[#表紙(img/表紙.jpg)]
中村 航
ぐるぐるまわるすべり台
もくじ
ぐるぐるまわるすべり台
月に吠える
[#改ページ]
ぐるぐるまわるすべり台
◇
キャンパスという言葉の語感のよさは異常だと思う。
音の喚起するイメージ、それを別の言葉に置き換えるのはとても困難だ。
遠くから聞こえる原付のエンジン音が、徐々に大きくなって、突然消える。構内にまばらに立つ新緑の間を風が吹き抜け、そろそろ髪を切らなきゃな、と僕は思った。
──コンパス。
その響きには未来を指し示すような意志的な力が宿っていて、悪くない感じがする。だけどキャンパスという言葉からイメージされる『器』という感じが出てないし、爽やかさにも欠ける。
休講日の午後、まぶしさだけが突出した六月の太陽があった。三年前に完成したという斎藤記念館が、むきだしの光を反射している。ゆるいスロープの上、銀色のポールと長方形のオブジェの林立の向こうにその記念館はあった。
この大学にシステム工学部ができた記念に、この建物は建てられた。設計においては建築における黄金比が特別に意識されたという。古代ギリシャの建造物から銀行のキャッシュカードまで、連綿と続く黄金の比率。僕らの心に安心と調和をもたらす1対1・618を、記念館は不特定の角度から感じさせる造りになっている。
──縦横を黄金比で構成した長方形を我々は黄金長方形と呼びます。
老教授は、そう言って講堂の黒板に正対《せいたい》した。教授の名前は木島といった。木島教授は研究室などは持たず、もう何年も新入生相手に建築|概論《がいろん》だけを教えていた。木島の建築概論と言えば、ちょっとした人気講座だった。授業はわかりやすく、単位は取りやすい。
──黄金比を感じさせる有名な建築物にパルテノン神殿があります。身近な例では名刺の形が、それに近いですね。
言いながら教授は大きな長方形を描いた。描き終えた教授は、一歩下がって黒板を見上げた。目を細めて短く、ほう、とつぶやいた。
──私が教壇に立つようになって五十年になります。建築概論の最初の授業では、毎年、黄金長方形を描きますが、こんなに会心の長方形が描けたのは初めてのことです。
老教授は後ろに手を組み、板書を眺めた。そのあととても小さいガッツポーズを作った。講堂のところどころで遠慮がちに笑いがこぼれた。
それは確かに見事な長方形だった。誰かが冗談で拍手を始め、何名かがそれに続いた。やがてそれは教室中に伝播《でんぱ》し、春の講堂に拍手が満ちていった。ブラボー、と叫ぶ者もいた。
──ありがとうございます。
老教授が灰色の目をこちらに向け、微笑んだ。そして再び板書に向き直った。
──この長方形を二つに分割します。このとき左側が正方形になるようにします。
教授は長方形の真ん中より右寄りに一本の縦線を引いた。
──そうすると右側に再び黄金長方形が出来ます。これが黄金比の重要な特徴になります。
老教授は週に二回、きっちり七時半に大学近くの駅に降りる。授業を終え、十三時二十分の電車に乗る。
──出来上がった長方形を、今度は横線を引いて同じように分割します。上側を正方形にするわけです。すると下側には再び黄金長方形が出来ます。また縦線を引く、これを繰り返します。
木島教授は長方形から正方形を切り取る操作を繰り返していった。そのたびに新しく黄金長方形が生まれ、そして消えていった。
正方形はうずをまくようにして定点に収縮していく。その正方形に四分円《しぶえん》を内接させるようにして、うずまき模様が描かれた。
[#挿絵(img\012.jpg、横473×縦401)]
──うずをまくこの曲線を、黄金らせんの極方程式と言います。曲線上の任意の点と、らせんの極限中心を結ぶ直線が、曲線と常に一定の角度で交わるため、これは等角らせんとも呼ばれます。
教授は図形の下に数式を書いた。[#数式(img\013.jpg、横×縦)]
──数式としての等角らせんは、我々には関係ありません。大切なのは、このらせんに我々が心を惹かれる、という事実です。
木島教授はこちらを向いて言った。
──黄金らせんはオウム貝の殻や、ヤギの角などに現れることでも知られています。生物の成長というのはすなわち、相似《そうじ》な変形の繰り返しであるという原則が、このことからもわかります。つまり黄金比は物事が成長するときの普遍的な比率なのです。それゆえに我々は美しいと感じるのかもしれません。
老教授は長方形から離れ、板上の一点にチョークを押しつけた。
──京都や奈良の都は碁盤《ごばん》目状に都市計画されましたが、江戸の街はらせん状に発達していきました。
教授は黒板上の一点からゆっくりとらせんを拡げた。らせんは黒板の下に達し、止まった。
──ミツバチの複眼は花を正面から見ることはできません。複眼の側面の一点で花をとらえると、そのとらえた位置を変えないよう、つまり自分と花との角度を変えないように飛んでいきます。そうすると等角らせんを描きながら、花に辿り着くことができます。
今度は外側から中心に向かって、らせんをなぞった。
──黄金らせんは、外向きには無限の自己増殖性を持っています。発展する江戸の街のように、です。そして同時に内部に自己相似性の永遠を秘めているのです。
講堂は、しんと静まりかえっていた。
──その一瞬を切り取ったのが黄金比だということもできます。空間を決まった形に定義するのが建築ですが、そこに黄金比を使うことにより、我々は無限と永遠を感じることができるわけです。
木島教授はチョークを置き、ふきんを使って指先を拭いた。
──今日の授業はここまでです。
また風が吹いて緑が揺れた。
僕は斎藤記念館へと続くスロープを昇った。薄く目を閉じて反射する光を避けながら、これで見納めになるかもしれない記念館を見上げた。
記念館のタテヨコ比は、確かに1対1・618のように見えた。だけどその数値だって単なる近似値なのだ。1・618033988749894848204586834365638……。黄金の一瞬を捕まえるには、どんな修行が必要なんだろうか。
見渡す範囲に人影はなかった。ちょっとした偶然が積み重なってできた、無人という風景を、僕は通りすぎる。キャンパスという定義の中で、仮に無人と名付けた風景を、僕は通りすぎる。
記念館のドアを開け、ロビーを抜けた。薄い石の質感に包まれた館内に、スニーカーの柔らかい足音が響く。つづら折りの階段を僕は進んだ。
階段を昇りきると、正面に学生課の受付がある。カウンターの向こうでデスクワークをしていた女性が、ちらり、と僕を見上げた。軽く会釈をすると、彼女も会釈を返す。カウンターに近付き、昨日用意した書類をバインダーから取りだした。彼女は僕の手元をじっと眺めた。
「お願いします」
差し出した書類を、彼女は右手を伸ばして受け取った。
歳は二十代の後半といったところだろうか? ゆるくパーマのかかった髪が肩まで伸びている。彼女は視線を落とし書類全体に目を通すと、そこに左手を添え、姿勢を正した。もう一度書類を確認すると、ゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、僕をとらえた。縁《ふち》のない眼鏡のせいで、かえって目もとに透明感があった。
「受理させていただいて、よろしいですか?」
と、彼女が言った。
「お願いします」
彼女は書類に向き直った。鉛筆でしるしをつけながら書類をチェックし、ボールペンに持ちかえて、日付を書き込んだ。受領印を取り出し、それを押した。最後にもう一度、鉛筆を使って全体を確認した。
「受領印と本日の日付を確認してください」
彼女は書類を僕のほうに向けた。
「こちらが受付日です。学長によって正式に書類が受理されましたら、受理の連絡をします。連絡は通常、郵便で行いますがよろしいですか?」
「はい」
「送付先はこちらの住所でよろしいですか?」
「はい」
彼女は僕の目をじっと見た。そしてほんの少し、その視線に意味を込めてくれた。励ましの目とも哀しみの目とも少し違う、ただ特別な視線というところだけが普通とは違った。
「よろしくお願いします」
僕はそう言って、頭を下げた。声をださずに彼女はうなずき、口の端をほんの少しだけ上げた。
僕はカウンターを離れ、階段を下りた。途中でふり返ってみたけど、もう彼女は見えなかった。記念館を出るとまぶしい太陽があった。キャンパスという語感のいい場所から、最後に仰ぎ見る太陽。
こうして僕は退学の手続きを終えた。
◇
朝起きて歯を磨き、テレビをつける。各チャンネルを巡回して、消す。
冷蔵庫をのぞくと、六個の卵が残っていた。僕は四合の米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れた。
またテレビをつけ、消す。しばらくすると炊飯の終わりを知らせる電子音が鳴る。蓋を開けると、玉手箱のように湯気が上がる。
しゃもじで一本の縦線を引いた。頂点を十二時と考えて、二時から八時と四時から十時に斜め線を入れる。炊飯器の中身は正しく六等分される。そのひとつを器によそい、残りは一食分ずつラップに包んだ。
目玉焼きを焼き、ご飯の上に載せ、しょう油をたらした。
必要十分に美味しい目玉丼を、僕は食べる。食べ終わったらまたテレビをつけ、消す。昼と夕方にも同じものを食べる。夜が更けたら眠り、音のない夢を見る。
また朝がきて起きる。四つ目の目玉丼を食べる。昼になり、五つ目を食べると、冷蔵庫には一個の卵と一食分の米が残った。6ひく5は1。扉の向こうで誰かがインターフォンを鳴らした。音は文字に書いたように、ピンポーンと鳴った。
書留です、と男の声がした。返事をし、印鑑を取りに部屋に戻った。久しぶりに声を出したなと思いながら、テレビを載せたメタルラックの最上段、水色の缶の中から印鑑を取り出す。
扉を開けると、深緑色の制服を着た郵便局員が居た。書留です、と彼は言って、受取票の中の小さなスペースを指で示した。そこに印鑑を押すと、彼は茶封筒を差し出した。彼は去り、僕は扉を閉めた。
厚手の茶封筒には、大学名と所在地が太い楷書体で印刷されていた。
封を切って中身を取り出し、ベッドに寝転がって眺めてみた。
退学届を受理しました、とそこにはあり、大きくて四角い学長の印鑑が押してあった。僕は学長が印鑑を押す姿を想像してみた。想像の中で学長は気難しい顔をして、チョビ髭を生やしていた。書類の右隅には受領ナンバーと日付が書かれていた。縦長で右上がり、洗練された文字を眺めながら、縁なし眼鏡の彼女のことを思いだした。
僕は書類を半分に折った。A4の紙を半分に折ると、A5の大きさになる。半分になってもタテヨコ比は同じ、形は変わらない。さらに折ると、紙はA6の大きさになる。
──半分に折っても縦横の比が変わらないこの比を、白銀比といいます。
と、木島教授は言った。
──黄金比が自然界にも現れる芸術的な比であるのに対し、白銀比は人造的で実用的な比ということが言えますね。
白銀比は1対1・41421356(ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ)。A7まで折った白銀比のアーカイブを、ベッドの下にしまった。
さて。
僕はベッドにうずくまり、右手でシーツを握った。左手でも強くシーツを握った。思い切り目を閉じ、体ごと縮こまるようにした。ぶるぶると体をふるわせると、体が熱を持ってくるのがわかる。僕は息を吸い、吐いた。大きく吸って長く吐いた。吸って吐く。吸って吐く。大きく吸って、長く吐く。
何度か繰り返したあと、全身の力を抜いた。
◇
「こちらとしては全然構わないけどね」
けいしん塾板橋教室長の榎本さんが言った。
僕は次のような説明をした。
──家庭の事情があって大学を年度いっぱい休学することにした。だから来年の四月まで、僕が担当する授業のコマ数をできるだけ増やしてほしい。
それは適当な嘘だったけど、完璧な理屈だった。結局のところ人は理屈で納得するしかないわけだから、当然のように嘘が発達する。
「それにしても、ずいぶん突然の話だね」
「すいません。ちょっといろいろあったんです」
「いろいろですか」
榎本教室長は僕の目を見た。
宿題を忘れてきた生徒を真剣に、そしてもの凄い勢いで叱ることができる、というスキルを教室長は持っていた。
お前は俺との約束を破ったということか! 怒髪《どはつ》天を衝《つ》く勢いで彼は生徒を責めたてる。釈明のための時間は与えられず、一切の発言は却下される。結果! 結果! 結果! 事実! 事実! お前は宿題をやってこなかった! 結果! お前は俺との約束を破った! 事実! お前は約束を破った! 破った! そうだな? 破ったということだな?
Keyワークの基本演習をやってこなかった(ただそれだけの)生徒は、真っ赤になってうつむく。教室長は一ミリたりとも目を逸《そ》らさない。まばたきすらしない。生徒は涙をためて身を固くするしかない。極限の膠着状況《デツドロツク》。張りつめた空気の真ん中で、十代の未熟な精神が捕食者に観察される。
やがて生徒の瞳から涙がこぼれ落ちそうになるその瞬間、教室長の両手が生徒の肩を包む。
──これからは、どうすればいいかわかるな?
ややおいて生徒が、こくんとうなずく。涙をぽろりとこぼす者もいる。
──行きなさい。
榎本教室長は慈愛に満ちた声で言う。生徒の背中を軽くたたいてやることもあるし、頭をなでてやることもある。生徒はお辞儀をしてその場を立ち去る。紅潮した顔を隠しながら、うつむき加減にその場を走り去る。パーフェクト。
「小林先生は今現在は火・木で入っているのかな?」
「ええ、それと土曜も入ってます」
「じゃあ月・水・金も授業を入れたいってことでいいかな?」
「そうしていただけると助かります」
いつか彼に叱ってもらいたいものだ、と僕は思った。あのスキルになら一万円払ってもよかった。僕は彼に完膚無きまでに叩きのめされたあと、なにか約束を交わすのだ。どんな約束がいいだろう? 僕を縛り、どこかへ導く、新しい約束。
「夏期講習にむけて講師募集をかけようと思っていたところだったから、ちょうど良かったよ。佐藤先生も今月いっぱいで辞めたいと言ってたしね」
教室長はデスクの横の壁に貼り付けてある、授業のコマ割表を見つめた。
そこには蛍光ペンでいろんな落書きが書きこんであった。僕の似顔絵もある。人気ものの桜井先生のまわりには、ハートマークがたくさん飛んでいる。描いたのはマミとマナミという、ちょっと感動的なまでに仲の良い四年生コンビで、そのうち大きいほうのマナミは二ヶ月前、「やっぱり小林センセーはお兄ちゃんでいい」と言った。
彼女は小林先生(僕)から、新人の桜井先生に乗り換えたのだ。
塾内では楽しくやればいい、というのが教室長の持論だった。そうすれば生徒は塾に来るのが楽しみになる。教室にとって見かけ上のお客さまにあたる、生徒の満足度が上がる。だけど宿題は必ずやらせなければならない。家庭で宿題をやる生徒の姿を見て、我々の真のお客さまである生徒の両親の満足度も上がる。それは嘘のように完璧な理屈だった。
「じゃあ授業のほうはどんどん入ってもらうから。そうするとあれか、僕らは四月まで毎日顔を合わせるってことか」
榎本さんは楽しそうに笑った。
パーフェクトなスキルを持つというのはどういう気分なんだろう、と僕は想像する。それは矛《ほこ》となり盾《たて》となって、自分を守ってくれるのだろうか……。
榎本教室長は毎日三時になると、あんパンを食べ牛乳を飲む。
◇
その部屋にはI教室という名前がついていた。
このビルの一階と二階は不動産会社の事務所で、三階にけいしん塾の受付と講師の控え室がある。四階にはAからD、五階にはEからHの教室があり、そこから光の差さない一本道の階段を昇ると、I教室に着く。
屋上部屋《ペントハウス》というのだろうか、I教室からは直接屋上に出ることができた。部屋は教室としての体裁は保っていたが、なし崩し的な感じで物置きとしても使われており、数年前のテキストや、教室運営に関わる書類が積まれていた。
I教室を通常の授業で使うことは稀だった。半年に一回位、何かの都合でAからHまでの教室が埋まってしまうことがあり、そういうとき僕らは「よーし、じゃあ屋上行くぞ」と号令した。生徒達は一斉に声を上げる。うひょーとか、ひえーとか、その手の歓声。彼らはI教室を幽霊部屋と呼んでいる。
春期講習のとき、やはり他の教室が埋まっていたのがきっかけで、僕とヨシモクという生徒はその部屋を使った。春休みのまだ明るいうちの授業だったので、屋上部屋には必要以上に光が差し込んでいた。床や壁で跳ね回った光が部屋中に満ち、体が少し軽くなったような気がした。
僕はホワイトボードに連立方程式の解法を書く。加減法と代入法。ヨシモクがまぶしそうにそれを見上げた。厚めの眼鏡の向こうで、彼は何回かまばたきをした。僕は天空の王子に、地上の成り立ちを教える教官だった。
授業の最後に「I教室も結構いいよな」と言ってみた。
「そうすか?」とヨシモクは言い、ちょっとだけ嬉しそうな顔をした。
ヨシモクはこの塾では古株の生徒で、エキスパートコースという個人指導のコースを選択していた。エキスパートの生徒は塾に着くと、まず講師の控え室にやって来て「今日はどこですか?」と担当講師に訊く。
「I」と言って僕は人差し指を上に向ける。ヨシモクは、にゅいーんという感じに笑って「へい」と応える。あの日以来、僕らは屋上部屋で授業をしている。
僕のほうには理由があった。常に気を抜けない集団授業とは違い、個人指導ではちょっと息抜きをしたかったのだ。一日おきにあるヨシモクの授業は、息抜きに最適だったし、その場所としてI教室は最適だった。ここなら隣の教室や廊下から覗《のぞ》かれることもなく、気楽に授業を進めることができる。
春期講習を終え、ヨシモクは中学二年生になった。ヨシモクは中学一年の途中から学校に行かなくなった。行かなくなってもうすぐ一年になる。
◇
僕はベッドに寝転がり、携帯電話の画面を開いた。
国内最大規模をうたったバンドメンバー募集専用サイトでは、様々な人間が、様々な立場で、様々な仲間を求めていた。
──柏市でギター弾いてます。バンド経験あり。とにかくメンバーと楽しく、仲良くバンドがしたいです。高校生なのであまり遠くまではいけません。16歳、男(栗原)
──宇都宮でビートルズ。リンゴ募集。41歳(あびろう)
──ユニットの再編にあたりギタリストを新たに募集します。ループ主体の打込みにアンビエントで暗黒な雰囲気、地の果てまで響く美しいメロ。神秘、退廃、妖艶、残響。テクより感性重視。21歳(秀吉)
──歌うことが好きです。友達に「歌がうまいから出て」と言われたのがきっかけで文化祭の舞台に立ちました。知らない人や友達や先生に「感動したよ」「すごく良かった」「輝いてたよ」と言われました。それまではどんなことにも自信が持てず、消極的だったのですが、今は歌いたい気持ちでいっぱいです。16歳、女(なっこ)
──英詞オリジナルをやっている Jailer です。音楽以外は考えられない。楽曲がそろいしだい上京。最初は共同生活から。叙情的なメロディーと疾走するリズム。クラシカルな様式美も取り込んだメタルを目指しています。夢は世界進出。突然音信不通になったりしない人。最低限の社会的マナーを守れる人。ジャパメタ、ヤンキー、自分のことオイラと言う人、お断り(青木)
──ストーンズ、U2、フー、コルトレーン、ボブ・マーリー、レッチリ、スティーヴィー・ワンダー、スライ、イエス、MB’S、バッハ、ホルスト、プリンス、ビョーク、GUG、ポリス、etc.ピピッと来た方はメールください。29歳(落合)
──不思議オーケストラ魔女楽団へようこそっ。天使のトランペットに吟遊詩人のリュート、大天使のパイプオルガンに魔女のティンパニ。乙女チックまたは魔女チック、もしくはそれらが許容範囲な人、もちろん本当の魔女も歓迎。21歳、女(くろすけ)
──年齢? 性別? 経験? 小さいこと気にすんなって。やる気、向上心重視! 俺らが集まれば風が吹くって。まずは音を出してみようってことですよ! 19歳(サムライ・シロー)
──散歩したりするのと同じ感覚で、のんびりアコースティック音楽をやってます。夜活動できる方、お酒が好きな方、熱すぎない方、人を見た目だけで判断しない方、貧乏すぎない方で老若男女は問いません。ギラギラしてる方はお断り。昔取ったキネヅカなんて素敵ですね。長いスパンでやりたい方、人間関係を大事にしたい方、ウチは結構よい感じですよ。37歳(みどり)
──これはマネーゲームです。やるか、やらないか、どうせダメ元、元手はたったの3000円。批判は多々あるようですが、やっぱりお金はある方がイイですよね。今のところ法に触れる事はないし、ネズミ講に代表される無限連鎖講やマルチ商法ではありません。ルールを守れる人、連絡ください。(石川)
──狂人シャウト、死のバラード。感情の世界に入り込んだ普通じゃない表現、パフォーマンスをします。完全プロ志向。歴十年以上。ルックス・技術・体力など、トータルバランスには定評あり。あなたのバンドの即戦力になります。(ミステル・アギラ)
メッセージをスクロールして、入力画面に戻った。
彼らの主張はよく伝わってきたので、僕も試しに何か書いてみることにした。三分後、僕の親指は次のような文章をひねり出した。
──熱くてクール、馬鹿でクレバー。新しいけど懐かしく、格好悪いくらいに格好いい、泣けて笑えるロックンロール。拡大と収縮、原理と応用。最高にして最低なメンバーを大募集。19歳(ヨシモク)
送信ボタンを押すと、画面が更新され、ミステル・アギラさんの後にそのメッセージが表示された。
それは何も言っていないのと同じ文章だった。だけど19歳のヨシモクは、確かに何かを求めていた。
親指で始められることは、いつも無限にあった。
◇
学校に行かなくなったヨシモクだが、火・木・土のエキスパートコースには、きっちりと時間通りにやってきた。宿題もちゃんとやってくるし、もともと覚えがいい生徒なので、主要教科に関しては集団授業の連中と比べても、かなりできる部類に入った。
Aという理由があるのでBはCになる。ではDという条件でEはどうなるのかという問いに、ヨシモクはFと答えることができた。
それは単純な筋書きなのだ。講義や演習やテキストのなかに、そういった筋を見出せる者を、僕らは「覚えがよい」と評価する。そういう意味でヨシモクは確かに覚えがよかった。
しかしヨシモクは、扱いやすい生徒ではなかった。彼にはもっと根本的な筋書きが通用しなかった。
例えば円周角についての勉強をすることにする。
講師は生徒に「ある弧に対する円周角の大きさは、中心角の半分になります」と、まずは新しい概念を説明する。生徒はぼんやりとそれを理解する。ではこの円周角は何度になりますか? と講師は問う。生徒は考え、答える。講師はそれを補足し、では、と新たな問いを立てる。生徒は考え、答える。その繰り返しで生徒は理解を深めていく。それが暗黙のうちに流れる、教室の物語というものだった。
しかしヨシモクには、ヨシモク独自の物語があった。
最初はそれがわからなかったから、随分無駄な時間を費やしたし、不思議な思いもした。
「ある弧に対する円周角の大きさは、中心角の半分になるぞ」と僕は説明する。図示もする。さあ、じゃあ問題をやってみよう、と言う。ヨシモクはしかし、シャープペンを握って問題を見たあと、? という仕草のまま止まる。
「はい、じゃあ、もう一回こっちを見て」と僕は言う。「円周角は中心角の半分になる」さっきよりも大きな声で言う。しかし問題となると、またヨシモクは止まる。
つまり彼は説明を見ているだけで、全く聞いてはいないのだ。彼の中では次のようなオリジナルな物語が流れていた。
──自分は円周角については十分理解している。だから説明を聞かなくても、問題は解ける。
新しく勉強する単元をあらかじめ理解している、というのだから、その話は明らかに破綻していた。しかし彼はその筋書きを強く信じていた。それは何らかの間違ったプライドに基づいた、譲れない彼のスタイルだった。だから僕がそれに気付き、受け入れてからは、驚くほどスムーズに授業が進むようになった。
僕とヨシモクの授業に解説は不要だ。
「今日は円に内接する四角形の問題を解くぞ」
円に内接する四角形ってなに? とはおくびにも出さず、ああ、あれかという感じにヨシモクはうなずく。
「じゃあ、この問題からいこう」
へいへい、という感じにヨシモクは問題集に目を移す。ん? おかしいな? という感じにヨシモクが首をひねるまで、二秒待ってから僕は続ける。
「円に内接している四角形の向かい合う角、つまり、こことここの和は180度になるん|だった《ヽヽヽ》よな」
ああ、あれか、というような簡単なつぶやきをもらし、ヨシモクは計算に取りかかる。あらかじめヨシモクが理解していることを、確認のために僕は過去形で詠じるのだ。
もともと覚えがよい生徒だから理解は早いし、その先の応用問題もある程度こなす。だけど間違えたときそれを指摘してやると、彼は、わかっていたけど間違えた、という態度をとる。
彼の信じる物語を、一度粉々にしてやる必要があるのかもしれないなと僕は思う。そして新しい種を蒔《ま》いてやる。外の世界でも通用する、強くてたくましい、もっとまともな物語。
だけどI教室にはI教室の物語があれば十分だよな、とも思うのだ。考えてみれば榎本教室長のパーフェクトスキルだって、外の世界では通用しない。
思えば世界には、様々な物語がぐるぐると渦巻いていた。
魔女の楽団という物語や、音楽以外考えられないという物語、マネーゲームで儲けようという物語や、小林センセーはお兄ちゃんでいいという物語。いつか必ず破綻する全ての物語はしかし、それ単体としては祝福され、気まぐれが起こるのを待っていた。
ときどきヨシモクの理解力を誉めてやることがあった。そうすると彼は、照れたような感じで、にゅいーんと笑う。
◇
──ヨシモクさんのメッセージをみてメールしました。フレットレスベース弾きの尾崎といいます。今、自分は新しいメンバーと新しい音を創りたいと思ってます。一度お会いして、お話しできればと思ってます。
そうメールを送ってきた尾崎さんが、今、にこやかに目の前にいる。バンド練の帰りだという尾崎さんは、待ち合わせ場所のコーヒースタンドに、ベースを担いで現れた。ヨシモクさんはじめまして、と、彼は汗を拭《ふ》きながら言った。
「中学のときは今より太ってたんですよ」
その男の目玉は、くりくりとよく動いた。メールの文章と実際の本人は、会ってみれば意外にあっさりとシンクロする。
「バンドやろうぜって同級生五人が集まったんですけど、そのうち僕を含めた三人がギターを弾きたがったんです。そうするとですね、誰か一人はベースを弾けってことになるわけで、どうしても僕に対して、お前がやれよって雰囲気になるんです。ただ太ってるっていう理由だけで」
中学のとき今より太っていた尾崎さんは、今でもちょっと太めだ。
「そして僕は僕なりに、自分はベースでもしょうがないかなって思うわけなんです。それは太っている者の宿命なんです。もちろん主張するデブもいます。でも僕は察するデブだったんです。ところであれですね、ヨシモクっておもしろい名字ですね」
「ええ。よく言われます」
僕はそう言ってヨシモクのマネをしてみた。にゅいーん。
「ヨシモクさんはバンド歴は長いんですか?」
「そうでもないです。一年ちょっとくらいです」
「僕は中一のときからだからもう長いんです。そろそろ十年くらいになるかな。今も手裏剣っていうバンドでベース弾いているんです」
「手裏剣?」
「ええ、手裏剣です」
尾崎さんはコーヒーカップを手に取った。しゃべるのを止めると、まわりからいろんな話し声が聞こえてきた。
「手裏剣を含めてですね、今まではずっと普通のフレッテドベースを弾いてたんです。でも一ヶ月前にフレットレスベースを作ったんです。新しいバンドではフレットレスを使いたいと思っているんですよ」
「ベースを……、作ったんですか?」
「ええ」と、尾崎さんは言った。「正確に言うと改造したんです。ちょっと思うところがありましてね」
ほう、という感じにうなずきながら、僕はカップを置いた。
「ドの|#《シヤープ》とレの|♭《フラツト》は本当は異なる音なんです。微妙な違いですけど」
「それは、どういうことですか?」
尾崎さんは、にやり、と笑った。
「ピアノの鍵盤上では同じ音です。ドの右隣の黒鍵がそれですよね。この話、聞きたいですか?」
「ええ、もちろん」
「そうですか」
尾崎さんは顔の前で手を組むようにした。組んだ手の向こうで、下、前、下、と目玉が動いた。手を外したとき、視線はまっすぐ僕に向いていた。右後ろから女の子たちの笑い声が聞こえた。
「ドの右隣の黒鍵は、本来のドの#の音とは、周波数がちょっと異なるんです。本来のレの♭ともちょっと違います。あの黒鍵の音は、本来のドの#とレの♭、この二つの音の中間の音なんですね」
「そうなんですか」
最も適当と思われる相槌《あいづち》を僕はうった。
「本来の音ってのは、純正律に基づいた音って意味です。純正律の世界では、例えばドミソって音を出したときに、全くうねったりせず、和音として完全に調和します。ピアノやギターは平均律に基づいて音が区切ってありますから、そうはいきません」
尾崎さんは僕の目を見据え、続けた。
「僕らがギターやピアノでCというコードを弾いたとき、それは本来のCの響きとは少し違う音なんです。完全なハーモニーを得るには、具体的にいうとミの音を少し低くしないといけないんです」
「そうなんですか」
「バイオリンやチェロ、それからトロンボーンなんかは音程を無段階にとれますよね。人の声も同じです。だからグレゴリオ聖歌なんかでは、完全に調和した旋律を聴くことができます。そういうのを聴いてみると、確かに透明で美しくて、神秘的な感じがします。それはピアノでは、物理的に表現できないんですよ」
「……だけどそんなの初耳ですよ」
「僕も知ったのは一ヶ月前です。それくらい平均律が浸透しているってことです」
「どうしてそんな区切り方をしたんですか?」
「鍵盤が増えすぎるのを防ぐためです。オクターブを平均的に十二に区切ったってことですね」
「へえー」と僕は言った。「そんな重要なこと、何で誰も教えてくれなかったんだろう」
「僕もそう思いましたよ。ただ、ある響きが完全に調和しない、というのは良さでもあるんです。ほんの少しの不安定な感じがあるから、僕らは移調する。それによっていろんなコード進行が発展してきたわけです」
尾崎さんは残りのコーヒーを飲み、続けた。
「今までフレットに区切られた世界しか知らなかった僕としては、単純にそういう世界に憧れました。考えてみれば、完全なハーモニー以外にも目指すべき音は無限にあります。ドになりたいシとか、ミになりきれなかったレとか。十二音階以上ある音楽だってあります」
「そういう音はフレッテドベースでは目指せないってことですね」
「そうです。もちろん完全なハーモニーっていうのも、ある意味では幻想です。音の周波数を理想値に完全に一致させるなんてことは不可能ですから。だけど誤差を出来るだけ少なく、無限にゼロを目指すってことに、僕は宇宙的な拡がりというか、ロマンを感じたってわけです」
「すごいですね」
「いやいや。実際にそういうところを目指すには、それ相応の耳とテクニックが要求されるわけで、そんなものは自分にはありません。ただ僕は精神としてフレットを取っちゃおうって思ったんです。そうすれば音程は自由にとれます。で、とりあえず、使ってない古いベースからフレットを抜いて改造することを思いついたんです」
「そんなことできるんですか」
「ええ。ニッパーとプライヤーでフレットを一本ずつ抜くんです。思い切りよく、かつ丁寧にやってやれば、そこそこ上手にできるもんです。抜いたあとの溝は樹脂のパテで埋めてやって、サンドペーパーとレモンオイルで仕上げます。あとはネックの反りや弦高を調整してやれば完璧です」
「へえー」
「作る方はうまくいったけど、弾く方は全然まだまだです。そもそも僕なんかのおおざっぱな耳じゃ、微妙な音程を聴きわけられないんです。だからまずはAならAの音程を正しくとることから始めてます。最低限、それができなきゃ話になりませんからね。自由を得たかわりに、発生した責任ってやつですか。はは。今、ミック・カーンの真似して弾いてるんですけど、奏法もフレージングも全然違うし、すげえ楽しいですよ。無段階なスライド奏法がクセになりますね。早くバンドで合わせてみたいんですよ。ヨシモクさんはどんな曲をやりたいですか?」
「いや、特にこだわりはないんです。尾崎さんはどうですか?」
「まあ最終的にはオリジナルをやるとしてですね、最初は何か簡単な曲をガガッとやりませんか。その曲を完コピするんじゃなくて、各メンバーがそれぞれカバー曲を創るつもりで練習してくる。それを打ち合わせなしにストレートにぶつけ合ったらいいと思うんです」
「……なるほど。そしたら方向性みたいなものが、自然に見えるかもしれないですね」
「ええ。最初からこんな感じあんな感じみたいに決めちゃったらつまらないと思うんです。言葉で定義しちゃうと拡がらないですから。本来バンドが秘めていた可能性をつぶしちゃう気がするんですよね」
「わかります。そうすると最初の曲を何にするかってことが、結構大事ですね」
「そうですね。何にしましょう。いい曲ありますか?」
「うーん」僕は考えた。「スタンダードなロックナンバーがいいですよね。解釈の幅があるような曲」
「古めの曲で、いろんなバンドがカバーしているようなものがいいかもしれません」
「えーっと……」僕は考えた。尾崎さんが楽しそうに僕を眺めていた。
「今、考えますから、ちょっと待ってください。あ、その間に尾崎さん、自己紹介でもして下さいよ」
「自己紹介!」と尾崎さんは声をあげ、目玉をくりくりと動かした。
「ヨシモクさんは突然面白いこと言いますね。自己紹介ですか。はは。そうですね。いっちょやってみましょうか、自己紹介。えーっと……。
名前は尾崎康司です。生まれたのは愛知県の豊田市。豊田市はやっぱりトヨタ車ばっかり走ってます。そう言うと大体、相手はもの凄く納得してくれるんで、いつもその話から入ってます。
名古屋圏なんでドラゴンズとグランパスは普通に好きです。でも味噌カツとか海老フライをいつも食べてるわけじゃないです。海老ふりゃあとか言いませんよ。鶏肉のことは、かしわって言いますけどね。あ、そう言えば僕、小学生のとき何故かちくわに凝ってました。寝る前に必ず食べてたんです。当時、うちの冷蔵庫にビタミンちくわってのが常備されてたんです。
ちくわを二、三本、出してきて、半分に切ります。で、二分くらい茹《ゆ》でて、しょう油とかポン酢で食べるわけです。夜中にちくわを茹でる小学生。今思うと変ですね。
ある夜、じいちゃんが『康司、なにやっとんだ、康司』って見にきたんです。ちょうど鍋で湯を沸かしながら、ちくわを半分に切っているところでした。『ちくわ茹でとるんか』じいちゃんは嬉しそうに言ったんです。
『康司、ちくわはな、だし取ったらなかんて』と、じいちゃんは言いました。『ちくわのだしはな、康司、こぶに決まっとるて』
口をもぐもぐさせながら、じいちゃんは乾燥昆布をぱちんぱちんってハサミで切ってくれました。『こぶのだしはな、康司、水から取らな水から』じいちゃんはそう言って、だしの取り方を教えてくれたんです。
食べてみたら驚きましたよ。うめえええ! って。『こ、これがだしの持つ力か!』って。そこに気付いた小学生は意外と珍しいと思いますよ。それ以来ですね、僕はまずだしを取ってから、ちくわを茹でる小学生になったんです。毎晩、寝る前に必ず食べてましたからね。考えてみれば僕、あれで太ったんですよね。ちくわ太りです。
まあ、そんな感じです。それ以外は普通ですよ。普通。中学ではバレー部に入りました。でもバレーはダメでしたね。バレー部に小太りは必要ないです。だからバンドに走りました。
やっぱり最初はとにかく楽しかったですね。大きい音を出すだけでテンション上がりましたから。本格的にベース弾くようになってからは、ビリー・シーンに憧れました。ちょっとあり得ない速弾きをする人なんですよ。一生懸命コピーしました。僕は両利きに近い左利きだったから、速弾きには有利だったんです。高校生のころは、近隣で結構有名でしたよ。ベース神、尾崎って。正直、それでちょっと勘違いしちゃったってところもあります。だから今でもベース弾いているんですよ。
あ、そうそう。さっき話したうちのじいちゃんですけどね、実は去年、死んじゃったんです。突発的な不整脈で、寝ているうちに逝《い》っちゃったらしいんです。
朝やってきた医者が『こんないい死に方は珍しいです』って言いました。それから坊さんにも誉められました。『本当に素晴らしい最期です』って。もう近所のじいさんやばあさん連中のヒーローですよ。葬式でもみんな『うらやましい、いや、本当にうらやましい』ってそればっか。
おかげで家族もあんまりしんみりすることもなくですね、いろんなこと終えられました。粋な祖父ですよ。今でもですね、尾崎さんにあやかりたい、とか言って線香あげにくるじいさんがいるらしいですからね。うちの親は、ぽっくり教の教祖って呼んでます。あ、そういえばですね、霊柩車はやっぱりトヨタ車でした。
で、東京に戻ってからです。ちくわを食べてみようかな、って思いついたんですよ。考えてみたら、ちくわって何年も食べてないような気がしました。やっぱりビタミンちくわにはこだわりたかったんで、何軒かのスーパーで捜してみました。でもこっちにはビタミンちくわってないみたいですね。まあ、普通のちくわでいいかって思ったんですけど、そこで重要なことに気付きました。僕の家には昆布がなかったんです。
あらためて涙が出ました。僕はじいちゃんのおかげで、だしの持つ力を知る小学生だったんです。そこに気付いた小学生だったんです。だけど今、僕の家には昆布はない。二十連装のCDデッキとかはあるのに。じいちゃんごめん、って思ったらもっと泣けてきました。
で、築地に行って最高級の日高昆布を買ってきました。ついでに調理バサミも。それから、じいちゃんに教わったとおりに三センチ角に切って、水からだしを取りました。おいしかったですよ、茹でちくわ。あの頃以上でも以下でもないですけどね。ちくわの味はきっちりちくわの味です。
そう、考えてみたら、またそれ以来ちくわ食ってないですね。昆布もですよ。あの昆布、使い切るのに何年かかりますかね。はは。あ、すいません。なんか長々と話しちゃいましたね。なんでしたっけ? あ、曲だ、曲。すいません。ヨシモクさん、何か思いつきましたか?」
「ええ」と、僕は言った。「バレー部の話のあたりで思いつきました」
ははは、と尾崎さんは笑った。「どうもすいません。で、何ですか?」
「ビートルズのヘルター・スケルター」
「ほほーう」と、尾崎さんは唸《うな》った。
「なるほどなるほど、ヘルター・スケルターですか。いいかもしれないですね。うんうん。や、それいいですよ。あ、そういえばいろんなバンドがカバーしてますね。U2とか、モトリー、あとオアシスもやってましたね。そうか、ヘルター・スケルターか。フレットレスだと、どう弾くんでしょうね。あ、面白そうだな。やりましょう、ヨシモクさん」
笑顔のちくわ男に、僕も満面の笑みを返した。にゅいーん。
「じゃあ尾崎さん、スタジオにはいつ頃入りますか」
「そうですね、少なくとも二週間くらいは準備に欲しいですね。他のメンバーのこともありますし」
「わかりました。他のメンバーは決まり次第連絡します。スタジオの予約なんかもやっておきますので、詳細決まったらメールします。土曜日の今くらいの時間なら大丈夫なんですよね?」
「ええ」
「楽しみですね」
「とっても。何か新しい音が出せそうな気がしてきましたよ」
尾崎さんは満足そうに微笑んだ。
僕は残っていたコーヒーを飲み干した。カップを置くと、尾崎さんと目が合った。尾崎さんはまだ微笑んでいた。喉が渇いちゃったな、彼は僕を見ながらつぶやいた。
「水、一緒にくんできましょうか?」
席を立った尾崎さんが言った。僕が首を振ると、彼は、ほいほい、とつぶやき、僕の脇を通り抜けて水をくみにいった。
周りの騒ぎ声が相変わらず大きかった。集中的にバカ笑いする女の子たちがいた。さっきまでは僕らの声もこの騒ぎに紛れていたのだ。窓の外には小型のトラックが停車していて、クラクションを鳴らす音が小さく聞こえた。人間が動くのと同じくらいのスピードで、トラックは前方に移動し始めた。
「実はですね」後ろから現れた尾崎さんが、横を通りしなに言った。尾崎さんはテーブルを回り込んで向かいの席に座った。
「ずーっと温めていたバンド名があるんです」
尾崎さんは水を一口飲むと、紙コップを置いた。
「なんですか?」
尾崎さんは僕の目を見た。
「狛犬《こまいぬ》です」
「狛犬」と、僕はつぶやいた。後ろの方では女の子の笑い声が続いていた。
「……もしかして、手裏剣ってバンド名を考えたのは尾崎さんなんですか?」
「違いますよお」
ちくわ男は大きな声でそれを否定した。
◇
ヨシモクは突然固まる。
固まるというのはおかしな言い方だが、固まるとしか言いようがない固まり方をヨシモクはする。
授業が始まると同時にそれが起こることもあるし、中盤のこともあるし、終了五分前のこともある。固まっている時間を計ってみたら、およそ三分。授業中に必ず一回それが起こるということだけが確かで、それ以外のことはゆるいしばりの範囲内にある。
問題集にさあ向かうぞ、というタイミングでふと気付くと、彼はシャープペンを握ったまま手元の一点を見つめている。凝固《フリーズ》。ヨシモクの視点はそこにあるけどそこにはない何かにロックされ、こちらからの言葉は一切届かなくなる。何を訊いても、機械的に、はい、と応えるだけだ。
二分くらい経つと、ヨシモクはシャープペンを置き、ほんの少し上半身を起こす。ただし視点は固定されたままで、脊髄反射のように、はい、を繰り返すのも変わらない。
彼はその体勢のまま、鼻の右脇を熱心に掻《か》き始める。掻きながら皮脂とかそういうものを取る。一点を見つめたまま、取り憑《つ》かれたようにぽりぽりと掻き続ける。そんなに掻いて大丈夫かと心配になるほど掻くのだが、中学生男子の新陳代謝のスピードは想像以上に速いらしく、周辺は軽く赤くなっている程度だ。
右が終わると今度は左側をぽりぽりとやる。左側には右側ほど執着心がないらしく、半分以下の時間で終わる。
「someday は『いつか』だよな」
タイミングを見計らってそう言うと、ヨシモクはゆっくりと顔を上げ、まぶしそうに僕を見上げる。そして、ああ、といつもの調子で言う。わかっていたけどたまたま忘れていた、という物語がここで再び走り始める。
ヨシモクが固まっている間、僕は手持ちのテキストを眺めたり、教室長に提出する日報をつけたりする。I教室で授業をするようになってからは、休憩、と言い残して屋上に出てしまうことも多い。
屋上で一人、僕はぬるい感じの風を受ける。冷房に冷やされた皮膚に、それが気持ちよく流れる。ビルの前は環状七号が走り、右手には首都高もみえる。騒音と一緒になって立ち昇ってくる熱波と、空調設備から吐き出され続ける熱い空気を避ければ、案外いい風をつかまえることができる。
僕は屋上部屋の壁にもたれかかる。そのざらざらした感触は、小学校の頃のプールサイドを思い起こさせる。僕はなるべく遠くにある形を把握しようと目をこらす。あれは何だ? 四角い。あれはビル。何のビル? わからない。けど結構大きい……。
王となった僕は、地球儀にこしかけて世界を見渡す。強い風が吹き、そろそろ本当に髪を切らなきゃな、と思う。壁の後ろでは、ヨシモク王子が固まっている。背中を丸めて、一点を見つめる。固く固く。丸く丸く。その一点へ。一点へ。
扉を開けると、背中を丸めたままの王子がいた。僕はゆっくりと扉を閉める。室内の冷えた空気が気持ちいい。
あいかわらず一点を見つめたまま、王子は鼻の右脇を掻いている。黒いTシャツから伸びる、白くて細い首。短く刈り込んだ後ろ髪。色あせた眼鏡のつる。
「今バンドを作ってるんだよ」
王子の背中に向かって僕は言った。
「はい」
ヨシモクは、鼻の脇をぽりぽりと掻き続ける。
「ヨシモクって名前でメンバー募集したんだぜ」
「はい」
僕はホワイトボード脇のパイプ椅子に座った。王子のぽりぽりは左側に移動した。
僕はホワイトボードに落書きをした。四本弦のベース。意外にうまく描けたので、人物も描き足してみる。バレー部には必要とされなかった、ちょっと太目のベーシストを、簡単な線と丸で表現する。from手裏剣。
右にはレスポールのギターを描いた。まだ見ぬギターを持つ男、僕はその男に帽子を被《かぶ》せてみた。
真ん中、ギターとベースに挟まれたそこには、マイクを描いた。マイクスタンドも描き足す。マイクに伸びる手、腕。それはヨシモクの腕にも見えたし、僕の腕にも見えた。顔、胸、腹、脚。
「なんすか、それ」
と、ヨシモクが言った。ようやく石化の呪文から復活したらしい。
僕は手を止め、「バンドだよ」と答えた。
「……バンド?」
「今な、おれはバンドを作っているんだよ」
「バンドってどうやって作るんですか?」
「知りたいか? ヨシモク」
僕はにやり、と笑った。
「知りたいです。先生」
ヨシモクは、にゅいーんと笑った。
携帯電話を取り出し、バンドメンバー募集サイトを表示させた。
「ここでメンバーもやりたい音楽も選び放題だよ。わっしょい」
「へえー」
ヨシモクは画面を見つめた。すげえ、とヨシモクは携帯電話を握りしめ、つぶやいた。
「まずベーシストを選んで、実際に会ってきた。まあ、軽く意気投合したのかな。人柄もいい人だったし。あとはギターとドラムが決まればバンドが完成するわけだな」
「ギターとドラムっすか」
「そう」
ヨシモクは表示されたメッセージを熱心にチェックした。読み終わると次のメッセージに進んだ。王子は次々と画面をスクロールさせていった。そこにある物語のひとつひとつが、王子の親指によって祝福されていくように見えた。
授業、と思ったが、まあいいかと思い直した。時間を延長すればすむことだ。僕は再びパイプ椅子に腰を下ろした。年代物のパイプ椅子が、ぎちぎちと音を立てた。
「先生」しばらくして、ヨシモクが顔を上げた。「いいのがありますよ」
僕はヨシモクの隣に回りこんで、画面をのぞいた。
──俺はギターを弾く。到達することのない黄金旋律を求めて。俺の相棒、すなわち板橋のジョン・ボーナムは言う。「ギタリストってのは職業なんだよ。だけどドラマーってのは属性なんだな」。こんな二人が、ボーカル&ベースを募集中。俺らがそっちに加入するのもよし。今、待ちきれなくてうずうずしている。(てつろー)
「これって完璧ですよね?」
得意げな表情でヨシモクは言った。
「でかしたぞ、ヨシモク」
ヨシモクが見付けだしたメッセージは、ギターとドラムがあらかじめペアになっている、というところが優れていた。
「この人たちにするんですか?」
「する」と僕は言った。
「ホントですか?」
ヨシモクは嬉しそうに言った。
「ああ。こういうことを運命と思えるかどうかで運命は変わるんだよ」
僕は今、わりと良いことを言った。
「そうですよね」
ヨシモクは過去最高の笑顔を作った。言葉にするならこうだ。にゅにゅにゅいーん。
「よし、じゃあ早速、返事をするぞ」
「はいっ」
ヨシモクは素早く、メッセージの返信画面を開いた。
「じゃあ、おれの言うとおり打ってくれ」
僕が言葉を発するのに合わせて、ヨシモクは親指を動かした。
……はじめまして。……よかったら僕らと一緒に……音を出してみませんか? ……僕は、……19歳の……ボーカリストで、……相棒は……最近フレットレスベースに転向した、……ちくわ好きな尾崎さんです。……メンバーが集まったらスタジオに入って、……ヘルター・スケルターの……カバーをやろうと……決めています。……打ち合わせなどはせず……各メンバーが勝手に曲を解釈して、……当日……いっせーので音出しします。……そうしたら……何か可能性みたいなものが……見えるかもしれないし……そうじゃないかもしれない。……でもそういうのって興奮しませんか? ……バンド名は……狛犬……ってのを考えていますが……もちろん嫌だったら変えます。……板橋のボナームさんにも……よろしくお伝えください。
打ち終わったヨシモクが、最初から一通りメッセージを読みあげた。
「これでいいですか?」
「最後のところ、ボナームじゃなくてボーナム」
「ボーナム……。あとはいいですか?」
「オッケー。ちょっといいか」
僕は王子から携帯電話を受け取ると、メッセージの最後にヨシモク、と名前を追加した。ボタンを押すと、簡単な電子音が鳴り送信が完了した。
「返事きますかね?」
「くるさ。こっちにとって運命って思えるなら、向こうにとっても運命ってことだろ?」
「だといいですね」とヨシモクは言った。
「ところで先生、ヘルター・スケルターって誰の曲ですか?」
「ビートルズ。今度聴かせてやるよ」
「はい、お願いします」
「ヘルター・スケルターってどういう意味か知ってるか?」
ヨシモクはしばらくじっと僕の顔を見た。
「わかりません」
わかりません……。王子を教えてもう一年以上になるが、その台詞《せりふ》を聞くのは初めてのことだった。
「ぐるぐるまわるすべり台」と、僕は言った。ヨシモクはへええ、という顔をしてうなずいた。教えられて納得する顔を見たのも、初めてだった。
◇
──十五歳からこの仕事をやってます。
テレビの中で、目玉職人のおやじが言った。
──もう五十年になりますよ。
ねずみ色の作業着に紺色の帽子をかぶったおやじは、そう言って笑った。
顔面と一体化したような大きな老眼鏡の奥で、盛大に笑いじわが集まり、そのあとゆっくりと拡散していった。
──忙しいときは日曜も何もありません。この五十年で、二日続けて休んだことはないんです。
その男は五十年間、人形の目玉を作りつづけてきた。一日三十個として、一年で九千個、五十年間で四十五万個の眼球《ドールアイ》。画面に映ったその眼球には、吸い込まれそうな、まさに眼力があった。
世界には凝視して見るべきものと、俯瞰《ふかん》して見るべきものがある。
その違いを言いかえるなら、絶対視すべきものと相対視すべきもの。今、アップに映しだされた人形の瞳は圧倒的に前者で、そこには見るものを一点に引き込む魔力のようなものがあった。少し青みのかかった虹彩《こうさい》には深い奥行きがあり、黒々とした瞳孔《どうこう》には、不気味な神秘性がある。
吹きガラスを膨らまし、表面を加工するおやじの手つきに迷いはなかった。そこには圧倒的な反復量だけが生み出す、確固たる技術と揺るぎない確信があった。作業自体がひとつの境地として完成され、美しい作品のようでもあった。美しい作品のような作業から生み出されるのは、当然のように美しい眼球だ。
次々に目玉を生み出すこのおやじこそが、全人類の頂点に思えた。超えることも追いつくことも不可能だった。
だけどおやじは言った。これとこれ、左右の目玉を交互に指差して、言った。
──長いことこの仕事やってますけどね、ひとつとして同じものはできんのです。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
近似値としての小数は、延々とケタを延ばす。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。黄金らせんの極方程式は内側へと回る。もっともっと、もっと一点へ。永遠の自己相似変形を繰り返しながら、それは回る。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。届かない反復にこそ、確かさは宿るのだ。
無自覚に拡大らしきことをしてきた、と僕を仮定する。それならばここからは回るのだ、と考える。極限中心を横目でにらみ、角度だけをキープする。往きたいのは何処で、欲しいものはなあに? 中心? 中心って何だ?
美しい作品、完璧な数式、確固たる技術、秘宝、未生の闇、無、一杯の水、神、死、定理、法則、一番、コア、眼球、ありふれた寓話、出口あるいは入り口、五本の柱、優しい光、切符、ありがたいお経、イーハトーブ、黄金旋律、蜜の壷、温暖な気候、落とし穴、属性、ビッグマネー、賢者の石、ささやかな誇り、最強、海ほたる、ハッピネス、究極の色彩、ヘルター・スケルター、秘密の暗号。
もしかしてそれを考えながら回るのだろうか? 回るふりをするのだろうか?
◇
──受信。
てつろーです。メールありがとう。ヨシモクさんのメールで、特に課題曲がヘルター・スケルターだってところが気に入りました。ぜひ俺らと一緒にスタジオに入りましょう。ヘルターを過剰に解釈して持っていきます。それぞれのプレイがぶつかり合って化学反応して、錬金術みたいにすげえことにならねえかな、と夢想中。詳細をメールしてください。相棒からも連絡させます。あ、それからバンド名は、またあとでゆっくり考えましょう。
──受信。
てつろーからききました。あなたがヨシモクさんですね。おれはチバ、ドラマーです。こないだ会った人たち、おれはわりといいなと思ったけど、てつろーがあいつらとは組めんと言ってそれきりになった。今回はてつろーが乗り気なのでおれもたのしみ。
──送信。
ヨシモクです。てつろーさん、チバさん。こんにちは。お二人と一緒に音出しするのを、心から楽しみにしています。狛犬というのは、ベースの尾崎さんが長い間あたためていたバンド名なのですが、実は僕も考え直したほうがいいんじゃないかな、と思ってます。でもとりあえず第一回のバンド練までは仮名、狛犬ということでお願いします。尾崎さんからも、あとでメールがあると思います。
──受信。
はじめまして、尾崎です。今、あらためてヘルター・スケルターを聴いて、三十年以上前にこんな曲があったのか、と驚いています。何十年も前に出尽くした音楽を聴きやすく、あるいは聴きにくく、僕らは焼き直しているだけなのかもしれないな、と思いました。それが価値のないこととは全然思いませんけど。今は本来のベースラインに手癖を加えて遊んでいます。本番までにはいろんなパターンを用意していこうと思ってます。みなさん、宜しくお願いします。
──受信。
狛犬メンバーのみんな、こんにちは。てつろーです。これで全員揃ったね。バンド練の後、どうなるかはわからないけど、今は狛犬の一員として、狛犬サウンドを追求していきたい気持ちでいっぱい。スタジオ入りがすげえ楽しみ。Look out!
──送信。
ヨシモクです。スタジオを予約しようと思うのですが、さ来週の土曜日の六時位からはどうでしょうか? それからヘルター・スケルターの最後のシャウトはリンゴが叫んでいるみたいなので、チバさんにお願いしたいのですが大丈夫ですか?
──受信。
チバっす。土曜日の六時でおれはオッケーです。最後のシャウトもオッケー。でもあれ、なんてさけんでいるのかわからないっす。
──受信。
尾崎です。スタジオの日程の件、了解しました。リンゴのシャウトは、I've got blisters on my fingers! 訳すと、(叩きすぎて)手にマメができちまったぜ、って感じです。宜しくお願いします。
──受信。
へえー、勉強になるな。(チバ)
──受信。
てつろーです。日程は了解。ところでみなさん、チャールズ・マンソンって人、知ってますか? カルト集団をつくって殺人を繰り返した人なんだけど、ヘルターに特殊なメッセージを感じて、それをマンソン・ファミリーが体現するんだって言ってたらしい。終末戦争《ヘルター・スケルター》に備えよっていう、ひとつの解釈というか、妄想。みんなはヘルターを聴いて何をしますか? 何をしたいですか?
──受信。
僕はそうですね、球根を植えます。(尾崎)
──送信。
髪を切ります。(ヨシモク)
──受信。
おれはドラマーなんで、叩くだけっす。(チバ)
──受信。
はは、みんなおもしろいな。じゃあ俺はどうしようかな。口笛でも吹くかな。(てつろー)
──送信。
ヨシモクです。スタジオの予約とれました。さ来週の土曜日、六時半から八時半まで、東十条のスタジオJです。Dスタジオをヨシモクの名前で取ってあります。大丈夫でしょうか? それから狛犬のリーダーは、てつろーさんがいいんじゃないかなと思うのですが、どうでしょう?
──受信。
尾崎です。スタジオ了解です。Jは何度か行ったことありますけど、結構いいスタジオですよね。京浜東北線は好きじゃないですけど。リーダーは僕もてつろーさんがいいと思います。宜しくお願いします。
──受信。
てつろー、人気だな。おれはドラマーなんでリーダーとかは誰でもいいっす。スタジオは了解。
──受信。
てつろーです。暫定リーダー引き受けました。あとは当日を待つだけですね。暫定リーダーとしては、みんなにすげえ期待してます。とてもいい予感がします。
──送信。
こんにちは、ヨシモクです。実はみなさんに謝らなければならないことがあるんです。ヨシモクという名前ですが、本名じゃないんです。メンバー募集をしたときに、僕の好きな人の名前を名乗ってしまい、以降、なりゆきでそのままになってしまいました。練習当日、本名を名乗ろうと思います。みなさん、本当にすいません。どうか宜しくお願いします。
──受信。
こんにちはヨシモクさん。でもヨシモクではないのですね。ちょっと驚きましたけど、別に気にしなくていいと思いますよ。かえって当日が楽しみになりました。(尾崎)
──受信。
てつろーです。仮名狛犬も仮名ヨシモクも一緒。些末なことですよ。当日、楽しみにしてます。Look out!
──受信。
おれはドラマーなので、別に名前とかはどうでもいいっす。では当日。(チバ)
◇
I教室は相変わらず光に満ち、室温は完璧に二十六度に調節されていた。
ホワイトボードには右下がりの直線グラフが描いてある。y軸上の切片がプラス5、傾きはマイナス2。その線上の一点の座標を求めようというときに、ヨシモクが固まった。
部屋の脇のキャビネットの中には、員数増減一覧と書かれたファイル・バインダーが並べられている。十一年分、それぞれの年に上期下期があるから、全部で二十二冊。天井に備えつけられたエアコンのルーバーが、左、右、左と風向きを変えた。
僕はパイプ椅子に腰を下ろした。教室長に提出する日報はもう書いてしまっていた。
「……大学を辞めたよ」
「はい」
「というよりヨシモクは、おれが大学生だってことも知らないよな?」
「はい」
じっとうつむいているヨシモクの姿が、何かに似ていると思った。
「おれも中学生のとき塾に行ってたけど、講師が大学生だったってこと聞いたときは、けっこう驚いたな」
「はい」
セミだ、と僕は思いついた。脱皮する直前、枝にしがみついているセミに、今のヨシモクは似ていた。
「あの頃はさ、塾の先生は塾の先生であってそれ以上のことは想像もしなかったな。する必要もなかったし。先生の年齢とかもよくわかんなかったしな」
「はい」
ヨシモクはいつもより固めに固まっているようだった。僕は立ち上がってホワイトボードに向かった。ラインマーカーで小さな枝を描き、しがみつくセミの幼虫を描いた。
もっともっと固くなれヨシモク、描きながら僕は思った。その固さが飽和点に達したとき、ピシリと背中に亀裂が生じ、王子は一週間の王となる。
新しい夏の王よ、飛び立て。
幹に爪を立てて樹液を吸い、好きなだけ鳴けばいい。じいじいじじじじい。存在のすべてと種の尊厳にかけて、じいじいじじじじい。頭上に死兆星が墜ちるその日まで、じじじじい。やがて時雨《しぐれ》のごときその声は、じいじいじじじじい、閑《しず》けさとなって、じいじいじじじじい、岩に染み入ることだろう。
「なんすか、それ?」
呪文から脱け出たヨシモクが言った。上目遣いのヨシモクの視線を延長すると、僕のへたくそな絵につきあたった。
「セミだよ。セミの幼虫」
「セミすか」
僕はマーカー消しで絵を消した。
「じゃあ休憩を終わろうか」
「はい」
「さっきの問題、わかったか?」
「はい」
ヨシモクはシャープペンを置き、視線を斜め下に落とした。
「線上の一点を求めるわけだから、直線の式に注目だったよな」
「はい」
ヨシモクは一点を見つめていた。
「X座標がわかっている。だったらそれを直線の式に代入すればよかったはずだ」
「はい」
返事をしたヨシモクは、鼻の右脇をぽりぽりと掻き始めた。ぽりぽりぽりぽり、ぽりぽりぽりぽり、ぽりぽりぽりぽり。
「……そっか」
僕は小さい声で言った。復活したかに見えた王子の凝固《フリーズ》は、まだ折り返し地点だった。
光|溢《あふ》れるI教室で、ヨシモクは古くなった皮脂を落とし続けた。脱皮。それは確かに小さな小さな脱皮だった。もっともっと固く、もっともっと一点に収斂《しゆうれん》すれば、セミのように完全に脱皮できるのかもしれないな、と僕は思った。
茶褐色で半透明なヨシモクの抜け殻、僕はそんなものを思った。椅子に座り一点を見つめた殻。完璧な造形と非現実的な軽さ。メガネ。背中の抜け跡。土の中で積み重ねた時間と、脱するための意志。大いなる変化の一瞬に、伸びゆく未来。褐色の立体は一ミリの狂いもなく、それらを表現しきっている。
その造形の完璧さと比べると、飛んでいく王の方はさほど重要ではなかった。抜け出た瞬間から、王は黄金の一週間を生きる。全力で鳴き、交尾し、樹液を吸う。それは美しく定められた、なぞるためだけの行為だ。
「大学を辞めたことをスタートとする。理由は家庭の事情ということにする。そのスタートが、受付の美しい女性に祝福され、学長の大きなハンコによって認められ、深緑色の制服の郵便局員によって伝えられたとする」
懺悔《ざんげ》室で罪を悔いる者のように、僕は言った。
「はい」全てを許す王子の脊髄反射が応える。
「ベッドで丸くなって、シーツを思いきり握る。ぶるぶる体を震わせて、そのあと力を抜く。そのとき簡単なリセットボタンを想像してみる。ゲーム機に付いているようなやつ。人差し指でそれを押すと、瞬間、世界は闇に落ちる。指先に力を加え続ける限り、闇は続く。そこにゆっくりと呼吸を合わせてみる。静かに、耳を澄まして、心音を聴く。ハートビート」
「……はい」
「世界の闇に十分に心と体を馴染ませたら、そっと人差し指を離す。気負うことなく、だけどさりげなくというのとは違う、刹那《せつな》を見切った達人のような気持ちで指を離す」
「はい」
「最初に聞こえてくるのは音だ。地の底から湧き上がるような協和音。おれたちを鼓舞し、世界に始まりを告げる起動音」
「はい」
「ゆっくりと風景が立ち上がる。今、自分が居る場所。例えばこのI教室。白い壁。このビルで一番、空に近い場所」
僕はホワイトボードに文字を書いた。『アナタハ ナニヲ キメマスカ?』
「白い壁には質問が書き込まれる。アナタハ ナニヲ キメマスカ? 何かを決めたらドアを開け、この部屋から出ていく」
「はい」
「これはつまり、決めたことを実行するという簡単なスキルなんだよ。一旦リセットしてから考えることで、ここから始めることは全部自分で決めたことだ、という精神が宿る。だから慌てずゆっくり決めればいい。固く固く、一点を見つめながら、これから始まる物語を想像する。始める物語を創造する。シンプルで力強い物語がいい。読み聞かせるための、言い訳じみた物語は要らない。乗るための物語。判断するための情報とはちがう、信じるためだけにある物語。奥行きのある生命力をもった物語がいい。背中に亀裂がはしるような熱いやつ」
「はい」
「ボタンを押す前のことを、忘れるわけじゃない。それはなかったことじゃなくて、データベースとして保管される。受け継がれた古い記憶、あるいは赤ん坊が持つ本能のようなものとして、物語の背景に生きる」
「はい」
「ドアを出たら、場面場面でいろんな選択をしなきゃいけない。やれることも無限にある。でもそれは処理できることなんだよ。ボタンを押す前に蓄積した情報を使って処理すればいい」
「はい」
王子の脱皮は、鼻の左側に移動していた。
「で、おれは考えた。何を決めればいいんだろう? 決めなきゃいけないこと、おれが決めたいこと。本当にそんなものはあるのか? ……ない。いや、ある。まず最初に決めなきゃいけないことはなんだ?」
僕はホワイトボードの『アナタハ ナニヲ キメマスカ?』を三重丸で囲み、マーカーのキャップを閉めた。
「おれが最初に決めたことは、取りあえず来年の四月まで塾でアルバイトをしようってことだった」
「……はい」
「そうしたら、だ」
僕はパイプ椅子に腰を下ろした。
「驚いたことに、それ以上決めなきゃならないことが、なくなってしまった」
「はい」
「それだけ? って考えたけど、それだけだった。それだけあれば、ドアを開けて新しく始めることができる」
王子はぽりぽりと掻く手を止めて、僕の顔を見ていた。
「正直これには驚いたな。それだけの物語があれば十分ドアは開くし、他に必要なものは何もない。四月になったらまたボタンを押せばいい。これはちょっとした発見かもしれないな」
脱皮を終えた王子が、不思議そうな顔をしていた。
「いいか、」と僕は言った。「線上の一点を求めるわけだから、直線の式に注目するんだったよな」
「はい」
僕はホワイトボードの文字を消し、ここ、と言って右下がりのグラフを指差した。
◇
次の日の朝、僕は大学近くの駅に来ていた。
それを確認するため、あるいはただ見たかっただけなのかもしれない。今日は木曜日でもうすぐ七時半だから、じき木島教授が降りてくるはずだった。
大学と駅の間を循環するバスが、ロータリーに止まっている。老教授はこのバスには乗らず、キャンパスまでの二十分あまりを歩く。僕はバス停のベンチで、缶コーヒーを飲みながら教授を待った。
七時二十八分、ベルの音とアナウンスが聞こえた。音をかき消すように電車が現れ、徐々に減速して停止する。圧縮空気の抜ける音がして扉が開き、ホームにばらばらと人が降りるのがわかった。
再びべルが鳴り、電車が去っていく。
僕はベンチから立ち上がり、駅から人が出てくるのを待った。しばらくすると一人の男が階段を駆け降りてきた。男は右に曲がり、小走りに十メートルくらい進んだあと、速度を緩めた。次にまた男が現れ、右に曲がった。それを合図に大勢の人々が降りてきた。
人の流れの大半は右に向かうようだった。僕は左に曲がる人間をチェックした。一人、二人。三人、四人、五人。時間的にまだ大学生らしき人間はいないようだった。六人、七人、八人。その八人目が木島教授だった。
僕は緊張しながら教授を見守った。ダークスーツを着た老教授は、胸を張った正しい歩き方でこちらに近付いてきた。目の前を教授が通り過ぎ、九人目と十人目がそれに続く。僕はコーヒーの缶を足下のゴミ箱に捨てた。がらん、という音がした。
突然、打たれるように、教授の後を追うことを思いついた。
僕は小走りに教授の後を追った。
教授の視点はまっすぐ前方に固定され、左右の腕は振り子のように正確に振られた。体は sin 曲線を思わせるリズムで、上下に揺れる。大学に通うことを反復と呼ぶ以前に、その一歩一歩が反復だった。僕は教授に歩調を合わせた。教授が右足を出せば右足を出し、左足を出せば左足を出した。手の動きを合わせ、歩幅を合わせ、呼吸を合わせた。距離はできるだけ正確に十五メートルをキープした。
僕は目を細めて自分の分身を想像した。その分身を少しずつ前方に飛ばし、先を行く教授に重ねてみる。教授と同化した僕の意識が、右、左、右、と足を出す。十五メートル後ろの僕の体が、自動的に正しい歩行を反復する。
同化した僕らは進んだ。通勤する人々の間を抜け、横断歩道を渡り、細い路地を横切った。商店街を抜け、信号を待ち、橋を渡った。
全力で自転車を漕ぐ小学生二人組が、奇声を発しながら過ぎていった。日傘をさしたおばあさんが、満面の笑みで教授に挨拶をした。教授と同化した僕も上半身を折り曲げて挨拶を返した。新築中の家を通り過ぎると、犬の散歩をするおじさんが、足をとめて挨拶をした。僕も挨拶を返した。犬がのっそりと僕を見た。
大通りに出たところで、循環バスが追い越していった。瞬間、僕の意識は後ろの体に戻った。
教授はペースを変えずに、まっすぐ歩道を歩いている。駅を出たときから少しも変わっていなかった。少し肩をほぐして、またそれを追いかけた。
右手にあるコンビニエンスストアを通り過ぎた。遠く前方の交差点で、循環バスが止まるのが見えた。ベビーカーを押した母親が近付いてきたので、教授は歩きを止め左側に避けた。母親が頭を下げ、通り過ぎた。僕は縁石を飛び越えて車道の端を歩く。ベビーカーをやり過ごし、歩道に戻る。教授との間隔が狭まってしまったので、少し修正した。前方の信号が青に変わるのが見えた。バスは対向車をやりすごしたあと、ゆっくりと旋回するように右折した。そこでポケットの携帯電話がぶるぶるっと震えた。
──受信。
ヨシモクさん、はじめまして。20歳、男、ボーカルの中浜といいます。今、バンドを組んでいますが、いまいちしっくりきていません。ヨシモクさんのメッセージには惹かれるものがありました。熱くてクール、馬鹿でクレバー、最高にして最低、格好悪いくらいに格好いい……。そうですよね、熱いってほど熱くもなく、クールっていうほどクールでもなく、馬鹿でもクレバーでもない、ってのが、打破したい僕らの現状です。今はまだ脱退までは考えていないのですが、よかったら一度、ヨシモクさんのバンドに参加させて下さい。突き抜けたいです。
交差点に到着した僕は、足を止めた。ここから右に折れると大学までは一本道だった。循環バスはもう見えなくなっていた。教授は先を歩いていた。矍鑠《かくしやく》と歩くその背中の一点を、僕は見つめた。
ついさっきまで狛犬のボーカルは僕であることに間違いはなかった。それはヨシモクであるはずはないし、20歳、男、中浜であるはずもなかった。
僕はその場所で目を閉じた。
鼓動が聞こえるような気がした。それはさっきまで同化していた教授の心音のようでもあった。太古より連綿と続く全生命の鼓動、僕はそんなものを思った。全ての生命は一体何回の鼓動を積み重ねたのだろうか。億、兆、京《けい》、垓《がい》、|※[#unicode79ed]《し》、……那由多《なゆた》。僕はその想像に自分の鼓動を重ね合わせた。とっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とっ、と確かにそれは脈打っていた。自己相似性があらかじめ内包している、無限と永遠。外向きと内向きへ、同時にまわる黄金らせん。永遠は遠く、一瞬はさらに遠い。
僕はゆっくりと目を開けた。
道はゆるやかにカーブしていた。景色としての教授が小さくあった。くっきりと濃い朝が辺りを満たしていた。遠ざかっていく景色を、僕は後ろから見守った。
薄く柔らかで捉えどころのない起動音が、聞こえた気がした。
◇
夏期講習が始まっていた。
朝十時に、預かった鍵で教室を開け、各部屋の空気を入れ換えた。簡単に掃除をし、教室宛ての郵便物とファックスを整理する。各講座用の定着プリントを用意し、本部からの定例電話を受け、要件をメモした。
十一時を過ぎると榎本教室長がやってくる。僕らは簡単に打ち合わせをし、雑務を分担した。それらを進めながら、くだらない話をした。
最近、亀本先生(女)と松川先生(男)が怪しいという話。でも亀本先生は西先生のことが好きみたいですよ、という話。確かに松川先生と西先生だったら西先生のほうがいいよなあ、という話。大野(中学二年)は今年に入って、随分背が伸びたな、という話。教室長の息子(健之介)の初めての自由研究の話。本部の統轄部長(ヒゲの永島)は現場のことをちっともわかってないという話。
話していると、十分に一回くらい電話がかかってきて、僕が出る。その三分の二くらいを教室長に取り次ぐ。十二時半になると僕らは一緒にあんパンを食べた。牛乳も飲む。
最初の授業は一時からで、その二十分前にアルバイトの講師たちがやってくる。
僕は彼らと一緒に七〜九コマの授業をこなした。授業は二十一時半に終わり、それから各授業の報告書を書き、教室長に見せた。教室長はそれに目を通し、判を押す。山田(妹)がやかましかった、とか山田(兄)は相変わらず眠そうにしていた、とかそういう話をそのときにする。
最後に各部屋のゴミをまとめた。翌日がゴミの日の場合は、事業ゴミのシールを貼って集積場まで持っていく。お先に失礼します、と教室長に挨拶すると、お疲れさま、と返ってくる。教室長はだいたいいつも、終電で帰るらしい。九コマ授業をすると、さすがにぐったりとなる。
講習の三日目にちょっとした異変が起きた。
マミとマナミが別々に登塾してきたのだ。いつもは二人一緒に塾に来て、二人一緒に帰る無敵の二人組だった。二人はいつも一緒に宿題をして、一緒に文房具を見に行き、一緒に講師の控え室にやって来た。最近は教室長のことを社長と呼ぶのに凝っているらしく、シャチョー、シャチョーと言って、まとわりついていた。昨日は「ねえシャチョーフジンは? ねえシャチョーフジンは?」と言っていた。
その日一人で控え室にやってきたマミに、僕は「マナミはどうした?」と訊いた。マミは「知らない」と言って出ていった。今日は休みなのかなと思っていたマナミはしかし、五分遅刻して授業に出てきた。
マミとマナミは椅子四個分、離れて座った。マミの右半身とマナミの左半身には、ちょっとした緊張感があった。二人の中間地点には目に見えない壁のようなものがあった。二人とも半分しか宿題をやっていなかった。
「何かあったのかなあ?」
授業報告に目を通しながら、榎本教室長が言った。
「ちょっとしたケンカじゃないですかね」と僕は応えた。
「ああいうのが長引くとやっかいなんだよ」
「大丈夫ですよ。明日になれば仲直りしてますよ」
「……だといいんだけどね」
言いながら教室長は、試すような目つきで僕を見た。僕はできるだけ何でもない顔を作った。教室長は目を逸らし、報告書に判を押した。
次の日も二人は別々に登塾してきた。どちらも控え室には顔を見せなかった。宿題は二人ともちゃんとやってあった。授業を受ける二人は、決して顔を合わせることがなかった。視線は板書とノートの間だけを往復した。注目、と声を出すと二人ともこっちを見た。
固く結んだマナミの唇には頑《かたくな》な意志があった。椅子四個離れて、同じく凜《りん》としたマミの表情。決意じみた緊張感をまとう少女たちが美しくさえあった。
仲直りしなさい、と彼女たちに言うのは簡単だった。彼女たちだってもしかしたらそう言われるのを待っているのかもしれなかった。でも僕は二人に声をかけることができなかった。だって、そんなことができるわけはないのだ。
「桜井さん、何か知ってる?」と教室長が訊いた。
「いや、わからないですね」人気者の桜井先生が応えた。
「桜井先生をめぐっての争いなんじゃないの?」と僕は言った。
「違いますよ。知らないんですか? マミの方は今、小林先生が好きなんですよ」
「そうなの?」
「そうですよ。だって僕、マミに言われましたもん。『やっぱり桜井センセーはお兄ちゃんでいい』って」
桜井先生には細身のスーツがよく似合った。細い銀の縁の眼鏡が、白い顔にバランスよく収まっている。
「じゃあさ、マナミは桜井さんのことが好きなの?」と教室長が訊いた。
「まあ、そうらしいですね」
「マナミの方には僕が言われました。『小林センセーはお兄ちゃんでいい』って」
あはははは、と教室長が笑った。
「君たちの妹はどうしてケンカしてるのかね」
「マナミは悪くないですよ」僕は妹のほうをかばった。
「いや、マミも悪くないです」桜井先生も笑いながら言った。
「こういうのってさ、非常にまずいんだよね」と、教室長が言った。
「放っておくと他の生徒を巻き込んでさ、クラスが二つに分かれちゃうんだよ。で、主流になれなかった方のグループは、ぼろぼろと退塾していっちゃうんだな」
「そこまでは、こじれないんじゃないですか」
「だけどそういう例は結構多いんだよ」
教室長は桜井先生の授業報告に判を押した。桜井先生は二時から七時まで、五コマの授業をこなして七時半に帰る。お先に失礼します、と彼は言い、ごくろうさま、と教室長が返す。
「悪い連鎖は早めに断ち切らなきゃならない」
桜井先生が去った控え室で、教室長はきっぱりと言った。
「明日も同じ状況だったら、介入しないといけないかもしれないな」
教室長はまた試すような目つきで僕を見た。
呼び出されたマミとマナミがうつむいている。並ぶ二人と椅子に座った教室長が作る二等辺三角形を、少し離れたところから僕と桜井先生が見守っていた。
どうしてこういうことになったんだ? という教室長の問いに、もうずっとマミとマナミは答えられずにいた。極限の膠着状況《デツドロツク》。本人たちにとってはさぞかし長い時間だろうが、教室長が生徒を追い込むのにかかる時間は、計ってみるとだいたい二分くらいだ。
「マミはマナミのことが好きか?」
榎本教室長は炎上する視線でマミをのぞきこんだ。答えることも視線を外すこともできないマミの、体温だけが上昇していく。
「マナミは、」教室長は一旦言葉を区切った。「マナミは、マミのことが、好きか?」
のぞきこまれたマナミの心拍数が上昇していく。自分たちなりの事情が、教室長の追い込みに呑み込まれ、浸食されていった。二人の小さなからだの中で、強大なプレッシャーと僅かに残る自我とが、ぎりぎりのせめぎ合いを続けているようだった。
「小林先生も心配しているんだぞ」
「………」
「………」
「桜井先生もとても心を痛めている」
「………」
「………」
「もちろん、俺だって心配だ」
「………」
「………」
「俺はな、マミ」教室長は右手でマミの手を握った。「マナミ」左手でマナミの手を握った。
教室長は交互に二人の顔を見た。そして沈黙。教室長の手の温度がマミとマナミの中にゆっくりと浸透し、混ざり合った。桜井先生が音を立てないように、控え室を出ていった。
「俺は仲がいいお前らが好きだ!」
教室長が言い放つのに合わせ、マミの顔がぴくりと動いた。マナミはただ突っ立っている。
「俺は、な」かみしめるように言う教室長の頬を、なんと、涙がつたっていた。ぎょっとした表情で、マミがそれを見る。
「もう一度言う」教室長は涙を流したまま、マミとマナミを見据えた。
「俺は、仲がいい、お前らの、ことが、好きだ」
二人は手を握られたまま、立ちつくしていた。電撃級のインパクトを与えられ、怖れよりも一段階高いレベルで心を掴《つか》まれたのだ。それは大海で波に呑まれていた二艘の小舟が、ひょい、とつまみあげられた瞬間だった。
教室長はマミの右手を軽く引き寄せた。
「マミはマナミと仲良くできるな?」
こくん、とマミがうなずいた。
「マナミもできるな?」
マナミも涙をためてうなずいた。
「そうか」
教室長は二人から両手を放した。教室長は今、二艘の小舟を静かな湖にそっと浮かべたのだ。
「行きなさい」
慈愛に満ちた声で教室長は言った。
二人はうつむきながら歩きだした。控え室を出る前に、こちらに向かってお辞儀をした。扉の閉まる音がした。時間にするとおよそ五分の、教室長のプロフェッショナルな『介入』だった。
凄い、と思った。凄すぎる。反則だけど凄い。相手の立場を尊重するとか、気持ちを思いやるとか、ルールとか、本当はそんなことは全然関係ないのだ。
榎本教室長はティッシュを取り出して、目の周りを拭いた。そして、ぶーんと洟《はな》をかんだ。
「……凄いですね」と、僕は言った。
はは、と教室長は笑い、もう一枚ティッシュを取り出した。ぶーん。僕は立ち上がって、エアコンの風量を強に変えた。教室長はデスクの引き出しから牛乳とあんパンを取り出した。
「食べようよ。もう時間ないよ」
僕らはあんパンの袋を破り、牛乳パックにストローを差した。教室長はパンを一口かじり、「あーあ、あんパンがしょっぱいよ」と言った。
巨大な力に方向を変えられた小舟を、僕は思った。ひょい、とつまみあげられるのはどんな気分なんだろうか……。
あんパンはいつもどおりに甘く、牛乳はいつもどおりあんパンに合った。
「僕も教室長みたいな大人になれますかね?」
ん? という顔で教室長が僕を見た。
「小林先生はときどき面白いことを言うね」
教室長はにこにこと笑った。
「そんなものには、ならない方がいいと思うけどね。ならないにこしたことはない。俺はマナミのお兄さんのほうがいいよ」
教室長は少し照れたように高いトーンでしゃべった。
僕らはいつもより速い速度であんパンを食べ、牛乳を飲んだ。エアコンの音がうるさかったので、風量を中に戻した。時間を見るとそろそろ授業の時間だったので、ゴミを片付けテキストとマーカーを持って立ち上がった。
「次、四年生?」
「ええ」
「妹たちの様子、見といてよ」
「わかりました」
僕は控え室を出て、階段を昇った。
B教室の前にはマミとマナミがいて何かをこそこそとしゃべっていた。僕を見ると、うきゃあ、と声をあげた。マミが、榎本センセーって変だよね、と言い、ぜったい変、とマナミも言った。俺は、お前らが、好きだ! マミが教室長の真似をした。きゃはははははは、マナミが笑った。
「お前ら宿題はやったのか?」と僕が訊くと、二人は声をそろえて、「やったー」と言った。そしてまたきゃははははは、と笑った。
「おれも、お前らが、好きだ」僕は結構本気でそう言った。へんー、それ絶対へんー、と二人は言い、あっさり僕をふった。
マミ、マナミ、僕、の順に、僕らは教室に入った。
つまみあげられたりするのは、案外なんでもないことなのかもしれないな、僕は小舟のことを思った。自分で決めることなんて大したことじゃないのかもしれない。欲しいのは物語の強度。気分としての強度。
マミとマナミは隣同士の席に座り、ペンケースの中身を見せ合っている。
◇
「四月まで大学を休学しているんです」
と、僕は言った。
「そうなんですか」
20歳、男、ボーカル希望≠フ中浜さんが二杯目の中ジョッキを握った。
「ちょっと似てますね。実は僕、大学を辞めちゃったんです」
中浜さんはまっすぐにそう言った。
僕はウーロン茶の入ったコップの液面を見つめた。駅前で待ち合わせた僕らは、近辺で一番大きな看板の大型チェーンの居酒屋に入った。
「どうして辞めたのか、訊いてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。まあ、いろいろあるんですけどね。一番のきっかけは、勉強が難しすぎたってことです。僕は数理学科だったんですけど、大学に入って最初の授業で、いきなり何も理解できなかったんですよ」
「……何の授業だったんですか?」
「集合・位相論Iです。板書がやたら速くって、写すだけで精一杯ってこともありましたけど、本当に何一つ理解できなかったんです。でもそのときは、あとで復習すれば大丈夫だろうって思ってました」
「たまにいますよね。猛スピードで字を書く先生って」
「そうなんです。それで家に帰ってから、ノートを見直したんです。でも全然わからない。数学なのに数字とか計算が出てこなくって、ひたすら抽象的な論述が続くんです。知らない記号がいくつもあるし、示されたものが何なのかもわからない。概念が全くつかめなかったんです」
店内のテーブルは九割方埋まっていた。各テーブルで人々は笑い、のけぞり、手を叩き、語り、視線を交わしあっていた。
「次の授業のあとで、先生のところに質問しに行きました。先生は流れるように説明してくれました。その場で理解するのはとても無理だったんで、全部メモしました。僕は『今はまだ理解できてないですけど、もう一度考えてきます』って言いました。そうしたら先生は嬉しそうに言ったんです。『頑張ってください。大学の数学は数学を解くことより、数学そのものを研究することが目的なんです』って」
「格好いいですね」
「ええ。僕もちょっと感動しました。だから頑張ったんです。でもやっぱりわからないんですよ。何度考えても」
「どんな問題なんですか、それ」
「そう、絶対おかしいんですよ。高校までの数学が全く通用しないんです。数学はイメージ化が大切だと思うんですけど、それができないんです。ノートと教科書とメモを睨んでひたすら考えましたが理解できません。でも一晩寝て起きたら、朝、突然わかるような気がしました。急いでノートを開いて考えてみたら、少しわかったような気がしました。夜また考えて、次の朝も考えました。そうしたら、もう少しわかった気がしました。そんな感じで少しずつ理解していったんですけど、最後の何行かは、どうしてもわかりませんでした。
それで次の週の授業のとき、また質問に行きました。また流れるような説明があってそれをメモしました。夜、朝、と考えました。それでやっと自分なりにわかったって思えました。完全に理解できたわけじゃなかったと思いますけどね」
「何となくわかるって感じですか」
「ええ。でも数学も高度になると、学ぶほうにとっては、それでいいんです。定理の証明なんかは、もう教授の趣味の世界に入ってますから。ただですね、僕がようやくわかった気になったのは、教養課程の一回目の授業の中の一問です。授業はもう三回終わってますから、板書ははるか先に進んでます。それからはもう、予習復習含めて毎日必死で勉強しました。集合族の演算、同値関係と順序関係、ユークリッド空間の位相、ガウス平面における通常の距離位相、分離公理、コンパクト性、n次元空間と関数空間。コンパクトって何だよって思いながら勉強しました。受験のときより勉強しましたよ」
喜んで! と遠くで威勢の良い声がした。注文を受けた店員がそれを叫ぶ。続けて他の持ち場の従業員も、喜んで! と声を合わせる。
「集合・位相というものがわかってきたかな、と思うこともありました。抽象的な論述が続く中で、時々具体的な事象に置き換えた例題があるんです。
解けるととても嬉しいです。自然数全体の集合の濃度と有理数全体の集合の濃度が等しい、なんてことを証明するんですけど。そんなの等しいわけないだろう、ってことが見事に証明できちゃうんです。
でもですね、トータルで考えると、やっぱり理解できていませんでした。位相空間なんて頭に思い浮かべることができないんです。試験は結局、重要そうな問題の丸暗記です。通常の位相において開区間と閉区間は同相ではないことを示せ、とかそういう例題の論述を一行目から暗記するわけです。
試験の結果はCでした。努力すればCは取れるんですよね。でもその上は理解しないと取れないです。ちゃんとAとかBとか取ってる人もいるんですけど」
僕らはここでしばらく沈黙した。中浜さんは、ねじり鉢巻きの男を呼んで、生ビールのお代わりを頼んだ。男は一旦喜んでから、空ジョッキを回収した。厨房《ちゆうぼう》のほうから、他の従業員の喜びの声が続いた。
「もちろん授業はそれだけじゃないんです。数学は他に二つ。ひとつは微分方程式です。数式の中に微分形を持つ方程式で、積分を使って解きます。解は関数になるんですけど、その解がどんな性質をもって、どんな意味があるのかを考えることで、いろんな物理現象を説明できるんです。解はあるのに絶対に解けない、という微分方程式が多いんですけど、解けるものには常微分方程式とか偏微分方程式とかベッセルの微分方程式などがあります。難しいのは変わりないですけど、イメージすることはできる授業でした。
あとは線形代数。三次の行列式が平行六面体の体積を表すとかそういうことをやります。これもなんだかよくわからなかったですね。他にも近代物理学とか力学とか振動・波動論とか異常に難しかったですね」
「単位は取れたんですか?」
「いや、半々くらいです。数理関係の科目はどれも状況は似たり寄ったりで、必死で努力すれば何となくわかるというレベルにはなります。解法を覚えればCは取れるんですけど、努力が足りないと落とします。落としたものは次の年再履修するんですけど、集合・位相論だけはこだわりたかったんで、取ったけどもう一回履修しました。去年のノートを睨みながら二回目の授業を受けたんです」
ねじり鉢巻きの男が生ビールを運んできてテーブルに置いた。
「そうしたら、去年よりは多少、わかった気になりました。解法が追えるんです。でもですね、やっぱり完全理解とまではいかなかった。相変わらずイメージできないんです。成績はやっぱりC。もう思いましたね。数学そのものを研究するという立場に、僕は立てないんだって。どうですか? そういうことってあると思いますか? 努力すれば解決すると思いますか?」
「いや、わからないです。そういうことって、僕はまだ経験したことありません。でも立派だと思います。ちゃんとCを取ったんですから」
「ありがとうございます。でも僕は理解したかったんです。Aをとる人や教授とイメージを共有したかった。だけどそれは無理だってわかったんです」
隣のテーブルで集団が立ち上がった。おごる者とおごられる者たちのやりとりが聞こえた。
「そんなときにですね、実家でトラブルが発生しました。うちは商売をやってたんですけど、それが立ちいかなくなっちゃったんです。もともと誰にも迷惑かけないような小さな商売ですよ。誰にも迷惑かけないような商売が、儲かるわけがないんです。卸先が倒産して売掛金が回収できなくなって、資金繰りが苦しくなってっていう、よくある話ですよ。
土地があったから、借金なんかの問題はある程度、解決したみたいです。両親は安いアパートに引っ越して、母はパートに出るようになりました。でも、もともと無気力だった父は、もっと無気力になっちゃいました。母は、大学は続けなさい、って言ってくれました。金銭的な根拠はないんですけどね」
駅前ビルの三階の空間では、熱っぽい話し声があちこちで湧き上がっていた。それぞれの声は決して交わらず、干渉もせず、薄いもやがかかったような空気の中、単なる音として生まれては消えていった。
「結論として僕は大学を辞めたんです。残ることも可能だったと思います。奨学金もらってましたし、アルバイトを増やせば何とかなったかもしれません。でもいい機会だなと思ったんです。お金を貯めて何か商売を始めるなり、別の大学に入り直すなり、何か職を探すなり、そういうことは前々から漠然と考えていました。どうしても理解できない学問を丸暗記するより、もっと堅牢《けんろう》なやり方があるはずだって思ったんです。もちろん退学してすぐやれることってバイトくらいしかないです。でもバイトだって真剣にやればお金は貯まりますからね。取りあえず百万。百万稼いだら何か考えます。思いつかなかったら二百万貯めます」
「凄いですね」
「別に凄くないですよ。単なるバイトバイトの毎日です。あ、バンドは続けてますけどね」
僕らはまた黙った。中浜さんはビールを飲み、僕はウーロン茶の液面を見つめた。
「ちなみに、どうしてバンドなんですか?」
「単なる投影ですよ。熱くなったり、クールを装ったり、没頭したり、笑ったり、格好つけたりする自分を、音楽に投影させたいだけです。
本当は投影してるだけじゃダメなんだろうって思います。何でもいいんです。学問やスポーツ、イデオロギーや商売や恋愛。良し悪しは別として、そういうものに全てを投入するっていうのが一番、堅牢な生き方だと思います。でもそれって両思いじゃないと出来ないんですよね。僕は数学の神様に門前払いをくらいました」
中浜さんは勢いよくビールを飲んだ。
「でも次のバンドには期待しているんです。実は今、貯金の残高が八十六万円になったんです。次のバイト代が入ったら、一時的にですけど百万円を超えます。そういうタイミングで、僕はヨシモクさんのメッセージに感応《かんのう》したわけです。もしかしたら両思いになれるかもしれない。僕はこれからの自分に、もの凄く期待しているんです」
隣のテーブルに新たな集団が案内されてきた。いらっしゃいませ! と従業員が一斉に声をだした。
「中浜さん」と、僕は言った。
「なんですか」中浜さんはビールのジョッキを置いた。
「ありがとうございました」
中浜さんは一瞬動きを止めた。
「いやいや。ちょっと僕、語りすぎちゃいました。ヨシモクさんにはきっと、話を聞く才能があるんですね。僕は普段、こんな話、絶対にしないです。でも今日はなんかしゃべりたくなっちゃいました」
「聞くのは好きなんです。人の話を聞くのと自分が語るのって、今の僕には同じことなんです」
「へえー」
中浜さんは楽しそうに言った。
「狛犬にようこそ」
自分には語れなかったことを語ってくれた中浜さんに、僕は右手を差し出した。そうすることで、小さな火が灯ったような気がした。何も言っていない文章から始まった狛犬が、今、立体的に浮き上がった気がした。
「狛犬ってなんですか?」
「仮バンド名です。安心してください。正式なのは後でちゃんと考えます」
「そうですね。そのほうがいいと思います」
中浜さんも右手を差し出し、僕らは握手を交わした。
「次の土曜日、六時半から東十条のスタジオJで、ヘルター・スケルターをやります。それぞれのメンバーの解釈をぶつけあって何かを見つけるんです。あ、最後のシャウトはドラムのチバさんがやるんで注意してください。リーダーはてつろーさんなんでよく言うことを聞いてくださいね」
細く頼りなげにゆらめく小さな火を、灯台守のように僕は守る。投影することも、横目で睨《にら》むこともできる、狛犬という名の概念。立ち上がりかけた長い物語と、始まるための意志と勇気。僕はウーロン茶を飲み干した。
「それからですね、ヘルター・スケルターを聴いて殺人をしちゃった人がいるんですけど、中浜さんなら何をしますか?」
「何ですかそれは?」
「メンバーの中ではですね、球根を植えるとか、口笛を吹くとか、髪を切るっていう意見が出てます」
「へえー」中浜さんは可笑しそうに表情を変えた。「じゃあですね、僕はかざしますよ。手のひらを太陽に」
僕は想像した。立ち位置右の男が球根を植え、左の男は口笛を吹く。後ろの男はドラムを叩き、中央の男は手のひらを太陽にかざす。
「だめでしたか?」と、中浜さんは言った。
「いや、全然だめじゃないです。完璧です。狛犬はきっとうまくいきます」
「いいですね。僕もそう願ってます。乾杯しましょう」
僕らは狛犬の未来に乾杯した。ちょうど隣のテーブルでも盛大に乾杯が行われていて、そのシンクロニシティに僕らは笑った。中浜さんはまたビールのお代わりを頼んだ。
「ところでヨシモクさんはどうしてバンドやってるんですか?」
中浜さんが何気ない調子で訊いた。
「僕ですか……」僕は沈黙した。
言葉はすぐそこにあった。あるはずだった。もう少しでそれを選ぶことができるような気がした。昨日まで答えることのできなかった問いの背中に、亀裂は走る。今はまだ小さいけれど、狛犬の火は確かに灯《とも》ったのだから。
喜んで! 注文を受けた男が祝福の声をあげた。
喜んで! 他の従業員の声も盛大に響いた。
◇
夏期講習の期間、土曜日は個人授業のみ開講となる。
僕は一人で教室を開ける。今日の生徒は三人で、堀内君の授業が二時半に、大山君の授業が四時に終わる。それから三十分経った四時半ぴったりにヨシモクが顔を出す。
「今日はどこですか?」
生徒も教師も他にいないのだから、本当はどこでもいいのだが、僕は「I」と言って上を指差す。へい、とうなずいたヨシモクが控え室を出る。しばらくすると階段を昇る音が聞こえる。僕は残っていた麦茶を飲み干した。
ヒアリング授業用のCDラジカセと、白い布の袋に入った散髪セット、それから授業道具を持って、控え室を出る。外から扉に鍵をかけ、暗い階段を登る。静かなビルの内壁に足音だけが響いた。
ドアを開けると、旧型のエアコンが唸りをあげていた。僕は一番後ろの机にCDラジカセを置いた。まぶしそうな顔でヨシモクがふり返った。
「それ、なんですか?」
「授業が終わったら、ヘルター・スケルターを聴かせてやるよ」
「あー」ヨシモクは嬉しそうに声を出した。「今日ですよね。狛犬のバンド練」
「そうだな」
「楽しみっすね」
「ああ」
ヨシモクは椅子の座面に両手を置き、体を揺すった。にゅいーんと笑いながら、脚をぶらぶらさせる。エアコンの操作パネルで風量を小に設定すると、風の音が止んだ。
「じゃあ英語から。今日は未来形をやろう」
「はい」
ヨシモクがテキストを開き、僕はホワイトボードに未来形と書いた。
滞りなく、授業は進んだ。ヨシモクはいつも通り、未来形というものを、あらかじめ完璧に理解していた。
たまたま忘れていた be going to〜 や will〜。〜には動詞の原形が入ること、疑問文や否定文の作り方、I will が I'll に略されることや、will not が won't となること。ヨシモクは偶然忘れていたそれらの重要事項を、次々に思いだしていった。
予定の時間が過ぎたので、英語を切り上げ数学に進んだ。僕はホワイトボードの文字を消し、新しく「一次関数の応用」と書いた。ああ、あれか、と自信たっぷりにヨシモクがうなずく。
数学が得意なヨシモクだったが、関数の概念がまだうまくのみ込めないようで、時に定数と変数が(わかっているけど)ごちゃまぜになった。グラフ上の二つの直線の交点の意味も(わかっているけど)たまたま間違えた。指摘してやると、ああ、そうか、と簡単に応える。大問を解くことに関して、意外に根性のある王子は、ねばり強く問題に立ち向かった。
水槽の水が増えたり減ったりする問題を、長い時間かけてヨシモクは解いた。そしてついにχ=5・25、つまり五分十五秒で水槽の水が空になる、という正答に辿り着いた。
「おー」僕は感嘆の声をあげた。
マミにしろマナミにしろ大山君にしろ王子にしろ、生徒は褒めて伸ばすのが、この塾の基本姿勢なのだ。
「よくできたな」
「はい」と、ヨシモクは返事をした。
が、よく見るとそのとき彼は固まっていた。あらかじめわかっていた多くのことを思いだし、考え、辿り着き、そして凝固したのだ。
時計を見ると、時刻は五時五十六分だった。テキストを睨み、あと一問解いた場合の所要時間を考え、僕は結論を出した。
「よし、きりがいいから、今日の授業はここまでにしよう」
「はい」
僕はマーカーを置いて、手をハンカチで拭いた。ヨシモクはじっと一点を見つめたままだった。マーカー消しでホワイトボードを掃除した。ヨシモクは背中を丸めたままだった。
僕は屋上に出ることにした。散髪セットとCDラジカセを持って扉を開けた。そして驚いたのだ。
おお、と声が自然に出た。そこにはもの凄い夕日があった。
西の空、赤橙色の巨大な太陽。幻灯機で投影したようなその真円は、色鮮やかに、くっきりとした輪郭で存在していた。空の曇り具合や大気の汚れ具合が絶妙なキャンバスとなり、その絵が完成したのだ。
「すげえぞ、ヨシモク!」
僕はドアに向かって叫んだ。
返事はなかった。屋上には騒音と熱波が入り乱れ、しかしそれを吹き飛ばすような、いい風も吹いていた。僕は荷物を下に置いた。
「ヨシモク!」
僕はドアを開けた。ヨシモクは背中を丸めたまま、一点を見つめている。
「来い、ヨシモク。空を見るぞ」
王子の背中に向かって僕は大声を出した。王子がゆっくりと振り向いた。
「早く来いって、ヨシモク。早く」
ヨシモクはうつろな表情のまま、のっそり立ち上がった。ぎぎぎいと椅子が音を立てる。背中を後ろから支えるようにして、ゆっくりと外に導いてやった。
風がヨシモクの前髪を跳ね上げ、白い顔面を夕日が照らした。
あー、とヨシモクは小さく声を出して目を細めた。そしてゆらゆらとフェンスのところまで歩いていった。弱い夕日の光線が、ヨシモクの凝固を少しずつ溶かしていくようだった。
「でかいだろ?」
僕は後ろから大きな声を出した。
はい、と王子が言うのが聞こえた。風が気持ちよかった。
ここで壁にもたれながら、ヨシモクの背中と夕日を眺めるのはとてもいい気分だった。僕はCDラジカセの play ボタンを押した。そこにはホワイトアルバムの二枚目を入れてあった。next ボタンを五回押し、つまみを右にひねった。
煽情《せんじよう》的なギターのイントロが流れ、ポール・マッカートニーの叫び声がそれに被さった。首都高を走り抜ける車の騒音に混ざって、激しいディストーションサウンドがうねる。音が割れる寸前まで、僕はボリュームを上げた。
音に気付いたヨシモクがふらふらと戻ってきた。僕らは二人並んで、ラジカセを見下ろした。
「すげえ……」と、ヨシモクが唸った。
「これがビートルズなんですか?」
「そうだよ。そうは聴こえないけどな」
僕は repeat ボタンを押した。電池が切れるまで繰り返せばいい。振り向くと相変わらず大きな夕日があった。
「今日は髪を切ろうと思ってさ」
「髪?」
僕は散髪セットをヨシモクに見せてやった。
「ハサミだろ、スキバサミ、ケープ、鏡に、クシ、霧吹き」
僕は布の袋から取り出したそれらを、屋上に並べていった。
「もしかして自分で切るんですか?」
「そうだよ」
「そんなことできるんですか?」
「できるさ。いつもは風呂場で切るんだけど、ほら、ここなら後片づけが楽だろ」
「凄いっすね」
「凄くないよ。慣れちゃえば爪を切るのと一緒だって。おれはもうここ一年、ずっとセルフカットだぜ」
ヨシモクは僕の頭を見上げた。
「頭の形とか毛の量が完璧にわかってるからな、自分の髪に関してはプロ並だよ」
「いいなあ」と、ヨシモクはつぶやいた。「おれ、美容院とか床屋さんって苦手なんですよ」
一回目のヘルター・スケルターが終了し、ちょっと間をおいて、またギターのイントロが始まった。
「切ってやろうか?」
ヨシモクは僕の目を見返した。
「前に髪切ったのはいつだ?」
「多分、一ヶ月くらい前です」
「よし、じゃあ切ってやるよ」
「いやあ、でも」
「大丈夫だよ。伸びた分をちょっと切るだけだから」
「……ホントですか?」
「まかせろって。よし、じゃあちょっと待ってな」
僕はI教室に戻って、パイプ椅子を取ってきた。風の少なそうな位置にそれを置いた。
「こちらへどうぞ、ヨシモクさん」
「マジっすか」
王子は照れた笑顔で、そこに座った。僕は後ろに回り、首筋にケープをかけてやった。
「メガネを外してください」
ヨシモクはメガネを外した。
「今日はどんな感じにしますか?」と、僕は訊いた。
「じゃあ一センチくらい切ってください」
「一センチ……」
霧吹きで髪を湿らせながら、僕はヨシモクの髪を観察した。黒くツヤのある直毛で、太さはやや細め、髪の量は多いようだ。
「髪の量をざっくり減らして軽くして、毛先に表情と流れをつけてやります。そうすると活動的で優しげな印象に仕上がります。そんな感じでどうですか?」
「他にはどんなのがあるんですか?」
「他?」僕はクシでヨシモクの髪をとかした。「他はないなあ」
わはは、と王子は笑った。「じゃあ、それでお願いします」
「はい。では失礼します」
クシで髪を引き出し、スキバサミを入れた。髪の束がケープをつたって落ち、ヨシモクが、おお、と声を出した。
「動くなよ」と僕は言った。「夕日が沈むまでには、ばっちり仕上げるからな」
生え際を除いて、頭を縦に三つ横に三つの九ブロックに分けて考える。ブロックごとに垂直に髪を引き出して、スキバサミを入れる。それだけのことだ。終わったら次のブロックに進む。
僕は音楽に合わせて口笛を吹いた。へるたーすけるたー、と、ヨシモクも口ずさんだ。気に入ったらしく何度も歌った。僕は、Look out! と合いの手を入れた。
「チャールズ・マンソンって人がな、この曲を聴いて大量殺人をしたんだってよ」
「えー、なんでですか?」
「知らないけどさ、大事なのはお前はどうだってことだよ」
「なにがですか?」
「おれはこの曲を聴いて髪を切る。尾崎さんは球根を植える」
「尾崎さんってベースの人ですか?」
「そう。ヨシモクならこの曲を聴いてなにをする?」
「……なんだろう」
ヨシモクは考え始めた。
王子の散髪は折り返し点を越えていた。僕は一度、髪全体をクシで梳《と》かした。クシに引っ掛かった髪が、ぱらぱらと落ちる。残すブロックはあと四つだった。全ブロックを切り終えたら、最後に襟足《えりあし》と耳周りと前髪を整えてやればいい。
時刻は六時半だった。そろそろ狛犬のメンバーがJに着く頃だろうか。
ヨシモクは黙って夕日を見つめていた。もしかして固まっているのかな、と思った。
僕はいつものようにゆっくりと口を開いた。
「……東十条駅に着いた尾崎さんは、青い電車を降りる。北口の改札を抜けて、階段を下り、商店街を少し進んで、パチンコ屋の手前を左折する。そして思う。いつものことだけどベースってのは結構重いよな。Jは駅から結構歩くから、次からはもう少し駅から近いスタジオがいいな。京浜東北線ってのも不便だしな……。尾崎さんは足を止めて、汗を拭《ぬぐ》う。さっきまで前方を歩いていた男が、Jの入り口の階段を駆け上がるのが見える。もしかしてあれはチバさんなのかな、と尾崎さんは思う」
ポールは相変わらず激しい叫び声をあげていた。残すブロックはあと三つだ。
「チバさんは入り口の引き戸を開ける。狭い通路と暗い階段を抜けてDスタジオに向かう。スタジオの前の丸椅子に相棒のてつろーさんが座っている。『よお』チバさんは手を上げる。隣の丸椅子に腰掛け、スティックケースからスティックを取り出す。たたたたたた、たたたたたた、六連のリズムで腿《もも》を叩く。『さっき後ろを歩いていたやつ、多分うちのベーシストだぜ』。叩きながらチバさんは言う」
夕日がじりじりと高度を下げていた。僕はもう一度、霧吹きでヨシモクの髪を湿らせた。残すブロックはあと二つ。
「そう思ったなら声をかけて確かめるとかしろよな、と、てつろーさんは思う。でもまあ、と、いつものように思い直す。そういうやつにしか刻めないリズムってのがあるんだろうな、きっと。
そこへベースを担いだ小太りの男が現れ、確認するような視線を投げる。『尾崎さんですか?』てつろーさんは立ち上がる。『はじめまして。尾崎です。今日は宜しくお願いします』汗を拭きながら尾崎さんが頭を下げる。『ちーす』チバさんも頭を下げる。『じゃあ、おれたちは先に入って用意してましょう』てつろーさんは先頭に立って、ドアノブに手をかける。Dスタジオの重たい扉がゆっくりと開く。この二人は案外いいリズム隊コンビになるかもな、と、てつろーさんは思う」
僕は最後の一ブロックの髪を引き出した。
「てつろーさんはケースからギターを取り出す。シールドをアンプに差し込み、足下にエフェクターを並べる。チバさんは、たかたたかたたかたたかた、とタムを回す。尾崎さんは真剣にチューナーを睨んでいる。てつろーさんはPAの電源を入れ、マイクを立てる」
王子の髪をクシで梳かしながら、僕は続けた。
「重い扉が再び開き、ボーカルの男が登場する。男は本名を名乗り、四人は挨拶を交わす。尾崎さんは不思議に思うだろう。ちょっと混乱するかもしれない。でもチバさんなら、まあ、いいんじゃないの、とか言うに違いない。リーダーのてつろーさんが、何か気の利いた言葉でまとめてくれるだろう。これくらいのハプニングは、些末《さまつ》なことだって」
生え際の毛にハサミを向けながら、僕は遠い音楽を思った。そこに何か見えてほしい、と、僕は願った。予感でも可能性でも愉快な気分でもいい。
「てつろーさんがイントロを弾きはじめる。ボーカルがそれに続き、スネアのストロークがさらに煽《あお》る。九小節目のシンバルを合図に四人の音が混ざる。尾崎さんのグリッサンド奏法が唸りをあげ、てつろーさんのギターが躍る。突き抜けたいと願う中浜さんのシャウトが魂を投影し、I've got blisters on my finger! チバさんが叫ぶ。四人の個性と解釈と思い入れと物語は、ヘルター・スケルターというラボの中で、混ざりあって化学変化を起こす。それは黄金旋律へと昇華する。ここに狛犬の伝説が始まる。Look out!」
僕は僕の物語であったかもしれない物語を吐きだした。完結したのか、それとも始まったのか、遠い音楽は確かにそこにあった。一周回ったんだ、と僕は思った。一周回ったスタート地点は、かつて僕がいた場所とは違う。始めたこと、始めなかったこと、聞いたこと、語れなかったこと。一周回ったんだ、と僕は思った。ぐるぐるまわるすべり台に乗って僕らは回る。下に着いたらまた昇る。一周回ったんだ。屋上では何回目かのヘルター・スケルターが鳴り響いていた。
「先生!」
突然、ヨシモクが口を開いた。
「こら」と言って僕は手を止めた。
「お前、急に動いちゃだめだろ」
「……すいません」
僕は一度、ヨシモクの髪全体をクシで梳かした。襟足を観察すると右側が少し長いような気がした。その不揃いを修正していると、王子がぽつりと言った。
「二学期になったらおれ、学校に行きます」
「……そっか」
僕は顔を上げて言った。夕日は丸く、西の空にあった。
「まあ、一年休んじゃったけどな。勉強のほうはしっかりやってきたから大丈夫だよ。授業だって簡単についていけるさ」
「いやあ、さすがに授業は無理っすよ。まずは保健室っすよ」
「そっか……」
僕はヨシモクの前方に回り込み、前髪にする部分をクシで引き出した。そこにちょんちょんとハサミを入れていく。
「先生は切らなくていいんですか?」
「おれはまた今度、切るよ」
王子の前髪は、とてもキュートに仕上がった。左右の長さをチェックし、それを直すと、最後にくしゃくしゃっと髪をくずした。ぱらぱらと髪が落下する。
「ありがとうございます。先生、上手いですね」
鏡を見たヨシモクが嬉しそうに言った。
僕は王子のケープを取ってやった。立ち上がったヨシモクは一度伸びをした。
「一歩一歩っす」と、王子は言った。
「そっか」と、僕は言った。
ヨシモクは犬のようにぶるぶると体を震わせた。髪の毛が風に吹かれて飛んでいった。
「先生のバンド練は何時からなんですか?」
「八時半《ヽヽヽ》」
と、僕は嘘を言った。
だけどその時間になったら、僕は自分のための新しい歌を歌おうと思う。
ヘルター・スケルターの次なら、ロング・ロング・ロングだろうか。もの静かで地味な曲だけど、どことなく生命の息吹を感じさせるジョージ・ハリスンの凡庸なチューン。聴くのはお前だ、ヨシモク。夕飯を終え、自分の部屋でそれを聴け。遠い音楽を聴け。
メガネをかけ直したヨシモクが、にゅいーんと笑った。王子の笑い顔がいつもと少し違ってみえたのは、すっきりした髪型のせいでもあって、それは我ながら良いできに思えた。僕はラジカセのスイッチを切った。思いだしたように首都高を走り抜ける車の轟音《ごうおん》が聞こえた。だけど耳鳴りのように、音楽は残っていた。僕は散髪セットを布の袋にしまった。
「先生!」ヨシモクが大声を出した。
「あれ、なんか変ですよ!」
王子は地平の先を指差した。その先には、夕日があった。見ると夕日の底辺が水平に削り取られていた。
「なんだろうな」と、僕は言った。
日蝕のように夕日の下側が削れていた。夕日と地平線の間には、まだ少し距離があった。なのに夕日は確かにくっきりと削れていた。日没のスピードに合わせて、真円はすこしずつ、浸食されているようだった。
「……このまま見てればわかるな」
どうやら夕日の下には、見えない何かがあるようだった。その何かは、円の中のシルエットとして、次第に姿を現していった。じりじり、じりじりとそれは上昇した。最初に水平だと思った線は、両端から裾拡がりに開いていった。
おお、と、ヨシモクが唸った。それは僕らがよく知っている形だった。僕もヨシモクも口には出さなかったけど、頭にあるものは同じだった。やがてそれは夕日の真ん中にまで達した。夕日の中に浮き立った、見事な形のシルエットだった。
「あれ、富士山ですよね」
と、ヨシモクが言った。
多分な、と僕は言った。僕らは偶然にも、富士山の向こうに夕日が沈む場面を目撃しているらしかった。山は赤い太陽の中に、シルエットとしてだけあり、それより裾《すそ》の部分は、大気と同化して何も見えなかった。不思議な光景だった。
「だけど富士山とはちょっと違うような気もするな。似てるけど」
「いや、絶対、富士山ですよ」
王子は断言した。
それから僕らは黙って夕日が沈むのを見守った。赤橙色の夕日は目にわかる速度で、じりじりと浸食されていった。
シルエットの頂上が、円の頂点に達したとき、それで夕日のほとんどが姿を消し、左上の部分だけ食べ残しのせんべいのように残った。やがてそれも消えたとき、西の空には山も夕日も残ってなかった。それらは奇跡のようにきれいに消滅したのだ。
僕らは消えた夕日を眺めた。言葉はなかった。耳の奥では、遠い音楽が鳴り響いていた。
[#改ページ]
月に吠える
◇
「ハインリッヒの法則というものをご存じですか?」
と、丸山主任は問うた。
知らん、と哲郎《てつろう》は思った。知るわけがない。
哲郎から、隣にいるメガネ君、その隣のノッポさん、その隣のじっちゃん。主任の視線はゆっくり順に移動し、最後にメガネ君に戻った。
「アメリカの技師ハインリッヒが、労働災害を統計的に分析して導き出した法則です」
丸山主任はメガネ君をまっすぐ見つめながら言った。
「大きな災害の裏には、多くの軽災害があるのです。その割合は『1対29対300』。すなわち1件の重大なミスの裏には、29件のかすり傷程度のミスがあり、さらにその裏にはケガまではないものの、300件のヒヤリ・ハットした体験が潜んでいる、と、こういう法則です」
哲郎は主任の口元を眺め続けた。そうすれば目が合うこともないし、礼を失することもない。
「さて。この『1対29対300』の法則から、我々は何を学べばよいのでしょうか」
哲郎は考えてみた。つまり、ゴキブリを一匹見たら裏に二十九匹いて、さらに卵が三百個ある、そんな感じだろうか。
「橋本君はどう思いますか?」
「はい」
視線がメガネ君に集まった。
「えーっと」
メガネ君は眼鏡中央のブリッジに手をやった。
「……わかりません」
「皆さんはどうですか? この法則から何かわかることはありますか?」
視線はメガネ君から四方に散った。主任の視線だけが、メガネ君をまっすぐに捉え続けた。
「定期的に起こってしまう重大な失敗を、仕方のないことだと思わないことです。それは防げるはずなんです」
主任の前に突き出た感じの口。その上、鼻の脇あたりに三本のヒゲが伸びる様子を想像していたら、急におかしくなってきて哲郎は目を伏せた。
強くまばたきをしながら、クールに、と哲郎は念じた。たとえ主君の敵と相対しようが、大爆笑の最中であろうが、頭の芯は常にクールでなければならない。
「重大な失敗の裏には、特に問題にならなかった300件のヒヤリ・ハットした体験があります。それらの小さな潜在的失敗を決して放置せず、芽を早く摘み取ってやる。いつやってくるかわからない労働災害を未然に防ぐには、ヒヤリ・ハットの段階を、きっちり問題として認識し、地道に対策を考え実行していくことが重要なんです」
チチチチチ、と主任の腕時計のタイマーが鳴った。
「ではこのヒヤリ・ハットを、職場の問題として認識するには、何が必要だと思いますか。橋本君、どうですか?」
「はい」メガネ君は中央のブリッジに手をやった。「ホウ・レン・ソウをしっかりとすればいいと思います」
「そのとおりです」
満足そうに丸山主任がうなずいた。
報告、連絡、相談。それらが大切なことはわかるが、|ほうれん草《ヽヽヽヽヽ》にかけて言われると馬鹿にされたような気分になる。クールな頭で哲郎は思った。
「ホウレンソウを徹底することにより、個人のヒヤリ・ハットは全員の問題として、共有されるのです。ですから皆さん、何か気づいたことがあったら、必ず声を出してください。報告、連絡、相談。いいですか。次工程はお客様、品質は5Sの鏡。昼礼終わります」
メンバーが散るのと同時に、製造ライン上の蛍光灯が次々と点灯した。検査待ちのミニラボに一斉に火が入り、空冷ファンの発する耳慣れた騒音がフロアに満ちる。電光掲示板には、目標10台、実績5台と表示され、タクトタイムを示す42という数字が点滅を始める。
持ち場についた哲郎は、足下のフットスイッチを踏んだ。ミニラボ生産ラインの第一工程。モーターの唸《うな》る音とともに、ターンテーブル付のリフターが上昇する。
その音を聞くとき、哲郎はいつも聖域という言葉を思った。ホウレンソウもヒヤリ・ハットもハインリッヒも聖域の内部までは届かない。それは聖域と職場とをつなげるための概念なのだ。
製品の|枠組み《フレーム》が、哲郎の目の高さまで上昇し、止まった。哲郎は背後の棚から、搬送部と呼ばれるユニットを取り出し、枠組みにセットした。
「丸山主任ってジャコウネズミに似てるよな」と、哲郎は言った。
「ジャコウネズミ?」
チェックシートに号機ナンバーを記入する手を止めて、メガネ君が振り向いた。
「ジャコウネズミって普通のネズミですか?」
「うん」
哲郎はネジ整列皿を軽く振った。ネジが頭を上にして綺麗に整列する。
「昨日、テレビで見たんだけど、似てるんだよ。口元に三本ヒゲを描いたら完璧。食虫目ジネズミ亜科マルヤマシュニン」
哲郎は電動ドライバーの先でネジを拾い、搬送部をフレームに締結していった。
「言われてみれば確かにネズミっぽいですけどね」
メガネ君はボールペンを握ったまま、こっちを眺めている。
「ジャコウネズミは船に乗って世界中に分布を拡げたんだよ」
「へえー」
作業ギアはC。哲郎は部品コンテナの中から、供給ブラケット1、2、3を取り出し、順に取り付けていった。メガネ君はしばらくこっちを眺めていたが、やがて思いだしたように作業に戻った。
──なんかそう聞くと格好いいですね。
最後にそう言ったメガネ君の言葉が、頭のすみに残った。
船に乗るネズミ。連結ブラケットを組み付ける哲郎の頭の中に、簡単な絵が浮かんだ。それは子供のころ観たアニメーションの記憶だった。貨物船に忍び込んで、仲間と一緒に旅をする正義のネズミ。冒険者たち。みんなっ、とネズミのリーダーが声を上げる。尻尾を立てろっ!
そういえばあのアニメーションにも、分厚いメガネをかけたネズミが出てきたな、と哲郎は思った。名前はメガネじゃなかった。ハカセ? いや、ガクシャだったか。哲郎は三段に積まれた通《かよ》い箱の中から、供給部を取り出した。
供給部をフレームに組み付けながら、哲郎はミニラボ組立ラインの仲間たちが、帆を張った筏《いかだ》に乗り込む姿を想像した。哲郎、メガネ君、ノッポさん、じっちゃん、丸山主任。世界中のミニラボを修理するため出航する五人。皆さん、と丸山主任が言う。次工程はお客様です。
供給部の取り付けを終え、振り分け部に移った。第一工程の品質のキモはこの作業にある。哲郎は作業ギアをCからAに入れ替えた。スピードより緻密《ちみつ》性を優先した作業ギアA。哲郎は雑念を振り払い、慎重に振り分け部の位置決めをする。
作業には絶対の自信があった。全体をひとつの平坦な流れと考えずに、山も谷もあるコースだと考える。相応《ふさわ》しい場所で相応しいギアを入れることで、高い品質と迅速な作業を同時に実現させるのだ。
哲郎が派遣社員としてこの会社に来て、半年になろうとしていた。
──派遣社員というものは、当たり前のように正社員より優秀な人材でなければなりません。
と、派遣会社の教育係は言った。
──悪い言い方をするなら、正社員の半分は企業にとって不良債権のようなものです。その正社員と良好な関係を保ちつつ、しかし当たり前のように彼らより成果を上げなければなりません。商品としての派遣社員はそこまでいって初めて、買った人をある程度満足させるんです。顧客満足は当たり前。我々は顧客感動を目指そうではないですか。
感動とまでいくのかどうかはわからないが、哲郎の作業は明らかに速く、かつ正確だった。作業指導を受けた次の日には、習熟工数《スタンダードタイム》を切り、周りを驚かせた。三日目からは作業手順書を見なくても最後まで組み立てられるようになり、また作業ミスによる不良も皆無と言って良かった。
機械の内容とそれぞれの部品が果たす機能が大まかにわかってくると、ギアを切り替えるべきポイントもわかってきて、さらに作業のスピードは増した。ギアをCに入れたときの哲郎に、メガネ君は驚愕《きようがく》の声を上げた。
「右手と左手が別の生き物みたいですね」
「そう?」
哲郎は返事をしながらも、右手でネジを締め左手で部品を取る。
「哲郎さんってシューティング・ゲームとか、上手くないですか?」
「普通に上手いかな」
「……神だ」
哲郎に向かってしゃべりかけるとき、メガネ君の手は完全に止まっている。
ここに来る前、哲郎は三つの会社に派遣された。いずれの職場でも作業スピードは一番速かったが、こんなに他の作業者《オペレーター》と差が出る職場はなかった。このラインのタクトタイムは42分だったが、習熟した哲郎は29分で作業を終えるようになった。
余った13分で何をやれ、という指示も無かったし、ラインバランスを取って、タクトタイムを短くしようという話にもならなかった。
哲郎以外の人間が入れば、やはり42分かかるということも理由のひとつだったし、哲郎はメカ、メガネ君は光学、ノッポさんはエレキ、じっちゃんは仕上げ、とそれぞれの縄張りのようなものが決まっているのも大きな理由のひとつだった。
──うちはずっと少量生産、品質重視でやってきたからね。
いつだったか、他社と比べて、という話になったとき丸山主任は言った。
──組立の効率は確かに悪い。その代わり品質の追い込みに関しては他の企業の追随を許さないわけです。
確かにメガネ君がやっているような光軸《こうじく》調整が、特殊な技能にあたるということはわかる。が、それにしても遅い。おそらくここの作業者は、哲郎が考えるギアAで全ての作業を進めているのだ。
哲郎はギアをCに切り替えて、16組のベアリングとローラーをセットする。歯車を組み合わせ、Eリングで固定していく。さらにその下に大物の部品を取り付ける。
さっきまでただの枠だった本体フレームは、様々な部品が取り付いた機械に形を変えつつあった。それは左右の手を自在に操る、哲郎という名の組立《アツセンブリ》神が、聖域にて仕上げる、いわばひとつの作品だった。
哲郎はこのミニラボ組立ラインが気に入っていた。今まで渡り歩いた製造現場に比べると、コスト意識に欠けた甘々なラインだったが、機械が完成していく過程とオペレーターの特性が、うまく噛み合っていた。それが美しいと思えた。
何らかの機能を果たすべき部品、それらひとつひとつを、哲郎は骨格としてのフレームに組み付けていく。入り口と出口。その過程。制御を統《す》べる脳としての基板ボックス。エネルギー源としての電源ユニット。様々な臓物を与えられ、カタチとなった機械は、メガネ君の待つ第二工程に送られる。
メガネ君による光軸調整は、難易度の高い手術のような作業だ。完全な理想値に当てはまることのないこの調整はしかし、トライ&エラーの繰り返しによって、ミクロン単位である範囲に収められる。範囲内でのブレにより、機械の性格が決定される。そうして光を得た機械は、第三工程へ送られる。
ノッポさんはエレキ関係を組み付ける。基板のコネクターから、機械の各部に向けて、電気ケーブルを引きまわす。終わると電源部から各部に向け、新たなケーブルを引きまわす。こうして指令と感応を伝達する神経系と、エネルギーを運搬する血管が、機械の隅々に張り巡らされる。
最後にベテランのじっちゃんが仕上げる。カバーを付け、液入れをし、ラベリングする。こうして外殻をまとったミニラボは、検査工程に運ばれていくのだ。
ミニラボは写真を焼くための業務用の機械だ。値段は高級車が買えるくらい。一日に十台前後、月に二百台くらい生産しているが、受注は縮小傾向にある。主任は少量生産だと言うが、多いよなあと哲郎は思う。この機械を買う人が、月に二百人いるということがうまく想像できない。
昔は大ラボと呼ばれるものがあったが、今はもう生産を終了した。時代は中央集権より、分散型を選んだのだ。
◇
JBLのスピーカーから BARK AT THE MOON〈月に吠える〉が流れる。
哲郎は煙草をくわえたまま、ギターを構えた。フェンダーのストラトキャスター。目を細めて煙を避けながら、激しいイントロをなぞる。
高速回転飛行を思わせるエッジの効いたリフ。Bメロと交差するオブリガード。ジェイク・フェイク。音を絞ったテレビの画面では、出演者が大げさな手振りで、何ごとかを説明している。
ランディ・ローズは死んだ。終盤のギターソロに差しかかるとき哲郎はいつも思う。だけど新加入したジェイクは、こんなにも素晴らしいプレイを高らかに提示したのだ。
ギターソロを弾き終え、哲郎はピックを置いた。最後に煙草を一吸いし、火を消す。曲は YOU'RE NO DIFFERENT に移った。
ギターのスイッチを切って、スタンドに立てかける。反対側に体をひねって、アンプの電源も切った。
哲郎が座っている座椅子からは、立ち上がらなくても殆どの必要な動作をすることができた。テレビをつける、消す、ギターを取る、チューニングする、弾く、弦を張り替える、戻す。煙草を吸う、消す。洟《はな》をかむ、ゴミを捨てる、電話をする。それはラーメンの屋台のようにムダのないレイアウトだった。
改善のコツはあらゆるムダに注目することです、といつか丸山主任は言った。
例えば、部品を取るのに三歩も歩かなければならない、というムダ。二本で済むネジを三本使うムダ。あらゆるムダを取り除くことで効率的なラインを構築し、他社との競争に勝たねばなりません、主任は何故だかメガネ君だけをまっすぐに見つめながら言う。(昼礼の説教自体がムダとは考えないのだろうか?)
ムダを省くことで競争力を維持し、僕らは少しの給料を得る。その給料で思いつきのムダを買うのだ。
哲郎は立ち上がり、やかんの湯を沸かした。湯飲み一杯分のお湯は、待つまでもなく、すぐに沸く。じっちゃんの中国みやげの白龍珠《パイロンジユ》を五粒、湯飲みに放り込んだ。
──コロコロジャスミン茶だよ。
嬉しそうに、じっちゃんは言った。
──何粒か湯飲みに入れて、お湯を注げばいいんだよ。で、飲む。飲み終わったら、また注いで二煎目を飲む。最後はそのまま、ぽいって捨てちゃえばいいから簡単だろ。
なるほど、と思った。家に帰って試してみると、もっとなるほど、と思った。一人暮らしには最適なシステムだ。
湯を注ぐと、ダンゴムシのような茶の粒が、ゆらーんとほぐれた。哲郎は湯飲みを持って座椅子に戻った。
口をつけるとジャスミンの香りがいっぱいに広がる。はーっ、と哲郎は声をだした。オジーの反逆のロックンロールは続き、テレビではまだ出演者が大げさな手振りで何かを説明している。
机の中央には、メモ帳があった。お茶を飲みながら哲郎は、最初のページを眺めた。哲郎はそれを、俺の旗、と呼んでいた。
[#挿絵(img\136.jpg)]
それらは哲郎がいつか創ろうと思っている、曲のタイトルだった。
俺の旗は、日々立派になっていく。だけど、なのか、だから、なのか、今はまだ曲を創るわけにはいかない、と思うのだった。数多《あまた》の名曲には創るための理由があったはず。自分にはそれがない。
哲郎は新しい紙に「だんだんだんごむし」と書き、お茶をすすった。俺の旗に加えるかどうかは微妙なところだ。
じっちゃんにもらった白龍珠が、そろそろ切れそうだった。売ってる店を探さなきゃな、と思いながら哲郎はまた、はーっ、と声に出した。
◇
──PDCAを回すとはどういうことでしょう?
にこやかな表情で、壇上の講師は言った。
PDCA……。内容は忘れてしまったが、ホウレンソウのようなものだということはわかる。来期からQCサークルのリーダーをしなければならない哲郎は、業務終了後にQC初級講座を受けていた。どこの職場にもこういうものはあるので、多少の心得はあった。
一番後ろの席からは、講座を受ける全員の背中が見えた。薄緑色の制服。青い襟。いつだって全体を見ることができるのは、壇上の人間と一番後ろの人間だけだ。
──Plan、Do、Check、Action、の頭文字をとってPDCAといいます。これを書き表した輪のことを『管理のサイクル』といいます。
講師はホワイトボードにP─D─C─Aとつなげた輪を描いた。哲郎の前席の男の脚が、小刻みに揺れていた。
──まずは、どう行動するかをPlan、つまり計画し、Do、実行します。次に狙い通りの効果は得られたかをCheckして、その後のActionにつなげます。
前席の男の揺れる脚をしばらく眺めていると、それが規則的な上下運動の繰り返しであることがわかった。貧乏ゆすりとは違う、意志的な動き。
──これを輪のごとく回していくことで改善は進みます。日常の業務もそうですが、QCサークルの活動においても、このサイクルが基本中の基本になります。
ビートだ、と哲郎は気付いた。QC初級講座からは完全に独立したビートを、前席の男は刻み続けていた。
──QCサークル活動による職場の問題解決は、PDCAに基づいて次の手順によって進めます。
講師はホワイトボードに正対して手順を書きだしていった。
手順1……テーマの選定
手順2……現状の把握と目標の設定
手順3……スケジューリング
手順4……要因の解析
手順5……対策の検討と実施
手順6……効果の確認
手順7……標準化と管理の定着
ツツターツ、ツツタツツ、ツツターツ、ツツタツツ……。
講師の説明とは全く関係ないミドルテンポのリズムが、前席で続いていた。
──実際に突然、これらを進めろと言われたら、みなさん困ると思います。でもご安心ください。我々にはQC七つ道具があります。
哲郎は男の脚に合わせて、人差し指でリズムをとってみた。リズム・マスト・ゴー・オン。
──今日はそのQC七つ道具のひとつ、『特性要因図』を学びます。一般に魚の骨、フィッシュ・ボーン・チャートと呼ばれるものです。皆さんも見たことがあるのではないでしょうか? 海外では発明者にちなみ、イシカワ・ダイヤグラムと呼ばれています。このダイヤグラムは、先ほどの手順のうち、1と4のステップで使うことが多いです。
[#挿絵(img\140.jpg、横317×縦262)]
男のリズムは、確固として強固だった。肉体の内から発せられる、求心力をもったビート。それは何者からの干渉も、受けていなかった。
──まず最初、問題点を魚の頭にあたる部分に書きます。その後、図の骨の部分に、その原因と思われることを書いていきます。なぜ? なぜ? を繰り返しながら大骨、中骨、小骨の順に原因を掘り下げて記入していきます。そうすることで、問題を発生させる原因が整理されるわけです。
哲郎は椅子に座った体勢のまま、左手でコードフォームをつくり、右手に架空のピックを握った。小さく16ビートのカッティング動作を繰り返しながら、そろそろと男のリズムの中に侵入していった。……One, two, three, four, ……Get up!
男と哲郎のセッションが始まった。
──少人数のグループによるブレインストーミング形式で、これらの作業を進めます。ブレインストーミングでは、とにかく頭を柔らかくして、アイデアを出すことが重要です。自由な発想にブレーキをかけないよう、他の意見に対する批判は厳禁。奇想天外で型にはまらない発想を歓迎します。他人のアイデアに便乗する意見も大いに結構です。
……Get up, get on up !(ゲロッパ、ゲロンラ)。哲郎と男のセッションは続く。
──ブレインストーミングによってアイデアが出きったら、そこで初めて論理的にそれをまとめたり評価したりします。アイデアを系統的に分類し、最後に問題に対して最大の影響をあたえている三つから五つの原因を選びます。
……Stay on the scene, like a sex machine! セッションは佳境に差しかかる。
──それでは皆さん、早速このブレインストーミングを行ってみましょう。旅は道連れ世は情け。前の席から順に、四人ずつグループになってください。
講師が円を描くような手振りをつけて言った。前席の男のビートは突如として終了し、哲郎も軽くグリッサンドをかまして、ギターを置いた。
──グループを作ったら、まずは簡単に自己紹介をしてください。
講堂がざわめき、席の先頭から順にグループができていった。前席の男は椅子にそっくりかえるようにして、それを眺めていた。
振り向いたり、挨拶を交わしたりしながら、四人ずつのグループができていく。やがてその波は、最後列の哲郎たちの前まで達し、止まった。
前席の男が、ゆっくりと振り返った。
「ども、千葉っす」
男は簡潔に言った。
「はじめまして。村木です」
哲郎はさっきまでのセッション相手に挨拶を返した。千葉と名乗った男は、興味なさそうにうなずいた。
──各グループに紙を配りますので受け取って下さい。
「ここは二人グループになっちゃうのかな」
哲郎が言うと、千葉は、ん、と言い、そのあと、や、と言った。
その目線は上下におよいだ後、哲郎の右斜め後ろに、何かを捉えた。後ろを見ると、こちらに歩いてくる女性がいた。
「よろしくお願いします」
近付いてきた女性が微笑んだ。
講習に遅れてきたのだろうか……? 哲郎は会釈を返しながら思った。制服の胸元から、白いブラウスがのぞいている。
後ろにまだ人がいるとは思いもしなかった。セッションに気付かれていたとしたら、かなり恥ずかしい。
「こんにちは。レンズ商品部の千葉といいます」
千葉は急にうやうやしい態度になって挨拶した。何かのスイッチが入ったみたいだった。
「はじめまして。SP1の小笠原です」
彼女は、哲郎の右にあった椅子に腰掛けた。
「SP1っていうと、医療機器部になりますか?」
椅子ごと向き直った千葉が尋ねた。
「そうです」
「医療機器って、何ていうか、すごく素敵な響きですね」
「ええ?」小笠原さんは驚いた表情をしたあと、あははは、と明瞭な発声で笑った。きれいな歯並びだ。歳は同じくらいか、少し年下に見える。
「レンズ商品部は素敵じゃないんですか?」
「ダメダメダメ。うちはもう、名前がダメだから。だってレンズ商品っていわれて何が思い浮かびますか? おれは最初、ムシメガネしか思い浮かびませんでしたね。医療機器っていうとほら、スマートでしょ。頭良さそうだし。ところで小笠原さん」
千葉はまっすぐに小笠原さんを見つめた。
「オガサーって呼んでもいいですか?」
「オガサー?」小笠原さんは愉快そうに千葉を見返した。「いいですけど」
「じゃあさ、じゃあオガサーはさ、オガサーは今まで他の人にオガサーって呼ばれたことありますか?」
「ないです」
「おお!」千葉は二回、手を叩いた。「それって、オガサーにとっては千葉がオンリーワンってことなんですよ。わかります? オンリーワン・フォーエバー」
あはははは、と小笠原さんは笑った。面白がる人だ、と哲郎は思った。面白がる人は面白がらない人の三十倍は可愛い。
「えーっと」と、哲郎は大きな声で言った。加わらねば。
「感材機器部の村木です。今日はよろしくお願いします」
「よろしく」千葉が簡単に頭を下げた。「ところでオガサーはさ、入社何年目なの? 俺は二年目。まだまだフレッシュマン」
「ちょっと待ってくれ」と、哲郎は声を出した。「チバ君。ちょっとくらいは俺にも興味持ったほうがいいんじゃないかな」
「ああ……」
しょうがねえな、という感じに千葉はつぶやいた。
「……感材機器部ってなんかよくわかんないっすね」
「何で?」
「だって感材って意味わかんねーし。何作ってるんすか?」
「ミニラボ」
「……ミニラボ。なんか二十円のお菓子みたいな名前っすね。アタリつきのやつ」
「いや、二百万でも買えねえと思うぞ」
「まじっすか。当たったらもう一個もらえるんすか?」
「アタリはねえんだよ」
隣で小笠原さんが笑っていた。千葉が哲郎の目を、ちら、と見た。その目が何かを素早く語ったような気がした。多分こんな感じだ。
──俺はどんどんボケる、だからお前はがんがん突っ込め。
「俺、悩みがあるんですけど、言ってもいいですか?」と、千葉が言った。
「なんだよ、いきなり」
「実は俺、キの発音が苦手なんですよ。どうしてもヒに近くなっちゃうんです」
「ふーん」
「だからですね、ムラヒさん。ムラヒさんって言いにくいんすよ」
「わざと言ってるだろ、お前」
「そんなことないっすよ。だからムラヒさん、下の名前教えてくださいよ」
「哲郎。村木哲郎」
「てつろーか。いい名前じゃないっすか。俺は好きだな。ん? あ、どうも」
前の席から、画用紙と黄色い付箋《ふせん》紙とペンが回ってきた。哲郎たちがそれを受け取ると同時に、講師が大きな声を出した。
──自己紹介が終わったら、リーダーを決めてください。
「……リーダーか。オガサーは誰がいいと思います?」
哲郎は小笠原さんに笑いかけた。
「オガサーって言うな!」と千葉が叫んだ。「オガサーって言うのはチバがオンリーワンだって言ったろ」
「チバ君はわかってないな」哲郎は指を左右に振った。「オンリーワンってのは単に期間の問題なんだよ。そりゃあ長い場合も、短い場合もあるけど、フォーエバーなオンリーワンってのはこの世にはないんだよ」
──時間がありませんので、リーダーはアミダクジで決めてください。決まったら、早速ブレインストーミングに移ります。
講師の大きな声が、ざわついた室内に通った。
「俺が考えたのに」千葉はぶつぶつ言った。
「ぶつぶつ言うな」と哲郎は言った。
「じゃあアミダクジで決めちゃいましょう」
小笠原さんがノートに三本の線を引いた。
太くてまっすぐで、好ましい線だ。真ん中の線の下に『当選』と書き、横線をいくつか加えた。「どうぞ、選んでください」三人はそれぞれ自分の場所を決めた。
いきます、小笠原さんはペン先を当選マークに押し当てた。
下から上へ、ペンが登っていく。右に曲がり左に曲がり、上に登ってまた右に曲がり、最後は『て』に突き当たった。
──リーダーは画用紙に、魚の骨を描いてください。頭の部分に課題を書きます。課題は「どうすればたくさんの意見がでるようになるか」としてください。
リーダーとなった哲郎は画用紙を取り、魚の骨を描いた。
「考えてみればてつろーってなんかリーダーっぽい名前だよな」と、千葉が言った。
──意見を多く出すには? それについてみなさんは、ストーム、つまり嵐のように、どんどん発言してください。発言は付箋紙にメモして、画用紙に貼り付けていきます。各自の発言に批判は厳禁。便乗は大いに歓迎。奇想天外、型にはまらない発想で多くの意見をだしてみましょう。さあ、始めてください。
哲郎は付箋紙の束を三つに割り、配った。
「どうすれば多くの意見が出るようになるか? じゃあ、チバ君からいってみよう」
「んー、とりあえずビールかな」
「ちょっと待て。いきなりそういうので始めんのかよ」
「批判は厳禁っすよ、リーダー」
千葉は手元の付箋紙に、ビールを飲む、と書き込んだ。
「じゃあ小笠原さん、どうぞ」
「ビールっていうか、アルコールならなんでもいいですよね」
オガサーは、アルコールを摂取する、と書いた。
「つまみもほしいっすね」と千葉は言った。
「それは我慢しろよ」
「いやもう本当に簡単なもんでいいんすよ。絶対そのほうが多くの意見がでますって」
「あ、でも鍋物をかこむのはいいかもしれない。カニは無口になるからダメですけど」
「オガサーはイイコト言うなあ」
千葉は、つまみをつまむ(カニ以外)、と書いた。
──何かわからないことのあるグループは、手を挙げてくださいね。
講師の声が聞こえたけど、ねえよ、と千葉は言った。
「自白剤を、ほんの少し使ってみるというのはどうだろう」哲郎は言った。
「あやしいキノコを食べてみるとか」オガサーは言った。
「キノコなんか効かねえって」千葉が断言した。
「そうなの?」
「あれはダメだね」
「それよりお前、キって言えるじゃねえかよ」
「本当ですか? ムラヒさん」
「……いつか殺す」
「あ、そうそう。有機溶剤だったらうちの職場にいろんな種類がありますよ。正直、あれは効きますね」
「オガサーがそんなこと言っちゃ、ダメだと思います」
「俺もそう思います」
哲郎は魚の大骨の先に『何かを摂取する』と書いた付箋を張った。そこから枝分かれする小骨に『アルコール』とか『キノコ』とか『鍋物』とかを並べていった。
──どうですか? たくさん意見は出ていますか?
巡回中の講師が、哲郎たちの画用紙をのぞき込んできた。
「まあまあです」と、哲郎は言った。
キノコか……。講師は付箋紙のひとつを見つめた。
──はは。いいですね。この調子でどんどん進めてみてください。
「はい」元気良く千葉は応えた。三人は魚の骨に向き直り、ブレインストーミングを再開した。
「緊張をほぐしてリラックスすると、良いアイデアが出るんじゃないかな」
と、オガサーが言った。
「じゃああれだ。マイナスイオンだ」
「お香もいいかも」
「1/fゆらぎ。せせらぎの音」
それらの意見は『環境を改善する』という大骨の下に集められた。
「まあ、でも最終的には気合いを入れろってことだと思うよ、俺は」と、千葉が言った。
「つまり勇気を出せってことだな」
「元気があれば何でもできる」
「要はやる気だな」
それらの意見は『精神論』のカテゴリに集められた。
「正味な話をすると、賞金をだせばいくらでも意見はでるんじゃないかな」
「賞金より罰金。無発言者には罰金を科す」
「十個意見を言うのをノルマとする。未達成の場合は一週間の奉仕活動」
これらは『アメとムチ』という大枝に分類される。
「サブリミナル・メッセージ。誰も聞き取れないぐらいの音量で『もっと意見がでるもっと意見がでるもっともっと意見がでる』ってずっと流しておく、というのはどうでしょうか」と、オガサーは言った。
「催眠術は使えるかもな」
「自己暗示とか」
「こういう時こそコックリさんだろ」
これらは『無意識領域』のカテゴリに分類された。
時間はあっという間にすぎ、イシカワ・ダイヤグラムは画用紙いっぱいに広がっていった。見事なものだ、と哲郎は思った。
──そろそろ時間です。
壇上に戻った講師が、大声を出した。
──みなさんおつかれさまでした。意見がいくつ出たか数えてみてください。
数えると三十七個あった。
──二十五個以上出れば合格でしょうか。書き上げたものを小骨から中骨、大骨、頭と辿ってみましょう。うまく書けていれば、「何々すれば○○になる」という具合に、つかえることなく読みとれるはずです。実際の活動では、このあと対策案なり、要因なりをいくつか選定するわけです。
千葉がふんふんと頭を動かした。
──これからQCサークルのリーダーとなるみなさんは、今日の経験を生かして、QC七つ道具のひとつ、特性要因図を十分に活用するようにしてください。
講師は全体を見回しながら、笑顔を作った。
──本日の講義はここまでです。次回はQC七つ道具のふたつめ、パレート図をやります。長い時間おつきあいいただき、ありがとうございました。
講堂がいっせいに拍手に満ちた。千葉もパチ、パチと手を叩いた。オガサーはできあがった特性要因図を手にとって眺めていた。こういうところで拍手をしないことにしている哲郎は、手を叩くふりだけした。
──特性要因図は、後から回収しますので、そのまま机に置いておいてください。
壇を降りた講師が、口に手をあてて大声で言った。ざわついた雰囲気の中、受講者は帰り支度を始めた。
「なんだかいまいちでしたね」と、隣でオガサーがつぶやいた。
えっ?
小笠原さんは特性要因図から目を離した。
「……まあでも初めてだと、こんな感じなのかな」
哲郎たちのイシカワ・ダイヤグラムはオガサーの手によって二つに折り畳まれた。前の席では千葉が、黙って筆記用具を片づけていた。
「次、また一緒のグループになったら、頑張りましょうね」
立ち上がった小笠原さんが、きれいな笑顔で言った。
「そうですね」と、哲郎は言った。千葉が無言で頭を下げた。
小笠原さんは、それじゃあ、と言って出入り口に向かった。哲郎は立ち上がり、千葉は首だけをそちらに向けた。二人は彼女を見送った。
|なんだかいまいちでしたね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
開け放たれた出入り口からは、秋の西日が差し込んでいた。彼女はやがて、吸い込まれるように光の向こう側に消えた。千葉が小さな声で、ありえねえ、とつぶやいた。
哲郎は手に持っていたボールペンを、制服の胸のポケットに差した。千葉が立ち上がり、バッグを背負った。
「……なあ」光の差し込む出入り口を見つめながら、千葉は言った。
「俺は悪くねえよな?」
「ああ」と、哲郎は肯定した。
「お前は悪くねえよ」
六時を示すチャイムが一回だけ鳴った。
「反省会が必要だな」と、哲郎は言った。
「ああ。必要だよ」
「明日、昼飯食ったら、藤棚の下のベンチのところに来いよ」
「わかった」
千葉と哲郎は出入り口に向かって歩き出した。
外に出ると、西日の眩《まぶ》しさに目が眩《くら》んだ。千葉が持っていたバッグを背負い直した。
「感材機器ってことはこっちか?」千葉は右を指さして言った。
「ああ。レンズ商品っていうとこっちだよな?」哲郎は左を指さした。
千葉は頷《うなず》いた。じゃあ、明日な。ああ。
「なあ」
左に進みかけた千葉を、哲郎は呼び止めた。
「もしかして俺が悪かったのかな?」
「そんなことねえよ」千葉はまっすぐに哲郎を見て言った。
「お前は十分よくやったよ」
千葉の後ろから西日が差して、哲郎は何回かまばたきをした。
◇
全ての作業が終わろうとしていた。
タクト表示板を見ると、残り時間はまだ14分ある。最後の歯車を取り付け、Eリングでとめる。
チェックシートを取り出し、目視確認項目と動作確認項目をチェックした。タイミングベルトのテンションを測定し、数値を記入する。フットスイッチを踏むと、本体フレームが静かに下降した。
「相変わらず速いですねえ」
メガネ君がスコープから目を離して言った。
「ああ」
哲郎は本体フレームの後ろに回り、お客様であるところの次工程に寄せた。作品の納付。メガネ君はそれを見届け、再びスコープをのぞき込んだ。
次の作業のために、哲郎は新しい本体フレームを取りにいった。フレームを押し、ラインのレールの上に乗せる。レール脇にはいつも小さく塩が盛ってあった。主任が言うには、塩を盛ると不良率が下がるのだそうだ。
次の作業が始まるまで、まだ10分くらい時間があった。哲郎はそういう余り時間に何か作業を、ひとつだけすることにしていた。例えばそれは簡単な掃除であったり、部品の在庫チェックであったり、棚や箱を整理したり、といったことだった。
哲郎はその作業をサービス還元と呼んでいた。職場への労働力の還元。今日は電動ドライバーから、先端のビットを抜き取った。工具箱から予備の三本も取り出す。
「ビット、磁化します」
哲郎は各工程を回って、ビットを回収していった。
「お願いします」メガネ君は二本のビットを差し出した。
「……ん」ノッポさんは三本。
「いつも悪いねえ」じっちゃんは四本。
哲郎は計十三本のビットを集め、マグネタイザーという小さな機械の電源を入れる。小さな穴にビットを差し込み、スイッチを押しながら、抜刀《ばつとう》するようにゆっくりと抜く。
そうすると弱まったビットの磁力が復活するのだ。期待することに対してきっちり正確なリターンがあること、その繰り返しだけが心の平安に結びつくような気がする。
サービス還元を終えると、次の作業が始まるまで、哲郎は喫煙所で煙草を吸う。
◇
食堂に一番近いのはC棟で、だから十二時のチャイムが鳴ったとき、一番有利なのはC棟で仕事をする連中だ。従業員二千人に食堂はひとつ。人気メニューのときには結構な列ができてしまう。
列の先頭付近はC棟の連中が多いのだが、そればかりではない。遠い職場の若者は走り、遠い職場の中年はフライングするのだ。メニューの人気の高さに比例して、競争は激化する。
哲郎は喫煙所の窓から、下を眺める。今日もバラバラと食堂に駆け込む連中が見える。
はあはあ息を切らしながら、B定食に殺到する連中を見て、犬みてえだなとは思うが、まあ、並ぶのを避けるために走るというのは合理的で真っ当な考えだろう。それは許す。哲郎が問題だと思うのは、走ったその先にあるメニューだった。
観察してみると一番競争が激しいのは、月に二回あるイカ天丼の日だった。人はイカ天丼のために走るべきではない。何故ならご飯の上に載っているのは、海老ではなくてイカの天ぷらなのだ。労働者は断じてイカ天丼のために走るべきではない。
煙草を一本吸ってから、哲郎はゆっくりと食堂に向かう。
日によってまだ列が解消されていない日もあるし、定食が売り切れていることもある。しかしそれらの問題はすべてカレーが解決してくれる。カレーはいい。並ばないし、売り切れもない。一杯210円のポークカレーとチキンカレーとビーフカレーが、日替わりのローテーションで回る。
哲郎はチキンカレーを五分で食べて、食堂を出た。自販機で缶コーヒーを買い、中庭の隅に向かった。藤棚の下のベンチに、千葉が座っているのが遠くからでもわかった。
近づいて、よお、と右手を上げた。脚に目をやると、小刻みに上下している。哲郎が隣に座ると、リズムは静止した。
「お前、ドラマーだろ?」
「ああ。なんでわかった?」
「見てればわかるよ。ちなみに俺はギター弾き」
「へえー」千葉は哲郎の顔を見た。「ギタリストってのは職業だと思うんだよ。教師とかエンジニアとか販売員とか、そういうのと同じで」
秋の柔らかな日差しが、二人に落ちていた。
「だけどドラマーは違う。自由人とか表現者とか求道者とか読書人とか、そういうのと並列な気がするんだよな」
「ということはあれか。『あいつは酒飲みだから』ってのと同じ文脈で、『あいつはドラマーだから』ってのが成り立つのか」
「そうそう。そのとおり」
「なんでそう思う?」
「リズムってのは、筋肉さえ動かせれば、いつでも刻めるだろ? もっと言うと何も動かせなくても刻めるんだよ。で、多分、刻むってことは、自由人が自由にしていることとか、求道者が道を求めていることと、同じことだと思うんだよ。多分、ジョン・ボーナムも俺と同じ意見だよ」
「……何となくわかる気はするな」
哲郎たちの前を、多くの人が通り過ぎていった。薄い緑色の制服の群れが、秋の日によく似合っていた。
集団の中に頭ひとつ突き出た人がいた。ノッポさんだった。哲郎が軽く頭を下げると、ノッポさんも、おう、という顔で返した。
「でかいな、あの人」と、千葉がつぶやいた。
「ああ。うちの会社で一番でかいんじゃないかな」
「一番だよ。間違いねえ」
哲郎は缶を振り、プルタブを引いた。
「一人というには大きすぎ、二人というには人口の辻褄《つじつま》が合わない」
千葉は歌でも詠むようなトーンで言った。
哲郎はコーヒーを飲んだ。それ、面白いな。
遠くでフォークリフトがバックする連続的な警告音が聞こえた。
「……あれから考えてみたんだよ」
と、哲郎は言った。
「だけどやっぱり俺たちは間違っちゃいなかった。笑わせてる感触は確実にあったんだから。それにな、オガサーだって結構、ノリノリだったろ?」
「だけど俺たちは、|いまいち《ヽヽヽヽ》って言われたんだぜ」
千葉は持っていたコーラを飲み干した。
「だから今回はただのレアケースだよ。たまたまオガサーのキャラクターとか、目的とか、その場の状況と噛み合わなかっただけで」
「そりゃ噛み合わねえことだってあるだろうさ。それはしょうがねえよ。だけどな、」
千葉はコーラの缶を握りつぶした。
「それに気付かなかったってのは、どう考えてもまずいだろ。俺らは最後までうまくいってると思ってたんだから」
「……確かにな」
「ズレてるのはいいんだよ。むしろズレなきゃ、俺たちみてえなのは価値がねえわけだから。だけどズレてることに気付いてねえのは、絶対にまずいだろ」
職場へ戻る従業員の波が、少しずつまばらになっていた。
「俺たちの時代はもう終わった、ってことか」と、哲郎は言った。
中庭の右はじのほうでは、男女四人のグループがバドミントンをしている。
「……そうかもしれねえな」千葉が大きくベンチにもたれかかった。「俺たちの時代なんて、あったのかどうかも、今となっては怪しいけどな」
「それはあったろ。俺たちはちょっと前まで無敵だっただろ」
「でも昨日の俺たちは、|いまいち《ヽヽヽヽ》だったんだよ。もう通用しねえんだよ」
「だとしたらこれからどうすりゃいいんだ? いまさらバドミントンするわけにはいかねえんだぞ」
「心を入れかえて、それくらいやったほうがいいのかもしれねえな」
「絶対ムリ。キャッチボールくらいが限界だって。それだって続いて三日だよ」
「全体的に社会が、俺たちみたいなのを許容しない方向になってきたんじゃないか?」
多分、千葉も同じことを感じていると思う。『俺たち』という主語でものを語るのが、軽く愉快だった。俺だと混沌としていたものが、『俺たち』だとシンプルに浮き立つ。昨日出会ったばかりの俺たちは、同時にそれを面白いと感じていた。
「じゃあ、これからのテーマは共存だ。俺たちは社会と共存共栄すべきだ」
哲郎は勢いよく宣言した。
「どうやって?」
「何かを思い立ったときには、基本に立ち返る」
「基本?」
「仕事はきっちりとする。女子はきっちりと笑わせる」
始業五分前のチャイムが鳴った。千葉が嬉しそうに笑った。
「バカはバカにする。肉は食えるときに食う」
「バドミントンはやらない。卓球はやる」
「まだまだ俺たち、これからだよな?」
「ああ。俺は今、風を感じてるよ」
バドミントンの男女が馬鹿笑いするのが聞こえた。羽根とラケットをひとりの男が回収している。
「おっしゃ。反省会終わり」
哲郎は右、千葉は左。二人は拳を握り、ハイタッチをして別れた。
◇
提案制度というものがある。
業務の効率化やコストダウン、安全化につながる改善提案を、月に一件、専用の用紙に書いて提出する。その提案は評価され、AからDまでの等級がつけられる。A級なら三万円、B級なら三千円、C級なら三百円が会社から支給され、D級だと支給はない。実行を伴い、少しでも効果が確認されるものであれば、おおむねC級がついた。
ちょっとした作業場のレイアウト変更とか、組み立てる際の工夫などを提案し、自分で実行する。それを提出すればだいたいC級がもらえたが、それは業務の範囲内だと哲郎は考えていた。当たり前のように実行するべきで、提案して実行したくなかった。
だから部品の設計変更を提案し続けていた。
提案 搬送ブラケットCに位置決め用のボスを付け、ネジ締め作業を削減する。
方法 別紙スケッチ参照。
効果 25秒/台の工数削減。(34円/台のコストダウン)
提案先の設計部門から戻ってくる用紙には、いつも中島という印が押してあった。等級はD。部品のコストアップ要因になるため不採用とさせていただきます、貴重なご提案ありがとうございます、とある。哲郎は考えた。
提案 搬送ブラケットCにおいて、板金を曲げ加工し位置決めの機能を持たせる。ネジ締め作業を削減し、またポカミスの防止をする。
方法 板金加工の際、※の部位(スケッチ参照)の曲げ加工と同一工程にて処理することにより、|コストアップすることなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》変更は可能。
効果 25秒/台の工数削減。(34円/台のコストダウン)及び品質の向上が見込める。
設計の中島印が押された紙が戻ってきた。次機種にて採用させていただきます、とあった。等級はD。
「ちょっと見てもらえますか」
哲郎は丸山主任のところに行って、戻ってきた提案用紙を見せた。
「次機種にて採用なんだったら、C級なんじゃないんですか?」
主任は驚いた表情で哲郎を見たあと、書類に目を落とした。
「……村木君の言う通りです」
丸山主任は大きくうなずくと、顔を上げて哲郎を見た。
「私が中島さんに交渉してきます」
巨大な白イタチに闘いを挑む、勇敢なネズミのような表情で主任は言った。
一週間後、書類はC級に直されて戻ってきた。三百円が支給され、哲郎はそれでギターの五弦を買った。
ギターの五弦なんかは、すぐに切れてしまう。でもそれでよかった。
来週からQCサークル活動が始まる。
◇
昼食の後、藤棚の下のベンチに行くのが、哲郎の新しい習慣になっていた。右手には缶コーヒー、左には千葉。
「QC活動ってのも子供だましだよな」と、千葉は言った。「問題点を発見して、理由を考えるわけだろ? で、対策案を考えて、実行して、効果を確認して、今後の課題を考える。そんなうまくいくわけねえじゃねーか」
「確かにな」
「やるって決めた以上、不良率なら右下がり、利益なら右上がりにしなきゃいけないわけだろ? それにもっともらしい説明と数字を後からくっつけてるだけだろ?」
千葉はだいたいのことに興味なさそうにしていたが、しゃべりだすと意外に多くのことを語った。
「何つーか、もっともらしい理屈をつけると、せっかくの結果がチープに思えちゃうんだよな。バカにされた気分になるっていうかな」
だけど人は理屈に注目し、理屈に納得する。理由があるから結論が生まれるという理論だけで世界は回り、発展してきたのだ。
「まあ、QCっていうストーリーに乗ることで、報告するほうも、されるほうも納得しやすいんだって。みんな納得したいんだよ」
と、哲郎は言った。
「そうか? もっと普通にやったほうがいいと思うけどな」
「普通って何だよ」
「例えばさ、『うちのサークルは不良率を50%下げました! これが証拠です』って発表する。で、見てるほうは、『おー、すげえー』『カッコいいー』って拍手する」
ははは、と哲郎は笑った。面白いけど、無理だな。
「自分たちで問題を見つけて、考え、解決して、発表する。それが世界に誇る日本の小集団活動ってことだよ。そこに労働者のモラルの向上と、経営参加意識が芽生えるわけだな」
「本当かよ」と、千葉は言った。「俺は業務として、改善命令が出て、それをこなすってほうがいいけどな」
千葉は六連のリズムで腿《もも》を撃ち、ピシーと言ってハイハットを叩く動作をした。うち下ろす右手に連動して、左のつま先が宙に浮く。
「だってさ、理由を言ったって言わなくったって、結果は同じなんだぜ」
それはドラマーの論理なのだろうか? 哲郎は思った。
結果はそこにあり、理由はそこには存在しない。
そんなものは俺には必要ねえ、か。俺は叩くんだよ、か。それが太鼓の意志なのか。
千葉は背伸びをしてベンチにもたれかかり、はああ、と声を出した。つーかさ、俺はサークルのリーダーをやりたくねえんだよなあ。
中庭の芝にスズメが着地するのが見えた。ちょんちょんと進んだあと、きょろきょろし、またちょんちょん進む。スズメってのはいつでも挙動不審だ。
「あそこにブタがいるらしいぞ」
千葉はS棟を指差した。
「ブタ?」
「ああ。医療機器の実験に使ってるっていう噂だぜ」
「レントゲンを撮ったりするのか?」
「知らねえけど」
「……胃カメラ飲んだり、か」
「そうかもな」
「医療機器って言えば、オガサーは覚えてるかな? 俺たちのこと」
「知らねえよ」
始業五分前のチャイムが鳴った。千葉は伸びをするついでのように、立ち上がった。
「あのよー」
と、哲郎は言った。前から言おうと思っていたのだ。
「俺たち、バンドやらねえか?」
千葉は、なんだその話か、という顔をして、にやり、と笑った。
「俺はドラマーだからな。叩くだけだよ。お前は俺をうまく使うことを考えろよ」
スズメが一直線に飛び立った。軌跡と地面がつくるシャープな鋭角。
「わかった」
哲郎と千葉は拳を合わせた。
ちちちち、とスズメが鳴くのが聞こえた。
◇
哲郎たちのサークル名は『ゴン太くん』といった。
指を折って数えてみると、サークルが結成されたのは哲郎が中二の頃。ノッポさんと仲が良かった初代リーダーのあだ名が、『ゴン太くん』だったらしい。ノッポさんとゴン太くん。
「今回は何をやりましょうか?」
哲郎はサークルノートを開きながら言った。サークル活動の第一回目では、まずテーマを決めなければならない。
「こないだはラインの掃除みたいなもんだったからさ、今回は実のあることやらないと、主任が何だかんだ言ってきそうだな」
と、じっちゃんが言った。
「実のあることって何ですか?」
「金額で効果が出せるようなやつかな」
「村木さん、大変なときにリーダーになっちゃいましたね」
対面に座ったメガネ君が言った。
「まあ、テーマさえ決まっちゃえば何とかなるもんだけどな」
「どんなテーマがいいですかね?」
うーん……。ゴン太くんの面々は黙りこんだ。
哲郎はサークルノートに目をやる。みんなが困っていることや、問題だと思っていることをヒントにテーマを決めよう、とある。
「困っていることって言ってもな。俺たち別に困ってないんだよな、実際」
じっちゃんが言い、腕組みをしたノッポさんが大きく頷く。
「村木君はさ、俺らと違って他のいろいろな職場を見てきたわけだろ? 何かそういう立場からさ、ここのラインの問題点みたいなのはないの?」
「問題点ですか……」
ありすぎだ、と哲郎は思った。問題を問題と思うことから、このラインは逃げている。
だけど哲郎はこのラインが好きだから、今でも何も言う気はなかった。でも……。哲郎は昨日考えたのだ。楽だからって手を抜くヤツの曲を、俺たちは聴きたいだろうか?
「……問題かどうかわからないですけど、ラインバランスが、ちょっと悪いとは思いますね」
ついに哲郎は、それを言った。
「確かにそれはあるな」じっちゃんは言い、うんうん、とノッポさんも頷いた。
「テーマとしてやるなら、それいいんじゃないですか? ラインバランスを改善すれば工数削減になるから、金額で効果が出せますよね?」
と、メガネ君が言った。
「でもさ、今の状態でラインバランスを取っちゃうと、人が入れ替わったときとか、誰かが休んでヘルプが入ったときとかに困るんじゃないかな」
じっちゃんが言い、ノッポさんが大きく頷く。
「そこが難しいですね」
と哲郎は言った。そして考えるふりをした。
「……あ、でも、人が入れ替わったりしたときは、また新たにラインバランスを取り直せばいいんじゃないですか?」
じっちゃんが驚いた顔で哲郎を見た。
「確かにそうかもしれないけど、そんなこと急に出来ないだろ」
また哲郎は考えるふりをした。
「ラインバランスを取るってことじゃなくて、常にラインバランスを取れるようなしくみを作るってのはどうですか? いつでもフレキシブルに工程変更できるようにしてやるんです」
「どういうこと?」
「この作業はこの人しか出来ない、という作業はあると思います。でもそれ以外の作業は、本来、誰がやってもいいわけですよね。だったら現場主体で、どんどん工程変更すればいいんですよ。それによって工数が下がるわけだから」
「でもあんまり工程変更すると、自分がどの作業をすればいいか、わからなくなっちゃわないか?」
「うーん……」
哲郎は少し長めに考えるふりをした。
「例えばですよ。単位作業ごとにカードをつくる。部品の写真とかを使ったわかりやすいカード。そのカードを四人でやりとりすることによって工程の作業変更をシミュレーションするんです。実際に作業をやってみて、まだラインバランスが甘かったら、またカードをやりとりする。作業はそのカードをみながらすれば、迷うことはない」
「なるほどー」と、メガネ君は言った。「それなら間違いはないですね」
「でもそんなこと勝手にやっていいのか?」
ミニラボラインの作業手順は、技術課の作成する作業手順書によって、明確に定められていた。
「いいんですよ。組み立てのことは、現場が一番、わかっているんですから」
「ちょっといいかな」ノッポさんが口を開いた。「それだとISOの規定に引っ掛かっちゃうんじゃないか」
「それは運用で逃げればいいんですよ。そういうのは主任とか技術課の仕事だから、彼らにやらせればいいんです」
「たまにはこっちから仕事を振ってやるってことか」
「そういうことになりますね」
哲郎は四人の真ん中にノートを差し出し、そこにメモを書いていった。
「テーマは『工程変更システムの構築』とします。いつでも工程変更できるシステムを作るってことです。で、さっき言った作業内容を書いたカードを作って、運用のルールを決めます。それを運用すれば、ラインバランスがとれるはずだから、自然に何%かの工数削減になるはずです。効果としてはかなりなものになるはずです。どうですか?」
「カードを作るのが大変そうだな」
「そうですね。そこが最大のポイントだと思います」
「でもすごいですね。これ、きっちりやったら、全社優勝しちゃいませんか?」
「優勝か。賞金が十万円出るんだよな。あとあれだ、社長と会食できるんだ」
「正直、それはどうでもいいですね」
「その分を金に換えてほしいよな」
「優勝、狙ってみましょうか?」と、哲郎は言った。
「いいかもしれないですね」
「ちょっといいかな」ノッポさんが腕組みを解いた。
「悪いけどさ、今の時期に工数削減してもしょうがないんじゃないかな?」
「どうして?」じっちゃんが訊いた。
「残業をガンガンやっている時期とか増産期ならいいけど、今、工数が減ったら時間が余るだろ。俺たちやることがなくなっちゃうぞ」
「……確かにそうだ」
「余ってもいいんですよ」哲郎は身を乗り出した。「例えば三分、工数削減したとします。一日にすると、十台分だから三十分余りますよね?」
ゴン太くんのメンバーが頷いた。
「その三十分のうち、半分は自由時間にします。休憩時間にしたり、提案制度の関係のことをやってもいいし、職制の勉強をしてもいい。その代わり残りの半分の十五分は会社に還元します。職場の美化運動とか、サークル活動とか、次の改善テーマに取り組むとかそういうことに使うわけです。そういう活動でまた工数の削減に結びつくかもしれない。そうしたらその成果はまた、半分だけ会社に還元してあげればいいんです。新機種が始まるまでの、金持ちサイクルです」
「……なるほど」と、メガネ君が言った。
「増産のタイミングに入ったら、その三十分は製造時間として使えば、残業しなくてもよくなります。それからその三十分を使って生産を前倒ししてもいい。一日分の作業を前倒しできたら、ミニラボグループ全体で有休を取ってもいいんですよ」
「主任は、いいって言うかな?」
「もちろん、あらかじめ主任には確認を取ります。どうですか?」
哲郎はノッポさんのほうに向き直った。全員の視線がノッポさんに集まった。
「……いいんじゃないかな」
ノッポさんは再び腕組みをした。
「じゃあ決定ですね」とメガネ君は言った。
「大がかりなサークル活動になりそうだな」じっちゃんがにやりと笑った。
哲郎はノートに『工程変更システムの構築』と書いた。
◇
一通りの説明を哲郎は終えた。
「素晴らしい」と、丸山主任は言った。
「あなたたちのやろうとしていることは素晴らしいです。全面的に応援しますよ」
「ありがとうございます。それで早速、相談があるんです」
哲郎はISO関連の問題について、説明をした。
「大丈夫です。その点は私が管理部門に働きかけて何とかします。あなたたちは全力でサークル活動に取り組んでください」
「はい、宜しくお願いします。それから、もうひとつあるんです」
哲郎は工数を削減した際の余った時間の使い方について、希望を述べた。
「なるほどなるほど。それでいいと思いますよ。それはうちの職場の内部で処理できますから、安心してください」
「わかりました。宜しくお願いします」
「どうですか? どのくらい工数削減できそうですか?」
主任はにこにこと笑いながら訊いた。
「僕はかなりいけると思ってます。すべて上手くいけば、三割くらい削減できる気がします」
「三割!」主任は驚いた声を出した。「まあ、そこまでは難しいとは思いますけど、目標としてはいいかもしれませんね。期待してますよ」
「はい、頑張ります」
失礼します、と言って行きかけた哲郎を主任は「村木君」と呼び止めた。
「今、ミニラボ組立ラインの人員は四人ですよね」
「ええ」
「工数を三割削減するということは、人員は三人で足りるってことになりませんか?」
「なりますね」
哲郎は主任のほうに向き直った。主任は哲郎の顔をじっと見つめていた。
「そうしたらですね、」哲郎はゆっくりと、言葉を継いだ。
「人員を一人減らせばいいんです。そういうときのために、僕みたいな派遣社員がいるんですから」
液温上昇機のサーモスタットが、かちん、といって切れた。哲郎は丸山主任の口元だけを見つめ、言葉を続けた。
「究極の効率化ってのは、自分の仕事を無くすことだと思うんです」
言ってから、すげえ、と思った。
──究極の効率化は自分の仕事を無くすこと。
哲郎は今、ハインリッヒもホウレンソウもヒヤリ・ハットもPDCAも、ぶっちぎりで超越したと思った。すげえ。
主任の薄い唇が、波を打つように小さく変形した。
「村木君」
勇敢なネズミのリーダーのような顔で、丸山主任は言った。
「あなたを辞めさせるわけにはいきません」
赤眼の巨大な白イタチに闘いを挑むような顔で、丸山主任は言った。
◇
そしてゴン太くんの挑戦が始まった。
ひとまず第二、三、四工程から、第一工程(哲郎のところ)に三分程度の作業を移管することにした。
一週間かけてその調整を終え、仮の作業手順が決まった。哲郎は習熟するまでの予備《バツフア》として、月曜の朝に三十分の早出をして、作業を前倒ししておいた。
哲郎以外の三人は、作業の移管によって、三分程度時間が余ることになった。三人は余った時間で、新工程用に部品箱を移動したりしながら、哲郎の習熟を待った。一週間が経つころ、哲郎は四十二分で作業を終えるようになった。
次の週からタクトタイムを一分ずつ短縮していった。左右の手を駆使して、哲郎は何とか時間に間に合わせた。三週間が経ち、暫定的にタクトタイムを三十九分に固定した。品質問題も特には起こらなかった。ライン脇には、主任によっていつもより高く塩が盛られていた。
三分短縮したから、一日で三十分時間が余ることになる。その時間を哲郎たちは全てサークル活動に充《あ》てることにした。
──工程変更システムの構築。
哲郎たちはまず、どうしても工程の組み替えができない作業を抜き出していった。最初に付けなければならない部品は哲郎のところに固定し、調整治具を使う光軸調整はメガネ君のところに固定する。厳密にアースをとる必要がある作業はノッポさんのところ、カバーは最後につけるしかないからじっちゃんのところ、という具合に。
それ以外の作業に関しては、現在のメカ、光学、電気、仕上げといった縄張りみたいなものを全て取り払うことにした。作業全体をできるだけ細かい単位に分解し、ノートに書き出していった。機械の構造上、組み立てに優先順位のあるものはフローチャートにまとめ、分類記号と番号を振った。
次にカードを作った。部品や作業の写真をとり、自分たちで作ったミニラボで現像した。カードの枚数は三百枚を超え、そこには標準工数や使用工具、部品番号、組み立ての優先順位などの情報が盛り込まれた。
カードが完成すると、それを交換することで、柔軟な工程変更ができるようになった。金曜日を工程変更の日とし、記録した作業時間をもとに、カードの交換を行った。タクトタイムを固定するのを止め、全員が作業を終えたら、次の作業に移ることにした。
工程変更システムは、ラインバランスを取ること以外にも効果を及ぼした。例えば、この作業とこの作業を一緒にやれば、もっと早く終わるんじゃないの? といった改善を考えるきっかけになったし、何より全員が常に工数を意識するようになった。
三ヶ月が経過するころには、工程間の作業時間のバラツキは三十秒以内になり、哲郎はもう、煙草を吸うこともできなくなった。
タクトタイムは平均すると三十五・五分。十五・五%の工数削減だった。三割には達しなかったが、月産百八十台以下に生産が縮小されれば、人員は三人で足りる計算になる。
人員が減ったり増えたりするときのために、派遣社員はいるわけだし、そういうときにこそ、このシステムは活きるはずだった。哲郎がいなくなっても、このシステムは生き続ける。
──君たちのような優秀な部下を持って、私は嬉しいです。
昼礼のとき、主任は哲郎をまっすぐに見つめながら言った。
◇
高いところから社長の挨拶が続いていた。
壇上には白地に赤でQの文字がデザインされた旗が掲げられている。
「TQCとはトータル・クオリティ・コントロールの略であります。ここでいうトータルとは全社的、全部門にわたって、という意味です。TQCはトップダウン的な要素をもっていますから、本人が主体性をもつ自己啓発的なものではありません。企業においては必要性に基づいた上で、戦略的に計画し実行するものなのです。
しかし実際の活動となるとそのようなことは意識されません。TQCのメーンはQCサークルであって、TQCは、その実績にすぎないのです。いわば、QCサークルが主役で、TQCというドラマを演ずるようなものです。ですから、経営側からはトップダウンであっても、現場サイドからはボトムアップの経営参加になります。
ボトムアップの経営参加によって、みなさんの改善に対する問題意識が高まれば、企業目的と、個人の願望が重なります。この状態をぜひとも保ち、TQCの精神にのっとって、今後とも共に歩んでまいりましょう。ありがとうございました」
二千人が一斉にお辞儀する様子を、講堂の最後列から哲郎は眺めていた。いつだって全体を見ることができるのは、壇上の人間と一番後ろの人間だけだ。
「続いて表彰に移ります」
司会者が言った。
「第三十九回QC大会、最優秀賞は『DIPP−U>垂直立ち上げ』デジパチサークルです。メンバーの方はステージにお上がりください」
盛大な拍手の中、デジパチサークルのメンバーが、壇上を進んだ。
アビーロードのジャケットのようだ、と哲郎は思った。社長が賞状と記念品と金一封を授与し、一人ずつと握手をする。再び大きな拍手が起こり、カメラ係がフラッシュを焚《た》いた。惜しかったよな、と哲郎は思った。
「続いて優良賞の三サークルの表彰です。『研磨工程の簡略化』スペースシャトルサークル。『KFS受注生産に向けて』ロバのパン屋サークル。『工程変更システムの構築』ゴン太くんサークル。サークルの代表者はステージにお上がりください」
呼ばれたサークルの代表者三名がステージに上がった。最後尾に、ゴン太くんサークル代表のメガネ君がいた。
哲郎は無理を言って、役を代わってもらったのだ。
リーダーが行くべきですよ、というメガネ君に、哲郎は頼みこんだ。──お願い。頼むよ。一生のお願い。
メガネ君は理解しかねる、という顔をしていたが、最後には引き受けてくれた。
──村木さん、こういうの格好悪いって思ってるんでしょ?
誇りたかったんだよ……。賞状を受け取るメガネ君を見つめながら、哲郎は思った。一番後ろのこの位置からなら、自分のしたことを誇ることができる。ゴン太くんを誇ることができる。
場内に大きな拍手が起こった。哲郎も一緒になって拍手をした。
──こいつらに使われるのはいい。便利なやつと思われるのもいい。だけど俺は、こいつらとは組めん。
いつもそう思っていた。くだらないことを切り捨てることで純化する。そう思って、こういうところでは拍手をしなかった。でもそれだけじゃ曲は生まれなかったのだ。
いつからだろう? 拍手しながら哲郎は思った。本当はずいぶん前からわかっていたような気もした。今にして思うと、予感は常にあったのだ。
メガネ君たち三人が賞状を脇にかかえ、こちらに向き直った。お辞儀をすると、拍手の音が一段と増した。
今この瞬間から旗を揚げよう、と哲郎は思った。白地にQマークの旗じゃない。俺の旗を空にかざそう。二千人の拍手に包まれながら、哲郎は決めた。俺は曲を創る。理由なんか要らない。
顔を上げたメガネ君が、眼鏡のブリッジに手をやるのが見えた。
◇
「賞品は何だった?」と、千葉が訊いた。
「記念のQCバッジ人数分、それから賞金が三万円」
「QCバッジ?」千葉は半笑いで言った。「三万は山分けするのか?」
「いや、サークルの飲み代だよ。二、三回分かな。ところでお前のサークルは何やったの?」
「図面のファイリング方法の改善」
ははは、と哲郎は笑った。「全くやる気が感じられないテーマだな」
「でもな、本当に一番困っていることは何だ、って話し合っていくと、そういうテーマになるんだぜ」
「そうかもしれねえけどな。けどだからこそ、リーダーはビジョンを持たなきゃだめなんだよ」
「なるほどねえ」
千葉はコーラを飲んだ。ドラマーは一年中コーラを飲むらしい。
哲郎は携帯電話を取り出した。藤棚の下の新しい習慣。哲郎はバンドメンバー募集サイトを開いた。
「じゃあ、今日の新着、いくぞ」
哲郎は親指で画面をスクロールさせ、メッセージを読み上げた。
ドラムが脱走したため、募集をします。聴いたら映像が浮かぶような音をコンセプトにしています。なによりも相性重視。リズムキープできる人、お願いします。19歳、男(マックス松戸)
「意味がわからないな」と千葉は言った。「リズムキープできなかったらドラマーとは言わねえだろ? 他に何するんだよ。『ギター募集。コード弾ける人』って言ってるのと同じだぜ」
──池袋発、世界行き。西海岸系のハードロックに、格好いい要素は何でも全てぶち込んだ感じで。絶対プロ志向。中途半端なヤツは来るな。未成年、学生不可。スタッフも募集中。22歳(キース)
「あーダメダメ。絶対プロ志向とか書いてあるやつは、まずダメ。間違いねえよ。何がスタッフだよ」
声に出すと元気が出てくる文章だったが、千葉は一刀に両断した。
──初めまして、女の子らしい優しい音楽がやりたいです。少しだけギターが弾けます。曲もあります。初心者でも歓迎です。楽しみながら一緒に上達していけたら良いと思っています。14歳(丸山さおり)
「26点」
──私は自分の歌に誇りを持っています。経験があるので実力もあり、外見にも自信があります。自分の全てをさらけ出して大好きな音楽をやりたい。メンバーに自分という人間を認めてもらった上で、精一杯歌いたいと思います。27歳、女(隠家)
「6点」
──黒人音楽主体です。裏打ちやタメが大好物であられる貴重なファンキードラマー様。興味がありましたら是非ご一報を。まずはセッションから。29歳、男(ATARI前田)
「75点」
──新たな同志を募集します。目指すのはプロじゃなく、最強のインディーズ。セルフプロモーションで業界に殴り込みましょう。諦めない明日を! そして振り向かない昨日を!(アパッチ中水)
「40点」
──僕たちは声優の曲のコピーをやっています。上手いとか下手とかは全然気にしません。質問がある方など、どんどんメール下さい。練習は学校が終わってからや休日などにしたいと思います。17歳、男(若林)
「6点」
──ストリートでリスナー獲得→地元のCD屋に売り込み→ワゴンで全国ツアー。という流れで活動していたのですが、方向性の違いでベースが脱落しました。ライブハウス中が一斉に恋に落ちるようなロマンチックなギターロックをやりたいです。19歳、男(トオル)
「40点」
──音楽で食っていく夢を実現させようと頑張る、天神バンドといいます。緻密で繊細なアレンジをもつ音像にメロ重視で。カルト志向はありません。練習場所は福岡が理想ですが、佐賀熊本でもオッケー。(おぐりたけし)
「遠いよ」
──これはマネーゲームです。やるか、やらないか、どうせダメ元、元手はたったの3000円。批判は多々あるようですが、やっぱりお金はある方がイイですよね。今のところ法に触れる事はないし、ネズミ講に代表される無限連鎖講やマルチ商法ではありません。ルールを守れる人、連絡ください。(石山)
「0点」
──歌、ダンスの常夏グループ、タンバdeルンバです。夏が大好きで、歌って踊って弾けたいカリビアンギャルを募集中。活動は路上にて。熱い夏を我々と満喫しませんか?(ラスタマン丹波)
「40点」
「……ファンキードラムが最高得点か」
哲郎は携帯電話の画面を閉じた。「今日は成果なし、だな」
二人はしばらく黙った。
「それにしても、こないだのやつはダメだったなあ」と、哲郎は言った。
二週間前、哲郎たちはボーカル希望の男とスタジオに入った。男は自分の彼女と一緒にやってきた(一曲終わるとその彼女が、ぱちぱちと拍手した)。
「どう考えても、あいつとは組めねえよ」
「そうか? 俺はそんなにイヤじゃなかったけどな」
「お前にはビジョンっていうものが全く無いんだな」
「だからそういうのはお前が考えろよ」
「考えてるよ。まあでも基本的には、気長に探すしかないな。実際に会ってみないと、相性みたいなものはわからないしな」
哲郎はアイスコーヒーを飲んだ。
「ベースはお前と合えばひとまずそれでいいけど、ボーカルが難しいんだよ。時には激しく揺さぶるように。時には優しくささやくように。鮮やかに、健やかに、荒ぶる魂とたおやかな心で、俺らを突き刺してほしいね」
「そんなやついるのか?」
「いるさ。出会うのが難しいだけで、絶対どこかにはいるんだよ。そいつだって、俺らのことを待ってるんだよ、きっと」
いつかそいつに会ったら話したい、と哲郎は思った。俺たちのバンドはこの藤棚の下で始まった。オガサーにダメを出された俺たちが、ここでコーラとコーヒーを飲みながら始めたんだ。
「今度はこっちから募集かけてみるよ」と哲郎は言った。
「いいかもな。何て書く?」
「想像してみろよ。俺たちが必要としていて、かつ俺たちのことを必要としているヤツを。そういうやつらが反応するようなメッセージを創ればいいんだよ」
「おう。そういうのは、てつろーに任せるよ」
もうすぐ夏だった。哲郎はアイスコーヒーを飲み干した。
「俺は曲を創るよ」
「おう。俺はドラムを叩く」
ぱかん、ぱかん。
中庭のむこうではバドミントンの羽根が山なりに行き交っていた。
二人はハイタッチして仕事に戻った。
初 出 ぐるぐるまわるすべり台 「文學界」2003年12月号
月に吠える 書き下ろし(単行本時)
単行本 2004年6月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年五月十日刊