元首の謀叛
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年七月二十五日刊
(C) Masanori Nakamura 2001
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
〈ご注意〉
本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。
目 次
章名をクリックするとその文章が表示されます。
[#改ページ]
元首の|謀叛《ぼうはん》
マンホールの内側に付いているタラップを昇り切り、タイル貼りの床の上に這い上がった中尉は、背中のエアタンクを下ろす前に、帰路に要した時間を確かめるために腕時計のガラスに付着している水滴を拭った。針は九時四十五分を指していた。とするとそれは、行きと同じくほぼ三十分だったことになる。
彼がたった今這い出てきた直径二メートルのマンホールは、四角い部屋の床の中央に暗く口を開けており、その中から上に伸びている鉄パイプ製のタラップの握りが、ウェットスーツから|滴《したた》った湖水に濡れて鈍く光っている。
そのタラップを伝ってマンホールを三メートルばかり降りた底に地下トンネルの入口がある。トンネルと呼ぶより水管というにふさわしい構造のその通路は、マンホールと同じく内径二メートルのヒューム管を四、五百本も繋いで造られたものであり、この小さな正方形の建物が建っているドイツ民主共和国の領域から真西の方角に地中をおよそ八百メートル、少しずつ下降しながら真直ぐに伸びていて、現在では、全湖面がドイツ連邦共和国の領域になっているラーツェブルク湖のほぼ中央で、水深七メートルの湖底にぽっかりと口を開けている。この地下トンネルはその昔、東西両湖岸から等距離にある点を結んで境界線とし、ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国とがそれぞれ湖面を均等に分け合っていた当時、ドイツ民主共和国側が排水路工事と称して自己の領域内に秘かに構築した西側への非合法通路の一つである。
この通路を使う潜入者は、比較的背の高い樹が生い茂っている森の中にぽつんと立ち、林業用の機材庫然としているこの四角な煉瓦造りの建物の中で、備え付けのウェットスーツに着替え、水管を伝っていって湖中に出る。そして、予め打ち合わせ済みの西側湖岸に秘かに上陸し待機している協力者とコンタクトする。また、その逆に西側から帰還する際に、水管の入口を探し当てるのにもさして難しい技術を要しない。東側の森の上で、赤と青一個ずつが組になって二方向で常に点滅を繰り返している航空標識灯のような光がある。湖面を泳ぎながら赤と青の光が両方向ともそれぞれ一線上に並んで見える位置を探す。入口はその真下にあるのだ。
西側への潜入開始指定時刻のちょうど二十四時間前を選び、約一時間前に小屋に入った中尉は、明日の夜に実施する手順どおりに、ウェットスーツを着込んでエアタンクを背負い、前額部に小型のヘッドランプを取り付けた。そして、それを点灯すると地下トンネルへ降りていった。トンネルの両側に帯のように塗られている発光塗料がヘッドランプの光を反射して真暗闇の中でオレンジ色に輝いていた。この光を頼りに、ようやく直立して歩けるヒューム管の中を二百メートルほど進んだ地点で、足元にひたひたと水藻の臭いがする水がやってきた。彼はそこで両手に下げていた足びれを着けると再びゆっくりと前進した。やがて次第に水位が高まり、遂には肩まで水中に没した。マウスピースを口にくわえ潜水して泳ぎはじめたが、その方が歩くよりむしろ楽だった。発光塗料のオレンジ色の光がふっつりと切れた。そこがトンネルの出口だった。
彼はヘッドランプの光を消し、湖底の様子を|窺《うかが》った。上下左右はまったくの闇で、自身の掌を眼の前に持ってきても見えなかった。聞こえるものといえばマウスピースから排出される気泡が両耳の傍で立てる音だけだった。彼は立ち昇ってゆく気泡を消すために呼吸を止め、静かに湖面へと垂直に浮上していった。
月の無い真暗な湖面に頭だけを出して周囲を|見霽《みはる》かすと、じっと動かぬ陸上の多数の光と、微かに揺れているヨットやボートの点々とした光が見える西岸の光景とは対照的に、東岸には何一つ光るものがなかった。ただ、諜報部で教えられたとおり、黒ぐろとした森の上に二つの方角で赤と青の光がそれぞれ一つずつ点滅を繰り返していた。彼は立ち泳ぎをしながら腕を水上にかざし夜光時計の針を見た。九時十分だった。小屋でウェットスーツに着替えマンホールの中に降りてから約三十分が経っていた。彼は試みに自分が浮いている位置を前後左右に数メートルずつ移動してみた。その度にどちらか一方の、または双方の点滅する二個の光が一線上から外れた。彼は再び双方の光が一線に並ぶ位置に戻り、もう一度明日の夜上陸すべき西岸のヨットハーバーの光を眺めてから、垂直に潜水して入口を探し出すと水管の中を小屋に向って泳ぎはじめた。
その頃、卒業式を明後日に控えたハンブルク大学工学部の学生ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアが運転する七六年型のポルシェは、|蔦《つた》や|葛《かずら》が両側から生い迫っている十七世紀に造られたという石畳の道――今や数キロメートル先で境界線によって断ち切られているために道とは呼べないかも知れないが――をかなりの高速で走っていた。石畳の上に横たわる朽ち木を踏み砕くたびに車体がバウンドし、車の床を転げ廻るミニサイズのビールの空き瓶同士がぶつかり合って割れんばかりの音を立てた。
「おいハンツィ。クラウスじいさんの家はまだか?」
長身を持て余し、狭い後席にほとんど上半身を沈めるようにしてショートパンツから生えている二本足を、助手席の|背凭《せもた》れ越しにダッシュボードの上にまで突き出している仲間が尋ねた。
「ああ。もう十五分ばかりだと思うんだがな」
「ワインを飲み過ぎたせいか俺は咽喉がからからに乾いちまった。クラウスんところで水を飲ませてもらいたいな」
「おい。そろそろ十時になるんだぜ。クラウスじいさんたちは早起きだからな。とっくに寝ちまったに違いないぜ。起すのは気の毒だよ」
と、ハンスの背後にいる二学年下の仲間の声。
「まあ任せておけよ。水はなんとかなる。庭の井戸を使わせてもらえばいい」
「そいつは助かるな。ハンツィ、頼んだぜ」
ハンスは、草木の葉が生い繁りさらにそれに蔓草が絡んでいるために見透しが極めて悪く、その上曲りくねっている森の中の道を、ヘッドライトの光芒だけを頼りにポルシェを巧みに操っていった。バックミラーを覗くと、かなり遅れてはいるが後続の四台の車が一団となって随いてきているのが、樹間に見え隠れするライトの光で判る。どの車でか判らないが、大合唱している大学ヨット部の歌が切れ切れに聞こえる。
西側潜入のための最後の実地踏査をひと通り済ませた中尉は、まだ水滴が滴っているウェットスーツを手際よく脱ぎ捨て、赤い煉瓦積みの内壁に並んでいる所定のフックにそれを吊した。そして手早く軍装を整えると、室内をひと渡り点検したのち電灯を消し鉄製の扉を引き開けて建物の外に出た。建物を取り巻く背の高いフェンスにただ一つある入口の前で、運転手を勤める兵士が乗っている高速野戦指揮車が待機していた。トラックに鋼鉄製の鎧を着せたようなソ連製の車で、エンジンはドイツ民主共和国で造られたものが搭載されている。彼は運転席の隣に乗り込むと、短く、
「ノイホフ監視塔へ」
と兵士に命じた。スモールランプだけを点灯した車は直ちに発進し、痩せた|山《ぶ》毛|欅《な》と白樺が半半くらいに密生している森の中の未舗装の道をノイホフ地区へ向った。数分後には家もまばらなノイホフ村を通り抜け、境界線に近い無人の森の中に再び入った。徐行して監視塔に接近すると、境界線フェンスの下の草むらから突然兵士の姿が一つ跳び出した。右手を腰の拳銃に当てたその兵士は、左手を挙げて停車の合図を送ってきた。野戦服に身を固めた中年の軍曹だった。軍曹は車に歩み寄り、中に中尉の姿を認めると、
「身分証明書と監視塔地区への立入許可証をどうぞ」
と、腰の拳銃から離した右手を車窓に差し伸べた。
「必要あって、塔の上から西側の地形を見せてもらうためにやってきたのだ。ところで君はここで今時分一体なにをしているのだ?」
胸のポケットを探って取り出した身分証明書と立入許可証を軍曹に手渡しながら中尉は逆に質問した。軍曹はそれにはすぐに答えようとせず、車のスモールランプの光を利用して仔細に二枚の紙切れを検べていた。やがて納得したらしくようやく表情を和らげ、その紙切れを中尉の手に返しながらいった。
「判りました。自由に行動されて構いません。我われは爆発物処理隊員でありまして、ただ今、この附近の境界線に埋設されている地雷を撤去しているのであります。この作業をやっているのを絶対に西側に気取られるな、と特に注意を与えられておりますので、神経過敏になっておりまして……。ご覧ください。あれが掘り出した地雷であります。信管はもちろんすでに外してありますが、強いショックを与えると危険であります」
軍曹の視線を辿ると、監視塔のコンクリート台座の上に泥まみれの黒い塊が十数個並べられていた。
「境界線に敷設されているすべての地雷を撤去しているのか?」
「それは存じません。我われに命じられているのはこの地区だけでありますから」
「いつから撤去作業に掛かっているのだ?」
「一週間前からであります」
「予定どおり作業は|捗《はかど》っているのか? いつ君たちの仕事は終るのだ?」
「はい。我われの持ち場は今夜の零時に終らせなければならないのですが、予定より少しばかり遅れております。何しろ大きな物音を立てられないので思い切って仕事ができず能率が上がらないのであります。境界線におけるわが方の防衛力が一時的にでも弱体化していることを西側に知られるのはまずい、ということでして……」
車から降り立った中尉が大股で境界線の金網の方に近づこうとした途端、
「お静かに! 足音にもお気を付けください!」
と、軍曹の小さいが鋭い注意の声が飛んだ。
「すまん。君たちの作業振りをちょっと見たかっただけだ」
金網から三メートルほど下がったところの地面が塹壕のように掘り下げられており、その狭い穴の中に数名の兵士が入り込み、囁くように短い言葉を投げ合いつつ掘り当てた地雷の信管を取り外そうと懸命になっているところだった。兵士たちの泥にまみれた額に吹き出している脂汗が夜目にも鈍く光り緊張の高まりを象徴していた。
「このTs6型地雷の場合、触針は勿論上面にあるのでありますが、敵に簡単に処理されないように信管はわざわざ下面に取り付けてあります。こうして我われ自身が掘り起す段になりますと、それがかえって仇になり手間が掛かって困ります」
「なるほどな。とにかく命じられた期限までに完了するようにな」
爆発物処理隊の兵士たちに背を向けて監視塔に登るタラップの方へ歩を進めながら、中尉は、国軍の中にいるクレムリン派の計画に基く指令がすでにあらゆる組織の末端にまで浸透し、かつ着実に実行に移されているのをまのあたりに見たと思った。
間もなくクラウスの家の光が見えてくる頃だ、と考えながらハンスは車を走らせていた。ハンスがポルシェを駆っているこの荒廃した石畳の道路はタンドルフ間道と呼ばれ、境界線が設定され、ついその先で切断されるまでは、この辺りを東西に走る便利な道路だった。クラウスの先祖は、石畳の上を馬車が往来していた頃から代々この間道沿いの家に住み、農業のかたわら宿屋と食堂を営んでいた。今の代になってからも、間道が人の往来で賑わっていた間はその生業は変らなかった。だが今や、袋小路になってしまったこの森の中の道に入り込んでくる必要のある者とてなく、また、この附近一帯が境界地帯に指定された後、森の中に点々と住んでいた人びとは次第に数を減らしてゆき、今ではクラウス夫婦だけが昔のままに住んでいた。というわけで、宿屋と食堂に客が来るはずもなくなってからは、境界線のすぐ西側にある先祖伝来の農地で麦や野菜を作ることが現在の夫婦のもっぱらの仕事になっていた。
「おい。ハンツィ。クラウスの家はまだなのか? 俺は咽喉がからからだよ」
後席の仲間が待ち切れなくなったらしくハンスに催促した。
「まあ待て。もうすぐだ」
ハンスはフロントガラスに眼を凝らしポルシェの速度をさらに高めた。
監視塔に垂直に取り付けてあるタラップを登り詰めた中尉が、監視室の床にある出入口の揚げ蓋を外側からノックすると、たちどころに上に引き開けられ、
「早かったな! ルードヴィッグス」
と、若い声が降ってきた。
中尉の上半身が室内を照らす淡い電灯の光の中に現われると、声の主は驚いて直立の姿勢をとった。少年の面影が未だにどことなく残っている顔立ちの|二十歳《はたち》前としか見えない兵士だった。
「これは失礼いたしました! 同僚のルードヴィッグスが戻ったのかと思ったものでありますから」
「今、君は一人だけか? ルードヴィッグスという君の同僚は、勤務中になぜ自分の部署を離れているのだ?」
「はい。我われはついさっき警備指揮所と繋がっている有線電話が不通になっていることに気付いたんであります。強風の日になど、森の樹木にこすられて架線が切れたりすることがよくありますので。ルードヴィッグスは道々その個所を捜しながら指揮所へ報告しに行ったんであります」
兵士は緊張の余り全身をこわばらせていた。
「そうか。そうか。事情は判った。さて、わたしはこのとおり立入許可証を持っている。見るか?」
「いえ。結構であります」
「そうか。では、ここから西側の地形を眺めさせてもらっていいかな。さてと、君の名は?」
「はい。二等兵士エーリッヒ・クラウゼンであります。どうぞお好きなだけここをご利用ください。ここから見える西側の地理についてなら知っている限り私がご説明いたしますから」
「エーリッヒ。それはありがたい」
と、中尉が兵士の肩に手を掛けて打ち解けた態度を示した時ようやく若い兵士の緊張はほぐれ、その少年のままの眼がにっこりと笑った。監視室の四周は鋼板で囲われており、後面の上半分だけ網入ガラスの引違い窓になっている。前面と左右の鋼板の囲いには、いわゆる鉄砲狭間がしつらえてあって、眼の高さに当る部分にぐるりと十センチメートル幅の監視孔が付いている。監視孔は、幾つかに分割された鉄板の蓋が必要とあらば上から下に降りるようになっており、さらにその鉄板の蓋の真中辺りにも二センチメートル幅のスリットが横向きに入っている。
六月の暖気に包まれたこの宵は、窓も監視孔もすっかり開け放たれていて、背後の森を渡って吹いてくる夜風が心地よく通っていた。監視孔から周囲を俯瞰すると、監視塔がこの附近で一番高い丘の上にあることが地形図で見たときよりはっきりと感じられた。前面の監視孔から眺められる西側の夜景はほとんど墨一色で、塔の脚元にある境界線の金網のすぐ向うから始まっている草原が数百メートル先まで続いており、黒ぐろとした森林地帯の陰で終っていた。暗黒の中に光るものといえば、正面の森林地帯を越えた遥か彼方を南北に高速で行き交う自動車のライトが地形に遮られて跡切れ跡切れに見えるのと、手前の森林地帯の中にぽつんと一つ見える人家のものらしい淡い小さな光だけだった。中尉の頭の中にある西側の地図によれば、車のライトが絶え間なく行き交うあの街道は、位置と方角からして「|岩塩 街道《ザルツ・シユトラツセ》」に違いない。
「エーリッヒ。勤務態様は二時間交替だったな? どうだ、退屈しはしないか? ここのところ西側とは取り立てていうほどの摩擦はないのだから」
「いいえ、退屈などいたしません。任務でありますし、いつも気を張って監視を行なっております。……特に今夜のように暖い夏の夜には決して退屈などいたしません。ご覧のとおり肉眼では何も見えませんが……」
兵士は|眥《まなじり》に皺を寄せ、|悪戯《いたずら》っ子のように声を立てずに笑った。
「……前の草原は、それはそれは賑やかなんです」
そういって彼は怪訝な表情を造った中尉に対し、三脚の上に乗せられて前方の監視孔に向けられている大型双眼鏡を指し示した。それは大口径の赤外線双眼鏡だった。
「ご覧になりますか? 今電源を入れますが」
いわれるままに接眼レンズを覗き込んだ中尉の視野に拡大されて跳び込んできたのは、肉眼では何一つ見えなかった暗黒の草原にうごめいている無数の燃えているような赤い灯だった。視野を移動させてもその灯はいたるところに見えた。幾千もありそうなその灯は、彼がアルマ・アタ大学に留学中に、夜のイシクル湖で見た海螢のように、一つ一つが輝いたり消えかかったりして息づいているようだった。
「沢山見えますでしょう。草の新芽を食いに穴から出てきている野兎の瞳であります。草の芽というのは夜露が降りる夜中に伸びますからね。馴れてきますと、狐の瞳は兎のより幾分大きくて明るいし、鹿のはもっともっと大きくて真丸なので区別できるようになります。一口に鹿といっても普通の鹿のほかにオオシカ、ノロシカなどかなりの種類がこの一帯には棲んでいますが、それらも見分けられるようになります」
初めて眺める光景に興味をそそられた中尉が遠く近くを覗いているうちに、赤い灯の群は突然さざなみのようにざわめき、風に吹き寄せられたかのように右手に一斉に移動したかと思う間に、数秒後には一つ残らず消えて、草原は赤外線双眼鏡を覗く前の暗黒に戻った。
「どうしたのかな? 突然一つも見えなくなってしまった」
「そうですか。多分白イタチか狐が近くにやってきたんで兎たちは大急ぎで巣の中に逃げ込んだんであります」
双眼鏡の視野は狭く、中尉には白イタチや狐の姿を捕えることはできなかった。
「私が探してみましょうか。ほら、ここです。狐であります。南から北へ草原を横切っております。狐の姿を見付けるのは難しくありません。兎の瞳が順繰りに消えてゆく所とまた現われてくる所との中間辺りを探せばきっとおります」
深い草むらを避けながら左右に視線を配りつつひょいひょいと跳ぶように身軽に動いてゆく狐の瞳は中心部が黄色っぽい螢光を発しており、その周辺からは白色の|陽暈《ひがさ》のような弱い光を反射していた。
「右手の方に小川がありますでしょう。その水面を注意してご覧になると水際の巣から出てきているジャコウネズミが泳ぎながら餌をあさっているのが見えると思いますが」
北から南へ境界線に沿うようにして幅三メートルばかりの小川が流れていた。地表から一メートルほど下に水面が見えるが聞こえてくる水音から察すると水量は僅かのようだった。流れは、監視塔のある小丘を巡るように大きく円弧を画き、そのまま南に行くほど境界線から遠ざかっていっている。その先に、今や立ちはだかる境界線の金網によって断ち切られている道路の跡が雑草の量が少ないということでようやく識別され、今もなお小川を跨ぐ石造りの橋が架かっている。
小川が弧を画きはじめる右手の小丘の下に見える水面に中尉は双眼鏡の視点を定めたが、ジャコウネズミらしいものの姿を捕えることはできなかった。やがて再び視点を道路の方に戻すと質ねた。
「あの道路までの距離はどの位だ?」
「四百三十メートル。たしかこの塔から橋までの直距離がそうであったと思います。あの道路は昔タンドルフ間道と呼ばれていたものであります」
「道路の向う側の並木とも塀ともつかぬものは何だ?」
「ああ、あれでありますか。鹿や兎を農地に入らせないようにするためにクラウスのところで拵えた防護柵であります。金網の切れ端や石や枯木や板切れでクラウスんところのひいじいさまの代から四代に|亙《わた》って手を入れてきた代物であります。なにしろ、これだけの数の動物を相手に作物を護らねばならないわけでありますから」
「こんな所に畑があるのか?」
「はい。聞くところによりますと今の代のクラウスは、『わしゃ他人を傷つける気はねえ。だもんで他人がわしらを傷つける気遣いもしねえ。先祖代々かわいがってきた畑を境界線がそばに通ったからって手離さにゃなんねえ訳はねえ。誰かが後を耕すちゅうならまだしもよ』といっているとかで、あのとおり間道沿いにある先祖伝来の農地をずっと耕作しているんであります。ほら、前の森の中に一つだけぽつんと電灯が見えますでしょう。あれがクラウスの家であります。
タンドルフ間道はあの森を抜けてラーツェブルクの町の方へ繋がっているのでありますが、クラウスのところでは代々農業の傍、間道沿いの宿屋とレストランをやっていたんだそうであります」
「エーリッヒ。君は向う側のことになかなか詳しいんだな」
「はい。私もこの地方の出身でありますから。この近くにノイホフという名の村がありますが、そこにはクラウスの兄弟も幾人か住んでいますし、クラウスのかみさんの従妹もいるんであります。十何年か昔の事だそうでありますが、クラウスんところの末娘が嫁に行くことになった時には、境界線の両側から親類縁者がこの辺りに集まってきて境界線を挾んで祝宴を開き、互いに自慢の手造りのワインやリンゴ酒を交換し合ったりして丸一日大騒ぎをした、と年寄りから聞かされております。もっとも当時は、現在のように背の高い金網など張られておらず、丸太に鉄条網を張り巡らしただけの境界線だったそうでありますが。
しかし、近頃でも時期になるとクラウスは庭の木に実ったリンゴを麻袋一杯に詰めてきてはここにいる私たちにくれるんであります」
「ふむ。その受渡しはどうやるんだ?」
「監視室の屋根から向うへ投げたロープのはしに袋を結びつけてもらってから釣り上げるんであります」
と、話しながらも前方の森に眼を注いでいたクラウゼン二等兵の顔が突然真剣みを帯び、片手を挙げて中尉の口を制し会話を押し留めた。
「ちょっとお待ちください。車が何台か森の中を走ってきます。多分タンドルフ間道なりに行ってクラウスのところに行くんでありましょう。
それにしても随分沢山なお客さんだな。こんな時刻にクラウスんところで何の寄合いがあるのかな」
五台分のヘッドライトが森の繁みに見え隠れしつつ近づいてきた。
「おかしいな。クラウスの家の方へ曲らずに、こっちへ真直ぐに向ってきます。ちょっとそこをどいて双眼鏡を私に使わせてください。
ああ、軍用車ではありません。いろんな形の自家用車であります。三、四名ずつ私服の青年が乗っているようです」
後続車をかなり引き離して先頭の車が森林地帯の切れ目に差し掛かった。クラウゼン二等兵は素早く床にある出入口の揚げ蓋を引き開け、境界線の傍で地雷の撤去作業に熱中している爆発物処理隊に向けて声を潜めて叫んだ。
「車が五台こっちへやってくる。様子が判るまで物音を立てるな!」
軍曹が作業を中止させたようだった。
ハンスは、この先を右へ曲れば今度こそクラウスの家の外灯の光が見える、と確信してポルシェのギアを一段上げアクセルを踏み込んだ。その時急に石畳を踏んでいたタイヤの軋みが変り、車体が震動する調子も変化した。と、たちまち、森が切れ、前方には立木一本生えていない草原が広がった。おかしいぞ、と思う間もなく、真正面に高さ一メートルほどの土の山のようなものがヘッドライトの光の中に浮び上がった。反射的にギアをロウに落しブレーキペダルを力一杯踏んだが、惰性に負けた車輪が夜露に濡れた草の上を滑ってゆき、ポルシェは数回撥ね上がった末、最後に土の山の頂に這い登ったような恰好でやっと停った。五体のいたるところを車室にぶっつけた後席の連中が喚いていた。
間もなく四台の車も彼の後に随いて草原に入り込んできて後方に一列になって停った。
ギアをニュートラルに切り替えブレーキを引いたハンスは、ここはどこだろうか、とまず訝った。真暗闇ですぐには周囲が皆目見えなかった。ただ、中空に光を投げているヘッドライトの乱反射で平坦な草原がかなり遠くの方まで続いているらしいのが判った。ヘッドライトの光芒の中に浮ぶ物だけを運転中に凝視していた彼の眼が時間が経つにつれて僅かずつ暗黒に馴れてくると、彼らが走り出てきた背後の森と草原が接している部分が直線状に刈り込まれているように見えて、なんとなく人工的な感じがした。暗黒にさらに順応してきた彼の眼は、森と反対側つまり正面の草原の果てに金網らしいものがあるのを把えた。どうやらこの草原は背後の森林と前方の金網とに並行に挾まれて左右に長く広がっているらしいのだ。とすると、ここは境界地帯に違いない。境界線に沿って造られている防衛|開豁《かいかつ》地の中に入り込んでしまったのだ。そう気付いた彼はさらに眼を凝らして金網らしいものがある辺りの上空を透かし見た。黒ぐろと見える森林の頂より僅かに高いところに暗い夜空を背景にして四角なシルエットが見えるような気がする。監視塔の上の監視室だ。も早疑う余地はなかった。彼は、後席で未だに喚いている二人の仲間を振り向き、
「おい君たち! いいかげんに静かにしてくれないか!」
と叩き付けるようにいい、
「どうやら俺たちは境界地帯の中に迷い込んだらしいぞ。監視塔らしいものも正面に見える。こうしてはいられない。後の連中にも報らせて、すぐに引き返さなければ!」
とドアの取っ手に手を掛けた。後続車の方ではすでに幾人かが車外に出ており、
「おーい、ハンス。ここはどこなんだ? 俺たちをどこへ連れてゆく気なんだ?」
と叫びつつ、へッドライトの光が真暗闇の中に造りだしている極めて狭い可視範囲の中で雑草の株に足を奪われながらハンスの車の方にやってこようとしていた。
中尉が監視孔から注視している真正面を、先頭の車は高速で境界線に対して直角に突進してきた。境界線目掛けてというより、彼が注視している監視塔目掛けて、という方がより正確だった。小型のその車は草原の中途まで走ってきて土の山に乗り上げて停止した。その拍子にヘッドライトが上向きになり、偶然その光軸をぴったりと監視室に向けた恰好になった。光量は監視室までは届かなかったが、赤外線双眼鏡で望見しようとするとヘッドライトの光を中心に附近一帯が乳白色の虹が掛かったようになり、それが邪魔をして車内の動きを知ることがまったくできなくなった。
軍曹が足音を忍ばせて監視室に昇ってきた。
「一体何なんですか? 彼らは何者なんです? 作業の進み具合が予定より大幅に遅れているというのにまったく困りましたな」
「彼らが何者なのか、意図は何なのか判らん。もう少し待ちたまえ」
残る四台の車も次々に森を出て草原に入り、先頭車の後に直線に並んで停止した。幾人かの男が車から出てきた。思い思いの服装をしている長髪の青年たちだった。中にはショートパンツ姿や上半身裸体の者も混っていた。
「どうやら彼らは学生らしいな。月の無い真暗な夜なので境界地帯とも知らずに迷い込んだのだ。しかも彼らは酔っているようだな」
「それなら、さっさと引き揚げてくれませんかな。隠密作業を厳命されていることは先程お話したとおりですし、完了時間が迫っているというのにまったく弱りましたな」
青年たちは互いに車の間をのんびりと行き来したり立ち話をしたりしている風ですぐに退去する様子は見られなかった。
クラウゼン二等兵が銃架からライフルを取り上げていった。
「これで追い払ってやりましょうか? ヘッドライトを狙撃して」
「いや、待て。気短かに西側と紛糾を招くような行動に走るのはよくない」
「中尉。彼らは学生だといわれましたが、その証拠はどこにもありません。我われが地雷を撤去しているのに感付いた偽装偵察隊が確認しようとしてああして来ているのかも知れないではありませんか。私も、この際クラウゼン二等兵がいうように実力排除に賛成しますな。もう我われは手を休めているような時間がないんです。一分でも無駄にできないんです」
「警備操典にもこういう場合の緊急対応措置として『警告のために発射する初弾はヘッドライトを狙うべし』と書いてあります」
とエーリッヒ・クラウゼン。
「エーリッヒ。この状態を緊急と呼べるのかな? しかし、軍曹のいらいらするのはもっともだ。作業を終らせるのに一刻の猶予もできぬのか? 本当にそれほど遅れているのか?」
問わずもがな、といった苦い表情で軍曹は激しくかぶりを振った。中尉は、心中を整理するためか草原に停っている車の十個のヘッドライトに眼をやりながら三十秒ばかり黙考したのち口を開いた。
「よし。エーリッヒ。ヘッドライトを確実に撃てるか? どうだ?」
「これしきの距離でありますから。自信があります」
「では慎重にやれ。ところで、報告書にはこのように記すんだ。いいな。まず日時、それから君の氏名階級所属。ではいいか? 『ノイホフ監視塔において勤務中のところ、西側の民間のものと思われる五台の乗用車が当監視塔の面前に突然進出しきたり、そのヘッドライトを以て監視室を真正面から照射した。そのため、わが方は眩惑現象を来たし、附近警戒面の監視が不可能になった。したがって、この妨害を早急に排除するため威嚇により車両を退去せしめるのが最良と判断し、先頭車両のヘッドライト一個をやむなく狙撃した』とな。
さあ、エーリッヒ。落ち着いてしっかりやれよ」
二度ばかり気忙しげに頷いたクラウゼン二等兵は、被っていた布製の野戦帽をむしり取るようにして脱ぎ、室内の後隅にある机の上に投げた。そして、ライフルの銃口を監視孔の縁に持たせかけ、銃身を固定するために背負い革を左肘にからませて絞りあげた。やがて大きく吸い込んだ息を停めると静かに銃把を握り締めるようにして、引き金を引いた。
ハンスは、彼の車の方にのんびりと歩いてくる後続車の仲間に向って、
「おい、みんな。聞いてくれ! 俺たちは境界地帯の中に入り込んじまったらしいぞ。早く森の中へ後退するんだ!」
と叫びながらドアを開けて車外に降り立った。
「ハンツィ。なんだって? 今なんといったんだ?」
と仲間の一人が遠くから問い返した。
その声が終るのとほとんど同時にかなたで銃声が轟き、弾丸が空気を切る瞬間的な音に続いて、ポルシェの左側のヘッドライトが大きな音を立てて粉々になってけし飛んだ。
「東側が撃ってきたぞ! へッドライトをすぐに消すんだ! 標的にされるぞ!」
彼は再び仲間に向けて叫びつつ自分の車のダッシュボードに腕を伸ばし残っている右側のライトを消した。銃声が森に反響しながら草原を渡っていったあと、東西両側の森の中で安眠の夢を破られた無数の鳥がすさまじい羽音を立て鳴き声を挙げて騒ぎはじめた。遠くでクラウスの家の犬が太い声で吠えはじめた。ヘッドライトが消され周囲が再び真の闇に返ると監視塔の輪郭が幾らかはっきりしてきた。中空に浮ぶその輪郭を見た途端、そこから再び銃撃されるかも知れない、という恐怖よりも愛する車を壊されたことへの怒りが彼の胸中で勝ってきた。それと同時に彼は或る誘惑と闘いはじめた。自制心が勝っていたのはほんの束の間で、ついに彼はヴォルフガングの車に走り寄った。
「おい! ヴォルフガング。ちょっとそのキイを貸してくれ!」
相手が口を開くよりも早く彼は自らイグニッションスウィッチに手を伸ばし鍵束を抜き取ると後に廻って車のトランクを開けた。推測したとおり、その箱はその中にあった。箱の施錠を指先で探り、鍵束の中から一つを選んで差し込んだ。右に廻すとカチッと外れた……。
約束どおりにへッドライトを一発で仕留めたクラウゼンは肩からライフルを外して振り向くと、いかがです? といわんばかりに両頬にえくぼを作った。
「見事だ! エーリッヒ。エーリッヒ・クラウゼン二等兵、見事だ!」
先頭車の片側のヘッドライトが破壊されるとすぐ、残りのライトも一斉に消され、草原の光景は再び暗転した。赤外線双眼鏡の視野の中で、一瞬事態が飲み込めずに呆然と佇立しているように見えた青年が動いた。しかし、ヘッドライトを狙撃すれば驚いて早々に退散するに違いないとの予想に反し、青年は自分の車に乗り込まなかった。
「どうしたんだ? なぜ彼らはすぐに退去しないんだ? あの男は後続車の仲間の方へ足早に歩いてゆくぞ」
赤外線双眼鏡を覗いている軍曹が報告した。
「彼は三台目の車の脇に立ち留まったが、今その車の後に廻った。何をしているのか判らない」
ややあって、軍曹の視野の中に再び青年の姿が現われた。青年は監視塔に向って駆け足で接近してきつつあった。その青年の手には棒のようなものが握られていた。軍曹が叫び声を挙げた。
「おいおい! あいつは一人だけで猟銃一梃でもってわが方に反撃するつもりらしいぞ。こいつは驚いた! 掘り出した地雷を蔭の方に移動させるに越したことはなさそうだ」
双眼鏡から顔を離した軍曹は慌てて地上に降りていった。クラウゼンが正面の監視孔を鋼鉄製の蓋で被い終り何かをいおうとしたとき、銃声が草原に轟いた。命中音は起らなかった。しかし、それを耳にした者の心に或る種の原始的恐怖感を呼び覚まさせずにはおかない巨大な物音が森林一帯に突如巻き起った。クラウゼンがヘッドライトを狙撃したときの銃声に驚き|塒《ねぐら》の中で興奮していた数千の鳥が、一斉に鳴き叫びつつ夜空に舞い上がった羽音だった。暗黒の夜空を低く高く気が狂ったかのように盲目の状態で飛び廻り、互いに空中で衝突するとさらに高い悲鳴を引きながら|霰《あられ》のように地上に墜落しはじめた。
「中尉。えらい騒ぎになりましたね。こんな場合にどうしたらいいか緊急対応措置提要の中にも書いてありません。どういたしましょうか?」
「収まるまで待つしかないな」
「でもあの気狂い野郎は、きっとまた撃ってきますよ。致命傷にならない程度に|肢《あし》でもこれでやりましょうか? 赤外線照準器もここにありますから」
クラウゼンがライフルの銃把を叩きながら中尉の同意を求めた。
「だめだ。事態を悪くするばかりだ」
また草原で銃声が轟いた。今度は監視塔のどこかに当り、バシンというかなりの音が室内に伝わってきた。
「ほら、申したとおりでしょう。こっちが反撃しないのであいつはいい気になって撃ってくるんです。操典には『奇襲に対しては各自の持ち場で即応すべし。通常の指揮系統からの指示を待つ要なし』とあるではありませんか」
「だめだ。エーリッヒ。これは奇襲ではないし、相手は軍隊でもない。だが、待ちたまえ、この監視塔には探照灯の用意はあるのか?」
「はい。屋根の上に装置が付いております」
「よし。ではそれであの青年を照射してやれ。目を眩ませれば撃ってこれなくなる」
クラウゼンは壁に取り付けられている垂直のタラップを登り、屋根の一部にある揚げ蓋を撥ね揚げて半身を乗り出し探照灯の操作にかかった。ブーンという音を立てて光源の熱を冷やす送風機が廻りだし、光が円筒のように伸びて、草むらで膝撃ちの姿勢をとっている青年の姿を把えた。
ハンスは思わずライフルを投げ出すと、両手で両眼を被い、刺すような眩しさから逃がれようとした。光は眩しいだけでなく真夏の太陽のように熱かった。しかし、どうしたわけかこの苦痛は長続きしなかった。またもや予想外のことが始まったのだ。夜空を狂気のように乱舞していた大小数千の鳥が、光源に吸われるように探照灯に向って突進しはじめたのだ。無数の鳥が漏斗状の集団と化し監視室に後から後から衝突する音はすさまじく、ドラム缶を連打するのに似た物音がハンスのところにまで聞こえてきた。吸い寄せられてゆく鳥たちに遮られてハンスの周りに届く光の量が極端に減り、彼はようやく視力を恢復した。見ると、飛んでゆく鳥は探照灯の光源の熱に翼を焼かれたり、鉄板に衝突して気絶したりして監視室の周囲から降るように墜落していた。
その有様をハンスが呆然として見詰めていたとき、探照灯の光がフッと消えた。その直後に監視塔のすぐ右の傍で爆発が起った。その爆発音が消えやらぬ間にさらに大きい爆発が今度は監視塔の真下で起ったのだが、ハンスはその光景を眼の隅でちらっと見ただけだった。なぜなら、彼はその直前に左肢の膝の下を鉄棒で殴られたように感じ、思わず背後の草むらにのけ反ったのだ。
監視塔の周囲にあった樹々は爆発の火炎で乾燥済みの麦藁のように燃え上がった。監視室の木製の床は爆発物の破片を受けて数個の穴が空き、そこから燃え盛る地上の|劫火《ごうか》が透けて見えた。クラウゼン二等兵が鼻と耳から血を糸のように流し床の上に倒れていた。帽子を撥ね飛ばされただけで奇跡のように無傷だった中尉が倒れている若い兵士の傍に膝を突こうとしたとき、監視塔が前の方に、つまり西側に向ってゆっくりと傾きはじめた。やがて塔の下の方で鉄骨が截ち切れるような鈍いが重々しい音響と振動が起った。途端に塔の傾斜速度が加速度的に高まり、最後には物体の落下速度と同じになって境界線の金網を押し潰して横倒しになった。
監視室の床が傾斜しはじめたとき、足元に滑ってくる机やストーブなど室内備品から身を護るために中尉は咄嗟に探照灯操作用のタラップに這い昇った。急速に傾斜し、ついに転倒した監視室が地面に激突した反動で、鳥が襲ってきたときに慌てたクラウゼンが施錠をし忘れた屋根の揚げ蓋がバタンと開いた。同時に弾みで一瞬空中に浮んだ中尉は、その揚げ蓋の穴をするりと抜けて監視室の外に跳び出した。そして上半身を下にして落ちてゆき数メートル下の地面に叩きつけられて気を失った。勢い余った中尉の体は小丘の斜面でもう一度弾み、小丘の麓と小川とに挾まれた僅かな面積に密生している|石南花《しやくなげ》の繁みの中に転げ込んだ。
[#改ページ]
ドイツ連邦共和国国境警備隊総隊司令部は、境界地帯監視装置が自動的に記録した信号と、この地区をカバーしているパトロール隊からの急報により、爆発発生から四分が経過したときには事態の概要把握を完了していた。そして、直ちに約十キロメートル北に位置するリューベック駐屯支隊から取り敢えず完全装備の二個中隊を現場に急行させる一方、連邦陸軍総監部に対して、第六監視塔附近の境界線フェンスの一部が東側自身の手によって爆砕された、と通報した。これを受けた陸軍総監部は万全を期してシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン並びにニーダー・ザクセン両州内の全地上部隊に緊急出動態勢をとらせたが、数分後にヘリで現場に到着した国境警備隊先遣隊が『単純事故による爆発』と断定したため十五分後には出動態勢を解除した。一方、森の彼方で轟いた大きな爆発音を耳にした多数の市民からの通報により、ラーツェブルク町の所轄警察は三台のパトロールカーを原因探索のために森林地帯へ派遣した。しかし、そこにはすでに国境警備隊が展開しており、彼らが拘束していた十数名の学生の身柄が酒酔運転容疑により警察側に引き渡されることになり、到着後十数分で全パトロールカーは現場を退去した。
こうして、爆発発生からおよそ一時間が経過しようとする頃には、境界地帯開豁地を挾む約五百メートルの向う側で東独人民軍技術部隊が実施しているところの、倒壊した監視塔を細かく熔断分解し撤去する作業と爆砕されたフェンスを修復する作業とを、開豁地に接する森林の縁に秘かに展開して監視を続ける国境警備隊二個中隊が残るのみとなった。
一時間が経過して間もなく、東側動静の掌握分析を主たる任務の一つとする基本法擁護庁の北部方面支局に属する数名の男が乗った黒塗りのベンツ二台が森に到着し、監視活動中の国境警備隊と合流した。
両独分離後最大ともいえるこの境界線での爆発の原因を今直ちに西側の手では探り得べくもないが、あらゆる状況が示しているところは爆発発生が事故によるものであり決して計画的なものではない、というのが現場をまのあたりにした大方の国境警備隊員並びに基本法擁護庁職員の見解だった。したがって、西側としてはこの爆発による被害が皆無であったこともあり、東側の技術部隊が境界線フェンスの修復を完了して現場を撤収するのを見届ければこの一件は落着である、という空気が支配的だった。
しかし、この頃この現場から遠く五百キロメートル離れた所で、この爆発に端を発する東側の奇妙な動きに着目して活動を始めた或る組織があった。それはフランクフルトに駐屯する合衆国陸軍第五軍団司令部の情報部だった。たまたまこの夜当直していた情報将校ケイリー・ジョーンズが、東ベルリン内にある協力者によってもたらされた「今夜半、突如、人民軍諜報部は活溌な活動を見せはじめ、かなりの数の諜報部員がヘリコプターで北方に向った」との情報を眼にしたのがきっかけだった。なに故に彼らは北に向ったのか? この時点でケイリー・ジョーンズは未だ北部両独境界線で爆発事故が発生したという事実を知らなかった。そこで彼は、在ハンブルク合衆国総領事館に勤務するレスター・ウィリスの自宅に電話し、北ドイツ地区における異常事態発生の有無を確かめようとした。だが、この時点でウィリスもまた何らの情報も持ち合わせていなかった。そのためウィリスは、公私の関係が深いドイツ連邦共和国基本法擁護庁北部方面支局長クルト・クリスチァンゼンに直ちに問い合わせることにした。
レスター・ウィリス。親しい者は彼をレスと呼ぶ。アメリカ合衆国海兵隊中佐。四十三歳。家族は妻のジョアンと娘二人、ケート八歳にドロレス六歳。ハンブルクの外アルスター湖のほとりにある合衆国総領事館に部下の海兵隊員五名と共に勤務。赴任後約七年半になる。
一九〇〇年、北京の各国公使館が現地民により組織的に襲撃されたあの義和団の乱を経験して以来、合衆国在外公館には派遣海兵隊が設置されるしきたりになっている。任務はまず館員を始めとする居留米国籍市民の安全確保と合衆国財産の保全、つまり警備業務と、それに毎朝の国旗掲揚に始まる様ざまな儀礼業務である。ところがレスター・ウィリスにはもう一つの特殊任務が課されている。それは、東側軍事情報の収集だ。大使館にはこの任務を正式に担当する駐在武官なる者がいる。例えば、ボンの合衆国大使館にはウィリスと同輩のトマス・ロイヒャマン陸軍中佐がいるようにだ。通常、総領事館には表立ってこの任務を担当する者を置かないのがしきたりだがハンブルク地区だけは特別なのだ。その理由の第一は、ここはこの国の中で最大の都会であること。第二に、東側との境界線までの距離が僅かに五十キロメートル。したがって東側との関わり合いは何につけても多くなる。その上、余り知られていない事実だが、この街に設置されている外国公館の数が極めて多いこと。この数が世界中で一番多い都会はニューヨーク、その次がそれより一つ二つ少ないだけのこのハンブルクなのだ。この街に設置されている百を上回る公館の中から東側勢力圏に属するものを数え上げれば、その数はむしろニューヨークより多いのが実態だ。というわけで、生の情報収集活動にはボンより遙かに有利な環境にあるので、在ハンブルク合衆国総領事館派遣海兵隊の指揮官には歴代この特殊任務が余分に負わされている。
レスが赴任したのは七年半前の初冬だった。この年はどうやら暖冬らしく、十一月の声を聞いても気温はマイナス三度とプラス三度との間を上下するだけで、雪にもならず晴れもせず、低く垂れ込めた、緬羊の背中を逆さに見るような色かたちの雲から、昼も夜も冷雨が降るばかりで、前任地のブラジリヤから転任したばかりの彼にとってまったく憂鬱な毎日だった。土地のドイツ人でさえ「グリーン・クリスマスにホワイト・イースター」と自棄的に口にしているのをよく耳にした。「クリスマスの頃に雪がなく、復活祭の頃になってから雪が降る」ということで、誰もが不順な気候を嘆いているのだった。
その頃のレスは、任務の性格上いつか必ず役に立つに違いない土地鑑を早く身に付けようと、着任早々手に入れた中古のフォルクスヴァーゲンで暇さえあればハンブルク州の内外を遠く郊外の森林地帯の中までも走り廻っていた。現代では世界中に広まっているあの十二月二十四日のイブに始まるクリスマスの行事は、元はといえば、北ドイツ地方に伝わっていた冬至の夜の祭が起源であることは赴任の前から知っていた。冬至を境に日照時間が次第に長くなってゆくのを祝う祭で、それ故に木の枝に沢山の蝋燭の灯を点して、それを祭の飾りにするのだ。郊外にはその冬至の祭を思い起させるような深くて暗い森が多かった。
本来のそういった仕来りを承け継いでいるのか、この街のクリスマスの飾りは実に地味だった。一番に繁華な通りであるメンケベルクでさえ、クリスマスが近づくと街路を跨いで横断幕のような飾りが二十メートル置きくらいに取り付けられはしたが、光るものといえば何百個かの無色透明の普通の白熱電球だけだった。総領事館の二階のベランダから内アルスターの湖上を透かして眺められるアルスター百貨店の正面にも、十一月の終り頃になって五階の中央から下に向って何十本かの電線を放射状に張りクリスマス・ツリーを形どるような飾りが設けられた。だが、それにも同様に無色透明の電球が付けられ、夕方になるとそぼ降る氷雨の中で黙って点灯しているだけだった。
そんなわけで、クリスマス・イブが迫ってきたある日のこと、レスは、ひとつ景気よくこの総領事館を飾りあげて雨ばかり降っている毎日の鬱陶しさを吹き飛ばしてやろうと決心した。何しろ儀礼は彼の任務だし、クリスマスの行事も儀礼の一つだと考えたからだ。彼は心を決めると同時に部下に命じてかねて目を付けておいたアーレンスブルクの森からできるだけ大きな樅の木を買ってこさせた。それを、外アルスター湖を望む総領事館の二階のベランダ、つまり正面玄関の屋根の上に外から釣り上げて立てた。六メートル以上もの背丈と枝振りが立派だった。一方、サンディエゴの補給廠に当時勤務していた友人にテレックスで依頼しておいた飾り電球がフランクフルト経由で空輸されて四日後には手元に届いた。包を開くと早速部下を呼び集め、ベランダの樅の木を天辺から裾野まで一時間余りでびっしりと飾り立てた。でき上がると点灯していなくても結構豪奢なクリスマス・ツリーになった。ちょうどその時、様子を見に現われた総領事に最初の電源を入れてもらうことにした。プラグをソケットに差し込んでから五、六秒経つとサーモスタットが働きだし、赤黄青緑など五、六色の電球が点滅しはじめた。そのでき映えに居合わせた全員が拍手し子供のように歓声を挙げた。
その日から、夜ともなると米国籍市民はもちろん、ハンブルクの住民までが家族連れでこのクリスマス・ツリーを眺めるために総領事館の前に集まってきていると聞かされ、レスははなはだ得意な気分に浸っていた。
数日経ったある日の午前中だった。机上の電話が鳴ったので何気なく受話器を取ったレスの耳に秘書のミス・クレーマーがいった。
「クルト・クリスチァンゼンとおっしゃる方が階下の受付にお見えになって面会を求めていらっしゃいますが」
「用件はどんな?」
「ベランダのクリスマス・ツリーの件でお話があるそうです」
「クリスチァンゼン氏がクリスマス・ツリーの件でだって? じゃ、上がってきてもらっていいよ」
レスはクリスマス・ツリーと聞くとすこぶる機嫌が良かった。彼の部屋は二階の北東の角にある。東側の窓に寄れば、総領事執務室の前のベランダにあるクリスマス・ツリーを眺めることができる。
ほどなくミス・クレーマーが開けた扉口を通って、彼と同じ年恰好の背の高い男が、明るい笑みを浮べながら大きな歩幅で部屋に入ってきた。そして彼の机の前に立つと、
「クリスチァンゼンです」
と滑らかな英語でいい握手を求めた。英国人のような発音だが名前からしてスカンジナビア人だろうと、レスは推察した。レスも自分の姓名を告げながら椅子を勧めた。
「煙草を喫ってもいいですか?」
と男が質ねたのに鷹揚に頷き、机の上の灰皿を男の方に押しやりながら、
「クリスマス・ツリーについて何か……?」
と、多分あの点滅するカラフルな電球を、どこでどうやって手に入れたのか、などと聞きに来たのだろうと想像しながら優越感をもって男を見つめた。
煙草にライターの火をつけるのに時間を費していた男が眼を上げて口を開いた。
「ウィリスさん。はなはだ申しあげにくいんですが……。色の付いたあの電球を外していただきたいんです」
「なんですって?」
レスは仰天した。いや動転したといった方が正しかったかも知れない。男の言葉が唐突過ぎて返す言葉がすぐには出てこなかった。男は言葉を続けた。
「ついこの間、ハンブルク州警視庁の総監と昼食会で遇いましたらね。市民から幾つも苦情が届いていて困っている、というんです。
ウィリスさん。あなたはザンクト・パウリ地区をご存知ですか?」
そこはアムステルダムの運河裏の飾り窓地帯と並んで世界に名の通ったレーパー・バーン通りがある享楽地帯だ。
「ええ。先日行ってきましたよ」
レスの方に質問させる隙さえ与えずに会話をリードするこの男は一体何者だろうか、と彼は一心に考えていた。市か州政府の地位がかなり高い役人か、または何かの市民組織のリーダーか。
「苦情の中の幾つかはですね、レーパー・バーンのイルミネーションのようにクリスマス・ツリーをけばけばしく飾り立てるのは聖誕祭の精神に対する冒涜行為だ、というものなんです。いえ、総監が困惑しているのは、このようなクリスマス精神の問題ではありませんでね。ま、こういうのは趣味とまではいわずとも見解の相違だと片付ければいいんですが……。あれは、実をいうとこの国ではベルリン州を除いたほとんどの州で州条令違反なんです。それと知った上で指摘してきている苦情もあるんだそうです」
「あれ、とおっしゃるのは何なんですか? 違反しているというのは?」
「色の付いた電灯を屋外に灯すことです。いいですか、この州では例えば青い電灯は警察関係、赤い電灯は消防救急関係という風に、その使途が限定されているんです。しかもですよ。それらを点滅させ得るのは、緊急行動の場合だけ、となっています」
男はここで言葉を切りレスの両の瞳をじっと見つめた。
総領事館で働いているドイツ人は沢山いるが今日までそんなことは誰一人自分に教えてくれなかった。しかし、この男のブルーの瞳に見つめられていると今の話はどうやら真実に思えてくる、とレスは内心恨みがましく考えていた。そうして黙考しているうちに、軍人である彼の最大の弱点たる遵法精神によって、あのクリスマス・ツリーから次つぎに電球が取り外され、次第にただの樅の木に戻ってゆく有様が想像されてきて、レスは、先刻までの得意の絶頂から奈落の底に向ってゆっくりと落ちてゆく自分を予感しはじめた。が、ここでふと思いついて最後の抵抗を試みた。
「しかし、ここはアメリカ合衆国総領事館ですからね」
普段なら、ただ合衆国というところをわざわざアメリカと力を入れて付け加えた。
「したがってアメリカ合衆国の主権が及ぶ領土のようなものではありませんか。ですからお国の州条令などの適用は除外されてもいいはずですよ」
「そこなんです。ウィリスさん。それで総監は困っているんですよ。まあしかし一つの理屈は、苦情がいうように、あのクリスマス・ツリーは総領事館の敷地内にあるとはいえ、屋外に立っている。その光は市内からも見える。つまり光がハンブルク州の領域内に達しているというわけなんです。法律家にいわせると色いろと難しい解釈になるんだそうです」
男は煙草を喫ったりして間合いを取りながらレスの反応を見ていた。レスはどこかに逃げ口はないものかと頭の中で|《もが》いていたが、なかなか出口は見付からなかった。男は灰皿の底で煙草の火をもみ消すと、ゆっくりと口を開いた。
「ウィリスさん。どうです? 妥協をしませんか?」
「えっ! どんな風に?」
レスは、この際ノックダウンより判定負けを選ぼうと、力を振り絞って必死に耐えているボクサーの心境にあった。
「電球はあのまま灯す。ただし点滅はしない。それも今年のクリスマス限りの特例としてですよ。いかがです?」
これなら判定負けにしてもほんの僅差だ。レスはほっとした。そしてすぐにその提案に飛び付いた。
「それでいいんですね。オーケイ。そうしましょう。それで手を打ちましょう」
「ええ。総監も苦情の提起者に対して幾らかいいわけができて気が楽になると思いますよ。とにかく一歩の前進があった、と胸を張れますからね。
ところでウィリスさん。あなたはここの英国総領事館のマコウィック領事をご存知でしょう?」
「ええ。知っています。着任してすぐにあちらの総領事館に挨拶に行きましたから」
この時突然、クリスマス・ツリーのことで一杯になっていたレスの頭の中の別の抽出しがパチンと開いた。
赴任の途中でボンの大使館に立ち寄ったとき、駐在武官のトマス・ロイヒャマン中佐が、
「レス。落ち着いたらできるだけ早く英国総領事館のマコウィックに会うんだな。君の特別任務と同じ仕事を担当している彼は必ず力になってくれるよ。それから、この国の基本法擁護庁北部方面支局次長をしているクルト・クリスチァンゼンという男とも知り合っておくといい。彼もきっと力を貸してくれるはずだ」
といっていたのを思い出したのだった。
「え! あなたはクルト・クリスチァンゼンさん?」
「さっき、そう名乗ったでしょう。やっとお判りになりましたね」
クリスチァンゼンの眼の周りにあった微笑が顔中に広がった。
「やあ、これは、まったく、どうも」
意味にならない間投詞を続けざまに口走ってレスは大急ぎで椅子から立ち上がると、机を廻っていってもう一度クリスチァンゼンと握手を交した。
「お国の大使館のロイヒャマン中佐からあなたのご着任についてあらかじめ電話をもらっていましたので、そのうちにお伺いしようとは思っていたんです。ところが、ついこの間、州の警視総監と会う機会があったんですが、その時彼は今お話した件で困っていましたのでね、私が仲介の労を取ることを彼に約束したんです。何か口実があった方が訪問が正当化されますからね」
「いや、私の方もトミー、いやトマス・ロイヒャマン中佐から、あなたにお会いするように勧められていたんですが、なに分まだすっかり落ち着かなくて。とにかくこれからのご協力をお願いします」
「こちらの方こそどうぞ」
彼らはここで改めて三度目の握手を交した。向い合って立つと、クリスチァンゼンの背丈がレスより三センチメートルは高いのが判った。とすると一メートル八十五センチはある勘定だ。
「さて、ウィリスさん。まだ今日の昼食のご予定がお決りでなかったら、ご一緒にいかがです? 実はマコウィック領事とアングロ・ジャーマン・クラブで十二時に落ち合うことになっているんです。場所はご存知ですか?」
総領事館の前の、外アルスター湖のほとりをほぼ南北に走っている通りはアルスター・ウファという名だが、アルスター公園の入口にある丁字路から北は路幅が急に細くなっていてハーヴェステフーダーと名前が変る。これをさらに八百メートルばかり行った右手にアングロ・ジャーマン・クラブの建物が建っているのをレスは通勤の途上見て知っていた。
「ええ。知っています。喜んでご一緒させていただきます」
これがレスター・ウィリスとクルト・クリスチァンゼンの最初の出遇いだった。
その日の昼過ぎのひと時、食事のあと席をラウンジの方に移したウィリス、クリスチァンゼン、そしてマコウィックの三人は、すっかり葉を落し、直立して立ち並ぶ幹の表面が雨に濡れて銀色に見える白樺林の間に鉛色に鈍く光っているアルスターの湖面が眺められる窓際のテーブルでワインを飲みながら屈託のない話をしていた。
話が跡切れたとき、思い出したようにクリスチァンゼンがいった。
「ウィリスさん。あなたは先刻ザンクト・パウリに行ってきたといわれたが、それは昼間だったんでしょうな?」
そのとおり、土地鑑を身に付けるために車で街の内外を走り廻っているレスは、アルトナ港まで足を伸ばした帰りにレーパー・バーン通りに入り、車窓からザンクト・パウリ地区を眺めただけだった。
「ええ。確かに。午後三時頃でしたかな。しかし、なぜそれが?」
「夜のザンクト・パウリを味わってきて、あんなこわい顔で、私はあそこに行ってきた、なんていう人はいませんからねえ。どうです? 今晩、私が探訪のご案内役を勤めましょうか? あそこにも近頃はお国のマフィアの資本が大分入ってきているという噂ですが、私がご一緒なら心配いりませんよ」
レスが真面目くさって、「妻の承認を取らなければ」というと二人は涙が出るほど笑った。
その晩、クルトとレスは、廻ったバーの数を翌朝になって思い出せなかったほど痛飲した。クルトも所属こそ空軍とはいえ、その頃のレスと同じく少佐の階級を持っていることが判り、「素晴しき軍隊生活よ」と叫んで二人は乾杯した。「一見厳しいようだが、実をいえば人生とは愉快なものさ」とウィンクし合いながら乾杯した。「我われがかくも愉快にやっているときに、家でじっと待っていてくれるかわいい妻たちへ」といって乾杯した。果ては「しょっちゅう上がってしまうフォルクスヴァーゲンのバッテリーはけしからん」と抗議のための乾杯をした。
そろそろ帰ろうか、とレスがいいだしたとき、ではもう一軒、とクルトが連れていったのがチラタールだった。馬鹿馬鹿しく広いそのビアホールは、観光客風の人びとでほとんど満員だった。チロル渓谷地方の民族衣裳を纏っている楽隊が耳を聾せんばかりの音を吹き鳴らし叩き出しているステージのすぐ下にある小さなテーブルに二人は案内された。
どうやら楽隊の指揮者は客の国籍を目敏く見極めてはそのお国振りの曲を演奏し、その客にタクトを振らせて楽しませているようだった。そうこうしているうちに腹の辺りが破裂せんばかりに肥っているその指揮者の愛嬌溢れる瞳がレスの顔を捕えた。楽隊とレスとに交互に顔を向けながら彼がタクトを振りはじめた曲は「スワニー」だった。やはりまだ、レスは旅行中の米国人に見えるらしかった。指揮者は、上がってこい、と左手を煽ってしきりにレスに合図を送って寄越した。酔っているレスはいわれるままにタクトを振るつもりでステージに上がっていった。だが、指揮者が彼に渡そうとしているのは指揮棒ではなくマイクロフォンだと判ったときには手遅れだった。曲の始まりを何度も繰り返し、指揮者自身が「おおスワニー」と歌ってみせた。アル・ジョルスンよりも良い声じゃないか、とレスは酔心で思った。何回かスタートがやり直された挙句、仕方なしにレスは歌いはじめたのだが、アルコールが廻り切っている頭では歌詞がまったく|覚束《おぼつか》なくて幾度も無様に行き悩んだ。そのうちに誰かが背後からレスの肩を叩いた。振り向くと、そこにはいつの間に来ていたのか微笑するクルトの顔があった。彼を窮地から救出しに来たらしい。クルトはレスの手からマイクを取り上げると、客席に向って英語で語りかけた。
「このアメリカから来た私の友人に、正真正銘の北ドイツの歌を聴かせたい。どうです? 皆さんも一緒に聴いてくれますか? 歌の名は『エルベの塩』というんです」
万雷の如き拍手が起った。指揮者は少しばかり怪訝な表情を見せたが、頷いた。放免されたレスが自分のテーブルに覚束なげな足取りで戻り着くか着かないうちに、絃楽器と打楽器が交互に織り成すメロディが流れだした。管楽器は使われておらず、スローテンポで短調の、哀調を帯びたそれは東洋のもののような印象を人びとに与えた。クルトは低い出だしで歌いだした。
『ひとはいう
いまもなお エルベの水がにがいのは
その昔 嵐吹きすさぶ夜に
千石積みの リューネブルクの|岩塩船《しおぶね》が
千尋の底に沈んだからだ と
……………………
否 否 否
……………………
遠い昔 神々の御代が去ったあと
水豊けく 数多の獲物集うザクセンの森に
一人の偉大な王が生まれた
偉大な王は くにたみを|統《す》べるのに
剣を用いず 知恵を頒かち 言葉を広めた
……………………
くにたみの幸せは雷鳥の如くに疾く飛び過ぎた
年老いて 王は みまかるきわに
二人の息子に 国を分けた
エルベの 東と 西と
……………………
二人の息子は王となり
いつしか あい戦うときがきた
……………………
星なき夜に 互いに王は 望楼に登り
相手の王の名を呼び 叫ぶ声が
エルベの河面を 風に乗って馳せた
兄弟よ 赦してくれ
戦いは 王たる者のさだめなのだ と
……………………
王に従う戦士たちは
戦いの庭に血を流した
戦士を送りだす娘たちは
別れがたさの涙を流した
砦を築く老人たちは
岩の重みの汗を流した
……………………
流れて止まぬ 血と 涙と 汗と
大地の底深く しみとおって
いまもなお エルベの水はにがいのだ』
繰り返しの少ない長い十四行詩をクルトがやや古いドイツ語で歌い終り、マイクを持つ手をゆっくりと下ろしたとき、場内に一瞬の静寂があった。その直後、建物の屋根が震えんばかりの爆発的な拍手が巻き起った。歌う前の拍手を、万雷の、と形容したのは比較上誤りだったと訂正すべきほどの激しさだった。右手を高だかと挙げて拍手に応えながらステージから下りてきたクルトは、照れくさそうに、
「レス。さあもう出よう!」
と急き立てた。出口に向うクルトに対し場内の人びとは音を揃えてリズミカルに拍手を送り続け、楽隊はこの素晴しき歌い手のアメリカから来たという友人のために「星条旗よ、永遠なれ」を景気よく演奏し続けた。
チラタールを出たとき、あい変らず音もなく降っていた氷雨が火照っていた顔に当り、なんともいえず爽快な気分だったのを今でもレスは昨日のことのように憶えている。
その夜二人はそれから肩を組み合って、雨が外套にしみ通るに任せつつタクシー乗場に向って歩いていった。歩きながらレスが尋ねた。
「あれはなんという名の歌なんだ? たしか『エルベの塩』という風に聞こえたが」
「そう。そのとおり。『エルベの塩』というんだ。わが民族の叙事詩かな。いってみればゲルマンのカレファラだよ」
カレファラとは偉人伝説を謳ったフィンランドの叙事詩だ。
「なるほど。ゲルマンのカレファラか」
「そう。ゲルマンのカレファラさ。気に入ったかい?」
「ああ。気に入った。胸を打つものがあったのはたしかだ。聞き取れない言葉がかなりあったけれどね」
「仕方がないさ。古い言葉遣いなんだから」
この宵、クルトは上機嫌でよく笑い声を立て、「エルベの眺めは素晴しいよ。ああいう眺めを天下の絶景というんだな」と繰り返し口走った。
「エルベの眺めは素晴しいよ。岸の南に地平線まで広がる農地。一面の菜種畠に花の咲く頃など是非君に見せたいな。堤防の上に何キロメートルも続くスペイン桜の花の頃はまた見事だよ。冬が特にいい。暗い空から絶え間なく降ってくる粉雪がエルベの流れに吸い込まれて消える。若い頃、冬の夜に何時間も岸に立ち尽して眺めたものだ。終いには人間の歴史の流れをすら感じ取ることができたような気がしたものだ。エルベというのはね、古代ゲルマン語で“大きな水の流れ”という意味なんだそうだ」
タクシー乗場に着き、住居の方角が違うために止むなく別べつのタクシーに乗り、別れた。翌朝、目覚めたレスは、クルトはクリスマス・ツリーの一件で気落ちしただろう自分を慰めようとしてレーパー・バーン探訪にかこつけて一晩誘い出してくれたのだ、と突然のように悟った。それはともかく僅か一夜の付き合いの後でレスはクルトに対して国籍を意識しなくなっている自分が不思議だった。そういえば、二人は昨夜のうちに姓ではなく互いにレスそしてクルトと名前の方で呼び合おうと取り決めていたのだった。
それからしばらく時が経ち、ある日レスは、この土地に対する自分の気持が変化しているのに気が付いた。氷雨ばかりが降り、なんとなく不透明で、生き物の活動を峻厳に拒絶しているようなこの国の冬を、いつの間にかそれほど嫌いではなくなっていたのだ。
二人の付き合いはこうした出遇いで始まった。クルトの責任範囲の方がレスのそれより遙かに広範だったが仕事の性質が同じであり、年の頃も似かよっているのが手伝って公私両面での彼らの接触の度は時間と共に高まっていった。
さて情報収集の仕事だが、部外者が想像するほど困難なものではない。その土地に腰を落ち着けて半年もすれば、情報は自然に向うから流れ込んでくるようになる。難しい点があるとすれば、それは、情報の真贋を選別することだ。一番手がかからない見分け方は、同じ対象についての情報を、複数の情報源から採って、相互に比較対照することだ。
クルトとレスは、よく、この手を使って、情報の真贋を確かめ合った。クルトの情報源は、当然のことだが、主としてドイツ人社会にあるのに対して、レスのは、この土地に居住している外国人社会が主であるので、巧まずして、この手を用いるのに都合がよかった。
しかし、うっかりしていると、独立しているはずの、それぞれの情報系路が、どこかで癒着を起していることがある。癒着があると、必然的に、入ってくる両者の情報が似かよったものになる。このような情報にぶつかると、とかくそれが真実を表現しているものだと信じ込みやすい。したがって、この癒着の結果に騙されないように、ときには、「リーク汚染チェック」と呼ばれる情報系路の検査をする必要が生まれてくる。それは、一方の系路に意識的に作為の情報を流し込み、頃合いを見計らって片方の系路からの情報を取り出してみる、という方法だ。取り出されたものが作為の情報に汚染されていたら、この二つの系路のどこかに癒着ができているということになる。
ドイツ連邦共和国北端の州であるシュレスヴィッヒ・ホルシュタインが東側と接する境界線上で大爆発が発生した夜の十一時頃、レスは既にベッドに横になり昨日届いた二日遅れのニューヨーク・タイムズの頁をめくりながら眠気が訪れるのを待っていた。そのとき居間にある電話機のベルが鳴りだした。
食後の片付けをしていたらしい妻のジョアンが受話器を取り上げ二言三言話していたようだったが、受け答えの様子からして彼女の友人からではないらしかった。間もなく寝室のドアを開けて顔だけ見せたジョアンがやや緊張した面持ちで声を潜めていった。
「あなた。フランクフルトのケイリーからよ。夜分に申しわけないけれど尋ねたいことがあるって。彼、話の内容には触れないけれどなにかが起ったに違いないわ」
西ドイツ駐留の米国地上軍ならびに陸軍航空隊の中核はフランクフルトに集中配置されており、これらが米国陸軍第五軍団を構成している。在欧米軍中最精鋭のこの軍団の司令部とNATO地上軍の指揮系統とは実態上ほとんど重複している。それは在欧米軍最高司令官であるバーナード・ロジャース将軍が一身を以て欧州連合軍最高司令官およびNATO軍最高司令官を併任していることによるものだ。この第五軍団司令部の情報将校であるケイリー・ジョーンズがこんな時刻に電話してきて、話は直接レスにしたい、といえばジョアンにも用件の内容に察しがつくというものだ。それにしても今頃掛かってくる電話に碌なことはない、と思いながらレスは不承不承起きだしていって受話器を取り上げた。
「やあ、レス。しばらく。ジョアンはあい変らず元気そうで何よりだ。君の方はどうだい?」
「まあまあさ。ケイリー。今夜は当直将校を勤めているのか? 近頃調子はどうだい?」
「こっちもまあまあだ。ところで、そっちの地域で何かあったのか? 今し方東ベルリンのリポーターから届いた話だと、東側の諜報部の連中がまるで動員令でも掛かったように大挙して北の方へヘリで向った、というんだ。ボンのトミーに当ってみたが彼の耳には何も入っていない。寝込んでいたところを起されたって、ぶつぶついっていたよ。君も寝ているようじゃ大したことではなさそうだな」
「何が起ったんだ?」
「そいつを知りたいんだよ。レス。君の管轄の北東部の境界線辺りで何か判らんがいざこざが勃発したんじゃないのかな」
「シュレスヴィッヒの英軍情報部は?」
「彼らからもまだ何もいってきていない。とにかく北の方については君の筋を一番頼りにしているんで、こうして電話をしてみたわけさ。お寝みのお邪魔をして悪かったな。じゃ、ま、時間は掛かるだろうが軍の線だけで洗ってみるか。みなさんのお寝みの邪魔をしちゃ悪いんでね」
ケイリーは嫌味をいった。
「君がそんなに神経を磨り減らして働いているというのにトミーも私ものんびり寝ていて申しわけなかったな。しかし我われは近頃節約第一の役所の出先でね。君のところのように二十四時間カバーができるような予算は付いていないんだ。
さてと、その境界線辺りで勃発したといういざこざとは一体どんなことだろうな。東側からの大量脱走事件でも起ったのかな」
「繰り返すが、こっちでは丸きり何も判っていない。東側の諜報部が半時間ほど前から突如動きだした、という情報があるだけだ」
北東部の境界線に絡んだケースの場合、レスが持っている情報源、つまりクルトの線が常にもっとも確度が高いのをケイリーは熟知しているので、レスにそれを採ってくれとねだっているのだ。自分の情報源でない限り互いに顔見知りであったにしても直接接触しないのがこの仕事のルールだからだ。情報収集の仕事というのは通常は極めて個人的なものなのだ。
「判った。判った。ケイリー。では薄給の身ながら終夜勤務をやっている君のために私も夜勤に出かけるとするか。これは仕事に対する責任感によるものではなく、もっぱら君に対する友情からだからな。覚えておいてくれよ。ところで次に電話するときは例の番号の方に頼む」
総領事館の方が通信手段が揃っているし、何はともあれ妻や娘たちを仕事に巻き込みたくないので、こんな場合レスは必ず家を離れることにしている。万一の場合、本当に何も知らないのが本人にとって一番有利だ。それに、知らないことはどんな目に合わされても喋ることはできない。
身繕いを済ませてからレスは自分が使っている方の車、つまりフォルクスヴァーゲンを妻のアウディ100の蔭から乗り出した。今夜はエンジンが機嫌よく一発で掛かった。
レスの一家が借りている二階建の家はハイルヴィッヒという名の袋小路の突き当りに建っている。裏庭の左手はアルスター川に接し向う端は外アルスター湖の岸辺に接している。この辺りでアルスター川は急に拡大して外アルスター湖と名前を改めるのだ。ハイルヴィッヒ通りを出て左に曲ると二百メートルばかりでクロスター・シュテルンという六ツの放射路があるロータリーに入る。ここでハーヴェステフーダー路を選べばあとは道なりに走って総領事館に達する。時間にして三分弱だ。
中庭の入口で停車すると、警備員のシュルツじいさんがフラッシュライトの光芒をレスの顔にまともに当てた後鉄柵の扉を開けてくれた。北欧の悪戯好きな小悪魔の呼び名であるトロルと名付けられた二歳の雌のシェパードが、シュルツじいさんの動きに応じて彼の後に随いて廻っていた。
建物の裏口の鍵を開けて入ったレスが、静まり返っている館内をビザ・セクションの待合室を抜けて、天井に一個だけ灯っている電灯の光がようやく床まで届いているメインホールまで来ると、しきりに鳴っている電話のベルが二階にある彼の部屋の方角から聞こえてきた。
彼の机の上には電話機が三つ並んでいる。左端のは普通のボタン式外線電話機だ。ただし、外部からの着信は隣の部屋にいるミス・クレーマーに一旦遮られ、彼の都合の良いときにだけ繋がれる。またこの電話機は館内の内線通話にも使用できる。右端の濃緑色のは米国製のボタン式電話機だが、いってみればインターフォーンで、今のところ総領事の机上のものとしか繋がっていない。今二階から聞えてきているのはベルの音からして真中にある黒い電話機だ。これは番号が無登録、つまり隠し電話だ。この番号を知っている者は幾人もいない。フランクフルトの第五軍団司令部のケイリー・ジョーンズ。さっきレスをベッドから引きずり出した相手だ。それからボンの大使館付武官トマス・ロイヒャマン合衆国陸軍中佐、仲間内では通称トミー。そして在ハンブルク英国総領事館のマコウィック領事、彼の仕事はレスの特別任務と同じだ。それにドイツ連邦共和国基本法擁護庁北部方面局長のクルト・クリスチァンゼン。その他ではレスの妻と秘書だけが知っている――。
階段を一段ずつ飛ばして駆け昇り、廊下と直接通じている方の扉の鍵を開けるのももどかしく部屋に飛び込むと、鳴っているのは果して例の電話機だ。肩で息をしながら立ったままで受話器を鷲掴みにして耳に当てた。
「悪かった悪かった。もう少し後で掛ければよかったな。今着いたのか? 大分息が切れているな。さっき君と話した直後に少しばかり具体的な輪郭が判ってきたんで一刻も早く伝えようと思ったものだから。すまなかったな」
「ああ、ケイリー。もう大丈夫だ。動悸も収まった。メモ用紙を用意するから待ってくれ。その具体的な話というのはどんなことだ?」
レスは受話器を握ったまま机を廻って椅子の中に全身を落し込んだ。
「レス。君はラーツェブルクという町を知ってるか?」
「ああ知っている。ここの東北東にある」
「その町の北方五キロメートルにある境界線で爆発事故、事故と呼ぶべきかどうかまだ判らないが、とにかく大爆発があったらしい。ただし爆心点は境界線の向う側、東側の領域だ。この爆発で彼らの監視塔が一つ吹き飛んじまったそうだ。だいぶ大規模な爆発だったらしいな。監視塔のそばに弾薬庫でもあったのかな」
「いつ頃爆発が起ったんだ?」
「十時少し過ぎらしい。そう、今からだと一時間ちょっと前になるかな。東側はまだ何の発表もしていない。彼らの報道機関には情報封鎖の指令がすでに流されているらしい。以上だ」
「オーケイ。ケイリー、現在君の方で判明しているのはそれだけだな。こっちでもう少し詳しい事情を調べてみる」
電話を切り机上の時計を見た。十一時二十五分だった。
すでに出掛けているだろうとは思ったが、念のためにクルトの自宅のダイヤルをまず廻してみた。予想したとおり、クルトは小一時間前に自宅を出ていた。追っかけて役所の方に掛け直したが、そこにもすでにいなかった。レスが自身の姓名を告げると、電話に出た男は、彼とクルトとの関係を知っているらしく、クルトはラーツェブルク方面に行っている、と洩した。そして、クルトと連絡が取れ次第向うから電話を掛けさせるからレスの方の番号を教えてくれ、といった。レスは自分の事務室で待っている、クルトはその電話番号を知っている、と答え、隠し電話の番号には口を閉した。
十一時三十五分。僅か五分後にその無登録の電話機のベルが鳴った。たぶん、クルトが現在使っている車には移動電話装置が装備されているのだ。
「やあ、レス。今晩は。こんな夜更けに何の用だい?」
「おい、クルト。勿体振るなよ。爆発の方はどんな具合なんだ?」
「あはは、あい変らずの地獄耳だな。どうっていうほどのことじゃない。東側の監視塔の一つが爆破されたんだ。我われが便宜上『第六監視塔』と呼んでいるやつで、ラーツェブルク町の真北五キロメートルの地点なんだ。向う側には近くにノイホフという名の部落があるが、こっち側は防衛開豁地帯なので被害は全然なかった。爆発発生時刻は約一時間半、正確にいうと二十二時六分だ」
「爆発するのを知っていて待っていたように正確なんだな」
「おいおいレス。我われが何かを企んでいたようなことをいうのはよしてくれ。ただでさえ東側のいい掛かりを跳ね返すのに苦労しているのは君も知ってのとおりなんだからな。種を明かすと、この爆発の第一発見者は民間航空機のパイロットなのさ。ヘルシンキ発ハンブルク行きのフィンエア895便が十分遅れでちょうどこの上辺りを飛んでいたんだ。ハンブルクに降りる定期便は普通リューベック湾の上空辺りから高度を落しはじめるらしいんだ。東側の領空を侵犯するとうるさいことになるんで気を付けて操縦していたキャプテンが偶然大爆発の火柱を目撃して、直ちにハンブルクの管制塔に報告してきた。それが二十二時六分なんだ。もちろん、我われの根拠はそれだけではないよ。例の境界地帯監視装置に残されている記録でも爆発は同じく二十二時六分に起っている。
ところで我われは現在、現場が望見できる森の出口にいるんだ。タンドルフ村、現在この村は東側領域に入っているが、昔この村に通じていた石畳の道路から少し外れたところだ。
私の見るところ、壊れているのは境界線のフェンスが二十メートルばかりと、明らかにこっちの領域に倒壊している監視塔だけのようだ。森の火災があったようだが現在では完全に鎮火している。東側の連中は一晩でエッフェル塔でも建てあげようとしているような意気込みで復旧作業をやっている。かつてのわが同胞の能率の素晴しさをアメリカ人の君に是非見せたいくらいだ。かなりの台数の重車両が来ているし、一、二分置きにヘリが資材を運んできている。前のヘリが機材を下ろしている上空に次のが待っている、といった具合だ。それとは別にKa─7型だと思われる地上軍支援型のヘリが一機、低空で境界線に沿って往復しながら絶え間なく照明弾を投下している。そのために現場は草の中に落したヘアピンでも探しだせるくらいな明るさだ。我われの動静を警戒して哨戒しているのかも知れないな」
「クルト。うちの方の話だと、東側の諜報部が大量に介入しているということだ。報道管制も敷いたらしい。この話に符牒が合うような変った点はないのか?」
「いや、ないな。今のところ単純な爆発事故としか思えないな。規模は、君がそこで想像しているのより恐らく大きいよ。監視塔が立っていた周辺の樹木がかなりの広範囲で外に向って薙ぎ倒されている。手榴弾やダイナマイトの一個や二個でああはならないな。つまり東側にせよこっち側にせよ素人がやれる規模じゃないんだ。もし誰かが意図的にやったとすれば五百キログラムくらいの爆弾が必要だったろうな。証拠を掴んだわけじゃないが、この爆発はなにかの事故によるものだね。報道管制を敷いたというのも自過失事故だからこそで東側の常套手段だよ。
とにかくすでに国境警備隊の方ではリューベック駐屯支隊から二個中隊を廻して寄越し、防衛開豁地に接する森の中に散開させて、東側の一挙手一投足を監視させている。防衛開豁地というのは、ここのように境界線が森林地帯を通っていると互いに相手の動きが見えないために疑心暗鬼が起りやすい、そこで十五年ばかり前に境界線に平行して五百メートル幅に樹木を切り倒したところなんだ。ん、もちろん、わが方の領域さ。
さてと、向う側の諜報部が動いているというのはどういうわけなんだろう? とにかく国境警備隊が夜間撮影もやっているし、何かを見落す心配はない。レス。ちょっと待ってくれないか」
クルトが送話口を空けている間、レスの側の受話器からは夥しい数の作業車のディーゼルエンジンの音に被さるように多数のヘリコプターのエンジン音が聞こえていた。
「ああもう一つ、たった今報告を受けたんでこれが爆発とどう絡みがあるのか不明だが、今夜この辺りに十名ばかりの仲間と遊びに来ていたハンブルク大学のなんとかいう名の学生が、東側に肢を銃撃された、というんだ。応急の治療も必要だったし、爆発現場の監視の方が忙しい国境警備隊はこの連中を地元警察に渡してしまった。それを我われの方にまた取り戻して、これから詳しい事情を聞いてみようというわけだ。さてと、レス、君はいつまでそこにいる? 待っているのなら、さらに詳しいことが判り次第もう一度連絡するよ」
電話が終ったとき、時刻は十一時五十分だった。事態の緊急性の低さから判断して、真夜中に呼び起すまでもないと考え、総領事には明朝登館してから早々に報告することにした。情報任務ではレスの上級者ということになるボンの大使館のトミーには、少々気の毒な気がしたが自宅に電話して要点を|掻《か》い|摘《つま》んで話した。次いでケイリーには、クルトから仕入れたすべてを逐一洩れなく伝えた。
ケイリーはしきりに訝っていた。後から振り返ると、ケイリーはさすがだった。
「レス。どうも、ひっかかるなあ。諜報部が蜂の巣を突ついたような有様だというにしては、今君が聞かせてくれた程度のことだとすると、どうもしっくり来ないなあ。何か判らんが、まだきっと裏があるよ。
もっとも、その爆発事故で十名以上が爆死した、という情報もないわけではない。それが事実だとすれば、或いは爆発の原因にサボタージュの臭いでもするのかも知れんな。それにしてもサボタージュの調査だとすれば諜報部より秘密国家警察の方の縄張りのはずだしなあ。どうも、ひっかかるなあ」
ケイリーは、入ってくるすべての情報をまず彼の頭の中に収納されているデータ・バンクに基く「常識の|篩《ふるい》」に掛ける。この篩の目を通らない情報にぶつかると「どうも、ひっかかるなあ」を連発しながら納得が行くまで追及してゆく。これが彼のやり方なのだ。
この時点では、ケイリーをこれ以上納得させ得る別の材料を持ち合わせていなかったレスは、クルトから掛かってくるかも知れない電話のために回線を空けておきたかったので推察に基く実りの少ない会話を早目に打ち切った。そしてロッカーからラーツェブルク附近の地図を出してきて机一杯に広げ、爆発があったという境界線附近の地形を眺めてみた。
ラーツェブルクの町はハンブルクの東北東約四十キロメートルの位置にある。この辺りでまず最初に目に付くのはラーツェブルク湖だ。横約二キロメートル、縦約十二キロメートルの南北に細長い湖だ。
一九四五年五月八日にドイツが連合軍に対し全面降服する直前、東進を続けていた英国陸軍は、ラーツェブルク湖東岸に向けて西進してくるソ連地上軍を待つために、この一帯ではラーツェブルク湖西岸の線で自発的に前進を押え足踏みをしていた。このため後年、東西両独の間の境界線が設定されることになったとき、東西両ブロックの境目は、ここでは湖面の中央を通ることになった。しかしその後、風が強い季節になると湖上の船が互いに相手の領域内に吹き寄せられるという事件が相次いだために、やがて南部にあった西側領分の突出部の土地と引き替えにラーツェブルク湖全面が西側に引き渡されることになったのだった。
この湖の西岸を僅かに離れたところを南北に、東側に最も近い幹線道路である|岩塩 街道《ザルツ・シユトラツセ》が走っている。南のニーダ・ザクセン州のリューネブルクで産出した岩塩から精製した塩をバルト海への出口であるリューベック港まで馬車で運搬するために十三世紀に造られた街道で、今はすっかり舗装された一級国道だが名前はそのまま残されている。
この|岩塩 街道《ザルツ・シユトラツセ》と境界線との間にあるラーツェブルクの町は湖水リゾート・エリアとして昨今急速にその名が広まり、夏には色とりどりの帆を張ったヨットの群が湖面を賑わせて、東西境界地帯の緊張感などまるで感じさせないような光景が現出する。
さて、この国の最北の州であるシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの中を東北東から北北東へ次第に向きを変えて流れているトラーベ川はバルト海に繋がるリューベック湾に達して終るが、この湾口北緯五十三度八分東経十度五十三分から始まる東西両独の境界線は、地形に沿って徐々に南行し、このラーツェブルク湖に達すると東岸を境界線そのものにしてさらに四キロメートルほど南下する。それから湖岸を離れしばらく南東の方角に向うが、昨夜爆発があったのは、境界線が湖岸を離れてから一・五キロメートルほど下った地点らしかった。
地図によればこの辺り一帯は深い森林地帯で、仔細に眺めると森や林を縫って東西方向に走るかつての道路の痕跡らしい表示が大小数本あるが、ことごとく境界線によって人為的に切断されている。
零時五十分。電話のベルが鳴った。隠し電話のベルだ。クルトの声を期待して受話器を取り上げると、
「レス。ケイリーだ。どうやら少しばかり裏が読めてきたんだ。さっきの話だけではどうにも納得が行かないので東側に置いてある全組織を動員して探らせているんだが、数分前に入ったある情報源からの報告によると、北部境界線で爆発事故が起ったときにかなりの人数の死傷者が出た。それと同時にある重要人物が行方不明になったというんだ。この人物は諜報関係の大物という説もある。今のところ遺体はもとより当人の存在の痕跡が何一つ発見されていないために騒ぎがますます大きくなってきているらしい。それにしても彼らの騒ぎ方からしてよほどの大物なんだな。一体誰なんだろう? それほどの大物がどういうわけで真夜中にそんな辺鄙なところにある監視塔へなど行っていたんだろう?
とにかく、その人物の正体の解明を急がせているから判り次第君にも知らせるよ」
「先刻こっちで取った話と合致するな。ヘリが低空で境界線沿いに飛びながら照明弾を落している、という話は恐らくその人物の捜索をしているんだな」
「なるほど。その話と符合するな。
あ、レス。ちょっとそのまま待ってくれないか。解読し終った新しい情報がまた届けられたようだ」
受話器を軽く耳に当て、ケイリーの声が戻るのを待ちながら、レスは、恐らくこちら側にいる東側のエージェントもこの件ですでに動き出しているだろうと、漠然と考えていた。
「やあ。待たせてすまん。またもや納得がゆかぬ情報が入ってきたよ。いいかい。行方不明になった大物というのは、なんと年齢二十四歳の人民軍技術中尉だ、というんだ。これは絶対に何かの間違いだと思うね。たった一人の若い将校の行方を探すにしては騒ぎの規模が大き過ぎる。なんだか知らんがホーネッカーの党本部でもひとの出入りが激しくなってきたらしい。この真夜中にだよ。どうも、ひっかかるなあ」
ケイリーの「どうも、ひっかかるなあ」という口癖がまた始まったが、一人の若い士官の捜索だとしてみれば、彼らの動きの立上がりが早過ぎるし規模も大き過ぎると、レスも何か「ひっかかるもの」があるのを感じた。とにかく、クルトには伝えておこうと思い、中尉の名を尋ねた。
「彼の氏名は? 党の大物の御曹子あたりじゃないのかな。そうであれば騒ぎの程度が理解できなくもないが」
「いや。それはまだ聞こえてこない。ま、この中尉さんの身元も洗ってみるよ。時間は掛かるとは思うがね」
ケイリーは持ち前の早口で喋って電話を切った。机上の置時計の針は午前一時十五分を指していた。眠るべき時に眠らず、何もせずに坐っていると空想の誘惑に陥りやすくなる。レスの頭脳は今それを楽しんでいた。机上に広げてある地図のラーツェブルク附近の境界線を見つめていると、爆発の有様がありありと眼前に見えてきた。爆心点に立っていた東独人民軍中尉の制服を着けた男が爆発と同時に粉ごなになって吹き飛ばされる光景がスローモーション・フィルムを見ているように細部まで見えた。そしてレスは、これでは着衣の切れ端も残らないはずだ。ヘリでいくら探しても無駄骨だな、と心中で呟いた。続いて脳裡の画面が切り替えられると、境界地帯の暗い森の中へ学生風の若者が一列になって消えてゆくところだ。数えると十人いる。森の彼方で爆発が起り空を真赤に染める。やがて若者たちが森から出てくる。十一人いる。東独軍の中尉といっても二十四歳なら学生と見分けがつかないな……、それにしても、とレスは考える。境界線が設定以来の大爆発だったというその場所に、またその時刻に、何故十人もの学生がいたのだろうか? しかも立入禁止の無人地帯であるべき場所に、だ。そのうえ学生の一人は東側から銃撃を受けて負傷したという。すべてが通常あり得ない話だ。が、その裏に、大学生の行動と、爆発と、行方不明になったという中尉の三つを結ぶ何かがあったとすれば話は別だ……。
突然、電話機のベルが高鳴った。レスはぎくっとして目覚めた。眼を開けてはいたが五感の大部分は眠っていたらしかった。
「やあ、レス。まだいたのか。ご苦労だな。東側の連中は金網の修繕を今終えたよ。手際のいい作業振りを我われはただ感嘆して眺めていたんだ。彼らはまず、こちら側に倒れ込んでいた監視塔の残骸をばらばらに熔断してからヘリで釣り揚げて跡形もなく運び去った。そのあと真新しい金網をやはりヘリで運んできて境界線フェンスを張り直してしまった。今残っているのは境界線沿いに低空でパトロールしているヘリ一機だけだ。
そこで後の事は国境警備隊に任せて我われは今から引き揚げることにしたんだが、君の方に新しいニュースは何か入ったかい? ああ、そうそう。国境警備隊から聞いた話だと、東側の監視塔から肢を銃撃されたという例の学生は、一人で第三次世界大戦の口火を切ろうとしたらしいんだ。どうやら酒に酔っていたために道を誤って境界地帯に迷い込んだようだが、東側が警告のためだろうが彼の車のヘッドライトを狙撃した。するとその学生は怒って猟銃を持ち出して撃ち合いをはじめたんだそうだ。爆発はその最中に起ったらしい。
車の無線で確かめたところ、未だボンへは東側の苦情らしいものは出されていないらしいが、頭が痛いよ。いずれ外交問題になる可能性が濃厚なので今我われは手分けをして連中から事情聴取をしているんだ。みんなハンブルク大学の学生でヨット部のメンバーだそうだ。すでに彼らの家族や友人から全員の身元の確認は取れたし、日頃から政治活動に深く関わっている者は一人もいないようだし、したがって内容的には手はそれほど掛からないと思うんだが、なにしろ総勢が十四名なんだ。
東側が苦情を提起してきた場合の抗弁のためには、銃撃戦をやらかしたという学生の供述を精査して事実関係を掴んでおくことが絶対に必要なんでね。残りの十三人については部下に任せて私はこれからその学生が運ばれたメレンにある病院に廻ってみるつもりだ。自分の耳で彼の話をじかに聞いてみたいんでね。
ところでレス。東側の出方が判るまで、学生たちの行動その他一切を伏せておきたいので、この点君の方でもよろしく頼む。彼ら東側の自過失による爆発事故かも知れないし、その責任までこれ幸いとその学生の行動に押し付けてくる可能性が充分考えられるからね。
さてと、レス。君はそろそろ帰宅してひと眠りするといい。朝までにはまだ数時間ある。この一件の進展は今夜はもうないだろうしね。その学生の話から何か面白いことでも出てきたらまた後で報らせるから」
電話口では常に手短かに歯切れのいい喋り方をするクルトだが、今夜は一方的によく喋るな、とレスは感じた。レス自身と同様睡眠不足のためにクルトの小脳が幾らか興奮状態にあるのだろうか、そういう場合に人間は饒舌になることがあるものだ。それにしても今夜のクルトは喋り過ぎだ。
「クルト。今の話を“われらがヴィルヘルム氏”が聴いていたかも知れないぜ」
「“われらがヴィルヘルム氏”が聴いていた? あはは。レス。大丈夫さ。こっちは無線電話だし、君の方のは隠し番号だ。大丈夫だよ」
ヴィルヘルムのフランス名はギョーム。一九七四年五月に当時首相だったビリー・ブラントは、側近秘書を永年勤めていたギョームが東独のスパイだったことが判明したのが動因になって突然辞任した。以来、レスとクルトの間では“われらがヴィルヘルム氏”が盗聴者の代名詞となっていた。
レスは、ヴィルヘルム氏の名を口にしたほど、この夜のクルトの長電話を異様に感じたのだったが、クルトはやはりこの時も、肝心な点をレスに対してさえ一切話していなかったことが翌日になって判った。
電話を終える前にレスの方もクルトに対し、この爆発により東側では十名以上の死者が出たという情報があること、爆発後その現場から行方不明になった重要人物があるらしいこと、また、その重要人物は年齢僅か二十四歳の東独人民軍技術中尉であるという説もあり、その真偽をさらに洗っていることなど、先刻ケイリーが電話してきた話の内容を、若い技術中尉の話は「たぶん何かが混線しているんだと思うが」といい添えて手短かに伝えた。
時刻は午前二時を少しばかり廻っていた。クルトとの話を終ったレスは続いてケイリーのダイアルを廻し、境界線フェンスの修復が完了し、ほとんどの東独軍技術部隊が引き揚げたことを伝え、ひと眠りするためにこれで事務室を閉めて帰宅する、と告げた。駐車場に出ると夜の短い六月のこの地方の空には三時前だというのにもう薄明りが射しはじめ、塀代りのポプラの並木の繁みの中で、気の早い黒ツグミが甲高い声で騒ぎはじめていた。
[#改ページ]
自宅に帰り四時間半ばかり睡眠をとったレスが八時半に登館して自室に足を踏み入れると、明け方帰るときにはすっかり片付けておいたはずの机の上に、小型の茶封筒が一つ載っていた。裏を返して眺めたが何も書かれていなかった。糊付けの封を開くとカセット式の録音テープ一巻と「メレン総合病院にてコピー クルト」とだけ書かれたメモ用紙が一枚入っていた。秘書のミス・クレーマーの話によると、今朝早くクルトの使いだという男からシュルツじいさんが預った、ということだった。
レスは日課の国旗掲揚式に立ち合ったその足で総領事室に行き、昨夜来の一件を報告した。総領事の関心は間近に迫ってきた七月四日の独立記念日に行なわれる総領事館主催の行事の方にあるらしく、その相談にレスは一時間も付き合わされた。総領事館主催の年中行事中最大のものなので、招待客の選定や会場の設営などが総領事にしてみれば何かと気掛かりになるらしい。
自室に戻ってきたレスは早速机の抽出しから電池式のテープレコーダーを取り出して、クルトが届けて寄越した録音テープをセットした。三、四十分掛かってひと通り聴き終ったあと漠とした不整合な感じが残ったが、その感じがどの部分から来ているのか具体的には掴めなかった。聴いている途中で何度も電話が掛かるなど日常の雑事に度たび中断されたこともあって、自分自身に集中力を欠いた|憾《うら》みがあったので、彼はもう一度初めから聴き直してみることにした。
録音テープは、
「やあ、どうかね? 傷は痛むかね? 入院中の君に、こんな時刻に度たび申しわけないが、君の立場を保全するために必要なんでね。悪いがもう一度今夜君がとった行動を思い出して詳しく話して欲しいんだ」
「ええ、どうぞ。いいですよ。実をいうと尋問続きでいささかうんざりしているんですが。でもまだいくらか興奮しているせいか、どっちみちすぐには寝付けそうにないんです」
というクルトとこの学生との会話で始まっている。この学生の発声にはR音がやや強調される特徴があり、全般的に低音で録音乗りがいい。紙類が触れ合うような音と共にクルトの声。
「じゃ早速頼むよ。まず君の名前だが、ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだね? ハンスと呼ばせてもらっていいかね?」
「ええ。どうぞ」
「ではハンス。君はハンブルク大学の学生だそうだね。専攻は何だったかな?」
「工学です。学生といっても明日で卒業なんです。しかしこの肢では式には出席できませんね」
この後しばらく、クルトの質問に対して答える形でなく、ハンスが自分から問わず語りに喋っていた。爆発の一件以来何度目かの事情聴取なので要領を会得したらしい。
年齢、二十三歳三カ月。住所、市内アイムスビュッテル街ヴィーゼン通り十二番地の学生専門のアパート二〇五号室。彼が所属していた大学ヨット部が今回卒業する彼ともう一人の先輩のために、昨日クラブハウスで祝賀会を開催した。ヨット部のクラブハウスは艇庫と共にラーツェブルク湖畔にある。皆が騒ぎ疲れた感じになった昨夜の九時半頃、誰からともなく、ひと廻りドライブをして外の空気を吸ってこよう、という声が挙がり、十四名の仲間が五台の車に分乗して境界線の方角の森に向った。たまたま彼のポルシェが先頭になった。
ここで、黙って聞いていたクルトの質問が入る。
「どういうわけで、わざわざ境界線に近い森林地帯へなど行ったんだね?」
「なぜって、特別な理由はなかったんです。出発する時、誰かが、俺たちはかなりの酒を飲んでいるんで公道を避けてひと気のない方に行く方がいいな、といったんです。ただ単純にその意見に従ったまでなんです」
二度目をここまで聴いた時、またもや電話の邪魔が入った。再びフランクフルトのケイリーからだった。
「やあ、レス。昨夜は明け方まで付き合わせてしまって済まなかったな。ところで、昨夜話した例の技術中尉だが、東側が今もってやっきになって捜索している対象が彼だ、という線はかなり堅そうだ。いまだに諦めた様子が見えないところから察すると、この中尉の死亡を決定づける証拠がまだ見付かっていないんだと思われる。
さて、この若い中尉さんだが、相当な秀才だったらしいな。十八歳で拡大高等学校を卒業するときには、全国から選び出された三十名の中の一人としてホーネッカー書記長御自らの手により成績最優秀賞をもらっている。その後一年してソ連のアルマ・アタ大学に二カ年、モスクワの電子工学院に一カ年留学させられている。電子工学の最高の専門家だと見ていいね。
しかしだよ。どうも、ひっかかるなあ。この中尉さんがいかに電子工学界のエキスパートだといえ、諜報部のあの騒ぎ振りは尋常ではないな。
そこで、我われが納得できる筋書を考えてみたんだが……例えばだ。この男が電子兵器の開発に携わっていたとして、昨夜、ひと気の少ないそっちの境界地帯で実験をやっていたとする。ところが予期せぬ爆発事故が起り、そのとき突如実験をやっていた電子兵器共ども彼がかき消えてしまっていた……なんていうのはどうだい? こうでも考えないと、どうにもこうにも辻褄が合わんよ。というわけで、開発途上の電子兵器があるか否か、という線も本気で当ってみることにしたよ。諜報部が目の色を変えて探しているのは、案外新兵器の方かも知れない、と思ってね」
「話としてはおもしろいな、ケイリー。ところでその人民軍技術中尉の経歴について……」
とレスはいいかけて、「人民軍技術中尉」の部分を「フォルクスヴェア・テヒニッシェコルプス・オーバーロイテナント」とドイツ語で発音したため舌が縺れた。
「やあケイリー。舌を噛みそうだ。その中尉の氏名はまだ判らないのか?」
「ああ判ったよ。ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアというんだ」
「なんだって? ケイリー。ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだって? これはこれは!」
握っている受話器を遠ざけてレスは大声で笑った。
「ケイリー。君はどこでその名前を仕入れたんだ? この中尉さんの一件に限っては情報源に君は踊らされているんだ。そのハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアというのはだね、例の東側の監視塔と銃撃戦をやらかしたという学生の名前さ。今はメレンにある病院のベッドの上にいるはずだ」
「なんだって? その学生の名前がハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだというのか? おかしいな。レス、それは確かか?」
一回目に聴いた録音の終り頃の部分を思い返しながらレスは確信をもって答えた。
「ああ確かだ。こっちの方はね。ブラウンシュヴァイク工科大学にリヒャルト・ヒルシュマイアという名の近代史科学の教授がいる。ハンス・ヨアヒムはこの教授の息子なんだ。これは私の推測だが、君の情報系路とこっちのとがどこかで癒着を起しているんじゃないのか? 例の『リーク汚染チェック』を近いうちに一度やってみる方がいいな」
「いや。レス。奇妙な話になってきたのは否定しないが、こっちの情報源は一本だけじゃないんだ。実をいうと、カストーのNATO情報センターにある東独軍軍籍簿にも今話した経歴の士官がこの名前で載っているのを確認しているんだ。だが、それにしてもおかしいな」
「ケイリー。その中尉の年齢は二十四歳だといったね。この学生の年齢も二十三歳と何カ月かだ。そっちは電子工学の専門家だそうだし、こっちの学生は工学部の専攻だ。今のところ学生の専攻が電子工学かどうかは知らんがね」
「判った判った。情報を洗い直してみる。だがレス。もしも、だよ。その学生の専攻が電子工学だと判っても、それはもうわざわざ教えてくれなくてもいいよ。この哀れな脳味噌ではこれ以上奇妙な話には到底随いてゆけないからね」
ケイリーとの会話を終えながら、レス自身にも何か「ひっかかるもの」があるのを漠然とながら感じはじめた。一見、情報系路に癒着があるのが原因で中尉と学生の名前が同じになるという混線が起ったように見えるが、学生の方のハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアの名前を始めこの学生の昨夜の行動の一切については、東側の出方が判るまで、といって爆発事件が発生した直後からクルトが押さえているはずなのだ。こう考えながらレスが受話器を戻した途端、待ち兼ねていたようにまたその電話機のベルが鳴った。レスは、今朝方からのいきさつから多分クルトが爆発事件に関することで掛けてきたのに違いない、と思いながら大きな掌で再び受話器を握り直し耳元に持っていった。果して聞こえてきたのはクルトの声だった。
「やあ、レス。ついさっき、ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアのアパートで彼の父親とコンタクトできたんだ。間もなく私のところに来るはずだ。君も来てくれるかい?」
「オーケイ、行くよ。今も昨夜の爆発の一件でフランクフルトと話していたところだったんだ。ちょっとばかりおかしなことがあるようなんだ。そうだな、例のテープをもう一遍聴き直してみてからこっちを出る」
「了解。レス。待っている。このケースにはどうやら私の手に余るところがあるような気がするんだ。来てくれると助かる」
レスは受話器を置くと、改めてテープレコーダーの再生ボタンを押し直した。テープはさっき停めたところから廻りだした。――
「ハンス。君が道を間違えたと気付いたのはいつだったんだね?」
とクルト。
「突然森が切れて開豁地に出るまで、道を間違えているなどと全然思っていませんでした。でも、クラウスの家の光がなかなか見えてこないので、少しばかりおかしいとは考えはじめていたんです」
「クラウスというのは、境界線ができてからも立退きを拒否して境界地帯の中にある先祖伝来とかいう農地をあい変らず耕作している一風変った農夫のことだね?」
「ええ。そうです。境界線が敷かれる前まではかなり便利に使われていたらしいタンドルフ間道という名の道路沿いの古い家に住んでいて、絶対に移転しようとしないんです。でも彼は決して変人ではありませんよ。その間道も今や一面に雑草に被われてしまっていて、時たまクラウスのトラックが買物に町に出るときに使われるくらいのもので、それと知っている人は少ないんじゃないでしょうか」
「君はなかなかあの辺りの地理に詳しいんだね」
「そうですね。ヨット部の練習でクラブハウスに何日も泊り込んだりして、暇ができたときによくあの辺の森を歩き廻ったんです。クラウスの家で休ませてもらったことも度たびあります。それであの辺の地理をよく知っているんです」
「なるほど。だが、それほど詳しいのにタンドルフ間道から分れて境界地帯の方に行く枝道の分岐点に立っている境界地帯警告板をどういうわけで見過したのかね?」
「ええ。それが昨夜は月明りがなくて真暗でしたし、気候が良くなってきてから草木の葉や蔓草が繁る速度がすごく早いんです。警告板はその繁みに隠されてしまっていたんで見落したんだと思います」
「仲間の方でも誰一人気付かなかったのかね?」
「連中は先頭を行く僕の車のテールライトに随いて走っていたんだと思います。車の中でも大声で唱ったりして騒いでいましたし。とにかく道に迷ったのは僕の責任なんです」
「そう。そうだったな。全員大いに酔っていたようだったから」
と、ここだけわざとゆっくり喋るクルトの皮肉っぽい声。この時だけはハンスが「ええ」と同意する声にも力がないのが録音にもよく表われている。
「まあいい。我われは交通法規違反の調書を作成しているわけではないんだから。卒業祝のパーティーだったことに免じて私の方はこの件を忘れることにするよ。さ、先に進もう。で、君は境界地帯に入ってしまったことに気付いたんで車を停めたんだね?」
「いいえ。そうではありません。森からいきなり平坦地に出て、おや? と思っているうちに、ヘッドライトの光の中に浮んできた道路の先の方が奇妙なんです。道があるべきところに一メートルくらいの高さの土の山があるんです。大急ぎでブレーキを踏んだんですが、間に合わずにその山に乗り上げてしまったんです。
坐ったままで、無理に頸をかしげて前後左右の窓から夜空に透かして辺りの様子を眺めたんですが、さっき話したように月明りもないので何も見えないんです。しかし、しばらくすると眼が馴れてきたのか、自分がいる広びろとした場所と森との境がいやに人工的に直線になっているようなんです。さらに時間をかけて前の方に眼を凝らしていると、|朧気《おぼろげ》ながら境界線の金網が続いているように見えてきたんです。その時初めて僕の頭に、境界地帯かも知れないぞ、という考えが|過《よぎ》ったんです。さらに眼が暗闇に馴れてきたせいか、正面の森の上に四角い箱が浮いているように見えてきたんです。あれが監視塔だとするとここは間違いなく境界地帯だと僕は思いました」
「それから?」
「僕の車に同乗していた二人の友だちは土の山に乗り上げたとき頭や手足を狭い車室のあちこちに打ち付けたんで僕に向ってありったけの悪口雑言をぶっつけてきていました。しかし、ここはどうやら境界地帯らしいぞ、と僕が一言いうと途端に静かになりました。そこで、もっとよく確かめてから後に随いてきた連中にも報らせなければ、とドアを開けて外に出て、後の連中の方を振り向こうとしたんです」
「と、その時東側の監視塔から撃ってきた弾丸が君の車の左側のヘッドライトを壊した、と君は事件のすぐ後で私のところの職員に話している。間違いないかね?」
「ええ。そのとおりです。間違いありません」
「どういうわけで、監視塔から撃ってきた、と君は思ったのかね?」
「反射的に銃声がした方角を見たとき、僕の車の真正面に暗い空をバックにして四角い箱型のシルエットがあるのが今度ははっきりと見えたんです。金網の上七、八メートルのところでした。監視塔の上の監視所の箱は以前に何度も見ているんで、それとすぐに判ったんです」
「さっき君は、眼を凝らして見てやっと金網らしいものがあるのが判った、といったね。今度は監視塔の上の監視室までどういうわけではっきりと見えたんだね?」
「本当によく見えるようになったんです。ヘッドライトが一つ壊され、眼の前の光の乱反射がその分だけ減ったからだ、と思います。手前が暗いほど遠くは良く見えるものですから」
「なるほどね。工学部の学生らしい答だな。それから?」
「撃たれた後、咄嗟に仲間の車に対して『標的になるから早くライトを消せ!』とどなったような気がします。全部のライトが消えると、離れた所の状況がさらに良く見えるようになりました」
「で、君はそこにいて恐怖や危険を感じなかったのかね?」
「勿論、危険だと思いました。銃声が聞こえたのとほとんど同時に、僕が立っているすぐ横のヘッドライトがガシャンと音を立てて飛び散ったとき、運転席にいた僕か、外に立っている僕か、いずれにせよ、突然真暗な境界地帯の中に突入して監視塔目がけて|驀走《ばくそう》してきた怪しい闖入者を狙ったのだ、その弾丸が外れてヘッドライトを壊したのだ。と僕は直感したんです。弾丸が当ったヘッドライトから運転席までは垂直に半メートル、外に立っている僕までは水平にやはり半メートルの距離しかないんですからね」
「ん、ハンス。だが、それにもかかわらず君はすぐにその場から退去しなかった。どうしてだね?」
「ええ。撃ち倒そうと彼らが狙った僕はまだ無傷でつっ立っているんだし、彼らはきっとまた次のを撃ってくるに違いない。次の銃声が聞こえたときには今度こそ終りだ、車なんか放り出して一目散に逃げだそう、と一瞬思いました。
しかし、うまく表現できないんですが、ヘッドライトが大きな音を立てて粉微塵になったとき、僕の心の中をまず満たしたのは、危険や恐怖の類ではなく、怒りだったように思うんです。あれは中古のポルシェですが、昨年の夏休みにマレンテのケラー湖畔の貸ボート屋で働いて稼いだ金で手に入れたものなんです。もっと詳しくいえば、売手に他所に売らないように頼んだあと必要な金額が溜るまで、夢中で働いて手に入れたものなんです。それほど僕はあの車が気に入っていたんです。自分のものにしたあとは自分自身で手を加えて今のコンディションにまで持ってきたんです。この気持を判っていただけるといいんですが……」
「ん、判らんでもないよ。ハンス。私も自分の若い頃を振り返ればね」
「という訳で、東側の不法性というか何というか理不尽さに|肚《はら》が立ってきたんです。境界線附近には立ち入りが禁止されているとはいえ、それはわが国の規則です。僕が少しでも彼らの領域を犯したわけじゃないのに、いきなり狙撃してきた。そして車を壊すなんてひど過ぎる。その時の僕の本当の気持をいいましょうか? 僕は境界線の金網の下まで行って、監視塔の上の、僕の車を壊した奴に石ころを|打《ぶ》つけてやりたい、という衝動に駆られたんです。
それを考えているときです。ふっと、或る事が頭に浮びました」
「或る事って?」
「ヨット部員の中にヴォルフガング・フリースというのがいるんです。彼は大学の射撃部のメンバーでもあるんですが、ハンティングの免許を持っていて、シーズンになると彼の親父と一緒にしょっちゅう鹿撃ちに出掛けているんです。このヴォルフガングの車が後に停っている三台目のやつだ、ということをふと思い出したんです」
「それで?」
「ヴォルフガングはいつでも一、二梃の猟銃かライフルを車のトランクに積んでいるんです」
「その件か。すでにヴォルフガング本人から話を聞いた。彼が銃を携帯していたことは全く合法的なんだが、君はそれを思い出して、大急ぎで彼の車に駆け付け、銃を貸してくれ、と頼んだ。そうだね?」
「いいえ。違います。『君の車のキイを貸してくれ』と僕は頼んだんです。彼が怪訝な顔付きをしているんで、気がせいていた僕は、自分で腕を伸ばしてイグニッションスウィッチからそれを引き抜き、大急ぎで車の後へ廻り、トランクを開けたんです。すると果して、前に見せてもらったことがある銃のケースが入っていました。でも、ケースにも錠が掛かっていたんです。しかし、まったく運がよくて、車のキイが付いている鍵束の中から大きさで見当を付けて選んだ最初の鍵でケースの蓋が開きました。中には、鹿狩り用のライフルが一梃と弾丸が入っている紙箱とが、ビロードで内貼りしてある窪みの中に収まっていました。
ぞろぞろと車から降りてきて、僕が何をしようとしているのかと覗き込んでいたヴォルフガングたちがようやく意図を察して押し留めようとするのを振り切り、銃と一握りの弾丸を掴んだ僕はかなり先の方まで走っていったんです」
「かなり先の方というと、境界線にはどれくらい接近したのかね?」
「そう、百五十メートルくらいだったかな。いや、もう少し近かったかも知れません。とにかく、この辺からなら監視塔の上の箱に命中させられる、と感じたところです。そこに立ち止ると僕は、それ以上装填できなくなるまで一杯に手探りで弾丸を込めると、夜空に浮んでいる四角な形のシルエットの真中に狙いを付け、引き金を引きました」
「結果は?」
「手応えなしでした。しかし、発射音は開豁地の両側の森の間をこだましつつ長い間尾を引いて聞こえました。と同時に、僕の車のヘッドライトを壊した一弾の銃声に眼を覚されて塒の中で騒いでいた夥しい数の鳥が、今度は物凄い羽音と共に鳴き叫びながら森という森の中から夜空に舞いあがりました。そして暗黒の中を気狂いのように飛び廻ったために大変な騒ぎになったんです」
「大変な騒ぎ、というと?」
「互いの姿も見えぬ盲の状態で飛び廻っているのでたちまち接触したり衝突したりして、雨のように地上に降ってきたんです。そして甲高い悲鳴を挙げながら翼を引きずり這い廻っているんです。この騒ぎはだんだんと遠くの森へと波及してゆき、ますますひどくなってゆくように思われました」
「つい三十分前に私が現場を離れる頃には鳥どもの騒ぎは静まっていたようだった。
ところで、君が最初の一発を撃ったあと、監視塔からは応射してこなかった?」
「ええ。撃ち返してきませんでした。僕は、立っていたのでは当らないな、と考え、次には尻を地面に着けて膝撃ちの構えを取りました。すると、立っていたときより箱型の監視所がはるかによく見えるようになりました。ちょうどいい具合に目の前に樹木を伐採して開豁地を造った時の古い切り株があったので、それに銃身を托して狙いを着けました。ゆっくりと引き金を引き絞ると、発射音の直ぐ後で、今度は監視塔の方からカーンという金属音が返ってきました。
僕はもちろん、監視所の中にいる人間を本気で撃つつもりでいたわけではないので、この命中音が聞こえたとき、やった! と叫びました。しかし、この銃声のために、また鳥たちの騒ぎが一段と激しくなったんです」
「金属に当ったような音だったんだね? 金網も、その支柱も、監視塔も、その脚柱も、監視室も、みんな金属製だ。君は二発目の弾丸が何に命中したと思ったんだね?」
「もちろん、監視所を囲っている鉄板ですよ。二発目のときは慎重に狙ったんですから」
「判った。よし、先を」
「この調子でもう少し撃ってやれ、と三発目を撃つために銃の床尾を肩に当てて構えたとき、監視所の屋根にあった探照灯が突然ぱっと点灯して、いきなり僕の上半身を照らし出したんです。それが物凄く強烈な熱いような光だったんで、一瞬目が眩み何も見えなくなりました。その時また予想もしない事が起きたんです」
「予想もしない事、とは?」
「その時まで暗い空を大騒ぎをしながら飛び廻っていた何千何万という大小の鳥が、突如一斉に探照灯の光源に向って集塵機で吸い寄せられるように集まっていったんです。あれほど強力な光を遮るだけの鳥の数でした。だから、僕は光をまともに向けられていたにもかかわらずその光景を見られるようになったんです。
あとからあとから羽音と鳴き声を挙げながら無数の鳥が監視所の方へ飛んでゆき、探照灯はもとより監視所の屋根や側板に衝突して気絶したり、光源の熱に翼を焼かれたりして、ばらばらと地面に向って落ちていました。
監視所の中にいた監視兵が堪りかねてスウィッチを切ったのでしょう。間もなく探照灯の光はすっと消えて、辺りは再び真暗闇に戻りました。と、それから一呼吸もしないうちに、監視塔の下の方で何度か爆発が起ったんです。その瞬間、開豁地一帯が真昼のように明るくなり、暗闇の中で想像していたよりも自分自身が境界線の近くまで来ていたのが判りました。次の瞬間に思ったことは、一体何が爆発したのだろうか、ということでした。訝りながら再び構えようとしていた銃を膝の上に下ろそうとした時、立てていた左肢の膝の下に弾丸が当ったんです」
「そして君はあお向けに後へ倒れた。間もなく君の仲間が駆け寄ってきて、君を、痛みで半分気絶している君を助け起し、なんとか車のあるところまで連れ戻し、一斉に境界地帯から逃げだした。そうだね? ハンス」
「いいえ。二つの点が事実と違います。まず、苦痛のために僕は気絶などしませんでした。それから、動けないでいる僕を車のそばまで運んでくれたのは、僕の仲間の連中ではありませんでした。僕が撃たれて倒れ込んだ所は、丈が五、六十センチメートルほどある雑草が生い茂っていて、連中には僕の姿が見えないらしく見当違いの場所を探していました。すると、突然風のように黒ずくめの服装をした見知らぬ二人の男が現われて、馴れた仕草で両側から彼らの四本の腕を組んで椅子のような恰好を作り、その上に僕を乗せると実に手際よく最後尾の車の蔭まで運んでくれたんです。それが済むと彼らは一言も口をきかずにまた風のように素早く森の暗闇の中へ消えていったんです。始めから終りまで一分もかからない間のできごとでした。
その後で僕が仲間の連中を呼び戻し、みんなで逃げ出したんです。仲間の誰一人、黒ずくめの男たちの出現を知ってはおりませんでした」
「なるほど。君は気付いていたんだな。彼らは国境警備隊のパトロール隊員だったんだ」
「そうでしたか。しかし、なぜ逃げるようにして立ち去ったんですか?」
「その理由はまた後で説明しよう。それより、今君が話した爆発が起った時の状況をできる限り詳細に思い出して欲しいんだ。君が倒れた後のことは昨夜のうちに十人以上の君の仲間から証言を取ったんだが、爆発の瞬間には君がもっとも近い所にいたわけだから。
さて、さきほど、君は爆発は一回ではなかったようなことをいったね。その辺を詳しく話してくれないか」
「ええ。ではゆっくりと思い返してみます。一つ一つの状景はまるで暗い映画館の中で観た画面のようによく覚えている割に、順序がはっきりしないような気もしますが……。
えーと、まず最初は、監視塔の右下の地面の辺りで閃光が上がり、爆発音が轟いたのです」
「閃光の色は? 火薬の種類が判るからね」
「青白いような色だったと思います」
「監視塔の脚柱からどの位右の方だった?」
「そうですね。五メートル位でしょうか」
「それからまた続いて爆発が起った?」
「そうです。最初の爆発音の反響が消え切らないうちに今度は監視塔のほぼ真下で前のよりも大きい閃光が上がって、爆発音と地響きが、そして爆風が起ったんです。その直前に僕は膝を撃たれて倒れたように思いますが、監視塔の周囲の多数の樅の木がまるで薪のように細かくなって一瞬に裂け飛び、残って立っている木の幹もパチパチと炎を上げて燃えはじめた光景を見たような気もします。
また、監視塔の少し後の方では小型トラックのような車両が燃え上がっていたのが眼の底に残っています。それから、これは僕の錯覚でしょうが、監視塔がこっちの方へゆっくりと倒れてきたような気もするんです」
「いや、ハンス。それは君の錯覚じゃないよ。脚柱の何本かが吹き飛んだらしく、監視塔は境界線のこっち側、つまりわが方の領域内へ倒れてきたんだ」
「え! では事実だったんですか。すると、監視所の中の監視兵は越境したわけですから、当然逮捕したんですね」
「彼らを捕えてどうしようというんだね。その兵士のポケットマネーで君のヘッドライトの弁償でもさせようという気かね。いやいや。国境警備隊はその時、君たちの救出でてんてこ舞いで、彼らにかかずらっているような暇はなかったし、それより何より我われは、東側との無用な摩擦をできる限り避けるように日頃から努めているんだ。
さてと、なかなか詳細に思い出してくれて、我われの仕事に大いに役に立つと思うよ。今いったように我われは、東側とのトラブルを可能な限り最小限に留めたいので、この爆発事件についても我われなりに事実関係を究明し、それに照らして、東側の言い分が理不尽でない限り妥当な対応をすべきだと考えているんだ。というのは、あの爆発によって、東側では多数の、そう十名以上の死亡者が発生した、という情報すらある。それが事実だとすれば、東側が君の銃撃という行為を見過すには、事態が大きくなり過ぎてしまった、と考えなくてはならない。
あの時、君たちがあの現場にいなかったら、東側は、今夜のように一晩で金網の修理を完了して、西側に対してはもとより自国の内部に対しても何事もなかったかのように口を|噤《つぐ》んでいたことだろう。また、車のヘッドライトを狙撃されたとき、君が何もせずに引き返していて、しかるべき所に報告していれば、わが方の抗議文書が外交ルートを通じて東側に渡される。そして多分、それは黙殺されてケース・クローズになったことだろう。
しかし君は、東側の監視塔に対して撃ち返した。二、三発撃っただけで、しかも東側が昨夜したように探照灯の照射くらいで事を済ませていてくれれば、そうだね、東側が黙っている限りわが方も何のアクションも取らない。だが、昨夜の事実は、東西間に境界線が引かれて以来の、つまり四分の一世紀来の大事故ともいうべきものが境界線上で発生したということだ。君が狙撃している時に、狙っているその場所でだ。我われとしては、東側が出してくるだろう抗議に備えて、君の行動と爆発との間に直接的な因果関係があるのかどうかを調査して、万全の対応準備をしておく必要があるのだ」
「判っています。
……今までの調査ではいかがですか? 僕の射撃があの爆発の原因だとお考えですか?」
「君の話では、君が発射したのは二発の弾丸だけだ。二発目を撃った後、かなりの時間が経過してから、そう、我われの資料によれば一分十秒が経過してから爆発が発生している。一分十秒という時間は、君の射撃と爆発とを結び付けようとする場合、恐ろしく長い時間の隔たりといっていいだろうな。
したがって、私は今、直接的な因果関係はないものと考えている。その時偶然に東側において何かの手違いが起り、それが爆発の引き金になったのだ。と私は考えているのだ」
「そうですか。そうだといいんですが。でも、少しばかり気持が軽くなりました」
「さてと、君の行為をわが方の内国法規に照らしてみると、君はわが国の法が適用される相手を銃を用いて脅したわけではないので取り締りの対象にならないんだな。鳥やけものを狙ったのなら無免許による狩猟ということになるが、そうでもなかったようだし。ま、例の飲酒運転の一件を別にすれば、ということだが。実をいうと、君の友人たちも、ラーツェブルクの警察に連行され、まさに例の『アルコール濃度〇・〇八ミリ血液検査』を受けさせられる直前に、供述書を取ろうとした我われが再び身柄を譲り受けてしまったんだな。したがって今となっては幸か不幸か、も早君たちの飲酒運転についても誰も挙証できなくなってしまったんだ。
というわけで、負傷して歩けないという物理的現象は別にして、君はまったく自由の身なんだ。だが、判っていると思うが、これはあくまでわが国の国内法からの見方でね、東側は何ごとにつけても相手方の非を|詰《なじ》る天才だ。だからこそ我われは憂慮しているんだが、今夜の一件について、どんな風なことをいってくるのかまったく見当も付いていない。例えばだがね『西側の好戦的反共学生集団が大型火器を用いて監視塔を襲撃した。その結果、監視塔の一つが倒壊し、十名以上の兵士が死亡した』などと公表するかも知れないし、その主謀者は君だ、と名指しでいい、君の身柄の引渡しを要求してくるかも知れない。そうならないように我われが君の立場を保全し、君が不利にならないようにするために、私としては君の方の協力もこの際是非頼んでおきたいんだ」
「ええ、もちろん。ご指示に従います」
「協力といっても、そんなに難しい注文を付けるわけではない。東側の出方が判明するまで、しばらくの間だと思うが、君の居所、名前、それから君だけが知っている今夜の細かい行動など一切を外部に対して伏せておく、それだけなんだ。一口でいえば、東側が書こうとしている筋書きをよりもっともらしくさせるような材料を進んで提供するような馬鹿げたことは回避したい、という意味なんだ。判るかね?」
「ええ、もちろん判ります。大変なご迷惑をお掛けしたんですから喜んでご希望に沿うようにしますが、僕は具体的に何をすればいいんでしょうか?」
「いや。今いったように君は何もしなくてもいいんだ。ただ、少々不自由かも知れんが、しばらくの間、外部との接触は断ってもらうことになるな。それだけだよ」
「それだけですか? 判りました」
「君が協力してくれることが決ったところで、少しばかり我われが知っていることを話してあげようか。それに、君の誤解の方も早目に解いておいた方がいいしね」
「僕の誤解ですって? 僕が何かを誤解しているんですか?」
「私の話を聞いているうちにおいおい判ってくるよ。
さて、君は工学部の学生なのだから、赤外線望遠鏡というものがあるのはもちろん知っているね?」
「ええ」
「監視塔の中にいる東側の連中は、昨夜も君たちの五台の車が一列になって境界地帯の中に入ってくるのを、赤外線望遠鏡を用いて昼間のできごとのように一部始終を監視していたと思う。そのうちに先頭の車は監視塔にかなり接近して停車した。君たちが道に迷ってそこに来てしまったんだとは彼らには判らない。月がなく真暗闇な真夜中に五台もの車が監視塔に向って突進してくるなどということは確かに尋常ではない。そこで彼らは警告のために、これまた赤外線照準器が付いている狙撃銃で君の車のヘッドライトを撃ったんではないのかな。こうすれば君たちが驚いて退散するものと彼らは考えていたのに違いないな。私は、彼らは最初から君を狙っていたのではないと思うんだ。
さて、その結果案に相違して、逃げ去るものと期待していた君たちの一人が、つまり君だが、ライフルを持って立ち向ってきた。彼らは大変に戸惑ったことだろうと思うね。
ところで、彼らの任務からすれば、監視塔が火器によって攻撃されれば直ちに応戦するのが当然なんだが、それをしなかった。君を一発で射殺するくらいは、こうして指をぱちんと鳴らすより容易なことだったと思われるが、どういうわけか、ここのところがもっとも理解に苦しむ点だが、君にとってはまったく幸運なことに、東側はそうした短絡的な行動を取らなかった。その結果、次の手として彼らが考えたのが、探照灯の光で君の目を眩ますという作戦だった。だが、またもや思いもかけずこの作戦も鳥どもの邪魔が入って失敗に終った。そこで多分彼らが、君を退散させる次の手を考えている最中に、突然足元で爆発が起った」
「ちょっと待ってください。今の話には、彼らが僕の|肢《あし》を狙撃してきたことが抜けていますね」
「君がそう抗議するだろうと予想していたよ。それが君の誤解だったんだ。説明してあげるからもう少し続きを聞きたまえ。さっき、赤外線照準器や望遠鏡の話をしたが、東側はこういったものの他にも最新鋭の監視用機器を駆使して、我われとの間の境界地帯の警備を行なっているだろうことは君にも充分想像できるね。例えば、わが方が夜間に彼らの視界内で行動する場合、赤外線ビデオカメラですべてが撮影されている、と信じるべき証拠もあるんだ。というわけで、昨夜の君たちの行動もすっかり写真に撮られている、と考えた方がいいんだ。
さて、わが方の国境警備隊でも、君たちが道を間違えて境界地帯の防衛開豁地に入った直後、それと気付いて附近にいたパトロール隊の隊員を送り込んで一刻も早く君たちを開豁地の外に引き戻そうと機会を窺っていたんだ。そうこうしているうちに、そんな無謀な行動を取れば東側に殺されるに決っているのに、君は銃を持ち出して監視塔に向って発砲しはじめた。パトロール隊はやきもきしていたんだが、君を連れ戻すために完全装備の隊員が開豁地の中に入っていったんでは、それもまた写真に撮られて正規軍が攻撃を仕掛けた、と宣伝され兼ねないし、最悪の事態を想定すると、パトロール隊の開豁地進出を、東側が本物の攻撃が始まったと誤解して思わぬ大事に立ち到ることだってあり得る。まったく困ったことをしてくれる、と対策を練っていたときにあの爆発が起ったんだ。その混乱状態を利用して二人の隊員が、東側の誤解を避けるために装備をすべて外して君の救出に飛び出していったんだ。だから、任務が終った途端彼らはいち早くまた森の中へ姿を消してしまったんだよ」
「なるほど、そうだったんですか。少しも知りませんでした。二人の男が黒ずくめの服装だった理由も判りました」
「さて、知ってのとおり東側は一千三百三十八キロメートルの我われとの間の境界線上に平均八千メートルに一カ所の割合で監視塔を設置しているが、わが方にはこういうものは一つとしてない。だが、わが方が何もしていないかというと、そうでもないんだ。実は、昨日のできごとも一部始終が音響監視網の中央装置に実に鮮明に録音されているんだ。既に多数の専門家の手により、その録音記録を基礎にして一連のできごとの進行が秒単位で組み立てられている。君が話してくれた内容と専門家が秒単位で復元したストーリーとが時間係数的に完全に一致しているんだ。だから私は君の言葉を少しも疑っていないんだよ。そうそう、先程私は、君が二発目を撃ってから爆発が起るまでの時間を一分十秒だった、といったね。あれは、この録音記録を解析して出した数字なんだ。
ところでハンス。君の誤解の件なんだが、東側は一番初めに君の車のヘッドライトを狙撃した以外には昨夜は一発も射撃していないんだ。したがって、東側が君の肢を撃ったということはあり得ないんだ」
「しかし、現にこのとおり撃たれているではありませんか」
「いや。音響監視装置の録音を精密に解析した結果、ライフルの発射音は合計三回しか記録されていない。一度目は君の車のヘッドライトを壊したときのもの。二度目と三度目とは同じ銃から出たもので、君が撃った二発だ」
「爆発とほとんど同時に彼らが撃ったとすれば、ライフル音は爆発音の中に隠されてしまっているかも知れないではありませんか? 現に僕が撃たれたのは最初の爆発が起ったのとほとんど同時だったように思うんです」
「いや、ハンス。ライフルの発射音と大型の爆発音とでは音の周波数がまったく違うので、仮に重なっていてもきちんと分離できるんだそうだ」
「いくらそういわれても、僕のこの肢が動かぬ証拠ではありませんか」
「ハンス。君は非常に運の強い青年だと私は思うね。君の左膝下の手術が終るまでは、東側の腕のいい狙撃兵が、生命に別条がないようにとわざわざ肢を狙って撃ったのだ、と私も考えていたんだ。ところが手術によって|剔出《てきしゆつ》されたのは銃弾ではなく何かの金属の破片だったんだよ。たぶん爆発物の破片だと思うがね。というわけで、監視塔の傍で爆発したものから飛んできたその破片は肢に限らず体のどこにでも命中する可能性があったんだ。運が悪ければそれが頭にでも当って君はあの草むらで一命を落していたかも知れなかった」
「もしそうだったのなら、あるいは全然どこにも当らなかったかもね。その破片を見せていただけますか?」
「いや。今は駄目だ。剔出後すぐに分析に持ってゆかせてしまったんだ。あの破片から、爆発したものが何であったかが判れば、爆発が君の行為と直接関係がなかったことがさらにはっきりと立証できるかも知れない。今はまだいえないが私には、あの破片が何であるか、或る確信があるんだ。この観点から見ても君は至極幸運な青年だと思うね。
さてと、大分長く話し込んでしまったが。ハンス、君はブラウンシュヴァイク工科大学のヒルシュマイア教授の息子さんだってね? たしか、教授のご専門は歴史学の方だったね?」
「いいえ。近代史科学の研究をしています」
「近代史科学というのは歴史学の範疇に入らないのかね?」
「いいえ。親父にいわせると全然別物みたいですよ。コンピューターと取っ組んで計算ばかりやっているようです。
実はその親父が明日行なわれる私の卒業式に列席するために、今日ツェレの家を出てハンブルクにくる約束になっているんです。この分では明日になってもとても歩けそうにありませんし、親父が家を出る前に連絡を取りたいんですが……」
「ハンス。君に対する協力要請の第一号だと思って聞いてもらいたい。申しわけないが教授には予定どおりの行動をとってもらわなければならない。君の卒業式に列席するために、予定どおりの時刻に家を出て、予定どおりにこちらに着いてもらいたい。
ここで君に関わりのあることの、ほんの一部分でも変更すると、全体が|綻《ほころ》びることになり兼ねないんだよ」
「なるほど。判りました」
「では、教授がこの町に着かれたら我われが君のところにご案内するよ。どこで、いつ、お遇いできるのかな?」
「昨日の朝の電話では、今日の昼過ぎに僕のアパートに着く、といっていました」
「そう。では待っていてくれたまえ。必ずお連れするから。
さて、長時間協力してくれたお蔭で幾つか新しいことも判ってきた。ごく近いうちにまた君に会いに来るよ。それまでよく養生してくれたまえ。医者も、君は若いからすぐに恢復する、といっていたよ。今夜はもうこれ以上誰にも邪魔をさせないから良く眠ることだな」
「お話を伺っているうちに気分が次第に落ち着いてきたように思います。この分なら少しは眠れるかも知れません」――
テープはまだ少し残っているが、録音は以上で終っている。巻戻しのボタンを押しながら、レスはあい変らず彼の頭脳にしっくりと|嵌《は》まり込まない何かがあるのを感じていた。
「クルトと話し合ってみれば、それが何かが判るかも知れない」
こう思いながら、クルトの役所に出掛けるためにレスは椅子から立ち上がった。
[#改ページ]
ブラウンシュヴァイク工科大学の近代史科学教授リヒャルト・ヒルシュマイアは、いよいよ明日で大学を終了する息子の卒業式に列席するため、心に決めていた午前九時を待ち切れずに、八時半過ぎには車を運転してツェレの自宅を後にしていた。
過去を回顧するとき、にがい想い出の方が数多く彼の脳裡に浮んでくる。年を取るほどにその傾向はひどくなってきた。だが、今日は違う。手塩にかけた息子が無事に大学を終り社会に出る。フロントガラスに眼をやりながら、彼は半世紀に及ぶ自分の過去を回想し、いつになく晴れがましい気分で、自身の人生がようやく一巡し息子に受け渡されてゆくのを感じていた。
車の調子も快調だった。しかし、日頃から耳に馴染んでいるローカル局の電波はツェレの街から遠ざかるにつれて届きにくくなり、いつからか雷雨がやってくる前の空電のような雑音が|間歇的《かんけつてき》に音楽放送に割り込んできていた。十一時になった。時報のチャイムの音色だけははっきりと聞き取れた。続いて女性アナウンサーの声が流れ出した。ニュース放送独特の早口で平板な語り口からニュースだと判ったものの「境界地帯」や「大爆発」といった単語のほかは、ますますひどくなってきた雑音に妨げられて話の内容まで理解することはできなかった。運転しながら彼がその単語から連想したのは、政情不安な沙漠地帯の国同士の争いで、まさかそのニュースに、自分の息子が関わりを持っているとは今の彼に想いが及ぶはずもなかった。
彼は九十キロメートル時の速度を維持しつつ、視線をフロントガラスに固定し、ハンドルを左手に持ち替えると、右手の中指の腹で無造作にニュース放送を切り、選局ボタンを順繰りに押していった。だが、どこの局の放送にも同じように耳障りな雑音が押し入ってきた。ふと彼は、この雑音を発生させている原因が、いま車を走らせている道路沿いの高圧送電線の鉄塔ではないか、と思い付いた。この送電線の鉄塔は、エルベ河河口地区に建設され、ようやく操業を開始した原子力発電所から、その電力を国の中西部にある工業地帯に送るために、つい数カ月前に完工したものだった。
諦めた彼は、しばらくラジオのスウィッチを切ることにした。車のエンジン音に馴れ切った聴覚には、静寂が出し抜けに戻ってきたようで、車は音もなく空気を切っているかのようだった。
車の下から、黒ぐろとしていてまだ真新しい舗装の二車線の道路が、微かに上下しながら、ほぼ真北の方角に真直ぐに伸びている。道路の両側には農地が地平線まで拡がり、道路に沿って遠く近く不規則に点在する樫の林が、速度を次第にはやめながら彼に向って近づいてくると、車の横を掠めるようにして瞬く間に後方に飛び去り、一つが飛び去るとまた次のがゆっくりと、だが次第に速度を上げながら迫ってきた。林の中には、赤煉瓦を積んだ壁に藁葺きの屋根を乗せた小綺麗な農家が一つずつ潜むように建っていた。麦が刈り取られて、赤茶けた素肌を陽に晒している畠地とは対照的に、ところどころに絨緞を敷いたように見える濃い緑色の部分は|甜菜《てんさい》大根、淡い緑色のはクローバ、そして黄緑色のは菜種の畠だ。これらは皆いまは家畜の飼料としてだけに作られている。
自分が少年であった頃は、甜菜大根から砂糖を、菜種から灯油や食用油を採ったものだったが、と一瞬彼は考えた。国が豊かになってからは砂糖も油もみんな必要なだけ外国から買い入れている。
やがて前方に、道路の両側から互いに伸ばした梢をからませ合い若草色の葉を繁らせているポプラ並木がトンネルのように見えてきた。ポプラの群の中に幾本か混っているハコヤナギの青白い葉裏が、風の中で、おだやかな六月の陽の光を浴びてアルミニュームでできているかのようにチカチカと金属的な光を放っている。その並木のトンネルを潜り抜けると、道路は間もなくエルベ河の南岸にぶつかり、その堤防の土手に沿って自然に西北西に方向を変える。
車は並木のトンネルに入った。全開にしてあるルーフウィンドウのプラスチック製の風防を透かして、ポプラの若葉のまだ半透明な緑と、柔らかい木洩れ陽の輝きとが、交互に彼の額を叩いた。視界の中で、並木の緑に枠どられて正面の空が際立って青く見える。その空と大地とを延々と区分けしているのが、高さがひとの背丈の三、四倍はある盛り土の堤防だった。
かつてエルベ河はこの国の中だけでも数百キロメートルの流域を持っていた。しかし今や、約三分の一に当る東側が切り取られた国土の中を最後の二百キロメートルだけ|過《よぎ》り、大量の水を北の海に注いで全長一千二百キロメートルの長途の旅路を終える。
ポプラ並木のトンネルを抜けたところで彼は軽くブレーキを踏みながらハンドルを左に切り、堤防沿いの道路に入った。
堤防には陸地側からの排水のためにエルベ河に対して直角に一定の間隔で設けられている小川の水門が埋め込まれている。道路は堤防に沿ってそのすぐ下を走っているが、この水門を跨ぐときにだけ堤防の頂すれすれにまで迫り上がる。車がこの部分を通過するたびに、堤防の上に植えられている、若葉の蔭にまだ咲き遅れの花を残しているスペイン桜の樹の列を、かなり先の方まで見通すことができた。そして横手には大河の流れがあったし、河面の果ての対岸に、目指すハンブルクの高層建築の群が河水から立ち昇る水蒸気のいたずらで揺れ動いているかのように眺められた。
ここまで来れば、残りの行程は、市内に入ってからの混雑を考慮に入れても約一時間だった。道程が思いのほかに捗って、時間に余裕ができたのを知った途端、視力と肩の辺りに微かな疲労が急に湧きあがってきたのを意識して、彼は道路が迫り上がっている水門の上に適当な広さの路肩を見つけると静かに車を乗り入れた。走り始めてから二時間半が経っていた。エンジンの音から解放された鼓膜が静けさとの調和を取り戻すために、しーんと耳の奥で鳴っていた。空のあちこちで|囀《さえず》っている雲雀の声が全開のルーフウィンドウから流れ込んでくるのを遠いもののようにその耳で聞きながら、しばらくシートに身を沈めていた彼は、やがてドアを押し開けて車外に降り立った。そして大河に向い、両手を思い切り挙げて背筋を伸ばした。足元には今日の分の花を一つ、半分開きかけたアザミがあった。
この辺りの河幅は五キロメートル以上はあるようだった。空の色を写して|群青 色《ぐんじよういろ 》に見える水の流れまで千メートル余りも葦が密生している湿地帯が続いている。去年の葦が白骨のように枯れ残り今年の葦が黄緑色の葉を幾段にも繁らせている湿地帯のそこここで、野鴨やクイナなど幾種類もの水辺の鳥が姿を見せずに高く低く鳴いている。水門の鉄製の扉の隙間から流れ出ている、澄んでいて飲めそうにさえ見える水は、くねくねと低地を選んで流れてゆき、湿地帯の葦の間に大河と合流する自らの小さな水路を作っていた。その水路の底に堆積している年古りた枯葦は真黒に炭化していてほとんどピートになりかけている。葦原の彼方から遠い花火の音のように軽やかに間を置いては数発ずつ連続して聞こえてくる銃声は、湿地帯の先のどこかにあるクレイ射撃場からに違いない。その銃声がする方角の河の中央を二万トン級の灰色の貨物船が音もなく遡航している。その船の向うにこの国最大の都会ハンブルクが、幽かな霞の中に薄紫一色の切り絵のように横たわり、水平線の上でゆらゆらと揺れている。眼を戻した彼は、堤防の中腹に散歩道が刻まれており、さして遠くないところに流れに向って白塗りのベンチが置いてあるのを見付け、アザミの花を踏まぬように気を配りながらそこへ降りていった。
すでに中天に懸っている太陽の熱で、鋳鉄製のベンチは適度に暖まっていて坐り心地がよかった。ベンチの背当てに「第十七区水防団・一九〇二年」と鋳込んであるのが、船具にするように重ね塗りされた厚いペンキの下からやっと判読できた。ベンチは既に約八十年間もそこにあるのだ。
それを半分遡った昔、一九四三年七月下旬の十日間に、英国空軍のランカスター爆撃機が投下した一万二千トンの爆弾でハンブルク市の建築物の八割以上が破壊されたという。そして敗戦の直後には街の外から見えたのは壊れかけた四つの教会の尖塔だけだったという。
それほど徹底的にベルリンに次ぐ大都会を潰滅させた昼夜を分たぬ一連の空襲にひとまず終止符が打たれた直後、ドイツ国民の間に「ハンブルギーレン」なる新しい動詞が創り出され、秘かに囁き交されるようになった。それは受身の動詞で、「ハンブルクにされる」つまり「都市が空襲によって廃墟にされる」という意味合いだった。それ以来、首都ベルリンがいつ「ハンブルクにされる」かを占うことが国民のそれぞれの胸の中で戦争の行末を見極めるうえでの重要な指標になったのだった。
彼は、彼方に見える都会の、今やその荒廃の跡の片鱗すら留めぬ高層建築の林に眼を泳がせて、彼の半生の上をもいつの間にか通り過ぎた三十数年の年月の長さを認めないわけにはゆかなかった。
頭上にある太陽から降り注ぐ程よい温もりと、葦原を渡ってくる適度に冷えた微風とに晒されていると身動きするのが次第に億劫になってくる自分自身を急き立てて、車に戻ろうと彼が意を固めたその時、トレーラーを牽いた大型トラックが地響きと爆音を残して堤防の背後の道路を通過した。続いてクレイ射撃場から数発の銃声が流れてきた。
過去の体験を想起するという人間の頭脳活動には、各々の記憶を選別し呼び出すための固有のキイワードのようなものがあるものだ。それは、匂いや色の具合、光や音の調子、時として痛覚や温覚といった場合さえある。この時の彼には、堤防の背後の道路を通過した大型のトレーラートラックが残していった轟音と振動、それと彼方のクレイ射撃場から聞こえてきた数発の銃声との組合わせが、約四十年も昔のできごとの記憶を彼の脳裡に呼び覚ますキイワードになったのだ。
眼前から始まりエルベの水流の際まで続いている葦原は、少年時代の住家の二階から眺めた針葉樹の梢が一面に立ち並んでいる光景に変った。対岸に霞んで見えるハンブルクの街は、窓の向うの樹海の彼方に見えたベルリン市の姿となった。一九四四年五月八日、たまたまこの日はリヒャルト・ヒルシュマイアの十一回目の誕生日だった。彼の記憶から生涯消え去ることのない、不運な半生の始まりになったこの月曜日、彼は、一つ年下の弟ハインリッヒと下校の途中、ベルリン市の方角で鳴りはじめた空襲警報のサイレンを聞いた。兄弟が家に帰り着く頃にはこの町でも警報が鳴りだした。
ベルリン中心区は二た月ほど前から米英両国空軍による爆撃をほとんど連日の如く被るようになっていて、その度にすさまじい爆裂音がこの町へも届いてきたし、南東風の強い日には火災の煙と共に厖大な量の白い灰が流されてきて、針葉樹の枝葉や建物の屋根がまるで雪が降った日のようになった。
ヒルシュマイア一家が住んでいるこのオーバー・バウムシューレ町は、旧城郭残趾によって区切られているベルリン中心区の南東十五キロメートルのところにあった。シュプレー川の川筋にある人口千二百人ばかりのこの町は、道路と森を拓いて造られた苗木畑とのほかは一面の針葉樹林だった。シュプレー川を上り下りする川船の汽笛が時折忘れた頃に風に乗って流れてくるこの針葉樹林の中に点々と、思い思いの方角に向って建っている白い漆喰壁に黒褐色の瓦屋根を載せた二階建の住宅が垣間見えるような、町とはいえ、およそ都会的雰囲気とはかけ離れた一帯だった。
したがって、さほど遠くないベルリン中心区の上に連日のように爆弾の雨が降り注いでいても、この町の住人はただの一人として真実のところ、重要な軍事施設も工場もないこの町が爆撃の目標に値する、とは考えていなかった。連合軍側としても恐らく同様で、仮に高価な爆撃機で長途運んでゆくただ一発の爆弾でこの町を全滅できたとしても割に合わない、と考えていたに違いない。
しかし、この日第一波の空襲の際に、この町にB─17一機分の爆弾と焼夷弾が偶然に落下したことが、この町のすべてが一夜のうちに消滅するという不運のきっかけとなったのだった。
兄弟が二階の窓からベルリンの空を眺めていると、警報発令のあと首都の上空を飛び廻っていた十数機のフォッケウルフ190防空戦闘機が機首を一斉に北に揃えると編隊も組まずに低空で飛び去っていった。敵の爆撃機が護衛戦闘機を随伴してくるときには常にそうだった。僅かな機数の味方の戦闘機が圧倒的多数の敵戦闘機の餌食にされるのを避けるために地上から指令して避退させるのだ。
やがて、大地を圧する大爆音が聞こえてきた。高射砲弾が南西の空で遠雷が轟くように炸裂しはじめた。数百羽の椋鳥の群のような戦爆連合の敵機は、首都上空に要撃戦闘機が一機もいないのを確かめたのか直ちに二群に分離した。小粒の方の一群は二百機ばかりのムスタング戦闘機だった。ムスタングは翼の下に着装していた二個ずつの燃料増槽を各個に振り落すと、編隊を解いて急降下していった。樹海の梢が邪魔になって見えないが、街並の屋根すれすれにまで降りてきて対空火器陣地はもちろん、橋梁や工場や停車場を縦横無尽に銃撃して廻っているのだ。百機を超えるB─17爆撃機は六機ずつの梯団を組んだまま、空中に次つぎに滲み出る黒い斑点のような高射砲の弾幕をまったく無視しているかのように、高度約六千メートルで水平に首都の上空に次つぎに進入してきて、官庁街や工場区域、鉄道操車場や燃料タンク目掛けて爆弾と焼夷弾を投下して去った。
三十分ばかりの戦闘の間に九機の爆撃機が撃墜された。何機かは黒煙を曳き次第に高度を失いつつも、搭乗員を救助するために潜水艦が待機しているという噂のあるバルト海に向かおうとするのか、真北の方角に逃がれていった。最後の梯団の中の一機が燃料タンクに被弾したのか、突然左翼の付け根からおびただしい量の燃料を白い霧のように噴出しはじめた。この爆撃機は首都爆撃を諦めて帰投するつもりか、僚機の梯団から離脱し時計方向に百八十度の回頭をしてオーバー・バウムシューレ町の方に機首を向けた。そして恐らく機体重量を一刻も早く軽減するためだったろうが、兄弟が魅入られたように見詰めている目の前で爆弾倉の中のすべてを一挙に解き放った。数トンの爆弾と焼夷弾は矢を束ねて投げ落したようにオーバー・バウムシューレ町のシュプレー川沿いの地域に吸い込まれるようにして落ちてきて、約三トンの爆薬がほとんど同時に爆発した。
敵機に対して撃ち上げられる味方の高射砲弾の破片は、割れ口が安全剃刀の刃を十枚ばかり重ねたのとそっくりに鋭利なうえ、ぎざぎざしていた。そのため、空襲の度にところ構わず降ってくるその破片に当りこの町でもすでに十数名が死傷していた。敵の爆弾を恐れるよりもむしろ味方の高射砲弾の破片から身を護るために、各自の家の地下室で手仕事を続けながら警報解除のサイレンが鳴るのを待っていた人びとは、突然身近で巻き起った爆発音と、煉瓦積みの壁の|目地《めじ》に詰まっているプラスターがこぼれ落ちるほどの振動に続き、電灯が一、二度またたいて消え、同時にラジオの音がぷっつりと跡絶えると、誰もがわが家に爆弾が命中したものと思い込んで一人残らず戸外に跳び出した。
彼らは、川沿いの商店通りの辺りの中空に漂っている爆弾が破裂したときの黒煙を突き抜けて数条の土煙が恐ろしい勢で空高く噴き昇ってゆくのを見た。また、意味は聞き取れないが、同じ方角で大人や子供が泣き叫び、互いに呼び交す甲高い声が湧き上がるのを耳にした。数分後には、やはり川に近い森林や住宅地から焼夷弾が引き起した火災の煙が上がりはじめた。それらの光景を茫然と眺めていた森の奥に住む人びとは、やがてわれに還って自身の幸運に気付き、消火活動に参加するため日頃の訓練どおりに手に手に道具を掴み火元に向って駆け付けていった。
瓦礫に埋没した地下室から生存者を助け出したり、春の初めの乾期のために麦藁に火がついたように燃え広がっている森林の火災を鎮めようと、人びとが文字どおり手を焼いているうちに、いつの間にか空には一機の敵影もなくなり対空砲火の音も|熄《や》んでいた。だが、警報解除のサイレンは鳴らず、停電のためにラジオからの情報も取れない人びとが訝っている時、再び第二波の空襲編隊の爆音が接近してきた。
この後の三十分間に、第一彼のときに劣らぬ数のB─17爆撃機は、第一波によってすでに半身不随に陥っているベルリン中心区に対して追討ちを掛けた。第二波の機影が去って十分も経たないうちに、防空部隊の抵抗がすっかり衰弱したのを見透かすかのように、さらに第三波が戦闘機の護衛すら伴わずに侵入してきた。
こうしてこの日警報が解除されたのは午後五時半で、午後二時から続いた空襲は時間の長さでも爆薬の量でも首都空襲始まって以来の最大規模となり、なにか昨日までとは異る決定を連合軍側が下したに違いない、とベルリンの人びとは感じ取った。それはつまり、連合軍側が、いよいよベルリンをも「ハンブルク化」する、すなわち空襲によって完全に廃墟化する決意を固めたらしい、ということだった。
川から約二キロメートル北東の森の中に建っているヒルシュマイアの家では、食堂にある食器棚の上に飾ってあったガラス器が二つ三つ床に転げ落ちて微塵に砕け散っただけで済んだ。
ようやく近隣の町村から風に乗って聞こえてきた警報解除のサイレンを耳にした母は、
「さあ、リックとハインツ。二人でガラスの破片を上手に掃除しておいてね。私は爆弾を落された人たちのところにお手伝いに行ってきますからね」
と、外出のための身繕いを急ぎながら口早にいい付けた。女中のアンネリーゼは兄弟の空腹そうな様子を気の毒そうに眺め、
「いえ。奥さま。長い空襲でしたし。坊ちゃんたちに何か拵えてあげなければ。ガラスの掃除は私がすぐにやっておきます」
と母の顔を見た。だが、母は険しい表情で、
「いいえ。アンネリーゼ。お前も一緒に来るんです。これを持って」
といい残すと、かねてから用意してあった三角巾や繃帯や救急薬などが一緒になっている大きな包みをアンネリーゼに持たせて出掛けていった。
兄弟はガラスの破片を取り片付けたあと、出がけにアンネリーゼが手渡していった自家製の菓子を食べながら家人の帰りを待っていた。午後七時頃になると日脚が伸びた一日もさすがに暮れはじめてきたが、父も母も帰ってきそうな気配がなかった。停電しているために次第に光が失われてゆく家の中で心細さを感じはじめた二人は、道路の先まで比較的よく見通すことができる二階の正面にある両親の部屋に行き、その窓辺で皆の帰りを待つことにした。
ベルリン中心区の空は、上空を厚く被う煙自体が地上の劫火の照り返しで赫々と燃えているようだった。時折空高く火の粉が舞い上がるのは建物が焼け落ちるときのもので、その鈍い地響きすら伝わってくるような気さえした。
あの赫々と照り映える空の下に父はさ迷っているのだろうか。いやすでに家路に着き、ついそこまで来ているのかも知れない。兄弟は互いに口には出さなかったが、胸の中では、父の身に何事もないようにと一心に念じていたのだった。
一方、この町では、住宅地の火災は収まったようで、も早炎も煙も見えなくなったが、森林の火災はますます火勢を強めているらしく、樹脂の豊かな樅の木に火炎が燃え移ると火の粉が木の高さの二倍くらいに噴き上がり、かなり離れているところにある建物の黒褐色の屋根を真赤な夕陽が当ったように染めた。
と、弟のハインリッヒが声を挙げた。
「リック兄さん! あれは父さんじゃないか?」
彼らの父は、ベルリン中心区にある或る初等国民学校の校長職を永年勤めていた。空襲の頻度が繁くなり鉄道が不通になることが多くなってからは自転車に乗って通勤していた。
「うまく行っても片道が一時間以上かかるが、瓦礫が一面の道路を越すには自転車が一番だ。肩に担ってゆけばいいからね。近頃はソ連兵の捕虜の数も減ってしまったらしく焼け跡や道路を片付ける手が足りなくなったんだ」
とベルリン中心区の被害を語ったときに話したことがあった。自転車に乗っている人影は次第に近付いてくるが、シルエットも速度もいつもの父とは異っていた。
「ハインツ。あれは父さんとは違うみたいだ」
と、弟のハインリッヒの言葉を否定した途端、そのシルエットは二つの人影が重なっているものであることにリヒャルトは気付いた。
「ハインツ! やっぱり君のいったとおりだ。父さんが荷台に誰かを乗せているんだ!」
兄弟は、父さん! 父さん! と黄色い声を張り上げながら仔犬のようにあと先になって階段を駆け降りると、父を迎えるために家の外へ跳び出していった。
「父さん! お帰りなさい」
と自転車の両側から二人が縋り付いたとき、父が着ている薄手のホームスパンの外套から火事場の臭いが立ち昇った。父はまず両足を地面に立てて自転車の重みを支えると、兄弟を両腕で抱擁しながら尋ねた。
「母さんは?」
「爆弾でやられた家にアンネリーゼを連れてお手伝いに行った」
とハインリッヒ。その時、父の眼に漂っていた固いものがすっと消えたのが薄暗がりの中でも判った。多分、帰途のどこかでオーバー・バウムシューレが爆撃されたことを耳にし、また燃え盛っている森の火災を目にして、家族の安否を気遣いながら帰ってきたのに違いない。
父の背後の荷台に黙りこくって乗っているのはハインリッヒよりも幼く見える少年だった。その少年の方に上体をねじ曲げた父は早口に喋った。
「父さんの学校に来ているトーマスだ。空襲警報が解除になったあと、遊びに行っていた友だちの家から帰ってみると、自分の家が爆弾の直撃を受けたらしく何一つ地上に残っていなかったんだそうだ。お母さんと妹は家にいたはずだ、というんだが……。父さんが学校から帰ってくるとき、避難しようとする人びとでごった返しているケッペニカー通りの雑踏の中で、お母さんを探しているトーマスにばったり会ったんだ。そういうわけで今夜はうちに連れてきたんだ。よろしくな。
トーマス、こっちがリック。こっちがハインツ。トーマスの姓名はトーマス・トマシェフスキだ」
泥だらけになった総統少年団の制服を着ているその少年は、父の広い背中の陰で無言で頷いて握手のために小さな手を兄弟の方におずおずと差し出した。火事場の煤煙で真黒になっている両頬に涙が乾いた跡が幾筋も光っていた。父が話の途中で口を差し挟めないほど早口で喋ったのは、トーマスの家族は皆爆死したのに違いない、と兄弟が顔色に出すのを防ぐためだったのだと、少なくともリヒャルトには判っていた。
そこで降りた自転車を父が押してゆくのに三人の少年は従った。
「停電しているのか? どこもかしこも暗いと思った。警報はすでに解除されたんだから家の中に蝋燭の火を点けても大丈夫だよ」
そういって自転車をいつものようにポーチの庇の下に寄せ掛けると、父は、父と向い合って黙って立っているトーマスを見下ろし優しく抱き寄せた。
「私の最初の仕事はだ。このトーマスの顔や手足を洗ってやることだ。トーマス。こっちに随いてきなさい」
兄弟は家の中の燭台一つ一つに火を灯して廻った。リヒャルトが二階の両親の部屋にある燭台に火を移していたとき、母たちも戻ってきたらしく、ハインリッヒと話しているアンネリーゼの賑かな声が階下から聞こえてきた。大急ぎで階下に降りてゆこうとしてリヒャルトが階段の上まで来ると、父と母が小声で話している声が下の暗がりから聞こえてきた。父はトーマスを連れて帰った経緯を話していたらしく、母の声が、
「ハインツのお古ならちょうどあの子の体に合いそうね」
といっていた。
居間に行くと、顔や手足を父に洗ってもらったらしいトーマスがソファの片隅に行儀よく坐っていた。そこへ衣類を幾組か抱えた母が入ってきてトーマスに着替えをさせた。その間中トーマスは口を噤んだままで母にされるがままになっていた。
やがて食堂の方からアンネリーゼの陽気な声が呼び掛けてきた。
「さあ皆さん。お誕生祝の用意ができましたよ! 坊ちゃんたち、さぞかしお腹が空いたでしょ!」
食卓の上には日常使わない特別のワイングラスが光っており、火の点いた十一本の蝋燭が立っている、母が焼いたに違いないケーキが真中に飾ってあった。不断は母と向い合った父の左右に兄弟が一人ずつ坐るのだが、この夜は兄弟が父の左側に並んで坐り、その向いにトーマスが坐った。
「トーマス。話してなかったが、今日はリックの誕生日だったんだ。君も一緒に祝ってくれないか。では、リック。おめでとう!」
アンネリーゼが注ぎ分けてくれた赤ワインで皆がグラスを捧げて乾杯した。しかし、トーマスは形だけ口を付けてグラスを食卓の上に戻した。父がトーマスの気持を引き立てようとして語り掛けた。
「トーマス。君の誕生日はいつだったかな?」
トーマスは小さな声で年月日だけをぽつんと答えた。その時、ハインリッヒが待ち切れないような声で父にいった。
「父さん。リック兄さんに早く父さんからのお誕生祝を上げてくれないと僕のを上げられないんだ」
「そうか。そうか。リック、何か判るかな?」
と父は楽しげにいい、内懐から小さな細長い箱を取り出した。もちろん判った。リヒャルトが欲しがっていたあのエボナイトの黒い軸に金環が付いている金ペンの万年筆に違いない。
「あっ、あれだ! 父さん、どうもありがとう!」
その小箱を与えられたリヒャルトが立ち上がり父の片頬に感謝のキスをして椅子に戻ると、隣に坐っているハインリッヒが蓋にぼつぼつと小穴が開けてある紙箱を足元からそっと持ち上げた。
「リック兄さん。これ、僕からだ」
箱の中ではかさこそと乾いた音がしていた。
「ハリネズミの仔なんだ。森で僕が掴まえたんだ。蓋を取っても大丈夫だ。逃げないよ」
用心深く蓋を外し横にずらすと、枯草の中に|蹲《うずくま》っていた小さなハリネズミは、射し込んだ光に驚いたのかまん丸に体をまるめ、まるで針が生えている毬のようになった。
「随分前に掴まえたんだけれど、兄さんの誕生日にあげようと思って今日まで自分で育てていたんだ。母さん、そうだったよね」
「そうなの。ハインツは自分の牛乳を残してはそのハリネズミの仔のところにそっと運んでいたのよ」
「これはまったくすばらしいや。ハインツ、本当にありがとう」
リヒャルトは、そう弟にいった時、自分の手元にある紙箱にじっと注がれているトーマスの視線に気付いた。その瞳は生き返っていて、箱の中のものを見たいという熱望が宿っていた。トーマスがこの家に来て以来初めて示した自己の表現だった。
「トーマス。君もハリネズミの仔を見るかい?」
トーマスは即座に頷き両手を差し出した。このやり取りを眺めていた父が満足そうにリヒャルトに片目を瞑って見せた。
「さあ、リック。停電しているので点けたままの方が明るいんだけれど、そろそろ蝋燭の火を吹き消して、ケーキをみんなに分けてちょうだい。アンネリーゼの分も忘れないでね」
と母がナイフをリヒャルトに手渡そうとした時、勝手に通じるドアが勢よく突き開られ、アンネリーゼが顔を出すなり叫んだ。
「奥さま! 空襲警報のサイレンがまた鳴っています!」
全員が同時に立ち上がり、居間を抜け玄関のポーチに向って走った。サイレンは近隣の町や村で確かに鳴っていた。
「食事が済んだら森の火災を鎮める手伝いに出掛けるつもりでいたんだが……」
と父が低く呟いた。
「さあ、みんな。地下室へ行くんです。リックもハインツも二階の窓からベルリンを眺めるようなことはもうできませんよ。今日の午後のようにここへも爆弾が落ちてこないとも限りませんからね。
食べ物はアンネリーゼと一緒にすぐに運んであげます。燭台を持ってゆくのを忘れないようにね」
母がてきぱきと指示を出した。
戦争だとはいえ、それなりに正常で、かつ特殊な事態が重なっていなかったなら、この夜のオーバー・バウムシューレ町は昼間の爆弾騒ぎの余波だけで済んでいたはずだった。だが、米国空軍により実施された三波の大空襲の後を承け、この日午後五時に英本土のケムブリッジ市近傍の基地を発進した英国空軍による第四次ベルリン爆撃隊は特殊だった。実戦体験が皆無またはそれに近い搭乗員が過半数を占めていたのだ。しかし、英国空軍はそれを無謀とは考えていなかった。なぜなら、航空機の生産に搭乗員の養成が追い付かない現実を補完する二つの技法を彼らはこの頃すでに開発していたからだ。
一つは|照明灯 誘導航法《フラツシユライト・ナビゲーシヨン》と呼ばれるもので、ランカスター爆撃機の胴体に、後方十五度以内の角度からのみ視認し得る特殊なフラッシュライトを取り付ける。順次後続する爆撃機は先行機の胴体の上下で点滅しているこのフラッシュライトを見失わないようにして随航すれば、熟練した航空士無しでも支障なしに爆撃行を完遂することができた。
もう一つの補助技法は|照明弾誘導爆撃《パス・フアインダー》法と名づけられていた。パスとは投弾するための飛行線のことだが、通常は爆撃機が目標のほぼ上空に達すると、機体を正確にパスに乗せて通過させるために、操縦士は爆撃照準器を覗いている爆撃手の手に方位の微調整を委ねる。爆撃手は照準器と方向操舵器との操作を連動させ、機体が目標の真上を通過するように操りながら投弾する。この間僅か七、八秒の仕事だが、パスの確保と爆撃照準の両方を同時にこなすのは経験不足の爆撃手にとってはかなり荷が重く、爆撃機は一たびパスに乗り損うと、反転してもう一度危険を冒して目標上空に戻ってこなければならなかった。そこで開発されたのがパス・ファインダーで、先導機がパスの入口と出口に照明弾を落す。後続機の操縦士はそれを目安にしてパスの上を飛び抜ける。爆撃手は爆撃照準器の中心点が目標に合致したとき投弾ボタンを押すだけでよかった。
この日の第四次ベルリン爆撃隊ランカスター八十機は最も単純な航路を採り、フラッシュライト・ナビゲーションに頼って、英本土から北東進しバルト海上に出て再集結すると正九十度変針し、リューゲン島上空を経てベルリン目指して真直ぐに南下した。上空を被っている厚い煙の層と切れ切れに浮んでいる雨雲に地上の劫火が反射しており、それらが真赤な蒸気の渦のように見え、機上から眺めるベルリン市の姿は、まるで鉱石が沸々と熔けつつある熔鉱炉の中を覗いているようだった。先導機は幾つかの目標を確認し、手筈どおりに照明弾を落してパスの入口と出口とを設定した。だが、地上の火災に目が眩み、かつ煙と雲によって視野を妨げられて照明弾を見失った多数の後続機は、灯火管制下の暗黒の地上で燃え続ける二カ所、つまりベルリン中心区とオーバー・バウムシューレの森林を結んだ一線を最短距離で飛び抜けながらただ闇雲に投弾しつつ飛び去った。
こうして再び無意味な投弾を被ったオーバー・バウムシューレ町の不運をさらに決定的にしたのは、英国空軍が投下したのが大戦中この夜初めて使用された油脂焼夷弾であったことだ。
金属部位が多い軍港や工場、そして鉄道施設などに対しては、酸化鉄とアルミニュームの混合物から成り、瞬間的に千数百度の高熱を発して鉄すら熔かし燃え上がらせることができるテルミット焼夷弾が有効だった。しかし、木製部位が多い都市部に対する攻撃には、テルミットより遙かに低温でも、むしろ長時間持続して燃焼するものの方が効果的だ、と経験的に知った米国が一九四四年に入って開発したのが油脂焼夷弾だった。
数十機のランカスター爆撃機がオーバー・バウムシューレ町の上で数個ずつ投下していった百キロ爆弾のような形をした油脂焼夷弾の弾殻は、地上三百メートルの高度まで落ちてくると自動的に小爆発を起し、中に半数ずつ二段になって詰まっている合計三十六発の六角筒型の焼夷弾を、直径二、三百メートルの範囲にばら播いた。
降ってきた個々の焼夷弾が地面や樹木や建造物などに激突した途端、頭部の炸薬が爆発し、六角筒の中に白いガーゼの袋に包まれて入っていたワックスとガソリンと天然ゴムとを練り混ぜた糊のような総量三ポンドの焼夷薬が発火しながら周囲に飛び散った。それは半径数メートルの範囲にあるあらゆる物にべっとりと付着し黒煙を上げつつじりじりとそれらを焦がしはじめた。
燃え続けている森の火災が恰好の目標にされたためにシュプレー川沿いの森林や商店通りはたちまち火の海になった。川向うのシェーネヴァイデに逃れようとする人びとが殺到していた唯一つの鉄橋も、半時間後には無数の焼夷弾が播き散らした焼夷薬の火が移って渡り板が炎を上げて燃えだしたため、使えなくなった。地面にある枯枝などがちろちろと燃えるのも数に入れれば、森の奥にも千を超える新たな火の手が上がっていた。また少なくとも数十の炎はすでに樅の大木の根元から下枝に燃え移り、ぱちぱちと音を立てて燃えはじめていた。樹脂と水分の多い生木が焦げるときに出すあの特徴のある臭いは白煙と共に樹々の間を漂い、風に乗って拡散し、地面を這って流れていった。
ヒルシュマイア一家は地下室に籠り、一本の蝋燭の炎を囲んで、頭上に近付きそして遠ざかる爆撃機の爆音を一つ二つと数えながら、爆弾の爆裂音が未だ身近で起らないのを神に感謝していた。油脂焼夷弾がばら播かれる時、空中で弾殻が小爆発を起す音も、敵機の爆音や高射砲弾が炸裂する音に紛れて誰の耳にも止まらなかった。したがって、森の中のほど遠くない何カ所かでかなりの火の手がすでに上がっているのを、地下室の中の誰一人として想像だにしていなかった。やがて、燃え盛る立木が吐き出す特徴のあるあの臭いが、夜気に混って稀釈されながらも地表を這ってヒルシュマイアの家近くにも忍び寄り、開いた換気孔から地下室へと流れ込んだ。
この臭いに最初に気付いたのはハリネズミだった。彼は突然紙箱の内側に沿って右へ左へと走り廻りはじめた。そして時どき隅で立ち停っては全身の力を籠めて背伸びをし、体長に比べて短いその前肢を箱の縁に掛けて脱け出そうとするような素振りを見せはじめた。地下室の中の者がこの小さな動物の騒々しさに気付いたとき、なんと、その紙箱を大切そうに胸の前に抱えていたのはトーマスだった。蓋をずらし箱の中のハリネズミの動きをしばらく不審げに覗き込んでいたトーマスは、やにわに父の顔を振り仰ぐと、か細い声で叫んだ。
「校長先生! 僕、また、火事の臭いがする!」
父は、ほんのしばらくトーマスの顔付きを注視した後、その意味を覚ったらしく階段を駆け昇りドアを開けて居間の方へ出ていった。が、すぐに戻ってくると、地下室に降りる時間をも惜しむ素振りで階段の上から叫んだ。
「さあ、みんな。避難するんだ! すぐにだ。森が、近くの森が燃えているんだ。急がないと間に合わなくなるぞ!」
リヒャルトはトーマスの手を引いて真先に駆け昇った。次にハインリッヒが両手で燭台を捧げ火を消さぬように用心しながら昇ってきた。それからアンネリーゼと母が食器や食物を一纏めにして詰め込んだ木箱を前後に支えて昇ってきた。疑いもなく樹木が燃えるときに出すあの臭いが居間の中にも漂っていた。
「屋根の上から周囲の様子を確かめてくる。みんなは手分けして避難先ですぐに必要になるものを纏めるんだ。余り大きな荷物にならんようにな」
父は終りまでいわずに階段を大股で昇っていった。
「アンネリーゼ。お前は食物をできるだけ沢山運び出してちょうだい。私はみんなの着る物を持ってゆきますからね。あ、子供たちは学用品を自分自分で持ってゆくんですよ」
戸外に立ち籠めている煙の臭いと色が、気のせいか濃くなってきたようだ。燃えている樹木がぱちぱちと弾ける音すら風の鳴る音の合間に聞こえるようだった。リヒャルトは背後から追われているような気持を落ち着かせようと深呼吸をしてみた。ハインリッヒはいつの間にか自室に行ってきたらしく、はち切れるほど何かを詰め込んだランドセルを背負い父の後に随いて二階から降りてきた。
「川の方に行くのが一番だと思ったが、どうやら無理らしい。南と西の森は火の海だ。ヴールハイデの方角だけはまだ大丈夫のようだ。風向きも逆だから都合がいい。近所でもまだ知らずに地下室にいる人たちがあるはずだ。二、三軒廻ってくるが、その間に持って出られないものを地下室に入れて置きなさい。上が燃えても助かるかも知れないから」
父が出掛けようとしたとき、近所の農夫ヴルマーが自転車のベルをけたたましく鳴らしながら走り込んできた。そして汗を拭き拭き、
「校長先生、気が付いていなさったか。よかった、よかった。だが、どこもここも燃えていて川の方へは出られませんわ。東の方が森も浅いし、うちじゃそっちへ行ってみますわ」
と咳込みながらいった。
「私たちはヴールハイデに行くことにするよ。その前に二、三軒近所を廻って報らせてくる」
「それがいい。ご一緒に参りましょう」
二人は自転車を連ね、けたたましくベルを鳴らしながら隣家のある森の方へと消えていった。自室に行き、学用品を一杯に詰めたランドセルを背負ったリヒャルトは、本棚から辞書や参考書を抱え出しては地下室に運んだ。母とアンネリーゼは玉の汗を額に浮べながら、瀬戸物や銀器を抱えては食堂と地下室の間を何度も足早に往復していた。
風が次第に強くなってきた。それも一吹きごとに方角が変る突風だった。針葉樹の臭いがする灰がちらちらと降りはじめた。灰の中には赤い火がまだ残っているものさえあった。どういうわけかガソリンの臭いが風に乗ってきた。
父が戻り、ものもいわずに家の中へ入っていった。立ち去る前に最後の点検をしているらしく蝋燭の火が窓から窓へと素早く動いていた。外に出てくるとポーチの脇に積んであった砂袋を幾つも抱えてゆき、地下室の換気孔の上に積んだ。父の様子を見て、言葉を交す時間も惜しいほど事態が切迫していると全員が感じはじめた。
一家はヴールハイデに向う森の中の小道を辿って歩きはじめた。先頭を、荷台に大きな衣類の包を括り付けた自転車を押す父が行った。爆撃機の爆音は聞こえなくなっていたので自転車の電灯を点けていた。そのすぐ後を、大きな袋を担いでまるでサンタクロースの絵のような母が従った。子供たちは学用品を入れたランドセルを背負い、両手にそれぞれ小物を持たされて続いた。トーマスはハリネズミの箱だけを持って随いてきた。アンネリーゼは、油紙で被ってあるので中身は判らないが、山ほどなにかを積んだ庭仕事用の木箱のような一輪車を押して、一番後から随いてきた。木造りの車輪が絶え間なくきいきいと音を立てていた。風がごうごうと鳴り、夜空を被って灰と火の粉が森の樹々の梢より高いところで渦巻いたかと思うと、生き物が狙いを定めるときのように一瞬動きを止め、さっとどこかへ飛び去った。樹脂の焦げる臭いとガソリンの臭いが、風向き次第で強まったり弱まったりした。歩きはじめてから十分ほど経ったとき、突風と共に大粒の雨がぱらぱらと降りだした。衣類も顔も手も、雨粒の当ったところが黒い斑点になった。森中に漂う煤煙によるものだった。幸い五分ばかりでその雨は降りだしたときと同じに突然やんだ。
一時間ばかり歩いた頃森が切れて牧草地に出た。樹脂が焦げる、目が痛くなるような臭いも、鼻を突くガソリンの臭いも薄らいでいた。しかし、針葉樹の臭いがする灰だけはときどき小雪のように降ってきた。
森の外に出たところで、どうやら大丈夫だろう、と父が呟き、一同はその牧草地の草の上に腰を下ろし初めて休憩を取ることになった。どこに蔵ってあったのか、戦争がひどくなってきてから見たこともなかった水飴の瓶を取りだした母が、細い枯枝にそれを巻き付けて三人の子供たちに配った。アンネリーゼは一輪車の油紙の下からワインの空壜に詰めた水を探り出してきて皆に分けた。
どのくらいの時間そこで休んでいたのだろうか、牧草の上に横になってうとうととしていたリヒャルトは、物が燃える微かな音を耳にしたような気がして目を覚ました。疲れ切っていて僅かに動かすのも億劫に感じる頭を物音の方にようやく廻すと、つい先程通り抜けてきたばかりの森から白い煙が牧草地に向ってもくもくと押し出されているのが目に入った。煙と地面の間にはちょろちょろと燃える赤い火の手があった。見ている間に一つ一つの赤い火は手と手を繋いでゆくように線を成してゆき、やがて一文字になると一頻りぱっと燃え上がる。それを繰り返しながら、下草や枯枝が燃える地面の火は、密生する樹々の一番下の枝までの距離を計るように炎を伸ばしたり縮めたりして間合いを取っているようだった。そのうちに、リヒャルトの視線の先で、一本の樅の下枝に火が飛び着いた。樹脂の多いその木はごうっという恐ろしい音を立てて瞬くまに天辺まで炎に包まれた。
リヒャルトは横で眠っている母を揺り起し森の方を指さした。母が父を呼び起した。再び彼らは白い煙に追い立てられるようにして疲れた足を引きずりながら、牧草地の中をヴールハイデの方に向ってのろのろと進みはじめた。
「地下室にいて気付くのが半時間も遅れていたら大変なことになっていたかも知れないな。今頃私たちの家も火に包まれていることだろう」
そう呟く父に、母は答える気力もないようだった。その時、一輪車をきいきい鳴らしながら前に進み出てきたアンネリーゼが、無言の母に代って父の言葉を引き取った。
「旦那さま。もしも、もしもですよ。あのお家が焼けてしまったら、この先どうなさいます? ヴールハイデに行ったところで今時これだけの家族が住めるような家はすぐに見付かるわけがありませんよ。どこもここもベルリンから逃げてきた人たちで一杯ですからね。わたしの実家の納屋だったら、とにかく夜露は凌げます。それに板張りの床がある二階は広いですし」
いつだったかリヒャルトとハインリッヒは、アンネリーゼが休暇を取って実家に帰るとき一緒に連れていってもらったことがあった。広びろとした敷地の奥に母屋があり、その母屋よりずっと大きい、外壁に水車が付いている煉瓦建の納屋が、庭に引き込まれた小川の縁に建っていた。二人の兄が兵隊に取られて出ていってしまってからは手不足で牛馬を飼えなくなったが、それまでは沢山の家畜を飼っていて、冬になると厳寒を過させるために十数頭の牛や馬がその納屋の土間に入れられていた、とアンネリーゼが二人に話したことがあった。たしか、飼料を仕舞っておく板張りの二階があり、その上にさらに倉庫のような屋根裏部屋があった。リヒャルトはその納屋の中でハインリッヒと隠れん坊をして遊んだのを思い出した。
父は即座には決心をつけ兼ねていた。しかし、家族の様子や昼間から母を求めて雑踏の中を走り廻っていたために疲れ切っているトーマスの姿に目を止めると申しわけなさそうに口を開いた。
「もしお前のご両親に大変な迷惑を掛けるのでないのだったら、今夜だけでも取り敢えず、そこに行かせてもらうことにするか。森の火炎が収まり次第、わが家の様子を見てくることにするから」
「じゃ決った。皆さんはあの樫の木の下で休んでいてください。坊ちゃんたちはすっかり疲れ切ってしまったようだし。わたしが旦那さまの自転車に乗って一走り先に行って馬車を持ってきます。みんなでのろのろ行くよりその方がずっとはやいですから。三時間ばかりしたら戻ってきます。あの木の所から絶対に動かないでくださいよ」
道すがら計画をすっかり立てていたらしくアンネリーゼは自信の籠った声でそういい残すと、一輪車の方に荷物を移した自転車に飛び乗り牧草地を横切って消えていった。
こうしてヒルシュマイア一家はリヒャルトが十一歳になった翌日からアンネリーゼの実家の納屋で生活することになった。それからちょうど一年が過ぎリヒャルトの十二歳の誕生日が再び巡ってきたその日、一九四五年五月八日、ドイツは連合国に対する無条件降服文書に調印した。
リヒャルト・ヒルシュマイアはその後の生活よりも、田園の中で丸一年家族が揃って暮すことができた戦時下の納屋での生活の方を常に懐しく回想する。アンネリーゼの実家の納屋で暮すようになってから、父は月に一度くらいの割合で廃墟となったベルリン中心区に出掛けたが、ほとんど毎度のように孤児となった教え子を街頭で見付けては連れ帰った。終戦の頃にはトーマスのような子供が八人にもなっていた。母とアンネリーゼが子供たちの食べ物と着る物のために一日中追われていた……。納屋の中の雰囲気はまるで学園のようだった……。
戦争が終って間もなく、父が首都再建委員会の学校制度委員の一人に選出されて、一家はベルリン中心区のソ連占領地区内にあるヤノビッツ橋附近の家に移り住むことになった。その家を選んだのに特別な理由はなく、父のかつての教え子の|伝手《つて》に頼っただけだった。だが、それから約一年が経ったとき、住居に選んだその場所がヒルシュマイア一家の運命に重大な不幸をもたらすことになったのだ。
それはともかく、一九四六年の二月の初め、ヒルシュマイア一家がベルリンソ連占領地区にある家に移り住んでからあまり日も経たないうちに、昔の教え子などを中心に夜の訪問者の数が次第に多くなってきた。当時としては、一家の居住状態に余裕があると見られたためか、一家の居間は訪問者にとって恰好の集会場だった。集まってくる若者たちは祖国再建の方向を模索する情熱に燃えている人びとで、昼間の勤めを終えてから父のもとにやってくるのだった。日中、学校制度委員の仕事に専念している父も、訪問者の誰かが携えてきたワインを酌み交したりして、深夜まで政治や政党に関する論議を楽しげに闘わせていたのだった。またその頃は、朝になりリヒャルトやハインリッヒが二階の寝室から降りてゆくと、一人二人の男が居間のアームチェアやソファで寝ているのを見ることがよくあったものだ。
この頃の訪問者の中にペーター・フェルナーやエーリッヒ・ホーネッカーあるいはヴァルター・ウルブリヒトがいたのかも知れなかったが、共産主義の自治政府を一日も早く樹立すべきだ、という意見を吐く男たちの意気が一番旺んだった。彼らの主張に反対を唱えているのは、父のほかに二人か三人しかいないように見えた。家族の目に映る父は、まず彼らの無|誤謬《ごびゆう》勝利者的な態度をひどく嫌っている様子がありありとしていた。父はしかし、そのような好悪の感情をできるだけ押さえて、漸進的な社会主義政府を造るべきだ、としきりに説いていた。
「祖国を再建するためとはいえ、全国民の合意ではなく、少数の意見だけで方向を決めたところで、再建を具現化する力というものは決して生まれてこないのではないか? 千二百万人だけが住んでいるソ連占領下の地域なら、あるいは諸君らの主張も大勢を占めることができようが、西側の地域に住む同胞六千万の意見も聞いてみるべきではないのかね」
父はどの政党にも属していなかったが、ソ連占領下のベルリンで共産主義者に対してこんな意見を吐露するのは危険だった。夜の訪問者たちの|主《おも》だった者は、首都再建委員会のメンバーの中でもとりわけ信望が高い父を、ドイツ共産党の幹部として引き入れるのを遂に諦めたのか、二た月三月経った頃から彼らの足は次第に遠退いていった。
その間に、ドイツ東部ではソ連一国の絶対的支配権が着実に確立されてゆき、ソ連占領地域の中に浮ぶベルリン市のソ連占領下にある東側では、共産党と社会民主党とが名目上合体して誕生した社会主義統一党が結党後直ちに一党独裁の地盤固めに踏み出した。彼らがまず手を着けたのは異分子に対する徹底的な弾圧だった。そのためこの頃に数十万の人びとがまだ壁が構築されていなかった境界線を通ってベルリンの西側に逃れていった。しかし父はあい変らずヤノビッツに住み、毎日首都再建委員会に通って学校制度の委員の仕事に精を出していた。
一九四七年の二月、一家がヤノビッツに移り住んでからちょうど一年が経った或るひどく寒い朝、遂に二人の武装した兵士を伴ったソ連軍の将校が乗っているアメリカ製のジープが、ヒルシュマイアの家の玄関の前に停った。首都再建委員会の教育制度委員の一人である父に召喚状を渡すのには、それなりの仕来りがあるらしく、将校は玄関から一歩も中に入らず戸外に立ち、胸を張って父に向って挙手の礼をし、ドイツ語で書かれている文章を流暢に読み上げ、その紙の正面を父の方に廻して手渡した。それには召喚理由の記載はなく、ただ、ソ連占領軍総司令部政治局に直ちに出頭すべし、とだけ書かれていた。父は身仕度を手早く整えると、二人の息子の頭に掌を一つずつ置いて、
「すぐに戻るから、心配せずにな。いい子にしているんだ。母さんを頼む」
といい、母には小声で、
「この間話したようにするんだ。首都再建委員会にできるだけ早く連絡するように」
と囁いた。
そして最後にアンネリーゼに、
「みんなを頼んだよ。すぐに帰れると思うがね」
といい残して、毎日役所に出かけるのと少しも変らない態度で玄関の階段を降りていった。路上に停っているキャンバス布一枚で被われたジープの車室で、ソ連兵は零下二十度という寒空にもかかわらず少しも姿勢を崩さず父が乗り込むのを待っていた。
一週間経っても父は帰ってこなかった。どこからも何一つ連絡すら来なかった。母が八方手を尽したが、一カ月経っても父の消息は掴めなかった。そうこうしているうちに、捕えられた者の妻も逮捕されはじめた、という噂が流れてきたとき、母は一つの決断を下した。それは実は父と打ち合わせ済みのことだったのかも知れないが、ともかく、父が無事に戻った場合と母自身も逮捕された場合と両方の事態に対して、家族の幸せと不幸を半々にしようという計画だった。
具体的にいえば、子供の一人は手元に置き、残る一人を西側へ逃がすということだった。年下のハインリッヒが母の手元に残されることになり、リヒャルトは当時英国占領下にあったツェレに住む叔父の元へと送られることになったのだ。
ヒルシュマイア家の辿った道は、それから二年後に二つに分裂することになった祖国の運命と似ていた。こうして幼い身で肉親や周囲の人びとから一人切り離されたリヒャルトは、以来東側に残った誰一人とも邂逅することなく約四十年間を生きてきたのだった……。
エルベの流れの上で二隻の大型船が擦れ違いつつ汽笛を鳴らし合った。回想から抜け出した彼はベンチからゆっくりと立ち上がり、対岸を一瞥した。あの都会の中に息子がいる。彼が到着するのを今や遅しと待っているかも知れない自分の息子がいるのだ。こう思ったその時ふと、あの寒い日の朝、ソ連兵のジープで連れられてゆく父が、彼の頭の上に掌を置いたその胸中を彼は初めてはっきりと理解したような気がした。
息子が住む、私営だが学生専門のアパートの前庭に車を乗り入れたとき、時計の針はちょうど正午を指していた。二階にある息子の部屋の窓に見るともなしに眼をやったが、カーテンの引き具合からして人のいる気配が感じられなかった。息子の車に指定されている駐車スポットを眼で探すと、果して息子が一年前から愛用している中古のポルシェの姿がなかった。少しばかり落胆に似た気持を味わいながら、
「出かけているな」
と声に出して呟き、自分の車を来訪者用のスポットに入れると、玄関の右手にある管理人室へ息子の部屋の鍵を借りるために歩いていった。
その時、彼が車を入れたスポットの二台向うに停っていた黒塗りのセダンの運転席に、黒い表革の七分コートを着た若い男が静かに身を沈めているのにも、また、その男が彼の後姿を見送りながら、内懐から取り出した小さなトランシーバーで交信を始めたのにも彼はまったく気付かなかった。
「対象、今、到着。玄関に向ってゆく」
「たしかに対象者か?」
「たしかだ。車のナンバープレートも確認した。CE番号だ」
「判った。服装は?」
「濃茶色のモヘヤの三つ揃い。頭髪は写真よりもっとグレイだ」
他の所用であっても彼はこの街に足を踏み入れれば必ず息子のところに立ち寄ることにしていた。したがってすっかり顔馴染みになっている管理人夫婦から卒業祝いの言葉を贈られなどしてしばらく話し込んだ後、鍵を借りて階段を昇っていった。息子の部屋は昇り詰めて右手に三つ目の扉が入口だ。二階の廊下に立ったとき、廊下の奥から平服の背の高い青年が一階へ降りる風情で階段の方へ歩いてきた。擦れ違うものと予期して身を交そうとした彼に、その男は物静かな調子で語りかけてきた。
「ヒルシュマイア教授ですね?」
「そうだが? 何か?」
息子の友人か、それとも少し若過ぎるが自分が属している学界のメンバーの一人か、と彼は思い巡らした。
「私は、基本法擁護庁の職員です」
金属製のバッジが付いている|鞣《なめ》し革の身分証明書を男は内懐から取り出して示した。だが、正規のバッジを知らない彼にとってそれはまったく無意味だった。この国では、東西二国に分割されている現状を、特殊な国際環境下における一国家の已むを得ない仮の姿だと考えている。したがって、この国だけの現在の基本を定めた法律を憲法とは呼ばずに基本法と名付けている。基本法擁護庁は、その基本法によって謳われている国民と国家の主権をあらゆる侵害から擁護するという名目で設置されているのだが、実は国家安全保障関係の情報機関であり、実行機関でもあるのだ。その組織の中には、かつての|秘密 国 家 警察《ゲハイムニス・シユタート・ポリツアイ》、つまりゲ・シュタ・ポの機能とそのメンバーだった者の一部が受け継がれているのを知らぬ者は少ない。リヒャルト・ヒルシュマイアは、基本法擁護庁の名を耳にした途端、思い当る理由もないのに心が反射的に身構える姿勢を取るのを意識したが、彼のような過去の体験を持つ男としては当然だった。
「それで?」
「私たちの上司のクリスチァンゼン氏が、ご子息の事に関して、是非とも教授にお目に掛かりたい、といっております」
「息子が何か?」
「いいえ。このことは犯罪捜査などに一切関係ありません。クリスチァンゼン氏から、それを真先にお伝えするように、と指示を受けております」
ヒルシュマイアは眼を細めるようにしてすぐ目の前に立っている男を素早く観察した。澄んでいる碧い瞳、流行を追っていないよく刈り込んである頭髪、均整のとれた体格、落ち着いた態度、それに受けた教育の高さを匂わせる整合性の完璧な言葉使い。基本法擁護庁の職員であるとは信じてもよさそうだった。たとえそうではなかったとしても、争ったところで勝ち目のない体力上の差がありありとしていた。
「犯罪と関係ないなら、どんな用件で?」
「それは直接クリスチァンゼン氏からお聞きください。どうでしょう? 今すぐにお出でいただけますか? 連絡しておきますから」
ヒルシュマイアは、父親がソ連占領軍総司令部政治局に連行されていった三十数年前の朝の寒さを体の芯にふと感じた。しかし、目の前にいるこの若い男は強制的に連行しようとしているのではなさそうだった。
「ところで教授。事情がありまして、お出でいただくのに我われと一緒でない方がいい、と指示されておりますので、ご自分の車でここをお訪ねくださいませんか。クリスチァンゼン氏がお待ちしております」
男は上衣の下から紙片を取り出して渡して寄越した。簡単な地図と所番地が書いてあった。
『バイム・シュトローハウゼ 三十三番地
[#地付き]四〇一号室』
「ハンブルク特別州警視庁の隣の建物です」
と男が付け足した。
[#改ページ]
外アルスター湖の下手に面して建っている合衆国総領事館からクルトの役所までは、車だと十分足らずだ。アルスター湖を内と外とに分割している堤の上を連邦鉄道が渡っており、この線路を間に挾んでケネディ橋とロンバルト橋が並行して架かっている。これらに直角にぶつかっている総領事館の前のアルスター・ウファ通りを下り、ケネディ橋の袂を素通りし鉄道のガードを潜ってから左折する。そして、ロンバルト橋を渡り切ってからなおも直進し、中央駅の北端でもう一度左折するとたちまちクルトの役所の前に着く。
録音を終りまで聴いてから出掛けたのでレスがそこに着いたのは、クルトの電話があってから一時間が経っていた。基本法擁護庁北部方面支局の最高責任者であるクルトの執務室に到達するには、まず玄関にある受付に始まって三つの関門を通らなくてはならない。顔と身分とをすでに知られているレスの場合は、玄関の受付における事務的な面会票記入だけは他の訪問者と同様に彼自身がしなければならないが、立入許可章は女性職員が丁重な仕草で彼の胸にピン留めにしてくれる。そのあとエレベーターで四階まで昇るが、それぞれ各階のエレベーターホールにある関門でも形式的なチェックだけで、付け人なしに単独でクルトの秘書がいる部屋に行くのを許される。そこには、受付からの連絡ですでに彼がやってくるのを知っているクルトの秘書の|零《こぼ》れんばかりの笑みを湛えた顔が待っているという段取りだ。
彼女の笑顔に送られたレスがクルトの執務室に入ってゆくと、緊張の余りに蝋人形のように固くなっているヒルシュマイア教授と思しき人物が、窓側にある黒革張りの応接セットでクルトと向い合って坐り、例の録音に熱心に聴き入っているところだった。二人はレスの姿を認めると、挨拶しようとして腰を浮せかかったので、レスはそれを眼顔で制し足音を押さえてソファに近づき、クルトの隣にそっと腰を下ろした。ヒルシュマイア教授はかなり前にここに来たのか、このときテープレコーダーから流れ出していた話のやり取りはほとんど最終の部分で三分も経たないうちに終った。巻き取りボタンを押しながらクルトが教授に語りかけた。
「ハンスは素直で率直で、なかなか気持のいい青年です。私は好きになりましたよ。教授、今お聞きになったとおりで、彼はすこぶる元気です。医者も、化膿さえしなければ恢復は早い、といっていますしね。
さて、お二人をご紹介しましょうか。彼は私の公私両面の友人であるレスター・ウィリス氏。当地のアメリカ合衆国総領事館勤務の海兵隊中佐で派遣海兵隊の隊長です。この一件で少しばかり知恵を借りたいことがあるので来てもらったのです。
レス、こちらはブラウンシュヴァイク工科大学の近代史科学教授リヒャルト・ヒルシュマイア氏。ハンスのお父上だ」
クルトがドイツ式に知っている限りの肩書を付けて二人を紹介したあと、ヒルシュマイア教授とレスは互いに立ち上がり無言で握手した。ドイツ語で挨拶したものかどうか、教授は迷っている風だった。そしてまた、息子の一件にレスがどんな風に関わっているのか解し兼ねている気持がありありと表情に出ている。生来のグレイの頭髪に白髪が混っているので老けて見えるが、五十歳に手が届いたか否かというところだろう。濃茶色の三つ揃いでやや小肥りの体躯を包んでおり、いかにも頭脳労働に携わっている者の雰囲気を醸し出している。縁無し眼鏡の奥にある瞳は一見柔和な感じだが、磨かれた知性がときたま人を刺すように光る。
二人の注意を引くように腕時計をやや長く眺めてからクルトがいった。
「教授、部下に今から息子さんがおられる病院へご案内させます。直接お会いになれば安心の度も増すでしょうから。ではいいですか。さっき申しあげたように息子さんの名前は今ハンス・クリスチァンゼンになっています。これを忘れないようにしてくださいよ。決してヒルシュマイアとはいわないように。
さてと、参列なさっても仕方がない卒業式のために、教授には大変な無駄足をさせてしまい申しわけなく思っています。いかがです? 今夜晩餐をご一緒したいのですが……ご面会が済んだらもう一度ここにお戻りくださいませんか」
緊張していた教授の顔にちらっと微笑が走り応諾の意を示した。しかし、レスの方に向き直ると即座に真顔に戻り|慇懃《いんぎん》に目礼してから、先に立っていって部屋のドアを開けて待っているクルトの後を追うようにして出ていった。
レスは一人残った所在無さを紛らわすために窓辺に行って、下の方に豆粒のように見える歩行者や行き交う自動車の流れを眺めていた。この街では六、七月が一年中でもっとも色彩豊かな時期だ。長い長い冬のあと、人びとは厚手でダークカラーの外套を脱ぎ捨てて、今こそとばかりに色とりどりの軽装で街を闊歩する。八月になると、決って雨の日が多くなる。するとたちまち、地味な色のレインコートがすべての色を隠してしまう。煉瓦造りの建物がほとんどのこの街で、雨降りの日にも場違いなほどカラフルに残るのは、窓辺という窓辺に約束したように飾られている七色のペチュニアの花と自家用車で、この二つだけが例外だ。しかし、レスの頭に、この街に赴任した頃には黒塗りの車がほとんどだった、という記憶があった。世の中が平和で豊かになると白と黒の二色が次第に消えてゆく、と誰かがいっていたが、確かにそうだ。この国でも数年前までは、電話機やタイプライター、扇風機、自転車や鉄道の車両、果ては雨の日に穿くゴム靴までが真黒だった、とレスが回想しながら下界を眺めているとき、ドアが勢よく開いてクルトが戻ってきた。彼はレスの顔を見るなり話しかけた。
「やあ待たせて済まん。手配に手間取ってね。さてと、君の力を借りたいこと、報らせておきたいこと、色いろあるんだ。まあ坐らないか」
「ああクルト。こっちにも飛び切りおかしな話があるんだが、まず君の方の話を聞こうか」
アームチェアに沈んだレスができるだけ気楽な姿勢を探しながらクルトを促した。
「昨夜の電話では敢えて君に話さなかったんだが、東側が爆発事故の原因をハンスのやった銃撃に押しつけようとしている兆候がもうすでに現われているんだよ。あれほど用心して銃撃の一件を伏せておいたのに、すでに東側はハンスの名前を掴んでいるらしいんだ。
私としては、ここのところが何としても解し兼ねるので、昨夜やった事情聴取の過程をもう一度部下に一秒毎の時系列で追跡させ直しているんだが……。
昨夜の電話で君に話さなかったことというのは、実はね、我われの他にもハンスとコンタクトしようとして動いている者がいるらしい、ということなんだ。零時過ぎだというのにわざわざメレン総合病院に廻ってみたのも実はそのためだったんだ。病院からのリポートによると、零時少し前だったらしいが、つまりハンスが入院してから一時間も経たないうちだが、若い男から当直医に電話が掛かり『爆発現場から運び込まれた負傷している男の名はハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアというのではないか?』と尋ねるんだそうだ。当直医が何気なしに『そのとおりだ』と返事をすると、『すぐに会いたい』という。時間が時間なので断わろうとするとかなり執拗に強要するので、その男の氏名およびハンスとの間柄を尋ねたところ、それに対しては言を左右して明確に答えようとせず、ただ『知り合いの者だ』と繰り返すだけなんだそうだ。そんな訳で、この当直医はこの男の話を素直に受けとれなくなり、『ハンスはすでに睡眠薬で寝かせてしまったので、明朝午前十時からの面会時間に来るように』といって断わる一方我われの方に連絡してきた、というわけなんだ。
そんなことがあったので、再度私自身ハンスを訪ねてゆき事情聴取をしたあと、今朝まで部下を一人病室のドアの外に付けておき、今朝六時前に、秘かにハンスをここの市警病院に移送してしまったんだ。クリスチァンゼンと私の姓に変えてね。今日一日だけ、この名前が定着するのを待って、その名のカルテと共に明日また別の病院に移すつもりにしているんだ。これで、先程私が教授に、ハンスの名字はクリスチァンゼンですぞ、と念を押した事情が判ったろう?」
「いや、実をいうと、昨夜の君の電話は駄弁が多いな、とは思っていたんだ。なるほど、そんなことがあったのか。ところで、その電話の男は今朝の面会時間に現われたのかな?」
「いや、少なくとも午前中の面会時間にはハンス宛の面会申込みは一つもなかったそうだ。恐らく、彼がすでに移送されてしまったことを東側の連中は知っているんだ」
「恐らく、ね。ところで私の方のおかしな話も、今の話と無関係ではなさそうに思えてきたのでちょっと聞いてくれないか。
さっき君が電話を掛けてきたとき、たった今までフランクフルトと話をしていたところだ、といったね。先刻のフランクフルトの話によると、東側の諜報部が未だに懸命になって捜しているという例の人民軍技術中尉のことなんだが、彼がまだ発見されていないのはいいとして、その姓名がなんとまたハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアというんだそうだ。こんな妙な話を君は信じられるかい? 私は『リーク汚染チェック』をやるべきだとフランクフルトにいってやったんだ」
クルトは表情を殺した目付きで一瞬の間レスの笑っている眼を覗き込んだ。彼がこんな顔付きをするのは驚いている証拠だが、レスが期待していたように、この話を頭から笑い飛ばすようなことはしなかった。期待外れを感じたレスは自身の推理を続けて述べた。
「ハンスの名前を伏せておくために、君が初期の段階から手を打っていたのは知っているが、きっと、どこかの段階で洩れてしまったんだ。ハンスと一緒に森に出掛けた十三人の仲間もいたことだしね。
いいかい、爆発では多数の死傷者が出た。そのうえ重要人物が行方不明になり死体も見付からない。ところが、爆発現場で負傷し病院に運び込まれた青年が一人いた、という情報を東側は掴んだ。実はそれはハンスなんだが、このハンスと自分たちの技術中尉とを取り違えるような情報混乱が東側の連中の中に発生して、こちら側にいる彼らのエージェントが一斉に、病院に収容された青年、つまりハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアを追いはじめた、とこういう風に私は事態を読むね。
したがって、昨夜病院に電話で問い合わせてきたのは、君の推測どおり東側のエージェントだとは私も思うが、彼らの目的は君が考えているのとは違うと思うな」
クルトはレスの話を終りまで黙って聞いていた。そしてレスが話し終っても口を開かずに新しい煙草を抜き出して火をつけ、ゆったりと吸い込みさらにゆったりと唇の間から煙を送り出していた。そうしながら坐ったままで窓の向うに見える煉瓦建てのベルリナー・トール駅の方に眼を泳がせて何かを考えている風だった。
「……東側が今ハンスとコンタクトしようと工作しているのは、爆発事故の責任を彼に押し付けようとするためではなく、行方不明になったという味方の中尉とあのハンスを取り違えているためだ、とこう君は推測するんだね?」
「まあそうだ。そう考えるのがもっとも自然だし無理がないんじゃないかな」
「なるほどね。情報系路に汚染が起って二人の男の名前が|摩《す》り替わる、といったようなことは珍しくない。しかし、どういうわけでそんなに早くハンスの名前が東側の系路に流れ込んだのかな? 爆発が起ってから一時間が経つか経たないうちにだよ」
「仲間が十三人もいたんだから、誰かが喋ったんじゃないのかな」
「いや。それは有り得ない。爆発発生から一時間程度しか経っていない時点では、我われにしろ国境警備隊にしろ、それからラーツェブルクから駆け付けた警察にしろ、彼らが皆ハンブルク大学の学生だと知っていただけで、十四人のうちただの一人の名前すら確認していなかったんだ。それに、ハンスは現場から直接メレンの病院に運ばれ、残りの十三人はずっと国境警備隊或いは警察の拘束下にあり、部外者と接触する機会はなかったはずだ」
「記者連中は?」
「我われ基本法擁護庁の者が現場に到着したときは爆発発生から一時間十分ばかり経っていたが、その時点ではまだ新聞もTVもラジオも現場に来ていなかった。
ま、この疑問は後で解明するとして、常識的に考えれば、君の推測の方が受け入れられやすいな。君のその推測が当っているとしてだが、ハンスをメレンの病院から連れ出したのが益ますもって正解だったことになる。なぜなら、東側諜報部が総力を挙げてまでその生死を追及しているほどの重要人物が、今こっちの手中にあるのだと仮定すれば、東側が選べる道は二つしかない。我われがその人物の口から何かを引き出す前に、その人物を取り戻すか抹殺するかだ。だが、当人は肢に負傷しているために敏速な行動を期待することができない。つまり我われの眼を掠めて連れ去るのは至難の業ということになる。とすると、抹殺するしか道は残されていないわけだ」
「まさにそのとおりだな。東側の中尉の年齢は二十四歳だという話だし、ハンスは二十三歳と何カ月かだ。こっち側にいる東側のエージェントは中尉の素顔をまず知らないだろう。するとハンスを見ても別人とは判らないはずだ」
「オーケイ、レス。東側のエージェントの動きに対する見方についてどっちが正しいかは、私としては昨夜の記録に照してもう少し検討してみたいので、後廻しにしないか。
さてと、爆発事故が発生してからすでに十五時間が経過したんだが東側は沈黙を守り続けている。こんなことは今までには一度もなかったことだ。境界線に絡んだ問題については神経過敏症のいつもの東の連中らしくないので却って気味が悪いんだ。君はこの点をどう思う?」
「やっぱりそうか。まだ東側から何の抗議も届いていないのか? これでやっと私の頭の中でもやもやしていたものが晴れたようだ。テープを聴いてみて、どこというわけではないが何となく釈然としない何かを感じていたんだが、たった今それがはっきりしたよ」
「どういう風にはっきりしたんだ?」
「いいかい。ハンスの車のヘッドライトが狙撃されたのは境界地帯内とはいえ、こっちの領域だ。事がそれだけで済んでいたら逆に君の方から東側に抗議文を送ることになっただろうにね。それはまた、やっとのことで平穏な外交関係が維持されているというのに、それに水を注すことになりかねない行為だよね。ところが一方、次にはまた逆に、こっちの青年が監視塔に対して銃弾を撃ち込んでいるにもかかわらず彼らはすぐには応射してこなかった。西側から火器攻撃されれば義務として彼らは銃を執るべきなのに、またその青年を射殺したところで堂々と正当性を主張できる状況下にありながらだ。
つまり、昨夜の彼らの姿勢は攻守ともに過剰反応というべきで一貫性がなかった。その上君の話だと、未だに彼らは何らの抗議もしてきていないそうだ。これらの現象を綜合すると、こういう推測なら彼らの一連の姿勢に筋が通るな。
いいかい。あの時彼らはあの境界線附近で秘かに何かをやっていたんだ。我われには絶対に知られたくない何か重大なことをだ。したがってハンスたちにそれを見られるのを極度に嫌って追い払うためか近づけないためか自己の領域外だというのに敢えて発砲さえしてきた。しかし、そのあと今度はハンスが銃撃を始めても彼らはひたすら身を交すのみという姿勢を取ったのは、事が大きくなった場合、あの時あの場所に我われの注意が集中するだろうことを極度に恐れたからなのだ。未だに抗議の申入れがないのも、事を荒立てて爆発が起った現場で彼らが何をやっていたのかということをほじくり返されたくないからに違いないな。したがって、クルト、彼らは昨夜あの場所で何か重大なことを秘かにやっていたんだと私は確信するね」
「レス。君の推理はなかなかいいな。では彼らが秘かにやっていたのは何だったと思う?」
「たとえば、新たに開発された電子仕掛の夜間監視装置の実験をやっていた、などというのはどうかな」
例の中尉は電子工学の専門家だということだし、ケイリーが電子兵器の実験でもやっていたのかな、と昨夜呟いていたのをふと頭に思い浮べたレスは深くも考えずに答えた。
「レス。あのテープは聴いたんだろう? 推理のための鍵の一つはあの中にあったはずだ。気付かなかったのか?」
クルトは手中にレスのより数段いいカードを持っているらしく自信あり気に先を続けた。
「ハンスの膝の下に喰い込んでいたのは銃弾ではなかった、とあのテープの中で私が喋っていただろう? あれは爆発物その物の破片だったんだ。厚さは八ミリメートルばかりで幅は一センチメートル長さが二センチメートルくらいの、凹条痕に沿って割れているほぼ四角な形のその金属片を剔出手術を担当した医者に見せられたとき、私の頭に一瞬にしてその爆発物の正体がひらめいた……」
「ああ判った。地雷だな?」
「そのとおりだ。確認するためにすぐにそれをわが方の防衛研究所に送って解明させたんだ。果してそれは地雷の破片で、目下東側ご自慢のTs6型の破片だった」
「例の皿型地雷というやつだな」
鍛鉄製の上面のカバーがスープ皿を伏せたように反り返っていて、その表面には方眼紙の筋目のような凹条痕を縦横に入れてあるため、爆発の際、細かく割れた長方形の破片が上方向より水平方向により多く広範囲に飛散する。それは地上兵員の殺傷を目的とした、いわゆる対歩兵地雷だ。
「そう。その皿型地雷が幾つか同時に爆発したらしい。君が昨夜話していたように、監視塔の附近で十名以上の死者が出た、というのもこれで頷けるし、この死亡者の数からしても、あの時あの場所で彼らが何か特殊な作業をしていたと推定できるんだ。というのは、彼らの通常の勤務態様は二名ずつの二時間交替で、後方の屯所から昼夜の別なく二時間毎に実に正確に交替要員が車両でやってくるんだ。したがって交替時でも普通なら合計四名しかいないはずなんだ」
「諜報部が血眼で探すほどの重要人物が、真夜中にそこに居合わせたことを見ても、何か特別なことをしていたんだろうな」
「レス。昨夜からのいきさつを振り返ってみて、もし爆発事故にハンスの一件が絡んでいなかったとしたら、私は、爆心点が境界線の向う側でもあり、しかもそれが彼らの過失によるものだ、と断定されたのだから、東側が行なう修復作業を監視するように部下に命じる程度で、今頃は私の念頭には爆発の二文字すら残っていなかったと思う。
ところがだ。爆発から僅か一時間後にはハンスが収容された病院におかしな電話が掛かってきたし、ハンスの肢から剔出された金属片は地雷の破片だと今朝方確認された。その上、爆発発生前後の東側の姿勢には君も指摘するように何となくいつもと違う不自然さが感じられる。
というわけで、昨夜あんな辺鄙な所で彼らは何をしていたのだろうか? と物凄く興味をそそられてね。手持のデータを分析して徹底的に追及してやろうと決心したんだ。そしてある程度の答を出したんだが、それについて君の意見を聞かせてもらいたくてね。こうして君に来てもらったわけなんだ」
「そんなことだろうとは思った。しかし、手持のデータといったって大したものは無いじゃないか?」
「いや。君にいま見せるが、一件の解明に大いに役立つ有力なデータがあるんだ。このデータによって彼らが何をしていたのか大体判ったんだが、彼らが何を企んでいるのかまでは判らない。そこで君の知恵を借りたいと思ったし、君の方で一つ二つ調べてもらいたいこともあるんだ」
クルトはアームチェアから立ってゆき、机上の書類立てから青色の表紙の付いたファイルを一冊選び取って戻ってきた。
「これは門外不出という決りの資料でね。たとえ同盟国の総領事館へでも持ち出してゆくことはできないんだ。だから悪いけれど君に来てもらったんだ」
表紙を開くとB4判サイズに幾重にも折り畳まれているグラフ用紙が綴じてあった。クルトがそれを拡げたときほとんど応接セットのテーブル一杯の長さになった。その用紙には、ちょうど気圧記録計のデータのカーブのように変化している波線と実線がそれぞれ黒と赤のインクで画き出されていた。
「さてとレス。君は我われが監視塔のようなものを持たない代りに、東側に対する境界地帯での第一線警戒を音響監視装置によってやっていることを知っているね。その音響監視装置の集音マイクが設置されている場所に地表波震動計というものの感知器も一緒に設置されているんだ。地表波震動計というのは、いわゆる地震計のような機械だが、厚さ約八十センチメートルの表土を伝わってくる震動波を特に感知するように造られている非常に敏感な装置なんだ。感度を最高に上げておくと十メートル離れた所を並足で通ってゆく体重五十キログラム程度の鹿の歩調まで拾ってしまうので、かなり性能を落して使っているんだ。
これらが一組になっている端末装置の数個ずつを担当する有人監視装置が後方にあって四六時中記録を残しながら異常の有無を監視しているわけだが……」
クルトはグラフ用紙の上の波線と実線を同時に指でなぞった。
「……この上半分の黒い記録線は地表波震動計から送られてきた信号で、下半分の赤い記録線は集音マイクから送られてきた信号なんだ。用紙に予め印刷してあるこの一ミリメートル幅の縦の間隔は一秒間を表わしている……」
セピヤ色の縦線が十本目毎にやや太目なのは十秒毎の区切りで、太目の線が六本目毎にさらに太くなっているのは一分間の区切りだ。
「……さて、このグラフは昨夜の十時六分に爆発があった第六監視塔にもっとも近い所の端末装置からのもので、昨夜の九時四十六分〇秒から十時十五分五十九秒までの三十分間のものなんだ」
真中よりやや右の方、爆発が起った二十二時六分八秒から十四秒まで音響記録は最高値のところで水平になっており、その後十秒間ばかりやや波形に上下しつつ高い数値を保った後、急速に下降している。震動記録の方は二十二時六分十秒の辺りから急激に立ち上がり、十七秒から急激に下降している。
「このとおり音と震動の伝達時間に約二秒のずれがあるね。これをコンピューターに掛けると監視装置の端末器から音源、例えば爆心点までの距離を算出できるんだ。また隣接している端末器からのデータを併用すれば距離だけでなく位置も正確に特定することができる。昨夜の場合は目視可能だったからその必要はなかったがね」
「これはハンスが撃った二発目と、それが監視塔のどこかに命中した時のものだな」
二十二時四分四十五秒の位置で急に鋭く立ち上がっている線と、二秒ばかり後で高くは上がっているがやや緩やかなカーブを画いた後波状になりながら減衰していっている線を指してレスが尋ねた。
「そう。波形は音が開豁地の両側の森林に挾まれたために発生した反響なんだ。見たまえ、このとおり彼の発射音から爆発までは約一分十秒の開きがあるだろう。
さてレス。このグラフを読むとほかにも色いろと判ることがある。この辺りで君は何か変っている点に気付かないか?」
爆発直後は、音の方には余り変化がないのに、震動の記録はかなりひどく上下している。たぶんハンスが救助され、彼らの車が後退するときのものだ。爆発の直前では逆に震動記録より音の記録の方が低いところで激しい変化を見せている。これは恐らく銃声に驚き|塒《ねぐら》から飛び立った多数の鳥の騒ぎが記録されているのだ。レスが無言でいるとクルトが口を開いた。
「グラフの読み方に馴れていないので気付かないのは無理もないが、震動波の方、ここの僅かな部分、つまり爆発が起った時点の八、九秒前をよく見たまえ」
クルトの指は、僅かに八、九ミリメートルの幅の中に表われている力強い感じの実線の動きを指し示した。
「大きな質量によって引き起された震動が突然ここにも表われて、爆発を示すカーブの起点に向って直線的に高まっていっている。二十一時五十七分頃にハンスたちの五台の車が境界地帯に入ってきた時の様子を把えている記録と比較してみたまえ。この部分だ。どうだい、同じようなカーブが出ているね。そしてその下には車の音響を示すカーブが同時に対応して出ているが、爆発の八、九秒前に表われはじめたこの震動記録にはそれに対応する音響記録が全く出ていない。
この部分を専門家がコンピューターを使って解析した結果では、三トン以上の重量物が監視塔の奥の、北東方向の森の中から第六監視塔方向に向って、音もなく、いいかい、エンジンの音もなくだ、時速五十キロメートルほどの速度でほとんど一直線に接近してきたことになるのだそうだ。そしてこの物体が監視塔の位置に達した時に爆発が起った。ハンスの銃撃と爆発との間に直接的な関係はない、と私が考えている理由の一つはこれなんだ」
「三トン以上の重量物というと満載の中型トラックくらいの重さだな」
「分析結果について、さらに詳しく話すと、この震動波の形状は、戦車または装甲偵察車、つまりキャタピラー付きの車両のものと酷似しているということだ。しかし、この推定は、樹木が密生しているあの森の中を、エンジン音も立てずに時速約五十キロメートルで直進してきた、という推定とはまったく相容れないので引き続き検討してもらっているんだ」
「動力源が蓄電池だったらエンジンの音はしないんじゃないかな」
「レス。それは頂けないな。戦車が行動するときに発する音量の四十パーセントは金属同士が軋み合うキャタピラーが出すもので、たとえエンジンの音だけを消すことができても駄目だね。それだけではないよ。下生えの木がキャタピラーによって踏みしだかれる音の周波数は想像以上に高いので集音マイクに遠距離からでも把えられやすいんだ。だから、あの森の中を戦車が直進してきたとすれば、かなりの樹木がへし折られているはずだが、このとおり、そんな音は一つとして記録されていない。
ところで、ほかに何か変ったところに気付かないか?」
レスは、ハンスたちが開豁地に入ってくる前、つまり二十一時五十七分以前の部分で、ところどころ音のカーブが僅かだが立ち上がっているのは何故だろうか、と考えた。対応する位置の震動波はまったく零レベルのままなのだ。
「これは何の音だろう? 不規則な間隔だが質量が小さい割に高い音が何回か把えられているな。昨夜は確かに風もそれほどなかったしな。静まり返っている暗い森の中で時どき同じレベルの音がしていたことになる。一分間に一度くらいの頻度だが間隔は不規則だ」
「ようやくグラフを読むのに馴れてきたな。レス。君に話そうとしていたのは正にその点なんだよ。ご覧のとおり、そこに表われているようなカーブは爆発の後には全然ないだろう? では、どこが最後かと辿ってゆくと、このとおりハンスたちが境界地帯に入ってきた直後だ。ハンスたちの出現とこの音の消滅が連動でもしているように余りにも対応している点から、音源が自然現象ではなく人為的なもののように私には感じられてね、調べてみる気になったんだよ。なんだったと思う?」
「判らんよ。判るのは、君のことだからこのグラフの基礎データになっている生の録音を聴いてみたことだろう、ということだ。違うかい?」
「実はそうなんだ。ここにあるグラフの基礎データより前の時間のも取り寄せたんだ。そして分析検討を行なった結果得られた結論としては、東側の連中は日没になるのを待って境界線のそばの地面を秘かに掘り起していたらしい、ということだ。できる限り隠密裡に我われの眼を憚りつつまた音を立てないように気を配って作業をしていたようだが、スコップの先が小石などに当ってしまったときの音がこの山形の実線なんだ。東側は約一年前に埋設してあった対戦車地雷を掘り起して現在のTs6型に敷設し替えたことがあったね。そのときにも彼らは秘かに交換作業をやっていたんだが、やはり同じような音が我われの監視装置に録音されていたのを思い出したんだ。それとこの山形とを比較対照してみた結果、これは地面を掘っている音だという確信に達したんだよ」
「なるほどね。そのカードが一枚増えただけでも推理の勝負はかなり有利になってきたな。境界線のそばを掘っていたとなれば、恐らく爆発した皿型地雷と関係があるな。トンネルを掘っているのだとしたら、わざわざ境界線の傍から始めるような馬鹿なことはしないだろうからな」
「もちろんそうさ。録音グラフを分析した結果でも、音は地表に近いほとんど同一箇所から出ているんだそうだ。トンネルを掘っているのだとしたら多量の土が排出されるだろうし、それを運び去るには車両も必要だろう。しかし、そのような動きはここのところまったく観測されていない」
「爆発したのが皿型地雷だったという証拠もあるし、彼らが掘り起していたのは地雷だった、と推測していいだろうな。しかし何故彼らはまた皿型地雷を掘り出すようなことをしていたんだろう? 境界線全線に五年間にわたって敷設しておいた対戦車地雷を皿型地雷に置き替えるのに彼らは七カ月もかかってやっと昨年の暮に完了したばかりだというのにね」
「そうなんだ。バルト海に始まってチェコスロバキア国境までの一千三百三十八キロメートルにわたる全境界線にようやく敷設し終ったTs6型を、今また僅か半年後に彼らは何故掘り返さねばならなくなったのかを、お蔭で我われは推測せざるを得ない羽目に陥ったというわけだ。まあ、常識でもって推測し得るその理由は二つだけだ。あの地雷の機能に決定的な欠陥があることが発見されたため交換せざるを得なくなった、というのが一つ。欠陥があったとすれば多分それはヒューズだろうがね。彼らの製品に不発弾が多いというのは粉れもない事実だからね。したがってこの可能性は高いな。もう一つ考えられる理由は、Ts6型より遙かに高性能なものが開発され、それと交換するため、ということ。そこで、新規開発の高性能地雷が近頃量産化されたという事実があるか否か、この点を君の方で調べてもらいたいんだ」
「東側が新型地雷を開発したという話はここのところ聞いていないな。とにかく調べてみよう。
ところで、東側の連中はいつから地面を掘りはじめていたのかな?」
「日没後。暗くなるとすぐにだ。一時的にしろ地雷が撤去されて防禦力限界が下がっているのを我われに知られたくなかったんだな」
「いや。いつから、というのは幾日くらい前から、という意味だ」
「ああそうか。それも抜かりなく調べてある。ちょうど一週間前から例の山形は日没後になるとグラフに表われている」
東側が皿型地雷を掘り起す必要性を認める理由は二つ考えられる、とクルトはいったが、レスの頭脳をもう一つの「東側がその必要性を認める理由」が|過《よぎ》った。「そんな馬鹿な話が」と、持前の彼の常識がそれを打ち消した。「しかし、確認しておくに越したことはないじゃないか」と彼の職業意識が反論した。
「クルト。君の話だと監視装置のデータをコンピューターに掛ければ音源を特定できるということだったね。同種の音が境界線のほかの場所でも録音されているか検べてくれないか」
「しかし、レス。一千三百三十八キロメートル全線をか? 長時間かかると思うがね」
クルトは余り乗り気がしない態度ながらもすぐに立ってゆき、机上の電話で誰かに指示を与えた。そして戻ってくると、
「調査結果が出揃うのは明朝だそうだ。思ったより早くできるんだな。それを見てみればはっきりすることだが、連中は恐らく境界線全域で同じ作業をしていたと思うな。新型が誕生したという話が君の耳にも届いていないところを見ると、それとの交換ではなさそうだし、どこの国にもよくあることだが、おえら方の考えが急に変って、対歩兵地雷が戦術的にまずいことになり再び対戦車地雷を埋設し直しているのかも知れんな」
と独り言のように呟いた。彼が「おえら方の考えが急に変って……戦術的に……」というのを耳にした途端、レスが先刻自身の常識で打ち消したはずの、地雷を掘り起すことの必要性を「東側が認めるもう一つの理由」が脳裡に再び頭をもたげた。仮に、東側がしている作業が、境界線沿いの地雷を撤去するだけで、別のものを再び埋設しないということだとしたらだが、そういう必要性が生じるのは、彼ら自身がかつての自らの地雷原の上を通過して境界線を突破しようとする時だ。すなわち、それは、ワルシャワ条約軍が西側侵攻を開始する時なのだ。
しかし、またもやレスの常識がこの考えを荒唐無稽だとして押さえつけた。レスが今持ち合わせている極めて確度の高い情報によれば、東側七カ国が備蓄している軍用燃料の総量では、彼らの普通地上兵力九十五万五千名の二十パーセントと、戦車新旧併せて二万七千五百両の十五パーセントが、最大に見ても三百時間しか行動できないのだ。燃料の現状以上の枯渇を恐れて、ワルシャワ条約統一機構軍の合同演習は一昨年も昨年も計画されはしたものの図上演習のみで終った。そのために、彼らの連繋行動の練度は年毎に低下しており、現時点では明らかにNATO地上軍の練度を下廻っている。このほかにも、極めて近い将来に限定すればだが、東西勢力の中間地帯であるアフガニスタン侵入程度のことは別にして、彼らは決してNATO諸国と事を構えることはできない、とする材料がレスの頭の中にごろごろしていた。例えば、ポーランドとチェコスロバキアは、必要とする燃料と電力の殆どすべての供給をソ連に頼っているために、ソ連が思うがままに操作するそれらの価格を認めざるを得ない。その高価格が国家経済改善の足枷になっているこの二国は、機会さえあればこのような東欧経済圏のメカニズムから脱出して、経済関係でだけでも西側に接近しようと常づね考えている。一九七七年の暮に、ポーランド系米国人であるブレジンスキー特別補佐官の願いを容れて米国大統領カーターがポーランドの首都ワルシャワへの招請に応じたときも、国際世論の手前、も早二度とチェコスロバキア武力制圧のパターンを踏めなかったソ連は、心中苦々しく思いつつも見過すしかなかった。ところでこの二国の人口はソ連を除く条約加盟国の中で四十六パーセントを占めており、条約軍に対する兵員負担率が全体の約半分になっている。というわけで、ポーランドとチェコスロバキアにおいて戦意に欠けるものがあるときに、統一軍が侵攻してくることはまずあり得ない。
こんなところが情報将校としてのレスの常識的思考だった。したがって、脳裡をふと過った程度の危惧より彼自身の常識の方を今は尊重することにして、レスは話の方向を転換した。
「君の国の境界地帯監視装置もなかなか大したものなんだな。お蔭で、東側の連中が昨夜ラーツェブルクに近い境界線でTs6型地雷を撤去していたのが判った。ハンスたちを早々に追い払おうとしたのも、銃撃されたにもかかわらずじっと我慢していたのも、我われの注意があの地点に集中して、彼が地雷を掘り出していることが露見し、それによって彼らの防衛力が低下しているのを知られたくなかったからだ、と考えれば辻褄が合うな。
しかし、それが判ったために次には何故彼らは皿型地雷を掘り出していたのか、という新しい疑問が生まれてきた。それに、例の技術中尉は本当に存在するのか? 存在するとしても彼は何故にあの時、あの場所にいたのか、というような新しい疑問がいくつか生まれてきたな」
「レス。この一件は掘り下げてゆけばゆくほど順繰りに奇妙なことが出てくると思わないか? 時速五十キロメートルもの高速であの樹木が密生している森林の中を直進してきた、という例の物体。三トンもありながら音も立てずに監視塔目掛けて真直ぐにやってきたその物体は何であったのか? その物体が監視塔の位置に到達したとき爆発が起った。それは何故か? これらの疑問の他にも無視し得ない奇妙な話が沢山ある。君の方の情報だと、東側の諜報部の連中が爆発が起ったあとベルリンからこっちへ向った、という。何故か? 君の話のように、行方不明になった中尉を探すためなのか? それが事実なら、探す理由はどんなことか? それに、君は余り問題視していないようだが、ハンスとその中尉がまったく同姓同名だという話、その真偽もまだ解明されていない、ということを忘れてもらっては困るな」
中尉の名前が下肢を負傷した学生と同じハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだと伝えられたことについて、レスが頭から笑い飛ばしている点にクルトはかなり不満そうだった。しかし、長い境界線上の点ともいうべき或る場所のちょうど向う側とこっち側に、しかも同時刻に偶然一人ずつ同年輩の青年がいて、この二人の名前が姓も名もミドルネームも同じだったなどという話は、まったく馬鹿馬鹿しくて真面目に考える気がしない、とレスは思った。レス自身はどちらかといえば理屈より常識を重んじる方で、例の女王陛下の秘密諜報部員たる007氏やマイケル・コナーズ演ずるところの私立探偵氏のように、頭脳の切れ味の良さよりも肉体上の苦痛を少しも厭わない行動力にすこぶる共感を持つ方だし、フランクフルトのケイリーは、机に向って坐ったままで、持ち前の緻密な頭脳の入口にある「常識の篩」を使って、流れ込んでくる情報を整理分類し解析する。篩の目を通らない情報にぶつかると「どうも、ひっかかるなあ」を繰り返しつつ試行錯誤の手法で次第に真実に迫ってゆくやり方だ。クルトはといえば、いかに非現実的に見える情報でもまずは真実として受け容れて他の情報と噛み合うか否かを幾通りも試す。この先がレスと違うところだが、試してみても噛み合わないからといってまったく否定せずにしばらく脇に置いておくのだ。ジグソーパズルに取り組むような彼のこの手法によると、思わぬ時に思わぬ形でそれが全貌の中にぴったりと嵌り込む場面にぶつかることが時として起るからだ。情報担当者には各々独自のやり方があるのを知っているので、レスはこの時口元で笑っただけで同じ話題には戻らなかった。
たまたま彼らの話が一段落したのを見計らったかのように、クルトの机の上にある電話機が鳴りだした。クルトはアームチェアから身軽に立ってゆき受話器を取った。
「ああそう。お通ししてくれないか。ついでで悪いが、こっちも一区切りついたので、熱いコーヒーを頼む」
彼は受話器を戻しながらレスの方を振り向くと、
「ヒルシュマイア教授が病院から戻ったよ」
と告げた。
間もなくドアが開き、先刻出ていったときに比べて遙かに明るい表情に変ったヒルシュマイアが入ってきた。彼は生真面目な面持ちでクルトに次いでレスにという順に歩み寄って、また握手を求めた。庭先で垣根越しに握手し合った相手と、半時間後に玄関先で顔を合わせるとまた握手するのがドイツ人だ。こういう場面にレス自身がぶつかると、彼は未だに面映ゆい気持を捨て切れない。握手のあと立ったままでいるヒルシュマイアを、テーブルの上に拡げられていた監視装置のデータを脇に手早く片付けたクルトがソファに招いた。
「いかがでした? ハンスの様子は」
「大変元気なようでした。心からの感謝の言葉を、息子と私の双方から申しあげたい」
「面会票に書き込むハンスの氏名を間違えませんでしたでしょうね」
「いやいや、ご心配なく。患者名欄にはたしかにハンス・クリスチァンゼンと記入しました。実を申せば、さきほどあなたから息子の新しい名前を伺ったとき、なかなか映りのいい姓名だと思ったのです」
とヒルシュマイアは眼鏡の奥の眼を細めて答えた。
クルトの秘書が瀬戸物のコーヒーポットとカップ一式を銀製の盆に載せて入ってきて、三人の前に手馴れた仕草でセットし、また足早に退室した。レスはいつものようにスプーン一杯だけの砂糖を入れて掻き混ぜながら、取り立ててまともな返事を期待したわけではなく、彼に対してなんとなく緊張を解かないでいるヒルシュマイアの態度を和らげるつもりで語りかけた。
「ヒルシュマイア教授。あなたは『ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア』という、ご子息と同じ名前を持った人物を、ほかにはご存知ないでしょうなあ」
レスがドイツ語を喋ったのを耳にしたヒルシュマイアは、ようやく幾らか親近感が生まれたらしく、レスに対して初めて屈託のない笑顔を向けると、
「いや。一人だけ知っています」
と事もなげにいい放った。
クルトとレスは反射的に顔を見合わせた。クルトがアームチェアから上体を起し、急き込んで尋ねた。
「もう一人のハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアをご存知だと? いまその人物はどこにいます?」
「恐らく、今もなお東側のどこかだと思いますよ。まだ生きていれば、の話ですが」
ヒルシュマイアは深ぶかとソファに身を沈めたまま、遠くを見ているような穏やかな瞳で、思わず身を乗り出した二人を不思議そうに眺めながら、砂糖を入れないコーヒーを口元に運んでいった。が、唇の直前でふとカップを留めた。
「お見受けするところ、お二人とも何かを誤解しておられるようだ。私の知っているもう一人のハンス・ヨアヒムは皆さんのお仕事に関係があるはずはありません。それは私の父の名なのですから。ソ連占領下のベルリンで、自分の信念を決して曲げようとしなかった父は、占領軍総司令部政治局に或る日連行されていったまま再び帰ってきませんでした。三十数年も前のことです。息子が生まれた時、私は|躊躇《ためら》わずにその父の名を息子に与えたのです」
[#改ページ]
朝露が彼の唇を濡らしたからというよりも、彼自身の生命力の昂まりがそうさせたのだが、熟睡のあと目覚めるように、中尉は気を失ってから数時間の後に自然に意識を取り戻した。余り高くない頭上でヘリコプターの爆音が聞こえていた。彼は本能的に身を固くし、動かずにいた。周囲になんとも形容のできぬ異臭が強く漂っていた。けものの臭いでもあり血の臭いでもあり油脂が焦げたような臭いでもあった。
われ知らず息を深く吸い込んだとき、左の肩甲骨から胸骨にかけて激痛が走った。激痛によって頭脳がなおもはっきりと目覚めたほど、その痛みには刺すような激しさがあった。少しずつ姿勢を変えてゆき左肩を地面から離すと幾らか痛みが和らいだ。
周りは石南花の繁みだった。彼は自分が何故今石南花の繁みの中に横たわっているのかをしきりに訝っていた。随分長時間前に、というのは暗い夜に、監視塔の上から赤外線双眼鏡を使って西側の地形を眺めていた記憶があった。だが、今、頭上には青い空が繁みの間から垣間見える。記憶の糸を手繰るために、腕時計をつけている左の腕を眼の前に持ってきて時刻を見ようとした彼は慄然とした。手の甲といわず服の袖といわず、時計の文字盤のガラスにすら、赤黒く乾きかかった血糊が厚くこびり付いているのだ。反射的に体の他の部分をまさぐると、頭部から両足の先まで血に染まっているらしい。ヘリの爆音はやや離れたところへ移っていたが、体を動かすのをできるだけ避けて神経だけを使い、全身の各部を点検した。不思議なことに、やはり呼吸をするときに感じる痛みの他はどこにも外傷や骨折はないらしかった。もう一度手の甲に付着している乾きかかった血糊を眺めたとき、彼は血の中に多数の獣毛らしいものが混っているのに気付いた。その途端、突如として昨夜の記憶がはっきりと蘇った。……そうだ。無数の鳥が探照灯目がけて突進してきていた。監視塔の外壁の鉄板に鳥が衝突する音はすさまじく、室内の空気も共鳴を起してぶんぶんと鳴り、床の埃が空中に舞い上がっていた。耳を押さえていた彼が傍に呆然として立っているクラウゼン二等兵に対し、探照灯を消せ、と命じようとした、その時だった。森の奥から監視塔の方へ、何かが高速で接近してくるのを、後面にある引違い窓を通して彼は眼のはしに把えた。探照灯の僅かな輻射光の中で彼の眼が一瞬把えたのは、金網の向う側の草原を照し出している光芒目がけて、大地を蹴り立てて真直ぐに疾駆してくるオオシカの一群だった。木の枝のような角を振り立てている三百キログラムくらいはありそうな雄を先頭に、十数頭から成る集団が、暗黒の中でただ一つ輝く光の帯を目指してついそこまで殺到してきていたのだ。
「探照灯を消せ!」
と彼が絶叫し、クラウゼンが電源コードを引き抜いた。が、すでに遅かった。突如暗転した森の中でオオシカの群はなおも直進し金網に衝突して狂乱した。そしてたぶん、逃げ惑う爆発物処理隊員を踏み躙り、蹄の一つがまず信管が付いたままの地雷を踏んだのに違いない。最初の爆発が起った。その破片が不運にも既に掘り出されて監視塔のコンクリート製の台座の上に並べられてあった多数の地雷に当り一挙に誘爆が起ったのだ。その後、監視塔が倒れ、どういうわけか自分の体が監視室の外に投げ出され、地面に向って落ちていったところまでを、彼は今やはっきりと思いだした。彼はもう一度獣毛が混っている手の甲の血を眺めた。地雷が爆発したとき微塵になって吹き飛ばされたオオシカの群の血肉が、赤い雨のように広範囲に降り注いだのに違いない。彼の体はその血肉に濡れている小丘の斜面を滑り落ちたのだ。静かに腕を伸ばして石南花の外側の葉を一枚つまみ取って調べてみた。思ったとおり、獣毛と血糊が、短い毛が生えているその葉の表面にも付着していた。
こうして自身の記憶の恢復に自信を得た彼は、腕時計のガラスにこびり付き乾きかかっている血糊を擦り落して時刻を見た。陽の光の新鮮さからして今が午前中であることは確かだった。時計の針は四時八分を示していた。爆発が起きたのは昨夜の十時頃だったはずだから約六時間も意識を失っていたことになる。
ヘリコプターの爆音がさらに遠退いている隙に徐々に頸をもたげて、一メートルほどの背丈で群生している石南花の繁みから葉蔭を透かして外界を覗いてみた。繁みのすぐ向うに、意識が戻ったときからせせらぎが聞こえている小川があった。小川の向う側は草原だった。草原の果てに森があった。六月の朝日がすでに射し込んでいるので森は金色に輝き浅く見えるが、昨夜、塔の上の監視室から眺望したときに黒ぐろとして眼に映ったあの西側の森に違いない。その森の中には、西側の国境警備隊のものらしい黒塗りの車両が十数両、半分下草に埋まって停っており、多数の暗緑色の制服の男たちが木立の間に見え隠れしながら動き廻っていた。
かくして彼は、自身が横たわっている場所の大よその位置を掴んだが、意識を恢復したばかりの念頭にそれまで浮ばなかった或ることに思考が及んだ瞬間、身震いを覚え、胸部の痛みも忘れて思わず息を深く吸い込んだ。彼が横たわっている石南花の繁みと西側の国境警備隊が配置に付いているあの森との間に、境界線の金網がない! 彼は今、西側の領域の中に横たわっているのだ。
彼は昨夜の記憶を細かく辿ってみた。まず、自分の方に向って床を滑ってくるストーブや、金属製の机などを避けて屋根の上の探照灯を操作するときに使うタラップに縋り付いていた。そのうちに、なんの予告もなく監視室が分解したかと感じるような大きなショックが襲った途端、自分の体がどうしたわけか突如宙に浮き、監視室の外に飛び出し、地面に向って落ちていった。地面に激しく叩きつけられたような気もするが、この辺から後のことはたしかではない。いずれにせよ、その時、何かの弾みで西側の領域内に放り出されたのは厳然たる事実なのだ。そして今もなお幸いにも西側に気付かれずにこうして石南花の繁みの中に横たわっている。とすると、なんとしてでも西側に発見されぬようにして一刻も早く味方の領域に戻らねばならない……。
少しずつ頸を廻して監視塔の側を覗き見ようとしたとき、またもやヘリコプターの爆音が戻ってきた。耳馴れた味方のものらしかったし、音は東側から聞こえてくるが、用心して通過するのを待った。音が遠ざかったあと小丘の方を覗き見て彼は再び息をのんだ。小丘の上に立っていたはずの塔は昔から無かったように残骸すらなかった。小丘の斜面にはところどころ黒く焦げた跡があり、油で汚れたボロ切れや金属の切れ端に混ってオオシカの肢や肉片が点々と転がっていた。金網はといえば、小丘の上十数メートルの幅が新品を誇示しているかの如く朝日を受けてキラキラと輝き、形は昨夜のままに立っていた。
耳を澄ますと、かなりの数の部隊が動き廻っているような人声と物音が金網の向う側から時どき流れてくるような気がするが、すぐ目の前に小丘が立ちはだかっているので姿はまったく見えないのと、遠くにいても空気をゆるがしているヘリコプターの爆音と近くの小川のせせらぎが邪魔になり、聞こえるのが人声だとは確認できなかった。瞑目した彼は、昨夜のうちに記憶に刻み込んだ地形を想い起し、自身が現在置かれている情況をつぶさに検討してみた。その結果、たとえ金網のすぐ向う側に味方がいたとしても、彼らに救助を求めるのは不可能だとの結論に達した。石南花の繁みから脱け出して小丘を這い登りはじめれば、まず西側の国境警備隊に発見される。彼らは「動くな!」と拡声器で叫んでくるに違いない。その警告を無視してなおも小丘を這い登り、左肩と胸部の激痛をこらえて金網を攀じ登る。あの高さの金網を登り切るには少なく見積っても三十秒はかかる。国境警備隊は彼を捕えようとして車両を飛ばして迫ってくる。彼はなおも金網を攀じ登る。もしそこで西側の国境警備隊が人民軍と同じ行動を取るとすれば、金網にへばり付いている彼を狙撃する……。
ヘリコプターが戻ってきた。彼は姿勢を変えずに頸だけを廻して覗き見た。予想したとおり、カモフKa─25を改装した戦闘ヘリが境界線の金網の内側ぎりぎりの線を守って超低空で往復を繰り返しているのだ。操縦席の隣の男が双眼鏡を使って西側の草原を仔細に眺めては、望遠レンズが付いているカメラで写真を撮っていた。この様子から彼は、特殊任務を帯びた身で行方不明になった彼自身を探しているのに違いない、と確信を持った。いや、恐らくは彼の死を確認しようとしているのだ。
ゆっくりと頭を下ろし、繁みの蔭に身を伸ばした彼は、自身に負わされた二つの相反する任務を反趨してみた。彼が行方不明になったことを知った諜報部と書記長とはまったく違った立場から彼の身に何が起ったかを推断し、今頃はそれぞれ善後策を講じているはずだ。諜報部の方は生きている彼を西側の手に決して委ねたくないはずだ。従って、頭上のヘリは諜報部が早速派遣したものと考えてまず間違いないだろう。もしも今、この石南花の繁みの中で立ち上がり、救助を求めたとすると、ヘリの乗員は「指令どおり」に双眼鏡をライフルに持ち替えて彼の頭部を狙って撃ってくるに違いない。その方が、全身オオシカの血にまみれて重傷を負っているように見えるだろう彼を、西側の国境警備隊の面前で西側の領域から救出するより遙かに容易な事態の解決法だからだ。
昨夜までは、相反する二つの目的を持つ任務を同時に背負った困難な立場にありながら、すべてが計画どおり順調に進行していたものが、あの爆発に遭遇したために、彼は敷かれてあった軌道から外れてしまった。彼は今、東側に戻ることが困難だと悟った途端、自分自身が置かれている現在の窮状にではなく、作戦計画の歯車の一つであったはずの自身の軌道がすっかり狂ってしまったために書記長の計画に|蹉跌《さてつ》が起ることに対して痛恨を感じはじめた。
この作戦をソ連は「オペラシオン・ダモイ」と呼称しているが、ドイツ民主共和国では「オペラチオン・ハイムケーア」つまり「帰郷作戦」と呼んでいた。この「帰郷作戦」の開戦段階で、彼が考案開発した飛行誘導装置を搭載した無人滑空機が多数使用される。開発者の彼は、この滑空機を目標側で待機していて着地させる誘導員の一人に諜報部によって選任され、西側への事前潜入を命じられたのだ。従って、誘導員としてなら多数の中の一人であり、交替者の手当ては今からでも間に合うはずだ。彼が今、計画に蹉跌を来たしたことに痛恨と責任を感じているのは、祖国の元首エーリッヒ・ホーネッカーから与えられた方の使命は、彼をおいて果せる者はいないのだと彼が確信しているからだった。
活路をなんとしても見出そうとして活動する彼の脳裡に、昨夜来の一連のできごとが次つぎに浮び上がってきた。クラウゼン二等兵は銀色に近い金髪を血に染めて床に倒れていた。真横に倒れてゆく監視室の中で必死にタラップに掴まっていた彼自身。迫ってくるオオシカの群。地雷の大爆発。その時あの現場にいた爆発物処理隊員に生き残れた者はいなかったろう。それを考えたとき、左肩と胸の辺りに激痛があるとはいえ、あの状況の中で一人生き残った自身に、彼はいい知れぬ運命の意志を感じはじめた。腕時計は午前五時を示していた。時間的な条件からすれば未だまったく計画の軌道から外れてはいない。計画では、今夜の十時までにあの水管を抜けラーツェブルク湖に出て、西岸のクライネ・ホルシュテンドルフに泳ぎつき、繋留場にあるはずの「HH─一〇五六」なるナンバーのヨットに乗り移る。そのヨットの中に西側製の衣類や靴が用意されているはずだ。それを身に纏って待てば、深夜までに連絡員が現われることになっている。
左肩には鈍痛が疼き深く呼吸をすると胸骨の辺りに激痛が走るが、通常の動作におして我慢できなくはなさそうだった。東側への帰還が困難だと判断して思い迷っていた彼は、ここでふと、西側領域に入り込んでいるこの現状をどうにかして有効に活用できないものか、と考えはじめた。そのためには先ず西側からも味方からも絶対に発見されぬようにしてここから脱出することが先決だ。ヘリは相変らず境界線に沿って往復しているが、根競べに勝つ自信があった。彼を探しているヘリは、やがては諦めて去ってゆくだろう。諦めないにしても、燃料には限界がある。ヘリがいなくなれば、運が良ければだが、西側の国境警備隊も引き揚げるかも知れない。最悪の場合でも、日没まで待ち、暗闇を利用すれば、ここから脱出するのはさほど困難ではないはずだ。彼は気長にヘリが飛び去るのを待つことにし、痛む左肩を上にして、石南花の繁みの中で全身を伸ばした。野生の石南花の開きはじめた小さなピンク色の花弁が、空をバックに透き通って見えた。
七時。すっかり昇った太陽は、すでに朝日とは呼べないような力強い光を、一帯に降り注ぐようになった。頭上を左から右へ通過していったヘリコプターの爆音が、そのまま次第に遠ざかって行き、ついにはまったく聞こえなくなり、再び戻ってこなかった。
七時半。頸をもたげて森の方を窺ったが、国境警備隊の動きには引き揚げそうな様子は見られなかった。
八時少し前。車両のエンジンの音が聞こえてきた。見ると、トラックというより古典的貨物自動車とでも呼ぶべき代物で、木製の車体に木製のスポークの轍をつけた自動車が、古タイヤの車輪が四つ付いているこれまた木製のトレーラーを引っ張って森から出てきた。それはタンドルフ間道を境界線の方に向ってのろのろと進んでおり、中年過ぎに見える農夫が運転していた。例のクラウスという名の農夫が自分の農地に出かけてきたのに相違なかった。
車は境界線の金網の真ん前まで行き、方向を転換して戻ってきて橋の真上で停った。昨夜、塔の上から地形を眺めたときにクラウゼン二等兵が、塔からの直距離は四百三十メートルだ、といっていたあの石造りの橋だ。
東側はもちろん、森の中にいる国境警備隊も、境界地帯に入ってきたクラウスを見ているはずだが、彼の行動に干渉する気配は全く見えなかった。クラウゼンが話していたように、クラウスは東側からも西側からもまったく特別扱いにされているらしかった。
車が橋の上に停り、その橋の下を流れている川はこの石南花の繁みのすぐ向うを流れている小川の続きだと、昨夜望見した地形を思い浮べて確認したとき、彼は即座に決断した。両側から見られないようにして小川の中を伝って橋まで行き、特別扱いらしいクラウスの車のどこかに身を潜めることができれば、国境警備隊が布陣しているあの森を恐らく通り抜けることができるに違いない。そう判断した彼は、クラウスがいつ帰ってしまうかも知れないと考え、直ちに行動に移った。できる限り静かに、できる限り身を低くして石南花の繁みから這い出すと小川の岸まで|匍匐《ほふく》し、そのままの姿勢で頭から川の中へ滑り降りた。
地面から一メートルばかり下を三十センチメートルほどの水深で水が流れていた。川の中にうずくまったとき、彼は水に映った自身の形相を見て驚いた。顔中がオオシカの毛や血糊にまみれていて別人のようだったのだ。ズボンのポケットから取り出したハンカチを水に浸し、音に気を配りながら顔や手を拭ったのち、両側から見られぬように腰を折って水の中を橋に向ってそろそろと進みはじめた。川音と自分の足が一足毎に立てる水音のほかは、空のあちこちで囀っている雲雀の声だけが聞こえていた。クラウゼンが教えた直距離四百三十メートルよりは、湾曲している小川の方が多少は長いにしても、目指す石の橋はなかなか近づかず、肩と胸の痛みに堪えながら上体を屈めて歩を進める作業には予想した以上の苦痛が伴った。小一時間も経ったほどに感じた後、それでもようやく橋の下に辿り着いた。
橋脚の蔭に隠れて身を伸ばし、西と東の両側を窺ったが彼に気付いた気配はなかった。かなり遠くにノイホフの隣の監視塔が見えたが、その視野からもなんとか身を隠してクラウスの車に這い登れそうだった。橋脚の土台石に腰を下ろし、水を|掬《すく》って咽喉を潤した。両足は冷え切って感覚が失せ、棒のようだった。上衣を脱ぎネクタイを外した。シャツのポケットに入っていた身分証を上衣の内ポケットに移した。ズボンのポケットに入っていた小銭を財布の中から抜き出した自国の紙幣と共に上衣の右ポケットに入れた。最後に上衣の内ポケットから書記長の親書を取り出し、包を開けて封筒の状態を確かめた。そしてしばらく迷った挙句、それをシャツの左胸のポケットに収めた。それから上衣を小さく丸めてネクタイで縛り、さらに腰から外した拳銃帯を巻きつけた。黒く光る拳銃はシャツの裾の方のボタンを外してズボンのベルトの内側に隠した。それが済むと土台石の上に乗り、丸めた上衣を橋桁と渡り板との間の隙間に押し込んだ。
その後一、二分、周囲の動きに耳を澄ませ、変化がないのを確かめてから、森と反対側になる橋の蔭に静かに移動し、トレーラーの車輪の背後で小川の窪みから上体を出した。
その途端、遠くで廻っているディーゼル発電機の音のような唸りを耳にして、一瞬、トラックのエンジンが掛けたままになっているのか、と耳を澄ませた。
そうではなかった。彼は、全身が凍り付いたようになり、その場で動けなくなった。
続いて次に起るべきたった一つの変化で、彼の計画に終止符が打たれようとしていた。そればかりか、そうなれば、この橋の下まで来てしまった今、も早、隠れる場所とてなくなった彼は、確実に西側の国境警備隊の手に捕えられる運命にあった。捕えられれば書記長の親書は事前に西側の手に渡り、祖国が綿密に立てた計画はたちどころに挫折する。
親書も上衣と共に橋桁の下に隠しておくべきだった、と後悔したが手遅れだった。ズボンのベルトの内側に隠した拳銃を取り出そうにも動くことができなかった。たとえ取り出せたにしても、音を立てれば結果は同じことになるだろう。
彼が小川の土手から上に上体を伸ばしたすぐ前の、トレーラーでできた日陰の暗がりの中に、小牛ほどもあるシェパードが暑さを避けて蹲っていたのだ。それまでの川の中での行動は川音に紛れて隠されていたらしいが、彼の全身に付着しているオオシカの血の臭いに犬は気付いたのだ。犬は、四肢の筋肉を痙攣するほどに緊張させ、腹の一点を地面に擦り付けて、今にも彼に跳び掛かろうとしていた。襟首の毛は逆立ち、鼻の上には皺が波打ち、半ば開かれた口の上唇はめくれ上がり、黄色く鋭い上下の歯並びが見えた。遠くから聞こえてくるディーゼル発電機の音のような唸り声は、その犬の咽喉から押し出されていたのだった。
後は咄嗟にすべての動作をそのまま固定する以外に成す術がなかった。川の中から這い上がろうとしたときのままに左手を土手の縁に掛けた姿勢で、犬の燃える瞳から眼を逸らさず水中に立っているほかなかった。だが、そうしているうちに、動かずにいる限り犬はすぐさま跳び掛かろうとしているのではないことを彼は見て取った。やや落ち着きを取り戻した彼は、昨夜、銃声に驚いて森の鳥が騒ぎだしたとき、闇の彼方で野太い声を張りあげて吠えていたのがこの犬だったのか、と心中で思いつつ冷静に犬の瞳を見詰め続けた。こうして彼が陥っている状態からすれば、高空でのどかに囀り交している雲雀の声がまったく場違いに感じられた。
そのうちに犬との対峙は数分間とも思われる長さになった。気が付くと、犬の四肢の筋肉の痙攣が熄んでいた。心なしか唸り声も低くなったようだ。彼は、可能な限り上体を動かさずに、土手の蔭に隠れている右手を水面に向けて徐々に伸ばしていった。姿勢に崩れを見せると犬の唸り声が高まった。そのたびに犬が落ち着くのを静止して待ち、また右手を水面に近づけた。根気よくこの動作を繰り返して、ついに小川の水を掬い取ると、掌の中の水をこぼさぬようにして再び徐々に持ち上げてゆき、犬の眼の前で彼自身がそれを啜ってみせた。この仕草を何回か繰り返すうちに、犬の襟首の逆毛が収まり、鼻の上の皺も消えてきた。彼はなおも同じ仕草を繰り返した。やがて、犬の咽喉で鳴る唸り声がすっかり熄んだのを確かめると、掬った水を自分で啜らずに、掌をゆっくりと犬の鼻先へ伸ばしていった。犬はひょいと立ち上がり、熱いざらざらした舌で水を舐め取った。次には両手で掬った水をたっぷりと飲ませた。
そうこうするうちに満足げにその場に横になった犬の襟首を二、三度軽く叩くと、彼は身軽に道路に這い上がり、車輪の蔭を利用して体の動きを隠しながらトレーラーの木枠を滑り越えて、素早く荷台の中へ身を沈めた。
その中には、丸められたキャンバス布が一枚片隅に押し付けてあるだけだった。そのキャンバスの下にもぐり込んでから数分経つと、緊張の余りに忘れていた肩の痛みが倍加して戻り、空腹と疲労が一気に押し寄せてきた。そのうちにキャンバスの下の温もりが冷え切った下半身を気持よく温めはじめた。襲ってくる睡魔と彼は半時間も闘ったが、ついに抗し切れずに眠りに落ちた。
背中に伝わる鈍い震動を夢うつつのうちに感じていた彼ははっとして目覚めた。土の臭いが鼻孔に満ちていた。キャンバスの上に重いものが乗っていて容易に身動きができなかった。頭の上のキャンバスをようやく右手で押し上げて周囲を見ると、先刻は空だった荷台一杯に赤子の頭ほどの大きさの黒い甜菜大根が山と積まれていた。太陽の位置もかなり西に片寄ったようだが、甜菜大根の重みで腕時計を着けている左腕を目の前に持ってくることができなかった。
そのうちに人の足音と車輪の軋みが近づいてきた。クラウスが畑で掘り上げた甜菜大根を手押し車でまた運んできたのだ。彼は顔をキャンバスの下に引っ込めて息を殺した。足音と車輪の軋みが頭の辺の外側で停った。甜菜大根がキャンバスの上に積まれはじめた。体をますます固くして様子を窺っていた彼は奇妙なことに気付いた。クラウスは手押し車で運んできた甜菜大根を一挙に投げ込むようなことをせず、一個ずつキャンバスの上にそっと置いているらしいのだ。やがてそれも終り、手押し車をトラックの方の荷台に押し上げているらしい物音が聞こえてきた。その後間もなくトラックのエンジンが掛かった。トレーラーは石畳の道路の起伏につれて振動しながら動きだした。たちまちのうちに国境警備隊が布陣している森の脇を通る。彼らはまだそこにいるに違いない。発見されずに彼らの中を通り抜けられれば、後は自力で、与えられた任務の軌道に復帰できる。今朝、石南花の繁みの中から望見した光景からして、国境警備隊がクラウスの車を検問することはまずあるまい。問題は、そこを通過したことを如何にして知るかだ。国境警備隊の車両の音や隊員同士の話し声でも聞こえてくれればありがたいが。もう一つ、気を付けなければならないのは、知らぬ間にクラウスの家に着いてしまって農夫自身に発見されないようにすることだ。国境警備隊が布陣している森とクラウスの家とは、昨夜頭に収めた地形図からすると余り離れてはいなかった……。
それにしても、と彼は考えた。あれだけの量がトレーラーに積みこまれるまでの時間、キャンバスの下で眠りこけていたのだ。クラウスが隠れている彼を発見している可能性は充分にある。クラウスは、「キャンバスの下に男が隠れている」と国境警備隊に通報するために、発見してからもそのまま眠らせておいたのではなかろうか。そういえば、最後に運んできた甜菜大根をキャンバスの上に静かに並べたときの様子も尋常ではなかった。いずれにせよ、外界を一瞥することすらできない今の状態では、車の動きによって、すべてを判断する以外に方法がない。とにかく車が停ったらすぐにトレーラーから脱出しよう、と彼は心を決めた。
車は、何ごともなく、単調に、同じ速度で、石畳の道を走っていた。外部から変った物音は何一つ聞こえてこなかった。
と、突然、前触れもなく車が停った。全身の筋肉が緊張した途端、車は後退しはじめた。停り、少しばかり前進し、もう一度後退し、完全に停った。彼はすぐにキャンバスを撥ね上げてトレーラーから跳び出そうとした。が、山積みの甜菜大根を押し除けるのに、予想外に手間取った。やっとのことで上半身を起き上がらせたとき、トレーラーの木枠の外にすでにクラウスが立っており、大根と戦っている彼を面白そうに見詰めていた。今朝の遠望では中年過ぎの男と思われたが、日灼けした肌に深い皺が刻まれている男の顔は老人というのが当っていた。
「若い衆。よう眠っていなさったのう」
と、その老人が声を掛けてきた。
「起すと気の毒に思うて、気い付けて大根を積み込んだんじゃが。まあ、早く家に入って泥だらけの体を洗いなされ」
トレーラーが停っているのは納屋の中だった。彼は無言でトレーラーから降り立った。老人は彼の動作に構わずに背を向けてそそくさと納屋から出てゆき、母屋の戸口を開けて怒鳴っていた。
「ばあさん! 客人じゃよ」
母屋の中に消えた老人と入れ替りに戸口に現われた老婆が納屋の大扉の蔭の中に留まっている彼の姿を認め、
「おやまあ、体中埃だらけにして。井戸は家ん中のを使いなされ。さ、早くきれいにしなされ」
と大っぴらな声で呼び掛けながら|忙《せわ》しく手招きをした。
周囲に視線を走らせたが老夫婦以外に人の気配はなかった。母屋の戸口に向って足を踏み出したとき、扉の外側にいたらしい例のシェパードがつつと歩み寄り、親しげに尾を振った。
戸口の中は広びろとした土間でそこが台所らしかった。老婆に随いてその土間を通り抜けると、天井以外は壁も床も唐草模様のタイル張りの小部屋が二つあり、部屋の隅にそれぞれ手押しポンプがあって、その傍に雑然と大小の金だらいやバケツが置いてあった。老婆が説明した。
「ここは、わしらが若い頃、宿屋をやっていたときの客人用の風呂場だで。今じゃ水しか出ねえが。泥を払っておくから、さあ、服をこっちに寄越しなされ」
シャツを脱ぐときに眼に留めた腕時計の針は、午後四時十分を指していた。約束の時刻までには充分な時間がある。彼は、ポケットの中のものを出し、カーテンの間からシャツとズボンを老婆に渡した。伸ばしたその手に老婆が石鹸を握らせた。
オオシカの血で汚れている頭髪は今や不潔な臭いさえ放っていた。汲み揚げた冷たい水をたっぷり使って頭の先から足の先まで洗ってから小部屋を出ると、土間の一方の隅にある食卓の椅子の背に汚れを落としたシャツとズボンが掛けてあった。埃が取れたズボンは生地の緑色を大分取り戻し、濃緑色のストライプスがはっきりと見えて、ドイツ民主共和国人民軍将校のものであることは歴然としていた。褐色のシャツも、見る者が見ればすぐそれと判るはずだ。年中畑に出ている老人は東側の兵士を、度たび境界線で見ているはずだ。そういえば、老人がいなかった。納屋から出て母屋に入って行く後姿を見たきりだった。
「おやじさんは?」
と、彼は鋭く短く訊ねた。訛りに気付かれる不安もあった。
「着替えに上に行ってるだが。もう降りてきてもよさそうな頃だで」
老婆は彼の顔も見ずにそう答え、食卓の上に何やら漬物のような皿を並べていた。見えないところで階段を降りてくる足音がして老人の姿が現われた。ほかにも風呂場があるらしく、小ざっぱりとした顔をして、手には瓶の周りに霧が吹いている、見るからによく冷えていそうな白ワインを握っていた。
「若い衆。さっぱりしたかえ? じきにばあさんがうまいもんをこしらえてくれるで、その前に、これで一杯だ」
老人はグラスに注ぎ分けて、一つを彼の前に押して寄越した。彼は一度、グラスを眼の高さまで捧げてから咽喉に流し込んだ。
「上等だな」
実にうまかった。空腹の胃の腑の|襞《ひだ》に冷たいワインが滲み込んでいった。グラスが空になるのを待っているように、すぐに老人が注ぎ足した。
老婆がこしらえてくれたのは玉葱ケーキだった。塩とチーズの味が適度に効いていた。それと、彼が味わったことがない味のスープだった。老人はワインを勧め、老婆は食べ物を勧めた。それ以外に、彼に何かを話し掛けようとも尋ねようともせず、もっぱら二人は畑の作物のでき具合を話題にしていた。故意にそう振舞っているとしか思えなかった。満腹した彼がちらっと腕時計に眼をやったのを、目敏く老人が気付いた。
「気が向けば泊っていってもいいだよ。部屋はいくらでもあるだから」
「ごちそうになった。そろそろ行かなくては」
午後五時四十分だった。彼は頭の中に地図を拡げて、ラーツェブルク湖岸の南半分の道程、ほぼ九キロメートルを最悪の場合は歩いてクライネ・ホルシュテンドルフまで行かねばならない、初めての道路を行くのだし、三時間は見ておいた方がいい、と考えていた。
「明るいうちにかね?」
と、老人が初めて彼の瞳を正面から見据えて意味ありげに訊ねた。彼は頷いた。
「時間に間に合わなくなるかも知れない。友だちと約束があるんだ」
「街でかね?」
「ラーツェブルクの街でだ」
「ここから街の方へ行く道は判ってるかね?」
彼は止むなく浅く頷いた。そして、老人は最初から事情があるのを知っていたのだ、と確信した。それにしても、老人はどの程度まで気付いているのだろうか。
「よし。わしが街まで乗せてってやろう」
「いや、歩いて行ける」
と、彼が押し留めた。
「そういいなさんな。森の中の道は迷いやすい」
老人は後に引かなかった。押し問答を繰り返すのは、ますます不自然さを加えるような気がした。
「じゃ、悪いが森の出口まで。ベーク村まででいい」
老人は彼の顔をじっと見詰め、そしていった。
「ベークは、五年前に“町”に格上げされただ」
しまった、という気持が顔色に出るのを紛らわせようと、彼は大急ぎで財布を取り出すと西側の紙幣を抜いて食卓の上に置いた。
「うちじゃとうの昔に宿屋もレストランも廃業しちまっただ。そんなこたあしねえこった」
怒ったように老人はその金を握ると突き戻した。彼はまたそれを老人に押しつけた。間を見て老婆が割って入った。
「若い衆よ。金ちゅうもんはな、要るときにゃどうしたって要るだ。持ってりゃ必ず役に立つときがある。さあ仕舞った、仕舞った。それより、よかったらこれを持ってゆきなされ。気が向いたらいつでもまたな」
玉葱ケーキの残りを包んだものらしかった。
老人が納屋の中のトレーラーからトラックを外している間、彼は母屋の戸口に立っていた。すると庭の隅にある大きな犬小屋の中で寝ていたシェパードが立ち上がり、足元に来ると親しげに彼の指先を舐めた。その瞬間、ある考えが閃いた。小川を出る前から、ホーネッカー書記長の親書を肌身離さず持ち歩くのが正しい判断か否か、彼はどちらとも確信が持てないでいた。先刻の、ベーク“村”の失言は、これから先の行動に予想以上の困難が隠されているのを感じさせた。幸い、親書の全文は記憶していた。彼は犬に伴われる恰好で何気ない風に犬小屋に歩み寄ると、左手で犬の頭を愛撫しつつ、残った方の手で防水封筒に包まれた親書を犬小屋の屋根裏の桟に素早く挾み込んだ。
森の小径を行きながら、はじめのうち、二人はほとんど言葉を交さなかったが、やがて老人の方が先におもむろに口を開いた。
「ゆんべの爆発はひどかったのう。今までにも時どきあったが、あんなのは初めてだ。わしらの家まで揺れたもんな」
「今までにもあったって?」
「ああ、夏の夜にな、森のけものが地雷に掛かることがよくあるだ。みじめなもんだ。悪気もねえのに、ばらばらになって吹き飛ばされてな」
「ゆうべはおやじさんの家も揺れたのか?」
「ああ大揺れに揺れた。でっかい音がしたのなんの。向うじゃ幾人も命を亡くした者が出たらしいって、国境警備隊の者がいってたっけ。なにしろ、監視塔がこっち側まで倒れて来ただもんな。運悪くちょうど塔の上で監視の仕事についていたわしの遠縁の若いのも、爆風にやられてひどい怪我をしたってこった」
そうだったのか、士官の彼にはいい難くてか黙っていたが、クラウゼン二等兵はクラウスの縁続きだったのか、いわれてみれば名字からしたってなるほどそうだ、と彼は胸の中で呟いた。
「そうか。遠縁の若者は怪我で済んだのか。よかったな。命は取り留めるんだな?」
「ああ、頭をひどく打ってるだが、命には別条ねえそうだ」
「おやじさんは向うの事情をいやによく知っているんだな」
「なにしろ、わしゃ、金網のそばで一年中野良仕事をやってるだで。いろんなことがあるわさ」
老人は、にやりと笑って、目尻の皺を深めた。
「ところでな、若い衆。あんたは帰還者援護協会ちゅうもんがあるのを知ってるかね?」
祖国から不法に出国してこの国に入った者に対する受け入れ機関だ。蔭でこの国の政府が資金を出している。
「いや。名前を聞いたことがある程度だ」
「リューベックにもハンブルクにも支部があってな。わしゃ、この歳になるまでに幾人そこへ連れてってやったことか。電話ボックスの中の電話帳を繰れば住所が出てるがな、だけんども、はじめてのもんはそこまでは気付かねえ」
そうか、この老人は彼が昨夜の爆発のどさくさに紛れて脱走してきた東側の兵士だ、と見当をつけているのか。なるほど、これで初めからの老人の態度がすべて理解できる。
木立が次第に粗らになり、間もなく森は終る気配だった。途中では一人の警備兵の姿も見なかった。
「どうするかね? そろそろベーク町だで」
彼の顔を老人が運転しながら覗き込んだ。老人が彼を西側の情報機関に突き出すかも知れない、という危惧は、も早、不必要らしかった。
「そうだな。せっかくだから、ラーツェブルクの連絡船乗場までやってくれないか」
「よしきた。あとかれこれ七、八分だで」
年代もののトラックのアクセルを老人が一杯に踏み込むと、ほんの申しわけだがスピードが上がった。
連絡船乗場の標識の前でトラックを降りた。
「じゃな、いつでも顔を見せるがいいて」
「ありがたかった。また会えるといいが」
トラックのサイドブレーキを老人が外したとき、彼は、老婆がくれた玉葱ケーキの包を持っている方の手を振りかざして叫んだ。
「達者でな。クラウスじいさん! エーリッヒが早く全快するように祈っている」
「そんなこたあ、めったに口にするでねえ」といっているかのように老人の目が笑った。トラックは重たい腰をやっと上げるように動きだし、ゆっくりと遠ざかっていった。
クライネ・ホルシュテンドルフ行の連絡船は、一時間置き正時に出ると掲示してあった。腕時計は六時四十分を示していた。待合室の隅の椅子に腰を掛け周囲の様子を窺っていたが、誰一人彼に目をくれる者はなかった。西側の青年たちは思い思いに色とりどりの服装をしていた。服装とはとても呼べそうもない布切れを纒っているだけの女もいた。いかにも夏の行楽地らしく、行き交う人びとの肌は例外なくこんがりとよく日に灼けていた。彼は襟首までボタンがあるシャツを脱いで腕に抱えた。ズボンは幸いにもオオシカの血で汚れているので、軍服とは見られないだろう。知られたにしても一向に気にすることはなかった。男の中には、「合衆国空母ホーネット」と金糸で黒地に縫取りがしてある布製のキャップをかぶっている者さえいた。
七時発の連絡船に乗った。途中、船はブッフホルツとポゲーツに寄り、数人が乗り降りし、八時前にクライネ・ホルシュテンドルフの船着場に着いた。まだ陽が高く、真昼と同じに明るかった。ヨットハーバーの遊歩道をぶらぶらと歩きながら遠目に船籍番号HH─一〇五六の船体を探した。二十数艘の大小のヨットが繋留されていたが、それは難なく見つかった。他のから少し離れて、一番手前のはじに停めてある純白のヨットだった。十五、六馬力と思われる船外機付きの十メートル足らずの船体に、キャビンが付いていた。キャビンの中に人影はなかった。少々約束の時刻には早過ぎると思ったが、彼は木製の渡り板を利用してヨットの甲板に跳び移った。
午後八時十五分だった。
[#改ページ]
午後八時十五分。
晩餐が終り、使われた食器類がすべて下げられ、テーブルクロスも染みのないものに掛け替えられた。
クルトとレスが、病院から戻ってきたヒルシュマイアを案内したベッカー通りのレストランは、石油ランプの芯が電球に変って光を放っている程度の変化の他は、港町ハンブルクの頃の情緒と仕来りを今もって保っていた。半地下式のこの店は、石畳の道路から数段降りたところにある入口の黒塗りの二枚扉に一尾ずつ深紅の絵具でその姿が描かれているとおりロブスター料理の専門店だった。十九世紀から続いているこの店のウェイターの躾は、近頃の基準でいえば完璧の一語に尽きた。とりわけ、個室でのサービスは行き届いた気配りで非の打ちどころがなかった。食事が始められてから後は、ウェイターたちが椅子の背後を動き廻るようなことはまずないといってよく、客が求めるだろう物は、事前にすっかり卓上に整えられていた。なおかつサービスが要るときには、卓上に伏せてあるカットグラスの呼び鈴を取り上げて一、二度振る。すると、待ち受けていたようにウェイターの姿が現われる。
職業柄、クルトは小人数で落ち着いて話ができる雰囲気が好きで、常に過不足のないこの店の個室のサービスが気に入っていた。午後六時を過ぎると附近の路上駐車が自由になることもあって、何度もこの店を訪れているうちに、彼の好みの食後のボトルはいつか改めて注文する必要がなくなっていた。
左右の|鋏《はさみ》を振りかざしているロブスターの姿をあしらった図柄が彫金してある純銀製のアイスバケットからボトルを取り上げながら、クルトはヒルシュマイアの好みを尋ねた。
「これはブラン・ド・ブランですが。教授、あなたのお好みを注文しましょう。何がよろしいですか? ここの酒蔵には無いものはまずないと思いますよ」
「いやいや。結構。私もそれを頂戴したい気分です」
ヒルシュマイアは自分の前のシャンペングラスを選び取り、クルトの手元に差し伸べた。クルトとレスは食事中ずっとヒルシュマイアから、少年期にソ連占領軍に父親を奪われ、その上その直後に彼一人だけ家族から切り離されて、西側のツェレに住む叔父の下で育てられたという彼の半生のあらましを聞かされていたのだった。ヒルシュマイアが差し出したグラスに泡立つブラン・ド・ブランを注ぎながらクルトが尋ねた。
「教授。ご家族のどなたともその後一度もお会いになったことはないんですか?」
「そう。あれ以来、誰とも、一度も、です。しかし、手紙は母のを三通もらいました。叔父の家に私が無事に落ち着いてから二カ月ばかり経って立て続けに届いたのですが、それらが投函された日付を見ますと三通とも、テンペルホーフ飛行場で私を見送った母がそれから幾日も経たないうちに|認《したた》めたものでした。したがって、私の身を気遣い励まそうとする内容ではありましたが、私にとって耳新しい消息は一つもありませんでした……」
そこで言葉を切り、ヒルシュマイアは明らかに当時の何かを想い起し反芻しているらしく、目を伏せ、膝の上で組み合せた両の拳をじっと見詰めていた。力が加わっている拳から血が引き手の甲の色が白くなっていた。やがて目を上げると静かに言葉を継いだ。
「……今となっては話が古くなり過ぎて、家族の消息が判った、などといえなくなりましたが……。実は、たった一度だけ、私が東ベルリンから脱け出した後の数カ月のうちに家族の者たちが辿った身の上を聞く機会に恵まれたことがあるのです。
一九五〇年、たしか私が十八歳のときでした。自分ですら何故そのような気持の状態になったのか、今もってよく判らないのですが、いても立っても堪らず、無性に父や母に会いたいという衝動が募った時期がありました。
その頃はすでに一年ばかり前に国が二つに分けられてしまっていて、西にいる者が東側に入ってゆくことなど到底できない相談でした。
ところでウィリスさんは『帰還者援護協会』という名の団体があるのをご存知ですか?」
レスは、もちろん、という風に頷いた。運よく境界線を越えられたり、運河を潜って西側に上陸できたりして東側からの脱出に成功した者があると、真先に援助の手を差し伸べるのがこの協会だ。国家機関ではないが、東西ドイツ分裂の直後に西ドイツ政府の肝煎りで設置された、東側からの脱出者に対する最初の段階での受け入れ機関だ。脱出者について、西ドイツ側は、共産主義者が占拠している自国領土から脱出して本来の政体下に戻ってきた自国民、と認識しているので、彼らを「帰還者」と呼ぶのだ。この国では忘れ得ない一九六一年の八月十三日、東西ベルリン境界線上に突如「壁」が構築されたその日までに、東ベルリンから西ベルリンに入り、そこから空路西ドイツ内に移送された人びとの数は三百五十万とも四百万ともいわれている。中間の数字だとしても一カ月に二万人、一日に約六百人という厖大なものだ。こうして西側へ脱出した人びとは、まず間違いなく着の身着のままかつ無一文の状態だったので、脱出者がフランクフルト空港の土を踏んだ途端にその日からの衣食住に援助の手を差し伸べる必要があったのだ。
「そうですか。ウィリスさんもご存知ですか。この『帰還者援護協会』の本部は今こそなかなか立派な施設になっておりますが、当時は焼け残りの兵舎を仮修理したような、雨漏りがしないだけの粗末なものでした。帰還者はフランクフルトの飛行場から窓ガラスを青ペンキで塗り潰してあるバスに乗せられて協会の施設に運ばれてくると、まず健康診断と防疫注射が施されます。この後しばらく休憩時間があり、やがて順繰りに『面接』の関門を通らされます。『面接』の係官は多分防諜関係の政府機関から派遣されてきていたのだと思います。時折一人に一時間もの時間が掛かることがありましたが大方の者は十分足らずで済んだようでした。この関門を通過できた人びとは三つのグループに分けられます。国内に落ち着き先の当てがある者、国外にそれがある者、そしてまったく身寄りのない者です。この分類に従って施設での滞在期間が決められ、貸付けの形をとっていましたが当座必要な現金も支給されました。身寄りのない人たちには家族数に応じた住まいの世話と取り敢えず仕事口が紹介されるのです。ま、大体は焼跡の整理といった肉体労働でしたがね。最後の日、彼らが施設を出てゆくに際して仮の身分証明書が発給されます。当時は身分証明書なしには一日たりとも街で暮してゆけない時代でしたから。
ここまでが『帰還者援護協会』の仕事で、毎日数百人を受け入れていた当時は、施設の中がまるで卸し市場か港の荷揚埠頭のような混雑ぶりでした。
さて、このように詳しくこの協会の仕事の有様を私が知っているわけを申しますと、私自身十八歳の時に五日間もこの施設に通い詰めたことがあるからです。東側全土から帰還者が集まってくる所なので、この協会の施設を訪ねれば、運がよければ肉親の消息を知っている者に会えることがある、と耳にしたその日に、当時無性に望郷の想いに駆られていた私は、ツェレの家から叔父の許しを得る間すら惜しむようにして協会へ出掛けていったのです。
私の来訪目的を聞いた受付係は手馴れた扱いで臨時の立入を許可する証明書をすぐに作ってくれたうえ、行くべき部屋への道順も要領よく教えてくれました。その部屋は、『面接』を通過してたった今この国への入国を認められた帰還者が、協会からの次の指示を待つ間休息しながら待機するような所で、広びろとした部屋の中央に四角形に並べられたテーブルがあり、その周囲に四、五十個の折畳み椅子が配置されていました。部屋の片隅には、その頃は大変な貴重品だったコーヒーが出る米国製の自動サービス機があり、横の壁に『ご自由に』と書かれた紙が貼ってあったのを奇妙にはっきりと覚えています。帰還者たちはそのテーブルの周りで三々五々にグループを作り、コーヒーの紙コップを握ったりテーブルの上に置いたりして小声で話し込んでおりました。彼らの表情には一様に、脱出に成功した安堵感と、近い将来に開始されるこの国での実生活に対する不安感とが交互に浮んだり消えたりしているように見えました。
受付係が何故あんなに手馴れた扱いで私に立入許可証を発給してくれたのか、部屋に足を一歩踏み入れるとすぐその理由が判りました。私と同様、家族の消息が聞ければ、とここにやってきた老若男女が壁際にぐるりと並んでいるのです。持参した簡易椅子に腰を下ろしている老人、立っている若い女、その数は、その時部屋の中にいた帰還者の数より遙かに多く五十人以上と思われました。
彼らは、胸幅くらいの横長のボール箱を壊して拵えた紙に家族の姓名と東側の住所を大書し、それを紐で頸から胸の前に吊していました。そうしながら帰還者がその紙に書かれた名前の中に知人を認め、話し掛けてきてくれる僅かな可能性に縋ってここに通ってきているのでした。
私も、紙と紐をもらい、家族名と東ベルリンでの住所を書き、それを胸の前に吊して皆と同じように壁際に並びました。しばらくそうして立っているうちに部屋の中の仕組が判ってきたのです。五、六分間隔で『面接』を通過した帰還者が数人ずつ一塊りになって右手の扉を開けて入ってきます。彼らはあらかじめ係員から教えられているらしく、壁際に並んでいる私たちの前を右端から順に胸の前の名札を読みながら知人がいないか否かを確かめてゆき、それが済むと中央のテーブルに行って腰を下ろすのです。帰還者は三十分ほどそこで待っていると姓名が呼ばれます。すると今度は左手にある扉からいずこかへ出てゆくのですが、それまでに彼らの方も一度は必ず私たちの顔を順々に穴の開くほど見詰め直したものでした。名札の中には知り人の名はなかったものの顔見知りの者はいないだろうか、と彼らも新天地での不安から何らかの繋がりのある者が見付かることを願っていたのです。
ときには、帰還者の群が扉を押して部屋の中に入り、壁際の誰かと眼が合った途端、わっとばかりに泣き声を挙げて馳せ寄って抱き合う、といったことも無かったわけではありませんが、この部屋を通過する帰還者が五、六百人はおり、壁際に立っている者が五、六十人はいる毎日でも、東側に残っている家族の消息が知れる幸運に恵まれる者は、まず五、六人だけでした。
もちろん私も、父や母や弟の様子が判るまで永久にでもそこに立っている、という固い決意で始めたことですが、二日経ち三日経つと心細さが募ってくるのはどうしようもありませんでした。一千数百万人の東ドイツ居住者の中から無差別に日に五、六百人ずつここに送られてくる帰還者が私の家族のことを知っている確率を計算するならば、気が遠くなるほどそれは小さいものです。無為に一日一日と過ぎてゆくにつれて次第に気が弱くなってきて、自分は昔からくじ運が弱かった、などと思い始めるのを、いや弟のハインリッヒは何につけても強運だった、だから弟の方の運からすれば、きっと誰かが私に会えるようになるはずだ、などと終日思い巡らしながら懸命に自身を励ましておりました。
四日目が過ぎ五日目の午後三時頃だったと思います。例によって右手の扉から入ってきて、はじから私たちの胸に吊ってある名札を読み確かめながら進んできた一団の中の中年の男が、一歩通り過ぎてから踏み留まり顔をねじ向けて私の胸の前の名札にもう一度眼をやりました。私の動悸は急に高まりました。
『それは、ヤノビッツ橋の袂近くに住んでいたヒルシュマイア先生のことかね?』
男は顎で名札を指し私の顔に問いかけました。父の職業柄教え子に知人が多いに違いない、と私は考え『元初等国民学校校長、元首都再建委員会学校制度委員』と長ながしい肩書を父の名の上に書き込んでおいたのです。
『そうです。そのとおりです。ご存知なのでしょうか?』
『ああ。同じ界隈に住んでたんで、口をきいたこたあ一度もなかったが顔は知ってたし噂も聞いたことがある』
『私は彼の息子なんです。リヒャルト・ヒルシュマイアといいます。国が二つに分裂する前にこっちに来てしまったために家族はその後どうしているのか全然知らないんです』
肉体労働者風のその男はまた顎をしゃくって中央にあるテーブルを指し示すと先に立っていって椅子に腰を下ろしました。その傍に折畳み椅子を引き寄せ縋らんばかりに躙り寄って男の顔を見詰める私の眼を、男は当惑げに外していいました。
『困ったな。俺はそれほど先生について知っちゃあいねえんだ。ひとの話をまた聞きした程度だからな。ま、とにかく俺はルドルフ・クルーベってもんだ。シュプレー川で川船の船頭をやってた』
私たちは握手を交しました。握手しながら私は七年前の空襲の際オーバー・バウムシューレの船着場で船もろ共に爆死したゲオルゲ一家のことを思い出しました。
『じゃ、運搬船の船頭だったゲオルゲをご存知ですか?』
その後の家族の暮し振りを知りたくて気が急いてはいましたが、東からの脱出に成功した直後であり、男の緊張感はすっかり解けてはおらず、したがって、心も充分開かれていないと見て取った私は、手短かにゲオルゲ一家が爆死した日のできごとを話して聞かせました。そうしておいて男が考え込んでいる間に自動サービス機からコーヒーを取ってきて男の手に握らせました。
『さあなあ。ゲオルゲっていう船頭の名に聞き覚えがあるような、ないような。なにしろ俺はベルリンがひどくやられる前に兵隊に取られてフランス国境の方へ廻されていたもんでな』
男の気持がいくらか落ち着いてきたところで私は本題に入りました。
『母のことはご存知ですか?』
『いいや。さっきもいったように、俺はあんたの家族を見たことはあったが口をきいたことはないんでな。奥さんのことも噂に聞いた程度にしか知らねえよ』
『では、その噂っていうのは?』
『なんでも先生が逮捕されなさったすぐ後に奥さんも捕まえられたっていう話だったなあ』
鉄槌でいきなり後頭部を殴られたように感じ、私は一瞬気が遠くなりました。父と私がいなくなっただけで、母も弟も、そして女中のアンネリーゼも、最高に運がよければ父も戻されてきていて、私がいたあの頃と同じにヤノビッツのあの家でみんな無事に暮しているのだと、私は毎日自分に思い込ませていたのでした。
『何ですって? 母も逮捕されたんですって? それは本当ですか? いつ頃のことなんです?』
思わず私は詰問調になっていました。男は自分が悪事を働いたかのように落ち着きを失くして答えました。
『そう問い詰められても確かなことはいえねえよ。なにしろ俺の耳にそんな噂が入ったのは、先生が逮捕なされてから三月ぐれえは経っていたから、先生が捕まりなさってから二た月ぐれえ後じゃなかったのかな』
『父や母はまだ釈放されていないんですか?』
『いいや。そんな話は一度も聞いたことがなかった。先生ばかりじゃなくあの頃捕まった政治犯てやつが帰されてきた、っていう話を聞いた者はいねえしな。なんでもロシアのボルゴグラードっていう所の油田工事の人足としてみんな裁判もなしに送られちまったっていう噂だった』
『弟は? そのあとどうしていたのかご存知ありませんか?』
『なんでもあの家を下宿屋にしたっていう話だったが。それでも喰えなくなって女中さんがボタン工場に働きに出ているということだった。なにしろ税金ばっかり毎月のように高くなりやがって』
『ボタン工場って、こういう服のボタンのですか?』
『そう。エボナイトやベークライトの丸棒を輪切りにして電気錐で四つ穴を開けるっていう仕事さ。俺の近所の女たちも随分沢山その工場に働きにいってたよ』
『では、弟たちは今もそうしてあの家で暮しているのですか?』
『いいや違う。占領状態が落ち着いてくるにつれてソ連の高級将校が本国から家族を呼び寄せるようになったんだ。それで、まともな建物をびしびし接収しはじめた。あの家も接収されちまったらしく、ロシア人の一家が住んでいるのを俺はこの目でみたよ』
『では、弟たちは?』
『それから先はまるっきり知らねえなあ。最初にいっといたように俺が知っているのは、みんな自然と耳に入ってきたことだけなんだ。弟さんたちのことは噂にもならなかったんじゃないのかなあ』
『じゃ、その後弟たちを街で見掛けたこともない?』
『うむ。悪いけどそんなこたあ一度もなかったなあ』
シュプレー川で船頭をしていたというこの善良そうな眼付きの男の言葉どおり、以上が私の家族についての彼が知っているすべてであるようでした。
ツェレの叔父の家に帰る道すがら私の胸の中で、昨日までと同様に、私の家族は昔のようにヤノビッツの家で無事に暮しているのだと思い込んでいた方がどんなに気持が楽だったろうか、という後悔と、今日事実を知らされはしたが、少なくとも親しい誰かが死んだという話はなかった、したがって細ぼそながらもいつか再会できるという可能性の糸は繋がっている、という希望とが交錯しておりました。
以来、家族の消息めいたものすら耳にする機会はなく、早いもので三十数年間がすでに経ってしまいました」
ほとんど口を挾むことなくヒルシュマイアの語るに任せていたクルトとレスは、彼が語り終えてからも彼に与える適切な言葉が見付からないままにしばらく沈黙を守っていた。だが、その場の雰囲気をほぐすのに気を遣い過ぎるアメリカ人の癖が出て、レスはまた大して意味のない質問で口火を切った。
「教授。そのような体験をされたあなたの手で育てられたハンスは、日頃から東側に対して好意を持ってはいなかったでしょうな」
教授はやや気色ばんで反論した。
「例えば、正当な理由がなくても自ら進んで東側の監視塔を銃撃するような、ですか? とんでもない。ウィリスさん。政治向きの世事に対する息子の関心度が足りないほどだと、私は常づね不満に思っているくらいなのです。ドイツ民主共和国に対して彼が|敵愾心《てきがいしん》を抱くことがあるとすれば、フットボールの欧州選手権試合でたまたまカードがこの国と彼らとの組合せになったときくらいのものでしょう」
「レス。その点はハンスに限らず昨夜あの森に行っていた学生全員について、我われが充分に調査したよ。教授の言葉のとおり、彼らはただの現代の若者さ。政治意識の偏向など欠けらもなかった」
「ウィリスさん、クリスチァンゼンさん。国が一つだった頃をまったく知らない、親しく触れ合った肉親も近しい友人も東側にまったく持っていない私の息子のような世代は、再統一の必要性など全然感じていないのです。それだけに東側に対する関心は私どものように深くはないのです。それでいて青年というものは、自国の優越性を盲目的に確信し、それを誇りに思っているものなのです。これは東側の青年とても同じだと思いますよ。その誇りこそが自らの社会に理想を追求し続ける要素の一つとなるのですから、それはそれでいいではありませんか」
クルトは同意するように頷きながら、多少興奮気味のヒルシュマイアの気を逸らすためか、三人のグラスにブラン・ド・ブランをなみなみと注ぎ足した。ヒルシュマイアは突然飲み物を思い出したようにグラスを握り、口元に運んでいった。一口飲んで咽喉を湿すとグラスを卓上に戻し、再び眼鏡越しの視線をまっすぐにレスの顔に当てた。が、話題は変っていた。
「ところでウィリスさん。親しくお話ができるアメリカのしかるべき方にお会いしたら、是非お尋ねしたいと常づね考えていたことがあるのですが。私の職業上の興味を充たすために率直な質問をさせていただいてよろしいでしょうか?」
「どんなことでしょうかな? ま、なんなりとどうぞ」
辛口であることを除いてはワインの属性よりもシャンペンのそれにより近いフランス産のその一口をレスも口に含みながら気軽に答えた。
「お国のブレジンスキー大統領特別補佐官が、以前『サーベイ・ワールド・ポリティクス』に発表された『ソ連と東欧圏との関係に対する政策』についてあなたはどうお考えになりますか? ウィリスさん。勿論あなた個人のご意見を聞かせていただければいいのです」
『サーベイ・ワールド・ポリティクス』というのは、ロンドンにあるサーベイ社が隔月に発行している国際政治経済に関する専門誌で、この種の出版物の中で世界的な権威を持っている。ブレジンスキーは、カーター政権の安全保障担当特別補佐官になる前から大学の講義や学会の講演で彼が主張していた彼独自の東欧政策を、数年前に取りまとめてこの専門誌に寄稿した。一口でいうならその主張は、東欧諸国を、政治、経済、文化、思想の各面で多極化させることにより、ワルシャワ条約機構の一元性を破壊し、ソ連を東欧圏という身内の問題の処理に忙殺させておくことが、世界の平和と安定につながる、というものだった。彼が特別補佐官になってからというもの、この主張に大統領の印章が押されたようなもので、米国の東欧政策の根底には以来一貫して陰に陽に彼の思想が流れている。
『サーベイ・ワールド・ポリティクス』ではなかったかも知れないが、レスは幸いブレジンスキーの東欧政策についての文書を読んだことがあった。しかし一、二年も前のことだ。
「教授。どう考えるか、と突然尋ねられても私は専門家ではないし、困りますな。ま、強いて何かをいわなくてはならないのなら、それなりに成功を収めている、と私は思っていますよ。つまり、曳き綱の先のトナカイたちが勝手に飛んだり跳ねたりしているようでは、それを鎮めるのに忙しくて御者は橇を思うがままに操れないのは確かですからな。例えば、お国のミュンヘンにある『自由放送』と『自由ヨーロッパ放送』の設備増強なども、事実、大いにそれの役に立っていると思いますよ」
ロシア語で発信されている『自由放送』の的はソ連国内に絞られている。ソ連では、それを大衆が知ることが党の利益を阻害すると判断された事実、例えば、ソルジェニツィン追放やシチァランスキー断罪、高位の軍人や官吏の西側への亡命、果ては航空機の墜落や原子力関係施設における事故などは国民に一切報道されないので、市民は秘かに聴くこの『自由放送』の電波によって初めてそれらを知ることになるのだ。
また、東欧十一カ国語で発信されている『自由ヨーロッパ放送』はソ連以外のヨーロッパ共産圏向けだ。各国市民は、この放送から今日的な西欧型文化と思想の断片を摂取している。例えば、自国では紹介されるはずもなく西側のレコードを入手し得る術もないはずの東欧圏で、想像以上に早く青年男女の間に西側で生まれた音楽のリズムが伝播するということからも、いかによくこの放送が聴かれているかを推し測ることができるのだ。
両放送とも、前大戦後間もなく米ソがいわゆる冷戦に突入したとき、当時末だに米国の占領管理下にあったミュンヘンに放送設備が設置され、以来三十数年間にわたって米国政府の経費負担で活動が続けられてきた。いわば『ボイス・オブ・アメリカ』の東欧版だが、ソ連、チェコスロバキア、そしてブルガリア各政府による放送妨害技術が次第に進歩してきたため、七十年代に入ってからその効果が年毎に減退の一途を辿っていた。
しかし、一九七六年の暮にカーターが米国大統領になり、ブレジンスキーがその特別補佐官として安全保障担当になったとき、彼の年来の主張だった東欧政策が真先に浮上したのはいうまでもない。そしていち早く手を付けたのがこの二つの放送設備の更新強化策だった。大統領は議会に対して三年の期限内に約一千万ドルを支出することを要請し、放送出力を併せて三千九百キロワットから一気に約二倍の六千六百七十キロワットに増大させるという計画を打ち出した。昨今ではその計画はほとんど具現化され、各国が出す妨害電波を克服しつつ東欧圏の深部にまで自由世界の声をより明瞭に連日連夜到達させ得るようになっている。
レスは説明を続けた。
「教授。数年前までは『自由ヨーロッパ放送』の電波に対して、ポーランドの人口密集地帯五カ所からも強力な妨害電波が発射されていたんですよ。しかし、現在ではそれが出されていないんです。何故かといいますと、ポーランドのギエレク政権の要請に応えて、ポーランド系二世のブレジンスキーがカーターのワルシャワ訪問を実現させようとした際、彼がポーランド側に出した第一番目の条件が、妨害電波発射の停止、だったのです。
ご存知のように米国大統領のワルシャワ訪問は一九七七年のクリスマスシーズンに実現しました。ブレジンスキーはこの時に、自己が主張する東欧圏多極化政策における政治、経済、文化、思想、という四つの柱のうち政治以外の三ポイントを全部一度に稼いだわけです。なにしろワルシャワ条約機構の中でもソ連以外で最大の人口を持つ国ポーランドと、経済協力について高らかに謳いあげたうえ、以来、西欧型文化と思想を連日電波に載せて送り込むことができる自由を獲得したんですからね」
自身が出した質問に対して相手が熱心に応えているにもかかわらず、ヒルシュマイアは聴いてはおらず、むしろ話を意識的に無視しようとしているようであり、明らかにいらいらしている様子が表情に現われていた。それに気付いたレスは話を打ち切り、クルトと顔を見合わせた。クルトはグラスを指先で弄びながら面白そうにレスとヒルシュマイアの横顔とに交互に視線を送っていた。
やや長かった室内の沈黙を破ってヒルシュマイアは二人の存在を忘れたかの如く、小声で呟きはじめた。
「ゾンネンフェルト・ドクトリンとブレジンスキーの東欧政策とは真向から対立する理念に発しているが、米国人によって組み立てられた両者には共通する重大な要件の欠落がある。最も重大な要件でありながら双方の理念の中で一顧だにされてはいないのだ……」
これだけ呟くとヒルシュマイアは再び口を噤んでしまったので、彼がいう、欠落している重大な要件、とはどんなことなのか、レスにもクルトにも推察しようがなかった。
『ゾンネンフェルト・ドクトリン』というのは、一九七五年のクリスマスの直前に全在欧大使をロンドンに招集して開催された米国在外公館長会議の席上、当時国務省審議官だったゾンネンフェルトが、本国政府が決定した東欧政策の基本理念だとして発表したものだ。しかし、その内容が外部に洩れるやいなや、余りにも激しい物議を友好国においてすら醸したため、当時の大統領ジェラルド・フォードが、ゾンネンフェルトが発表したものはあくまで彼の私案の域を出ず、政府が正式に認知したものではない、という談話をわざわざ発表して打消しにかかったほどであった。
その政策の基本理念を要約すると以下のようなものだった。――東欧圏は元来歴史的にも地理的にもソ連の勢力圏内に属している。とはいえ、現状の如き、ソ連の一方的な強制力によった結合状態の場合には、当然、強制力に対する「負」の力、すなわちソ連に対する東欧諸国の反撥力が内部に醸成されることになる。この「負」の力に西側の力が荷担し、局部的にでも強制力に拮抗し得る状態になれば、必ず強制排除の動きに発展する。それはソ連の武力行使を誘発することにほかならず、ソ連の余勢は力を荷担した西側にも波及し、少なくとも中部ヨーロッパは戦乱に巻き込まれるだろう。場合によると、これに連動して各大陸に現存している共産主義勢力と自由主義勢力との摩擦が拡大化され、第三次世界大戦にさえ発展する惧れが充分にある。したがって、西側諸国をしていかなる意味においても東欧圏自体の問題に介入させることなく、現状をもってソ連の勢力圏として認めさせ、西側に承認の姿勢を積極的に示させるならば、いずれ東欧諸国内の反撥力はソ連によって消滅させられ、東欧圏の安定が到来する。世界の安定には東欧圏の安定が不可欠であり、これが達成されることが米国の最終利益とも一致する、――というものであった。
この政策は、ヨーロッパ、アジア、中東、そしてアフリカに進出しはじめたソ連の拡張主義に西側が悩まされはじめ、それを歴史の現実として受け容れ難かった当時としては、苦肉の一策を案じたものだといえようが、要するに、悪童に対して「君のものはここには一つもないよ」といい張っていた金持ちの子供が、力ずくですべてを奪われそうになってから「これだけは君の分だと認めるから、そのかわり残りのものには手を出さないで」と懇願しているようなものであった。
ソ連は例によってどの国よりも早くゾンネンフェルトの講演内容を入手したはずだが、時日が経っても何の反応も示さなかった。もちろん「残りのものには手を出さない」とはいうはずもなかった。アルバニア、ルーマニア、ブルガリアなど東欧圏からまず次つぎに批判の声が挙った。とりわけ、ネール、ナセルと共に非同盟主義の最初の提唱者だったチトー大統領が率いるユーゴスラビアから挙った非難の声は大きかった。
「このドクトリンは、全世界を二大国の勢力圏に分割しようとする野望の設計図だ。他国を強国の勢力下に従属させ、各国の神聖不可侵な自決権と政治的自由と独立とを失わしめるが如き政治理念を持つ権利は、いかなる国も持ち得ないはずだ」
この声明がユーゴスラビア共産党機関誌ボールバに掲載されたのは翌一九七六年の四月だった。チトーといえども四カ月の間ゾンネンフェルト・ドクトリンに対するソ連の反応を見究めていたのだ。しかしチトーはその間に、周恩来国務院総理没後の政権移行が混乱の極にあった中国中央政府の中で、賢明にも小平副首相を選択して精力的に接触していた。その結果、中国は、ユーゴスラビアが非難声明を公表したのと殆ど時を同じくして、
「ゾンネンフェルト・ドクトリンは、超大国の覇権による地球表面の分割案だ。中国はいかなる国の覇権にも絶対の反対を貫く」と新華社通信を用いて世界中に非難声明を送った。これが、中国が行なった国外に向けての覇権反対声明の最初のものだった。
しばらく黙考の状態にあったヒルシュマイアが、はっと我に還ったようにレスに笑顔を向けた。
「やあ、ウィリスさん。大変失礼しました。あれこれ考え込んでいたものですから。
さて、『ゾンネンフェルト・ドクトリン』が発表されてから僅か一年余の後に『ブレジンスキーの東欧政策』がお国の東欧政策の基本理念として動き出しました。この二つの政策は、ご承知のように一つしかない事実に対してのまったく相反した把え方に立脚しております。お国のように影響力が絶大な国の対外政策が、かくも短期間に百八十度も転換すること自体、国際政治場裡において非難されるに充分に値します。しかし、私が申しあげたいのはそのようなことではないのです。私が声を大にして指摘したいのは、両政策ともに、ワルシャワ条約加盟のソ連以外の国に居住する一億を超える人びとの生存権を一顧だにしていない、ということなのです。二億五千万を擁するソ連ですら、非スラブ系がほとんどで純スラブ系人口は五千万にも満たないのです。もちろん、私は人種を問題にしているわけではありませんが、ソ連における権力者、つまり国策の決定者、推進者はスラブ系を主体とする一千四百万人と称されている共産党組織なのです。
さて『ゾンネンフェルト・ドクトリン』の如き大国の自我そのものの政策が今時、白日の下に姿を曝したこと自体驚きではありますが、いまさら批判する価値もないものとしてさて置きましょう。ウィリスさん。さきほどあなたは、ブレジンスキー氏の東欧政策について『曳き綱の先のトナカイたちが勝手に飛んだり跳ねたりしているようでは、御者はそれを鎮めるのに忙しくて橇を思うがままに操れない』と、現状に極めて適切な譬喩をお使いになった。では、だれが御者でだれがトナカイなのか、を真剣に考えていただきたいのです。極論すれば一千四百万のソ連共産党組織が御者で残りの三億三千六百万がトナカイだと私は思うのですが。どうです、あなたはこんな風にお考えになったことはないのですか? 百歩譲って、ソ連以外のワルシャワ条約国の人びとだけをトナカイだとしても一億を遙かに超えるのですよ」
三人のグラスは空になっていた。クルトが瓶の底に残っていたブラン・ド・ブランを三等分に注ぎ分けて、もう一本を注文するためにカットグラスの呼び鈴を振った。ヒルシュマイアは注がれたものを一口に飲み干すと話を続けた。
「なるほど、おっしゃるように勝手にトナカイが跳ね廻っていては御者は思うように橇を動かすことはできない。その間西側はソ連の拡張主義に悩まされずに枕を高くしていられる。これは仮説としては正しいとしておきましょう。しかし、西側が安泰な日々を送っているその時に、橇を目的地に向けて進めようとする御者の振う革の鞭で打たれているトナカイの身の上について考えてみたことはおありですか?」
ヒルシュマイアは、レスをアメリカ人の代表に見立ててか、少なからぬ非難の色を湛えた眼付きで彼の両眼を覗き込んだ。レスは総領事館に勤務してはいるが国務省の役人ではなく、ましてや政策の立案とはまったく無関係だと思いつつもヒルシュマイアの非難に晒されて当惑した。それはともかくヒルシュマイアがいった「欠落している重大な要件」とは何か、今やっと判った。
「教授。わが国だとてトナカイを踊らせることにのみ興味を持っているのではありません。東欧圏の諸国に対するわが国の経済援助は年毎に色いろな形で増加しておりますし、文化交流、スポーツ交流については制限がまったく無くなりました。
その一方でわが国の外交は『人権尊重』を第一番の基本に打ち出しているのはよくご存知のはずですが……」
「カーター政権のときは特にね」
加勢のつもりか皮肉のつもりか判らないが、クルトが無表情な声で一言挾んだ。
「よろしい。ウィリスさん。あなたは七七年来のお国とポーランドとの経済協力について今言及なさったのだと思いますが、ポーランド経済の現状をご存知なのですか? 食糧の消費者価格は一九六七年来ずっと十数年間も据置きになっていて、政府が今抱えている食管累積赤字だけでもなんと一千五百億ズロチにも達しているのですぞ」
「ええと、ざっと一千三百五十億マルクか。わが国の昨年度のGNPのちょうど十分の一だな」
とクルトが絶望的な声でいい、溜息をついた。レスも暗算をしてみたが、桁を間違えたのではないかと自身を疑った。
「約七百億ドルということですか?」
「そうです。いかに厖大なものかお判りになったでしょう。食管累積赤字だけでもこれだけの額なのです。クリスチァンゼンさんがわが国のGNPの十分の一だといわれましたが、ポーランドのGNPはわが国のそれの十分の一よりずっと小さい。したがってこの赤字だけでも彼らの歳費を遙かに上廻っていることになるのです」
ヒルシュマイアは新たな瓶を運んできたウェイターが注いでいったブラン・ド・ブランを一口飲んでからさらに話を続けた。
「さて、もちろんのこと、ポーランド政府がこの赤字解消について、努力を怠っていたわけではありません。一九七〇年と七六年の二回、生産者価格との|逆鞘《ぎやくざや》を縮小するために、食糧の消費者価格引上げを図りました。しかし、そのつど、全国的な反対運動が起り、ゼネラル・ストライキに始まって、多数の死傷者を出したほどの暴動にまで発展したのです。その結果、不思議なことに、財政破綻に陥っている政府が、二度とも、一旦提示した値上げ案を撤回してしまいました。それは何故か? 答は一つしかありません。
チェコ事件の轍を踏みたくなかったからです。暴動にもかかわらず敢えて値上げを強行すれば、内乱状態になるのが目に見えていました。ソ連軍戦車はすでにポーランド国境周辺に続々と集結していましたし、それより僅かでも事態が悪化すれば、すぐさまソ連軍が介入してきて、ポーランドは、チェコスロバキアのように、名ばかりの独立国にされてしまうのが火を見るより明らかだったからです」
「しかし、どういうわけで、そんなに厖大な食管赤字が生じたんでしょうね? あの国の場合、労働生産性と所得水準の双方が低いわけだが……」
「そうです。そのとおりですが、特に一般所得水準が低く押さえられていることに暴動の原因があったのです。所得水準が低く押さえられているのには、人為的な、というか、物理的な、というか、はっきりした理由があるのです。国民はその不合理にすでに気付いているのです」
「また、原因はソ連ですな?」
「そうです。ソ連が供給している燃料価格を、どれだけ製品価格に反映し得るか、ということです。いわゆる“コメコン・パイプラン”、ソ連はこれに“ドルージバ”送油管との愛称を付けていますが、原油と天燃ガスの二本のパイプ・ラインが、ソ連から、ルーマニアを除く東欧諸国に敷設されているのはご存知のとおりです」
「“ドルージバ”とは、どういうわけか、“友情の絆”という意味なんだそうだ」
と、クルトは眠そうな声に皮肉を籠めて解説した。
「ソ連は燃料価格を一九七五年一月以来今日までに九回値上げしていますが、対ソ商品価格に対する燃料価格値上げ分の反映について、『三分の一フォーミュラ』という方式を強制しているのです。製品価格は、既にそこにある設備機械および労働力、そして原材料費、光熱動力費の三要素で構成されているのだから、たとえば、燃料価格が十五パーセント上昇しても、対ソ商品価格は従来の五パーセント高しか認めない、というのです」
クルトは『三分の一フォーミュラ』について熟知しているらしく、また解説を挾んだ。
「光熱費が上昇すれば生活費が押しあげられ、原材料価格も嵩むはずだ。物を造るのには原材料は絶対に必要だから、価格が上昇しても使わざるを得ない。そこで、対ソ輸出で回収不能となる生産費の皺寄せはすべて人件費に被さってくることになる」
「なるほどね。値上げを認めるのは自分が値上げした燃料分だけか。
教授、ひとつお尋ねしますが、ポーランドは一九七八年の春にオーストリア向けの石炭輸送専用ラインを完成させ、今では大量のクラクフ炭を輸出していますね。どうして、高価なソ連の燃料の代りに自国産石炭を使わないんですかね?」
「燃料は産業の血液といって差し支えないと思いますが、ルーマニアを除く東欧五カ国は今や自分の心臓をソ連に預けてしまった恰好なのです。戦後四分の一世紀の間に、ソ連は、コメコン内の分業体制確立を名目にして、各国がソ連産の原油と天然ガスを産業の熱源として使用するように五カ国の産業構造を変革してしまったのです。そのためにポーランドは自国産石炭を使用しようにも、構造上、も早、それができなくなっているのです」
アイスバケットの中の氷が融けて微かな音を立てた。ヒルシュマイアの説明を聞いているうちに、レスは、自分自身も八方塞がりの東欧圏に住んでいるような息苦しさといらだたしさを感じてきた。
「ソ連の勢力圏支配のメカニズムには感心するほかありませんが、支配される側はたまりませんな。
ところで、先程の厖大な食管赤字ですが、なおかつ、国家財政が維持できているのが不思議ですね」
「それはですな。東欧圏のコメコン諸国相互間の取引においては、我われの概念での通貨による貿易決済が行なわれずに、物々交換によってなされているのだと考えた方が理解しやすいでしょうな。ポーランドの財政赤字も大部分がソ連からの借款で補填されていて、各年度収支の辻褄は、紙の上では合うようになっているのです。ソ連の貸付台帳上の数字だけが年々増大していっているわけで、コメコン諸国に対するソ連の貸付総額は莫大なものですよ」
「そうでしょうなあ。ソ連はそれを回収できる|当《あて》があるんでしょうかね?」
「いや。東欧圏の労働生産性が格段に改善されない限り永久に困難でしょうな。しかし、ソ連は、それを支配のための投資だと考えているのではありませんか。たとえば、好きなときに好きなだけ一方的に燃料価格などを値上げはするが、各相手国の懐具合によっては、決して無理やり全額を徴収するようなことはしない。可能と判断した分だけを徴収して、残りは貸付台帳に書き加えておくのです。なぜなら、このやり方が、相手を生かしも殺しもしない状態にしておいて、そこから継続的に労働力と生産物とを好きな時に自由に引き出す方法だからです。
こうして作った貸しは、その国から受け取る生産物の代価と少しずつ相殺してゆくのです。ですから、ポーランドは国家財政をようやく維持してはいるものの、一九七七年以来、ソ連に物を売っても、まともな代金は払ってもらえずに、国民がやっと生きてゆけるだけのものしか受けとっていないのです。というわけで彼らは、西欧経済圏に属するオーストリアに石炭を輸出して実質価値のある西欧通貨を稼ごうと夢中になって働いているのです」
「東欧圏というのは、軍事的にも経済的にも、まさに、ソ連という名の漁師に搦め取られた魚のようなものですな。生きる世界は生け簀の中だけで、死なない程度に餌を与えられて、生殺与奪の権を漁師に握られている……」
「ウィリスさん。あなたは、なかなか譬喩が上手な方だ。そこで、お国の大統領が、ポーランドに約束された経済協力だが、今後、その援助がどの程度の規模で実を結ぶのか予測できません。しかし、私は、それは到底ポーランドの現在の状態を覆し得るようなものになるとは信じておりません。累積の財政赤字が厖大に過ぎますし、ポーランドがコメコンとワルシャワ条約機構に組み込まれている現状では、外部から注ぎ込まれた余分なものは貸金回収の名目でなんやかやとソ連に吸い上げられてしまうのが落ちだからです」
ヒルシュマイアの、眼鏡の奥の瞳はますます熱を帯びていた。クルトが呼び鈴を振ってブラン・ド・ブランを、もう一本注文した。
「ソ連は別にして、東欧圏の中の最大の国がポーランドです。そのポーランドの有様がこのとおりです。チェコスロバキアの実情については、いまさらお話する必要もないと思います。ハンガリア、ブルガリア、ルーマニア、そして、未だに前大戦に基づく戦時賠償金をソ連に徴収され続けているドイツ民主共和国の現状は、推して知るべしです。
このような状態の下で、人びとが自由な心で人間の進歩の可能性に挑戦したり、希望に充ちた心で毎日寝るときに今日よりよい明日が来ると信じることができる、とお思いですか」
ヒルシュマイアの瞳は酔ったせいかも知れないがうっすらと涙さえ宿しているように見えた。うかつにも、それまで、ヒルシュマイアの話を一般論として聞いていたレスは、彼の親兄弟すべてが東側に残っているのだ、ということにこのときはたと思い至った。
ウェイターが三本目のブラン・ド・ブランの瓶を開けて、三人のグラスを満たすと立ち去った。レスは、逆三角錐のグラスの底から湧き上がる泡を見詰めながら、ヒルシュマイアの心を僅かでも慰めることができそうな事実を探していた。
「教授。おっしゃるように、多少の経済援助などでは、東欧諸国を現状から解き放つことはできないし、彼らの物質生活を格段に向上させることもできない、というご意見は私も肯定します。しかし、人間の、物質生活と対する精神生活では、言葉が道具であり、それを用いて説くこと自体、行動なのです。ですから、自己の確信する正義は行動で示すべきなのです。したがって、わが国の政府は、外交の基本前提として『人権の尊重』を今後とも説き続けてゆくだろうと思いますよ。
現在の第一の対象は、もちろん、ソ連の人権抑圧です。しかしながら、第三世界のある国も対象となり得るし、自由世界のある国ですら、その対象とされているのは、『人権尊重』は、どこの世界でも通用させるべき物指しだからです。勢力圏内に拘束されている民族が自主独立を希望し、自由を知らしめられなかった国民が次第に市民の権利と社会正義のなんたるかに醒めつつあるいま、私個人としても、『基本的権利に基く人間の尊厳と精神の自由』が、全世界の人びとの間で、空の下に地があるのが当然であるほどに通念化するまで、あらゆる手段あらゆる機会を通じて説き続けてゆくべきだと信じています」
「ウィリスさん、あなたのおっしゃることはよく判るし、何世紀かのスケールで人類社会の変遷を眺めるならばまったくそれは正しいと思います。私は決してロマンチックな夢物語だなどとは申しません。また、短期的視野で見てもある程度までは正論だといえます。
東欧諸国の状態を、現在より悪くしないための抑止力の役目を国際世論が果していることは事実ですから。したがって、お国の『人権』の主張が、その国際世論の背骨造りに果している役割を決して軽視するものではありません。そうです。過去においても国際世論の抑止力が働かなければ現在とは異った姿になっていただろうと考えられる事態が何度かありました。
チェコ事件に対する国際世論の反撥力があれほど強力でなかったならば、ポーランドには、一九七〇年のゼネラル・ストライキの日に、ルーマニアには、一九七五年のコメコン・パイプラインは要らないとソ連に対して正式に断わった日に、そして、ハンガリアには、一九七〇年の国党第十回大会で自由化路線を再確認した日に、それぞれ、ソ連軍の戦車が侵入し、おそらくそのまま現在でも居坐っていることだと思います。しかし、そうならないで済んだのは、国際世論の抑止力のお蔭だったといえるでしょう。
だが、ウィリスさん。ここであなたの譬喩を借用するならば、お国の、ソ連に対する『人権抑圧反対』の主張は、御者に向って、『飛び跳ねるトナカイを革の鞭で打たずに解き放してやれ』ということになります。そして、トナカイに対しては、『曳き綱のクビキを外して自由にしろ、と御者に要求すべきだ』と勇気付けることを意味するのです。こんな説得だけでソ連が、現実に応諾するとお思いになりますか? そうでしょう。よろしい。ならば、人権外交からは、長期的効果のみを期待すべきだとしましょう。しかし、現に生きている一億以上の東欧諸国の人びとは、その効果が現われるまで待つほかなく、それまでは現状どおりの抑圧の下で、生まれ、生き、死んでゆく以外に道はない、ということですか? それならむしろ、トナカイに自由の要求を御者に突き付けさせ、さらに鞭で打たれるようなことは、さすべきでないとお考えになりませんか」
この時まで、昨夜の爆発事故以来の睡眠不足のためか、ブラン・ド・ブランを啜りながら、ほとんど口を開かずに、聞き役に廻っていたクルトが、やおら身を乗り出して教授に語りかけた。
「教授、いま、米国政府が看板にしている『人権外交』は、決して、ミスター・ウィリスが考えているように言葉どおりに純粋なものでも単純なものでもなく、それなりに已むを得ない別の必然の理由があったんだと思いますね。振り返って見れば、それは、カーター政権になってから、大統領の宗教者的な特殊な個性のために急に正面に押し出されてはきましたが、それ以前、フォード政権のさらに前、ニクソン政権の頃からすでに、人権主張が、少しずつ顔を現わしてきていました。
最大の原因はユアロコムミュニズムの擡頭です。フランス、イタリアでは、今後数年の単位で共産党が政権を握る機会が繰り返して巡ってくる情勢だし、スペインではフランコの没後に公認された共産党が選挙ごとに国会の議席を増やしている。
西欧同盟、この場合NATOのことですが、その連帯の基盤が反共軍事同盟のままであっては、存在理由すら疑わしくなってきているのです。私は、かなり前にある資料で、ペンタゴンの苦悩を読んだことがあります。それは、西ヨーロッパに共産主義政府が出現した場合、アメリカの『片田舎出身の|二十歳《はたち》前の兵隊に対し、彼らがヨーロッパまで行って、共産主義者政府が支配する国を、共産主義の侵略から防衛するために生命を賭さねばならない理由を、どうしたら理解させられるのだろうか』というものでした。
まさにこれは、現在、NATO、つまり北大西洋同盟が抱えている苦悶『誰が何のために、誰から何を守るのか』という疑問と同じことです。民主主義を標榜する西側諸国が、北大西洋同盟を結成して、それを反共軍事同盟に|衣更《ころもが》えし共産主義進出に対する防波堤にしようとしたこと自体、すでにその出発の時点で自己矛盾を孕んでいたんです。なぜかといえば、教授には申しあげる必要はないことだが……民主主義というのは主権在民の社会思想ではあっても、共産主義のような政治体制を意味する思想ではないからです。最大多数の民意が共産主義政体を希求した場合、それを阻むこと自体が民主主義を否定することになるのですからね。従ってユアロコムミュニズム擡頭の兆しが見えはじめた時から、米国では西側経済ブロックを東欧勢力の拡大から防衛するための、反共思想以外の理論武装が必要となり、その基本理念が模索されていたんです。その答が『人権』に行きついたんだと私は思いますね。教授、ですからそもそも米国が西側ブロック防衛の基本理念を、『反共』から『人権』に置き替えることを決定した時、トナカイの立場を慮り思い遣るような|肌理《きめ》の細かさは所詮期待し得なかったんではありませんか」
「クリスチァンゼンさん。西側ブロック防衛の基本理念が『反共』から『人権』に置き替えられるにいたった事情はあなたがいわれるとおりかも知れない。しかし、それでもなおかつ私が指摘したいのは、『反共』か『容共』か、あるいは資本主義か社会主義か、などは人間が理想社会を造るために試行錯誤し模索している現段階で、時に応じて選択される数多い選択肢の中の一つに過ぎず、決して絶対的なものではないということです。しかし、『人権』は人間が自ら生きる便宜のために拵えたあらゆる集団、あらゆる組織のルールを凌駕すべき絶対的なものなのです。つまり、それは一人の人間が集団と対決する場合の最終的かつ絶対的権利であるので、いってみれば人間集団の最大組織である国家の側から自己の都合による政策の具として軽がると口にすべきものではないのです」
レスはまたもやここで、ヒルシュマイアがさらに自説を進める前に自国のために一言いっておきたい衝動に駆られた。クルトが言外に指摘しているような米国式対局的合理主義だけでなく、自国では常にそういった合理主義の追求と同じ程度の熱意が理想追求の面でも費されている、というイメージを、レスは胸中に深く抱いているからだ。
「教授、そしてクルト。わが国外交の正面に『人権』が押し出されることになった動機はそうかも知れない。また『人権』の主張は国家の側がいいだすようなものではないのかも知れない。しかし動機はどうであれ、その主張が社会正義、人間道義に照らして間違っていないのなら非難するに当たらないのではないかな。
昨日までの西側ブロック防衛の基本理念であった『反共』を他のものに置き替えるにしても『人権』以外の何かでもよかったはずだ。例えば、経済圏の防衛に主眼を置くなら、『繁栄の維持』を唱えて東側ブロックに挑戦してもよかった。この方がむしろ即効効果があったかも知れない。だが、わが国の人びとは|挙《こぞ》って『人権』の確保こそ人間社会で未来永劫に維持されるべき不変の理念だと確信しているからこそ、外交の|竿頭《かんとう》に掲げることにしたんだ、と私は思うな」
「レス、そうかも知れないな。だが、すでに自由世界や第三世界のある国は、余りにも右翼的政府であるために人権抑圧の槍玉に上げられて、君の国からの経済援助や軍事援助のバルブを締められて泣いている。一方、人権主張の本来の目標だったはずの東欧圏では、これといった効果が現われているとは思えない。
レス、敵は大して応えていないのに、味方がすでに苦しんでいる、という現実はどう解釈すればいいのかな?」
「外交上の『人権』の主張とは、さっきもいったように、それを不変の理想と信じつつ|弛《たゆ》まず説得を積み重ねてゆくことによって、徐々にだが、“絶対的”効果が現われてくるべきもので、即効効果を狙ったものではないからだよ」
レスにしては珍しく少々固苦しい態度でクルトに反論した。
ヒルシュマイアが執り成すように間に入った。
「まあまあウィリスさん。親近感を持った余りに、だんだんに話が弾んでお国の政策について無躾なことを申しあげ過ぎたようで、どうかお許しください。要は、我われの現在の痛みを、なんとか判っていただきたかったのです。わが身の三分の一を切り取られた痛みと、その三分の一がソ連の抑圧の下で苦しんでいることを。このままでは痛みはますますひどくなってゆき、別の大きな痛みがさらに襲うだろうと私は予測しているのです。
結局は、医者と患者との、立場の相違のようなものですな。あなたのお国は、親切で知識豊富で腕も確かな医者だ。電話一本掛ければ、真夜中にでも患者の家に駆けつけてきてくれる誠意のある医者だ。患者にとっては最高に申し分のない医者だといって差し支えないでしょう。しかし、いかに優れた医者といえども患者と痛みを頒ち合うことはできない。そもそも、患者が医者にそれを求めること自体間違いなのです。どうやら痛みのひどさに耐えかねて私は無理な注文をしていたようです」
「とすると教授。わが国の対外援助は、効いているのかいないのか判らないようなビタミン剤の配給だし、人権尊重の標榜は、朝の健康体操の奨励だと……」
「おいレス。君は教授の譬えを誤解しているな。電話一本で駆け付けてくれる医者、というのは西ヨーロッパがワルシャワ条約軍の侵攻を受けたとき、君の本国から派遣される援軍のことだ。君の国から最初の四日間に少なくとも四個師団と五十戦闘飛行中隊が増派されるということはこの国の誰もが知っているが、君も知ってのとおり、敵が何の予兆も見せずにわが国の東部境界線を突破して侵入してきた場合には、ライン河東岸までのわが方の防禦陣がすべて制圧されるのが三十時間以内、一時間前に予兆を掴んだとすると約四十八時間、運よく二時間前に掴めた場合には七十二時間だったね。いずれの場合でも、英仏海峡までのわが方の防衛線が一旦はワルシャワ条約軍によって制圧されてしまうのが二百時間から四百時間の間、という想定だ。つまりはだ。わが国の全土は、われわれが体勢を立て直して反撃に出る前に確実に一度は戦場と化し、幸運にも反撃に成功して敵を押し返すことになったとき、二度目の激戦の場になるんだ。NATO軍としては最終的に勝利を獲得できれば万々歳だろうが、二度も両軍に蹂躙されるわが国の場合は勝利を喜ぶばかりでは済まされない。ましてや戦術核兵器が使われたとなれば、勝利を祝う人間すらわが国土の上に残っていないかも知れない。教授の譬えはね、こういうわが国特有の痛みを判って欲しい、ということなんだ。それについこの間新聞に洩れた『大統領メモPRM─10』だ。
『同盟国領土喪失は最小限にし、速かな開戦時点境界線回復を保障する』というあれは一旦は撤退することを意味している。今、この国の市民の間では君の想像以上にこれが大問題になり、不安を呼び起しているんだよ。
教授が話した医者と患者の関係の譬えは、最終的に病気に打ち勝つことができればいい、つまり、ワルシャワ条約軍との戦いに勝てればいい、というのではなくて、わが国固有の事情も判ってほしい、ということなんだ」
同意を求めるようにクルトがヒルシュマイアの表情を窺うと、どうしたわけか彼は返事をしばらく|躊躇《ためら》った。
「ええまあ、ある点までは……。私が申しあげた譬え話はお説のとおりです。しかし肝心なのは実はその先なのです。今夜は親しみの余りにウィリスさんには大そう不愉快な思いをさせてしまい申しわけありませんでした。
始めにゾンネンフェルトやブレジンスキーの東欧政策の話を持ち出したり、今、医者と患者の譬え話を披露したりしたのは、実は私のやっている近代史科学の理論に基いて到達した東欧問題処理に関する方法論をみなさんにお話するための下地作りだったのです。実行不可能な馬鹿げた話だと、みなさんのような専門家は一笑に付されるでしょうが、ま、遊戯のつもりで聞いてください。ブラン・ド・ブランの酔いも覚ましてから帰らないとなりませんからね。
さて、私どもが私どもの近代史科学理論によって導き出したある方法によって、東欧諸国を直ちに解放でき、かつ西ヨーロッパが戦場化されるのを避け得る道が発見されたのであります」
クルトとレスは顔を見合わせ、真面目にこの話に乗るべきか否かを迷う不確かな笑みを浮べて椅子に深く坐り直した。今や本職の教授然となったヒルシュマイアの眼は教場で学生たちを眺め廻すときのように穏やかに笑っていた。
「いいですか? みなさん、これは確実な方法です。答は、東欧ブロックに対してNATO軍が先制攻撃を仕掛けることです。東欧諸国を解放し、西側が破壊から免れる道は、これしかありません」
レスとクルトは、声にこそ出さなかったが、ほっと息を飲んでヒルシュマイアのあい変らず微笑している瞳を、冗談かどうかを確かめるために覗き込んだ。
「いやいや、びっくりなさったですか? 決して冗談をいっているのではありませんよ。この様子では、私どもの研究室で出した回答にますます信頼が置けますな。回答は述べているのです。『最大の困難は、この方法をいかにして、NATO諸国の当事者に承諾させるか』だとね」
とにかく、ヒルシュマイアが彼自身としては至極真面目に話していることは判った。だが、NATOがワルシャワ条約国に奇襲攻撃をしかけて東側ブロックを侵犯するなどという話は、荒唐無稽、冗談としかいいようがない。
「私どもの研究室は、戦争は相手の領土の上ですべきだなどと、身勝手なことを単純にいっているわけではないのです。
ところで、近代史科学という学問について、お二人はご存知ですか?」
二人とも頸を横に振った。
「そうですか。一口にいえば、集団心理学に、一年、十年といった時間の係数を加味して、民族や国民が、時代時代のできごとに反応した心理要因を追究し、歴史の必然を証明しようとする学問なのです。近代に限定しているのは、古い時代については正確なデータが採れないので、科学にはなり得ないからです。
一例を挙げてみましょうか。わが国のイスラエルに対する態度には、他の国に対するのと異る何かが常に働いています。その理由は、四十年近い昔、人間でいえば約一世代半前に、ヒトラー・ドイツが犯した過ちに対する民族単位の贖罪意識が、国民心理の中に未だに潜在しているからです。もう一つ、身近な例を挙げましょうか。フランスは、地理的、人種的、宗教的、政体的、そして国防経済的に見てもNATO組織に加盟している方が自然であり合理的であるのに、なぜ一九六六年、ド・ゴールが大統領の時に脱退してしまったのか? 一口にいって、フランス人が持つ民族的優越感がその答であるのはご存知のとおりです。彼らが先駆けて現代社会の基盤をなす文明文化の近代化を果したのだという民族的な誇りが、ウィリスさん、あなたのお国、フランス人から見れば、強いが決して大人とはいい切れない国が中心の、つまりアメリカ主導型のNATO組織にフランスをして留まらせることを潔しとしなかったからです。
近代史科学と申しますのは、このような特異な人間集団心理要因を加味して民族間、国際間の歴史の必然を証明しようとする学問なのです。ご理解いただけましたか?」
この話はよく判った。二人はすぐさま頷いた。卓上に放置されている三つのグラスの中のブラン・ド・ブランが温まってしまって泡がすっかり消えていた。クルトが、アイス・バケットから瓶を取り出して注ごうとしたが、ヒルシュマイアが掌を振って断わった。
「では、本題に入りましょうか。
近代史科学の手法は、未来に向けても使えないことはありません。もちろん、近い未来ほど分析確度が高くなります。この手法を用いて、私どもは、ワルシャワ条約機構六カ国の、現在プラスマイナス二カ年の国民心理について、多角的に分析を試みたわけです。作業の目的は、実は『ワルシャワ条約軍の攻撃はあり得るか? 回答がイエスの場合、その時期は?』という設問を中心に、現今の東西関係の政治的緊張が関係国国民心理に及ぼしている影響を調査することでした。
コンピューターが出した回答は『イエス』で、時期は『最短期間』と出ました」
またもや二人は、真面目に話を聞くべきかどうか迷いはじめた。クルトが頬に笑いを浮かべながら尋ねた。
「『最短期間』というのは、何日くらいなんです? 明日、明後日ということもあり得るんですか?」
教授は、正確に意志を伝えようとするように、咳払いをしてからゆっくりと口を動かした。
「さきほどお話しましたように、私どものやっている学問では、時間の単位として、一年と十年を組み合わせて使っております。したがって、最短期間といいますと、零から一カ年の間を意味します。そういうわけでありますので、おっしゃるように、明日や明後日も、可能性のうちには入っております」
レスの頭の中のどこかに、ヒルシュマイアの話を真剣に考えてみようとする部分があったのかも知れないが、今日の午後、あの気圧計記録表のようなグラフを前にして、爆発事故についてあれこれクルトと話し合っていたときに、二度ほど脳裡を|過《よぎ》ったあの考えが、また突然、浮び上がってきた。彼は、話の先を続けようとしているヒルシュマイアを眼顔でしばらく押さえて、クルトにいった。
「クルト。明朝には回答をくれるといっていた例の件、この時間には、もうできあがっているんじゃないかな?」
クルトは咄嗟になんの話か思い出せなかったらしく怪訝な表情をレスに返したので、ヒルシュマイアには失礼と思ったがレスは止むなく英語で早口に喋った。
「ほら、掘り出す音の全線調査だ」
ようやく意味が通じたクルトは腕時計に眼をやり、
「そろそろ九時半だな。電話をしてみようか」
といい、ヒルシュマイアに、失礼、と声を掛けて立ち上がり、急ぎ足で部屋を出ていった。
残った二人が雑談をしていると間もなくクルトは戻ってきて、レスに伝えた。
「まだだ。あと一時間はかかりそうだ、といっていた。ここの電話番号も教えておいた。
いや、教授。お話中失礼しました。仕事のことを、急に彼が思い出したものですから。どうぞ、先を続けてください」
ヒルシュマイアは満足そうに、まるで自分の学生を眺めるような穏やかに微笑を湛えている瞳を二人に交互に注ぎながら話を再開した。
「よろしいですか。では、私どもが分析を試みたワルシャワ条約機構六カ国の国民心理について、話を続けます。
第一号設問として私どもが採りあげたのは、それぞれの国民が、『現政権を信任しているか』というものでありました。無条件で『イエス』の判定が出たのは、チャウシェスク政権のルーマニアと、ホーネッカー政権のドイツ民主共和国の二つだけで、条件付き『イエス』がハンガリアとブルガリアでありました。その上、ハンガリア、ブルガリアの現政権支持志向は、時間の経過とともに強まってゆく傾向を示しております。残りの二国、チェコスロバキアとポーランドは、現政権が国民の信任を得られていないばかりでなく、逆にむしろ、『市民の手から政府を護る必要性が時間の経過とともに増大する』という判定が出たのであります」
「国民の生活向上が、うまくいっているかどうかによるんじゃないかな。クルト、君は、どう思う?」
「基本的には、そうなんだろうが、国民心理には、分配についての公平感などが微妙に絡むんじゃないのかな」
「生活の向上感について、別の項目で行なった『経済は好転していると感じているか』という設問に対する判定と、二例以外が一致していますので、基本的にはウィリスさんのお考えは正しいのです。しかし、『経済は好転していると感じているか』という設問に対して、おもしろいことに、チェコスロバキアでもその答は無条件の『イエス』になっているのです。どうやらこれは、政府の情報管理と宣伝によって、国民がそういう風に思い込まされている、というのが私どものコンピューターが下した判断です。現状からしてそうとしか判断しようがない惨めな経済条件下に置かれていながら、『経済事情が好転している』と感じているチェコスロバキアの国民を私は心からかわいそうに思います。三十数年前の状態、つまり大戦下の生活水準と現在とを比較させられていたら、だれだって、好転している、と答えるでしょう。
ついでにお話しますと、ブルガリア国民の場合はたった今申したように、現政権支持志向が強く出ているのですが、必ずしも経済状態が好転しているとは感じておりません。しかし、あの国は、強国の思惑に取り巻かれている中でバランスを取ってゆかねばならない難しい環境下にありながら、現政権が、よく国の自主独立を確保している点を同国民はかなり高く評価しているようです。
例えば、人類史的ともいうべき長期間にわたって、ユーゴスラビアとの間で争っているマケドニア領有権の問題があります。ソ連は、ユーゴスラビアが非同盟主義を唱導して自分に背を向けるまでは、この争いを気にも留めずに黙過していたのですが、今ではまったくブルガリアの肩を持っています。もちろん、ソ連がブルガリアに対して微笑を送っている裏には別の魂胆が隠されているのです。つまり、最近|頓《とみ》に西側経済に接近の度を強めているルーマニアおよびユーゴスラビアとの間にブルガリアが位置している。そのブルガリアを手なずけることによってユーゴスラビア・ルーマニア両国間の|楔《くさび》の役を果させ、両国による非同盟主義の共震作用を破壊しよう、ということです。だが、ブルガリア自身は両隣の大国に対抗するのに、このソ連の思惑を大いに利用している。なかなか大したものです」
レスの頭脳は別のことを考えていた。ワルシャワ条約軍のことだ。ヒルシュマイアの話の切れ目を待ち兼ねていたようにクルトを見て唐突に口を開いた。
「ブルガリアにはソ連駐留軍がいたんだったかな?」
「いや。常駐軍はいない。アドリア海、エーゲ海、黒海に挾まれているあの四つの社会主義国は、それぞれ個性があっておもしろいな。ユーゴスラビアは、ワルシャワ条約国に加わっていない。アルバニアは、ソ連のチェコスロバキア軍事侵攻に抗議して条約から脱退した。ルーマニアは、条約国ではあるが条約軍に兵力を提供しない代りに金を払っている。ブルガリアは、僅かな兵力、約三万名だけをワルシャワ条約軍に提供する代りに、ソ連とは、いついかなるときでも、自国内に好きなだけ駐留軍を送り込むも可、という協定を結んでいる」
喋りながら微かな興奮と陶酔感に浸っていたヒルシュマイアは聴き手の二人が自分を無視して話しはじめたのに多少苛立ちを感じたのか、ここで話題を上手に奪い返した。
「今はブルガリアに駐留軍を置いていなくても、近ぢかソ連が軍隊を送り込む機会は二つあります。チトー後のユーゴスラビア政府の統制力に弱体化が生じたとき、もう一つの機会は、ルーマニアの西側傾斜傾向が現在より僅かでも強化亢進されるとき、です。私どものコンピューターは、双方の機会が具現化するのは最短期間内である、と分析しております」
「つまり零と一カ年の間ですな?」
「そのとおりです。ではいいですか? 私の話を先へ進めます。第一設問『現政権を信任しているか』の次に採り上げた第二の設問は、各国民の西欧指向性についてです。文化、経済、政治の三項目に分けて解析を試みました……」
ヒルシュマイアは心から楽しそうで話は延々と続きそうだった。今日の午後、二度ほど浮んでは消えた例の予感が、ヒルシュマイアの話を聞いているうちにレスの脳裡にまたもやはっきりと浮んできた。分析の経過はともかく、教授のコンピューターはどんな理由で、ワルシャワ条約軍の攻撃開始の時が近づいている、という判定を下したのか、彼はそれを早く聞きたかった。
「教授。申しわけありませんが、ワルシャワ条約軍が近々攻撃してくる、と研究室のコンピューターが判断したという、その根拠について、先に話していただけませんか?」
「そうですな。NATO軍の先制攻撃が、どうして問題解決の最良策なのか、その理由も早く伺いたいですな」
と、クルトもいった。教授は話の腰を折られたために興を削がれた風だった。
「そうおっしゃられても、論理の組立てには順序というものがありますし、正しい判断を下すためには、事実の綜合的認識が不可欠です。しかたがありませんな。ま、よろしい。すっかりご説明するには、いずれにせよ、今夜一晩だけでは無理だと思われますので、順序を変えて、掻い摘んでお話しましょう」
地雷を掘り起している音が、境界線の全域で収録されているのか、爆発があったあの場所だけなのか、間もなく判明する。もし、東側が、境界線に敷設しておいたすべての地雷を撤去しているのだとすれば、ヒルシュマイアの話をこうして笑いながら聞いてはいられなくなる。とはいえ、あい変らず、レスには、総兵力四百七十万を擁するワルシャワ条約軍が、今の時点で西側に攻撃をしかけてくるとは信じられなかった。彼我の戦闘能力を、質と量の両面から考察すると、戦車を除けば、ほぼ均衡しているといえる。戦車については、彼らの二万七千五百両に対し、我が方の七千両と、紛れもない大差がある。だが、この彼らの優位に対して、ソ連が各条約国に期待している燃料備蓄計画が、期待どおりに機能していないことが、大きな足枷になっている。それに、燃料不足が理由ともなって、彼らは、過去二年間、合同演習をしていない。個々の条約国の軍事演習すら、もともと彼らの中で何につけても最優秀なドイツ民主共和国だけが駐留ソ連軍との連携演習を毎年二回ずつやって兵器の|銹《さび》を落している程度なのだ。
「……では、みなさん。設問『外国からの脅威を感じているか』に対する分析結果についてをここでお話しましょう。その前に、みなさん。私どものコンピューターは、“近々のうちに、ワルシャワ条約軍が攻撃をしかけてくる”という回答を出しましたが、決して、これを前提としたうえで、私どもが、“NATO軍が先制攻撃をしかけることが、問題解決の最良の方法である”という考えに立ち至ったのではないことを、覚えておいてください。
さて、なんと、全六カ国の国民とも、外国からの脅威を“感じている”のです。もっとも、チェコスロバキアの場合は、一九六八年以来十年以上も、“ソ連という名の外国の脅威に晒されている”わけですが、それなのに、もっとも強く、“西欧からの脅威を感じている”ことが、回答にはっきり現われています。またしても、これは、ソ連軍常駐を正当化するため、政府が行なっている宣伝誘導の結果だと、私どもは判断しております。
この他に西側からの脅威を感じている国は一つだけ。それはドイツ民主共和国です」
「なるほど。残りの国ぐにの国民がいう外国からの脅威とは、ソ連からのものを意味しているわけですな?」
「そのとおりです。次にご説明しなければならないのは『西ヨーロッパ解放のために武力行使をする場合、ワルシャワ条約軍の一翼として戦うか』という設問についてです。ドイツ民主共和国の場合だけが、無条件の『イエス』を示しております。ルーマニアとブルガリアは、完全な『ノー』です。この両国民は自分たちの政府も、国民と同じように決断するだろうと確信しております。
残るポーランド、チェコスロバキア、そしてハンガリアの国民心理は『ノー』に近いものですが、政府の指導力次第で『イエス』にも変り得る不安定な状態です」
「その三国の場合は自国政府はともかく、その背後に控えているソ連による懲罰を惧れて、やむなく参加するという心情なんでしょうな」
「それが正しい見方です。私どもも、コンピューターの回答もそのように解釈しております。その証拠には、設問が『東ヨーロッパ解放軍が、西側から進出してきた場合、ワルシャワ条約軍の一翼を担って戦うか』という風に置き替えられますと、この三国民の心理は、ルーマニア、ブルガリアと同様に、完全な『ノー』に変化します」
「『イエス』は、すると、ドイツ民主共和国だけになりますな」
とクルトが口を挾むと、ヒルシュマイアは黙って浅く頷いた。
「ワルシャワ条約軍の方から戦端を開く場合と、NATO軍が先制をかける場合とでは、このように東側の抵抗力が異ってくるのです。私どものコンピューターは、この点に着目すべきだ、と教えているのです」
たしかに、この話は筋が通っている。しかし、それは紙の上でのことだ、とレスは内心で反論した。
「なるほど、それがNATO先制論の根拠なのですね。お説のとおりだと、六カ国合わせて七十万の兵力は十五万程度になり抵抗力は大幅に減ります。しかし、背後に地上兵力だけでも二百六十万全軍合計四百万のソ連の大軍が付いているのを考え合わせると、大同小異ではありませんか」
「いやいや、大丈夫です。ソ連軍は動けません。戦機の半分は時間要素だというではありませんか?
私どものコンピューターいわく、NATOの空陸兵力が、チェコスロバキアの首都プラハに達するのが開戦六時間後、ポーランド平原を通って首都ワルシャワに達するのが十八時間後だそうです。しかも、この時間割は、武力接触を回避するために両国の駐留ソ連軍の撤退速度を上廻らないように調節したうえでのことです。このような短時間では、ソ連は絶対に反撃態勢の整備を完了し得ないと、コンピューターは判断しているのです」
「驚きましたな。教授の研究室にあるコンピューターは、戦略まで立案できるんですか?」
「そのとおりです。人間集団の心理に基くことならなんでも、です」
ヒルシュマイアは落ち着き払って答えた。
「それにしても、NATO軍の前進速度が早過ぎはしませんか?」
「いや。考え合わせてみてください。ワルシャワ条約軍が、突然、わが国の境界線を突破して侵入してきた場合、NATO軍が最善の措置を採っても、彼らがイラン河東岸に達するのに、僅か三十時間しか、掛からないと想定されている。緒戦の防衛というのは、そういうものです。NATO軍が先制する場合には、ほとんど抵抗がない、とコンピューターが判定しているのです」
「え? すると、各国の駐留ソ連軍は、我われの進出に伴って無抵抗で後退する、と想定されているんですか?」
「そのとおりです。ですからNATO軍先制の場合は、犠牲者も少ないといえるのです。ご説明しましょうか。頭に地図を想い浮べてください。ルーマニアは、それからルーマニアがそうした場合ブルガリアも、もともとワルシャワ条約軍に加わる意志がないのですから、NATO軍が動きだしても、自国が攻撃されないかぎり静観の態度をとるはずです。
地理的理由ではほんの僅かしか駐留ソ連軍がいないハンガリアは、現政府が直ちに不戦宣言を行なうはずです。チェコスロバキアとポーランドは、開戦後一、二時間の裡に国民の圧力で政権交替が行なわれ、彼らの人民軍は、逆に駐留ソ連軍を駆逐する態勢をとるはずです。各国駐留の、その国軍のお目付役でしかないソ連軍が撤退せざるを得なくなるのは、理の当然です。
以上は、私どものコンピューターが、東欧諸国の国民心理を分析したうえで、結論づけたものです。冒頭に、私が、身勝手から、戦争は相手の領土の上ですべきだといっているわけではない、と申しあげましたが、その理由は、今まで申したように、抵抗が少ない戦い方ほど犠牲者も少なくて済むということからなのです」
ほど良く廻っているブラン・ド・ブランの酔が手伝ってか、レスはヒルシュマイアの弁舌の暗示にかかってしまったようで、すべてが実行可能な真実のように思えてきた。
「ワルシャワ条約国の中で最優秀のドイツ民主共和国が残っておりますな」
レスよりいく分冷静なクルトが、ぽつんといった。ヒルシュマイアはあい変らず自信たっぷりだった。
「ドイツ民主共和国には、十五万の国軍と、八個師団八万の駐留ソ連軍とがおります。NATO軍は、開戦と同時に西部境界線つまり表口だけを制圧します。ボヘミア盆地からエルツ、ズーデート両山脈の間を抜けたNATO軍が、オーデル、ナイセ両河方面のポーランドとの国境、つまり裏口を制圧し終えるのは、開戦十二時間後。この間は、隣国ポーランド、チェコスロバキアで政変が起き、国軍が造反し、駐留ソ連軍が撤退をはじめるなど、大混乱が続いています。ドイツ民主共和国は、突然のチェコスロバキアとポーランドの造反のため、計画外の両国との間の国境線防備に忙殺され、また、同国駐留のソ連軍が、孤立化を惧れ、東側の国境を突破して自国への撤退を図るなど、混乱の極に達しているので、攻撃をしないかぎり、撃って出て来られる状態ではありません。したがって、表裏両面を封鎖した形で放置します」
この話の進め方は、なんとなく、かつての同胞の国には手を付けないでおこうとする意図が感じられてレスは確かめてみた。
「それも、コンピューターの予測ですか?」
「いや、予測ではありません。コンピューターが出した結論です。双方の犠牲者を少なくするには、これが最善の方法なのです」
「わかりました。いいでしょう。開戦後、一、二時間後に、ポーランドとチェコスロバキアで政変が起る。国軍が造反し、駐留ソ連軍が撤退する。NATO軍は、六時間後にプラハに達し、十二時間後に、オーデル、ナイセ両河の国境線を封鎖し、そして十八時間後にワルシャワに達する。各国市民の歓声を浴びながら、です。
さて、それから、どうするんですか?」
「これからが肝心です。時を移さずに、世界に向けて、宣言を発するのです。
NATOはソ連の本来的領土を侵犯する意志がないこと。
解放された国家の、既存の国際条約義務は、一定期間凍結されること。
新政体を決定する国民自由選挙の実施を保証すること。
ソ連軍が再び進駐しないことを条件に、新政権樹立後、|可及的《かきゆうてき》速かに撤兵すること。
この四つです」
「ソ連は、そのまま黙って引っ込んでいるでしょうかね? そうは思えませんねえ」
「大丈夫です。ソ連については、どの国の分よりも豊富なデータが、コンピューターに入れてありますので、彼らの心理についての判断は、極めて正確なのです。
いいですか。ソ連という国は、弱い相手には、どこまでも押してきますが、強く押されると、必ず引っ込むのです。歴史上、勝てる見込みがない強い相手と、後に退かずに争った事例は一件もありません。反撃するのも、自分の方が相手より強くなったと見極めてからで、そのときまでじっと耐えて、機会が来るのを待っているのです」
「とすると、昨夜は東の連中も、ハンスには勝てる見込みがないと思ったのですかなあ」と、レスが一言冗談をいおうとしたとき、部屋のドアにノックの音が聞こえた。クルトが返事を返すと、ドアが開き、小脇にコンセント付きの電話機を抱えた店の主人が現われた。
「クリスチァンゼンさまにお電話が入っておりますが。こちらでお取りいたしましょうか?」
「いや、電話室の方に繋いでくれないか」
クルトは機敏に立ちあがって出ていった。部屋の壁に掛かっている皿時計の針は、十時二十分を指していた。地雷を掘り出している音について、境界地帯全域にわたる調査が完了したのに違いない。
五分ばかりでクルトが戻ってきた。彼の表情の底には晩餐後の会話を楽しんでいた、あの雰囲気が一欠けらも残っていないのにレスはすぐに気付いた。悪い予感がした。しかし、ヒルシュマイアがいるので最少の単語を取り交した。
「全域でか?」
「いや」
なんだ、そうか。レスは、自分が抱いていた危惧はやはり杞憂であったのか、と最初からその可能性を否定し続けていた彼の常識が勝利の凱歌を上げたのだが、同時に、クルトの表情に出ている変化の意味を訝った。
話が佳境に入ったところで残念そうな風情の、ヒルシュマイアではあったが二人の眼に浮んでいる或る種の固いものを目敏く認めて、
「みなさんの畠には、またお仕事の種子が播かれたようですな」
といい、膝の上のナプキンをテーブルの上に戻した。
「実は、おっしゃるとおりなんです。急な仕事ができてしまって。お話の先をもっと伺いたかったのですが。申しわけありません……」
肩を並べて部屋を出ながら、話し足りない風情のヒルシュマイアを慰めるように、クルトが語りかけた。
「もちろん、また次の機会にゆっくりと伺いますが、最後にひとつ。さきほど、ワルシャワ条約軍が近々攻撃してくる、と教授のコンピューターが推定した、とおっしゃいましたが、その理由を簡単に伺いたいですな」
「そうでした。そうでした。私どものコンピューターは百五十幾つかの条件を分析計量したうえで、最終的に四つの根拠に総括しました。
第一の理由は、ソ連国家経済の極端な逼迫です。コメコン内の経済は物々交換のようなものだというのは先ほどお話したとおりで、問題は、西側との取引で生じる赤字をどうするかですが、各国の貿易赤字の帳尻に借款を与えているソ連が結局全部を背負い込んだ形にせざるを得ない。そこでソ連の西側に対する純負債総額は今や五百八十億ドルにも達しております。従って今では、インド・ルピーやエジプト・ポンドまで掻き集めて対外決済に当てようとしているような状態なのです。
第二の理由は、東欧圏人心のソ連からの離反です。実は、今日ソ連がもっとも深刻に受け留めている勢力圏内の問題はこれなのです。『革命の必然性』も『外国からの脅威』もすでに使い古された宣伝文句と化した今では、コメコン諸国をつなぎ留めておく、特にワルシャワ条約国をつなぎ留めておくのには『生活の向上』を実現するしかないのです。しかし、対西側貿易においては原材料を売り資本材を購入するという宿命を背負っているソ連圏では、二度の石油ショック以後、その資本材価額が数倍にも高騰してしまった結果、ますます彼らの懐具合を圧迫しているので、資本投下率は急激に低下している。このため、彼らの労働生産性は毎年ソ連が標榜する数値の十分の一程度にしか上昇していません。したがって、ここ数年来ソ連圏諸国の人心に『共産主義に対する失望』が急速に浸透しつつあるのをソ連自身熟知し、憂慮の色を深めているのです。
第三の理由は、第一の理由と関係が深いのですが、私どものコンピューターは独立した一項として扱っています。つまり、経済成長率の鈍化とそれに逆行する軍事費率の上昇です。この鋏状|乖離《かいり》の速度が年を追って亢進することを、ソ連は自認せざるを得なくなっているのです。おもしろいことに、私どものコンピューターは、この面でのソ連の現状を、前大戦末期におけるドイツの状態と対比しています。つまり、生産設備の消耗と武器増産の必要性との鋏状乖離の中で、ドイツが『新兵器の出現』だけに希望をつないだ、あれです。ただし時間係数はドイツの三倍と弾き出していますから、このままの状態でソ連が進んでいった場合、末期症状に達するのは五、六年先ということになります。
最後に、四番目の理由ですが、それは採掘技術の誤用によって生じた原油生産量の急激な低下です。生産率が低下した|油井《ゆせい》を更生するために実施した注水方式という技術が、運悪くウーファやシャリヤビンスク油田の油層に対しては不適当であったために油田そのものを殺してしまったのです。完全恢復には今世紀一杯かかると見られています……」
レストランを出てから、人影がほとんど見えない敷石の舗道を二人は喋り続けるヒルシュマイアを間にして駐車スポットに向ってゆっくりと靴音を合わせて歩いていた。
今の話だと、ソ連は絶望的な難問を幾つも抱えていることになる。どれ一つを選び取っても西側と戦うのには致命的な足枷になる、といえる。レスはヒルシュマイアの話に矛盾めいたものを感じて意地悪げに反問してみた。
「しかし、教授。考えてみるとおかしくはないですか? ソ連という国は自分より強い国には決して挑戦しないのだ、そして、自分の方が相手より強いことを見極めないかぎり反抗もしないのだ、と先ほどいわれませんでしたか?」
ヒルシュマイアは平然として答えた。
「まさにそのとおりです、ウィリスさん。だからこそ、彼らは“今”我われに戦いを挑むしかないのです。いいですか。今後どれほどの年月を待っても、自国が今にも増して西側より強力になることのないことを、そのうえ、待つほどに条件は悪化してゆくだろうことを、ソ連は正確に認識しているのです。したがって、彼我の軍事力、質と量とを掛け合わせた総力が、どうやら拮抗している現時点で戦わないかぎり、起死回生の機会は永久に失われる、と判断しているのですよ」
ヒルシュマイアは勝ち誇ったように片目を瞑って、
「お判りになりましたかな? ウィリスさん」
と最後に付け加えた。
三人はいつの間にか各自が車を停めておいた道路脇まで来ていた。舗道の敷石と同様に車も六月の夜気の中でしっとりと露を被っていた。
クルトがヒルシュマイアに、明日またハンスを別の病院に移送することになるかも知れないが、自分がいなくとも秘書でもその連絡先が判るようにしておく、と伝えた。
ヒルシュマイアは、ハンスのためにクルトがとった措置に対してと、晩餐への招待について改めて礼を述べた。だが、車に乗り発進させる間際になって、窓を開けると悪戯そうな顔付きで、舗道に立って見送っている二人をからかうように呼びかけてきた。
「クリスチァンゼンさん。ウィリスさん。時間があれば最後に申しあげるはずだったのですが……。実は、気の毒なことにワルシャワ条約軍は土壇場で西側侵攻を断念せざるを得なくなるのです」
「え? 何ですって?」
クルトとレスは同時に質ねた。
「たった一枚最後に残っていたカードによってコンピューターの解答が百八十度逆転したのです。『ソ連は決定を実行に移せない』とね。
さて、それはどんなカードだったと思われますか? いうまでもなく『国際世論』ですよ。世界中の人びとの瞳というのは四百七十万の軍隊よりも強力なのですよ。よかったですなあ。
さて、今夜は久し振りに心から楽しませていただいた。では、またお目に掛かります。お許しがあれば、ですが……」
ヒルシュマイアは楽しげな声で笑い、左手をひと振りすると、排気ガスの臭いを残して走り去った。
走り去る車のテールライトを見やりながら、
「今夜は教授にすっかり楽しまれてしまったようだな」
とレスが振り返ると、クルトの顔はまたもや先刻の固い表情に戻っていた。レスの気軽な態度に取り合う時間も惜しむかのように、自分の車に向けて顎をしゃくり、
「車の中でちょっと話さないか」
と先に立った。レスは自分のフォルクスヴァーゲンの隣に停めてある彼の濃紺色のベンツに乗り込み並んで坐った。ウインドシールドの外側に露が降りていて前方が全く見えなかった。
「どうしたんだ? クルト。さっきの電話で何かあったのか? 地雷撤去の一件はもう片付いたじゃないか」
「いや、レス。今日の午後、君が何に気付き、何を危惧しはじめていたのか、その意味がさっきの電話でやっと判ったんだ」
「彼らが境界線全域で地雷撤去を始めたのなら問題だが、そうではなかったんだからもういいじゃないか」
「全域ではなかった。しかし、部分的にやっていたんだ」
「なんだって? 爆発事故があったあそこだけじゃなかったのか?」
「違う。あの音は、境界線の十数カ所で、一週間前に一斉に始まり、昨夜の深夜に同時に消えたんだそうだ」
「その十数カ所というのは?」
「問題はそれなんだ。東西が一国だった頃に一級国道や鉄道が通じていた附近ばかりなんだ」
クルトはシャツの胸ポケットから取り出した紙切れをレスに渡した。十四、五個の地名が書き取ってあるが、レスには半分くらいしかそれがどの辺りにあるのか判らなかった。しかし馴染みのある地名はすべて、NATOが戦略分析「ワルシャワパクト・インベージョン・テキスト79〜82」いわゆる『ウィンテックス79〜82』の中で推定している三つのワルシャワ条約軍侵攻系路のどれかに含まれているものだった。クルトもいち早くそれに気付いたのだ。だから、電話室から戻ってきた彼の顔色が青ざめていたのだ。
「チェコとの国境線の方はどうだったんだ? あの音は収録されていないのか?」
「そう。収録されていない、という返事だった。もう一度精密に調べるようにいっておいたが」
この後しばらく沈黙の時間が流れた。クルトは煙草をレスに奨め自分も火を点けて吸い込みながら、夜露に被われていて何一つ外部が見えないウインドシールドの内側をじっと見詰めていた。今彼が考えているのはどんな事か、レスには推し測ることができた。
可能性を否定し去ることができずに、幾年も、幾年も、幾年も、そう結局三十年も、この国のだれもが頭の片隅において片時も忘れずにいた事柄が、ついに現実の姿をとりはじめるとき、それがこんなにも微細でひそやかな発端であっていいものだろうか、と考えているのだ。
「……クルト。これが我われ二人が考えているようなことだとすると、残された時間は少ないな。そう思わないか? これからすぐに他の方面にも確認作業を頼んでみるよ」
クルトは頸を少しだけ曲げ、レスと視線を合わせて黙って頷いた。二人にしては珍しく別れの握手を交し、クルトの車から出たレスは隣にある自分の車に乗り移った。車の時計は十一時を数分過ぎていた。
[#改ページ]
ヨット繋留場の岸壁に沿って続いている遊歩道の縁に二十メートル置きくらいに立っている街路灯の光が、丸い船窓からキャビンの中に射し込んでいた。さらに何十分かが経ったとき、中尉は腕時計を着けている左腕をゆっくりとまたその光の中へ伸ばした。十一時を数分過ぎていた。
キャビンの中に入ってからすでに三時間近くが経過していた。音と動きを殺した辺りを忍ぶ挙措ながらも、五感を常に研ぎ澄ませつつ、彼はひたすら連絡員の現われるのを待っていた。ときおり若い男女の群が声高に会話を弾ませながら遊歩道をやってきて、また遠ざかってゆくが、彼らの屈託のない華やいだ笑い声が彼の耳の底にいつまでも取り残された。
遊歩道の端にあった渡り板から自然な動作でヨットの甲板に跳び移った彼が、人目を引かぬように気を配りながらキャビンの引き戸に手を掛けると、錠は約束どおりに外れていて、するすると開いた。指示に従い、まず着衣を取り替えようと、用意されているはずの衣類や靴を探したが、狭いキャビンのどこを検べてもそれらは見当らなかった。だが、この船が目標のヨットであることは確実で、マホガニー張りのキャビンの|戸框《とがまち》に真鍮製の船籍板が螺子留めされており、はっきりとそれに「HH─一〇五六」と刻まれていた。
衣類が用意されていないことで、この国の中にいる協力者の信頼性に対して微かな疑問が頭を|擡《もた》げるのを感じた。彼は、手違いの始まりを予感しながらも、一方、諜報部で付与された手筈どおりの場所に目指したヨットがあり、またそのキャビンドアが開錠されていた事実に幾らか勇気づけられて、連絡員は必ず現われる、と自身にいい聞かせながら待っていた。
北東の微風を受けて船体が僅かずつ左右に揺れていた。丸窓から射す光の下の陰の中にある黒革の長椅子の上に、彼は鈍痛が未だに残っている左肩を上にして横たわり、船外の物音に神経を集中していた。瞑目すると昨夜来のできごとが第三者として眺めていたかのように蘇ってくる。今すでに彼が潜んでいるこのヨットハーバーを、潜水具を纏った彼自身が暗黒の湖面に浮び遠いものとして眺めたのは、僅か二十数時間前のことだった。そのあと、立て続けに起った数々の予期せぬできごとの一場画一場面が鮮明に彼の脳裡に焼き付いていた。邪魔が入ったために苛立つ爆発物処理隊の軍曹の表情、夜行性のけものたちについて語るクラウゼン二等兵の楽しげな顔、夜空を遮って飛び廻る無数の鳥の叫び声、探照灯の光芒を目指して殺到してくるオオシカの大群、牙を剥き、今にも跳びかかってこようとしている小牛ほどもあるシェパード、二人揃って淳朴そうなクラウス夫婦……、とりわけクラウス老人から問わず語りに聞かされた話、クラウゼン二等兵はどうやら生命を取り留めた、というところに回想が及んだとき、彼の両頬は自然に緩んだ。
回想に浸っている間にどのくらいの時間が経過したのか、湖面を渡ってきた一陣の強風がひと吹きでヨットを岸から押し離し、そのため繋留索が一杯に張り詰めた。その反動と船体の軋みで、彼は我に返って目を見開き、周囲に対する警戒を怠っていた自分を戒めた。
国家元首ホーネッカー書記長の面前に彼が唐突に連れ出されたのは、数えてみるとちょうど十日前のことだった。一時間ばかりだった書記長との対話の末に、いつの間にか彼は決して容易とは思えないこの特殊な任務を快諾していたのだった。彼が任務を引き受けたあと、書記長は太縁の老眼鏡の奥から考え深そうだがしかし鋭く光る両眼で彼の瞳を凝視しつつ、
「いいかね。君がたった今引き受けてくれた困難かつ重要なこの任務の成否は、大袈裟な表現を借りずとも、真にわが民族の存亡の如何を左右するものだ、とわしは考えているのだ。したがって、使命完遂の時まで、君個人の私情は一切措き、国家民族の将来のためにひたすら君のその心身を機械の如くにして目的達成のために働いてもらいたい」
と、説きつけるようにして念を押したのだった。彼はそれをその場で確約した。そしてこの任務に就いたのだった。
中尉の通常の勤務場所はユッターボークに展開している第101戦闘航空団の基地の一隅にある航空電子技術研究所だった。ユッターボークはベルリンの南南西六十キロメートルにある。
彼がそこで開発し、約半年前には実物実験にも成功を収めた飛行誘導装置が、ワルシャワ条約統一軍結成以来最大規模といわれる今夏の演習において重要兵器の一つに採用されることが決定されたのは三カ月前だった。
この飛行誘導装置は、この装置を装着した重量約五百キログラムの滑空機を、ほぼ二百キロメートル前方で固有のパルス信号を発信している目標に対して、発射点九千メートルの高空から極めて正確に誘導してゆくものだ。
彼がこの装置の開発を思い立ったそもそもの目的は、極北地方など救助活動に困難性が伴う地域における航空機や船舶の遭難に際して、遠距離から確実に救援物資を急送しようとするところにあった。
しかし、実験が成功裡に終った後、全長五メートル、翼幅六メートルの滑空機がグラスファイバーと木材そしてナイロンコードとによって大量に製造され、レーダー網を突破して爆音も立てずに目標地点に物資を空輸するために使われる兵器に変った。
あらゆる部分を黒一色で塗り込められた機体が、なんとなく黒ツグミの姿を連想させるので「アムゼル」と愛称されるようになった。
「アムゼル」が兵器として使用されることが決定された後、誘導電波発射点と着地点とのズレを十メートル以下にせよ、との指令が彼のもとに届けられた。このズレをなくすには、「アムゼル」側の受信機と地上側の誘導電波送信機の双方に使用されているクリスタルの持つ波長を完全に同一にすることが必要だった。そこで彼は、二個のクリスタルを同一素材から同時に同一環境下で製作する工程を設計し、それもほぼ成功に近づきつつあった。
今からおよそ四カ月前の二月下旬に、突如ワルシャワ条約加盟諸国の国防責任者のもとにクレムリンから極秘扱いの招請状が届いた。指定の参集日までには数日を残すのみだったので大方の国が難色を示したのだが、このときのクレムリンの態度には有無をいわせぬ峻厳なものがあった。
五日間の会議の後に彼らが雪の降りしきるモスクワから携行して戻ったのは、ワルシャワ条約軍の総合演習「オペラシオン・ダモイ」の実施要領書だった。
一九七五年七月にヘルシンキで開催された米ソを中心とした三十五カ国による欧州安保協力会議の宣言採択以来これまで、東西両陣営のいずれかが大規模な軍事演習を実施する際には、無用な誤解を回避するために二カ月以上の余裕を持って相手側主要国に対して演習計画の概要を通知するという慣行ができていた。そればかりでなく、演習内容を開示することにより、かなりの示威効果が期待でき得るので、相手側軍事専門家にその実況を観閲させることすら互いに許可するのが慣行になっていた。
しかし、この相互観閲の慣行は、一九七八年七月五日以降五日間にわたってドイツ民主共和国中部地帯でソ連が独自に実施した大規模な旅団移動演習の時を境に、ソ連は西側に対して許可しなくなった。
今回の「オペラシオン・ダモイ」では、
「公開はもとより演習実施の通告さえ西側に対して行なう必要なし」
とクレムリンは、ワルシャワ条約加盟諸国に既に決定済みの自己意志を伝えた。
「なぜならば、今回の演習は、西側がワルシャワ条約加盟国のいずれかに対し、突如侵攻してきた場合を想定し、その際個々の加盟国が緒戦において単独で採るべき即応態勢を点検するのが目的である。したがって、これはワルシャワ条約軍としての統一行動以前の通常国家活動であるので、西側に対してそれを逐一通知する必要はない」
というのがクレムリンの説明だった。
演習は、六月一日以降のある日、クレムリンが、西側の侵攻地点と規模を想定して、それを通告してきたときに開始され、それまでに、各国は自国の防衛態勢を整備しておく、ということになっていた。
「アムゼル」の関係者も、急に多忙になった。開発者である中尉にとっても、多忙な毎日になった。飛行誘導装置の工場ならびに滑空機の生産工場、それに装置の軍用訓練場の三地点の間を行き来するのが、近頃の彼の日課になっていた。
六月も中旬に入ったが、まだクレムリンはいずれの加盟国に対しても演習開始を宣言しなかった。
「アムゼル」の準備がほぼ完了したある日、彼は上司から諜報部の訓練センターに出向いて諜報部員に対し、無線送信機への発振クリスタルとパルサーの取り付け方法を教育するように、と命じられた。
国防省諜報部の訓練センターは、ベルリン市の北方六十キロメートルに当るダンネンヴァルデの森の中にある。松、樅、そして処々に樫の木が混って自生しているこの一帯は、ソ連軍の巨大な武器弾薬貯蔵庫と燃料槽が地下深く構築されており、ドイツ民主共和国国軍の士官といえども、許可証なしには一歩たりとも立ち入ることができない地域だ。森の中には、正確に九十度で交差している舗装道路が幾本も碁盤目のように走っており、道路沿いの金網の柵によって四角に区切られた区画の中には、それぞれ数百両の戦車や特殊車両が木々の繁みの下に隠れるようにして並んでいる。
多数の完全武装のソ連兵が警備しているこの金網の囲いの間の道を小一時間も走ったあと、ようやく彼が導かれた訓練センターも、同じく高さが三メートルもある金網で囲われている広い敷地の中にあった。敷地の中央に平屋建の鉄筋コンクリートの建物がぽつんと建っていた。建物は全体が濃緑色で塗られていた。建物の周囲に伐り残されている野生のトチの木の枝を茶色の|栗鼠《りす》が敏捷な動作で渡っていた。敷地の中の草原のあちこちで野兎がしきりに雑草の新芽を喰んでいた。
建物の中に案内されたが、病院のように静かだった。所定の手続を済ませたあと指示された廊下を進んでゆくとエレベーターホールに出た。階数を示す数字は下の方ほど大きかった。ここでは、すべてが地下に隠されているらしかった。彼が導かれた所は地下四階だった。廊下の角を幾度も曲り、ようやく教場に達した。教場には、六十名ばかりの青年がすでに集まっていた。それぞれ私服を身に付けてはいるが、眼の動き挙措動作が軍人そのものだった。
教場の中央にある樫材の大きな作業台に乗っている無線機は小型のものが大部分で、中には飛行誘導装置を作動させるには、出力が不足しそうなものがあった。驚いたことにその中には米国製のものまでが多数混っていたが、この時点では、まだこれらの無線機の種類の多さが意味するところに彼は気付かなかった。
それら大小各種の無線機へのCR─7超小型クリスタルの装着法や、小型機の場合、電力の瞬発力を利用して電波の到達距離を延長するために、できればパルサーを装着するのがよいことなどを丸一日がかりで教え終った。
持参した説明資料などを彼が鞄に仕舞っている間に、青年たちは皆教場から出ていった。と思ったが、ふと気付くと、彼の机の前に一人の青年が立っており、彼が顔を上げるのを待つように正面から見つめていた。説明が不足したり専門的に過ぎたりしたときに、他の青年の代表のように熱心に質問を発していた男だった。
「やあ。まだ何か?」
数歩歩み寄ってきた青年がいった。
「私はカルル・リッター中尉。空軍所属だ。中尉、君はレオンハルト中佐を知ってるね?」
「ああ。それがヘンドリック・レオンハルト中佐のことならよく知っている」
「中佐が今夜君に会いたいそうだ」
ヘンドリック・レオンハルト中佐は、彼と同じく電子工学の専門家で航空電子技術研究所の上司であるばかりでなく、彼の研究テーマの最良の理解者の一人だ。「アムゼル」も、中佐の理解と支援があったればこそ完成し得た、といっても過言ではない。
「ユッターボーグ基地に戻る途中、運転手に、急に人に会う用事ができたとでも取り繕って、君はベルリンのフリードリッヒス植物園の南の角で車を降りたまえ」
リッター中尉はそれだけいい残すと幅広の肩を翻して教場から足早に出ていった。問い返す暇も与えずに立ち去ってゆくリッター中尉の後姿を見送りながら、諜報部というところでは物事について解説を求めることは許されない、とよく耳にするが、それはこういう場合を指すのか、と彼は黙って苦笑した。と同時に、何故に中佐は直接自身で連絡して来ずに、リッターのような自分とは一面識もない男を介して伝えてきたのだろうか、という怪訝な思いが頭を掠めた。しかし、いずれにせよ彼は、中佐に呼ばれればたとえそれが真夜中であろうと喜んでどこへでも駆け付けてゆくだけの日頃の関係にあった。
間もなくダンネンヴァルデの森の中にある諜報部訓練センターを後にした車は、四十分ばかりで国道109号線を走り切りベルリン市内に入った。前方に鬱蒼とした森林を四角に切り取ってきて囲んだようなフリードリッヒス植物園が見えてきたとき、彼はぎごちなく、
「ああそうだ。急用を思い出した。あの植物園のところで降ろしてくれないか」
と運転手に命じた。車は植物園の西側の歩道脇で停った。車を捨てた彼が鉄柵の中の背丈より高い白樺林を左に見て、指定された南の角に行くために数歩足を運んだとき、突然後方から現われた黒塗りの車が彼の真横の歩道の縁石にタイヤを軋らせて急停止した。
「中尉、さあ乗りたまえ!」
後部座席に独り坐っているレオンハルト中佐がドアを開けるなり、小声ながら緊迫感を宿した口調で呼び掛けてきた。彼はその声に促されるように中佐が身をずらせて作ったスペースに滑り込んだ。ドアが閉った途端、車は極端に初速を上げて走りだした。
「どうも、中佐。一体どうしたのです? 何か急用ができたのですか?」
「その話は向うに着いてからにしよう。それより今日はどうだった? 順調に終ったか?」
「はい。どうやら明日まで持ち越さずに済みました。相手が優秀な青年の集まりですからね。しかし、あそこには新旧大小外国製まで混る各種の無線機があるんですね。驚きました。しかし、あそこの連中は何でも結構上手に使いこなしますね」
「そうだな」
ほの暗い車内で、中佐は彼の横顔からちらっと眼を離し正面を向いて僅かに表情をこわばらせたが、彼は気付かなかった。車はいま東に向って走っていた。彼はせき立てられてこの車に乗り込んだときから頭の中に引っ掛かっていた疑問を口に出した。
「中佐。植物園の西側を歩いていた私によく気付かれましたね。ご指定の場所は確か植物園の南の角だったと思いますが……、それに待合わせの時間も決っていなかったのに……」
中佐はぽつんと言った。
「カルルだよ」
「え? カルル?」
「そう。カルル。カルル・リッター中尉だ。運転している男をよく見たまえ」
運転者が前方に顔を据えたまま右手を軽く挙げて振った。
「また会えたな。中尉」
暗いバックミラーの中の顔は眼尻だけが笑っているように思えた。濃茶色のコールテン製の労働者帽を眼深に被ってはいるが、その横顔と声はまさしく先刻教場から足早に消えていったリッター中尉だった。この男は秘かに彼の行動のすべてを注視していたらしい。中佐たちの動きの間合いのよさは、そうとしか考えられなかった。
車は人目を引かない程度の高速でベルリン中心区を離れた。真夜中までには未だ数時間が残されているのに、互いに凭れ掛かるようにして建ち並ぶ中心区外郭の小住宅街は、そのどの窓からも外部に洩れる光がなく、まるで無人地帯のようで、中心区居住者との間の極端な生活程度の差が歴然としていた。
やがて車は亭々と聳える樅の古木の並木にさしかかった。樹間を透して右手に小さな湖水が鈍い銀色の光を放っていた。そこまで来たときリッター中尉は車の速度を急に落し、道路を外して一本の樅の大木の蔭に乗り入れた。彼はそこがどの辺りか見当がつかなかった。見廻してもただ樅の古木の並木がどこまでも黒ぐろと続いているだけで、目印になるものは一つとして見当らなかった。訝っている彼の方に顔を向けた中佐が重たそうに口を開いた。
「……すまんが、中尉。ここで目隠しをさせてくれんか」
瞬間彼は、耳に聞こえた中佐の声を聞き違えたと思った。
「なんですって? 中佐。今なんといわれました?」
運転席から上体を捩って振り向いたリッター中尉の左右の手に黒い布の両端が握られていた。中佐の言葉を聞き違えたのではなかったのだ。
薄暗い車室で彼は中佐と中尉の顔を交互に睨み据えていたが、ややあって低い怒りの声を押し出した。
「中佐! これは一体どういうことなんですか? どのような目的で、あなたは今夜私を呼び出されたのです? その理由をまずご説明願います!」
中佐がわざわざリッター中尉を介して伝言を寄越したときから訝しく感じていた何かが次第に形を露わにしはじめたのを今はっきりと認識した。未だかつて足を踏み入れたことがない、自分とは種類の異る人間が住んでいると決めている別の世界の入口に今立たされて、入ってゆくことを強要されている自分を彼は感じた。
「中尉。わしらを失敬な奴だと思わんでくれ。こんなことを君に要求しなければならない理由はすぐに判る」
車内は暗く、中佐の表情こそはっきり見えないが、その声には懇願の欠けらが明らかに混っている。彼は中佐の懇望をいつまでも拒否し続けてはいられないであろう自分を知っていた。闇の中でしばらくの間、表情の隠れたリッターの顔を鋭い瞳で見据えていた彼は、やにわに黒い布切れをその手から奪い取ると、それで自ら両眼を被い後頭部で結んだ。車内の二人は締め具合を確かめるようなことはしなかった。
再び動き出した車が樅の並木の陰から道路に戻ったのが判った。そしてまたいきなり速度を上げ、右に左に何度かタイヤの音を軋ませて曲りながら二十分ばかり走った後、速度を落した。それからゆっくりと左折して砂利石の上を静かに進み、砂利を踏む音が突然やんだところで停止した。
「さあ着いた。中尉、すまんな」
と、それまで無言だった中佐がいった。
「そのままで待っておれ。わしが手を貸す」
中佐は自分の側から出て車の後を廻り、中尉の側のドアを開けると彼の右肩の上に促すように掌を置いた。彼は車を降りて敷き石の上に立った。森のにおいがした。大きな邸の玄関前の車寄せに立っているらしかった。
「中佐。私はここでお待ちしております」
と、リッターの声が背後から聞こえた。背中を軽く押す中佐に促されて足を踏み出した。数歩の後、中佐が、
「停れ。あと半メートルで石段。二段昇る」
と耳元で教えた。ドアが開かれている大きな入口から屋内に踏み込んだようだった。周囲から多くの人びとが立ち働いている気配が全身に伝わってきた。木タイルの床を十数歩進んだところで中佐が彼の歩行を押し留めてまた教えた。
「右足のすぐ前に昇り階段。十八段昇る」
階段には絨緞が敷いてあった。段数を頭の中で数えながら昇った。途中で中佐が誰かと挨拶を交した。昇り終えたところで中佐が左に向きを変えた。数歩の後、今度は右に変えさせられた。そのまま約二十歩行ったところで中佐は片手で彼の胸を制して押し留め、誰かに声を掛けた。
「お二人ともおられるか?」
「はい。おられます」
若い男のきびきびした声が答えた。この男も軍人らしい。
「レオンハルトが到着した、とお伝えしてくれ」
「判りました。お待ちください」
耳のそばでドアが開き、すぐに閉った。そのドアは待つ間もなくまた開き、男の声が告げた。
「入室してよい、といっておられます」
中佐の腕に促されて足を前に進めた。空気が頬に暖く感じられ廊下から人のいる室内に踏み込んだのが判った。
「ヒルシュマイア中尉を同行いたしました」
と中佐は、介添え人のように彼の横でいい、続けて小声で彼に囁いた。
「目隠しはもう外していい。すまなかったな」
彼は布切れの結び目を解いた。部屋中の電灯の光が一斉に両眼を襲った。目頭を何度か指先で擦るうちに、壁面のほとんどが書架で被われている天井の高い部屋の中央に、二人の男が大きなアームチェアに腰を下ろしているのが朧げに見えてきた。片方の大きな男は軍服を着ているようだった。さらに視力が整うと、それが人民軍の将兵から「国軍の父」と敬愛されているヴェルナー・オルガス将軍であることが判り、彼は跳び上がらんばかりに驚いた。そして反射的に靴の踵を鳴らし胸を反らせて直立の姿勢をとった。次第に明るさに馴れてきた瞳は、さらに、それより何倍も彼を驚かせた。なんと、オルガス将軍の隣の椅子に身を沈めているのは、この国の元首エーリッヒ・ホーネッカー書記長、その人だった。二人の老人は坐ったまま幼な児を見るときのように和んだ目で直立している彼を遠くから見詰めていた。
将軍が、自分の前の椅子に坐るように大きく手を振って招いた。
「ヒルシュマイア中尉。固くならんでいい。ここへ来て掛けなさい。何を飲むかね? 中佐、ご苦労だった。君もひとつ、どうだ?」
「ありがとうございます、将軍。しかし、いまから、あちらの会合に参加しますので。リッター中尉も待っておりますし」
「そうか。リッターも来ておるのか。面倒を掛けたな。では、明日、あそこで会おう」
「それでは、書記長閣下。将軍。今夜はこれで失礼いたします」
彼の脇に寄り添うようにして立っていた中佐は、上体前傾十五度の敬礼を残し、その部屋から出ていった。将軍は今、中尉でしかないリッターの名をすら、親近感を籠めて口にした。将軍と中佐が交した短い会話の中にさえ代名詞で通じ合う彼ら共有の世界があるらしいのが感じられた。今夜、彼をここに半ば強制的に連行してきた中佐や中尉、そして今この館の中にいる人びとは、よくは判らないが軍の通常組織と異る紐帯で結ばれており、なんらかの共通目的のために活溌に活動しているらしい。そしてそれには非合法の臭いさえするのだが、その活動の中心にはどういうわけか国家元首のホーネッカー書記長と国軍の父と呼ばれるオルガス将軍がいるようなのだ。
「ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア。さあ立っていないでここに来て|寛《くつろ》ぎなさい」
あい変わらず直立したままの彼に書記長が優しく声を掛けてきた。彼は部屋の奥に進み、促されるままにテーブルを挾んで二人と向い合う椅子に着席した。
「わしらはこれを味わいながら話していたのだが、君もどうかね? 辛口でなかなかだよ」
書記長は自らシェリーが入っているらしいガラス容器を取り上げて三つのグラスを改めて満たし、一つを彼の方にテーブルの上を指で押して寄越した。彼は書記長と将軍の動作に合わせてグラスを眼の高さに捧げ、頷き合ってからグラスに口を付けた。
「ところで……」
と将軍が、彼の緊張を|解《ほぐ》すように口を開いた。
「『アムゼル』の方はすっかり準備ができたかな?」
「はい。機体の方は八十機がすでに完成しており、装着する飛行誘導装置も同じ数だけでき上がっております。しかしクリスタルの方がまだ全部揃っておりませんので、その完成を待っております。それもあと一日か二日のうちにでき上がる予定であります」
「『アムゼル』は動力なしに二百キロメートルも滑空できるのだとたった今将軍に聞かされたのだが、本当かね?」
と書記長。
「はい。そのとおりであります。標準で申しますれば、高度九千メートル、速度〇・九マッハで発射されますと、それまで胴体上面に畳み込まれていた主翼が自動的に広がり、同時に機首に搭載されている飛行誘導装置に電源が入ります。そして、風向きなどが最悪の条件であっても、『アムゼル』は目標地点に向って二百キロメートルは楽に飛んでゆきます」
「なるほど。どのくらいの時間で二百キロメートルを飛ぶのかね?」
「それは離脱時の速度にもよりますが、例えば、Mi─21に曳航されて、速度〇・九マッハで離脱したとしますと、百キロメートル地点までは約十分、二百キロメートル地点までは約三十分であります」
「そんなに長く速く飛べるものかな。器械に疎いわしには到底想像がつかんな」
と、書記長は将軍の同意を求めるようにしきりに頷いた。
「Mi─21の両翼端に一機ずつ曳航されるようになっているが、いまのところ『アムゼル』の構造体の強度が、〇・九マッハ以上の速度には耐えられないのですよ。これが改良されれば、飛行距離はさらに伸びますな」
と、将軍が説明を補った。
やがて彼の頭の中に、「アムゼル」の話を聞くだけのためにあれほど手の混んだ手段で自分をここに連れてきたわけではないはずだ、と考える余裕が生まれてきた。それを見透したかのように書記長は話題を変えた。
「話は変るがハンス。あれから幾年が経ったのかな?」
あれ、というのは、彼が拡大高等学校を卒業するときに全国から選ばれた三十名の中に入って成績優秀賞の褒状を書記長の手から授与された、そのときのことをいっているのだと判断した。今、それ以外には考えられない。しかし、彼があのときの少年のひとりであると、毎年同じ行事を繰り返しているはずの書記長が記憶しているのが不思議だった。
「はい。およそ六年になります」
「そうか、六年が過ぎたのか。ハンス、君は、わしが期待したとおりの立派な青年に成長したな」
「ありがとうございます」
将軍はすべての事情を知っているらしくシェリーのグラスを弄びながら、話す二人に微笑を送っていた。
「あの日、君の順番は、始めから三分の一くらいのところにあった。君の番が来て褒状を渡すことになったとき、わしが他の子供たちにしたより長く、君の顔を眺め廻していたのに気づいたかな?」
書記長の手から褒状をもらうために、アルファベット順に名を呼ばれて演壇の前に出ていったあの日、たしかに彼の順番は三十名中の十一番目だった。なぜ、書記長はそんなにまで微細に覚えているのだろうか?
「いいえ。気づきませんでした」
「そうだろうな。実は、わしは、君の顔立ちの中に或る人の面影の片鱗を探していたのだよ」
書記長はシェリーを口に含み、味わい、飲み下して、続けた。
「あの日、表彰式場に到着してから手渡された被表彰者リストの中に、わしはハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアという名があるのを発見した。もちろん君の名前だ」
彼も将軍も沈黙して次の言葉を待った。
「そう。あの日、君の名前は、久し振りでわしの心の中に、大戦後の混乱の中で、祖国を再建することにのみ情熱を燃やしていたわしの青年時代の記憶を呼び起したのだ。
わしらの同志は、四国占領下にある祖国に、いかにして自治政府を樹立するか、いかにして民族の独立を回復するか、そればかりをいつも模索し討論していたものだった。食糧事情が極めて劣悪だったその頃、毎晩のように憂国の青年たちが集まり、ひもじい者には食物が分け与えられ、深夜まで談論風発の自由な雰囲気の中で、青年たちがそれぞれ胸に抱いている自分の意見を戦わせることができた一軒の居心地のいい家があった。その家の主人は元初等国民学校の校長だったそうだが、当時は首都再建委員会の学校制度委員の一人だった。その頃わしらは、『先生』と呼んでいたが、その人の名も、ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアといった」
書記長は、改めてまたその人の面影を彼の顔立ちの中に発見しようとするかのように、じっと見詰めた。
「先生の円満な人格、包容力のある人柄、そして均衡のとれた正義感、とりわけ、神に対して約束した義務を果そうとでもしているかのように激しい、国家再建への熱情に魅かれて、何度かわしらは先生を、党の幹部に擁立しようとしたが、だめだった。先生は、自分には、首都の学校再建が分に相応した実現可能な社会義務だ、と終始いっておられた」
書架の前にある大きな事務机の上の置時計が、可愛い音色で、チンチンチンと十一回鳴った。
「わしらと先生とは、結局、政治思想の一致を見ることができないで終ったのだが、若かったその頃に触れた、真の人間愛に基いていた先生の社会観、人間観が、わし自身が気付かぬうちにどれほどこのわしの内面に影響を与えていたものか、年を取るほどに気付かされることが昨今は多くなり、その都度先生が述べておられた思想の確かさに驚かされているのだ。
あの日、君の顔立ちをつぶさに確かめたのだが、先生の血筋に関わり合いのある証拠は発見できず、さりとて違うという確信も持てなかったわたしは、君のそれまでの生い立ちを調べさせることにした……」
拡大高等学校を卒業するまで国の孤児養育施設で育てられた彼には、ほとんど両親に関する記憶がなかった。ただ、少年の頃にいつしか彼の耳に聞こえてきた他人の囁きは彼にとって残酷なものだった。「お前の両親は国家逃亡者として射殺され、お前の祖父母は国家反逆者として投獄された」とその囁きはいっていた。真偽を確かめる術もない少年の彼は、肉親の二字から努めて遠ざかり、自身の力だけを頼りに孤独に堪える心を活力の源として勉学と研究にすべてを傾注してきた。敢えて一つでも愛と呼べるものを彼の少年期の中に探すなら、それは露地裏から拾ってきて育てた幾頭かの野犬の仔との交歓だけだった。
今から書記長の口をついて出るだろう言葉は、忘れようと努めてきたこの暗い少年期の記憶を再び呼び醒すものかも知れなかった。いつになく鋭く研ぎ澄まされた意識を以て、彼は書記長が口を開くのを待った。
「……数週間の後にわしの手元に届けられた報告書は、やはりわしの直感のとおり、君は間違いなく先生の孫であることを語っていた。思い当ることが何かあるかね?」
「いいえ。全くありません。両親についてすらほとんど知らない私は、祖父についてはその名さえ知らないのであります」
と答えつつ、今日まで努めて無視し続けてきた人間本然の渇望が今や満たされようとしているとき、この日まで意志の力のみで孤独に堪えてきた彼も、身内に慄えるものがあるのを否定できなかった。
「グローテヴォールがドイツ社会主義統一党を作った後、社会は急速に異分子を弾き出す方向に傾いていった。信じるところを口にし節を曲げようともせず、先生の立場なら容易にできたはずだが、ベルリンの西側へ転住しようともされなかったご夫妻は、お二人とも数カ月の違いでソ連占領当局政治局の手によって反革命的言動の|廉《かど》で逮捕されてしまい、多くの人びとと共にソ連国内に労働力として送られてしまった。わしらのような若い者はその当時占領者に対してどうすることもできなかったのだ。
先生ご夫妻には可愛い息子さんが二人あった。わしらがお宅にお邪魔していた頃は二人とも十二、三歳だったと思うが、上がリヒャルト、下がハインリッヒといった。わしらはリック、そしてハインツと呼んでいたものだ。リックは、国が二つに分れる以前に西側にある先生の兄の元に預けられたらしい。先生ご夫妻が逮捕され、たった一人取り残されたハインツはやがて先生のお宅で長いこと女中をしていたアンネリーゼという女の実家に引き取られてそこで成長した。このアンネリーゼという名の女中にはわしらも随分と世話になったものだ。気さくで陽気、そして心の暖い女だった。
さて、ハインツは長じて結婚し、生まれたのが、ハンス、それが君なのだよ」
しばらく|躊躇《ためら》ったのち彼は尋ねた。
「書記長閣下。母の名も判ったのでしょうか?」
「判明している。イングリットだ。ここに書いてある。一九三七年六月十八日の生まれだ。あとでゆっくりと読んでみるがいい」
書記長はテーブルの隅に乗っているタイプで打たれた仮綴の書類を、中指で彼の方に押して寄越した。恐らく書記長は彼の到着を待つ間にこの書類を間にして将軍と昔語りをしていたのだろう。将軍は書記長が語った彼の生い立ちをすでに知っているようだった。
二十年以上を両親を知らない孤児として生きてきた彼は、たった今身元が判ったと教えられたにもかかわらず、不思議なことに胸中に湧き上がった慄えるほどの期待感もいつしか消え去り、後刻噛みしめて味わうほどの感動は身内のどこからも湧いてこなかった。情感がまつわりつくような肉親との交流に根差した記憶が何一つないからかも知れなかった。とはいえ、ただ一瞬の感覚だったが、イングリットという母の名が彼の聴覚を揺さぶったとき、この時までに経験したことのない温い何かが胸裡を駆け抜けたのに彼は戸惑った。
「さて、君の両親であるハインリッヒとイングリットは、一九六二年のある日、東西ベルリンの壁にあるC検問所を、改造された強力な大型オートバイを用いて強行突破し西側に脱出しようとしたが失敗した。二人とも警備兵の銃弾を浴びて検問所の内囲いの中で死亡した。四歳になったばかりの君は、倒れている母親の胸の下で無傷で生きていた……」
真実だったのだ。父母はやはり国家逃亡者だったのだ……。
「祖父母もやはり国家反逆者だった……?」
彼は敢えて感情を押さえた声で書記長に尋ねた。将軍が書記長に代り、彼の目を正面から見据えて諭すようにいった。
「ハンス。社会正義の物指しというものは時代と共に変化してゆく、ということを覚えておくとよい。わしらが今夜君に托そうと考えている任務を遂行するに当っても、是非ともこのことを理解してもらわなければならないのだ」
彼は将軍の言葉を耳に聞きながら頭の中では別のことを考えていた。やはり、噂は事実だったのだ。祖父母は国家反逆者として逮捕され、父母は祖国から逃亡しようとして射殺された。今日まで自分の胸に湧き上がるものがあると、必ず自分の頭がそれを押さえにかかった。胸に湧き上がるものとは、一口にいえば社会に対する関心だったが、自分の頭はいつも自分自身への関心だけに徹するのが安全だと警告していた。例えば拡大高等学校を最優秀の成績で卒業したあと、社会活動や政治から遠ざかり、研究や実験に没頭してさえいれば事足りると考えて技術者への道を選択したのも、暗い背景を持つ孤児としての自分の本能的ともいえる知恵であったのかも知れない……。
彼が沈黙して思いを巡らしているとき、背後でノックの音が聞こえ、ドアが開いた。そして彼が先刻目隠しのままこの部屋に連れてこられたとき、部屋の入口で耳にした男の声がいった。
「オルガス将軍。グロックマン少佐が至急お耳に入れたいことがある、とここに来ておられますが」
「そうか」
と答え、将軍は椅子から立ち上がると廊下へ出ていった。と思ううちに戻ってくると、満足そうに書記長の耳に囁いた。二人だけのときには互いに名前で呼び合う仲らしかった。
「やあエーリッヒ。よかったよ。さらに上級大将のSと少将のDがわしらの側に廻ったそうだ。彼らの影響力はかなり活用できるはずだ」
「すると、ヴェルナー。第二正面は完全にわしらが統制できるわけか?」
「おそらく大丈夫だろう。これならな」
Dと付く少将は多いが、名字がSで始まる上級大将は二人しかいない。シュラーダーとザイラーだ。軍内部に強い影響力を持っている人物とすればそれは第五機械化歩兵師団長のシュラーダーだろうと、会話が耳に入った彼は想像した。
「……さて」
と書記長は、彼の方に向き直ると再び話の続きに戻った。
「どこまで話して聞かせたのだったかな。そうだ、ご両親が亡くなって君一人が生き残ったところまでだったな。
とにかく、君が先生の孫であることを知って以来わしは、君の成長を楽しみにして遠くからずっと見護ってきた。高等学校を卒業した君がアルマ・アタ大学への国費留学を希望したとき、許可を下ろすことに反対を唱えた者も幾人かあった。しかしわしは、当時四歳でしかなかった君が、どうして親の行為と関わりがあるだろうか、と反論して反対者を押さえた。アルマ・アタ大学で電子物理を学んだあと、さらに君はモスクワ電子工学院でも勉学を続け、三年間を優秀な成績で飾って祖国に帰ってきた。
今日君は、六年前にわしが期待したとおりに、いやそれ以上に祖国の役に立つ素晴しい青年に成長してくれた。今夜こうして向い合ってじっくりと君を眺めてみて、わしにはそれがはっきりと判った。こんな話をするのは、もちろん君からの感謝を求めているからではないのだよ、ハンス。いいかね、ハンス。或る意味では自分の真の息子に対する以上の関心を払い、真の息子に対する以上に客観的に、遠くからだが君の成長を見守り続けてきたわしは、君という青年をかなり正確に理解しているつもりなのだ、といいたいのだよ。
そこでだが、わしはこの旧友オルガス将軍とも相談し、或る国家的な重大使命を君に托そうと決心した。そのために、無作法をして申しわけなかったが、目隠しまでさせて君にここに来てもらったのだ」
半ば強制的に彼がこの館に連れてこられた理由が判りかけてきた。脹んでいた彼の胸から長い吐息が洩れて、上半身に凝縮していた肉体の緊張は解き放たれたが、それに反して彼の頭脳は鋭敏に研ぎ澄まされて待ち構える姿勢をとった。
「いかなる使命でも、ご命令とあればその達成のために全力を尽します。が、書記長閣下は国家的とまでいわれる重大使命を、一介の技術士官である私が果せるとのお考えで今夜ここにお呼びになったのでしょうか?」
「ハンス。そう改まって尋ねられると困るのだ。率直にいってそれはわしにも判らない。判らないのだ。君に頼もうとしている行動の内容そのものは、その行動が何故に必要なのかを君に理解させるのに較べればさほど困難ではないかも知れない。
つまりだ。国家の指導者自身が自分の政府と国民に対して真相を説明することができず、一時的にしろ謀叛を企てている。それ以外には国家と国民の利益に叶う道がないにしてもだ。どうすれば今のこのようなわしの立場を君に理解させ得るのか、このことの方がよほど困難なのだよ、ハンス……」
突然に疲労を自覚したかのように、政治家というより教育者と見る方が適切な風貌の痩身の書記長は、上体をアームチェアの背にもたせ掛け、肩を落して吐息を洩らした。
「とはいえ、残る時間は僅かだ。君に理解させる努力をし、わしらが立てた計画をこのまま推し進める以外に、も早方法はないのだ。従ってこの任務は誰かに任せる必要があるのだが、ハンス、わしには君を措いて他に適任者が思い当らない……」
どういうわけか彼には、書記長が、大事の前に疲れ切り思い悩む平凡なただの老人のように思えてきた。そう感じた途端、肉親があれば感じたであろうような親近感を持ちはじめた。
「……ハンス。難しい状況なのだ。綱渡りだ。すべてが、まさに綱渡りなのだよ。君を、この任務に当てようとすることすら綱渡りをしようとするように思えてきた。そうではないかな? 将軍」
「閣下。我われが、わが民族が真の独立を確保するためには、その綱を渡り切るほかに方法はないのですよ」
「ハンス。君の理解を得るために、できる限り詳しく事態を説明しよう。その前に確かめておきたい。この使命の成否は、いわば、わが民族の存亡にも関わることなのだ。したがって、使命の達成までは、君個人の国家に対する理解、判断、主義主張、それから私情の一切を捨てて、わしの言葉だけを信じてくれるか?」
彼は、一度唾を飲み込んでから頷いた。
「そうか。よろしい。では、よく聞いてもらいたい……。
さて、ワルシャワ条約諸国が、去る三月から極秘の裡に、『オペラシオン・ダモイ』、わが国での呼称は『オペラチオン・ハイムケーア』だが、この演習の準備に入っているのは、君も知ってのとおりだ。
ところで、この演習は、実は、西側進攻の準備を進めるための隠れ蓑だったのだ。我われが掴んだ情報では、クレムリンは今月の下旬にはワルシャワ条約統一軍の西側進攻開始を命じてくるらしいのだ」
自分の顔から血が引いてゆくのが彼に判った。書記長は冗談をいっているのだろうか?
「わが政府は、初めからそれを知っていた?………」
「いや、このわしすら知らなかった……。わしらの放っている諜者が、モスクワで入手した証拠を見るまでは、な」
「わが国は諜者をモスクワにも入れているのですか?」
「君には、それほど意外かな? 彼らが、わが国の各機関に多数の諜者を送り込んでいるように、我われも自衛のためにやっているのだ。クレムリンの真意をいち早く掴まなければ、この国の利益は一日たりとも護れないのだよ……」
「では、その点は理解したといたしましょう。しかし、充分な事前の協議なしに、突如、クレムリンが西側進攻を決定し通達してきても、わが軍を始めとするワルシャワ条約統一軍の日頃の訓練の成果が充分に発揮できるとは考えられませんが……」
黙って聞いていた将軍が、身を起すと、|徐《おもむ》ろに口を開いた。
「君は率直な信頼できる青年だな。君の憂慮はもっともなことだ。だが、クレムリンとて決して馬鹿ではないのだ。幾人かのわが国の将軍には、すでに計画の全貌が細部に亙って内報されているのだ。秘密裡に彼らは駐留ソ連軍と進攻系路を協議して境界線の地雷撤去の計画書すら作成が終っているそうだ。しかし、クレムリンからの厳しい緘口令のために、彼らは彼らの仲間以外にその片鱗すら洩らしていない。
わしらに隠れて『オペラチオン・ハイムケーア』演習に|託《かこつ》けて、彼らが、秘かに西側進攻の準備を進めているということには緘口令が敷かれているということとは、別のところに本当の狙いがあるのだ。
つまり、彼らクレムリン寄りの軍人グループは、昨今のドイツ連邦共和国に対するわが政府の協調路線について日毎に反感の度を強めており、西側進攻のときをもって政府転覆の好機と考えているからなのだ」
縁の太い眼鏡を外して、手巾でレンズを拭いていた書記長が後を承けた。
「ハンス。わしも一つ、面白い話を聞かせよう。君はもちろん知らないだろうが、西側では、現在、わが国の内部において反政府活動が活溌化していると、しきりに喧伝されているのだ。どうだね。君の見るところ、そんな活動が、わが国の中にあるかね? 実は、これは、わしらの政策に批判的な、日頃からクレムリンに密着している軍人たちが現政府そのものを指して、なんと、反政府的だと叫んでいるのだ。別の言葉でいえば、反クレムリン的だといいたいのだろうが。おかしなことだが彼らはクレムリンが自分たちの中央政府だと思い込んでいるらしいのだ。
したがって、今、わが国軍は磐石の構えのように見えてはいるが、二つの政府による統帥下にあるようなもので、彼らを正面から追い詰めると極めて危険なことになりかねないのだ。わしらが実行しようとしている計画について、わしが、綱渡りだ、と感じている理由の一つは今話した点にあるのだ。判るかね?」
彼はあいかわらず自分が話術の上手な二人の老人に乗せられてからかわれているように思えて仕方がなかった。一時間足らずの間に、孤児である自分の身元が二代前まで遡って明らかにされ、次の話では、半月のうちにワルシャワ条約統一軍に西側進攻のための総動員令が下る、という。その上、わが軍の中身は二つに割れている、と聞かされたのだ。沈黙して僅かに気持の整理を終えた彼は、西側進攻が間もなく発動される、と耳にしたときから胸の中に湧き|蟠《わだかま》っていた単純な疑問を提起してみようと決心した。
「しかし、いま、なぜ、我われが、西側に自ら進攻しなくてはならないのでしょうか?」
「いい質問だ」
と、将軍が身を乗り出した。
「君の今の言葉には、三つの問いが含まれている。『いま』『なぜ』『我われが』だ。
『いま』については、こうだ。西側の軍事技術の革新と、東方における中国の国力増大の双方に対応し得る軍備の拡張をこれ以上続行し得ないと、クレムリンが判断したからだ。軍事費の増大がもたらす、各国国民生活に対する圧迫が、すでに限界に来ていることはクレムリンもよく承知しているのだ。東側ブロックの国家経済はわが国を除いては遠からず破綻する。このまま、西側と軍拡競争を続けているならばだ。したがって、軍事力、戦力が、西側に比して僅かに優位にある『いま』を逃がしては戦う機会は二度と巡って来ない、とクレムリンは考えたのだ。
『なぜ』に対する答は至極簡単だ。西側の能率の高い生産設備と鉱物資源に食糧資源、それと、高度な技術水準にある多数の人口が乗っている領土を、そっくりそのまま獲得して一挙に東側ブロックの経済修復を図るためなのだ。したがって、我われの分析では、西側が使用しない限りワルシャワ条約軍も核兵器を使用しない、とクレムリンは緒戦において西側に通告するはずだ。いうまでもなく、すべてが破壊し尽された領土を獲得したところで、まったく意味がないからだ。
さて、三つの目の『我われが』に対する答だが、これが君を納得させるのにもっとも難しいな。我われは、国を新たに起すときに、資本主義者によってなされる搾取を排除し全人民平等の富の分配を希求するが故に共産主義による政府を選んだ。我われの意に反してすら、『我われが』戦わねばならないのは、その宿命だとでもいうべきだろうか。なぜならば、モスクワの傘の下に入って以来、三十年以上の年月を経たいま、わが国の政治、経済、軍事の各分野は、すべてクレムリンが意図した版図の中に組み込まれてしまっているからだ。その良し悪しの批判は別にしてだ。
いいかな、ハンス。我われは、帝国主義者が侵略してきた場合に相手がどこの国であろうと祖国のために身命を賭して戦うことには毛筋ほどの疑念も持っていない。しかしながら、わが国自身にはその必要性がまったくないにもかかわらず、クレムリンの意図のために、突如、『我われが』西側に進攻することになった場合、若い兵士から、なぜ『我われが』? と質ねられたら、今、君の疑問に充分に応え得ないのと同様に、わしには、それでも弾雨の中を進んでゆけと、説得し得る自信がない。
いいかね、ハンス。そうなった場合、わが軍の正面戦線は間違いなく、ドイツ連邦共和国ということになる。僅か三十数年前まで肉親だった人びと、君やわしらが血肉を分け合った人びとが住んでいる土地に対して、突如として攻撃をしかけることに躊躇を感じない者が一人でもこの国にいると君は思うかね。
思うに、クレムリンが『オペラシオン・ダモイ』を隠れ蓑にして同盟国の我われに対してさえ西側進攻の意図をひた隠しにしているのは、西側に対する戦略上の理由からばかりではなく、わが国政府を始めとする同盟国側の造反を恐れているからに違いないのだ」
「そのような状態でワルシャワ条約軍は西側と効果的に戦えるのでしょうか?」
「君は何歳になる? ハンス」
「二十四歳であります」
「そうか、するとあのとき君は十一、二歳だったのだから知らないのも無理もないが、一九六八年のチェコスロバキア作戦の戦史を|繙《ひもと》けば、よく判るはずだ。
いいかね。へールから南下したわが軍第十一機械化師団にはソ連第一戦闘軍が随行していた。ドレスデンから同じく南下したわが第七機甲師団にはソ連第二十戦闘軍が随いていた。クレムリンは同盟国軍すら信用せずに、常に自国の督戦部隊を同行させるのだ」
将軍の話はまだ続きそうだったが、扉口の方でノックの音がし、扉が開くと、板紙に挾み付けてある通信紙を携えた私服の青年がつかつかと部屋に入ってきた。そして書記長に黙礼するとその通信紙を渡した。文面に眼を走らせ終った書記長はすぐにそれを将軍に廻した。将軍は一読すると一言、
「ごくろう」
といい、それを青年の手に返した。青年は上体を傾けもう一度黙礼すると足早に部屋から出ていった。明らかに重要な情報らしかったが、それについて二人は彼の前で言葉を交すのを憚っているようだった。彼は、彼が今まですべてだと思っていた世界の裏にまったく違う世界が存在し、それが表側の世界以上に活溌に活動している、と感じていた。
ややあって書記長が、将軍にとも彼にともつかないような口振りで話しはじめた。
「将軍はその方の専門家だから、今の話はさすがに論理的だ。わしの場合は永年の経験から培った勘とでもいおうか。余り論理的とはいえないが、自分の判断を後になってから、われながら見通しが正しかったな、と内心ほくそ笑むことがよくあるのだが……。ところで今回のことについてもだが、このままだと遠からずソ連は動きだすぞ、とわしは二年ばかり前から考えておったのだ。
彼らスラブ人の領土観というものは、我われゲルマンとは大分違っていて、いってみれば彼らのは平面的、二次元的なものなのだ。つまり、彼らにとっての領土とは、文字どおり土で造られた大地なのだよ。歴史的に見ても、スラブ人は自ら領有するところの大地を、敵と目される者の大地と直接的に接触させておくのを極端に嫌うところが随所にあった。今もって彼らは、敵と対峙している自らの国境地帯には常にその外側に鎧を着せておかないと気が済まない。しかも二枚の鎧を着せておかないと安心していられない、という奇妙な習性を持っているのだ。
壁に掛かっているあの地図を眺めてみたまえ。彼らの領土とNATO諸国との地理的関係の上に、その習性がいかに具体的に表現されているか、一目瞭然に判るというものだ。
いいかね。彼らの国境線を北から南に見てみたまえ。まず一枚目の鎧として、フィンランド、バルト海、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリア、そしてルーマニアが彼らの領土をNATOの国ぐにから隔てている。二枚目の鎧は、立憲君主制ながらNATOには属そうとしないスウェーデン、わが国、オーストリア、ユーゴスラビア、ブルガリア、それにアルバニアだ。気付いたと思うが、たった一カ所だけ、彼らの領土が一枚の鎧でしか被われていない部分がある。そう。それはドイツ連邦共和国との間だ。そこにはチェコスロバキアという鎧が一枚しかない。彼らの習性からすれば、このままではなんとしても落ち着かない。そこでチェコスロバキアには自国軍隊を常駐させて安心せんがために例の侵入事件を引き起したのだ、とわしはわしなりに解釈しておるのだよ。
この『二枚の鎧』の習性はNATO諸国との接触面ばかりでなく、アジア側についてもいえることだ。彼らの領土の東側では、日本との間に朝鮮民主主義人民共和国と日本海がある。東南側においてはモンゴリアと、かつては広大な中国があり、彼らは大いに安心だった。その中国が寝返った今では、どれほど彼らがいらいらを募らせていることか、わしにはわが事のように想像し得るというものだ。さて、中国の南西側に親ソ的なインドがあり、そのさらに東側にはパキスタンがあり、アフガニスタンがあり、イランがあり、そして黒海を経て東欧圏に繋がるのだが、このイスラム地域に接する部分は昔から『ソ連の柔かい腹部』と呼ばれておる。彼らの習性からして、この一枚の鎧すら着ていない部分を彼らが如何に寒ざむしいと感じているか、わしはまったく想像に難くない。したがって、いつの日か彼らは彼らの柔かい腹部の外側にある国を一つ残らず次つぎにわが手に押さえてしまおうとするに違いないのだ。
ところでヨーロッパ側の二枚の鎧だが、こっちの方に最近とくに綻びが目立ってきているのは紛れもない事実だ。最たるものは、自立経済を主張するルーマニア。それに西側経済接近の速度をはやめるポーランド。非同盟主義の旗をますます高く掲げるユーゴスラビアとアルバニア。これらの国ぐにが鎧の綻びを次第に広めている。こんな情況が続いていれば、自国領土に二枚重ねの鎧を着せるという奇妙な習性の持主が不安の度を嵩じさせていないはずはなく、近いうちに現状打開のための何らかの手を打ってくるに違いないと、わしはかねがね予想していたのだよ」
書記長と将軍が、ソ連とその周辺国との関係についてこもごも語るのを聞くにつれて、「西側進攻」は彼の頭の中で次第に現実味を帯びはじめていた。彼の乏しい知識の中から、経験豊かな二人の老人の話の筋を打ち砕くことができるような何かを引き出すことなどできるはずもなかった。彼の心の片隅にはすでに二人の老人の暗示に麻痺した部分があり、「戦いだ! 本当に戦争が始まるぞ!」と叫んでいたが、もう一方の片隅では、「なぜ、自らの必要がないのにこの国が戦わなくてはならないのだ?」と反対側の片隅に冷たく疑問を投げ掛けていた。
かなり長く沈黙の時間があったらしかった。書記長が語り掛けてくる声で彼はわれに返った。
「……ハンス。我われが現に直面している実情を長ながしく説明するような結果になってしまったが、老人のくだくだしさだと容赦してもらいたい。さてと。もうすでに時間の余裕がないのだ。開戦までに僅か二週間という今となっては、我われの力によってクレムリンの決意を翻えさせることはも早不可能だ。また、開戦回避の消極的手段として、将軍たちがモスクワと通じて戦争準備を進めている、と国民に対してわしらが暴露したとする。すると恐らく、クレムリンと密着している将軍たちは公然とわしらに反抗し、わざと事を荒立てて国論を二つに割ろうとするだろう。いうまでもなく、クレムリンに軍事介入の口実を与えるためだ。その結果が、武力の優れている者の勝利に終ることは|赤子《あかご》にも判る道理だ。したがって、そうすることは、かつてのチェコスロバキア事件と同様に、わが国の主権と独立性がクレムリンによってさらに奪い去られる結果を招くことになるのだよ。わしには久しい前から、今述べたような事態がこの国にも起るのを、クレムリンは今や遅しと手ぐすね引いて待っているのではないかと思うことが度たびあったのだ。
そこでだ。ハンス。わしらが事態を冷静にかつ詳密に検討した結論として、我われは一切気付いていない振りをしてその日が来るのを待つ。そして時が来て、クレムリンが命ずるならば、それに従い戦端を開くことにした」
書記長はここまで話すと口を閉じ、沈黙して将軍と共に彼に対峙し、心中を覗くかのように彼の両の瞳を注視した。二人の最高権力者の視線を同時に浴びて、沈黙が次第に息苦しくさえなってきた。
「それでお話が終りとすると、私の任務とは一体どんなことでしょうか?」
「ハンス。ではもう一度尋ねるが、君個人の考えや心情は一切捨てて、わしの言葉だけを心の底から信じてくれるか?」
「そのご質問に対する答は先刻いたしました」
「よろしい。君は今宵から我われの同志の一人になった。
では先を続けよう。いいかね、我われはクレムリンからの指示が来れば戦端を開くことを決定した。しかしながらだ。開戦後できる限り速かにわが国とドイツ連邦共和国との間で停戦協定を締結するのだ」
彼は思わず上擦った声で尋ねた。
「二国だけでですか?」
「そうだ。両国だけでだ」
将軍が書記長の言葉を引き取った。
「あの壁の地図をもう一度よく見たまえ。中部ヨーロッパにおいて、あの、空色と褐色とに塗り分けられている二つの国が同時に|干戈《かんか》を放擲するならば、東西両陣営のいずれの国に戦争継続能力ありや、だ。したがって、この結果たちまち、戦いは終熄に向うことは明白だ。ハンス、君にはそうは考えられないかな?」
彼が返事をする前に、事務机の上で電話のベルが鳴りだした。将軍が立っていって、受話器を取って耳に当てた。
「いや、わしではない。いま書記長閣下と代る。エーリッヒ、君にだ。戦術グループの部屋からだ」
書記長は電話口に出て五分もの間ほとんど言葉を発せずにしきりに頷きながら聞いていた。そして最後にいった。
「君たち専門家が充分討議した結果なのだから、わしもその結論に賛成票を投じるよ。実行面でもしっかり頼む。それだけだ」
廊下をかなりの人数が通ってゆく足音が伝わってきた。この館が対クレムリン作戦本部になっているらしかった。目隠しをして連れて来られたことに対する憤りはすでに彼の胸から消えていた。
「書記長閣下。将軍。わが方がいかに強く停戦を望んだとしても、NATOまたはドイツ連邦共和国がそれに応じなければ協定は成立し得ないのではありませんか」
「そのとおりだ、ハンス。したがって、ここで、君の使命が必要になるのだ。開戦に先立って、君は、ドイツ連邦共和国首相、ヘルムート・シュミットに、わしの手紙を届けるのだ。君のその手で、直接、首相に、だ」
将軍が書記長の言葉を、また引き取った。
「君は『アムゼル』実験の責任者だ。したがって、君自身が不自然な行動をすればすぐに目立ってしまう。そこで、わしの方で手を廻して明日にでも君を諜報部付きにすることにする。『アムゼル』実験における目標側オペレーターのひとりとして、その実験の責任者が自らも結果を現地側で見る、ということにすれば筋が通る。だが、くれぐれも気をつけてくれ。諜報部では幹部の大部分がクレムリン側に付いているのだ。いまのところ、確実に我われの同志だと断定できるのは、カルル・リッター中尉ただ一人だ。
そのリッターからの報告によると、すでに開戦準備に入っている諜報部内のクレムリン同調者は、演習ならば国内に設定すべき『アムゼル』の目標地点を秘かに変更して、西側全土に散在しているワルシャワ・ブロック協力者に対して割り当てたのだそうだ。つまり、『オペラチオン・ハイムケーア』発動と同時に八十機の『アムゼル』は、武器やプラスチック爆薬の材料を搭載して西側領域に散在している地下活動家の手に向って飛んでゆくことになるのだ」
「なるほど、それで理由が判りました。今日、諜報部に、『アムゼル』の目標側発信機に対するクリスタルの装着方法を教えに行ったのですが、対象となった無線発信機の種類が多いのに驚いていたのです。あれらはそれぞれ、西側にいる地下協力者が使用している型式と同じものが選ばれて並んでいたんですね」
「そうかも知れぬな。ところで我われはシュミット首相の二週間後のスケジュールを現時点では掌握していない。しかし、国外旅行の予定は七月中旬までない、という情報を掴んでいるので、首相の所在はおそらくボンの官邸かハンブルクの私邸かのどちらかであるはずだ。
そこで、わしは、君が担当する『アムゼル』受領の目標地点をハンブルクにある地下組織に割り当てるよう、リッターに工作させる。ハンブルクへの潜入系路や手段は諜報部にいる専門家が熱心に教えてくれることだろう。君の割当てがハンブルクと決ったあとで、首相の所在がボンであると判明した場合には、小型機をチャーターしてできる限り短時間に行動し、諜報部に気付かれぬようにするのだ。いいかな。チャーターについても、必要になれば我われが手配する」
薄いうえに白髪が多くなった頭髪を、掌で額の方から撫で付けながら書記長が締め括るようにいった。
「ハンス。わしらから連絡したいことがあれば、今後はリッターを通す。たぶん、この次にここに来てもらうことになるのは、シュミット首相宛のわしの手紙を君に手渡すときだろう。
いいな、ハンス。やり遂げてくれるな」
心身の全能力を投入して燃焼させ得る生まれて初めての機会だと彼は感じた。書記長の信頼に応えるべく、二十四歳の若さのためか、彼の使命感はあくまでも昂揚していた。そこで彼は、ひとこと「はい」とだけ答えた。ほかの言葉を付け加える必要がないほどそれは力強い響を持っていた。
諜報部内の廊下で擦れ違うことがあっても、それまで視線すら交えようとしなかったリッターが、四日前の昼休みに、食堂で彼が着席しているテーブルの横を自分の盆を持って通っていった。が、二、三歩通り過ぎてから、何気ない風に振り返って、
「ヒルシュマイア中尉。CR─7クリスタルのマリンへの挿入の仕方にちょっと判らない点があるんだが……」
と周囲に聞こえる程度の声で彼に語りかけた。
「そう。よかったら、ここに坐らないか」
リッターは戻ってきて向い側に着席した。食器が乗っている盆を脇へどけて紙ナプキンを拡げ、その裏に、二人は無線機の図面を画いて話し込んだ。ナプキンの裏がボールペンの青で一杯になったとき、僅かな余白にリッターが『HQ─22』と書き、
「ここは、これでいいのかな?」
と尋ねた。無線技術に関わりのないその文字は、本部に夜の十時に出頭すべきことを意味していた。
「いい。そこはそれでいい」
と彼が答えると、リッターは「ありがたかった」と呟きながら紙ナプキンを丸めてポケットに入れて立ち上がり、食事には手をつけずに食堂から出ていった。
十時ちょうどに出頭すると、書記長はこの前と同じ部屋で待っていた。オルガス将軍の姿は見えなかった。作戦の最後の詰めに入っていて多忙なのに違いない。館の中の雰囲気にもどことなく前回にも増して緊迫感が漲っていた。彼が椅子に腰を下ろした途端、書記長は、早速本題に入った。
「ハンス。これがシュミット首相宛のわしの親書だ。読むがよい。読んで君の頭の中に刻み込んでおくのだ。もしも、のためにな。君の手で直接これをシュミット首相に渡してもらいたいのだが、それが難しい事態が起らないとも限らない」
彼は一瞬、元首の親書に眼を通すことに躊躇いを感じたが、いわれるままに迷わずそれを封筒から抜き出した。
中央上部に政府の紋章が金色に浮き出している二枚の公用書翰紙は、三つに折り畳まれて封筒に収められ、さらにそれが防水封筒に入れられていた。
親書はまず、現世界における政治的構図の中で、自国の自決権と独立性を損うことなく、ドイツ民主共和国のみが開戦を阻止することの困難性を述べ、ワルシャワ条約国とNATO諸国との間に開始されんとする、たとえば憎悪というが如き人間感情すらが相互の間に介在し得ない、機械的大量殺戮戦争の早期終結への同意を訴えていた。
次いで、具体的にドイツ連邦共和国政府に対して、開戦後十二時間が経過した時点における両国の無条件停戦について提案し、これにより人類の犠牲を最小限に喰い止めたい、と希望していた。
二枚目の中段以降は、箇条書きの、さらに具体的な文面だった。
彼は箇条書きになっている停戦に向けての四つの条件を|三度《みたび》読み返し、書翰紙を封筒に戻した。
「ハンス、これをシュミット首相に渡す時機は、開戦前でなければいかんが早過ぎてもいけない。開戦予定時刻より六時間ばかり前がいいかな。
わしにはよく見えるのだよ。この綱渡りが成功した場合には、わがドイツ民族が、同じ国名の下で暮す日が遠からず来るのがな。そのとき、面積は二分の一以下、人口は四分の一のわが方の人民が、相手に対して何事につけても対等な権利を主張し得るようにしておくためには、たとえ半日だけの戦いでも勝っておくことが必要なのだよ」
「開戦の時刻は決定したのですか?」
「そうそう、昨日になってやっとクレムリンは、わが政府に対して正式な使者を送って寄越した。クレムリンからのその密使が、わしに申し述べたところによると、開戦までは、そう、今からでは一週間はない。正確にいえば七日目の払暁、午前三時なのだそうだ」
「そういたしますと、六日目の午後九時に、私は、この親書をシュミット首相に届ければよい?……」
「そうなるかな。君にも、近々軍の方からハンブルク潜入が下命されるはずだ。それによってすべてがはっきりする。近頃では彼らの方がわしよりも、クレムリンの意向にずっと明るいようだからな。
ハンス。一切は君に托した。わしは君を信頼し、君に期待するだけだ。いうまでもないことだが、生命を大事にな」
「ありがとうございます。では、この書翰を肌身離さず携行してシュミット首相の手に必ずお届けいたします」
差し伸べられた書記長の手と固い握手を交してから彼はその部屋から退出した。
濃青色の絨緞が敷き詰められている廊下の最後の角を左に曲って玄関ホールに降りる階段の上まで来たとき、急ぎ足で上も見ずに昇ってきたリッターとばったり遇った。
「やあ、ヒルシュマイア。書記長閣下との話はもう済んだのか?」
「いま終って帰るところだ」
「最後の情報交換をしておこうと思って急いで来たんだ。ここで遇えてよかった。そこの小部屋にちょっと入ろう」
リッターは、この館の内部によく通じているらしく、階段を昇り詰めた踊り場の正面にある木製扉を開け手探りで壁の内側にある電灯のスウィッチを入れた。天井から部屋の真中に下がっている裸電球に黄色い灯がともった。
窓のない、何となく黴臭い部屋の中には、白布で被われている数脚の椅子と一個のテーブルがあるだけで、そのほかに調度品はなかった。灰色の布張りの壁面の一つに、プロシャ軍人の礼装を纏った老人を画いた油絵の額が一つだけ埃を被って残されている。彼はそれに目をとめて何気なく呟いた。
「だれなんだろうな? あれは」
リッターが事もなげに答えた。
「あれか。あれはフォン・ルードヴィッヒ・リッター男爵だ」
「すると、彼は君のなにかなのか?」
「祖父だ。しかし、そんなことは今どうでもいい。さ、早くそこに坐れよ」
二人はそれぞれ椅子の上にすっぽりと掛けてある白布を引きはがして腰を下ろした。
部屋の中を見廻しながら、また彼が尋ねた。
「ここは、国家資産になっている、と聞かされたが、昔はリッター男爵の邸だったのか?」
リッターはも早彼の言葉に取り合おうとはせずに、胸のポケットを探って、図面や文字が細ごまと書き込んである紙片を取り出すと早口でいった。
「これに書いてあることはみんな君の頭の中に入れてくれ。済んだら処分してくれ。うまく書記長閣下の親書を首相シュミットに届けられたら、それをこっちに通報する方法だ」
「開戦前夜の二十三時半から零時までの三十分間、一二一・二一メガヘルツで適宜音楽を連続的にオン・エアせよ」と書いてあった。図面の方は旧北ドイツラジオ放送局に属するある建物の見取り図だった。その所番地も書いてあった。
「ヒルシュマイア。北ドイツラジオがテレビ塔の方にできた新しい放送局に移ってから、その図面の建物はずっと閉鎖されているんだ。しかし、電源さえ入れれば、いつでも放送できる設備がそのまま残されている。昔、ラジオ討論会を生放送するのに使われていた施設だ」
「どんな音楽を流せばいいんだ?」
「交響楽でもソナタでもなんでもいい。君が好きなものを流してくれ。ただし周波数を間違うなよ。また、その放送は予行演習のつもりでやってくれ。我われがハンブルクを占領するときには、テレビ塔の方の設備は破壊されている可能性が強い。そのときには、その古い方の設備で占領軍放送をやる計画になっているんだ」
周波数や放送局の所在地をヒルシュマイアは脳裡に刻み込んだ。ハンブルク中心区に近いオーバー通り一二四番地がその住所だった。
「さて、我われが進攻を開始するとき、首相シュミットはボンにいることが判った。その日の午後にボンのコンフェレンツ・ホールで開催される『全欧電圧統一・関係国閣僚会議』の成果について、彼は午後八時半から九時までの間、官邸で記者会見を行なう予定になっている。そのあと、参加各国代表とのレセプション・パーティーに出席する。したがって、その夜はボンの官邸にとどまることになる」
「すると、私はボンに行くのか?」
「そうだ。しかし、今からでは、ハンブルクに行け、という君に対する諜報部の指令を変更させるように手を廻すのは極めて困難だ。そこで我われは、君が短時間のうちにハンブルクとボンの間を往復できるように航空機のチャーターを手配した。小型ジェット機でケルン空港まで飛び、そこからタクシーを使えば、ハンブルクから二時間足らずで官邸に着ける。そして、午後十時までにケルンを立てば、ハンブルク空港が夜間制限時間に入る十一時前に帰ってこられる。こうすればクレムリン同調者の連中にも君の行動を気付かれずに済む。
さ、これが、向う側で活動するための君の身分証明書だ」
リッターが差し出したプラスチック製のカードには、氏名『ヨアヒム・マイア』、職業『ミュンヘナー・アーベント新聞・経済記者』とあった。
「その新聞社は実在のものだ。我われが昔から資金援助をしている」
「氏名の方は?」
「それは、君の名前を縮めただけだ。実在する記者の名前を使った場合、いつ、どこで、人物の違いに気付く者に出遇わないとも限らないからだ。しかし、もちろん新聞社とは『ヨアヒム・マイア』氏について打ち合わせが済んでいる。彼らはすでにこの氏名で、官邸における当夜の記者会見参加の許可章を手に入れているので、君がケルン空港に着いたあと、どこかでそれが君に渡されるはずだ」
「チャーター会社は?」
「ドイッチェ・ルフト・チャーターだ。ハンブルクのフュールスブュッテル空港ターミナルの南翼にある小型機格納庫の中に事務所がある。そこへ行って、身分証明書を見せるだけでいい」
「判った。それだけか?」
「細かいことはその紙を読んでくれ。親書を手渡すのに成功したら。そこに書いてある方法でこっちに連絡してくれ。その時点になるとあらゆる通信部門が緊張しているはずだ。だから我われの方の通常の通信手段だとクレムリン派にも筒抜けになるからな。
じゃ、ヒルシュマイア。君の使命の成功を祈る」
リッターが力強く握り締めてきた掌は固かった。
書記長がいったとおり、翌日の午後になると訓練センターに集められていた百名近い青年が一人ずつ地下三階にある指令室に呼ばれていった。彼らはそこで諜報参謀から個別命令書を受け取り次つぎにどこへともなく姿を消していった。ヒルシュマイアに対してはハンブルクの東北東四十二キロメートルに位置するラーツェブルク湖西岸の村クライネ・ホルシュテンドルフ、湖中を通って二十二時までに潜入し、ソ連系共産党|D K P《デー・カー・ペー》の地下グループと接触せよ。接触時刻は二十二時から零時までの間。攻撃目標はマッシェン鉄道操車場のコンピューター・センター。DKPの協力を得て開戦と同時にこれを破壊せよ」と命じられた。マッシェン操車場はエルベ河を挾んでハンブルクの南方九キロメートルにある。日に一万二千両の貨車の編成脱着を行なうことができ、その規模はヨーロッパで一、二を争うものだ、とも教えられた。
破壊工作に必要とする小型火器、プラスチック爆弾の材料、その後の攪乱活動の資金となる西側紙幣二万マルクを搭載した「アムゼル」は、彼が現地から発射する信号電波に導かれて開戦三十分前に到着することになった。
「進攻開始予定時刻は六日後の午前三時だ。すでに向う側にいる君たちに対し、計画変更の有無を報らせるために、その夜零時きっかりに、ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』が国営中央放送の電波に乗せられて流されはじめる。もしも進攻が何らかの事情で中止され、或いは延期された場合には、その第四楽章『雷と雨、嵐』が割愛される。よく注意して聴いていてくれ。では君の潜入時刻は開戦の五十三時間前だ。
幸運を祈る」
と参謀が、最後に付け加えた。
参謀から渡された命令書によれば、開戦三日前の午後十時にクライネ・ホルシュテンドルフのヨットハーバーに潜入し、そこに繋留されている指定のヨットのキャビンに入って待てば、DKPの連絡員が正零時までにやって来る手筈になっていた。後はすっかり準備を整えたのち一日早く現地に赴き、訓練で会得した潜入技術を実地に試してみた。すべては学習したとおりに事が運んでいたのだったが、最後になって思いもかけなかったあの爆発事故に遭遇したのだった。
ヨットは微かに左右に揺れ返していた。遊歩道を行き交う人の数も次第に少なくなっていた。
時計を見て時間が経過したのを知ったためか、彼は急に自分の空腹に気付いた。クラウスの老婆が別れ際にくれた玉葱ケーキの包が手元にあった。飲み物を持ってくるために長椅子からそっと起き上がった。先刻、着替えの衣類を探すためにキャビンの中のあらゆる物入れを開けてみたとき、冷蔵庫と思しき中に缶入りのビールなどがかなり入っていたのを見ていた。彼はアルミ缶入りのコカ・コーラを取って長椅子に戻り、腰を下ろした。名前はよく知っていたが飲んだことはなかった。蓋に付いている金具に指を掛けて動かしているうちに、菊の花弁のような形の口が開いた。彼はそれを鼻のところに持っていった。薬草のような臭いが先ず鼻を衝いた。祖国にあるシドールザフトの臭いも僅かに混っているような気もした。一口、口に含んでみると予想したより甘味が強かったが、その茶色の液体は臭いだけのときよりも飲みやすそうだった。彼は包を開き、形がすっかり崩れてしまった玉葱ケーキを摘み、コカ・コーラと一緒に咽喉に流し込んだ。
終って、指先に付いたものを払っているとき、遊歩道のどこかで車のドアが閉まる音がした。その音にはなんとなく辺りを憚る感じがあった。耳を澄ましていると靴音が近づいてきた。足音は、男で、一人、だった。やがて靴音は彼が乗っているヨットの舳先の前で止り、しばらくなんの物音も聞こえなかった。
彼はシャツの下から拳銃を取り出して右手に構え、キャビンの隅の光の陰の中に身を沈めた。
男が甲板に跳び移ったときヨットが微かにひと揺れした。キャビンの入口の方へ廻ってくる男の青いジーンズが、丸窓を通してちらっと見えた。男は、入口の引き戸の向う側に立ち、中の様子を窺っていたが意を決したようにひと思いにそれを引き開けた。外側に立っている男は若く背が高かった。街路灯の光が横顔にしか当っていないが口髭を立てているように思えた。男が低い声でいった。
「おい! いるのか?」
彼は返事をせずに陰の中から男を観察していた。素手だった。武器はどこにも隠していないようだった。男は背を屈めて、一歩キャビンの中に踏み込むと、もう一度いった。さらに低い気の無い声だった。
「おい、いるのか?」
彼は、光の中へ、拳銃を構えたまま立ち上がった。男は驚いて一歩跳びずさり、キャビンドアの框に後頭部をぶつけた。
「おい! おどかすなよ。そこにいたのか」
男はぶつけたところをさすりながら比較的のんびりとした口調でいった。彼はゆっくりと合言葉を唱えた。
「ハイムケーア」
「ああそうか。『ダモイ』だ。来ていたのか。俺たちは九対一で来ない方に賭けたんだ。しかし確かめに来てよかったよ」
「来るさ。約束したら必ず来る」
彼は拳銃を下ろしながら、そういった。
「俺はDKPのペーター・ゼールだ。よろしくな」
男は気軽に握手を求めてきた。
「私の名は知っているな」
「ああ、もちろん知ってるさ。ヒルシュマイア。ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだ。いまじゃあんたはこっちの組織でも有名人だからな」
「どうしてだ?」
「知らないのか? ゆうべの爆発事故以来、あんたの生死を確認するために東はこっちも含めて使える組織を全部動かしているんだぜ。あんたが予定どおり来たことを報らせてやれば俺たちの支部の大手柄になる。とにかく早く支部に行こう」
「支部のメンバーは幾人だ?」
「十八人だ。だが、本当に使えるのは半分だな」
「武器はどんなものが使えるんだ?」
「ひととおりのものは扱えると思うよ」
「爆薬は?」
「そうだな。詳しいことはリンデンベルクと話してくれ。彼が俺たちの支部のリーダーなんだ」
二人でキャビンを出ようとするとき、ゼールが彼の姿を見廻して、
「荷物は?」
と、駅か空港に出迎えに来たような質問を発した。
「ない」
「ない? そうか。本当にないのか? 変だな。リンデンベルクの話だと一緒に金と武器が届くようなことをいっていたけどな」
彼はヨットの甲板から遊歩道に跳び降りながら答えた。
「後で来る」
続いて跳び降りたゼールがしつこく尋ねた。
「後って、いつだい?」
「詳しいことはリーダーに話す」
「俺たちはいま金に困っているんだ。まともな仕事にはありつけないしな。この前の分はブロークドルフの原子力発電所建設反対のデモのときに、すっかり遣っちまったんだ。後で来るって、それは幾らくらいなんだい?」
エルベ河の水がついに北海に流れ出ようとする、すぐ手前の右岸にブロークドルフ村があった。六年前に、ここに加圧水型原子力発電所を建設することを連邦政府が決定して以来、たびたび激烈な反対運動が展開された。ときには、失業を危惧する石炭関係労働者数千人を先頭に、中共系共産党KPD、ソ連系共産党DKPの各地下組織、一般市民、学生、それに、ドイツ赤軍を始めとするテロ・グループまでが加わって、動員数二万四千人にもなる反対デモが組織された。その度に、州内にこの村を持つシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州州政府が国防軍の出動を要請するほどに激しい騒擾状態を招来した。しかし結局、連邦政府が、石炭労働者に対して完全就業を保証し、放射性廃棄物の処理方法改善を約束し、最後には計画の無期限凍結を決定したあとは、次第に大量動員による反対運動は影を潜めていった。しかし、忘れかけた頃にときおり五百人程度を動員するDKPは、今でもソ連とドイツ民主共和国に対して、活動資金の供与を要求していた。
「それもリーダーに話す」
二人が車に向って歩いてゆくとき、遊歩道にはも早人影は少なかったが、まったくの無人ではなかった。周囲を意識せずに、極秘であるべき話を次つぎと語りかけてくるゼールが、無神経で軽率で口が軽くてまったく頼りにならない青年に感じられて、これから先、彼らの力を借りてマッシェン鉄道操車場のコンピューター・センターを破壊しなければならないことを思うと、彼の心は次第に重くなった。
ゼールの車は辛子色のフォルクスヴァーゲンで、いたるところに擦り疵があった。車が走りだすとすぐさまゼールが口を開いた。
「リンデンベルクの話だと、近いうちに戦争が始まるかも知れない、っていうんだけど、あんた、どう思う?」
彼は、運転しているゼールの横顔に視線をやっただけで、黙っていた。口髭を立ててはいるがそれを取り去れば二十歳そこそこの顔付きだった。
「そうかいそうかい。やっぱり『それも、リーダーに話す』か」
ゼールは、そういって甲高い自嘲的な笑い声を立てた。
車は両側が深い森に囲まれている道路を走っていた。
「どこに行くんだ? ハンブルクではないのか?」
「ホイスブュッテルさ。ハンブルクの郊外だよ」
「この道路は『|岩塩 街道《ザルツ・シユトラツセ》』じゃないのか? どうして北に向うんだ?」
「あんた、初めてなんだろ? それにしてはよく知ってるな。地理を覚えてきたのか。たしかにこれは『|岩塩 街道《ザルツ・シユトラツセ》』だが、直行するより、これでリューベックまで上がりアウトバーンE4を使う方が時間的にずっと早いんだ。
あっちにアウトバーンはあるのか?」
「ある」
「こんな森もあるのか?」
「ある」
「あそこに見えるくらいの建物も?」
「ある」
ゼールは、「するとないのは金と……」といいかけて、先刻、しきりに金にこだわっていた自分自身を思いだしたらしく、そこで言葉を呑み込んで改めていい直した。
「すると、ないのは自由ってやつ、だけか」
「それもある。ただし、君らのもののように、金の力で他人の自由まで侵す自由はない」
彼は反射的に口を突いて出た自分の言葉の空虚さに身震いを覚えた。電撃作戦ほど相手のすべての権利を侵害する行為がこの世にほかにあるだろうか。腕時計を見た。現在の時刻を知りたかったのではなく、開戦までに残された時間を知りたかったのだ。ほぼ五十時間しかなかった。いまも車窓の左右に次つぎと近づいてきては遠ざかってゆく家いえの中で、人びとは何も知らずに平和な眠りを貪っているのだ。本当に五十時間後には、この人びとの頭上を砲弾が飛び交いはじめるのだろうか。
アウトバーンE4に入るために、口を噤んで運転に熱中しているゼールの横顔を彼は盗むように眺めた。おそらくこの青年はこの国の中の革命運動にも学校のクラブ活動のようなつもりで参加しているのだ。そう思うと、軽薄で頼り甲斐がないはずのゼールでさえもが豊かなこの国で真の苦難を知ることもなく育ってきた、人が好いだけの青年に思えてきて、彼は好感さえ持ちはじめた。
アウトバーンE4をアーレンスブルクの出口で降りて暫く西に走り、また、森の中の道に入った。
「そろそろ支部の隠れ家だ。深夜だと、やっぱり早く着くな。リンデンベルクはまだ起きて待ってるかな」
森の中の、農家風の使い捨てられたような建物の裏手に停った車から出て、ゼールに案内されて裏口から中に入った。
その中は、板張りの床の部分と土間とが、半々になっており、土間の壁際の半分は、いくつにも区切られた家畜囲いになっていた。彼は、自分の国の農家の造りとそっくりなのを知った。
この農家が使われていたときには台所だったらしい床の上に、裸電球を背にして三十歳前後に見える男が両手を腰に当てて立っていた。
「やあ、リンデンベルク。起きていてくれたのか。指令どおりヨットの中で彼は待ってたよ」
と、ゼールは嬉しそうに報告し、ヒルシュマイアの方を振り返った。
「ペーター。迎えに来てくれて本当に助かった」
素直にゼールに感謝した彼に、はにかんだ微笑が返された。
「ゼール、ご苦労だったな。二階へ行ってゆっくり休んでくれ。|序《つい》でで済まないが、ベネッターを起して、ここに来るようにいってくれないか?」
「オーケイ、判った。でも、彼が無事に来たことを東にすぐに報らせてやる方がいいんじゃないか?」
「判っている。あとですぐにやるよ」
ゼールが部屋の隅にある階段に向って歩き去るのを見やりながら、リンデンベルクは、木製の食卓を指して彼に手招きをした。
二人が食卓を挾んで木製の椅子に腰を下ろした途端、リンデンベルクは、どこに隠し持っていたのか拳銃をいきなり取り出して食卓越しに彼の胸に狙いをつけた。
「ようし。まず、拳銃を食卓の上に出してもらおうか」
リンデンベルクの観察眼に微かな敬服を感じながら、彼はシャツの下から自分の拳銃を取り出して食卓の上に置いた。それを左手で素早く手先に引き寄せたリンデンベルクは握っている拳銃の銃口を上下に振りながら、
「立て!」
といった。
椅子を引いて素直に立ち上がった彼の全身を、食卓を廻ってきたリンデンベルクは隈なく検べた。書記長の親書はクラウスのところの犬小屋に隠してきたので彼は財布しか身に着けていなかった。心中秘かに、まだ自分には強運がついている、と思った。リンデンベルクは財布の中身をぱらぱらっと覗いただけで、
「これはしばらく預らせてもらおう。よし、坐れ」
といい、自分も席に戻った。
彼が椅子に腰を下ろすと、いつの間にかもう一人の男が向い側に坐っていた。リンデンベルクもこの男も、口髭と顎鬚で、顔の半分以上の面積が被われていて、感情の動きは眼からしか読み取れなかった。リンデンベルクでない方の男、これが、先刻ゼールに呼ばせたベネッターらしかったが、この男が顔付きに似合わぬもの静かな声でいった。
「ハイムケーア」
「ダモイ」
彼は即座に合言葉を返した。
「よし。私はリンデンベルク。DKPハンブルク北支部のリーダーだ。彼は副支部長のベネッターだ。
取り敢えず君はヒルシュマイアであるとしておこう。ところで、ヒルシュマイア。君は、どのようにして、あのヨットに来たのかを話してくれないか?」
彼は、昨夜来の一連の経過を記憶にある限り正確に語った。
「本来の潜入系路はどんな風に指示を受けていた?」
ベネッターが続けて質問した。
「今夜、水管を利用してラーツェブルクの湖心に出て、あとは、湖中を泳いで二十二時までにあのヨットに達するように指示されていた」
と、ありのままを彼は答えた。リンデンベルクが別の方向から質問してきた。
「何時頃爆発したんだ?」
「午後十時前後だった、と思う。違っているかも知れない。突然のことだったからな」
「二十二時三十分をちょっとばかり過ぎた頃だった。東から緊急通報がこっちの全組織に流された。爆発が起ったノイホフ監視塔附近で行方不明になったハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアという名の中尉を探せ、負傷して西側に逮捕された可能性もある、とね。我われは、その時すでにこの中尉が今回の作戦におけるこの支部の担当者だということを報らされていたので、組織の全能力を動員して爆発に関わりがあると思われる情報の収集にかかった。すると、どうだ。事故現場に出動した救急車の線を洗ってゆくうちに昨夜メレン総合病院に運ばれた男の名がハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだというじゃないか」
「そんな馬鹿な。それは何かの間違いだ。ヒルシュマイアは私だ」
と即座に彼はいった。
「ま、待て。終りまで聞け」
とベネッターが髭の中から感情の籠らない声を出した。
「俺たちは昨日の真夜中以来、どうにかして、入院したというその男とコンタクトしようとしているうちに、男は今朝になったら病院から消えちまっていて未だに|杳《よう》として行方が掴めないんだ。メンバーの一人が病院で小耳に挾んだ話だと、その男はハンブルク大学の学生だという。当局が意識的に流した偽情報に違いないとは思ったが、念のために大学の方を調べさせると、なんとハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアという学生が在学しているというではないか。しかし、不思議なことにこの学生もどこに消えたのか今日一日かかっても行方が掴めない」
「私と同姓同名の大学生がいたって? その学生があの爆発現場にいて怪我をして病院に運ばれたって? そんな馬鹿な」
昨夜真暗な境界地帯の中へ五台の車で迷い込んできた学生風の青年があったことをふと彼は思い出した。しかし、その中の一人が自分と同姓同名だったなどという話は俄かに信じられなかった。
「いや、本当なんだ。だが、当局はこっちに来ようとしている東側の連絡担当者の名前をすでに握っていて、それを利用したのかも知れない。我われを混乱させるためにな」
リンデンベルクが断定するようにいった。
「昨夜メレンの病院に収容された男が本物のヒルシュマイアでなかったのなら、当局は何故その男を連れ去って隠してしまう必要があるのか? 手を廻して調べたところ、それは法律違反だというのに、病院にはその男のカルテさえ残されていない。したがって、ヒルシュマイアは爆発で怪我をし何らかの事情でこっちの官憲の手中に落ちたのだと我われは考えた。そこで今夜あのヨットにはヒルシュマイア中尉なる者は現われないだろう、と予想していた。
しかしだ。現に我われの目の前に、自分がヒルシュマイアだと名乗る男が現われた。つまり君は約束の場所に約束の時間にやってきて何を聞いても非の打ちどころのない返事をする。だが、今までに君が喋った程度の内容なら、当局が確保している本物から薬を使えば聞き出せるようなことだ。とすると君が本物だという絶対的な証拠にはならない」
リンデンベルクとベネッターの鋭く冷たい色を放つ四つの瞳が、髭の中から彼をじっと見詰めた。
「そういえば、私の方でもまだ君たちが西側の情報担当官ではないという証拠を見せてもらっていないな。君たちその証拠を見せられるか?」
彼が冗談めかしていうとリンデンベルクの眼はおもしろがっているように細くなったが、一方のベネッターの眼にはまったく感情が浮ばなかった。彼は続けていった。
「君たち。慎重なのもいいが、作戦開始までには、もう残り時間は少ないんだ。何でもいいから気の済むまで質問を続けてくれ。知っている限りは答えるから」
「ところが、それが問題なんだ。正直なところ、我われは、このヒルシュマイア中尉について余り知識を持っていない。顔を見たことももちろんないしな。たとえ、君が当局から送り込まれた偽物だとしてもだ。たぶん、本物から聞き出して持っている知識は、我われが持っているもの以上のはずだ。だから、ここで質問攻めにしてみたところで真偽の確認には余り役に立ちそうもないんだな」
それは|陥穽《かんせい》かと思われるほどリンデンベルクの眼は緊張を解いていた。あるいは、彼を本物だと信じはじめていて、確認行為をさらに続ける必要性を早くも放棄したのかも知れなかった。だが、片方のベネッターの両眼は、頭脳の活動をそのまま映し出しているように冷たく光りながら、ヒルシュマイアの顔を注意深く見詰めていた。
「君の話だと、爆発のときには君は塔の中にいたんだったな?」
「そうだ」
「爆発で塔の脚柱のどこかが破壊されて監視室は西側に向って傾きはじめた?」
「そのとおりだ」
「ついに監視塔が境界線の金網を押し潰して西側の領域内に倒壊したために、君は、偶然に、こちらの領域に入ってしまった?」
「そうだ」
「監視室が地面にぶつかったはずみで、君の体はまたもや偶然に屋根の穴を抜けて外に放り出された? 偶然が重なり過ぎやしないか?」
「だが、それが事実なんだ」
「そして、君は地面に激突して気を失ってしまった。そういったな?」
「たぶん、そうだ」
「気絶していた時間はどのくらいだったと思う?」
「意識が戻って最初に見た時刻が午前四時を少し過ぎていたから、たぶん、六時間くらいだ」
「そんなに長くか。するとかなりひどく体のどこかが地面にぶつかったんだな?」
「そうなんだ。左肩の方を下にして落ちたらしい。いまでも深く息をするとここが少し痛むんだ」
彼は左の胸骨の辺りに掌を当てて示した。
「君、立ってシャツを脱いでくれないか」
妙なことをいうなとは思ったがいわれるままに彼は立ち上がってシャツを脱ぎ捨てた。
「向うを向くんだ」
左の肩甲骨から頸の付け根にかけて青い大きな痣があった。リンデンベルクとベネッターは、顔を見合わせて頷いた。
「ありがとう。シャツを着てくれ。ヒルシュマイア、君はどうやら本物らしいな」
怪訝な顔をして振り向いた彼にリンデンベルクがいった。
「大きな痣ができている。冷やした方がいいな。あとで湿布薬をやるよ」
「そうと判ったら早速仕事の打ち合わせを始めようじゃないか。ああ、その前に私の拳銃と財布を返してもらおうか」
拳銃よりも、財布の中にある「ヨアヒム・マイア」なる身分証が気に掛かった。発見されれば再び彼らは彼の身分を疑いはじめないとも限らない。しかしリンデンベルクは思いのほか素直に、
「そうだったな」
と眼を細めていい、自分の尻のポケットから抜き出した拳銃を銃把の方を先にして彼に渡し、抽出しから取り出した財布は、食卓の上に無造作に投げて寄越した。そして、ベネッターの肩を叩き気軽にいい付けた。
「ベネッター。済まないが次の定時連絡のとき真先に、ヒルシュマイア中尉は予定どおり我われと合流した、と入れてくれないか。細かい途中経過はいわなくてもいいだろう。
さてと、君は腹が空いているんじゃないのか? ベネッター。何かあったろう。持ってこいよ。さて、気を楽にして、彼の話を聞こう」
ベネッターが冷蔵庫から出してきたものの中にイスラエル産のオレンジがあった。ひと皮剥いた途端に高い香気が辺りに立ち籠めた。彼は、瞬間、南国の香、というのはこれかと思った。よく冷えているそのひと房を口に含んだとき、自国の外にはこんな美味なものがあったのか、と彼は驚いた。
赤ワインを飲み黒パンを口に運びながら、彼は作戦のあらましを二人に話して聞かせた。
開戦と同時に、マッシェン操車場のコンピューター・センターを破壊するのが当面の任務であること。
開戦の三十分前に、小型火器、プラスチック爆弾の材料、それに、今後の活動のための軍資金を積んだ特殊滑空機「アムゼル」が飛来するので、それを誘導着地させるのに適当な平坦地がマッシェンの近くに必要なこと。
開戦予定時刻のちょうど三時間前になると、ベルリンにある国営中央放送局からベートーヴェンの第六交響曲が流されはじめる。しかし、万一開戦が中止され、或いは延期されるような事態が生じた場合には、第三楽章に続いて最終楽章がいきなり放送される。したがって、第四楽章が割愛されたと知ると同時に、いかに準備活動が進行していても直ちに|戈《ほこ》を収めて待機態勢に復帰しなければならないこと、等々。
「それで、肝心の戦争開始はいつなんだ?」
とリンデンベルクが口を挾んだ。彼は、間もなく午前三時を指そうとしている腕時計の針を示し、
「今からちょうど四十八時間後だ」
と答え、男たちを見詰めた。互いに見合わせたリンデンベルクとベネッターの瞳に強い緊張の色が走った。そのあと固く瞑目し瞼の上を二本の指で揉んでいたリンデンベルクが目を開くとぽつんといった。
「さし迫っているんだな。じゃ、今日中にマッシェンを下見しにゆくか。それまで一眠りしようや」
彼には三階の屋根裏部屋に寝る場所が与えられた。急な階段を昇りかけたときリンデンベルクが呼び掛けた。
「寝る前にこれを貼っておけよ。効くぜ」
リンデンベルクが手渡したのは四角な布に白い薬が塗り込めてある湿布薬だった。そのやり取りをベネッターは離れたところから冷やかな瞳で眺めていた。
薄い毛布が敷いてある寝椅子にあお向けに横たわると、背中の貼り薬が冷たく感じられて気持がよかった。屋外では六月の朝日がそろそろ射しはじめたらしく、羽目板の隙間から淡い光が洩れていた。瞼の上に合掌造りの天井裏が見える。炊事と暖房の煙で数十年も燻されてきたに違いなく、|真菰《まこも》で葺いてある屋根裏はすっかり炭化していた。
長かった一日を振り返ると、この国の人びとの言葉も、この農家の造りも、赤ワインや黒パンの味も、空気の匂いすらも、何もかもがヒルシュマイアには違和感がなく、うっかりしていると自分の国の中にいるような錯覚に陥りそうだった。こうして彼はたった一日で、書記長の心を彼自身の心で以て次第に理解しはじめていた。
「それにしても、多事多難の連続だった。だが終りよければすべてよしだ。偶発的な事故に遭遇したために長い廻り道を強いられたが、今ようやく書記長に与えられた使命の軌道に復帰することができた」
そう考えた途端、安堵感が暖く全身を包み、彼は自然な眠りの中に陥ちた。
午前三時四十分だった。
[#改ページ]
午前三時四十分。
サイドテーブルの上で目覚し時計の針は螢光を発していた。居間で電話機のベルが鳴りはじめた。神経が|昂《たかぶ》っているレスの聴覚は直ちに反応した。午前零時過ぎに帰宅し就寝するとき、電話線を寝室の方へ切り替えておかなかったのを思い出した。が、傍の妻がベルの音に気付かずによく寝入っている様子なので、切替えを失念してかえってよかった、と思いながらベッドから滑り出て、暗がりの中で居間に通じるドアに近づき、できるだけ細目に開けて外に出た。そして、うしろ手にドアを閉めながら残る手で電灯のスウィッチを入れ、大股に数歩歩いて鳴っている電話の受話器を掬い取った。
「ウィリスだ」
「やあ、レス。たぶん熟睡していたんだろうな。まったく申しわけないな。考えてみると、どうやら我われは餓死はしないで済みそうだが、こんな仕事をいつまでも続けていると、そのうちにきっと眠りに飢えて死んじまうだろうな」
まだ朝の四時前だというのにカリフォルニアの真昼間の太陽の下で喋っているような調子で語りかけてきたのは、フランクフルトのケイリーだった。
昨夜レスは、ヒルシュマイア教授との食事の後、十一時過ぎに中心区の路上でクルトと別れてから総領事館に直行した。警備員のシュルツじいさんが開けてくれた裏門から中庭に入り、建物の裏口の扉の近くに車を乗り捨てた。警備犬のトロルが尾を振りながら足元にやってきたが、頭を二、三度撫でてやるだけにして急いで裏口から入り、勝手が判っている暗い館内を抜けて二階の自室に駆け上がった。
机に向うとまず、妻のジョアンに電話を入れて居所を告げた。自宅の方にはどこからも特別な電話はなかったようだった。続いてボンの大使館付武官のロイヒャマン中佐の自宅と、在ハンブルク英国総領事館のマコウィック領事の自宅にそれぞれ電話を掛けてみた。幸い二人とも在宅していたが、変った話は何一つ持っておらず、むしろ、レスの声の調子に籠っているらしい緊迫した感じを訝って、逆に質問してきた。彼はその理由を敢えて説明しなかった。彼とクルトが抱きはじめた疑惑が余りにも重大であるがゆえに、さらに具体的な裏付けがない限り第三者に対して口外すべきではないと考えたからだ。
次にフランクフルトのケイリーつまり米国陸軍第五軍団司令部情報部のジョーンズ少佐の自宅のダイアルを廻した。ケイリーは今夜も当直勤務だと彼の妻が眠そうに教えた。そこで情報部の方の専用電話の番号を廻すと、三つ目の呼出し音が終らないうちに受話器が取り上げられ、ケイリーの声が響いてきた。
「G1、ジョーンズ」
「ケイリー。今晩は。レスだ」
「やあ、レス。どうしたんだ? 君の役所では夜間勤務をやらないはずじゃなかったのか? それとも今やっと例の中尉さんと学生との名前が混線しちまったいきさつでも判ったのか? 君のお勧めに従ってこっちの情報系路をリーク汚染チェックで洗ってみたんだが、癒着らしいものは全然なかった。どうやらこの件はこっちの方に分があるらしいな」
「ケイリー。いいかい。そんなことはどうでもいいんだ。東側の動きで何か目を引くような変ったニュースは入っていないか?」
「レス。藪から棒にどうしたんだ? 馬鹿に急き込んで君らしくないな。まるでワルシャワ・パクトが動き出す情報でも掴んだみたいだな」
のんびりと椅子の背に寄り掛かって電話の会話を楽しんでいるケイリーの姿がレスの脳裡に浮んだ。
「ケイリー。実はそうなんだ。おかしなことを発見したんだよ」
「おいレス。冗談はいつでも大歓迎なんだが只今勤務中なんだ。からかわないでくれよ。真面目な話、用件はなんだい?」
あい変らず冗談めいた口調のケイリーに、レスは一語ずつ区切ってゆっくりと喋った。
「ケイリー。真面目に聞いてくれ。おかしなことがあるんだ。もしこれが、ワルシャワ条約軍の侵攻開始に繋がっているとすれば、残された時間は、我われの想像以上に少ない、と考えられるんだ」
「そうか。判った。今日は四月一日じゃなかったしな」
ケイリーの声がいくらか真剣味を帯びた。背筋を伸ばした感じが電話線を伝わってきた。
「電話録音をオンにした。よし、レス、喋ってくれ」
レスはできるだけ掻い摘んで説明した。東側は東西境界線に自ら敷設しておいた地雷を約一週間前から撤去していること。その作業は昨夜で終了したらしいこと。撤去ではなく、別の地雷との交換作業だったとの見方を否定しうる証拠は今のところないが、作業地点からして無視し得ない意味合いが感じられること。その地点は北から順に、リューベック、ラーツェブルク、ヴィッテンベルク、ザルツヴェーデル、ヴォルフスブルク、ヘルムシュテット、ゴスラー、ゲッティンゲン、エッシュヴェーク、アイゼナック、フルダ、コウブルク、ゾンネベルク、ホーフ、以上の附近の境界線おのおの約三キロメートル幅で、国が二分される以前はそれぞれ一級国道や国有鉄道が東西方向に通っていた地域に集中していること……。
「どうやら『ウィンテックス79〜82』で想定されている侵攻系路とほとんど合致しているらしいな。地図と合わせてみるとだ、なるほど、『フルダ地峡系路』と『ホーフ回廊系路』はわが方の教科書とぴったりだな。
よし、レス。この情報は最緊要扱いにしてすぐに上に廻す。他に何か掴んだものがあるか?」
「いや、ないな。ケイリー、私はこの推測の裏付けになるようなものが君の方に入っているかどうかを確かめるためにこの電話を掛けたんだ。君の方には何もないのか?」
「ないな。思い当るようなものは何もない。しかし、ここ一週間ぐらいのをこの観点でもって洗い直してみることにするか。何か出てきたらすぐに報らせるよ。
ところでレス。この情報源は例の方面か?」
「まあそうだ。だが今度は私自身がかなり絡んでいるんだ」
「とすると確度はかなり高いな」
「なんの確度が?」
「東側が地雷を撤去したってことさ。ワルシャワ条約軍侵攻の方じゃないよ」
「ああ。それにはかなり確信がある。ただし、別のを再び埋設したかも知れないがね。種を明かせば、一昨夜の爆発事故の原因を糾明しているうちにこれが出てきたんだ」
「と、思ったよ。今は役所からだな? 君はもう帰宅する?」
「ああもちろん。帰って寝るさ。君のお蔭で昨夜は五時間ばかり眠っただけだったからな」
レスは帰宅する前にもう一度クルトと電話で話した。彼の方も本庁の情報局や国防省の情報部にいる友人たちと情報交換をしたらしいが、耳新しい事実は掴めなかったようだった。電話を切るとき二人は、
「我われが抱きはじめた疑惑がただの杞憂に終ってくれるように祈ろうよ」
と、まるで真夜中の祈祷のようにいい合った。ちょうど零時だった。
それから三時間四十分が経っていた。
「……こんな仕事をいつまでも続けていると、そのうちにきっと眠りに飢えて死んじまうだろうな」
受話器の中でケイリーの賑やかな声が喋っていた。
「ああ、今ここで倒れそうだ。私がパジャマを着たままで死んでいたら、間違いなく犯人は君だ」
「寝起きざまにそんな嫌味がいえるなら、当分死ぬ気遣いは不要だな。
さてと、電話の後、手元にある材料を洗い直してみたんだが、君の心配に関係がありそうな動きは全然見付からないんだ。だが、ソ連に関する平文通報が十分ばかり前にペンタゴンから入ってきたんだ。彼らは、極東の沿海地方でモスクワ時間の今日正午から三軍の大演習を実施する、と正式に大統領府に通告してきたんだそうだ。東経百三十三度三十分から百四十度四十分、北緯四十二度二十分から五十度零零分に囲まれたソ連領域内だそうだ。この中にはソビエトスカヤ・ガワン、ハバロウスク、ナホトカ、ウラジヴォストークの各基地が含まれている。この地域での演習は過去にも何度もあったし取り立てて驚くことはないんだが、ただ一つひっかかるのは、ホワイトハウスにわざわざ通知してきた点だ。彼らの通常のやり方は、ウラジヴォストーク無線局が海上警報の中に混ぜて放送するか、せいぜいタスが海外向けニュースとして流す程度だからな。ところが今回は、急に決定されたことで誤解を招くのを回避するために、とわざわざ断わり書きを付けて、なんとホワイトハウス・クレムリン間のホットラインを使って通知してきたんだそうだ。親切過ぎる気がしないでもないんだな」
「悪く取れば陽動作戦と見られないこともないな」
「そうなんだ。あの地域での軍事演習は中国、日本、それから朝鮮半島に対して大きな圧力になることは間違いないからな。わが方の第七艦隊と第五空軍は確実に釘付けになる」
「それに、急に決定された、というのもおかしいな」
「そうだな。ちょうど今沿海地方は正午になるところだ。ペンタゴンとNORAD(北米大陸防空司令部)が、偵察衛星が取ってきた資料を解析しているが、すでに九十万ばかりの兵力規模が集結しているらしい。こんな大規模な演習は今までになかったよ」
「ソ連全兵力の四分の一だな」
「そう。約四分の一に当る。それだけ厖大な兵力をホワイトハウスに連絡を寄越した頃から輸送しはじめたらしいんだ。軍用機のほかにアエロフロートの大型輸送機アントノフAn─24や26を千機以上も投入しているらしい。NORADのレーダースクリーンには、それがまるで夜空を無数の星が飛び廻っているかのように映っているそうだ。たしかに、もしソ連が通報してこなかったとしたら、今頃は世界中のわが軍に一号戦闘配備の緊急命令が出されていたろうな」
「そうだろうな。それにしても九十万という数字はよく考えてあるな。クレムリンには天才がいるんだな」
「天才がいる?」
「いいかい。これだけの兵力を沿海地方に置くのは、ヨーロッパで一戦を交える前にアジア側の防備を固めておこうとしているようにも受け取れるし、一方逆に、これだけ多大な兵力を極東に集結したのでは、西ヨーロッパへの侵攻はできるはずがないとも考えられるからさ。一体どう判断すべきなのかな。正解はなんだろう?」
「なるほど、そうだな。パズルだな。しかし、私は後者を取るな。いいかい。開戦ともなれば彼らは国土上の軍用施設と人口集中都市を防衛するために百五十万の兵力が必要だとされている。すると西ヨーロッパ正面に廻せるのは残りの全部としても百五十万。支援兵力と戦闘兵力の彼らの比率は約二対一だから、NATOの戦闘兵力七十万に対するものとしては五十万ということになる。これに他のワルシャワ条約国兵力を加えるとほぼ同数になるかな。同数で彼らが撃って出てくることはまずあり得ないんじゃないかな」
「まあそうだろうな。それが常識というものだろうな。だが、この世の中には常識外のことが時たま起る。特にロシア人との付き合いではね」
そうはいったが、レスは、ソ連が大軍を極東地域に集結しつつある、と聞かされて、ワルシャワ条約軍侵攻についての疑惑が、僅かながら薄らいだような気がしないでもなかった。
「じゃ、ケイリー。どんなに些細なことでも当分気をつけておいてくれ。すべて私の思い過しだといいんだけれどな」
「オーケイ、判っている。君の方も、何か掴んだらこっちにも流してくれ。そうそう、さっき君がくれた情報はNATO司令部の今朝の定例会議で第一議題になることが決った。じゃ君はもうひと眠りする時間はあるな。おやすみ。ジョアンによろしくな」
レスは静かに寝室に戻り妻の傍に滑り込んだ。ジョアンは気づかずに安定した寝息を立てていた。
「ソ連がこの時機に極東地域における大演習を企図したのはなぜだろうか? またなぜそれを突如決定したのだろうか? あるいはなぜ、それを間際まで伏せておいたのだろうか?」
彼は暗闇の中で考えあぐんだ。しかし一つの仮説すら組み立てられないうちに再び眠り込んだようだった。
その朝レスはいつもより少しばかり遅れて出勤した。秘書室のドアを開けておいたミス・クレーマーが、廊下のドアから自室に入ろうとする彼の姿を見つけるなりタイプライターを打つ手を止めて、クルトとマコウィックから何度も電話が掛かり、特にクルトは急いでいた、と告げた。そして、彼女は先に立って彼の机の傍にゆきクルトの隠し番号を廻した。
「やあ、クルト。お早う。遅く出てきたんだ。済まなかったな」
「お早う。レス。やっとご出勤か。といっても無理はないな。一昨日から夜更しの連続だからな」
「何度も君から電話があったそうだが、何か掴んだのか?」
「そうなんだ。今朝知ったことだが、ボンのソ連大使館が、従来の彼らの姿勢からは我われが想像もしなかったことを昨日やってのけたんだ。大型観光バス二台を仕立ててだね、幹部職員の全家族を夏期休暇と称して二週間のスペイン旅行に出したんだ。バスは今頃フランスのどこかを西に向って走っているはずだ。それにつけても、こっちの方は彼ららしいやり方だが、この旅行に妻子全員を一人の例外もなく参加させているんだ。正確にいえば、ファリン大使令嬢のコンスタンシァだけは、ストックホルムで行なわれる絵画の夏期講座に参加するとかで一週間前にボンを立っているんだが。とにかく、ソ連大使館幹部の家族全員が今やこの国の中にいなくなったんだ」
「なるほどね。彼らはいよいよ家族の戦時疎開をはじめたのかな。スペインでは共産党が公認政党になって以来年々勢力を拡大しているし、まだユアロコムミュニズムの気が希薄だからな。取り敢えずの逃避先には最適かも知れない。それにこの国はまだNATOに加わっていないしね」
「そう。我われの疑惑が正しいものだとすれば、彼らの行動はまさに戦時疎開だと読めるんだが、この程度の現象だけを把えてワルシャワ条約軍侵攻の兆候だなどとひとに話すわけにはゆかない」
「それはそうだ。しかしクルト。君のその口振りでは、ほかにも何か持っているな?」
「まあね。これもソ連大使館関係だ。彼らは昨日のアエロフロート便で、フランクフルトからモスクワに向けて約七トンの貨物を送り出した」
「航空貨物七トンというのは大量だな。中身は?」
「外交特権によって中身の申告義務は免除されている。しかしアエロフロートの貨物取扱いをルフトハンザが受託している。そっちの話だと合計十八個の貨物の荷姿は木箱、容積重量からして文書に間違いないそうだ」
「ソ連大使館から昨日一日で女子供と機密文書がすっかり消えたわけか。しかし、だからといってワルシャワ条約軍の侵攻が間近いなどと他人に話したら、一笑に付されるのが落ちだ」
「まだあるんだ、レス。各空港で出入国管理業務を受け持っている国境警備隊は防諜関係の要監視人物のリストを持っている。このリストに載っている人物の多くは、たぶん言葉の関係だろうが北欧のどこかの国の偽パスポートを所持しており、商人とか実業家とかという触れ込みで商用出入国するんだ。しかし彼らは実はわが国の中にある左翼系地下グループとの連絡員または工作員であって、入国の度にこれら地下グループと接触して活動資金の提供と交換に情報を入手して帰ってゆくんだ。我われとしては彼らの出入国をその都度把握してはいるが、地下グループの所在を突き止めたり活動の程度を監視するのに役立つので通常は自由に泳がせてある。
ところがだ。これら要監視人物の入国数がこの三日間で五十名以上にもなり、その五十名はその後一人として出国していないんだ。この現象を君はどう解釈する?」
「彼らが平常接触しているのは|D K P《デー・カー・ペー》や|S K G《エス・カー・ゲー》か?」
「そうだ。今話した対象を調べてみると全員が、ソ連共産党系とドイツ民主共和国共産党系の地下組織、これらと日頃接触している連中なんだ」
「彼らは開戦後のゲリラ戦の準備を始めたんだ。国内を後方から攪乱しようと企んでいるんだ。早速、オランダ、ベルギー、そしてフランスにも、同じような入国者が増えているかどうか、問い合わせる方がいいな」
「手はすでに打った。ところで今のところ君に伝えたかったのは以上の三つなんだが、三番目の話は我われの抱く疑惑を、単なる疑惑だけに留めおけない現象だと思うんだが」
「そうだな。周辺の国でも同じことが確認されれば絶対的な兆候だといえる。ではこっちの話も君に話しておいた方がいいな」
レスは、今朝方ケイリーから入手した、ソ連が始めようとしている極東地域での大演習の話を伝えた。クルトが真先に示した反応も、陽動作戦ではないか、ということだった。動員数は九十万だ、と話したときクルトはしばらく電話の向こうで沈黙し、
「チェコスロバキアとの国境線について、答が出たかどうか確かめてみなくてはいけないな」
と、ぽつりと独り言のように呟いた。チェコスロバキアとの国境線について、というのは例の地雷撤去の音のことだろうとは思ったが、レスがクルトの呟きの意味を察する前に秘書室側のドアが半分開きミス・クレーマーの困惑している顔が覗いた。
「マコウィック領事がさっきから電話口で待っていらっしゃいますが、これ以上待てない事情ができたのでほんの少しだけでも話せないか、とおっしゃっているんですけれど……」
すぐに掛け直すから、といってレスはひとまずクルトとの電話を切り、ボタンを押してマコウィックが待っている回線に切り替えた。
「やあ、マック。長時間待たせて……」
「ああ、いいんだ。それより早速用件だが、昨夜の君の問い合わせにいくらか関係があるかと思ってね。ストライク・コマンド情報によると……」
「ストライク・コマンド情報?」
「ああすまない。これには『英国王室空軍戦闘航空団司令部情報』といった長ったらしい名称が付けられているんでね、我われは戦闘航空団の通称の方で『ストライク・コマンド情報』と呼び馴らわしているんだ。主としてわが国本土周辺の警戒情報を関係先に毎日定期的に流しているものなんだが、昨夜君に依頼されたので、東側の動きに関するものがあれば私のところにも落してくれ、と今朝一番のテレメッセージに打ち込んだんだ。そしたら早速今から伝える内容のが流されてきた。
『グリニッチ時間本日〇三三〇にフランス海軍航空隊所属沿岸パトロール、ノール262機がイギリス海峡を北東方向に全速航行中のソ連空母「キエフ」を発見した。現在〇八三〇には「キエフ」はドーバー海峡を通過中だが、わが国の海軍戦闘機一個編隊が周辺上空から監視中』
どうかな、こういうのは君が求めている情報の範囲に入るのかな?」
「ありがとう。もちろん入るさ。大助かりだ。ソ連のを主体にして東側の連中の異常な動きに関するものなら、どんな些細なものでも大歓迎なんだ」
「異常といえば、この情報の附記にもそんなことが出ている。読んでみようか。……『「キエフ」の外洋|遊弋《ゆうよく》任務の期間は通常一二〇日と見られていたが、今回は僅か十七日の後に帰投しつつあり、異常である。理由は、自力修理不能の故障発生または艦内に伝染病が発生したものと考えられる』……とね。彼らのインド洋艦隊で兵員に集団赤痢が発生して大騒ぎした実例が数年前にあるんだそうだ」
レスはマコウィックに対しても、ワルシャワ条約軍侵攻が近々のうちにあるのではないか、という疑惑を話して聞かせたいような強い誘惑に駆られたが、やめた。クルトとの関係とは異り、英国領事に対する非公式ルートの情報としては事柄が余りにも重大過ぎるからだ。
「今の話はNATO司令部も知っているだろうな?」
「もちろん。とうの昔に知っている」
「もう一度最後にいうが、待たせてすまなかった」
マコウィックとの電話を終えて、レスは机の真正面の壁に掛かっているヨーロッパ地図を見やりながら、いま白波を蹴立ててドーバー海峡を東北東に向って通過しつつあるという「キエフ」の姿を想像していた。
帰投するのはバレンツ海の方か? それともバルト海の奥か? もし、北極海に接しているバレンツ海側のムルマンスク軍港を目指しているのならば、大西洋からはイギリス諸島の北側を通りノールウェイ海を通過するはずだ。そのコースも今の季節なら流氷群の心配はない。したがって「キエフ」は今バルト海に向っていると考えるべきだ。
「キエフ」の姉妹艦でソ連黒海艦隊に所属する「ミンスク」は、一度だけインド太平洋海域に姿を見せたが、十七カ月の後には砲爆弾昇降装置のコンピューター回路にウラジヴォストークでは修理できなかった故障を起して黒海に戻り、いまだにアゾフ海基地の奥に繋留されている。
いまやソ連が所有し就航させている唯一の近代空母「キエフ」、無数の対空対潜ミサイル発射装置と大小の電子兵器用アンテナドームで飛行甲板以外の艦体のほとんどが被われている四万トンの空母、ソ連海軍が掌中の玉の如くに何にもまして大事にしているただ一隻の行動可能な空母「キエフ」は、いま、なぜ、どこへ帰りを急いでいるのだろうか?
どういうわけかレスは、ストライク・コマンド情報が示唆しているような理由、つまり、自力修理不能の故障とか兵員の間に伝染病が発生したなどという事情によって「キエフ」が帰投しつつあるのではないような気がして仕方がなかった。
壁の地図と向き合って考えにふけっていたレスは、ふとクルトとの電話が途中だったのを思い出し、掛け直そうとして受話器に手を伸ばした。ちょうどその時ベルが鳴った。再びクルトだった。
「おいレス。喜ぶべきか悲しむべきかは判らないが、わが方の国防省が、私が今朝本庁を通じて流しておいた情報を採り上げたんだ。東側連絡員の大量入国の事実が情報部の連中の頭の中で赤ランプを点滅させたらしい。国防、内務の二省、内務の方は連邦警察機構と国境警備隊総局が個別に出席するが、それに我われ基本法擁護庁、情報庁、これらの四者による合同会議が今日の午後二時からボンの国防省で開催されることになった。私にも出席してくれといってきているんでこれから出掛けるところなんだ。
この会議の開催には国防省が一番乗り気になっているらしい。というのは、あるルートからの通報によると、ドイツ民主共和国コトブス市の東方五十キロメートルばかりのポーランド領内に、今ソ連の機甲部隊が集結中であり、すでに七、八師団は集まっている。ということなんだ。その地域はオーデル河の源流地帯で、チェコスロバキアとの国境からもそう離れていない。そこで、国防省がかなり緊張して情報集めをやっていたら、君の国の偵察衛星が取ったという資料が届けられた。それによるとチェコスロバキア駐留ソ連軍が一部後退し、今いった地域でこの集結部隊に合流しているということが判明した。というわけで国防省ではソ連軍が実施しつつある兵力移動の意味合いを未だに掌握し兼ねて苦慮しているからなんだ」
レスの机上も忙しくなった。クルトと話している最中に机の一番左端にあるボタン式電話機が突然黄色い豆ランプを点滅させながら小さくジーッ、ジーッと鳴り出した。緊急電話が外線の方に入っている、という通報をミス・クレーマーが送ってきているのだ。
「クルト。すまない。また別の電話だ。緊急らしいんだ。済み次第今度こそこっちから掛けるよ」
「いやその必要はないよ。私は仕度してすぐ出掛けるつもりなんだ。ボンの国防省までは三時間は見ておかないとね。空港に行く途中ちょっと君のところに立ち寄るよ。たまにはミス・クレーマーのご機嫌も伺わなくっちゃね。ここのところ君の所にはとんとご無沙汰しているから……」
考えてみるとそのとおりだった。外部ではしばしば会っているので気にも留めなかったが、クルトがこの部屋に最後に来たのはいつだったろうか。レスの脳裡には、クリスマス・ツリーの一件で初めてこの部屋を訪ねてきた七年半前のクルトの姿だけが鮮やかに焼き付いていた。そのクルトと自分が、昨日ふと抱きはじめた重大な疑惑は、どうやら実像に向って少しずつ形を成しはじめた。それが事実と化した暁には、この国はもちろん、世界中のあらゆる事象が現在とは数時間のうちに異ってしまうに違いない。
「オーケイ。待っている。この部屋で最後の平和なひと時を君と過すのも悪くないな。なるべく早く来いよ」
とレスは笑いながらいって電話を切った。
緊急電話を掛けてきたのはケイリーだった。
「専用線が塞がっていたんでこっちへ掛けたんだ。かなり機密性が高い話だが、このまま話していいかな?」
「いや。専用回線は今空いた。こっちから掛けるから君の方を切ってくれ」
ケイリーは呼出し音が鳴る前に電話口に出た。
「レス。『キエフ』がドーバー海峡を通って北海に向っている」
「『キエフ』がドーバーを通過中なのは知っている。だが向っているのはバレンツ海側かも知れないし、北海だとは一概にいい切れないんじゃないか?」
「いや。北海だよ、『キエフ』の目的地は。とにかく君が『キエフ』のことをすでに知っているのなら話が早い。実は、北海に集まってきているのは『キエフ』だけじゃないことが判明したんだ。約一時間前に第二艦隊所属のTR─1が、Yサブの音紋を警戒水域の何カ所かで把えたんだ。少なくとも三隻のYサブが潜航のまま『キエフ』に随行してドーバーを通過中だ。他に四隻が潜航してノールウェイ沿岸を掠めて逆に北海に向けて下ってきている。そのほかに、未確認情報だが、バルト海出口のズンド海峡でもYサブの音紋らしいものを把えた、という話もある」
TR─1は、ロッキード社製の戦術偵察機だ。搭載しているコンピューターと地上の計算支援センターのコンピューターとを連動させて、潜航中の潜水艦の型式を判定する機能を持っている。人間に指紋や声紋があるように、潜水艦は型それぞれに、水中を航行するときに固有の音響を出すが、同型艦でも、潮流、風向、気圧、気温、水温、音源深度の如何によって空中から把えられる音が異ってくる。しかし、TR─1はそれらの夾雑条件をことごとく排除して、海面下の艦型を適確に判定することができるのだ。ソ連は今のところそこまでできる技術を持っていない。Yサブと呼ばれるのは、ソ連のY級原子力潜水艦で、十六基の水中ミサイル発射管を装備している。米国のポラリス並のこの潜水艦を、ソ連は少なくとも八十隻は持っていると見られ、常時世界中の海を遊弋させているのだ。
やはりそうだったのか、とレスは胸の中で呟いた。「キエフ」は故障や伝染病のために帰投を強いられていたのではなかったのだ。だがなぜ「キエフ」やYサブが北海に集結してきているのか? 開戦の前に先手を打つために彼らがそこに集まってきているのだとしても、スカンジナビア半島と英国本土によって東西両側を阻まれ、南側をヨーロッパ大陸北部によって扼されて出口は北にしかない北海の中では、いかに高性能の艦艇といえども陸上に基地を置く攻撃力に絶対に敵し得るものではなく、開戦後数時間で葬り去られてしまうだろう。
「それから、例の地雷撤去の話だが、今朝の会議で真先に披露されたんだ。さすがだな、と思ったんだが、第一番にスターリー司令官が耳に止めてね。三軍の情報担当で特別チームを直ちに編成し、この情報が物語る事実と東側の意図を徹底的に追及すべきだ、と強力に主張したんだ」
ドン・A・スターリー将軍はフランクフルト駐屯米国地上軍第五軍団司令官だ。前大戦における多彩な実戦体験に基く戦略信奉型司令官として知られている。
「しかもだ。その回答は午前中に出せ、と将軍は要求した。するとだ。一つ一つで把えると、それほど重大だとは思われないような小さな異常要素が幾つも出てきた。例えば、今この瞬間にノールウェイ海、北海、バルト海、そして北大西洋の上空を飛んでいるソ連偵察機の数は、前月平均の九機より五機多い。増えたうちの四機は超大型の『ベア』で、『ベア』だけについていえば、前月は北極海からスカンジナビア半島沿いに、英本土までの間をたった二機でカバーしていたんだから、今や三倍になっていることになる」
ケイリーの声に被さるようにして受話器に伝わってくる彼の周辺の物音に、思いなしか緊迫感とそれに伴うざわめきが急増したように感じられた。
「とにかくこの程度の異常要素はここ一、二時間のうちにかなり収集された。ある参謀は、ソ連は、極東で開始した大演習に相当数の軍事力を投入しているので、その間のヨーロッパ側におけるNATO軍の動静に特別な警戒心を払っているのではないか、という見解を述べた。たしかに、この見方にも一理があるが、スターリー将軍は、完全に満足しなかった。それどころか、極東におけるソ連軍の演習は、むしろ、ヨーロッパで事を起すための陽動作戦だと見立てて、他の面でのソ連の動きの僅かな変化に対してでも、細心に対処するのが戦略家の採るべき姿勢であり、たとえ、それが結果的には無駄骨だったとしても、初めから、無事平穏に事が収まる方向に向けて事象を結び付けてゆくのは軍人の採るべき発想方法ではない、と強い調子でいい切った。将軍は、君も知ってのとおりの実践家だ。直ちに、NATO司令部、米国在欧軍統一司令部、それに、この国の国防省との三者合同会議の開催を提案し、受け入れられると今度は、その会議を例の爆発事故が起った現場の近傍で行ないたい、といいだしたんだ。現実の傍に接近するほど次に起る事実が見えてくる、というんだ」
「まさか、あの、ラーツェブルクの森の中で会議をしようというんじゃあるまいな」
「放っておけば、将軍は、そうしかねなかったのだが、参謀たちが、それでは余りにも目立ち過ぎる、と口ぐちにいって止めた。結論をいうと、例の境界地帯にはいずれ会議のあとで出かけるとして、会議は現場に近いハンブルク、つまり、君の領分で開催されることになった。
今、ボンのトミーが外交チャネルを通じて関係先と調整していると思うが、間もなく君のところに会議場設営の依頼が届くはずだ。スターリー将軍は、君にも是非出席してもらいたい、と伝えるようにいっていた」
「オーケイ。会議場はいつでも設営するが、何時から、何名ぐらいだ?」
「そうだな。たぶん、今日の午後早々だと思うが、終りの時間は会議の様子次第だから何ともいえないな。出席者の人数は、そう、十四、五名かな。いや、この国の国防省の他に基本法擁護庁、情報庁からも出てもらった方がいい、という声もあがっていたから三十名を超えるかも知れない。いずれにせよ、間もなく正式に大使館のトミーから連絡が行くはずだ」
「ケイリー。ちょっと待ってくれ。この国はこの国で、今の君の話のメンバーに国境警備隊総局を加えた陣容で、同じく今日の午後二時からボンの国防省内で会議を開く、と聞いているが……」
「それは聞いていないな。ボンの大使館が調整に手間取っているのは或いはそのためかも知れない。オーケイ。こっちでトミーと連絡を取ってみる。じゃまた後で電話する」
ケイリーとの電話が切れたとき、待っていたように秘書電話が鳴った。ミス・クレーマーがクルトの来訪を告げるものだった。
ドアが開くと、片手に手頃なサイズの黒革のスーツケースを提げたクルトが現われて、つかつかと部屋に入ってきた。初めてレスを訪ねた日のように彼は背筋を伸ばし胸を張って大股にレスの机に近づいてきた。目と口元には、あの日と同じようににこやかな微笑を湛えていた。しかし正面から見るクルトは、七年半前に比べて栗色の頭髪には白いものが混り、額の皺は深くなっていた。いつの間にかひどく老けたな、とレスは心中で呟いたが、
「やあ、クルト。ここのところ君は疲れ過ぎているぞ。それが顔に出ている」
と口に出したときにはいい変えた。
「ああ。ここ五十時間、ほとんど熟睡していないからな。レス。君だってそうだ」
クルトは部屋の真中の絨緞の上にスーツケースを無造作に置くと、いつもの仕草で机の向い側にある廻転椅子の中に大きな体躯を落し込んだ。
「コーヒー? それともあれか?」
部屋の右隅にあるサイドボードの中に並んでいるアルコール類の瓶をレスは顎で指した。
「そうだな。ここのところ夜更しの連続でコーヒーは飲み過ぎだ。よく冷えているシュタインヘーガーがいいな。あるか?」
「ああ、ある。よく冷えているはずだ」
立ち上がり、冷蔵庫が置いてある秘書室に行こうとするレスの姿を、坐ったまま椅子を廻転させて追いかけながら申しわけをいうようにクルトが付け足した。
「疲れを吹き飛ばすためには、あれが一番なんだ」
レスは思った。表面笑ってはいるがクルトは疲れている、自分よりずっと疲れている、綿のように疲れている、祖国の存亡がかかっている疑惑を初めから一身に背負い込んで……。
外側に付着している水分が凍り付いているほどよく冷えたグラスに、これも凍るほどに冷えているシュタインヘーガーの透明な液体を注ぎ込んでいるとき、ケイリーから再び電話が掛かった。
「会議はこの国の関係機関と合同で開催することに決った。将軍の希望が強く、場所はやはりハンブルク。開催時刻は本日十四時からだ」
受話器を置くのとほとんど同時に、レスはインターフォーンで総領事室に呼ばれた。
「たった今ボンから電話があってね。防衛関係の会議場を人目に立たぬように配慮しながらこの街に設営して欲しい、と頼まれた。詳しいことが知りたかったら直接大使館のロイヒャマン中佐と話してくれませんかな」
と総領事はレスに淡々と伝えた。薄々なにかを感じ取ってはいるが、まだそれほど深刻に受け止めてはいない、といった風だった。
自室に戻ってくるとクルトが電話を切ろうとしているところだった。会議が急に独米合同に変更されたのを基本法擁護庁本庁で確認していたらしかった。
シュタインヘーガーを酌み交しながら二人はあれこれ会議場に適当な場所を検討してみた。結局プラツァ・ホテルが最適だということになった。中心区にあるこの三十二階建のホテルなら、公道と直接つながっている地下二階の駐車場を使えば、人目に触れずに自由に出入りができる、というのが主な理由だった。それにエレベーターホールから直接独立した会議室に入ることができるのも都合がよかった。多数の東側工作員が入国してきているという情況から推して、街角のいたるところに彼らの目が光っているものと予想すべきだからだ。レスはホテルに電話を掛け、咄嗟に思いついた狩猟同好会の名を使って、二十八階にある小会議場を押さえた。そしてすぐにボンに電話しロイヒャマン中佐に会議が決ったことを伝えた。こういう仕事の場合レスの報告先は彼なのだ。予約に際して狩猟同好会の名を使ったのでそれらしい服装で集まるように、とも付け加えた。続いてケイリーの専用電話にもダイアルしたが、ハンブルクに来る仕度のために帰宅してしまったらしく、応答がなかった。レスの部屋で一時間ほど過したクルトは、ホテルで会おう、といい残して帰っていった。
ひと足早くプラツァ・ホテルの二階にあるロビーに赴いたレスは、「ウィリス様も銃猟のご趣味がおありとは今まで少しも存じませんでした」などとお愛想か皮肉かは判然としないことをいいながら親切げにつきまとう古参の従業員を適当にあしらいながら、カウンターの隅で会議場使用の手続きを済ませ、二十人分程度のコーヒーと紅茶を適当に見繕って早めに届けておくように依頼した。
そのあとロビーの中をそれとなくぶらぶらしてみたが、気に掛かるような人物は目につかなかった。並んでいるエレベータードアの前まで来たとき目の前の一つがちょうど開いた。自分のほかに客がいないのを幸いに、その箱に乗り一気に二十八階に昇った。この日、廊下の窓から見える眺めは想像以上に素晴しかった。そのうえ珍しく遠くまでよく晴れ渡っていて、大袈裟にいえばドイツ民主共和国の領土の奥まで見えているのではないか、とさえ思われた。眼の下に、内と外両方のアルスター湖が群青色の水を満々と湛えており、内アルスターには二隻の連絡汽艇しか浮んでいないのに反し、外アルスターの湖面には数十艘のヨットが七色の帆をふくらませて滑っていた。煉瓦積みの壁の上に、煉瓦よりいくらか濃い色の屋根瓦を乗せた四、五階建の建物が建ち並ぶ中心区には、市庁舎の中央塔と幾つかの教会の尖塔だけが抜きん出て、晴れ上がった青空を背景に聳えていた。厚い二重の窓ガラスによって遮られているので、外界の物音は何一つ聞こえなかった。それがまた、眼下の景色をまるでお伽の国のように小綺麗に感じさせていた。
一時半になろうとする頃、開いたエレベーターの扉から第一団が現われた。思い思いにラフな私服を身に着けている五人の青年だった。その中の、ジーンズのスラックスに白っぽい丸首のスウェーターを着込んでいる青年がレスの姿を認めると、にこっと笑った。その笑顔には見覚えがあった。たしかバーナード・ロジャース大将麾下の欧州連合軍最高司令部、すなわちSHAPEの情報部に勤務している合衆国空軍中尉で、欧州地区内会議の際に何度かレスは彼と同席したことがあった。彼らはSHAPEがあるベルギーのカストーから特別仕立ての小型ジェット機でも使って、会議開催決定後直ちに駆けつけてきたのに違いない。この青年たちとレスは双方から鋭く観察し合ったものの、ただ「ハロー」と挨拶を交しただけで、互いに名乗り合ったり握手を交したりしなかった。それは情報関係者の集まりでの仕来りなのだ。
青年たちは会議場に入るなり、一人が肩に掛けてきたゴルフクラブバッグを開けると、その中から一本の指示棒と丸く巻き込んである紙の束を抜き出した。三十面ばかりに分割されている縮尺二十万分の一の中部ヨーロッパ地図だった。彼らは椅子を|脚立《きやたつ》代りにしてその地図を一方の壁面に画鋲で留めはじめた。レスはいった。
「もうすぐウェイターが飲物などを運んでくるはずだ。早目に頼んでおいたのだが、まだ来ないんだ」
無言のうちに一人が直ちに手を止めると会議場から足早に廊下に出てゆき、外側からドアを閉めた。
やがて、クルトもケイリーもトミーも現われた。最後に、背広姿のスターリー将軍一行が入室した。スターリー将軍が着用している上衣は、よく見るとスウェード製だった。狩猟家の集まり、という触れ込みに将軍自身も気を使ったらしいのが判って、レスはなんとなく愉快になった。
一時五十分になると、将軍の副官が用意してきた卓上の名札に相対する椅子に空席が一つもなくなり、全員が集合したことが確認された。会議場の三つのドアのうち、二つが内側から施錠され、残るドアの外側に警戒員が立った。
スターリー将軍が誰からの異議もなく議長に選ばれた。将軍は「第一番目の議題は」と声を張り上げて、「会議では、英語とドイツ語のどちらを使用すべきか」と提案した。そのあと彼は、ひと呼吸おいて、「わたしの場合、英語なら、理解力にかなり自信があるんだが……」と、呟くように小声で付け足した。室内に笑い声がどっと挙った。こうして米独合同会議には和やかな雰囲気が醸成され、英語による進行が即決した。
導入として、クルトとレスの二人がこもごもに東側が地雷を撤去しているという判断を下した経過を説明した。続けて書類を手にしたクルトが、地雷が撤去されたと推測される地域の名を読みあげた。青年の一人が、椅子の上に上がって地図に向い、北から順に読みあげられる地名に該当する境界線を、赤色の太いフェルトペンで染めていった。
それが終ると将軍は別の青年に命じて、『ウィンテックス79〜82』によるワルシャワ条約軍侵攻想定系路を黄色のフェルトペンで画き込ませた。
チェコスロバキアとの国境線を除いては、赤と黄の部分がほとんど重なった。会議場の中に「ほほう!」という嘆声が流れた。そのあと次つぎに、各情報組織が入手している東側の動静が披露され、地図の上に記入されていった。「キエフ」と「Yサブ」七隻は、すでにスカゲラーク海峡の入口に達していた。そのほかに三隻の「Yサブ」がバルト海内で確認されていた。北方公海の上空には十七機のソ連偵察機が行動中であり、午前中よりさらに三機が増加していた。ドイツ民主共和国西方国境に近いポーランド領内のオーデル河源流地帯に集結しつつあったソ連機甲部隊の数は本日正午現在で十一個師団十二万名に達している、と記入された。しかし、このうちの四個師団はチェコスロバキア駐留ソ連軍が移動合流したものだと説明されたとき、ほとんどの参加者が頭を一斉に傾げた。SHAPEの情報部から来た若い少佐が立ち上がって地図の前に行き、指示棒を使ってソ連軍のポーランド領内集結について参考意見を述べた。
「彼らは、一九七八年七月以来四回にわたって、東独内の同一地域で移動演習を実施しております。つまり、まず現在と同一地点に集結後、東独領内のここ、リーベローゼに移動する。そこで二手に分れ、一団は沼沢地帯をがむしゃらに突破してベルリンに向う。それからベルリン市内を通過してシュテンダールに向い、ここに到着すると停止する。他の一団は、ユッターボークを通過、一路マグデブルクに向い、ここに到達すると停止する。両者の距離は共に約百八十キロメートル。目的地到達時間を二つの兵団が競い合っているようで、そのためか、この同じパターンの移動演習の第一回目と第四回目とでは、二時間以上が短縮されております」
「演習動員数と移動に要した時間は? 前回はどうだったのかな?」
将軍が尋ねた。
「はい。前回は十個師団が参加し、四時間弱で終了した模様であります。ちなみに、第一回目は、四個師団が参加、六時間以上が掛かっております。したがいまして今回も、彼らが同一パターンの移動演習の実施を企画しているのだとすれば、チェコ駐留軍の引揚げも、彼らをこの演習に参加させんがためだ、と理解できます」
将軍が、すかさず鋭い口調でいった。
「平穏無事に落ち着く結論に向けて、眼前の現象を結び付けて解釈するのは、わたしは好まんのだ! だれか、ほかの考えを持ち合わせておらんかな?」
ドイツ側の国防省から来ている青年が立ち上がった。
「現在のソ連軍集結の意図を推測するには、その他の変化がもう少し現われるまで、多少待たねばならないと判断いたします。しかしながら、我われの参謀本部におきましては、彼らが実施した過去四回にも及ぶ同一地帯における移動演習を次のように読み取っております。その指示棒を貸していただけますか?」
彼は地図の前に行き、ドイツ民主共和国リーベローゼ=ベルリン=シュテンダール間と、リーベローゼ=ユッターボーク=マグデブルク間とに背伸びをしながら指示棒をそれぞれ当てて、おおよその長さを測った。そして、その長さをドイツ連邦共和国の地図の上に移した。
「このように、基点のリーベローゼをわが方の境界線附近の街ヘルムシュテッド市に移し変えた場合、彼らの領内のベルリンまでと、わが領域のハノーファーまでの距離とはまったく同じ八十キロメートルになります。そのあと、彼らの領内のシュテンダールまでと、わが領域のブレーメンまでとが、ぴったり同じで百キロメートルであります。しかも、ご覧のとおり、両地方とも、河川沼湖が多い低地帯であります。したがって、この演習は、開戦と同時にわが国北西部のブレーメン港を一気に扼して、わが国を南北に分断する楔を打ち込むための訓練であると、我われは解釈しております。
一方、彼らの領内のリーベローゼからマグデブルクまで一路殺到する演習は、フルダ侵攻系路の訓練であると解釈しております。このとおり、わが領域の百八十キロメートル圏内に、フランクフルト、ヴィスバーデン、コブレンツ、ケルン、ボンの主要都市があり、彼らはこれらを一気に制圧して、直ちにこの地区でラインを東から西へ渡河しようと企図しているものと理解されるのであります。このとおり、マグデブルクをご覧になれば彼らの意図が判然とすると考えます。いま私が名前を挙げたわが方の諸都市の中央をライン河が貫流しているように、彼らの方のマグデブルク市内にもエルベ河が流れております」
若いドイツ連邦軍参謀の説明は理路整然としていた。居並ぶ者はしばらくの間壁面の地図に眼をやって声を発しなかった。ややあって将軍が口を開いた。
「参考になった。中尉、非常に参考になった。特に彼らが侵攻してきたならばどの地点に重点的に防衛線を敷くかについて、君の説明は非常に参考になった。
ところで、わしが本日急にこのような異例の合同会議の開催をSHAPEに要請したのは、あらゆる状況からして事態は現在すでに容易ならぬものになっている、と気づいたからなのだ。東側が置きつつある布石からして彼らは近いうちに動き出すに違いない、という直感がわしの胸には生まれているのだ。それがいつか? わしはそれが知りたい。それが知りたいのだ。二週間も先のことだということは絶対にあり得ない。十日後か? いや、もっと近い。五日後か? いや。とにかくこの異例の独米合同会議は、ワルシャワ条約軍が侵攻してくるのか来ないのか、を討議するために開催されたのではなく、彼らがいつ、つまり何月何日の何時頃出てくるのか、を具体的に判定するために開催されたものなのだ。さあ諸君らの忌憚のない意見を聞かせてくれ。諸君らが、あの地図に書き込まれている東側の異常な動きを、各自の頭でいかに読んでいるのかを、わしに包み隠さず聞かせてくれたまえ」
この瞬間まで聞き手に徹していた者も将軍の激しい口調に促されて、次つぎに自分の脳裡に温めていた意見を開陳しはじめた。それから一時間以上も、東側の異常要素をいかに解釈すべきかについて、軍官、独米、と立場を異にし視点を異にする者たちによるあまたの主張と反論の応酬が続けられた。しかし、東側が侵攻してくる時機については、一人として残りの全員を納得せしめ得るような筋道の通った推論を組み立てることができずにいた。頃合いを見計らった将軍が手を大きく振って室内を静めた。
「よろしい。判った。情況把握の基盤がかなり揃ってきたようだな。さて、諸君らが矛盾点として挙げている幾つかの事実、わしらが消化し得ないでいる事実があるのも確かだ。例えば、チェコから四個師団を抜いてポーランド国境へ持っていったあとが補充されていない点だ。断定はできぬが、或いはクリコフの奴は、山岳地帯によるチェコ国境からの侵出には地上軍を主力とせずに空挺部隊を送り込もうとしているのかも知れぬ。例えばまた、ここ一週間の|裡《うち》に撤去されたとされる東西両独境界線沿いの地雷だ。だが、チェコとのボーダーでは撤去の気配がないという。ワルシャワ・パクトが出てくるのだとすると、これはたしかに奇妙なことだ。しかし、それは、この一週間といわず、我われの気づかぬ間の遙か昔に撤去されてしまっており、東西両独境界線における作業が最後の仕上げだったかも知れないではないか。
いずれにせよ、昨今の東側の異常な動きからして、彼らが近々侵攻してくるに違いない、と察する点では諸君ら全員の意見がどうやら一致したようだな。しかし一方、我われが今手中にしているカードからのみでは、その時機をいつの何時何分と割り出すことは到底不可能だということも、諸君らは判ってきたようだな。
ところでだ。戦争を勝利に導く要件の一つに、果断即決、という定石がある。敵の手の裡が読み切れるまでのんびりとカードを集めていたのでは手遅れになること必定だ。とすれば、だ。回答を今ここで得んがためには、この先諸君らの頭にではなく胸に聞いてみてはくれまいか? 諸君らの胸の中の声はなんといっておるのかな?」
鷹のような眼で将軍は列席者の顔を左から右へ右から左へと何度も睨め廻した。レスの隣席に坐っているクルトが独り言のように宙を見詰めて喋りだした。
「そうだな。私も将軍がいわれたようにそれは極めて近いと感じる。どうしてか、と聞かれると困るが、三桁の数字は残っていないのではないかな。あの地図には記入されていないが、この国の中に潜入してきている東側の連絡員、いや彼らは戦争勃発後の後方攪乱工作員だろうが、彼らは一昨日に五十名にもなり、昨日には七十数名にも脹れ上がっている。その後一人として出国せずに何かをじっと待っているんだ」
「三桁の数字が残っていないとすると五日なら百二十時間。それより短い、と君は思うのだな?」
という将軍の尋ねに対しレスは黙って頷いた。基本法擁護庁から参加している中年の男がクルトの話に付け足した。
「工作員入国数の急増は今のところわが国だけに発生している現象で、周辺隣国にもぬかりなく問い合わせておりますが、届いた回答はすべてノンであります。我われはその事情を読み切れずに苦しんでいる最中です」
「そうなんだ。我われの調査でも、ベルギー、フランス両当局とも、そんな現象はまったくない、というんだ。したがって、この国だけに共産側の工作員が多数入ってきたからといって、それを直ちにワルシャワ条約軍侵攻の兆候の一つに数えるのは短絡に過ぎるんじゃないかな」
と、SHAPEから来ている情報将校の一人が呟いた。それを耳敏く将軍が把えた。
「この国の中に急激に増加したという第五列の数だが……」
将軍は地下工作員について古風な呼び方をした。
「……第五列の連中は、他の国ぐににもさらに巧妙な方法で潜入していないと君はいい切れるのか。この国と異り、他の国ぐにでは必ずしも全国境線における出入国者の身元を完全に把握していないではないか」
レスの斜め前に席を占めているケイリーが、このやり取りを無視するように、先刻、ソ連が東独内で再三実施している移動問題について意見を述べた少佐の方に、椅子ごと体を向けて質問した。
「同じパターンの移動演習を彼らが四回やったのを私も覚えているが、東独軍もこの演習に参加したことがあるのか?」
「いや。ソ連軍独自で常にやっております」
「なるほどね。ところで、彼らが東独領近くのポーランド領内に集結を開始してから、どの位そこに滞留した後にリーベローゼ地区に向って転進を開始するのだったかな?」
「どういうわけか、集結兵力に関係なく、集結開始からいずれも七十二時間後にリーベローゼに向って動きだす、というパターンを彼らは踏んでおります。恐らく彼らの演習計画にそう印刷されているのでしょう」
「七十二時間だったか。彼らが移動演習を実施するとき毎回ポーランド領内での滞留時間が同じなのに気づいて、何故かな? と考えたことがあるんだ。そうだとすると、情報によれば今回は昨日の早朝から集結しはじめた、という話だから、それが移動演習のための集結だとすれば、明後日の早朝にはリーベローゼに転進することになるわけだな。七十二時間パターンに彼らがまた従って行動すれば、だが」
眼を細めてじっとケイリーの横顔を見詰めていた将軍が、突然テーブルを拳でひと叩きし全員の注目を集めてから、断固とした口調でいった。
「それだ! ケイリー。明後日の早朝、その時機がわしの胸には正にぴったり来る。ソ連軍が今ポーランド領内に集結しているのは何のためか、率直にいってわしにもまだ判らん。しかしだ。ワルシャワ条約軍の侵攻開始は明後日の早朝、この頃合いが一分の隙もなくわしの胸にぴったり来る。わしがもし向う側の総司令官クリコフなら、あの地図に表われている数かずのお膳立てからして、やはり明後日の早朝に焦点を合わせているに違いない。
いいかな、諸君。答が出た! 彼らがやってくるのは『明後日の早朝』だ。これで本日の会議は終了する。ご苦労だった。一刻も早く戻って各自の組織に報告したまえ、明後日には戦争が始まる、とな。残り時間は少ないぞ」
将軍の気魄に押されて、一瞬、会議場内のすべての物音が停止した。だが数秒後全員は一斉に椅子を引いて立った。五分後には壁面の地図は取り去られ、独米双方の軍と省庁から集まってきた二十二名の男たちは、現われたときと同様に互いに挨拶も交さずに会議場から姿を消した。
午後五時十分だった。
[#改ページ]
ハンブルクにも西ベルリンにもケネディと名付けられた橋がある。同じ名前の橋がボンにもあり、ライン河に懸っている。この橋から南に約二キロメートル遡った地点の、ライン西畔と国道9号線とに挾まれた広大な緑地帯の中にハマーシュミット館と、シャウムブルク宮が建っている。
三年半の工期を経て一八六五年に完工した白亜のハマーシュミット館は、現在では連邦大統領官邸になっており、同じく白亜の、建物の翼の連結部毎にライン河畔の灯台を模した塔が組み込まれているシャウムブルク宮の方は、共和国成立後約三十年間に亙って連邦首相官邸として使われていた。だが現在では、数年前にそのすぐ南側に建てられた三層階の近代的な建物がそれで、ライン河の側になる中庭には玉石敷きの平面に泉水池をあしらった、どことはなしに日本庭園を思わせる一郭が設けられている。
首相ヘルムート・シュミットは、この中庭を見下ろすことができる二階の一隅を占める執務室で、スウェーター姿に寛ぎ、秘書官を相手に一つ一つコメントを与えながら溜まったその日の文書に眼を通していた。
午後八時二十分。電話が掛かってきていることを報らせるブザーが机上で鳴り、つっと腕を伸ばした秘書官が受話器を取って耳に当てた。が、すぐに送話口を掌で被い、
「国防大臣から電話が入っているそうですが、お話しになりますか?」
と、シュミットの返事を待った。書類に眼を走らせていたシュミットは、やや太目で濃茶色のベッコウ縁の眼鏡を空いている方の指先で下にずらし、秘書官の顔を上目遣いの裸眼で眺めると、訝るような口調で質ねた。
「ハンスからか? 彼と話さねばならぬことが今日は何かあったのだったかな?」
「いえ。特別これといってなかった、と思いますが」
あわただしく日程表を指で追いながら秘書官が答えた。
「ま、出ようか」
シュミットは読みさしの書類を机上に戻し、腕を差し伸べた。秘書官は送話口に向い、つないでくれ、と一言いい、受話器をシュミットの手に渡した。電話は国防大臣とすぐ繋ったらしかった。
「やあ今晩は。何かな?」
冒頭彼の右手は、握っているペンの背で机上の書類を軽くリズミカルに叩いていたが、つとその動きは止った。
「そうか。君は今役所か。ではこっちでゆっくり聞こうか。電話でない方がいいな。うむ。今すぐでかまわん」
シュミットは受話器を秘書官の手に返し、壁の時計に眼をやった。午後八時二十四分だった。
ハンス・アペルが大臣である国防省は、ほとんどの連邦官庁庁舎が集まっている、いわゆる連邦区の外にある。しかし、この時間なら十五分程度でここに来られるはずだ。
「ハンスがブラント参謀総長を連れてやってくる。ここに通すように総務局に伝えてくれ。彼らが来たら、話がすむまで、すまんが君は席を外していてくれないか」
秘書官が頷いて出てゆくと、シュミットは椅子を廻して立ち上がり、中庭を俯瞰できる防弾ガラス入りの窓の傍へ行った。厚い植込みに囲まれた庭内はすでに暗く、木立の中にある十数本の庭園灯がそれぞれその真下を円形に照らしていた。しかし、立木の梢が作りだす影絵のようなシルエットの向う側、その下にラインの流れがある辺りの空は、たった今地平線に姿を没した六月の太陽の残光で、白と黒以外の色彩でも未だに識別できるほどの明るさを保っていた。彼は後手に組んだ両の拳で眼鏡を握り、急速に衰えてゆく光を追いながら沈思しはじめた。
「……ここ半年、いや一年を遡って東側との対応を顧みても、西側侵攻に踏み切らせるほどに彼らをして窮迫する状態に陥れたことがあったとは思えない。また、ここ数カ月間に、この国の各方面の情報機関から提出された東側の動静に関するいずれの報告からも、彼らが近々武力行使の動きに出るような兆候は毛筋ほども窺えなかった。むしろ、東西関係は、あらゆる時点局面に一貫して適用される原則が未だ確立されているとはいえず、したがって不安定ではありながらも、それは僅かずつながら改善の方向に向っている、との認識が西側にはある。
現に一カ月前にこの国は、ルーマニアに対して日産四万バーレルに達する石油精製プラントの輸出に合意したばかりだし、チェコスロバキアでは、二年前に輸出した完全自動化の|燐寸《マツチ》製造工場が二カ月後には操業を開始する。ルーマニアではまた、一九七八年半ばに英国政府との間に調印されたBAC─111型旅客機のライセンス生産第一号機が完成し、明後日にはその祝賀式が首都ブカレストで行なわれるとのことだ。それに参列するために、英国から二名の大臣を含む慶祝団が大挙してブカレストを訪問し、ルーマニアとの経済交流をさらに拡大することを協議したあと、この国にも立ち寄る予定だと聞いている。また、長期間にわたり幾多の曲折を経たあと、ようやく米国政府がソ連に対する売却を容認した大型コンピューターを含む油田探索開発装置は、ソ連においてそれを収容すべき施設が最近完工したばかりだ。これなくしてはソ連は今世紀中石油の不足に悩み続けることになるはずだ。
とはいえ、東西関係の現状に関わりなく、東側では、どの国一つを取っても、現在の経済状態が将来的に継続した場合、なお幾年も耐えてゆけそうにないことも事実なのだ。彼らは常に西側との決済に相殺取引率の拡大を求めており、特にここ数年は、材木や石炭などによる現物受取りと、残額に対しては中長期信用分割払いの供与を、取引の大前提にしている。このように過去十数年来慢性的な国際決済通貨の不足に悩み続けている彼らは、将来的にも、事態を改善し得る何らの切り札も持ち合わせていないのだ。
このような東側の実状を熟知している西側、特にこの国自身の場合、彼らの自己破綻を防止しようと経済原則を超えていかに莫大な支出を許容していることか。例えばルーマニア、ブルガリア、ハンガリア、そしてユーゴスラビアからの農産物購入量は、その品質にかかわりなく年々国家需要限界の限度まで拡大するように努め、なおまたこれらの国ぐにからの常時百万名を超える臨時労働力の受入れを継続的に維持しようと自身の失業者率さえ無視して懸命に努力しているのだ。
もっとも今翻って考えれば、そうして東西間の落差の大きさを彼らに見せ付け続けたことが、彼らの心理に、自国の現状に対する絶望感を醸成し、やがてそれが戦争への踏切り台へと転化していったのかもしれない……」
暗転してゆく窓外の光景に対峙し黙考を続けるうち次第に、シュミットの心は、アペルがアペル自身すら半信半疑で伝えてきた、東側が侵寇の準備をしているらしい、という話は、決してあり得ぬこととして片付けられない、と思う方に揺らぎはじめた。
「……思えば、今や日常の現実の一部と化しているために、往々にして見落されている長年にわたる東側の敵性活動、例えば、東側はこの国に対してもあらゆる官民組織の中に多数の諜者を潜入させ、日夜、軍事、外交そして産業に関する機密を奪い取ろうと血眼になっている。この一事を直視するだけでも、東側は、相互依存に基く西側との穏健な関係を築くことが自国の発展に寄与すると信じていたのではなかったことが明白であり、東西間の戦争勃発の危険性は、前大戦が終った直後から持続的に東西関係の中に秘められていたのだ……」
東側との間に穏やかな関係を作りあげ、それを維持しようとする努力を過去三十数年間にもわたって続けてきた西側は、自己が画いた虚像に自ら幻惑され、東側も同じ基盤の上に立っているものと思い込むという重大な誤謬を犯していたことに、シュミットの思いが及んだ。
「……だがしかし、たとえその誤謬を西側が犯さなかったとしても、暴力に訴えて国際秩序を思うままに変革するという図式を西側も是としないかぎり、今日まで西側が取り続けた東側に対する施策とは別に、他にいかなる手立てがあったろうか……」
アペルの報告が真実であり、東側が最終的に自らを全面戦争へと駆り立てざるを得なくなったとして、その原因は、東側が彼らの国際観の中に常に抱いている武力至上主義に基く因子によるものなのだと、今やシュミットは自らが長年手を染めてきた東方外交の過程の中に禍根をまさぐる必要のないことを悟った。
「……したがって、その東側が今いよいよ戦争へと動きだしたのだとすれば、何らかの内部的な切迫した事情に直面してのことだろう。それは何か? 恐らく東側指導者は、遅々として生活の向上を達成し得ない共産主義政府に倦み疲れ絶望した人心を、も早押さえきれなくなったのだ。
この兆候は、東側ブロックの中で最も労働生産性が高く、その故に最も安定しているはずのドイツ民主共和国においてさえ現われていた。つまり、かの国からここ数年にわたり、反体制グループの蠢動がある、との声が西側へも間歇的に聞こえていたのだ。それは、一九五三年六月十七日に全国六十万の労働者を巻き込んで荒れた、ベルリン暴動と呼ばれる反体制行動のように暴発的な表現でもなく、また彼らのいわゆる解放記念日である五月九日に、毎年の持廻り行事のようにどこかの都市で必ず発生する、学生による騒擾事件の如く感性的なものでもない。それは地下組織ながらよく整備されており、優れた指導者が存在する息の長い秘密政治結社の活動のように思われる。なるほど、このような状態を放置しておけば、いずれ東側ブロックは遠からずして自壊作用を起し、ばらばらに分解してしまうのかもしれない。したがって東側指導者は、一つには戦争によって国民の目を外に向けようとしているのだろう。つまりは、内憂あれば外攻に転ずるのが政治の一手法なのだろうから……」
シュミットは窓辺から振り返り壁の時計を見た。八時四十分だった。アペル国防相とブラント参謀総長が官邸に到着したらしい気配はまだなかった。シュミットは再び窓外に視線を戻し、闇をみつめ、仮に東側が近々戦端を開くとして、彼らにそれを翻意させるのに、西側は具体的に今から何を譲ればよいのか、と考えはじめた。領土か? |金《きん》か? 食糧か? 領土だとすれば幾千万平方キロメートルを与えれば満足するのか? 金や食糧だとすれば何トン何千万トンを与えれば満足するのか? いや、何をどれほど譲っても全世界が彼らに隷属する日まで彼らは拡張主義を放擲しないだろう。しかし、なぜ? その答を見つけるためにシュミットの想いは自らが属し率いる社会民主党の生い立ちに沿って止めどもなく自国が二つに分裂する以前にまで遡っていった。
「……大戦が終り祖国が四大戦勝国の占頷下に置かれるとすぐ、ヴァルター・ウルブリヒトは九人の同志と手を携えて亡命先のモスクワから意気揚々とベルリンに帰ってきた。戦前のドイツ共産党の中堅指導者の一人だった彼は、ヒットラーが政権の座に就き、やがて共産党非合法化の挙に出ると、直ちにパリに脱出した。大戦が始まりドイツ軍がフランスに侵入した途端、彼はパリを出てスカンジナビアの諸国を経てモスクワへと再び亡命した。さらにはドイツ軍がモスクワを目指して進撃しはじめると、も早亡命先のない彼はスターリングラードに立ち戻って、ソ連防衛軍に混ってドイツ軍の猛攻にもめげず踏み留まり、ドイツ軍兵士の戦意を阻喪させるべく不眠不休で反ナチス宣伝放送を行なった。そのウルブリヒトが十年近い亡命生活の末に同志と共に祖国に帰還し、クレムリンと手を携えて共産主義による自治政府を占領下ドイツに樹立しようと動き出した。彼らの意気は旺盛だった。主義を守り通すために地下に潜り、ヒットラーに逆らい続けた結果、ヒットラー・ドイツは彼らが信奉して已まない共産主義ソ連に敗北したのだ。彼らはまさに苦節十年の末に凱旋してきた勝利者だった。一方、戦争が終ってから僅か一カ月のうちに、首都にドイツ社会民主党ベルリン中央委員会を再建したのはグローテヴォールだった。だが彼は、首都ベルリンが共産主義の海に浮ぶ孤島であり、周囲に押し寄せる赤い波が日毎に党の地盤を浸蝕し、やがては社会民主党が赤い海の中に没するであろうことを予見して、米英仏占領下ドイツでの社会民主党における中心人物と目されていたクルト・シューマッハーに提携を申し入れた。しかし、ナチス政治犯収容所から出所したばかりのシューマッハーはその時或る一つの目的だけに燃えていた。すなわち、米英仏占領地域に分立している再建ドイツ社会民主党を一日も早く統合することだ。シューマッハーはグローテヴォールの申し入れを、西側の統合が成った暁に、といって婉曲に断わった。もしこの時、シューマッハーが断わらなかったならば? 或いは祖国が二分されずにすんだのかも知れない……。が、或いは、シューマッハーが胸に抱いていたドイツ再建構想では、意気高いウルブリヒトの共産党からの影響を惧れて、この時すでにソ連占領下のドイツを切り捨てていたのかも知れない……。
……シューマッハーとの連携に失敗したグローテヴォールは、ベルリンにおける自党の消滅を喰い止めるために実を捨てて名を選んだ。つまりウルブリヒトの共産党との合体だった。それが成功したところで、社会民主主義の綱領は日の出の勢にあるソ連占領下の共産党に、たちまちにして呑み込まれてしまうことは判っていた。彼は自らの行為を正当化するために、合体の是非をベルリン社会民主党全党員の投票に問うた。ソ連介入下の投票結果は初めから火を見るより明らかだった。かくしてベルリンにおけるドイツ社会民主党との合体は成立し、ドイツ社会主義統一党が誕生して、ソ連占領下の東部ドイツにおける一党独裁化が歩みだしたのだ。
それから二カ月後の一九四六年五月には、シューマッハーは米英仏占領地区内に分立していた社会民主党の代表をハノーファーに招き、党統一大会を開催して統合に成功した。かくして、さらに三年後の一九四九年に誕生することになる二つのドイツの胎動がその時始まったのだ……」
シュミットは自らが属する社会民主党が大戦後歩んだ道を振り返り、戦いを避けるためには西側は東側に対し、いつ、何を譲るべきだったのか、どれほど遡って考えてみてもその答は見つかるはずのないことを知った。この世では力が二極に集約されると、必ずその関係はプラスとマイナスの対置に|収斂《しゆうれん》する。そして電極のように互いに反撥し合い、争いに火花を散らすようになる。これは人間の業なのだ、とシュミットは思った。人間がこの地上に現われたときすでに、その種子は人間の心の中に播きつけられていたのだと、も早すっかり暮れなずんだ窓外の風景をいずこともなく凝視しながら、彼は佇立して考えていた。
インターフォーンが、国防相と参謀総長の二人が今官邸に到着した、と伝えてきた。数分後にシュミットの執務室のドアがノックされ、開いた扉口から案内なしの二人の姿が現われた。アペルは電話で先刻話したばかりのせいか、堅苦しい挨拶をしなかった。
「いや首相。この時間になっても国道9号線は混雑していますね。国民学校が夏期休暇シーズンに入ったので、あれはみな北海地方やバルト海岸に家族連れで出掛けてゆく車でしょうな。お蔭で十分も余計にかかってしまった」
「うむ。近頃は真夜中でも通気窓を開けていると、国道の方から車の音が引っ切りなしに聞こえてくる。昼間の混雑を嫌って、夜間に長距離を走る人びとが増えたのではないかな。夏期休暇シーズンに入ると国中どこへ行っても混雑しているようだな」
参謀総長のユルゲン・ブラントは、窓際に佇んだまま喋っているシュミットの方につかつかと歩み寄り、威儀を正して上体を傾けた。
「首相閣下。近頃はお目にかかれる機会も少なく、なかなかじかにお声を聞けなくなりましたが、お元気でなによりであります」
「君もあい変らず元気そうで結構だ。どうだな、ご家族も健康に過しておられるかな?」
「はい。皆それぞれ無事に過しております」
陸軍大将ユルゲン・ブラントは、ハラルド・ヴスト将軍の後を承けて一九七八年に連邦軍参謀総長に就任するまでは、ブラッセルにあるNATO本部におけるドイツ連邦軍代表の任にあった。さらにその前は、シュミットがブラント内閣において国防相であった頃だが、NATO軍側からのボン政府主席駐在連絡官の職責にあって、二人は連日のように顔を合わせる機会があった。その当時から、政治も理解し得る軍人として、シュミットの彼に対する信任は極めて厚かった。二人のこのような当時からの関係が、単に首相と国軍の参謀総長という間柄以上に強い相互の信頼関係と理解を築く|礎《いしずえ》になっていた。
シュミットは二人に手振りでアームチェアを勧め、自身も窓辺を離れて向い合って腰を下ろした。それから気軽な口調でアペルに語りかけた。
「ハンス。例のがよかったら、まだあそこに残っている。グラスと一緒に持ってこないか」
この二人の信頼関係もまた特殊だった。年齢に十五年の開きがあるハンス・アペルを、シュミットは社会民主党内における自己の最終的後継者として、久しい前から心中に擬していた。アペルもそれを自覚していた。シュミットは、自身がブラント内閣内で国防相と蔵相の地位を歴任したように、アペルをまず蔵相に任じ、次いで現在は国防相の職責を与えていた。ここにシュミットの政治観と“力”についての哲学の一端が表われていた。
アペルが注ぎ分けたクリーム・ド・シェリーを一口含んだあと、シュミットが口火を切った。
「さて、聞こうか」
「首相はスターリー将軍をご存知ですか?」
アペルが尋ねた。
「駐留米軍の第五軍団司令官ドン・スターリーなら何度か顔を合わせたことがある。軍人らしい軍人という印象を受けたが」
「今日の午後、そのスターリー将軍が突然ハンブルクで独米の緊急秘密合同会議を招集したのです。もちろん軍事問題でです。NATO軍司令部からも代表が送られましたが、わが国からは、国防、内務の二省からと、基本法擁護、情報の二庁から担当官を出席させたのです」
アペルはそこで言葉を切り、傍のブラントの方に顔を向けて、詳細を述べるようにと眼顔で促した。
「今朝のNATO軍定例会議の場におきまして、東側との境界線に埋設してある地雷を彼らが自ら撤去したらしい、という情報が披露されたのであります。スターリー将軍は席上これを耳にした途端、鋭敏にもそれが意味するところの重大性を感じ取ったらしく、直ちに合衆国三軍の情報官による特別チームの編成を命じ、地雷撤去についての実態調査を即座に開始させる一方、これとワルシャワ条約軍侵攻との関連性を討議する会議の開催をSHAPE(欧州連合軍最高司令部)に申請したのであります。一方、一昨日あたりから東側の動静に、微細ではありますが異常と目すべき現象を少なからず掴んでいたわが方も、本日、特別会議を国防省内で開催することを決定し、関係者をまさに招集せんばかりのところでありました。そこで急遽両者が話し合った結果、独米合同会議をハンブルクで開催することになったのであります。
途中取り交された議論は抜きにいたしまして、スターリー将軍が出した結論を早速申しあげますと、先刻大臣が電話でご報告いたしたように、『明後日の早朝に敵の侵攻が開始される』ということであったのであります。
出席者は各々の組織にその結論を持ち帰ったのでありますが、まさに青天の|霹靂《へきれき》にも似た唐突な警報でもあり、関係省庁の情報担当官がこぞって荒唐無稽な話と受け取ったのは事実であります。正直に申して私もその一人でありました。本日まで一つとして、東西関係をそれほど深刻に受け取らねばならない軍事情報がなかったからであります。NATO軍司令部やSHAPEですら、スターリー将軍が異例な会議を主催し、手順を踏まずに極めて重大な結論を導き出したということで、越権行為だとする非難の声がまず挙り、本質的討議に入るまでにかなりの時間が無駄に費されたようであります……」
「予言者故郷に入れられず、か」
とシュミットは気軽に言葉を挾んだ。
「……わが方も東側による異例と目すべき現象を少なからず掴んでいた、と先刻申しあげましたが、わが国のすべての情報機関が現時点で掌握している東側関係の情報を寄せ集めて整理分析した結果によりますと、それが直ちに侵攻開始の兆候だとはいい切れないものの、絶対に見過し得ない不可解な動きが東側、主としてソ連の動静の中に多々現われているのは事実なのであります」
ブラントは、ここ数十時間内にほぼ同時に現われ、現在なお同時に進行しつつある異常要素を掻い摘んで説明した。西側がワルシャワ条約軍の侵攻系路に当るだろうと想定している地域とほぼ合致する境界線に敷設されていた地雷が撤去されたこと。突然ソ連が極東地方で大規模な軍事演習を開始したこと。昨日ボンのソ連大使館は、高級幹部の家族全員をスペインに向けてバス旅行に出し、かつ文書と見られる多量の航空貨物をフランクフルトからモスクワ宛に送り出したこと。従来から要監視人物とされていた東側工作員または連絡員が、ここ数日のうちに七十名余も潜入し、その後一人として出国していないこと。ソ連空母キエフが原子力潜水艦Yサブ約十隻と合流、バルト海の入口スカゲラーク海峡の外に集結、現在、キエフはその海域で投錨していること。ノールウェイ海から北部大西洋に跨がる公海上空に、通常の二倍に近い十七機のソ連偵察機が今朝から行動中であること。ポーランド西部領域内に約十一個師団のソ連機甲部隊が集結していること。等々……。
「ユルゲン。それで君の意見は? それらの現象を、ワルシャワ条約軍侵攻前夜の兆候だと、やはり君も考えるのかね?」
「はい、首相閣下。私もそれらは容易ならぬ事態の前触れに違いないと考えるにいたりました。
しかしながら、そうとした場合、一部の情報に矛盾したものが感じられ、その解釈に苦慮している最中であります」
「例えば?」
「例えば、北米大陸防空司令部NORADは偵察衛星から得た資料に基き、チェコスロバキア駐留ソ連軍兵力が約四個師団減少している、と通報してきております。これはすでにわが方が手に入れている情報、すなわち、ポーランド南西部に集結しつつあったソ連機甲部隊にチェコスロバキア駐留軍の一部が撤退して合流した、というものと合致はいたしますが、ワルシャワ条約軍がわが方に侵攻してくるのだとすれば、わが国と国境を接しているチェコスロバキア駐屯兵力を、何故にソ連は削減したままにしておくのか、という点に疑問を感じざるを得ません。さらに、先刻ご説明いたしたとおり、わが国とドイツ民主共和国との間にある境界線沿いの地雷が撤去された、というのは確度が極めて高い情報なのでありますが、わが国とチェコスロバキアとの間にある国境線については、繰り返し調査せしめても今の処まったくその気配が掴めないのであります……」
「かつてチェコスロバキアに対して行なったように、ソ連は、最近|頓《とみ》に西側傾斜を強めているポーランドを軍事制圧しようと企んでいるのではないのかね? そのためにチェコスロバキアに在る部隊を引き揚げて、秘かにポーランドの南西部に送り込んでいるのでは? こう考える方が西側侵攻という話より、よほど妥当性があり、かつ現実的な解釈になる……」
「しかし閣下。そういたしますと、わが国境界線における地雷の撤去を始めとして大部分の彼らの異常行動の意味が理解できなくなります」
「それもそうだな。軍事については君が専門家だ。素人の|生兵法《なまびようほう》で真実を見誤らせる結果になるのも、時間を無駄に消費するのも、この際好ましいことではないな。では仮に君が考えているようにワルシャワ条約軍が侵攻してくるとして、その時機は? 明後日の早朝だと、やはり君もスターリーのように考えているのかね?」
「地震がいつ起るかについて、地盤の沈下や地下水面の変化の量と速度を計ることによってある程度正確に予知ができるのはご存知のとおりであります。同じく武力行動が開始される時期につきましても、通常は、兵力武器弾薬集散の量や速度を掴むことによって、地震に対するより容易にそれを予測することができるのであります」
ブラントは一旦口を閉ざし、シュミットとアペル双方の表情を交互に眺めてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「しかしながら、ワルシャワ条約軍に限ってはこの尺度がまったく通用いたしません。なぜならば、すでに彼らが東欧圏に展開駐留せしめている常時兵力だけで、緒戦においては何らの増援を求めることなく、我われに攻撃をしかけ得る、しかも優勢にしかけ得る能力を持っているからであります。したがいまして、開戦に当り特に兵力武器弾薬の移送を必要としない彼らの場合、武力行動開始の時機を行動面から把えるのは極めて困難といわざるを得ないのであります。いい替えれば、彼らの場合軍備配置の面からすれば、常にその可能性を秘めていると見るべきで、開戦は統帥者の意志一つで即時実行可能なのであります。
とはいえ、過去五十時間余りの間に、数々の異常要素が我われの眼に触れはじめたという現象面から推して、事態はかなり煮詰まってきており、恐らく彼らの内部では侵攻作戦に対してすでに青色の旗が振られたのだ、と私も結論を下すにいたったのであります」
「ということは、やはり明後日の早朝あたりか?」
「いいえ。場合によるとそれより早い可能性があります。いずれにせよ、明後日の零時プラス・マイナス数時間だと参謀会議では結論づけました。参謀の中に、ソ連は今極東地区に百数十万の兵力を張りつけており、その間にヨーロッパ正面で事を起すのは不可能だ、という説を成す者もおりました。しかし緒戦において彼らが優勢に事を進めている間に、五十万程度の移動配置を行なうのは不可能なことではありません。彼らは今回の極東地区での演習開始に先立つこと僅か二十数時間にそれを開始して、約九十万の兵力を沿海地方に輸送したのでありますから。
ところで、敵の侵攻がほとんど何の予兆もなく開始されるであろうとは当然予期しておりながら、この二日間を無為に過してしまったのははなはだ残念であります。いいわけがましくなりますが、わが国の情報組織が平素、防衛、外交、治安、公安、と分立しており、それらを統轄すべき国家組織がなかったことが今さらながら悔まれます」
シュミットは壁の時計に眼をやった。午後九時半に近かった。参謀総長ブラントは、早ければ明日の今頃にはこの国が戦場と化している、といっているのだ。信じられない、という風に彼は顔を振ってもう一度念を押した。
「幾つかの予兆から君たち軍人が下した判断が、どこか基本的な部分で間違っているとは考えられないか?」
ブラントは静かに、しかしアームチェアの中で背筋を正し、シュミットの瞳を真直ぐに見詰めて答えた。
「首相閣下、まことに残念なことでありますが、その可能性はごく僅か、としか申しあげられません」
ブラントのその声がシュミットの耳の底に届いたのと同時に、シュミットの脳裡に、前大戦の四年半の間に彼自身が目のあたりにした様ざまな場面が、脈絡もなく齣落しの幻灯写真のようにいくつも浮んでは消えた。一発の爆弾によって砂塵となって消える泥壁に藁葺き屋根の農家。火煙の尾を曳いて飛び交う砲弾。彼の方に機関砲を撃ち掛けながら接近してくる敵機。|紅蓮《ぐれん》の炎の中に崩壊する高層建築。路上にうず高く積っている煉瓦の破片。その中に埋もれている手足や首のない屍体、肢をばたつかせ痙攣している馬。爆砕されエルベの流れの中に大きな飛沫を上げて落ちてゆく鉄橋。埠頭の附近に累々と横たわり、未だに黒煙を上げている鋼鉄船の残骸。
前大戦の後半、シュミットはハンブルク防衛軍高射連隊の一員としてエルベ南岸に位置するフィッシュベカー兵営にあった。戦いが敗北で終る二年前、一九四三年の半ばになると、攻勢に転じた連合軍は英国本土に近いドイツ本来の都市を手始めに、空襲による徹底的な都市破壊の戦略を取りはじめた。兵器生産能力の息の根を止めるためと、ドイツ国民の戦意を阻喪させるためだった。まず最初の目標にされたのは、石炭産出地帯であり兵器工業の中心地であるルール地方とラインラントの諸都市だった。ケルン、デュッセルドルフ、ヴッペルタール、クレフェルト、アーヘン、ゾーリンゲン、それにデュイスブルクが平均四日間で一夜当り千五百トンの爆弾と焼夷弾とによって|灰燼《かいじん》に帰した。
ドイツ最大の兵器会社であったクルップの心臓部が展開していたエッセンは、オランダとベルギーの上空を九百八十ミリバールの夏の嵐が通過した途中の二日間を除く、七月十七日から同二十五日までの連続七夜に、合計一万トンの爆撃を受けて潰滅し、結局終戦までには一台の旋盤も動きださなかった。このエッセン爆撃の最後の日、つまり一九四三年七月二十五日の夜から、次の爆撃目標にバトンがタッチされたかのように、ハンブルクに対する空襲が開始され八月三日まで続いた。この十日間に空から一万二千トンの爆弾と焼夷弾が投下され、地上では四万八千人が死に、その三倍の人数が負傷した。市内では五十五万戸の建物のうち二十五万戸が完全に破壊され、二十万戸がそのままでは使用不能の状態に破損した。十二世紀に生まれ、ハンザ同盟の中でも盟主都市国家として繁栄してきた、首都ベルリンに次ぐドイツ第二の都会であったハンブルクは、こうしてその造営の歴史の長さに比べれば一瞬ともいえる時間で、崩壊した煉瓦の山の中から熔けて曲った鉄骨が生えているだけの漠々たる廃墟と化した。その後の二年間にも、米英両空軍による三日に一度程度の追い撃ちがあり、街はあたかも小アジアで発掘された古代都市さながらの姿となり、昼夜地表で生活し得る市民の数は人口百二十万の二十分の一にも満たなくなった。
一九四五年の四月も終りになると、ドイツ本来の領土は、すでに米ソ両軍の完全包囲下にある陥落寸前の首都ベルリン、東プロシャの一部と北海沿岸地方、それにエルベ河以北の二州だけに圧縮され、それすらハンブルクの攻略で終止符が打たれようとしていた。東からはソ連機甲部隊が時速三十キロメートルで刻々と迫り、オランダ内陸部を制圧した後ドイツ中北部に廻り込んだ英軍が、南からハンブルクだけに狙いをつけて北上してきていた。八秒に一発の割合で英軍の砲弾がエルベ河越しに市内に撃ち込まれ、街の上空を爆音の切れ間なく多数の米空軍戦術低空攻撃機が守備側の陣地を探して飛び廻り、高射部隊が撃ち上げる砲煙を発見すると、たちどころにロケット弾を撃ち込んできた。瓦礫の山と化した市街を最後の城塞に変えるために、兵士も市民も素手でその瓦礫を積み上げて街の外周に堡塁を造り、鉄道線路を外して対戦車障害物を街角毎に拵えた。いたるところに累々と横たわる死者を葬ういとまはなく、葬いをすべき者が次には斃れた。
間もなく月が変り五月二日の朝になった。敵の砲声が少なくなったのを訝っているうちに、昼頃になるとすっかり熄んだ。生き残り、防空壕から這い出てきた市民は、硝煙の臭いが未だに鼻を突く地上に「無」を見た。どこにも誇りに満ち美しかったあの街の欠けらさえ残っていなかった。疲れ切った人びとの心は空洞になり、戦いが終った喜びも、親しい者を失った悲しみも、即座に感じ取ることができなかった。住む場所と愛する者を同時に失った多くの人びとは、その日からいつまでも当てもなく黙りこくって、廃墟の街の通りを昼も夜もさ迷い歩いていた。還る当てのない昔日にどこかでもう一度巡り会い、その手に取り戻そうとしているかのようだった……。
そこで生まれ、育ち、学び、そしてそこを護るために最後まで戦ったシュミットは、
「今やあの日の片鱗もなく不死鳥さながらに甦り、かつてにも勝る繁栄を謳歌しているあの街が、そしてこの国が再び灰燼に帰し、多くの人びとが戦火の巷に命を落すなどということが、かくも短い年月の間にこの世に二度も起り得るのだろうか?」
と、アペルとブラントの二人が傍にいるのも忘れたかのように黙想していた。
「首相閣下……」
ブラントの呼び掛ける声でシュミットはわれに還った。
「……首相閣下。私は速やかに参謀本部に戻り、作戦の立案に加わらなければなりません。
ただ今以降、敵軍の一兵たりとてわが国領土を侵犯した時は、外交交渉に事を委ねることなく、直ちに武力を行使してそれを排除すること。また、その軍事行動発動と同時に、わが国軍は自動的に欧州連合軍の一翼となり、その最高司令部指揮下に編入されること。以上の二点について、ここで閣下のご諒承をいただいておきたいのですが」
ほんの十秒くらいだったろうか、シュミットは瞑目していた。結果の予断を許されない急迫した事態に直面して、薄氷を踏む思いを胸の一隅に秘めつつも、断固たる決断を下したことは過去にもあった。そしてついにはそれを望む帰結に導き得た、幾つかの過去の体験を彼は心中に喚起していた。やがて眼を開くと相貌にしたたかさを漲らせ、ブラントに対して大きく頷いた。
「よろしい、ユルゲン。その件は諒解した。ところでユルゲン・ブラント将軍。勝てるのかな?」
「はい、閣下。回答は時点によって異ります。最初の十二時間は、準備万端を整えた敵の一方的な攻撃力に晒されて、わが方は後退を余儀なくされるものと予想いたしております。地方都市における人的物的損害を極少に押さえるため、中南部においてはライン東岸とフランクフルト=ミュンヘンを結ぶ防禦線まで、中部においてはヴェーゼル東岸の防禦線までむしろ敵を誘導しつつ後退いたします。北部においては……」
といいかけてブラントは北部の中心|都邑《とゆう》ハンブルクが首相の出身地であるのを思い出したらしく、一旦言葉を収め唇を湿した。
「……北部におきましては、恐らく敵は前大戦の例に倣い、境界線から僅か五十キロメートルに位するハンブルクを攻略するために、エルベの両岸を挾むようにして殺到してくるだろう、と想定されます。放置すれば、三時間足らずで敵は市街周辺まで到着するはずで、防禦線を構築するだけの余裕もありません。そこで我われはリューネブルク荒地に在る第101戦車師団の一部を投入し、エルベ南西岸の確保に努めます。また北部境界地帯の防衛には、フレンスブルクに在る英国のチーフテンならびにセンチュリオン戦車軍団の出動が開戦と同時に要請されるはずであります。いずれにせよ、北部ハンブルク周辺が緒戦最大の激戦地になることは避けられないと考えられます」
ブラントは最後に、
「まことにお気の毒に存じます」
と付け加えた。
「ありがとう。将軍。とにかくもう一度質ねるが、わが方は最終的に勝てるのかな?」
「閣下。我われは失地を必ず回復してご覧に入れます。その時機は、緒戦の後、わが方がいつ主導権を奪回し反撃に転じ得るかにかかっております。それはまた、主としてわが国軍と駐留米英仏軍が、各防禦線でどれほど長く抵抗を継続し得るかにかかっております。つまり、わが国以西にあるNATO軍が全戦線において所定どおりに展開し終るのは、少なくとも二十時間を要すると思われますので、その時まで、わが国軍ならびに、すでにわが国内に駐屯している米英仏三国軍とだけで持ちこたえなければならないのであります」
会議の口火を切っただけで、今まで一言も差し挾まずにシュミットとブラントが話すのを聞いていたアペルが初めて意見を述べた。
「君の説明のように侵攻が仮に明後日の早朝に開始されるにしても、まだ一日以上の時間がある。その時間を防衛態勢の整備のために有効に使ったらいいと思うんだがな」
「お言葉ですが、大臣。ワルシャワ条約軍側が地上兵力、戦車、火砲、航空兵力、輸送能力など、どの戦闘遂行能力の面においてもわが方に数倍するものを保持し、すでに配備展開していることはご存知のとおりであります。したがって、我われが今から俄かに正面兵力増強の動きを見せるならば、必ずや敵はそれを察知してさらに現在に倍する兵力を投入してくるに違いありません。つまりそれは、開戦後直ちに大兵力同士が衝突することを意味し、いい変えれば、緒戦における大消耗戦をも意味いたします。とすると、当分の間現有兵力に限りあるわが方としては、先刻申しあげた防禦線の維持に振り向ける兵力を温存確保することが危うくなるのであります。このような理由により、わが方もNATO軍司令部も、我われが東側の動静に特別な関心を持ちはじめたという態度を露わにせずに準備を進めることで、意見が一致いたしております」
微笑を湛えてシュミットがいった。有事に際して指導力を最も強力に発揮する、との謂れを示す余裕めいた表情がそこにはすでにあった。
「ハンス。知っておっても知らぬ振りをする、これも戦術の一つだ。政治の場でもこの戦術はなかなか効果を発揮することがあるではないか。
さて、ユルゲン・ブラント将軍。私は君の手腕に全幅の信頼を置いている。君が最善を尽すことができるように幸運を祈る。君の幸運こそすなわち国家と国民の幸運であるのだから」
アームチェアから立ち上がったブラントが握手のために差し出した右手を、同じく立ち上がったシュミットは両の掌で力強く被った。そして退出するブラントを扉口まで送り、もう一度声をかけた。
「幸運が君の上に降ることを神に祈る。幸運は、人間が事を成さんとするとき不可欠の味方だ。人間の知恵が制御できることなど物事のほんの一部だからな」
扉口から戻ったシュミットは坐っていたアームチェアには向わず、真直ぐに自分の執務机の傍に行き、立ったままで秘書官を呼ぶボタンを押した。
「ハンス。私はこれから二、三の相手と話してみる。まず最初に欧州連合軍最高司令官ロジャース将軍だ。彼の話を聞いてみたい」
「真先にクレムリンに電話してみれば、手っ取り早く事の成行きが判るんじゃありませんか?」
とアペルが軽口を叩いた。が、シュミットの厳しい眼は笑わなかった。
「ロジャース将軍の考えがブラントと同じだとしたら、夜分だが少なくとも大統領閣下とブラント党首の耳には事態を入れておく方がいいと思うが、どうだろう?」
アペルの表情が同意を示した。
「それから、協力を要請しておくべきなのは米仏の大統領と英国の首相。当面はこのくらいでいいかな。ブラントの話の真実性が高いなら、すでに彼らも報告を受けているはずだから話は簡単だ」
アペルがいった。
「コールの耳にも概略を伝えておく方がいいのではありませんか? 議会の場で協力を得られやすくなりますから」
「なるほど。そうかも知れん。彼にも話しておこうか。しかし、ブラントの話が本物だとしたら、この先いつ会議が開けるのかな」
ヘルムート・コールは野党第一党であるキリスト教民主同盟の盟主だ。したがって、ヘルムート・シュミットの政界における最大のライバルと見られるので、選挙の季節になるとどこかの新聞が必ず「ヘルムート同士の闘い」と書き立てた。だが実体は多少違っていて、キリスト教民主同盟の中の中核的組織であるババリア地方のキリスト教民主連盟党首シュトラウスの方が、シュミットの事実上のライバルなのだ。右翼的かつ戦闘的であるために「ババリアのド・ゴール」と呼ばれるシュトラウスは、如何なる事態をも政争の具にしかねない点を、シュミットもハンスも内心惧れていた。そのためこの時、二人は彼の名を口にしなかった。
ノックの音がして、先刻シュミットの書類整理の相手をしていた秘書官が扉口に顔を出した。
「SHAPE(欧州連合軍最高司令部)のバーナード・ロジャース最高司令官に電話をつないでくれたまえ。それがすんだら大統領閣下と党首のブラント氏だ。そのあとまだ二、三カ所電話を頼みたいが、相手が出たらこの部屋につないでくれたまえ」
足早に去ってゆく秘書官の背後に眼をやっていたシュミットは、ハンスの方に顔を移すと眼鏡の縁越しに上目遣いでいった。
「ハンス。各国で国防大臣は掃いて捨てるほど作られたろうが、実際に戦争に立ち会える君は幸運な人間だ。明日から忙しくなるぞ。明後日は寝る間はないぞ。今夜は帰って一分でも余分に眠っておくといい。もしもブラントのいった話が真実ならば、だがな。
ところで、もう少し事態の真偽が煮詰まるまで、この件の公表は閣議でも差し控えることにしよう」
「そうしますと、明日の日程は予定表どおりにこなすということですか?」
「そのとおりだ。知らない振りを押し通すことが時には力を溜めることになる。それに、憶測を間際になって与えられるよりも、いきなり事実に直面する方が、人間は迷わずその道に邁進するものなのだ。二つの道を同時に試みることができない人間は、ひと度自ら選んだ道に最善を尽すほかはない。
明日の午後に予定されている『全欧電圧統一・関係国閣僚会議』も日程表どおりに開催しよう。ソ連からもオブザーバーが陪席するはずだったな。彼らがどんな顔をして坐っているか、じっくりと眺めて見るのも一興だな。
もし今夜中にでもブラントの話が真実だと判明すればだが、明朝の定例閣議では稀に見るような活気が呈されることになるだろうな」
「そうでしょうね。ではこれで私は失礼して参謀本部に立ち寄ってみます」
アペルは立ち上がり扉口の方へ行きかけて、
「首相。あなたこそ今夜は充分に眠っておくべきですよ。もしも本当に戦争が始まれば、首相の日程表には睡眠時間など記入する余地がなくなりますからね」
とシュミットにいい残した。
アペルが出ていったのとほとんど同時に秘書官から机上のインターフォーンを通して、ロジャース将軍が電話口に出ている、と伝えてきた。シュミットはランプが音も無く点滅しているボタンを押し受話器を取った。
中庭に面している首相執務室の灯は、この夜零時を過ぎても消えなかった。これは欧州連合軍最高司令官ロジャース大将の見解と、この国の参謀総長ブラント将軍の見方とが一致していたことを表わしていた。そして、この夜ドイツ連邦共和国首相が合衆国大統領との会話にもっとも長く時間を費していたのは、「敵がそれを使用しない限りNATO軍もドイツ連邦共和国の領土内で戦術戦略いずれの熱核兵器をも使用しない」という、この国と米国とが十五年前に取り結んだ非公開協定を、現米合衆国大統領に改めて確認させるためであった。
シュミットが執務室の窓辺に立って暮れてゆくラインの空を眺めつつ、国防相アペルと連邦軍参謀総長ブラントの来訪を待っていた頃、ホーネッカーも独り東ベルリンにある党本部の執務室に居残り、三十時間後に開始されるであろう西側進攻を目前にして、自らが構想を固めつつある開戦後の手筈について再点検をしていた。
八時半頃、机上の電話ベルがけたたましく鳴った。何気なく受話器が当てられたホーネッカーの耳に、彼の腹心の一人であり外務省に籍を置く男の興奮と動揺を押さえ得ない声が響いた。
「書記長閣下! 大変な事実がたった今判明いたしました。電話を直接おかけ申しあげるのを禁じられていることは忘れておりませんが、この事実の報告は明日まで待つべきものではないと存じまして……」
「どうしたのだ? 一体何が起ったのだ?」
「書記長閣下! ソ連が意図しているのはワルシャワ条約統一機構軍による西側進攻ではないようであります!」
「なんだって! どういうことだ?」
「はい。書記長閣下。たった今解読を終えたモスクワにいる同志からの通報によりますと、クレムリンは、わが国周辺のみを大量のソ連軍で取り囲む準備を秘かに進めており、間もなくそれが実行に移される、とのことであります」
「なんだって! どういうことだ?」
思考の虚を突かれたホーネッカーは再び同じ感嘆詞を叫ぶしかなかった。
ホーネッカーの秘かな指示の下に、モスクワにおいて日夜クレムリン動静の探索に努力をしている諜報員からの情報通信は、在モスクワ大使館と本国外務省との間を往復する外交|行嚢《こうのう》によってもたらされる。行嚢に収められて他の文書と共にさりげなく運ばれる或る定例印刷物の封筒に細工が施されているのだ。到着した文書は即日外務省内の各部門にそれぞれ分配されるが、この電話の男の手元にはその定例印刷物が配達される。彼は封筒のみを自宅に持ち帰り、家人の目すら避けて解読し、翌日ホーネッカーに対し或るルートによって報告する。この日手元に届いた通信を解読した彼は、予想外の内容に動転した余りに、厳禁のはずの電話を用いホーネッカーへの急報を試みたのだ。
男が掻い摘んで伝えた情報の内容は、ホーネッカーが「オペラシオン・ダモイ」は西側進攻を企図するソ連の隠れ蓑だ、との認識の下にこの時点まで対応策を練ってきたすべての構想を、一挙に覆すに足るものだった。
その時までに僅か一日余りを残すのみとなった今、果して改めて対応策を立て直す時間はあるのか。ホーネッカーは電話の相手にいった。
「判った。通信全文に眼を通してみたい。そして同志と早速協議することが必要だ。君は文書を携えてここにわしを迎えにきてくれぬか」
「オペラシオン・ダモイ」の準備が開始された頃から、元首の行動をすら特別な監視下に置いていたクレムリン派グループは、当然この電話会話を聞き逃さなかった。その上、ホーネッカーの時ならぬ時刻の予定外のあわただしい外出は、クレムリン派ならずとも身辺の者の眼にさえ異様に映った。
その夜、九時半過ぎには旧男爵邸の二階の奥にある広間に、ホーネッカーと志操を共にする者の中、|主《おも》だった十数名が参集し、今直ちにクレムリンの意図を白日の下に晒すべきか否かについて意見を闘わせていた。
全国労働組合の幹部の職にある男が強調した。
「再三述べたように、我われがたった今知ったクレムリンの意図を国民に向って公表した場合、軍事クーデターが起される可能性をなにびとも否定し得ないだろう。クーデターが起これば、ソ連の武力を背景とする彼らが勝利を得るのは火を見るよりも明らかだ。クーデターの勃発による混乱によって、ソ連の意図の発動は一旦は遷延されようが、ソ連の野望は必ずや再び動きだす。諸君! 今断固我われが彼らと闘い、そして敗れ去ってしまえば、その後は、ソ連の思うがままにこの国が動かされることになる。それを押し留め得るいかなる力もこの国の中にも早存在しなくなるからだ。この点が充分考慮されなければならない、と私は考えるのだ」
別の出席者の一人が、この意見を承けるようにして考えを述べた。
「つまり、事実を公にすることによってクーデター勃発の危険を冒すよりも、当面我われはソ連の意図のままに行動する。そして、わが国を決して二つに割らぬことを最優先に心がけるのだ。これが今我われの国家および国民に与えられている条件下でもっとも賢明な方策だったと、私は確信するのだが……」
オルガス将軍が二人の見解に対して強硬に反論した。
「すでに一時間近くも、事実を国民に報らせるべきか否か、について我われの意見は分れたままだ。報らせるべからず、という理由はクーデター勃発の危険性が高いとされるからだ。いいですかな。諸君らの日頃の努力のお蔭で、軍の内部にさえも我われに対する同調者が日毎にその数を増しているのだ。単純に兵力比で見ても、今ではわが方もクレムリン派の連中と拮抗し得るだけのものになりつつある。
いやいや、諸君。だからしてクーデターが起り戦ったとしても我われが負けると決ったものでもない、とわしはいおうとしているわけではない。いいですかな。軍事を司る人間の常として、このような情況下では、例えクレムリン派の連中とても気軽にクーデターに走る決心をつけ難かろう、とわしはいいたいのだ。ほかにもクーデターは起り得なかろうとわしが確信する大きな根拠がある。それはだ。大多数の国民と兵士とが持っている良識だ。わしらは彼らの良識の上に、も少し重い信頼を置くべきではないのですかな」
ホーネッカーを始めとして過半数の男たちが大きく頷き、オルガスの意見に対して同意を示したが、残りの者の眼には未だに迷いが浮んでいた。間を置いていたオルガスが反論を出される前に再び言葉を続けた。
「いいですかな。諸君。クーデター勃発を惧れる余り、我われが今、ソ連のいいなりになったとする。その場合、わが国は二つには割れなかったとして、いいなりになったがためにわが同朋が被る今後幾世代にも及ぶだろう民族の不幸、それとクーデター勃発の見通しの不確かさと、双方の重みを較べてみてはもらえますまいかな」
先刻電話を受けた時の衝撃からすでに立ち直り、三つ揃いに身を包み教育者のように平静な雰囲気を取り戻したホーネッカーは、大勢がオルガスの見解に傾いたのを見て取った。
「……ではいいですな、諸君。国民に対して真実のすべてを公表するとして、公表は、どの時点を選ぶのがもっとも効果的か、を次に討議してもらえまいかな」
その時だった。遠くで数発の銃声が聞こえた。それが合図ででもあったかのように、邸の四囲でけたたましい自動小銃の連射音が巻き起った。続いて邸の内部からも応射する銃声が湧き起り、小火器同士の応酬が続いた。やがて周囲の銃声の方が邸内のそれを凌駕し、戦闘は玄関の正面辺りだけに絞られてきた。
邸の内部の勝手を知っているリッターは、総立ちになっている書記長らを広間の裏側にある使用人専用の狭くて急な階段から下へ導き、さらに裏口から外部へと逃した。そして自らは作戦室が設置されている地下一階へとさらに使用人専用階段を伝って駆け降りていった。階段の途中で彼は、たった今書記長らが脱出した邸の裏手の方で数発の銃声が再び起ったのを聞いた。彼は反射的に足を止めたが、それきり何も聞こえなかった……。
翌朝六時、太陽はかなり高く昇り、ラインの河面の上の朝霧がまさに消え去ろうとしている頃、シュミットは目覚めた。彼はベッドから滑り出ると同時に、直通電話を使って参謀本部のブラントを呼び出した。電話線を伝わってくるブラントの張りのある声は、寝起き直後のシュミットの耳に新鮮に響いた。
「NATO軍の基本防衛計画はすでに完了いたしました。ただし、我われが準備態勢に入ったことを敵に察知されないように、情報漏洩に最高度の配慮をせよ、と各国は要請されており、したがってわが国でも休暇中の将兵の召還や予備役召集はおろか、武器弾薬の輸送、部隊の移動など一切差し控えております。
ところで我われ軍部がわが国内の特殊事情に対処するために大きく頭を痛めているのは……」
と、ブラントは俄かに声を曇らせた。
「……実は、アウトバーンを始めとする幹線道路に連日連夜溢れている、夏期休暇に出掛ける市民の車の対策なのであります。敵の侵攻開始と同時に我われは電撃的に防衛行動を起す計画が完成したものの、数百万台の車で幹線道路が埋っていたのでは動きが取れません。我われは今朝方から鳩首して対策を練っているのでありますが、軍の力だけではどうやら万全とはゆかぬ、との結論になりそうなのであります……」
南北に長いこの国では、南部の州から北に向け一週間ずつ開始日を繰り下げて国民学校が夏期休暇に入る。六月の終りの今頃はほぼ八割がその時期に入っている。たしかに今や国中いたるところの幹線道路では、南のアルプスやそのさらに向う側のスイスやイタリアに行こうとし、或いは北のバルト海や北海地方、そしてオランダの海岸地方に行こうとする車の列で深夜といえども交通渋滞が続いていた。この状態のままで開戦になれば、軍の行動が束縛されるのは当然だが、市民の被害はたちまち莫大なものになり、その事だけで国内は大混乱に陥ることは必定だった。市民が家族連れで国外にまで出掛けてゆき長期休暇を過すという傾向は、この国が豊かになってから年毎にひどくなっており、このシーズンにおける幹線道路の渋滞は年中行事のようなもので、車の列が二十キロメートル、三十キロメートルとつながって道路脇で数百台の車が夜明しをするようなことが起っても、近頃では新聞種にもならなかった。
「判った。昨夜もハンスとそのことは話題にしたにもかかわらず問題に気づかなかったのは私の不明だった。よろしい、将軍。君は防衛に専念してくれたまえ。その問題は私の方で解決することにしよう。
ところで政府の今日の日程は予定どおりに進めるつもりだ。重要な変化が現われたら時間や場所を選ばず、直接私に連絡してくれていい」
ブラントとの会話を終り、そのまま電話機の傍で黙考していたシュミットは、椅子を廻し背後のラジオのスウィッチを入れた。流れ出したバッハのフーガ・Dマイナーに聴き入るが如くに数分間動かなかった彼は、突然立ち上がると衣裳箪笥の前に行った。扉を開き、上衣の内懐から手帖を探り出し、眼鏡を掛けて頁を繰った。やがてある番号の上に指を止めると、ラジオを消し直通電話のダイアルを廻した。受話器を耳に当ててしばらく待っていた彼は明るい声でいった。
「やあ、グリュナート夫人。お早うございます。シュミットです。首相のヘルムート・シュミットですが、ご主人とお話したい」
待つ間もなく本人が電話口に出たようだった。
「シュミットだ。早朝からまことにすまんが私が閣議に出向く前にここに来てくれぬか。そう、早いほど良いな。君の部下にやってもらいたいことができたのだ」
連邦警察機構、国境警備隊、それに基本法擁護庁の三者の実行部隊の中から選抜された青年で構成されている特殊部隊がある。コードネームを「九月の雪」という。退役陸軍少将ヴォルフ・グリュナートはこの「九月の雪」の最高責任者だった。
衣服を整え、軽い朝食を寝室ですませたシュミットが執務室に顔を見せると早速、グリュナート少将が来ており隣室で待っている、と秘書官が告げた。秘書官を下がらせた彼はグリュナートを招じ入れた。
「やあ、お早う。早朝からあい済まぬが、取り急ぎ君の力を借りたいことができた」
「なんなりと。首相閣下。ご用の向きは?」
「幹線道路の蛇を退治してもらいたいのだ」
渋滞によって生じた車の長蛇の列をこの国では「|自動車の蛇《アウト・シユランゲ》」と呼ぶ。
「かしこまりました。では、いつから蛇退治を始めましょうか?」
「早速にだ。必ず今日中に終らせてもらいたい」
「今日中にですって!」
「そうだ。是非とも今日中に終らせてもらいたい」
「で、どの辺りの?」
「国中のだ」
グリュナートは呆気に取られたように目を見開き、声を呑んだ。グリュナートならずともこの驚きは当然だった。二十四万八千平方キロメートルの国土の中に、延べ四十五万キロメートルに及ぶ道路が網の目同様に走っている。その道路上に毎日一千六百万台の各種車両が動き廻っているのだ。それを一日ですべて消し去れ、と要求されているのだ。
「核物質でも移動するのですか?」
「すまぬ。聞かんでくれ。今理由を話すわけにはゆかぬのだ。たとえ君にでもな」
「判りました。早速最善を尽すようにいたします」
シュミットはグリュナートの顔を見詰めていい渋っていたが、追い撃ちをかけるように思い切ってつけ加えた。
「しかもだ。これが肝心なのだが、道路を空けるように国が要求していると国民には思わせないで欲しい。これ以外には君のやり方にいかなる条件もつけないし責任は私が取る。グリュナート、やってくれ。この蛇退治が今この国にとって是非とも必要なのだ」
「かしこまりました。名案が浮び次第ご相談いたします」
「そうしてくれ。私の時間、居所を気にせず直接連絡してくれて結構だ。私のコードネームは前回のと同じでいい」
「『イエーガー・マイスター(狩猟の名手)』ですか?」
「そうだ。君から連絡が入る、と秘書官に伝えておこう」
グリュナートが帰ったあとシュミットは、机の隅に乗っている薄緑色の|縞瑪瑙《しまめのう》の容器の蓋を開け、紙巻煙草を摘み取り火を点けた。唇の間から洩れる紫煙が静かに中空を漂うのを眼で追いながら、対応策には可能な限り万全の手を打ってゆくとして、悪夢が確実に現実となるまでは、戦争のあの忌わしい想い出を再び記憶の中に呼び覚まさせるのは自分だけに留めておこう、と考えていた。ブラントの言葉が推測の域にある間は、僅かとはいえ悪夢が悪夢のままで現実とはならずに通り過ぎる可能性が残っている。したがって国民が一切この事を知らぬ間に、平和な時が持続してゆくこともあり得ないわけではない。できることなら、この国の国民にたとえ夢としてでもかつての戦争の惨禍を再び見せたくはない、と彼は胸の深奥で感じていた。やがて半分ほどに減ったこの日最初の紙巻煙草の火を、容器と揃いの縞瑪瑙の灰皿の底で揉み消しながら、正面の壁に掛かっている時計を見た。
午前七時二十五分だった。
[#改ページ]
午前七時二十五分。
ヒルシュマイア中尉は、この時すでに例の農家の三階、つまり屋根裏部屋で目を覚まし、衣服を身に着けつつあった。昨日と異り今朝は曇天かあるいは雨もよいらしく、床に切ってある階段口から射し昇ってくる光が弱よわしく、部屋の四隅がようやく見極められる程度だった。階下からは、青年たちが楽しげに談笑しているような声が高くなり低くなりして絶え間なく聞こえていた。この国における革命家を自認し、地下活動家を自称する彼らがこの農家の中で醸しだしている雰囲気は、まるで学生寮のようだ、と彼は思った。
身繕いの後も彼は階下に降りてゆこうとしなかった。今日こそ果さねばならぬ使命の手筈を、独りでじっくりと頭の中で反復復習しておくためだった。彼は頭の後で両手を組んで、寝椅子の上にまたあお向けに横たわった。
今日の午後六時に遅れずにハンブルク空港にあるドイッチェ・ルフト・チャーターの事務所に行き、手配ができているはずの小型ジェットのチャーター機でケルン空港まで飛ぶ。そこからはタクシーを拾ってボンの首相官邸に赴き、首相の記者会見に臨む。主題はたしか「全欧電圧統一会議の成果について」だった。官邸立入りに必要な「新聞記者ヨアヒム・マイア」名義なる許可証は、ケルン空港から官邸に行くまでのどこかで秘かに手渡される手筈になっている。記者会見終了の予定時刻午後九時に、他の記者たちが退場するときのざわめきを縫って首相シュミットに接近し、書記長の親書を確実に彼の手中に委ねればよいのだ。その後、十時までに、待たせてあるジェット機でケルンを立ってハンブルクに舞い戻れば、ここの仲間にも気づかれずにすべてが終る。だが問題は、親書は今クラウスの家の庭にある犬小屋の中、ということだ。夕方までに何か口実を設けて、誰かの車を借り出して取りに行き、懐中に収めておかねばならない。
昨日は長かった一昨日の煽りを受けて午前十一時頃まで眠っていた。午後早々にリンデンベルクが先頭に立ち、三台の車に分乗してマッシェン鉄道操車場近傍の情況偵察に出掛けた。数百両の貨車が間断なく出たり入ったりしている広大な操車場の周囲には、洩れなく高さ二メートル半の金網が巡らしてあるが、それには操車場の領域を示す程度の効果があるだけで、柵の下を通っている側溝や排水溝を利用すれば構内に侵入することには何の問題もなく、また並んでいる貨車の列に隠れてゆけば、コンピューター・センターにも苦もなく接近できると見通しを付けた。「アムゼル」を誘導着地させる空豁地も難なく見つかった。操車場の西方二キロメートルばかりにある麦が刈り取られた直後の六平方キロメートルほどの耕地が、人家から遠く離れていることもあり、最適と判断されたのだ。
今日は昼前に、彼らが東側との交信に使用している米国製のエア・マリン型無線機のクリスタルを入れ替えて、発信力を験しておきたい。「アムゼル」を迎えるときに耕地の真中で必要になる無線機の電源としては、仲間の誰かが夕方までに小型自家発電機を手に入れてくることになっているが、それが実現しなかった場合は自動車の発電機を使えば用は足りる。
横になったまま彼は、ここの青年の一人からもらったジーンズの尻のポケットをまさぐって財布を取り出し、その中から小さく折り畳んだ紙包みを摘み出して広げた。人指し指の先にも乗るほどに小さいCR─7型クリスタルが紙切れの中にあった。窒素ガスを封入してある九ミリメートル四方のガラスケースの中で、さらに小さな水晶の切片が四隅を髪の毛くらいのアルミニューム線で釣られて微かに震えていた。
「これを無線機にセットし電波を発信すれば、あのかわいい『アムゼル』が麦畑目掛けて必ず飛んでくる」
彼がその光景を想像しているうちにどの位の時間が立ったのか、ふと、誰かが足音を忍ばせて階段を昇ってくる気配に気づき、彼はクリスタルを紙包みに戻し、聞き耳を立てた。下から絶えず聞こえていた青年たちのざわめきはいつの間にか止んでいた。階段をにじるようにして昇ってくるらしい物音が、微かだが確かにまた聞こえた。異様な気配を感じた彼は、寝椅子の上で半身を起しシャツの下から取り出した拳銃を固く握り締め、下から光が射してくる床の階段口を注視した。屋根裏に当っている淡い光の中に微かに影が動き、やがて、若いくせに口髭を立てているために幾分滑稽な感じが漂っているペーター・ゼールの顔が床の上に現われた。二人の眼が合った途端、ゼールは人指し指を唇の前に当てて、喋るな、という仕草を送ってよこした。聞き耳を立てて下の気配を窺った後、床の上に這い昇ったゼールは素早く立ち上がり、小声でいった。
「ヒルシュマイア。ここから早く逃げ出すんだ。さもないと連中に殺されるぞ!」
「何をいっているんだ? ペーター。一体どうしたんだ?」
「何でもいい。殺されたくないならすぐに逃げるんだ」
「とにかく、そのわけを聞かせてくれないか」
「いいから早く逃げてくれよ。ここにいるのを見られると俺もまずいんだよ。
仕方がない。あのな、さっき向うから緊急通信が入ってきたんだ」
階下の様子をしきりに気にしながら、ゼールは声を潜めて早口に喋った。
「あのな、夕べ、ベルリンの郊外で反革命分子のアジトが摘発され、かなりの人数が逮捕されたんだってさ。
ヒルシュマイア。向うにも反革命分子なんているのかな。あんた、どう思う?」
またゼールの口癖の、あんた、どう思う? が始まった。それはともかく、ゼールのいう反革命分子のアジトとは、クレムリン派対策本部だったフォン・リッター男爵邸のことだろうか。それが発覚して書記長やオルガス将軍らが逮捕されたのだろうか。そして逮捕されたうちの誰かが開戦後の計画を洩らし、彼の正体をも明かしてしまったのだろうか。彼は胸中に緊張が高まるのを押さえ、逆にゆっくりとゼールに語りかけた。
「そんなことを、突然どう思うか、と聞かれても困るな。反革命分子なんか我われの祖国にいるはずがないじゃないか。だが、それと、私が逃げ出さねばならないこととどういう関係があるんだ?」
「緊急通信では、こっちへ潜入してきた工作員の中に夕べ捕まった者の仲間がいる可能性がある、といっていた。そして、彼らを一刻も早く割り出して処分しろ、さもないと西側の権力と通じる危険性がある、といってきた」
「彼らを早く割り出して処分しろ、か。その彼らの中に私も入るのか? ペーター」
ゼールの話はいつも廻りくどいが、お蔭で三つのことが判った。「仲間がいる|可能性がある《ヽヽヽヽヽヽ》」といっているところからみると、クレムリン派は、その事にまだ確信を持ってはいないのだ。それに「|割り出して《ヽヽヽヽヽ》処分しろ」といっている点からは氏名すら掴んでいないことが判る。また、「|彼ら《ヽヽ》」といっているところから判断して、反対派が何らかの連繋活動を行なうために、西側へ送り込んだ可能性のある工作員は複数だとクレムリン派は考えているらしい。こう考えたとき、書記長の使者が、或いは自分のほかにもいるのかも知れない、という思いがふと彼の頭を掠めた。が、彼はすぐにそれを否定した。書記長は自分にすべてを托し信頼を置いてくれているはずだ。そう確信することが彼の力の源泉になっているのだ。しかし、この国の中に相当数の協力者が入っていることは、リッターらの口振りから前まえから察していた。クレムリン派はその事を併せて「彼ら」といっているのかも知れない。
「ヒルシュマイア。あんたが反革命分子だと決ったわけじゃないさ。もしそうなら、あんたはとっくに終りになっているさ。緊急通信では氏名はまだ掴んでいないようなことをいっていた。ただ、彼らが正規の諜報部員以外の者なのは確かなんだそうだ。あんたは『アムゼル』の開発者だけれど、本来の諜報部のメンバーではない、と昨日自分でみんなに話していたじゃないか」
「それはそうだ。事実だからだ。それに今度こっちに送り込まれた工作員の中には正規の部員ではない『アムゼル』の誘導だけを担当する技術者が十人以上も含まれている。みんな私が誘導操作の方法を教え込んだ者たちだ。なにしろ開戦直前に七、八十機の『アムゼル』が飛んでくるんだから諜報部員の数だけでは足りないんだ。そんなことだけで私を疑っては困るな」
「でもね、ヒルシュマイア。あんたは特に気をつける方がいいんだ、ベネッターに対してね。彼はあんたに全然気を許していない。最初からね。それどころか毛嫌いさえしているんだ。
この支部担当の連絡員はついこの間までベネッターの古くからの顔見知りだったんだ。それが突然あんたに変更になった。向う側からその変更を通知してきたときベネッターは、これは何か臭う、としきりにいっていた。その三日ばかり後に例の爆発が起り、あんたは丸一日行方不明になっていた。彼は、西側と連絡する時間を稼ぎだすためにあんたがあの爆発事故を仕組んだんじゃないかって、今でも仲間うちで話している」
「それならわざわざここに私が現われるはずがないじゃないか」
「そう。俺もそういったんだ。するとベネッターは、あんたが来たのはこっちの内部の動きを探るために違いない、というんだ。そうなんだ。今彼は、こっちの動きを体制側に通報されないうちにあんたを消しちまった方がいいって、下にいるみんなを焚きつけているところなんだ。リンデンベルクだけが賛成していない。『アムゼル』が来なければ武器も金も手に入らない。『アムゼル』を誘導できるのはあんた一人だ、とね。リンデンベルクは、『アムゼル』を着地させ武器や資金を入手できるまであんたに監視をつけておき、勝手な行動を取らせないようにすればいい、処分したければその後でもいいじゃないか、とベネッターを説得している」
ゼールの表情は真剣そのものだった。冷酷で用心深そうなベネッターの瞳が脳裡に浮んだ。あの男の考えそうなことだ。また、武器と資金を入手してからにしろ、というのも現実的なリーダーであるリンデンベルクが如何にも考えそうなことだ。しかし、たとえリンデンベルクの説得が効を奏しても、監視付きでは今日一日の行動に支障が生じる。それに襲われたのがフォン・リッター男爵邸だとすると、自分の正体が曝露するのは時間の問題かも知れない……。
「ところでペーター。君はなぜ私を助けようとするんだ? 君はベネッターたちの仲間だろう。そんなことをすれば君自身が困ったことになるんじゃないのか?」
「まあね。でも俺は自分が知っている人間が死ぬのを見るのはもっと嫌いなんだ。特に口をきいたことがある人間が死ぬのを見るのはね。ベネッターは今までにも仲間から抜けようとした者を三人も殺っているんだ。またあんなのを見るのは俺は嫌なんだ。それに、本当のことをいうと、俺はあんたが好きなんだ。俺に対して馬鹿にしたような口をきかないからね」
「そうか。ありがとう、ペーター。君の話からすると、ベネッターたちは私を疑っている。そんなときに、私が昨夜逮捕された者たちの仲間ではないということを、ベネッターのような男に証明してみせるのは難しいな。証明書なんてものはこの世界では通用しないからな。では君の忠告をありがたく受けて、『アムゼル』が飛んでくる頃までどこかに身を隠すとするか。ところでペーター。この部屋からうまく逃げ出せるのか?」
「ああ。そうでなけりゃ、わざわざここに昇ってこないさ。見ててくれ。この家の秘密の出口を俺は知っているんだ」
ゼールは右肩を微かに持ち上げて得意そうに部屋の隅に歩いてゆき、破風板の裏側をあちこちいじっていた。すると、合掌造りの天井裏に近い三角形の板張りの壁に、人が潜り抜けられるほどの口がぽっかりと開いた。
「これは煙抜きなのさ。この家みたいに古い造りの農家には必ずあるんだよ」
やはり、かなり細かい雨が、真菰の屋根の上に音もなく降っていた。
「真菰葺きの屋根は、ぬるぬるしていて滑るから、こうして真菰を両方の掌で順繰りに握りながら降りるんだ」
外から何喰わぬ顔をして屋内に戻るから、とゼールが先に立って屋根の上に出た。表面が風化している上に雨に濡れていて滑り台に石鹸を塗ったような屋根を、ゼールに教えられたように両手の握力だけで体重を支えて降り、屋根の上に太枝を伸ばしている樫の古木を伝って建物の裏手にようやく降り立った。
「ペーター。頼みがあるんだがな。君の車を一日だけ貸してくれないか?」
農家から五十メートルばかり離れた草むらの中に隠すようにして停めてあるゼールの辛子色のフォルクスヴァーゲンを横目で見ながら、彼は小声でいった。廃れた農家にひと気があることで第三者の関心をひかないように、ほかの車もそれぞれ離れたところに隠して停めてあるらしかった。ゼールはしばらく|躊躇《ためら》っていたが、意を決したように尻のポケットから取り出した鍵束の環を開けて一つを外すと、それを彼の濡れた掌の中へ落した。
「いいよ。一日だけなら。でも、あれは、俺のたった一つの財産なんだけどな」
「すまんな、ペーター。仮にだが、君とこのあと幾日か連絡が取れなくなったとしたら、どこへ返しに行けばいい? 今夜はマッシェン鉄道操車場に絶対に行くつもりなんだが」
「そうだな。昨日マッシェンに行ったとき、途中でハンブルク市庁舎の塔を見たろう。あの裏に公共駐車場があるんだ。あんたに判りやすいのはあそこだな。そう、あの駐車場に乗り捨てておけばいいよ」
「ありがとう。もしもの場合は、そうするよ」
「地図が要るんなら、いろんなのが物入れに入っている。それからガソリンは、半分くらい残っているから、あと三百キロメートルは楽に走るよ」
「ありがとう。じゃ、ペーター。元気でな。必ずまた会おう」
小走りに車の傍に行き、ドアを開けて乗り込もうとするとき、振り返って農家の周辺を窺ったが人影はなかった。ゼールもすでに姿を消していた。
エンジンは機嫌よく一発で掛かった。しかし、セルモーターの甲高い音が孔雀の雄の鳴き声のように森の中に響き渡った。彼は直ちに車を発進させ、雨に濡れている草の上でスリップしつつ最短距離で道路へ跳び出した。そこで再び、バックミラーに映っている農家の様子を見たがやはり人の動きはなく、静まり返っていた。彼はそのままブレーキを踏まずに走り出した。道路を走り始めてまず、クラウスの農家に行き書記長の親書を手中に収めることを考えた。
東と思われる方角に二、三十分走ったころ、昨日の午後、マッシェンに行ったときに使った記憶があるアウトバーンE4にぶつかった。道路脇に車を停め、物入れからこの辺りの地図を選り出してラーツェブルク湖の方角を確かめた。それはほとんど真東にあった。しかし、道路が入り組んでいて、直進できる適当な道はなかった。そこでE4に乗って北東に走り、レトヴィッシュフェルトで国道208号線に乗り替えてラーツェブルクの街に着いた。腕時計を見ると十時を十分過ぎていた。
雨降りのために人出が少ない湖岸の道に出て徐行しながら走っているうちに、一昨日の午後クラウスのトラックで送られてきた連絡船の船着場の前に出た。そこで停車して、しばらく瞑目し頭の中で地理を整理した。やがてはっきりと道路網の知識がまとまったところで車を発進させ、見覚えのある森の中の道を北に取ってクラウスの農家へと急いだ。トラックに乗せられて走った道程に比べて思いのほか早く木立ちの間にあの農家が見えてきた。できれば家人と顔を合わせずに、犬小屋から親書を取ったらすぐに立ち去りたかったので、かなり手前に車を停め雨の中を歩いてゆき中庭に入った。トラックとトレーラーが入っている納屋の大扉は閉っており、クラウスは境界線の傍の農地に働きに出ずに、雨天の今日は家に籠っているらしかった。どの窓にもカーテンが下りていて屋内が暗く見えるので人の気配は判らなかった。
彼は大股で真直ぐに犬小屋に向って近づいていった。すでに犬は気づき、小屋の中で立ち上がり親しげに鼻を鳴らしていたが雨に濡れるのを嫌ってか小屋の外へ出てこようとはしなかった。小屋の前にしゃがみ込み、左手で犬の頭を軽く叩きながら右手を小屋の中に差し入れ天井裏をまさぐった。あった。親書は、桟の間に挾み込んだときそのままに、そこにあった。それを取り出しシャツの内側に入れたあと、両手で犬の頭を愛撫しながら立ち上がりかけたとき、犬の全身に電流のようなものが走ったと同時に両の瞳が彼の肩越しに後方の一点を睨んで燃えはじめた。いつの間にか、だれかが彼の背後に来ているのだ。
「ヒルシュマイア。俺の眼に狂いはなかった。俺たちの芝居にまんまと引っかかったな」
反射的に立ち上がり、振り向くと、目の前に拳銃を構えたベネッターが立っていた。
「さあ、いま懐に入れていたものをこっちに寄越せ。はじめから貴様はなんとなく臭かった。今朝、諜報部から連絡が入ったとき、裏切り分子は貴様だと、俺にはすぐぴーんと来たんだ。そこで俺はリンデンベルクと示し合わせてひと芝居打ったんだ。あれで貴様が逃げ出せば、やっぱり貴様は黒だったという証明になるわけだからな。そしてそのとおり貴様は逃げ出してきてこんなところにいる」
「ペーター・ゼールも芝居をやっていたのか?」
「馬鹿をいうな。頭が少々弱くて人がいいあのペーターの奴にこんな芝居がさせられるか。俺たちの芝居をあいつには本物だと思い込ませて、それで貴様が逃げ出すとなったら手伝いをさせるのが筋書の大事なところだったんだ。あいつはよくやったよ。が、そんなことはどうでもいい。早くその懐の中のものを出せ!」
ベネッターは、いつもしーんと冷たく沈んでいて感情の動きを決して見せない瞳で彼を見据え、彼の左胸部に銃口をぴったりと押しつけてきた。押しつけてきたのは発射音を小さくするためだ。ベネッターならそのまま表情ひとつ変えずに引き金を引くだろう。彼はシャツの下の自分の拳銃を抜き出す機会を狙っていた。
「ベネッター。君たちには私を殺せないな。私がいなくなったら誰が今夜『アムゼル』を誘導するんだ? 『アムゼル』が来なければ、武器も資金も手に入らないぞ」
「貴様は『アムゼル』『アムゼル』とよくいうが、裏切り分子の貴様が『アムゼル』を呼び寄せる保証はどこにある? それより、今夜俺たちがマッシェンに行った途端に待ち構えている貴様の仲間にやられてしまう、という方に俺は賭けるぜ」
「しかし、マッシェン操車場のコンピューター・センターを破壊するのが、君たちの支部の使命だろう。使命を達成しないつもりなのか?」
「裏切り分子にお説教をされるとは思わなかったな。マッシェンをやるくらいほかに方法がいくらでもあるさ。さあ、さっき懐に入れたものを早く出せ」
ベネッターは、眼に僅かな心の動きも表わさず、仕草にも少しの隙をも見せなかった。そればかりか、ゆっくりと喋りながら銃口をさらに強く押しつけてきた。
「判ったよ。いま出すから、拳銃をそんなに強く押し付けないでくれ。殺されても殺されなくても取られるなら、殺されない方が遙かにいいからな。ところで、これを何だと思っているんだ?」
「見りゃ判るさ。さ、出せ」
彼はシャツの下の方のボタンに手を掛けた。シャツの下のベルトの裏側に拳銃が挾んである。
「待て。貴様が拳銃をベルトの下に隠しているのは判っている。ボタンは上から順に外してゆけ。両手を使ってだ」
彼が四つ目のボタンを外したとき、親書の包みの一部が見えた。ベネッターは素早く腕を伸ばしてそれを奪い取った。
その瞬間だった。彼は何者かに突然背後から突き退けられた。よろめき倒れそうになりながら視野の隅で、巨大なシェパード犬が空中を跳び、ベネッターが左手に掴んでいる親書の包みを牙を剥き出した大きな口で噛み取るようにして奪い去るのを見た。
彼が姿勢を立て直したときには犬はすでに庭を横切って森の中に走り込み、ベネッターがそれを追っていた。彼も拳銃を抜き出してベネッターの後を追った。
犬は背中のうねりを森の下草の間に見え隠れさせながら、高速で移動していた。ベネッターからかなり離れた樹間に達すると、犬は横に向かって走りはじめた。やがて彼は、犬がベネッターの位置を中心点にして円弧を画いて移動しているのに気づいた。犬はときどき包みをくわえた頭を振り向けてベネッターの位置を確認し、また彼との距離を目算しているようだった。そうしながら追っているベネッターと一定の距離を保ちつつ迂回して、奪い返したものを彼の手に届けようと、懸命に右へ左へと方向を転換し、立ちはだかるベネッターの妨害を突破しようと試みているのだった。ベネッターもそれに気づき、犬の針路を遮るように左右に移動しては走ってくる犬を待ち構えるようにして拳銃を撃った。犬はその度に素早く迂回の方向を逆転させた。犬とベネッターとの間の距離が縮まるにつれて犬が走っている円弧の半径が短くなり、次第に拳銃の標的として充分な大きさになってきた。
「ベネッター、やめろ! やめないと、私がお前を撃つ!」
彼が叫んだ。十メートルばかりの距離にいるベネッターが顔だけを彼の方に向けた。この瞬間、犬は突如、円弧を画く動作を止め、ベネッター目がけて一直線に疾走し、数メートルの距離から巨体を砲弾のようにして跳躍した。一瞬の差で気付いたベネッターは振り向きざま、空中にある犬の胴体に銃弾を撃ち込み、横に跳んで犬の体当りから危うく逃れた。犬は悲鳴すら挙げる暇もなく三、四メートル先の草むらの中へもんどり打って石のように墜落し、そのまま動く気配がなくなった。奪われたものを取り戻そうとするベネッターは、犬が横たわっているあたりの草むらに数歩歩み寄り、とどめの一弾を発射しようとした。
「ベネッター! お前はすでに五発撃った。それを撃てば、銃は空になるぞ!」
拳銃を構えた彼が走り寄りながら叫んだ。その声が終らないうちに、背後で大きな爆発音が轟いた。ベネッターの体が、岩石に打たれでもしたかのように両手両足を拡げた恰好で吹き飛び、荷台から落ちた砂袋のように草むらの中に崩れ落ちた。
庭と森との境の辺りにクラウスが立っており、小脇に抱えている散弾銃の銃口からまだ硝煙が立ち昇っていた。
一足早く彼が草むらに駆け寄ると、犬は右の胸部と左の背部から多量の血を流し荒い息遣いをしながらも、まだ親書の包みをしっかりとくわえていた。彼が膝を突き犬の頭を抱きかかえたとき、その腕の中にようやくそれをぽとりと落した。包みの表面のいたるところに犬の歯形が深く刻まれ、雨に濡れた森の下生えでこすられて防水封筒もぼろぼろに破れ、包みの四隅が千切れていた。彼は再び親書を懐中に収めてから、両腕で犬を抱き上げて立ち上がった。雨水と血で体毛が全身にべっとりと張りついていて、犬の姿は急に小さくなったようだった。誇り高いこの犬は傷の痛みにはじっと耐えて苦痛の声を挙げようともしなかったが、心配の余りそれ以上近づけずに森の中途で立ちつくしているクラウスの姿を彼の腕の中から発見すると、弱よわしく頸をもたげて甘えの鼻声を初めて出した。
「急所は外れているようだ。湯を沢山|沸《わか》してくれないか」
と、クラウスに対して声を掛け、先に立って彼は犬を抱え母屋に向って静かに草を分けて歩きはじめた。犬の重みで、ひと足ごとに靴の踵が森の表土の中にずぶずぶと沈んだ。見ると大きく引き開けられた勝手口の内側に、老婆が心配げな表情で立っていた。
「やあ。一昨日は色いろと親切にしてもらい有難かった。さてと、犬の気持を落ち着かせるには静かで暗い所がいいな。そうだ。地下室がいい。湯とボロ切れを沢山持ってきてくれないか」
心配そうに犬を振り返りつつ案内するクラウスに随いて地下室に降り、壁際の木枠の中に石炭やら馬鈴薯やらが山を成して貯えてある部屋を選んだ。そして木枠の間の暗がりに老婆が広げた古毛布の上に犬の体を横たえた。彼はぶら下がっている裸電球の明りを頼りに、まず傷口を温湯で洗い流し、そのあと体毛に湿り気がすっかりなくなるまで丹念に全身を拭いてやった。それがすむと今度は痛がる犬をなだめながら、まだ出血が続いている両方の傷口に、猟銃弾の薬莢から抜き出した粉末火薬を振りかけ手早く包帯をした。
「どうだ? 助からねえか?」
「大丈夫だと思う。まだ若くて体力がありそうだからな。それにこのとおり、全然血が混っていない」
彼は、犬の唾液を拭った白い布切れをクラウスに示した。肺や胃腸は傷ついていない証拠だ。
老婆が温めた牛乳を入れた鍋を下げて入ってきたのと入れ違いに、クラウスは、
「あの男の具合を見てくる」
と低い声でいい残し部屋から出ていった。老婆が口元に持っていた鍋の中の牛乳を、犬は頸をもたげて数回舐めたが、たちまち大儀そうに全身を毛布の上に伸ばした。あい変らず呼吸は浅いが、心臓の鼓動の方はいくらか安定してきたように思われた。
クラウスが戻ってきた。犬の傍に膝を突いたままの姿勢で彼が振り仰ぐと、クラウスは悲しげに肩をすくめ頸を左右に振り、
「警察へ届けにいってくるだ」
とうめくようにいった。
「いや。あっちの方は任せてくれないか。あの男が誰なのかを知っているんだ。あいつは私を殺そうとしていたのだ。だから元もと正当防衛のようなものだったんだ。あんたたちは一切を夢だったと思って忘れてしまってくれないか。
それより、この犬を助けたければ二人とも今夜はこの部屋を離れないでいる方がいい。できるだけ犬の眼を見つめていてやることだ。そうしてやれば犬は淋しくないだろうし、眼から眼へ生きる力を授けてやれるんだ」
そういいながら彼は、境界地帯に住むこの老夫婦が明朝三時の開戦の時刻に、必ずこの地下室にいてくれるように、と心中で願っていた。クラウスは沈黙していたが、老婆はすぐに彼の言葉に納得したらしく、
「そりゃその方がいいに違いねえ。今夜は一晩中ここにいて毛糸編みでもしながらついていてやるだ」
と同意した。
「明日の明け方、たぶん三時頃が峠じゃないかな。それを乗り切ればきっとこの犬は元どおりに元気になる。いいかい明朝三時頃だ。二人ともここで犬を見ていてやるんだ」
老婆が鸚鵡返しにいった。
「判った。明朝の三時頃だな。人が死ぬのもその時刻が多いというだ。よし、その時刻にわしらはきっとこの犬のそばにいてやるだ」
立ち去ろうとする彼に、老婆は無理強いするばかりにして軽食を取らせ、また一昨日のようになにがしかの食べ物を紙袋に入れて持たせた。
至近距離から発射された散弾を全身に浴びたベネッターは確実に死んでいた。彼はフォルクスヴァーゲンを死体の傍に持ってくると、車の中にあった毛布で丁寧に包んだ死体を、助手席の背凭れを後に倒した上に横たえた。それから車を発進させしばらく行くと、道の傍にベネッターが乗り捨てた空色のセダンが雨に濡れていた。彼はそのセダンを森の奥に乗り入れ木の枝で隠すと再び車に戻り、今朝来た道を逆に取って一路廃屋となっているあの農家へと走っていった。
今朝あの隠れ家から脱出しようと決心したときから彼は、夕方までに一度だけ秘かに戻ってくることを計画していた。彼らの無線機をなんとしても奪い出す必要があったからだ。
「……面積は二分の一以下、人口は四分の一のわが方が、相手に対して何事につけても対等な権利を主張し得るようにするためには、たとえ半日だけの戦いでも勝っておくことが必要なのだよ……」
親書を手渡された日の別れ際に、書記長が彼に話した言葉が絶え間なく彼の頭の中で聞こえていた。勝つためには「アムゼル」も重要な役割を果す。それに「アムゼル」の開発者である彼は当然「アムゼル」が実戦でも計画どおりの機能を示し、飛行し、誘導され、着地するのを自身の手でも実証したかった。したがって「アムゼル」を誘導するためにはあの無線機が絶対に必要なのだ。
その上「アムゼル」を誘導できさえすれば、マッシェン鉄道操車場のコンピューター・センターを、たった一人で破壊することもできる。コンピューター・センターの中に忍び込んで、どこかに無線機をセットし誘導電波を発信させれば、「アムゼル」はセンター目がけて飛んでゆき、突入と同時に大爆発を起す。「アムゼル」には、機体が無傷で敵の手中に落ちるような不測の事態に備えて、自爆装置がセットされている。つまり、安全ロックを外さずに無理に開扉しようとしたり、過度のショックを与えたりすれば、自爆装置が作動して搭載物もろとも粉々に爆発するように設計されているのだ。
農家の二階の窓からでも直視できない木の繁みの中に車を隠し、雨に濡れている草むらを、びしょ濡れになりながら這うようにして接近して屋内の様子を窺った。立ち上がり、目を凝らして建物の周辺の物蔭を隈なく検べたが、車の姿はどこにもなかった。連中は出掛けているらしい。自分か、或いはベネッターの行方を追っているのかも知れない。彼は、軍で受けた教育どおりに即決し、敏捷に行動した。フォルクスヴァーゲンに取って返すと、直ちにそれを発進させて、タイヤを軋らせて建物の脇に乗りつけ、毛布に包まれたベネッターの死体を引きずり出して、扉口の横の外壁に凭せ掛けた。こうしておけば連中は、この男を葬ってはやるだろうが、日頃から体制側の手先と罵っている警察に届け出る気遣いは絶対にない。
拳銃を握り、入口の古びた扉を静かに押した。雨に濡れているので少しの軋みも立てずに開いた。眼が馴れるのを待ち、暗い屋内に人影がないのを確かめると、滑り込むようにして踏み込んだ。そのまま、土間を突っ切って奥の部屋に直進し、納戸の天井裏に隠してある無線機を一気に担い下ろした。そのとき、電源コードが床に落ちて軽い音を立てた。だれかの声が二階から、
「ペーター! おい、ペーターか?」
と呼びかけてきた。素早く動き、建物を出て、後足で扉を閉め、無線機は車の助手席の床に投げ込むようにして積んだ。
五分後には農家からかなり離れている公道をハンブルク中心区に向って走っていた。
走りながら彼は、空港に直行せず、その前に例の北ドイツラジオ放送局の休眠施設の|在《あ》り|処《か》を確かめておこう、と考えていた。首尾よくこの国の首相ヘルムート・シュミットにわが書記長の親書を手渡すことができた暁には、その成功をすぐさまリッター中尉らに報告するために、一二一・二一メガヘルツの電波をその施設から発射するのだ。地図によれば、放送局があるというオーバー通りは外アルスター湖の北西にあった。都合のよいことに市の中心区から空港に向う幹線道路の道すがらだ。ハンドルを右手に持ち変えた彼は腕時計を見た。まだ午後三時二十分で残り時間は充分にあった。
午後三時二十分。
総領事の秘書がコーヒーを運んできた。一時間ばかり前からレスは、総領事、査証課長の二人と共に総領事館の二階の一室にいた。この国のエルベ以北に在住する米国籍市民と、たまたまこの時期にこの地域の中に滞在している米国籍を持つ旅行者のおよその人数を掌握して、この一帯で|擾乱《じようらん》が発生した場合の対策を立てようとしているのだった。
総領事に対しては、ボンの大使館から避難計画立案を要請する秘かな指令がすでに届いているのをレスは知っていた。しかし総領事の態度に動揺めいたものはまったく認められず、一見それほど深刻に事態を受け止めてはいない風に見えた。まったく事情を知らされていない査証課長は、二カ年に一回の割で実施される米国籍避難民収容演習がまた今年も行なわれるのだ、と理解しているらしかった。
レスは窓の向うに見える外アルスター湖の風景に眼を遊ばせていた。雨降りのために数こそ多くはないが色とりどりの帆を揚げた十数艘のヨットが、三つの群に分れて湖面を同一方向に滑っていた。雨に煙って見える湖水の向う側に、存分に夏の葉を繁らせたカスターニエの並木があった。その並木の間に見え隠れしつつ行き交う自動車も、その背景になっている建物の下を傘をさして歩いている人びとの姿も、何もかもがレスが昨日まで七年以上も眺めてきた風景と同じだった。神経が正常な人間なら、この街が、明日の朝には砲弾が飛び交い爆弾が炸裂する戦場になっている、などと想像できるはずはないな、と彼は心中で呟いていた。
「おい! レス、聞いているのか?」
少しばかり棘を含んだ査証課長の声が彼を現実に引き戻した。
「ああ悪かった。話はどこまで行ったんだったかな?」
「我われの管内には合衆国軍人はいない、と考えていいか、と君に尋ねているんだ」
「軍人ならこの館内にも君の目の前にいる私の他に五名の海兵隊員がいるじゃないか。ただし、君のいう軍人が軍務者を意味するのなら、我われの管内には合衆国の軍事基地がないのだから零と思っていい。正確にはキールのドイツ海軍司令部に六名、フレンスブルクの英軍司令部に四名の連絡将校が駐在しているが、これは除外していいな」
「とすると、全部の数字を合わせますと昨日生まれたばかりの赤ん坊まで入れて、今日現在の登録者数は二千七十一名ということになりますかな。住所が掴めない者がかなりありますが、米独商工クラブや米人会などの民間組織を利用すればほとんど全員に連絡が行き渡りますな。問題があるとすれば米国籍の旅行者ですかな。すでにドイツ系市民の里帰りシーズンに入っているので、ハンブルクからの入国者数が二百名を超えております。そうはいっても、今もなお彼らがこの管内に留まっているとは限りませんしね」
「その逆にフランクフルトやミュンヘンで入国した連中が今はこっちの管内に来ているということもあり得るわけだ」
と総領事。
「そのとおりです。私の感じでは、主要なホテルを当れば半分以上は掌握できると思われます。難しいのは里帰り先のドイツ人家庭に滞在している旅行者を掴むことです。もちろん、入国の際、ドイツ側に提出している入国カードの連絡先を追ってゆけば必ず掴める理屈ですが、二、三日の作業では困難でしょうな」
「ま、その点は、それほど心配することはないな。事が起れば、向うからここに必ず連絡してくる。その時になれば電話回線をできるだけ空けて待つことだ」
「それはそうですな」
「では、在住者の中から専門別の医者を拾い出して、医師団と看護要員のリストの作成に掛かってくれないか?」
「それはすでにできております」
「手早いな。ところで、これは君の分掌ではないが、人目に立たぬようによく注意して、数カ所から分割購入するのがいいと思うが、できる限り多量の食糧と救急医薬品の調達を始めてくれないか。そうだな、食糧の目安は五百名の三日分くらいかな」
査証課長は驚き、総領事の顔を窺い見て尋ねた。
「そこまで、実際にやっていいんですか?」
「そう。今回はな。では、すぐに掛かってくれないか」
査証課長が怪訝そうな顔付きで部屋を出てゆくのを見送ってから、総領事はレスの方に向き直り口を開いた。
「レス。よく考えてみたんだが、私の結論も結局は君のと同じになった。自動車と鉄道には現実問題として期待を余り懸けられない。輸送機が使えるかどうかは戦況次第だ。残るのは船舶だが、これも戦況次第とはいいながら、北海側大陸沿岸の制海権はかなり永持ちしそうだな。そこで、ある旅行社の名を使って、ハンブルクに停泊している英国籍の空き船を一杯押さえた。これでは足りないので、クックスハーフェンにいたセント・グロースター号というイギリス船をもう一杯チャーターしたんだ。これは今エルベを遡航してハンブルクに向ってきつつある。いざとなったら、アルトナ港に米国市民を集結させて乗船させようと思うんだ。どうかな?」
「現状ではそれが最善の措置といえるでしょうな。それで目的地は?」
「マニュアルによれば、英本土のロンドン、ポーツマス、またはサザンプトンだが、戦火さえ及んでいなければ、フランスの海岸でもいいんじゃないかな」
「北海やイギリス海峡には出さない方がいい。『Yサブ』や『』『』の超大型潜水艦がうようよしていますからね。戦況にもよりますが、できるだけ早く陸に揚げた方がいい。ソ連の海軍力は合衆国海軍を量的には遙かに追い抜いているんです。近代化の面でも。前大戦のときとは様相が違うんです」
「そうかも知れんな。ところでレス。私は家族を送り出したあとも、ここに残って国務省の指示を待つが、君はどうする?」
「もちろん、これからが、私の働き時ですから。ボンの大使館のトミーの指示に従うつもりです」
「軍の判断が誤診だといいと願っていたが、船を雇ったり、食糧を買い込んだりして大金を使う羽目になった今では、誤診でないように祈りたいな」
ゆったりと椅子に身を沈めている小柄な体の総領事は、あい変らず悠揚とした笑顔を浮べていた。
そのとき、会議室の隅にある電話のベルが鳴った。レスが受話器を取ると、フランクフルトのケイリーから電話が入っている、とミス・クレーマーが告げた。この部屋に廻してくれ、といい一旦受話器を置いた。
「第五軍団のケイリー・ジョーンズがまたなにか面白い話を聞かせてくれそうですよ」
と、総領事に話しているうちに、再びベルが鳴った。
「ケイリー。情勢はどうだい?」
「レス。忙しくなってきているんで、掻い摘んで話す。いいかい、要点だけだ。
昨夜の十一時頃、東ベルリンの郊外で銃撃戦があった。音から判断して双方同種のライフルと機関銃を使用、約半時間続いたそうだ。つまり、軍同士の衝突だな。人民軍同士か、人民軍対ソ連軍か、解明を急いでいたところ妙な話が聞こえてきた。書記長ホーネッカーがその銃撃戦の際に数名の高級軍人とともに逮捕され、どこかに拘禁されたらしい、というんだ。ポーランドと東独との国境地帯に一昨日から集結しつつあるソ連機甲部隊が、銃撃戦が行なわれた時刻に出動態勢をとった、という民間情報はあるんだが、その時、東独内のソ連軍は全然動いていないんだ。ホーネッカー逮捕の真偽とその意味合いを、いま政治部が糾明しているところだ」
「政変が侵攻直前に起ったわけか」
「しかし今のところ東独では、正式にも略式にもコメントは例によって出されていない。銃撃戦についてもだ」
「ほかのワルシャワ条約軍の動きは?」
「東欧地域を今朝の八時過ぎに撮影した偵察衛星の写真を分析した限りでは、昨日と較べて変化がないそうだ。
そこでだ。東側が明朝侵攻を開始するというスターリー将軍の判断には多少フライングがあるんではないか、という意見がいま部内に強まってきているんだ。いかに強大な兵力展開を常時充実させている東側といえども、開戦が二十四時間以内に迫ったとした場合に動員や増強の動きをまったく見せないのは納得できない、とね」
「しかし、境界線の地雷撤去や北方海上の偵察機の動きはどう解釈するんだ?」
「そう。まあ、地雷撤去を最初に察知したのが君なので、こうして電話をしているんだが。実は、部内に生まれてきた意見を支援するような情況が、例の沿海地方におけるソ連の軍事演習の面でも出てきたんだ。演習区域をカムチャツカ半島まで拡大する、と通告してきた直後、数十機の長距離爆撃機『バックファイアB』と『D』が、わざわざ、我われの眼につくように北極海方面からベーリング海峡上空を通過して南下しアラスカ領空線ギリギリに沿って飛んでゆき、カムチャツカのペトロパヴロフスクと沿海州のウラジヴォストークに全機着陸したんだ。ペンタゴンの推定だと、この数はソ連が持っている『バックファイア』全数とほとんど合致しているんだそうだ。これではまるで、我われはヨーロッパ側で事を起す考えはまったくありません、とソ連がいっているようなものだ」
「だが、彼らが全面戦争を用意しているのだとすれば、カムチャツカ半島に『バックファイア』を集めたということは合衆国本土に|匕首《あいくち》の切っ先を突き付けてきたようなものじゃないか。敵が大西洋を挾んだ反対側にいた、というのは前大戦までの話で、今ではアラスカがわが国の最前線じゃないか」
「それはそのとおりだ。しかし、ヨーロッパ側がこうがらがらでは彼らはやはりどんな形の戦争でも始めるわけにはいかないだろうな。そうそう、衛星サモスが写した写真によると、チェコ内のソ連軍はあい変らず減ったままの状態だそうだ。
そこでだ。昨日ハンブルクでやった緊急合同会議の席上、SHAPEの参謀部から来たなんとかいう名の少佐が、ソ連側は例の移動演習に参加させるためにチェコ駐留軍を引き揚げているのではないか、といったり、昨日の朝のここの会議でも或る参謀が、極東で大規模な演習をやっているソ連は、当然ヨーロッパ正面の警戒のために特別な手を打っているはずだ、それが我われの眼に異常と映るのではないか、と述べたりしてそれぞれスターリー将軍の不興を買っていた。だが、どうやらこの見方の方が部内で次第に力をつけてきている。ま、そんなわけで、もちろん仕事は真剣にやってはいるが、ムードとしては、明朝に侵攻が開始される、という今朝までの臨戦準備態勢から今では第一号警戒態勢に下がった感じなんだ。以上を取り敢えず伝えておきたくてね」
要点に解説を混えてレスは総領事に話した。
「レス。君も私と同じで、戦争の可能性が遠退いたとなると素直に喜ばずに困ったような顔付きになるな。
ところで妙な連中がこの国に多数入り込んできているというあの話、あれはどういうことなんだろうね?」
総領事は笑いながら屈託のない態度で話していた。レスもその事をちょうど考えていた。北海やバルト海で活動している潜水艦も偵察機も空母キエフも、極東地方に九十万を注ぎ込んで大演習を実施しているソ連のヨーロッパ側における警戒措置だと理解できなくもない。だが、境界線における地雷撤去やこの国に潜入したまま出国せずに鳴りを潜めて何かを待っている数十名の東側工作員については、どのように理解すればいいのか。
また電話機のベルがけたたましく鳴った。いつになく興奮しているミス・クレーマーが叫んでいた。
「早く早く、テレビのZDF局を観てください! 赤軍派が今ヘリコプターを使ってシュタムハイム刑務所を襲っているんです! 現場から臨時放送をやっています!」
「テロリストにまた先を越されたのかね」
とのんびりとした声でいう総領事を促してテレビ受像機が備えてある総領事執務室に行き、椅子に腰を下ろす前に第二国営放送にチャネルを合わせてスウィッチを入れた。
監視塔の一つからか建物の屋上からか判らないが、かなりの高所にカメラが据えられているらしく、画面には高い煉瓦塀に囲われた刑務所の中庭の全景が映っていた。その中庭全体に発煙筒の煙のような白い霧が満ち、その中に見え隠れして黒色のヘリが四機、ローターを高速回転させたまま機首を四方向に均等に向けて駐機していた。アナウンサーは、
「氏名は明らかにできませんが、ある囚人とのインタビューを撮るためにこの刑務所を訪れていたところ、偶然現在進行中の事件に遭遇したのであります」
と興奮の余り同じ事を繰り返し喋っていた。銃声が時たま聞こえるが、その音には映画の中の戦闘場面でのような迫力はなかった。そのうちに煙の一角が突然反射光を受けて黄色く光り、同時に比較的大きな爆発音が画面に轟いた。アナウンサーが上ずった声で、
「犯人たちは再びバズーカ砲を用いて建物の外壁を破壊しはじめました」
と叫んだ。その間に数人の全身黒装束の男が中庭を走り過ぎるのが煙の薄れた間隙にちらっと見えた。別のアナウンサーの比較的落ち着いている声が経過を説明しはじめた。
「……ただ今皆さまの眼の前で展開されているわが国刑務所史上に未だかつて類を見なかった事態につきまして、当シュタムハイム刑務所監理当局が現在までに把握した情況を総合いたしますと次のようなものであります。
すなわち、今からおよそ十分前、ちょうど午後四時頃でありますが、まず、ただ今画面に映っております四機の大型ヘリコプターがいずこからともなく飛来したのであります。やがてそれらが当刑務所施設の外周に接近して旋回していると見る間に、突如各一機ずつが刑務所の建物の四隅にある監視塔に同時に襲いかかった。つまり四つの塔の中にいきなり催涙弾を撃ち込んだのであります。犯人らは、看視員全員が催涙ガスに追われ成す術もなく塔から脱出したのを見届けると、不敵にもあのように中庭の中に着陸、ご覧のように厚い煙幕を張ったのち施設の内部に対し多数の催涙弾を撃ち込んだのであります。
当局側の対抗策としては、今のところ全施設隔壁部にある電動扉閉鎖の措置をとったに留まっておりますが、通常ガスマスクの用意がなされていない当局側が行ない得た応急措置としてこれ以上のことは期待し得ないばかりか、現在ご覧のような何びとの予想をも越えた事態に対するものとしては最善の措置といえましょう。しかしながら、犯人らは当局側のこの措置をも予想していたものの如く、バズーカ砲の準備すらしており、それを用いて監房の外壁を次つぎに爆砕し、そこからついに内部に闖入した模様であります。皆さまのお耳に時どき聞こえている銃声は当局側が内部に闖入した犯人らと交戦しているものだと思われます。当局側はすでに連邦軍に対しガスマスクの貸与を要請したとのことでありますが、それらは未だ到着していないとのことで、犯人側と交戦中の係官は催涙ガスのために苦戦を強いられているということは想像に難くありません。
さて、ここシュツッツガルト市北部郊外に位置するシュタムハイム連邦刑務所におきましては、バーダー・マインホフ・グループの首魁であったアンドレアス・バーダーと共にグドルム・エンゼリンとヤン・カルル・ラズベの三人がソマリアのモガジシオ空港におけるルフト・ハンザ機ハイジャック失敗の翌日、一九七七年十月十八日に揃って自殺したというできごとは、未だに皆さまのご記憶に残っているかと思われますが、その後に逮捕された者も併せて同グループの残党男女八名が今もなお、ここに収監されているのであります。これに加えまして、先年、パリのオルリー空港におきまして、フランス警察の手により逮捕されたドイツ赤軍派の主要メンバーであるウィンシュニェフスキーら三名が、マンハイム市のフランケンタール連邦刑務所からここに、ほぼ一と月前に移監されたばかりであります。
いまのところ、現在襲撃中の犯人像について、断定し得るようないかなる手掛かりも掴んではおりませんが、この刑務所には、ただ今申しあげましたような重大犯罪者が集中的に収監されている現状からして、これら同志の奪還をはからんとする赤軍派の襲撃と判断するのが、おそらくもっとも妥当な見方ではないか、と思われるのであります。
あ! ちょっとお待ちください。中庭にあわただしい動きが出てきたようであります……」
数発連続してけたたましい銃声が聞こえたと同時に、薄れかけた煙幕の中をヘリを目指して駆け抜けてゆく七、八名の犯人の姿が画面に現われた。黒ずくめの服装にガスマスクを着用している彼らは、同数くらいの囚人服の男女を伴っていた。ようやく態勢を立て直したのか、監視塔の辺りからも射撃が開始された。あっという間に全員が機内に消えると、ローターをフル回転させて待っていたヘリはたちまち離陸した。四機が正確に九十度ずつの間隔で四方に向って、極端に前傾の姿勢をとりつつ浮上し、各々中庭の四隅にある監視塔に向って突進するように急上昇した。監視塔は一瞬気を呑まれたかのように射撃を中断したが、再び撃ち始めた銃弾は全速回転するローターに当って、ときどき火花を発した。カメラが空中にあるヘリを水平に把えたが、どの機体も黒一色に塗られており、ただ一つの文字も数字も認められなかった。
カメラは、個々別々に違った方角に飛び去る四機のヘリを脈絡もなく追っていたが、やがて、それらは雨雲の中に芥子粒のようになって消えた。画面は突然予告もなく、第二放送シュツッツガルト局のスタジオに切り替えられた。鼻の下に髭を貯えたいつものニュース解説者がメモを片手に興奮気味に何かを喋っていたが、音声の方にはようやく刑務所の現場に到着したらしい多数の警察車両の吹鳴器の甲高い音色が引き続き聞こえており、テレビ局も大分混乱しているようだった。
「どう思われます?」
と、レスは眼を転じて総領事に語りかけた。
「見事な手並だったね。まるでコマンド部隊の奇襲のようだった」
「まったくです。特に退去の際の呼吸の合わせ方が水際立っていました。あれは単に四機分のパイロットを揃えたんではありませんな。四名一チームの訓練をどこかで受けた連中だと私は思いますな」
特徴のあるまん丸な機首からして、ヘリはメッサーシュミット・ベルコウ・ブロームのBO─105に間違いなかった。この国では、空・陸両軍のほか国境警備隊でもこのヘリが使われているが、これを持っている民間企業もいくつかある。しかし、過激派の連中が軍や企業から借り出すことができるわけがない。彼らがチャーター会社から用途を偽って借り出したとして、あの機体を四機も揃えているところが果してあるだろうか、と彼はまず疑問に思った。そのほかにも頭の隅に引っかかっている疑念があった。ガスマスクだ。犯人らが揃って着用していたガスマスクは、遠目には、この国の陸軍規格の最新型とそっくりに見えた。だが、この件はテレビニュースの再放送か何かではっきりと確認するまでその疑念をひとには洩すまい、とレスは心に決めた。あの最新型のガスマスクがすでに民間に流れているはずはないし、ましてやテロリストの手中に早くも渡っているはずはないからだ。とすると……。
「全欧電圧統一・関係国閣僚会議」における冒頭挨拶をすませたシュミットは会場のコンフェレンツ・ホールから首相官邸に戻る車の中にいた。会議場で秘かに手渡されたメモによって彼はすでにシュタムハイム連邦刑務所が襲撃され、収監中の赤軍派メンバー八名が奪還されたことを知っていた。首相官邸に近づいた時、秘書官席の膝の前に設置されている車両電話機が、朱色の豆ランプを点滅させつつ着信を報らせるかわいい断続音を出した。応答した秘書官が|一際《ひときわ》緊張すると、
「『シュネー・イン・ゼプテムバー(九月の雪)』から『イエーガー・マイスター(狩猟の名手)』へ、です」
と告げた。シュミットは奪うように握り取った受話器を耳に当てるのももどかしげに尋ねた。
「『イエーガー・マイスター』だ。グリュナート、首尾は?」
「上々でした。予定より約四十秒早く、正味九分で作戦の第一段階は完了しました」
「そうか。さすがだ。ところで犠牲者は?」
「今のところ双方に死亡者はない、との報告を受けております」
シュミットの両眼の光が端目にもはっきりと判ったほど突然和んだ。
「そうか。よかった。何よりだ。よくやった」
「もっとも、相手方にはガスのため眼や呼吸器を痛めた者が多数いるはずだと。それから、一、二時間は昏睡状態にある者が十名程度いるはずだと」
「麻酔銃を使用したのか?」
「はい。双方の生命を護るために已むを得ない手段として。閣下。以上のほかに、別の報告によれば、国有財産にかなり大きな損害を与えた、とも」
「それはよい。その程度ですんだのは我われが幸運に恵まれていたのだ。さて、今後の段階は計画に従い私の方で進める。すぐにマイホーファーと話をしよう。取り敢えず君の部下の諸君には、諸君らの労に深く感謝し働きを高く評価する、と私がいっていると伝えてくれたまえ」
秘書官に受話器を渡しながらシュミットは、同じくメモを受け取り、電圧統一会議の席を抜けて自分の役所に急ぎ戻っていった内相マイホーファーを、直ちに官邸に呼ぶように命じた。
地図を頼りにハンブルク空港の方角にフォルクスヴァーゲンを走らせながらヒルシュマイア中尉は考えていた。
「ここまでは使命の達成に向ってどうにか一歩一歩近づいてきた。このあといよいよ大詰めが二度やってくる。まずは今夜の九時にボンにおいて首相シュミットに対して書記長の親書を手渡す時だ。次のは明朝開戦と同時にマッシェン鉄道操車場のコンピューター・センターを破壊する時だ。しかし午前二時半に飛来する手筈になっている『アムゼル』を、そのままコンピューター・センターに突入させるとした場合時刻が開戦より三十分早くなる」
彼は助手席の床に乗っている無線機を時どき横目で睨みながら、これでマッシェン破壊用に飛来する「アムゼル」の発射時刻を半時間だけ遅らせるように作戦司令部に連絡することはできないものだろうか、と思案していた。
やがて車はハンブルク市の中心街に入り、右手に建ち並ぶ高層建築の合間に時どきアルスターの群青の湖面が見えるようになった。彼は道路脇に一旦車を停め、地図を広げて現在位置を確かめた。そして発進すると間もなく内外アルスターの境にあるケネディ橋を渡り、すぐ湖岸沿いに右折してアルスター・ウファ通りに入った。そのあとギアをトップに入れるか入れないうちに、左手にイオニア、コリント両建築様式を混ぜ合わせたような大理石造りの正面玄関の上に、大きな星条旗を掲げている建物があるのが眼に入った。米国総領事館だった。右側には外アルスター湖が広がり、止みそうになりながらも今なお降り続いている糠雨の中で、十数艘のヨットが鈍く光る雨具を頭からすっぽり被った艇手を乗せて、音もなく湖面を滑っていた。
やがて道は湖岸を離れ、湖との間に公園を挾んだ。彼は駐車スポットを見つけ車を乗り入れて再び地図を広げ、かつて北ドイツラジオ放送局があったというオーバー通りの正確な位置を探した。彼の勘は正しかった。それは、その場所から二街区ほど先の右手にアルスター川の上に懸かる橋があり、その袂で橋と反対の方向に曲って、そのまま二百メートルも行けばよいことが判った。車を発進させてから三分ばかりで目指す『オーバー通り』の道路標識を見つけた。樹齢は百五十年以上と思われる樫の並木の内側に、どちらかといえば古風な、落ち着いた感じの住宅が軒を並べていた。その中に一カ所だけ歩道より一段高くなっている敷地があった。その奥に、さほど大きくはないが、コンサートホール風に幾つも正面扉がついている煉瓦積みの半地下式建物がひっそりと建っていた。窓にも入口にもシャッターが降ろされていて、まったく人気が感じられなかった。彼は数分間歩道沿いに車を停めて、記憶の中の見取り図と目の前の建物とを比較して納得したのちオーバー通りを後にした。
そのあと、空港に着くまで続いていた街並は、故国とほとんど変らなかったが、商店のショウウィンドウの中の商品は想像以上に数が多くかつ色彩に富んでおり、住宅の窓という窓には申し合わせたように鉢植えのペチュニアが飾られていて、レースのカーテンをバックにしていまを盛りと咲き乱れていた。
予想したより遙かに早く空港に着いた。午後五時に数分を残していた。空港内にあるドイッチェ・ルフト・チャーター会社の事務所に顔を出すのは五時半過ぎでも早いくらいだ。余裕の時間をこの空港施設の掌握のために活用しようと考えた彼は、車を駐車場に残すと乗降客で混雑しているターミナルビルの中へ人の群に混って入っていった。
国内線待合室に来たとき、初めて立ち入った西側の空港とはいえ、なんとはなしに異様な雰囲気が人びとの上を被っているように感じた。数人ずつが一団になり、真剣に話し込んでいる人びとの顔に笑いがなかった。戦争勃発の情報が流れたのか、と一瞬反射的に考えた彼は聞き耳を立てた。やがて、人びとが心配げに話し込んでいるのは目的地に着いてからの足の便だ、ということが判り、自分自身が神経過敏になり過ぎていると、秘かに笑いながら「国際線到着ホール」と標示されている一階下に降りていった。
階段を降り切り、ホールに足を踏み入れた途端、一隅に人だかりができているのが眼に入った。割り込んで後方から背伸びをするようにして中を覗くと、人びとが熱心に観ているのは理髪店の中にあるテレビの画面だった。
今まさに四機の黒いヘリが周囲の建物から激しく銃撃される中を空に舞い上がろうとしているところだった。うまく上昇し、たちまち空の彼方に機影が消えたところで画面が変り、男の顔が大写しになった。劇映画の一場面だと思っていると、男は緊張気味に早口で喋りはじめた。
「……再三お報らせしておりますが、事件後すでに一時間余を経過した今なお、バーダー・マインホフ・グループおよびドイツ赤軍に属する過激派犯罪者八名を、ヘリコプターを用いてシュツッツガルトのシュタムハイム連邦刑務所を襲った|挙句《あげく》奪還拉致し去った犯人らの行方は杳として知られておりません。
警備当局に刻々寄せられております国民からの通報、つまり、低空で飛び去ってゆく黒塗りのヘリコプターを目撃したという報告の数はすでに千数百件にも昇っており、しかも目撃地点はわが国全土に平均して分布しているという有様であります。
今回の事件に関連しまして、すでに繰り返しお伝えしているとおり、本日午後四時四十五分、連邦政府は『テロリズム防止法』の発動を決定いたしました。同法はご承知のとおり、一九七七年九月に発生したシュライヤー氏誘拐事件の際に、当局が執り得た措置に対する反省を踏まえて、翌年二月十六日に連邦議会において珍しくも全政党一致で成立させたもので、今回の発動は立法後初のものであります。
この発動と同時に、連邦ならびに各州の警備当局は、道路封鎖、検問、ならびに一般市民に対する随時の身分証明書提示要求権の行使を含む、あらゆる捜査検索活動を開始しております。
伝えられるところによりますと、このため早くも、都市部においては通常でも渋滞の激しい幹線道路がまずほとんど麻痺状態に陥りはじめたため、不要不急の車両は続々と自宅や事業所の車庫へと引き返しつつある模様であります。
関係当局では、公共交通機関の正常運行はなんとか確保したい、と言明しておりますが、バス、電車の乗客に対しても厳重な身元検査が実施されておりますので、この結果、運行の混乱は避けられない見通しであります。したがいまして、皆さまは真にやむを得ない場合以外、外出は当分見合わせるのが賢明かと思われます……」
これで、国内線で出発しようとしている乗客が目的地に着いてからの交通機関のことを心配している理由が判った。同時に、自分はあくまでも強運だな、と彼は思った。二十分ばかり前に「テロリズム防止法」というのが発動された、とテレビがいっていた。もし、空港に着くのが十分も遅れていたら、どこかできっと検問に引っかかっていたに違いない。この国の成人は、国民証というものを通常携帯していると、昨日、マッシェンに行く車の中でリンデンベルクが話していたが、ヒルシュマイア自身はこの国の運転免許証すら持っていない。身に着けているのは「経済記者・ヨアヒム・マイア」という「ミュンヘナー・アーベント新聞社」発行ということになっているプラスチックカードだけだ。それに、あの無線機だ。助手席の床にあるあの無線機には地下組織交信用のクリスタルがセットされたままになっている。疑われて身体検査をされれば懐から書記長の親書が出てきてしまうところだった。そうなれば万事窮すだ。
捕えられればボンでの使命も、マッシェンでのそれも不可能になったばかりか、親書の文面からワルシャワ条約軍進攻が事前に洩れてしまうところだった。
自身の強運に満足しているうちに、ケルン空港からボンの首相官邸までの交通手段に考えが及んだとき、突然彼は少しばかり気の焦りを感じだした。そこで五時半になるのを待たずに直ちにターミナルビルを出て、チャーター会社に足を向けた。
小型機格納庫の一般道路側の外壁にいくつかある出入口の扉の上に、それぞれ白塗りの板が打ち付けてあった。その中から「ドイッチェ・ルフト・チャーター」の文字を探し当てて扉を押し開けた。扉の中は、いきなり板囲いの小さな事務所だった。壁ぎわの長椅子に二人の男が並んで坐り、熱心にテレビの画面を見詰めていた。緑色のカバロールを着込んでいるのは整備員で、袖に三本の銀線が縫いつけられている紺色の上着を着ているのが、どうやらこの会社のパイロットらしかった。
彼が身分を名乗る前に、その男が長椅子のはじに身をずらせて席を作り、彼に坐れと手招きしながら待っていたようにいった。
「ミュンヘナー・アーベントのマイアさんだな。えらいことになっちゃって、我われの商売も上がったりだ。今夜でなければ用が足りないんだったら返金しますよ」
「金を返すって? どうして?」
「飛べないんだ。あんた、新聞記者なのに知らなかったのか? 不定期便フライトは全面禁止になったんだ。例のテロ防止法が出されてからね」
彼は愕然とした。
「なんだって! 飛べないんだって? ボンの首相官邸で今夜八時半に始まる記者会見に、私はどうしても出なければならないんだ!」
「だめだな。あんたも困るだろうが、こっちも商売が上がったりで困っているんだ。しかも、この騒ぎじゃ、少なくとも今夜中は解除の見込みはないな。なにしろあの有様だからな」
テレビの画面には、アーチ型の凱旋門が建っているどこかの街で目抜き通りの交通を遮断し、戦闘服姿の多数の警官が、じゅず繋ぎの乗用車から運転者を車外に出し、トランクまで開けさせて検べている光景が映っていた。
「あれはミュンヘンのルードヴィッヒ通りらしいな。この様子だと官邸での記者会見も多分中止になっているんじゃないか?」
パイロットが同情感を籠めた声で慰めた。
テレビの画面は変って、往復六車線のアウトバーンを空から映し出した。検問が行なわれているらしく、進入ランプ附近にはかなりの車の列ができているが、アウトバーンそのものは走る車の姿が少なく、まるで飛行場の滑走路のようだった。
「車では間に合わないのかな?」
「いま何時だ? 五時半か。難しいな。ボンまでは約五百キロメートルあるからな。それに、あの検問を通り抜けるのに何時間もかかりそうだ。そう。鉄道だと六時間はかかるしな」
彼は、今まで続いていた強運が最後の土壇場になって足元から崩れ去ったのを感じた。
それまで気の毒そうな眼付きで黙って話を聞いていたカバロールの男が、ゆっくりと長椅子から立ち上がり、机上の本立から分厚い航空便案内を抜き取りながら呟いた。
「まだ定期便があるかも知れないな」
男が油の浸み込んだ指で繰ってゆく頁を、彼も覗き込んだ。一条の光明が射しはじめたのを感じた。
「あるある。一便あるな。ルフトハンザの八六四便だ。ここを十九時二十五分に発って二十時二十分ケルン着だ。しかし、これじゃ二十時三十分に始まるという記者会見には間に合わないな。ケルンからボンまで少なくとも三十分はかかるからな」
「記者会見が終るまでに行ければなんとかなるさ」
と藁にも縋る気持で答え、二十二時頃ケルンを立ってハンブルクに戻る便があるかどうかを調べたが、無かった。
彼は迷った。ボンに行けば、マッシェンの使命が果せなくなる。しかし、ボンにおける使命は彼以外に達成できる者はいない。彼は決断し、男に礼をいってからターミナルに戻り、八六四便の切符を買おうとしたが断わられた。空席待ちの旅客が十名もいる、というのだ。射しはじめた光明はまたもや暗雲に遮られた。それでも、搭乗間際に空席が出ないとも限りませんが、という航空会社の係員の言葉に一縷の望みを托して待つことにした。それ以外の道は残されていないのだ。だが、それから一時間近く過ぎた頃、待合室の中に突然抗議を籠めた吐息のような嘆声が波紋のように広がった。見ると、発着時刻告示板に今まで出ていた八六四便の出発時刻「一九・二五」という数字が消えて、「未定」の文字が現われているではないか。
言外に欠航になる可能性が強いことを臭わせながら係員がする説明によると、八六四便に就航すべき航空機は、まだこの空港の手前のシュツッツガルトを、乗客の所持品検査に手間取っているため出発していないと、そして、現時点での見通しでは定刻より少なくとも一時間半は遅れることになるだろう、ということだった。
この瞬間に彼の頭上で微かに瞬いていた光明が完全に消えた。午後九時に、書記長の親書を首相シュミットに手渡すことは、これで確実に不可能になった。
上気してくる自分を押さえ、冷静に次善の策を考えるため、彼は人いきれのするターミナルビルから外気の中へ逃れ、駐車場に向った。車に辿り着き、運転席に坐り腕を組み、前方の一点を見詰め続けていた彼は、やがて独り頷くと、物入れから取りだした地図を広げて丹念に眺めはじめた。十数分もそうしていた後地図を折り畳んで脇に置きエンジンを掛けた。駐車場から公道に出ると、道路封鎖や検問が行なわれている可能性が強い幹線道路を避け、注意深く住宅地の間の小路を縫って市の中心区の方角へ向けて走っていった。
駐車場の出口で料金を払っているとき、白い翼と胴体に黒い方射十字のマークをつけた政府専用の双発ジェット機が立て続けに二機頭上を|過《よぎ》って滑走路に向って降りていったが、彼は気づかなかった。
シュタムハイム連邦刑務所がヘリコプターを用いた一派に襲撃され、収監中の過激派囚人八名が脱獄した事件は、国外においても反体制グループによる未曾有の組織的挑戦として大々的に報道された。連邦政府は事件発生から正確に三十分後に、テロリズム防止法に基く取締りの実施を発動した。実は、その頃から連邦国境警備隊所属のヘリや連絡機そして政府専用機が、騒然となっている国土の上を当然の如くに数多く飛び交いはじめた。駐車場を出ようとしているヒルシュマイア中尉の頭上を過って着陸したのはそのうちの二機だった。しかし、それより前にも何機かのヘリと小型機がいずこからともなく飛来してハンブルク空港の片隅に着陸し、それから降り立った搭乗者は待機していた公用ナンバーの乗用車に乗り移ると、たちまちいずこかへ走り去っていったのだ。
[#改ページ]
総領事館の自室の中を歩き廻りながらレスは、七年半の任期の間にいつとはなしに溜ってしまった書類の仕分けをしていた。抽出しや書類棚から持ち出してきて積み上げた机上一杯の紙の山を「要保存」「廃棄」「焼却」の三通りに区分けした段ボール箱に次つぎと投げ込んでいた。「要保存」や「焼却」はほんの僅かで、ほとんどが、その都度廃棄しておくべきはずのものだった。結果から見ると、この書類の山と同様に彼自身も、この七年半に何ひとつ実効のある仕事をしてこなかったような気分になってきた。
「任期の長さ必ずしも尊からず、か」
と、独り言を呟いたとき、建物の裏手の方で警備犬のトロルが二声ほど吠えたような気がした。吠え声はそれきり止んだので気にも留めないでいると、机上の電話が書類の山の下で鳴りはじめた。紙を掻き分けて受話器を取り上げ急いで当てた耳に、警備員シュルツの泣きそうな声が飛び込んできた。
「ああ、ウィリスさん。ここでいま、若い男が私にピストルを突きつけて、責任者に会わせろ、と要求しているんです。総領事閣下は帰られたし、だれもいない、といってやったんですが……。この男はシュタムハイム刑務所を襲った犯人の一人かも……」
そのとき、受話器が奪い取られたらしく、シュルツの声が跡絶え、物が擦れ合う音に続いて若い男の声が呼びかけてきた。
「私は、あの事件とまったく関係がない。極めて重要な用件でアメリカ合衆国総領事館の最高責任者と話したいだけだ」
低音でR音がやや強い感じの明瞭で落ち着いている声は、米国へ亡命したいと、ときたま押しかけてくる酔払いや精神病質の人間の喋り方とは違っていた。
「館長はいまここにいない。その場合は私が最高責任者だ。どんな用件だ?」
「階級役職は?」
男がこう追い被せるように尋ねてきたとき、男の喋り方にレスは奇妙な親しみを感じた。恐らく男は、「副館長」、「書記官」あるいは「領事」などという役職を期待しているのだろうが、用語がなんとなく軍人臭かった。それに、この声はどこかで聞いた覚えがある。しかも最近に、だ。
「合衆国海兵隊中佐だ。次席というところかな。それより、用件はなんだ?」
「海兵隊中佐がこの総領事館に勤務しているのか?」
意外感が籠った男の声が返ってきた。
「そうだ。用件は?」
「電話で話せる内容ではない」
「君の氏名、職業は?」
「責任者に会ったときに話す」
「警備員の老人は無事か?」
「もちろん無事だ。ただし、ひどく怯えている」
「犬は? 傷つけてはいないな?」
「足元で尾を振っている」
こういったあと、男は微かに「ふふっ」と笑った。その途端、彼は、この声をどこかで最近聞いた、という絶対の確信を持った。と同時に、その記憶を呼び覚す索引が見つからないことからくる焦燥感が強く湧き上がってきた。
「よし、会おう。警備員と替ってくれ」
一呼吸おいて、シュルツの幾らか落ち着いた声が聞こえてきた。
「はい。ウィリスさん」
「怪我はないか?」
「はい。ウィリスさん」
「その男を裏口から玄関ホールに案内してきてくれ」
「大丈夫ですか?」
「心配ない」
電話を切り、机の二番目の抽出しの鍵を外して、拳銃を取り出そうとしたが、考え直してまた鍵を掛けた。玄関ホールに降りる階段の上まで行ったとき、拳銃を手にしている二十三、四歳の男がシュルツを一足前に歩かせて、査証待合室の方からホールに入ってくるところだった。男はレスの姿を階段の上に発見するや、素早い動作で後から羽交い締めにしたシュルツを楯にして、右手に握っている拳銃をレスの方に指し向けた。レスは階下に向けて近年自分でも忘れていたような大声を投げつけた。
「その老人を離したまえ! 拳銃は壁際のテーブルの上に置くんだ! ここは合衆国の領域と同じなんだ。私の指示に従いたまえ!」
その後やや静かに、
「このとおり私も武器を持っていない」
と両手を広げて見せた。男の眼が微かに笑ったように遠目に見えた。そしてレスが期待したよりずっと素直に、また即座に男は彼の指示どおりに行動した。羽交い締めにしていたシュルツの体を自由にすると拳銃を横の大理石のテーブルの上に置き、彼を見上げて呼びかけてきた。
「これでいいか?」
その時レスは奇妙な気持に|囚《とら》われた。あと一押しで、この男の声をどこで聞いたのか思い出せそうな気がしていたのが、今の|生《なま》の声を耳にした途端、かえって混迷に陥ってしまったのだ。この声にはまったく聞き覚えがない……。が、一瞬の後に、判った! そしてレスは、そうだ! と指を鳴らした。乾燥したその音はホールのドーム天井に快く反響した。数分前に電話線を通して聞いたこの男の声と、一昨日、併せれば二時間ほどもテープレコーダーを廻して聴いた、ハンブルク大学の学生の声とそっくりだったのだ。リヒャルト・ヒルシュマイア教授の息子ハンス・ヨアヒムの声と。
レスは学生のハンスに会ったことはない。だがクルトの話だと今なおハンスはどこかの病院のベッドの上にいるはずだ。仮に今日退院したのだとしても、まだこの男のように敏捷に行動することはできないだろう。したがってハンスでないのは確かだといえるが、たった今ヒルシュマイアの名を考えたとき脳裡に浮んだ教授の容貌と、この男の顔付きの雰囲気がどことなく似ているような気がしはじめ、彼の思考はますます混乱してきた。レスは妄想を払い捨て、ゆっくりと階段を降りながら下にいる男をさらに詳密に観察した。二十三、四歳と思われるこの男の風貌姿勢挙措動作、そして言葉つき、そのどれを取っても軍人のものだ。同業のレスにはそれがよく判った。壁際のテーブルの上で黒く光っている拳銃にも眼を走らせた。年式までは判らないがソ連製のトカレフ自動式らしい。東独人民軍将校の標準軍装品と同じではないのか。とするとドイツ語を喋り、かつ軍人らしいこの男は東独軍の士官なのか。
階段の下に降り立ったレスは数メートルの距離を置いて佇立している男と向い合った。その時また、払い捨てたはずの妄想がレスの脳裡に浮上した。髪と眼の色、特に前額部から鼻梁への線が教授のそれとよく似ている。東独軍の士官とヒルシュマイア教授、まったく無関係なこの二つから想起されるのは、あの爆発事故の直後、東側が捜索していたという人民軍技術中尉だ。よもやこの男が例のハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア中尉ではなかろうが。あの時、現場にいて負傷したというハンブルク大学の学生と同姓同名の技術中尉を東側も同じ現場で探しているとの情報が流れた。レスの常識はそんな偶然を頭から否定して、リーク汚染チェックをして情報系路の癒着を検査すべきだ、と笑い飛ばした。だが、思い返してみるとケイリーやクルトは、その時レスのようにそういった可能性を完全に否定し去りはしなかった。現在のレスが彼ら二人に一歩譲り、あの爆発現場の両側に同姓同名の青年が同時刻に一人ずついたのだとして、その上さらにもう一度、クルトとケイリー、そして彼自身の常識にも百歩譲り、現に今、自分の目の前に立っているこの男が、あの時のハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア東独人民軍技術中尉ではないのか、という思いに取り憑かれたのは、電話とテープレコーダーという電子機械を通して聞いたこれら二人の青年の声が余りにも似通っていたことと、男とヒルシュマイア教授との風貌や雰囲気に、多くの共通するものがあるという現実の両方をどうしても否定できないからだ。
自分が培ってきた自身の常識というものを常に大事にする習性を持つレスとしては、この現実を前にして自己の判断が犯した倒錯と飛躍にひどい戸惑いを覚え、ともすると混乱に陥ろうとする思考をやっと押さえていた。
「シュルツじいさん。もう行っていいよ」
二メートルばかり離れて男の横に立っていた老人は、縄を解き放たれた小犬さながらに、飛ぶようにして裏口の方へ消えた。レスは無言で手を振って男を促し、ホールからもっとも近いところにある査証課長室に附属する応接室に赴き、向い合ってソファに腰を下ろした。部屋の隅々に置かれている調度品にまで男は眼を配っていたが、意に添わぬ物は発見しなかったらしく、腰を落ち着けてレスと対峙した。レスは意を決して実験を試みた。
「さ、用件を聞こうか? 中尉」
この呼び掛けを、男は一瞬極めて自然に受け容れたかに見えた。だが次の一瞬、瞳に生まれた驚きの色が見る間に顔中に拡がった。この様子を見た途端、レスはこの男が東独軍技術中尉ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアだということに完全な確信を持たざるを得なくなった。
「私はレスター・ウィリス。先刻いったようにアメリカ合衆国海兵隊中佐だ。君はドイツ民主共和国人民軍技術中尉?」
唇を半ば開いた男の顔は文字どおりの驚愕を表わしていた。対話は完全にレスのぺースになった。
「君はハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア。電子工学の専門家だ。一昨夜あの境界線附近で何をしていたんだね?」
男は突然床を蹴って身を浮し棒立ちになった。驚きは頂点に達していた。
「さあ坐りたまえ。ヒルシュマイア中尉。こっちの質問は後にして、まず君が先刻いっていた『極めて重要な用件』というのを聞こうではないか。さ、中尉、坐りたまえ」
男は再び腰を下ろし、床の一点を見詰めて心中を整理しているようだったが、ややあって口を開いた。
「ウィリス中佐。私は自分の身分を貴官に納得させるのが難題の一つだと考えておりましたが、お蔭で手が省けました。まず一番目に、私は自分の身柄を貴国の庇護下に預けたいのです」
「わが国に亡命したい、という意味か?」
「とんでもありません。わが国とこの国との間の或る外交的使命を私が達成するまで、恐らく数時間の間です」
「君がいう外交的使命とかの内容次第だな。わが国の利益に反しないと判るまでは引き受けられない。どんな風な話だ?」
「例の刑務所襲撃事件のあと発動されたテロリズム防止法とかいうものの取締り検問のために私は動きが取れなくなった……」
男は泥水で汚れたような紙包みを懐中から取り出した。
「……これを私に代り、貴国から現在ボンにいるこの国の首相ヘルムート・シュミット閣下に届けていただきたい。その時刻はちょうど今夜の九時でなければならない。これが第二番目の要請です。手段は貴官にお任せします。そして無事に届けられたと確認されるまで、私を貴国の庇護下に置いていただきたい」
「二、三質問があるが、まずその紙包みはなんだね?」
「わが国の元首ホーネッカー書記長閣下からシュミット首相閣下への親書が入っております」
「で、なぜそれを届けるのがちょうど九時でなけれはいけないのかね?」
男はレスの瞳を見詰めるだけで返事を渋っていた。レスは、その時刻がワルシャワ条約軍侵攻開始の時かも知れない、と考えた。
「絶対に九時でなければいかんのかね? もう八時に近いが……」
「多少遅れたところで致命的なことではありません。ただ私はそのようにわが国の元首と約束をしたのです」
とすると、侵攻開始時刻でもなさそうだ。
「この時刻ではすでに物理的にボンに届けるのは困難だ。親書であることを我われが確認し、当館の総領事自身の口からその内容を電話によってボンに伝えてもらう、この方法しかなさそうだな。包みを開けていいかな」
男は素早く腕を伸ばしテーブルの上の紙包みを押さえた。
「私もその方法しかないと考え、当館にやってきたのです。しかし包みを開けるのは九時直前にしていただきたい」
「そうか。とにかく総領事にこのことを報告する。ここにいてくれ。すぐに戻る」
レスは盗聴を惧れ、二階の自室に行き隠し電話で総領事と話した。ヒルシュマイア中尉出現の情況を掻い摘んで伝えると、総領事は電話口でまたもや面白そうに屈託のない声で笑っていた。その後直ちにクルトのダイアルを廻した。この時刻でも自分と同じく、彼も今夜は自室で書類整理でもしているに違いないという確信があったからだ。果してベルが二つ鳴っただけでクルトが出た。レスは、ヒルシュマイア中尉の出現と、中尉がホーネッカー親書なるものを携帯しており、それを今夜の九時にシュミット首相に渡したいといっている、と話した。
「レス。その男の持っているのがホーネッカーの親書だというのは確かか?」
「中身を見ていないのでなんともいえない。だが、男の様子は嘘や芝居ではなさそうだ。なんとなく彼の態度に信頼感が持てるんだ」
「今、私の所は、或る重要警備を突然要請されたために、総出動の有様なんだ。今の話に関係があるので君に洩らすが、実は現在、首相私邸で極秘裡に緊急国防会議が行なわれているんだ。官、軍の重要人物多数が集まっている。ということは当然首相も私邸に帰ってきていることを意味する。だから、その親書なるものをあと一時間の後に首相のもとに届けるということは時間的には不可能ではないな。
よし。その話が本物だとすれば、だが、この際ホーネッカーの親書などというものが現われれば事態の判断推測の上で一つの重要な鍵になることは確かだ。その男をホーネッカーの正式の使者として受け容れることが可能かどうか、とにかくこっちのチャネルで当ってみる。その結果が判明するまで、君はその男を確保しておいてくれ」
階下に降りてゆく途中で、レスはホールの壁ぎわのテーブルの上に載っていたはずの男の拳銃が消えているのに気づいた。男は立ち去ってしまったのではないか、という疑念が湧くのを押さえて足早に応接室に戻った。男は先刻の位置に先刻の姿勢で坐っていた。
「総領事閣下は間もなく登館される。それはさて置き、これは君にとって幸運なニュースだと思うが、シュミット首相は今このハンブルクにおられる。場合によると、君自身の手でその親書を首相に提出できるかも知れない」
突如、男の眼は生き生きと輝きだした。
「ボンの官邸ではなかったのですか?」
「違う。この街の北部のキヴィツモーアという所に私邸があるんだ。ところで、そこに行くことになった時に懐に武器を隠しておられては困るな」
レスが掌を差し伸べると、男は眼と口元で微笑し、シャツの裾をはだけて拳銃を取り出し素直に渡して寄越した。
「やはりトカレフ・アウトマティッシュか。見かけより軽量なんだな」
といいつつレスが弾丸ケースを抜き取っているとき、ドアを開けておいた二階の自室から電話のベルが聞こえてきた。
「いいか、中尉。今度こそここを離れるんじゃないぞ」
男に一言いい残して二階に駆け上がり、受話器を取った。
「レス。色いろな意見があったらしいが、首相がとにかく会ってみたいといわれたとかで、官房側はその男を私邸に連れてゆくことをオーケイした。余計なことが部外に洩れると厄介なことになるので、私自身が公用車で連れてゆくことになった」
「クルト。それは駄目だ。断わる。現在彼はわが合衆国の庇護下にあるんだ。君の側からすれば、不法入国とか破壊活動とか幾つでも容疑を被せることができる立場に置かれている男を、君の手に委ねるわけにはゆかない。明らかに当人の不利になると判っていることに当館としては同意できないな。したがって私邸に連れてゆくとすれば、私の運転で私の車でだ」
「しかしレス。その男の話が本物かどうかも未確認なんだ。本物ならなおさら聞いてみたいことが山ほどあるし。できれば東側の動きについても聴き出してみたいし……」
「悪いがクルト、同意するわけにはゆかない。軍人である彼が民間人を装い、君の国に潜入してきてはいるが、これを以て協定違反の軍事スパイ扱いにすることはできない。未だ東側と戦争状態に入っているわけではないからだ。したがってまた、戦時捕虜として扱うわけにもゆかない。というわけで、無理やり彼から情報を聴取する行為を行なう権利を我われは現在持ってはいないんだ。今のところ当館内に留まっている限り、わが国への予備的亡命希望者としての取扱いを請求する権利が彼にはあるんだ。彼のこういった立場が君の側から承認されなければ、私は彼を一歩たりとも館外には出さない」
「判ったよレス。判った。では君も同道してくれ。彼の権益保護者としてね。今の条件は官房側にも伝えておくよ。
ところで、テロ防止法に基く取締りが開始されて以来、街中検問所だらけなんだ。だから車は私の公用車を使おう。そうしないと、我われは九時はおろか真夜中になっても首相私邸に行き着けないかも知れない」
「オーケイ。クルト。その点は了解した。君がここに来ることを警備員に伝えておく。いつものように裏口から入ってくれ」
その場で警備室にいるシュルツに電話して、クリスチァンゼン氏が来たら中に入れるようにといい、レスは応接室に戻った。男は背筋を伸ばし身じろぎもせずに坐っていた。最前はテーブルの上にあった親書の包みが彼の右手に握られている点だけが先刻と違っていた。
「首相私邸に君を連れてゆく車が来る。私も同行して君の身柄をわが国の庇護下にあることを、この国の関係者に告知する」
男は頷いただけだった。何かに対し一心に念じているように見えた。彼が本物のヒルシュマイア中尉だとして、あれもこれも尋ねてみたいという衝動にレスは駆られていた。だが、男の沈黙には侵し難い威厳が備わっていた。擦り切れかかったジーンズをはき、薄汚れた灰色のスポーツシャツをまとっているこの若い男の、使命達成の一事にのみ沈潜しているらしい横顔は美しくさえあった。
裏口の扉が開閉する音が聞こえた。やがてホールに現われたのは総領事ではなくクルトだった。
「彼はドイツ連邦共和国基本法擁護庁北部方面局長のクリスチァンゼン氏だ。この青年がドイツ民主共和国人民軍のヒルシュマイア中尉……」
レスが二人を紹介し終らないうちに男は椅子から立ち上がり上体十五度前傾の敬礼をした。男を見るなりクルトは叫んだ。
「これはこれは! この青年は本物だ! かのハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア中尉はやっぱり実在したんだな。レス、君は教授の息子のハンスに会ったことはなかったな。この青年とハンスとはまったくよく似ているよ。髪の色といい目の色といい、それから背恰好もね。何といえばいいのかな、全体的に二人に共通している何かがある。驚いたね!」
クルトは男の眼を覗き込むようにして尋ねた。
「中尉。君の父上の名はハインリッヒではなかったか?」
男は用心深さを残しながらも微かに領いた。
「我われ二人は君の伯父上に当るリヒャルト・ヒルシュマイア教授の知人なんだ。昨夜も一緒に食事をした。教授が君の存在を知ったら飛び上がって驚くな」
これほどはしゃぐクルトをレスは見たことがなかった。まるで遠い血縁にでも巡り遇ったような風情だった。男はしかし、クルトの浮れた有様にわざと背を向けるかのように、感情を殺した瞳で自分の腕時計とレスの顔をちらっと見た。午後九時が刻々と迫っているのを気にしているのだ。だが未だ総領事が現われる気配はなかった。レスの心裡に気づいたクルトが断定的にいった。
「ブランケネーゼからここまでだと今夜は間違いなく一時間半はかかる。検問所が十カ所は造られているはずだからだ。九時までに向うに着くためにはそろそろ出掛ける方がいいな。あと三十五分しかない」
キヴィツモーアの首相私邸までは、ここからだと少なくとも二十分はかかる。が、レスは総領事の到着を待ち許可を得てから出掛けたかった。彼は迷った。レスの気持をさらに察したクルトは彼の袖を引き、耳元で英語で囁いた。
「レス。今、一分一秒が我われにとって貴重なんだ。それに、身元の確認が取れていないこの男を首相の所に連れてゆくのは、或る意味では大きな冒険だろう。総領事が正式に関与していない方がむしろ無難なんじゃないのか?」
横を見たレスの眼に懇願しているような男の瞳がぶつかった。
「よし。出掛けよう。中尉、親書は持ったな」
決心したレスは先頭に立ち裏口に向った。
男とレスは黒い公用車の後席に乗り込んだ。走り出すやいなやクルトは緊急吹鳴器のスウィッチを入れた。馬鹿でかく甲高い音色が建物の間に反響した。すでに午後八時半だというのに六月の太陽はまだ西の空に残っていて、雨上がりの街の上を飛ぶように流れてゆく雲の間から時どき金色の光の束を射かけてきた。
ヒルシュマイア中尉は後席の右側に体を沈め、車窓を過ぎる風景と運転席の操作とを半々に眼に収めていた。
緊急吹鳴器を鳴らしている公用車の威力はさすがだった。国道433号を北上してキヴィツモーア町に行く間に検問が五カ所で実施されていたが、一線に並んで順番を待っている車の列の横を擦り抜けて先頭に出ると、警官がたちどころにバリケードをずらして通路を作った。
首相私邸の門前には八時四十五分に到着した。門の内側に、銃身の短い自動小銃を小脇に抱えた二人の国境警備隊員が立哨していた。事前に連絡を受けていたらしく、車両登録番号に眼を走らせると、無言で鉄柵を開けた。隊員の一人は携帯無線機に口を当てて、三人の男の到着を内部に報告しているようだった。門と玄関の中間に、さらに二名の国境警備隊員がおり、手を挙げて車を停め、両側からドアの把手に手を掛けていった。
「ここでお降りください。決りなんです。車は我われが向うに駐めておきますから」
庭の奥に二十台近い車がすでにあった。軍の車両らしい色彩のも混っていた。車を降りて歩く三人が玄関に達するのとほとんど同時に、中から二名の私服の男が現われて、
「クリスチァンゼン支局長、ようこそ。申しわけありませんが、規則でして……」
と、彼らは一人一人を直立させ両手を高く挙げさせて、入念に服装の中の携帯品を検査した。それが終ると丁重に詫び言をいいつつ先に立って建物の内部に案内していった。玄関に近い右手の部屋の中にはかなりの数の人の気配があった。それらの部屋の前を通り過ぎ、招じ入れられたのは、建物のほとんど一番奥だと思われる一室だった。入口近くの右手に濃茶の革張りの応接セット一式があった。真中のコーヒーテーブルの上には米国大統領府の紋章が刻まれている銀製の煙草入れが載っていた。正面には白いレースのカーテンが下がっている腰高窓が二つあり、その手前に木製のがっしりした書斎机が置かれていた。左手の壁ぎわには、まず飾り棚があり、その上方の壁面にはシュミット家の家族のものらしい小型の写真が楕円形や長方形の木製の額に入れられて掛かっていた。それに続く壁ぎわには、机を見下ろすようにして大型の書架が立っていた。何十年も帆船のキャビンで実際に使われてきたと思われる、磨き込まれた真鍮の胴枠に瀬戸引きの白い文字盤が嵌め込まれている船舶時計が、書架の中ほどの棚で時を刻んでいた。針は八時五十五分を示していた。
彼らがソファに腰を下ろして待つ間もなく、ノックの音と同時にドアが開き、戸口に立った黒い背広の男が鋭い眼で素早く室内の動静を点検した。ややあって、さらにもう一人の若い男が室内に入ってきたのに続いて、満面に笑みを湛えたシュミットの姿が戸口に現われた。
反射的に立ち上がったヒルシュマイアの動作に釣り込まれたように他の二人もソファから立ち上がり、首相を迎えた。
「やあ、みなさん。長くお待たせしたのかな。クリスチァンゼン君、こちらが、米国総領事館のウィリス中佐ですな? 中佐。総領事閣下とはしばらくお目にかかっておらぬが、いかがお過しですかな? そして、こちらが、ホーネッカー書記長閣下からの使者という……」
「ドイツ民主共和国人民軍技術中尉ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアであります」
シュミットは、ヒルシュマイアの顔を、一瞬のことだったが眼を見開いて正面から見詰めた。そのあと、真先に中尉に対して握手のために手を差し伸べた。ひと通り握手がすむと、自らもアームチェアに腰を下ろしながら、三人にも坐れと手振りで勧めた。二人の若い男はシュミットの椅子の背後に立っていた。
「今日はどういうわけか来客が重なってしまって。このような部屋でみなさんとはお目にかからざるを得ない。お許しください。
さて、そんなわけで客人を待たせてあるので早速だが、ヒルシュマイア中尉とやら、貴国の書記長閣下からの用向きとは?」
ヒルシュマイアはシャツのボタンを二つ三つ外し、懐中から紙包みを取り出した。包み紙を膝の上で丁寧に押し広げると防水封筒が現われた。さらにその防水封筒の糊付けの封を開き、中から親書が入っている封筒を引き出した。犬の鋭い歯は中の封筒をまで噛み破っており、そこから浸み込んだ雨水が親書も汚しているようだった。彼はそこで、書架の船舶時計と自分の腕時計とに目を走らせて、両方がほとんど同じなのを確かめると、顔を上げてシュミットに正対していった。
「九時になるまでお待ちください。そのようにいいつかってまいりました」
あと二分足らずだった。部屋の中に沈黙と期待感と、それから生まれる緊張感とが広がった。シュミットが沈黙のしじまを活用するように、なにげなげな言葉を中尉に投げかけた。
「書記長閣下は、あい変らず元気にしておられますか?」
その口調の中に、昨夜、東ベルリン郊外で銃撃戦が行なわれた、という情報をシュミットがすでに耳にしているらしいのを感じ取り、
「はい」
と中尉は短く答えつつ、できることなら書記長に関する話題には深入りしたくない、と念じた。
その彼を救うように書架に乗っている船舶時計がジーッという微かな音に続けてチーンチーンと九点鐘を打ちはじめた。その途端、彼は立ち上がると踵を鳴らして直立し、アームチェアに坐ったままのシュミットに対して、胸を反らし上体前傾の敬礼を行ない、
「ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・シュミット閣下に対し、わがドイツ民主共和国元首国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーが自らの意志を記した書翰を、謹んでここに奉呈いたします」
と、低音だが歯切れがいい明瞭な声で述べ、親書が入っている封筒をシュミットの目の前のテーブルの上に置いた。
「現在の特殊な状況からして、ここで直ちに拝読しても礼を失することにはなりますまいな。さ、どうぞ中尉。腰を下ろしてください」
シュミットはそういい、四隅が擦り切れ泥水でところどころ黄色に変色している封筒を手に取った。封蝋を剥がすと難なく封筒の口が開いた。中には、麦の穂とハンマーとコンパスをあしらったドイツ民主共和国の紋章が中央上部に金色に浮き上がっている二枚の書翰箋が三つ折りになって入っていた。シュミットはそれを広げ、眼鏡の位置を鼻梁の上で調節し、読みはじめた。外側になって折り畳まれていた二枚目の方が、犬の歯型も汚水の染みもひどかった。とりわけ後段の箇条書きの辺りが読みにくいらしく、シュミットの視線は停滞し、同じ部分を行き帰りして読み進む速度が著しく落ちた。
「首相閣下。用箋がひどく傷んでしまっており申しわけありません。箇条書きのところを私の記憶に従い、口頭で申しあげたいと思います。よろしいでしょうか?」
文面に視線を落していたシュミットは、眼鏡の縁越しに上目遣いにちらっと彼の顔を見て無言で頷いた。
再び彼は自席から立ち上がり、全神経を記憶能力に集中しようとするかのように瞑目した。シュミットの席の後に立っている男の一人は懐から手帖を出し、鉛筆を握って待ち構えた。
「……ひとつ。貴国側が先行してそれを使用しない限り、わが国はいかなる核兵器をも使用しない……」
「そのとおりだ。一言一句さえ違っていない。それから?」
「……ふたつ。貴国側の武力行使がそこに拠らない限り、わが国は軍事施設以外には直接攻撃を加えない……。
……みっつ。開戦の後、十二時間を経過したとき、私は、ドイツ民主共和国のすべての国軍に対し、全戦線に亙って一切の軍事行動を三十分の間中断せしめる。閣下は、これを以て、わが国政府の貴国に対する停戦提案なり、とご解釈願いたい……」
「『十二時間を経過したとき……』だな。ちょうどその数字の一桁の部分が汚れているのではっきり読めなかった」
「はい。『開戦後十二時間経ったとき』であります。ついでに申しあげますと、軍事行動中断の時間は『三十分間』であります。よろしいですか。
では最後の章を申しあげます。
……よっつ。畏敬するシュミット首相閣下。閣下がこの停戦提案を受諾せられる場合は、貴国軍隊のすべての軍事行動を、わが国軍の軍事行動中断時間中に、同じく停止せしめられんことを。かくして、われらが父祖の地から、永遠に干戈の音が絶えんことを……。
以上であります」
中尉は腰を下ろした。シュミットは改めて初めから全文を読み直していた。やがて視線を上げると、
「ヒルシュマイア中尉。ここにある署名がドイツ民主共和国のホーネッカー書記長閣下の真筆であるか否かは容易に確かめ得ます。正に真筆であると判明したら、これはまったく一大事です。この文章は、ワルシャワ条約軍のわが方に対する攻撃が近々行なわれることを前提にして書かれています。中尉。これは何かの悪戯か、それともやはり真実なのですか?」
中尉は言葉を発せずに、しばしシュミットの眼と対峙していたが、やがて一つ深く頷いた。
「それはいつの事なのです? 中尉」
中尉は即座に頸を横に振った。
「お答えいたしかねます」
「では、書記長閣下は私の返書を希望しておられますか?」
「いいえ。とりたてては」
「みなさん。これは重大事だ。私は独りになってこの書翰の意味するところを考えてみたい。ほかの者にも相談してみたい。その結果ヒルシュマイア君に質ねてみたいことが生まれるかも知れない。半時間ほどここでこのままお待ち願えるだろうか?」
クリスチァンゼンが三人を代表するように頷いた。シュミットは立ち上がり、部屋を出てゆきかけてから振り返り、突然思いついたように中尉に問い掛けた。
「今日は例の刑務所襲撃事件が起ったために日程がすっかり狂ってしまい、予定を変更してこっちに帰ってきたのだが、ヒルシュマイア君、そのためにこうして君に会えてよかった。しかし予定どおりに私がボンにいたとしたら、どんな風にして君は書記長閣下の親書を私に届けてきたのかね? 午後九時という時刻に大変気を遣っておられたようだったが」
「『全欧電圧統一会議の成果について』なる官邸での記者会見に、記者の一人として出席するはずでした。『ヨアヒム・マイア』という名前で」
二人の付き人のうち保安担当らしい方の男が懐中から大型の手帖を取り出し頁を繰っていたが、
「首相。たしかに出席者名簿の中にその氏名はありますな。ミュンヘナー・アーベントの記者となっています」
と告げた。シュミットは「ほほう!」といった声を出したが続けて悪戯っぽい口調で、
「ヒルシュマイア君。君は九時という時刻を大変気にかけ、書記長閣下は停戦の時刻を、開戦後十二時間の時点といっておられる。どうやら貴国は一日を八つに分けて考えておられるようですな。停戦の時が夜であってはお互いに具合がよくない。とすると、何時が開戦の時刻かおのずから判ってこようというものだ。そうではないですかな?」
と冗談めかして探りを入れた。中尉は答えずただ満面の微笑を投げ返した。扉口で振り返っているシュミットもつられてにっこりと笑った。が、部屋を背にして歩き出した途端、その横顔はたちまち元の厳しいそれに戻った。
部屋の中にヒルシュマイア、クリスチァンゼン、そしてウィリスが残り、互いに共通する話題の糸口を見つけられずにいるうちに、女性が飲物を運んできた。彼女が出てゆくのと入れ違いに、先刻の男の一人が現われて、尋ねたいことがあるから、とクリスチァンゼンを連れ去った。
ウィリスと二人だけになったヒルシュマイアは、席を立って窓辺に行き、窓外をレースのカーテンを透かして眺めた。雨はすっかり上がったものの、水中に漬けられてでもいたかのように水滴をしたたらせている庭内の樹々は、ほとんど地平に達しようとしている太陽の光を真横から浴びて、西側の半分ずつがガラス細工のように赤に黄に輝いていた。
しかし、彼が眼を配っていたのは実は、庭の風景ではなく、邸内の形状と国境警備隊員の配置状況だった。窓から見える範囲には、少なくとも立哨はいない。とすると建物の正面の方にだけいるのだろうか。あるいは時折庭の方へも動哨が巡回してくるのだろうか。次に、室内の有様が窓ガラスに反射して映るように視線の角度を調節し、その中に見えるウィリスの様子を観察した。ウィリスはじっと書斎机の方を見詰めていた。その視線を辿ると机上の電話機に行き当った。ダイアルがついていない黒い屋内電話機だ。彼は窓辺を離れ、ソファに戻るなり語りかけた。
「ウィリス中佐。貴官のご協力のお蔭で重大な任務を果すことができました。深く感謝いたします。ありがとうございました。肩の上の重い荷物が下りたような気持です」
「中尉。このあと君はどうするつもりなんだ?」
「中佐。ご心配なく。これ以上はご迷惑をかけずになんとか自分の力で切り抜けるつもりですから。
それより、中佐はどちらかに電話をお掛けになりたいのではありませんか。玄関ホールのコート掛けの脇にダイアルのついているのがありましたよ。間もなくNATO本部にも合衆国にも、親書の内容は伝達されると思いますが、今のところ、中佐、貴官が、その内容を知っている唯一人の米国軍人です。さ、どうぞご遠慮なく……」
そういわれれば、この部屋に案内されてくる途中で廊下の隅の台の上に置かれている電話機を確かに見た記憶があった。レスはソファから腰を浮せた。今頃はすでに登館しているだろう総領事に今夜の次第を報告したい。それに米軍の司令部にも。部屋を出ようとするレスに、ヒルシュマイアが追いかけるように言葉を投げた。
「中佐! 貴官は首相閣下の思い違いに気づかれませんでしたか? 我われのプランでは、一日の時間を八つに分割しているのであろう、と首相閣下はいわれましたが四分割という答もあり得ないわけではありませんね。なぜなら、九時と十二時という時刻なら、三時間で刻まねばなりませんが、親書に述べられているのは『十二時間』なのですから……」
「時刻」と「時間」の違いか。なるほど四分割もあり得るな、とレスは単純に思った。一方脳裡で、中尉が、電話を掛けにゆこうとしている自分に、突然、このような場違いな話題を語りかけてきたことに、ふと違和感を覚えた。そして、玄関の方に廊下を数歩歩いたところで、はたと気づいた。そうか! 一日を四分割すると一単位は六時間だ。中尉が終始気にかけていた午後九時には、それなりの重要な意味があったのだ。それは多分、開戦予定時刻の六時間前を意味しているのに違いない。すなわち、ワルシャワ条約軍が侵攻を開始するのは、スターリー将軍の推測どおり、明朝午前三時なのだ。中尉は、彼が施した協力に対する感謝のしるしに、推測の切っかけを与えようとしているのか。
レスは、電話機の前で気が変り、総領事より先に第五軍団司令部のケイリーの電話番号にまず指を掛けた。
ヒルシュマイアはドアの裏側に立ち、レス・ウィリスが廊下を遠ざかるのを確認してから敏捷に行動を開始した。窓際に行き、レースのカーテンをそっと掻き上げて窓外に人の動きがないのを確かめると、把手の操作次第で縦にも横にも開くアルミサッシュのガラス窓を、必要最小限に押し開けた。そして、諜報部の訓練で習ったように半身を乗り出して頭を下にし、両手を外壁に当てて屋外に滑り下り、建物の外壁とアゼリアの植込みとの間に身を潜ませた。地平線にかかった太陽の光はも早そこまでは届かず、すっかり暗がりになっていた。そのまま二、三十秒の間、耳を澄ませて周囲を窺ってから、腕を伸ばして窓を閉めると、ほとんど匍匐の姿勢で、建物に沿って玄関の方に向って進みはじめた。建物の正面側に曲る角に達し、前庭の方を窺い見ると、玄関の前と門の内側に先刻の国境警備隊員が、そのままの姿勢で立っていた。彼らはまったく背後に気を配っていない風だった。彼はそれからさらに頭を低くし交互に植えられているアゼリアとレンギョウの木の蔭を静かに匐い進んで、玄関の敷台のすぐ下に辿りついた。そこで呼吸を整えつつ、しばらく四名の国境警備隊員の動きを注視し、隙を見てひと跳びで敷台の上に立つと同時に、僅かに開いていた扉を後手にわざと音を立てて閉めた。物音に、反射的に振り向いた隊員に向い、彼はたった今扉の内側から出てきたような態度でいった。
「やあ。すまないが我われの車のキイをくれないか?」
「キイは車についております。車をここに持ってまいりましょう」
隊員の一人はそういうと、帯革を肩から外して自動小銃を同僚に預け、車が停めてある庭の隅に軽快な身のこなしで駆けていった。これを眺めていた門の方の隊員も、早手廻しに鉄柵をずらし、車の通路を作った。玄関の前に持ってこられたクリスチァンゼンの公用車に彼は平然として乗り込み、双方の隊員に「ごくろう」と一言ずついい残して公道に走り出た。かつての北ドイツラジオ放送局の施設があるオーバー通りが次の目標だった。
三時間ばかり前に、ボンに行くのを諦めた彼は、この街の米国総領事を仲介に立てて、親書の内容をシュミットに伝達しようと計画した。そして直ちに空港を出ると住宅街の小路を選び、なんとか検問を逃れながら、直行の場合の四倍以上の時間を費して、クロスター・シュテルン・ロータリーの附近まで辿りついたのだった。そのロータリーで実施されている検問の様子は厳しくて、も早それ以上米国総領事館に接近できなくなり、方向を変えてオーバー通りの北ドイツラジオ放送局の前に車を停めた。その方が親書の内容をシュミットに伝達できた暁に、首尾を本国に通報した後でマッシェンに行くのに都合がいいと思ったからだ。そこからは徒歩で米国総領事館に辿りついた。その後は、思いもかけなかった巡り合わせとなり、幸運にも本来の計画どおりに彼自身の手で、親書をシュミットに提出することができた。むしろ、チャーター機でボンに行っていたら計画のすべてがスタートから|齟齬《そご》に陥り、書記長の意志は未だにシュミットに伝わらずにいたに違いない。クリスチァンゼンの公用車を運転しながら、彼は諦めかけていた自身の強運が未だに続いているのを、だれにともなく感謝していた。レントゲン通りとの交差点にある検問所が前方に見えてきた。ついさっきクリスチァンゼンの運転で、シュミットの私邸に乗せられていったとき、検問所が設けられている地点を注意深く記憶に収めておいた。レントゲン通りのあとの検問所は、鉄道のガードを過ぎたところと、州道5号が分岐するところにある。そのあとが、クロスター・シュテルンという名の六辻のロータリーだ。
検問所が見えてくるたびにクリスチァンゼンがやったように緊急吹鳴器のスウィッチを入れた。検問所に達すると吹鳴器の音を絞り、代りにもっともらしくするために警察ラジオの音量を上げた。テロリズム防止法の発動がいまや一般市民に浸透したためか、検問所に並んでいる車の数は行きがけに比べると極端に少なくなっていた。三カ所までは期待したとおりに、警官は少しの疑念も示さずにバリケードを開けて「通れ」と手を振った。十分ばかり走ったとき、私邸から自分が遁走したのが発覚したのを彼は知った。クリスチァンゼンが警察ラジオの緊急指令に託して彼に呼びかけてきたのだ。
「……緊急指令。クリスチァンゼンからヒルシュマイアへ。キヴィツモーアに至急戻れ。応答乞う。繰り返す。クリスチァンゼンからヒルシュマイアへ……」
彼にはしなければならない次の使命があった。無線機の下でゆらゆら揺れているハンドマイクにちらっと目をやり、胸に痛みを感じたものの応答はせず、ひたすら北ドイツラジオ局に向って走り続けた。クロスター・シュテルンでは、六方向に対して流入流出する車であい変らずロータリーの中が混雑していた。そのため、並んで待つ一般車を除けて前部に出る余地はなかった。ようやく最前列に達すると、運転席の横に顔を見せた若い警官が当然のようにいった。
「身分証明書をどうぞ」
彼を逮捕するようにとの指令がすでに届いているのかとも思ったが、そうでもなさそうな雰囲気だった。
「やあ、ごくろうだな。しかし、見れば判るとおり公務執行中なんだ。形式的なことをせずに、早くバリケードを開けたまえ」
「そうおっしゃられても、巡査の私には裁量権が与えられておりませんので。身分証明書をどうぞ。公用車の場合は、身分証明書の提示があれば車内検索なしに通してもよい、といわれております。お見せいただけないのなら、車からお出になってください。まず所持品検査をさせていただきますから」
彼は迷った。車を降りて所持品検査をさせようか……、それとも、バリケードを突破して遁走しようか……。その警官の同僚が離れた所から押し問答の様子を興味深そうに眺めていた。強行突破はまずいな、と彼が考えたときだった。音量を意識的に上げておいた警察ラジオが再び緊急指令を叫び出した。
「緊急指令六八九。盗難車、HH ハンゼアシュタット・ハンブルク 二〇三。繰り返す。ハンゼアシュタット・ハンブルク 二〇三。ベンツ二五〇型、黒、警察ラジオ装備。容疑者、ドイツ人、男、二十四、五歳。髪、薄い栗色。眼、濃い青色。繰り返す。緊急指令六八九……」
ラジオで呼びかけたにもかかわらず、彼が戻らず応答すらしないので、クリスチァンゼンが盗難車捜索指令を出させたのだ。ただし、彼の氏名は伏せられていた。ちょうど運転席の横に立っていてこれを耳にした若い警官は、彼の髪の毛と眼の色をじっと見詰めた。警官は明らかにその眼を一際厳しくしたと思うと、腰の拳銃の銃把に手を掛け、車の後部に廻って行った。車両登録番号を確認するためだ。
彼は咄嗟に決心した。いきなりアクセルを一杯に踏み込み、木製のバリケードを撥ね砕くとロータリーの中に跳び込んだ。六つの放射路のうちそのとき最も空いていたのはハーヴェステフーダー路だった。タイアを軋らせてその路に入ったとき、拳銃の音が数発後方から追いかけてきた。多分、あの規則や命令に忠実な若い警官がマニュアルどおりに地面に片膝を突き、両手で拳銃を保持して発砲したのだ。そうでないとしたら、発射までに時間がかかり過ぎている。
全速力でアルスター公園の中を走り抜けると、公園の出口にも検問所があった。緊急吹鳴器を鳴らして速度を落さずに突進する車に、路上にいた数名の警官は横に跳んで難を避けた。黒と黄で塗り分けてある木製のバリケードは粉々になって宙に飛んだ。
ケネディ橋が見えてきた。その袂の検問所には早くも通報が届いたらしく、屋根の上の緊急灯を点滅させた三台のパトロールカーが、道路封鎖のために路上に横に並ぼうとしている最中だった。彼は車と車の間隙の広い方を選び突っ込んだ。一台は横転し、一台はボンネットが開き、エンジン部から火が吹き上がった。彼の車は横に十数メートルも滑って、橋に続く道路の分離帯にぶつかって止まった。まだエンジンは異常なく動いており、車の頭は橋の方を向いていた。そこでそのまま再びアクセルを踏み込んで橋上に突進した。橋の向う側から、二台のパトロールカーが緊急吹鳴器を鳴らしながらやってきた。彼はハンドルを堅く握って二台の車の間を目掛けて突進した。あわや、という瞬間、二台はそれぞれ左右にハンドルを切り衝突を避けた。それでも右側の一台は彼の車と接触し、急カーブを切って歩道に乗り上がり橋の欄干の支柱に激突した。その拍子に振動で支柱の上に付いている街路灯の白い丸いガラスのカバーが振り落されたのがバックミラーの中にちらっと見えた。
橋を渡り切ると道は左に円弧を画いて急角度に曲っていた。彼はやむなく道なりに外アルスター湖に沿って曲った。そして右側に目を配り、いち早く小路を見つけて逃げ込み、車を捨てて姿を晦まそうと考えた。しかし、道の左側は湖だし右側のどの小路にも緊急灯を点滅させているパトロールカーが潜んでいた。思いついて自分の車の緊急吹鳴器のスウィッチを切ると警察ラジオの叫び声が聞こえだし、街中のパトロールカーが互いに交信し合いながら緊急吹鳴器を鳴らして彼を目がけて押し寄せてきているのが判った。前方にもそれは見えた。点滅する青い灯がようやく迫った夕闇の中に幾重にも重なっていて、とても突破できそうに思えなかった。そこで、分離帯の切れ目を目敏く見つけて急ブレーキを踏み、百八十度の方向転換をして、また湖岸を戻ってきた。対岸の道路上にも点滅する青い灯火が十数個も動いていた。橋の袂にたちまち近づき、見ると、一分前にはなんの妨害もなく通過できた曲り角に大型の警察隊輸送車がどっかと道路を封鎖しているではないか。このときになって彼は、警察隊が計画的に彼をこの路上で袋の鼠にしようとしているのを覚った。彼は、全力で走りながらクランクを廻し、左右の窓ガラスを全開にした。橋の袂の近くにある白亜の大きなホテルと道を挾んで向い合った湖岸に、連絡船の船着場がある。彼はそこで九十度の転換をし、サイドブレーキを引いて、床に着くまでアクセルを踏み込んだ。高速回転するエンジンは金切り声を挙げた。そうしておいて、一気にブレーキを外し、ガードレールの間から船着場の桟橋目がけて車を躍らせた。空を切った車は桟橋の中ほどに落下して大きくバウンドし、次には湖面に落ちて飛沫を上げ、多数の警察関係者が橋上から固唾を飲んで注視している面前でたちまち水中に姿を没した。ざわめきの後、沈んだ場所の目印のように濁水と気泡が湖面に噴き上がってきた。
「彼は、今度の戦争における名誉ある戦死者第一号だなあ」
とレスが呟いた。帰る足を奪われたクルトとレスを、首相私邸まで迎えに来たクルトの役所の車の中だった。二人はヒルシュマイア中尉の刻々の動きを車に装備されている警察ラジオで傍受していた。クルトは自分の車が奪われたと知ったときから不機嫌だった。
「彼が戦死者第一号だって? 車が引き揚げられるまで判らないさ。中尉の遺体はまだ発見されていないんだ」
未だ実証されていない物事を憶測で語らないのがクルトの常だ。したがって彼は、中尉がまだ生存しているという前提に立って事の成行きを考えているので不機嫌さが直らないのだ。レスの場合は違う。中尉とはたった二時間余りのつきあいだったが、懐に飛び込んできた小鳥の死を悼むような感情が彼の胸の中にわだかまっていた。レスは話題を変えた。
「クルト。この街は境界線に近いし、北ヨーロッパの要衝だ。開戦になればたちまち酷くやられるぞ。で、我われの方は米国系市民の引揚げ準備に取りかかっているんだ。軍が動き出したら一刻も早くアルトナに集結させて、船で脱出させようと計画している。
君は家族の身の振り方を決めたのか?」
クルトは隣のレスの方に顔を捩じ曲げ、はっきりと彼の目を見た。そして、きっぱりといった。
「いや。レス」
「じゃ、私の方で預かろうか? 君の家族ぐらい多分なんとか面倒を見られると思うんだ」
「いや。レス。君の気持はありがたいが、我われは君たちとは違う。ここが我われの国なんだ。逃げ出して敵の手に渡すわけにはゆかないさ。昨夜妻と話し合ったんだが、彼女は子供を護りながらここにいて、僅かでも街の防衛に役立ちたい、といっているんだ。この街で生まれた彼女は理屈抜きでハンブルク人としての誇りを持っているんだ。したがって、こういう時に街を捨てると、その途端に、自分自身がドイツ人でもハンブルク人でもなくなる、という風に感じているらしい」
彼自身も妻の姿勢に同調しているのをレスに判らせようとするかのようにレスの顔を見つつしきりに頷いた。長い年月の間にいつの間にか、レスはクルトとの国籍の相違を感じなくなっていた。仕事の上でもクルトとはまず完全に利害が一致する立場にあった。それにも増して、同世代の男として誰とよりも理解し合えているという確信がレスにはあった。また、初めのうちは馴染めなかったこの国の気候風土や人びとの生き方も、いつの間にか嫌いではなくなっていたし、このハンブルクに対しても、わが街、という意識が自然に心中に芽生えてきてから久しい。
だが、今のクルトの言葉を耳にした途端、レスは自分自身がこの国にとって、結局は外国人に過ぎないのだということを改めて思い知った。外国人である自分は、都合の悪いことが起りそうになれば荷物をまとめて出てゆきさえすればよい。今度も自分たちはそうしようとしているのだ。協力というのは外側の安全地帯からこの国に対し武器や食糧を送ってやることだと認識している。クルトと自分とのような関係でも、事が国家単位の話になれば、自らの意志で体や心を貸し借りすることはできない。
「諒解した、クルト。私は家族を避難させることにしたが、私自身はここに残る。だから今までどおりに君を頼りにさせてもらうが、君の方でも私にできることがあれば遠慮なくいってくれ。これからはますます緊密な連繋が必要になるはずだ」
「ありがとう、レス。私の家族はあの家に踏み留まるはずだ。もしも君に時間の余裕があるときには行って覗いてくれないか」
クルトの言葉が奇妙に聞こえた。
「おい、クルト。それはどういう意味だ?」
「ああ、君に真先に話したかったんだが、|生憎《あいにく》機会がなかった。昨夜これも妻と話して決めたことなんだが……実をいうと、今夜これからフーズムの空軍基地に行くんだ。役所の仕事を一段落させてからね。にもかかわらず、車を奪われたために大分時間を無駄にしたんだ」
レスは、クルトがドイツ連邦空軍予備役少佐であることをその時やっと思い出した。
「なんだって! その年でF─15かF─104でも飛ばすつもりなのか!」
「いや。もちろんそんな気はないさ。F─104やF─15は乗員が一名だから無理だ。しかし、まだまだ飛べるさ。半年に一度の技量維持訓練を欠かさず受けてきたんだからね。フーズムにはF─4EFが二十機ばかりある。あれなら扱えると思うんだ」
「あれなら、といったって、君はF─4EFを飛ばせたことがあるのか?」
「ある。前席で一度だけだけれどね。とにかくこんな状況だから軍はまだ搭乗員に動員令をかけていない。空海軍を合計すれば三百機ばかりあるF─104の乗員ですら、緒戦には半分も基地にいないんじゃないかな。フーズムの乗員も今夜は十機を飛ばせる分くらいしかいないんだそうだ。レス、今日まで国が私の技量維持に大金を費してきたのもこういう事態に対処するためなんだからな」
命を賭して自国を護るのが当然だ、と一片の迷いもなく信じているクリスチァンゼン夫妻に、レスは感動よりまず驚きを感じた。ドイツ人というのはそういうものなのか。それともクルトの世代の特性なのか。あるいはクルトの家族だけの姿勢なのか。そのあとやっと、クリスチァンゼン夫妻の発想が国家に対する忠誠心というよりむしろこのハンブルクに対する郷土愛に根ざしているのでは、と思い至ったとき、レスはようやく自身を幾らか納得させることができた。
「判った、クルト。君の家族にはできるだけのことをする。だが、無理をするな。いつでも|年齢《とし》を忘れるなよ」
レスは総領事館の前で車を降りた。意識して、いつもと同じに握手をせず、互いに、
「アウフ・ヴィーダー・ゼーン」
とだけいった。「また会うときまで」。その「とき」は遠からず必ずやって来る、とこの時レスは胸の中で疑いもなく思っていたのだった。
走り去る車を見送った彼は総領事館の右手の小径を廻り、駐車場に入っていった。警備犬のトロルが姿を見せないので、九時がシュルツじいさんの交替時間だったな、と思い出した。駐車場には彼のフォルクスヴァーゲンが露をかぶって置かれているだけで、総領事の車は見当らなかった。警備室の中にいた若い警備員に尋ねると、総領事は半時間ほど前に退館された、と答えた。中尉に車を奪われ、思わぬ道草を喰って彼の帰りが遅れたために、待ち切れなかったのだ。
レスは館内に入り、二階に昇り、自室のドアを開けて電灯を点けた。その途端、机上に山と積まれている書類の山が眼に飛び込んできた。中尉が現われたとき中断したままだった。
中尉は、突風のように出現して、大石を池に投げ込んだような波紋をこの国の首相私邸に残したあと、あっという間に今そこに見えるアルスターの湖底に沈んでしまった。すべてが僅か三時間ばかりの間のできごとだった。
彼の部屋の窓から中尉が車ごと跳び込んだという現場がよく見える。対岸のケネディ橋の袂の附近では、昼のように明るい照明灯の光の中で沈んだ車の引揚作業が進められていた。十数両の特殊作業車がそれぞれの役割で配置されている間を、百名もの警察特殊部隊員が忙しく動き廻っているのが見える。
彼は、中尉が現われるまでやっていた書類の仕分けに、何事もなかったように今からまた取りかかる気分にどうしてもなれなかった。書類の下から灰皿を探しだして煙草の火を点けた。煙を見詰めながら、自分が精神的にひどく疲れているのを感じた。気がつくと、「クルト」が意識の底にわだかまっていた。無事に彼は帰還できるだろうか。レスは頭を振って、その考えから遠ざかろうとした。そして書類の山の中から極めて重要なものだけを拾い出し、再び格納箱に戻して鍵を掛けた。やがて電灯を消して部屋を出ると、がらんとしていてなにひとつ音のしない玄関ホールへ降りていった。今夜だけはも早これ以上深く何事も考えるのはよそう、と決心していた。
車は、エンジン部を下にして石のように湖底に向って沈んでいった。全開にしておいた両側の窓から冷たい水が一気に押し入った。桟橋に落下したときの衝撃で亀裂が無数に入った後部窓ガラスが水圧によって砕け散り、後席部にいくらか残っていた空気ががばっと抜けた。湖底に達した途端、泥土が周囲に舞い上がり、まったく視界がなくなった。水中では、窓ガラスを閉めておくと水の抵抗で車のドアは開かない。それを知っていたヒルシュマイア中尉は走りながら両側の窓を開けておいたのだ。彼は、湖面に落下するときの車の姿勢を思い浮べ、ケネディ橋に向って泳いでゆくために左側のドアを押して車外に出た。暗黒と濁水で鼻の先すら見えなかった。どこまでも足がぬめり込んでしまうような軟い湖底の泥の中に車体は半分ほど埋まっているようだった。彼は車の屋根をひと蹴りして、左手に向って濁った重い水の中を泳いでいった。できる限り遠くまで車から離れようとして息を詰めていたが、ついに堪え切れずに水面に顔を出した。そこからは桟橋が三十メートルばかり左手の方に見える位置だった。懸命に泳いだにもかかわらず期待したほど桟橋から離れていなかった。そのとき右脚の感覚が普通でないのに気づいた。車が桟橋に落下したときどこかで打ったのに違いないと思ったが、痛みは少しも感じなかった。彼は背泳ぎの姿勢になり浮遊物の間に顔だけ出して、陸上の様子を窺った。橋の上や道路上で多くの警官が走り廻り、屋根に投光器を載せている車が二、三両、各々位置を整えていた。たぶん車が沈んだ辺りに光を当てるつもりなのだろう。視線を変えるとケネディ橋の下までは約百メートルだった。湖面は暗いが橋の真下だけは、欄干の支柱に並んで付いている街路灯の光がこぼれていて、いくらか明るかった。彼は背面のままで浮遊物を利用しながら静かに泳いでいった。橋まで二、三十メートルの位置まで近づいたとき、投光器から皎々とした光が流れて桟橋の先の、車が落ちた辺りの湖面を照し出した。警官たちの注意が一斉にそこに向けられたその瞬間を利用して、街路灯の光が達している湖面の外側まで泳ぎ進んだあと、水中に潜り、ひと息に橋脚が立っている堤防に辿り着いた。そこでしばらくの間橋上の動きを観察してから、内アルスター湖と外アルスター湖とを分離している堤防の土手に生い茂っている雑草を分けて匐い上がり、橋脚の裏に廻って身を潜めた。それからは容易だった。外と内との湖を繋いでいるたった一つの水路だけを泳ぎ渡り、堤防上の草の中を匍匐して、ついに反対側の橋の袂の下まで来た。そこから対岸を眺めると、多数の投光器による光によって桟橋の附近は昼のように明るかった。湖面には何艘かの警察のボートが浮び、同じく屋根に投光器をつけた一艘のボートが橋脚の列に沿って徐航しながら堤防の草むらにも光を当てていた。他のボートの甲板に立っているエアタンクを背負ったフロッグマンの姿は影絵のようだった。桟橋の先の湖面には、湖底から時どき戻ってくるフロッグマンの黒い頭がいくつも見え隠れしていた。
ここでいくらか緊張を弛め、時刻を知ろうと腕時計の濡れているガラスを拭った。午後十一時に数分を残していた。十一時半には北ドイツラジオ放送局にある休眠設備を使って、首相シュミットの手に親書が首尾よく渡ったことを報らせる一二一・二一メガヘルツの電波を発射しなければならない。そのあと、零時になったら、ベルリンの国営放送局から送られてくる『田園』を聴くのだ。第四楽章が聞こえてくれば、進攻は予定どおりに開始されるのだ。そうなれば、「アムゼル」を迎えるために、ゼールの車を駆ってマッシェンに行くのだ。いよいよ、その時は近い。この先、も早大きな障害が横たわっているようには思えなかった。与えられた使命はほとんど達成されたようなものだ。
彼は、ひとり声もなく微笑し、立ち上がろうとしたが、そのとき急に右脚を襲った激痛のためにその場に|頽《くずお》れた。ぐっしょりと濡れているズボンに触れる左側の感じとは違い、右側のは生温かった。やはり、車が落ちるときに怪我をしていたのだ。ズボンを捲り上げると、膝のすぐ下からひどく出血していた。夜眼にも、|柘榴《ざくろ》を割ったような傷口の中に押し潰された皮下脂肪が白く見え、かなりの怪我のようだった。緊張の余り、幸いにもいままで苦痛を感じなかったのだ。シャツの裾を破り取り、止血のために膝の直上部を緊縛し、雑草に縋りながらどうにか立ち上がった。苦痛を我慢しつつ歩けないことはないが、長距離は無理だ。時刻はちょうど十一時になった。あと三十分だ。三十分で、オーバー通りにある北ドイツラジオ放送局まで辿り着けるか。
外アルスター湖の北限の西側にあるオーバー通りまでの距離を頭の中で積算した。直距離でも約三キロメートルはある。この足では三十分で行くのは困難だ。苦痛を噛み締めながら佇立していた彼の目に入ったものがあった。ヨットだ。二、三百メートル先の道路下にある桟橋に、帆を下ろして|舫《もや》ってある数艘のヨットだ。彼は、直ちに行動を起した。堤防の土手から、道路下の土手に廻り、そこに生えている立木の一本一本に縋りながら桟橋に近づくと、土手のひと際濃い繁みの向う側にクラブハウスがあった。開け放たれた窓からは男の談笑の声が洩れてくる。彼は一番手前のヨットに静かに忍び寄り、中に滑り込んだ。横になったままで舫い綱を解き、中にあった長い鉤棒を隣のヨットに掛けて力一杯押した。彼が横たわっているヨットは音もなく桟橋を離れ、暗い湖面に十メートルほど漂い出た。そこで僅かに帆を引き揚げて艇首が北に向うように操った。クラブハウスが視界から消えたところで、帆を完全に脹らませると、ヨットは水に乗るように北に向って滑りはじめた。アルスター公園の岸に沿って進み、公園の一番北の隅に着船した。十一時十五分だった。
岸に匐い上がり、公園の林の中の木から木へと片足を庇って跳ねるようにして移り、ついに見覚えのあるハーヴェステフーダー路に達した。ここからは街路樹から街路樹へと倒れ込むようにして進んでいった。樹に縋って苦痛を和らげ、呼吸を整えるとまた次の樹の幹目指して右足を引きずって進んできたのだが、「オーバー通り」という標識が目に入り、かなたの街路灯の光の中にゼールから借りたフォルクスヴァーゲンが見えた途端、一歩も歩けなくなった。右の靴先きから血が滴っていた。失血量がそろそろ限界に近づいていた。彼は微かな呟きで自分自身に呼びかけた。
「おい! ハンス! ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア! そら、もう少しだ。がんばるんだ、ハンス!」
朦朧とした瞳で北ドイツラジオ放送局の建物を凝視しつつ、住宅の塀の木柵の一本一本に縋り、両腕の力と一本の足で下半身を支えて進んだ。
「ハンス! よくやった、ハンス! そこだ。もう少しで放送局の前庭だ! あと二メートルだ。がんばれ、ハンス!」
歩道より一段高くなっている前庭に匐い上がってからは、敷石の上を肘を使って虫のように躙り進んだ。
「おい! ハンス、覚えているか? リッター中尉が寄越したあの紙になんと書いてあった? そうだ。建物の右側から三つ目の鉄扉だ。協力者が施錠を外しておくと、そう書いてあった。錠が外れていなかったら、どうするんだった? そうだ。その横の地下室の天窓を壊して入れと、そう書いてあった……」
彼は呟いているつもりだったが、唇は少しも動いていなかった。頭の中で喋っているだけだった。
その鉄扉の前に来た。正確にいえば、下に来たのだ。そこで、扉に沿って匐い上がり、その握りを掴もうと、三度も試みたが、どうしても手が届かなかった。ともすると集中力が薄れる頭で考えた末、扉に背を当てて左脚に満身の力を籠めてずり上がり、上に伸ばした右手で握りを掴もうとした。ついに掴んだ直後に力が抜け上半身がずり落ちた途端、リッターがいっていたように錠が外してあった扉は内側に開いた。弾みで彼は室内に転げ込んだ。血液を失った彼は、も早苦痛をそれほど感じなかった。足の傷には麻痺が来たらしかった。
いま扉を開けたときの要領で、入口の扉框に背を持たせてずり上がり、片手でスウィッチの位置を手探りし電灯を点けた。そこは送信機械室らしく、壁際のほとんどが操作卓らしいもので埋っており、それぞれが緑色の綿布で被われていた。塵ひとつ落ちていない床の上に、脚に車輪がついている金属製の椅子がいくつもあった。それに腰を下ろすといく分楽になった。その椅子を滑らせてまず鉄扉を閉め、端から綿布をめくって操作卓を調べていった。電子工学を専門とする彼がレコード演奏の送信に必要な機器を選択するのに時間はかからなかった。
演奏器の上には、埃を被った数百枚のレコードがアルファベット順に整理されている二段の棚があった。椅子から立ち上がらずに、手の届く下の段の一番幅が広い「S」の欄から一枚を抜き取った。コンセルト・ヘボウが演ずるシベリウスの作品二十六番、交響詩「フィンランディア」だった。一九〇〇年にこれが発表された当時フィンランドはロシアの属国であったために、フィンランドの人びとの独立心を掻き立てるとしてロシア政府から演奏を禁止された曲だ。力を失い震え続ける指先でそのレコードを演奏器にセットし、送信卓の前に椅子を戻して周波数を一二一・二一メガヘルツに正確に合わせ主電源のスウィッチを入れた。ブーンという軽い音と共に機械の生命が甦った。次いで必要な順にレバーを倒すと、レコードは回転しだし送信が開始された。それは送信機の上の壁にある「放送中」の文字に光が入ったことでも確認された。モニタースピーカーから流れだした音はレコードの裏面だったが彼は気にしなかった。北極圏に近い国の暗黒の冬を想わせる重苦しい音が、むしろ彼の消えかかった生命力の炎を掻き立てて安堵感すら呼び起した。送信開始の時刻を確かめようとして腕時計を見たが、文字盤に焦点すら定められないほど視力も失われかけていた。ようやくおぼろ気に見えた二本の針は重なっているようで十一時五十五分を指しているかのようだった。
「ハンス。ここまではいいぞ。よくやった。あと四、五分だけがんばるんだ。零時になったら祖国の首都からの放送を聴くんだ。そう、『田園』だ。ベートーヴェンの第六番だ。第四楽章が聞こえてきたらマッシェンに行くんだ。そして、操車場のコンピューター・センターを、『アムゼル』で破壊するんだ。ハンス、お前の『アムゼル』でだ。ああもう一分たったはずだ。あと三、四分だ。ハンス。ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイア。気を確かに持つんだ」
彼は呟いた。呟いていないと意識を失いそうだった。しかし、唇は動かなかった。
「寒い。とっても寒い。ハンス。がんばれ。もうすぐベルリン放送が始まるぞ。しかし、寒いな。本当に寒い」
やっとのことで椅子をずらし、中波の受信卓の前に行き、ベルリン放送の周波数に合わせてスウィッチを入れた。まだなんの音も聞こえない。
「寒い。こんなに体が震えてきた。ハンス。お前はここまで運よくすべてを切り抜けてきた。がんばれ。もうすぐだ。しかし、どうしたことだ。本当に寒い……」
操作卓にかかっていた緑色の綿布を苦労してはがし、何枚か集めて床に敷いた。指先から腕に移った震えは全身に及びはじめた。椅子から滑り下りて綿布にくるまった彼は、湖水で濡れた衣類をまとい大量の血液を失った体を海老のようにまるめて、|瘧《おこり》の患者のように全身を震わせていた。そして、眼を固く閉じて頭の中で喋り続けた。
「たぶん、あと一分くらいだ。あと一分で零時だ。『田園』を聴くんだ。しかし、シベリウスもいいなあ。リッター、君はシベリウスは嫌いか? どこかでこれを聴いているのか? さあ次の仕事はマッシェンだ。コンピューター・センターを破壊するのだ。書記長閣下はいっておられた、『勝っておくのだ。たとえ半日の戦いでも』と。リッター、聴いているのか? 書記長閣下はそういわれたんだ。ハンス、眠るな! 眠ってはだめだ。マッシェンに行けなくなるぞ。ああ、リッター。君はそこにいたのか。これで安心だ。マッシェンに行ってくれ。コンピューター・センターを爆破してくれ。『たとえ半日の戦いでも、勝っておくのだ』と書記長閣下はいっておられた……」
彼の意識の灯はついに消えた。それまで絶え間なく全身を襲っていた震えが止み、硬直がほぐれた体は静かに伸びて綿布の上に横たわった。
零時になり、ドイツ民主共和国国営中央放送局は、前置きなしで『田園』を放送しはじめた。零時六分。シベリウスの交響詩フィンランディアのレコードは勇壮に終章を謳い上げて終り、演奏器は自動的に停止した。しかし、送信機は一二一・二一メガヘルツで音のない電波をあい変らず夜空に向けて送り続けた。零時二十六分。『田園』の第四楽章「雷と雨、嵐」は第三楽章のあと、ほとんど間合いを置かずに続いた。この時刻にこの放送を聞いている市民があったとしたらそれは当然以外のなにものでもなかったろうが、これで、午前三時進攻開始、という東側の決意が、まったく揺るぎないものであることが確認されたのだ。
[#改ページ]
「ノースアメリカン・エアディフェンス・コマンド(北米大陸防空司令部)」、通称NORADは、コロラド州シャイアン山系の文字どおり「山中」にある。
その中枢機能は、全山系が一連の花崗岩の塊りともいえるシャイアン山系の麓を、斜めに|刳《く》り貫いた奥の地表下二十八メートルの最深部に格納されている。十五区画に分けられたそのレベルで最大の面積を擁しているコンピューター・センターは、巨大なスチールコイルによって支えられた、いわば厚手の金属製の箱の中にあり、シャイアン山系周辺が、今世紀中に完成を予測される最大値の爆発物による攻撃に晒されても、その震動を完全に吸収し得るとされている構造体によって護られている。そのコンピューター・センターの心臓部を成すのが、データ蓄積解析両能力において現在地球上に並ぶものがない「ノーラッド・データ・システム」である。このノーラッド・データ・システムの触角は、自由世界の地上に隈なくばら播かれている定点と、公海上の数地点に常設されている合計二百八十一単位のレーダーアンテナのほか、移動および静止併せて七個の監視偵察衛星だ。これらから送られてくる連続的情報のほかに、行動中の航空機艦船からの有事即応的な情報がその都度添加される。
コロラド州が属する北米山岳標準時間の午後四時十分。監視衛星が送ってきた資料を解析した結果NORADは、最近時まで中国国境線への接近を意識的に避けているが如く、シベリア鉄道北側の沿海地方に限って演習を実施していたソ連地上軍のうち約二十個師の機械化部隊が、現地時間午前八時を期して突如一斉に鉄道線を越え、黒竜江沿岸部方面に移動を開始したのを確認した。情報作戦室AG4の壁面パネルに表示されている中ソ国境ソ連兵力のデジタル標示が、四十三個師団から六十三個師団にたちどころに変更された。
数分後、合衆国空軍の管理下にある偵察衛星サモスが把えた情報として、ポーランド領オーデル河源流地帯に七十時間前から集結を続けていたソ連機甲部隊十一個師団が三十キロメートル西方に移動、現在は東独領リーベローゼ附近の森林地帯の中で再集結中、と報じられた。なお、この一団の勢力に合流するため一部がチェコスロバキアから撤退したチェコ駐留ソ連兵力は減少したまま放置されている、という情報がこれに追随して入ってきた。
さらに二分後、合衆国アラビア海上兵力情報部からは、アデンに碇泊していたソ連インド太平洋艦隊に属する戦闘艦艇十数隻が、アラビア海にある米艦の鼻先を掠めて全艦出航し、アデンには補給艦ならびに修理工作艦各三隻が残留しているのみ、との緊急通報が送られてきた。インド洋と太平洋の両海域には常時約八百隻の各種ソ連艦艇が遊弋活動している。垂直離着陸機を搭載している航空巡洋艦七隻、普通型巡洋艦、駆逐艦、フリゲート艦合計五十三隻、原子力型を半数程度含むと見られる潜水艦百十隻以上、そのほかに三百隻以上の補給艦、修理工作艦、掃海艇、上陸支援艦などと、三百隻近くの動力付上陸用大型舟艇だ。通常、これらの三分の一に当る補給艦等数十隻を伴う航空巡洋艦および駆逐艦十数隻の一団が順次アデン港に二週間程度碇泊し、その間を燃料食糧の積込みと兵員の休養に当てている。したがって、アデン港内にあったものが出航して、交替にアデン港に入港しようとする艦艇がアラビア海上に発見されないとすれば、これはソ連海軍の異常な動きだといえる。
これらの情報がコンピューターによって整理され暗号化されて全世界にある同盟軍の情報組織に向けて流されている間に、フィリピンのスビックに基地を置く合衆国第十三空軍の電子偵察機TR─1が、インドシナ半島とマライ半島とに挾まれているシャム湾の奥にある合衆国海軍第七艦隊の主要基地の一つ、タイ領サッタヒップ軍港沖合八|浬《カイリ》で、複数のソ連潜水艦ゴルフの音紋を把えた、という情報が入ってきた。
すでに一時間余り前、すなわちNORADがある北米山岳地帯標準時間でいうと午後三時には、ベルギーのカストーに拠を置くSHAPE(欧州連合軍最高司令部)からの強い警告に従って、ペンタゴンは全世界にある合衆国三軍基地に対して、軍独自で発動し得る最強度の警戒警報、すなわち「臨戦準備Pマイナス1」の指令を流していた。しかし、その後現在にいたるまで、ペンタゴンも、SHAPEも、その下部機構のNATO軍司令部も、それぞれ持てる限りの情報収集能力を発揮しているにもかかわらず、ソ連は沿海地方の演習地にある九十万から二十万の兵力を割愛して中ソ国境地帯へ移動するという新たな動きを見せつつあるものの、全世界的視野からすれば、依然としてレナ河以東に全ソ連兵力の約八分の三に当る百三十余万を張りつけたままにしており、その兵力の一部でもヨーロッパ側に引き戻そうとするような動きはまったく発見できなかった。したがって、ヨーロッパ側正面はガラ空きといっていい状態で、NATO軍に対する開戦能力をソ連が保持しているとは到底考えられない状況だった。また、東欧地区の様相としては、ポーランド領内に集結していたソ連機甲部隊十一個師団が一兵残らず東独領内のリーベローゼ市附近に移動したことが確認されているものの、他のワルシャワ条約国ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリア、そしてブルガリアの国内情勢に関する情報を再三にわたって精査しても、軍事的緊張に類する兆候は一つとして発見できなかった。
他方、演習の名の下にソ連が陸海空九十万の大軍を中国との国境地帯に近い沿海地方に投入して以来、当然過敏なまでに神経を尖らせている北京政府は、約二十万の地上軍がシベリア鉄道線をヤブロノイ山麓側と黒竜江側の二地方で踏み越えて、鉄道線と国境線との中間地帯に入った、という情報をペンタゴンから伝達されたあと、ほとんど十分置きくらいに情勢の変化について報らせるように要求してきていた。最初の情報を伝達した後の一時間、ペンタゴンは北京に与えてしかるべき何らの新情報も把握していなかった。しかし、ワシントン時間の午後六時四十分、ペンタゴンはおろか、その時大統領府の国家安全保障会議事務局に居合わせた者全員の神経を逆撫でするようなニュースが極東から飛び込んできた。
それは、先刻ソ連潜水艦ゴルフの音紋を、シャム湾内のサッタヒップ軍港入口で確認した、第十三空軍の偵察機が、またもや把えた情報だった。すなわち、南べトナム崩壊によってやむなく合衆国海軍が一九七五年に放棄したインドシナ半島の南シナ海側にあるカムラン湾に、垂直離着陸機搭載の一万五千トン級航空巡洋艦アドミラル・セニヤビン型一隻およびミサイル駆逐艦六隻を中心勢力とする、三十七隻のソ連艦隊が入港しつつある、というものだった。
カムラン湾内には、合衆国が二十数年間に合計三十数億ドルを投じて建造した軍港、飛行場施設、|兵站《へいたん》施設、通信施設、発電所、そして病院などがほとんど無傷のままで残されているのだ。合衆国が一時は卑屈にさえ見える態度で、ベトナムに対し復交を迫っていた大きな理由の一つはカムラン湾の使用にあった。それは資産の恢復が目的ではなく、カムラン湾の位置が合理的なアジア太平洋戦略の拠点の一つとして不可欠と考えられていたからだ。早い時期にコンポンソム港の自由使用をソ連に対して許したベトナムも、カムラン湾についてはそれを米ソとのバランス外交戦略の切り札と考えてか、今までには時たま一、二隻のソ連艦に緊急入港を認めたことがあるのみで、商船を例外とすれば、ソ連に対しても公然とした艦隊使用は許可したことがなかったのだ。
ソ連海軍創設以来最大の戦略的効果獲得ともいえるカムラン湾の公然使用を、仮にベトナムがソ連に対して正式に承認したのだとすれば、その蔭には必ずソ連からの莫大な代償が約束されているはずだ。現在の情勢から判断されるのは、それがベトナムの対中国戦力の強化につながる何らかのものであるのに間違いないということだ。
そこでこの情報は北京に対して直ちに伝達された。と同時にペンタゴンの中には、ソ連の軍事行動の真の狙いは、西ヨーロッパ侵攻にあるのではなく、南北両面からの中国挾撃にあるのではないか、という見方が生まれてきた。平穏なワルシャワ条約国の諸情況を考え併せれば極めてもっともな見方だった。とはいえ、ソ連がもし中ソ限定戦争を企図しているのだとすれば、手薄になっている自国の西側背面における紛争勃発を予防するためにも、ホワイトハウスに対しては事前に何らかの諒解取り付け行為が成されるはずだ。そのはずのモスクワは、二十時間前にペンタゴンに対しウスチノフ国防相名で、沿海地方に限定していた演習区域をカムチャツカ半島を含むソ連領域限界まで拡大する、と通告してきたのを最後に、ほとんどまる一日沈黙を守っていた。
いよいよソ連の意図を解しかねたペンタゴンは、大統領府に対してホットラインによるクレムリンとの会話を要請した。時刻はワシントン時間の午後七時半、モスクワ時間の午前三時半だった。ホットラインの使用は「事故、誤解、また通信の不成功による開戦の回避」と謳われている第一条の目的に充分に合致するものであったが、呼出し作業が二十分間も続けられたにもかかわらずクレムリン側はついに応答しなかった。向う側が朝方の場合には定時回線確認交信の際にも彼らが直ちに応答しないことがままある、という係員のコメントがあったが、意図的な対話拒否ではないのか、という疑念が関係者の胸中に湧き上がるのは否めなかった。そして結局「通信の不成功による開戦」に一歩近づいたような形になり、むしろホットラインによる会話を試みる前より関係者の危惧は深まるという結果になった。
ホワイトハウス・クレムリン間のホットラインはテレタイプ回線によって結ばれており、タンジールあるいはロンドン・ストックホルム・ヘルシンキを経由する有線と衛星インテルサットならびにモルニアを使用する無線の二系統がある。端末機はともに、大統領執務室と国家安全保障会議事務局室とに挾まれた奥の小部屋にあり、常時三名の同事務局職員が受信待機の態勢で勤務している。彼らは、使用される暗号の解読専門家でもあるのだ。
モスクワ時間午前四時を待って、次回は無線系によって再びクレムリンを呼び出すことが話し合われていたとき、安保事務局内にあるペンタゴンとの間の専用電話のベルが鳴りはじめた。
バルト海内で活溌に活動しはじめたソ連艦艇により、領土侵害の危機に晒されている、とデンマークが悲鳴を上げてきている、というSHAPE情報を報らせてきたものだった。もちろん、ペンタゴンは直ちにバルト海情報の分析にかかっていた。デンマーク領ボルンホルム島がソ連艦艇十数隻により遠巻きにされているのは事実のようだったが、実態上は未だデンマーク領海は寸土も侵犯されてはいない。また、首都コペンハーゲンがあるシェーランド島を、多数のソ連艦艇――一隻はクレスタ級巡洋艦と確認された――が周航している。つまり、ズンド海峡を北に向い、カテガット海峡に出ると反転復航して大ベルト海峡を南下、再びバルト海内に戻る、これを繰り返してはいるが、一隻たりとも国際水路を逸脱してはいない……。
バルト海情勢が分析しつくされないうちに、スカゲラーク海峡入口に投錨していたソ連空母キエフが南西に向い発進した、という情報が入った。ほとんど時を同じくしてNORADの監視衛星情報解析Eチームが、戦艦二隻を中に抱くようにしてノールウェイ海を北海に向けて南下中の十一隻のソ連北洋艦隊の姿を把えた。驚いたことに、この時、キエフや北洋艦隊の周辺上空にはただ一機の護衛戦闘機すら飛んでいなかった。ただし、北海、ノールウェイ海、およびバルト海上空には、約二十機のソ連偵察機が、昨日と同じく通常のルートを通常の高度で飛行していた。一方これに関連する事実としては、昨日、ウラジヴォストークとペトロパヴロフスクに着陸した数十機のバックファイア「B」と「D」も、NORADが最大関心を払って動静を見守っているのだが、現在までのところ、一機も空中に上がらず、演習中であるはずなのにずっと鳴りを潜めている、という不可解な現象があった。
この頃、SHAPEからペンタゴン宛、時点が前後した情報が入ってきていた。スカゲラーク海峡に投錨中のキエフに対して、キエフ自身の燃料と、航空機用燃料とが海上補給されたことが確認された、というのだ。これによって、キエフ投錨の合理的理由が掴めた。しかし、西航しはじめたキエフは、次はどこの海域に向うのか?
ペンタゴンも、NORADも、そしてSHAPEも、ソ連の意図を読み切れないままに時を過しているうちに、「臨戦準備Pマイナス1」警報発令後約三時間が経過しようとしていた。中央ヨーロッパは午前二時に、ワシントンでは午後八時に、NORADがあるコロラド州では午後六時に、それぞれなろうとしていた。
午後六時の勤務交替の直前、先刻南下中のソ連北洋艦隊を発見したNORAD監視衛星情報解析Eチームが、またもや大発見をした。バルト海南岸の東独領リューゲン島と東独本土とに挾まれている、極めて狭隘なシュトラールズント水道の中に、ソ連の大型上陸用舟艇、上陸支援艦、ステンカ型高速魚雷艇など数隻が潜んでいたのだ。
その地点からもっとも近い西側領域である西独領リューベック湾までは僅か八十浬だ。デンマークに悲鳴を上げさせたソ連海軍の奇矯な行動は、上陸部隊をワルシャワ条約国バルト海岸沿いに隠密裡に海上輸送するための陽動作戦であった、と理解された。
この事実が判明したためにペンタゴンは、ソ連が西側侵攻を企図しているとの見方を完全に払拭し得なくなり、より混迷に陥った。
ところが、この発見十五分後にSHAPEが、ベルギー基地からマッハ三・〇の高速偵察機SR─71センサー一機を発進させ超低空の危険を冒させてリューゲン島附近の赤外線写真を撮らせた結果、すでに大よそ二万の地上兵力と約三百両の戦車が東独本土側のシュトラールズント市附近の平坦な海浜地帯に揚陸されており、作業を終了した上陸用舟艇や支援艦は、逐次艦列を整えて東方に引き揚げつつあることが判明した。
ペンタゴンに勤務するある古手の陸軍参謀が呟いた。
「六八年八月二十日の夜のようだ」
それは、東欧軍によるチェコスロバキア侵入前夜のことをいっているのだった。たしかに、東独を含めたワルシャワ条約国が平常と変らぬ静かな眠りを貪っている時刻に、ソ連は、東独領内に陸海から厖大な兵力を粛々と送り込んでいるのだ。
時刻が、ワシントンで午後八時十一分に、中央ヨーロッパでは午前二時十一分になったとき、NORADは防空警報を発令した。NORADのレーダー・スクリーンにはシベリア上空全面に、一方、西ヨーロッパ全域に配置されているSHAPEの早期警戒レーダー・スクリーンには北海とバルト海の上空、並びに東独領土の上空に、レーダー・スクリーン全面が輝き渡るほど多数の機影が突如として出現したのだ。だが、いずれの航空機も同じ空域を一定高度を保って旋回しているらしく、どの西側領域にも接近する様子を見せなかった。しかし、一件だけ例外があった。西独ビートブルクおよびフランクフルトの二カ所で、合衆国戦術空軍基地のレーダーサイトが一瞬の間だったが見逃さずに同時に把えたものだった。東独上空監視用スクリーン上に、機影を示す銀色のブリップが五十個近く現われ、それが西独領域に向ってマッハ一・〇程度の超高速で接近しつつあったのだ。
数秒後にレーダー電波妨害措置が採られたらしく、レーダーサイトは観測不能に陥った。時を移さず西独領内戦術空軍の全基地に対してはスクランブル指令が流され、五分後には約三百機の米独戦闘機が空中にあったが、地上のレーダー・スクリーンが全面霜降り状になり、観測不能に陥っているのと同様に機上のレーダーも機能を果していないらしく、各戦隊の観測指揮官機から基地に対して、
「フロスト・ブラインド! フロスト・ブラインド!」
と口ぐちに呼びかけてきた。とにかく、その状態が十数分間継続したのだが、西独領域に向って突進してきたはずの東側航空機は、不思議にもついに一機も姿を見せず、やがて、東独上空を被っていた電波妨害物は暗幕が地上に下りてゆくように、ゆっくりと消えていった。そのあとには、どういうわけか、も早一個の機影すら観測されず、舞い上がった戦闘機は、逐次地上に空しく帰ってきたのだ。
一方この頃、ホワイトハウスでは国家安全保障会議が招集され、全員一致の意見によって、大統領命令「応戦準備」が十五分前に発動され、全面戦争の開始に向って残されている手続きは、これこそ大統領ただ一人の決定に基く「開戦宣言」だけになっていた。
北米大陸の各地はもちろんのこと、西ヨーロッパに配置されているICBM、IRBMの弾頭はすべて、ソ連圏内の軍事基地、大都市ならびに工業地帯に向けられ、発射ボタンのキイが外されるばかりの態勢となり、迎撃ミサイルは地下のサイロから姿を現わし、それぞれに中空に向って頭をもたげていた。また、「応戦準備」命令を承けた合衆国軍事空輸司令部は、マニュアルに従って第一号指令を麾下の全基地に対して流しヨーロッパ派遣軍補強を指示したため、まず第一陣は、ノースカロライナ州のフォート・ブラック基地から、第八十二空輸師団のC─5A、C─130B、そしてC─133Bなどの大型輸送機が、平均百トンの兵員、武器弾薬、食糧、そして医薬品を満載し、大西洋の彼方に向けて次つぎに飛び立っていった。
しかし、この「応戦準備」命令が発動された結果、軍事専門家がかつて、次期大戦勃発時の様相として、想像すらしていなかった奇妙な状況が米ソの軍事勢力接触面に現出していた。例えば、東シベリア海およびベーリング海上空においては、それぞれ数百機の戦闘機、偵察機が、互いに相手の搭乗員の顔が見えるほどに接近しながらも、厳密に各々自己の領空域に留まり、相手と翼を連ねるようにして国境線を挾んで飛行していた。その後方には、核弾頭付中距離ミサイル、ハウンドドッグを積載している戦略空軍の111AやB52爆撃機が旋回し、ソ連側でもバックファイア「B」や「D」それにM4バイソン大型爆撃機が旋回していた。
このように両軍がすっかり準備を整え、「GO!」の号令がかかるのを待機する形では、いわゆる第一撃戦略、つまり敵の虚を突く先制攻撃で勝敗を決することは相互にその機会を持ち得ないし、また、第二撃戦略、つまり敵の第一撃による破壊に耐えた攻撃力を以て報復攻撃を加え、敵に致命傷を与えるという戦略も成立し得なくなった。なぜなら、現状によると双方ともに第一波の攻撃のために全力を使い果さざるを得なくなると考えられるからだ。
大統領府は刻々と経過する分秒と争いながら「開戦」の決断に苦悩していた。闘争を決意する際に、人間は常になんらかの形の激情を必要とするものだが、周囲の情況の中に激情の発端となるものが何ら見当らなかった。目下のところソ連の異常な行動は、自国圏内と公海上に限定されており、自由世界に対してはいかなる意味合いからも侵犯の名目を冠すべき逸脱を全く犯してはいない。ましてや、沿海地方から東シベリアに及ぶ軍事行動については、事前に演習実施の正式通告さえ行なってきているのだ。異常と見える軍事行動は、前大戦の時代とは様相が異なり、通常の軍事演習行動の範囲が単に自己領域の限界つまり相手の限界線まで伸展拡大した結果に過ぎないとも考えられる。
とはいえ、過去数十時間のうちに突如として世界規模をもって顕現化してきた数かずのソ連の異常な動静を、このまま座して看過していていいものだろうか。屋敷の周囲を取り巻いている狼群が、未だに垣根の内側には入ってきていないからといって、そのまま手を|拱《こまね》いているのが適切な対応といえるだろうか……。しかし、手を出さなければ狼はやがて自ら立ち去るかも知れない……。第一撃を被った後に反撃に立ち上がる場合と異なり、「開戦」の意志決定の重責に直面して、大統領は孤独だった。
ワシントンは午後八時半になり、中央ヨーロッパは午前二時半になった。
SHAPEはシュトラールズント市附近の情況について第二報を送ってきた。揚陸された兵力は、地上軍二万五千、戦車三百五十両となり、数値は半時間のうちに第一報より約二十パーセント増加している。
大統領は、決断すべき時点にいよいよ差しかかってきたのを否めなかった。と同時に、暗い夜の海が波を寄せ返しながら次第に足元に這い上がってくるような不安が彼の胸の中に満ちはじめた。
その時だった。まるで大統領の心理の動きをストップウォッチで推し測っていたかのように、クレムリンとの間のホットライン・テレタイプに動力が通じ、ランプが点き呼出し信号が鳴りはじめた。即座に受信確認コードが打ち返されると、一呼吸置いて印字機が暗号文を打ち出しはじめた。予備の係員はすぐさま解読作業に取りかかった。
電文の発信者は首相でも書記長でもなく、外相グロムイコと国防相ウスチーノフの二名による連署で始まっていた。だれもがこれを奇異に感じはしたが、解読された最初の一行を目にしたとき、それを論議する雰囲気は消え去った。
「急迫した情況に当面している我われは、一刻を争い、ここにわがソビエト社会主義共和国連邦を代表し、親愛なるアメリカ合衆国大統領閣下に対し、深甚なる敬意を表するとともに、慎んで以下の事実を通報するものである。
平和を愛するわが国政府は……」
ここでふっつりと印字機の動きが停止した。しかし、機械には動力が入ったままだ。これはクレムリン側が回線を切っていない証拠だ。印字機は約二分休止していたのち再び忙しく動きはじめた。緊張感が漲っている室内に印字機の単調な音だけが響いた。
「……手段を尽してその阻止をはかってきたが、極めて遺憾にも……」
また思わせ振りに印字機の動きが止まった。が、今度は数秒後に再び動きだした。一体、ソ連は何を企図しているのか。一人として声を発せず、暗号文が翻訳されるのを固唾を呑んで待った。
「……政治体制を異にするドイツ民主共和国に対する、ドイツ連邦共和国による、その政治的領土的野望に基く数多の体制攪乱工作が時と共に激化し来たった昨今、いまやそれは容認限度を遙かに超え、ついに窮迫したドイツ民主共和国は、軍事行動を以てその根源を截ち切り、事態の解決を図ることを最終的に決意した模様である……」
東独が西独に対し武力攻撃を開始する! テレタイプは続けて暗号文を打ち出しているが、この時点で、少なくとも東西両独間に武力紛争が発生するだろうことが判った。緊急情報MDU扱いでニュースはペンタゴン回付の手続きが採られた。したがってベルギーにあるSHAPEもNATO軍司令部も三分以内にこのことを知るはすだ。
「……聡明なる大統領閣下。
閣下がすでにご洞察のとおり、不幸にして事態は右両独が干戈を交えるに立ち至ったといえども、かかる状態を、国家間の諸約定かつまた国際諸法規に照らすところ、内国的武力紛争と判定せざるを得ず……」
自己の代理人である東独の西独侵犯を、ソ連は「内戦」だと強弁しようとしている。メッセージのいい廻しからすると、その根拠の一つとして、一九七〇年八月、ソ連と西独との間に締結された「武力不行使条約」の附属書、いわゆる「ブラント書簡」を示唆しているのは明らかだった。この書簡は、東独を現状のまま独立した主権国家としてあくまで固定しようとするソ連に対し、西独から当時の首相ブラントの名において提示されたものだ。長期の対峙期間を経た後、結局、ソ連側からは書簡の内容についていかなるコメントも行なわない、という条件により条約に附属書として付けることで収拾され、条約は成立した。こうした経緯により正式文書として登録された書簡だが、当時の国際外交場裡では、東西両独の現状認識について西独側が初めて公式に見解を表明したものとそれは受けとられた。その内容は、
「東西両独の現状は、一民族が特殊な国際環境の下に二国に分断されているに過ぎない一時的な状態であり、いつの日か再統一され得る民族的権利を留保する」
というものだった。
なおまたその後、一九七五年七月にフィンランドの首都ヘルシンキで開催された「ヨーロッパ安全保障協力会議」において、全欧の国境線を現状で固定するように迫るソ連と、西独は真向から対立した。ブラントの後を承けた西独首相シュミットが、
「現状固定は、東西両独再統一の可能性を永久に抹殺するものであり、絶対に西独の承認し得るものではない」
と強力に反撥して一歩も譲らなかったため、会議の合意書作成すらが危ぶまれたのだったが、結局、西独の主張を容れて、
「東西両独間のそれは国境線とは認められず、境界線として取り扱われる」
とし、さらに
「将来においては境界線に関する変更もあり得る」
との民族主権条項なるものを最終合意書の中に盛り込むことで結着を見たのだ。
東独の西独に対する武力侵犯について「内戦」だと主張するソ連は、従来から一貫して変らないこのような西独の姿勢を、今や逆手に取っているのだ。また、紛争を東西両独間の問題に見せかけることにより、日頃から東側の武力指向ならびに膨張対策に、警戒と批判の眼を向けている西側の国際世論をも|躱《かわ》すことができるというものだ。
クレムリンからのメッセージはさらに続いた。
「……したがって、わがソビエト社会主義共和国連邦を始めとする国家群、または個々の同盟国は、東西両独の内国的武力紛争に対し、一切関与しない方針を相互に確認したことを、ここに慎んで通報する。
平和を深く希求されるであろう大統領閣下。閣下もまた、閣下が代表されるアメリカ合衆国を始めとする国家群、または個々の貴同盟国が、この内国的武力紛争に一切介入されないこと、それが紛争の拡大阻止のために最善の道であることに、疑いもなく直ちに同意されるであろうと、我われは固く信じて已まない……」
暗号が平文に直されるたびに、テレタイプの印字機が打ち出しつつある文章が、いかに恩着せがましく押しつけがましいものであるかが判ってきた。いまや、ソ連の|肚《はら》の裡はすっかり読めた。自らの手を汚さずに、東独一国にワルシャワ条約機構の代理戦争を始めさせようとしているのだ。NATO諸国を観衆の立場に位置づけることにより、リングに押し上げられた西独に貸すべき手を縛ろうとしているのだ。
ソ連がホットラインでこのように通報してきたことから判断して、間もなく、恐らく一時間を経ずして、侵攻準備万端が整った東独軍は、東西両独境界線を突破して怒濤のように西独領内への侵入を開始するだろう。しかし、それは「ドイツ」自身の「内戦」であり、ワルシャワ条約機構がまったく関知しないことだ、とソ連は主張する。従って、NATO諸国も手を出すな、とソ連は要求している。NATO軍の支援なくしては、二十五万平方キロメートルの領土と六千数百万の人口を擁する西独は、虚を突かれて数日ならずして東側の勢力下に押さえ込まれてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
この事態を、仮に、ソ連が強弁するような「内戦」とは認めず、北大西洋条約のいわゆる「見做しの精神」つまり「一加盟国に加えられた武力攻撃は、全加盟国に対してそれが加えられたものと見做す」なる条文に則り、全NATO軍が西独支援のために出動するとしたらどうだろう。その時はもちろん、ソ連軍を主軸とするワルシャワ条約全軍が出てくる。その結果、紛争は長期化し、ヨーロッパの範囲だけに留まらず、たちまち世界規模へと転化してゆき、その人的物的損害は、東西両独間のみの紛争のそれと比較すべくもない莫大なものになるだろう。いや、そこまでも行かず、勝敗を別にすれば、紛争は極めて短時間で終ってしまう可能性すらある。つまり、この数十時間のうちに、ソ連は、西側のそれに数倍する兵力を、一歩先んじて世界各地に展開し終り、全面戦争の陣形をすっかり整えて待ち構えているのだ。現代戦においては、相互の敵はどこからでもどこへでも攻撃できるようになった。したがって、どの国にも裏庭というものがも早なくなった。裏庭があり得ない以上、緒戦で受ける打撃を正面だけで耐えて、裏庭に戦力生産余力を温存することはできなくなったのだ。
クレムリンからのメッセージはさらに続く。
「……なおまた、紛争当事者への、第三国による直接的武力支援はもとより、間接的武力支援、すなわち、武器兵力の供与その他戦闘能力増強に寄与する援助もまた、紛争への関与介入と見做されるべきであるとするのがわが国政府の見解であり、閣下は、この見解についても直ちに同意を表明されるであろうと、我われは確信する……」
ソ連は、東独が西独に対して仕掛けようとしている武力侵攻を「内戦」と強弁し、さらにそれを東西両ブロックからの代表選手によるボクシング試合の如くに見立てようとしている。だから、|鱈腹《たらふく》腹拵えをすませ、事前にトレーニングを充分行なった男と、寝床から突然引きずり出されてリングの上に押し上げられた男が一対一で闘うのも、黙って観ているのが公平だ、と主張する。手を差し伸べるのはもちろんのこと、口濯ぎ水も与えるな、薬も塗ってやるな、殴り殺されかかってもタオルも投げるな、と主張しているのだ。もしも、僅かでも手を貸す素振りを見せれば、応援団同士の乱闘になるぞ、と威嚇している。先方の応援団は、これまた腹拵えをすませ腕まくりをして、事あれかしと乱闘が始まるのを待ち構えている情況下でだ。
メッセージはさらに続く。
「……平和を愛するわが国政府は、予想される紛争地域との地理的関係から、第三国の介入による武力紛争の拡大を衷心より惧れるものであり、したがってここに予防的自衛権の発動を決意し、紛争地域との海上ならびに空中の、無害通行権によるもの以外の交通を、紛争勃発と同時に『封鎖』することを宣言する。貴国が一九六二年にキューバ共和国に対して実施された『隔離措置』の経験に照し、閣下こそ、わが国が自国の安全確保のため、やむなく実施するこの『封鎖措置』に対する最良最適な理解者であろうと確信する……」
その昔、キューバ事件の際に、国際法上では大いに議論されるべき余地が残されていたにもかかわらず、「海上交通隔離措置」を宣言し、「停船または、臨検の命令を拒否するならば、船籍の如何に係わりなく撃沈する」と公言したケネディ大統領の気魄に押されて、渋々ながらキューバから攻撃用核ミサイルを引き揚げざるを得なかったニキータ・フルシチョフの|無様《ぶざま》さを怒った若者たちが、今や十数年の後にソ連の指導層の椅子に着いていた。彼らは今こそ、あの日の無念を晴らす絶好の機会が訪れた、と考えているのだ。この瞬間までに、起り得る事態のすべてを見透し、計画を練り、準備を整え、実行に着手し、それが今まさに図に当ろうとしているとき、彼らは天より高いところから自由世界を見下ろして、心の底から哄笑し、|快哉《かいさい》を叫んでいるのに違いない。
そして今、次つぎに解読されて提示される、ありありとした皮肉が籠められているメッセージには、その自信の程が溢れている。この策謀が成就した暁には、ソ連は西側の最優良児たる西独を東側ブロックに併呑することができるのだ。その結果、東側が今破綻の淵に瀕して喘いでいる経済状態を一挙に恢復することができる。その効果に比較すれば、ソ連が支払う代償は、まさに無に等しいというものだ。
ホットライン・テレタイプの印字機は、グリーニッチ標準時間を示す〇一五〇Zを打ったのを最後に、始まったときと同様極めて唐突に動きを止め、受信確認信号が打ち返されると数秒後には動力が切れランプも消えた。その時、ワシントンは午後八時五十分、モスクワは午前四時五十分、中央ヨーロッパでは午前二時五十分だった。係員は通信文の最後段の解読に取りかかった。
その一分ばかり後、安保事務局内の端末機が動きだし、ペンタゴンの戦略データ・システムが弾き出したワシントン時間午後八時十五分、つまり三十五分前の時点での彼我相対戦力比較結果が流れだした。数パーセントの例外地点、しかもそれらはさして重要ではない地点だが、それを除くと、戦術戦略両面の全接触面において、すべての西側勢力がマイナス値となっていた。つまり、世界中いたるところの情況が、百発の弾丸を以て、対するは二百頭の狼群、といった有様で、到底、戦端を開く時機や地点を西側の意志によって決定しうるような状態ではなかった。
質問することもなく、沈黙して約一分間も分析結果に眼を注いでいた大統領は、やがて傍に佇立している国務長官に顔を向けると、東独の軍事侵攻を阻止し得る外交的手段の余地がいまなおあるか否か、かりにその余地が僅かでもあればすべてを|擲《なげう》ってその阻止のために全力をつくせ、と命じた。
次いでペンタゴンに対し、現在西独領内米軍基地に向って飛行中のすべての軍用機の針路を他の諸国に分散変更せよ、と口早に命じた。ペンタゴンは直ちに大西洋上にある軍事空輸司令部麾下の数十機に及ぶ大型ジェット輸送機の針路を、オランダ、ベルギー、そしてフランスに変更する手続きをとった。そして、さらにペンタゴンに対しては、別の決定が下されるまでは、「応戦準備」命令の段階を堅持し、決してそれ以上に踏み出すことがないように、と念を押した。
最後に、「合衆国の事態に対する態度は、それを見極めた後、すみやかに通知する」という内容だけを、とり敢えずホットラインを用いてクレムリンに通告せよ、と命じた。
当面早急に打たねばならぬ措置を、とにかく指示し終えた大統領が、のしかかってくる過度の緊張感を調節するような、ふうっ、といった吐息を洩らして革椅子の中に身を沈めたとき、ペンタゴンからまた新たな情報が送られてきた。
中央ヨーロッパ時間の午前二時三十分以降、ワシントン時間では午後八時三十分以降、西側は、西ベルリン駐留米英仏三国軍のいずれの基地とも通信途絶の状態に陥っている、というのだ。約五十分前、東独上空を飛行する多数の機影が最初に観測された頃から、電波妨害の兆候が現われはじめ、十数分後には有線無線のあらゆる通信系で呼びかけても、まったく応答が得られなくなった、ということだった。この情報と前後して、いよいよ情勢の緊迫を示す新情報が入ってきた。自動車両、鉄道列車に分乗した東独軍の大部隊が、東西両独境界地帯に向って|陸続《りくぞく》と移動しつつある、というのだ。
一方、バルト海からチェコ国境に至る東西両独境界線のすぐ内側を常時パトロール飛行中のE3C早期警戒機、つまりボーイング707型輸送機を改装した高性能電子偵察機に搭載されているコンピューターは、この大軍を、戦車約三千両、その他の車両約二千百両、そして地上戦闘兵員数約七万五千、と弾き出していた。
ソ連がホットラインで伝えてきた予告は、いよいよ現実の姿を取りはじめた。
[#改ページ]
最初に「戦争」に気づいた西側の市民は、たぶん、西ベルリンのテーゲル国際空港における英国航空の整備責任者レオン・クッドルだった。彼の会社の最終到着便の機体はテーゲルで一夜を明かし、翌朝の第一便となって出てゆく。というわけで、最終到着便の機体整備にはじっくり時間をかけられるので、日常点検より深いところまで手をつけることがある。その結果、作業の終了が深夜に及んだりすると、独り者のクッドルは会社の仮眠室で仮泊する。帰宅し、翌朝の第一便の出発点検整備のために早朝にまた起き出してくるより、その方がずっと楽だからだ。
この夜もたまたま仮眠室の狭いベッドの上で眠っていたクッドルは、時ならぬ航空機の爆音によって眼を覚まされた。爆音はジェット機のものではなく、昔懐しいレシプロ・エンジンのものだった。それは、高くもなく低くもないという感じの高度で、幾つも幾つもゆっくりと東から近づき西へと去ってゆく。枕元の電灯のスウィッチの紐を手探りで掴んで引き、習慣で、会社に泊るときには外さないでいる腕時計を見た。午前二時を十分ばかり過ぎていた。爆音の主に興味をひかれて起き上がり窓辺に行った彼は、夜空を見上げようとしてブラインドを引き上げた。ターミナルビルの二階の屋根の外周には十メートル置きぐらいにスポットライトが下向きに取りつけられている。その光が淡く届いている滑走路の周辺の光景が目に入った途端、彼は自分がまだ夢を見ているのではないかと両眼を擦った。
滑走路上には暗緑色の大型グライダーが十数機停っており、その黒く開いた昇降口は次つぎに真黒な人影を吐き出していた。彼が眺めている窓辺からさほど遠くない芝生の上では、小型で黒光りする自動小銃のようなものを手にした百名ばかりの黒装束の一団が、今まさに整列しようとしているところだった。そればかりではなかった。ちょうど暗い空から牡丹雪が音もなく舞い下ってくるように、滑走路の向うが見通せないほど多数の、濃淡のある灰緑色で迷彩を施したパラシュートに縋った黒装束の男が、飛行場一面に舞い降りつつあった。
男たちの真剣できびきびした動作からか、その見馴れぬユニフォームからか、とにかく彼は、これは味方の演習ではない、と咄嗟に感じた。とすると、ソ連か東独の降下部隊による奇襲に違いない、と直感した彼は、大急ぎでブラインドを下ろし、掛ける相手を決める前にベッド脇の電話機に飛びついた。が、おかしなことに回線が死んでいて、耳に当てた受話器はしーんと静まり返っていた。すぐさま電灯を消し、下着のままで廊下に跳び出すと自社の通信室に向って走った。
テレタイプ機に向いメインボタンを押すと、これには正常に動力が入り、ランプが点きモーターが廻りだした。フランクフルトにあるドイツ支社の航務課を選び、|僥倖《ぎようこう》を頼りに呼出しベルを鳴らすキイを何度も叩いたが、当直制度がしかれていない相手方がこの時刻に応答するはずもなかった。そこで、ロンドン・ヒースローとフランクフルト両方の航務課を宛先にして、一方的にメッセージを打ちはじめた。
『緊急! 緊急! こちらテーゲル整備課のクッドル。この空港の様子がおかしい。五、六百名の落下傘兵が場内に降下しつつある。戦争が始まったのかも知れない……』
通信文をここまで打ち終えたとき、廊下と通じるドアがいきなり全開し、黒く光る自動小銃の銃口を先にして、三名の黒装束の男が踏み込んできた。
「やめろ! 壁際に向かって立て! 立つんだ!」
極めて明僚なドイツ語だった。男の一人はテレタイプの通信ケーブルと電源コードを、一気に壁のソケットから引き抜くと、取り出した大型ナイフで、それぞれの真中辺りをスパッと切り離した。
こんな風にして西ベルリン・テーゲル国際空港は、いつの間にか一発の銃声すら聞かれないままに東独軍降下部隊の支配下に入っていた。
米国占領下の西ベルリン南東部にあるテンペルホフ空港も、英国占領下の南西部にあるガトウ飛行場も、似たりよったりの状況下で交戦の音もなく十数分間のうちに、同じく東独軍降下部隊の手中に落ちた。
米英仏三国の西ベルリン駐留軍基地の場合は、不思議なことに、さらに平和裡に、砲声はおろか怒声ひとつ発せられずに、事が進行した。各国の西ベルリン駐留軍最高指揮官は、前日午後十時にSHAPEが発令した臨戦準備態勢の密命を承けて午前一時過ぎまでかかって万端の手配を整えたあと、基地外にある宿舎に戻りひと時の仮眠に入った。基地外の宿舎でベッドに入っていたのが不覚だった、といわれればそのとおりだが、いわば敵軍の真只中に常駐している西ベルリン駐留軍の最高指揮官たちにしてみれば、敵情については常にだれよりも肌身をもって知悉している、という自負があり、いってみればその自負が災いしたのだ。
たしかにSHAPEからは、ややヒステリカルな調子で臨戦準備を呼び掛けてきたのだが、その午後十時の時点では、自軍の参謀会議においても、三国軍副官会議においても、ただ一人として数時間の単位で東西ブロック間のどこかで戦闘状態が惹起される可能性を肯定する者はいなかった。臨戦準備指令が出された後直ちに、東ベルリン市内の動静についても、ベルリン市周辺部の動静についても、東独全土の動静についても、そして東側ブロック隣国の動静についても、|具《つぶ》さに検討されたのだが、「平穏」の一語につきる状態で、軍事発動の兆候を示す何ものも発見されていなかったのだ。また、ポーランド領内に留まっている十一個師団のソ連軍も、まだその時点ではなんの動きも見せていなかった。
さて、正午前二時、秒針の動きに合わせていたように正確に、各最高指揮官の宿舎の前の道路に、大きな白旗を車体の前部に掲げた暗緑色の軍用乗用車が音もなく停った。それから降り立った一人の将校、ドイツ民主共和国人民軍、つまり東独軍の軍装を身につけた将校が、宿舎の玄関のドアノックをかたかたと鳴らした。
彼らは東独軍から派遣された軍使だった。各軍使は如才なく相手の国語で流暢に喋った。例えば、一旦深く陥った眠りから頭脳が容易に醒め切れずに、突然の無躾な訪問者に対して、締め殺してやりたいほどの憤怒をようやく押さえているフランス軍司令官と対峙している軍使は、美しくて上品なフランス語で静かに語りかけた。
「わたくしの敬愛する司令官閣下。閣下がいま、どんなご気分であられるかは、わたくしにも明瞭に理解できます。したがいまして、無作法にもご熟睡の時刻にこうして突然お邪魔いたしましたことに、なによりもまず深くお詫びを申しあげなければなりません。
さて、無作法とは知りながらも、こうして参上いたさねばならなかったわたくしの行為については、それなりの已むを得ない理由があるのであります。実は、間もなく、まことに間もなく、東西両ブロック間に武力の衝突が発生する可能性が濃厚になりましたので、やむなくこうして突然にお話合いに参上した次第なのであります。
閣下。寛いだ雰囲気で忌憚なく意見を交換したいと思いますので、貴国のワインでも頂戴できれば、と希望いたすのですが、いかがでしょうか……。そのようなご気分ではないと? では……。
さて、現状を見ますに、このベルリン地区におきましては貴国側兵力とわが軍の勢力とでは、その格差が余りにも隔絶しているため、互いに戦端を開くのは、まったく無意味かと考えられます。いやいや、どうぞ最後までお聞きください。そこで、貴国軍隊が基地内に留まり、武器を手にしない限り、全将兵の生命の安全は保証されることをまずお伝えいたします。また、ベルリン市内にある貴国籍市民につきましても、現在の居住地を離れず、平和的な生活を継続する限り、もちろん、生命財産の安全が保証されます。
ただし、貴国のすべての基地に対しては、ただ今を以て「封鎖」の措置を採らせていただきます。つまり、許可なく離陸する航空機は撃墜されましょうし、基地外に出ようとする戦車軍用車は撃破されましょう。基地外に出ようとする兵員に対しても同様で、警告されることなく射殺されることになります。通信につきましては有線無線にかかわりなく、使用を控えていただきます。もっとも、有線についてはすでに全ケーブルが切断されておりますし、無線に対しては強力な妨害措置が取られているはずですが……。いかがです? 軍用電話がおありのようですな。お試しになっては……」
ようやく眠気が消え去りはじめたフランス軍司令官は、この不愉快な訪問者が現実の世界からやってきたことを次第に認識しはじめ、それと相対的になおも募ってきた憤怒に辛くも堪えて、部屋の隅の台の上にある軍用電話機の受話器を耳に持っていったが、たしかになんの音も聞こえなかった。
「いかがです? 切れておりますでしょう? ところで、窓の外を覗いてご覧になりませんか……」
カーテンを払い除けると、路上には、百二十五ミリらしい大口径の大砲をその窓に向けて集中している三両のソ連製T─72戦車がエンジン音を忍ばせて停っていた。車体の後部から夜気の中に吐き出されている白い排気ガスのリズミカルな動きだけが、戦車の各機能が活溌に作動していることを示している。
「貴国の基地も、いまやこのようにわが軍の機甲部隊によって包囲されているはずです。いかがでしょう? 無用な戦闘は互いに差し控えることにして、人命の犠牲を少なくするように努力されては……。そうそう、基地の方では通信線が切れているので、司令官閣下と連絡が取れなくて困っておいでだろうと思います。無用な戦闘は避けるよう、当直司令にご命じになっては……」
軍使は片手を上げて窓外に合図を送った。
「軍用電話のケーブルが間もなくつながりますので、それでお話しください」
受話器を取り上げた司令官の耳に、今度はたしかに電流が流れている音が聞こえた。電話口に出てきた当直司令が叫びだした。
「閣下、閣下! なにがなんだか、さっぱり判りません! 基地の周囲は、数百両の戦車にすっかり囲まれているんです。ソ連製のT─54とT─62です。T─72もいるようです。彼らはじっとしていますが、こちらから近づこうとすると、足元にライフルを撃ってきます。それにあらゆる通信系統が途絶してしまっていて、どことも連絡がとれません」
「落ち着くんだ!」
と司令官は一喝した。
「いいか、落ち着くんだ。情況が判明するまで軽率な行動は慎むんだ。いいな。わしもすぐそこへ行く」
傍で聞いていた軍使がすかさずいった。
「閣下、早速、現状をご理解いただけて感謝いたします。無為な損傷は双方で避けるべきで、おっしゃるとおり軽率な行動は千載に禍根を遺します。
さてと、武器弾薬の引渡しについてのお話合いは後刻煮詰めるといたしまして、基地にお出になる前に、ちょっと我われと同道願います。ではそのご用意を……」
まさに寝込みを襲われた形となった米英仏三国の西ベルリン駐留軍最高指揮官は各自の基地の当直先任司令に対して、
「情況が明らかになるまでは決して軽率な行動を取るべからず」
と、それぞれ一度だけ連絡を行なったあと、いずこかへ連れ去られて、開戦直前の約一時間、その所在が不明になった。その後彼らが基地に姿を現わしたのは、午前三時を期して東独軍が境界線を突破し西独領内になだれ込んだ後だった。
六カ月以上前に、作戦実行計画上のあらゆる想定を繰り返し検証しつくしたソ連は、秘かに「オペラシオン・ダモイ」の呼称の下に去る二月以来全ワルシャワ条約加盟国に命じて、侵攻偽装のための軍事演習準備を進めてきていた。しかし、ソ連の肚はワルシャワ条約軍の西側侵攻にあるのではなく、始めからその焦点を東独の西独侵攻に合わせていたのだ。
西側侵攻に踏み切ったとして、ソ連自身が世界の輿論を敵に廻さずにすむ最良の方策は、東西両独の武力紛争を「内戦」に見立てることであり、そのように世論を操作し得るそれなりの論理も編みあげた。端的にいえば、国際世論に対抗し得るこの論拠をクレムリンの心理戦略チームが編みあげたからこそ、最終的に西独侵攻を決意した、ともいえた。
その心理戦略チームが全過程で最も腐心した挙句、ようやく練りあげたのが「在西ベルリン三国軍対策」なる微妙かつ繊細なプログラムだった。
西ベルリンに駐屯する米英仏三国軍と東独軍との間に、開戦と同時に摩擦が発生した場合、事態はソ連が企図しているような東西両独間の「内戦」の域に留まり得なくなる公算が大きい。かといって、東独が西独と戦闘を開始し、それを中断し得なくなる以前に、戦端を開いたのはワルシャワ条約軍中自国のみで、しかも相手国は西独のみであることを東独が察知した場合は、東独内部の足並が乱れ侵攻計画の遂行が覚束なくなる惧れが強い。「自分自身をさえ完全には信用しないのがスラブ人」との譬えのとおり、ソ連は当然ブロック内の最優等生たる東独すら全面的に信用していなかった。六八年のチェコスロバキア制圧の際は、ソ連は参加した東独軍、ポーランド軍、そしてハンガリア軍の侵攻路に同勢力以上の自軍を随伴させることができた。しかし、今回の武力行動を東西両独間の「内戦」と設定したからには、東独軍にソ連軍を随伴させるわけにはゆかない。要約すれば、東独を戦闘に駆り立てつつ、しかも一方では、真先に東独軍の矛先を受けるはずの在西ベルリン三国軍との紛争を回避せしめる、という二律背反の二正面作戦同時進行のプログラムの完成が、実行計画作成に当ってソ連がなし遂げるべき絶対的命題であったのだ。したがって「在西ベルリン三国軍対策」のプログラムは分秒刻みの精度で作成され、時機到来と同時にプログラムに従って着実に実行される必要があった。
午前二時四十五分きっかりに、軍使に伴われた三国軍の各最高指揮官が到着したのは、東ベルリン市内のウンター・デン・リンデン通りに面して建っているソ連大使館の前であった。直ちに館内の一室に導かれた三人の最高指揮官を前にして、モスクワからプログラムによるところの任務を帯びてやってきていた特使は、十数分後に開始されようとしているのは、東西両独による「内戦」であること、またこの武力紛争に、ソ連は決して介入しない決意であること、を言葉丁寧に伝えたのだ。そして、現在、クレムリン─ホワイトハウス間の連絡が取られつつあり、米国大統領も不介入の意向であると、少なくとも現時点では見受けられる、とつけ加えたのだ。この会見が終了したのは時間を計っていたようにほとんど正三時だった。この時すでに東独第十三機甲師団は先陣を切って、ザルツヴェーデルとベーメンツィーエンの間の突出部で境界線を破り、西独侵攻を開始していた。
ともかく、ソ連の特使との会見が終り、再び軍使の車によって送り返された各最高指揮官は、途中、西ベルリン市内の姿を目のあたりにして身震いを感じた。それはまさに夢の中でしか起り得ないような瞬時の変貌だった。東独軍が市内に満ち溢れていた。兵員数はともかく、在西ベルリン駐留軍全兵力に数倍する戦車、火砲が、基地周辺を取り囲んでいたのだ。これらはすべて、ソ連が長日月を掛けて練りあげた「在西ベルリン三国軍対策」のプログラムに則って、実施されたことだった。
東独という赤い海に浮ぶ自由世界の孤島、西ベルリンでは、東西ベルリン間の壁の部分は別にして、東独そのものと接している境界線での警備は、東独市民を西ベルリン側へ脱出させまいとする東独側のみが、常時厳重な態勢を敷いていた。
数時間前まではベルリン周辺地区に駐屯していた東独軍第一、第二、第三機甲師団と第五、第七、第九機械化歩兵師団が、西側による警備の手薄なこの境界線を秘かに突破して、特殊ゴム履帯をキャタピラーに被せることにより音を殺した戦車群を先頭に、一斉に、しかもひたひたと西ベルリン市内に侵入していたのだ。
かくして街全体が眠りについている西ベルリンは、午前二時を数分過ぎた頃から、事実上東独側の勢力下に入りつつあり、二時半頃には西側諸国とはもちろん、市内相互の通信すらも、東独軍の手によって妨害工作が施され完全に途絶してしまっていたのだ。
午前二時十一分に、東独上空からマッハ一・〇前後の高速で接近してくる五十個ほどの機影が観測されたため、ドイツ連邦共和国内にある独米全戦術空軍基地に対して、スクランブル発進が指令されたことはすでに述べた。首相シュミットは、この時点を把えて、全土に空襲警報を発令せしめた。学校や庁舎など町や村の主だった施設の屋根に、前大戦以来そのまま取りつけられている黒く塗装されたサイレンが鳴りだし、その音は熟睡中の市民の夢を破り、寝着のままの人びとを戸外に跳び出させた。
「テロリズム防止法」による取締り実施が発動されていたことによって、予想外の波及効果が二つ生じていた。一つは、全国民の心理に非常事態に対応する身構えが無意識のうちに生まれていたことだ。二つ目は、さらに具体的な効果ではあったが、この時まだ国民も政府もそれに気づいていなかった。つまり、午前二時半頃に飛来するはずの「アムゼル」を誘導するために、東側が放っていた工作グループは、夜半過ぎに一斉に行動を開始した。だが、「テロリズム防止法」に基いて全国の主要道路網で実施されている検問の網に、彼らの大部分が引っかかったのだ。誘導作業に必要な無線機と自家発電機を車中に隠し持っていた彼らは、当然不審者として拘束され、警察署に連行された。検問の前に車を捨てて逃走した者もあったが、無線機を失った彼らは、結局「アムゼル」の誘導には失敗した。かくてヒルシュマイア中尉が心血を注いだ「アムゼル」の初舞台は、目標地点で待機するはずの誘導者の大半を失うという結果になった。だがしかし、東独側では開戦の決定とともに「アムゼル計画」は、午前二時を期して予定どおりに実行に移された。ユッターボークなど東独内三カ所の軍用飛行場を離陸した合計四十機のMi─21は両翼端に一個ずつ「アムゼル」を曳航し西方に飛んだ。彼らは高度九千メートル、速度〇・九マッハを維持し境界線の間際まで行き「アムゼル」を発射した後反転して帰途についた。
西独内二カ所のレーダーサイトが午前二時十一分に把えた機影は、この時「アムゼル」を空中発射したMi─21であり、十数分後にレーダー・スクリーンからすっかり機影が消えたというのも、決して監視員の誤認ではなかったのだ。
こうしてクレムリンと東独軍部内のクレムリン派が拵えた開戦プログラムに従って発射された八十機の「アムゼル」は、木材、グラスファイバー、それにナイロンコードで造られた機体を利し西側の精緻なレーダー警戒網を掻い潜り、空気を切る音だけを発して西へ西へと滑空し続けた。しかしながら、大部分の誘導員が検問の網にかかってしまい、接近時刻に目標地点で待ち受けることができなかったために、その数に対応する不運な「アムゼル」は、発射されたときのままの方角にひたすら飛び続けた。だが、やがて滑空力を失い山野や村落に墜落し、そのショックで自爆装置が作動して飛行爆弾のように爆砕した。そして、搭載されていた小火器、プラスチック爆弾、また地下グループの工作資金などは、粉々になって周辺に飛び散った。
そうはいってもすべてが無残に爆砕したのではなかった。半数弱の「アムゼル」は計画どおりに地下工作員の手により誘導され、回収されたのだ。誘導成功の兆候は直ちに現われた。例えば、ミュンヘンにおいては、『自由放送』と『自由ヨーロッパ放送』の名称の下に、ソ連と、そして東欧十一カ国向けに日夜西側の宣伝放送を実施していた施設が、修理不能と判定されたほど徹底的に何者かの手によって爆破された。また、ラムシュタインにおいては、派欧米軍の軍需物資備蓄倉庫の一部が爆破され、大火災が発生した。
「アムゼル」自身の墜落爆発と、「アムゼル」が運んできた武器と爆薬を手中に収めるのに成功した地下工作グループによる各地の重要施設襲撃は、全土の警察機構からあい次いでボンの国防省に報告された。それはおよそ午前二時半から四十五分の間だった。
その頃、シュミットは、ヒルシュマイア中尉と会見したあの部屋で机に向い、合衆国国務長官からの電話の受話器を耳に当てていた。ソ連がホットラインを使って伝えてきた通報によれば、東独がこの国をまさに侵攻しようとしている、という。それは東西両独間の「内戦」だとソ連は主張している、ともいう。合衆国は、NATO軍を出動させるのが、総合的に見て西側にとって得策か否かを熟慮中だ、と……。
シュミットは、想定していた事態の本質が百八十度転換したのを認識した。東西ブロックの衝突に際して、主戦場と化するに違いないこの国土をいかに護るべきか、この命題と同盟国側の勝利とをいかにして調和せしめるかが、たった今までの彼の最大関心事であったものが、いまや彼の国が同盟国のない唯一無二の当事者と化したのだ。相手の当事者は東独の名を借りたソ連そのものと考えるべきなのだ。なにゆえに、東西両独間の境界線に敷設されていた地雷だけが秘かに撤去されたのか、なにゆえに、駐留ソ連軍が東独に移動したあとのチェコスロバキアには直ちに補充がなされなかったのか、今にして明瞭になった。
受話器から流れ出している国務長官の長ながしい同情と激励の言葉、いい替えれば、一発の砲弾にも値しない外交言辞にはほとんど耳を貸さず、シュミットは心中すでに事態に対する対処方針を固めつつあった。
これは、万全の準備態勢を整えたソ連による自由世界への挑戦なのだ。初めは盤面の片隅でポーンとナイトの二人だけが戦うとしても、それはチェックメイト・キングに至るまでの最初のステップなのだ。自由世界が今や|現《あらわ》となった東側の実像を看破し、決断し、実力による対抗姿勢をとる時まで、戦争継続能力の損耗をできる限り回避しつつ、長期戦に持ち込んで持ち堪えるのだ。それまでは、国際世論を後楯につけ、外交交渉の場で勝利を獲得する以外に、相手を凌駕する武器はないのだ、と。
午前二時五十五分。彼は、「国家非常事態宣言」および「予備役動員令」を発したあと、参謀本部で総指揮を取っているブラント参謀総長と短い電話会話を交した。それがすむと、秘書官に、ボンへの特別機を即刻用意するように命じ、背を伸ばして坐り馴染んだ書斎の革張りの椅子から立ち上がった。
正午前三時。ドイツ連邦共和国領域を最初に侵犯したのは、エルベ河南岸地区上空に現われたドイツ民主共和国人民軍空軍だった。ソ連製戦闘機Su─7フィッター約八十機は、森林地帯を舐めるような超低空で出現し、無造作に越境すると、境界線以西三十キロメートルの範囲を、索敵のためにさらに低空で飛び廻った。彼らの爆音が轟く下を、標識からして人民軍第十三機甲師団に所属すると見られるソ連製最新型戦車T─72九十両が、T─62および54の混成群約三百両を後に従え、森林地帯の中に延々と続いている境界線の横腹に向って驀進してきた。その地鳴りに追い立てられて、所狭しと密生している痩せていて背の高い針葉樹の間を、まるで野火から逃れようとしているかのように無数の鹿や狐、兎やリス、そして足の遅い針ネズミまでが境界線に向って殺到し、フェンスで阻まれると右に左に逃げ惑った。湿原が多いこの一帯の六月下旬の朝まだき、低く漂泊する靄が枝葉にまつわりつく樹々を押し倒し、戦車群は動物たちを気にも留めず、自らが営々と三十年の歳月をかけて構築してきた境界線フェンスを、北緯五十二度五十四分から五十九分の間、約十キロメートルにわたって破砕すると、轟々たるエンジン音を周辺に轟かせて侵攻を開始した。
彼らは時速六十キロメートルの高速で、森林を抜け湿原を渡り、また森林に入り湿原に出て、やがて平坦な牧草地帯に達したとき、先頭の車両から順次停止して集結し、時を移さず九両ずつの横隊になり、再び前進を開始した。九両ずつの四十五隊は緑青色の鋼鉄でできた一個の巨大なキャタピラーのように見えた。その幅は約五十メートル、長さは延々と九百メートルにも達していた。この巨大なキャタピラーの進路の延長線上にはリューネブルクの街があり、このままの速度でエルベ南岸を制圧しつつリューネブルク荒地に進出しようとする構えと見えた。そこにはドイツ連邦陸軍第101および第104戦車師団の基地があり、最新型戦車レオパルトだけでも約五百両が駐屯している。「戦車の巣」と呼ばれているこの荒地に突入し決戦を挑むつもりか、またはこの戦車群の動きを牽制するつもりなのか。いずれにせよ、北部地域戦闘行動の最終目標はハンブルク攻略にあることはいうまでもない。
彼らが国道493号線を横断しエルベ南岸線に沿ってダンネンベルク町に接近したとき、組織的抵抗に初めて遭遇した。視界外から発射される大口径砲弾が周辺に落下しはじめたのだ。彼らはそこで前後左右の車間距離を二倍に広げた。その頃ようやく戦場に到達した連邦空車のF─104とSu─7が、中高度で空戦を開始した。格闘しているのは、彼我合計約五十機だった。
ほとんど同時刻に、極言すれば河川沼湖断崖に拠るところ以外の、すべての境界線から東独軍が溢れ出てきた。それはまさに溢水がついに堤防を決壊して流れ出したような勢だった。だが、自ら敷設した地雷を事前に撤去した境界線を踏み破って、所構わず侵入を開始した東独軍にも、各々明確な指向性が備わっていることが時を経ずして判明した。それらはNATO軍司令部が想定していた侵攻系路とほとんど合致していた。すなわち、南部方面に対してはホーフ回廊侵攻系路であり、中部方面においてはフルダ地峡侵攻系路を採っていた。そして北部方面においては北ドイツ平原地帯を、絨緞を巻き取るようにして侵攻しようと企てているように見えた。
午前三時十五分。連邦軍参謀本部は早くも侵攻軍団の勢力配置をほぼ正確に掌握した。
フルダ地峡侵攻系路を採っている軍団の主力は、チェコスロバキア侵攻の際、ソ連第二十軍に随伴してプラハ制圧に勲功があった第七機甲師団で、最終目標は首都ボンを占拠することと見られ、ボン周辺の工業地帯ならびに人口|稠密《ちゆうみつ》地帯での厚い抵抗線との戦闘を予想してか、第八機甲師団ならびに第六、第八機械化歩兵師団を随行させていた。
ホーフ回廊侵攻系路に現われたのは、第四、第五、第六機甲師団の戦車群約一千百両と、第一、第二、第三機械化歩兵師団の兵員約三万三千で、間違いなくミュンヘン、シュツッツガルト、フライブルクを目標にして西南進を開始した。
北ドイツ平原侵攻系路の主力は、前述の第十三機甲師団のほかに、ラーツェブルク森林地帯から滲出してきた第十一機械化歩兵師団、それにいきなりリューベック突入を図った第十二機甲師団と第十機械化歩兵師団で、エルベ北岸を制圧しつつ北側からハンブルクを押さえる構えを見せていた。
こうして東独軍は打ち込んだ三個の楔でドイツ連邦共和国西側国境線に達するまで一と息に衝き、比較的に南北に長いこの国を四つに分断した後で楔との間隙を次第に圧縮してゆこうとする作戦を採っているように見られた。
一方、偵察衛星サモスが送ってきたデータに基き、SHAPEが東独内軍備の動静を解析したところによると、全地上兵力の約二分の一に該当する各七個師の機甲師団および機械化歩兵師団が、第一次侵攻軍としてドイツ連邦共和国内に投入されたあと、残る二分の一もあらゆる鉄道網、道路網によって、西部方面に向けて刻々と移動しつつあった。この事実は、第一次侵攻軍に対する後衛補充の措置としては、余りにも極端に片寄った兵力配置であると見られた。だが、さらに十五分が経過した時、東独内軍備の全貌が浮び上がってきた。ポーランド領内から午前零時を期して東独東部リーベローゼ市附近へ移動し集結していた十一個師の機甲部隊と、北部のシュトラールズント海浜地帯に昨夜半揚陸された、それぞれ約百両のミサイル戦車を帯同する四個師の機械化歩兵師団、併せて約十五万のソ連軍が、前述の如き東独軍の動きに連動して電撃的に分散移動し、東独部隊出動後の防衛間隙を埋めつつあった。
全地球規模をもって外濠から埋めてきたソ連としては、NATO軍参戦の可能性については、かなり低く見積っていたのに違いない。だが、ドイツ連邦共和国内ならびに西ベルリン地区に駐屯している米英仏三国軍が、緒戦の混乱の中で偶発的に戦闘行動に|奔《はし》るという可能性については、かなり高いと考えていたものと思われる。したがって東独内各地に散って防衛間隙を埋めたソ連軍十五個師団は、米英仏三国軍によって補強されたドイツ連邦軍による反撃に遭遇した際の、東独軍支援態勢であろうと解された。いずれにせよ、行動開始から配置完了までのソ連軍の動きはまったく素早かった。再三再四、彼らがリーベローゼ附近を基点として西方に向けての移動演習を、繰り返し実施していたのはこの日のためであったのだ。
さて、以上の結果、現在東独内にある地上軍は、SHAPEが算定したところによると、東西ベルリン内にある東独自身の六個師四万五千の地上軍のほかに、常時駐留軍八個師と前述の支援十五個師を併せて、二十三個師約二十五万もの厖大なソ連地上軍が存在することになった。
さらに十五分後、つまり侵攻開始から四十五分が経過した午前三時四十五分、東独軍は、ダンネンベルク周辺において、ドイツ連邦軍砲兵部隊の大口径砲ならびにロケット砲による反撃に晒されているという例外を除くと、各地区で小火器による非組織的抵抗に遭遇するのみで、各軍団とも着々とドイツ連邦共和国内を、ほぼ西に向って前進していた。すでに東独軍の勢力下に入ったものと見なされる主な都市は、リューベック、ラーツェブルク、ラウエンブルク、ダンネンベルク、ヘルムシュテット、バート・ヘルスフェルト、コーブルク、そしてホーフだった。
平均前進速度は約二十五キロメートル時と算定され、ほとんど抵抗に遭遇していないにしては遅々としていた。その理由は、境界線近接地帯には道路網が不備な森林原野が多いということもあるが、緒戦のために防衛側の対応が判然とせず、陥穽にはまるのを警戒した各指揮官が、自ら速度を押さえたためであった。緒戦におけるこの低い前進速度は、裏返して見ると、防衛側にとっては貴重な拾い物となった。境界線に接し、かつバルト海への門戸であるために、連邦陸軍ならびに国境警備隊の常駐部隊が置かれていたリューベック市を除くと、侵攻開始時、境界線から十五キロメートル以内には一兵たりとも連邦軍は配置されていなかったのだ。連邦陸空軍は、最初のこの四十五分間に最小単位の戦闘態勢を整備し得て、各基地から反撃に出動しはじめた。
転じて、NATOはこの時点になっても動き出す気配を見せなかった。同盟国は参戦しない、と早くも見極めをつけた首相シュミットは、その趨勢を逆用し外交上の最初の勝利を収めた。参戦しない場合には非当事国の立場にある米英仏三国を説得し、東独に対して、ドイツ連邦共和国内に存在する三国の軍事基地が攻撃を受けた場合には、実力による報復も辞さない、と通告せしめたのだ。これに対して東独からは何ら確認がなされなかったものの、東独軍、特に連邦空軍基地を攻撃しようと企てる東独空軍の行動に対して、明らかに手枷をはめる効果をもたらした。なぜなら、ほとんどの連邦空軍基地は、三国の空軍基地のいずれかと、共用かあるいは隣接していたからだ。
シュミットが、かくも迅速にNATO諸国は参戦し得ないであろうと断定した最大の根拠は、北海において先手を打ったソ連の態勢にあった。スカゲラーク海峡入口に碇泊していたキエフは、午前一時に抜錨して全速力で南西に向い、北海中央部に達すると再び停止投錨した。このキエフを中心に、ムルマンスクから南下し同海域で合流した戦艦二隻を含む北洋艦隊の十一隻が輪型陣を張った。恐らく相当数の潜水艦も同海域に潜んでいるものと見られる。
午前三時を期してキエフの飛行甲板から垂直離着陸戦闘機フォルジャー約二十機、対潜ヘリ、ホルモーン十数機が一斉に舞い上がり、北海全域、特にヨーロッパ大陸北岸を重点的に哨戒しはじめた。その後すぐ、バルト海から出てきたフォルジャー四十機がこれに加わった。ソ連は自らの宣言どおりに、実力によるドイツ連邦共和国に対する海空路封鎖の挙に出たのだ。今やキエフは、西ヨーロッパのいずこにも軍事的足場を持たないソ連の、海に浮ぶ航空補給基地と化し、封鎖司令部となったのだった。これが、キエフを急遽呼び戻したソ連の秘匿した意図であり、キエフが取った奇矯な行動の答であったのだ。
さらに時を追うにつれ、バレンツ海から南下してくる長距離偵察爆撃機バジャーとベアの機数が、急速に増大した。バルト海上にも雲霞のような数のソ連機がわが物顔に飛行しはじめた。
かくして、ドイツ連邦共和国の北限は、ソ連の手によって制海空権を瞬時に握られてしまい、当事国たるドイツ連邦自身でさえ、それとの摩擦を躊躇するほど、実力行動によるソ連の意思表示には厳然たるものがあった。ましてやまだ局外者である他のNATO諸国が、現況下で敢えてソ連と事を構える勇気を持ち合わせているはずはない、とシュミットは国家心理を読んだのだった。
シュミットのほかに、開戦前後の数時間、地球上でもっとも忙しい思いをしているもう一人の男がいた。ドイツ連邦軍参謀本部のユルゲン・ブラント参謀総長だった。昨夜の深更ようやく完成した戦略戦術の基本計画が、午前三時直前になって突如として|反故《ほご》になったのだ。当然基本計画は、NATO軍対ワルシャワ条約軍としての兵力対比を前提に立案されていた。それによれば、エルベ河以北では連邦軍の歩兵と空軍、それに英軍の戦車と砲兵が、エルベ以南の中部では連邦軍の戦車と砲兵と空軍、それに米軍の歩兵と対戦車部隊が、南部では連邦軍の歩兵と砲兵と空軍、それに米軍の戦車と対戦車部隊が、それぞれ中核を形成し、中部と南部との間隙を仏軍の機械化師団が、その高速移動性能を利して埋めることになっていた。そして、各戦線では適度な抵抗を示しながら後退し、防禦線構築に有利な地点まで敵の主力を誘導する。そしてそこでNATO軍の基本配置が完了して、反攻に転じ得る時までの約二十時間を持ち堪える。したがって現在国土の中にある全兵力でこの二十時間を戦い抜くのが使命であったのだが、|掩護《えんご》の主力と期待されていた二十万の駐留米国陸空軍も、フランスの機械化師団も、英国のチーフテン戦車軍団も、今や突然味方のリストから消えてしまったのだ。しかも二十時間を連邦軍だけで戦い抜いたとしても、も早外部から援軍がやってくる当てはなくなった。
かくして各所に突如発生した防衛線上の切れ目をどうにかして繕うのが、ブラントに課せられた最初のもっとも困難な仕事になった。彼は、幸い「テロリズム防止法」発動によって全土に交通渋滞が見当らないのを神に感謝しつつ、砲兵師団を北へ、歩兵師団を南へ、戦車師団を東へ、補給司令部を西へ、と防衛線の厚みが低下するのを覚悟しながら移動させていた。その最中に首相シュミットから緊急電話がかかり、
「戦力を温存し、かつ長期戦化を図れ」
と命じられたのだ。彼は直ちに各接触面の現況を点検した。しかし、いずこの戦線も東側が一方的に優勢で、味方兵力を割愛して温存し得るような余力は全く見当らなかった。たった一つの例外は、フルダ地峡侵攻系路に拠って西北進を企てている東独第七機甲師団を迎え撃たんとして、全兵力を挙げて南下しつつあるものの未だに敵勢力と接触していないカッセル駐屯の第10戦車師団があるのみであった。
三個の尖頭隊形で西進および西北進を企図している東独第七機甲師団が、西北進に比して西進を阻まれているのは、ヴュルツブルク駐屯の第12戦車師団がアウトバーンE70の線に沿って展開し、フランクフルトおよびマンハイムへの敵の接近を一分でも遅らせようと善戦しているためだ、と見て取った彼は、中部工業地帯の東側にあって自然の障壁を成すヴェスターバルト山岳地帯へ敵を誘導しようと考え、第10戦車師団に対しては直ちに前進停止を命じ、後退して、境界線より西方八十キロメートルのヴェスターバルト山岳地帯東麓にあるヴァルデック森林の中に集結潜伏するようにと指示せしめた。
続いて彼は、長期戦化を図れ、というもう一つの首相の意図に沿うために、対応措置の立案にかかった。現下の状況を見るに、これを長期戦態勢に転ずるためには、未だ敵と接触していない地上兵力を、無傷のうちに一刻も早くライン河以西に後退させ、鉄道網を破壊し、橋梁を落し、都市を焼き払い、通信網を寸断して敵の組織的前進を阻み、そして全土で市民を巻き込んでゲリラ戦を展開せざるを得ないだろう。その結果、厖大な人的犠牲物的損害が発生するだろうが、これ以外の道はない……。
決意を迫られた彼の脳裡に、数十年間沈潜していた青年期の鮮烈な記憶が突如浮上した。それは一九四四年十月二十一日のことだった。初めてドイツ本土本来の都市アーヘンが米軍によって占領されたと報らされたときの記憶だ。勝利の確信を現実を以て裏切られたと知ったその時、身中に感じたわななきが、今再び彼の脳裡に甦ったのだ。
完全な敗北への日々の記憶はさらに続く。翌年三月六日までに米軍は、ミュンヘン、グラバッハ、クレフェルト、そしてケルンの線まで進出してきた。三月二十三日には、米英連合軍はレーズとヴェーゼルの間でライン河を越え、エッセン、ドルトムントなどの工業地帯を指呼の間に収めた。四月九日には、ソ連軍はケーニッヒスベルクを、そして十三日にはウィーンを占領しベルリンに迫った。それから一カ月も経たぬ五月二日には、ベルリン守備の全軍がソ連のジューコフ元帥麾下の部隊に降服した。翌三日にはハンブルクが、五日にはドイツ全北西地区とオランダ、デンマークに残って戦っていたドイツ軍が、英国のモントゴメリー将軍に降服した。七日までにプラハ=ピルゼン=リンツ=ミュンヘンの線を固守していた最後のドイツ軍団が米国のデバース将軍に降服した。その翌日、数時間前まで在ベルリン総軍司令部作戦部長の任にあったドイツ陸軍ヨーデュル上級大将が、フランス、シャンパーニュ地方の都市ランスの小学校に設置されていた連合軍前進総司令部の一室に赴き、全ドイツを代表して署名した無条件降服文書を、アイゼンハウワー将軍に手渡した。一九四五年五月八日、火曜日、午前二時四十一分だった……。もし仮に、たった今始まったこの戦いに敗れた場合、だれが降服文書に署名するのか……。
ブラントは、無意識のうちに自身に忍び寄った敗北の予感を振り捨てるかのように勢よく立ち上がると、自室を出て|地下壕《ブンカー》の中にある作戦室に降りていった。そこでは無線機のスピーカーから溢れ出す、砲弾を! 銃弾を! ミサイルを! 航空機を! 戦車を! 兵員を! 燃料を! 砲を! と求める、各接触面で熾烈な戦いを演じつつある部隊からの悲痛な声が、絶え間なく天井と四囲の壁に反響し渦巻いていた。
攻撃側に比して防禦側が極端に非力な場合は、防禦側は自己の意志で後退することすら困難になる。ひと度敵に後を見せたが最後、たちまち追いすがられ、のしかかられ、蹂躙されて、部隊組織の欠けらすら残らないほどに粉砕されてしまうからだ。各前線部隊は今、死力をつくして戦い、その戦力を過速度的に削り取られつつ、敵に押されるがままに後退しているのだ。戦闘部隊の苦痛がもっとも極まるのが、現在のような情況下であるのをブラントは知っていた。早急になんとか対策を立てなければ、と彼は焦った。もし、すべてを投入することが許されるなら、眼前の敵と互角に渡り合えるだけの戦力はある。だがしかし、その後は……。
このとき、ちらっと彼の頭脳に閃いたものがあった。
「米軍のCH─53とUH─1Dは国内基地に何機ある? それから仏軍のPAH─1は?」
彼は傍に随いていた参謀の一人に調査を命じた。答は一分ばかりで返ってきた。
「米軍ヘリは、合計約四百、CHとUH、ほぼ半数ずつです。仏軍がこっちで持っているPAH─1は二十機足らずですが、本国には約二百機はあるだろうといっております」
彼は頷くと急ぎ足で自室に戻り、受話器を取り上げて、ケルンにあるコンラッド・アデナウワー記念兵営にいる連邦陸軍航空司令官ハンス・ドライビンク将軍を呼び出した。
「将軍! ブラントです。いよいよあなたの出番ですな。存分にあなたの理論を実績で証明していただけませんか?」
「対戦車ヘリ連隊の効用。そうですな?」
「そうです。首相が長期戦化を図れ、といわれるんです。しかし、わが方の損耗を押さえつつ敵の進出を遅らせるには、全土の交通系統を寸断しなくてはならない。ところで橋の袂に|擱坐《かくざ》している戦車などというのは恰好の障害物とは思いませんか?」
「それで? わたしが貰えるのは?」
「全部です。PAH─1を百八十とBO─105のMとPを合わせて二百です。そのほかに友軍からCHとUHを四百ばかり獲得してお目にかけます」
「では早速出かけましょうかな。手始めにどこから?」
「エルベの北です。境界線までの懐が浅いハンブルク周辺です。期待していた英軍のチーフテンとセンチュリオンが動けないので、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインのF─4EFとF─104がようやく制空権を確保している程度で、地上では全戦線で苦戦を強いられています。同時にエルベ南岸沿いにリューネブルク荒地に向っている第十三機甲師団を叩いてください。成功したらリューネブルクの戦車師団はできる限り温存しておきたいのでブレーメンまで下げるつもりです。
ところで将軍。私の予感では、あなたの対戦車ヘリ連隊がこの戦争の花形選手になりそうなんだが……。参謀本部に来て、私の指揮に協力してくれませんか? ヘリの運用の方を頼みたいんだが……」
「ま、ひと働きしてから、そっちに廻りますよ。それより、対戦車ミサイルの補給の方は大丈夫なんでしょうな?」
タンク・キラーと呼ばれて恐れられている米軍対戦車ヘリ部隊の場合は、最小単位の飛行分隊にすら観測指揮専任の一機がおり、各ヘリはその指揮に従って組織単位で行動する。しかし、ドライビンク将軍が編み出したドイツ連邦陸軍対戦車ヘリ連隊の方式は、戦場に到達すると、各機の乗員の判断によって個々のヘリが自由に行動する。この点が米軍方式と基本的に異っていた。三機から成る飛行分隊二個による小隊に、小隊長機がつき、この七機単位の小隊四個で二十八機の大隊が構成され、二大隊五十六機に五機の観測指揮機が加えられて一つの対戦車ヘリ連隊が編成されている。
「対戦車ヘリの乗員は闘牛士のようなものだ」
と、将軍は部下に対してよく話した。
「そこに行けば、どこに牛がいるのか、ひとに教えられなくとも判る」
ただし、乗員は、装着されているFMラジオ二個、VHFとHFラジオ各一個によって戦場に到着するまでの数十分間に、最前線の友軍、地上軍の後方司令部、あるいは空中にある友軍機と自由に交信して戦況を掴み取る。それを基礎にして一人一人の乗員が下した判断に基き、連邦軍の対戦車ヘリは活動するのだ。さらに、将軍の対戦車ヘリの特徴は、ヘリ自体が米軍のそれに比して軽量小型なことだ。防護機器、例えば、敵の地対空ミサイルが出す電波を早期に察知する、警報装置のようなものは一切装着されていない。
「そんなものを着けておいたって格闘戦に入ったら、わたしの部下はうるさがってスウィッチを切ってしまうでしょうよ。それに、我われのヘリが飛んでいる場所はいつでも祖国の上なんだ。撃たれたらどこへでも降りればいい」
戦意旺んな対戦車ヘリの一群が最北部の戦場に到着したのは午前四時、東独軍侵入後一時間が経過していた。すでに六月末の太陽の光は朝日から昼間のそれに変りつつあった。境界線に接しているリューベック市を席巻した第十二機甲師団ならびに第十機械化歩兵師団は、国道206号線沿いに西進し、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州の州庁舎があるバート・ゼーゲベルクに迫っていた。例の爆発事故があった境界線を突破して、ラーツェブルク周辺を勢力下に収めた第十一機械化歩兵師団は、エルベ・リューベック運河東岸の線で、転進したリューベック駐屯連邦陸軍と国境警備隊との連合による猛烈な反撃に阻まれて釘付けになっていた。
森林と平野部が交互に織物のように組み合わさっているこの一帯に、早朝の空気に不釣合いに空高く立ち昇る純黒の煙が数十本、微かな北西風を受けて同一方向に棚引いていた。すべてそれらは地上に点々と転がっている彼我の戦車や航空機の残骸から湧き出しているのだ。
「オーケイ、今だ。狩人諸君! 襲いかかれ!」
無線機からドライビンク将軍の怒声が流れた。二個連隊約百機のヘリが散開し、各々の獲物目がけて舞い降りていった。HOT対戦車ミサイル六発を発射し終るには十分とかからない。四時十分になったとき、どれだけの戦車が残り、どれだけのヘリが撃墜されているか。
ダンネンベルクを制圧し、エルベ南岸沿いに北西進しようとしている第十三機甲師団に対し、連邦軍はニーダー・ザクセン州にある全地上兵力を結集して対抗していた。一旦は敵の勢力下に陥ちたラウエンブルクを、第101戦車師団の一部が進出して再確保した。この地点でエルベを渡河されると、北部のエルベ・リューベック運河の東岸にいる敵と南北に連携されることになる。したがって、この地区の連邦軍は敵をエルベ河畔から引き剥すのに苦闘していた。
午前四時五分、エルベの下流から河面すれすれに、堤防の土手の蔭に隠れて飛んできた約五十機の対戦車ヘリが、エルベ河畔を背負うようにして戦っている敵戦車群二百数十両の後面を突然衝いた。気づくのが一瞬遅れた敵に対し、それぞれ十数メートルの近距離まで接近してから発射した初弾のミサイルが全弾命中したらしく、飛び抜けたヘリの後方で四、五十両の戦車が一斉に紅蓮の炎と黒煙を噴き上げて炎上しはじめた。中高度の上空で、F─104十数機と格闘戦に入っていたSu─7フィッター数機がこれを望見して、戦車群を救わんと急降下し、低空を飛び抜けざま、ヘリの群に対して機関砲を乱射していった。三機のヘリがエンジンのどこかを破壊されたらしく、ローターの回転をゆっくり止めて地上に墜ちた。フィッターを追ってF─104数機がほとんど垂直に急降下し、低空を行く敵機を追尾しながらバルカン砲を発射した。東独側の装甲輸送車からヘリとF─104の双方を狙って赤外線追跡ミサイル、ストレーラが続々と発射されはじめた。残りのヘリはこれらの反撃を無視し、六発のミサイルを発射しつくすまで決してこの場を離れまいと、戦車群の周辺上空をまるで花畠を発見して勇み立つ蜜蜂のように乱舞していた。こうして時間が経つにつれて、エルベ南岸地区は彼我入り乱れての修羅の巷と化していった。
フルダ地峡侵攻系路から侵入してきた戦車群は、多数の地上支援戦闘機の援護下で、機械化歩兵師団を前後に配してアウトバーンE70沿いに着実に前進していた。防衛側の連邦軍は、前進する敵を阻もうとすれば上空から攻撃され、対空戦に転ずれば、地上の敵の前進を許すという苦戦を繰り返しつつ後退を余儀なくされていた。従って敵軍は一帯が網目のように複雑な道路情況で、全般的には起伏が激しい山岳地形であるにもかかわらず、境界線からすでに四十キロメートル以上進出し、アウトバーンE4とE70の合流点を勢力下に収めていた。
ホーフ回廊侵攻系路から侵入した戦車一千百両と地上兵力三万三千は、同じく地上支援戦闘機の援護の下に、アウトバーンE6と州道2号線を利用して高速度で南下し、すでに楽聖ワグナーの街バイロイトをほとんど無血占領したあと、さらに南下を続けていた。この方面においては、連邦軍は地上兵力の不足から空軍だけを投入して戦っていた。しかし空からの攻撃だけでは、一千百両の戦車と三万三千の地上兵力による、|万力《まんりき》で締めつけるような力を、一秒たりとも阻止できなかった。
午前五時。開戦から二時間が経過した。緒戦に際して、米英仏軍の後楯を突然失った連邦軍は、兵力配備のうえではなはだしい不均衡に陥ったまま、未だ充分に態勢が整備されていなかった。砲兵が必要なところに工兵がおり、工兵が必要なところに通信兵がいた。また、弾薬が必要なところに医薬品があり、医薬品が必要なところに食糧品があった。しかし、「テロリズム防止法」発動の効果によって、幹線道路の渋滞が全国的に解消されていたことと、自家を捨てて避難しようとする人びとが予想外に少ないために、兵員武器物資の移動が容易に実行できて、防衛力の展開は徐々にだが改善されつつあった。
一方、各自に指定されている兵営に、「予備役動員令」が発令されたことを知って、自ら車を駆って参集してくる中年前後の市民の数が刻々に増大し、練兵場の一部や本部の建物に通じる通路の両側は、色とりどりの自家用車の駐車場と化していた。また各地の鉄道が定刻に動き出すとすればだが、それによってさらに多数の予備役の将兵が集まってくるはずだと軍は期待していた。兵役終了後でも人びとは定期的に軍事訓練を受けており、その度に次回に参集するときに使用する交通クーポンが渡される。有事に際し兵営に駆けつけてくる市民たちは、そのクーポンに区間を記入し署名するだけで、国中のどの交通機関でも使用できる。私鉄もバスも連邦鉄道も、後刻これらの運賃をクーポンを添えて、連邦政府に請求する仕組になっている。
午前五時十五分。合衆国国連大使が国連事務局に対し安全保障理事会緊急会議招集の要請を行なった、という通報がシュミットのもとに届いた。だがシュミットはそれによる事態の好転をほんの僅かでも期待しなかった。恐らく行なわれるであろう紛争即時停止勧告の決議にも、国連軍急派の決議にも、拒否権保持の一国ソ連が即座に同調するはずがない。ソ連がもし、単に会議に欠席して明確な反対意思の表明を避けるか、或いは、出席してこれらの決議に対して積極的に賛意を表明するときが来るとすれば、確実にそれは、この国のほとんどが東側の戦車の轍に蹂躙されてしまった後だ、とシュミットは考えていた。
午前五時四十分。一通の調査報告書が北方の第三国を経由してシュミットの手に届けられた。昨夜ヒルシュマイア中尉なる人物が、ホーネッカー書記長の親書だと称する文書を彼のもとに提出した。彼はその夜のうちにこの文書の真偽ならびに経緯の調査を命じていたのだ。その報告書は、当該文書は九十九パーセントの確率で本物だと推定される、と述べていた。また、一昨夜の九時頃、クレムリン派軍人グループによってホーネッカー一派の秘密集会所が急襲され、ホーネッカーらは逮捕され、いずこかに幽閉された模様につき、文書作成の経緯をこれ以上追及するのは困難である、とも述べていた。
シュミットは、ホーネッカーがクレムリン派によって捕えられたこと自体、親書の内容が真実であることを裏書きしている、と感じた。彼は改めてもう一度、親書の中に書かれていた箇条書きを反芻してみた。
『……ひとつ。貴国側が先行してそれを使用しない限り、わが国はいかなる核兵器をも使用しない。
……ふたつ。貴国側の武力行使がそこに拠らない限り、わが国は軍事施設以外には直接攻撃を加えない。
……みっつ。開戦の後、十二時間を経過したとき、私は、ドイツ民主共和国のすべての国軍に対し、全戦線に亙って一切の軍事行動を三十分の間中断せしめる。閣下はこれを以てわが国政府の……』
シュミットは壁面の時計を仰ぎ見た。六時になろうとしている。開戦後すでに三時間が経過した。箇条書き「一」のとおり、核兵器は未だ使用されていない。「ふたつ」目は? 彼は早速秘書官に命じて参謀本部のブラントを電話口に出させた。
「どうかな? 戦況は」
「思わしくありません。幹線道路と鉄道のうちまだ使えるものを最大限に活用して兵員ならびに武器弾薬を移動し、全接触面の戦力の均衡化を図りつつありますが、兵員の絶対数が今のところ不足しております。敵機の攻撃限界が次第に伸びてきておりますので、この移動作戦そのものに障害が出はじめております。こんなわけで、喜び勇んで首相閣下にご報告申しあげられるような戦果は、今のところ一つとしてありません」
「今後の見通しは? 現時点で述べるならば、でよいのだが」
「大勢においては、この事実だけは申しあげられます。敵の戦闘能力は現時点が最高潮であり、東独国内の予備戦力ならびに一線部隊への補給能力にそろそろ限界が見えてきておりますので、彼らの戦闘形態が現状のままだとすれば現在の進度をいつまで維持できるかはなはだ疑問である、ということ。それに引き替え、我われの戦闘能力は現状が最低であるといえる、ということであります」
「なるほど。先の方には幾らか楽しみがある、ということか?」
「はい。しかしながら、敵がいずれ攻撃の主力をミサイルならびに航空兵力の方に切り替えることも予想されますので、わが方の迎撃ミサイル部隊の配置を再検討しているところであります」
「なるほど。ところで、敵はわが方の軍事施設以外も容赦なく攻撃してきているかな?」
「と申しますと?」
「例えば、民間施設や一般市街地を砲爆撃するとか……」
「北部と中部ではわが方も比較的に善戦している結果、いわば混戦状態にあります。ということは、わが方も軍事施設に限らず、あらゆる地形あらゆる防禦物に拠って応戦しておりますので、敵の方も当然それらに砲爆撃を加えてきております。ホーフ回廊から南部に向って進出してきている敵は、わが方の抵抗があるなしにかかわらず、つまり地上軍が接触する以前に、大口径砲と爆弾でわが軍の後衛を叩き潰そうとする戦法を採っているようであります。そうしておいてまず戦車が出てくるのでありますが、街の中央広場の教会堂ですら戦車砲で破壊してから前進してくる、という報告を受けております。一般市民に犠牲者が多く出ているのは、従いまして南部なのであります……」
シュミットは考えた。
「……とすると、ホーネッカーの言葉は守られていないように見える。彼が捕えられてしまったために、親書による提案は無効になってしまったのか?
幽閉されているホーネッカーを救出し復権させることができれば或いは……」
ヴォルフ・グリュナート退役少将が率いる例の特殊部隊「九月の雪」の存在を、彼は脳裡にちらっと思い浮べた。
「……だが、ブラントがたった今話していたように、わが方は深刻な兵員不足に陥っているのだ。恐らく『九月の雪』に属する優秀な隊員たちは、今やすでに各自の原隊に復帰して、一人一人が戦闘員となって面前の敵と戦っているに違いない……」
シュミットが、特殊部隊「九月の雪」を使ってホーネッカー救出ができないものか、と考えていた時、ドイツ民主共和国側においても、書記長ホーネッカーらを救出せんものと、全知全能を傾けて策を練っている男がいた。リッターだ。すでに書記長らが捕えられている場所を探り出した彼は、西ベルリン占拠軍団の中に組み込まれている、第五機械化歩兵師団の師団長ヘルマン・シュラーダー上級大将と、直接接触できる機会を狙っていた。
一昨夜、ホーネッカーと志を共にする主だった者が全員旧リッター男爵邸に集合していたところを、クレムリン派が指揮する部隊に急襲され、ある者は交戦中に死に、ある者は捕えられ、またある者はリッターのように包囲網を掻い潜って脱出した。祖父の館であったために勝手を知っているリッターは、脱出直前に地下一階に設置されていた作戦室に駆け込み、天井を走っている暖房用燃料パイプを破壊し降り注ぐ軽油に点火した。書類も地図も図面も、幾らかの武器も通信機もたちまちひどい黒煙を上げて燃えはじめた。彼が身につけて持ち出したのは、メンバーの人名簿だけだった。その中から彼はシュラーダー上級大将を、書記長ら救出の最適任者として選んだのだ。
その機会は、西ベルリン占拠軍団への連絡将校役を彼が買って出た、午前六時にやってきた。
独り高速野戦連絡車を駆ってウンター・デン・リンデン通りを西に向い、東西ベルリンの境界にあるブランデンブルク門をくぐって、生まれて初めて西ベルリンに入った彼は、地図に従ってテンペルホーフ空港に展開している軍団司令部に赴いた。彼は、各三個の機械化歩兵師団と機甲師団から派遣されてきている六名の師団参謀に対し、
「戦況が計画とほとんど齟齬せずに進捗していること、ならびに、在ベルリン米英仏国軍を拘束しているがゆえに西側諸国の態度が次第に硬化してきていることからして、すでに充分に所期の目的を達成した貴官らの全軍は、一時間以内に西ベルリンから撤退することになろう。しかしながら兵力の漸減的撤退は三国軍との摩擦を惹起するきっかけとなり得るので、それは一挙に行なわなければならない。従って隠密裡にかつ直ちにその準備を開始されたし」
と、参謀本部の意向を伝えた。その後彼は東ベルリンに直ちに戻らず、クーダム通りを廻り、前大戦におけるベルリン攻防の激戦を象徴して、破壊されたままの姿で保存されているカイザー・ヴィルヘルム教会のほど近くにあるケンピンスキ・ホテルに立ち寄った。第五機械化歩兵師団の本部はこのホテルに仮設されているのだ。司令官室に当てられている二階のスウィートの部屋で、人払いをしたシュラーダー将軍とリッター中尉は、書記長ホーネッカーならびにオルガス将軍らを救出する方策を話し合った。
「閣下。閣下が体現しておられる国軍将兵に対する大きな影響力、その裏には閣下の行動に対する将兵の信望があるのです。つまり、何事によらず閣下が判断し決定し行動されるときには、将兵は迷わず閣下の後に随いてくるのは確実です。その上、現在、書記長閣下らの救出を実行するに当って、閣下を措いて他に適任者がない、と私が判断した決定的な理由は、閣下の七千名の部隊が前線ではなくここベルリンにあることです」
「諜報部内務局の連中は何一つ具体的な証拠を掴んでいたわけではなかろうが、わしを何とはなしにうさん臭いと思いはじめたらしく、開戦の直前になって、わしの部隊を予定されていた第二正面進攻から外して、こんな所に廻しおった」
「閣下としては残念至極でありましょうが、我われに取ってそれは天与の幸運であったのです」
「それはもう良い。して、書記長閣下らが監禁されている場所は判っているのか?」
「マグダ宮内です。宮殿内の見取り図を画いてご説明します。なにか紙をいただけませんか」
マグダ宮は宮殿とはいえ、周囲に深い濠が巡らされている十七世紀に造られた石造の城塞だった。したがって堅固ではあるが大きくはない。リッターは城塞内の略図を画き、書記長らが幽閉されているはずの石牢の位置を将軍に教えた。
「警備兵力は?」
「現在では機動警邏隊が三個中隊ほど配置されているだけです。指揮官はヘルベルト・マウザー大尉です」
「マウザーか。彼なら戦わずとも、話合いで事の解決がつくかも知れんな。ま、つまらぬことでなるべく犠牲者を出さぬようにせんとな」
「ただ今私はテンペルホーフの軍団司令部で、ここからの撤退が間近いことを伝えてきました。恐らく午前七時にはその命令が出されるでしょう。間もなくです。救出作戦は急いでください。あの夜、クレムリン派の連中が書記長閣下らの命を奪わなかったのは、大事の前に、計画の一部にでも変更を余儀なくされるような事態が突発するのを惧れたモスクワからの指示によるもので、すべてがうまく行っている今の状況ですと、いつその指示が変更されるかも知れないのです」
「そうだろうな。ところでヒルシュマイア中尉とやらの任務はうまく行ったのかな?」
「はい。昨夜、諜報部の通信室に入り込み、空いていた受信機を操作して、彼が一二一・二一メガヘルツで送ってきた音楽放送を私自身でキャッチしました。十一時四十分過ぎだったと思います。しかし、マッシェン操車場のコンピューター・センターを西側の地下工作員の協力を得て開戦と同時に破壊する、という諜報部が与えた任務の方は、その事情は今のところ不明ですが、失敗したようです」
「ラジオ放送によると、シュツッツガルトにある刑務所が昨日襲われて、反社会反体制活動を行なった|科《とが》で投獄されていた大量の囚人が脱走に成功した、ということだな。あれも君たちの手でしたことか?」
「いいえ。我われはまったく関与しておりません」
「そうか。厳しい検索の網が全土に張り巡らされたらしいな。そのためにわが方の工作員は動きが取れなくなったのではないかな」
「我われも同じような推測をしていたところです。いずれわが方がハンブルク地区を占領した暁に、真相は判明することでしょう」
米英仏三国政府は、東独軍の西独領侵犯開始以来継続的に、西ベルリン権益、特に駐留軍の行動拘束に関し、ソ連を介して東独政府に対し、繰り返し抗議文書を発する一方、ドイツ連邦共和国政府に対しては連邦空軍による東ベルリン爆撃の実施を迫っていた。東独本土の防衛をほとんどすべてソ連軍の手に委ねて、ドイツ連邦共和国侵攻に地上兵力の大部分を投入しようとしている東独の出足を鈍らせる効果を期待するのはもちろんだが、東独本土を攻撃することによって、東独駐留ソ連軍の戦意を刺戟しその武力行使を誘発して、羊の皮を|被《かぶ》りとおそうとしている狼、ソ連に対する国際世論の反撥を喚起しようとするところに西側三国政府の本来の意図があった。しかし午前六時の時点では、東独の防空能力に注目する連邦政府は、兵力温存を理由に同意を示していなかった。
同じく午前六時頃、フランクフルトにあるドン・A・スターリー将軍麾下の米国陸軍第五軍団司令部では腐心の挙句、有線はもとより無線でも東独が発射している妨害電波によって交信不能に陥っている西ベルリン駐留軍に対する連絡を、西側から一方的にでも行なうべく、ベルリン向けラジオ放送を東独の国営中央放送が使っている三種類の周波数帯を利用して行なうことを考えついた。元来、これは東側の地下工作員によってミュンヘンの施設を破壊された『自由放送』と『自由ヨーロッパ放送』のスタッフが提案してきたものだった。当然のことながら、東独は自身のラジオ放送に対しては電波妨害を行なっていない。したがって、その周波数帯を用い、かつその放送出力より遙かに強力な出力で電波を発射すれば、本来の放送を圧殺してこちらの電波を一般のラジオ受信機に届けることができる。司令部の通信担当班員と、『自由放送』ならびに『自由ヨーロッパ放送』のスタッフたちは、中継なしに千キロメートル程度まで電波を届かせ得る強力な放送施設を物色した。それはハンブルクにあった。かつての北ドイツラジオ放送局の休眠施設だった。彼らは特別機を仕立てて直ちにハンブルクに向った。午前六時二十分だった。
開戦から四時間が経過した午前七時。米英仏が西ベルリン権益を巡って、ソ連を介して東独と行なっていた折衝の効果が現われはじめた。西ベルリン地区に溢れていた東独軍が、逐次、東ベルリンとベルリン周辺部の二方面に分れて撤退しはじめたのだ。恐らく、ソ連が、「東独が西独侵攻を中止し得ない時点」を確実に経過した、と判断したのだ。それを裏書きするように、東の空を被っていた妨害電波も嘘のように消えて、西ベルリン駐留軍との無線交信が再び可能になった。驚いたことに、西ベルリン駐留軍は、ドイツ連邦共和国領域の約四分の一が、すでに東独軍の勢力下に入っていることを知らなかった。また、不思議なことに、彼らと東独軍との間に発生した摩擦は、東西ベルリン境界線のチェックポイント・チャーリーにいた監視兵と東独地区境界線パトロール隊が、最初の時点で圧倒的勢力の東独兵によって瞬時に制圧され連れ去られたことだけで、その後の基地内は平穏そのものであったのだ。
午前八時三十分。したがって、米国陸軍第五軍団司令部が行なおうとしていた、東独国営放送の周波数帯による対西ベルリン駐留軍呼び掛け放送は、無線系通信が恢復したためにその必要がなくなった。しかし、ソ連向けの『自由放送』と、東欧諸国向けの『自由ヨーロッパ放送』は北ドイツラジオ放送局を利用して開始された。恐らく東欧ブロックの人びとは、これによって、戦いはいま東西両独間のみで行なわれており、戦いを仕掛けたのは東独側であったことを初めて知ったはずだ。特にこれを知った東独国民の受けたショックは大きかったはずだ。しかし、ドイツ連邦共和国内に侵攻して、各戦線で戦っている東独軍の将兵は、多分まだこの事実を報らされていないし、自分たちはワルシャワ条約軍の部分として一翼を担って戦っているのだ、と確信しているものと思われる。
午前九時三十分。首都ボンにさえ、敵のものか味方のものかは不明だが、ときたま爆発音が聞こえてくるようになった。北部地域においては、バート・ゼーゲベルクがすでに陥ち、ハンブルク市北東側の住宅地域にまで東独機械化歩兵師団が迫り、市の中心区にすら砲弾が落下しはじめた。そして、市の南東側つまりエルベ河の南では、アウトバーンE4の線で激烈な空陸での攻防戦が展開されていた。中部地域においては、ツェレ、ヒルデスハイム、カッセル、アルスフェルトの各都市が、すでに東独軍側の勢力圏内に入っていた。南部地域においては、ヴュルツブルク、バンベルクをさらに勢力下に収めた東独機甲師団と機械化歩兵師団が、着実に南西進を続けていた。
午前十時五分。無線交信が可能になった西ベルリン駐留米軍司令部から、フランクフルトの米国陸軍第五軍団司令部に緊急暗号通信が送られてきた。それは、「東ベルリン地区において、重火器による戦闘が行なわれている模様」と訳された。スターリー将軍以下が色めき立った。早速、「東独軍同士の交戦か、東独軍とソ連軍との交戦かを大至急究明せよ」と迫った。
午前十時二十三分。「先刻西ベルリンからブランデンブルク門を通って退去していったシュラーダー上級大将麾下の東独第五機械化歩兵師団は、東ベルリン市内を通過し、同市外北東部森林地帯の中にあるマグダ宮に直行、そこを警備していた東独自身の地上軍を実力で排除した模様。なお、マグダ宮内には、書記長エーリッヒ・ホーネッカー以下数名の閣僚級要人が監禁されていた模様」との暗号通信が返ってきた。なおまだホーネッカー書記長以下が無事解放されたか否かは不明とのことだった。スターリー将軍がさらに詳細な情報獲得を命じようとしていたとき、またもや、西ベルリン駐留米軍司令部がショッキングな通信を送ってきた。「ベルナウ附近に駐屯していた四師個団から成るソ連第十九軍と東独第五機械化師団との間に、戦闘状態が発生している」というものだ。地図によれば、マグダ宮の位置とベルナウとは二キロメートルしか離れていない。これらの情報は直ちにSHAPE、ドイツ連邦政府、そして連邦軍参謀本部に伝達された。午前十時三十分だった。
SHAPEは、連邦国防省に対してそれまでにも再三行なっていた東ベルリン空襲実施の要請を、この時点でまた改めて行なった。国防相アペルは首相シュミットにそれを|諮《はか》った。シュミットはある決断を下した。アペルはその決断を承けて、ブラント参謀総長に極秘命令を伝達した。
午前十時四十八分。七個の翼面懸架装置に洩れなく空対地熱線ミサイル「マルサ」を着装した連邦空軍戦闘攻撃機トルネード四個中隊四十九機が、米国第36戦術空軍と共用しているビッドブルク基地を発進していった。襲撃目標は、東独第五機械化歩兵師団とソ連第十九軍とが友軍同士で大戦車戦を演じている東ベルリン北東部の森林地帯だった。
午前十時五十分。南部戦線においては、ホーフ回廊侵攻系路から進出し、その後南西進している三個師団ずつの東独機甲部隊と機械化歩兵部隊に対し、連邦軍は地形を利して比較的によく戦っており、特に午前九時前後から地上支援航空部隊がこの方面に投入されたために奪回できたヴュルツブルク、ニュルンベルク、レーゲンスブルクを結んだ線を辛くも確保していた。
中部戦線においては、フルダ地峡侵攻系路から進出、西進してアウトバーンE73がヴェーゼル河を渡る地点で同河を越えた東独軍は、逆に南東進してヴェーゼル上流西岸地帯を制圧し、現在、ビーレフェルト、ジーゲン、ギーセン、ヴュルツブルクを結んだ線まで進出していた。中央部ジーゲンを攻撃中の主力は、東独軍最強として鳴る第七機甲師団で、中部軍団の総司令官はゴットフリート・ザイラー上級大将だと判定されていた。
北部戦線においては、エルベ河以北の制空権を東独軍側にほとんど握られており、地上で戦いが続行されているのはハンブルク地区だけになっていた。緒戦以来北部のシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州内で抵抗を続けていた連邦地上軍は、南西進した東独軍と北西進した東独軍とがエルベを越えて連携して以後、急速に押されて後退を続け、今や全残存兵力がハンブルク市外郭地域に集結していた。今後の抗戦は市街地の建物を拠点とし、エルベの三つの橋が使用不能に陥る前に、リューネブルク荒地から急遽転進してきた第101ならびに第104戦車師団の残存戦力を活用する以外にないが、幾分でも反撃に転じて長期戦化に持ち込むためには、多量の航空兵力の支援が絶対的に必要だった。開戦後僅か八時間しか経過していなかったが、市周辺部の惨状は四カ年半の激闘の後に迎えた前大戦における最後の数日間に酷似していた。
エルベ以南も、すでに完全に東独軍の制圧下に入っていた。アラー河を八十キロメートル幅で越えて、ヴェーゼル河下流域東岸に迫っている、開戦時に倍する勢力に補強された第十三機甲師団は、ブレーメン市を攻撃中だった。ブレーメン市が陥ちればブレーメン港は|目睫《もくしよう》であり、東独軍はそこにおいてついに北海に達し、ドイツ連邦共和国領土は南北二つに截ち切られることになる。
午前十一時。開戦後八時間が経過した時点で、すでに面積では東側の半分、全土の二分の一弱が東独軍の勢力下に入っていた。ドイツ連邦の都邑ならびに人口の分布が西部に極端に偏在しており、さらにはそれらが中南部に集中していることもあり、兵力を温存しようとする連邦軍参謀本部が東部においては徹底的な抵抗を放棄したという事情があったにせよ、これまでの東独軍の前進速度は、NATO軍司令部がワルシャワ条約軍侵攻想定書「ウィンテックス79〜82」で予想したものの一・五倍強だった。このままだと何事か回天の事態が発生しない限り、同盟国による支援が得られないドイツ連邦共和国が、週とはいわず日の単位で、東独の軍事力によって潰滅させられるのは明白だった。
午前十一時二分。さらに悪いニュースが国防相アペルから首相シュミットのもとに緊急電話によってもたらされた。連邦軍を国土の西半分に圧迫し、以後各地で都市攻略戦に移ろうとしている東独軍は、戦術を転換したらしく、移動ミサイルSS─21を最前線に曳き出している、というのだ。白兵戦用ミサイルと呼ばれるソ連製のこの飛行爆弾には、核、通常、いずれの弾頭でも装填できる。射程九十キロメートルは米国製のランス・ミサイルとほぼ同じだが、命中精度は後発のSS─21の方が遙かに高い。したがって、彼らがすでに到達している最前線からなら、米英仏三国軍基地を避けて連邦軍陣地だけを、自由にかつ徹底的に狙い撃ちすることができる。
「それで? 対抗策は」
「ブラントは二案を検討中です。一案は直ちに空軍力を投入してSS─21ランチャー部隊を叩くこと。この案の場合、戦域制空権のすべてがすでに敵の手中にあるので、航空兵力の損耗が極めて大きくなると考えられ、わが方は永久的に回復不能の状態に陥る可能性極めて大だそうです。他の一案は、充分な数量を米国から獲得してあるパーシング・ミサイルで敵の本土側をこの際徹底的に叩いてしまい、一挙に頽勢を挽回することです」
「核弾頭を積んで射程四百五十キロメートルだというあれか?」
「そうです」
「だめだ。核兵器に手を出そうとは決して考えるな、と大至急ブラントに伝えてくれ」
シュミットは断固とした口調でいい、ブラントへの伝言を急かせるかのように自ら電話を切った。そして秘書官の方に顔を向けると、
「フランス大統領を出してくれ」
と命じた。
午前十一時三分。連邦軍参謀本部通信室が、飛び交う三十数種の軍用電波の中から、連邦陸軍が現用している野戦通信用周波の一つを使って呼び掛けてくる、極めて微弱な電波を把えた。発信源不明のその弱よわしい無線電波は、「本日正午から数時間『自由ヨーロッパ放送』の電波発射を中断せられたし」と繰り返し要求していた、「自由ヨーロッパ放送」の電波は、今朝の九時半から東独国営中央放送局のラジオ電波と同一波長を用い、強力な出力によって本来のラジオ放送電波を圧殺して、東欧諸国向けに発射されている。東独の突然の武力侵攻の実態を東欧圏諸国の市民宛に逐一報道しているその電波を、東独国営中央放送局が妨害行為だとして抗議してきているのか。しかし、それにしては「本日正午から数時間」と中断の時間を限定している点が腑に落ちなかった。
午前十一時四分。連邦軍参謀総長ブラントがシュミットに電話で嘆願してきた。
「閣下。パーシング・ミサイル使用のご許可を是非ともいただきたい。敵がSS─21を使用する以前に戦機を転換しないかぎり、わが方の勝機は永遠に失われます。わが軍は緒戦以来多量の兵力武器を失いつつ後退につぐ後退を続け、今ようやくライン中部西岸で踏み留まり、長期戦態勢を敷かんものと陣地構築を急いでいた矢先、敵は多数のSS─21ランチャー部隊をわが方の前面に配置しはじめたのであります。それらが使用されればわが方の陣地基地は数十分のうちにすべて潰滅してしまうのは明らかであります。閣下。お願いいたします」
「だめだ。ユルゲン。事態はまさに君のいうとおりだろう。だが、こらえてくれ。他の方法を考えてくれ。たとえ君の作戦によって戦局がわが方に一時的に有利に展開したとしても、そうなれば戦いが終るまでには敵も同じく核兵器を使用することになるだろう。東西両方の国土の上で小型とはいえ数十発数百発の核兵器が爆発したとして、わが民族の幾人が生き残れるのだ。恐らくその結果、今すでに世界中に散って暮している数百万の我われの血を引く者だけが、ゲルマンの末裔としてこの地球上に残るだけになろう。だが、敵だけが使用するなら、東側領土も含めライン以東の地に住む数千万の同胞が戦いの後にも生き残れるのだ。
ユルゲン。他の手立てを考えてくれ。わしもある対抗策を考えているのだ」
その時秘書官が、フランス大統領が電話の向うに出ている、とシュミットに告げた。
「ユルゲン。大事な電話がつながった。あるいはこれで敵のSS─21使用を押さえられるかも知れぬ」
午前十一時十五分。NATO組織に帰属していないフランスはまったく独自に、局面に重大な影響をもたらすことになる政府声明を、あらゆる官営報道機関を通じて急遽発表した。
「今暁より隣国領土上で展開されつつある国家暴力の進展を、フランスはフランス自身に対する深刻な脅威であると受け留めている。フランスは、自身の安全保障確保のための予防措置として、フランス領土方向に向けて飛翔し来たるいかなる無人飛行物体も、今後予告することなく、すべて領空外において撃墜する。また、その発射が繰り返されるときは、その事実をフランスに対する敵意と認め、発射源に対して中性子爆弾の使用をも辞さない」
これはシュミットが再び外交面で獲得した勝利だった。彼はフランス大統領に対し、核弾頭装填の可能性があるSS─21ミサイルの使用を、東側が準備中だと告げたのだ。また、その射程は貴国領土にも達している、と。そして、貴国の安全確保のためにも、すぐに中性子爆弾を保有していることを内外に公表すべきだ、と前記の如き声明を即刻発表するように要請したのだ。
ソ連とのSALTに関する駆け引きから、米国は一九七八年に中性子爆弾の開発を中断したが、フランスは自力で秘かに開発したそれをすでに保有している、との情報をシュミットは早くから持っていた。爆弾とは呼ばれるが、航空機から投下されるのではなく、米国の基本計画では八インチ砲から発射される砲弾の一種で、野戦における使用が容易であるという特徴があり、フランスのそれは一歩進んでいて、中距離型ミサイルに搭載することも可能であった。それは高度約千メートルで爆発すると鋼鉄やコンクリートをも透過する中性子を地表に向けて放射する。爆心直下半径三百メートル以内では、たとえ戦車の中にいる者でも瞬時に細胞の生命力が停止し、肉体組織の新陳代謝活動が行なわれなくなるので二日以内に死亡する。半径七百メートル以内では六日以内に死亡する。
午前十一時二十分。現状の如き東欧ブロックの脅威の下にありながらフランスが西側諸国の中で最大の勇気を示したことで、東独はSS─21の使用を躊躇しているものの如く、未だにシュミットのもとにミサイル落下の報告は届かず、ドイツ連邦共和国は一挙に潰滅に瀕する危機から逃れ得たかに見えた。
[#改ページ]
開戦の前夜、首相私邸においてヒルシュマイア中尉にクルトの車を奪われたために、基本法擁護庁が迎えの車を寄越した。総領事館の前でその車から降り、自室に立ち寄っていたレスが帰宅したのは午後十一時半過ぎだった。妻はスーツケースに身の廻り品を詰めながら待っていた。
「近いうちにワルシャワ条約軍が攻め込んでくるという話は、どうやら本物らしいんだ」
「夕方クルトの奥さんから聞いたわ。荷造りは大方すませたわ。それよりあなた、クルトは戦闘機に乗りにゆくんですって?」
そう尋ねてくる彼女の瞳は真剣で悲しそうだった。彼は目を逸らし、気軽な口調で答えた。
「ああそうらしいんだ。しかし、F─4EFが彼の手に負えるのかなあ。きっと駄目だよ」
そういいながら、彼自身の心のどこかにも、クルトが連邦空軍に搭乗を拒否されるようにと本気で願っている部分があった。
「でもF─4EFは二人乗りだから片方はそんなに上手でなくても大丈夫なんですって。彼女がそういっていたわ」
「そうかも知れないな。ところで、我われが準備した避難船に彼の家族も乗れるように手配しようか、とさっき提案したんだが、断わられた」
この経緯もレスの妻はすでに耳にしているようで、沈黙したまま床を見つめていた。
いつでも家を出られるように身の廻りの物を整えてから眠りについた彼らが、ようやく熟睡状態に陥った午前二時十五分頃、周囲の静けさをけたたましく破って街のあちこちでサイレンが断続吹鳴を開始した。ほとんど同時に総領事自身からレスに電話がかかり、計画実行の指示が下された。いよいよ米国系市民をアルトナ港に集合させ、避難船に乗せるべき時が来たのだ。レスの妻は二人の娘を起し、身仕度をさせた。船上の寒さを慮って、レスは六月末だというのに、裏地にファーがついている真冬用のコートを娘たちに着せた。
十五分後彼のフォルクスヴァーゲンは、二人の娘と三個のスーツケースを乗せた妻のアウディの後に随いて家を出た。サイレンは街中でまだ鳴り続けていた。クロスターシュテルン放射路のロータリーで車窓越しに手を振り合って別れ、アウディはローテンバウム通りに入ってアルトナに向い、フォルクスヴァーゲンはハーヴェステフーダー路を取って、総領事館へと急いだ。
総領事が電話網を使って手際よく招集連絡を手配したため、予想外に短時間で多数の館員が登館してきた。彼らは手分けをして米国系市民との電話連絡に当った。その時点で彼らはまだ東西両独間だけの戦いが始まるのだということを知らなかった。従って、鉄道は一カ所が破壊されれば使い物にならなくなり、道路網は緒戦の戦略爆撃で寸断される公算が高い。一方、北海方面は緒戦のうちはまだ西側勢力によって制海空権が確保されているはずなので、北海沿岸航路がもっとも安全度が高い、と考えていたのだ。
避難を希望する婦女子約六百名がアルトナ港に集合した午前三時半頃になり、戦いの様相が次第に明らかになってきた。それにつれて総領事以下は、彼らが立案した米国系市民避難計画の前提条件と実態とが、まったく逆さまになっていることに気づきはじめた。つまり、ドイツ連邦共和国の東部以外は、西側諸国のどこも攻撃を受けていない代りに、北海方面はすでにソ連によって制海空権を握られてしまっていたのだ。
アルトナ港の埠頭に急遽呼ばれたレスを含めて、総領事館の幹部職員が、避難船を出すべきか否かについて協議した。ソ連が北海の制海空権を握っているとはいえ、彼らは未だ参戦してはいない。それに、地上交通機関の方は何一つ予約していないので、六百名以上の婦女子の輸送手段をここに至って変更すれば必ずや大混乱が起きそうな雰囲気だった。女子供の大群集は、早くも東独軍の砲声がそこまで迫ってきているかのように不安げな眼つきで、岸壁の端で協議している館員の目つき手つきを注視していたのだ。結局、計画どおりに実施するのが最良だとの結論に落ち着き、総領事の決断で午前四時半に二隻のチャーター船に乗船を開始した。
この時点になると婦女子の数は約九百名に増加していた。レスの妻子三人もこの数の中に入っていた。目的地はポーツマスだが、約一時間前に在オランダ大使館から総領事宛に届いた要請によって、途中ハーグに寄港し、そこからも約三百名の米国系市民を拾うことになった。このことと、大部分の乗船者が婦人と子供であることから、出航直前になって総領事と査証課長が一人ずつ引率責任者としてハーグ港まで各船に同乗してゆくことになった。総領事が任地を離れることについて、事前に正規の手続きを踏むような時間的余裕はもちろんなかった。甲板の上の人びとは乗船前の態度と打って変り、陸上に残っている家族に向けて笑顔を振り撒き、しきりに手を振っていた。まるで休暇で船旅に出かけるような解放感が船全体に漂っていた。やがて二隻は相前後してロープを解き桟橋を離れてから河下へ向きを変えて静かにエルベを下っていった。
総領事館に戻るレスの車は、街の通りを轟音を響かせて走り過ぎる戦車や砲車に、何度も擦れ違った。今まではどこにいたのかと思われるほど多数の、迷彩服に身を固めた連邦陸軍の兵士たちが、街の要所要所で配置についていた。市庁舎の前の広場や公園、それに高層建築の屋上には、土嚢で囲われた対空火器の陣地が構築されつつあった。頭上を低空で飛び抜けてゆく航空機は今のところすべて連邦空軍のもので、翼端と胴体に画かれている方射十字のマークの黒色が、重おもしくかつ頼もしかった。総領事館の裏庭に廻り、エンジンを切って車から出た途端、南東と北東の方角で遠雷のように轟いている爆発音がレスの耳にも届いてきた。
総領事は、ハーグに上陸した後は鉄道を使って戻るつもりだ、とレスにいい残して乗船していった。鉄道が正常に運行していても、帰着するのは夜分遅くになってからだろうし、現在のような状況下では、マニュアルにはないが、館内のあらゆることについての采配をレスが振わざるを得なかった。
レスはまず、地下の大会議室に本拠を移すことに決定し、必要最小限の書類やら事務用品を携行した館員をそこに集合させた。そしてその会議室の中へ、電話や無線機の端末機を引き込んだ。電話交換機が元もと地下室にあったのは幸運だった。部下の海兵隊員五名はすでに戦闘服の上に弾帯を着装し、武器庫から運び出した弾薬箱と五梃のM─16自動小銃を会議室の奥の隅に並べていた。引っ越し作業が一段落してから、レスは部下二人を選び、手元にある中で一番大きな星条旗を屋根の天辺に掲げるように命じた。
そうこうしているうちに七時になった。誰かが靴音高く地下室へ降りてきた。
「みなさん、モグラのようにこんな所に隠れていたの? 随分探したわ」
レスの秘書ミス・クレーマーだった。ドイツ人職員との労働契約によれば、戦争状態発生による欠勤は、当然不可抗力条項が適用されて特別休暇として認められる。誰かがそれをいうとミス・クレーマーはすかさず、
「自宅にいるより、星条旗の下の方が安全度が高いと思ったのよ」
と冗談とも本心ともつかぬ表情で答えたので、室内の全員が一斉に笑い声を挙げた。それは午前二時過ぎから神経を張りつめ続けてきた誰もが、心から発したこの日最初の笑い声だった。また、ミス・クレーマーの手に成る、これもこの日最初のコーヒーにありつけた彼らは、幾らか心理的な余裕が出てきたのか、坐り込んで戦況を報道しているテレビの画面に見入る者も出てきた。
戦況は予想以上に悪化していた。すでに東側領域の四分の一が東独軍の勢力下に入っていた。取り分け、懐が浅い北ドイツ平原の状況は絶望的で、西進してシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州の州庁があるバート・ゼーゲベルクを制圧した東独軍は、その後針路を転換して国道404号線と432号線沿いに進み、この街の北部森林地帯に僅か十五、六キロメートルの地点まで南下していた。また、南北に走るエルベ・リューベック運河の線を五時半頃に西へ越えたという東独軍も、この街の外郭から東方二十キロメートルの地点にまで迫っていた。館員の安全確保に責任を負うレスは、表情にこそ出さないが、街の西北西が開いている今のうちに全員をここから脱出させるべきか否かについて内心決定し兼ねていた。なぜなら、脱出してみても西の果てまで行けば北海で行き止りなのだ。一方、ジュネーブ四条約によれば東西両独間の内戦である限り、ミス・クレーマーのいうとおりに、たしかに星条旗の下は安全なはずだ。だが、視界外から発射される大口径砲弾やミサイルは、ジュネーブ四条約にお構いなくどこへでも落下する。
事態の推移に対応して決断し指揮を取らなければならない立場に置かれた彼は、一度だけでもリアルタイムの戦況を掴んで、テレビやラジオから流される報道との時点差を自分の頭の中で修正しておきたかった。そうしておかないと、分秒毎に変化している状況を判断する際に必ず間違いを犯すからだ。そのためには第五軍団司令部にいるケイリーに電話を入れるのが、もっとも手っ取り早いのは判っていた。しかし彼は多忙を極めているに違いないケイリーの立場を察して、ダイアルを廻す機会を|躊躇《ためら》いながら少しずつ先に伸ばしていた。
八時半頃、地下の会議室内に外線電話のベルが反響した。ケイリーからだった。彼の気持が通じでもしたかのように、向うから掛けてきたのだった。
「おいレス。逃げ出さずにまだそこにいたのか。感心だな。ところで、これだけはどれほど忙しくても君に報らせてやらなければ、と思ったんだ。実はうちの情報部の連中がおもしろい人物を見つけてね。誰のことだか判るかい?」
「いや」
「判るはずがないな。いいかい、ハンス・ヨアヒム・ヒルシュマイアさ。ほら、あの中尉の方の」
「なんだって? そんな馬鹿な! 彼はこの街のアルスター湖の底に車ごと沈んだんだ」
「そのとおりさ。ま、聞けよ。実は今朝方、北ドイツラジオ放送局の休眠施設を利用して西ベルリンで聾桟敷に置かれている駐留軍の連中に、こっち側から一方的に情報を送ってやることになってね。うちの情報部のメンバーがそっちに出かけていったんだ。施設の中に踏み入るとどうだ。死にかけている若い男が床に転がっていたというんだ。発見した時に男は失血過多のために失神状態だったらしい。脚かどこかに大怪我をしていたらしい。それが例の中尉だったんだ」
「失神しているのにヒルシュマイア中尉だと、どうやって確認したんだ?」
「持ち物の中から身分証明書が出てきたんだそうだ。例の『ミュンヘナー・アーベント経済記者、ヨアヒム・マイア』という。ほら君が昨夜シュミットの邸から電話してきたときに話していたろう」
「本当か! それで彼はその後どうなったんだ?」
「郊外の救急病院に送り込んだそうだ。重傷の怪我人じゃ敵も味方もないからな。たしか、病院はハイドベルクという名じゃなかったかな」
「なに! ハイドベルク総合病院だって?」
赤い煉瓦積みの三階建ての病棟が十数棟も建ち並んでいるその病院ならレスも知っている。前大戦では陸軍病院だったそうだが、今は州立ハイドベルク総合病院と呼ばれて一般市民に開放されている。ただし、大火災や航空事故などの激甚災害が発生した場合には、帰宅可能患者は退院させられて、救急患者大量受入施設に早変りする。国土で戦争が始まった今、すでにその措置は取られたのに違いない。ケイリーがその名を告げたときレスが、なに! と驚きの反応を示したのは、その病院が北部郊外のキヴィツモーアにあり、首相シュミットの私邸と目と鼻の先だったからだった。
昨夜、その首相私邸からクルトの車を略取して遁走し、ついに追いつめられてアルスターの湖底に沈んだはずのヒルシュマイア中尉が予想外の場所で生きており、彼が遁走を試みた首相私邸にほど近い病院に今また戻されて収容されているという。レスは俄かに信じ難かった。その一方、ケイリーの話が事実だとすれば、中尉は北ドイツラジオ放送局で何をしていたのか、病院を訪ねて聞いてみたいような強い衝動が湧き上がってきた。沈黙が長かったらしく、ケイリーが彼の胸中を覗いたかのように、受話器の中で呼びかけていた。
「おい、レス。どうした? ヒルシュマイアの見舞いにでも行ってやるつもりか?」
「いや。ケイリー。そんな暇はないさ。それより戦闘の現況を教えてくれないか」
「ひどく悪いな。君の方の北部戦線が特に悪い。五時直前までは敵の前進をなんとか押さえていたんだが、エルベ・リューベック運河の線を突破されてからは、まったく押さえが効かなくなり、北部方面の連邦軍は総崩れの状態になっている。兵力差が大き過ぎるんだ。中距離射程の砲とミサイルはまだいいが、空と陸とはまったく問題にならん。本心をいうと、君に脱出を勧めたいんだ」
「連邦軍の対戦車ヘリが大活躍している、エルベの北ではすでに敵戦車を三百両以上破壊した、とテレビが報道していたが……」
「それは事実だ。しかし敵が森林地帯を縫って前進しはじめたために、HOTミサイルの効果が半減したんだ。あれは誘導ワイアを引っ張って飛ぶんで、樹林の中では着弾精度が落ちるのを敵は経験的に知ったんだ。それまでは交換比十六対一で想定よりずっとよかったんだが……」
交換比十六対一とは、味方の対戦車ヘリ一機が破壊されるまでに敵戦車十六両を撃破し得る、という交戦性能を表わしている。連邦陸軍対戦車ヘリ連隊の生みの親ドライビンク将軍は、交換比十二|乃至《ないし》十三対一を予想していた。
「ハンブルク防衛軍からは連邦軍司令部に対して地上支援航空部隊と武器弾薬、特に可搬対戦車無反動砲とTOWミサイルの補給を、火がつくように要求してきている、ということだ。しかし、司令部では、航空兵力の割愛は不可能だと断腸の思いで拒否しており、その他の武器弾薬は夜間を利用してエルベ伝いに送ると回答しているそうだ。だが、今夜それらが届くまで持ちこたえられるか否かが問題なのは、誰でも判っているんだ。
連邦軍参謀本部では、兵力の損耗をできる限り回避するために、中間都市を放棄しつつ後退して、最後にはババリア地方の山岳部とライン河とを防衛線にして、長期戦態勢を敷くことを計画しているらしい。北部の要衝ハンブルクもいずれは放棄される運命だが、防衛線構築のための時間稼ぎとしての徹底的抵抗が要求されているんだろうな。本来ならこの辺で決断して、頽勢を挽回する新手を打つべきなんだが……」
「打つべき新手はあるのか?」
「現在東独国内にほとんど自国軍がいない、というのは知っているだろう? 配置についているのは二十数万のソ連軍なんだ。連邦軍参謀本部に対して我われは、東独領深部を空軍力で叩くように早朝から再三提案しているんだ」
「連邦政府はソ連といざこざを起すのを惧れているのか?」
「それもあるのかも知れないが、我われ軍の方では政府の考えは判らない。ま、東独領内を攻撃したらそこにソ連軍がいた、というのはそれはまたそれで形勢転換のために有効だと我われは考えている。ソ連の出方次第では、我われが動き出せる余地が生まれるかも知れないからね。
しかし、連邦軍参謀本部が東独領内空襲の実施を決断し得ない最大の理由は、今のところ兵員不足のために正面に来ている敵と戦うのが精一杯で、そこまで手を廻し切れないというのが実情らしい。とにかく、早期に敵の本拠を叩かなければ次第に消耗を強いられていって、結局、最後までその機会が巡ってこなくなるのは確実なんだ」
「武器や弾薬は充分なのか?」
「そっちの方は大丈夫だ。貸与協定に基いて国内にあったものをそっくり移管したんだ」
「兵員、特にパイロットを貸す、という手は?」
「義勇軍か。現在この国の中にいて合衆国の軍籍にある者には許可されない。だが、我われの本国ではドイツ系市民の中にその動きが出てきている、ということだ」
「西独側に対してだろうな」
「もちろんさ」
ケイリーの喋り方が次第に早くなり、受け答えの口数が少なくなってきた。彼の身辺のあわただしい動きを察して、レスは電話を打ち切った。
その後、テレビの戦況報道を眺めつつ、館員を脱出させる時機と手段をあれこれ考えているとき、机上の電話機のベルがまた鳴りはじめた。いつもの仕草で受話器を取ったミス・クレーマーが、
「ハーグの大使館からです。総領事の代理の方へ、といっています」
と、それをレスに差し出した。ハーグに船が着いたにしては早過ぎるな、と漫然と考えながら受話器を耳に当てたレスは、突如冷水を頭から浴びせかけられたように椅子を思わず跳ね除けた。ハーグからの声は、
「……二隻の避難船のうちの一隻がフリージア列島アーメランド島沖で爆沈しました……」
といったのだ。彼はそれを耳にしたとき、送話器に向って言葉にならない叫び声を挙げたようだった。相手はしきりに彼をなだめようとしていた。
「落ち着いてください! 乗船員はほとんど全員救助されました。九十九パーセント全員です。現在乗客名簿と生存者を詳密に照合しているところです。いいですか、百パーセント全員の可能性もないわけではないのです」
レスが幾分平静さを取り戻したと思ったのか、ハーグ大使館の若い館員は、言葉を選びながら判明している情況を語った。
「オランダ北岸に防波堤のように並んでいるフリージア列島に沿って、ハーグに向って航行していた二隻の避難船が、アーメランド島沖に差しかかった午前八時半頃、先航していたセント・グロースター号の船首に近い右舷で大爆発が起ったのです。その後幸い火災は起きず、船は十五分ばかり浮いていたらしいです。また、幸いにその爆発では乗客船員ともに一人の死傷者もなく、船が沈む前に全員救命ボートに乗ったり、海に飛び込んだりして脱出し、僚船バンクロフト号に救助されたのです。
いやまったく、先航していた方が沈没したのが不幸中の幸いでした。なにしろ後続の僚船は四、五分で沈没海域に到達したそうですから。もしこれが逆だったら……」
レスは考えていた。沈没したセント・グロースター号は総領事が乗った方の船だったろうか、それとも査証課長が乗った……。アルトナから出航するときには総領事が乗船した方の船が先に桟橋を離れた。その甲板上で彼の妻や娘も手を振っていた……。北海に出てからも、二隻の船はその順序で航行していたのだろうか……。彼は咄嗟に船名を思い出せなかった。
「全員が、ほぼ全員が救助されたのだな?」
「はい。そのとおりバンクロフト号から通報してきております」
「で、爆発の原因は?」
「はい。それが……。バンクロフト号がここの港に入ってくれば事情ははっきりすると思われますが……、大使閣下は、今の段階で外国の潜水艦に魚雷攻撃を受けたと考えたくない、といっておられます。バンクロフト号もそれに類した報告を寄越しておりませんし……」
「だが、話の様子だと、爆発では幸い全員無事だったということだから、船内で爆発事故が起ったと考えにくいんじゃないかな」
「はい。その点は私にもそう思えなくはありません。外部からの爆発物によるそうで……。例えば古い浮遊機雷に触れたとか……」
ソ連と事を構えるのをなんとか避けようとしている気遣いが、若い館員の話し方に滲み出ていた。その時、電話口から僅かに遠ざかった館員の声が、レスに少し待つように、と告げて跡絶えた。一分ばかりで戻ってきたその声は、すっかり明るいものに変っていた。
「いいお報らせです。バンクロフト号の船長から、名簿との照合が終った、全員を救助したのを確認した、とたった今連絡が入ったそうです。よかったですね。バンクロフト号は今から二時間余りでハーグに入港するそうです。我われが乗船者の状態を確かめた上で、改めて今後の措置をご相談いたしましょう」
受話器を戻したレスは、心配げに彼を注視していた室内の者に一部始終を話して聞かせた。全員の顔に安堵の色が浮んだが、彼は自分の胸に微かな苛立ちが、あい変らずわだかまっているのを感じていた。事情の変化にもかかわらず避難者を敢えて北海航路に送り出したことに対する後悔か、とも思い巡らしたが、そればかりではないようだった。いって見れば、幸先の悪さに続く不吉な予感といったようなものだった。一時間も経たないうちにこの惧れは現実となった。
再びかかってきたハーグ大使館からの電話は、総領事だけが行方不明だ、と伝えてきたのだ。
「乗客名簿には総領事閣下の名前が記載されていなかったようなんです。したがってバンクロフト号では名簿照合のときに総領事閣下がおられないのを気づかなかったらしい……」
若い館員は自らが犯した過失のように弁明を繰り返した。総領事と査証課長はハーグまでの随行を出航直前に決定した。したがってその名前が乗客名簿に追記されなかったということもあり得ることだ。しかし何故またその総領事が……。
「救助した方の船の中を隈なく探したのか?」
「はい。乗客数が二倍になり船内はごった返しているらしいですが、そちらの査証課長が中心になって現在も捜索中だそうです」
室内には一瞬のうちに沈鬱な空気が充満した。十数分も考えた未に、レスは受話器を取り上げ総領事私邸のダイアルを廻した。そして電話の向うに出た総領事夫人に、
「悪いお報らせです。二隻のうち一隻が今朝八時半頃フリージア列島アーメランド島附近で沈没し、僚船が遭難者を収容中ですが、総領事閣下が救助されたという確報は未だ入ってきておりません」
とのみ伝えた。
そのあとボンの大使館にはテレタイプで事故の発生を報告する一方、ロイヒャマン中佐を電話口に呼び出して、総領事と査証課長の任地離脱は緊急事態に対処するためであったので、事後承認を出すよう要求した。
それらの措置が一通りすんで一時間半ばかり経った時、ハーグに上陸した査証課長から電話が入った。現在、オランダ海軍の艦艇とヘリコプターが沈没海域に出動し、総領事の捜索に当っているという。どういう理由か、ソ連のステンカ型高速魚雷艇数隻も同海域で行動中だという。また、査証課長が同船者の話を総合したところの説明によると、総領事の最後の行動は次のようなものだった。
大きな爆発音と船体の震動に驚いて、泣き叫びつつ船室からわれ先に甲板に駆け昇ってきた子供たちを、船員や乗客の中の成人が次つぎに救命ボートに乗せていた。その時甲板の片隅で、子供たちが首にかけている黄色い救命胴衣を、順繰りにふくらませてやっていた総領事の姿を、多くの人びとが眼にしていた。そのあと傾斜がかなりひどくなった甲板に、乗船者の姿がほとんどなくなった時、たぶん船内をもう一度見廻ってこようとしていたのだろうが、総領事は船室に通じるタラップを降りていった。そのうしろ姿を見た者も幾人かあった。しかし、その後、総領事の姿を見たものは? と尋ね廻っても一人として首を縦に振る者はいなかった、という。
なお、避難船の乗客たちは全員ハーグで船を捨て、そこから鉄道でフランスに送られ、カレーから再び船でロンドンに運ばれることになったとのことで、査証課長は、細かい打ち合わせがすみ次第鉄道で帰るといい、電話を切った。
地下室にいる者たちが避難船の沈没と、総領事の不幸に心を奪われているうちに、この地区の戦況はますます深刻な状態になってきていた。午前九時前後には街の周辺から爆発音だけが聞こえていたものが、やがてそれに地響きを伴うようになり、今や爆発音とほとんど同時に、震動が伝わってくるようになっていた。
十一時四十分。ケイリーからレスに再び電話がかかった。
「おい、レス。君はあい変らず悪運が強いな。どうやら生き延びられそうだぞ」
「冗談をいうな。こっちはまったくひどい状態なんだ。屋根に昇ればそこまで迫ってきている敵の姿が見えるんじゃないかな。航空機の爆音だって敵のばかりだ。飛んでくる敵の砲弾やミサイルは星条旗が上がっている建物だからといって、急に方向を変えてくれないからな」
「ま、怪我のないように気をつけてもうしばらく我慢することだ。いいかい。ほんの五分前に連邦軍参謀本部が伝えてきた情報だ。ベルナウの近くにあるマグダ宮というところに、昨日から書記長ホーネッカーらが拘禁されているらしい、という噂があった。君は知っていたかい?」
「全然知らなかったな」
「西ベルリンを占領していた東独部隊が午前七時過ぎに東方に退いていった、ということは?」
「全然知らなかった。西ベルリンが東独軍に占拠されていたのも今初めて聞いたよ。テレビでもいわなかったな」
「さすがの君も昨夜以来大分情報不足だな。まあいい。西ベルリンから退去していった東独機械化部隊のある師団が書記長を奪回せんものとマグダ宮に向ったらしいんだ。すると、ベルナウ基地に駐屯していたソ連の機甲師団がそれを阻止するために出撃してきて、マグダ宮附近の森林地帯で戦車戦が展開されたんだ」
「友軍同士が東独の首都の郊外で戦闘を始めたのか。何時頃だ?」
「十時前らしい。その最中にだ。連邦軍参謀本部は、東独深部を攻撃すべしという我われの提案をようやく受け容れて、トルネードの大編隊で空襲を掛けた。いいかい、間違わないでくれ。トルネードが攻撃したのは、面前の敵である東独軍に対してではなく、全面的にソ連軍の方だったんだ。するとどうだ、ソ連戦車は一斉にベルナウ基地に引き揚げはじめたんだそうだ」
「ソ連は世界に向って、これは東西両独による内戦だ、と声明している手前、西独軍とは交戦したくなかったんだろうな」
「そうだと思う。この国の政府はその点に大きな賭けをして勝ったんだ。スターリー将軍も感嘆していた」
「ところで、もうしばらく我慢していれば何とかなる、というのはどういうことなんだ?」
「そうそう。君が余りにも天下の情勢に疎いのに驚いて肝心な話をするのを忘れていた。実は、シュミット=ホーネッカー停戦会談が電話によって行なわれたらしい、というもっぱらの噂なんだ。ホーネッカーの方から、停戦と同時に両軍引離しの第一段階として全戦線を五キロメートル後退させる、しかし、それにつれて連邦軍を前進させないでほしい、とこう申し入れてきたっていうんだ」
その時、これまでにない至近弾が建物の南側に落ちた。いたるところでガラスが砕け散る音が連続して起り、天井がいよいよ落ちるかと思われたほど地下室自体が鳴動した。
「今の、聞こえたろう? その噂が事実なら、停戦命令を早く出すようにホーネッカーに頼んでもらいたいな」
待っていたがケイリーは答えなかった。電話は死んでいたのだ。ほかの電話機も試したが全部の回線が死んでいた。今の至近弾で、建物に入ってきているケーブルの束が切断されたのだ。これで彼らの情報源はラジオとテレビの報道だけになった。その上この様子だと、いつまで電力が供給されているか、それも定かではなくなった。
ところで、シュミット=ホーネッカー停戦会談が行なわれたらしい、というケイリーがくれた情報を、レスは室内の者に話したが、皆半信半疑の表情で、心から愁眉を開いた者はいなかった。一人レスは、戦いが急速に終るという期待より、むしろ昨夜首相私邸で彼が眼にした、ホーネッカー親書なるものに対する真実性が増したことに、秘かな喜びを感じていた。自己の心理を辿ってゆくと、ヒルシュマイア中尉の行動性に共感を持ち好意を感じ、しきりに中尉を信用したがっている自分を発見した。
さて、半信半疑とはいえ、室内の者が期待を籠めて見守っているテレビの画面からは、今のところ停戦につながりそうな成行きは、片鱗すら窺い取れなかった。今朝方以来戦況報道を担当している若い女性アナウンサーが、感情を押さえた表情で、後退をますます余儀なくされている味方と前進を続けている敵軍との配置を、赤と黒の磁力盤を地図の上でずらせながら、天気予報のような調子で喋っていた。淡々としている語り口は、まるで低気圧と高気圧の気象配置を解説しているかのようだった。とはいえ、彼女の眼元に浮んでいる過労による青い隈は、注視している誰の心をも痛々しいと感じさせずには置かなかった。
ところが正午寸前になり、少しばかり様子が変ってきた。女性アナウンサーによる戦況報道の画面が突如カットされ、どこかの室内でデスクの向う側に坐っている中年の男が映し出された。レスの傍で誰かが、あれは連邦情報庁の報道官だ、と呟いた。男は緊張気味の早口で、
「全国民のみなさま。当局がただ今入手した情報によりますと、ドイツ民主共和国社会主義統一党書記長、国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカー氏は、本日正午から国営中央放送局より同国国民に対し重大声明の発表を行なう模様であります。現在、わが国と同国との間に進行しつつある戦争状態の行方に対して重大な影響を与えるものと推測されますので、その内容を傍受し次第、当局は全国民のみなさまにテレビとラジオを通じてその主旨をお伝えする予定であります」
と二度繰り返した。現にこの国を武力侵犯している敵国の元首を“氏”付けで呼んだことが、地下室にいるアメリカ人たちに少なからぬ違和感を抱かせた。それが却って彼らに、シュミットとホーネッカーとの間で何かが進められている、というケイリーが伝えてきた噂に対する信憑性を幾分高めさせた。その上、敵国の元首が敵国民に行なおうとしているラジオ放送を、この国の報道官が仰々しく報道するのも奇妙な話だ。そこで、ようやく室内の全員が、何かあるな、と感じはじめた。
そのあと再び画面は戦況報道に戻った。と突然、画面に映るのも構わずに飛び出してきた男が、あい変らず無表情で喋っている女性アナウンサーに、小さな紙切れを手渡して引っ込んだ。それに眼を走らせた彼女は顔を上げるなり、
「みなさん。開戦以来の素晴しいニュースです!」
と眼元を幾らか明るくして叫んだ。
「連邦空軍が大挙して東ベルリンに対し初空襲を敢行しました! 約一時間半前に出撃したトルネードの大編隊は、敵地上部隊を攻撃し大戦果を収めました。わが方の損害は軽微、未帰還機はゼロとのことであります」
大写しになったベルリン地図を使って、彼女が攻撃地点を指し示そうとした時、またもや突如画面が転換して先刻の報道官の顔に変った。
「全国民のみなさま、当局は入手した情報の確認を急いでおりましたが、ドイツ民主共和国国防大臣ヴァルター・カヴァレロヴィッツ、ならびに同国参謀総長ローマン・コルマーゼンはすでに解任されており、ヴェルナー・オルガス上級大将が双方兼任として任命されている、と確認するに至りました。なおヴェルナー・オルガス将軍は、ホーネッカー書記長と政治思想的にもっとも近い人物の一人と見られており、軍内部においては“国軍の父”として敬愛されている人物であります……」
たしかにシュミットとホーネッカーとの間で何かが動き出している。ケイリーの言葉どおりに停戦協定の交渉が進められているのか。だが、地下室を揺すって轟く砲爆撃の音はますます激しくなり、爆発音の切れ目がほとんどなくなっている。東独軍はどうやら“国軍の父”を上に戴いたことで一層元気付いたのではなかろうか、と地下室の片隅で誰かが呟いた。
正午を二十分ばかり過ぎた時、また例の報道官が満面に笑みを浮べて画面に登場した。彼は咳払いを一つすると、徐ろに口を開いた。
「全国民のみなさま。十数分前にドイツ民主共和国元首ホーネッカー国家評議会議長が、同国国民に対して行なったラジオ放送の全文が確認されましたので、早速お報らせいたします……」
それは約十分間の演説だったそうだが、要約すると次のようなものだった。
ホーネッカーは冒頭で、今、戦いが両独間のみで行なわれている事実を告げ、父祖を共にする同胞同士が血を流し合う愚を言葉を尽して訴えた。次に、彼は何故にそれを開戦以前に国民に報らせることができなかったかについて、その事情を暴露したのだ。去る二月にクレムリンが企画した国防演習「オペラシオン・ダモイ」、東独での演習名は「オペラチオン・ハイムケーア」、それはワルシャワ条約国の西側進攻に対する隠れ蓑だと東独には匂わせていたものの、実はソ連の企図が東西両独のみの相剋であることを、東独に気取られないための欺瞞工作であったのだ。二日前にそれを知ってすべてを国民の前に公表しようとしたホーネッカーらは、公表の直前親ソ派軍人グループの手によって逮捕され、マグダ宮内に拘禁されてしまった、と。さらに彼が入手した情報によると、クレムリンの計画では、この戦いに勝った暁には、西独領は東独に併合されるが、現東独領の大部分はポーランドに、ポーランドの穀倉地帯はソ連に、順次割譲されることが決められていた、と。仮にこの戦いに敗北して国軍の大部分を失った暁には、領土についてはソ連が固守しようが、国情は隣国チェコスロバキア同様と化すことが決められていた、と。
ここでホーネッカーは声をさらに荒らげて、「その証拠を見たまえ。諸君らの周辺にはすでにソ連軍が満ち溢れ、ソ連軍しかいないではないか」と話を一旦結んだのだそうだ。そして最後に、ヴェルナー・オルガス将軍がすでに国防大臣と参謀総長に併任されていることを公表し、全国軍の将兵がすべて同将軍の命令に服するよう要請してラジオ放送を終えたという。
腕を組み連邦情報庁の報道官であるという男の話に聞き入っていたレスは、テレビから流れ出す音声がどういうわけか聞き取りやすくなっているのに、ふと気づいた。はっとして耳をそばだてると、たった今まであれほど激しく聞こえていた砲爆撃の音が、いつの間にか熄んでいるではないか。室内にいる者がほとんど同時にそれに気づいたようだ。彼らは一斉に歓声を挙げ、大人気もなく先を争って地下室の階段を駆け上がった。メインホールの床にはガラスの破片と天井の漆喰の塊りが一面に散っており、壁面の額はずり落ち、壁際に造りつけになっていた大理石のサイドテーブルは倒れて幾つかに割れており、ホール内は見るも無残な姿に変っていた。それでも彼らはガラスの破片を踏み砕くのを気にも留めずに、ステンドガラスが吹き飛ばされて鉄枠だけになっている正面玄関の大扉を押し開けて、建物の前の道路に走り出た。
まだ午後の一時だというのに、爆煙に遮られて辺りは日没後のように暗く光を失い、眼前のアルスター湖は鉛色に見えた。街のいたるところから立ち昇っている大小数十条の黒煙が、そのアルスター湖の風景の向う側にあった。姿は見えないが、街の建物の間を走り廻る救急車や消防車がしきりに発する金切り声に似たサイレンの音が、遠く近くから十幾つも重なり合って聞こえていた。彼らが佇んでいるすぐ傍の、雑草の根が湖水に洗われている岸に沿って、何事もなかったように泳いでいる数羽の白鳥の純白の姿を、彼らは不思議なものを見るような眼つきで眺めた。レスは生存感と解放感とを確認しようとして両腕を思い切り広げて深呼吸をした。その時、|噎《むせ》るような硝煙の臭いが空気の中に未だに強く残っているのが判った。振り向いて総領事館の建物を下から仰ぎ見た。屋根の縁や窓枠までが爆風によってかなりひどく傷つき、ご自慢のイオニア・コリント混合デザインの白亜の壁面は傷だらけだった。もちろん、そこから見える建物の正面側には窓ガラスは一枚として残っていなかった。今朝、部下の隊員に屋根の天辺に掲揚するように命じた国旗は、上隅の紐が切れてだらしなくポールに垂れ下がっていた。
まず国旗の修復を、そして電話線の修理を、それぞれ二人ずつの部下を選びレスは命じた。取り敢えずの程度にしろ、建物の内部の掃除をしないわけにはゆくまい、と肉体労働を想像した途端、突如として脱力感が足元から這い上がってきた。顧みると、空腹なのは当然だった。午前二時過ぎに登館して以来、何杯かのコーヒーを咽喉に通しただけで食物らしいものは何一つ摂っていなかったのだ。昨日、査証課長が総領事に命じられて調達した緊急食糧の在り処を、ミス・クレーマーが知っていた。
「アルスターのほとりのベンチで缶詰を食べるのも思い出になりますわね」
彼女は男性職員を伴って、緊急食糧を運び出しに建物の中へ入っていった。一旦玄関の中に消えた彼女の姿がすぐにまた現われ、レスに向って叫んだ。
「電話が直ったらしいですよ。地下室の方でベルが鳴っています!」
床に散っているガラスや漆喰の破片を容赦なく蹴立てて、レスは地下の会議室に駆け下りていったが一瞬間に合わず、ベルははたと鳴り止んだ。受話器を耳に当てると、たしかに一つの電話が生き返っていた。
この機会にひと言現況報告をしておこうと、彼はまずボンの大使館付駐在武官トミーのダイアルを廻した。何回もベルが鳴ったあとに、やっと出てきた若い女性の行儀のいい声がいった。
「トマス・ロイヒャマン中佐はずっと大使の部屋の方に行っております。重要なご用件でしたら呼んで参りましょうか?」
彼は、頼む、といい、自分の名を告げた。
「やあレス。君の方は大変だったらしいな。みんな無事か?」
「とにかく、ここにいた全員は怪我もせずに生き残れた」
「よかったな。一時間ばかり前から、停戦の話を伝えようと思って何度も電話していたんだが、全然通じなかった」
「そうなんだ。至近弾で電話ケーブルをやられたらしいんだ。部下がたった今一本だけ直したんだ」
「総領事の方はまったく見込みなしなのか?」
「絶望といわざるを得ないと思う。ハーグに上陸した査証課長が掛けてきた電話によると、船と一緒に沈んだらしい。僚船の方は乗客名簿に載っている者全部が確認されたので、すぐに現場を後にした。彼がいないことに気づかずにね。出航間際に随行を決めたので、多分乗客名簿には記載されていなかったんだ。乗客の数が倍になって混雑を極めている船内を、総領事の姿を求めて査証課長は懸命に走り廻っていたらしい」
「残念というほかないな。飄然としていてそれでいて物に動じない、なかなかの人物だったが……」
「そうなんだ。まったく残念なんだ。この戦争が起らなかったなら、とね。落ち着いてくるほどに無念さがこみ上げてくるんだ。今はまだ、船が沈み、総領事が救助されたことは確認されていない、といういい廻しで総領事夫人に伝えてあるだけなんだ。そろそろ事実を話さなくてはならないと思うと気が重い。ところで無届任地離脱の件の方はよろしく頼む」
「もちろんだ。今朝のような事態にぶつかったときにいちいち手続きなどしていられないさ。心配いらないよ。未亡人を慰める方法は何かないだろうか、と大使も気を遣っておられるが、君の方ではそこまでしか話していないとすると、大使が未亡人にお悔みの電話をするのもしばらく差し控えた方がいいな」
「そうだな。一日二日あとにする方がいいな。総領事夫人の気持に覚悟ができてからにした方が……」
「話は変るが、先刻のホーネッカーの名放送を聴いたか?」
「いや。そんなに名演説だったのか? 東独放送を受信できるラジオが、我われがいた地下室にはなかったんだ。しかし、テレビで連邦情報庁の報道官だという男が解説した話は聞いた。両独間の武力紛争はこれで終結するとしても、ホーネッカーはあれで対ソ関係をどう処理するんだろう? 大丈夫なのかな?」
「いうまでもなく大丈夫じゃないさ。今後一波瀾も二波瀾もあるだろうな。しかし、とにかく東独は、一党独裁の社会共産主義を放擲するか否かは別にして、クレムリンとははっきりと縁を切ることになるだろうな。ソ連としては今の時点で東独を押さえ込まないとすると、同盟国に謀叛していたことが露見してしまったことからして、後になるほど物がいいにくくなるだろうからね。とはいえ、ホーネッカーという人物はやはり老練というか老獪というか、さすがなかなかの政治家だな。監禁状態から解放された後の短時間のうちに世界の力の均衡をきちんと読んだ上で、あの放送をやっているんだ。しかも、演説の中でもマグダ宮に拘禁された時の事情を述べていたが、その反省の上に立って今回は実に俊敏に動いたらしい」
「世界の力の均衡を読んだ、というのは?」
「君が地下室にもぐっている間に、地球上の軍事バランスがかなり変化したんだ」
「例えば?」
「例えばだが、沿海地方で演習中のソ連軍のうち二十万が中ソ国境近くに移動したのは君も知っているだろう? それに刺戟された中国は、東独軍が侵攻を開始した頃から最精鋭の地上軍五十万と空軍力の半分とを、ソ連およびモンゴルの国境地帯に常置してある守備部隊に向けて増派しはじめたんだ。このためソ連は東部に送り込んである約百三十万の兵力を当分引き抜くことができなくなった」
「そのほかにも?」
「東独の両隣だ。チェコスロバキアとポーランドで反政府反ソ暴動が発生して、次第に都市部から地方に拡大しており、今や内戦の様相を呈してきている。タイミングが良過ぎてホーネッカーの影が見える、という者がいるくらいだ。
駐留ソ連軍の半分くらいが東独内に移動したために重石が軽くなったチェコでは、東独軍がこっちに侵攻する時機を待ち受けていたかのように、市民がまず各地の自国軍の基地を襲って武器を奪取した。どうやらチェコ軍自体が、初めからそれに同調していたような節があり、今や次第にソ連軍の方が形勢不利になりつつある。そもそもが東独軍侵攻開始直後のことであったために、チェコから東独内に転進していたソ連軍は全然動きが取れなかったらしい。
ポーランドで暴動が勃発したのはつい一時間ほど前で、ホーネッカーのラジオ放送の直後だ。だからホーネッカーの影が見える、などという話が生まれてくるんだな。とにかくワルシャワ市内で暴動が起るとすぐ、内閣がいきなり総辞職してしまい、現在は国事の統括者不明の有様で、国軍の兵士はみな武器を携えて国民戦線側についてしまった。反政府で始まった暴動だが、相手が判然としなくなったこともあって、矛先は段々とソ連軍追出しに絞られてきているらしい。ソ連軍がいなくなればこの国では政治体制すら変るかも知れない」
「話がうま過ぎないかな。そんな事態に対してソ連は何の手も打ってきていないのか?」
「白ロシアおよびウクライナ駐屯軍の空挺部隊が動きかけたんだ。しかし、結局刀は抜け切らないうちに、元の鞘の中に収まってしまった。東の中国、西のチェコおよびポーランドそして東独と、ソ連が共産主義国家同士で武力紛争を始めることになれば、世論的にも実体的にも自由世界に漁夫の利を占められると、クレムリンは判断し自制したんじゃないのかな。彼らの教条によれば共産国同士の戦争は有り得ないことになっているんだからな」
「そういう情勢の上に立ってホーネッカーは、ああいった大胆な暴露演説をしたというわけか? そしてソ連の反応はその読みどおりになった、というわけか?」
「だと思うね。この上東独との紛争に深入りしたのでは、共産圏内が蜂の巣を突ついたようになるのを惧れたんだろうね。ま、しかし、ソ連の反応はこういった理屈よりもむしろ生物の本能に似たようなものかも知れんな。なんというか、そう、軟体動物が触手を伸ばし過ぎて痛い目に会った時、体のあらゆる部分を反射的に収縮させるような、どうもそんな気がするな。さて、今回は秘かに拵えておいたにがい薬を自らが飲み下す羽目に陥ったソ連だが、次にはどんな手に出てくるか……」
トミーがこう嘆息したとき、部屋中の顔が一斉に集った扉口から「やあ!」と親しげだが遠慮勝ちな声が流れてきた。見るとそこにマコウィック領事が立っていた。ハーヴェステフーダー路を挾んでアルスター公園に向い合って建っている英国総領事館からは歩いても四、五分で来られる。レスはトミーに客が来たことを告げ、ひとまず電話を切った。
「やあ、マック。よく来てくれた。君の方の具合は?」
「建物を大分壊された。中破くらいかな。うちに比べればここは無傷のようなものだな。空対地ミサイルの流れ|弾丸《だま》にやられたらしいんだ。なにしろ向いの公園に五つ六つの対空陣地が構築されていたんだからたまらないよ。九時半頃から停戦になるまで敵機と渡り合う射撃音や爆発音がずっと続いていて、みんな聾になるんじゃないかと思った。
……話が変るがレス。君のところの電話が不通なので、見舞いかたがたやってきたんだが……。いい話じゃないんだ。君がすでに知っているといいんだが……」
扉口の近くに立ったままでいるマコウィックは真顔を作ってレスを見詰めた。レスはマコウィックが、英国ポーツマスに向けて出した米国系市民の避難船が沈没し、総領事が行方不明になったことをなんらかのチャネルで知って、念のために報らせに来てくれたのではないかと考えた。
海兵隊員の一人が不器用な手付きで差し出したコーヒーを受け取り、コーヒー皿を左の掌で支えながら一口啜ったマコウィックは、いいにくそうに口を開いた。
「そう。あれは正午少し前だった。自宅待機をしていたファウルクナーといううちのドイツ人職員が私に電話をかけてきたんだ。米国総領事館にはどうしても電話が通じない、といってね……」
「それはエルゼ・ファウルクナー夫人じゃないのか?」
彼女はレスの家と同じブロックの中に住んでいる。
「そうなんだ。彼女がいうには……」
レスの頭の中に反射的に閃いたものがあった。
「私の家が爆撃でやられた、と……」
「うん。ま、そうなんだ。直撃じゃなかったんだが隣家で発生した火災で君の家も類焼している、と」
レスは腕時計を見た。午後二時に近かった。今頃は何もかもが焼け落ちていることだろう。そう思った瞬間、どういうわけか、娘たちが大事にしていた細ごまとした品物の姿が、思いがけないほどくっきりと脳裡に浮び上がった。彼女たちは幾らかでもそれらをスーツケースの中に詰めていったのだろうか。それにしても家族を避難させておいてよかった、と思うと気持が家財の焼失などまったく一大事ではないように感じさせた。そしてまた、避難船を仕立てたことについて、総領事を失ったとき以来、彼の心中にわだかまっていた後悔の思いが幾分薄らいだようだった。
マコウィックは避難船の一隻が爆沈し、総領事が行方不明になっていることを知らなかった。それを聞かされたとき彼の返す言葉はすぐに出てこなかった。英国総領事館の方は施設の損害はかなり莫大な額に昇りそうな様子だったが人的には幸い数名の軽傷者を出しただけで、どうやらこの十時間戦争を潜り抜けたらしかった。
十時間でこの戦争は終熄した、と思っていたレスの理解が誤りだと判明したのは、マコウィックが帰っていったあと、ケイリーに電話をかけてからだった。
「いや、レス。南部では戦いはまだ続いているんだ。北部と中部の戦線ではすでに第三回目の兵力引離しが行なわれ、東独軍は五キロ、五キロ、十キロと合計二十キロメートル後退し、現在そのままの間隔を置いて双方対峙態勢にあるが、南部に進出しているホーフ回廊侵攻軍団は、彼らに本国の命令が届いていないのか、或いはそれを無視しているのか、未だに南西方向への前進を企てているんだ。連邦軍の方はこれに対抗する新たな兵力を北・中部から抜いて増強しつつあるので、開戦後初めて実力によって敵を押し返しはじめているんだ。
面白いのはついさっきフランス政府が発表した声明だ。東独軍が未だに南西方向、つまりフランス国境に向って進撃しようとしていることについて、『前世期末以来ゲルマン民族による侵略を三たび経験したフランスとしては、名目の如何を問わず、ゲルマン人によって構成された軍隊がわが国国境に向って進撃してくる事態を座視し黙過することはできない』と声明を発すると同時に、アルザスとロレーヌに大軍を集結しはじめた。この国の政府が承諾しさえすれば、国境を越えて撃って出てきかねない勢なんだ。
また、君の方のシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州にいる英軍司令官もなかなか味なことをやったんだ。『本朝以来、わが軍専用の演習地内にしばしば実弾が落下するため、訓練計画を消化するのに支障を来たしていた。幸いその事態は解消したと見られるので、本日午後の計画表に従い戦車戦演習を開始する』と連邦国防省に通告し、東独機甲師団が後退したために生じた二十キロメートル幅の非武装地帯の中に、実弾搭載のチーフテンとセンチュリオン数百両を送り込んで、走り廻らせているんだ。
わが軍としてはだ。ホーネッカーとの話し合いがついたので、まず西ベルリン駐留軍の交替部隊を英本土から空輸することになった。このため当分の間は西ベルリン駐留米軍勢力が二倍になる。ホーネッカーにしてみれば、ベルリンにおける対ソ保険が倍になるわけなんだ」
「英国本土からわが軍を空輸するのか? 例のソ連による北海封鎖はどうなったんだ?」
「君は僅か半日のうちにすっかり外界の事情に疎くなってしまったらしいな。チェコとポーランドで暴動が激化しているのは知っているな。このニュースは一般のラジオ、テレビの報道でもすでに流されているからな。暴動発生の初期にソ連はそれに武力介入しようとした。だが、結局思い留まったんだ。そしてほぼ同じ頃から、北海にあった艦隊と航空機も引き揚げはじめた。バレンツ海方面に撤収してゆく北海艦隊からキエフ一隻だけが離れて、この時刻だと、ドーバー海峡を西に向って通過中のはずだ。黒海に帰るのかな。それともまたインド洋に戻ってゆくのかな」
キエフがドーバー海峡を東に向って通過しつつある、と報らされたのは、一昨日の午前中だった。自室の壁面にあるヨーロッパ地図に向い、キエフの奇矯な行動の意図をあれこれ推測しようとしていた自分、それは遠い昔のできごとであったようで、レスにはとても二日前のこととは思えなかった。今日はまた、地下室の会議室にたった半日籠って周囲の戦況だけに注意を奪われていた間に、世界の情勢は通常の十数年分も変化していたのだ。ケイリーの話によると、東西両独境界地帯に後衛補充軍として集結していた東独軍団が、本来の管区に逐次復帰してゆくごとに、そこにあったソ連軍は摩擦も起さず、席を空けて東方に向けて撤収しているという。「市民に石もて追われるようにして」とケイリーは、現在の東独市民とソ連軍との間の感情面を形容した。彼は最後に、シュミットの談話がテレビのチャンネルで午後五時から放送されるはずだ、と教えて電話を切った。
類焼したというレスの住家の様子を見に行ってくれた部下が、額の汗を拭いながら戻ってきた。路上には、砲爆弾による穴が無数にあり、また航空機のものらしい大きな金属の塊りが落ちていたり、樹木が倒れていたりしていて、当分車では走れそうもない、という。レスの家は、未だに附近に残っている火災の余熱がひどいために接近できなかったが、望見したところ建物の屋根や二階の床は完全に焼け落ちており、煉瓦の壁中はひどく燻っていたという。
時刻は三時半だった。ここにいる館員の誰かも家を失っているかも知れない、と考えたレスは全員を帰宅させることにした。帰るところのないレスのためにミス・クレーマーが、総領事館の斜め後にあり、歩いて数分の距離のインターコンチネンタル・ホテルの一室を取った。初めホテル側は、人手もないし一部が戦災を受けているからと部屋を貸すのを断わったらしいが、今のレスにはただ眠ることができるベッドがありさえすればよかった。
館員を送り出し、ガラスのなくなった玄関の鉄扉に形だけの錠を下ろした。空は暗く、街のあちこちから立ち昇っている黒煙が中空に黒い空気の層を形成していた。レスは、あの黒い層の一部には自分の家が燃えた煙も混っているのだな、と疲労した頭でふと、馬鹿げたことを考えた。
チェックインをすませ、ロビーの右手の奥にある食堂に行った。彼のほかに席に着いている客は一人もいなかった。坐るとすぐ、注文もしないのに仔牛のグーラーシュと瓶詰めのビールが運ばれてきた。スペイン人のウェイターが、今日のメニューはこれだけです、と申しわけなさそうにいった。食堂の外に見える屋内プールのフレームは爆風によって押し潰され醜く変形しており、何十枚ものガラスのうち、まともにフレームに収まっているのは数枚だけだった。
給湯設備が異常なく働く部屋を、とカウンターで選んでくれた三〇二号室に行き、まずシャワーを取った。熱い湯が筋肉の緊張をほぐすと共に心理的な拘束感をも解き放ったのか、レスの心は日常的なものに次第に戻りはじめた。今頃はロンドンに向けて送られているはずの家族の上に思いが及んだ。クルトは今、どこで何をしているだろうか、と考えた。査証課長が戻り次第、一緒に総領事夫人のところを訪問しよう、と決心した。バスから出ても着替えはおろか整髪料もシェーバーもないな、と気がついた。
シャワーをすませて下着だけでベッドの上に仰向けに横たわっていると、眠気がさしてきた。サイドテーブルの上に置いた腕時計を手探りで取り時刻を見た。いつの間にか五時二分になっていた。ケイリーが五時から首相シュミットの談話が放送されるといっていた。彼は起き上がりテレビのスウィッチを入れた。
明るくなった画面の中でシュミットは、幅二メートルもの翼を広げた銀色の鷲が張りついている壁面を背にして演壇の端に立ち、右手の掌を左胸の上に置き瞑目していた。恐らく、この戦いで生命を祖国防衛のために捧げた市民や兵士の霊に対し、安らかに眠れかし、と祈念しているところであろうと推察された。やがて眼を開いたシュミットは、歩を進めて壇の中央にしつらえられた演卓についた。そして僅かな間を取ったあと、静かに第一声を発した。聴衆がその室内に一人もいないかの如く、彼の声のほかには物音一つ聞こえなかった。
「……今、私が立っているこの位置から、左手の窓の外に巨大な樫の木の梢が見えます……」
テレビカメラが即刻右にパンして、会場の窓の外に見える樫の大木の全容を把えた。そこはボンの首相官邸の庭内のようだった。
「……十八世紀の頃、一粒の種子から芽生えたあの樫の木は、二百年の後に今や辺りに抜きん出た大木となり亭々と聳えている……」
一語一語を噛みしめているように、彼はゆっくりと話した。
「……あの樫の木の、東側の枝葉は、西側のそれに較べて緑濃く生い繁り、西側の枝葉は、東側のそれに較べて肌目細かく生い繁っている。見るところ、巨木の東側と西側とでは、別種の木の如くにその趣を異にしてはいるが、あの樫の木のすべての枝葉は、いうまでもなく、同一の根幹から発しているのであります」
彼はここで突然語調と表情を厳しくした。
「今暁三時、突如として雷鳴が轟くが如くに勃発した同族間の戦いは、何びともその行き着くところを推し量り得ないかに見えた。しかしながら、人間の本然と歴史の流れとが綾なすところの真の意味を理解する人びとの決断と実行力によって、僅か十数時間でそれは終熄を迎えた……」
語調は再び緩かになった。
「……わがドイツ民族を奏でるところの交響曲は、十八世紀に始められた序章においてすでに、言語と伝統とを共有する人びとの団結と統一の可能性を高らかに暗示し、続く第二楽章においては、壇上に登場したすべての楽器が、崇高な行動力と真理を至上とする心を両立させたそれぞれの鳴色を自由に奏でたのち、やがて、二つの主題にそれらは整理され統合されるという第三楽章に進んでいったのであります。今こそついに、わがドイツ民族を奏でる交響曲は、序章ですでに示されていたとおりに、二つの主題がさらに一つに止揚統合され、民族の永遠不変の平和と繁栄の両立を奏でる終章へと移行しようとしているのであります」
しばらく間を置き、声を落して話しはじめた彼の両眼は、思いなしか潤んでいるように見えた。
「……本日の戦いにおいて、彼我の市民と将兵を併せて、三万人の多きを超える死傷者が生じたとの報告を、私は約一時間前に受け取りました。
彼らが今日父祖の大地の上に注いだ血潮が、わがドイツ民族永遠の幸福樹立のために不可欠の価値を持つものであったことを未来の歴史の中で立証することが、生存する我われの民族的責任なのであります。今日彼らの血潮が流されたればこそ、わが民族が到達し得た歴史的転換の機会に我われは恵まれたのであり、その変化を受け止め克服する勇気を、民族の一人一人に強く要求される時は今を措いてないのであります」
ここで眼鏡を外し片手に持った彼は、彼自身の決意を単に国民の前に披瀝しようとしているだけであるかのような、淡々とした口調で語り継いだ。
「私はすでに、民族繁栄のために次のような決断を下しました。なぜなら、罪科の根源を追及するが如き、過去に遡及する労力は放擲すべきであり、それに用いられる熱意と実行力とを将来への建設的なそれへと転化すべきだと考えるからであります。
すなわち私は、国家非常事態宣言を解除し得る適当な日まで、宣言者の権限を以て、ドイツ民主共和国との間の境界線の修復をかの国に要求しない。また、同国からの同胞のわが国への旅行について一切の制限を加えない。さらにまた、同国とわが国とが真に一体となるべき日のために、必要な新法案の検討を開始し、まず通貨調整法案、政治思想信条の自由に関する修正法案、また連邦議会議員選挙法改正法案などを早急に連邦議会に提出できるよう、迅速に準備を推進する考えであります。
一方、当然のことながら、わが国民に対して、ドイツ民主共和国内の肉親知人への訪問の自由が早急に与えられるよう、同国政府に対する働きかけも直ちに開始する考えであります。
今や、三十数年間にわたる人間性に|悖《もと》る不自然な時代は終ろうとしております。夫と妻とが、親と子とが、兄弟姉妹が、異常な国際環境の下で人為的に引き裂かれていた時代は、終りを告げようとしております。当事者にしか知り得ぬ、他の何ものとも比較し得べくもないその深甚な痛みは、今や取り去られようとしているのであります。
一つの国名と一つの国旗の下で、共通の言語を話す我われが……」
と、シュミットが国旗に言及した途端、待っていたようにテレビの画面に、上から順に黒、赤、黄の三色で三等分されたこの国の旗が大写しになり、それに重ねるようにして、同じ三色旗の中心に丸く麦の穂とハンマーに分度器をあしらった、ドイツ民主共和国の旗がはためいた。
それを眼にしたレスは、眠気がけし飛び、あっ、と叫んで仰向けに横たわっていたベッドから撥ね起きた。先刻退館するとき屋根の天辺に掲げさせておいた国旗を降ろすように部下に命じ忘れたのを思い出したのだ。国旗は日没前に取り降ろさねばならない。しまった、しまった、と口走りながら彼は服を着直して部屋を出た。シュミットの談話は次第に具体的な戦後処理事項に言及してゆきそうな様子だったが、終りまで聞けず仕舞いになった。
翌朝、六時にレスは極めて自然な眠りから醒めた。久し振りの熟睡感が全身に行き渡っていた。勢よく起き上がり、窓辺に行ってカーテンを全開にした。二重ガラスの窓を一つ開けると、街の遠く近くで唸っている無数のディーゼルエンジンの音が、どっと流れ込んできた。身を乗り出して眼下の道路を見下ろすと、モーターグレーダーやブルドーザーなど各種の作業車が路上を這い廻り、瓦礫を集めてはトラックの荷台に放り込んでいた。遠く近くから聞こえてくるエンジンの音から察すると、この早朝から街中一斉に、昨日は戦場と化していたこの街の路面の清掃に取り掛かっているのだ。市の清掃局か軍隊かは判らないが、あい変らずドイツ人は早起きで勤勉で組織的だった。
身繕いをすませた彼は、簡単に朝食を終らせると総領事館の中庭へ行った。彼のフォルクスヴァーゲンは埃と灰で雪を被ったように真白だった。水道のホースを持ち出して洗い流し、それに乗って焼け落ちたというわが家の様子を見に行った。道路にできている大小の穴を避けながらアルスター公園の脇まで来ると、英国総領事館の建物が眼に入った。右側四分の一くらいが原型を留めぬほどに破壊されていた。アルスター公園の芝生には直径七、八メートルの穴が幾つも口を空けていた。路上の障害物を避けつつようやくわが家の前に辿り着いてみると、二階建の家はまったく灰燼に帰しており、残っているのは煉瓦積みの壁面だけだった。壁の間を覗いてみると、焼け爛れた金属製品の残骸のほか、何一つ形を留めているものはなかった。その光景を眼に収めた彼は、消防隊が来ずに放っておかれると火事場というものはこうなるものか、と却って心残りがなくなった。
総領事館に戻ってみると、早ばやと揃って登館してきたドイツ人職員が、米人職員と一緒になって自発的に館内の清掃に取り掛かっていた。
彼はまず二階にある自室に行き、床の上に一面に散乱している窓ガラスの破片や、天井から落ちた漆喰をなるべく踏まないように気をつけつつ机に辿り着き、抽出しの奥から電池式のシェーバーを探し出して、髭を剃りはじめた。
その音で彼の登館に気づいたのか、秘書室に通じている方のドアが開き、ミス・クレーマーがコーヒーと分厚い新聞の束を届けてきた。彼女と二、三こと言葉を交したあと、また髭を剃りながら新聞を繰っていたが、どの新聞の構成もこの朝は申し合わせたように同じだった。第一面の大部分を写真で飾り、その内容も共通して東西両独国民の交歓図だった。いわく「負傷した東独兵を看護する西独娘」、いわく「この国の子供たちと戯れる東独戦車兵」、いわく「分裂後初めて相まみえた境界地帯の兄妹」等々。そのうちに彼の眼に「戦死者公報欄」が飛び込んできた。反射的に髭を剃る手を止め、クルトの氏名を追ったが、なかった。ほっとして二度目は指を当てて一つ一つを丁寧に読み進め、クルトの名前がないことをもう一度確認した。
思いついたように彼は電話機に向い、クルトの自宅のダイアルを廻した。クルトの家族は無事だった。家屋にも被害はなかったようだった。だがクルト自身はまだ帰宅しておらず、一昨夜以来何の連絡もない、とのことだった。フーズムの空軍基地に電話をしてみようか、と考えていたとき隠し電話のベルが鳴った。ケイリーだった。陽気な声はいきなり彼に呼びかけた。
「やあ、大佐殿! ご機嫌はいかがですかな?」
「え? なんだって!」
とクリスチァンゼン夫人と話していた惰性で思わずドイツ語が出た。
「ははは、レス。君はやはり本国勤務が必要な時期に来ていたんだな。やがてこのままだと母国のことを|父祖の国《フアーターラント》と呼ぶようになる」
「ケイリー。一体なんの話をしているんだ?」
「いうまでもなく、君の昇進と転属についてさ。この電話はよく聞こえているんだろう?」
「昇進と転属だって?」
「知らなかったのか? レス、君はテレメッセージをまだ読んでいないのか?」
そういえば昨日の午後以来、一通のテレタイプメッセージすら目にしていない。関係電文が入っていればミス・クレーマーが必ず手元に届けてくれるはずだ。
「そうか。回線がどこかで切れているのかも知れん。昨日から全然入電がないのもおかしいな」
「そうだったのか。とすると吉報を最初に伝達できるという光栄に浴して恐悦至極だ。いいかい。君はだ、来たる七月一日付を以て国防総省第四局第六部気付に発令され、同日付で大佐に昇進だ」
「ワシントンか。で、後任は?」
「後任か。ちょっと待ってくれ。ああこれだ。在カラカス大使館派遣班次席だったジェラール・ディーン・ザーン少佐だ。知り合いか?」
「いや。ジェラルディーン? 女性隊員か?」
「いやいや。ジェラルディーンじゃない。ジェラールそしてディーンだ。あははは」
ケイリーは電話線の向う側で長いことおもしろそうに笑っていた。その間にレスは、自身が一昨年あたりから折に触れて本国への転属希望を本省に提出していたのを思い出していた。この街で生まれた下の娘ドロレスが、今年は早くも六歳になる。このドロレスに初等教育だけでも母国で与えてやれたら、というのがレスと彼の妻ともどものかねてからの念願だったのだ。
続いて彼は、戦争騒ぎの中ですっかり念頭から消え去っていた人事の仕来りにも思い至った。海兵隊在外公館派遣教育学校は六カ月コースで、六月末と十二月末に卒業生が出る。したがって、毎年七月一日および一月一日が定例の異動発令日だったのだ。とすれば、この時期に異動命令が伝達されるのは極めて自然なことなのだが、レスにしてみればそれは、彼が住むこの地球とは別の星にあるコンピューターが弾き出した回答を、テレタイプが機械的に送り付けてきたかのように感じられて仕方がなかった。昨日一日の運命の組合わせが僅かでもずれていたなら、妻や娘たちは疾うの昔に北海の底に沈んでいたかも知れなかったし、彼自身にしても、あのまま戦争が継続していたら、果して七月一日付の異動命令を手にすることができただろうか。
[#改ページ]
六月も終りの三十日になり、正午直前に、ザーン少佐がフランクフルト空軍基地からヘリに乗せられてやってきた。東独軍のミサイル攻撃に晒されて軍、民間を問わず国内にあるすべての空港施設が何らかの損害をこうむり、その修復が完了していないために、民間航空は未だ一切の運航を休止しているからだ。総領事館の裏庭に着地したヘリから、正装に身を包みジェラルミン製のスーツケースを一個だけ携えて降り立ったザーン少佐の容姿は、ジェラール・ディーンという聞きようでは女性名に思われる名前とはおよそ縁遠い、合衆国海兵隊青年将校の一語がぴったりだった。
レスは取り敢えず彼を自分と同じインターコンチネンタル・ホテルに泊めて、七月四日までの四日間で業務の引継ぎをすませることにした。七月四日と目標を立てたのは、その日が合衆国の独立記念日であり、総領事夫人がレスに対して、予定していた招待パーティーを夫が遺した計画どおりに実行したい、という強い意向を示したからだった。
レスはパーティーの準備の合間を見てはザーン少佐を部外の関係者に紹介して廻った。英国総領事館のマコウィック領事のところへは真先に連れていった。クルトがいれば、もちろん彼のところが一番初めになっていたはずだ。またさらに、それらの仕事の合間を見つけてはクルトの家族を一日に一度は短時間でも訪れていた。あい変らず連邦空軍や国防省からは何の連絡も来なかったし、戦死したという公報も届かなかった。
或る日、レスはフーズム基地にも訪ねていった。事情を説明して閲覧を許された出撃記録簿には、「リューベック地区〇三・一五」および「エルベ南岸ボイツェンブルク地区〇四・二〇」と二度、レスにも判るクルトの手で記入されていた。しかし、地上勤務員の一人は、クリスチァンゼン少佐のF─4EFが三度目の出撃をする際に対戦車ミサイルTOWと機銃弾を補填した記憶がある、といった。はっきりした事情が掴めない最大の理由は、二十機が出撃して十機が帰還し、その十機が出撃して五機が帰還し、という風にして結局開戦後三時間余りで全機が未帰還になり、僚機から得られるはずの相互の情報がまったくない、ということらしかった。
七月四日になった。新しい窓ガラスを入れ終ったメインホール左手の、中庭に突き出している広間で、独立記念日のパーティーが予定どおりに開催された。出席する旨の回答を、戦争の前に寄越していた人数の約半数が集まった。笑顔で杯を交して話し合っていても、この場に総領事がいない事情を知っている来客たちは心から楽しんではいなかった。人びとは戦後の多忙を理由にしていつもより早目に辞去していった。広間の中が館員だけになったところで、その場を借りてレスは離任の挨拶をした。
それから一人車に乗り、特に当てもなく郊外の森へ行った。いつの間にか着任した当時よくやってきたことのある道を走っていた。昔を想い起し、濃い緑色一色の森の中に車を乗り入れ、見憶えのある樹の下でエンジンを切った。松柏類の木の香が|噎《む》せるほど強く鼻を打った。遠くで小川のせせらぎが聞こえていた。梢を渡ってゆく数羽のシジュウカラの鳴き交す囀りが、頭上を右から左へと移動していた。森を満たす空気には、着任した当時に較べていささかの変化も感じられなかった。だが、レスの脳裡には八年に近い年月の間に蓄えられた数かずの記憶が、尻取り遊びのように跡切れることなく浮び上がってくるのだった。
日常の習慣に戻り六時半に目覚めたレスにとって、特別な朝がやってきていた。明日のない朝だ。彼にはこの国での明日の朝はもう来ない。身繕いをしてロビーに降り、朝食をすませて戻ってくると、ドアの下に朝刊が差し込まれていた。見出しに特大の活字で“ロシア軍……”とあったが、折り畳まれている半面が見えなかった。新聞を拾い上げ広げながら、真直ぐに窓辺のアームチェアに行った。半面には“……ポーランドならびにチェコスロバキアに侵入”とあった。西ヨーロッパ接触面から撤兵していったあとの約一週間、沈黙を守っていたソ連が勢力圏の緩んだたがを締め直そうと、決意を新たにして動き出したのだ。戦争は余りにも呆気なかった、というのは不謹慎ないい様だが、昨日までは東西両独の戦いについてそういえなくもなかった。だがやはり、半日で終ったかに見えたのは、真実の姿ではなかったのだ。反政府勢力勝利の形でようやく内戦終結の兆が見えはじめていたポーランドとチェコスロバキアに、今暁突如リトワニア、白ロシアそしてウクライナにあった大量のソ連機甲部隊ならびに降下部隊が侵入を開始した。またブルガリア東部には黒海ルートで陸続と兵員武器を送り込み、駐屯兵力を増強しつつあるという。ウクライナ地方とブルガリア側から挾撃される危険に瀕したルーマニアは、今暁二時、ワルシャワ条約機構ならびにコメコン相互援助機構からの脱退を、世界に向って宣言した。こうして|旗幟《きし》を鮮明にした上で、自国軍をウクライナとブルガリア側の国境地帯に集結して自主防衛の決意を態度で示しつつ、西側主要国に懸命に支援を求めていた……。
新聞の紙面による限り、今回のソ連軍侵攻の様相は、一九五六年のハンガリー動乱や六八年のチェコ事件に対する軍事介入の際の形態とは、本質的に異っていた。当時はソ連の軍事力の前でまったく無力であった各国の国民が、今や|挙《こぞ》って武器を取り、侵入者ソ連と戦っているのだ。いってみれば、国家単位でソ連に刃向うという社会主義圏内での内戦が始ったのだ。
しかしながら、西側が手を拱いている限り、武力の差から見てポーランドとチェコスロバキアは、日ならずしてソ連の覇権に屈服するだろう。だが、ソ連はこの二国を掌中に取り戻したあと、果してそれのみで満足して西進を止め、東独国境を破らずに社会主義圏内に踏み留まっているだろうか。東西両独が戦いを終らせた一週間前のあの日の午後、東独クレムリン派のリーダーたちは、撤収してゆくソ連軍と共に東方に去っていった。かつて前大戦が終結した直後に、ヴァルター・ウルブリヒトらが勝利者ソ連軍の後に随いて、亡命先モスクワから意気揚々とベルリンに戻ってきたように、彼らがいつの日かソ連の大軍を伴って祖国解放を旗印に、反攻してくる可能性は高い。その時までに東西両独の一体化が実現していたとすれば、それこそそれがソ連の西側侵攻の口実とも足掛かりとも突破口ともなり得るのだ。
こういった将来の見通しに立つためか、シュミット、ホーネッカーの両政権は、共同防衛態勢の組織化について、今暁からすでに話合いを開始していた。昨日今日の新聞の紙面からすら読み取ることができるムードとしては、両独が再統一されることによりドイツがさらに強大化するのを、西側の周辺諸国はすでに警戒しはじめているのだ。人口面だけを取っても、ドイツは八千万以上になり、イギリス、イタリア、そしてフランスは、それぞれ五千万強だ。したがって、国際政治の成行き次第では、世界平和の維持という大義の名の下に、東独を再びソ連の手に戻すべきだとする気運がいつ西側に生じるかも知れない。両首脳はこのような国家心理の機微を踏まえた上で、驚くほど素早く動いているのだ。
レスは新聞を膝の上に置き、指を折って数えてみた。ラーツェブルク近傍の境界線で大爆発が起ったあの夜から、まだ十日余りしか経っていない。あと数時間の後に任地から離れようとしている今日までの七年八カ月の任期の中で、彼にとって、この最後の十日間ほど充実し起伏に富み彩りある時間はなかったと、彼は目の前を|過《よぎ》っていった一場面一場面を細密画を見るように思い起すことができた。そのたった二百四十時間の間に、それまでどうやら東西のバランスを保っていたヨーロッパが、いや全世界が地震のように鳴動しはじめたのだ。地震に事態をなぞらえるならば、東西ドイツの戦いは予震だったのだ。そして、今や本震が始ろうとしている……。
彼は新聞をもはや取り上げようとはせずに、窓外に眼をやった。そこでは何事も起り得ないようなもの憂げな北欧の夏の一日が始ろうとしていた。ホテルの建物の八階よりも背が高い数本のポプラの木が、やや強い南西風にそよいで葉裏を見せて銀色に輝き、その向うに外アルスターの湖面が見える。戦いが開始される前日には、あの湖面に小糠雨が降り注いでいた。向う岸の車道には今と同じに車が行き交い、建物の蔭に沿って傘をさした人びとが足早に歩いていた。そして小糠雨に煙る湖面では鈍く光る黒い雨着を着た艇手たちが、七色の帆を上げたヨットを滑らせていたのだった。今日も時刻は九時前だというのに、早くも数艘のヨットが湖面に出ている。ヨットの動きを追っていると、艇手が身に着けているもののエンジや黄の色が眼底に焼きつき、目を閉じてもまだそれらが見えた。その上に総領事の柔和な顔が重なった。あの日レスは、総領事と査証課長の二人と共に総領事執務室の隣の会議室で、雨に煙る窓外の風景を見やりながら、米国籍在留民の避難計画を練っていた。だが今日、一週間ばかりの後に、総領事はすでにこの世の人ではなくなっていた。
彼は想いが募るのを振り払って立ち上がり、ベッドサイドに行き、荷造りに取りかかった。総領事館の方にたまたま置いてあったために焼失を免れた、僅かばかりの私物は小型のスーツケースにたちまち収った。その後デスクに向い、ホテルの便箋を取り出して、クルトがどこかで生きているものとして別れの手紙を|認《したた》めた。彼に語りかけつつペンを走らせている間レスの心は和んでいた。封筒に入れ封をして宛名を書き終えてから、腕時計を見た。まだ時間が残っていたのでクルトの自宅に最後の電話をかけることにした。ベルが二十回も鳴るほど待っていたが受話器はついに取り上げられなかった。空港に行ってからもう一度試みることにして彼はスーツケースを提げて部屋を出た。
ロビーのカウンターで精算をしているところへ私服姿のザーン少佐が玄関の回転扉を押し開けて入ってきた。彼は総領事館から歩いてきたらしかった。レスの姿を見つけると、近づいてきて小声でいった。
「お早うございます、大佐。ソ連は今度こそ本気でやるつもりのようですね。今入電したテレックスによりますと、アフリカ各地に配備しておいた合計四万三千の兵員をギニアのコナクリーとタシュケント経由で本国に逆空輸しつつある、ということです。アフリカ辺りに置いておいても、いざという時には何の役にも立ちませんからね。ああ、それからロンドン大使館の東欧圏担当のヘイウッド中佐が懇談したいことがある、といってきています。向うに着かれたら早速連絡を取ってみていただけませんか」
二人は話しながらホテルを出ると、レスのフォルクスヴァーゲンを少佐が運転して空港に向った。空港についたところで、車は少佐に譲り渡されることになっている。
途中左手に眺めた英国総領事館の建物は、破壊された北側が大きなキャンバスシートで被われていた。クロスターシュテルン・ロータリーを通過するとき、レスの眼は習慣的にわが家の方角に向けられたが、倖い焼け跡は建物の蔭になり見えなかった。空港に行くまでの表通りの商店にも、いたるところに戦災の跡があった。小さな傷は木の板やキャンバスですでに隠されていたが、倒壊したり炎上した部分にはまだまったく手がつけられていなかった。
空港に着き、ターミナルビルの中に足を踏み入れたレスは、彼を知る多くの人びとが待ち構えているのに驚いた。警備犬のトロルを伴いその頸綱を握っている私服のシュルツじいさんがいた。レスがシュルツの背広姿を見るのは恐らく初めてだ。その傍にミス・クレーマーがサーモンピンクのバラの花束を手にして立っていた。マコウィック領事夫妻の姿もあった。息子のハンスに違いない松葉杖に縋っている青年に寄り添うようにして、眼に穏かな微笑を浮べているヒルシュマイア教授が立っていた。人びとの背後に、もはや自身より背丈が伸び、クルトの面立ちによく似てきた息子のマルカスをなおも抱きかかえるようにして、クリスチァンゼン夫人がレスに真直ぐに視線を当てていた。クルトの自宅に電話をしても誰も出なかった理由がこれで判った。そのうちさらに三名の海兵隊員の部下が駆け込んできて見送りの仲間に加わった。
そのときレスが何気なしに腕時計に目を遣ったのを、別れのために残された時間が少ないと取ったのか、クリスチァンゼン夫人がマルカスの背を軽く押して促した。マルカスは銀色の包装紙で包まれた瓶を手にしてレスの方に進み出ようとした。その動作に目を留めたレスは、自分の方から人びとの間を擦り抜けてクリスチァンゼン夫人に近づいた。夫人がいった。
「このように突然にお別れの日が来ようとは、夫も、たとえ生きていたとしても、決して予期していなかったことでしょう。これ、家に残っていたあのブラン・ド・ブランですの。召し上がるときに夫を思い出してくだされば、と思って……」
「クルトがどこかで生きている、という可能性は絶無ではないと私は信じます。怪我をしていて東側の病院に入れられている、というような……」
レスは、そうあって欲しいと自身が心に念じていることを口に出した。
「いいえ。幻影を追ってばかりはおられません。ここ二日三日、毎朝目覚める度毎に昨日より強い覚悟が生まれている自分に気がつきますの。これからはますます自分を甘やかすわけにはゆきません。このマルカスの成長に大事な時期ですから……。
長いことおつきあいいただき心から楽しかった、と私が申していたと、どうぞ奥様にお伝えください。その時間はかりそめのものではなく、私たちの人生の一部そのものだった、と私が申していたと……」
レスは返すべき適切な言葉を思いつかないまま、両眼に微かな涙をにじませているクリスチァンゼン夫人と無言で最後の握手を交し、見送りの人びとの前面に戻ろうとした。そのときヒルシュマイア教授が声をかけてきた。
「これが息子のハンス・ヨアヒムです」
「やあ。ハンス。多分そうだろうと思っていた。怪我の具合はどうだい?」
「はい。ありがとうございます。まあまあです。骨も傷ついているとかで、もう少し時間がかかるそうです」
たしかに中尉の方のハンスと、双生児のように髪や瞳の色、眼鼻立ちがよく似てはいるが、雰囲気がどことなく中尉とは違うものをレスは感じた。ハンスは周囲の空気を引き立てようとしてか、明るい声を出して喋った。
「実は三日前まで従兄のハンスと私は、同じ病院の同じ救急病棟の同じ階にある病室に入れられていたんです。区別に困った看護婦たちは怪我をしている方の肢を目印にして、“右肢のハンス”“左肢のハンス”と我われを呼び分けていたんですが、そのうちにその右左が怪我をしている方の肢だったのか、いい方の肢だったのか判らなくなってしまったんです。そのために一昨日から病室の階を変えられて“二階のハンス”“三階のハンス”と呼ばれているんです」
事情を知らない周囲の者もお付合いのように囁くような笑い声を立てた。レスは笑顔を造りながら心中で、そうだったのか、と思った。あの爆発事件の翌日、クルトのオフィスでヒルシュマイア教授と初めて会った日に、「ハンスの身の安全のために明日もう一度病院を変えるつもりだ」とクルトが教授に話していた。それがまたしても偶然にハイドベルク総合病院であったとは、彼は今日まで思ってもみなかった。
「で、君は何階のハンスなんだ?」
「私は“三階のハンス”です」
「とすると、“二階のハンス”はまだ外出禁止なのかい?」
「いや。ウィリスさん。それが……」
会話を引き取ろうとした教授が言葉を跡切らせた。ハンスが再び後を続けた。
「昨日までは我われ二人揃って、あなたの見送りに来ることになっていたんです。怪我の恢復は私よりずっと早かったんです。入院した直後、輸血をしてもらったあとすぐに松葉杖を使えば歩けるようになったんだそうです」
「それで?」
「今朝になったら病室からいなくなっているのが判ったんです。看護婦たちが病棟内はもちろん、病院中を手をつくして探したんですが。私がここに出掛けてくる時までには見つからなかった……」
「私が考えますのに、恐らく甥のハンスは、ソ連軍がポーランドやチェコスロバキアに侵入を始めたのを、今朝早く新聞かラジオによって知ったのでしょう。そして、自分の国にもきっと侵入してくるに違いないと考えて大急ぎで帰っていったのでしょうな、父祖の国を護るために。
しかし、自分より強い者に対してソ連は決して戦いを挑まないのだが……」
「またコンピューターですか? いや、今回はそれは当てになりませんな、教授。人間の狂気は少ないが国家の狂気は珍しくない、といいます。追い詰められれば、国家といえども理性を失うことがあり得ますから」
顔を左右に振って、さらに何かをいいたそうな素振りを教授が示したとき、レスが乗るべき便の最終搭乗案内が始った。
『十二時二十五分発、ロンドン・ヒースロー行き、パンアメリカン一〇一便にご搭乗のお客さまは、出国手続きをおすませのうえ、急いで連絡バス搭乗口Bにおいでください。最終バスが発車します』
ざわめく見送りの人びとに対してレスは表情を改めて、「なるべく早く休暇を取ってこの街に必ず帰ってきます。みなさん、それまでお元気で! アウフ・ヴィーダー・ゼーン!」
と挨拶し、一人一人と丁寧に握手を交した。ミス・クレーマーは、自分の番になると、
「これを奥様に。近いうちに今度はお客様としておいでくださいね」
といいつつ、別離の言葉が書き込んであるらしいカードを留めたセロファン包みのバラの花束をレスの掌に載せた。
ガラスの仕切り越しに幾たびもロビーに残る人びとの方を彼は振り返りながら、在任中に何度となく出入りしたために顔見知りになった係官が並ぶ出国手続用通路を通り抜け、急ぎ足でバスに乗り込んだ。バスは彼一人を待っていたかのようにたちまち動きだし、僅かな距離を走ったのち旅客機の後尾で停った。
機体の尾部から下がっている昇降タラップまでは二十歩足らずだった。最後に片足をタラップに懸け、残る足をまさに大地から離そうとしたその瞬間、この一歩で、自国のように愛したこの国から離れ、自分は一人のただの外国人に戻るのだ、という惜別の感慨が突然熱いものになって彼の胸を衝いた。思わずターミナルビルの方を振り仰ぐと、二階にあるレストランの露台に、先刻ロビーで別れを告げたはずの人びとの顔が並び、手擦りに身を乗り出したミス・クレーマーが露台にあるテーブルにかけてあったらしい薄緑色の大きな布を両手で広げて懸命に打ち振っていた。それに応えようとして彼が、手に持つバラの花束を高くかざしたとき、露台の反対側の隅に立っている男にふと眼が留まった。人びとの群の中に立つその男は、彼に対して真直ぐに視線を送っているように思われた。髪の色と相貌がヒルシュマイア中尉のそれと酷似していた。しかし、遠過ぎて確信を持てなかった。訝りつつもタラップの上で待つスチュワーデスの眼に急き立てられて機内に入り、尾部に近い右手窓側の席に着いた。三、四分で旅客機は動き出し、向きを変えてターミナルビルの前を通り、北東・南西方位の滑走路端に向った。旅客機に背を向けてゆっくりと手を振っている露台の上の人びとには彼の座席位置が判っていないらしかった。ヒルシュマイア中尉に似た男の姿を改めて探したが、どういうわけかすでに露台の上から消えていた。
あの日午前三時の開戦と同時に東独軍は、軍、民双方の飛行場を徹底的に攻撃してきた。非戦闘員の傷害をできるだけ回避しようとしたためか、民間空港に対しては滑走路のみを誘導ミサイルで狙い、それを破壊することによって空港機能を麻痺させようとした。この空港は、その時に損傷を受けた滑走路がようやく使用可能になったので、昨日から再開されたのだが、滑走路の周辺では今もなお各種の土木機械がディーゼルエンジンを唸らせて、地面にできた擂り鉢型の大きな穴を埋めていた。
機窓から注意深く観察すると、擂り鉢型の穴には二種類があった。殆どの穴は赤茶けた土くれだけが穴の周囲や表面を被っているが、それらは明らかに落下した爆発物によって作られたものだ。これらのほかに、やや小さくて、穴の周辺や内側の斜面に、金属の細かい破片や電線やパイプの切れ端が散乱しているものがところどころにあった。その穴の中心部には金属の大きな塊りが蟻地獄に捕えられた昆虫の死骸のように必ず|蹲《うずくま》っていた。それは敵味方の航空機が墜落して作った穴なのだ。
やがてランウェイ23ENDの位置に着いた旅客機はエンジンの音を高鳴らせて、05ENDに向って離陸滑走を始めた。右側の座席に着いている彼は、も早ターミナルビルの状景を見ることはできなかった。そればかりか、機体が浮き上がった後も、ハンブルクの街並もアルスター湖の光景も眺めることはできなかった。眼下にはただひたすらに夏の陽光に輝く森と田園風景が広がっていた。麦の刈入れがすみ、コンバインの筋目が綺麗についている赤褐色の耕地では、何台もの農耕トラクターが土煙を上げながら草返しをしていた。左手の機窓の彼方には濃緑のザクセンの森林地帯が見え、さらにその向うに、今やこの国との境に物理的に阻むものがなくなった東独領が、薄墨色に見え隠れしていた。すべてはあの日の戦いとはおよそかけ離れたのどかな風景だった。だが、この大地が続くすぐ先のポーランドとチェコスロバキアからは、早くもソ連軍の砲火に追われた人びとが、東独領に向って大量に逃れてきつつあるという。
旅客機は、乗客たちの想いに関わりなく、高度を急角度に上げながらエルベ電波標識が発射している誘導電波を目がけて、一直線に飛んでゆく。ロンドンに向うには、その標識の上で右に大きく旋回して、西南西に針路を取る。
たちまち、西に向って悠然と流れるエルベの水が見えてきた。青黒い河面を行き交う船が引いている水尾だけが発光体のような白い光を放っている。標識の上に達した旅客機が右に傾斜しつつ旋回しはじめたとき、エルベ河の南岸の土手にポツンと一つ蟻地獄のような穴があるのが眼に入った。穴の周囲に丸く無数に飛散している金属の破片が、中天にある太陽の光を弾き返して、まるで聖者の頭上の光輪のように輝いて見えた。
反射的に、あれはクルトのF─4EFが墜ちた跡では、と彼は咄嗟に窓ガラスに額を押しつけて、ジェット機が突っ込み粉砕した痕跡を目で追った。その穴は、エルベの河幅がもっとも広がっていて、流れが緩やかな辺りの堤防の斜面にあった。旋回を終えた旅客機が姿勢を水平に戻したために彼の傍の窓からは河の流れが見えなくなった。目を瞑ると、黒煙を噴出しながら急角度で墜ちてゆくF─4EFの姿が瞼の裏に見えた。あの夜、戦いが始る数時間前、首相私邸からの帰途、総領事館の前で車から降り立った彼を、暗い車内に残り無言でじっと見詰めていたクルトの顔が、墜ちてゆくその戦闘機の白煙が立ち籠めている操縦席の中に見えたような気がした。
レスは、
「クルト。もしあれが君の墓標だとしたら、君にはもっとも|相応《ふさわ》しいよ。なぜなら……」
と、半分を胸の中で、残りの半分は唇に乗せて呟いた。
「……あれほど君が好きだったエルベの四季を、君はそこにいて永遠に楽しむことができる……」
赴任して間もなくの頃、クリスマス・ツリーの件に|託《かこつ》けて訪ねてきたクルトと初めて遇った日の宵のできごとが、レスの脳裡に昨日のことのように鮮かに蘇っていた。クルトは、チラタールのステージの上で北ドイツの古詩を歌っていた。それを、ゲルマンのカレファラさ、と彼はいった……。
『ひとはいう
いまもなお エルベの水がにがいのは
その昔 嵐吹きすさぶ夜に
千石積みの リューネブルクの|岩塩船《しおぶね》が
千尋の底に沈んだからだ と
……………………
……………………
年老いて 王は みまかるきわに
二人の息子に 国を分けた
エルベの 東と 西と
……………………
二人の息子は王となり
いつしか あい戦うときがきた
……………………
……………………
兄弟よ 赦してくれ
戦いは 王たる者のさだめなのだ と
……………………
王に従う戦士たちは 戦いの庭で血を流した
戦士を送りだす娘たちは 別れがたさの涙を流した
砦を築く老人たちは 岩の重みの汗を流した
……………………
流れて止まぬ 血と 涙と 汗と
大地の底深く しみとおって
いまもなお エルベの水はにがいのだ
……………………』
低音で歌い続けるクルトの声が、レスの耳の底で旅客機のジェットエンジンの音と溶け合っていた。
旅客機はますます高度を高め、レスター・ウィリスを、彼が自国のように愛したこの国から速度〇・七九マッハで引き離し、白く泡立つドーバーを越えて、彼の妻子が待っているロンドンへと運んでいく。
[#地付き]〈完〉
単行本
昭和五十五年七月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
元首の|謀叛《ぼうはん》
二〇〇一年十月二十日 第一版
著 者 中村正
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Masanori Nakamura 2001
bb011012