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侍たちの海
小説 伊東祐亨
中村彰彦
目 次
第一章 祇園の洲
第二章 西瓜舟
第三章 薩摩火事
第四章 鬼の艦長
第五章 明治大乱
第六章 日清戦わば
第七章 決戦の時
終 章
あとがき
[#改ページ]
第一章 祇園の洲
九州の南のはじには、北から間伸びしたSの字を描いたようなかたちの内海が南にむかって口をひらいている。
鹿児島湾、またの名を錦江湾《きんこうわん》。
Sの字のふたつの半弧の中央海域にそびえたつのが桜島、桜島とはわずか二十七町(二九四三メートル)前後の海面《うなも》をはさみ、その西側、薩摩《さつま》半島の内ぶところに発達したのが薩摩島津家七十七万石の城下町鹿児島である。
蘇鉄《そてつ》や楠《くすのき》など南国性の常緑樹のめだつ鹿児島では、桜島に面した海辺は、
「前之浜《まえんはま》」
と呼ばれていた。
前之浜は、遠い時代から魚影豊かな海であった。波の砕けることもないおだやかな海に小舟を漕《こ》ぎ出せば、
「合財釣《がつさいづ》い」
といって真鯛《まだい》や黒鯛、鱸《すずき》などの大物をふんだんに釣ることができた。このことばは、一切合財釣ってしまうという意味である。
舟がなくとも浜からの投げ釣り、あるいは入り釣りという手があった。前之浜は沖へ半町すすんでも胸までしか浸らない遠浅の海だから、鱚《きす》、雌鯒《めごち》の入り釣りも充分に可能なのだ。
とくに城下北側、稲荷川《いなりがわ》の河口に生じ、近くに祇園《ぎおん》社という社《やしろ》のあることから、
「祇園《ぎおん》の洲《す》」
と呼ばれるひろやかな扇形の砂洲のまわりは、幕末を迎える前から絶好の釣り場として知られていた。
梅雨明けに祇園の洲から一斉に沖へすすみ、金波銀波の間に点々と笠《かさ》を浮かべて白鱚《しろぎす》をねらう男たちの列は、前之浜の初夏の風物詩でもあった。
薩摩人にいかに釣り道楽の者が多かったかは、
「あん芭蕉も鹿児島《かごつま》へくれば、祇園の洲で釣いばっかいしちょったじゃろ」
という表現がいまに伝わっていることからも察せられる。
悪所《あくしよ》通いのあげく淋病《りんびよう》に罹《かか》った蕩児《とうじ》のなかには、今日の感覚からするとまことに奇怪な弁解をする者もいた。
「いやはや、釣いばっかいしておったや、海《うん》の水から淋病が染《うつ》ってしめもした」
こんな大人もいるにはいたが、家計を助けるために祇園の洲へ通う藩士の子弟たちも少なくはなかった。
祇園の洲の西側、稲荷川北岸の上清水馬場の通りに面した組屋敷のうちに住まう伊東四郎もそのひとりだった。
人には渾名《あだな》で呼ばれやすい者と、そうでない者とがいる。天保《てんぽう》十四年(一八四三)五月二十日、伊東正助、諱《いみな》は祐典《すけのり》と喜多夫妻の四男として生まれた四郎はあきらかに前者で、初めは、
「桃太郎の人形」
やがては、
「飯焦《めしこ》がし」
といわれた。
四郎は生まれたときからからだが大きく色白で、父や兄、幼な友達とともに祇園の洲へ通いはじめたころには肉置《ししお》き豊かな美少年に育っていた。それが、
「四郎どんは桃太郎ん人形のよじゃ」
と近所の評判をとった理由だったが、これにはなによりも骨格すぐれた男児を尊ぶ薩摩人の感覚も作用していた。
「あの子は豚の仔《こ》のようだ」
といったなら、まずは親につむじを曲げられるのが関の山である。
しかし薩摩においては、これは一種のほめことばになる。四郎の誕生より十六年前、西郷吉之助のちの隆盛が生まれた時にも、
「こん子は豚ん仔のようによう肥えちょっど」
と、両親が喜んだという話がある。
その名も『西郷隆盛』という長編小説が遺作となった鹿児島出身の作家・故海音寺潮五郎氏も、近所に住む編集者に元気な男の子が生まれると、その編集者に対し、
「出社する前にあの子をうちにつれてこないか。帰りにまたつれて帰ればいいじゃないか」
と提案したほどだった。
伊東四郎も、その誕生自体をなにかの瑞兆《ずいちよう》とみなすまなざしにかこまれて育っていった。
飯焦がし、という第二の渾名にもいわれがある。
四郎は十歳になっても、
「ひい、ふう、みい」
とむっちりした指を折りながら数をかぞえ、五までゆくとそこでつまってしまうというおっとりしたところがあった。祇園の洲に通って家計を助けねばならない暮らしにもかかわらず、春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》たる気性に生まれついていて、六から先は指をひらいてゆくことにすぐにはおもい至らなかったのである。
そのため四郎は、
「あん子はよほどん愚物か、そいでなければ大変《あばてん》な傑物じゃろう」
と陰でささやかれていたが、近所の女たちは、かれをまったく違う目で眺めていた。
四郎は次第に、筋骨たくましく体躯《たいく》長大な少年となった。
「よか若者《にせ》」
である。なかでも眉目《びもく》秀麗な「よか若者」は、
「若者《にせ》ぶい(男ぶり)がよか」
とたたえられる。
四郎は髪黒々として眉《まゆ》が太く、その眉に迫った切れ長の二重まぶたと吉相といわれる福耳とをそなえていた。鼻筋は通り、口もとと顎《あご》とはよく引きしまっていて、なかなかの美少年であった。
まだ前髪立ての四郎が母の手縫いの薩摩|絣《がすり》に短か袴《ばかま》をまとい、腰には朱鞘《しゆざや》の脇差、足には大ぶりな薩摩|下駄《げた》をつっかけて外出する姿は、いつか上清水馬場、下清水馬場一帯の名物に見立てられた。
組屋敷に雇われている下女たちは、竹垣の外を四郎が砂地に下駄の歯を噛《か》ませて通りかかるたび、台所口から手ぬぐいを姉さんかむりにした顔をのぞかせてその凜々《りり》しい姿にしばし見とれる。
その間にかまどの釜《かま》から湯気が吹きこぼれ、飯を焦がしてしまうことがある、というのが飯焦がしという第二の渾名の由来だった。
ここで薩摩藩の藩士総数を見ておくと、文政《ぶんせい》九年(一八二六)、すなわち伊東四郎の誕生より十七年前の時点で約三万七千七百人、と記録する資料がある。これらの藩士たちは、身分を厳然とつぎの三者に区別されていた。
第一は、城下士。
これは鹿児島城下に住むことを許された約四千三百人の直臣《じきしん》たちの総称で、その禄高《ろくだか》の平均は七十八石九斗あまり。
第二は、郷士。
城下以外の百十余カ所の郷(古くは外城《とじよう》といった)に散って半農の暮らしをいとなんでいる下級武士たちのことで、約二万三千三百人、平均禄高は四石七斗あまり。
武士かとおもえば農民のごとく田を打つことから、城下士にはこの者たちを、
「一日兵児《ひしてへこ》」
と呼んで軽んずる傾向があった。
第三は、家中士。
土地を与えられている一所衆(一所持ち)につかえる陪臣《ばいしん》(またもの)たちのことで、約一万百人、平均禄高は四石あまり。郷士たちよりも、さらに低い身分とみなされていた。
伊東家は城下士だから、四郎の父正助は上位約四千三百人のうちにふくまれていたことになる。
ただし城下士は、さらに九つの家格に分かれていた。
最上級の一門四家から一所持ち、一所持ち格、寄合《よりあい》、寄合|並《なみ》、無格、小番、新番、そして最下級の御小姓与《おこしようぐみ》まで。
資料が散逸してしまって、正助の家格はもうわからなくなっている。しかし『薩陽武鑑』と題された薩摩藩藩士名簿にも、伊東家は立項されていない。
そこから案ずれば、伊東家は城下士のうち三千家以上に達した御小姓与に属するめだたない一族だったかとおもわれる。
よか若者《にせ》となった四郎も太平の世に生まれていたならば、城下士のうちではその他大勢といってもよい小身《しようしん》の家筋のそのまた部屋住みとして、祇園の洲へ通う姿を近所の女たちに騒がれるだけの生涯を送ったかもしれない。
だが、時代は確実に動いていた。
四郎十一歳の嘉永《かえい》六年(一八五三)六月三日、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻をひきいて浦賀に来航すると、
「攘夷《じようい》」
ということばが時代の流行語となった。これは文字通り「夷《えびす》など打ちはらってしまえ」という意味で、今日の感覚からすれば狭隘《きようあい》な愛国主義というよりも、むしろ夜郎自大に近い。
このころ、四郎は攘夷思想にかぶれた父をもつ釣り仲間から、面妖《めんよう》きわまる話を聞いて頭が混乱してしまったことがある。
また祇園の洲へ出かけて短か袴の股立《ももだ》ちを取り、正面に霞《かす》む桜島めがけて大きく釣竿《つりざお》を振って一息ついたとき、横にならんだその少年は、
「おい四郎よ、こげなこつ知っちょっか」
と訳知り顔でいった。
「異人どもがいっでん踵《いつでもかかと》い台《で》のついた靴とかいうのをはいちょっとはね、実は足首から下がアシカん鰭《ひれ》んごつなっておって、台がなかと、うまく歩けんからだというぞ。そいで異人どもが黒船に乗ってこん前之浜にやってきてん、刀《かつな》はいらん。体当たいして靴を脱がせてしもえば、もうそん辺《あたい》をはいまわっことしかでけんとじゃ。そげんやさしかこつなら、俺《おい》も早よ、攘夷をしてみたかど」
「ほう」
と応じて光る波間に目を凝らしてみたが、四郎に足の先が鰭のようになっている人体はとても想像がつかなかった。
軽々しく笑わず、軽々しく驚きを顔に出さない、というのも四郎のもって生まれた性分である。その反応が物足りなかったらしく、
「おおい、こげなこつ知っちょっかあ」
と釣り仲間に呼びかけながら、幼い煽動者《せんどうしや》は四郎のもとを遠ざかっていった。
欧米人には踵がない、だからわらじや下駄をはけないのだ、とする奇抜すぎる解釈は、一貫して開国派だった会津藩、やがて攘夷の急先鋒《きゆうせんぽう》と化す長州藩の資料にも記載されているから、国内ほとんどの地方でもてはやされた見解だったようだ。
しかしこの落語のような風説とはまた別に、各藩が黒船来航によって未曾有《みぞう》の危機感をつのらせたのは事実だった。清朝が一八四〇年(天保《てんぽう》十一)から四二年にかけてのアヘン戦争に一方的敗北を喫し、イギリスに廈門《アモイ》、上海など五港の開港と香港の割譲とを強いられたことは、日本にもすみやかに伝わってきていた。
異人は黒船でやってくるから、海に面した領土をもつ藩ほど海防に関する考えをあらためる。薩摩藩において海防策は、まず錦江湾の要所要所に台場《だいば》を築く、という方針となってあらわれた。台場とは砲台のことをいう。
その台場第一号は、第十一代藩主島津|斉興《なりおき》の時代の天保十五年(一八四四)に築造されていた。場所は山川《やまがわ》。これはSの字の左下、東から大隅半島、西から薩摩半島が迫って形造る湾口部の薩摩半島側、指宿《いぶすき》の南にある港である。
つづけて弘化《こうか》四年(一八四七)には、鹿児島城下の南に河口をもつ甲突川《こうつきがわ》南岸の天保山、北岸の洲崎、桜島、そして桜島とは地つづきの大隅半島の垂水《たるみず》港その他にも台場がもうけられた。だがこれらは、まだ土俵《つちだわら》の囲いのなかに関ヶ原や大坂の陣で使われたような旧式砲をならべた程度のものにすぎなかった。
薩摩藩の台場造りが本格化したのは、開明的な名君として世に知られ、ローマ字で日記まで書いた島津|斉彬《なりあきら》が第十二代藩主となった嘉永四年(一八五一)以降のこと。錦江湾の沿岸台場をつぶさに巡見した斉彬は、洋式築城書まで読んでいたからすぐその稚拙さに気づいた。
かれはすべての台場を洋式に改造することにし、祇園の洲その他にもあらたな台場を築造することにした。
祇園の洲台場の着工は嘉永六年七月、竣工《しゆんこう》は同年十月のことだったが、それ以前から洋式測量が開始されていたから、四郎たちは祇園の洲へゆくことを禁じられてしまった。
祇園の洲は、まだ事情のよくわからない四郎たちが見守るうちに、急速に変貌《へんぼう》をとげていった。
そのひろさは、南北およそ四町半(四九一メートル)。稲荷川河口に面した東南の角を屈曲点として石垣が積みあげられてゆくと、その内側には河口付近から浚《さら》われた土砂が畚《もつこ》、土俵《つちだわら》、竹籠《たけかご》などによって運ばれ、祇園の洲全体がじわじわとせりあがってきた。斉彬はすべての台場を、隅櫓《すみやぐら》と黒瓦《くろがわら》しっくい塗りの塀がないだけの海岸城郭にしようとしていたのである。
やがてこの洋式台場には内壁にそい、三日月状の高地が築かれて十の砲座がもうけられた。そのすべてから新式砲を発射すれば、正面の桜島を中心として左右約四十度の海域を防御できる、という計算であった。
上《かみ》と下《しも》に分かれた清水馬場寄りの背面には柵《さく》が立てまわされて、足軽長屋のような番小屋も建てられた。そればかりではなく柵の内側には目隠し代わりに黒松も点々と植えこまれたから、もはや祇園の洲は子供や釣り人たちとはすっかり無縁の場所になりはてた感があった。
それから五年の歳月が流れ、これらの黒松もよく根を張った安政《あんせい》五年(一八五八)の七月十六日、斉彬が五十歳で急逝したため、錦江湾湾岸の全|要塞《ようさい》化計画というべき構想はここで中断することになる。
それでも薩摩藩にあっては、藩士の次男以下からも見こみある者は登用するという制度がつづいていた。
このころの武士階級は、十五の年に前髪を落として元服するのがふつうであった。父正助祐典の「祐」の字にちなんで祐亨《すけゆき》という諱《いみな》をもらった四郎は、安政七年正月、十八歳にして鹿児島城へ出仕するよう命じられた。
四郎が中小姓としてつかえることになったのは、島津三郎久光。斉彬の遺言によってあらたな藩主となった茂久《もちひさ》の父で、斉彬の異母弟にあたる人物である。
「国父」
としてまだ十九歳の茂久の後見役となった久光は、飯焦がしの四郎を一目見て気に入ったらしかった。
平地に築かれた城は、本丸を中心として縄張りされていることが多い。この場合は本丸を守って同心円状に二の丸、三の丸が発達し、城下町はさらにその外側にひろがることになる。
対して、
「鶴丸城」
の美称をもつ鹿児島城は、東のかなたに桜島、その手前に前之浜《まえんはま》を望む平地に建てられているものの、このような体裁を取っていないところに特徴があった。
城の西側にはひろさ三万五千坪以上、シラス台地に多彩な常緑樹を繁らせた城山がうずたかく盛りあがって、天然の城壁となってはいる。
しかし前之浜寄りにうちつづく武家屋敷町から眺めれば、一重堀とさほど高くない石垣とに四辺形の輪郭をかこまれただけの鹿児島城は、天守閣も三重櫓もないため、ただの屋形のようにしか見えなかった。
なかでもっともめだつ建物は、御楼門《ごろうもん》。堀に架かった木橋と本丸とを画する本瓦|葺《ぶ》き入母屋《いりもや》造りの城門で、両側にのびてゆく石垣に櫓をわたし、屋根の両端には鯱《しやち》を飾っていた。
この御楼門に正対すると、右側の石垣上には白しっくい塗りなまこ壁の長大な多聞《たもん》櫓、左側のかなたには二の丸の隅櫓が目に映りはするが、殿閣の類《たぐい》はいっさい視界に入らない。
戦国の世の薩摩の国主、島津義久はいった。
「鹿児島は城をもって城とせず、人をもって城となす」
薩摩藩は自他ともに認める強大な武力を誇るため、島津斉彬も城自体よりむしろ錦江湾全体の要塞化に意を用いつづけたのであったろう。
城は政庁である「表」と、藩主の私生活の場である「奥」とに分けられる。斉彬が急死して茂久が本丸に、その父久光が国父として二の丸に入ると、鹿児島城にはふたつの「表」と「奥」とが並立したことになる。
四十二歳にして藩主の上に立つ存在となった久光は、開明的だった斉彬にくらべるとかなり保守的な肌合いの人物であった。その違いは、小姓たちに対しても洋銃や新式砲の研究より伝統的な武芸を奨励する傾向となってあらわれた。
島津家のお家芸といえば、
「犬追物《いぬおうもの》」
がまずあげられる。
これは騎乗した三十六人の射手《いて》が三手に分かれ、一町(一〇九メートル)四方の馬場に放たれた犬を追って射芸(弓術)を競うことをいう。犬を傷つけないよう犬射蟇目《いぬいひきめ》という矢尻《やじり》のない矢がつかわれることになっていたが、島津家は徳川三代将軍家光の御前試合として、犬追物をおこなってみせたこともあった。
この犬追物に、馬術とともに精妙な射芸が必要とされることはいうまでもない。中小姓として出仕した伊東四郎が久光に気に入られた理由のひとつは、射芸になかなかの風格を見せたことにあった。
「気散じに、弓を引こうぞ」
小作り下ぶくれの顔だちながら眉《まゆ》の異常に太くて濃い久光がいい出すと、小姓たちはこぞって隅櫓近くにある弓道場へ供をするのをつねとした。
そこで刺子《さしこ》の稽古《けいこ》着と木綿の稽古|袴《ばかま》に着更《きが》えてからは、それぞれ自分の弓に弓弦《ゆづる》を張って空鳴りをくれる。ついで久光から順に、巻きわらの礼射をおこなう。
巻きわらとは固くたばねた大きなわらたばのことで、なかほどからずばりと切断されて円形の平らかな断面を見せている。大太鼓のごとく台に据えられたこの巻きわらに一間(一・八メートル)近くまで近づいて左半身となり、ひとり数本ずつ矢を放ってまずは射の呼吸をおもい出す。
ついで外の的にむかうのだが、
「|※[#「土+朶」、unicode579c]《あずち》」
と呼ばれる土塁の手前に置かれた差しわたし五寸(一五センチ)の的までの距離は、十五間(二七メートル)とほどほどの矢頃に設定されていた。射芸精妙の域に達した者たちは半町(五四・五メートル)以上離れた的に矢を射こみ、それでも飽き足りずに星のない夜、的の前に立てた線香の火だけを頼りに的中率を競うこともある。
しかし、まだ筋骨の満ちていない若者《にせ》ぞろいの小姓たちには、十五間先の的を射抜くこともなかなかむずかしかった。
こういうとき、人は日ごろ秘め隠していた本性をあらわにすることが少なくない。
とくに薩摩人には激情型の性格の者が多いから、一の矢、二の矢と外してしまうともうすでに目を怒らせている。そういう者ほど顔面を朱に染めてねらいもよく定めず三の矢を放つため、矢はますますあらぬ方へ飛んでゆく。
すると久光がいることも忘れ、
「チェスト!」
と叫んで弓をその場に叩《たた》きつける者も珍しくなかった。
そんななかにあって、眉目《びもく》秀麗な四郎はいつも泰然自若としていた。
「御免なったもし」
射手たちの背後の床几《しようぎ》に腰かけて小姓たちの稽古ぶりを眺める久光に対し、四郎はかならず律義に一礼してから的に対峙《たいじ》した。
すでに四郎の背丈は五尺八寸(一メートル七六センチ)を超え、胸板にも腰にも厚みがあって堂々たる薩摩|兵児《へこ》である。四郎が稽古着から弓手《ゆんで》(左手)を抜いて色白の肩口から胸のなかばまでをあらわにし、大きく息を吸ってきりきりと弓を引きしぼると、腰のそなえがぴたりと決まって美しかった。
このとき息を肺に溜《た》めてしまって胸をふくらませ、次第にしぼませるのは不可とされる。息は腹に溜めて少しずつ呼吸に用い、矢を射るのではなく矢の離れるときが満ちたのを感じて指を離すのだ。
どっしりとした構えからゆるゆると弓を引く四郎の姿はこの理に適《かな》い、一の矢を外しても二の矢は確実に命中させた。一の矢を的中させて二の矢を外したとしても、三の矢はきっと命中させる。
仕損じたからといって怒髪天を衝《つ》くこともなく、チェストとわめいて弓を投げ捨てることもなかったから、久光は次第にその悠揚として迫らぬ態度を愛《め》でるようになったのである。
さらに久光は、小姓たちに弓を引かせたあと相撲を取らせることもよくあった。
勝ち負けの単純明快な相撲ほど、直情径行をもって鳴る薩摩|隼人《はやと》の好みに合うものはない。一斉に稽古着を脱ぎ捨てて袴の股立《ももだ》ちを取った小姓たちは、手近の空地に土俵を描くとすぐに勝ち抜き戦をはじめるのをつねとした。
血の気の多いあまりに射芸を不得手とする者ほど汚名返上に張りきるから、勝負はしばしば手荒なものになった。張り手を喰《く》らって鼻血を出す者、引きずるような投げを打たれて足の爪を割る者も稀《まれ》ではない。
この相撲においても、四郎の強さには一頭地を抜くものがあった。
四郎が全山緑一色の城山の方角に足の裏を突き出し、四股《しこ》を踏むと長くたくましい足がすらりと上がって姿が良い。これをくりかえすうち次第に上体が桜色に染まってくるところは、幼い日の桃太郎という渾名《あだな》にふさわしかった。
その相撲の取り口は、決して器用なものではなかった。四郎はいつも充分に腰を割ってから立ちあがり、相手の当たりを胸で受け止めながら前へ出てゆく。
決まり手は押し出しや寄り切りになることがほとんどだったが、相手が土俵際でからだを弓なりにしてこらえようとするともう一度腰を落とし、うかつに攻めてうっちゃりを食ったり体《たい》を飛ばされたりしないところに四郎の四郎らしさがあった。
堂々たる若者《にせ》ぶりと若さに似ない沈着な気性。それが久光のめがねに適ったのである。
むろんこのような性格は、一朝一夕にしてできあがるものではない。その背景には伊東家の、
「隼人式」
とでも名づけるべき峻烈《しゆんれつ》きわまる躾《しつけ》があった。
伊東正助祐典・喜多夫妻は子沢山で、長女と三男は早世してしまったが七男一女を育てあげた。
長男・仙兵衛祐敬、次男・二郎祐麿、四男・四郎祐亨、五男・祐普、六男・祐章、七男・祐徳、八男・祐道、次女・関《せき》。
祐普は「すけかた」か「すけひろ」、祐徳は父の諱《いみな》と同音になることを避けて「すけなり」あるいは「すけやす」と読んだのだろう。「正助」ないし「仙兵衛」は伊東家の長男が代々受けついできた通称であり、次男が二郎、四男が四郎と呼ばれていたことを考えあわせれば、四郎の弟たちも五郎、六郎、七郎、八郎という通称だったかとおもわれる。
いずれにしても正助は、朝起きると四郎たちを神棚の前に呼び、こう誓わせた。
「男子は嘘をついてはならぬ。男子は卑怯《ひきよう》なことをしてはならぬ。男子はがまんをせよ」
それぞれがこのことばを復誦《ふくしよう》し、柏手《かしわで》を打って神棚に拝礼してからようやく一日がはじまるのだ。
四郎は正助四十七歳のときの子供だったから、四郎が物心ついたころの正助はもう老人といってよかった。
だが正助の筋っぽさはなかなかのもので、子供たちが学塾や弓馬|刀槍《とうそう》の稽古、あるいは遊びから帰ってからもきびしい目を注ぎつづけた。
玄関の土間から式台上にあがる前に、いつもかたわらに置いてある雑巾《ぞうきん》で引戸の格子をぬぐってからでなければ部屋に通ることを許さない。食事をする場合や親戚《しんせき》たちの寄り合いの席でも、座布団には座らせない。
六十歳をすぎて仙兵衛に家督をゆずり、二郎と四郎も元服してからは、寝る前にひとりずつ呼びつけて別のことを教えた。
「今日《きゆ》は四郎の番じゃ、ついてまいれ」
といわれて父の寝所へゆくと、白木の三方《さんぽう》が出される。
その上には、伊東家の重宝|波平行安《なみのひらゆくやす》の脇差がのせられている。波平系は、南北朝以前から連綿とつづく薩摩のお国|鍛冶《かじ》である。
その三方をはさんで対座した正助は、行灯《あんどん》を近づけたとおもうとやおらその脇差を抜き放っていう。
「今宵《こよい》はお前《まい》に、切腹ん作法を教えておっ」
そして自分の小袖《こそで》の前をくつろげて大きく息を吐き出し、腹腔《ふつこう》の空気をすべて出してしまってから、下腹左側へその脇差を突っ立てる所作をしてつづける。
「こげんしてきりきりと右へ引っまわし、存分に切ってから切先《きつさき》を鉤形《かぎがた》にはね上《あ》ぐっとじゃ」
「はい、ようわかい申《も》した」
と答えると、
「ならば、やってみせ」
と、押しかぶせるように正助はいう。
四郎たちが真剣に切腹の真似事をしてみせると、
「そいでよか」
とうなずいて、正助はつけ足した。
「お前《まい》たっもいずれ親いなったら、せがれどもいかならず切腹ん作法を身につけさせい。薩摩兵児は、死《けし》んどきを誤っちゃならん」
正助はほとんど毎晩、せがれたちのうちだれかひとりを指名してこの夜の行事をつづけていた。
これはのちの話ながら、西南戦争を起こした西郷隆盛が城山に自刃したあとも、実は西郷は生きている、という説が根強くとなえられた。
それをかたくなに信じた薩摩人が、いや、西郷は死んだ、首実検もされたし胴体の検屍《けんし》もおこなわれた、と冷静に主張する他国人と激論をくりひろげたことがある。薩摩人の論拠は、
「西郷《せご》どんほどん豪傑が、死《けし》んはずはなか」
というあまりに主情的なものだったから、相手を論破できるわけもない。
ついにことばにつまったこの人物は、憤然たる面持で厠《かわや》へむかった。そして戸を閉め、
「チェスト!」
と叫ぶや、剃刀《かみそり》で喉《のど》をかき切った。かれは激昂《げつこう》のあまり、自殺して果てたのである。
ここまでくると狂に類するが、薩摩人が死を恐れぬ木強漢《ぼつけもん》ぞろいであることは、あまねく世に知られていた。
生への執着を捨て、死を恐るべからずという教えを血肉にまで溶けこませた者は、悟りきった高僧に似た静謐《せいひつ》さをただよわせることがときにある。
生来、鷹揚《おうよう》の質だった四郎は、朝は神前の誓いにはじまり夜は切腹の稽古《けいこ》におわる正助独自の教育によって、ふところの深さを身につけていったのだった。
その間に攘夷《じようい》熱は、もはや異人の踵《かかと》談議の域をはるかに越えて狂熱の度をいやましに増してきていた。その引金は、安政《あんせい》五年(一八五八)六月十九日、幕府が日米修好通商条約および貿易章程に調印し、ついに開国に踏みきったことにある。
並行して攘夷思想は天皇の万世一系思想とむすびついて尊王攘夷の主張と化し、なかでも尊攘激派と呼ばれる過激な者たちは討幕を呼号しはじめていた。
大老井伊|直弼《なおすけ》は安政の大獄によって志士たちの抑えこみを図ったが、開国三年目の安政七年三月三日には直弼自身が尊攘激派に襲われ、雪の桜田門外で首を奪われるという前代未聞の大事件が発生した。
鹿児島城下もこの話でもちきりになったのは、直弼を襲撃した尊攘激派の談合に、少なくともふたりの薩摩藩士がくわわっていたと知れたからだった。
ふたりとは、有村《ありむら》雄助と次左衛門の兄弟。
襲撃は水戸藩士十七人と江戸詰めの中小姓だった有村次左衛門の手で決行され、次左衛門はよく直弼の首をあげたものの、重傷を負って自刃して果てたという。
品川に待機して襲撃成功の吉報を受けた雄助の方は、
「誠忠組」
を名のる薩摩藩尊攘激派に討幕挙兵をうながすべく帰国したが、藩庁に切腹を命じられて万事休した。
どうやら時代は、四郎の足もとにも荒い波を寄せはじめたようであった。
伊東四郎はおっとりした性格だったため、藩内事情には疎いところがあった。だが安政六年(一八五九)のうちから、誠忠組は薩摩藩内にあって無視できない勢力となりつつあった。
やがてその勤王の志は、ほかならぬ藩主島津茂久によって認知されるに至った。
同年十一月五日付、茂久手書きの文書にいう。
「方今、世上一統動揺容易ならざる時節にて、万一、事変到来の節は順聖院さま(先代斉彬)御深意をつらぬき、国家(薩摩藩)をもって忠勤をぬきんずべき心得に候。おのおの有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、われらの不肖を輔《たす》け、国名を汚さず誠忠を尽くしくれ候よう、ひとえに頼み存じ候。よって件《くだん》のごとし。
[#地付き]茂久花押
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誠忠士 面々へ
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[#地付き]」
これはどういうことかというと、つぎのような意味である。
「もしも幕府の開国策によって日本もアヘン戦争のような事変に巻きこまれた場合、わが藩は先代斉彬の遺志をつぎ、挙藩勤王の心で朝廷に対して忠勤をはげむ。だからお前たちも、勝手に事を起こそうとしてはならぬ。そのつもりで頼んだぞ」
茂久とその背後にいる久光とは、誠忠組の面々が悲憤|慷慨《こうがい》するあまり、尊攘激派弾圧策をとる幕府要路に対して暴発など企《たくら》まないよう機先を制したのだ。
裏を返せば、このように釘《くぎ》を刺しておく必要があるほど誠忠組は隠然たる力をもつに至っていた、ということになる。
茂久からの親書を拝し、請書《うけしよ》をたてまつった誠忠組四十九人には、有村雄助・次左衛門兄弟のほか、いずれ幕末維新史に名を刻む錚々《そうそう》たる藩士たちがふくまれていた。
大久保正助(一蔵のち利通《としみち》、内務|卿《きよう》)、岩下佐次右衛門(方平《まさひら》、子爵)、有村俊斎(海江田《かえだ》信義、子爵)、吉井仁左衛門(友実《ともざね》、伯爵)、伊地知《いじち》龍右衛門(正治《まさはる》、伯爵)、税所《さいしよ》喜左衛門(篤、子爵)、本田弥右衛門(親雄、男爵)、奈良原喜八郎(繁、男爵)、野津七左衛門(鎮雄《しずお》、陸軍中将)、野津七次(道貫《みちつら》、侯爵)、西郷龍庵(従道《つぐみち》、侯爵)、仁礼《にれ》源之丞(景範《かげのり》、子爵)、……。
西郷吉之助のちの隆盛も菊地源吾の変名で名をつらねていたものの、このときかれは鹿児島にも江戸にもいない。
斉彬の腹心として早くから勤王運動に身を挺《てい》していた西郷は、斉彬死亡後の安政五年十月に帰国。幕吏に追われる勤王僧|月照《げつしよう》もつづけて鹿児島入りしたが、にわかに保守化した藩庁が月照を亡き者にしようとしたため、責任を感じた西郷は月照と錦江湾への抱き合い心中をはかった。
しかし月照だけが死に、西郷は息を吹きかえした。困った藩庁が奄美《あまみ》大島へ西郷を流したため、かれはなおも同地に潜居することを余儀なくされている。
大老井伊直弼の横死から半月後の安政七年三月十八日をもって、年号は万延《まんえん》とあらためられた。
その後も薩摩藩にあっては、茂久の親書を背景として誠忠組が着々と地歩をかためていった。あけて文久《ぶんきゆう》元年(一八六一)十月には、ついに保守派が重職から一掃された。
上席家老には喜入摂津《きいれせつつ》、側役《そばやく》には小松|帯刀《たてわき》、小納戸《こなんど》には中山|中左衛門《ちゆうざえもん》と誠忠組に近い者たちが就任。当の誠忠組からは大久保正助あらため一蔵がやはり小納戸に、有村俊斎と吉井仁左衛門とが徒《かち》目付に登用された。
小納戸とは藩主の側近くにつかえて結髪《けつぱつ》、食事その他雑用をすべて引きうける軽い役職ながら、親しく藩主に世の流れ、ものの見方を吹きこむこともできる。
「誠忠組内閣」
とでもいうべき藩体制が、ここに成立したのである。
しかもこの間に攘夷運動は、
「異人斬り」
という矯激なかたちをとるようになっていた。
万延元年十二月五日には、アメリカ公使館の通弁官ヒュースケンが何者かに襲われて斬殺《ざんさつ》される、という事件が江戸で起こっていた。
文久元年五月二十八日、高輪《たかなわ》の東禅寺に置かれたイギリス公使館には水戸浪士十四人が斬りこみ、書記官オリファントと長崎領事モリソンに重傷を与える、といういわゆる「東禅寺襲撃事件」も発生した。
実のところヒュースケン襲撃には薩摩脱藩|伊牟田尚平《いむたしようへい》、樋渡《ひわたり》八兵衛らも参加していたのだが、刺客たちはたくみに姿を消したためそれとはまだ知れていない。異人斬りが勃発《ぼつぱつ》するたびに名の挙がるのは水戸藩尊攘激派ばかりだったから、桜田門外の変以前からかれらと気脈を通じている誠忠組としては、挙藩勤王の藩論を定めることに成功したとはいえ面白くなかった。
「また水戸人に後《おく》れをとってしまったではないか。早くわれらもなにかの義挙を起こさねば、天下に呼号することなどとてもできなくなるぞ」
と無念やる方ない面持で歯噛《はが》みする若手藩士たちの姿は、鹿児島城内にも次第に目につくようになってきた。
この文久元年で、四郎は十九歳になる。一《ひい》、二《ふう》、三《みい》と指折りかぞえ、六から先は指をひらいてゆくことにおもい至らなかったあどけなさは昔語りになり、四郎も少しずつ攘夷熱に染まってきた。
二の丸に出仕している間は中小姓仲間、下城してからは兄たちが尊王攘夷の大義について熱っぽく語るのを聞かされつづけているのだから、これもやむを得ない。
ことに薩摩人には、甲論乙駁《こうろんおつばく》することを、
「議をいう」
と称して士風に反するものとし、小異をすてて大同につこうとする傾向が顕著だった。
「日新《じつしん》公」
として家中に名高い戦国の世の名将島津忠良の作とされ、薩摩藩の子弟であればかならず暗誦《あんしよう》させられる「日新公いろは歌」にいう。
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心こそ軍《いくさ》する身の命なれ そろふれば生き 揃はねば死す
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四郎もまた、このような藩風のなかに育っていたのである。
(そうか、先代の順聖院さまが祇園の洲その他にお台場を築かれたのも、攘夷《じようい》が実践されれば異人どもがそれを口実に攻め寄せてくるかも知れない、とお考えあそばされてのことだったのか)
と、四郎はようやくこのころ合点がいった。
この四郎がさらに深く尊王攘夷思想に染まったきっかけは、二十歳となった文久二年三月、京を経て江戸をめざす久光の供に指名されたことであった。
久光が鹿児島を出て公武(朝廷と幕府)双方に国事についての意見を述べようと決意したのは、孝明天皇と幕府との関係がこじれきっていたためである。
かつて孝明天皇は、
「ペルリ《ペリー》という洋夷は、かような顔つきでござります」
と鬼か天狗《てんぐ》のような絵を見せられ、震えあがってしまったことがあった。
それ以来すっかり攘夷思想の信奉者になった天皇は、幕府が朝幕関係を改善すべく十四代将軍|家茂《いえもち》への皇女|和宮《かずのみや》の降嫁を願うと、大変な交換条件を出した。幕府が諸外国との条約を破棄して再鎖国と攘夷に踏みきるならば、降嫁に勅許を与えてもよい、と。
対して大老井伊直弼亡きあと、磐城平《いわきたいら》五万石の藩主安藤信行(のち信正)を老中首座としている幕閣は、万延元年八月、京都所司代酒井|忠義《ただあき》を介して答えた。
「洋夷拒絶の件につきましては、即刻ことを構えては条約締結直後のこととて名分もなく、国家としての信義も立ちがたくなりましょう。幕府は目下軍艦、鉄砲の製造に専念しておりますから、今後七、八年ないし十年のうちには武備をととのえ、その武力を背景に条約を破棄するか、武器を取って洋夷を撃攘するか、いずれかの方法をとりましょう」
すでに開国している幕府もいずれ攘夷をおこなうといったのだから、攘夷熱の昂《たか》まりに拍車をかけたのはいうまでもない。天皇も十月十八日に和宮降嫁に勅許を下し、翌年三月をもって和宮を江戸へむかわせることにした。
しかし、幕府がその直後の十一月十日にプロシャ、スイス、ベルギー三国との条約締結を奏請してきたため、天皇は激怒して降嫁破談を主張。その怒りがおさまるのに時間がかかり、和宮の江戸下向は文久元年十月までずれこんだ。
さらに、噂は噂を呼んだ。幕閣が天皇を邪魔におもって廃帝計画を立てはじめた、という話が流れてまたしても水戸藩尊攘激派が激昂《げつこう》し、うち六人が文久二年一月十五日の登城時刻に安藤信行の行列に襲いかかった。
六名はことごとく斬り死にしたものの、幕府は桜田門外の変につづいて体面を失ってしまい、ますます政情は混迷の度を深めている。これらの天下の形勢を眺め、久光はついに自分の出番がきたと考えたのだった。
久光はこの大旅行に一千人以上の供を従えてゆくことにしたため、供に指名された藩士たちの家はいずこも騒然となった。
塗りの剥《は》げた陣笠《じんがさ》や日に灼《や》けて肩口が羊羹《ようかん》色になってしまった羽織姿では見苦しいから、あつらえるものはあつらえ、仕立てられるものは夜なべをしてでも縫いあげる必要がある。帰国がいつになるかも知れないから、衣装だけをとっても正装の麻裃《あさがみしも》、旅行用のぶっさき羽織とたっつけ袴《ばかま》のほか、冬用の綿入れの袷《あわせ》から夏用の麻かたびら、そして着更《きが》えや襦袢《じゆばん》類まで調《ととの》えなければならなかった。
薩摩は薩南ともいわれる南国のこととて、日ごろの暮らしに寒さしのぎの頭巾《ずきん》、襟巻、足袋や合羽《かつぱ》は不要とされている。しかし京の底冷え、関東のからっ風のすさまじさは、薩摩にもよく知られていた。
この年で六十六歳になった父の正助は足腰が衰えて寝所に臥《ふ》せっていることが多くなっていたが、母喜多は四郎のため懸命にこれらの品々を縫いあげてくれた。
伊東家の家紋は、「庵《いおり》に木瓜《もつこう》」。三角屋根の小屋のうちに四弁の花を配した、風趣に富む図柄である。
仕立てられた肩衣《かたぎぬ》、小袖《こそで》、羽織、袴がつぎつぎに紋章|上絵《うわえ》師のもとへはこばれ、この家紋を入れられてもどってくるのを眺めるうち、さすがの四郎も気の昂ぶりをおぼえた。
一行が鹿児島城を出立したのは、文久二年三月十六日早朝のこと。先払いふたりと金割り切りの配《はい》を手にした騎馬武者一騎、鉄砲足軽三十人、丸に九の字の大紋《だいもん》を背に打った法被《はつぴ》姿の玉薬箱持ちの中間《ちゆうげん》を先頭とするこの行列は、島津家家紋である丸に十字の「轡《くつわ》紋」を紺地白ぬきに染め出した旗のぼりをはさみ、以下のようにつづいていった。
長持と家紋を金色に輝かせた具足|櫃《びつ》五荷、大鳥毛の毛槍《けやり》一筋と大弓一張り、挟み箱、黒|積毛《つみげ》の槍二筋を間にした徒《かち》武者組と第二の鉄砲組、小姓三十人、駕籠《かご》まわりの中小姓二列六十人と久光の乗る長棒引戸の乗物、……。
さらに茶坊主や第三の鉄砲組、供槍六十筋と駕籠六十|挺《ちよう》がこれに後続、供侍たちの荷物を納めた長持八十|棹《さお》、馬六十駄も動きはじめたのを見て、
「こげな豪勢な行列は、お家はじまって以来じゃろ」
といいあった見物人たちも少なくなかった。
むろん四郎も、中小姓六十人のなかにひときわ秀でた体躯《たいく》を見せていた。中小姓はただの小姓と違い、武芸の達者から選ばれる。
これも江戸から伝わってきた流行の講武所|髷《まげ》――月代《さかやき》を閉じた扇子のように細く剃《そ》ったかたちの侍髷に結って面体《めんてい》を端反《はしぞ》りの陣笠に隠した四郎は、ぶっさき羽織をまとってたっつけ袴の足もとは黒足袋わらじで固め、腰の大小には柄《つか》袋をかぶせて大股《おおまた》に歩いていった。黒うるし塗りの真新しい陣笠のおもてには、「庵に木瓜」が描かれている。
(ほほう)
と、その四郎がおもったのは、休憩の際に中小姓仲間の噂話を耳にしたときであった。
「おい、こん行列の荷駄んなかにゃ、西洋式の砲四門と弾薬もまじっておっとじゃ」
「そいは、俺《おい》も聞いちょっど。覆われておっで傍目《はため》にはわからんが、なんでん、台車《だいぐるま》で牽《ひ》かれてくっとがそん大砲だそうじゃ」
「御人数の多さといい、これといい、ただん国事周旋の旅ではなか、というこっじゃな」
行列には、小松帯刀、中山中左衛門、大久保一蔵らもくわわっている。そのため供侍たちの間には、
(これが水戸藩と東西相呼応して、攘夷の先鋒《せんぽう》となるための東上であってほしい)
との願望がめばえているのだった。
陸路北行をかさねた一行が三月二十八日、豊前《ぶぜん》大里から海路下関へわたる前後から、久光の動向は諸藩尊攘激派のこぞって注目するところともなりつつあった。
かれらはいずこからともなく夜ごと薩摩藩本陣にあらわれて、誠忠組の者たちとの接触をはかる。久光一行の来着を待ってともに義挙を起こそうと、京・大坂へ先行する志士たちも少なくなかったから、行列は暴風にむかって突きすすむような恰好になった。
「尊王攘夷を名目として激烈の説を唱える浪人軽卒どもとは、いっさい交わってはならぬ」
と、久光は出発前から供侍たちを戒めていた。しかし、外部のこのような動きまでは止めようがない。
それでも久光は、四月二日に播州《ばんしゆう》室津へ入ったときには七言絶句を口ずさむゆとりを見せた。
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家郷を出《いで》てよりすでに二旬
轎舟《きようしゆう》渡り得たり幾関津《いくかんしん》
この行いづれの意か人知るや否や
扶桑国《ふそうこく》裏、塵《ちり》を払はんと欲す
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「轎舟」は駕籠と舟、「関津」は関所と港、「扶桑国」は日本のことである。側近くにひかえてこれを聞き、四郎もやはり久光のおもいは攘夷実践にあるのだ、と信じた。
だがそれは、四郎の錯覚にすぎなかった。それとわかるまで、四郎にはもう少しの日にちが必要であった。
薩摩島津家ほどの大藩ともなると、江戸ばかりではなく京、伏見、大坂にも屋敷を構えている。京都藩邸は朝廷と幕府の二条城に、大坂藩邸は蔵屋敷として堂島の米相場に対応し、伏見のそれには両者の中継地の意味合いがある。
姫路、兵庫を経て四月十二日に土佐堀川南岸の大坂屋敷へ入ったころから、
(おや)
とかれは感じはじめた。
供の中小姓たちのなかにも、誠忠組に加盟している者、あるいはかれらと志をおなじくする尊攘《そんじよう》激派が少なくなかった。
西郷龍庵、仁礼源之丞、大山弥助、田中謙助、有馬新七ほか。
その領袖《りようしゆう》格大久保一蔵をいつのまにか遠ざけてしまっていた久光は、伏見藩邸をめざすに際し、これらの者たちをふくむ五百名あまりに大坂残留を命じたのである。
その理由は、ふたつあった。
第一は、伏見と京の藩邸が手狭すぎて、とても一千名以上の供は収容できないこと。第二は藩内外の尊攘激派が大坂に集結していると知れたため、これらを鎮撫《ちんぶ》できる兵力を大坂に置いておかなければならなくなったこと。
久光が特に後者のねらいで誠忠組の多くを残留させることにしたのは、同志たる一派に鎮撫役にまわられては、諸藩の尊攘激派もとても暴発しきれまい、と読んでのことにほかならない。
一方、――。
諸藩尊攘激派の久光に対する義挙の期待は、物狂おしいほどのものになっていた。そしてついに、義挙の具体案を朝廷に献策する者まであらわれた。
福岡脱藩の平野次郎こと国臣《くにおみ》が、四月八日に上奏した「回天三策」の第一案にいう。
「薩摩藩国父(久光)の上洛《じようらく》は尊王討幕のまたとない機会だから、その大坂滞在中に勅命を下して幕府と井伊家から大坂城、二条城、彦根城を奪取させ、朝政に参与させるべし。
そして鳳輦《ほうれん》(天皇の乗物)を大坂城に迎えて諸藩に命じ、幕府が勅許を得ずに開国して以来の罪を問わせよ。幕府が謝罪すれば将軍(家茂)から官職を剥いで諸侯の列に落とし、命にそむくようであればすみやかに御親征あらんことを」
自分たち尊王|攘夷《じようい》の志士が親兵として蹶起《けつき》すれば維新回天の創業は成る、と平野国臣は信じていた。
ここにおいて攘夷思想は、異人たちとむすんだ徳川家を討つという討幕思想と表裏一体と化している。いわゆる尊王討幕。その討幕の義挙の主将格に、かれらはかねて挙藩勤王を言明する久光を擬していたのだった。
その期待をよそに久光は四郎をふくむ五百の供をしたがえ、十三日に淀川を水行して伏見藩邸へ北上した。この屋敷は、旧伏見城の外堀のなごりの壕川《ほりかわ》ぞいにある。
ついでようやく入京したのは、十六日のこと。一行は、まっすぐに禁裏北側、今出川門内にある近衛家をめざした。これは井伊直弼の忌避に触れて落飾している元左大臣|近衛忠熙《このえただひろ》が、島津家から正室を迎えているという血縁を頼ったのである。
四郎たち供侍が築地塀《ついじべい》内の遠侍《とおざむらい》の殿舎にひかえる間、久光に応接したのは忠熙の四男で、正二位|権《ごんの》大納言の官職にある近衛忠房。父同様に幕府を嫌い島津家に好意的な忠房は、衣冠を着け、議奏職にある中山|忠能《ただやす》と正親町《おおぎまち》三条|実愛《さねなる》同席のうえで久光に謁見した。
久光は無位無官だから、このような会見の場合には紋羽織姿で下座につかなければならない。その下座から久光は、
「改革趣意書」
と題した意見書を提出した。
骨子は、以下のごとし。
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一、安政の大獄で罪を得た公卿《くぎよう》たちの慎みを解き、近衛|忠熙《ただひろ》をもって関白に任ずべきこと。
一、江戸においても一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》(一橋家当主)、徳川|慶勝《よしかつ》(名古屋藩主)、松平慶永(福井藩主)らの慎みを解き、老中安藤信行を退職させて一橋慶喜を将軍後見職とすること。
一、そして松平慶永を大老とし、慶永ともうひとりの老中|久世広周《くぜひろちか》(関宿藩主)とを上洛させること。
一、もし幕府がこれに従わないときは、二、三の大名に命じて違勅の罪を問わせること。かつ今後は叡慮《えいりよ》を浪人に洩《も》らさぬよう取締りを厳重にし、またみだりに浪人の意見を御採用されないように願いたい。
[#ここで字下げ終わり]
かつて井伊直弼に憎まれ、隠退させられていた者たちを幕府側、朝廷側の双方に復活させ、より緊密な朝幕関係を築くことによって国難の時代を乗りきる、という趣旨であった。
「公武合体論」
という理論で、これは基本的に討幕論とは相|容《い》れない性格をもつ。
議奏とは天皇への取りつぎ役のことだから、中山忠能と正親町三条実愛とは近衛家正面の朔平《さくへい》門からすぐに参内し、孝明天皇にこの趣意書を献じた。
そしてふたりは黄昏《たそがれ》時がきてから近衛家にもどり、久光に勅諚《ちよくじよう》を伝えた。
「浪士ども蜂起《ほうき》、おだやかならざる企《くわだ》てこれあり候ところ、島津和泉(久光)取り押さえ候むね、まずもって叡感|思《おぼ》しめし候(満足におもう)。別して《とりわけ》お膝元《ひざもと》において容易ならざる儀|発起《ほつき》するにおいては、まことに宸襟《しんきん》を悩ませられ候ことに候間、和泉当地に滞在、鎮静これあり候よう思しめし候こと」
島津三郎久光を和泉と呼んでいるのは、かれが無位無官で受領名をもたないため、三郎と称する以前につかっていた通称を用いたのである。
「天子さまには龍顔《りようがん》ことにうるわしく、奏聞《そうもん》の趣を御嘉納《ごかのう》あらせられたそうじゃ」
という話は、四郎たちのひかえる遠侍にも伝わってくる。
「こいはめでたかこつじゃ」
とうなずき合った四郎たちは、この日は登城の式日同様に麻裃《あさがみしも》の半袴《はんこ》の裾《すそ》を大きく畳みあげてその褄《つま》を腰ひもにはさみこみ、臑《すね》をあらわにしていた。
その行装で前庭の車寄せに出た一同は、丸に十字の紋を描いた高張|提灯《ぢようちん》、弓張提灯につぎつぎに火を入れ、伏見屋敷への帰り仕度をはじめた。
(これはどうも、話の風むきが変わってきたぞ)
と四郎がおもったのは、あけて十七日、ふたたび久光の供をして京都屋敷にうつってからのことであった。
京都屋敷は中京《なかぎよう》の四条|烏丸《からすま》にほど近い、東洞院通り錦小路《にしきこうじ》にある。この屋敷を本陣とした久光は、勅命を奉じて尊攘激派の鎮撫にあたることになったのである。
これでは、鹿児島から牽《ひ》いてきた洋式砲四門は攘夷のためではなく、その攘夷をめざす者たちに対抗するための武器だったということになってしまう。
四郎すら怪訝《けげん》におもったほどだったから、大坂残留の誠忠組と諸藩の尊攘激派は一気に苛立《いらだ》ちを深めた。
――こうなっては、大坂の同志たちだけで義挙に走るしかない。
そうおもいつめた誠忠組の面々は、柴山愛次郎、橋口壮介ら供に選ばれなかったにもかかわらず鹿児島を抜けてきた同志たちと談合。豊後岡藩の小河《おごう》弥右衛門とその一党三十人、在京の長州藩士|久坂玄瑞《くさかげんずい》ほか二十余人、中山忠能の元家臣田中|河内介《かわちのすけ》、久留米《くるめ》脱藩の真木和泉らとも打ちあわせて、ついに挙兵計画を練りあげた。
佐幕派の関白九条|尚忠《ひさただ》と京都所司代酒井|忠義《ただあき》とを同時に討ち果たし、勅を乞うて討幕の義軍を進発させる、――。
ところが久光も大坂残留組の動向を気にしているから、十七、十八日と二日つづいて使者を下坂させて君命を伝えさせていた。
「朝廷への献策はことごとく採用あらせられたるにつき、各自よろしくその職とするところを守るべし」
このころ四郎は門長屋の一室を与えられ、一日おきに五人一組となって本殿の詰所にひかえる暮らしに入っている。非番の日に名所旧跡の見物に出かけたいのはやまやまながら、地理不案内のためまだどこにもゆきそびれていた。
その四郎の耳に、大坂の異変が伝わってきたのは二十三日七つ半(午後五時)過ぎのこと。側役《そばやく》の小松|帯刀《たてわき》が、髪を講武所|髷《まげ》に結った彫りの深い顔に憂色を刷《は》いてあらわれ、
「落ちつって聞けい」
と上座に仁王立ちになって告げた。
「本日未明、不逞の浪士どもと示しあわせて大坂屋敷を脱け出し、伏見へ走った者《もん》どもがおっど。止めようとして止められんかった永田佐一郎はすでに切腹いたしたが、浪士鎮撫の朝命を拝したばっかいと申すに許しがたきこつなれば、すでに鎮撫使が出立いたした。そん方どもも軽挙妄動いたすことなく、主命の下りたるときにゃいつでん出立でくっよう身仕度しちょけ」
薩摩藩にあっては、どの組においても五人が一組となって頭《かしら》立った者が伍長《ごちよう》となり、二組がまとまって什長《じゆうちよう》の指揮を受ける。永田佐一郎は中小姓組の什長のひとりだから、四郎にとってもこれは他人事《ひとごと》ではなかった。
自分も大坂に残留させられていたなら、誘われて脱出行に参加し、永田を死なしめる側にまわっていたかも知れない。
そのようなおもいは別としても、小松帯刀のことばは、井伊直弼襲撃に有村次左衛門が参加していたと知ったとき以上に四郎に衝撃を与えていた。鎮撫《ちんぶ》使が出動するとは、上意討ちがおこなわれてもふしぎではない事態に立ち至ったことを意味する。
(藩士同士が血で血を洗うようなことになるとは)
と考えると、四郎は名所見物に出かけたいとおもっていたこともすっかり忘れ果てていた。
薩摩藩は、上京《かみぎよう》の相国寺門前にある五千八百五坪の土地に九棟の殿舎からなる新しい藩邸を建てつつある。東洞院通り錦小路の屋敷が老朽化し、かつ手狭になりすぎたためだが、あたりに闇が迫るにつれて、錦小路は喧騒《けんそう》の度を強めた。
二条城北側の京都所司代屋敷と伏見奉行所には、早馬が放たれた。今晩伏見方面において薩摩藩士による刃傷沙汰《にんじようざた》が発生したとしても、それは私闘ではない、とあらかじめ申し入れておくためである。
京と伏見とをつなぐふたつの街道――東の伏見街道と西の竹田街道にも人が出され、鎮撫使がいずれから帰ってきてもすぐ迎えられるよう工夫された。
表門の門扉左右には高張提灯が掲げられ、本殿の前庭には水が打たれて点々と大かがり火が焚《た》かれはじめた。鎮撫使たちがいつ帰邸し、どのような姿となった者たちを引きつれてきたところで対応できるように。
四郎たちは羽織下にたすきを掛け、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを取って庭の巡回に従事した。雲のはざまから遅くなってから顔をのぞかせた下弦の月は、四郎が徹夜でその役目をつとめるうちに東山の峰に近づき、心なしか次第に色褪《いろあ》せてくる。
「開門」
とだれかが門外で叫んだのは、すでに気の早い一番鶏が啼《な》き出したころであった。
四郎は派遣された鎮撫使の数を八人と聞いていたが、帰ってきたのは七人しかいなかった。しかも自分の足で門を入ってきたのは四人のみ。
残る三人は深手を負っているらしく、出迎えの者たちに支えられて大かがり火の光の輪のなかへ歩み入った。なかには衣装の胸もとから腹部にかけて黒々と血を浴び、いわず語らずのうちに凄惨《せいさん》な斬り合いがおこなわれたことを示している者もいる。
つづけてやってきたのは、一|挺《ちよう》の駕籠《かご》であった。返り討ちされた鎮撫使のひとりが、ここに遺体を納められているのであろう。
生きて捕われ、藩士たちに前後左右を扼《やく》されるようにしてすすんできた者たちは意外な人数に達していた。誠忠組二十三人と、藩外の尊攘《そんじよう》激派十八人。
前者には大山弥助、西郷龍庵、篠原冬一郎(のち国幹《くにもと》)、三島弥兵衛(のち通庸《みちつね》)らが、後者には田中河内介、真木和泉、土佐脱藩吉村虎太郎らがそれぞれ憮然《ぶぜん》たる表情でまじっていた。
鎮撫使の説得に応じて暴発を断念したこれらの者たちは、揚がり屋(未決囚獄)代わりに用意された長屋の一棟に投じられることになった。
生還した鎮撫使は、奈良原喜八郎、大山格之助(のち綱良)、鈴木勇右衛門、山口金之進、江夏《こうか》仲左衛門、鈴木昌之助、森岡善助。
森岡と死んだ道島五郎兵衛以外の鎮撫使には、ふたつの共通点があった。一に誠忠組の同志であること、二に薩摩藩独自の剣術|示現《じげん》流の達人であること。
同志なら暴発を諫言《かんげん》しやすく、大刀を袈裟《けさ》掛けに振れば乳下まで斬り下げてしまう剣豪ぞろいであれば激闘を制しやすい――久光はそのふたつを考えあわせて鎮撫使を人選したのだった。
鎮撫使はすぐ復命のため久光の待つ書院の間へ通されたので、四郎たちには討たれた藩士たちの名前まではまだわからなかった。
しかし、夜が明けると重傷を負って伏見屋敷へはこばれていた脱走誠忠組の三人――橋口壮介、田中謙助、森山新五左衛門に切腹の君命を伝える使者が出立したと伝えられ、上意討ちされた五人の姓名も洩《も》れてきた。
有馬新七、柴山愛次郎、弟子丸龍助、西田直五郎、橋口伝蔵。
三十八歳の有馬新七は、すでに切腹した永田佐一郎の下で伍長をつとめていたが、赤ら顔の満面にあばたを見せて尊王の大義を説ききたり説き去るその姿には、四郎も強い印象を受けていた。
その最期の模様を知ったとき、四郎は困難な問題に直面している自分に気づいた。
(おれは尊王の大義に生きるのか。それとも、君命に従って一生をおえるのか)
大坂の八軒家《はちけんや》と伏見の京橋の間およそ十里をむすぶ淀川・宇治川の流れには、夜昼の別なく三十石船が往復している。京からは荷駄と人とをはこぶ高瀬舟、柴舟も下ってくるため、宇治川本流から少し北、伏見市街南方の京橋の船着き場付近には十数軒の船宿が栄えていた。
そのうち薩摩藩御用の船宿は、名を寺田屋という。二階の客室の手すり脇に、
「旅籠《はたご》 寺田屋」
と書かれた小さな看板、軒下にやはり屋号を書いた大提灯《おおぢようちん》をゆらしているだけの小さな船宿である。
有馬新七とその同志たちが、思いおもいの武器を手にしてこの宿に入ったのは二十三日七つ半(午後五時)のこと。二手にわかれて京を下った鎮撫使のうち、奈良原喜八郎以下四人が先着して格子戸をあけたのは、四つ刻(午後十時)ごろのことであった。
二階で兵糧を腰につけ、わらじをはくなどしていくさ仕度の途中だった有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮介が名ざされて階段を下り、玄関次の間で紙燭《しそく》をはさんでこの四人に対座した。すぐに残りの鎮撫使もあらわれたため、有馬たちは狭い屋内でかれらにとりかこまれたかたちになる。
紋羽織にたすきを隠し、籠手《こて》、臑当《すねあ》てと鎖つきのいくさわらじに身を固めた鎮撫使たちは、いずれも談判決裂を予期して大刀を身の左側に引きつけていた。
島津久光は国父とはいえ前藩主でもなんでもないから、薩摩藩士たちはかれを大殿、あるいは御老公とは呼ばない。勅諚《ちよくじよう》にあったのとおなじく、和泉さま、という。
「和泉さあが、おはんらに京のお屋敷に出頭せよと仰せじゃ」
と正面に座った奈良原喜八郎が伝えても、赤ら顔の有馬はうなずかなかった。
「君命に背くとはないごつか。ならば腹を切れ、腹を。俺《おい》どもは、上意討ちん使命を拝しておっとじゃ」
「かもわん」
と、やりとりが殺気立つうち、
「どげんしてん聞かんちいうとか」
奈良原の脇にいた道島五郎兵衛が、有馬と肩をならべて暗く目を光らせている田中謙助に詰めよった。
「事ここにおよんだうえは、なんち言《ゆ》てん聞かん」
「上意!」
と応じた道島は、腰をひねって大刀を抜き打ち一閃《いつせん》、田中の眉間《みけん》を斬り割っていた。田中は眼窩《がんか》から眼球をはみ出させて、その場にくずおれる。
正座した柴山愛次郎の背後に立っていた山口金之進も、
「えっ、えっ」
と気合を放ち、ほぼ同時にその首筋に二打まで撃ちこんでいた。袈裟、逆袈裟と斬られた柴山の首は、引きぬかれた杭《くい》のように上体を離れ、膝《ひざ》の先へころがる。
血を見て逆上した有馬は、残心の構えをとる道島に斬りつけた。だがたくみにいなされ、刀身を折ってしまう。
刀を捨てて道島の胸もとにつけ入ったかれは、がむしゃらにそのからだを壁に押さえつけながら背後に呼ばわった。
「俺《おい》ごと刺せ、俺ごと刺せ」
「チェスト!」
とこれに応じたのは、二階から下りてきていた橋口壮介の弟吉之丞二十歳。吉之丞が夢中で水平突きをくり出すと、有馬と道島とはこの一刀に同時に縫い止められて絶息した。
さらに酸鼻な斬り合いがつづいたが、それも一段落したとき、みずからも肩口を負傷していた奈良原喜八郎は捨て身の行動に出た。両刀を捨て、両袖《りようそで》から腕を抜きとってぶ厚い上体をあらわにした奈良原は、
「止まれ、止まれ、頼む、頼む」
と二階へ呼びかけ、合掌しながら暗い階段を昇っていったのである。
そして、あがりはなに身構えている脱走者たちに懸命に告げた。
「新七らは、君命に背いたゆえ上意討ちいたした。じゃっどん、おはんらに対しては毫《ごう》も敵意はあいもはん。君命なれば、すみやかに京に同行してくいやい」
君命と聞き、西郷龍庵が最初に刀を置いて階下へ下りたため、ここに寺田屋事変は幕を閉じたのだという。
翌二十四日までつづいた一連のあわただしい動きのなかで惨劇のあらましを知り、はじめ伊東四郎は一種|茫然《ぼうぜん》たるおもいだった。
有馬のように上意と伝えられても身を捨てて争った者もあれば、柴山のように君命と知って黙って斬られた者もいる。
ということは、有馬は尊王の大義を君命に優先するものとみなし、柴山は君命をより重いものと考えていたのだろう。
(おれならば、どちらを選んだか)
と自問すると、四郎は匕首《あいくち》を胸もとにつきつけられたような気分がした。
しかしこのときまだ四郎は、みずからに選択を強いる必要はなかった。
二十五日、孝明天皇は久光の尊攘激派|鎮撫《ちんぶ》の功をたたえ、勅書と左文字の短刀一口とを下賜した。これによって久光の国事周旋意見に従うことこそ尊王の道という認識が、単に薩摩藩京都屋敷のみならず朝廷内にも一気にひろまったからである。
とはいえ幕府は、すでに京都所司代を介して老中|久世広周《くぜひろちか》を上京させよとの朝命を受けていたにもかかわらず、これに応じる気配をまったく見せていなかった。
ひらたくいえば、
「無位無官の外様《とざま》大名の、しかも藩主ですらない者の意見に、どうして幕閣がふりまわされなければならぬのだ」
という感覚のなせるわざである。だが、これが久光には想像できない。
逆に久光は、勅使とともに江戸へ下向して幕府に朝旨を伝えてくる、と朝廷に申し入れて受け入れられた。
勅使に指名されたのは、天皇の寵臣《ちようしん》大原|重徳《しげとみ》。すでに六十二歳ながら、優柔不断な者の多い公卿《くぎよう》のうちにあって珍しく骨っぽい気性の持ち主で、
「鵺卿《ぬえきよう》」
の渾名《あだな》がある。
五月二十二日に江戸へむかうに際し、久光は供侍約二百人を京へ残して三百人で行列を仕立てたが、四郎もこの三百人のうちに選ばれていた。
久光一行は勅使に供奉《ぐぶ》するという建前だから、先にゆくのは久光の長棒引戸の乗物ではなかった。大原重徳の乗る四方輿《しほうこし》の方である。
屋形の棟を反らして四方に簾《す》の垂らされている四方輿は、白張り袖くくりの衣装に黒|烏帽子《えぼし》姿の駕輿丁《かよちよう》たちによって轅《ながえ》をかつがれ、初夏の日射のなかをゆるゆるとすすんでいった。
四郎が東海道を下るうちに感じたのは、宿場宿場での反応が鹿児島から大坂への旅の間とはまったく違うことであった。
あのとき行列に注目し、ゆく先々に待ちかまえていたのは諸藩の尊攘《そんじよう》激派ばかりだった。対して今回、端反りの陣笠《じんがさ》の下から眺めると、一行の通過を見守る者たちの顔には、身分にかかわりなく畏敬《いけい》の念があふれていた。
東海道筋に暮らす者たちは、大名行列や勅使たちの姿は見飽きるほど見ている。しかし年賀答礼使、伊勢と日光への例幣使《れいへいし》その他として往復する勅使は、家司《けいし》、侍のほかは日傭《ひよう》取り(臨時雇い)の下男を従えるばかり。三百人から成る大名行列に守られて東下する勅使などは前代未聞のことだから、ひとびとは敏感に時節の変化を嗅《か》ぎ取っていた。
江戸入りは、六月七日。久光や供の四郎たちは芝新馬場の薩摩藩江戸上屋敷へ入り、大原重徳はさらに龍の口の伝奏屋敷をめざした。
鹿児島|京は二百八十九里、京|品川は百二十三里だから、四郎たちは三月十六日に鹿児島を出て以来、四百里以上を踏破したことになる。
「ゆるゆるとからだを休めよ」
と久光がいってくれたため、四郎も長屋の一室に旅装を解いてようやく休息にひたることができた。
この文久《ぶんきゆう》二年(一八六二)六月八日は、太陽暦なら七月四日にあたる。鬱陶《うつとう》しい梅雨の季節に入っていたが、以後、四郎がもっとも足繁く通ったのは、北へむかって据えられた黒塗り破風《はふ》造りの正門のむかい側、柳本藩織田家上屋敷のかなたの空に五重塔の見える増上寺でもなければ、赤穂義士の石塔のならぶ高輪の泉岳寺でもなかった。
それは、品川の海につづく砂浜であった。
新馬場の藩邸の南側には、
「薩摩屋敷の七曲り」
といわれる細道が、高さ七尺の土塀とその外側に走る幅二尺の堀に沿ってうねっている。その回廊のような道からさらに南に下ってゆけば、東海道の石畳をはさんでもう品川の海が見わたせた。
薩摩|絣《がすり》に短か袴《ばかま》、素足に薩摩|下駄《げた》をつっかけた四郎が講武所|髷《まげ》の刷毛先《はけさき》を潮風になぶられながら海面《うなも》を眺めるのは、東海道をきてこの海が右前方に豁然《かつぜん》とひらけるのを一目見たときから、
(ああ、前之浜《まえんはま》へ帰ったようだ)
と感じたためだった。
「|袖ヶ浦《そでがうら》」
という品川の海の別称は、朝日と夕日に波の照り映える美しさが娘たちの袖をひるがえす姿をおもわせる、というところに由来する。
むろん祇園の洲と違って桜島は見えないものの、海上はるかの東から南側にかけて上総《かずさ》から安房《あわ》へとつづく房総半島が靄《もや》に煙るのを見ていると、四郎はなにか懐かしい風景に出会ったような気さえした。
それにもまして四郎を海辺へ駆りたてたのは、
「江戸湾には七つの台場があっとじゃ」
と鹿児島城二の丸に出仕するうちから聞いていたためであった。祇園の洲へは操練(軍事演習)の日にしか入れなくなってすでにひさしいが、江戸の台場とはどのようなものなのか、四郎はこの目で確かめておきたかった。
幕府がいわゆる「品川台場」七島の普請に踏みきったのは、九年前の嘉永《かえい》六年(一八五三)六月三日、アメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が浦賀沖にあらわれ、一年後の再来航を予告して去ってからのこと。沖へ一里から二里すすんでも水深は三|尋《ひろ》(約七・二メートル)以下という遠浅な地形を利用して海中に土台をもうけ、城のような石垣を築造、その上に青銅製の大口径砲を据えつけて江戸前の海をかこいこんだのである。
隅田川河口に近い七番台場、もっとも川崎寄りの四番台場は土台造りだけでおわってしまい、ほか五つの台場も開国とともに無用の長物と化しはしたが、中央の二番台場と四番台場にはあらためて灯楼《とうろう》(灯台)が建てられ、それぞれ赤灯、緑灯を放って廻船《かいせん》に便宜をはかっている。
四里以上の遠方にまで達するこれら二色の光が夜の海に交錯する光景には、なぜか四郎の胸を打つものがあった。
だが、それが自分のどのような性向を示すものなのか、四郎はまだ自覚していない。その間に久光と大原重徳とは、着々と幕府に働きかけていた。
徳川十四代将軍|家茂《いえもち》は、まだ十七歳のおだやかな気性の少年にすぎない。
対して老獪《ろうかい》といってもよい大原重徳は、六月十日、家茂に朝旨を伝えるべく初めて江戸城へ登城したときからはったり[#「はったり」に傍点]を利かせた。
元来、勅使というものには、将軍と会見する際には佩刀《はいとう》を脱するならわしがある。それを断固拒み、掛緒《かけお》の冠、背後に長く裾《きよ》を引いた衣冠束帯に老躯《ろうく》をつつんで白書院上段の間に着座した重徳は、浅葱《あさぎ》色の大紋《だいもん》烏帽子姿で下段の間にまわった家茂に一方的にいった。
――さる四月、浪士どもが禁裏近くに騒乱を起こそうとしたのにたちまち鎮静したのは、島津久光の功である。しかしこれもつまるところは洋夷《ようい》受け入れに根ざした問題であり、幕府はすでに十年以内に攘夷を実践すると奏上したのだから、公武一和、国内一致して攘夷の策を定めよ。そのためには、世に賢侯として知られる者を幕府に参与させてはどうか。
最後の一項は、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》と松平慶永とを登用せよ、とする久光の「改革趣意書」そのままであった。
「このたびの勅使下向は、島津三郎の私意に出たものなれば聞く必要はない」
とする反撥《はんぱつ》もあって幕議は紛糾をかさねたが、二十九日、家茂が一橋慶喜に将軍後見職、松平慶永に政事総裁職を命じたため、重徳と久光はここにようやく出府の目的をとげたかたちになった。
こうなれば久光はふたたび京へもどり、朝廷に国事周旋の結果を報じなければならない。
今度は大原重徳より一日早く出立することになったその一行が、芝新馬場の屋敷を出たのは八月二十一日朝のこと。供侍三百人といっても荷駄方までふくめれば四百人を優にこえる行列にあって、陣笠、ぶっさき羽織にたっつけ袴、黒足袋わらじ掛けの旅装となった四郎は、久光の乗物の右前方を歩いていた。
街道の左側にまぶしく光る品川の海には白帆の和船が点々と浮かび、白波に縁取られた台場と台場の間には小舟がのんびりと動いている。
品川から二里すすめば、川崎に入る。早くも前方の空に箱根の二子山を仰ぎながら八つ刻(午後二時)を迎えたころには、街道の左右に蛤《はまぐり》やタコ、イカを焼いていい臭いをただよわせている出店がめだってきた。立て場のあることで知られる生麦村に入ったのだ。
立て場は駕籠《かご》かき、馬子《まご》たちの休息するところだから、行列はここでは止まらない。この日の一行は品川から六里半上り、程ヶ谷(保土ヶ谷)に泊る予定であった。
さらにすすみ、左右に茅葺《かやぶ》き屋根の農家の点在するひなびた一本道をゆく間に、四郎は供先からどよめきが起こったことに気づいた。
大名行列の先払いは、
「寄れ、寄れ」
と命じて通行人に道をあけさせる。なのにこの一本道の前方から馬であらわれた異人四人が、行列の右側をゆき違おうとしたのである。
制止されてもことばのわからない乗馬服姿の四人は、馬格雄偉なアラビア馬をついに行列に割りこませた。
と、背後から四郎の脇を走り抜け、大刀に反りを打たせながら脱兎《だつと》のごとくこれに迫っていった者がいる。
(負けてはおられん)
四郎も大刀の柄《つか》袋を外し、駆け出そうとした。
しかし伊東四郎は、端反《はしぞ》りの陣笠に夏の日を浴びて道幅一杯にひろがる供侍たちの、何人かをかきわけただけで立ち止まっていた。
「こら、軽々《かいがい》しゅ駕籠脇を離れてどげんすっとか」
前方に位置していた近習《きんじゆう》のひとりが振りかえり、五尺八寸(一メートル七六センチ)の四郎の巨体に一喝を浴びせたからである。
「どげんも、こげんも――」
と答えかけて、四郎ははっとした。変事|出来《しゆつたい》にあたって近習、中小姓その他が駕籠脇に貼りつくのは当然のこと、ここはかれをたしなめた男の方に理があった。
陣笠の下から四角い顎《あご》の線を見せているこの近習は、松方助左衛門二十八歳。のちに正義《まさよし》と名をあらため、明治中期に松方内閣を組織する人物である。
四郎が憮然《ぶぜん》としてその場にたたずむうちに、島津久光の乗る長棒引戸の乗物が背後から近づいた。ためにかれは、おのずと定位置にもどらざるを得なかった。
その間に四人の騎乗の異人たちのうちふたりまでは、行列に打ちこまれた楔《くさび》のように乗物から十四、五間(二五・五〜二七メートル)の地点まできている。その五、六間うしろには残るふたりもつづいて乗馬の足もとから土ぼこりを巻きあげていたが、丈高い四郎の目には自分の脇を駆けぬけ、両手をひろげて異人たちの正面に立ちふさがった男の羽織姿がよく見えた。
この男も、四郎に負けず劣らずの体躯の持ち主であった。
「馬を返せ、早《は》よいかんか」
と右手の甲で虫をはらうような仕草をした男は、供頭《ともがしら》の奈良原喜左衛門であった。
薩摩藩には、示現流の別派の薬丸《やくま》自顕流という剣の流派もある。喜左衛門は藩内で五指に入るといわれる薬丸自顕流の達人で、寺田屋に鎮撫《ちんぶ》使として派遣された弟の喜八郎とともに誠忠組に加盟していた。
しかも不幸なことに、この攘夷《じようい》家に叱咤《しつた》されたイギリス人ふたりは日本語を解さなかった。
喜左衛門の正面左側に馬首をむけていたのは、観光のため横浜にきていた上海在住の商人チャールズ・リチャードソン。右側はうしろにつづく横浜在住の生糸商ウィリアム・マーシャルの親戚《しんせき》で、香港の商人に嫁いだボロデール夫人。
ともに夏用の白い乗馬服に乗馬ズボン、革長靴《かわちようか》の遠乗り姿だったが、ボロデール夫人は日除《ひよけ》帽をかむり、リチャードソンはとがった鼻筋を見せた痩《や》せぎすの顔の下半分を褐色の口髭《くちひげ》と顎髯《あごひげ》とにおおわれていた。
ふたりは異様な気配を察し、手綱をあやつって馬首を返そうとした。だが、道の左側は垣根にふさがれていたため右手綱を使ったので、ますます行列の本流に入りこむ。流れは停滞し、ついに久光の乗物自体も動けなくなった。
「無礼|者《もん》が!」
と奈良原喜左衛門が叫んだのは、このときであった。陣笠《じんがさ》とぶっさき羽織とをかなぐり捨てたかれは、両袖《りようそで》から腕を抜いて上体をあらわにするや腰の藤原忠広二尺五寸を抜刀、右肩口にかざして二頭のアラビア馬の間にするすると身を入れた。
「チェスト!」
という薩摩人独得の気合は、他国の者には人の発する声ともおもえないことから猿叫《えんきよう》といわれる。
この猿叫とともに銀色の奔流と化し、左下へ走った逆|袈裟《けさ》胴の荒技に、リチャードソンは左鎖骨下から脇腹へかけて深々と斬り裂かれていた。赤い霧のように血がしぶくのを目にし、四郎はおもわず固唾《かたず》を飲んだ。
悲鳴をあげたボロデール夫人は、行く手の程ヶ谷方面にむかって夢中で馬腹を蹴《け》る。リチャードソンも馬上|愕然《がくぜん》として身を強張《こわば》らせていたマーシャル、商社員ウッドストロープ・クラークの脇をかすめ、傷口を左手で押さえながらこれにつづいた。
だがリチャードソンは栗毛の馬を一町(一〇九メートル)走らせても、波のうねるがごとくに長く前後にのびた行列からはまだ抜け出せなかった。その行列の前方から、笹の葉で切ったように細い目で馬が近づくのを待っていた若手藩士がいる。
鉄砲組の久木村利休十九歳。これも薬丸自顕流をよくつかう久木村は、攘夷熱にかぶれて異人を斬りたくてうずうずしていたところだからたまらなかった。
奈良原同様左半身に身構えた久木村は、迫る馬体を左に見てやはり右上段からの逆袈裟胴を浴びせた。この一打はリチャードソンの傷を押さえた左手に吸いこまれ、手首は皮一枚でつながるだけになってしまう。
つづけて駆けぬけようとしたマーシャルも、久木村の第二打を受けて左腹部に重傷を負った。マーシャルと馬を並走させていたクラークもほかの者たちに左肩から肩甲骨まで斬られていたが、このふたりはボロデール夫人のあとを追ってかろうじて逃げおおせることに成功した。
対してリチャードソンの不幸は、まだおわっていない。かれはすでに鮮血|淋漓《りんり》、切断された腸の一部を脇腹の傷口から地面へ落としながらさらに十町馬を駆り、ついに神気|朦朧《もうろう》となって馬体左側へ転落した。
路肩はうずたかい土手となり、赤松の並木がその上につづいている。そこへさらに前方から駆けつけたのは、有村俊斎。桜田門外の変に深くかかわった有村雄助・次左衛門兄弟の長兄にあたり、やはり誠忠組に加盟する戦国武者の再来のような木強漢《ぼつけもん》である。
日ごろの役目は徒《かち》目付ながら鹿児島を出て以来奈良原喜左衛門と一日交代で供頭をつとめている俊斎は、この日は非番のため先払いとともに先頭にあった。そこへ後方から異人斬りの発生を伝えられ、急ぎ引きかえしてきたところだった。
それまで駕籠に乗っていたため、俊斎は陣笠をつけていない。人の倍はあろうかという大きな顔をリチャードソンの血と泥に汚れた顔に近づけたかれは、ギョロ目を光らせて目の下の異人が死に瀕《ひん》していることを確かめた。
この木強漢に、
「ミ、ミドゥ(水)、……」
リチャードソンが土手に背をもたれかけさせ、息を喘《あえ》がせた意味などわかろうはずもない。
「いま、楽いしてやっど」
と応じて脇差を抜いた俊斎は、それを逆手に持ちかえたかとおもうとリチャードソンの心臓に突っ立てていた。
欧米人は、負傷者を殺す行為を残虐とみなす。日本の武士は反対に、死の苦しみを長引かせては不憫《ふびん》だからだれか手近の者が止《とど》めを刺してやるべきだ、と考える。切腹する者に介錯人がつくのもこのような発想にもとづくから、俊斎の選択も相手が武士であれば問題になるわけもなかった。
有村俊斎――のちの子爵|海江田《かえだ》信義が登場する前に、行列のはるか後方では久光の乗る乗物が地面に下ろされ、引戸が引かれていた。その翳《かげ》った空間に、絽《ろ》の夏羽織をつけた久光の整った横顔が白っぽく浮かびあがる。
四郎たちが一斉にうずくまって片膝立《かたひざだ》ちの姿勢をとると、松方助左衛門がその輪のなかから久光に伝えた。
「申しあげもす。行く手ん神奈川方向より馬を走らせてきた異人四人が供先を割る無礼を働きもしたもんで、ただいま取いのけさせておっとこいでございもす」
その松方を、久光は見ない。刷毛先《はけさき》を固めた小名髷《しようみようまげ》を前方にむけて目を閉じたまま、答えもしない。ただ大刀を身の左側へ引きつけ、柄袋をはずしはじめたのを松方の肩越しに眺め、四郎はその落ちつきはらった様子に感嘆を禁じ得なかった。
異人四騎の馬蹄《ばてい》にかけられそうになり、列を乱した者たちはまだ興奮にどよめいていたが、四郎としては奈良原喜左衛門につられて駕籠《かご》脇を離れようとした自分が恥ずかしい。
すぐに前方から異人ひとりを無礼討ちにしたとの報告がき、側役の小松|帯刀《たてわき》も駆けつけて久光にいった。
「本日はこん先一里の神奈川宿にお休みいただいてから程ヶ谷宿までまいっつもいでおいもしたが、こげんなったうえは程ヶ谷へ急っべきかと存じもす」
神奈川|程ヶ谷間は、一里九町。一行は神奈川宿で開港場の横浜にもっとも近づくことになり、横浜にはアメリカ、イギリス、フランス、オランダその他の軍隊多数が駐留している。
小松帯刀も、まだリチャードソンがイギリス人ということすら知ってはいない。しかし、いずれあらわれるかも知れない異国軍との衝突を避け、すみやかに神奈川を通過してしまおうというのだった。
ところが、――。
小松帯刀につづいて輪のうちに入った奈良原喜左衛門と有村俊斎は、これに不服を唱えた。
「お側役、こげなこっで旅程をあらためちょっと、薩摩七十七万石の沽券《こけん》にかかわいもんど」
一度は諸肌《もろはだ》脱ぎになった喜左衛門がまだ血酔いしているように昂《たか》ぶった声を出すと、俊斎もギョロ目を光らせてうなずいた。
「俺《おい》も奈良原どんとおなじ考《かん》げでごあす。泰然自若としてすすみ、神奈川にゆっくいしやして、戦《ゆつさ》いなってんかめもはんが」
事実上、攘夷《じようい》の先陣を切ったふたりは、自分たちの異人斬りが攘夷戦へと燃えひろがれば寺田屋で討たれた脱走誠忠組の遺志をつぐことができる、と信じている。
そしてこのような悲壮な考え方の特徴は、その浅さ深さとはまた別に、特に若者たちの胸を打ちやすいところにある。
(よし、和泉さまを異国の兵どもが襲ったならば、おれは真っ先駆けて討ち死にせねばならん。そうなったならば、松方さまにも止められはせんぞ)
なおもひざまずきながら、そう肚《はら》をくくったときこそ、四郎が攘夷熱に爪先《つまさき》から頭まで一気に染めあげられた一瞬であった。
四郎が咄嗟《とつさ》に死を覚悟したのは、薩摩|兵児《へこ》の血のなせるわざでもある。
慶長《けいちよう》五年(一六〇〇)九月十五日に起こった関ヶ原の合戦において、島津家からは惟新《いしん》入道義弘とその甥《おい》の豊久が兵千五百をひきいて西軍石田三成方の一翼をになった。しかし西軍は総崩れとなり、島津陣の背後は敗兵で大混雑、正面は意気あがる東軍諸隊にふさがれて、島津勢は絶体絶命と化した。
にもかかわらず、六十六歳の老将島津義弘は悠然といった。
「かくのごとき負けいくさのときは、死のうとおもえば生きるものじゃ。味方の逃れる方角へ引いては、敗兵どもが足手まといになって存分に働けぬ。敵をいくたびも打ち破り、その背後へ引き退《の》いて帰国いたす」
義弘は、決死の敵中突破を指令したのである。
「えいとう、えいとう」
と鯨波《とき》の声をあげて動き出した島津勢の、荒れ狂いようはすさまじかった。
先鋒《せんぽう》が敵と激突する間に、本軍は涙を呑《の》んでこれを見捨てて先へ進む。思いおもいに折り敷いた殿軍《しんがり》の一組は、本軍に合流することを断念してひたむきに銃撃しつづける。その殿軍勢が敵の津波に飲みこまれると、またつぎの一組が折り敷いて追撃をはばむ。
君臣一体でなければとてもできないこの「捨てかまり」の戦法により、島津勢はわずか八十五人にまで討ちなされながらも鹿児島へ帰りついた。
その生き残りのひとり中馬大蔵《ちゆうまんおおくら》という者は、後年、若侍たちに敵中突破の話を乞《こ》われると、
「そもそも、あん関ヶ原の戦《ゆつさ》と申すは、――」
といっただけで絶句してしまい、あとはただはらはらと涙するばかりであった。
義弘の死後、その供養塔の建てられた日置郡《ひおきごおり》伊集院郷の妙円寺へは、毎年九月十四日に少年藩士たちが徹夜で行軍するという習慣もできあがった。名づけて、
「妙円寺《めえんじ》さあ詣《まい》り」
参加する者たちは軍装となって鹿児島から五里あまりの道のりを往復することにより、往時の薩摩兵児たちの苦難をしのぶのである。
中馬大蔵の逸話はなおも語りつがれ、四郎もまだ前髪のころから妙円寺さあ詣りにはかならずくわわっていたから、主君の危機に際してためらわず討ち死にするのはむしろ当然のことと考えていた。
だが奈良原喜左衛門や有村俊斎の注視するなかで、久光は大刀にまた柄袋をかぶせながらいった。
「小松の申すとおりにいたせ」
このひとことで、久光一行は神奈川を素通りすることに決まった。
大名行列の急ぎ足は、
「刻み足」
という。密集した縦隊となり、この刻み足によって土ぼこりを濛々《もうもう》と巻きあげて動き出した一行は、日が西に傾いて風景が黄ばんだころには程ヶ谷の本陣に入っていた。
程ヶ谷宿は長さ十町あまり、戸数は約三百。久光が本陣一の間へ入って二の間に近習たちが詰めたあと、三の間では小松帯刀が奈良原喜左衛門と有村俊斎とに命じた。
「異人どもは、今宵《こよい》のうちい兵をひっつれて押し寄せてくっかも知れんど。警備を厳重にせえ」
ふたりは、なおも強気一辺倒に答えた。
「じゃっどん、先んずれば人を制す、ちゅうことばもごあす」
「和泉さあはただちに進発してくいやんせ。俺《おい》どもに兵百人ばっかいくいやっとなら、神奈川から横浜い攻めこんで居留地を火の海いしてあとを慕いもす」
ふたりは、まだやる気なのである。
(そのときは俺《おい》も、――)
畳廊下にひかえていた四郎が身を乗り出したとき、小松は男臭い顔を横に振った。
「議をいうな。横浜には数千の異国兵がおっとじゃ。そん方どもん思たごつにはいかん」
「生麦事件」
と呼ばれることになるこの異人斬りの発生は、いち早く神奈川奉行阿部|正外《まさと》へ報じられていた。
愕然《がくぜん》とした阿部は、支配組頭の若菜|三男三郎《みなさぶろう》を程ヶ谷へ急派。島津久光一行に一件が落着するまで動かないよう求めたが、一行はこれを無視して翌二十二日からふたたび西上の旅を急いだ。
その二十二日、薩摩藩江戸留守居役の西|筑《つき》右衛門《えもん》から老中水野|忠精《ただきよ》に差し出された届けは、なんともとぼけたものであった。
「島津三郎儀、昨日御当地(江戸)出立つかまつり候段は、お届け申しあげ候とおりに候。しかるところ神奈川宿手前にて、異人ども四人馬上にて行列内へ乗りこみ候につき、手様(手真似)をもって丁寧に精々相示し候えども、聞き入れず無礼に乗り入れ候につき、是非なく先供のうち足軽岡野新助と申す者、両人へ切りつけ候ところ、ただちに異人ども逃げ去り候を、右新助追いかけ行き越し、それなりいずかたへ差し越し候や行方相知れ申さず候。……」
奈良原喜左衛門、久木村利休、そして有村俊斎の行動をことごとく岡野新助という架空の藩士に帰し、しかもその岡野も失踪《しつそう》したことにしてしまったのである。これは、
「よきほどに取りつくろっておけ」
という久光の指示に発した文面であった。
そして予定どおり程ヶ谷を出立した一行は、四泊五日で約三十二里すすみ、二十六日には駿河《するが》の府中へ入った。
その間、横浜駐在のイギリス代理公使エドワード・ニールは幕府に対して厳重に抗議しつづけていた。なおもリチャードソン殺しの下手人が捕えられないのは、イギリス側から見れば幕府の怠慢としかおもえない。
幕府は、府中の久光へ急報した。
「横浜にあるイギリス艦隊は、ただちに鹿児島へむかう恐れなしとせず」
薩摩の士風として、いかに強力無比な軍艦が錦江湾に乗りこんできたところで、戦わずして膝《ひざ》を屈することなどはあり得ない。とはいえ久光は、いったんは上洛《じようらく》しなければならないからまっすぐ帰国することはできなかった。
そこで久光は近習の松方助左衛門に伊東四郎を添えて、急ぎ帰国させることにした。むろん在国のせがれ茂久《もちひさ》にイギリス側の動きを伝え、いくさ仕度を急がせるためである。
それから三十二日間、松方と四郎とは動きづめに動きつづけた。
最初の目的地は大坂。その天保山沖から和船に乗りこみ、とりあえずは阿久根《あくね》港をめざした。
薩摩国|出水郡《いずみごおり》に属する阿久根は、その北に天草灘と不知火《しらぬい》海とをつなぐ黒ノ瀬戸を望む位置にあり、藩の御用商人による琉球《りゆうきゆう》貿易、および奄美大島の黒砂糖の陸揚げされる港として知られていた。
「板子《いたご》一枚下は地獄」
というときの板子とは、船底に敷く板を指す。
平底で竜骨のない和船は波を切り裂くことができず、うねりの山へ乗りあげては谷に落ちるというすすみ方をするだけに、その板子に身をゆだねて船旅をする者は苦しかった。雑魚寝《ざこね》していても間断なくつづく縦揺れ、横揺れにからだがころがりそうになるし、船酔いしてしまう。
沈着な松方も絶えず船酔いに悩まされ、手ぬぐいで口もとを押さえては蹌踉《そうろう》たる足どりで梯子《はしご》を昇ってゆくことを阿久根までつづけた。
「気持《きも》っが悪ごあすか、背をさすってあげもんそ」
四郎はその介抱役をつとめながら、
(いつ、おれも吐気に襲われるのか)
とおもいつづけた。
しかし四郎は、まったく船酔いすることなく阿久根に上陸することができた。
「いやはや、こいばっかいはどげんもこげんもならんとに、お前《まい》は大変《あばてん》な若者《にせ》じゃね。見直したど」
四角い顔をむける松方に、
「いいや、俺《おい》も疲《だ》れもした」
とわれながらふしぎな気分で答えて、四郎は松方だけに駄賃馬を雇って海ぞいの道を南下しはじめた。
ふたりが薩摩半島を西から東へ横断し、鹿児島へ帰城したのは閏《うるう》八月二十八日のこと。おもいがけず四郎は、関ヶ原の敵中突破以降の島津勢の苦難を、道筋こそ違え追体験したようなかたちになった。
すでに鹿児島城下にも、生麦事件の飛報は伝わっている。修理大夫《しゆりだゆう》を名のる二十三歳の若き藩主島津|茂久《もちひさ》は、きたるべき攘夷《じようい》戦にそなえて領内百二十余郷に硝石製造所を建てつつあった。
床下など乾いている場所の、舐《な》めると酸っぱい土には硝石の透明な結晶がふくまれている。これは、黒色火薬の原料になる。薩摩藩は天保《てんぽう》年間から数十万|斤《きん》の硝石をたくわえてきたが、さらに年間十万斤(六万キログラム)以上の黒色火薬を生産する計画であった。
その茂久に、松方は伝えた。
「俺《おい》どもが府中の宿で和泉さあに別《わか》れもしたとき、横浜ん海にはエゲレス、フランス、オランダなどん軍船《ゆつさぶね》が八|艘《そう》おったちゅうこっでごあした。なんでんエゲレスの二艘は、和泉さあが程ヶ谷い泊いやった晩に清国《しんこく》からきたち聞っもしたもんで、こん軍船が前之浜《まえんはま》い入ってくっ日が戦《ゆつさ》にないもそ」
前之浜にイギリス艦隊を迎え、海対陸の攘夷戦になるのであれば、先代|斉彬《なりあきら》が洋式に改造した沿岸台場を使わないという法はない。
四郎が半年ぶりに上清水馬場の家に入り、病床の父正助に帰国の挨拶《あいさつ》をして長旅の疲れを癒《いや》すうちに、祇園の洲にも人馬の往来が激しくなった。
九月七日に久光が帰国すると四郎もふたたび鶴丸城二の丸に出仕したが、もう同僚たちと相撲や弓の腕を競っている暇はなかった。久光もまた沿岸台場の巡行を心懸けたため、四郎は供として同行を命じられることが多くなったのである。
その四郎の見るところ、久光は前にもまして意気|軒昂《けんこう》たるものがあった。
それも、無理はなかった。
さる閏八月七日に再入京、九日に参内して孝明天皇から親しく勅使|輔佐《ほさ》を賞された久光は、肥前兼広の太刀ひとふりを賜って天下に面目をほどこしていた。無位無官の身で天皇に拝謁できた者も珍しいが、太刀まで与えられた者はさらに珍しい。
久光の名声は寺田屋事変当時の比ではなく、東寺に入っておこない澄ましている勧修寺宮《かじゆうじのみや》(のちの山階宮晃《やましなのみやあきら》親王)までが、七言絶句を賦してその攘夷実践をたたえたほどだった。
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薩州の老将、髪《はつ》冠を衝《つ》く
天子百宮危難を免《まぬか》る
英気|凜々《りんりん》生麦の役
海辺《かいへん》十里月光寒し
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このような世評を背景に薩摩藩は挙藩勤王を一歩すすめ、挙藩攘夷の態勢強化を急いだのである。
そのうちもっとも急務とされたのは、桜島の南西十六町(一七四四メートル)の海面《うなも》に霞《かす》む無人島、沖小島《おこがしま》に台場を築くことであった。
錦江湾の西岸にひろがる鹿児島城下を海上から砲撃するのなら、イギリス艦隊は南へひらいた湾口から侵入して桜島を東に見、前之浜をめざさなければならない。沖小島はその進路の右手前方に位置するため、海防の第一線に想定されたのだった。
四郎が薩摩藩所有の汽船に乗ってこの沖小島へわたる機会は、十一月十六日におとずれた。生麦事件以前に横浜で買いつけられていた「永平丸《えいへいまる》」が前之浜に廻航《かいこう》されてきたため、久光・茂久父子はこれに試乗して桜島周辺を巡航することにした。四郎はいつものように、久光づきの中小姓のひとりとしてこれに同行したのである。
ただし、「永平丸」は商船であって軍艦ではない。
原名を「フリーコロス」。排水量四百四十七トン、長さ四十三間(七八・二メートル)幅六間(一〇・九メートル)あまり、帆柱三本と煙《けむ》出し二本とをそなえた鉄製木皮の蒸気内車船(スクリュー式)で、先ごろまでは横浜に支店をもつイギリスのジャーディン・マセソン商会の持ち船だった。生麦事件の勃発《ぼつぱつ》したときには代価を六万七千両とする買収交渉が進行中だったため、イギリス船籍にもかかわらず間一髪の差で購入に成功したといういきさつがある。
なお、スクリューを持つ汽船を蒸気内車船というのは、左右の舷側《げんそく》に水車のような外輪をつけ、これで水を攪拌《かくはん》することによって走航する外輪汽船もまだ活躍中だからである。
すでに万延《まんえん》元年(一八六〇)のうちに、薩摩藩は長崎でイギリス製蒸気内車船「イングランド」を購入して「天祐丸《てんゆうまる》」と命名。久光の上洛の旅の途中、豊前大里から下関への渡海にはこちらが御座船として用いられたが、その後機関に故障を生じて横浜で修理されている。
その「天祐丸」に乗ったとき、四郎はずっと甲板下の御座所の隣室につめていたから、異国製の巨艦の内外をしげしげと眺めるのはこの「永平丸」が初めてといってよかった。
紋羽織姿の久光と茂久は、前甲板の床几《しようぎ》に腰掛けて前方の光る海面を見つめている。四郎が許されて後甲板まで一周しながら見あげると、前檣《ぜんしよう》にはためく丸に十字の藩旗、後檣にひるがえる旭日旗の間から立ちのぼる黒い煙が、石炭の臭いを鼻腔《びこう》に伝えながら後方へ流れてゆくのも新鮮な光景だった。
初め船首を北へむけてすすんだ「永平丸」は、やがて桜島の北でゆっくりと左舷を傾けて半弧を描き、間伸びしたS字形の海を南下しはじめた。四郎が講武所|髷《まげ》と羽織|袴《はかま》の裾《すそ》とを風になぶらせ、ふっくらとしたなかにも男臭さを増してきた面差を左舷にむけると、波頭の砕けないおだやかな海のかなたに鹿児島の町が一望できた。
白い砂に裾野を縁どられた鹿児島城下は、巨大な土手のように横たわる緑のシラス台地に背景を画されている。
(あ、あれが祇園の洲か)
こんもりとした黒松の林を背にした石垣造りの台場を見つめた一瞬、四郎は陸《おか》にいるときとはあまりに違う感覚に襲われて自分でも驚いていた。
よく釣りに通っていた前髪立てのころ、南北およそ四町半(四九一メートル)もある祇園の洲はやけにひろく感じられた。なのに「永平丸」から二重まぶたの目を細めて眺めると、台場自体が雛《ひな》型のように小さく感じられて心もとないことはなはだしい。
さらに「永平丸」が南下するにつれ、北から南へ飛び飛びに築かれた五つの沿岸台場――新波止、弁天波止、南波止、大門口、そして甲突川《こうつきがわ》の河口南岸に突き出た天保山の台場の石垣が視界に入ってきたが、四郎の違和感は消えようもなかった。
海辺とは桟橋でつながる扇形の弁天波止台場のかなたには、鶴丸城の森まで見える。
一里以上の遠町《とおまち》(弾着距離)を誇るというイギリス艦隊の備砲が「永平丸」のように沖合を航行しながらつぎつぎと砲火をひらいたら、鹿児島はいったいどうなるのか。
しかし、薩摩ではそんな不安を口にしたなら、
「やぞろしか(うるさい)、こん弱虫《やつせんぼ》が!」
と決めつけられるのは目に見えている。
四郎の複雑なおもいを乗せてまた「永平丸」は機関の音を響かせながら左舷を傾け、桜島へ舳先《へさき》をむけはじめていた。
薩摩藩は、人口に占める士分の者の割合が異様に高い。文政《ぶんせい》九年(一八二六)の調査によると城下士が約四千三百人、郷士が約二万三千三百人、陪臣が約一万百人、総計三万七千七百人にのぼったことにはすでに触れた。
士農工商の「士」の割合は、全国を平均すると百分の六から七の間。それが、薩摩藩に限っては四人にひとり以上は武士だった計算になる。
その分だけ藩庁は動員兵力に恵まれていたともいえるが、生麦事件の下手人差し出しと処罰、リチャードソンの遺族への賠償がイギリスと幕府との間で問題となるうちに、久光・茂久父子は対英開戦の先兵たるべき先手一番組から六番組までの持ち場を定めていた。
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〈一番組・弁天波止台場〉四百五十一人
〈二番組・同〉九百八十七人
〈三番組・大門口台場〉八百六十人
〈四番組・天保山台場〉九百八十二人
〈五番組・新波止台場〉九百七十八人
〈六番組・祇園の洲台場〉八百七十一人
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この五千百二十九人が、沖小島台場および桜島の三砲台と呼応して前之浜へ侵入してきたイギリス艦隊に対抗する手はずであった。ほかに先軍・中軍・後軍各六百人と茂久づきの旗本二千四百人、久光づきの二の丸旗本二千五百人、城下の守兵千五百人の都合およそ一万三千五百人が、鹿児島に集結することになったのである。
「武士小路」
と総称される城下の武家屋敷町は一定の区画に分けられていて、その区画のことを、
「方限《ほうぎり》」
という。鶴丸城以東は上《かみ》方限、以西は下《しも》方限だから、上清水馬場の伊東家は上方限に属する。上方限のうちの清水馬場方限は右の軍制でいえば六番組とされたため、十八歳以上五十八歳以下の条件に見合った四郎は、長兄の仙兵衛、次兄の二郎とともに祇園の洲台場づめを命じられた。
懐かしい祇園の洲には三日月状の高地上に十の砲架がもうけられ、そこには二十四ポンド砲四門、ボンカノンと呼ばれる長大な砲身の八十ポンド榴弾《りゆうだん》砲一門、二十ドイム臼砲《きゆうほう》一門が備えつけられていた。
「永平丸」一艘だけでは、薩摩海軍の仕立てようがない。台場周辺には荷駄運搬用の小さな上荷船《うわにぶね》に十八ポンドの銅砲、あるいは二十四ポンド砲一門を積んだ昔風の水軍十二隻がいるだけだったから、薩摩藩としては台場に拠《よ》って砲火を浴びせるしか戦いようがなかった。
しかも、古風な具足に鉢金《はちがね》を巻いて調練に参加した四郎に与えられた役目は、その打ち役や玉薬役でもなければ銃手でもなかった。
「汝《わい》は若者《にせ》ぶいがよか。こいを打っみろ」
と軍《いくさ》奉行から陣太鼓を示されて、四郎は唖然《あぜん》とした。[#改ページ]
第二章 西瓜舟
陣太鼓は、台車に乗せて引く巨大なものから、左手に提げ右手のバチで打つ小さなものまでいろいろある。
伊東四郎が打つことになった祇園の洲の陣太鼓は、いわゆる「押し太鼓」。ふつうであればひとりが背負《しよ》い子《こ》のようにその台をかつぎ、うしろにひかえた者が房のついた長さ一尺四寸(四二・四センチ)のバチで打ち鳴らす類《たぐい》のものであった。
その差しわたしは、バチの長さにおなじ。胴の長さ一尺八寸(五四・五センチ)、皮の両面を二列三十二個ずつの鉄鋲《てつびよう》で留め、その表面には黒うるしで右三つ巴《どもえ》が描かれている。
ただし四郎は、これをひとりで打つよう求められた。もしも押し太鼓の背負い役が先に被弾負傷し、打ち役が打ちつづけられなくなっては士気にかかわる。
そこで四郎は叉《さ》に組まれた台上に固定した押し太鼓を打つことになったが、額に鉢金《はちがね》、小袖《こそで》の袖を白だすきで絞り、野袴、足袋《たび》わらじ掛けとなってバチを振るうその姿は美しかった。腰のそなえがぴたりと決まるのは、弓と相撲、そして幼い日からつづけた薬丸自顕流の朝稽古《あさげいこ》のたまものでもある。
身の丈五尺八寸(一メートル七六センチ)あまり、目方は二十二貫(八二・五キログラム)以上。眉《まゆ》に迫った切れ長黒目勝ちの目を桜島にむけ、四郎がたくましい右腕につかんだバチを振りおろすと、はたの者たちの腹にずしりと重い音が響く。
「さすが、飯焦《めしこ》がしといわれちょったよか若者《にせ》じゃ。頑張《きば》れ」
什長《じゆうちよう》、伍長《ごちよう》たちに励まされながら操練をつづけるうちに、四郎には太鼓役の面白さが少しずつわかってきた。
太鼓役に求められるのは、第一に肚《はら》の据えよう、第二に判断力であった。いかに乱戦となったところでバチを乱すことは許されない代わり、場合によっては台場の長である物主《ものぬし》の命令を待つことなく兵に合図を送らなければならない。
その打ち方は徐・破・急の三調子。徐はドーン、ドーンと間遠に打つことで、兵はこの太鼓の間は行軍中でも戦場に出てからも、おもむろにすすむかゆっくりと引く。これがドン、ドン、ドンと破に変われば兵は足早になり、ドドドドと狂おしいような急調子になれば吶喊《とつかん》か一斉に引きのくかである。
各台場に貼りついた先兵たちの散開と集合、銃砲の発射もこの太鼓の指示によっておこなわれることになっていたから、祇園の洲の備砲六門にはひとりずつ太鼓役がついたとはいえ、もう四郎はただの平士《ひらし》ではなかった。
この操練は、一日置きにおこなわれた。そのため四郎は、今日鶴丸城二の丸に登城すると明日は祇園の洲台場へつめる、という生活をほぼ十カ月間つづけることになる。
その間薩摩藩をめぐる政情は、悪化の一途をたどっていった。
横浜に投錨《とうびよう》するイギリス艦隊は、文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)二月までに十二隻にふくれあがった。むろんこれは、本国政府からの指令によって砲艦外交をおこなうための前段である。
そして二月十九日、イギリス代理公使ニールは書記官を江戸に派遣し、外国奉行阿部|正外《まさと》に対して幕府への要求書を手交させた。
その要点は、つぎのごとし。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、幕府は生麦事件の賠償金として、十万ポンドを支払うべきこと。
一、回答までに、二十日間の猶予を与える。
一、この要求を拒むか言い逃れようとした返書を受けた場合は、それから二十四時間以内に横浜の艦隊をもってしかるべき処置をほどこす。
[#ここで字下げ終わり]
薩摩藩に対するイギリスの方針も、このとき初めてあきらかにされた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、幕府が薩摩藩内にいる犯人を捕縛できないというのなら、イギリスは同藩と直接交渉する。
一、すなわちイギリスは同藩に対して犯人の処刑と賠償金二万五千ポンドの支払いを求め、もしも拒絶されたならば、海軍と協議のうえ有効適切な返報をする。
[#ここで字下げ終わり]
幕府はとりあえず回答期日の順延を画策しはじめたが、日本国中を席巻《せつけん》した攘夷《じようい》熱は、すでに一触即発のところまで内圧を高めていた。その引き金は、長州藩毛利家が、さる文久二年七月のうちに従来の公武合体論を捨て、尊王攘夷をあらたな藩論としたことにある。
生麦事件の直前、長州藩は関白近衛|忠熙《ただひろ》に対し、こう切願していた。
「攘夷の叡慮《えいりよ》(天皇の思《おぼ》し召《め》し)を断行すべく独力でも力をつくしたいので、早く朝議を一定させていただきたい」
土佐藩尊攘激派、在京の薩摩藩誠忠組も足並をそろえたため、孝明天皇は十月中に右近衛権《うこんえごんの》中将三条|実美《さねとみ》を勅使として江戸へ下向させ、攘夷督促の勅旨を伝えさせた。
十二月五日、将軍家茂は、
「勅諚《ちよくじよう》のおもむき、かしこまりたてまつり候」
と答えたから、朝幕一体となって攘夷に踏みきる、という国論がこの時点で成立したことになる。
ならば、対英開戦準備を急いでいた薩摩藩には有利な状況がひらけたか、というとそうではない。家茂は勅旨に逆らって討幕運動にますます拍車をかけることを恐れ、やむなくうなずいてみせただけであった。
そうでなくとも幕末の攘夷論には、
「豊臣秀吉のおもい描いた唐天竺《からてんじく》併合の夢とこれと、どちらがより極端な机上の空論か」
と問われたときに即答しかねる面がある。
しかも幕府は、ニールとの交渉のさなかに閣内の不統一をさらけ出した。
文久二年十二月中に上京した将軍後見職一橋|慶喜《よしのぶ》、あけて三年三月に二条城入りした家茂はそろって、五月十日をもって攘夷をおこなう、と天皇に答えた。対して江戸に残った老中|並《なみ》小笠原|長行《ながみち》は、五月九日のうちにニールに要求された賠償金を支払ってしまっていた。
喧嘩《けんか》をはじめる前に和解金を出したかたちだから、幕府有司すら唖然としたのは理の当然である。
しかもその五月十日、長州藩は愚直にもこの開国拒絶期限を守り、異国船に砲撃をくわえた。
対象となったのは、アメリカの商船「ペンブローク」排水量二百トン。横浜から上海にむかう途中に下関海峡を通りかかった「ペンブローク」は、海峡南岸沖合に投錨して潮の流れを見るうちに久坂玄瑞《くさかげんずい》ら長州藩の熱狂的尊攘激派に発見されてしまったのである。
だが「ペンブローク」は急ぎ抜錨《ばつびよう》し、豊後水道へ逃れてことなきを得た。
さらに二十三日、今度はフランス船「キンシャン」が、横浜から長崎をめざして航行中にやはり下関海峡で砲撃を受けた。ボートを下ろして砲撃理由を問わせようとした「キンシャン」は、そのボートに直撃弾を浴びせられて死者四人を出しながら玄界灘へ遁走《とんそう》した。
二十五日、今度は長崎を出港したオランダ軍艦「メデューサ」が、下関海峡に差しかかった。「メデューサ」は爆裂弾を甲板に受けること三回、ボートや煙出しを破壊されたばかりか死者四人、負傷者五人を出してこれまた敗走していった。
ここまでは攘夷戦大成功のおもむきながら、宣戦布告なき不意討ちなのだから、だれでも勝てる戦いだったともいえる。
しかしアメリカ、フランス、オランダの国旗を掲げた艦船が無差別に攻撃されては、ことは国際問題に発展せざるを得ない。
アメリカ船籍の「ペンブローク」が砲撃されたと知るや、ハリスの後任のアメリカ公使プリューインは、ただちに同国軍艦「ワイオミング」に報復攻撃を命じた。横浜から下関へむかった「ワイオミング」は、六月一日下関海峡に到着。ただちに各台場を砲撃し、迎え討った長州藩虎の子の軍船三隻のうち「庚申丸《こうしんまる》」と「壬戌丸《じんじゆつまる》」とを撃沈、「癸亥丸《きがいまる》」を大破させて帰投した。
このように攘夷戦とそれに対する列国の報復攻撃がはじまっていたにもかかわらず、なおも幕府はなすところがない。
この点からも幕府に西南の雄藩を統御する力のないことはもはやあきらかであったから、六月十九日、ニールは幕府へ伝えた。
「三日以内に、イギリス艦隊を鹿児島へむかわせる」
これを受け、ニール以下の公使館員全員を乗せて二十二日に横浜を解纜《かいらん》したイギリス艦隊は、司令長官クーパー海軍中将の座乗《ざじよう》する旗艦「ユーリアラス」以下つぎのような陣容であった。
「ユーリアラス」 木造フリゲート・スクリュー船、排水量二千三百七十一トン、乗員六百人、砲四十六門。
「パール」 同型、千四百六十九トン、二百四十五人、二十一門。
「アーガス」 木造スループ外輪船、九百八十一トン、百七十人、六門。
「パーシュース」 木造スループ・スクリュー船、九百五十五トン、百七十二人、十七門。
「コケット」 木造スクリュー砲艦、六百七十七トン、七十八人、四門。
「レースホース」 同型、四百三十八トン、百三人、四門。
「ハボック」 同型、二百三十二トン、五十人、三門。
船が人力(オール)によるのではなく風力を受けて帆走する時代を迎えて以来、軍艦は主力艦である戦列艦《ライン・オブ・バトルシツプ》と小型軽快なフリゲート艦との二方向に発達した。
帆走時代の欧米列強の戦列艦は、三層の甲板と二本マストをそなえ、排水量は二千トンほど、砲門は七十ないし百二十門。対してフリゲート艦は二層の甲板と三本マスト、排水量は一千トン、砲は二十から四十門であったが、両者ともに蒸気機関の出現とともに大型化し、遠洋航海の間は帆走、戦闘その他軽快な運動が必要なときには罐《かま》を焚《た》くというように蒸気機関と帆装とを併用するようになった。フリゲート艦は、艦体に対する帆装面積の比率が大きいところに特色がある。
のちの巡洋艦に相当するこのフリゲート艦を「大」とすれば、「中」にあたるのがコルべット艦、「小」がスループ艦で、両者は甲板一層、二本マスト。砲数は前者が十八ないし二十四門、後者がそれ以下とされていた。特に定義はないものの、砲艦とはスループ艦よりさらに小型の汽帆兼用の木造軍艦をいう。
いずれにしても総排水量七千百二十六トンに達するイギリス艦隊にくらべ、薩摩藩の海軍力はあまりにも微弱に過ぎた。
この一月中に「永平丸」が明石海峡で坐礁沈没した穴埋めにイギリス製蒸気内車船二隻を買いつけ、修理なった「天祐丸」と前後して錦江湾に廻航《かいこう》させはした。それでも「天祐丸」は排水量七百四十六トン、「コンテスト」あらため「白鳳丸」は五百三十二トン、「サー・ジョージ・グレイ」あらため「青鷹丸《せいようまる》」は四百九十二トン。総排水量は千七百七十トンにすぎず、「ユーリアラス」一隻におよばない。
問題は排水量にして五千三百五十六トンの差を、先手一番組から六番組までの先兵五千百二十九人が撥《は》ね返せるかどうかであった。
しかも薩摩藩は、斉彬《なりあきら》時代の様式軍備を各台場の備砲を例外として、ことごとく慶長《けいちよう》以前、すなわち関ヶ原の敵中突破のころの古式にもどしてしまっていた。攘夷気分の昂揚《こうよう》のなせるわざで、太平洋戦争に敗北する前の日本が英語を敵性語として禁じたのとおなじ狭隘《きようあい》な発想である。
しかし、四郎は海上から見た各台場が心もとない小ささだったこともこのことも、なるべく考えないようにしていた。
なによりも、関ヶ原へ出陣した島津義弘が兵千五百人をわずか八十五人にまで討ちなされながら鹿児島へ生還した史実は、薩摩|兵児《へこ》すべての誇りであった。
太鼓役として祇園の洲台場の調練に励んでいると、
(あの関ヶ原以来の大一番にくわわれるのだ)
と薩南育ちの血がたぎるような気さえした。
兵は調練に明け暮れるうち、早く実戦の場に出たいと願うようになるものである。四郎もまた梅雨の季節がきて蘇鉄《そてつ》や楠《くすのき》がめっきりと緑を濃くしたころには、イギリス艦隊の来襲をいまや遅しと待ち受ける気分になっていた。
錦江湾の湾口西岸、山川港にもうけられた狼煙《のろし》台からは、異国船を沖に認めた場合には狼煙か号砲の合図がおこなわれる。これは西の薩摩半島に沿って小島―指宿《いぶすき》―今和泉―喜入《きいれ》―谷口とつながれて鹿児島城下と桜島へ、小島から東の大隅半島側の牧原へ伝えられた合図は垂水《たるみず》で中継されて鹿児島城下へもたらされる手はずであった。
その日の調練をおえて上清水馬場の自宅にくつろいでいた四郎が、遠い花火のような号砲を聞いたのは六月二十七日八つ半(午後三時)前のこと。すでに病み衰えている父正助の枕頭《ちんとう》にあったかれが、
「ついにエゲレスん軍船《ゆつさぶね》が来たらしゅごあす。行ってきもす」
やはり出陣の挨拶《あいさつ》にきた兄ふたりとともに膝《ひざ》をそろえて頭を下げると、正助はこけた顔を枕に預けたまましわがれ声でいった。
「こげなときにゃ、行ってきもすというもんじゃなか。行きもす、でよか、頑張《きば》れ」
「行きもす」
と復誦《ふくしよう》した四郎たちは、逸《はや》る心で祇園の洲をめざした。
すでに不意の呼集にも慣れていたから、だれも取り乱してはいなかった。清水馬場|方限《ほうぎり》の仲間たちと次第に太い流れになって砂地の台場へ入ると、正面の桜島からもしきりに黒い狼煙の立ちのぼるのが眺められた。
だが、イギリス艦隊は一気に錦江湾を北上しはしなかった。四郎たちがいつでも持ち場につけるよう七棟まで増築された番小屋に散った五つ半(午後九時)過ぎ、七隻の軍艦は前之浜から三里南の谷山狼煙台の北東の海上、七つ島付近に一刻(二時間)ほど前に投錨したとの知らせが入った。
ならば開戦は、明日以降のことになる。そうとはわかっても番小屋のうちは緊張と興奮に満ち、雑魚寝《ざこね》した者たちはなかなか寝つけずにいた。
と、ある部屋では豪胆にもすぐに鼾《いびき》をかきはじめた者がいた。しかも、板戸を震わさんばかりの大鼾である。
四郎であった。
「肝《きも》ん太かこっじゃ」
同部屋の者たちは、その音に悩まされながらも舌を巻いた。
「艦隊運動」
といえば、ひとつの艦隊が各個バラバラにではなく、たがいに連携しあって行動することである。
ある艦隊運動をおこなうに際し、もっとも基本になるのはどのような隊形をとるか。その隊形は、大きくいうなら、
「横陣《おうじん》」
「縦陣《じゆうじん》」
のふたつにわけられる。
横陣とは全艦が翼のように横にならんだ隊形のことで、横一列の場合はこれを単横陣という。この隊形は、中央の旗艦を少し前に出した形の凸横陣《とつおうじん》、あるいは全艦が船首を右か左へ二ないし四点等(二二・五度ないし四五度)回頭した形の梯陣《ていじん》へと変化することができる。
対して艦隊が縦に長くならんだ隊形が縦陣であり、ただ一列の場合はこれを単縦陣と称する。この場合、後続艦は先行艦が海上に残した航跡をひたむきにたどればよい。
「|前にならえ《フオロー・ザ・リーダー》主義」
といわれる操艦法で、単縦陣は全艦が一斉に八点(九〇度)回頭すれば単横陣へ、十六点(一八〇度)回頭すれば一番艦と殿艦《でんかん》とが入れ代わった逆番号単縦陣へと変化する。
しかし、この時代にまだ日本人は艦隊運動を知らない。まして横陣、縦陣という日本語も生まれてはいない。
六月二十八日の五つ刻(午前八時)過ぎ、旗艦「ユーリアラス」を中央に置いたイギリス艦隊が単縦陣の隊形をとって前之浜《まえんはま》へ近づくと、薩摩藩士たちはこれを、
「一字線《いちじせん》」
と呼んだ。
しかもこれは、途方もない一字線であった。文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)六月二十八日は、太陽暦なら八月十二日。前之浜は薩南のきつい日射を浴びて乱反射する鏡のように輝き、桜島の八の字型の輪郭は青々と煙っていた。
伊東四郎が祇園の洲台場の砲架の高みに立って見つめるうちに、視界右手に逆光に翳《かげ》り、黒い一字線となって出現したイギリス艦隊の艦影はぐんぐん大きくなった。いずれも朝凪《あさなぎ》のため帆を畳み、罐を焚いて太い黒煙を背後の空へ流しているのが凶々《まがまが》しくすら感じられる。
やがて「コケット」、「レースホース」、「ハボック」の順に天保山台場と桜島寄りの岩礁|神瀬《かみぜ》の間を通過した艦隊は、各台場に左舷《さげん》を見せたまま次第に速力を落とした。鋭い艦首に白く切り裂かれつづけていた海面《うなも》は静まり、煙出しからうしろへ流れていた黒煙は縦に昇りはじめる。
しかし一番艦「コケット」が祇園の洲台場の沖まですすんで七艦ことごとく前之浜に入りきったとき、四郎の目はひときわ巨大な四番艦の威容に釘づけになっていた。
「黒船」
ということばは、嘉永《かえい》六年(一八五三)六月三日に浦賀沖に来航したアメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が、艦体を瀝青《チヤン》(コールタール)で黒く塗られていたことに由来する。対して楼台のように丈高いマスト三本を屹立《きつりつ》させた「ユーリアラス」は、真白に塗装されていた。
「あいはまこつ、城ん白壁が浮かんじょっよなもんじゃな」
という驚きの声が四郎の耳にも伝わってきたが、「ユーリアラス」は単に優美なだけではなかった。
「永平丸」に乗ったことのある四郎は、一瞬にして理解していた。いまは祇園の洲台場と新波止台場の南側、弁天波止台場の沖合約十町(一〇九〇メートル)の位置に錨《いかり》を下ろした「ユーリアラス」が、「永平丸」の五倍以上の巨艦であることを。
さらに七艦がいずれも舷側に窓のようにならぶ砲門をひらいているのは、いつでも開戦できる態勢にあることを示してあまりある。
すでに祇園の洲の六番組八百七十一人は持ち場に散っていたし、備砲六門はことごとく玉ごめをおえていたから、四郎としては開戦用意の徐の太鼓を打つ必要はなかった。ドン、ドン、ドンと破から打ちはじめ、初弾が発射されたなら敵の反応を見ながら破と急とを打ちわければよい。
(いつ物主が、打てと命じるか)
四郎は手にしたバチを汗に濡《ぬ》らして、開戦のときを待ちかまえた。
それでもイギリス艦隊に、即座に砲撃に移る気配は見られなかった。投錨《とうびよう》後まもなく「ユーリアラス」からはつぎつぎにボートが下ろされ、周辺海域の水深測量を開始した。
昨二十七日の夜、ニールは七つ島近くにあった「ユーリアラス」に小舟を漕《こ》ぎ寄せた谷山郷の村役人に対し、公使館員アレクサンダー・シーボルトの口からこう答えさせていた。
「明日鹿児島で、藩主に書翰《しよかん》を手わたすためにきた」
十八歳のシーボルトは『日本』その他の著作で知られる元オランダ商館医員フィリップ・シーボルトの長男で、流暢《りゆうちよう》な日本語を話すためイギリス公使館に雇われていた。ニールは村役人の報告がすでに鶴丸城に届いたものと確信し、島津久光・茂久父子からの使者があらわれるのを待っていたのである。
久光はこれに応じ、四つ刻(午前一〇時)に軍《いくさ》奉行の折田平八に誠忠組の伊地知《いじち》龍右衛門を添えて「ユーリアラス」に派遣。ふたりを将官室に迎えたニールは、国書を手交するとともにシーボルトから伝えさせた。
「二十四時間以内に回答がない場合は、強圧手段を用いる」
シーボルトが日本語で書いた国書により、久光は生麦事件の犯人の処刑と賠償金二万五千ポンドというイギリス側の要求を初めて知った。
久光は茂久と相談した結果、「薩州政府」の名でつぎのような返書を作成させた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「一、来翰のおもむき、相達す。生麦一条につき申し立てられ候事件、書面往復にては弁知《べんち》(了解)いたしがたき儀これあり候間、明二十九日|午刻《ひるどき》、外国人応接公館において事理明白の応接におよびたく候につき、水師提督、その重役の面々上陸あらんことを乞《こ》う。
一、貴国各船へ(こちらから舟を)二|艘《そう》ずつ付き添え置き候間、薪水その余、ありあわせの品希望にまかせ差し送るべし。これわが国法にてその方へ便する礼節なり。
(一項略)」
[#ここで字下げ終わり]
おだやかに交渉の席につこうとしているような文面ながら、久光はまったく別のことを考えている。つづけて久光は奈良原喜左衛門と有村俊斎とを召し、密命を下した。
祇園の洲台場のうちにこの動きが伝わってきたのは、その夜のうちのことであった。
「なんでん、藩庁があん白壁のよな軍船《ゆつさぶね》に返事《へし》すっとは明日んこつになったとじゃ。今夜《こんにや》んうちい寝溜《ねだ》めしちょけ」
といわれて四郎が番小屋のうちに巨体を休めていると、隣りの部屋にだれかがあわただしく入りこむ足音が伝わり、つづけて興奮しきった声が流れてきた。
「おい、起きれ。いま、お徒目付《かちめつけ》の奈良原さあと有村さあから使いがきやった。明日、各台場から選《え》った気丈《きじよ》な若者《にせ》を百人ばっかいつれて、おふたいがエゲレスん軍船《ゆつさぶね》に斬いこんとじゃ」
「なんじゃっち、汝《わい》はいけんすっとか」
「いけんもこげんもなか、俺《おい》は行っが」
「うむ、俺《おい》もいっでん(いつでも)行っど」
徒目付の奈良原、有村といえば、生麦村で異人を斬ったあのふたりしかいない。
「こら、軽々《かいがい》しゅ駕籠《かご》脇を離れてどげんすっとか」
松方助左衛門の叱咤《しつた》が口惜しさとともに耳の奥に甦《よみがえ》り、四郎はむくりと上体を起こした。
「御免なったもし」
そのまま土間に下りて隣りの部屋の板戸を引いたかれは、ぼそりといった。
「語いごっが耳《みん》に入《はい》いもした。俺《おい》も仲間《つれ》ん衆《し》に入れてくいやんせ。徒目付さあはどこいおいやっとごあすか」
久光がありもしない「外国人応接公館」をイギリス側との交渉の場に指定したのは、とんでもないことをおもいついたためであった。
ニールたちが巨艦「ユーリアラス」に乗ったままでは、とても手を出せない。ならばことば巧みに誘って上陸させ、一網打尽にしてしまえば、かれらを人質としてイギリス艦隊を無傷のまま分捕ることもできるかも知れない、――。
とはいえイギリス側が上陸を拒むならば、この計画は画餅《がべい》に帰してしまう。
それを考えあわせた久光は、奈良原喜左衛門と有村俊斎とを二の丸御座所の前庭に呼び、こう命じていた。
「生麦一条の非はエゲレス人側にあったと申すに、かえって軍船をひきいてわれに迫るとは不届き千万。さればその方ども、各台場のうちより決死の勇士を選び出してエゲレス船に乗りこみ、その将兵を鏖殺《おうさつ》して天下にわが藩の武威を示せ」
斬りこみ隊の大将格に奈良原と有村とが指名されたのは、むろんこのふたりが生麦事件を起こした張本人だからである。
明日以降、イギリス艦隊の各艦には薪水と新鮮な食糧とが差し入れられるとも聞かされて、ふたりは決断した。
――ならば百姓姿に身をやつしてそれらの小舟に分乗し、首尾よくエゲレス船に乗りこんだなら血の雨を降らしてやればよい。
そして各台場に廻状《かいじよう》を出したため、四郎もこの動きを知ることになったのだった。
斬りこみ志願者たちの集合場所は、鶴丸城|御楼門《ごろうもん》の堀ばたとされていた。四郎たちが頭上はるかに燦《きら》めく天の河を眺めて御楼門へ近づくと、そこには肩を怒らせた百人以上の若手藩士たちが集まりつつあった。
万一の夜間の砲撃を警戒して御楼門本柱の高張|提灯《ぢようちん》に火は入れられず、堀ばたにはかがり火も焚《た》かれていない。堀に多い夏の虫を求めて、中空には蝙蝠《こうもり》の群れが音もなく飛び交っていた。
やがて、二の丸の方角から奈良原喜左衛門と有村俊斎が肩衣半袴《かたぎぬはんこ》のままあらわれ、調べ役三人の前に志願者たちをならばせて姓名を申告させはじめた。四郎が左右を見わたすと、いつも眠そうな顔をしている大山弥助、眉《まゆ》の太い西郷龍庵あらため信吾、寡黙な気性の篠原冬一郎ら誠忠組の者たちの姿も影絵のように判じられた。
「中小姓、六番組太鼓役の伊東四郎でごあす」
順番がきて、四郎はいった。小者に持たせた提灯の火を頼りに細筆を走らせる調べ役のかたわらから、京と江戸への旅をともにした奈良原が苦み走った顔に微笑を浮かべてうなずき返す。
これで四郎は、斬りこみ隊への参加を認められることは間違いない。
(よし、明日こそは)
と決意をあらたにして四郎が列外に出ようとしたとき、右側の列で騒ぎが起こった。
「東郷吉左衛門の四男、本丸お旗本組の東郷平八郎でごあす」
と名を告げた色白な若者に、
「そん方、年はいくつじゃ」
やはり調べ役のかたわらにいた有村俊斎がギョロ目をむけたのが、そのきっかけであった。
「十七でございもす」
「まだ、からだが出来《でけ》ちょらんな。今度は、こらえやい」
というやりとりのあと、筒袖《つつそで》にたっつけ袴《ばかま》姿の東郷平八郎は有村に喰《く》ってかかった。
「じゃっどん、エゲレス船へ乗いこんとなら、からだは軽か方が良《よ》しゅごあんが。年のこっなどかかわいあいもはん」
「せからしか(うるさい)!」
人一倍顔の大きな有村は、吠《ほ》えるように応じた。
(そこまでいわずとも)
と四郎が眉をひそめるうちに、平八郎は端正な横顔を歪《ゆが》めて闇のかなたへ走り去った。
このような一幕をはさみ、御楼門内に請じ入れられたのは八十人あまりであった。
夏の盛りのこととて、鹿児島には西瓜《すいか》がたくさん出まわっている。近在からその西瓜を売りにきたかのごとく見せかけてイギリス艦隊に漕ぎ寄せる、という策をあきらかにした奈良原と有村は、かがり火に横顔を赤く照らされながらつぎつぎに手はずを決めていった。
明日はイギリス側に返書を届ける一艘のほかに舟を七艘用意するから、手分けしてこれに乗りこみ、七艦にむかうこと。
全員、手ぬぐいで頬かむりして侍|髷《まげ》を隠し、野良着に大脇差のみを差してゆくこと。
うまく敵艦に上がることに成功したならば、機を見ていずれかの台場から号砲を撃たせる。それを合図に、一斉に手近の者から斬り伏せること。
「ユーリアラス」に白壁という渾名《あだな》がついたときからイギリス艦隊は、
「白壁艦隊」
と呼ばれ出していた。対して後世こちらにつけられた名称は、
「西瓜舟決死隊」
白壁艦隊対西瓜舟決死隊というと出来の悪い漫画のようだが、これも近代を迎える前に日本が迎えた一局面にほかならない。
勇んで祇園の洲台場へもどった四郎と選に入った六番組の者たちとは、もはや人の見る目が違っていた。
「俺《おい》も行ったか(行きたい)」
ようやく四郎たちの外出理由を知った者たちから羨《うらやま》しがられると、
(できることなら、ほかの軍船ではなくあの白壁に漕《こ》ぎ寄せたいものだ)
というあらたな欲すら湧いてくる。
しかしその前にもう一度、イギリス艦隊の位置が変わっていないか確かめておきたい。そうおもい、ひとり砲架のある三日月状の高地にあがった四郎の目は、まことに予想もしなかった景色を捉《とら》えていた。
諸外国の船は、夜間には他艦との衝突防止策として檣灯《しようとう》と舷灯《げんとう》とをともすことが義務づけられている。艦首からマストへとつらなる檣灯は白色光、舷灯は右舷が緑灯、左舷が赤灯。
星月夜の下、暗くぬめる前之浜沖に白色光と赤灯に縁取られ、そのまたたきを海面に映して沈黙しているイギリス艦隊は、幻のような美しさであった。
あけて二十九日、またきつい日射の一日がはじまっても、奈良原喜左衛門と有村俊斎とが入ったはずの弁天波止台場からはなかなか合図がこなかった。
弁天波止台場は、海岸六台場中最大の規模をほこる。その物見|櫓《やぐら》から小旗が振られれば、この合図は新波止台場で中継されて祇園の洲台場のそれへ伝えられることになっていた。
すでに祇園の洲台場南側の稲荷川の河口には西瓜舟が舫《もや》われ、生きた鶏数羽も籠《かご》に入れられて積みこまれたというのに、これでは動くに動けない。
(なにか、手違いでもあったのか)
古手ぬぐいに髷を隠し、野良着に巻きつけた輪帯《わおび》の左腰に朱鞘《しゆざや》の大脇差を落とし差しにした伊東四郎は、台場中央の物見櫓の真下に突っ立って合図を待ち受けた。
しかし、八つ刻(午後二時)になって弁天波止台場から走りこんできた伝令の伝えたところは、四郎の期待に反するものであった。
伝令は、いった。
「お使者の出っとは、八つ半(三時)にないもす。こん台場ん舟は、一字線のいっばん先の軍船《ゆつさぶね》い斬っこみやんせ」
薩摩の士風は、敵の牙城《がじよう》に突入するなら一番乗りを、いざそれを果たしたならばたとえ刺し違えても主将の首を挙げることをもってよしとする。四郎は敵の主力艦「白壁」に乗りこむ機会をあらかじめ封じられたと知り、いささか鼻白んだ。
それでも生麦村で駕籠脇を離れられなかったことを考えれば、斬りこみ隊に選ばれただけ武士の一分《いちぶん》が立ったといえなくもない。昨夜、御楼門の堀ばたで有村から斬りこみ隊への参加をことわられ、端正な横顔を歪めて闇のかなたへ走り去った東郷平八郎という年下の藩士の心情をおもい、四郎は気を取り直した。
その、八つ半がきた。
すでにこのとき、四郎たち野良着姿の十人は稲荷川河口の舟に乗りこんでいる。船頭役が舫い綱を解いて水竿《みさお》を使い、ついで艪《ろ》に持ちかえたころから四郎は暑さを忘れていた。
今日の西瓜舟は、めざす敵船から見下ろされたときになにを積んでいるのか一目でわからせる必要がある。しかも、一隻につき十人も乗りこんでいることを少しでも異様に感じさせないよう、大ぶりな平底舟が選ばれていた。
湿った水音の伝わってくるその舟ばたから四郎がたくましい首を右にまわすと、新波止、弁天波止、南波止、大門口、天保山と南へつづく五台場の陰からも、点々と平底舟が姿をあらわしたところだった。
弁天波止台場から二|艘《そう》漕ぎ出したのは、うち一艘に使者が乗っているためである。丸に十字の家紋を打った四半《しはん》(四角形)横手つきの船印を舳先《へさき》に立てたその舟のみは、四十人乗りの関船《せきぶね》であった。関船とは古来の水軍にもっとも一般的なかたちで、梁上《りようじよう》に矩形《くけい》の矢倉をもうけ、その四方の板壁に弓、鉄砲の狭間《はざま》(銃眼)をうがっている。とはいえこれも、桜島を背に沖に巨体を光らせている「白壁」とくらべては、鯉に泳ぎ寄る目高のようにしか見えない。
だが、いつまでもほかの舟に目をやっている暇はなかった。
前之浜《まえんはま》の白波の立たない海面《うなも》は、桜島の灰を溶けこませているためか、舟ばたから見るとかなり黒い。その海面に艪を軋《きし》ませながら、四郎の乗る西瓜舟も船体を黒く塗られた一番艦へと近づきつつあった。
艦体が屏風《びようぶ》岩のように目の前に迫るにつれて、この敵船も「白壁」と合わせ見れば小体《こてい》ながら、「永平丸」に比較すればひとまわり大きいことがよくわかる。
やがて、――。
切り立った船体の上から鳥のさえずりに似た声が降ってきて、四郎はイギリス兵多数が高みの手すりから上体を乗り出しているのに気づいた。鍔《つば》なし帽に白か紺の筒袖洋袴、いずれも妙に赤い顔をして、ビードロ細工のような目をしている。
「ぐるいとならびかけやい」
背後の船頭役に注文した四郎は、ここぞとばかりに立ちあがっていた。両足を軽くひらいて調子を取りながら、手近の西瓜をひとつ抱きかかえて高く掲げてみせる。
籠の鶏をつかまえ、羽交いにして示そうとした者もあったため、西瓜舟が「コケット」の艦体にならびかけるにつれて時ならぬ鶏の悲鳴が起こった。
これにはイギリス兵たちも、笑ったようではあった。しかし、あがってこいという手真似もしないし、梯子《はしご》を下ろす気配もない。
なによりも四郎たちには物売り特有の腰の低さがなく、五体に殺気をみなぎらせているのだから、これも当然のことである。
「こいじゃ、どげんにもならん(どうしようもない)」
とつぶやく者もいて、ようやく四郎は西瓜舟決死隊がはじめから無理な計画だったことに気づいた。
考えてみれば、かれとわれとは三重塔の最上層にいる者とその真下の地面にいる者のような位置関係にある。イギリス兵たちは、四郎たちのただの物売りなら決して差さない大脇差を帯びた姿に、とうに危険を感じ取っていたのであった。
「コケット」以外の六艦をめざしたほかの西瓜舟も、事情はまったく変わらなかった。全体として眺めれば、単縦陣のまま投錨《とうびよう》したイギリス艦隊に小舟が近づいたものの、
「あっちへ行け」
と手真似でいわれ、なすすべなく波間に浮きつ沈みつしているだけの話となった。
しかし旗艦「ユーリアラス」の左舷に迫った関船のみは、舷側の手すりから身を乗り出したシーボルトと会話することに成功した。
「用件ハナンデスカ」
「返書を持参した使者でごあす」
「デハ、ソノオヒトリダケオアガリナサイ」
というやりとりのあと縄梯子が下ろされたので、夏羽織に両刀を差しこんだ若い藩士が昇っていった。名を、江夏《こうか》喜蔵という。
「返書ヲイタダキマス」
と手を差し出したシーボルトは、褐色の髪を七三に分け、白シャツに蝶《ちよう》ネクタイをつけていた。
江夏は、いやにひろい甲板の左右をうかがいながら答えた。
「いや、拙者は持っちょらん」
その間に志岐藤九郎という者も、甲板にあがってしまった。ふたりはともに無役ながら斬りこみ隊に選ばれた者で、弁の立つ江夏は談判役に、腕利きの志岐はニール以下の斬り手に指名されている。
つづけて奈良原喜左衛門もあがったが、だれも返書を持っていないと知り、シーボルトは赤い顔をさらに赤くして怒り出した。
「返書は、島津家御一門のお方から差しあぐっとじゃ。そいじゃっで(それゆえ)、家来《けれ》を多少引きつれっとは当たい前とおもいやんせ」
ここは、すでに死を決している奈良原の気迫勝ちであった。
シーボルトが日本語をマスターしたのは長崎でのことだから、薩摩弁もほぼわかる。少し待てと告げたかれは、踵《きびす》を返して将官室へ降りていった。
まもなくシーボルトは、鍔つき帽に白いフロック形軍服、腰にサーベルを吊《つ》った士官たちとともにもどってきて告げた。
「ナラバ、全員ノ乗艦ヲ許可シマス」
そこで有村俊斎、使者役の町田六郎左衛門以下四十人近くが、続々と甲板に上がりこんだ。町田も江夏、志岐同様斬りこみ隊の募に応じたひとりながら、面長の顔に気品があり、いわゆる殿さま顔をしていたため使者役を仰せつかったのである。
だが、かれらが甲板の一角にかたまったときには、「ユーリアラス」乗りくみの海兵隊も戦闘準備をおわっていた。
巨大な三本マストと二本の煙出しの林立する甲板の反対側には、彼我五間(九・一メートル)の距離をへだてて海兵隊が整列、すでに着剣済みの洋式銃の筒先をそろえていた。後檣《こうしよう》のかなたの後甲板にも、前列|膝撃《ひざう》ち、後列立ち撃ちの構えをとった別隊がずらりとならび、とても斬りこみなどかけられない。
「デハ代表者三名ノミ、ワタクシノアトニツイテキテクダサイ」
シーボルトにいわれ、江夏、志岐、町田の三人のみが将官室へゆくことになった。
かれらが甲板下へ消えたころ、弁天波止台場の方角から急ぎ漕ぎ寄せてきた小舟があった。舳先《へさき》に立った者が小旗を大きく左右に打ち振っているのは、自分が使者であることを示していた。
「何事《ないごつ》か」
有村が舷側《げんそく》から大声で問うと、使者は陣笠《じんがさ》に陽光を照り返しながら、
「君命が下《くだ》いもした」
と叫んだ。
「あん返書には、書き直さにゃならんこつがあっとでごあす。早よ、戻いやったもんせ」
久光が、斬りこみ中止命令を出したのである。
「ユーリアラス」から下りた一行を乗せて関船が舳先をめぐらす姿は、なおも「コケット」の真下の波間に揺られている四郎の西瓜《すいか》舟からも遠望できた。
西瓜舟は、奈良原・有村の乗る関船と進退をともにするよう命じられている。やむなく四郎たちも、イギリス兵たちの視線を浴びながら「コケット」を漕ぎ離れた。
久光・茂久《もちひさ》父子は、ニールに上陸する気がまったくなく斬りこみも不成功と報じられた段階で、返書の再作成に踏みきったのだった。
この日、大きく日が西に傾いてから「ユーリアラス」に運ばれた新しい返書には、つぎのような文章がならんでいた。
「日本政府のことは、もっぱら江戸政府に従うべきこと、もとより足下の知るところにして、諸侯はその指揮に従いて進退を受くる者なり」
「このことについては重大の事件につき、江戸政府の重職とわが国(薩摩藩)の重役と立ち会いのうえ、足下に論判せざれば、ここにて片論すべからず」
「(リチャードソンの)妻子養い料(賠償金)のことは、そのあとに論定すべし」
生麦事件の下手人は藩外へ逃走したらしく、まだつかまっていない、というとぼけた一文も混じっていた。まさかその下手人ふたりがつい先ほど「ユーリアラス」をおとずれたとは、ニールも夢にもおもわない。
しかし、この返書によって薩摩側が交渉の引きのばしを画策していることはあきらかになった。
「ユーリアラス」座乗《ざじよう》のイギリス艦隊司令長官は、金髪のもみあげを長く伸ばしたオーガスタス・クーパー中将。クーパーは物売り舟の一斉引きあげを諸台場が砲火をひらく前兆とみなし、七艦に錨地変更を命じた。
七艦が単縦陣のまま北の湾奥をめざしたのは、海岸六台場の備砲の弾着距離外へ出るためであった。ところが錦江湾は北端に近づくほど水深があり、錨《いかり》の掛りが悪い。
そこでクーパーは、信号旗によって右八点(九〇度)の逐次回頭を伝達。つづけて「パール」、「アーガス」、「コケット」、「レースホース」、「ハボック」には桜島の小池沖への待避を命じ、「ユーリアラス」と「パーシュース」のみをふたたび桜島と鹿児島城下とをむすぶ海上へもどすことにした。
桜島の鹿児島側には、その姿から、
「袴腰《はかまごし》」
と呼ばれる堤のような台地がせり出している。その袴腰の北側の陰が小池沖。
「ユーリアラス」と「パーシュース」も最初の錨地より七百フィート(二一三メートル)ほど鹿児島から遠ざかり、袴腰へ一千フィート(三〇五メートル)の距離に舳先を南へむけたまま錨を下ろした。
「いや、どげんもこげんもならんこつごあした」
と什長《じゆうちよう》、伍長《ごちよう》に挨拶《あいさつ》して祇園の洲台場の持ち場についた四郎は、整然たるこの艦隊運動を喰《く》い入るように見つめていた。「白壁」の帆柱に色さまざまな小旗が揚がることから、それがなにかの合図とは察しがつくが、
(どうすればあのように軍船《ゆつさぶね》をあやつれるのか)
とおもうと、にわかに好奇心が頭をもたげる。
だがそれは、四郎独自の反応にすぎない。ただでさえ血の気の多い者ぞろいの薩摩|兵児《へこ》たちは、イギリス艦隊に前之浜を乗っ取られたように感じ、怒りに髪を逆立てんばかりとなった者が少なくなかった。
「おのれ、戦《ゆつさ》んなったや手当たい次第《しで》エゲレス人の胆《きも》を引っこやして(引き抜いて)、人丹《じんたん》に作ってくるっ」
と下帯だけの姿になってわめいた者もいたのは、薩摩には敵の戦死者から胆を抜き、その人胆《じんたん》すなわち人丹から丸薬をこしらえる習俗があるためだった。これは労咳《ろうがい》(結核)に効能があり、また臨終の近い者の口にふくませれば蘇生《そせい》することもままあるという。
これらの姿も「ユーリアラス」その他の望遠鏡に捕捉《ほそく》されていたが、薩摩側がそれを知るのははるか後年のことである。この日はそのまま日没を迎え、開戦は明日以降へともちこされた。
黒々と翳《かげ》った桜島につつみこまれたかに見えた右の「パーシュース」と左の「ユーリアラス」は、ふたたび檣灯と舷灯とをともしてその輪郭を浮かびあがらせる。三本マストに山形につらなる白色灯、その底辺に一列に明滅する右舷の緑灯は、濃まやかな闇に十字の光芒《こうぼう》を投げかけた。
四郎の目にその輝きが昨夜以上に強く印象づけられたのは、今夜は昨晩と違ってほとんど星が見えないためであった。そういえば、潮の臭いには慣れてしまっている鼻にも夜風が妙に湿ったものに感じられる。
祇園の洲の石垣ぞいに植えこまれた黒松もいつか梢《こずえ》を鳴らしはじめ、
(こりゃ、明日は嵐になるのか)
四郎は、厭《いや》な予感がした。
太陰暦の六月は、二十九日までしかない。
七月一日、夜来の風はさらに強まり、錦江湾上空に張り出した夏雲は吹きちぎられながら西へ流れた。海面も鉛色に変わってうねりが高まり、ついには一面に白波が騒いで波頭を飛ばすようになる。
イギリス側は、これがなにを意味するかをわきまえていた。各艦の所有する晴雨計《バロメーター》は昨夜から気圧の目盛りを下げつづけ、台風の接近を告げている。
そのなかで薩摩側におこった最大の動きは、単檣《たんしよう》から帆を下ろした大型の琉球船五隻が曳航《えいこう》されてきたことであった。琉球船とは、薩摩藩が琉球貿易につかっている外洋ジャンク――ほぼ四百石を積める平底の帆前《ほまえ》船をいう。
これら五隻が順次海岸六台場の間々に投錨したことから、イギリス側は薩摩藩が開戦準備を急いでいることに気づいた。五隻は、「パーシュース」、「ユーリアラス」の右舷砲と各台場の備砲とをむすぶ線上には決して立ち入らなかったからである。
そこでクーパー司令長官は、薩摩藩所有の「天祐丸」、「白鳳丸」、「青鷹丸《せいようまる》」を機先を制して捕獲してしまう作戦を立てた。昨六月二十九日に艦隊が単縦陣の隊形をとって桜島北方の湾奥を遊弋《ゆうよく》したとき、これら三艦はその西側、鹿児島寄りの海域に停泊しているのが確認されていた。
これらを捕獲してしまえば薩摩藩の海軍力を一気に無力化できるし、交渉のテーブルにつく際の切札になる、という一石二鳥の策でもある。
作戦に従事するよう命じられたのは、桜島袴腰の北の陰、小池沖にあった「レースホース」、「コケット」、「アーガス」、「パール」、「ハボック」の五艦。「レースホース」は「天祐丸」、「コケット」は「白鳳丸」、「アーガス」は「青鷹丸」を乗っ取り、ほかの二艦は掩護にまわるという役割分担がこの夜のうちに定められた。
黒い雲が湧いていよいよ空気が生ぬるくなった二日払暁、五艦は罐《かま》を焚《た》いて一斉に錨をあげ、湾奥へ舳先をむけた。
このとき「レースホース」以下がこころみた戦法は、
「接舷《せつげん》攻撃」
といわれるものであった。
敵艦に艦首をならべかけるか、あるいは艦首をぶっ違いにするかして、とにかくわれとかれとの舷を寄せる。その接触面から兵を飛び移らせて敵を降伏に追いこむ、という海賊的な戦法である。
接舷攻撃の利点としては、少数の兵によって大艦を制圧しやすいことがまず挙げられる。
敵艦乗組員のうち、甲板上にいるのは当直の者のみ。他は甲板下の船室にいるだけに、少数をもって当直員たちを降伏させ、船室への出入口をかためてしまいさえすればどんな巨艦でも乗っ取るのは容易なことなのだ。
重富村の脇元浦という浜の沖合五十間(九一メートル)の位置に停泊していた「天祐丸」、「白鳳丸」、「青鷹丸」は、わずか五、六十人ずつの突入兵によって簡単に乗っ取られた。
「レースホース」、「コケット」、「アーガス」は、それぞれの獲物を何本ものロープによって舷側に縛着《ばくちやく》、四つ刻(午前一〇時)には、いわゆる双子舟の姿となって小池沖に帰投していった。
これを知って久光が開戦を決定し、各台場へ急使を放ったのは正午近くのこと。強風は頭上に悲鳴のような音を立てて吹きつのり、どしゃ降りの雨となったため、各台場の黒松は竹藪《たけやぶ》のように身を揺るがしはじめていた。
この急使の開戦命令を受け、各台場の先手組は丸に十字の藩旗をひるがえしながら持ち場についた。
祇園の洲台場のうちは、もう水びたしであった。そのなかを伊東四郎は簑笠《みのがさ》をつけ、足元にはね[#「はね」に傍点]をあげながら砲架へ急いだ。
陣太鼓の皮は、水気をふくめば張りを失って音が悪くなる。それにもかまわず徐の太鼓を打って砲撃準備をうながしながら沖に目をやると、桜島はすでに灰色の煙雨のうちに姿を消していた。
外洋のように泡立つ前之浜《まえんはま》のかなたには、「白壁」ともう一隻とがなおも波間に艦影を見せている。しかし、その二艦の方角からつぎつぎに押し寄せる怒濤《どとう》は台場の石垣に砕け、太鼓の音をかき消すような残響とともに太い水柱を噴きあげた。そのしぶきも風に巻かれて吹きつけてくるので、たちまち兵たちはずぶ濡《ぬ》れになる。
この悪天候のなかで、「パーシュース」、「ユーリアラス」に対して第一弾を発射したのは、最南端の天保山台場であった。
天保山台場には十一の砲座があり、六ポンド砲二門、十八ポンド砲二門、二十四ポンド砲二門、三十六ポンド榴弾《りゆうだん》砲二門、ボンカノンと呼ばれる長大な砲身の八十ポンド榴弾砲一門、二十ドイム臼砲《きゆうほう》二門が配備されていた。これら薩摩砲の発射するのは丸玉だが、榴弾砲からは着弾後爆裂して四方に鉄片を吹きつける榴弾を撃ち出すことができる。
つづけて天保山につらなる大門口の八門、弁天波止の十六門、新波止の十一門も砲火をひらき、四郎の打つ陣太鼓も破から急へ移った。祇園の洲台場の二十四ポンド砲四門がほぼ同時に火門から白煙を噴き、砲口からは轟音《ごうおん》とともに閃光《せんこう》が走る。
そのあとにわかに、大荒れの上空には間伸びする光景が展開した。丸玉の放物線を描く姿が、彼我の肉眼によって捉《とら》えられたのである。
しかもこれら各台場の初弾から、命中弾は一発も出なかった。
だがこれは、べつに誤算ではない。この時代の砲撃は、とにかく一発撃ってみてその着弾位置を知り、それから仰角を修正して次第に命中弾を出すようにすればよい、とされていた。
それは四郎にもよくわかっていたが、ふたたびバチの動きを急から破にもどして次弾の玉ごめをうながしても、あまりに手間がかかるのにははらはらさせられた。
一門の大砲は、什長、伍長以下十人以上の者たちによって操作される。そして一発撃ったあとの砲身内部は、玉竿《たまざお》役のもつ大型|※[#「木+朔」]杖《かるか》によってよく掃除する必要があった。
つぎに玉薬役が玉薬支配役から火薬袋を受け取り、砲口に入れて玉竿役が|※[#「木+朔」]杖《かるか》で押しこむ。同様にして丸玉がこめられると打ち役が仰角を調整して火門に点火し、ようやく発射になるという手順で、どんなに急いだところで一連の操作を完了するのに五分以上はかかる。
それでもやがて、「パーシュース」は命中弾を数発受けた。二本下ろした錨綱《いかりづな》のうち一本も砲弾に切断され、その艦体は動揺が激しくなる。
この命中弾を撃ち出したのは、桜島袴腰の台場であった。袴腰の台地上から見れば、「パーシュース」は眼下の海上三町(三二七メートル)以内にあったから絶好の標的なのである。
袴腰台場の備砲は、二十四ポンド砲一門、十八ポンド砲二門、十五ドイム臼砲一門。海岸六台場にくらべれば微弱な火力ではあったものの、「パーシュース」は袴腰台場の存在に気づいていなかったから恐慌状態に陥った。
これを見た「ユーリアラス」のクーパー司令長官は、「パーシュース」に抜錨《ばつびよう》と袴腰台場への応戦を命令。小池沖の「レースホース」、「コケット」、「アーガス」にも、一連の信号旗によって指令した。
――ただちに、捕獲艦三隻を焼きはらうべし。
つづけて「ハボック」には、
――捕獲艦が確実に炎上、沈没するまで監視せよ。
と伝え、そのうえで単縦陣を組むよう戦闘隊形を指令した。
これによって木造スループ艦「パーシュース」は残った一本の錨をあげ、煙出しから黒煙を背後へ流しながら舳先《へさき》を東へむけた。北へ十六点(一八〇度)の回頭をおこないつつ、右舷砲を袴腰台場へ撃ちこみはじめたのである。
ここから今度は八の字の台地上、背後は切り立つ断崖《だんがい》となっている袴腰台場の方があわてる番となった。
この台場の備砲は、砲架に固定されずに台車に乗せられていた。ために一発撃つたびに後退して背後の崖《がけ》へ押しつけられ、台車も溝に落ちて発砲不能になっていった。
どちらもどちら、ということばがある。その間にまだ「ユーリアラス」が砲火をひらかなかったのは、うかつなことに起因していた。
甲板下、弾薬庫前の通路には、幕府の差し出した生麦事件の賠償金十万ポンドの箱が積みあげられ、ドアをあけにくくしていたのだ。
それでも「レースホース」、「コケット」、「アーガス」が任務を遂行して舳先を北へむけると、「ハボック」以外の三艦もこれにならって次第に単縦陣を完成させた。
海岸線にならぶ砲台を沈黙させるには、その前方海域を単縦陣で横切りながら、各砲台に順次集中砲火を浴びせるのが最良とされる。
北の湾奥で左十六点の逐次回頭をはたした六艦は、右舷砲によるつるべ撃ちをつづけながら南下。ふたたびおなじ回頭をおこなって北上に移り、今度は左舷砲による攻撃に切りかえて勝ちを制する作戦であった。
すでに濡れ鼠となった四郎がなおもバチをふるいながら見据えるうちに、桜島の左手前に朧月《おぼろづき》のような光が滲《にじ》んだ。その光は次第に赤みを増し、ついには海上に大かがり火を焚いたような勢いを示す。
それが、「天祐丸」、「白鳳丸」、「青鷹丸」をつつみこんだ火災であった。これら三隻には、石炭が大量に積みこまれていた。その石炭に火が移ったため、この火災は戦闘海域を逆光に照らし出す光源のような役目をはたすことになった。
この炎の前面を左へよぎり、湾奥で逐次回頭をおこなった「ユーリアラス」以下は、逆巻く高波を艦首の喫水下にそなえた巨大な衝角《ラム》で切り裂きながら祇園の洲へ迫った。
ときに八つ刻(午後二時)過ぎ。狂風逆浪にもまれて艦隊は隊形を乱していたが、近いものは台場石垣へ四百フィート(一二二メートル)、遠いものでも八百フィートの距離に近づいたのである。
イギリス艦隊の備砲は、
「アームストロング砲」
といわれる強力無比なものであった。
これは一八五四年にイギリス人ウィリアム・アームストロングが発明したもので、青銅製ではなく鋼鉄製。しかも砲身内部に螺旋条《ライフル》が切られ、元ごめされた椎《しい》の実型の砲弾に推進力を与えると同時に命中率を飛躍的に高めることに成功していた。
いちいち砲身内部を掃除する必要もなく、先ごめ滑腔《かつくう》砲とくらべれば速射性においても格段の差があったから、祇園の洲台場の旧式砲六門では対抗のしようがない。
このとき四郎に運があったとすれば、それはイギリス艦隊が祇園の洲台場の北十二、三町(一三〇八〜一四一七メートル)の地点へまず砲撃をくわえたことであった。そこには磯邸といわれる島津家別邸と、先代藩主|斉彬《なりあきら》のひらいた一大軍需工場集成館とがならんでいる。
そこへ一斉に撃ちこまれる砲音はすさまじく、撃ちこまれたあたりから爆発音が連続して地震のように地をゆるがすのも、四郎には信じがたいことだった。四郎はまだ、着弾と同時に確実に爆発する信管つきの砲弾というものをよく知らない。
それでも前方海上に、動く白壁のごとく接近した一番艦「ユーリアラス」の右舷《うげん》砲が、信じがたい殺傷能力をもっていることだけはよくわかった。右舷の砲門がこちらにむけられ、その奥に火が見えたとき、
「伏せろ」
とだれかが絶叫。六門の玉竿役、玉薬役、打ち役、太鼓役たちは、蜘蛛《くも》の子を散らすように砲架を離れ、三日月状の高地の陰へ身を躍らせて突っ伏していた。
そのあと四郎には、なにが起こったのかよくわからなかった。間断ない発射音、ヒュルヒュルという無気味な音に爆発、爆風がつづいて耳を聾《ろう》し、身を伏せた地面自体が震動して頭上に土砂が降りそそぐ。百雷の同時に落ちるがごときこの波状攻撃にさらされる間、祇園の洲台場は応戦のしようもなかった。
それを見た「ユーリアラス」以下はマストを左方へ傾けながら祇園の洲前を去り、新波止から弁天波止台場へと攻撃目標を切りかえてゆく。
(なんたること、手も足も出ぬとはこのことではないか)
頬から袴《はかま》まで泥水に汚した四郎が夢中で砲座へ駆けあがると、そこは無残な姿に変わっていた。
各砲をかこんだ土俵《つちだわら》は崩れ、六門中四門の砲身が地上に投げ出されてなかば土砂に埋まっていた。四郎の陣太鼓も砲弾の破片を浴びたのか、皮と胴とを破られてそのかたわらにころがっている。
茫然《ぼうぜん》とたたずむうちその耳に呻《うめ》き声が伝わり、四郎は初めて、ともに身を躱《かわ》した兵のうちから重傷者が出たことを知った。
横なぐりの風雨に和銃(火縄銃)がつかいにくくなり、銃隊が背後の番小屋へ引いていたのは不幸中の幸いであった。もし銃隊が前面の石垣ぞいに配備されていたら、死者が続出していたに違いない。
「どげんしたか!」
その銃兵たちが番小屋からばらばらと走り出てきたときには、「ユーリアラス」以下はすでに弁天波止台場へむかって砲火をひらいていた。弁天波止台場が雲につつみこまれたように見えたのは、果敢に応射を開始したためであった。
「ユーリアラス」はこの砲火を躱すべく、北から南へ弁天波止―南波止―大門口とならんだ三台場の沖合で十六点(一八〇度)の回頭を二度おこなって円を描いた。
それが、大きな誤算となった。
新波止台場には、八十ポンド榴弾《りゆうだん》砲のほかに青銅製の百五十ポンド爆砲も一門ある。これは重さ百五十ポンド(六八キロ)の爆裂弾を発射できる怪物のようなしろもので、内径十分の九尺(約二七センチ)、全長十五尺(四・五メートル)、重さは二千五百三十貫(九・五トン)。
これらの大砲の試し撃ちは、前之浜《まえんはま》の沖十五、六町(一六三五〜一七四四メートル)に長さ十二間(二一・八メートル)の筏《いかだ》を浮かべ、その上に立てた三つの標的を撃って命中率を見るのをつねとした。その撃ち慣れた海域へと、「ユーリアラス」は後檣《こうしよう》にユニオン・ジャックをひるがえしながら侵入してしまったのである。
百五十ポンド爆砲、ついで八十ポンド榴弾砲が轟音《ごうおん》とともに白煙を吹きあげると、巨弾はその前甲板に爆発。ニール代理公使、クーパー司令長官とともに艦檣上にいた、ジョスリング艦長とウィルモット副長とを戦死させた。
つづけて前甲板には榴弾が命中して砲一門を破壊し、「ユーリアラス」は死者八人、負傷者二十一人を出す羽目になる。
ただしその間に、桜島の袴腰台場との交戦をおえた「パーシュース」も、「パール」、「レースホース」、「アーガス」、「コケット」を追って海岸六台場の前方海域へまわりこんでいた。この「パーシュース」は、台場後方にひろがる鹿児島城下へ盛んにロケット砲を発射した。
ロケット砲は、和名を火箭《かせん》砲。筒の前半分に爆薬を、うしろ半分に推進燃料となる火薬をつめられ、レール状の鋼《はがね》の発射台の上を滑って火矢のように飛び出す。八つ半(午後三時)、城下にはこのロケット砲による火災が発生しはじめた。
この火の手は、東風に乗って西へすすんだ。上町《かみまち》といわれる清水馬場と鶴丸城との間を焼きつくしたあとは、城山へむかって延焼、浄光明寺、その西隣りの不断光院、冷水通町《ひやみずどおりちよう》の興国寺までが紅蓮《ぐれん》の炎につつまれる。
伊東四郎たちがなすすべもなく祇園の洲から背後の空を仰ぐと、シラス台地を背景に黒煙とともにあちこちからあがる炎は、青白く見えるのがますます異様に感じられた。
しかもまだ、祇園の洲台場のいくさはおわりではなかった。
台場の石垣のかなたを南進してきた「レースホース」から撃ち出された一弾は、まだ無事だった二十四ポンド砲への玉ごめを急いでいた伍長税所《ごちようさいしよ》清太の五体を粉砕。その砲にむらがっていた三人に深手、別の三人に浅手を負わせた。残る八十ポンド榴弾砲も、応射した反動で台車が砲座から落ちてしまい、祇園の洲台場はすべての備砲を失ったも同然となる。
ふたたび身を伏せて爆風を避けた四郎が「レースホース」の動きをうかがったとき、この木造スクリュー砲艦に変化が起こった。「レースホース」は左舷に東風を受けて艦首を四郎の顔にむけたかとおもうと、石垣まで半町(五四・五メートル)あまりの浅瀬へ吹き流されてきたのである。
「鉄砲組、出い!」
台場内には活気が甦《よみがえ》り、三百名以上の銃兵が一斉に石垣ぞいに散った。
鉄笠《てつがさ》、お貸し胴具足に臑当《すねあ》て姿の銃兵たちは、十匁《じゆうもんめ》筒といわれる火縄銃か、先ごめ滑腔、火打石式のゲベール銃を持っていた。火縄銃は火皿が濡《ぬ》れると発射不能になってしまうが、カラクリ部分に革製の雨覆いをつければ充分に使える。
四郎も夢中で銃兵たちの後を追い、爆風に枝を折られた黒松の間から石垣の陰へ走りこんだ。そして銃眼に顔を押しつけるようにしてうかがうと、こちらに艦首を突き出している敵艦の様子はどこかおかしかった。
帆柱は大きく左へ傾き、煙出しからは黒煙が太々と昇っているのに、その艦首は波を切り裂いてはいない。「レースホース」は、浅瀬に乗りあげて身動きがとれなくなってしまっていた。
それでもイギリス兵は、果敢であった。「レースホース」の三本マストからは三段の帆桁《ほげた》が左右に張り出し、一段目と二段目のそれのすぐ上には手すりつき四辺形の檣楼《しようろう》がもうけられている。猿《ましら》のごとくその檣楼へ登った白服の水兵たちは、マストの陰から銃撃を開始した。
焙烙《ほうろく》で豆を煎《い》るような音が、彼我双方から湧き起こる。首をすくめてこの銃撃戦を見つめるうちに、四郎は敵の意図に気づいた。檣楼上からの瞰射《かんしや》によって時を稼ぎながら、別の水兵たちは舷側からバッテイラ(短艇)を海へ下ろしはじめていた。
イギリス兵たちがこれに乗り移って手近な地点への上陸をめざすなら、いよいよ肉薄して雌雄を決することができる。西瓜《すいか》舟作戦に失敗し、大事な陣太鼓まで失ってしまった四郎にとって、捲土重来《けんどじゆうらい》の機会とはまさにこのことかとおもわれた。
かれは、朱鞘《しゆざや》の大刀に反りを打たせ、台場へ顔をむけて大声で呼ばわっていた。
「敵は上陸すっ気らしゅごあんど。鉄砲《てつぽ》持たん衆《し》は、斬っこみ仕度い移いやんせ」
この間「ハボック」は、まだ小池沖で大かがり火のように燃えつづける「天祐丸」、「白鳳丸」、「青鷹丸《せいようまる》」の周辺海域を遊弋《ゆうよく》していた。その「ハボック」が持ち場を離れて六台場からの弾着圏内に突入してきたのは、「レースホース」の苦戦に気づいたためであった。
イギリス艦隊中最小の「ハボック」は、「コケット」、「アーガス」とともに「レースホース」後方に接近し、祇園の洲台場からの銃撃にアームストロング砲で応じながら救助作業を開始した。
風雨も止み、明るさのもどった中空に殷々《いんいん》たる響きを伝えて擦過するその砲弾は、四郎に目を瞠《みは》らせた。薩摩砲の撃ち出す丸玉は弧を描いて飛んでゆくのが見えるのに、敵の椎《しい》の実型の長弾は、黒い閃光《せんこう》と化してあっという間に石垣後方に炸裂《さくれつ》する。
全艦一字線となって舷側《げんそく》砲のつるべ撃ちをおこなう戦法を見るのも初めてならば、その威力もあまりに想像を絶していた。
この掩護射撃のもと、四郎の目の前の海上でつづいた「レースホース」の救助作業とは、その船尾にロープを投げ入れ、後方海域へ曳航《えいこう》してなんとか離礁させようとするものであった。同時にバッテイラを下ろす作業は中止され、また四郎は戦況を見つめるしかなくなってしまう。
外輪汽船「アーガス」が蒸気を吹きあげながら舷側の両輪を回転させると、海面が攪拌《かくはん》されて激しく泡立つ。横波を受けるとその外輪の一方が海上にまったく露出し、四郎の耳にガラガラという耳障りな音を伝えてきた。
祇園の洲台場の前方海域に集まったこれら四艦のうちでは、排水量九百八十一トンの「アーガス」がもっとも大きい。ほかの五台場の備砲が砲火を集中したため、そのメイン・マスト、後甲板、舷側にそれぞれ命中弾が出た。
それでも、「アーガス」の機関に異常はなかった。ほぼ半刻(一時間)後、「レースホース」は離礁に成功。四艦は「ユーリアラス」、「パール」、「パーシュース」に続航して単縦陣に復帰し、五台場からの弾着圏外に出て桜島の小池沖へと反転した。
やがて日が落ちて休戦となり、四郎たちは破壊された石垣、砲座の修築に駆り出された。
その間に四郎は、アームストロング砲の威力をあらためて目のあたりにすることになった。畚《もつこ》を取りに番小屋へむかったとき、昏倒《こんとう》した者が戸板に乗せられて運ばれてきたからである。
「どなたさあでごあんそかい」
従者たちのあまりの多さに気づいて四郎がたずねると、そのひとりが口惜しそうにいった。
「大目付の川上龍衛さあじゃ」
川上龍衛は総物主《そうものぬし》という、各台場の物主を統括する役目を仰せつかっていた。
祇園の洲台場の南はじには、祇園社という小さな社《やしろ》がある。川上がこの日祇園の洲台場の砲火が急速に衰えたのを見、兵二百をひきいて加勢に駆けつけてきたとき、その祇園社の玉垣に敵の長弾が当たって爆発。玉垣の破片が、おりからその前を通りかかった川上の左眼に突き刺さったのだという。
(石のかけらでそんなことになるなら、長弾をじかに浴びた者のからだが粉|微塵《みじん》になったのも無理はない)
とおもうと、四郎は自分が今日一日|掠《かす》り傷ひとつ受けなかったことがふしぎでならなかった。
(これからのいくさは、刀ではなく軍艦と洋式砲でするものなのかも知れんな)
かれは濃い眉《まゆ》を寄せて、番小屋のひとつに吸いこまれてゆく川上龍衛とその従者たちの列を目送した。
この夜も、平穏にはおわらなかった。五つ刻(午後八時)前、夜陰に乗じて湾奥にすすんだ「ハボック」が、重富沖に逃れていた琉球船三隻と和船二隻を砲撃炎上させると、つづけて磯の集成館からも火災が起こったのである。
一夜あけて七月三日となっても集成館の火災はつづき、薩摩藩の誇る大砲製造所その他の工場はほとんど瓦礫《がれき》の山と化した。これより前から発生していた城下の火事も町屋三百五十戸、武家屋敷百六十戸、寺院四を焼いたから、薩摩側としては、鶴丸城を直撃されなかったのは奇跡のようなものであった。
その三日午後、イギリス艦隊は高みの袴腰台場があわただしく修築されつつあるのに気づき、順次小池沖を抜錨《ばつびよう》して南へむかった。風雨は去って夏の日射がもどり、視界は良好でその動きは祇園の洲台場からもはっきり見えた。
「エゲレスん野郎《わろ》め、逃ぐっとか!」
にわかに元気を取りもどして地団駄を踏んだのは、四郎の次兄二郎あらため次《じ》右衛門《えもん》であった。四郎とは正反対に痩《や》せぎすで尖《とが》った顔つきの次右衛門は、六番組の鉄砲組に属している。
「いや、兄《あん》さあ。あん航路をまっすぐ行っと、白壁もほかん軍船《ゆつさぶね》もじき終《おわ》いにないもそ」
ひさしぶりの兄との会話に四郎が気を許して答えると、
「なんじゃっち」
四郎より背の低い次右衛門は、目を剥《む》いた。
「俺《おい》は去年の秋にお殿さあのお供をして『永平丸』に乗り、桜島と沖小島《おこがしま》いわたったこっもあったもんで知っちょっとでごあす。あんあたいには水雷と申す鞠《まい》のよな破裂玉がぎっしいと沈めてあいもしてな、船底にぶつかっと爆裂する仕掛けになっておいもす」
薩摩の水雷は、電気水雷。電信機《テレガラフ》の原理を理解し、みずからも電信を打つことのできた先代藩主斉彬の時代に開発された。
桜島とその南西十六町(一七四四メートル)にある沖小島台場との間には、この水雷が多数敷設されていた。それが薩摩藩に最後の勝利をもたらすかも知れない、と四郎は兄に告げたのである。
「そいはまこっか。そいなあ見届くっとじゃ」
「よろしゅごあす」
うなずき合った兄弟は、昨日の砲撃で破壊され、夜の間に建て直された物見|櫓《やぐら》へ登っていった。物見の者も、次右衛門に説明されるや息を飲んで沖に小手をかざす。
しかし、沖小島に急造された台場の者たちはまったくわかっていなかった。北からイギリス艦隊が迫ったのを見たその打ち役たちは、あわてて砲火をひらいた。
それが、水雷によって巨艦を屠《ほふ》る機会を永遠に失わせた。イギリス艦隊はこの砲火を見て、航路を大きく西寄りに変針。桜島―沖小島間に割りこむのを避けて西の沖合を通過すると、すべての帆桁に白帆をひろげ、初日の錨地だった谷山の七つ島沖をめざして水平線に溶けこんでいった。
いわゆる薩英戦争、薩摩人のいう、
「前之浜《まえんはま》ん戦《ゆつさ》」
は、こうして幕を閉じた。同時に、四郎の夢見た西瓜舟作戦、上陸兵への白兵斬りこみ、水雷戦も、ことごとく幻におわったことになる。
あけて四日の七つ刻(午後四時)過ぎ、錦江湾湾口に近い山川港の狼煙《のろし》台からイギリス艦隊の通過が伝えられたため、各台場の先兵たちは勝ち鬨《どき》をあげ、そのうえで各自帰宅することを許された。
上清水馬場一帯は、焼けてはいなかった。長兄仙兵衛、次兄の次右衛門とともに月代《さかやき》、不精髭《ぶしようひげ》の伸びたくたびれきった身なりで丸柱の門を入った四郎は、
「おやっとさあ(お疲れさま)」
と、母喜多の笑顔に出迎えられた。
「行水《あれ》してから、こいを着て神棚とお父上に御挨拶《ごえさつ》をしやんせ」
喜多は小柄で髪もなかば以上白くなっていたが、怪我はなかったか、よくぞ生きて帰ってくれた、などといわないところは薩摩の女であった。
三人うちつれて井戸ばたでからだを洗い、薩摩|絣《がすり》に兵児帯《へこおび》を締めて正助の寝所へゆくと、病みついてひさしい父は枕から頭もあげられないのにいくさの様子を聞きたがった。
勝ち鬨をあげて帰ってきたものの、四郎たちは三人とも勝ったとは感じていない。
敵は一隻たりと失うことなく去ったのに、われは蒸汽船、琉球船各三隻と集成館とを焼きはらわれた。台場の備砲も、大半が使用不能になってしまった。三人が訥々《とつとつ》と報じる間、正助は目をつむり、うんうんとうなずきながら暗い天井に顔をむけていた。
「ほんのこて(本当に)台場いおってん、どげんもならんこっごあした」
と、次右衛門によく似た顔だちの仙兵衛が無念の口調で告げた数呼吸後、
「そうや(そうか)、こいからん戦《ゆつさ》は軍船《ゆつさぶね》と大砲ですっ時勢ちゅうこっじゃね」
正助は痰《たん》のからんだ声でいった。
「そいなら次右衛門と四郎は、海《うん》の戦《ゆつさ》を学んでお殿さあと京の天子さあのお役い立ちやい。俺《おい》はもう、長けこちゃなか。こいは、遺言じゃとおもえ」
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第三章 薩摩火事
「鉞《まさかり》強盗」
ということばが江戸っ子たちの話題にのぼりはじめたのは、それから四年の歳月の流れた慶応《けいおう》三年(一八六七)十一月のことであった。
鉞強盗の特徴は、およそ四つあった。
第一に黒|頭巾《ずきん》に面体《めんてい》を隠してはいるものの、一見して武士とわかる両刀差しの男たちが二、三人、多いときは七、八人一組となって押し入ってくること。
第二に、世間に物持ちとして知られた富商だけをねらうこと。
第三に店の者を斬ったり犯したりはせず、鉞の尻《しり》で金蔵《かねぐら》の錠前を打ちこわして金箱を奪うや迅速に姿を消す手口は、ただの盗っ人どもとはおもわれないこと。
第四に被害が毎晩数軒におよぶにもかかわらず町奉行所や市中見廻りの新徴組が手をこまねいているため、店のまわりを角材で囲むなどの自衛策を講じても一向に効果のないこと。
その後二カ月たらずの間に、富商たちの被害額の総計は二十万両以上に達した。
このころ伊東四郎は、芝新馬場の薩摩藩江戸上屋敷の長屋の一室を根城としていた。四郎は文久《ぶんきゆう》二年(一八六二)八月二十一日に生麦事件が起こるまで、二カ月半この屋敷に滞在したことがある。それからかぞえれば、五年ぶりに出府したことになる。
しかし今度四郎が江戸に下ってきたのは、久光の供としてではなかった。
薩摩藩は薩英戦争を経験したことによって攘夷《じようい》熱の迷妄から醒《さ》め、さる慶応元年のうちに藩論を公武合体から尊王討幕へと改めている。昨慶応二年一月、土佐脱藩坂本龍馬の仲介で薩摩藩家老小松|帯刀《たてわき》・同|側役《そばやく》西郷吉之助と長州藩政事堂用掛木戸貫治(のち孝允《たかよし》)との間で討幕のための薩長攻守同盟がむすばれたあと、時局は転変に転変を重ねた。
まず同年七月二十日、徳川十四代将軍家茂がわずか二十一歳の若さで大坂城中に死亡。十二月二十五日には孝明天皇も三十六歳にして急逝し、公武合体の中心人物がふたりとも消えてしまった。
さらにこの慶応三年十月十三日、西郷とともに薩摩藩誠忠組の領袖《りようしゆう》格として京で暗躍していた大久保一蔵は、前《さきの》左近衛|権《ごんの》中将岩倉|具視《ともみ》から討幕の密勅を拝受。十五日に徳川十五代将軍|慶喜《よしのぶ》が大政奉還をおこなったことにより、旧幕府に代わる新政体樹立の時は眼前に迫りつつある。
だが、すでに平和|裡《り》に大政奉還に踏みきった旧幕府に対して討幕の軍を起こすには、なにか大義名分がなければならない。四郎はその大義名分を確立するという困難な役目をわりふられて、江戸へ下ってきたのだった。
西郷は藩士の益満休之助《ますみつきゆうのすけ》、伊牟田尚平《いむたしようへい》に草莽《そうもう》の志士|相楽《さがら》総三を添えてあらかじめ江戸へ下向させていたから、四郎はその配下に名をつらねたことになる。
益満は江戸に詳しい探索方、伊牟田はヒュースケン斬殺《ざんさつ》にもくわわった古参の荒武者で、ともに後方|攪乱《かくらん》工作むけの男である。
相楽は下総相馬郡の郷士のせがれながら早くから兵学と国学とを学び、文久元年(一八六一)二十三歳にして上野《こうずけ》・下野《しもつけ》・信濃・越後・出羽・秋田を遊歴、元治《げんじ》元年(一八六四)には水戸|天狗《てんぐ》党の筑波山挙兵にも参加しただけに顔がひろい。相楽が四方に檄《げき》を飛ばすと、討幕派の志士たちが続々と薩摩藩邸に集まってきた。
相楽はこの者たちを通用門にほど近い糾合所の建物に寄宿させて、
「糾合所屯集隊総裁」
に就任。四郎たち加勢の若手藩士たちをも誘い、夜な夜な紅灯の巷《ちまた》を徘徊《はいかい》してさらに同志を募りつづけた。
ある夜、四郎とふたり一組になって外出することになったとき、髷《まげ》を志士たちの間に流行の総髪|茶筅《ちやせん》に結っている相楽総三は、角張った顔と妙に着ぶくれした姿をむけていった。
「じゃあ伊東君は、ともかく羽織を二、三枚着て、足もとはわらじ掛けにしてついてきて下さい」
どういうことか、と四郎は首をひねったが、総三も羽織を何枚か重ね着しているようなので、いわれたとおりにして供をした。
通用門から薩摩屋敷の七曲りといわれる細道へ出たふたりは、南側にひろがる品川宿をめざした。
東海道を南下してゆけば、海に面した片側町の高輪からもう水茶屋がめだちはじめ、品川宿に入れば平旅籠《ひらはたご》と飯売りつきの旅籠とが道の左右に甍《いらか》を争っている。水茶屋の数は、十八町(一九六二メートル)の間におよそ百軒。平旅籠とはふつうの宿、飯売りつきとは飯盛女という名目の遊女を置いた宿のことで、これに登楼するには水茶屋へ引手《ひきて》銭を払っておく必要があった。
吉原の遊郭が「北国」、「北州」、「北狄《ほくてき》」などといわれるのに対し、品川は「南国」、「南州」、「南蛮」などの隠語で呼ばれる。品川は宿場でありながら、吉原と並び称される狭斜の巷なのである。
その客層は芝|山内《さんない》の僧たちが五割、近くに上《かみ》・中《なか》・下《しも》屋敷のある薩摩藩の者たちが三割、その他が二割というのが定説で、
「品川の客にんべんのあるとなし」
とは、「寺(僧)」と「侍」の多さを詠《よ》んだ川柳。
「品川へ猪《しし》と狼毎度くる」
の「猪」は薩摩藩士、「狼」は僧のことをいう。
岡側の飯売りつき旅籠は背後に桜の名所御殿山をひかえ、浜側のそれからは裏手に海を見わたすことができる。昼は上総《かずさ》から安房《あわ》へとつらなる連山が海原のかなたに霞《かす》み、夜は白魚捕りの小舟のかがり火が沖合に明滅して客たちの目を楽しませるのが、その繁栄の理由であった。
しかし、相楽総三は三味線の音の流れてくるこれらの店の前は素通りし、暗い裏通りへ入っていった。そしてむこうから浪人風の男が歩いてくると、
「よく見ていて下さい」
と四郎にささやき、その正面へずかずかと近づいていって擦れ違いざま足の先を踏みつけた。
「なにをする」
怒った相手が刀に手を掛けるのを制し、相楽は羽織を脱ぎながらいった。
「お手前、懐中がさびしくはないか。もし図星なら、芝新馬場の薩摩屋敷へ相楽総三をたずねてまいれ。ただし、この羽織を着てくることを忘れるな」
相手は驚きながらも羽織を受け取り、つづけて相楽が差し出した金ももらって頭を下げた。
「では、また会おう」
と鷹揚《おうよう》にうなずいて歩きはじめた相楽のあとを追い、四郎は感心して話しかけた。
「ははあ、あげなこっでよろしゅごあすか」
「あれで十中八九は拙者をたずねてきます。さ、今度は伊東君の番ですぞ」
相楽が顎《あご》をしゃくった先の暗がりからは、傘張り浪人を絵に描いたような蓬髪《ほうはつ》の男が寒そうに歩いてきていた。
二十五歳となってさらに筋骨の稔《みの》った四郎は、もともと巨漢だけに、もしも台幅のひろい薩摩|下駄《げた》をはいて相手の足を踏みつけたなら、その骨を砕きかねない。
(それで、わらじ掛けでついてこい、といったのか)
ようやく気づいた四郎が蓬髪の浪人者の面前に立ちふさがると、先ほどとまったくおなじ光景が展開した。
糾合所屯集隊の者たちが四郎たち藩士の手も借りて二カ月間同志を募りつづけたところ、その数は約五百人に達した。
益満休之助、伊牟田尚平、相楽総三たちがこれらの者たちをつかっておこなったことこそ、鉞《まさかり》強盗にほかならない。
大政を奉還した幕府を「旧幕府」と呼んで、相楽は屯集隊の者たちに通達していた。
「われらの目的は、旧幕府に武器弾薬あるいは軍資金を調達する豪商どもの力を削《そ》ぎ、きたるべき討幕のいくさを少しでも有利に導くことにあるのだ。ゆえに、私利私欲のために財貨を強奪いたすことはまかりならぬ」
だがその背後にはもうひとつ別のねらいがあることを、四郎はよく知っていた。
その四郎も鉞強盗にくわわり、討幕の第一歩を踏み出したのは十二月も下旬を迎えてからのことであった。
十二月九日に朝廷は王政復古を宣言し、前将軍徳川慶喜に辞官納地(官位辞退と土地人民の還納)を通告。すでに陸続と入京しつつある薩長勢と入れ違いに、慶喜と佐幕派の兵力は十二日のうちに二条城から大坂城へ引いていた。こうなれば一触即発の形勢だから、江戸で事を起こすならもはやためらっている場合ではない。
二十日の午後、薩摩藩邸を三々五々あとにした四郎たち十数名は、探索を受け持っていた屯集隊隊士の指示にしたがって堀江町四丁目をめざした。大川(隅田川)の支流、幅二十間(三六メートル)の日本橋川の北岸にあたる堀江町四丁目には、二階建ての河岸《かし》土蔵が屋根妻をならべていた。
幕権失墜とともに江戸は世情不安となり、鉞強盗を真似て押し借り人殺しに走る不逞《ふてい》の輩《やから》、辻斬《つじぎ》りなども横行しているため、中天に朧《おぼろ》月がかかって野犬の遠吠《とおぼ》えが聞こえはじめたころにはふっつりと人影も途絶えた。
江戸湾を横切り、大川河口から日本橋川へと舟を漕《こ》ぎつけてこのときを待っていた四郎たちは、河岸へあがる前に一斉に黒|頭巾《ずきん》をつけた。
日本橋川の北岸に切れこむ掘割にかかるのが、思案橋。その奥に影絵のように見えるのが親父橋。その両方へ先ごめライフル式のミニエー銃を持つ隊士たちを見張りに立たせ、四郎たちは弓張|提灯《ぢようちん》を手にして河岸土蔵の奥へとすすんでいった。
上は羽織にたすき掛け、あるいは綿入れの袷《あわせ》と各自まちまちの出立《いでた》ちながら、すべて腰に両刀を帯びて袴《はかま》を着けているから、人が見ればただの盗賊でないことは一目でわかる。
やがて二階建ての大店《おおだな》の前で案内役が立ち止まると、鉞を持った隊士ふたりが走り出て店のくぐり戸を叩《たた》き破った。
これは、久住《くずみ》伝吉という富商のいとなむ米問屋であった。音に驚いて奥からあらわれた住みこみの者たちは、四郎たちがつぎつぎに入りこむのを見るや、瘧《おこり》の発作を起こしたように震えはじめる。
「われらは、維新回天のための御用金を頂戴しにまいったのだ。おとなしく一カ所にかたまっておれば、命まで取ろうとはいわぬ」
隊士のひとりがくぐもった声で告げると、弓張提灯の赤い光を浴びた寝巻姿の者たちはカタカタと歯を鳴らしながらその場にへたりこんだ。
手早く地下の穴蔵の錠前を破り、金箱を運び出しはじめた隊士たちに、四郎はいった。
「俺《おい》に考《かん》げごっがあいもす。米俵も二、三俵|運《はこ》っもんそ」
お国|訛《なま》りが出たことも、四郎はいっさい気にしなかった。
五斗俵が運ばれてくるのを見た四郎は、
「どい(どれ)、こいは俺《おい》が」
と一俵を右肩にかつぎあげたつぎの瞬間、もう一俵を左手に提げて悠然と外へむかった。
そのころには両隣りの店の二階の雨戸が動き、早拍子木が乾いた音を立てて打ち鳴らされていた。それでも寺田屋事変や生麦事件を間近に見、イギリス艦隊の砲撃に身をさらしたことのある四郎はたじろがなかった。
「これは薩摩藩のしわざだ」
と、町奉行所や新徴組が早く気づいてくれた方が、話は早い。
「いやはや、伊東さんの膂力《りよりよく》は大変なものですな。それにしても、今夜の番太郎はばかにカチカチ叩きやがる」
肩をならべた隊士に四郎が苦笑を返したとき、その隊士はふところから呼子笛を取り出して短く吹き鳴らした。
それが、見張りの銃兵たちへの引き揚げの合図であった。また舟に乗りこんだ四郎たちは、思案橋をくぐって日本橋川、そこから鎧《よろい》の渡しを越えて江戸湾に出、品川台場の赤灯、緑灯を目安に芝の浜辺へ帰りついた。
波の騒ぐ砂浜に舟を押しあげた四郎たちは、隠しておいた荷車に金箱と米俵とを積みこみ、薩摩藩邸をめざそうとした。
また人並すぐれた力を発揮して荷車の後押しをつづけていた四郎は、足もとの砂地が途切れたのを見計らって前をゆく者たちに呼びかけた。
「いっとっ(ちょっと)待ちやい。こんあたいで始《はつ》めもんそ」
なにをする気か、という面持で屯集隊の者が振りむく間に、すでに黒頭巾をはずした四郎は荷車上の米俵を一俵手もとに引き寄せていた。そして脇差を抜き放って刀身を朧月に青白く輝かせたかとおもうと、その輝きを米俵に埋めこんで大きく抉《えぐ》る。
四郎が脇差を抜き取ると同時に、米粒は細い流れと化して足もとへ落下しはじめた。
「さあ、行《い》っきやんせ」
四郎は、この四年の間にめっきり精悍《せいかん》さを増した顔をもたげていった。
「こん米ん跡がお屋敷までつづいちょっこつに気づきさえすれば、町奉行所の役人どもも新徴組も、こいが何者のしわざかわかっとでごあんそ。俺《おい》どもが舟を使《つこ》ったこつを、誰《だい》か見ておってくいやっとなら都合《つご》がよかが」
益満休之助、伊牟田尚平、相楽総三、そして四郎たちは、旧幕府側兵力を挑発し、旧幕府側から戦端をひらかせるために江戸へきたのである。これは島津義弘の関ヶ原の敵中突破に似て、かならずしも生還を期待することはできない行動であった。
四郎は維新回天のためにすでに覚悟はできていたが、その四郎や相楽に足を踏まれて薩摩藩邸に投じた浪士たちには、そこまで考えていなかった者も少なくない。荷車に群らがっていた者たちの一部は、四郎のことばにたがいの顔を見合わせていた。
薩英戦争終結から伊東四郎の江戸下向までの四年間に、薩摩藩は次代の覇者となる道を着々と歩んでいた。
それには小松|帯刀《たてわき》、大久保一蔵ら誠忠組内閣の面々が、四郎同様、イギリス艦隊の錦江湾退去を単純に自藩の勝利とは見なかったことが大きい。
イギリス側の大艦巨砲の威力をいやというほど味わわされたかれらは、攘夷《じようい》論の無謀さとともに薩英講和の必要性を痛感。支藩の佐土原藩の勧めもあり、文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)九月末から江戸家老岩下佐次右衛門を窓口としてイギリス代理公使ニールとの和平交渉に乗り出した。
この交渉は十月二十九日、つぎのようなかたちで決着を見た。
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一、薩摩藩は佐土原藩主島津|淡路守忠寛《あわじのかみただひろ》の名をもって、償金二万五千ポンド(六〇三三三両一分)を支払う。
二、おなじく薩摩藩は、生麦事件の犯人処罰を確約する。
三、イギリスは右の交換条件として、薩摩藩がイギリス製軍艦を購入することに同意する。
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ニールは、薩摩藩が第二項を守るとはおもっていなかった。だがイギリス人側にも犯人識別能力がないため、第一、第三の両項をもって講和に応じることにしたのだった。
この交渉がすすむうちに、鹿児島城下上清水馬場の伊東家では、あるじの正助が最期のときを迎えていた。同年十月二十日死亡、享年六十七。
「次右衛門と四郎は、海《うん》の戦《ゆつさ》を学んでお殿さあと京の天子さあのお役い立ちやい」
という正助の家長としての命令は、本当の遺言と化したのである。
次兄の次右衛門と四郎とが父の遺命にしたがって生きる方途は、あけて元治《げんじ》元年(一八六四)六月、薩摩藩が開成所という名の新しい藩校を設けたときにひらかれた。
ここで授けられる新知識は、海陸軍砲術、操練、天文、測量、航海術、造船、物理など。ちなみに水軍という従来からの表現に代わり、
「海軍」
ということばが日本語に馴染《なじ》むのも、このころからのことになる。
オランダ語と英語の伝習(授業)もあると聞いて次右衛門・四郎兄弟も開成所に入り、これまでは蟹《かに》文字といわれていたアルファベットから学びはじめた。
四郎の学習態度の特徴は、人一倍大きな手に筆をにぎると実にみごとな文字を書きつらねてゆくところにある。寺子屋に通っていた少年時代からのことであったが、その筆跡の美しさはアルファベットの書き取りにおいてもきわだっていた。
しかし、四郎が開成所に通った日々は一カ月に満たなかった。
翌七月、藩庁は開成所通いの者たちから海軍伝習のための国内留学生を募った。これは、幕府軍艦奉行の勝|安房守《あわのかみ》義邦(海舟)が摂津の神戸村に海軍操練所を開設し、幕臣の子弟のみならず西国諸藩にも修業生を公募したのに応じてのこと。
勝義邦といえば、安政《あんせい》七年(一八六〇)一月に咸臨丸を指揮して太平洋を横断し、アメリカを訪問したことによって知られていた。
四郎はすでに、上方《かみがた》の地を踏んだことがある。幕府の海軍力が薩摩藩のそれをはるかに凌《しの》ぐことも知っていたから募に応じてみると、留学生二十一人のうちに選ばれて神戸行きを命じられたのである。
北の空に六甲山と摩耶《まや》山とを仰ぐ神戸村は、三宮《さんのみや》の生田《いくた》神社の森に白鷺《しらさぎ》が集まり、その南にひらいた走水《はしうと》の浜に鴎《かもめ》の舞う天領であった。村高七百石、戸数は約五百。
「くだらない」
といえば、上方から江戸へ廻漕《かいそう》していっても売れない品物という意味だが、走水の浜は水深があり、遠く品川沖をめざす菱垣《ひがき》廻船、樽《たる》廻船の沖泊りできる港として名前があった。
幕府が勝にこの村のうちの一万七千百三十七坪の用地と年に三千両の予算とを与え、海軍操練所をひらかせたのは、幕府海軍の士官養成を期待したためにほかならない。
ところが勝は、さらにひろい視野の持ち主であった。かれは佐幕派と討幕派の別を問わず諸藩から優秀な人材を集め、国際情勢にめざめさせて国家有用の士に育てようと考えていた。
だが海軍操練所は幕府の一部局だから、直臣たる幕臣子弟たちと陪臣である諸藩からの留学生たちとの間には、どこかで一線を画しておかなければならない。そこで勝は、前者約百十名を築地《ついじ》塀でかこんだ操練所内の寄宿舎に収容。後者九十人あまりは生田神社近くにもうけた私塾に起居させることによって、幕府の顔を立てることにした。
「勝塾」
といわれたこの塾の、塾頭は土佐脱藩の坂本龍馬。
留学生のうちでは紀州和歌山藩士たちが二十五名ともっとも多かったが、そのなかで中村小次郎という者がすっかり浮きあがった存在になっていた。小次郎はなおも攘夷熱やみがたく、痩《や》せたからだに似合わぬ長刀を差して大言壮語する癖があったため、
「嘘つき小次郎」
と渾名《あだな》されてだれともつきあってもらえなかった。
塾生たちのうち、嘘つき小次郎とも陰|日向《ひなた》なくつきあうのはひとり四郎のみであった。
「小次郎さあ、俺《おい》と相撲《すも》を取いもはんか」
一日の受講をおえてかれが談笑の輪に入れずにいるのを見かけたときなど、四郎はにこやかに声をかけるのをつねとした。
「よし」
と応じて前庭に跳びおりた小次郎と相撲の技を競う姿によって、四郎は長く勝の印象に残ることになる。
中村小次郎とは明治二十七年(一八九四)に外務大臣として日英通商航海条約に調印し、それまでの不平等条約の撤廃に成功する陸奥《むつ》宗光のことである。
実地の帆前操練、戦争操練は操練所付属の「観光丸」に乗り、近海を航海しながら学んだ。
「観光丸」は、もとの名を「スームビング」。安政二年(一八五五)にオランダ国王ウィレム三世から幕府に贈られた木造外輪のコルベット艦で、「咸臨丸」、「朝陽《ちようよう》丸」とともに日本初の海軍練習艦となった船歴がある。砲六門をそなえ、長さ二十九間(五二・七メートル)、幅五間(九・一メートル)、排水量は四百トンと三艦中ではもっとも大きかった。
木綿の筒袖《つつそで》服に脇差、小袴《こばかま》姿、下駄《げた》ばきで走水の浜へ通う四郎たちは、バッテイラからその甲板へ上がる前にかならず草履《ぞうり》にはきかえ、艦内に流行病《はやりやまい》を持ちこまないよう衣服とからだとをつねに清潔にしておくことから教えこまれた。
「観光丸」は汽帆兼用の軍艦で、甲板上には三|檣《しよう》を屹立《きつりつ》させている。
前檣はフォア・マスト、主檣はメイン・マスト、後檣はミズン・マスト。それぞれのマストには部分的名称もあり、下部をロワー・マスト、中部をトップ・マスト、上部をトップ・ギャラント・マスト、頂点をロイアル・マストということ、帆《セール》を略してスルといい、そのスルを掛ける桁《けた》をヤードと呼ぶなどといった用語から専門知識までを、四郎はこの時代に身につけた。
その専門知識とは、羅針儀・測定儀・測深儀による方角・速力・水深の測り方、経線儀によるグリニッジ時間の調べ方、六分儀による天体観測と船の現在位置の割り出し方、……。
(あのイギリス艦隊は、砲弾を撃ち出す前にこれだけの計算をおこないながら前之浜へやってきたのか)
と舌を巻いたとき、四郎は攘夷論のむなしさをつくづくと実感させられていた。
しかし勝義邦は元治元年十一月十日にお役御免となり、神戸海軍操練所そのものも翌年三月十八日付で閉鎖されてしまった。勝が寄宿生のほかに諸藩からの留学生をも受け入れていたことが、幕閣の不興を買ったのである。
神戸村を去るにあたって勝は四郎たちを塾の講堂に集め、髷《まげ》を総髪大たぶさに結った彫りの深い顔だちに憂いを刷《は》いて告げた。
「おれがお前さんたちを集めたのはな、国家存亡のときに際して微力をつくすことのできる者を育てたかったからだ。わかるかえ。なのに徳川《とくせん》家の延命策しか頭にねえ連中は、それがかえって幕府のためになるということもわかろうとしやしねえ。お前さんたちはそれぞれ帰国したあとも、国とは藩のことじゃねえ、三百藩すべてをひっくるめてのことだということを忘れずに、国家有用の人材となってくれ」
元治元年七月中には、尊攘激派の最先鋒《さいせんぽう》たる長州藩が遠征軍千六百を京へ派遣。薩摩・会津以下の公武合体派諸藩の守る御所へ攻め寄せて、禁門の変(蛤御門《はまぐりごもん》の変)をひき起こしていた。幕府は一敗地に塗《まみ》れた長州藩を賊軍と名指し、長州征伐を呼号しつつある。
対して勝は軍艦奉行の任を解かれる前に、坂本龍馬を京の西郷吉之助のもとに使いさせて画期的な持論を伝えさせていた。
「日本が欧米列強に伍《ご》して生きのびるには、幕府に大政奉還をおこなわせ、雄藩連合によって国内統一をはかるしかない」
西郷が勝の幕臣という身分を超えた気宇壮大な考え方に息を呑《の》んだ、という話は、四郎の耳にも聞こえてきた。
四郎自身も勝の物の見方には大いに啓発されるところがあったから、いざ勝塾と海軍操練所とがふたつながら廃されてしまったあとも、身の振り方には迷わなかった。
四郎は操艦法はほぼ学んだとはいえ、まだ砲術を本格的に身につけてはいない。
鹿児島を出立する前、
「汝《わい》が神戸村い行きやっとなら、俺《おい》は江川塾い入門して砲術ん腕から磨《みが》っもそ。汝も神戸村がおもちょったほどんこつじゃなかとなら、俺《おい》を追って来ればよか」
と次右衛門がいっていたことをよくおぼえていた四郎は、この次兄と手紙を交換したあと伊豆の韮山《にらやま》代官所めざして旅立ったのだった。
韮山代官所は、甲斐《かい》、武蔵《むさし》、駿河、伊豆、相模五カ国のうちに二十六万石もの支配地をもっていた。その代官江川家の当主は代々太郎左衛門を名のるしきたりだが、江川塾の名が天下に轟《とどろ》いたのは、先代の江川太郎左衛門|英龍《ひでたつ》以来のことになる。
長崎の人高島|秋帆《しゆうはん》といえば、出島のオランダ人から洋式砲術を学び、天保《てんぽう》十二年(一八四一)、江戸郊外の徳丸ヶ原において西洋砲四門の実射と歩兵・騎兵による洋式銃陣(操練)を初めて指揮してみせた高島流砲術の祖としてその名を知られた。
これを見て軍制改革に踏みきった幕府から、西洋砲の鋳造と高島流の砲術研究を命じられたのが江川英龍。英龍は韮山に反射炉を建造して西洋砲鋳造に成功したばかりか、幕臣川路|聖謨《としあきら》、松代藩士佐久間象山ら開明的な者たちを弟子として迎え入れ、門人四千人と世に謳《うた》われた。
安政二年に英龍が逝き、英敏《ひでとし》、つづいて英武《ひでたけ》の代になってからも手代たちがあとを引きつぎ、農兵の育成法から洋式造船術までを伝授していたから、江川塾のにぎわいは海軍操練所の比ではなかった。
四郎が江川塾に腰を落ちつけて東西の形勢を観察する間に、元治《げんじ》二年は四月七日をもって慶応《けいおう》と改元され、やがて幕府軍と西国諸藩による第二次長州征伐がはじまった。
薩摩藩がこの長州征討軍への参加を拒否したのは、朝令暮改をくりかえす幕府を見限り、勝義邦から伝えられた雄藩連合による新政府樹立にむかって動き出していたためである。薩摩藩が、長州藩に長崎の武器商人グラバーから新式銃を大量購入できるよう斡旋《あつせん》したこともあって、幕府勢は連戦連敗となった。
その後、徳川十四代将軍家茂と孝明天皇とがおなじ慶応二年(一八六六)のうちに相ついで急逝。同三年もなかばを過ぎると土佐藩が大政奉還建白運動を展開し、政情は大波瀾《だいはらん》となった。
これを見て、
「兄《あん》さあ。こいはもう、塾生暮らしをつづけちょっときじゃなかごっごあす」
「うむ、チェスト行けとはこげな場合のこっじゃ。こん韮山い引っこんじょっと、卑怯者《ひつかぶい》とおもわれて父上の遺言にも背きもそ」
と話しあった四郎と次右衛門は、秋風の立つ前に京へ上っていった。
すると、ふたりが相国寺前の薩摩藩京都屋敷に入ってまもなく十五代将軍慶喜が大政奉還に踏みきったため、武力討幕に立ちあがるにはさらに旧幕府にゆさぶりをかける必要を生じた。
「誰《だい》か、俺どもと江戸い下って維新回天の捨石になってんかもわんという者《もん》はおらんか」
益満休之助、伊牟田尚平らの猛者《もさ》たちが決死の同志をひそかに募っている、と聞いた四郎は、
(四年前、祇園の洲台場で死んだとてふしぎではなかった身ではないか)
と考えて新政府樹立のために挺身《ていしん》することを決意、次右衛門と水盃《みずさかずき》を交わし、益満たちに一歩遅れて江戸へやってきたのである。
その四郎が、久住伝吉方から奪った米俵からわざと米粒をこぼしながら芝新馬場の藩邸へもどった翌日の十二月二十二日は、冷えこみのきつい夜となった。
それをものともせず藩邸を忍び出た屯集隊の十数名は、四郎よりもさらに激しい挑発行為をこころみた。
江戸の市中見廻りをおこなっているのは、庄内藩お預かりの新徴組の隊士たち。これは京都守護職会津藩お預かりとして京の市中見廻りに従事する新選組とおなじく佐幕派浪士たちから登用された者たちで、芝三田方面を分担するその六番組二十六人の屯所は、増上寺の南側、赤羽橋橋詰めのそば屋「美濃屋」に置かれている。
凍《い》てついた地面を踏んでその「美濃屋」へむかった屯集隊は、これでもか、といわんばかりに「美濃屋」の暖簾《のれん》めがけて物陰から銃撃を浴びせて逃げてきた。
つづけて十二月二十三日の七つ半(午前五時)過ぎには、江戸城二の丸奥御殿のお広敷長局《ひろしきながつぼね》から火が出て次第に焼けひろがった。お広敷とは表御殿と大奥との間を取りつぐ表役人たちの詰所のこと、お広敷長局とはその近くにある奥女中たちの住まいをいう。
二の丸大奥の女主人は、十三代将軍家定の未亡人篤姫あらため天璋院敬子《てんしよういんすみこ》であった。天璋院は薩摩島津支族の家に生まれ、初め島津斉彬、のち摂関家近衛|忠熙《ただひろ》の養女というかたちをとって家定の正室に迎えられた者だから、島津家と幕府とをつなぐ貴重な存在でもある。
その天璋院は、三の丸から西の丸へと逃れて事なきを得たが、
「あれは天璋院みずからが、薩摩屋敷の浪士どもを手引きして火つけさせたに違いない」
という噂が江戸にひろまるのに、さほど時間はかからなかった。
前将軍徳川慶喜は二条城から大坂城へ引いたとはいえ、なおも旧幕府兵および佐幕派諸藩の兵約一万五千を擁している。対して入れ違いに入京した薩摩・長州・芸州三藩の兵力五千は、討幕の気配をあらわにして慶喜の動きをうかがっている。それだけに天璋院とそのおつきの者たちは、江戸在府の幕閣から通敵を疑われてもいたし方ない立場にあった。
そして、芝新馬場の薩摩藩邸にいる伊東四郎は、その日のうちに出火の真相を知ることになった。
江戸|攪乱《かくらん》のための次策を相談すべく糾合所に相楽総三をたずねたところ、相楽の部屋に集まった屯集隊の幹部たちは感嘆しきりの面持で話し合っていた。
「さすがに、伊牟田殿だな。昨夜、炭団《たどん》をたくさん風呂敷《ふろしき》につつんで出かけるのを見かけて妙な出立《いでた》ちをなさるとおもいはしたが、よもや城へ忍びこむとは考えもつかなんだ」
「忍びの術に長じている益満殿も一緒だったようだから、まあ御両所が帰ってこられたら、後学のために潜入経路を聞いておくことだな」
四郎はこの会話から江戸城の出火が単なる失火ではなく、益満休之助と伊牟田尚平による工作の一環だったことを悟ったのである。
「いかに惰弱とはいえ幕府もここまで虚仮《こけ》にされては黙っていられますまいが、念には念を入れてもう少しやりますか」
と幹部たちの輪のなかから四郎に不敵な笑顔をむけた相楽は、その夜にも屯集隊の一部に銃をもたせて出撃させた。この者たちは、新徴組とはまた別に市中見廻り役をつとめている庄内兵の屯所へ銃弾を撃ちこんで引き揚げてきた。
その屯所が置かれていたのは、三田一丁目にある春日明神門前の「吹貫《ふきぬけ》」という寄席。春日明神は、薩摩藩邸の西側を南北に走る四国丁に面している。相楽は鉞《まさかり》強盗によって江戸を不安に陥れるだけではすまなくなったと見て、「美濃屋」襲撃につづき、直接庄内藩を怒らせることにしたのである。
自分たちの命と引きかえに討幕の名分を立てようとするこの戦略は、やがて結実のときを迎えた。
挑発された庄内藩と新徴組の側からすれば、「美濃屋」は四国丁の北のはじに位置し、「吹貫」同様薩摩藩邸にほど近い。江戸城二の丸の不審火も天璋院によって薩摩にむすびつけられるし、鉞強盗とおぼしき人影が米俵から米粒をこぼしながら薩摩藩邸の方角へ消えてゆくのを見た、と町奉行所に届け出た者もある。
それらの報告から不逞《ふてい》浪士たちの巣窟《そうくつ》を薩摩藩邸と判断し、江戸留守居の三人の老中に逆襲を提案したのは庄内藩主酒井|忠篤《ただずみ》自身であった。
まだ十五歳の少年ながら、かつて徳川四天王と世に謳《うた》われた酒井家当主の誇りのもとに生きている忠篤は、あけて二十四日、川越藩主松平康直、淀藩主稲葉正邦、唐津藩世子小笠原|長行《ながみち》の三老中に決意を表明。もともと対薩長開戦論を持論とする勘定奉行小栗|忠順《ただまさ》の支持を受け、その日のうちに譜代諸藩に出兵準備を求めるかたわら、フランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ砲兵大尉に薩邸攻めの指導を乞うた。
長州藩の大敗におわった下関|攘夷《じようい》戦と薩英戦争の結末、江川塾への留学生の復命などから西洋砲の威力を知った庄内藩が、旧幕府にまねかれて一年前に来日したブリュネに助言を仰いだのはただのおもいつきではなかった。
薩摩藩は屈指の雄藩だけに、その江戸上屋敷の敷地は三万五千坪以上ある。南にむかって凸の字型に張り出すその敷地の東側には田中稲荷と大垣藩中屋敷、北側には苗木藩、柳本藩の両上屋敷と薩摩藩中屋敷とがならび、西側には幕臣大久保|主税《ちから》邸と徳島藩中屋敷、南側には鹿野藩上屋敷が冬枯れの屋敷森を見せている。
四国丁とその西寄りの綱坂とをへだてたさらに西側には薩摩の支藩佐土原藩の上屋敷があるが、これも東側を伊予松山藩中屋敷、北側を久留米藩上屋敷、西側を柳本藩のもうひとつの上屋敷、南側を会津藩の下屋敷にかこまれていた。
佐土原藩も薩摩藩に気脈を通じていると見るのが自然だから、やるなら両藩邸を同時に攻囲する必要がある。だが、誤って砲弾を近隣の大名屋敷に撃ちこんだりしてはあらたな悶着《もんちやく》の種となりかねないと見て、現役のフランス軍人であり、実戦経験豊富なブリュネ砲兵大尉に出馬が要請されたのである。
金髪|碧眼《へきがん》の二十九歳、口髭《くちひげ》だけは褐色のブリュネの来日目的は、幕府陸軍の洋式化をすすめることにあった。この依頼に応じたかれは、爆発して弾片を四方に吹きつける榴弾《りゆうだん》と初めからひろい範囲に飛び散る霰弾《さんだん》、滑腔《かつくう》砲の四ポンド野砲とそれより命中精度の高い四ポンド施条山砲とによって宏大な屋敷を攻略する方法を伝授した。
戸や窓は、榴弾によって破壊してから突入する。その際、隙間にむかっては霰弾を撃ちこむ。五百メートル以上の距離を置いて砲身に充分な仰角をもたせ、よく調節して発射すれば決して撃ち越しの恐れはない、……。
こうして四郎は祇園の洲台場を守っていたときにつづき、ふたたび近代的砲戦に身をさらす瞬間へと着々と近づいていった。
二十四日の夜は、しんしんたる寒さとなった。今日流にいえば、大寒波の襲来であった。
その極寒の闇に白い息を流し、砲車を軋《きし》ませて芝三田をめざしたのは、純和装に籠手臑当《こてすねあ》てをつけ、頭には黒塗り裏金の陣笠《じんがさ》、小脇には槍《やり》か弓をかいこんだ庄内兵と新徴組の一千に、加勢をくわえた計二千の兵力。とりあえずの目的は主力を薩摩藩邸をかこむ土塀ぞいに展開させ、加勢たち――前橋、鯖江《さばえ》、上ノ山、出羽松山、旧幕府の各兵によって佐土原藩邸をもつつみこむ第二の包囲網を布《し》くことにある。
霜が降りて地面や土塀の黒瓦《くろがわら》をしらしらと燦《きら》めかせるにつれ、これら二重の包囲網は夜明け前に完成に近づいた。
薩南育ちの四郎には、苦手なものがふたつあった。蛇と寒さと。
蛇は上清水馬場ばかりか鹿児島のどこでもよく見かけたものだが、四郎は幼いときから蛇に気づくと、考える前に血相を変えて跳びすさってしまう。父正助から切腹の作法を学び、薩摩|兵児《へこ》として死地に身を置くことをためらわない胆力を身につけたにもかかわらず、どうにも蛇だけは駄目なのだ。
それにくらべれば、京や江戸の寒さは防寒の用意をすればよいからまだましといえた。
それでもこの夜の冷えこみには格別のものがあり、表長屋二階の一室に寝《やす》んでいた四郎はよく寝つけなかった。大きなからだで寝返りを打つうちに、どこからか人語と祇園の洲台場でよく耳にした具足の擦れあう音が聞こえたような気がして、
(空耳だ)
とおもっても、どうにも眠りに入ってゆけない。
しかもそれは、決して空耳ではなかった。
大勢が鎖つきのいくさわらじを鳴らして霜を踏む音、車の軋み、馬がブルブルと鼻腔《びこう》を震わせる音を聞いたとおもったとき、四郎は暗闇のなかにむくりと上体を起こした。
藩邸の表門は北にむかって据えられ、二階建ての表長屋はその左右に長くのびて塀の役割を兼ねている。布団を脱け出した四郎が寒さも忘れて連子《れんじ》窓から門前の通りを見下ろすと、案の定、影絵のような無数の人影がひしひしと藩邸を取りかこもうとしていた。
(ついに来たか)
とおもったものの、四郎はふしぎなほど落ちついていた。
夜明けとともに大いくさが始まるだろうが、旧幕府側から開戦させることに成功したなら、それで自分の役目はおわる。
そう腹をくくると同時に、四郎の脳裡《のうり》をそろりとよぎった和歌があった。
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身はたとひ武蔵の野辺に朽《くち》ぬとも留め置かまし大和《やまと》魂
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安政《あんせい》六年(一八五九)十月、安政の大獄によって斬《ざん》に処された長州人吉田松陰の絶唱である。
「いまの幕府も諸侯ももはや酔人なれば、扶持《ふち》(救助)の術《すべ》なし。草莽崛起《そうもうくつき》の人を望むほか頼みなし」
と、世にさきがけて志士たちによる討幕を夢見た松陰のこの辞世は、草莽の志士をもってみずから任じる相楽総三の愛吟するところでもある。
四郎も有馬新七ら寺田屋での上意討ちに斃《たお》れた脱走誠忠組の面々、川上龍衛以下イギリス艦隊の砲火を浴びた藩士たちの姿を間近に見てきただけに、この期におよんで生きのびようとはおもわなかった。
とはいえ、旧幕府勢が迫ったことに気づいた以上、座して死を待つ気にはとてもなれない。
(よし、屯集隊に合流して最後の一戦だ)
手早く衣装をつけて刀の下緒《さげお》をたすき代わりにした四郎は、長屋住まいの者たちをつぎつぎに叩《たた》き起こしてから糾合所の建物めざして走り出していた。
薩摩藩はすでに開戦を予期し、江戸詰め藩士たちのほとんどを国許《くにもと》へ返していた。なおも上屋敷に暮らしているのは、もう百人ほどしかいない。
糾合所屯集隊の顔ぶれも、玉石|混淆《こんこう》だけに離合集散が激しかった。とくにこの数日間、相楽の指令は矯激の度をくわえていたため、身の危険を感じて姿を消した者も相ついで、人数は二百人あまりになっていた。
しかし、あえて残留しているのは筋金入りの志士ばかりだから、四郎が駆けつけたときには早くもいくさ仕度に余念がなかった。思い思いに武装して板貼りの講堂に集まっていた隊士たちは、手慣れた動きでミニエー銃に装弾しては、ガンドウと弓張|提灯《ぢようちん》に火を入れてゆく。
「やあ、伊東君、いよいよ死にどきですな」
講武所|髷《まげ》を乱してやってきた四郎に気づき、緋《ひ》の陣羽織を着た相楽総三が上座の燭台《しよくだい》のかたわらから不敵な笑額をむけてきた。
「もしも死地を脱して西郷さんや大久保さんに再会できた者は、相楽は『あとはおまかせした』と語って恬淡《てんたん》と出撃していったと伝えてくれ、と一同に申しわたしていたところですよ」
「ほんのこて、『留め置かまし大和魂』の歌の心がようわかいもした」
近寄って頭を下げた四郎は、走って火照った頬に笑窪《えくぼ》を作って答えた。
「じゃっどん、まこて、ついこん前《まい》まで俺《おい》が強盗を真似っこっがあっとは思《おも》がけん(思いがけない)こっごあした」
相楽がうしろ手に鉢金をつけながらうなずくうちに、また講堂に駆けこんできた者がいた。
「お留守居役よりの御伝言でござります」
と叫んだその男は、留守居役篠崎彦十郎の若党であった。かれは、四郎が振りむくより早く甲高い声を講堂に響かせていた。
「お屋敷はまったくかこまれたようなれば、みなさまは機を見てそれぞれに血路をおひらき下され。品川沖には弊藩の持ち船『翔鳳丸《しようほうまる》』もおりますから、これに投じるも勝手次第とのことでござる」
「翔鳳丸」とは薩英講和成立後の元治《げんじ》元年(一八六四)、「平運丸《へいうんまる》」、「胡蝶丸」、「乾行丸《けんこうまる》」、「豊瑞丸《ほうずいまる》」と前後してイギリスから買い入れられた蒸気内車船のこと。薩摩藩は慶応《けいおう》になってからも「龍田丸」、「開聞丸《かいもんまる》」、「三邦丸」、「春日丸」とイギリス船を購入し、海軍の充実につとめていた。
この「翔鳳丸」が品川沖まできているのなら、全員が藩邸にこもったまま死を迎える必要はない。
(ようやく、江川塾で磨いた砲術の腕を見せるときがきた)
と感じ、四郎は屯集隊の者たちに呼びかけていた。
「そいなあ(それなら)、誰《だい》か手を貸してくいやんせ。戦《ゆつさ》になったや俺《おい》が中庭ん築山あたいから大砲を撃っかけもそ。後《あて》ん衆《し》は、そん間に隙を見て斬って出ればよろしゅごあす。一丸になって行きやっとなら、『翔鳳丸』い着《つ》っこっも出来《でく》っかも知れもはん」
はしなくも四郎は、このことばによって将たる器であることを垣間見せていた。
「よし、それでまいろう」
と相楽が応じたことにより、話は決まった。
四郎と砲術の心得のある隊士たちは、凍《い》てつく闇にガンドウの光を投げかけながら武器庫へ急いだ。そして四ポンド山砲を曳《ひ》き出すうちに、東の空はゆっくりと白みはじめた。
この薩摩藩邸のうちには、黒瓦平屋建ての本殿と奥殿とを中心に家老屋敷、諸役所、倉、厩《うまや》、若党・中間《ちゆうげん》部屋、武道場、学問所を意味する糾合所など、大小さまざまな建物がある。本殿と奥殿との間にひろがる中庭の築山には老松《ろうしよう》や奇岩が配され、一面に霜の降りた枯芝の斜面は氷の張りつめた心字の池へと流れ下っていた。
伊東四郎たちがその築山へ運びあげたのは、二門の四ポンド山砲であった。
二輪の台車に砲身を据えた四ポンド山砲は、口径八十六・五ミリ、最大射程二千六百メートル。昨慶応二年(一八六六)、フランス皇帝ナポレオン三世が十二門を幕府に寄贈すると幕府がこれを見本として諸藩にその製造をうながしたため、およその藩は四ポンド山砲を所有するようになっていた。
この砲は鋼鉄製元ごめのアームストロング砲と違い、青銅製先ごめではあるが、
「ボンベン」
といわれる信管つき椎《しい》の実型の榴弾《りゆうだん》や榴霰弾《りゆうさんだん》、霰弾を撃ちわけられるところに最大の特徴がある。爆裂しない丸玉を飛ばすだけの旧式滑腔砲を主武器として薩英戦争を戦った薩摩藩も、四郎が江川塾にいる間に面目を一新していたのである。
ただしこの砲は、旧式滑腔砲以上に発射までの手順が面倒であった。大型|※[#「木+朔」]杖《かるか》で砲身内部を掃除し、砲口から火薬袋を押しこんだあと、砲弾の裾《すそ》に二段に突き出た鉛の鋲《びよう》を砲身に刻まれた溝に精確に合わせないと装弾できない。
慣れた砲兵が十人一組となっても五分はかかるこの作業を、四郎は砲術の心得のある志士たちに手伝わせながら落ちついてすすめていった。
武器庫から弾薬箱、火薬袋とともに運ばれてきたもののなかには、木砲もあった。木をくりぬいて竹の環をはめただけの木砲は、丸柱同然のしろものである。
四郎はちょっと思案してからその砲身を老松に縛りつけ、仰角を持たせて使うことにした。旧幕府勢は表門を突破したなら、本殿の左右へ迂回《うかい》して中庭へ殺到してくるだろうから、あらかじめ砲口をその方角にむけておけばよい。
小暗い築山にガンドウと弓張提灯の火を交錯させていた四郎たちが、火を松明《たいまつ》に移したのは明け六つ刻(午前六時)のことであった。表門と四郎たちとの間に建つ宏大な本殿の甍《いらか》の東側から、雪と見まごうばかりに屋根をおおった霜が朝日に照り映えはじめる。
と、本殿の様子を見にいっていたひとりが、勝手口から走り出てきて小さく叫んだ。
「たったいま、談判がはじまりました!」
表門から請じ入れられた庄内藩代表と薩摩藩留守居役篠崎彦十郎との談判は、講和を目的とするものではまったくなかった。
庄内藩側の要求は、
「不逞《ふてい》の浪士どもがこの屋敷を巣窟《そうくつ》としておることは、すでに探知している。上意であるからその浪士どもをおとなしく引きわたせ」
との一点に存した。
対して篠崎彦十郎も、四郎たち同様藩邸を死場所とする覚悟だから怯《ひる》まなかった。
邸内にそのような者たちがいるかどうかは、調べてから返事する。木で鼻をくくったように答えたかれは、逆ねじを食わせた。
徳川家はすでに大政奉還をおこなったのだから、庄内藩に市中取締りを命じたり、わが藩に上意を下したりできる身分ではなくなったはずだ、――。
本殿玄関で双方立ったままおこなわれた談判は、六つ半(午前七時)にはついに決裂。まもなく門外の地から幅十間(一八メートル)、黒塗り矢倉門造りの表門へ榴弾が撃ちこまれて、薩邸焼き打ちは開始された。
しかし表門の柱や門扉は鉄板でおおわれ、いわゆる鉄門《くろがねもん》となっているので簡単には破壊できない。それと見た庄内藩は、門前へ臼砲《きゆうほう》を曳き出した。
臼砲とは臼《うす》状のずんぐりした姿をし、砲身を仰角四十五度に固定された攻城砲のことをいう。「へ」の字型の弾道を描いて撃ちあげられる焼き玉は、障害物を越えて着弾、破裂するとあたりに火災を起こすことができる。
それは、四郎も先刻承知していた。
本殿の高い屋根越しに焼き玉がつぎつぎと撃ちあげられるのを見つめた四郎は、
「もちっと(もう少し)待っちゃんせ」
と築山に折り敷いた同志たちに伝え、松明を右手に掲げて立像のように砲車のかたわらにたたずみつづけた。焦ってやみくもに応射し、その砲音によってこちらの位置を知られては集中砲火に曝《さら》されてしまう。
ひとしきり榴弾、焼き玉の炸裂《さくれつ》音がつづいて寄せ手の喊声《かんせい》もかき消されたころ、にわかに目の前にひろがる本殿の輪郭が赤みを帯びた。表門の左右にのびる表長屋のあちこちから出た火が、ついに朝焼けのように空を染めたのである。
折りあしく空気は乾ききっていて、炎は一気に燃えひろがった。焼き玉は本殿の屋根も突き破ったため、やがてその背後の死角にいる四郎たちの目の前にも煙がうっすらと漂い出す。
「くそ、敵が突入してくるのでなければ、一発お見舞いすることもできぬ」
「このまま袋の鼠となっては、死んでも死にきれんぞ」
一度は死を覚悟した男たちのうちにも動揺が走ったころ、
――カン、カン、カン、カン
と、糾合所のある西の方角から伝わってきた物音があった。
鉦《かね》の連打であった。かつて四郎も打ち役をつとめた陣太鼓が開戦時に打ち鳴らされるのに対し、鉦はその音が乱戦のさなかにあってもよく聞こえることから引き揚げの合図につかわれる。
(相楽さんは、すでに脱出したのではなかったのか)
四郎は意外な気がしたが、屯集隊総裁が糾合所への引き揚げを命じているならしたがわざるを得ない。
「よし、引っ下がっとは一発撃っちゃぐってからんこっでよか。一時《いつどき》い撃っど」
四郎が松明の火を火門に点じると、四ポンド山砲は轟音《ごうおん》を発して台車を後方へ軋《きし》ませた。つづけてもう一門と木砲も火を噴き、視界は硝煙につつみこまれる。
これに応射する寄せ手の砲火がにわかに精確さを増したのは、理由のないことではなかった。
西側の徳島藩中屋敷には、上ノ山兵が入りこんでいた。そのひとりが火の見|櫓《やぐら》に登ってみると、薩邸内の様子は一望のもとに見わたせた。ただちに作成された見取り図が表門外の庄内藩大砲隊に届けられたため、無駄玉が急激に減少したのである。
四郎たちが砲を捨て、奥殿を迂回して走るにつれて、後方から爆裂音と銃声が追いかけてくるかたちになった。ついには火薬庫にも火が入り、薩英戦争の間にも聞いた記憶のない大音響が背に吹きつけてくる。
火薬庫の爆発によって生じた熱風にあたりが明るみ、また翳《かげ》る。そのなかを西の塀際の糾合所前庭へ駆けこむと、緋《ひ》の陣羽織を着て頭に鉢金を巻いた相楽総三と百数十人の同志たちが迎えてくれた。
「聞かれませい。死を決して残留を申し出てくれた諸君に、引き揚げを命じたのはほかでもない」
相楽は息を喘《あえ》がせる四郎たちにむかい、手にした白毛のをひと振りして大音声《だいおんじよう》を張りあげた。
「物見を放ったところ、四方ことごとく敵にかこまれはいたしたものの、西の三田通り界隈《かいわい》のみは手薄と知れてござる。されば通用門より脱出して一丸となって品川へ走り、鮫洲《さめず》の浜から舟を出せば『翔鳳丸』へゆきつけるやも知れぬ。よろしいか!」
「おう」
と答えたなかには、四郎の硝煙に煤《すす》けた顔も混じっていた。死場所が邸内から邸外へと変わりはしたが、座して死を待つよりもこの方が薩摩|兵児《へこ》の好みに合う。
「かくのごとき負けいくさのときは、死のうとおもえば生きるものじゃ」
関ヶ原の敵中突破にうつる前、島津|惟新《いしん》入道義弘がいったといわれることばを反芻《はんすう》するうちに、四郎は自分が武者震いしていることに気づいた。
それは決して、怯懦《きようだ》に発するものではなかった。
(太平の世に生まれたおれは、父上のように鹿児島で一生をおわるものだとおもっていた。そのおれが寺田屋事変、生麦事件を間近に見て薩英戦争にくわわり、いままた関ヶ原の敵中突破に似た試みをおこなおうとは)
と考えると、四郎は運命の不可思議を痛感せざるを得なかった。
しかし薩摩兵児の特徴は、おのれの命にまったく執着しない点にある。
(おれの役目はもうおわった。あとのことは、京の西郷さんや大久保さんにおまかせすればいいのだ)
強く思いきった四郎は、黙々とわらじひもを締めなおし、腰の大刀を引き抜いて柄《つか》の目釘穴を唾で湿した。こうしておくと刀身の中心《なかご》を留めた竹釘が水気でふくらみ、斬り合いになっても柄ががたつかない。
相楽は兵学者でもあるだけに、そのあともてきぱきと指示を下していった。
突出はそれぞれの持つ武器により、銃、槍《やり》、刀の順におこなう。
なるべく五人一組となって正面をふさぐ敵のみを討ち、脇目も振らずに駆けぬけること。
負傷して遅れるか、別の道をとらざるを得なくなって「翔鳳丸」に達し得なくなった者たちは、思いおもいに京をめざすこと。
首尾よく敵の背後に出ることに成功した場合は、追尾されないよう町屋に火つけしながらゆくこともやむなし、……。
その間にも表長屋から本殿、奥殿と焼いた火は、邸内のほぼ全域におよぼうとしていた。赤い怒濤《どとう》と化した火炎の背後から打ちあげ花火のような音を立てて飛来する焼き玉が、庭木に当たればその木はたちまち一本の火柱と化してしまう。いまや薩摩藩邸は、野焼きの火に焼かれる野面《のづら》も同然であった。
炎に姿を赤々と照らし出された四郎たち約二百名は、糾合所前庭から南へ移動して雑物蔵の前を過ぎ、その先の通用門を押しひらいた。
これを目ざとく見つけたのは、隣り合う徳島藩中屋敷の火の見櫓に登っていた上ノ山兵。
「出たぞ!」
と叫んだ瞬間、小具足姿のこの兵は屯集隊の狙撃《そげき》を受けて転落したが、屯集隊の先鋒《せんぽう》たちも行く手に砲口を見せていた上ノ山砲の水平撃ちを浴びて将棋倒しにくずおれた。高さ七尺の土塀ぞいにうねる細道だけに、正面から砲撃されては身の躱《かわ》しようもない。
だが、ほぼ一町(一〇九メートル)先の路上に据えられていたこの砲も、四ポンド山砲であった。
「玉ごめの終わっ前に斬いこんとじゃ」
ようやく通用門をくぐった四郎は、上ノ山兵が装弾を急ぐ姿に気づいて胴間声を張りあげていた。
百人以上の兵たちに聞こえる大声を出すことができるというのも、将たる者の条件のひとつである。その声に励まされたように無疵《むきず》だった銃兵たちが応射を開始し、槍隊がその間をかき分けて吶喊《とつかん》にうつった。
上ノ山側からも、関ヶ原以来の古風な鉄笠《てつがさ》にお貸し胴具足姿の槍隊が迎え討つ。彼我ともに死傷者相つぐ乱戦となったが、
「窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》む」
のことわざは生きていた。
喰《く》い止められたときは死ぬときとおもいきっている薩邸突出組は、二百が百に、百が五十に討ちなされながらも包囲網の一線、二線をかろうじて突破することに成功していた。そのなかには、相楽総三と丈高い四郎の姿もふくまれていた。
三田通りを南へ下れば、道の左側には同朋町《どうぼうちよう》、右側には三田二丁目、三丁目の町屋がつらなる。その先をまっすぐ下って東海道へ出るのを危険と見た一団は、岡側の道を選び、高輪東禅寺裏手をまわって北品川へすすんでいった。
その間に四郎がなおも行をともにしている人数をかぞえてみると、二十八人しかいなくなっていた。別方向へ脱出した者もあったにせよ、一瞬にして一割強に減じてしまった同志たちのうちに、なおも自分がふくまれているとは奇跡としかおもえない。
首を振って顔の汗をぬぐおうとした四郎は、妙に右手が重いのに気づいた。見るとかれは、まだ刀を右手に提げて歩いていた。
その刀身を目の前に掲げると、血塗られて数カ所刃こぼれしているのがわかる。
(いつ、どのようにして敵兵を斬ったのか)
とおもい出そうとしても、まったく忘れていることに四郎は驚いていた。相撲の相手にぶつかる勢いで敵中に突進した記憶はあっても、どのように刀をふるったかまでは覚えがない。
冷静に仰角と射程距離を計算してからはじめる砲戦と、阿修羅《あしゆら》のように荒れ狂わなければ斬りぬけられないいくさの違いを、四郎はつくづくと感じていた。
二十八人はまもなく東海道へ出て北品川から南品川へ入り、西へ大きく切れこんだ海のかなたを振り返った。薩摩藩邸とその東側、金杉橋のあたりから黒い渦が天に冲《ちゆう》し、半鐘を打つ音も切れぎれに伝わってくる。
「ここまで逃れられたからには、なんとしても京へ立ちもどって討幕軍に合流したいものです。舟を出す前に敵に追いつかれてはたまりませんから、不憫《ふびん》ながら火遁《かとん》の術をつかいましょう。さあ」
相楽にいわれた生き残りたちは、道の左右に散って飯売りつき旅籠《はたご》へ入りこんだ。火を放つためである。
「何《ない》も、そこまでせんでんよろしゅごあんそが」
おもわずいった四郎に、相楽は血走った目をむけて答えた。
「いずれ討幕軍がくれば、江戸は火の海となるのです。本日、維新回天のために斃《たお》れた同志たちのためにも、無用な同情は慎みなされ」
四郎はあらためていくさの非情さを知らされたように感じ、それ以上はことばを返せなかった。
飯売りつき旅籠の建ちならぶ土地には、飯と惣菜《そうざい》を売ったり店先で食べさせたりする煮売り屋も多い。
伊東四郎が路上にたたずむうちに手近な煮売り屋に駆け寄った屯集隊生き残りのひとりは、手にしていたミニエー銃を空にむかって一発撃った。店の者が驚いて逃げ出すのを見たその隊士は、店先の草箒《くさぼうき》に腰の革袋から火薬をふりかけ、火を点じた。
そして燃える草箒を茅葺《かやぶ》き屋根へほうりあげたため、炎は吹きつける浜風に煽《あお》られて一気に燃えひろがった。
「薩摩火事」
と呼ばれることになる大火が、南品川に発生した一瞬である。
四郎たち二十八人は、その煙と炎を背に南品川を南へつっきり、紅葉の名所として知られる海晏寺《かいあんじ》前から鮫洲《さめず》の浜へ下っていった。
鮫洲という凶々《まがまが》しい地名とは裏腹に、南北に長くのびたこの浜辺は遠浅で、初夏には潮干狩の人出でにぎわう。その砂浜に足跡を刻みながら冬の弱日《よろび》に鈍く光る海を見つめたとき、四郎は沖合の黒い艦影に気づいた。
品川台場の列からはるかに離れ、靄《もや》に煙った房総半島を背景に投錨《とうびよう》しているその船が、「翔鳳丸」かどうかはまだわからない。
しかしその船も、南品川の空を焦がす黒煙になにかを察知したのだろう。蒸気機関に火を入れたらしく、一本だけの煙出しから煙を吐き出しはじめた。
つづけて一斉に、二本のマストに帆も張られた。帆の色は、上部七割が白、下部三割が黒。
「端黒《つまぐろ》」
といわれる、薩摩藩の持ち船に特有の色合であった。
(だが、あの「翔鳳丸」へどう漕《こ》ぎつければよいのか)
四郎たちが浜を見まわすうちに、視界左手に縦にならんだ品川台場七島の陰を出て、鮫洲へすべるように近づいてきた二|艘《そう》の押し送り舟があった。
押し送り舟とは、逆風もいとわず走れるよう船体を笹の葉形にこしらえて、梁《はり》のうえに横板を貼った二階造りの早船をいう。長さ三十八尺半(約一一・六メートル)、幅およそ八尺(二・四メートル)、深さは三尺。艪《ろ》は最大七|挺立《ちようだ》てで、一本限りの帆柱には六反の帆を張ることもできる。
鮫洲の浜に近づくにつれて海へ飛び下りたその漕ぎ手たちは、腰まで潮につかりながら船体を押しあげようとした。
「よし、あれだ」
だれかが叫ぶと、死地を斬りぬけてきた二十八人の男たちは一斉に砂地を蹴立《けた》てて走り出していた。
「翔鳳丸」は排水量四百六十一トンと、四郎が神戸の海軍操練所時代によく乗りくんだ「観光丸」よりひとまわり大きい内輪の鉄骨木皮艦であった。いずれ旧幕府勢が薩摩藩邸に襲いかかることを予期して品川へやってきた目的は、江戸残留の藩士とその家族たちをできるだけ収容して鹿児島へ送り届けることにある。
昨二十四日のうちに藩士たちの一部を乗船させたところまでは、予定通りだった。
だが薩邸焼き打ち事件が起こるうち、「翔鳳丸」にも問題がひとつ発生していた。船将白石|弥左衛門《やざえもん》、副将格児玉|弥《や》右衛門《えもん》のふたりが、藩邸に行ったまま帰ってこない。
「そいじゃっで、出帆はいっとっ(ちょっと)待ったもんせ」
潮灼《しおや》けした顔で四郎たちを甲板に迎えた羽織|小袴《こばかま》姿の水夫長土屋伝次郎は、脱出組のなかにふたりがふくまれていないことを確かめてからいった。
すると、四郎のあとから甲板に上がった藩士のひとりが答えた。
「いや、そんお二人《ふたい》は、お屋敷ん表門に大砲が撃っかけられると、お留守居の篠崎さあといっしょき(一緒)い斬って出やったこっごあした」
ならばふたりは、斬り死にしてしまったに違いない。土屋は、「翔鳳丸」を出発させることに同意した。
「翔鳳丸」は端黒の帆に風を孕《はら》み、悠然と艦体を波に洗わせながら沖へむかって回頭しはじめる。一同は船室に降り、すでに収容されていた藩士とその家族たちから握り飯をわけてもらってようやく人心地がついた。
しかし海軍操練所で旧幕府海軍の陣容についても学んだ四郎としては、そのまま船室にくつろぐ気にはなれなかった。江戸湾のうちに、旧幕府の軍艦が一隻もいないとは考えられない。
(すでにいくさがはじまった以上、この船を追ってくる軍艦があるかも知れぬ)
胸騒ぎのした四郎は、毛利覚助という若手藩士を誘ってふたたび梯子《はしご》を上がっていった。
安政《あんせい》元年(一八五四)七月以来、日本の船は国籍をあきらかにするため日の丸の総船印《そうふなじるし》を掲げる決まりになっている。各藩所有の船は、これとは別に藩の船印も掲揚しておかなければならない。
日の丸と丸に十字の薩摩藩船印のひるがえる後部マストの下に立った四郎は、煤《すす》けきった講武所|髷《まげ》を風になぶらせながら背後へ遠のいてゆく品川の町を眺めた。浦賀水道をめざして南下しはじめた「翔鳳丸」から見やると、右手の金杉橋や芝三田一帯と左手の南品川からは、まだ幾条もの黒煙が立ちのぼっている。
四郎が生きて脱出できなかった者たちのために合掌する間に、メイン・マストの檣楼《しようろう》から物見役の塩辛声が降ってきた。
「軍船《ゆつさぶね》一隻、後方、台場の間!」
やはり、とメイン・マストを振りあおいだ四郎は、物見役の指差す方角へ秀でた面差をむけた。
品川沖をつつみこむように七つならんだ台場のまわりは、水深五|尋《ひろ》ないし六尋(九〜一一メートル)。海底の土がやわらかく錨《いかり》の爪が掛りやすいので、いつも廻船《かいせん》や渡海船《とかいぶね》の白帆でにぎわっている。
その白帆の群れをかきわけるようにして艦首をあらわしたのは、三檣に煙出し一の小型コルベット艦であった。万延《まんえん》元年(一八六〇)に太平洋を初めて横断した旧幕府軍艦「咸臨丸」。
しかし、すでに老朽化して神奈川警備につかわれている「咸臨丸」は、蒸気|罐《がま》を取りはずされていた。にわかに風が死んだこともあって操船ままならず、「咸臨丸」は「翔鳳丸」が遠ざかるのを指をくわえて見ているしかなくなった。
かろうじて大砲を一発撃ったものの、これもあらぬ方角に飛び去ってしまう。
(よし)
と四郎が小柄な毛利覚助とうなずきあったとき、また物見役が怒鳴った。
「も一隻軍船、正面!」
これには四郎も虚をつかれ、おもわず舷側《げんそく》の手すりから上体を乗り出して前方海域に目を凝らした。
たしかに「翔鳳丸」の航路前方には、三檣に煙出し二をそなえ、旧幕府の白地中黒の船印を黒煙に翳《かげ》らせた外輪の巨艦が出現していた。芝の浜から見かけたことのあるこの軍艦は、「回天丸」に違いなかった。
しかも排水量千六百七十八トンの巨体を誇る「回天丸」は、「翔鳳丸」に船尾を見せて沖合から後進してきたところだった。われは前進、かれは後進だから距離はみるみる縮まってゆく。
「回天丸」の艦体が黒い壁のように四町(四三六メートル)から三町に迫る間に、「翔鳳丸」は衝突されるのを避けて面舵《おもかじ》をとった。ゆっくりと右舷が沈み、船尾の喫水線と逆回転する外輪のまわりに波を泡立たせている「回天丸」は、次第に「翔鳳丸」の左舷へ位置を変えてゆく。
ただしこの回避運動は、「回天丸」に開戦の機会を与えることになった。その備砲は、五十六ポンド砲十二門。右舷に窓のように六つならんだ砲門をひらいた「回天丸」は、まず試し玉を一発撃った。
その右舷の一角を白く霞《かす》ませて轟音《ごうおん》を響かせた初弾は、仰角未調整のため四郎の立つ「翔鳳丸」後甲板のはるか上空を擦過。台場の列と浜辺に面した東海道をも越えて、御殿山に土煙を吹きあげた。
ときに、四つ半(午前一一時)。四郎はわずか半日のうちに、生まれて初めての抜刀斬りこみと海戦とをともに経験することになったのだ。
第二弾は近くの海面に落ちて、高さ一丈(約三メートル)にも達する水柱を奔騰させた。のこる右舷砲四門もつづいて発射され、四郎の足もとは地震に襲われたように激しく揺らいだ。一弾が、「翔鳳丸」の左舷前部喫水線に命中したのである。
それでも「翔鳳丸」には、応戦の術《すべ》がなかった。この船は運輸船であって軍艦ではないから、備砲をもたない。
「こいじゃ、前之浜《まえんはま》ん戦《ゆつさ》の二の舞にないもんど、口惜《はが》いか」
泣きっ面になった毛利覚助を叱った四郎は、船内が騒然となるのもかまわず後部マスト下へもどった。そこに青銅製の四ポンド半砲二門が縄で縛りつけられていることは、とうに頭に入れてある。
「汝《わい》は誰《だい》かに手伝わせて、下から火薬袋を運んで来やい」
脇差で縄を切った四郎は、砲車を後甲板へ押し出しながら命じた。
さらに右への回頭をつづける「翔鳳丸」と後進する「回天丸」とは、いつかたがいに船尾を見せあうかたちになっていた。
覚助と加勢の者たちに装弾を手伝わせた四郎は、ふたつの砲口を「翔鳳丸」の船尾から海面にむかって突き出させた。そして松明《たいまつ》を受けとり、火口に近づける。
轟音一発。
だが同時に発射の反動で、砲はうしろへ引っくり返った。もう一門を試してもおなじ結果になり、砲弾はいずれもあらぬ方角へそれてしまう。
「誰《だい》か、ハンド・スパイキ(木|梃子《てこ》)を持っ来《け》っ」
また四郎が命じても、海軍操練所で学んだことばは加勢の者たちにはなんのことかわからなかった。
その間に「回天丸」後甲板には、桶《おけ》型|鍔《つば》つき帽に黒ラシャの洋式軍服姿の銃隊が続々とあらわれていた。「翔鳳丸」の乗組員がまだ純然たる和装なのに対し、旧幕府海軍の兵たちはすでに軍帽をかぶりやすいよう髷を落として服装もイギリス海軍にならっている。
「翔鳳丸」が舷側砲の死角に入ったと見て銃戦に切りかえたこの動きに、四郎たちは後甲板から引かざるを得なくなった。
四郎が船体の被害を知るため艦橋へ走ってゆくと、水夫長の土屋伝次郎が先着していた相楽総三に意表を突く提案をした。
「どうせ行《ゆ》っ詰まって沈められるっとなら、こっちからあん船に体当たいしていっしょきに斬っこむとはどげんでごあんそかい」
「どうせ捨てた命だ。死に花を咲かせるか」
うっそりと答えた相楽に、
「面白《おもしと》か」
と四郎も歴戦の薩摩|兵児《へこ》らしく応じ、話は決まった。
すでに「翔鳳丸」は羽田沖にあり、西へむけた艦首のかなたの波間には火《ひ》の見櫓《みやぐら》型の羽田灯台が浮かんでいる。
おりから吹きつのった北風を端黒《つまぐろ》の帆に受けて「翔鳳丸」が東へ十六点(一八〇度)の回頭をおこなうと、後進を中止してその動きを見守っていた「回天丸」後甲板上の銃隊はにわかに隊形を乱した。
艦首の喫水下に突き出た巨大な衝角《ラム》により、敵の船体に穴をあけて沈めてしまう戦法は古代ギリシャ・ローマの時代からある。「翔鳳丸」の反転の意図を察した「回天丸」は、急ぎ後進から前進に切りかえて衝突をまぬがれようとした。攻守ところを変え、今度は「翔鳳丸」が「回天丸」を追うかたちになったのである。
「回天丸」の塔のような三本マストには中黒の帆が張られ、二本の煙出しからは黒煙が太々と流れ出して両輪の撥《は》ねあげる水しぶきが勢いを増してゆく。
「敵は、何《なつ》もならん卑怯者《ひつかぶい》でごあすな」
すでに白鉢巻を締めて小袴《こばかま》の股立《ももだ》ちをとっていた土屋伝次郎に、四郎は右舷にひろがる海原を指差した。
「じゃっどん、こいで航路がひらけもしたぞ。まちっと回頭をつづけて南へむかいやんせ。浦賀から外海へ抜けっこつが出来《でけ》っとなら、上方《かみがた》ん戦《ゆつさ》に間に合《お》うかも知れもはん」
江戸で死なずにすんだのなら、すでに神戸まで進出したという薩摩藩海軍に合流して維新回天の創業の一翼を担いたい。
(それでこそ、鉞《まさかり》強盗までしてみせた甲斐《かい》があったというものだ)
一息ついたとたんに、四郎は早くもおもいつめていた。
(討幕の捨石となって死ぬも一生)
と感じたからこそ、四郎は江戸へ下ってきたのである。運良くその江戸を脱出できる目途《めど》がついたとはいえ、まっすぐ鹿児島へ帰ろうなどとは考えもしない。
その後、もう「回天丸」は姿をあらわさなかった。その結果、二十一歳のとき薩英戦争を経験した四郎は、二十五歳にして半日のうちに二度までも虎口を脱出するという珍しい戦歴の持ち主になった。
船室へ下りて深々と寝入った四郎を乗せて、「翔鳳丸」は夕日が海面を橙《だいだい》色に染めたころ浦賀水道を通過。相模灘を西へわたって伊豆の子浦《こうら》で船体の損傷を修理し、その夜のうちに抜錨《ばつびよう》して遠州灘へむかった。
そこで暴風に巻きこまれたものの、十二月二十九日夕方には紀州熊野灘の久木湊に入り、六日ぶりに入浴を楽しむことができた。
相楽総三以下、陸路京をめざす屯集隊生き残りたちとはここで別れ、「翔鳳丸」が紀淡海峡から神戸の走水《はしうと》の浜に近づいたのは年のあらたまった慶応《けいおう》四年(一八六八)一月二日のこと。薩邸焼き打ち勝利の飛報に沸いて大坂城から京へ進撃した旧幕府勢に対し、鳥羽街道上の薩摩砲四門が発射されたのは翌三日夕刻のことであった。
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第四章 鬼の艦長
大坂湾を北上してゆけば、神戸村は六甲山と摩耶山の内ぶところに抱かれているように見えてくる。その神戸村は、このころ大きく変わろうとしていた。
その唯一最大の理由は、さる慶応三年(一八六七)四月、まだ将軍職にあった徳川|慶喜《よしのぶ》が条約国に対し、兵庫開港を確約したことに存した。以後、東の神戸村と西の兵庫の津とをむすぶ浜辺は摩耶山から流れてくる生田川の河口を境とし、神戸泊所と兵庫泊所とに二分された。
神戸泊所は天領扱い、兵庫泊所は開港場で外国船の出入りも自由だから、薩摩藩の持ち船としては兵庫泊所に沖泊りするに越したことはない。
兵庫の津は湊川の河口から西へ湾入し、Cの字形の浜辺によって南端の和田岬へ至る。湾内の水深はおよそ四|尋《ひろ》(七・二メートル)、品川の台場周辺とおなじく錨《いかり》の爪が掛りやすく、和田岬が南西風をさえぎってくれる良港である。
慶応四年(一八六八)一月二日、「翔鳳丸」がこの兵庫泊所へ入って外国船の間に投錨したときには、日没前に丸に十字の船印を掲げた僚艦二隻が先着していた。
軍艦「春日丸」排水量千十五トンと、運輸船「平運丸」七百五十トン。「春日丸」は三本マストに煙出し二の外輪船で、その黒く塗られた艦体が伊東四郎の目には頼もしく見えた。
すぐにバッテイラで「春日丸」に挨拶《あいさつ》に行った四郎と水夫長の土屋伝次郎は、紺ラシャ、ダブルボタンのフロック形軍服姿ながら、まだ頭には髷《まげ》を載せている艦長井上新右衛門から事情を伝えられた。
「春日丸」がここにいるのは、京へむかう兵たちを運んできたためであること。「平運丸」は、鹿児島へ帰る江戸詰めの藩士とその家族たちとを迎えるべく国許《くにもと》からやってきたこと。
ところが昨夜、「平運丸」は一度出帆したにもかかわらず旧幕府軍艦「蟠龍《ばんりよう》丸」から砲撃され、港内へ逃げもどってきた。そこで井上が追ってきた旧幕府海軍旗艦「開陽丸」へゆき、同軍副総裁榎本釜次郎(のち武揚《たけあき》)に抗議すると、榎本は木で鼻をくくったように答えた。
「昨秋より尊藩江戸屋敷には不都合きわまる動きがあり、当家より談判にまいったところ、ついに戦争と相なった。薩邸から逃れた一部の者どもは品川沖の尊藩蒸気船にて出港いたし、その際わが軍艦と戦ったという。さすれば尊藩はすでにわが敵なれば、敵船の出港を止めるのは万国公法の認めるところだ。以後も、尊藩の船は一隻たりとも出港させぬ」
となれば、諸藩中最強と自他ともに認める旧幕府海軍主力は、まだ大坂の天保山沖と兵庫の津との間の海上にあることになる。
この時点で四郎は、「翔鳳丸」が無事入港を果たして僚艦二隻に合流できたこと自体、きわめて幸運な出来事だったと初めて気づいた。
榎本釜次郎のことばから察するに、旧幕府側はすでに薩摩藩と交戦状態に入ったことを充分に承知している。となると、京の薩長勢と大坂城の旧幕府勢との間に陸戦がはじまるのももう間もなくのことだろうから、そのいくさは当然、海戦にも発展する。
(ならば旧幕海軍側から港内に突入してくるかも知れぬから、ゆっくりとかまえてはおられぬ)
せわしく頭を働かせた四郎は、開戦となったらこの「春日丸」に残り、その乗組士官のひとりとして戦いたくなった。
その希望を伝えると、井上艦長は快諾してくれた。ために「翔鳳丸」へは、水夫長の土屋伝次郎のみが帰っていった。
四郎はそのあと甲板下の士官室へ案内され、紺ラシャ、ダブルボタンのフロック形軍服とズボンとに着更《きが》えさせられた。軍服の上から締めたバックルつきの革ベルトに脇差を差し、大刀は右肩から左腰へ流した革の剣帯に吊《つ》るす。
これら薩摩藩海軍士官の軍服は友好関係をむすんだイギリス海軍から与えられたもので、イギリス人にくらべてひとまわり小柄な薩摩人は、上着の裄《ゆき》やズボンの裾《すそ》を縫い上げてから着用することがほとんどだった。
だが、身長五尺八寸(一メートル七六センチ)以上、よく鍛えられた筋骨をもつ四郎が着ると、あつらえた服のようにしっくりとからだに馴染《なじ》んだ。
ただし四郎は、まだ髪は講武所髷に結いあげていたし、足もとは紺足袋わらじ掛けであった。幕末の薩摩藩士から新時代の海軍士官へ――四郎がふたつの時代のはざまを生きつつあることは、この身なりにも端的にあらわれていた。
和田岬を逆光に翳《かげ》らせて夕日が西へかたむいたころ、「春日丸」はいったん抜錨して艦首を東の大坂側へむけた。小柄な「平運丸」と「翔鳳丸」もこれにならい、「春日丸」の後方海域に位置を変えて逆V字形の陣形をとった。
沖の金波銀波がにわかに鉛色に変じるなかで、三艦は発光体と化したかのようにマスト上には白色灯を、左舷《さげん》には赤、右舷には緑の舷灯を輝かせはじめる。
かつて四郎を驚かせたイギリス艦隊旗艦「ユーリアラス」に代表されるフリゲート艦は、艦首からユニコーンの角のように長大な槍出《やりだ》しを突き出して、その上部にも三角帆を張る。帆装面積をひろくするための工夫だが、「春日丸」は排水量に比して四百馬力と出力の高い蒸気機関を搭載していることもあり、もはや槍出しをそなえてはいなかった。上部甲板の前からうしろへ前檣《ぜんしよう》―煙出し二本―主檣―後檣とならべている「春日丸」にあっては、前檣の下部に横長、手すりつきの艦橋がわたされていた。
颯爽《さつそう》とあらわれた四郎がその艦橋で何人かの先任士官に挨拶するうち、前檣の檣楼上から物見役の声が響いた。
「左前方、伏見方向に赤み見ゆ!」
「火事か、戦《ゆつさ》か」
「そこずい(そこまで)は、わかいもはん」
檣楼の上と下とでことばが交わされる間に、
「俺《おい》も見てきもす」
だれにともなく告げた四郎は、手早く索梯《リツギング》にとりついていた。
檣楼下から左右に張られて艦橋へ二本の裾をのばした索梯の昇り降りは、海軍操練所時代に毎日やらされていたことでもある。
たちまち檣楼にあがった四郎には、物見役に方角を教わるまでもなかった。たしかに京と大坂の中間あたりの空が、薄紅色の椀《わん》を伏せたようなかたちにぼんやりと明るんでいた。
(これは、どこかで見たような景色だな)
と感じた四郎がすぐに思い出したのは、元治《げんじ》元年(一八六四)七月十九日に勃発《ぼつぱつ》した禁門の変のときの光景であった。
「京の空が真赤に染まっており申す」
練習艦「観光丸」当直の塾生が、四郎の留学していた勝塾に駆けこんできたのは当夜暮れ六つ(午後六時)過ぎのこと。勝義邦(海舟)はただちに四郎たち塾生をつれて走水《はしうと》の浜へ走り、「観光丸」を大坂城にほど近い天保山沖まで出して、それがただの火事ではないことを自分の目で確かめたのだった。
なおも四郎が潮風に頬をなぶられながら艦首左手前方の空を見つめている間に、艦橋から呼びかけた者がある。
「おおい、伊東さあ、降りて来やい。おはんの兄《あん》さあが来やったとじゃ」
兄といえば、次右衛門のことである。江戸を死場所と定めて京で別れた次右衛門に、ここで再会できようとは意外であった。
さすがに喜色をあらわにして索梯を伝い降りてゆくと、
「おお、板い着いちょっ動きじゃなかか」
網目の内側にひろがる艦橋から、懐かしい声がした。
「はい、ふしぎに死地を脱すっこっがでけもしたもんで、昨日《きの》、江戸からこん港いもどったとこでごあす」
兄上もお変わりなかったようでよろしゅうございました、と四郎がつづける前に、
「そうや(そうか)。俺《おい》は今から、こん『春日丸』ん副長じゃ」
やはりフロック形軍服姿になっている次右衛門は、せわしげに背後の若手藩士を手まねきした。
「顔は見知っちょっとか、こいは東郷平八郎じゃ。軍船《ゆつさぶね》い乗っ組むとは初《はつ》めじゃっで、一杯《いつべ》教えてやいやんせ」
「鹿児島で海軍操練を学んだこっはございもす」
これも長刀をフロック形軍服の革ベルトに差しこんでいる東郷平八郎は、濃い眉《まゆ》の下から光のある目を四郎にむけてきた。髷を総髪の大たぶさに結った顔だちは鼻筋が通り、唇を真一文字に引きむすんだその表情はなかなかの面魂ではある。
「たしか汝《わや》、前之浜《まえんはま》ん戦《ゆつさ》んとき十七歳じゃったな」
平八郎が特徴ある目をまたたかせるのを見て、四郎はほほえみながらつづけた。
「あん戦ん間に、西瓜《すいか》舟が出たこつは覚えちょらんか。そん前ん晩に、俺《おい》は汝《わい》を御楼門《ごろうもん》の堀ばたで見掛くったとじゃ。汝は有村さあに、面白《おもしと》かこつ答えちょった」
四年半前のあの夜、有村俊斎によってイギリス艦隊への斬りこみ隊から外されてしまった平八郎は、
「じゃっどん、エゲレス船へ乗いこむとなら、からだは軽か方が良《よ》ろしゅごあんそが。年んこっなどかかわいはあいもはん」
と喰《く》ってかかったものだった。
平八郎もその場面を思い出したのか、歯は見せずに唇だけを笑うかたちにした。
薩邸焼き打ち事件発生の飛報が京の薩長勢に届いたのは、二日前の元旦のことであった。それと知り、討幕挙兵の大義名分が確立されたことをもっとも喜んだのは、むろん薩摩兵三千の総大将格西郷吉之助にほかならない。
そこで西郷は、旧臘《きゆうろう》二十五日から兵庫泊所に投錨《とうびよう》中の「春日丸」を国許《くにもと》へ廻航《かいこう》させることにした。旧幕海軍に奪われたり沈められたりしないように、と考えてのことだが、「春日丸」の乗組員の多くも京都入りしていたため、あらたに操艦要員を兵庫へ送る必要がここに生じた。
そこで西郷は、自分によく似た巨眼肥満の第一遊撃隊長赤塚源六を井上新右衛門と交代に「春日丸」艦長に任命。砲隊長としてやはり京にあった伊東次右衛門をその副長、東郷平八郎、林謙三ら血気の若手藩士を士官に登用して、即日京を出立させた。
伏見から淀川を下ってこの三日早朝に大坂入りした一行は、その時点で二日夕刻から大坂城の旧幕府勢が京へ進撃しはじめたと知った。こうなってはもう旧幕海軍に発見されたときはそれまでと押し送り舟を雇い、これまた幸運にも追撃されることなく兵庫泊所への入港を果たしたのである。
伏見方面の空に滲《にじ》む薄紅色の明るみは、それと聞いてはもはや薩長勢と旧幕府勢との衝突によって生じた戦火としか考えられない。
「ほほう、こん海からも火が見ゆっとか。そいなあ(それなら)徳川海軍も、どこかでそん炎い気づいちょっとじゃろ。こっせえ(こっちへ)向こちょっとかも知れんで、夜の明くっ前には打っ立っど。一番《いつぱん》艦は『平運丸』、『翔鳳丸』は傷んで船脚《ふなあし》が遅《おす》なっておっとじゃろうから、本艦に曳《ひ》き綱でくびいつけやい。『平運丸』には、夜が明けたや全速力で瀬戸内から鹿児島へ急《いそ》っがよかち伝えい」
士官室で一息入れた赤ら顔の赤塚新艦長は、さすがに西郷から指名された猛者《もさ》らしく、吠《ほ》えるような声でつぎつぎに命令を下した。その決断の素速さは、初めて士官として軍艦に乗りくんだばかりの四郎から見てもすがすがしく感じられた。
海軍操練所時代に勝義邦から教えられたところによると、欧米列強の海軍艦長は不測の事態で乗艦が沈没する場合にも、マストに自分のからだをくくりつけ、あるいは艦長室に入って内側から扉に施錠するなどして艦と運命をともにすることが珍しくないという。
「艦長たる者は、艦と部下たちに対してそれほどまでに責めを負うってことさ。まあアメリカ人やヨーロッパ人種てえものは、艦長がそれぐらいの気迫をもって臨まねえとそっぽを向いちまう、ってことでもあるがね」
軍服のダブルボタンもはち切れそうな赤塚艦長の体躯《たいく》に勝のせりふを重ねあわせると、四郎にはあるべき海軍士官の姿が少しわかったような気もした。
「春日丸」の備砲は八門、乗組定員は百三十四人とされていた。「平運丸」と「翔鳳丸」にバッテイラが往復し、まだ和装の水夫、火夫たちの動きが慌しくなる間に、四郎は兄や東郷平八郎、林謙三ら砲術の心得ある者たちと手分けして砲戦の用意を整えていった。
南方約一海里半(二・八キロ)の沖合から白色光を投げてくる和田岬灯台を頼りに、三艦そろって兵庫泊所を抜錨したのは四日七つ刻(午前四時)近くのこと。東の空にほのかに朱が刷《は》かれはしたものの、機関音と外輪の立てる音とが響く海面《うなも》はまだ墨を流したように暗く、三艦は和田岬を右舷後方へ見送っていよいよ大坂湾を南下しはじめた。
夜明けとともに機関を止め、帆走に切り換えたのは燃料節約のためでもあり、盛大に黒煙を吹きあげて旧幕海軍に動きを察知されないためでもあった。
やがて「平運丸」は西へ去り、残る二艦は西の淡路島と東の紀伊半島、沖の小島との間にひらけた紀淡海峡を南へ通過。出港から半日たった午後七つ刻過ぎには、右舷《うげん》はるかに四国のたいらかな陸地を霞《かす》ませた阿波沖にさしかかった。
(これなら、もう徳川海軍も追ってはくるまい)
四郎が受けもちの舷側砲から離れようとしたとき、檣楼《しようろう》上の物見役が叫んだ。
「北、紀淡海峡方面に煙一本、帆は中黒!」
中黒は、旧幕艦の目印である。
軍艦か、運輸船か。それを知るべく四郎が後甲板へ走るうちに、後方海域からは雷鳴のような轟音《ごうおん》が響きわたった。
「春日丸」の上空に白い姿を浮かべていた鴎《かもめ》数羽が、はじかれたように散ってゆく。
(どこからも、水柱があがらぬ。停船命令のつもりで空砲を撃ち出したか)
伊東四郎は素速く左右の海面《うなも》を見わたしてから、曳航《えいこう》される「翔鳳丸」のかなたの海原に目をむけた。
午後のおぼめかしい水平線近くからは、たしかに一条の黒煙が立ちのぼっていた。その下に小さな点のように見える帆船の横腹から、砲発した印の白煙が漂い出している。
中黒の帆に風を孕《はら》ませたその艦影がじわじわと大きくなるのは、こちらの船脚《ふなあし》があまりに重いからであった。「翔鳳丸」を曳いたままでは、やがて撃ち沈められてしまうのは目に見えている。
「開陽! 開陽!」
後続の「翔鳳丸」の物見の声と前後して、「春日丸」の檣楼上からもおなじ艦名が連呼された。
「春日丸」の甲板上は、瞬時にして静まり返ったように感じられた。外輪の回転音と船体を洗う波の音だけが、にわかに高まる。
それは、四郎の錯覚ではなかった。
旧幕府海軍旗艦「開陽丸」こそ国内最強の軍艦であることは、よく世に知られていた。慶応《けいおう》元年(一八六五)、幕府の発注を受けてオランダのドルドレヒトで建造され、翌年日本に廻航されてきたこの船は、最新鋭の木造スクリューシップ・フリゲート艦であった。
長さ二百四十フィート(七三メートル)、幅三十九フィート(一二メートル)、排水量二千五百九十トン、出力四百馬力。舷側には施条砲十六門、滑腔《かつくう》砲八門、計二十四門の大砲をならべ、砲弾としては新兵器シェンクル榴弾《りゆうだん》多数を搭載していた。この砲弾には、暴発や発射前|炸裂《さくれつ》のない確実な着発信管がつけられている。
かつて四郎たちを叩《たた》きのめしたイギリス艦「ユーリアラス」二千三百七十一トンよりも排水量にして二百トン以上大きく、「春日丸」千十五トン、「翔鳳丸」四百六十一トン、そして江戸湾で交錯した「回天丸」千六百七十八トンにくらべれば、ますます巨艦の名にふさわしかった。
このような強敵があらわれた場合こそ、艦長の決断力が乗組員の死命を制する。
(俺《おい》が艦長なら)
四郎が考えたときには、その胸の内を先読みしたような赤塚艦長の命令が伝声されてきた。
「曳き綱を解け!」
鉢巻に短か袴《ばかま》の水夫たちが駆けてきて、艦尾の|巻き揚げ機《ウインチ》の腕に取りすがる。
「チェスト」
の掛け声とともにその四本の腕が逆回しされると、一部巻き取られていた曳き綱はすべて繰り出されて白く泡立つ航跡を叩いた。
かとおもうと、フロック形軍服姿の次右衛門も艦橋から走ってきて、四郎のかたわらから「翔鳳丸」に呼ばわった。
「鹿児島《かごつま》い戻れ、よかか!」
事態はすでに、マストに信号旗を掲げて通信するゆとりもないほど切迫していたのである。「翔鳳丸」の艦橋、前甲板から了解の合図に手が振られ、その傷だらけの船体はゆっくりと西へ転舵《てんだ》してゆく。
このあとの「春日丸」には、ふたつの選択肢があった。軽くなった船脚を利して別方向に逃れるか、「開陽丸」に立ちむかうか。
しかし四郎にとって、前者は考えられないことだった。
卑怯者《ひつかぶい》、弱虫《やつせんぼ》といわれるのを極度に嫌う薩摩の士風は、苦難にむかうことをもってよしとする。ましてかれは、江戸湾で「翔鳳丸」の貧弱な四ポンド半砲二門によって「回天丸」に砲戦を挑んでから十日とたたない。
赤塚艦長も、四郎とおなじおもいだったことはすぐに知れた。艦長は、いったん減速を命令。四郎と次右衛門が艦橋下へもどるうちにメイン・マストに丸に十字の船印を揚げさせ、
「撃ち方用意、取舵《とりかじ》いっぱい!」
と赤ら顔を振り立てていた。
旧臘二十五日に炎上する薩摩藩江戸屋敷から品川へ脱出した二十八人のひとり、その日のうちに江戸湾で「回天丸」と戦った四郎は、九日後にはもう阿波沖で日本海戦史上初の軍艦同士の砲戦にくわわる運命にあったのである。
それでも四年半前、白壁のように見えた「ユーリアラス」以下の砲撃に身を縮めていたのにくらべれば、硝煙の臭いを嗅《か》ぎ慣れた分だけゆとりがあった。
「兄《あん》さあ、御武運を祈いもす」
艦橋上へもどる次右衛門の背に呼びかけた四郎は、左腰に吊《つ》った大刀を押さえて甲板下へ急ぎながら艦長の立てた作戦をおもい描いた。
この時代のフリゲート艦は、上部甲板上にマストと煙出しを縦一直線にならべているため中央集中式の砲塔を持たない。主武器は中甲板に格納された舷側砲だから、軍艦対軍艦の砲戦は、たがいに右、左いずれかの舷側をむけあうところからはじまる。
だが「春日丸」が取舵を切って左舷を見せつつある以上、
(「開陽丸」もこれにならって右舷の砲火をひらくに違いない)
と、四郎は確信していた。
同一航路上、後方にある「開陽丸」が左舷砲で勝負を開始しようとするならば、いずれ二艦は東西へ相遠ざかることになるのみか、「開陽丸」には阿波沖の暗礁に触れる危険が生じる。だから別方向へすすむのではなく、雁行《がんこう》しながら開戦する。
――海戦とは、なんと単純な理屈でおこなわれるものか。
そう感じるむきもあろうが、それはあまりに今日的感覚に過ぎる。まだこの時代には、海戦イコール砲戦につぐ砲戦、という感覚は育っていなかった。
むしろ砲戦は緒戦の小競り合い、本格的決戦はそのあとのこと、という考え方が各国海軍の主流を占めていた。
以下はその実戦例、――。
一八六六年七月のことだから、この物語の時点からわずか一年半前である。遠く地中海北部、イタリア半島とバルカン半島との間にひろがるアドリア海リッサ島沖で、いわゆる「リッサの海戦」がおこなわれた。
当時、オーストリア・ハンガリー二重帝国は、シュレスウィヒ・ホルシュタイン両公国の帰属をめぐり、プロシャ・イタリア連合軍と交戦中であった。そのためイタリア艦隊はアドリア海におけるオーストリア艦隊の基地リッサ島の攻略をねらったのだが、これに対してオーストリア艦隊は、旗艦「フェルディナンド・マックス」以下二十一隻(総排水量四七〇〇〇トン、砲五一三門)を三段構えの凸横陣として艦隊決戦を挑む作戦を練った。
そして同年七月十九日夜、イタリア艦隊(同八四〇〇〇トン、砲五九六門)は、先鋒《せんぽう》隊と旗艦「レ・ディタリア」以下の本隊には単縦陣、殿艦《でんかん》部隊には単横陣を組ませ、その前方海域を直角に横切ろうとした。
これを見た「フェルディナンド・マックス」は、イタリア先鋒隊に砲撃をくわえたあと右転し、「レ・ディタリア」の左舷に対して衝角《ラム》突撃戦法を試みた。衝角とは艦首の喫水下から前方にむかって突き出した鋼鉄製の角《つの》のこと。
その結果、「フェルディナンド・マックス」は、「レ・ディタリア」の左舷中央に機関にまで達する大穴を穿《うが》つことに成功。後者はまたたくうちに沈没し、リッサの海戦自体もオーストリア側が勝ちを制した。
この実戦例から衝角突撃こそもっとも有効な攻撃法とみなされ、砲撃をはじく装甲艦(甲鉄艦)も出現していたため、砲の威力は重要ながら二の次と見られていたのだった。
「春日丸」対「開陽丸」の阿波沖海戦――この日本近代海戦史上初の本格的軍艦対決も、まずは彼我の距離を縮めながら砲戦をはじめる、というかたちをとろうとしていた。
四郎が中甲板へ降りたころ、「春日丸」の砲八門には、砲員九人ずつが貼りついていた。十二ポンド・アームストロング砲、四十ポンド施条砲、百ポンド施条砲と砲種はまちまちだったが、これらは元ごめ砲だから火門に火を点じて撃つのではなかった。
あけはなたれた窓のようにひらいた砲門により、輪郭を四角形に切りとられた視界に敵艦が入ってきたならば、およその射角、射距離を決めて椎《しい》の実型の長弾を元ごめする。ついで砲尾の閉鎖機を閉じ、敵の艦首喫水に狙いを修正。砲尾右側に立つ打ち役がくるりと背をむけ、肩越しに強く牽索《けんさく》を引くことによって発射となる。
「よかよか、よかよか」
左舷受けもち砲の後尾に腰をかがめた四郎が砲員たちに射角と射距離を修正させていると、砲門からは潮風と波のしぶきが吹きこんでくる。
そのときには、早くも別の砲から初弾が撃ち出されて轟音《ごうおん》を伝えてきた。濃い眉《まゆ》に迫った切れ長の二重まぶたを上下する海にむけていた四郎も、負けじと腰を落として牽索を引いた。
四郎の予測通りに左転しはじめていた「開陽丸」も、すぐに右舷《うげん》砲による応射を開始した。彼我の距離およそ二千八百メートル。だが、なおも陽光|燦爛《さんらん》たる波間にたがいに浮きつ沈みつしているため、どこに水柱が奔騰したのかも確かめにくい。
双方、被弾することなく二千メートルまで接近したあと、紀伊半島側へ近づきすぎたと見て「春日丸」は右転、「開陽丸」は左転。さらに何度か白い航跡に巴《ともえ》を描かせながら遠雷のような砲火を交わし、千二百メートルまで距離を詰めあった。ともに限度いっぱいまで石炭を焚《た》いているため、ここまで近づくと海上に煤煙《ばいえん》と砲煙が立ちこめて、視界を閉ざしてしまう瞬間もある。
しかし日没が迫るにつれて、「春日丸」の優位がはっきりしてきた。回頭するたびに「春日丸」が先行し、「開陽丸」がこれを追う恰好になる。
両者の船脚の差が、ここに出ていた。「春日丸」は四百馬力、千十五トン、最高速力十七ノット。「開陽丸」も四百馬力なのに二千六百トン近い巨体が災いし、十二ノットまでしか出せない。
一ノットは時速一海里(一八五二メートル)のことだから、両者が艦首をそろえて同一方向へ走航した場合、「春日丸」は一時間に九千二百六十メートルも後者に水をあけることができる。やはり、素速く「翔鳳丸」を切り離した赤塚艦長の判断が正しかったのである。
しかも赤塚艦長は、頭上はるかの靉靆《あいたい》たる雲が茜《あかね》色に染まるにしたがい、「春日丸」を紀伊水道南端西側、四国の蒲生田《がもうだ》岬の沖へと導いていた。こうすると敵はつねに東側の逆光の海に位置することになって、われに有利になる。
この指示は、図に当たった。落日が四国山地の山の端にかかるや、紀伊水道は急速に暮色につつまれる。追撃戦続行を諦《あきら》めた「開陽丸」が北へ反転帰投していったため、阿波沖海戦は日没引き分けという結果になった。
「敵ん玉は、当たらじ済《す》んもしたか」
撃ち方止めの命令を受け、配置を解かれた四郎が硝煙に塗《まみ》れた姿を艦橋下へ運んでゆくと、次右衛門が筋張った顔をむけて答えた。
「うむ、一発、外輪の覆いを掠《かす》っただけのよじゃ。敵も後檣《こうしよう》の帆桁《ほげた》が一本落つったよじゃが、ひといも死《けし》んじょらんじゃろ」
「そいどん(それでも)」
と、次右衛門の肩越しに髷《まげ》の乱れた赤ら顔を見せたのは、赤塚艦長であった。
「おはんらも敵も、まこて頑張《きば》った戦《ゆつさ》ぶいで気持《きも》っがよかこつじゃった。後《あと》はゆっくい休みやい」
「はい、そん前《まい》に、砲の掃除をさせったもんせ」
「おう、そいでこそ真実《まこ》っの海軍士官じゃ」
豪放に笑うその姿に、四郎はすっかり感心していた。
艦長たる者の心得については勝義邦から教えられたし、昨夜から赤塚艦長の決断の素速さには感服するところがあった。だがそれもこれも、実戦における操艦の巧みさに欠けるなら、ただそれだけのことにすぎない。
今日、「翔鳳丸」を先に逃がしてから単独で「開陽丸」に立ちむかった判断力もさりながら、つねに砲戦に有利な海面への操艦を指示しつづけたことこそ、艦長の腕の見せどころであった。
それにしても、洋式軍艦同士の海戦は日本にまだ前例がなかったのだから、赤塚艦長が歴戦のつわものというわけではない。そう考えると、
(操艦術にも、武芸同様に天分というものがあるのかも知れない)
と、四郎はおもった。
土佐沖と豊後水道を西へ横断した「春日丸」が、南から北へ湾入した錦江湾を北上して前之浜《まえんはま》に近づいたのは、二日後の一月六日四つ刻(午前一〇時)のことであった。
潮の流れの激しい外海の荒波を男波《おなみ》とすれば、冬なお日射あかるい錦江湾のおだやかなうねりに立つのは女波《めなみ》ばかり。間伸びしたS字状の海の行く手に桜島、その西側に緑の濃い鹿児島城下が見えてきたとき、四郎は前甲板に出て喰《く》い入るようにその景色を見つめていた。
いまたどってきたのは、四年半前に「ユーリアラス」以下のイギリス艦隊のきた航路にほかならない。
(あのとき、おれは朱鞘《しゆざや》の大脇差だけを差して古手ぬぐいに髷を隠し、物売りに変装したつもりでイギリス船に斬りこみをかけようとしたものだった。そのおれが、いまは紺ラシャのイギリス風軍服をまとい、しかもイギリス製の軍艦に乗って帰国することになろうとは)
西瓜《すいか》舟に乗ったときのことをおもうと、うたた感慨に堪えなかった。
「帆を下ろせ、錨《いかり》を投げい!」
その耳に、すっかり聞き慣れた赤塚艦長の胴間声が背後から吹きつけてきた。
赤塚源六艦長、伊東次右衛門副長、井上新右衛門前艦長らは、「春日丸」下船後ただちに鶴丸城へ登城していった。
いまは家老職に昇っている小松|帯刀《たてわき》らは先着の「平運丸」から開戦前夜の京坂地方の雲行きについてすでに報じられてはいたが、三日のうちに鳥羽伏見の戦いが勃発《ぼつぱつ》したことはまだ承知していなかった。薩摩藩|国許《くにもと》は赤塚たちの口から阿波沖海戦の顛末《てんまつ》を聞き、初めて旧幕府勢と交戦状態に入ったことを知ったのである。
しかし、三日の緒戦から陸戦に勝ちを制した京の薩長勢は、四日には征討将軍|仁和寺宮嘉彰《にんなじのみやよしあき》親王と日月《じつげつ》の錦旗《きんき》を東寺に迎え、官軍の名分を確立。徳川陸軍、会津兵、桑名兵などからなる旧幕府勢の総大将たるべき前将軍徳川|慶喜《よしのぶ》は、六日夜将兵を見捨ててひそかに大坂城を脱出し、「開陽丸」に乗って江戸へ逃亡しつつある(一二日着)。
「翔鳳丸」が旧幕海軍から逃れきれないと見て土佐で船体を自焼させたことも伝わってきたが、九日、薩摩藩庁は「春日丸」乗組員たちに対して行賞を与えた。
艦長と前艦長には十両、士官には七両二分、水夫頭には三両、水夫や火夫たちには銭二千|疋《びき》(五万文)。
兄の次右衛門とともに七両二分を受け、四年半ぶりに上清水馬場の家に帰った四郎は、――とつづけるのが一般的な小説作法だろうが、そう書くとこの物語の場合は作りすぎになってしまう。
まことに奇妙なことに、帰国すると同時に四郎の姿は、乾ききった砂にしみこむ水滴のように諸史料から消えてゆくからだ。かれが右の行賞にあずかったのかどうかを示す史料も管見に入らない。
そこで四郎の明治以降の足どりをたどる前に、この一時的空白の意味するところを押さえておきたい。
それにはまず、昨|慶応《けいおう》三年(一八六七)十月に四郎が江戸へ下った目的は討幕挙兵の捨石になることだった、という点に注目する必要があるだろう。
鳥羽伏見の戦いは、みずから維新回天の捨石となることをよしとして江戸へむかった四郎らの死を契機として勃発してもふしぎではなかった。にもかかわらず、四郎は幾度も死地に身を置きながら生還をはたした。
そこでつぎに考え合わせたいのは、四郎の「春日丸」乗艦はかれ自身と前艦長井上新右衛門との間で決められたことで、薩摩藩庁ないし総大将格西郷吉之助の指示によるものではなかった、という事実。すでにこの時期、薩摩藩が全藩士を陸軍と海軍のいずれかに分けていたとまではいえないものの、四郎は神戸海軍操練所と江川塾への留学、ついで江戸行きと長く本藩を離れていたため、一時的に藩籍なき藩士に似た存在となっていたのではあるまいか。
これ以降も薩摩藩は、領民の四人にひとりは武士、という士分の者の割合の異様なまでの高さを存分に活用して、長州藩とならんで討幕維新の主役をはたしてゆく。このような時代の大状況と、操艦術・砲術を知って戦歴も豊かという四郎の小状況とを重ね見ると、四郎はあきらかに時代の子であった。
というのに、四郎が江戸への進撃、江戸の無血開城(四月一一日)、上野彰義隊の討伐(五月一五日)、奥羽戦争とうちつづく一連の戊辰《ぼしん》の陸戦に参加した形跡はない。ふたたび「春日丸」ないし別の船に乗りくんで、戦闘海域をめざした痕跡《こんせき》もない。
「春日丸」は、前之浜|投錨《とうびよう》から十二日後の一月十八日、藩兵多数を乗せて二十三日大坂湾着。二月には艦体修理のためイギリス商人の手にゆだねられて上海へ廻航されることになり、赤塚艦長、伊東次右衛門副長、東郷平八郎らはすべて退艦した。
その後「春日丸」の士官たちは、二手に分かれて行動した。赤塚、東郷たちは鹿児島へ帰って兵の操練に従事、次右衛門らは長崎に残留してさらに海軍研究を深める。
四郎がそのいずれにも属さなかったこともすぐに調べがつくのだが、もうひとつ頭に入れておきたいのは、四郎の鷹揚《おうよう》な人となりである。
「四郎どんは桃太郎ん人形のよじゃ」
「あん子はよほどん愚物か、そいでなければ大変《あばてん》な傑物じゃろう」
といわれた少年時代のことを、後年かれはこう回想することになる。
「自分は性来の愚物でな。十歳ぐらいになって一、二、三、四、五とまでは指を折って勘定することはできても、六から指をひらいてゆくことにはおもい至らなかった」
薩英戦争についても、率直かつユーモラスな口調で思い出を語り残している。
まずは、西瓜舟決死隊に参加したことについて。
「さて英艦に漕《こ》ぎつけて白蛇甲板上に閃《ひらめ》き、いまやまさに英艦は血をもって塗られんとしたのだけれども、歯痒《はがゆ》いかな、かれらはどうしても舷梯《げんてい》を下ろさぬ。商人風を装うていたにせよ、われわれの決死の覚悟はおのずからその眉間《みけん》にあらわれていたろうから、英艦は登舷を拒絶したに相違ない。このときのことを追想すると、いつでも血湧き肉躍るの感に堪えぬ」
ついで、祇園の洲台場の守備について。
「わがはいはそのとき祇園の洲台場の太鼓役といって、隊長の幕下にいた。……まあ、現今の軍隊のラッパ吹きさ」
「そのとき英艦から発せられた砲弾を見て、びっくりしない者はなかった。当時まだ見たこともない一尺五、六寸の長い砲弾を、ヘソの緒切って以来初めて見たんだから、たまげたのも無理はなかった」
伊東四郎こと祐亨《すけゆき》の、南国的な明るい性格が語り口によくあらわれている。
ただしこの四郎にして、慶応四年(九月八日明治改元)一月六日に帰国してから十一月までの間のことには触れたことがないようである。
戊辰戦争における薩摩諸隊の出撃報告集『薩藩出軍戦状』や『薩藩海軍史』にもその名前なし。昭和十七年、千六百部印刷された小笠原|長生《ながなり》編著『元帥伊東祐亨』、および同書所収の年譜にも記述なし。
これらから察するに、かれの帰国はあまりにも奇跡的な、意外な出来事だったため、かれはつぎなる出軍予定者のなかにかぞえられずにいたのではあるまいか。
三月十八日、薩摩藩は残るもう一隻の軍艦「乾行《けんこう》丸」を、朝命によって越後の海へむかわせた。越後口戊辰戦争が開戦間近となったためだが、この「乾行丸」には伊東家の六男、六郎(祐章)が士官として乗っていた。
そして八月六日には、修繕なって前之浜に帰っていた「春日丸」もそれにつづいた。艦長は赤塚源六、副長は伊東次右衛門。東郷平八郎ら士官の顔ぶれもおなじで、阿波沖海戦をともに戦った仲間からは四郎だけが外れている。
兄と弟が出撃したのに、四郎は残留――どうも四郎は、留学、江戸下向、薩邸焼き打ち事件、江戸湾羽田沖海戦、阿波沖海戦と時代の渦に身を置く間に、薩摩海軍の本流からはちょっとずれた存在になりかけていたようにおもわれる。
この微妙な時期に、新政府海軍は大坂の天保山沖で産声《うぶごえ》をあげていた。
征討軍を江戸へ発向させたのにつづいて太政官制度を発足させた新政府は、一月十七日に仁和寺宮嘉彰親王、岩倉|具視《ともみ》、薩摩藩主島津|茂久《もちひさ》あらため忠義《ただよし》の三人を海陸軍務総督に任命。実務を長州藩士広沢兵助(のち真臣《さねおみ》)、西郷吉之助の海陸軍務掛にゆだねて、海軍軍備をととのえはじめたのである。
むろん朝廷が軍艦を所有しているわけもなかったから、海軍の所管となる艦船は勤王諸藩から献納させる、という方法をとった。薩摩、長州、佐賀、芸州、土佐、久留米、福岡の勤王七藩から集められたのは軍艦五隻、運輸船七隻。そのうち、軍艦の名称と排水量はつぎのごとし。
「春日丸」千十五トン、「乾行丸」百六十四トン(以上、薩摩)、「第一|丁卯《ていぼう》丸」二百三十六トン(長州)、「孟春丸」百十七トン、「電流丸」排水量不明(以上、佐賀)。
ただし「電流丸」は、「孟春丸」よりひとまわり大きい程度だから、軍艦五隻の総排水量は千七百トン弱と考えてかまわない。
これに対して、いまや追討の対象となったとはいえ旧幕府海軍側は、慶喜の江戸入り、上野寛永寺への閉居謹慎の間に品川沖へ集まった軍艦六隻だけをとっても、六千二百八十トンにも達していた。
「開陽丸」二千五百九十トン、「回天丸」千六百七十八トン、「富士山《ふじやま》丸」千トン、「蟠龍丸」三百七十トン、「翔鶴《しようかく》丸」三百五十トン、「朝陽《ちようよう》丸」三百トン。
ほかに「朝陽丸」の姉妹艦「咸臨丸」、いささか老朽化した「観光丸」と「美加保丸」その他の運輸船、「旭日丸」のような病院船まであったから、海軍力は圧倒的に旧幕府側が有利であった。
そこで三月十三、十四の両日、ついに江戸入りした西郷吉之助が高輪の薩摩藩下屋敷で旧幕府代表勝義邦と会見したときにも、江戸の無血開城とともに旧幕軍艦の引きわたしが重要問題とされた。
「前将軍慶喜の死一等を減じ、徳川家の家名存続を許す代わりに、江戸城と軍艦とを献納せよ」
新政府側としてはこのような奥の手があるから、抗戦派の旧幕府海軍副総裁榎本釜次郎としても拒みきれない。四月十一日に江戸の無血開城なるや、二十八日に「富士山丸」、「翔鶴丸」、「朝陽丸」、「観光丸」計二千五十トンを引きわたした。
それでも新政府海軍軍艦の総排水量は、三千七百五十トン程度。旧幕府側はまだ四千六百四十トン、石川島造船所製の国産軍艦「千代田形《ちよだがた》」百三十八トンも別にある。引きわたされた四艦は老朽艦ばかりで、この数字以上に実力差ははなはだしかった。
そこで両海軍は、四月三日に横浜にあらわれたアメリカ軍艦「ストンウォール」の争奪戦を水面下でくりひろげた。
これは旧幕府が二年前に買収を決定し、すでに三十万ドルを支払い済みの軍艦だったが、残金十万ドルが未払いになっていた。その横浜入りに先んじて日本が内戦状態となったため、アメリカ公使ファルケンブルグは局外中立を旨として両海軍のいずれからの引きわたし要求にも応じなかった。
「ストンウォール」は、二本マストに煙出し一。巨大な鋼鉄の衝角《ラム》をそなえた、日本初見参の装甲砲艦であった。
排水量は千三百五十八トンと「開陽丸」の約半分ながら、厚さ八十九ミリから百十四ミリの装甲によって敵弾を弾《はじ》き返せるし、敵の衝角突撃戦法に遭ったとしても、沈没に至る危険は鉄骨木皮艦よりはるかに少ない。
さらにこの船の特徴は、強力な備砲にあった。主砲は三百ポンド・アームストロング砲、副砲はおなじく七十ポンド砲二門で、ほかに六ポンド砲、四ポンド砲各二門に毎分百八十発まで連射可能な機関銃の原型ガットリング機関砲まで上甲板に据えつけていた。
主砲、副砲がのちの二十五センチ砲、十六センチ砲に相当すること、日本海軍の主砲が明治二十年代まで十五センチ砲程度でありつづけることを考えれば、旧幕府、新政府の両海軍が綱引を演じた理由も容易に知れよう。「ストンウォール」の入手に成功した方こそが勝者たり得ると、衆目の見るところは一致していた。
しかし榎本釜次郎としては、いつまでも江戸湾に留《とど》まってはいられなかった。
七月から八月初旬にかけて東の白河口、西の越後口の陸戦は、いずれも新政府軍の勝利におわった。戦線は前将軍慶喜に代わって賊徒|首魁《しゆかい》とみなされた会津藩めざして一気に収斂《しゆうれん》しはじめたため、旧幕府海軍は戦線の背後に取り残されるかたちになったのである。
そこで榎本は、いったん「ストンウォール」の獲得を断念。八月十九日、「開陽丸」以下をひきいて江戸湾脱走に踏みきった。やがてかれは、「咸臨丸」と「美加保丸」を遭難させながらも蝦夷地《えぞち》入りを果たすことになるが、これは同時に江戸湾が新政府側の領海と化したことも意味した。
横浜にはなおも欧米列強の艦隊があり、内戦の帰趨《きすう》を見つめている。それをおもえば、新政府海軍としては軍艦の一部を割いて江戸湾の警備に当たらせざるを得ない。
遠く鹿児島で髀肉《ひにく》の嘆をかこっていた四郎に、軍務官からの召し状がきたのはようやくこの段階になってからのことであった。
すでに榎本脱走軍の占拠した蝦夷地を除いて奥羽一円が平定された明治元年十一月、東京と地名の変わった江戸へ下った四郎は、阿波沖海戦のときにまとっていたイギリス式の軍服を着用。徳川家から接収されてまもない築地の浜御殿に置かれた海軍局に出頭し、海軍軍人として初めての辞令を受けた。
「富士山丸乗りくみ、申しつくる」
「一等士官申しつくる」
徳川家の別邸だった浜御殿は、慶応《けいおう》二年以降は幕府海軍奉行の支配とされ、
「御浜沖」
と呼ばれる東側にひらけた海は旧幕府海軍の錨地《びようち》として用いられていた。
一月六日、大坂城から敵前逃亡した慶喜が「開陽丸」から上陸したのも浜御殿であり、御浜沖こそは旧幕府海軍の本拠地だったところにほかならない。
なおもその御浜沖を錨地としている「富士山丸」の任務は、むろん東京湾の警備にあった。
昨年暮、旧幕艦「回天丸」と追いつ追われつ東京湾を脱出したばかりの四郎にとって、自分が当時その「回天丸」がおこなっていたのとおなじ役を命じられようとは思いも寄らないことだった。
このころ戊辰戦争は、最終局面を目前にして小休止、という状況にあった。
蝦夷地入りした榎本脱走軍三千は、箱館府の置かれていた五稜郭を奪って明治元年(一八六八)十二月十五日に蝦夷共和国政府の樹立を宣言。対して新政府は海陸あわせて一万二千の大兵力を青森口にむかわせる作戦を立てながらも、まだ蝦夷地への渡海攻撃には踏みきれずにいた。
これは西国諸藩を主力とする新政府軍が、海陸ともに冬仕度をしていなかったことに原因がある。渡海攻撃をおこなうには、蝦夷地の雪解《ゆきげ》時を待つしかなかった。
その新政府は江戸の無血開城後、帰順を誓った旧幕臣の家屋敷はのぞき、徳川家臣団の住居はことごとく没収していた。合計面積は約千七百万坪と、東京府の六割におよぶ。
おって官庁用地に転用される屋敷以外は更地にもどされ、桑畑、茶畑とする農本主義的な政策がとられたから、このころ江戸の武家屋敷町の景観は急速に失われつつあった。
事情は、伊東四郎たち海軍士官が殿舎の各部屋を住まいとした浜御殿においても似たようなものであった。
海軍局は、建坪八百坪に近い浜御殿の一角、
「浜殿石室《はまでんせきしつ》」
と呼ばれる洋風木造石張りの建物のうちに置かれていた。のちに延遼館《えんりようかん》と改名され、明治初期の迎賓館としてつかわれることになるこの和洋折衷の建物は、慶応二年(一八六六)に造営されたばかりである。
この浜殿石室以外の浜御殿は、手入れする者とてなく荒れるにまかせられていた。
大手門と渡り櫓《やぐら》をかまえ、平城《ひらじろ》のごとくに造られた浜御殿の総面積は六万五千坪あまり、東京湾の海水を水門から引き入れた林泉廻遊《りんせんかいゆう》式の名園の池だけでも八千余坪。その潮入りの池は歴代将軍が投網《とあみ》や鴨猟を楽しむところとされ、桜、藤、紅葉など四季折々に趣を変える木々の間には「松の茶屋」、「燕《つばめ》の茶屋」、「鷹《たか》の茶屋」、「潮見の茶屋」などと名づけられた茶室が点在していた。だが庭番の者の姿も消えたいま、池の中の島には鵜《う》の群れが啼《な》き騒ぐだけになっている。
芝も枯れ死んだ築山から松林の木の下闇を抜け、東門を出れば目の下に将軍専用の石段と供侍の者たちのつかったそれとが波に洗われ、その先に将軍御座船のつなぎ杭《ぐい》四本が立ち腐れの様相を呈している。
その石段と沖の「富士山丸」とをバッテイラで往復する日々を送りはじめた四郎が、「春日丸」に再会したのは十二月一日のことであった。越後口に行っていた「春日丸」が東京湾へあらわれたのは、むろん青森口からの渡海攻撃に参加するためである。
つづけて「第一|丁卯《ていぼう》丸」、元秋田藩船の「陽春丸」と運輸船四隻も集結したので、四郎は乗組員たちの宿舎や石炭の手配にてんてこ舞になった。
そんななかで四郎にもっとも勉強になったのは、「春日丸」副長として浜御殿に上陸した兄の次右衛門からある文書を見せられたことだった。
「おい、汝《わい》もこいをそらんじておくがよか」
浜御殿奉行の役宅だった屋敷の一室にくつろいだ次右衛門がわたしてくれた紙には、右はじに、
「定め」
と書かれていた。赤塚源六艦長が、越後口へ陸兵を送る間に決めた乗組員心得だという。
「あいがとごあす」
次右衛門の前に軍服姿で正座した四郎が読みすすめると、そこにはつぎのような条文がならんでいた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、甲板下にて煙草吸うべからず。
一、砲門または両舷梯子《りようげんはしご》より塵芥《ちりあくた》捨つるべからず。
一、定めの場所のほか、大小便固く無用。
一、士官以外の者、船将部屋ならびに士官部屋へ入るべからず。
[#ここで字下げ終わり]
……………
水夫や火夫たちには、漁村育ちで海に慣れているというだけで採用された者たちも少なくない。武家の出の者たちにも、
「出物|腫《は》れ物ところ嫌わず」
を地でゆく傾向がはなはだしかったから、このような初歩の海軍教育から説く必要があったのだ。
四郎は矢立てを取り出して別紙にこれを写させてもらい、「富士山丸」乗組員の間にもおなじ心得が浸透するよう心掛けることにした。
そのころにはすでに、脱走軍側が圧倒的に優勢だった海軍力には決定的な変化が起こっていた。脱走軍旗艦「開陽丸」は、十一月十五日に江差沖で坐礁《ざしよう》。乗っていた榎本釜次郎は三日目にかろうじて江差上陸を果たしたものの、「開陽丸」は強風激浪に揉《も》まれて十日目には沈没してしまったのである。
あけて明治二年一月十五日にも、四郎たちを小躍りさせる朗報が伝えられた。日本国内の平定なったと見てアメリカ公使ファルケンブルグが局外中立を解き、「ストンウォール」を新政府側に引きわたすという。
四郎はこれまでに「観光丸」、「翔鳳丸」、「春日丸」に乗りくんだことがあり、「ユーリアラス」以下のイギリス艦隊、旧幕艦「回天丸」や「開陽丸」も間近に見ている。その四郎の目にも、横浜から品川台場沖の海域へあらわれた「ストンウォール」はまことに魁偉な姿と映った。
黒く塗られた一本だけの煙出しが、前後のマストの檣楼《しようろう》とならぶ高さなのも珍しければ、長い槍出《やりだ》しをそなえた艦首が下へゆくほど前方にせり出しているのも異様であった。艦底と艦首喫水下に突き出した衝角《ラム》とは赤く塗られ、しかも装甲の重さに舷が沈んで上甲板が低く見える。
「甲鉄」
と改名され、新政府海軍の旗艦に指定されたこの強力艦は、やがて四郎たち東京湾警備の者に見送られて青森口へ進出することになった。
佐賀出身の海軍参謀増田虎之助にひきいられたのは、「甲鉄」、「陽春丸」、「春日丸」、「第一丁卯丸」の四軍艦と運輸船四隻。文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)の薩英戦争からかぞえて六年目、四郎二十七歳のときに日本海軍はようやく艦隊と呼ぶに足るものを編成することができたのだった。
艦隊の品川沖抜錨は三月九日、陸中の宮古湾到着は十八日から二十日にかけてのこと。
しかし、その後も湾内に投錨して好天を待った「甲鉄」は、二十五日払暁、いまは脱走軍旗艦となっている「回天丸」の奇襲を受けた。榎本脱走軍は「甲鉄」を奪わないかぎり勝ち目はないと見、箱館湾から「回天丸」を放って接舷攻撃をおこなわせたのである。
だが外輪船の「回天丸」は、「甲鉄」の舷側へ艦体をぴたりとは寄せられなかった。しかも「甲鉄」の左舷中央部にT字型に艦首を乗りかけたとき、「甲鉄」の甲板は自重に沈み、「回天丸」のそれより一間(一・八メートル)以上も低位置にあった。
「甲鉄」乗組員とすれば、脱走軍の斬りこみ隊が高みから順次飛び下りてくるところを迎え撃てばよいから絶対有利だった。さらに「甲鉄」甲板上には六連装、毎分百八十発連射可能のガットリング機関砲があり、手近に停泊中の僚艦七隻には七連発のスペンサー銃装備の兵たちがいる。
「回天丸」側はこれらからの猛射を浴び、三十分後には艦長甲賀源吾をふくむ戦死者十五、負傷者四を出して逃走していった。赤塚艦長、伊東次右衛門副長の「春日丸」はこれを追い、途中で遭遇した脱走軍の一隻「高雄丸」を焼き捨てるという武功をあげた。
つづけて四月十六日から開始された蝦夷地攻めは、両海軍においては箱館湾海戦というかたちをとった。
ただし「甲鉄」は、決戦前の五月一日、箱館湾内で坐礁し総員退艦したあと漂流していた脱走軍の「千代田形」を戦わずして捕獲。新政府海軍は十日までに「回天丸」と「蟠龍丸」も撃ち沈め、喪失したのは「朝陽丸」わずか一隻という圧勝をとげた。十八日には榎本釜次郎以下一千余名が降伏して五稜郭は開城したため、ここに約一年半にわたった戊辰《ぼしん》戦争は幕を閉じたのである。
戦況はほぼ二週間遅れとはいえ、官報「太政官日誌」に連日詳報されていた。だから四郎も、宮古湾海戦の勃発《ぼつぱつ》から「春日丸」が「回天丸」、「蟠龍丸」にむかって何発撃ったか、ということまで承知していた。
七日には百七十余発撃って、十七、八カ所に被弾。十一日には二百八十余発も発射したものの、赤塚艦長と次右衛門ともに薄手を負う、……。
「箱館官軍大勝利」
とにぎにぎしく報じられたのは六月二日になってからのことであったが、同日付「太政官日誌」は、島津久光・忠義父子をふくむ維新回天の功労者約四百人に対し、禄米《ろくまい》七十四万五千余石と金二十万三千三百両に達する賞典禄が与えられると伝えていた。
久光・忠義に対する宣下《せんげ》状は、つぎのような文面であった。
「積年勤王の称首《しようしゆ》(筆頭)となり、大兵を挙げ、断然力を朝廷につくし、戊辰の春、伏水《ふしみ》(伏見)一戦、大いに賊胆を破り、天下人心の方嚮《ほうきよう》(方向)を決し、つづいて東北諸道に出兵、……ついに今日平定の偉功を奏し、宸襟《しんきん》を安んじたてまつり候段、洵《まこと》に国家の柱石に思《おぼ》しめす、叡感《えいかん》斜めならざるによりてその賞とし、官位昇進、禄十万石下賜候事」
つづけて久光は従二位|権《ごんの》大納言、忠義は従三位参議に叙任される、と書かれていた。
長州藩主毛利|敬親《たかちか》と世子広封《せいしひろあつ》父子も、まったくおなじ扱い。賞典禄のそのつぎに多いのは土佐藩老公|山内《やまのうち》容堂・現藩主山内豊範の四万石だったから、薩長両藩は名実ともに維新最大の功労者と認められたことになる。
四郎自身は、宣下状に触れられている鳥羽伏見の戦い、奥羽戊辰戦争にはついにくわわることなくおわった。とはいえ鉞《まさかり》強盗に変じ、米俵から米粒をこぼしながら薩摩藩上屋敷へ帰ったころからの烈しい日々をおもうと、あれからまだ一年半しかたっていないのがふしぎにすら感じられる。
(さて、これからどうするか。赤塚さんのような名艦長に、なれるならなってみたいものだが)
と考えながら、四郎は六月四日を迎えた。
五月二十八日に箱館を出港し、三日のうちに横浜まできていた「甲鉄」以下の艦隊は、この日午前中に品川沖の錨地《びようち》に全艦帰投、満艦飾《まんかんしよく》をほどこして凱旋《がいせん》式をおこなうことになっていた。
満艦飾とは、艦首から各マスト上、艦尾へと信号旗を飾りつけ、祝意を示すことをいう。
「富士山丸」に乗って台場外側の錨地に先行した四郎は、光あふれる羽田沖から艦隊が悠然とあらわれるのを、ほかの乗組員たちと甲板にならんで出迎えた。
「甲鉄」先頭、単縦陣ですすんできた艦隊は、南品川寄りから東へ回頭し、台場の列に沿って品川沖をふさいだかとおもうと、北へ八点(九〇度)の一斉回頭をおこなって横陣に変化した。ついで信号旗を連揚して満艦飾となり、祝砲を連発しはじめる。
それぞれのメイン・マスト上には旭日旗がはためき、四郎は知識としてしか知らなかった満艦飾の華やぎを初めて目のあたりにした。
ひとつの時代がおわり、新しい時代がいま始まろうとしていた。
戊辰戦争の進行中から、新政府の軍務を司《つかさど》る官は軍務官であった。明治二年七月八日、その軍務官が廃されて東京に兵部省が置かれるや、海軍と陸軍はこちらの管轄するところとなった。
しかし、艦船の所管はまったくまぎらわしかった。
兵部省の軍艦は「甲鉄」、「富士山丸」、「千代田形」のわずか三隻。名義上、民部省所有の船もあれば「春日丸」、「乾行丸」(以上、薩摩)、「第一丁卯丸」(長州)のように藩に返された船もあり、海軍艦船の所属が一本化されるのは明治五年二月に海軍省、陸軍省が分置されて以降にもちこされることになる。
その間に、伊東四郎は諱《いみな》の祐亨を名のるようになっていた。祐亨の読みは、父正助の諱が祐典《すけのり》、次右衛門が祐麿《すけまろ》と改名していたことに照らして「すけゆき」に違いない。
だが、これは読みにくい。おそらくそのためだろう。どう読むのですかと後輩に問われたとき、
「ゆうこう」
と、髷《まげ》を落として総髪のうしろ撫《な》でつけに髪形を変えていたかれはあっさり答えた。
船の呼称にも、変化が見られた。「富士山丸[#「丸」に傍点]」などの「丸」が省かれ、「富士山」あるいは「富士山艦[#「艦」に傍点]」と呼ばれることになった。
そのような近代海軍の揺籃《ようらん》期を、祐亨はほとんど東京湾の海上で過ごした。
「河童《かつぱ》の暮らし」
というやつである。
明治三年九月「乾行」副長、四年二月海軍大尉に任じられて「春日」に転乗、十一月「第一丁卯」艦長となり、五年のうちには「春日」艦長、少佐に任じられて「東《あずま》」艦長へ。
「東」とは「甲鉄」の新しい艦名だが、祐亨の官名が士官から大尉と変わったのは、三年九月から海陸軍大佐・中佐・少佐・大尉・中尉・少尉の官がもうけられたためだった。
伊東祐亨海軍大尉の誕生時点でいえば、海軍大将・中将・少将はまだいない。大佐が赤塚源六あらため真成ほか四人、中佐が伊東祐麿ほか三人、少佐が十人、大尉は三十人とまことに小さな所帯でしかなかった。
その分だけ若手士官と下士官の育成が急務とされたから、祐亨は横浜を母港として近海警備にあたりながら厳格な海軍教育を心掛けた。
上陸して夕食を摂り、ゆっくりと酒を飲んで深夜にそっと帰艦する。そして、
「火災操練!」
と叫びながら時鐘を乱打する。
「鬼の艦長」
と陰口されても、赤塚大佐がかつて排便場所にまで言及した「定め」を出したことを知っているかれは、いっさい気にしなかった。
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第五章 明治大乱
海軍の服制は、明治三年(一八七〇)師走に至ってようやく定められた。その理由としては、いまとなっては信じ難い話がひとつ伝わっている。
海軍の主流となりつつある薩摩藩出身の者たちは、イギリス海軍から与えられた紺ラシャ、ダブルボタン詰襟のフロック形軍服をかねてから身につけていた。ところがこの軍服には、袖口《そでぐち》に金線をもって付されるべき階級章というものがなかった。
これはイギリス側が、
(どんな階級の者が着るのかわからない)
と考え、金線を剥《は》ぎ取ったしろものを与えつづけたためだろうか。
それにしても、階級章のない軍服というのは困り物だった。その人物が自分より目上の者なのか目下なのかわからないと、なにかの会合で鉢合わせしたときなど、挙手の礼を先におこなうべきかどうか判断に苦しむ。
誕生まもない海軍にはまだ佐官と尉官の別もなく、船将(艦長)、副将、士官(一等から三等まで)といった大ざっぱな区分しかされていなかった。だからだれも金線の有無など気にしなかったわけだが、諸外国から階級のわかりにくさを指摘され、兵部省はようやく服制をもうけたのである。
さらにこの服制は明治四年末に改正され、「第一|丁卯《ていぼう》」、ついで「春日」の艦長として海上勤務をつづけていた伊東|祐亨《ゆうこう》大尉も次第に海軍軍人らしい風格を帯びた。
紺ラシャ鍔《つば》つき、中金線《ちゆうきんせん》一条をめぐらした軍帽に潮灼《しおや》けした顔のなかばを隠した二十九歳の祐亨は、決してポケット・ハンドなどというだらしないことはしなかった。袖口に中金線二条、その上部に日の丸を付した紺ラシャ詰襟、フロック形の上衣に、中金線一条の側線入りのズボンを着用。漆黒の口髭《くちひげ》をたくわえ、革の短靴を履いたかれは、いつも艦内を見まわって備品の手入れが行き届いているかどうかを監視していた。
ときには白い手袋をはめて砲口や真鍮《しんちゆう》製の手すりをひと撫でし、乗組員たちに汚れた指先を示して無言で注意をうながすこともあった。それでも清掃や整理|整頓《せいとん》がゆきわたらないと見るや雷を落とすので、あらたにつけられた渾名《あだな》は、
「雷艦長」
しかし、雷艦長にも苦手はあった。
つかわれていない索具が、装飾的意味合いからきれいに巻かれて甲板上に置かれているのに気づくと、軍帽の鍔を強く引いてそそくさと遠ざかってしまう。祐亨は渦巻状を呈した索具からどうしても大嫌いな蛇を連想してしまい、気分が悪くなるのだった。
その祐亨が立てつづけに衝撃を受けたのは、明治六年、海軍少佐として「東《あずま》」艦長をつとめていた時代のことであった。
まず初めに六月なかば過ぎ、赤塚真成大佐の訃報が伝わってきた。
祐亨とともに阿波沖海戦を戦った巨眼肥満の赤塚大佐は、三年九月以降は兵庫に赴任し、小艦隊の指揮をしていた。それが五年春先に肺結核を発病、海軍を休職して熱海で療養生活に入ったものの、薬石効なくこの六月十一日に病死したのである。享年ちょうど四十。
「浪の音を聞き故郷《ふるさと》を思ひ出《い》でて」
と詞書《ことばがき》した療養中の和歌も、同時に伝えられた。
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絶間なく浪の音きく故郷の音づれほしき入相《いりあい》のころ
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祐亨の目に勇猛をもって鳴る薩摩|兵児《へこ》の典型と映っていた赤塚大佐が、このように淋しい歌を残して冥界《めいかい》に去ったとはすぐには信じられないことだった。
(あの赤塚さんのような名艦長になれたら、と考えてきたのに)
とおもうと、祐亨は目標を見失ったような気さえした。
それにしても幕末維新の激浪に呑《の》まれるように消えていった者は、かれの知り合いのうちにも少なくなかった。
イギリス人リチャードソンに初太刀をつけて生麦事件を引き起こした奈良原喜左衛門は、薩英戦争後に京都詰めとなったが、慶応《けいおう》元年(一八六五)五月に二本松の藩邸で死去していた。享年三十五。表むきは病死ながら、生麦事件の責任を問われて詰腹《つめばら》を切らされたという風聞もあった。
慶応三年秋、薩摩藩江戸上屋敷に下って旧幕府挑発工作に従事した伊牟田《いむた》尚平、益満休之助《ますみつきゆうのすけ》、相楽《さがら》総三の三人も、そろってもうこの世の人ではなかった。
伊牟田は薩邸焼き打ちの砲火をかいくぐって脱出に成功、祐亨とともに「翔鳳《しようほう》丸」に乗り、兵庫から京へもどったあと不幸に襲われた。その部下が辻斬《つじぎ》り強盗をおこなった責任を問われ、やはり二本松の藩邸で自刃させられたのである、鳥羽伏見戦争の勝利がすでに確定していた慶応四年二月のことで、伊牟田は享年三十七であった。
終始この伊牟田と行動をともにしていた益満休之助は、薩邸からの逃走に失敗して捕縛されたが、勝義邦の使者山岡鉄太郎(鉄舟)を江戸へ進撃途中の西郷吉之助のもとへ案内し、西郷・勝会談実現への道をひらいた。だが、かれは江戸無血開城後も上野の山にこもりつづけた彰義隊の討伐に参加し、戦傷死していた。享年二十八。
さらに草莽《そうもう》の志士たちの領袖《りようしゆう》格だった相楽総三は、慶応三年十二月二十九日に紀州熊野灘の久木湊で「翔鳳丸」を下船、陸路京へ上っていった。その後かれは赤報隊を結成。東征軍にさきがけて東山道に進出したものの、東征軍からみると不法行為が目に余ったらしく、江戸入り前に斬首《ざんしゆ》されておわっていた。享年二十九。
切腹、討ち死に、斬首、病死――乱世を生きぬけば生きぬくほど、人は他者の死をあまた目送せざるを得ない。
(せめておれが艦長をつとめている船では、艦内の不衛生や乱雑さから病人、怪我人を出したくないものだ)
とのおもいから、祐亨はますます雷艦長の名を高からしめていった。
そして第二の衝撃は、明治六年(一八七三)の政変の勃発《ぼつぱつ》に根差すものであった。
江戸時代、徳川幕府と朝鮮国王とは対馬藩宗家を介し、対等の礼をつくしあっていた。ところが明治政府は、もとをただせば尊王|攘夷《じようい》思想家たちの樹立した政権だけに外交に疎い。前例をかえりみることなく朝鮮国王を天皇より一段低い身分とみなし、「皇」、「奉勅」といったことばの混じる国書を朝鮮へ送った。
他方、朝鮮にとって「皇」とは宗主国たる清国の皇帝を意味する。とてもこのような国書を受理するわけにはいかなかったが、明治政府の要人たちの多くはこれを無礼と考えた。
「かつて日本に開国を迫った欧米列強のように、今度は日本が朝鮮を征服すべきである」
とする征韓論が、ここに生まれた。
その最強硬論者は、筆頭参議兼近衛都督陸軍大将の顕職に昇っている西郷吉之助あらため隆盛。ついで土佐出身の参議板垣退助と後藤象二郎、佐賀出身の司法卿《しほうきよう》江藤新平、おなじく外務卿の副島種臣《そえじまたねおみ》らであった。
しかし征韓論は、六年十月のうちに公式に否定されてしまった。四年十一月以来欧米諸国を歴訪していた遣欧使節団の特命全権大使、右大臣岩倉|具視《ともみ》が帰国して内務卿大久保一蔵あらため利通《としみち》とともに内政改革優先を主張するや、天皇もこれに同意したためである。
ただし、岩倉不在中の留守内閣首班として征韓を決定していた西郷は、すっかり面目を失った。かれは、十月二十二日に辞表を提出。板垣、後藤、江藤、副島も連袂《れんべい》辞職に踏みきると、とくに鹿児島県士族からは六百人以上が軍隊役所の職を捨てて帰郷してしまい、物情は一気に騒然とした。
その影響は、まず佐賀県にあらわれた。江藤を支持する佐賀の不平士族は四千五百人以上の勢力にふくれあがり、地元銀行や県庁をうかがう不穏な形勢となったのである。
「軍艦二隻を至急品川発、九州に出動せしめてこれが鎮定に当たらしむべし」
あけて七年二月四日、太政大臣三条|実美《さねとみ》が勅を奉じて海軍省に命じたのは、熊本鎮台の陸兵七百たらずではとても抗しきれないと知ったからにほかならない。
幸か不幸か、西郷を追って下野した鹿児島県士族には、陸軍少将桐野利秋、おなじく篠原冬一郎あらため国幹《くにもと》など陸軍畑の者が大多数だった。海軍は、陸軍ほどの激震には見舞われなかった。
これはひとつには、五年二月に浜御殿北隣りの元尾張徳川家蔵屋敷に海軍省が置かれて以降、その実権は海軍|少輔《しようゆう》川村|純義《すみよし》が握っていたことによる。天保《てんぽう》七年(一八三六)生まれと祐亨より七歳年長の川村は、やはり鹿児島県士族ながら安政《あんせい》二年(一八五五)にはもう幕府の長崎海軍伝習所に留学。維新後一年間ヨーロッパにも出張して開明的、理知的な肌合いを身につけた人物で、熱血漢の西郷よりも能吏型の大久保内務卿と親しかった。
しかも海軍将官としては、まだ三人の少将がいるのみだった。伊東|祐麿《すけまろ》、中牟田倉之助、真木長義。
中牟田と真木は佐賀県士族だから、佐賀征討総督東伏見宮嘉彰親王の下にあって追討の全権をゆだねられた大久保は、川村と諮《はか》って祐麿を海軍の征討参軍(司令長官)に起用することにした。ちなみに陸軍の征討参軍は、長州出身の山県有朋《やまがたありとも》中将。いずれ、
「薩の海軍、長の陸軍」
ということばも生まれるごとく、海軍に薩摩閥、陸軍に長州閥が顔を利かせるようになってゆく傾向は、この時点に始まったといってよい。
これに応じて祐亨も、「東」艦長として海軍出仕以来初めての出征を経験した。
「東」の僚艦とされたのは、長州藩献納の旧式木造軍艦「雲揚《うんよう》」二百四十五トンのみ。二艦は二月十四日に品川を発し、十九日に兵庫に寄港、ここで海軍歩兵二小隊、砲兵一小隊を乗せた運輸船「大阪丸」と合流して長崎から兵を上陸させたが、祐亨の出番はそれまでだった。
佐賀県庁は、佐賀城のうちに置かれている。十六日早朝、これを囲んだ不平士族四千五百と県庁守備の熊本鎮台兵三百三十二の間に始まった佐賀の乱は、初めこそ江藤新平のおもわく通りに進展した。
しかし、博多に上陸した大阪・広島両鎮台からの三大隊が二十二日から進撃を開始するや、形勢は一変した。
不平士族には守旧派が多いだけに、和装鉢金に籠手《こて》、臑当《すねあ》てをつけた古風な出立《いでた》ちの兵がめだった。対して鎮台歩兵たちは、背嚢《はいのう》に紺地詰襟の軍衣、鼠色霜降りの軍袴《ぐんこ》に羽根の前立てつきの軍帽をかむり、戊辰《ぼしん》戦争のおりにも威力を発揮した元ごめスナイドル銃を装備している。
不平士族たちは、昨年一月発布の徴兵令によって編成されたばかりの鎮台兵たちを、
「クソチン」
と呼んで軽んじていた。だが、かれらは、突撃ラッパに従って津波のように進撃するそのクソチンの集団戦術に薙《な》ぎ倒された。
三月一日には早くも鎮圧されてしまったから、かえって祐亨たちは無聊《ぶりよう》に苦しんだ。
その祐亨にとって奇怪に感じられたのは、その後もなかなか江藤就縛の報が伝わってこないことであった。論客江藤とともに下野した者たちは、鹿児島と高知で乱の帰趨《きすう》を見守っているに違いない。江藤がそのいずれかに走ったならば、乱は拡大の一途をたどる危険があった。
その江藤が三月二十九日に高知県下で捕えられ、四月十三日に斬に処されたうえ梟首《きようしゆ》されたと聞いて帰京準備を始めていた十四日、祐亨は出征後初めて兄の祐麿を「東」に迎えた。大久保利通、山県有朋とともに佐賀県庁入りしていた祐麿は、嘉彰親王の乗る「龍驤《りゆうじよう》」艦に行く前に「東」に立ち寄ったのである。
「こんたびは、まこて御《ご》苦労《なんぎ》さあなこっでございもした」
板貼り、洋式の艦長室へ兄を請じ入れた祐亨は、上官への礼をとりながらもお国|訛《なま》りをつい丸出しにした。
「うむ」
軍帽をテーブルに置いて髪の薄くなった頭部を見せた祐麿は、金モールの肩章をつけた燕尾《えんび》服形の礼服に護拳《ごけん》金具つきの長剣を佩用《はいよう》していた。その姿でソファに腰を下ろし、かれは鋭い目つきをしてたずねた。
「汝《わや》、江藤新平が高知で縛に就《つ》くまで、どこい行っておったか知っちょっとか」
「いや、知いもはん」
「鹿児島い西郷《せご》どんを訪《たん》ねて、挙兵を促しておったち聞いたどん、どげんじゃ」
「えっ、そいで西郷どんはどげん答ゆったとでごあんそかい」
おもわず祐亨が口髭《くちひげ》を震わせると、祐麿は低い声でたしなめた。
「答ゆっとは汝《わい》の方じゃ。こん『東』一隻でん海軍を脱走して前之浜《まえんはま》い走ったや、西郷《せご》どんは立っど」
「兄《あん》さあ」
正面にむかいあっていた祐亨は、にわかに二重まぶたのくっきりした目を潤ませて涙声になった。
「俺《おい》どもは、たしかに薩摩|兵児《へこ》でごあす。じゃっどん、いまは薩摩ん海軍ではなか、日本の海軍でごあんど。艦首に菊の御紋章いただいちょってそげんこつしたや、維新回天のために死《けし》んだ衆《し》に顔むけ出来《でけ》もはんが」
(もしや兄は、幕末に京にいた間に西郷さんに恩義を受けたのか。それでこんなことをいい出したのか)
祐亨が不安を感じる間に、祐麿は破顔して立ちあがっていた。
「よかよか。俺《おい》はね、どしてん汝《わい》のそんことば聞こち思《おも》て寄ったとじゃ」
その答えに、祐亨は二度驚かされた。
西郷を領袖に仰ぐ故郷の不平士族たちに対する伊東兄弟の胸中は、佐賀の乱終了とともに互いにあきらかにされたのだった。
「叩《たた》きあげ」
ということばがある。下積みから、苦労して上の地位を得た者のことである。
伊東|祐亨《ゆうこう》はすでに少佐であり「東《あずま》」の艦長だから、叩きあげといっては語弊があるかも知れない。
しかし、つとに明治三年(一八七〇)のうちにレンガ造り二階建ての海軍兵学寮が築地の海軍省と背中合わせの敷地に開校し、将来の海軍将士の育成をはじめていた。
この海軍兵学寮の生徒、あるいは若手の士官たちからは、イギリスとアメリカへ官費留学する者たちが相ついだ。東郷平八郎も、明治四年のうちにイギリスへ出発していた。これらの者たちとくらべると、戊辰戦争の弾雨をかいくぐり、海上勤務の経験によって兄は少将、弟は少佐となった伊東兄弟は、やはり建軍期ならではの存在であった。
ただし祐亨より若い士官たちのなかにも、まだ侍の気分を引きずっている者はたんといた。断髪にして靴をはき、護拳金具つきの長剣を佩用しているのに脇差を差したがる。指定の場所以外での火気の使用は厳禁されているにもかかわらず、勝手に火鉢で湯を沸かしたり、煙管《きせる》を喫おうとしたりする。釣床《ハンモツク》ではなく、畳の上に寝たいという、……。
祐亨が雷艦長にならざるを得なかった理由は、こんなところにもあった。
だが、かれはまだ独り身ながら、佐賀の乱がおわったころには三十一歳になっていた。出征中に、海上勤務が長引くにつれて男所帯の乗組員たちは次第に殺気立つこともよくわかった。
だから祐亨は、また東京湾に帰ってきてからは、なにもない日にはなるべく部下たちを上陸させ、息抜きさせるよう努めた。祐亨自身も飲み盛りの年齢を迎えていたし、若き日から薩摩焼酎《さつまじようちゆう》できたえられている。
「艦長、大砲はいかが」
と大盃《たいはい》を差し出されてもいくらでも飲んだから、
「そんなにお飲みになって大丈夫ですか」
と酌にまわった部下から心配されたこともある。
すると漆黒の髪を左側から分け、上唇を八の字髭に隠して男臭さを見せている祐亨は、
「酒が飲めんよな意気地のなかこつで、戦《ゆつさ》が出来《でく》っとか」
と高らかに笑って答えるのをつねとした。
「こいは、米のスープちいうもんじゃ。大和《やまと》魂を養うには、こいに限っとじゃ」
そして、空の銚子《ちようし》を八手《やつで》のような手につまんでみずから酒の追加を命じることもあったから、祐亨の艦長を務める艦には厳しさのなかにも和気|藹々《あいあい》たる明るさが宿った。
明治八年(一八七五)十一月、かれが「日進」の艦長に異動になると、今度は「日進」の艦内が明るくなった。のちに海軍軍人たちの無礼講は、
「芋掘り」
と隠語で呼ばれるようになる。西郷隆盛が依然として鹿児島に隠然たる勢威を張っている間に、祐亨は芋掘りの草分けのような存在になってもいた。
「日進」は佐賀藩から献納されたオランダ製三本マストの木造スループ艦で、千四百六十八トン、乗組員は二百五十人だった。
一般に、人の長たる者は部下の数が二百七十人以内であれば、顔と名前から性格までを充分に把握できるといわれる。祐亨が艦長としてゆく先々で信望を得たのは、飾らない性格もさりながら、まだ軍艦がその条件を充分に満たしている時代なればこそのことだったかも知れない。
その祐亨に初めての海外遠征の命が下ったのは、明治九年一月のことであった。このとき政府は、朝鮮と国交をむすぶべく黒田清隆陸軍中将を全権大臣として朝鮮に派遣することに決定していた。「日進」は「孟春」および運輸船四隻とともに、黒田の護衛艦に指名されたのである。
それまで朝鮮は、日本のみならず欧米列強に対しても国を鎖しつづけていた。それに対して明治八年五月、外務卿《がいむきよう》寺島宗則は海軍|大輔《たいゆう》(次官)に昇っていた川村|純義《すみよし》と協議のうえ、軍艦「雲揚《うんよう》」を朝鮮近海に派遣して示威行動をおこなわせることにした。
「雲揚」艦長は、寺島、川村、黒田とおなじく薩摩出身の井上|良馨《よしか》少佐。祐亨より二歳年下、薩英戦争のとき十九歳だった井上は、桜島寄りの沖小島《おこがしま》台場を守っていた。
文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)七月三日、イギリス艦隊は前之浜を去るにあたり、沖小島台場とも砲火を交えた。井上はその直撃弾を浴びて昏倒《こんとう》したが、奇跡的に五体四散するのを免れた。その砲弾は井上の差していた大脇差と大刀との刀身に当たり、鞘《さや》を砕き刀身を弓のように曲げながらも二間(三・六メートル)弾《はじ》かれて地面を穿《うが》ったのである。
この体験から海軍を志した井上は、赤塚真成、伊東祐麿、東郷平八郎らとともに、「春日丸」に乗りくみ、「開陽丸」との阿波沖海戦を戦ったひとりだから祐亨の戦友でもあった。
一直線の太い眉《まゆ》、肉の厚くたくましい顔つきをしている井上は、度胸のよさでは薩摩|兵児《へこ》の名に恥じない。
川村の意を体して対馬海峡から黄海へまわりこみ、朝鮮半島中部西岸の江華島《こうかとう》砲台付近まで「雲揚」を北上させた井上は、明治八年九月二十日、飲料水を採取中に不意に砲撃を受けた。井上はただちに応戦、射程六、七町(六五四〜七六三メートル)しかない砲台の旧式砲に対し、沖合十六町から百十ポンド砲、四十ポンド砲の砲弾を精確に撃ちこみ、ついには陸戦隊を上陸させて敵砲三十六門を奪うという一方的勝利をおさめた。
砲台側は戦死三十五、降伏十六、逃亡四百ないし五百。「雲揚」は戦死、負傷ともにひとりのみ。
この江華島事件をきっかけに、日本政府内には賠償金を求めるよりもむしろ江戸時代以来の対等交際の再開と朝鮮の開港を、という気運が昂《たか》まった。そのため北海道開拓使長官の黒田清隆が全権に起用されたのだが、かれが選ばれたのは自薦の結果にほかならない。
天保《てんぽう》十一年(一八四〇)鹿児島城下にわずか四石どりの下級藩士のせがれとして生まれ、幕末の京で討幕運動に挺身《ていしん》した黒田は、
「おはんは天下の士にないやんせ」
と西郷隆盛から目をかけられ、一方において大久保利通とも親しかった。西郷が大久保と訣別《けつべつ》して以降、かれは鹿児島へ帰った西郷を案じながらも政府要人として大久保と交わりつづける、という複雑な立場にある。
明治九年二月十日、寒風が膚《はだ》を刺す江華島沖に投錨《とうびよう》した「日進」以下は、紺ラシャ裾長《すそなが》、詰襟の礼服にヤクの毛の房を前立てとした礼帽姿の海兵隊四分隊をまずボートで上陸させてから、大礼服着用の黒田とその随行官、通訳たちを江華府公館へ送った。以後、黒田たちは公館住まいをして談判に入ることになっていたから、公館から「日進」以下に出動要請があるとすれば、すなわち談判決裂となったときであった。
十一、十二、十三日と談判は順調にすすんだが、その間に祐亨たちは沿岸部の測量に忙しかった。明治政府の誕生からまだ丸八年、朝鮮はなおも鎖国しているだけに、朝鮮半島近海のデータはほとんどない。
すると十三日夜、井上良馨が舷側《げんそく》灯と檣灯《しようとう》を明滅させて艦体を波に洗われている「雲揚」から「日進」にやってきて、祐亨にねぎらいのことばを述べた。祐亨は海軍式の右肘《みぎひじ》を張らない敬礼を返したあと、八の字|髭《ひげ》の下から白い歯を見せていたずらっぽい表情になった。
「いや、俺《おい》もこの頃《ごい》は晩酌《だいやめ》もせんとじゃった。今夜《こんにや》はもうないもなかじゃろ、うまか泡盛があいもんで、一杯《いつぺ》飲んで行っきやんせ」
甲板下、艦長室のソファにくつろいで泡盛をちびちびやりはじめてしばらくすると、井上は祐亨のそれより太いナマズ髭を拭《ぬぐ》ってから、
「おはんがどげん見ちょっか知いもさんが、黒田どんも今度ばっかいは必死でごあんそな」
と切り出した。
軍帽を脱いでしまっていた祐亨も、盃《さかずき》を口に運ぶ手を休めてうなずいた。
「そいは俺《おい》も考げておったどん、軍人が政治むきのこつに口《くつ》をはさんじゃならんち思ちょっで、こいまで誰《だい》にも語らんじゃった。そいは、黒田どんと西郷《せご》どんの兼ね合いのこつじゃね」
「そんとおいでごあす」
「やっぱいな」
祐亨は、井上の太い眉を寄せた顔を正面から見つめて口調をあらためた。
「おはんのいいたかこつはようわかっちょっど。こん談判がうまかこつ運んだや、西郷どんの征韓論も国交樹立の一里塚ん役ん立ったちいうこつにないもそ。そいなら西郷どんの面目も立っかも知れんどん、談判破裂となったややっぱい征韓が正しかったちこつなって、鹿児島に騒動《そど》が起きよっかも知れん。そげんこつじゃな」
「そいでごあす」
やはり井上も、黒田があえて全権大臣を買って出た理由を祐亨とおなじように見ていたのだった。
しかし、すでに談判が始まっている以上、ふたりがともに和戦両様の構えをして艦上に待機するしかないことはわかりきっていた。
さらに黒薩摩の土瓶《じよか》から泡盛を注ぎあったあと、井上は立ちあがって中金線《ちゆうきんせん》二条に日の丸つきの袖口《そでぐち》を右耳に当てるようにして敬礼し、
「いや、薩摩ん出の艦長|二人《ふたい》がないを語いごつしちょっとかといわるっ前《まい》に帰いもす。じゃっどん、一時《いつとつ》、気が晴れもした」
と、うれしそうにつづけた。
「いや、伊東さあのこつは、『春日丸』で一緒《いつどき》に阿波沖ん戦《ゆつさ》をしもした時《とつ》から只者《ただもん》ではなかち思ちょったとでごあす。別《べつ》の船いばっかい乗っちょいもしたどん、こいからも相談相手になってくいやんせ」
薩摩の芋づる、ということばがあるように、薩摩人には地縁血縁を頼って集まりたがる傾向がある。艦長にそのような癖があると、乗組員たちも真似をしやすい。
祐亨はそう感じ、士官、下士官たちには平等に声をかけて宴席でも薩摩人だけの輪ができないよう注意していたが、わざわざ井上良馨が「日進」をたずねて心情を吐露してくれたのはありがたかった。
そして、談判は一時中断をはさみながらも二週間後に合意に達し、二月二十七日に至って日朝修好条規が調印された。
「朝鮮は自主の邦《くに》」
と確認しあった朝鮮初めての対外和親条約は、以後の日本にとっては朝鮮をめぐる清国、ロシア両国の動きを牽制《けんせい》する場合の大きな拠《よ》りどころとなってゆく。
(これが、まだ鹿児島や土佐にくすぶる征韓論の平和的解決策と受け止められてほしいものだ)
と考えながら、祐亨は三月のうちに初の海外遠征から無事に帰国することができた。
ついで四月四日、かれは井上良馨と同時に中佐に進級。十二日には黒田清隆、井上ほか七名とともに宮城《きゆうじよう》(皇居)内の賢所《かしこどころ》に初めて召され、天皇に拝謁することを許された。
賢所とは、天照大神《あまてらすおおみかみ》の御霊代《みたましろ》として模造の八咫鏡《やたのかがみ》を祀《まつ》ったところで、ここに出座した天皇は、
「玉体、光を並ぶ」
といわれている。
みずからも神道を奉じている祐亨にとって、この賢所に出座したまだ二十五歳の天皇はあまりにまばゆく、直視しがたい存在であった。
その天皇は黒ラシャ地に詰襟、袖、縁取りはすべて金繍《きんしゆう》、肋骨《ろつこつ》形五条の胸飾りと総《ふさ》つきの肩章は金糸という華麗な衣装に身をつつみ、頭にはやはり黒ラシャ地の全面に菊花を金繍した羽根つきのナポレオン帽をかむっていた。
(若くして尊王討幕に走った身とはいえ、玉体のこんな近くにすすみ出ることを許されるとは)
とおもうと、歴戦の猛者《もさ》である祐亨もさすがに緊張を禁じ得ない。燕尾《えんび》服姿の徳大寺|実則《さねつね》侍従長に名を呼ばれ、袖に中金線四条、日の丸つきの中佐用大礼服姿で礼をし、天盃《てんぱい》を押しいただいても、かれには酒の味さえわからなかった。
それぞれに恩賜の白羽二重二|疋《ひき》を拝領してから馬車に井上と同乗して海軍省へ挨拶《あいさつ》にむかった祐亨は、大きく溜息《ためいき》をついて話しかけた。
「いや、どげんもこげんも、今日ほど気っが疲《だ》れたこちゃなか。まこて陛下が現人神《あらひとがみ》にあらせらるっこつがようわかいもした」
すると祐亨とならんで腰かけて馬蹄《ばてい》の響きに耳を傾けている風情だった井上は、祐亨には初耳のことをいった。ふたりで話していると、どうしてもことばは薩摩弁にもどってしまう。
「そんとおいでごあす。じゃっどん俺《おい》は、陛下に洋装をおすすめしもしたのは西郷どんと副島《そえじま》種臣さあじゃっち聞いたこつがあいもんで、今日の大御心《おおみこころ》を西郷どんが拝察してくいやっとならよかち考げちょったとでごあす」
井上は日朝国交樹立に対する西郷の反応を、なおも気にかけているのだった。
その井上の危惧《きぐ》は、やがて杞憂《きゆう》ではなかったことがあきらかになった。
この年の三月二十八日に廃刀令が出されていたことも手伝い、秋も深まるにつれて各地の守旧派の不平士族たちはついに暴発しはじめた。十月二十四日熊本で神風連《しんぷうれん》の乱、二十七日福岡で秋月の乱、二十八日山口で萩の乱が相呼応して勃発《ぼつぱつ》。いずれも旬日を出ずに鎮圧されたものの、西郷が鹿児島に設立していた私学校の者たちもこれに刺激されて暴走の気配を濃くした。
あけて明治十年(一八七七)一月二十九日から、私学校徒は鹿児島城下|草牟田《そうむた》の陸軍火薬庫を襲い、弾薬三十万発を略奪。三十一日には海軍火薬庫からも小銃と弾薬二万四千発を奪ったうえに、暴発を戒しめるべく帰県した警視官から大久保利通と警視局東京警視本署の川路利良大警視による西郷暗殺計画を聞き出したとし、西郷は二月十五日、七大隊編成の薩軍約一万三千を熊本鎮台にむかって進撃させたのである。
黒田清隆、伊東|祐亨《ゆうこう》、井上良馨らの淡い期待は、ここにまったく裏切られた。
ただし伊東祐亨は、西郷の率兵進撃を聞いて初めて大乱の間近きを悟ったわけではない。
明治十年(一八七七)一月二十四日から、天皇は海路奈良・京都方面に行幸した。お召し艦は、三年前にイギリスから購入したばかりの鉄製汽船「高雄丸」千百九十一トン。祐亨は豊富な操艦経験を買われてその船長役をつとめ、二月六日、いまは鉄道も開通した神戸に先行して天皇一行をふたたび迎える準備をするうちに私学校徒暴発の報に接したのだった。
天皇の護衛艦としては、横須賀造船所製、井上|良馨《よしか》艦長の「清輝《せいき》」と「春日」の二軍艦も神戸港にやってきていた。とはいえ、鹿児島の実情調査のために最初から軍艦を派遣しては、火に油を注ぐ結果になりかねない。
そこで「高雄丸」に白羽の矢が立ち、祐亨はやはり行幸の供奉《ぐぶ》をしていた海軍|大輔《たいゆう》川村|純義《すみよし》を乗せて鹿児島へ急行することになった。
七日出発、二月九日午前十時半に鹿児島港着。
鹿児島港は、甲突《こうつき》川北岸の旧大門口台場と旧弁天波止台場の間にひらけた南北五分の一海里(三七〇メートル)ほどの錨地《びようち》で、いまでは旧弁天波止台場の北端に灯台が建てられていた。錦江湾は遠浅な内海ながら、このあたりの水深は十二|尋《ひろ》ないし二十尋(二二〜三六メートル)あるので「高雄丸」も陸上の人影が視認できるところまですすんで投錨することができた。
しかし、まもなく小舟でやってきた鹿児島県令大山格之助あらため綱良《つなよし》は、西郷に会って直接話をしたいという川村の希望に応じようとはしなかった。
ふたりの会談が長引く間、祐亨が艦橋から油断なく陸上に目配りしていると、波止場には銃を手にした男たちが続々とあらわれ、早くも威嚇射撃を始めた。午後二時、大山県令が談判決裂して去るにおよび、雲霞《うんか》のごとき数となったこれら私学校徒はつぎつぎに平底舟を押し出し、アメンボの群れのように「高雄丸」のまわりに集まってきた。
和装白だすき姿の者もいれば、黒ラシャの巡査制服、あるいは緑絨《りよくじゆう》の軍衣に白の上帯を巻いて長刀を差しこみ、緋《ひ》色の軍袴《ぐんこ》をつけた元近衛兵らしい男も混じっている。
「ぐるいとならびかけやい」
と漕《こ》ぎ手に手ぶりで伝えるその者たちの姿を高い位置から見つめたとき、祐亨は不意に薩英戦争の一場面を脳裡《のうり》に甦《よみがえ》らせていた。
あのときは祐亨も西瓜《すいか》舟に乗りこみ、イギリス軍艦が梯子《はしご》を下ろしたらすぐ乗りうつって斬り死にするまで荒れ狂ってやる、とおもいつめていたのだった。シラス台地の城山を遠景に、光る海面《うなも》から罵声《ばせい》を投げつけてくる私学校徒の殺気立った様子をうかがううちに、
(もう時代は変わったというのに)
と感じて祐亨は痛ましさすら覚えていた。
「錨《いかり》をあげい、錨地変更じゃ」
無駄な闘争を避けるため、祐亨は「高雄丸」を桜島の袴腰下にうつして一夜を明かした。そして十二日に神戸へ帰投し、見てきたままを太政大臣三条|実美《さねとみ》以下に報じたのだった。
この時代、山県有朋《やまがたありとも》陸軍|卿《きよう》の統括する陸軍は全国をすでに六つの軍管区に分け、六鎮台を置いている。仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本。常備兵力は、平時人員三万千六百八十人、戦時人員四万六千三百五十人の目標に近づきつつある。
対して海軍は、明治五年の海軍省独立の時点でいえば甲鉄艦は「東《あずま》」と「龍驤《りゆうじよう》」のわずか二隻、鉄骨木皮艦は「孟春」のみで、木造軍艦十一隻と運輸船三隻を足しても一万三千八百三十二トンしかなかった。その後「東」が老朽化したこともあり、出動可能な軍艦は横浜の東海鎮守府、長崎の西海鎮守府所属の諸艦をあわせてもわずか九隻、一万三十四トン。艦船乗組員総数は、たったの千九百八十一人にすぎない。
だが、海軍は熊本鎮台からの電報を神戸弁天浜の三井銀行支店に置いた臨時海軍事務局で受け、対応を急いでいた。
もし西郷が蹶起《けつき》した場合には佐賀、熊本、福岡その他の不平士族もこれに合流することが考えられ、薩軍兵力は陸軍常備兵力に近づく恐れもなしとしない。
またその作戦行動は、つぎの三策のうちのいずれかになるであろうと山県が分析していた。
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第一、海路大阪ないし東京へ突入する。
第二、熊本鎮台と長崎の西海鎮守府を襲い、全九州を押さえてから中原《ちゆうげん》をめざす。
第三、鹿児島に割拠し、機を見て中原への進出をめざす。
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速度の点だけを見ても第一が上策、第二が中策、第三が下策と考えられたが、旧薩摩海軍が日本海軍へと吸収統合された今日、西郷に海軍力のないことが戦いの帰趨《きすう》を左右する可能性が高かった。
ということは、海軍としては小なりとはいえ九州沿岸部にすみやかに展開し、薩軍を九州から外へ出さないことが望ましいということでもある。
「海上権《シーパワー》(制海権)」
という概念はまだ海軍用語になってはいないものの、この時期初めて海軍は海上権確立の必要に迫られていた。
おりよく伊東|祐麿《すけまろ》少将も、「春日」、「清輝」の指揮官として神戸にきている。川村と伊東は最大の軍艦「龍驤」二千三百一トンに長崎行きを指令、横浜の「孟春」、「鳳翔《ほうしよう》」には神戸進出を命じたうえで、十三日、祐麿みずからも「春日」、「清輝」をひきいて長崎をめざした。
「鹿児島兵ノ先鋒《せんぽう》スデニ佐敷《さしき》ニ至ル 二十日モシクハ二十一日ヲモツテ開戦スベシ」
熊本鎮台から、薩軍が熊本へ十八里の地点まで北上したことを伝える電報が入ったのは十八日のこと。有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王を征討総督、山県有朋と川村純義とを陸海の征討参軍とする征討の詔《みことのり》の下ったのが十九日になってからのことだから、海軍はよく機先を制した結果になった。
しかも、二十二日に熊本鎮台へ殺到した薩軍を相手に鎮台兵四千弱がよく籠城《ろうじよう》戦をつづけたのに対し、薩軍は拙策をとった。一部に攻城戦をつづけさせながら、主力を北上させるというどっちつかずの動きを見せたのである。
その二十二日には、薩摩出身の野津|鎮雄《しずお》陸軍少将を司令長官とする第一旅団六千四百と、長州出身の三好|重臣《しげおみ》少将の第二旅団六千三百が早くも博多に上陸。熊本の北五キロ、高瀬で二十七日までに薩軍を破り、さらに熊本寄りの田原坂《たばるざか》争奪をめぐって激闘をくりひろげた。
祐亨はこれら陸戦の進展をみながら「高雄丸」で有栖川宮熾仁親王と川村とを下関へ送り、三月七日には「日進」艦長に復帰して長崎の警備についた。
しかし、戦線が熊本北方で膠着《こうちやく》すればするほど、薩軍の背後は空虚になる。おなじ七日、祐麿座乗の「春日」は鹿児島港へ侵入して薩軍所有の小汽船「鹿児島丸」、「寧静《ねいせい》丸」、「大有丸」を難なく捕獲。その後「春日」を島津久光・忠義父子の住む磯邸前まで北上させ、水兵を上陸させて薩軍の銃砲弾薬製造所と化していた磯造船所を破壊した。
たとえ小汽船三|艘《そう》とはいえ、これを保有しながら海軍力として用いる発想に欠けていたこと。熊本進撃以前に祐亨の「高雄丸」が入港したにもかかわらず、錦江湾の旧台場の守備を怠っていたことにも薩軍の戦略思想の甘さがある。
あけて八日、「龍驤」、「清輝」、「筑波」などの諸軍艦が続々と入港して前之浜の上空を黒煙でおおいつくすなか、勅使として上陸した柳原|前光《さきみつ》が磯邸に久光・忠義父子を訪問。薩軍征討の詔が下ったこと、西郷隆盛・桐野利秋・篠原|国幹《くにもと》の官位が剥奪《はくだつ》されたこと、弾薬製造所・造船所が処分されることなどを伝達した。父子がこれを認めたため、薩軍は名実ともに帰る国なき賊軍となったのである。
その間に祐亨指揮の「日進」も、熊本鎮台の支援にくわわっていた。
長崎から島原半島南端の早崎瀬戸を東に抜けて島原湾を北東へすすめば、熊本へ三里たらずの百貫《ひやつかん》港に達する。三月十一日、やはり長崎にきていた「孟春」の艦長笠間広盾少佐と協議したかれは、その百貫港沖から薩軍に砲火を見舞うことにした。
この時代の軍艦には信号旗以外に通信手段はないから、九州沿岸部に散った各艦がいちいち伊東祐麿指揮官の指示を仰ぎながら動くわけにはゆかない。そのため、僚艦同士で戦況を検討し合い、もっとも有効適切とおもわれる作戦行動をとることが許されていた。
十一日夜、二艦が目標海域に達して黒々とした金峰山(六六五メートル)のかなたを仰ぐと、熊本方面の空は真下で火事が起こっているように赤く染まっていて、間歇《かんけつ》的に砲音も伝わってきた。これを見た祐亨は、夜明けからと想定されていた艦砲射撃をただちに開始することにして、自分より若い「孟春」艦長に承諾を求めた。
祐亨は一見豪放|磊落《らいらく》な大男に見えて、僚艦や陸軍側との連絡には決して手を抜かない。
四月十四日、ついに薩軍が日向《ひゆうが》方面へ潰走《かいそう》し、海上からそれを追って豊後水道に面した臼杵《うすき》湾に進出したときにも、その個性が発揮された。
このとき「日進」は緒方惟勝少佐を艦長とする「浅間」と行動をともにしていたが、入ってみると臼杵湾はあまりに狭く、二艦そろって遊弋《ゆうよく》しながら艦砲射撃をすることは不可能であった。それを見た薩軍は湾岸高地上の臼杵城とその周辺から銃を乱射してくるのに、こちらからは先着しているはずの陸軍と薩軍の位置も見きわめがたく、ますます砲撃に踏みきれない。
「檣楼《しようろう》じゃ、檣楼から銃で応射すっとじゃ!」
動じることなく指示した祐亨は、「浅間」もこれを真似るのを見て日没と同時にボートを二艘下ろさせ、みずから二番目のそれに乗りこんで弾雨のなかを上陸していった。
紺ラシャ地折襟の略衣に、刃わたり七十センチの銃剣を着剣したスナイドル銃装備の水兵たちに守られて、かれは山のむこう側にあると知った陸軍本営をめざした。そして首尾よく薩軍の布陣を教えられ、帰途についたまではよかった。
だが、また山道にかかると、先行した水兵三人が銃剣を青白く光らせて闇のなかにたたずんでいる。
「こらっ、帰艦せんじ何《ない》をしちょっとか」
腰の長剣の柄頭《つかがしら》を押さえて呼びかけた祐亨に、三人は敬礼しながら声を震わせて報じた。
「愛甲秀一三等水兵が、狙撃《そげき》されて戦死いたしました」
「御指示をいただきたくて、ここにお待ちしておりました」
「何《ない》じゃっち」
軍帽を取ってその足もとの遺体にむかって屈みこんだかれは、合掌を解いて立ちあがってから静かに命じた。
「村人を雇って、艦に運んでやいやんせ。金は俺《おい》が出すっで」
翌朝から始まった「日進」、「浅間」からの精確な砲撃に、臼杵の薩軍は一気に崩れた。
薩軍は友軍兵士の遺体を捨てて南の佐伯《さいき》から延岡方面へ走ったが、祐亨はただちに日向灘沿いに南進してこれを追撃しようとはしなかった。いったん北の佐賀関港に入り、愛甲の遺体を埋葬することを優先したので、乗組員たちのかれを見る目には畏敬《いけい》の念があふれた。
祐亨は、このとき三十五歳。長い海上勤務の間に、かれは情義兼ねそなえた武人へとみずからを高めていた。
その後も祐亨は小さな海軍の、そのまたわずか定員百六十五人、砲十二門の軍艦の長として、七個旅団三万五千人まで増張された陸軍と功を競うこともなく自然体で任務を遂行していった。ふたたび「浅間」に接近すれば、年下の緒方艦長に艦橋から軍帽を振って自分から元気だと伝え、挨拶《あいさつ》の汽笛を鳴らさせさえした。
その祐亨がいずれ一艦隊の司令官たるに足る器の片鱗《へんりん》を見せたのは、七月二十三日夜、「鳳翔」、「孟春」とともに延岡湾へ南下し、湾岸一帯から赤い十字の光芒《こうぼう》を投げかけてくる薩軍のかがり火に気づいて以降のことであった。
すでになかば敗残の兵と化している薩軍は、翌朝から三艦そろって砲火をひらき、湾内に衝撃波による縮緬皺《ちりめんじわ》を刻ませるうちに、それでも土俵《つちだわら》や竹籠《たけかご》製の胸牆陣地《きようしようじんち》から散発的に旧式砲を撃ちはじめた。しかし砲煙はあがるのに、海面のどこからも水柱が立たない。
「撃ち方やめい」
かれはかたわらに立つ副長の野村貞《のむらただし》大尉を介し、砲術長に伝えさせた。
「敵《てつ》の砲弾は、すでに底を突いちょっど。あいは、ただ空砲を撃っまくって俺《おい》どもを近づけんよにしちょっだけのこつじゃ」
一時は兵力三万近くまで膨脹した薩軍も、すでに陸海双方から日向の一角に追いつめられて三千程度に激減していた。それでもなおかつ空砲を撃ってまでして虚勢を張る必死のおもいは、自分もかつて討幕の捨石となろうとした祐亨には痛いほどわかる。
(それでこそ薩摩|兵児《へこ》のいくさぶりではあるにせよ、維新回天から十年目、この大義なき戦いに屍《しかばね》をさらすことが、どんな意味をもつというのか)
とおもうと、さらに過剰な砲撃をくわえる気にはとてもなれなかった。
――敵は、虚勢である。
すぐにこの判断は「鳳翔」、「孟春」にも伝えられ、海軍はあとの攻撃を陸軍の手にゆだねることにした。
薩軍はさらに八月十三日まで延岡に貼りついたため、陸軍は第一、第二旅団、別働第二旅団が腹背から突入して掃討作戦をおこなう計画を立てた。要請されて井上良馨艦長の「清輝」と「第二|丁卯《ていぼう》」も延岡沖に来援したが、延岡市街に大火災が起こって突撃ラッパの音が海上まで響いてくるや、これらの砲撃を中止させたのも祐亨だった。
――陸軍、すでに突入せり。
「日進」のメイン・マスト上にいち早く信号旗が掲げられたため、陸海軍の同士討ちは未然に防がれたのである。
出動軍艦九隻を全体として見ても、これら相つぐ連携行動によって練度は急速にあがりつつあった。特にただの猪武者ではない祐亨の戦い方は、理に適《かな》ったものとして海軍省の記録に詳述されることになる。
この時期、敗色の濃い薩軍約三千が延岡とその周辺に追いこまれた最大の要因は、陸軍の挟撃を喫したことにある。
陸軍は小倉から熊本へ南下した第一、第二旅団以下を正面軍とし、三月から四月にかけて別働第一、同第二、同第三旅団によって衝背《しようはい》軍を編成。薩摩出身の黒田清隆陸軍中将をその征討参軍に任じ、海軍の協力を得て八代《やつしろ》海(不知火《しらぬい》海)の港――八代、日奈久《ひなぐ》などに順次上陸させていた。
熊本鎮台をかこみつつ北上を策していた薩軍は、これによって腹背に敵を見るかたちになり、熊本県南端の人吉《ひとよし》盆地へ撤退。そこから日向灘に面した宮崎へ東進し、佐土原―高鍋―美々津―延岡と苦しまぎれの北走に転じた。そのため陸上からは新たに投入された新撰《しんせん》旅団その他に尾撃され、南北にひらけた海岸線からは海軍諸艦の艦砲射撃を浴びることになったのである。
これら陸海からの立体攻撃に消耗を強いられた薩軍は、八月十四日、ついに延岡も抜かれた。そして、その北方の長尾山から東南の無鹿《むしか》山へとつながる鞍部《あんぶ》、和田越《わだごえ》と呼ばれる高所に結集し、最後の一戦におよぶ気配をみなぎらせた。
対して陸軍は、兵力五万まで増派されていたからもはや形勢逆転はあり得ない。よく制海権を押さえ、海上封鎖をすすめつつある海軍にもこのころようやく余裕が生まれていた。
その十四日、伊東|祐亨《ゆうこう》の「日進」は「鳳翔」とともに海上から北走する薩軍を追い、延岡の東北二十四キロの古江《ふるえ》湾で陸軍正面軍に戦況を伝えようとした。すると湾岸に屹立《きつりつ》した断崖《だんがい》上から、薩軍が銃を激しく瞰射《かんしや》してくる。その急造陣地は「日進」の舷側《げんそく》砲の最大仰角よりもさらに高みに位置し、どうにも砲撃できない。
「おい、何とかならんか」
紺色薄地布の夏服に白リンネルの軍袴《ぐんこ》に着更《きが》え、軍帽も白布でおおっていた祐亨は、平然と艦橋に身をさらしてかたわらの野村貞副長に八の字髭をむけた。
そのとき、「日進」前方に停止していた「鳳翔」の甲板上に奇妙な動きが起こった。
三百十六トン、砲五門の「鳳翔」の艦長は山崎景則少佐、副長は鮫島|員規《かずのり》中尉。ふたりは帆縫手や看病夫、海軍兵学寮あらため海軍兵学校生徒まで入れても七十五人しかいない乗組員のうち、砲手以外はすべて甲板上に整列させたのである。
その白い夏服姿が一斉に右舷の手すりに身を寄せると、三|檣《しよう》に煙出し一の甲板が右に傾き、左舷が大きくあがった。千三百八十三トンの「日進」にはとても真似できない小艦の知恵であったが、これによって「鳳翔」の百ポンド左舷砲二門には充分な仰角が与えられたことになる。
つづけて発射された砲弾はみごとに薩軍陣地を破砕したので、祐亨は急ぎ「日進」をその右舷にならびかけさせて呼びかけた。
「美事《みごて》なもんじゃ、本艦の日誌にも記録《きろつ》さすっど!」
艦砲射撃はいつも敵陣の位置を目視してからのこと、僚艦との交信も信号旗と声しかない時代を祐亨は生きている。だれに教えられたわけでもなかったが、いつかかれは年下の艦長の知略をたたえ、励ましながら戦う器量を身につけていた。
ついで「日進」からはボートが出され、豊後街道を南下してきた陸軍正面軍の一隊に彼我の状況を初めて伝えることに成功したため、祐亨は十五日からの和田越の戦いにも一役買う結果になった。
なお和田越の薩軍陣地内に陸軍大将の軍装姿の西郷隆盛が、さらにその山容を直視できる高地には征討参軍山県有朋もあらわれた和田越の戦いは、西南戦争史上では、
「和田越の最終戦」
と呼ばれる。衆寡敵せず、西郷が十六日に至ってこれ以上組織的戦闘をつづけることを断念、薩軍に全軍解散令を出したためである。
以後、西郷は私学校徒六百のみを従え、樵《きこり》も入るのを嫌うほど断崖絶壁だらけの可愛岳《えのたけ》に姿を消したが、こうなってはもう軍艦九隻をすべて九州沿岸に置いておく必要はない。「筑波」につづいて十九日には「日進」も任を解かれることになり、祐亨は二十八日に横須賀港への帰投を果たした。
鎌倉時代から幕末まで花見のできるひろい浜辺としてしか知られていなかった横須賀に、旧幕府が地中海のツーロン軍港にならって横須賀製鉄所と第一ドックとを建設したのは慶応《けいおう》年間のこと。明治政府はこれを受けついで、明治四年(一八七一)にドックを完成。横須賀造船所と改称し、五年十月に海軍省の管轄としてからは軍艦建造が大目標となって九年六月に最初の軍艦「清輝」を進水させていた。製鋼・錬鉄・鋳造の各工場のならぶ横須賀には水兵屯集所も置かれ、品川沖や横浜に代わる軍港の色彩を強めている。
祐亨はその水兵屯集所の佐官用官舎に休息するうちに、九月二十四日、鹿児島城山の岩崎谷に籠《こも》っていた西郷ほか八十余名が総攻撃を受けて全滅した、との報に接した。
日向灘の各港に散っていた海軍からは、「龍驤」、「春日」、「孟春」、「第二丁卯」、「清輝」、「鳳翔」と九軍艦中の六艦が錦江湾へ廻航。備砲を陸揚げして、城山攻撃に参加したという。
かつてイギリス艦隊の来襲を受けた薩摩藩は、大艦巨砲の前には攘夷《じようい》論などまったく無力であることを痛感させられたものであった。
「次右衛門(祐麿)と四郎(祐亨)は、海《うん》の戦《ゆつさ》を学んでお殿さあと京の天子さあのお役い立ちやい」
と、いまは亡き父正助が遺言したのはそのためだったし、祐亨が海軍軍人への道を歩みはじめたのはその遺言を守ってのことだった。
それにしてもその海軍が、明治も十年になってから城山を艦砲射撃することになろうとはおもってもみなかった。
鹿児島に生まれ育った者ならば、城山を知らない者はない。
維新前、鶴丸城の北の要害であるこのシラス台地は、城の一部とみなされていたから入ることは許されなかった。だが祐亨は、久光の中小姓として二の丸に出仕していたころには、城北の空にほっかりと浮かぶ緑の城山を毎日見上げていた。廃藩置県となったあとは、毎年元日の夜明け前に城山へゆき、桜島のかなたに昇る初日の出を拝む人もふえているという。
(いつか故郷に錦《にしき》を飾ることができたら、城山への御来光登山にくわわってみたいものだ)
と祐亨はおもっていたが、こうなってはもう当分の間それも望めそうになかった。
海陸軍が鹿児島に兵力を集中させたころから、鹿児島市民には協力を拒否して家を捨てる者が相ついだと報じられていた。九月一日、薩軍が疾風のように突入して城山をめざしたときには、歓呼の声でこれを迎え、握り飯を差し出した者もあったというから、これではどちらが官軍かわからない。
(そうなると、一足早く帰ったおれはまだよかったかも知れぬ。川村閣下や祐麿兄はまだ鹿児島にいるだけに、さぞつらかろうな)
という方向に考えが走るのを、祐亨はどうしようもなかった。
近代日本最大の内戦となった西南戦争は、旧薩摩藩出身の軍人たちに、勝利と引きかえにこのような苦さを与えて終結したのである。
この戦いの薩軍戦死者は約五千、戦傷者は約一万。対して陸軍の戦死者は五千六百六十三、海軍のそれは四十のみ。
あけて明治十一年一月四日、祐亨は逆徒征討の功によって勲四等に叙され、年金百三十五円を下賜されたが、西郷の功罪を問われたときにはひとことしか口にしなかった。
「勝敗は天にあり、順逆は勢いにあり」
勝者が敗者を、評論家風にあげつらうことはやさしい。
(それはしない)
と祐亨が心に決めたのは、やはり海軍に旧薩摩藩士の子弟が多いからであった。
たとえば英国留学中の東郷平八郎の兄壮九郎は、最後まで西郷に従って城山に戦死していた。
(みずから告白せずとも、肉親を賊として討たれた者が乗組員にいるかも知れない)
と考えると、艦長たる者はイギリス海軍にいう、
「サイレント・ネイビー」
の精神に徹すべきだとおもわれてならなかった。
その祐亨が足掛け八年ぶりに帰国した東郷平八郎に再会したのは、発注先のイギリスから廻航されてきた最新鋭甲鉄艦「扶桑《ふそう》」三千七百十七トンの艦長に抜擢《ばつてき》されて四カ月目、明治十一年(一八七八)八月のことであった。
同時に廻航されてきた鉄骨木皮の「金剛」、「比叡」各二千二百二十四トンと「扶桑」とでは、戦闘能力に大人と子供以上のひらきがあった。
長さ六十七メートルの「扶桑」は二十四センチの大口径舷側砲四門のほか、十五センチ砲二門、十二センチ砲四門、四十七ミリ機砲十門と四連装の二十五ミリ機砲四門を中央砲郭と前甲板、後甲板に装備。艦首には、まだ日本海軍の知らなかった水雷発射管を二門そなえていた。水雷発射管があれば衝角《ラム》攻撃の必要はないから、艦首喫水下に衝角はつけられていない。
定員三百七十七人のこの戦艦には、見習士官から中尉に昇進してやってきた三十二歳の東郷平八郎のほか、やはり鹿児島出身の山本|権兵衛《ごんのひようえ》少尉二十七歳も乗りくんでいた。
祐亨は、イギリス留学中に兄壮九郎の薩軍参加とその死を報じられたとき、平八郎が涙を抑えてこう述懐したと聞いていた。
「これまでの事情からして、西郷《せご》どんが動けばこうなることは予想していたが、いまさら致し方なし。せめて自分だけなりと、ますます海軍研究に努め、後日なにかのお役に立って皇恩に報いたい」
だから祐亨は、ダブルボタン背広形の士官夏服に蝶《ちよう》ネクタイ姿で平八郎が艦長室へ赴任の挨拶《あいさつ》にあらわれたときにも、あえてことば少なに応じるにとどめておいた。
「長期留学、まこて御苦労なこつじゃった。士官や見習士官たちんなかにも兵学校出ん者《もん》たちがふえてきちょっどん、イギリス仕込みの腕を見せてやったもんせ」
しかし、平八郎に余計な気づかいは無用のようであった。
海軍兵学寮出身の山本権兵衛は、「筑波」によってアメリカへの巡航をおこない、ドイツ海軍の軍艦に乗りくんだこともある。それだけに平八郎に火のような対抗心を燃やし、祐亨が横浜―熱海間の海上で「扶桑」の試運転に励んでいる間に、平八郎に提案した。
「俺《おい》と索梯《リツギング》の昇降|競《くら》べをやいもはんか」
軍艦はまだ汽帆兼用時代にあるので、海軍士官にはマストの左右に網のように張られた索梯を素速く昇り降りする敏捷《びんしよう》性が求められる。
「そいなら、こんマストい左右から昇降して勝負してみれ。俺が号令をかけてやっで」
艦橋上からふたりのやりとりを見下ろしていた祐亨がメイン・マストを指定したため、平八郎も引くに引けなくなった。ふたりが左舷《さげん》と右舷とに分かれると、手隙《てすき》の士官、下士官たちも、
(これはいい見物《みもの》だ)
という顔をしてまわりに集まってくる。
「一、二、三!」
祐亨の合図に、ふたりは同時に索梯に取りついていた。
しかし、猿《ましら》のごとくに索梯を昇降する技術は、権兵衛の方が格段にまさっていた。するすると檣楼《しようろう》に達したかれがふたたび甲板に降りたったころ、まだ平八郎はマスト中段までしかもどってきていなかった。
「やあ、中尉殿の負けじゃ」
とはやされたとき、平八郎は持ち前の負けん気をあらわにした。
「途中で、索具にズボンが引っ掛って遅れただけのことじゃ」
かれは紺地に金線側章入りのズボンの大きく破れた裾《すそ》を示し、頑として負けを認めない。
「―――」
山本権兵衛は海軍兵学寮生徒のころからいたずら者の中心人物で、若いだけにまだ圭角《けいかく》が取れていない。その権兵衛が精悍《せいかん》そのものの面がまえでなにかいおうとしたのに気づき、祐亨は機先を制してひさしぶりに雷艦長となった。
「こら、俺《おい》は索梯の昇降競べは認めてん、口喧嘩《くちげんか》せいとは言《ゆ》うちょらんど。全員解散、持ち場につけ!」
祐亨から見れば、競争心をあらわにしたふたりはともにいずれ海軍の柱石に育ってほしい優秀な士官である。そのふたりの間に、遺恨を生じさせてはならなかった。
その気持を察し、ふたりがそろって艦橋にむかって敬礼したので、祐亨も踵《かかと》を合わせて挙手の礼を返した。
祐亨の敬礼は海軍中一番といわれるていねいなもので、その間二重まぶたの大きな目で相手を見つめるので、いわず語らずのうちに思いを伝えられる効果がある。
その祐亨が十二年四月に「比叡」艦長に異動すると、五月には平八郎も大尉として「比叡」乗りくみを命じられたため、以後ふたりは長いつきあいになってゆく。
そしてこの年の六月八日に、祐亨は妻を娶《めと》った。
相手の名は加藤|美津《みつ》、二十八歳。
加藤家は代々鹿児島郡の堀江町に住まい、士分ながら琉球貿易で財をなした一族であった。祐亨の妹お関が当主加藤|晨《あき》に嫁いでいたため、その晨の妹美津との縁談がもちこまれたのである。
美津は一度いとこ同士で結婚したものの、軒瓦《のきがわら》に金箔《きんぱく》をあしらうほど豊かな家の娘として育って苦労を知らず、それが災いして不縁になった過去があった。
しかし祐亨は、
「非番で上陸したときには大いに遊べ。ただし、例の病には気をつけよ」
と部下たちにいい、自分もこの方針に従って遊んだ方だから、それはいっさい気にしなかった。
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第六章 日清戦わば
薩摩|隼人《はやと》の身体的特徴は、二点に要約されるといわれている。ひとつは濃い眉《まゆ》がほぼ直線を呈し、その眉に迫ったつぶらな瞳《ひとみ》に輝きがあって頬骨が高いこと。ふたつ目は、長大にして厚みのある体躯《たいく》の者が多いこと。
伊東|祐亨《ゆうこう》も薩摩隼人の一典型というべき風貌《ふうぼう》骨格の持ち主であった。しかし、ならば女性にもそのような特徴は共通するか、というとまったく違う。
「その容貌を見れば明眸皓歯《めいぼうこうし》、瀟洒《しようしや》たる相を有する者、あるいは豊満、艶美《えんび》、温厚の風を持する者多し。要するに薩州の女子は、かの男子の相貌と相反する者のごとし」
西南戦争のおわったあとに初めて鹿児島をおとずれたさる雑誌記者は、驚きをもってこう書きとめている。これはなにも、うがちすぎではない。
幕末に越後長岡藩士の家に生まれ、長じて小学校教員として鹿児島におもむいた本富《ほんぷ》安四郎という者がいた。本富も豪傑型の男の多さとはあまりに対照的な薩摩おごじょのなよやかさに感動し、その気風にまで触れている。
「さりながらなおこれを他境の婦人に比ぶれば、愛敬よりは凜《りん》とした気象見え、姿勢正しく血色がよく、……おのずから薩摩婦人たる一種の風あり」(『薩摩見聞記』)
越後美人を眺めて育ち、かつ戊辰《ぼしん》戦争において薩摩藩と戦った長岡人ですら感服したところに意味がある。
祐亨の妻となった美津も、このような薩摩女性の美点をよくそなえていた。丸髷《まるまげ》に結いあげたつややかな黒髪と目鼻だちのくっきりしたうりざね顔。
これも薩摩女性のつねとして、美津は海軍裁判所にほど近い官舎に祐亨が不意に部下たちをつれて帰ってきても、決して仕出し弁当を取ったりはしなかった。かならず自分で手料理を作り、吸物からきちんと出してゆく。骨つきの鶏肉や豚肉をよくつかうその薩摩料理は特に同郷の若手将校たちに評判がよく、帰り際には美津に、
「いや、奥様《こじゆさあ》」
と、お国|訛《なま》りで礼を述べる者が相ついだ。
「タンニャマインノクレニゲゴアンド」
これを酔った勢いの早口でいわれると、他郷出の者には外国語のようにしか聞こえない。玄関式台上に見送りにあらわれた和装の美津がなぜにこやかにうなずくのかと首をひねる者もあり、祐亨と美津の間では、いつかこのことが笑い話の種になった。
タンニャマインノ云々《うんぬん》は、漢字をあてれば、
「谷山犬の喰《く》れ逃げ(喰い逃げ)ごあんど」
鹿児島の南、沖合に七つ島の見える谷山地区には伝説がある。実は豊臣秀頼は大坂夏の陣には死ななかった、大坂城からこの地へ逃れ、薩摩島津家の庇護《ひご》を受けて生涯を送った、というもので、そこからもうひとつ別の伝説が生まれた。その時代には、
「秀頼の飲み食いした分はすべて藩がまかなうから、谷山の者は一銭も出さなくてもよい」
という藩命があった、というのである。
そこからタンニャマインノ云々のせりふは、すっかり御馳走《ごちそう》になりました、の意味で用いられるようになり、明治になってもまだ日常的に用いられていた。
美津は将校たちが新年の挨拶《あいさつ》に夫人づれでやってくれば、その夫人たちの髪のほつれをさりげなく直してやる気配りもできる女性であった。祐亨の見るところ、美津は一度離婚を経験したことにより、かえって人柄に深みを増したものかと思われた。
ただし、その美津にしても鹿児島県士族の娘だけに、内部には尋常ならざる気丈さを秘めていた。
「明治十年の戦《ゆつさ》ん間、加藤家は私学校徒の押しかくっところにゃならんじゃったとか」
祐亨が薩摩|絣《がすり》に兵児帯《へこおび》姿で居間にくつろいでいたある夜、酌を受けながら何気なくたずねると、
「はい、そこずい(そこまで)はゆきもはんじゃした」
いつも帯を胸高に締めている美津は、黒目がちの目を伏せるでもなくさらりとつづけた。
「じゃっどん、何《ない》か起きたや女子《おなご》は喉突《のどつ》って自害しもそち考《かん》げもして、いっでん守い刀を離したこっはあいもはんじゃした」
祐亨は四郎という幼名で呼ばれていたころ、夜ごと父から切腹の作法を教えられたものであった。美津もまた島津家から琉球貿易の差配を命じられていた格式ある家の娘として、同様のことを学びながら人となったのである。
やがて祐亨が、美津についてさらに認識を新たにする事件が起こった。
このころの海軍は戊辰戦争以来の老朽艦を廃艦とし、それに代わる国産の軍艦をつぎつぎに新造する必要に迫られていた。それには横須賀造船所の拡大と、東洋最大規模の第二ドックの起工から始めなければならない。同時に横須賀港の内外には資材搬入の船舶が輻輳《ふくそう》し、工事は繁忙をきわめた。
こうなると横浜から横須賀に軸足を移しつつある東海鎮守府も、大わらわにならざるを得なかった。軍港水域の警衛、艦船の繋留《けいりゆう》とそのドックへの出入りの指導、……。
いちどきにさまざまな役をこなす羽目になった祐亨は、その日も夜が更けてから人力車に乗り、丸柱の門と板塀とにかこまれた敷地三百坪ほどの官舎に帰ってきた。
玉砂利を踏んで玄関の格子戸を排した軍服軍帽の祐亨を、
「お帰《もど》いなさいやんせ」
と美津が下女を従えて出迎えたところまでは、いつもとおなじであった。
しかし、祐亨は長剣を手わたそうとしたとき、美津の背後に日本刀が置かれていることに気づいた。
「何事《ないごつ》か、そん刀《かつな》は」
軍帽をとって五分刈りにした頭を見せた祐亨は、漆黒の八の字|髭《ひげ》を目の下に三つ指を突いた美津にむけてたずねた。
すると美津は下女を台所へ帰してから、また黒目がちの目をむけて淡々と答えた。
「こいは失礼《ごぶれ》さあいたしもした。また盗人《ぬひと》がもどってきたかち考《かん》げもして」
「なんじゃっち、俺《おい》のおらん間に盗人が入ったとか」
「いいえ、いっき(すぐに)追い払いもしたから、御心配はいいもはん」
「お前《まい》が、そん刀でか」
「はい」
さも当然というようにうなずいた美津は、祐亨とともに納戸部屋に入って着更《きが》えを手伝いながら説明した。
その日夕方、伊東家の下男下女がすべて用事で出払った隙に、だれかが玄関から忍びこもうとした。美津は奥で縫物をしながらその気配に気づき、咄嗟《とつさ》に箪笥《たんす》から嫁入り道具とともに持参した日本刀を取り出した。
そして鯉口を切りながら玄関へ急ぐと、いましも土足であがりこもうとしていた手ぬぐい頬かむりに半纏《はんてん》姿の泥棒の方がかえって仰天。玉砂利を蹴散《けち》らして、門外へ走り去った。その泥棒が懲りずにまたやってきた可能性を考えて、美津はその刀を離さずに夫を出迎えたのだという。
「いや、そげんこつがあったとは」
美津から浴衣《ゆかた》を背に着せかけられながら、祐亨は高らかに笑い出していた。
「俺《おい》は、お前がそこまで気丈《きじよ》な女子《おなご》とは知らんじゃった。こいなあ、海外遠征に出て長《な》げこつ家をあけちょってん心配《やつけ》はなか」
日本海軍は明治八年(一八七五)五月、小軍艦「雲揚《うんよう》」を朝鮮近海に派遣し、示威行動をおこなったことがある。同年十一月、「筑波」のサンフランシスコ訪問は旧幕府艦「咸臨丸」のそれから実に十六年目のことであったが、これは海軍兵学寮生徒の練習航海であって、特別任務のための遣艦ではなかった。
しかし諸艦に海外をよく巡航させておかないかぎり、その国の海軍は国際的には役に立たない。ハンディな「世界旅行案内」など想像もできない時代にあっては、世界の海流、水路、港湾設備、風土気候、国力民情その他は海軍の巡航によって初めて情報として蓄積される。
日本海軍の海外巡航は、十一年一月から六月におよんだ「清輝」のヨーロッパ歴訪をもって嚆矢《こうし》とする。なぜ「清輝」が指名されたかといえば、これが国産第一号の軍艦だからであった。文明開化からわずか十一年目に日本製の軍艦をヨーロッパ諸国に披露することほど、極東の新興国の姿をよくアピールできるものはない。
事実、「清輝」の井上|良馨《よしか》艦長は、厳正な艦内軍紀と各部署の清潔さにより、イギリス紙「ヘラルド」その他の称讃《しようさん》を浴びて帰国を果たした。
これに気をよくした海軍省が、井上のつぎに白羽の矢を立てたのが伊東祐亨。かれは十二年四月、乗組員二百五十五人の「比叡」艦長としてインド洋経由ペルシャ湾を巡航、三十八歳にして初めて赤道直下の熱風を体験して九月十七日に無事帰国した。
その祐亨は十四年二月には東郷平八郎に頼まれ、美津とともに、結婚式の仲人をつとめた。この年三十五歳の平八郎の新婦は、名をてつ子。長く奈良県知事の職にある海江田《かえだ》信義の長女、というのも奇縁であった。
鹿児島県士族海江田信義の、維新前の名は有村俊斎。十九年前の文久《ぶんきゆう》二年(一八六二)八月二十一日、祐亨とともに島津久光の供をしていたかれは、供先《ともさき》を乱したイギリス人リチャードソンに止《とど》めを刺したことにより、生麦事件の当事者となった男である。
そして十五年六月海軍大佐、七月に「龍驤《りゆうじよう》」艦長に異動した祐亨は、十二月から「筑波」とともにニュージーランド、チリ、ペルー、ハワイを巡航する大航海をおこなった。
このような遠征から帰国すれば、艦長は海軍省に対し、「航海日誌」、「航海水路誌」、「各地物価表」などの膨大な報告書を提出しなければならない。
その報告書の序文として、特に平仮名の書体にすぐれる祐亨は書いた。
「明治十五年十二月、纜《ともづな》を品海《ひんかい》に解く。この日、天晴朗、雲靄《うんあい》山を包まず、筑波山は遠く別れを告げ、総房豆駿(上総・安房・伊豆・駿河)の諸峰相送り、相灘《そうだん》(相模灘)の水は別れを惜しんで順《したが》うがごとし。水光山色、ふたつながらしばらく壮士剛卒の鋭意を殺《そ》ぐの媒《なかだち》たり。而《しこう》して涙をその間に灑《そそ》ぐものは他なし、故国を欽慕《きんぼ》するの切情によりてなり、……」
明治も末になると、小笠原|長生《ながなり》、秋山|真之《さねゆき》など名文をもって知られる海軍軍人があらわれる。しかしこれもまた、身長五尺八寸(一メートル七六センチ)以上、人一倍雄大な骨格を有して雷艦長と呼ばれる男の記したものとはおもえないほど美しく、こまやかな情感を湛《たた》えた文章である。
この日本海軍始まって以来の大遠征にあたり、祐亨を乗せた「龍驤」は二千五百三十トンの木造コルベット艦で、三本マストに白い横帆を張った優美な姿は、煙出しがなければ大航海時代の帆船そのものだった。同型ながらひとまわり小柄な「筑波」とともに、「龍驤」は乗りくみの海軍兵学校生徒の訓練のためつねに帆走を心掛け、後檣《こうしよう》の背後に十六条旭日の軍艦旗をひるがえして地球の裏側をめざした。
この「龍驤」の乗組員は、三百七十八人。その士官四十九人のうちには出羽|重遠《しげとお》少尉、加藤友三郎少尉補、藤井|較一《こういち》少尉補、生徒二十七人のなかには山下源太郎、加藤|定吉《ていきち》、まだ武久姓だった名和又八郎もふくまれていた。
これらはいずれ明治海軍の本流を歩み、海軍大将に昇りつめる者たち。このような後輩たちの性格をじっくり見定める時間を与えられたことは、やがて祐亨の貴重な財産となってゆく。
ただし五月十六日にペルーのカヤオ港に入ったころから、巡航艦隊には異常事態が発生した。脚気《かつけ》患者が続出し、「龍驤」に至ってはついに患者数百六十名に達したのである。
明治十四年度を見た場合、東京と横須賀の海軍病院の入院患者の七十五パーセントは脚気の症状であり、なぜ海軍に脚気患者が多く発生するのかはまだ解明されていなかった。
だが帰国までに死者の数が二十三名に達したことから、海軍卿《かいぐんきよう》川村|純義《すみよし》は海軍医務局副長高木|兼寛《かねひろ》に原因の調査を命令。高木はパンを食べる欧米の海軍に脚気患者の大量発生はないこと、食費の金給制度をとる日本海軍にあって、患者にはその食費を貯金にまわして白米ばかり食べていた者が多いことに注目した。
その原因がビタミンB1欠乏症と確定され、主食を白米からパン食にあらためて食料の品給制度が導入されるのは十八年以降のことだから、この南米遠征は結果として海軍糧食制度の確定に寄与したことになる。
そして、自身は発病することなく帰国した祐亨には、かつてない多忙な日々が待ち受けていた。
十七年二月からふたたび「扶桑」艦長に復していたかれは、四月下旬、海軍省からつぎのような訓令を受けたのである。
「今般わが政府は英国政府の発議により、英米独三カ国とともに軍艦を清国地方に派遣することを決定せり。その目的は、もっぱら現下|安南《アンナン》事件に関し、清仏両国の間まさに平和を失わんとするの形勢あるをもって、万一急変事あるに至らば、右四カ国はおのおのその軍艦をもって清国に在留する中立国の人民および財産を保護するにあり。……」
安南事件とは、いわゆる清仏戦争のこと。安南《ベトナム》の植民地化を図るフランスは、安南への宗主権をこれまで通り維持しようとする清国と交戦状態に突入しようとしていた。
祐亨は仲人役をつとめた東郷平八郎少佐を艦長とする「天城《あまぎ》」とともに、初めて中国大陸にむかうことになる。
「艦隊」
とは、複数の軍艦によって編成された戦闘単位のことをいう。
日本海軍の艦隊編成は、明治三年(一八七〇)七月、三つの小艦隊を開港場の沿海警備にあたらせたときにはじまった。その編成は、つぎのごとし。
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○横浜および東海海岸「甲鉄」、「乾行《けんこう》」、「日進」(中島四郎指揮)
○兵庫および南海海岸「富士山」、「摂津《せつつ》」、「第二|丁卯《ていぼう》」、「千代田形」(赤塚源六指揮)
○長崎および西海海岸「春日」、「龍驤」、「延年《えんねん》」、「電流」(中牟田倉之助指揮)
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その後これらは第一と第二の常備艦隊に改編されたり大艦隊・中艦隊・小艦隊に区分されたりと紆余《うよ》曲折を経たが、明治十五年七月、中艦隊に編成し直された。
その旗艦は、伊東|祐亨《ゆうこう》が艦長をつとめる最新鋭艦「扶桑《ふそう》」。「扶桑」には薩摩出身の中艦隊司令官松村淳蔵少将も座乗して「天城」を率い、十七年五月一日に横浜を出発、同月三十日には上海に入港した。
三千七百十七トンの甲鉄艦「扶桑」に対し、横須賀造船所製の「天城」はわずか九百二十六トン。三檣に煙出し一の、見るからに軽快な木造スループ艦である。
「清仏両国開戦の時機に際会せば、わが軍艦は固く中立国の条規を守り、毫《ごう》も両国の兵事に干渉すべからず」
イギリス、アメリカへの留学経験のある松村司令官は、政府からのこの訓令を遵守し、もし清仏両国が戦端をひらいた場合にも二艦は観戦に徹するよう求めてやまなかった。
それでもせっかく上海まできた以上、揚子江をさかのぼって南京、漢口その他の要衝を見ておかない手はない。一歳年上の松村司令官の参謀長を兼ねていた祐亨の提案により、東郷平八郎艦長の「天城」は日本海軍として初めて漢口まで遡上《そじよう》していった。
このころフランス東洋艦隊の主力は上海のさらに南方、福建省の馬尾《ばび》にあり、支隊は台湾の基隆にいる。「天城」がすでに漢口から上海に帰っていた八月五日、この支隊が基隆砲台と砲火を交えたことにより、清仏両国間の緊張は一気に昂《たか》まった。
清国では、海軍のことを水師という。版図あまりに宏大《こうだい》なため、水師は北から南へ北洋・南洋・福建・広東の四水師にわかれ、命令系統もまったく異なっていた。
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〈北洋水師〉北洋大臣所属。山東半島の威海衛《いかいえい》を基地とし、遼東半島の旅順口、大連湾をふくむ黄海を守る。
〈南洋水師〉南洋大臣所属。呉淞《ウースン》を基地とし、江蘇省沿岸部と揚子江とを守る。
〈福建水師〉|※[#「門<虫」、unicode95a9]浙《びんせつ》総督所属。福建省の馬尾を基地とし、浙江省・福建省・台湾の沿岸部を守る。
〈広東水師〉両広総督所属。広東省の黄埔《こうほ》を基地とし、広東省沿岸部を守る。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、甲鉄艦四隻をそろえた北洋水師以外、乗組員の訓練もまだまだ未熟で欧米列強と互角にわたりあえる水師はなかった。祐亨もそう聞いてはいたが、軍人にとって伝聞を鵜呑《うの》みにするほど危険なことはない。
かれが自分をいましめていた八月二十五日、上海港に上陸して情報収集にあたっていた士官から衝撃的な報告がきた。馬尾に集結していた福建水師の十一隻は、二十三日午後一時過ぎ、フランス海軍と開戦してから三十分以内に全艦大破ないし沈没させられたらしいという。
「何じゃっち、たった三十分で十一隻がか」
「扶桑」司令官公室で松村司令官とともにこの報告を受けた祐亨は、おもわず問い返していた。
十一隻が全滅したというからには、馬尾で起こった戦いは艦隊決戦であった可能性が高い。だが、本格的艦隊決戦を経験していない祐亨には、いかにフランス艦隊強しとはいえ、どうしてこんな一方的な結果になったのか想像もつかなかった。
おもいは、松村司令官もおなじらしかった。松村淳蔵は、旧幕時代の名を市来《いちき》勘十郎。島津忠義の奥小姓をつとめていたから、祐亨とはたがいに前髪の時代からの顔見知りである。
「こいは、船脚《ふなあし》の速か『天城』を馬尾に急行させて、戦況を調べさすっとがよしゅごあんそ」
祐亨が白布を掛けたテーブル越しに上体を乗り出すようにして提案すると、肉薄く鼻筋の通った顔をむけていた松村司令官は答えた。
「うむ、俺《おい》もそげん思ちょったとこいじゃ。東郷艦長を呼んでくれんか」
九月一日に馬尾から上海へもどってきた東郷「天城」艦長の復命は、祐亨を感服させるに足るものであった。
「二十九日まで戦闘がつづいておりましたので御報告が遅れましたが、あらかたの戦況はつかんでまいりました」
長い留学生活で薩摩|訛《なま》りの取れている東郷平八郎は、「扶桑」の司令官公室に紺色薄地布の夏服に白リンネルの軍袴《ぐんこ》を着けた精悍《せいかん》な姿をあらわすや、直立不動の姿勢で松村司令官と祐亨とに敬礼をした。
「早速聞こう」
テーブルむかい側への着席をうながされたかれは、白布でおおった軍帽の下から五分刈りにした頭部を見せて、まず馬尾の地形から説明しはじめた。
……馬尾は福建省の大河|※[#「門<虫」、unicode95a9]江《びんこう》の河口から二十五海里(四六・三キロ)上流に位置する福建水師の一大基地で、福建省船政局の所在地でもある関係から陸軍兵力三万と多数の砲台に守られている。
砲台のうち最大のものは、河口両岸にある金牌《きんぱい》砲台と長門《ちようもん》砲台。ただし、この河口は幅が三百七十メートル弱しかなく狭隘《きようあい》に過ぎ、艦船の錨地《びようち》には適さない。そこで、はるか上流ながら地形が寛闊《かんかつ》で流れもゆるやかな馬尾が軍港として発展したのだが、八月二十三日、馬尾の上流水域には福建水師の軍艦十一隻が集結していた。
コルベット艦の「揚武《ようぶ》」、「永保《えいほ》」、「深航《しんこう》」、通報艦の「飛雲」、「伏波《ふくは》」、「済安《さいあん》」、砲艦の「芸新」、「福星」、「福勝」、「建勝」、「振威《しんい》」計一万三百二十トン、砲四十五門。ジャンク十二隻と蒸汽水雷艇七隻も、これに付属していた。
一方、フランス艦隊の編成は、四千二百三トンの巨大な巡洋甲鉄艦「ラ・ガリソニエール」以下の十艦計一万八千六十三トン、砲七十一門と水雷艇二隻。開戦となったときには、これも巡洋甲鉄艦の「トリオンファント」四千百七十六トンが河口から来援する手はずになっていたから、総排水量、砲数、乗組員の練度のいずれを見てもはるかにフランス側が有利だった。
そこへもってきて、※[#「門<虫」、unicode95a9]浙総督|何《か》|m《けい》は大きなミスを犯した。
「しばらくフランス艦より開戦するを待つべし。決してわれよりかれを砲撃すべからず。かつかれを砲撃するよりも、むしろ固くおのれを防御するを要す」
と訓令したため、福建水師側は開戦前に士気が挫《くじ》けてしまったのである。
二十三日午後一時過ぎ、台湾海峡は干潮の時刻となり、※[#「門<虫」、unicode95a9]江の流れがにわかに速まったことによって戦機は熟した。
清仏両艦隊はこぞって上流に艦首をむけ、奔流を躱《かわ》しはじめたのだが、各艦の主砲はすべて艦首のかなたをにらんでいた。下流に占位したフランス艦隊の各主砲はことごとく上流にある福建水師各艦の艦尾にむけられ、フランス側にとっては絶好の機会がおとずれた。
午後一時五十六分、砲艦「リンクス」の檣楼《しようろう》上から撃ち出された一発の発煙弾が、攻撃開始の合図であった。
福建水師の将兵にとっては不幸なことに、フランス艦隊各艦の甲板上、檣楼上にはアメリカ人ホッチキスの考案になるホッチキス機砲が据えつけられていた。
手動レバーをまわすことによって撃ち出すガットリング機関砲とホッチキス機砲の決定的な違いは、後者なら手動で初弾一発のみを発射すればよい点にある。発射の反動で砲身が後退しようとする力を利用し、初弾の薬莢《やつきよう》を脱去させつつ次弾を自動|装填《そうてん》することにより、連続発射を無限におこなうことが可能になっていた。
その乾いた連続発射音とともに福建水師各艦の甲板上の人影がつぎつぎに薙《な》ぎ倒されると、つづけて大口径の砲弾も飛来。十五分以内には福建水師の全艦に火災が発生し、三十分後にはことごとく撃ち沈められたという。
さらに平八郎の報告は、フランス艦隊付属の水雷艇隊の動きにもおよんだ。
水雷艇二隻の艇首には、外装水雷がそなえつけられていた。
外装水雷は、別名を円材水雷。その名のごとく長い円材の先に円錐形の鉄缶をつけ、そのなかに火薬約一・五キロをつめただけの原始的なしろものにすぎない。だが、敵艦に肉薄しながら槍をくり出す要領で円材を七・六メートルまで突き出し、手動発火環を引けば衝角《ラム》攻撃以上の打撃を与えることができる。
「『揚武』はこの外装水雷攻撃によって大破し、『伏波』のスクリューもこれによって破壊されました。その後、フランス艦隊は各砲台を砲撃して二十五日には陸戦隊を上陸させ、二十九日までにすべての砲台を破壊して備砲を水中に投じました。フランス側の戦死者十名に対し、清国側は数千名の死傷者を出したものと見られておりますが、詳細はいまだ不明であります。以上、報告をおわります」
「司令官、本官から質問してんよしゅごあすか」
平八郎の復命に目を閉じて耳を傾けていた祐亨は、眉《まゆ》をあげてかたわらの松村に了解を求めた。松村がうなずくのを見て、かれは正面に日灼《ひや》けした顔を見せている平八郎に八の字|髭《ひげ》をむけて口をひらいた。
「俺《おい》の知いたかこつはふたっじゃ。福建水師は、機砲を装備しておらんかったのか。主砲は回転盤の上に載っておったじゃろうに、ないごてフランス艦隊のおる艦尾の方角い砲口をまわしておらんかったとか」
「はい、『揚武』座乗の司令官はかねがね各艦に機砲を装備したいと※[#「門<虫」、unicode95a9]浙総督|麾下《きか》の海防大臣に申し入れていましたが、許可がおりなかったのです。主砲の件はまったくの油断にて、一撃必殺の気迫に欠ける訓令を受けていたため、初めから戦意が萎《な》えていたものとおもわれます」
「まこて、油断大敵とはこんこつじゃねえ」
と祐亨は答えながらも、一瞬の隙に乗じたフランス艦隊の攻撃法には舌を巻くおもいであった。
この時期まだ日本海軍は、どのような陣形から艦隊決戦をおこなうのが最善か、という海軍戦術についてはまったく研究していない。それどころか、フランス艦隊の「ラ・ガリソニエール」、「トリオンファント」級の軍艦といえばわずかに「扶桑」一隻のみなのだから、とても福建水師を笑ってはいられない。
「これは、例の巡洋艦三隻を早く入手したいものじゃな」
松村のことばに、祐亨と平八郎は黙ってうなずくしかなかった。
巡洋艦《クルーザー》とは「扶桑」のような装甲戦艦に対し、より高速で航続力と航洋性にすぐれ、砲力においても戦艦にさほど劣らない万能艦をいう。
フランス艦隊の水雷艇が外装水雷を用いているところを見ると、どうやら「ラ・ガリソニエール」以下はまだ水雷発射管を持たないらしい。しかし、明治十六年度計画にしたがってイギリスのアームストロング社に二隻、フランスの地中海造船所に一隻発注された巡洋艦は、それぞれ水雷発射管四門を装備し、「扶桑」の最大速力十三ノットに対し、十八ノットの高速を出せるよう注文されていた。
前二者の場合、ほかに二十六センチの大口径砲二門と十五センチ砲六門、四十七ミリ機砲六門と四連装の二十五ミリ機砲十門、十連装十一ミリ機砲四門をそなえ、三千七百九トンに達する予定だったから、「扶桑」の戦闘能力を凌駕《りようが》する。
日本海軍もこのころようやく汽帆兼用の雑艦時代に別れを告げ、汽走一本の巡洋艦を主力艦とする時代を迎えようとしていた。ここにおいても祐亨は、ふたつの時代のはざまを生きていたことになる。
やがて清仏戦争の舞台は台湾海峡へとうつっていったので、松村司令官は同方面へは「天城」のみを派遣し、日本へ帰ることにした。「扶桑」の横浜帰航は、十七年十二月十四日のこと。
あけて十八年二月、祐亨は「扶桑」艦長兼中艦隊参謀長の職を解かれ、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次官に補された。これは旧東海鎮守府が横浜から横須賀へうつされたのにともなう人事であったが、祐亨にはあまり面白くなかった。
家にいると浮かない顔をして酒ばかり飲んでいる祐亨に、
「なにか、近ごろ御心配でも」
と、妻の美津が酌をしながらたずねたことがある。すると祐亨は、
「いや、お前《まい》にはすまんこつじゃが、俺《おい》は四十三歳になるこん年までずっと海上勤務をつづけてきたもんでね、船を下りたとたんにからだん調子《あんべ》が狂ったよな気がしてならんとじゃ」
と、苦笑してつけ足した。
「俺の夢は欧米列強に負けん大艦隊を率いて、大海原を堂々と闊歩《かつぽ》するこつにあっとじゃ。陸《おか》にあがって書類など眺めちょっと、事務屋になったよでどうもこうもならん」
初代の横須賀鎮守府長官は、佐賀出身の中牟田倉之助中将。中牟田は戊辰《ぼしん》戦争以来の軍功によって子爵を授けられているから、次官の祐亨にも栄達の道はなかば約束されているようなものである。
それでも駄々っ子のように海へ帰りたがるところに、祐亨の生一本な性格が滲《にじ》み出ていた。
そしてまもなく、祐亨は実際に海へもどってゆくことになった。イギリスで造られている巡洋艦一隻が完成に近づいた四月二十三日、かれはその廻航事務取扱委員長に任じられ、イギリス行きを命じられたのである。
日本へ廻航すべき巡洋艦は、
「浪速《なにわ》」
と命名されることに決まっていた。
日本が、明治十年代後半になってから海軍拡張に心血を注ぎはじめた原因はふたつある。
その第一は、明治十五年(一八八二)十月に清国が朝鮮との間に水陸貿易章程を締結、清国兵三千を漢城《ソウル》に駐屯させて宗主国の権威を誇示したため、
「朝鮮は自主の邦《くに》」
という一文をふくむ日朝修好条規を朝鮮との間にむすんでいた日本としては、清国との間に利害関係が生まれてきたこと。
第二は、これによって日本海軍の仮想敵とみなされるに至った清国の北洋水師が、にわかに強大化したことである。
特に清仏戦争のまだ進行中だった明治十七年、北洋水師に新規加入したドイツ・フルカン社製の二大戦艦「定遠《ていえん》」と「鎮遠《ちんえん》」は、日本海軍にとっては脅威であった。双子艦として建造された両艦の、要目はつぎのごとし。
排水量七千二百二十トン、最大速力十四・五ノット、主砲三十センチ砲四門以下、十五センチ砲二門、七・五センチ砲二門、三十七ミリ砲八門、水雷発射管三門。
これを、左にかかげる日本海軍旗艦「扶桑」のそれとくらべれば、伊東|祐亨《ゆうこう》が最新鋭艦「浪速」の受けとりのためイギリスへ派遣された理由も知れよう。
三千七百十七トン、十三ノット、二十四センチ砲四門、十五センチ砲二門、十二センチ砲四門、水雷発射管二門。「扶桑」はこのほかに機砲をもそなえた甲鉄艦であったが、当時世界最強と自他ともに認めた「定遠」、「鎮遠」の装甲は、それまでの「甲鉄」ということばの概念をすっかり塗り変えていた。
「扶桑」の艦体をおおう甲鉄の厚さは、十四・七センチないし二十三センチ。露出した主砲の玉|除《よ》けの楯《たて》のそれは二十・三センチないし二十三センチ。対してこれら両艦は艦体を従来の甲鉄より強度においてすぐれたクルップ社自慢の甲鈑《アーマー》で鎧《よろ》われたうえに、二連装の主砲を厚さ三十・五センチもある砲塔に納めていた。
ただでさえ砲というものは、口径が二分の一なら威力は十数分の一以下になってしまう。艦体の大きさ、速力、砲力、防御能力のいずれを見ても、「扶桑」は「定遠」、「鎮遠」に対抗すべくもなかった。
もしも日本海軍と北洋水師とが艦隊決戦をおこなったならば、北洋水師は清仏戦争中の馬尾《ばび》の戦いにおいて福建水師を三十分で屠《ほふ》ったフランス艦隊のように、日本海軍を鎧袖《がいしゆう》一触しかねない。国内最後の内戦となった西南戦争から十年もたたないうちに、日本は朝鮮の利権をめぐって国際的な建艦競争に打って出なければならない状況に立ち至っていた。
子供たちから大人まで、このころの日本人は時代の状況に一喜一憂をくりかえした。
子供たちの間では、北洋水師をやっつける海戦ごっこが流行しはじめた。これは敵の大将を「定遠」か「鎮遠」に見立て、その子をつかまえれば勝ちという遊びである。
これは政党政治家が軍人たちから一本取りたくなったとき、
「君、そんなことをいうが『定遠』に勝てるとでもいうのかね」
と切り返す風潮を生じていたこととかかわりがある。
銀相場は、相場師が日清関係険悪化、あるいは好転と噂を流すだけで乱高下。横浜停泊中の汽船はすべて海軍の御用船とされるとの浮説が生まれ、海運業界に動揺が走って新聞記者が真相を確認したところ、伯爵に昇っていた黒田清隆が礼服を新調しただけのこととわかる、という椿事《ちんじ》も発生した。黒田の礼服発注は清国への出張を意味し、それは朝鮮をめぐる日清談判の開始とその破裂、日清開戦へとつながる、とデマがデマを呼んだのである。
「浪速」の品川沖到着は十九年六月二十六日のことであったが、この「浪速」にはイギリス出張中に少将に進級していた祐亨が艦長、山本|権兵衛《ごんのひようえ》中佐が副長として乗りくんでいた。機関士、軍医、下士官など百六十八名の乗組員もすべて日本海軍の軍人たちだったから、「浪速」は日本人が発注先から独力で廻航した軍艦第一号の栄誉をになったことになる。
「浪速」の長所は、四十七ミリから十一ミリまでの機砲を多数そなえている点もさることながら、石炭専焼の主罐《ボイラー》六と二気筒連成の往復動蒸気機関とを心臓部とし、七千六百四馬力の出力を誇ることにあった。航続距離は、時速十三ノットなら一万五千キロ弱。「定遠」、「鎮遠」は六千二百馬力、航続距離は十ノットで七千二百キロだから、航続力においては「浪速」がはるかにまさる。
その外観上の特徴は、上部甲板上の構造物によくあらわれていた。中央部には、黒く塗られた巨大な煙出し一本が屹立《きつりつ》。前檣《ぜんしよう》と後檣はもはや帆を張る必要はないから鉄塔と化し、その上部には展望台のようなファイティング・トップがもうけられて、機砲とその楯とが据えつけられている。
このような最新鋭の巡洋艦であれば、敵の主力艦と相|対峙《たいじ》したときは水雷で攻撃、反撃を受けそうになったら高速で避待することが可能であり、われより小型の敵艦なら砲力によって撃破することもできる。
「浪速」につづき、やはりアームストロング社で建造されていた同型の「高千穂」が日本へ廻航されてきたことにより、ようやく海軍の軍備拡張は緒に就いた。
とはいえ、祐亨の海上勤務は「浪速」の廻航をもっておわりを告げたわけではない。それどころかかれは少将昇進後すぐ常備小艦隊司令官に補されたことにより、巡洋艦時代を迎えた海軍の海上勤務組のトップに躍り出ていた。
「俺《おい》の夢は欧米列強に負けん大艦隊を率いて、大海原を堂々と闊歩するこつにあっとじゃ」
という祐亨の無邪気なほどの憧《あこが》れは、この第一期軍備拡張の流れのなかで次第に現実味を帯びてゆく。
それが可能となった背景には、明治十五年十一月の時点で右大臣岩倉|具視《ともみ》が海軍卿《かいぐんきよう》川村|純義《すみよし》の請いに応じ、天皇に海軍拡張の急務なることを奏請した事実がある。
毎年、宮中費から三万六千円ずつを割いて陸海軍備に充てさせていた天皇は、これを受け入れて「軍備拡張に関する勅諭」を発布。
「今般一層武備皇張の御趣意に候ところ、右は巨額の入費を要せざるべからざる儀につき、いまや国用不足の時たれば歳入を増し、収税を課するのほかなかるべし」
と、あっさり太政大臣三条|実美《さねとみ》に増税を命じたのは、若き君主制国家ならではのことであった。
しかし、この勅諭によって初めて海軍省は、省の経費中にふくまれる艦船新造費のほかに、国の歳出予算に軍艦製造費を設定して長期計画を立てることができたのである。
海軍省経費中の艦船新造費は、年に三十三万円。国の歳出予算からの軍艦製造費は、十六年度以降八カ年間の予定総額二千四百万円。
ちなみに明治十六年度の国の歳出は、八千三百十万六千八百五十八円。うち海軍費は三百八万六百三十四円、陸軍費は一千二十五万四百二十三円を占めていた。
当初、海軍省は右の二千四百万円と八カ年分の省内予算二百六十四万円とを投じ、大艦五隻、中艦八隻、小艦七隻、その他の艦艇十二隻の計三十二隻を建造する計画を立てた。「浪速」と「高千穂」は、そのうちの十六年度計画にもとづいて建造された大艦にほかならない。
ついで十八年度計画により、「浪速」と「高千穂」より大きく、「定遠」、「鎮遠」の三十センチ砲をしのぐ三十二センチ主砲を装備する巡洋艦三隻の建造も具体化した。
「松島」、「厳島《いつくしま》」、「橋立《はしだて》」各四千二百七十八トン。
日本三景のそれぞれを艦名とすることから、やがて、
「三景艦」
と総称されることになるこれら三艦の設計は、十九年に来日したフランス人技師エミール・ベルタンの手にゆだねられた。
なぜ三景艦の設計がひとりの技師にまかせられたかといえば、これら三隻には一セットとなって「定遠」、「鎮遠」に立ちむかい得る戦闘能力が求められたからである。
「厳島」と「橋立」の三十二センチ主砲は前甲板に前むきに据えるが、「松島」のそれは後甲板にうしろむきに据える。こうすると「厳島」と「橋立」が「松島」を中央にして横一線の単横陣に布陣した場合、三十二センチ主砲計三門は前方に二門、後方に一門がV字形に睨《にら》みを利かすことになり、死角が消える。
もし北洋水師に前後から挟撃されても対抗可能なように、という海軍の切実な要望が、このようなV字形単横陣構想によくあらわれていた。
なお、史書によって確認できることではないものの、私(筆者)はこの構想には祐亨の意見が反映されたのではないか、と考えることがある。
明治十八年十二月に太政官制が廃され、内閣制度が採用されて第一次伊藤博文内閣が発足したのにともない、故西郷隆盛の弟西郷信吾(龍庵)あらため従道《つぐみち》が海軍大臣に就任していた。
しかし、西郷従道は陸軍中将から海軍に転じた者で、海軍戦術とはこれまで無縁。一方の祐亨は、「浪速」廻航のかたわらヨーロッパ諸国の海軍を視察してきたばかりか、常備小艦隊司令官として海上勤務組のトップに立っている。
さらに祐亨は、清仏戦争中の馬尾の戦いで、福建水師がフランス艦隊に一斉に艦尾をむけた隙に全滅させられたことをよく知っていた。しかも、その現地調査をおこなった東郷平八郎は、このころ神戸在勤となっていて海軍省にはいない。
それやこれやをおもいあわせると、「浪速」、「高千穂」以下の常備小艦隊を実地に統率し、いずれ三景艦を列にくわえようとしている祐亨の希望が、V字形単横陣構想と相反するものであったはずはない。いまや祐亨は、もっとも海上経験に富む海軍軍人になっていた。
この常備小艦隊司令官時代の祐亨の別名は、
「雷公《らいこう》司令官」
油断しているといつどこに雷が落ちるかわからない、という意味で、これは明治初年に「第一|丁卯《ていぼう》」や「春日」の艦長を歴任していたころ、雷艦長と渾名《あだな》されたのとおなじことである。
だが、この雷公司令官のいいところは、手抜き、手落ちがあると見れば艦長、副長であってもきつく叱ることであった。上役の責任を問わず、下役の非ばかり咎《とが》め立てされては若い士官たちの士気にかかわる。
明治二十二年、四十七歳となった祐亨は、とくに若い少尉候補生たちに対しては慈愛にあふれた人柄を垣間見せることが少なくなかった。
同年一月末から二月にかけて、海軍は大演習をこころみた。静岡の清水港に拠《よ》る攻撃軍と横須賀の防衛軍とに分かれ、模擬戦をおこなったのである。このとき攻撃軍の指揮官をつとめたのが、旗艦「高千穂」に座乗していた祐亨であった。
その祐亨に司令官付きの少尉候補生としてしたがっていた小笠原|長生《ながなり》は、まだ二十三歳。祐亨が「高千穂」から清水港に上陸する際には小蒸汽の指揮役をつとめていたが、清水港には初めての入港だったため水路がよくわからず、ある日小蒸汽を浅瀬に乗りあげさせてしまった。
あわてて蒸気をふかしても、スクリューは泥をはねあげるばかりで埒《らち》があかない。紺ラシャ、ダブルボタンの外套《がいとう》に金の桜花四つの袖章《そでしよう》をつけて将官であることを示している祐亨がぶ厚いからだをむけると、顔面|蒼白《そうはく》になった小笠原はやにわに詰襟式短衣を脱ぎ出した。海に入って、小蒸汽を押し出そうとしたのである。
それを見た祐亨は、慰めるようにいった。
「ここはどげなわけか、洲が始終変化すっでな。慣れちょっ者でんよくのしあぐっで、心配せんでんよか。そいよか、兵を入れて押させればじきに離れる。なあ、副官」
そういわれては、小笠原の不手際を詰《なじ》ろうとしていた副官もうなずくしかない。すぐに兵たちが海に入って小蒸汽を浅瀬から押し出すことに成功したので、雷公司令官の意外な恩情に接した小笠原は、うれしさのあまり涙が止まらなくなっていた。
この出来事以来、小笠原長生に慕われた祐亨は、書を求められたときには司令官室で泡盛を飲みながら、
「智 仁 勇」
と大書して洒落《しやれ》た注をつけた。
「古人、言あり
野菜にして庖丁《ほうちよう》の難にかゝらざるは智なり
鯰《なまず》を押へて遁《のが》れしむるは仁なり
馬じるしとなりて敵をおそれしむるは勇なり」
その下にひょうたんの絵を一筆書きに描き、
「碧海《へきかい》祐亨」
と署名したのは、このころから碧海の号を用いていたためである。
生まれ故郷、鹿児島の錦江湾。薩摩藩江戸上屋敷にひそんで討幕に動いていた時代以来、もう四半世紀のつきあいになる品川の海。そしていくたびもの長い航海により、七つの海を見た祐亨《ゆうこう》にとり、青海原を示す碧海を号とすることは生涯を海軍に捧《ささ》げつくす覚悟を意味していた。
この二十二年五月、東京府芝区高輪車町三十五番地に地上三階建て、地下室とバルコニーつきの明治風洋館を建築し、碧海楼と名づけたのも、泉岳寺と道ひとつをへだてて東海道に面した敷地の南側に品川の海が一望できるため。同時に鹿児島から戸籍を移した祐亨は、妻美津とともに新居に移って間もない五月十五日に常備小艦隊司令官を免じられ、海軍省第一局長兼海軍大学校長に補された。
赤坂葵町の旧工部省跡に置かれていた海軍省にあって、第一局とは軍務局を意味する。祐亨には艦隊のみならず、海軍軍政全般を見ることが求められたのだった。
伊東祐亨が海軍省第一局長と海軍大学校長とを兼ねた時期は、海軍の機構が着実に姿をととのえた時代にかさなる。
明治二十二年(一八八九)七月には、横須賀鎮守府につづいて呉《くれ》と佐世保の両鎮守府が開庁。軍艦の多くはこれら三鎮守府に警備艦隊ないし練習艦として分属させられ、ほかに一部をもって天皇直属の常備艦隊がもうけられることになった。常備艦隊には司令長官が置かれたものの、これまでの幕僚は参謀、伝令使、秘書各ひとり、計三人しかいなかった。そのうち伝令使が廃され、航海長、機関長、軍医長の職が新設されて役割分担がすっきりした。
このように機構が整備されてくると、いずれそれぞれのポストのトップとなり得る人材を育成しておく必要を生じる。祐亨が軍政を統轄しながら海軍大学校長を兼務したのも、そのシステム作りのためであった。
二十一年八月、それまで東京の築地四丁目にあった海軍兵学校は、広島県の江田島に移された。鐘楼つき、赤レンガ二階建てのその旧校舎に創設されたのが海軍大学校で、兵学校出の士官たちからなる志願者は代数、三角術、幾何学の入学試験によって選抜され、甲号、乙号、丙号の三種の学生のいずれかに分かたれて、より高度な海軍教育をほどこされた。
甲号学生は大尉クラスからの合格者で、砲術、水雷、航海、機関の各分野の長たるに足る学力を身につける。乙号学生は佐官ないし大尉から選ばれて各自好みの学科を修め、少尉限定の丙号学生は高等数学と物理学とを学ぶ。
すでに五年前に開校された陸軍大学校は、用兵と作戦との講義を主眼としていた。これに対して海大が理系の学力を重視したのは、イギリスから海軍顧問としてまねかれたジョン・イングルス大佐の助言によるものであった。
長身|痩躯《そうく》、金髪碧眼のイングルス大佐は、伝統あるイギリス海軍のなかでも、つとに知性と学識の深さによって知られた理論家肌の人物。西郷|従道《つぐみち》海相に乞《こ》われて海大創設に参加したかれは、なぜ入試科目は代数、三角術、幾何学のみなのか、と問われたとき言下に答えた。
「軍事操練は、どんな年齢になってからでもマスターできる。だが、海軍戦術の基本である数学は、若いうちでなければ頭に入らない」
二十二年五月、まだ開校一年に満たない海大の校長室へ初めて巨体を運んだ背広姿の祐亨は、前任者の井上|良馨《よしか》からそのような説明を聞くうちに隔世の感に堪えられなくなって口をはさんだ。
「ほほう、そげんこつなら俺《おい》やおはんは、こん海大の校長には成《な》れてん海大の学生にはいけんしてん(どうしても)なれんちゅうこつじゃなかか」
「まこて、おたがいに面白《おもしと》か時代を生きっきたもんでごあすな」
近ごろ肥満してナマズ髭《ひげ》にも白い筋のめだちはじめている井上良馨は、苦笑を浮かべて答えた。
祐亨が幕末に神戸海軍操練所で学んだところは、羅針儀・測定儀・測深儀による方角・速力・水深の測り方、経線儀によるグリニッジ時間の調べ方、六分儀による天体観測と船の現在位置の割り出し方などのみであった。
一方の井上良馨も、薩英戦争の際にイギリス艦隊の撃ち出した砲弾を、奇跡的に腰の両刀で受け止めてから海軍を志した者である。祐亨同様に実戦の場数を踏むことによって少将に昇った男だけに、祐亨の感慨はすぐにわかったらしかった。
「じゃっどねえ、イングルス大佐は海軍戦術にも通じておっでよ。ほれ、薩英戦争のとき、俺《おい》どもはイギリス艦隊が縦一列になって襲ってきたこっを『一字線』ち名づけたじゃろが」
「うむ」
濃い眉《まゆ》をあげて一瞬遠くを見るようなまなざしをした祐亨を、井上は正面のソファから見つめてつづけた。
「今んことばでいえば単縦陣じゃが、イングルス大佐も単縦陣戦法の信奉者でよ。俺は初めてイングルス大佐の海軍戦術についての講義を聴いたとき、目から鱗《うろこ》が落ちたよに思ったもんでごあした」
世界の大勢は、単縦陣――艦隊が縦一列の隊形から開戦することを不可とする方向に流れていた。
この隊形から戦闘状態に突入すると、先頭の一番艦以外からは正面の敵に艦砲射撃をおこないにくい。おなじく一番艦以外からは、敵の艦首にむかって水雷攻撃をくわえにくい、などという点が問題視されたのである。
これら単縦陣否定論者に反論するように、イングルスは講義した。
「敵前において隊形を変化させるのは、演習の場合ですらそううまくはゆかない。まして戦闘が開始されてから、僚艦同士が信号を送りあうことは不可能といっていい。それにくらべると単縦陣は、『|前にならえ《フオロー・ザ・リーダー》』主義といってもよい操艦の容易な隊形であり、一番艦以外は前をゆく艦の航跡をひたすら追うだけでよいのだから、信号なしでももっとも隊形を維持しやすい。水雷攻撃は水雷艇隊にまかせてもかまわないし、大口径砲は先頭艦越しに敵艦を撃つことも可能ではないか。しかも単縦陣を組んだ艦隊が、一斉に右か左へ二ないし四点(二二・五度ないし四五度)の回頭をおこなえば梯陣《ていじん》に変化できる。また、おなじく八点(九〇度)回頭すれば単横陣、十六点(一八〇度)回頭すれば、一番艦と殿艦《でんかん》とが入れかわった逆番号単縦陣の陣形が容易に得られる、という利点もある」
もしも日本海軍がこの単縦陣戦法を採用するならば、三景艦が「松島」を中央に置いてV字形単横陣を組むという従来の構想は、一気に崩れ去ってしまう。
だが、祐亨と井上良馨は、もう四半世紀も前に旗艦「ユーリアラス」以下のイギリス艦隊に単縦陣戦法の威力を思い知らされたことによって、海軍軍人への道を歩みはじめた者たちである。手探りで海軍育成をこころみてきた古つわものでもあったから、高等数学は知らずともイングルスの主張に強い説得力を感知することができた。
やがて祐亨自身もイングルスの海軍戦術講義にじかに触れ、その理路整然たる口調に蒙《もう》を啓《ひら》かれた思いがした。
若手士官たちにもイングルス理論の支持者は増加の一途をたどり、いずれ単縦陣戦法は日本海軍の基本戦術となってゆく。
祐亨が海大校長を兼務したのは、二十三年九月までのこと。その後も二十五年十二月まで海軍省第一局長のポストにあったかれの下で、単縦陣戦法の優秀性を実証してみせたのは、第一局第二課次長の島村速雄大尉であった。
高知出身の島村速雄は、安政《あんせい》五年(一八五八)生まれ。明治十三年十二月、クラス・ヘッドをつづけて海軍兵学校を卒業した優秀な人材で、十九年には早くも『海軍戦術一斑』と題した論文をまとめ、
「軍事の天才」
と呼ばれて海軍部内の注目を浴びた。同書はアメリカ海軍の研究成果の要約とはいえ、日本の海軍軍人の手になる初めての海軍戦術書だったからである。
身の丈六尺(一・八メートル)、眼裂の深く切れこんだ輝きある両眼に通った鼻筋、よく張った顎《あご》と引きしまった唇をそなえ、太い口髭をたくわえた島村は、日本海軍に初めてあらわれた参謀タイプの軍人であった。かれは二十四年二月に三年間のイギリス留学から帰国すると、すぐイングルス理論の実証をこころみた。
まず一方の艦隊に単縦陣、他方に単横陣ないし梯陣の隊形をとらせ、陣形の変化を許して対抗演習をさせてみる。すると、初め単縦陣に構えていた艦隊が勝ちと判定できるケースが圧倒的に多かった。そこから島村はイングルス大佐の愛弟子《まなでし》のような存在になってゆき、単縦陣戦法は日本海軍の主要戦術として実質的に認知されるに至ったのである。
その後も島村のよき上司でありつづけた祐亨は、二十五年十二月に海軍中将に昇進。同時に横須賀鎮守府司令長官に補され、二十六年五月には常備艦隊司令長官となって、一足早く常備艦隊参謀に異動していた島村とふたたびコンビを組むことになった。
同年秋、イングルス大佐はイギリスへ帰ったから、まるでかれは、伊東・島村コンビに単縦陣戦法を伝授するために来日したようなものであった。
このころの常備艦隊は、伊東・島村コンビと艦長野村|貞《ただし》大佐の座乗する旗艦「松島」以下、つぎの諸艦によって編成されていた。
「高千穂」、「厳島」、「浪速《なにわ》」、「高雄」、「千代田」。「浪速」の艦長は、東郷平八郎大佐である。
祐亨は、この年五十一歳。前の年に美津との間には延《のぶ》と名づけた女の子が生まれ、兄の祐麿は中将を最後に予備役に編入されている。
(おれも、この「松島」が最後の乗艦となるだろう)
と考え、自分が海軍最古参の域に近づいたと自覚したこともあって、もはや部下たちに雷を落とすこともめったになくなった。
高輪車町の屋敷の裏庭には畑と土俵をもうけ、休日には白シャツ一枚で畑を耕すかと思えば土俵にあがって四股《しこ》を踏む。「松島」に乗艦するときにもウイスキーのポケット瓶《びん》を隠しにしのばせている、という酒豪ぶりに変わりはなかったが、将校会議で軍事を論じあううちに若手にやりこめられたところで、
「わはは、またやられたわい」
と破顔一笑するあたりに、悠揚として迫らぬ風格が滲《にじ》み出ていた。
各艦の将校たちの勤務態度、兵員動作の敏捷《びんしよう》性、砲台や戦闘配置の整理|整頓《せいとん》について、絶えず目を光らせてはいた。だが、祐亨が島村にことわりなく頭ごなしに命令を下したことは一度もない。
それどころか祐亨には、旧世代と呼ばれる年齢に達した人間には珍しく、ものわかりのよさがそなわっていた。
風帆船の全盛期から汽帆兼用の時代にかけて、海の男たちに求められた最大のものは運動能力の高さであった。帆の上げ下げの素速さが船の運用術とイコールの関係にあったためである。
しかし、帆柱が鉄塔そのものに変化して往復動蒸気機関のみによる遠洋航海が可能となった今日、個人の運動能力を高めるための帆前操練はもはや過去のものとなりつつある。より重要なのは艦隊運動、戦闘準備、戦闘操練、水雷艇防御、防火、防水など実戦を想定した訓練であり、常備艦隊の若き参謀となった島村の思いも、すでにイギリス海軍の採り入れているこのような訓練法の導入にあった。
「よか。俺は『浪速』の廻航委員としてイギリスへ行ったことはあってん、最新の訓練法までは知っちょらんど。参謀の新知識を存分に生かしてみやい」
島村の提案を祐亨がふたつ返事で受け入れたため、日本海軍は古い殻を打ち破る契機をつかむことができた。
祐亨の将たるにふさわしい鷹揚《おうよう》な性格に胸を打たれた島村は、以後ことあるにつけこういった。
「伊東長官は、まことにわが海軍の長者であります」
この伊東・島村コンビの指揮する常備艦隊が、隣国諸港の巡航の途についたのは六月一日午前十時のことであった。
品川沖に黒煙を吹きあげはじめた「松島」は、菊の紋章を飾った艦首のポールに日の丸、艦尾に十六条旭日の軍艦旗を掲げ、一本のみの鉄の檣上《しようじよう》には八条旭日、上に赤線一本の中将旗をひるがえしていた。
巡航の最大の目的は、仮想敵北洋水師の根拠地である清国山東半島の軍港|威海衛《いかいえい》におもむき、その提督|丁汝昌《ていじよしよう》を表敬訪問することにあった。
威海衛は東西約百六十二海里(三〇〇キロ)におよぶ黄海の西岸から東へ突き出した山東半島の北岸にあり、東むきに湾口をひらいている、その湾口北寄りに巨大な劉公島《りゆうこうとう》、南寄りには小さな日島《につとう》が浮かんで防波堤の役を果たしているため、清国は湾奥に洋式城塞《ようしきじようさい》威海衛城を築城。陸海軍並置の軍港とし、湾の周辺を十五の砲台でかこんで湾全体を一大要塞としていた。
六月十三日、常備艦隊がこの威海衛に無事入港できたのは、祐亨が丁汝昌とは旧知の仲だったことが大きい。ふたりは朝鮮半島の利権をめぐって対立する両国の軍人としてではなく、ともに海軍に生涯を懸《か》けた者同士としてかねてから友誼《ゆうぎ》をむすんでいた。
その初めての出会いは、明治二十年六月、祐亨が常備小艦隊司令官として「高千穂」に乗り、やはり隣国諸港の巡航途中に威海衛に寄港したときのこと。
「黄龍旗」
といわれる黄色地に躍動する龍の絵を描いた国旗を小蒸汽にはためかせ、みずから出迎えてくれた丁汝昌は、祐亨たちを迎賓館にまねいて大歓迎してくれた。
また二十四年七月、祐亨が海軍省第一局長の職にあった時代には、丁の方が「定遠」、「鎮遠」ほか四艦を率いて横浜に来航。デモンストレーションの意味もこめて日本側要人と新聞記者とを「定遠」に招待してくれたから、ふたりはますます肝胆相照らす仲になった。
ふたりが国籍と立場の相違を超えて打ちとけた理由のひとつは、戦歴に共通点が多いことであった。
丁汝昌の軍歴は、いまは清国皇帝直属の直隷《ちよくれい》総督兼北洋大臣として北洋水師の上に立つ李鴻章に、若くして見出されたことにはじまる。その創設になる近代的陸軍|淮勇《わいゆう》に参加して太平天国の乱鎮圧に活躍したかれは、祐亨が西南の役に出征していたころイギリスへ留学。帰国してから海軍に転じた経歴の持ち主で、内戦でおなじ民族同士が殺し合う哀しさ、海軍育成のむずかしさを率直に語った。
それは祐亨の実感してきたところでもあったから、ふたりは会って酒盃《しゆはい》を重ねながら忌憚《きたん》なく意見を交換するうちに、敵愾《てきがい》心よりもむしろおなじ東洋の海軍軍人同士として理解を深めあったのである。
「定遠」にまねかれた際、丁に顔写真の交換を求められて持ち合わせていなかった祐亨は、今度ようやく大礼服姿の写真をわたして二年ぶりに約束を果たすことができた。
馬蹄袖《ばていそで》に長袍《ちようほう》の官服をまとい、鍔《つば》なしの丸い便帽《べんぼう》に弁髪を隠している丁は、その写真を恭しく受け取るとあらためてサインを乞《こ》うた。眉が薄く頬骨と唇のややとがったその顔に、
「それでは拙者にも閣下のサインを」
と島村の英語通訳によって応じた祐亨は、まもなくたがいに雌雄を決することになろうとはまだ考えてはいなかった。
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第七章 決戦の時
常備艦隊の隣国諸港歴訪の旅が、無事に終了したのは明治二十六年(一八九三)十一月八日のことであった。
威海衛《いかいえい》で北洋水師の提督|丁汝昌《ていじよしよう》に久闊《きゆうかつ》を叙しながらふたりの総兵(少将)林泰曾《りんたいそ》、劉歩蟾《りゆうほせん》の人物器量をも見定めた司令長官伊東|祐亨《ゆうこう》は、つぎに天津に李鴻章を訪問。ついで渤海《ぼつかい》湾を東進して遼東半島先端の旅順口に立ち寄り、朝鮮の仁川《じんせん》港、首都漢城(ソウル)、釜山をまわったあと、ロシア領ウラジオストックとおなじく南|樺太《カラフト》のコルサコフまで足をのばした。そのためにこの巡航は、百六十余日にわたる大航海となったのである。
ただし祐亨は、漫然と諸港歴訪をつづけていたわけではない。参謀島村速雄と相談のうえ、単縦陣から梯陣《ていじん》、単横陣、逆番号単縦陣という艦隊運動を反復させ、戦闘操練、防火防水訓練も絶えずおこなわせた。そのため常備艦隊は、この航海の間に急速に艦隊運動とイギリス式の最新訓練に習熟していった。
さらにこの旅は、仮想敵清国の軍事視察としても大いに意味あるものとなった。その最大の成果は、威海衛の周辺その他の砲台に、すでにアームストロング社製の十二センチ速射砲が配備されていることを実際に確認できたことであった。
速射砲の原理は、フランス製のホッチキス機砲や、それより高性能といわれるアメリカ製マキシム機砲のそれにひとしい。手動で初弾を発射したならば、その反動を利用して薬莢《やつきよう》を脱去し、次弾を自動|装填《そうてん》してしまうことにより、十二センチ砲であれば一分間に八発撃てる。従来の艦砲の発射速度は毎分一発か二発だから、先進諸国の軍隊は陸海軍の別なく速射砲の装備を急いでいた。
幸い北洋水師の各艦は、「定遠」、「鎮遠」の三十センチ主砲各四門の威力を恃《たの》んでか、まだ速射砲を装備してはいなかった。対して常備艦隊も二十四年に新規購入したイギリス・トムソン社製、二千四百三十九トンの巡洋艦「千代田」に十二センチ速射砲十門を搭載しているのみである。もしも清国と戦争状態に突入し、北洋水師との艦隊決戦に勝利を収めたところで、北洋水師が威海衛に逃げこめば、砲台の速射砲の弾幕にさえぎられて追討は不可能になってしまう。
そのような現状をよく認識した伊東・島村コンビは、巡航中から海軍軍令部長中牟田倉之助中将、海軍大臣|仁礼景範《にれかげのり》中将に艦隊への速射砲の配備を訴えてやまなかった。
中牟田倉之助は、幕末のうちに自前でアームストロング砲の製造に成功していた佐賀藩の出身だけに、砲とは進化するものであることをよくわきまえていた。もとの名を源之丞といった仁礼景範は、かつて薩摩藩誠忠組に加盟していた者で、薩英戦争の際には祐亨とともに西瓜《すいか》舟決死隊に名をつらねた。またかれは島村速雄の才気をいち早く見抜き、一時は島村を娘の夫に、と思い定めていたことがある。
さらにこのふたりは艦艇三十二隻を目標とした明治十六年以降八カ年間の第一期軍備拡張計画につづき、第二期軍拡をめざしていたから、伊東・島村コンビの希望に否やはなかった。東洋一の実力をもつ北洋水師の脅威を間近に感じ、かつ汚職などもまだなかった時代だけに、海軍には幸福なまでの一体感がつづいていた。
明治二十七年三月、相ついで海軍に新規加入した「秋津洲《あきつしま》」と「吉野」は、祐亨たちの願いが結晶したような新鋭巡洋艦であった。
横須賀造船所製の「秋津洲」は、排水量三千百五十トン。「浪速《なにわ》」、「高千穂」の最高速力十八ノットを凌《しの》ぐ十九ノットの快速で、十五センチ速射砲四門、十二センチ速射砲六門を装備していた。
さらに祐亨たちの期待を一身に担ったのは、イギリスから呉へ廻航されてきた「吉野」の方だった。
排水量は四千二百十六トンと「定遠」、「鎮遠」の七千二百二十トンにおよばないものの、アームストロング社製、ファイティング・トップをそなえた鉄のマスト二本とその間の煙出し二本とをやや後方に傾斜させた最新のスタイルを誇る「吉野」は、ニューキャッスル沖での公式試運転中に二十三・〇三一ノットの世界最高速度をマークし、国際的に注目を浴びていた。
しかも「吉野」は、ただの快速艦ではなかった。十五センチ速射砲四門、十二センチ速射砲を八門備えたばかりか、四十七ミリ・ホッチキス機砲二十二門、魚雷発射管を五門も有している。
もう四半世紀以上前の戊辰《ぼしん》戦争のおり、明治新政府の海軍は、勤王藩の差し出した雑艦わずか千七百トン程度でスタートしたのであった。明治五年二月に海軍省が開設された時点においても、排水量合計は「甲鉄」あらため「東」千三百五十八トンを入れて一万八百三十二トン。それがこれまでの建艦努力により、軍艦は三十一隻、水雷艇は二十四隻、総排水量は五万九千百六トンに達したのである。
北洋水師は軍艦二十二隻、水雷艇十二隻、総排水量五万トン強。速力十四・五ノットと巨艦ゆえに鈍足で、かつ速射砲をもたない「定遠」、「鎮遠」に対し、高速性と速射性にすぐれた「千代田」、「秋津洲」、「吉野」が軽快に進退して間断なく命中弾を送りこめばどうなるか、――。
一時期考えられていた三景艦によるV字形単横陣構想は、「厳島《いつくしま》」主罐《ボイラー》のあまりの不調と単縦陣戦法の採用により、すでに過去のものとなっていた。だが明治二十七年春、日本海軍はようやく北洋水師に対し、互角かそれ以上にわたり合えるだけの陣容を整えることができたのだった。
そしてこの二十七年春とは、朝鮮南西部の全羅道から勃発《ぼつぱつ》した農民反乱が、中・南部へと一気に波及した時期でもあった。五月三十一日に農民軍が全羅道の首府全州を占領するや、朝鮮政府は宗主国たる清国に派兵を要請するに至ったが、十八年四月、日清両国に結ばれた天津条約にはつぎのような一項がある。
「将来朝鮮国に重大な事変を生じ、日清両国あるいは一国出兵を要する時は、まず相互に通知すること」
これに従って清国が日本に朝鮮出兵を通知したため、日本も六月二日の閣議で陸軍八千の派兵を決定。そのうち六千は、十八日に漢城南西の仁川《じんせん》港に上陸し、南二十里の位置にある牙山《がさん》に先着していた清国兵七千と一触即発の形勢になった。
海軍もまた艦隊編成を急ぎ、常備艦隊に新鋭諸艦を編入するかたわら、横須賀・呉・佐世保の警備艦によって西海艦隊を組織した。
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○常備艦隊「松島」、「浪速」、「吉野」、「千代田」、「厳島」、「橋立」、「高千穂」、「秋津洲」、「比叡」、「扶桑」、ほかに報知艦「八重山」、艦隊付属艦六隻、水雷艇六隻。
○西海艦隊「金剛」、「天龍」、「大和」、「葛城《かつらぎ》」、「高雄」、「赤城」、「武蔵」、「大島」ほか。
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常備・西海両艦隊をもって日本初の連合艦隊が組まれ、その司令長官は伊東祐亨常備艦隊司令長官の兼ねるところとなったのである。
参謀職はふたり(のち三人)置かれ、参謀長には鮫島|員規《かずのり》大佐が就任して島村速雄少佐心得はその下で作戦参謀をつとめる。鮫島は西南戦争に「鳳翔」副長として出征した経験の持ち主で、鹿児島の出だから祐亨とは気心が知れていた。薩摩人らしく余計な口をはさむタイプではなかったから、伊東・島村コンビが隣国諸港巡航中から訓練に磨きをかけてきた単縦陣戦法が、きたるべき北洋水師との決戦に際して採用されることは暗黙の了解事項となった。
六月下旬から、連合艦隊各艦は佐世保軍港への集結を急いだ。各艦の煙出しやマスト、ファイティング・トップが黄色に塗装されたのは、海上の濛気《もうき》に艦影を隠しやすいように、という工夫である。
常備艦隊を率いて清国福建省方面を巡航中に派兵決定と知った祐亨は、美津が第二子を身ごもっていることはおくびにも出さず、艦隊をつぎのように区分した。
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○本隊第一小隊 連合艦隊旗艦「松島」、「千代田」、「高千穂」
○同第二小隊「橋立」、「厳島」
○第一遊撃隊 常備艦隊司令官旗艦「吉野」、「秋津洲」、「浪速」
○第二遊撃隊 西海艦隊司令官旗艦「葛城」、「天龍」、「高雄」、「大和」、ほかに水雷艇隊母艦として「比叡」
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常備艦隊司令官は山口出身の坪井航三少将、西海艦隊司令長官は佐賀出身の相浦紀道《あいのうらのりみち》少将。一部この艦隊区分に属さない艦があるのは、仁川方面に先行したため、あるいはまだ修理中のためである。
七月二十三日、ポンポンという音とともに淡い煙を吹き出す小蒸気に乗って岸壁から「松島」をめざした祐亨は、白リンネル長ジャケット形ホック留め、白織の袖章《そでしよう》つきの夏服をまとって初夏の光に輝く海面を見つめていた。
共眉庇《ともまびさし》、共錣《ともしころ》つきのヘルメット形略帽の下にのぞく潮灼《しおや》けしたその顔は、五十二歳の年輪を刻んで口髭《くちひげ》も白くなりつつある。二重まぶたの下にも豊かな頬にもややたるみを生じてはいたが、左手にサーベルの柄頭《つかがしら》をつかんで悠然と潮風を受け止める姿には、海軍の長者と呼ばれる男にふさわしい古武士然とした風格が漂っていた。
「松島」の一本のみの煙出し前方の艦橋に昇ったかれは、午前十一時、鮫島参謀長、島村参謀を左右に従えて第一声を発した。
「信号旗を揚げよ、『予定順序に従い、出航せよ』とな」
すでに煙出しから立ちのぼる石炭臭のある黒煙によって快晴の空を染めていた各艦は、汽笛の合図でこたえるや第一遊撃隊、本隊、第二遊撃隊の順に南側の湾口めざしてゆっくりと動き出す。
「帝国海軍の名誉を挙げよ」
前日、この日のために佐世保入りしていた新任の軍令部長|樺山資紀《かばやますけのり》中将は、巡洋艦「高砂」に乗って港外の帆揚《ほあげ》岩といわれる岩礁近くまで「松島」を見送り、数連の彩旗をもって告げた。
「『確かに挙ぐ』と答えよ」
祐亨はにこやかに命じ、鮫島、島村とともに艦橋から白一色の上体を乗り出して「高砂」に敬礼を送った。
対馬海峡を西進して朝鮮半島南端から黄海へ北上した連合艦隊の、最初の予定|錨地《びようち》は全羅道西北端の群山《ぐんさん》沖であった。祐亨は錨地到着以前の二十四日、「吉野」以下の第一遊撃隊を分離先行させて前方海域を偵察させるかたわら、仁川から合流する予定の「八重山」、「武蔵」を捜させるという慎重な作戦をとった。
「松島」以下の本隊と第二遊撃隊とが、群山沖に仮泊したのは二十五日午後のこと。すると、予定錨地には「吉野」、「秋津洲」、「浪速」の第一遊撃隊が先着していた。しかも三艦は白旗を檣上《しようじよう》に掲げた北洋水師の小艦一隻を囲いこみ、速射砲と機砲の筒先をその小艦に向けつづけている。
「む」
双眼鏡で四艦の様子を見較べた祐亨は、なおもレンズに目を押し当てたまま鮫島と島村にいった。
「第一遊撃隊は早くも遭遇戦をおこなって、緒戦の勝利を飾ったようじゃな」
およそ軍艦たるものは、いざ開戦必至となったときにはマストの根元や艦橋の手すりにはハンモックを巻きつけ、万一の場合の防備とする。伝声管その他、撤去可能な上部甲板上の突起物はすべて取り外して破損を防ぐ。そしておなじく上部甲板上には砂を撒き、死傷者が出てもその血に足を取られて無用な怪我などしないよう心掛ける。
レンズに映った第一遊撃隊はことごとくそのような臨戦態勢のままだったから、交戦のあげく小艦の拿捕《だほ》に成功したことはすぐにわかった。
案の定、「吉野」と「浪速」からボートでやってきた坪井司令官と東郷平八郎艦長は、「松島」司令長官公室に通されるとこもごも報じた。
「本日午前五時半過ぎ、第一遊撃隊は仁川沖合の豊島《ほうとう》付近において北洋水師の巡洋艦『済遠《さいえん》』、『広乙《こうおつ》』を発見、七時五十二分に彼我三千メートルの距離から『済遠』が『吉野』に外れ玉を撃ちかけましたことから応戦を命じ、霧の発生のため両艦に多大な揖害を与えながらも取り逃しましたが、その後あらわれた砲艦『操江《そうこう》』を投降させて連行してまいりました。第一遊撃隊は死傷者なし、敵の投降者は『操江』艦長|王永発《おうえいはつ》以下八十二名であります」
「本艦『浪速』は西へ逃走した『済遠』を追及中、西から東へ進んできたその『操江』とジャーディン・マセソン・カンパニー所有の『高陞《こうしよう》号』に出遇《であ》い、『高陞号』を臨検した結果、清国の歩兵約千百名を本国から牙山へ運ぶ途中と知って撃沈いたしました。午後一時十分、清国歩兵の溺死《できし》者は約千三十名に達したものと思われます」
「何じゃっち」
白いクロスでおおわれたテーブル越しに両者とむかい合って報告を受けていた祐亨《ゆうこう》は、濃い眉《まゆ》を動かした。
「ジャーディン・マセソンとは、英国の商会じゃなかか。英国籍の船を沈めて、厄介なこつにはならんか」
かれにダブルボタン、フロック形軍服につつんだ上体をむけていた東郷は、いつもの癖で無表情に答えた。
臨検開始は午前十時八分。すでに第一遊撃隊と「済遠」、「広乙」とが交戦したことは「高陞号」も知っていたはず。「浪速」が二時間半にわたって警告と説得をつづけたにもかかわらず、船上の清国兵が抵抗の気配をあらわにしたためやむなく撃沈に踏みきったのであり、その後すぐライフ・ボートを下ろしてできる限りの救助もこころみた。日清両国がまだ宣戦布告をおこなっておらずとも、事実上の戦闘状態に入った以上、敵兵を運ぶ船は敵艦とみなして国際法上も問題はない。
「おっしゃる通り。それよりも、これでいよいよ北洋水師との洋上合戦が近づいたようです」
祐亨の隣りの席から島村が口をはさんだのは、西へ逃れた「済遠」の行く先は威海衛としか考えられないからだった。「済遠」からそれと報じられれば丁汝昌も連合艦隊の黄海進出に気づき、海上権確保に動き出すのは目に見えている。
「腹ん内のわかった丁汝昌と手合わせすっとは思いがけんこっじゃが、どしてんこん戦《ゆつさ》にゃ勝たんわけにはいかん」
祐亨は島村のひろげた海図にむかい、両眼を炯々《けいけい》と光らせはじめた。
一夜あけた七月二十六日、朝霧に濡《ぬ》れた連合艦隊は、艦隊区分に従って黄海を群山沖から北西へ進んでいった。
しかし、北洋水師の艦船はどこにもいなかった。以後、伊東祐亨は全羅道西岸の沖合十余海里に散らばる群島|隔音島《かくおんとう》に錨地をうつし、西の威海衛《いかいえい》と東の牙山《がさん》を結ぶ航路を監視しつづけた。
ついで二十九日、仁川《じんせん》から漢城《ソウル》へ進出していた陸軍八千は、漢城―牙山間の成歓《せいかん》で清国兵二千八百と初交戦。これに大勝を収めて牙山をも制したため、日清両国は海陸ともに事実上の戦争状態に突入した。
たがいに宣戦の詔勅を発布したのは八月一日のことだが、欧米列強のうちにあって、初め日本に批判的だったのはイギリスであった。イギリス国籍の「高陞《こうしよう》号」撃沈事件の発生により、イギリスは世論を硬化させたのである。
だが、「高陞号」が清国兵多数を戦地へ輸送中だった以上、東郷平八郎の決断を国際法違反に問うことはできない。高級紙「タイムズ」が連合艦隊擁護の論陣を張ったため、日ならずしてイギリスの排日の世論は鎮静化し、平八郎および日本海軍の国際法についての理解の深さはかえって世界に知られるところとなった。
その間に隔音島には残る諸艦も来会したので、祐亨は艦隊区分をあらためてさらに陣容を整えた。
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○本隊「松島」、「千代田」、「厳島《いつくしま》」、「橋立《はしだて》」、「比叡」、「扶桑」
○第一遊撃隊「吉野」、「高千穂」、「浪速《なにわ》」、「秋津洲《あきつしま》」
○第二遊撃隊「武蔵」、「金剛」、「高雄」、「大和」、「葛城」、「天龍」
○第三遊撃隊「赤城」、「大島」、「愛宕《あたご》」、「筑紫」、「摩耶」、「鳥海」
○ほかに、水雷艇母艦「山城」と水雷艇六隻。
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第三遊撃隊は、いわゆる砲艦《ガン・ボート》部隊。排水量四百トン級の小艦が主体で喫水の浅い砲艦は、平時には沿岸部や港湾の警備にあたり、有事には島や海峡、河口などの偵察、艦砲射撃に用いられる。これを編成したことによって、連合艦隊は充分な索敵能力をそなえるに至ったわけである。
それにしても、乗組員三百五十七人の「浪速」が兵千百人以上を乗せた運送船「高陞号」を一瞬にして撃沈できるのであれば、仁川をめざす日本の運送船がいつ何時「高陞号」とおなじ運命に襲われるかわからない。
(これは、航路はなるべく短くすべきだな)
と考えた祐亨は七月三十一日のうちに、いずれ広島へ進められようとしている大本営あてに電報を打っておいた。
「仁川に至る航路は、敵の艦隊を破るまでは決して安全とは断言すべからず。大兵を搭載せる大運送船も、一小巡洋艦のために撃沈せらるるものとせば寒心に堪えず。万全の策は、釜山に上陸せしむるにあるべし」
のちの世に日本軍の宿痾《しゆくあ》と化す冒険主義を、祐亨は好まなかった。若き日に薩英戦争の西瓜《すいか》舟決死隊、焼き打ちされる薩摩藩江戸上屋敷からの脱出と勝算なき戦いに身を投じ、西南戦争にも参戦した経験がここに生きていた。
血気の薩摩藩士だったころの祐亨は、維新回天のためならばいつどこに朽ち果てようと已《や》むを得ない、と考えていたものであった。
しかし西南戦争のおり、薩軍が空虚のままにしておいた鹿児島湾へいち早く乗りこんだことのあるかれとしては、
(前方の敵に気を取られるあまり、後方の輸送路の確保を軽視していると致命傷になりかねない)
と気を引き締めていた。
とはいえ黄海の海上権確保にもっとも有効なのは、すみやかに北洋水師を撃滅してしまうことにほかならない。祐亨は連日第三遊撃隊を朝鮮半島の西岸各地へ放って敵影を追い求めさせたが、どこにもその気配はなかった。
ならば、北洋水師主力はまだ威海衛にいる公算が大きい。八月七日から艦隊を平壌沖まで北上させてなおも敵影のないことを確認した祐亨は、八日、各司令官、艦長、水雷艇長を「松島」司令長官公室に集めて告げた。
「明朝をもって、威海衛へ進撃じゃ」
かれがその先鋒《せんぽう》に指名したのは、快速をもって鳴る第一遊撃隊でもなければ、砲艦をつらねた第三遊撃隊でもなかった。水雷艇隊であった。
水雷艇は南北戦争中にアメリカで考案されたもので、一八七七年、イギリスで最高速力十八ノットの「ライトニング」が開発されてから艦隊に水雷艇隊を付属させることが一般化した。連合艦隊のその主力は四、五十トン級だが、砲艦よりもさらに喫水が浅いため、敵の魚雷攻撃を受けたところでその魚雷は舟底の下を通り抜けてしまう。敵の集中砲火を波の上を跳躍するようにして躱《かわ》し、命中確実な三百メートルまで距離をつめてこちらから魚雷攻撃を仕掛ける、という斬りこみ役がその使命である。
湾全体が一大|要塞《ようさい》と化している威海衛の堅牢《けんろう》性をよく知る祐亨は、きたるべき戦いには存分に水雷艇隊を活用しようと決意していた。
その甲板上には、煙出しと一本マストを除けば電柱を横倒しにしたような形の魚雷発射管と楯《たて》つきの四十七ミリ機砲しかない。細長い姿から鰹節《かつおぶし》にたとえられる水雷艇六隻が入道雲の乱立する下を西へ動き出すと、本隊以下も野太い黒煙を背後に流してこれにつづいた。
無事に黄海を横断した連合艦隊が、銀河の下に黒々と横たわる山東半島に近づいたのはすでに真夜中のこと。その突端部、山東高角《さんとうこうかく》を北へまわりこんだ艦隊は、半島北岸に沿ってさらに西へ進んだ。
威海衛は、この北岸のかなたに東へむかって湾口をひらいている。目印は、湾口南寄りにうずくまる日島《につとう》であった。
だが水雷艇隊が日島に艇首を向け直したとき、闇に溶けこんでいた海上の一角から赤い閃光《せんこう》が明滅し、機砲特有の乾いた連射音が鳴り響いた。北洋水師の哨戒艇《しようかいてい》が、水雷艇隊の接近に気づいたのである。
まだ北洋水師主力の存在が確かめられない以上、水雷艇隊をやみくもに湾内へ突入させては自殺行為になってしまう。湾岸砲台の一部も砲火をひらいたのを「松島」艦橋上から見つめた祐亨は、水雷艇隊に反転を命じて夜明けとともに、示威行進にうつることにした。
威海衛は、湾口北寄りにある劉公島《りゆうこうとう》と日島の両砲台以外にも、柏頂《はくちよう》、祭祀《さいし》台、黄島、北山嘴《ほくざんし》、黄泥涯《こうでいがい》などの高所の十三の砲台に守られている。連合艦隊はその射程距離圏外に遊弋《ゆうよく》し、北洋水師の挑発をこころみたのである。
それでも、北洋水師はあらわれなかった。湾内に艦影を捉《とら》えられるのが小艦数隻だけだったところを見ると、北洋水師は威海衛にいない、という結論になる。
こうして第一ラウンドと想定された威海衛決戦は空振りにおわってしまい、祐亨たちは朝鮮南岸の古今島《ここんとう》へ移動してしばらくの間、陸軍第一軍の釜山上陸を助けるのを優先事項とせざるを得なくなった。清国は陸兵を朝鮮半島基部の平壌に集結させ、日本陸軍の北上を阻止する構えだったから、つづけて連合艦隊には釜山から仁川への兵員輸送が要請された。
第一遊撃隊が豊島《ほうとう》沖海戦をおこなったのは、七月二十五日。仁川への兵員輸送が終了したのは九月十二日のこと。連合艦隊は丸一カ月半会敵を果たせず、祐亨自身も無聊《ぶりよう》に苦しんだ。
それでも祐亨は、二カ月後に臨月を迎える美津に対し、手紙を書き送ることすら慎んでいた。郵便物は定期的に集められて内地へ帰る運送船に托《たく》されるから、だれがだれに手紙を出したか、係の者ならすぐにわかる。司令長官たる者が妻に便りを出したと知れれば、ではおれも、という士官が続出し、ひいては全乗組員に里心がついてしまって士気の低下を招きかねない。
祐亨はそんな配慮をしながらも、陸軍の平壌攻撃開始とともにふたたび艦隊を北上させていった。
九月十四日の本隊|錨地《びようち》は、チョッペキ岬。第二遊撃隊を南の仁川に残したかれは、第三遊撃隊と水雷艇隊にはチョッペキ岬北側に河口をもつ大同江《だいどうこう》をさかのぼって平壌攻撃の陸軍を支援するよう命令し、手もとには第一遊撃隊と本隊のみを留め置いたのである。
そして十五日、北洋水師は鴨緑江《おうりよくこう》方面にあるもののごとし、との情報が入った。鴨緑江は東側を朝鮮半島、西側を遼東半島に画された黄海の北端に注いでいる。朝鮮西岸を北上してきた連合艦隊に対し、北洋水師は北から平壌の陸兵を掩護すると見るのが自然だから、この情報には説得力があった。
「松島」司令長官公室に鮫島|員規《かずのり》参謀長、島村速雄作戦参謀、坪井航三第一遊撃隊司令官らを集めて軍議をひらいた祐亨は、
「では明日十六日をもって、強行偵察に出ようぞ」
司令長官として、断固たる決断を下した。
「すみやかに敵艦隊を殲滅《せんめつ》し、黄海全域を制圧して戦争を終結させるためには、これしかあるまい。明日は第一遊撃隊を先頭に海洋島まで北進し、なおも敵影を見ぬなら北東の大孤山《だいこざん》沖から大連、旅順口と遼東半島にそって西へむかう。それでも敵がおらぬ場合は旅順口から渤海湾を北上いたし、北の牛荘《ニユーチヤン》から西まわりに山海関、大沽《タークー》、威海衛へと巡航して、あくまでも会敵決戦を志すのじゃ」
砲艦と水雷艇隊とが別行動をとっているというのに、北洋水師の潜む可能性のある全海域を虱《しらみ》つぶしにしてゆく、という気迫あふれた結論であった。
おりからチョッペキ岬の錨地には、仮装巡洋艦「西京《さいきよう》丸」二千九百十三トンが、第三遊撃隊の砲艦「赤城」とともにやってきていた。日本郵船から徴用された二本マストのクルーザー「西京丸」は、軍令部長樺山資紀中将を乗せ、連合艦隊激励のために広島の大本営からやってきたのである。
十五日午後、日本よりはるかに秋が早い朝鮮北部の気候にそなえ、祐亨は夏服から通常服に着更《きが》えていつもと変わらず「松島」の艦橋に突っ立っていた。
空は青く澄みきって、海原との境も見分けがたい。やがてまろやかにひろがる水平線が白金色に輝きはじめたなか、逆光に艦体を翳《かげ》らせた各艦は背後に泡立つ水脈《みお》を曳《ひ》きながら北西をめざした。隊形は、むろん単縦陣。前をゆく艦の航跡につぎの艦が艦首を入れる運動が、満月が中天に懸ったあともいつ果てるともなくつづけられた。
行く手に海洋島が眺められたのは、ふたたび海面が光を帯びはじめた十七日朝焼けの時刻であった。「赤城」を先行させて探索させても、敵艦は見えない。
祐亨は北東への逐次回頭を命じ、なおも単縦陣を維持させたまま大孤山沖へむかうことにした。
西南へのびてゆく遼東半島は左舷《さげん》かなたに霞《かす》み、周辺の海面はふしぎなほど透明度が高かった。艦橋から舷側に下り、手近な一角に目を凝らすと海中にゆらぐ海藻すら見透かすこともできる。
それに見とれた祐亨が、祇園の洲へよく釣りに通った少年時代の記憶を甦《よみがえ》らせていたときであった。第一遊撃隊の一番艦「吉野」のファイティング・トップ上に信号旗がひるがえったかと思うと、「高千穂」、「秋津洲」、「浪速」もつぎつぎにそれにならった。
「敵の艦隊、東方に見ゆ」
「長官!」
白手袋につつんだ右手で東を指差した艦橋上の鮫島に呼ばれ、祐亨はすぐ事態に気づいて艦橋へ駆けあがりながら叫んだ。
「軍艦旗揚げい、戦闘ラッパ始めい!」
午前十一時三十分、位置は大孤山の沖合三十海里(五五・六キロ)。
つづけて双眼鏡を目に押しつけた祐亨は、東の大東溝方面から南下してきた北洋水師の吹きあげる黒煙が、ことごとく真うしろへ流れているのを確かめた。丁汝昌《ていじよしよう》もすでに連合艦隊出現と知り、邀撃《ようげき》態勢を整えながらわれに接近中だったのである。
「汽力を上げよ。単縦陣を崩すな、『西京丸』、『赤城』は、本隊後尾左側に続航」
間髪を入れずに命じつづけた祐亨に、「松島」が速度を増したのは感覚で察知できた。四千二百七十八トンの「松島」が一気に加速すると石炭臭が強まり、耳の穴には突風が音を立てて流れこんでくる。
十二時五分、連合艦隊が全員を戦闘配置につけるまでには、丁汝昌が凸横陣から開戦しようとしていることもはっきりと見て取れた。中央左前方に旗艦「定遠」、おなじく右前方に双子艦「鎮遠」を出し、残る八艦を後方左右にならべている。
左翼が「致遠《ちえん》」、「靖遠《せいえん》」、「広甲《こうこう》」、「済遠《さいえん》」、右翼が「来遠《らいえん》」、「経遠《けいえん》」、「超勇《ちようゆう》」、「揚威《ようい》」であることも、その煙出しとマストの数と位置からたちどころにわかった。敵艦のシルエット上の特徴を頭に叩《たた》きこんでおくことは海軍軍人のイロハで、各国の艦隊がたがいに表敬訪問をおこなうのは、軍事的にはこのような調査を充実させる意味合いもある。
さらに左翼からはるか離れて水雷艇が何隻かいることに気づいた祐亨は、ようやく双眼鏡から目を離し、両脇に控えた鮫島と島村にいった。
「まずは、右翼におる敵からやろう」
ふたりがすぐに了解し、
「第一遊撃隊は、右翼の敵を攻撃せよ」
との信号命令を出させたのは、祐亨の読みを阿吽《あうん》の呼吸で察していたためだった。
右翼の巡洋艦「超勇」と「揚威」は、ともに千三百五十トン、最高速度は十五ノット。進水からもう十三年を経た老朽艦であり、弱敵から切り崩すのは万古不易の戦術である。
北東へ進みつつある連合艦隊としては、これを実行するにはどこかで逐次左へ回頭し、敵艦隊の前方に右舷を晒《さら》す危険をあえて冒さなければならない。しかし第一遊撃隊が最大十八ノットに速力をそろえて斜行することが可能なのに対し、「定遠」、「鎮遠」は十四・五ノットまでしか出せないから衝角《ラム》戦法にはうつれない。その三十センチ主砲計八門も照準を合わせきれないと咄嗟《とつさ》に考えて、祐亨は断を下したのである。
彼我の距離六海里(一一・一キロ)から「吉野」以下が左へ逐次回頭を開始したのを見守りながら、祐亨たちも艦橋下の司令塔に移動した。つづけて「松島」も左転したため、右舷が水平線に対して二十度近く沈んで舷側から怒濤《どとう》が甲板上になだれこむ。
十二時五十分、「吉野」が雲ひとつない青海原に白い航跡を残しながら北洋水師右翼にむかったとき、「定遠」の三十センチ砲二門が三海里(五・六キロ)のかなたから白煙を吐いた。
その巨弾二発は「吉野」のファイティング・トップ上の信号旗を超え、左舷のかなたに高さ数メートルに達する水柱を奔騰させた。これを合図に北洋水師各艦は、一斉に砲火をひらいた。
それでも、「吉野」はまだ撃たない。海上にシュプールのような航跡を残して「定遠」、「鎮遠」の前方をよぎり、敵右翼に三千メートルまで接近した十二時五十五分、信号旗をもって「高千穂」以下の僚艦に伝えた。
「適宜、撃ちはじめよ」
同時に翼端の「揚威」にむかい、前甲板の十五センチ速射砲の火ぶたを切ったことから、黄海海戦は幕をあけたのである。
「高千穂」、「秋津洲」、「浪速」も右舷速射砲によって「定遠」、「鎮遠」を攻撃。北上しながら右翼の「来遠」、「経遠」、「超勇」へと的を切り換えていった。
このとき「松島」は、第一遊撃隊から三千メートル以上遅れて同一航路上にある。厚さ十・六センチのハーベイ鋼に鎧《よろ》われた司令塔内後部に仁王立ちした伊東|祐亨《ゆうこう》は、遠雷のような砲声を聞きながら双眼鏡を目に当てつづけていた。
四方に窓を切って視界を保った司令塔のうちには進退器、伝声管、大砲発射用の電気ボタンなどがならび、前方の水圧|舵輪《だりん》には按針手《あんじんしゆ》が張りついて艦首方向とコンパスとを見較べている。
「五千メートル」
「四千五百メートル」
ファイティング・トップ上の航海士は六分儀によって敵との距離を測り、甲板上の砲術長に報じつづけていた。その声が、
「四千メートル」
と変わって司令塔に伝えられるや、祐亨はかたわらのラッパ手に告げた。
「撃ち方、はじめい」
「松島」の三十二センチ主砲は後甲板にうしろむきに据えられているため、前方の敵は撃てない。だが「松島」は下甲板に十二センチ速射砲十二門を舷側砲として搭載し、左右に敵を見た場合にはこれによって戦うことができる。その右舷速射砲陣がラッパの合図で間歇《かんけつ》的に砲身を前後させるに従い、艦体に振動が起こって祐亨の視界も次第に砲煙におおわれた。
対して「定遠」、「鎮遠」は、「松島」、「千代田」、「厳島《いつくしま》」、「橋立」以下の連合艦隊本隊には速射性において対抗しきれない。浮島のように霞む巨体から煤煙《ばいえん》を吹きあげてその右舷に衝角つきの艦首をむけ、機を見て衝角攻撃にうつろうとする気配を見せた。
しかし、横陣ないし凸横陣からの衝角攻撃には、問題がひとつある。いったん突撃にうつったならば、陣形を崩さざるを得ない。
「松島」から「橋立」までは、右舷の速射砲によってこれに応じながらその前面を無事に通過。すでに「超勇」を撃沈し、「揚威」を戦闘不能とした第一遊撃隊が左十六点(一八〇度)の逐次回頭をおこなうのにあわせて、右旋回に転じた。本隊は時計まわり、第一遊撃隊は逆時計まわりに単縦陣を維持したまま円運動をつづけ、北洋水師を円内に取りこんで撃滅しようとしたのである。
それでも、このように大がかりな艦隊運動には、時として計算外のミスが生まれる。いつか本隊五番艦の「比叡」が遅れ、四番艦「橋立」に千三百メートルも水をあけられてしまっていた。
これに気づいたのは、「定遠」と「来遠」。衝角攻撃を仕掛けた二艦を躱《かわ》しきれなくなった「比叡」の桜井|規矩之左右《きくのぞう》艦長は、われから二艦の間に突進するという捨身の策に出た。この逆走は奇跡的に成功したものの、「比叡」は「定遠」、「来遠」の後方にあった北洋水師諸艦から集中砲火を浴び、三本のマストからコルベット型の船体まで破壊されて死者多数を出してしまった。この「比叡」が撃ち沈められずにすんだのは、右十六点の回頭をおえた「松島」以下が救援に駆けつけたためであった。
一方、絶好の獲物を取り逃がした「定遠」、「来遠」とその間にあらわれた「鎮遠」の前には、やはり本隊から脱落しかけた砲艦「赤城」が右舷を見せて進んできていた。その右舷速射砲の砲手ふたりのからだを破砕した一発は、艦橋にいた坂元八郎太艦長の頭を直撃。「赤城」はつづけてメイン・マストも砕かれ、戦死者十、負傷二十九を出す惨状を呈した。
「『比叡』、『赤城』苦戦」
これを見て信号旗を掲げたのは、さらにその後方からきた「西京丸」だった。おりよく逆時計まわりに南下してきていた「吉野」は、十五ノットの速力で「赤城」と敵の三艦との間に割って入ろうとした。
だが、「吉野」の来援前に今度は「西京丸」自身が猛攻にさらされ、十数発の砲弾を浴びて蒸汽舵機すら破壊された。
これは、「西京丸」座乗の軍令部長樺山資紀が悪い。徴用船「西京丸」には十二センチ速射砲一門、五十七ミリ機砲一門がにわかに据えつけられただけだったから、このような船でいつ洋上会戦がはじまるかわからない海域にやってくること自体が判断ミスだった。
しかも「西京丸」は、十四時三十分、その動きの鈍った二千九百十三トンの船体で、折り返してきた第一遊撃隊の四番艦「浪速」の航路をふさぐという二重のミスを犯した。
「ストップ!」
東郷平八郎艦長が「浪速」の艦橋から衝突を避けるべく叫んだため、つぎには「浪速」が洋上に孤立するかたちとなる。
好機と見た「定遠」、「鎮遠」、「致遠」は、雁行《がんこう》して千八百メートルの距離まで迫り、砲塔をまわして一斉に砲火をひらいた。
それにしても、平八郎は強運であった。この必殺の間合から一対三の戦いを余儀なくされたにもかかわらず、「浪速」は八発しか被弾しなかった。しかも、戦死者なし。
「高陞《こうしよう》号」撃沈事件で国際的非難を受けるかと思いきや、かえって名をあげたこととこの幸運から、「浪速」は以後「宝船」と渾名《あだな》されることになる。
その間に祐亨は、時計まわりに南下していた本隊を逐次北へ左転させ、隊列を乱して北方海域に散らばる北洋水師を左舷《さげん》前方に捉《とら》えていた。十五時二十分、ふたたび「浪速」の合流した第一遊撃隊もこれに合わせて北へ艦首を巡らし、北洋水師の各艦を右舷前方に見る位置を占めた。両隊は単縦陣の二本の線の間に敵を挟みこんだのである。
そこから開始された猛攻は、「定遠」、「鎮遠」の後甲板上の三十センチ砲各二門に集中された。
「いかに三十センチ以上の厚さの砲塔とはいえ、砲塔と砲身の間には隙間がある。速射砲によって間断なくその隙間を狙い撃ちすれば、いずれ砲身は動かせなくなる」
ジョン・イングルス大佐の教え通りのこの猛攻に、「定遠」、「鎮遠」はまず前檣《ぜんしよう》と後檣上のファイティング・トップを破壊された。信号旗をつなぐ索具も切断され、僚艦に信号で艦隊運動を命じることも不可能になる。
十五時三十一分、「致遠」が黒煙につつまれながら艦首を沈めはじめ、同三十五分、逆立ちした姿で祐亨に赤い艦底を見せながら海底に消えた。ついで豊島《ほうとう》沖海戦の損傷を修理して出撃してきた「済遠」が北へ逃走を図ると、「広甲」、「経遠」、「来遠」、「靖遠」もこれに同調。ただちに第一遊撃隊が追及にうつったため、局面は「定遠」、「鎮遠」対連合艦隊本隊の決戦となった。
すでに「定遠」は、被弾すること二百余発。なかばから折れたふたつのファイティング・トップ、おなじく穴だらけとなった煙出し二本を火焔《かえん》と煤煙につつまれて、もはや沈没寸前と見えた。右側に並走する「鎮遠」も装甲に守られた部分以外は破壊されつくしていたが、それでも後甲板上の十五センチ砲、七・五センチ砲、三十七ミリ機砲から弾幕を張って怯《ひる》む気配はまったくない。
(さすがだな、林泰曾《りんたいそ》)
狂える巨象のごとく北へ並走する双子艦を双眼鏡で見つめながら、祐亨は昨年六月、威海衛で丁汝昌《ていじよしよう》から紹介された男のことを思い出していた。
提督丁汝昌|麾下《きか》の総兵(少将)として「鎮遠」艦長をつとめる林泰曾は、肉づきのよい丸顔ながら眼光の鋭い大男で、丁に対してもおもねらない態度に自信のほどがほの見えた。
「劉歩蟾《りゆうほせん》を張飛とすれば、林は関羽じゃな。劉とは一枚格が違う」
祐亨自身がそう高く評価していた林泰曾が、いまや丁汝昌座乗の旗艦「定遠」を守るため孤軍奮闘しはじめていた。
「よし、つぎは左舷砲で勝負じゃ」
祐亨が「松島」を、「鎮遠」の右舷後方千七百メートルまで寄せたときであった。まだ健在だった「鎮遠」後甲板の丸い砲塔がゆるゆると回転しながら二連装三十センチ砲の射角を下げ、二門同時に白煙と閃光《せんこう》を吐き出した。
つぎの瞬間「松島」司令塔は激震と爆発音に襲われて、祐亨とその幕僚たちは将棋倒しに塔内右側へ叩《たた》きつけられていた。右舷が急激に沈んで下甲板からは突きあげるような衝撃も伝わり、大音響が耳を聾《ろう》して状況を把握できない。
「チェスト!」
と叫んで祐亨がようやく起き直るのを待っていたように、伝声管から異様な事態が報じられた。
「主砲が、使用不可能となりました」
司令塔の外側は濃密な煙におおわれていて、どうなっているのか目で確認することもできない。まもなく十二センチ速射砲十二門もことごとく使用不能と伝えられ、祐亨は林泰曾の必死の反撃によって「松島」が大破したことを知った。
「こうなりましては、各艦各自に進撃させましょう」
長身をむけた島村参謀の提案に、押すべきところと引くべきところとを心得ている祐亨はすんなりと応じた。
「うむ、本艦は大破して戦闘に堪えぬ。不管旗を掲げて反転せよ」
不管旗とは、事故発生により隊列を離れるという合図である。すぐに「松島」は単独回頭に踏みきって航路をあけたため、二番艦「千代田」以下にはなおも「定遠」、「鎮遠」を追撃することが可能になった。
祐亨は「松島」が戦域外に出るのを待ち、破損箇所の巡視をはじめた。
三十センチ砲弾の一発が命中したのは、左舷前方に砲門をひらいた速射砲二門の間であった。鋼鉄の舷板には煙出しの直径以上の大穴がうがたれ、砲二門は跡形もなくなって舷側の鉄の手すりすら割れ砕けている。
急ぎ下甲板へ下りた祐亨、鮫島、島村たちは、こちらにはさらに無残な光景がひろがっていることに気づいた。左舷の舷板を貫通してから爆発した「鎮遠」の鋼鉄|榴弾《りゆうだん》は、隣りあうふたつの砲室に運びこまれていた速射砲弾多数を誘爆させ、砲員と砲弾運びの水兵二十八人を即死させて六十八人を薙《な》ぎ倒していたのである。
「生きちょっ兵たちを見舞うとが先じゃ」
祐亨が狭い通路を後部の負傷者収容所へむかおうとすると、目の先に水兵がひとり壁に背をもたれさせて喘《あえ》いでいた。帽は脱げて頭髪は灰と化し、顔面は赤く腫《は》れあがっていてだれかもわからない。
それでもその水兵は祐亨の足音に気づき、腫れふさがった目をむけてきた。かとおもうとかれは、焼け焦げた紺セル地のセーラー服につつまれた上体を左手だけで支え、
「ああ、長官。御無事でありましたか」
とかすれ声を出しながら震える右手を差しのべる。
その気持を察した祐亨は、大股《おおまた》に近づいてその右手を両手に握りしめた。
「俺《おい》は、こん通い大丈夫じゃ。それ見やい」
ダブルボタン・フロック形軍服の袖口《そでぐち》に一寸幅と五分幅の金線各二条をつけて中将であることを示している祐亨は、瀕死《ひんし》の一兵卒にむかい、四股《しこ》の要領で両足を二度ずつ踏み鳴らしてみせた。
「長官、長官さえ御無事なら、このいくさは勝ちであります」
うれしそうに答えた水兵は、まだ祐亨に右手をあずけたまま通路の床へ頭を沈めて動かなくなった。
その間に通路の前後には、防火隊や負傷者運搬員があらわれてこの光景を見つめていた。口髭《くちひげ》を震わせてしゃがみこんだ祐亨は、それにまだ気づかない。
「おい、しっかいせんか、姓名は」
にわかに鼻をつまらせ、頬に光るものを伝わらせながら何度も呼びかけていた。
その後、日没とともに「松島」近くへ帰投してきた第一遊撃隊の報告により、祐亨は「経遠」も沈没したことを知った。「超勇」、「揚威」、「致遠」もすでに沈められていたから、連合艦隊の戦果は四隻撃沈、喪失ゼロ。
世界最大の装甲戦艦二隻の大口径砲を頼る北洋水師に対し、連合艦隊は高速性と速射性にすぐれた巡洋艦によって単縦陣で雌雄を決する――明治十六年度からようやく長期計画をスタートさせた若い日本海軍の展望は、間違っていなかったことがここに証明されたのである。
これは軍事史的意味合いは別としても、日本人の学習能力と集中力の高さを世界に示した出来事といえた。のみならず黄海海戦は、日清戦争の帰趨《きすう》を決定づけるものでもあった。
この結果、日本は朝鮮近海ばかりか黄海全域の海上権を掌握。前後して平壌へ進んだ陸軍が大山|巌《いわお》を軍司令官とする第二軍を編成して遼東半島へ進出するにあたり、満身|創痍《そうい》の北洋水師はもはや連合艦隊の揚陸作業を指をくわえて見つめることしかできなくなっていた。
その陸軍第二軍は、十一月二十一日に遼東半島西南端の要衝旅順を平定。修理なった「松島」に座乗して旅順へ進出した祐亨は、月の変わらないうちに美津から吉報を受け取った。二十二日、美津は無事に男の子を出産したという。
幕末に海軍を志して以来、武人として生きてきた自分が五十二歳になってから、しかも外地の戦場で男子出生の報に接するのも奇縁なことにおもわれた。
「幼名を武一とせよ」
と美津に書き送った祐亨に、入れかわりに届いたのは大本営命令であった。
十二月十六日付のその命令にいう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵の艦隊は目下|威海衛《いかいえい》に退縮し、わが艦隊の挑戦に応ぜず。ゆえにわが軍、他日兵を渤海湾頭に進めんとする作戦の障碍《しようがい》とす。よりてこれを撲滅せんがため、陸海両軍を進め、威海衛港を占領せしめんとす。
二、貴官は第二軍の上陸兵を護送し、これと相協力して威海衛を占領し、また敵の艦隊を撲滅すべし。
[#ここで字下げ終わり]
黄海海戦の死傷者は、連合艦隊の死者百五十、負傷者百六十四に対し、北洋水師のそれは計千二百名以上にのぼったものと見られていた。
九月中には「済遠《さいえん》」の方迫謙《ほうはつけん》艦長があまりの怯懦《きようだ》のゆえに処刑された、とのニュースも入り、伊東|祐亨《ゆうこう》が大本営命令を受けた直後にはさらに意外な出来事が報じられた。
かろうじて威海衛に帰投を果たしていた「鎮遠」は、修理を完了して十二月十八日に港外巡航をこころみた。ところがその帰途、暗礁に触れてしまって艦底を大きく損《そこ》なうという大事故が発生。祐亨が三国時代の蜀漢《しよつかん》の名将関羽にたとえていた艦長|林泰曾《りんたいそ》は、責任をとって自決したという。
(これでは、わが艦隊が威海衛攻略に成功したら丁汝昌《ていじよしよう》も自殺してしまう)
陸軍第二軍の兵力約二万の揚陸地点を山東半島突端、山東高角南側の栄城《えいじよう》湾と決定しながらも、祐亨の気分は晴れなかった。
荒天つづきでまだ作戦を発動できずにいた明治二十八年(一八九五)一月二日のうちには、威海衛港内にいる北洋水師の軍艦は「定遠」、「鎮遠」、「来遠」、「靖遠《せいえん》」、「済遠」、「広丙《こうへい》」と砲艦部隊、水雷艇隊のみ、という情報も伝わってきていた。
(そのうち「鎮遠」があらたに破損したのであれば、もはや北洋水師に勝ち目はあるまい)
と考えるにつれて、祐亨は敗軍の将となろうとしている丁汝昌が気の毒になってきたのである。
そこで祐亨は、陸軍が栄城湾から続々と上陸しはじめていた同月二十日、大山巌と連名で丁汝昌宛の勧降書を作成することにした。
「謹んで一書を丁提督閣下に呈す。事局の変遷は、不幸にも僕と閣下をして相敵たらしむるに至れり。しかれども今世の戦争は、国と国との戦いなり、一人と一人との反目に非《あら》ず。すなわち僕と閣下との友情は、依然として昔日の温を保てり。閣下幸いにこの書をもって単に帰降を促すものとなさず、僕が苦衷の存するところ、さらに一層深遠なるところにあることを信認せられんことを冀望《きぼう》す。……」
「松島」乗りくみの海軍法律顧問高橋作衛、第二軍法律顧問有賀長雄たちが祐亨の惻隠《そくいん》の情を酌んで作成したこの文書は、祐亨が丁汝昌に語りかける親書という体裁を取っていた。
「三十年前、わが日本帝国がいかに辛酸なる境遇を閲《けみ》し、いかに危殆《きたい》なる厄難を逃れ得たるかは閣下のすでに熟知せらるるところなり。当時、帝国は実に旧制を捨て、新制に就くをもって存立を完《まつた》くする唯一の要件となしたり。即ち今日は、貴国もまたこれをもって要件となさざるべからず。貴国いやしくもこれに遵《したが》えば則《すなわ》ち可なり。もし否《しか》らざるときは、早晩滅亡を免れざるべし。……」
そこから勧降書はおもむろに「旧制」に殉じることの不可を諭し、ついに日本への亡命を勧めた。
「いやしくも勢いの不可なる時の不利なるを見ん乎《か》、即ち一艦隊を敵に与え、余軍をもって降《くだ》るがごとき、これを邦家の興廃に比すれば洵《まこと》に些々《ささ》たる小節にして拘《こだわ》るに足らざるのみ。ここにおいて僕は世界に轟鳴《ごうめい》する日本武士の名誉心に誓い、閣下にむかいて暫《しばら》く我邦に遊び、もって他日、貴国中興の運、真に閣下の勤労を要するの時節到来するを竢《ま》たれんことを願うや切なり。閣下、それ友人誠実の一言を聴納せよ」
もし閣下が日本へきてくれるなら、天皇陛下が閣下を厚くもてなして下さるであろうことは僕が誓う、という一文すら祐亨は盛りこませていた。
イギリス艦「センチュリオン」に托《たく》されたこの勧降書が、威海衛に届けられたのは二十四日のこと。しかし、丁汝昌からの返事はない。その間に日が進んで二十九日となり、栄城湾から上陸した陸軍第二軍は、威海衛へ八キロの百尺崖《ひやくせきがい》まで進出することに成功した。
百尺崖とは威海衛湾の東側から北東方向へ張り出した小半島で、その名の通りの絶壁である。威海衛東岸を守る砲台はすべてこの絶壁上につらなり、北西側はもう威海衛湾の内壁となる。そのため山東半島の東端から西進した陸軍としては、ぜひとも百尺崖を突破する必要があった。
すでに旅順から栄城湾に錨地《びようち》をうつしていた祐亨は、この陸軍と歩調をあわせるべく司令長官命令を下した。
「連合艦隊は、三十日午前二時に抜錨して威海衛にむかうべし」
東側、山東高角の灯台に艦尾をむけて西へ二十三海里(四二・六キロ)すすんだ各艦は、同日午前七時、百尺崖の北方海域に集結を果たした。
この地点から左舷《さげん》はるかを眺めると、西南方向へ大きく湾入した威海衛湾の前面に周囲五海里(九・三キロ)の劉公島が横たわり、湾口を手前の東口とかなたの西口とに分けている。北洋水師の錨地が劉公島に隠された湾奥にあることも、祐亨は二度にわたる丁汝昌訪問によって知っている。
「吉野」以下の第一遊撃隊に西口をうかがわせた祐亨は、みずからは本隊と第二遊撃隊に単縦陣を組ませて東口へ二十海里(三七キロ)の沖合を遊弋《ゆうよく》し、陸戦の進展を見守ることにした。
百尺崖の高みには、時計まわりに龍廟嘴《りゆうびようし》砲台、鹿角嘴《ろつかくし》砲台、趙北嘴《ちようほくし》砲台、楊峰嶺《ようほうれい》砲台などが構築されている。午前十時、これらの砲台が背後の陸地から接近した第二軍と砲火を交わしはじめたのを見た祐亨は、来会した「筑紫」以下の第三遊撃隊を前に出して艦砲射撃を開始させた。百尺崖は白い雲のような砲煙におおいつくされてしまい、雷鳴のような砲音のみが「松島」の艦橋へ伝わってくる。
すると十二時過ぎ、「吉野」が菊の紋章をつけた優美な艦首を「松島」にむけ、
「敵艦『定遠』、東口に出たり」
と信号を送ってきた。
(丁汝昌は、最後まで戦う覚悟を決めたのか)
祐亨は残念な気もしたが、もはやためらっている場合ではない。「松島」を東口にむかわせながら双眼鏡をのぞくと、たしかに「定遠」の巨体が蜃気楼《しんきろう》のようにその島陰に煙っていた。
だが「定遠」は、劉公島とその手前に小さな点のように見える日島《につとう》とをつなぐ線の外側には出てこない。こちらから接近戦を挑んだならば、劉公島および日島砲台の速射砲の餌食《えじき》になるのはあきらかであった。
「これは、日没を待って水雷艇攻撃を仕掛けるよりないようじゃな」
祐亨がかたわらの島村参謀に話しかけていた午後三時、百尺崖の絶壁上から大音響が起こり、火山の爆発したような噴煙が天に冲《ちゆう》した。第三遊撃隊の放った一弾が、砲台火薬庫に命中したのである。その噴煙がたなびきはじめたころには各砲台の砲が威海衛港にむかってつぎつぎに撃ち出され、祐亨はついに陸軍が百尺崖を奪取したことを知った。
そこでかれは、日没を待っていよいよ水雷艇隊を湾内へ潜入させることにした。だがこの作戦は、ふたつの理由によって成功に至らなかった。
第一は、百尺崖の諸砲台を占拠した陸軍が水雷艇隊を敵の哨戒艇《しようかいてい》と誤認して発砲しはじめたこと。第二は威海衛港口には機雷と防材多数が敷設され、航路を封鎖していたこと。防材とは長さ四メートルほどの材木を筏《いかだ》のように組み、それを鉄のワイヤーで梯子《はしご》状に長くつないで錨《いかり》をつけたものをいう。
あけて三十一日、祐亨は全艦をふたたび港口へ十海里(一八・五キロ)まで迫らせて敵艦を監視させつづけたが、この日は午前十一時から濃密な鈍色《にびいろ》の雲が空をおおい、北風が吹雪を呼んで海上には逆浪が渦を巻いた。
夜に入ると風雪|怒濤《どとう》はますます強まり、気温は氷点下二十一度まで急降下。「松島」の舷側に砕けた波頭、上甲板から艦橋まで呑《の》みこんだ高波もたちまち凍り、砲門、舷窓から錨、錨鎖《びようさ》まで氷結して艦体自体がガラス細工と化したかのような奇観を呈した。
こうなっては速射砲砲尾の閉鎖機も動かないし、艦の重心が上がってしまって横波を受けると転覆しかねない。小艦の苦労を思いやった祐亨は、第一遊撃隊だけを残して栄城湾へ引き揚げることにした。
その祐亨が連合艦隊をふたたび威海衛沖にすすめたのは、北風と波浪のおさまった二月二日午後七時のこと。そして三日午前十時、陸軍が海軍陸戦隊の協力を得て湾岸砲台をことごとく占領したため、清国の陸兵約一万は西方七十八キロの芝罘《チーフー》めざして雪崩《なだれ》を打った。
もともと清国の陸兵は戦意に乏しく、北洋水師と相協力する気風にも欠けていた。三十日の緒戦で榴弾《りゆうだん》二百四十五発、榴霰弾《りゆうさんだん》千七十四発、小銃弾八万四千四百三発の猛攻を受けて以降ますます腰が引けていたから、歩兵の突撃によってあっけなく砲台を退去したのである。
これらの陸兵が去っては、湾奥正面にある威海衛城は戸数五、六百の小さな城塞《じようさい》都市に過ぎない。四角く伸びたその城壁は、一辺約八百五十メートル。連合艦隊は陸軍の入ったその正面砲台、東岸・西岸砲台と協力し、まだ抵抗する劉公島の四砲台および日島砲台との間に激しい砲火を交わしはじめた。
劉公島と日島が沈黙したならば、北洋水師は四面楚歌となってしまう。丁汝昌も状況の激変に気づき、劉歩蟾《りゆうほせん》を艦長とする「定遠」をふたたび両島の間へすすめてこの砲戦にくわわった。
この日も午後三時から雪が降りしきり、戦いは引き分けにおわった。だが「松島」が百尺崖下に錨地を求めようとしたとき、手近の海面に水雷艇第六号の鰹節《かつおぶし》形の姿があった。
その艇長は、二十九歳の鈴木貫太郎大尉。のち太平洋戦争末期に首相となり、ポツダム宣言受諾に踏みきる人物である。
「鈴木艇長、こちらへ」
紺ラシャ地、ダブルボタンの外套《がいとう》をまとっていた祐亨が手招きすると、まもなく貫太郎はかろやかに「松島」に移ってきた。口髭《くちひげ》をたくわえ、村夫子然としたその顔だちは、祐亨のことばがつづくにつれて輝きを帯びる。
「了解いたしました」
と簡潔に答えて挙手の礼を交わしあったかれは、第六号艇へもどるやたちまち艇首を北へむけた。
その鈴木貫太郎がふたたび「松島」にあらわれたのは、雪も止んで中空に朧月《おぼろづき》のかかった深夜のことであった。白い息を流しながら司令長官公室へ通されたかれは、無造作に報じた。
「威海衛東口、鹿角嘴砲台下より一千メートルほど湾奥に潜入いたし、防材を破壊してまいりました」
貫太郎はいずれ水雷艇隊に防材破壊の命令が下るのを予期し、缶入り綿火薬四発と点火線、爆発信管を用意していた。敵のサーチ・ライトと哨戒線をくぐりぬけた第六号艇は、これを防材にくくりつけて爆発させ、幅百メートルほどの航路をうがつことに成功したという。
「そうか、御苦労じゃった」
その肩を叩《たた》いて慰労した祐亨は、すぐに水雷艇隊の司令三人を「松島」に呼び寄せた。第一から第三艇隊までに五隻ずつ三分されていた各隊の司令は、餅原平二少佐、藤田幸右衛門少佐、今井兼昌大尉。
鮫島|員規《かずのり》と替わった童顔の出羽|重遠《しげとお》参謀長、島村速雄参謀とともに三人を司令長官公室に迎えた祐亨は、
「本官はここに、威海衛港内に侵入して敵艦を撃沈することを諸君に命ずる」
と、一語一語をたしかめるような口調で告げた。
「しかしこれは、水雷艇が考案されて以来まだどの国でも実行されたことのない戦法じゃ。もとより難事中の難事であって、死を覚悟すべきはもちろんである。申すまでもないが、どうぞ一命をなげうって成功して下され」
威丈高には決してならず、「して下され」とていねいな表現を用いたところに、敵の主将に亡命を勧めさえした祐亨の人柄が滲《にじ》み出ていた。
「承知いたしました」
一斉に答えた三人は、すぐにそれぞれの艇に帰っていった。
連合艦隊は本隊も遊撃隊も出動せず、魚雷装備の水雷艇隊のみを刺客のように敵陣へ放って決着をつける――世界海戦史に前例のない戦術ながら、
(北洋水師が港外へ出てこない以上、これしか方法がない)
と祐亨は思いきっていた。
(もしも水雷艇隊が敵の返り討ちに遭い、このあとの戦争継続に重大な支障をきたすようなことになったら、司令長官たるおれが切腹して陛下にお詫《わ》びをすればいいのだ)
少年時代から切腹の稽古《けいこ》をさせられて育ったかれにとって、それは気負いでもなんでもなかった。丁汝昌に日本亡命を勧めたのも、いつか丁と自分とが「両雄並び立たず」の関係になってしまったことに気づいたからにほかならない。
しかし、そのあとが祐亨には長く感じられた。
水雷艇隊は、四日は一日中かけて周辺海域を偵察。東口へむかったのは月が威海衛背後の天竺《てんじく》山に隠れ、漆黒の闇がおとずれた五日午前三時のことであった。
五日の夜明け前、威海衛の方角から砲音、爆裂音、機銃掃射の音などが断続的に海上を伝わってきはしたが、その意味するところはまだわからない。
夜が明けはなたれてから「松島」を百尺崖の北へまわりこませて双眼鏡をのぞくと、東口付近に停泊中の「定遠」がぼんやりと見えてきた。艦尾が海面下に沈んでいるような気がするものの、距離がありすぎてはっきりしない。
すると八時ごろ、第三水雷艇隊所属の第六号艇が前方からあらわれて夜襲結果を報じた。
「第十九号、第九号は港内に侵入してまもなく暗礁に乗りあげ、敵艦、敵砲より盛んに砲撃されましたので、帰投することは覚束ないかと思われます。本艇は第二十二号とともに敵艦へ二百メートルまで近づき、魚雷を発射しましたが、発射管が凍りついておって飛び出しませんでした。その後第二十二号は、どうなったか不明であります」
「松島」艦橋下から憮然《ぶぜん》とした顔つきで告げた鈴木貫太郎に、祐亨は思わず、
「チェスト!」
と叫んで背をむけてしまった。
しかし九時になると、今度は第二十一号艇がやってきて初めて朗報を伝えた。
「第九号艇が敵艦へ二百メートルの距離から一発目、五十メートルから二発目の魚雷を発射しましたところ、はなはだしき水煙が吹きあがりました。夜目にてはっきりいたしませんでしたが、その大きさから見て『定遠』だったものと思われます」
これが事実であれば、かなたに艦尾を沈ませている「定遠」の姿に符合する。さらに「松島」を東口に近づけるにつれて、「定遠」には小蒸気が群らがり寄り、さまざまな備品を搬出している光景がありありと見えてきた。
「チェスト」
ふたたび薩摩人独得の気合を放った祐亨《ゆうこう》は、全将校を後甲板に召集し、三十二センチ砲の砲口のかたわらに仁王立ちして獅子吼《ししく》した。
「『定遠』は沈んだぞ。水雷艇隊に、万歳三唱!」
それでも祐亨は、まだ攻撃の手を休めようとはしなかった。湾岸砲台をすべて奪われ、旗艦「定遠」も擱坐《かくざ》したからには、北洋水師の将兵は激しく動揺しているに違いない。その機に乗じて一気に叩くのは、いくさの常道というものである。
翌六日の午前四時、ふたたび月が天竺山に隠れるのを待って威海衛《いかいえい》港へ潜入した水雷艇四隻は、敵艦二隻と水雷敷設船一隻に魚雷七発を撃ちこんで七時半に帰投してきた。
その二隻とは、「来遠」「威遠」。これで北洋水師は、黄海海戦を戦った十艦中七艦を喪失した計算だから、「鎮遠」の修理がおわっていたところでもはや連合艦隊の敵ではない。
そこで祐亨は、明朝七時を期して総攻撃をおこなうことに決定。艦尾に大軍艦旗をひるがえした「松島」以下の本隊と「吉野」以下の第一遊撃隊計八艦をひきい、威海衛西口へ六キロの沖合をめざした。第二、第三遊撃隊ほかの十五艦は東口へ進出、水雷艇隊は両口の間を往復して、北洋水師残存艦の遁走《とんそう》を断固阻止する作戦であった。
すると各艦が劉公島《りゆうこうとう》と日島《につとう》へ雨のように砲弾を送りこんでいた七日の午前八時過ぎ、西口内部の波静かな海面に十条以上の黒煙が昇り、敵の水雷艇隊があらわれた。
だがこの艦隊に、刺し違える覚悟で捨身の魚雷攻撃にうつる気配はまったく見られない。西口を出るやつぎつぎに左へ回頭したのは、あきらかに芝罘《チーフー》へ逃れるためと思われた。
「第一遊撃隊、追撃して懺滅《せんめつ》せよ」
祐亨の命によってこれらは浅瀬に擱坐するか、拿捕《だほ》されるかしてしまい、ここに北洋水師付属の水雷艇隊は全滅となった。つづけて日島砲台も沈黙。九日にはまだ健在だった「靖遠」も鹿角嘴《ろつかくし》砲台からの一弾に撃沈され、同日中には東口に放棄されていた「定遠」も自爆して海中へ姿を消した。
陸海からの立体攻撃はその後もつづき、威海衛城は十一日までの間に楼門も城壁も破壊されてほとんど瓦礫《がれき》の山と化す。
(丁汝昌《ていじよしよう》よ。ここまで戦えば、もう清国軍人としての面子《メンツ》は充分に立っただろうに)
祐亨が最終攻撃の準備をしながら考えていた十二日の午前八時半、ようやくその丁汝昌からメッセージが伝えられた。北洋水師付属の小砲艦「鎮北《ちんぽく》」が、メイン・マストに白旗を掲げて東口へあらわれたのである。
とはいえその白旗が一時休戦の申し入れか、降伏の意味かまではまだわからない。水雷艇隊に囲ませたその「鎮北」へ島村速雄参謀を派遣すると、まもなく島村は丁の使者らしき弁髪の人物とともに「松島」へもどってきた。
そして洋風の軍服をまとった目の細いその使者を司令長官公室へ案内し、出羽重遠参謀長らを従えて出迎えた祐亨にいった。
「こちらは、北洋水師の程璧光《ていへきこう》遊撃(少佐)であります。丁提督が降伏を決意したため、降使としてやってこられたそうです」
「まずは、こちらへ」
程璧光と敬礼を交わしてから白布掛けの大テーブルを示した祐亨に、程は丁汝昌からの降伏書を差し出した。
「拝見します」
祐亨が程の正面に着席してからそれをひらくと、そこには漢文でこう書かれていた。
「照会の事をなす。本提督さきに司令長官の寄翰《きかん》に接したるも、両国交戦中なるをもって、いまだ返翰《へんかん》を呈せず。本提督初めは飽くまで決戦して、艦沈み人尽き、而《しこう》してのち已《や》まんと思いたりしも、今や生霊《しようりよう》を保全せんと欲し、休戦を請い、現に劉公島にある艦船および劉公島ならびに砲台、兵器を貴国に献ぜんとす。よりて内外国海陸職員、兵勇(兵士)、人民等の生命を傷害することなく、かつその島を去り帰国を許されんことを切望するところなり。もしこれら諸件を承允《しよういん》せらるるにおいては、英国司令長官をもって証人となすべし。願わくば勘考を賜い、即日回答して施行せしめられんことを。……
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光緒二十一年正月十八日
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[#地付き]北洋水師提督 丁汝昌
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艦隊司令長官 伊東閣下
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[#地付き]」
文中に「内外国海陸職員」とあるのは、清国にも日本海軍におけるかつてのジョン・イングルス大佐のようなお雇い外国人がいるため。清暦の「正月十八日」は、西暦二月十二日に相当する。
「ただちに御書状の写しを作成いたし、陸路接近中の陸軍第二軍の大山|巌《いわお》軍司令官と協議してから返書をおわたしします。しばらくお待ち下さい」
島村の英語通訳によって答えた祐亨は、程がうなずくのを待ってかねてから気になっていたことをたずねた。
「ところで、丁閣下にお変わりはありませんか」
すると程は、意外な返事をした。丁汝昌は近頃体調を崩し、いまは劉公島の砲台司令部で病床に臥《ふ》せっているという。
戦局すでに挽回《ばんかい》すべくもなく、劉公島は陸海から囲まれて孤立してしまっているのだから、丁の心労は察するにあまりある。
「それではお手数ですが、お帰りのとき拙者からの慰問の品を閣下に届けて下され」
と答えて司令長官室へ移った祐亨は、大山との連絡がつかなかったため、午後二時二十七分、独断で程に返書を与えた。
「貴書、拝読。仰せ越され候条件、委細了承つかまつり候。右によりて小官は、明日貴下所有の艦船、砲台その他の軍用品を収納いたすべく、その時刻および方法の細件等に至りては、明朝貴下より本書に対する回答を得るの時御協議いたすべく候。
軍用物件一切、小官にお渡し済みと相なり候上は、小官はわが一艦船をして貴書中指名するところの人員を、貴下とともに双方のため便宜なる土地まで無難に護送いたすべく候」
なんと祐亨は、敵の主将丁汝昌ばかりか、その指名する将校ないし兵士をも捕虜にはしない、と言い切ったのである。
そして一月二十日に作成した勧降書につづき、ふたたび丁に日本への亡命を勧めた。
「しかしながら小官一箇の所見および存念を開陳せば、小官は前書にすでに記述したるごとく、貴下が当方に来られ、戦争の終結をわが国にて待たるることを希望する次第にこれあり候。ただに貴下一身の安全のためのみならず、また貴国将来のためしかるべき儀と相信じ候。而して日本にありては必ず充分の厚遇を受けらるべきこと、小官の保証するところに候。しかれども貴下にして強いて郷里に帰るを望まるるならば、小官はこれを貴下の希望に一任すべく候」
さらに祐亨がその器量のほどを見せたのは、イギリス艦隊の司令長官を保証人として立ち会わせる必要はないと思う、とつづけたことであった。
「小官は、あくまで軍人として貴下の名誉に信を措《お》くところにこれあり候」
と祐亨がその理由を述べたのは、たがいに乱世を生きてきた武人として丁と肝胆相照らしていたためにほかならない。
敵将を捕虜にもしなければ、降伏の立会人も求めない、――。そう書いたとき祐亨は、国を背負って勝ち負けを争う軍人以上のなにものかになっていた。
もう四半世紀以上前の文久《ぶんきゆう》二年(一八六二)四月に起こった寺田屋事変、八月に発生した生麦事件を間近に見て以来、祐亨は薩英戦争、薩邸焼き打ち事件、江戸湾脱出から西南戦争まで、つねに動乱の渦中に身を置いて、その時々に志をおなじくした者たちの非命に斃《たお》れる姿を数多く見てきた。海軍の育成と充実につとめる暮らしに入ってからは、黙々と海上勤務をつづける一方で、智・仁・勇を兼ねそなえた武人でありたいと願いつづけていた。
「野菜にして庖丁《ほうちよう》の難にかゝらざるは智なり/鯰《なまず》を押へて遁《のが》れしむるは仁なり/馬じるしとなりて敵をおそれしむるは勇なり」
これを座右の銘としてきた祐亨は、丁汝昌の降伏書に接するや、仁の精神によって事後処理をすすめようと決意したのである。かれが返書とともに丁への見舞品として葡萄《ぶどう》酒とシャンパン各一ダース、広島名産の干柿を贈ったため、程璧光は謝意を表して「鎮北」へ帰っていった。
その程璧光がふたたび軍使として「松島」へあらわれたのは、あけて十三日午前九時のことであった。程は意外なことに、昨日祐亨から丁に贈られた見舞品を副官に持参させていた。
司令長官公室において開封された丁からの返答書には、つぎのような文言がならんでいた。
「拝覆。ただいま覆翰に接し、深く生霊のために感激す。恵礼《けいれい》の物品は、この両国有事の際、私受しがたければ謹んで返送す。あわせて厚意を謝す。覆翰によれば明日兵器、砲台、艦船を交付すべしと約せらるるも、日時はなはだ切迫、兵勇の武装を解納《かいのう》し、荷物を収拾するに稍々《しようしよう》時間を要し、不及の虞《おそれ》あるをもって期限を延べ、清暦正月二十二日より閣下港内に入り、日を分かちて劉公島、砲台、兵器ならびに現在あますところの艦船を収められんことを請う。決して食言せず。……
光緒二十一年正月十八日
[#地付き]」
その日付からして、丁汝昌が昨日のうちに筆をとったことはあきらかであった。「感激」の二文字が祐亨にはうれしかったし、見舞品拝辞の理由もわからぬではない。それにしても気になるのは、丁が亡命についてはひとことも触れていないことであった。
祐亨が文面から顔をあげると、昨夜よく寝ていないのか細い目を赤くしている程璧光は悄然《しようぜん》と告げた。
「提督は昨日私が返書をお届けしますと、伊東閣下の仁慈のお心を知って感泣なさいました。そしてこの返答書をしたためられるや、『いまは思い残すところなし』とおっしゃり、はるか北京の空を拝してから毒杯を呷《あお》って自殺なされたのです」
実は劉歩蟾《りゆうほせん》も九日のうちに拳銃《けんじゆう》自殺を遂げた、とも伝えられ、祐亨は息を呑《の》んだ。いま読みおえたばかりの丁汝昌の返答書が、丁の遺書でもあったとは。
「――すると丁閣下は、本官が一月二十四日にイギリス艦『センチュリオン』に托《たく》した親書については検討の要もないとの御判断だったのでしょうか」
祐亨が島村速雄の英語通訳によって程にたずねた時、ようやく丁汝昌の最後の日々の模様があきらかになった。
程は、大きくかぶりを振ってから答えた。
「いいえ、あの御書面が届けられました時、提督は自室に籠《こも》ってすぐにお読みになりました。そしてまもなく劉歩蟾をはじめとする各艦長や私を請じ入れ、御書面の内容を詳しく説明して下さってからおっしゃいました。
『伊東中将の友誼《ゆうぎ》は、感ずるにあまりある。この汝昌とて、威海衛の防備が勝算なき戦いであることを知らぬわけではない。しかし、われわれ軍人の胸にあるのは尽忠報国の大義のみであり、いまさら勝敗を考えて事を決する必要はない。すべからくなすべきことをなし、つくすべきことをつくしてのち、一死もって臣たる者の道をまっとうしようではないか。とはいっても、諸君のなかには不同意の者もおるかも知れぬ。その場合は、遠慮なくここを立ち去ってかまわない。汝昌は諸君に、決して死を強いたりはしたくない』
そのおことばを聞いた諸将は皆すっかり感服し、提督と死生をともにすることを誓い合ったのでした」
軍人の胸にあるのは尽忠報国の大義のみ、一死もって臣たる者の道をまっとうする、――。
これは祐亨、いや日本の武士道とまったく変わらない感覚であった。祐亨がもし清国に生まれ、北洋水師を率いて滅びの時に直面したならば丁とおなじ選択をしたに違いない。
「そうでしたか。丁閣下は、まことに失うには惜しい名将でありました」
目を潤ませた祐亨に、さらに程璧光は伝えた。
劉歩蟾以下の覚悟に感激した丁汝昌は、すぐに軍議をひらいた。その結果、港外への出撃戦を諦《あきら》め、劉公島の死守に専念することになったのは、北洋水師の諸艦がまだ黄海海戦の痛手から立ち直りきれていないためであった。
旗艦「定遠」の戦闘能力にさほどの問題はないが、それでもまだ破損箇所の修復はおわっておらず、三十センチ砲の砲弾自体が底をつきつつある。「鎮遠」は、十二月中に艦底を損じたあと港内を運動するのがやっとの状態になっていて、とても戦闘にはくわわれない。残る「靖遠」、「済遠」、「平遠」などの数艦のみでは連合艦隊には対抗すべくもないから、丁汝昌は不本意ながら専守防衛策を採らざるを得なかったのである。
さらに丁汝昌を悲劇の人たらしめた大きな原因として、威海衛の諸砲台を守っていた陸軍の将|戴宗騫《たいそうけん》との不仲をあげることができる。
丁はもともと陸軍の出身だけに、清国陸兵たちの質の悪さと戦意の低さをよく見抜いていた。こんなことでは、日本陸軍が百尺崖を総攻撃すれば守備兵たちは一目散に逃亡してしまうに違いない。そうなると砲台の備砲はことごとく日本側に奪われ、湾内の北洋水師諸艦が的にされてしまうから、前もって諸砲台を北洋水師の管理下に置いておく必要がある。
そう判断した丁汝昌は、戴宗騫に率直に希望を伝えた。ところが戴は、頑として承知しない。
「水師の提督が、陸上防衛にかれこれ容喙《ようかい》するとは奇怪至極」
と陸海から迫った大軍も眼中にないかのごとく縄張り意識をあらわにしたので、丁は直隷総督李鴻章に打電して苦衷を伝えた。
しかし戴宗騫は、李鴻章から詰問されるや逆に丁汝昌の専横を訴える始末。以後、戴はことごとく丁の意見に反対を唱えつづけたため、威海衛城を捨てた丁は劉公島に移ってそこを死所と定めたのだという。
(ああ、その苦衷の一端なりとも知らせてくれたなら、なにか手の打ちようがあったかも知れぬのに)
とおもうと、祐亨は口惜しさがこみあげてくるのを覚えた。
それでも祐亨は、司令長官だけに個人的な感慨に耽《ふけ》ってばかりもいられなかった。丁の最後の希望を入れて武装解除期日の延長を即決したかれは、午後六時からあらたな清国代表と降伏手続きについて協議することだけを決めて司令長官室へ退いた。
作りつけの洋机に軍服の両肘《りようひじ》を突き、指先でこめかみを押さえて溜息《ためいき》をつくと、甦《よみがえ》ってくるのは隣邦諸港巡航中の祐亨たちを迎え、大歓迎会をひらいてくれたときの丁汝昌の姿であった。わずか一年八カ月前の明治二十六年六月、威海衛城迎賓館の広間のメイン・テーブルに祐亨とならんで着席した丁は、こんなスピーチをした。
「私は少年時代、中国伝統の射《しや》(弓術)を学びました。古来、射の極意は『不射の射』、すなわち矢をつがえることなく弓弦《ゆづる》のみを鳴らし、空ゆく雁《がん》を落とすことにあるといわれています。わが北洋水師および貴国の常備艦隊も、弓につがえられることなくおわる矢のような存在でありたいものです」
わが意を得たり、と祐亨がうなずいて中国式の乾杯をつづけるうちに、官服のチョッキも脱いで丸顔に笑みを浮かべた丁は、イギリス留学中、娼家に通いつめて帰国の船賃もなくなってしまった話を打ちあけて祐亨を唖然《あぜん》とさせたりもした。
(おたがいに「不射の射」の思い叶《かな》わず対決せざるを得なくなり、おれが丁汝昌を自殺に追いこむ役まわりになろうとは)
と考えると、祐亨は口のなかに苦い味がひろがってきたような気がした。
午後六時、馬蹄袖《ばていそで》に長袍《ちようほう》の官服をまとってやってきた恰幅《かつぷく》のよい清国代表は、名を牛昶モ《ぎゆうしようへい》といった。程璧光、出羽重遠、島村速雄ら列席の上深夜十二時まで協議をつづけ、あとは明日午後二時に再開と決まって葡萄酒で牛代表をねぎらううち、島村が牛と程とを等分に見やりながらたずねた。
「ところで失礼ですが、丁提督の亡骸《なきがら》はどうなされるおつもりか」
牛は、無表情に答えた。
「威海衛港内の艦船はすべて貴国のものですから、提督の柩《ひつぎ》を運ぶ船はありません。いずれほかの死体と一緒にジャンクかなにかに乗せて、芝罘《チーフー》へ送ることになるでしょう」
ジャンク型の船は、かつて薩摩藩の琉球貿易に使われていたから祐亨もよく知っている。平底《ひらぞこ》ゆえに船脚が遅く、特に清国のそれは帆も筵《むしろ》か麻布に豚の血を塗ったしろもので、船内には鼠や南京虫も繁殖していて不潔この上ない。そんな船に難民と化した兵卒たちとともに詰めこまれては、亡命の勧めを拒んで潔く北洋水師に殉じた勇将の亡骸もどうなるか知れたものではなかった。
あけて十四日午後二時から、「松島」司令長官公室では清国の降伏条件が前日とおなじメンバーによって決められていった。安全に護送されるべき清国士官の名簿の提示、その士官たちの対日戦争不参加宣誓、武器弾薬・残存艦、砲台の受けわたし方法、……。
第九条まで合意に達し、双方一息入れてシガーから紫煙をくゆらせはじめたときであった。それまで細部の表現の詰めをかたわらの島村にまかせていた祐亨が、やおら上体を白布掛けの大テーブルに乗り出すようにして、
「参謀、通訳せよ」
と、正面の牛昶モに二重まぶたの瞳《ひとみ》をむけた。
「昨夜代表は、丁提督の柩はジャンクででも運ぶといわれた。しかし丁提督はまことに忠義の士であって、もしも北洋水師が健在ならば、その柩をゆだねられるべきは『定遠』か『鎮遠』でありましょう。それがいかに敗軍の将となったためとはいえ、国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに乗せられるとは、智・仁・勇を重んじる大和武士のはしくれとして看過いたすに忍びざるものがあります」
話すうちに瞳を潤ませ、口髭《くちひげ》を震わせていた祐亨は、一気につづけた。
「ここにおいて本官は、第十条をかような内容といたすことを提案したい。わが方は、貴方所有の運送船のうち『康済号』のみは収容せず、貴方に交付します。ですからこれに丁提督の御遺体と遺品とを乗せ、なお余裕あらば将士も運ぶことにする、と」
これは、あまりにも破天荒な発言であった。大日本帝国憲法のもとでは宣戦講和・条約締結権は天皇の大権に属し、いかに司令長官とはいえ戦利品の一部を勝手に敵国へ返還することは許されない。
清国においても事情は同様だけに牛代表が細い目をまたたかせると、祐亨は自分に確かめるようにいった。
「本官は、おそれながら大御心《おおみこころ》もかくあらせられると信じております。お咎《とが》めがありましたなら、本官も丁提督のように一死もってお詫《わ》びいたすだけのこと」
「謝々《シエシエ》、謝々」
と答えた牛代表は、肩を震わせてしまってもうその先はつづけられない。背に流した弁髪が肩越しに見えるほど深く叩頭《こうとう》して同意したため、祐亨の思いは降伏規約書第十条に明文化されることになった。
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終 章
全艦メイン・マストに十六条旭日の軍艦旗をひるがえした連合艦隊が、曇り空を煤煙《ばいえん》に霞《かす》ませて威海衛西口をめざしたのは二月十七日午前八時半のことであった。先頭をゆく「松島」艦橋上にたたずむ伊東|祐亨《ゆうこう》は、ナポレオン帽式の正服帽に肩章つきフロック形上衣の礼装となり、腰に正剣帯を巻いて長剣を佩用《はいよう》していた。
左手かなたの劉公島を桜島、湾奥に浮き沈みしているかのように見える陸地を鹿児島の町に見立てれば、威海衛港は錦江湾に似ていないこともない。
破壊された防材、水雷発射管などの波間に漂う劉公島の島陰からは湾奥にむかって長大な桟橋がのび、その両側に舷《げん》を摩すようにして「鎮遠」、「平遠」と小砲艦八隻が錨《いかり》を下ろしていた。これがかつて軍艦二十二隻、水雷艇十二隻、総排水量五万トン強を誇った北洋水師の残存艦。これら十隻一万五千トンあまりは、降伏規約に従って連合艦隊に引きわたされるのである。
「松島」がその島陰に近づくにつれ、祐亨の目には「威遠」の無残な姿が映し出された。西側陸地付近に沈んだ「威遠」は、波間から三本マストと煙出しだけを覗《のぞ》かせていた。桟橋へ近づくと、東側に転覆した「来遠」は赤く塗られた艦底をおだやかな波に洗われていた。
午前十時、単縦陣で湾奥にすすんだ全艦は、左八点(九〇度)の一斉回頭をおこなって劉公島へ艦首をむけた。各艦から競争で下ろされた端艇が捕獲艦に群らがり、艦尾のポールにつぎつぎに日章旗を掲げてゆく。
連合艦隊の将士はすべて上甲板、ないし艦橋からこれを見守り、「松島」の軍楽隊が「君が代」の演奏をおわったあとは帽を打ち振って歓呼の声を張りあげた。
しかし祐亨の望んだ第二の儀式が粛然と始められたのは、威海衛湾が薄墨色に翳《かげ》りはじめてからのことであった。夕日を浴びた捕獲艦の列の陰から、大型運送船があらわれ、半円形に居並ぶ連合艦隊に近づいてきたのがその合図となった。
これが、「康済号」であった。メイン・マストに白旗をひるがえしている「康済号」は、丁汝昌、林泰曾《りんたいそ》、劉歩蟾《りゆうほせん》らの柩と遺品、乗れるだけの兵員を乗せて芝罘《チーフー》へむかおうとしていた。
祐亨をはじめ、まだ上陸せず艦に残っていた将士は、ふたたび全員甲板上に整列し、目の前を西口めざしてゆっくりと右転してゆく「康済号」に対して敬礼をした。同時に、「松島」後甲板の三十二センチ主砲が砲口をもたげた。そして海上に谺《こだま》しはじめた空砲が、丁汝昌への弔砲であった。
乗組員のすべてが舷側《げんそく》に整列し、賓客に敬意を表することを、
「登舷礼式」
という。祐亨は「康済号」の使用を許したばかりか連合艦隊の全将士に登舷礼式を求め、さらに弔砲を撃つことによって丁汝昌以下に最大の弔意を示したのである。
そのあと祐亨は、すぐ広島の大本営にあてて電報を打った。威海衛への入港と捕獲艦の艦名を列記したあと、かれは文末にこう書きそえることを忘れなかった。
「『康済号』は武装を解き、丁汝昌の柩を廻送《かいそう》せしむるため、かれに与えたり」
一方清国は、昨明治二十七年十一月のうちから、アメリカを介してひそかに日本政府に講和条件を打診してきていた。祐亨たちの威海衛入港から一夜あけた二十八年二月十八日には、北洋大臣李鴻章を全権に指名した、として休戦会議の開催を申し入れてきたから、ここにようやく日清戦争は終幕に近づいた。
この時大本営は、広島城内にある陸軍第五師団司令部のうちに置かれていた。
「広島大本営」
の名で世に知られていたもので、二の丸に建つ本館は、明治十年に建てられた二階建て木造の洋館である。
三月三日、「松島」に座乗《ざじよう》して宇品《うじな》港に上陸した伊東祐亨は、大礼服に身を固めてこの大本営に入り、徳大寺|実則《さねつね》侍従長、土方《ひじかた》久元宮内大臣、樺山資紀《かばやますけのり》海軍軍令部長らに迎えられてともに二階にある天皇の御座所へすすんだ。
入口と正面中央の玉座を結ぶ線の左側にローマ風の白亜の円柱二本がならび、荘重な雰囲気をかもし出している。やがて肋骨《ろつこつ》形五条の胸飾りをつけた軍服姿で出座した天皇に対し、祐亨は戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読みあげていった。
それをおえたあと祐亨は、自分個人の判断で「康済号」の捕獲を免じた件に触れた。
「敵軍より押収いたしましたるものは、ただ一片の弊旗なりともこれを還付するにはその手続きのあるものと、臣も重々承知いたしております。しかるに、司令長官の重職を拝受いたします身があえて、……」
白い筋のめだつようになった口髭《くちひげ》を祐亨がかすかに震わせると、
「伊東よ、もうよい」
と、天皇はいった。
これは天皇の口癖で、聞きたくないということではなく、よくわかっているという意味だった。天皇は丁汝昌の葬送に関する祐亨の決断に、充分に満足していたのである。
祐亨はまだ知らなかったが、二月二十日付『東京日日新聞』は、十七日の威海衛の光景を上海電として早くも報道。
「斯《こ》の英雄に贈る/日本軍艦の弔砲」
と見出しをつけ、「康済号」が無事|芝罘《チーフー》に着いたことさえ報じていた。さらに二十二日付同紙は、
「清国艦隊降伏に関する往復文書」
と題し、祐亨と丁汝昌との間に交わされた計四通の文書を全文掲載していた。これはむろん、天皇と大本営詰めの海陸首脳たちとが、祐亨の行動を日本の武士道に適《かな》ったものと高く評価し、公表に踏みきった結果にほかならない。
若き日に薩摩武士として幕末維新の風雲に身を投じた祐亨は、明治という時代を海軍一筋に生きてきた。そして二十八年目にようやく、武人としてのふところのひろさとは何かを世に示すことになったのである。
この日、金時計を下賜されて退室した祐亨は、八日にはまた玉座近くに召されて勅語を拝受した。
「卿《きよう》祐亨、昨年以来連合艦隊を統率し、籌策《ちゆうさく》(作戦)、指揮ことごとくその宜《よろ》しきを得、ついにかの優勢なる北洋艦隊を奄滅《えんめつ》し、まったく黄《こう》・渤《ぼく》(黄海と渤海)両海上の権を占有す。朕《ちん》深くこれを嘉《よみ》す。……」
にもかかわらず、祐亨は自分の功にはいっさい触れず、部下たちと陸軍とに花を持たせる奉答をおこなった。
「陸軍の上陸を掩護し、敵国の北洋艦隊を殄滅《てんめつ》したるものは、これ一に大元帥陛下の御稜威《みいつ》と将校下士卒の忠烈なるとに依《よ》らずんばあらず。……威海衛背後の占領を全くしたるものは、夙《つと》に第二軍の画策するところにかかわる。去歳《きよさい》宣戦の大詔《おおみことのり》を渙発せられしより以来、しばしば優渥《ゆうあく》なる聖詔を垂れたもう。臣等ますます感激に堪えず。謹みて奉答す」
この時祐亨が大本営にまねかれた真の理由は、台湾海峡にある澎湖《ほうこ》諸島の占領と、揚子江河口に近い馬鞍《まあん》群島以南の海上権の確保を要請されるためであった。
三月十二日、前年七月二十三日の出発から八カ月ぶりに佐世保軍港へ入った祐亨座乗の「松島」は、すでに集結していた連合艦隊本隊と第一遊撃隊に合流すると陸軍混成枝隊を従えて澎湖諸島めざして出発した。
そして三月二十四日、澎湖島の中心|馬公《まこう》城を陥れた祐亨は、三十日のうちに日清両国に休戦協定が結ばれていたことを四月一日になってから知り、五月五日に佐世保軍港へ帰投した。
四月十七日に下関で結ばれていた日清講和条約は、以下のようなものであった。
清国は韓国の独立を承認し、日本に奉天省南部の地方ならびに台湾全島、その付属の諸|島嶼《とうしよ》を割譲し、賠償金二億|両《テール》を支払い、沙市・重慶・蘇州・杭州を開港し、その他通商航海の利権を日本に与える。
五月八日に芝罘《チーフー》で批准書が交換されたことにより、ここに明治日本初めての本格的対外戦争は成功裡《せいこうり》に終結の時を迎えることができた。
その祐亨が、天皇の御料列車に陪乗して東京へ帰ってきたのは同月三十日になってからのこと。機関車の前面に日章旗を交叉《こうさ》させ、その上に松と鷹《たか》の剥製《はくせい》を飾りつけた御料列車は、午前三時に新橋停車場へすべりこんだ。
場内入場禁止を命じられていた見物客たちが手製の日の丸の小旗を振る歓喜の声は、場外からわんわんと谺《こだま》していた。
出迎えの近衛騎兵、各大臣、顧問官、華族らの目は、第一に天皇の乗る御料車である第七|車輛《しやりよう》、ついで山県有朋第一軍司令官、象のような印象を与える大山|巌《いわお》第二軍司令官、そして連合艦隊司令長官伊東祐亨らの乗る第八、第九車輛にむけられていた。
麹町区霞関二丁目に移転していた海軍省新築庁舎のうちにある海軍軍令部にいったん行き、帰京の挨拶《あいさつ》をした祐亨は、シャンパンで乾杯をくり返して充分に酩酊《めいてい》してから馬車で高輪車町の家へ帰っていった。使用人、書生たちとともに出迎えた美津は祝勝のことばを述べ、夫を角樽《つのだる》、赤飯、大鯛《おおだい》の用意された三十畳敷きの広間へ案内しようとした。
「いや、いっとっ(ちょっと)待った。俺《おい》はまだ長男の顔を見ちょらんど」
武一が美津に抱かれてくると祐亨はにっこり笑って抱き取り、長男との初めての対面を果たした
その騒ぎも一段落したころ、美津がいった。
「まこてお前《まん》さあは出征すると手紙をくれやらんし、くれやってん無事とだけで戦況を教えてくれやらんとですもん。あたいどんは心配で、いろんな新聞や雑誌をはらはらしながら毎日読ん較べておったとじゃんど」
「何《ない》じゃっち、雑誌まで出ておったか」
和服に着更《きが》えて一息ついた祐亨に差し出されたのは、博文館発行の『日清戦争実記』という月に三度も出されている本であった。付箋《ふせん》のはさまれたページをひらくと「伊東海軍中将」と題した史伝がある。
丁汝昌と祐亨との文書のやりとり、「康済号」提供一件に好意的に触れた記事は、次第に祐亨の人柄に筆を及ぼしていた。
「あはれこの威名を海外に轟《とどろ》かし、海内又この果断と度量とに驚ける伊東連合艦隊司令長官は、朴訥《ぼくとつ》にして辺幅を修飾せず、その家にあるや、居常粗衣を纏《まと》ふて、往々|田舎漢《いなかもの》と誤認せらるる事あり」
「又中将は山本権兵衛大佐と郷里を同じうし、……大佐の中将を訪ふや、門に入って大呼して曰《いわ》く、艦隊司令長官は御内かと、中将楼上の窓を開き、手を以《も》って之を麾《さしまね》き、カムカムと、又取次の煩《はん》を要せず」
「中将の果断人をして驚かしめ、又常に豪毅《ごうき》の質に富めりといへども、言論|甚《はなは》だ拙なり。海軍将校会議等に於《おい》て、軍事を論議する毎に、意まづ至るも口いふ能《あた》はず、往々人の為に論破せられて、意見を徹し能はざる事あり。一日会議果てて家に帰るや、酒を呼んで大杯鯨飲し、書生を坐側に集へて大笑一番、今日も亦《また》やられた、もし予が一生の中、一大海戦のあらんには、せめては伊東の名を天下に知らするをえんと、腕を撫《ぶ》して長嘆これを久しうしたりて」
軍人イコール護国の鬼という短絡に走らず、祐亨の愛敬のある側面を伝えることに筆が多く費されているのが興味深い。
時代はまだ英雄を求めず、ましてその英雄を偶像視する風潮もなかった。祐亨が艦隊決戦となった黄海海戦、世界戦史上初めての水雷艇による突入戦となった威海衛海戦の勝者としてよりも、むしろ丁汝昌との交情によって名を知られたのも、このような時代の感覚があったためだろう。
この年の五月十一日、祐亨は海軍軍令部長に補され、八月五日には日清戦争の軍功によって子爵を授けられた。また特旨をもって皇室資産から二万円を下賜され、日をおなじくして功二級|金鵄《きんし》勲章と年金千円、勲一等旭日大綬章とを授けられた。
このころ詠んだものと思われる、祐亨の和歌一首が伝えられている。
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もろともに建てし功《いさお》をおのれのみ世にうたはるる名こそつらけれ
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「日清戦争においてもっとも印象に残ることは」
と親しい者たちから問われた時にも、祐亨は飾ることなく答えた。
「そりゃあ『松島』乗りくみの水兵が爆風を浴びて瀕死《ひんし》の重傷を負ってしもて、『ああ、長官、御無事でありましたか』と俺《おい》の手を握ったまま死んでいったこっじゃ。俺はあん時んこっを思うと、今でん胸がほじくられるような気がすっとじゃ」
すでに四月中にロシア、フランス、ドイツによる三国干渉が起こり、五月四日、日本は清国に遼東半島を返還せざるを得なくなっていた。それでも軍人は政治に口を出さず、の本分を守り、このようなことばを残したところに祐亨の体温が感じられる。
その後もかれは、長く海軍の長者でありつづけた。
明治三十一年(一八九八)九月、五十六歳にして海軍大将に昇進。三十六年十月、海軍大臣になっていた山本権兵衛とひそかに会談し、対露開戦となったならば東郷平八郎を連合艦隊司令長官に指名することに決定しておいたのも祐亨であった。
「東郷は米の飯だ」
と、かれは寡黙な郷土の後輩を評していた。
「『名将言行録』に加えたくなるような言行は、東郷にはひとつもない。米の飯のように平凡なところが、東郷の非凡さなのじゃ」
これは、祐亨自身にもあてはまることばになっている。
その祐亨は、部下たちから揮毫《きごう》を求められると、
「武士の情」
「道義貫心肝(道義は心肝を貫く)」
と書くこともあり
「老将」
と題して自作の長歌を書きつける素養を見せることもあった。
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頭にいたゞく老《おい》の霜 鎧《よろい》にかゞやく月の影
篝《かがり》たく火によもすがら 赤き心や照らすらん
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それでも祐亨は、枯れた境地に遊ぶ老将となっていったのではない。揮毫をはじめるのも、大好きな酒に陶然としてからのこと、
「大和魂の養成はこれに限る」
といいながら飲んでは書き、書いては飲んで一晩に数十枚の色紙を仕上げ、
「や、もう夜が明けたか」
と気づいてから筆を投じることも珍しくはなかった。
まったく酒の飲めない部下が遊びにくると、
「これならよかろう、充分やりたまえ」
と、美津にあらかじめ用意させておいた甘酒を出させて閉口させる。
そんな逸話を残しながら、いつか祐亨は厳しさと優しさの同居する明治人の一典型になっていった。
かれは武一を毎朝神棚の前につれていっては、自分が父正助に教えられたところを思い出しながらこう誓わせた。
「日本男子は嘘をつかない。日本男子は卑怯《ひきよう》なことをしない。日本男子はがまんをする」
武一を座らせる時も決して座布団を敷かせず、このあとつぎが子供ゆえのやんちゃなことを仕出かすと、きっとなって叱った。
「夜になったら泉岳寺へ行って、赤穂義士の墓へ参拝してこい!」
かつて雷公司令官といわれた男の面目躍如たるものがあるが、祐亨はこのころ明治の女傑として知られた奥村|五百子《いおこ》をも、いささか乱暴に扱って同席者を驚かせたこともある。
奥村五百子は、弘化《こうか》二年(一八四五)肥前唐津の生まれ。若いころから男まさりの性格で幕末には尊王の志士たちと交わり、男装して長州をおとずれたこともある一種の烈女である。
明治三十三年(一九〇〇)六月、清国で義和団が北清事変を起こすと、五十六歳の身で天津・北京を視察して戦争の悲惨さとともにより強力な国軍育成の必要性を痛感。陸海軍上層部や政界の援助のもとに、愛国婦人会の結成に踏みきった。
同会の発会式は、三十四年三月二日、九段の階行社でおこなわれた。黒い被布をまとって登壇したひっつめ髪の五百子は、鋭い目つきと太い鼻筋、大きな口と男まさりの面構えを振り立てて熱弁をふるった。
「天皇陛下の御稜威《みいつ》のおんもとに生まれたればこそ、わたくしどもは日本婦人だと威張っていられるのであります。日本の陸海軍が弱かったなら、畳の上でのうのうと暮らしてはおられません」
気性激越な五百子は語るうち感極まって涙ぐみ、ついには壇上で肩を震わせて泣き出してしまって、かえって参会者たちを感動させた。
夏になり、五百子がその発会式にも出席した祐亨に挨拶《あいさつ》すべく高輪車町の碧海楼こと伊東邸を訪ねてきた時のことであった。炎暑を避け、二階バルコニーの椅子に涼みながら会話するうちに、五百子がにわかに癇癪《かんしやく》を起こして祐亨に喰《く》ってかかった。
祐亨は、五百子が北清事変視察から帰国する際にも軍令部長権限で彼女を釜山から軍艦「宮古」に乗せてやったほどで、なにも文句をいわれる筋合はない。それまで薩摩|絣《がすり》に兵児帯《へこおび》姿で鷹揚《おうよう》に応対していた祐亨は、五百子がほとんどヒステリー状態になったと見るや、やおら立ちあがった。
そして五百子の決して華奢《きやしや》ではないからだを両手に掬《すく》い取って抱っこしてしまうと、バルコニーの手すり越しにその両腕を突き出した。
「奥村さん、どうじゃ」
祐亨は、いまにも五百子をほうり出さんばかりにその両腕を上げ下げしながらいった。
「あんまり強情を張ると、手を離すぞ」
「参った、どうもならん。もうおとなしゅうするから許さっしゃい」
さすがの烈女も悲鳴をあげて謝ったので、ようやくその場は幕となった。
対露開戦決定となったならば、東郷平八郎を第二代の連合艦隊司令長官に指名する、――。
伊東祐亨がそう決めておいたのは、むろんロシアが日清戦争の直後から満洲、朝鮮方面に利権を拡大しつつあったからである。
明治二十八年(一八九五)四月に調印された日清講和条約の結果、遼東半島は清国から日本へ割譲された。しかし月も変わらないうちに、ドイツ、ロシア、フランスの三国は、日本に同半島を清国へ返還するよう勧告。国力の相違から日本が渋々この三国干渉に従うと、ロシアは遼東半島先端の旅順口をロシア艦隊の基地とすることに成功し、ついに念願の不凍港を保有するに至っていた。
それだけではない。ロシアはその後、清国から満洲における鉄道敷設権を獲得。満洲北部を横断して沿海州最南部の軍港ウラジオストックに至る東清鉄道と、その中間の哈爾浜《ハルビン》から南下して旅順に至る南支線の建設に着手していた。さらにロシアは、北清事変が起こると鉄道権益の保護を名目にして満洲に大軍を派遣し、清国に対して満洲におけるあらたな利権を要求する気配を濃くした。
これを指をくわえて眺めていては、日本の朝鮮支配が困難になるのは目に見えている。しかも、ロシアは北清事変が平定された後も満洲駐屯軍を撤退させなかったため、明治三十五年一月、日本はイギリスとの間に日英同盟を締結。ロシアを仮想敵とみなし、断固ロシアに対抗する態度を旗幟《きし》鮮明にした。
これにともなって、祐亨たちは海軍拡大を急ぎ、日清戦争開戦直前の総排水量五万九千百六トンは、明治三十五年には十二万九千七百十五トンに達した。これはイギリスの五十六万千九百トン、フランスの二十四万六千九十六トン、ロシアの十九万三千三百十一トンにつづく世界第四位の海軍力であった。
さらにこの総排水量は、明治三十六年には十四万五千七十七トン。年末には二十六万余トンと急激にはね上がった。
ただし、ロシア海軍もウラジオストックと旅順口にわかれた太平洋艦隊の十九万一千トンにバルト海を母港とするバルチック艦隊を合わせれば五十一万トン以上となる軍拡に成功していたから、とても日本が優勢とはいえない。
しかも、ロシアが満洲およびその沿岸部における日本の利権を一切認めなかったことから日露交渉はまとまるべくもなく、明治三十七年二月四日、日本は御前会議でついに対露開戦を決定した。
明治天皇の開戦の勅語を受けて、海軍大臣山本権兵衛と祐亨とは、
「粉骨砕身して、叡旨《えいし》に報いたてまつる」
と奉答し、常備艦隊は解散して第一、第二、第三艦隊に編成し直されることになったのである。
第一艦隊の司令長官は、東郷平八郎中将、第二艦隊、第三艦隊のそれは上村彦之丞《かみむらひこのじよう》中将と片岡七郎中将。第一艦隊と第二艦隊をもって連合艦隊が組織されることになり、東郷は祐亨につづく二代目の連合艦隊司令長官として期待の旗艦「三笠」に座乗するものと定められた。
明治三十一年にイギリスのヴィッカース社に発注され、三十三年十一月に進水した「三笠」は、日露戦争の終了から二年目に登場するイギリス戦艦「ドレッドノート」一万七千九百トンが「弩級《どきゆう》」の基準となるのに対し、プレ・ドレッドノート級戦艦の典型であった。
その要目は排水量一万五千百四十トン、全長百二十一・九メートル、幅二十三・二メートル、最高速力十八ノット、乗員は八百三十名。三十センチ主砲四門を前後の連装砲塔に二門ずつそなえ、ほかに十五センチ副砲十四門、八センチ砲二十門、三ポンド砲八門、四十七ミリ砲四門、マキシム機銃四|挺《ちよう》、四十五センチ魚雷発射管も四基ある。
砲塔は厚さ三百五十七ミリ、舷側《げんそく》は二百二十八ミリの硬度充分なクルップ滲炭鋼《しんたんこう》におおわれていたが、左右の舷側に据えられた副砲を五門ずつ砲郭に収納し、全体をアーマーでつつみこむ防御方式を採用しているところに特徴があった。
また、この「三笠」を旗艦として連合艦隊を形成する第一艦隊は第一、第三戦隊からなり、第二艦隊は第二、第四戦隊によって構成されていた。それぞれに属する軍艦と付属船の名前はつぎの通りだが、海軍軍令部長の職務の中心は、国防計画に基づいて建造すべき艦船の種類と数を決定し、海軍大臣と商議することにある。その意味で連合艦隊の編成表は、祐亨の苦心のたまものでもあった。
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〈第一艦隊・第一戦隊〉
「三笠」、「朝日」、「富士」、「八島《やしま》」、「敷島」、「初瀬」(一等戦艦六)
〈同・第三戦隊〉
「千歳《ちとせ》」、「高砂《たかさご》」、「笠置」、「吉野」(二等巡洋艦〈軽巡〉四)
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日清戦争のころの「吉野」は世界一の快速艦であり、四千二百十六トンのスマートなその姿は日本海軍のエース艦の名にふさわしいものであった。だが、プレ・ドレッドノート級戦艦が登場した今、かつてのエース艦は脇役に過ぎなくなっていたのである。
なお、この第一戦隊には、通報艦「龍田」と第一、第二、第三駆逐隊の駆逐艦十二隻と第一、第十四艇隊の水雷艇八隻が付属していた。駆逐艦とは水雷を装備した比較的小型の軍艦で、本隊の護衛、哨戒《しようかい》を任務とする。さらに小型の水雷艇隊は、敵艦に高速で肉薄し、水雷によって奇襲攻撃をかけるゲリラのような存在である。
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〈第二艦隊・第二戦隊〉
「出雲《いずも》」、「吾妻《あづま》」、「浅間」、「八雲《やくも》」、「常磐《ときわ》」、「磐手《いわて》」(一等巡洋艦〈重巡〉六)
〈同・第四戦隊〉
「浪速《なにわ》」、「明石」、「高千穂」、「新高《にいたか》」(二等巡洋艦二、三等巡洋艦二)
[#ここで字下げ終わり]
この第二艦隊には、通報艦「千早」、第四、第五駆逐隊の駆逐艦八隻と第九、第二十艇隊の小雷艇八隻、そして特務艦が十七隻付属していた。特務艦とは戦闘に参加せず、工作、測量、運送などの任務に従事する船のことである。
連合艦隊に属さない第三艦隊は第五、第六、第七戦隊から成っていたが、これは補欠に似た存在であったため、かき集められたのは老朽艦ばかりであった。
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〈第三艦隊・第五戦隊〉
「厳島《いつくしま》」、「橋立」、「松島」、「鎮遠」(二等巡洋艦三、二等戦艦一)
〈同・第六戦隊〉
「和泉《いずみ》」、「須磨」、「秋津洲《あきつしま》」、「千代田」(三等巡洋艦四)
〈同・第七戦隊〉
「扶桑《ふそう》」、「平遠」、「海門《かいもん》」、「磐城《いわき》」、「鳥海」、「愛宕《あたご》」、「済遠」、「筑紫」、「摩耶」、「宇治」(雑艦一〇)
[#ここで字下げ終わり]
「鎮遠」、「平遠」、「済遠」は、いうまでもなくかつて清国北洋水師に属し、初代連合艦隊司令長官伊東祐亨に分捕られた艦である。これらの艦、および「三景艦」と称された初代の旗艦「松島」以下を連合艦隊から外すことにした時、祐亨にはいわくいいがたい思いがあった。
しかし、艦齢のすすんだ船はいずれスクラップにされて売却されるか、砲撃ないし水雷攻撃の標的艦にされて海底に沈む運命にある。思い出多い船だからといって配備に私情をはさむ余地はなく、祐亨は万一第三艦隊が大敵に遭遇した場合のことを考え、通報艦「宮古」と第十、第十一、第十六艇隊の水雷艇十二隻、そして特務艦二隻をつけてやることをもってせめてもの餞《はなむけ》とした。
さらに人事について眺めると、祐亨の最大の手柄は、東郷の知恵袋となるべき第一艦隊参謀長兼連合艦隊参謀長に島村速雄を推薦し、表面的には東郷が島村を指名した形をとったことであった。
祐亨は明治二十六年五月に常備艦隊司令長官に任命された時、「軍事の天才」といわれた島村を常備艦隊参謀としてコンビを組み、日清戦争中もかれを作戦参謀としてつねに行動をともにした。もう四十一年も前の文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)七月、西瓜舟決死隊に志願して錦江湾にのりこんだイギリス艦隊に斬りこもうとしたころから、祐亨は東郷の負けん気の強さを知っている。その見識のほども豊島《ほうとう》沖海戦の際によく認識していたが、東郷に島村をつけてやることによって祐亨は祐亨なりに万全を期したのである。
連合艦隊の母港は佐世保軍港であったから、対露開戦決定前から東郷・島村の新コンビは九州へ下っていた。祐亨は東郷が佐世保鎮守府に入ってからも、手紙でこう念を押すことを忘れなかった。
「参謀長島村氏は、先年拙者と同乗の際、ひとかたならぬ助力に与《あずか》り、今に公私混合交際いたしおり候につき、愚考のところ同氏にもお示し下され候事に願い上げたし」
郷里と海軍の後輩に対し、敬語を使っているのが尊大な態度しか取らなくなる昭和の軍人とは違うところである。
連夜、軍令部に詰めきりになった祐亨のもとには、ロシア太平洋艦隊のうち、旅順口を基地とする旅順艦隊の陣容が着々と打電されてきていた。
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〈一等戦艦七〉
「ペトロパウロスク」、「ツェザレウィッチ」、「レトウィザン」、「ペレスウェート」、「ポベーダ」、「ポルタワ」、「セバストポリ」
〈一等巡洋艦一〉
「バヤーン」
〈二等巡洋艦三〉
「パルラーダ」、「ディアーナ」、「アスコリド」
〈三等巡洋艦三〉
「ボヤーリン」、「ノーウィック」、「ザビアーカ」
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これに砲艦六、駆逐艦十八が付属しており、その総排水量は十九万一千トンあまり。これだけなら連合艦隊の方がより強大だが、上海、朝鮮半島西岸の仁川《じんせん》、遼東半島の大連湾その他にロシアの巡洋艦三、砲艦三がいる上に、バルチック艦隊の戦艦「オスラービヤ」、装甲巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」、巡洋艦「アウロラ」と数隻の駆逐艦も東洋へ廻航《かいこう》される途中であった。
さらに日本人が、
「浦塩《うらじお》」
と呼ぶウラジオストックには一等巡洋艦「ロシア」、「グロムボイ」、「リューリック」と二等巡洋艦「ボガツイリ」、仮装巡洋艦「レーナ」のいることが判明していた。
一万トン以上の大艦が五隻もふくまれるこれらの艦船の排水量も加えると、ロシア太平洋艦隊の総排水量は二十七万トン近くなる。対して日本側のそれは二十六万トンと少しだから、艦隊決戦となればなかなか厳しい結果になることを覚悟しておく必要があった。
しかし、二月五日に大命はすでに下ったのである。連合艦隊は翌六日の午前一時から行動を開始し、東郷平八郎は各司令長官、艦長、司令を「三笠」に集めて初めて戦略を発表することになっていた。
「連合艦隊はかねての画策により、まず露国太平洋艦隊を撃滅してもって海上を統制せんと欲す。かれは依然として本隊を黄海方面に、支隊をウラジオストックに配置し、東西|掎角《きかく》(呼応)の勢いをなしてもってわれを制せんと企て、その本隊は今や旅順港外に投錨《とうびよう》しむるもののごとし。しこうしてわが連合艦隊は、本日午前九時をもって本港を出発し、黄海に急進してまず旅順口および仁川にある敵の艦隊を撃破せんとす。
瓜生《うりゆう》第二艦隊司令官は、第四戦隊および第九、第十四艇隊を率いて仁川|碇泊《ていはく》の敵艦を破り、かつその方面における陸兵の上陸を掩護《えんご》すべし。
第一、第二、第三戦隊および各駆逐艇は、旅順方面に直航し、駆逐隊は前進し、八日の夜に乗じて敵襲撃を決行し、艦隊は翌日さらにこれを攻撃するの予定なり。
まことにこの役や、国家安危のかかるところ、こいねがわくば諸官とともに御稜威《みいつ》を奉戴《ほうたい》し、粉骨砕身をもってかならず敵を撃滅して宸襟《しんきん》を安んじたてまつらん」
その午前一時まで霞ヶ関の海軍省庁舎のうちにある海軍軍令部に詰めていた祐亨には、東郷がかねてからの打ち合わせ通り巻紙に書かれた文句を読み上げてゆく姿が目に浮かぶようであった。
その後、軍服姿のまま軍令部長室のソファにからだを横たえて仮眠をとった祐亨のもとに、東郷からいよいよ戦旅に上るとの電報が届いたのは午前九時過ぎのこと。
(よし、仁川でいくさが始まるのは八日の夕刻からだな)
ならば一度、帰宅して風呂《ふろ》を浴び、着更えをしてこようかと思ったが、祐亨は思い直して軍令部長室に居つづけることにした。艦隊というものは、出港時に衝突事故を起こしやすいのだ。
幸い事故発生の電報は来ず、七日午前中に入った情報はロシア旅順艦隊の碇泊位置に関するものであった。喜色満面となった祐亨は、午後一時、「三笠」にあてて打電させた。
「六日旅順口外碇泊位置左ノ通リ
列外東ヨリ西ヘアスコリド ペレスウェート レトウィザン パルラーダ ディアーナ バヤーン アンガラ エニセイ 二列 ツェザレウィッチ ポルタワ ペトロパウロスク ポベーダ ボヤーリン アムール 列外ノーウィック ギリヤーク出港
以上外港内ニ碇泊 駆逐艦全数港内
[#地付き]軍令部長」
これに勢いを得たかのように、第二艦隊は韓国の首都漢城《ソウル》の西方四十三・五キロにある通商港仁川に接近。八日の午後四時四十分、砲艦「コレーツ」千二百十三トンが大砲を一発撃って港内へ逃げこんだのを追って湾内に侵入し、翌日、その「コレーツ」と二等巡洋艦「ワリヤーグ」六千五百トンを撃ち沈めることに成功した。第二艦隊は死傷者なし、艦体に何の損傷もなかったのに対し、ロシア側は商船「スンガリー」も火災で失ってしまうというおまけがついた。
一方、第一艦隊付属の第一、第二、第三駆逐隊計十三隻は、八日の日没後に旅順へ六十海里(一一一キロ)の海域に到着。午後十時半には旅順口外三千メートルまで接近し、影絵のように闇に溶けこんでいた旅順艦隊に魚雷攻撃を仕掛けた。
これによって六千トン級の二等巡洋艦「パルラーダ」はほとんど廃艦となり、一万二千トン級の一等戦艦「レトウィザン」、「ツェザレウィッチ」は戦闘力を喪失。駆逐艦「ベズストラーシヌイ」三百五十トンも使用不能となった。
九日の午前九時十六分、敵状を偵察に行った二等巡洋艦「千歳」からの無電でその戦果を確認した東郷は、間髪を入れず総攻撃に移った。旅順艦隊側はスタルク司令長官座乗の旗艦「ペトロパウロスク」以下の一等戦艦四、一等巡洋艦一、二等巡洋艦二、三等巡洋艦二が艦隊決戦に応じ、湾岸高地の砲台とともに砲火をひらいたが、二等巡洋艦「アスコリド」五千九百五トンと三等巡洋艦「ノーウィック」三千八十トンが戦闘力を失ったため、「ペトロパウロスク」以下は港内へ引き揚げてしまった。
このように敵が洋上会戦を嫌った場合は、旅順口の閉塞《へいそく》戦をこころみる、というのが祐亨と東郷の了解事項である。
二月十日、正式に対露宣戦布告がおこなわれたのを受けて十一日、宮中《きゆうちゆう》に大本営が設けられ、祐亨は幕僚たちとともにこちらへ移動して旅順口閉塞戦の行方を見守りつづけた。
しかし、運送船を旅順口の航路に沈めて敵艦を封じこめるこの作戦はさほど効果がなく、スタルクに替わった名将マカロフの座乗する「ペトロパウロスク」一万九百六十トンは折々旅順口外にあらわれて威嚇的に周辺海域を遊弋《ゆうよく》し、港内へ帰投するのをつねとした。
四月十三日、その「ペトロパウロスク」は連合艦隊の敷設した機雷に触れて轟沈《ごうちん》、マカロフも戦死したが、連合艦隊側も五月十五日に「吉野」が新鋭艦「春日」と衝突して沈没。同日中に第一戦隊の戦艦「初瀬」一万五千トンもロシアの機雷に触れて沈没し、「吉野」とあわせて死者八百十二名を出すという惨事に見舞われた。
島村速雄発の電文によってこれを知った祐亨は無念やる方なかったが、軍令部長ともあろう者がこんなことで動揺をあらわにしてはならない。かれはかつて「鬼の艦長」、「雷艦長」と呼ばれたことなどすっかり忘れたように、白リンネルの夏服を着用して黙々と馬車で自宅と大本営を往復する日々をつづけた。
そして、旅順口閉塞の効果がようやくあらわれたのは、八月七日のことであった。マカロフ戦死の後、旅順艦隊の臨時司令長官に任じられていたのはウィトゲフトであったが、ロシア皇帝ニコライ二世は次第に苛立《いらだ》ちを募らせ、この日ウィトゲフトに勅命を下したのである。
「貴官は全艦を率いて、すみやかにウラジオストックにむかうべし」
これを受けて十日早朝から旅順脱出を決行した旅順艦隊に対し、連合艦隊は得意の単縦陣から艦隊決戦に持ちこむことに成功。旅順艦隊は旗艦「ツェザレウィッチ」の司令塔に「三笠」の三十センチ砲弾二発を受けてウィトゲフトを失ったばかりか、ウラジオストックに逃れた艦は一隻もなしという完敗を喫した。
しかも、連合艦隊のこの勝利には第二幕があった。ウラジオストック艦隊の主力である三隻の一等巡洋艦――「ロシア」一万二千百九十五トン、「グロムボイ」一万二千三百五十九トン、「リューリック」一万九百三十六トンは、十日に旅順艦隊が大敗したことを知らず、十四日早朝に朝鮮海峡の蔚山《ウルサン》沖まで旅順艦隊を迎えに行った。そこで第二艦隊第二戦隊の「出雲」、「吾妻」、「常磐」、「磐手」と遭遇、「リューリック」は沈没し、「ロシア」と「グロムボイ」は艦体修理に数カ月はかかる多大な損害をこうむったのである。
「蔚山沖海戦」
と名づけられたこの第二の艦隊決戦にも連勝したことにより、日本は日本海東端から黄海に至る海域の制海権を掌握したことになった。
こうして一躍日本中に名を知られた東郷平八郎大将が、参謀長島村速雄少将、先任参謀秋山|真之《さねゆき》中佐らとともに新橋停車場に到着し、数万の群衆の万歳の声に迎えられたのは十二月三十日午前九時半のこと。東郷たちは二十五日に祐亨から帰国上京を命じられ、二十八日に「三笠」で呉《くれ》軍港にやってきてまっすぐ東京をめざしたのである。
大礼服姿の一行は、午前十時、海軍省の大臣室でやはり大礼服に身をつつんだ山本権兵衛と祐亨のねぎらいを受け、固く手を握りあってからシャンペンで乾杯した。
さらに十一時半、一行はふたりに案内されて宮中におもむき、天皇に拝謁。午餐《ごさん》を供された後、大本営に移り、正月も三日間しか休まず協議をつづけた。議題はむろん、バルチック艦隊をいかに迎撃するかであった。
この会議の結果、祐亨たちが承認したのは秋山真之立案の「七段構えの戦法」であった。
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〈第一段〉朝鮮海峡以西からウラジオストック港外に至る海域のいずれかでバルチック艦隊を 発見した場合、その夜ただちに駆逐隊、水雷艇隊の全力をもって襲撃する。
〈第二段〉その翌日、わが艦隊の全力をあげて艦隊決戦を挑む。
〈第三段〉つづいてその夜、ふたたび駆逐隊、水雷艇隊の全力をもって水雷攻撃をおこなう。
〈第四段〉わが艦隊の大部分をもって、敵の残存部隊に再度挑戦する。
〈第五段〉第三段におなじ。
〈第六段〉第四段とおなじながら、これでもなお残存する敵の部隊はウラジオストック港の前まで追撃する。
〈第七段〉あらかじめウラジオストック港口に敷設しておく水雷沈設帯に敵艦隊を追いこみ、これを殲滅《せんめつ》する。
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ロシアがバルチック艦隊の東洋|廻航《かいこう》を決定したのは、明治三十七年四月三十日のこと。むろん仁川沖海戦の敗北、旅順艦隊の萎縮《いしゆく》に苛立ったためで、五月二日、その司令長官にはロジェストウェンスキー中将が指名された。
かれは七月四日に艦隊の編成を決め、これを主力艦隊、巡洋艦隊、運送船隊の三者にわけることにした。
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〈主力艦隊〉
第一戦隊(戦艦四)、第二戦隊(同三、巡洋艦一)、駆逐隊(駆逐艦九)
〈巡洋艦隊〉
第一巡洋艦隊(巡洋艦四)、第二巡洋艦隊(同四)
〈運送船隊〉
第一運送船隊(運送船四、工作船一、病院船一)、第二運送船隊(運送船一〇)
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以後、操練に励んだバルチック艦隊は、十月五日にバルト海のリバウ軍港を出発。祐亨たちが連日作戦会議をひらいていた明治三十八年(一九〇五)一月九日、マダガスカル島北西のノシベ島に集結していた。
それから約一カ月後の二月六日、祐亨と無言の挙手の礼を交わして東京を発った東郷は、十四日に呉軍港に碇泊《ていはく》中の「三笠」に帰還。江田島、佐世保軍港を経て、二十一日に連合艦隊が戦闘訓練中の朝鮮半島南東部、鎮海湾へもどっていった。
バルチック艦隊のノシベ出発は三月十六日のことであったが、そのマラッカ海峡通過の情報が大本営と「三笠」に入ったのは四月九日のこと。これは外務省の出先機関や、イギリス情報部の協力のたまものであった。
ところが、五月九日に別動隊と合流して五十隻にふくれあがったバルチック艦隊は、十八日にフランス領安南《ベトナム》のヴァン・フォン湾を出た後、行方がつかめなくなってしまった。
太っ腹をもって知られる祐亨もさすがに胃に痛みを覚える日々を送っていた同月二十二日、ようやく東郷が大本営に打電してきた。
「浦塩艦隊と思わるる敵影の隠岐付近に出現したるは、南方の敵近接せんとする兆候と認め、昨日来、全軍出動準備の姿勢にありて警戒す」
ウラジオストック艦隊の一部が南下してきたのであれば、それは史上空前の大航海に疲れきっているバルチック艦隊の出迎えのため、と考えるのが自然なのである。
(後は東郷に、すべて任せた。万一、わが連合艦隊が敗北したならば、おれが全責任を取って腹を切ればよいのだ)
祐亨の覚悟をよそに、仮装巡洋艦「信濃丸」が五島列島沖を北東の対馬水道の方向へすすむ汽船を発見したのは日付が二十七日に変わってすぐのこと。「信濃丸」はつづいて濃霧のかなたに十数隻の黒い艦影を認め、付近に哨戒《しようかい》中のはずの僚艦宛に打電した。
「敵の艦隊二〇三地区に見ゆ」
五時五分「厳島」からの転電でこれを知った東郷は、大本営の祐亨に第一報を送った。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」
東郷平八郎がバルチック艦隊を撃滅して一代の英雄と化し、
「聖将」
「神将」
とまでいわれたのは周知の通り。
日露戦争中はずっと大本営に泊りこみ、東郷にロシア側の情報を送りつづけていた祐亨にとっても、こんな欣快《きんかい》事はなかった。
アメリカの勧告を受けて、日露両国が講和を受諾したのは明治三十八年六月十日から十二日にかけてのことであった。そして十二月六日、黒田長成侯爵は東郷を慰労すべく、その所有する羽田の鴨猟場に東郷夫妻と祐亨、伊集院五郎軍令部次長その他を招待した。
鳥打帽にダブルボタンの外套《がいとう》をまとい、貸切りの京浜電車で羽田へ出向いた一行が、猟を楽しんでから鴨鍋に舌鼓を打つうちに、もっとも快く酔ったのが祐亨であった。
やがて宴もおわり、一行が日暮れの田舎道を数百メートル先の京浜電車の停車場へ歩いてゆくと、前方に人だかりがしている。付近の住人たちが英雄東郷の来遊と知り、その姿を一目見ようとしてひしめいていたのである。
「堪《たま》らん」
と踵《きびす》を返そうとした東郷を、祐亨は笑いながらたしなめた。
「おい、東郷。あん衆はお前《はん》を拝もうとしてあげん待っちょっとじゃ。そいを逃ぐっとは何事《ないごつ》か。俺《おい》と一緒に来やはんか」
やむなく東郷が祐亨の後から野次馬たちに近づいてゆくと、祐亨は助け舟を出した。
「東郷大将は、あそこにおる。早く行ってみろ」
祐亨が指差したのは、前方をゆく東郷の副官であった。
それもまもなく嘘とわかってしまい、野次馬たちは祐亨の巨体に隠れるようにしている東郷を見つけ出した。間近からじろじろと見つめられて、寡黙な東郷は顔を赤らめてしまう。
「常勝将軍も、形なしじゃ」
呵々《かか》大笑した祐亨は、貸切り電車に乗りこんでからも稚気あふれる一面を発揮した。
座席に腰かけた細面の黒田侯爵の前に突っ立った祐亨は、両手で吊革《つりかわ》につかまり、巨体を前後に揺らしながらたずねた。
「侯爵閣下。下々《しもじも》ではこの吊革を鮭《しやけ》と申しておりますが、その理由はごぞんじでしょうか」
黒田が答えられずにいると、祐亨はなおもからだを前後させながらつづけた。
「それはですな。吊革の形が、口から縄を通されてぶら下げられている塩鮭に似ているからでございます。おわかりになりましたか」
「はあ、なるほど」
苦笑気味に答えた黒田に、また祐亨はいった。
「伊東は、どうも酔いますと歌を歌いたくなります。これからやりますから、ひとつお許しを願います」
「どうか御随意に」
とうなずかれて、祐亨が朗々たる声でうなりはじめたのは琵琶《びわ》歌であった。
「天文《てんぶん》二十三年、秋のなかばのころとかや、上杉謙信は八千余騎を従えて、川中島に打って出づ、……」
その祐亨は、途中ではたと気づいたように歌をやめ、かたわらの座席に腰かけて目を閉じている東郷に命じた。
「おい、東郷。黙っちょらんでお前《はん》も一緒にやらんか」
「俺《おい》は、やらん」
と目をひらいて答えた東郷は、
「やらんとじゃなくて、やれんとじゃろ」
祐亨が駄々っ子のようにいっても、もう口をつぐんだままであった。
新旧ふたりの連合艦隊司令長官のやりとりは、ここでおわった。祐亨が巨体を座席に沈めたかと思うと、そのまま心地よさそうに寝入ったからである。
この時、祐亨は六十三歳。もはやかれは世界に名を知られたゼネラル・トーゴーに、おい、と呼びかけられる稀有《けう》な日本人のひとりになっていた。
この鴨猟から二週間後の十二月二十日、祐亨は十年以上つとめた海軍軍令部長の職を免じられて軍事参議官となった。軍事参議官は軍事参議院を組織する職員であり、天皇からの重要軍務に関する諮問に答える役職ながら、この人事は祐亨が現役の軍人ではなくなったことをも意味する。
しかし、一般社会の者には東郷平八郎の名声の陰に隠れた観のある初代連合艦隊司令長官を、明治国家はまだ忘れなかった。
あけて明治三十九年(一九〇六)一月三十一日、祐亨は元帥府に列せられ、元帥の称号を与えられた。元帥とは陸海軍の最高の階級で、大将の上に位する。かれは、六十四歳にして日本海軍の産んだ第一号の元帥となったのである。
同年二月二十六日、子爵・海軍中将として十六年間貴族院議員をつとめてきた兄の祐麿《すけまろ》は、静かに七十三歳の生涯をおえた。
対して祐亨は、同年四月一日に明治三十七・八年戦役(日露戦争)の功によって功一級|金鵄《きんし》勲章と年金千五百円、および旭日|桐花《とうか》大綬章を受章。つづけて四十年九月二十一日には、勲功によって子爵から伯爵に昇った。
しかし、祐麿のみならず幕末に血気盛んな年齢となって討幕運動に身を投じた者たちは、明治の終焉《しゆうえん》と前後して歴史の表舞台から退場してゆく運命にある。
祐亨の場合は、明治四十五年(一九一二)七月三十日に六十一歳にして崩御した天皇の霊柩《れいきゆう》が九月十三日、青山練兵場内の葬場殿に移されるに際し、その供奉《ぐぶ》をつとめたことが最後の奉公となった。
頭に黒ビロードのナポレオン形の正帽をかむった祐亨は、老いてなおたくましい巨体に金繍《きんしゆう》の正肩章つき、紺ラシャ・ダブルボタン燕尾《えんび》服形の正衣を着用、胸には各種の勲章を飾り、正袴《せいこ》の左側には細身の元帥刀を吊って、五頭の牛に引かれる唐庇《からびさし》の轜車《じしや》(喪車)の後を歩いていった。
その間に何度も胸に去来するのは、やはり明治二十八年三月三日、広島大本営の御座所における天皇のことばであった。
あの時、玉座近くにすすみ出た祐亨は、日清戦争中の海戦の戦闘経過を復命したあと、丁汝昌の遺体を芝罘《チーフー》へ送らせるため、独断で「康済号」の捕獲を免じたことについて触れた。
「敵軍より押収いたしましたるものは、ただ一片の弊旗なりともこれを還付するにはその手続きのあるものと、臣も重々承知いたしております。しかるに、司令長官の重職を拝受いたします身があえて、……」
祐亨は闕下《けつか》に罪を待つ覚悟であったが、
「伊東よ、もうよい」
と天皇はそれを制し、罪に問うつもりはまったくないことを言外に伝えてくれた。その時の感激は、祐亨にはとても忘れられるものではない。
「伊東よ、もうよい」
もう十七年前に拝聴した天皇のことばを昨日のことのように胸に甦《よみがえ》らせ、祐亨は人目もはばからず白手袋につつんだ右拳《みぎこぶし》で目をぬぐった。
この明治四十五年は、七月三十日をもってすでに大正と改元されていた。九月十三日の大葬当夜には、乃木|希典《まれすけ》陸軍大将と静子夫人とが明治天皇に殉死するという大事件も発生していたが、これに関する祐亨の反応を伝える資料は管見に入らない。
しかし筆者は、夏目漱石が『こゝろ』の登場人物「先生」に述懐させているつぎのくだりが、時代の雰囲気をもっともよく伝えている、と考えている。
「……夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其《その》時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは畢竟《ひつきよう》時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。(略)御大葬の夜私は何時《いつ》もの通り書斎に坐つて、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました」
この文中の「相図の号砲」とは、同日午後七時すぎ、轜車と供奉の高官たちの列とが宮城の車寄せを出る相図として撃たれた空砲のことをいう。
戊辰《ぼしん》・西南・日清・日露――明治国家建設のための産みの苦しみだったふたつの内戦につづき、祐亨は初代連合艦隊司令長官、海軍軍令部長としてふたつの対外戦争を戦いぬいてこの日を迎えた。かれは「先生」より間近にこの号砲を聞いただけに、はるかに感慨無量だったことであろう。
それかあらぬか、祐亨は大葬からまだわずか一カ月しか経たない大正元年十月なかばから、腎臓病に心臓病を併発するという症状を呈しはじめた。
大正天皇はその長年の勲功を考慮し、大正二年十一月十日に祐亨を大勲位に叙し、菊花大綬章を授けた。祐亨はきわめて強靭《きようじん》なからだに恵まれていたため、その後は一時快方にむかうかに見えた。
だが、同三年一月十三日夜に病勢が急変。十四日未明には山本権兵衛首相、伊集院五郎軍令部長、出羽重遠海軍大将、松方正義元首相らが馬車で碧海楼へ駆けつけてきた。
松方正義は、もとの名を助左衛門。文久《ぶんきゆう》二年(一八六二)八月二十一日に発生した生麦事件の際には島津久光の近習をつとめており、供先を割ったリチャードソンめがけて走り出そうとしたまだ二十歳の祐亨を、
「こら、軽々《かいがい》しゅ駕籠《かご》脇を離れてどげんすっとか」
と叱ったことがある。
これら幕末以来の旧友たち、ともに東洋の一小国の海軍を手塩にかけて育ててきた男たちの見舞を受けた祐亨は、越えて十六日午前六時三十一分、碧海楼の奥十畳間の寝室において目を閉ざした。享年七十二であった。
六十一歳となって老眼鏡を掛けるようになっていた美津、高橋新八夫人となっていた二十三歳の延、のちに靖祐《やすすけ》と改名して伊東伯爵家を相続する二十一歳の武一たちと、順次別れの握手を交わしてからの死であったと伝わる。
十八日午前十時、大正天皇は勅使を伊東家に派遣して弔意を表明。午後一時、勅使はふたたびあらわれて紅白の帛《はく》(絹布)と神饌《しんせん》とを下賜し、霊前において誄詞《るいし》を奉読した。
「夙《つと》に心を皇室に存し、ついに身を海軍に致せり。出《いで》ては帷幄《いあく》に参じて必勝を全局に籌《はか》れり。勲積すでにあらわれて名声隆たることありしに、隕星《いんせい》(隕石)凶を告げて、宸衷悼《しんちゆういた》み切なり。ここに侍臣を遣《つか》わし、賻《ふ》(贈り物)をもたらして臨み、弔せしむ」
祐亨は、十六日の時点で位階を従二位から従一位に上げられていた。それまでの要人たちの最高の位階は祐亨自身の従二位だったから、かれは文字通り位人臣を極めたことになる。
海軍は十九日の葬儀当日、国内在泊の軍艦すべてに半旗を掲揚するよう通達。同日午後一時三十分の出棺の時刻になると、一万二千トン級の戦艦「相模」と一万四千トン級の巡洋艦「鞍馬《くらま》」に、品川沖から十七発の弔砲を撃たせて初代連合艦隊司令長官への弔砲とした。
青山斎場において神式で盛大におこなわれた葬儀のあと、祐亨の遺骨は品川の補陀落《ふだらく》山|海晏寺《かいあんじ》の墓所に葬られた。
江戸時代から紅葉の名所として知られたこの曹洞《そうとう》宗の寺の門前を、祐亨はまだ四郎と名のっていたころ、煙と炎に追われながら通りすぎたことがある。慶応《けいおう》三年(一八六七)十二月二十五日、旧幕府勢に焼き打ちされた芝新馬場の薩摩藩江戸上屋敷をわずか二十八人に討ちなされながら脱出、海晏寺前から鮫洲の浜へ下り、薩摩藩船「翔鳳丸」に収容された時から、祐亨の海の侍ともいうべき後半生が始まったのであった。
祐亨が、娘の延に与えた「遺訓之条々」の第一項にいう。
「人は上下貧富の隔りなく忠孝仁義礼智信の道を守り、至誠これを尽くすをもって人道とす」
謀将でもない。智将というのでもない。
しかし豪快さと繊細さ、厳しさと稚気あふれる側面とを併せ持ち、このようなモラルを信じて乱世を生きぬいた明治人もいたことを、われわれは記憶にとどめておいても無駄ではあるまい。
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あとがき
本作は『週刊読売』平成九年(一九九七)十一月二十三日号から十年八月二日号にかけて、「おれは司令長官」という題で連載した小説に加筆訂正をほどこしたものです。改題したのは、主人公の伊東祐亨が「おれは司令長官」などとはとてもいわない朴訥《ぼくとつ》な人柄だと途中で気づいたためで、他意はありません。
それにしても、若くして寺田屋事変、生麦事件という幕末史に特筆される大事件の間近に居合わせた祐亨が、薩英戦争、薩邸焼き打ち事件から阿波沖海戦までを薩摩藩士として体験し、さらに海軍軍人として西南戦争、日清戦争に身を投じてゆく姿には幕末維新史が凝縮されているかのようです。
これらあまたの戦いを経るなかで、次第に古武士然とした風貌《ふうぼう》をあきらかにしてゆく祐亨の姿を描きたい――それが一篇の眼目でしたが、私は日清・日露の時代に材を得た作としては、陸軍の勇将|立見尚文《たつみなおぶみ》の生涯を描いた『闘将伝』(角川文庫所収、一九九四)と、本作にも顔を出す島村速雄を主人公とした『海将伝』(同、一九九六)とを書いたことがあります。特に日露戦争の海戦については後者に詳述しましたので、御関心のおありのむきはこちらを御参照いただければ幸甚です。
なお、本作の主要参考文献と取材に協力して下さった方々は次の通りです。
〈主要参考文献〉
『薩藩海軍史』(原書房)、『鹿児島県史』第三巻(鹿児島県)、『維新史』(吉川弘文館)、宮永孝『幕末異人殺傷録』(角川書店)、海軍省『西南征討志』(青潮社)、小笠原長生『元帥伊東祐亨』(南方出版社)、同『東郷元帥詳伝』(春陽堂)、ジョン・イングルス『海軍戦術講義録』二種類(水交社、海軍文庫)、篠原宏『海軍創設史』(リブロポート)、外山三郎『近代西欧海戦史』(原書房)、「日清戦争実記」第十、十二、十九編(博文館)、旧参謀本部|編纂《へんさん》『日本の戦史 日清戦争』(徳間文庫)、同『明治二十七八年日清戦史』(東京印刷)、福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』(KKベストセラーズ)、『近世帝国海軍史要』(海軍有終会)、海軍大臣官房編『海軍軍備沿革』(巌南堂書店)
〈取材協力者・順不同敬称略〉
伊東勲(故靖祐氏夫人)、伊東達祐(同氏長男)、伊東亨(同氏次男)、後藤順子(同氏次女)、塩満郁夫(鹿児島県立図書館)、島田真(文藝春秋)、豊田健次(文芸評論家)、仁尾一三(作家)
また本作を角川文庫に収録していただくに際しては、角川書店書籍事業部の宮山多可志氏、山根隆徳氏のお世話になりました。ともに記して、深甚なる謝意を表します。
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平成十六年(二〇〇四)晩夏
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[#地付き]中 村 彰 彦
本書は平成十年十二月、読売新聞社から刊行された単行本に大幅な加筆を行い、文庫化したものです。
角川文庫『侍たちの海 小説 伊東祐亨』平成16年9月25日初版発行