中村紘子
ピアニストという蛮族がいる
は じ め に
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クラシック音楽という小さな宇宙の中に、ピアノという楽器を弾くピアニストという一種族が生きている。私は、三歳ちょっと過ぎたころからピアノのお稽古《けいこ》を始めた。そして、十五歳でコンサート・ピアニストとしてデビュウして既に幾光年、結局のところこの私は「ピアニスト」以外の何者でもないと思わざるを得ないけれど、時にこの私自身をも含めてこのピアニストという種族について、気取っていえば神話的感慨、社会的公正を期していうならば、洗練された現代の人間とはまこと異質な、言ってみれば古代の蛮族の営みでも見るみたいな不思議な感慨、を、或る感動と哄笑《こうしよう》と共に催すことがある。
大体みんな、三、四歳の時から一日平均六、七時間はピアノを弾いているのだ。たった一曲を弾くのに、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」では、私自ら半日かかって数えたところでは、二万八千七百三十六個のオタマジャクシを、頭と体で覚えて弾くのである。それもその一音一音に心さえ必死に籠めて……。すべてが大袈裟《おおげさ》で、極端で、間が抜けていて、どこかおかしくて、しかもやたらと真面目なのは、当り前のことではないだろうか。
そしてここでも類は友を呼び、蛮族の周りには蛮族が集まる……。
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目 次
は じ め に
1 ホロヴィッツが死んだ
2 六フィート半のしかめっ面
3 神よ、我を許したまえ
4 女流探検家として始まる
5 タイム・トラベラーの運命
6 音楽が人にとり憑く
7 久野久を囲んだ「日本事情」
8 最初の純国産ピアニスト
9 ピアニッシモの残酷
10 鍵盤のパトリオット
11 カンガルーと育った天才少女
12 銀幕スターになったピアニスト
13 キャンセル魔にも理由がある
14 蛮族たちの夢
あ と が き
1 ホロヴィッツが死んだ
三大未亡人
未亡人になったばかりのエリエッテ・フォン・カラヤン夫人が「商用」で日本を訪れている折に、大ピアニスト、ホロヴィッツが心臓発作で急死し、あのワンダ夫人もとうとう未亡人になってしまった。
そして、カラヤン未亡人が成田を発つのと入れ替りに、こんどはかのアルトゥール・ルービンシュタインの未亡人ネラが、これまた一種の商用で日本に現われた。
今世紀の世界の音楽界を代表する大音楽家たちの未亡人、それもなんというか空前絶後の三大未亡人(!)のうち二人までもが、亡夫の偉業を後世に伝えるビジネスを成立させるために相次いで日本にやってきたわけであるから、我が国も相当なもんだなあと、ついつまらぬところで感心した。そのうちワンダ・ホロヴィッツ未亡人も、レコード会社の招きかなんかで日本にやってくるかもしれない。なにしろ日本は、ホロヴィッツの八十五年に及ぶ生涯のなかでたぶん最も高価であった出演料を気前よく支払ってくれた、大切なお金持国だったのだから。
カラヤン未亡人は元ファッションモデル、カラヤンの三人目の夫人で当然まだ若く、五十七歳とはとても思えないほど美しい。
ルービンシュタイン未亡人のネラは、四十歳過ぎまで欧米の社交界で遊びまくった伊達男《だておとこ》のルービンシュタインが、一目|惚《ぼ》れしてついに年貢を納めることになった美女である。当時彼女はまさに芳紀十八歳、ワンダ・ホロヴィッツ未亡人と同じように大指揮者を父にポーランドに生まれ、すでにポーランド人ピアニスト、ミュンツと結婚していたのを、ルービンシュタインが奪い取ってしまったというエピソードがある。
夫亡き後は、イスラエルに設立されたルービンシュタイン音楽財団とルービンシュタイン・ピアノ・コンクールの運営のために、世界じゅうを駆けめぐっている。今回の来日も、その音楽財団に日本の或る宗教団体が多額の援助を始めるということで、折から開催中だった東京国際音楽コンクールのピアノ部門を見学かたがたのものだった。私も三年ぶりに一緒に食事をしたが、八十一歳の高齢となった今も相変らず若々しく、あの名うてのプレイボーイだったルービンシュタインが愛《め》でてやまなかった「トルコ石のように青く澄んだ瞳《ひとみ》と豊かなブロンド」は健在であった。
ルービンシュタインは一九八二年に九十五歳の長寿を全うして亡くなったが、その最晩年の数年を彼と過ごしたのはネラ夫人ではなく、アナベル・ホワイトストーンというイギリス人の若い秘書であった。音楽界では、なにしろネラ夫人の方がつき合いも古く、しかも皆に好かれていたので、このアナベル嬢に関して良くいう人はいない。九十歳を過ぎてやや呆《ぼ》けてきたご老人をだました、とか、遺産めあてだったなどという人までいる。
トスカ|ノーノ《ヽヽヽ》の娘
ネラ夫人は、美人で社交的でしかも家庭的で料理の上手な、いわば非の打ちどころのない奥さんだったが、そうしたルービンシュタイン夫人とは何から何まで対照的だったのが、ワンダ・ホロヴィッツ未亡人であるといえよう。
世に猛妻という言葉があるけれど、音楽界において彼女ほどこの言葉にふさわしい女性はそうはいないのではあるまいか。ただし、冒頭から彼女を弁護することになるが、一方のホロヴィッツ氏というのも、猛妻にひけをとらぬ問題山積の人物であった。
ワンダは一九〇七年、あの歴史に残る大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの五人いた子供の末娘として、ミラノに生まれた。
トスカニーニは、一九五七年一月十六日に九十歳まであと二カ月、というところで亡くなった。
一九五七年の一月といえば、私はまだ小学校六年生であったが、日本の新聞にもトスカニーニの死が大きく報道されたことをよく憶えている。ちょうどその頃私は、トスカニーニ指揮するベートーヴェンの交響曲全集のレコードを手に入れ、毎日夢中になって聴いていたところだったので、彼の死がひどく身近なものに感じられた。その全集のなかの「エロイカ」では、第二楽章「葬送」の再現部のところでレコードを裏返しにしなければならず、そのためそこで切って聴くのに慣れてしまって、今でも通して一気に聴くと一瞬奇妙な心地にさせられる。
さて、このトスカニーニという人は北イタリアのパルマ出身であったが、とにかくとてつもない癇癪《かんしやく》持ちであったことで知られている。その音楽家としての素晴しさ偉大さを語るうえで、「炎のような」情熱的演奏と謳《うた》われたが、炎のように燃え上ったのは演奏だけではなかったらしい。「怒髪《どはつ》天をつく」とか「猛り狂って」とかいった形容は、彼の性格を最も日常的に表わすものとして頻繁に使われた。
その彼の怒りは、納得のいく場合もあれば理不尽なこともあったが、いずれにせよ怒りはいつも突然に猛然と発生した。そして、あらん限りの罵詈雑言《ばりぞうごん》、どなり声、がなり声と共に、指揮棒はもとより懐中時計が、ペンが、インクビンが、皿にコップにありとあらゆる身辺の物が、空を飛び壁にくだけ床に叩きつけられる。しかし、では、オーケストラのメンバーたちがそんな彼を嫌悪したかといえば、彼は恐れられもしたが同時に愛されもした。彼が怒り狂って懐中時計を投げつけると、オーケストラの中の誰かがそれを拾って順ぐりに前へ手渡す。そして指揮台の一番近くに座っている者が、そっとそれを台の上に返す。するとまた、トスカニーニがつかんで投げる、拾う、戻す、投げる……。
確かに、今世紀前半のイタリアやアメリカなどのオーケストラというのは、一般に相当手に負えないやっかいな連中が揃《そろ》っていたものらしい。リハーサル時間になっても集まらないなどは序の口、演奏の本番さえも無断で休んで、他のもっと稼ぎのいいところでアルバイトをしていたりする。本気で弾けば上手いのだが、なにしろ百戦錬磨の強者《つわもの》共ばかりだから、ちょっと甘い顔をしていればこちらをナメてちゃらんぽらんに弾き始める。てんでんばらばらな勝手な譜読みをしたりする。加えてオペラの場合は、我儘《わがまま》で甘やかされたスター歌手に、収益のことばかり考える興行主に、気紛れで情容赦ない聴衆にと、あらゆる人間が自分勝手なことを主張する。こうした混沌《こんとん》とした世界にあってトスカニーニは、徹底した厳しさと規律をもって自分の理想とする音楽の表現を貫こうとした。「怒髪天をついて、懐中時計を投げつける」ぐらいでは、とても足りなかったに違いない。
彼は、バイロイトで指揮をすることとなったゲルマン民族以外の最初の外国人だが、リハーサルでオーケストラが一音出すたびに「そうじゃない、ノー、ノー」と叫ぶので、トスカニーニならぬトスカ|ノーノ《ヽヽヽ》というあだ名がつけられたほどであった。
しかし、この彼の「炎のような」性格は、音楽の理想実現のためにだけではなく、日常の家庭生活の中でもしょっ中音をたてて燃え上っていたのだから、妻や子供たちにとってみれば、これはえらいことだった。子供たちが自分の意にそまない人間と恋愛などしようものなら、彼の怒りは炎どころかハリケーンのように、周囲の物から人からすべてを破壊した。
そこでワンダだが、彼女は幼い頃からピアノを習っていたが、時折父親の前で弾かせられ、一音弾く度にあまり怒鳴られ叱られてばかりいたので、とうとう手が震えてピアノを弾くことができなくなってしまった。
しかし彼女はなかなか美しい声をもっていたので、ピアノを断念した代りに声楽を始めた。もちろん父親には内緒で始めたのだが、これも結局ばれてしまい、「トスカニーニ家に二流の音楽家はいらない」と罵倒され、あきらめたといわれる。
音楽の道を断念した彼女は、そのうち母に代って父の演奏旅行に、付き人役で同行するようになった。そして「門前の小僧」という言葉があるけれど、父トスカニーニの演奏生活に深くたずさわり、世界の超一流の場で超一流の演奏の数々に囲まれて暮らすうちに、もともと兄妹たちの中では一番と認められていた音楽的素質を、聴き手として目覚しく鍛えていくことになった。彼女の批評は損得がからんでいないだけに率直かつ的確で、しかも手厳しかった。トスカニーニはやがてこの末娘の自分に対する演奏評を、他の誰の批評よりも深く大きく信頼するようになったといわれる。
そして、当時としてはやや婚期を逸した年齢にさしかかっていた彼女は、自分の天職は、例えば父親のような大天才大芸術家を保護し支える母親の役と、身のまわりの雑用一切を手助けする付き人役、そして冷静に的確な批評を下す批評家の役を、三つとも兼ね備えた「裏方」としての生き方にある、と信じるようになる。
ワンダはそのとき二十六歳、兄妹のなかでは容貌も性格も父親に一番似ていた。太く濃い真一文字の眉《まゆ》と、その下に光る妥協を一切許さないきついブルーの眼差し、浅黒い肌に褐色の髪、そして更に、癇癪持ちで社交嫌いのところまで……。
そんな彼女の前に突然現われたのが、当時二十九歳のウラディミール・ホロヴィッツだったのである。
名人芸の完成
ウラディミール・ホロヴィッツ、ロシア風にいえばゴロヴィッツ、は、一九〇四年十月一日に、ロシアの寒村ベルディチェフの中産階級のユダヤ人の家に生まれた(この出生年に関しては、一九〇三年であったのを父親が兵役から逃れさせるために一年若く申告した、という説もあって、どうやらその方が正しいらしい)。
ホロヴィッツは四人兄妹の末っ子で、ワンダ・トスカニーニとは違って、穏やかで平和で幸福な家庭の中で育った。そして上の兄姉たちと同様に、六歳になったときから母親の手ほどきでピアノを始めた。母親はプロにはならなかったが、キエフ王立音楽院でピアノを学んだこともある人だった。また姉レジーナも幼い頃からピアノをよくし、弟ウラディミールが西側に亡命したのちもソ連国内に留まって、ピアニストとして相当名の知られた活動をした。
彼は記憶力も良く耳も鋭敏であったが、いわゆる神童ではなかった。当時ロシアには、モーツァルト以上に早熟な神童と謳われ、幼くして楽壇の寵児《ちようじ》となったジョセフ・ホフマンがいた。なにしろ六歳にして「ピアニストとしてすでに完成した」と絶讃されたのだから、とてつもない神童である。ホロヴィッツが生まれた時には二十八歳になっていたが、見事に大演奏家へと成熟していて、一シーズンで二十一種類の内容の全部異なったプログラムを弾きこなすという、神技のようなこともやってのけていた。そんなホフマンの神童ぶりからみれば、ホロヴィッツは才能はあるけれどごく普通の優秀な生徒に過ぎなかったのである。
ところが八歳でキエフ音楽院に入学し、そこで三人の教師にめぐり逢うことによって、彼の内に眠っていた「尋常ならざるもの」は急速な開花をとげていった。そして十六歳の頃、キエフに進駐したボルシェヴィキによって住居から財産からすべてを奪われ、やがて演奏で生計を立てていかねばならない状況に追い込まれてしまった頃には、既に彼の演奏にはあの聴く者の心を狂わせるような魔的な甘美さと強靭《きようじん》さが備わって、周囲の音楽関係者たちの間では一つのセンセーションとなっていたのである。
一般論として、ピアノ演奏における基本技術というものは、だいたい十二歳ぐらいから十五、六歳が一つの山場となる。
世間に通用するようなピアニストになるためには、演奏の表現技術というものは、このあたりで完全に身につけてしまわなければならない。音楽高校や大学に入ってからあれこれと直されているようでは、とても間に合わないのである。
反対にいうと、世の一線で活躍している演奏家たちは、もちろん例外もあるが、そのほとんどの人は、十五、六歳に到達した時点ですでに演奏家としての個性や魅力を発揮し始めている。例えば、アシュケナージがショパン・コンクールでハラシェヴィチに次いで二位を得たのは、彼がわずか十六歳のときであったし、アルゲリッチがブゾーニ・コンクールに優勝したのも同じく十六歳だった。そして、その頃の彼らのレコードを聴いてみると、もちろん人間としての若さや音楽的未熟さという点はあるにしても、既にそこから発散される音色や基本的な弾きぐせ、あるいは語り口というようなものは、まぎれもなく現在の彼らのものと全く同じであるのに気づく。
楽譜に書かれてある作曲家の意図を的確に理解し、更に自分の心と肉体で濾過《ろか》して思い通りに表現する、という工程を、一つの完成されたマニュアルを身につけることによって自動的に何の苦もなく行えるとしたら、あとはより多くのより多様な作品に接してレパートリーを拡大していくことが残された課題となる。譜を理解するのも暗譜するのも人並みはずれて速く、技術的には何の苦もないということになれば、レパートリーはどんどん増え、それが一生を通じて演奏家として生きていく上での最大の財産となって蓄積されていく。
ホロヴィッツは十九歳のとき、レニングラードであのホフマンの記録に挑戦したことがある。即ち一冬のあいだに二十三回にわたる連続リサイタルを行い、その中で彼は百曲をゆうに越える大曲難曲の数々を弾きまくったのだった。
私たちは主として、ホロヴィッツの四十歳台に入ってからの演奏を古いレコーディングで聴き、これがたぶん彼の演奏の最盛期のものであろうと期待しつつ信じつつ、その名演に酔いしれているのだが、私は、彼の演奏のピークというのは案外もっと若い頃、恐らくこの二十歳前後の頃だったのではないかと思っている。
ホロヴィッツは生まれこそは二十世紀に入ってからだが、その演奏の本質はあくまで十九世紀のいわゆる「名人芸」だった。長命であったが故に「今世紀最大のピアニスト」などと謳われたが、これはむしろ「二十世紀の最後まで生き残っていた十九世紀の演奏家」というべきであったろう。
そうした十九世紀的な火を吹くような豪華|絢爛《けんらん》たる演奏が、叶わざるものこの世になしとでもいうような若く強靭な肉体に合致したとき、これはもう想像を絶する迫力で聴く者を巻き込んでしまったことだろう。
私は一九六五年にニューヨークのカーネギーホールで行われた、ホロヴィッツの十二年ぶりのカムバック・リサイタルを聴いている。そのとき彼は六十歳をわずかに過ぎたばかりで、日本で「ヒビの入った骨董《こつとう》品」などといわれる二十年も前のことだったが、私は最初の一音を聴くなり「ああ、我らがホロヴィッツも老いたり」と思ったものだった。
さて、若きホロヴィッツは一九二五年、故国をあとにベルリンに発つ。先に述べたように、ホロヴィッツの一家はボルシェヴィキ政権によって持てるもののすべてを失ったうえ、ユダヤ人ということで大幅に自由を奪われていた。更に国内の政治的社会的混乱から、演奏家として活躍するには限界があったのは言うまでもない。彼はもはやソヴィエトにはいられないと決心したのである。そして、それから五十年の間彼は再び祖国の土を踏むことはなかった。
彼が故里に帰ったのは、ペレストロイカ後の一九八六年である。これは余談だが、あるとき私は東京の我が家で、モスクワ音楽院教授で例のブーニンの先生であったセルゲイ・ドレンスキーと、そのホロヴィッツの「五十年ぶりの里帰りモスクワ公演」の模様をヴィデオで眺めていたことがあった。たまたま画面に、モスクワの聴衆の熱狂ぶりが写し出されたとき、ドレンスキーはふと私にささやいた。
「見てごらん、ここに写っているのはモスクワじゅうのユダヤ人の顔だ。この中でユダヤ人でないのは、あの文化省の次官ぐらいのものだよ」
私は、いまだかつて音楽会に来る人々をそういう見方で見つめたことがなかったので、思わずドレンスキーの顔をふり返って眺めてしまった。ペレストロイカ以前のソ連で、芸術家の亡命騒ぎ、というのは実はユダヤ人種問題にからんだものが多かったのだが、このドレンスキーの何気ないリアクションに、私は改めてさまざまな事を考えさせられたのである。
運命の出会い
一九三二年の秋、ホロヴィッツは一通の招待状を受け取った。既に世界各地で爆発的人気を得て寵児となりつつあるホロヴィッツの噂《うわさ》をきいて、当代一の大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニから、翌年のニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会でベートーヴェンの「皇帝」を協演してほしい、という申し込みがきたのだった。
こうして、ホロヴィッツとトスカニーニ一族との運命の出会いが始まった。
アルトゥール・ルービンシュタインもまた、このホロヴィッツが「皇帝」を弾くことになったトスカニーニの「ベートーヴェン連続演奏会」シリーズで、第三番の協奏曲を協演している。彼は、自分より若くキャリアもずっと後輩のホロヴィッツに当初は友情を持っていたが、そのうちに年若いホロヴィッツの方がいつも「自分を王が家来に対するように見下し、めぐみを垂れているかのような態度」をとっていることに気がつき、深く傷ついた。ルービンシュタインが自伝の中で自ら語るように、ホロヴィッツははじめから彼を対等とみなしてはいなかったのである。
更にホロヴィッツはただ一度、パリでルービンシュタイン夫妻を夕食に招待したことがあり、あまりにも珍しい出来事であったのでルービンシュタインはわざわざオランダから夜行列車でパリに戻ったのだが、なんとホロヴィッツは、その約束をすっぽかして競馬に行ってしまった。これが彼ら二人の間に決定的なミゾを作ることとなった。まことに食い物のウラミは恐ろしい。あれやこれやでルービンシュタインは、その後一生を通じて事あるごとにホロヴィッツを痛烈にやっつけるようになった。
ホロヴィッツの評伝を書いたグレン・プラスキンにルービンシュタインが語ったところによれば、ホロヴィッツがワンダと結婚したくなったのは、当時ちょうどネラと新婚ほやほやだった自分を真似したかったからだ、ということになり、次のような酷評が続く。
「ホロヴィッツが同性愛者であることは周知の事実だったから、トスカニーニの娘と結婚すると聞いて、みな耳を疑った。しかし、いかにも彼らしいことだ。何故なら彼は野心家で金儲けが大好きで、自己本位の男だからさ。彼は結婚するなら有名人としたい、といつも言っていた。ワンダとの結婚なんて、みえすいている」
さてワンダは、自分が裏方として一生を捧げるべき「大芸術家」をとうとう見つけた。一方ホロヴィッツは、「大トスカニーニの義理の息子」になる、という事実に胸をときめかせていた。それに、今まで若い男性にしか関心をもったことがなかったけれど、初めて女性に恋心を感じた、ということも、彼には嬉しいことだった。たぶん、デリケートで傷つきやすい神経の持主であるホロヴィッツには、ワンダ嬢はそこらの若い男性以上に男性的《ヽヽヽ》な、頼もしく力強い存在に見えたのかもしれない。しかし彼には、トスカニーニ家の一員になるということが精神的にどういう影響を自分に及ぼすことになるのか、まだ本当には分っていなかったのだ。出逢って九カ月後、彼らは結婚する。一九三三年十二月二十日のことだった。
トスカニーニは当初、ホロヴィッツの男性関係についてずい分心配をして、インクビンを投げつけるほどには怒らなかったにせよ、結婚には大反対をしたといわれる。結婚をしてからも婿殿との協演をしばしば行ったが、時にはこの超人的ピアニストをつかまえては「でくのぼう」呼ばわりをしたこともあったという。間もなくホロヴィッツは、トスカニーニの前に出ると生徒になったかのように畏縮《いしゆく》し、みじめな気持に追いやられるようになった。教養、知識、天才、あらゆる面からかないっこない舅《しゆうと》が絶えずそばにいて、しかも攻撃的に何時間も口論をふっかけてきたりする(そしていつもホロヴィッツが負けた)。自分の家にいながら、妻も親戚も友人知人も音楽関係者たちもみなトスカニーニに振り廻され、一家の主たる彼もそこでは傍役《わきやく》にしかすぎない。ホロヴィッツの家にはトスカニーニ家の人々が頻繁に出入りし、彼らにとっては日常のごくさり気ないイタリア語の会話、しかし他人から見れば、ののしりあい、まくしたてあい、怒鳴りあい、としか聞こえない喧騒が新婚家庭に充満するようになった。
友人たちによれば、トスカニーニ一族の怒鳴りあい、ののしりあいには一種特別なエネルギーと迫力があって、そこに居合せるとどんなタフな者でも生命が縮むほどの凄《すさ》まじさがあったという。更にこの大指揮者と娘のワンダは人の悪口を言い合うことでも奇妙に気が合い、それこそ大声で口から泡をとばし合いながらの大袈裟な身ぶり手ぶりで誰彼の批判を言いまくり、時には熱する余りコーヒーカップが飛びかうことも珍しくなかった。
しかし思えばその頃が、ホロヴィッツにとっては一番人間的に平和で幸せな時期であったかもしれない。一年後には一人娘のソニアが誕生し、一九二五年の亡命以来九年ぶりに父親シメオンとの再会を果たしたホロヴィッツは、父親をヨーロッパ各地での演奏旅行に同行したり、生まれたばかりの孫娘に引合せたりして久々に家庭生活の喜びを味わった。ソニアの名前は、四年まえに盲腸炎が元でこの世を去った母親にちなんで名づけられたものであった。
ところが、その後スターリン政権下のソ連に帰国した父親が、ドイツ語とフランス語に堪能という理由だけでスパイ容疑をかけられ逮捕されるという事件が起きた。父親はそのまま強制収容所に送られ、間もなくそこで死亡する。その精神的衝撃に加えてエネルギッシュで口やかましい新妻と赤ん坊との家庭生活は、ホロヴィッツの心身を極度に消耗させていった。そしてそのわずか一年余りの結婚生活で、ホロヴィッツは結婚というもののすべてに疲れ切り、幻滅を感じてしまったのだった。
結婚は失敗だった
もともとホロヴィッツの家系には、神経過敏な傾向が強く流れていた。兄も神経を病んで廃人同様になって死んでいる。間もなく友人たちは、彼の異常なほどの神経質さ、おどおどとした態度、情緒のはなはだしい不安定、時折みせる虚脱状態などに不安を覚えるようになった。十八番のはずのチャイコフスキーのピアノ協奏曲でめちゃくちゃなミスを連続したかと思うと、ショパンやリストを無表情に荒っぽくがさつに弾いたり、突然、聴くに堪えないような激しい強音をぶっ叩いたりする。
そればかりでなく、オーケストラのリハーサル中にオーケストラの存在も忘れて同じ箇所にこだわって繰り返し弾いたり、時にはリハーサルそのものも忘れてすっぽかす。リハーサル中には絶えず妻ワンダに電話を入れなくてはと言って怯《おび》え、音楽も何もかも心ここにあらずといった感じでソワソワし、いざ受話器を手にとると手は震え、まっ青な額にじっとりと汗を浮かべた。
舞台に出る前はいつも絶望的な強度の緊張感に苦しめられ、うっかり早目に楽屋入りなどしてしまうと開演時間を待っているのが耐え難く、開演ベルが鳴っているときに逃げ出してしまうというようなこともしばしば起った。不調な時の演奏に批評家たちはハイエナのように襲いかかり、ホロヴィッツを叩きのめし、それが彼の自信を更に奪い虚脱感を増進させることにもなった。
一方肉体的にも、神経性胃炎による腹痛と慢性の下痢がひどくなり、彼はそれを「母ソフィアの生命を奪った盲腸炎と同じものである」と自分勝手に信じ込み、あらゆる医者が盲腸炎の疑いはなしと保証したにもかかわらず、「手遅れになる前に」と手術をしてしまう。そしてそれが元で余病を併発し、結局、彼はそれから二年近くの間をコンサートステージから遠ざかることになる。
こうしてホロヴィッツは、肉体も精神もほとんど絶望的に衰弱し切ったが、そんな彼の窮地を救ったのがロシアの大先輩であるラフマニノフだった。
ラフマニノフはホロヴィッツより三十歳も年上で、しかもその頃すでに黒色|腫《しゆ》という悪性のガンに冒されていた。その影響で彼は歩くことさえ困難となり、しかも両手は極度の筋肉痛におびやかされていたが、しかし彼は断固として演奏活動を続けようと苦闘していた。
ラフマニノフにはまた若かりし頃、書き上げた第一交響曲への厳しい批評がもとで精神的に立ち直れなくなり、苦しみ抜いた経験があった。結局、彼はその危機を、当時の著名な精神分析医ダーリ博士の暗示療法によって乗り切り、その成果としてあの有名なピアノ協奏曲第二番を書き上げたのであった。
ホロヴィッツは静養先のスイスのルツェルンで、そこにあるラフマニノフの別荘に出掛けては夕食を共にし、二人の共通の母国語であるロシア語での語り合いに時を過した。
ラフマニノフはかねがね故国の後輩ホロヴィッツを高く評価していた。そして、自分のピアノに対する自信を全く失っていたホロヴィッツとピアノ二重奏を弾いたりして励まし、「カムバック演奏はフランスの田舎などから気楽に始めなさい」といった助言にまで気を配った。また、かつての自分の絶望感を救ってくれたモスクワのダーリ博士に手紙を送り、ホロヴィッツのためにその助力を求めたりもした。
こうした大先輩ラフマニノフの数々の心遣いにホロヴィッツは、「本当の父親に対するような」深い愛情と信頼を感じたのである。
一九三八年九月、ホロヴィッツはスイスのチューリヒにおけるチャリティ・コンサートで弦楽四重奏団とのジョイント・コンサートを行い、舞台に復帰する。久々の彼のカムバックを迎えた批評は賛否両論であったが、一般聴衆の熱狂ぶりはすさまじかった。どの町でも切符は売り出すと共に売り切れ、演奏会場の周囲は開演何時間も前からムンムンとした熱気に包まれた。
一人娘ソニア
しかし肉体は回復したが、彼の同性愛的傾向はますます深まり、それはホロヴィッツ自身を悩ませたばかりでなく、当然のことながら妻のワンダをも巻き込んだ。
加えて新たな問題が発生した。それは一人娘ソニアのことである。溺愛《できあい》してはくれたが時に理不尽で身勝手で激烈な癇癪《かんしやく》持ちの祖父、その存在すら目に入らぬほど彼女に無関心の父、そんな父にかまけてすべてを家庭教師や召使いにまかせきりの母、といった環境の中で、ソニアは長ずるに及んで攻撃的で乱暴で気質の激しく移り変る手に負えない少女となった。
両親の愛情と関心を惹きたいがためにわざと極端な行動に出て、ときにはそれが危険な状態を生じた。煙草を吸ったり悪態をついたりの果て、カーテンや飼っている犬に火を点《つ》ける、といった行動にまで及んだのである。そして十二歳で不良少女専門の矯正学校に入れられた彼女は脱走を繰り返し、その度に感化院、治療院、精神病院といった施設をたらい廻しにさせられた。
彼女の不幸は更に続く。その後ソニアは一番気の合っていた叔母ワリーに引きとられ、イタリアで暮らすことになったのだが、二十二歳の春、リヴィエラのサン・レモでモーターバイク事故に遭い、脳に回復不能な決定的損傷を負うこととなってしまったのである。ホロヴィッツは、娘が瀕死《ひんし》の重傷を負ったと聞かされると自分の演奏予定をすべて無期延期にしたが、イタリアに飛んで行く代りに独りニューヨークの家に固い殻を閉ざすようにひきこもってしまう。
ソニアは植物人間となったままその後二年ほどを生き永らえ、一九五九年、父に見とられることもないままミラノにおいて他界した。二十四歳だった。
さて話は前に戻るとして、あれやこれやで家庭内のいざこざやもめ事の凄まじさはもはや耐え得る限界に達し、ホロヴィッツはとうとう一九四九年からはワンダと別居するようになる。
離婚に踏み切らなかったのは、実際のところ自分では何一つ物事を決定することができなかったホロヴィッツにとって、ワンダは依然として強くて頼りになるなくてはならない存在だったからである。その上ワンダは熱心なカトリック信者で離婚は罪悪と思っていたし、トスカニーニの派手な女性関係にじいっと耐え忍んできた母親の姿を見て育ったため、少々のことには動じなかった。
こうしてホロヴィッツは離婚でなく別居という形でいわば家族から「独立」し、男性の秘書兼付き人と暮らし始める。更に俳優志望のまだ二十代の若くすらりとしたブロンドの美男子が、演奏旅行の際の「ポーター」役としてそこに加わる。しかし、彼の心の奥底に潜在する孤独感、疎外感は癒されず、健康状態は再び悪化し始めた。下痢、胃痛、不眠、大腸炎……。やがてホロヴィッツは舞台で放心状態に陥ったり、失禁さえするようになった。そしてついに一九五三年、彼は再び演奏活動から一切身を引いて、完全な休養をとることを余儀なくされる。こうして彼はまたワンダの許に心ならずも戻ってきた。眼は虚《うつ》ろ、口はわけの分らぬ言葉をつぶやき、ほとんど発狂寸前といった状態で。彼が再び心身の健康を回復するまでには、義父トスカニーニの死と、重傷のこれもまた悩みの種であった一人娘ソニアの死という二つの解放が必要であった。
そのホロヴィッツも、ついに逝った。ワンダは「天職」に従って、付き人としてホロヴィッツの死を看取った。そして、彼は永遠に今度こそ解放された、と思いきや、ああなんと、ワンダ夫人は夫を、ミラノにあるトスカニーニ家の廟《びよう》に埋葬することにしたのである。こうしてウラディミール・ホロヴィッツは、栄光を浴びつつ再びあの義父の許に永遠に封じ込められる破目となってしまったのであった。合掌。
2 六フィート半のしかめっ面
先ず鼻を見よ(エッケ・ハナ)
ピアニストが蛮族である所以《ゆえん》は、まずその肉体から始まる。
さる信頼すべき動物学者の説によれば、ゾウは鼻が長ければ長いほどアタマがいいという。即ち、ゾウの鼻の長短と知能指数は正比例する。ゾウの鼻の長さに個体差があるとは知らなかったが、してみるとゾウたちというのは、どこかの藪《やぶ》で知らない顔に出っ喰わしたときには、一瞬お互いのハナを見つめ合って「負ケタ」とかなんとか判断するのだろうか。
さて、ピアニストの場合も重要なのは「鼻」である、といったのは、ヘレン・ホープカークだった。といっても、今や欧米においてさえも、ヘレン・ホープカークという名前の女性が何者であったかを知っている人は稀《まれ》であるに違いない。彼女は十九世紀末から二十世紀にかけて欧米で活躍したスコットランド出身のピアニストで、音楽評論も手掛けて毒舌をふりまいた。その一つ、一九一二年六月のアメリカ『ミュージシャン』誌に、こんな彼女の所説がのっている。
「……すべての音楽家はつけ根の広い鼻をしていることが分ります。だから、新しく弟子をとる時は、必ずその鼻を見なさい。細くて貧相な鼻をしている弟子に何も期待してはいけません。もし、つけ根の広い鼻をした弟子ならば安心して教えなさい……」
言うまでもないことだが、ホープカーク女史自身は、つけ根のところがとても広い立派な鼻をしていた。(ハロルド・ショーンバーグ『ピアノ音楽の巨匠たち』芸術現代社)
「世界のピアニストには三種類しかない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と放言してニヤリと笑ったのはかのホロヴィッツだったが、そういえば彼もまた巨大な鼻の所有者であった。歴代の大ピアニストたちの中でも、あの鼻は最も魁偉《かいい》な部類に入るだろう。
女性ピアニストたちの中では、私は残念ながらこのヘレン・ホープカーク女史の鼻は見る機会はなかったけれど、一九五九年に八十歳で亡くなったワンダ・ランドフスカという人のは見た。ポーランド系ユダヤ人である彼女の鼻は実に高く大きく弧を描いて盛り上っていて、私は小学生の頃彼女のレコードジャケットの写真を、まさにほれぼれとよく眺めたものだった。
彼女はロマンティックで華やかな十九世紀伝来の名人芸の香りと、第一次世界大戦以降に擡頭《たいとう》した科学的な音楽研究、つまり、作品と作曲家とその書かれた時代に対する多角的な研究方法、との二つを併せもった演奏家で、ピアニストというよりもチェンバロ奏者として大きな業績を遺した人なのだが、彼女によれば彼女の鼻が並はずれて偉大であったがゆえに、命拾いをしたことさえあったという。
「……猛吹雪の日、乗っていたソリが転倒して、雪の中に投げ出されてしまったのです。幸い救助の人が、雪の中に埋もれている私を、突き出した鼻を目印に見つけてくれました……」
この「ランドフスカ女史の鼻」はよほど立派であったとみえ、当時女史がコンサートをすると、先ず舞台の袖《そで》からハナが登場し次いで全身が現われる、などとまことしやかに言われていたものだった。
余談ながら、このランドフスカ女史というのは、その風貌も個性的ならステージマナーなども実に独特であったといわれる。
まず舞台中央に置いてあるのがチェンバロであるのには異存はないとして、その左横にはランプが必ず置かれており、その他の舞台の照明は無きにも等しい、といった雰囲気が設定されていた。そこに黒い髪を古風な束髪にまとめた小柄なランドフスカ女史が登場する。黒くてダブダブな、まるで耶馬台国の「貫頭衣」さながら一枚の布に頭を出す穴だけ開けたような衣裳、ぺたんこのビロード製のバレーシューズ、という装いで、彼女は両手をまるでお祈りしながら歩いているかのように胸の前で合せ、しずしずとチェンバロに向う。その歩みは、聴衆には五分もかかったかと思えるほどゆっくりしたもので、それを眺めているうちに聴衆は自分もコンサートというよりもなにか神聖な儀式に参列している、というような気分に陥っていくのだった。
余談から更に余談に飛ぶが、この楽器の傍らにランプまたは電気スタンドを置くという方式は、フランスの大ピアニスト、アルフレッド・コルトーもやったときくし、近年ではリヒテルが日本での公演でいつもスタンドを立ててやっているから、そう珍奇なことでもない。
我が日本でも、ちょうどランドフスカやコルトーがまだ健在だった頃、当時我が国を代表するショパン弾きとされていた野辺地瓜丸《のべちうりまる》という人が、電気スタンドを立てて演奏して評判になったことがあった。その頃私はピアノを習い始めてほんの数年の子供であったが、知り合いの芸大生が聴きに行って感動し、早速電気スタンドを買いに走ったことを鮮明に記憶している。
筋力トレーニング
さて、鼻に戻るが、一般にユダヤ系の人々は立派な鼻を持っていることで知られている。先ほどのホロヴィッツの言葉に従えば、「ユダヤ系」でも「ホモ」でもない日本人の女性ピアニストなどまさしく「下手糞」の典型であろうが、世界の名だたるピアニストたちが大きな鼻をしているのは、ホープカーク女史断ずるところの「才能の有無」よりもむしろ、この民族的特徴の違いによるのではないだろうか。なにしろピアニストにはユダヤ系が圧倒的に多いのだから。
十九世紀の終りに、ウィーンでピアノを教えていたポーランド生まれのレシェティツキーという先生がいた。この人は、チェルニーという、ピアノを学んだことのある人ならば大抵は練習し悩まされたことのあるに違いないあの同名の教則本の著者についてピアノを学んだ。このチェルニーはベートーヴェンの高弟だったから、レシェティツキーはいわばベートーヴェンの孫弟子に当る。彼はピアニストとしてもかなりな演奏をしたのだが、それよりも「大先生中の大先生」として今日まで名を残した。なにしろ教えた弟子のことごとくがみな、超一流のコンサートピアニストとして大成したのである。その弟子たちの名前の一覧表を書き始めたらあまりにも厖大《ぼうだい》なので省くが、一般に最も有名なのはショパンの演奏の大家で後にポーランドの首相になったパデレフスキー、ベートーヴェン演奏の権威であったシュナーベルなどであろう。
話がまた余談になるが、この大先生の薫陶を受けた門下生の最後の生き残り、ともいうべきピアニストがまだ健在である。現在アメリカ・フィラデルフィアに住むホルショフスキーという人だが、彼は三年ほど前にも東京でリサイタルを行い、アンコール数曲も含めて二時間近い熱演を聴かせ、並いる東京の聴衆を唖然とさせた。なぜなら、その演奏の見事さに加えてそのとき彼はとにもかくにも既に九十六歳の高齢であったのである。ちなみに彼は八十九歳のときにずっと年若いイタリア人女性と結婚し、百歳に近い現在もなお元気で演奏を続けていると聞く。
話をレシェティツキー大先生に戻すとして、この「大先生中の大先生」には、ピアニストが大成するためには或る三つの条件が揃っていなければならない、という信念があった。いわく、とにかく子供の頃から「天才」と騒がれていたこと、スラブ系の血をひいていること、そして、これが肝心なのだが、ユダヤ人であること(ショーンバーグによれば、おかしなことに大先生自身はユダヤ人ではなかったそうだ)。
もっともこれは、ヨーロッパを中心に音楽の世界が廻っていた時代の話である。現代のように、日本人をはじめとした非本場人種の急増や、経済力の重心移動と共に音楽市場の変動も著しい状況のなかでは、こうした十九世紀的な考え方あるいは条件は当然のこととして変らざるを得ない。更に、第二次世界大戦以降に起った情報通信網や交通機関の極端な発達、音楽の普及、大衆化などで、演奏家たちはジェット機を乗り継ぎ、時差、気候、生活環境の急激な変化などもものともせずに、演奏会を行わなければならなくなった。ルービンシュタインの若かりし頃のように、大西洋を客船でゆったりと横断しながら、美酒美食を楽しみつつ美女と恋をしたりカジノですってんてんになったりしながら次の目的地に到着する、というような訳にはいかなくなったのである。
しかも現代の聴衆というのは、レコードの普及によってキズの無い演奏に慣れてしまっている。そして、生のコンサートにまでレコードのような演奏を要求するようになる。となると現代の演奏家たちは、どんなに過激なスケジュールで疲労|困憊《こんぱい》していても、そんなことはみじんも感じさせないような、心身共に健康で安定した確実な演奏をするための強靭な肉体を必要とすることになってくる。十九世紀に流行った青白き芸術家風などでは、とても長続きしない。そこで、「鼻・ホモ・ユダヤ人」に加えて「体力」も、ということになるわけだ。
先日テレビのニュース番組で、目下来日中の或る若手男性ピアニストが、練習と演奏会の合間をぬってアスレチック・ジムに通い、パワーアップのトレーニングに励んでいる姿が映し出されていた。事実この筋力アップのトレーニングは、単に健康を維持することに役立つだけでなく、演奏上の音量などの増加、技術上の余裕を得ることなどに大きな効果がある。例えば、上膊部《じようはくぶ》の内側の筋肉を鍛えると、オクターヴを演奏する際の持続力が圧倒的に強くなるし、余力をもってコントロールが効くから音質も美しくなる。更にこうした筋力トレーニングは、演奏で疲労した腕や肩、腰などをほぐす効果もあって、ピアニストがひんぱんに悩まされる腱鞘炎《けんしようえん》や肉離れ、といった事故を防止するのにも最適なのである。
こうしたピアニストと筋力、というか腕力、という時私が反射的に思い出してしまうのが、アンドレ・フォルデスというピアニストである。彼はハンガリーの生んだ大ピアニストの一人で、日本にも何度か演奏に来たことがあるが、その堂々とした体躯ときたらいつもピアノの方が小さく見えるほどだった。そして或るリサイタルでのこと、ステージに現われてピアノの前に座った彼は、何気ない様子で、両手でピアノをつかむとグイと手元に引寄せてしまった。一瞬会場を覆った吐息とも嘆声ともつかぬ聴衆のざわめきをご想像いただけようか。改めて言うまでもなく普通のピアニストは、椅子の方をピアノに引寄せるものである。
もっとも、もしピアノに付いている三本の脚のキャスターが三つとも同じ方向を向いていたら、自慢するわけじゃないけれど、この私でも軽く、とまではいわないけれど、ウーンといいながらもピアノを動かすことはできる。しかしその場合は、演奏中にフォルティシモで体重をピアノにのしかけたら、ピアノはツーとすべっていってしまうことだろう。実際私の場合も、アメリカのサクラメントという町で演奏したときに、同様のことが起ったことがある。フォルデスの場合には、キャスターは当然固定してあったに違いなく、彼はそれを無造作に引寄せたのである。
と、筋肉だの腕力だのと、まるで芸術とは程遠い話を展開すると、音楽を愛する読者諸氏の中にはフンガイされる方もおありかもしれない。改めて言うまでもないことであるからずっと割愛していたが、そして改めて言わない方が粋であるとは思うけれど、もちろん演奏家にとって何より大切なことは、音楽家としてのスピリチュアルな献身、内面的な感動であるのは言うまでもない。そうでなかったら、前述のホルショフスキーのように九十六歳にして立派な演奏で聴衆を感動させる、などということはあり得ないのであるから。
巨大な手
さて、今日私たちが演奏したり鑑賞したりして楽しんでいるピアノ音楽のレパートリーの中心は、主として十八、九世紀に作られたものである。なかでも十九世紀浪漫派のピアノ作品殊にショパンの作品は、ピアノという楽器の多彩な表現力とその魅力を余すところなく伝えている。
近代のピアノ技法というのは、ショパンのなかで最も芸術性の深い高度な完成をみたことになるが、それはショパンより一年あとに生まれ、彼の人生の倍に近い七十五年の歳月を生き抜いたフランツ・リストによって、多くの若いピアニストたちに引き継がれていった。
リストはその晩年には、一年をいくつかに区切ってブダペスト、ワイマール、ローマとめぐっては教えていた。そしてそのあとをコンサートピアニスト志望の若者たちがゾロゾロとついて廻っていた。多くの一流ピアニストを育て上げ、世に送り出したという点で、晩年のリストは前述のウィーンのレシェティツキーと双璧《そうへき》だったのである。そしてその若者たちのなかに、ロシア人のアレクサンドル・ジロティがいた。そのジロティの一廻り以上も年の若い従弟が、かのセルゲイ・ラフマニノフである。
ジロティは、幼い従弟セルゲイが六歳でピアノを学び始めたときには、もうすでにリストの高弟として演奏活動を開始しており、ちょうど創立されて間もないモスクワ音楽院の若き教授としてモスクワに帰ってきたところだった。ラフマニノフはこの年長の従兄に大きな尊敬を払い、彼から少なからぬ影響を受けている。しかし今日、ピアニストの歴史のなかに大きく刻み込まれている名前はジロティではなく、ラフマニノフの方である。
ラフマニノフによって、ショパン、リストと受け継がれてきた浪漫派のピアノ技法はその極限に到達し、その第三番のピアノ協奏曲ニ短調をもって浪漫派的ピアノ音楽は最大の花を咲かせて終焉《しゆうえん》をみる――。
ところで私は、ショパンの左手を手首の上まで石膏《せつこう》で型どったものを持っている。昔、ワルシャワのショパン協会で記念に貰《もら》ったものなのだが、それを見ると彼の手が女性のものと見紛うばかりに細く小さく華奢《きやしや》であるのに驚かされる。私自身の手と重ね合せて比べてみても、どちらかといえば小さい私の手より更に小ぶりで、とてもピアニストの手であるとは思えないほどである。
しかしショパンは、この華奢で繊細な手や指を使って、それまでのピアニストたちの成しとげなかった全く新しく独創性に満ちたピアノ演奏技術を誕生させた。
それにしても、このショパンのデリケートな小さい手とまさに対照的なのが、ラフマニノフの手である。歴史上に名をとどめるピアニストのなかで、恐らくショパンが最も小さな手を持つピアニストということになろうが、では反対に最も大きな手のピアニスト、といえば、これは文句なくラフマニノフ、といい切ることができる。
彼は身長が百九十二センチもある大男で、演奏するときは長い足がピアノの下にうまく収まらず、それこそ膝《ひざ》をキイボードの下にねじ込むようにして座ったという。
大は小を兼ねるが、小は大を兼ねない。小さな手で苦労する私など、大きな手と聞くと本当にうらやましくなる。昔、モスクワ・東京間の飛行機の中で偶然リヒテルの真うしろの席に乗り合せ、長い飛行時間中にとくと彼の手を拝見したことがあった。リヒテルの手は大きく分厚く、彼の小指でさえも私の親指の二本分はあろうかと思うほど桁《けた》はずれに太く長かった。
これは後日譚《ごじつたん》だが、それから暫《しばら》くしてリヒテルは、東京の或るホテルの一室でほんの百人ほどの聴衆を対象としたサロンコンサートを行い、私もその最前列の、彼からわずか三メートルと離れていない距離のところから、その演奏ぶりをじっくりと見学したことがあった。リヒテルはミスの少ない演奏をすることでも知られているが、この夜はあがっていたらしく、集中力が散漫でずい分音をひっかけた。ところがそのミスのことごとくは、指が太すぎて狭いキイに上手《うま》く収まらず横のキイをついひっかけてしまう、といった類《たぐ》いのものだったのに私は微苦笑を禁じ得なかった。手の小さい私が犯すミスは、指が短くて届かないところから起るものが多いのだけれど、手や指が大きすぎてはみ出してしまうほどの人にはまた私たちとは違う悩みがあるのだと見知って、なんとなく親近感さえ覚えたものである。
さてラフマニノフは、彼自身としては自分の本質はあくまで作曲家であることに存在するとして、ピアニストとして活躍することに乗り気ではなかった。彼がピアニストとして活動し始めた理由は、経済的必要性に迫られてのことだった。ところが、西側で演奏家としてデビュウするやいなや、彼はただちに同時代の大演奏家たちの中でもぬきんでた桁はずれの演奏家として賞讃されるようになった。
私が幼い頃東京で師事したことのあるポーランド系ユダヤ人ピアニスト、レオニード・コハンスキーは、ラフマニノフとも面識がありその生演奏を少なからず聴いていたが、彼によれば、「ラフマニノフの超人的な演奏技術やその気品ある雄大なスタイルに比べると、ホロヴィッツなど子供にみえてくる」ほどのものであったという(ラフマニノフ自身は青年ホロヴィッツを自分の演奏の後継者とみなしていたといわれている)。
ヨーロッパ各地で彼が演奏する時、殊に自作自演であのピアノ協奏曲の第二番や三番を弾くと、聴衆の熱狂はとどまるところを知らなかった。彼はリスト以降唯一無二の大ピアニストであると絶讃され、当時その演奏ぶりに接した人々は今日もなおその昂奮覚めやらぬといった口調で、「今日ではあのようなスケールのピアニストは見当らなくなってしまった」と嘆くのである。
マルファン症候群《シンドローム》
さて、そんな熱狂的ラフマニノフ信奉者の一人に、イギリス人のシリル・スミスというピアニストがいた。彼は当時ピアニストとしてかなり成功した人だったが、彼自身も身体が大柄で手がラフマニノフと比べて遜色《そんしよく》ないほど大きかったことから、或ることに注目した。
スミスの手は、拡げると十二度即ちピアノのキイのド音からなんとオクターヴを越えてソの音までも届く、巨大なものであった。これはつまり、手をめいっぱい拡げると、親指の先から小指の先までの直線距離が少なくとも二十七センチ以上はあるということである。
ところがラフマニノフの手というのは、そのスミスの巨大な手より更に大きい。それだけでなく、指先へゆくほど細い形をしており、手を拡げるとまるでタコの足のようにしなやかにくにゃくにゃと、鍵盤を覆ってしまうのである。その手がいかに異常なまでにくにゃくにゃしていたかといえば、ラフマニノフはその右手の人差指でド音を、次の中指でミ音を、薬指でソ音を(このくらいだったら私でもできるのだけど)、しかし次に小指で一気に人差指で押しているドよりオクターヴ高いドの音を押えて、更にこの四本の指を離すことなく親指をその下にくぐらせて、なんと小指ド音の先のミ音まで届かせて、これをポンと弾いてのけた、というわけであるから、これはもうとてもただ単に手の拡がりが巨大であるというだけではできることではない。
スミスは更に、あの名高い第二番のピアノ協奏曲の冒頭部分にあるピアノソロに注目した。その中のいくつかの和音には、手がスミスのように巨大であってもタコ足のようにくにゃくにゃとしていない限り演奏はほとんど不可能、という個所があったからである(通常ピアニストたちは、ここのところで和音を崩したり音を一つ抜いたりして何とか演奏している)。
スミスのこのラフマニノフの手に関する疑問に着目したのが、D・A・B・ヤングという人だった。彼は、ラフマニノフのこうした肉体的特徴と残された彼の病歴などの資料などから、『ラフマニノフとマルファン症候群《シンドローム》』という論文を書き、一九八六年十二月にブリティッシュ・メディカル・ジャーナル誌という権威ある医学誌に発表した。
「マルファン症候群とは、結合組織が冒《おか》される遺伝病で、骨格、眼、及び心臓血管という三つの系のうちの一つ又はそれ以上に異常がみられるものである。骨格系で最も特徴的なものは、骨の長軸方向への過度な成長という点で、その結果、正常な身長よりも大きくなり、体幹よりも骨肢の方が不釣合に長く、手足とも指が細長くなる(クモ状指趾)。頭部は狭くなる場合が多く(長頭症)、いわゆるウマ面となる。皮下脂肪は極端に少くその為に骨ばってくる。また骨格系の異常としては肋骨の過成長があり、そのため前胸部変形がみられ、更に靭帯《じんたい》、腱及び筋膜の弱体化と弛緩《しかん》を招き、その結果、脊柱|後彎《こうわん》、側彎症、扁平足、脱臼及び耳朶《じだ》変位をひき起すことがある。また、視覚系では水晶体脱臼をみると状態が診断できる(略)心臓血管系の特徴には動脈瘤、心臓弁膜に閉鎖不全があるためうっ血性心不全を招く」(関英夫訳)
要するにこの論文によれば、ラフマニノフの手が異常に大きく過度の伸縮が認められるのは、マルファン症候群の典型であるということになる。言いかえれば、ラフマニノフの作品における、異様にも美しい「浪漫派最後にして最大の輝き」といわれる複雑な音のうねりは、少なくとも技術的には、彼の「マルファン症候群患者」としての巨大な手とその異常な動きによって支えられた、極論すれば病気が名作を生んだともいえるのである。そういえば「病気が傑作を生むなら、それは良い病気である」といったのは脳に病いを養っていたニーチェだった。
ラフマニノフは長身でほっそりとし、頭の幅は狭く鼻も長くてやせていた。耳はとんがって突き出しており、皮下脂肪に欠けていた。立っていれば人を見下ろすほど大きかったのにもかかわらず座ると目だたないというのはクモ状指趾症の特徴で、アブラハム・リンカーンも同じくこれに苦しんだ一人であったという。
またラフマニノフは、三十代の半ば頃からひどい眼精疲労や頭痛に加えて、背部の激痛、両手の硬直、関節炎その他さまざまな症状に悩まされていたことが分っている。このうちの眼精疲労と恐らくは関係があったと思われるのが、右のこめかみを襲った突き刺すような激痛で、それは第一次世界大戦前にロシアにいた頃に始まり、頻度と激しさが年を追って増してゆき、一九二一年には入院して治療を受けたにもかかわらず、何の効果もなかった。そして一九一七年十二月を最後にロシアを去ったあと、この病気のために五年間作曲活動をあきらめざるを得なくなる。彼は演奏活動だけで何とか気を紛らわせていたのである――。
惨憺たる評価
ラフマニノフの生涯には、終始気難しく陰気臭く不機嫌なイメージが抜き難くつきまとっているかに見える。今から考えれば、その相当部分はこの「マルファン症候群」に基因する極めて当然の具体的な苦痛のためであったと言えよう。
しかし彼の生きていた時代には、彼のその不機嫌の主要な原因は、彼がピアニストとしては第一人者であっても、作曲家としては評価されなかったところにある、と想像されていた。シェーンベルグ、ラヴェル、ストラヴィンスキーといった作曲家たちと重なる時代を生きた彼の音楽は、前世紀の遺物、時代錯誤の典型、チャイコフスキーの亜流、といったものとして常におとしめられるにまさに恰好のものだったのである。
意外と思われるかもしれないが、事実彼の作品が、二十世紀前半を飛びこえて十九世紀浪漫派に正当に接続し評価されるようになったのは、ごく最近のことで、それまでの作曲家ラフマニノフに対する音楽専門家たちの評価は惨憺たるものだった。
たとえば作曲家自身の演奏で行われたあの名作ピアノ協奏曲第二番の初演は、モスクワの聴衆の熱烈大歓迎を浴びたが、批評家たちは冷やかで「古代芸術」などと嘲笑《ちようしよう》する者もいた。そしてその八年後、初めてのアメリカ演奏旅行において第二番第三番のピアノ協奏曲を自演した時も、聴衆の熱狂とはうらはらに批評は手厳しかった。
「……意志の表現が弱い。これは技術的基礎が充分にあり、チャイコフスキーの音楽を知っているドイツ人なら、誰でも作曲できるものである」(一九〇九年秋の『ニューヨーク・タイムズ』紙)
もちろん彼の作品の中には批評家から高い支持を得たものもあったし、指揮者としてもボリショイ・オペラの指揮者を皮切りに、ボストン響から常任という誘いもあったほど一級のキャリアを歩んだ。ピアニストとしての名声については改めて述べる迄もない。しかし結局のところラフマニノフは、公式には「通俗的作曲家」という烙印《らくいん》を押され、「少数のラフマニノフの作品が生前に収めた絶大な大衆的成功は長続きしそうになく、音楽家がそれらに大きな好意を示したことは一度もない」(『グローヴ音楽辞典』第五版)という「蓋棺録」さえ贈られた。要するに、ラフマニノフの作品の大衆的人気は、ピアニスト・ラフマニノフに依るもので、作曲家としてはロクでもないというのである。
これは余談だが、たとえばついこの間までの東独でも、評価は同じだったのには驚ろかされた。ワイマールでショパンのコンチェルトを弾いたあとオーケストラの事務局長が私に「次にここで何のコンチェルトを一緒にやりたいですか」と訊いたので「ラフマニノフの二番など」と答えると、「それはいいですね。でもうちのオーケストラはその曲を|百年ぐらい《ヽヽヽヽヽ》やっていません」と言ったのであった。
しかしラフマニノフの死後四十八年たった今日、名曲ピアノ協奏曲第二番及び第三番は長続きしそうにないどころか、もはやピアノ作品の「古典」としてあらゆるピアニストたちの欠くべからざる重要なレパートリーとなっているのはむろんのこと、聴衆の間でもますます高い人気を得てきている。ピアノソナタや前奏曲、練習曲などもリサイタルの主流レパートリーとなっているし、チェロソナタや多くの歌曲、合唱曲、交響曲第二番なども、年を追って忘れ去られるどころか、その評価は高くなる一方である。当時「時代に即して」「知的思考に富んだ」と批評家から絶賛された多くの「現代」作品が、いまやその作曲者名さえ忘れられているのと比べると、なんと対照的なことか。
生前のラフマニノフは常に陰鬱《いんうつ》な表情をし、周囲に近寄り難い印象を与えた。彼の笑顔など見たこともない、という人々もいた。同じロシア生まれの作曲家で友人でもあったイゴール・ストラヴィンスキーは、そのラフマニノフを「六フィート半のしかめっ面」と評したほどである。
無理もない。本来はマルファン症候群による眼精疲労も、世に容れられない二流作曲家(一時彼は、ハリウッド映画のための大作曲家などと呼ばれたこともある)の悩みとなり、頭痛による作曲活動の停止もたちまち、行き詰った上でのノイローゼと解釈されたのでは……。恐らく本人さえも、それがマルファン症候群のためと気づかぬまま、そこに「運命の力」などを感じて憂鬱になっていたのではないだろうか。
ラフマニノフは一九四三年三月、ロスアンジェルスで急性の黒色腫という悪性の癌によって亡くなった。ちょうど七十歳であった。合掌。
3 神よ、我を許したまえ
父子相伝
或るとき、ニューヨークにあるジュリアード音楽院のピアノ科で将来を嘱望されている学生が、突然校長室に呼ばれた。
「君はアルバイトにピアノの個人教授をしたいと、そのあっせんを学生課に依頼していたね?」
「はい」
「実は六歳になる女の子なんだが、教えてみる気はないだろうか?」
くだんの学生は、校長に教えられた通りニューヨーク・リヴァデールのとある美しいヴィラをたずね、玄関のベルを鳴らした。と、ドアが開いて、どこかで見たような顔、いや紛れもなきかのホロヴィッツが現われた。唖然呆然声も出ない若者は、ホロヴィッツに手をとられて居間に入り、ピアノの前で弟子となるべき少女を紹介された。そのかたわらの安楽椅子には、一人の白髪の老人がひどく嬉しそうに満面に笑みをたたえて座っていたが、これもどこかで見たような顔、そう、あのトスカニーニではないか……。
「さあ、始めてくれ」と、トスカニーニがいかめしい顔に戻って言った。
「あの、ここででしょうか」と若者は、ほとんど泣き声になった。
「まさか、お二人とも聴いていらっしゃるのではないでしょうね」
するとホロヴィッツが嬉しそうに、
「もちろん聴くよ。なにしろ私が彼女の父親で、あっちが祖父なのだから」
(グレン・プラスキン『ホロヴィッツ』)
おじいさんにトスカニーニ、パパにホロヴィッツを併せ持ってピアノのお稽古を始めた少女なんて、私にはおよそ想像を絶する音楽環境に思える。しかしながら、あるいはそれ故にかは、論議の余地があるかもしれないが、その少女ソニア・ホロヴィッツが一流のピアニストになれたわけではなかったところに、いやそれどころか大天才である父親への愛情と反抗に身も心も崩壊させ二十四歳の若さで死んでしまう結果となったところに、現代に生きる音楽家の難しさがある。
見渡せば古今東西、親から子へと継承されていく技術や職業は決して少なくはない。一般社会でも医師や弁護士を初めとして、経営者や学者そして最近では政治家に至るまで、一種の世襲制のような印象を与える職業が多いし、とりわけ雅楽、歌舞伎、茶道に華道といった伝統芸術の世界では当然のように行われている。
クラシック音楽、ピアニストの世界でも、かつては父子相伝が極めて多かった。天才児モーツァルトとその父親は、ピアニスト史上における最初にして最大の「トンビがタカを生んだ」例であり、そしてその父親はいわゆる「ステージ・パパ」の輝かしい元祖といってよいだろう。レオポルト・モーツァルトは幼い息子のアマデウスに投資し、そして充分にその元をとった。以降に続く世代のトンビたちが、我が息子を第二のモーツァルトに仕立てようという大きな野望をもって「ステージ・パパ」業に励んだことは、ベートーヴェンの父親の例をはじめとして枚挙にいとまがない。
しかし、観点をピアニストに留まらずもう一つ広く鍵盤楽器奏者全般にまで広げて見ると、こういった父子相伝、というか、音楽を世襲制あるいは「家業」として史上空前の規模にまで発展させたのは、なんといってもかのバッハ一族であった。
バッハ一族
さてそのバッハ、即ち私たちに一番良く知られているヨハン・ゼバスティアン・バッハは一六八五年の生まれだが、五十歳の時|己《おの》が家系にあまりにも多くの音楽家が存在していることに改めて感銘を受けたのか、自ら筆をとって「音楽に生きるバッハ一族」と題する家系図を作製した。それによると、彼の五代前の先祖から彼の世代までのほぼ二百年間に、少なくとも音楽家であることを職業として生活した者は四十二名にものぼった。
ところが後世の研究家たちによれば、この四十二名という数は完全なものでないばかりか、バッハの家系全体からみればほんの一握りの人々でしかないということになる。例えば、バッハ一族の枝の一つであるカスパルという人物の子孫だけでも、十七世紀半ばから十九世紀半ばまでの二百年間に、ちゃんと戸籍に登録されている数だけで実に千名以上、そしてその大部分が家業としての音楽に何らかのかたちで携わっていたというのだ。もうこれは、単なる一音楽ファミリーどころの話ではない。まさにバッハという名の一大音楽部族である。
音楽史から見れば、ヨハン・ゼバスティアンはこの部族の頂点を極めた人で、いわばこのバッハ族の伝説の大酋長とでもいおうか。もっともこれは後世になって、ヨハン・ゼバスティアンの業績への再認識がなされてからそう価値づけされたのであって、彼の時代には彼は今日ほどの評価を得ていなかった。むしろ彼が亡くなる頃には、彼より息子のエマニュエルの方がはるかに有名で、当時「大バッハ」と呼ばれていたのは息子の方であったのだから面白い、というかこの世のことは分らない。
それにしても、と私は、改めて感嘆する。あの時代、天然痘あり、ペストあり、チフス、コレラあり、ありとあらゆる病原菌が人類に挑みかかって大騒ぎしていた時代に、いや、もしかするとそれだからこそなのかもしれないが、とにかくまあこの繁殖力! そういえば、バッハ自身も八人兄弟の末っ子であり、その彼は二十人もの子宝に恵まれた(この医学の進んだ現代日本にあっても、十七人の子宝というのが最多記録であるというのに!)。
このヨハン・ゼバスティアン・バッハ族大酋長の生殖エネルギーに関する話はまたあとにして、実際のところバッハ族という名称はさすがに無いものの、彼らの生活の中心であったドイツのチューリンゲン地方、「ベルリンの壁」崩壊以前の東独領に属するアイゼナハ、ワイマール、エアフルト、イエーナ等々といった町では、中世から二十世紀の今日に至るまで、「die Bache」という言葉が存在している。これは、半ば浮浪者のような、辻楽師をも含めた音楽師たちを総称する言葉である。
そもそも Bach の語源はインド・ゲルマン語の bhag に端を発し、これは「流れ歩く」とか「流し」といったような意味をもっていた。近年の研究によればまた、バッハとは乞食やジプシーの間で使われていた隠語で、「小銭」とか「……に合せて演奏する」といった意味を指し、こうした流浪の民たちと無縁ではなかった遍歴音楽師たちの間で日常用語の一つとして頻繁に用いられていた、ということが分っている。
今日の感覚からいえば、ある分野を一つのファミリーが二百年にもわたって占拠するなどというと、そこには権力や富の形成にもつながる要素があったと思いたくなる。しかし実際には、当時の封建制社会の中にあっては、音楽家という「家業」にはそのようなチャンスは思いつくことさえなかった、というところが興味深い。
それは第一に、バッハ家がもともとパン屋を本職とする平民を祖先に持った、主として農民出身の職人をメンバーとして構成されていたことによる。彼らの活動は、教会のカントール(校長・副校長の次にくる地位の音楽教育の責任者で、通常は教会の合唱指導、個人レッスンなどをした)、オルガニスト、学校の音楽教師、市庁楽団あるいは宮廷の楽師、作曲家、そしてオルガン製作者といった面に限られていて、それらは今日の感覚における「芸術家」たちからは程遠いむしろ「職人」たちの集まりであった。音楽愛好家の顰蹙《ひんしゆく》を買うこともあえて辞さずに言うならば、彼らの大部分はパンをこねたり焼いたりすることと同様の喜びや価値観をもって音楽を扱い、それで生活してきたのである。
しかも音楽というのは、当時の平民にとってはなかなか将来性の感じられる手堅い商売だった。結婚式、誕生祝い、洗礼式、葬式、その他の祝祭日などの諸宗教儀式には音楽は欠くべからざるものであったし、市民一般と宮廷社会の双方にも愛好者が増え、特に権力者にとってはその体面を誇示する重要なものとなっていた。音楽家の需要は、いくらでもあったのである。
また、その時代の音楽家にとって、当時の代表的鍵盤楽器であるオルガンを製作したり、美しい響きのオルガンに改良したりする仕事も、その重要な役目の一つだった。オルガニストというのはオルガンを弾くだけでなくオルガン曲の作曲もするばかりか、時としては自らオルガンの製作者でもある必要があった。そしてこうした仕事は、地道で丹念な「ノウハウ」の積み重ねがなくては成立しなかったから、一台のオルガンを祖父、父、そして息子と三代にわたって製作するということも珍しくなかった。
こうした地味な職人気質が中心の当時のドイツ音楽家の社会にあっては、彼らがファミリーとしての特権をときに駆使したとしても、せいぜい空席の出たカントールの地位を身内の才能ある若者に周旋してやる程度のことで、しかも収入はささやかだった。そして、そうした職人的性格が、職業選択の自由というものがほとんど認められていなかった社会的背景の中で、一つの家系の「家業」として定着し、一種の私的職人ギルドのような形で受け継がれていったのは、ごく自然な成りゆきであったに違いない。
巨匠たちの娘の才能
さて、このバッハ一族ほどの例は、当時の封建制社会にあっても極めて珍しいといえるだろうが、時がくだり、簡単に言えば能力を中心とした自由競争原理が働くようになると、当然のことながらこの種の世襲制は通用しなくなった。そしてそこに時として悲喜劇も生まれることになる。
いつかモスクワで、ヤコブ・フリエール教授をたずねたことがあった。フリエール教授は惜しいことに数年まえに他界したが、かつてはモスクワ音楽院の重鎮で、また自身も第一級の腕前を持つ優れたピアニストだった。我が国に招かれて演奏を行ったこともある。
フリエール教授のアパートは、モスクワ音楽院から歩いて二、三分の距離にある「作曲家同盟の家」と呼ばれる建物の中にあった。ちょうど私が部屋に入って行くと、フリエール夫人がピアノの上に花を活けているところだった。モスクワでは生花はとても高価だし、種類も少ない。
「綺麗なお花ですね」と、私は挨拶の代りに声を掛けた。ところがフリエール夫妻は、どことなく憮然《ぶぜん》とした様子で二人同時に首をすくめた。
「この花を持ってきたのは、いま、貴女と入れ違いに出ていった、この上階に住むヴァイオリニストのレオニード・コーガンの娘なのだが……」とフリエール氏は重い口調で言った。
「私はエミール・ギレリスともレオニード・コーガンとも古い友人なのだけれど、一つ困ったことがある。それは、彼らは自分の子供たちの教育をみな、この私に押しつけようとするのだ……」
「?」
「エミール・ギレリスの娘ときたらこう言うのだよ。『私はパパにだけは絶対に習いたくない』とね。ま、決して才能が無いわけじゃないのだが、しかし……」
と口ごもったまま、フリエール教授は私に向って苦笑してみせた。
私はその表情から、どうやらこの天下の巨匠たちの娘たちは、フリエール教授にとってはお荷物気味の存在であるということをたちまち察した。私は中学二年生の頃、初来日したギレリスの演奏に夢中になりほとんど半年間というもの熱病にかかったようにギレリスにうなされていたことがある。その頃、ギレリスには私よりやや年下の娘がいて、彼はその愛《まな》娘のために日本からヤマハのグランドピアノを一台買って帰ったという記事をどこかで読み、いいお父さんだなあと心がほのぼのとし、あのギレリスの娘ならさぞ素晴しいピアニストになるだろうと、ちょっぴりうらやましく思ったものだった。フリエール教授が困っていたのは、その娘らしい。
それから暫くして、ドイツやイギリスなどのあちこちで、しばしばささやかなもめ事を耳にするようになった。コンサートのポスターに「ピアノ独奏、E・ギレリス」と書いてある。そこで巨匠エミール・ギレリスを聴こうと期待に胸をふくらませながら切符を買って行ってみたところ、なんだ、ステージに現われたのは太ったロシアの女の子じゃないか。E・ギレリスというのはエミールのことじゃなくてエレーナのことだって? そんなバカな……。
ちなみに、私がフリエール教授の家の玄関先ですれ違ったレオニード・コーガンの娘は、その後ピアニストとしてのキャリアを断念してしまったが、その弟パーヴェル・コーガンは最初ヴァイオリニストとしての道を歩み、現在は指揮者として自らモスクワ国立交響楽団を設立するなど、なかなかの活躍ぶりをみせている。
私は数年まえスロヴァック・フィルハーモニーの定期演奏会で彼と初めて共演して気が合い、先だってのモスクワ国立響の初の東京公演でも共演したが、大変にリズム感に優れているうえのびのびとした音楽性を備えたよい指揮者である。
ポリフォニック・インフェルノ
蛇足だが、このフリエールやコーガンの住んでいた「作曲家同盟の家」については、私は或る複雑な思い出を持っている。話は私の中学生時代、一九五〇年代の後半に遡《さかのぼ》るが、当時はご存じのように日本からソ連に旅行できた人は極めて少なく、また限られていた。音楽評論家のS氏はその数少ない日本人の一人であり、また私のピアノ仲間の父上でもあったので、友人をたずねて行くと本人よりもその父親の方につかまって、私はソ連の土産話をよく聞かされたものであった。
「紘子ちゃん、ソ連って素晴しい国なのよ」
と、S氏は夢見るような表情でよく言った。
「国民はみんなただ同然に暮らしているの。住む所も安いし学校はただ。病気になっても手厚く看てくれる。日本とはえらい違いなのだよ」
言う迄もなく当時の日本は、貧しく小さな文字通りの発展途上国だった。東京には首都高速も新幹線もなく、表通りから一歩住宅街に入れば、道路は舗装もされておらず穴だらけであった。
「特にね、ソ連という国は、芸術を愛し芸術家を大切にするの。才能があれば小さい時から素晴しい音楽学校に無料で入れてくれる。音楽家のためには『作曲家同盟の家』という素晴しい石造りの建物を建てて、そこの立派なアパートにただで住まわせてくれる。だからソ連の音楽家は日本人と違ってすごく恵まれている。日本とはえらい違いなの」
S氏はいつも長髪にベレー帽、緑色のルパシカ(ロシアの農民の民族衣裳)という彼のトレード・マークともいえる装いで、だるまストーブの前に座っていた。ストーブの上では、ボルシチが魅力的な湯気を立て、台所の奥では夫人が珍しい黒パンを焼いていた。そこで私は結局、S氏のソ連礼讃とソ連みやげのショスタコーヴィチやチャイコフスキーのシンフォニーのレコードとに耳を傾けさせられたあと、御褒美みたいにこのボルシチを御馳走になって、いとま乞いをすることになるのだった。
さてそれから歳月は矢のごとく流れ去り、一九八二年の春のこと、私はモスクワで開催されたチャイコフスキー・コンクールに審査員として招かれることになった。この年のピアノ部門の審査委員長は、グルジア共和国の文化大臣であり作曲家として高名なタクタキシヴィリ氏であった(彼は二年ほど前に亡くなった)。
コンクール審査中のコーヒーブレイクで、話題は突然かの「作曲家同盟の家」になった。そこには地階に会員用のレストランがあって、コンクールの開催されているモスクワ音楽院の界隈《かいわい》では唯一なんとかましな食物を食べることができる、しかもその上サービスがホテルなどのレストランよりはるかに早いし親切だということで、私たち審査員はよくこのレストランを利用していた。
「しかし、あの『家』に住むのを嫌がる音楽家が増えてきましたな」と、タクタキシヴィリ氏が言った。「みな、音楽家同士で住むなんてごめんだといって、それぞれが好きなアパートを見つけて勝手にやってますな。実は私も昔住んでみたものでしたが、上階からはヴァイオリン、横からはピアノの音、いやもうなんというか……」
なんでも昨今は売れない作曲家が多く住みつき、それらが何故か朝の九時になると一斉に下手なピアノの練習を開始するのだという。すると、比較的静かなその界隈にありとあらゆる不快なピアノの音楽が轟《とどろ》き出し、そのあまりの物すごさにノラ猫さえも寄りつかなくなる。これをモスクワではアメリカ映画「タワーリング・インフェルノ」をもじって、「ポリフォニック・インフェルノ」と呼んでいるのだそうだ。私は瞬間、あのS氏の顔を心に思い浮かべた。
「私が住んだのは、一九五〇年代のことでしたが」と、タクタキシヴィリ氏は続けた。五〇年代といえば、S氏が私に語って聞かせてくれた頃のことだ。
「当時同じ建物には、ショスタコーヴィチがいました。その彼の上の階には、或る才能のからきし無い三流作曲家が住んでいて、これが朝九時になると決ってピアノを弾きながら歌曲の作曲を始める。詩はプーシュキンの有名なもので誰でも知っているものでした。ところがこの作曲家、いつも六小節ぐらいまで進んだところでパッタリと止まって、その先が書けないのです。そこで絶句し、またふり出しに戻る、これを一カ月やられて、階下のショスタコーヴィチはすっかりノイローゼになり、自分の仕事に手がつかなくなってしまった。そこである日彼は意を決して、そのプーシュキンの詩の六小節以降を自分で作曲し、その楽譜を上で呻吟《しんぎん》している作曲家のポストに投げ込んでやった。『あなたの悩みはこれで解決したでしょうから、お願いだからこれ以上、私の方を悩ませないで下さい』という手紙をつけて……」
私が中学生の少女だった頃、芸術家のユートピアとしてS氏から聞かされていたあの「作曲家同盟の家」の現実をその二十五年後に知って、私の心には文字通り万感胸に迫る複雑な思いがこみ上げてくるのを感じた。
ペレストロイカが登場する前からモスクワの音楽家たちは、ただ同然の家賃で提供された共同住宅でニワトリのように一斉にトキをつくることよりも、高い家賃や地の利の不便さをあえて忍んでも芸術家として独り静かに生活することの方を選んだ。というよりも、そもそも同じ分野の芸術家を一カ所にまとめて住まわせようという考えのほうが、基本的に芸術家の人間性に反することであったのかもしれない。
話が横道に逸《そ》れてしまったが、さてこの二十世紀が生んだ最も偉大な作曲家の一人であるショスタコーヴィチは、ピアニストとしては第一回ショパン・コンクールに参加して「特別賞」を受けた、というか「特別賞」に終って「挫折」して作曲に専念することになったという。特別賞というのは要するに「選外佳作」風なものであって、まことに曖昧《あいまい》な賞なのである。
そのショスタコーヴィチは子煩悩であることでもまた有名だった。息子はモスクワ音楽院で指揮を学んでいたのだが、教授たちにいわせると凡才のうえ勉強にはそれほど熱心でなかった。そしてその息子の実力は、他ならぬ父親が一番よく分っていたらしい。学期末試験が近づくと、試験を担当する教授たちのところに、オロオロした声でショスタコーヴィチが電話を掛けてくる。それはしどろもどろで力無く、ため息ばかりに包まれた声だった。そしてそれを聞くと、みなショスタコーヴィチの友人であり彼を尊敬する者ばかりであったから、「仕方ないな」と思いつつ「ま、いいか」と合格点を入れてやる気になったのだそうである(という話を、私は試験官の一人だったピアノ科のブラセンコ教授から聞いた)。
その息子は偉大な父親が亡くなったあと、モスクワで交通事故を起して被害者が死亡するという事件を起した。この一件は何とか表沙汰にはならなかったものの、その後彼は亡命という形で国外に脱出せざるを得なくなった。ブレジネフ時代、芸術家がしばしば西側に亡命し話題を呼んだが、その裏にはこうした亡命も時にはひそんでいたのである。
「罪深き我を許したまえ」
ところで、先に話に出たヨハン・ゼバスティアン・バッハ族大酋長の生殖エネルギーであるが、彼は一六八五年に生まれ一七五〇年に六十五歳でこの世を去るまでに二度の結婚から二十人の子供を得、その合間に、といったら本末転倒かもしれないが、なんと大小とり混ぜておよそ一千曲を越える作品を書いた。しかも彼は、若かりし頃には教会の合唱団の若い女性をひそかにカントール室に引込み、なにやら怪し気なふるまいに及び問題化したこともあったといわれる。
神を讃美するバッハのおびただしい作品は、実は信仰深い彼が女性と行為に及ぶ毎に「神よ、罪深き我を許したまえ」と叫んで作りまくった成果である、といった笑い話さえあるほどだが、確かにこの生殖エネルギーと創作エネルギーというのは相互に密接な関係があるのかもしれない。もちろんそれは公式には彼の遺した作品の内容そのものの高貴さとは何ら関係あるものではない、ということになってはいるが、しかし興味深いことではある。
ヨハン・ゼバスティアンはその四十五年に及ぶ音楽生活の半分以上、二十七年もの歳月をライプツィヒの聖トーマス教会付属学校のカントールとして過ごした。この教会のために彼は、その生涯のなかでも最も重要な名曲である「ヨハネ伝受難曲」や「マタイ伝受難曲」を書いている。
そして彼はライプツィヒの教会音楽はもとより、冠婚葬祭、さまざまな祝祭日のための祝典曲に至るまでの作曲から演奏に至るすべての音楽活動の、文字通り責任者となって市に奉仕した。しかしその生活は金銭的にも、更にはもっと重要なことには対人関係においても恵まれたものとはいい難く、彼は彼の音楽に無理解な大学当局、聖職会議、市参事会といった自分の上司に当る役人たちとの対立に生涯悩まされ続けた。
私は初めてライプツィヒの聖トーマス教会を訪れたとき、バッハの遺骸が意外にもつい最近(一九四九年)になってからこのゆかりの教会に埋葬されたことを知り、思わずそこにしばらく立ちつくすほどの感慨に襲われた。彼がその生涯の中で最も長い時を過ごした聖トーマス教会に、死後二百年もの間バッハを埋葬するのを拒んだものは何だっただろうか。教会当局か、それとも他ならぬバッハ自身の魂であろうか。
余談ながら、バッハが再婚した十六歳年下の妻アンナ・マグダレーナはバッハとの間に十三人の子供を儲けたが、バッハの死後十年を極貧の中で暮らし、最後はほとんど行き倒れ同然といった状況で亡くなった。二十人の子供たちの中の生き残りは僅かに五人の息子と四人の娘たちであったが、その誰もアンナ・マグダレーナを看取ることはなかったという。
私は一九八二年に、このバッハ一族が活躍していたチューリンゲン地方の各都市に、演奏旅行をしたことがあった。イエーナではかつてはマルチン・ルッターも泊ったといわれる旅籠《はたご》に泊ったりもしたが、いったいにどの町も古い部分はあまり残っていないかあるいは崩壊寸前といった状態で、格別な感傷も起らなかったのが惜しまれた。エアフルトもそんな町の一つで、古い芸術文化が豊かに栄えた町、というよりもかの社会主義者カウツキーのエアフルト綱領で知られた町という方がふさわしく、などと言ったら、「ベルリンの壁」も崩れたいまあまりにも時代遅れであろうか。
ところでそのエアフルトでのリサイタルのあと、私はバッハと名のる老人を紹介された。残念なことにファースト・ネームを忘れてしまったが、齢七十歳ほどのごく平凡な老紳士で、なんでもヨハン・ゼバスティアン大酋長の傍系の子孫であるということだった。御本人はいまや伝統の家業とはとんとご縁がなく、市役所に勤務していてたまたま市の催しである私のコンサートに事務的にたずさわったということらしかった。でっぷり堂々としていた大酋長とは似ても似つかない痩身で、くたびれた灰色の背広が現在のバッハ氏の生活状態を表わしていた。
かつてエアフルトにはバッハ姓を名乗る家が大変多くいたそうだが、今では西側の方にも移ってしまって少なくなったという。孫息子が三人いるがどれもみなロックに熱中していて、ギターや打楽器の音がうるさくて家にいることもできません、クラシックのコンサートなどには見向きもしないんですよ、とこぼしていたのが印象的だった。
東西の壁が無くなった現在、ひょっとするとバッハという名のロック歌手が東京に現われて歌うなどということも起り得るかもしれない、その時は、何をおいても是非行ってみようと思っている。
4 女流探検家として始まる
|あの《ヽヽ》探検家の妹
我国で最初の小説家といえば紫式部ということになろうか。では最初のピアニストは誰だろう、と、「文明開化」の|疾 風 怒 濤《シユトルム・ウント・ドランク》の中を遡《さかのぼ》ってみると、幸田延《こうだのぶ》という女性の姿が浮かび上ってくる。ただ単に最初のピアニストというだけでは充分ではない。彼女はまた日本最初のヴァイオリニストでもあり、最初の作曲家でもあったが、それよりも何よりもそこには、巨大な西欧文明、そしてその精華である西洋クラシック音楽という未知の世界にまっさきに踏み込んでいった探検家の趣き、とでもいったものがあるのだ。
今日の人名辞典などでは、幸田延は、ピアニスト、ヴァイオリニストあるいは音楽教育家として語られていて、彼女が我国最初の西洋音楽の本格的作曲家であったことが忘れられている。しかし彼女こそは、日本人として初めてソナタ形式による楽曲を作った人であり、大正天皇が即位した折には「大礼奉祝四部合唱曲」という大曲を献じたほどの、いわば当代随一の作曲家でもあった。
日本で最初のクラシック音楽の本格的な作曲家、といえば普通まず滝廉太郎の名があげられるが、幸田延はその師に当る。今日、彼女の作曲した作品が、二十三歳で夭逝《ようせい》したその弟子滝の「荒城の月」や「箱根山」などとは違って全く埋れてしまっている理由は、まず第一に、当時彼女の才能を正当に評価できる日本人が皆無であったことにあろう。なにしろ、彼女以上にクラシック音楽を知っている人は他にいなかったのだからやむを得ない。次いでその主要な作品が器楽のためのもので、誰でも簡単に口ずさむことのできる唱歌とは違い、そもそも一般的になり得なかったということもあるだろう。
更にまたその頃は、当時日本がその範としていた本場ヨーロッパさえ大変な男女差別社会で、殊に女性の作曲家などといったものの存在は全く認められない有様だった。幸田延に対する評価も恐らくはそういったものの影響下で黙殺されてしまったこともあると思われる。
話は横道にそれるが、十九世紀のヨーロッパ社会でいかに女性作曲家が男女差別による抑圧を受けていたかを物語るものに、次のような有名なエピソードがある。
あの、テレビのCMなどにもよく使われるポピュラーなヴァイオリン協奏曲の作者として知られるメンデルスゾーンには、ファニィという姉がいた。ファニィは幼い頃から弟も顔負けといえるほどの音楽的才能を見せていたが、銀行家で大金持であった父親から「女が作曲するなんてとんでもない」と猛反対され、挫折した。しかし彼女は実はひそかに数多くの作品を書き残し、そのうち何曲かは出版もされた。ただし、弟フェリックス・メンデルスゾーンの作品として。女性の名前では出版社も世間も、相手にしてくれなかったのである。弟の名で出された彼女の作品は、そうとは知らないイギリスのヴィクトリア女王のお気に入りとなるほど、当時としては相当に知られたものもあったといわれている。そして、こうした音楽の創作分野における女性への抑圧は、中世から始まって驚くべきことには実にこの二十世紀の半ば頃まで存在するのである。
さてその幸田延は明治三年(一八七〇年)に、旧幕臣で代々文芸に秀でたことで名高い茶坊主の家柄である幸田|成延《しげのぶ》の八人の子供の長女として東京下谷に生まれた。
彼女の上にはすでに四人の兄がおり、その四番目の兄|成行《しげゆき》がのちの幸田露伴である。また二番目の兄は郡司|成忠《しげただ》といって、海軍に入りのちに千島列島の警備、開拓、というより未開地の探検家として鳴らした人であった。明治六年にはのちに史学者として名を残す弟の成友《しげとも》が生まれ、次いで十二年、妹の幸《こう》が誕生する。延とは八歳、露伴とは十一歳違う妹である。この幸田兄妹は八人のうち男二人は夭逝したが、あとの六人はそれぞれ近代日本の各分野で名を成し、特に露伴、延、幸の三人はのちに各々が日本芸術院会員に推され、「芸術院三兄妹」と謳われた。
延は兄妹たちの中でも特に、探検家である次兄郡司大尉と四兄の露伴によく似ていたといわれる。ややおでこの丸味をおびた額に、小造りの目鼻だち。妹幸が細面ですっきりとした鼻梁《びりよう》を持っていたのと比べると、延の鼻はまるくどこか愛嬌《あいきよう》があって、当時の明治上流社会では決して美人とはいえなかったろうが、もし現代に生まれていたならキュートな魅力とウケていたかも知れない。
探検家と文豪の血をひいているとしたら、とりわけ探検家の血は確かに延にとって最もふさわしいものであったに違いない。当時の文献には、延を語る際必ず「|あの《ヽヽ》郡司大尉の妹」という但書がつくが、明治の半ばに女性の身で単身ヨーロッパに留学するなどということは、芸術家というよりもほとんど探検家なみの勇気と行動力決断力、そしてもひとつ体力も必要としていたであろう。そう、まさしく延は、探検家だったのだ。西洋音楽という日本人にとっては未開の地を開拓する――。
永井繁子
日本人の女性として外国に留学しピアノを学んだのは、実は幸田延が初めてではない。
明治四年即ち延が生まれた翌年、岩倉|具視《ともみ》率いる五十名の使節団と約六十名の留学生がアメリカに向けて横浜港を発った。その中には五名の少女たちが混っていた。上田貞子十五歳、吉益亮子十五歳、山川捨松十二歳、永井繁子九歳、そして津田梅子八歳。日本が海外に送り出した最初の女子留学生たちである。
このうち山川捨松(のちの大山巌元帥夫人)と三井物産社長益田孝の実妹永井繁子(のちの瓜生《うりゆう》男爵夫人)は、ニューヘイブンのレオナルド・ベーコンという牧師の家に引きとられ、そこでアメリカの良家の子女としての躾《しつけ》と教育をほどこされるようになるのだが、その躾の一環に「ピアノのレッスン」という項目があった。ちなみにこのベーコン牧師が、彼女たちの米国留学現地責任者とでもいうべき米国弁務公使・森|有礼《ありのり》あてに書き送った「覚え書き」には、「希望があれば、私の家族がピアノを教えます。教授料及びピアノの使用料は、一人当り年間四十ドル、また他の専門の音楽教師を雇うのであれば、ピアノの使用料として、一人当り年間八ドル頂きます」(久野明子『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』)とある。
永井繁子は間もなく山川捨松と離れて、フェアーヘイブンに住むやはり牧師のアボットという人の家に引きとられ、更にその後学位獲得の対象とはならない特別生としての扱いでバッサー・カレッジに入り、音楽専攻のコースをとる。しかし当時のアメリカは、二十世紀に入ってからのアメリカとは違って、ロシアやドイツからユダヤ系の一流音楽家たちが大挙して亡命して音楽生活に多大な影響を及ぼしていたわけでもなく、またバッサーも当時開校して十三年目の新しい女子大であって、音楽の講座が格別に有名であることもなかった。従って結局のところ、永井繁子が九歳の時から十年間アメリカに留学している間に身につけた音楽教育、殊にピアノの演奏技術というものは、客観的にいえば当時のほんのお嬢さん芸程度のものに過ぎなかったであろうことは想像にかたくない。
しかし彼女は明治十四年十月、十九歳で日本に帰ると、その翌年の三月三日、開設されて一年目の音楽取調掛(のちの東京音楽学校、東京芸大)における唯一の外国留学体験者として、「洋琴掛を被仰付かる」こととなるのである。
そして四月、新しく入学を許可された伝習人(学生)の中に、十二歳の幸田延が混っていた。延はこうして、「日本語より英語の方が上手い」洋行帰りの淑女、いまは結婚して瓜生男爵夫人となった二十歳の繁子から、洋琴の手ほどきを受けることになる。
音楽取調掛と連弾《ツレビキ》
さて、当初この伝習人の資格というのは、邦楽をすでにたしなんでいる者という一項以外は一切問われなかったので、応募者の中には四十四歳にもなる人妻や三十過ぎの後家、士族の成人男子もいれば邦楽のベテランもいる、といった調子で大層|賑《にぎ》やかだった。なかには母娘、姉妹で仲良く志願した者までいた。
また、宮内省雅楽所の伶人《れいじん》たちも奨励されて、伝習人と教師をかけもちで加わったりした。当時の取調掛では、ピアノ、オルガン、ヴァイオリンなどの演奏法、西洋音楽の和声学などの講義と併行して、「邦楽と洋学における特徴の相違を研究し更にこの二つを結合させる新しい音楽」を生み出すために、雅楽や俗楽、明清楽なども授業にとり入れられたから、これらの伶人たちはここで雅楽を教えたり、取調掛の重要な課題でもあった小学唱歌の編纂に加わったりする一方、ヴァイオリン、チェロなどの奏法を学んだ。なにしろピアノやヴァイオリンはともかく、チェロ、コントラバス、あるいはフルートにクラリネットなどといった楽器になると、手本にすべき先生などまだ全く存在しなかったのであるから、彼らの苦労は大変なものであったに違いない。
そうして明治も三十年代に入ると、ここで西洋音楽の演奏法をまがりなりにもなんとか身につけた伶人たちが、一般の人々にも教えるようになる。多《おおの》忠基はなかでも宮内省楽部第一のヴァイオリン奏者とされ、のちに宮内省楽師たちでオーケストラを結成した折には、コンサートマスターと時には指揮者まで務めた。もちろんそのレベルは、今日の感覚からいうならば想像を絶する種類のものであったことだろうけれど。
しかし、こうした多忠基や大村恕三郎、奥好義といった伶人たちの中から、大正、昭和の時代の流れを通してやがて本格的なクラシックの演奏家たちが生まれ育《はぐく》まれていくことになる。例えば私がN響とデビュウしたばかりの頃、ヴィオラのトップに奥邦夫さんという人がいた。大変に風貌の立派な、オーケストラの中でも一際目立つ優れたヴィオラ奏者であったが、彼もまたこの伶人の家系に属する人であった。
いっぽう、こうした雅楽所直属の宮廷楽師たちばかりでなく、いわゆる俗楽の分野で当時すでに名を成した人たちも、西洋音楽という珍奇なものに好奇心を抱き取調掛の伝習人になっている。
例えば明治九年に四代目を引退していた浄瑠璃の名人富本豊前太夫などという大物も、「ピアノとかいう舶来の楽器」に俄然興味を持って入学してきた。五十を過ぎた禿頭で、若い娘っ子と連弾《ツレビキ》をしたり唱歌を歌ったり、休止符というものの間が分らなくて頭をふったりヤーホイと掛声をかけてみたり、大変だったという。
ちなみに明治十四年七月七日に初めて行われた期末試験〈音楽演習〉では、この五十を過ぎた禿頭の太夫氏は十四歳の遠山|甲子《きね》なる少女と組み、バイエル教則本を喜々としてツレビキしたとある。考えてみれば、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の当時の世の中にあって、老若男女が大ぴらに「喜々としてツレビキ」したり「唱歌をうたったり」できる所など他にあったであろうか。禿頭の太夫の喜々とした表情が、目に浮かぶようである。
バイエルが二十冊
さて延が通い始めた取調掛では、授業はまず唱歌と楽器の演奏(ピアノ、オルガン、ヴァイオリン)の体得に主眼がおかれ、一日二時間ほどの講義ののち、各々が伝習室に入って自習に励んだ。なにしろ、当時高級品とされていたスクエア・ピアノ(畳一枚分ほどの大きさの四角い四本足のピアノ)など、日本全国を見渡しても十台もあろうか、という時代である。演奏技術を身につけるには、学校の伝習室に残って一人稽古に励む他はなかった。
それにしても、と私は感無量になる。それまで西洋音楽の本当の美しい生演奏など耳にしたこともなく、従って、ピアノやヴァイオリンを芸術的理由から好きでたまらなくなる理由など必ずしも持っていなかった伝習人たち。エジソンが蝋管レコードを発明してからまだ三、四年しかたっておらず、今日のように生演奏は聴かなくともレコードを参考に、というわけにもいかなかった、あの時代。エジソンのレコードが陸奥宗光によってアメリカから持ち帰られたのは、明治十九年になってからのことだった。日本には電灯さえもなかった時代である。
取調掛開設当時に、文部省がアメリカ、ボストンから招聘《しようへい》した音楽教師、ルーサー・ホワイティング・メーソンによって、アメリカから取り寄せられた楽譜類もまた実にお粗末なものだった。バイエルが二十冊、というのが数の上では突出しているだけで、あとはチェルニーとクレメンティが二冊ずつに初心者用教則本が数種類、その他は恐らくは当時のアメリカの家庭でアマチュアピアニストたちが楽しんでいたであろうような「ポピュラーダンス曲集」「フォークダンス集」などなど。バッハもハイドンもモーツァルトも、ベートーヴェンもショパンもリストも見当らない。これでは「音楽学校」というよりも、どこかの幼稚園用教材ではないか。
更に、この学校で中心となって活躍したメーソン自身にも問題がなかったとはいい難い。彼はアメリカ、メーン州の片田舎に生まれ育ち、音楽はほとんど独学で身につけたといわれ、プロの音楽家というよりもむしろ、音楽学校などの管理者としてのキャリアを積んだ人であった。
メーソンがアメリカ視察中の文部省の伊沢修二によってスカウトされたのは、彼の教育家としての業績が評価されてのことであったと聞くが、確かにメーソンの専門は「(アメリカの)小学校における音楽教育システムの改革」であった。彼は日本に着任すると、ピアノとヴァイオリンと唱歌を教え始めたが、日本に西欧流の「音楽学校・コンセルヴァトアール」を創設し、先頭に立って指導に当るにはいささか役不足、力不足の教師であったことはいなめない。
もしリストが日本で教えていたら
それにつけても思い出されるのは、そう、二十年以上もまえ、私が指揮者の故近衛秀麿氏から直接うかがった或るエピソードのことである。
――時は明治の十五、六年の頃、ワイマール公国で大変盛大な祝典がとり行われ、宮廷に各国からの貴顕紳士淑女たちが参集して大夜会が催され、日本からは当時の明治政府を代表して伊藤博文と西園寺|公望《きんもち》が出席した。その席上、当時のヨーロッパ社会で王侯貴族から平民に至るまでのすべての人々から崇《あが》められ尊敬されていた老巨匠フランツ・リストが、乞われて数曲演奏をした。リストは晩年ワイマールにも家をもっていて、まさに人間国宝級の扱いを受けていた。
ところが伊藤博文は、リストのピアノ演奏を耳にしてすっかり感動してしまって、「是非この者を日本に連れて帰ろう」と言いだした。「我国でも音楽取調掛がおかれ、西洋音楽の教育が始まった。この者をそこの教師に連れて行きたい」というのである。
明治十五、六年といえば伊藤は四十歳そこそこ、内務卿として明治政府の基礎を固めつつあった時である。東洋の小後進国を背負って立つ少壮政治家の野望と夢が漲《みなぎ》っていたことだろう。他方西園寺公望は三十代半ばの若き外交官で、欧州での生活も長く、リストがそこで占めている地位を心得ていた。彼はリストを日本に連れて行くなどということがいかに無理な注文であることか、伊藤博文に説明するのに随分苦労したという。にもかかわらず、伊藤博文はあとあとまで「リストを日本の音楽取調掛に引っ張ってこられなかったこと」を、残念そうに語っていたという話であった――。
私は近衛氏とは、実は二度ほど協演したことがあるに過ぎない。それも氏の最晩年のことだった。しかし、彼は何故か私をお気に召して、突然前ぶれもなく私の家に現われたかと思うと、紙とエンピツをとり出し、「いま、色んな人の手型を集めているところです」などと言って、私の手型をエンピツでなぞったりした。このエピソードはそんな折に、何気なく氏の口から流れたもので、今にして思えばもっとさまざまな事柄を、日本洋楽史の生き証人ともいうべき氏から直接うかがうことのできた絶好のチャンスだったのに、と悔やまれてならない。
氏は、「これは私が西園寺公からじかに聞いた話です。それにしても、フランツ・リストが日本で教えていたなら」と話を結んだ。
それにしても、フランツ・リストが日本で教えていたなら……。リストに我が幸田延が学んだとしたら、彼女は「日本で最初のピアニスト」どころか、世界的な演奏家として十九世紀末から二十世紀にかけてのピアノ黄金時代に活躍していたかもしれないのである。
それはさておき、十二歳の延は他の誰よりもめざましい成長ぶりを見せ、文部省の給費生に推挙されることとなった。そして、明治十八年の七月、六年の課題をわずか三年で終了して、十五歳の延は改名されたばかりの音楽取調所から卒業証書を受けとる。第一号の卒業生であった。そしてそのまま彼女は、母校に助手として留まることになった。十五歳の少女は、教師として初任給八円を受け取ることになる。もう、学校の中にも外にもこの日本には、彼女を教えることのできる人材など誰もいないのであった。わずか十五歳で彼女の音楽家としての人生は、行き詰ってしまうのであろうか。
しかし、そこに助け舟が現われる。メーソンに代って、ウィーンから招聘されたルドルフ・ディートリッヒがそれで、彼はメーソンとは格段に違う本格的な音楽家であった。彼はすぐ延の中に非凡な才能を見てとって、伊沢校長に彼女を留学させるべきであると進言したのである。
かくして明治二十二年(一八八九年)四月、幸田延は音楽界からの官費留学生第一号として、米国ボストンをめざして横浜を出航することになる。
明治の半ばにあっては、音楽修業のための留学もまた、現代の月世界探検にも等しい大冒険であった。ましてや未婚の若き女性にとっては。
新調の晴着を着た延は、興奮した学校関係者や友人知人、父母や兄妹に囲まれて港での壮行会に臨む。校長の送る辞に続いて、この日のために作曲された盛大な歓送曲が演奏された。上真行という伶人で、音楽取調掛時代からの教官でもあった人が延のために作ったもので、そのタイトルは『幸田令嬢官命を帯びて留学を祝する歌』というものであった。
幸田延、十九歳の春のことである。
タイム・トラベラーの運命
ボストン
幸田延が日本最初のクラシック音楽官費留学生として米国・ボストンに発った明治二十二年(一八八九年)はまた、大日本帝国憲法が発布された年でもあった。「文明開化」への夢と期待を一身に背負って西洋文化という未知の世界へ探検に旅立ったのは、十九歳の乙女延だけではない。その祖国日本もまた、近代国家の建設という大冒険の若き第一歩を踏み出したのである。
さて延が、最初の留学地を欧州でなく若いアメリカそれもボストンを選ぶことになったのは、単にそこのニューイングランド音楽院の院長がメーソンの旧友である、という理由によるものだった。そこで延は、当時のヨーロッパ最高のヴァイオリンの巨匠ヨアヒムに学んだというエミール・マールにヴァイオリンを、カルル・フェルというドイツ人にピアノを学ぶことになる。
これは余談だが、このニューイングランド音楽院というのは、アメリカではかなりの名門音楽院とされているが、現在そこの院長を務めるチェリストのレッサー氏の夫人は日本人で、潮田益子さんという。潮田益子さんは私より一歳年長だが、かつては草創期の桐朋学園「子供の為の音楽教室」で共に机を並べた仲であり、日本人ヴァイオリニストとしては初めて難関のチャイコフスキー・コンクールに第二位に入賞した女流ヴァイオリニストである。
この草創期の桐朋学園、というよりも「音楽教室」は、第二次大戦直後の東京の焼野原に、「すべてを失った日本のなかで、子供たちに未来の夢を」と大きな理想の灯をかかげて結集した若き音楽家たちによって誕生した。評論の吉田秀和、ピアノの井口|基成《もとなり》、弦楽と指揮の斎藤秀雄などの人々を中心に、まだ東大の大学院生であった遠山一行、別宮《べつく》貞雄、あるいは畑中良輔、柴田|南雄《みなお》、入野義朗といった錚々《そうそう》たる顔ぶれの音楽家たちが、理想のもとに無私無欲で子供たちに音楽の基礎教育をほどこすことに情熱を捧げた。そこに私は最年少の三歳で、加わったのである。
のちに吉田秀和氏が私に述懐されたところによれば、「皆家族を養い食べていかなければならなかったから、純粋な理想の灯も五年ほどで消えざるを得なかった」というが、しかしその五年間は恐らく日本の音楽史上に燦然《さんぜん》と刻み込まれるに違いない。人が理想に燃えて自己をサクリファイスすると大きな奇跡が生まれる、ということ、そして、教育に何より貴いものはこの「理想の灯を高くかかげる」ことである、ということを、これほど雄弁に物語っている実験例も無いであろう。
当時芸大の音楽院でも教えていた畑中良輔氏が「芸大と同じものを教えると、音楽教室の君たちの方がどんどん先へ進んでしまうのだよ」と感嘆したほど、子供たちの吸収力はめざましかった。そして、このたったわずか五年という最初の短い歳月の中から成長していったのが小澤征爾であり、チェロの堤剛やヴァイオリンの潮田益子、といった人々なのである。その他にも現在外国のオーケストラなどで活躍している人々など、名を挙げれば実に多彩である。そしてこの「五年」による驚異的な成果が、のちの桐朋学園音楽科開設につながっていく。
さて、幸田延がボストンに留学したのは、一八八九年のことであった。あのボストン交響楽団は一八七一年の創立であるから、まだ出来てから十八年しかたっていない。ちょうどアルトゥール・ニキシュが新しく常任指揮者の席に着いたばかりのことだった。延は恐らく夢見るような心地で、ボストン・シンフォニーの演奏会を聴きに行ったことだろう。しかし、それから八十年後、その同じ舞台に若い日本人の指揮者が颯爽《さつそう》として立ち、若く美しい日本の女流ヴァイオリニストをソリストに迎えて喝采《かつさい》を浴びる光景など、その時の彼女に想像ができたであろうか。
それどころか延は、マール教授から、指一本一本のかたち、弓の扱い方、姿勢、などといった演奏技術のすべてを基本から一つ一つ直され、予期していたとはいえ大きなカルチャーショックを受けて、ただ呆然《ぼうぜん》とするのみだった。彼女よりずっと年少の若者たちが大曲難曲をらくらくと弾き、しかも感情豊かに表現する。その表情のなんと楽しそうな、のびやかなことか。ああ、あれが音楽というものなのだろうか。それにしてもこの私は十九歳になるまで、いったい何をやっていたのだろう。日本人である私などに、西洋音楽などできるだろうか。
慣れないフカフカしたベッドが、かえって彼女の不眠を助長していた。そこに身を投げだして彼女は、遠い遠い日本を想った。何としても歯を喰いしばっても頑張らなければ。お国のために、そして幸田家の名を汚さぬために……。
世紀末のウィーン
留学して一年というと、ようやくその地の風俗習慣、言葉などにも慣れて心に少し余裕も生まれる頃だが、ヴァイオリンとピアノをヨーロッパ生まれの先生について学び始めた延は、留学期間一年の終りが近づくにつれて、切実にヨーロッパそれもウィーンに行って勉強を続けたいと願うようになる。マール先生は、ウィーンの音楽生活というものが(新興国アメリカの学園都市ボストンなどと違って)いかに昂奮に満ちた輝かしいものであるかを、レッスンの合間に語ってきかせてくれるのだった。そこにはマール自身のノスタルジアもこめられていた。
なにしろ当時のウィーンは、文字通り世紀末の爛熟しきった魅惑に溢れていた。ブラームスやブルックナーはまだ健在だったし、音楽評論家のハンスリックは相変らず毒舌をふるっていた。ヴォルフは「スペイン歌曲集」を完成したところだったし、マーラーは第一交響曲の構想を練っていた。そして若いリヒャルト・シュトラウスは作曲家として幸運なデビュウをすませたところだったし、またウィーン・オペレッタは芸術音楽と大衆音楽の幸福な結婚を豊かに稔《みの》らせて、その黄金時代を謳歌していた。クリムトはあちらこちらに壁画を描き、フロイトは「ヒステリーの研究」に励んでいた。この時代、ウィーンを中心に活躍していた人々の名を挙げたら、紙面がいくらあっても足りないことだろう。
しかしその一方でハプスブルクのウィーンは、その爛熟の向うに来るべき世界の暗く不安なかげりを早くも見せていた。延が渡米する三年まえにバヴァリア王ルードヴィヒ二世が溺死《できし》し、その三年後、ルードヴィヒを愛した従姉オーストリア皇帝妃エリザベートの息子である皇太子ルドルフが、マイアーリンクで十七歳の少女と謎《なぞ》の死をとげる。第一次世界大戦へとつながるハプスブルク家の悲劇が、次々に始まっていくのである。
ウィーンではヨハン・シュトラウス父子を初め音楽家の圧倒的多数はユダヤ人であったが、その一方ではユダヤ人に対する反感が日を追って強まり、やがて「シオニスト協会」設立後、時をおかずして反ユダヤ主義の先鋒者ルエガーのウィーン市長就任というところまで悪化していく。
その同じ頃、日本各地では鉄道が開通し、公衆市外電話が設置され、洋装が一般市民の間にも広まる。鹿鳴館《ろくめいかん》では連夜華やかな夜会が催される一方、凶作による物価騰貴で東京では貧しい人々の間に餓死する者まで出る。日本最初の経済恐慌が始まったのである。
延は一年のボストン留学を終了すると、いったん日本に戻り、それからすぐウィーンに向けて発った。ウィーンではボストンに引き続いてヴァイオリンを専攻するつもりだった。ピアノは手や身体ががっしりと大きくなければとても本格的には弾けないし、それに比べたらヴァイオリンの方がまだやりやすい、そう、悟ったのかもしれない。
そしてウィーンは延を完膚なきまでに圧倒した。ハプスブルク王家の栄光に輝く壮麗な宮殿や格調高い街並み、天にそそり立つようなシュテファン大寺院の尖塔《せんとう》、数々のコンサートホールやオペラハウス、そしてムジークフェライン・ザールの黄金色に燦然と輝く見事なたたずまいとその響きの豊かさに接したとき、延には、自分の生まれ育った日本とこのウィーンとをへだてている文化や社会のあまりの違いが、すべて非現実的な出来事のように思えてくるのだった。
延は音楽院に入学し、ヴァイオリンをのちにウィーン・フィルハーモニーの指揮者までつとめたジョゼフ・ヘルメスベルガーについて学ぶと共に、ピアノ、作曲法、対位法、更には声楽に至るまで幅広く研鑽《けんさん》を積むことになった。延の小さな肩には、日本の音楽の未来が大きくのしかかっている。できる限り多くのことを学びとって、それを故国に伝えたい、と彼女は願ったに違いない。そして彼女は、ここで六年に及ぶ音楽修業生活を送ることになる。
音楽界のスーパースターとして
さて延がこうして異国での孤独に耐え、お国のために一心不乱に勉強している頃、日本では早くも国際的な大事件が勃発する。明治二十四年の大津におけるロシア皇太子暗殺未遂事件。続いて数年後には日本の朝鮮侵略が始まり、日清戦争が起きる。
しかしこのような激動の日本にあって、「官命を帯びて」ウィーン留学中の延は、忘れ去られるどころか明治二十五年には読売新聞が行った「読者投票による十六名媛」の一人に選ばれたりしている。また二十六年には、兄の郡司成忠海軍大尉らが千島探検のため小短艇で華々しく隅田川を出発し、世の若い女性たちに大いに騒がれたりした。つまり、幸田兄妹は、この時既に当時の日本社会におけるスーパースター、スーパーヒーローであった。
そして、明治二十八年(一八九五年)十一月九日、日清戦争勝利の昂奮さめやらぬなか、文明開化、そしてあえていうなら西欧文化崇拝主義のシンボリックなヒロインとして、幸田延は五年ぶりで祖国の土を踏む。延はそのとき二十五歳、つば広のボンネットのよく似合う、ウィーン仕込みの小粋な洋装姿も板についた堂々たる淑女となっていた。
直ちに彼女は、前年日本を離れたディートリッヒの後任教授として音楽学校に迎えられる。彼女はここで翌月の十二月から、ヴァイオリン、ピアノ、作曲、和声学、声楽と、すべての分野を委せられることになったのだった。
翌二十九年四月十八日、彼女が行った帰朝記念演奏会のプログラムは、そんな彼女の活躍ぶりを如実に物語っている。そこで彼女はなんと、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第一楽章を独奏したかと思うと、シューベルトとブラームスの歌曲を独唱し、ヘイデン(ハイドン)の音楽四部合奏(弦楽四重奏)の第一楽章で第一ヴァイオリンを担当、次いでクラリネットのピアノ伴奏をしたあと、自らの編曲によるバハ(バッハ)のフーゲ(フーガ)を妹幸やその他の奏者を加えて合奏したりした。文字通り八面|六臂《ろつぴ》の大活躍ぶりで、ただ仰天するのみである。
ところで彼女は、実のところピアノ演奏に関してはヴァイオリンほど自信は無かったようで、そんな彼女が「ピアニスト」としての活動に移るのは、帰国後二年ほどもたってからのことであった。妹の幸を教えているうちにヴァイオリンは妹にまかせる気になったからだ、という説もある。
残念ながら当時の彼女の演奏に接したことのある人は今では生存せず、録音もなく、また僅かに音楽会評めいたものは残ってはいても、そもそも書いた人々に音楽的素養がどの程度あったかどうか極めて疑わしい。そこでただ想像する他ないのだが、恐らくピアノにしろヴァイオリンにしろ延の演奏は、当時のヨーロッパで絶頂を極めたとされる華やかな技巧とロマンティシズムに溢れるヴィルチュオジティ(名人芸)は望むべくもなかったにしろ、地味ながら誠実で折目正しいスタイルのものであったと思われる。
音楽学校の首席教授に就任した延のクラスからは、間もなく多くの優秀な門下生たちが誕生した。作曲からは滝廉太郎、声楽からはあの柴田(三浦)環《たまき》、そしてピアノのクラスからは、明治末期から大正にかけての日本の代表的ベートーヴェン弾きといわれた久野久《くのひさ》といったように。
孤高の人
いまや延の実力と名声は、他に匹敵し得る者のない絶対的なものとなってしまった。音楽全般についても彼女以上によく知る者はいないうえに、英語とドイツ語を本場仕込みの発音で|流 暢《りゆうちよう》に話し、政府の御傭《おやとい》外人教師たちとも対等あるいはそれ以上に堂々と接する。その態度や物腰は、外国婦人たちと何ら変らぬところがあったに違いない。
しかしそこに問題が生まれた。外出のときは妻が夫のあとを三歩さがって従っていく時代に、外国人教師たちにレディ・ファーストで扱われる。延と幸姉妹たちの家庭では日常会話の中に外国語が頻繁に用いられていたとは、延の姪《めい》で露伴の次女に当る幸田|文《あや》の思い出だが、そうした日常のさり気ないディテイルの蓄積が、やがて周囲の人々、特に服装はハイカラでも魂はまだまだサムライの男共のコンプレックスをいたく刺激し、羨望《せんぼう》やっかみからの誹謗《ひぼう》中傷へと大きくふくれ上っていったのである。
外国人教師と二重奏で息の合う様子でも見せれば、「ラシャめん」「唐人お吉」と蔭口をきかれ、ウィーン仕込みのゲルマン的厳格さで物事に対処しようとすれば、「上野の女王」「上野の西太后」と仇名《あだな》される。男尊女卑の甚しい当時にあっては、そもそも延のように自立した女性はそのことだけでも「生意気な」「可愛気のない」「男まさり」の目障りな存在だったのだ。
そしてこうした蔭口は、間もなく彼女が音楽学校技術監という重職に任命され、従五位下田歌子女史(実践女学校などの創立者)に次ぐ日本女性第二位の高級月給取となるに及んで、公然とした大きなものに発展していった。ウィーンから帰朝した頃は、ただただ彼女の多才ぶりに批評論評を一切抜きで脱帽していたジャーナリズムが、だんだんと彼女の演奏を攻撃し批判するばかりか、その品性人格までをも標的にして声高に非難を始める。
「……延子は尊大の風をいつもむき出しにするから、音楽学校の小社会に人気のないように、又広い社会にも更に人望がない。唯《た》だ可笑《おか》しいのは延子の尊大風である。眼中には男子なしだが、心中には男子ありで、いつしか粋病などの味を覚ゆるまでになったのはいらざる岡焼《おかやき》だが、延子の為に深く惜しむべきではないか」
これは酒井松梁なる者の『現在人物の研究』(明治四十三年)の一節だが、他にも「(延が)かかる高給をとって何不自由なき堅固な独身生活をなすことは感服|仕《つかまつ》らざるを得ぬが」とか、「延子は表面傲慢尊大をてらうが内心は案外優しいところがあるから、その文字も艶書《えんしよ》に適すべく婉曲《えんきよく》だ」とか、今日なら「セクシャル・ハラスメント」とでもいうような、まことに下らない卑劣な中傷もあいついだ。
こういった悪意に満ちた嫉妬《しつと》や厭味が延をいかに傷つけたかは、八十年後の現在、いわゆる「マスコミ」のスキャンダラスな報道に不感症気味の私たちには、とても想像できないことだろう。
折も折、明治四十一年、音楽学校では、男女間の風紀問題が大きくクローズアップされ世間から非難される。あの禿頭の太夫が若い娘と唱歌を唱《うた》ったりツレビキ(連弾)をしていた頃は、生徒も少なく音楽学校の存在も一般には殆ど知られていなかったからよかった。しかし、幸田延というスーパースターが生まれ、今や音楽学校の存在は天下に知られるところとなった。そして一般大衆が眺めてみると、なんだあれは、男と女が身体をくっつけてピアノを弾いたり唱ったり、そのうえ、なにやらオペラなどといううさん臭くエロティックな西洋芝居までやっているではないか、それもこれもみな、あのメリケン帰りの生意気な女の影響だ、けしからぬ、というようなことになる。考えてみれば、当時小学校を除いて、これほど女生徒が多い「男女共学」校は、音楽学校以外には存在しなかったのである。
更に翌四十二年には、延の弟子であったソプラノの柴田環の「不倫事件」が大スキャンダルとして世を騒がす。これは余談だが、以来ついこの戦後に至るまで、音楽学校は男女生徒間の規律というものに病的なまで神経過敏となった。現代日本の代表的ソプラノ歌手で戦争末期に入学した伊藤京子氏によれば、同じクラスの異性の生徒同士が話をする時は、二人で生徒課に行き二メートル離れて話すこと、という決りまであったということである。また、或る時にわか雨に襲われて、女生徒が男生徒を傘に入れてやったところ、校長に目撃されて処分騒ぎになったとか、男生徒から手紙を貰っただけで二カ月の停学処分を受けたとか、その類《たぐ》いの話にはこと欠かない。
延は身も心も深く傷つき果てた。お国のため、愛する両親や兄妹のため、自分はひたすら精進に励み、異国での長い孤独にも耐え抜いてきた。すべてよかれと思って心をこめてしてきたことなのに、この国の人々はまるで異邦人のように私を見、すべて歪《ゆが》んだ中傷のレンズを通して眺める。同じ日本人として日本語を話しているはずなのに、まるでバベルの塔のように通じ合わない。
そう、幸田延こそは、明治の日本という古くて未熟な国から未来都市ウィーンに出掛けて行った早過ぎた探検家、現代風に言えばSF小説に現われるタイム・トラベラーだったのだ。幸田延はウィーンから東京へ戻るときに、タイムトンネルを戻ったということに気がつかなかった。そして、そこに横たわる巨大な時差に、心身共に翻弄《ほんろう》されてしまったのであった。
嵐《あらし》のような誹謗中傷の中で延は四十二年、音楽学校を「後進に席をゆずる」というかたちで勇退する。三十九歳であった。そして救いようのない思いを胸に抱きながら再びタイムトンネルをくぐって、懐かしいヨーロッパに戻って行く。彼女が日本に帰ってきたのは、それから一年もたってからのことだった。
延は東京紀尾井町の現在の赤坂プリンスホテル近くに小さな居を構え、老母と暮らし始めた。露伴によって命名された「審声会」という個人的なピアノの会を結成し、もう音楽界とは一切関わるまいと上流階級の子女のみを弟子にした。更にその間には、宮内庁御用掛となって、昭憲皇太后や皇太子妃をはじめとする各皇族の宮妃たちの指導も行った。品性下劣な人間とはつき合いたくない。これがずたずたに心を裂かれた孤独な延を支えるせいいっぱいの「誇り」であったことだろう。
音楽学校を辞して二十年余り、昭和六年に至って、かつて彼女を石もて追った東京音楽学校は突然、楽壇生活四十五年を迎える「幸田延子先生功績表彰会」なるものを作り、彼女を讃える歌を贈って盛大に祝った。またその後彼女は、音楽家として初めて日本帝国芸術院会員にも推された。しかし彼女はもう二度とあの世界にだけは戻っていくつもりはなかった。
音楽学校で教えていた頃の彼女は大変厳しい先生であったが、「審声会」の生徒たちには優しかった。彼女は心優しい穏やかな先生となって、眉目麗わしい上流の令嬢たちに囲まれて暮らした。今でもその生徒たちは、といっても既に上は九十二歳から下は七十五歳までの老婦人たちだが、「幸延会」というお稽古会を作って毎月一回練習に励んでいるというから驚きである。
生涯独身を通し毅然と誇り高く生きた彼女は、亡くなる時も孤独だった。亡くなったのは昭和二十一年六月十八日、かねてから心臓病を病んでおり、その病状を心配して訪ねてきた二人の愛《まな》弟子に見守られての最期であった。その一人下坂道子氏は語る。
「女はやっぱり一人では生きていけない。結婚して子供を作るべきだった、と最後にしみじみと仰言《おつしや》いました。本当にお優しい方でした」
幸田延、享年七十六。合掌。
6 音楽が人にとり憑く
「ダーム・ブランシュ(白い貴婦人)」
ベルギーの首都ブリュッセルの美しい森の中に、ヴィラ・ロレーヌという有名なフランス料理店がある。グルメが多く名店も沢山あるベルギーでも一、二を争う料理店だが、そこの名物の一つに「ダーム・ブランシュ」というものがある。卵白のメレンゲと生クリームで作られた濃厚なデザートで、甘くてボリュームたっぷり。その名の由来が女の幽霊だなどとはとても信じられないほど、陽気で元気いっぱいになりそうな高カロリーのデザートだ。
「ダーム・ブランシュ」――白い貴婦人――の伝説とは、貴族の古い城館の廊下に白衣の女性の幽霊が現われると時をおかずしてその城の当主が死ぬ、というもので、似たような伝説はヨーロッパにはキリスト教伝来以前から広く流布していたといわれる。
近世ではドイツ周辺、殊に温泉保養地として名高いバーデン=バーデンの大公に関わるものが有名である。それが十九世紀のロマンティシズムに乗ってフランスで人気を博し、オペラやヴィクトル・ユゴーの作品にまでとりあげられて一種のファッションとなり、ついにはデザートの名前にまでなってしまった、というわけである。
白い貴婦人、といっても美女がただ化けて出てくるだけではない。この伝説の核心は、恋に狂い裏切られた女の怨念《おんねん》であって、思えばゾクッとするぐらい恐ろしい。そんな恐ろしいお化けをあっけらかんと甘いデザートの名前にして食べてしまうなんて、日本人の私からみると信じられない。例えば虎屋が新作ヨーカンを売り出すのに当って「お岩さん」だの、※[#「風」の中が「百」]月堂がゴーフルにいくらお皿みたいだからといって「お菊さん」なんて名前をつけるだろうか。
そもそもヨーロッパには、こういったグロテスクな類いを料理の名につけてしまう伝統があるらしい。これは余談だが、昔ポーランドに演奏旅行に行った折、ショパンの生家ジェラゾヴァ・ヴォラでアフタヌーン・コンサートをしたことがあった。ジェラゾヴァ・ヴォラはワルシャワから車で小一時間ほどの、のどかな田園の中にある村だが、そこへの道筋はかつてナポレオンがロシア遠征を行ったときに通った街道で、ナポレオンが一夜の夢を結んだといわれる宿屋がレストランになっていた。もっとも二十年も前の話だから、今もあるかどうか定かではない。
さて、そこのメニューを見て肝を潰《つぶ》したのが「赤ン坊の耳」という名のスープ。恐る恐る注文してみたら、これがまっ赤なビーツ(赤かぶら)でできたコンソメ風スープに白い小さな餃子《ギヨウザ》が三つ四つプカプカと浮いているといった代物で、どう見ても可愛らしい赤ちゃんのお耳、というよりも、魔女に切りとられた赤ン坊の耳が血の海に漂っているという形容の方がふさわしい。そのちょうど数日まえに私はカトヴィチェという町で演奏し、近くのオシェビェンチェム(アウシュヴィツ)に残るナチスの強制収容所を見学したばかりのところだったので、思わずムムッと胸にこみ上げてきてしまったほどだった。
しかしこんな経験は、ヨーロッパを旅行しているといたる所で出逢う。パリでは「聖アントワーヌの誘惑」という名前の料理――豚の耳や鼻の輪切をパリパリに唐揚げ風にしたもので、ブタの産毛もついていた――を食したし、プラハでは「悪魔のささやき」というアントレに出逢った。蛇足に蛇足が重なるが、その一方、「エンジェルフード・ケーキ」とか「尼さんのおなら」(Nonnen Furzchen)なんていう名前の食物もある。私はいちど、残酷なスープで始まり悪徳の限りを尽した名前のフルコースで最後をこの「尼さんのおなら」というお菓子で終る晩餐会を是非やってみたいものだと思っている。
幽霊やお化けは、ヨーロッパ大陸からイギリスに渡ると、もうそれはほとんど恐れられるというよりも愛される存在に変貌し、そしてその質も量も文字通り多様化する。大袈裟でなく、ロンドンの古い家ならば各家それぞれ伝来のお化けが棲《す》みついていて、むしろ誇りに思われているぐらいなのだ。日本駐在の元英国大使であったウォーナー氏の邸宅などには、夫人によれば「四人もいるのよ」ということである。
ロンドンの観光局に行くと「お化けを見るツアー」というのがあって密かな人気を集めているが、これは夏場だけにしか行われない。お化けは日本でも英国でも、寒い冬場は冬眠しているか熱海やカンヌにでも避寒に行ってしまうのだろう。
さてこのイギリスでは、霊媒という存在も大変に親しまれていて、お化けと同じように数も多ければその質も多様化している。
イギリスの霊媒は、日本の恐山の巫女《いたこ》のように単に不特定多数の死者の魂をこの世に呼び戻すだけではない。もっと機能の専門化というかプロフェッショナル化が行われていて、ナポレオンを初めとする特定の人物専属の霊媒が多いようである。
日本でも木の芽どきになると、「我は明治天皇の御霊《みたま》であるぞ」などと突然わめき出す人が出るが、イギリスの霊媒はもっと本格的でまじめで、四季を問わずひたすら故人が在世中にやり残した仕事の続きなどを、「お筆先」その他で伝えるのである。
私は十年ほど前、当時そのテで最も有名であった音楽家専門の霊媒、ローズマリー・ブラウン夫人を訪ねて行ったことがあった。彼女はロンドンの貧しい労働者階級出身の女性で、当時四十代の後半ぐらいの年配であったろうか、長年下町の中学校で給食係として働いていたのだが、或る夜全く突然にその夢枕に、大作曲家にして大ピアニストであるかのフランツ・リストが何故か現われて宣言したのである。「ピアノを教えてあげよう」と。それまで貧しくてピアノなどに触ったこともなかった彼女は、その夜以来フランツ・リストじきじきの愛弟子となって、毎夜親しくピアノの弾き方を学ぶこととなった。やがて彼女がすらすらとピアノが弾けるようになると、リストは彼が生前書き遺すことのできなかった作品を、彼女を通じてこの世に送り込み始めるようになった。その頃には彼女は、五線紙に譜を書くこともリストから教えて貰っていたのだった。
やがて、ローズマリー・ブラウンの枕元にはショパンが現われ、ついでベートーヴェンやシューベルトも出没し、第|十《ヽ》交響曲や完成《ヽヽ》交響曲の写譜を依頼するようになった。
ローズマリー・ブラウンの「お筆先」
私がロンドンのつましい長屋に彼女を訪ねて行くと、彼女は玄関を開けるなりいきなり、「あら、ショパンに会わなかった?」と私にたずねた。
「いいえ」と、私はのっけからカウンターパンチをくらった形で、目を白黒させた。
「まあそう、ついさっきまでここに居たのよ、惜しかったわね」ほんとに、惜しかった!
ローズマリーの「仕事部屋」は、日本風にいうとほんの四畳半ほどの狭い寝室で、壁に寄せて安物のアップライトピアノが一台、その横にベッドがあってその上には見るからにけばけばしいピンクのサテンのカバーがかけられてあった。
彼女によると、今朝フランツ・リストがやってきたので一緒に仕事をしていたところ、フレデリック・ショパンが突然現われたのだという。彼女が「ちょっと、待っていてね」と言ったら、ショパンはこのピンクのサテンに覆われたベッドのはじっこにおとなしく座って、リストが帰るのを待っていたというのだ。パリの貴公子とまで謳われた趣味の良いあのショパンに、これはさぞかし耐え難いピンクではなかっただろうか。
それはさておき私が訪問した時、彼女はピアノの上に完成したばかりのラフマニノフの組曲を置いていた(この作品は後にピーター・ケイティンというピアニストによって演奏され、レコードにもなった。曲そのものは、確かにラフマニノフ調の暗くロマンティックなハーモニーで色どられているが、技術的にはラフマニノフのもつ複雑さはなく、フランツ・リストが特訓したわりにはたどたどしいローズマリーの演奏技術にどことなくつり合っていた)。
彼女は、ちょっと目の表情のきょとんとした、やや蓮《はす》っ葉《ぱ》な感じの極めて愛想の良い人だが、失礼ながら知性や教養といったものには程遠いタイプの人という印象であった。彼女の裏に、音楽をよく知る蔭の仕掛人でもいて、それが曲なども作っているのではないかと思ったが、それにしては、そんなことをして見合うだけの大きな収入を霊媒として得ているわけでもないらしい。
彼女は私が訪れた年の翌春には、ロンドンのウィグモア・ホールで念願の自作自演、ではない他作他演によるデビュウ・リサイタルを行い、更にエジンバラ音楽祭にも出演する予定である、と、はり切っていた。しかし、その結果の消息は一切伝わってこないところを見ると、ブラウンおばさんはその後大作曲家たちから見捨てられてしまったのかもしれない。
このローズマリー・ブラウンの例は、ロンドンの音楽アカデミーの校長でもあり、こうした音楽霊媒の存在について長年研究を行っているロイドウェバー博士によると、数多い音楽霊媒の中でも極めて珍しい例なのであるという。即ち通常は、リストならリスト、ショパンならショパン一本槍の霊媒というのが多く、彼女のようにまるで「ミュージック・ヒストリー」の授業といった感じで過去の大作曲家たちが次から次へと一人の人間の中に出現して「お筆先」をお願いする、などというケースはいまだかつて前例が無い。そこでロイドウェバー博士は、この珍しい霊媒ローズマリー・ブラウンについて、目下研究中であるとのことであった。
これは余談だが、このロイドウェバー博士はあのミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」や「キャッツ」の作曲家アンドリュー・ロイドウェバーの父親でもあるのだが、更にまたキャッツ・ショーに出展する猫の専門ブリーダーとしても有名で、私が通された客間には、見つめられたら思わずふらふらとなるぐらい美しいアーモンド型の眼をした、しなやかな姿態のシールポイント種のシャム猫が二匹いた。くさび型のほっそりとした顔に、その顔と同じぐらいほっそりとした身体、オパールのような瞳、ビロードのように手入れのゆき届いた毛並みとムチのようにまっすぐで長い尻尾《しつぽ》。その後彼の息子の名作「キャッツ」が大ヒットしたとき、私はあの美猫たちを思い出して一人納得したものである。
さて、博士によると、イギリスには昔から霊媒は沢山いて、大作曲家の作品を書き始めるのも決して珍しいことではなかったそうである。そしてその中には、どう分析してもその作曲家自身が甦って自ら書いたとしか思えないほど優れたものがあるという。
確かに、例えば今世紀の初頭ウェールズの寒村にイシャーウッドという名前の女性がいて、ベートーヴェンの「お筆先」として有名であったという話がある。
彼女は貧しい農家に生まれ、小学校にも満足に通ったことがないほどであったが、十七歳のとき暴走してくる荷馬車に巻き込まれ、頭を強く打って一カ月近く意識が戻らないという災難に遭遇した。しかも片足が完全にマヒして、歩くのも困難になってしまった。ところがこの事故をきっかけとして、今まで触れたこともなかったピアノに異様な関心を抱き始め、物に憑《つ》かれたように何かを弾き始める。そしてうわ言のように、人々が耳にしたこともない外国語をしゃべり始め、時には昂奮の余り転倒して意識を失ってしまうこともしばしばとなる。
こうした評判を伝え聞いて、ロンドンから色々な人がやってきて彼女について研究を始めた。そして分ったことは、彼女がうわ言のように話しているのはドイツ語で、しかもウィーンなまりの強い特徴あるものだった。更に彼女が我を忘れたように弾く作品は、そのどれもがベートーヴェンの作風に酷似していた。信頼するに足る音楽学者が分析してみても、どこから見ても文句のつけられぬ立派な出来映えであったといわれる。
彼女は通常はごく普通のひっそりと目立たぬ小柄な女性であったが、いったんベートーヴェンの霊が憑くと、眼は大きく見開かれ、頬は昂奮に紅く染って、まことに激しい表情になったという。
こうして彼女はそれから一年半ほどの間に、ベートーヴェンが生前この世に遺し損なった厖大《ぼうだい》な量の作品をピアノを通してこの世に伝え、それを彼女の研究者が五線紙に書きとめた。しかしその後、このイシャーウッド嬢は原因不明の火事に巻き込まれ、十九歳にもならずして世を去り、その研究も途絶えることとなったという。
私はこの話を読んでいくうち、或る日本の女流ピアニストのことを想い浮かべていた。日本における最初の本格的西洋音楽家、日本楽壇のパイオニアであった幸田延《こうだのぶ》直系の愛弟子で、明治末期から大正にかけての日本を代表するピアニストといわれた、久野久《くのひさ》のことである。
もちろん彼女は霊媒ではなかったし、貧しい農家に生まれ育った無学で字の読めない少女でもなかった。彼女はしかし、イシャーウッドのように事故で片足が不自由の身となり、それ故に、耳の不自由であったベートーヴェンに対して限りなく親しみの情を感じていたといわれる。彼女はまた、ベートーヴェンの三十二曲あるピアノソナタを全曲演奏することを試みた最初の日本人ピアニストでもあったが、そこにはベートーヴェンに狂いとり憑かれた一人の女性の姿があった。彼女はもしかしたら、この世の誰よりもベートーヴェンが彼女自身にとり憑き乗り移ることを願い、祈った人なのではないだろうか。できることならイシャーウッドのように、ベートーヴェンの生まれ代り、「お筆先」となって……。
クラシック音楽の「使徒」
「……殊に久野(久)嬢がソナタの軽快なる一曲は、その双手の運用巧妙にして飛燕の中立に翻々たるが如く、一高一低の妙音は急雨の軒頭を叩に似て迅《はや》く、春風の花間を吹くに似て緩《ゆる》やかなり、要するに其ピアニストとしての栄光は嬢の頭上に王冠の如く輝きし、のみならず、最後の勝利者たりし事疑なし……」
これは明治三十八年二月二十八日附の朝日新聞に載った、久野久の「クレメンティのソナタ」(どのソナタかは不明)に対する初めての演奏評である。口を極めての絶讃であるが、久はこのとき十九歳、上野の東京音楽学校本科の二年生であった。翌年、彼女は優等の成績をもって、本科を卒業、更に研究科へと進む。この卒業式では、久は華頂宮妃殿下をはじめとした千名余りもの来賓を前に、卒業演奏のしんがりを承って「ベートーフェンのコンセルト」(これも何番かは不明)を熱演し、満場の喝采を浴びたのであった。
当時の「音楽新報」は、このときの久のことを、他にも多くの演奏者がいたにもかかわらず「音楽学校の優等女生」と題して大きくとりあげている。
「七日東京音楽学校に挙行されたる第十八回卒業証書授与式の際第二部演奏の最後に於いて久野久子がピアノを弾じて其技能の非凡なる事を来会者に知らしめたり実に久子は今迄の同校卒業生中の白眉にして先輩教職員も将来に望を属し居れりといふ……」
のちに述べるように、久野久は十五歳で上野の予科に入り、そこで初めて本格的にピアノというものと出遇う。入学時には担当の教師が全員一致して退学を勧めたほど才能の有無を危ぶまれた久であったが、それから僅か四年後彼女は「全卒業生中の白眉」と言われるまでに至ったのであった。
上野を卒業後、彼女は同校を石もて追われた恩師幸田延のあとに残って助教授となり、更に大正六年には教授となる。しかし彼女の本領は、何といっても演奏の分野にあった。そのエキセントリックで狂おしいまでの熱中ぶりは、明治の世にあって、いえ今日に於いても異様そのものであったろう。
「彼女のひくベエトオヴェンはものすごいものであった。アンダンテ・カンタービレ(ゆっくりとうたうようにという意)でさえ、歌うかわりに怒っていた。彼女の演奏は感激に終始していた。そしてその感激におぼれまいとして一心にキイにしがみついていた。私は彼女の演奏を聴いた時に泣きたくなった。それはあまりに純真な彼女の魂が、現れるからであった――」
と大正時代の音楽評論家・小松耕輔はその演奏ぶりを書いている。
名古屋での演奏会では、演奏の途中で指が裂け、血が吹き出してキイがまっ赤に染まってもなお弾き続け、聴衆を圧倒したという。
きゃしゃで色白の足の不自由な娘が物《もの》の怪《け》に憑かれたように全身全霊をこめてピアノに立ち向かう。満身の力をこめてピアノを叩くと、結い上げた髪はバラバラと肩に落ち、さしていたかんざしはどこかにすっ飛び、帯までもがゆるゆるとほどけていく……。普段は決して美人といえない彼女がそんなとき、突如としてエロティックとさえ呼べるような或る一種独特の魅力を放ったといわれる。
「久野久ほど芸術に対して純粋に、熱烈に、献身的な愛で生きている人を見たことがなかった。彼女にとっては、芸術が一切であった。宗教的要求も、生活の希望も、そして愛さえもすべて芸術の中に含まれていた。従って芸術に対するあの人の態度は、厳密に言葉通りな意味で、『芸術か死か』であった――」
とは、彼女の親しい友人、江馬修の言葉である。
要するに、こうも言えるであろう。近代西欧文明の華クラシック音楽が、いかに人に|魅入る《ヽヽヽ》ものであるか。久野久は、幸田延が日本に紹介したクラシック音楽の魔力に、人がいかにもの狂おしいまでに惹きこまれるかをピアニストとして実証する、という形で日本楽壇の頂点に立った。人は、誰かが何かに憑かれたように熱中しのめり込む姿を見る時、その何かの魅力に激しい興味を抱く。その意味で久野久は、日本におけるクラシック音楽の使徒の役割を身を以《も》ってつとめた、と。
とりわけ彼女のベートーヴェンへののめりこみ方は凄まじかった。ベートーヴェンこそ我が宿命、と彼女は信じるようにさえなる。
大正七年の暮れに彼女は、初めての冒険を試みた。「悲愴」「月光」「テンペスト」「ワルトシュタイン」そして「アパッショナータ」と、ベートーヴェンのソナタの中期を彩る傑作ばかりを集めて「ベートーヴェンの午后」と題するリサイタルを開催したのである。
当時の日本社会においてクラシック音楽は、そのスノビッシュな意味でも、圧倒的な西欧文明の象徴であり、ベートーヴェンはその頂点にあった。即ち、西欧文明に関心を持ちこれを崇拝する日本のインテリたちにとって、ベートーヴェンはまさに「踏み絵」にも似た必須の象徴的存在であった。彼らは実際にはその音楽を耳にする機会はほとんど無かったが、まず書物を通してベートーヴェンの音楽を想像しその精神に迫った。そしてそのようなサークルの中にあって久は、いわば崇高にして神聖なる苦悩に満ちた英雄ベートーヴェンの魂の伝道者として、最大級に歓迎されたのであった。
「インテリ」たちは時には彼女に乞い願って彼らの「サロン」にお越し頂き、一曲二曲ベートーヴェンの作品を弾いて頂き、そして大きな花籠と賛辞で彼女をとり巻いた。洗練された知性というよりもむしろ、古代の巫女《みこ》のような動物的直観と感情に支配されていた彼女であったが、ベートーヴェンの伝道者という役割はそれ自体インテリたちを圧倒してしまったのである。
大正十二年、彼女は四年間の沈黙をおいて再びベートーヴェンの、今度は後期の傑作ばかりを揃えて演奏会を行う。「告別」に始まり、「ハンマークラヴィア」「作品一一〇」「作品一一一」と、ヨーロッパの大演奏家たちでさえもめったなことではとり上げないほどの大曲難曲揃いのプログラムである。この演奏を、作家の有島武郎はその書簡のなかで次のように述べている。
「……あれから久野氏の独演会に行つた。ベートーフェンの晩年の作品四種の中三種だけを聞いて帰つた。さすがに四年雌伏の甲斐があつて演者の熱情も技術も原作者を大して恥かしめないものだつたやうに謹聴した。驚いたのはベートーフェンの感情の広大さだつた。人間的なあらゆる感情――滑稽から崇美に至るまでの――は少しも損はれずにかの老音楽家――而《し》かも悲運に閉された――の胸中に沸き立つてゐるのを知つた時、僕はたゞ驚くばかりだつた。僕はたしかに或る力を得て音楽堂を出た。」(一九二三年二月二十五日夜)
このリサイタルは大成功裏に終る。久は同じプログラムを持って京都や岡山、広島などの町でも演奏するが、広島では、「この不世出の大天才ベートーヴェンが成せる五大傑作を、その芸術に対する最も真摯《しんし》なる、その熱烈なる情火、その意志の強大なる、諸点において、最も彼に彷彿《ほうふつ》する我が久野教授の演奏を聴くことを衷心より歓喜す」とまで言われ、久は幸せだった。
それまで久は「叶うかぎりは、我が力だけは、です」とことある毎に言い、文字通り血の滲む努力を重ねてきた。しかし、一生懸命になればなるほど痛切に感じられるのは、自分の力の足りなさ、その限界であった。「いつになったらエラサがニギレル事やら」と、或る友人に書いている。
しかし、ここで初めて久は、気力が充実し、内から力が漲《みなぎ》りほとばしり出てくるような、そんな気分にとらわれた。永い間探し求めてきた「エラサ」というものを、初めて「ニギッタ」ような気がする。エラクなる、ということは、なんと素晴しいことであろうか。
久はこの自分の技量を、本場ヨーロッパにおいて発揮することを夢みるようになる。既に私は二百回以上も場数を踏んだ日本を代表するピアニストである。今こそこの私が、世界的なピアニストとして華やかな脚光を浴びることができるかどうかの腕試しの時が来たのではあるまいか。
大正十二年四月十二日、久野久は名残りを惜しむ数多くの門弟や関係者に盛大に見送られて、文部省海外研究者として「欧州遠征」の旅に出る。
そして二年、大正十四年四月二十二日の朝、在オーストリア赤塚公使からの一通の電報が、日本の新聞各紙のトップに報じられた。「音楽家久野久子女史、ウインで自殺を図る。屋上庭園から投身して」――。
7 久野久を囲んだ「日本事情」
山が見えたり隠れたり
日本一のピアニストとしての声望を背景に世界制覇を夢みてウィーンに乗込み、たちまち投身自殺をした久野久……。今日の私たちはそこに、性急な文明開化の巨大な波の中で、夢と現実の余りの落差に犠牲となったシンボリックな悲劇を一瞬にして感じとる。芸術のみならずさまざまな領域で、基本的には同じような事例が大小さまざま数えきれぬほどあったに違いない、という思いとともに。
それにしても彼女の生涯を見ると、その性格形成に密接に関わると思われる生いたちからして、シンボリックな悲劇のピアニストになるべく、まさに運命的であったような感じさえしてしまう。
久野久は明治十九年(一八八六年)十二月二十四日、滋賀県大津市に、近江商人の血を引いた裕福な質屋の三人兄妹の末娘として生まれた。生まれた所は大津市|馬場《ばんば》町で、芭蕉の眠る義仲寺にほど近い、今もひっそりとしたたたずまいの地域である。
久の父弥助は質屋を営むと共に広大な土地を所有する地主で、久野家の暮らしぶりは豊かだった。しかし弥助は質屋といっても実際には高利貸であったから、そういった商売柄、多くの人々の怨みや悲しみを買うこともあったらしい。そのために一家は日中から雨戸を立てて戸締りに気を配り、どことなく人目をはばかる風情で、用心深くひっそりと暮らしていた。
久にはあい子という姉と、その下に弥太郎という兄がいたが、一説によればあい子と弥太郎・久の兄妹は腹違いで、更に久を育ててくれた母は生みの親ではなかったという話もある。確かに、それを裏づけるようなエピソードも残っている。
久野久、といえば、音楽学校在学時代に「山が見えたり隠れたり」という仇名をつけられた。即ち足に障害があるため、歩いていると背が伸上るときには遠くの山が見えるが屈《かが》んだときには隠れる、という意味で、なんと悪質で意地の悪い仇名かと、いわれた本人の胸中を想像して心が痛む思いがする。しかもその足の障害は生まれついてのものではなく、そもそも久が二、三歳の頃、女中に連れられて近所の平野神社に遊びに行っている間に誤って石段から転落し、負傷したことからくるものだった。年若い女中が発覚して叱られるのを恐れる余りひた隠しにしておいたため、手当が遅れてとり返しのつかないことになった、というのが当時の文献等に見られる理由だが、でも、もし母親が外で遊び疲れた我が子を抱いたりあやしたりしていたならば、一生の障害になりかねないほどの足の異常などすぐ発見したろうし、久の方も痛みを泣いて訴えたりしたのではないだろうか。
もちろん、足の負傷を癒せなかったのは当時の一般的な医療の不備ゆえ、と一言で片づけることができるのかもしれないが、私にはこのエピソードは、久の母と呼んでいた女性が実は本当の母親ではなかった、という説を裏づけるもののように思えてならない。
いずれにせよ、この時受けた足の傷はそれからの久の一生を大きく支配することになった。明治の半ばの、心身の障害に悩む者に対して社会的な庇護も無く差別語に対する批判も制約も一切無かった封建社会の中で、「山が見えたり隠れたり」と嘲笑《わら》われるほどの大きな傷を幼時にして負った女性の生涯は、察しても余りあるもののように思える。その精神構造や人格形成、人生に決定的な宿命を与えたといっても過言ではないだろう。
物質的には何一つ不自由のない裕福な、しかしどことなく暗い家庭。近所づき合いもなく、怨みを持つ者や強盗などからの襲撃を極度に恐れて、一日中雨戸を立てて厳重に用心しているような邸宅の中で、色白の幼い女の子が片足を引きずって一人で遊んでいる。外に出ると、近所の心ない悪童たちが彼女の歩きぶりを意地悪く囃《はや》したてるからである。
幼い久の不幸は、更に続く。彼女が尋常小学校に上るか上らないかという頃に、こんどは両親が相次いで亡くなってしまったのである。久野家は離散し、久は仲のよい兄の弥太郎と共に姉あい子とは別れて、京都の叔父服部某のもとに引取られることとなる。こうして大津における久野家の痕跡《こんせき》は途絶え、今日では生家のあった馬場町でも、一族を知る人はもはやいなくなってしまった。ただ、大津月見坂の共同墓地内にある久野家の墓所を守る墓守一家だけが、辛うじて久野家と大津との縁《えにし》をつないでいるだけである。
東京で洋楽をやる
さて叔父は、幼くして両親を失ったこの兄妹を哀れみ、殊に幼少にして強度の障害を足に負った姪久の将来を憂えて、生田流の琴や三味線、長唄などを習得させることにした。この身体ではとても良縁に恵まれることもないだろう。何か芸を身につけ、それによって自活していく他はない、と考慮してのことだった。そして久は、そんな叔父の気持をくみとったのであろう、めきめきと腕を上げていく。彼女には異常なまでの集中力と稽古事に対する飽くなき熱意があったといわれるが、そうした性格はもうこの頃から芽ばえていたようである。十三歳の誕生日を迎える頃には、師範の免状を許されるまでに上達した。
いっぽう兄の弥太郎は、この頃までには成長して東京帝大に入学するまでとなっていたが、古い大津や京都の慣習の中から出て、文明開化の新しい中心である東京で一人生活を始めるにつけても、日々頭から離れないのは京都に残してきた哀れな妹の来し方行く末であった。そして、妹の才能のめざましい成果を知って、上京させて上野の音楽学校で洋楽を学ばせてはどうかと考えた。
明治の近代化と共に日本にも開設された西洋音楽の専門学校、東京音楽学校は誕生してからまだ二十年余りしかたっていなかったが、そこからは早くも幸田延、幸という姉妹が現われ、共に華々しく欧米に留学したりして時代の寵児ともてはやされていた。殊に姉の延は、明治の新時代を象徴する文明開化の輝かしいヒロインであり、若くして音楽学校の首席教授に迎えられその権威権勢は並ぶ者も無く、また当時の女性としては破格の給与を得ていた。封建制度の根強く残る社会のなかで、身体障害者というハンディを背負って、両親も家柄も財産も無い平民の女性が、恐らくは一生未婚のまま独りで生きて行くには、これからの世の中では邦楽よりも洋楽だ、そんな思いが弥太郎の胸中にひらめいたのかもしれない。古く複雑な因習に満ちた京都の殊に邦楽の世界では、久がどんなに才能に恵まれていようと将来には大きな限界があろう。それに比べると、東京の洋楽には伝統も因習も無いし家元制度も無い。それになんといってもまだやる者が少ないから、競争も邦楽とは比較になるまい――。
明治三十四年九月十一日、久野久は満十五歳で東京音楽学校に入学を許される。実にきわどい成績であった。なにしろ、それまで京都に住み邦楽の中だけで育って、ナマのピアノ演奏はおろか西洋音楽らしきものさえもまともに聴いたことのなかったのが、兄の命令で急に入試準備をすることとなったのである。久は入試までの僅か半年足らずの間に、それまで触ったこともなかったオルガンの弾き方を身につけなければならなかった。日本洋楽界のパイオニア幸田延や幸たちの時代とは違って、久の頃には入学試験の資格は「邦楽演奏の心得」の他に「オルガン演奏」も加わっていたのである。
二十世紀も余すところ十年と迫った今日に及んでも、京都という町には必ずしもクラシック音楽が他の町以上に一般的な広がりをもって愛好されているとは言い難い雰囲気がある。京都の聴衆の質はむしろ大阪より高いほどなのだが、そこにはどこかしら異文化を容易には受け入れないような雰囲気が残っているという定評もある。としたら、まして九十年も前の明治三十三、四年頃とあれば、久がオルガンやピアノの音楽に親しむ機会などあろうはずがない。更にまた仮に西洋音楽に興味を抱いたとしても、当時の関西では、大阪・東区にある「博物場」と呼ばれる場所が唯一「音楽会」を行っている所で、そこまで聴きに出向かねばならなかった。
演奏中の飲食お断り
横道に入るが、この「博物場」というのは純和風の貸席のような建物で、内部も「コンサート・ホール」のイメージからは程遠く、要するに百畳敷の演芸場風大広間であった。いまの温泉地のステージ附大広間を想像すればぴったり、といったところだろうか。細長い大広間の一方に低い舞台がしつらえてあり、そこにはカーテンならぬ簾《すだれ》が下っていた。開演ともなるとその簾がくるくると巻き上る。するとそこには振袖に威儀を正した少女がきちんと正座して、ヴァイオリンをあごの下にはさんで待ち構えている、といった塩梅《あんばい》であった(当時既に東京では、少なくともヴァイオリニストは「立って弾いていた」そうだ)。
この「博物場」で行われた「音楽会」なるものは、純然たる西洋音楽に限られた内容のものは皆無で、通常はヴァイオリンやサキソフォンなどが一、二曲演奏されたと思うと、次に箏《こと》で「千鳥の曲」が弾かれたり、あるいは三味線、長唄が入る、という具合だった。
当時文部省の指導のもとに東京音楽学校が行った試みは、「邦楽と洋楽の融合」と「それによる新しい音楽の確立」であった。その最も安易な解釈と実行例が、この博物場における「音楽会」であったと言えるだろう。ピアノと三味線と尺八のトリオなどが行われたが、その実態は、単に邦楽のポピュラーな曲をきちんとした編曲を行うこともなく一緒に弾いている、という程度のものにすぎなかったのである。
プログラムもものすごかったが、来ていた聴衆、というよりも観客も相当なものだった。みな、だだっ広い大広間のあちこちに三々五々円陣を組んで座っているのである。そして、その円の中央には一升ビンや弁当箱が所狭しと並べたてられている。「音楽会」もたけなわになり佳境に入って酔いが廻ってくると、男共はもろ肌脱ぎとなって扇子をバタバタし始める。男の客は「ブラボー」の代りに「よう、姐《ねえ》ちゃん、ええぞ」と舞台に向って奇声を発し、女客は「あの子は〇〇家の糸はんだすさかい、ええ着物《べべ》きておいやす。あの着物は〇〇円ぐらいかかっていまっせ」と演奏者の着物ばかりをほめているといった有様だ(田辺尚雄『明治音楽物語』)。
話は更に横道にそれるが、今から三十年近く前に私は、地名は特に秘すが九州の某市で地元新聞社主催の演奏会をしたことがあった。六時三十分には開演ということで私はステージの袖で呼吸を整えて待機していたのだが、これが待てど暮らせど始まらない。開演のキューサインを出すはずの主催者が、どこかに消えてしまって戻らないのである。気をもんで待つこと二十分余り、ようやく主催者が大汗をかきつつあたふたと駆け戻ってきて、ともかくも私のリサイタルは始まり、そして無事に終了したのだが、あとで彼は「いやあ、参りました」と遅れた理由を説明し始めた。実は開演直前に、ロビーを一升ビンを抱えてウロウロしている男性を見つけたのだという。不安になって「それ、どうするのですか」と問い糺《ただ》したところ、男は嬉しそうに「これから客席で一パイやるのサ」と言うではないか。ポケットにはタコの珍味の袋がはみ出しているのが見える。仰天した主催者は「冗談ではありません」と一升ビンを取り上げようとし、そこで一騒動が持ち上ってしまったのであるという。結局、切符の料金をお返ししてお引取り願い一件落着となったのだが、この男性の最後のセリフというのが、よかった。
「音楽聴きながらうまい酒一パイやって、どこが悪いんだ?」
実はこの話には後日譚がある。それから数年後私は再びこの某市で演奏した。ところがなんと今回は舞台の両側についている禁煙サインの下に、あろうことか墨痕も鮮やかに「禁酒」と大書してあったのだ。ちなみにこの某市は酒どころとして有名な町で、歌謡曲大会などでは一升ビンを持ちこむことも珍しくないのであるという。
これもまた二十年以上も前のことだが、大阪でリサイタルをした折には、不思議な音に悩まされた。ベートーヴェンのムーンライトソナタのピアニシモのまっ最中に、突然コツコツ、コツコツという秘めやかな、しかし断固たる雑音が聞こえてきたのだ。はて、何だろう、と首をひねりつつ私はそのまま二楽章へと進んでいったのであるが、後で私の友人が語ってくれたところによれば、彼女の後の席に座っていた年の頃五十歳前後と思われるオバサンが、突然バッグの中からゆでたまごをとり出して、彼女の座席の背のところでコツコツと割って食べ始めたのだという。少なくとも五コは食べたのに違いない、と私はムーンライトソナタの一楽章の長さをたどりながら、「コツコツ」を想い返したものだった。
音楽会の会場内での飲み食いというのは、恐らく相撲や芝居見物に今でもつきものの幕の内弁当持込みの習慣の影響があるのだろう。一九九〇年現在の今日でもときには開演前「演奏中に飲んだり食べたりしないよう」アナウンスが入る所もあるほどである。
もっともそういえば思い出されるのは、一九七〇年代の半ば頃であっただろうか。かのホロヴィッツのカーネギーホールでの特別リサイタルを聴きに行くツアーというのが各国で計画され、日本からも多くのファンがニューヨークに出掛けて行ったことがあった。広いカーネギーホールは、ニューヨークに住む人々よりもそのツアーでわざわざやって来た人々で溢れ返ったのだが、その折、開演前になんと日本語をも含めた数カ国語で「お願い」アナウンスが行われた。そしてその「お願い」には「演奏中飲み食いをしないこと」という一項が入っていて、それを耳にした私はほとんど呆気《あつけ》にとられてしまったことを覚えている。繰り返して言うけれど、それは日本の地方都市ではなく、東京でも大阪でも九州でもなく、ニューヨークのカーネギーホールだったのだから。
「粗野で野蛮でグロテスク」
さて話は明治の三十年代に戻るが、東京ではその頃になると、明治の初期、音楽学校の前身である東京音楽取調掛で邦楽を教えると同時に洋楽の各楽器演奏法を学んだ宮内庁雅楽部の伶人たちも一人前の域に達して、ヴァイオリンなどを一般市民に伝授するようになった。一高や帝大の学生の中には、早くもピアノやヴァイオリンを演奏するのが趣味、という者も出てきた。十代の多感な時期に何らかの縁で伶人たちの奏する西洋音楽に出逢い、その魅力の虜《とりこ》になった「最初のクラシックファン」の誕生とでもいおうか。
ちなみに久野久が音楽学校の予科に入学した明治三十四年の一高を調べると、学生の中にはのちに音楽学校で音楽学を講じた哲学者乙骨三郎、のちにドイツ文学者となり多くのドイツ歌曲を訳した石倉小三郎(今でも愛唱されているシューマンの『流浪の民』はその翻訳によるものである)や同じくドイツ文学の吉田白甲がいて、この三人が当時の一高における「音楽の三羽烏」とうたわれていた。彼らによって、一高の中にベートーヴェンのソナタやショパンのワルツが紹介され、それにまた魅入られる若者も出た。三十四年に一高の中に初めて音楽愛好会が誕生したときは会員は十数人であったが、その一年後には一挙に三十人ほどにも増えたといわれる。もっともその会員の多くが奏する楽器は、おもちゃ同然のようなアコーディオンや単純な縦笛(フラジオレット)で、他はフルートが二人、ハーモニカが一人、ドラム二人に、ヴァイオリンはたったの一人、といったのが正直なところであった。そして、演奏する曲目も主として寮歌、鉄道唱歌、あの「夕空晴れて秋風吹き」という日本語訳で知られる「Coming Through The Rye」など、率直にいって「クラシック音楽愛好家」と呼ぶにはいささかためらわざるを得ない程度のものであった。しかし、これがその当時の西洋クラシック音楽に関する一番の「エリート」たちであったのである。
彼らの多くもまた、音楽学校の学生たちと同様に、比較的幼い頃から身近なところで箏や三味線、長唄などに親しんできた者たちであった。その、今まで耳に馴染んできた邦楽の響きから一転して、ピアノやヴァイオリンの演奏でモーツァルトやウェーバーやリストやシュトラウス等の音楽を聴いたとき、彼らはどう感じどう思ったのであろう。改めて言う迄もないことだが、この頃はまだラジオも無く、エジソンの蝋管レコードでさえ一般的と呼ぶには余りにも程遠かった。上野の奏楽堂では折にふれて音楽会が催されたが、それとても一流の内容とはとても呼べるレベルのものではなかった。
本場ヨーロッパで耳にする「音楽」とは余りにもへだたった、それを「西洋のクラシック音楽」と呼ぶには哀しいほどささやかな響きの中で、明治の若者たちは、そのどこに心を惹きつけられたのであろうか。彼らは、歴史的に言って西洋音楽に「憑かれた」最初の日本人たちであったのだが、その実態について想う時私の想像力は余りにも非力に思えてしまう。
ところで視点を変えて、では同じ頃の西欧人たちは当時の日本の音楽をどう聴き、なんと受けとめていたのか、を少し紹介しよう。
一八六九年東京において日本とオーストリア・ハンガリア帝国との間に修好通商航海条約が締結され、フランツ・ヨーゼフ一世から使節団が日本に送られてきた。そのとき宮中に参内したオーストリア外交官は、信任状捧呈の際に鳴り響いた雅楽のことを、「間延びした身の毛もよだつような不協和音」と表現している(ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ共著、佐久間穆訳『ウィーンの日本』)。当時の日本の専門家で親日家とされていたシュティルフリートという人でさえも、こと日本の音楽や楽器に対しては「ともあれ、すさまじい。日本の楽器の音色の異様さ加減が、その形の異様さのせめて半分であったとしても、シュトラウスのワルツの余韻をぶちこわしてしまうだろう。我々の通念からいうと、日本音楽は美しくない」とまでこきおろした。
更に、一九二〇年代に日本で二年半を過ごした同じくウィーンのある高名な学者は、「私は日本の音楽を、音楽会、劇場、茶店、学校といったさまざまな場所で聴いたが、印象はいつも不満足であり、率直にいうとまさに不愉快だった」と述べ、「我々に立ち向ってくるのは、鼻声の、甲高い裏声で発音される歌、メソメソ泣くような音程、犬が遠吠えするような音の連結、すすり泣くようなグリッサンドとポルタメント、ギターかツィターに似たみすぼらしい弦楽器のかすかなコオロギの鳴くようなチーチーという音とピンシャン鳴らす音、太鼓、拍子木、鈴、がらがら、強い音を出す道具の喧噪を通し、口では言い表わせないほど粗野で貧しく幼稚に我々に触れるのである。単純で、馬鹿馬鹿しく、野蛮で、グロテスクとまでは言わないにしても、このような低い水準の音楽的感覚が、どうして日本の精神生活の他の領域の洗練された繊細さや爛熟した文化と調和しうるのか理解できないほどだ」(『ウィーンの日本』)とまあ、完膚なきまでに酷評しているのである。
もちろんそこには、絢爛たるオーストリア・ハンガリア大帝国の都、そして音楽の都ウィーンから来た人々の誇りと驕《おご》りもあったろう。しかしこれは彼らの本音でもあり、そして時代が変った今日でも、基本的には彼らのそしてヨーロッパ全般の人々の日本に対する本音というものは、実はこちらが期待するほどには変っていないのではないだろうか。
幸田延にしろ久野久にしろ、我らが最初のピアニストたちは、当時のウィーン人から見れば想像を絶するほど「粗野で貧しくて幼稚な」邦楽の、そこにおける才能と技術を高く買われて、まさに文字通り未開の「蛮族」の奥地から西洋音楽の王都へと乗り出して行ったのであった。スタートからしてなんという壮絶なる冒険であったことか。
8 最初の純国産ピアニスト
男の闘い
実は私は、一九九〇年の六月十五日から七月七日までモスクワで開催されていた第九回チャイコフスキー・コンクールの、ピアノ部門の審査員として招かれモスクワに行っていた。
私がこの四年に一度行われるチャイコフスキー・コンクールの審査を務めるのは、一九八二年以来連続して三回目ということになる。今回はチャイコフスキーの生誕百五十年の記念の年に当るということもあってか、史上最高の参加者数となり、またそのレベルも私の過去二回の審査経験をふまえてみても最高の、いかにも「チャイコフスキー・コンクール」らしい激戦であった。
この「いかにもチャイコフスキー・コンクールらしい」と私たちに思わしめたものは、第一にその参加者たちの顔ぶれの豊かさ才能の多彩さである。東京国際コンクールの過去の優勝者二人を含めて、エリザベス・コンクール、ショパン・コンクールなど多くの国際コンクールの上位入賞者たちがその輝かしいキャリアをひっさげて最後に目指してやってくるところ。文字通り「コンクールの中のコンクール」、究極のコンクールと言うにふさわしい舞台、それがこのチャイコフスキー・コンクールなのである。
更に、その音楽的内容そのものもまた、ピアノ音楽とその演奏における「究極」の魅力を、まことに明確かつ端的に指向して競うものであった。即ち課題曲には、ピアノ音楽の古典から現代に至るまでの、コンサート・ピアニストに欠くべからざる重要な作品が網羅されてはいるが、しかしその中心はあくまで「ロマン派」にある。ピアノという楽器自体の成熟・完成と一体となって開花したロマン派のピアノ作品とその表現技法を、チャイコフスキーからラフマニノフに至るロシア・ロマン派を中心に置いて、まさにピアニズムの精髄を真向から問う形で競い合う。
やや乱暴に分り易く言えば、このロシア・ロマン派的ピアニズムは二つの性格をもつ。即ち、抒情性、詩情、神秘性といった内面的な美しさと、ヒロイックで力強いもの、情熱、困難を征服する超人的なパワー、といった面である。
そして今回、殊に独奏曲におけるコンサート・ピアニストとしての力量を問う第二次予選では、このロマン派的ピアニズムにおける激しくダイナミックな側面が、主として男性コンテスタントたちの凄まじいまでの競い合いとして演じられた。才能溢れる若い男性たちが生命を賭《か》け燃焼し尽しての死闘、とさえも表現できるような瞬間が連続し、ピアノという楽器とその機能がいかに「男性のために」創られたものであるかということを、これでもかと見せつけられたような心地さえした。あの「死闘」には、うら若い娘の立ち入る余地など、一寸もなかったのではあるまいか。
とはいえ、その一方では、猛々しい男性たちにはさまれてときたま登場する女性ピアニストたちの、男性たちとはまた一味違った抒情性、優しさ、はだの柔らかさのようなものも改めて感じられ、思いがけずも何かホッと心なごむ気持にさせられたりもした。そして、この世には明らかに女性ピアニストでなければ出せない魅力というものが確実に存在する、ということを確認している自分自身を見出して、おかしいようないとおしいような奇妙な気持に浸ったりした。こんな思いは、過去二回の審査では味わったことがない。それだけ今回は「男の闘い」だったのであろうか。そしてそうした迫力に包まれながら私はふと、あの哀れな久野久のことを想い浮かべていたのだった。
思えば彼女の生まれた明治十九年、西暦にして一八八六年といえば、大作曲家にして大ピアニストそして大先生でもあったかのフランツ・リストが亡くなった年である。そして、リストによって完成した近代的ピアノ奏法を二十世紀に向けて絢爛と花咲かせることとなった次代のピアニストたちは、まだみな可能性を豊かに秘めた少年たちだった。二十世紀のピアノの巨人といわれたラフマニノフは十三歳、既に天才少年としての名声をほしいままにしていたジョゼフ・ホフマン十歳、ショパンの孫弟子でロシア派のピアニズムとは対照的な、しかし極めて魅力的なピアニズムで一時代を築いたアルフレッド・コルトーは九歳、史上最初にベートーヴェンのピアノソナタ全曲録音を成しとげたアルテュール・シュナーベルは四歳。世界のピアノ界は開花結実したばかりの近代ピアニズムという素晴しい果実を前に、まさに絢爛豪華な祭典を繰り広げようとしていた。この果実を仕込み熟成させ、そして極上のワインとして世に送り出すのは、久と同じ世代に属するピアニストたちである。
久はこうした時代に、貧しく弱小な東洋の島国日本の、更にその地方都市に生を受けたのである。そして、何の運命であろうか、この果実の香りも味も知ることなく、いわば幻の果実を求めて音楽の園に足を踏み入れることになる。それも、もとはといえば、生活のために、食べていくために――。
どうする連
叔父の庇護のもと邦楽の修業を続けていた久は、帝大の学生となって東京に住むただ一人の兄の助言に従って、京都を離れ音楽学校への入学準備を始めるべく上京する。そのとき彼女は十五歳であった。しかし、己れの人生の岐路に立っていることを充分に自覚していたに違いない。
上京して間もなく兄に連れられて見に行った浅草の活動写真に、一人のみじめな乞食の姿が登場した。それを見た久の胸には突如として熱い感情がこみ上げ、激しい不安が自分をゆさぶるのを感じた。これから自分は、ピアノという全く自分にとって未知の世界に挑もうとしている。しかし、ここで失敗をしても、もう叔父のもと、邦楽の世界に戻ることは許されないのだ。そうなったら自分もまた、あの活動写真の乞食のように落ちぶれ、路上に座して往きずりの人々の慈悲にすがることになるのだろうか――。
文字通り背水の陣をしいて、ともかくも久は音楽学校の予科へ入学を許されたが、入学はしたものの彼女の指導教官たちは久の将来については全く懐疑的であった。何人もの教師が次々に久を教えてみた揚句、彼女は「退学をした方がよいのではないか」とまで勧告されたのである。そのとき久は教官の前にひれ伏して泣き、「明日まで待って下さい」と頼み込んだという。そしてその足で医者をたずねて健康診断をして貰い、どこも悪いところは無しと知ると、翌日学校の教官に「とにかく退学はいたしません」ときっぱり宣言した。そして、その夜から凄まじい練習を開始したのであった。
それは文字通り、火を吹くような激しい練習であったという。無理もない。十五歳にもなってから本格的に始めたのである。もし彼女がヨーロッパに生まれ、ピアノを演奏するということはどういうことであるか、ピアニストになるということは「健康」以外にもどんな資質と才能を必要とするか、ということを見知っていたのなら、とっくに断念していたに違いないどころか、そもそも十五歳にもなってからピアノのイロハを学び、専門家になろうなどという発想自体考えもつかなかったに違いない。
真冬の夜、火鉢さえも入っていない教室に残って、彼女はピアノをさらった。床から伝わる冷気が腿《もも》の感覚をしびれさせ、指先を氷のようにこごえさせても、彼女の練習は深夜に及んだ。
或る夜、明りはついているのにしんと静まり返った教室に不審を抱いた教官が入って行ってみると、赤い帯をしめた久がピアノの鍵盤の上に突伏していた。驚いた教官が何事が起ったのかと走り寄ると、久は眼にいっぱい涙を湛《たた》えて顔を上げた。ずっと泣いていた様子であった。「こうして一心に勉強はしておりますけれど、先の事をふと考えますと遠くて、とても手が届きそうには思えなくて……」と放心したように久はつぶやくのであった。
自宅にピアノが入り好きなだけ練習ができる状態になると、彼女はしばしば夜を徹してさらい、ピアノに寄りかかって仮眠し、そのまま登校するといったなりふり構わぬ様子もみせるようになった。朝食はおにぎりを用意して貰っておいて、登校中の人力車の中で頬《ほお》ばるのである。友人がふと見ると、髪はくしゃくしゃ、口の横にはごはんつぶが一つ二つくっついたまま。そんな風体のうら若き娘が、不自由な足を引きずって「山が見えたり隠れたり」の仇名そのままに教室に急ぐ姿は、さぞ異様な光景であったことだろう。そして、そういった極端な無理がたたったに違いない。久は間もなく、肋膜《ろくまく》を患うこととなる。
この、ピアノを始めたばかりで肋膜炎にかかるという不測の事態にもし久が挫折し、ピアノを断念していたなら、後の不幸は避けられていたかもしれない、と思うのは、運命というものの底知れぬ深さ強さを認識しない人間の甘さであろうか。日本に洋楽が導入されて間もない明治の中期にあってさえ、久にはピアニストになるための音楽的条件と音楽的必然性が何ひとつ備わっていなかった。にもかかわらず、運命は彼女にピアノ以外の何物をも与えることを拒否するのである。
明治三十九年、久は東京音楽学校本科器楽部を優等の成績をもって卒業、更に研究科へと進む。更に師範の免状を得て、翌年からは母校で助手を務め始める。
前に述べたように、その頃ちょうど久の成長と反比例して、久の教官であった幸田延が、つまらぬスキャンダルに巻き込まれ、その地位を危いものにしていく。そして、とうとう後進に道をゆずるという形で音楽学校辞任に追い込まれていくのだが、そうした恩師の失脚に前後して久は母校の助教授に任命されたのであった。明治四十三年春のことである。十五歳で邦楽を見限って上京し、背水の陣をしいてピアノに立ち向った久は、それから十年もたたずして日本にただ一つしかない洋楽の専門学校の教官となったのである。しかもそのとき久のピアニストとしての「名声・人気」は、既に他に匹敵する者の無いほど際立っていた。
洋楽における欧米留学生第一号であった恩師幸田延を例にとるまでもなく、当時いささかでもピアノで名をあげた人々の大部分はヨーロッパやアメリカの土を踏んだことのある者ばかりで、しかも当然のことながら資産家、特権階級の子女ばかりに限られていた。しかし久は、日本で生まれ育ってそこで音楽教育を受け一人前になった最初のピアニストであった。いわば、純国産ピアニスト第一号である。しかも、名流の出どころか、むしろ貧しい出身であった。
足が不自由であるとはいえ、久は細おもてで色白の小柄な顔だちであったから、彼女を美人と心密かに憧れて、演奏会にやってくる帝大の学生たちも多かった。その美人がピアノの前に座るとしばし目を閉じて、「あたかも作品に自分自身の魂をのり移らせようとするかのように」神経を集中する。そしていったん演奏が始まると色白の頬から耳たぶにかけてさっと紅に染まり、そこにやがて汗が一すじ二すじ艶やかに流れ、華奢なうなじに後れ毛がべっとりとまといつく。からだじゅうを震わせて、満身の力をこめてピアノを「ぶっ叩く」と、着物は乱れ、帯はゆるみ、花かんざしはステージのどこかにふっ飛んでしまう……。
当時慶応義塾の学生だった今は亡き音楽評論家の野村光一氏は、女義太夫《むすめぎだゆう》の大ファンであった。その頃、浅草の雷門近くに寄席があって、そこには人気絶大なうら若い女義太夫がいた。彼女は単に若くて美人というばかりでなく、語りに熱が入るとその銀杏《いちよう》返しに結い上げてある髪が、バラバラとほどけるのである。ほどけた髪をふり乱しながらなお語る女義太夫の姿は、ぐっと濃艶なものとなる。すると客席から、「どうする、どうする」と声が掛るが、これが「どうする連」と呼ばれる常連客たちであった。そうなると(若き野村氏をはじめとした)見物人はゾクゾクしてしまう。明治末期の厳しい道徳教育の中にあっては、そんな今なら何とも感じないであろうような姿さえも現代の「ポルノ」に匹敵するエロティックな刺激を若者に与えていたらしい(野村光一、中島健蔵、三善清達『日本洋楽外史』)。
久がこの浅草の女義太夫の人気を知っていた、そしてそれを意図して真似ていたとはとても考えられないが、久における人気もひょっとするとこの「どうする連」を従える女義太夫に近いものがあったのではないだろうか。兼常清佐という当時の音楽評論家は、こうも述べている。
「久がいかにその頃のニホンの音楽の世界での英雄であったか、またニホンの芸術の世界での恋人であったか、今からではちょっと考えにくかろうと思われるぐらいである」
ピアノをぶっ叩く
ところでこの久の演奏そのものについてであるが、文献から想像するところによるとその特徴は一にも二にも「激しさ」であり、髪が乱れかんざしがふっ飛ぶほど「身体を震わせたり動かしたり」、更にはピアノを「ぶっ叩く」という点にある。彼女の演奏について、抒情的、優雅、あるいは弱音の美などを讃えた言葉は皆無である。
この、殊にピアノを弾くと言うときの表現に使用される「ピアノを叩く」という言葉、これこそ明治以来百年にわたって我国のピアノ演奏を支配してきた或る精神をシンボリックに表わした言葉であるといえるだろう。
今日でも依然として、ピアノを「弾く」という代りに「叩く」という言い方をする人々がいる。べつに深い意味をこめて言っているのではないと思うのだが、私はそれを耳にする度に「ピアノは叩くものではなく、弾くものです」と訂正したくなる気持を押えるのに苦労する。ピアノは断じて「ぶっ叩く」ものではない。
私はなにも、ピアノとは「ぶっ叩く」ものであるという先入観を日本人一般に植えつけたことの全責任を、このか弱き久野久ひとりに押しつけるつもりはない。彼女と時代を同じくして上野の音楽学校でピアノを教えた何人かの外国人音楽家たちは、ほとんどその本国では相手にされないような三流の腕前しか持ち合せていなかった。本場から来たとは名ばかりの怪し気な三流音楽家たちを師として戴いても、学ぶ側の日本人にはそれらの人々が三流であるということさえも分らないという時代であった。そして私たち日本人は、持ち前の謙虚さと向学心と勤勉さをフルに発揮して、彼ら三流音楽家の三流の技術を生まじめに受け継いだ。例えば大正の初めに来日し、上野の音楽学校で教えたベルリン出身のパウル・ショルツという二十四歳の若者は、それこそピアノをハンマーでぶっ叩くような汚い音の持主であったが、その教えの「成果」は百年たった今日でも、日本の音楽大学の教師たちの中にいくらでも見出すことができるのである。
久野久にしろ、その師の幸田延にしろ、幼い頃から西洋音楽に親しんでいたわけでもなく、ピアノを好きで始めたというわけでもない。彼女たちが幼少の頃影響を受けたのはまず邦楽であり、そして琴や三味線の修業を通じて身につけた邦楽の世界のルールやマナーであった。
幸田延は十代の終りから二十代半ば頃までという、人生で一番多感な時代を欧米で過ごしているのだが、そんな延でさえも「三つ子の魂百まで」の言葉通り、邦楽には一生を通じて深い親しみを抱き続けていた。当時の東京音楽学校の使命の一つが「西洋音楽と邦楽の新しい融合」にあったためもあるかと思われるが、延はよく弟子たちに「呼吸、間のとり方を邦楽に学べ」という助言をした。
私の子供の頃になってもそうしたことを説く大人たちは決して少なくはなかった。例えばかつてのNHK交響楽団の育ての親で、国立音楽大学学長で、自身声楽と作曲をウィーンで学んだ有馬大五郎氏なども、私の演奏を聴いたあとの助言として、「ヒロちゃん、ショパンのスケルツォの、あそこの部分ね。ワシには弁慶が六方を踏んで花道から入っていく、あの間に似ているように思えるんじゃが、どうだろうね?」というような事をしばしば口にされたので、私も半ば好奇心半ばやむを得ず、当時よく歌舞伎に通ったりしたものだった。
この種の発想は、一種の知的ブレイン・ストーミングと考えれば常に面白く、またその限りで常に当っている。私たち日本人が、弁慶が六方を踏む気合をヒントにして、ショパンのスケルツォの|あそこ《ヽヽヽ》の部分を独特の鮮かさで弾きのける可能性は常にある。しかし、ここで思い出されるのは、今回のチャイコフスキー・コンクールに出場した或る上海出身の女流ピアニストのことである。彼女はまことに小柄な女性で、そのためか技術的にいえば極めて無理が多く、未完成な部分が多すぎた。ところが彼女が最後にチャイコフスキーの組曲「四季」からあのポピュラーな「トロイカ」を弾き始めたとたんに、私は奇妙な心地になって、その演奏に耳を釘《くぎ》づけにされてしまったのである。なんという不思議な明るさであったろう。例えば京劇で目尻に朱をさしたお色気たっぷりの女形が、よく響くカン高いしかし明るく澄んだ愛らしい声でさえずっている、あの声にも似た、とでもいえばご想像いただけようか。
このトロイカは、「四季」の中の十一月を表わす魅力的な小品であり、恐らくこの組曲の中では最もポピュラーな作品として知られている。N・ネクラーソフの詩によれば、この曲は、冬の夜、雪の中をトロイカに乗って去って行った若者の帰りを待ち焦れる村娘の哀しみをなぐさめるものとなっている。そんなに道を眺めてはいけない。去って行ったトロイカを追い求めてはいけない。心の痛みを忘れなさい。恐らく若者は、もう二度と再び娘のもとには帰ってこないだろう。若者は、戦いに行ってしまったのだ……。
それをこの上海の女流ピアニストが弾くと、ロシアの厳しく暗い十一月の雪におおわれた森と原野のイメージは、一気に雲一つない青空の下に広がる西域の大草原、といった趣きに変貌した(もし『トロイカ』をご存じの方は、試しに鼻をつまんで、すべてのメロディを『ヒャヒャヒャーン』という感じで歌ってみて下さい)。
と思わせられたのは、私一人だけではなかったらしい。彼女が弾き終るやいなや、私の隣りで席を並べていたブルガリアの審査員ディーコフ氏が待ちかねていたように、私の耳にささやいたものだ。「トロイカはペンタトニックで始まる曲であるということに、うかつにも今まで気がつきませんでしたよ」
しかし、彼女のトロイカが中国的に響いたのは、そのペンタトニック(五音階、即ち日本も含むいわゆる東洋音階を言う)のためばかりではなかったのではないか。彼女の中に眠る民族の血とでもいうべきなにかが、そのペンタトニックに乗って突然眼覚め、音楽に共鳴してしまったのではないか……。となればこれは、コンクールの場における採点の問題はさておき、根本的には単純な良し悪しの判断になじまない種類の演奏というべきかもしれない。もしこの上海の女性が他のレパートリーにおいて、一位となったベレゾフスキーをもしのぐ素晴しいピアニストであったなら、このトロイカの独特の演奏も、その珍奇さに説得力が加わった可能性もあり得たことだろう。
家元制度
話を久野久に戻すとして、教師となった久はその性格からいっても、尋常ならざる熱心さで生徒たちを教えたことは想像にかたくない。決して妥協せず、適当にしてお茶を濁すといったやり方は彼女の性格に反していたから、それは生徒たちにとってみればこの上なく厳しい先生であった。
更にまた、彼女における教師としての厳しさの手本は、あくまで邦楽の世界のそれだった。当時、邦楽の世界の師匠と弟子の関係がどれほど厳しいものであったか、雅楽の薗兼明という笙《しよう》の名人に、こんなエピソードが残っている。
彼には頭髪の間に銅貨大の円形の禿があって、あるときそれを人にたずねられるとこう答えた。自分の家は千年の永きにわたって先祖代々雅楽を家業とし、父子相伝の伝統を守ってきた。子供の頃の修業は厳しく、長時間にわたっての稽古でつい集中力が散漫になり、上の空になったり他に気をとられたりすると、父のキセルがとんできて頭を力まかせにブンなぐった。もちろん、火の入っているキセルで、あるときとうとうその雁首が、まだ子供で軟らかい自分の頭に喰い込んでしまった。そのときの傷が禿となって残っているのである、と。
或る三味線の師匠は、可愛がっていた女弟子が男に恋をして稽古に上の空であることに怒って、額を畳にこすりつけるように許しを乞うのも認めず、傍らの火鉢にさしてあった火箸で打ちすえ、その手元が狂って弟子の頬を刺してしまったとか、或る長唄の師匠の逆鱗《げきりん》に触れた弟子が、許しを求めて冬のさなか、庭先に毎日通い詰めて裸足になって平伏し、ようやく一週間後に勘気を解かれたとか、そういった「厳しさ」を物語るエピソードは、あげればきりがない。
師匠も家元とか位の高い者になると、弟子入りを志願しても初めの何年かはそれこそ楽器に手を触れることすら許されず、朝は暗いうちから夜は遅くまで、ていのよい住込み女中のようにこき使われたりした。そして、そういったことは、当然のこととして封建社会の中では認知されていたのである。
明治の文明開化と共に突然人工的に日本に導入された西洋クラシックの世界が、その社会的かつ精神的なよりどころあるいは身近な手本を、伝統ある邦楽の世界に求めたのも余儀ないことであったといえるかもしれない。
そしてその「伝統」は、私の子供の頃になっても残っていた。先生が弟子に対して暴力をふるうのは、当り前の日常茶飯事であった。私の友人は、先生が癇癪の余り演奏中にピアノの蓋《ふた》をばたんと閉めてしまったため、両手の指をそこにはさんでそのあと何度かレッスンを休む破目となってしまったが、「先生のおかげでピアノが弾けなくなったからレッスンを休ませて下さい」とはとても言い出す勇気はなく、別な口実を考えた。また或る女学生は、著名な男性ピアニストについて学んでいたが、この男性ピアニストは体が大きく力があるため、彼にレッスンで頬をなぐられたところ顔じゅうが腫《は》れ上ってしまった。このときは女学生の父親が怒って、「嫁入り前の娘の顔に何ということをした、訴えてやる」と周囲に息まいた、という話が残っている。もっとも、この父親が本当にその男性ピアニスト本人に向って息まいたかどうかは定かではない。いずれにせよ、彼女はその後すぐ外国に留学してしまい、そして顔をなぐられたのが祟《たた》ったのか、かなりの晩婚となった。
恐るべきことは、今日でもこうした「お師匠さん」タイプのピアノの先生が、決して絶滅したわけではないことだ。ついこの間も、関西のある高名な先生の弟子だった女性が、その先生のところをやめたきっかけは、レッスンでバッハを聴いて貰ったところ、「あんたはもっと哲学的な音を出さなくてはいけない」と評するので、思い切って「ではどうやったら、そのような哲学的な音を出せるのでしょうか、弾いてみて下さいますか」と言ったところ、なんとたて続けに叩かれたのだそうだ。そして信じられないことに、わずか一時間のレッスンの間にその女性はなんと三十六回も叩かれたという。帰宅してそのことを母親に話したら、それにしても三十六回とはよく数えていたものね、と感心されてしまったと彼女は笑った。彼女はその先生の家を出るとき、もう金輪際ここの敷居はまたぐまいと心に誓ったという。
しかし、こうした事柄も、邦楽の世界の厳しさを体験した者にとっては、当り前のことだった。例えば久野久が弟子をレッスン中、「心から弾く気にならないでただ指先だけでやろうとするから間違うのです」とその手を|どんどん《ヽヽヽヽ》殴るのを親しく目撃して、当時の音楽評論家牛山充は、むしろ「これある哉と感心した」のであった。彼は久の弟子に対するを、こうも言って讃美している。
「――単に冷たい理論の所産たる教授法などよりも、真心のほとばしり出る個性的な教え方の方が芸術家を鍛え出すに適した炉火であり、鉗鎚《けんつい》である事を証明しているように思われる」と。
9 ピアニッシモの残酷
二人の少女
明治四十三年(一九一〇年)、久は東京音楽学校の助教授に任命された。ピアノを始めてわずか九年、二十四歳の久は日本ピアノ界の未来を担って立つ者として、その名声、人気は人もうらやむほどのものとなった。
この年、七歳の少女が母親に手を引かれて、彼女の教えを乞いに門を叩いている。森鴎[#底本では「區」+「鳥」。以下すべて]外の愛娘《まなむすめ》、茉莉《まり》である。のちに彼女自身も作家となった森茉莉は、この七歳のときの思い出を、一九八四年当時『週刊新潮』に連載中だった「ドッキリチャンネル」でこう書いている。
「私には一つの恐ろしい思い出がある。久野久子という有名なピアニストがあった。私の父はその女《ひと》に私を習わせたいと思った。母が七歳の私を伴れてその女《ひと》を訪れ、ピアノを教えて遣《や》って戴《いただ》きたいと申し入れた。久野久子は天才であって、人柄もひどく変っていた。束髪の前髪からはお化けのように髪の毛が下がっている。恐ろしい手付きで私を椅子につかせ、弾いてごらんなさいと命じたが私は恐ろしくて、碌《ろく》に弾くことも出来ない。母は恐る恐る、ご挨拶をし、私を伴れ帰り、父に報告した。私に大甘の父は無論、そこへ遣ろうとはしなかったがその後、久野久子は伊太利《イタリア》に行き、そこで向うのピアニストの弾奏を聴き、自身のピアノに絶望した。そうして、ホテルの窗《まど》から飛び下りて死んだ。烈《はげ》しい芸術家の死である。私はその時の彼女の気持を思い、胸を搏《う》たれたことを、思い出す度に、切なくなる。」
文中、伊太利に行き、というのは森茉莉の記憶違いだが、いずれにせよ、恐らく彼女は帰宅してから「恐かった、お化けみたいな先生だった」と最愛のパッパに語って聞かせ、そして鴎外は「よしよし、いい子だ。それなら行くな」とでも答えたのであろう。鴎外は二十二歳から二十六歳までという人生で最も多感な時期をベルリンで送った、という経歴のわりには、西洋音楽に対しては関心の薄い人であった。ここで茉莉が我儘を言い出さずに、久のところに通い始めていたらどうなっていたであろうか。
ちょうど同じその頃、久野久のもとには中條ユリという丸顔の少女が熱心に稽古に通っていた。帝大卒業後イギリスのケンブリッジ大学に長年留学していた父親の影響で、ユリの家庭は極めてハイカラなものだった。夕方勤め先から帰宅すると、父は出迎える娘を西洋式に抱きしめキスをする。一家揃ってのディナー、日曜日にはイギリス式のハイ・ティを楽しみ、そして夜は暖炉の燃えるサロンに集まってユリのピアノに合せて歌を唱ったり、といった中條家の日常は、当時の日本社会の中では珍しいものであったことだろう。
中條ユリが十五歳の冬、師匠である久野久が指を|ひょうそう《ヽヽヽヽヽ》にやられ、週二回の稽古が中断されることになった。久のひょうそうが完治するのにはそれから四カ月もかかるのだが、その休みの間にこの多感で早熟な少女はそれまで没頭していたピアノから突然文学に目覚める。小説を書き始めたのである。この少女即ちのちの宮本百合子は、この久野久との係わりあいをその長篇小説『道標』の中に詳しく書いている。そこで久野久は、女主人公伸子のピアノの教師川辺みさ子として描かれているが、五年の長きにわたって師事した人のことを書いているだけに、その描写はまことに鮮明かつ具体的である。なかでも私の関心を強くとらえたのは、川辺みさ子(久)のピアノ奏法についての描写である。
「伸子は、ピアノに向って弾いているとき、よくその横についている川辺みさ子から、不意に手首のところをぐいとおしつけられて、急につぶされた手のひらの下でいくつものキイの音をいちどきに鳴らしてしまうことがあった。川辺みさ子の弾きかたは、キイの上においた両手の、手首はいつもさげて十の指をキイと直角に高くあげて弾《な》らす方法だった。それは、どこかに無理があって、むずかしかった。われ知らず弾いていると、いつの間にか手くびは動く腕からは自然な高さにもどってしまって、川辺みさ子の指さきで――いつもそれはきまって彼女の人さし指と中指とであったが、ぐいときびしく低められるのだった。」
明治以来平成の今日に至るまで、日本のピアニズムの偏頗《へんぱ》な、はっきり言えば悪しき特色を形づくり、その豊かな開花への道を蝕《むしば》んできた「ハイ・フィンガー奏法」の具体的な例が、ここに実に鮮やかに描かれているではないか。
久の奏法については他にも多くの人が書き残しているが、そこでは久が常に指先のトラブルに悩まされていたことが出てくる。激しい練習を長時間にわたって行うあまり、久の指先は常に割れ、演奏中にキイが血に染ることもしょっちゅうであったらしいが、それがあたかも彼女の天才性を表わす誇るべき偉大な出来事とでもいうように、多くの文献のなかで語られているのだ。
しかし、同じピアニストとして私は、一体どうやったら「指先が破れて血がほとばしり出る」ような奏法になるのか、理解に苦しむ。
私は一日平均十四、五時間の練習を四十日間ぶっ通しで行ったことがあるが、その時一番気を使ったのは指先よりもむしろ、ひじとか肩、背中などの筋肉の疲労であった。
ただし、私がまだ日本の中学生で、外国に留学して自分の「ハイ・フィンガー奏法」の誤りを正されるまえ、修学旅行に参加したために生まれて初めて十日間ばかりピアノに触らなかったことがあった。そのあと練習を開始したとたん、十本の指のうち八本ぐらいの指の爪先が、ちょうど短く切った爪の先の形どおりに指先に喰い込み、まるでカミソリで線を切ったようにそこに血が滲んで、あとで痛んで風呂にも入れなかったことを記憶している。今になって思えば、即ち信じられないほど爪先を丸めて「キイと直角に高くあげて」弾いていたに違いない。そうでなければ、あんな風に爪の形に傷ができてヒリヒリ痛むなんてことはあり得ないからだ。
そうやって考えてみると、久のようにしょっちゅう指先に怪我をしたり、|ひょうそう《ヽヽヽヽヽ》にかかったりするのは、余程特異な体質である場合を除けば、結局このはなはだしく不自然な奏法をしていたためとしか考えられないことになる。つまり久の奏法は、手っ取り早い話が、ピアノを素手の指先を曲げて上から「ぶっ叩いて」いるのと変りはなかったのである。
順風満帆
さて、ここに至って久の生活自体も、ようやく長年の貧乏暮らしから解放されるようになった。彼女の名声をしたって、東京の上流社会の子女たちが我れ先にと弟子入りを志願して押しかける。かつて京都に残って邦楽を学んでいた久の来し方行く末を案じ、「これからの世の中は洋楽だ」と方向転換を命じた兄・弥太郎のカンは、まさに当っていたと言わなければならない。
その弥太郎はその後帝大は卒業したものの定職には就かず、もっぱら妹の世話係、いまでいうマネージャー役を引受けていたが、それは反面彼とその家族の生活の一切を久が支えてやることにもなった。加えて異母姉のあい子の一家も貧しく、久は結局のところ生涯この兄姉の面倒を見続けることになるのである。
その頃久は、弥太郎のマネージメントで朝鮮と満州にも渡り、度々演奏を行っている。京城(現ソウル)では定員千二百名の会場に八百の入り、その内訳は五円券が三百に三円券が五百、と、そうした記録を弥太郎は毛筆で克明に書き残している。京城の次は奉天、大連、そして旅順へと、弥太郎・久の旅は続くが、どこも七百から八百の入りであった。しかし、明治から大正にかけてのあの時代、情報網の限られ乏しかったあの時代のクラシック音楽の普及度から考えれば、今の三千四千の大聴衆にも匹敵する入りといえるだろう。
明治から大正にかけての時代をふり返ると、私はいくつかの点で今日の日本の状況に非常に近いものを発見して少なからず感銘を覚える。明治維新と共に始まった近代国家路線を試行錯誤しながらともかくも突っ走ってきた日本は、大正時代に入るとその国家としての存在と主張が国際的にも認識されるようになってきた。特に大正三年(一九一四)に勃発した第一次世界大戦は日本経済にかつてない活気と繁栄をもたらし、それが音楽の分野にも及んだ。そして、早くも世界の音楽興行師、マネージャーたちの関心を引き寄せることとなった。東京は「音楽市場」の一つになり始めたのである。
レコードが普及し始め、ピアノからハーモニカに至るまでの各種の楽器の製造が盛んになり、ジンバリスト、クライスラー、ハイフェッツといった当時のスーパースターたちがやって来た。更にオペラが擡頭し始める。帝劇、浅草オペラ、そして新しく設立された(大正二年)宝塚少女歌劇などといったものの活動は日本の若い音楽界を刺激し、またその対象を広く大衆化した。明治に導入されて以来、一般大衆には全く無縁のものとされてきた西洋音楽が、ここに至ってようやく生活文化のさまざまな面において根づき始め、その響きももはやかつてほど奇異なものとは受けとめられなくなってきた。こうした社会的背景の中で、久の演奏活動もまた広がりを見せることが可能となったのである。
そんな、久にとって順風満帆を思わせる或る夜。大正三年の七月某日、その夜はいつにない暑さであった。梅雨明けが長びいたためか、空気は湿りをふくんで重く、風もなかった。
まだ空が白々と明けたばかりの早朝になって、通行人が黒っぽい布の固まりのような物体が赤坂|溜池《ためいけ》の交差点近くの路上に打ち捨てられているのを見つけた。近寄ってみると、物体と思われたのは人で、しかも女性であった。頭部から出血していて、意識も無い。身元も不明である。ともかくも警官が呼ばれ、その女性は築地の病院にかつぎ込まれた。
それから、その女性がかの高名なる天才ピアニスト久野久女史であることが判明して、大騒ぎとなった。察するところ前夜、自動車にはねられ頭部を激しく打ったまま、発見されるまで何時間も路上に放置されておかれたものらしい。肋骨も何本か折れていた。すぐに手術が行われ、とりあえず生命はとりとめたものの、久の病状は極めて重かった。結局久はその病院に三カ月近くも入院することになる。
この交通事故以来、久の言動は明らかにおかしくなった、と、彼女に親しかった人々は言う。久はそもそも上方弁のなまりが強く、そこに外国流のやや大袈裟な身ぶりや感嘆詞が加わって、親しい者同士の会話では極めて荒っぽくなるのが常であった。彼女自身もそれを意識しており、つとめて柔らかく話そうとしていたのだが、この事故以来彼女は感情のコントロールを失ったかのようだった。しゃべり方だけではない。情緒が不安定になり、愚痴をこぼしたかと思うと昂然と自分の天才性について語り出す。眼をギラギラとさせながら早口でしゃべりまくり、他人の言葉が入り込む余地もない。
もっとも、たとえ脳に異常が無かったとしても、こうした状況に追い込まれたなら誰だって情緒不安定になるであろう。足の不自由さに加えてこの大事故、果して自分は元の身体に回復するだろうか。再びピアノが弾けるようになるだろうか。彼女の稼ぎを頼りにしている兄、姉、甥や姪の顔が目の前にちらつく。このとき久は二十七歳であった。
ベートーヴェンの午后
交通事故から三年後の大正六年、三十歳となった久は音楽学校の教授に昇進、その翌年初めてベートーヴェンの作品だけによるリサイタルを開催する。「ベートーヴェンの午后」と名づけられたこの独奏会はまた、久の事故からの完全復帰を世に知らしむる記念演奏会でもあった。作家・江馬修はその時の彼女の演奏を聴き、殊に「アパッショナータ」に非常に感動した。
「曲の解釈もあまり確かだとは思はれなかつた。しかしそこには天才の直感が閃《ひらめ》いてゐた。もとより曲の偉大な情熱を支配するだけの力はなかつた。しかもそれには猶《なほ》演奏者の美しい輝やく情熱と、讃嘆すべき力があつた。そして倒れるまでも弾きつづけようとする必死の努力が寧《むし》ろあの人を痛々しく思はせた――」
久の演奏のあり方が、そして、その彼女をとり囲む讃美者たちの受けとめ方が目の前に浮かぶようではないか。江馬はその後まもなく久と個人的に親しくなり、勝気で負けん気の孤独な久が弱音や本音を吐露したほとんど唯一の友人となる。久から江馬に宛てた手紙は百通近くにものぼるが、そのどれをとっても、世間でいわれている久とは違う、気弱で悩みに溢れた優しい一人の女の姿が浮かび上る。
さて、この復帰記念公演は大成功裏に終り、ピアニスト、特に「ベートーヴェンの大家」としていまや久野久の地位はゆるぎないものとなった。そして久自身も、交通事故でいったんは絶望視した自分の未来に大きな希望と自信をとり戻すことになる。残るは世界制覇だけだ、いつの間にやらそういう|そそのかし《ヽヽヽヽヽ》を久の周囲でささやく者も出てきた。あなたは今や日本の久野久ではなく、世界の久野久である。あなたの情熱、あなたの芸術性、あなたのベートーヴェンへの深い共感をもって、本場の人々を驚愕《きようがく》させておやりなさい、と。
久が「自分のベートーヴェンでウィーンを征服してくる」とか「これからの自分こそ天才を発揮するのである」とかしゃべったという噂には尾ヒレや羽がつき、一周して彼女の耳に入る頃には更に大きくふくらんだ。そしてそれらはプレッシャーとなって久の心を動揺させ、自信と不安の間を迷わせた。
「私は西洋ゆきは望みませぬ。西洋へ行かずに十分ニギレル自信と、このまま日本にゐたいわが儘があります。けれど二年三年五年自由な時間がほしいのです。さうしないと今のあはれさのつらさを抜けられません――」。江馬への手紙の一節である。
この大正七年の「ベートーヴェンの午后」から、渡欧する大正十二年までの約五年間というものは、久の日本における絶頂期であったのと裏腹に、その不安焦燥もつのった時期であった。
久は自分の音楽における情熱、狂気は、音楽の本当の姿を知らないことからくる不安と、そしてそこから目を背けるためのものであることを本能的に感じとっていた。彼女と音楽との出逢い、関わり合いには何一つ豊かなもの幸せなものはなく、あるのは不安とつらさばかりであった。そして音楽に身を打ち込めば打ち込むほどにその不安は広がって、彼女から音楽はますます遠くへだたっていくのを彼女は知っていた。そんな自分が本場に行って、音楽の真実の姿にまっ向から向い合ったとき、自分はそこに何を見出すのだろう? 彼女は直感的に自分の破滅を予感し、怯《おび》えた。しかしそのことは誰にも知られたくない。彼女は、自分が世間が誉めそやすように「天才」であること、「偉大な芸術家」であることを信じることに没頭した。
大正十二年春、久は二回目の「ベートーヴェンの午后」を開催した。渡欧記念、フェアウェル・コンサートと銘打ったこのリサイタルは文字通り彼女の「告別演奏会」となる。そして四月十二日、久は「破滅」に吸い寄せられるかのように、ヨーロッパへの旅へ、二度と帰らぬ旅へと発つ。
「国辱」
途中上海に立ち寄ってリサイタルを行い、久がベルリンに到着したのは七月十二日のことだった。久は三十六歳にして初めてヨーロッパに降り立ったわけになる。
ベルリンでは日本の代理大使が、「日本の最も高名なる女流ピアニスト」を歓迎すべく待機していた。彼女はその公邸の賓客となるのだが、間もなく代理大使たちはこの天才女流芸術家の「奇行」に肝を潰すことになる。
音をぴちゃぴちゃたてながらスープをすするなどということは朝飯前、銀行の待合室で腹巻の財布をとり出すといって突然帯を解き始める、振袖姿に素足にゴムぞうりといったいでたちで盛り場を歩き廻る。三十六歳の今日まで、日本の官立学校の教授として人気名声ナンバーワンの地位にあった彼女に対して、渡欧の際に欧米でのエチケットやマナーを伝授する者など一人もいなかったのも思えば不幸なことであった。
更に当時の日本人としても小柄な久が和服を着て、「不自由な足のひざに片手を添えつつ肩を波のように上下させながら」ベルリンの街を歩くと、道ゆく人々は立ち止まり好奇に満ちた眼差しで彼女を見つめた。指差して露骨に嘲笑する若者もいる。
「ハイライト」はオペラ見物であった。きらびやかな夜会服をまとった背の高いドイツ人たちのまるで人間の森のようにそそり立つ中を、黄色いはだの眼の細い貧弱な日本人女性が、黒っぽい和服をずるずると着込んでまるで森の中で道に迷った「子ネズミのようにチロチロと」歩く。その久が、シャンデリアの輝く壮麗な白大理石の階段を肩を波うたせながらよちよちと登っていくと、紳士淑女の視線はいっせいにその姿に釘づけとなった。
久に付きそって案内する代理大使以下、当時の日本を精一杯代表して頑張っていた人々にとっては、それは耐え難いいっときであった。彼らは自らもヨーロッパ人であるかのごとくふるまい、服装をととのえてマナーにも気を配っていた。それなのに、久は頑として洋装になろうとはしないで、目立つ「日本服」で通そうとする。足の悪く背の低い久には、実際のところ洋装は全く似合わないものであったのだが、必死の努力を傾けてヨーロッパ社交界に仲間入りしようとしていた代理大使たちの目には、久の和服は「国辱」とさえ映った。
代理大使は、久の滞在わずか数日にして悲鳴をあげる。そして久はほとんど追い出されるかのように、公邸から閉め出されてしまうのである。
しかし久は、そんなことではくじけなかった。ベルリンで一度演奏会をしなければ、とちょうど彼の地に滞在していた音楽評論家の兼常清佐に語る。
「それは翼なしに空を飛ぼうとするようなもんですよ、クノさん! もうベルリンを見たからいいでしょう。あすトーキョーにお帰りなさい。ベルリンは決してあなたのいる処ではない」(兼常清佐『英雄クノ・ヒサコ』)
この兼常の「思い出」は、一九五〇年代、つまり日本のクラシック音楽への理解もかなり向上し、久の悲劇的役割もようやく明確になった時期に、自らの音楽評論家としての見識の「アリバイ」を意識して書かれた感じもあって、必ずしも言葉どおりには受けとれないところがあるが、いずれにしても久は無邪気にこう答えたとされる。
「ベルリンがいけなかったらウィーンに行きましょうか! ウィーンなら私の芸術をわかってくれるでしょうか」
ベルリンでは演奏会をするどころか、久は不運続きだった。代理大使の公邸を出てから見つけたパンションは高級だったが、口|喧《やかま》しい老婆がいてことごとく彼女につらく当った(とドイツ語のできない久は思った)。洋食も苦手で、殊に久は肉料理一切がのどを通らなくなってしまった。そのためパンションでは特別許可を貰って、漬物とご飯を作りそればかり食べて過ごすといった状態であった。こうした食生活は、その後バーデンで亡くなるまで続けられる。
ドイツ語がしゃべれない、現地の食物がのどを通らない、生活習慣になじめない、そんな久にドイツ人の友もできようがなく、また日本の音楽界では「天才芸術家」であっても、異郷に住む日本人たちの間では単なる奇人変人の類いにすぎない。久はここでも孤独だった。しかし、彼女にとってそれ以上につらかったことは、また指を痛めてしまったことである。ピアノが弾けない、これからヨーロッパを制覇しなければならないというのに……。
ペダルの踏み方
苛立《いらだ》つ思いをこらえて、久はベルリンでのコンサートに通い始めた。
ザウワー、ダルベール、フリードマン、フィッシャー、ケンプ、シュナーベル、ペトリ、クロイツァー、ブゾーニ……。私はいま、彼女がじかに耳にすることができたこれらの巨匠たちの名前を見るだけで、昂奮に胸がときめく。これらの顔ぶれは、あの十九世紀から二十世紀にかけてのピアノの黄金時代を飾る、文字通り歴史的ピアニストばかりなのであるから。
久は演奏会の切符を買いそのプログラムを調べると、すぐに楽譜を買ってきて勉強してみた。痛む指をかばいながら「丁度学問の講義の下調べのように」楽譜を読み、演奏会にはその楽譜を携えて行く。そして、その中にさまざまな印象を書き込んでいくのだった。
こうやって巨匠たちの演奏ぶりを身近に観察して、久が強い衝撃を受けたのは当然のことであった。なかでも彼女を驚かせたことは、それらの巨匠たちがみな久の想像もしていなかったような繊細で濃《こま》やかなやり方で、ペダルを使用しているということだった。それまでの久にとって、ピアノのペダルとは大きな音を響かせたりあるいは小さく弱い音にするために踏むもの、としての存在でしかなかったのである。
この、ピアノのペダルが音量の大小を作るためのものだという巨大な誤解は、実は今日の日本のピアノ教育の場でもいまだ根強く見られる。
あまり専門的になるのを避けてごく簡単に構造的な説明をすると、右側のいわゆる「強音ペダル」は、弦の振動を抑えるフェルトを弦から遠ざける機能をもち、その結果、音は開放弦として豊かに響き続ける一方で、さまざまな音が響きの中で混り合う(時に濁る)。また、左側の「弱音ペダル」は、例えば中音域以上では一音につき三本あるピアノ弦の二本だけを叩くようハンマーを移動させる機能をもち、結果として音も小さくなるが何よりも音質がかそけく弱々しく変る。いずれにしても大切なことは、二つのペダルとも結果として音量の大小ももたらすが、その本来の機能は、このようなピアノ自体の構造的な打弦方法の変化により音質の変化を導き、指による鍵盤の操作と組合せることで意図する音色を作り上げるためにある。極端な例をあげれば、右の強音ペダルを踏みながら豊かなピアニッシモを弾き、左の弱音ペダルを使いつつくぐもってやせこけたフォルティシモを作ることも可能なのである。
従ってこのペダルの使用法の発見が、久にとっていかに衝撃的なものであったか想像に難くない。彼女は要するにそれまで最も基本的なピアノの構造自体を知らぬまま、文字通り血の滲むしかし頓珍漢な努力を重ねてきたことになるのだ。
久自身の手記に従えば、このような久のショックを集約したかたちとなったのが、当時二十八歳でデビューしたばかりのワルター・ギーゼキングとの出逢いであった。ギーゼキングの演奏には、匂い立つような高貴な輝きがあった。なんという柔らかな、馥郁《ふくいく》たる音色、霞《かすみ》のヴェールがかかったようなレガート、そして、ああ、なんと幻想的なピアニッシモ……。
いままで髪をふり乱しキイをぶっ叩くことばかりが情熱的な演奏である、とそこに全力をあげていた久が、ここで突如としてピアニッシモの絶妙な美しさに目を見開かれる。ピアノという楽器がそもそも「ピアノ」と呼ばれるゆえんであるその弱音の魅力、その多彩さに初めて目覚めたのである。
久はギーゼキングの演奏に熱中し、その演奏会に七、八回ほども通いつめる。そしてその奏法が、前述の巨匠たちとも全く違った「非常に新しい弾き方で」、その著しい特徴は左の弱音ペダルをほとんど左足を後ろに引く隙もないほどひんぱんに使用している点にあると克明に観察した(久の手記『芸術家の苦しみ』)。
月光ソナタ
大正十三年の九月、久は、コンサート通い以外はすることもなく不愉快なことも多かったベルリン滞在を打切って、ウィーンに移る。ベルリンで聴いて感銘を受けた老大家エミール・フォン・ザウワー教授がウィーン郊外の温泉地バーデンに住んでいるときき、是非その教えを乞いたいと願ったからであった。「ザウワー教授は大変な偉さです。伯林《ベルリン》で五十回位いピアノを聴いた中で最も偉いのです」と、久は音楽評論家・牛山充にあてて書いている。
ザウワーはリストの高弟だった人で、私も彼が七十七歳のときピアノロールに吹き込んだリストのピアノ協奏曲の復刻盤をもっているが、実に知的で均斉のとれた堂々たる風格に溢れた演奏である。久はザウワー教授を追ってバーデンの旅館に移り住み始める。
バーデンはウィーンの郊外二十数キロの地点にあって、かつてはオーストリア皇帝一族の夏の保養地として知られていた。現在でも人口わずか二万五千ほどにすぎないが、クアパルクと呼ばれる広大な公園を中心に、野外音楽堂、カフェなどが点在する美しい町である。
ここの温泉は主として硫黄泉で、リューマチ、神経痛、筋肉痛によく効く。手の故障に絶えず悩まされていた久には理想的な土地であったかもしれない。しかし、季節はずれのバーデンは、一日中静まり返って人影も無く寂しい。夏には開催されるコンサートもいまは無く、聞こえてくるのはただの森のざわめきばかりである。そんな忘れ去られたような環境の中で、久は虚しく時を過ごしていく。
冬も間近に迫った頃、久は待望のザウワー教授についに会えることとなった。
「ああ大正十三年十一月廿五日、この日は私にとつて一生忘れることの出来ない吉日です。即ちこの日私はザウワー教授の御宅を初めてお訪ねして親しく御眼にかかる光栄に接することが出来たからです」(兼常清佐宛の葉書)
久はザウワーの前で最も得意とするベートーヴェンの「月光」を弾き、ザウワーはブラボーブラボーと二度言って、その演奏を温かく迎えた。そして「日本人が斯くまで正確に又芸術的に音楽を理解するとは今日まで思ってもみなかった」といって賞讃した。
久の狂喜はいかばかりであったことか。彼女はザウワーの一挙手一投足がすべて彼女への讃辞につながる特別なことであるかのように受けとめ、七回《ヽヽ》も握手をして下さった、とか、来年二月以降ならバーデンに戻っているからレッスンをしてあげてもよいと三度《ヽヽ》もくり返して言って下さったとか、その昂奮ぶりを日本の知人たちに書き送る。そして、「私は来年(十四年)四月にウィーンで独奏会をやる勇気をやつと出してゐます」とも附け加えるのである。
ウィーンの次はベルリン、そしてパリ、ロンドン、ローマ……。そこでの大成功、輝かしい栄光を背に、「日本へは八月初めに着くでせう」と彼女は牛山に書く。と同時に彼女は「日本に居ても一人では演奏して廻れないのに、私のやうな(身体の不自由な)者が外国で此五ケ所を廻つたり、それだけの勉強をしたらば体はもうへたばつてしまひます。――音楽を知らぬ人も言ひます。『独より以上だ。オーストリーの音楽は』と。だからウィーンで私がやつたら十分でせう。(第一体がつづかないから)」と、気の弱さもみせる。(十二月二十二日付)
しかしながら、このザウワーの讃辞は、遠い極東の異国から来たか弱い女性に対する、思いやりのこもった社交辞令の一種に他ならなかった。ザウワーは一八七九年から二年間モスクワ音楽院でルービンシュタインに学び、いわば久の奏法とは対極にある、ヴェルヴェットのようななめらかなタッチと洗練されたピアニズムの持主であった。彼はまた、激情の奔流に身をまかせて「情熱的な」演奏をすることよりも、バランスのとれたスタイルとデリケートで知的な感性の表現に重きをおく詩人だった。そのザウワーが、久の演奏を本気で絶讃するわけはない。
この頃既に久の生活はベルリン時代と違って窮乏に瀕していた。
日本を発つとき久は、弥太郎とあい子に相当な額の生活費を置いてこなければならなかった。だから彼女自身は帰りの旅費と、当座の金を持って出ただけである。ヨーロッパに着いたら、演奏会をすればいいから、と彼女自身も思っていたし、また兄たちもそれを期待していた。ところが、ヨーロッパに来て一年以上もたつというのに、演奏会一つできない。念願のザウワー教授に教えて貰えることになったものの、高額な謝礼金をこれからいったい何度払い続けられるであろう。バーデンに留まってザウワーのレッスンを受け続けるならば、久は帰りの旅費にも手をつけなければならない。
次に久がザウワー教授のもとを訪れたのは、大正十四年も明けて三月に入ってからのことである。ところがそれまであれほど歓喜してザウワーとの出会いをことこまかく人々に書き送った久なのに、この最初のレッスン以降はぱったりとザウワーについて語らなくなってしまった。しかし、ドイツ語のできない久は通訳を同伴していたため、この時のザウワー教授のレッスンの模様はさまざまに語り伝えられることになった。
一説によれば、ザウワーはこの時、久の今までの奏法をことごとく否定したといわれる。あなたの運指法はめちゃくちゃだ、とまで言い切ったという。また、恐る恐るウィーンで演奏会をしたい、と相談をもちかけた久に、これから三、四年間みっちりと基本からやり直して猛練習を続けたなら、「月光ソナタ」ぐらいは人前で弾けるようになれるかもしれない、そう答えたともいわれる。
ドイツ語の通訳をつとめた大島武官夫人の口から、この話はたちまちにしてウィーン中に広まった。上野の教授であり日本一のピアニストであるはずの久野久が、ザウワーに基礎からやり直しなさいといわれた! そしてウィーンから日本まで話が伝わるのに時間はかからない。いずれにせよ、三月十五日、久はベルリンにいる知人にこう書き送った。
「近々ウィーンをさります。英、仏、伊とまはりましていつ日本にかへりますか、一寸予定はつけてません」
そこではもはや、ウィーンやベルリンやパリでの演奏会の予定について何も書かれていないのはもちろん、ザウワー教授の久への評価についても何にも触れられていない。またそれまで八月には日本に帰るといっていたのが、一寸予定はつけてませんと変る。久の胸には、日本を発つ時のあの「破滅」の予感が実感となってこだましていたのだろうか。そして、これが久の最後の手紙となった。
四月二十日の昼下り、バーデンのホテル・ヘルツォーグホーフの四階屋上から、黒っぽい和服姿の日本女性が中庭に身を踊らせた。シーズンオフのホテルには、使用人の姿も見当らない。春の柔らかな陽ざしがさんさんと降り注ぐ中庭には、何ごとも起らなかったかのように、ただクアパルクから飛びかう小鳥のさえずりばかりが騒がしかった。
久野久、享年三十八。合掌。
10 鍵盤のパトリオット
空前絶後のカリスマ
一国の首相でピアノを弾くことができる人、といえば、現代ではシュミット元西独首相の名前がまず思い浮かぶ。彼のピアノ演奏はどうしてなかなかのもので、ドイツの名ピアニスト、クリストフ・エッシェンバッハと「モーツァルトの二台のピアノの為の協奏曲」を演奏するほどの本格派である。
その他にも「政治家でピアノを弾く」人の例は少なからずあると思われるが、では、「ピアニストで政治家になった」例は、そして首相にまでなった例はといえば、これはもう世界広しといえども古今東西でこの人しかいない。イグナッツ・ヤン・パデレフスキー、独立ポーランドの初代首相となった人である。
パデレフスキーはピアニストから首相になるという異色の道を歩んだが、そもそもその彼がピアニストになったことさえも異色といえば極めて異色だった。なぜなら、彼は齢三十歳に手が届かんとする頃まで、周囲のあらゆる人々から、とても一人前にピアノを弾く能力を持っているとは考えられていなかったからである。なにしろ、チェルニーの教則本から基本を本格的に練習し始めたのが、なんと二十四歳にもなってからのことだったのだから。彼はたぶん、ピアニスト史上で唯一人の、「天才児として出発できなかった大ピアニスト」であろう。
しかし何はともあれ、彼は十九世紀の終りから今世紀半ばにかけての欧米、ことにアメリカでの空前絶後のピアノのカリスマ、史上最大のドル箱スターになった。これは他ならぬ本人自身にも、常に半信半疑、というほどの事態であったらしい。
その、パデレフスキーを「パデレフスキー」たらしめたものは何だったのだろう。
ピアニスト、政治家としてのパデレフスキーを表現する際に必ずついて廻った形容詞、それは「愛国者」――パトリオット――であった。ピアニストである以前にそして政治家である以前に「愛国者」であること。どうやらそのあたりにこそ、彼の生命力、活力の源があったのは確からしい。
パデレフスキーという人は一八六〇年に生まれ一九四一年に八十歳の長寿を全うしたが、その生き方をふり返ってみると、音楽と政治、ピアニストであることとポーランド独立運動の闘士であること、という、全く相反する二極の間を往き来していたかのように見える。しかしパデレフスキーにとっては、ピアニストであることも政治家になることも、同じ「パトリオット」としてのエネルギーから生まれたことだった。内的にはピアニスト・パデレフスキーというパトリオットの有する桁はずれな情熱、外的には民族興亡の危機を救うために内外のコンセンサスをまとめるカリスマを必要としたポーランド及び当時の国際情勢。この両者が相俟《あいま》って、この二極相反するものの統合を可能としたのであろう。
迎撃ミサイルの名称として湾岸戦争で一躍有名になったこの「パトリオット」という言葉は、八十年まえの第一次世界大戦の時代には、このポーランドの世界的ピアニストにして民族のカリスマ、パデレフスキーその人を指していうほとんど固有名詞であったのだ。
思えばパデレフスキーもミサイルも、侵略者に対して抵抗するという点で奇《く》しくも共通している。そして、パデレフスキーの愛してやまなかった故国ポーランドは、その長い歴史のなかでなんと多くの「スカッド・ミサイル」、征服者たちによって踏みにじられ、民族の誇りを傷つけられてきたことか。なんと人類とは、同じ愚を繰り返す動物であろうか。
ポーランドの悲哀
ポーランドといえば、かつて私はワルシャワ、クラクフはいうに及ばず、カトヴィッツ、グダンスク、ポズナン、ウッジ、ルブリン、シチェチン、コシャリン、ビドゴシチと、めぼしいところはほとんどくまなく演奏して廻ったことがある。
こうしたポーランド国内の旅行で、いつも心が動かされたのは、行く先々の町の歴史であった。大きな町小さな町のそれぞれが、異なる時代の異なる征服者によって実にさまざまな影響を受けていたのである。自分がいまポーランドにいるということを忘れてしまいそうなほどドイツ風の街並みの町があるかと思えば、ダッタン人たちの襲撃を受けてその影響が今もなお残っている町もある(たとえば、東洋的顔立ちをした市民が多い)。
そもそもワルシャワが首都であることも、スウェーデン国王がポーランドも統治していた時代、首都がクラクフではスウェーデンから遠すぎるという、ただそれだけの理由によるものであったということも、この旅で知った。そう語ってくれる友にしても、リトワニアのヴィリニュスで生まれ、そこがソ連領となった折に逃げ出してワルシャワに来た、という過去を背負っている。
その旅の演奏の合間に訪れたオシェヴェンチェム(ドイツ名アウシュヴィッツ)の強制収容所はもちろんのこと、行く先々の歴史的なモニュメントのそれぞれが、ポーランド国民がそれまで経てきた苦悩の深さと大きさを実感として私に感じさせ、私を圧倒した。それは、しばしば征服者というものがどれほど残忍になり得るかということを、目の前の現実として私に示すものだった。
さて、パトリオットとしてのパデレフスキーが、その生涯で初めて「被征服民族」の悲哀を味わったのは、わずか三歳のときだった。一八六三年の「一月蜂起」と呼ばれる反ロシア革命において、それに参加した父が逮捕されたのである。
後年パデレフスキーはその日のことを自伝の中に鮮やかに甦らせている。家は突然コサック騎兵にとり囲まれ、百五十人ほどがなだれ込んで家を捜索し始めた。そして、家の中のありとあらゆるものがひっくり返され、父の有罪を立証し得るような書類文書の類いの発見にロシアの官憲たちはやっきとなった。三歳のパデレフスキーは、その異様な事態に幼いながらも父の身の上に一大事が起ったことを感じて、泣きながら指揮をとっているコサック兵のところにとんでいき、たずねた。
「お父さんをどうするの?」
その男は、返事もしなければ彼に構おうともしなかった。彼は子供らしく何度もたずねた。どうしたの、なぜお父さんを連れていくの、直ぐ帰してくれるの? コサック兵は頭をのけぞるようにしてカラカラと笑ったかと思うと、答える代りにこの幼い子供を笞《むち》で叩いたのであった。小さなパデレフスキーの身体は笞で裂け、血が溢れた。
しかし、肉体の痛み以上に彼の誇りは大きく傷ついた。このときロシアの官憲から与えられた屈辱感は、その後の彼の精神形成に大きな影響を及ぼすこととなる。
ピアノはやめたまえ
こうして、愛国者としてのパデレフスキーの経歴はいわば順調に(?)始まったわけであるが、時を同じくして始まったそのピアノ修業の方は順調というわけにはいかなかった。
もしあなたの身近にこんな若者がいたら、あなたはどう思うだろう?
彼は小さいときからピアノが大好きで、田舎町に住みながらもピアノの勉強に熱中し、十二歳で音楽学校に入る。ところがそこで、ピアノを初めとしてフルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルン、トランペット、トロンボーン、そしてチェロにヴァイオリンと次々にめぼしい楽器に手を出してはみるのだが、そのどれについてもすぐさま教師たちから「才能なし」と太鼓判《ヽヽヽ》を押されてしまう。そのかたわらずっと続けていた作曲は、楽器演奏に比べればずっとマシではあったが、それも名声を博するというには程遠い。そうこうしているうちに十九歳という若さで若者は美少女アントニナ・ケルサックに出会って結婚し、一児の父親になったかと思うと次にアッという間にその若妻を亡くして、子連れのヤモメになってしまう。しかもその一人息子は重症の身体障害児である。周囲が心配して、生活のために音楽教師の口を見つけてくれるのだが、自分の夢は教師ではなくピアニストになることだといって、やめてしまう。ところが現実には、そのピアノの実力ときたら独奏はとてもムリ。ときにヴァイオリンの伴奏などを引受けると、「伴奏ピアニストの演奏はさておき、隣りに座っていた譜めくりが見事な技をみせた」などとからかわれる始末。そしてふと気がつくと、二十四歳にもなっていた……。
もしあなたが彼の父親母親なら、さぞやきもきすることだろう。エライことである。ほんとにうちの息子ときたら、よほどの自信家なのかよほどの楽天家なのか。いまにいったいどうなることだろう。
ところがそこに、そんな若者の「夢」に惚れ込んだ女性が現われた。当時ポーランドで人気の高かった女優エレナ・モジェスカ夫人であった。彼女は彼のピアノを聴いて、彼にもっと本格的な勉強をすることを勧める。そしてその学資を調達するためのコンサートに賛助出演までして、励ますのである。
かくして二十四歳のイグナッツ・ヤン・パデレフスキーは、新規|蒔《ま》き直しの一大決意を胸に秘めてウィーンへと旅立つ。こうなったからにはひとつ思い切って、世界一のピアノの先生と謳われている人のところに行ってみよう、あのレシェティツキー大先生のところへ。
電撃のデビュウ
テオドール・レシェティツキーは一八三〇年にポーランドに生まれ、その後ウィーンでベートーヴェンの愛弟子として名高かったカール・チェルニーに師事した。ピアニストとしての腕前も相当なものであったが、何よりも先生としてど偉い業績を遺した。なにしろ教える生徒のことごとくが、後世に残る大ピアニストになってしまったのである。
二十四歳のパデレフスキーが押しかけて行った頃は、もうキラ星のごとく天才少年少女ピアニストたちが彼をとり巻き、その先生としての名声は全ヨーロッパに轟き渡っていた。
さてレシェティツキーは、作曲家としてはいくらか知られている同郷の青年に会ったつもりが、実はピアニストになりたいのだと相談されて困惑してしまった。
「あなた、気は確かかな? その年になって新規蒔き直しにピアニストとしてのレパートリーを勉強したいなんて」と先生は絶句する。「そりゃ、不可能なことですぞ」
しかしパデレフスキーは必死である。そしてついには大先生の方が根負けして弟子入りを許可したのみならず、自らチェルニー教則本の手ほどきをしてくれることになった。通常、こうした初歩的な訓練は助手が教えるのである。パデレフスキーはこうしてレシェティツキーによって、その技術を第一歩から鍛え直されていく。この頃彼は、一日のうちの十時間近くをピアノに没頭し、その余暇を作曲と読書にあてたという。
しかしウィーンに四カ月滞在し、レシェティツキーからほぼ十回に及ぶレッスンを受けるのだが、やがて学資金が乏しくなってきたのを知ると大先生はホッとしたように言った。
「ストラスブール音楽院から和声と対位法、それにピアノを教えられる先生を推薦してくれといってきた。私は君を推しておいた。心から忠告する。是非受けたまえ」
実は大先生は、明らかにパデレフスキーを厄介者扱いしていたのだ。
こうして気の毒にもパデレフスキーはまたもや挫折して、ストラスブールへと発つ。しかし彼は、僅か一年後には再びスポンサーを見つけて、ウィーンに戻る。
そして今度こそ初めてピアノの修業も順調に進み、ウィーンでの小さなデビュウにも成功して、レシェティツキー先生はそこで初めてパデレフスキーを、彼の正統なる弟子として祝福したのである。また、彼はその間、作曲家としていくらか名声も得た。特にその「メニュエット」は、レシェティツキー夫人で同じく有名なピアニスト、エシポフ女史が好んであちらこちらで弾いたことによって大変ポピュラーにもなり、更にその出版によって収入も得ることとなった。
しかしなんといっても、ピアニスト、パデレフスキーを世界の檜《ひのき》舞台に突然栄光と共に押上げたのは、続く一八八八年、パリのサル・エラール(当時存在したエラールというピアノメーカーのホール)で行われたデビュウ・リサイタルであった。この奇跡的デビュウの模様を、当時僅か十一歳の少年であったアルフレッド・コルトーが後にこう語っている。
「古今に絶したピアニスト、リストは既に逝って久しい。老いたるルビンシュタイン(アントン)はますますパリから遠ざかり、ハンス・フォン・ビューローの合理的天才は、我々青年の心からほとばしる音楽への熱望を、もはや満たすことはできない。この時、突然に、パデレフスキーの磁力の如き力に満ちた特異な個性が現われて、電撃の如く我々青年の心に突入した。パリにおけるパデレフスキーのデビュウは、我々にとって決定的な新しい啓示であった。ピアニストの代りに、霊感に溢れた詩人が現われたのである。翼なきピアニスト達の執拗なる努力に悲しくも色|褪《あ》せ、ゆがめられた楽聖の作品が、パデレフスキーの熱情と新しいアクセントによって強烈な魂をもって香り豊かに甦った。一口に言えば、我々の理想の実現である。若き者の時代のピアニストの出現である」(『パデレフスキー自伝』原田光子訳の序文より)
これまでパデレフスキーの「さえない」ピアニスト歴を追ってきたあとでは、到底信じられないような突然の大絶讃である。しかし現時点で客観的に振返ってみると、このコルトーの言葉は、今では不完全な音質の悪いレコードを通してしかうかがい知ることのできないパデレフスキーの演奏の本質とその魅力を、レコードよりはるかに鮮明に私たちに伝えてくれるもののような気がする。
パデレフスキー自身によれば、この日はパリに亡命しているポーランドの貴族やフランスの著名人たちでサル・エラールは華やかさに溢れたとされるが、実体は違う。いや、考えてみればもっとはるかにドラマティックな形で奇跡は起った。
ここにこのパデレフスキーのパリ・デビュウを聴きに行った目撃者がもう一人いる。それはポーランド生まれの科学者、マリー・キュリー夫人であった。彼女の娘エーヴが書いたあの有名な伝記には、その夜のことが描かれてある。
「……四分の三はがらあきのエラール楽堂に腰をおろしたマリーは、ひょろ長い、やせた男が舞台に現われるのを見た。燃えるような赤銅色の髪の毛が、この男の一癖ある顔を円光のように包んでいる。彼はピアノに近づいた。しなやかな指からリストとシューマンとショパンが、はつらつたる生命を帯びてわきあがる。彼の顔だちには気品となにものにも逆らえないようなきっとしたところがあり、霊感にあふれた彼の目は遠くはるかを凝視している。まっ黒なえんび服を着て、まばらにしか聴衆のいない座席を前にしてひいているこの不思議な演奏家には、初舞台をふむ無名の芸術家に見られる気遅れしたようすは少しもなく、皇帝のような、神のような態度をしていた……」
そしてそのまばらな聴衆は、演奏が進むにつれて、この青年の自由奔放な演奏に巻き込まれていった。そして演奏が終了すると、そこに居合せたすべての人は昂奮し、立ち上って熱狂的に叫び続けた。
それは「恐ろしいほどの成功」であった。十二歳のときから「きみはピアニストになどなれっこない」とあらゆる音楽教師に言われ続けてきたこの晩学の青年は、突然廻り舞台に乗せられて華やかな表舞台へと押し出されてしまったような目眩《めまい》を感じた。そして、一時間近くも続いた拍手の波を受けとめながら、パデレフスキーはかつてない緊張感で全身がひき締るのを感じた。「これから地獄に入るのだ。天国ではなくて地獄だ」と、彼は身震いしたという。
なぜならば、彼は、自分がまだそれだけの大成功を持ちこたえていくだけの余力を貯えていないことを知っていた。だってその時点でのパデレフスキーときたら、あとにも先にも人の前で弾けるレパートリーといったら、このパリでのリサイタル一夜分だけ。オーケストラとのコンチェルトのレパートリーもなく、その夜彼の楽屋を昂奮して訪れた二人の大指揮者ラムルーとコロンヌからの共演申し込みにも、嬉しいよりも震え上ってしまったのだった。
大名行列
このパデレフスキーの「準備不足」を語るものの極端な例として、それから数年後のアメリカ・デビュウがある。彼がニューヨークに着いてみたら、なんとその翌日から僅か一週間のあいだにオーケストラと協奏曲を六曲弾く予定になっていることが判明した、というわけだ。六曲のうち四曲まではまあまあ勉強したことがあったが、残る二曲はやったこともない。それに加えて独奏曲も附けなければならない。
このときパデレフスキーは、ほぼ一日おきのコンサートをこなしながらなんと毎日十七時間の猛練習をやり抜いたという、まさに信じられないようなエピソードを残している。しかしその結果は大成功に終り、なんと彼はその後半年の間に百十七回のリサイタルを引受けることになる。そしてこの初めてのアメリカ・ツアーが終ったとき、彼はアメリカのアイドルになっていた。
マリー・キュリーの伝記にもあったように、ステージに登場したときのパデレフスキーは、音楽の美神が降り立ったかのような魅惑に溢れていた。情熱的にカールした燃えるような金髪、メランコリックな眼差し、ロマンティックで神秘的で上品な容姿、溢れんばかりの詩情、色彩感豊かな音色、加えて彼の知性、幅広い教養、そして七、八カ国語を自在に操る語学の才能、そういった彼の全人間的な要素のすべてが、聴衆を酔わせるのだった。
パデレフスキーが生きた十九世紀末から今世紀初頭はいわばピアニストの黄金期で、ライヴァルあるいはそれ以上と目されるピアニストは何人もいたが、彼ほどカリスマ性をもったピアニストはいなかった。彼は、その存在そのものが聴衆が夢見る「ピアニスト」像であり、聴衆が欲する「センセーション」であったのである。それにしても彼の内にひそむこうした才能や魅力を、かつてどんな教師たちも見抜くことあるいは予見することができなかったというのは、まことに興味深い事実である。
パデレフスキーのピアニストとしての生涯は、以後は専ら栄光に包まれたスーパースターのものである。パデレフスキーは三十一歳でアメリカ・デビュウを果たしてから八十歳で亡くなるまで、アメリカ国内だけでも千五百回以上の演奏会を行い、五百万人の聴衆を惹きつけ、そして実に一千万ドル近くを稼いだといわれている。今日の貨幣価値でいったらそれこそ天文学的数字であろう。
当時の『パンチ』誌には、札束を抱えたパデレフスキーが警官に守られながらホールを出る漫画がのっている。彼の生活ぶりは王侯貴族にも似ていた。実際にも、三十九歳になって再婚したエレナ・ゴルスカは男爵令嬢だった。カリフォルニアに牧場を所有し、パリとロンドンに家をもち、スイスのジュネーヴ湖畔に城館を構えた。アメリカ国内を演奏旅行するときには自家用の鉄道車輌に乗り、練習用のピアノ二台を持ち込んだ。更に華やかに装った妻や子供、秘書、執事、医師、専用マッサージ師、シェフ、調律師、そして召使いたちを引き連れての大名行列は、それ自体がまた人気の的となった。彼の車輌が通過する町々では、その大名行列見たさの人々が群をなして待ち構えていたといわれる。
どこでも聴衆は、その大部分が女性であった。そして彼女たちは、パデレフスキーがステージに登場すると一種の集団ヒステリーを起し、ステージめがけて殺到して我れ先によじ登ろうとした。また演奏が終ると、アンコールに次ぐアンコールを要求し、しばしば一時間以上も騒ぎ続けるのだった。ようやくの思いでホテルに戻ると、サイン欲しさの女性ファンが部屋にかくれて待っていたりした。あるときなど、ハサミを手にした若い娘に襲われて、一瞬ここで死ぬのかと覚悟を決めかけたこともあった。若い娘はパデレフスキーの命を狙ったわけではなく、ただその金髪の巻き毛が一房欲しかったのである。彼の燃えるような金髪の巻き毛は、光が当ると彼のロマンティックな顔を後光のように包んだ。パデレフスキーに街で出会った或る音楽ファンは、「まるで大天使が降臨したような神々しさ」と感銘深く書き残している。
ピアニスト史上でこれほどまで女性を惑わせ狂わせたピアニストは、かのフランツ・リスト以降は他に類例をみない。長い間芽の出なかったこの遅咲きのピアニストは、突然に鍵盤のアイドルに変貌をとげ伝説上の大ピアニストとなるのである。
ロシア領ポーランド
しかし、そんな彼にも例外の場所があった。ベルリンは常に彼の演奏を否定したし、ロシアは無視しようとした。
彼は有名になってから二度、一八九九年と一九〇四年にロシアに演奏に行っているが、そこで彼に対して示されたロシアの著名な音楽家たちも含めた聴衆の態度は、かつてパデレフスキーがそのピアニストとしてのキャリアの中でついぞ味わったことのないほど冷たく不愉快なものであった。特にペテルスブルクの音楽院(当時はロシアで一番重要な音楽院だった)では、学生たちの学資援助のためのチャリティ・コンサートであったにもかかわらず、当の学生たちからほとんど敵意ともとれるほどの冷やかな歓迎を受けた。
モスクワ音楽院のコンサートでも、下品な野次が絶え間なく彼に向って発せられ、こともあろうにオーケストラの指揮をした或る高名な作曲家は楽団員と共にへべれけに酔って登場し、ミスを連発した。また、パデレフスキーの自作自演による「ポーランド幻想曲」が始まったときには、明らかに嫌がらせと思えるさまざまな雑音が会場に響き渡り、演奏も聴こえなくなるほどだった。
パデレフスキーはこうした一連の悪意ある出来事を、自分がポーランド人であるからだ、としている。その当時ロシアの各地ではポーランド人排斥の憎悪に満ちた運動が頻発しており、欧米で高い人気を得たと前宣伝がきいたパデレフスキーなど、意地でも認めたくないといった雰囲気が漲《みなぎ》っていたのである。
当時のロシアでは、ロシアの支配下にあるポーランド人やユダヤ人といった被征服民族に対する圧迫が激化しつつあった。パデレフスキーは被征服民族の一人として、ロシアの官民双方から深い屈辱を味わわされた。かねてから親交のあったセザール・キュイ、リムスキー=コルサコフ、グラズノフといったロシアを代表する音楽家たちまでもがビクビクとし、どこか素気なく落ちつきに欠け、そして何かしら敵意のようなとげとげしさをちらつかせるのだった。これは余談だが、このセザール・キュイ、グラズノフといったロシアの著名な音楽家たちは、当時の文献にちょくちょく傍役として出てくるのだが、それらを総合してみると、どうも日和見主義者で権力志向で酒飲みで、ときに音楽家としてもイイカゲンな、一言にいってヤな奴らだったようである。
折から大国ロシアは思いがけずも極東の小国日本との戦いに敗退し、旅順では降伏を申し出たばかりであった。同じ頃、ペテルスブルクでは「血の日曜日」事件をきっかけとして、第一次ロシア革命が起る。パデレフスキーがモスクワで演奏したそのわずか数カ月後には、オデッサ港でポチョムキン号の反乱が発生。帝政ロシアは崩壊寸前の苦しみにのたうち廻り、小国ポーランドはそのうねりに木の葉のように翻弄されていた。
首相になる
パデレフスキーは、単に女性好みのする容姿のピアニストであっただけでなく、大変に明晰な頭脳をもっていた。もののとらえ方は鋭く核心をついていたが、慎重な用心深さも備えていた。また、極めて洗練された心配りに満ちた社交性を有し、更にその語学力はヨーロッパ人の中でもずば抜けていた。彼はポーランド語のほか特に露、英、仏、独の四カ国語を同等に話せたばかりでなく、格調高く知的な語り口をもっていて、教養人たちを感嘆させた。
こうした彼の魅力が、のちの政治家としての活動の中で大いに有利となったことは想像にかたくない。彼はイギリスのヴィクトリア女王をはじめとした欧州各国の君主たちにも愛され、しばしば招かれては個人的な集いに加わった。また欧米の元首をはじめとした政治家たちとの交友も深く広く、それがのちに独立ポーランドの初代首相となったときに大変に役立つこととなった。彼のロンドンやジュネーヴの家には、ポーランドからの政治家や独立運動の闘士たちが絶えずやってきては滞在し、イギリスの首相や各国大使といった重要人物のまじるパデレフスキーの夜会で情報を交換し合った。そうした中で、パデレフスキーはやがて祖国救済委員会の指導者的立場に立つようになっていく。
一九一四年六月二十八日、サラエボでときのオーストリア皇太子がセルビア人青年に襲撃された事件は、欧州を混乱におとし入れた。続いて七月二十八日にはオーストリアがセルビアに宣戦布告を行い、ここに第一次世界大戦が始まるのだが、このことはポーランド国民の上に悲劇を与えることとなった。ポーランドを分割統治していたロシア、プロシア、オーストリアの三国が戦線の両側に分れて戦い始めることとなったからである。ポーランドの国土は戦場となり、その上で約二百万のポーランド人が敵味方に分れて戦い合うことを強制された。
パデレフスキーはここに及んでポーランドを三国分割から独立させるためのキャンペーンを開始し、当時アメリカにいた五百万の亡命ポーランド人の中から十万人を組織して義勇軍を作る。更にジュネーヴの邸宅などを売り払って、義捐金《ぎえんきん》をポーランドに送るのである。このとき、既に五十四歳となりそのピアニストとしての名声の頂点に立っていた彼は、ポーランド独立を勝ちとるまでは、とすっぱりとピアノを捨てる。悲愴《ひそう》な面持でピアノの蓋をしめるその彼の写真は、世界じゅうの新聞のトップを飾った。
一九一七年ソヴィエト政権が誕生、更に一九一八年十一月、ポーランド共和国が独立を宣言、それから二カ月ののちパデレフスキーは首相兼外相に就任することを要請され受諾する。複雑な政治上の確執から彼が首相の座にいたのは一年にも満たなかったが、その間彼はヴェルサイユ平和会議に全権として出席、そのピアニストとして得ていた多くの交友関係と語学力で活躍する。
このヴェルサイユ会議でのエピソードとして、フランスのクレマンソーと会った折の会話がある。
「あなたが本当にあのピアニストとして著名だったパデレフスキーさんですか」
「ええ」
「そして、今はポーランドの首相?」
「ええ」
「おお、お気の毒に、なんたる転落でしょう」
「パトリオット」の死
政治家たるためには、次の三つの要素が必要とされる。即ち、カリスマ性、オルガナイザーとしての能力、そしてアジテーターとして人の心をつかむこと。パデレフスキーには何よりもカリスマ性があった。彼が義捐コンサートをすれば、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンが一万六千人の聴衆で埋まった。これはピアニストが一人で集めた聴衆の数としては、アメリカでは記録とされている。しかし、オルガナイザー、アジテーターとして混迷のポーランドを政治的に引っ張っていく能力について語るには、結局のところ彼はあまりにも芸術家であった。
彼は四年にわたる政治家としての激務に別れを告げ、一九二二年にアメリカで再び演奏活動にカムバックし熱狂的に迎えられる。しかしその演奏にはもう二度とあの輝かしさは戻ってこなかった。人気は依然として圧倒的であったが、その演奏はときには聴くに耐えないほどコントロールを失っており、そのことが偉大なピアニストとしての晩節を汚すこととなる。ある批評家などは「もし、彼に生徒がいるなら、その先生の演奏会を聴くべきではない」とまで書いている。
パデレフスキーが亡くなって今年でちょうど五十年になるが、私たちに今日残されているものといえば、SPレコードの演奏と今日でも子供たちに愛弾されるあの「メニュエット」、更に私たちピアニストにとって馴染み深いポーランド・ショパン協会の出版によるパデレフスキー校訂のショパン全集の楽譜であろう。私が子供のとき愛聴したSPレコードの演奏の数々も、今日改めて聴くとあのコルトーをして熱狂せしめたその魅力を想像するのは極めて難しい。
彼は存命中は作曲家としても成功し、中でもオペラ「マンル」は当時としては大いなる評判をとった。しかし、その厖大に書き残した作品はもはや今日では全く忘れ去られてしまっている。まだ生き続けている唯一の作品が、モーツァルト・ファンをひっかけてからかうためにモーツァルトの作風を真似て作った、いわばジョークのような作品「メニュエット」である、というのは、なんという皮肉であろうか。
また、ショパンを研究する人たちにとっては不可欠な参考楽譜とされてきたいわゆる「パデレフスキー版」のショパン全集も、今日では他の新しい研究の方がより信頼できるものとして、ワルシャワのショパン協会でさえもパデレフスキー版にとって代ってその新研究版を普及しようと努めているのである。
一九三九年、ナチス・ドイツの軍隊はヴェルサイユ条約を破ってポーランドに突入、そのわずか一カ月後にワルシャワを陥落させる。既に七十九歳の高齢となっていたパデレフスキーの悲嘆はいかばかりであったか。彼はパリに組織されたポーランド亡命政府最高会議の議長に選出され、再びポーランドのために戦い始めるが、もう健康がそれについていけなくなっていた。
一九四一年六月二十九日、パデレフスキーは滞在中のニューヨーク・バッキンガム・ホテルで肺炎により死去した。彼はその一カ月ほど前から「飢えているポーランド人民のための救済コンサートツアー」を始めており、無理がたたったらしい。ほんの四日間ほど病いの床に伏してのちのことだった。
時のアメリカ合衆国大統領でパデレフスキーの親友でもあったフランクリン・ルーズベルトの命令によって、ただちにウエストポイントから送られた五百名の米軍士官と軍楽隊が遺体に付き添って五番街を行進し、翌三十日、セントパトリック教会で葬儀のミサが米国最高の礼をもってとり行われた。そしてその遺体は、「ポーランドが自由の国になるまでは帰国せず」というパデレフスキーの遺言に従って、ワシントンのアーリントン国立墓地に送られ、十九発の礼砲と共にそこに埋葬された。
ポーランドの生んだ世界的ピアニスト、作曲家にして政治家「パトリオット」は、こうしてアメリカの「愛国者」たちと共に永遠の眠りに就くことになったのである。
なお、このパデレフスキーの遺体については、その後何度か故国ポーランドのクラクフ市にあるバーベル城内に埋葬しようという動きが起ったが、共産党政権のもとでは実現しなかった。また、共産党支配が崩壊したのち一九九一年にも、死後五十周年ということで再びそういった話が新聞などに取り上げられたが、結局そのままとなっているようである。
あれほどのスーパースターだったパデレフスキーも、移りゆく時の流れの中ですっかり忘れ去られてしまって、今ではその墓を訪れる人もいない。墓守の記憶によれば、一九六三年の五月にそこを訪れたジョン・F・ケネディ大統領がパデレフスキーの墓に花を捧げた最後の政治家であったという。その若きケネディも、それからわずか半年後、同じアーリントンに眠ることとなった。
11 カンガルーと育った天才少女
天才児《プロデイジー》として始まる
「すべてのピアニストは天才児として出発する」
と、ピアニストとその演奏について多くの名著を著《あらわ》しているアメリカの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグは、その研究の中でさり気なく結論づけている。
事実、ピアノ史上に名を留める多くのピアニストたちの経歴をふり返ってみると、パデレフスキーに代表されるようなごく僅かな例外を除いてその大部分に共通する点は、まず四歳五歳という幼い年齢の頃から他の子供たちとは明らかに異なった尋常ならざる能力を発揮していた、ということが分る。まず当然のことながら、彼らの多くは音楽的に極めて早熟であった。これは古くはモーツァルトやショパン、メンデルスゾーンといった極めつきの「大天才児」たちを引合いに出すまでもなく、今日に至るまで同様である。
その極端な例として、日本においては知られることがなかったがポーランド出身のピアニストで今世紀の初頭に大評判をとった天才児に、ラウル・フォン・コサルスキーという人がいる。彼は四歳でデビュウコンサートをし、その成功によって売れっ子の演奏家となり、更には作曲まで手がけて七、八歳の頃にはペルシャの宮廷ピアニストになってしまった。なぜ「ペルシャ」なのかそこのところはよく分らないのだが、なんとなくおかしい。とにかく九歳になった頃には既に大量の作曲をものしていて、十一歳ではなんと千回記念リサイタルまで行ったという超人的子供であった。ひとくちに千回というけれども、これは四歳のデビュウから十一歳までほとんど休みなく二・五五五日に一度ぐらいの割合で演奏会をしていた勘定になる。学校にも行かず友だちとも遊ばず、この天才児は作曲とピアノ演奏に没頭しまくっていたのだろうか。
破天荒《ヽヽヽ》な天才児というのならば、スペインのショパンと謳われたイサーク・アルベニスがいる。彼はわずか一歳でピアノの手ほどきを受け、四歳で即興演奏を公開で行いセンセーションを巻き起す。
六歳のときもっと系統だった勉強をするようにとパリに連れて行かれ、パリ音楽院の試験を受けさせられるが、この天才児はみごとな演奏で試験官である教授たちをうならせたはいいが、そのあとポケットからボールをとり出したかと思うと会場の窓ガラスにぶつけて割るといういたずらをし始め、肝をつぶした謹厳なる教授たちに追い出されてしまって入学はおじゃんとなる。仕方なくスペインに連れ戻されマドリードの音楽院に入るが、実際には彼は、もっぱら息子を天才児としてみせびらかして得意になる父親に強制されて演奏旅行を続ける。八歳の頃のアルベニスの特技は、ピアノの鍵盤の上を布でおおって、背中をピアノに向けて後ろ手でピアノを弾くというもので(そんなこと、出来るのだろうか)、これが大変な人気を呼んだのであるという。
そんなことを強要する父親に反抗して、アルベニスは九歳で家出を決行、その年齢であちらこちらで勝手に演奏して稼いでしまう。彼をつかまえて取り戻そうとする父親を出し抜きつつの逃避演奏旅行は、とうとう大西洋の彼方南北両アメリカ大陸にまで及ぶ。その間、この少年はカジノで弾いたり、そこで得た金を山賊にうばわれたり、ブエノスアイレスではとうとう乞食にまでおちぶれたかと思うと、ニューヨークでは船のドックで労働者として働いたり……。くどいようだけど、たかだか十一、二歳で、である。そしてその、一瞬アルチュール・ランボーを想わせるような波瀾《はらん》万丈の合間には、そこかしこで才能を認めてくれる大人たちに出逢って、けっこう演奏旅行などを行っているのであるから、あいた口がふさがらない。
結論としてこの天才児は、こうしてピアノの演奏を続けながらあらゆる放蕩《ほうとう》の限りを尽し、他の少年たちがようやく放蕩を開始する年齢に達する頃に大真面目になって本格的な勉強に戻る。
そして、途中を全部省略して突然「晩年」の話となるが、アルベニスは、四十九歳で亡くなる直前の最後の三年間に、突如として書き始めたピアノ音楽の名作「イベリア組曲」を完成し、これによってスペインの誇る不滅の大作曲家として名を後世に留めることとなった。この放蕩児の「白鳥の歌」ともいうべき「イベリア組曲」全十二曲は、名曲かつ技巧的にもこみ入った難曲として、現在のピアニストたちの重要なレパートリーとなっている。
バナナの木にアマリリスは咲くか
さて、現代で日本にも知られた天才児といえば、なんといってもダニエル・バレンボイムにとどめをさすだろう。
一九四三年生まれのこのピアニスト兼指揮者については、今更説明するまでもないほど日本でも有名であるが、あえて記すならば、彼は五歳でピアノに異常なる能力を見せて七歳ですでに全ベートーヴェン・プログラムによるリサイタルを開催、十歳でザルツブルクで「モーツァルト以来の驚異的天才児」という評判をとった。
その彼が学んだ音楽家たちの顔ぶれもまた凄い。ピアノをエドウィン・フィッシャー、指揮をイゴール・マルケヴィッチ、その双方をカルロ・ゼッキやナディア・ブーランジェといったいずれも天才児ダニエルにひけをとらない元天才児たちに学ぶ。二十世紀を代表する偉大な音楽家たちがまさにずらりと並んで壮観をなす。これらの巨匠たちが、十歳そこそこの、一般の感覚でいえばまだほんの小さな子供に過ぎない年齢のダニエル少年を相手に指導をほどこしたのであるから、これは超一流の大家たちがよってたかって一流の天才児を育て上げたという、稀にみる夢のように幸福な例の一つであろう。
ずば抜けた集中力と記憶力を誇る彼は、手帳を持ち歩かないことでも有名である。人との会合の約束、演奏旅行の予定、重要な電話番号や住所、そうしたことの一切は頭の中に記憶されているのだという。
一般に天才児たちの生立ちとその背景をみると、なんといってもまず両親あるいはその片方が音楽家であったり、兄姉の誰かが音楽家であったりする例が圧倒的に多い。バレンボイムの場合も、生まれはアルゼンチンのブエノスアイレスではあるが、両親はロシアから移住してきたユダヤ系音楽家である。
ロシア生まれのユダヤ系音楽家といえば、ウラディミール・アシュケナージを例にとる迄もなく、彼らのほとんどは親が音楽家でありそれを更に子が引き継いだケースとなる。ゆりかごの時代から家じゅうに美しい音楽が溢れ、言葉を話すより早く音楽を聴いたり歌ったりしてしまうような家庭環境に囲まれて育てば、音楽を一生の天職と志す子供が出るのも自然なことであろう。
とはいえ、これはよくあることだが、父親があまり偉大すぎると、子供の方にはそれが一生の重荷となってその父親を越えるほどの実力と名声を確立することはなかなか難しいようである。その点、母親がピアニストである(あるいはあった)場合の方が、息子はだいたいうまくいく。前者の場合の成功例としてはダヴィドを父に持つイーゴリ・オイストラフやルドルフ(父)、ピーター(子)のゼルキン父子などが辛うじて思い出されるが、後者の例はガブリロフ、キーシン等をはじめとして数限りない。
天才児たちの背景としてその次に目にとまるのは、父親が大学教授、医者、弁護士といった、ある程度知識階級とされる職業に就いているケースである。比較的裕福な階層も多く、家庭の中では音楽が絶えず愛好され、また母親が元音楽学校卒のピアニストであったりして、その母親の手ほどきでごく幼い頃からピアノを弾き始めた、そんなケースにゴドウスキーやギーゼキング(父が医者)、ド・パッハマンやバックハウス(大学教授)、ミケランジェリ(弁護士)などがある。
これらの実例は、水脈の無い所をいくら掘っても水が湧かないのと同じように、音楽の土壌の無い所には音楽の花は咲かない、ということを物語っているかのようにも思える。バナナの木にアマリリスが咲かないのと同じに、イヌにネコは生まれない。ピアニストも家庭環境が音楽的でなければ、「天才児」は出現しないのであろうか。
しかしそう考えるとき、私の脳裡にはふと或る一人の女性の姿が浮かび上がる。アイリーン・ジョイス。オーストラリア大陸の生んだ伝説的な女流ピアニスト。その生いたちの数奇さによって「フェアリー・テール・ストーリー」ともてはやされ、十八歳で欧州デビュウを果たすやいなや、その厖大なレパートリーを支える燦然《さんぜん》たる超絶技巧と、そしてそのハリウッドの女優も顔負けの美貌とでまたたく間にスターになった女性。その人生の前半は輝かしい勝利に満ち、そしてその後半は数々の毀誉褒貶《きよほうへん》に色どられた女性。その芸術家としての円熟の頂点で或る日忽然とステージから姿を隠してしまった幻の美女。或る者は彼女をオーストラリアの生んだ空前絶後の天才ピアニストと鑽仰《さんぎよう》し、また或る者は彼女のそのめくるめく彗星《すいせい》のような光芒《こうぼう》に幻惑のいかがわしさを見て眉をひそめる。しかし彼女こそは音楽史上の謎、奇跡、いや神がときに人類に与え給う幸福な音楽の悪戯といえるのではないだろうか、と私は思う。
ダニエルおじさんのハーモニカ
オーストラリア大陸最南端の都市メルボルンからフェリーで十四時間半、バス海峡をへだてた更に南に、タスマニア州がある。州といっても島で、面積からいうとちょうど日本の北海道よりやや小さめといったところなのだが、その形の愛らしさゆえに近年では「りんご島」とも呼ばれている。ちなみにタスマニア産のりんごは小粒ながら、なかなか美味《おい》しいそうである。
タスマニア島はオーストラリア本土とは違って大自然の姿も起伏に富み、万年雪を戴く山々がそびえ立つかと思えば広やかな高原あり豊かな森あり湖ありで、極東の小島国ニッポンからだけでも正月休みに五十万人もの旅人がどっと海外へ繰り出すこの二十世紀の終りに及んでも、いまなお多くの秘境を残したところとされている。
美しい大自然と海の幸山の幸に恵まれた素晴しい島なのであるが、その魅力溢れる容姿とは反対に島の歴史は貧しく陰惨である。その首都ホバートが英国人によって建設されたのは一八〇四年、オーストラリアではシドニーの一七八八年に次いで二番目に古い町とされているが、その発展は原住民「タスマニア人」であるアボリジニをほとんど絶滅状態にまで追い込んでしまったほどの大量虐殺、本土で重罪を犯した極悪人たちの生きて二度と出られぬ流刑の島、更にはヨーロッパで食いつめた貧しい白人系民族が山師となって一攫《いつかく》千金を夢見て渡り歩く開拓地、としての荒々しさ残虐さに色どられていた。
アイリーン・ジョイスはそんなタスマニアの名もないほどの辺境の地、というよりもむしろ大自然のまっただ中に、スペイン人とアイルランド人の移民を父母に、一九一二年に生まれた。
父親は金鉱を求めて流浪する極貧の労働者で、アイリーンが生まれたときは住む家さえも無く、彼女は鉱山のテントの中で生まれたといわれる。その父親は一年じゅう家族をそのテントに残したまま、金鉱から金鉱へと渡り歩いていて、めったに顔を見せることさえもなかった。
アイリーンは、文字通り野生の子、自然児として成長した。実際のところ、それ以外にどう生活し得ただろう。周囲には遊び友達となるべき子供たちもなく、極端に貧しい家に生まれた身には、タスマニアの大自然しか親しむべきものもなかったのだから。彼女は草原で拾ってきたカンガルーの子供を唯一の友とし、トウィンクと名づけたそのカンガルーと共に裸足で野山を駆けめぐった。その耳に聴こえてくるものといったら、小鳥のさえずりに野生動物のうなり声、そして草原を渡る風の音だけであった。レコードはおろかラジオさえも聴くことの無かった環境に生まれ育ったこの少女が、なにゆえにのちになってピアニストとして異常な能力を示すようになるのであろうか。その生いたちに想いをめぐらせるとき、私は或る不思議な感動に胸がいっぱいになるのを感じる。
しかしそんな野生児アイリーンが六歳になったかならぬかの頃、彼女の生活の中に突如「音楽」が出現する。それは近くの山で出逢ったダニエルという男の吹く小さなハーモニカで、音楽と呼ぶには余りにもささやかで貧弱な音色ではあったけれども、野生の子アイリーンのそれからの人生を変えてしまうほどの力をもっていた。幼いアイリーンは、ダニエルのハーモニカを聴くために、母親にも内緒で毎日カンガルーのトウィンクと山を登る。そしてダニエルにせがんで吹いてもらい、一心不乱に聴き入りとうとうそのハーモニカを貰ってしまう。
ダニエルは知的で教養も深い男であったが、人生に挫折して山の中で一種の隠遁《いんとん》生活を送っていた。そして、ボロボロの着たきりスズメの服で一年じゅう裸足で野山を駆けめぐっている幼いアイリーンが突如示し始めた音楽への異常なほどの好奇心のなかに、なにか「神聖で尋常ならざるもの」がひそんでいることを見抜くだけの鋭い感性をも備えていた。父はどこをどう放浪しているかも分らない貧しい母子家庭の中で、ダニエルこそは幼いアイリーンの成長過程で精神的な父親の役割を務めた存在であった、といえるかもしれない。
アイリーンが夢中になってハーモニカを吹くのを見て、ダニエルは思わずつぶやく。
「ピアノがここにあれば、もっともっと豊かで素晴しい音楽を聴くことができるだろうに」
「ピアノってなに? やっぱり、口で吹くもの?」とアイリーン。
「いや、こんなちっぽけなハーモニカよりずっとずっと色んな音がでてくる楽器で、指で演奏するものなのだよ」
これが、アイリーンがピアノというものの存在を知った最初の会話であった。そして以来「ピアノ」は、アイリーンの胸の中で無限の想像力と夢をかきたて続けることになる。
さてちょうどそんな頃、永い間音沙汰のなかった父親が突然家に戻ってきた。そして一家は、父親が得てきた新しい職場を目指して、オーストラリア本土へと渡り住むことになる。目的地クナナリンまでは、ホロ馬車と船と汽車を何度も乗り継いで何週間もかかる、長い長い旅であった。しかし、その旅行中、メルボルンの町でアイリーンは初めてピアノの姿をショーウィンドー越しに見ることもできた。それは想像以上に大きくていかつくて、見たこともないほど威厳に満ちていた。一九一九年アイリーン七歳の春のことである。
ピアノと六ペンス
クナナリンでの仕事も思わしくなく、間もなく一家は再びテントをたたんで、こんどは親戚もいるもう少し大きな町、オーストラリア西部にあるブルダーシティに行く。ブルダーシティは、これも鉱山の町であったが、アイリーンが今まで過ごしたどの町よりも町らしく、大都会にみえた。ここでアイリーン一家は初めて屋根のある家に住むことができるようになる。ようやくテント暮らしから解放されて、貧しいながらも人間らしいいとなみが送れるようになったのである。
ブルダーシティには優しい尼僧たちが経営する学校もあった。野生児アイリーンも靴をはいて学校に通うことになる。なにもかも新しくて素晴しいことばかりだった。
学校に通い始めて間もない或る日、校庭を歩いていたアイリーンはどこからともなく音楽が聴こえてくるのを感じた。まるで吸い寄せられるかのようにして彼女が辿《たど》り着いたところは、尼僧たちの住居の一角で、アイリーンが高い窓をよじ登るようにして眺めたものは、尼僧が一人の少女にピアノを教えている光景であった。アイリーンはそこにピアノの姿を認めた瞬間、これから授業に出なければならないことも何もかも忘れて、茫然とその音色に聴きほれてしまう。これが、あのダニエルおじさんが語ってくれたピアノの音色だったのか。なんと柔らかくて豊かで優しい響きなのだろう。ダニエルおじさんのくれたハーモニカと違って、もっともっと色んな音がする。彼が語ってくれた通り、いえそれ以上に素晴しい。ああ、わたしもピアノが弾けたなら……。
アイリーンは毎日その窓辺に通いつめ、そしてとうとうその尼僧に知られるところとなった。
「そんなにピアノに興味を持つなんて、変った子ね」と尼僧は感嘆して言った。「そんなにどうしてもピアノが弾きたいのなら、来週からいらっしゃい。ただし窓からではなくてちゃんとドアから」。そして尼僧は付け加えた。「レッスンの謝礼金は一回六ペンスです。お母さまにちゃんとお願いしていらっしゃいね」。
しかしながら、一人娘のささやかな夢を叶えてやるにはジョイス家は余りにも貧しすぎた。アイリーンの願いは「六ペンスですって? あなたを学校にやることでさえ大変なのですよ、冗談ではありません」という母親の言葉にはかなくも崩れ去ってしまったかのように見えたが、そこで天はこの幼くも情熱的な少女に味方をする。
すっかり気落ちした少女は、町の若者が夕方になると暇つぶしによく集まる大きな樹の下にカンガルーのトウィンクと行き、ポケットからハーモニカを出して吹き始めた。すると一分もたたぬうちに人々が彼女の周囲に集まり、ハーモニカを賞めそやし次々に曲のリクエストを始めたのである。ふと気がつくとトウィンクの足元には銅貨がいくつも落ちていた。そして、それをかき集めてみるとちょうど六ペンスになった!
こうして野生児アイリーン・ジョイスは、タスマニアの雄大な自然の中で夢にまで見た憧れのピアノに、とうとう触れることができるようになった。それも自分の力で。
間もなく尼僧たちは、アイリーンの桁はずれな集中力とねばり強さに驚嘆の声を上げるようになる。長い間カンガルーを唯一の遊び相手として野山で過ごしてきたアイリーンは、他の町の子供たちに比べればきちんとした躾《しつけ》もなされておらず、いっぷう変った子供だった。明るい栗色の髪にやせっぽちで小さな身体つき、長い手足、着ているものはといえばほとんどボロ同然の一年じゅう同じもの。そのいっぷう変った子供がいったんピアノの前に座ると、その姿はまたたく間に周囲のすべての人々の心を率直に感動させる或る不思議な説得力を発揮した。
「彼女はピアノを学ぶまえから、生まれながらのピアニストだったのです」
とその頃の人々は語っている。
そしてその不思議な力に感動した人々は、アイリーンの貧しい父母に代って「六ペンス」を援助するようになる。楽譜を買うお金さえもないアイリーンは、友だちに楽譜を借りて週末の間にそれを頭の中に暗譜してしまった。彼女に楽譜を与えると、まるで乾いた砂が水を吸収するように、あっという間に憶えて自分のものにしてしまった、と後年尼僧の一人は語っている。
やがて一年もたつ頃には、もはやこの小さな田舎町に住む尼僧たちにとっては、アイリーンの才能は手に負えないものとなってしまっていた。もう彼女たちには、教えられることは何一つ無かったのである。こうしてアイリーンは、更に遠く離れたパース市にあるロレト・コンヴェントという寄宿舎に送られることになった。そこには、もっと経験豊かな尼僧たちがいるはずであった。
カンガルーと別れて
オーストラリア出身の音楽家といえば古くはお菓子の「ピーチ・メルバ」でも知られたソプラノ歌手のメルバ、そして最近では同じく歌手のサザーランドが想い出される。ピアニストとしては、我が母校ジュリアード音楽院の校長を務めたハチスンが、多分オーストラリアから生まれた最初の本格的ピアニストであろう。このメルボルン出身のアーネスト・ハチスンもいわゆる天才児の一人で、わずか十二歳のときにかのメルバと共に演奏旅行を行った。そして活発な演奏活動をくり広げたが、後年はアメリカに渡ってもっぱら教授活動に全力を注いだ。彼はボルティモアのピーボディ音楽院で教えたのち、ジュリアードの学部長となり、そして最終的には校長となった。
このハチスンより若い世代に、パーシー・グレインジャーという極めて風変りな青年が登場した。とてつもない長身でもじゃもじゃと長い髪をたらした、今でいうとヒッピー風の熱狂的菜食主義者で、演奏旅行をするのもナップザック姿という調子であった。しかし彼は、二十世紀を代表するヴィルチュオーゾの一人であったことは誰しもが認める事実である。彼はかのフェルッチョ・ブゾーニの弟子であり、北欧のピアノの詩人グリーグが最も信頼した友人であり、ドビュッシーやアルベニスなどの近代ピアノ作品のすぐれた奏者であると同時に、自身も作曲家であった。
私は彼の自作自演のレコード――ピアノロールからの復刻盤――を持っているが、それらの多くは、二十世紀前半にあっては一種のポピュラーソングのように広く親しまれていた。軽やかでいきいきとしていて、聴いていると心身共に健やかになるような作品である。グレインジャーは一九六一年に七十九歳で旅先のニューヨークで亡くなっている。
このグレインジャーがアイリーンの住むパース市を演奏会で訪れたのは、一九二四年のことであった。そこで彼は一人の尼僧の訪問を受ける。
「私たちが指導している子供たちの中に一人、天才児としか思えない少女がいます。ぜひ聴いて頂けないでしょうか」と尼僧は懇願した。グレインジャーは尼僧の頼みを聞き入れたばかりか、学校に来て小さなリサイタルをすることまで約束した。
グレインジャーはアイリーンの演奏が始まるとすぐに、彼女の内に並はずれた大きな才能がひそんでいることを見抜いた。なんという没頭、なんという喜びでこの小さな少女はピアノに向っていることだろう。アイリーンのはつらつとした音の輝きは、グレインジャーの胸に率直に訴えかけてきた。彼はのちに新聞のインタビューに応えてその時のアイリーンをこう表現している。
「私が今まで聴いたあらゆる子供の中で、最も超能力的な凄い才能を備えた子供である」と。
アイリーンの才能は、それから半年後もう一人、これも世界的に著名なピアニストによって賞讃されることになる。ドイツのピアニスト、ウィルヘルム・バックハウスである。
バックハウスはアイリーンを聴いたあと、燃えるような眼差しをきらめかせながらこう語った。「私は過去二十年これほどの子供に出会ったことがない」。そして、その場に居合せた人々に向って、説得するかのように力強く何度もくり返した。「この少女をライプツィヒに送りなさい。彼女のような才能をのばし得るのはライプツィヒ音楽院しかない」。
それから間もなくパースの町には「アイリーン・ジョイス・ファンド」というのが開設され、町じゅうの人々がこの、オーストラリアの生んだ天才児アイリーンをライプツィヒに行かせて勉強させるために協力し始めることとなった。
こうして十四歳になったばかりのアイリーンは、学校の尼僧たちをはじめ町の人々の大きな愛情と期待に包まれてライプツィヒに向って旅立つ。ただ一つの気がかり、カンガルーのトウィンクを、タスマニアのダニエルおじさんに託して。
12 銀幕スターになったピアニスト
ライプツィヒ音楽院
ライプツィヒ音楽院は、一八四三年にメンデルスゾーンによって設立された音楽学校である。第二次大戦後の東西分割でドイツは、ハンブルク、デュッセルドルフといった商業都市は西へ、ライプツィヒ、ドレスデン、ワイマールといった文化都市は東に併合されるが、社会主義体制下の経済力の衰退と共にこれら東の文化都市は凋落《ちようらく》の一途をたどってしまった。今思えばアイリーンが留学した一九二〇年代は、ライプツィヒがその芸術的な伝統の輝かしさと魅力を誇った最後の古き佳《よ》き時代だったのかもしれない。
当時の音楽院には世界じゅうから秀才異才が年齢の区別なく集まっており、激しくしのぎを削っていた。アイリーンに留学を勧めたバックハウス自身もこのライプツィヒに生まれ、音楽院で学んだ一人である。十四歳のアイリーンは、オーストラリアの小さな田舎町からいきなりこうした環境に、頼るべき大人もなく放り込まれてしまったのだった。
ここで彼女はバックハウスの推薦によってマックス・パウエル教授のクラスに入る。その最初のレッスンを、アイリーンは一生忘れないだろう。故郷における尼僧の先生と生徒が一対一で向い合う優しいレッスンとは違って、パウエル教授のレッスンはドイツ的な恐ろしいほど厳格な雰囲気に静まり返っていた。レッスンを受ける生徒は、他の生徒たちが身じろぎもせず見つめ聞き耳を立てている前で、自分の練習の成果を披露しなければならない。彼らはアイリーンよりずっと年上で、経験も積んでいた。そして、その誰もがアイリーンよりはるかに高度な技術をもち、彼女がかつて聴いたこともないような難曲をケロリとして演奏していた。
極度の衝撃と自信喪失と緊張の余りほとんど気が遠くなりそうなアイリーンがそれでも何とか演奏し終ると、集まっていた生徒たちの中からはささやきがもれた。
「なんて下手なんだ」「およそ低いレベルで、お話にならない」「幼稚園児がまぎれ込んできた、というかんじだな」「オーストラリアから来たそうよ」……。
そしてパウエル教授は、いささかも関心を示さない表情でアイリーンを一瞬見つめたかと思うと一言も意見を述べず、それで憧れのライプツィヒ音楽院における彼女の最初のレッスンは終った。「オーストラリアの生んだ天才少女」も、ライプツィヒでは通用しなかったのである。
こうしたエピソードを調べていくうち、私はつい人ごとのような気がしなくなって、胸がいっぱいになってしまう。この私も、アイリーンほどは若くはなかったけれど十八歳でニューヨークのジュリアード音楽院に留学した。その時私は既に日本の各音楽コンクールを総なめにして演奏活動も開始し、上野の東京文化会館大ホールを満員にしてのデビュウ・リサイタルもとっくに済ませたあとだった。私が学ぶことになったレヴィン教授は、幸いなことにアイリーンのパウエル教授とは違って温かな優しいお人柄だった。私が先生に命じられるままにいくつかの作品を弾くと、先生はにっこりと微笑《ほほえ》みながら仰言《おつしや》った。
「まあ、なんという素晴しい才能でしょう。音楽的なこと!」そして彼女はやさしく微笑みながら続けたものだった。「でも、その弾き方は基礎から直しましょうね」。
それから半年、私はドフナニーという世にも恐ろしく退屈な指の教則本――それはチェルニーやクレメンティの教則本のような音楽の体さえも成していなかった――を与えられ、くる日もくる日も指の形、手首の高さ、指のあげ方さげ方、などということばかりを中心にやらされる破目になってしまった。先生によれば、私の演奏は大変によい魅力に溢れてはいるのだが、他の日本人のピアノ学生たちと同様に指を高く上げてまるでタイプライターを叩くように弾く、それでは音のニュアンスやヴェルベットのようななめらかなレガートは作り出すことはできない、ということだった。
ところでこうした技術の矯正というのは、口で言うのはたやすいが、三歳のときから鍛えられてすっかり身にしみついてしまっているものをとり除くのは、並み大抵のことではない。恥かしながら私はそれから暫くのあいだというもの、自信喪失とショックでピアノを弾くこと自体もできなくなり、ただ茫然とベッドに腰をかけてぼんやりと壁を見つめる、といった状態におちこんでしまったものだ。
アイリーンは十四歳で、一番頼りとなるべき教授には冷淡に扱われ、しかもそんな彼女を優しくなぐさめたり励ましたりしてくれる大人もいなかった。オーストラリアの故郷には、貧しくとも優しい両親がおり、尼僧たちや仲の良い友だちがいた。そして誰よりも大好きなカンガルーのトウィンクが、いつも彼女の傍らで鼻をすり寄せていた……。
孤独と失意の中で、それでも彼女は猛然と練習を開始する。それからの三年間、彼女は大病をしたり親切な人に助けられたり、更には結局のところパウエル教授とは別の、もっとアイリーンの才能を認めている先生に変ったり、と、さまざまな体験をするのだが、ともかくも驚くべきことに彼女は、このライプツィヒでの三年間に七十曲以上ものコンチェルトを含めた厖大な数のレパートリーをものにしてしまうのである。
グラモフォン
しかし、ライプツィヒでの三年間は、アイリーンに結局のところレパートリーの蓄積以外のものはもたらさなかった。彼女の演奏家としてのキャリアはその後ロンドンで始まることになるのだが、そこにはドイツ音楽の伝統の厚みと過去の栄光にどっしりと束縛されているライプツィヒよりも、コスモポリタンな雰囲気に溢れたロンドンの方がアイリーンを受け容れやすかったということもあったかもしれない。そしてもちろん、オーストラリア出身のアイリーンにとっても英国の方がずっと親しみやすかったことであろう。いずれにせよロンドンに移ったアイリーンは、クララ・シューマンの弟子であったデ・ラーラ女史に、更にはベルリンに本拠を構えていたアルトュール・シュナーベルについて一層の研鑽を積む。
そんな或る日、彼女は故郷の父親から久しぶりに一通の手紙を受取った。
「お前がヨーロッパに渡ってから四年に近い歳月が流れました」と父は書いてきた。「ずい分長い間、お前に会っていないけれど、元気ですか。ピアノの修業の方はうまくいっていますか? ヨーロッパには、オーストラリアより上手い人がいっぱいいることでしょう。そんな中で小さなお前が、果たしてちゃんとやっていけるかどうかと思うと、お父さんたちは心配で眠れません。町の人々も今ではアイリーンはヨーロッパで挫折してしまったのではないか、と言い出す人までいる始末です……」
アイリーンはその手紙に心を痛め、どうやったら父親を初めとした自分を支援してくれるパースの人たちに、自分の修業ぶりを伝えることができるだろうかと頭をひねる。そんな彼女の目にとまったのが、或る小さな新聞広告であった。それはグラモフォン社が始めたプライベートなレコーディング・スタジオの広告で、そこには「歌でも何でも、あなたの得意な演奏をレコードに致します」と書かれてあった。料金は高額で、とてもアイリーンに払えるようなものではなかったが、アイリーンは故郷の人々に自分の勉強ぶりを分って貰うためには、レコードを作って送るのが一番いいと思った。そしてそのために彼女は、レストランで皿洗いやウェイトレスをして、お金を貯めることに心を決めるのである。
半年間彼女は働き、やがて目的の額が貯まった。グラモフォン社のスタジオは、自分のレコードを作ってみたいと願う素人のど自慢の人々で、結構繁盛していた。録音技師たちは、客たちの調子っぱずれの歌やうなり声にうんざりとしていて、誰もアイリーンのことになど注意を払う者はいなかった。やがて彼女の番がきた。古びたグランドピアノがスタジオの一隅に置かれ、マイクロフォンが適当にセットされる。誰も本気で音響などに気を配っている者などいない。どっちにしろ、彼女もまた|ど《ヽ》素人の下手糞に違いないのだから。
アイリーンはピアノに向って、静かに弾き始めた。曲はリストの「ラ・レジェレッツア」とポール・ド・シュルーザーの「エチュード変イ長調」。共に華麗なヴィルチュオジテに溢れた名曲である。
私はいま、その同じ作品を彼女が二十一歳になってから吹き込み直した盤での演奏で聴いているのだが、これはもう、何といったらいいのだろう。ホロヴィッツを髣髴《ほうふつ》とさせるような硬質でクリアな音質とスピード感、ほとんどペダルを使用しないで縦横無尽に弾きまくるその自由闊達さ、やや時代がかった甘くロマンティックなテンポのゆれ方。更にそこには何か聴く者を酔わせる独特の昂奮があって、巻き込まれてしまうのである。私は昨年、春のチャイコフスキー・コンクールに始まって秋のショパン・コンクールに終る四つの国際的大コンクールの審査で延べ六百人に近い若手ピアニストの演奏に接したが、その中にこの二十一歳のときのアイリーン・ジョイスが示したほどのクリスタル・クリアの超絶技巧と音楽的魅力を備えた若者が一人でもいたであろうか。
こうした技巧は、本人の努力の賜物、というよりもむしろ、持って生まれた天性のものなのである。あのタスマニアの自然児アイリーン、練習のための満足なピアノさえも持っていなかったアイリーンのどこに、これほどのめくるめくような才能がひそんでいたのだろう。まさに信じられぬ思いである。
信じられぬ思いといえば、グラモフォン社の技師たちも同様だった。彼らはアイリーンが演奏を始めるやいなや、その場に釘づけになってしまった。何というどえらいグランド・ヴィルチュオーゾが、このスタジオに紛れ込んできたのか! アイリーン・ジョイスだって? 聞いたこともなければ見たこともない名前だ。しかし、彼女こそは隠れたる未来の大スターかも知れない……。
演奏が終ったとき、彼女の新しい人生がスタートした。グラモフォン社が彼女に白紙の契約書を持ってきたのだ。曲目は何でもよろしい。こちらからの注文は一切つけません。これから毎月一枚ずつレコーディングをしませんか?
念のために言うなら、当時はまだ七十八回転のSPレコードが一般に普及し始めて間もない時代であった。だからレコード一枚といっても、今日のLPやCDとは違ってほんの数分の短い小品を裏表一、二曲ずつ、といったところがせいぜいである。とはいえ、毎月一枚とはグラモフォン社も思い切ったことを言ったものだと思う。そしてアイリーンは本当に、それから十年ほどの間におびただしい数のレコーディングを行うのである。
天馬空を行く
このグラモフォン社でのレコーディングにおけるエピソードは、すぐさまロンドンの音楽界で評判となった。
素晴しい才能を持った少女が出現した。彼女はオーストラリアから来ていて、名前はアイリーン・ジョイス、まだ十八歳、若くそして美しい……。
その噂は、イギリス音楽界の重鎮である指揮者のヘンリー・ウッド卿の耳に入る。サー・ヘンリーは、ちょうどそのとき、クイーンズホールで彼が指揮をとる予定のプロムナードコンサートのソロイストを探していたのだった。
こうしてアイリーンは、サー・ヘンリーの指揮のもと、夢にまで見たロンドン・デビュウを果たすこととなる。曲目はプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番。このプロコフィエフの名作はまだ発表されてから日も浅く、一般的には新しいタイプの難曲として馴染もなく、また演奏する人もなかった。しかし、十八歳のアイリーンの天馬空を行くような痛快な演奏は、ロンドン子たちに昂奮を巻き起すこととなる。デビュウは大成功となった。
裸足でタスマニアの野山を駆け廻っていた少女は、ピンクのシフォンのドレスを優雅にまとって、今やロンドン音楽界の新しいスターとなったのだ。
それからの彼女のキャリアは、文字通り旭日昇天の勢いであった。ロンドンをはじめとしたイギリス各地でのオーケストラとの共演、リサイタルの数々。演奏会の主催者は彼女を奪いあい、そして聴衆は彼女に熱狂した。ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ、といったヨーロッパの名門オーケストラからの招聘に続き、アメリカ更にはソヴィエトでの長期にわたる演奏契約の話もとび込んできた。そして、そうした栄光を手に故国オーストラリアへの凱旋公演。
彼女の七十曲以上にも及ぶコンチェルトのレパートリーは、バッハ、モーツァルトといった古典から当時の現代曲までと幅広く、それがまた過密なスケジュールを可能にした。その最たるものは、ロンドンにおける「協奏曲の夕べ」であった。彼女は一夜にしてなんと四曲ものピアノコンチェルトをオーケストラと弾いたのだ!(残念ながら、何を四曲弾いたのかは残されていない)。私も二夜で六曲、というのをかつてやったことがあるが、一夜で一気に長いピアノコンチェルトを四曲も、というのは弾く方はもとより聴く方にとっても相当にしんどいことだろう。なにしろ、ブラームスやラフマニノフの協奏曲の中には、一曲で五十分近くかかるものまであるのだから。
アイリーンの生活は演奏会から演奏会へ、旅から旅へ、と超人的なスケジュールに追いたてられる毎日となった。しかし、輝かしさを増したのは、彼女のキャリアばかりではなかった。アイリーンは舞台に出る度に、まるで小さな蛹《さなぎ》が脱皮して蝶に生まれ変っていくかのように美しくなっていった。それも類い稀な美しさを発揮し始めたのである。
細く豊かな弧を描いた眉と、その下に大きくにじんだように潤んだ淡い眼差し、形のよい鼻ときりっと結ばれた小さな唇、そしてミルク色のはだ……。グレタ・ガルボやダニエル・ダリュウといった当時のスターたちを思わせるようなフェミニンなメークアップの下に、ただ美しいばかりではない、いきいきとして気紛れでいたずらっぽい煌《きら》めきが見えかくれする。小柄ながらすらりとした容姿はきわめてエレガントな装いに包まれてはいたがみるからに敏捷そうで、陰鬱なロンドンの空の下に突如タスマニアの明るい太陽が差し込んできたかのような眩《まぶ》しさに溢れていた。その一見華奢とさえもみえる姿がいったんピアノを弾き始めると、絶妙なコントロールで華麗な展開をくり広げ聴く人の心を昂奮させる。なんというたくましい響き、その容姿となんと対照的なことだろう。
毀誉褒貶
芸術あるいは芸術家の評価には、そもそも極めて複雑な要素が錯綜して関わるのは改めて言うまでもない。スポーツのような点数や数量による採点が基本的になじまないのはもちろんのこと、善悪とか美醜といった比較的に普遍的な価値基準も単純には通用しない。醜くても、いや醜いが故に美しい、といった評価もここにはあり得るのだから。
そこに更に「受け手」の状況がある。「好き嫌い」というだけでなく、それ以前に、その芸術あるいは芸術家とどういう時、どういう形で出会うか、ということだ。そして私には、これは演奏家の場合にことに重要となると思われる。
とりわけその、椅子に腰かけての左右対称の演奏姿勢のせいか、演奏家のなかでも最も寿命が長いと噂されるピアニストの場合は、その生涯を通じて実にさまざまな場所で、そしてさまざまなコンディションのもとで、それぞれ違う一回限りの生きた演奏を行い、厖大な数の、しかもそれぞれの「人生の時」にある聴き手と「一期一会」の出逢いをする……。或る時代を生きた、または生きている演奏家への評価が、そういった厖大な「一期一会」の一種の集積だとすれば、そこには目のくらむような何かがある。
ところで問題は突然に単純になるが、アイリーン・ジョイスが絶世の美女だった話に戻ろう。結論を急げば、アイリーン・ジョイスは、その余りの美貌ゆえの毀誉褒貶によってピアニストとしての評価を歪められ、開花成熟への道を自ら閉ざしたかに見えるのである。
世界の南の端っこのオーストラリア、そのなかでも辺境のタスマニア島で生まれ育った野生の一少女が、ヨーロッパの一大中心地ロンドンに突如デビュウし、西欧文明の生んだ精華であるクラシック音楽の名ピアニストとして爆発的な成功を収める。それだけでもセンセーショナルな事件であるのに、その少女が類い稀なる魅力を備えた美貌の持主であったからたまらない。彼女の周りには、公私ともにドラマティックな物語が巻き起ることになった。
なかでも裕福な資産家であり映画プロデューサーでもあるクリストファー・マンとの出会い、そしてのちの結婚は、文字通り運命的なものであったといえるだろう。実はアイリーンは二十代で初めての結婚をしている。その夫は、第二次大戦中に戦死をしたといわれる。クリストファー・マンに出会ったのは、彼女がピアノの若き女王としてイギリス音楽界に揺るぎない人気と名声を築き上げ、名実共にその女性としての成熟期を迎えた頃のことであった。
クリストファーはアイリーンの美しさに心を奪われ、そのアイリーンの美貌をスクリーンに活かしたいと思うようになる。はじめはほんのゲスト出演、やがては相当な演技力を必要とする配役での出演。彼女の出演した映画は十数本に達するといわれているが、どうやら名作として後世に名をとどめるほどの内容のものは一つとしてなかったらしく、また日本に知られることもなかったようである。しかし、当時のイギリスやオーストラリアなどでは、かなりの話題を呼んだものであるといわれている。それはそうだろう、第一線のコンサート・ピアニストとして多くの音楽ファンの心をつかんでいた美貌のピアニストが、突然映画スターに変身したのであるから。
更にクリストファーは、映画プロデューサー的感覚でアイリーンの演奏活動に関しても細かく口をはさむようになる。リサイタルではなぜバッハもモーツァルトも、ドビュッシーもファリヤもシェーンベルクもストラヴィンスキーも同じ一枚のドレスで弾くのかね? もっと雰囲気というものを、考えるべきじゃないか、各作品ごとに衣装も変えたらどうだろう? そして実際にアイリーンは或るロンドンでのリサイタルで、一曲ごとに衣装を変えた。当然のこととして、こうしたことが、そして度重なる映画出演などが、次第に音楽ファンの顰蹙《ひんしゆく》と反撥を買うことになったのは想像に難くない。熱狂的な音楽ファンが、音楽を神聖化するあまり一種の事大主義的な雰囲気をかもし出して一般の顰蹙を買うことも時にある。しかし、音楽を中心に演奏家と聴衆が「一期一会」の出会いを行う演奏会が、一種の宗教的祭典や儀式にも似たものとなるのは根本的には自然なことなのである。
かくしてアイリーンは、ピアニストとして脂の乗り切ったまさにその時期に、凄まじい毀誉褒貶の渦のなかへ巻き込まれていくことになってしまった。
現在、アイリーンのステージでの容姿も銀幕での美貌も全く知らない私たちは、彼女のレコードを聴いてその見事な才能に極めて客観的な評価を与えることができる。しかし、今日でも欧米でアイリーン・ジョイスのことを記憶に留めている音楽ファンは数多いが、彼らのリアクションは、ニューヨークの著名な音楽評論家で私の友人でもあるハロルド・ショーンバーグの次の言い方に尽きるように私には思える。彼は肩をすくめて言った。「アイリーン・ジョイス? ああ、あの映画スターか?」。
一九六三年、アイリーン・ジョイスはピアニストとしての活動から突如引退してしまう。右手を痛めたことがその理由とされているが、実際は神経過労であった。マスコミや音楽ファンとの接触を一切絶って、彼女の行方はロンドンの深い霧の中に埋没してしまったかのようだった。
ピアニストの安川加寿子氏は、何年か前にシドニーの国際ピアノコンクールで、アイリーン・ジョイスと出逢われたという。アイリーンは英国からデイムの称号を授与された唯一のオーストラリア出身のピアニストで、シドニーのコンクールでは名誉審査委員長を務めていた。
「ずい分おしゃれなお婆ちゃま、という感じでしたよ、綺麗にメークアップもなさって」と安川氏は回想している。「私の痛めた手をご覧になって、あら私もよ、と手をお出しになったりして」
私が半年ほどまえにそのシドニーの国際コンクールの運営委員であるワレン・トムソン氏から耳にした話によれば、最近のアイリーンには老人独特の記憶の混乱や喪失がずい分進行しているらしい。ロンドンで彼女と親交のある音楽評論家のブライス・モリソン氏も、「つい二カ月ほど前に会ったが、もう彼女から昔の話を聞き出すことはできなくなってしまった」と顔を曇らせる。
私は来年の六月、そのシドニーの国際コンクールに招かれて行くことになっているのだが、その折にはもう彼女とは話すことができなくなってしまっているのだろうか。文字通り波瀾万丈の生涯を送ってきたアイリーン自身の口から、私はかねがね或る一つのことを是非聞いてみたい、と思っていた。それは彼女が少女時代にペットとして愛したカンガルーのトウィンクの、その後の消息のことである。ライプツィヒへと留学するアイリーンがトウィンクを託したのは、タスマニアのダニエルおじさんだった。愛する女主人と別れて、トウィンクは幸せに暮らしたのだろうか。
この文章を書いた三カ月後、一九九一年三月二十一日、アイリーン・ジョイスは七十六歳で死去した。AP電は、この「|元ピアニスト《ヽヽヽヽヽヽ》」の死を次のように簡潔に伝えた。
「オーストラリアのタスマニア島生まれ。英国移住後、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のピアノ奏者などとしてコンサートで活躍、一九六三年に引退した。英国映画『逢びき』や『第七のベール』などのサウンドトラックを担当した」
13 キャンセル魔にも理由がある
虎の皮
かつて、と明確に言うべきなのだろうと思うが、かつてはピアニストたちの奇行とその伝説が仰ぎ見る夜空の星のようにいっぱい輝いていた。
牛乳の紙パックをご存知だろうか。ガラスの瓶に代っていまや「スーパー」の店頭を占領しつつある例の細長い角形の紙容器である。注目して欲しいのは、その口の開け方だ。四方から折鶴のおなかのように折り畳まれ糊《のり》づけされた部分を右または左の窪《くぼ》みからはがして注ぎ口を作って開く。
まことに簡にして要を得た方式だが、これを発明したのは、かの大ピアニスト、ウラディミール・ド・パッハマンであると言われている。
ド・パッハマンは十九世紀末から二十世紀にかけて一世を風靡した巨匠で、晩年はアメリカで牧場を買って住み、牛の大群の飼育を楽しんだ。八十歳に近くなっても牛の乳しぼりに励み、その牛乳をしぼるついでに、この紙パックを考案して特許まで取得したのだという。
この偉大な「コロンブスの卵」風発明を奇行と呼ぶのは問題があると思うけれど、もちろんド・パッハマンは、ピアニストそのものとしても奇行の人で名高かった。
演奏中に間違うと、自分の間違った方の手をもう一方の手でピシャリと叩いて大声で叱る。ショパンの名演で世界を沸かせた人だが、そのショパンを弾きながら途中を忘れて盛大に間違え、自分で即興的に「作曲」して弾き終ったあと、聴衆に向って、この方がいいのだ、と演説した。彼のリサイタルに解説や演説はつきものだったといわれる。それだけでなく、演奏中に熱が入ると手だけでなく口も八丁で歌ったりウナッたり……。
嘘でしょうという人のためには、証拠を示すことができる。彼の遺した数少ないレコードのうちに、間違った手をピシャリと叩いて叱っているところや、自分の演奏の出来映えに思わず「ブラボー」とつぶやいたりしているところが、すべて音として残っているのである(RCA赤盤復刻シリーズ・RVC―一五七三M)。
弾きながら歌う、或いはウナルといえば、今から八年まえに死んだグレン・グールドも有名である。彼は彼一流の完璧な論理を以って、完璧な自己表現としての演奏のためには聴衆は一種の夾雑《きようざつ》物であると考え、ついには演奏会という形式を拒否してレコーディングだけにその演奏活動を限定するに至った。
その彼のレコードには、彼のそのウナリ声も正確無比に残されているが、そのため新譜発売日のあとにはレコード会社には苦情が殺到した。「あの、雑音が入っているのですが」「不良品じゃないでしょうか」そこで、レコード会社の社員たちは、そのグールドのウナリ声もまた彼の自己表現であり決して夾雑物ではない、と説得するのに苦労したという。
彼は八月のニューヨークの猛暑の中でも、オーバーコートを羽織りマフラーを首に巻き、手袋をはめていた。そして誰かがうっかり握手を求めようとすると、震え上って「ドント・タッチ・ミー」と言った。みんな本当の話である。何故なら「ドント・タッチ・ミー」の目撃者の一人はこの私なのだから。もっとも、グールドと共演したことのある指揮者の朝比奈隆氏によれば、グールドの寒がりは血糖値の低いせいではないかということになる。なにしろちっともものを食べないのだそうだ。
彼の虎の皮の話も有名だ。レコーディングの時グールドは、専用の古いスタインウェイのピアノと古い椅子を録音スタジオに持込むのだが、その際必ず虎の皮を抱えてきたという。椅子の上に敷くためだ。かつてグールドの録音に立会ったことのあるソニーの大賀典雄氏によれば、ひどく古ぼけた雷様のパンツみたいな虎の皮だったそうだ。
話は前後するが、椅子といえばド・パッハマンにも得意のパフォーマンスがあった。彼は演奏会で、椅子の高さをいつまでも上げ下げした挙句、楽屋から一冊の楽譜を持ち出してきて椅子に乗せ、それでも駄目でついにはその楽譜の一ページを破って椅子に置き、やっと満足してみせる、という儀式をやった。このパフォーマンスは人気を呼び、のちにさまざまなバリエーションができた。例えば楽屋から楽譜を持出す代りに、客席をぐるっと見渡してこれぞと思われる美女を選び、恭《うやうや》しく呼びかけた。
「マダム、お手になさっているプログラムを拝借願えませんでしょうか」
いっそ魔術師
二十世紀もあと僅かとなった今日、音楽家そしてピアニストたちの奇行や伝説が極端に少なくなったという声が、時に嘆きの吐息とともに聞かれる。
それだけ桁はずれの才能がいなくなって、みんな小粒になってしまったのだ、といってしまえばそれで終りともなる種類の話だが、これには別の角度からもかなり説得力のある背景説明が従うので困ってしまう。クラシック音楽の大衆化と交通手段の驚異的発達の両者が相まって、いまや音楽家たちは世界狭しと飛び廻り、世界じゅうの音楽ファンの前にその姿を現わす。そうしてご存知情報化社会のまっただ中にさらされることで、ささやかな伝説のそもそもの母胎ともなるべきいささかの神秘性も奪われてしまう、というわけである。
となると、「いささかの神秘性」も奪われてそこに現われるピアニストの姿、となるとなんだろう。そう、何やらひたすら多忙そうなこの現代にあって、依然として毎日六時間から十時間も練習に費す――それも運動選手と違ってなまじっか「寿命」が永いせいで、殆ど一生の間――などというのは、勤勉な優等生の典型みたいなものでそもそもお話にならないではないか。
私は、私が時々、それも突然にアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリという人のことを思い浮かべるのは、実は大略以上のような事情と関わりがあるのではないかと考えてきた。私はほとんど半年に一度ほどの頻度で、この現在もまだ生きているミケランジェリのことを考える。そういえば、一体いま何をしているのだろう、あの人は、と考えて、次いで、ずいぶん久しくその演奏を聴いていないなあ、と思う。本当に久しく、そう、ざっと二十年近く聴いていないのだ。
言ってみればミケランジェリは、「お話にならなくなった」現代のピアニストのなかにあって、ほとんど唯一にして最大の奇行と伝説に彩られた巨匠である。しかしそれはただ、彼がその悪名高い演奏会の「キャンセル魔」としての実績も含んだ上で、要するにあまり人前に、この情報社会のただなかに出てこないということの結果なのであろうか。俗に「女房と召使いの前に英雄はいない」というように、巨匠を彩る伝説も要は情報からの隔離によって生まれるものであるとすれば……。
それにしてもミケランジェリという名前は、私がもの心ついた頃に既に伝説的な響きをもっていた。私が最初に買った彼のレコードは、それはもう二十数年も前のことだったが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第四番で、ラフマニノフの五曲あるピアノとオーケストラの作品からたった一曲を選んだのだとしたら、それはいっぷう変った選択だった。
しかもそのラフマニノフの演奏は、ロシアン・ピアノスクールのピアニストたちの多くが発散する土臭さ温かさあるいは鈍重さとは一味二味も違っていた。桁はずれな巨《おお》きさを感じさせる構成感、透明で感情の抑制がよくきいた完璧な指。それだけならば洗練されて知的でクールな演奏ということになろうが、彼の音質殊に強音での低音の響きには聴いているこちらの心臓がどきんとはね上るような衝撃的なものがあって、それが直接感情をゆさぶった。それは恐ろしいほどこちらのテンションを要求する演奏だった。こんな演奏にひとたびとり憑かれたら、身を誤ってしまうだろう。
私はトリ肌の立つ思いで、改めてその演奏家の写真を眺めたものだった。
広い額と神経質そうにきちんと後ろに櫛《くし》でなでつけられた髪、気難しさとやや暗さの混った眼差し、意外にもちょっと気取ったチョビひげ……。
ハンサムである。全体のイメージはピアニストというよりも、もし甘い表情を見せていたならハリウッドの古きよき時代の二枚目スターとも見間違えたろうし、あるいは私のイメージにおけるモンテ・クリスト伯、あるいはいっそ魔術師。シルクハットをかむり黒いマントを羽織ったなら、燕尾《えんび》服の懐ろから白い鳩が飛び出してくるのではないか。そんなことをとりとめもなく思いつつ、しかしその断固として人を拒絶しているような厳しい横顔には圧倒された。
こんなピアニストに会ってみたい、会って生の演奏を聴いてみたい……、と私は切実に思ったことを覚えている。
二人の女性にはさまれて寝る?
さてこの八月、私はイタリアのブゾーニ・コンクールに、審査員として招かれた。
ブゾーニ・コンクールは、四年に一度のチャイコフスキー・コンクールや五年に一度のショパン・コンクールとは違って毎年開催されるため、規模はそれほど大々的ではないが、イタリアでは一番重要なコンクールとされている。
このコンクールにその名が冠されることになったフェルッチョ・ブゾーニは、十九世紀後半から二十世紀初めにかけて活躍したイタリアの大ピアニストで、ピアノに「形而上学を持ち込んだ」などとも言われた興味深い人物であったが、今は残念ながら彼について触れるひまがない。
さて、このコンクールの催されるボルツァーノという町は、スキーで名高いオーストリアのインスブルックから車で一時間半ほど山越えをしたところにある。ドイツ風にボーゼン、といった方がヨーロッパのあの近辺では通りがいいかも知れない。日本の交通公社の旅行案内書などにも出ていないほどの小さな山あいの町だが、南チロルの山々に囲まれて古くからオーストリアとイタリアを結ぶ街道の宿場町として栄えてきた。イタリアの町ではあるがドイツ語系の人口が多く、両国語が公用語となっているほどである。
この町の中心にドメニコ派の古い僧院と教会がある。十四世紀に建立された初期ゴシック様式の教会で、バロック風の回廊でつながれた僧房は時代の変遷と共に病院として使用されたりもしたが、現在は大幅に手が加えられて、クラウディオ・モンテヴェルディ音楽院としてコンクールの会場にもなっている。蛇足ながら、モンテヴェルディとは十六世紀から十七世紀にかけてのイタリアを代表する作曲家の名前である。
さて、私はボルツァーノに着いて早々、一九四八年にこの山間の田舎町でこのコンクールが始められたのは、なんとその頃この町に住んでいたあのミケランジェリの手によることを知った。
ミケランジェリは一九三九年弱冠十九歳でジュネーヴ国際コンクールに優勝するが、その後第二次世界大戦での参戦による一時中断を経て四五年にステージにカムバックし、それから僅か二、三年のうちにヨーロッパ各地でセンセーショナルな成功を収めた。そして四八年にはアメリカ公演を行い大成功をみる。このまさに世界ピアノ界の寵児として旭日昇天の勢いにあった頃、なんと実は彼はこの辺鄙《へんぴ》な田舎町の小さな音楽院で教えていた、というわけだ。
一体また何故、とつい思うけれど理由は単純にして明快、彼がこの町に住む年上の人妻に夢中になったからであった。と私はコンクールの合間に盛大に行った取材調査の結果知った。生きていれば是非ともその人妻に会ってみたい、と私は思ったものだが現在ミケランジェリが七十歳ということから推してやめにした。
もっとも驚くことはない。ミケランジェリについては四度結婚したとか、いや、あれは五度目であるとか、それぞれちょっと一緒に暮らしただけだとか、いや、みなそれぞれがかまびすしい。イタリアの法律が改正されてカトリック信者の離婚が認められるようになったとき、彼はそれまで長年暮らしてきた夫人と正式に別れたという話がある。その折に双方の間に入って離婚にこぎつけるよう尽力したといわれるローマの楽器商がいた、とされるが、これも既にこの世を去って久しく、真疑のほどは確認できない。
現在は二人の若い女性と暮らしていて、その二人が一日二交替で外部からの接触から彼をガードしている、と巷間では噂されている。ミケランジェリはその二人の女性にはさまれて三人で寝ているのだ、という説が飛びかうかと思えば、いや、あれはただの秘書と看護婦だ、という声もある。憶測が憶測を呼び新たな伝説を作っていく。
それもこれも、彼がこのところ心臓手術などであまり演奏活動を行っていないことと、十何年間というもの「公式」にはイタリアに一歩も足を踏み入れていないことによる。「公式」には、というのは、これについても「非公式」なる諸説が紛々だからである。そうしてイタリアに帰らない、いや、帰れない理由は「税金」にある、といわれている。日本円にして百万ちょっとほどの額を滞納していて、イタリアの法律によって、イタリアに一歩でも踏み込んだが最後、即逮捕されることになっているのだそうだ。百万ほどのお金をミケランジェリほどの人が決して払えないわけはないだろうに、彼は何やらややこしいいきさつによって自分は断固として払わない、と宣言してしまったのだという。逮捕なんてまっぴらご免だから、従ってイタリアには戻らない、という話になるわけだ。
日本びいき
ミケランジェリが初めて日本にやってきたのは、一九六五年のことだった。その頃私は海外にいたので折角の機会を聴くことはできなかった。
しかしこの初来日以来、何があったのかは知らないが、ミケランジェリは絶大なる日本びいきになってしまった。その結果として、日本人の若い女性の弟子が、突然ふえた。なにしろそんな中の一人で私の幼な馴染だった某女流ピアニストが断言したのだから、まちがいない。
「彼はね、日本人と分ると生徒にしてくれちゃうのよ」
そう語った我が友人は、ずっとドイツの音楽学校に留学していたのだが、夏休みにスイスの或る町で行われたミケランジェリの夏期公開レッスンに参加して、二、三度ステージの上で指導を受けたのだった。
公開レッスンとかマスタークラスと呼ばれている形式は、日頃は教授活動を行っていない演奏家やあるいは外国の教授などが、一般聴衆を前にして一回限りで参加者を指導するものである。教える方も教えられる方もそこで初めて顔を合せる、といったケースも多く、私の友人もミケランジェリに面と向って会いピアノを聴いて貰ったのは、それが初めてだった。
北イタリアに生まれて育った人の多くは、ドイツ語も話すことができる。ところがミケランジェリは、その公開レッスンをすべてイタリア語で通した。
その夏期講座が終ったあと、彼女がプライベート・レッスンを頼むと意外にもミケランジェリは二つ返事で引受けてくれた。大先生がこんなにご機嫌よくプライベート・レッスンを引受けるなどということは滅多にないと聞いていたから、彼女は天にも昇る心地になった。さて、彼女がミケランジェリを自宅に訪れると、なんと彼は会話をドイツ語で始めたという。なぜ、公開レッスンではドイツ語でなくイタリア語だったのですか、と聞くとまじめな顔つきになって、「イタリア語ほど音楽的なことばはないからだ」と答えた。
さて、差し向いのレッスンが始まると、ミケランジェリは公開レッスンの時の注意とはことごとく違うことを言い始めるではないか。単に違うなどという生やさしいものではなく、右を左と言うほどの違いで、彼女はすっかり当惑してしまった。そこで大先生に恐る恐るそのことを言うと、ミケランジェリはニヤッと笑って一言。
「あんなに沢山のヒトが聴いているところでキミ、わたしが本当のことなど言えると思うかネ?」
また或る女性は、不運にも彼がピンポンに凝っている時に弟子入りをしてしまった。そのためレッスンに行っても、ピアノはそっちのけでピンポンの相手をさせられることになる。彼女はピンポンは苦手であったが、その下手な彼女よりも更にミケランジェリは下手だった。従って、しょっちゅう負ける。負けるともういちど、と挑戦してくる。そして自分の方がとりこぼしが多いにもかかわらず、彼女のフォームや打ち方についてひっきりなしに、ああでもないこうでもないと論評を加えるのだった。
「もしあれほどまでに一生懸命にピアノのレッスンをして貰っていたなら、私はもうちょっとマシなピアニストになれていたかもしれない」とは、その彼女のぼやきである。
同じ頃、あのマルタ・アルゲリッチも彼のレッスンを受けたくて通ったが、これもピンポンのお相手に終始したという話がある。もっとも彼女の場合は、のちにミケランジェリが「そんなに簡単に私のピアニズムの秘密を売り渡せるか」といってニヤッと笑った、というオチがついているが、これも言う迄もなく本人に会って確かめられたわけではないから、「伝説」の一つなのかもしれない。
さてミケランジェリの日本人及び日本びいきは、日本からの弟子をとるに留まらず、日本のピアノとその調律師をひいきにすることにも及んだ。恐らくミケランジェリは、日本のヤマハピアノとその技術を世界の檜舞台に本格的に紹介した、初めての第一線の演奏家ではなかったろうか。
私の尊敬する友人でポルトガルのピアニスト、ホセ・ド・セケイラ=コスタはあるとき思いがけないプレゼントをミケランジェリから受け取った。或る朝、リスボンの自宅の玄関のベルが鳴り、ドアを開けてみたら見知らぬ日本人が立っている。
「私は日本のヤマハピアノの技術者ですが、ミケランジェリ先生のご依頼により、あなたのピアノを調律にミラノからやって参りました」
ミケランジェリはお気に入りの調律師、村上輝久氏の技術を、セケイラ=コスタにプレゼントしたのである。
この村上さんとミケランジェリとの出逢いも、六五年の来日がきっかけであった。そして村上さんは、その翌年の六六年、ほんの一カ月の滞在のつもりでミラノにやってきて、結果的には四年もいることになってしまった。ミケランジェリに引き留められてしまったからだ。
大真面目
ミケランジェリは初来日以降、七三年、七四年、そして八〇年と合計四たび日本の土を踏んでいる。しかし、予定通りの日程をこなしたのは六五年の第一回のときだけで、あとは「キャンセル魔」の名にふさわしい大騒ぎを演じた。
七三年の折には、東京における三回の公演はこなしたが、京都と大阪は突然キャンセルになった。翌七四年の来日は、その時のキャンセル分の延期公演を主催者側が要求したことによるものだった。
八〇年の来日の時のトラブルは、その後永らく尾を引いた。わざわざお気に入りのピアノをヨーロッパから運んできたのだが、これが日本に着いたら調子が悪くて、思うようにならない。同行してきたイタリア人の調律師は、そのピアノを何とか彼の望み通りに調整しようと徹夜を重ねた挙句、肝心の当日、高熱を発してぶっ倒れてしまった。ミケランジェリ氏ご本人はすこぶるお元気なのであるが、ピアノの調律師が病気なのです……という、彼にとっては大真面目、日本側にとってはケシカラヌとしか理解できない理由で、NHKホール超満員の聴衆は散々に待たされることとなった。
余談だが、このとき招聘《しようへい》側がこの問題のピアノを損害のカタに押えてしまい、それがもとで両者のあいだに裁判沙汰が起るという嘆かわしい事件が起った。私はそれから暫くして栃木県の足利市で演奏会をしたのだが、当時このホールには良いピアノがなく、東京のピアノ会社から貸出し用ピアノが運ばれてあった。ところがこれがひどくバランスの悪いタッチのばらついて重ったるいガタピシしたスタインウェイで、それが、ミケランジェリがわざわざ日本に運んできたあのピアノであったというわけだ。あれでは、ミケランジェリであろうと誰であろうと良い演奏ができるわけはない。なるほど、彼が弾かなかったのも無理ない、と納得したが、それにしてもなぜ、あんなピアノを彼はわざわざ選んで日本へ送ったのだろう。
十九世紀に、今日と同じような一般聴衆を対象とする音楽会が普及するようになると、演奏料は前半後半の中間の「幕間」に支払われる習慣ができた。前払いだと気紛れな音楽家がお金を貰ったまま演奏しないで逃げ出してしまう危険があるし、後払いだとずるい興行師がギャラを払わず逃げてしまう惧《おそ》れがある。そこで音楽家のユニフォームである燕尾服の内ポケットは、分厚い札束を受け入れられるよう特別に大きく作られているのだ、というのである。実際この習慣は場所によってはつい最近でも行われていて、チェリストのヨーヨー・マは、スペインでこの習慣通り休憩時間にドサッと貰った札束を後半の舞台でお辞儀をしたとたんバラまいてしまい、拍手大喝采を受けてしまった。
しかし今日、音楽家はもとより聴衆の一人ひとりまでもが忙しいスケジュールに沿って効率的に生きるような時代では、演奏会のキャンセルはさまざまな意味で難しい。いわゆる定番の契約書の裏などを読むと、キャンセルできる場合として「戦争」「革命」「内乱」「地震」「洪水」などといった世にも禍《まが》まがしい単語が並ぶのだ。このような状況のもとで名実ともに「キャンセル魔」として生きることは、確かに奇行中の奇行となるに違いない。
しかし、ピアニストという同族の身内びいきと一喝されたらおしまいではあるけれど、私には、彼がその演奏会をキャンセルするたびに公式にも非公式にも言明するという次の余りにも当り前の言葉が、結局は心に残って妙に響き続ける。即ち、直接ミケランジェリの肉声で聞いたという村上さんの伝えるところを引用すれば、ミケランジェリはキャンセルの度に大真面目にこう繰り返すのだという。
「私は大変に高額のギャラを貰っている。それなのに不充分な演奏をしたら、聴衆に申し訳ないではないか」
ミケランジェリが奇行の人伝説の人になったのは、もしかしたら彼が実は本当に大真面目だからなのではあるまいか。演奏会のキャンセルはもちろんのこと、その度重なる(とされる)離婚話にしても税金滞納の噂にしても何にしても、結局のところそういったすべては、彼の生き方の底に極端に真面目な「譲れぬ一線」、とでもいったものがあることを示しているのではあるまいか。
そういえば「ドント・タッチ・ミー」のグレン・グールドの真夏の冬仕度にしても、彼はいわゆる蒲柳《ほりゆう》の質《たち》であり、ピアニストとしての精妙なコンディションを保持するために、一瞬の風邪をひくことさえ極端に惧《おそ》れていた。彼の虎の皮にしても、ピアノの椅子の微妙な高さと感覚を整える手段として、私にも思い当ることがある。あのド・パッハマンの乳しぼりにしても、彼が乳しぼりは指の老化を防ぐ鍛練として最高と大真面目に考えていたとしてどこがおかしいのだろう。
もっとも、こんなことを考えるのは私がピアニストのせいだろうか。やはり、ふつうの人からみたらかなり変なのだろうか。
14 蛮族たちの夢
ピアノの魅惑
このわれら人類の文化の歴史のなかに、ピアノという魅惑に溢れた美しい楽器が登場したのは、今から正確に二百八十二年前のこと。そしてやがてクレメンティとモーツァルトという、天下無類の素晴しいライヴァル同士が現われて、ここにピアニストの歴史は具体化した。
以来二百五十年余、なんと多くのピアニストたちが通り過ぎて行ったことだろう。バッハが生まれそして死に、その二年後にクレメンティが、六年後にモーツァルトが生まれる。そのモーツァルトがこの世を去ったとき、ベートーヴェンは二十歳。そしてまるでモーツァルトと入れ替るかのように、チェルニーが生まれた。そうしてショパンが生まれリストが生まれ、ブゾーニやホフマン、コルトーが生まれ、ギーゼキングにホロヴィッツ、リヒテル……と、こうしてピアニストの歴史は絶えることなく現代にまで続くのだけれど、しかし私たちピアニストのやっていることといえば、二百五十年前の昔も今も、実はそうは変らない。なぜなら、どんな天才ピアニストでも、まずは赤ん坊としてスタートせざるを得ないからである。
フランツ・リストの手が指がいかに絶妙な技巧を表現し得るものであったとしても、その手をリストの遺骸から次の時代の若手へと移植するわけにはいかない。アルベニスは嘘かまことか、僅か一歳でピアノを弾き始めたという。しかしこの希代の天才児にしても、まずはもみじのような小っちゃなお手々を広げてのお指の練習、ハイしっかりと指を揃えて、一本一本をはっきりとあげて……。かくて歴史は繰り返される。
この世の中に楽器は山のようにあるけれど、ピアノほど表現力が豊かで従ってまたそれ故にこそ弾きこなすことが難しい楽器は他にない、とされている。
他の多くの楽器と違って、ピアノの歴史は極めて新しい。しかし十八世紀半ばに出現し作曲家たちに愛好されるようになって以来今日に至るまで、ピアノは常に「楽器のなかの王者」たる地位を占めてきた。
なにしろピアノは応用範囲が極端に広いのである。ソロで楽しめるのはむろんのこと、他のさまざまな楽器と組合せてアンサンブルができる。強音から弱音までのダイナミックの幅が豊かで複雑なうえに、高音域から低音域までの広がりはどんな楽器よりも大きく、更に甘い旋律を歌わせることも打楽器のような緊迫した効果を作り出すこともできる。滅多にコンチェルトを弾かなかったホロヴィッツは、理由を訊かれて「オーケストラは邪魔だから」と答えたというが、確かにピアノはそれだけで一つの音楽的宇宙を表現し得るし、作曲家にとってもこんなに興味深くかつ便利な楽器はない。というわけで、この二百五十年間に実に多くの作曲家たちがピアノのために優れた作品を、しかも厖大な量を書き遺した。これほど沢山の名作大作難曲を書いて貰った楽器は、ピアノ以外には見当らない。
努力しないで上手くなる法
さて、人生は短くピアノの名曲はあまりにも多い。そこで人々は、あれこれと練習法に知恵を絞った。例えば近代フランスのピアニストでグラシアなる人は、長年の研究を『ピアノ奏法』なる一冊の本に著したが副題にいわく、「最小の勉強で最大の進歩を得るにはどうしたらよいか」。
そういえば私がニューヨークに留学していた一九六〇年代に、ブロードウェイでヒットしたミュージカルに「努力しないで出世する方法」というのがあった。人間は、いつの時代にも同じようなことを考えるものらしい。
このグラシア氏の本は、ナマケモノのくせにピアノをホロヴィッツのように弾いてみたいなどと大それた野望を持つ人間にとっては、それこそ思わず「しめた」ととびつきたくなるようなタイトルである。実は私は、今を去ること約十七年前、結婚したばかりの頃に偶然この本を主人の書棚に発見した。手にとってみると、どうやら熟読した形跡がある。本人は黙して語らないが、私の想像するところでは彼はその少年時代、このすこぶる調子のいい題名につられてしばし「小説を書くコルトー」を夢見てしまったものらしい。
それはさておき、しかしこの本は、現在ではもう誰からも顧みられることなく忘れ去られてしまっている。なぜならば、この本はそのタイトルとは裏はらに、一ページ目からグラシア氏の情熱溢れた創意工夫で充満していて、まずはピアノを弾くこと以前に本を読破するのに多大な時間とエネルギーを費やさせられてしまうからである。
そのうえ、彼の工夫は弱い指を訓練するための器具の開発にも及んでいて、ナマケモノでなるべく楽をしてピアノが上手くなりたいと思うピアニスト志望者を、突然中世の暗黒時代に用いられた拷問器具にも似た道具に縛りつける。アンリ・ルモアーヌの指輪、ドュルデの楔《くさび》、開離器、グラシアの独立上昇用横木、シャルル・ユルマンの漸次的柔軟離隔器などなど、なんとも聞いただけで震え上るような名前ではあるまいか。「アンリ・ルモアーヌの指輪」とは、鉛で作られた重いもので、これらを親指を除く八本の指にはめて練習をすると指の筋肉の独立性を強化するのに役立つとされた。また「グラシアの独立上昇用横木」は、ピアノのキイの上に高さの調節可能な棒を一本横に渡して固定し、そこに指の中でも特に弱い薬指や小指をひっかけておきながら、他の指でキイを押すという仕掛であった。
ロバート・シューマンがこうした指の強化装置に熱中した余り、それで筋肉を痛めピアノを断念し作曲家になったのは有名な話である。シューマンは右手の中指を壁に固定した紐《ひも》でしばり、他の四本の指が弾いているあいだその中指がつられて動くことがないようにした。これを熱心に続けているうち、その縛った中指がマヒして動かなくなってしまった。それだけでなく、やがてマヒは右手全体に及んで、全く使いものにならなくなってしまったのである。
こうした器具や装置を使用してのトレーニングは、考えてみれば現代のスポーツ選手たちが筋力アップのために好んで行っていることと似通っているようにも思える。今日では相撲のような日本古来のスポーツでさえ、伝統的な稽古をくり返しているだけでは不充分と、千代の富士をはじめとした力士たちは近代的な筋力トレーニングに励んでいると聞く。「アンリ・ルモアーヌの指輪」も「ドュルデの楔」も、科学的に慎重に行えばきっと良い効果が生まれたのであろうが、十九世紀から二十世紀にかけての時代ではただやみくもに使用して、シューマンのように逆効果となってしまった犠牲者も多かったのであろう。やがてすたれて、今日では少なくとも正統的なピアノ教育の場では、こうした方法を称える人は見当らなくなってしまった。
ピアノ奏法で手というのは、いくつかの部分に分れてそれぞれ特徴ある役目を果たす。
まず指先はデリケートな音色を作る。単純に分けていえば、つま先を立てるようにして弾けば鋭く固い音が出るし、指を寝かせるようにしてその腹で弾けば柔らかで抒情的な色合がでる。手の甲は音の厚みと関係あり、甲が分厚く大きく柔らかい人は、ふくよかな音を出す。手首の役目は、声楽のときの呼吸と同じである。また手首は、その力を押しこめば落ちついたレガートを作り、ふっともち上げて力を抜けば、お習字の筆先と同じで音が自然に抜ける。
そして、ひじは音全体の|のびやかさ《ヽヽヽヽヽ》、響きの美しさと関係あり、また、ひじを身体に添わせて安定させることによって技術と表現の両面での落ちつき、確実性を得る。精神的に落ちつかずあがった状態になると、たいていひじがバタバタとしているのである。
最後に上膊部即ち二の腕だが、ここは演奏にパワーを加えるためには一番重要な部分となる。つまり、この二の腕の殊に内側の筋肉というのが、ダイナミックな強打などにおいて技術をしっかりとコントロールする役割を果たしているのだ。女性のピアニストがなぜ男性よりパワーに欠けること|も《ヽ》あるかというと、この二の腕の部分が、男性より大体の場合華奢であるからである。それが証拠に、女性で男性顔負けのパワフルな演奏をする人、例えばマルタ・アルゲリッチの腕を見てごらんなさい。王選手じゃないけれど(ちょっと古くて申し訳ないけれど)、足の太モモぐらいのたくましさを備えている。あれは伊達に太いのではないのだ。
そこで、そうした手そして腕それぞれのこまかい部分的な特徴とその利用法に応じてパワーアップのトレーニングを図れば、少なくとも純然たる筋肉運動の面からピアノ奏法というものをとらえていうなら、かなりな効果を期待できる。事実、最近の若いピアニストたちの中には、総合的な筋力アップのためにコンサートの合間にジムに通う者さえでてきている。
もっとも、ここで改めて念を押すまでもないことだけれど、音楽家はスポーツマンではない。いくら筋肉が立派でも、小ぢんまりとスケールの小さな、音に迫力のない演奏をする男性ピアニストはいくらでもいるのだから。
手弱女《たおやめ》のいないわけ
或る口の悪い指揮者が語ったところによれば、この世には二十人のピアニストと十人のヴァイオリニスト、三人のチェリストさえいれば、主要なコンサート市場での需要を満たすのに充分であるという(生憎と、指揮者は何人いればこと足りるのであるかは聞き洩らした)。
第二次大戦までは、音楽といえばヨーロッパが中心であり、また音楽家たちもときに一、二の例外はあったとしてもみな「キリスト教文明先進諸国」出身の人々であった。ところが第二次大戦後の世界の変化は、このクラシック音楽の狭い世界にも劇的な影響をもたらした。かつてのクラシック音楽における先進国とされていた国々以外の、殊に日本を初めとした中国、韓国など東洋人の擡頭が目立ってきたのである。近年ヨーロッパの重要な音楽コンクールでは、場合によっては応募者の三分の一、あるいは半数近くが東洋人によって占められるという事態が当り前のことのようになってきた。
昨年私が審査に加わったワルシャワのショパン・コンクールでは、準入賞者十五人中の八人までが東洋人(日本七、台湾一)という、ショパン・コンクール始まって以来の「大事件」が出来《しゆつたい》した。しかも、そのほとんどが本選への六人に選ばれてもおかしくないほど実力、才能が伯仲していたのである。
このように似たような才能がひしめくなかでは、当然のこととして国際社会でのサヴァイバル競争はますます過激化する。
先にも述べたように、ピアノという楽器は一台で音楽をすべてまかなってしまうために、或る意味では大変に孤独な楽器であるといえよう。その楽器の特質の影響をピアニスト自身も受けて、一般にピアニストというのはあまり人づき合いがよい方ではない。幼い頃から一日に六、七時間も一人で部屋に閉じこもって練習に励んでいれば、人との協調性など身につけないまま成人してしまっても仕方ないことなのかもしれない。しかもその孤独な日常のなかにいて、コンペティティヴなサヴァイバル競争に入っていくのである。
女性ピアニストというのも、独特である。ピアノという楽器は、そもそもが女性らしさを発揮するために作られたものではなく、とりわけその成熟期においては、主に男性ピアニストたちによるヒロイックで超人的な音楽表現を目的に改良され完成されたわけだから、当然女性らしさばかりではやっていけない。殊に若い修業時代には、そのレパートリーという土俵に於いて男性と同等に張合わざるを得ない。なにしろ国際コンクールなどでは、ゴルフやその他のスポーツのように男性と女性を分けてなどやってくれないのは勿論のこと、あくまで男性が改良・完成した楽器で男性が作曲した作品を演奏しなければならないのであるから。しかもこうしたコンペティティヴな過程においては、個性的であること、即ち他人とは違うことをすることを、子供の頃から絶えず意識させられ強要される向きがある。
といったような諸々の事情から、女性ピアニストというのは、どうしても性格的には勝ち気で負けん気で強情でしぶとくて、神経質で極めて自己中心的で気位が高く恐ろしく攻撃的かつディフェンシヴで、そして肉体的には肩幅のしっかりとした筋肉質でたくましい、というタイプになってしまう。女性ピアニストに楚々《そそ》とした手弱女風美人が見当らない理由は、これでお分り頂けよう。更に、これは男性ピアニストについてもいえることだが、社会との健康的なつき合いが才能ある人間ほど少なくなってしまうため、一般の常識からみれば、どこかピントの狂った頓珍漢が多いのである。ゆめゆめピアニストなんぞを女房にするものではない。
サヴァイバル
それはさておき、私がこの「ピアニストという蛮族がいる」でとりあげた古今のピアニストたちのほとんどは、こうしたサヴァイバル競争に打ち勝った人たちであった。その蔭には、「一将功成りて万骨枯る」、幾多のピアニストたちの累々たる遺影があることを思わずにはいられない。
私がニューヨークに留学していた頃、アボット少年という天才児がいた。十歳かそこらでソ連の作曲家カバレフスキーのピアノ協奏曲をニューヨーク・フィルと演奏してデビュウ、その指揮をとった作曲家を狂喜させた。そのキャリアのゆく手は大いに順調と思われていたが、大変な「マザ・コン」で、いついかなるときも巨大な体躯のママがくっついていてトイレに行くのも一緒と噂されるほどだった。
その後、ベトナム戦争が激化してきた折、兵役にとられたという話を聞いた。ママも彼のあとを追ってベトナムに渡り、「はい銃よ、はい弾丸よ」と戦地で世話を焼いているに違いない、と周囲は噂し合ったものだが、やがて、彼のことを話すものもなくなってしまった。あの天才少年は、どこに消えてしまったのだろう?
昔、スイスのルツェルンで行われた第二回クララ・ハスキル・コンクールに、私の友人のパリジェンヌが参加した。彼女はそれまでさまざまなコンクールを受けていて、そのどれにも入賞していたが一位を得たことはなかった。ヨーロッパの音楽マネージャーから、クララ・ハスキル・コンクールに優勝したら仕事を作ってあげようという約束を得ていたのだが、結局そこでも彼女は二位に終った。一位はドイツのクリストフ・エッシェンバッハだった。コンクールが終了したあと彼女は落胆のあまり、これで私はピアノをやめて結婚するの、と私に語った。まだ、二十四歳だった。その後、彼女は私に語った通り結婚し、更にその数年後離婚して消えてしまった。あんなに良いピアニストだったのに……。
我が日本においても、ピアノの魅力にとりつかれ、一生を殉じた多くの人々がいる。ショパンのノクターンを演奏中に、自分自身の奏でる音に感動する余り舞台でオイオイと泣き始めたAさん。一日十時間以上もの猛練習に明け暮れたためか、リサイタルの日はサロンパスを背中じゅうに貼ってしかもそれが丸見えのイブニングドレス姿で登場したBさん。東北地方の小さな町で演奏した際、拍手が少ないのに憤然とした余り、ステージの上から静かな客席に向って一言「ブタに真珠よ」と捨てゼリフを吐いたCさん……。
探検家のように
人生という限られた時間のなかで、ピアニストたちは僅か一分ほどの曲を美しく演奏するために何百時間という時間をかける。いや、その「一分」のために、幼い時から厖大な時間を費やしあるいは蓄積してきたといってもいい。事実それだけの献身を喜びに替えるだけの魅力を音楽はそれ自体で持っている。
しかしピアニストたちは、その喜びのためだけにこの厖大なエネルギーと時間をさいているのではない。ピアニストたちにとって生命のための水のように必要なものは、聴衆である。モーツァルトの昔から、ピアニストは聴衆を求めて旅に出た。聴衆がそこにいる、と聞けば、いかなる未開の地であろうと、ピアニストたちは夢を抱いて出掛けてきたのだ。そしてこれは、現代においても同様である。
アルフレッド・コルトーがジブラルタルで演奏したときのこと、列車から彼が降り立つと、一人の紳士が出迎えた。白髪で上品で、しかもなかなか頼もし気な風貌である。地元のマネージャーにしては立派だと思ったが、マネージャーではないという。
コンサート・ホールまでの車中、コルトーの隣りに座ったその紳士は、「今夜のプログラムはどんな曲ですか」と訊くので、コルトーは音楽評論家か、あるいは音楽ジャーナリストかとも思ったが、そうでもないと言う。しかしコルトーがプログラムの内容を伝えると、「ああ、あの曲はあそこがなかなか難しくて」とかなんとか言いながら、一人フムフムなどとうなずいたりする。気になったコルトーは、「私はプログラムは全部暗譜していますから、ひょっとしてあなたが譜めくりの人なら、その必要はありません」と言ってみたが、これもフムフムとあいまいに濁されてしまった。そしてその紳士は、コンサート・ホールに着いてもコルトーから離れず、とうとう後についてステージまで登ってきた。一体何者であるか……。
このコルトーの疑問は、演奏が始まった途端に氷解した。彼はこのコンサートにまさに欠くべからざる人物であった。即ち彼はピアノの横に座って毀《こわ》れていて戻らないピアノのキイを瞬時に、しかも演奏中のコルトーの邪魔にならないように持ち上げる役だったのだ。その技たるやまさしく神技ともいうべきもので、どのように速いパッセージになっても一つのミスもなくパパッとキイを持ち上げた。そしてコルトーが演奏し終ると、この「キイ持ち上げ人」も一緒に立ち上り、まるで真の功労者といった誇りある態度で盛大な拍手に応えたという。蛇足ながら、今日でもフランスやスペインの地方都市では、キイが戻らないピアノが置いてあるホールなんぞ珍しくもない。
我がエミール・ギレリスがシベリアのとある町でリサイタルをしたときのこと、あろうことか、演奏中突然ピアノの右脚がガクッと折れてピアノが彼のひざの上にのしかかってきた。彼はとまどいつつも弾き続けようと努力したが、そのうちにひざの上のピアノの重さに耐えかねて、ソロリと立ち上って片手でピアノを支えながら、「みなさん、実はピアノが……」と説明しようとしたが、初めのうちは誰もが彼は酔っぱらっているに違いないと思い込んでしまったという。
これはピアニストではないが、ロストロポーヴィッチのような偉大な芸術家もラップランドで演奏会をしてほしいといわれれば、喜び勇んで出掛けていく。そして、自分が音楽の内に大切に育んできたものを、ラップランドの人々はどう受けとめてくれるのであろうかと、胸をふくらませるのである。そして、ときにはそれが予期せぬ結果となろうとも、演奏家たちはくじけない。
ロストロポーヴィッチの場合はラップランドに着いてみたらそこにピアノが置いてないことが判明した。ピアノの伴奏がなくては今夜のプログラムが演奏できない、と彼が困り果てていると、地元の人が恐る恐るロストロポーヴィッチに言った。
「あの、アコーディオンでは駄目でしょうか。実はこの町に素晴しいアコーディオン奏者がいるのです。大変評判の高い人なのですが」
そこで彼は考えた。アコーディオンと共演するなどとは考えてもみなかったけれど、でも、全く無いよりはよいだろう、と。
演奏会は大成功であった。ラップランドの人々は昂奮し、盛大な拍手は会場をゆるがせるかに思えるほどだった。ロストロポーヴィッチは心から幸せな気分になり、アンコールを次々に演奏した。何曲目のアンコールを弾こうとしたときだったろう。突然聴衆がこう叫んでいるのを、ロストロポーヴィッチは耳にしたのだ。
「もう、チェロの方はひっこんでいいから、アコーディオン出してくれ」
こんな話は数限りなくある。演奏家ならば大抵の国や町の会場で、イヌ、ネコ、ハト、小鳥、ネズミ、ゴキブリ、ときにはコブラまで含む動物に歓迎された記憶をもっているだろう。イタリアの或るオペラハウスにはネコが一匹棲みついていて、名物となっている。このネコはオペラ上演中の舞台に時折現われては、みなが一生懸命やっているかどうかを点検するかのように威風堂々と立ち止まるのである。
私も演奏中その演奏に合せて天井からハトがクウクウ鳴き出したことがあるが、しかしそんなことでピアニストはくじけるものではないのである。スイスのサン・モリッツでは、リサイタル会場の最前列になんと大きなゴールデンリトリバー犬が陣どって、時折遠慮会釈なくアワワと大きなあくびを連発したものだったし、オデッサではショパンの葬送ソナタに合せて二度ばかり太ったネズミがステージを駆け抜けた。
にもかかわらず我らピアニストは、そして我ら演奏家は、まるで探検家のように未開の地めざして出掛けていく。それはただひとつ、よい聴衆、未知の聴衆に出逢いたい、そしてその聴衆のために弾いてきかせたいのである。
おわりに
こうしている間にも、私の愛する、そしてなによりもこの私自身がその典型でもあるところのピアニストという種族が、この広い地球上のあらゆるコンサートホールでピアノを弾き、或いはピアノのお稽古をしている。
ベトナム戦争でアメリカが敗れた時、その原因の一つとして、「時間」のコストということが言われた。戦争のコストというのは、そこで生死を賭けて戦う兵士たちが、平和のうちに生活した場合どのくらい幸福で充実した時間を過ごせるか、その可能性に正比例して高くつく。つまり簡単にいうと、楽しいこと面白いことの沢山ある「豊かな社会」の兵士の「時間」のコストは高い、という説である。
そしてもしかするとこの原則は、ピアニストにも当てはまるのかもしれない。事実ペレストロイカ以前のソ連を中心とする社会主義国が優れたピアニストを育て続けたのに対し、「面白いことがいっぱいありすぎる」西側の「豊かな社会」では、厖大な練習時間を必要とするピアニストが育ちにくいという状況がたしかに見受けられてきた。ピアニストになるための練習時間の「コスト」は今や余りにも巨大で、しかもその挙句「一将功成りて万骨枯る」のであるとすれば、確かに無理もない。とすると、クラシック音楽をはじめとする伝統芸術の温存に効果的だった社会主義国が崩壊したいま、私たち種族の将来はどうなるのだろう、と思わず考えてしまう。
しかし、ほら、犬は吠えてもキャラバンは行くのである。社会がどう変ろうと、誰がなんと言おうと、私たちピアニストという蛮族はラクダのように悠々と進んでいく。人生という貴重な限られた時間のなかで、ときに時代錯誤と見えるほど莫大《ばくだい》な時間を浪費していると思われようとも、私たちは今日も一日中ピアノを弾いてしまうのだ。あくまでも蛮族らしく信じ難いほどの真面目さで、そして滑稽なほど心をこめて、まるで或る素朴な、そして限りなく豊饒《ほうじよう》な太古からの人間の魂の最奥の夢でも育《はぐ》くんでいるかのように。
(完)
あ と が き
記憶も定かでない蛮族の古代から、音楽は人類に魅入り、暮夜ひそかにその思いを凝《こ》らすよすがとなるかと思えば、もの狂おしい魂の狂熱をもたらした。とり憑かれた人の熱狂は時に想像を絶し、はた目には不可思議千万な悲喜劇ともうつるけれど、私たちピアニストという種族にとっては、それが他人事ではない日常そのものとなっている、この不思議……。そしてその理不尽なまでの時間の浪費、滑稽とも思える集中、その奥底に潜む熱狂、が種族に共通する日常であるとすれば、それについて同族として語る際にはつい自虐的なほど快活なエピソードとして笑いとばすのが身についたマナーともなる。恐らく、それ以上の胸に溢れる思いは、つい音楽をとおして語るのが同じく私たち種族の習い性でもあるので……。
この『ピアニストという蛮族がいる』は、『文藝春秋』誌上に一九九〇年一月号から約一年半にわたって連載した。ちょうど連載の直前にホロヴィッツが死去し、終了間近にアイリーン・ジョイスの訃報《ふほう》に接することになった。
偶然にも一九九〇年はピアノ・コンクールの当り年で、五年に一度のショパン・コンクール、四年に一度のチャイコフスキー・コンクール、三年に一度のリーズ・コンクール、それにブゾーニ・コンクールが同じ年に開催された。この、六十年に一度のめぐり合せを不思議な縁と感じて四つとも審査員を引受けた私は、私自身の演奏会も含めて半年近くを海外で過す破目になって、担当された笹本弘一氏にはほんとうにご苦労をおかけした。しかし、そこで出会った多くの同族たち、とりわけコンクールで聴いた六百人に近い若いピアニストを深くとらえていた熱狂は、私に「蛮族よ永遠なれ」と思わず念じたくなるような新鮮な感銘も与えてくれた。
なお執筆に当っては、多くの先達の著書を参考にさせていただいた。本文中だけでなく巻末にも記して感謝の証《あか》しとさせていただくと同時に、わが種族が得意とする「ムラの口コミ」でさまざまなエピソードを語ってくれた仲間たちにも、改めて感謝したい。
また、貴重な資料を提供して下さった東京芸術大学音楽研究センターの森節氏をはじめ、中谷三代子氏、関英夫氏、原田隆元氏、ブライス・モリソン氏、ワレン・トムソン氏、工藤幸雄・久代御夫妻、そして、最後になってしまったが、笹本氏はもちろんのこと、そもそもの初めからこの私、即ち「ピアニスト」といういっぷう変わった種族の典型をおだて上げ励まし続けて下さった文藝春秋の堤堯氏、白石勝氏、平尾隆弘氏、更に出版部の藤沢隆志氏に、それこそ蛮族らしい「真面目で素朴な」心からの御礼を申し上げる。
平成三年十一月二十二日
中 村 紘 子
参考資料一覧
ホロヴィッツ(グレン・ブラスキン/奥田恵二、宏子共訳 音楽之友社)
ルービンシュタイン自伝(木村博江訳 共同通信社)
ピアノ音楽の巨匠たち(ハロルド・C・ショーンバーグ/中河原理、矢島繁良共訳 芸術現代社)
トスカニーニその生涯と芸術(諸石幸生 音楽之友社)
トスカニーニ・生涯と芸術(H・タウブマン/渡辺暁雄訳 東京創元社)
ラフマニノフ・限りなき愛と情熱の生涯(ニコライ・バジャーノフ/小林久枝訳 音楽之友社)
My Young Years(Arther Rubinstein\Knopf\New York)
The Lives of the Great Composers(Harold C.Schonberg\Norton)
ランドフスカ音楽論集(ドニーズ・レストウ編/鍋島元子、大島かおり共訳 みすず書房)
楽器の事典ピアノ(東京音楽社)
Rachmaninoff and Marfun Syndrome(by D.A.B.Young\British Medical Journal.September1986
Godowsky:The Pianists'Pianist(Jeremy Nicholas\Appian Publications & Recordings)
J・S・バッハ・生涯と作品(ヴェルナー・フェーリクス/杉山好訳 国際文化出版社)
バッハ(角倉一朗 音楽之友社)
バッハ=魂のエヴァンゲリスト(礒山雅 東京書籍)
音楽史の中の女たち(エヴァ・リーガー/石井栄子その他訳 思索社)
音楽と中産階級(ウィリアム・ウェーバー/城戸朋子訳 法政大学出版局)
オーケストラの社会史(マーリンク、大崎滋生共著 音楽之友社)
大ピアニストは語る(原田光子編訳 東京創元社)
音楽五十年(園部三郎 時事通信社)
作家の中の音楽(安川定男 桜楓社)
明治音楽物語(田辺尚雄 青蛙房)
日本洋楽外史(野村光一、中島健蔵、三善清達 ラジオ技術社)
ウィーンの日本(ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ共著/佐久間穆訳 サイマル出版会)
百合子、ダスヴィダーニヤ(沢部仁美 文藝春秋)
道標(宮本百合子 新日本文庫)
近江の女(エッセーグループ 白川書院新社)
幸田露伴(塩谷賛 中央公論社)
幸田露伴集(現代日本文学全集3 筑摩書房)
鹿鳴館の貴婦人大山捨松(久野明子 中央公論社)
ピアノ回想記(野村光一 音楽出版社)
ちぎれ雲(幸田文 新潮社)
西洋温泉事情(池内紀編著 鹿島出版会)
世紀末の美と夢2華麗なる頽廃(辻邦生編集 集英社)
チェロとわたし(ピアティゴルスキー/村上紀子訳 白水社)
近代女性の栄光と悲劇(笠原一男編日本女性史6 評論社)
大正人物逸話辞典(森銑三編 東京堂出版)
ウィーン音楽文化史(渡辺護 音楽之友社)
音楽五十年史(堀内敬三 講談社学術文庫)
日本音楽文化史(吉川英史編 創元社)
古今の大ピアニスト(ハンス・クリストーフ・ウォルプス/七里真水訳 朝日出版社)
パデレフスキ自伝(内山敏訳 河出書房)
キュリー夫人伝(エーヴ・キュリー 白水社)
ロシア・ソヴェト音楽史(ジェームズ・バクスト/森田稔訳 音楽之友社)
ポーランド史(アンブロワーズ・ジョベール/山本俊朗訳 白水社)
ポーランド現代史(伊東孝之 山川出版社)
東欧史(新版・矢田俊隆編 山川出版社)
ジェノサイド(レオ・クーパー/高尾利数訳 法政大学出版局)
波瀾盛衰の回顧(一原有常 中央公論一九三九年十月号)
波瀾の主張―ダンチッヒ、廻廊に関する―(パデレフスキー 改造一九三九年六月号)
ショパン(パデレフスキー 音楽芸術一九五一年四月号)
The Patriot Pole(Opera News.February 19.1972\New York)
The Incomparable Pianist(by Leslie Hodgson\Musical America.August 1941\New York)
Variations(by Leonard Liebling\Musical Courier.July 1941)
The Amazing Career of I.J.Paderewski(by Rom Landau\Musical Courier.October 1935)
Prelude(by C.H.Abrahall\Oxford University Press\London)
The Story of Eileen Joyce and The 1933-1942 recordings(by Bryce Morrison)
ピアノ奏法(グラシア/小松清訳 創元社)
単行本
一九九二年一月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成七年三月十日刊