業は、ついにこのベアトリーチェをすら、その悪魔の饗宴に引き込むに至ったのである。ときに彼は、全裸のまま、彼女のベッドに入りこむことがあった。そればかりではない、いやがる妻を交えての奇怪な性の狂態の中にまで、彼女を強制してつれこんだ。もっともひどいのは、彼女を妻のベッドにつれこんで、恥知らずにもその戯れを、仄かな灯りの下に、妻ルクレツィアにわざわざ見せようとさえするのだった。しかも拒めば、ベアトリーチェは、現在肉親の父による激しい鞭打を、日夜忍ぶよりほかなかった。
彼が彼女に説き聞かせた、今から思えば、まさに噴飯物の説得がある。父娘相姦から生れた子供は、一人残らず聖者になる。天国で最高位にある聖者たちは、すべてそうした近親相姦の子供なのだ――これが、実に彼の独断論理だったのだ。
こうした権勢家の醜聞が、――必ずしもすべてが、事実であったかどうかは、保証できぬが――もとより世間に洩れぬはずはなかった。折も折、その時に当ってフランチェスコの横死であり、つづいては謎の血染めのシーツだった。宿命のチェンチ家をめぐって、ようやく疑惑の雲は深まった。
だが、前述のように、どうしたことか当局の手は動かなかった。チェンチ家の人たちも、風説には包まれながら、何事もないかのように、静まりかえっていた。が、そのとき、波瀾の石は、まことに思いがけぬ方向から来た。
年が明けて、ほどないころであった。元フランチェスコ家の下人だったマルチオとオリンピオと呼ぶ二人の男が、ほとんど時を同じうして、突如何者かに襲われたのである。オリンピオはそのまま殺されたが、マルチオの方は、危うく生命を助かった。ナポリの司直当局は、早速生き残りのマルチオを捕えて、訊問してみたところが、彼の口から、驚くべき事実が語られたのである。
それによると、彼とオリンピオとは、人もあろうに、法王庁の役僧《モンシニヨーレ》グェルラなる人物に雇われて、フランチェスコを殺した下手人であるというのだ。さらに驚くべきことに、この暗殺計画には、フランチェスコの妻ルクレツィア、長男ジャコモ、末娘ベアトリーチェ、その他すべての肉親が加わっているということだった。
彼は凶行現場の光景をまで、手に取るように供述して聞かせた。最初の計画は、九月八日、聖母降誕祭の夜を期して実行するはずだったが、さすがにルクレツィアが、そのあまりにも涜神行為であることをおそれて、九日に決行を延ばしたのだという。彼ら二人は、深夜に近く、ひそかに城館に導き入れられた。当のフランチェスコは、すでに母娘の手によって、阿片入りの酒で、昏々と眠らせられていた。二人の女は、彼らを老人の寝室に導き入れると、自分たちは隣室へ退って、吉報を待っていた。
だが、二人の暗殺者は、無心に眠る老人の寝姿を見ては、さすがに心にぶった。空しく母娘の許《もと》へと引き返して来た。
「どうしたのよ?」期せずして、二人の女の声がひびいた。
「いくらなんでも、眠っておられるお老人《としより》を殺す勇気はございません」二人の男は、むしろ自分にでも呟くようにいった。が、そのとき、凜として響いたのは、
「フン、お前たち、眠ってる人間を殺す勇気さえないのね」というベアトリーチェの声だった。「じゃ、わたしがやるわ。そのかわりお前たちも、いずれそのうち生命はないからね」
二人は、なにか見えぬ力にでも駈り立てられるかのように、ふたたび寝室にとって返していた。一人が、大釘を眼にあてると、他の一人が鉄槌で打ちこんだ。さらに一本、念のために咽喉元にも打ちこんだ。老人は、二、三度、痙攣のようにもがいたが、すぐ静かになった。二人は、約束の報酬金の残り三分の二と、ことにマルチオは、ベアトリーチェから黄金条入りの外套をもらって、そのまま立ち去ったのだという。
事件は、ただちにローマに移された。が、奇怪なことに、それでもまだチェンチ一家のものは、決定的証拠不十分という理由で投獄もされず、わずかに軟禁されるにとどまったが、やがて偶然のことでオリンピオの暗殺犯人が挙げられ、さらにいよいよ危険の切迫を予感した役僧《モンシニヨーレ》グェルラが、ひそかに国外逃亡をやってしまったので、当局もここでいよいよ腰を挙げ、一家――妻ルクレツィア、長男ジャコモ、四男ベルナルド、そして娘ベアトリーチェの四人――を逮捕して、コルテ・サヴェッラの牢獄に送ったのだった。
あとはチェンチ家裁判によって明らかにされた事実を、順序に従って要約してみよう。
フランチェスコ殺害計画の主謀者は、まことに意外にも美少女ベアトリーチェであった。獣めく父親の虐待に堪えかねた彼女は、ついにひそかに法王に対し救いを乞うたものらしい。だが、この請願状は、どうしたわけか、結局法王の手には渡らず、何人かの手によって、途中で握りつぶされてしまったらしい。彼女がついに父殺しを決心したのは、そのころからであった。
母親のルクレツィアが、まずこの決心に同意した。ついで、長男ジャコモも、ベアトリーチェから打ち明けられて、密謀に加わった。またそのころ、チェンチ家に出入りするグェルラと名乗る若い美貌の僧侶がいた。ひそかにベアトリーチェに対して、恋心を抱いていたのだとも伝えられているが、とりわけ子供たちと親しくするというので、当然フランチェスコからは、烈しい疑惑と憎悪の眼をもって見られていた。彼の不在を見はからっては、訪問していたといわれるが、この若僧も、ベアトリーチェの訴えを聞くと、てもなく同意、はからずもこの事件に重要な一役を買うことになった。
計画は、着々とすすめられた。最初は、職業的刺客である山賊の一団を傭い、フランチェスコが、ローマからラ・ペトレツラ城に入る途中を擁して、これを殺害する計画であった。だが、幸か不幸か、この計画は、情報連絡の手ちがいから、せっかく森林に待機中の刺客どもも、完全に機会を失ってしまった。この失敗に懲りた結果、今度はついに家の中で決行することにきめた。
かねがねフランチェスコに対して含むところのある、上述マルチオ、オリンピオの二人が、陰謀に引き入れられたのは、このときであった。この折も、直接説得に当ったのは、ベアトリーチェだった。殺害に成功すれば、報酬金として、一千ピアストルを与える。しかも三分の一は、前もって手金として役僧《モンシニヨーレ》グェルラから手渡し、残りは成功後に渡す、というのだった。
以下は決行までの手順――九月八日、聖母降誕祭の夜の決行という最初の予定を、一日延ばしたこと、暗殺者たちの躊躇、殺害の状況などは、すでに上述した通り。が、さて当の下手人たちが、報酬金をもらって去ったあと、凶行現場に残ったのは、ルクレツィアとベアトリーチェの母娘二人であった。彼女たちは、まず打ち込まれた二本の釘を抜くと、死体をシーツに包み、二人して高廊まで運び、過失死の偽装をつくるために、地上に投げ落したこと、しかも運命の皮肉とでもいうか、智慧の限界とでもいうか、ほぼ一切が予定通りに成功するかに見えた瞬間、ベアトリーチェが打った不覚の一手――シーツの血痕から、はからずも足が着いたことは、これまたすべて前述通りであった。
取調べに当っては、母親、二人の兄弟たちは、拷問に堪えかねて、簡単に白状してしまったが、ベアトリーチェだけは、頑として否認しつづけた。脅しも、すかしも、無効であった。髪の毛で天井に吊るし、その苦痛の中に自白を求めるという拷問にも、彼女は実に毅然として堪えた。ある取調官などは、自若たる彼女の態度に、逆に心を動かされて、ついに免官になったほどであった。
彼らはとうとう苦肉の策として、この拷問の最中、母親、兄弟たちを彼女の前に連れて来た。肉親の、しかも若い美しい彼女が、この苦痛を懸命に堪えている光景を見ると、彼らはむしろ白状して、罪の裁きを受けるよう、口をきわめてすすめだした。それでもなお暫くは否認をつづけていたが、とうとう彼女はいった。
「お母様たちは、みじめな死に方をして、しかも家名に泥を塗りたいとおっしゃるの? とんでもない話だわ。でも、それがお望みなら、仕方がありませんけれど」
それからさらに彼女は、母親の調書を見せてほしいとも求めた。「認めなければならぬことは、認めます。でも、そうでないことは、わたくし、あくまでそうでないと申しますから」
が、結果は、案外にスラスラと事実を認めた。もはや一切は明らかになった。彼らは直ちに鎖を解かれ、五カ月ぶりに一緒に食事をし、最後の思い出である楽しい一日を過した。が、翌日には、ふたたび引き分けられ、男と女とは、それぞれ別の牢獄に送られた。
法王の判決は直ちに下った。一同、馬の尾にくくりつけられ、街中引き廻しの上、斬首ということであった。
だが、不思議なことに、この厳酷な判決が下るや否や、ローマの同情は、翕然《きゆうぜん》としてベアトリーチェの上に集まった。貴族たちから、高僧から、はたまた弁護人たちから、助命の歎願は引きもきらなかった。あれが正当防衛でなくて、なにが正当防衛だというのだった。さすがの法王も、ついに二十五日間の執行猶予を布告しなければならなかった。いや、生来温厚な人物であった法王クレメントの真意は、むしろ死一等を減じたかったのだともいわれる。だが、当時たまたま相ついで起った凶悪な近親殺害の事件が、多分に彼女にとって不利を齎したようである。結局、数々の助命努力も、ようやく末弟ベルナルドだけが、わずか十五歳の少年ということで、恩赦減刑に浴しただけで(しかもこの少年は、助命の代償として、母、兄、姉たちの目のあたり首斬られるのに立ち会わなければならぬという、ある意味でははるかに死に勝る苦痛を課せられたのだが)、一五九九年五月十日午後四時、ついに刑執行の最後の断が下ったのであった。
断頭台の準備、死刑執行状の作成などに暇どって、運命の使者が法王庁を出たのは、もう十一日も夜の引き明けだった。彼らが女たち二人の監禁されているサヴェッラの牢獄に着いたのは、六時頃だったが、彼女らはまだ静かに眠っていた。だが、報せを聞くとベアトリーチェは、「ああ、神様、なぜこんなにあわただしく、死ななければならぬのでしょうか?」と叫びながら、絶え入らんばかりに、泣きわめき、着更えをする気力すらなかった。彼女が、かりにも取り乱した姿を見せたのは、「前後を通じて、この一度きり」だったと、古い記録者は記している。だが、母親の方は、すでに覚悟していたもののように、はるかに落着いていた。義娘をなだめて、礼拝堂に導くと、並んでひざまずき、静かに死後の魂を神の手に委ねた。
その頃になると、ベアトリーチェも、もうすっかり落着きを取り戻していた。まず公証人の来室を求めて、遺言状を口述した。母親もそれに倣った。八時になると、告解をすませ、ミサを聴き、最後の聖体を拝受した。さらにベアトリーチェは、断頭台に上る身に、けばけばしい衣裳は憚りがあろうと言い出して、母と自分とのために、無地、黒色勝ちの修道尼風ガウンを取り寄せさせた。
やがてガウンが届くと、これもベアトリーチェの発議で、互いに手を貸しあいながら、名残りの着更えをすませた。「まるでそれは、饗宴にでも出かけるかのような冷静さと、睦じさに溢れた光景だった」
刑場への行進は、まず兄弟たちの牢獄トルディノーナにはじまり、途中サヴェッラで母妹たちと合流し、刑場ポンテ・サンタンジェロの広場までつづいた。途中は、往来も、窓も、屋根も、群集で鈴生《すずな》りだった。たえず讃美歌の合唱が、高く、低く、朝の空気をふるわせながら、行列はゆっくりと動いた。尼僧めいたガウンをつけ、頭から、ほとんど腰のあたりまで、深々と琥珀織《タフエタ》の被《かぶ》りものをした女たちの姿は、まるで清楚な二輪の花のように、人目を惹いた。呻きにも似た歎声が、思わず群集の口を洩れた。
ポンテ・サンタンジェロの広場には、すでに高々と、断頭台がそそり立っていた。行列が到着すると、三人の犠牲《いけにえ》たちは、まず、これも臨時にしつらえられた礼拝堂に導かれ、最後の心の準備をすませた。
まず一番に、ベルナルドが台上に導かれた。これは残忍な立ち会いのためであった。だが、この哀れな少年は、一歩その足を踏段にかけるや否や、恐怖のあまり、失心してしまった。あわてて冷水をぶっかけ、息を吹き返らせると、かい抱くように、首台の前に、真正面に対いあって無理に坐らせられた。
最初は母親のルクレツィア。両手を後手に縛られ、台下に靴を捨てて、素足で上って行ったが、脂肪肉に肥りすぎたこの五十女は、上るだけでも、ひどく難渋そうに見えた。死刑執行人が、あられなく被りものを剥ぎとった。目にしむような真白な肩口があらわれた。
一瞬ハッと羞《はに》かむように、眼を伏せたが、やがて涙を一ぱいたたえた眼を振り仰ぐと、はっきり、「イエスよ、罪深き魂を受けたまえ――義の眼にあらず、慈悲《あわれみ》の眼もて、わが魂を視たまえ」と叫んだ。執行人は、首台の板に、馬乗りに跨るように命じた。一瞬、堪え難い苦痛の色が女の顔に浮んだ。が、つぎの瞬間には、「|主よ、憐れみたまえ《ミゼレーレ・メイ・デウス》」の讃美歌が、呟くように口を洩れていた。歌半ばに首は断たれた。執行人が、その首を高々と、群集の前にささげた。
断頭台が洗い清められ、ふたたびベアトリーチェを迎えに、礼拝堂へと使者が立っている間に、とある商店のバルコニーが、とうとう人山の重みにたえかねて墜落し、下敷きになって五人が即死、あとの二人も数日後には落命した。
騒ぎに驚いたベアトリーチェが、母は無事昇天したか、と訊いた。事なくと答えると、彼女は、十字架の前に跪《ひざまず》いて、あらためて義母の魂のために祈った。それから、はっきりと呟いた。「主よ、母のよき死を永久に感謝し奉ります。主は、わたくしにも、恩寵の確認をお与え下さいました」と。
祈り終ると、立ち上って、昂然と頭をもたげたまま、断頭台へと最後の歩みをはこんだ。
台上に立つと、もう一度、声を挙げて祈った。「神の座を棄て、人となり給いし主イエス。主は、その愛によって、わが罪深き魂を浄めて下さいました。いまわが流します血を、主よ、わが数々の罪を償う刑罰として受け入れたまえ。わが値する罪の罰を、いささかなりとも赦したまえ」
そして静かに首を斧の下に置いた。讃美歌「|深淵より《デ・プロフンデイス》」の第二節が歌われているとき、白刃は一瞬にして頭首をわかった。胴体がはげしく痙攣して、ガウンの裾が見苦しく乱れた。例によって、執行人が高々と首をかかげ、終って、台下の柩の中に吊り下すのだが、どうしたはずみか、執行人が綱の端を滑らせて、首はコロコロと地上に転がった。夥しい鮮血が地上の土を染めた。
このときベルナルドが、ふたたびはげしく眩暈《めまい》を起して、失心した。百方手をつくしたが、容易に意識は回復しなかった。あるいは絶望かとも人々は思ったが、それでもやっと十五分ほどすると、息を吹き返した(彼は、刑執行後、ふたたび牢獄に連れ戻されたが、まもなく激しい熱病にかかった。刺絡《しらく》その他、手当ての限りがつくされたお蔭で、やっと健康は取り戻したが、精神的打撃からは、ついに回復しなかったといわれる)。
最後はジャコモの番だった。台上までは型通りに進んだが、彼の場合は両眼を目隠しされ、両脚を台上に縛りつけられ、まず玄能《げんのう》様の鈍器でコメカミを一撃、失心させられた上で、首を断たれた。さらに死後も、直ちに全身は四断され、それぞれ断頭台上の鉤《かぎ》にかけられて、曝し物になった。
罪の価は、死によって償われた。母娘の死骸もまた、夜まで、サンタンジェロ橋のたもとに曝し物にされ、橋上は、終日、群集で身動きもならなかった。九時頃になってはじめて、ベアトリーチェの遺骸は、黒布に包まれた柩に収められた。頭の方と脚の方とには、花束が置かれ、身体には、一面に花が撒かれた。葬列は、夥しい炬火と、フランシスコ派托鉢僧に伴われて、夜おそく、やっとモントリオの聖ペテロ教会に葬られた。
「それは、えもいわれぬ美しい葬列だった。彼女もまた、まるで眠ったように美しかった」とは、これも古記録者の筆である。
ルクレツィアの遺骸もまた、ほとんど同じ手続きをもって、チェリア丘の聖グレゴリオ教会に葬られた。
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追記――このチェンチ家物語は、十七世紀頃に書写、一部に流布された稿本(どうやら弁護人の一人が書いたものらしい)の英訳から、アレンジしたものだが、稿本は数種あり、部分的には多少の異同があるらしい。スタンダールが、やはり『チェンチ一家』と題して、仏訳をしているが、それも異本の一つである。この話が、イギリス詩人シェリーに、悲劇『チェンチ』を書かせる動機になったのは有名だが、最近の研究では、かなり事実の違いもあるようである。
たとえば、死んだ時のベアトリーチェの齢も、いろいろと一定せぬが、どうやら二十二歳と七カ月というのが正しいらしい。また彼女が、父の嫡子でなく、むしろある家令の妻に生ませた不義の子だったというのも、これまた確実のようである。さらにこれらの稿本、すべて父親フランチェスコの極悪ぶりを誇張しているきらいがあり、たとえば父娘相姦のことなど、その後の研究によると証拠はまったくないともいう。しかしここでは、そうした実録的詮議は、一切省略して、むしろ原伝承にしたがった。
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初出誌等一覧[#「初出誌等一覧」はゴシック体]
* タイトル、初出誌名および最終収録単行本名を掲げる
ある悲喜劇役者
「新潮」一九五三年一月号 『世界史の十二の出来事』(文藝春秋、一九七八年三月刊)所収
砂漠の叛乱
「新潮」一九五三年二月号 『世界史の十二の出来事』所収
蒼龍窟
「新潮」一九五三年三月号 『世界史の十二の出来事』所収
恐るべき児
「新潮」一九五三年四月号 『世界史の十二の出来事』所収
一粒の麦
「新潮」一九五三年五月号 『世界史の十二の出来事』所収
血の決算報告書
「新潮」一九五三年六月号 『世界史の十二の出来事』所収
狂信と殉教
「新潮」一九五三年七月号 『世界史の十二の出来事』所収
世界最悪の旅
「新潮」一九五三年八月号 『世界史の十二の出来事』所収
聖者と悪魔
「新潮」一九五三年九月号 『世界史の十二の出来事』所収
北方の悍婦
「新潮」一九五三年十一月号 『世界史の十二の出来事』所収
芽月一六日・熱月九日
「新潮」一九五三年一二月号 『世界史の十二の出来事』所収
最初の世界市民
「増刊文藝春秋」第二号=一九四九年十二月 『世界史の十二の出来事』所収
ローマ殺人事件
「オール読物」一九五一年九月号 『歴史の中の肖像画』(筑摩書房、一九七四年十月刊)所収
中野好夫(なかの・よしお)
一九〇三年、愛媛に生まれる。英文学者、評論家。一九二六年、東京大学英文学科卒業。中学、師範学校の教師の後、東京女子大講師、東京大学助教授を経て、一九四八年、東京大学教授。五三年、東大を辞し、雑誌『平和』の編集長となる。以後、執筆活動、および平和運動家として活躍。五六年、憲法問題研究会参加。六一年、米国スタンフォード大学で客員教授として近代文学を講じる。六五年、中央大学教授。七四年『蘆花徳富健次郎』で第一回大仏次郎賞受賞。八三年「著作と実践を通しての平和と民主化への貢献」により朝日賞を受賞、無党派市民連合代表に就任。一九八五年歿。訳書にシェイクスピア『ヴェニスの商人』、スウィフト『ガリヴァ旅行記』、モーム『月と六ペンス』、ギボン『ローマ帝国衰亡史』、共著書に『沖縄問題二十年』『沖縄・70年前後』、著書に『アラビアのロレンス』『文学試論集』『風刺文学序説』『近代文学序説』『エリザベス朝演劇講話』『浪漫主義』『ぼらのへそ』『人間うらおもて』『シェイクスピアの面白さ』『スウィフト考』『英文学夜ばなし』『司馬江漢考』など多数。
本作品は一九七八年三月、文藝春秋より刊行され、一九八四年二月、増補新編集の上、『中野好夫集 第7巻』(筑摩書房刊)に収録、一九九二年三月、ちくま文庫に収録された。