「電撃hp11」より
ダブルブリッド・ビハインド Dead or Alive
[#地から2字上げ] 中村恵里加
ダブルブリッド・シリーズ
最大の変人=\―大田真章「電撃hp」に現る!
大田真章《おおたさねあき》は語る。
僕は、人間を殺したことがない。人を殺さなければならない状況《じょうきょう》に陥《おちい》ったら、すぐに逃《に》げ出す。殺せないわけじゃない、と思うよ。僕の頭の中には、人間に限らずあらゆる生き物の殺し方が詰《つ》まっている。でも、それを実践《じっせん》する気になんかなれないな。とくに、人間を殺すのは嫌《いや》だね。……どうして殺さないのに、殺す方法を知っているかって? 君は人間を殺して食べるけど、調理の仕方は知らないじゃないか。それと同じことだよ。わからないかな?
そうか、わからないか。
でもね、彼らは可愛《かわい》いじゃないか。君はそう思わないかい?
……そう思っていないようだね、君は。愚《おろ》かで傲慢《ごうまん》で短命? それは少し違《ちが》うよ。見てごらん、この本を。文字、紙、インク、印刷、製本、流通……僕にはこんなことを思いつくことはできなかっただろう。君だってそうだろう? すばらしい知恵じゃないか。……ああ、この『すばらしい』という言葉は、かつては悪い意味で使われていたようでね。僕はその時代はこの国にいなかったが……。ん、話が逸《そ》れるのは気に入らないようだね。では戻《もど》そうか。
……傲慢、それは大抵《たいてい》の人間にあてはまるだろうが、いいじゃないか、それでも。僕や君だって、かなり傲慢だよ。人間に対して明らかに上に立っているような物言いをしているじゃないか。何だい、その顔は。僕たちは彼らと決して対等ではないが、どちらが上位であると断定はできないはずだ。だから傲慢であるという点は見逃《みのが》してあげてはくれないか。
そして君は彼らを短命だと言った。それは否定しないね、彼らは短命だ。でも彼らは昔に比べれば寿命《じゅみょう》をかなり延ばしたよ。繁殖力《はんしょくりょく》を考えると少々増え過ぎな気もするが、それは僕や君が憂慮《ゆうりょ》することではないね。
………………。
ああ、少し……ほんの少しだけ昔のことを思い出したんだ。彼らは短命なのに、自ら命を絶とうとするんだよ……自分で自分を殺すことができるんだから、不思議だな。死ねば全《すべ》てが終わる。辛《つら》い生から逃れることができる。そう思っているみたいだよ。
死をも恐《おそ》れない、か。ほら、これは僕にも君にもできないことだろう? ……確かにそうなりたいとは思わないけどね、少しは人間の良さを見つけようとは思わないかい。
人間は簡単に死のうとする。そして簡単に生へと歩き出す。
実例の一つを話してみようか。
こいつは、とんでもない大馬鹿野郎《おおばかやろう》だ。こいつの話を聞いてると、俺はそう思う。
布団《ふとん》を叩《たた》くのは楽しい。力を入れすぎると綿が傷《いた》んでしまうが、力を抜《ぬ》きすぎるとあまり埃《ほこり》が飛ばない。ばんばん、ではなく、ぺしぺし、だ。理論ではなく、これは感覚の問題なのだ。風はある程度あった方がいい。陽射《ひざ》しは汗が出ない程度がよろしい。空を見上げた時に、雲が少しあると風情《ふぜい》がある。
今日はいい日だ。
「……おい、あんた」
大田真章はその呼び掛《か》けが自分に向けられたものであることを知っていたし、声の主がどこにいるのかも見えていた。だが、『あんた』と呼ばれて素直に返事をしていいものか。彼は自分の名前を知らないのだから、代名詞を使うのはいい。だがよくて『あなた』、次点で『君』、悪くて『そこの人』だ。自分と彼とは初対面である。人間だろうとアヤカシだろうと、初対面では呼び掛けに気を遣《つか》った方がいい。礼儀《れいぎ》は大切だ。
布団を一回叩く間にそんな思考を巡《めぐ》らせた大田は、その後も一秒に二回の間隔《かんかく》で叩き続けた。太陽の光を受けて埃が舞っている。四日干さないだけで、この有様だ。枕《まくら》も干すべきだろう。二十四回布団を叩いた大田は、二十五回目の途中《とちゅう》でふと手を止めて自分が手にしているプラスチック製の布団叩きを見た。百円の安物だが充分《じゅうぶん》に役目を果たしているその道具を、しみじみと見つめる。
(僕はこの道具のことを布団叩き≠ニ呼んでいるが、本当は別の呼び方があるんだろうか? 布団を叩くから布団叩き……安直だ。安直であることは決して悪いことじゃない。……そうだ、蠅《はえ》叩きだ。あれもこの布団叩きと似た形状をし、実にわかりやすい名前を持っている。この二つには、何らかの関運性があるんだろうか?)
今まで数え切れないほど布団を叩いてきたのに、こんな疑問に思い至ったのは初めてだった。今日は本当にいい日だ。大田は一人|頷《うなず》くと、もう一度布団を叩こうとした。
「……なあ、あんた。この状況を見て何か言うことはないのか?」
今度の声は、少し裏返って震《ふる》えていた。無視してもよかったが、とりあえず大田は手を休めてその声の方に顔を向ける。
「今日は、天気がいい。明日も晴れるだろう。布団を干すのにはとてもいい日だ」
その大田の返答を、彼は気に入らなかったらしい。
「お、俺はそういうことを言ってるんじゃない。警察を呼ぶとか一一九番に電話するとか、はやまった真似《まね》はよせとか、話せばわかるとか、もっと一般的な反応があるだろう! そ、そうだ、どうしてそんなところにいるんだって聞いてみるとか……」
「興味《きょうみ》がない」
「お、お前なあ! 馬鹿か!? 人間に大切な物が欠けてるぞ!」
突然怒鳴《とつぜんどな》り出した男を見て、大田は布団叩きの先端《せんたん》で屋上のコンクリートを突《つ》いた。自分は人間ではないのだから、『人間にとって大切な物』が欠けているのは当然だと思う。しかしそれを口にすると、自分がアヤカシであると説明する必要が生じてしまう。そのため、不本意ながら大田は言いたいことを半分ほど省略しなければならなかった。
「僕は自分のことを賢《かしこ》いと思っているわけじゃないが、馬鹿、と言われるのはあまりいい気分じゃないな。では一般的な反応をとることにしようかな」
そう言うと大田は、一階にある自分の住居に戻るために階段に向かって歩き始める。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て、おい! ど、どこに行くんだよ!」
「いや、今日《きょう》びの日本人はあらゆることに無関心だからね。僕がとある繁華街《はんかがい》を歩いていた時のことだ。一人の男性が道端《みちばた》に寝そべっていた。誰《だれ》も見向きもしない。でも、僕はわかった。彼が既《すで》に死んでいることに。外傷がないから、誰も死んでいるとは思っていなかったんだろう。僕はその場に佇《たたず》み、彼がどうなるかを見ていた。結局彼に近寄って肩を揺《ゆ》さぶった人間が現われたのはそれから三時間後……」
「そうじゃないだろうがあ!」
大田が最初に見た時、彼の顔は血の気が引いてかなり青白かったのだが、今や紅潮し目を見開いて大田を睨《にら》みつけていた。
「お前なあ! そんな薄情《はくじょう》でいいのか? お前みたいな若い奴《やつ》がいるから、この国は駄目《だめ》になったんだあ!」
大田は一つため息をつくと、きびすを返して男に近付いた。ほんの数秒後には、大田と彼の距離は一メートルほどに縮まる。
「来るな! 来るんじゃない! それ以上……」
屋上の周囲に張り巡らされたフェンスを、大田は乱暴に掴《つか》んで前後に大きく揺らした。
フェンスの向こうにいた男[#「フェンスの向こうにいた男」に傍点]が、濁音《だくおん》混じりの悲鳴をあげる。
「お、落ちる! 俺を殺す気か、お前は!」
「落ちるためにそこにいるんじゃないのか、君は?」
男に笑顔を向けながら、大田は彼の足元を見た。薄汚《うすよご》れた革靴《かわぐつ》が揃《そろ》えて置いてあり、その下には『遺書』とボールペンで書かれた茶封筒が敷《し》いてある。
「……風情がない。せめて墨汁《ぼくじゅう》と白封筒に変えてくれないかな」
大田の手の動きに合わせて、貧弱なフェンスが壊《こわ》れそうなほどに音を立てる。
「とっとにかく、揺らすのをやめてくれ!」
必死にフェンスにしがみつく男を見て、大田は笑顔のまま首を傾《かし》げた。
無駄に長いんだよ、お前の話はよお!
銀色の縁《ふち》を持つ丸|眼鏡《めがね》と、少々長い細腕のせいで必要以上に痩《や》せて見える体を持った男。目付きは悪いが、右手に持った布団叩きがどこか微笑《ほほえ》ましい。
その足元にへたりこんで荒い息を吐《は》いているのは、仁丹《じんたん》と煙草《たばこ》の匂《にお》いがする背広を着込《きこ》んだ男性だ。
「で、君は、僕に何か用があるのかな?」
見下ろしてくる大田の顔を見ようともしないで、男は苦しそうに言葉を紡《つむ》いだ。
「……ね、年配者を、君呼ばわりするな……」
「歳《とし》を経ただけで自分が上位者であると思い込むのはよくないね。長く生きるということはたしかに難しいし、それだけで尊敬される要素を担《にな》うことがある。しかし、ただ年上だからという理由だけで、他者に礼儀を強要するのはいただけないな」
『君はどう見ても五十年くらいしか生きてないだろう。僕は君の十倍以上長生きしているよ』という言葉を口に出すことはなく、大田は布団叩きで自分の肩を軽く叩いた。
「……よくしゃべる奴だ、まったく」
男は背広を脱《ぬ》いでネクタイをゆるめると、尻《しり》のポケットからハンカチを取り出して顔の汗を拭《ぬぐ》った。暑いわけでもないのに、彼の額には真夏日のような汗が大量に浮かんでいる。
「僕は布団叩きの途中なんだが、そこにいると埃が飛ぶと思う。このマンションから飛び降りたいなら、少し位置をずらした方がいいんじゃないかな。……ああ、いや、君が飛び降りて死んだら、警察が来る。そうするとこの屋上は立ち入り禁止になって、布団をとりいれられなくなる。君、午後三時まで待ってくれないか? ん、そうなると明日の朝はどうなるのかな……。君、死ぬなら他の場所にしてくれないかな。ここは十階だから、下の植え込み辺りに落ちたら骨折で済んでしまうかもしれないよ? やはり確実な手を考えた方がいい。ここは一つ日本の伝統、切腹をおすすめしよう。あれは痛いらしいよ。実演を見たことはないけどね。君、刃物は持っているかい?」
「……人が死ぬ覚悟《かくご》決めてやっとフェンス乗り越えたと思ったら、いきなりでてきて布団なんか叩きやがって……」
「僕に構わず、飛び降りればよかったんだよ。僕がいるくらいで自殺をやめるなら、君は一生自殺なんかできないね」
男の足を見ると、彼は既に靴を履《は》いてしまっている。これは自殺する気が失《う》せているな、そう大田は考えた。
「……あああ、もう、そうだよ。お前なんかの目の前では意地でも死んでやるもんかって思っちまったよ……。目の前に自殺しようって奴がいたら、もうちょっと慌《あわ》てろ……ほんとに俺が飛び降りてたら、どうしてたんだ……?」
「下に下りて君の生死を確認しようと思っていた。生きていたら救急車を、死んでいたら警察に電話をかけようかなと……」
恨《うら》めしい顔で大田を見ると、男は懐《ふところ》から仁丹の箱を取り出して十粒ほど口に放り込む。
「何てひどい奴だ……お前みたいな奴の前じゃ、死んでたまるか……」
「それはそれは」
結構なことだ。人間を殺したことはなくとも、目の前で人間に死なれたことはいくらでもある。あまり気持ちのいいものではない。自殺を試みる人間に会う機会は大田の長い生の中でも多くはなかったが、それを止める術《すべ》を大田は何通りか知っていた。
いつもと変わらない日常を見せつけ、慌てず騒《さわ》がず平然とした態度をとる。それだけのことだ。
「で、君はどうして死にたいのかな? 一番、人生が嫌になった、二番、金銭もしくは仕事がない、三番、誰かの後追い自殺。この辺りが妥当《だとう》かな。どうだろう?」
「……嫌な奴だな、お前」
「それはどうもありがとう」
大田の返答は決して嫌味ではなかったのだが、彼はそうは思わなかったらしい。大田に聞こえるような舌打ちをしてうつむくと、冷たいコンクリートを指でなぞり始める。
「で、三択《さんたく》のどれに正解があるのかな? いや、答えたくないなら僕が推測させてもらう。そうだな、僕の考えは……」
「二番だ! 会社が潰《つぶ》れて職がなくなった! 就職はできない、家のローンも払えない! 歯が痛くても、歯医者にだって行けやしねえ! 家族は俺を粗大ごみ扱《あつか》いしやがるしよお!」
やけになったのか、男は大声で叫《さけ》ぶと下から大田を睨みつけた。苛立《いらだ》ちと怒《いか》りと、ほんの少しのやるせなさが混じったその視線に、大田は笑顔で応《こた》えた。
「……へらへら笑うな、この……この……陰険《いんけん》眼鏡! だいたい何で俺がそんなことお前に言わなきゃいけないんだ!」
「違うな、僕に話を聞いてほしいのは君の方だろう」
大田の顔から笑いが消えた。強い断定の言葉を口にすると、男の傍《かたわ》らに座って目線を合わせる。目つきのよろしくない大田のまなざしを受けて、男はうろたえて顔を背《そむ》けた。
「君は、本当は死ぬ気なんかなかった。その遺書を書いた時は少しは本気だったのかもしれない。でも、高い所に立って、下を見下ろして君は思った。死にたくないってね。ただ、それを自分から言い出すのが、君は恥《は》ずかしいんだ。君は、君の家族に普段《ふだん》から死ぬと言っていたかもしれない。そして君の家族はそれを本気とは思わず、死にたいなら死んだら?≠ニ言っていたかもしれない。だから、君は自分の死ぬ気≠自分以外の誰かに見せたかったんじゃないのかな? 自分はつらい、だから死にたい、死のうとする自分を見てくれ、死のうとする自分を止めてくれ……そんなところじゃないのかな」
返答はなかった。
その沈黙《ちんもく》は十分間続いた。
ねえねえ、おおさん。血統とか騎手《きしゅ》の成績とかを考えても全然当たらないのに、適当に買うと当たるのって、どうしてだと思う?
……彼は泣きながら、僕に色々なことを言った。それらを一字一句再現することもできるけど……そうか、嫌か。結局、彼は死ななかった。僕は彼と普通に会話をしただけなのに、なぜか彼は喜んでいたよ。僕のおかげで生きていく決心がついたってね。
死ぬことを選んだのも、また生きることを選んだのも、彼自身の選択だ。すごいじゃないか、あっさりと死ぬ決心をして、すぐにそれを翻《ひるがえ》すことができるなんて。
退屈《たいくつ》そうだな、君は。君を楽しませるために話をしているわけじゃないから、当然だ。しかし僕も君もこの場から動くことはできない。そして側《そば》に誰かがいる以上、僕は喋《しゃべ》らずにはいられない。君が猫や馬だったら、さすがに僕も黙《だま》っているんだけどね。
そして君にとっては残念なことに、この話はまだ終わらないんだよ。
お前が何を言いたいのか、俺にはさっぱりわからない。
大田がシーツを干すために屋上に上がった時、そこには既に先客がいた。洗濯物《せんたくもの》を干すでもなく、ただフェンス越しに遠くの風景を眺《なが》めている。緑と住宅、そして遠くの方に高層ビルが点在するその景観は、取り立てて美しいわけではない。しかし、彼はそれらを食い入るように見つめていた。
大田はその人物が誰かを知っていたが、声を掛けようともせずに自分の本来の目的に取り掛かる。竿《さお》にシーツをかけて洗濯バサミで留《と》めると、大田は自分の部屋に戻るために階段へと歩き始めた。
「……薄情なんだな、お前。それとも、俺のことを忘れたのか?」
「いいや、よく覚えているよ。今から十二年前、ここから飛び降りようとして断念した当時五十四歳の男性だ。家族は七十二歳の母親と五十一歳の妻、二十六歳の長女と二十一歳の長男。長女は結婚して、埼玉で暮らしている。長男は大学に入るために二浪していたね」
「そんなことまで言ったんだ、俺……」
振《ふ》り返った大田は、笑いながら自分に歩み寄ってくる男の姿を見た。頭髪が大量に減り、ずいぶんと痩せてしまってはいるが、一度会話した人間を大田はそう間単に忘れはしない。
「お前は全然変わってないなあ……本当に、あの時のまんまじゃないか。その根性悪そうな眼鏡も、目つきの悪さも……いったい幾《いく》つなんだ?」
「若く見えるだけの話だよ」
十二年。アヤカシの中でも長命な大田にとって、それは大した時間ではない。だが、人間が老いるには充分だ。そして歳をとらない隣入《りんじん》を不思議に思う住人がいてもおかしくはない。一週間後、大田は少し離れた土地に引っ越す予定だった。
不思議なものだ。予定が一週間早ければ、大田はこの男と永遠に再会することはなかっただろう。十二年の歳月を経て、彼が唐突《とうとつ》に自分に会おうと思った偶然《ぐうぜん》を考えると、大田は少し楽しくなった。
「会えるとは思ってなかったんだけどな……こうして会えると……なんだか……」
男は大田の前まで来ると、その手を強引《ごういん》にとって握《にぎ》り締《し》めた。近くで見ると、本当に歳をとってしまったことがよくわかる。眉毛《まゆげ》は薄くなり、皺《しわ》も増えている。着ている服からは仁丹の匂いしか漂《ただよ》ってこない。骨張っているその手が震えているのは、再会の感激に浸《ひた》っているからかもしれないが。
「……いや、半分違うな。君は、どこか体が悪いんじゃないのか? 重い病気にかかっているんじゃないか?」
大田の手を解放すると、男は二、三歩下がってその場に座り込んだ。
「本当に、お前は何でもお見通しなんだな……。その通りだよ、不治ってわけじゃあないんだが……。手術には金がかかるし、保険がきかないんだ……。それ専門の保険じゃないと適用されないんだと……面倒《めんどう》な話だよなあ……」
「それは死ぬ病気なのかな?」
「はっきりと聞く奴だな……ほっとけば、そうだろうさ」
「なるほど、それで君は医者にかからずに死ぬつもりなのか? 自殺ではなく病死なのだから、自然な成り行きと言えないことはないけどね」
男の肩が不自然なまでに大きく震えた。
「どうなのかな?」
「……俺さあ」
顔を上げた男の表情は、疲《つか》れてはいるもののどこか晴々としている。
「十二年前、ここでお前と会って本当によかったと思ってる。お前はべらべら喋って何言ってるんだかさっぱりわからなかったけど、つらいことや苦しいことがあっても、お前のことを思い出すと死のうって気は起きなかった……。家族にもたくさん助けてもらったけど、その次辺りにお前にも感謝してるんだ。……嘘《うそ》じゃないぜ」
「そうか」
大田にしては、非常に珍《めずら》しい短い返答だった。人間に感謝している≠ネどと正面から言われたことは、彼の生の中でこれが三十四回目だ。罵倒《ばとう》された回数はその数百倍に及《およ》ぶ。
大田真章という名のシームルグは、感謝されることに慣れていなかった。
「やっぱり、死ぬのは怖《こわ》いな。自殺しようなんて考えたのが、馬鹿らしくなるくらいにさ。……だからさ、俺はがんばって生きるよ」
「一つ、聞いてもいいかな」
「ああ」
男は知らなかった。大田が人間に質問をし、その返答を心から欲することが滅多《めった》にないことを。それがどれほどの驚《おどろ》きに値する出来事かを。
だから、男は簡単に返事をした。
「なぜ、君はここに来たんだ? 自分が一度は死のうとした場所を、再び死に直面した今、また見たくなったのか?」
「それもあるかもしれないけどな……お前に会いたかったんだ。本当に会えるとは思ってなかったけどな。捜《さが》したくても名前も知らないし。……そういえば、名前も名乗らなかったなあ、俺たち。ずっと気にしてたんだ、命の恩人の名前を知らないなんて」
「僕は君の恩人なんかじゃない。君は勝手に死のうとして、勝手に生きようとしただけだ。僕は君に『死ぬな』とも『生きろ』とも言わなかった。君が今生きているのは、君と君の周りにいた人間のおかげだ。そう思った方がいい」
「お前がいなくても、俺は死ななかったかもしれない。でも、お前の言葉を聞かなかったら今までがんばることはできなかったよ。再就職して、家族とうまくやって、やっとこさ金も貯めて……。お前がどんなこと言ったか、俺けっこう覚えてるぜ」
立ち上がった男は、十二年前とは違う雲が流れる空を見上げて叫んだ。
「君は死んで、誰に葬式《そうしき》をあげてもらうんだ? 家族じゃないのか? ちゃんと葬式の費用は残したのか? 君が飛び降りた所に運悪く人間がいたら、まったく死ぬ気のない人間を巻き込む可能性も考えられる。その時は家族に迷惑《めいわく》がかかるじゃないか。まあ君が『家族なんか知ったことか』と思っているならしかたがない。きっと君の家族も、君の生死など構いはしないだろう。そうか、その時は君は葬式をあげてもらえないんだな。ところで君にはちゃんと先祖伝来のお墓はあるのかな? ……こんなことだらだら言われて、死ねるかよ馬鹿野郎!」
楽しそうに大声で笑うと、男は大田を見た。
その目には涙が浮かんでいたが、彼が泣く理由を大田は理解できなかったし、その理由を考えようとはしなかった。
「……なあ、名前教えてくれよ」
その簡単な問いに答えるために、大田は五秒もの時間を必要とした。彼にしては長い思考の末に名乗ったのは、彼が百年ほど使用している日本名ではなかった。
「シームルグ」
「何だ、そりゃ。あだ名か?」
「そう思ってくれればいい。わかりやすい名前もあるが、これが僕の名乗る本来の名前だ」
「そうかい、俺の名前は」
先生の話は長いけど、つまらなくはないですよ。……まあ、積極的に面白《おもしろ》いと思わないといけないのが、難点ですけど。
「で、お前の話は終わりか?」
「いや、彼の話にはまだ続きがある。たった一言で済むから、聞いてくれてもいいだろう?」
「何だ」
「半年後、病気で死んだよ」
「お前、わざわざ調べたのか?」
「僕は、彼の生をほんの少しだけ見た。そして、彼の死も見たかった。ただそれだけのことだ」
「最後を看取《みと》ったのか」
「窓の外からね。彼は苦しんで死んでいったよ」
「結局死ぬんだったら、そいつの意思で死にたい時に死ねばよかったんだ。たかだか十二年生き延びたところで、大して変わらんだろう」
「君の言葉は、まるで無駄に長生きするなというように聞こえるね。君も僕も長生きしてるじゃないか」
「お前、それをねたにして今度は『生きることに意味があるか』とかなんとか話そうとしてるだろ」
「ご名答……どこに行くのかな?」
「飯を食う。お前の面白くない話を聞いたら腹が減った」
「それはよかった」
「よくない。……ところでその死んだ奴、お前は一回も名前を出さなかったな。名前聞かなかったのか?」
「いいや、聞いたよ。ただ彼の名前を聞く権利があったのは僕だけだと思ってね。君も、彼の名前を聞きたいのかな?」
「全然」
僕は人に嫌《きら》われる。アヤカシにもよくは思われない。あと何年生きるかは知らないが、これからも僕は喋りたいことを喋り、見たいものを見て、そして生きて死ぬだろう。
さて、君はどんな生を送り、どんな死を迎《むか》えるんだろうね?
君の生と死は君だけのものだ。しかし君の周りには君以外の存在もいることを忘れてはいけないよ。
ああ、僕はただの傍観者《ぼうかんしゃ》だ。僕が君より先に死なない限り、僕は君の死を見届けよう。
その日ができる限り遠いことを、僕は願っているよ。
[#地付き]了
[#地付き]校正 2007.10.21