ソウル・アンダーテイカー
著者 中村恵里加/挿絵 洒乃 渉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)霊的物質《エクトプラズム》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|魂の血髄《エーテル》
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(例)アストラM44[#「44」は縦中横]
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第一話 伝説が始まった日……かもしれない
第二話 撃って撃たれてめぐり会い
第三話 銃には銃を、手には職を
第四話 鉄は熱いうちに打ち、馬鹿は馬鹿のままに撃つ
第五話 習うより慣れろと昔の人は言ったから
第六話 春が来たりて、馬鹿は踊る
始まっているような始まっていないような伝説
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ソウル・アンダーテイカー
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第一話 伝説が始まった日……かもしれない
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カレーライスは夏の食べ物だと祖母は言った。しかし今年最後の学校へ行くある冬の日、江藤比呂緒《えとうひろお》の朝食はカレーライスであった。なぜなら、昨日《きのう》の夕食がカレーライスだったからである。昨日の夕食がカレーなら、今日の朝食はカレー。これぞ世間様の一般常識。だと思っていたが、目の前で彼女の妹が食しているのは食パンと卵焼きとサラダだった。
「ふーちゃん、何でカレー食べないの」
「ヒロがカレー食べてるから」
つっけんどんな文華《ふみか》の言葉を理解するために、比呂緒の頭がのんびりと回転を始める。その間、スプーンはまったく動かない。
「また遅刻するよ」
「んあー」
文華がパンを千切《ちぎ》って口に入れ、卵焼きを半分食べたところで、比呂緒は「ああ」と声を上げる。
「あたしがカレー食べてるから、ふーちゃんのカレーがないんだ! そうかあ、それは悪いことしたねえ。半分食べる?」
「いらない」
そっけない妹の言葉にも姉はまったく気にすることはなく、スプーンを構える。そこで大変重要なことに気が付いた。
「福神漬けがない」
だからどうした、とは文華は言わなかった。こんな姉に付き合っていたら、全校生徒が集まって終業式が行なわれている体育館に目立ちながら入場し、クラスメイトに馬鹿《ばか》にされ、担任にはあきれられ、通知表の通信欄によけいなことを書かれてしまうのだ。
「ママー、福神漬けないの?」
そんな文華の内心など露知《つゆし》らず、比呂緒はスプーンを置いて立ち上がり隣の台所に入った。そこでは母が冷蔵庫の中身を既《すで》に確認してくれており、比呂緒が望む福神漬けの瓶《びん》を渡してくれる。
「全部食べちゃ駄目よ。それと時計ちゃんと見てなさいね。また遅刻するわよ」
「はーい」
瓶を抱えて食卓に戻ろうとした比呂緒であったが、そんな彼女に大変な試練が襲《おそ》い掛かった。飼い猫その一、ハツヒコ(通称ハッちゃん)である。比呂緒が台所から出ようとしたのと、彼が台所に入ろうとしたのはほぼ同時。比呂緒《ひろお》がこのまま右足を踏み出せば、ハツヒコのちょっぴり弛《たる》んだ腹に爪先蹴《つまさきげ》りが炸裂《さくれつ》してしまう。
踏み出しかけた足を慌《あわ》てて下ろす。その下ろした場所に、敷居があった。親指の先端を勢いよくそこにぶつけた比呂緒は「いーっ!」と叫び、その叫びに驚いたハツヒコが彼女の左足の甲を踏み付け、ついでに後脚《うしろあし》の爪《つめ》を立てた。「うぎー!」ただでさえバランス感覚の優れていない比呂緒は、前のめりに倒れながらも手の中にある福神漬けだけは守ろうとした。両腕を精一杯伸ばして、瓶《びん》を水平に保とうとする。
空手であれば掌《てのひら》から床に落ちて被害を最小限に食い止められたはずなのに、肘《ひじ》から落下する比呂緒であった。
「ぐはあっ!」
肘をしたたかに打った比呂緒は、そのままの体勢でしばらく床に倒れ付していた。この時彼女が考えていたことは、肘が痛い三分の一、床が冷たい三分の一、福神漬けが無事の三分の一である。全部足したら、一になる。
「ああ、三分の一が三つで一……パパ、ママ、人は肘を打つと頭が良くなるのかなあ……分数の足し算が……」
「ヒロー、遅刻するわよ」
台所からの母親の声を聞き、比呂緒は左手に持った瓶を落とさないように立ち上がった。食卓に着き、「カレーと福神漬けは、切っても切れない矢切のわたしー」と下手くそかつセンスの欠片《かけら》もない自作の歌を歌いながら、瓶の蓋《ふた》を開ける。
開かなかった。
「……あれ」
まさか左に回して開ける瓶なのだろうかと見直したが、そんなことはなかった。ただ単にきつく締めてあるだけである。『だけ』とはいえ比呂緒には大問題だが。
「……よーし」
左手に布巾《ふきん》を巻き右手でしっかりと瓶を押さえると、比呂緒は渾身《こんしん》の力を込めて蓋を回した。少しも回らなかった。
「開かないなあ……」
「昨日《きのう》、福神漬けの蓋を最後に閉めたの誰《だれ》だか思い出しなさいよ」
姉の行動をまったく無視して食事を続けていた妹がぽつりと言った。
「……昨日、昨日ね」
家族の顔を思い返す。父に母に自分に妹、ハツヒコとニケ。猫は福神漬けを食べない。母も食べない。妹も食べない。
「パパだね。だから開かないんだ、納得納得」
一人で感心して頷《うなず》くと、比呂緒は蓋の縁《ふち》をスプーンで叩《たた》き始めた。こうすると開きやすくなると、祖母が言っていた。お湯で瓶《びん》を温める方法もあるそうだが、残念ながらお湯を沸かしている時間がない。
だが比呂緒《ひろお》は蓋《ふた》を叩《たた》いている時間もないことには気が付かなかった。のんきに蓋を叩きながら、正面に座っている文華《ふみか》の様子を窺《うかが》う。まだ朝食に口もつけていない比呂緒に対し、もうあらかた平らげている。
「ねえ、ふーちゃん」
文華は返事をしない。話を聞いていないわけではない。ただ名前を呼んだだけでは返事をしないのだ。父や母や、他《ほか》の人なら、ちゃんと返事をしてくれるのに。
自分は、ただ妹の名前を呼んだだけでは無視される。ちょっとだけ悲しい。
「パパはもう仕事行っちゃったから会ってないけど、帰ってきたら言ってくれるし、ママは朝おはようって言った時に言ってくれたんだけど……」
「その要領の悪い馬鹿《ばか》みたいな喋《しゃべ》り方やめなさい。って、ヒロは馬鹿だからしょうがないわね」
「うん」
妹に馬鹿呼ばわりされて、平然と表情一つ変えずに比呂緒は『うん』と答える。その間も蓋を叩くこんこんこんこんの音は止まらない。
「あたしが馬鹿なのは、まあ置いといて。あたし、今日誕生日なんだけど」
「だから、何よ。誕生日おめでとうとか言ってもらって、誕生日プレゼントとか貰《もら》いたいわけ? 二歳年下の妹に?」
「うん。何年か前には言ってくれてたし、プレゼントもくれたでしょ。よく覚えてないけど。でもあたし、今日で十二歳に」
食事の終わった文華が、パンの耳を皿に叩き付けるように置いた。立ち上がると、未《いま》だに蓋を叩いている比呂緒を冷ややかな表情で見下ろす。
「十二歳よ、来年の四月には中学生でしょ。それなのに、妹におめでとうとかプレゼント欲しいとかいうわけ? それといつまで蓋叩いてんの今何時だと思ってんの、外見ないで自分ののろまっぷりも知らないでカレーなんか食べてる場合じゃないのよわかってる? ああ、わかってないわよね、底抜けの馬鹿だもんね馬鹿。馬鹿っ面《つら》下げてカレー食べてとっとと学校行って底辺まっしぐらの通知表貰って帰り道に滑《すべ》って転んで道路に人型残してしもやけにでもなればいいのよ、馬鹿ヒロ」
凄《すさ》まじい早口で言うと、文華はもう比呂緒の方を見ようともせずに出て行ってしまった。その後ろ姿をぼんやりとした顔で見送ると、比呂緒は文華の言葉の内容を反芻《はんすう》しようとする。
(ええっと……とにかくカレーを早く食べなさいってことなのか)
「ヒロー、また文華に怒られたの?」
「ううんー、カレー食べなさいって言われただけー」
もはやべこべこになってしまった蓋を掴《つか》んで、やはり開かないことに落胆《らくたん》する。先ほどまではきつく締めすぎて開かなかったのだが、今度は叩《たた》きすぎて蓋《ふた》が歪《ゆが》んでしまったから開かないことに、比呂緒《ひろお》が気が付くわけがない。
「あー……あきらめよっと。さよなら、福神漬け、我が心の友よ。もう今年はカレーないから、来年までのお別れだあ」
ため息をつきながら、カレーを一口食べる。一晩置いて、辛《から》さがすっかり抜け、中の具がほとんど崩れているそのカレーを、比呂緒は味わってゆっくりと食べた。
(そういえばふーちゃん、カレー早く食べなさいの後は何て言ったっけ)
思い出そうとしたが、あまりにも早口で言葉の量が多かったので、比呂緒は妹が何を言ったのかさっぱり思い出せなかった。とりあえず、『馬鹿《ばか》』と呼ばれたことは確かだ。
(ま、いつものことだし)
辛くないカレーを食べていた比呂緒は、文華《ふみか》が残したパンの耳に視線を向ける。
(あれも食べようつと)
比呂緒の食事が終わる頃《ころ》には、始業開始まであと十分に迫っていた。
普通に走っても、学校まで十五分かかる。
今日も遅刻確定だった。
終業式なのに。
江藤《えとう》比呂緒は、馬鹿と呼ばれている。他《ほか》にも、あほ、どじ、間抜け、にろく、などとも呼ばれる。『にろくって何?』と祖母に聞いたら、『ほら、馬鹿だにろくだってよく言うじゃない』と返ってきたので、『ああ、にろくってのは馬鹿とおんなじ意味だあ』と比呂緒は思った。
容貌《ようぼう》もいかにも馬鹿っぽいと言われている。それをもっとも顕著《けんちょ》に表現しているのが、いついかなる時でもぼーっと見開かれて、どこを見ているのかわからない目だった。茫洋《ぼうよう》、と表現することもできるが、常に緩《ゆる》んでいる表情と笑うとさらに果てしなく緩むその顔が比呂緒を果てしない馬鹿に見せていた。馬鹿に見えるだけでなく、実際に馬鹿なのだが。
なぜ自分が馬鹿と呼ばれるのか。それは自分が馬鹿だからである。
というわけで、比呂緒は馬鹿と呼ばれることをまったくもって気にしていなかった。
両親も、『お馬鹿さんでもいい、たくましく育ってほしい』と言っていたので、あまり気にしていなかった。比呂緒が本人たちに聞いたのだから間違いない、たぶん。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい」
台所から返ってくる母の言葉を聞いてから、比呂緒は玄関の扉《とびら》を開けた。
雪が、積もっていた。玄関から門に至るまでの短い道の間には、文華がつけたらしい足跡と、その上を空から落ちる雪がうっすらと白く埋《う》め始めている。
見上げると、灰色の空からまだまだたくさんの雪が舞い落ちていた。
「おー! おー! 雪ー!」
朝の天気予報で、東京にしては珍しいほどの降雪量で交通の便も滞《とどこお》っていると流れていたのだが、そんなものを比呂緒《ひろお》は聞いちゃいなかったし、朝起きてから外を見ていなかったので、今の今まで雪が降っていることを知らなかった。普通、寒さで気が付きそうなものだが、寒さに鈍くできている比呂緒には今日も昨日《きのう》も同じくらいの寒さでしかなかった。
「あー、パリッシュを出さないと」
比呂緒は慌《あわ》てて台所に取って返し、母の「遅刻するわよ」という声に「うん」と答えて冷凍庫のドアを開ける。そこには去年の冬に作った小さな雪だるま、パリッシュ(命名比呂緒)が入っていた。
それを抱えて玄関に戻り、靴箱から赤い長靴を取り出して履《は》くと外に踏み出した。もう十センチは積もっているだろうか。
文華《ふみか》の歩いた跡だけを踏んで門まで辿《たど》り着くと、比呂緒は門柱の上にパリッシュを置いた。
「一年間、お疲れ様でした。冬に帰ってください」
手を合わすと、道路の雪をすくい上げた。冷たいその雪は、ぼたん雪だ。雪だるまを作るのに適したその手応《てごた》えに、比呂緒は「わーい」と叫んで即席の小さな雪だるまを十秒で完成させた。
それをパリッシュの隣に置くと、比呂緒は三十秒間考える。
「……伊藤《いとう》」
こうして雪だるまパリッシュと雪だるま伊藤が、江藤家《えとうけ》の門柱に並んだ。
そして、やっと江藤比呂緒の登校が始まる。
「あ、傘忘れた」
……その二十秒後に、本当に登校が始まった。
自動車と人の足によって黒くなった雪の上を選んで、比呂緒は歩く。綺麗《きれい》な雪は綺麗な雪のまま放《ほう》っておきたい。もしくは、帰ってきた時の雪だるまの材料にしたい。校庭にも雪は積もっているだろうが、人に踏まれて汚れてしまっているだろう。
汚れた雪だけを踏んで登校した比呂緒は、既《すで》に閉まっている校門に行く手を遮《さえぎ》られた。校門の隙間《すきま》から見える校庭の雪は、黒い場所と白い場所がはっきりと分かれていて気持ちがいい。
(あの雪全部使ったら、かまくらが作れるんだろうなあ)
そんなことを考えながら、比呂緒は校門を見上げた。この鉄の柵《さく》を乗り越えることは比呂緒にはできない。普段《ふだん》なら校門の隣にあるフェンスに靴の先を引っ掛けて上るのだが、傘を持ち、少し雪が張りついたそのフェンスを乗り越えることは大変そうだ。
急がば回れ。というわけで、比呂緒は裏門に回った。今ごろ、寒い体育館で終業式をやっているのだろう。とりあえずほぼ空っぽのランドセルを教室に置いてから、体育館に行かなければ。
裏門から昇降口に回りこんだ比呂緒《ひろお》は下駄箱《げたばこ》に長靴を捻《ね》じ込み、傘と自分の服に付いた雪をばたばたと落としてから、自分の教室に向かった。静かな校内。誰《だれ》もいないのではないか、と思える廊下。この耳に痛いほどの静寂が、比呂緒は好きだった。実際、耳が痛い。耳たぶがしもやけなのかもしれないが。
三階にある六年一組。これが二組や三組や四組でなくて、本当によかったと比呂緒は思う。自分がどの教室に行かなければいけないか、忘れてしまうからだ。出席番号も、女子では一番。これも本当によかった。前に『あ』『い』『う』の人がいると、自分が何番目なのかすぐにわからなくなってしまう。いや、よかったよかった。
やけに響《ひび》く自分の足音を聞きながら、比呂緒は六年一組の扉《とびら》を開けた。
当たり前だが誰もいなかった。
自分の机は、廊下側から何列目で前から何番目か……ということもしょっちゅう忘れる比呂緒だが、五年と六年の時はそのことに悩まされずにすんだ。
担任の古屋《ふるや》に、必ず教卓の真正面に座らされるからだ。どんなに席替えをしても、比呂緒の座る場所はいつも同じ。わかりやすくて非常にいい。比呂緒の背は他《ほか》の女子に比べればほんの少しだけ大きいため、普通ならもう少し後ろの場所に座らされるものだが、あいにく普通ではいかない事情があったようだ。
それに比呂緒の机には、誰が書いたか知らないが、大きく油性マジックで『バカ』と書かれていた。すぐに比呂緒の机だとわかるので楽でいい。古屋に「消せ」と命令され、一応|頑張《がんば》ってみたのだが、少しかすれただけだった。
古屋|曰《いわ》く『こんな風に書かれるのも、お前が馬鹿《ばか》だからいけないんだ。だからお前が卒業するまで、責任もってこの馬鹿机を使え』
というわけで、この机との縁も深い。
あと三ヶ月で他称《たしょう》『江藤《えとう》の馬鹿机』とお別れかと思うと、若干|寂《さび》しいような気がしないでもなかった。これを次に使う生徒にはとても悪いとは思うが、消えないのだからしかたない。まだ見ぬ下級生よ、ごめんなさい。
ランドセルを机の横のフックに引っ掛け、椅子《いす》に腰掛けてからどてーと突っ伏す。
おかしい。昨日《きのう》たくさん寝たはずなのに、どうしてこんなに眠いのだろう。これから体育館に行って、遅ればせながら終業式に参加しなくてはいけないのに。
(今はどんな話してるのかなあ……校長先生の話は終わったかな……それで冬休みを過ごす上での注意とかがあったりして……)
そんなことをぼんやりと考えているうちに。
比呂緒は寝てしまった。
それはもう、ぐっすりと寝てしまった。
夢を見ていた。
夢の中でも馬鹿《ばか》と呼ばれていた。
だが、いつもと一つ違ったのは。
猫に馬鹿呼ばわりされてしまったことだった。
猫に馬鹿と呼ばれた。
馬と鹿に馬鹿と呼ばれるよりましかもしれない。
「江藤比呂緒《えとうひろお》!」
フルネームで呼ばれる時。それはたいてい怒られる時だ。
何か、夢を見ていたような。
いきなり後頭部に、衝撃《しょうげき》が来た。結構痛い。名簿《めいぼ》で叩《たた》かれているんだなあ、と比呂緒は他人事《ひとごと》のように思った。そして、殴《なぐ》られたショックで自分が夢を見ていたことも忘れてしまう。
起こされたんだから、起きないと。そう思って顔を上げようとした時、第二撃が来た。一発目より痛かったそれのせいで、比呂緒は再度机の上に伏せてしまう。
「まだ起きないのか、この馬鹿」
「起きてます、先生。ただちょっと痛かっただけです」
「痛いことをされるようなお前が悪いんだ」
そうなんだろうなあ、と比呂緒は後頭部をさすりながら顔を上げた。教卓の上から、担任の古屋《ふるや》が見下ろしている。
怒った顔ではない。蔑《さげす》んだ顔だ。
そろそろ四十になる古屋は、既《すで》に四十肩らしい。肩の位置がいつも違うから肩が凝《こ》るのだろう、と比呂緒は思う。
自分が入った時と同じように、静かな教室。だが、今は自分一人だけではない。担任の古屋と、三十何人かのクラスメイトたちがいる。正確な人数と顔と名前を、比呂緒は知らない。というより、覚えられない。会話もろくにしないのだから、覚える必要もない。
それに、比呂緒が全員を覚えていなくとも、全員が比呂緒のことを知っているのだから、何の問題もない。めでたしめでたし。
「お前、また遅刻か。理由はなんだ」
何だろう、起きた時間は普通だったような気がするのだが。
起きて、着替えて顔を洗ってトイレに行って手を洗って。ハツヒコとニケに朝の挨拶《あいさつ》、母と妹に朝の挨拶、猫二匹のトイレの掃除。
それから何をしただろうか。
「どうせ猫にかまってたとか、道に迷ったとか、川の中に鯉《こい》がいたとか、烏《からす》が電線の上にとまっていたとか、蟻《あり》の行列があったとか、くだらないことなんだろう」
理由を考えているうちに、断定されてしまった。
「お前みたいな奴《やつ》が和を乱し、社会に出ても他人に迷惑ばかりかけるようになるんだ。私がさんざん注意したのに、お前の頭はそれも理解できないほど馬鹿《ばか》のようだな。中身が入っているのか、この頭の中には」
「たぶん、それなりに。とりあえず血は入ってます」
昔、後頭部が割れた時は、結構血が出たらしい。今でもたまに、何もしていないのに後頭部が痛むことがあるが、それは頭の中の血が出すぎてしまったせいなのだろうか。
「誰《だれ》もそんなことは聞いていない!」
先ほどより強く、今度は脳天《のうてん》を名簿《めいぼ》で叩《たた》かれた。
じゃあ、何を聞かれたのだろう。『中身が入っているのか』と聞かれたから、頑張《がんば》って答えたのに。骨と肉と血と、あとは何だろう。ああ、きっと心も入っているのか。でも人の心って身体《からだ》のどこに入っているのだろう。頭だと思っていたが、もしかしたら心臓なのかもしれない。心の臓器なのだから。
「せ」
「お前のために、毎回毎回貴重な時間を割いて注意してやっているというのに、反省しようと思わないのか? 皆あきれているぞ」
そうだろうなあ、と比呂緒《ひろお》は思った。まだ最初の頃《ころ》は失笑《しっしょう》くらい漏《も》れたものだが、もう今ではすっかり皆慣れてしまったようで、静かなものだ。たまにひそひそ声が聞こえるが、きっと今日の昼ごはんは何だろう、と話しているに違いない。比呂緒も考えている。カレーの残りは全部食べてしまったから、きっとカレー以外だ。
ああ、だが雪だるまを作らなければならないから、お昼もおやつも食べている暇《ひま》はない。残念だ。今日はとびきり大きい雪だるまを作ろう。
「江藤《えとう》比呂緒、通知表だ。ちゃんと親御さんに見せて、しっかり怒られろ」
鼻先に突き出された薄っぺらいその紙を、比呂緒は両手で受け取った。ありがとうございますと言うべきかどうか、考えているうちに、
「じゃ、皆いい年越しをしろ。また来年」
どうやら、比呂緒以外の通知表はもう配り終わっていたらしい。日直の号令で立ち上がり、礼をする。比呂緒は立ち損《そこ》ない、挨拶《あいさつ》をし損なったが、本人以外|誰《だれ》も気にしなかった。
騒がしくクラスメイトたちが出て行く中、比呂緒は三回|殴《なぐ》られた頭を撫《な》でながらランドセルを取り出して机の中に手を入れた。何やらプリントや教科書やノートが入っている。すっかり持って帰るのを忘れていたそれらをランドセルの中に放《ほう》り込み、のっそりと立ち上がった。
何だか、怒られて通知表をもらうためだけに学校に来た気がする。実際そのとおりなのだが。
「どっこらせっと」
椅子《いす》をがたがたいわせながら、まだ残って何やら話しているクラスメイトたちの声を背に比呂緒《ひろお》は教室を出た。このクラスには、比呂緒と日常会話をする友人はいない。
もっとも、比呂緒が胸を張って『友達』といえる人間は一人しかいなかったが。
「この馬鹿《ばか》ヒロ! あんたまた遅刻したわね!」
出たところでいきなり怒鳴られた。
「あ、おっちゃん。おはよう」
比呂緒は、幼稚園から一緒の幼馴染《おさななじ》みを見下ろした。
この幼馴染み、落合明海《おちあいあけみ》はいつも怒っているような気が比呂緒はする。そう、今も怒っていた。怒ってポニーテールが逆立ったら面白《おもしろ》いのに、と毎回のように比呂緒は思う。そう思っても、残念ながら明海のポニーテールは逆立ってくれない。
「おはよう、じゃないわよ……あんた、遅刻しない日の方が珍しいくらいでどうすんの。逆皆勤賞《ぎゃくかいきんしょう》よ」
「すごいね」
賞を取った覚えのない比呂緒には、すごいことだ。
「すごくない! ……入り口に突っ立ってても邪魔《じゃま》だから、とっとと帰るわよ」
肩をいからせて歩き出す明海の後を、比呂緒が追う。揺れる髪の毛を掴《つか》んで引っ張りたいが、それをやったら間違いなく明海の怒りに油を注ぐのでやめておくことにした。比呂緒にしては賢明《けんめい》な判断である。
「おっちゃん、そう怒んないでよ。おっちゃんは笑った方が可愛《かわい》いんだから」
明海は、自分と比較できないくらい可愛いと比呂緒は思う。いつから伸ばしているかは覚えていないが、髪の毛はいつも手入れされていて乱れているところなど見たことがない。広い額《ひたい》は縁起のいい証拠で、目はいつも強そうに輝いていて、眉《まゆ》がすっと伸びていて。
「あんたにそんなこと言われても嬉《うれ》しくない。だいたい、怒らせてるのは誰《だれ》?」
「あたし」
「……わかってんなら、反省しなさいよ」
「してる」
「するだけでしょ」
「うん」
疲れる会話である。もっともこの場合、疲れているのは明海だけであり、比呂緒は元気いっぱいだ。
「古屋《ふるや》に叩《たた》かれなかったでしょうね」
「叩かれた、三回くらい」
明海の眉がぴくりと動く。
「頭……でしょうね……たく、あの古屋のタコスケ、卒業する前にはたいてやろうかしら」
「そんな物騒《ぶっそう》な……」
「あんたがこれ以上|馬鹿《ばか》になったら、どうすんのよ! タコスケはあんたがこれ以上馬鹿にならないと思ってんでしょうけど、あんたは今より馬鹿になる素質持ってんだから! 気を付けないと、西瓜《すいか》と南瓜《かぼちゃ》の区別がつかないほど馬鹿になるわよ!」
「それは、馬鹿以前に目が悪いんじゃあないかなあ、大丈夫、目はとってもいいよ」
「視力だけはいいわよねえ……あんたが眼鏡《めがね》だのコンタクトだのを入れるのって考えられないわ」
「ふーちゃんが、ちょっと心配なの。いつも勉強してるし」
「あ、そう」
どうも明海《あけみ》は文華《ふみか》の話をする時は、そっけないような気がする。文華も明海の話題を出すと不機嫌《ふきげん》になるのでお互い様だが。
「そうそう、おっちゃん。今日はね、あたし十二歳になったの」
「知ってるわよ……おめでとう、日本一お馬鹿さんな十二歳」
「ありがとう」
そう言ってくれるだけで、比呂緒《ひろお》は嬉《うれ》しい。別に品物など親以外からは欲しいとは思っていない。ただ「おめでとう」「ありがとう」というやり取りがしたいだけ。
(ふーちゃんは、お正月にもおめでとう言ってくれなくなった……)
そんなことをぼんやりと考えているうちに、昇降口《しょうこうぐち》まで辿《たど》り着いた。
「ねー、おっちゃん。うちで雪だるま作らない?」
「やーよ、この寒いのに、何でわざわざ外に出て雪だるまなんか作るのよ」
「だってこんなたくさん雪降るの、珍しいじゃない」
「あたしの田舎、福島だって言ったでしょうが。こんなのたいしたもんじゃないわよ」
福島。福島は南の方にあるのではないだろうか。
「……あんた、福岡と福島の区別がついてないでしょ」
「……うん。どっちが北の方にあるの?」
「福島よ……そういやヒロ、宮城と宮崎の区別もついてなかったわよね」
「うん、つかない」
明海は手袋をはめた手で頭を抱えた。
「来年、中学生になるのに、いいのかしらね、こんなんで……」
「いいんじゃない?」
腐《くさ》れ縁《えん》の幼馴染《おさななじ》みを見上げて、落合《おちあい》明海はため息をつく。
こんな十二歳がいて、いいのだろうか。
「……中学三年間で、もうちょっとましになればいいんだけど……」
「さあ、どうなんでしょ」
「あんたのことよ……」
「あ」
「少しは反省した?」
「雪合戦やってる。いいなーいいなー」
低学年の子供たちが、校庭で遊んでいるのが見えた。さも羨《うらや》ましそうに眺《なが》める比呂緒《ひろお》にため息をつく。
「……あんた、雪玉に石入れられて、それで額《ひたい》割ったの忘れたの?」
「そんなことあったっけ?」
「あったわよ……あんたが二年生の時。血が気持ち悪いとか言って泣く奴《やつ》がいたり、誰《だれ》がやったかって騒いだり……痕《あと》が残らなかったのはまあよかったけど」
「うん、よかったよかった……雪合戦やりたいなあ……」
ここで冗談《じょうだん》でも『仲間に入れてもらったら?』などと言ったら、『うん』と言って飛び込んで行って下級生たちに嫌われることは間違いない。それをわかっている明海《あけみ》は、黙《だま》って比呂緒の手袋をしていない手を引っ張った。
冷たい手だった。
「……あんた、どうしてこの寒いのに手袋しないのよ」
「だって、雪触ったら手袋が濡《ぬ》れちゃうじゃない」
「まさか、手袋が濡れるのが嫌《いや》だから、手袋しないわけ? それが理由?」
「それが理由」
羨ましそうに校庭を見ている比呂緒の両手を、自分の手袋で包むように明海は掴《つか》む。
まだ、雪は止《や》まない。
「どへえっ!」
人と自動車に踏まれて崩れた雪。そこに足を置いた比呂緒は、思いっきり滑《すべ》って。
転んだ。踵《かかと》が一瞬浮き、尻《しり》を道路にしたたかに打ち付ける。持っていた傘が傍《かたわ》らに落ちた。
「うわ、痛っ……」
「あんた、足元には気を付けなさいよ」
前を歩いていた明海が、あきれた顔をして振り返る。引っ張りあげてやろうと手を差し延べたのだが、比呂緒は尻餅《しりもち》を付いたままぼんやりとした顔で空を見ていた。
「ねえねえおっちゃん、空が綺麗《きれい》だよ」
「はあ?」
……この幼馴染《おさななじ》みは、いったい何を考えて生きているのやら。しみじみとその後頭部を見下ろして、明海はそう思う。床屋に行って七十過ぎた鋏《はさみ》を持つ手が危うい老店主に『適当に切ってください』と切ってもらうその髪はいつも短い。顔を剃《そ》ってもらうのが気持ちいいと比呂緒は言うが、『最近|剃刀《かみそり》負けしてちょっと痛いの』とも比呂緒《ひろお》は言う。
『そりゃ、剃刀負けじゃなくてじいさんの手が震《ふる》えて危ないんじゃないの?』と明海《あけみ》は突っ込んだが、相変わらず比呂緒はあの理髪店に行っている。いつだったか、首の皮が赤くなってて血を出したくせに。剃刀で首でも切られなきゃいいんだけど。
「いつまで空見てんのよ」
「んあー。でも綺麗《きれい》だよ、空」
「その間延びした馬鹿《ばか》っぽい返事もやめなさいよね……何がでも≠諱A話が噛《か》みあわないったらありゃしないんだから……」
答えつつ、明海も傘の下から空を見上げる。まだ止《や》まない雪。厚い雲に覆《おお》われた空。どこがどう綺麗なのだろう。
「この空のどこが綺麗だってのよ」
馬鹿みたいな答えが返ってくることがわかっていたが、それでも明海は聞く。
「ずーっと、白い空から白い雪が落ちてくるのは綺麗だよ」
「あっそう、どうでもいいから立ちなさいよ、お尻《しり》が汚れるわよ」
「そうだね、結構冷たい」
「だから立てって言ってんでしょ!」
ついに怒鳴った明海が、比呂緒の手首を掴《つか》んで強引に引っ張った。その勢いで、比呂緒が立ち上がる。
「あ、よいしょー」
「……何で引っ張られてるあんたが掛け声掛けんのよ」
「おっちゃんの代わりに。どもありがとね」
足だの尻だのに引っ付いた雪をばたばた叩《はた》いて落としてやると、明海は目じりを吊《つ》り上げて比呂緒を見上げた。
「あ、怒ってる」
「怒ってるわよ、馬鹿……」
そのまま肩をいからせて歩き出した明海だが、足を大きく踏み出した瞬間《しゅんかん》ずるりと滑《すべ》った。
前のめりになったその明海のランドセルを、比呂緒は反射的に掴んだ。しかし残念ながらその力は少々空回りしてしまったようで、前に転ぶはずだった明海は比呂緒と同様に尻餅《しりもち》をつく羽目になった。
「ああ、痛かったねえ、おっちゃん」
明海が何か言う前に、比呂緒は明海の身体《からだ》を引き起こし、雪を軽く落として、
「早く帰ろうよ、雪だるま作らないといけないし」
と歩き出してしまう。
ランドセルを引っ張られたことを怒った方がいいのか、手を貸してくれたことに礼を言った方がいいのか。少し迷っていた明海《あけみ》は、そのどちらも実行するタイミングを外してしまった。
(……わけわかんないわよ、あんた)
幼稚園《ようちえん》の頃《ころ》から長い付き合いをしているが、未《いま》だにこの『馬鹿《ばか》』と呼ばれる幼馴染《おさななじ》みが何を思考の中心として生きているのか今一つわからない。
だがそれよりも、いつも自分の後ろを歩いている比呂緒《ひろお》が、今こうして自分の目の前を歩いていることの方が癪《しゃく》に障《さわ》った。
少し足早に歩いて比呂緒を追い越し、その前を歩く。追い越されたことを、比呂緒は気にした風もなく、相変わらず空を見上げながら歩いている。
「ねえねえ、おっちゃん。空から山羊《やぎ》さんが落ちてくるのっていつだっけ」
「……はあ?」
また突拍子《とっぴょうし》もないことを言い出す……。算数の時間にいきなり『先生、あめんぼ赤いなあいうえおって言いますけど、あめんぼって赤でしたっけ』と言い出して怒られたのをもう忘れたのだろうか。
まあ、『先生、頭の中で誰《だれ》かの声がします、というわけで、その人がその問題の答えを教えてくれました』とか言い出すよりは何ぼかましか……。そうあきれながら、明海は比呂緒の言葉を無視することができなかった。
「あ、やぎさんって言っても、八で木で誰かの名字の八木さんじゃないよ。山で牛の、動物で毛がもこもこしてる方ね」
「……山羊は山と羊よ……で、その山羊が何で落ちてくんのよ?」
「あれ、昔誰かが言ったんじゃなかったっけ? 空からアンゴラが落ちてくるって」
落合《おちあい》明海は考えた。
考えに考え抜いた。
江藤《えとう》比呂緒のすべてを理解しているとは言わないが、少なくとも家族と同じくらいにはその思考パターンを把握《はあく》していると明海は自負《じふ》している。だがその明海でさえ、この比呂緒の言葉のどこにどう突っ込んでいいのか迷った。
迷った。
迷って迷いぬいた。
これが明海以外の人間なら『馬鹿が意味不明なことを口走っている』と思って終わらせるだろうが、残念ながら今ここにいるのは落合明海なのである。
そして、結論を出した。
「……ヒロ」
「なーに?」
「アンゴラヤギもいるけど、アンゴラウサギもいるのよ……アンゴラってのは、まあそいつらの毛を使った織物《おりもの》ね……織物は落ちてこないわ」
「はー、そうなんだ。なーんか聞いた覚えがあるの、いつかの夏に空からアンゴラが落ちてくるって。気のせいかな?」
「……気のせいじゃなくて、あんたが勘違《かんちが》いしてるだけよ……まあいいわ、ちなみにいつかってのはたぶん一九九九年ね」
「ふーん、まだ先の話だねえ。でも九が並んでておめでたい年だね」
「どこがよ。それにおめでたいのはあんたの頭の方よ」
「ありがとう」
「……礼を言わないの、馬鹿《ばか》にしてんだから」
「おめでたいのはいいことだもん、それにあたし馬鹿だし」
「あんたね、自分が馬鹿だってことを認めるんじゃないわよ! ほんとに馬鹿になるわよ!」
「でも馬鹿だし」
もっと怒ってやろうかと思ったが、だんだん疲れてきたのでやめることにした。積極的に話題を変えることにする。比呂緒《ひろお》が持ち出す話題についていこうとすると、頭が痛くなりそうだ。
「誕生日プレゼント、何が欲しい?」
「え、くれるの!?」
ぼけーとした瞳《ひとみ》を輝《かがや》かし、顔中にだらしない笑みを広げる比呂緒を見て明海《あけみ》は『……単純な子だ』、と思った。
「あたしに用意できる物ならね……あんたの好みを一応反映させたいから聞いとくわ」
「じゃ、せ」
「扇風機、とか言ったら張っ倒すわよ」
「あ」
「何よ」
「遠い昔、こういうことがあったような気がする……」
「遠い昔じゃなくて、去年のあんたの誕生日よ! だいたい何であんた毎年毎年扇風機欲しがるのよ! まだストーブとか言われた方がいいわよ、買えないけど」
「だって、夏暑いんだもん。あたしの部屋、屋根裏部屋だから、冷房ないし、夏暑いし。冬寒いのは全然平気だけど、夏暑いのは我慢《がまん》できないの」
「今は冬!」
「でも夏は来るよ」
「もういいわ、何か適当に実用的な物あげるから」
「うん、ありがとう。嬉《うれ》しいな」
大きくため息をつくと、明海は斜め後ろを歩いている比呂緒を振り返った。嬉しそうににこにこ笑っているその顔を見ると、あきれはするが怒りは湧《わ》いてこない。
何だかんだ言っても、見捨てられないのだ。この馬鹿を。
(……違う)
見捨てられないのではなく、見捨てるのが怖いだけだ。
もし自分が比呂緒《ひろお》は見捨てても、比呂緒は何も変わらないだろうが。
それがわかっていても。わかっているからこそ、見捨てるのが怖かった。
「ああ!」
突然の比呂緒の大声に、明海《あけみ》は自分の思考から立ち戻る。
「どうしたの?」
「パリッシュと伊藤《いとう》がお亡くなりになってるー!」
いつの間にか江藤家《えとうけ》の門前まで来ていたようだ。明海も付き合いが長いので、そのパリッシユと伊藤とやらが雪だるまだということはわかる。亡くなった、ということは誰《だれ》かに壊されたのだろう。ちなみに普通に溶けた場合、比呂緒は『冬に帰った』と表現する。
「あー、はいはいご愁傷様《しゅうしょうさま》、ご冥福《めいふく》を祈っておくわ……亡くなったってよりは殺された、の方が表現として正しいような気がするけど」
投げやりにばたばた手を振ると、明海は自分の家路につくことにした。いつまでもここにいる理由はないし、いたら雪だるまを作らされる羽目《はめ》になるだろうし。
「……んじゃ、明日プレゼント渡しに行くから。雪だるま作ってしもやけになるんじゃないわよ」
「大丈夫だよ、たぶん足の小指はもうなってるから」
それはもう大丈夫じゃないでしょうが。その言葉を口にするのはやめて、落合《おちあい》明海は江藤比呂緒と別れた。
「ただいまー!」
玄関先で雪を落とした後でドアを開けて大声で叫ぶと、どこか遠いところから「お帰りー」という母の声が聞こえたような気がした。
「ニケもただいまー!」
居間に続くドアの隙間《すきま》から覗《のぞ》いている黒地に白が点々と混じるぶち猫、ニケに声をかける。
「ぎゅー」
猫はにゃあとかみゃあとかみゅうとか鳴くものだが(少なくとも比呂緒の認識《にんしき》ではそうなのだ)、ニケは「ぎゅー」と鳴く。たまに「むー」と鳴く。そう明海に主張しているのだが、彼女は信じてくれない。ニケは比呂緒以外の人間に懐《なつ》かないので、明海が近付くとすぐ逃げてしまうからだ。当然、明海はニケの鳴き声を聞いたことがない。
『でも、ニケはぎゅーって鳴くんだよ』この主張は、ニケがぎゅーと鳴く限り続けようと思う比呂緒である。
「ニケー、外は寒いよ。雪だらけだよ。雪だるま作るよー」
ランドセルを下ろし、ニケを撫《な》でくり回そうと手を伸ばした比呂緒《ひろお》だが、自分の手が冷たいことに気が付いて躊躇《ためら》った。冷たい手で触ったら、ニケの身体《からだ》が冷えてしまう。
そう迷っている間にも、ニケは玄関マットの上に腹を出してころころと転がった。これは『構って構ってー』という自己主張だ、と比呂緒は勝手に思っている。薄い腹毛を見ながら、比呂緒はどうすべきか迷った。
あまり迷わない比呂緒にしては、珍しく迷った。
しかしその迷いはニケの行動により、決断をすることなく終了した。いきなり起き上がり、階段を上っていってしまったからだ。
「ニケー、どしたのー?」
手袋をしてから撫でればニケも冷たくないかもしれない。やっとそう考えついた矢先に立ち去ってしまうニケを、比呂緒は寂しく思った。
「……ヒロ」
怒ったような文華《ふみか》の声が居間の方からしたかと思うと、実際怒ったような顔をした文華が玄関に出てきた。
「あ、ふーちゃん、ただいま」
玄関の土間に突っ立ったままの比呂緒を、文華が上から見下ろす。寒さで赤くなった顔や手を見て、少し雪と泥で汚れたズボンを見て、床に置かれた終業式のくせにやけに中身の入っていそうなランドセルを見た。
「……通信簿《つうしんぼ》見せて」
「ランドセルの中に入ってるよ」
「自分で出して、渡すの! 早く! 急いで! 今すぐに!」
「一学期とどうせ変わらないよ?」
妹の剣幕《けんまく》にも別に比呂緒は動じない、が。
「ぐは、いったあ……」
文華がスリッパを履《は》いた足の爪先《つまさき》でお腹《なか》を蹴《け》り上げた時には動じた。思わず腹を押さえる比呂緒に対しても、文華の態度は何ら変わらない。
「つべこべ言わずにとっとと出すの! 身体だけは馬鹿《ばか》みたいに頑丈《がんじょう》にできてるんだから、痛くないでしょ! っていうより馬鹿みたいじゃなくて馬鹿なんだから! 馬鹿なヒロは馬鹿なヒロなりにあたしの言うこと素直に聞きなさいよ次はぐーぱんちよ!」
ぐーぱんちは痛い。とても痛い。服をたくさん着ているから少しは衝撃《しょうげき》が弱いかもしれないが、それでも痛いことには変わりない。
「文華、何を叫んでるの……」
あまりにも姉妹が騒ぐ、というか一方的に妹が怒っているだけだが、それを聞きつけて二人の母である紘子《ひろこ》さんがやってきた。昔よりちょっと太ったと本人は言うが、娘二人のうち姉の方は気にしていない。むしろ小さくなった方が気になる。
それはお母さんが小さくなったのではなく、比呂緒《ひろお》が大きくなっただけのことです。
「ああ、ママ。文華《ふみか》があたしの通知表見たいんだって。毎年毎年変わんないのにね?」
「そうねえ、少しでも上がってくれて、通信欄のお小言が減ってくれたらお母さん嬉《うれ》しいんだけど」
「あ、それは無理」
「……そうね無理ね、馬鹿《ばか》だもんね」
母は、姉妹二人のうちまずどちらから注意すべきか迷ったが、まずは年上から注意することにした。
「ヒロ、そう簡単に無理とか言っちゃ駄目《だめ》。努力してみないと駄目よ? ヒロはヒロなりに頑張ってること知ってるけど……」
「馬鹿は死んでも治らないのよ」
「そうだね、はは」
「笑ってんじゃないわよ」
険悪な二人の仲……というか、比呂緒の方はいたって和《なご》やかだが、今にも怒鳴り出しそうな文華の表情に、紘子《ひろこ》はため息をつく。
「文華……お姉ちゃんに向かってそういう口のきき方をしたらいけないわ」
「できがわるいいいこ、できのいいわるいこ、どっちもろくでなしよ」
呟《つぶや》くような妹の声を比呂緒は聞いていたが、母親には聞こえなかったようだ。紘子を押し退《の》けるようにして階段を上っていく文華を、母は悲しそうに、姉は――ぼーっとした目で見送る。
「……困った子ねえ」
「ふーちゃんはいい子だよ、ちょっと怒ると怖いけど」
「比呂緒」
「なーに、ママ?」
……無邪気に笑う今日十二歳になったばかりの我が子を見る時、母は色々と考える。この子は、本当にこれでよかったのか、と。
育て方を間違った、などとは考えていない。親としては考えなければいけないことだろうが。……あれは不幸な事故だったと思いたい。この子がこう≠ネのは、この子自身の本来生まれもった性質なだけで、あれは関係ないのだと思いたい。
だが、本人は至って幸せそうに見える。馬鹿にされても何の痛痒《つうよう》も受けた風もなく、平然と受け止めるこの子は、ある意味強いのかもしれない。妹にどれほど罵倒《ばとう》されても何の迷いもなく『いい子』だと断言できるこの子は、ある意味|優《やさ》しいのかもしれない。
しかしその強さや優《やさ》しさの根源にあるものを考えると。
「ううん、何でもないわ。今日の昼ご飯……」
「あ、いいよ。これから雪だるま作るから」
「雪だるま、好きねえ……そのためだけにご飯抜くのはちょっと感心しないわ」
「でもお昼ご飯は明日食べられるけど、雪だるまは今しか作れないもの」
「今日のお昼ご飯は、今日しか食べられないわよ?」
あー、と納得したかのように比呂緒《ひろお》がぽかんと口を開けた。
「そうだね、お母さんは頭いいね! でも、今日しか食べられないお昼ご飯よりは明日作れないかもしれない雪だるまを優先したいの……駄目《だめ》?」
珍しく理屈らしきものをこねる比呂緒に、紘子《ひろこ》は苦笑した。……いい子、だと思う。今は、この子はこれでいいのだ、と思う。
そう信じたいだけかもしれないが。
あと三年|経《た》ってもこうだったら――それは親として打開策《だかいさく》を考慮《こうりょ》すべきことなのだろうが、今は考えないことにした。
「風邪《かぜ》をひかないように気をつけるのよ。自動車や……こんな日には通らないでしょうけど、自転車には気をつけて。それといくら汚しても濡《ぬ》らしてもいいから、ちゃんと手袋をつけること。……約束できる?」
「……手袋……」
少し不満そうに眉《まゆ》をしかめて母を見上げる比呂緒だったが、「しかたないやー」と呟《つぶや》いて手袋をはめる。
「これでいい?」
「ええ」
「じゃ、おっきい雪だるま作るね! できたら見てね!」
「……その前に、通信簿《つうしんぼ》見せて?」
「あ、うん」
手袋をしたままランドセルを開け、一番上の取り出しやすい場所に入っていた薄っぺらい通知表を両手で渡す。
「変わってないよ、きっと」
「見なかったの?」
「だってきっと変わってないもの……ごめんね、あたしが馬鹿《ばか》じゃなかったら、ママもふーちゃんも嬉《うれ》しいのにね」
それは比呂緒が滅多《めった》に見せない、寂しそうな表情だった。笑ったり喜んだり泣いたり困ったり。そういう表情はいつも見ている紘子だが、比呂緒が悲しんだり寂しがったり怒ったりしたのは滅多に見ない。
「ヒロ……」
そうね、嬉《うれ》しいわね、とその言葉を肯定《こうてい》すべきか。
あなたは今のままでいい、その言葉を否定すべきか。
「じゃ、行ってきます」
そのどちらもできないまま、比呂緒《ひろお》は雪の世界へと飛び出して行った。自分の反応の遅さが少し嫌になる紘子《ひろこ》だったが、気を取り直して通知表を開く。
……やはり一学期と同じだった。これ以上下がりようのない成績であったが、担任教師からの通信欄には一学期とはまた違うことが書いてあった。
びっしりと『江藤《えとう》比呂緒の改善されるべき箇所《かしょ》』が箇条書きで。箇条書きというのが、何となく紘子は嫌だったがそれでも気を取り直して読んでみる。
向上心がない。協調性がない。社交性がない。集中力がない。根気がない。反省しない。
ないないづくし、ないづくし。
(……ヒロのいいところも見てください……っていうのは、わがままかしら……)
返信欄に何を書こうか、早くも悩み始める母親であった。
そんな母親の苦悩を知っているようで知らないような江藤比呂緒は、まず物置からスコップを取り出した。玄関から門まで、それなりに積もっている雪をかき分けるためだ。しかしその前にやることがある。
「門柱雪だるま作らなきゃ」
綺麗《きれい》な雪を集めて小さな雪だるまを作り、パリッシュと伊藤《いとう》亡き後に置く。考えること四十秒。
「……リーとレオン」
こうして雪だるまりーと雪だるまレオンが、江藤家の門柱に並んだ。
「よーし、やるぞー」
気合を入れるためにスコップを振りかざした比呂緒は、雪かきを始めた。比呂緒にとって雪かきは、雪だるま作りのためには切っても切れない大事な作業だ。小さな雪玉を作ってそれを転がして……という作り方をするには、東京は雪の量が足りなければ環境もよくない。
江藤家は車道に面しているわけではないが、たまには車も通るし人間も通る。綺麗な雪はそう豊富にはない。
だから比呂緒はかいた雪を一か所に集め、時たま手とスコップで球状になるように努める。その作業を続けていけば、やがては泥で汚れた比呂緒より少し背が低いくらいの雪だるまができる。その上を駐車場に停《と》めてある車上の雪や、まだ誰《だれ》も踏んでない雪でもって装飾する。
そうすれば、見た目は真っ白で綺麗《きれい》な雪だるまが完成するのだ。あとは好みで穴が開いて使い物にならなくなったバケツを被《かぶ》せるとか、もらったお歳暮《せいぼ》の包装に使ってあったリボンを巻くとかして装飾すれば、結構な雪だるまが完成する。
雪が降るたび雪だるまを作り続けた比呂緒《ひろお》が、失敗を重ねて重ねて重ねた上に見つけた方法である。普通の学習能力はからっきしない比呂緒だが、こういうことに関しては情熱を傾《かたむ》けるのだ。
欠点は、比呂緒の腕力と体力では、その全工程を終わらせるのに約五時間は必要とすることだ。
それでも比呂緒は、雪だるまを作る。
なぜか?
問われれば、彼女はこう答えるだろう。
「雪があるから」
というわけで、比呂緒は雪だるまを作る作業に専念し始めた。この近辺では雪の日に外で遊ぼうという子供は比呂緒しかいないため、誰《だれ》もいない。ライバルがいないのは結構なことだが、『どうして最近の子供は雪だるま作らないのかなー』と比呂緒は思う。
「ふーちゃんも作ればいいのに」
二歳年下の妹と雪だるまを作った記憶が、頭の片隅《かたすみ》にあるような、ないような。
「……ま、いいか」
後頭部を雪のついた手で撫《な》でた。手袋をしていると指の感覚が今ひとつよくわからないからだ。撫でた拍子にその雪が比呂緒の首に落ちた。
冷たい、と思う前に、比呂緒は痛いと思った。
雪が痛かったのだ。
冬が大好きで、雪も大好きなのに。
たまに、痛い。
なぜだろう。
雪は、まだ降り続けている。
だが、少しずつその勢いは弱くなっている。
「……ゆ、雪だるま、マニエルー!」
比呂緒は叫んだ。夕刊を配達している青年がポストの真ん前に作られたその雪の建造物を邪魔《じゃま》そうに見て、それの傍《かたわ》らに立ってスコップを高々と掲《かか》げている比呂緒を無視して、江藤家《えとうけ》のポストに夕刊を押し込んだ。
「どうも、お疲れ様ですー!」
バイクに乗って配達を続ける(この近辺の雪はほとんど比呂緒《ひろお》が道の端にのけるか、雪だるまの材料に使ってしまったため、バイクに乗っても大丈夫)その青年に声をかけると、比呂緒は改めて目の前の雪だるまを見つめた。今まで作ってきた中でも、これは最高|傑作《けっさく》かもしれない。まだ装飾は何も施《ほどこ》されていないが、大きさといい、綺麗《きれい》に削れた球状の形といい、表面の白さといい、申し分ない。
「うーん、すごいね、マニエル!」
一人で納得していた比呂緒だったが、よりよい雪だるまのために一旦《いったん》家の中に入ることにした。さて、どんな飾り付けをしようか。リボンは首に巻こうか頭に巻こうか。目や口の材料は何を使おうか。棒を刺して、その先端に穴が開いて使えなくなった軍手《ぐんて》をつけよう。ああ、雪だるまの足元に、ちょっとした雪玉を作って置いたら、足に見えるだろうか?
そんなことを考えながら玄関のドアを開ける。暖房のある部屋と比べれば寒いだろうが、それでも外の気温と比べれば暖かいことこの上ない。
「ヒロー、もう今日はやめなさい、そろそろ夕ご飯よ」
「えー」
台所から聞こえてきた母の言葉に、比呂緒は不満の声をあげた。もうちょっとでマニエルがもっといいマニエルになるのに。
「もう六時半過ぎてるのよ。朝からカレーしか食べてないじゃない」
そう言われれば、確かに空腹だ。今までまったく考えていなかったので気が付かなかったが、指摘《してき》されると腹が減って腹が減ってたまらない。
「今日はヒロの大好きなツナご飯よ」
「うん、すぐ着替える!」
ツナご飯は雪だるまに勝る。
比呂緒の好物ツナご飯。それはご飯にツナ缶と醤油《しょうゆ》をぶち込んでかき混ぜる、ただそれだけの物だ。比呂緒はさらにその上に、鰹節《かつおぶし》をかける。江藤家《えとうけ》では猫用の安い鰹節と人間用の高い鰹節が存在するが、後者をかけると美味《おい》しさ倍増だ。
ただのツナご飯、と侮《あなど》るなかれ。上手にかき混ぜないとツナがほぐれず『ご飯の中にツナの塊《かたまり》が点々と入っている』状態になってしまう。醤油を入れる時も、手が滑《すべ》るとどばどばご飯の中に入ってしまい、ひどく濃い醤油ご飯を食べる羽目《はめ》になる。かといって、量が少ないと味が薄くて面白くない。比呂緒は何度かそんな失敗をしたため、今では紘子《ひろこ》に作ってもらうしかツナご飯を食べることができなかった。
別に高級品でもないこのツナご飯が、滅多《めった》に江藤家の食卓に上らないのには理由がある。文華《ふみか》がこれを嫌っているのだ。その理由は不明。
『美味しいのに』と比呂緒は主張するのだが、どうにも文華はこのご飯を食べようとしない。
(ふーちゃんは食わず嫌いなんだから……納豆も嫌いだし、塩辛《しおから》も嫌いだし、蝗《いなご》の佃煮も嫌いだし、ひじきも嫌いだし……)
そんなことを考えながら、比呂緒《ひろお》は長靴を脱いで玄関に上がった。洗面所に行って手を洗い、うがいをし、靴下や手袋を洗濯機の横に置いてある籠《かご》に放《ほう》り込む。雪で濡《ぬ》れたオーバーはハンガーにかけて暖かい居間にかけておく。
「ふーちゃん、ただいまー」
ソファーに座ってニュースを見ている文華《ふみか》に声をかけたが、無視された。手を温めるためにストーブの前に行き、その前を占領しているハツヒコの温かいを通り越して熱い腹を触る。
「ハッちゃんもただいまー。お腹《なか》熱いよ? 少し冷やしちゃうぞー」
脂肪をたぷたぷつまんでも、ハツヒコは微動《びどう》だにしない。そんなハツヒコで遊びながら、比呂緒は文華に話し掛ける。
「ねえ、ふーちゃん、表にね、マニエルができたよ。なかなかいい出来なんだよねー、後で見てね?」
しかし文華の口から出たのは、雪だるまとは何の関係もない言葉だった。
「……夕刊は?」
「は?」
「夕刊、来てたでしょ、取ってこなかったの?」
「あーあー、夕刊ね! そうだね、来てたね。後で取りに行くよ」
「……戻ってくる時に取ってきてりゃ、もう一度外に出る必要なかったのに」
「んあー、そだね」
ハツヒコの腹をもてあそんでいた比呂緒だったが、居間の入り口からニケが寂しそうな顔をして覗《のぞ》いていることに気がついた。
『ニケは表情のない猫だねえ』と祖母は言った。祖母の言うことはほぼすべて正しいと信じている比呂緒だが、それだけは間違っていると思う。ニケにだって表情はちゃんとあるのだ。あれは構ってほしい顔だ。
「ニケー、あったかいよー、おいでー、きゅー」
最後の『きゅー』は、比呂緒なりの猫の鳴き真似《まね》である。
「きゅー、きゅー」
と何度かやってみたが、ニケは動かずに廊下から覗いているだけだ。やはり文華がいる部屋には入りたがらないようだ。猫は暖かいところが好きなはずなのに、ニケは変わっている。そう思いながら比呂緒は立ち上がった。
「ヒロ」
「何、ふーちゃん?」
珍しく怒っていないような文華の声に、比呂緒は喜んで返事をする。文華の方を見るが、彼女は姉ではなく相変わらずテレビを凝視《ぎょうし》していた。
「……ヒロ、今年もお父さんに扇風機が欲しいって言ったの?」
「言ったよー、嫌だって言うから、じゃあ何でもいいって言った」
「……それで、毎年毎年、あんなくだらない物もらって、何が嬉《うれ》しいわけ?」
「くだらなくなんかないよ、パパはいつもすごい物くれるよ」
どちらかというと、文華《ふみか》の方がつまらない物を要求していると比呂緒《ひろお》は思う。何しろ誕生日プレゼントに何が欲しいと聞くと、必ず『現金』と答えるのだから。父や母は現金ではなく図書券をあげているようだが。
そういえば、自分は今年妹に何を、
「去年、何もらったか覚えてる?」
あげたか思い出す前に、比呂緒は去年の記憶を引きずり出さねばならなくなった。
「えーと……ああ、何とかいうカタカナの空母の模型」
「あれはお父さんが組み立てた後だから、模型の楽しみがないじゃないの……それは二年生の時」
そうだっただろうか。比呂緒はまたも記憶の底をさらう努力を始めた。
「じゃあ、あれだ。野球選手のサイン」
「中日の選手のサインもらって嬉しいの?」
「それなりに嬉しいよ……あ、それとドラフトで入団した時は中日だったけど、そのサインもらった時は西武だったって、パパ言ってた」
もう引退しているが結構有名な選手で、首位打者争いの最終戦に全打席敬遠され最終打席に空振りで抗議したというエピソードを聞いたことがあるような。
名前を思い出そうとする前に、
「そのプレゼントは一昨年」
という文華の突っ込みが入ったため、比呂緒は頭を抱えたくなった。
「……うーん、去年は何だったかなあ……」
なかなか思い出せない比呂緒に、ついに文華の非常に短い堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れた。
「……思い出せないくらい、くだらない物だったのよ!……去年は、ボートのプロペラだったでしょうが!」
「ああ、あれ!」
最初見た時は、扇風機のプロペラかと思った代物《しろもの》だ。言われてやっと記憶が蘇《よみがえ》ってくる比呂緒である。
「そうそう! でも、ただのプロペラじゃないよ、どっかの周年記念で優勝した選手のサイン入りプロペラ! すごいよね、GTだよ!」
「そんな物、SGだって嬉しくないわよ!」
ちなみに彼女たちが話しているのは競艇《きょうてい》のことだ。競艇は『グレード制』というレース体系を持ち、上位のレースになるほど賞金が上がる。上からSG、GI、GU、GV、一般競走となっている。
小学生にとってはまったく無駄《むだ》な知識である。親の趣味のせいです。
しかし今この姉妹にとって重要なのは競艇についてではなく、プレゼントのことなのだ。
「……だいたい、貰《もら》っていったい何の役に立つのよ!」
比呂緒《ひろお》は『んあー』と口を開けながら五秒考えた。
「飾る、とか」
ちょっと頼りない言葉だ。
「飾ってないじゃない……今の状態は置いてあるだけよ」
「そう? じゃあいつか天井からぶら下げるよ」
文華《ふみか》がさらに何か言おうとした時、台所から母の声が聞こえてきた。
「ヒロ、ちゃんと着替えた? 後十分くらいでご飯よ」
「んー、まだー。ふーちゃん、話はまた後でね」
居間のドアを開けてばたばた出て行く姉の姿を文華は見送ったが、その時ドアの隙間《すきま》から覗《のぞ》いていたニケと目が合った。
猫の表情などわからないし、わかりたくもない文華だったが、この時はニケの視線がやけに冷たい気がした。普通、ニケは文華の顔など見ないくせに、今日だけはやけに凝視《ぎょうし》している。
自分から目を逸《そ》らすのは、負けたような気がして嫌だった。だから、文華はニケの両目から目を離さない。
暗い廊下から覗くその瞳《ひとみ》は、丸く黒い。それをじっと見続けていた文華が思ったこと、それは。
「ニケー、おいでー、抱《だ》っこするよー、きゅー」
その声が聞こえた途端《とたん》、ニケは文華の視界からあっという間に消えてしまった。
「……嫌な猫」
声に出してそう言うと、文華はストーブの前に転がっているハツヒコの方を見た。
長い尻尾《しっぽ》をぱたぱた振って自分の寝そべっている座布団を叩《たた》いている。
それが彼なりの意思表明であり、その意味を文華は比呂緒に聞いていたはずだった。
思い出せなかった。
思い出す必要がないからだ。文華はそう思った。
比呂緒の好物が多い夕食の後に大好物のレモンメレンゲパイというとても幸せな時間の後は、台所の片付けを手伝い風呂《ふろ》に入るといういつも通りの生活パターンである。その後はもはや寝るだけだ。勉強をするとかテレビを見るとか本を読むとか趣味にいそしむとか、そういうごく普通の行動は比呂緒《ひろお》は取らない。
あえて彼女のやることといえば、自分の部屋でニケとごろごろすることだけである。
比呂緒の部屋は広いが、天井は低い。何しろ屋根裏部屋だからである。比呂緒が四年生の頃《ころ》は文華《ふみか》と一緒に六畳一間の部屋を使っていたものだが、この当時から妹の姉嫌いがますます顕著《けんちょ》になってきたので部屋をわけることにしたのだ。
二階の廊下の奥、文華の部屋の前に屋根裏部屋へと続く折畳式《おりたたみしき》の階段がある。物置として使われていた頃はいつも畳まれた状態にあったが、今ではこれが収納されることの方が珍しい。
他《ほか》に部屋がないわけではなかったが、比呂緒が『屋根裏部屋で寝たい』と主張したので、現在も比呂緒の部屋は屋根裏部屋である。夏に暑いことを除けば、比呂緒はこの部屋が大好きだった。
比呂緒の身長よりやや高い程度のこの部屋では家具の大きさが制限されるが、比呂緒はまったく困っていない。
机は林檎《りんご》の木箱、その前に置いてあるのは壊れかけた座椅子《ざいす》とクッション、横に置いてある本棚には、小学一年生から今までの教科書や辞書が入っている以外には、両親から貰ったり閉館する図書館から貰ってきたりした本が適当に並んでいる。小さな箪笥《たんす》の横には比呂緒が応援している球団の小さな旗が立て掛けられていた。
そして部屋の隅《すみ》には、比呂緒|曰《いわ》く『すごい物』、文華曰く『くだらない物』が展示中だ。模型であったりプロペラであったり鉄アレイであったり地球儀であったり。
それらを眺《なが》められる体勢で布団の上に寝転がりながら、比呂緒はニケとごろごろしていた。比呂緒以外の人間には本当に懐《なつ》かないニケだが、比呂緒と二人きりになるとひどく甘えた仕草で擦《す》り寄ってくる。喉《のど》を始終ぐるぐる鳴らし、鼻や耳を比呂緒の手足に擦《こす》りつけ、寝そべっている彼女の上に乗る。
「ニケー、きゅー、きゅー」
そう言いながらニケの身体《からだ》を撫《な》でくり回し、布団の中に入れてある電気|行火《あんか》で足を暖めながら、誕生日プレゼントの中でも結構実用的な物その一、トランジスタラジオを聞く。これが、比呂緒の夜の過ごし方である。
ラジオ局の局番がわからないので、比呂緒はいつも適当にチューニングして聞いていた。今流れているのは、聞いているだけで眠くなりそうなピアノの音色である。
実用的な物その二の目覚まし時計を見ると、そろそろ午後十時になる頃だ。もう寝る時間である。比呂緒は立ち上がって電気を消してから布団の中に潜《もぐ》り込んだ。当然のようにニケも一緒に入ってくる。
暗い中、手探りでラジオの電源が一時間後に切れるようセットし、目覚まし時計のスイッチを切った。明日から冬休みなのだから、少しくらい朝寝をしたい。ああ、でもマニエルを完成させないといけない。明日急に暖かくなったら、マニエルが冬に帰ってしまう。それならまだいいが、もしかしたらまた亡くなってしまうかもしれないし。
ピアノの音を聞きながら、マニエル作りに疲れていた比呂緒《ひろお》はすぐに深い眠りに落ちていった。
夢を見ていた。
父が、「お父さんはなー、野球と競艇《きょうてい》と船とビールと煙草《タバコ》とお前たちが大好きだー!」と叫びながら、見たことのない猫を見せた。
可愛《かわい》い猫だった。
仔猫《こねこ》のようで、父の大きな掌《てのひら》にちょうど乗るサイズである。仔猫特有の毛のふさふさ感が可愛らしさを引き立てている。
背中や頭は灰色の縞模様《しまもよう》だが、それ以外の部分、腹や顔の半分は真っ白だ。
切られてなくなってしまったような、中途半端な尻尾《しっぽ》。
ぴんと伸びた髯《ひげ》は、右側が左側の半分の長さしかない。
名前をつける時に思わず『ミミ』とつけたくなるような大きな両耳は、右耳の半分は千切《ちぎ》れてぎざぎざ。
ぎざ耳猫。
可愛い猫だ。
心の底からそう思った。
「ぎゅー、ぎゅー」
ニケが鳴いている。ああ、ご飯の催促《さいそく》か。ハツヒコはともかく、ニケはあたしがあげないと嫌がるし。
大あくびをしながら起き上がった比呂緒だが、どうも違和感がある。ニケが自分を起こしに来るのはいつものことだが、そういう時はたいてい腹の上にどべっと乗るとか、頬《ほお》を前脚で押すとか、そういう手段を取るはずなのだ。
「……ニケ」
「ぎゅー」
返事はあったが、何だか離れたところから聞こえる。見回すと、屋根裏部屋の入り口である階段から、ニケが顔を出していた。
「ニケ、何でそんなところにいるの? おいで」
「ぎゅー」
ニケは返事をするだけで、決してこちらに来ようとしない。ならこちらから行こうか。立ち上がろうとして枕元《まくらもと》についた手が、何か箱に触れた。
「あ」
何の包装も施されていない紙製の大きな箱が、そこにはあった。これがきっと十二歳の誕生日プレゼントなのだろう、たぶん。
「今年は何かなー、あ、ニケ、ちょっと待っててね、中を見たら餌《えさ》やるからねー」
布団の上に正座をして、比呂緒《ひろお》は改めてその箱を見た。中身を示すような文字も絵もないので、とりあえず持ち上げてみた。
「……うーん、ニケよりは軽いかな?」
開けた方が手っ取り早い。おざなりに留《と》めてあったセロハンテープを比呂緒主観では丁寧《ていねい》に剥《は》がし、蓋《ふた》を取る。
「あ、モデルガンだ」
そこに入っていたのは、一般的にピストル≠ニ称される形をした物体だった。それ以上の認識《にんしき》は比呂緒にはできなかった。
全長約三十センチ、黒い銃身はその半分くらい。蓮根《れんこん》に似た弾倉《だんそう》を持つそれは回転式|拳銃《けんじゅう》、リボルバー。その中でもこれは44[#「44」は縦中横]マグナム弾を発射する大型リボルバーである。
その茶色がかったグリップには小さなエンブレムがあり、その中にはアルファベットが刻まれていた。何か意味のある単語のようだが、当然比呂緒には理解不能だ。
「……モデルガンか……何か、プラスチックの弾《たま》でも撃《う》てるようになってるのかな?」
それとも観賞用なのだろうか。銃に関する知識などまったくない比呂緒には、さっぱりわからない。とりあえず持ってみることにした。
「ぎゅー!」
左手でグリップに触れた途端《とたん》、ニケが死にそうな声を上げて階段を下りていってしまった。その鳴き声があまりにも切羽詰《せっぱつ》まったものであったため、比呂緒はニケの後を追おうとした。
(にゃあ)
猫の声が聞こえた。……でも、これはハツヒコの声ではない。ニケの声でもない。しかも、自分の膝《ひざ》の近くで聞こえるような気がする。
視線を、その猫の声が聞こえた方に向けた。膝元には、銃が入った箱がある。それはまったく不思議なことではないのだが。
その横に、猫がいた。小さな猫だ。灰色の縞猫《しまねこ》で、腹や脚や顔の下の部分は白い。尻尾《しっぽ》がないほどに短く、右の髯《ひげ》が半分しかなく、右の耳がぎざぎざだ。
「やあ、可愛《かわい》い猫だあ」
心の底からそう思った。だから、口からそういう言葉が出た。なのに。
(……あなたの目は、どうかしている)
ひどく冷たい答えが返ってきた。
「えー、そうかなあ、可愛いのに」
そう言った時点で、比呂緒はあれ、と思った。
「あれ、何であたし、猫と会話してるんだろう」
うーん、と腕を組んで考える。
(あなたは、馬鹿《ばか》だ)
猫に馬鹿と呼ばれてしまった。
馬と鹿に馬鹿呼ばわりされるよりましかもしれない。
これが。
魂《たましい》を喰《く》らうハンニバルとの出会い。
江藤比呂緒《えとうひろお》の伝説の始まり。
……かもしれない、とハンニバルが思ったのはだいぶ先のことだった。
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第二話 撃って撃たれてめぐり会い
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運命。
私は彼女との出会いをそう表現する。何とも都合《つごう》のいい言葉だ。もっとも、そう胸を張って表明できるようになるのはだいぶ先のことであり、出会った時の印象といえば……最悪に近いものがあった。
彼女のことを愚《おろ》か≠ニ一言で切り捨てるのは、とてもたやすいことだ。それは同時に、自らを愚か者≠ニ断定することに等しい事実でもあったが。……そう、彼女が愚者《ぐしゃ》であるならば、私自身は彼女と同等、いやそれ以上の愚者なのだ。もっとも彼女と出会った時は、私はそんなことは考えていなかった。
この愚かな人間と出会ってしまった不幸を呪《のろ》ったものだ。
……神に見捨てられ、肉親から見捨てられ、友に見捨てられ、自身に見捨てられ、月にも逝けないこの魂《たましい》に、何かを、己《おのれ》さえも呪う資格があろうものか。……そうも思ったが、それでも私は呪わずにはいられなかった。
この不幸な、そして最悪の出会いを。
だが、それは間違いだった。私と彼女の出会いは、最良でも最悪でもない。
運命の出会い。この陳腐《ちんぷ》とさえ思える言葉ほど、私と彼女の出会いに相応《ふさわ》しいものはないだろう。
そして私と彼女の運命は、やや中年太りで煙草《タバコ》臭くて額《ひたい》が広い彼女の父親が、馬鹿《ばか》で間抜けであったことから始まった。
江藤英士《えとうえいじ》は、家族を愛している。二人の娘たちはとくにかわいい。姉にも妹にも、問題点らしき箇所《かしょ》がないかといえばそうではないが、だからといって彼の娘に対する愛情が深いことに変わりはなかった。
毎年毎年、上の子の誕生日プレゼントを買い損《そこ》ねているのは、決して愛してないわけではないのだ。年末で忙しいことが多くて、クリスマスに近いもんだからクリスマスプレゼントに力を入れてしまい、誕生日プレゼントがどうでもいい物になってしまう……違う違う。
私はどうでもいい物をあげた覚えはない! ……と力いっぱい拳《こぶし》を握り締めたいところだが、ついつい身近にある物をプレゼントの代わりにしてしまうのだ。悪いことをしているとは思う。でも比呂緒《ひろお》は喜んでるからいいじゃないか! と主張しているが、その妹の文華《ふみか》は全然そう思っていないようで、自分に冷たい視線を浴びせ掛けてくる。
お父さんにはお父さんの言いぶんがあるんだぞ、と英士《えいじ》は言いたい。だいたいこの冬に扇風機を買ってどうしようというんだ。やがて来る暑い夏のために欲しがっているようだが、比呂緒《ひろお》のことだ、冬なのに扇風機をつけてはしゃいでしまうだろう。おたふくかぜと麻疹《はしか》以外病気らしい病気にかかったことのない比呂緒とはいえ、風邪《かぜ》をひいてしまうかもしれない。文華《ふみか》は「馬鹿《ばか》は風邪をひかないのよ」などと自分の姉のことを馬鹿呼ばわりするので、一度くらいは比呂緒が風邪をひいてもいいんじゃないかな、とちょっとだけいけないことを考えた。
比呂緒が風邪をひかないのは、馬鹿だからじゃなくて健康なだけだ。そうなのだ。そうに違いない。……そう思いたい。
(ヒロは病気はしなかったけど、怪我《けが》はたくさんしたなあ……)
自分で自分にプレゼントを買えない言い訳を続けながら、ついでにほろ苦い記憶まで引っ張り出してしまった英士であった。
そして今も降り続けている雪の中を、英士は歩いていた。雪の勢いはそう強くはなく今にも止《や》みそうなのだが、雪慣れしていない彼にはこの寒さと道路に積もったぬかるんだ雪がつらい。
(……どうしてヒロはあんなに雪が好きなんだろう……)
生まれた日に雪が降っていたからかもしれない。予定日を過ぎても生まれなくてかなり心配していたから、生まれた時は嬉《うれ》しくて嬉しくてちょっと興奮《こうふん》してしまった。外から小さな雪だるまを持ち込んで、あの子の手に握らせたことを思い出す。……妻には怒られてしまったが。
そんな十二年前の思い出にひたってみたが、この現状から逃げられるわけではないのでやめた。……時刻は午後十時を過ぎている。普通の店はとっくに閉まっているこの時間、どこで娘の誕生日プレゼントを調達すればいいのやら。
いざとなったら自分のコレクションからまた抜き出さなければならないのだろうか……。それはさすがにまずい。もう手元に残っているのは、絶対に手放したくない物ばかりだ。二十一世紀になったら開けようと思っている酒をプレゼントにしてしまえば、来《き》たる将来に回収できるだろうが……それをやったら比呂緒はともかく文華が怒るだろう。
(……ああ、寒い……)
思考が後ろ向きだと、身体《からだ》まで寒くなりそうだ。差した傘で強くなった向かい風から身を守り、身体全体を丸めるようにして英士は前進する。……もう少し歩いてしまえば、マイホームのある住宅地に入ってしまう。そうなったら、もう二十四時間営業のコンビニエンスストアくらいしかない。
いっそのこと、本当にコンビニで済ませてしまおうか……とも考える。玩具《おもちゃ》付きの菓子を五千円ほど買ってそれをプレゼント代わりにしてしまえば。いや、いっそのこと煮干しはどうだろうか? 確かハツヒコと一緒に煮干しを齧《かじ》っていたから、比呂緒は煮干しが好きなはずだ。だが、それはあまりにも……。
「俺のお馬鹿さーん!」
どうしようもない状況に、英士《えいじ》は思わず叫んでしまう。静かに静かに降り積もる雪の中、彼の大声が夜の闇《やみ》に吸い込まれて消えた。……残ったのは、恥ずかしさだけ。
(……誰《だれ》も、見てない……よな……)
恥ずかしがるくらいなら最初から叫ばなければいいのだが、それでも無性に叫びたくなる年頃《としごろ》なのだ。時たま自分の馬鹿《ばか》さ加減がたまらなく苛立《いらだ》たしく、悔《くや》しく、悲しくなる。そんな時は叫んで苛々を発散する英士だが、こんなことやってると家族がつらい思いをするのでやめよう。今決心した。もう叫ばないぞ。たぶん無理だろうけど。
止まってしまった歩みを再開しよう……と思ったその英士の横を、子供が通り過ぎていった。
先ほどの叫びを聞かれてしまった、という気恥ずかしさと同時に、こんな時間に出歩いているなんて悪い子だ、という思いも湧《わ》き上がって来る。後ろ姿ではよくわからないが、上の子と同じ年くらいだろう。
(こんな夜遅くに出歩くような子供にはさせないぞ!)
強く強く内心で決心すると、二児の父は再び歩き出した。……歩き出したところで、今はそんな決心をしている場合ではないことに気が付く。大事なのは、比呂緒《ひろお》の誕生日プレゼントをどうするかということだ。
本当に、どうしよう。
つい下を向いて歩いてしまう。いつも子供たちに「下を向いて歩くな、転んでもいい、前を見て、たまに上を見て進め」と言っているのに。……比呂緒はこの言葉を実践しすぎてよく転ぶし、色々と踏んだらいけない物を踏んでしまうが。
前を見ていなくとも、歩き慣れた道なら足が勝手に動いて家に着いてしまうもの。だから英士は足元の雪だけを見ながら、周りを見ずに足を運んだ。
白くない、雪。人に、車に踏まれて、黒くなった雪。
汚れた雪をいくら踏んでも、それはただの汚れた雪で。
白い雪を踏む喜びも、綺麗《きれい》な雪を汚す後ろめたさもなく。
だが、この黒い雪もまた――。
「……んあ?」
暗い足元が、ほんの少しだけ明るくなった。差し込んでくるその弱々しい光が自分の真横から来ていることに気が付いた英士は、首をその方向に向ける。
そこには、見覚えがあるようなないような両開きのガラス戸があった。英士はまず周囲を見回しここがどこかを把握《はあく》する。……雪のせいで今一つ感覚が頼りない気もするが、ここは確か英士が子供の頃に閉店した薄汚い本屋があった場所だ。いつまで経《た》っても取り壊されることがなく、錆《さ》び付いたシャッターが下ろされているその木造建築の廃屋《はいおく》を、人は幽霊屋敷《ゆうれいやしき》と呼んだ……という噂《うわさ》は聞いたことがない、残念ながら。
(……これは、店、なのか?)
ささくれだった木製の枠に囲まれたすりガラスの向こうは、どうなっているか窺《うかが》い知れない。個人の家には見えないから、何らかの店なのだろう、とは思う。しかし看板も何もかかっていない。店だとしたらたいそう怪しい、そしていかがわしい店だ。
(こんな店でも、コンビニで茶を濁《にご》すよりはましかもしれないしな……)
しかし、本当にいかがわしい&ィしか売っていなかったらどうしよう……と英士《えいじ》は思ったが、その時はその時だ。傘を閉じて覚悟を決めると、英士はいかにもたてつけの悪そうなその戸を力いっぱい横に滑《すべ》らせた。
「どへえっ!」
一見、たてつけが悪そうなその戸は、ひどくスムーズに開いた。英士が戸に込めた無駄《むだ》な力は戸の上にあるささやかな庇《ひさし》に伝わり、その庇の上に積もっていた雪がどさどさと彼の背中に降り注ぐ。
雪が落ちる音、背中のコート越しに伝わる雪の冷たさ、この両者のせいで英士はつい大きな声を上げてしまった。そしてその大声は、店内の静寂《せいじゃく》の中にあっという間に吸い込まれ消えていく。
背中の雪を払うのを忘れるほど、英士は自分の目の前にある場違いな光景に呆《ほう》けてしまう。店の外観とは裏腹に、店内は恐ろしく綺麗《きれい》だった。白い壁とみがかれた床、曇り一つないガラスケースが整然と並ぶ様《さま》は貴金属店かと見紛《みまご》うほどに。
そのガラスケースの中に時計だの宝石だのが並んでいたら、英士は驚きつつも素早くこの場を退散していただろう。時計は数年前プレゼントしてしまったし、十二歳の子供に宝石を贈るなど、いくら英士が奇《き》をてらうことが好きでもやらない。そんな金があるなら、十五回目の結婚記念日のために貯金しておく。十五年目は水晶婚式《すいしょうこんしき》だからそんなに金はかからないと思うが、金婚式とかエメラルド婚式とかダイヤモンド婚式までいってしまったら、どうしよう。……その時にはどちらか死んでいるかもしれないとか、妻に見捨てられて離婚してるかもしれないとか、縁起の悪いことは考えない。いいことだけを考えよう。その方が世の中楽しくなるってもんだろう。
ケーキ屋だったら、売れ残りでもいいから適当に五、六個買って帰るところだ。比呂緒《ひろお》の好きなケーキは、何だったか。何でも好きだが、確か「これ、美味《おい》しいねえ!」と格別喜んで食べていたのがあったはずだ。……メレンゲ。いや、メレンゲの後に何か続くような奴《やつ》。だがそれは、きっともうバースデーケーキとして今日の夕食の後に食べただろう。二番煎《にばんせん》じはよくないことだ。
しかし実際にケースや壁を飾っているのは、時計でも宝石でもましてやケーキでもないため、英士はとりあえず比呂緒の好きなケーキを思い出すのを後回しにした。
それらは、大半が黒かった。壁にかかっている物は一メートルを超えており、ケースの中に入っている物は三十センチくらいの長さに見える。大きさは、どうでもいいことかもしれない。英士《えいじ》にとって重要なのは、その形だ。細い(中には太い物もあったが)筒に、取っ手と引き金がついたそれらは。
銃《じゅう》、と総称《そうしょう》される物たち。鉄の小さな塊《かたまり》を発射して、その先にある物を破壊する武器。人の命を奪う物。
……本物であれば、の話だが。
(びっくりした)
英士は、内心でぼそっと呟《つぶや》いた。静かな雪の降る夜に見つけた、廃屋《はいおく》のような怪しい店。一歩足を踏み入れたら、そこには整然と銃が並んでいる。妙なシチュエーションのせいで、妙な錯覚《さっかく》を覚えてしまったのだ。まったく人騒がせな店である、と英士は勝手に驚いて勝手に店に自分がびくついた責任をなすりつけておく。
日本で、本物の銃を売っているわけがないのだ。そりゃ行く所に行けばトカレフとかマカロフとかが買えるのだろうが、ここはどう見ても行く所≠ノは見えない。これらはモデルガンなのだろう。
その証拠《しょうこ》に――店内には子供の客がいた。壁にかけられてあるやけに大きなライフルを見上げているその子供は、先ほど英士を追い越していった少年のようだ。店の奥にあるカウンターでは、緑色のエプロンをした初老の男が新聞から顔を上げてつまらなそうにこちらを見ていた。
ここで英士は、自分が戸を開け放しているせいで店内に冷たい空気が流れ込んでいることにやっと気が付いた。慌《あわ》てて背中の雪を払い、店の中に入って戸を後ろ手に閉める。軽い戸であることを忘れてつい力を入れてしまい、無駄《むだ》に大きな音がまたも店内に響いた。
「……すいません……」
口の中で呟《つぶや》くように謝ると、英士は手袋を外してコートのポケットに突っ込んだ。もうこの時点で、英士の腹は決まっていた。
(……今年のヒロの誕生日プレゼントは、モデルガンだ!)
また文華《ふみか》が怒るんだろうなあ……と、一応内心で反省する。しかしきっと比呂緒《ひろお》は目新しい物に喜んでくれるだろう。そう思い直して、英士は改めて店に並んでいる品物を物色《ぶっしょく》し始めた。よく見ると銃以外にもホルスターやベルトなども売っているが、そんな付属品は別にいらない。
英士はあまり銃には詳しくないが、一応リボルバーとセミオートマチックの見た目の区別はつく。リボルバーはロシアンルーレットができる怖い奴《やつ》で、シリンダーがくるくる回転して、よく映画の主人公が持ってたりすることが多くて、大きな銃。セミオートマは、グリップの中に弾倉《だんそう》があって、ちょっと小さくても弾《たま》がたくさん入る。門外漢《もんがいかん》の英士の知識など、そんなものだ。
両者の違いなどよくはわからないが、英士はリボルバーを買うことを決めた。その理由は単純明快で、リボルバーの方が見た目が好きだからである。銃身《じゅうしん》が長くて、グリップが曲線を描いているのがいい。それに大きいし。大きいことはいいことだ。
探せば小さなリボルバーもあるし、大きなセミオートマもあるのだが、英士は別に探そうとも思わなかった。あとは予算と相談してからである。……しかし、飾ってあるモデルガンはどれもこれも値札がついていない。こういう物の相場がわからない英士《えいじ》には、少々不安だ。
そしてベルトのチェーンに繋《つな》げている革財布を取り出してその中身を見た英士は、不安からではなく情けなさで泣きたくなった。五千円札が一枚、千円札が一枚。それだけである。小銭入れの中身を足せば七千円になるかもしれないが、モデルガン一丁《いっちょう》が七千円で買えるかどうか。
数分考えて、英士はあっさりと決断を下した。すなわちこの財布の中身を提示して、「この金で買えるモデルガンをください」と頼むことである。選《え》り好みをしている状況ではない。それが駄目《だめ》なら一番安いのを買って、後払いで勘弁《かんべん》してもらえないか頼み込む。それでも駄目なら……もう打つ手がない。
一瞬だけ、現在この店にいる唯一の客に金を借りるということも考えたが、いくら英士でも見ず知らずの子供に金を無心《むしん》するほど図々しくはできていない。……だいたい、あの子供は気に入らない、と英士は自分が入ってからまったく動かずに壁を見ている少年の背中を見た。
年と背は、比呂緒《ひろお》と大して変わらないだろう。塾の帰りか、とも思ったが、ギターケースを担《かつ》いでいるということは音楽教室にでも通っているのかもしれない。どちらにしろ、こんな夜遅くに子供がこんな所にいるなんて。まったく、本人もいかんが親もよくない。自分の娘たちは、こんな時間に出歩かせたりはしないぞ、と心の中で決心する。
耳当てのついた暖かそうな帽子を被《かぶ》るその少年から目を逸《そ》らすと、英士はまっすぐカウンターへと向かった。そして店主の前に立ち、座ったまま自分を見上げてくる彼に対してはっきりと言った。
「六千円で買える銃ください。できればリボルバーで大きいのを」
この状況でもやっぱり選り好みする江藤《えとう》英士であった。
そしてそれに対する、初老の、そのくせよく見ると自分より腕が太くて自分より生え際が後退していて額《ひたい》がやけにてかてかしていて、でも新聞を掴《つか》むその指は細くて綺麗《きれい》だったりする店主の反応はというと。
「……あんた、馬鹿《ばか》か? ここがどこだかわかってんのか?」
今日会ったばかりの人に、馬鹿と言われてしまった。……別に腹も立たない、自分が言われるぶんには。
「モデルガン屋さんじゃないんですか?」
外から見たぶんにはさっぱりわからないが、この内装を見ればそう思うのが普通ではないだろうか。だから英士は素直にそう聞いた。モデルガン屋ではない、としたらエアガン屋なのだろうか? そうでないとしたら、ガスガンか。どちらにしろ、たいして違わないだろうに。そういう思いをこめて、英士は店主の顔を見た。
「……は」
店主は短く息を漏らすとまた新聞に視線を向けた。
「あの……六千円で」
「ない」
一言で切り捨てられる。
「じゃあ……」
ポケットに手を突っ込んで小銭入れを出そうとした英士《えいじ》だったが。
「ここはあんたみたいな素人《しろうと》の来る店じゃない。……とっとと帰りな」
一応温厚だとご近所でも評判の英士だが、店主の横柄《おうへい》な物言いに少しだけむっときた。
「確かに私はモデルガンのことはよく知りません。買おうと思ったのも、娘の誕生日プレゼントにするのに意外性のあるものだから、そういう単純な理由です。別に新品じゃなくても構わない、とにかく今日中に物が必要なんです。後からお金を持ってきますから、とにかく売ってください。お願いします」
誠心誠意の真心を込めたつもりだった。明日では、意味がない。あと一時間と少々で終わってしまう今日のうちに何かをあげなければ、誕生日プレゼントではなくなってしまう。……それなら、もっと早めに買っておけばいいと毎年毎年思う。今も反省はしている。反省するだけで、それがちっとも活《い》かされていないが。
「……こんなもん貰《もら》って喜ぶ娘はいない」
「うちの子は何でも喜びます」
「何でも喜ぶんだったら、その辺りの雪で雪だるま作ってプレゼントしてやれ」
「うちの子は、雪だるま作りのプロなんで下手《へた》な雪だるまはあげられません」
そんな会話をしている二人の横から、小さな手が出てきてカウンターに長細い箱を置いた。英士が横を見ると、壁の側《そば》にいた少年がいつの間にかそこにいた。この時初めて英士は、その少年の顔を間近で見ることになる。
表情のないその少年は、背筋がぴんと伸びていた。猫背になりがちな英士が、思わず見習いたくなってしまうほどに。だが、それ以外はどうにも気にいらなかった。
まず目つきがよくない。どこか疲れたようなそれでいて達観《たっかん》したような、子供らしくない目つきだ。英士が知っているどんな子供も、こんな目はしていない。もっとも、知っている大人にもこんな目はした大人はいない。
死んだ魚のように生気がなく、貪欲《どんよく》に食物を探し続ける烏《からす》のように飢《う》えていて、ナマケモノのように遠くを見ている。……ナマケモノの目をしみじみと見たことはないが、とにかくそういう目つき。
子供らしくない子供。
一度そう感じてしまうと、首に巻いたマフラーも着ているコートも肩からかけているギターケースも、すべてがくたびれているように見える。
「……持ってけ」
店主のその一言を聞くと、少年は置いた箱を再び手に取った。よく見ると、箱の側《そば》に代金が置いてある。その札の枚数を見て、英士《えいじ》は卒倒《そっとう》するかと思った。一万円札が十枚以上、無造作《むぞうさ》に輪ゴムで束ねられている。もしかしたら一番上と下だけが一万円で、中に挟《はさ》んであるのは千円札だったりするのかもしれないが、それでも結構な大金だ。
(……最近の子供は、こんなに金を持ってるのか……)
英士がげっそりしている間に、少年は店を出て行ってしまった。ほとんど無音で戸を開閉するその少年の後ろ姿を見て、ちょっとだけ英士は彼の財布の中身を羨《うらや》ましく思った。しかし今は他人の財布を羨望《せんぼう》している場合ではない。娘の誕生日プレゼントを確保しなければ。
「……で、とにかく何か」
「あんた、ここで売ってる物が本当に何だかわかってないのか?」
「だから、モデルガンじゃないんですか?」
「…………はあ」
今度は長い息を吐いて、店主は困ったように少年が置いていった札の枚数を数える。何となく一緒に数えた英士は、一万円札が十四枚であることを確認し驚愕《きょうがく》しながらあきれ返り、見知らぬ少年を育てた親に「どういう教育したんだ!」と文句をつけた。
「……消費税込みで十四万。なんですか、さっきの子供が買ったのは」
「あんた、坊主の肩に何があったか覚えているか?」
どうもこの店主は質問ばかりしてくる。意図はさっぱりわからないが、ついつい答えてしまう英士であった。家にかかってくる墓地の売り込み電話にも街角|煙草《タバコ》アンケートにも、聞かれたことには何となく答えてしまう素直すぎる大人である。
「ギターケースをかけてたと思いますけど」
「……本当に、素人《しろうと》なんだな……」
広い額《ひたい》をぺちりといい音を立てて叩《たた》いたその店主は、困ったようにショーケースを見た。
「……ま、いいか、坊主は帰ったし」
「は?」
「いや、こっちの話……で、ただ娘にやるだけで実際に使ったりはしないんだな?」
「実際に使えるようなモデルガンなんですか?」
観賞する以外に、BB弾でも発射できたりするのだろうか。
「使えない。使えなくていいんだろ?」
「……ええ、ただ飾っておくだけです。モデルガンって、そういう物なんでしょうが」
英士の言葉に、店主は何も答えずに立ち上がって店の奥に引っ込んだ。何だかよくわからないが、とりあえず売ってもらえるらしい。財布を引っ張り出して六千円を取り出しておく。自分の計画性のなさを今年も一応反省し、英士は『来年こそは!』と、本日数回目の決心をした。来年こそどうするつもりだ、と問われたら、『……さあ、どうしよう』というまったくもって頼りない言葉が返ってくるのだが、残念なことにここにはそんな問いを投げかけてくれる人はいない。
そうやって反省だけはしているうちに、店主が紙の箱を持って戻ってきた。
「五千円」
素《そ》っ気《け》なく突き出された箱の代金を請求され、英士《えいじ》は握り締めていた五千円札を渡した。渡してしまってから、これの中身が本当に自分の望む物なのかを確認する必要性を感じる。
「……開けてみてもいいですか?」
「家に帰ってから開けろ。そんでもって、娘にやるなり床《とこ》の間《ま》に飾っとくなり、どうにでもしちまえ。捨てる時は、ちゃんと不燃物にしとけ。その時は、祟《たた》られることを覚悟しろよ。物は大事にしないとな」
それだけ言うと、店主はまた椅子《いす》に座り直して新聞を読み始めた。……中身を確認できないのは少々|心許《こころもと》ないが、とにかく英士は箱を持ち上げてみた。ずっしり、というわけではないがちゃんと重みがある。軽く箱を揺《ゆ》すると、中の物が音を立てた。不安は残るが、とにかくこの中には何かが入っているのだ。
「ところで、中身は何なんですか?」
「どっかの馬鹿《ばか》がカスタマしたアストラM44[#「44」は縦中横]」
……よくわからないが、詳しく聞いたところで専門的な話になってしまうだろう。そうなったら、英士にはどうせ理解できないのだ。アストラ、という名前だけは覚えておくと、英士は改めて箱を持ち直した。
「……あの、包装はしてくれないんですか」
返事はない。どうやらしてくれないようだ。仕方なく箱を抱え、出口へと向かう。
「返品は受け付ける。金は返さんが」
背中に投げ付けられた言葉に、英士は振り返りはしたが返答はしなかった。それは返品とはいわない。……最初から最後までよくわからない店だ。
こうして、江藤《えとう》英士は何とか長女への誕生日プレゼントを確保したのである。
それが娘の平凡にして平穏《へいおん》な人生を一転させてしまう物だとも気が付かずに。
……何たる馬鹿馬鹿しさだろう。本当にそう思う。私は厄介者《やっかいもの》であり厄介物。
生者の魂《たましい》を喰《く》らい、死者の魂を引き寄せるハンニバル。主《マスター》に忠義を尽くし主と共に死ぬ|使い魔《ファミリア》の常道から外れ、主に不義を働き主を冥府《めいふ》へと誘いながらも己《おのれ》のみは生き長らえる死を招く猫。
間抜けな男の脇《わき》に挟《はさ》まれ、少し生温かくなった箱の中で私は色々なことを考えた。……あの店主は、ある意味正しい選択をしたのだ。霊髄《れいずい》が回っていない人間では、私を見ることも感じることもできない。そんな人間に対しては、私は無害だ。何の影響も及ぼさない。
しかし、私は出会ってしまった。私を見て、私の声を聞くことができる人間に。
それが彼女であった。
猫が喋《しゃべ》っている。まあ広い世の中喋る猫がいたって別に驚くことはないだろう。珍しいけど。
比呂緒《ひろお》は、しみじみと自分の膝元《ひざもと》にいる猫を眺《なが》める。この子もまた、誕生日プレゼントの一つなのだろうか。確かに可愛《かわい》いし、貰《もら》って嬉《うれ》しいといえば嬉しい。でも、文華《ふみか》はこれ以上猫が増えたらきっと怒るだろう。あからさまにニケとハツヒコをいじめたりはしないが、決して触《さわ》ろうとしない文華。「猫、嫌い?」と聞いたら「大嫌い」と答えた文華。
「……ふーちゃんに内緒で飼えばいいのかなあ……あ、とりあえず名前を決めないと」
(こう言っては何だが、君には現状を把握《はあく》する能力が著《いちじる》しく欠けているように私は思うのだが)
「あ、呼び方があなたから君になった。その違いは何?」
仔猫《こねこ》は、瞬《まばた》きをした。祖母は『猫は瞬きしないんだよ』とよく言っていたが、やっぱり猫は瞬きをするのだ。だって瞬きをしないと目が疲れるし。
(初対面の人間に対する呼び方はそう馴《な》れ馴れしいものであってはいけないと思い、『あなた』という二人称を使用した。しかしよくよく考えてみたら、君のような子供を『あなた』と呼ぶのは妥当《だとう》ではない気がした。ただそれだけのことだ。他意《たい》はない)
「何か難しい言葉を使うなあ、この子は。もうちょっと簡単に話してほしいの」
(……その前に、君はこの現状を不思議に思った方がいい)
「うん、不思議」
本当に不思議だ。猫が喋っているのだから。
(そうではなくて、もう少し違う反応をしてもいいと思うのだが)
「違う反応?」
比呂緒は首を傾《かし》げた。確かに、猫を目の前にして自分が取るべき行動をとっていない気がする。
すなわち。
「……ああ、抱《だ》っこ!」
手を伸ばして、比呂緒は猫の背中に手をやった。その灰色の背中をまずは撫《な》でてやろう。
そう思ったのに。
「…………あれ」
背中に置こうとした手は、なぜか冷たい床に触《ふ》れている。……自分の手首から先が、猫の背中にめり込んでいるように見えるのだが。
「うーん?」
手を引いてみた。猫の背中から、ちゃんと自分の手が出てくる。とにかくもう一度触れてみた。まったく手ごたえがない。この猫はちゃんと毛が生え揃《そろ》っているのに身体《からだ》は空気でできているのだろうか?
(……私という存在が、どういう存在か理解できたのか?)
比呂緒《ひろお》は考えた。
ある朝、いきなり自分の枕元《まくらもと》に現れ、言葉を話し、触《さわ》れない猫。
つまりこの猫は、あれだ。
「幽霊《ゆうれい》?」
(そう取ってもらってかまわない)
「あ、そうなんだ。なるほどなるほど」
どうりで触れないわけだ。それでも比呂緒は、この可愛《かわい》い猫に触《ふ》れる努力をやめようとはしなかった。掌《てのひら》を広げ、そろそろとわき腹に近づける。触れるか触れないか、というところまで近づけると、ゆっくりと手を動かす。
(何をしている?)
「撫《な》でているつもり。毛の感触が全然ないのって寂しいね」
(……ところで)
「はい?」
細い猫の瞳《ひとみ》が、比呂緒を見上げている。黒と金色が混ざったその目を正面から見て、比呂緒は「綺麗《きれい》な猫だあ」と思った。
(君は、いい加減この私という存在に疑問を持たないのか?)
「疑問? 何で? ああ!」
猫から手を離した比呂緒は、何かを思い出したように頷《うなず》いた。
「名前、決めてなかったね。どうしよっかなー。ところで、雄《おす》なの雌《めす》なの?」
尻《しり》を見ればすぐにわかるのだが、ちょこりと座っているその状態では尻が見えない。普通の猫なら抱え上げて覗《のぞ》き込むのだが、触ることができないということは抱《だ》っこもできないということだ。
悲しい。こんなに可愛い猫を抱っこできないなんて。だがまあ、意思の疎通《そつう》ができるということは、結構な話である。何しろ猫と話したことなど、比呂緒は一度もないのだから。
声で判断できるかな、とも思ったが、どうにもこの猫の声は掴《つか》みどころがない。どこから聞こえてくるのかもいまいちよくわからない。喋っているのに口は全然動いてないし、何だか耳で聞いている気がしない。雄だと言われても雌だと言われても納得してしまいそうな声なのだ。というわけで、自己申告をお願いする比呂緒であった。
(魂《たましい》に、雌雄《しゆう》はない)
「え、じゃおかまさんなの?」
そう自分で言ってから、比呂緒は「ああ、おかまさんは男の人が女の格好をしているだけで、つまりは男の人なんだっけ」と声に出して呟《つぶや》いた。
(……とにかく、名前は決めてもらわずとも結構。名前なら存在する)
「何て名前?」
(ハンニバル)
本当は。
この名前を名乗りたくはない。……私にも、名前があったはずなのだ。もう思い出すこともできない名前。
しかし私はハンニバルと名乗らなければならない。
彼女は私に雌雄《しゆう》を問うたが……そんなことは、もう私自身にもわからない。意味がないのだから。
だが、この少女には大変な意味があったようだ……。
「ふーん。じゃ、雄《おす》か雌《めす》かわかんないと困るなあ。雄ならハンさん、雌ならハルさんね」
(……何だ、それは)
私は聞き返してしまった。……この時の私は知る由《よし》もなかったが、彼女の言動に意味を問うのは大変な徒労《とろう》なのだ。
「だってハンニバルって長いし。ハッちゃんでもいいけど、ハツヒコがハッちゃんだからハッちゃんは駄目《だめ》でしょ。だから短く呼ぼうと思ったの。で、ハニさんとかハバさんってのは、どうも変だと思うのね。あ、あなたがさん付けなのは、何か年上みたいだから。昔ね、おばあちゃんの知り合いに帆船《はんせん》の帆でひろし≠チていう人がいたんだけど、皆ハンさんハンさんって呼んでた。それで、ハルさんってのは女の子の名前でしょ。だから、ハンさんかハルさんかってのはとても大事なことなの」
………………。
わけがわからない。かろうじて理解できたのは、彼女が私の名前であるところのハンニバルを短縮し、その上でハンと呼ぶかハルと呼ぶか決めかねていて、それを決定するには私が雄か雌であるかを知る必要があるということ。
(…………私の魂《たましい》に雌雄はないが、この猫の肉体は雌だ)
それはわかる。元の身体《からだ》はただの……いや、虐待《ぎゃくたい》の末に死に、命奪われた哀《あわ》れな雌猫。この薄汚い姿をした仔猫《こねこ》は、今や私の誇りですらある。
「じゃ、ハルさんね。いーなあ、ハルさん。冬に来たのにハルさん! いいよね、冬の次には春が来るもんねえ。あ、あたしはねえ、江藤比呂緒《えとうひろお》。よろしくね」
(……よろしく)
私は困惑《こんわく》していた。彼女は、私の声を聞き、私の姿を見ることができる。つまり彼女には、私の主たる資格がある。
――そして、このアストラM44[#「44」は縦中横]・アルケブス・カスタムを使用する権利が彼女にはある。
それはすなわち、私に魂《たましい》を喰《く》らわれない限り、私は彼女から離れられず、彼女も私から離れられないということ。
……この時、私は別に彼女の魂を喰《く》らうことに罪悪《ざいあく》など感じてはいなかった。
運が悪かったのだ。あの間抜けな父親が、あの店に入り、この呪《のろ》われたアルケブスを買い、彼女に与えたこと。
そして、その彼女の霊髄《れいずい》が既《すで》にゆっくりとではあるが回り始めていたこと。
「ねえねえ、ハルさん。うちの家族に紹介するから、一緒に下りよう?」
パジャマから普段着《ふだんぎ》に着替えた比呂緒《ひろお》は、足元のハンニバルに話しかける。彼女(ハンニバルは『私に雌雄《しゆう》はない』と主張するが、比呂緒の中でこの猫は彼女と認定された)は目を細め、左側の髯《ひげ》をぴくつかせた。
(……君は、私が幽霊《ゆうれい》であることを認識《にんしき》したのではないのか?)
「ああ、そうだっけ。それで?」
この少女に、普通の#ス応を期待するのは無理だ。ハンニバルはこの時やっとそのことをおぼろげながらに理解する。
(常人は、私を知覚することができない)
「また難しいこと言うなあ……」
(君以外の人間は、私を見ることも私の声を聞くこともできないということだ)
「ええ、そうなの!? 寂しいなあ……それに困る」
(どうして)
「猫が増えたのがわかんないのに、餌《えさ》の減る量とかトイレの砂の減る量が増えたらおかしいもん」
(……私は餌を食べないし、用も足さない)
「あ、そうか、幽霊だもんね、納得納得」
比呂緒はうんうんと頷《うなず》くと、腕を組んだ。その時、階段の下で「きゅー」というニケの声がした。
「あ、ニケに餌あげなきゃ。そうそう、ニケとハッちゃんには、ハルさんを紹介しないとねえ。仲良くしてね。何かニケはハルさんを怖がってるみたいだけど」
ニケのあの態度。あれは、何かに怯《おび》えている態度だ。今も、ハンニバルを警戒《けいかい》してこの部屋に入ってこないのだろう。自分の飼い猫のことは、よくわかっている比呂緒である。
(普通の猫は、私を嫌うと思う)
「何で?」
(幽霊だからだ。……厳密《げんみつ》に表現するならば霊的物質結合体《れいてきぶっしっけつごうたい》であり、幽霊と称されるものとは異なるのだが)
何やらよくわからないことをいうハンニバルの言葉後半部分を、比呂緒は勝手に省略した。
「猫は魔物《まもの》とかいうよね。魔物と幽霊《ゆうれい》って似たようなもんじゃないの?」
(……似ている者同士が、必ずしも友好関係を結べるかというとそうではない。君は人間だが、人間すべてと仲がよくなれるかと問われれば決してそうではないだろう?)
「そうだねえ、それもそっか……」
まあそれでも、仲良くなれないわけではあるまい。ハツヒコとニケだって、最初はかなり仲が悪かったのだ。正確には人見知り、猫見知りするニケが、祖母以外の人間にまったく懐《なつ》かなかったのが原因である。それでも比呂緒《ひろお》とハツヒコの血と汗と涙を流しついでに毛が抜けるほどの努力の結果、現在の円滑《えんかつ》な人間と猫関係がある。現在、ニケは比呂緒に異様なほど懐いているし、ハツヒコの背中にのしかかって寝てしまうほど仲がいい。
時間をかけて仲良くする努力をすれば、仲良くなれないわけがないのだ、たぶん。
「ま、やる前からあきらめずに頑張《がんば》ってみようよ。一階に下りてハッちゃんに紹介してあげる。それじゃハルさん、抱《だ》っこー……はできないんだ。寂しいなあ」
ハンニバルは一つため息をつくと、その四肢《しし》で比呂緒の身体《からだ》を駆け上りその右肩の上にちょこりと乗った。よくニケも比呂緒の肩に駆け上がるが、途中で爪《つめ》が引っ掛かって痛いし何より重い。しかしハンニバルはまったく爪を立てないし重くもない。
幽霊なのだから、そうなのだろうと比呂緒は思う。しかし。
「……あれ?」
比呂緒は、奇妙な感覚を覚えた。ハンニバルに触れられた≠ニいう感触《かんしょく》があるのだ。彼女が跳躍《ちょうやく》して自分の胸辺りに飛びつき、そこから肩によじ登った。その時、確かに猫の四肢が自分に触れた感じがした。今も自分の右肩に何かがいる♀エじはする。それなのに、手を伸ばして触れようとすると、比呂緒の手はその仔猫《こねこ》の身体をすり抜けてしまう。
「何でハルさんはあたしに触《さわ》れるのに、あたしはハルさんに触れないの?」
(君と会話を始めて、初めてまともな質問が返ってきた気がする)
ハンニバルは細い瞳《ひとみ》を比呂緒の後頭部に向けた。
(……君は、後頭部に大きな怪我《けが》をしたのか?)
「え、何でわかったの?」
(エーテルがごっそり欠落しているからだ。見ればわかる)
「えーてる? なーんか聞いたことあるなあ……ああ! 飲むと目がつぶれるっておばあちゃんが言ってたあれかあ!」
「……それはメチル・アルコールだ」
ハンニバルはほとんどない尻尾《しっぽ》をぴこりと動かした。この江藤《えとう》比呂緒という人物が、その父親と比較しても大変な馬鹿《ばか》だということを理解したハンニバルだったが、『馬鹿です』『はいそうですか、馬鹿《ばか》ですね』と諦《あきら》めてしまうわけにはいかないのだ。
この愚《おろ》か者に、噛《か》んで含めるように色々なことを教えこんでやらなくてはならない。
そうでなければ。
……そうでなければ何だというのだろう。この私を突き動かす、その根底にあるものは何なのだろう。
………………。
メチル・アルコールに濃硫酸《のうりゅうさん》を加えて蒸留《じょうりゅう》した物をメチル・エーテルというような気がするが、私が口にしたエーテルとはそうではない。……それにしてもエチル・エーテルと間違われるかもしれないとは思っていたが、メチルが出てくるとは思わなかった。
|魂の血髄《エーテル》=B常人には見えず感じることもできない魂≠伝播《でんぱ》する媒質《ばいしつ》。骨髄《こつずい》の中を走り、生者を生者たらしめるもの。この猫の身体《からだ》を構築しているのも、不純物が混じってはいるがエーテルなのだ。
……ということを、この子に説明して理解してもらえるのだろうか。甚《はなは》だ不安ではある。
しかし。
この子は、どうしてこんなにもエーテルが欠けているのだろうか。後頭部だけではない。右足の一部や腹部、左手首などからエーテルが抜け落ちている。別に、エーテルが欠けていること自体は珍しくもない。肉体が著《いちじる》しく傷付いて血を流せば、エーテルも流れる。肉体が欠ければ、エーテルも欠ける。
だが、この子の肉体そのものには大きな欠損はない。それに、抜け落ちている≠ニいう事実があるだけで、エーテルは非常に円滑《えんかつ》に彼女の全身を巡っている。
欠けているのに、満ちている。……彼女の魂は、月に似ているのかもしれない。
……私と彼女の出会いは、本当に多くの要因を同じ時間と同じ場所に重ね合わせてしまった。その結果が、私と彼女の伝説の始まり。
……というと大変聞こえはいい。二十世紀最後の英雄伝説を打ち立てる江藤比呂緒《えとうひろお》と、使役用霊的物質高等結合体《ハイファミリア》ハンニバル。……それはあくまで後々のことであり、今はというと。
ただの馬鹿と、ただの彷徨《さまよ》える魂喰《たましいぐ》らいでしかなかった。
「……何それ」
江藤|文華《ふみか》は屋根裏部屋から下りてきた姉をじろりと見た。階段の下で姉が下りてくるのを待ちわびていたニケは、文華を見て慌《あわ》てて逃げていく。……気に入らない猫だ、まったく。優しくしてやった覚えは一度もないが、いじめた覚えもないのに。懐《なつ》かれても気持ち悪いだけだから構わないが。
「ああ、おはよう、ふーちゃん。ハルさんだよ」
なぜか比呂緒《ひろお》は首を右に振ってから、そう答えた。わけがわからない。自分は比呂緒が右手に持っているモデルガンについて聞いたのに。……ああ、あれが十二歳の誕生日プレゼントで、さっそく名前をつけたのね。文華《ふみか》はそう解釈すると、比呂緒の右手を見つめた。その視線に気が付いたのか、比呂緒が自分の目の前にそれを持ち上げる。
何やら、ひどく本物らしいモデルガンである。大きくて本当に重そうだ。ああいう物はプラスチックか何かでできていると思っていたが、結構ちゃんとした金属で作られているように見える。金属特有の光沢《こうたく》を放っているそれは、確かによくできているとは思う。だが、誕生日プレゼントに貰《もら》う物ではない。普通喜ばない。
なのに。
「これが今年のプレゼントだよー。いいでしょー」
「全然」
一言で切って捨てると、比呂緒は困ったように左手で頭をかいた。
「いい物なのになー」
「そんな物貰って喜んでるから馬鹿《ばか》」
「ねえ、ふーちゃん」
今。
比呂緒は、文華が喋《しゃべ》ろうとしたのを遮《さえぎ》った。それは、文華が知る限り一度たりともないことだった。この姉は、誰《だれ》かが喋っているのを途中で止めたりは絶対にしないはず。必ず最後まで人の話を聞く。聞くだけで、頭に入っているかどうかは大変頼りないが、とにかく聞く。
それなのに、今比呂緒は文華が一日一回以上必ず行なっている「馬鹿説教」を止めた。
文華にとっては大変な驚きだったのだが、比呂緒はそれに気付かずに言葉を続ける。
「あたしの右肩にね、ハルさんって仔猫《こねこ》がいるの。灰色の縞猫《しまねこ》で、右耳がぎざぎざで右のお髯《ひげ》が半分なくて尻尾《しっぽ》がとっても短くて可愛《かわい》い雌《めす》……いや、だからそんなこと言われるとハンさんにすればいいのか、ハルさんにすればいいのかわからないもの」
右肩に、猫。文華は、比呂緒の右肩を思わず凝視《ぎょうし》してしまった。たまにニケがそこにいることはある。仔猫の時に肩に乗る癖がついてしまったようで、今でも比呂緒がぼけっと立っているとニケが身軽にひょいとその肩に飛び乗るのだ。ハツヒコには絶対|真似《まね》できない芸、肩乗り猫。だが現在、比呂緒の右肩にはもちろん左肩にも猫などいない。
「……肩の上に、猫がいるっていうの?」
「うん、ハルさ……ぐは」
文華のぐーぱんちが、比呂緒の腹に炸裂《さくれつ》した。これはかなり痛い。爪先《つまさき》で蹴《け》り上げる時は、文華はそれなりに力を抜いているのが比呂緒にはわかる。だがぐーぱんちの時は、力の限りを込めたとても痛いぐーぱんちなのだ。
「いったあ……」
腹を押さえて前かがみになる比呂緒《ひろお》の後頭部に、文華《ふみか》の言葉が降り注ぐ。
「猫《ねこ》が肩の上にいるなんて、そんな嘘《うそ》つくからぐーぱんちなのよ。馬鹿《ばか》正直が今さら嘘つきの練習してどうしようっていうのそれともなによ、ヒロの目にしか見えない猫だってんなら、ヒロの目が馬鹿になってんのよああ目と脳は繋《つな》がってんだから、目が馬鹿なのと頭が馬鹿なのは同義よねご愁傷様《しゅうしょうさま》視力がいいのが些細《ささい》な自慢だったのに、それもなくしたんならほんとにもう駄目《だめ》ね馬鹿」
一方的に言葉をぶつけ、文華はまだうつむいている姉を無視して一階へと下りていってしまった。
その数十秒後。
「…………ああ、痛かったなーぐーぱんち」
腹をさすりながら、比呂緒は顔を上げた。その表情は、いつもとまったく変わらない。先ほどまで、痛みに顔をしかめていたことなど既《すで》に忘れている。
「……でも、本当にハルさんはふーちゃんには見えないんだねえ、びっくり。声も聞こえないみたいだし。パパやママもハルさんのことがわからないのかなあ。寂しいな」
(一つ、聞きたい)
比呂緒の右肩にちょこんと座っているハンニバルは、階段の下に視線を向けている。
(あれが、君の妹だということはわかった。だが、ずいぶんとひどい妹だ。そして君もまた、悪い姉だ)
「ふーちゃんはいい子だよ。あたしがよくないお姉ちゃんなのは間違いないけど。……でも、不思議だなあ。こうしてあたしはハルさんを見てお話ししてるのに、どうしてふーちゃんにはできないんだろう」
ハンニバルは視線を比呂緒に戻すと、小さな首をゆっくりと回した。
「その仕草|可愛《かわい》いなあ」
(私が可愛かろうとそうでなかろうとたいした問題ではない。……君と君の妹の違いはただ一つ、君の脳内で霊髄《れいずい》が回っているからだ)
比呂緒は階段の一番上に腰を下ろすと、ハンニバルに触れようとした。左耳近辺に手をやると、ハンニバルは普通の猫のように耳をぴくぴくさせて反応する。
「うーん、触《さわ》ってないのに、触ったみたい」
(……霊髄は、延髄《えんずい》の中に存在する。普通の人間はごくゆっくりとしか動いていない。その必要がないからな。だが、時たま何かがきっかけで回り始める人間がいる。この霊髄が回っていると、霊という物を知覚できるようになる。霊髄が回るという言い方は、ただの比喩《ひゆ》で実際に回っているわけではないからな……聞いているのか?)
「聞いてるよ。聞いてるだけだけど」
自分のことを楽しそうに見ている比呂緒《ひろお》に、ハンニバルはがっくりと頭を下げた。
「可愛《かわい》いなあ、ハルさん」
(……君は私のことを褒《ほ》めているつもりなのか?)
「ううん、可愛がっているつもり」
(可愛がらなくともいいから、私の言うことを理解してくれないか)
「そう言われてもなあ……」
比呂緒は左手に持っていた銃《じゅう》を、膝《ひざ》の上に乗せた。手に持っていると重いからである。一キロ以上あるような気がする。二キロはなさそうだ。間を取って一・五キロくらいかもしれない。
(あまり適当に扱わない方がいい。危険だからな)
「危険? モデルガンなのに?」
(モデルガンではない。アルケブスだ。ベースはアストラM44[#「44」は縦中横]だが、少々カスタマイズされている。……はっきり言って使い勝手は大変よろしくない。どこがどう悪いかは……おいおい説明しよう)
「またわからない言葉を使うねーハルさんは」
膝の上に乗せたモデルガンではないらしいその銃を、比呂緒はしみじみと見下ろした。
黒い銃身《じゅうしん》やシリンダーの下部辺りには何か文字が刻印《こくいん》されていたようだが、削られているため判読できない。この銃で文字が残っている箇所《かしょ》は、グリップにある小さなエムブレムの中だけだ。
そのエムブレムは、銀色の円盤の中に赤錆色《あかさびいろ》をした円が刻まれているというごくごくシンプルなデザインだった。エムブレムの中央にはアルファベットが刻印されている。
「……H……A……N……」
(HANNIBAL。それでハンニバルと読む)
「ああ、そうなんだー、じゃ、これハルさんの物なの?」
(現在は、君の所有物だ。それは君の父親が君に贈った物であり、私の物ではない)
「そう? ならいいんだけど」
(ところで、君はハンニバルという単語に疑問を持たないのか?)
「疑問? 何で?」
不思議そうに聞き返す比呂緒に、ハンニバルはがっくりとうなだれた。
「うーん、ハルさんは可愛いなあ」
(……私は、君という人間に疑問ばかり浮かんでくる)
「あ、そう? 何考えてるのかよくわからないとは結構言われるけど。ほら、あたし馬鹿《ばか》だし。ま、ハルさんもあまり気にしないで。はげるよ。ハッちゃんがね、ちょっと耳の後ろ辺りの毛が薄くて。あーいうのを円形脱毛症っていうのかなあって思うの。……ああ、ハルさんはこう上から見た限りじゃはげてないね。女の子にはげがあるのは、ちょっと悲しいから。大丈夫? お腹《なか》の辺りとかはげてない? ハッちゃんのお腹はそりゃもう悲しくなるくらいはげちょろけよ。黒猫はねえ、毛が抜けた跡もどことなく黒いの。でもまあ、ハッちゃんは男の子だからはげててもいいの。でも、ハルさんはあんまりはげないでね。うちのおばあちゃんも年をとったらかなり頭の毛が薄くなったけど、子供のうちから女の子がはげるのは悲しいよ?」
(だから、私に雌雄《しゆう》という概念《がいねん》は存在しない……)
……普通の人間の反応ではない。色々な意味で。
彼女は盛んにこの猫の容姿を「可愛《かわい》い」と言うが、いったいどこが可愛いというのか。髯《ひげ》が半分なく、耳は千切《ちぎ》れ、尻尾《しっぽ》がろくにないこの猫を。美しくもない灰色の縞模様《しまもよう》の毛皮をもつこの猫を。
私が今まで仇《あだ》をなしてきた人間たちの反応とは違う。……彼と彼女らは、興味本位であったり、より高みを目指すために私と私のアルケブスを欲した。その末路は、全員同じ。だが、反応は似たりよったりだ。私を恐れ、気味悪がり、私と必要以上の接触をもとうとしなかった。
だが、この江藤比呂緒《えとうひろお》という少女はどうだ? 私に対する態度は、確かに愚《おろ》かしい。無知がなせる業《わざ》かもしれないが、それでも彼女はおかしいのだ。私は、彼女に何かを問われたら、答えられることなら何でも答えようと思っているのに。
彼女が聞きたがることといえば、私の性別や毛の抜け落ち具合。
この時、私は彼女を愚かと断定するのはやめていた。彼女には精神的に欠落しているものがある、そう思うようになっていた。エーテルが全身を巡っているとはいえ、欠けている部分が頭部であるのが問題だ。……さぞや、彼女の両親は彼女の知能を危惧《きぐ》しているのではなかろうか。だが、これは医者に治せるようなものではない。
欠けたものは、元には戻ることはない。永久に。無理に修復する方法を私は知っているが、それは魂《たましい》に対する冒涜《ぼうとく》だ。
もっとも、私という存在そのものが生き物に対する冒涜だが。
だがそれでも、私にはしなければならないことがあるのだ。そのためには、何がなんでも彼女に――江藤比呂緒に理解してもらわねばならない。
しかし……いったい何から説明すればいいものやら。
私の前途は多難だった……。
ストーブの前に寝そべっていたハツヒコが、入ってきた比呂緒の気配に気が付いたのか寝返りを打った。しかし比呂緒を見ると、すぐに起き上がって低い体勢となる。それでも温かいストーブの前から離れようとしないところが横着猫《おうちゃくねこ》のハツヒコらしい。
「……あれ、やっぱりハッちゃんもハルさんのこと怖がってるね」
顔を洗い、母に挨拶《あいさつ》をし、既《すで》に父が仕事に出かけていることを思い出してプレゼントの礼が言えないことに落胆《らくたん》した比呂緒《ひろお》は、猫二匹のトイレから固まった糞尿《ふんにょう》をすくい上げ、減った砂を足し、ニケに餌《えさ》をやった後で母や妹とにぎやかな朝食をとった。食卓をにぎやかにしているのは比呂緒だけであり、母は時たま口を挟《はさ》み妹はただ沈黙《ちんもく》するのみだったが。
そして現在は、ハンニバルという新しい家族を紹介するべく家の中を歩き回っている。一応母にも、「肩の上にねー、ハルさんっていう猫がいるんだよー」と言ってみたのだが、母は困ったような顔をして「それは見えない猫なの?」と聞いた。
比呂緒は勇んでこの幽霊《ゆうれい》猫について話をしようと思ったのだが、文華《ふみか》が怒って食卓を立ってしまったので中断されてしまった。残念だ。
というわけで、比呂緒はまだハンニバルと顔合わせをしていないハツヒコのところにやってきたのである。
「ハツヒコ、この子はハルさんだよ〜雌《めす》だよ〜。ハツヒコは、雌に優《やさ》しい雄《おす》なんだから、優しくしないと駄目《だめ》なんだよ〜。ほら、ハルさんもスキンシップとってよ」
比呂緒は右肩に乗っているハンニバルの首根っこを掴《つか》もうとして失敗する。
「ああ、触《さわ》れないからスキンシップはとれないんだね、残念残念」
もう自分に雌雄《しゆう》が存在しないことを説明するのはあきらめた。ハンニバルはとりあえず比呂緒の意思を尊重《そんちょう》すべく、彼女の肩から飛び降りてハツヒコという雄猫と目線を合わせる。
かなり太り気味で長い尻尾《しっぽ》と平べったい顔を持ったその大きな黒猫は、背中の毛を逆立ててハンニバルを威嚇《いかく》していた。
犬や猫は、人間よりも感覚が優《すぐ》れている。それは嗅覚《きゅうかく》や聴覚《ちょうかく》だけではなく、不可視《ふかし》の何か≠感じとることも可能にしている。中には鈍い動物もいるが、それはハンニバルの経験上ごく少数だ。
その感覚ゆえ、|使い魔《ファミリア》には犬や猫の姿をしたものが多い。触媒《しょくばい》が手に入りやすいのも一因《いちいん》だが。……そう説明しようかと考えたハンニバルだったが、結局黙ってハツヒコの視線に身を委《ゆだ》ねた。
「ハッちゃん、毛を立てちゃ駄目《だめ》だよー。ハルさんは、可愛《かわい》くて難しいことをいう猫さんで、きっとハッちゃんより年上だから、尊敬しないといけないよ。……ところで、ハルさんいくつ? 見た目は仔猫《こねこ》で生後……一年は経《た》ってなさそうだけど、言うことはおばあちゃんみたいだし。十八歳くらいかな?」
用心深く自分を見つめているハツヒコと相対《あいたい》しながら、ハンニバルは色々なことを考えていた。このどうしようもないくらい現状を把握《はあく》する能力がなく、疑問を持たず、すべてをありのままに受け入れるこの少女に、まずは何から説明すればいいのかがさっぱりわからない。先ほどからそれなりに説明しているつもりなのだが、あまり聞いてくれていない。聞いてはいるようだが、わかってくれない。
これなら、悲鳴でもあげて怖がられた方がましかもしれない。胸毛の先端が少しだけ白くなっている黒猫を見ながら、ハンニバルは首をすくめた。
……と、急にハツヒコは用心深く移動を開始した。ハンニバルからまったく目を離さずにゆっくりと歩き出し、飼い主である比呂緒《ひろお》の足元に接近する。比呂緒のふくらはぎに身体《からだ》を擦《こす》り付けながら、そのまま部屋の片隅《かたすみ》まで行くとハンニバルの方に顔を向けたまま微動《びどう》だにしない。
「あー、やっぱり怖がってる。じゃハルさんしばらくハッちゃんと見つめ合ってて」
見つめ合ってて。それなりに長く生きている自負《じふ》があるハンニバルは、それなりに多くの依頼も受けてきた。しかしよりによって「猫と見つめ合う」などと頼まれたのはこれが初めてだ。……二度とこんな頼まれ事はされたくない。
「じゃ、よろしくね。あたしはマニエルを見てくるから」
(……マニエル?)
マニエルとは何だ、と聞き返す前に、比呂緒は出ていってしまった。残されたのは猫二匹。
(………………)
自分をじっと見つめてくる黒猫を見返しながら、ハンニバルはどうすればいいものか悩む。この猫と仲良くなるまで、自分はここにいなければならないのだろうか?
(……なぜ、こんなことになってしまったのだろうか……)
泣く子と地頭《じとう》には勝てない、などと最近あまり使わない言葉が脳裏《のうり》をかすめたハンニバルであった。
(……泣かれた方が、まだ楽だったかもしれない……)
自分の考えに浸《ひた》っていたハンニバルだったが、ハツヒコが「にあ」と鳴いたためにそちらに注意を戻すことにした。
マニエルがお亡くなりになっていた。胴から転げ落ちた頭は、半分以上原形を留《とど》めていない。靴の跡がくっきりと残っているため、どんな人が踏んだかは何となくわかる。結構大きい足跡だから、大人だ。男の人だというのもわかる。残ったマニエルの胴体が少し黄色くなっているから。たぶん酔っ払いだと思う。近くに麺類《めんるい》と茶色っぽい粒々が混じった物が散らばっていたから。
「……あーあ……」
あまり落ち込んだりしない比呂緒ではあるが、さすがにこれは少しダメージを受けた。何年か前にもこういうことがあった気がする。あの時は下校途中の比呂緒の同級生が相手で、自分も現場にいたが。比呂緒が雪だるまを作るのに情熱を燃やす一方で、雪だるまを壊すことに情熱を傾ける人もいる。世の中、うまくいっているのやらいないのやら。
あの時は、後頭部を掴《つか》まれてハウエルという名の雪だるまに顔面を叩《たた》きつけられた。比呂緒自身が固めた雪だるまは結構硬く、血こそでなかったが脳震盪《のうしんとう》を起こして気絶してしまった。それは覚えているのだが、その後がよくわからない。……気が付いたら居間のストーブの前に寝そべっていて、腹の上にニケとハツヒコが乗っていて重かった。
「……あーあー……」
もう一度深くため息をつくと、比呂緒《ひろお》は後頭部を撫《な》でた。門柱を見ると、リーとレオンも潰《つぶ》れている。ここ数年、ちゃんと冬に帰ることができた雪だるまはそう多くない。去年、自転車のサドルの上に置いた安田は無事だった。江藤家《えとうけ》の敷地内に置けば大抵《たいてい》無事だが、一歩外に出てしまえば、そこは雪だるまサバイバル。冬に帰れずお亡くなりになる雪だるまの何と多いことか。
「……雪だるまーはー、雪だるまー」
意味もなくそんな言葉を節《ふし》を付けながら紡《つむ》ぐと、比呂緒は辺りを見回した。綺麗《きれい》な雪を探してはみたが、昨日のうちに比呂緒がだいぶ使ってしまったのと人と車の往来でもう汚れた雪しかない。白い雪もないことはないのだが、一晩という時間を経《へ》たそれらはすっかり凍り付いてしまい、雪だるま製作に使えそうになかった。
「ヒロ、何不景気な面《つら》してんのよ……って、ごめん、今見てわかったわ」
「……あ、おっちゃんだ、おはよう」
雪を蹴散《けち》らしながらやってきた落合明海《おちあいあけみ》は、玄関前の惨状《さんじょう》を見て大きく鼻を鳴らすとポケットから小さなチョコレートの箱を取り出した。
「一個食べる? ピーナッツ入り」
「んあー、今はいい。ありがとう」
比呂緒は塀《へい》の上に積もっている比較的綺麗な雪をまとめると、小さな雪だるまを即席で二つ作った。明海がチョコレートを食べている間に、門柱に飾って名前を考える。
「……梶間《かじま》と井原《いはら》」
「毎度毎度思ってるけど、雪だるまに名前つけんなら、もうちょっと可愛《かわい》い名前にしなさいよ」
「じゃあ梶間ちゃんと井原ちゃん」
「ちゃんつけたらいいってもんじゃないでしょ……って、あんた何それ」
「んー? ああ、これ? パパからの誕生日プレゼント」
明海が指差したのは、比呂緒がベルトの間に差していたアストラM44[#「44」は縦中横]である。部屋に置きに行くのも面倒なので、何となく持ち歩いてしまっていたのだ。
「……また変なもん貰《もら》ったわねえ……ま、別にいいけど。で、あんた今|暇《ひま》なの? 暇なら、プレゼント買いに行くから付き合ってよ」
「プレゼント? 誰《だれ》かにあげるの?」
「あんたへの誕生日プレゼントよ! あんたは何あげても喜ぶけどその『何でもいい』ってのが悩みどころなの! だから今年はどうせ一日過ぎちゃったんだから、あんたに選んでもらうことにしたわ。予算は千円までよ」
不景気な面をしていた比呂緒だったが、その明海の言葉に表情を崩した。
「ありがと、おっちゃん。暇じゃなくても行くよ……って、その前にこれ片付けた方がいいよねえ」
玄関前に散らばったあまり直視したくない物を明海《あけみ》は一瞥《いちべつ》すると、眉《まゆ》をしかめてみせる。
「あんたんちって、結構こういうの多いわよねえ……食欲なくすわー」
と言いながらも、明海は二個目のチョコレートを食べ始めている。
「そうだね……待っててね、すぐ片付けるから。その間ちょっと上がっててよ。あたしは平気だけどおっちゃん寒いでしょ? 冷えは足元からくるからねえ、気を付けないと」
「いいわよ、あまりお邪魔《じゃま》したくないから」
「そう?」
比呂緒《ひろお》も無理には勧めない。学習能力がない比呂緒だが、明海のことはそれなりにわかっている、と自分では思う。明海は江藤家《えとうけ》の敷居《しきい》を跨《また》ぐのを嫌っている。文華《ふみか》と顔を合わせるのが嫌だ、というのはわかるが、どうして二人の仲が悪いのかを比呂緒は知らない。一度明海と文華に聞いてみたのだが、前者には無視、後者にはぐーぱんちで返答されたので、それ以来聞いていない。
きっと複雑な事情があるんだろうなー、と思いながら、比呂緒は掃除道具を取りに物置へと向かった。
ハンニバルは困っていた。あれから二十分は経《た》ったが、ハツヒコとの仲が進展したかと比呂緒に問われたら、自信がない、としか答えられない。
ハツヒコは、相変わらず自分の方を一心に見つめている。ただストーブの前に寝そべりながらなので、あまり敵意があるように感じられないのが救いといえば救いだろうか。もう毛を逆立ててもいない。出っ張った腹が時たま見えるが、比呂緒の言う通り悲しいくらいに毛がなかった。
(……本当に、毛がない)
自分の見た目に誇りを持っているハンニバルだが、見目麗《みめうるわ》しいかと自問すればその答えは否《いな》だ。別に外見の美麗《びれい》などはどうでもいい。だが、それでもこのハツヒコという猫は一応猫の外観を持っているハンニバルから見ても、なかなかに興味深いものがあった。
はげている腹のくせに、乳首の周りだけには若干《じゃっかん》ながらも毛が残っているというアンバランスさ。黒猫なのに胸の一部には白い毛がぽつぽつ生えていて、横に平べったいその顔付きが何ともおかしい。やけに骨太で四肢《しし》が太く、図体もかなりでかい。ハンニバル比六・二倍。いくらハンニバルの大きさが仔猫《こねこ》クラスとはいえ、どうにもこのハツヒコという猫は大きすぎるような気がした。
(……私は、本当にこの猫と仲良くなれるのだろうか?)
などと真剣にハンニバルが考え始めた時、突然扉が開いた。比呂緒か……と思ったが、入ってきたのはその妹だった。ソファーに座って、手に持っていた新聞をテーブルの上に広げて読み始める。
(似ていない、ように見えるな)
ハンニバルはハツヒコから目を離して文華《ふみか》の方を見た。いつ見ても緊張感のない顔をしている比呂緒《ひろお》と違い、文華は今もぴりぴりとした気配を発散していた。ハンニバルは目を細め、しみじみと彼女を観察する。顔のパーツそのものには、姉と似ているところもないことはないのだが、顔に浮かべている表情があまりにも違いすぎる。初対面で姉妹とわかる人間は、そう多くはないだろう。
(……大病や大怪我《おおけが》をした痕跡《こんせき》はない……が、精神の方は不安定だ。エーテルは巡っているが、若干《じゃっかん》滞《とどこお》りがある。あまりよろしくない傾向だ)
いかに腹が立つ姉とはいえ、本気で腹を殴《なぐ》るというのはよくないことだとハンニバルの常識は訴える。今朝出会ったばかりのハンニバルとは違い、文華は生まれた時から比呂緒と付き合っていたのだから、その怒りもだいぶ蓄積《ちくせき》されているのだろう。しかし同時に、比呂緒とのストレスの溜《た》まらない付き合い方も学んでいるはずだ。少なくとも彼女らの両親は、比呂緒に対して怒りをぶつけたりはしていない。
(怒りたい気持ちはわからないでもないが、あれは殴ったり怒ったりして改善できるレベルの問題ではない……無視をすることも覚えた方がいい)
と、アドバイスを送ってみるハンニバルである。文華には聞こえていないが。
(それと、肉親を殴るというのもあまりよろしくないな。いかに血が繋《つな》がっていようとも、殺意を覚えるということはあるだろう。だが、だからといってそう簡単に殴っていいわけでもあるまい。確かに、江藤《えとう》比呂緒という人物にはかなり問題がある。だが、殴りたくなるというよりはあきれ返り、嘲笑《ちょうしょう》したくなる人物ではないだろうか?……私はおおいにあきれ返っている。だが暴力に訴えるなら、せめて痛がったりしない物……サンドバッグでも殴ってみたらいいのではないか? 一般家庭にサンドバッグがあったらそれはそれでおかしいと思うが。仲良くなれ、とは言わない。だが、あまり喧嘩《けんか》をしないでいい思い出も作っておいた方がいい)
長々と話し掛けたのは、別に無駄《むだ》な努力をしたかったわけではない。霊的物質結合体《ファミリア》であるハンニバルの姿を見たり声を聞いたりはできなくとも、そこに何かがいる≠ニいうことを何となく♀エじることができる常人もたまにいる。自分の意思は伝わらなくとも、表明だけはしておこう。そうハンニバルは思った。
何しろ、自分は。
彼女が嫌っている姉を、いつか死なせてしまうのだから。
その時、彼女はどうするのだろう?
「ハルさーん!……あ、ふーちゃんだ。あたしちょっと南口まで出かけてくるから。お昼までにはちゃんと帰ってくるから、心配しないでね」
大きな声で叫ぶ比呂緒《ひろお》に、ハンニバルはちょこちょこと歩み寄りその身体《からだ》を駆《か》け上って彼女の右肩に収まった。それにひどく楽しそうな視線を向けた比呂緒が再び口を開こうとした時、
「心配なんかしないわよ」
斬《き》り捨てるようにすっぱりと文華《ふみか》が言った。その視線は新聞から離れない。
「そう、じゃ安心してて。迷子にもならないから、きっと。……ハッちゃん、相変わらずお腹《なか》はげてるねえ、うーん、あったかい。じゃ行ってきます……あ、あんまり目を近付けて新聞読むのよくないよー目ぇ悪くなるよー」
いってらっしゃい、とは妹に言ってもらえず、代わりにハツヒコの「にああ」という鳴き声を背にして比呂緒は居間を出た。
(……どうも君たちの姉妹仲は険悪《けんあく》だな)
肩に乗った自分に触れようと無駄《むだ》な努力をする比呂緒に、ハンニバルはため息混じりに話し掛ける。
「そう? ふーちゃんがあたしのことを嫌ってるだけで、別に仲が悪いわけじゃないよ?」
(嫌われている、ということは仲が悪いということとイコールではないのか?)
「えー、違うよ。あたしはふーちゃんのこと好きだから。あたしがふーちゃんのこと嫌いになったら、きっとあたしたちは険悪な姉妹になるんだよ」
そうだろうか、とハンニバルは靴紐《くつひも》を結ぶ比呂緒の手元を見つめた。何だか滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な結び方のように見える。
「あ、モデルガン、ベルトに差したままだった。しゃがんだ時お腹が痛いから、何かと思った」
……不器用な上に鈍いようだ。まったく先が思いやられてしまうハンニバルである。
そんなハンニバルを肩の上に乗せながら、江藤《えとう》比呂緒はこのアストラM44[#「44」は縦中横]をどうしようかと考えていた。屋根裏部屋の自分の部屋に置く。それが一番正しいだろう。かさばって重いこれは、ハンカチやちり紙と違って普段《ふだん》から持ち歩かなければいけない物ではない。だが、そのためには一度靴を脱いで部屋に戻り、また靴を履《は》かなければならない。
これが学校にでも行く時なら、比呂緒は迷うことなくそうしただろう。しかし今、玄関の外には明海《あけみ》がいる。彼女を待たせるのは、嫌だった。学校は自分を待っていないが、明海は比呂緒を待っている。
だから比呂緒は、コートのチャックをきっちりと閉めてアストラM44[#「44」は縦中横]が見えないようにした。いくらモデルガンとはいえ、こういう物を人様《ひとさま》に見えるように持ち歩いてはいけない。
その比呂緒の行動を見て、ハンニバルは目を細める。
彼女の行動は、ハンニバルにとって嬉《うれ》しくもあり悲しくもあったから。
『南口に行く』という言葉は、この界隈《かいわい》では『買い物に行く』という意味で使われる。江藤家《えとうけ》や落合家《おちあいけ》があるのは、駅の北口から十分ほど歩いた所にある住宅街である。ここから一番近い商店街が南口に広がる商店街なのだ。彼女たちが線路を跨《また》いで南口に出る手段は、地下道、踏み切り、鉄橋の三種類。駅を通り抜けるという手もあるが、『駅で時たまやっている物産展が見たい』とか『駅前の店に行く』とかいう確固《かっこ》たる理由がない限り滅多《めった》にやらない。
距離的に近いのは地下道だが、比呂緒《ひろお》が好きなのは鉄橋だった。線路の上に架《か》かっているその橋の上からは、電車が見えるしあまり繁盛《はんじょう》していない釣堀《つりぼり》も見える。二年生の時に左手を捻挫《ねんざ》してお世話になった接骨院の前も通ることができるし、朝早くだと豆腐作りをしている豆腐屋の風景を見ることができる。
「……踏み切りまで行くよりはいいけど、ほんとあんた遠回りが好きよね」
明海《あけみ》は道の端《はし》に寄せられている雪の小山に蹴《け》りを入れながら、比呂緒は線路内に残っている雪の白さをチェックしながら、片やきびきびと、片やのんびりと歩いている。
「遠回りが好きなんじゃなくて、鉄橋が好きなの。踏み切りの方が遠いけど、踏み切りは、あんまり好きじゃないから」
「あんた、まさか学校行く時も鉄橋使ってんじゃないでしょうね」
「学校行く時は、急いでるからちゃんと地下道使うよ」
「急いであれだけ遅刻するの……」
あきれつつもいつものことなので怒りもせずに返す明海と、いつものようににこにこしながら歩く比呂緒。二人だけの道中のように見えるが、実は比呂緒の肩には猫がいる。しかしそれは明海には見えず、時たますれ違う歩行者にも見えない。
比呂緒には不思議でたまらない。ここにハンニバルはいるのに、明海には彼女が見えないし声も聞こえない。
「ねえ、おっちゃん。あたしの肩の上にハルさんっていう可愛《かわい》い猫がいるの。でもママにもふーちゃんにも見えないの。おっちゃんにも見えない?」
……そういうことは聞かない方がいい。馬鹿《ばか》を通り越して頭がおかしいと思われるから。ハンニバルは出かける前にそう忠告したのだが、比呂緒はやはり明海に聞いている。ここで自分が何か言うと、比呂緒は律儀《りちぎ》に自分に返答するから黙っておくことにした。このままでは、比呂緒が『自分の肩に向かって話し掛けている頭の弱い子』になってしまう。そうなったらなったでハンニバルは別に困らないが、比呂緒は困るだろう……たぶん。
しかし比呂緒は熱心に、明海にハンニバルの容姿について説明していた。
「……で、お年よりみたいというか理屈が多いというか、まあとにかくそういう猫さんなの、ハルさんは」
比呂緒の話を聞きながらこめかみを押さえていた明海は、まず比呂緒の右肩に手を置いた。
「あ」
比呂緒《ひろお》の目には、ハンニバルの身体《からだ》を突き抜けて明海《あけみ》の手が置かれているように見える。しかしどうやら明海の目にはそれは映っていないようだ。
「……ここに猫がいるわけ?」
「うん、見えないし触《さわ》れないし、ハルさんの声はあたしにしか聞こえないんだけど」
明海は何度か比呂緒の肩を叩《たた》き、その度《たび》に比呂緒は「あ」「あ」「あ」と声を上げる。何だかハンニバルが叩かれているような気分になったからだ。
「猫がいるの?」
「……うん」
明海は眉《まゆ》をしかめ、次いで比呂緒と肩を交互に睨《にら》み付けた後、物言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに比呂緒の肩から手を離す。
「ヒロ、そういう話はあまりしない方がいいわよ」
「何で?」
「人に見えない物が見えるって言うと、病院に連れてかれるから」
「そうなの?」
「そうなの。あんた病院嫌いでしょ?」
「病院の人たちは嫌いじゃないけど、病院に行くのはあんまり好きじゃない」
心配する両親と、怒る妹。比呂緒が病院に行く事態が発生すると、必ずこの二つの事象が起きるためあまり行きたくない。それに病院特有の匂《にお》いは嫌いだ。入院して帰ってくると、猫たちが胡散臭《うさんくさ》そうに匂いを嗅《か》いで逃げていくし。しばらくは一緒に寝てもくれない。
「最近行ってないから、あんまり行きたくない」
「だったら、あんたにしか見えない猫がいるとか言わないの。とりあえず、ちゃんと可愛《かわい》がってやんなさい」
「……そう? じゃあそうする。そういうわけだから、これからハルさんを紹介するのはやめるね。ごめんね、ハルさん? そのぶんあたしががんばるからねー」
自分に話し掛けてくる比呂緒にため息をつきながらも、ハンニバルは落合《おちあい》明海という友人に内心で感謝した。他人に自分を紹介するのを控えてくれるのは結構なことだ。人前で自分に話し掛けないようになればもっといいのだが。
会話が自分のことから冬休みの宿題に移ったところで、ハンニバルは比呂緒の右肩におとなしく這《は》いつくばって目を閉じた。こうして自分がおとなしくしていれば、比呂緒も積極的に自分に話し掛けたりはしないだろう。
だが鉄橋の下にたどり着いた時、ハンニバルは目こそ開かなかったがないに等しい尻尾《しっぽ》をばたつかせた。
「あ、階段の雪がのけてある」
「暇《ひま》な人もいるもんねー」
鉄橋を渡るために上らなければならないその階段は、小型自動車なら無理をすれば通れるくらいの幅があり、段数も結構ある。端に寄せられた雪の量を見ると、それが大変な労力を必要としたことがわかった。
「誰がやったのかな」
「さあ。全然積もってないから雪が止《や》んでからやったんでしょうけど、よっぽどこの階段に雪が積もってるのが嫌だったんでしょうね。……はい、さっさと行くわよ」
雪かき好きの比呂緒《ひろお》が感心している間に、明海《あけみ》は一段飛ばしながら階段を上っていく。明海の歩幅とこの階段の段差では普通に上った方が楽なのだが、明海はエスカレーターの上でも一段飛ばしで歩きたがる人なのだ。
そんな明海を見上げながら、比呂緒はゆっくりと階段を上り始める。その彼女の右肩の上で、ハンニバルが目を見開いて千切《ちぎ》れた耳を動かした。
(……一つ聞きたい。この近辺で不幸な死に方をした人間はいるか?)
「んあ?」
それはあまりにも唐突《とうとつ》な問いだったが、比呂緒はすぐにハンニバルの問いに答えを出すことができた。『自分が知っていることには何も考えずに反射的に答えてしまう』という、比呂緒は至極単純な思考の持ち主だ。
「不幸かどうかは知らないけど、夏休みにこの橋の上から飛び下りて死んだ人はいるよ」
(人が死ぬには、高さが足りないようにも思えるが)
「そんなこと言われても、あたしは詳しい事知らないし」
(……だろうな……早く階段を上がってくれないか?)
気が付けば、もう明海の姿は見えなくなっている。比呂緒は早足で階段を駆け上がった。
私は、打算的だ。彼女が愚《おろ》かであることを嘆いてはいたが、ある意味非常に都合のいい人物であることに気が付いてしまった。
別に、彼女にすべてを理解させる必要などないのだ。理解させようとするから面倒なことになる。彼女は他者に何かを要求されると、それが自分の能力の範囲内なら『なぜ』と問い返したりせずに応《こた》えてくれるようだ。
なぜいきなり死者が出たかを聞いたのか。どうして階段を早く上《のぼ》ってくれと頼んだのか。
その理由を、彼女は問わない。
……そうだ、これは私にとっては喜ばしいことではないか。彼女が愚かであるなら、それを利用すればいいのだ。今までも、散々《さんざん》人間たちを利用してきたのだ。これからもそうすればいい。
なぜそのことにすぐ気が付かなかったのだろう。老若男女、私は利用してきたのだから、彼女が子供だろうと何だろうと、良心など痛むはずがない。だいたい、私に良心などというものが残っているのだろうか?
……ああ。
私が利用してきた連中は、私のことを利用しようとしていた連中だ。
だが彼女はそうではない。多少間違ってはいるが、私に無条件の好意を寄せてくる。……違う。私の外見が猫だから、彼女は私に好意を寄せるのだ。私の外見がアブラムシであったなら、こうはならなかったはず。
猫、か。
………………。
私の成り立ちを考えている暇《ひま》はない。
ほら、私のせいで性質《たち》の悪いのが寄ってきた。
さあ、どうする? 君はどうにか≠キることができるんだぞ?
もう明海《あけみ》は橋を渡ってしまったかと思っていたが、階段を上りきった所に佇《たたず》んでいた。
「あ、待っててくれた……」
びちゃり、という水っぽい音と、チョコレートと味噌《みそ》が微《かす》かに混じった胃酸の臭いが、同時に比呂緒《ひろお》の聴覚《ちょうかく》と嗅覚《きゅうかく》をついた。
コンクリートの上に散らされたそれのせいで、明海の茶色いゴム長靴が汚れているのを見た時、比呂緒は『おっちゃんが吐《は》いた』という事実をあっさりと受け入れた。
大丈夫、とは聞かなかった。どうしたの、とも問わなかった。ただ比呂緒は明海に背後から近付き、その背中をそっと撫《な》でた。途端に、明海はその場にしゃがみ込んでしまう。比呂緒は黙って彼女の長い髪が汚れてしまわないように背中に回した。
比呂緒が一緒にしゃがみ込んだ時、明海の身体《からだ》が大きく震《ふる》えて第二波が来た。今度は透明《とうめい》な胃液と唾液《だえき》が大半で、中身がほとんどなかった。比呂緒はぶちまけられたそれらを見て、明海の朝食がご飯と味噌汁と何らかのおかずであることを理解した。それらは見て気持ちのよくなる物ではなかったが、他《ほか》に何を見ればいいのかわからなかった。
ただ一つ、明海の顔を見てはいけないと思った。
こんなことは、前にもあった。文華《ふみか》だ。学校から帰ると、ランドセルを背負ったままの文華が庭に蹲《うずくま》っていて、「どうしたの?」と聞いて正面に回り込んだら、涙と鼻水と唾液をだらだら流しながら脛《すね》にぐーぱんちを叩《たた》き込まれた。
「……おっちゃん」
名前を呼んで背中をさする以外、自分には何ができるのだろう。自分の友人が急に吐き気をもよおしたという事実に驚きもせず、比呂緒はそんなことを考えていた。
(君にできることは、前を見ることだ)
ハンニバルが、いつの間にか右肩から左肩に移っていた。だがそのことを比呂緒はさして気にもせず、彼女はハンニバルの言う通りに前を見る。
「……あれ」
橋の上には誰《だれ》もいない。両脇《りょうわき》にのけられた雪と露出《ろしゅつ》したコンクリート、それなりに高いフェンス。橋を構築する物体以外には、自分と明海《あけみ》とハンニバルしかいない橋の上。
それなのに、何かがいる。
何だろう、この感じは。
見えないのに、そこに何かがいるような感じ。夜中に目が覚めて、何かがいるなーと思って灯《あか》りをつけたら天井にゴキブリがいた、そんな感覚に近いような気もする。
何かがいる。それはわかる。でもそれが何かはわからない。
嫌な感じだなあ、と比呂緒《ひろお》は思った。
(……まだ見えないようだな、君には)
ハンニバルの毛が逆立《さかだ》っている。幽霊《ゆうれい》でもやっぱり猫なんだなあ、と比呂緒はどこか冷静にそんなことを考えていた。
「何が?」
(私と君の目の前にいるものだ。……慣れれば見えるようになるし、声も聞こえるようになるだろうが)
「……幽霊でもいるの?」
その問いにハンニバルは答えなかった。ただ比呂緒の肩から飛び下りて、彼女の後方に回り込む。
どうしたの、と聞こうとした時、明海が奇妙な呻《うめ》き声をあげた。背後から見ている比呂緒には、足元に散らばった嘔吐物《おうとぶつ》の上に明海の口から唾液《だえき》がぽたぽたと落ちているのがわかった。吐き気があって吐きたいのに、もう胃の中には何もない状態。だから、ただ口を開けて喉《のど》を鳴らしながら、涎《よだれ》を垂《た》らすことしかできないのだ。比呂緒の経験上、それは普通に吐くことよりつらいことだ。
「お」
意味もなく名前を呼ぼうとした比呂緒は、その口を閉ざした。……何か、腹《はら》の辺りにちくちくと刺さるようなものがある。別に痛くも痒《かゆ》くもないのだが、文華《ふみか》のぐーぱんち威力《いりょく》千分の一を食らったらこんな感じかもしれない。
(……気分が悪いか?)
後ろの方でハンニバルの声が聞こえる。振り向いて答えたかったが、明海の背中から手を離したくなかった。離したら、明海がもっと苦しんでしまうような気がした。だから比呂緒は前を見たまま「うん」と頷《うなず》く。
(解決する方法はあるが、試してみるか?)
何が解決するのだろう。明海の吐き気が治まるのだろうか。このちくちく感が消えるのだろうか。
(両方だ)
それはいいことだ、と比呂緒《ひろお》は思った。でもどうして何も言ってないのにハンニバルは返事ができるのだろう、とも思った。
(そんなことは後で考えればいい)
なら、そうしよう。で、自分はいったい何をすればいいのだろうか。
(簡単なことだ。君がベルトに差しているその銃《じゅう》を、前に構えて力いっぱい引き金を引けばいい)
それは簡単だ。
比呂緒は右手で明海《あけみ》の背中を撫《な》でながらゆっくりと立ち上がり、左手でアストラM44[#「44」は縦中横]に触れた。
大きなグリップは、彼女の小さな手には余る代物《しろもの》のはずだった。それなのに私は、彼女がそれを握《にぎ》った時、初めて『馴染《なじ》んだ』と思った。
そして撃《う》てばいい。一度撃ってしまえば、後は雪崩《なだれ》と同じ。なし崩《くず》しに事は進んでいく。その事態が、どのようなものであろうとも。
ただ問題は、彼女に引き金が引けるかどうかだ。ダブルアクションであるため、ただでさえ引きが重い。それに加えて、弾《たま》が前使用者の物だ。引き金が引けたところで、ハンマーに伝わる力は本来の物より格段に落ちるはず。弾がどれほど飛ぶか、怪しいものだ。
よしんば引けたとして、それが標的≠ノ当たるかどうか。……まあどうせ見えていないのだから、『狙《ねら》え』というのは無理だろう。今は引き金が引けるかどうか、それだけ確認できればいい。
だから私は何も言わずにただ見ていた。大口径《だいこうけい》のアルケブスを片手で撃とうとする愚拳《ぐきょ》も、注意しなかった。
左腕を真《ま》っ直《す》ぐ前に伸ばし、茫洋《ぼうよう》とした目で前を見る江藤《えとう》比呂緒の姿をただ見ていた。
型も何もない、フロントサイトもリアサイトもまるで見ていない、どこを撃とうとしているのかわかったものではない、その素人《しろうと》の構えを。
彼女の指が引き金にかかり。
そして、私は驚愕《きょうがく》した。
力いっぱい引けばいい、とハンニバルは言った。だから比呂緒は本当に満身《まんしん》の力を込めて引いたのだが、簡単に最後まで引けてしまったのでひどくあっけない感じがした。だが引いた時よりも、引いた後の方が比呂緒にとっては痛かった。
がぁん、という大きな音と、冬にセーターを脱ぐ時によくある静電気のちりちり感が左腕に走ったため、比呂緒《ひろお》は思わず三歩後ろに下がってしまった。
「……うわ、びっくりした……」
本当にびっくりした。こんなにびっくりしたのは、ハツヒコが台所に出たゴキブリを捕《と》った時以来だ。
だが、そんなことより明海《あけみ》のことの方が大事だ。あとずさった拍子《ひょうし》に明海の背中から手を離してしまったので、比呂緒は慌てて明海の背中にもう一度手を置いた。
「おっちゃん……」
「……気持ち悪……」
そう大して長い沈黙《ちんもく》ではなかったはずなのに、比呂緒は久しぶりに明海の声を聞いた気がした。
「……ああ、自分が食べた朝ご飯をこういう形で思い知るってのはつらいわ……」
ティッシュで口元を拭《ふ》くと、明海は立ち上がって比呂緒の方を振り向いた。
「ごめんね、ヒロ。びっくりしたでしょ?……あたしもびっくりしたけど」
「うん、びっくりした。大丈夫? 具合悪いの?」
明海の顔色は具合が悪そうには見えない。だがその表情は、あまり比呂緒が見たことのない類《たぐ》いのものだった。正面を見ようとせず、かといって下を向いているわけでもなく、視線が彷徨《さまよ》っている。これは、明海が居心地が悪い℃桙ノする態度だ。
「……何か、いきなり気持ち悪くなって……」
「うん……ああ、今日は買い物やめて帰ろうよ」
「……ごめん」
それだけ言うと、明海は何も言わずに階段を駆け下りていってしまった。その後ろ姿に比呂緒は「これはあたしが片付けとくから安心していいよー」と叫んだが、明海は振り返らずにそのまま走り去っていく。
(……君は友人に対する思慮《しりょ》があるのかないのか、今一つ微妙な対応をするな……)
比呂緒の右肩の上に飛び乗りながら、ハンニバルは内心で思っていることとはまったく関係ないことを口にした。
「微妙? 何が?」
(……いきなり友人の前で吐《は》いてしまうなどという醜態《しゅうたい》を晒《さら》してしまったのだ。穴があったら入りたい、今すぐにでも一人になりたいという友人に対して『帰ろう』というのはよいことだ。だが、その後は蛇足《だそく》だな)
「はあ……」
比呂緒は右手で後頭部をさすり、今さらのように左手に銃《じゅう》を持っていることを思い出した。とりあえず元のようにベルトに差す。
「……何だかよくわかんなかったなあ。これ、何か弾《たま》が出たの? すごい音がしてちょっとびりびりしたけど」
(それだけか?)
「何が?」
(その銃《じゅう》を撃《う》った感想だ)
「うん。……あ、お腹《なか》の辺りにあったちくちく感がなくなってる。本当にこれの引き金引いたら解決した。すごいなー、これ。さすがパパのプレゼント! こんなに役に立つ物、目覚まし時計以来だね」
(……褒《ほ》めているのかけなしているのか、今一つわかりづらいな)
私は、内心で思っていることを表に出すことができなかった。愚《おろ》かだ、と私が断定していた少女は、あまりにもとんでもない潜在能力《せんざいのうりょく》を持っていたらしい。
彼女なら、もしかしたら。
そう思ってしまった。
私は希望を持ってしまった。
それと同時に。
彼女と共に死のうと思った。
「ハルさーん。バケツとデッキブラシと……箒《ほうき》とちりとりは役に立つかなあ……とにかく一度家に帰るよ。これ片付けないと」
(……君は、本当に何も聞かないな……)
少しはこの現状に疑問を持ってほしい。そんな思いを込めたハンニバルの言葉に、比呂緒《ひろお》は猫の身体《からだ》を撫《な》でようとすることで応《こた》えた。
「うーん、可愛《かわい》いなあ、ハルさんは。……そりゃ、どうしておっちゃんがいきなり気分悪くなったのかなーとか不思議に思うけど、今はこれ片付けるのが先だし」
不思議に思う。その言葉を、ハンニバルは聞き逃《のが》さなかった。
(疑問に思ったんだな? その理由を知りたいと思ったんだな?)
どこか勢い込んで、髯《ひげ》とぎざ耳と尻尾《しっぽ》をぴこびこさせ、気のせいながら目も輝いてるかもしれないハンニバルの様子に、比呂緒は笑ってしまう。
「もう、ハルさんは話したがりな幽霊《ゆうれい》猫なんだねえ。聞きたいことはちゃんとあるから、安心していいよ」
そう言いながら、比呂緒はほんの少し前に自分が上った階段を下ろうとした。
右足を一段下ろす寸前、急に左足の感覚がなぐなった。
「あ」
左膝《ひだりひざ》から力が抜ける。それがわかった時には、もう比呂緒《ひろお》の身体《からだ》は階段を転げ落ちていた。咄嗟《とっさ》に比呂緒は両腕で頭を抱え込もうとした。反射神経に優《すぐ》れているとはいえない比呂緒だが、階段からは落ち慣れているために自然と保身の方法を身につけていたのだ。
だが前頭部と後頭部、どちらを重点的に守るかで、比呂緒は一瞬迷ってしまった。そのくだらない逡巡《しゅんじゅん》の間に、比呂緒の後頭部は段差の角に打ち付けられていた。
ああ、また縫《ぬ》う羽目《はめ》になるのかな。これ以上|馬鹿《ばか》になったら、どうなるんだろう。ママとパパとふーちゃんとおっちゃんが悲しんだり怒ったりするんだろうな。ハルさんは大丈夫かな。ゆーれいだから、しんぱいしなくても
頭の片隅《かたすみ》でそんなことを考えながら、比呂緒は白い空が暗くなっていくのを見ていた。
階段から落ちる比呂緒を見たハンニバルがまずしたことは、彼女の肩から飛び下りて周辺を見回すことだった。実体のないハンニバルには、比呂緒を物理的に助けることはできない。だから、今自分ができることをしなければならなかった。
……いた。橋のすぐ近くにある電線の上にいる烏《からす》。外見はただの烏だが、その中身はハンニバルと同じ物質で構成されているもの。落ちた比呂緒と自分から、まったく視線を逸《そ》らすことなく凝視《ぎょうし》している。
あれが目≠フ役割を果たしていることはわかる。あれ自体に脅威《きょうい》はないが、問題は主≠ェそう遠くはない場所にいるであろうことだ。
まずハンニバルは、階段の踊り場で蹲《うずくま》っている比呂緒に近付いた。一刻も早くこの場から離れなければならない。
ざっと見たところ、打ち付けた後頭部からは出血はなく目立った外傷もとくにない。それは幸いだが、意識が若干《じゃっかん》飛んでいるのが問題だった。それに、外傷はなくとも左足からはわずかとはいえ流出≠ェ始まっている。
(江藤《えとう》比呂緒!)
しばらくは目を覚まさないかと思ったが、意外にも比呂緒の回復は早かった。指が地面を掴《つか》もうとしている。頭が鈍いぶん、痛覚も鈍感にできているのだろうか。そんな不謹慎《ふきんしん》なことを考えながらも、ハンニバルはもう一度彼女の意識に訴えかけた。
(江藤《えとう》比呂緒!)
「………………何だかよくわかんないけど、すいません、先生」
(私は先生ではない、ハンニバルだ)
「…………春が来たー……」
(今は冬だ。まだ雪も残っている!)
「……んあー……」
比呂緒《ひろお》は冷たいコンクリートに手をついて、ゆっくりと上体を起こした。目を閉じたまま、左手で頭をそっと撫《な》で回す。
「……ああ、血が出てない。よかった……」
(血は出ていないが、他《ほか》のものが出ているぞ……左足を見てみろ)
その言葉に何気なく左足を見た比呂緒は、自分の目を疑いたくなった。左足そのものに痛みはないのだが、なぜかほとんど動かない。それに、水溜《みずたま》りに落ちたわけでもないのに濡《ぬ》れているように見える。
「……おかしいな。痛くないのに、動かない」
比呂緒はズボンに隠れている左のふくらはぎにそっと手を当てた。濡れている、と思ったそこはやけに生温かく、べたついているわけでもないのにその水は比呂緒の指先にまとわりついてくる。
「変な水」
(……それは水じゃない、エーテルだ。早く止めないと)
不自然にハンニバルの言葉が途切れた。
「止めないと、どうなるの?」
その比呂緒の言葉にハンニバルは答えず、黙って階段の下を見下ろしている。比呂緒もつられてその方向を見た。
自分と、さして年の変わらない男の子がそこにいた。ギターケースを担《かつ》ぎ、肩に烏《からす》を乗せている。ギターケースに見えるが、本当にギターが入っているかはわからないし、肩に乗っているのも実は烏じゃなくて黒い鳩《はと》かもしれない。鳩の割には大きく見えるが。
その少年がゆっくりと階段を上ってくるのを見て、比呂緒は『端《はし》っこに避《よ》けないといけない』と思った。踊り場の真ん中を占領している自分は、さぞ邪魔《じゃま》に見えることだろう。
とりあえず右足と両手を使って座ったまま端に移動しようとした時、彼の腕が上がった。
少年の手の中にあるのが銃《じゅう》であり、その銃口《じゅうこう》が自分に向けられているとわかった時。
比呂緒はただ、
(あの子の帽子、暖かそうでいいなー)
と、まったくどうでもいいことを考えていた。
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第三話 銃には銃を、手には職を
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年末年始に仕事をするのは、貧乏人のすることだ。両親はそう言う。兄と姉もそう言う。……僕もそう思う。
でも、僕は仕事をする。大晦日《おおみそか》や三が日に仕事がないなら、僕は仕事をしない。でも仕事の依頼が僕にある以上、僕は仕事をする。
今回の仕事は鬼籍係《きせきがかり》からの依頼だった。……正直、あそこから仕事を貰《もら》うのは気が進まない。厄介《やっかい》な仕事が多いくせに向こうが提示する金額は相場の三分の一、それも三ヶ月先の振り込みだ。札《ふだ》の点数が悪いか、昇級試験に備えての時はしかたがないけど、それを除けば敬遠したい。
それでも今回に限って受ける気になったのは、新しく買う予定のスコープの具合を確かめたかったから。……それだけだ。それがなければ家でシルバーとの同調を強めるか、宿題でもやってただろう。
……仕事なんか受けなければよかった。そうしたら、僕はあの疫病神《やくびょうがみ》に一生会うことはなかったはずだ。
死神《しにがみ》なら、まだいい。僕も納得できた。死は平等にやってくるものだから。
でも、あいつは疫病神の上に貧乏神で……いや、金がかかったのは最初だけだったから貧乏神じゃないな、これは取り消そう……とにかく奴《やつ》自身がとんでもないその上に、猫まで憑《つ》いてきたのが問題だ。
悪霊《あくりょう》の目≠ニ呼ばれ、一部の円環原理主義者かよほどの馬鹿《ばか》でもなければ、手に入れることさえ恐れるハンニバル憑きアルケブス。
前者だけなら、会うことはなかった。後者だけなら、僕は自分から逃げた。
……この両者が同じ場に存在して、それに僕が出会ってしまったことが間違いだった。
だけど僕は関《かか》わってしまった。それどころか、良い方向に進ませることができると思っていた。何とかなるし、何とかならなくても一人の馬鹿が死ぬだけの話でどうでもいいことだと思っていた。
ハンニバル風に表現すれば、「これが君と私たちの運命だ」といったところか。
……冗談は、存在だけにしてほしかった。
比呂緒《ひろお》は買い食いをしたことがない。毎月貰う年相応の小遣いは陶器でできた招き猫型貯金箱にほとんど納められているし、お年玉の類《たぐ》いは郵便局に貯蓄《ちょちく》されている。彼女の見た目だけはそれなりに立派な革財布の中には、お守り代わりに入れている穴の開いていない五円玉と百円玉数枚しか金銭的価値のある物は入っていない。後はおみくじに外れ舟券、外れ馬券などの彼女にとっては大事な、他人にとってはごみのような物しか入っていない。たとえ金を持っていたとしても、夕食が食べられなくなるので買い食いはしないが。
だから比呂緒《ひろお》は、少年と共に入ったそのファーストフード店で百五十円のコーンポタージュスープだけを頼んだ。財布から小銭をぶちまけようとしたら、彼が奢《おご》ってくれた。奮ってくれるなら最初から言ってくれればいいのに、と比呂緒は思っただけで口には出さなかった。抜けてはいるが、こういうところではわきまえている箇所《かしょ》もあったりする比呂緒である。
(……何でこんなことになったんだろうなあ……)
目の前に座っている仏頂面《ぶっちょうづら》の少年を見ながら、比呂緒はぼんやりとここに至るまでの成り行きを思い返していた。
何なんだろう、と比呂緒は思った。階段を上ってくる男の子は銃《じゅう》を持っていて、それを自分に向けている。世の中にはBB弾で撃《う》ち合う遊びがあるらしいが、いつの間にか自分は彼と遊びを始めていたのだろうか。
(……ってことは、あたしも銃をあの子に向けないといけないのかなあ)
比呂緒は腰のベルトに差し直していたアストラM44[#「44」は縦中横]を取り出すため、階段の縁《へり》を掴《つか》んでいた左手を持ち上げようとした。
(駄目《だめ》だ、比呂緒、動くな!)
ハンニバルの声、少年の構えている銃口から噴き出した青白い閃光《せんこう》、かんしゃく玉が破裂《はれつ》したような乾いた音。同時に起きた三つの音と光を比呂緒が認識《にんしき》した時には、今度は左手がうまく動かなくなっていた。
「……あれ」
左足と同じだ。全然痛くないし、痺《しび》れたわけでもないのに動いてくれない。正確には左肘《ひだりひじ》から先を動かすことができなくなっていた。比呂緒は緩慢《かんまん》な動作で少年から顔を逸《そ》らし、自分の左腕を見る。目を凝《こ》らすと肘の先から左足と同じように透明な液体が出ているような気がした。
「……うーん、痛くないのに、動かない……っと」
こめかみに硬く熱い物が押し付けられる感触があった。視線を下に落とすと、底の厚い頑丈《がんじょう》そうな靴が見える。誰かがいるのはわかるが、比呂緒の視界には足しか入ってこない。首を動かそうとしたが、こめかみに当てられた物がさらに強く食い込んでそれを阻止《そし》する。
ごり、と骨が音を立てたような気がした。
「札《ふだ》を出せ」
自分の横から、誰《だれ》かの声がかけられた。先ほど階段を上っていたあの少年なのだろう。自分と年の変わらない男の子の声……なのだが、ずいぶんと低く掠《かす》れていた。風邪《かぜ》でもひいているのかなあと思いながら、比呂緒《ひろお》は彼が発した言葉の意味について考える。
「ふだ……今年の正月に引いた吉のおみくじなら財布の中に入ってるけど」
こめかみから硬い物が離れたかと思うと、耳元でばぁんという音が炸裂《さくれつ》して比呂緒の鼓膜《こまく》を震わせた。その耳の中にまたも硬い、だが先ほどよりさらに高い熱を持った太い棒が入り込んできた。耳たぶの産毛《うぶげ》が焦《こ》げるような痛みに、比呂緒は眉《まゆ》をしかめる。
「……熱いなあ」
「札《ふだ》を出せ、と言っている」
何だか、話が噛《か》み合ってないような気がする。比呂緒は耳の痛みに耐えながらくらくらしている頭を回転させようとした。とにかく、この男の子が『ふだ』という物を自分に要求しているのはわかる。
ふだ、というのは何なんだろう。真剣に考えてみたが、それに当てはまりそうな物はおみくじくらいしか思いつかない。だが、どうもおみくじのことではないらしいし。
だから、素直に聞いてみることにした。
「ふだって何?」と。
返答はなかなか返ってこなかった。その間もやはり耳の中にある物は突っ込まれたままでとても痛くて熱い。その熱さがちょうどいい加減に冷えて「あったかいなあ」と比呂緒が感じられるころになってから、ようやく耳元から離れていった。
「……ああ、痛かった……」
耳を押さえるために右手を持ち上げようとした途端、少年の足が動いて手の甲を踏まれた。靴底の滑り止めが跡《あと》を刻む。
「……痛いなあ」
おめでたい比呂緒とはいえ、いじめられて嬉《うれ》しいと感じるほどにはおめでたくできていない。地面と足に挟《はさ》まれた自分の手を寂しく見つめてから、比呂緒は少年を見上げた。自分と同じ年と思っていたが、比呂緒が知っているクラスの男子たちとはどこか雰囲気《ふんいき》が違うような気がした。
自分を見下ろすその少年の瞳《ひとみ》は、忘れっぽい比呂緒でさえ一度見たら忘れられないほどの異彩を放っていた。食卓に上がる鰺《あじ》の開きのようにどんよりとして、いくら餌《えさ》をやっても懐《なつ》くことなくこの世を去った縞太郎《しまたろう》という猫のように鋭く、水族館で見たオオサンショウウオのように何を考えているのか察するのが難しい。
自分に向けられるその視線をぼーっと見返していると、彼はすぐに目を逸《そ》らした。勝ったな、と比呂緒は思ったが、ガンつけに勝ってもこの手の上にある足をどけてもらわなければ現状は何ら好転《こうてん》しない。
「……痛いんだけど、足どけてくれない?」
「その猫は、お前のファミリアか?」
懇願《こんがん》を疑問で返されてしまった。とりあえず比呂緒《ひろお》は首を巡らせてハンニバルを探す。
「ハルさーん……」
左手の側にじっと蹲《うずくま》っていたハンニバルが、比呂緒の呼びかけに応《こた》えてそろそろと動き出した。金色の瞳《ひとみ》が、じっと少年を見据《みす》えている。
(……状況を説明する前に、まずは私の主に治療の時間を与えてくれないだろうか、スナイパー。もうしばらくしたら止まるだろうが、残滓《ざんし》が入り込むかもしれない)
少年はしばらくハンニバルを見下ろしていた。その間、やっぱり比呂緒の右手は踏まれたままで、眉間《みけん》には銃口《じゅうこう》が向けられている。ああ、自分の耳に突っ込まれてたのはあれかあ、と比呂緒は今さらのようにそれを見つめた。
銃のことをよく知らない比呂緒にも、それが自分の腰にあるアストラM44[#「44」は縦中横]とはだいぶシルエットが違うことがわかる。アストラM44[#「44」は縦中横]の半分ほどの全長に、鉛色《なまりいろ》の銃身と黒い直線的なグリップ。全体的に厚みのないその銃には、長い銃身や回転する弾倉《だんそう》は存在しない。
「……今から右手を解放する。ゆっくりと腰の物を抜いて地面に置け。トリガーには指をかけるな」
『スナイパー』と呼ばれた少年の視線はハンニバルに向けられたままだったため、比呂緒は右手の上から彼の足がどけられるまでその言葉が自分に向けられているものだとわからなかった。
「あー、痛かった……」
久しぶりに見た右手の甲にはくっきりと靴底による土色の模様がつけられている。汚れを拭《ふ》きたいが、ハンカチで拭いたらハンカチが汚れてしまう。さてどうしよう。そんなことを考えていると、少年の足が今度は左手を踏んだ。今度はただ真上から踏むだけではなく、体重をかけてにじられる。
「……いったあ……」
「ゆっくりやれとは言ったが、緩慢《かんまん》に動けとは言っていない」
ゆっくりと緩慢は同じ意味ではないのだろうか。そのニュアンスの違いを察することができない比呂緒だったが、彼の言うことを聞かないといじめられることだけはよくわかった。いじめられるのは好きではない。いじめられるから言うことを聞くのも好きではないが。
「腰の物って、このモデルガンのこと?」
比呂緒の言葉に、少年の目がすっと細くなる。
「……モデルガン?」
「モデルガン。何か名前があるけど。……ア、アトラスだっけ」
(アストラM44[#「44」は縦中横]・アルケブス・カスタム)
ハンニバルが口を挟《はさ》んだ。
「そうそう、そんな名前らしい」
黙り込んでしまった少年を尻目《しりめ》に、比呂緒はゆっくりとベルトに差していたアストラM44[#「44」は縦中横]を抜いた。言われた通りに地面に置いて、少年を見上げる。比呂緒《ひろお》はこの時、彼の肩に乗っていた烏《からす》がいつの間にかいなくなっていることに気が付いた。
「烏がいないなあ……」
ぼそりと呟《つぶや》いた比呂緒を無視して、少年は銃口《じゅうこう》と視線をまったく動かさずにアストラM44[#「44」は縦中横]に手を伸ばした。
「………………」
だがグリップに指先が触れると同時に、彼はすぐに手を引っ込めてしまう。その時一瞬だけ少年の眉が顰《しか》められたが、比呂緒が気付く前に眉は元の位置に収まっていた。
(あまり気軽に触らない方がいい、スナイパー。少々重い代物《しろもの》だ)
ハンニバルが比呂緒の肘先《ひじさき》に額《ひたい》を擦《こす》りつけながら淡々と言った。もし比呂緒がその姿を見たら、「ハルさん可愛《かわい》いな」とか言いながら手を伸ばしただろうが、比呂緒は彼女を見ておらず、肘にはその感触が伝わっていない。
「……お前は、あのハンニバルか」
(たぶん、君の言うハンニバルだろうな)
比呂緒の足元に移動すると、ハンニバルはそのふくらはぎに頭を擦りつける。それを見ていた少年の銃口がやっと比呂緒から逸《そ》らされた。銃をコートの中にしまいこんだ彼が再び視線を比呂緒に向けると、彼女はハンニバルに触《さわ》ろうと悪戦苦闘していた。
「うーん、どうしてハルさんはあたしに触れるのに、あたしはハルさんに触れないんだろう。悲しいなあ。……でも、そうしてるとハルさんはやっぱり可愛いなあ。ところでこちらの人はハルさんを知ってるみたいだけど、ハルさんの知り合い?」
(……これから知り合いになるだろうな)
ハンニバルの口が妙な形に歪《ゆが》んだ。それがこの猫の『笑み』であることに、比呂緒はしばらく気が付かなかった。
「お前が本体で、この馬鹿《ばか》は依《よ》り代《しろ》か」
(いや、彼女は間違いなく私の主だ。……私の主を愚《おろ》かであることを認めるのは本意ではないが、多少抜けていることは事実だろうな)
「……馬鹿な素人《しろうと》に火薬を持たせて悦《えつ》に入《い》るのは趣味がよくない、魂《たましい》を喰《く》らう猫」
(馬鹿か素人でなければ、私の飼い主になってくれなくてね。君のように頭のいい玄人《くろうと》は、私に近付いてさえくれない)
「お前とお前の主がどうなろうと、俺《おれ》の知ったことじゃない。だが免許不所持に領域侵犯《りょういきしんぱん》は馬鹿だろうと素人だろうと見逃せない」
(そう言うな、スナイパー。月に還《かえ》れない仔猫《こねこ》と猫に憑《つ》かれた悲しい子供を哀《あわ》れんではくれないかな)
「……馬鹿馬鹿しい」
なおも続くハンニバルと少年の会話を、比呂緒《ひろお》も聞いてはいた。ただ理解できなかっただけである。免許と馬鹿《ばか》と月について話していた気はするが、その合い間に混じるステルスだのリゾルバーだのコーティングだのという聞き慣れない単語を、比呂緒は右耳から左耳に流していた。
そんな二人の会話を側《そば》で聞いていた比呂緒だが、いい加減父からのプレゼントを地面に起きっぱなしにしているのは気がひける。
「ねえ、これ拾っても手ぇ踏まない?」
ハンニバルと言葉のやり取りをしていた少年は、返事をするのも面倒だったようで横柄《おうへい》に頷《うなず》くだけだった。
「ありがとう」
ありがたくも何ともないが、いじめられないのは結構な話だ。比呂緒はアストラM44[#「44」は縦中横]を拾うと、少し汚れたその銃身《じゅうしん》を掌《てのひら》で大雑把《おおざっぱ》に拭《ふ》いてからベルトに差してコートで隠す。
「銃を手で拭くな。ホルスターはないのか」
その言葉をハンニバルに向けられたものと思っていた比呂緒は、すっかり汚れてしまった両手をどうしようかと考えていた。ハンカチで拭いたらハンカチが汚れるし、服の裾《すそ》で拭いたら服が汚れる。ティッシュはあるが、あと三枚しかなかったような気がする。いざという時になかったら、困ってしまう。
と、唐突《とうとつ》に『いざ』という時がやってきた。ずっと冷たい地面に座り込んでいたせいか、寒気がつま先からやってきて比呂緒の全身を駆け巡る。
「くしっ」
幼馴染《おさななじ》み曰《いわ》く『赤ちゃんみたいなくしゃみ』を一つすると、比呂緒はなるべく服を汚さないようにポケットからティッシュを取り出して片鼻ずつ丁寧《ていねい》に鼻をかんだ。大して鼻水が出なかったため、もう一回くらい鼻がかめそうなそのティッシュを比呂緒はまたポケットにしまいこんだ。
「……汚いな」
少年の呟《つぶや》きを、比呂緒はちゃんと聞いていた。
「おっちゃんによく言われる。でも、その辺りに捨てるのは嫌だし」
「専用のビニール袋でも持ち歩け」
「頭いいなあ。今度からそうする……あ、手と足動くようになってる。よかったよかった」
濡《ぬ》れた跡もいつの間にやら消えている。何だかよくわからないが、たいした怪我《けが》ではなかったらしい。肘《ひじ》やふくらはぎを右手でぽんぽんと叩《たた》いてみても、別に異状はなさそうだ。
「うーん、さっき動かなかったのは気のせいかな?……あ、でも左足はまだあやふやな感じがする」
ズボンの裾をめくり上げてふくらはぎを撫《な》でさする比呂緒を見下ろしながら、少年は吐き捨てるように呟《つぶや》いた。
「……お前の主は相当おめでたいな」
少年の表情に変わりはなかったが、声には若干《じゃっかん》の蔑《さげす》みが混じっていた。
(無知なだけだ。……ある意味罪深いが。だが、君にまとわりついている残滓《ざんし》もかなり罪深い気がするな。……罪に裁きも赦《ゆる》しも必要ないと思うが、君の心に少しでも感じ入る箇所《かしょ》があったなら……)
「俺に、何を期待している」
ハンニバルも比呂緒《ひろお》も見ずに、少年はギターケースを担《かつ》ぎ直す。
「どんな好事家《こうずか》の手を渡り歩いてきたかは知らないが、お前の悪運もここで終わる。この馬鹿《ばか》も霊髄《れいずい》に処置を施されて終わる。それだけだ」
(違うな、少年)
猫の瞳《ひとみ》が微妙な虹彩《こうさい》を放つ。彼の心を見透《みす》かそうとするかのように、細い三日月の瞳が満ちて丸い円を作った。
(君はより多くの魂を月に還《かえ》すために、|吼え猛る狼《ハウリング・ウルフ》≠ノさえも挑もうとする人間のはずだ。君の目の前にいる悪霊《あくりょう》の目≠ニ一人の馬鹿は、大変利用しがいがあると思うが)
……その通りだな、と三嶋蒼儀《みしまそうぎ》は鉄面皮《てつめんぴ》の下で考えていた。この魂《たましい》を喰《く》らう猫は明らかに取り引きを持ちかけている。経験が裏打ちする自信、猫ごときに負けてたまるかという気概《きがい》、馬鹿に対する蔑みの念から生まれる打算、自分のエーテルが削られることのない安心感。蒼儀の内心の動きを、この老獪《ろうかい》な猫は見抜いている。
恐ろしい猫だ。つい、一度はしまったはずのリゾルバーM380のグリップに手を伸ばしたくなる。そうしなかったのは、蒼儀が自分の実力を正しく理解していたからだ。
蒼儀が得意とするのは、ライフルによる中距離もしくは遠距離からの狙撃《そげき》。動き続ける標的が隙《すき》を見せるまで根気よく待ち、一発、もしくは二発で仕留《しと》める。それが彷徨える羊《ストレンジ・シープ》≠月に還《かえ》してきた第二種霊葬免許所持者、三嶋蒼儀のスタイル。
拳銃《けんじゅう》の取り扱いもそれなりに慣れてはいるが、熟練の域にはほど遠い。銃を抜いて照準を合わせている間に、猫は主の影に隠れてしまうだろう。この猫は抜け目がない。常に主を盾《たて》にして、銃口が直接自分に向かないようにしている。たとえ当たったとしても、9mm[#「mm」は縦中横]×17[#「17」は縦中横]減装弾九発では、この猫の魂を拡散させることは到底できはしまい。その程度で月に還ることができるなら、とうの昔にこの猫は逝《い》っていたはずだ。
ことなかれ主義の連中、円環原理主義者、命知らずの好事家、名声と力への近道を手に入れようとした同業者。多くの人間の手を渡り歩いてきたこの猫と、蒼儀は関《かか》わり合いたくなかった。あの店にハンニバルが存在することは風の噂《うわさ》で聞いていたが、触らぬ猫に祟《たた》りなし。そう思って、気にも留めていなかった。
それが何の因果でこんなことになったのか。
「んあー」
馬鹿《ばか》が意味のない声をあげながら、左足の具合を確かめている。猫が表皮を繕《つくろ》って処置したのでエーテルの流出は止まっているが、少し仙骨《せんこつ》が抉《えぐ》れてしまったようだ。後遺症はないだろうが、元通りになるまで一週間ほどかかるだろう。その間に雑多な思念《しねん》が仙骨の中に入ると厄介なことになるが、加害者の立場にいる蒼儀《そうぎ》は被害者であるこの馬鹿に対して責任を取る気などさらさらなかった。
だが。
「うーん、やっぱり変な感じがするなあ」
馬鹿は盛んに蒼儀が撃《う》った場所を撫《な》でさすっている。この馬鹿には自分の傷口がよく見えていないらしい。もう少し霊髄《れいずい》の巡りがよく六識《ろくしき》を解放することができていれば、彼女の目には鮮紅色《せんこうしょく》をした己《おのれ》の仙骨の表面が一・五ミリほど削れているのが見えただろう。
綺麗《きれい》な仙骨だった。鮮やかなその赤い骨の表面には、古傷らしい抉れがいくつかある。そういう痕《あと》はたいてい黒く引き攣《つ》れてしまうはずなのに、馬鹿の傷痕はそれさえも健康的な赤い輝きを放っていた。仙骨の中を走る魂の血髄《エーテル》が、時おり骨の表面から滲《にじ》み出るほど溢《あふ》れており、その指先に至るまで漲《みなぎ》らせている。
蒼儀は一度目を閉じて、解放していた六識を収束した。あまりにひどい仙骨は見るに堪《た》えないが、その反対も多くの人と羊≠見てきた蒼儀にはつらいものがあった。
ただ霊髄が回っているだけでは、彼女は自分の同類たりえない。骨の中にある骨髄《こつずい》、骨髄の中を走る魂の血髄、そのエーテルの被膜《ひまく》である仙骨。骨髄と仙骨を比べれば、普通の人間は骨髄の方が太い。骨髄の中に仙骨があるのが、一般的だ。
だが、この馬鹿は仙骨の方が太い。44[#「44」は縦中横]マグナムを片手撃ちするという無茶なことをしてるくせに、腕の跳《は》ね上がりがほとんどなかった。少し後退しただけで平気な顔をしていたところを見ると、腕への反動もきついとは感じていないらしい。仙骨がとてつもなく頑丈《がんじょう》にできている。
そして、仙骨の中を走るエーテルの密度がかなり高い。この馬鹿はところどころエーテルが抜けているが、それを補って余りあるほど凝縮《ぎょうしゅく》された密度を持っている。流れ出したエーテルが空気中に拡散せず、肉や骨にまとわりついていたのがその証拠である。エーテルが薄い人間は、少し仙骨が傷付いただけで水のように魂《たましい》が流れ出し死んでしまうものだ。
霊髄の回り始め、仙骨の太さ、エーテルの密度。
この馬鹿は、素質だけは恐ろしいほどに満ち溢れていた。
魂を喰《く》らう猫に、喰らい尽くされないかもしれないと思わせるほどに。
その上、アストラM44[#「44」は縦中横]・アルケブス・カスタムとの相性もかなりいいようだ。馬鹿がトリガーを引いた時のマズルフラッシュは、この口径の銃弾にしてはかなり小さかった。弾《たま》そのものとの同調率は低い。他人がマテリアライズした弾ならば、当然だ。いくら当人のエーテルが優《すぐ》れていていようとも、弾《たま》が他人の物ではハンマーが弾丸に正しく力を伝達してくれない。下手《へた》をすると、弾が一メートルも飛ばない場合がある。
それなのに、馬鹿《ばか》が撃《う》った弾丸は十分な速度で飛んでいき、核を貫いて羊≠拡散させた。多少の同調率の低さなど、この馬鹿はものともしないというわけだ。狙《ねら》いもせずに初めて撃った弾が、核を撃ち抜く確率など0を数えるのが面倒になるほどの低さだ。とんでもない強運の持ち主である。
今まで何人もの同業者を見てきたが、その中にはこれほどの逸材《いつざい》はいなかった。確かに猫の言う通り、うまく利用できれば結構な利益を自分にもたらしてくれる可能性はかなり高い。
しかしこの馬鹿には、足りない物も多かった。霊髄《れいずい》の回りがまだ十分ではないため、六識《ろくしき》がほとんど働いていないこと。アルケブスが何のためにこの世に存在するのか、そして、それを使う者の心構えをまるでわかっていないこと。アルケブスの取り扱い全般に関する技術と知識がないこと。付属品を買う財力が望めないこと。
それらは、時間と根気と金をかければどうにでもなることだ。だが、どうしようもないことが二つある。
一つは、このハンニバルの存在が常につきまとうこと。ハンニバル自体は、悪意の塊《かたまり》では決してない。はた迷惑な主張を声高《こわだか》に叫ぶ円環原理主義者でもなければ、人の魂《たましい》を喰《く》い荒らす恐るべき吼《ほ》え猛《たけ》る狼≠ナもない。
ただ主の魂に寄生して、主を衰弱死させるだけだ。それなりのエーテルを持たない者は、すぐに死んでしまう。こうしてハンニバルが六識で認識できる実体を伴って活動しているのは、馬鹿のエーテルに現在進行形で寄生している証明でもある。
そしてハンニバルが疎《うと》まれ、また渇望《かつぼう》される原因である悪霊《あくりょう》の目=B蒼儀《そうぎ》自身に災いをもたらすものではないので、どうでもいいといえばどうでもいい。困るのは、この馬鹿だけだ。
まあこの馬鹿が正しくその力を伸ばせば、ハンニバルさえものともしない強固な魂の持ち主になれるかもしれない。
しかし……。
「ねえねえ、ハルさん。ホルスターって、馬だっけ牛だっけ」
(……君がいいたいのはホルスタインのことか? ホルスターというのは、銃を携帯《けいたい》するためのケースのことだ。肩や腰に着けるのが一般的だ。君のようにベルトに差すなどという携帯のしかたは、かなり間違っている)
「ふーん……でもベルトに差す以外に、どーしよーもないし。手でずーっと持ってたらそれはそれで重いしさあ、ご近所さんに『また江藤《えとう》さんちの大きい方の娘が変なことやってる』とか言われてふーちゃんが怒るし」
馬鹿は、ひどく無造作《むぞうさ》に右手でアストラM44[#「44」は縦中横]を抜いた。手の大きさは年相応に見えるが、不思議なことに手に余っているはずのグリップはちゃんと握られている。
「でさ、ハルさん。これはモデルガンじゃないわけ? 何か音が出るけど、空気銃《くうきじゅう》? ところで空気銃って、空気を撃《う》つんだっけ」
(モデルガンでもなければ、空気銃でもない。もちろん本物、というわけではない。ある意味、本物以上に殺傷力《さっしょうりょく》のある銃、アルケブスだ)
「アルケブスねえ……デシンセイと同じくらい不思議な名前だね」
馬鹿《ばか》だ。どうしようもない馬鹿だ。この目の前の現実に対処しようという気がまるでない。普通の人間なら驚き、慌《あわ》てて、事情がわかりそうな者に説明を求めるくらいのことはするだろう。だが、この馬鹿は何もしない。
ハンニバルの言う通りに銃を撃《う》ち、知人に起こった怪異《かいい》をあっさりと受け入れ、見ず知らずの他人に撃たれて、ただ平然とその状況を受け入れている。
流されているだけだ。状況を知るための努力をしていない。知る努力をしない者は愚《おろ》か者《もの》だ。
……だが、ある意味非常に扱い易《やす》いともいえる。
だから、三嶋蒼儀《みしまそうぎ》は決断した。
悪霊《あくりょう》を引き寄せ、人の魂《たましい》を喰《く》らうハンニバルと、そのハンニバルに憑《つ》かれた愚かにして最上級の逸材に、投資≠しようと。
善意でも同情でも哀れみでもない。この馬鹿がハンニバルを凌駕《りょうが》する魂魄《こんぱく》を持てば死ぬことはないし、死んだところで蒼儀には関係ない。金と根気を注《つ》ぎこんで、免許を取らせれば後はどうとでもなる。
猫と会わなければ、ただの馬鹿として生きていけただろうに。
あの時。あの店をモデルガン屋だと間違えたあの男が、アストラを買わなければ。店主が折れてアストラを売らなければ。
……もし、自分がずっとあの場にいたら、店主はきっとアストラを売らなかっただろう。素人《しろうと》にアルケブスを売りつけるのは、重罪ではないが一応法律にひっかかる。
自分が『もし』などということを考えているのに、蒼儀は内心で笑った。もしこうだったら。あの時こうしていれば。そんなことをいちいち後悔していたら、エーテルがいくらあっても足りない。
「猫」
声をかけると、ハンニバルは口を大きく歪《ゆが》めて笑った。その笑う猫を、馬鹿は撫《な》でくり回そうと無駄《むだ》な努力ばかりしている。
「おい、馬鹿」
「はーい、馬鹿です。……でも初対面の人に馬鹿って呼ばれるのは寂しいなあ。江藤比呂緒《えとうひろお》って名前があるんだから、できればそっちで呼んでほしいな。ちなみにパパやママやおっちゃんはヒロって呼ぶよ。で、あなたの名前は?」
全然寂しそうな顔などせず、へらへらした笑いを浮かべるその馬鹿面《ばかづら》に苛立《いらだ》ちを覚えながらも、蒼儀《そうぎ》は静かに名乗った。
「三嶋《みしま》」
「じゃあ、みっちゃんだね」
「三嶋と呼べ」
「つまらないなあ……」
蒼儀はリゾルバーを抜いてまた比呂緒《ひろお》の眉間《みけん》に向けた。
「ふざけた呼び方をしたら、霊髄《れいずい》をぶち抜く」
「それは、痛いのかなあ」
本当に試してやろうか。唇《くちびる》を噛《か》み締めた蒼儀だったが、ハンニバルから向けられる視線を受けて、自分がずいぶんと大人気《おとなげ》ないことをしていることに気が付いた。
生きた人間に対してこんなに腹が立ったのは、本当に久しぶりのことだった。
蒼儀は、自分の力量がどの程度か正しく理解している。業界では中堅よりやや上のランクに位置し、同年代の同業者ではトップにいる自信がある。もっとも同年代の同業者は日本にはそう多くないので、あまり自慢できることでもないが。
もう人に教わることはない、と自分では思っていた。基本的なことを教わったら、後は南≠フどこかに放《ほう》り出されて無理やり経験を積まされる。後はその経験を仕事に活かし、現場で成長を促す。それが三嶋家のルールだ。
そうやって鍛《きた》えられるからこそ、三嶋一家は新参《しんざん》だが信頼と高名を勝ち取ってきた。しかし、三嶋のルールをこの江藤《えとう》比呂緒という馬鹿《ばか》に押し付けるわけにもいかない。金と時間がかかるのもさることながら、何よりリスクが高すぎる。経験を積む前に死んでしまう可能性の方が高い。せっかく投資しようと決めたのだから、少なくとも投資金額を回収するまでは死んでもらっては困る。
まずは初歩の初歩から説明してやらねばなるまい。そう思った蒼儀だが、何から言えばいいのか少し迷った。教わった内容はしっかりと骨身に刻み込まれていても、教わり方までは覚えていない。
少々の迷いの末、蒼儀が比呂緒に言った言葉はこうだった。
「お前は、人が死んだらどこに逝《い》くか知っているか」
それなりに繁盛しているファーストフード店の一角で、手元にあるコーヒーに手も付けず蒼儀は比呂緒に言った。比呂緒はテーブルの片隅《かたすみ》に座っているハンニバルの頭を右手で撫《な》でながら、左手はスープの容器に触れている。
「冥土《めいど》」
比呂緒は一言で答えた。何をこの人は聞いているんだろう。冥土以外のどこに、死んだ祖父や祖母がいるというのか。
祖父のことは覚えていないが、祖母のことはちゃんと覚えている。死に化粧を施した祖母の顔は恐ろしいほど白く、唇《くちびる》だけが赤かった。仮通夜《かりつや》の時、父母が「もう寝なさい」と言うのも聞かずにずっと祖母の横に座り、線香を絶やさないようにした。それは、比呂緒《ひろお》の脳裏《のうり》に深く焼き付いている古い記憶。
薄暗い部屋の中で、魔物《まもの》を抱えて死者と一夜を共にした記憶。
猫は魔物、と口癖《くちぐせ》のように祖母は言っていた。猫が死人を跨《また》ぐと、その人が動き出す。猫が跨がないように、そして冥土《めいど》に行く途中の苦難から身を守るために、死者の上には短刀を置いておくこと。『うちには刀なんかないから、包丁を代わりにするのかなあ』と比呂緒は思っていたが、祖母はちゃんと短刀を持っていた。葬儀屋《そうぎや》が用意してくれる物らしい。
どうして短刀を置くと猫が飛び越えないのか、生きている間に祖母に聞いてみたがどうにも要領《ようりょう》を得ない回答だった気がする。
わからなかったから、試してみたかった。
この短刀をどかして、猫を飛び越えさせたら、祖母は生き返るのだろうか。
短くなっていく線香から視線を祖母に移した比呂緒は、傍《かたわ》らにいた猫を抱き上げた。
『比呂緒、もしあたしが死んでも猫に棺《ひつぎ》を跨がせちゃいけないよ。死んだ人は、起こしちゃあいけない。寝かしたままにしときなさい。そんなことしたら、怒るからね』
……その言葉がなかったら、きっと自分は猫に無理やり棺を飛び越えさせたと思う。祖母は普段《ふだん》は温厚だが、一度怒り出すと手がつけられないくらいに狂暴《きょうぼう》だった。父や母も手を焼くほどだったが、比呂緒は平気だった。それでも怒らせないように努力をしたのは、『怒ると寿命が縮む』と口癖のように言っていたから。
怒らせなかったら、祖母はまだ生きていたのだろうか。
(……君は何を泣いている?)
唐突《とうとつ》にハンニバルに声をかけられて、比呂緒は物思いから帰ってきた。
「え、泣いてないよ……」
そう答えようとして、自分の頬《ほお》が湿《しめ》っぽいことに気が付く。視界はどことなく霞《かす》んでいるし、鼻の奥が熱い。
「あ、ほんとだ。何で泣いてるんだろ」
涙を拭《ぬぐ》うために手を挙げた時、ただ冷ややかにその様子を見ていた蒼儀《そうぎ》が声を出した。
「顔はともかく、目は拭《ふ》くな。視力が落ちる」
現実を知覚する五感と、霊的な世界を知覚する六識《ろくしき》。両者に密接な関《かか》わりはあまりないとされている半面、五感が鈍ると六識も鈍る≠ニ語る者も多い。どちらが正しいかは証明されていないが、蒼儀《そうぎ》は後者の意見の信奉者《しんぽうしゃ》だった。
「そうなんだ。それは大変だあ」
視力の高さは、比呂緒《ひろお》が自慢できる数少ない長所の一つだ。それが減るのは少し寂しい。だから彼女は素直に目を拭《ふ》くのをやめ、頬《ほお》だけをテーブルの上にあるナプキンで拭いた。
「冥土《めいど》はどこにあるか、知っているか」
目を瞬《しばたた》かせている比呂緒から一度目を逸《そ》らすと、蒼儀は壁に立て掛けてあるギターケースに触れる。
「さあ、どこだろうね? 地面の下か空の上かどっちかだと思う」
比呂緒が読んだ童話や神話では、大抵《たいてい》そのどちらかだ。天国と地獄《じごく》というのは、比呂緒はあまり信じたくない。天国はまだいいが、地獄は嫌だ。でも天国と地獄はワンセットみたいだから、天国があったら地獄もあるということなのだろう。なら、冥土≠ニいう言葉で一くくりにしてしまいたい。
「肉は土に、魂《たましい》は月に還《かえ》る」
「ふーん。そうなんだ。知らなかった」
カップに入ったスープを啜《すす》る比呂緒のあっさりとした返答に、蒼儀は自分が苛々《いらいら》してきているのをまざまざと感じた。否定もしなければ疑問も差し挟《はさ》まない、ただ受け入れる。こいつに『火星には兎《うさぎ》が住んでいて、夜な夜なモノリスを中心にフォークダンスを踊っている』と言っても、『そうなんだ、知らなかった』と返ってきそうだ。
年の割には落ち着いているという自負《じふ》はあったが、どうやらそうでもないらしい。心の中で自身を嘲笑《あざわら》っていると、ハンニバルがどこか自分に同情するような目で見ているような気がした。
(やりにくいかな?)
「そう思うなら、お前がこの馬鹿《ばか》に理解させてくれ」
薄汚れた仔猫《こねこ》は、比呂緒に撫《な》でられながら首を傾《かし》げる。
(残念ながら、私はこの国には疎《うと》い。というより、北半球に戻ってきたのは久し振りだ。こちらは色々と法制化が進んでいるらしいな)
……どうやら、この猫にも色々と知ってもらう必要があるようだ。どうにも、困った連中と知り合ってしまった。乗りかかった船は、今にも沈みそうな船らしい。素材が泥《どろ》でないことが救いといえば救いだが。
とりあえず比呂緒に向き直ると、彼女はハンニバルを楽しそうに眺《なが》めている。
こうなったら理解できようとできまいと、一方的に説明してやろう。自分が半ばやけっぱちになっていることを蒼儀は自覚したが、もう『どうにでもなれ』という気分だ。
「……魂は月に還る。だが、中には月に還れない魂もある」
「幽霊《ゆうれい》?」
「そういう言い方をしてもいい。肉体が死ぬと仙骨《せんこつ》が溶けてエーテルが流出していく。肉体から離れたエーテルは、既《すで》に魂《たましい》たりえることはない。エーテルの残骸《ざんがい》のことを、霊的物質《エクトプラズム》という。普通は、そのまま放《ほう》っておいていい。自然に月に逝《い》く。だが、その霊的物質の中に、魂の血髄《けつずい》が残っていて、しかもそれがこの世に執着《しゅうちゃく》があった場合困ったことになる。そのエーテルを核にして霊的物質はその存在を大きくしていく。これが一般的には幽霊と称されるもの。俺たちは彷徨《さまよ》える羊――ストレンジ・シープと呼ぶ。羊の風土病と同名だが、別に関係はない」
一気にそこまで言うと、蒼儀《そうぎ》は一度言葉を切って比呂緒《ひろお》の反応を見た。……相変わらずぼーっとしているようにしか見えないが、少しは理解しようとしているのだろうか。時間を取るため、蒼儀は今まで手をつけていなかったコーヒーをゆっくりと引き寄せ、一口飲んだ。
「あ」
何か聞きたいことでもできたのか。そう思って蒼儀はコーヒーから口を離したが、比呂緒の口から出た言葉は彼の期待していることとはまるで違っていた。
「よく砂糖もミルクも入れないでコーヒー飲めるね。苦いのに」
それがどうした。
「お前は、俺《おれ》が今言ったことがどういうことかわかったのか?」
比呂緒は困ったような顔をしてからハンニバルを見た。テーブルの上に蹲《うずくま》った猫は一度は主の視線を受け止めたが、すぐに顔を背《そむ》けてしまう。
(人の話は聞いた方がいい。そしてその話が意味するところを自ら理解する努力をしなければ、君はいつまで経《た》っても馬鹿《ばか》のままだぞ?)
「まあ馬鹿は死んでも治らないっていうし。でも馬鹿は馬鹿なりに努力しろってふーちゃんがいつも言ってるから、一応努力してるよ? ……えーと三嶋《みしま》さんが言いたいのは、幽霊のことを羊さんと呼ぶってことでいいかな?」
自分の意図したところの半分も伝わらなかったという事実に、蒼儀はうんざりした。だが、そんな内心を彼は表情に出さない。他者に自分の心情を悟《さと》らせないこと。それは彼にとっては大変重要なことだった。
だが馬鹿はともかく猫の方は、蒼儀の苛立《いらだ》ちに気が付いたようだ。
(……君も意外と忍耐力がないな。これくらいのことでしびれを切らすようでは、狙撃手《そげきしゅ》としては大成《たいせい》しないぞ)
「俺の忍耐力のなさより、この馬鹿の思考能力のなさを嘆《なげ》け」
(彼女に期待するより、君に期待した方がまだ希望が持てるというものだ)
「そーだね、あたしに何かを期待するくらいなら、猫の手を借りた方がまだましだと思うよ。猫の手って意外と役に立つのよね。ハルさんの手はすけすけだから、ちょっと借りられないけど」
「……羊は、迷惑な存在だ。生きた人間のエーテルにしがみつこうとする」
このままでは埒《らち》があかない。とにかく当初の予定通り、説明を続けることにした蒼儀《そうぎ》であった。
「羊がしがみつくと、体内のエーテルバランスが崩れる。魂《たましい》の乱れは肉体の乱れに繋《つな》がり、身体《からだ》に悪影響を及ぼす。軽い場合は頭痛や腹痛、眩暈《めまい》や吐《は》き気《け》、重い場合は死に至る。それが困ったことだ、ということはお前にもわかるな」
自分は、難しいことを言っているだろうか。蒼儀は考える。難しいわけではない、と思う。ただ肉を感じることしかできない人間には理解しがたい内容であるだけだ。
人は肉のみでは生きていけないが、肉のみを見て生きていくことができる。魂は、ただそこにあり、流れているだけでいい。
常人にエーテルの仕組みを説明すると、たいてい『それは嘘《うそ》だ』と否定される。見えないのだからしかたがない。そのことに対して、蒼儀は理解を求めたりはしない。
だが。
「ああ、羊さんと人は相性がよくないわけで。怪談《かいだん》とかであるあれかな? 取り殺されるとかいう奴《やつ》。……ああ!」
(どうした、大きな声を出して)
「取り殺されるとトリコロールは似てるなあって。ところでトリコロールって何? 漁《りょう》のしかただっけ」
(……それはトローリングだ)
彼女は何も否定しない。霊髄《れいずい》が回っているとはいえ六識《ろくしき》が閉じている今、彼女には羊を見ることもエーテルの存在を感じることもおぼろげにしかできない。素質はあるが、まだ常人の域だ。なのに彼女はあっさりと、蒼儀の言うことを疑いもせずに受容する。
江藤比呂緒《えとうひろお》という人間は、本当にこのままでいいのだろうか。頭の中をよぎったその思いを、すぐに蒼儀は振り払う。彼女がその愚《おろ》かさでどうなろうと自分の知ったことではないのだから。
「羊がいると、普通に生きている人間が困ることはわかったか?」
「うん、たぶん。でも何で幽霊《ゆうれい》を羊さんって呼ぶのかな」
「群れるからだ」
蒼儀は即答して自分の話を続けようとしたが、比呂緒はカップの縁《ふら》を齧《かじ》りながら疑問を口にする。
「蟻《あり》とか蚤《のみ》とかじゃ駄目《だめ》なの?」
疑問を持つのはかまわないが、話の大筋に関係ない疑問を持たれても困る。
「そんなことは、どうでもいい」
自分で選択したこととはいえ、本当にとんでもない奴に関《かか》わってしまったものだ。今からでも遅くない。猫とアストラは封印《ふういん》して、馬鹿《ばか》は霊髄に処置。店の親爺《おやじ》はしばらく営業停止。それらを役所に伝えた自分は、何事もなくいつもの生活に戻る。それでいいのではないだろうか。
(君が色々と嫌になる気持ちはよくわかる。私も、多少あきれないこともない)
蒼儀《そうぎ》の内心を見透《みす》かしたのか、ハンニバルが慰《なぐさ》めるように声をかける。
「他人事《ひとごと》みたいに言うな」
(他人事などではないさ。私と彼女はもはや運命共同体なのだから。彼女に何かあれば、私も存在することが難しくなる)
どうせ次の寄生先を探すくせに。そうは思ったが、蒼儀は口には出さなかった。もし馬鹿《ばか》に何かあって猫のみが生き残ったら、その時はすぐさま猫を処分しなければなるまい。被害がこれ以上増えるのを防ぐ前に。
ある意味、江藤比呂緒《えとうひろお》は既《すで》にハンニバルの被害者なのだが、蒼儀は気にしないことにした。この馬鹿には同情する気にもなれない。相手がどんな人間でも、同情などしないだろうが。
ハンニバルと蒼儀の思惑《おもわく》が交錯《こうさく》する中、どべーとテーブルに突っ伏しながらスープを飲んでいた比呂緒が「んあー」と声を上げる。
「羊さん、羊さん……幽霊は羊さん……んあー……?」
何度か首をひねると、比呂緒は身体《からだ》を起こして蒼儀を見た。
「ねえねえ三嶋《みしま》さん」
「……何だ」
またくだらないことを聞かれるのか。そう思った蒼儀だったが、
「さっき、鉄橋の上に羊さんいたのかなあ」
やっと。やっとこの馬鹿にしてはかなりまともな質問が出てきた。ふう、と大きく息を吐《は》いた蒼儀は、自分がずいぶんと気を張り詰めていたことを知った。こんな馬鹿相手に、何を自分は緊張していたのやら。
「ああ、いた。八月に、電車が通過する時に飛び込んだ奴《やつ》がいる。それが死んで、羊になった」
「八月に亡くなったのに、何で今出てきたんだろ」
「死んだ直後に、すぐ羊になるとは限らない。霊的物質が結合していくのに、時間がかかる場合もある。反対に、死後すぐに羊になる魂《たましい》もあるが」
「羊さんも色々大変だね」
「かもしれない。だが、生きた人間の方がもっと大変だ」
ようやく、本題に近付いてきた。ここからが、自分にとってはもっとも重要な話題だ。いかに損をせずに回収し、この馬鹿を動かせるか。蒼儀は、ちらりとハンニバルに視線を走らせてから比呂緒に向き直る。
……相変わらず、スープのカップをいじりながら茫洋《ぼうよう》とした表情で蒼儀のことを見ている。たまにハンニバルの方を見て、触《さわ》れないことがわかっているのに触ったふりをして遊んでいるこの馬鹿に、しっかりと教えてやらねばならない。
「羊は、人には見えない」
「うん」
「だが、見える人間もいる。俺《おれ》は見える。お前はあまりよく見えてないようだが、やがて見えるようになる」
「そう?」
「そうだ。羊は放《ほう》っておくと人に害を与える。そうなる前に、月に還《かえ》してやらなければならない」
「成仏《じょうぶつ》してもらわないといけないんだね」
「そういう表現でもいい。だが、普通の方法では、成仏できない」
「お坊さんを呼ぶとかは駄目《だめ》なの?」
「あれは、肉を土に還す儀式の一環に過ぎない。普通ならそれだけでいいが、羊には羊の葬送《そうそう》をしてやる必要がある」
「羊さん専用葬式?」
「そうだ、それを行なうことができるのはソウル・アンダーテイカー――魂《たましい》の葬儀屋だけだ」
また難しい言葉が出てきた。比呂緒《ひろお》は、蒼儀《そうぎ》の言ったことを自分なりに整理するためにスープのカップを齧《かじ》った。中身はとっくになくなっているその紙カップには、比呂緒の歯型がしっかりと付いている。
「齧るのはやめろ、みっともない」
「んあー」
「で、俺の言ったことをお前はどれだけ理解したんだ?」
まるで古屋《ふるや》先生のようなことを言う。たくさんたくさん説教をした後、よく「先生はお前に何を言ったか、言ってみろ」とか「先生の言うことがわかったなら、それをまとめて説明してみろ」とか言う。
そして比呂緒が考えている間に、「お前はちっとも話を聞いていない」と言われて名簿《めいぼ》で叩《たた》かれる。教科書であったりプリントの束であったり辞書の時もあるが、古屋は決して素手《すで》では叩かない。その理由を比呂緒は、手で叩いたら手が痛いからだろうなあと考えている。
人が痛いと思うくらいの強さで叩いたら、自分も痛い。数え切れないほど叩かれている比呂緒は、数えられるほど他人を叩き、殴《なぐ》り、蹴《け》り、頭突《ずつ》きをかましたことがある。その時は手の皮が剥《む》けたし、自分の額《ひたい》が割れた。相手の額も割ってしまったが。
あの時は痛かった。
(……比呂緒、今君は何を考えている?)
ハンニバルの声に、比呂緒は痛いことを考えるのをやめた。
「えー、額が割れたことを考えてた」
蒼儀の不機嫌そうな表情の中で、眉《まゆ》がぴくりと動いた。怒ってるのかな、と思ってから、この場合怒らせているのは自分なんだろうな、と気が付いた。怒らせたいわけではないのだが、どうにも自分は人を怒らせてしまう。
(馬鹿《ばか》なのがいけないんだろうなあ。それで、あたしが馬鹿なままずーっと馬鹿なのがいけないんだろうなあ)
原因はわかっている。だが、自分が馬鹿でなくなる方法がわからない。馬鹿は死んでも治らないというが、馬鹿は死なないと治らないともいう。いったいどちらが正しいのだろうか。
死んだら馬鹿は治るのか、それとも死んでも馬鹿のままなのか。
「……俺《おれ》がお前に言ったことを、お前はどう解釈したのか言ってみろ」
「ん……」
まあ自分が馬鹿なのは決まりきったことなのだから、今はこの人の問いに頑張《がんば》って答えてみよう。蒼儀《そうぎ》の話には難しい単語がたくさん出てきたが、自分なりの解釈でもいいらしい。比呂緒《ひろお》は後頭部を掻《か》きながら、思ったことを口に出す
「……えーと……冥土《めいど》は月にあって、死んだらそこに行かないといけないんだけど、たまに迷って幽霊《ゆうれい》が羊さんで、その羊さんを放《ほう》っておくと具合の悪い人が出ちゃうから、羊さん専用葬式をしないといけなくて、その葬式屋さんのことをソ……ソウル……」
「ソウル・アンダーテイカーだ……エーテルや仙骨《せんこつ》のことが抜けているが、まあ馬鹿なりに理解したみたいだな」
怒られなかった。
自分が一生懸命頑張ってみたところで、たいてい結果は芳《かんば》しくなく怒られることの方が多い。怒らないのは、両親と明海《あけみ》だけだった。別にそれでもよかった。
だが会って間《ま》もないこの人は、比呂緒のことを馬鹿と呼んで痛い目に遭《あ》わせもしたが、自分の一生懸命を怒らずに少しだけとはいえ認めてくれた。
それは、比呂緒にとってとても嬉《うれ》しいことだった。だが、比呂緒が『自分は嬉しがっている』ということに気が付く前に、蒼儀は彼女を混乱させることを口走った。
「お前は、ソウル・アンダーテイカーになるんだ」
「…………んあ?」
くるくる回していたカップを止め、比呂緒は蒼儀を見返した。
ソウル・アンダーテイカー。魂の葬儀屋。現世を彷徨《さすら》う魂魄《こんぱく》を冥土《めいど》へと送る者。
そういう人になれ、と蒼儀は言っているらしい。それを理解するのに、比呂緒は十三秒の時間を要した。
「……何で?」
「理由は、いくつかある。お前が、アルケブスを持っていること。霊髄《れいずい》が回っていること。そして素質があることだ」
すべて本当のことではある。ただ、伝えていないことがいくつかあった。それを蒼儀《そうぎ》は口にしない。
「うーんと……アルケブスってのは、あたしがパパに貰《もら》ったこのモデルガンのことだよね」
「モデルガンじゃない、アルケブスだ。銃《じゅう》にエーテルコーティングを施した、対霊的物質専用銃器の総称だ」
「はあ……つまりは羊さんを冥土《めいど》に送るための銃……なのかな?」
馬鹿《ばか》にしては、呑《の》み込みが早い。思わずそう言いたくなった蒼儀だが、考えてみれば別に褒《ほ》めるほどのことではないな、と考え直す。今までが今までだったので、些細《ささい》なことでも感心してしまうのだろう。そう自分を納得させると、蒼儀はまだ残っていたぬるいコーヒーを飲み干した。
「そう思っていればいい。さっきお前が撃《う》ったのが羊だ」
「……そうなの?」
(そうだ、君が銃口を向けた先には羊がいた。君が撃ち抜いたことにより、無害な霊的物質へと変わった。あれで、彼は月に還《かえ》ることができる)
腰に差したアストラを撫《な》でる比呂緒《ひろお》の膝《ひざ》の上に、ハンニバルが飛び乗った。
「それっていいことなのかな?」
(ああ、月に逝《い》けない魂《たましい》はとても辛《つら》く、苦しい。現世の人を守るためだけではなく、彷徨《さまよ》える羊のためにも、ソウル・アンダーテイカーという人々は必要だ)
比呂緒を金色の瞳《ひとみ》で見上げながら、ハンニバルはそっと彼女の右手に小さな前脚を添える。
(君には才能がある。君が正しく才能を伸ばせば、多くの彷徨える羊を月に還すことができる。それはとてもいいことだ)
「いいことなんだあ……いいことなのはいいことだねえ」
どこか楽しそうにハンニバルに答える比呂緒に、蒼儀は少し哀れみを感じる。いいこと。確かにいいことではある。だがいいことを成し遂げるために、ソウル・アンダーテイカーは自身の命をなくすことがある。それだけならまだしも、羊を還す前に自《みずか》らが羊になる可能性もあるのだ。
しかも、江藤《えとう》比呂緒はハンニバルに憑《つ》かれている。ただでさえ魂にハンニバルという枷《かせ》をはめられているのに、その上エーテルを削らねばならないソウル・アンダーテイカーの仕事をやらせるのは、穴の開いたボートで沖に繰り出し水が入り込んで沈むのを待つようなものだ。
そんなことは最初からわかっている。ただ、ほんの少しだけ。
本当に少しだけ、心が痛んだ。
「でも、そのソウル・アンダーテイカーって、なるっていってなれるものなのかな?」
見下ろしながら話し掛けてくる比呂緒《ひろお》を、ハンニバルは首を傾《かし》げて見上げた。
(……さあ、どうなのかな。南半球ではアルケブスさえあればそれでよかったが、こちらはそうでもないらしい。その辺りは三嶋氏《みしまし》の方が詳しいのではないかな)
「ふーん、そうなの?」
顔を上げて緊張感のない笑顔を向けてくる比呂緒に、蒼儀《そうぎ》は先ほど感じた心の痛みを忘れた。
無性に腹が立った。自分とはまったく違う平穏《へいおん》な世界を生きてきたこの同年代の少女に。屈託《くったく》なく笑い、何も考えずにぼんやりと生きることのできた彼女に。自分が生涯の職と決めている魂《たましい》の葬儀屋《そうぎや》に、単純な思考からなろうとしている江藤《えとう》比呂緒に。
どうしてこんなに腹が立つのか。
蒼儀は苛立《いらだ》ちを振り払うように、ギターケースを掴《つか》んで立ち上がった。
「お前は、ソウル・アンダーテイカーになるのか?」
無表情だった蒼儀の顔に、この時比呂緒は初めて感情らしい感情を見つけた。怒っていて、苛々していて、それでいて、ただ自分を怒鳴《どな》りつけて蔑《さげす》む人とは少し違う。
少しおっちゃんに似てるかもしれない。だが比呂緒がそう思おうとした矢先、蒼儀の表情からは何も見えなくなった。だから比呂緒は、彼と自分の幼馴染《おさななじ》みが似ていると感じたことをすぐに忘れてしまった。
「なれって言ったのは、三嶋さんだと思うけど」
「俺《おれ》の言葉や猫の言葉はどうでもいい。お前がなるのかを聞いているんだ」
その問いかけに、比呂緒はあっさりと答える。
「うん、なるよ。還《かえ》りたいのに還れないのはつらいもの」
迷って、迷って、自分の逝《い》きたい場所に逝けないのは、つらい。
いいことができるなら、いいことをしたい。
比呂緒の答えは、とても単純な思考から生まれている。それは、善意≠ノ近いもの。
そのことに蒼儀はひどく苛立ち。
とても羨《うらや》ましいと思った。
悪いことをするものじゃないな。つくづくそう思う。いや、自分としてはいいことをしたつもりだったのだ。娘の誕生日プレゼントに困る父親に、安価で厄介《やっかい》な物を押し付ける。父は喜び、自分はささやかな収入と厄介払いができた。
それで終わったはずなのに。
「……へえ、ここにこんなお店があったなんて知らなかったなあ。見た目はおんぼろなのに、中はこんなに綺麗《きれい》だなんて」
(比呂緒《ひろお》、ガラスにべたべた触《さわ》ってはいけない。指紋《しもん》がついてしまう。掃除《そうじ》する人のことを考えなさい)
「そだねー……あ、手袋すればいいかな」
ポケットから手袋をはめて、楽しそうにガラスケースの中を覗《のぞ》き込む女の子の肩の上には、薄汚い仔猫《こねこ》が乗っている。あれが魂《たましい》を喰《く》らう猫<nンニバル。見た目はただのハイファミリアだが、持ち主に死を呼ぶ悪霊《あくりょう》の目=B
「……本当に見る羽目《はめ》になるとは思わなかった……」
「自分が蒔《ま》いた種だ」
アルケブス専門店としてここに長いこと店を構えていたが、こんなことは初めてだ。今垣幸永《いまがきこうえい》五十八歳、悔《くや》んでも悔み切れない。今垣は、恐る恐る目の前にいる仏頂面《ぶっちょうづら》の少年を見下ろした。彼は金払いのいい上得意ではあるが、そのぶん色々ときつい注文をしてくる。この三嶋《みしま》少年が『すぐに店を開けろ』と電話をしてきた時は何かと思ったが、彼が連れてきた女の子を見た時に大方《おおかた》の事情は理解した。
……理解はしたが。
「あんな物を売りつける方が悪い。神棚《かみだな》にでも飾っておくか、協会に送りつけるかでもすればよかった」
「……だって協会は処置料取るだろうが。高いし。ここに置いておくのも縁起が悪そうだし」
「なら、最初から引き取ったりしなければよかった」
「……いや、だって、シャッター開けたらいきなり押し付けられたんだし……置いてった奴《やつ》、すぐ逃げちまったし……」
情けない。どうして自分の息子より年下の子供に『だって』だの『だし』だのを駆使《くし》して言い訳《わけ》をしなければならないのか。
「とにかく、責任の一端《いったん》を担《にな》え。あれのホルスター、グローブ、マグナムカートリッジのハンドローディングーセットを立て替えてほしい」
「……そんなに……勘弁《かんべん》してくれ」
「本当ならクリーニングセット一式とクイックローダー、予備の弾《たま》に免許申請代も出させるところだ。営業停止よりはましだろう」
お前だって、うちにハンニバル憑《つ》きアルケブスがあるのを知ってて何も言わなかったくせに。そう言いたくなったが、もう蒼儀《そうぎ》は新たなハンニバルの主――江藤《えとう》比呂緒の方へと顔を向けていた。
(……とりあえず、神様にでも祈っておくか)
彼女の幸運を。見たところ、素材そのものは悪くない。むしろ最上質のエーテルを持っているといってもいい。鍛《きた》えれば、素晴らしい葬儀屋として名を馳《は》せるかもしれない。
鍛え終わるまでに、生きていられればの話だが。
そんな風に見られているとも知らず、比呂緒《ひろお》はきょろきょろと店内に飾られた銃器《じゅうき》の数々を物珍しそうに眺《なが》めている。
「やあ、モデルガンがいっぱいだあ……って、モデルガンじゃないんだね、えーと……アル……アルカトラズ?」
(アルケブスだ……どうしてそういう単語が出てくるんだか……)
ハンニバルは比呂緒の肩から飛びおりてケースの上に乗った。
「ずるいなあ、ハルさん。あたしにはガラスに触《さわ》るなとか言ったくせに、自分は触ってるー」
(私には指紋がないし、触っても汚れない)
「肉球《にくきゅう》はあるでしょ」
(そういう問題では……)
「馬鹿《ばか》、利《き》き手は左か?」
比呂緒とハンニバルの会話に、カウンター前にいた蒼儀《そうぎ》が割り込んできた。
「利き手はね、両方だよー。あたしが自慢できる数少ないことだよー」
最初はただの左利さでしかなかった比呂緒は、まず母に右利きに矯正《きょうせい》された。世間様が右利きの世界である以上、それがこの子のためだろうという親心である。父の方は、せっかく左利きなんだから、という単純な理由で、比呂緒に左手も使うよう促《うなが》した。
その両者の教えを公平に守った結果、比呂緒は箸《はし》はもちろん文字も両手ほぼ変わらず使えるようになっていた。本当に、数少ない自慢である。
誇らしげに両手を差し上げてみせる比呂緒に、蒼儀はさして感銘を受けた様子も見せず壁にかけてある時計を示した。
「あの時計を指差してみろ」
「うん」
とくに疑問を持たず、比呂緒は左手で指差した。
「左目を閉じてみろ……お前の指は、時計を指しているように見えるか?」
「うん、見えるよー」
「次は、左目を開けて、右目を閉じろ。時計を指しているように見えるか?」
「……ううん、見えない」
「お前の利き腕は左だが、利き目は右のようだな。猫、お前はどう思う」
ケースの上に蹲《うずくま》ったハンニバルは、比呂緒の手と顔を見比べてから蒼儀に顔を向けた。蒼儀の後ろにいる今垣《いまがき》が、慌ててカウンターの陰《かげ》に隠れるのを見てすこし耳を揺らしながら考える。
(私としては、利き目にこだわらず左手で持たせた方がいいと思う。本来が左利きなのだし、多少手首に欠けがあるとはいえ、左の方が若干《じゃっかん》仙骨《せんこつ》は太いようだ。照準については、気長に慣れさせた方がいい)
「お前の意見に賛成する。ホルスターの位置は?」
(肩がいいかな。腕の長さと銃《じゅう》の大きさを考えると、腰は少しバランスがよくない。ところでホルスターは皮革製にしてくれるかな?)
「ナイロンに決まってるだろ。だいたい革なんて手入れが大変だし、高い」
「……その比較的安価なナイロンの金を出すのは誰《だれ》だよ」
今垣《いまがき》がカウンターの中から呟《つぶや》いた言葉を、蒼儀《そうぎ》は無視した。
「あれのサイズに合うホルスターを作ってくれ。年明けでいい」
「当たり前だ、今年中とか言ったら温厚《おんこう》で有名な俺《おれ》でも怒る……嬢《じょう》ちゃん、手ぇ下ろしてこっちこい。色々測るから」
「はーい……あー、疲れた……」
いつまでも手を下ろさずに時計を指していた比呂緒《ひろお》は、今垣の言葉にほっとしたように腕を下ろしてぶらぶらと振った。
(肉の方も少し鍛《きた》えた方がいいかな……)
ハンニバルの独《ひと》り言《ごと》を比呂緒は聞いておらず、カウンターへと向かいながら手をひらひらと振っている。それに右前脚を上げて応《こた》えるハンニバルの元に、入れ替わりで蒼儀がやってきた。
(色々とすまない。君には世話をかける)
「そう思うなら、投資金額を回収してから逝《い》ってくれ」
(前向きに対処しよう……ところで、この国ではソウル・アンダーテイカーという仕事は金になるのか?)
「それなりにな。協会や役所を通しての送還《そうかん》でも金は出るが、その仲介を取っ払った仕事の方が儲《もう》かる。南とは、比べられない。エーテルが枯渇《こかつ》するまでにどれくらい稼《かせ》いで第二の職に就くか、それで一生が決まる」
(そうか……きっと彼女にとっては天職になるよ)
ハンニバルは、どこか疲れたような顔をした今垣とにこにこしながら会話をする比呂緒を見て言った。
そのハンニバルの金色の瞳《ひとみ》とあまり綺麗《きれい》とは言い難《がた》い毛色を、蒼儀は目を細めて見下ろした。
この猫は卑怯者《ひきょうもの》だ。そして僕も卑怯者だ。卑劣《ひれつ》であることは美徳の一つ。だから僕の心は痛まないし、この猫を責める気もない。
でも、僕は何かに怒っていた。この時は、馬鹿《ばか》に腹を立てているのだろうと思っていた。どうしようもなく単純で、何も考えていないこの馬鹿に。そのくせ、無駄《むだ》に才能に溢《あふ》れているこの馬鹿に。
確かに、僕は馬鹿に腹を立て、苛立《いらだ》ち、蔑《さげす》み、あきれていた。
そして、僕には決して出来ない生き方が、少しだけ妬《ねた》ましかった。
もっともそのことに気がついたのは、もう少し先のことだったけど。
この時は。
――この時は、僕は何を考えていたんだろう。
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第四話 鉄は熱いうちに打ち、馬鹿は馬鹿のままに撃つ
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胡散臭《うさんくさ》い子供。それが、落合明海《おちあいあけみ》が三嶋蒼儀《みしまそうぎ》という少年を見た時の第一印象だった。
一度自宅に戻り、口の中をゆすいでから江藤家《えとうけ》にやってきた明海は、マニエルの残骸《ざんがい》をぼんやりと眺《なが》めながら比呂緒《ひろお》が出てくるのを待っていた。明海は決して江藤家の呼び鈴を鳴らさない。声もかけない。比呂緒以外の江藤家の人間に顔を合わせたくないからだ。比呂緒の妹である文華《ふみか》は、学校が同じであるため廊下ですれ違うこともある。だが、お互いに顔を見ない。視線も合わせない。
あれから六年|経《た》ったのだから、心境《しんきょう》の変化はお互いあったとは思う。少なくとも、比呂緒の両親は表立っては何も言わない。表立っては。心の中でどう思っているのかまではわからない。
文華の方は、露骨《ろこつ》に自分を嫌っている。そして自分にぶつけられない憤《いきどお》りを、比呂緒にぶつけている。
明海の家族も、江藤家の人間を快く思っていない。あの一件で、落合の人間は負い目を負った。六年も経った、は、六年しか経っていない、と同じだ。明海の家族の間で、江藤の話題が出ることは滅多《めった》にない。あるとしたら、それはただの愚痴《ぐち》だ。
小学校六年間、一度も比呂緒とクラスが一緒にならなかったのは誰《だれ》のおかげなのだろう。お互いの親が学校側に言ったのか、それとも学校が勝手に配慮したのか。もし一緒のクラスになっていたら、江藤と落合は五十音順でいけば高い確率で並び合ってしまう。連絡網で比呂緒が落合家に電話などしてきたら、その日は一日中|陰《かげ》が落ちるだろう。
――こんなことをはっきりと考えるようになったのは、つい最近になってからだ。自分と比呂緒を取り巻く環境が単純ではないことなど六年前からわかっていたことだ。そして未《いま》だに、自分は同情と義務感と罪悪感に縛《しば》られたかわいそうな子供であると家族に思われている。
それでもいい、と明海は思っていた。自分と比呂緒の間にあるのが友情ではなくてもいいし、偽善者《ぎぜんしゃ》だと思われようと哀《あわ》れな子供だと思われようと、どうでもいい。
あの子が、江藤比呂緒が自分のことを親友だと思っている。それだけは事実だ。それさえも偽《いつわ》りだとしたら、自分は何も信じられない人間になる。
比呂緒の友達は自分、落合明海しか存在しない。それは明海にとって辛《つら》いことであったが、それでいて。
歪《ゆが》んだ優越感《ゆうえつかん》に近いものもまた、間違いなく存在していた。
それに気が付けるほど、明海は自分の内面を理解しているわけではなかったが。
だから、汚れた雪だけを踏んで帰ってきた比呂緒の後ろを見たこともない少年が歩いているのを見た時、内心に浮き上がってきた感情を自分で説明できなかった。
そのため、明海《あけみ》は自分の心にではなく相手にその答えを見出《みいだ》そうとした。
その答えが、胡散臭《うさんくさ》い子供≠ナある。
明海が怒っているのはよくわかる。だがその怒りが自分に向けられてはおらず、自分の後ろにいる人物に向けられていることに、最初|比呂緒《ひろお》は気が付かなかった。寒い中、玄関前で何分も待たされたことに明海は怒っている。比呂緒はそう思い、
「おっちゃんだー、ごめん、だいぶ待ってたの? あ、それと気分は良くなった?」
と聞いたのだが、明海は自分のことを見ようともせずに背後に向けて顎《あご》をしゃくった。
「誰《だれ》?」
「ああ、この人はねえ、三嶋《みしま》さん」
「下の名前は」
「えーと……何だっけ……ああ、そう言えば聞いてなかったような気がする。ねえ、三嶋さんの下の名前って何?」
「蒼儀《そうぎ》」
短く答えると、三嶋蒼儀は帽子を深く被《かぶ》り直した。比呂緒が「おっちゃん」と呼ぶ少女の仙骨《せんこつ》を見ようと六識《ろくしき》を開いた蒼儀は、意図したものとは違うものを視界に入れてしまい、思わず目を逸《そ》むけたのだ。
背後から見た比呂緒の仙骨は、正面から見た時とはまた違っていた。人間の中にある仙骨のうち、もっとも太いのは背骨だ。それは比呂緒も例外ではなく、だが常人に比べて異様に太く、またエーテルがしっかりと漲《みなぎ》っている。太過ぎるが、問題にすることではない。
問題にすべきは、後頭部だった。比呂緒の仙骨には欠けている部分が確かに多いが、それでも色は正常だし、エーテルは何の滞《とどこお》りもなく巡っている。
だが首の真上、後頭部だけはエーテルがほとんど巡っていない。真紅《しんく》の仙骨が頭部の形を取っている中、そこだけは小さな黒い空洞《くうどう》がぽっかりと穴を開けている。抉《えぐ》れるどころの話ではない。まるでその部分だけ死んでいるようにも見えた。
少量ではあるが、それでもエーテルは彼女の後頭部を時たま流れている。だが、それは他《ほか》の部分に比べれば本当に少量で、死期を迎えて痩《や》せ細った仙骨と薄いエーテルしか持たない人間に近い。
滅多《めった》に見られない美しいともいえる仙骨とエーテルの中に、見慣れたどす黒い空洞がある。その対比をひどく醜悪《しゅうあく》に感じた蒼儀は、六識を閉じると同時に視線を伏せた。
だがその態度が、明海の胡散臭い子供≠ニいう主観にさらに拍車をかける。
「……で、その三嶋蒼儀さんはこの子とどういう知り合いなわけ?」
比呂緒と蒼儀に交互に視線を送りながら、明海は詰問《きつもん》するような口調になっていた。
「えーと……」
明海《あけみ》のいつもと違う態度に、比呂緒《ひろお》は戸惑いながらも必死に考える。
どういう知り合いなんだろう。鉄橋の上で会って、銃《じゅう》を突きつけられて、撃《う》たれて、手踏まれて、コーンポタージュスープを奢《おご》ってもらって、アルケブス屋さんに連れていかれて。
まあそんな知り合いなわけだが、そう言って明海にわかってもらえるか自信がない。
(田舎《いなか》から来た遠い親戚《しんせき》だとか、遠い所からやって来た交流のある友人だとか、適当にごまかしてみたらどうだ?)
肩の上に乗っていたハンニバルが、比呂緒の耳にそっと囁《ささや》きかける。
「えー、それって嘘《うそ》じゃん」
嘘はよくないことだ。嘘をついてもいいのは、嘘をついた方がいい時だけだ。今が嘘をついた方がいいのかどうか、比呂緒には判断がつかない。判断がつかないなら、嘘をついてはいけない。
(……頼むから、私に話しかける時は言葉を空気ではなく六識《ろくしき》に乗せてくれないか。私の声は霊髄《れいずい》の回っていない人間には聞こえないのだから、君が延々と独《ひと》り言《ごと》を言っているようにしか見えないんだぞ……ほら、君の友人が君と三嶋氏《みしまし》を睨《にら》んでいる)
本当だった。ポニーテールが逆立ってしまうかと思うくらい、明海は恐ろしい目付きで自分を――正確には、自分の背後に立っている蒼儀《そうぎ》を睨み付けている。何だかポニーテールではなく、眉毛《まゆげ》まで逆立ってしまいそうな気になってくる。
「……馬鹿《ばか》は、マイナスドライバーを持っているか」
唐突《とうとつ》にそう言ったのは、顔を伏せたままの蒼儀だった。
異常なまでのお人好しか、馬鹿の同類か、馬鹿に優《やさ》しくすることで善人の気持ちを味わっている人間か。この馬鹿と付き合うことができるのは、それくらいだろう。落合《おちあい》明海がどんな理由で馬鹿と付き合っていても、蒼儀が気にすることではない。
だから、蒼儀は明海の存在を無視することにした。何やら彼女は自分が比呂緒の側《そば》にいるのが気にくわないようだが、そんなことは蒼儀の知ったことではない。自分は自分の理由でこの馬鹿に関《かか》わることを決めた。今さら後には引けない。
「マイナスドライバー……ウッドとかアイアンとかチタンとかならあると思う。パパのだけど」
「それはゴルフクラブ。こいつが言ってるのは工具よ」
いつものように突っ込みを入れた明海だったが、初対面の人間を『こいつ』呼ばわりしてしまったことに気が付いた。この胡散臭《うさんくさ》い子供相手に礼儀正しくしようなどと露《つゆ》ほども思わないが、それでも礼儀にはほんの少しうるさい明海は自分の言動を謝ろうかと蒼儀の様子を窺《うかが》った。
何の変わりもなく、ただ今まで伏せていた顔を少しだけ上げてこちらを見ていた。
初めて見た彼の目は、明海が一度も見たことがないような奇妙な目だった。比呂緒が一年生の時に拾ってきた首だけしかない雀《すずめ》のように虚《うつ》ろで、田舎の田んぼにいる蛙《かえる》のように挑戦的で、百二歳で死んだ曽祖父《そうそふ》のように達観《たっかん》した目。
(……何なのかしらね、こいつは)
得体《えたい》が知れない人間は怖い。いったい、彼は何なのだろう。普通なら比呂緒《ひろお》の友達と考えるのだろうが、あいにく比呂緒は普通ではないしそれに何年も付き合ってきた明海《あけみ》もある意味普通ではない。明海は『比呂緒に自分以外の友達ができるわけがない』と思っており、それは事実でもあった。今までは。
「ドライバーの正体が判明したところで、あたしは工具のマイナスなドライバーを探さないといけないわけだけど、それがなかったらどうするの?」
明海の葛藤《かっとう》も知らず、比呂緒は蒼儀《そうぎ》を振り返る。
「なかった時に考えろ。馬鹿《ばか》は一つ一つ物事に対処すればいい」
ただの会話だ。それはわかる。だが、明海は腹が立ってしかたがなかった。それは恐ろしく理不尽《りふじん》な理由から生まれた感情だが、納得して表面を取り繕《つくろ》っていられるほど、明海は自分の感情に不誠実ではなかった。
だから、明海は足元の雪を蹴《け》りつけると、比呂緒と蒼儀に背を向ける。誕生日プレゼントを改めて買いに行くことも、頭の片隅《かたすみ》から抜け落ちていた。
「あれ、おっちゃん帰るんだ。何か用あるんじゃなかったの? で、具合はほんとに大丈夫なの?」
返事はない。比呂緒は足早に去っていく明海の後ろ姿をぼけーと見送りながら、自分の何がいけなかったのかを省《かえり》みる。やはり、寒い中を長い間待たせたのがいけなかったのだろう。明海の短気は今に始まったことではないし。それ以外に怒る理由が見当たらない。
「……ああ、そうそう。三嶋《みしま》さん、今のはおっちゃんで落合《おちあい》明海さんなの。あたしの友達ね。……あ、おっちゃん、三嶋さんにおっちゃんの紹介をしなかったから怒ったのかなあ」
「さあな」
蒼儀は、比呂緒ではなく江藤家《えとうけ》の番地を見ていた。家の場所をしっかりと記憶しながら、外観をざっと観察する。この家にいる人間を狙撃《そげき》するとしたら――。
(ヒロ、だから嘘《うそ》でもいいから彼のことを自分と近《ちか》しい人間だと説明すればよかったんだ。彼女は、君が得体の知れない少年をこの家の前に連れて来たことに憤《いきどお》りを感じていたんだろう)
ハンニバルの声が、蒼儀の耳に飛び込んでくる。霊的物質結合体であるハンニバルの声は、霊髄《れいずい》の回っている人間にしか聞こえない。そして、今のハンニバルと比呂緒は接触している。この場合、ハンニバルは直接比呂緒にだけ自分の意思を伝達し、比呂緒もまたハンニバルにのみ自分の意思を伝えることができる。魂《たましい》の一部を共有しているマスターとファミリア同士なら、距離が開いていても意思伝達が可能だ。
それなのにハンニバルは自身の言葉を隠そうとせず、常に蒼儀にも聞こえるようにしている。ハンニバルは、『自分が隠し事をしていない』とでも蒼儀に思わせようとしているのだろうか。それとも、他《ほか》に深い意味があるのか。
「得体《えたい》の知れない……まああたしは三嶋《みしま》さんのことをよく知らないけど、ハルさんはよく知ってるみたいだし。今度おっちゃんに会ったら何て言おう。友達でいい?」
話を振られた蒼儀《そうぎ》は、門柱の前にある汚れた雪の塊《かたまり》を眺《なが》めた。比呂緒《ひろお》のひどく楽しそうな残滓《ざんし》がこびり付いているのに気が付いてしまい、顔を背《そむ》ける。その背けた先には、何も考えていない比呂緒と何かを企《たくら》んでいるハンニバルがいた。
「それで都合がいいならそういうことにしておけ」
「そーいうのは駄目《だめ》だよ。あたしが一方的に友達だと思っただけで友達になれるなら、誰《だれ》とでも友達になれちゃうじゃない。三嶋さんがあたしのことを友達だと思ってくれないと、友達になれないよ」
俺《おれ》はお前と友達になる気はない。即答しようとした蒼儀だったが、すぐに馬鹿《ばか》正直に答える必要はないことに気が付いた。この馬鹿を鍛《きた》えるためには、必然的にこいつと活動する時間が多くなる。そのためにはこれの家族とも顔を合わせておかなければならないし、その時には友達≠ニ名乗るしかない。
口では何とでも言える。比呂緒の拘《こだわ》りを払拭《ふっしょく》するために、自分はお前の友達だ≠ニ言う。些細《ささい》なことだ。嘘《うそ》をつくことなど造作《ぞうさ》もない。
それなのに、蒼儀は迷ってしまった。この馬鹿に嘘をつくのを躊躇《ちゅうちょ》し、そして。
「わかった。俺はお前と友達になろう」
躊躇《ためら》いなど、一瞬。迷いはすぐに消えた。この口が虚偽《きょぎ》の言葉を吐《つ》くのはいつものこと。真実を告げないのもいつものこと。
蒼儀の虚偽にまみれた言葉に、比呂緒は笑顔で応《こた》えた。棒読みに近い蒼儀の言葉を、まるで疑わずに無邪気《むじゃき》に笑っている。
「わーい、友達だー。これで二人目だー。ハルさん、びっくりだよー。ああ、そうだ、ハルさんとも友達になれるね! ニケやハッちゃんはあたしが友達だと思っても返答してくれないから友達になれないけど、ハルさんは返答してくれるし」
比呂緒の肩の上にいるハンニバルは、口を歪《ゆが》めて笑ってみせる。
(……私と君の関係は、あくまで主従でしかないのだが……君が望むなら、私は君と友達になりたいな)
「ほんと? 嬉《うれ》しいなあ。幽霊《ゆうれい》なハルさんとお友達!」
ひとしきりハンニバルを撫《な》でくり回すと、比呂緒は笑顔のまま蒼儀の方に向き直り、左手を差し出してきた。
「握手、握手ー。友達になったんだから握手ー」
なぜ握手しなければならないのか。思いはしたが、それでこの馬鹿が満足するならそれでいい。
蒼儀《そうぎ》は単純な気持ちで比呂緒《ひろお》が差し出した左手に触れ。
プロミネンスのように突出しては戻っていく深紅《しんこう》の炎。焼きごてを押される痛みと、ぬるま湯に浸《つか》かっている心地良さ。生きた力に溢《あふ》れて燃えているそれは、青白くたゆたう波を呑《の》み込む勢いで侵蝕《しんしょく》して――
突然手を振り払われた比呂緒は、振り払った蒼儀の顔を見た。表情はまったく変わっていないが、その額《ひたい》からは大量の汗が滲《にじ》み出ていた。振り払われた自分の左手と、蒼儀の顔を見比べながら、比呂緒は何をすべきか考えてみる。
真冬の最中に運動もしていないのに汗をかくというのは、どういう病気なのだろう。頭が悪い自分には、考えてもわからないのだから、とりあえず汗を拭《ふ》いた方がいい。比呂緒はポケットに入っているティッシュを取り出すために、手を突っ込んだ。
その瞬間、蒼儀は飛び退《すさ》って比呂緒との距離を開けた。飛び退《の》きながら彼が器用に胸元からリゾルバーを取り出すのをぼんやりと眺《なが》める。あんなに素早く動けるのなら、きっと重い病気ではないのだろう、よかったよかった。リゾルバーの銃口《じゅうこう》が自分に向けられているにも構わず、比呂緒はほっと安堵《あんど》の息を吐《は》く。
「あーびっくりした。心臓でも悪いのかと思った」
(用心深いのは結構だが、もう少し冷静になった方がいいかな、スナイパー。まだまだ修練が足りない)
比呂緒とハンニバルの言葉を聞いてから三秒後、蒼儀は銃をゆっくりとしまって顔を伏せた。その伏せる瞬間に、彼の表情が呆《ほう》けたように崩れたのを比呂緒は見ていなかったがハンニバルは見ていた。
「……猫、馬鹿《ばか》に分解と組み立てを教えてやれ。それはお前ができるだろう。必要な物は置いていく。手入れをしておけ。明日は基礎を教える」
それだけを地面を見ながら早口で言うと、蒼儀は持っていた箱を雪の積もっていない塀《へい》の上に置いて踵《きびす》を返した。背筋を伸ばしてその場を去ろうとする蒼儀の背中に、比呂緒は声を投げかけてみる。
「ねー、明日うちに遊びに来るのー?」
答えは返ってこず、蒼儀の後ろ姿はあっと言う間に見えなくなってしまった。比呂緒は首を傾《かし》げながらも『具合が悪くなったから早く帰りたかったのかな』と勝手に納得して蒼儀の置いていった箱を取る。
(彼も罪深いが、君も罪深いな)
ハンニバルのため息のような言葉に、比呂緒《ひろお》は頭を掻《か》いた。
「何だかよくわからないなー。おっちゃんに会って謝りたいけど、おっちゃんちには行けないし、電話かけられないし。今年中にまた会えればいいんだけど」
(君は友人の住所も電話番号も知らないのか?)
「知ってる。でも行っちゃいけないし、電話もかけちゃいけないの」
(どうして)
「おっちゃんちの人が、あたしのこと嫌いだから」
(それはまたずいぶんと大人げない理由だな。何か君は彼女の家族に対して悪いことをしたのか?)
「……たぶん」
ハンニバルは、この時初めて比呂緒の悲しげな表情を垣間《かいま》見た。馬鹿《ばか》と蔑《さげす》まれ、負の感情を失ってしまったようなこの少女にも、普段《ふだん》は隠れている感情がある。それを見つけられたことにハンニバルは喜びを感じ、質問を続けた。
(君はいったい何をしたんだ?)
その問いを発し終わる頃《ころ》には、比呂緒の表情はいつもの茫洋《ぼうよう》としたものに戻っていた。
「何もしてないよ」
(何もしてないのに、どうして嫌われるのかね)
「さあ? 色々と複雑な事情があるらしいよ」
(どんな)
「わかんないなあ。たぶん何年か前にあったことが原因だったとは思うんだけど、このことはお墓に持っていかないといけない話だって言ってたから、あたしがお墓に入る寸前になら教えてあげる。先のことだと思うけど……うわ、梶間《かじま》ちゃんと井原《いはら》ちゃんがもうお亡くなりになってる!」
その雪だるまと同じになる日は、意外と近いかもしれない。
とは、ハンニバルは言わなかった。
「ただいまー」
台所から返って来る母の「おかえりー」という言葉を聞きながら、ニケの出迎えを受けてその頬《ほお》を引っ張って遊んでいた比呂緒は、居間から文華《ふみか》が出てきたのを見て手を振った。
「ただいまー、ふーちゃん」
比呂緒の手から逃《のが》れて慌《あわ》てて逃げていくニケを無視して、文華は玄関脇《げんかんわき》に置いてある箱に視線を向ける。
「何、その箱は」
「貰《もら》ったの」
「誰《だれ》に」
「三嶋《みしま》さん」
「……誰?」
「三嶋|蒼儀《そうぎ》さん」
「どこのどいつかって聞いてんのよ。名前なんか一度聞けばわかるんだから」
「どこの人かは知らないけど、友達だよ」
文華《ふみか》の眉間《みけん》にいっそう深い皺《しわ》が刻まれるのを見てハンニバルは尻尾《しっぽ》をぴくりと動かし、比呂緒《ひろお》は「ふーちゃん、何怒ってんだろ」と内心で思った。
「友達、ね。いつ、どこで知り合ってどういう経緯《けいい》で友達になったのよ。幼稚園から今まで、ヒロと同じクラスの人に三鳴って人はいないんだから、同じ学校の人じゃないでしょ」
「えーと……」
さっき鉄橋の上で知り合って、よくわからないうちに友達になった。自分にはこんな説明しかできないが、これではきっと文華は納得してくれないだろう。だからといって、これ以外にどう言えばいいのか。
(だから、かつて同じクラスにいたが家庭の事情で転校してしまった級友とか、遠くの文通友達がこちらにやってきたとか、そういう言い訳をしてみたらどうだ?)
箱の脇《わき》にいたハンニバルが玄関に腰掛けている比呂緒の膝元《ひざもと》までやってきて、囁《ささや》くように言った。
「それはばれるって、ふーちゃんはあたしのクラスのことをあたしよりよく知ってるし、文通なんかしてないことも知ってるもの」
「何ぶつぶつ言ってんのよ、で、その三鳴ってのは何者で、その箱の中身は何」
ハンニバルの姿が見えない文華には、比呂緒がぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》を言っているようにしか見えない。元々意味のない独り言の多い姉の言動が少しくらい怪しくても、文華は気にも留《と》めなかった。その代わり、彼女が気にかけたのは突如出現した姉の友達と、その友達からの殺風景な贈り物だ。
「三嶋さんは……」
この時、なぜか比呂緒は蒼儀が持っていたギターケースと肩に乗っていた烏《からす》のことを思い出した。
「ギターを持った渡り烏、なんじゃないかな」
どこか緩《ゆる》んだ真顔でそう答えた比呂緒の背中に、文華は無言で踵《かかと》を落とした。
「…………」
肺の後ろに当たったその蹴《け》りのせいか一瞬息が詰まった比呂緒は、いつものように抜けた声で「うわ、いったあ」と声を上げることはなかった。前のめりになり、玄関の土間に手をついて蹲《うずくま》ると、そのまま動かなくなる。
この妹の暴挙《ぼうきょ》に、さすがにハンニバルも何か手段を講じようかと考え始めた。確かに彼女の姉はどうしようもない馬鹿《ばか》かもしれないが、ここまで暴力的な手段に出ていい相手ではない。愚《おろ》かしいことは罪かもしれないが、痛みを与えることで制裁を加えていいわけがないのだ。
いけない妹だ。抗議のために文華《ふみか》の方を振り返ったハンニバルは、彼女の表情を見て髯《ひげ》を震わせた。
今にも泣きそうに顔を歪《ゆが》め、悲しそうに姉を見下ろす文華は、姉を殴《なぐ》ったり蹴《け》ったりする暴力的な妹にはとても見えなかった。ハンニバルが居間で見た時の異様なまでの緊迫感は微塵《みじん》も存在せず、本当にあの時の彼女は今の彼女と同一人物なのか疑いたくなるほどに。鼻の頭に数え切れないほどの皺《しわ》を寄せて目を潤《うる》ませる文華に、ハンニバルは彼女が泣き出すのかと錯覚《さっかく》してしまう。
だがハンニバルが呆然《ぼうぜん》と文華を見上げている間に、比呂緒《ひろお》が「うわ、いったあ……」と小さな、だが緊張感のまるでない声を絞《しぼ》り出した途端、その表情は綺麗《きれい》さっぱりと消え去った。代わりに現れたのは、子供のくせにひどく冷たい空気を纏《まと》わりつかせた険《けん》のある顔。
性質《たち》の悪い芝居を見ているようだ――そう感じたハンニバルの目の前で、またも文華の足が動いて今度は箱を土間へと蹴り落とす。がたん、と大きな音を立てた箱を、蹲《うずくま》っていた比呂緒が手を伸ばして抱え込んだ。
「友達から貰《もら》った物を、蹴ったらいけないよ。少し悲しいな」
「勝手に悲しんでなさいよ、馬鹿。どこの馬の骨だかわかんない奴《やつ》から物貰ってきて言うに事欠いて渡り烏《がらす》なんて自分じゃ洒落《しゃれ》たこと言ってる気になってんのかもしれないけど全然|面白《おもしろ》くもなけりゃ洒落てもないわよ馬鹿産業廃棄物でも貰ってきてありがたがってもっと馬鹿になるのよ馬鹿」
静かな剣幕《けんまく》でそれだけ言い放つと、文華は階段の脇《わき》に隠れて様子を窺《うかが》っているニケを一|睨《にら》みしてから二階に上っていく。その途中で、玄関先が騒がしいことに気が付いた母が妹の背中に声を投げかけた。
「文華、またお姉ちゃんと喧嘩《けんか》したの?」
「あーママ、喧嘩してないよ? ふーちゃんがちょっと怒ってただけ」
この姉妹が喧嘩のしようがないことは、親である自分にもよくわかっている。姉である比呂緒は、文華に対して怒ることなど決してない。ごく稀《まれ》に悲しそうな顔をする時もあるが、それでも『怒り』という感情はまったく欠如《けつじょ》しているように感じる。
喧嘩ではなく、ただ一方的に文華が怒っている。それは理解できるが、だからといって文華に「文華、またお姉ちゃんを怒ってるの?」とは言えなかった。そんな、『姉を怒ったことを遠回しに咎《とが》める』ような言い方は。
文華のしていることは、肯定してはいけない。だが、頭ごなしに否定することもできない。文華《ふみか》は、『両親の関心が比呂緒《ひろお》に向けられている』ことにひどく敏感だ。比呂緒は手のかかる子で、文華は手のかからない子。自分も夫も、どうしても比呂緒のことを気にかけてしまうことが多い。
……かつては、そうではなかった。小さい頃《ころ》からどこか大人びていた文華は、『駄目《だめ》なお姉ちゃん』を決して嫌ってはいなかったはずだ。むしろ『あたしのことは放《ほう》っておいていいから、お姉ちゃんのことを気にして』とよく言っていたものだ。
あの時から、文華はこんなにも姉を嫌うようになってしまった。
「……ヒロ、文華を怒らせるようなことをしたの?」
自分の考えから抜け出した母は、のろのろと元の体勢に戻りつつある娘を見下ろした。
「あたしが馬鹿《ばか》なのがいけないんだと思う」
箱を一度あがりかまちに置いた後、比呂緒は靴を脱いでやっと家に上がりこんだ。そして再度箱を拾い上げ、自分の母親を下から見上げてにっこりと笑う。
いつもと同じ、屈託《くったく》のない笑顔。
この子はなぜ自分に対して笑いかけてくるのだろう。心配をさせたくないからか。笑うことですべてをごまかそうとしているのか。本当に、心の底から笑いたいと思って笑っているのか。
この邪気《じゃき》のまったくない笑顔の裏側にも、同じ表情はあるのだろうか――。
「どしたの、ママ? 疲れてるの?」
「ん……そんなことないわ。少し考え事をしてただけ」
紘子《ひろこ》は視線を彷徨《さまよ》わせながら我が子を見下ろして、出かけた時には持っていなかった箱を持っていることにやっと気が付いた。
「……その箱、どうしたの?」
「貰《もら》ったの、三嶋《みしま》さんに」
聞いたことのない名前に、首を傾《かし》げる。
「どちらの三嶋さん?」
「さあ、どこの人かは知らない。明日《あした》会うかもしれないから、その時に聞いてみる」
知らない人に物を貰ってはいけない。知らない人についていってはいけない。それはいつも言っていること。いくらこの子が抜けているとはいえ、それさえも忘れてしまっては困る。
「ヒロ……知らない人に物を貰ったらいけないっていつも言ってるでしょ」
「知らない人じゃないよ。友達だもの」
友達。
比呂緒の口から、落合《おちあい》の子供以外の友達≠ェいることを知らされたことは、かつてなかった。比呂緒が誰《だれ》かの話をする時は決まって『顔と名前を何となく知ってる人』『同じクラスの子』『学校の先生』のどれか。比呂緒は、落合の子供以外の誰かを友達≠ニ呼んだことはない。
比呂緒に新しい友達ができたことを素直に喜んでいいものか。
「……ヒロ、その三嶋《みしま》さんはどんな人なの?」
「えーと、縞太郎《しまたろう》みたいな人。帽子|被《かぶ》ってて烏《からす》連れててギター担《かつ》いでた。たぶんあたしと同い年くらいの男の子。スープ奢《おご》ってくれたの」
「縞太郎……」
気難しくて愛想がなくてまったく懐《なつ》かず、そのくせ態度と図体《ずうたい》だけはやたらとでかかった猫のことを思い出すのに、紘子《ひろこ》は少し時間がかかった。つまりは、そういう少年なのだろう。比呂緒《ひろお》にこれ以上の説明を求めるのは酷《こく》だということを悟《さと》った紘子は、質問を箱に移した。
「で、その三嶋さんがくれた箱の中には何が入ってるの?」
「さあ、何だろ。開けてみるね」
玄関に座り込んで箱を床に置いた比呂緒は、蓋《ふた》を留《と》めてあるテープに爪《つめ》を引っ掛けて剥《は》がし始めた。数十秒後に開けられたその箱の中身を見て、紘子は反応に困ってしまう。
映画でしか見たことのない、銃《じゅう》を腰にぶら下げるための物。英語らしい文字が羅列《られつ》する小さなスプレー。何に使うのかよくわからない、先端にブラシがついた長くもない金属の棒。ごくごく普通の青い布切れ。ベルトに差せるようにできている、中を四つに仕切られた小さなポーチ。黒いゴム製の指サック。
理解に苦しむ。一見何に使っていいかわからない物に価値を見出《みいだ》すのは夫の得意技だが、自分の娘はそういう趣味の人々から使途不明な物品を貰《もら》ってしまう宿縁《しゅくえん》にあるらしい。
「……これは、何?」
「さあ、何だろ? あ、でもこれはわかるよ、ホルスターっていうの。……でも他《ほか》のはよくわかんない。明日三嶋さんに会ったら聞いてみる」
「それがいいわね……ヒロ、もし三嶋さんがいらしたら、ママに知らせてね。ちゃんとご挨拶《あいさつ》したいから」
こんながらくたに近い物をくれるその子が、どんな人物か見極《みきわ》めなければ。それに比呂緒が友達≠ニ呼ぶ人物に会ってみたい。
落合《おちあい》の子供以外の友達――それは自分も夫も長く待ち侘《わ》びていた存在。会うのは怖いが、会わなければ何も始まらないのだから。
「うん、そうする。あ、うがいして手と顔洗ってくるね」
蓋を閉じると、比呂緒は洗面所へと小走りに駆けていく。床に置かれたままの箱を見下ろしながら、二児の母は考える。
これから、何かが変わるかもしれない。平穏《へいおん》には近くもなく遠くもないこの家は、六年前から何もかもが変わり、そして今まで変化がなかった。比呂緒に新しい友達ができたという、些細《ささい》な、だが大きな変化。
もしかしたら、とてもいいことに繋《つな》がってくれるかも。もうこれ以上悪い方向になど、転がりようがないはず。
紘子《ひろこ》は、今日はいつもより明るく夫を出迎えられそうな気がした。
うがいを一分間続け、薬用|石鹸《せっけん》で一分間顔を洗い、洗顔用石鹸で一分間手を洗う。顔と手をごしごし拭《ふ》いた後で部屋に戻ろうとした比呂緒《ひろお》は、母に箱を置き忘れていることを注意され慌《あわ》てて玄関に戻った。
「せっかく貰《もら》ったんだから、大事にしないといけないわ」
「そだねー」
と箱を拾い上げて階段に向かおうとした比呂緒だが、足元のハンニバルに触《さわ》られた気がして視線を落とした。
「何、ハルさん?」
前脚でちょいちょいと比呂緒の脛《すね》に触れていたハンニバルが、口を小さく開けてため息のようなものをつく。
(だから、声に出さなくていいと言っている……君の部屋にマイナスドライバーはあるのか?)
「さあ、どうだろ……たぶんないんじゃないかな。何かに使うの?」
(君が使ってくれないと困るんだが……君の母親に聞いてみてくれないか)
「うん……ねえ、ママ。マイナスドライバーってうちにある?」
玄関の扉に鍵《かぎ》とチェーンをかけていた紘子は、比呂緒のいつもの独《ひと》り言《ごと》をさして気に留《と》めていなかったが、何の脈絡《みゃくらく》もなく出現したマイナスドライバーという単語に少々戸惑った。
「パパが会社から貰ってきた工具セットの中にあったと思うけど……何に使うの?」
「……何に使うんだろうね、どう?」
(そう私をあからさまに見下ろさないでほしい。君の母親が、『娘が床《ゆか》に話し掛けるようになってしまった』などと余計な心配をしなくてはいけなくなるぞ)
それは大変だ。実際に床とお話しできるならともかく、そうでないのに『床と話している』なんて思われたら床に悪いし、ママに心配してほしくない。心配するのは、とても疲れることだから。
(ちょっとラジオの蓋《ふた》を開けてみたいとでも言ってみたらどうだ?)
「あ、それは開けてみたいかも。ラジオの蓋開けて中身見てみたいの」
比呂緒の言動が怪しいのは今に始まったことではない。紘子はその言葉にあっさりと納得した。
「開けるのはいいけど、壊さないようにするのよ。聴けなくなったら、お正月過ぎるまで直しにいけないんだから」
そう言うと靴箱の中から灰色の工具箱を引っ張り出し、三本ある大きさの違うマイナスドライバーの中からもっとも小さい物を比呂緒に手渡す。
「先っぽが尖《とが》ってるから、気を付けてね。うっかり刺したりしたらとても痛いから」
「うん、気を付ける。ありがと、ママ」
ドライバーを握り締め、箱を抱えて階段を上る比呂緒《ひろお》の後をニケが追うのを見送りながら、紘子《ひろこ》は工具箱を同じ場所にしまい直した。
人の肉に触《ふ》れ、それを肉として感じることは、人ならば誰《だれ》にでもできることだ。だが、肉に触れただけで、その人間の魂《たましい》を感じることはない。
なら、なぜあの時、江藤《えとう》比呂緒の手に触れた時、彼女の魂を感じたのだろうか。しかも自分は六識《ろくしき》を閉じていたというのに。
それなのに、あの馬鹿《ばか》の魂を嫌《いや》というほど感じてしまった。熱く、美しく、その半面、巨大な津波のように自分の魂をさらっていこうとする。
怖かった。
南≠ナ多くの生者《せいじゃ》と死者《ししゃ》に会い、そのどちらも埋葬《まいそう》してきた自分は、恐怖という感情に対して耐性《たいせい》をつけてきた。だから、この国に帰ってきてからは何かを恐れたことは一度もない。
あの馬鹿に対して、自分は苛立《いらだ》ち、あきれ、そして恐怖している。
この紛れもない現実を、受け入れることはできる。冷静に考えた上で、それらすべてを否定するほど、自分は物わかりの悪い子供ではない。
……なら、なぜ自分はあの馬鹿に、苛立ち、あきれ、恐怖していることを認めたくないのだろう。
現実なのに。
江藤比呂緒が、自分より優れた魂の血髄《けつずい》を持ち、ソウル・アンダーテイカーとしての素質に満ち溢《あふ》れているという現実を。
なぜ自分は、素直に認めることができないのか。
三嶋蒼儀《みしまそうぎ》は苦悩する。
そして、その苦悩の元凶《げんきょう》たる江藤比呂緒はというと。
(まず、シリンダーから弾《たま》を抜いてもらおうかな。君が一発|撃《う》ったから、五発はまだ実弾だ。まあよほどのことがない限り、危険はない、が……)
「ふーん」
(……その、いかにもよくわかりません≠ニいう表情は、できればやめてほしいのだが)
「だってよくわからないもん」
敷く物がないために新聞紙の上に置かれたアストラM44[#「44」は縦中横]を情けない顔で見ながら、ハンニバルは比呂緒にいったいどこまでこのアルケブスを触《さわ》らせるか考えていた。正確な日数はわからないが、自分が憑《つ》いているこの銃《じゅう》はかなり長い間まともなクリーニングが行なわれていない。油を差すくらいのことはされていたが、色々なところに残滓《ざんし》がこびり付いている。これでは、この銃の本来の性能が発揮できない。
だから、この新しい主に清掃をしてもらい、しっかりとエーテルコーティングを施《ほどこ》してもらいたいのだが、そのためにはこの銃を分解する必要がある。
慣れれば二十分もかからずにできるが、比呂緒《ひろお》は何も知らない、そして物わかりが非常に悪い素人《しろうと》だ。いったいどれくらいの時間がかかるのか、ハンニバルには予想がつかない。
(まずはサムピースを……ハンマーの下にあるそれを前に押すんだ)
座布団に正座している比呂緒は、ハンニバルの言葉を聞いてサックをはめた指でアストラをつまみあげると、色々な角度から眺《なが》め回した。
「で、ハンマーってどれ?」
……一般常識とはいわないが、ハンマー、グリップ、トリガー、シリンダーくらいは、素人でもわかると思っていた。しかし考えてみれば、この少女に『一般常識』がまともに備わっているはずもない。
その事実に気が付いたハンニバルは、明日《あした》まで待とうかとも思った。あの少年――三嶋蒼儀《みしまそうぎ》と共にやった方が、気苦労も労力も半減するだろう。だが、それはあまりにも酷《こく》というものだ。これからあの少年には、嫌というほど苦労してもらわねばならない。
それに、彼にとって彼女はただの道具だろうが、自分にとっては主であり運命共同体だ。この程度のことでへこたれていては、この先やっていけない。
(……もう一度、それを床に置いてくれ。左側面を上側にして)
「はーい……」
比呂緒が銃を置く時、わずかに逡巡《しゅんじゅん》したのを見てハンニバルは少々不安になる。
(君は今、どちらが右か左か迷ったのではないだろうな)
「えー、いくらあたしでも右と左はすぐにわかるよ。右は右手のある方で左は左手のある方」
妙な表現の仕方だが、どうやらわかってはいるらしい。
(なら、なぜ少し迷った?)
「だってさ、取っ手を持っている時はこっち……この出っ張りがある方が左だけど」
(その出っ張りがサムピースだ)
「サムさんが左だけど、この棒の方を持ったら」
(……せめて筒と言ってほしい。その筒はバレルだ)
「……ハルさん」
(なんだ)
「何でもかんでも難しい言葉にするのはよくないと思う」
(わざと難解《なんかい》な言葉を使っているわけではない。そういう呼称なのだからしかたがないだろう)
「……んあー……」
困った顔をして声を上げる比呂緒《ひろお》を無視して、ハンニバルは床《ゆか》に置かれたアストラに近付いた。小さな前脚で、ハンマーの下を指し示す。
(先ほども言ったが、この出っ張りの部分をサムピースという。これを前、バレルの方向に向かって押すんだ。それによりシリンダーのロックが解除されて、スイングアウト……シリンダーを外に出すことができる。そして弾《たま》を抜く。抜くといっても銃《じゅう》を傾ければ勝手に落ちてくるが。……わかったかな?)
「……わかんない」
(……そうだろうとは思った)
ドライバーを用意させたが、それを使うことはまだまだできそうもない。
(とにかく、まずは弾を抜こう。私の言った通りにやってみてほしい)
比呂緒は納得のいかない顔で再び右手でグリップを握ると、左手の親指でサムピースを前に押した。
「押したけど……で、次はどうするんだっけ」
(シリンダーを、右側から左に押すんだ)
「シリンダーってのは、この蓮根《れんこん》みたいな丸いのだよね」
(そうだ)
左手の余った指を伸ばして軽くシリンダーの側面を押すと、ハンニバルの言う通りシリンダーが飛び出してきた。
「へえ、銃ってこんな風になってるんだねえ」
(……サムピースから指を離したらどうだ? それに、そんなに力を入れなくても大丈夫なはずだ)
「あ、力いっぱいやんなくてもいいんだ」
比呂緒は空いた左手で、たった今出てきたシリンダーをくるくる回し始める。
「うわー、よく回るねえ」
楽しそうに回す比呂緒の膝《ひざ》の上に乗り、ハンニバルは短い前脚を伸ばして銃を指し示した。
(で、その中にある弾を抜いてくれ。傾ければ落ちるから、ちゃんと手で受け止めるように)
「うーい」
銃口を少し上に向けると、長細い金属の塊《かたまり》が六つ左手に落ちてくる。鈍い黄金色《おうごんいろ》をした冷たい物体を、比呂緒はしげしげと見下ろした。
「はあ、これが弾ってもんなんだねえ。当たると痛いの?」
(さっき撃《う》たれた時、痛かったか?)
「え、あたし撃たれたっけ」
ただ単に忘れっぽいだけなのか、それとも『撃たれた』という認識をしていないのか。どこもかしこも鈍くできている主の膝《ひざ》の上で、ハンニバルはうなだれる。
(三嶋氏《みしまし》に撃《う》たれて、足と腕が一時動かなくなっただろう)
「へー、そうなんだ」
(言っておくが、よほどのことがない限り生きた人間に向けて撃ってはいけない。これはソウル・アンダーテイカーの常識だ……三嶋氏は常識知らずのようだが)
「ふーん……でもまあ、撃たれても痛くないし、いいんじゃない?」
(江藤比呂緒《えとうひろお》)
どこか真剣《しんけん》な調子で言うと、ハンニバルは膝の上から下りて比呂緒を見つめる。
(痛くないのは君の仙骨《せんこつ》が太いのと、彼の狙《ねら》いが絶妙であったのが原因だ。もし君が生きた人間を撃って弾《たま》が当たったら、間違いなくその人はエーテルが流出して死んでしまう。決して撃ってはいけない)
「うん、撃たないよー」
あっさりと答えると、比呂緒は手に持っていた弾を新聞紙の上に並べ始める。本当にわかっているのか、不安になるハンニバルであった。
「……あれ、これだけ何か変だね。先っぽがないし、中が空っぽだ」
(弾を撃つと、そうなるんだ。空薬莢《からやっきょう》という物だ。とりあえず燃えないごみの日に捨てるように)
「え、捨てるの? もったいないなあ……」
(これにどういう使い道を見出《みいだ》そうとしているんだ、君は)
「んあー、でも何かに使えると思わない?」
(……何に)
「何かに」
(……弾も抜き終わったことだし、少しばらしてもらおうかな)
彼女がマイペースを貫くなら、自分も自分のペースを貫けばいい。そう決心したハンニバルは、薬英のことは忘れることにした。
(シリンダーを外して、バレルを外して……サイド・プレートを外すのはさすがに怖いからやめておこう。まずはシリンダーだ。銃の右側、シリンダーの下のピンを緩《ゆる》めてくれ)
「ピンってなーに?」
(……ネジのことだ)
「じゃネジって言ってくれればいいのに」
(私はピンの方が言いなれている)
「ハルさんは、猫なのに難しい言葉ばかり使う生活をしてたんだねえ……インテリさんだあ」
比呂緒は母から渡されたマイナスドライバーを持つと、シリンダーの下にあるピンに合わせた。そこで、比呂緒の動きが止まってしまったのを見たが、ハンニバルはとりあえず黙っていることにした。
だが。
「うーん、固いネジだなあ……」
(……比呂緒《ひろお》)
「なーに?」
(君は、今、ピンを締めているぞ。それではいつまでたってもピンは外れない)
「ああ、反対かあ! ずいぶん固いと思った。んじゃ改めて……」
(……比呂緒)
「なーに?」
(君が妙な方向に力を入れたから、ピンが傷付いている)
「そう? いいじゃん、よく見るとこの銃《じゅう》、結構細かい傷あるよ。一つや二つ増えたって変わらないよ」
(……だから、これ以上増やさないために気を遣《つか》ってくれ……)
「とりあえずがんばってみる」
ハンニバルはその不器用な手先に恐怖した。自分は物に触《ふれ》れることができないから、口は出しても手を出すことができない。もし彼女に最後まで分解させたら、時間がかかる上にピンやスプリングをどこかに飛ばしかねない。
……結局、シリンダーを外させた時点でハンニバルは比呂緒の危なっかしい手を止めさせた。
(この猫の手が、もう少し役に立てばいいのだが……)
「えー、猫の手は役に立つよー、ねーニケー?」
屋根裏部屋の入り口から用心深く顔を出すニケに笑いかける比呂緒を見て、ハンニバルはこの馬鹿《ばか》な主と自分に関《かか》わってしまった三嶋蒼儀《みしまそうぎ》に対して同情の念を禁じえなかった。
比呂緒に友達ができる。それはとても喜ばしいことだ、と江藤英士《えとうえいじ》は考える。何しろこの娘の友達といえば、あの子一人だ。あの子は決して悪い子ではない。それはわかっている。恨《うら》んでいるわけでは決してない……たぶん。
だいたいあの子を恨むのは筋違《すじちが》いというものだ。自分たち夫婦が恨み、憎悪《ぞうお》している人間は別にいる。ただ、その人物がもう既《すで》にこの世にいないこと、そして『もし、あの子が、あの時、別の行動を示してくれたら、こんなことにはならなかったのに』という感情が、未《いま》だに心の奥底に眠っている。
あの子もまた、被害者なのに。
だが、それでも思ってしまう。今の比呂緒の性格は、六年前のあの事件を境《さかい》に変わってしまったのではないかと。
子供の性格を決定付けるものは何なのだろう。本人が生まれ持った性質、親の影響、周囲の環境、そんなところだろうか。比呂緒《ひろお》の場合、祖母、自分にとっては母にあたる存在が人格に大きな影響を与えていると英士《えいじ》は思う。
大変|偏《かたよ》った考え方をして、親馬鹿《おやばか》であり、孫娘二人を溺愛《できあい》し、すぐ激昂《げっこう》するがすぐ機嫌を直し、おかしなところで遠慮深く、妙なところでは異常なまでに図々《ずうずう》しい、そんな母の影響を比呂緒は多分に受けていた。
嘘《うそ》はついてはいけない、だがつく必要があったらつく。これなどまさしく母の影響だ。人間、やってやれないことはないけど、神様じゃないんだからできないこともある。比呂緒がたまに言う言葉は、母の言葉でもある。それらは別に悪いことではない。
あの子の問題点は、別のところにある。
……本当は、問題点などと言いたくはない。
比呂緒はいい子だ。多少親馬鹿であることは認めよう。だが、いい子であることは間違いない、と思いたい。世間様も、恐らくそのことについては認めてくれるだろう。『江藤《えとう》さんちの上の子、ほらちょっとアレよねえ』という言葉の後には必ず、『悪い子じゃないんだけど』と続くらしい。悪い子ではないことがすなわちいい子であることに結びつくわけではないが、とりあえず結びつけてしまおう。
学校の成績が悪いことは、まあ別に問題はないとは言わないが、自分は気にしない。頭が悪い悪いと言われはするが、そうではないと思いたい。ただ、勉強という事項に対して異様に物覚えが悪く、よく笑い、あまり怒らず、先のことをよく考えずに行動し、他人《ひと》に怒られても、なぜ怒られるかよくわからず、そのため反省もせず、過《あやま》ちを繰り返す。
……よくよく考えると、結構な問題かもしれない。
だが、それをどうやってよい方向に導いていけばいいのか、英士にはわからなかった。一応、努力らしいものはしているつもりなのだが、その成果はまったくといっていいほどあがってはいない。
年を経《へ》れば自然に変わるのだろうか。そんなことも妻と二人で考えた。
だが、そうでなかったら。
あれが原因で、比呂緒がずっとあのままだったら。
やはり、自分と妻は、あの子を恨《うら》んでしまうのだろう。あの子に何の咎《とが》がないとしても。
だが、あの子以外に比呂緒の友達はいない。過程はどうあれ、それが現実だ。その比呂緒にあの子以外の友達ができる。
喜ばしいことだ。妻に聞いたところ少年なのが、気にならないといえないこともないが、まあ気にしないことにしよう。だいたい、娘に男の友人ができたくらいで色々と心配する心の狭《せま》い男親にはなりたくない。そりゃ娘が年頃《としごろ》なら気にしないでもないが、まだ十二歳になったばかりだ。いったい何を気にしろというのか。
……自分と妻との馴《な》れ初《そ》めは、さかのぼれば小学校時代になってしまうがそれはそれで別の話だから、今は気にしない。
だが。
それが、あのギターケースを担《かつ》いだ少年だというのは、どういう縁なのだろう。
「……こんにちは」
三嶋蒼儀《みしまそうぎ》は、江藤家《えとうけ》の門柱に寄りかかって新聞を読みながら煙草《タバコ》を吸っている男に声をかけた。……思えばこの男が、あの日あの時あの場所でハンニバル憑《つ》きアルケブスを買わなかったら、自分は江藤|比呂緒《ひろお》に会わずにすんだし、この家に来ることもなかったのだ。
縁がある、などとも運命とも思いたくないが、とりあえず現実は直視しなければならない。自分が、あの馬鹿《ばか》をそれなりのソウル・アンダーテイカーにすると決めたのだ。成り行きかもしれないが、これは自分の意思だ。ハンニバルに強制されたわけでは断じてない。
だから、この家に来るのも自分の意思だ。なので、インターフォン近くにいる江藤比呂緒の父親に挨拶《あいさつ》するのも当然といえば当然のことだ、と思う。
なのに、この中年男はぎょっとしたような表情で自分を見返してきた。自分の何がいけないというのか。そう怪しくも見えないだろうに。だいたいこの男の霊髄《れいずい》は回っていない。自分の肩の上にいるシルバーだって見えていないはずだ。
肩の上に烏《からす》を、それも首に白い毛が生えている烏を乗せている少年、それは確かに怪しいであろうから警戒《けいかい》されてもしかたがない。だがこの男はシルバーを認識できないし、今はさらに隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》を施《ほどこ》してある。これなら一般人はもちろん、まだ霊髄の回転が速くない馬鹿にだってシルバーを知覚することはできないはずだ。
自分の見た目で変わったところ、あえていうならこのギターケースを模《も》したライフルケースだろうか。この中には、ガリル・スナイパーライフルが収納されている。自分がもう少し幼い頃《ころ》は、重くて大きくてしかたのなかったこのライフルも、今ではだいぶ軽く感じられるようになった。大きさこそ変わりはしないが、その代わり自分は少し成長した。まだこのライフルを小さくは感じることはできないが、撃《う》つぶんには何の支障もなくなっている。
これの中身が見えたら怪しまれるだろうが、見えるわけがないのだから怪しまれる理由にはならない。なら何がいけないというのか。この帽子か、この服装か、それともこの顔の造形が気に入らないというのか。
「…………こんにちは…………」
結構長い沈黙の後、やっと男から返事がきた。しかしその声はなぜか若干《じゃっかん》震《ふる》えていて、その直後、煙草の吸い方を間違えたのか、激しく咳《せ》き込んで煙草を落とす。何を動揺《どうよう》しているのだろう、この男は。
まあいい。とりあえず返事はあったのだ。さっそく馬鹿《ばか》に取り次いでもらおう。他人《ひと》の家にあがりこむのは嫌いだが、あの馬鹿を自分の家に招き入れるのはもっと嫌《いや》だ。だから、こうして自分がここまで来た。
自分は何が何でも、この江藤《えとう》の家に入れてもらわねばならない。そのためには、まずこの男、恐らく江藤家の主《あるじ》である彼に挨拶《あいさつ》する必要がある。
と、考えてから、蒼儀《そうぎ》は自分が彼に「こんにちは」という挨拶をしただけで、自己紹介をしたわけではないことを思い出した。一応あの店で擦《す》れ違いはしたが、別に挨拶を交わしたわけではない。とりあえずこの出会いを初対面ということにしておいて、「はじめまして」から始まる挨拶をした方がいいかもしれない。
そう考えた蒼儀は、彼に向かって軽く頭を下げた。
「初めまして、三嶋《みしま》蒼儀という者です。比呂緒《ひろお》さんの友達です。彼女に用があるのですが、取り次いではいただけませんか?」
おかしな言葉、ではなかったと思う。文法的に妙なところでもあっただろうか。それとも、子供らしくない言葉|遣《づか》いだったか。……考えてみたが、一般的な言葉だと自分では感じた。なのに彼は表情をさらに凍《こお》りつかせ、持っていた新聞をぐしゃりと握り締める。何がいけないというのだろうか。彼は、自分に何の不満があるというのだろう。
「…………えーと…………う、うちの娘に何のご用でしょうか…………」
なぜ子供に丁寧語《ていねいご》を使うのか。別に使うなとは言わないが、不自然な気がする。それに用は何かと聞かれても困る。アルケブスの分解と手入れの仕方、弾《たま》の作り方くらいまで教えようかと思っていたが、もっと基本的なことから始めなければいけないな――などと考えていることをこの男に説明する気はない。
だいたい、ソウル・アンダーテイカーの仕事を一般人に認知させるのは難しい。『魂《たましい》』というものを見ることができないのだから、当然だ。ソウル・アンダーテイカーは葬儀《そうぎ》会社や市の住民部など密接な関《かか》わりを持っているが、『魂の葬式』というものが行なわれていることを知っている人間はあまりいない。
霊葬業務請負人《れいそうぎょうむうけおいにん》。ソウル・アンダーテイカーの正式名称だが、語感が悪いせいかこの呼称が使われるのは公式文書くらいだ。しかし、公式に魂の葬式が行なわれることはそう多いことではない。この世にあまり執着《しゅうちゃく》を持たない魂は、ゆっくりと自然に月へと還《かえ》っていくからだ。
だが、それを拒《こば》む魂もいる。この世に何が何でも残りたがり、生きる肉と魂にしがみつくものもいる。その彷徨《さすら》う魂を月へと還すための儀式を敢行《かんこう》するのがソウル・アンダーテイカーの仕事だ。
魂を月へと還す手段。それは、魂を空へと解き放つこと。羊≠アルケブスで砕き、その破片をアルケブスで月に向かって撃《う》ち放つ。この世界に無用な騒乱を避けるためには必要不可欠な仕事だが、不浄《ふじょう》の職でもある。
汚《けが》れた魂《たましい》と関《かか》わっていくこの仕事を続けていくうちに、魂は磨《す》り減り汚れていく者も数多い。
この男にそれを説明して、たとえ理解できたとしても自分の娘がそんな職に就くことをよしとしないだろう。自身がソウル・アンダーテイカーであることを血縁者に知らせていない者は数多い。三嶋家《みしまけ》のように、一家全員がこの職に関わっていることの方が珍しいのだ。
蒼儀《そうぎ》は色々な理由を自分の中に見つけ、比呂緒《ひろお》を訪ねる本当の理由を彼に告げなかった。ただ単純に『面倒くさかったから』だけなのかもしれないが、蒼儀はそこまで深く考えることはしなかった。
だから、蒼儀はここを訪れた本当の理由を言わずにこう答えた。
「遊びに来ました」
遊ぶ。自分とは縁のない言葉だ。遊ぶという行為をした覚えは、生まれてこの方ないに等しい。自分たちの年頃《としごろ》がやる遊びとはいったいなんだろうか。屋内だと、テレビゲームだろうか。野外だと、公園の遊具を使用して運動をするのだろうか。
一緒に勉強をするために来た、とでもいえば都合がよかったかもしれない。しかしあの馬鹿《ばか》と勉強するなど、考えただけで恐ろしい。だいたいこの男も、自分の娘が勉強などしても無駄《むだ》なことくらいはわかっているだろうし。
しかし『図書館に行く』くらいは言った方がよかったか。その方が聞こえはいい。……などと今さらながら色々考えてみたが。
「…………あ、遊びにいらしたんですか…………」
何なのだろう、この男は。
かの男の動揺《どうよう》はどんどんひどくなっていく。止《や》んだとはいえまだ雪の残るこの寒空《さむぞら》の下、広い額《ひたい》に汗まで浮かべ、大きな眼球をきょときょとさせている。
しげしげと彼の顔を見た蒼儀は、あの馬鹿との共通点を探そうとしている自分に気がついた。この男と馬鹿は、似ているのだろうか、似ていないのだろうか。
男は母親に、女は父親には似る。そんなことを言っていたのは自分の兄だったか。そう言った兄は、確かに母親に似ている気がするが、「お前は父さん似だね」といったのは姉だった。
この目の前にいる男は、馬鹿に影響を及ぼしているのだろうか。この男の霊髄《れいずい》は回っていないし、エーテルの密度や仙骨《せんこつ》の太さもごくごく普通の人間のものだ。エーテル密度が遺伝するかしないかはまだ判明していないが、三嶋家では親のエーテルは子供に影響すると考えられている。現に両親も兄や姉たちは、全員太い仙骨と高いエーテル密度を持っている。
だが、自分たちよりもはるかに太い仙骨と美しいエーテルを大量にその体内に宿している江藤《えとう》比呂緒の父親はただの人だ。これは母親がよほどのものなのか、それとも鳶《とび》が鷹《たか》を生んだのか。
……あの馬鹿は、鷹ではないな。
蒼儀はすぐに考え直す。あれは鷹ではない。醜《みにく》いあひるの子は白鳥だったらしいが、あれはあひるですらない。まだ卵の状態だ。その中から何が出てくるかは、自分とハンニバルにかかっているわけだが。せいぜい鬼《おに》だの蛇《じゃ》だのが出てこないように見てやらねばなるまい。
しかしこの男は、いつまでぼんやりと突っ立っているのだろう。年の瀬も迫《せま》った現在、この男も暇《ひま》ではないはずだ。煙草《タバコ》の灰を自宅前に落として新聞を握り締めてぼけっとしている間に、家の中に入って馬鹿《ばか》に取り次ぐなりすればいい。自分が気に入らなくて追い返したいなら、罵声《ばせい》でも浴びせて追い返せばいい。
さて、そうなったらどうすればいいか。一応帰るが、シルバーを通じて馬鹿と連絡をとるのがよいだろうか。あれと意思の疎通《そつう》を図るのは大変だから、ハンニバルと話すことにしよう。そして馬鹿を呼び出して……それからどうすればいいのか。やはり自分の家にあれを連れて行くしかないのか。
うんざりしそうになった蒼儀《そうぎ》だが、ここでやっと馬鹿の父親が動き出した。門柱の上に置いてあった灰皿で煙草を揉《も》み消し、くしゃくしゃになってしまった新聞紙をできるだけ綺麗《きれい》に畳《たた》み直す。
「…………えーと、つまり、君はうちの比呂緒《ひろお》の友達で、本日今日という日に我が家に遊びに来たと、そういうわけで…………」
だから、そうだと言っているだろう。そう言いたくなるのを、蒼儀は何とかこらえた。あの馬鹿の馬鹿さ加減はこの男からの遺伝だというのか。要領の悪いこの男に、蒼儀はだんだん苛苛《いらいら》してきた。年の割に落ち着いていると思っていた自分だが、昨日《きのう》からどうにもそうではない事象ばかり目の前に突きつけられている。別に自分が落ち着いているわけではなく、ただ今まで腹が立つような人間に出会わなかっただけなのかもしれない。
まだまだ修練が足りない。そう内心で思いつつ、蒼儀は男の顔を見返した。
「はい、その通りです、比呂緒さんのお父さん」
お父さん。
見知らぬ少年にいきなりお父さんと呼ばれてしまった。いくら上に『比呂緒さんの』とくっついていても、なぜかショックを受けてしまった。居酒屋の女将《おかみ》やタクシーの運転手に『お父さん』と呼ばれても気にもならないが、今、この少年の口から『お父さん』という言葉が出たことに英士《えいじ》は激しく動揺《どうよう》する。
お父さん。
そりゃ、確かに自分はお父さんだ。それは間違いない。自覚している。妻だってお母さんだ。娘二人の前では、『お母さん』『お父さん』と呼び合っている。二人の時は『お前』『あなた』だったりする。近所の人には『江藤《えとう》の奥さん』『江藤の旦那《だんな》さん』である。何だか、名前で呼ばれた記憶がないような気がするが、今はそれはどうでもいい。
だが『お父さん』以外に何かよい呼び方はあるだろうか。この少年に「私は江藤英士《えとうえいじ》だ、英士と呼んでくれたまえ」などというわけにもいかない。……となると『おじさん』なのだろうか。だが『おじさん』と呼ばれることを想像すると、かなり抵抗がある。まだお父さんの方がましだといえないこともない。さすがに『お兄さん』と呼んでもらえるような歳《とし》ではないことは自覚しているが、わかっていても見知らぬ子供に『おじさん』と呼ばれるのはショックだ。
そういえば、妻もスーパーで『おばさん』と呼ばれた時は若干《じゃっかん》傷ついたようだ。そう愚痴《ぐち》をこぼされた時、『いいじゃないか、人からどう呼ばれたって。だいたいお姉さんって呼ばれる歳じゃないだろう』と答えたら、不機嫌になった。あの時は比呂緒《ひろお》に『パパがママを怒らせてる、いけないなあ、パパはいけない人だあ』と言われてしまった。文華《ふみか》の反応はいつもと同じだった気はするが。
そう言えば比呂緒は自分たちのことを『パパ』『ママ』、文華は『お父さん』『お母さん』と呼ぶ。どうしてこんな違いがあるのだろうか。
前は、というほど以前ではないが、文華も自分たちのことをパパ、ママと呼んでいた気がする。いつの間に文華は『お父さん』『お母さん』と呼ぶようになったのか。意識して呼び方を変えたような気がする、次女は。
愚姉賢妹《ぐしけんまい》。世間ではうちの娘二人はそう称されている。確かに文華は賢い、といっていい。学校の成績は悪くないどころか、とてもよい。友人も多く、通知表の通信欄に書かれる言葉は比呂緒よりはるかに少なく、そして褒《ほ》める言葉が多い。
だが、それだけが文華のすべてでは決してない。比呂緒に対する文華の態度は、とても褒められたものではない。罵声《ばせい》を浴びせるだけではなく、比呂緒に手をあげてもいるらしい。
らしい、というのは、文華が比呂緒に拳《こぶし》を振るっている場面に自分も妻も居合わせたことがないからだ。もしその場にいれば自分たちは文華を叱《しか》るが、文華が比呂緒に手をあげるのは二人きりの時だけだし、比呂緒は決して「文華に殴《なぐ》られた」などと言いはしない。
姉妹がこんなにも不仲になってしまった理由。そんなこと、考えるまでもない。
あの日まで、自分たち一家は――。
いったい何なのだ、この男は。
まったく動かなくなってしまった英士を見て、蒼儀《そうぎ》はギターケースを担《かつ》ぎ直しながら内心であきれ返った。彼は自分を家に上げる気があるのか、ないのか。その辺りをはっきりしてもらわなければどうしようもない。
「……あの、すいません。外は寒いので、比呂緒さんに取り次いでいただけませんか?」
寒さに耐《た》えられないわけではないが、これではいつまで経《た》っても話が進まない。だから蒼儀はそう言った。
その言葉に、英士《えいじ》が弾《はじ》かれたように動き出した。持っていた灰皿が揺《ゆ》れて、小脇《こわき》に抱えていた新聞が雪の上に落ち、慌《あわ》てて拾い上げようとした拍子《ひょうし》に今度は灰皿を落として自宅の玄関前に灰をぶちまけ、「ああああああ……」という情けない声を出しながら濡《ぬ》れた新聞と空になった灰皿を拾う。
「…………いやあ、すまないねえ、君…………そうだね、ここは寒いねえ…………まあ私は寒いのが好きだし……いや、外で煙草《タバコ》を吸っているのはねえ、家族が嫌がるからねえ……君は吸わないだろうからわからないだろうけどね…………まあね、カーテンや天井が黄色くなるのはいいかもしれないが、ちょっと娘が喘息《ぜんそく》を患《わずら》った時期があってね……その時はこうして外に出て吸ったもので…………」
何を言っているのだろう、自分は。新聞と灰皿を持って、妙な笑いを口元に浮かべながら、何を見知らぬ少年に言《い》い訳《わけ》しているのだろうか。
つまり、自分はこうして彼に言い訳をすることで、なるべく比呂緒《ひろお》とこの少年を会わせないようにしているわけだ。ずいぶんと肝《きも》の小さい男である。そんな情けないことでどうするのか、娘に男友達が訪ねてきただけで何の問題があるというのか、ええ、そうだろう、江藤《えとう》英士。
と自分に言い聞かせると、英士は背筋《せすじ》をしっかり伸ばして目の前にいる三嶋蒼儀《みしまそうぎ》少年を見下ろした。
見下ろされた側の蒼儀としては、見下ろされた以上は見上げるしかない。腰をかがめてわざと目線を合わせられるよりはいいが、先ほどまで妙な態度をとっていた男にこんな挑戦的な態度をとられるのも何となく嫌な感じがする。
だから蒼儀もまた、静かに英士のことを見上げた。
その蒼儀の顔を初めて正面から見た英士は、どうにも嫌なものを思い出した。彼の顔は何かを思い出させる。
とても、とても思い出したくない何か。
その思い出したくない何かを、英士はどうしても思い出せなかった。
とりあえず宿題でもしてみようか、と比呂緒は考えた。冬休みである。読書感想文を原稿用紙二枚、書き初《ぞ》め。それだけだ。それだけと言ってしまえばそれだけなのだが、これがまず大変だ。まず読書感想文。感想文を書くためには、まず本を読まなければならない。そしてこの本を選ぶのがまず大変だった。
もともと比呂緒は、何かを『選ぶ』という行為が得意ではない。適当に選んでいいものなら、すぐにでも決められる。だが先生が『課題図書はよく考えて選べ』と言ったために比呂緒はかなり悩むこととなった。
そして十冊ほどある課題図書の中から、比呂緒は夏目漱石《なつめそうせき》の『坊っちゃん』を選んだ。理由は簡単、千円札の人が書いたからだ。
(……君は、そんな理由から読む本を決めるのか?)
「そうだよー、駄目《だめ》?」
座布団の上にあぐらをかき、本を机の上に開いて今まさに読書に入ろうとしている比呂緒《ひろお》の横には、ハンニバルがいる。
(駄目、とは言わないが……君には、読みたい本はないのか? 決して読書をしないわけではないらしいが……どうにもおかしな本棚だな)
あまり大きくはないその本棚には教科書と辞書以外には、いかにも子供向けらしい装丁をした旧約聖書、新約聖書、古事記《こじき》、今昔物語《こんじゃくものがたり》、ジャータカ物語等が並んでいた。こう言ってはなんだが似合わないな、とハンニバルは思った。漫画でも読んでいるかと思ったが、その類《たぐ》いの本は一冊もない。
(これらを、君はすべて読んだのか?)
「読んだよ」
(ほう、いつ頃《ごろ》かな?)
意外な答えに、ハンニバルは思わず目を見開いた。てっきり親が買ってきただけの本棚の肥《こ》やしかと思っていたがそうでないとは驚きだ。
「さあ? よく覚えてないなあ、いつだっけ。ねえ、ハッちゃん?」
そう声をかける比呂緒のあぐらの上には、ハツヒコが丸くなっている。比呂緒がその背中を撫《な》でても、まったく反応しない。
(あぐらはよくないと思うのだが)
「そう? 正座にするとハッちゃん嫌がるんだよねえ。何か座りがよくないみたいで。でもまあ、やってみる……よいしょっと」
比呂緒はいかにも重たそうなハツヒコの身体《からだ》を両腕で抱え上げると、一度立ち上がった。そして正座をして改めてハツヒコを膝《ひざ》の上に乗せる。その間、ハツヒコはまったく動こうとせずに、ただ耳をぴくぴくさせるのみだ。
「うーん、困った。ハッちゃんから手を離したら、ずり落ちる。片手だと疲れるし、両手だと本が読めない。困ったなあ」
正座をした比呂緒の膝に乗せるには、大柄で太っているハツヒコの身体は大きすぎた。比呂緒が手で支えてやらないと、ハツヒコの身体は比呂緒の膝から落ちることになる。
(……しかし大きい猫だな、これは)
雌《めす》の仔猫《こねこ》の姿をしたハンニバルと、成猫《せいびょう》の雄《おす》、それもかなり巨体の部類に入るハツヒコとでは大きさがだいぶ違う。その二匹が並んでいるのを見て、比呂緒はとても楽しそうな顔をした。
「うーん、やっぱりハッちゃんは男の子だねえ、すぐハルさんと仲良くなった」
(私と彼の、どこを見て仲良くなったというんだ)
「だって、ハッちゃん逃げないし、ふーふー言わないじゃない、ハルさんが側《そば》にいるのに。これは仲良くなった証拠《しょうこ》。ニケはまだ逃げてるもの、ハルさんから」
比呂緒《ひろお》のいう通り、ニケは相変わらず屋根裏部屋へと続く階段の下にいる。時たま階段を上がって部屋の中を覗《のぞ》いては、ハンニバルの姿を見つけてふきつけながら去って行く。
(ところで、いつまでそうやって猫を支えているつもりだ? 疲れないのか)
「疲れるよー。だから困ってる」
(猫を下ろせばいいじゃないか)
「駄目《だめ》だよ、寝てるとこを起こしたら、悲しいし」
(……彼だって、下ろされればすぐに目を覚ます。そして自分に相応《ふさわ》しい寝場所へと行くだろう。だから下ろしていいのではないか? だいたいそれでは、いつまでたっても本は読めない)
ハンニバルの言葉に、比呂緒は「うーん」と唸《うな》った。
「まあ、そうかもしれないけど、でもハッちゃんせっかく寝てるんだからかわいそうだよ。眠い時は寝るのは一番だよ」
そう言いながらハツヒコの背中に生えている毛の中に、比呂緒は指を滑らせた。毛の生えている方向とは逆向きに、ゆっくりと指を動かす。その動きが撫《な》でているようにはどうしても見えなかったので、ハンニバルは、
(……君はいったい何をしているんだ)
と聞いた。
「蚤《のみ》とってる」
(……蚤? この猫には蚤がいるのか? それにこの猫がしているのは蚤とり首輪ではないのか)
「蚤とり首輪だよー。蚤とり櫛《ぐし》で取るし、冬だから少ないけど、絶対いないわけでもないの。たまーにこうして探してるの」
(君は、指先の感覚だけで蚤を探してとっているのか?)
「そだよー、お、いたいた、あまりいないから見つけるの大変だけど、寒くて弱ってるから捕まえ易《やす》いや」
そう言うと、比呂緒は親指と人差し指をしっかり合わせてからゆっくりとハツヒコの背中から手を遠ざけた。その指先には数本の毛が絡《から》んでいる。
比呂緒は親指と人差し指の合わせ目を慎重にずらすと、親指の爪《つめ》同士を合わせた。ぶち、という小さな音がした後、比呂緒は近くにあったごみ箱の上に両手を翳《かざ》して払う。
(蚤を、潰《つぶ》したのかな?)
「うん、ほんとは潰しちゃいけないんだけど、これ雄《おす》だから潰してもいいの」
(雌《めす》は潰してはいけないのだろうか)
「雌は卵持ってるから、卵がお腹《なか》の中にあると弾《はじ》けて卵が出ちゃうでしょ? 蚤の卵って目に見えないくらい小さなもんらしいから、出ちゃったら始末できないもの。蚤《のみ》、増やさないようにしないとね」
(ふむ)
相変わらずくだらないことばかり知っている。そしてどうでもいいことばかり覚えているようだ。そう思ったハンニバルだが、ふと自分の主《マスター》に質問をしてみたくなった。
(君は、蚤を殺すという行為についてどう思うかな?)
「蚤を殺すことで、ハッちゃんが痒《かゆ》くならなくなる」
(それだけのために、君は蚤を大量に殺しているのかな?)
「うん、どれくらいかはあんまり数えないなあ。一度、おばあちゃんが蚤一匹とるごとに一円くれるって言った時は数えた。二五八三匹かな? 結構すごいと自分でも思った。疲れたなあ」
(つまり君は、君の飼い猫にとってその存在が不快だから、という理由だけで蚤を殺すのかな?)
「またハルさんは難しい言葉を使うなあ。そうだよ、ハッちゃんやニケのために蚤たくさん殺したよ」
鈍いな、とハンニバルは思った。含みをもたせた発言をしているつもりなのだが、この抜けた主は全然気が付いてくれない。普通なら、「お前は何が言いたいんだ」くらい聞き返してもおかしくないはずだ。
なのに彼女は平然と、自分の言葉に素直に、正直に、臆面《おくめん》もなく、ただ思うままに応《こた》えてくる。
彼女がソウル・アンダーテイカーという死と密接に関《かか》わる、ある意味|穢《けが》れた、そして神聖ともいえる職業についたら、彼女は生と死に対してどんな風に感じるのだろう。ハンニバルはそんなことを考えている自分に、少し驚いた。
だから、さらにハンニバルは問い掛ける。
(君は、君の家族が、君があまりにも愚《おろ》かであることを嘆き、不快に思い、君を視界から遠ざけたいと思ったら、どうするのかな?)
もしかしたらこの子供は、自分を殺すことも躊躇《ためら》わないのかもしれない。
そんな気がした。
ハルさんは、難しい言葉を使うけど、質問は結構簡単に答えられることばかりでよかったなあ。
「そんなの簡単だよ」
「ヒロ!」
父が自分を呼ぶ声に、比呂緒《ひろお》は思わず立ち上がり、ずり落ちたハツヒコが音を立てて床に落ち、「ああああごめんねハツヒコ、痛かっただろうね、悪かった悪かった」と言いながらハツヒコの背中を撫《な》で、慌《あわ》てて階段を下りようとして足を踏み外し、階段の下にいたニケが「ぎゅー!」と叫びながら跳《は》ねていき、だーん、と大きな音を立てて落ちていく。
「いったああああ、どっかうったあああ、どこがいたいかよくわからないけどだいじょうぶぅうううう」
と、叫ぶ声に混じって、両親の心配する声と妹の罵倒《ばとう》する声が聞こえる。
(……やれやれ)
落ちたままの体勢で全く動かないでいるハツヒコが、自分のことをじっと見ていることに気が付いたハンニバルは、
(彼女を鍛《きた》えるためにこの猫の手を借りることはできるだろうか)
と、大変|馬鹿《ばか》馬鹿しいことを考えた。
「やあ、三嶋《みしま》さんだ、こんにちは」
蒼儀《そうぎ》は文字通り転がるように二階から下りてきた比呂緒が、最後の段を踏み外して足をしたたかに打ち「いったあ」と呟《つぶや》いた数秒後、何事もなかったかのように立ち上がって間抜けな笑顔を向けてくるのを無表情に見ていた。
「……こんにちは」
とりあえず無難な挨拶《あいさつ》を交わした後、蒼儀は玄関に足を踏み入れた時には感じなかった何か≠感じた。
(…………何だ?)
階段の横には、先ほどからうろたえた表情ばかり浮かべている馬鹿の父親と、先ほどごくごく一般的な挨拶を交わした母親がいる。階段の奥にある部屋からは、先ほどから自分に向けられるどこか歪《ゆが》んだ悪意のようなものが漂ってくる。階段の上からは、ハンニバルとは違う生きた猫の耳が見え隠れしている。
別に変わったところは何もなかった。普通に見える一般的な家庭。……そう、これは一般的な家庭のはずだ。父がいて、母がいて、兄弟姉妹がいて、ペットがいる。魂《たましい》を削ることなく、緩《ゆる》やかにすり減らして生き、そして死ぬ人々。死の後には抜け殻《がら》となった肉の塊《かたまり》を燃やす儀式をすることしか知らない人々。
それが普通のことだ。そして、それが普通でいい。
その普通の家のなかに、生きた魂《たましい》と死んだ魂の残滓《ざんし》が漂っているのはごくごく普通のこと。この家が築何年かは知らないが、人と動物が生きてそして死んでいったのなら、壁や天井にそれらの欠片《かけら》がこびりついているのは何もおかしいことではない。この家は、極めて正常な家だ。
だが、比呂緒《ひろお》が階段から転げ落ちて来た瞬間、この家は確実に変わった。両親のエーテルの色が最初に見た時より濃くなり、そして仙骨《せんこつ》の中を走る速度を上げる。奥から感じるねじれた気配は、さらに強くなって玄関に漂ってくる。ただ静かに中空を彷徨《さすら》っていた無害な残滓たちが、微《かす》かにその動きを速めていく。
「友達がうちに来るのは初めてだよー嬉《うれ》しいなあ。上がって上がって。あ、あたしの部屋はストーブないけど、居間はあるのよ。三嶋《みしま》さん寒がり? ストーブあった方がいい?」
「……君の部屋でいい」
比呂緒の言葉にそう答えた蒼儀《そうぎ》だが、彼の意識は既《すで》に自分の六識《ろくしき》が見せているものに奪われていた。
昨日《きのう》見た、江藤《えとう》比呂緒のエーテル。美しく、力強く、そして著しく欠けた魂《たましい》の血と骨。
それは、昨日見た時と何ら変わらず、そして変わっていた。
後頭部、あの黒い空洞《くうどう》からエーテルの流出が始まっていた。だが、それはあの赤く美しいエーテルではなく、青みがかったどろどろとしたものだった。それらは彼女の肉にしがみ付き、ただの残滓《ざんし》になることを拒んでいる。
死ぬことを拒み、何が何でも生きようとする魂。ゆるやかに、だが確実に流れ出るその魂の量は、普通の人間なら放《ほう》っておけば間違いなく死に至るもの。
あの傷を塞《ふさ》がなければ。
反射的に蒼儀は思った。脳からエーテルを噴《ふ》き出させて死んでいく人間たちを何度も見てきたが、その時は何とも思うことはなかった。なぜなら、死ぬことがわかっていて、助ける手段も助けようという気も起こらなかったから。
だが、今だけ、蒼儀は比呂緒の傷を塞がないといけないと思った。何が理由でこの馬鹿《ばか》がエーテルを流しているかは知らないが、あほ面《づら》下げてへらへらしている昨日知り合ったばかりの自分と同年代の馬鹿な女の子を、このまま死なせてはいけないと思った。
しかし、その蒼儀の思いはすぐに無意味なものへと変わる。
一度流れ出した、どこか死臭のする青黒いエーテルは、空中に漂うことなく緩やかに比呂緒の身体《からだ》の上を這《は》い、そして左手首の小さな黒い傷の中に吸い込まれていく。そして数秒のうちに、傷は塞がらないままにエーテルの流出は止まり、何事もなかったかのように比呂緒の魂はただその肉体の中を巡っている。
一度肉から離れた魂は、ただ空中に漂い、やがて月へと還《かえ》る。あるいは無理やり還す。それこそが、ソウル・アンダーテイカーの仕事。
骨の中から出た魂が、再び骨の中に還ること。そんな話は聞いたことがない。すべての生き物は魂《たましい》をやがて体内から失うから死に至るのだ。その魂を、体内に戻す方法。一部のソウル・アンダーテイカーが血眼《ちまなこ》になって捜し求め、円環原理主義者《えんかんげんりしゅぎしゃ》が全力をもって否定する業《わざ》。
それを、この馬鹿《ばか》はやっている。
三嶋蒼儀《みしまそうぎ》は知ってしまった。
自分と、そしてハンニバルが関《かか》わってしまったのはただの馬鹿でも並外れた魂魄《こんぱく》の持ち主でもない。
今まで自分たちが信じていた魂の在《あ》り様《よう》を根底から覆《くつがえ》す、生きる力に満ち溢《あふ》れ、既《すで》に死んだ骨と血を持つ、|奇妙な子羊《ストレンジ・シープ》。
これは、本当に運命なのだろうか。
もう途中で放《ほう》り出すことは、自分にも悪霊《あくりょう》の目≠ノも許されない。ハンニバルは、ハンニバル自身のために。そして自分は、自身と、三嶋家《みしまけ》と、月に還《かえ》らない魂と、そして。
この馬鹿が生き、そして正常な死を迎えるために。
どうしようもない馬鹿の塊《かたまり》を、一流のソウル・アンダーテイカーへと変える長い鍛錬《たんれん》の道を、踏み外すことはできない。
踏み外したら、いったいどうなるのだろう。
三嶋蒼儀は、恐怖を感じている自分をあらためて自覚した。
……しかしこの程度の恐怖を克服できずに、この馬鹿やハンニバルに付き合うことなどできるはずもない。
自分は三嶋蒼儀なのだ。困難を極める吼《ほ》え猛《たけ》る狼《おおかみ》≠フ送還《そうかん》を手掛ける、三嶋という家に生まれ育ってきた生粋《きっすい》のソウル・アンダーテイカー。
その自分が、この江藤比呂緒《えとうひろお》を霊葬免許保持者に鍛《きた》え上げると決めた以上、それを成し遂《と》げられなければ、三嶋の恥にも繋《つな》がる。
何が何でも、やり遂げてみせる。
それが、この三嶋蒼儀の規律《ルール》なのだ。
[#改丁]
第五話 習うより慣れろと昔の人は言ったから
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なんだこの部屋は。部屋というより物置といった方が正しい気がする。屋根裏という本来は物置として使用されるべき空間なのだから当然なのだろうが、それを差し引いてもこの部屋が醸《かも》し出している雰囲気はおかしい。一言で表現するなら『適当』とでも言うべきだろうか。
他人の部屋のレイアウトにケチをつける気はないが、それなりに高級そうな地球儀の隣に何の用途に使うかさっぱりわからないプロペラが置いてあるのが一番の疑問だ。換気扇や扇風機のプロペラにしては金属でできているし、いったいこれは何なのか。
「はい、座ってー」
信州|林檎《りんご》と書かれた木箱の前に置いてあるおんぼろな座椅子《ざいす》に陣取った比呂緒《ひろお》は、三枚重ねの薄っぺらな座布団をにこにこしながら指し示した。一枚でいいのになぜ三枚重ねなのかとも思ったが、たぶんこれは彼女なりの歓迎の仕方なのだろうと勝手に解釈することにした。だいたいこいつの意図などをいちいち問いただしていたら、何も説明できないまま終わってしまうだろう。
とりあえず示された座布団の上に正座をする。別にかしこまっているわけではない。正当な理由がない限りあぐらをかいてはいけないのが三嶋家《みしまけ》のルールである。年を経《へ》るごとに勝手に父が増やしていくルールに強制力も説得力もあったものではないのだが、できる限りルールを守ろうとしてしまう自分はなんなのだろうと時たま考えないこともない。
自身を律するための規律。誰《だれ》しもある程度は持っているものなのだろうが、蒼儀《そうぎ》は自らそのルールに束縛《そくばく》されることを好んでいる。この世界に生きる以上何かに縛《しば》られなければならないのなら、自分の望むものに縛られていたい。
この世界のどこにも、本当の自由などないのだから。
もっとも彼の場合、他人が定めたルールと自身や家族が定めたルールを比べると断然後者が優先される。自身を抑制するのはあくまで自分自身。この考えは身勝手と評されるべきものだろうが、その思考を蒼儀自身は何ら恥じてはいなかった。
……などと正座一つするのにいちいち考えているわけではないが、ともかく蒼儀は姿勢を正して座布団の上に座り、テーブル代わりのアイロン台を挟《はさ》んで正面にいる比呂緒とその膝元《ひざもと》にいる生きた猫と肩の上にいる生きてはいない猫をねめつけた。
(そう怖い顔をしてないで前向きに行こうじゃないか、三嶋氏)
生きていない猫、ハンニバルが澄ました口調で話しかけてきた。確かにそうなのだろうが、この猫に言われると腹が立つものがある。
「おい」
「はい」
ハンニバルは放《ほう》っておいて比呂緒《ひろお》に声をかけると、すぐに返事が返ってきた。『は』と『あ』が混じりあった、発音が不明瞭《ふめいりょう》なその返事が気に入らない。自分はどうやらこの馬鹿《ばか》が大嫌いなようだ。こんな些細《ささい》なことにさえ気に障《さわ》るのだから。
好き嫌いを仕事に差し挟《はさ》んではいけない。ちゃんと真面目《まじめ》にこいつをソウル・アンダーテイカーに仕立て上げなければならない。
そのためにまず必要なことは何なのか。アルケブスの扱い方かとも思ったが、それよりも大事なことが一つあった。
「六識《ろくしき》、というものの説明は昨日《きのう》はまだしていなかったと思う」
「はあ」
黒い太った猫の背中に手を置いた比呂緒は、ぼーっとした顔で自分を見返してくる。考えてみれば、こいつがぼけっとしていない引き締まった顔をしているのなど見たことがなかった。どこからどう見ても『馬鹿』という表現しかできないほど緩《ゆる》んだその表情から、蒼儀《そうぎ》は何となく目を逸《そ》らした。
「六識は、現実ではない世界を認識するための感覚だ。誰《だれ》もが持っているものだが、霊髄《れいずい》が回っていないとほとんど機能することはない。この六識をしっかりと制御することがソウル・アンダーテイカーの第一歩とも言っていい」
日常生活において、ある程度六識を開いておく習慣をつけておくこと。自分の意志で解放し、そして収束することができるようになること。まずはこれが重要だ。
「今、お前はハンニバルが見えているな」
「うん、見えてるよー。今日もハルさんはかわいいねえ。あー、ハッちゃんもかわいいけどねえ」
比呂緒は右肩に乗っているハンニバルに視線を向け、右手で触《ふ》れるような仕草をしながら左手でハツヒコの腹を撫《な》でる。はげた腹の手触りが悲しくも面白《おもしろ》いので、脂肪をつまんでたぷたぷしてやった。脂肪を持ち上げてから離すと、それが床に当たって小さな音を立てるのが面白い。こんなに太ってしまった原因はなんなのだろう。餌《えさ》の量はニケと大して変わらないはずなのだが。
「そいつは自分の姿を故意に隠そうとしていないから、お前の中途半端な六識の開き方でも見える。隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》を施してあるものや生まれたての羊、肉の中にある生き物のエーテルや仙骨《せんこつ》を見るにはもう少し霊髄《れいずい》の回転をよくして六識を開かないと駄目《だめ》だ。……おい、ちゃんと話を聞いているか?」
「聞いてるよー、ちゃんとわかっているかって聞かれたらすっごく自信ないけど、見えるか見えないかの話で、あたしは頭の廻《めぐ》りが悪いから羊さんが見えないということなのね?」
あらかた間違っていないのだが、この表現の仕方はどうにかしてほしいものだ。まあ自分が言いたいことは、馬鹿《ばか》なりの理解力で理解しているのだと思って納得することにする。これから先、ずっとこういう疲れる会話を続けていかねばならないのかと思うとうんざりする。……こいつと出会ってまだ一日しか経《た》っていないというのに、もう十年分くらいのうんざりと苛々《いらいら》を味わったようだ。
「俺の右肩を見ろ」
「はい見たー」
本人は真面目《まじめ》ではないにしろふざけてはいないのだろうが、その軽い口調に蒼儀《そうぎ》は眉《まゆ》をしかめた。先ほどから黙っているハンニバルの顔を見たが、奴《やつ》はそしらぬ風に顔を背《そむ》ける。
「この肩の上に何が見える?」
「壁」
「……肩の上には、鳥が乗っているんだ」
「とり」
比呂緒《ひろお》が、目を瞬《しばたた》かせて蒼儀の肩にある空間を凝視《ぎょうし》する。比呂緒には見えてはいないが、この肩の上には蒼儀の使役用霊的物質結合体《ファミリア》であるシルバーが乗っている。ファミリアは、それを作り出した主人と感覚を共有することにより遠隔地の情報を得ることを主目的として創造される。熟練したソウル・アンダーテイカーは複数のファミリアを同時に動かし、送られてくる多くの情報を正確に脳内で把握《はあく》することができるという。
ファミリアを作るのに必要な物は二つ、死後三日以内の動物の死体と生きた人間のエーテルだ。死体に残留している霊的物質《エクトプラズム》と|魂の血髄《エーテル》を混合することによりファミリアは創造される。作られたファミリアの姿は、元となった動物と同じだ。死体が大きくなればなるほど、注《つ》ぎ込まなければならないエーテルの量も比例するので、大抵《たいてい》のファミリアの外見は調達しやすい小型動物に限られてくる。
ソウル・アンダーテイカーの中には、ペットショップに赴《おもむ》き自分の好みの動物を物色して購入、ある程度育ててから殺してファミリアにする者もいる。生前のうちにならしておくと、同調しやすい良質のファミリアになるらしい。蒼儀はそこまでファミリアに拘《こだわ》りを持たないので、道端に落ちていた烏《からす》の死体で適当に創造した。ただの真っ黒な烏なのになぜ名前がシルバーなのか、つけた本人もよく覚えていなかったりする。
比呂緒の肩に乗っているハンニバルもファミリアではあるが、自らの意思をもって動くハイファミリアである。ファミリアが進化するとハイファミリアになるというが、どうすれば進化するのかなどはまだ解明されていない。
薄汚い仔猫《こねこ》の姿をしたハンニバルは比呂緒の右肩から左肩に移動すると、目を凝《こ》らしている彼女に簡単なアドバイスを与える。
(比呂緒、そう目を見開かなくてもいい、気楽にしなさい。目で見ようとするんじゃない、後頭部から首の後ろあたりに円を描くイメージを浮かべるんだ)
ハンニバルの教え方は、正攻法なイメージトレーニングだ。六識《ろくしき》を開く訓練をする時、『後頭部に円を描け』というのは常道である。あまり活発に動いてない霊髄《れいずい》に『回転する』イメージを脳内で延々と繰り返すことにより刺激を与え、エーテルの能動的な循環を促す。最初から霊髄がほとんど動いていない人間にはあまり効果はないが、比呂緒《ひろお》の霊髄は既《すで》に常人よりは速く回っている。少しトレーニングをすればすぐに六識も開くだろう、というのがハンニバルの考え、というか願望であった。
もう少し乱暴かつ手っ取り早い方法もある。後頭部に他者のエーテルを充《あ》てることで、外部からより直接的かつ緩《ゆる》やかな刺激を霊髄に与える方法だ。この手法だとエーテルの充て方によっては刺激が強すぎて、充てられた方のエーテルバランスが崩れることもあるのでそう気楽には使えないが。
ハンニバルは、蒼儀《そうぎ》が後者の手法をとることを主張するのではないかとその表情を窺《うかが》った。しかし彼は何も言わずに腕を組み、面白《おもしろ》くなさそうに周囲に視線を巡《めぐ》らせている。その彼の態度にハンニバルは、ほっとしたような残念なような複雑な気持ちになった。若干《じゃっかん》危険は伴うが、後者の方が彼にとっても時間が短縮できてよいだろうに。まさか比呂緒の身体《からだ》を心配しているようにも見えないが。
不思議に思ったが、とりあえずハンニバルは比呂緒に注意を向け直すことにした。比呂緒は「えんーえんー」と呟《つぶや》きながら頭をぐるぐると回している。
(実際に頭を回す必要はない、考えるだけでいい)
ハンニバルが肩から脳天の上に飛び移ったので、比呂緒はあわてて頭を回すのをやめた。彼女は比呂緒の肉にではなくエーテルに乗っているので、いくら揺らされても落ちることなどない。よしんば落ちたとしても床に叩《たた》きつけられて痛いということもない。
だがそれでも、自分が頭の上に乗れば比呂緒がすぐに頭を回すのをやめるだろうということを、ハンニバルは短い付き合いの中で感じ取っていた。実際、比呂緒は頭をぴくりとも動かさずにその意識をハンニバルが乗っている脳天に集中している。
ハンニバルが脳天から後頭部に脚を進めようとすると、やはり比呂緒は彼女が落ちないように頭を下げる。それに合わせてハンニバルは前進し、比呂緒の後頭部に到達した。
「ハルさん、駄目だよ、落ちちゃうよ」
(落ちたりはしない。で、ここで円を描くことを思い浮かべる。最初はゆっくりと、徐々《じょじょ》に速めていく。そして、体内の血を想像してごらん。なに、簡単でいい。頭、心臓、手、足、指先。それらに赤いものが流れているのを思い巡らすんだ)
「……んあー」
ハンニバルが頭の上に乗っている。重さも何も感じないのに、比呂緒にはちゃんと彼女の存在を感じることができた。
まわるまわるまわすまわす。
ハンニバルの言うように、丸をぐるぐると回してみる。何だかおかしな感じだ。で、血を考えろと言った。血が体内に流れていることを考えろと言った。
血、かあ。
自分の身体《からだ》の中の血。たくさん出ていった血。
たまに見ることがある。自分を見下ろしている自分。見下ろされた自分は、大抵《たいてい》どこかから血を流していた。後頭部であったり、額《ひたい》であったり、背中であったり。他《ほか》にも色々な場所からたくさんの血を流している自分を、自分で見ていた。
いや、自分じゃない、誰《だれ》か違う人も見ていた。
まったく、比呂緒《ひろお》はしかたないなあ。こんなことはこれっきりにしてほしいよ。
そう言ったあの子は誰だっけ。
今の自分は、何を見ているんだっけ。視線を向けた先には、自分の掌《てのひら》があった。そこにはいつもと同じ自分の手がある――かと思ったが、何かが違った。
手が赤い。皮膚《ひふ》の向こうに透けて見える真っ赤な骨格のようなものと、その骨からやはり赤い水のような液体が滲《にじ》み出て流動的な動きを見せている。……なんだろう、これは。自分の手であるはずなのに。目を逸《そ》らしたくなるような濃い鮮紅色《せんこうしょく》の中に、黒い線のような痕《あと》が時たま浮かび上がっては消えていく。
ふと、膝元《ひざもと》にいるハツヒコに視線を向ける。黒猫であるはずのハツヒコまでが赤くなっていた。だが、色が微妙に違う。赤いことは赤いが、比呂緒よりも色が薄い。そっとハツヒコの頭に手をやってみた。こうして並べて比較すると、微妙どころではなく色が違った。赤の濃さがまるで違う。
(ずいぶんあっさりと六識《ろくしき》が開いたようだ。意外というか当然というか)
頭の上からハンニバルが下りてきて、ハツヒコの隣に立つ。ハンニバルの声を発するそれは、黒く薄い、靄《もや》のように頼りない形をした仔猫《こねこ》に見えた。
(普段《ふだん》君が見ている猫の姿は、しっかりと六識を通してみると黒く見えるだろう? それは私が生きていない霊的物質の塊《かたまり》だからだ。生きている者の魂《たましい》は赤く、死んでいる者の魂の残骸《ざんがい》は黒く見える。羊の場合、この黒い中にある唯一の赤をアルケブスで射貫《いぬ》くことで無害な存在に変わる。……簡単だろう?)
「ふーん」
比呂緒は右手でハツヒコを、左手でハンニバルに触れながら視線を前に戻した。そこにいる蒼儀《そうぎ》も当然赤いのだろう……と思ったが、その色はハツヒコよりも薄く弱々しい赤だった。まるで今にも消えてしまいそうなほどに。
「三嶋《みしま》さんが薄く見える」
「……それは、隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》をしているからだ。自分のエーテルの色を無駄《むだ》に見えることがないように抑制するのは、ソウル・アンダーテイカーに必要なことだ」
(だが、自分の身体《からだ》全体のエーテルの色を普段《ふだん》からあそこまで隠しておく必要はないし、あれは神経をたいそうすり減らす技だ。……それに三嶋氏《みしまし》がしているのは正確には隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》ではなく遮蔽《しゃへい》霊彩だ)
「確かにそうだが、隠蔽霊彩の高度な応用が遮蔽霊彩なのだからいちいち言い直す必要もないだろう」
(最初が肝心《かんじん》というし、些細《ささい》な違いでも一応は指摘しておいたほうがよいと思ったのだが)
「どうせ、この馬鹿《ばか》は気にしないだろう」
些細な言葉の解釈の違いを蒼儀《そうぎ》とハンニバルが言い合っていた間、当の比呂緒《ひろお》は何をしていたかというと。
「とり」
蒼儀の右肩に止まっている黒い烏を凝視《ぎょうし》していた。じっと見ているうちに、何となく輪郭《りんかく》がはっきりと見えてくる。あの嘴《くちばし》の形は烏《からす》だろうか。烏にしてはあまり大きくないので仔烏《こがらす》なのかもしれない。
六識《ろくしき》というものが何だかよくわからないが、つまりはこういうものなのだろう。部屋には何の変わりもないのに、目が見せるものは違っている。色が、灰色と赤と黒しかない風景。壁、床、地球儀、プロペラ、模型、木箱などはすべて同じ灰色だ。
「んあー」
何となく声が出た。頭をぐるぐる回すだけで、いつもの風景がまったくの別物になる。面白《おもしろ》いといえば面白い。だがしかし、色が三色しかないというのはずいぶんと寂しい。この状態でご飯を食べたら、あまり美味《おい》しく感じられないような気がする。
「あー……」
「円のイメージを逆回転にして、徐々《じょじょ》にその速度を緩《ゆる》めていけば六識を閉じられる。ちょっと試してみろ」
「あい」
と返事をしてから、比呂緒はさきほど自分が右回転と左回転どちらで円を描くイメージをしていたのか忘れていることに気がついた。とりあえず左の人差し指で円を空中に描いてみる。
「あー左回りかー、ということは逆ってことは右回りなのね、うんうん」
ぼそぼそと独《ひと》り言《ごと》を呟《つぶや》く比呂緒から目を逸《そ》らすと、蒼儀は彼女の膝《ひざ》近くにいる猫を見た。
「……六識はこの程度でいいと思う」
(ああ、私が毎日六識を開閉する練習をさせる。正直、六識の方はあまり心配してはいなかった。恐らくエーテルを扱うということに関しては、すぐに慣れるのではないかな。彼女は頭の回転は速い方ではないが、抽象的な事象には強そうだ。だから一番の問題は)
ハンニバルは、木箱の上に置いてある箱に視線を向けた。
「うわーうわー」
比呂緒《ひろお》には蒼儀《そうぎ》の指がまるで手品のように見える。ドライバーと指が動いたかと思うと、アストラM44[#「44」は縦中横]がばらばらにされていく。
「……アルケブスの手入れば、こうして分解した部品の一つ一つに自分のエーテルを少しずつ均等に注いでいくことが一番重要だ。フレーム、グリップ、トリガー、シリンダー、ハンマー……」
部品の名称を口にしながら、指先でそれを一つずつ示していく。比呂緒には一番大きいのがフレームだということしかわからなかったが、蒼儀の説明は続いていく。
「基本はこれくらいでいいが、たまには部品一つ一つにエーテルを充《あ》ててやれ。こう指先に集中して、軽くエーテルを滲《にじ》み出すイメージだ。六識《ろくしき》を開いて慎重にやれ。傷口に軟膏《なんこう》を塗るように。だが、エーテルが流れすぎてしまうと後が大変だから、本当に慎重にしないと駄目《だめ》だ。弾《たま》をマテリアライズする時やアルケブスに隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》を施《ほどこ》す時も、このエーテルを指や掌《てのひら》から出すという行為が必要になってくる。この行為はコーティングと称される……わかったか?」
「わかんない」
自分としてはかなり懇切丁寧《こんせつていねい》に説明したつもりなのだが。しかし、ソウル・アンダーテイカーというのは元々見えない世界を見て、常道から外れたものを扱う人間なのだ。口による説明で理解できないというのも、しかたのない話なのだろうといまさらながらに蒼儀は思う。
……考えてみれば、自分は口による説明など何一つ受けたことなどなかった。周囲の人間たちがやっていることを模倣《もほう》してきただけだ。ただ、それだけのことだ。
(三嶋氏《みしまし》、コーティングはたぶん大丈夫だ。今、私が彼女に教えてほしいのはそれではない……分解と組み立てだと思うのだがね)
「どこが。一定の手順でピンを外して、はめるだけだ。ライフルやオートマよりはよほど簡単だと思うが」
(その一定の手順を、彼女が覚えられると思うのかね)
「あー、よくわかんないけど、覚えるのはすごく苦手です。九九もちょっと自信ないです」
「覚えろ」
「えー」
「さっき俺《おれ》の手元をだいぶ真剣に見ていただろう」
「あー、あれはすごいなー思って見てただけだし」
「……組み立てるからな、よく見てろ」
蒼儀としては、かなりゆっくりとした手つきで組み立てたつもりだった。しかしそれは、比呂緒にとってはビデオを早送りで見ているような、どこか現実離れした手の動きをしていた。
「覚えたか?」
「無理」
「……とりあえず、ばらしてみろ」
比呂緒《ひろお》にドライバーとアストラM44[#「44」は縦中横]を強引に押し付けてみる。
「……んあー」
定められた手順通りに何かをするというのは、比呂緒が苦手なことだった。というよりは、何かを記憶しておくということそのものが、どうしようもなく苦手である。カレーを作るのに必ず最初にじゃがいもの皮むきから始めなければならないとか、肉は必ずカレー用の牛肉を使わなければならないとか、そういうのと似ている気がする。人参から切っても豚肉の細切れを使ってもいいじゃないかとか、比呂緒は思ったりするわけだ。
しかしこの銃《じゅう》を解体するという作業は、どこから始めてもいいわけではないらしい。繰り返してやっているうちに、覚えたりするのだろうか。カレーの作り方は何となく覚えたが、九九はやっぱり自信がないし。
ぼーっと、ドライバーとアストラM44[#「44」は縦中横]を見る。まずはこのトリガーの上にあるピンを外すのだっただろうか。そういえば、昨日ハンニバルに教わった気がする。まあ適当にやっても困ることはないだろう。カレールーの分量を間違えて水のようなカレーになってもそう困らないし、灰汁《あく》を真剣に取らなくても何とかなるし。
というわけで、やってみた。元々深く考えない性質《たち》の比呂緒である。一本目のピンを外してもとくに何も言われないので、続けることにした。次はどのピンを外そうかと考えていたら、シリンダーがいきなり落ちてごとりと床に転がる。蒼儀《そうぎ》は眉《まゆ》をしかめて、何も言わずに比呂緒の手元を見続けている。
何も言わないけど、きっと怒っているんだろうなあ。比呂緒は、唐突《とうとつ》にこの場が和《なご》む言葉を言わなければいけないような気がしてきた。だいたい、この蒼儀という人はずっと仏頂面《ぶっちょうづら》で笑った顔を見たことがない。
何か言おう。何か言おう。何を言うべきかを考えている比呂緒の膝《ひざ》の近くで、ハツヒコが耳をぴくぴくさせている。
これだ。
「ねこがねこんだ」
それ以後、蒼儀が言葉を発することは一度もなかった。無論その表情にも何の変化もなかったことは言うまでもない。
「何か、三嶋《みしま》さん怒ってたねえ、ねこがねこんだは面白《おもしろ》くなかったかな?」
(あの場で、あんなことを言う君にあきれたんだろう……さすがの私も、開いた口が塞《ふさ》がらないというか……)
あの後、蒼儀《そうぎ》は比呂緒《ひろお》のノートを勝手に開き、何やら真剣に描き始めた。それは銃《じゅう》の分解と組み立ての手順を細かく描いたもので、短時間で仕上げたにしては驚くほど上手でわかりやすい図だった。最後のページには、「年明けて五日にまた来るから、それまでにちゃんとできるようになっておけ」という文がある。
蒼儀が帰った後、比呂緒はそのノートを見ながら危なっかしい手付きで真剣にアストラM44[#「44」は縦中横]の分解と組み立てを繰り返した。何度か繰り返しても手付きがあやふやなのも、ドライバーの動きが雑で銃身《じゅうしん》に細かい傷がついていくのも変わらない。
だがハンニバルの予想通り、コーティングをした時の比呂緒の指先は素人《しろうと》とは思えないものがあった。指先からほんの少量のエーテルをひねり出し、アルケブスにそれを塗ること。こうすることで銃の持ち主と銃との同調を高め、効率的にトリガーからハンマーに伝わる力を大きくできる。なおかつ、持ち主以外の人間にはトリガーが引けなくなるトリガー・セフティ・ロックにもなる。
このコーティングは、普通の人間に対する隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》にもなる。表面に塗布《とふ》されたエーテルが、常人の物質的な視力から銃を見えなくさせてしまうのだ。ソウル・アンダーテイカーには何ら効果はないが、常人相手なら効果は十分だ。
久しぶりに正常な状態になりつつあるアストラM44[#「44」は縦中横]を嬉《うれ》しく思いながらも、ハンニバルは先ほどから――いや、昨日《きのう》からずっと気になっていた疑問を口に出すことにした。
(比呂緒、本当にいいのか?)
「なにがー?」
のたくさとした手つきでアストラM44[#「44」は縦中横]をいじり続ける比呂緒の手元と顔を、ハンニバルは交互に見つめる。その表情は茫洋《ぼうよう》としている。つらそうにも苦しそうにも見えないが、楽しそうにも嬉しそうにも見えない。
(なぜ君は、ソウル・アンダーテイカーになろうと思ったんだ)
なってほしいと望んだのは、自分であり三嶋《みしま》蒼儀である。そこに比呂緒自身の意思を感じることがハンニバルにはできなかった。比呂緒に拒《こば》まれても困るが、彼女が自発的にソウル・アンダーテイカーになろうと思ってもらわなければ意味がない。
「三嶋さんに言われたから」
その返答に、ハンニバルは目を細める。
(……彼は、君にとっては昨日出会ったばかりの人間だろう。なぜ、そんな人間の言うことを素直に聞くんだ。極端な例になるが、君は通りすがりの人間に死ねと言われたら死ぬ人間なのか?)
「んあー」
たっぷり三十秒くらいたってから、比呂緒《ひろお》が答える。その間にも、手は休むことなくアストラM44[#「44」は縦中横]の組み立てを続けている。今はシリンダーを入れているところだ。これが終われば、比呂緒は初めてアストラM44[#「44」は縦中横]の分解と組み立てを自力でやったことになる。
「死ね言われて死んだりしないよ。できることとできないことあるもん。でも、できることならできるでしょ。で、三嶋《みしま》さんはさ、素質があるとか言ってたじゃん」
(言ったな)
「たぶんさ」
最後のピンを締めて元通りになったアストラM44[#「44」は縦中横]を膝《ひざ》の上に置くと、比呂緒は自分の手を見た。金属臭がするそれに鼻をひくつかせる。
「嬉《うれ》しかったんじゃないの?」
それは己《おのれ》自身に対する問いかけのようにハンニバルには聞こえた。
「会ったばかりの人に何かよくわからないけど素質があるって言われてさ」
(褒《ほ》められて、嬉しかったから。また褒めてほしいから、ソウル・アンダーテイカーになるのか? 自己を否定されて生き続けてきたから、自己を肯定してくれる存在がなれと言ったから、なるのか?)
だとしたら、馬鹿《ばか》は馬鹿でも随分《ずいぶん》と甘ったれた馬鹿だ。
「それだけじゃないよー」
不本意ながら失望しかけたハンニバルの意識を、比呂緒の声が呼び戻す。
「パパからこれ貰《もら》ったとかさ、ハルさんに会ったとかさ、おっちゃんが吐《は》いたとかさ、死んだ人が月に行くとかさ、羊さんが困ってるとかさ、おばあちゃん思い出したとかさ、何かね、そういうものひっくるめるとね」
比呂緒は掌《てのひら》で胸を軽く叩《たた》いてから、呟《つぶや》いた。
「三嶋さんが、お前はソウル・アンダーテイカーになるんだ、って言った時、この辺りで何かが来た気がするの。んで」
胸を叩いたその手を後頭部にあてる。
「三嶋さんが、お前はソウル・アンダーテイカーになるのか? って聞いた時、この辺りに何か来た」
理路整然としない物言いは今に始まったことではないが、比呂緒のこの言動にどこか狂人の閃《ひらめ》きめいたものをハンニバルは感じずにいられない。
この十二歳の少女は、馬鹿ではなく、馬鹿と紙|一重《ひとえ》の天才でもなく、ただ単純に狂っているのではないか。日常生活を送れるほどのまともな思考を持った、穏やかなる狂気を内に秘めながら生きているのではないか。
恐ろしい。
剥《む》き出しにされた刃物のような狂気より、鞘《さや》に収まったままの硬いのかも柔らかいのかもわからない狂気の方が恐ろしい。いつか、その鞘《さや》から解き放たれたモノは果たしてどこに行くのだろう? 自分自身の目的のためには彼女が馬鹿《ばか》だろうと狂人だろうとどうでもいいことのはずなのに、それを忘れてハンニバルは江藤比呂緒《えとうひろお》という馬鹿を見る。
「それにさあ」
比呂緒の口調はごくゆったりとしている。その声音は間延びしているくせにどこか悟《さと》りめいたものが入っているように感じられた。狂人でないとしたら、彼女はどうしようもなく薄汚れた聖人なのかもしれない。何もわかっていないようで、この世界の理《ことわり》をすべて知る者なのかもしれない。
「これは誰《だれ》に言っても信じてもらえないんだけどさあ、あたしがたまに『あー、どうしようかな』って思う時、この辺りから」
首の後ろを軽く撫《な》でさすりながら言う。
「すごくたまになんだけど、聞こえてくるのよね。こう……あたしの中にいるあたしのようであたしじゃない人の声が。で、その人が言った気がするのよ。『なればいいよ』って。だからなるよ。ちゃんとしたのにはなれないかもしれないけど、まあその時はその時ってことで笑ってごまかしちゃえ」
長く生きて、人を見る目というのはそれなりに養ってきたと思う。第一印象とその後の印象が大きく食い違ったことはない。ハンニバルから見た江藤比呂緒という人間は。
馬鹿。
それ以外にない。そして、その第一印象はきっと間違っていないと思う。
美しく赤く、醜《みにく》く黒く、漲《みなぎ》る生と、ささやかなる死を内包《ないほう》する、馬鹿。
馬鹿なのだ。もしかしたら天才になれる馬鹿なのだ。
そう思いたかった。
愚《おろ》かなのではなく、狂気に侵されているのでもなく、もはや心の器そのものが壊れているのではないかとは、決して思いたくなかったのだ。
何事もなく、年は明けた。ハンニバルが見る比呂緒の日常生活は、平穏《へいおん》なのかそうでないのかよくわからないものだった。両親に愛され、妹に罵倒《ばとう》され、宿題をして、六識《ろくしき》を解放し収束させ、アルケブスを分解し組み立てる。
その手付きは相変わらずたどたどしく、蒼儀《そうぎ》の図面がなければできないが、それでも成長はしているようにハンニバルは感じた。頭が悪かろうと何だろうと、こうして毎日繰り返しやっていくことができるのだからただの馬鹿ではない、と思う。
「……今日は、弾《たま》の作り方を教える」
一月五日、あと三日で冬休みが終わるという日に再び江藤家を訪れた蒼儀《そうぎ》は、前回と同じように用意されていた三枚の座布団の上に正座して、開口一番そう言った。
「あい」
壊れた座椅子《ざいす》に座ってやはりいつもと同じようにぼうっとした顔をした比呂緒《ひろお》は、何となく六識《ろくしき》を開いて蒼儀《そうぎ》を見た。六識を開いたり閉じたりするのに、以前ほど苦労も戸惑《とまど》いも感じることはもうなくなっていた。ゆっくり一度|瞬《まばた》きをすれば、自分の視界に見える世界を変えることができる。それがどれほど著しい成長なのか、比呂緒にはもちろんわかっていなかった。
今日の蒼儀は相変わらず遮蔽霊彩《しゃへいれいさい》というのをしているようで、前回見た時と同じエーテルしか見えなかった。その右肩にはやはり黒い小さな烏《からす》がとまっていて、「烏さん触《さわ》っていい?」と聞いてみたらあっさりと「駄目《だめ》だ」と返されてがっかりする。
比呂緒が六識を開いたり閉じたりしてる間、蒼儀は自分が持ってきた物をアイロン台の上に並べた。何やら外国語が書かれた缶と、直径一センチくらい、長さ五センチくらいの小さな金色の筒だ。その金色の筒を指でつまみあげると、比呂緒によく見えるようにかざす。
「これが弾《たま》の原型だ。カートリッジともいう。この中にパウダーとエーテルを入れることで、対ストレンジ・シープ用の弾丸になる。今から作ってみせるが、一度しか見せないからよく見てろよ」
「あい」
蒼儀は、カートリッジの先端を閉ざしている先端が尖《とが》っている弾頭《だんとう》を外した。そして缶の蓋《ふた》を開けて、小さじを手にするとカートリッジの中に缶の中身を注ぎ込む。白く、粒子の粗い粉末だ。
「パウダーとエーテルの比率によって、弾の威力《いりょく》は決定される。パウダーが多ければ多いほど、カートリッジ内のエーテル濃度が下がり弾の威力は落ちる。逆にすれば弾の威力は上がる。だがパウダーを少なくしたら、その分エーテルを注ぎ込んでやらないといけなくなる。エーテルの量は無限じゃない。小出しにしていかないといけない。こうやって自分で弾を作ることをハンドローディングというが、これが下手《へた》な奴はソウル・アンダーテイカーとして長生きできない。覚えておけよ。ファクトリー・カートリッジもあるが、あれは練習用か予備の弾丸として使われることが多い。実際に羊を撃《う》つ時はやはりハンドロード・カートリッジだな」
そう言いながら、蒼儀はカートリッジに弾頭をはめなおし右手で握りこんだ。
「こうやって握って、掌《てのひら》からエーテルをカートリッジ内に注ぐ。コーティングと同じだが、弾を作る時はこれをマテリアライズと呼ぶ」
一度力強く握ったかと思うと、蒼儀はすぐに手を開いた。そして先ほどはめた弾頭をもう一度外す。先ほどまでは空っぽだったそのカートリッジの先端には、赤黒くまるまった弾頭が見えていた。
「これで弾ができたわけだ。……わかったか?」
「んあー……言ってることはよくわかんないけど、やり方はたぶんわかった、んじゃないかな?」
ひどく曖昧《あいまい》な返事をする比呂緒《ひろお》を一瞥《いちべつ》すると、蒼儀《そうぎ》は持参してきた小さな箱と細かく項目が区切られた十数ページ分の小冊子を三冊、アイロン台の上に置いた。
「カートリッジを置いていくから、俺《おれ》が帰ったら六発だけ作ってみろ。それからこれは免許の申請書、こっちはアルケブス所持許可の申請書、これはアルケブス登録の申請書だ、全部しっかり書いておけ、明々後日《しあさって》に役所に提出しに行くからな」
それだけ伝えると、蒼儀はいつも持ち歩いているギターケースを担《かつ》いで立ち上がる。もう帰るのかー、とぼんやりその姿を見上げていた比呂緒だが、
「軽く射撃練習をする。アルケブスを持って出かける用意をしろ」
と、唐突《とうとつ》に言われて思わず「んあー」と声をあげた。
「急な話なのねえ」
「……冬休みのうちにやれることはやっておかないと、困るだろ。学校が始まると時間はとれなくなるからな」
「あー……そーいや三嶋《みしま》さんはどこの学校行ってるの? もしかして同じ?」
「聞いてどうする」
「どーもしないけど」
「なら聞くな」
「あい」
そんな二人の会話を、ハンニバルは比呂緒の肩の上で物思いにふけりながら聞いていた。
「あら、もう帰るんですか?」
玄関で靴紐《くつひも》を結んでいる蒼儀に、台所から出てきた紘子《ひろこ》が声をかけてきた。
「はい……ちょっと比呂緒さんと出かけてきます」
無礼にならないよう丁寧《ていねい》に答えたつもりなのだが、蒼儀の言葉に対する紘子の反応はかなり大げさなものだった。穏やかな笑顔が一瞬にして凍《こお》りつき、目と口が見開かれる。そんなに驚かれても困ってしまう。まさか自分が、あの馬鹿《ばか》とデートでもするとでも考えているのだろうか。そんなこと、万が一にもあるわけがないのに。
あんなのと過ごす時間は短ければ短いほどいい。そういう点ではこの家族たちには多少同情する。あの馬鹿と一生付き合っていかなければならないのだから。血の繋《つな》がりというのは温かいものである時もあれば、悲しく、残酷《ざんこく》なものでしかない時もある。
血縁、死んでも断ち切れぬ絆《きずな》という名前の枷《かせ》。血と魂で繋《つな》がったそれは、物理的に、精神的に、いかに離れようとも消えることのない糸のような鎖。
自分の家族を思い出す。両親、兄、姉。嫌いかと聞かれたら違うと言えるが、愛しているかと問われれば肯定しがたい人々。それは、蒼儀だけではなく両親も兄も姉も恐らくはそう思っているだろう。
家族としての絆《きずな》は、間違いなく存在する。それを踏まえた上で限りなく他人になろうとする自分たちは、何なのだろうと時たま思う。
いや、自分とそれ以外の人間ということで考えれば、家族も間違いなく他人に含まれるのだ。しかし、それでも家族と他人は同一ではない。
そんなことを短い時間でうだうだと考えていると、紘子《ひろこ》が蒼儀《そうぎ》に声をかけてきた。
「比呂緒《ひろお》のこと、よろしくお願いします。あの子がああいう子だというのはあなたも知ってるでしょうけど、あの子は」
「あ、ママ、ちょっと三嶋《みしま》さんと出かけてくるからー」
紘子の言葉は、階段をばたばたと乱暴に下りてきた比呂緒に遮《さえぎ》られた。
「はい、いってらっしゃい。暗くなる前に帰ってくるのよ」
「はいー」
短い母と子供の会話だ。だが、蒼儀はその中にこの母が馬鹿《ばか》な娘に注いでいる悲しみに満ちた愛情を垣間《かいま》見た気がした。紘子が比呂緒に向ける視線には、蒼儀に向けられるものとは比べ物にならないほど温かく優しく、それでいて悲哀《ひあい》があふれている。笑っているのに、どこか泣きそうな顔をしているように見えるのは自分の気のせいなのかそうでないのか。
馬鹿なのが悲しいのだろうか。
だがしかたないじゃないか、こいつはどうしようもない馬鹿なんだから。
どうしようもない馬鹿なんだから。
「で」
今垣《いまがき》は、営業時間外にやってきた一人の少年と一人の少女と実体を持たない猫と烏《からす》の訪問をまったく歓迎せずに、むしろ険悪な顔つきで出迎えた。新年を迎えて心機一転、あの出来事はすっぱり忘れてやり直そうと思っていたのに。だいたい、ホルスターだのグローブだのを発注した出費の恨《うら》みはまだ忘れていない。年末の駆け込みの発注など、発注された方はたまったものではないのだ。その辺りのことを、この少年は……わかっていて言ったのだろう、きっと。
だいたいそこそこの稼《かせ》ぎ手なのだから、みみっちいことは言わずに全部蒼儀が代金を払ってくれればいいものを。免許申請をする時には後見人が必要で、その後見人は蒼儀がやるのだろうから、その責任から彼が金を出すべきだろう。
……いや、もう金のことはいい。本当はよくはないがいいということにしておこう。
しかし。しかし、今から彼らがやろうとしていることには目くじらの九つくらいたててもいいのではないかと思ったりする。
「なんで! 射撃場でも何でもないうちの店ん中で試射《ししゃ》するとか言い出すのかな、お前さんは! 子供は子供らしく、外でやれよ、外で! 嬢《じょう》ちゃんのアルケブスはコーティングしてあるからそこら辺の公園でやっても誰《だれ》も見えねえからいいだろうがさ」
「何も持たない手で銃《じゅう》の構えしているような姿は十分怪しいだろう。俺《おれ》はこんなのと一緒に怪しい人間になりたくない」
「あー、そういやあけましておめでとうって三嶋《みしま》さんにもこちらの旦那《だんな》さんにも言ってなかったような気がする。三嶋さんあけましておめでとー、旦那さんもあけましておめでとー、三嶋さんの烏《からす》さんもあけましておめでとー、ハルさんあけましておめでとーは、お正月に言ったけどもっかいあけましておめでとー」
(おめでとう、比呂緒《ひろお》。しかしまた、どうしてここなのかな、三嶋氏。こちらのご主人の言い分ももっともだと思う。人があまり来ない屋外でやればいいのではないかな? 確かに通常射撃は天候を気にするものだし今日は若干《じゃっかん》風は強いが、アルケブス射撃に天候が与える影響は通常射撃より少ないというのが定説だった気がするが)
「弾道《だんどう》に対する影響は決してないとはいえないが、そうデリケートに考える必要はないとも言われているな。だが射手のコンディションに与える影響を考えるとやはり天候は重要だ」
「いや、天気はいいから。何でここでやるんだってーの」
「確かに、ここより適した場所はある」
「ならそこ行け」
「遠い」
「そんな理由か!」
「どうせ構えて六発撃つだけだ、距離は五メートルあれば十分。空包《くうほう》だから物理的な被害は出ないから、ここでいい」
「場所を借りておいて、『ここでいい』とはなんだ『ここでいい』とは! せめて『ここがいい』くらい言え」
「ここがいい」
「うわ、本当に言いやがった、お前ってそんな性格だったっけ」
今垣《いまがき》が蒼儀《そうぎ》に文句をつけている間、比呂緒は床に座り込んでシリンダーを素早くスイングアウトさせる練習をしていた。
「サムピースを押して左に出す、サムピースを押して左に出す、サムピースを押して左に出す……」
ぶつぶつと繰り返してシリンダーを出したり納めたりしている比呂緒の手元を見つめながら、ハンニバルは声をかける。
(やりにくそうだな)
「サムピースを押して左に出す、サムピースを押して左に出す……やりにくいって何が?」
独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いたつもりなのに、ちゃんと返事があったことを意外に思いながらハンニバルは言葉を続けた。
(今君は、右手でグリップを握って左手でサムピースを押してトリガーの下から指を伸ばしてシリンダーを左側に押し出しているな)
「んあー……」
比呂緒《ひろお》は自分の手元を見ながら、ハンニバルの言葉を反芻《はんすう》する。部分部分の正確な名称はまだ自信がないのだが、ハンニバルがそう言っているのだからそうなんだと思うことにしておく。
(で、左手で弾丸《だんがん》を込める作業をすることになるはずだ)
比呂緒は右手でグリップを持っており、シリンダーは左側に飛び出している。この状態でシリンダーに弾《たま》を詰める作業を右手で行うには、一度左手にグリップを持ち替えた上で右手を左手に被《かぶせ》せるような形で交差させなければ届かない。それはあまりにも不自然だしやりにくい。
「よくわかんないけど、ハルさんがそう言うからにはそうなんだろうねえ」
(……で、君は左手で弾を込めて左手で射撃《しゃげき》をする。その時グリップを右手から左手に持ち替えることになる)
「うん」
(タイムロスに繋《つな》がることだ)
「……六発を撃《う》ち尽くす状況に陥《おちい》る前に片をつければいい」
壁に飾られていた三十センチ四方の展示用の的《まと》を取り外しながら、蒼儀《そうぎ》がぶっきらぼうに言った。
(三嶋氏《みしまし》、さすがにそれは無理がないか? 確かに核を正確に撃ち抜くことができなくとも、この口径の弾が六発全部命中すれば普通の羊ならもう原型を維持することはできないだろう。だがそれは六発が全部命中した時の話だ。君がいつ彼女に本物の羊を撃たせる気かは知らないが、相応の訓練を積まなければそう簡単に当たるようなものではないと思うぞ?)
「そうだな」
あっさりと肯定されてしまい、ハンニバルはほんの少したじろいだ。何か画期的《かっきてき》な意見でも言ってくれるのかと期待していたのだが、その期待はいとも簡単に覆《くつがえ》される。蒼儀は外した的を店の入り口である戸にどうやって設置するか考えているようで、ハンニバルや比呂緒の方を見ていない。
(射撃というものは一朝一夕《いっちょういっせき》でできるようになるものではないことは、私もわかっているが、しかし)
「下手《へた》な鉄砲を数撃たせることができるほど、弾代に余裕はない。基礎をそれなりに覚えて免許がとれたら、本物を撃たせに行く」
(それは……)
「おいおいおいおい」
ハンニバルと、そして今垣《いまがき》から同時に声が上がった。当の本人であるはずの比呂緒は、気にした風もなくシリンダーをくるくると回して遊んでいる。
「いや、さすがにそれはちょっとと思うぞ、三嶋《みしま》。そりゃこの嬢《じょう》ちゃんのエーテルはなかなかのもんだってのはわかるけど、ろくに撃《う》たせないで羊撃ちは無謀《むぼう》ってもんだ。せめて十ヤードの距離から十発七中くらいの腕はあったほうがいいんじゃないか」
「訓練でこいつがそこまでの腕前になるのに、いったいどれだけの時間と弾代《たまだい》がかかると思ってるんだ」
(真剣に試算したわけではないが、確かにそれなりにかかるとは思う。だがそれをせずにいきなり実戦《じっせん》というのは危険なのではないかな)
「そうそう、そこそこ確実に当てられるようになってからじゃないと、羊にエーテル抉《えぐ》られるぞ……ただでさえ」
床に座り込んでいる比呂緒《ひろお》の後頭部を、今垣《いまがき》は六識《ろくしき》で確認する。エーテルが抉れるということはそう珍しいことではないが、この後頭部は少し異常だ。死んでいてもおかしくないほどエーテルがない。これ以上抉られたらまずいのではないか、と今垣は他人事《ひとごと》ながら心配する。
「三嶋のルールだ」
これが十二歳の少年か。蒼儀《そうぎ》が放った言葉は、ひどく冷淡な響《ひび》きを持って店内に広がっていった。その中で、比呂緒がシリンダーをスイングアウトさせる音だけが意味もなく不規則にたてられる。
三嶋のルール。
その言葉に込められた意味を悟《さと》るのに、ハンニバルはほんの少しだけ時間を要した。なるほど、彼はただ単純に時間と弾薬をけちっているわけではないようだ。いや、それも理由の一つに数えられるのだろうが、最大の理由ではない、のではないかなと、せめてハンニバルは思うことにしておく。
蒼儀にこびりついている残滓《ざんし》は、この若さにしてはかなりひどいものがある。訓練よりも実戦を優先し、多くの羊と狼《おおかみ》たちを月に還《かえ》し続けてきたのだろう。実戦の中で培《つちか》ってきた経験は訓練に勝る。もっとも、最初の実戦を無事に生き残ることができるかが大問題だ。つまりあれか、獅子《しし》が我が子を谷に突き落とすという奴《やつ》か。這《は》い上がってくればそれでよし。這い上がってこなかったら――。
彼は、彼女が這い上がれなかった時のことは考えてくれているのだろうか? それを聞いていいものかどうかハンニバルが逡巡《しゅんじゅん》しているうちに、標的を設置し終えた蒼儀は座り込んでいる比呂緒の鼻先に六発の弾を差し出す。
「空包《くうほう》だ。まず装填《そうてん》しろ」
「そーてん?」
「シリンダーの中にこれを入れることだ」
「あー、これの穴の中にね、はいはい」
差し出された比呂緒《ひろお》の左手の上に、蒼儀《そうぎ》は丁寧《ていねい》に六発の弾《たま》を並べる。その丁寧な手付きに触発《しょくはつ》されたのか、比呂緒も彼女にしては慎重に一つずつ弾を込めていく。空包《くうほう》とはいえ、まともな試射は久しぶりだ。ハンニバルは自分の心がどこか高揚《こうよう》していくのを感じた。
こんな気分は久しぶりだ。今までの持ち主が初めて撃《う》った時とはまったく違う。まともに当たってくれるのか、そうでないのか。まああの三十センチ枠の中に入らなくとも、それはそれでよしとしよう。去年のあれば、ただのラッキーショットに過ぎないのだから。
「入れたよー」
「シリンダーを収めろ……空包でも弾は弾だ。一応言っておくが、その状態で他人や自分に銃口を向けるなよ、危ないから」
(君がそれを言うのか)
比呂緒に銃を向け、耳やこめかみに銃口を押し付け、威嚇《いかく》目的とはいえ撃ったのは他《ほか》ならぬ蒼儀ではないか。そういう意味を込めてハンニバルは言ったのだが。
「俺《おれ》はやる。だけどこいつはするな。つまりはそういうことだ」
「よくわからないけどそーゆーことらしー」
よくわからないなら、無意味に相槌《あいづち》をうたないように。ハンニバルは耳をひくつかせて、比呂緒が決して気がつくことのない無言の抗議をする。
(君のいう三嶋《みしま》のルールというのはずいぶんと勝手なんだな……)
「あー、こいつ勝手だぞ、めちゃくちゃ。というかこいつらの一家全員むちゃくちゃだ。すごい自分本位な連中だぞ。すぐに三嶋のルールとか言い出すし」
今垣《いまがき》が味方を得たりという顔でうんうんと頷《うなず》く。
「即金で払ってくれるのはいいけど、入荷待ちの商品がいつ入るかって頻繁《ひんぱん》に電話してくるのが鬱陶《うっとう》しいんだよ。入荷したらこっちから電話するのに……」
「立ち上がれ、そしてこの位置に立て。グリップを両手で保持、腹の前辺りで銃口《じゅうこう》を正面に向けて構える。トリガーに指をかけるな、まだ」
今垣がぶつぶつと愚痴《ぐち》っているのを無視して、蒼儀はまだ座り込んでいる比呂緒の膝《ひざ》を爪先《つまさき》で軽く蹴る。
「あいさーどっこらせー」
アストラM44[#「44」は縦中横]を持っていない方の手を床につけて立ち上がると、比呂緒は蒼儀が指定した位置に言われた通りに立つ。
「グリップってのは持つところでこれ持ってお腹《なか》の前で……で、何だっけ」
「足を肩幅くらいの広さで開けろ。そのまましばらく待機」
「あい、待ってればいいのね」
蒼儀は比呂緒から少し離れた場所に立つと、その立ち姿を眺《なが》める。身体《からだ》全体に余分な力が入っているということはない。すべてにおいてリラックスしている。……と思ったが、考えてみるとこいつが緊張しているということが今まであったのだろうか。
「ハンマー起こせ」
「……ハンマーってのはこれのことねうん、これを引くのね」
親指で慎重にハンマーを起こすと、がちりという音と共にシリンダーが回転する。
「うわーうわー、何か知らないけど回ったよ、三嶋《みしま》さん」
「いちいち驚くな……そのままの姿勢で、腕を前に出せ。あの的《まと》の中央とリア・サイト、フロント・サイト、それらがなるべく同一線上に並ぶように狙《ねら》ってみろ。なるべくだからな。本当に同一線上にその三つを並べることは無理だ。人間の目はそういうことができるようにはできていない」
ハンニバルと今垣《いまがき》が見守る中、比呂緒《ひろお》はアストラM44[#「44」は縦中横]を見下ろして、
「あー……」
と、いつものように間《ま》の抜けた声をあげた。それだけで、蒼儀《そうぎ》は彼女が何を困っているのかわかってしまった。比呂緒の横まで歩みよると、ハンマーの上部分を指で示す。
「ここがリア・サイト、銃の先端、こっちにあるのがフロント・サイトだ。照準《しょうじゅん》するためにある。右目を閉じて左目で狙え。標的は少しくらいぼやけてもいいから、フロント・サイトを基本にして合わせろ」
「んあー、三嶋さん、よくあたしがリア・サイトとかが何だかわからないってわかったね、すごいすごい」
「とっととやれ」
すごいわけがない。この単純|馬鹿《ばか》が自分に何か言われて間抜けな声を上げる時は、大抵《たいてい》言葉の意味を正しく理解できなかった時だ。比呂緒が、リア・サイトだのフロント・サイトだのが何なのかわからないことなど、口にする前からわかっていたことだ。自分は銃の部分名称をいちいち説明した覚えはない。
初心者に優《やさ》しくないな、と思う。優しくするつもりなど最初からないから別にいいが。だいたい人に懇切丁寧《こんせつていねい》に何かを教えるなど柄《がら》ではないのだ。教えられるのがこの馬鹿なのだし。最初に適当に用語説明をして、身体《からだ》に慣れさせてしまえばそれでいい。
自分が比呂緒に付き合って消費した時間は、そう長いものではない。この短時間で、よくぞここまで付け焼刃《やきば》を仕立て上げたものだ。少し自画自賛《じがじさん》してみる。だが所詮《しょせん》付け焼刃は付け焼刃にすぎない。ハンニバルや今垣の言う通り、この試射を最後に本当の羊撃ちをさせるというのは少々無理がある。
だが、それがいいと蒼儀は感じる。思う、のではなく、感じる。いきなり南に放《ほう》り込むほどの荒行《あらぎょう》ではさすがに一日ともたずにのたれ死ぬだろうが、普通の羊撃ちならこなせるだろう。なぜ、自分はこんなことを感じるのか。理由を色々考えてみたが、いきつくところは結局、
『こいつがそう感じさせてしまうほどの器をもった死なない馬鹿』
という結論であった。
さすがに、いきなり一人で実践《じっせん》させるのは色々とまずいだろうから、最初は不本意ながら自分がサポートしてやらなければなるまい。どうせ第三種|霊葬免許《れいそうめんきょ》の申請をさせるのだから。
第三種霊葬免許は、所定の金額を支払い、必要書類を提出して身体検査と簡単な六識《ろくしき》試験を受け、それなりに実績のある後見人がいれば、かなり簡単に取れてしまうものだ。ただし第三種免許は、いくつかの制限が課せられる。後見人が同席していない場所で発砲してはいけない、霊葬を請《う》け負《お》って代価を受け取ってはいけない、受け取る場合は後見人を介在して受け取らなければならない、所持できるアルケブスは一丁《いっちょう》限定等々。
これが第二種になると、いきなりハードルが高くなる。仙骨《せんこつ》の密度やエーテル量を正確に測り、それが一定以上なければ試験を受けることもままならない。その上で、霊葬に関する法律などの筆記試験、一般教養試験、射撃試験、弾薬取り扱い試験など試験|三昧《ざんまい》である。正直、第二種免許を比呂緒《ひろお》に取らせるのは不可能だと蒼儀《そうぎ》は思う。とくに筆記試験だの一般教養だのは、比呂緒には荷が重過ぎるだろう。実技関連はこれからどうにでもなるだろうが、筆記は駄目《だめ》だ。絶対、などという言葉は使いたくないが、それでもあえて使う。
江藤《えとう》比呂緒に、今の段階で第二種霊葬免許を取らせるのは絶対に無理だ。
第三種免許でまずは経験と実技を積ませてから、第二種を取るかどうか考えればいい。……一生取れそうにない気もするが。
「ホールド……動くな、そのまま少しずつ照準《しょうじゅん》を補整していけ」
一応の狙《ねら》いは定まったらしい比呂緒の手元をじっと見る。やはり手元は少々どころではなく揺《ゆ》れている。これは緊張《きんちょう》などの精神的なものがもたらすものではない。生きている人間である以上、肉と骨をまったく動かさずにいるということはできないのだから。それをどこまで抑《おさ》えられるかが難しい。
「あまり力を入れるな」
「あい」
途端《とたん》にグリップを持つ手の力が緩《ゆる》む。単純なものだ。だが先ほどよりは多少ましになったといえる。
「狙いが定まったと思ったら、トリガーを引け。なるべくまっすぐ後ろに引いて、左の人差し指以外を動かさないようにしっかりと固定するよう心がけろ」
「んあー……」
比呂緒は真剣に前を見て、的《まと》の中央とフロント・サイトとリア・サイトを適当に一直線に並べようとした。なんだか腕が疲れてきた。このまま撃《う》たないで下ろしちゃったら三嶋《みしま》さんは怒っちゃったりするのだろうかと思うと、気が引ける。
だから比呂緒は、とりあえずトリガーを引くことにした。
前に言われたハンニバルの「力いっぱい引け」を思い出しながら、引く。
一瞬、呼吸が止まった。この間の時よりも大きな、ぐわあん、という感じの音がした気がする。動かないように踏ん張ったつもりなのに、腕が上がってしまう。なぜか後ろに五歩ほど下がって、思わず尻餅《しりもち》をついた。後ろに何もなくてよかったと思う。
三十秒ほどの静寂《せいじゃく》の後、蒼儀《そうぎ》は「……こんなものか」と一言|呟《つぶや》くと六識《ろくしき》を開いて標的を確認する。物理的影響がない弾丸《だんがん》であるため、こうしないとどこに当たったのかわからないからだ。やはりというか当然というか、当たってはいなかった。ゆっくりと視線を上げていくと、天井に黒い弾痕《だんこん》がついている。それでもちゃんと前方に弾《たま》が飛んだのだから、よしとした方がいいだろう。
引き金を引いた瞬間に大きく身体《からだ》が動いてしまったのだから、当たらないのも仕方がない。さすがにこの間の、ろくにコーティングもしていないアルケブスを撃《う》った時とは状況が違う。弾はともかく、銃《じゅう》と比呂緒《ひろお》自身の同調率はあの時とは比べ物にならないほど上昇しているのだから。
それでも蒼儀は、比呂緒の太い仙骨《せんこつ》とエーテルが反動をかなり抑《おさ》えるのではないかと期待していた。だが実際は、彼女はこの間撃った時よりも強い反動を受けていた。六識で床にへたり込んでいる比呂緒のエーテルを見ると、まだ表面が小刻みに揺《ゆ》れている。軽い弛緩《しかん》状態に陥《おちい》っているようだ。しばらくは立てないだろう。
(……なんというかまあ、どういう反応をしていいのかわからない、記念すべき第一射だったな)
今垣《いまがき》の隣で観察していたハンニバルは固まっている彼を放《ほう》っておいて、座り込んでいる主の膝《ひざ》の上に乗るとその顔を見上げた。表情はそう大きく変わっていないが、目を盛んに瞬《まばた》きして時たま強く瞑《つぶ》っている。
(大丈夫か、比呂緒……立てるか)
「びっくりしたあ……」
そう答えた声はいつもと同じ間延びしたものだった。だが、比呂緒の身体は座り込んだまま動くことはない。
「何か、ちょっと身体に力が入らないな……」
「あー、嬢《じょう》ちゃん、無理に動かない方がいいぞー。エーテルがまだ落ち着いてない。表面がぴりぴりしてる。少し座っとけ」
背後から声をかけてくる今垣の方を見ようとしたが、どうも首が回らない。しかたないのでそのままの姿勢で、「そうしますーどもー」と答える比呂緒であった。
座ったまま動かない比呂緒をしばらく見上げていたハンニバルは、身軽にその膝から飛び下りると天井を一心に見上げている蒼儀の足元に立つ。
(どうかな、感想は)
「……今のところ、連射は無理だな。空包《くうほう》であれだ、本人がマテリアライズした実包だともうちょっときついことになる」
(だが、繰り返して撃《う》てば耐《た》えられないほどのものではなくなる。そう思わないかな、君は)
「そうだな」
アルケブスを撃った時の反動は、物理的なものではなくエーテルと仙骨《せんこつ》に影響を及ぼす。反動に慣れていないが故《ゆえ》に、比呂緒《ひろお》のエーテルと仙骨が過剰《かじょう》反応を起こしたのだろうと蒼儀《そうぎ》とハンニバルは判断した。
「……あとほんの少し、空包《くうほう》を撃たせる用意をした方がいいと思う、が」
(が、何だね、三嶋氏《みしまし》)
蒼儀は自分を見上げてくる薄汚れたハイファミリアの仔猫《こねこ》に、鋭い眼光を向ける。
「あのアストラ、お前が憑《つ》いている以上普通のリボルバーじゃないとは思っていたが、俺《おれ》が思っていたよりかなり異常な物のようだ」
(それはそうだろうね)
臆面《おくめん》もなく言ってのけるハンニバルに、蒼儀はしゃがんで顔を近づけた。
「あの天井の痕《あと》、ほんの少しだけだがへこんでいる。……エーテルが物理的な影響を与えることなどありえない。お前が何を企《たくら》んでいるかなんて知ったことじゃないが、これだけは教えろ、あのアルケブスに何を隠している」
(隠しているんじゃない、三嶋氏)
ハンニバルは、蒼儀の右足の上に前脚を置いて囁《ささや》くように言った。
(ただ、あれは私と同等の深い罪を背負っているだけだ)
蒼儀がすうっと目を細めるのを、ハンニバルは見た。若いし未熟なところも多いくせに、本当に恐ろしい眼光を放ってくる。
(私が言えることは、私は故意にあの子に害を与えようとしているわけじゃない)
「お前が意図しなくても、害が勝手にやってくるんだろう」
(それが君の望んでいることではないのか)
「そうだ、だが」
「ふー、どっこらせー」
微妙に気の抜ける掛け声と共に、比呂緒が立ち上がった。アストラM44[#「44」は縦中横]を持ったまま、手をぶらぶらさせて軽く柔軟体操を始めている。もう回復したようだ。思っていたより早い回復に、蒼儀は何となく安心する。『安心する』ためには、それ以前の段階で『心配』していたという事象《じしょう》に繋《つな》がることに、蒼儀は気がつかなかった。
「で、やっぱり当たんなかった?」
「天井だ、とりあえずもう少し撃つぞ、大丈夫か?」
「全然元気です!」
「なら、さっきと同じようにやってみろ」
標的から離れると、蒼儀《そうぎ》はハンニバルとの会話を続けようと足元を見る。そこに既《すで》に猫はおらず、ひょこひょこと自分の主に向かって歩いていくところだった。
その後ろ姿を見て、蒼儀はハンニバルが雌《めす》の仔猫《こねこ》の死体から作られたハイファミリアだということを初めて知った。
自分に尻《しり》を見せて歩く猫に意味もなく憤《いきどお》りを感じる自分が、情けなくも腹立たしかった。
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第六話 春が来たりて、馬鹿は踊る
[#挿絵(img/makibaoh_286.jpg)入る]
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暖かい。昨日はやたらと寒かったくせに、今日はやけに暖かい。今日の日中最高気温は四月中旬並みとか天気予報でやっていたような気がしないでもない。母が、「その格好だと、午前と夕方はいいけど昼間はちょっと蒸し暑く感じるかも?」と言っていたが、本当にその通りになった。まだ正午前だが、既《すで》に蒸し暑いのを通り越している。だが暑いからといってこのジャンパーを脱いでしまうと、荷物になるから嫌だ。袖《そで》を腰の部分で巻いて括《くく》りつければいいのかもしれないが、自分でやると後で絶対ほどけてしまうだろう。だいたい結ぶとか縛《しば》るとかは苦手なのだ。焼豚を作る時にたこ糸でぐるぐる巻くことも、ちょっと難しいと思う。焼豚を作ることなんて一年に一回あるかないかだから、あまり気にしなくてもいいとは思うのだが。
そんなわけで比呂緒《ひろお》は焼豚と本日の暑さに思いを馳《は》せながらも、冬用のもこもことしたジャンパーを脱ぐことなくベンチに座ってぼーっと空を眺《なが》めていた。
(比呂緒)
「はーい」
膝《ひざ》の上のハンニバルに呼ばれた比呂緒は、視線を落として彼女と目を合わせる。ぎざぎざの耳をぴくぴくさせているその可愛《かわい》らしい姿に、比呂緒はだらしない笑みを見せた。
(比呂緒、その緩《ゆる》みきった笑顔はもう少し改めた方がいいぞ)
本当に、馬鹿《ばか》みたいだ。
そう続けようと思ったハンニバルだが、やめておくことにした。「本当に馬鹿だしねえ」という答えが返ってくることがわかりきっていたからだ。比呂緒と共に生きるようになって二ヶ月少々が経過したが、彼女の感情の機微《きび》というのはかなりわかりやすいものがあった。だが、その機微はハンニバルが今まで見てきた人間たちと比べるとたいそうな偏《かたよ》りがあった。
怒らず、焦らず、悲しまず、寂しがらず、恐れず、恨《うら》まず。
ふと思い出したように静かに涙を流す。理由を問うても「んあ、ただ泣きたかったから」という不可解な答えが返ってくる。
そして、笑う。
緊張感などまるでない、一見|愛想《あいそ》笑いのように見えるくせに決してそうではない、へらへらとした、見る者をあきれさせ、時には不快にさせるその笑顔。まるで他人《ひと》を馬鹿にしているような笑い方だと思う人間もいるだろう。
故《ゆえ》に彼女は嫌われる。馬鹿に、馬鹿にされているように感じるから。比呂緒の担任である古屋《ふるや》は、とくにそう思っているようだ。比呂緒が笑うとすぐに出席簿《しゅつせきぼ》で叩《たた》く。笑わなくとも叩くが。何をやっても、何もやらなくとも叩《たた》くが。
心の広い人間から見れば、比呂緒《ひろお》の笑顔は可愛《かわい》らしく見えるかもしれない。裏表のない、自然な笑み。そう考えて、ハンニバルはそれがかなり贔屓目《ひいきめ》な意見であることを自覚して思わずうなだれた。
「んー、そう?」
比呂緒は自分の頬《ほお》を両手でつまむと上下に揺《ゆ》らした。ついでに額《ひたい》や首の辺りを軽くマッサージを始める。そして唐突《とうとつ》に両手を挙げると、伸びをしたり背中や肩を回し始める。時たまぴたりと動きを止めるために、何やらおかしなポーズをとっているように見えるその姿は、奇行《きこう》としか表現のしようがない。
周囲から明らかに浮いた姿だ。
比呂緒を中心とした直径一メートルの円の外側では、華やかな音楽が流れ、派手《はで》派手しい着ぐるみが闊歩《かっぽ》し、種々様々なアトラクションを多くの人々が楽しむ、日常と隔《へだ》てられた空間が広がっている。
今日は卒業遠足の日であり、比呂緒の学校の六年生たちはほぼ全員この郊外にあるテーマパークに来ていた。終日自由時間であるため、皆グループを組んで思い思いに楽しんでいるはずだった。
その中で比呂緒はただ一人、正門からほとんど離れていない場所にある噴水前のベンチに座っていた。勢いの強弱や方向が計算されている魅《み》せるためのその水の動きに、比呂緒は心を奪われているようだ。ぼーっと口を開けているその顔は、楽しそうに見える。水だけではなく、行き交《か》う人々にも視線がふらふらと動いている。一応平日ではあるが、春休みに差し掛かっているためかそれなりに混雑している。そんな楽しそうな人々を尻目《しりめ》に、比呂緒はベンチに陣取って動こうとしない。
(……楽しいのか、君は)
二時間ほどの時が過ぎた後、ハンニバルはついにしびれを切らして比呂緒に話しかけた。
「楽しいよー」
そう答える比呂緒の顔は、確かに楽しそうにハンニバルには見えた。
(何が楽しいのか、聞いてもいいか)
「色」
(色?)
「六識《ろくしき》だっけ、あれで見ると赤と灰色でしか見えないんだけど、赤にも色々違いがあって不思議なの。で、六識やめて普通に見て、普通のものが見えるの。そうやって違うのが楽しいのよねえ、何となく。面白《おもしろ》いー」
ハンニバルはため息をつきたくなった。六識の解放と収束をスムーズにできるようになったのは大した進歩だ。約二ヶ月でここまでできるようになったのは褒《ほ》めていいだろう。こういうことに関しては、比呂緒《ひろお》は天才と評していいはずだ、とハンニバルは無理やり自分に納得させる。
(ここは遊園地だろう、ああいう物に乗って楽しむのが本来の楽しみ方じゃないのか。フリーパスが配布されているだろう)
「メリーゴーラウンドは乗ると落ちるし、コーヒーカップに乗ると、止まった時には頭が下になってるし」
なぜそうなるんだ、という無駄《むだ》な突っ込みはやめておくことにした。
「それに乗り物ってちょっと苦手なの。車とかバスとかジェットコースターとか観覧車《かんらんしゃ》とか」
(ここに来るまで電車を使ったが、とても苦手には見えなかったぞ)
混雑している中、窓際に張り付いてずっと外の景色を見ていた比呂緒はひどく楽しそうに見えた。
「電車は混《こ》んでても広いから平気なの」
それはどういう理屈なのだろう。狭い乗り物が苦手ということなのか。だいたい、比呂緒の理屈というのは恐ろしく論理的ではない。十二歳の子供に論理的に客観的に物事を見て、効率を重視した思考を要求するつもりなど、ハンニバルにはない。だが、十二歳の子供がする物の見方という奴《やつ》を比呂緒はまったくできていなかった。その思考は五歳児に近いものがあるかもしれない。五歳児と比べたら五歳児に失礼なのではないかと、ちょっぴりハンニバルは考えて、その後はやめておくことにした。
比呂緒の思考には、ただ単に年を経《へ》ていないからという理由では説明できないものがあるからだ。彼女は恐ろしく幼稚《ようち》ではあるが、それと同時にごくたまに恐ろしく達観《たっかん》した物の見方をすることがある。本当にごくたまにではあるが。
(そのフリーパス代を出しているのは君のご両親だろう。少しは使わないともったいないとは思わないか)
ハンニバルの言葉に、比呂緒はきょとんとした表情を向ける。「あー……」と唸《うな》ると、彼女にしては本当に珍しくどこか考え込んだ表情へと変わった。
「んあー、確かにもったいないといえばもったいないかもねえ……ただじゃないんだしねえ」
うんうんと頷《うなず》き始めた比呂緒に、ふとハンニバルはどうしてこんなにむきになって彼女を遊ばせようとしているのだろうと自分のことを不思議に感じた。比呂緒がここでぼーっとして六識《ろくしき》を使う練習をしている方が、自分にとっては有意義なことのはずだ。
(……まあ、一人でああいうアトラクションを楽しむというのはむなしいことだろうしな。君に同行する友人はいないようだし)
「いないねえ」
(彼女は……君がおっちゃんと呼ぶあの子と一緒に行けばいいのではないか?)
「おっちゃんね、あたしの友達はおっちゃんと三嶋《みしま》さんしかいないけど、おっちゃんはあたし以外にも友達いるしねえ。せっかくの卒業遠足なんだから、あたしに構うよりは楽しんでほしいし」
(そういうことには分別《ふんべつ》があるんだな、君は)
比呂緒《ひろお》と落合明海《おちあいあけみ》の関係は、深いのか浅いのかハンニバルは未《いま》だはかりかねている。ただの友人ではないというのは何となくわかるが、そこにどんな思いが錯綜《さくそう》しているのかまではよくわからない。
「三嶋《みしま》さんがここにいても、あの人は遊ぶことってしなさそうだしねえ。っていうかこういうとこにはそもそも来ない気がする、あの人は。こういう場所は三嶋さんたぶん嫌いだねえ。三嶋さん、性格は細かいけど人付き合いするのはめんどくさいって思ってそうだし。こういうとこで入場券買う時に『子供一枚』って言うのもめんどくさいなーって思う人だよ、たぶん。で、好きな動物のタイプは毛が生えてない奴《やつ》」
三嶋|蒼儀《そうぎ》を評するその言葉には、ハンニバルも全面的に同意する。比呂緒がまともな観察眼を持っているのではないかと錯覚《さっかく》してしまいそうだ。動物の好みまでは知らないが。
ハンニバルが見る限り、蒼儀は基本的には繊細《せんさい》な人間である。いい加減の塊《かたまり》である比呂緒と付き合うことに、かなりストレスを溜めているだろう。そのうえ蒼儀は対人関係を面倒くさいと考えているタイプのようで、必要最低限の会話しかしようとしない。比呂緒がソウル・アンダーテイカーとまったく関係のないこと――例えば柴犬と秋田犬と土佐犬はどこがどう違うんだろうとか、三毛猫の雄《おす》を全然見ないのは何でだろうねとか――を話しかけてもすべて無視する。無視された比呂緒は別に気にすることもなく、蒼儀が『しばらく黙っていろ』と言い出すまで、どうでもいい話題を見つけては蒼儀に話しかける。
繊細な面倒くさがり。三嶋蒼儀という少年を一言で表現するとすれば、そんな言葉が相応《ふさわ》しい。
「三嶋さん元気だといいねえ」
(……君は三嶋氏のことを友達と思っているんだな)
「思ってるよー」
(君がそう思っていても、彼がそう思っているとは限らないと思うが)
蒼儀にとっては友達など所詮《しょせん》口先だけのものでしかない。今の二人の関係はせいぜい師匠《ししょう》ととんでもなく出来の悪い弟子といったところか。
「そう? んー、でも友達だし」
あっさりとハンニバルの言葉を流した比呂緒はぐるぐると肩を回していたが、ふと自分の右脇《みぎわき》にぶら下がっている物の存在を思い出す。
「これ、かさばるのねえ。あまり重く感じないから、肩は凝《こ》らないけど」
ジャンパーの上から、ぽんぽんとそれを叩《たた》く。
それ――アストラM44[#「44」は縦中横]・アルケブス・カスタムは、ジャンパーに隠れて外からは見えないが、確かにそこに存在していた。右肩からぶら下げられたホルスターの中に納まっているそれは、ホルスターごと隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》を施しているため、たとえジャンパーを脱いでも他人《ひと》に見えることはない。いくら目に見えないとはいえジャンパーの不自然な膨《ふく》らみまではごまかしようがないが、そんなところまで気をつけて比呂緒《ひろお》を観察する人間はここにはいないだろう。
(こうして見ると、君もなかなか様《さま》になっているソウル・アンダーテイカーじゃないか)
比呂緒のベルトに装着されているポーチの中には、シリンダーに弾《たま》を一挙に装填《そうてん》するための器具であるクイック・ローダーがニセット納められている。一セットには六発の弾丸がセットされており、現在アストラM44[#「44」は縦中横]の中に入っている弾も合わせて、合計十八発の弾を比呂緒は持っていることになる。
比呂緒自身がたどたどしい手付きでマテリアライズしたこのマグナム弾が放《はな》たれる日を、内心ハンニバルは楽しみにしていた。
一月初旬に付け焼刃《やきば》で申請された第三種|霊葬免許《れいそうめんきょ》は、二週間で受理されて比呂緒はすんなりと第三種霊葬|業務請負人《ぎょうむうけおいにん》となることを許された。
市役所の住民部|鬼籍係《きせきがかり》で行なわれたやりとりは、かなり適当なものであった。蒼儀《そうぎ》と知り合いらしいその所員は、アストラM44[#「44」は縦中横]を見て『リボルバーの申請は久しぶりです』とどこか嬉《うれ》しそうに比呂緒に話しかけてきたものだ。比呂緒はぼーっとしているだけだったが。
ハンニバルは所員たちのやり取りで、彼の――『三嶋《みしま》』という名前がそれなりに勇名《ゆうめい》をはせていることを知った。
『三嶋の次男坊が後見人《こうけんにん》なんだ。馬鹿《ばか》そうに見えるけどきっとすごいんだろうよ、色々と』
『三嶋の人間が身内以外の後見をするなんて、初めてじゃないのか?』
『この間、三嶋の長男が狼狩《おおかみが》りやったらしいぜ、さすがだな』
畏怖《いふ》を込められて囁《ささや》かれるその噂《うわさ》を蒼儀も耳にしていたようだが、表情一つ変えず事務的な手続きを黙々とこなしていた。その間比呂緒は、蒼儀に「おとなしくしていろ」ときつく言われて「んあー」と唸《うな》ってソファーに座って足をぶらぶらさせていた。
こうして比呂緒がたいした努力をすることもなく発行された免許は、今は比呂緒の財布の中に入っている。
それ以来、蒼儀は比呂緒にアストラM44[#「44」は縦中横]とクイック・ローダーニセットが入ったポーチを常に携帯《けいたい》することを命令した。「本当に、どんな時も持ってなきゃいけないの?」と比呂緒が聞き返した時、蒼儀は無言で頷《うなず》きかけたものの少し考え直して「判断に迷った時は猫に聞け」と、ハンニバルに押し付けた。
それでよかった、とハンニバルは思う。そうでなければ、風呂《ふろ》に入る時や体育の授業の時にまで比呂緒はこの銃《じゅう》を手放さなかっただろう。
こうして、比呂緒はかなりアストラM44[#「44」は縦中横]の重さと存在に慣れてきた。もっとも、今でもホルスターをどういう手順で装着するのか覚えることができず、ハンニバルを悩ませてはいるが。
(そろそろ、君も実包《じっぽう》を撃《う》ってもいい頃《ころ》だと思うのだが。空包《くうほう》を撃っても、あまりよろめかないようになったことだし)
蒼儀《そうぎ》は空包を湯水のように撃たせてはくれなかったが、それでも比呂緒《ひろお》のエーテルと仙骨《せんこつ》は撃った時の反動には耐えられるようになっていた。最初に撃った時のように、エーテルが弛緩《しかん》して動けなくなるということはもうない。
撃った反動による腕の跳《は》ね上がりも、だいぶましになった。命中率はまだまだ素人《しろうと》の域から抜け出すことはできないが、それでも狙《ねら》った方向に飛ぶようになっているし定められた標的の中に当たるようにもなっている。
「まあ、そう無理に撃とうとしなくてもいいんじゃないの?」
のんびりと答える比呂緒は、手で口をふさぎもせずに大きなあくびを一つした。
(大口開けてあくびをするものじゃない、みっともない)
「んあー……んだねえ、前にふーちゃんの前でやったら、ぐーで口んとこ殴《なぐ》られて前歯と唇《くちびる》が痛かったりしたしねえ」
あれは痛かった、と比呂緒は腕を組んでうんうんと頷《うなず》く。
「ほら、このぐーのとんがったところが、前歯の先っちょに当たってさあ、ほんと痛かったのよー。で、ぐーの親指のとこが下の歯に当たっちゃぶぇくし」
言葉の途中でくしゃみを一つかますと、鼻の穴からみっともなく鼻水が垂《た》れてくる。ジャンパーのポケットからもたもたとティッシュを取り出そうとする間、比呂緒は鼻を啜《すす》りもせずに垂らしたままだった。服にまで垂れないかとハンニバルがはらはらしていると、比呂緒はやっとティッシュを取り出して垂れた鼻水を拭《ふ》き取った。鼻を意外と丁寧《ていねい》にかむのはいいが、わざわざティッシュを開いてじーっと自身の鼻水を見つめるのはいただけない。
「鼻水透明だから、鼻の病気じゃないね、よかったよかった……あ、鼻くそがついてる」
先ほど比呂緒の隣に座ったカップルが、汚物を見るような目を向けてから移動を開始するのをハンニバルは見ていたが比呂緒はまったく気にする様子がない。はたから見ると独《ひと》り言《ごと》に感じられる言葉をぶつぶつと吐《は》き出し続けた上、かんだ鼻水の色を確認するような小学生の隣に座りたがる人間はいないだろう。
そんなわけで、比呂緒の陣取っているベンチは他《ほか》の人が座ってもすぐに移動するという営業者側から見ると少々迷惑な空間になっていた。
(……いちいちティッシュを広げて鼻水の色を確認するのはやめなさい、とくに人前では)
「えー、でも鼻水とかおしっことかうんこの色とか形とかは普段《ふだん》から見といた方がいいっておばあちゃんが言ってたよ。ニケやハッちゃんもトイレした後は必ず見るし。鼻水緑っぽいと鼻の病気みたいだから気をつけてねハルさん」
(私は既《すで》に病気というものにはかからない存在だよ……それにいい加減、私と会話をする時は言葉を六識《ろくしき》に乗せてくれ。何度言ったらわかるんだ)
六識《ろくしき》の使い道は、霊体《れいたい》を認識するためだけのものではない。エーテルを介して意思の疎通《そつう》をすることもできる。ソウル・アンダーテイカー同士が六識で会話するには身体《からだ》の一部が直接|触《ふ》れている必要があるが、比呂緒《ひろお》とハンニバルはマスターとファミリアの関係であるためその域からは外れる。
何度も、それこそ一日に三回近くは繰り返しているというのに、比呂緒は決して六識による会話をしようとはせず、必ず口から言葉を放つ。ゆえに彼女はこういう公共の場所で胡散臭《うさんくさ》い視線を向けられてしまうのだ。
どうでもいいことは結構覚えているし、教えても忘れない事象もあるから、学習能力がまったくないというわけではないくせに。
(ただでさえ君は馬鹿《ばか》だのあほだののレッテルを貼《は》られているんだから、これ以上おかしな風評が立つ前に私との会話は言葉に出さず六識に乗せてほしい、お願いだからそうしてくれ)
どうせまた「んあー、でもさあ、そーゆーのは何か嫌なのよねえ」などと言って、聞き流されるのだろうな。半ば諦《あきら》めていたハンニバルだが、この日は違った。比呂緒の手がハンニバルに触《ふ》れるか触れないかの位置まで伸ばされたかと思うと。
(んあー……六識で話すってこーゆーことなのかあ……)
比呂緒の声ではなく意思が直接流れ込んでくる。その途端、ハンニバルは身震《みぶる》いしたくなるような衝動が自分を襲《おそ》っているのを知った。身体を揺らすのも耳や髯《ひげ》をひくつかせるのも、半端にしかない尻尾《しっぽ》を左右に振るのも、自分の意思を視覚的に主《マスター》に知らせる方法だ。耳も髯も尻尾も、実体を持たないハンニバルには無駄《むだ》で無意味なものでしかないのに。
それらの行動を無意識にできるようになったのは、多くの人間たちの間を渡り歩いてきた処世術《しょせいじゅつ》だ。
(あー、ハルさん毛が逆立ってるよー。怒ってるの?)
この毛が逆立っているように見えるのは、ただの条件反射のようなものでしかない。すぐに直さなければ。
(…………ああ、いや、別に怒っているわけじゃない。むしろ嬉《うれ》しい、君が六識で会話をしてくれて)
そうだ、これは素直に喜ぶべきことだ。あれほどかたくなに六識による会話を嫌がっていたのに、なぜ唐突《とうとつ》に自分の頼みを聞いてくれたのか若干《じゃっかん》気になるが。
(なんか、こういうの嫌だねえ。会話してる気分じゃない)
逆立った毛並みを、比呂緒が優しい手付きで撫《な》でている。そんなことをされても毛が戻るはずがない……と思ったが、飛び跳《は》ねていた毛は比呂緒の手によって治まっていく。掌《てのひら》からわずかながらにはみ出している比呂緒のエーテルが、毛に影響を与えているようだ。
うまくできた身体なのだな。ハンニバルは初めて仔猫《こねこ》の姿をした自分の霊体に感心した。
(そう言うな、これは……そうだな、内緒話をする時に便利なんだよ。他《ほか》の人に聞かれたくない話とかあるだろう?)
(ない)
あまりにも簡単に即答されて、ハンニバルは何となく比呂緒《ひろお》を見上げてみた。笑ってはいないが、気の抜けたぼーっとした表情に見える。
(ないのか? 君にだって他者《たしゃ》に聞かれたくない秘密くらいあるだろう)
「んあー」
唸《うな》るような音が口から発せられると、比呂緒は左手で少し伸びている前髪を意味もなく引っ張った。一応、何かを考えているような顔をしている。
(聞かれたくないことはないよ。言いたくないこととかはあるけど、言いたくないことは言わないから、言わないし。おっちゃんとかに内緒にしといてって言われたことあるけど、内緒なことはどこまでも内緒だから、誰《だれ》にも言わないから話さないもん。あー、あたしは内緒な話を聞くけど内緒な話、したことない。今気がついた、うんうん)
一人|頷《うなず》く比呂緒を尻目《しりめ》に、ハンニバルは比呂緒が何を言いたかったのか理解しようと努力をしていた。しかし五秒でその思考を放棄《ほうき》すると、少し強い調子で比呂緒に語りかける。
(とにかくだ、私と会話をする時は六識《ろくしき》を通すようにしてほしい。それとこれから先、万が一にも三嶋氏《みしまし》が君に触《さわ》ろうとしたら、それは十中八九、六識を通して君と会話をしたいというサインだ。その時は言葉ではなく六識を通して会話するように)
「えー嫌だー」
これもまた即答される。しかも先ほどの『嫌』よりも強い調子で言葉と、そして表情に出ていた。比呂緒が困った顔や痛そうな顔を見せることはをそれなりにあったが、ささやかとはいえ『嫌い』という感情を表に出すのをハンニバルは初めて見た。
そして、この少女にもちゃんと『何かを嫌う』という極めて人間らしい感情があったことに改めて安堵《あんど》する。人間として当然なのに、何かを嫌い、怒り、憎み、恨《うら》むという感情を見せなかったから。
だからハンニバルは聞いてみたくなった。
(どうして嫌なのかな? ああ、理由は六識を通して説明してくれると嬉《うれ》しい)
「んー……」
比呂緒の顔から嫌悪《けんお》の情が消えていくのをどこか残念に思いながら、ハンニバルは理由を問う。
(誰かと話す時はさ、ちゃんと口に出して言った方がいいよ。この六識ってのでお話しすると、全然お話しした気持ちにならないし)
(でも、意思の疎通はできるし、六識を使った会話だと嘘《うそ》をつくのが困難だ。本音で会話をすることができるし、相手の嘘を見抜くこともできるぞ)
六識で会話するということは、平たく言えばエーテルに自分の意思を乗せることだ。口から発する言葉に偽《いつわ》りを混ぜることは容易《たやす》くとも、自分の魂《たましい》を偽ることは難しい。慣れれば魂で嘘をつくことも可能ではあるが、それにはかなりの熟練《じゅくれん》を必要とするし、完全に隠し通すことは不可能に近い。少なくともハンニバルは、六識《ろくしき》を使った会話で嘘《うそ》をつかれても見抜く自信がある。
(嘘なんて見抜かなくていいよ)
比呂緒《ひろお》はハンニバルの顔を見てにっこりと笑う。ああ、普段《ふだん》の笑顔より今の顔の方がちょっといいかな、などとハンニバルは何となく思った。
(嘘はいけないことだけどさあ、嘘をついてもいい時には嘘ついてもいいじゃん。嘘つかないといけないからつくわけでしょ? ならつかれた方は、あーそうなんだー、って思ってそれでいいじゃん)
(君は嘘をつくことを悪いことだと思っているのに、嘘をつくことを否定しないんだな)
(嘘も方便《ほうべん》なんだし、自分がほんとだと思うことがほんとにほんとってわけじゃないし、だから嘘がほんとに嘘かってのもわかんないし、嘘なら嘘は嘘のままでもそれでいいんじゃないのかな?)
比呂緒はこういう喋《しゃべ》り方をするのは今に始まったことではないが、何が言いたいのかさっぱりわからない。わかるのは、比呂緒が嘘をついていないことくらいだ。
(君はいったい何を言いたいのかな)
(時と場合を考えたら、嘘ついたっていいじゃんってことじゃないのかな?)
(自分で自分に疑問符《ぎもんふ》をつけないように……しかし、君はそういう理由で六識での会話が嫌なのかな?)
「ん、あ」
笑顔をひっこめて何か考えこむ素振りをする比呂緒だったが、すぐにいつもの茫洋《ぼうよう》とした表情に戻った。
(言葉ってさあ、この辺りから出てくるもんなのよね。六識でのお話ってさ、皮で話してる気分になるの。なーんか、お話ししてるって気持ちになれないから嫌だ)
この辺り、と比呂緒が叩《たた》くのは己《おのれ》の腹の辺りだ。
(……君は、腹で会話をしているというのかね)
(ちょっと違う、お話ってのは頭から出てくるけど言葉はお腹《なか》から出てくるものだなってあたしは感じるのね。ハルさんは、まあ幽霊《ゆうれい》なんだから腕で話してもいいかなーと思うけど、三嶋《みしま》さんと腕で話すのは嫌だよ。せっかくこっから言葉が出せるのに)
どうも比呂緒の感性は自分には理解しがたいようだ。ハンニバルはため息をつきたくなる。ついたところでどうしようもないことはわかっているが、もし自分に痛覚があるとしたらきっと頭痛に悩まされていることだろう。
運命共同体であるこの主人の言動は、ハンニバルには恐ろしいまでに意味不明であり理解不能であった。
とりあえず何か話題を変えようと思ったハンニバルは、ふと聞いてみたいことを思い出した。
(ところで、どうして唐突《とうとつ》に私と六識《ろくしき》で会話してくれるようになったんだ? 今まで何度言っても全然聞き届けてくれなかったのに)
(ハルさんにお願いされたから)
(…………は?)
思わず、意味がまったくない一文字の言葉を意識の片隅《かたすみ》に乗せてしまうハンニバルであった。
(お願いされたからって……今までだって散々《さんざん》していたじゃないか)
(ううん、ハルさん今までは『頼むから』とか言ってた。『お願い』とは今日まで一度も言ってないよ)
ハンニバルは、自分の言葉を思い返してみる。ここ二ヶ月で自分が言ったことをすべて覚えているわけではないが、確かに頼みごとはしたけれどお願いという言葉は使っていない気がする。
(……で、頼みとお願いという大変よく似た言葉の、君が思う違いというのは何なのかな……)
(頼まれごとはさ、あたしに頼まれてもしょうがないなあって気になるけど、お願いなら何とかしようって気になるから)
(………………それだけの理由か?)
(それだけの理由だよ?)
怒ればいいのかあきれればいいのか、ああそうですかそんな理由ですかと、すっぱりさっぱり水に流して忘れてしまえばいいのか。疲れることなどないはずなのに、なぜかとてつもない疲労感が実体の伴わない猫の身体《からだ》をさまよっている。
一連の会話を蒼儀《そうぎ》にも聞かせてやりたいとハンニバルは心底《しんそこ》思った。彼も自分や比呂緒《ひろお》と少なからず運命を共用しているのだから、この表現しがたい疲れを体験すべきなのだと理不尽《りふじん》な思いに駆《か》られる。
(比呂緒、君はいい人間だと思っているが時にとんでもなく残酷《ざんこく》な行為をしているよ……)
(そう?)
この猫の目から滝のような涙を流してみたい。ハンニバルはそんな理不尽なことを考えている自分を奮《ふる》い立たせるように噴水を見た。
きれいな噴水なのに、なぜかむなしくなった。
「小学生フリーパス一枚」
たったそれだけの言葉なのに、とてつもなく面倒《めんどう》くさく感じる自分はたいそうな横着者《おうちゃくもの》なのだろうと三嶋《みしま》蒼儀は思う。もともと喋《しゃべ》ることはあまり好きではない。正直に言えば嫌いだ。言葉を発するのは自分の意思を他人に伝えるためなのだろうが、自分のことを他人などにわかってもらいたくない。かといって家族と会話が弾《はず》むかというと決してそんなこともなく、たまに一家全員が揃《そろ》っても皆必要最低限のことしか話さない。
言葉を発するという行為を、どうして自分は嫌うのか。他人と会話するのは嫌うくせに、毎朝毎晩サボテンとマリモに挨拶《あいさつ》するという、自分で客観的に考えても大変寂しい行為はまったく嫌いではない。むしろサボテンとマリモは好きだ。植物全般はどうでもいいが、サボテンとマリモだけは好きだ。もっと限定するなら、自分が育てているサボテンとマリモだけが好きだ。他《ほか》の人間が育てているサボテンとマリモはどうでもいい。
とにかく、蒼儀《そうぎ》は他人と会話をするのが嫌いだった。ここ二ヶ月ほど、ソウル・アンダーテイカーとしての心得を教え込むために江藤比呂緒《えとうひろお》という馬鹿《ばか》とそれなりに話したが、いらついてしかたがなかった。それでも説明をしている間はいい。自分が黙ってしばらくすると比呂緒がどうでもいいことばかり話しかけてくるのがつらかった。
ゆで卵は半熟と全熟どちらがいいかとか、卵焼きに何をかけて食べるかとか、きゅうりは生とマヨネーズどちらがいいかとか、納豆にねぎとからしと醤油《しょうゆ》をどれほどかけるかとか、カレーライスとライスカレーの違いは何かとか。
大半が食べ物の話題であったのは、気のせいではないだろう、たぶん。
自分が『静かにしていろ』と言うとしばらくは何も言わないが、時間がそれなりに経《た》つとまた言葉を投げかけてくるのが嫌だった。無視しても気にせずに喋《しゃべ》り続ける比呂緒が鬱陶《うっとう》しくて、はっきりと非難してやってもただへらへらと笑うだけだ。
そりが合わないとは初めて会話した時から思っていたが、一緒の時間を過ごせば過ごすほど自分と比呂緒の相性は最悪だと感じる。物覚えが悪い、人の話をあまり聞かない、ぼうっとした顔をしている、一度鼻をかんだティッシュを再利用する、抜けた髪の毛をいじって遊ぶ。それらのすべてが気に入らない。
ソウル・アンダーテイカーとして後見《こうけん》をすると決心したとはいえ、比呂緒に色々と教え込む過程でかなりストレスが溜《た》まってしまったものだ。比呂緒と会った日は、疲れてしまって恐ろしいまでに熟睡してしまう。普段《ふだん》から眠りが浅く、断続的な睡眠《すいみん》しかとることのない蒼儀にとっては、五時間も連続して眠ることなど信じられないことだった。まったくもって迷惑な話である。
食べ物の話ばかりするから普段より食事に興味がわくようになって、食物|摂取量《せっしゅりょう》も上がってしまった。ここ二ヶ月で体重が一キロも増えている。運動は欠かしてはいないから脂肪のみが増えていることはないだろうが心配だ。自分のペースがあんな馬鹿に乱されているかと思うと、本当に腹が立つ。
しかしいつまでも気持ちが切り替えられないというのは、まだまだ未熟ということだ。これからしっかりと下見をしないといけないのだから、それなりに気合いを入れねばなるまい。蒼儀は釣り銭を財布の中にしまうと、明るい色で装飾されたゲートをくぐり、標的がいるであろう場所へと足を踏み入れた。
建造物の位置は前もって資料に目を通してあらかた把握《はあく》してはいるが、やはり現地で自分の目と足で直接確認するのとではわけが違う。まずはこの土地の中心地からシルバーを飛ばして偵察《ていさつ》をしてから、自分の足で調べるのがいいだろう。
蒼儀《そうぎ》はギターケースを担《かつ》ぎ直して歩き出すと、見上げるほどもある熊《くま》の着ぐるみがやってきて無言で熊の形をした風船を差し出してきた。熊の顔は笑っているが、その張り付いた動くことのない笑みにあの馬鹿《ばか》を思い出して先ほど忘れた苛立《いらだ》ちがまた蘇《よみがえ》ってくる。
……自分は子供なのだから、子供らしい振る舞いをせねばなるまい。蒼儀は下から睨《にら》み付けるように熊の顔を見てから、差し出された風船を受け取った。熊は現れた時と同じように無言で元の位置に戻ると、次に風船を渡す標的を探すべく周囲を見回している。
あの熊は己《おのれ》の職務に忠実なだけなのだ。そう考えると、苛立ちも何となく治まっていく。この風船は正直|邪魔《じゃま》だし、いっそのこと手を離して空に飛ばしてしまいたいが、熊の前でそれをするのは少々心ない行為ではないか。あの熊は別に気にしないだろうが、職務を黙々とこなしている彼の誇りを傷つけるのような気がして、蒼儀は少し遠慮することにした。
担いでいたギターケースを一度下ろすと、風船の紐《ひも》をくくりつける。あらためて担ぎ直したその姿は、さぞかし子供らしく見えるのだろう。
年相応に見えないと家族や知人に言われるので、こうすれば少しはこの空間に馴染《なじ》むことができるかもしれない。馴染めないにしても、目立つことはないと思う。これは意外とよい物をもらったかもしれない。
ではここの中心地である広場に行くか。そうやって歩き出した蒼儀だが、十二歳の少年が熊の風船がくくりつけられたギターケースを担いで不機嫌そうな顔をして一人で歩いているということ自体、この場所で浮いているということにはまったく気がついていなかった。
「……まさかというか、やっぱりというか……ここにいたのね、ヒロ」
そろそろお昼時という時間になって、落合明海《おちあいあけみ》は朝に比呂緒《ひろお》を見かけた場所へやってきた。いなければいいとは思っていたが、やはりいた。噴水前のベンチに座ってぼーっと地面を見続けている。声をかけると、ゆっくりと見上げてきたその表情にはいつもの笑みが浮かんでいる。
「あーおっちゃんだ。おはよー」
思った通りの返事に明海は憮然《ぶぜん》とした表情をすると、腰に手を当ててどこか偉《えら》そうにふんぞり返ってその比呂緒の顔を見下ろした。
「おはようじゃないわよ……集合した時にそこにいたからまさかとは思ったけど……」
大げさなため息をついてみせて、長い髪を揺《ゆ》らしながら比呂緒の隣に腰を下ろす。
「あんたね、せっかく遊びに来てるんだから、少しは動きなさいよ。そりゃあんた、ジェットコースター系は目ぇ回すし、メリーゴーラウンドでも目ぇ回すし……っていうか、あんた直線に動かないある程度の速さで動く乗り物系は全部目ぇ回すでしょ」
「んあー、そうだねえー」
比呂緒《ひろお》がこういう場所にあるアトラクションの大半を楽しめない人間であることを、明海《あけみ》は知っていた。風景をゆっくりと楽しめないほど速度のある乗り物に乗ると気持ちが悪くなる。お化け屋敷などは比呂緒は絶対に驚かないから心強いといえば心強いが、比呂緒自身がぼへらとしているだけなので緊迫感《きんぱくかん》がなくなる。着ぐるみたちが踊る劇のようなものもやっているが、暗くなると眠る性質《たち》の比呂緒には意味がない。
「おっちゃんどうしたの? お友達と回ってたんじゃないの?」
「回ってたわよ、でもあんたのことが気になったからこっち来たの」
「えー、あたしのことはほっといていいのにー」
放《ほう》っておけるわけがない。この馬鹿《ばか》のことを。友人たちと一緒にいても、比呂緒がどうしているかを考えると集中できない。そんな自分を友人たちは同情の視線で見るが、決して「じゃ江藤さんも一緒に行こう」とは言ってくれない。言うわけがない。
そんな友人たちを、明海は到底《とうてい》責める気にはなれない。こんな馬鹿と付き合っても不愉快になるだけだから。それは明海自身もよくわかっている。他《ほか》の人間にまで不快な思いを強要《きょうよう》するわけにはいかない。
こうして自分が来てやらなくとも、どうせ比呂緒は一人で時間を潰《つぶ》して一人で帰っていくことだろう。それを寂しいなどとも思わず、むしろ楽しいと感じて。それでも自分は比呂緒を構わずにはいられないのだ。
ふと脳裏《のうり》を、いつか見た三嶋《みしま》とかいう胡散臭《うさんくさ》い少年の姿がかすめる。比呂緒に会って聞いてみたら、彼女は彼のことを友達だと言った。鼻で笑ってしまう。比呂緒の友達が自分以外にいるわけがないのだから。
「あんた、ほっといたらずっとここにいるつもりだったでしょうが。そんなの駄目《だめ》に決まってるでしょ。あんたが乗れそうなのは観覧車《かんらんしゃ》と……あー、ほら船の乗り物あったじゃん、何とか号。船は確か平気だったわよね、あんた」
「海はいいねえ」
「海じゃなくて川よ、何とかリバー号とかいうの」
「ふーん」
「ふーんじゃないわよ、あんたもうちょっと楽しみなさいよ、せっかく来たってのに」
「楽しんでるよー。おっちゃんこそ楽しんでる? 何か怒ってるみたいだけど」
「あんたがぼへっとしてるから怒ってるのよ!」
「んあ、ごめんなさい」
そう謝る比呂緒《ひろお》の表情には悪びれた様子は微塵《みじん》もない。もう慣れたことだからそう腹も立たないが、少しは自分が怒っているということをアピールしておくことにする。
「だいたい何、その暑苦しそうなジャンパーは」
「そう? そんなに暑くないよ」
「とにかく、あんたは船乗って観覧車《かんらんしゃ》に乗るくらいのことはしなさいっての。わかる!? バス代まるっきり損してるじゃないのよ、もったいないでしょうが」
「んあ、ハルさんにもそう言われた」
ハルさん。そういえば去年比呂緒が言っていた気がする。肩の上にハルさんっていう可愛《かわい》い猫がいると。見えない猫の話なんてするんじゃないと言ったのに、またこんなふざけたことを言うのか。
「あんた、そういうことは人前で言わないようにって言ったでしょうが」
「おっちゃんならいいっしょ」
「……まあねえ……あたしならいいけどねえ……」
「うん、それにハルさんはあたしだけじゃなく他《ほか》の」
そこまで言いかけて比呂緒が唐突《とうとつ》に口を閉ざした。今まで自分にぼーっとした顔を向けていたのに、視線を下に向けて膝《ひざ》の上にいる何かを撫《な》でるような仕草を始める。
「何よ、急に黙り込んで。腹でも痛いの? それとも膝の辺りに見えない猫でもいるわけ?」
「…………んあ、ん、猫、ハルさんいるよ。うん……」
喋《しゃべ》り方がおかしい。比呂緒は意味不明のことを口走ることはあるが、口ごもるということはないはずだ。口ごもるのは、喋りづらい何かがあるということ。この比呂緒はとんでもなく正直者であり、嘘《うそ》をつくことなどない。比呂緒はそういう人間だ。彼女のことは、彼女の両親の次くらいにはわかっているつもりだから。正直、あの乱暴者の妹よりは自分の方が比呂緒を知っている。
自身の膝をじっと見つめて動かない比呂緒は、もしかしたら意識が朦朧《もうろう》とするほど腹でも痛いのかもしれない。比呂緒は痛い時は素直に『痛い痛い』というが、本当に、死にそうなくらい痛い時には何も言わないのだから。
だから明海《あけみ》は、比呂緒の腕を掴《つか》もうと手を伸ばした。その厚手のジャンパーに触れた途端《とたん》、何かがじわりと掌《てのひら》に滲《にじ》みこんでくるような気がして思わず手を離す。気持ち悪い。よくわからないが、熱を持った爬虫類《はちゅうるい》に触《さわ》ってしまったような気色《きしょく》の悪さだった。仰《の》け反《ぞ》った明海は慌《あわ》てて掌を確認するが、別段何もついていない。
「んあー、ハルさんとおっちゃんと一緒に会話するのは難しいのねえ……あ、おっちゃんどうしたの?」
何事もなかったかのように明海に話しかけてくる比呂緒の顔は、いつもと変わらない。自分だけが勝手にうろたえて勝手に慌てていたような気がして何となく腹が立つ明海である。
「……あんた、さっきあたしが呼んだのに返事しなかったじゃないの」
「んあ、あれはね、おっちゃんにあたしが話そうとしたことをハルさんが話しちゃいけないって言ったから。おっちゃんだけじゃなくって、とにかくハルさんを見えない人には話しちゃいけないんだって」
「……見えない猫が、そう言ったの?」
「うん、でね、今まで何を言ったらいけないか教わってたの、結構たくさんあった。あ、ハルさんと話してると、何か口から言葉がうまく出てこないのね。呼んでるのは聞こえたけど返事できなかった。ごめんね」
見えない猫。妄想《もうそう》極《きわ》まりない話だ。幻覚《げんかく》でも見えているのではないか。昔から、胸や後頭部を指して『この辺りから声が聞こえる』などと言っていた比呂緒《ひろお》である。頭の中には、比呂緒とは違う意思と感情を持つ小人――いや、仔猫《こねこ》が四十八匹くらいひしめき合っていて、常に暴れているのかもしれない。
前々からおかしいとは思っていたが、本当におかしくなってしまったのだろうか。
「でね、ハルさんが精神異常者だと誤解される前にうまくしっかりとごまかしなさいってさ……あ、ハルさんが何か蹲《うずくま》っちゃった。まあとにかく、あたしはハルさんと内緒話をしてたの。ごめんね」
そうやって笑うのはいつもの比呂緒だ。その表情を見た途端、明海《あけみ》は自分だけがあたふたしていたのが馬鹿《ばか》らしくなってきてため息をつく。
「ま、いいわ、あんたが猫と話すのなんていつものことだもんね。猫と内緒話することもあるわよね」
「うんうん」
明海は勢いよく立ち上がると、比呂緒の腕を引っ張って無理やり立たせた。先ほど感じた熱い爬虫類《はちゅうるい》のことがほんの少し頭をかすめたが、指先が伝えるのはジャンパーのぶ厚い布地だけだった。きっと、さっきのは気のせいだったのだろう。
「さ、船に乗りに行くから」
「えー、ご飯食べたい。お弁当の時間にしようよー。おかず何なのか楽しみにしてたのにー」
背負っていたリュックサックをばしばしと叩《たた》く。箸箱《はしばこ》ががちゃがちゃ音を立てていたが、明海はそれを無視しておくことにした。
「食べた後だと、あんた食休みとか言って一時間くらい休むじゃないのよ。そんなのんきなことしてたら、あんた集合時間までここにいることになるでしょうが。五時までそんなに時間ないんだからね!」
比呂緒は腕を引っ張られながら、ぼんやりとした顔で空を見上げた。
「いい天気だねえ」
「……いい天気なら、ぼへぼへしてないできりきり歩くのよ」
「あいさー、とりあえずがんばります」
人がたくさんいる空間というのは、それだけで疲れてしまう。六識《ろくしき》とシルバーを使って標的がどの辺りに潜伏《せんぷく》しているかを探り出すというのは、かなり骨の折れる仕事だ。それに人間が多いと、雑多な魂《たましい》を感じ取ってしまい探索《たんさく》はますます困難になる。平日だからもっと閑散《かんさん》としていると思ったのに、この人数はなんだ。仕事だの学校だのを休んでまで来る価値がある場所なのか、ここは。
などとテーマパークの存在意義を考えてもしかたがない。蒼儀《そうぎ》は適当なベンチに腰掛けると、ギターケースを背中から下ろして地面に突き立てる。まだこれの中身を使う時ではない。両腕でケースを抱え込み、頭を下げてうつむいてから目を閉じる。
肩の上にいるシルバーと、意識を深く同調させるために霊髄《れいずい》の動きを通常より活発化させて脳内に自分のファミリアである黒い烏《からす》の姿を思い描く。慣れているはずなのに、今日は普段《ふだん》より十秒ほど長く時間がかかった。
脳の中には風景が映りこんでくる。自身の目で見ているのではない。シルバーの目が、今は蒼儀の目なのだ。視線を横に向ければ、目を閉じてうつむいている自分の顔が見える。目を閉じた自分の顔を見る機会など、日常で暮らすぶんには滅多《めった》にないことだが蒼儀は別段自分の顔に興味を持ったりはしなかった。
どこからどうみても、不機嫌そうで可愛《かわい》げのない顔をしたガキである。自身の顔が嫌いというわけではないが、好きにもなれそうにない。
いつまでも自分の顔を見ていてもしかたないので、蒼儀はシルバーを上昇させる。鳥型のファミリアを持つ最大の利点は、飛行が可能なことだ。ファミリアは雛形《ひながた》となった動物の特徴を色濃く受ける。鳥は空を飛べるが地上を歩かせることはできないし、犬や猫は飛べないが地上を偵察《ていさつ》させるのに役に立つ。魚の死体を使えば水中専用ファミリアとなるのだろうが、いかんせんそんなファミリアを作ってみようなどという物好きを蒼儀は知らない。
鳥型ファミリアは便利ではあるが、そのぶん扱いが難しい。意識を同調させて飛ばせることはできても、その情報が脳内に流れ込んでくると船酔いに似た症状が現れることが多い。とくに同調状態がいきなり切れると、意識が恐ろしい勢いで下降していきブラックアウトしてしまう。蒼儀もだいぶ慣れたとはいえ、まだまだシルバーを飛ばすことには未熟だ。
上昇する時は、ただ空が見える。太陽の光が眩《まぶ》しいということはない。
青い空だ。綺麗《きれい》だと思う。
ある程度の高度をとってから、空中で静止させる。鳥の特徴を受け継いでいるから空を飛べるとはいえ、鳥に当てはまるすべての物理法則がファミリアに適用されるわけではない。上昇気流に乗らないと飛べないということもないし、風にあおられて進路が変わることもないし、こうやってホバリングのように中空で静止し続けることもできる。
鳥になって空から下界を見下ろす。それはとても気分がいいことだと評するソウル・アンダーテイカーがいるが、蒼儀《そうぎ》は高いところはあまり好きではない。高所恐怖症というわけでは決してないが、空から地面を見下ろすよりは地面の上で水平線を見ることの方が好きだ。たったそれだけのことなのだ。
だから蒼儀は、普通ならしばらく眺《なが》めていたいと思うであろう高度からの風景には何の感慨《かんがい》も示さなかった。彼が今注目しなければならないのは、この遊園地のどこに|彷徨える羊《ストレンジ・シープ》≠ェ潜伏しているかだ。
羊がいる前兆《ぜんちょう》としてもっとも多いのが騒霊現象《ポルターガイスト》だ。まずは物体にこびりついているエーテルにまとわりついてがたがたと音を立て、やがて人間に影響を及ぼしていく。今はまだ騒霊現象が起こっているだけで大して被害はないそうだが、潜在的にはもう被害者が出ているのかもしれない。吐《は》き気《け》だのめまいだのは、よほどひどくなければ救護室《きゅうごしつ》に行かずにすませてしまう人間もいるだろうし、ここを出てしまえば羊の影響はなくなってしまう。もう少し放置しておけば目に見える被害が出てくるだろうが、そうなる前に何とかするのが蒼儀の仕事であった。
依頼はテーマパークの依頼者|直々《じきじき》に来てはいるが、極力《きょくりょく》内密にかつ穏便《おんびん》に済ませるようにとのことなので強硬手段を取ることができない。霊葬業務請負人《れいそうぎょうむうけおいにん》が来ていることを知っている者は園内には一人もいないのだ。羊を見つけてそれをいざ撃《う》つ段階に持ち込もうとしても、場所によっては面倒なことになりそうだ。だが依頼人側の協力が得られないぶん、報酬《ほうしゅう》は水増しさせてもらった。
今日は下見《したみ》だが、あまり急ぐ必要がないようならあの馬鹿《ばか》を――比呂緒《ひろお》を連れてきてやらせてやるのもいいかもしれない。被害が大きくなっていないところを見ると、そう強い羊でもなさそうだ。そろそろ実戦《じっせん》を積ませてやらないと、ハンニバルがうるさい。あれも、平穏《へいおん》なところに置いていては意味のない猫だ。きな臭いところに連れて行ってやった方がいいだろう。その時までに、もうちょっとあの馬鹿に経験を積ませてやりたいものだ。
だが、そんな悠長《ゆうちょう》なことを考えていられる場合ではない事象《じしょう》が密《ひそ》やかに進行しており、蒼儀はそれに二十七秒後にシルバーの目を通して気がつくことになる。
このテーマパークは広場にあるメルヘンチックな欧州風の城を中心に、東は屋内系アトラクション、西に屋外系アトラクションがある。西側には山岳を模《も》したジェットコースターの下にかなり大きめの人工河川があり、船を使ったアトラクションがいくつか用意されていた。
比呂緒と明海《あけみ》がやってきたのは、蒸気船を模した船で適当に川を行くというごくごくわかりやすいアトラクションである。かなり大きい船で最大収容人数は四百人を超えるというが、乗ろうとしている人数はそんなにはいない。いちいち数えたりしないからわからないが、百人くらいだろうか。
「ふねーふねー」
「何を当たり前のこと言ってんのよ、船なんだから当たり前でしょ」
「んだねー船だねー」
出船《しゅっせん》を待つ間、比呂緒《ひろお》と明海《あけみ》は甲板《かんぱん》で他愛《たわい》もないお喋《しゃべ》りをしていた。川岸には森が作られ、船を浮かべる水面は静かな風に吹かれてゆらゆらと揺《ゆ》れている。船内にはゆったりとした音楽が流れ、のんびりとした空間を演出していた。
「この川さあ、魚何がいるのかな」
手すりに掴《つか》まって水面を覗《のぞ》き込む比呂緒の背中に、明海は適当な言葉を投げかける。
「作られた川に魚って放すのかしらね?」
「公園の池には、おたまじゃくしとかたくさんいるじゃん。あと鯉《こい》とかも」
「あれは、別にこういう船を浮かべるために作ったものじゃないでしょ。こういう遊ぶために作られた川なんだから、何もいないんじゃない?」
「つまんないなー」
「でも、あたしだって本当に何もいないのか確認したわけじゃないんだから、何かいるかもね」
「いるといいなー」
汽笛の音が響《ひび》き渡り、船がゆっくりとした速度で水面を滑《すべ》り出した。乗船時間は十分強、その間はただのんびりと景色を見たり、案内役である真っ白な水兵服を着た船員の説明を聞いたりくらいしかやることがない。
「あたしはちょっと後ろの甲板行ってみるけど、ヒロも行く?」
「んあー、もうちょっとこっち見てるー船の前んとこが泡立ってて面白《おもしろ》いのー」
「落ちるんじゃないわよ」
「あいさー」
離れていく明海の後ろ姿に手を振り、比呂緒はまた水面を覗き込んだ。船が蹴散《けち》らす水が白い波を作り、波は泡となって消えていく。それが面白くてしかたがない。
(比呂緒)
「あいー」
肩の上に乗っているハンニバルが話しかけてきた時比呂緒はいつものように答えたが、ふと彼女が言ったことを思い出して六識《ろくしき》で返すことにした。
(あい、何?)
(色々言いたいことはあるが、まずは六識で川を見てくれないか)
(あーい)
六識で見る世界の色は、単純に言えば赤と黒と灰色である。しかし赤は人間や動物によってかなり色が違ってくる。同じ赤であるはずなのに、なぜこうも違うのだろうかと。空はいつも、夕焼けのように薄みがかった赤。地面は黄色がかった薄い赤。山は緑がかった赤。ハンニバルがいうには、サーモグラフィーという機器が見せるものに近いらしい。
この川は、薄暗い青緑がかった赤、だろうか。
(変な色だねえ)
比呂緒《ひろお》はハンニバルに同意を求めたが、彼女からの返答は違ったものだった。
(比呂緒、ジャンパーの前を開けてほしい)
(? あいさー)
何だかよくわからないが、とりあえずファスナーを下ろして前を開けておく。その間も比呂緒は六識《ろくしき》で川を眺《なが》めていたが、灰色に見える船体に黒い何かが張り付いているのを見てそちらに意識を向ける。わかめか昆布の類《たぐ》いだろうか。こんなところでも海藻《かいそう》の類いは育つんだなあと感心する。ここは川なのだから海藻という時点で間違っているのだが、比呂緒が口に出して言わないのでその突っ込みは永遠になされることはなかった。
暗い色をしているとはいえ一応赤い川と灰色の船体に挟《はさ》まれて、その黒はかなり目立っていた。比呂緒がじっと注目していると、何となくそれは大きくなったように見えた。
おちた
おちた
声が聞こえた。だがそれは空気を伝わって耳に入ってくるものではない。皮膚《ひふ》だ。皮膚にねっとりとまとわり、染《し》み込もうとするかのように伝わってくる声。
おちて
おちて
いっしょにおちて
黒く細長い何かが船体を這《は》ってするすると自分に向かって上ってくるのを、どこか比呂緒は他人事《ひとごと》のようにぼんやりと見ていた。
(手すりから離れろ!)
頭の横でハンニバルのひどく切迫《せっぱく》した声が聞こえて、比呂緒は慌《あわ》てて四歩下がった。今まで比呂緒が掴《つか》んでいたその手すりに、何やら妙なものがへばりついている。目を――いや、目ではなく六識を見開く。コールタールのように真っ黒な液体。だがそれは液体などではない。手すりから音もなく甲板の床にべたりと落ちたそれは、もそもそと一か所に集まったかと思うと、八十センチほどの高さを持つ小山になった。その表面は絶えずぷるぷると震《ふる》えていて、黒い巨大なゼリーのようにも見える。食べたらさぞやまずそうだ。
「んあー……」
ぼうっとした顔でその黒いゼリーを見る。明らかに奇異《きい》な生き物の出現にも、周囲の反応はまったくない。比呂緒《ひろお》とハンニバル以外には、この黒ゼリーの姿が見えていないようだ。
ゴキブリの背中にも似た、つやつやした光沢《こうたく》を放つそのグロテスクな物体を見ても、比呂緒には別に生理的な嫌悪感《けんおかん》だのというものは浮かんでこなかった。明らかに未知のものであるはずではあるが、驚きはしても恐怖はない。
ただ、目の前にそれがいるという事実を受け入れるのみだ。
(あれ、何なんだろうなあ……)
それでも、あれがいったい何なのかという疑問くらいは頭をかすめる。
(彷徨える羊≠フなりはじめだ。これから、この近辺にある雑多な霊的物質《エクトプラズム》や残滓《ざんし》を取り込んで大きくなっていくんだ)
羊。これが羊か。
この世界に生きることに執着《しゅうちゃく》して、月という冥府《めいふ》に旅立つことができない悲しい魂《たましい》なのか。もそりもそりと奇妙な動きをしているこの黒ゼリーが。
(……最初は、ああいう原始的な姿をしていることが多い。もう少し霊的物質を吸収したら、生前の形……たいていは人だな、そういう外観をとることが多い。その頃《ころ》にはエーテルに対する明確な執着行動をとるようになる。最初からエーテルにしがみつこうとする羊も珍しくないんだが、今目の前にいるあのスライムは、おとなしいタイプのようだ。今のところ害はなさそうだな)
(ふーん……ああ、ゼリーとはちょっと違うと思ったけど、ああいうのをスライムっていうのね)
黒ゼリー改め黒スライムは、場所を移動せずにそこに佇《たたず》んでいるままだ。表面がぷるぷると波打っているだけで、どこかに行こうとする素振《そぶ》りを見せない。
(でも、何でいきなり川から出てきたんだろ、この子)
(こんな奇妙な外見の物を子呼ばわりするとは、さすが君というべきなのかな)
なぜこの羊が飛び出してきたのか、ハンニバルはその理由を知っている。答えは至って単純なものだ。
ハンニバルがここにいるからである。
悪霊《あくりょう》の目=Bハンニバルという仔猫《こねこ》は、そう呼ばれている。周辺のエーテルや霊的物質を引き寄せ、羊が発生する土壌《どじょう》を作り出す猫。本来なら羊が生まれることがなかったであろう場所に羊を生み、羊が元からいる場所では羊を呼び寄せ、挙句《あげく》の果てには羊を狼《おおかみ》へと変えてしまう忌むべき猫。
ハンニバルが、この世界から消えてなくなるまで背負う罪の一つ。
(あの子、放《ほう》っておいたらどうなるの?)
(さっきも言ったろう、生きた人間のエーテルにしがみつくようになる。去年、君の友人が鉄橋の上で唐突《とうとつ》に吐《は》き気《け》を催したり、頭痛を起こしたりする人が出てくる。しかもここは遊園地だからな、結構な人間が巻き込まれることになるだろう。羊の性質によっては死人が出るな)
(そーかー、それは大変だあ……)
比呂緒《ひろお》は、じいっと黒スライムを見つめる。目を見ればたいていの動物が何を考えているかわかるというが、これには目どころか顔も手足もついてないので何を考えているのかさっぱりわからない。先ほどは、何か声が聞こえたような気がしたのだが。
落ちる、というイメージが。どこか苦しいような声が。
(撃《う》たないのかね)
(んあ?)
ハンニバルは比呂緒の肩の上から黒スライムを見下ろしながら、彼女の方に顔を向けず話しかける。
(あれを撃つのがソウル・アンダーテイカーの役割だ。三嶋氏《みしまし》が言っていたことを忘れたのかね、君は)
(んあ、でも三嶋さんは、三嶋さんが見てないとこでこれ撃ったら絶対|駄目《だめ》だって言ってたような気がするよ)
やはり覚えていたか。普段《ふだん》はすぐに忘れるくせに、こういうところでは記憶力を発揮するのが比呂緒の悪いところだ。もっと重要なことを覚えて、どうでもいいことは忘れてくれればいいのに。
(だがしかし、あれを放置しておくと、後で苦しむ人が出てくるぞ。そうなると、後々《あとあと》もっと面倒なことになる)
ハンニバルはここぞとばかりに力説することにした。羊が人を殺すことに本気で心を痛められるほど、自分は他人の命を大事に思ってなどいない。ただとにかく、主《マスター》がコーティングした銃《じゅう》で、マテリアライズした実包《じっぽう》で、本物の羊を撃つことをさせたいだけだ。
(この距離なら、君の腕でも外れることはないだろう。やってしまった方があのスライムと、ここに遊びに来る人々のためだ)
「んあー」
知らず知らずのうちに、声が出た。比呂緒と黒スライムの距離は三メートルもない。首を軽く回すと、比呂緒はしみじみと黒スライムを見つめた。ハンニバルは、これを撃てと言う。蒼儀《そうぎ》は、自分のいない場所で撃ってはいけないと言った。どちらか選ばないといけないようだ。
困った。どちらか片方を聞いたら、もう片方の意思に反することになる。ハンニバルと蒼儀、どちらも優先してやりたい。何もしない、という手段も考えたが、何もしないということは蒼儀の言葉を優先したことになる。
(悩むなあ……)
(悩まないで、撃《う》ってくれ。あの地上を這《は》いずり回ることしかできない黒いスライムを、月に還《かえ》してやるんだ。そのアストラM44[#「44」は縦中横]・アルケブスカスタムで。その銃《じゅう》の本気を、再び知らしめてくれ。他《ほか》でもないこの私とこのささやかなる世界に)
普段《ふだん》の落ち着いた口調からはやや外れたそのどこか熱のこもった言葉に、比呂緒《ひろお》はハンニバルを優先したくなった。だが、蒼儀《そうぎ》の言葉に反したくもない。考えて考えた結果、比呂緒は「ああ」と一つ唸《うな》ってぽんと手を叩《たた》く。
(本人に聞いてみるね、あの子が月に還りたいって言ったら撃つことにする、うん、そうしようそうしよう)
(…………何だって?)
ハンニバルが咎《とが》めるような言葉を口にする前に、比呂緒は既《すで》にスライムへの一歩を踏み出していた。
(ま)
て、とハンニバルが静止の言葉を出すのと同時に、黒スライムの頂点がほんの三センチほど消し飛んだ。飛び散った黒く細かい破片《はへん》どもは、空中から地面に落ちる前に雪のように消えてゆき、本体の方は手すりの一部からするりと抜け出して川へと落ちていく。
「あ、行っちゃった」
のんびりとした口調で、比呂緒はつい先ほどまで黒スライムがいた場所に歩み寄り、手すりの下を覗《のぞ》き込んだ。
おちて
おちて
いっしょにおちて
いきたい
たすけて!
「いったあ……」
額《ひたい》の奥の辺りが、突然|痺《しび》れたような気がした。頭の中を真っ黒な波が通り過ぎていく。眼球が痛い。目をぎゅっと閉じて、ぐるぐると回る意識を抑《おさ》えようとしてみる。駄目《だめ》だ。頭がふらふらする。と思ったら、今度は唐突《とうとつ》に腹の底から何かがせりあがってくるのを感じた。左手で口を押さえる。胃液と、朝ご飯の一部が口の中にまで戻ってきて暴れていた。
ここで吐《は》いたら駄目だ。川に吐いたら川が汚れるし、床に吐いたら床が汚れる。かといって飲み込むわけにもいかない。必死になって抑えるが、口の中に収まりきらなかった胃液が口の端《はし》から少しずつ流れ出していく。服を汚すわけにはいかない。右手でポケットを探り、ティッシュで胃液を拭《ぬぐ》う。
ゆっくりと目を開ける。六識《ろくしき》が見せる三色の世界ではない、カラフルな世界。そう長い間でもなかったのに、ひどく懐《なつ》かしく『帰ってきた』という気持ちになる。とにかく、この口の中の物を安心して吐《は》ける場所に行かなければ。
「……ヒロ?」
明海《あけみ》の声が背後で聞こえて、比呂緒《ひろお》は口を押さえたまま振り返る。それだけで明海は事情を察してくれた。比呂緒に駆け寄ると、ハンカチを取り出してまだ垂《た》れ続けている胃液を丁寧《ていねい》に拭《ふ》いていく。
「係員さんに話してどうにかしてもらう? それともこの船下りるまで我慢《がまん》する? 係員に話すならあたしの親指を、我慢するなら人差し指|掴《つか》んで」
比呂緒の右手からティッシュを取り去り汚れをハンカチで拭うと、明海は手を差し出した。比呂緒は迷うことなく人差し指を掴む。ここで騒ぎを起こしたくはない。
「あと少しだから」
明海がゆっくりと背中をさすりながら囁《ささや》く。そんな二人を、ハンニバルは何も言わずに比呂緒の肩の上から見ていた。頭をゆっくりと動かして空を見上げる。
川岸の向こうの空に、風船が舞い上がっていくのがかろうじて見えた。
船から下りて近くのトイレに駆け込んだ。トイレそのものは順番待ちをしていたので、空いていた洗面所の一角を占拠《せんきょ》して今まで我慢していたものを吐き出す。ご飯に何かが混ざっている。今日のおかずは何だったっけ。などと考えている余裕は一瞬しかなかった。口の中が空っぽになった、と思ったら第二波がまた来た。びちゃびちゃと耳障《みみざわ》りな音を立てて、新たな胃液と朝ご飯が落ちる。
背中を撫《な》でている明海の手が、後ろから伸びてきて蛇口《じゃぐち》をひねった。吐き出されたばかりの吐瀉物《としゃぶつ》が、水に流されて消えていく。順番待ちをしていたどこかのご婦人が「そちらのお嬢《じょう》さん大丈夫?」と話しかけてきて、明海が「ちょっと乗り物酔いしちゃっただけですから、お気遣《きづか》いありがとうございます」と丁寧《ていねい》に対応するのを、ぼんやりと聞いていた。
吐き気は治まり、頭の中もだいぶ落ち着いている。比呂緒は蛇口に口を近づけると、水を口の中に含んだ。胃液と米の感触が残る口内を漱《すす》いで、ぺっと吐き出す。それを三回繰り返した後、うがいを三度繰り返す。手を洗い、ついでに顔も洗う。顔を上げて鏡を見ると、少し疲れた顔をした自分と、そんな自分を見守る明海の顔が映っていた。
「落ち着いたみたいね」
「んあ……落ち着いた、ありがと、おっちゃん。ハンカチ汚してごめんね」
「そんなのはどうでもいいのよ、洗えば済むことなんだから……落ち着いたら、ちょっと外のベンチにでも座ってなさいな、ここ混んでるし。あたしはハンカチ濯《すす》いで、ついでにお手洗い行っとくから」
「あいさーそうしとくー」
比呂緒《ひろお》は左のポケットからハンカチを取り出し、それで顔と手を拭《ふ》きながら外に出た。少し離れたところに空いているベンチを見つけたのでそこに腰を下ろす。
「…………ふー」
(落ち着いたかね)
今まで何も言わずに肩に乗っていたハンニバルが言葉を発した。
(落ち着いた……っていうかなんていうか……すごく疲れたなー……それに苦しかった)
(あの羊は、攻撃を受けて怯《おび》えていたんだよ。そこに君が不用意に近づいたから、君への攻撃|衝動《しょうどう》が剥《む》き出しになったんだな。君はまだ霊髄防御《れいずいぼうぎょ》を覚えてないから、まともに食らってしまったね。エーテルを削り取られなかったのは不幸中の幸いだ。あれがもう少し大きい羊だったらまずかったかもしれない)
「霊髄防御の基礎は、まだ教えていなかったな。まだ必要ないと思っていたが、意外と早く必要だったようだ」
「んあ……」
三嶋蒼儀《みしまそうぎ》が目の前にいた。いつものように無表情で、ギターケースを担《かつ》ぎ、肩には烏《からす》を乗せている。
「どうしてお前がここにいるんだ」
「卒業遠足だから」
「そうか」
蒼儀は短い返事をすると黙り込んでしまった。次は何を言われるのだろうと比呂緒がぼーっと考えていると、ハンニバルが比呂緒の肩の上からベンチへと下り立った。
(三嶋氏、なぜあの羊を撃《う》った。それもわざと外して。何メートルあったかは知らないが、核は見えなくとももう少し下を君なら狙《ねら》うことができたはずだ。君が中途半端な攻撃を仕掛けるから、羊は逃げて、比呂緒のエーテルが揺《ゆ》らいだ。これは何か作為的《さくいてき》なものがあるのか?)
いつになく、ハンニバルの口調は強い。怒っているように聞こえるその声は、事実怒っているのだろう。だが、蒼儀はそんな怒りを意に介さなかった。
確かに、あの時羊を撃ったのは蒼儀だ。シルバーの目で船の上で対峙《たいじ》する比呂緒と羊を確認した蒼儀は、一旦《いったん》同調を切ってすぐに走り出した。シルバーとの同調を保ったままで身体《からだ》を動かすことは、できないことはないが恐ろしく神経が磨《す》り減るため滅多《めった》にできない。幸い距離はそう離れていなかったが、船が浮かんでいる川はほとんどが作られた森林に囲まれており、まっとうな射線《しゃせん》を取れそうな場所を探すのは困難に感じた。
しかし多少の物理的障害があろうと、標的をどんな方法であれ見る≠アとさえできれば狙撃《そげき》は可能だ。川岸にたどり着いた蒼儀《そうぎ》は、柵《さく》の向こうにある木々の隙間《すきま》から船がかろうじて見えそうな場所を陣取った。
ギターケースの蓋《ふた》を素早く開けて中身を取り出す。それはギターなどではなく、全長八十四センチの狙撃《そげき》用ライフルだ。たたんであったショルダーストックを戻すと、一・一二メートルになる。蒼儀が六歳の頃《ころ》から常に傍《かたわ》らに置き、手入れとコーティングを欠かさず、アルケブスとして丹精《たんせい》込《こ》めて鍛《きた》えた銃《じゅう》だ。原型はガリル・スナイパー・ライフル。取り扱いやすく信頼性の高いライフルだという定評がある。
隠蔽霊彩《いんぺいれいさい》をしっかりと施《ほどこ》してあるため、これが人目に触れることはない。通りすがりの人間が端《はた》から見ても、これを構えて撃《う》ったところで変なポーズをとっているように見えるだけだ。蒼儀がライフルを取り出してスコープとカートリッジをセットした時は、もう船は木々の向こう百メートルほどを隔《へだ》てて目の前を通り過ぎようとしていた。
こんな準備をろくにしていない状態から撃つのはあまり好きではなかったが、状況に文句をつけている場合ではなかった。素早く構えてスコープを覗《のぞ》き込んでから六識《ろくしき》を解放、赤も灰色もすべて無視して羊の黒に狙《ねら》いを定め、核を見極めることもせずその表面をかすめさせるためだけにトリガーを引いた。
鼓膜《こまく》を震《ふる》わせる音、指と腕に伝わってくる反動の余韻《よいん》に浸《ひた》ることもなく、当たったかどうかを確認することもなく、とっととライフルをたたんでケースにしまい、薬莢《やっきょう》を拾っておいた。いつの間《ま》にか熊《くま》の風船がなくなっていたが、別に悲しくもなかった。
ぶっつけ仕事をしたみたいでかなり気分が悪かったが、とにかくあの馬鹿《ばか》とハンニバルに一言言うべく、蒼儀は今こうして一人と一匹の前に立っている。
「そうだ、作為的《さくいてき》だ」
あのまま放《ほう》っておいたら、比呂緒《ひろお》はあの羊を間違いなく月に還《かえ》していただろう。成り立ての羊は、あまり動かないし攻撃的でないことも多い。比呂緒の腕とアストラM44[#「44」は縦中横]で十分なほどに。確かにここの羊を比呂緒に撃たせようかと考えてはいたが、あの羊では駄目《だめ》なのだ。
「あの羊は、もう少し放置しておく必要があるからだ」
「なんで?」
ハンニバルが問い返す前に、比呂緒が言葉を放った。蒼儀は自分を見上げてくる比呂緒の顔を改めて見て、ほんの少し動揺《どうよう》した。
「なんで、羊さん放《ほう》っておくの?」
茫洋《ぼうよう》たる表情。比呂緒を表現するのにもっとも相応《ふさわ》しいその言葉は、しかし今は当てはまらなかった。蒼儀を問いただしてくる比呂緒の顔は、いつもどおりぼんやりとしたものだ。しかしその目の中には、どこか寂しそうな光が湛《たた》えられている。
この馬鹿にも、寂しいという感情があるのか。そんな当たり前のことを不思議に思わせるほど、比呂緒が見せる感情の色には極端なものがあった。いわゆる負の感情がかなり欠落している比呂緒《ひろお》に、こんな顔ができるとは思わなかった。
人間なんだな、と当然のことを蒼儀《そうぎ》は感じる。蒼儀にとって比呂緒は果てしない馬鹿《ばか》であり、人間というよりは動物に近いと思っている節《ふし》があったと今さらながらに思う。だから、こういう人間らしい顔をされると驚いてしまうのだ。
「……このテーマパークには、かなりの残滓《ざんし》が散らばっている。残倖の説明はまだしていなかったか。残倖とは人の感情が発露《はつろ》した時の残りかすだ。人間がいるところならどこにでも散らばっている。エーテルでも霊的物質《れいてきぶっしつ》でもないこれは基本的に無害だ。あまりにも残滓がたくさんあると、残滓同士でくっついていく。残滓同士でくっつくぶんにはまだいい、だが残滓にエーテルがくっつくと大変なことになるんだ」
比呂緒は黙り込んで聞いている。本当にわかってんのか? と突っ込むのはやめておくことにした。比呂緒の顔がいつになく真剣に見えてしまったからだ。どうせ気のせいだろうが。この馬鹿が、何かに対して真剣になる時があるのだろうかと思ってしまう。
「残滓はどこにでも漂っているものだ。エーテルと融合《ゆうごう》した残滓は霊的物質となり、羊はそういうものたちを取り込んで、どんどん大きくなっていく。大きくなりすぎた羊はもはや羊ではなく狼《おおかみ》になる……が、さすがに狼まで待つのは依頼に背《そむ》くことになる。だから、害にならない程度の大きさになるまで羊を放《ほう》っておく。溜《た》まりすぎた残滓は、こういう時に片付けておいた方がいい。残滓そのものには、アルケブスの効果はないからな。害がないからといって今放置しておけば、後で困ることになるんだ」
なぜだろう。いつもより口が回る。説明をしているからか。今までもこの馬鹿に教え込むために多くの説明をしてきたが、今日ほど流れるように、スムーズに、そして早口であったことはない。
「つまり」
わかったのか、と蒼儀が言う前に、比呂緒が言葉を発した。
「蚤《のみ》がたくさんいる部屋で、蚤を殺すのに一匹ずつ潰《つぶ》してやるんじゃなくて、部屋の中に猫を入れて、猫に蚤がついたところで猫ごと蚤を殺しちゃうみたいなものなのね」
ひどく極端なそのたとえ話に、蒼儀は眉《まゆ》をしかめた。この江藤《えとう》比呂緒という馬鹿の口から、『殺す』という単語がするりと出てくることに、なぜか衝撃《しょうげき》を受けている自分がいる。比呂緒が生々しい単語を口にするのは、この二ヶ月の間でそう珍しいことでもなかったというのに。
「……違うといえば違うが、そういう解釈をしても問題はない」
「うん、三嶋《みしま》さんが言いたいことは何となくわかった、ありがとう」
先ほどまでの表情とはうってかわって、笑顔を向けてくる比呂緒に蒼儀はたじろぐ。いつものへらへらした笑顔とは少し違う、清々《すがすが》しさがあふれた綺麗《きれい》な笑い方だった。
「で、三嶋さんがいるからこれ撃《う》ってもいいよね?」
「……何だと?」
右脇《みぎわき》をジャンパーの上からぽんぽんと叩《たた》く比呂緒《ひろお》は、先ほどの笑顔のまま蒼儀《そうぎ》に言う。
「あの黒羊さん、撃《う》ってくるから」
ちょっと散歩してくるから。そんな軽い調子で言われた言葉に、蒼儀は一瞬|呆然《ぼうぜん》としてしまった自分を情けないと思った。
「駄目《だめ》だ」
当たり前だ。せっかくこのテーマパークの残滓《ざんし》を大量に掃除できるよい機会だというのに、いきなり潰《つぶ》されてたまるか。残滓を片付けるという行為は依頼内容には含まれていない。だが残滓を放置しておけば、また羊が発生した時の土壌《どじょう》となってしまう。根絶《こんぜつ》は不可能とはいえ、それでも少しずつ片付けておかねばならないのだ、残滓は。
それなのに、この馬鹿《ばか》は聞きもしない。
「駄目っていっても行くよ」
羊撃ちに積極的になってくれるのはいい。だが、自分のやろうとしてることを邪魔《じゃま》されるのは大迷惑だ。だから蒼儀は無言でリゾルバーを抜くと、比呂緒の足元に向けて威嚇《いかく》の意味を込めて一発撃った。アルケブスの発射音は、霊髄《れいずい》の回っていない人間には聞こえないから問題はない。
比呂緒は、自分の足に視線を落としてから六識《ろくしき》を開く。別に当たってはいない。だが、彼が当てようと思えば当てられることを比呂緒は何となく理解していた。
(まったく、三嶋氏《みしまし》はずいぶんと乱暴だな。そんな短気では狙撃手《そげきしゅ》として大成しないと以前にも言った気がするのは私の気のせいかな)
ハンニバルがベンチから飛び下りて比呂緒の足に寄り添う。どうもこの馬鹿の前だと、自分は短慮《たんりょ》になってしまうことが多い。感情というものをもう少し抑《おさ》える努力をしなければなるまい。だが今はそれよりも、この馬鹿をどうにかする必要がある。
「足の甲《こう》の真ん中を撃つ。歩くのがつらくなるぞ」
銃口《じゅうこう》を言葉通りに比呂緒の足に向ける。だが、さすがにこの言葉は実行できないことを蒼儀もわかっていた。人間に対して、アルケブスの銃弾をまともに当てることなど。銃弾をわざとかすめさせてエーテルを出させるのだって、良識《りょうしき》あるソウル・アンダーテイカーなら決してやらない。自分は良識から少々離れているのでためらわないが、それでも生きた人間に直撃させるような真似《まね》はできなかった。
「それは嫌だねえ」
ああ、またこの顔で笑いやがる、こいつ。だいたいこいつは、自分が利用するために色々教えたのに、いきなりこれか。馬鹿だと思ってかなり侮《あなど》っていたとは自分でも思うが。とりあえず別の方向から懐柔《かいじゅう》を試みることにする。
「なぜ、お前は羊を撃《う》ちに行く」
「助けてって、あの羊さんが言って、あたしがそれを助けることができるみたいだから」
川を覗《のぞ》き込んだ時、比呂緒《ひろお》のエーテルに直接響いてきた声。たすけて、というひどく苦しそうな声。ああ、あの苦しさを自分はたぶん知っている。なぜかは知らないけど、きっと知っているのだ。
「………………それだけの理由か?」
「それだけの理由だよ?」
何だかつい最近、こんな受け答えをした気がする。ぼへらと笑って細めた比呂緒の目と、蒼儀《そうぎ》の視線が合った。いつだって比呂緒には蒼儀が何を考えているのかわからなかった。ただ縞太郎《しまたろう》に似ている目を持っている彼は、やはり縞太郎に似ている気がした。
いつだって不機嫌そうで、自分以外の存在をすべて否定しているようで、そのくせ周囲の動きには敏感で神経質で、でも顔を洗うのもめんどくさがっていた猫に。
「お前は、助けを求められたら、誰《だれ》であろうと助けられると思っているのか」
「それは無理だよ、できることとできないことがあるし、できることでもやりたいこととやりたくないことがあるもん。で、あたしは羊さんを助けることができて、あたしもそうしたいと思っているんだから、何も問題はないんじゃないかな?」
「俺《おれ》の都合を無視するな。何もずっと放《ほう》っておけと言ってるわけじゃない、月に還《かえ》すなと言ってるわけでもない、もう少し待てと言っているんだ」
自分の語調が少し強くなっていることに蒼儀は気がついた。考えてみると、これはこいつと交わした初めての会話だ。今までは、ただこの馬鹿を問いただしたり、一方的に説明をしたり、こいつが聞いてきたことに答えるだけだった。ただの一方向だけの関係。
そして、家族とさえ事務的な会話しかしていない蒼儀にとっては、本当に久しぶりのまともな会話だった。
「でもさ、羊さん苦しそうだよ。苦しいのは痛いしつらいし。どうせ月に還るなら早い方がいいよ。死んでまで苦しいってのは嫌でしょ。苦しかったり痛かったりするのは、生きてる間だけで十分じゃないかな」
馬鹿のくせに。
こいつは馬鹿のくせに、何でこんなことを言うんだろう。
「三嶋《みしま》さんがまとめてやりたいってのもわかる。夏休みの宿題とか、八月三十一日にやるもんね。でも、本当は毎日やったほうがいいでしょ? そりゃここに来ることは毎日はできないけど、たまにならきっと来れるから、今は羊さんを月に還してもいいと思うの、よくなくてもやるんだけどね」
「そうか」
双方の意見は提示されている。そしてその二つが相容《あいい》れることはない。蒼儀がいかに言葉を並べ立てても、比呂緒《ひろお》は決して退《ひ》くことはないだろう。足の甲《こう》を撃《う》ち抜いて動けなくするとかでもしない限りは。
(ここは一つ、君が譲歩《じょうほ》してくれるとありがたいのだが)
今まで二人を黙って見守っていたハンニバルが、蒼儀《そうぎ》の足元に近寄ってきて彼を見上げる。
(君の言うことは間違っていない。こういう人の多いところは残滓《ざんし》がよく溜《た》まる。羊が生まれさえしなければ残滓は無害だが、ひとたび羊が生まれれば有害なものへと変わっていく。少しは片付けておきたいのだろうが、まあここは私に免じて許してほしい)
そこまで言うと、ハンニバルは蒼儀の足の上に自分の右前脚を置いた。
(比呂緒が羊と対峙《たいじ》したら、霊的物質《れいてきぶっしつ》や残滓を引き寄せる。普通に月に還《かえ》すよりはここの掃除になるだろうから、今は彼女にやらせてやってくれ)
ハンニバルが六識《ろくしき》に直接語りかけてきたその内容に、蒼儀は表情の上では反応を返さなかった。悪霊《あくりょう》の目≠フ力は、彼女が意識しなくとも常に緩《ゆる》やかに発動している。だがハンニバルが望んでその力を使えば、小さな渦《うず》に引き込まれてより大きな渦になっていくように、エーテルも霊的物質も残滓も、彼女に引き寄せられる。砂糖に群がる蟻《あり》の如《ごと》く。
より多くの羊と、羊の土壌となる霊的物質や残滓を片付けることが蒼儀の希望だ。だからハンニバルがその力を発揮してくれるというのなら、喜んで受け入れるべきだ。
だが霊的物質や残滓を一か所に集めて羊と同一化したら、羊はより大きく、より攻撃的に急成長するだろう。生まれたての羊を撃《う》つのとはわけが違う。まだ実戦経験のない比呂緒にやらせるのは危険だ。吐《は》き気《け》だけではすまない可能性が大きい。
それでも。
(いいだろう、やってこい、死なない程度に)
蒼儀はそれだけ言うと、ハンニバルが前脚を置いている足をずらした。
「俺《おれ》は知らんから、適当にやってこい」
「うん、がんばってくる。ありがとう。ごめんね、三嶋《みしま》さんのやりたいことを曲げさせちゃって」
比呂緒は勢いよく立ち上がると、蒼儀に対して深々と頭を下げる。
「ちょっともっかい船乗って羊さんに会ってくるから……あ、その前におっちゃんに言っとかないと。じゃ、三嶋さんまた後でー」
そういって笑う比呂緒の笑顔は、蒼儀がよく知っている間の抜けた笑い方だった。大げさにぶんぶんと蒼儀に向かって手を振るその肩に、ハンニバルが飛び乗る。その姿を見送ると、蒼儀はつい先ほどまで比呂緒が座っていたベンチに腰掛けた。
動き出す前に、準備が必要だった。
もう一回船に乗ってくる。ハンカチを洗って、混んでいるトイレで順番待ちをして、やっと終わったと思ったら、比呂緒《ひろお》がまた馬鹿《ばか》なことを言い出した。馬鹿なことはわかっているが、まったく何を考えているのかわかりにくいものだ、この子は。内心で色々思いながらも、結局それらの文句を口には出さず、明海《あけみ》はただ大げさにため息をついてみせた。
「さっき吐《は》いたから、お腹《なか》すいてるでしょ。お昼食べてからにしなさいよ」
「んあー、どうりでお腹すいてると思ったー……でも、ほら、今どーしても乗りたいの。さっきちゃんと見られなかったから。おっちゃんは、そこらへんで待ってて。待てなかったら先にお弁当食べてて」
そう言ってにこにこ笑う比呂緒の頬《ほお》を、明海は右手で引っ張った。柔らかいその頬をむにむにとつまんでやっても、比呂緒は笑ったままで答える。
「ほっちゃんひたひ」
「……ま、いいんだけどね。とっとど行ってきなさいよ、あたしはそこら辺に座ってるから」
つまんでいた頬を離してやると比呂緒は軽くその部分を撫《な》で、明海に手をひらひら振りながら行ってしまった。
まあ、比呂緒の行動などあんなものだ。せっかくのフリーパスなのだから、好きなものに好きなだけ乗ればいい。付き合ってもよかったが、さすがに腹が減ってきたのであまり動きたくない。比呂緒が戻ってくるのをのんびり待つことにする。
適当なベンチを見つけた明海だが、そこに座っていた少年を見て眉《まゆ》をひそめた。忘れもしない、去年比呂緒の家の前であった胡散臭《うさんくさ》い奴《やつ》だ。確かあの時もギターケースを担《かつ》いでいたが、今も傍《かたわ》らに置いてある。こいつの学校も卒業遠足だったりするのかもしれない。一人なところを見ると友達がいないのだろうか。
そんなことを考えていた時間は短かったが、胡散臭い奴はすぐに立ち上がって歩き始めた。えらく歩みが遅い。具合でも悪いのか、本当に一歩一歩の進め方がゆっくりとしている。ちょっとだけ心配になったが、あくまでちょっとだけだ。比呂緒の知り合いなのかもしれないが、そんなことは知ったことではない。
少年が視界から消えるのを待ってから、明海は彼が先ほどまで座っていたベンチに腰を下ろした。
早く比呂緒が戻ってくればいいのに。
ぼんやりと空を見上げると、今日も綺麗《きれい》な空だった。
比較的人のいない後部甲板に比呂緒は立つ。足を肩幅くらいの広さに聞け、既《すで》に抜いてあるアストラM44[#「44」は縦中横]のグリップを両手で握り、その手を腹の前に置いている。蒼儀《そうぎ》に散々《さんざん》教わった立ち方だ。その肩の上にはハンニバルが乗っている。
(比呂緒《ひろお》、本当にいいのか)
ここまで比呂緒を連れてきたのは自分だというのに、何を今さら彼女のことを心配しているのだろう。自分は、比呂緒の腕でも楽に還《かえ》すことができる羊をわざわざ強く危険な存在にして比呂緒の前に出現させるのだ。そんなことを比呂緒は知りはしないが、それでもハンニバルは聞いてしまう。
あんな理由で。
助けてと言われたから、そして自分に助けられる力があるから。
とんでもなく単純で、くだらない理由だ。
(危険なんだぞ、さっきは吐《は》き気《け》ですんだが、下手《へた》をしたら死ぬかもしれないんだぞ、君が)
もしかしたら、比呂緒は自分の身に危険が及ぶことなど考えつかなかったのかもしれない。どんなに苦しくても所詮《しょせん》吐き気の延長でしかないと思っているのなら、それは大きな間違いなのだ。
(うん)
そんなハンニバルに比呂緒は笑う。
(下手をしたら死ぬけど、下手しなかったら死なないんでしょ? だいじょーぶだいじょーぶ。たぶんきっとだいじょーぶ)
(自信があるのか?)
(ないよ)
(……君は、死が怖くないのか)
(怖いよ)
(君が今からやろうとしていることをやめてしまえば、死ぬことはないんだぞ)
(そうだね、でもやめたら羊さん助けられないし)
(羊を助けて、君に何かいいことがあるのか?)
(羊さんを助けられる)
(たったそれだけだ、たったそれだけの自己満足のために、君は死の危険を冒《おか》すのか)
(だいじょーぶだよ)
(なぜ大丈夫だと言える、その根拠はいったいなんだ)
(なんとなく)
どうしてハンニバルや蒼儀《そうぎ》がこんなに気にするのか。危険だから、死ぬかもしれないから。二人とも自分を心配してくれている。嬉《うれ》しい。両親と明海《あけみ》以外に心配されたことは今までなかったのに。文華《ふみか》は最近全然心配してくれなくて寂しい。
死ぬのは痛いだろうから、死にたくないし死ぬのは怖い。それでも比呂緒は、あの黒羊を放《ほう》っておくことができなかった。
還りたいのに還れないのはつらいことだから。
これだけの理由では、何が足りないというのだろう。人間にはできることとできないことがある。できることがあって、それが自分のやりたいことなら、やればいいのだ。だから自分は馬鹿《ばか》なのだろうな、と比呂緒《ひろお》は思う。できないことがあって、それがやりたくないことなら、自分はやろうとしなかったのだから。
(……覚悟はいいんだな?)
(大げさだなあ、大丈夫だよー)
(そうだな、覚悟を決めなければならないのは私の方か)
還《かえ》れない己の魂《たましい》を解放する道のりへの、第一歩になるのかもしれないのだから。
(今から約三十秒後、君が撃《う》たなければならない羊が現れるだろう。ハンマーを起こして)
(あい)
比呂緒がハンマーを起こすのを確認してから、ハンニバルは比呂緒の肩から下りてその開いた足の間に座った。
(月よ、猛《たけ》る魂に安らぎを。哀れな魂に導きを)
静かなハンニバルの声が聞こえた。比呂緒は六識《ろくしき》を開き、ぼんやりと周囲を感じる。家族連れとか友達同士とかカップルとか、そんな人間たちの赤が見えて、船体の灰色が見えて。
どこか穏やかな雰囲気が流れていたが、不意に皮膚《ひふ》に触《ふ》れる空気が変わったような気がした。皮膚にではなく、|魂の血髄《エーテル》の表面をやわやわとなぞっていくような、どこか気持ちの悪い空気。
空を見上げると、そこは赤でも青でもなく、ただ黒かった。黒い雲霞《うんか》のようなものが四方八方から集まってこようとしている。自分たちがいる、ここに。
(来るぞ、他の人間たちのエーテルが乱れ始めた)
六識を開いたまま周囲の人たちのエーテルの色を見る。先ほど見た時より赤が心持ち薄くなっていて、「頭痛い……」「吐きそう……」などという弱々しい声が耳をかすめた気がした。かくいう比呂緒も、少し苦しい。吐《は》き気《け》はないが、腕が痛い。びりびりと痺《しび》れるような痛みが、断続的に襲《おそ》ってくる。
(来た)
手すりの向こう、川の中からせりあがってきたのは確かに先ほどと同じ黒スライムだった。だが、大きさがはるかに違う。にゅるりとした動きで甲板《かんぱん》へと上がってきたそれは、今は二メートル近い大きさになっていた。その成長はまだ終わっておらず、空から降りてきた黒い雲霞が黒スライムに突っ込んでくるたびに大きさはますます大きくなっていく。体積を増したそれは高さ三メートル近い小山となり、比呂緒とは四メートルの距離を開けて対峙《たいじ》していた。
六識で見るそれは、まさに漆黒《しっこく》であった。確かこの中にただ一つ赤があって、それを撃ちぬくとよいと習ったような気がしたが、今は思い出せない。先ほどはゴキブリの背中のように見えたが、今は黒曜石《こくようせき》のようにどこか綺麗《きれい》に見えないこともない。だがぶるぶると波打つ表面を見ると、ゴキブリでも黒曜石でもなく、やはり黒いゼリーを思い出した。先ほどよりはるかにまずそうだが。
(比呂緒《ひろお》、もう撃《う》っていい、この距離であの大きさなら、君でも十分当てられる)
ハンニバルのどこか切羽詰《せっぱつま》った声に、比呂緒はアストラM44[#「44」は縦中横]をゆっくりと持ち上げて狙《ねら》いを定めた。しかしハンニバルの期待に反して、その引き金は引かれなかった。
(比呂緒!)
(聞こえないよ、ハルさん。さっきは聞こえた、あの黒羊さんの声が聞こえない)
これ以上ないほど六識《ろくしき》を開いてあの羊を感じているのに、さっきは聞こえた声が聞こえない。助けてという声が聞こえない。
あれが聞こえたから、自分は今ここにいるのに。
(あれは先ほどの羊とは似て非なるものだ! あれだけ大きくなってしまえばもう雛形《ひながた》となったエーテルの意思などない! あれが君に何を言ったかは知らないが、もうそんなものは呑《の》み込まれ)
ハンニバルの声は途中で途切れた。その巨大な身体《からだ》が一際《ひときわ》大きくうねったかと思うと、静かに、だが明確な意思を持って前進してきて、その黒い身体の一部で比呂緒がまっすぐに構えている腕に絡《から》みついたのだから。
比呂緒、というハンニバルの悲痛《ひつう》な声と同時に、感じたものがあった。腕を包むこの黒いもの。この黒いものは、生きている自分が嫌いで嫌いで大嫌いで、自分の魂《たましい》を痛めつけようとしていること。
ああ、痛い。とても痛い。鉋《かんな》で腕を削られているみたいに痛い。赤い自分の魂が、削った鰹節《かつおぶし》みたいにぱっと飛び散ってそして消えた。
そして、それとほぼ同時に感じたのは、先ほど船に乗った時に間違いなく自分に助けを求めてきた声。
おちて
おちて
いっしょにおちて
おちてくれないなら
つれていって
おちてくれないなら
おとさないで
たすけて
たすけて!
ああ、そうだったんだ。
それはとても悲しいね。
聞こえた銃声《じゅうせい》は五発。それだけだった。あまりの耳の痛さに思わず頭を抱えて床に伏せてしまったハンニバルだったが、すぐにそんな猫の振りをしている場合ではないことを思い出し顔を上げる。
だらりと腕を下げた比呂緒《ひろお》が立っているだけで、羊は跡形もなく消え失せていた。核に当たらなければここまで綺麗《きれい》に羊がいなくなることはありえないので、比呂緒がちゃんと仕留《しと》めたのだろうと思う。一般客への影響がそう大きくならないうちでよかった。
(比呂緒)
「んあー……」
名前を呼ばれた比呂緒は、ハンニバルを振り返る。笑っていなかった。ぼんやりとした顔でもなかった。ただの無表情だった。その無表情の中に、たった一つの感情の発露《はつろ》があった。
(何を、泣いているのかな、比呂緒)
ぽろぽろと、静かに涙をこぼし続ける比呂緒は、右手で自分の顔に触《ふ》れて初めて自分が泣いていることに気がついたようだ。
(ああ、泣いてるねえ、あたし)
震《ふる》える左腕を上げて、比呂緒はアストラM44[#「44」は縦中横]をゆっくりとホルスターに戻す。両腕とも肘《ひじ》から先のエーテルが、薄くではあるが抉《えぐ》られていた。エーテルの流出は既《すで》に止まっており、重傷では決してない。だが肉体的な痛みに例《たと》えれば皮膚の表面を剥《は》がされたようなものだ。
(痛いから、泣いているのか)
ハンニバルは比呂緒の肩に飛び乗ると、その顔をじっとみる。比呂緒は涙をジャンパーの袖《そで》で無理やり拭《ふ》くと、無表情を崩した。
ぼんやりとした笑顔だった。
(きっとね、悲しかったから泣いてるんだよ)
(何が悲しかったか、聞いてもいいかな)
(あの羊さんね、赤ちゃんだったよ。この川に落ちて死んだの)
(そうか)
(でもね、落ちたんじゃないの。落とされたの。それを落としたのがね)
(比呂緒《ひろお》)
ハンニバルは比呂緒の言葉を最後まで言わせなかった。もう聞く必要がなかったし、比呂緒に言わせる必要もなかった。
(色々と言いたいことはあるが……君は彷徨《さまよ》える羊を月に還《かえ》すことができたんだ。これは誇っていいことだよ)
(そうなのかな……)
比呂緒は眦《まなじり》に少し涙をためたまま、空を見上げた。
「綺麗《きれい》な空だあ」
ライフルをギターケースにしまうと、蒼儀《そうぎ》は正門に向かって歩き出す。羊が比呂緒を飲み込もうとした時は、トリガーにかける指に思わず力が入ってしまった。だがしかし、比呂緒はしっかりと羊を月に還してやっていた。正直、やり方はへたくそとしか言いようがない。撃《う》てる時に撃たず、自らのエーテルを削らせてから零距離射撃《れいきょりしゃげき》を叩《たた》き込むなど、正気の沙汰《さた》とは思えない。せっかく射撃を練習させたのに、全然意味がないではないか。
だがそれでも、どこか安堵《あんど》している自分がいることを否定はしなかった。言いたいことも教えなければいけないことも、まだまだたくさんある。ただでさえ多かったことが、今日でもっと増えてしまった。
しかし今は、放《ほう》っておこう。また今度、色々言ってやろう。今回の報酬《ほうしゅう》は、少しだけあいつにもわけてやろう。
ギターケースを担《かつ》いで歩く蒼儀だったが、ふと視線を感じて振り返ると少し離れたところに比呂緒がいた。肩の上にはハンニバルがいて、その隣にはいつだったか比呂緒の家の前ですれ違った少女がいて、いかにもつまらなさそうに自分を見ている。比呂緒が大げさに手を振っているのが見えたが、無視して再び歩き出す。
ふと、風船をなくしてしまったことを今さらながらに思い出して、空を見上げた。もちろん風船が飛んでいるはずもなかったが、見上げた空がいつもより綺麗に見えて、どこか心が穏《おだ》やかになるのを蒼儀は感じた。
どうしてこんなにも。
空が綺麗に見えるんだろう。
[#改丁]
始まっているような始まっていないような伝説
[#挿絵(img/makibaoh_358.jpg)入る]
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(比呂緒《ひろお》)
(はーいー)
のんびりというわけではないが、ことさら急ぐでもなく歩く比呂緒にハンニバルは肩の上から話しかける。
(今日は、中学校の入学式だったな)
(そうだよー今日から中学生だよー制服着てるよー)
濃緑のブレザーにブラウス、襟首《えりくび》に巻かれたリボン、白い靴下に真新しい靴。どこからどう見ても、江藤《えとう》比呂緒の外見は立派な中学生の姿である。ブレザーの下にはアストラM44[#「44」は縦中横]・アルケブス・カスタムという立派な中学生は決して持ち歩かない物がぶら下がっているが、それは今はあまり関係ない。
立派な中学生に見えるのは、外見だけだったが。
(入学式から遅刻という事態を避けるために、君の母上と妹がかなりがんばったことを私は知っている)
(んだねー)
(片道十五分だというのに、入学式の始まる四十五分前に君を無理やり出かけさせたというのは、賞賛《しょうさん》に値することだ)
(そだねー)
(だがしかし)
ハンニバルの声の調子が変わる。
(どうして君は、卒業した小学校に行くんだ)
あはは、と比呂緒は軽く笑った。
(六年間毎日行ったし)
(そんな理由で遅刻したら、笑い話にもならないぞ)
(大丈夫だよ、たぶん)
比呂緒の大丈夫は、かなりの確率であてにならない。そう思いながらハンニバルはため息をついた。
(もうすっかり春なんだから、あまり落ち込まないでよ。冬に来たハルさんは、春になってもやっぱりハルさんなんだから)
(当たり前だ、季節が替わるごとに名前が変わるわけがない)
こんなやり取りにもすっかり慣れてしまった。こうやって毎日を生きて、比呂緒《ひろお》は大きくなっていく。
……より大きな馬鹿《ばか》になっているような気がしないでもないが、その辺りのことは気にしないことにした。ソウル・アンダーテイカーとしても、自分と三嶋蒼儀《みしまそうぎ》のたゆまぬ努力のおかげで少しは成長している、と思う。
これから、この子はどうなっていくのだろう。自分の主であり、運命共同体であるこの馬鹿な女の子は。どうなったとしても、自分はこの子と共に生きるだけで、あの蒼儀も色々と思うところはあってもこの子の成長に一役かってくれるだろう。
生きる。
もう死んでいる身なのに、そんなことを考えている自分に笑ってしまう。
生きることなどとうの昔にやめてしまっているというのに――。
(ハルさん、何か考えてる?)
そう比呂緒が話しかけてくるのを、耳を動かすことで答えてハンニバルは空を見上げた。
死んでから初めて見上げた、春の空は美しかった。
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あとがき
こんにちは、中村恵里加です。初めての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。あとがきを書くのもめでたくこれで十回目となるのですが、未だに何を書いていいか毎回悩んでいる中村です。大抵はゲームの話題であることが多いのですが、今回は『ソウル・アンダーテイカー』という小説の生い立ちに触れてみようかと思います。といっても本書のねたをばらすようなことはしておりませんので、あとがきから読んでいる方もご安心ください。かくいう私も、本はあとがきから読む性質の人間ですゆえ。
『ソウル・アンダーテイカー』を書き始めたのは、2001年に見たとある映画に影響を受けたというのが最大の理由です。本書の中にも影響を受けたと思われる部分が多数存在している……と思うのですが、「電撃hp」に連載していた当時に「この話は○○を見て思いついたんですよ。ちょっと似すぎちゃったかな、って自分でも思うんですが」と友人知人に語ったところ、「どこが?」という反応の方が多かったものです。
確かにこうして一冊にまとまったものを読み返してみると、似ても似つかないものになってしまったような気がします。「こういうコンセプトなお話なんですよ」ということを峯さんに伝えたメールを今読み返すと、当初のコンセプトから一周してなおかつ180度くらいおかしな方向に行ってしまったなあと我ながら思います。
いやはや、まったく頭の中で考える予定など簡単に崩れてしまうものですな。というわけで、『ダブルブリッド』を待ってくださっている方々、どうもすいません。反省の意味を込めて『現代用語の基礎知識』の角に頭ぶつけたいですが、下手すると死んでしまうので「電撃hp」を頭の上に乗せるくらいで勘弁してください。
お手紙をくださる方々、ありがとうございます。不健康ながらもこうして生きております。ご心配かけてすいません。
次に書くあとがきは『ダブルブリッド』十巻という予定が自分の中ではできていますが、この予定が覆《くつがえ》らないようがんばります。
[#地付き] 中村 恵里加
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底本:「ソウル・アンダーテイカー」電撃文庫、メディアワークス
2005(平成17)年2月25日初版発行
入力:
校正:
2009年12月24日作成